こましゃくれり!! (屁負比丘尼)
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20歳などこんなもの

 

 今日、飲む酒は絶対に美味いぞ……!!

 

 季節は秋。時間は夕方。大学の講義終わり。買い物を済ませた帰り道。

 

 俺こと、陣内(じんない) 梅治(うめじ)は酒瓶を入れたリュックを背負い上機嫌で帰宅していた。

 

 今日はバイトの給料日だ。世の人達はこういった日に何を買うのだろうか? ゲーム? 服? 豪華な食事? もしくは貯金だろうか。……俺の場合は言うまでもなくお酒だ。

 

 今日は2本ほど上等な物を仕入れてきた。今夜の晩酌が楽しみで仕方ない。

 

 そんな事を考えていると、直ぐに下宿している賃貸に着いた。見た目は少しだけボロっちい。だが、この物件はとても素晴らしい物だ。

 

 まず家賃が安い。この賃貸の管理者は俺の叔母だ。なので身内割引で下宿させてもらっている。それに加えて部屋が広く、防音も効いて、()()()()()()()()。大学生として理想的な住まいだと俺は思う。

 

 そんな賃貸の玄関の前に立ち、ポケットから鍵を取り出したところで、ふと気が付いた。部屋の小さな窓から明かりが漏れていた。

 

 今朝はきちんと部屋の電気は消して出たはずだ。

 

「まさか……」

 

 鍵をポケットに戻し、ドアノブをひねる。

 

 ドアを開けて目に入ったのは台所で()()()()()()()()()料理を作っている女。彼女は色素の薄い長髪を後ろにまとめ、桜のワンポイントが入った紺色(こんいろ)甚平(じんべい)を着ている。

 

「お、陣内。帰ったであるか」

「いやお前、なぜいる……?」

 

 彼女の名前は安瀬(あぜ) (さくら)。同じ大学に通う同級生だ。

 

「……? スマホを見ていないのでござるか?」

 

 時代錯誤すぎる口調が飛び出した。これは決して彼女がふざけているのではない。安瀬はド変人だ。日本の古い文化に強くロマンを感じているらしく、俺の家や自宅では和服を羽織り、イカれた話し方をする。

 

「今日はお主の家で飲む約束であろう?」

「え?」

 

 急いでスマホを取り出して、画面を見る。そこには数十分前に連絡が送られていた。

 

『今日は鍋の気分でありんす』

 

 短文には可愛らしいスタンプも添えられていた。

 

「こ、これが約束だと……?」

「はっはっは、面目ない」

 

 安瀬はたいして悪びれもせずに謝り、ビール缶に口を付けて一気に呷った。

 

 いや、おい……。

 

「あぁ゛゛ーー!! 今日もおビール様が美味しいのう!」

 

 万悦の表情でロング(500ml)缶を飲み干しやがった。もったいない飲み方しやがって……。

 

「というか安瀬が来てるという事は……」

 

 ずかずかと台所を横切り、リビングに通じる引き戸を開けた。

 

「ん、おー、お疲れ陣内。お邪魔してるよーー」

「すぅーーーはぁーー。……染みる」

 

 コタツに入った婦女二名が、酒精と紫煙をその身にまとっていた。

 

 詩的な表現をしてみたが、要するにタバコ吸って酒を飲んでるだけだ。煙草が山盛りの灰皿とビール缶がコタツ台を占領し、品のなさを露呈している。

 

 彼女らの不法侵入についてはこの際、放っておこう。それよりも言いたいことがある。

 

「お前ら、換気もせずに人の部屋で煙草とはどういうことだ!」

「いやーそれはさー」

 

 語彙をやたら伸ばしているこの女は猫屋(ねこや) 李花(りか)。セミロングの金髪にパーマをかけた、ゆるふわな女。すでに少し酔っているのか顔までゆるふわとしている。

 

「陣内君、僕らが前に退去時のクリーニング代として3万ほど置いていったの忘れたのかい?」

 

 ぶっきらぼうで男勝りな口調で返事を返したのは、西代(にししろ) (もも)。ショートの黒髪で白いシャツにジーパンといったボーイッシュな格好をする女だ。煙草がよく似合っている。

 

 そういえば、換気がめんどくさくて『もうお金払うから好きに吸わせろ』という話になったのだ。叔母さんにも許可は取ってある。

 

「……そもそもどうやって入った? 鍵は閉めていたはず……」

 

 俺の疑問を聞いた二人は顔を見合わせて不思議がった。

 

「この前、陣内がスペアキーをくれたじゃーん。覚えてない?」

「まぁ、あの時の陣内君は相当酔ってたからね」

「……あれ?」

 

 確かに、気分良く酔った拍子にそんな物をくれてやった気がする。

 

 大学から近いせいか俺の部屋は絶好のたまり場になっている。俺がバイトの日は帰宅が遅くなり、部屋に入れないのが面倒だというので彼女達にスペアキーをねだられたのだ。

 

 酔った俺は何も考えず渡してしまったのだろう。……こいつらは週4という頻度でこの家に集まってくるというのに……。

 

 大学から徒歩5分の神立地な俺の御座所が、まるで格安ホテル扱いだ。そのため知らぬうちに歯ブラシや女物のシャンプーが置いてあったりする。着々と親族や男友達など呼べない部屋になっていた。

 

「……仕方ないか」

 

 どうやら話を聞く限り、自身が撒いた種らしい。こいつらも溜まり場にしている代わりに、酒を提供してくれたり、ご飯を作ってくれる。少し配慮に欠けるがそこまで悪い奴らでもない。

 

 俺は色々をあきらめてコタツに入った。外を歩いた体に、熱が染み渡る。

 

 煙草を吸おうと胸ポケットに手を伸ばす。しかし、何もなかった。ちょうど切れていたことを思い出した。

 

「お前ら、何吸ってんの?」

「ラキストー。……というか陣内、タバコないの? 私たちから貰う気じゃないでしょうねー?」

「別に今日の分くらいはいいだろ?」

「貰い煙草は卑しさの象徴だよ。ちなみに僕はダンヒル」

「またマイナーなやつを……。お前ら、もうちょっとかわいいの吸えよ。ピアニッシモとか」

 

 というかダンヒルって日本撤退してけっこう希少だったような……。

 

 そんな事を話していると、台所の方から足音が聞こえてきた。

 

「我、参上である!」

 

 引き戸を足でスパンッ! と開き、土鍋を持った安瀬がやってきた。お行儀が悪い。

 

「今日は寄せ鍋でござるよ! あ、我はメビウスのメンソールである」

「あっそ。西代、ダンヒルをくれ」

 

 俺は普段は甘いタバコしか吸わない。ウィストンやらアークロイヤルとかそのあたりだ。甘い煙がニコチンとともに口内にあふれる感じが気に入っている。

 

「はい」

 

 西代から煙草をありがたく頂戴して咥える。

 

 えぇと、ライターどこにやったっけ?

 

「ほーい、やぬしー」

 

 猫屋が銀色に輝くジッポを開いた。アメリカ製で諭吉さん3枚の高級品。銀色のケースに刻まれた大鷲がカッコいい。猫屋はこういう小道具に非常にこだわる。

 

「せんきゅ」

 

 種火を貰い、一服を付ける。

 

 あ゛゛ーうまい。ちょっと癖のあるパンのような甘さが堪らない。後味に煙草本来の香りもキチンと来る。割と好みの味かもしれない。

 

「それで陣内よ」

「なんだ、安瀬」

「おぬし、今日は給料日であったな。リュックから瓶の音が聞こえてきたぞ? 何を買ってきたでありんす?」

 

 ……目ざとい奴め。

 

 もぞもぞと、俺はリュックから酒瓶を取り出した。

 

 タコ墨のように真っ黒な液体。事実、そのラベルには大きなタコの化け物が描かれていた。

 

「おお、クラーケンであるか! 相変わらず甘いのが好きであるな、陣内は!」

 

 クラーケンというのはダークラムの一種。特徴はとにかく甘い。その圧倒的糖度の証として、開封してしばらく置いておくと瓶口に結晶化した砂糖が出来上がってしまう。そのせいで瓶の蓋がかみ合わなくなり、すぐに壊れる。

 

「酒屋で見かけてな。前に飲んで美味しかったからすぐに買った」

「前は四人で一瞬で消えたからね」

 

 なお、度数は47%とかなり高い。その甘い口当たりに騙されて無様に潰れたのを思い出した。

 

「おいしいけどさー、それ、寄せ鍋にあう?」

 

 間違いなく合わないだろう。

 

「ビールでいいんじゃないか?」

「もうないよー」

「鍋にはポン酒(日本酒)であろう。辞書にも載っておる」

 

 いや載ってねぇよ。気持ちはよくわかるが。

 

「日本酒も買ってきたぞ」

 

 バックからもう一本引き抜く。暗い緑色の瓶に花がプリントされた一升瓶だ。

 

梅錦(うめにしき)? 聞き覚えがあるけど、どこの酒? ラベルの花は梅かい?」

「うむ、たしか愛媛の酒であるな。甘い口当たりと芳醇な日本酒らしい香りが特徴的な一品。いいチョイスである!!」

 

 安瀬がスラスラと解説する。彼女は日本酒マニアだ。暇な時があればスマホで日本酒について調べている。

 

「愛媛ってどこー?」

「四国である」

「クソ馬鹿学生め、小学校からやり直してこい」

「おいしそうだね。僕は(かん)で飲もうか」

「おいおい……」

 

 急に安瀬が怪訝な顔で西代を見た。西代に物言いをつけたいようだ。

 

「いい酒なんじゃから、初めは(ひや)で飲め。燗はうまいが日本酒本来の香りが飛ぶ」

「冷え性なんだ。僕は先に燗酒で後から冷がいい」

「その時まで残ってればいいけどねー。燗にした分を飲んでたら無くなるよー」

「都合、酒飲みが4人だからな」

「むう……」

 

 俺たちの意見もあり西代は押し黙る。

 

「まぁ、今日は冷でいいか。お腹もすいたし早く飲もう」

 

 そうだそうだ、と皆で鍋をつつきだした。

 

************************************************************

 

 寄せ鍋と日本酒はきれいさっぱりなくなり、チーズやナッツ、様々な乾きものを広げて晩酌を続けていた。

 

 カランコロンと氷の入ったグラス。(くゆ)る煙草。

 

 俺達は灰皿を前に赤い顔をして談笑する。すでにビールと日本酒を開けているのでチェイサーにレモン水を用意し、各々の割り方で甘いラムを楽しんでいた。

 

「てゆーかー、四国ってどこよー? 外国?」

 

 唐突にケラケラと猫屋が笑う。煙草と酒のダブルパンチでいつもよりテンションが高い。

 

「それは香川出身の僕に喧嘩を売ってるのかな?」

「かーがーわー?」

 

 猫屋が考え込むしぐさを取って、何か思い出したかのように手を叩いた。

 

「うどんが主食でゲーム禁止の国だっけ? たいへんよねー、ド田舎は!」

「おらっびょるな猫屋。ド偏見でクソ失礼なやつめ。……未開地の民に言われたくない、この蛮族」

 

 西代は普段は標準語だが酔うとたまに変な方言がでる。本人曰く、讃岐(さぬき)弁らしい。分からないからどうでもいいが。

 

「ちがいますーー、群馬の一部は都会ですーー!」

 

 俺たちの出身地は各々異なり、全員が親元を離れて生活している。

 

「はっはっは! 田舎者たちの争いは醜いの、陣内よ!」

「いや、その通りだ安瀬! 争いは同じレベルの者でしか発生しないからな!」

「まさに()()()()()()どっちがましか、ぜよ!」

 

 安瀬と一緒になってゲラゲラと笑う。

 

 まぁ正直、田舎具合は俺らも大して変わらない。俺は埼玉出身で安瀬は広島。でも地元弄りは楽しいので適当に馬鹿にしておこう。

 

 その罵倒に田舎コンビがピクンと反応する。

 

「「お前らはどこ出身でも口調と頭が壊滅的」」

「「ほぅ…………」」

 

 口調がおかしいのは安瀬として、俺が馬鹿とは聞き捨てならん。まぁ確かに大学を二浪ほどしたが馬鹿とはなんだ。

 

「口調が壊滅的なのは陣内として、我が馬鹿とはどういう了見でござる!」

「口調の方は絶対お前の方だろ!! ついでに馬鹿なのもな!」

 

 俺は当然の指摘を安瀬にしてやった。コイツ、自覚無いのか……!?

 

「吾輩の口調は大日本帝国よろしくのウィットに富んだ、コケティッシュで蠱惑的なものだ! あと馬鹿は貴様(きさん)のことぜよ!」

「何言ってんのか分かんねーよ! 日本語で話せ!!」

 

 そこからは酔っ払いの乱痴気騒ぎ。あーだこーだと他人を罵りあう、不毛な争い。ボロいアパートの一室はまさに火薬庫状態。いつアルコールを使った潰し合いが起きてもおかしくはない。

 

 そこで安瀬が高らかに宣戦布告をあげる。

 

「こうなったら、最高にインテリジェンスが高いゲームで白黒つけるでござる!」

 

 部屋に一瞬の静寂が訪れる。その刹那───

 

「麻雀か!」

 

 と、俺が。

 

「麻雀だね」

 

 と、西代が。

 

「麻ー雀ーーー!」

 

 猫屋もやる気満々の用だ。

 

「よし皆の衆! 雀卓を用意せよ!!」

 

 息の合った作業で部屋の隅に立てかけてあった雀卓をセットする。あとは麻雀牌を押し入れから取り出して準備は完了だ。

 

「で、ルールはどうするよ」

「いつもどおりでいーいんじゃない?」

「イカサマありの半荘か」

 

 我が家ではイカサマを禁止にするどころか、むしろ推奨している。理由としては二つ。一つはやっていて楽しい。二つ目は酔いの深度によっては牌効率などの考えが及ばなくなるので、力技で挽回するチャンスを与えるためだ。

 

「イカサマがばれた時のペナルティは?」

「それはもちろんこれであろう!」

 

 安瀬がドン! と勢いよく酒瓶を卓上に置く。

 

 透明な瓶に、水のように透き通った液体。白いラベルに書かれたポーランド語が酒というより薬品のような無機質さを演出している。人を寄せ付けない危ない雰囲気が俺らを圧倒した。

 

「アルコール度数96%、スピリタス」

「いつ見ても頭おかしい度数よねー」

「僕はこれが飲み物だとは思えない」

「これをショットで一杯であるな。震えるぜよ」

 

 全員がごくりと息をのむ。何度見ても恐ろしい。

 

「そして最下位は──」

 

 安瀬は勝手に作られた自身の荷物スペースから何かを取り出した。

 

「この()()()()()()を着て明日の講義に出席してもらおう!!」

 

 うさ耳カチューシャに網タイツ。えげつない食い込みのハイレグを連想させる黒いスーツ。

 

 何故、そんなものを私物として平然と取り出せるんだろう。

 

 安瀬を除いた俺達は同時に顔を見合わせる。猫屋はすでに飲みすぎで顔が赤い、西代はヤニクラ(ニコチンの摂取による陶酔状態)で目が虚ろだ。安瀬は状態を見るまでもなく文句なしのド阿呆。

 

 中々キツイ罰ゲームだが俺がこの馬鹿どもに負けるわけがないな。

 

「「「乗った!」」」

 

 今夜は暑い夜になるだろう。

 

 ************************************************************

 

 ジャラジャラとジャンパイを四人でかき回し始める。自動卓など高級なものはもちろん持っていないため、手摘みだ。そもそもイカサマには積み込みも含まれる。そのため全員が必死で麻雀牌を見張っていた。

 

 牌を積み、さいころを振って親を決め、ゲームスタートだ。

 

「じゃあ俺からだな」

 

 不要牌を切って河に捨てる。

 

「ふふふ、全部ゴッ倒す」

「死ねば助かるのにー」

「あんた、背中が煤けてるぜ」

 

「なんだお前ら」

 

 三者三様に好きな麻雀漫画からセリフを引用して格好つけている。中学生か。

 

 まぁ、とりあえず頑張ろう。イカサマありの麻雀だが、ばれた場合のペナルティが重いのでしばらくは様子見に徹する。

 

 ゲームは着々と進んでいき、17巡目が過ぎようとしていた時。安瀬が動いた。

 

「その牌じゃ。悪いな猫屋よ!」

 

 パタパタと安瀬が手配を倒していく。リーチをせずにダマであがったようだ。

 

「ロン! 混一色、対々和、白、中、ドラ1、18000点じゃ──ッ!!」

「えー! ありえないー!!」

「い、いきなりすごい手だな」

 

 安瀬の親でいきなりの跳満。彼女に疑惑のまなざしが集まる。正直、始まったばかりでこのあがりは怪しすぎる。

 

 俺は河と自身の手配に目を落とし、()()()()に気づいた。

 

「おい。俺の手牌に5枚目の"白"があるんだが」

 

 ビクッ! と安瀬が反応した。

 

「そ、そそそそそ、れはきっと何かの間違いではないのでござるある。我は我関せずであるよ」

 

 露骨に目をそらし、震えだす安瀬。間違いを起こしたのはお前だ。

 

「西代、身体検査を」

「まかせてくれ」

 

 西代が服の上から安瀬の体をまさぐりだした。

 

「いや、ちょっと、くすぐったいのである!」

 

 安瀬はスレンダーだが、出ている所はかなり出ている。なのでこの光景は目の保養であり体に毒だ。お酒を飲んでいるので股間はピクリとも反応しないが。

 

 そして身体検査の結果、安瀬の懐から三元牌が出てきて不正が明らかになった。同じタイプの麻雀牌をリサイクルショップで見つけ格安で購入していたらしい。

 

 ゲーム開始早々にお酒様に裁かれるべき罪人が見つかったようだ。

 

「さぁどうぞ。一気にグイっと」

 

 ショットグラスになみなみと注がれたスピリタス。一見するとただの水にしか見えないが、匂いがすでに殺人的だ。消毒用アルコールの匂いより濃い。

 

「1局目から仕掛ける気位(きぐらい)は買うけどな」

「ばれちゃーだめだよねー」

「ぐ、ぐぐぐ……」

 

 安瀬は震える手でグラスを握り、一気に中身を呷った。

 

「っ゛う゛゛!? グエェーーーッ! 喉がぁあ゛あ゛……っ!?」

 

 安瀬がバタバタと畳の上を転げまわる。

 

 その様を3人でゲラゲラ嘲笑いながら、適切な方の酒を飲む。実にいいつまみだ。

 

「ぐぇ゛、……いつ飲んでも人間の飲み物とは思えないである。やばいでござる」

「よし、じゃあこの局は流して次戦だ」

 

 再びジャラジャラと牌をかき混ぜて積みなおす。

 

 この麻雀のペナルティはとても恐ろしい。一度でも罰を受けると、酔いが一気に回りはじめ……

 

「あれ……? えっと、コレって何待ちでござるかじゃろ」

 

 こうなる。

 

「一人、だーつーらーくー」

「さすがアルコール度数96%。飲んだ時点で敗北確定だな」

「僕は死んでも飲みたくない」

 

 そしてゲームは進んでいき、その途中。

 

「チー」

「うっ」

 

 この局が始まって西代がすでに三回目の鳴きをいれた。安瀬の頭が機能しなくなり、適当な牌を切り始めたせいだろう。

 

「愚直に一通か? それとも混一色?」

「ふふふ、緑一色かもよ」

「はいはい」

 

 西代が不敵に笑いながら積まれた牌に手を伸ばす。これであがられると彼女がトップになりそうだ。

 

「そのツモ、待ったー」

 

 猫屋がニコニコ笑いながら西代の手を取った。

 

「は、ははは。何かな猫屋。僕はシャイな方でね。手を放してほしいんだけど」

 

 西代の不敵な笑みが、卑屈そうなニヤケ面に変貌していく。

 

「西代ちゃーん? ()()()()()みーせーてー?」

 

 結果的に言えば西代の手の中には2つの牌が握りこまれていた。

 

「三枚ツモか。あがりを焦ったな、西代」

「くっ」

「さぁ、注いであげたよー」

 

 アルコール96%の劇薬が西代をどこか遠いところに誘っていた。

 

「ふふ、西代ちゃんがお酒好きなのは知ってたけどー、ここまで飲みたがりなのは意外だったなー」

「君ら、覚えときなよ」

「西代が覚えられてたらな」

 

************************************************************

 

「おお、地震だよ。机が揺れてる」

「さっきから頻繁に揺れてるであるな。地震大国日本とはいえ珍しいぜよ」

「いや、お前らが揺れてるだけだから」

 

 残った敵は猫屋だけだ。こいつを飛ばすか、酔い潰せば俺の勝利だ。

 

「陣内、まさか私に勝てるとでもー?」

「はっ。すぐにその可愛らしい顔を便器に埋めてやるぜ」

「それ、なんか凄いこと言ってるー……」

 

 酔いつぶれた二人を無視して戦いは続く。

 

 そして12巡目の俺のツモ。

 

(来た……! これは高いぞっ!)

 

 引き入れた牌は萬子の七。不要な九萬を捨てれば、ダマでも倍満は確定だ。だが、もちろん高みを目指してリーチをかける。ここで確実に得点に差をつけて、決して覆すことのない格の差というものをみせつけてやろう。

 

「グハハハハ! お前らのバニースーツが楽しみだぜ! リーチッ!!」

 

 そこで安瀬が勢いよく牌を倒した。

 

「ロン! 国士無双!」

 

 安瀬の言葉で部屋の時間が完璧に停止した。

 

「はぁああ!!??」

「うっわ、まじだー! 国士無双、しかも十三面待ち。私初めて見たー」

「僕もだ」

 

 直撃のダブル役満。そんなものを払える点数は持っていない。つまり……

 

「飛びでござるな!! ()()()()()()()じゃ!」

 

 意気揚々と安瀬が新たに二つのグラスを取り出す。

 

 陣内家でのイカサマ麻雀には、飛びによるゲームの途中終了は許されていない。点棒が0になった者は”特別”に点棒を5000点回復させるという禁忌に手を染める。そして、その咎を洗い流すため狂気の贖罪を実行することになるのだ。

 

 スピリタスショット三杯イッキの刑である。

 

「いや、あり得ないだろ! 絶対イカサマだ!!」

「おや、証拠でもあるのかい?」

 

 顔を真っ赤にした酩酊状態の西代が皮肉気な笑みを浮かべている。

 

 コイツ、まさか……

 

「手配を失礼」

 

 一応、断りを入れてから西代の手牌をすべて倒した。手配はバラバラのノーテン(役が成立していない事)。しかし、不自然に一九字牌が揃っていなかった。

 

「お前らコンビ打ちかよ!」

 

 西代と安瀬は隣同士。雀卓の下で不正な牌の受け渡しが行われていても不思議ではない。おまけに酔っぱらってたから完全に意識してなかった。

 

「フフフ、証拠もなしにそんな事を言ってもいけないな」

「西代ちゃんはー、酔っぱらって牌効率も計算できなかっただけの可能性もあるしー」

「「「アハハハハハハっ!!」」」

 

 憎たらしいまでに笑いやがって。女三人寄れば姦しいとはまさにこの事。しかし、この事態は本当にまずい。

 

「ほれ、とっとと飲むでござるよ、陣内。まだまだゲームは続くんでありんす」

 

 現在、この麻雀のトップに君臨する第六万点魔王様は無慈悲に杯を差し出した。

 

************************************************************

 

「うぉっ、え、え、え、っぐぃ、おぇ゛゛──ッ!!」

「ぐぉ、げぐげぇっ!? 、、、ぐおぉぉ゛゛゛──ッ!!」

「お゛、っ!? ぐ、ぐ、ぐあぁああああ゛゛゛゛゛──ッ!!」

 

(※彼は特別な訓練をうけています。決してマネしないでください)

 

************************************************************

 

 喉を焦がす地獄の業火に焼かれる俺。その様を楽しそうにゲラゲラと嘲る悪鬼羅刹の女たち。これ絶対に人間の飲み物じゃない。

 

「はー、皆くそざこじゃーーん。ぷはーーー」

 

 猫屋は煙草を咥えながら、満面の笑みで勝ち誇る。

 

「はぁ?」

「誰がだ!」

「まだ勝負はついてないわい!」

 

 一人だけ深酒していない猫屋が調子にのっている。こっちは正直、頭がグワングワンで景色も揺らいできた。しかし、この戦い負けるわけにはいかない。

 

 陣内宅での罰ゲームは必ず実行される。以前、大学の食堂で本気の一人漫才をやらされたことがある。夢に出てくるレベルでトラウマになった。

 

「あ゛ーー、煙草おいしーー……。ちょっとトイレ。いやー、酒飲むとトイレが近くなっちゃうー」

 

 猫屋が煙草の火を消して、炬燵から立ち上がった。

 

「あ、勝手に次の局始めないでねー。絶対不正するからさー」

 

 彼女は俺たちにしっかりと釘を刺しトイレに駆けていった。

 

 猫屋がトイレに入ったのを確認して、3人の泥酔者たちは静かに口を開く。

 

「ぶっ潰すぞ、である」

「賛成だね」

「けど、あからさまな通しは見破られるぞ。次、アレを飲んだら確実に死ぬ自信がある」

 

 積み込みも今の状態でできる気はしない。

 

「我にとっておきの秘策あり」

「聞かせてもらおうか」

「あのお調子者に痛い目を見せられるのなら、僕は協力を惜しまないよ」

 

 悪い顔をした安瀬が意味ありげに嘲笑を浮かべる。

 

 この泥酔状態で、どんな秘策があるのだろうか?

 

「なぁに、牌が変えられないなら別のものを弄ればいいでやんすよ」

 

************************************************************

 

 猫屋がトイレから帰ってきてすぐにゲームは再開した。

 

「いやー、今日は手が淀みなく伸びていくねー。これなら安瀬ちゃんを追い抜くのはすぐかなー?」

「さっきから河の捨て牌が変わってる気がするんじゃが」

「気のせいじゃないかにゃー?」

 

 有頂天の猫屋はイカサマの現場を押さえられはしないと、高をくくってやりたい放題のようだ。彼女の手配は確実に跳満以上の手をそろえているだろう。

 

 次の猫屋のツモ番、どうやら有効牌を引き入れたらしく……

 

「来た来たー!! リーチッ!」

 

 リーチを宣言し彼女はバンッ! と勢いよく牌を河に捨てる。

 

 行儀の悪い奴だが、彼女の末路を考えれば咎める気にはならない。むしろ、噴き出さないように堪えるの大変だ。

 

「さぁリー棒、リー棒……んっ?」

 

 雀卓に付いている点棒ケースを漁る彼女の手が止まる。

 

「あ、あのー」

「ぷっ、なんだい?」

 

 西代が笑いをこらえきれずに返事をする。

 

「私の点棒が全部カルパスになってるんだけどーーー!?」

「「「げひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!」」」

 

 俺たちはどうしようもない間抜けを笑い飛ばした。

 

「あ、あんた達ねー!! 点棒盗むなんてもうイカサマじゃなくない!?」

「ち、ちがうよ、カルパス神様が哀れな猫屋にお恵みくださっ……、ぶふッ!!」

「ハハハっ!! 笑いすぎだろ西代!!」

「グフフっ、点棒の代わりにカルパス突っ込んだのは西代でござるからな」

 

 ひとしきり笑ったあと、安瀬が改まった口調で猫屋に死亡診断書を突き付ける。

 

「リーチできないからチョンボでござるな。ほれ、罰符を払え」

「いやー……払うもなにも点棒がないんだけど」

「なら飛び扱いで特別ペナルティだね。……陣内君!!」

「はい、ここに」

 

 西代の呼びかけに合わせて、酒の注がれた3つのグラスを雀卓に並べる。

 

「はぁーーー!? あんた達がトイレ行ってた隙に点棒盗んだんでしょー!?」

「証拠がないね」

「その通りぜよ」

「盗まれるのが嫌ならトイレに点棒を持っていくべきだったな」

 

 騙される方が悪いの原則。それは猫屋も同意してこのゲームを始めたはず。それに、リーチさえしなければ罰符を取られずに済んだ。いつも思うが素晴らしいルールだ。

 

「納得がいかないんですけどーー!!!」

 

 悲痛な叫びと俺たちの笑い声が同時に鳴り響いた。

 

 ************************************************************

 

 その後、完全に脳をアルコール漬けにされた猫屋を交えて決闘は続いた。

 

 各々が生き残るために先ほどよりもヒートアップしたイカサマ合戦が繰り広げられる。もちろん雑なイカサマはすぐにばれ、ペナルティまみれの流局まみれ。

 

 ゲームが進まないまま、永遠に酒を飲み続けた結果───

 

「うおおげげげげげーーーーー!!!!」

 

 俺は便器に顔を埋めていた。

 

 トイレの外には俺と同じように顔を青くした、死屍累々の女たち。

 

「早く出てくれ。もう……僕も吐く。ここでぶちまける……」

「それやると、マジで出禁になるでござるよ。……う゛っ!」

「し、しぬー……マジでゲロでる三秒前ぇ……」

 

 便器をゲロまみれにした後、俺たちは気絶するように眠りについた。翌日、当然のように全員が二日酔いにより大学をサボった。罰ゲームに関しては終局時に誰が最下位だったか覚えている者がいなかったため無効となった。

 

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 こんな感じで俺らの大学生活はすでに半年以上過ぎている。

 

 20歳になるとは一体何なんなのだろうか。世間ではもう立派な大人として扱われるが、それに伴って精神的に成長する者は絶対にいないと断言する。人間が年を重ねるだけで突然変わる訳がない。

 

 ただ、子供のまま酒と煙草が楽しめるようになるだけだ。過去の自分が思っていたよりも、20歳というのは大人ではない。

 

 社会に出るまでのボーナス期間。この大学生活を人生最後の夏休みとして楽しく過ごそう。嗜好品と友達とゲロに囲まれながら……。

 



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西代の罠

「西代さんよ」

「なにかな、陣内君」

 

 土曜の夕方時。俺と西代は台所に立ち晩御飯の準備をしていた。今日はペペロンチーノ、トマトスープにアサリの白ワイン蒸しだ。

 

 ペペロンチーノはニンニクとオリーブオイルをケチらず、これでもかと香りを出して、ブラックペッパーと鷹の爪でパンチも出す。

トマトスープは3時頃には茹でていたので、キャベツを主とした野菜は繊維がトロトロだ。

アサリの白ワイン蒸しは完璧におつまみだな。アサリとワインの濃厚な味が酒によく合いそうだ。

 

 我ながら家庭的なイタリアンとしては中々のものではないだろうか。そりゃお店のものに負けるが。もちろん、一人の時はこんな手の込んだ物は作らない。トマトスープにパスタをぶち込んだスープパスタもどきで満足する。

 

 基本的に人は誰かの為に手の込んだものを作ってしまうものだ。今日はこの後、安瀬と猫屋も遊びに来る。やはり、あいつ等が家に来るときは基本的に張り切ってしまう。美味しいと言ってくれるので、まぁ嬉しいのだが……

 

「今日で1週間連続宿泊になるけど、帰る気は?」

「ないね」

 

 さすがに1週間続くと面倒だ。……コイツなぜ帰らない。

 

「最近、下宿先が騒がしくて仕方ないんだ。防音効果が大してないのに、誰かが毎夜バカ騒ぎしてる。おまけに近くで夜間工事も始まって最悪だ」

「……なるほど」

「明日にはさすがに帰るから、今日も泊めてくれ」

 

 そこまで明確な理由があるなら俺も無下に追い返したりはしない。別にこいつ等がいること自体は楽しい。しかし()()()()()()()

 

 俺は自身の後ろにある脱衣所の室内干し用スペースにある物体に指をさした。

 

「それでも、下着の洗濯は家でやってくんないかな!?」

 

 黒、白、桃と様々な女性用下着が洗濯ばさみに吊られて密林を作っている。正直、無防備にも程がある。世の中にはアレを盗んで捕まる男性さえいるというのに。

 

「むぅ……しかし、連日履き続けるのはさすがに不衛生だ……」

「それは俺も嫌だよ。一回洗濯しに帰ってくれと言ってる」

「めんどくさいな」

 

 こいつ本当に女か。

 

「まぁアレは僕たちの陣内君に対する、信頼の証と思ってくれ。嗅いだり被ったりしないだろう?」

「しねーよ!! ……ん、僕たち?」

 

 あれ? ボクタチって言うのはどういうことだ……?

 

「あぁ、あれ僕のだけじゃないよ。安瀬と猫屋のも混じってる」

「ぅ、ぉ、まじかよ」

 

 陣内梅治の中で女という生物の認識が大きく音を立てて崩れていた。いつの間にか"恥じらい"という言葉はこの部屋から消えてなくなってしまったようだ。

 

「ちなみに、あの一番大きいピンク色のブラは安瀬のだね。着痩せしてるけど僕たちの中では一番胸がおお─────」

「待て、待て、待て!!」

 

 思わず大声を上げてみっともなく西代の声を妨げる。

 

「ハハハっ、初心(うぶ)だね陣内君は!」

 

 動揺している俺を見て西代はカラカラと笑っていた。こういうことを初心(うぶ)いというなら、俺はもうそれでいいや。

あからさまに揶揄われているのが悔しいし、黙って料理に集中しよう。

 

「そうだ、今度どのブラが誰のものか当てるゲームとかしてみる? 全問正解したら下着干すのはやめてあげるよ」

「それやりだしたら、出禁にするからな!」

 

************************************************************

 

「あー美味しかったー」

 

 西代との一悶着のあと、酒とつまみを持参した安瀬と猫屋がやってきて一緒に夜飯を食べた。こいつらも今日は一泊するらしい。

 

「イタリアンは陣内が作るのが一番美味しいでござるな!」

「和食は安瀬が一番だけどな」

「なら中華は私かなー」

「君に作らせると旨いが、同時に死人が出る」

 

 陣内家、死の血便事件。猫屋の得意料理という事で麻婆豆腐を作ってもらったことがある。確かに辛さの中に奥深い麻辣(マーラー)の旨味があったが、それにしても辛すぎた。翌日、陣内家のトイレは嘔吐以外の理由で初めて行列ができる事態となった。

 

「いや、美味しいのは認めるでありんすけどね……」

 

 安瀬が右斜め上を見ながら、つらい記憶を思い出している。というか、今はそんな話題どうでもいい。まだアルコールが廻っていない内に話しておきたいことがある。

 

「お前たち、ちょっといいか……」

「うん?」

「なにさー?」

「どうした兄弟」

 

 一人ふざけたやつがいたが、無視して話を続ける。今日の西代との会話で浮き彫りになった、我が家の異常性。これは早急に対応策を打っておきたい。

 

「洗濯物は自分の家でしない……?」

「「「………………」」」

 

 その瞬間、現代版日本三大悪女たちの眉間にしわが寄った。俺の発言が彼女らの不平を買ったのは火を見るよりも明らかだった。

 

「えーーーめんどくさーいー」

「ぶっちゃけ、最近は家よりも陣内の家に泊まる方が多いでござるからな」

「いや、俺は恥じらいをもてという話を──」

「僕らは一緒の便器を汚した仲じゃないか? 恥じらいなど何を今さら……」

 

 なんだよその友情の深めかた。……いや、確かに深まった気はする。

少なくとも気の置けない仲なのは確かだ。

なら、別の切り口で説得するまで。

 

「でもさ、俺って割とズボラだからさ。適当にグチャグチャに詰めて洗濯機回したり雑に畳んだりするし。そうなって服が痛んじゃったら責任取れないというか……」

「あーなるほどー、そうなるとちゃんと考えなきゃいけないねー」

 

 猫屋が煙草に火をつけて天井を仰ぎ見た。本当に考えてるんだろうか。

 

「僕はそうなっても怒らないけどね。こっちは使わせてもらってる立場であるわけだし」

「我もそうであるな! でも、お気に入りの甚平(じんべい)は自宅で洗濯するようにするでやんす」

 

 ……状況は俺にだいぶ不利なようだった。コイツら俺以上のズボラのくせに清潔感という物はしっかりしているのが謎だ。

 

「納得していない顔だね、陣内君」

 

心中でぶつくさ文句を言っている俺の心情を見抜いてか、西代がそんな事を言ってきた。

 

「いや、まぁどうしてもというわけではないが……」

「いやいや、こういう時は禍根を残さないように()()はっきりつけるべきだと僕は思うよ」

「というーとー?」

 

 西代は唐突に立ち上がって、押し入れを開いた。そして大きめの段ボールとマジックペンを引っ張りだして何か書き始めた。縦と横に線を引いて8×8のマス目。そこまで書いてから先ほどの白黒という言葉でとある一つのゲームを連想させた。

 

「オセロ? けどマス目がやたら大きくないか?」

「それはコレを駒として使うからね」

 

 そう言って段ボールの盤面に置かれたのは小さな紙コップ。容量はちょうどショット一杯分程度だろうか。それを正方形に4つ置いて、クロスするように赤と白のワインを注ぎだした。

 

「ワインオセロという一時期SNSを沸かせたゲームさ。ルールは言わなくてもだいたいわかるよね?」

()()()()()の代わりに()()()()()()()()()()を駒に見立ててゲームするのか?」

「その通り。そしてコマを挟んで色を変えるときは、変えようとする側がグラスを空にして自身の色の酒を注ぐ。最終的に色が多かった人が勝ち。負けた方は盤面に残った酒を一気飲みさ」

「な、なんというか、恐ろしいゲームでござるな」

 

 酔いを抑えるためにコマを変えるの躊躇すれば敗北し、えぐい量の酒を飲む羽目になる。しかし、コマを取るために飲みすぎればシンプルにオセロに負けてしまう可能性もある。確かにえげつないな。

 

「女性陣を代表して僕が陣内君の相手をしよう。僕が勝ったら洗濯機は今まで通り使わせてもらう」

「なるほど、俺が勝ったら自分の家で洗濯すると……」

「フフフ、もちろん途中で潰れたり、長時間席を離れたら負けだよ」

 

 ゴゴゴゴっと西代の目が怪しく光る。な、なんてプレッシャーだ。こいつにはなにが何でも(らく)をしたいという、凄みを感じる。

 

「っへ、上等だよ。その綺麗な顔を便器に埋めてやるぜ!」

「陣内それ気に入ったのー?」

 

************************************************************

 

「じゃあ先行は譲ってあげるけど、僕が飲むのは赤ワインがいいな。白より好みなんだ」

「そうなのか? じゃあ遠慮なく」

 

 トクトクトクっと紙のショットグラスに赤ワインを注いで行く。そして一つの白ワインを挟むように置いた。

 

「おっと早速駆け付け一杯である。よく考えてみたらパスじゃないかぎり、毎ターン飲む必要があるぜよ……」

「ワインって基本10パー前後はあるからー、負けた方は地獄を見るかもねー」

 

 外野の解説に耳を傾けながら、さっそく一杯目の白ワインをグイっと呷る。

 

「うおっ、このワイン滅茶苦茶甘いな!」

 

 どんなワインにも基本的には少しの渋みがあるものだ。むしろそれがワインの豊潤な香りと合わさって美味しいのだが、この白ワインは渋みを全く感じさせない。強い甘みがあって果実酒みたいだ。フルーツワインってやつか。安物の缶チューハイと違い、奥深い味わいがある。

 

「"島根ワイナリーオリジナルスイート"って銘柄のワインだね。甘くて安くて美味しい。関西圏ならスーパーでも売ってたよ」

「あ、見た事あるでやんす」

「島根のワイナリーなら広島が近いもんな」

 

 甘党の気がある俺には中々いいワインだ。気に入った。

 

「いいワインだろう? このゲームはこういう甘いワインの方が手が進みやすいと思ってね」

「そこまで考えて、このワインにしたのかよ……」

 

 あれ? こいつ結構ガチで倒しに来てないか? いや、このゲームにあうワイン選びに本気出しただけか。

 

「じゃあ次は僕だね」

 

 注いで、置いて、飲んで、再び注ぐ。ゲームはスムーズに進んでいった。

 

 所詮、ワインでやってるだけのオセロだ。角や端を取った方が有利だし、あんまり最初に多くとるとしっぺ返しをくらったりする。酒に酔って集中力を乱さないように、自分の強いと思う定石で攻めていけばよい。

 

「一列、全部もーらい」

 

 三十数手目、端にワインを置き一列全てをひっくり返し盤上のコマに大きく差をつけることができた。勝負は中盤に差し掛かってきたので、この差は大きい。

 

「いいのかい? 一列と斜めも含めて8杯くらい飲むことになるけど」

「フハハハ、ワインなんぞ水と変わらん!」

 

 俺は一端の酒飲みとして自分のキャパシティは完璧に把握している。500mlのワイン3本までなら酔いは翌日に残りはしない。4本はさすがにきついだろうが、このゲームの消費量的にワイン3本も開けることはないだろう。

 

(フフフ、このゲームで俺が潰れることは決してない、と宣言したいところだ!)

 

 少し酔ってハイになっていることは認めるけど。あ゛ータバコがおいしーー。

 

「おい、大丈夫なのか西代よ」

「私たちの洗濯権がかかってるんだからねー」

 

 洗濯権ってなんだ、うまい事言ったつもりか。

 

「んふふふ、まぁ見てなよ。すぐにあの生意気な顔をギドギドの恐怖面に変えて見せよう」

 

 西代のやつも結構お酒廻ってるな。普段クールぶってるから、あんなにテンション高い彼女を見れるのはお酒を飲んでるときだけだ。

そんな事思いながら無事に8杯の白ワインを飲み終えた。まだまだ余裕だな。

 

「じゃあ次は僕の番だね」

 

 西代はたいして迷いなく一番多くコマがとれる場所にグラスを置いた。計5杯、赤ワインを飲んで白を注ぐことになる。西代も当然これくらいで泥酔しない。こいつ等女子三人は酒は俺より強いしな。

 

「ん、おっと……1本目が切れてしまったね」

 

 西代の言う通り2杯分注いだところで、瓶は空っぽになっていた。俺の計算どおり、このゲームで使うワインは赤2本、白2本で足りるのだろう。今の状況は断然俺の優位だ。このままいけば案外、楽に勝てるかもしれない。

 

「では新しいのを開けるとしようか」

 

そう言って、西代は新しい瓶に手を伸ばす。

 

 透明な瓶に、水のように透き通った液体。

白いラベルに書かれた緑色のポーランド語が酒というより、まるで薬品のような無機質さを演出している。

人を寄せ付けない、危ない雰囲気が俺らを圧倒する。

全員がごくりと息をのむ。

何度見ても恐ろ─────

 

「それスピリタスじゃねーか!!!」

 

 思わず大声の抗議の声を上げる。コイツ、平気な顔して何しようとしてるんだ!!

 

「白ワインは実は1本しかなくてね。代わりに、と思って」

「ふざけんな!! そんな劇薬でオセロなんてできるか!!」

 

 勝負はまだ中盤戦。終わりが見えてきたものの、スピリタスでゲームを続けることは自殺行為としか言えない。

 

「なら勝負を投げて負けを認めるかい?」

「い、いやいやいや! ワインが無くなったら勝負は無効だろ? 他の酒使うなんてルール違反─────」

()()()()()

「……えっ?」

 

「僕も陣内君も、()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()というルールとは言っていない」

 

 これが証拠、と西代はスマホを取り出して録音アプリで音声データを再生し始めた。

 

************************************************************

「ワインオセロという一時期SNSを沸かせたゲームさ。ルールは言わなくてもだいたいわかるよね?」

()()()()()の代わりに()()()()()()()()()()を駒に見立ててゲームするのか?」

「その通り。そしてコマを挟んで色を変えるときは、変えようとする側がグラスを空にして自身の色の酒を注ぐ。最終的に色が多かった人が勝ち。負けた方は盤面に残った酒を一気飲みさ」

************************************************************

 

「そんな馬鹿な!?」

 

 確かにワインとは指定していないが、そんな屁理屈あるか!!

 

「おー! 西代ちゃん頭脳プレー!!」

「珍しく賢いではないか、西代!!」

「っふ」

 

 西代が雑に褒め称されて喜んでいるが、ツッコんでいる余裕はない。このままでは負けを認めるか、スピリタスであのゲームを続けるしかなくなる。

こうなったら今からコンビニ行って適当な白ワインを買ってくるしかない!

 

 俺が席を立とうとすると、猫屋がそれを遮った。

 

「どこ行くのー陣内?」

「ちょ、ちょっとコンビニまで煙草を買いに……」

「あれー? 長時間の離席は負けじゃなかったっけーー?」

「あ……」

 

 その時ニヤリと西代が笑った。確信犯じみた悪魔の微笑。

こ、ここまで計算づくかぁーーーー!!

ありえん。コイツ俺を同じぐらい単位落としてるバカのくせに!!

 

「どうする? 素直に負けを認める? それとも勝負を続ける?」

「ぐぐぐぐぐぐ…………!!」

 

 あんな96%の酒なんぞでゲームを続けようものなら、天国にまっしぐらだ。急性アルコール中毒で救急車のお世話になる事になるだろう。

 

 ……悔しいがここは諦めるしかない。俺の肝臓を守るためにも、こいつらの洗濯の権利を認めるしかないようだ。

 

「分かった……俺の負けだ」

 

「「「いえいーーーー!!」」」

 

 俺のサレンダー宣言を嬉々として喜ぶ女子三人組。そんなに、俺の家で下着が干したいのかコイツら。

 

「じゃあ、罰ゲームもよろしくね陣内君」

「……え?」

 

 そういうと、西代はスピリタスを開封しトポトポと残っていた3杯のグラスを満たしだした。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()、だよね? 僕が最後のグラスを置いてからのサレンダーだから、スピリタス3杯とワイン34杯。計37杯の一気飲みだよ」

 

「…………………………」

 

 放心状態の俺の両肩をポンっと安瀬と猫屋が叩いた。

 

「まぁ、今回は西代ちゃんが三枚くらい上手だったってことでー」

「なに明日の講義は心配するな! 代返はしてやるでありんす」

 

 自身が逃げられない事と悟り、俺はこの大敗北の記憶が飛ぶまでアルコールを飲み続ける羽目になった。

 



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猫屋と煙草の火

 ざわざわと喧騒がひしめく昼の大学食堂。喫煙可能なテラス席に運よく陣取れた俺は講義で疲れた頭をニコチンとタールで回復させていた。

 

「おまたー」

 

 猫屋が蕎麦を乗せたトレイを持って席にやってきた。季節は10月。

そろそろ寒さが厳しくなってきたな……。厚手のミリタリージャケットに黒い長ブーツという防寒対策バッチリの猫屋を見てそう思った。

 

「何ジロジロ見てんのさー?」

「……いや、お前は何でも似合うなと」

「え、どーしたよ急に……」

 

 急に褒められて驚いた様子の猫屋が同じ席に座る。

 

 この誉め言葉は揶揄いとか馬鹿にしてるとかではなく、俺の本心だ。我が家に駆けつけてくる酒飲みモンスターたちはどういうわけか人並以上の容姿を誇っている。

 

 やはり肝機能の優れた性能が肌ツヤとかに好い影響を与えているのだろうか。3年後の卒業論文で研究してみるのも面白いかもしれない。実験対象は3人もいるしな。

 

「俺たちの中でも猫屋はキチンと洒落てるというか、品があるよな。もちろん他二人が雑なわけではないけど」

「もー、なんか恥ずかしいなー」

 

 彼女は頬をポリポリと照れくさそうに搔きながら、テーブルの薬味置きに手を伸ばす。そして七味を手に取り、()()()()()()()()()()()()()()()() とその中身すべて振りかけた。

 

「いやマジで、そういう事しなければなぁ……」

 

 俺は思わず頭を抱えた。先ほどまでの俺の言葉を全て返してほしい。血のように真っ赤になった哀れな蕎麦を見つめながら、猫屋の気が触れた所業にドン引きする。

 

「大丈夫だよー、後の人の事も考えて予備のヤツを取ってきてるからー」

 

 そう言って彼女はポケットから七味の瓶を取り出した。ご飯受け取り口の横にある予備の調味料置き場から予め取ってきたのであろう。

 

「俺が言及したいのは薬味の消費量ではなく、蕎麦への理不尽な暴力の件だ」

 

 俺には大量の香辛料に溺れた蕎麦の悲痛な叫びが聞こえてくる気がした。というかもはや七味の味しかしないのではないだろうか……?

 

「七味ってー、どれだけ入れても辛くないんだよ? むしろ旨味がアップするっていうかー?」

「お前の味蕾(みらい)はステンレス製かよ、この味音痴」

「えー、人の食べ方にケチ付ける方がナンセンスだと思うけどなー」

 

 ギロリと猫屋の抗議の視線が俺を射抜く。

……そう言われると確かに俺が悪いような気がしてきた。

 

「それにー、この食堂の維持費は私たちの学費から取られてるんだよー? 普通の店じゃやらないけど、これぐらいは許してもらわないとー」

「……悪い悪い、一杯やるから許してくれ」

 

 俺は自分が飲んでいた水筒のコップを差し出す。中には透明でホカホカの白湯以外何物でもない液体が入ってる。立ち昇る湯気からすこしばかり、芳醇な香りがするが誰がどう見てもこれは白湯だ。

 

 アルコール? ハハハハハ、入ってるわけないだろ。

 

「……保温の水筒に熱燗を持参して大学に持ち込むほーが、ヤベーやつだと思うよ」

 

 必修の糞つまらない講義をスマホを弄ることもできず1時間半も素面で受けるとか考えたくもない。当然大学内は飲酒禁止だが、これは命の水なので一切の問題はない。もちろん帰り道は徒歩なのでそこも悪しからず。

 

「なんだ、いらないのか?」

 

 猫屋も今日は俺の家から登校したため徒歩だったはずだ。

 

「いりますー!! いやー、寒空の中で食べる蕎麦には必需品だよねー!」

 

 そう返すと俺から奪い取るようにコップを受け取ると、ゴクゴクと飲み始めた。いつ見てもいい飲みっぷりだ。

 

 すると、突然猫屋の目がカッと開かれた。

 

「なにこれー! うまーーー!!」

「ふふふ、そうだろうとも」

 

 燗にした酒自体は辛口の安物酒だ。しかし、水筒に酒と一緒に()()()()をいれておいた。

 

「これってアレだよねー、鰭酒(ひれざけ)!!」

「正解」

 

 この燗酒にはトラフグの鰭を乾燥させた、即席の鰭酒セットを使っている。鰭酒を飲んでみたくて通販でセールになっていたのを買った。

フグの濃い旨味と塩っけが安酒にマッチして最高に美味しい。

 

「というか、よく分かったな」

「山口の物産展で飲んだことあるんだよねー! あぁー、おいしーーー」

 

 なるほど、山口県と言えば下関のフグか。一回本場の鰭酒とフグを食べに行ってみたいな。確か安瀬が広島出身のはずだ。隣県だしあいつに頼めば、喜んでついてきてくれるかもしれない。

 

「辛めの蕎麦によく合って美味しー! 大学で鰭酒やりだすキチガイが身内にいてよかったー!」

「おい、今すぐそのコップを返せ」

「事実じゃーん」

 

 アハハっと屈託のない笑顔で笑う猫屋。なんて失礼な奴だ。むしろ、朝から水筒に詰めておくことでじっくりとフグの旨味をだすという、俺の効率的な時間の使い方を褒めてほしいものだ。

 

「というか他の二人は? 今日はサボってなかったろ?」

「あーなんかー、献血に行ってる」

「は? 献血?」

 

 その行為自体はとても立派で素晴らしいものだが、普段からの彼女たちの言動を見るにとても奉仕活動に熱心なタイプとは思えない。

 

「なんかー、大学のボランティアクラブ主催の献血でー、献血者にはドーナッツとか飲料水を無料で配布してるんだって」

「へー」

 

 物欲にかられたのなら納得の理由だ。

 

「おまけに学校公認だから、献血時間が長引いて多少講義に遅刻しても大目に見てくれるらしいよー」

「おいおい、まじかよ!」

 

 邪な理由だらけで申し訳ないが、そんなメリットしかない献血なら喜んで俺の大切な赤血球達を提供しよう。それに、急に奉仕精神に目覚めてきた。ビバ世界平和。ラブ&ピース。こうしてはいられない……!

 

「おい、今からでも行こうぜ!」

「いやー、陣内は()()()()()()()()()から無理だとおもうけどー」

「あ、」

 

 そういえば、飲んでるんだった俺。うぎぎぎ……

断腸の思いで社会奉仕活動を断念する。俺の人を救いたいを思う高潔な気持ちはどこに向ければいいのだ。

 

「はぁ……猫屋は何で献血にいかなかったんだ?」

「私は低血圧で検査の段階で弾かれたー」

 

辛党と血圧って比例しないんだな。

 

************************************************************

 

 ほろ酔いで楽しく講義を受けた後は、猫屋と最寄りのスーパーで晩飯の材料調達を済ませた。今はその帰り道。安瀬と西代はそのままバイトに向かったらしい。献血後なのに元気な奴らだ。

 

「ウヒヒヒー、今日はカレだー! 圧力鍋を買ってから煮る系の物は格段に美味しくなったよねー」

「あれはいい買い物だったな。角煮とか簡単に作れるし」

 

 ただ今夜のカレー作りには細心の注意を払わなくてはならない。猫屋がこっそりと大量の青とうがらしを買っているのを俺は見逃さなかった。あんなものを入れられた日には、カレーは猫屋以外に食せない物になるだろう。カレールーも辛口だし。

 

「まぁ安瀬たちが帰ってくるまではコイツでチビチビやろうぜ」

 

 エコバックを少し持ち上げて、中身を軽く見せる。CHOYAの梅酒が淡い緑色を放ち、他の食材を押しのけて一層と輝いていた。

 

「梅酒はやっぱりコレだよねー。これぐらい度数がないと物足りないしー」

「来年は皆で漬けてみようぜ。好きなウイスキーとかブランデーを各自で持ち寄ってさ」

「おー、トンでも梅酒が爆誕しそー」

 

 ケラケラと談笑していると家の前まで付いた。鍵を開けるために内ポケットを探る。

 

「……あれ?」

 

 ない。鍵がない。俺はエコバックを床に置き体中のポケットを弄りまくる。

 

「ちょ、ちょっと、どーしたの?」

「鍵がない」

「……えー?」

 

 猫屋がアンニュイな声を上げる。その目は一秒でも早く重い荷物を下ろしたいと訴えかけていた。

 

「いつもは自転車のカギと一緒にしてるんじゃーん。駐輪場の自転車にそのままささってないー?」

 

 その言葉で思い出した。今朝、西代の自転車がパンクしており俺の自転車を貸してやっていたのだ。必然的に自転車鍵とセットになった家の鍵は西代の元へ……

 

「やらかした、鍵は西代が持ってる」

「なるほどー……家出る前パンクしててプンプンしてたねー」

「そういう事だ猫屋。ほら、出してくれ」

「へ?」

「スペアキーだよ、お前らに預けてるだろう?」

 

 陣内家のスペアキーは、俺がバイトで遅くなる時があるのでコイツら3人に貸し出している。

 

「あぁーーーーー……」

 

 猫屋があからさまに顔を背けだした。目がプルプルと揺れまくっている。

 

「……お、おい、まさか」

 

「今は安瀬ちゃんが持ってまーす」

 

 てへぺろっという効果音が聞こえてきそうなドジっ子スマイルを猫屋は浮かべた。逆に俺はドスのきいた低い声で返事をしてやる。

 

「明日になったら鍵屋で三人分複製して来いよ。それが嫌なら没収」

「……はーい」

 

************************************************************

 

 寒空の中、二人でぼーっと玄関前で座っている。現在時刻は19時須。安瀬たちのバイトが終わるのは22時だ。あと3時間はこのまま待ってなければいけないだろう。買った食材があるため、どこかに行く気にもならない。

 

「酒、開けるか」

「さんせー」

 

 コップ代わりの水筒もあるし、世間の目の事を考えさえしなければ何ら問題はない。

 

「冷える前に、身体を内側から温めないとな」

「それなー」

 

 梅酒を開けて、水筒のコップと栓を外した本体に酒を注ぐ。

 

「じゃー、乾杯」

 

 コチンっと金属製の音が響く。もう辺りはすっかり暗くなり、綺麗なお月さまも出ている。二人で月見酒と思えば意外と悪くないか。

しかし……

 

「なんか日本酒混じってないか? あと魚介も」

「あー、たしかにー」

 

 元々入れてあった鰭酒の風味が梅酒に混じってしまった。少々よく分からない味わいになっている。

 

「まぁ飲んでれば馴れるか」

「そうだねー、タバコ吸って味変(あじへん)しよー」

 

 猫屋がシガレットケースを取り出した。木製でリアルな猫の絵柄が彫ってある。

ハンドメイドでお高いらしい。尻ポケットに入れた煙草をうっかり踏み潰すこともなくなるから、俺も欲しい。

 

 彼女は火をつける為にジッポを取り出し、太腿に押し当てる。そのままキャップを押し上げながら、同時にフリントホイールを回す。本来なら粗い布地の摩擦でジッポに火が付くはずであったが、何故か火はともらなかった。

 

「……オイル切らしてたんだったー」

「珍しいな」

「夜に補充しよーと思ってた」

「ちなみに俺もライターないぞ」

「……にゃにー?」

 

 ぶりっこ全開な言葉とは裏腹に、苦虫を嚙みつぶすような顔をこちらに向けてくる。

 

「昼はタバコ吸ってたじゃーん」

「講義抜け出してタバコ吸ってたらガスがきれた」

「アハハハ! 単位落としたら親が泣くぞー。火がないと私も泣くぞー」

 

 返す言葉もない。最近ちょっとサボりすぎだ、明日は真面目に講義を受けよう。

まぁ今はそんな事よりも火の確保だ。

 

 酒と煙草は切手は切れぬ間柄。餃子にビール、牛肉に赤ワイン、毛羽先にハイボール、それらと全く同じである。

……我ながら酒の例えしか出てこないのは問題か?

 

「仕方ないからコンビニに買いに行くか? 荷物を放置するわけにはいかないから、どちらかが残る羽目になるけど」

「ふっふっふー、こういう事を見越して備えておくのが、()()()()()()というものだよー」

「自覚はあるんだな」

 

 そう言うと猫屋は自分のブーツに手を突っ込み、何か棒状の物を取り出した。それを勝ち誇ったように突き付けてくる。

 

「安瀬ちゃん風に言わせればー、備えあればうれしいなーというわけよ」

「それマッチか? なんでそんな物がブーツに?」

 

 猫屋の履いている長ブーツは網掛け部分が縦に長いため、確かにマッチ一本程度なら折らずに格納する事ができるだろう。だが、なぜわざわざブーツに仕込んだんだ?

 

「古い映画みたいに、ブーツの靴底で火をつけてみたくてー。披露する機会を逃さないためにブーツ自体に仕込んどいたー」

「そういう事か。でもマッチって箱の側面にある紙やすり的な物じゃなくても、火付くのか?」

「普通のマッチじゃ無理ねー。これは"ロウマッチ"って言ってー、どこでも擦れば火が付くやつー」

 

 そんなマッチは聞いた事無い。恐らく通販でわざわざ取り寄せたんだろう。相変わらず、よく分からない小物によくこだわる奴だ。

 

「まぁ、なんにせよ助かる。とっとと火をつけてくれよ」

「…………」

 

 猫屋は返事もせずに神妙な顔でマッチ棒をジーッと見つめている。

 

「よく考えたら私ってー、マッチ使ったことないのよねー」

「いや……買ったときに試したりしなかったのか?」

「室内だったから怖くてやめといたー」

 

 確かに、火を付ける過程で落としたら火事になるかもしれないし、分からんでもない。

 

「陣内はー?」

「……あれ? 俺もそんなにないかも」

 

 最後にマッチを使ったのなど、小学生の理科の実験以来だ。

 

「現代っ子、ここに極まりだねー」

「そうだな。……靴底でやって折ったら嫌だし、確実に床で擦って火つけちまうか」

「えー! やだー!!」

 

 猫屋が甲高い声で俺の安全策を否定する。

 

「わざわざその為だけに衝動買いしちゃったのにー! この機会を逃せばこの子は二度と日の目を見る事はないよー」

「……マッチだけに?」

「うっっわ、陣内さっむー」

 

 急に絶対零度までテンションの下がった、猫屋の冷たい視線。そ、そんな引くほど悪くはないだろう。自分ではなかなか面白い返しだと思ったのに。

 

「う、うっさい! じゃあ一人でつけてみろよ。失敗したら猫屋がライター買いに行けよ!」

「えーー! 私ジッポあるからライター持ち歩かないのにー! 買っても絶対使わないじゃーん!!」

 

************************************************************

 

「……じゃ、いいよー」

「お、おう」

 

 結局あーだこーだと言い合った後、折衷案で()()()()()()()()()()()()()()()()()ことになった。立った猫屋が俺に背を向けて、ブーツの底をこちらに見せてくれている。

 

 俺は下から見上げるように猫屋の足元に座っていた。女性の背後を下から眺めるなど生まれて初めての経験かもしれない。スキニーのぴっちりしたズボンが猫屋の形の良いお尻と細長い脚を強調している。

 

(なんか、いけない事してる気分になるな。……しかし、スタイルいいなコイツ)

 

 我が家でラフな格好を何度も見たことはあるが、こんなにまじかで見るのは初めてかもしれない。今はミリタリージャケットに隠れてしまっているが、俺はその下に女性らしいくびれた腰がある事を知っている。

 

「ねー、まだー?」

 

 いかんいかん、猫屋に失礼だしさっさとやってしまおう。こんな邪な考え、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

擦り付ける靴底を固定するために、ブーツに覆われた足首を掴む。

 

「ぁっ……!」

 

 突如猫屋がスッとんきょな声を上げる。どこか悩ましいというか色気を感じさせる。マジで勘弁しろ。

 

「おい、変な声出すなよ。外だぞここ」

「ハハハ、ごめんごめーん。なんかびっくりしちゃってー」

 

 女性三人を日常的に部屋に連れ込んでいる俺を、ご近所さん方がどう思っているかは想像がつきやすい。こんなところ見られたら、どんな噂を流されるか……

 

 俺はさっさと手に持ったマッチで靴底をこすり上げた。折れることなくマッチはシュボッと摩擦熱によって勢いよく発火した。

 

「お、ついた」

「はやく、はやく! 火、ちょーだい!」

 

 立ち上がって煙草を咥えた猫屋の口元までマッチを持っていく。加えて、風で火が消えないように手で風よけを作ってやる。5秒もしないうちにボゥと優しい灯りが煙草の先端についた。それを確認して、マッチを振って火を消す。

 

「ふぅーーー、ありがとー陣内」

 

 満面の笑みで煙草を満喫する猫屋。そういえば彼女はジッポが切れていたから昼飯から吸ってなかったのか。そりゃ格別に美味しいわな。

 

 いかん、俺も早く吸いたい。

そう思い、ポケットから煙草を取り出して一本咥える。その時あることに気が付いた。

 

「って、俺の分の火が無くなったぞ」

 

 マッチの火が危なかったので早めに消してしまい、俺の煙草の火種が無くなってしまった。

 

「なーに言ってるのー? ここにあるじゃーん」

 

 猫屋は自分の煙草を指差す。それと同時に、その綺麗な顔をゆっくりと近づけてきた。

 

「んっ」

 

 伸ばされた猫屋の小さい手が俺の腕を掴んで引っ張る。お互いの煙草の先端がゆっくりと押し合わさった。突発的なシガレットキス。猫屋の造形の整った顔が10cmもない距離に切迫してくる。

 

 俺はなんとか動揺を隠しながら、ゆっくりと息を吸い込む。煙草は吸いながらではないと火がつきにくい。煙草の匂いに紛れて、猫屋の髪の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

 

 約5秒間、なぜか二人の視線は煙草の火ではなく、お互いを見つめあった。

そして、火が十分に灯ったところで、ゆっくりと離れる。

 

「「ふぅーーー…………」」

 

 お互いに何かをごまかすように煙を吐いた。

 

「うまいな」

「ねー」

「酒も煙草もあることだし、ゆっくり待つか。ビールを開けるのもいいかもな」

「いいねー、さんせー」

 

 再び玄関前に二人で座り込んで、時間がくるのを待ち始める。寒かったのか、酔っていたのかは分からないが猫屋の顔は少しだけ赤かった。

 



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安瀬の自白

 

「いい所であろう?」

 

 白色灯がない店内に立ち、暖かな光を提供する赤提灯。2mはありそうな大樹の切り抜きに掛けられた、百を超える色とりどりの小さな瓢箪。

 

 そんな内装煌びやかな店内を背景に、得意げな顔をしてこちらを見る安瀬。手に持っている、ぐい飲みが同い年とは思えないほどよく似合っている。

 

「まぁな。突き出しのナスのお浸しも美味しかった」

 

 くどくない程度に濃い味のタレが大きめのナスによく浸っていて、酒がよく進む味だった。ここは安瀬が借りている賃貸近くの居酒屋。俺は安瀬に呼び出されて、今は店内奥のお座敷で二人静かに飲んでいる。

 

「しかし珍しいな、外飲みの誘いなんて……」

「普段は宅飲みで十分であるからな! ご飯は美味しいし、酒は多種多様無限に出てくるでござる!」

「お前らが色々置いて行ってくれるおかげで、酒のラインナップなら居酒屋にも負けない自信はある」

 

 我が家の押し入れの一部はもはや酒の魔窟といっても過言ではない。一度試しに買って気に入らなかった外国産のお酒や、割るものが必要な甘いリキュール達がさらに自分たちを熟成させている。まぁ、酒のストックはあればあるほど嬉しいので別にいいのだが。カルーアとか結構好きなんだが、普段牛乳を買わないため特に余りがちだ。気合を入れて、ホワイトルシアンでも家で作ってみようか?

 

「で、理由は特にないのか? 単純に飲み相手が欲しかっただけか?」

「本日は平素よりお世話になっております、陣内殿に対して感謝の意をお伝えしたくこの場をご用意いたしました」

「嘘をつけ」

 

 安瀬が唐突に顔を伏せて、言葉で敬意を示しだした。随分とノリがいい。

 

「まぁ、理由は場が盛ってきてから、ほどほどにでござるよ!」

「それを言うなら(のち)ほどにな」

「細かいのぉ……まぁ、隣町からわざわざ来てくれた礼じゃ。今日は我のおごりでやんすよ」

「おいおい、マジかよ……!!」

 

 なんと珍しい。俺たち四人組は奢られることはあれど、奢るような高潔な精神の持ち主は居ないと思っていた。

 

「一昨日にバイト代が入ったばかりでござるからな。倉廩(そうりん)実ちて礼節を知ると言うが、懐が潤っている時こそ感謝は伝えるべきで(そうろう)

「意味はよく分からんが、今日は安瀬が生き仏に見えるぞ」

 

 そうとなれば話は別だ。気分よく酔っぱらって頂いて、気分良くおごってもらおう。人のおごりで飲む酒ほどおいしい物はない。

 

 俺は空いてるお猪口に酒を注ぐため、徳利を安瀬に差し向ける。

 

「どうぞ一献」

「フフフ、悪いの……」

 

 トクトクと徳利を鳴かせながらお酌する。

 

 酌を受ける安瀬の姿はとても堂に入っており綺麗だ。青い革ジャンに白いニットシャツ。それらを身に纏い、長く色素の薄い艶やかな茶髪を後ろで一まとめにしている姿は、天真爛漫で幼さを感じさせる普段の言動とは相反しつつも奇妙な親しみやすさを感じさせる。

 

 ギャップというか、黙っていれば美人というか……

 

「ぐい飲みがよく似合うな」

「そうかえ? まぁ店内は薄暗い。夜はすべての猫が灰色に見えるという事であろう」

 

 逆手で杯を口までもっていき、静かに飲み下す。粋な飲み方だ。

 

「昨日、罰ゲームで()()()()()()()()()して大学に行ったやつには見えん」

「あ、あれは流石の我もキツイものがあったでござる……」

 

 11月の寒さ厳しいこの時期に、股下3cmのへそ出しスタイルで大学に赴く彼女の雄姿は生涯忘れられない物になるだろう。彼女のスタイルの良さが災いし、用意していたコスプレ用制服の(たけ)が合わなかったのだ。しかし、それくらいの理由で罰を実行しない俺たちではない。

 

「一番傑作だったのが、線形代数学の先生の『この後、AVの撮影でもあるのかい?』だったな」

「あれは心をえぐったでござるよ……。というか普通にあの発言はセクハラであろう!」

 

 その時、俺たちは怒るでも訂正するでもなく過呼吸になりそうなほど笑い、周りをドン引きさせていた。まぁ、あの格好で講義を受ける方が悪い。

 

「しかも今日、その事で()()()()に呼び出されて真剣に人生相談を持ち掛けられたであるよ。『何か困ってることがあるなら相談に乗るわよ』って。なんて言い訳するかマジで悩んだでござる」

「ハハハハハ!! 佐藤先生も仕事とはいえ大変だな」

 

 佐藤先生とは俺たち四人の担当女教授だ。俺たちの所属する情報工学科は女性の比率が大変少ない。全国的に見ても理系の男女比など9:1が基本ではあるが。なおかつ俺たちは()()2()()していて、大学1回生にして20歳を超えるといった稀なやつら。そういった事情を持つ俺らは一か所にまとめられ、佐藤先生の担当学生となっている。

 

 この問題児たちの相手をする佐藤先生には同情を禁じ得ない。

 

「あぁ、大丈夫でござるよ。陣内に命令されましたって誤魔化しといたであるからな」

「俺を巻き込むんじゃねよ!」

 

 ただでさえ同じ学科の奴らに『女を侍らす漫才師見習い』だの『彼女にコスプレを強要する変態鬼畜外道』など様々な異名で呼ばれているのに……。

 

「というか、明日、間違いなく俺が佐藤先生に呼び出される……。なんて言い訳しよう」

「アッハッハッハ! どれ、我が特別に面白いヤツを一緒に考えてやろう」

「いや、お前のせいで頭を悩ませているんだが」

 

 明日行われる生活指導という名のお叱りを想像して憂鬱になる。せっかくの飲み会なのに変なことに頭を使うのはごめん被る。煙草が欲しくなり、ウィストンを一本咥え火をつける。喫煙席がある居酒屋はありがたい。この寒い中、外にわざわざ一服しに行くのは手間だからな。

 

「そういえば、ここの居酒屋のおすすめはなんだ? 行きつけなんだろ?」

 

 煙草を灰皿に置いて、店内を見渡す。喫煙可能なのが不思議なほどに手の込んだ内装だ。そして、安瀬のお気に入りの店という事は装飾だけではなく、酒の質も高いはず。

 

「あぁ、ここは自家製のモヒートが上手いでありんす。しかも自家製に加えて、バカルディではなくキャプテンモルガンのプライベートストックを使ってるらしいでやんす」

「それは、まぁ、随分と高級品を……」

 

 モヒートとはミント、ラム、砂糖、ライム、ソーダ、で作る清涼感と甘さが特徴的なカクテルだ。普通の居酒屋ではコスパを考えて、大手飲料メーカーで売っている炭酸で割るだけでできる業務用の物を使っているはずだ。

 

「モルガンのプライベートストックなんて一本5000円くらいするだろ。それにモヒートって普通、ホワイトラムで作るんじゃないか?」

「ダークラムで作るモヒートの方が我は好みだ。飲んだことないか? ちなみにお値段は、一杯1500円である」

「強気な値段設定だな、奢りじゃなきゃ頼まないかも」

 

 確かにあのラムはめちゃくちゃ美味い。度数40%とは思えないほどの口当たりの良い深い甘みが特徴的だ。個人的にはレディキラー代表作。俺の場合ストレートでも難なく飲むことができるくらいだ。むしろ、コーラ等で割ることには抵抗がある。

 

「フフフ、それは奢りがいがある話であるな。すいませーん! 注文いいですかー!」

 

 はい只今、という店員の声が聞こえてくる。たいして間を置かずに店員が足早にやってきた。

 

「自家製モヒートを二つとスモークタンをお願いします」

「かしこまりました」

 

 安瀬は俺達以外の前だと普通の口調になる。いきなり口調がまともになると、普段との温度差で風邪ひきそうになるな。

 

************************************************************

 

「うっっっま」

「で、あろう?」

 

 ミントの心地よい爽快感だけが口内で広がると同時に、ラムの濃いシロップのような甘みがアルコールやミントの苦みを打ち消してくれる。グラスについてあるライムも新鮮でアクセントにぴったりだ。おつまみのスモークタンもいい塩梅。歯ごたえがあり塩辛いスモーキーな味わいが炭酸の効いたお酒をさらに加速させる。

 

「ゴキュゴキュいけるが、1500円だと思うともったいなくて舐めるように飲んじまうな」

「分かるでおじゃる。お互いに貧乏性でやんすね」

 

 そう言いながら、安瀬がフィルターに埋め込まれたカプセルを歯で噛み潰した。よく見ると普段吸っているメビウスではない。

 

「何を吸ってるんだ?」

「マルボロのアイスブラストでやんす。これも御贔屓の品じゃ」

「ミントの酒に、ミントの煙草か。好きだよなミント味」

 

 返事もせず、安瀬は紫煙をくゆらす。煙を肺まで入れずに香りを楽しんでいるように見える。少しの間の後、ふーっと優しく吐き出した。

 

 不思議とその姿はなまめかしい。煙草を咥えたピンク色の唇が店内の灯りを反射して怪しく光って見えた。

 

「この冷めた清涼感が、どうにも堪らないでありんす」

「猫屋みたいに過剰に好物を入れだすなよ」

「あそこまでではござらんよ」

 

 カラカラと二人で笑いながら酔いと時間を先に進める。

 

「けど、今日は他の二人は呼ばなかったのか? これだけいい酒場ならあいつ等も絶対に気に入るぞ」

「……」

 

俺が猫屋たちの事を口にすると安瀬は急に押し黙った。

 

「二人も一緒が良かったでありんすか?」

「へ……?」

 

 慮外の発言。そう言うと安瀬は流れるような所作で俺の隣に座ってきた。

 

「お、おい……」

 

 胡坐(あぐら)ではなく、女の子座りになった彼女は内ももに手を置き肩をすくめている。俺の隣に居座りなおしたその姿は、まるで儚げな女の子。ミントの煙草を吸っていたせいだろうか。彼女の体からは心地よいハーブの香りが漂っている。

 

「わ、私だけじゃつまらないですか?」

 

 いつもの口調をやめて、彼女は俺にしな垂れかかってくる。整った顔立ちの彼女がそういった事をやると恐ろしいまでの庇護欲をそそられる。だ、誰だこいつは……?

 

「い、いやそんな事はないが」

「そう……よかった」

 

 そう言うと安瀬は安堵の吐息とともに可愛らしく笑って見せた。普段の彼女からは考えられないほどの健気さ。月下美人という言葉が似あう。

 

「今日、陣内だけを呼び出したのは実は()()()()()()()()があるんだよ」

 

 赤い顔をこちらに向け、潤んだ瞳で上目遣いになった彼女の真剣な目線が俺と交差する。

 

「そ、そのちゃんとした理由とは……?」

「うん……実は陣内に言いたいことがあって」

 

 こちらを向く彼女の顔は相変わらず朱い。朱い頬は酔いのせいか、紅潮のせいかは判断できない。しかし、彼女に密着しているため伝わってくる体温は心なしか普段よりも高い気がする。

 

「今日は二人を連れてくるわけにはいかなかったの。大切なことが言いたかったから……」

「た、大切な事」

 

 刹那、()()()()()()()()()()。この先の展開を予想し、ドクンと心臓が変に跳ねる。不整脈だ。嫌な汗が額からにじみ出て、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「あのね……」

 

 やめてくれ。俺はなんだかんだ今の関係が気に入って──

 

 

「実は我、37度くらいの微熱があるんでやんすよ」

 

 ダラーっと鼻水を垂らしながら安瀬はそう言ってのけた。

 

 

「はぁ!? は、はぁぁぁぁぁああああーーー!?」

 

 店内にもかかわらず、俺は大声で感嘆の声を上げた。

 

「いやー、昨日のコスプレで体を冷やしちゃったようで、お昼ごろから発熱しちゃったでござるよ」

「お、おま、おまえな……!!」

 

 そう言われれば、コイツ来た時からいつもよりテンションが高かったし、変な言い間違いもしてた! 体温もやけに高いし、そんなに飲んでないのに顔が赤いのもおかしい!!

 

「あ、一応弁明しておくと感染するタイプの風邪ではないでござるよ? 午後の講義を抜けて医者に診断してもらったでやんすから。微熱であるしな」

「いや、そういう問題じゃくて単純に危ないだろ! 風邪を拗らせて死んだ奴も世の中には居るんだぞ!!」

「ア、アハハハ。そう言われると弱いでありんす……」

 

 安瀬は先ほどまでの明るい態度から今度はシュンっと落ち込んで見せた。俺の目から見れば反省しているというより、熱で躁鬱が不安定になっているようにしか見えない。

 

 さっきまでの甘酸っぱい雰囲気は、はるか彼方へと吹き飛んだ。俺は残った酒とつまみを流し込むように胃に収めると、座った状態から勢いよく立ち上がった。

 

「おい、会計済ませて急いで帰るぞ!」

 

 今はこのド阿呆の体調が心配だ。

 

「あ、その、さっきからフラフラして立てないでやんす」

 

 そう言いペタンっと座り込む安瀬は普段の溌剌(はつらつ)とした姿とは違い、まるで借りてきた子猫。熱っぽい吐息を吐きながら(すが)るように、ボーっと俺を見てくる。

 

「……おぶってやる、ついでに看病もセットでな」

「あ、ありがたや」

 

 少し怒気を込めた俺の声に、安瀬はさらにシュンっと縮こまった。

 

************************************************************

 

 会計は安瀬が宣言通りにおごってくれた。体調の悪い彼女にお金を出させるのは一瞬抵抗を感じたが、元々身から出た錆という事を思い出して気兼ねは無くなった。

 

 今は安瀬をおぶって、彼女の賃貸に向かっている途中だ。彼女の体重の軽さは運びやすくて助かるが、もう少し重たいほうが体力の心配をしないで済む。背中越しに感じる彼女の体温は先ほどよりも高く、冬の夜の冷たさは体に響く。急いで帰らなければならない。

 

 しかし、その前に安瀬には聞いておきたいことがある。

 

「なんで風邪ひいてるのに、飲んでんだよ」

 

 俺は当たり前の疑問を彼女に投げかけた。

 

「アルコールの浄化作用を試してみたかったでありんす」

「阿呆とは思っていたが本物の阿呆か、安瀬。アルコールに解熱作用はない」

 

 俺のあきれたような声に、安瀬は乾いた苦笑いで答えた。彼女の考えなしの回答に付き合いながら、今日の行動をさらに振り返ってみる。

 

「俺以外を呼んでないのはもしかして……」

「万が一にでも他の二人にうつすと申し訳ないでやんす」

「やっぱりな……俺にはうつしてもいいのかよ」

「陣内は馬鹿だし、風邪ひかないと思ったでござる」

 

 今日の安瀬にだけには言われたくない。

 

「じゃあ、珍しくおごってくれるって言ったのは?」

「もしもヤバくなった時の迷惑料代わりで(そうろう)

 

 居酒屋の代金を生命保険代わりかよ。まぁ確かに、俺なら喜んで看病するが。

 

「急に口調を変えて、変な雰囲気で迫ってきたのは?」

「そっちの方が面白いかと思って……」

 

 アレが演技だと考えると末恐ろしいやつだ。コイツが普段からあんな感じだったらモテまくるだろうな。

 

 あらかた安瀬の奇行の理由が解決したところで、俺には彼女に強く言いたいことができた。

 

「あのなぁ、安瀬……」

 

 俺の改まった様な口調受けて、背中で小さく丸まる安瀬。背後から『くわばら、くわばら』という声も聞こえる。俺からの雷に備えているのだろう。

大きなため息とともに、俺は彼女に容赦なく落雷を落とす。

 

「風邪ひいて、寂しくて、看病してほしかったなら、今度からは回りくどい事せずにちゃんと言えよな」

「……え?」

 

 俺の言葉に、安瀬は呆気にとられた間抜けな声を上げる。

 

「まだ半年程度の付き合いだが、それぐらいは分かるよ」

 

 俺は自分の見解をツラツラと語り始める。

 

「どうせ、明日の講義は公的な理由でサボれるからラッキーとか思いながら家で寝てたら、思いのほか寂しくなっちゃって、陣内なら飲みの誘いなら槍が降ろうが駆けつけるし、良い酒でも奢ってそれを理由に看病してもらおうって思って、でもなんか熱が辛くなったって言うのが恥ずかしくなっちゃって、変な雰囲気で誤魔化しながら自白しようとしたんだろ?」

 

「な、なんでそこまで分かるでありんす……!?」

「お前が馬鹿だから」

 

 流石の安瀬も今回はぐうの音も出まい。

 

「ぐ、ぐぅ……」

 

 うん、ぐうの音でちゃったな。ま、まぁ俺の推測は間違ってなかったようだ。 

 

 しかし、素直に頼むのが気恥ずかしかったのだろうが、酒を理由に俺をつり出したことは感心しないな。今回のようなことが起きないようにちゃんと安瀬には釘を刺さねばな。

 

「安瀬、確かに俺は自他供に認める、アル中のヤニカスだけど……」

 

 一つ前置きを置きながら、彼女を間違っても落とさないように深くおぶり直す。

 

「友達が熱出してる時くらいは、一緒に甘酒でも飲んで我慢するよ」

 

 背後で安瀬が沈黙する。予想外の言葉に驚いてるようだった。さすがに病人の横で煙草を吸うつもりはないが、酒は我慢できないので甘酒くらいは許してほしい……

 

「……っぷ、なんでござるかそれ。結局、酒は飲んでるでありんす」

 

 堪えきれないように笑う彼女。思ったより元気で何よりだ。安瀬はひとしきり笑うと肩を掴んでいた手を首に回して、しっかりと体を密着させてきた。空いた肩に頭を載せて、俺に体を委ねる。そっちの方が安定感が増すので助かる。

 

「安瀬の方はもちろん、ノンアルな」

「えー、……まぁ仕方ないでやんすね。ちゃんと治るまで禁酒禁煙じゃな」

「そりゃ、明日は大雪だ」

 

 疎らに立つ街灯だけが光る、二人だけの帰り道。俺と安瀬は風邪の事など忘れたように、仲良く談笑しながら帰路についた。

 

************************************************************

 

 翌日、俺は約束どおりに甘酒を(こしら)えってやった。米入りのやつだ。俺と同じように事態を聞いた猫屋と西代が看病に来た。猫屋は冷えピタやスポーツ飲料を持って駆けつけて、西代はグデグデになるまで煮込んだ病人食用のうどんを振る舞ってくれた。

 

 俺達の介抱もあって、安瀬は二日後にはケロッと復活したのであった。

 

 




この世界にコロナウイルスは蔓延しておりません。
また、コロナ蔓延前に作者も微熱状態での飲酒経験がありますが大変苦しかったため、決して真似してはいけません。


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加速するクズ

 

 波が立たない淡水で方形の湖。水際の寒い風を打ち消すように、俺たち4人を照らす明るい太陽。空には雲一つなく、スカイブルーが視界一杯に広がっていた。冬特有のカラッとした良い天気だ。

 

「いい天気でありんす」

「そうだねー、お昼寝したくなっちゃうかもー」

「ハハハ、今日は昼寝なんてしてたらもったいないぞ」

 

 今日はわざわざ電車を使ってここまで遊びに来たのだ。学業とバイトで摩耗した精神を全力で回復させてあげなければ。

 

「僕なんて今日が楽しみすぎて、わざわざ早起きしてサンドイッチ作ってきたよ」

 

 西代がどこか気恥ずかしそうに、大きめのトートバックを掲げた。果物のプリントがほどこされていて可愛い。

 

「あとホットワインを水筒に入れて持参してきたよ。安酒だがレモンとシナモン、ブラックペッパーとクローブを入れてあるから、スパイシーで美味しいはずだ」

「手が込んでて美味しそー! サンドイッチも楽しみー!!……ちゃんとマスタード入ってるー?」

 

 西代と……ワイン? う゛゛っ、頭が。……何か嫌な記憶が脳みその端っこから蘇りそうだ。

 

「どうしたんだい、陣内君? 顔色が悪いが……?」

「い、いや、何でもない。少し電車で酔ったかな。酒飲んでりゃ治る」

「酒飲んで乗り物酔い治そうとするって、アル中がすぎるよー」

 

 フフフ、アハハ、と穏やかな雰囲気が俺たちの間で流れる。なんかいいな、こういう緩い感じ。酒で潰しあったり、苛烈な罰ゲームを掛けていないせいか気が楽だ。

 

「しかし、朝早いのに結構人が多いな」

「まぁ割と居心地がいい場所ではあるしね」

 

 確かに周りの設備はなかなかに悪くない。テーブルとイスは多めに設置されていて、場所取りには困らない。寒くなったらガラスで覆われた大きな建物もある。コンビニが近くにあり、出店もあって食事とつまみに困ることはないだろう。湖の上には何隻かボートが浮かび、子供連れの親子がテーブルで談笑している。

 

「親子か……。見ていてほほえましいでありんす」

 

 たしかに、良い気分だ。快晴に自然豊かで落ち着いた環境。気の置けない仲間たち。これはまるで神様が俺達の休日を祝福しているようだ。今日は素晴らしい一日になるだろう。そんな確信的な予感に俺の気分は高揚していった。

 

「……さて」

 

 パンっ! と安瀬が唐突に手を叩いた。その瞬間、俺たちの気の抜けた雰囲気が一変する。

 

「皆様方、そろそろお互いに肩を組んでいただきまして……」

 

 安瀬の場を仕切る声に抵抗する事なく、俺たちはガシッ!と力強く円陣を組んだ。俺たちがここに来たのは呑気にピクニックに興じに来たわけではない。

絶対に()()()()()()()()に馳せ参じたのだ。

 

 今日、俺たちは埼玉県某所の()()()()()()()に来ていた。

 

「今日は絶対に勝って帰るでござるよ!!!」

「「「うおおおおおぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉーーーー!!!」」」

 

 怒号を秘めたギャンブラー達の咆哮があたりに響く。もう一度言う。今日は素晴らしい一日になるだろう。

 

************************************************************

 

「で、競艇ってどうやってやるんだ?」

 

 俺達は自分たちの席を確保し、ビール(ガソリン)を流し込んでいる。今日はみんなペースが速い。すでにテーブル上には10本を超える空き缶が並んでいる。

 

「この中で経験者は西代だけであろう?」

「ふっ、今日は競艇のぬ……楽しさを知って帰ってくれ」

 

 今、たぶん(ぬま)って言いかけたな。そもそも今回の言いだしっぺは彼女だ。俺たちは近くで合法的に賭博(とばく)ができると聞いてついてきただけだ。

 

「6隻のボートが水上を三周するから、その着順を当てるってだけだね」

「そう聞くと、結構簡単に聞こえるねー。競馬なんて12頭くらいで走るし―」

「事実、競馬よりかなり当てやすいよ。もちろんその分、オッズは競馬より低い場合が多いけど」

「ふーむ、初心者にも可能性があると考えれば悪くないのぅ……」

 

 皆、真剣になって西代の話に聞き入る。俺たちの頑張って稼いだ銭を賭けるのだ。ルールを知らず、ビギナーズラックにゆだねる行為は許容できるものではない。

 

「1,2,3位の着順を当てる"三連単"。順番はどれでもいいから1,2,3位に入る3隻を当てる"三連複"。1,2位の着順を当てる"二連単"に1,2番目に入る2隻を当てる"二連複"」

 

 すらすらと淀みなく競艇の賭け方を語る。聞いてみれば競馬とほぼ同じだな。俺たちもそのぐらいは知っている。昨今、某アプリの影響で馬ブームがきているおかげだな。

 

「単勝と複勝はあるけど倍率が低すぎるから、初心者は賭けなくていい。とりあえずこの4パターンの賭け方さえわかっていればいいから」

「「「はーい」」」

 

 西代大先生のお話を仲良く傾聴する。俺は手を上げて質問した。

 

「スタート位置で優劣とかが存在しそうだが、その辺りはどうなんだ?」

 

 我ながらいい質問だ。楕円状の水上を高速で疾走するなら、カーブの際に有利なポジションは必ず存在するだろう。

 

「内側を走るボートが絶対的に有利……のはずなんだけど」

 

 西代が急に口ごもった。煙草に火を付けながら、レース場である湖の方へと顎をしゃくる。

 

「僕が行っていた香川のレース場は、海水だったんだよね。……淡水の場合は真ん中に位置する三、四番艇とかも有利になる事があるらしい」

「波とか浮力の違いでござろうか?」

「……かもね。正直よくわかんないや」

「おいおい、なら俺たちは何を指針に金かければいいんだよ」

「コレを見てくれ」

 

そう言うと西代は新聞紙の様な大きい紙をテーブルに広げた。

 

「今日の出走表だ。これに各選手のランクや成績が事細かく書いてる」

「ランク?」

「競艇選手はA1、A2、B1、B2のランクに分けられるんだよ。A1が最高でB2が最低」

「なるほどねー、人がやるレースだから、技量差が目に見えて分かるわけだー!」

 

 猫屋が食い入るように出走表を見始めた。俺ものぞき込んでみると細かい数字の羅列がびっしり並んでいた。まぁしかし、書いてあることはだいたい分かる。勝率や最近の戦績、そして連勝率や選手が使用しているモーターの性能についてまで書いてある。

 

 実は俺たち全員は数字には結構強い。仮にも理系大学生だ。これがあればある程度の指針は立てられそうだ。

 

「そういうことだね。……A1の人たちは6番艇、つまり大外からのスタートでも1着になったりするぐらいの実力者だから、そういう時はレースとオッズが荒れて面白くなるよ」

 

 ククク、と西代が悪い顔をしながら一人で笑っている。あの顔は過去にそういうレースで勝ったこと思い出しているのだろう。俺もパチンコで大勝ちした次の日は、あんな感じになる。

 

「だいたいかけ方と方針は分かったでありんす」

「問題は()()()()だな」

 

 俺達の間にはギャンブルをする際にあるルールを設けるようにしている。一日に使う金額の上限を最初に決めておくことだ。

 

 西()()()()()()()()()()。前に四人でパチンコに行った際に、俺と猫屋、安瀬は朝から連チャンが続いて大勝していた。しかし、当たりが終わらない俺たちに対抗した西代が金をつぎ込み続けて大変な事態になった。

 

 知らぬうちに西代は八万円もパチンコ台につぎ込んでいたのだ。

 

 大負けした西代は店外に出てしばらくしたのちに、酒も飲んでないのに嘔吐した。ぶっちゃけ、死ぬほど面白かった。が、少し可哀そうだったので俺達の勝ち分を分けてやり事無きを得た。

 

 普段はクールぶってるが西代は賭け事が超大好き。信じられないほど熱意を発揮する。もちろん俺たちも好きだが、彼女ほどではない。彼女のギャンブル中毒による暴走を未然に防ぐためにも、あらかじめ天井額を決めるルールを作ったのだった。

 

「ボートは何円から賭けられるで(そうろう)?」

「100円からだね。競馬と同じさ」

「じゃあ、今日は何レースやるのであるか?」

「12レース」

「それならー、とりあえず2万円でいいんじゃなーい?」

 

 2万円。それは俺たちにとっては大金であるが、決して払えない額でもないという絶妙のライン。むしろ、多少身を切るような思いをした方が面白いのがギャンブルというものだ。2万円を無為に失う事になる可能性もあると考えると、少し恐ろしくなるが。

 

「4万にしよう」

「パチンコの時から何一つ変わってねーのな、お前!」

「西代ちゃんはー、ギャンブル依存症の診断受けてきましょうねー?」

 

 西代の愚見(ぐけん)があったが、上限は2万という事で可決した。

 

************************************************************

 

 時刻は午後1時を過ぎたころ。6レース目が終わり俺たちは西代のサンドイッチを昼食に食べていた。具は胡椒の効いた厚切りベーコンと卵、新鮮な茹でほうれん草といったシンプルな物だったが、食べ応えがあって非常に美味しい。パンチの効いたホットワインとの相性もバッチリだ。体があったまる。

 

「俺はギリギリプラス収支だな。なんとなくボートがどんなものか分かってきた」

「我は5000円ほどマイナスじゃー! 1番艇が必ずしも、3着内に入るとはかぎらんのじゃな……」

「私はかなりプーラース! 三連単を当てたのが大きかったー!! 欲しかったスキットルでも買おー」

 

 各々の収支報告にワイワイ盛り上がる俺達。初めての競艇場という事もあってテンションが高い。ボートレースの迫力は思ったよりも凄まじく、3着の激しい差し合いで勝敗が決まる場面では思わず声を荒げてしまったほどだった。俺たちは楽しく健全に賭け事に興じていた。

 

 一人を除いて。

 

「今回のレースは3番艇はB2だし捨てでいいな。最近の成績も悪い。今回は内枠の1、2番艇が絶対にくるな。となると3着争いの4、5、6番艇のうち誰が来るか。とりあえず二連複で1、2は買っておくとして、問題は三連単と三連複だな。1-2-4の三連複はとりあえず買っておきたいところ。今回は6番艇はもう外してもいいのだろうか。いや、この選手は試走でかなり調子がよさそうだったな。フライングはこの際考えないとして、万が一来た時のために………………」

 

「「「……」」」

 

 西代は片手にはサンドイッチ、もう片手で机に広げた出走表に絶えず何かを書き込みながら、ブツブツと一人で囁いている。目が血走っていて、変に呼吸が荒いため正直話しかける気にはならなかった。

 

 灰皿に大量に積まれた煙草と空いた缶ビールにまみれた机の一角でレース予想する彼女の姿には、何か危ない物を感じざる負えない。

あれは西代ではない。ギャンブルの魔に取りつかれた西()()()()だ。

 

 俺たちは彼女に聞こえないようにひそひそと話しだした。

 

「なぁ、あいつの収支どのくらいなんだよ」

「さ、さっき聞いたらマイナス1万5000円らしいである」

「やばくないそれー……?」

 

 まだレースは半分しか終わっていないのに、賭けるペースが速すぎる。

 

「というかー、サンドイッチを作って持ってきてくれたのってもしかしてー」

「ああやって、考えながら食べる為だろうな」

「まるで中世の貴族でござるな」

 

 まぁでも、西代の気持ちも分からない事はない。俺たち初心者と違って彼女は経験者。俺たちにいい所を見せたい気持ちもあったのかもしれない。しかし、西代の顔には見覚えがあった。パチンコ台に4万飲み込まれそうになった時の俺だ。ガラスに映った自分の顔が、今の西代の様な切羽詰まった顔をしていた。

 

 俺は彼女が2万を超えて追い金しないよう、ちゃんと見張ることにしようと決意した。

 

************************************************************

 

 時間は過ぎ去り最終レースとなった。俺達四人はすでに賭け終わっており、後はレースが始まるのを待つばかり。

 

「僕についてきてよかったのか陣内君?」

「あぁ、俺もちょうど寒くなってきたところだ」

 

 西代が寒くなってきたためレース場前ではなく中の建物で見ると言い出した。なので一緒についてきた。西代の負け分はマイナス1万8000円と増えてしまっている。いつ暴走を始めるか分かったものではない。建物の中にも賭けるところはあるのだから。

 

「まったく、冷え性には困ったものだよ。ワインが切れたら寒くて仕方ない」

「あぁーそういえば冷え性だったな。他に酒は持ってきていないのか?」

「とっておきのがあるよ……」

 

 そういって彼女は懐から小さな緑色の瓶を取り出した。180mlの小さな瓶には紙製の白いラベルが張られており、お酒の名前が漢字三文字でプリントされている

 

「おまえ、それ御神酒(おみき)じゃねーかよ。賭場になんてもの持ち込んでやがる」

 

 御神酒というのは文字通りに神様にささげる特別な日本酒の事である。神社の儀式ごとでは大抵使われている。味に関しては特に言及することない。普通の清酒だ。

 

「コレを飲んで厄払いさ。こういうゲンを担ぐような物は賭け事には必需品だろ?」

 

 すると否や、キャップを開封しラッパ飲みで御神酒を勢いよく飲み下し始めた。なんと品のない姿だ。しかも、御神酒を飲むだけでご利益があるものだと思ってやがる。俺は彼女の勘違いを訂正してやることにした。

 

「いや、間違ってるぞ西代」

「……?」

「厄除けに使われるような御神酒っていうのは、神社に厄払いに行って、そのお土産もらってくる物だ。神社に備えてあった清酒には霊力が込められていて、それが厄を落としてくれるらしい。お前が買ったのは神に捧げる前のものだろ?」

 

 ピタっと西代のラッパ飲みが静止する。

 

 厄除けなんぞ、親の本厄払いについていっただけなので詳しくは知らないが、飲むだけで厄が落ちるとかそんな便利な物じゃなかったはずだ

 

 静止した西代が再び動き出した。とりあえずお酒を飲み切ってしまうようだ。

 

「っぷは、……なんてケチのつくことを言うんだい」

「いや、それについてはすまん」

 

 博打には勢いと熱というものが存在する。所謂、オカルトだが本人からすれば無いよりはましな物だろう。

 

「……はぁ、まぁいいか」

 

 ポスンっと西代が俺に寄りかかってくる。

 

「おい、急になんだ」

「酔ってしまってね、ちょうど宿り木が欲しかったんだ」

 

 そういえば、西代は朝から結構な量の酒を飲んでいたはずだ。さっきの御神酒で完全に酔っぱらってしまったのだろう。

 

「レースが終わるまでだぞ」

「はいはい、ありがとう」

 

 俺は寄りかかっている西代を見下ろす。西代は結構小さい。身長は148cmくらいだと自分で言っていたが、もっと低いのではないかと思ってしまう。上から見ると彼女の細い首が見る。サラサラの真っ直ぐな黒い短髪がそのうなじを強調しているようだった。

 

『投票を締め切り1分前です』っとアナウンスが室内に響き渡った。

 

「もうすぐ締め切りだね。陣内君はどれに賭けたんだい?」

「2-3-4と2-4-3の三連単だな」

「なるほど、オッズは26.4倍と28.9倍か。中々高い所だね」

「いや、お前まさかオッズ覚えてんの……?」

 

 三連単のオッズなんて100パターン以上あるはずだが。

 

「まさか。あそこに書いてあるのそのまま読み上げただけだよ」

「あそこ……?」

 

 西代が指さす先には、ボートレース場の向かいに設置された大型のディスプレイがあった。そこには全ての三連単のオッズが表示されている。しかし、ここから50m以上は離れている。書かれているオッズは小さく、とても視認できるものではない。

 

「僕、視力2.0あるから」

「マサイ族かよお前」

「ハハハ、彼らの視力は10.0さ」

 

 西代の驚異的な視力を目の当たりにしてたじろぐ。情報工学科に所属する生徒など大半が眼鏡をかけているというのに。俺だって真面目に講義を受ける時は眼鏡をかける。

 

『投票を締め切りました』

 

「お、最終レースが始まるみたいだな」

「そうだね……」

「なんだよテンション低いな」

 

先ほどまでのギャンブルに燃える彼女とは打って変わって、今度は燃えつきてしまったかのようにおとなしかった。

 

「僕、最終レースって当てたことないんだよね。みんな実力者で勝敗が予想しづらいのさ」

「あぁ、なるほど」

 

 確かに最終レースは優勝戦とかなにかでAクラスの選手ばかりが出走していた。全員がスタート位置の差を覆すほどの実力者なら、レースの結果は判断しずらくなってしまうだろう。

 

「さっきまでは御神酒の力を信じてテンションを上げてたけど……」

「え、あぁ、悪い」

「いいよ、どうせ当たらないと思ってオッズだけ見て適当に賭けておいたから」

 

 しおらしく落ち込む彼女に、俺は珍しく慰めの言葉をかけることにした。

 

「まぁそんなに落ち込むなよ。俺は今日勝ってるから、帰りに酒でも奢ってやるよ」

「……」

 

 そう言うと彼女は深く押し黙った。

 

(やっべ、プライド傷つけちゃったかな……)

 

 西代は経験者だ。負けて俺の様な初心者に奢られることを、彼女は屈辱的に感じてしまうかもしれない。今日はこんな楽しい所に連れ出してもらったため、それは俺も心苦しい。俺は矢継ぎ早に弁明の言葉をひねり出した。

 

「でも本当に運が良かったな、俺。ビギナーズラックってやつ? 二回目来たら大負けしちゃいそうでこわ──」

 

「陣内君、少し黙って」

「え、……?」

 

 西代が俺の必死の卑下に待ったをかけた。押し黙ったていたと思われた西代は、目をカッと開いてレース場を刮目していた。

 

「来てる、……来てる、来てる、来てる!」

 

 彼女は鬼気迫る表情で 舟券を強く握りしめている。なんか怖い。

 

「4-1-6、4-1-6、4-1-6、4-1-6、4-1-6!4-1-6!4-1-6!4-1-6!!4-1-6!!4-1-6!!4-1-6!!4-1-6!!!!」

 

「…………」

 

 その優秀な視力を、無駄なことに使用している。1分も経たない間に、レースは終幕。電光掲示板には大きく4-1-6と表示される。確定順位だ。

 

「き、来た、620倍!! 100円賭けてたから6万2千円!!」

「そう、よかったな……」

「陣内君、やったぞ!! 大まくりだ……!」

 

 そう言うと西代は俺の腕をギュッと抱きしめてきた。

 

「お、おい」

「何が『奢ってやるよ』だい? 僕の勝負運の強さを舐めないでもらいたいね」

 

 得意な顔をして、俺に詰め寄ってくる彼女。興奮しているようで、胸が俺の腕に当たっているのに気づいていない。

 

「アハハ! むしろ僕が陣内君に奢ってあげるよ!! 今日は朝まで一緒に飲みまくろうね!!」

 

 整って可愛らしい顔立ちのトランジスタグラマー。女性に免疫のない男性なら、普段はクールな彼女の無邪気な笑顔に心を撃ち抜かれ恋に落ちていた事だろう。ボディータッチも相まってとんでもない威力だ。

 

 しかし、酒と煙草を体に入れている俺は無敵だ。こういう役得な事態が起ころうが、心は平常心。むしろ、一応ここは公衆の面前なので勘弁してほしいとさえ思う。

 

「おい、腕」

「え、あ、あははは……どうも」

 

 西代は恥ずかしそうに顔を赤くしながら、腕をほどいた。いや、顔が赤いのは酒のせいか。彼女は興奮冷めやらぬ様子で俺に話しかけてくる。

 

「しかし、やっぱり僕は生粋(きっすい)博徒(ばくと)。脳汁がドバドバ出てるのを感じるよ……!」

 

 ハイテンションで恍惚としている彼女を、俺は優しく見つめた。自分よりヤベー奴がいる事が心に安心感を与えてくれる。因みに、俺の方の舟券は普通に外れていた。4-1-6とか誰が当てられるんだ。

 

************************************************************

 

 レースがすべて終了したので、安瀬たちと合流するため外に出た。

 

 他の客もレースが終わって帰ろうとしている。混雑する前に早く帰ろう。俺と西代は足早に使っていたテーブル席にもどった。

 

 そこにはテーブルに突っ伏して、大粒の涙を流す二人がいた。

 

「う゛、う゛、う゛ぇ、ありえない~~~!」

「あ、、あれ? お、おかね。我のおかね、どこ……?」

 

 何をしてるんだ、あいつらは。

 

「どうしたんだお前ら?」

「さ、最終レースに上限の2万、全部突っ込んだでやんす゛~!」

「ぐ、ぐ、ひっく゛、う、うぅぅぅ…………!」

 

 何とも馬鹿な話だった。適度に賭けていれば、大損せずに済んだものを。

 

「あれ? 安瀬はともかく猫屋は結構勝ってなかったかい?」

「私は今日の勝ち分含めて全額つぎ込んだの゛ー!! 安瀬ちゃんにそ゛そ゛のかされた゛゛ーー!!」

「せ、拙者は悪くないでござる!『今日の猫屋なら最終レースも大勝ちしそう』といっただけである……!! むしろ、猫屋の予想が大外れでありんす!!」

「にゃんだとー!?」

 

 2人は俺たちの前で、負けた言い訳を汚く押し付けあいだした。何とも無様で哀れだ。

 

「あれだな……西代」

「うん、そうだね陣内君」

 

 俺たちは息ピッタリに次の言葉を繰り出した。

 

「「こいつらを()鹿()()()()()()飲む酒はさぞ美味いだろうな(ね)」」

 

 競艇で勝っているから今日の居酒屋代くらいは奢ってやろう。それを盾にひたすらに(あお)って揶揄(からか)ってやる。一発芸をやらせるのも楽しそうだ。博打に負けた一文無しに人権などないのだから。

 

 発言通り、今日の飲み会は俺たち二人にとっては愉快な物になった。

 



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裁かれるカス達

 

 

「この中に、神聖な学び屋である大学内で()()()()を働いた無法者がいます」

 

 

 真っ白の室内。高そうなソファーにテーブル、それらの高級家具に不似合いなホワイトボートとPCの群れ。

 

 ここは佐藤(さとう) 甘利(あまり)准教授の研究室、通称"サトウ研"。

俺達の担当教授の仕事部屋であり、今は死を待つ4匹を(さば)く為の屠殺場(とさつじょう)となっていた。

 

 4匹はソファーに座らずに、地べたに正座させられている。

それを命じた佐藤先生は、高級そうなイスに腰掛け俺達を高みから見下ろす。

……20歳にもなって、この恰好はかなり屈辱だ。

 

 俺たちは堪らず、冤罪に対して抗議の声を上げた。

 

「先生! これは僕達を貶めるための陰謀で───」

「そんなものはありません」

 

 西代撃沈。

 

「せんせーい! 今日も肌が若々しくてお綺麗で───」

「ありがとう猫屋さん。でも、知ってる」

 

 猫屋惨敗。

 

「先生! 拙者、先ほどから体調がすぐれな───」

「大丈夫よ。皆さん、顔が赤いから」

 

 安瀬自爆。

 

「先生! どうか大目に見ていただけま───」

「許しません」

 

 俺たち4匹、敵地により名誉の戦死が確定。

その短い人生に幕を下ろす。

辞世の句を詠ませていただく程度の時間は頂けるのであろうか。

 

……とか、言ってる場合じゃねぇえーーーーー!!!!

 

************************************************************

 

 大学内の食堂、事件はお昼休憩中に起きた。相も変わらず俺たちは4人でつるんで食事をとっていた。

……もちろん、コッソリ大学内にお酒を持ち込んで。

 

 その日、持ち込んだお酒はメーカーズマークという名のバーボンだ。

 

 メーカーズマークの特徴と言えば、高い度数とオーク樽で長い間熟成したせいか酒精についたほんのり香る木の良い香り。そして、瓶の上からぶちまけたような赤い蜜蠟だ。一瓶ごとに手作業で封蝋されているようで瓶ごとに形模様が異なる。

味と見た目の両方を高品質に携えた名酒だ。蝋をライターで溶かして、爪楊枝などで落書きすると楽しい。

 

……話を戻そう。

 

 昼休憩中、俺たちはご飯と水筒に入れてきたお酒を楽しんでいた。

流石にストレートはキツイので、食堂備え付けの飲料水サーバーで加水しながらゆっくりと舐めるようにだ。

 

 メーカーズマークの度数は45%。その高い度数が今回の悲劇の引き金だった。

 

 酔っぱらった猫屋がうっかり肘で水筒をテーブルから落としてしまったのだ。

 

 床に広がっていく茶色の液体。一見、麦茶に見えなくもないがアルコールの匂いが強すぎた。食堂内は溢れかえる酒の匂いでプチパニックになる。

 

『誰か大学内の食堂で酒を飲んでいる奴がいるぞ!』っと。

 

 学食内の全視線が俺ら4人に注がれた。さすがの俺達も心底肝を冷やし、迅速な対応を求められた。

 

 安瀬と猫屋は付近のテーブル拭きをかき集め、吸水作業。

 

 西代は本格的な掃除用具を探しに食堂を飛び出す。

 

 俺は食堂内の注意を酒からそらすために、大声で一人漫才を始めた。

 

 ……あれ? 俺だけおかしくないか? 焦りすぎて気付かなかったが、ただ恥をかいただけじゃないか?

 

 ま、まぁいいか。そうして事態は最小限の被害で済んだと思われたが、さすがに見た人間の数が多すぎた。どこからか教授たちの耳に入り、俺たちは今日の講義がすべて終わった後で佐藤先生の元に呼び出された。

 

 そうして、今の絶体絶命の状況にいたる。

 

************************************************************

 

「や、や、やばいでござるよ」

「み、見て皆、僕の手震えてる」

「あ、あ、あはははー、これは夢なんだー」

「お、終わった……」

 

 正座をしたまま、4人は涙を流し放心していた。そうした俺たちの様子を見ても佐藤先生は容赦ない言葉を投げかける。

 

「大学内での飲酒は、本来であれば"停学処分"を受けても文句は言えません」

「「「「ひぃ……!?」」」」

 

 停学処分。退学ではないものの、大学生にとっては相当重い処罰。

まず4年で卒業できなくなる。停学期間の単位が取得できなくなるので当たり前だ。しかも、停学期間の授業料は払い続けなくてはいけないという糞みたいな条件までついてくる。

 

 あと、当然だが()()()()が行く。そうなれば、仕送り金など送ってくれる保証は一切ない。仕送り金がなくなれば、遊ぶ暇など無く大学四年間はずっとバイト暮らしだ。

 

「ど、どうかそれだけはご勘弁を~~~!!」

 

 佐藤先生の言葉を聞いた安瀬が、流麗な所作で美しき()()()を披露する。

それはそれは、たいそう惨めで情けない姿であった。普段であれば滅茶苦茶に笑い飛ばす俺達であるが、今回は一蓮托生の身。

 

 俺達も彼女の保身技能を真似て、一同土下座を実行する。

 

「「「佐藤様のお力でどうか……! 反省文の提出程度で御許しくださいませ~~~!!」」」

 

 今の俺たちにプライドなど欠片も存在しない。圧倒的な権力者に媚びへつらう事しかできなかった。

 

「とりあえず顔を上げなさい」

 

 お奉行様から(おもて)を上げるお許しを頂く。4匹は首を捧げるように顔だけを佐藤先生に向けた。

 

「貴方たち、普段から問題行動ばかり起こしてるわよね?」

「そ、そんな! 僕たちは円木警枕(えんぼくけいちん)の精神で真面目に学問を修めています!!」

 

 西代が目をウルウルさせながら、俺たちがひたむきな学問の徒である事をアピールする。

良い演技力だ、頑張れ西代……!

 

「コスプレでの講義受講、大学の駐車場で許可なく本格ラーメン作り、食堂にて大声での漫才披露、室内運動場で一人カラオケ大会、その他多数」

 

 物凄い速さで4匹の視線がばらばらに宙を彷徨(さまよ)った。なんで、そんな事してるんだ俺達!!

 

 というか、ラーメン作りなど俺は知らない。なんでそんな楽しそうな事、俺抜きでやってんだ! 誘えよ……!!

 

「…………はぁ」

 

 深いため息が佐藤先生からこぼれ出た。それには"失意と諦め"が込められているように俺には感じとれた。

 

 これは終わったか……?

 

「実は他の教授方からの貴方たちへの評価は、意外にも高いのよねぇ」

「ほぇ……?」

 

 自身の大学生活の終了を覚悟していた俺たちに舞い降りたのは、意外にもお叱りの言葉ではなくお褒めの言葉だった。

 

「最近の就職活動は真面目に勉強している生徒なんかより、コミュニケーション能力が高かったり個性的な活動をしてきた人間が選ばれる傾向があるのよ……」

 

「「「「は、はぁ……」」」」

 

4匹は要領の得ない間抜けな返事をすることしかできなかった。

 

「貴方たちは『意外と良い企業に就職しそうじゃないか?』という評価になっているって事よ。そして、大企業への就職はそのまま大学の評価につながるわ」

 

 それだけは絶対にないと、俺は確信をもって思う。俺はギリギリ可能性はありそうだが、他3人は就職すら怪しいだろう。

 

「それに貴方たちの行動を面白がってる教授もいるのよ? 線形代数学の阿部先生とか」

 

 あの、AV発言セクハラ教授か……! ナイスだ、スケベ教授! 今度から真面目に講義受けてやるよ!!

 

「というか、受け持ち生徒が4人も停学になると私の評価が地に落ちる羽目にもなりますからね」

 

「それに関しては本当にすいませんでした」

「ご迷惑おかけして申し訳ありません」

「重ねてお詫びいたしますでござる」

「ごめんなさーーーい!!」

 

 再び、全員で誠心誠意の土下座を行う。佐藤先生には普段からかなり迷惑をかけてしまっている。

 

「幸いに特に実害は起きてない。なので、軽度の罰で許そうという話になりました」

 

 まさかの窮地からの逆転。

我ら4匹の人生、危機一髪の滑り込みセーフで助かったようだ。

 

「「「「お、お奉行(ぶぎょう)~~~!!!!」」」」

「だれが、お奉行ですか!」

 

 地獄に仏とはまさにこの事。どうやら俺たちは地獄の巨釜に落ちてきた蜘蛛の糸を手繰り寄せることに成功したらしい。

 

「ただし……」

 

 ガンッ!! っと佐藤先生が机にエアコンのリモコンの様なものを勢いよく叩きつけた。

 

()()()()()()として、ひっ捕らえよとの御達しがでたわ」

「「「「え……!?」」」」

 

 蜘蛛の糸が途中でプッツリと途切れる。

 

「大学側としても、完全に無罪というのは体面的に良くないわ」

「そ、そんなー!! 一人だけ停学なんてーーー!!」

「あぁ、安心しなさい。そういう意味ではないわよ」

 

 そう言うと、先生はリモコンを指さした。

 

「これはアルコール探知機。警察が検問とかでよく使っている物ね」

 

 なぜそんなものが大学の研究室にあるんだ……?

不思議に思いつつも、俺は余計な言葉を出さずに佐藤先生の言葉を待った。

 

「大学は、飲酒をしていたのは1()()()()だったという事にして処分をくだします」

 

 無罪放免は対外的にも他の生徒にも示しがつかない。でも4人全員に処罰は重すぎるし、佐藤先生の評価にも大きく響く。妥協的な提案。

 

「飲酒の疑いがある1名のみ、午前に受けていた講義を強制的に不可評価にします」

 

「……もしかして、僕たちが朝からお酒を飲んで講義を受けていた可能性があることも関係してますか?」

「その通りよ」

 

 俺たちが午前中に受けていた講義は"英語AⅡ"だけだ。ここは理系の大学。英語の講義には外部講師を呼んでいる。その講義での飲酒疑惑は流石にまずいという事だろう。大学側としては絶対に単位を与えるわけにはいかない。なお、午後の講義もアルコールの残った状態で受けているがそこは見逃してくれるようだ。

 

「さて、下手人を私は選ばないわよ。貴方たちに嫌われたくないもの」

 

 俺達と先生の仲は結構いい。佐藤先生は俺達を遥かに超える酒豪だ。

担当生徒で先生のペースについていけるのは俺達だけのようで、よく飲みに連れて行ってくれる。ちなみに、先生の特技はテキーラ"瓶"の一気飲みだ。俺達は彼女を尊敬と畏怖の対象として敬っている。

 

討論(ディベート)は授業でやったでしょう? あれの延長線上ね。今回の事件、誰が一番悪かったかを話し合って決めて頂戴。その子一人をアルコール探知機で検査して下手人としてつきだすわ」

 

 さすが先生、俺達の事をよくわかっている。俺たちの中で酒を飲んでない者などいない。その事はすでに御見通しのようだ。

 

 俺達は正座からゆっくりと立ち上がった。

 

「よかったー、その程度の事で済んでー」

 

 猫屋が全員の顔を値踏みする。

 

「本当にね……」

 

 西代の眼がドス暗く濁っていく。

 

「九死に一生を得るとはこの事でありんす」

 

 安瀬はべキッ! と首を鳴らす。

 

「ハハハ、俺もそう思う」

 

 なんせ、俺らの内()()()()()で済むんだ。全く心も痛まないし、俺が一番悪いはずもない。この陣内梅治、口論については自信がある。知的な論証を披露して見せよう。

 

 このクソ馬鹿間抜けどもに負ける可能性など、那由他の彼方にも存在しない……!!

 

 ここはまだ、地獄の窯の鍋蓋(なべぶた)の上。一人は再び、灼熱の煮え湯へ叩き込まれる運命にある。先ほどまでの一致団結が幻に感じられるような敵意。怨嗟渦巻く魔女狩りの裁判は、俺たちの決意の言葉で開廷する。

 

「「「「ぶっ殺してやるッ!!!!」」」」

 

 殺意に満ちた討論会(みうちぎり)の幕が開けた。

 

************************************************************

 

 突如として始まった討論会、その口火を切ったのは猫屋であった。

 

「というかー、まずあのお酒を用意したのってー、陣内だよねー……!」

 

 猫屋の強烈な先制パンチ。いつもは可愛らしいと思える緩い口調が、今は煽っているようにしか聞こえない。

 

「確かに用意したのは俺だ。けど、皆喜んでただろ……? その時点で罪は平等じゃないか?」

 

 個人的には神聖な学び屋である大学内で飲酒した時点で全員有罪だ。ここは原罪ということにして、平等に悪人を見定めるべきだと俺は思う。

 

「クソ陣内君が悪いと思います」

「ゴミ陣内の死刑に賛成じゃ」

「お前ら……!!」

 

 日和見の風見鶏どもめ!

自分以外が不利ならば、嬉々としてその隙をついてきやがる。

 

「おっとー? これは早くも陣内で確定かなーー?」

 

 猫屋が早くも勝ち誇った様な笑みを浮かべる。確かに、今回の事件の根幹を作ったのは俺だ。しかし、だからといって事件の発端を作ったのは俺ではない。

 

「猫屋、……お前にとってお酒とはどういうものだ?」

「え、どーしたの急に?」

「いいから答えてくれ」

 

 俺は猫屋に人生の真理とも言える謎を問いかけた。俺の予想が正しければ彼女にとってお酒とは掛け替えのない物のはずだ。

 

「……神さまー? いや、この世の全てを救済してくださるぅー、救世主(メシア)かもしれないー??」

 

 うん、想像していた一万倍くらい重い回答が返ってきた。猫屋こっわ。

しかし、むしろ好都合だ……!

 

「その神を肘で下界に叩き落とした、不逞の輩は誰だ……?」

「クソ猫屋だね」

「ゴミ猫屋じゃな」

 

 あっさりと、手のひらを返し猫屋を批判する二人。こいつ等二人も酒で脳が焼かれているアル中だ。酒の粗相(そそう)に関してはうるさい。陣内宅で酒を溢したとなれば、スピリタスをショットで一杯飲み干す、血の掟があるくらいだ。

 

「ちょ、ちょちょ、待ってよーー!!」

 

両手をぶんぶんと振りながら、困り顔で否定の声を上げる猫屋。

 

「あ、あの時は皆酔ってたしー? 誰しもお酒を溢す可能性があったー、みたいなー」

 

「ないよ、ウンコ猫屋」

「ないでやんす、ゲロ猫屋」

「ないな、クソゴミウンコゲロ猫屋」

「ぶ、ぶっ飛ばすぞー!! おのれらーー!」

 

 余りに苦しい言い訳。俺たちが酔ったところで尊いお酒様を溢すわけがないだろう。つまりその可能性は皆無。討論する価値もない反論だった。

これは下手人は猫屋で決まりか……?

 

「ま、待って……!!」

 

 猫屋の急な大声。そうして彼女は曇りなき眼でこちらを見つめてくる。

なんて、真っ直ぐな目だ。恐らくクズすぎて毒が裏返っているのだろう。

 

「私たちの中にー、()()()()()()がいまーす!!」

 

 清らかな声で新たな罪人の存在を告げる。

 

「裏切り者……? 猫屋、下手な矛先ずらしは自分の首を絞めることになるよ?」

「そうでありんす。大人しくお縄につけば、煙草の一箱くらいは奢ってやろう」

 

 単位一つが煙草一箱とは何とけち臭い。

 

 西代と安瀬を無視して猫屋は話を続ける。

 

「私たちは本来仲のいい同級生。様々な苦楽を共にしてきた運命共同体。しかし、そんな私たちを引き裂こうとするユダ……!」

 

 猫屋は普段の飄々(ひょうひょう)とした口調を止め、真剣にこちらに語り掛ける。それほど切羽詰まっている状況というわけだ。目の端に浮かんだ涙は、恐らく演技ではない。

そして、彼女の言う裏切り者に対して勢いよく指を突き付けた。

 

「それは貴様だーーー! 安瀬 さくらーーーー!!」

「な、なに……!? せ、拙者が……??」

「安瀬ちゃんだけー、私たちの中で()()()()()じゃーーーん!!」

 

(※『フル単』受けている全ての講義の単位取得の意味)

 

 俺たちに激しい電流が走る。

 

 そうだ、おかしい。この中で一番頭がおかしい安瀬がフル単だと……? 間違いなく、物理の法則を乱している。

 

「安瀬は間違いなく裏切り者だね」

「絶対カンニングとかしてるー!」

「そうだな! カンニング以外で安瀬が単位を取る事など不可能だ!」

 

「先生の前で変な言いがかりは、マジで止めるでござる……!!」

 

 そもそも、ここにいる全員が安瀬より単位が少ないという事実に耐えれていない。

だってコイツ、本当に頭おかしいんだぜ? 縄につないだ洗濯ばさみで服の上から二人の乳首を挟んで乳首相撲、とかいう狂気じみた罰ゲームを提案してくるんだ。……滅茶苦茶面白かったけど。

 

「でも確かに、この中で一番単位が多い安瀬なら傷は少なくて済むね」

「え、いや、単位は我の努力の賜物であって──」

「ありがとう、安瀬。お前の犠牲は忘れない」

「感謝、感謝だよー、安瀬ちゃーーーん!!」

 

「ぜ、絶対に嫌でござるからな! 我の単位を貴様(きさん)らクズどもの為に減らすなど……!!」

 

 おっと、安瀬よ。その発言は完璧に裏目ったと思うぞ。

 

「よーし、クズらしく仲間の足を引きずっちゃおー」

「「賛成」」

「わ、わぁああーーー!! ち、ちょっと待つで(そうろう)!!」

 

 ルンルンでクズの行いを実行しようとする俺達。そもそも安瀬もクズなので罰を受けても一切心は痛まない。むしろ、心が清々しい。社会貢献した気分になる。

 

「ふ、……ふふふ、そもそもクズと言えばこの中には飛びっきりの()()()がいるでござるよ」

 

 安瀬の目が危なく光る。どうやらまだ、討論会は終わらないようだ。

 

「西代よ……事件が起きた時、お主はいの一番に我らを見捨てて食堂から逃げ出したな?」

「……なんだいそれ? 言いがかりは止めてもらおうか」

「そうだぞ、安瀬。西代は掃除用具を探しに行ってくれたじゃないか」

 

 安瀬の不躾な物言いに、毅然(きぜん)とする態度で対応する俺と西代。

 

「いいや、陣内。西代は結局、掃除用具を見つけられなかったではないかえ?」

「む、心外だな。見つけられなかった不手際は認めるけど、それだけでクズ呼ばわりとは……」

 

 西代の不満はもっともだ。確かに彼女は役立たずの間抜けであったが、クズというほど酷いやつではない。

 

 結局、あの零れ落ちたバーボンの始末はどうしたのかというと、食堂の職員さんがモップを持ってきてくれて拭き取った。今度、お礼を言っておこう。

 

「ほぅ、実はな西代よ……」

 

 安瀬がガシッと西代の両肩を強く掴んだ。お前だけは逃さんぞという彼女の気迫を感じる。

 

「お主を喫煙所で見た、という目撃証言が我の友人から上がっておるのじゃが……?」

 

 ビクッ!! と西代の体が硬直する。

え、おい、さすがに嘘だろ……?

 

「ば、馬鹿な……! あの時、喫煙所には誰もいなかったはず!! というか安瀬に僕達以外の友達なんて──」

「ああ、いないでおじゃる」

 

 西代の言葉を遮り、あっさりと嘘の供述の自白をする安瀬。

 

「だけどねー」

「間抜けは見つかったようだな」

「……ハッ!!」

 

 西代がしまった! といった顔で口元を手で押さえた。しかしもう遅い。

 

「お主が返ってきたとき、セッターの匂いがしておかしいと思ったでありんす」

 

 なるほど、安瀬が西代に疑惑を抱いた理由はそれか。

そうすると彼女は食堂で危機的状況にあった俺たちを置いて一目散に逃げ去り、呑気に煙草を吸っていたという事になる。

そして事態が落ち着いたころ合いを見計らって戻ってきた、と。

 

 俺たち3人は本物のドクズこと西代をギロリと睨みつけた。

 

「お前、びっくりするくらいクズだな!!」

「ふつー、友達置いて一人だけ逃げるー!? さいてー!!」

「度し難いな、西代!!」

 

「ぐ、ぐぐぐぐ……」

 

 西代の顔色がどんどん悪くなる。さすがに、反論の余地がないようだった。

 

「俺なんてあの時な! 謎に一人で漫才する羽目になったんだぞ!!」

「それは知らないよ!! というか、え、なんで……?」

 

 いや、本当に何でだろうね、うん……

 

************************************************************

 

「話し合いは終わったかな?」

 

 佐藤先生がカランっとグラスを揺らしながらこちらに問いかける。中身はウイスキーの山崎。超高級品だ。この研究室には備え付けの小型冷蔵庫が置いてある。そこから取り出したのだろう。

 

 どうやら先生は俺達の醜い争いをつまみに、お酒を楽しんでいたようだ。

……いや、なんか腑に落ちないな。

 

「満場一致で西代でござる」

「流石にねー、この裏切りは擁護できないわー」

「う、ううぅ……」

 

 安瀬と猫屋に左右から両腕を掴まれ、捕らえられたグレイ型宇宙人のような姿になった西代。だがなぜだろう……その姿を見ても、憐憫の情など微塵も湧いてこない。

 

「まぁ、なかなか面白い見世物だったわ。じゃあ、測定して終わりね」

 

 そういうや否や、佐藤先生は西代の口にアルコール探知機を突っ込んだ。

 

「んぐっ……!!」

「ハハハハ!! 西代ちゃん、マジでザマーないねー!!」

「アルコール探知機の味はどうだ、西代?」

 

 俺と猫屋がその姿をみて嘲笑う。安瀬などは西代の痴態をスマホで写真に収めようとしていた。まぁ、当然の報いだ。

 

 待つこと数秒、ピピっと電子音が計器から響いた。それを聞いて先生は西代の口から計器を引き抜いた。銀糸の液が西代の唇から垂れる。

……酒が抜けかけているせいか変な気分になるな。

 

「さぁ、どれくらいの濃度にって……あら?」

「……? どうかしたんですか先生?」

 

 佐藤先生は計器を見て頭を傾けた。俺達も計器のディスプレイをのぞき込んだ。

そこには0.00mg/Lと表示されている。

 

「あのー先生? コレってつまりー……」

「西代さんからアルコールは検知されなかったという事になるわね」

「ほ、本当ですか!!」

 

 西代の目に生気が戻る。

 

「計器の故障であるか?」

「ちょっと待ちなさい。……すぅ、はぁーーー」

 

 佐藤先生が西代の唾液を拭き取ってから、計器に自身の息を吹きかける。

そういえば、この人も飲んでいたな。

 

 再びピピっと電子音が響いた。そこには0.29mg/Lと確かに表示されていた。故障しているわけではないようだ。

 

 今度は四人全員のアルコールをチェックしてみたが、俺達から検出された呼気1リットル中のアルコール濃度は0.00mg/Lだった。

 

「おかしいわね……アルコールがこんなに早く抜けるわけはないし。もしかして貴方たち、本当にお酒は飲んでいなかったの??」

 

 

 その時、俺たち全員の勝利への道筋が開かれた。バルハラまで伸びる一本の逃走経路。言い逃れという脱出口。

 

 

 俺は一つの仮説を頭の中で思い描く。恐らく、先ほどまでの激しい舌戦(ぜっせん)が吸気内のアルコールを弾き飛ばしたのだ。唾が飛び交うほどの激しい罵りあいだったからな。何という僥倖。日ごろの行いが良かったおかげだろうか。

 

 ガバッ! と四人がお互いに顔を見合わせる。目だけで迅速に意思疎通をすませる。

 

「じ、実はそうなんでやんすよ!!」

「私たちー、おふざけでお酒を持ち込んだだけでーー!!」

「僕、生まれてこのかたお酒なんて飲んだことないよ!!」

「それは絶対にばれる嘘だからやめろ……!」

 

 俺達は先ほどまでの諍いなどすっぱりと忘れて、再び友情を取り戻した。まだ、先生が俺たちの呼吸の秘密に気づいていない内に急いで逃げる必要がある。体内のアルコールはまだ完璧に抜けきっておらず、いつ呼吸にアルコールが戻るか分からない。

もう一度、検知されれば恐らくアウトだ。

 

「き、急に仲良くなったわね、貴方たち。何か隠していない?」

「え、いや、僕らは初めから大親友ですよ?」

「マブダチでござる」

「竹馬の友よねー?」

「それは違う。……けど大の仲良しです! おまけに正直者の集まりです!!」

 

 キラキラとした目で必死に無罪を訴える4匹。先生は俺たちの眩しい後光に押されたのか少したじろいた。

 

「……そういう事なら、私の方から飲酒の事実はなかったと他の教授たちに報告しておくわ。アルコールが検知されなかったのは事実な訳だから。でも、反省文の提出ぐらいは覚悟しておいてね」

 

「うわぁぁあああん!! 佐藤せんせーい! ありがとうーーー!!」

 

 猫屋がガバッと佐藤先生に飛びついた。クソ、同性が羨ましいぜ。俺も女性だったなら佐藤菩薩(ぼさつ)の胸元に飛び込んでいけたのに。いかがわしい意味はない。本当に感謝している。

 

「ちょっと、猫屋さん……! まったく大袈裟なんだから。……ん? お酒の香りが──」

「──では拙者はバイトの時間が迫っているため、失礼するでやんすよ!」

 

 不穏な空気を察知し、安瀬が一目散にこの研究室から逃れようとする。安瀬のバイトは今日は休みだったはずだ。だが、この波に乗り遅れるわけには行かない。

 

「俺もバイトです!」

「僕もバイトです!」

「私もバイトーー!」

 

 完璧に息の合った行動で四人は部屋の入口に集結する。

 

「「「「失礼しましたーーー!!」」」」

 

そして、勢いよく扉を開けて逃げるように退出した。

 

************************************************************

 

「……相変わらず、仲がいいのか悪いのかよく分からない子たちね」

 

 佐藤甘利は誰もいない研究室で呆れた言葉をポツリと呟いた。

 

************************************************************

 

「いやー、肝が冷えたでござるな」

「ほんとうにねー……」

「まぁ全員、お咎め無しで何よりだよ」

「そうだな!」

 

 研究室からの生還を果たした俺たちはトボトボと帰路についていた。今日は全員バイトがない日だ。このまま、いつものように俺の家で飲み会になるだろう。

 

「しかし陣内よ、これからは酒の持ち込みは止めといた方がよさそうであるな」

「そうだねー、今度バレたら次は間違いなく停学になるよー」

 

 安瀬と猫屋が残念そうな口調で語りかけてくる。

 

「ん……? あぁ、まぁこれ見てみろよ」

 

 そう言い俺はスマホを彼女たちに向けて見せた。そこには通販サイトが映し出されており、選択された商品はとある()()()()()だった。

 

「転倒しても中身がこぼれないような構造になってる水筒だ。これならテーブルから落ちても大丈夫だろ? コレに変えれば、今まで通り酒飲み放題だぜ」

 

 我ながら素晴らしい対応策だ。もしも中身を改められそうになっても、一瞬で飲み干して逃げれば大丈夫だろう。

 

「「「………………」」」

 

 俺の完璧な提案に感動したのか3人はジッと黙っていた。

 

 そして、口を開くと──

 

「陣内、天才かよーーー!!」

「そういった物があるのか。見識が深いね」

「久しぶりに見直したでござるよ!」

 

 拍手喝采の褒め殺し。彼女たちの機嫌はみるみるとよくなり、その言葉を聞いた俺も有頂天になる。

 

「だろ!! やっぱ酒がないと頭も回らないしなぁ!!」

 

 ゲラゲラと笑いながら、俺たちは暗い夜道を四人で帰っていった。

 

************************************************************

 

 後日、買い替えた水筒を持ち込んで大学の講義を受ける陣内達の姿があった。酒精を漂わす飲料水を飲みながら楽しそうに笑っている。

 

 周りの人間はそれを見て、『あいつ等、本当にヤベーやつなんだな』っと彼らの異常性を再認識するのであった。

 

 



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猫屋の目は暗闇で光らない

 

「よっほ、よいしょ、うんしょっと」

 

 大きな木製の台座の上で、西代が可愛らしく上下左右に踊っている。台座には固い餅の様なものが置かれており、西代が踏みつけるたびにグニャグニャと形を変えていた。

 

「相変わらず、本格的だねー」

「毎回、僕も面倒なんだけどね。なぜか皆は僕に()()ばかり作らせるよね……」

「いや、西代の作る料理がまずい訳ではないぞ? でも、ぶっちぎりでそれが美味しいから、ついな」

 

 西代が俺の家で()()()を打っているのだ。

 

 彼女が作るうどんは超ハイクオリティと言っても過言ではない。麺は自家製手打ち、スープはあご出汁、薬味は各種すべてをそろえてくれる。正直、店で食べる物よりうまい。自家製の為か麺に絡みつく出汁の濃さが段違いなのだ。

 

「そう言ってもらえるのは、確かに嬉しいけどね」

「というか何で作れるんだ……? 実家がうどん屋だったとか?」

「香川県民は割と大抵の人が()てるよ」

「カルチャーショックーってやつだねー」

  

 猫屋が適当な相づちを打ちながら、隣で大根をすり下ろす。俺はその隣できつね揚げを醤油、酒、みりん、砂糖を混ぜたもので煮込んでいた。うどんの薬味と具だ。

西代の指示で手伝っている。

 

「群馬県もうどんの消費量が多いんじゃなかったけ?」

「あー、なんか最近押してるねー。でも本場にはボロ負けだとおもうよー」

 

 どうでも良さそうな口調で地元を卑下する彼女。地元愛のないやつだ。ふと、彼女が使っているすりおろし器の横にはハイボールのロング缶が置かれていることに気づく。

 

「珍しいな、市販のハイボールなんて。いつも食前は缶ビールだろ?」

「うーん、なんか最近、肉付きが良くなった気がしてー」

「あ、そう」

 

 心底どうでもいい理由だった。猫屋はラフな部屋着を着ている。

男の部屋なのになんとも無防備な格好に思えた。彼女の健康的なスタイルは微塵も揺らいでいないように見える。

 

「というか、猫屋は辛い物食べて脂肪燃焼させてるから太らないだろ」

「僕の作ったうどん、七味まみれにしないでね?」

「あ、あははーー、西代ちゃん辛辣ーー」

 

 ヘラヘラと笑う猫屋。恐らく釘を刺されなければ、大量の七味をぶち込んでいたであろう。

 

 俺達はくだらない事を話しながら、調理を進める。緩やかな時間だ。

だが少し、騒々しさに欠ける。

その理由は俺らの中で()()()()()()がいないからだった。

 

「安瀬は何してるんだ? あいつも今日バイトじゃないだろ?」

 

 俺達は週に何日か、全員にバイトがない日を作ることにしている。その方が全員で長く遊べるし、調理の時だって人手が増える。

そして、今日はその日だった。

 

「安瀬ちゃんはー、『今日はスペシャルな機材搬入があるから遅れるでありんす!』って言ってたー」

「……はぁ?」

 

 安瀬の残した意味不明な言伝に、疑問符を返す。

 

「絶対ヤバい事企んでると思うよ。今日の飲み会は荒れるかもね……」

 

 西代の意見に俺も大賛成だ。アイツに限らず、大問題三子女達が張り切ると碌なことにならない。

 

「猫屋、何か詳しく聞いてないのかい?」

「んにゃー? 詳しく話を聞く前にー、走ってどこか行っちゃったからー」

「その返事、痛いからやめよーぜ、お前もう21才だろ」

「うぐっ」

 

 謎のぶりっ子返事で答える猫屋に現実を突き付けてやる。彼女の誕生日は9月15日。先月に誕生祝いを俺ら全員で行ったばかりだ。

 

「やーい、21歳のクリスマスベイビー」

「猫屋の親、クリスマスにHしたー」

「それ言うのやめてーー!! 親の事情とか想像させんなーー!!」

 

 俺と西代は猫屋に更なる追撃を加える。コレを指摘すると彼女は顔を真っ赤にして怒り出す。超楽しい。

 

 クツクツと笑う俺達を猫屋はうんざりした顔で眺める。

 

「はぁ……なんか疲れたー。煙草吸ってくるー」

 

 そう言い煙草を持ち、外へ出ようとする。部屋内で喫煙の許可は出しているが、まだ日も落ちていないので外で吸ってくれるようだ。部屋の空気は綺麗な方がいいからな。

 

 ガチャっとドアが開かれ、そこには行方不明だったはずの安瀬がいた。

 

「え?」

「ありゃ?」

 

 お互いに顔を見合わせて静止する安瀬と猫屋。

ついでに俺と西代の動きも停止する。

安瀬の後ろに()()()()()()()2()m()()()()()()()()()()()を見たからだ。

 

「おお、貴様(きさん)らちょうど言いタイミングじゃな」

「えー、いや安瀬ちゃん? 隣の馬鹿でかい黒いのは、なにー……?」

「フフフ、……これかえ?」

 

安瀬は腕を組んで胸を張り、仁王立ちで高らかに謎の物体の正体を告げた。

 

「ダーツ筐体(きょうたい)ぜよ!! これで陣内の家でいつでもダーツが楽しめるぞ!!」

「ちょっと待て馬鹿! 人の家に勝手に何持ち込もうとしてやがる!!」

 

 大型冷蔵庫並みのサイズをしており強い存在感を発するダーツ筐体。決して部屋に気軽に持ち込めるサイズではない。確かに安瀬の言っていた通り"機材搬入"という言葉はふさわしいのだろう。

 

 俺はいきなり現れた謎のダーツ筐体の疑問を安瀬にぶつける。

 

「というか、ソレどうやってここまで持ってきたんだよ!」

「バイト先の店長がここまで軽トラで運んでくれたんじゃよ。さっきまで居たんじゃがちょうど入れ違いになったの……」

 

 なるほど、このクソデカ物体の出所は安瀬のバイト先か。安瀬は隣町の大型リサイクルショップでアルバイトしている。そのおかげで安瀬は偶に変な物を買って持ち込む。今回ほど大きい物は初めてだが。

 

「『最新機種に変えるから引き取ってくれないか』というお客さんが来ての。それを見た拙者が、社員割引を効かせて格安で買い取ったでござるよ!」

「なんて余計なことを……」

 

 やはり、こいつ等が張り切っている時は俺には碌なことが起きない。

 

「おい、クーリングオフだ。今すぐ、返してきなさい!」

「それ、未成年にしか適応されないでござる」

「じゃあ普通に返品だ!」

「中古品ゆえ、返品は受け付けていないでやんす」

「ぐ、フリマアプリで出品……」

「転売対策の為に購入者の出品は控えていただきたい。どうかご理解を、である」

 

 なんという事だ。逃げ道がすでに塞がれている。

恐ろしきリサイクルショップ店員、安瀬 桜……!

 

「まぁ、待ちなよ陣内君」

「そーだよー陣内」

 

 怒る俺の前に二人はスッと出てきて、安瀬のそばに近寄った。

 

「ここは男としてー、安瀬ちゃんの好意には答えてあげないとー」

「そうだね、男としての包容力を見せる時だと思う」

「き、貴様ら……」

 

 安瀬と同じように猫屋と西代は仁王立ちをして俺の前に立ち塞がった。

急に男だ女かを口に出し、ダーツ筐体を受け入れるように説得しているようだ。

こいつら女もどきにそんな事言われるとヘソで茶を沸かしそうになる。

 

「お前たち、ダーツしたいだけだろ!」

「おっと、下衆の勘繰りは止めてほしいね」

「そーそー」

 

 プンスカとした口調で俺の正当なる推測を邪推だと抗議する彼女たち。最近は美顔ローラーや生理用品まで持ち込んでいる、その面の皮の厚さを見せつけてくる。

……生理用品は別にいいか。

 

 安瀬がパンっと手を叩き、場の視線を集めた。そう言う仕切るの好きだな、お前。

 

「では多数決の結果、賛成3票、反対1票。という事でこの度のダーツ筐体搬入法案は──」

「「可決ッ!」」

 

 何という事だろう。よく分からない法案が、多数決という名のごり押しで通ってしまった。

 

「さ、再検討を要求する……」

「「「却下ッ!」」」

 

 暗君かつ暴君。下々の意見を(ないがし)ろにして悪政を敷く為政者のごとく、家主である俺の正当な主張は握りつぶされた。

 

************************************************************

 

 ダーツ筐体の搬入作業は意外にもあっけなく終わった。縦長で横には細かったので、倒して四人で運べば簡単に部屋に入れる事ができた。

俺の部屋に設置された2m越えの新たなインテリア。急に現れたそれは妙な圧迫感で俺達を圧倒していた。

 

「部屋にあると存在感がやばいねー」

「そうだね、……というか地震が来たら危険そうじゃないかい?」

 

 西代の危惧はもっともだ。床に直置きしているだけのため、何の固定もしていない。縦長であるためバランスも悪そうだ。

 

「明日、ホムセンで固定器具でも買ってくるでござるよ!」

「あぁ、……よろしく頼んだ。俺達の身の安全の為にも」

 

 他人が持ち込んだ物体で圧死など冗談ではない。その場合の責任は安瀬に取らせることは確定だ。

 

「じゃあ、僕はうどん作ってるから……設定とかよろしくね」

 

西代は設置作業が終わると、台所に引き込んでいった。さすが、うどん職人。

 

「設定……って言われてもな」

「そもそも、電源はなにー?」

「普通にコンセントである」

 

 安瀬がスタスタとダーツ台に近づく。その裏手に回りガサゴソと何か作業をし始めた。

 

「設定は我がやっておくから、二人は別の作業を頼んだでありんす」

 

 安瀬はどこからか取り出した、紙の説明書を見ながらそう言ってきた。

 

「別の作業?」

「投擲ラインの目印着けじゃ」

「あーねー」

 

 得心が行った俺と猫屋は、早速押し入れからメジャーとガムテープを取り出した。

 

「とりあえず、目印はガムテープ張ってりゃいいよな?」

「少しダサいけどねー。まぁ誰も気にしないでしょー」

 

 どうせ設置するなら、カッコいい物を用意したいな。今度、通販サイトで探しておくか。そんな事を考えていると猫屋がスマホをいじり始めた。

 

「ええとー? ハードダーツの場合、237cm。ソフトダーツの場合、244cm?」

 

 恐らくダーツ盤から投擲ラインまでの距離の事だろう。ハードやソフトやらの事はよく分からないが、とりあえず2メートル強の距離が必要になるのだろう。

この部屋は普通の賃貸に比べれば広い方だとは思うが、そこまでの横幅はない。

 

「隣の寝室まで使ってー、距離を伸ばす必要があるねー」

「だな」

 

 俺の賃貸は2DK。普段、俺達が飲みに使っている部屋の隣に寝室がある。俺専用の大きなベットに女子もどき三人が寝る用の布団が雑に敷いてある。

 

 そのせいで朝起きてベットの下を見ると、綺麗に整った彼女らの寝顔が広がっている事が多い。深酒した日は寝相が悪く、寝間着が乱れている場合もある。

染み一つない綺麗な肌をした、煽情的な胸元や太腿が三人分だ。

酒と煙草をキメテいない状態でその花園を覗き見る事は、さすがの俺の理性も大揺れをおこして瓦解しかける。

 

 そんな俺の朝のルーティーンは彼女らを見ないように、枕元に置いてある酒瓶を開ける事だ。俺が朝から喫煙と飲酒をするのは、絶対にこいつ等のせいだな!

間違いない……!

 

「まぁチャチャッと測ってー、つけちゃいますかー」

 

 俺がそんな思惑にふけっていると、猫屋が俺が握っていたメジャーから器用に先端だけを伸ばす。それを握ったままダーツ盤の足元にしゃがみ込む。

 

「とりあえずー、237cmでー」

「短いほうでだな」

 

 ハード、ソフトはこの際置いておこう。別にプロを目指すわけでもない。酒を飲んで適当に遊ぶだけだ。俺は計りが示す通り237cmのところで、ガムテープを張り付けた。

 

************************************************************

 

 晩御飯の西代特製キツネうどんを食べ終わった俺たちは早速ダーツに興じようとしていた。投擲ラインが寝室になったため、珍しく寝室に大量の酒を持ち込んでいる。

 

「煙草がないよー、口さみしいよー」

「まぁ、仕方ないよね」

 

 この部屋で喫煙は流石に禁止にしている。

ベットや布団に匂いが付いたら嫌だし、引火しやすい毛布類が多いためだ。

 

「とりあえず、本日の罰ゲームから決めるであるよ!」

「望むところだ、安瀬」

 

 不承不承の思いで我が家にあのような大型設置物を置いたんだ。誰かの恥を見て笑わなければ溜飲が下がらない。

 

「その前に聞いておきたい。皆はダーツの経験は?」

 

 西代が俺たちの顔を見ながら問う。

 

「3回くらいだな。投げ方は知ってる」

「経験なーし」

「何度かダーツバーに行った事がある程度で候」

「じゃあ、未経験は僕と猫屋か」

 

 各々が熟練度を申告していく。誰かひとりが抜きん出て上手いという事はないようだ。なら罰ゲームがあっても、不公平ではないだろう

 

「よしなら、10ゲームの合計(トータル)でビリが一番多かったヤツがスピリタスショット三杯じゃな!」

「あれー? 今日は随分とバツが軽いねー?」

 

 猫屋が不思議そうに顔を傾けた。確かに、いつもの安瀬なら頭のネジが数本飛んだ狂気の罰ゲームを提案してくる。

 

 ……いや、感覚が麻痺してるが何も軽くないし十分狂気的だ。

度数96%を三杯だぞ。

 

「初回であるしあんまり重い罰はな、楽しくいこうでござるよ。それに先週、佐藤先生に呼び出されたばかりだしのぅ……」

「「「あー」」」

 

 確かに、あのような騒動が起きてすぐ騒ぎを起こすのはまずい。今月くらい大学では大人しくしておこう。

 

「じゃあー陣内、投げ方教えてよー」

「え?」

「さっき言ってたじゃーん。投げ方くらいは知ってるってー」

「そうだね、僕もフォームがあるなら知っておきたい」

「あぁ、はいはい」

 

 二人の要望に従い、手本を見せるべくダーツの矢を一本手に取った。

この矢は安瀬があらかじめ用意しておいたものだ。謎に手際の良いやつだと思う。

 

「まず、利き手側の足を投擲ラインに水平にする」

 

 俺は右足の小指側をガムテープのギリギリに寄せた。

 

「そして、人差し指、中指、親指で摘まんだ矢を目の前に持ってきて……投げる」

 

 スッと俺の手から放たれた矢は浅い放物線を描き、蜘蛛糸状の盤面に着地した。真ん中を少し外れ、1と書かれたスペースに突き刺さっている。思ったよりは真ん中にいった。

 

「「おぉ~~~」」

 

 猫屋と西代が二人でパチパチと拍手する。当たったところは最低点だが、真ん中に近いことが彼女らの歓心を得たのだろう。俺は思わず得意げな気分になった。

 

「まぁこれくらいは簡単にできる。とりあえず二人もやってみたら?」

 

 そう言い、俺は二人に矢を手渡した。

 

「おーではさっそくー」

 

 猫屋は矢を受け取って、ライン際に立つ。()()()()()()()、さっき俺が見せた手本とは左右対称的に構えた。

 

「ん? たしか、猫屋は右利きであろう?」

 

 俺も安瀬と同じ疑問を持った。彼女は箸を持つ手も、字を書く時も右手だったはずだ。

 

「あー、昔に右肘を故障してるんだよねー」

 

 あっけらかんとした口調で自身の怪我を語る。本人は特に気にしていないようだが、俺たちは少し申し訳ない事を聞いてしまった気がした。

それを気にしてか、猫屋はすぐに口を開いた。

 

「それにー、私の場合、左手の方が安定しそーだし」

 

 猫屋の言った通り、彼女の立ち姿はとても安定していた。左足に重心を集め、一本軸の通った綺麗な姿勢だ。普段から俺が彼女のスタイルがやたら良いと思うのは立ち姿が可憐であるからだろうか?

 

「ほーい」

 

 気の抜けた声とともに投げ出された矢は、その素敵なフォームを裏切らず真ん中に向かっていった。刺さった場所は20。BULL、赤いど真ん中の1mm上に着弾した。

 

「んー惜しい!」

「いやいや、初めてなら上出来だよ。ちょっと見惚れたわ」

「え、えー? 陣内、おおげさーー」

 

 彼女は照れているのか頬をポリポリと掻いて恥ずかしそうだ。すぐに、布団にペタンと座り込んでしまった。

 

「いいフォームだったね」

「我もそう思う。弓道でもやってたのかえ?」

「えへへへー、ひみつーー」

 

 誤魔化すように彼女はタンブラーに入ったお酒に手を伸ばし飲んだ。

ブラインドアーチャーの炭酸割りだ。味をざっくり言うなら青リンゴの味がするウイスキー。甘すぎないリンゴの優しい風味があり、炭酸で割ればスカッとした爽快感があって美味しい。

 

「まぁ、そういう事なら次は僕が……」

 

 同じ未経験者の西代が矢をもって立ち上がった。猫屋に負けていられないと思っているのかやる気は十分なようだ。

 

 彼女の立ち姿は……何というか頼りなかった。姿勢は前傾しすぎだし、右足はその無理な姿勢を支えているせいでプルプルしている。標準も定まっていない。

 

「えいっ」

 

 可愛い掛け声とともに矢を放つ。糞みたいなフォームから繰り出された矢はダーツ盤に届くことなく、地に落ちた。それを見た俺達は、ちゃんと西代を笑い飛ばしてあげることにした。

 

「下手だな」

「すごーい汚いフォーム」

「先ほどとの差が酷いでござる」

 

「ぐぅ、僕としたことが、ふが悪い」

 

 彼女はよく分からない方言を口にして、悔しがるのであった。

 

************************************************************

 

 そんなこんなで俺たちはゲームを始めた。ダーツのルールはプロの物でもない限り簡単なものが多い。やりながらでもルールを簡単に把握できる。

そのためカウントアップ、ゼロワン、クリケット、といった基本的なルールを一通りプレイした。

 

 三回の勝負が終わり、その結果は……

 

「さ、三連敗……」

 

 西代の一人沈みだった。本来初心者が行うダーツはほとんど運ゲーなのだが、それにしても彼女は下手過ぎた。ダーツ盤の外に当たったり、そもそも矢が届かなかったりして、まともに得点が増えなかった。

 

「今夜の(にえ)は決まりでござるな」

「西代ちゃんの死に顔たのしみー」

「ま、まだ勝負の決着はついてないだろ……!」

「いや、技量を見ても今日はお前の日だ西代」

 

 まぁ未経験者ならこんなものなのかも。猫屋はすでに俺より上手いので比べたらかわいそうだ。運動神経の差かもしれない。

 

「ぐ、ぐぐぐ……ちょっと小腹が減った。昨日の残り物でも食べてくるよ。ついでに煙草も……」

「腹が減っては何とやらか。我も煙草休憩じゃ。二人は先に投げといていいでありんす」

 

 そういうと二人はスタスタと台所へ向かっていった。煙草は恐らく台所の換気扇の下で吸うのだろう。昨日の残り物は電子レンジにかけるだけだ。灰の入る心配はない。

 

「じゃあ俺から行こうか」

 

 俺は矢を持ってスッと立った。最下位が決まっているとはいえ気は抜かない。

すると、なぜか同じように猫屋も一緒に横に立った。

 

「なんだよ、投げるのに邪魔だろ」

「邪魔してるんだにゃー」

 

 また、ぶりっ子のような返事で堂々と俺への妨害を宣言する。昼間の事をまだ根に持っているようだ。

 

「何度でも言うがその口調キツイぞ、21歳」

「へぇー……そういう事言うんだー」

 

 猫屋が細目になってこちらを見つめる。何か嫌な予感がするが俺は気にせずにダーツの矢を投げようとした。

 

「ふぅー……」

「ぐ、ぇ!?」

 

 俺が矢を投げようとした瞬間に、猫屋の生暖かい息が俺の耳に直撃した。驚いて標準が狂った俺は、矢をあらぬ方向に投げ飛ばしてしまう。

 

「はーい、一投無駄にしたー! 陣内ってマジたんじゅんー!」

「お、お前な……!」

 

 俺のすぐ隣で腹を抱えて心底楽しそうに笑う彼女。前から思っていたが、俺の性別を何だと思ってやがる。露骨に挑発しやがって……。

 

 今日は酒をあまり入れていない。おかげで猫屋のイタズラに反応してしまった。

 

「あれー? 顔が赤いよ陣内ちゃーん? もしかしてー、21歳のキツイ女さんを意識しちゃったかにゃー?」

「ぐ、ぐ、ぐ、お前ほんとに……!」

 

 彼女が俺を馬鹿にしている隙に、素早く二本の矢を投げた。ダーツ盤には刺さったが狙った場所は適当だ。点数は度外視で早く自分の手番を終わらせたかった。

 

「あれー、よかったのー陣内? もっと真面目に狙いなよー」

「お前、次も邪魔してくるだろ。……さぁ次はお前の番だぜ猫屋……!」

 

 キレ顔をしながら俺はガムテープの目印から離れた。

そういう事するなら、目に物を見せてくれる……!!

 

「へー、面白いじゃーん。あ、言っとくけどー、直接触るのは無しねー」

 

 俺の妨害を織り込み済みなのか、猫屋は自信たっぷりな顔で妨害行為への牽制をする。ダーツで直接的な妨害をするほど、俺は無粋ではない。耳に受けた恥辱は、同様の行為によって禊ぎを行うまで。

 

 猫屋が素早く姿勢を正して、ダーツ矢を構える。俺はその隣に立った。彼女は耳への吐息を警戒しているようで、なかなか投げなかった。

 

「こういうのってー、タイミング外せばいいだけよねー」

 

 そう言い、余裕綽々と言った表情で佇む。まるで、主導権はまだ自分にあるといった表情だ。今にその顔を耳まで真っ赤に染め上げてやる。

俺はできるだけ声質を落としながら、彼女の耳元で囁く。

 

「猫屋って本当にかわいいよな」

「ぶ、゛゛っ!!」

 

 奥義、褒め殺し作戦。彼女ら酒飲みモンスターズは怒られる事はあっても褒められることは少ない。それを逆手にとり、照れさせて標準を狂わせる戦法だ。

 

「ちょ、ちょーいっ!?」

「いつも、思ってたんだ。笑った顔とか好きだなって……」

「は、はー!? な、な、なに言ってんのお前ーー!!」

「俺の本心だよ。そのカールした金髪も素敵だ。許されるのなら触ってみてもいいか?」

「え、え、い、()()()()()()ー! 触るなーーー!!!」

「そうか、残念だな。でも見てるだけでも目の保養になるよ。本当に美人だ」

「う、う、う、う、うー!?」

 

 陣内梅治、渾身のASMR。正直やっているこっちも死ぬほど恥ずかしいが、売られた喧嘩は買わなければならない。本気でやっているせいか、効果は出ている。猫屋の耳は真っ赤になっていた。

 

「さぁ、魅せてくれよ猫屋……いや、李花(りか)! 君のステキな一投をね」

「な、名前で呼ぶなバカーー!!」

 

 彼女も恐らく、これは俺のイタズラだとは分かっている。しかし、耳元で延々と自分を褒められるのは恥ずかしいのだろう。

 

「く、くそー! やってやるー! やってやるぞーー!!」

 

 彼女は俺の妨害に抵抗するように、ダーツ盤に向き直った。そして投擲の為に左手を後ろにそらす。よし、今度は耳に吐息をかけてやろう。精神をグデグデにしてやる!

 

 

 だがその瞬間、ブツンっと部屋の電気がすべて切れた。

 

 

「「…………!?」」

 

 停電だった。俺は家主が故、すぐに原因に心当たりが付く。

西代が電子レンジを回したせいだ。

寒いためにつけた2部屋分のエアコン、ダーツ筐体、そして電気消費の大きい電子レンジ。いつもより多い過剰な電力消費のせいだ。

 

 そして停電の直前、俺は()()()()()()()()()()()()姿()を一瞬見た。猫屋は先ほどダーツの矢を放つ態勢に入っていた。まずい……!

 

「猫屋、打つなっ!」

 

 静止の声と共に、俺は猫屋の左手を上から包むように掴んだ。

 

「ひゃっ!?」

 

 万が一にでも安瀬に当たってはいけなかった。当たり所が悪ければ失明もあり得る。

しかし、その意図は猫屋には伝わらなかったようで、手を掴まれた彼女は反射的にもがく。

 

「ちょ、お、おい……!!」

 

 二人がバランスを崩し、ぐらぐらと酔っ払いのようにふらついた。

このままじゃ倒れる!

 

 その刹那、俺の頭の中に()()()()が思い出される。

 

『あー、昔に右肘を故障してるんだよねー』

 

(手をついたらヤバい、肘に衝撃がっ!!)

 

 咄嗟の機転で、猫屋の後頭部と右肘に両手を回した。そのまま彼女を抱き寄せ、俺が下になるように倒れた。ポスンっという音が暗い室内に響く。下は布団だったため、衝撃はまったくなかった。これで恐らく猫屋にもケガはないだろう。

 

 ピカッという音とともに部屋の明かりが戻った。西代が慌ててブレーカーを引き上げたのだろう。

 

「すまん、猫屋っ! だい、じょうぶ、か……?」

 

 俺は胸に抱きしめたままの猫屋の無事を確認する。

すると、そこには耳どころか()()()()()()()()()()()()があった。

 

 やっべ、肘をどこかにぶつけたか!?

 

「おいっ! もしかして肘を──」

「あー! あーー!! あぁぁぁぁああああーーーー!!!!!」

 

 俺の切羽詰まった声を掻き消す大声を上げ、猫屋は勢いよく俺の上から転げ落ちた。そのまま、両腕を使いガバッと立ち上がる。

 

「わ、わた、私ー!! きッ!! 急用を思い出しちゃったーー!! あはははーーー!!」

「は……? え……?」

 

 だらだらと汗を流しながら、赤い顔で変な事をまくしたてる。

え、どうしたコイツ。頭は打ってないはずだが。

 

「それより肘はどうなんだよ? 大丈夫か?」

「へ……? あ、そっか(かば)って……」

 

 慌てた様子から一転、猫屋は一瞬真面目な表情になる。そして、ボスンッ! という音を立ててさらに顔を朱色に染めた。

 

 え、今の音は何だ……? なんか猫屋から破裂音が響いたような……

 

「肘は大丈夫だからー! か、庇ってくれて、あ、ありが……もう無理ッーーーー!!??」

 

 そう言うと猫屋はスマホと財布だけ握りしめ、ものすごい勢いで部屋からでていった。

 

 お、おい、寝間着のままだぞ……

 

「な、なんでござるかー?」

「ごめん、停電起こしちゃって。……猫屋がすごい速度で出ていったけど停電中になにかあったの?」

 

 安瀬と西代が騒ぎを聞いて寝室に戻ってくる。俺のポカンとした顔を見て心配そうに声をかけてきた。

 

「…………タバコが吸いてー」

 

俺は心の底から訳が分からず、間抜けに声を漏らすしかなかった。

 

************************************************************

 

ガタンゴトン──

 

揺れる電車の中、()()()姿()()()が隠れるように隅っこに座っていた。

 

「やらかしたなー」

 

 頭を手で抱えて、がっくりとしてうなだれる様子の彼女。その問題は決して、だらしない恰好で外に出てしまったことを後悔している事ではなかった。

 

(陣内に抱き寄せられたと思っちゃったー。は、恥ずかしー……!)

 

 先ほどまで痴態を思い出し、再び顔を赤くする猫屋。

思い返せば彼の行動は全て他人の身を思っての行動だったっと深く理解しなおす。

あのまま、ダーツを投げていれば安瀬に当たっていたかもしれないし、倒れて手を付いたら肘に強い衝撃が加わっただろう。

そうなれば事実、猫屋の古傷は再び開いた可能性がある。

 

(明日、どーやって顔を合わしたらいいんだろー……)

 

 パタパタと熱い顔を手で(あお)ぎながら、彼女は明日の事を考える。

 

(はーーー、何とかして言い訳考えないとー)

 

 結局、素直に恥ずかしくて逃げたなんて言えるわけもなく。猫屋李花は都合のいい言い訳を考えようとする。

その時、扇いでいた手が急に彼女の目に留まった。思い出したのは暗闇の中、その手を異性に掴まれたことだった。

 

 猫屋の人生において、あんなに力強く手を握られた経験など親以外で思い当たらない。

 

(手、なんかごつごつしてー、大きかったなー……)

 

 どこか浮かれたような目で、触れられた自身の左手を見つめる。

その顔は真っ赤な朱色から薄いピンク色に代わり、綺麗に火照って見えた。

 



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大人の飲み会

 

 大学内の喫煙所。俺たちは学校終わりに集まり、一服していた。

甘い煙が肺と口内を満たして、疲れた頭にニコチンがめぐる。

 

 今、俺が吸っているのはアークロイヤル・スイート。箱の封を開けただけで漂う、メイプルシロップみたいな甘い香り。吸えば柔らかい煙とともに、チョコの風味と煙草の味が押し寄せてきて吸いごたえもある。煙草を咥えた唇を舐めればフィルターから移った甘さがしっかりと感じられるほど、濃く甘い。

 

 何とも言えぬ至福の時間。  

しかし、そんな時間は安瀬の発言によって容易に打ち切られる。

 

「今夜、()()()に出陣するでござる」

 

 喫煙所に突如、爆弾が落ちた。俺の意識は後方に吹き飛び、ここは爆心地となる。

そして地球を一周し、俺の意識は再び俺の体に戻ってくる。

この間、約4秒。

 

 ……ふざけている場合ではない。

俺は今世紀最大の謎を解明すべく、問いを投げかける。

 

「誰が……?」

「僕たちだよ」

 

 俺はついに動揺を隠しきなくなり、手に持った煙草を落としてしまった。

 

「ちょ、もったいないなー」

 

 いつも酒と煙草にまみれたこの女たちが、合コン!?

 

(いく)らもらえるんだ、それ……?」

「パパ活じゃないよ、酷いな陣内君。お金はいつもないけどそんな事はしないよ」

 

 パパ活でもないだと……!?

 

 脳の処理が追い付けない。普段から酒、煙草、ギャンブル、ゲロといった阿鼻叫喚の生活をしている彼女ら。外見はまるで薔薇のように見目麗しく整っているが、一皮むけばその実態はラフレシアの群生。若くして女の感受性は既に萎れてしまっていると思っていた。

 

「イケメンでも漁りに行くのか……?」

「ぷっ……佐藤先生ほどの酒豪がいれば、我も一夜の夢を共に見る事を一考してやるでありんす」

 

 安瀬の交際基準は顔面の良し悪しではなく、酒のキャパシティの上限であるらしい。俺の想像通り、女としての感性はアルコールでぶっ壊れているようだ。

 

「じゃあ何か? 冷やかしとか人生経験のためか? それはちょっと、相手さんに失礼じゃないか……?」

 

 合コンと聞けば少し不埒な響きがするが、異性との出会いの場を求めることは生物として純然たる行為だ。むしろ、昨今の少子化問題の観点から見れば社会奉仕活動と言ってもよい。命短し恋せよ乙女というが、社会に出れば男も時間と暇はなさそうだ。今のうちに彼女を作っておこうとする行為は正当な努力とも思える。

 

「んー、冷やかしというよりはー……」

「ボディーガード的なものかもね」

「え、どういう事だ?」

 

 猫屋と西代の発言でさらに謎が深った。

 

「いやなに、今回の合コンの誘い主は()()()()()()()()()なのじゃ」

 

 俺たちの所属する情報工学科は男女比9:1で構成されており、所属する女子はこいつらを含めて6人しかいない。俺達とは違い現役で合格した18歳の女子3人。

名前は憶えていないが、その穢れなき3人は学科の花形だ。男子人気は非常に高い。

 

 俺は彼女らの事を()()()()と呼んでいる。()()()()が誰かは今さら言うまでもないだろう。

 

「彼女らが同学年3人の男子に合コンに誘われてー、本人たちもOKしたんだけどー……」

「後から、3回生の先輩が便乗して無理やり参加したらしいんだ」

「あぁ、なるほど」

 

 だいたい話は理解した。18歳の幼気な男子たちが頑張って女子を合コンに誘う事に成功。それを聞いたサークルか部活の先輩が、目上の権利を横暴に使い乱入。

何とも大人気(おとなげ)ない奴らだ。

 

「女子3人もー、後から参加する先輩たちとは面識がなくて怖いんだってさー」

「しかし、いまさら断るのも体面が悪いようだ」

「そこで、我ら経験豊富な才女たちに同伴してほしいという依頼がきたので(そうろう)!!」

 

「確かに、恐ろしく頼りがいがある完璧な人選だ」

 

 光の三女たちの慧眼(けいがん)には感服するしかない。こいつ等なら、スピリタスカプセルを飲み物にコッソリ入れられたところで少し酔っぱらう程度で済む。いや、例え睡眠薬を混入されたとしても、その恐ろしく優秀な肝機能によって解毒してしまうかもしれない。

 

「あと、陣内君に許可を取って来るように言われたね」

「は? なんで俺の許可が必要なんだ……?」

 

 俺の許可など必要ないだろう。彼女らが、人を酔い潰す事を楽しみとする酒飲みモンスターズであろうが合コンに行く権利は皆平等にある。

 

「なんかー、陣内は私たちの誰かと付き合ってると思われてるみたいなー?」

 

 なん……だと……?

 

「『ありがたいですけど、彼氏さんの許可は取ってくださいね』っとの事であるな」

「それは何とも、まぁ……」

 

 俺は何となく恥ずかしくなり言葉を濁した。

 

 こいつ等と付き合うなんてありえない……! なんてことは言わない。さすがに、艶麗(えんれい)で物言う花である彼女たちに失礼だ。ラフレシアでさえ、匂いさえ嗅がなければ大輪を開いた花である事に違いない。

 

「一応、合コン場所は言っておこう。駅前の『ふかざけ』だ」

「あぁ、はいはい。あの全国チェーン店ね」

 

 全国にどこにでもある名の知れた居酒屋だ。駅前でアクセスもいいため、悪くないチョイスと言える。品ぞろえはあまり期待できないかもしれないが。

 

 ……そうなると、俺が暇だな。バイトは今日はお休みだ。

 

「しかし、彼女らは純真でいい子達だな。わざわざ彼氏の許可取ってください、なんて」

 

 俺が断れば、彼女らは大切な盾を一枚失う事になったはずだ。それでも義理を優先している様は好感が持てる。世の中、男女の仲になりさえしなければ合コンに行く事をよしとする女子もいるというのに。

 

************************************************************

 

(((実は、全員が陣内と爛れた関係だと思われてた事は言わないでおこう……)))

 

 闇の三女は余計な事は言わないで煙草を吸うのであった。

 

************************************************************

 

 そんな事があり数時間後。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 合コン開始の30分前から、見つかりにくいようにお座敷の隅で一人で飲んでいる。別に彼女らを心配しての行動ではない。

 

 (こんな楽しそうなイベント、見逃せないよな……!)

 

 深く帽子を被り、マスクと眼鏡で変装する気合の入れよう。

 

あいつらが合コンでどんな茶番劇を繰り広げるか興味があった。真面目に合コンを企画した男子3人には悪いが、今回の合コンは思い描いた甘酸っぱい物には決してならないだろう。

 

 まぁ、俺以外の異性と飲んでいる彼女らの姿が多少気になりはしている。普段、俺の家で飲んでいる時は酔っぱらって熱くなると、すぐに薄着になったりするのが彼女らだ。

 

 酒と煙草が入った()()()()()()()ので安心だが、他の男子もそうとは限らない。一応、何かあった時のために待機しておこうという気持ちも1割程度はあったりする。

 

 そんな事を考えていると、彼ら彼女らは現れた。店員によって、俺の席から右斜め前の机へと案内される。

 

 運がいい、この距離なら会話も聞こえそうだ。

 

 光と闇の女性陣はみんな過度な化粧や装飾品を付けてはいない。しかし、ただの居酒屋には十分に洒落て見える。場にふさわしい装いというのを理解しているように見えた。

 

 たいして男性陣は中々の気合の入れよう。ガチガチに整髪料で整えた髪、こじゃれた服装、ピアスやネックレスと言った装飾品。似合っていないとは言わないが、男女間の熱量の違いが如実に理解できる。

 

 その中でも、緑髪、金髪、赤髪、と言った、まるで()()()()()()()をしたトリオは嫌でも目立って見えた。

 

(恐らくあれが後から参加した3回生達か)

 

 学年は違うが俺と年齢は同じことになるはずだ。面構えを見ると中々悪くない。

むしろ、整った顔立ちをしている。イケメンという領域に片足踏み込んでいるだろう。品性を感じられない髪色が足を引っ張っているだけだ。

 

 1年男子トリオは少し垢が抜けきっておらず、年相応といった感じだ。

俺個人としてはこちらの方が応援したくなる。アンダードッグ効果が働いているせいかもしれないが。

 

 俺が戦力差の分析を行っていると、信号トリオの赤担当が口を開いた。

 

「いやー、今日は急に参加してごめんね?」

 

 続いて、緑。

 

「こいつがどうしても参加したいっていうからさー」

 

 話を振られた黄色。

 

「ちょ、やめろって~~~!」

 

 大袈裟なリアクションで内輪のノリを前面に押し出す彼ら三人であった。

 

 何とも、うすら寒い会話だ。彼らはこの合コンに参加したくてたまらなかっただろうに。光の三女と1年男子達は苦笑いを浮かべながら、会話を合わせている。

 

 闇の女子たちは、さっそくメニュー表を熟読しているようでまるで聞いていない。流石だ……

 

 そこに目ざとく気付いた、金髪男子が彼女らに声をかける。

 

「おっ! 早速、お酒頼んじゃおうか~。あ、未成年はノンアルかソフトドリンクね」

 

 黄色は意外にも未成年飲酒を予め牽制した。どうやら彼らにも最低限の常識は存在したようだった。正直、その発言だけで俺の好感度は結構上がった。

 

 黄色信号に1ポイントだ。

 

 人に点数を付けるなどあまり褒められた行為ではないが、今日の俺は観戦者。

外から心の中で格差をつけるぐらい許してもらおう。

 

 黄色信号男が店員さんを遠隔のボタンで呼ぶ。先に未成年たちが各々好きな飲料を決め、次に成人たちが注文を始めた。

 

「俺たち三人は初めはビールでいいよな?」

「ああ」

「いいぜ。……そっちの女子たちは?」

 

 息の合った三人。普段からは仲がいいのだろう。メニューも見ずに注文を決める。

今思ったが、先ほどの未成年飲酒を咎める発言は、彼らが酒飲みモンスターズに狙いを定めているためかもしれない。

 

 あの発言によって、アルコール組とノンアル組で別れることができる。もしかして、初めから男子間でそういった取り決めをしていたのかもしれないな。事実、安瀬たちの向かいには信号トリオが陣取り、1年たちもお互いに未成年どうし体面に座っている。

 

 いい作戦だ。これで、合コンを企画した男子3人も不満はないだろう。しかも、年の差を感じさせない事は潤滑な会話を成立させるために必要なものだ。単純に、彼女らの容姿のほうがタイプだったのかもしれないが。

 

 まぁ、彼らは後悔する事になるだろう。()()()を選んでしまったことに。

 

「「「黒霧島を三つ。ロックで」」」

「「「…………!?」」」

 

 はい、-10ポイント。

 芋焼酎の三連打。チョイスも度数も可愛げなどあった物ではない。

同じくビールか軽めのサワーを予想していた信号トリオは固まってしまっている。

別に女子は可愛いお酒を飲むべきとは思っていないが、初っ端から度数が高すぎる。

 

 黒霧島とは有名な芋焼酎だ。度数は25%。とても最初の一杯に頼む度数ではない。

おまけに芋焼酎は馴れない者に取っては匂いがキツイ。

偏見で言うならオッサンの飲み物だ。俺はもちろん大好きだが。

 

「へ、へー……」

「す、ずいぶん渋いのを頼むんだねー?」

 

「……? 別に普通ではないですか?」

 

 何とか言葉を絞り出した、赤と緑。

それに対して、さも当然と言った答えを返す安瀬。

普段の変な口調ではない、外行き用の口調で話す安瀬は新鮮だな……

 

「ア、アハハハー、君ら、結構お酒強かったりする?」

 

 黄色が一瞬凍り付いた空気を誤魔化すように、会話を回そうとする。

 

「普通だよねー?」

「下戸ではないと思うけど」

 

 そう言うと彼女たちは、ポケットから煙草と火種を取り出す。

淀みのない動作で三者三様に火をつけ始めた。

慣れきった手つきだ。芸術点を付けたくなる。

猫屋など大鷲がシンボルの(いか)ついジッポの扱いが、堂に入り過ぎていてカッコいい。

 

「「「すぅーーー……、ふぅー…………」」」

 

「「「……………………」」」

 

 これは文句なしで-100ポイントだ! 思わず心の中でガッツポーズをとってしまった。

 

 周りに断りもなしの喫煙行為。喫煙席だが、何とも粗雑で男らしすぎる。

信号トリオどころか、男たちは彼女らの女子らしくない振る舞いにドン引きしている。

 

 隣に座る、光の三女たちは()()()()()()のようで動揺はしていなかった。

なるほど、女性陣もこのような席順になることは想像できていたようだ。

こちらにとっても願ったり叶ったり。安瀬たちがいつも通りの振る舞いをしているだけで、無敵の盾となっている。

 

 今日は来てよかった。開始早々このありさまだ。面白すぎる。

これはこの先も期待できるぞ……!!

 

************************************************************

 

 彼ら全員のお酒や料理が席に届けられ、乾杯の音頭を取って合コンはスタートした。

 

 ノンアル組は彼らだけで会話を回しており、決してアルコール組には話を振らないようにしている。その雰囲気を感じ取ってか、信号トリオもそっちの会話に交じろうとはしない。

 

 ただ、会話がないわけではない。酒飲みモンスターズも会話がない飲み会などはつまらないだろう。自己紹介やお互いの大学生活の事を話しあっている。

良い感じだ。普通の飲み会に見える。

 

 そんな時に安瀬が疑問を投げかけた。

 

「私は合コンは初めてなのですが、どういった話題が好まれるのでしょうか?」

 

 お前は誰だと言いたくなるような口調で安瀬が男性陣に質問する。

テンションも口調も違和感がありすぎる。

 

「私も初めてー」

「僕もだね」

 

 相槌を打つ猫屋と西代。それを聞いた信号達の目に強い光が灯る。彼女らが合コン初心者という事に食いついたのだろう。男という物は女性をリードする事に喜びを感じてしまう悲しい生き物だ。俺にだってそういう気持ちはある。

 

「おお、そうなんだ! みんな綺麗だから意外だわー!」

「いや、俺達も馴れているわけではないけどねー」

「ド定番だけど、趣味の話とかするね!」

 

 場に少し合コンのような雰囲気ができた。お互いの趣味などは確かに話題を広げることに適している。そいつの人柄もよく分かり、好意を持つ要因になる。

 

「趣味かー」

「僕たちの趣味……」

 

 猫屋と西代が少し考え込むような様子を見せた。

彼女らの答えを待たずに、先に男性陣が答える。

 

「俺はサッカーかな! こう見えても高校の頃はFW(フォワード)でバリバリの部活男子だったんだぜ」

「俺はギターかな。フェスとかにもよく行く」

「俺はドライブだな。よく他県までカフェとか巡りに行くな」

 

 ここは男子たちのアピールタイム。運動、音楽、行動手段。女子が食いつきそうな趣味を挙げて場を盛り上げつつ、自分の評価を上げるチャンスだ。

 

 まぁ彼らの話題は女子に限ったことではない。俺でもその話題を振られれば、どれかで話すことはできる。コミュニケーション能力は高いようだ。

 

 彼らに+5点。

 

「お酒ですね」

「煙草かなー」

「パチンコだね」

 

「「「……………………」」」

 

 -1000ポイント。

 

 あれほど盛り上がりそうな話題を振られ、返す刀で三大劣悪趣味を臆面なくあげるとは。

俺は机に突っ伏して、必死に笑いを抑えた。いかん、酷すぎて笑える……!

 

「お、お酒は何が好きなんだ?」

 

 赤髪の彼はめげじと、質問する。この中で話しやすいお酒を選ぶのは賢い選択に思えた。

 

「そうですね、GET(ジェット) 27とか好みです」

「あー、あれ甘くて美味しいよねー!」

「僕は最近、アブサントにはまっているよ」

 

「え、じぇ、……アブ……?」

 

 彼女らが答えた酒はそこそこマイナーな洋酒である。彼らの知識には入っていなかったようだ。

アブサントなど度数の高い薬草系リキュールだ。20歳そこそこの女子が知っている方がおかしい。

 

「ちょ、ちょっと俺たちトイレに行ってくるよ」

 

 おっと、男性陣は堪らずトイレで作戦タイムのようだ。

……そういうのは個人的に女子がやるものだと思っていた。

 

「いってらっしゃーい」

「僕たちは勝手に飲んでるから、気にせずごゆっくり」

 

 酒飲みモンスターズは特に気にしていないようだ。

席を立つ彼らが気になったので、俺はトイレについていった。

 

************************************************************

 

「なんなんだ、彼女たちは……!!」

「初めて見るぞ、あんなの!!」

 

 トイレの個室にこもると、早速彼らの嘆きの声が聞こえてきた。

あの程度で少し言いすぎな気がするが、感受性は人それぞれだ。

糞を踏ん張るふりをして、このまま彼らの話に耳を傾けよう。

 

「くそ、あいつらの合コンに参加して年下を喰ってやろうとしてたのに……」

「顔につられて、標的を変えたのが失敗だったな」

「素直に18歳の方を狙えばよかった……!」

 

 彼らはまるで下卑た下心がそのまま擬人化してしまったようだった。

成人の場合、未成年との性行為は犯罪になるのだが。

20歳男子で性欲旺盛な事は分かるが、同じ男子としてちょっとは慎みを持ってほしいと思う。呆れながら聞き耳を続けていると……

 

「でも彼女ら、正直レベル高いよな……」

 

 欲望にまみれた賞賛の一言が聞こえてきた。

 

「あぁ、そうだな。敬語を使ってる子は口調が清楚で胸も大きいし」

「他二人も身体つきがいいぜ。黒髪の子は背も顔も小さくて滅茶苦茶可愛い」

「俺は金髪の子だわ。細身で思わず抱きしめたくなる」

 

 俺達4人組とは別方向な下品。そんな会話をする彼ら。

外見だけでの品評会だ。最低ではある。

見た目が素晴らしいという事だけ同感しておこう。

 

 ……最近は中身も少しは悪くないと思う。()()()

 

「よし、狙いも定まって元気が戻ってきたな」

「そうだな、煙草臭くてもあの上玉を逃すわけはない」

「お酒が好きとか言ってたし、何とか酔わせて家まで連れ込もうぜ」

 

 そう言って、信号トリオはトイレから出ていった。

果たしてその程度の作戦で、魔性で魔物な彼女たちをベットまで誘い込めるだろうか。

 

 俺は彼らに遅れないようにトイレの個室から出た。

 

************************************************************

 

 描写するまでもない、確定した結末とはこの事だろう。

テーブルに突っ伏して、その赤、黄、緑の頭髪を見せつける男三人。

卓上には2合徳利が都会のビルのように乱立していた。

6人合計で30合は飲んでいるだろう。

 

「ふむ、どうやら彼らは()()のようじゃな。申し訳ない事をしたの」

 

 口調を戻した安瀬が、無様に潰れた彼らを見下す。信号機たちの名誉の為に言っておくが決して彼らは下戸などではない。普通だ。むしろ飲める方であっただろう。

 

「そうだねー。……あー、安酒ばっかり飲んだせいか、少し気分悪いかもー」

「分かるよ。帰って口直しに一杯やりたいね」

 

 あれだけ山ほど飲んだ酒に文句を付けながら、さらに酒を所望する蟒蛇(うわばみ)たち。彼女らのような蛇女(じゃじょ)を見かければ、八岐大蛇(やまたのおろち)を倒したスサノオでさえ裸足で逃げ出すだろう。

 

「飽きちゃったしー、そろそろ帰ろうかー」

「当初の目的は十分果たせたようだしね」

「賛成である」

 

 西代の言う目的とは1年女子の盾である事だろう。

確かに、悪い三色狼たちは清酒の激流に飲まれて、酔いの滝つぼに水没した。

『ふかざけ』という店内にぴったりなオブジェクトになっている。

 

「じゃあごめんー、私達先に帰るねー! あ、お会計はそこで潰れてる信号頭に払わせといてー」

 

 なんという傍若無人な振る舞い。酒の席で先に潰れた者は、酒飲みモンスターズにとって人ではないようだ。俺も気を付けよう。

 

「「「はい。どうも、ありがとうございました……!!」」」

 

 光の方の女性陣から感謝の言葉がかけられる。彼女らの熱い視線はもはや同じ学年に所属する生徒を見る目ではない。"姉御(あねご)"とか徳の高い人を見る尊敬の眼差しだ。

 

 それを受けて猫屋たちは、ビシッとサムズアップで答える。そうして格好よく居酒屋から去って行った。

 

 人を酒で潰しただけで、まるで仕事人のような姿で退場する。

それを見て。俺は一人で爆笑するのだった。

 

************************************************************

 

 彼女達が店から出てしばらくした後、俺はコッソリと店内から出ようとした。

その時、予想外の人物に声を掛けられる。

 

「陣内よ」

「うぉ……!?」

 

 俺を呼んだのは安瀬だった。俺は思わずびっくりして、声を荒げた。

気づかれていないと思っていたが、潜伏はばれていたようだ。

 

「びっくりした……なんだ、気づいてたのかよ」

「ふふふ、当然であろう。机に置いてあったアークロイヤルですぐわかったでござる」

 

 あ、そういう事か。彼女たちにバレない様に酒と煙草は控えていたが、まさか机に置いたパッケージで感づかれるとは。アークロイヤル・スイートの箱は特徴的なオレンジ色をしているため、目につきやすい。

 

 俺は変装のため被っていた帽子とマスク、眼鏡をはずして安瀬に向きなおる。

 

「さすがに鋭いな。まいったよ……他の二人は?」

 

 猫屋と西代の姿が見当たらなかった。店前で別れたのだろうか?

 

「他二人はお主の事に気づいていないようであったな。『陣内の家に朝帰りしてヤキモキさせてやろう』などと二人で画策しておったわい。我は帰りたいと言って別れたがの」

「阿呆か、誰がそんなこと思うか……」

 

 視力の良い西代なら気づいていてもおかしく無かったが、バレたのは運がよく安瀬だけらしい。

 

「で、なぜわざわざ変装までして店内にいたんじゃ?」

「あぁ、お前たちの合コン姿を見て、面白可笑しく酒でも飲もうと思ってな」

 

 俺はスラスラと用意されたように発言した。よく笑ったため、これは事実。

 

「フ、フフフ……」

 

 安瀬は突然クツクツと笑いだす。彼女は馬鹿にされたはずだが何が面白いのだろう。箸が転んでもおかしい年頃は過ぎているはずだ。

アルコールが脳細胞を侵食しているのだろうか……?

 

「まだ半年程度の付き合いではあるが、それぐらいは分かるでありんす」

「あん?」

 

 どこかで聞いたようなセリフを口にする彼女。

 

「涼しい顔をして我らを送りだしたものの、家で一人で飲んでいたら、今日来る男たちは粗暴者であるかもしれないと思い至り、合コンで我らが危ない目にあわないか心配になって、でも心配しているのがバレたら恥ずかしい、だから変装までして見つからないようにしてついて来た、であろう?」

 

「なっっ……!?」

 

 いつか彼女に言ったような口ぶりで、安瀬は俺に詰め寄ってきた。

 

「お、お、お前な、いつぞやの意趣返しのつもりか……?」

「いやいや、内気な殿方の気持ちを代弁しただけでござる」

 

 安瀬はいたずらを成功させた子供の様に、無邪気に笑う。

俺の頬が恥辱で赤くなるのが分かる。

安瀬ごときに本心を見透かされるとは何とも恥ずかしい。

 

「さて、他の二人にこの事をバラされたくないなら、一杯付き合ってもらおう」

 

 安瀬はそう言って()()()()()()、俺の家の方角へ歩き出した。

 

「お、おい……」

 

 いつも彼女は強引だが、こういったスキンシップを取るタイプではない。

どうしたのであろうか。

 

「拒否権はないぞ? ……今日は、少々不快な視線を浴びて気分が悪い」

 

 安瀬は抑揚のない声で自身の内情を吐露する。俺は先ほどまでの合コンを思い出す。そう言えば、男の一人が彼女の胸元をガッツリと見ていた。

 

「我を慕う可愛らしい婦女達を庇うためとはいえ、随分と気分を害した。酒も料理もどれもいまいちであったしのぅ……」

 

 相変わらず、変な言い回しをする奴だ。だが確かに、普段から彼女が口にしている酒とはつり合いは全く取れていなかっただろう。料理も揚げ物が中心で温かみの欠ける食事であった。

 

「……今は陣内の作った夜食と美味い酒を飲みたい気分じゃ」

「………………」

 

 俺を頼っているとも思える発言。意外過ぎるその言葉に俺は思わず息を止めた。

そんな俺の様子が気になったのか安瀬が振り返った。

 

「返事が……聞こえんでありんすが……?」

 

 彼女の顔は他の感情を出さないように、わざと怒っているように見える。

しかし、口調からどこか()ねているみたいな感情を隠しきれていない。

 

 俺は彼女の期待に答えた。

 

「そういう事ならお任せを、だな……。何が食べたい?」

 

 安瀬は花が綻ぶように、ぱっと笑った。

 

「貝の出汁が出たつまみがいいである! 酒はウイスキーじゃな!!」

「はいはい……ウイスキーは他の二人に黙って、良い物を開けるか」

「おぉ名案じゃな! クフフっ、陣内、お主も悪よのう……!!」

 

 それを聞いて、俺も同じように笑う。

 

「いえいえ、お代官様ほどでは」

 

************************************************************

 

 俺たちは家に帰って、二人だけでグラスを傾けた。

くだらない会話で酒とつまみを楽しむ、ゆっくりとした大人の時間。

友の気分が優れないなら酒と一緒に笑い飛ばしてやろう。

いつも俺の笑い袋を世話している彼女の助けになればこれ幸いだ。

 



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西代の暇つぶし

 

 カチャカチャカ、ガガッ、ばびゅーーーーンッッ!

奇怪な電子音が部屋に響き渡る。

 

「お腹すいたな」

「そうだね……っと」

 

 日曜日の昼間。俺と西代は二人きりでテレビゲームに興じていた。

今日は安瀬と猫屋はいない。彼女らは朝からバイトに行っている。

夜までは帰ってこない。

 

 ……あれ? 俺、最後に一人で寝たのいつだ?

 

「隙あり」

「あ、」

 

 そんな思考に気を取られていると、俺が操作していたキャラクターは西代の手によってぶちのめされた。

 

「あ゛ーー、やってらんねーー」

「ふふふ、僕の勝ちだね陣内君。……そうだ、何か作ってよ」

「え?」

 

 唐突に西代が昼飯を強請(ねだ)りだした。このゲームの勝敗に、そのような約束事はしていなかったはずだ。

 

「前に安瀬が言ってたアクアパッツァが食べたい気分だ。リクエストしても?」

「いや良くねーよ。材料がそもそもないし」

「むぅ……」

 

 安瀬に作ってやった時は、たまたま俺の昼飯用に材料を買っておいただけだ。

そんな一手間も二手間もかかる料理、すぐにできるわけがない。

 

「安瀬には作ってあげて、僕には作れない。君はそう言うわけだ……」

「おい、そういう言い方はやめてくれ」

 

 俺が友達を依怙贔屓(えこひいき)しているように聞こえる。

当然だが、俺にそんな気はない。

困った顔をする俺を見て、西代は意地の悪そうな笑みを浮かべた。

 

「いいや、やめてあげない。フフフ、君は僕との友情よりも、安瀬の事を優先するんだね。あぁ、なんて可哀そうな僕……」

 

 西代が大袈裟に悲しんで見せる。なんて適当な芝居だ、ふざけてやがる。

 

「なんだお前、イケないお薬でもキメたか?」

「失敬な、そんな体を壊す物に手を出すか。僕は酒と煙草だけで十分さ」

 

 健全なのか不健全なのか、よく分からない返事。

合法か非合法かと言われると、確かに合法ではあるけど。

 

「とりあえず、お腹がすいて陣内君のご飯が食べたいのは本当だよ」

「……建前を取っ払って言うと?」

「自分で作るのはめんどくさい。でも()()()()()()()()()が食べたいな。アクアパッツァなんて食べたことないしね」

 

 西代はあっけらかんと何の抵抗もなしに胸の内を晒す。

 

「ついでに言えば、最近はなにか刺激が少なくてね……」

 

 そして、急に一昔前のOLの様な事を言い始めた。

 

「いや、お前マジか。こないだダーツで負けてスピリタス飲んでたろ」

「い、いや、そういったものではなくて……」

 

 猫屋が途中で帰ったダーツ対決。猫屋を抜かしてそのままゲームを進行し、結果は西代が見事に最下位になった。地べたでのたうち回る彼女の姿は記憶に新しい。

 

 なお、途中欠場した猫屋には後日になって敵前逃亡の罰を与えた。

初代プリ〇ュアの変身口上を本気(マジ)で実演である。大学ではなく、俺の部屋でやったのが残念だが、顔を赤くしてちゃんとやりきってくれたので割と満足だ。

もちろん、スマホに録画して大切に保管してある。俺の家宝だ。

 

「何というか、脳に新鮮な刺激が欲しいんだよね」

「……パチンコ行けば? 今日は暇だから付き合うぞ」

 

 脳汁が出て新鮮なアドレナリンを提供してくれることだろう。負けたら知らん。

 

「いや、今は給料日前で懐に余裕がない。()()()()()()()()、戦に(おもむ)くには兵站(へいたん)がなくてはいけない、だね」

「ハハハ、言いそう」

「普段なら、彼女が先頭に立って僕達にスリルや笑いを提供してくれるんだけどね。今日はバイトでいないのが残念だ」

「スリル、ねぇ……」

 

 彼女が求めているのが非日常的なスリルや経験というのであれば、俺も一つ真面目に考えてみよう。安瀬ばかりが人気者なのは、少し癪に障る。

 

「じゃあ、ネットの競馬とか競艇はどうだ? あれなら100円からだ」

「賭け金が物足りなさそうだから嫌だね」

 

「それなら、俺と外に昼飲みに行かないか? 水煙草(シーシャ)が置いてある雰囲気の良いバーを見つけたんだよ」

「うーん、凄く興味はあるけど本当にお金がないんだ。また今度ね」

 

「金を使わないとなると……運動公園でキャッチボール」

「それ、楽しいのは男の子だけだと思うよ」

 

「……このまま一緒にゲームを───」

「飽きた」

 

 暖簾(のれん)に腕押し、豆腐に(かすがい)対牛弾琴(たいぎゅうだんきん)、馬の耳に念仏、まさに梨のつぶて。

俺の意見はことごとくが却下された。自分の企画力の無さに打ちのめされる。

ゲームでも現実でもボコボコにされるのはちょっと辛い。

 

 そもそも西代の趣味は賭博だ。彼女の趣味に合わせたものが採用されやすいはずだ。

 

 ぐぐぐ、何かスリルがあってギャンブル性のあるもの……

 

「ええいなら、脱衣麻雀(だついまーじゃん)はどうだ! やったことないだろ!!」

 

 思わずと口からとんでもない物が飛び出した。

俺はハッとなって自分のセクハラ発言を後悔する。これでは線形代数学のスケベ阿部と同レベルだ。というか二人でどうやって麻雀をすればよいのだ。

 

 しかし、意外にも西代の顔は不快感に染まっておらず、むしろ先ほどより晴れやかだった。

 

「ふむ、脱衣(だつい)脱衣(だつい)……」

 

 ポツポツと呟きながら、西代は顎に手をやって何かを考えだした。

その顔は真剣そのものだ。

そして、何か思いついたのか、スッキリした顔でこちらを向いた。

 

「陣内君、()()()をやろうか」

「うっそだろ、お前」

 

 俺の提案をさんざん却下しておいて思いついたのがそれか……!

 

「まぁ待ってくれ。理由(わけ)を聞いてほしい」

 

 そう言うと彼女は立ち上がった。

そして自分の胸に手を当てて、説明口調で話し出す。

 

「僕は金欠ではあるが、僕の所有財産である体にはかなりの値打ちがあると思う。……具体的に言えば5万くらい。十分、賭け銭となるはずだ」

「何言ってんの、マジで」

 

「目の前には一匹の雄。彼は人間としてはクソだが、唯一の長所として料理が美味い事が挙げられるな」

「おい、無視するな。誰がクソだ」

 

「君のご飯を食べたい僕と、()()()()()()()()()姿()()()()()()

「ぶ、゛゛っ!? 本当に何言ってんだッ!!」

 

「欲望の天秤(てんびん)は水平になった。あとはどちらかが勝つか、運を神にゆだねるのみ」

「全然、水平じゃねーよ!!」

「っふ、中々スリルのある"賭け"になるとは思わないかい?」

 

 そう(のたま)う西代の目はスリルを前にしてどす黒く濁っていた。

賭博の魔に魅入られた西()()()()()()()だ。

こうなったら、正常な判断はできはしない。行けるところまで、とことん行ってしまう。

 

「お前、正気じゃねぇよ。このスリル中毒者(ジャンキー)め」

「狂気の沙汰ほど面白い、のさ」

 

 しかし、そもそも勝負の理屈がまるで出鱈目だ。

俺がじゃんけんに勝てば、西代の裸を拝める。

負ければ俺はわざわざ食材を買いに行き、手間暇かけて彼女の所望する料理を作らねばいけない。

 

 賭博とは多少不平があれども、互いに利益がなければ成立しないゲーム

このゲームには、その釣り合いがまるでとれていな……とれ……と……

 

(─────やべぇ、普通に裸見たいかも)

 

 今は日曜日の昼間。俺は珍しくお酒を一滴も飲んでいない。煙草もそこそこだ。

つまり、淫靡で邪な感情はちゃんと俺の中から湧き出てくる。

正常な大和男児(やまとだんし)だ。

 

(いやでも、今の状態で裸なんぞ見たら理性の歯止めが効かなくなる……)

 

 西代の嫌がる事はしたくない。俺はこの関係を崩すようなことは死んでもごめんだ。俺にはこいつら以外に大学で友達はいない。

それに、彼女が賭けると言っているのは、体ではなく裸体の目視権だ。

この勝負は俺にも、彼女にも危険すぎるかも……

 

 突如、俺の脳内に天啓が舞い降りた。

 

「……いいぜ西代、面白い。受けよう、その勝負」

 

 策を思いついた俺は、勝負を許諾する。

 

「ほぅ、君も男だね陣内君。正直、野球拳のような低俗なゲームは嫌いかと思っていたよ」

「初めは乗り気じゃなかったが、気が変わったんだ。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 俺は西代の顔を高みから見下ろしながら、不遜な態度で挑発する。

その態度に彼女も応えた。

 

「いい表情だ。僕も燃えてきたよ……」

 

 お互いの合意は取れた。室内に冬とは思えないほどの熱気が充満する。

ここはもうすでに賭場だ。賭けるのは金ではなく、お互いの自尊心(プライド)

勝負の果てに見えるのは、うら若き乙女の柔肌か、男の悲痛な叫びか。

熱い血潮と闘志をたぎらせ、俺は緊張感を途切れさせずに提案する。

 

「その前にトイレに行かせてくれ。漏れそうなんだ」

「フフフ……早くいっておいで」

 

 熱い勝負はトイレの後で始まる。

 

************************************************************

 

 ()()()()()()()()()、部屋を出た。

これからの行為がばれない様に、部屋の扉は閉める。

 

 台所の収納下にある緊急用の欲望退散品を素早く広げた。

常日頃から、薄着の女子三名が我が物顔で跋扈(ばっこ)する俺の日常。

この関係を保つためにも、いつでも理性を保てるように、ある備えを用意してある。

 

 内容物は、スピリタス、安物のペシェ(ピーチリキュール)、そしてレモンだ。

 

「よし、やるか」

 

 俺が思いついた名案とは、記憶が飛ばない程度に酔っぱらって性欲を散らし、後で西代の裸体を思い出そうというものだ。脳裏にさえ焼き付ければ、リベンジポルノと言われる筋合いはない。俺も男だ。あのような提案されて、縮こまるようなモノはぶら下げてはいない。

 

 我ながら最低だが、全部西代が悪い。そう思おう。

 

(パパっと作ろう。西代に恥ずかしくてお酒に逃げたと思われるのも嫌だし)

 

 スピリタスベースのカクテル。作り方は簡単、子供でもできる。スピリタスとペシェを1対1になるようグラス一杯に注ぐ。そしてレモンを絞って完成だ。

 

 俺はこのカクテルもどきの名前を知らない。少し前に佐藤先生から教わっただけだからだ。スピリタスの飲みにくさを抑えるためだけの割り方。96%を12%で割っているので、度数はまだ50%近くはある。

 

「いくぞ」

 

 俺はグラスを一気に煽った。濃すぎる甘みが口内にあふれる。そもそも、ペシェは薄める事を前提としたお酒だ。カルピスの原液と何も変わらない。だがそのおかげで、キツイアルコールが中和され一気に飲み干すことができる。

 

「ぁぁ゛゛……空きっ腹に響くな」

 

 一杯目が終了。恐ろしいことにすぐに酔いが回り始めた。

自分の中の性欲が霧散していくのを感じる。

 

「念のため、あと二杯くらい飲んどくか」

 

 決して美味しくはないが、酔いを回すためだ。仕方ない。

俺は再び、グラスに酒を注ぎだした。

 

************************************************************

 

「お、おまたせ……」

 

 俺は西代が待つ決闘の場に戻った。

 

「少し、顔が青白いような気がするけど大丈夫かい?」

「大丈夫だ。どうせすぐに勝負の熱で赤くなる」

 

 西代に感づかれそうになったが、適当な言い訳で誤魔化す。

 

「まぁ、そう言うなら僕はいい。早速始めようじゃないか」

「おう、そうだな」

 

 俺たちは互いに立って、向かい合った。

彼女の背は小さく、俺が見下ろす形になるが愛嬌や庇護欲といった感情は微塵も感じさせられない。

 

 今の西代は一匹のイカれた博徒だ。

たかだか昼飯の為に自分自身を賭けてしまうほどの、だ。

ゴゴゴゴゴッと、物凄い圧力を感じる

 

「僕が今着ている物は()()5()()。上着にズボン、インナーシャツに、下着が二点」

 

 西代の服装は、白いYシャツに黒いスキニーの長ズボン。男のようなシンプルな装いではあるが、女性らしい膨らみが隠れていない。

世の男性に言わせれば、非常に魅力的だという評価になるだろう。

 

「つまり、先に"5回勝った方"が勝者となるわけか」

「そういう事さ」

「後だしは厳しく指摘するからね」

「当然だな」

 

 グワングワンとする頭で何とか返事を返す。

 

「じゃあ、行くよ……」

 

 西代が腰だめに拳を構えた。それを見て、俺も呼応するように腕を上げ宙に固定させる。まるで二人は睨みあう仁王像の様であった。

 

「「じゃーんけーん」」

 

 俺は掛け声とともに手を振り下ろした。

 

「「ぽん!」」

 

 グーとチョキ。ひどく酔いが回っているが勝敗くらいは理解できる。

初戦の結果は俺の勝ちだ。

 

「……っふ、初戦くらいはサービスさ。だけど次はないからね」

 

 彼女はそういうや否や、自らのYシャツのボタンに手をかけ始めた。

黒く薄い生地のインナーシャツが下から表れていく。そして、ボタンを外しきったあと、丁寧に畳んでから床に置いた。

 

 女子なら相当恥ずかしい行為のはずだが、西代は眉一つ動かさずにやってのけた。

恐るべき精神力だ。

 

「随分と余裕だな。次もし負ければ、お前は俺に下着を見せつけることになるんだぜ」

 

 俺は西代の動揺を誘うために、敗北後どうなるかを改めて教えてやった。

 

「おいおい、下着なら普段から見せているだろう? その程度でうろたえる僕ではないよ」

「うん、まぁ、干してるもんね、下着。俺の部屋で」

 

 そうだった、何なら最近は俺も見慣れてしまっている。

もはや女の下着というものに対する俺の認識は、ただの布切れであった。

そういう事なら遠慮は無くなった。

 

「じゃ、パパッと次行くか」

「え、ちょ────」

 

俺は彼女を待たず、手を振り上げた。

 

「「じゃ、じゃーんけーん」」

 

「「ぽん!」」

 

 西代の声が出遅れてはあったものの、最終的に手は同時に出された。

その手は再びグーとチョキ。またしても俺の勝ちだ。

 

「お前の負けだ、西代。早く脱げ」

「ぐ、ぐ……!」

 

 さすがの2連敗は、あの西代さんとて悔しいようだった。

だが、彼女はその悔しさを払いのけるようにガバっとインナーシャツを捲り上げた。

そして脱いだソレを乱雑に床に投げ捨てる。何とも潔い。男らしさすら感じる。

 

 しかし、黒いブラジャー姿の彼女からは官能的な女性らしさが漂っていた。

彼女の胸はその小さな背丈にしては大きいように思える。

 

 西代は下着姿など別に気にしていないと口にしていた。

しかし、綺麗な肌を露出しているのを気にしてか顔が少しだけ赤い。

俺の視線を感じてか、少し身を(よじ)っていた。

 

 ここまで野球拳を進めてみて思ったが、コレ意外と楽しいな。

自分が勝てば相手を悔しそうに脱衣させることができる。

嗜虐心と征服感が同時に満たされて、何とも言えない高揚感が滾る。

そうだ、良い事を考えた。

 

「なぁ、西代。一つ提案なんだが」

「なんだい? いまさら怖気づいても許さないからね」

 

 どうやら彼女はここまでやって、俺が日和見のストップを掛けるのではないかと思ったらしい。そんな事はしない、むしろ逆だ。

 

「次の勝負、2()()()()()()()()?」

「な、なんだって……!?」

 

 西代が野球拳を始めてから、ようやく動揺を見せる。

そうだ、その反応が見たかった。

 

「いや、お前の言った通り、下着なんて見慣れてるからさ。さっさと全部脱がせたい」

「ぬ、ぬが……! か、仮にも乙女の柔肌を見ておいて、その言い草はなんだ!」

 

 西代が口調を荒げて、俺の侮蔑ともとれる言葉に抗議する。

その目は先ほどの曇り眼ではなく、怒りを宿したモノに変わっていた。

 

 よし、西代さんモードから徐々に普段の西代に戻りつつあるようだ。

恥という感情を彼女に取り戻させて、もっと脱ぐ時のリアクションを面白い物にしてやろう。

 

「おいおい、何を怒ってるんだ、冷静になれよ西代。そう悪い話でもないだろ? お前は今、2連敗。だが次1回勝てば勝負は再び五分五分になる」

「ま、まぁそうだけど……」

 

 彼女は生粋のギャンブラー。ダブルアップチャンスと似たこの条件に逆らえないだろう。西代はたいして考えもせずに承諾の言葉を告げる。

 

「……良いよ。僕も腹をくくろう。さすがに3連敗はないだろうし……」

 

 賭博において、"次はない"は典型的な養分の思考回路。確定したフラグ。

勝敗は既に決まったと言ってもよい。俺はこの勝負に限り、幸運の風上に立った。

 

「じゃ、そういう事で」

「う、うん」

 

 前置きは長くなったが、勝負は再開。お互いに手を構える。

 

「「じゃーんけーん」」

 

「「ぽんッ!」」

 

 俺の手はパー。西代の手はグー。

当然のように俺の勝ちだ。

 

「う、うそだ……」

「雑魚め、判断を見誤ったな」

 

 彼女は絶望的で惨めな声を挙げる。何と心地いい声音だ。録音して着メロにしたいぐらいだ。酒と一緒に脳にグングンと染みこんでくる。酔いがもっと回ってきた。

 

「ほら負け犬、ヘタレてないでとっとと脱げ。西代のっ、ちょっと、いいとこ、みってみたいっ!」

 

 俺は酔いに任せて、彼女を煽る。気分は最高潮だ。

 

「う、う、う、……こんなはずじゃ」

 

 潔くスッと西代は黒いズボンを脱ぎ始めた。素晴らしい。その動作は神秘的にも感じる。

 

 細く白い脚とレースの入った黒いショーツがお目見えする。鼠径部(そけいぶ)に表れている肌と下着の境界線が、その下にある乙女の花園を否応なしに想像させる。

 

 それを見た俺のテンションは有頂天まで一気に跳ね上がった。

 

「はい、もう1枚っ! もう1枚っ! もう1枚っ!」

「う、う、うるさいぞ! 脱ぐ、脱ぐから静かにしてくれ……」

 

 パンパンと手拍子を取ってコールをする俺の勢いに押されたのか、彼女は後ろを向いて後ろ手でブラのホックを外し始めた。何とも言えない濃密な時間が流れる。

 

 そして、西代は完全に外したブラジャーを床に落とす。彼女は片腕でその豊かな乳房を隠し、ゆっくりとこちらに向き直った。

 

「おーーーーーー」

「な、なんなんだい、その反応はっ!!」

 

 俺は美しい陶芸品を見るように彼女をジロジロと見つめた。

白い肌と腕につぶされて盛り上がった胸。胸には深い谷間ができていた。

顔を真っ赤にして恥辱に震える、半裸の姫君。

この賭けをしたことを後悔していそうな顔もアクセントになり、一種の芸術作品のようだ。

 

「くそぅ、最悪だ。知的でクールな僕が、まさか服をはぎ取られて震える日が来るなんて……」

「お前はクールというか、静かに狂気を抑えてる魔物って感じだけどな……」

 

 底知れぬ賭博の闇をな。

 

「というか君は僕の裸体を見て、なぜ、面白く笑ってるだけなんだい? もっと別の反応があるだろう」

「え、あぁ、凄い興奮してる。それはもうスゲェ興奮だ」

「感情がこもって無さすぎるよ……女としての自信を少し無くす」

 

 西代は落ち込んでいるが、彼女の裸体は半端なく美しい。造形美がとても整っている。俺が酔って性欲を無くしていなければ、間違いなく襲い掛かっていただろう。この体質に、ほんの少しだけ感謝しよう。まぁ、この体質は生まれつきではなく、()()()()()()()()()()()()()()なものだが。

 

「そんな事は置いておいて、ラストゲームだな。とっとと終わらせよう」

「まだラストじゃない……!! ここから逆転して見せるのが僕だっ!!」

 

 もはやあり得ない事を言い出す西代。どうやら現実が見えていないようだ。

半狂乱に叫ぶ彼女を無視して、俺は手を振り上げる。

 

「へいへい、始めるぞ。じゃーん──」

「ま、待ったッ!!」

 

 そこで、彼女が片手を突き出しストップをかける。

 

「え? なんだよ」

「フ、フフフ……僕は次の勝負、パーを出すよ」

 

 よくあるブラフだった。本来運ゲーであるじゃんけんに心理的な要素を持ち込ませようとしたのだろう。しかし、今の俺にその手は全く無意味である。

酔いすぎてろくに思考が回らないため、何も考えずに手を出すからだ。

彼女が出すと言った手が何だったかも、もう忘れた。

 

「あぁ、はいはい。じゃ再開な」

「え、待って何でそんな適当にぃ─────」

 

 俺は容赦なく手を振り始めた。

 

「「じゃ、じゃーんけーん……!」」

 

「「ポンッッ!!」」

 

 勝負の手はパーとグー。

おぉ、凄いラッキー。俺の5連勝だ。これで西代の全裸は確定した。

 

「あ、え、う、あ……」

 

 西代の語彙が崩壊する。敗北のショックか、これから起こる未来を想像したせいか彼女の脳はパンクしていた。力なくペタンっと床に座り込む。

 

 ……いやー、それにしても本当にこんなもの見ていいんですか?

女友達の脱衣ショーなんて本来なら金払っても見られない。

彼女が恥ずかしがる貴重な機会だ。あ゛゛ーーー、楽しみーーー!

 

「よし、じゃあ、脱ごうか」

 

 俺は思わず変態的な口調になってしまったが、放心した西代に催促を促す。

 

「あ、あ、ゆ、許してくれ」

「……なにぃ?」

 

 彼女はプルプルと震えながら答えた。

俺を見上げて許しを請うその姿は、雨に打たれる子犬のように儚げで哀れであった。

まぁ、そんな事はどうでもいい。

 

「なぁ、西代。そもそも、この野球拳を提案したのは誰だ?」

「ぼ、僕だ……」

「勝負の途中、『いまさら怖気づいても許さない』と言っていたのは?」

「ぼ、僕……」

「では、最後。陣内宅での罰ゲームは?」

「か、必ず実行される……」

 

 なんだ、よく分かっているじゃないか。つまり、ここで止める事は誰にもできない。例え神が許そうとも俺は決して許さない。彼女がパンツを脱いで、全裸になる事は確定した未来だ。

 

「ほら、早く脱げよ。安心しろ、手は絶対出さないから」

「そ、そういう問題じゃない! いや、手を出さないのは、いいんだが、えっと、その、あの……!」

「あの、なんだ……?」

「男の前でパンツを脱ぐ行為は僕には無理だ! 絶対できない……!!」

 

 目の端に涙を浮かべながら悲痛な声を挙げる。

よっぽど、全裸になるのが嫌なようだ。ならなんで、野球拳なんか提案したんだか……

 

「はぁ……仕方ないな」

 

 俺は呆れたようにため息をついた。

西代は俺の発言を聞いて、何故かホッと胸をなでおろしたかのように見えた。

 

「なら、俺が脱がせる」

 

「……はぁ!?」

 

 西代の顔が驚愕に染まる。彼女が脱げないのなら、合理的に考えて俺が脱がすしかない。至極当然のロジックだ。

 

「なに、目を瞑ってれば一瞬だ。30秒くらい見たら戻してやる」

「さ……!? 長いよ!! ていうか、え!? 冗談とかじゃなくて本気で僕のパンツを脱がす気か!?」

「うん、だって罰ゲームだし」

「じ、陣内君、頭おかしいよ!!」

 

 なんとでも言え。酔った俺は無敵だ。

男、陣内梅治。今は彼女のパンツを脱がすだけの冷血なマシーンとなろう。

 

 ずいっと座り込んだ西代に迫る。

 

「っひ……!?」

 

 小さく悲鳴を上げて、床を蹴って何とか後ずさる彼女。しかし、気が動転して全然逃げられていない。もう十分に射程圏内だ。

 

「観念しろ。今日がお前の命日だった。そういう事だーーー!!」

「きゃぁぁああーーーー!!??」

 

 俺が彼女に飛び掛かろうとした、その刹那─────

 

「ただいまー! いやー、日曜なのにお客さん少なくて早上がりしちゃ……た……」

 

 部屋のドアが勢いよく開かれ、そこから猫屋が飛び出してきた。

 

 大粒の涙を流している半裸の西代。襲い掛かろうとする俺。それを見た猫屋。俺達は絶対零度に凍り付いた。

 

「ね、猫屋っ!! 助けて……!!」

 

 そう言うと西代は猫屋の元に駆け寄り、その後ろに隠れた。

彼女の声を受けて硬直の解けた猫屋。西代を庇うように前に出て、俺を感情のない目で見つめてくる。

 

「あー……陣内、ついにやっちゃったかー……」

 

 よそよそしい猫屋の声。その表情にははっきりとした侮蔑と落胆が張り付いていた。

 

 まずい、誤解を解かなければ……!

 

「待て猫屋、誤解なんだ!」

 

 俺は必死な声で、猫屋に訴えかけた。

これは不幸な行き違いによる事故なのだと。

 

「……一応、聞いておこーかー」

 

 どうやら、有罪は確定したわけではないようだ。

弁明のチャンスをくれるらしい。

俺は言葉を慎重に選んで、吐き出した。

 

「俺はただ、西()()()()()()()()()()()()()()()()()……!!」

「何一つ誤解じゃねーよッ! このクソ馬鹿ーーーーーーーーーッ!!」

 

 猫屋の糾弾が部屋に響き渡る。

どうやら何か間違えたようだ。

 

「くっ、ならそこをどけ猫屋っ!! 邪魔するなら、貴様も敵だーーー!!!」

 

 そうして俺達の戦いは始まった。俺は西代のパンツをはぎ取るまで一歩も引く気もなかった。陣内家の罰ゲームは必ず実行されなければならない。じゃないと俺がこれまで受けてきた罰に意味が無くなる。逮捕も投獄も恐れずに、勇猛果敢に女性陣への突撃を決行した。

 

************************************************************

 

 結果はキレた猫屋に張ったおされて、情けなく惨敗に終わった。

 

 



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恥じらいのある毒牙

ネチネチネチネチ──

 

「あー、明日バイトめんどくさいなー」

「カラオケだったよね、猫屋がバイトしてるの。仕事が楽でいいって言ってたじゃないか」

「家から結構遠いんだよねー。自転車で30分くらいかかっちゃう」

 

ネチネチネチネチ──

 

「原付でも買ったらどうだ?」

「うーーん、バイトの為にお金使うって本末転倒じゃなーい?」

「いや、陣内家共用バイクとして全員で購入するというなら我も出資するぞ!」

 

ネチネチネチネチ──

 

「ならカーシェアとかの方が便利じゃないかい? 雨の日でも楽だし」

「それはありだ……」

「ぶっちゃけ、4人分の買い出しを、自転車だけではキツイでござる」

「今日も大変だったしねー、スーパーまで近くもなければ遠くもないしー」

 

 俺達は床に皿を置いて4人で餃子を作っている。ビールをすすり、雑談しながらチマチマと手を動かす。灰が混入する恐れがあるため煙草は吸っていない。

 

「酒瓶とか炭酸水とか重いしね」

「問題はー、この近くでサービスをうけられるかじゃなーい?」

「最近は車を年単位でレンタルとかあるでござるよ」

「それ、いいな」

 

 4人で割ってくれるなら安く済むし、駐車場もこのマンションにはある。

本格的に車が欲しくなってきた。

 

「それに車があれば旅行も簡単に行けるようになるであろう」

「あーー! それいいなー……草津温泉行きたい」

「そこは地元じゃなくて、他県に行きたくなるもんじゃないの?」

 

 西代が思わずといったようにツッコミを入れた。草津温泉は猫屋の出身地である群馬にある観光地だ。旅行に行くなら見知った地元より、知らない場所に遊びに行きたいものだろう。

 

「草津の宿にはねー、個室に露天風呂ついてる所があってー」

 

 猫屋の手が物思いにふけって止まる。

 

「そこにー、日本酒とつまみを持ち込んでみたくなーい? 昼は出店で立ち飲みしながらー、夜は個室で月見酒。風流って感じでしょー?」

 

 俺たち三人は思わず手を止めて猫屋の話に聞き入ってしまった。

出店の濃い味のつまみに美味しい日本酒。

体の疲れを優しく溶かすような熱い風呂。

外風呂から見える綺麗な月と冷えた心地よい風。

 

 そして趣ある風景を楽しんだ後は、気の置けない仲間たちと馬鹿みたいに騒ぎながら夜を過ごすのだ。

 

「「「……………………いい」」」

 

「でしょーーーー!!」

 

 俺たちの賛同を得られて猫屋はご満悦そうだった。

そもそも、温泉旅館に宿泊など人生で数える程度でしか経験がない。ましては自分たちで計画などしたことはない。是非とも行ってみたいところではある。

 

「しかし、そういったところは"コレ"がかなりかかるだろう?」

 

 西代が指で丸を作って見せた。俺ら大学生にとっての生命線である金の意だ。

中々に下品な表現。

 

「確かに土日祝日に行くと、軽く10万とか超えるわねー」

「じゅっ……!?」

「恐ろしいな、おい」

「それはさすがに無理でやんす」

 

 我ら仲良く貧乏学生。日々をバイトに費やしても、酒と煙草代に消える毎日。大学の講義中に、割のいい日雇いバイトを検索してしまうぐらいだ。

 

「ところが平日は違うんだなー」

「平日?」

「集客の悪い平日ならー、普段お高い部屋でも4万程度で泊まれるよー」

 

 4万円なら一人当たり1泊1万円。

交通費や飲食代を含めても出せない額ではない。

 

「来週の水曜日は確か大学創立記念日で()()があったでござる」

 

「俺たちの木曜の講義に必修科目はないな」

 

「なんならこの際、金曜も休んで土日含めて5連休に……」

 

 西代の悪魔の囁きが混じったものの、四人の意思は着々と固まりつつあった。

思えばこの面子でつるんで半年あまり、一度も旅行に行ったことはない。

それに仲間内での旅行などなんとも大人っぽいではないか。

 

「では! 来週に群馬旅行という事で、皆異論はなーい?」

「「「はーーーい!」」」

 

俺達は再びネチネチと餃子を作りながら、旅行計画を練り始めるのだった。

 

************************************************************

 

 そして、翌週の水曜日。俺たちは軽自動車を前にしていた。

四人の共用財産として仲良く成約したのだ。

 

 素晴らしい快晴に恵まれた午前8時の朝。まさに旅行日和と言えるだろう。

昨夜の時点ですでに準備万端。この年で旅行のしおりまで制作する気合の入れよう。

 

さぁ、これから始まる旅路への期待を胸にいざ出発しよう……!

 

「やばい、吐きそう」

「う゛゛っっ! お゛ぇ!」

「日の光がキツイ。吸血鬼の気分でござっウ゛!」

 

「いや本当に、お前らね……」

 

 群馬旅行出発当日の朝、彼女らはゴリゴリの二日酔いであった。

理由としては昨日、前夜祭だの奉献酒を開けて事故厄払いだのとひたすらにアルコールを飲みまくりはしゃぎまくっていた。

 

 旅行が楽しみで眠れなくなる人は居ても、楽しみで二日酔いになるまで酒を飲む馬鹿は彼女らぐらいだろう。俺は運転係に決まっており、翌日に酒を残すわけにはいかなかったため適当なところで就寝した。

 

「だ、大丈夫……今日の為に車まで用意したんだから、こんな所で立ち止まってられなオエ゛゛」

「そうだな、絶対に車内で吐くなよ西代」

「ハ、ハハハ。西代ちゃん顔が死んでるー。……うっぷ!」

「灰になる……体が灰になるでござる……」

 

 俺は強引に彼女らを車に詰め込んで出発した。

 

************************************************************

 

 運転自体は結構久しぶりだったが、存外に体が覚えているもので特に問題なく高速道路を走れている。今は川越市を抜けようとするところだ。まだ目的地まで2時間近くあるが疲れは感じていない。むしろ車内に自分好みのBGMを流してノリノリである。他三人は死んでいるため選曲に文句もない。

 

 いやー、ドライブって結構いいものだな! このスピードと適度な緊張感。免許取るまでは運転なんて──()()()()──めんどくさいだけだと思っていたが中々に楽しい。これは世の男性たちが車にお金をかけたくなる気持ちもよくわかりま…………プシュッ?

 

 車内には清涼感のあるミントの芳香剤の香りが敷き詰められていた。

しかし、炭酸の抜けるような音を皮切りに()()()()()の匂いが漂い始める。

 

「ぷは゛゛ーーー! 生き返ったでござるよ!!」

 

 助手席を見ると安瀬が麦茶でも煽るがごとく、当たり前のように缶ビールを飲んでいた。酒飲みモンスターが早くも復活していた。

 

「いきなり無言でビール飲みだす奴がいるか! てか、お前二日酔いだろ!!」

「迎え酒でやんすよ、陣内~。楽しい旅路の初っ端を、二日酔いで不参加などありえんでござるよ」

 

 クツクツと笑いながらさらにビールを飲みだす安瀬。さらに煙草を懐から取り出し火をつけ始めた。何でもありかコイツは……

 

──プシュッ──

──プシュッ──

 

 唐突に、後ろから先ほどと同じ音が響いた。恐る恐るバックミラーで後部座席を確認する。

 そこには喉をゴキュゴキュ鳴らしながら恐ろしいペースで飲み干していく二人の女。その様は現代に蘇った酒吞童子(しゅてんどうし)と言われても疑問には思わない。口から缶を離したと思えば、急にピースサインを目の前に掲げだして────

 

「猫屋 李花、復活ッ! キュピーン!!」

「右に同じくっ……!!」

 

 謎のポーズとともに飲み切ったであろう缶ビールをクシャリと握りつぶす猫屋と西代。ば、ばかな……ロング缶(500ml)だぞアレ。ものの数秒で飲み切ろうとは。

あのバカたちは、ビールを回復ポーションか何かだと思ってるのか。

というか……

 

「ビール臭っっ!?」

 

 車内に充満しているあり得ないほど高密度の()()()()()()()()。三本のビールを密閉した空間で開けたらこうもなるだろう。俺は急いで自働のドアガラスを開いた。

 

「僕は特に何も感じないけど?」

「飲んでるやつはそうだろうな。……いやマジで臭いなっ!」

「煙草でも吸えばー? 私たちも吸うしー」

「それだわ。頼む安瀬、煙草咥えさせてくれ」

「承知(つかまつ)った!」

 

 安瀬が俺の胸ポケットから、器用に煙草を一本取り出す。

そして今吸っているメビウスを車につけた灰皿に置いて、なぜか()()()()に火をつけて吸いだした。

 

「ふぅーーー、相変わらず甘いのが好きでござるね、陣内」

「いや……何を───」

 

 そして自分が吸っていたモノをそのまま俺の口に持ってくる。少し面食らった。

運転中の俺の代わりに火をつけてくれたのだろう。だが、咥えさせてくれれば火ぐらい自分でつけれたのに。しかし、間接キス程度でドキマギするのも恥ずかしいのでそのまま咥えることにした。

 

「すうぅーーーー、はぁぁーーー……ありがと」

「いえいえ」

 

 ニコニコしながらこちらを見てくる安瀬。

咥えたフィルターはほんのり甘かった……などという事はなく普通にビール臭かった。

 

 ……あれ? これ、関節的に飲酒してないか? ま、まぁ法律に引っかかる量はさすがに含まれていないだろうが。

 

「あの二人、早速イチャついてるね?」

「青春だねー。おばさん、胸がキュンキュンしちゃうよー」

 

 こちらを見ながら、後ろでコソコソと二人が何か話している。ニヤニヤと笑っているので、俺の事を馬鹿にしている気がする。

 

「さぁ、到着までの暇つぶしに山手線ゲームでもしやしゃんせ!」

 

 そんなことを考えていると安瀬が唐突にゲームを提案する。

 

「おー、いーねー」

「僕、そういう言葉遊びは自信あるよ」

「酒が入った状態でもか……?」

 

まぁ、そんなことを言えば俺は運転中なのだが。

 

「お酒を飲んだ状態でこそ、人としての真価が問われるんだよ」

「まぁ、俺らの中ではそうかもしれん」

「じゃあ、飲みながらやろー」

 

 そう言うと猫屋が持ってきたクーラーボックスを漁りだした。この旅行の為に各自持っていきたい酒や飲料水を予め入れてたものだ。

 

 その中から、500mlの青く細長い猫の顔型の瓶を取り出した。

 

「なんだ、その可愛い瓶は?」

「シュミットっていうドイツ産の白ワインー。桃の風味が効いててちょーおいしー」

「へぇ、度数は?」

「9ぱー。なんか原産地に樽に乗った猫の像があるらしいよー」

 

 なんだそれは。国民的サザエ家の飼い猫か? あれは果物に乗っているが。

 

「ドイツ……日独伊三国同盟の仲としては一度は訪問せねばならんな」

「ビールとソーセージが目的じゃなくてかい?」

「言わぬが花でござるよ」

「どうでもいいが、猫屋の話を聞いてると酒が飲みたくなってきた」

「帰りは僕が運転してあげるから、まぁがんばって」

「というわけでー、ゲーム開始ーーー!」

 

 煙草を肺いっぱいに吸い込んで吐き出す。すると、ふと一つ思い至った。

 

 素面(しらふ)の俺がゲームで負けたらヤバいよな。面目が立たん。

俺は運転には集中しつつ、いつになく真面目に頭を働かせるのであった。

 

************************************************************

 

 時は遡る事、旅行出発前夜。

場所は陣内宅のいつもの部屋。家主である陣内梅治が寝室で就寝中の時の事。

 

 悪女たち3人は飲み会の体を装い、なにか()()()()を行っているようだった。

 

「どうー? 陣内、寝てたー?」

「あぁ、完璧に寝てたよ。声かけても起きなかった」

「では、準備は整ったようじゃの……、コホンッ」

 

 安瀬が一つ咳ばらいをし、他二人の視線を集めた。

彼女は少し仕切りたがり屋の気があることを、友人たちは理解していた。

文句はないので、そのまま安瀬の進行の言葉を待つ。

 

「早速であるが、ここに『ドキドキ、陣内の理性破壊作戦』の2回目作戦会議を開くでありんす」

「「やーやー」」

 

 頭の悪い作戦名が小声で発表されると同時に、猫屋と西代はノリよく相槌を打つ。

作戦名から推測される通り、陣内には内緒にしておきたい内容のようであった。

 

「うむ、全員乗り気なようで、拙者嬉しいでござる」

 

 もちろん、このおかしな企画の発案者は大問題児こと安瀬である。

 

「では、お互い認識のすれ違いが無いよう、もう一度作戦概要から確認していくぜよ」

「わかった」

「よろしくー」

 

 こうして、作戦会議は始まった。

 

「さて、我らが陣内宅に入りびたり始めて半年。この中で陣内に性的に迫られた者はいるかえ……?」

 

 いきなりの猥談。作戦会議というよりは、まるで女子会のようだ。

しかし、彼女たちの表情はいつもと違いどこか真剣であった。

 

「なーいでーす」

「僕もないな。……パンツ脱がされそうになったことはあるけど」

「へ、え……? な、なんでやんすか、それ? 拙者知らないでありんす」

 

 初っ端から出鼻をくじく返答に安瀬は困惑する。真剣さは早くも霧散しかけていた。それを見て、西代は慌てた様子で否定する。

 

「あ、あれはまぁ、僕が悪いというか、なんというか……ともかく、陣内君に僕を襲うような意思はなかったよ」

「そ、そうであるか」

 

 『そう聞くと、西代の方から陣内を誘惑したように聞こえるが?』という心の声を安瀬は何とかして飲み込んだ。

 

「では次に、陣内と身体的スキンシップを取ったもの。挙手をお願いするで候」

 

 そうすると、全員が手をスッと挙げる。

3人の顔は少し恥ずかしそうに、うつむいていた。

 

「さ、3人とも……意外と節操(せっそう)がないのかな、僕ら」

 

 西代が周りを見渡し、驚嘆の声を挙げる。

 

「私の場合は不慮の事故だったー、みたいなー……」

「我は、まぁ、弱みに付け込まれたというか……弱みを見せてしまったというか……」

 

 猫屋の場合はダーツの際に抱きしめられた事件。安瀬は風邪を引きおんぶされて帰った事。そのどちらも、彼女ら自身が撒いた種だという事は話す気はないようだった。

 

「「「………………」」」

 

 3女がお互いに顔を見合わせる。表情で意思の疎通を図っているようだった。

そして一同、同じタイミングで全く同じことを口にした。

 

「「「あいつ…………何で手を出してこないんだ?」」」

 

 それは当然の疑問。彼女らは自分の容姿が客観的に見て、優れている事をきちんと理解している。人生の中で告白を受けた者もいる。

三者とも様々な理由で恋人はいた事がないが、自分がモテる事を自覚していた。

 

「いやー、別に手を出してほしい訳じゃないんだけどーー、ねぇ……?」

「乙女のプライド的に、ね」

「とても複雑でござる……」

 

 彼女らは酒飲みヤニカスモンスターズではあるが性別は女。しかも、20代の花咲く年頃。美貌への自信と、半年の間も手を出してこない男。

その相反する自己意識と現実が、彼女たちを苦悩させていた。

 

「煙草を吸う女は恋愛対象外である、という可能性は……?」

「僕、彼に煙草を吸ってる姿を褒められた事ある」

「あ、私もあるー。自分も吸ってるしー、そこは気にしてなさそー……」

 

 考察の結果、煙草を嫌悪しているという選択肢は消え去った。

 

「なら、同性愛好家であるか?」

「それはないんじゃないかなー?」

「だね。彼の名誉の為に詳しくは省くが、PCの履歴を見た限り一般的な性癖の様だ」

「に、西代ちゃんー? 人のPCの履歴見るのはタブーじゃなーい……?」

「たまたまさ。パソコンを借りた時、偶然見てしまったんだよ」

「あ、あーねー」

 

 再びの考察の結果、同性愛好家という選択肢は消え去った。

 

「後は、そもそも性欲が薄い。も、もしくは……」

 

 安瀬はここまでの推測から、選択肢を2つにまで絞った。

しかし、その最後の一つは自身の口からはとても言いづらいものであった。

 

「拙者たちが()()()()()()()と思われている……であろうか」

「……」

「そ、それだけはマジでキツイー……」

 

 西代は無言で、猫屋は言葉で、その可能性を否定する。

それは、女としてはあまりに許容できないものであった。

 

 よって、この選択肢は考察するまでもなく消え去った。

 

「なら性欲が薄い……という事になるであるか」

「……実はお酒を飲んでるときはそう言った感情が出にくいって、本人から聞いたことがある」

 

 そこで西代が陣内がずっと昔に言っていた事を口に出す。

 

「え、そーなの? 私、初知りー……」

「なるほどのぅ、酒が原因か……」

 

 安瀬と猫屋が得心のいったという様子で頷く。

 

 陣内は自分たちが横にいる時は、いつも飲酒していた。

アレは自分たちの美貌に目が眩み、襲ってしまわないように対策していたのだ。

 

 三女は自分達を棚に上げて、そのようにあたりを付ける。

 

(((いや、でも、あの飲みっぷりの良さは、ただの酒好きの馬鹿では……?)))

 

 しかし、その理屈は彼の異常なアルコール摂取量のせいで、矛盾しているように思えた。

 

 それが陣内の複雑なところであった。アル中と思われるほどの酒好き。大学内に酒を持ち込むほど、酒を愛してやまない異常者。彼が性欲を減らす為だけに飲酒しているとは思えない。

 

 実はその両方は同時に成立することに、既に酔っている彼女達は気づかなかった。

 

「まぁ、それならお酒に催淫(さいいん)作用を付与しちゃえばいいのさ」

「ほぅ? その心は?」

「これさ」

 

 西代が机の上に大小様々な瓶や薬袋を広げて見せた。

 

「西代ちゃーん? コレってもしかしてー……」

「そう、()()()

「あぁ、薬局とかで偶に見かけるでありんすね。しかし、量が多いでござるな」

 

 広げられた精力剤の種類は20を超えていた。

明らかに、一人の人間に使用するには過剰な量に思えた。

 

「陣内君、肝臓が強いだろう? 生半可な量じゃ分解されて効き目が薄いかなと思って」

「でもすごいねー、これだけ揃えるのって結構お金かかったんじゃなーい?」

「前の競艇の儲けで集めたんだ。少しオーバーして、最近まで金欠だった。ろくに遊びに行けなくてストレスがかかったよ……」

 

 そのせいで野球拳という暴挙を犯したことを思い出して、西代は自分恥じた。

 

「けどコレってー、どうやって飲ませるつもりー?」

 

 そんな彼女の事を気にせずに、猫屋が当然の疑問を口にする。

 

「適当に酒に入れたらばれないかなって」

「おお、それならいい物があるでござる」

 

そう言って、安瀬は瓶酒を取り出した。

 

「うわ、それって」

「おーまじかー」

 

 彼女たちが驚くのも無理はなかった。その酒の中には一匹の蛇が蜷局(とぐろ)を巻いて沈んでいたからだ。

 

「ハブ酒、でありんす」

「す、凄いね。僕、初めて見るよ」

「私もー、……うっわ、目が合っちゃった」

「これなら、あいつも飲んだことなかろう。味が分からなけば何を入れても大丈夫じゃわい」

「ハブ酒の精力剤割りか。随分と効き目が強そうだね……」

 

 ハブ酒は薬効として男性機能の向上があることで有名だ。それに加えて、高麗人参やマカ、ニンニクの滋養強壮成分を含んだ薬剤を投与すれば、どんな男も興奮状態に陥る事間違いないだろう。

 

「ハハハ、この作戦、我らの勝利じゃっ」

「フフフ、間違いない」

 

 安瀬と西代は寝ている宿主を起こさないように静かにクツクツと笑う。

その悪意に満ちた表情は気遣っているはずの家主に向けられているはずなのだが。

 

「あのー、盛り上がってるところ申し訳ないんだけどー……」

 

 そこに猫屋が水を差す。

 

「それで、()()()()()()()()()()()()どうするのーなんて、アハハー……」

「「……………………」」

 

 先ほどまで盛り上がっていた彼女らは完全に沈黙した。

家主に媚毒を盛る方法は考えていたが、実際に襲われるケースは想像していなかったようだ。

 

「ま、まぁ、大声で叫べば、誰かが助けに入るであろう……」

「そ、そうよねー……」

「う、うん。流石に、ね……」

 

 一番危険な問題を彼女たちは先送りにした。そして考え出した対策手段は、場当たりな適当なものである。

 

(((もし襲われて、そのまま流されちゃったらどうしよう……)))

 

 そして3人は、その淫靡で官能的な結末の一つを思い描いてしまった。

その場の誰もが、陣内の事を嫌いではない。むしろ、生涯の中で一番仲の良い異性であった。それゆえに、もし、断ることができなかった場合は……

 

「よ、よし作戦会議終了でござるっ。……とりあえず飲まんかえ?」

「さんせー、今はなんかー、……なんか無性に飲みたーい」

「僕もだ。強い酒が欲しい」

 

 これが旅行出発前日に、彼女たちが深酒を起こした理由であった。

 



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灼熱と昔話

 

「あー、やっと着いたな」

 

 俺は運転で凝った体をほぐすように大きく伸びをする。

時刻は11時と少し過ぎたあたり。おおむね予定通りの到着だ。

 

「ほぅ、ここが今日泊まるホテルであるか。少し古いな……」

「喫煙可能な露天風呂付き客室ってー、古い所しかなくてさー」

「それもそうだよね」

 

 ここは草津温泉街の近くにあるホテルだ。

俺たちはホテルの外装の感想を言いながら、車から荷物を取り出していった。

 

「しかし、温泉宿と聞いていたから僕はてっきり旅館に泊まるのかと思ってたよ」

「あー、旅館はお値段が倍くらい変わっちゃうからねー。でも、部屋の内装は和室だからー、そこは大丈夫ー」

 

 荷物を持ち、ホテルのエントランスに入る。

ふかふかのカーペットと大理石のような素材でできた受付フロント。お土産売店や無料のドリンクマシーンの付いた広めの休憩スペースがお出迎えをしてくれた。

 

 おぉ、内装は凄く綺麗でいい所じゃないか。

こんな高級そうなホテルに泊まるのは初めてだ。俺は酒も飲んでいないのに、不思議な高揚感に包まれる。それは、他の3人も同じであるようだ。

 

「うむ、中々悪くないでござる」

「さすが、一泊4万円のホテルだねー」

「そう考えると装飾が全部高級品に見えてくるよ。……まぁ、見学は夜にして早く遊びに行こう」

 

 四人はフロントまで荷物を預けに行く。チェックインの時刻は3時以降だ。

先に荷物だけ預け、夜まで草津温泉でゆっくり観光する手筈となっている。

このホテルからは温泉街までの無料シャトルバスも出ており移動には困らない。

 

「ねぇねぇ。あそこ見てよー……!」

 

 興奮した口調で猫屋がどこかを指さしていた。

そこには浴衣レンタルと書かれた、小さい店内着物屋があった。

 

「私、浴衣着てみたーい!!」

「おぉ……! 我も賛成でありんす!!」

「温泉街に浴衣……うん、風流だね」

 

 急に女性陣のテンションが跳ね上がった。車内の出来事で忘れそうになるが、酒飲みモンスターズは生物学上は女に分類される。可愛く着飾りたいのは当然だろう。

男の俺としては衣服などより酒と食事だが、そのような無粋は決して口にしない。

むしろ、彼女たちに同調しておく。

 

「いいじゃないか、浴衣。そんなに高くないし、まだバスが来るまで結構時間がある。全員でレンタルするか」

「「「さんせーい!」」」

 

 愉快適悦な様子で足早に駆けていく彼女ら。歩行速度の差は如実にでる。

気持ちの差だ。俺もついていかなくては。

その途中、西代が急に振り返った。

 

「あ、そういえば陣内君」

「どうした?」

「コレ渡しとくよ。僕らは君より時間かかるから。先に出て休憩所で飲んでて」

 

 そうして彼女が手渡してきたのは日本酒の二合瓶だ。

 

「運転してたから今日は飲んでなかったろ?」

「おお、気が利くな西代!」

「そろそろアル中特有の禁断症状が出るかと思ってね」

「ア、アハハハハ」

 

 西代の鋭い指摘にたいして乾いた笑いで返すしかなかった。

最近、酒が抜けると手が震えてる気がする。冬なので寒くて震えてるのだと思いたい。

 

「ん? なんか、()()()()()()()()()()、コレ」

「さ、先に僕が飲んでたのさ。別に飲みかけでも気にしないだろ?」

「まぁそりゃそうだけど」

 

 それにしてはあまり量が減っていない気がするような……?

俺がいぶかしんでいると猫屋の大声が聞こえてくる。

 

「二人ともー! 何してるのー? 早く来なよー!!」

 

 猫屋が着物屋で手を振っていた。

他に人もいるので大声で呼ぶのは勘弁してほしいんだが。

 

「二人が待ってるね。さ、行こう」

「ん、あぁ……」

 

 俺は後ろ髪を引かれながらも着物屋に向かっていった。

 

************************************************************

 

 シャトルバスで温泉街外れにあるバス駐車場についた俺たち。

ここからは徒歩だ。案内看板を見る限り、ここからなら3分程度でメインスポットに行けるだろう。

 

 カラン、コロン、と下駄の小気味よい足音を鳴らして歩く。雪駄もレンタル品にあったがこちらの方が歩いて面白い。絹生地の浴衣の肌さわりも心地よい。湯源がそこかしらにあるせいか冬にしては暖かく、寒くはなかった。温泉街で浴衣、これで俺も粋な日本男児の仲間入りだ。

 

 だがまぁ、俺の浴衣姿など目の前を歩く美女3人に比べれば霞んで見える。

 

 零れ桜、猫の肉球、桃の花。自身の名前に(あやか)った紋様が刺繍された浴衣を着飾る彼女たち。その着こなしは暴力的なまでの色気と美しさを兼ね備えていた。普段の性格は子供らしい彼女らだが、その御身はすでに成熟した華。三者三様が別種の色香を醸し出す。

 

 安瀬は長い茶髪を一つにまとめ上げて(かんざし)で留めている。

時代錯誤の口調で話す彼女らしい装いだ。気立ての良い品性を強く感じさせられる。

 

 猫屋の浴衣は明るい黄色をしている。金髪と彼女の明るい雰囲気とよく似合う。

嫣然(えんぜん)という言葉は彼女の為にある。帯を締めた腰の細さは抱きしめれば折れてしまいそうだ。

 

 西代はまるで良家のお嬢様。巾着を持ち、肩をすくめて歩く姿が何とも儚げだ。黒髪の小さな大和撫子。クールなその表情が月下美人を思わせて、庇護欲を刺激するだろう。

 

 平日だが、有名観光地のためか人は多い。(みやび)ではんなりとした彼女達の姿は、嫌でも他の男性客の目を引いている。

 

 俺は彼女たちにはバレない様にそっと距離を離して歩く。別に大した理由はない。

ただ俺ごときが彼氏と勘違いされて、そういう目でコイツらを見られるのが嫌なだけだ。それに露骨に凝視してくる奴の視線を遮って歩くこともできる。

 

 そんな事を考えていると、すぐに目的地についた。

 

「「「「おぉ~~~……!!」」」」

 

 草津温泉の名所、"湯畑"。源泉の熱い湯を冷ますために、設置された無数の木製水路群。清んだ温水が湯気をあげながら流れていく姿は日本人なら誰もが感銘を覚えるだろう。夜になればライトアップされてより幻想的な景色になるらしい。

 

「すごく綺麗だね」

「だねー、久しぶりに見たー」

「そうか、猫屋は来たことがあるのか……おい見ろ、あそこに足湯があるぞ」

「おぉ! 足湯に浸かりながら、ポン酒で一杯といきたいでござるな……!」

 

 俺たちは記念写真を取る事さえ忘れて観光に夢中になった。

観光地らしく出店も数多く出ており、どれしも俺の目には真新しく映った。

早速、猫屋に船頭を取ってもらい案内をしてもらう。

 

************************************************************

 

 ある時は、売店をめぐり。

 

「本場の温泉卵であるな……」

「観光地だから少し高いね」

「なんか、一瞬で食べるのが勿体ないな」

 

 ある時は、甘味を求めて。

 

「ここがー、私のおすすめの甘酒屋さーん!」

「こういう特別な所で飲む甘酒って無性に旨いよな」

「あー、神社とかねー」

「我はあの為だけに、初詣に向かっておるよ」

「食い意地張りすぎでしょ……」

 

 ある時は、蕎麦屋に入り。

 

「祝日だとー、馬鹿みたいに混むんだよねーここ」

「それだけあって旨いな。だけど、なんか()()()()()()()()()()()()()……?」

「き、気のせいでござろう?」

「も、もしかして、ちょっと温泉水が入ってたりするのかな?」

「あぁなるほど、温泉水って体にいいらしいよな」

 

ある時は、トイレへ。

 

「トイレかと思って入ったら、凄く小さな銭湯だったよ」

「あー、それ私も小さい頃やった事あるー」

「え、!? あれ風呂だったのかえ……?」

「恐ろしいな、草津温泉」

 

 そうして俺たちは旅行を夜まで満喫した。

 

 最後には、ライトアップした湯畑を背景に記念写真も撮った。

酒飲みの記憶とは常に不安定な物。酩酊状態では物忘れが激しくなる。

でもこうして形に残れば一生忘れない宝物になるだろう。

 

************************************************************

 

 チョロチョロと湯口から熱い湯が絶えず流れる。

 

 ここはホテルの室外露天風呂。竹の柵で覆われて機密性が高く、上を見上げれば満天の星空。岩でできた浴槽と休憩用の木製の浴室椅子。どれも景観を損なわない、趣のある品々。まさに、至高の湯。

 

 そこにうら若き3名の女子が酒を持ち込んで、湯浴みを楽しんでいた。

 

「あぁぁ……、溶けそうでおじゃる」

「僕もー……」

「私もー……」

 

 緩み切っただらしのない顔で旅の疲れを癒す華たち。

個室の露天風呂は意外に広く、三人が足を延ばし寛ぐ(くつろ)ことが可能だった。

徳利を置いた桶を湯に浮かべ、酒と月を楽しむ時間。

 

 陣内梅治は当然ここにはいない。彼はこの乙女の花園が見えない様にカーテンで遮られた部屋で酒と煙草を楽しんでいる。

 

「さて……」

 

 そうした極楽の雰囲気を振り切って話題を振ろうとしたのはやはり安瀬であった。

 

「旅行を満喫したのは良いとして、進行中の作戦はどうでありんす?」

「僕、かなりの量の精力剤を飲ませたよ」

「アハハハー! 飲む酒全部に入れてたもんねー!」

 

 西代だけが持っていた巾着の中には、粉末状の精力剤が入っていた。

彼女はそれを陣内の見ていない隙に酒へとコッソリ盛っていたのだった。

 

「あれだけ入れればさすがに効くでしょー」

「どうかな? 彼、いつもよりテンションは高かったけど、旅行の熱に当てられただけに見えたよ」

「人目がある所で(さか)るヤツでもなかろう。それに、この後はとっておきの精力剤を入れ込んだハブ酒もあるしの」

 

 安瀬は自信満々に笑って見せるのであった。

 

************************************************************

 

 空の瓶の中からこちらを見つめてくる、生気を感じないハブの眼差し。

()()()()()()()ことによって潤いを奪われたことを怒っているかのようだった。

 

「美味かったなハブ酒。薬膳の香りを詰め込んだみたいで良い風味だった」

 

「あ、あぁ、そうであるな」

「お、美味しかったよねー」

「う、うん」

 

 男の問いに、彼女たちはどこか上の空で答える。陣内を除いた3人の顔は赤い。

湯から上がったばかりというわけではない。後から入った陣内がすでに風呂から出ている。

 

「どうしたお前ら? なんか顔が赤いぞ……? まさかこの程度で酔ったとか言わないよな?」

 

 それに加えて息も熱っぽい。その荒い呼吸によって、着替えた就寝用の浴衣がすこし乱れてる。胸や太腿がだらしなく、はだけていた。

 

「ちょっと、のぼせただけで候……」

「私も少しだけー……」

「僕は旅行疲れがでたかな……」

 

「へー、いつも元気いっぱいのお前らが珍しいな」

 

「「「ま、まぁねーーー」」」

 

 三人はどこか焦った様な顔をして陣内に返事を返した。

悪だくみを企て、悪戯を仕掛けていた彼女たちが焦るこの状況。

理由は全員で飲んだハブ酒にあった。

 

(胸の奥が熱いでありんす……)

(な、なんか、下の方が疼いてるー……)

(頭がボーとして、喉が渇く……)

 

 悪女たちはとんでもなく発情していた。

 

 温泉で巡りのよくなった血流に乗って、強い催淫作用を持つ酒精が体を犯していた。この手の作用は男女共用に効き目があることを彼女たちは知らなかった。『女には効かない』という勝手な推測でハブ酒をグビグビと飲んでしまっていたのだ。

 

 また、精力剤の効果は思い込み、つまりプラシーボ効果によって強く表れる。陣内は元からの体質と精力剤を盛られている事を知らないため特に発情は見られない。

しかし、彼女たちは酒に混ぜられた多量の粉末や薬液を知っている。自身の発情に少しでも気づいた瞬間には、その熱は体中に広がっていった。

 

 猫屋は陣内には聞こえない様に、小さな声で仲間に話しかける。

 

「や、やばくないこれー? じ、陣内から目が離せないんだけどー……」

 

 そばにいる自身の性的欲求を唯一解消できるであろう男。

異性が放つフェロモンに惹かれているのか、いつもよりその存在を強く感じているようだった。

 

「ね、猫屋もかい? 僕も陣内君がいつもの十倍かっこよく見える」

「わ、我もじゃ。あのアル中に目を奪われるとは……」

 

 彼の一挙一動(いっきょいちどう)に釘付けになっている女性陣。

だが、決して近づこうとはしない。陣内から距離を置き、部屋の隅に集まり固まる。

そんな、目だけをこちらに向けボソボソと話し合いをしている彼女らを、陣内は当然だが不審に思った。

 

「おい、お前ら……何してるんだ?」

 

「ちょ、ちょっと女子だけで秘密の作戦会議中じゃ!」

「陣内君は今、話しかけないでくれ!!」

「すごくいい声してるからーーー!! あ゛ー、頭に響くぅー……!」

「え、うん、ありがとう……?」

 

 唐突に声音を褒められて困惑する陣内。だが、彼女たちが何をしているかは詳しくは聞かなかった。『女子だけで』と言われると、男性としては話に入りづらい。

 

「仕方ないな」

 

 そう言い、彼はお気に入りの甘い煙草を取り出す。

足を立てて男らしく座り、慣れた手付きで優しく火をつけた。

風呂から上がったばかりの濡れた黒い短髪が静かに揺れる。

男らしい厚さを見せる胸板が浴衣からチラリと見えた。

 

「ふぅー…………」

 

 目を細めて、気怠そうに煙を吐く。美丈夫(びじょうふ)伊達男(だておとこ)

 

「ぐはっ゛゛゛!!」

 

 突如、安瀬が大量の鼻血を出し憤死した。

真っ赤な顔をしてパタリと倒れ込む。享年21歳。

 

「ちょ、ちょっと陣内君!! なんてもの見せるのさ……!!」

「は? え、なに?」

「わ、わ、私もマジでやばかったー!! 安瀬ちゃんは浴衣姿が性癖にクリーンヒットしちゃったかー……!」

 

 煙草を吸っただけで大騒ぎする女性陣。そのうち一名は気絶。

陣内はそのテンションの差についていけず、ただ安瀬の心配をしていた。

 

「おい、安瀬は大丈夫か……? 鼻血がでてるぞ?」

 

 スッと立ち上がって安瀬の容態を確認するために近づこうとする陣内。

それに西代が慌ててストップをかける。

 

「だ、大丈夫だからストップっ!! それ以上近づいちゃだめ……!!」

「私達で何とかするからー!!」

「お、おう。そうか……」

 

 そう言われた彼はすごすごと再び座り込む。そして煙草と日本酒を楽しみながら、一人で考察する。

 

(まぁ、二日酔いなのに飲んでたしなアイツ。疲れてんだな……)

 

 見当違いな事を考える、色欲をまき散らす人造怪人。

あの安瀬を一発でノックアウトする魅力爆弾。

それを生み出した悲しき女たちは、その破壊力に震えていた。

 

「"作戦会議"とやらが終わったのならこっち来いよ。安瀬は寝ちまったようだけど、3人でトランプでもやろうぜ」

 

「あ、うん」

「今行くー……」

 

 断って変に怪しまれる訳にもいかなかったため、二人は意を決して立ち上がった。

夜光に惹かれる蝶のような頼りない足取りで赴き、陣内と一緒の机に座った。

 

「おし、じゃあ3人で……神経衰弱か? 酒飲んでたら面白いし」

「い、いいんじゃなーい?」

「文句はないよ」

 

 正直、猫屋と西代はゲームの内容などどうでもよかった。

いまは一刻も早くこの猛りを沈める必要があった。

 

 シュっシュっとテンポよく、陣内はトランプの束を混ぜる。

身体を廻る媚毒の性であろうか、猫屋はそれを見て思わずポツリと呟いた。

 

「手、おっきー……」

「そうか……? 猫屋、手を真っ直ぐだして見せてくれよ」

「?」

 

 そう言われて、彼女は特に考えもなく手を陣内に見せる。

出された手に、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ひゅぃっ……!?」

「おぉ、こうしてみるとデカいな俺の手。特に球技はやってこなかったんだがな」

 

 猫屋の脳に蘇る、暗闇の中で繋いだ手と抱擁。そして、追体験のように迫りくる手の感触。その2つは猫屋李花の脳をパンクさせるには十分すぎるほどの情報量であった。

 

「ぐはっ゛゛゛!!」

 

 突如、猫屋が大量の鼻血を出し憤死した。

真っ赤な顔をしてパタリと倒れ込む。享年21歳。

 

「ちょ、ちょっと陣内君!! なんて事してるのさ……!!」

「え……? え……?」

 

 相変わらず事態が飲み込めずに困惑する陣内。

 

「お、俺が何したっていうんだよ……!」

「大声で叫ぶなよっ! 胸に響いてキュンキュンするだろう……!!」

「う、お、……ごめん?」

 

 西代の強い圧力に陣内は押し流される。

 

 西代はその発言通りに小さい心臓をバクバクと打ち鳴らしていた。

 

「と、とりあえずこいつら寝かすか。西代、布団引いてくれ」

「ハァハァ……分かった」

 

 そう言うと、陣内は倒れた猫屋の背中と足に手を入れ込む。

そして、全身に力を入れてグイッと彼女を持ち上げた。

お姫様抱っこだ。

 

 それを西代は布団を敷きながら、熱っぽい視線でポぅっと見つめていた。

 

(羨ましい………………っは!? ち、違うぞ!! 思ってない。僕はそんなこと思ってない……!!)

 

「思ってないから!!」

「ぅおっ!? ……い、いや、何なんだよマジで」

 

 陣内が驚いて危うく猫屋を落としそうになる。

不安定な西代に疑問を抱きつつ、布団の上に優しく猫屋を下ろした。

その後で陣内は気絶した安瀬も、同じように布団まで連れていく。

 

「これで上から何か掛けておけば、こいつらも風邪ひかないだろ」

「うん、陣内君は本当に優しいね…………優しくない! ふ、普通だよ!!」

「お前どうしたんだよマジで。ふつうに優しくないか?」

 

 話している内容が滅茶苦茶で顔の赤い西代。

陣内はそれを見てふと、居酒屋で熱を出したまま酒を飲んだ阿呆を思い出した。

彼女もテンションが高く口調が乱れた。荒く熱っぽい呼吸も相まり、陣内は西代の姿が記憶の中の安瀬とダブって見えていた。

 

「おい、西代。嫌だったら言えよ」

「へ……?」

 

そういうや否や、陣内は西代の額に手を当てた。

 

「ぴゅ……!!」

「…………熱はないみたいだな。なんだ、本当に酔っぱらってるだけか?」

 

 体温を計る事に集中している陣内は彼女の異変に気づかなかった。

西代はあまりの衝撃で体がビクビクと痙攣し、まともに呼吸ができていない。

限界はすぐに訪れる。

 

「ぐはっ゛゛゛!!」

 

 突如、西代が大量の鼻血を出し憤死した。

真っ赤な顔をしてパタリと倒れ込む。享年20歳。

 

「…………なんだこれ」

 

 卑劣な酒飲みモンスターズの罠を掻い潜り、偶然にも討伐に成功した勇者陣内。

しかし、その屍の上に立つ彼の顔は虚無であった。

 

************************************************************

 

 俺は一人で露天風呂の浴室椅子に座っていた。風呂には入っていない。

持ってきていた日本酒と適当なつまみを持ち込んで晩酌を楽しんでいるのだ。

 

 日本酒の銘柄は亀齢(きれい)。広島にある西条の酒蔵が出している名酒だ。

切れ味の良い辛口の味。後を引かない透明感のある日本酒の原始的な味わいが何とも言えない。日本酒の辛口が飲みにくい人は結構いるだろうが、これならいけるという人は多いのではないだろうか。

 

 以前、安瀬にお勧めされ飲んだ時に気に入って愛飲するようになった。

彼女の出身地である広島はいい所なのだろう。こんなに美味い酒を造る酒蔵があるのだから。

 

 ボーっと酒と煙草で時間を潰す。真夜中なのに立ち昇る複数の湯気を見ていれば不思議と退屈はしなかった。

 

 どのくらいの時間がたったのだろうか。一度時間を確認するため部屋に戻ろうとした時にガラッと露天風呂の扉が開かれた。そこにいたのは寝ていたはずの猫屋だ。

 

 猫屋はすぐに俺に気づいて、近寄ってきた。

 

「なんだ、起きたのか」

「うん、布団ありがとねー」

「いいよ別に。しかし、体調はどうなんだ? なんか、倒れるように寝ちゃってたが」

「あ、あははー、昨日のお酒が残ってたかなー。お陰様で今は体が軽いよー…………まだ、少し残ってる感じするけどー」

「……? そうか」

 

 最後の方は早口で聞き取れなかったが、元気なら別にいい。

俺は彼女のために、もう一つの椅子をそばへと引き寄せた。

 

「酒はともかく、煙草でもどうだ? 俺のでよければ手元にあるぞ」

「あーいいね、貰おっかなー」

 

 そう言って、隣に座る彼女。俺は煙草とライターを差し出した。

 

「せんきゅ」

 

 早速、火をつけて煙草を(くゆ)らせる。夜景に湯、煙草に女。やはり彼女には煙草がよく似合う。月光を浴びて紫煙を吐く猫屋の姿はとても艶やかであった。

 

「似合うな、煙草」

 

 俺は本心でそういった。まぁ酒飲みモンスターズの中で煙草を吸う姿が似合っていないやつなどいないのだが。全員が下手な男よりも手慣れた手付きで喫煙している。

 

「またそれー? ……本当に褒めてんのー?」

「あぁ、見惚れるね」

 

 俺は意地の悪い笑みを浮かべて猫屋に返事する。人の誉め言葉を疑った彼女にはこれぐらいふざけたセリフが妥当だ。

 

「……まぁー、そういうなら、いいかー」

 

 どうやら早々に俺の真意を探ることを諦めたようだ。

猫屋はその健康的で長い脚を抱きしめるようにして座りなおした。浴衣の着付けは就寝用の為、緩い。まるでスリットの入った服のように、彫りの深い肌の露出があらわれた。

 

 俺はスッと視線をそらした。今は酒が入っているし別に興味はない。

 

「あのさー、一つ聞いておきたい事があるんだけどー」

 

 ()()()()()、猫屋は改まった口調で問いかけてくる。

 

「私ってー、もしかして可愛くない?」

「ぶっ゛゛」

 

 あまりの突拍子な内容に思わず、飲んでいた酒を噴き出す。

何と勿体ない。俺は滴る水滴を袖で払い、彼女の顔を見る。

 

「どうした突然」

「い、いやー、なんていうかー」

 

 猫屋が恥ずかしそうに話すのを渋っていた。

 

「陣内の反応が無さすぎるーていうかー?」

「俺……?」

「年頃の男ならさー、もっと、こう、それ相応の態度みたいなのー……がね?」

 

 いまいち要領を得ない曖昧で煮え切らない質問。しかし、俺には猫屋の言いたい事が何となく理解できた。

 

 彼女ほどの美人だと、幼い頃から人から好意を寄せられることが多かっただろう。

しかし、一向にそんなそぶりを見せずに平然な顔をしている俺。

猫屋の疑問も理解できないほどではない。

 

「お前は可愛いよ? 容姿だけはな」

 

 流石に直線的に褒めるのは恥ずかしいので、余計なものを後ろにつけて答える。

 

「中身はどーなの?」

「下品で思慮に欠け騒々しい」

「ひっど」

 

 俺の遠慮のない罵倒がおかしいのか、猫屋がケラケラと笑う。

笑ってるならいいが少し酷く言い過ぎた。一応、フォローしておこう。

 

「まぁ、俺の場合は酒をキメてると性欲が湧いてこないんだよ。目の前に全裸の女がいても酒を優先するレベルで」

「それなにー? アル中、それかED……?」

「違う」

 

 俺は猫屋の失礼な疑惑を強く否定する。

酒さえ抜けばちゃんと、たつ。

 

「じゃーあ、体質? それにしたって、性欲が全部無くなるって変じゃなーい?」

「…………」

 

 俺はこうなった原因を話すか一瞬だけ迷った。ザァーっと、()()()()()があふれ出す。どうしようもなく気分が悪くなる。しかし、いつまでも引きずっていても仕方ない事だ。所詮は過去。話すことで気持ちが軽くなることもあるだろう。

 

 俺はなるべく感情を出さない様に口を開いた。

 

「昔、()()()()()()()()()()()()してな」

「あ、……」

 

 自分で思ったよりも低い声が出てしまった。

だが、止まる事なく続きを話す。

 

「浮気されて、喧嘩して、別れて、その時からこんなだ」

 

 俺は簡潔に短く、原因を述べる。

あまり長々しく自分の不幸話をする気にはなれなかった。

 

「え、っと、その」

「いいよ別に謝らなくて。酒がまずくなるしな」

「あ、うん……」

 

 しまった。猫屋が気まずくなって黙ってしまった。

本当に彼女が気にすることではない。これは俺の問題だし、もう終わった話なんだ。

それに……

 

「でも、今はちょっとだけこの体質に感謝してる」

「え?」

「安瀬は大馬鹿やって迷惑かけて、お前は無駄にからかってきて、西代はギャンブルで暴走する……この半年、騒々しかったけど本当に楽しかった。酒飲んでタバコ吸ってパチンコ行って遊びまくって、勉強なんて一切してない」

 

 楽しかった。この半年間は別れた恋人の事など振り返ることがないほど楽しかった。今回の旅行だってきっと一生の思い出になる。

 

「こんな生活ができたのも、この体質になったおかげかもなって」

 

 そう思えば、あの辛い出来事にも意味はあったように感じることができる。

 

「…………」

 

 猫屋は何も言わずに俺の話を黙って聞いてくれた。

たまにこいつらが同性ならよかった、なんて本気で思う時がある。

綺麗で明るい彼女たちは、男の俺には少し眩しい。

 

「あ、長い事話して悪かったな」

「いーや、話してくれてありがと……」

 

 そう言うと、猫屋はまだ長い煙草を灰皿に押し付けた。

 

「ね、お酒ちょーだい」

「え? 今日はもうやめといた方が────」

「いーからさ、飲みたいの」

 

 猫屋は俺の杯を奪い取るとそれを一気に煽った。

 

「ん! 美味しーね、陣内……!!」

 

 朗らかに笑う猫屋。それは恐らく彼女の気遣いだったのだろう。今まで見た彼女の笑顔の中で一番の優しさと慈愛が伺える。美人はずるい。笑うだけで男のうじうじとした悩みなど吹き飛ばしてくれるのだから。

 

「そうだな、酒が美味いのがこの世で一番だ」

「お、アル中は言う事が違うねー」

「うっさい…………もう少しだけ飲んでから寝るか」

「さんせー!」

 

 さっきの話はもう蒸し返さない。

彼女も他人においそれと話はしないだろう。重くて暗い話など誰も望んでいない。

大人だって嫌な事には立ち向かずに蓋をしてしまうだろう。

ましてや俺たちはまだ子供のつもりだ。

 

 俺たちは暗い雰囲気を微塵も感じなくなるまで酒を飲み、くだらない話を続けた。

薄暗い感情など清酒と熱い湯で全て溶かして帰ってしまおう。

 



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文化祭に這いよる最低のゴミ

 

傾聴(けいちょう)~~~~っ!!」

 

 安瀬が大声で俺たちの気を引く。

ここは大学内の生徒が使用可能なミーティングスペース。旅行帰り翌日の金曜日、俺たち3人は安瀬に呼び出されていた。無数の机と椅子、大きなホワイトボード。そこに()()()()()が達筆な字で書かれていた。

 

 『天才! 現代の錬金術師、安瀬 桜の金策術!!』というものだった。

 

「では、発表を始めさせてもらうでありんす!」

 

 彼女は珍しくスーツなんかを着ており、そこに伊達の黒ぶち眼鏡をかけていた。

恰好から入るタイプであることは分かった。分からないのは今から俺達が何を発表されるかだ。

 

「おい安瀬、いきなり呼びつけておいてどういう事だ」

「はいそこっ! 質問をする際は挙手をお願いするでやんす」

「……はぁ」

 

 俺は大きくため息をついた。完全に安瀬のペースだった。

俺は彼女の言う通り手を挙げて質問してやった。

 

「まずここに呼び出した意図を教えろ。金策ってなんだよ? 俺、この後バイトがあるんだよ」

「私もー…………あんまり時間がないんだけどー」

 

 どうやら唐突な呼び出しに不満を持っていたのは俺だけではないらしい。猫屋も今日はバイトのようだ。西代はバイトが休みなようで、特に不満はなさそうだ。優雅に家から持ってきたであろうホットワインを楽しんでいる。

 

「なに、そんなに時間はとらせん」

 

 そう言うと、安瀬はホワイトボードにキュキュっと何か書き始めた。

 

「文化祭?」

 

 俺はデカデカと書かれた文字をそのまま読み上げた。

 

「埼玉インフォメーション技術大学祭、通称"メイ祭"じゃな。それが来週に開かれるで候」

「あぁ、あったねそんなの。興味なくて休みとしか認識してなかったよ」

 

 俺も西代と同様の認識だった。大学祭は前祭と後祭の二日間。もちろんその間に講義は行われない。なので、その二日はバイトか遊びに費やそうと思っていた。

 

「文化祭と金策ってー、私たち関係なくなーい? 私達じゃ売店は開けないしー」

 

 猫屋の発言の通りだ。売店を開くことを許可されているのは、活動費を稼ぎたいサークルや部活動のみ。俺達はどの集団にも所属していないはぐれ者。文化祭などに行けば金に餓えた他の学生に、美味しくもない冷凍の揚げ物を高値で売りつけられるだけだ。

 

「うむ、だが我らが参加できるものもある」

「それは学祭実行委員会の企画イベントの事かい?」

「あれってー、面白くないって評判だよねー」

「俺も佐藤先生にそう聞いたぞ」

 

 文化祭では毎年大きなステージが設置されて、そこでイベントを開催しているらしい。ダンス部の集団パフォーマンスや空手部の演武、また一般生徒が参加できるミスコンやカラオケのど自慢といったものがあるらしい。後者はたしかに俺達でも参加できるが……

 

「ミスコンにでも出るのか? お前らなら優勝狙えるかもしれんが、あれって優勝商品がクソしょぼかっただろ?」

 

 優勝すれば花と豪華なドレスを着て写真を撮り、大学のHPに載せられるだけ。

金一封などは貰えない。強いて言うのなら、自己顕示欲が満たされるくらいだ。

 

「のど自慢大会も実行委員の内輪ノリが激しいってきいたー」

「他のイベントもどれもパッとしないらしいね……あぁでも、最後のビンゴ大会の景品は凄いって聞いたよ」

 

 西代の目が少し濁る。ビンゴ大会と聞いてギャンブラーの性が疼いたのだろう。

 

「それでおじゃるよ、西代。そこに()()()()()()()()でありんす」

「ほぅ、詳しく聞かせてもらおうじゃないか」

 

 西代の表情が真剣なものへと変わる。魔の西代さんモードに切り替わってしまったようだ。こいつは確率と金が絡むなら何でもいいのか……

まぁ、これはあの安瀬の発案だ。俺も少しは真面目に聞くとしよう。

 

「ビンゴ大会は後祭の大締め。当然、上位の景品は豪華絢爛(ごうかけんらん)ぜよ」

 

 そう言いながら、安瀬は去年のビンゴ大会の景品らしき物をホワイトボードに書き始めた。そのラインナップは確かに凄まじかった。大型家電、クロスバイク、最新ゲーム機といった普通に買えば諭吉さんが何枚も飛んでいくようなものばかり。

 

「こういった商品をビンゴした者が先着順で、好きに選んでいく方式になっている」

「いやー、思ったより凄いねー。私、ドラム式洗濯機とかほしーい」

「それは俺も欲しいな。ビンゴだけ参加しに文化祭に顔を出すのもアリだな」

 

 もし自分が欲しかった商品が無くなっていても、他の高そうなものを貰って売ればかなりの儲けになるだろう。安瀬の書いていた錬金術とはこれの事か。奴はリサイクルショップの店員でもある。うまく売りさばく自信があるのだろう。

 

「そうは問屋が卸さない、のじゃ」

 

 しかし、安瀬は俺の短絡的な考えを否定する。

 

「ビンゴカードは前祭の昼間に参加客に配られるのである」

「あぁ、なるほど。ちゃんと文化祭に参加している人間のみに配るのか」

 

 学祭実行委員会も馬鹿ではないらしい。俺の様な不埒な考えの者を弾くため、ビンゴの行われる前日にビンゴカードを配るのだろう。

 

「景品が豪華なのもその為かもね。ビンゴに参加するには2日間ちゃんと文化祭に来なければならない」

「あー、それかしこーい」

 

 2日間も来訪すれば、売店で落とす金も自然と増える。部活動やサークルの事もちゃんと考えられている。

 

「おまけにカードには複製できないよう、一枚ずつ手書きで実行委員のサインが書いてあるようじゃ」

「え、凄い大変じゃないかそれ?」

「まぁ、一年に一回しか活動しないし暇なんじゃろ……」

 

 それもそうか。

 

「で、まぁ、毎年500枚くらいのカードが配られるらしいのじゃ」

「僕ら四人が参加したとしても、景品を得るのは難しい確率だね」

 

 4 / 500 = 1 / 125。そんな単純な計算にはならないだろうが、難しい可能性だ。

 

「そこで、このカードを牛耳(ぎゅうじ)ろうと思っての」

「え? どーやってー……?」

 

 安瀬の割ととんでもない発言に俺も驚く。

 

「まず入手方法1、カードは14時頃に各委員の手で適当にばらまかれるらしい」

「ふむ、僕達で変装して姿を誤魔化せば、何枚も受け取る事ができると」

「その通りじゃ西代。さすがこういう事には頭が回るのぅ」

 

 そうなると、四人で必死に手を回せば50枚くらいは集められるだろうか?

 

「入手方法2、毎年結構なカードがごみ箱に捨てられているらしい」

 

 これはそうだろう。受け取ったはいいが翌日来る気が無くなった人は捨てて帰るだろう。

 

「え、あー、ちょっとやりたくはないけど景品貰えるなら、まぁー……」

「あらかじめゴム手袋でも用意すれば気にならないかもね」

「佐藤先生の情報から分析するに、100枚くらいはいけると我は踏んでおる」

 

 景品の為にゴミ漁りか。まぁ無料で洗濯機やらゲーム機が貰えるならやってみてもいいかもしれない。

 

「そして、本命の入手方法3……交換(トレード)じゃっ!」

 

 安瀬が部屋の隅に置いてあった段ボール箱を俺たちの前に持ってくる。

 

「なんだ、それ?」

「ここに今年の実行委員の服を用意しておいた!!」

 

 段ボールから長袖のシャツと帽子を取り出した。

その二つは真っ青に染色されており、シャツの背面には"メイ祭!!"と大きくプリントされていた。何ともダサいが青い春を感じさせる。

 

「コレを着て学祭実行委員に偽装し、前祭の終わりに安い飲料水やお菓子などをビンゴカードと物々交換する!!」

「おぉ~、二日目来るか悩んでる人もいると思うしー、元々無料のカードで交換なら結構な人がカードを渡してくれるかもねー」

 

 猫屋の発言はもっともだ。メイ祭という催し物は、まだ1回生のため参加したことがない俺の耳にも"つまらない"という噂が聞こえている。二日目来るか迷う人もでるだろう。

 

「いやその前に、どうしてお前がそんな服持ってるんだよ?」

 

 そもそもの疑問。普通、実行委員の服など毎年新たに作るものだろう。俺たちには当然、実行委員の知り合いなどいない。出所が不明だ。

 

「あぁ、シャツの発注先など毎年同じ所であろうと思って調べてみてのぅ。そこに電話して『発注枚数を間違えた』と噓をついて4着ほど追加で作ってもらった」

「相変わらずとんでもない行動力だな……」

「褒めるな、褒めるな」

 

 カカカっと愉快そうに笑う彼女。俺は褒めたつもりはない。その行動力の源がどこからくるのか疑問に思っただけだ。

 

「委員に偽装はいいアイデアだと思うよ。一般生徒がやっていたら不審がられそうだし。だけどもし、バレたら少し面倒じゃないか?」

「なに、前祭終わりに大学の外でやる。実行委員の奴らは翌日の準備と車の誘導作業で手が一杯で気づかんであろうよ」

「たしかにそーかもー」

 

 意外にも緻密に練られた、ビンゴカード牛耳り作戦。

だがまだ穴は合った。

 

「ちょっと待てよ、それでカードが全体の半数近く集まったとして、そのチェックに時間がかかるようじゃダメじゃないか?」

「…………あ」

 

 やはり安瀬は気づいていなかったようだ。景品を選ぶ権利が先着順というのなら、250枚など膨大な数をチェックしている間に先にビンゴする人は現れるだろう。

というか人力でこなすにはきつい量に思えた。また、その枚数をチェックしている事がバレて怒られる可能性もある。

 

「いや、それも問題ないね」

 

 西代が俺の懸念をきっぱりと否定する。

 

「なに? どうして?」

「フフフ、僕らは情報学科生だよ? あらかじめカードに書かれている全ての番号を変数に格納しておいて、プログラミングコードでチェックするようにすればいい」

「……たしかに」

 

 俺は思わず口元を手で押さえて真剣に考えた。確かに、西代の言っている事は実現できる。まず集めたカード1つずつに番号を割り振る。そして抽選番号をチェックするプログラムを作り、ヒットしたカードの番号を俺たちは懐から出すだけでいい。

 

「ビンゴの当たりをチェックするありきたりなプログラムなんて、ネットに転がってるだろう。僕たちは前提情報の打ち込みだけすればいいはずだよ」

 

 250枚分の前提情報の打ち込みは凄い量だが、4人でやれば3時間程度で終わる。

ビンゴ大会自体は後祭の最終イベント、時間には余裕がある。

 

「UIはちゃんとしてるものがいいな。C#でいいのがないか探してみる。見つからなかったとしても僕が作っておくよ」

 

 なんとも頼もしい西代さんのお言葉。プログラムが無ければ自作すると発言するとは……

 

「に、西代ちゃんが輝いてるー。私より単位落としてるくせにー……」

「失敬な。僕はプログラムの授業だけなら最高評価を貰ってるよ」

「流石、西代ぜよ。ギャンブラーは数字に強くなければならんからの」

 

 コイツ、俺より頭いいのに何で単位落としてるんだろう。サボりすぎが原因か? 

なんにしても意外な西代の機転によって問題は完全に解消されたように思えた。

 

 だが、まぁ、しかしだ。

 

「いやまだ、1つ問題があるぞ。人間として、とても重要な問題だ」

「え、なんだいそれ……?」

 

 褒められてご満悦だった西代が不思議そうな顔で俺を見る。

 

「そもそも、こんな()()()()()みたいな事していいのかよ。一応、実行委員の奴らは全力で頑張っているわけだし」

 

 それは道徳的な問題。確かに成功すれば俺たちはかなりの収益を上げることができるだろう。だがそれは真面目な実行委員の奴らの気持ちを踏みにじる行為になってしまうように俺は感じた。

 

「なぁ、陣内よ……」

 

 いつになく真面目な事を言う俺に、何処か怒ったような表情で安瀬は問いかけた。

 

「お主は()()()()()()()()()()は毎年どこから出てくると思う?」

「……? えっと、普通に考えたら部費や寄付金とかか?」

 

 まさか実行委員の奴らが身銭を切ってまで用意する事はあるまい。

安瀬が書いた去年の景品の合計額は確実に30万を超えている。

 

「この学際に募金活動による集金は行われていない事は調べがついておる」

「なら単純に部費で全額(まかな)ってるってことか」

「そうじゃ。では、部費とは何から支給されているものでありんすか?」

「……まさか」

 

 そこまで言われて俺はハッとなった。

 

「気づいたようじゃの」

 

 部費をだしているのはもちろん大学に決まっている。そして、その大学にお金を払っているのは俺たちの親だ。つまり……

 

「つまり、今年でる豪華な景品群は元をたどれば、俺たちの親の金で買われていると……」

「その通りぜよ」

 

 俺の心に絶叫が響いた。授業に使われるのはもちろんわかる。部の活動費に費やされるのもまだわかる。部活動は俺たちの自由意志で参加していないだけなのだから。

しかし、学外の誰でも参加できるビンゴの景品に親の金が使われるだと……?

 

 俺の心には怒りにも似た感情が沸き上がっていた。

周りをよく見ると、猫屋と西代も同じように険しい顔つきになっている。

 

「やるにゃー」

「一番高額なのを4つほど僕たちに返してもらおう」

「よし、俺もやるぞ」

 

 二人の返事もあってか、俺の心の憂いはきれいさっぱりと消え去った。

 

「決まりじゃな!!」

 

 全員の意思の統一がなされたところで安瀬が場を締める。

 

「では各々方! 文化祭の日は我とともに戦に参るぞ!!」

「「「御意(ぎょい)に!!」」」

 

 俺たちはその場に(ひざまず)いて(かしず)いた。今から俺たちは来週の戦に向けて各々牙を研ぐ事になるだろう。準備する事は意外と多い。バイトの休みを取るのも少し面倒だ。だが、俺にとって初めての大学の文化祭はとても楽しい物になるだろう。

 

 そんな予感がした。

 

************************************************************

 

 決戦当日。戦場である大学校内は中々の賑わいを見せていた。

つまらないと噂していたのは内情を知る学生だけで、一般客の人気は意外とあるようだ。大学の講義が少なくなった3,4年生たちが参加していることもあるのだろうか。彼らの娯楽は今の時期は少なそうだし。

 

「ふん、一般民衆どもがいい気なもんぜよ」

「その通りだな」

 

 俺たちはその多すぎる人に辟易として、佐藤先生の研究室に逃げ込んでいた。

先生は忙しくしており今はいないが、使用許可は予め取ってある。

 

 佐藤研は本館と別にある教授専用の建物の2階にある。その窓から有象無象を見下す俺達。彼らは売店で購入したであろうお祭り価格の飲食物を持ち歩いて、親族や友人と楽しく笑っている。

 

「あいつらは敵さ。僕らの物であるはずの景品を狙う卑しい盗人どもめ……」

「そ、そう言われれば、なんか全員凶悪な顔に見えてきたー……」

 

 眼下に広がる無数の大群。あいつらのカードをもぎ取ることこそが今回の俺たちの目的だ。

 

「そろそろ委員がカードを配りだす頃だな。変装の準備は整ってるよな、安瀬?」

 

 今回の初めのミッションは、愚かにもカードをばらまく実行委員の奴らからカードを騙し取ることだ。彼らには自らが配っている物が金券という自覚がないらしい。

 

「ふふふ、もちろんぜよ。準備は抜かりないである」

 

 自信満々な安瀬。そうして家から持ってきたであろう段ボールを開けた。どうやらその中に変装グッズを入れてきたらしい。

 

 中には、鼻眼鏡、バーコードのカツラ、馬面の被り物、バニースーツ、スクール水着、(ふんどし)、新選組と書かれた羽織、踊り子の─────

 

「何、用意してんだよ馬鹿ッ! こんなんで外で歩けるか……!!」

「安瀬ちゃーん? ふざけてるのー? ねぇ、ふざけてるんだよねーッ!?」

「っは!? し、しまった……! いつもの癖で罰ゲーム用の変装グッズを用意してたでござる!!」

「お、終わった……」

 

 俺たちの戦は開戦を待たずして終了した。今日の為に用意した、飲料水やお菓子はどうすればいいというのだ。すでにそこそこのお金を払ってある。

 

「なーんちゃって、でござるよ!! 流石の我でもそこは間違えたりせんでありんす」

 

 そう言って、彼女は横に置いてあったもう1個の段ボールを開封する。

その中にはちゃんとした変装グッズが入っていた。

 

「マジでぶっ殺すよ、安瀬」

「あーぜーちゃーんー……!!」

「どうやら、死にたいらしいな」

 

「あ、あはは、悪ふざけが過ぎたでやんすよ。も、申し訳ない……」

 

 俺たちの怒気に怖気づいたのか、安瀬は素直に謝罪した。

今回は俺たちの大切なお金がかかっている。ふざけていい時ではない。

 

「はぁ……とっとと行こうぜ」

「やる前から少し気疲れしたー」

「僕もだよ」

 

「ご、ごめんって言ってるではないか~~!!」

 

 俺達は各自変装グッズを手に取り、半泣きの安瀬を置いて佐藤研を後にする。

 

************************************************************

 

 第1作戦は思った以上の戦果を挙げ、当初の期待以上の枚数が集まった。

 

 実行委員の奴らは本当に忙しそうにしており、ビンゴカードなどはさっさと配ってしまいたそうだった。そこに目ざとく気が付いた西()()()、ニセの実行委員の衣装を着て『半分配るのを手伝うよ』っと言葉巧みにビンゴカードを掠め取ったのだ。

 

 学祭実行委員会の人数は50名を超える。それに今は外部の学祭サークルからも応援に来ている者もいる。なので、衣装さえ着ていれば疑われる心配はなかった。

 

 俺たちがなぜそんな事を知っているかというと、もちろん調べ上げたからだった。

安瀬が言うには『敵を知り己を知れば百戦危うからず、孫子の言葉じゃ!!』だそうだ。しかし、実際に役に立った。

 

 奮戦の結果、驚くことに()()()()()()()1()1()0()()も俺たちの元に集まっていた。まさに大富豪。俺は万引きに手を染めてしまったような、妙な興奮とスリルを味わっていた。

 

「ふふ、いいのかよ、こんなに集めて。もうこれ絶対勝ったろ」

 

 俺はニタついた気持ち悪い笑みを浮かべて戦利品を見る。

だが、興奮しているのは俺だけではないようだ。

 

「グヘヘー、ゲーム機、洗濯機、冷蔵庫……(いく)らになるんだろー……!」

「ハァハァ……やはり僕は博打の天才! 発想と肝の据わり方が常人とは違う」

「ウヒヒ、西代のファインプレーであったな。しかし、勝って兜の緒を締めよ。まだまだ荒稼ぎするぜよ!」

 

 大金に目の眩むとはこのことであろう。

だが、俺たちのやる気はかつてないほどに高まっていた。

 

「今からもうゴミ箱も漁りに行くか?」

「いや、まだ配られたばかりでそんなに時間が経ってないよ。客が少し帰り初めてから見回りに行こう。すでに学内のゴミ箱の位置は全部リサーチ済みだ」

 

 西代が焦った俺に冷静な意見を投げかける。こういった事では頼りになりすぎる奴だ。さすがは西代さんモード。今は俺も見習おう。

俺が感服していると、安瀬が口を開いた。

 

「なら、少し休憩するでやんす」

「あ、僕さっきタピオカ売ってるところみた。ちょっと美味しそうだったよ」

「俺も甘いものが飲みたいかも」

「私、()()()()()()()()()()飲みたーい」

 

「「「なんだそれは!?」」」

 

 猫屋の恐るべき発言に俺たちの浮かれた気分は吹き飛ばされた。

 

「お前、味音痴だとは思ってたがそこまでヤベーやつだったか」

「ドン引きでござるよ、猫屋」

「本当に同じ人間かい?」

 

「い、いやいやっ! 待って、マジで美味しーんだって!!」

 

 俺たちの侮蔑を受けて、猫屋は焦って否定の言葉を出す。

普通に意味が分からない。タピオカは飲んだことがあるが、あそこに日本酒をぶち込むという発想がまず理解できなかった。

 

 彼女は口早にタピオカの日本酒割りとやらの魅力について説明しだした。

 

「タピオカってー、要するにミルクティーじゃん? そこに日本酒を入れてみるとカルーアミルクみたいな味がするんだよー……!」

 

 一応、世の中には紅茶リキュールを牛乳で割ったティーミルクというカクテルは存在している。確かにミルクティーにアルコール成分を足せば似たような味にはなるとは思うが。

 

「タピオカをモチモチ噛んでたらー、なんか次の一杯が欲しくなってきてー」

 

 本当か……? 俺たちは半信半疑で猫屋の続く言葉に耳を傾ける。

 

「お酒が勝手に進んで行く、……みたいなー。意外に美味しいんだよー……?」

「「「………………」」」

 

 猫屋を除いた三人は思わず顔を見合わせた。

一応、まともな説明にも思えなくはない。日本酒と他の飲み物の親和性は実は高く、ヨーグルトやオレンジジュースで割っても美味しい。

だが、タピオカに日本酒……

 

「一端の酒飲みとして、試しておく、か……?」

「え、マジでござるか?」

「うん、まぁ、まずかったら、猫屋に残飯処理してもらおう」

 

 俺たちは日本酒の可能性に賭けてみることにした。

 

************************************************************

 

「……飲めるな」

「そこそこ美味いね。僕は気に入ったよ」

「う、うそであろう!? 拙者はなんか微妙なんじゃが……?」

 

 未知との邂逅(かいこう)、今の俺の心情を語るとそんなところだ。

確かに、安物のタピオカが口内の水分を吸い取って余計に酒が欲しくなる。

それに甘くて飲みやすくはある。人を選ぶようだが甘党の俺には悪くはない。

 

「でしょーー!! 誰が味音痴だってーの!」

 

 猫屋は俺達の評価が、意外にも好評なことに得意気だった。

 

「猫屋に物を教わる日が来るとはな」

「確かにね、でも何でこんな変な飲み方知ってたんだい?」

「私の婆ちゃんがやってたー」

 

 恐るべき猫屋一族。なんてファンキーなお婆ちゃんだ。というか、コイツの肝臓の強さは遺伝的なものか。なんか納得した。

 

「なんか変なもの飲んだら、煙草が吸いたくなってきたで候」

 

 安瀬が不満そうにニコチンを所望する。

 

「ハハハ、じゃあ喫煙所に─────」

 

 

(うめ)ちゃん?」

 

 

 

 

 

 

 俺の息が止まった。

 

 

 

 

 

 ザァァァアアア!! ザァァァアアア!!! と嫌な記憶が際限なく溢れ出してくる。

 

 俺を『梅ちゃん』と呼ぶ人物はこの世に唯一人しかいない。心臓が痛いほど跳ね打つ。不整脈だ。気持ちの悪い嫌な汗が額から溢れ出した。

 

 俺はゆっくりと声の方へと振り返る。

 

由香里(ゆかり)……?」

 

 そこには俺のかつての恋人がいた。

 

************************************************************

 

 視界がグルグルと回る。天地が逆さまになったかのように不安定だ。

酔ったわけではない。ただ吐き気をこらえるのに必死なだけだった。

 

「陣内?」

 

 安瀬が俺の顔をうかがって不思議そうに顔を傾けた。

俺はそれを見て少し平静を取り戻す。

 

 そうだ、今はこいつらがいる。情けない態度は────

 

「梅ちゃん……!」

 

 由香里が笑顔で俺に近づいて来る。

ギュッと心臓が握りつぶされたような気がした。

 

「久しぶりだね! えっと、()()()以来だよね?」

「え、あ、そう、だな……」

 

 俺は何故か当たり前のように返事をした。

あの時とは最後に公園で話した時だ。

 

「なんか大人になったよ、梅ちゃん!」

「う、ぁ、……ありがと、う」

 

 俺は何故かお礼を言った。

嬉しくはなかった。

 

「私ね! 今年から大学の学祭実行サークルに入ったの。だから今日はこの大学の応援に参加してるんだ!」

「そう、なんだ」

 

 由香里は俺の地元近くの大学に進学した。俺はコイツに会うのが嫌で、地元から離れたこの大学に入学したんだ。

 

「でも本当に偶然!! 梅ちゃんここに入学してたんだ!」

「……あ、あぁ」

 

 なんだ、この、馴れ馴れしさは……?

 

「良かった! ()()()()があったからさ、本当に心配してたんだよ!」

 

 その原因はお前にあったはずだ。

 

「私は今、梅ちゃんが幸せそうで嬉しいな!!」

「ぉ、……ぁ」

 

 なのに、なんで……なんで、笑って……

 

「文化祭! 楽しもうね!!」

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 その時、遠くで由香里のことを呼ぶ男の声が聞こえた。

 

「あ、ごめん()()()()()()()からいくね? じゃバイバイ、梅ちゃん!」

 

 

ザザeザぁぁァァアアdsaアアアアア、アアaアアアlajアアアアアア!!!!!!

 

 

 

 気づけば視界は灰色に埋め尽くされていた。

 

 

 

************************************************************

 

 

「……い、……な……、い、陣内っ! どうしたっ!! 陣内っ!!」

 

 俺は意識をぼんやりと取り戻した。立ちながら意識が飛んでいたようだ。

安瀬が俺の胸倉を握りしめて、何かを大声で呼んでいる。

 

 心臓があり得ない速度で脈を打っていた。それに釣られてか呼吸も激しく荒い。

まともに息をしようと意識する。しかし、その行動は空廻ってしまい余計苦しくなるだけ。どうやら、この苦しさは過呼吸のようだった。

 

「いま、西代が人を呼んできてくれてる!! 大丈夫じゃ! しっかりしろっ!!」

 

 目の前の安瀬が何かを話している。心配してくれてるようだった。

俺は彼女に心配をかけたくなくてニッコリと笑った。

 

「だい、じょ……ヒュっ…………大丈夫だか、ら」

「喋るなッ!! しっかり……しっかり息をしろ!!」

 

 ようやく彼女の声が聞こえてきた。……少し安心する。

『息をしろ』っと言っているようだった。

 

「ハァハァ……ゲホッ! ……っ…………すぅーー、はぁーーーー」

 

 過呼吸は安瀬の声のおかげで簡単に収まった。

別に大したことはない。昔、()()()()()()()

 

「はぁ……はぁ……」

 

 それでも一度乱れた呼吸は簡単に治らず、荒い呼吸を繰り返す。

ちょっと恥ずかしい。

 

「じ、陣内……ごめっ、私……なにもっ……!!」

 

 猫屋が俺を心配そうに見つめていた。その視線が今は堪らなく痛い。

ごめんの言葉は聞こえていないふりをした。

 

 俺は大きく息を吐き、吸い込む。

空手の息吹と呼ばれる呼吸法。過呼吸になった時、医者はコレを俺に勧めてきた。

効果は高い。まぁ、それができる精神状態にあればの話だが。

 

「はぁー…………、落ち着いた。すまんな、急に」

 

 俺は極めて冷静を保ちつつ、何でもない様に返事をした。

そして、言葉を続ける。

 

「まぁ、その……な。本当に迷惑かけてごめん。西代も連れ戻してくれ」

 

 俺が意識を失っていたのは10秒にも満たない間だろう。その間に彼女は状況を察して駆け出してくれたようだ。ハハハ、流石、西代さん……

 

(こうやって恩人を茶化す、自分が本当に嫌いだ)

 

 彼女には素直に心から感謝すべきだ。西代は俺の事を心から心配したから、この場にいないはずだ。こんな腑抜けだから、今も彼女らに心配をかけている。

 

「悪い……ちょっと、酔って気分悪いかも」

「ぁ、あぁ…………そ、そうでありんすな! ちょっと休むでござるよ!! 一緒に付き添うから……な?」

 

 俺を気遣うように、言葉を選ぶ彼女。情けない。いつも天真爛漫で明るい彼女にこんな気を遣わせる、俺自身が本当に情けない……たかが、振られた女に会っただけだぞ。

 

 俺は安瀬から少し視線を外した。彼女の優しさが今はつらかった。

 

「すまん、……ちょっと先に帰るわ」

 

 そう言って、安瀬の手を振りほどいて背を向ける。

 

「ぁ、……うん」

 

 彼女の消えそうに小さな返事を聞いてから、俺は逃げるように走り出した。

 

************************************************************

 

「はぁ……! はぁ……! はぁ……!!」

 

 俺は家に向かって全速力で走った。しかし、体力がすぐに底をつく。過呼吸を起こしていたのだから当然だ。大学外のいつもの帰り道の途中。俺は徒歩5分の我が家にすらたどり着けずに、足を止めた。

 

「はぁはぁ……くそっ」

 

 俺は自分に悪態をつきながら、ポケットに入れた煙草とライターを取り出す。

今は何でもいいから、思考を鈍らせるモノが欲しかった。

 

 煙草を咥えて、ライターのフリントを回す。

ジュッと音がするだけで、火は付かなかった。

 

「……ッ」

 

 ガスが切れていた。

 

「くそっ……!!」

 

 俺は思いっきり、使い物にならないライターを地面に叩きつけた。

物にあたらなければ、この苛立ちを抑えていられない。

 

「陣内っ!!」

「っ……!?」

 

 背後から猫屋の声が聞こえた。

俺は慌てて振り返る。今、一番見られたくない友人にこんな姿を見られた。物にあたる姿などなんとも惨めで情けない。

 

「えっと、あの……」

 

 猫屋はいつもの緩い口調が完全に消え去っていた。慌てて走り去った俺を心配して追ってきてくれたようだ。だが、俺の事情を3人の中で唯一知っている彼女と今は話したくなかった。

 

「あの……さ」

「……はぁ……はぁ、なんだ?」

 

 俺はだらしなく息を切らしながら猫屋の言葉を待った。息一つ切らしていない彼女の姿が何故か少し、俺の苛立ちを刺激した。

 

「あの人が……前に言ってた彼女さんだよね?」

「っ」

「ご、ごめん! 変な事聞いてっ!! ア、アハハー……」

 

 猫屋のカラ元気が誰もいない歩行者道路に響いた。

彼女のそんな顔など、本当に見たくない。

 

「あぁ、その通りだ。悪いな、心配かけて」

 

 俺は精一杯強がって笑顔を作ってみせた。うまく笑えたかは分からない。

 

「………………っ」

 

 どうやら失敗したようだ。猫屋は悲痛な面持ちで俺を見ていた。

本当に無能でどうしようもない男だな、俺は。

 

「あ、あの、ね? 辛い時はその……」

 

 そう言って、猫屋が俺のそばに近づいてくる。

俺は彼女が底を抜けて優しいのを知っている。きっと俺を元気づけようとしている。

 

 猫屋が俺の手を優しく握ってきた。

 

「誰かがそばにい────」

 

ザザァァァアアアアアア!!

 

 反射的に俺は彼女の手を払っていた。

 

「え、あ……」

「あ、……」

 

 最低な事をした。俺は本当に最低な事をした。

猫屋は俺を励まそうとしてくれていた。

()()()()()()()()()()……!!

 

「わ、わるっ」

 

 謝ってどうなるのだ? ほら、彼女は傷ついた顔をしている。

俺はゴミだ。最低の最悪のクソゴミだ。

 

(あ、明日になったら、謝る)

 

……は? なんだそれは?

 

「あ、明日になったら、平気だから」

 

 取り繕って、口に出してしまった。

だからそれはなんだ……!! 彼女に失礼だろうが!!

 

「ご、ごめんな…………あ、ありがとう、気遣ってくれて嬉しかったよ」

 

 目から涙がこぼれだす。

言い訳の様な言葉しか出せずに、俺は猫屋の前から走り去った。

 



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大切なものはなんだ

 

 俺と由香里の出会いは小学校からだ。小さい頃から仲が良くて一緒に遊んでいた。

よく笑う明るいやつで、一緒にいると楽しかった。

 

 中学に入ると思春期真っ盛りのませたクソガキだった俺は、彼女を好きになり意を決して告白した。心臓が破裂するのではないかと本気で思うほど緊張した。

由香里の返事は『嬉しい!』だった。あの日は俺も泣くほど嬉しかったのを覚えている。彼女を大切にしようと思った。

 

 高校に入っても俺たちの交際は続いていた。周りからは仲の良いカップルだと頻繁に茶化されたものだ。だが本当に幸せだった。夏には海に行って、冬には遊園地。デートは数えきれないほどした。高校3年間で山ほどの思い出を彼女と積み上げた。

この先も、二人はずっと一緒だと思っていた。

 

 だが、大学に進学する際に少し問題が起きた。俺の受験が失敗したのだ。

 

 由香里は俺よりもかなり成績が良く、親からは地元の国公立を受験する事を期待されていた。俺は彼女と同じ大学に入りたく、無理をして志望校を同じにしたのだ。しかし、俺の頭では難しかったようで、由香里は無事に合格したが、俺は落ちた。

 

 俺は浪人させて欲しいと親に頭を下げた。どうしても彼女と同じ大学でキャンパスライフを送りたかったからだ。両親は快く許してくれた。お金を出して予備校にも通わせてくれたので、感謝しかない。

 

 由香里は当然、先に大学に通いだした。『先輩になって待ってるよ!』っと明るく笑う彼女。そう言ってくれた彼女に感謝し、俺は勉強に専念した。

そのためデートの数は少し減ったがそれでも二人の仲は変わらなかった。

 

 そして、事件は2度目の受験の1週間前。由香里の部屋で起きた。

 

************************************************************

 

 俺は久しぶりに由香里に会いに行った。最近は受験勉強ばかりで彼女とはあまり遊べていなかった。まぁ受験目前なので当然だ。俺もその日は長居する気はなく、勉強の息抜きに彼女に一目会いたかったのだ。

 

 由香里の家に行くと、ちょうど玄関口で彼女の両親と出会った。どこかに出かけるところのようだった。俺は両親に挨拶をして、由香里はいますか? と尋ねた。

『今はいないがもうすぐ大学から帰ってくるはず、部屋に上がって待ってていいよ』とのことだった。俺は彼女の両親とは仲が良く、信頼されていた。俺はお言葉に甘えて、由香里の部屋にあがった。

 

 そこで、ある悪戯心が芽生えた。由香里は俺が部屋に来ているのを知らない。クローゼットに隠れて脅かしてやろう、と。俺と由香里は本当に仲が良かった。それくらいのイタズラなら許しくれるし、むしろ笑ってくれるだろうと思った。そんな事を考えて、俺はクローゼットに隠れて彼女の帰宅を待った。

 

 10分もしない内に彼女が帰ってくる。部屋の外から玄関の開く音が聞こえてきた。だが俺は不思議な事に気づいた。()()()()()()()。二人分の足音が俺には聞こえた。

 

 俺の疑問の答えはすぐに解決する。由香里が()()()()()と一緒に部屋に帰って来た。困惑する俺。大学での友人であろうか。だが、二人きりで部屋で遊ぶほど仲の良い男友達がいるなど俺は聞いていない。呆気に取られている俺を置いて、事態は進んで行く。

 

 彼女らは俺が隠れているのも知らずに、ベットに座り……

 

 馬鍬(まぐわ)い始めた。

 

 意味が分からなかった。クローゼットの隙間から見える、最愛の恋人に覆いかぶさる俺以外の男。脳がその光景を処理できない。まるでどこか遠い国の映像を見せられているようだった。

 

 俺はその場で放心状態に陥っていた。頭に強烈な電流が撃ち込まれたように、身動き一つ取れなかった。目に入ってくる、生々しい交わり。耳から聞こえる、よく知った由香里の声。それらが俺を拘束するように絡みついた。

 

 結局、俺はその情交を最初から最後まで黙って見ていた。

 

 そこから、どうやって家に帰ったかは記憶にない。恐らく、行為に疲れた二人の目を盗んで逃げてきたのだろう。家に帰宅し、ベットに横になって、俺はようやく先ほどの光景が理解できた。俺は中学生の頃から愛した恋人に裏切られた。

()()()()()()()()()()()()

 

 その事に気づいた俺は大声をあげて泣いた。苦しくて、辛くてどうにかなりそうだった。今さらになって、先ほどの光景が何度も頭の中でフラッシュバックした。

 

 自暴自棄になった俺はその光景を消してしまいたくて、冷蔵庫にあった父親の酒を全て飲んだ。俺の両親もその時いなかった。誰も俺の暴走を止める者はいない。

尋常じゃない量の酒を飲んで、血が出るまで何度も吐いた。

 

 6年間の綺麗な思い出。

それを全て、吐しゃ物に変えてぶちまけた。

 

 恐らく、この時の暴飲が原因で俺は今の体質になった。

 

 全てを吐き終え疲れ切った俺は受験を目前にしているにも関わらず、何もしないで泥のように眠った。

 

************************************************************

 

 まだこの話には続きがある。

 

 俺は翌日、由香里を近くの公園に呼び出した。

気分は悪かったし、ストレスか酒を飲んだせいか頭痛も酷かった。だがどうしても、彼女の口から昨日の事について詳しく聞きたかったからだ。

 

 別れ話になる事は覚悟していた。

 

 由香里は指定した時間通りに公園に現れた。まだ、俺に浮気がばれていないと思っているのか、何故このような場所に呼び出されたか不思議そうだった。

 

 俺は浮気の現場を目撃した事を、彼女に告げた。

怒りはあった。だがそれよりも『どうして?』という気持ちが強かった。彼女の胸の内が聞きたかった。

 

 結果、俺は支離滅裂な罵倒を受けた。

 

 気が狂ったように、がなりたてる彼女。

『部屋に勝手に入って最低』『黙って見るなんて気持ち悪い』『浮気の原因はお前だ』『私は寂しい思いをした』『お前が受験に落ちたのが悪い』『私は悪くない』

彼女の自分勝手な主張。

 

 俺は女性のヒステリーというのを生まれて初めて経験した。

 

 俺は本当に愚かだった。普段は優しい由香里からはかけ離れた怒り狂う姿。それに圧倒されて、()()()()()()()のだ。確かに、受験に失敗したのは俺の過失。寂しい思いをさせていたのも知っていたし、いつも申し訳ないと思っていた。

 

 だが、浮気の非があるのは由香里だ。俺は何一つ悪くないはずなのに。

 

 人格まで否定され、何故か俺が謝り、その場は解散になった。

彼女とはそのまま音信不通となり、恋人関係は幻のように消えてなくなった。

 

************************************************************

 

 1週間後の受験当日。俺は受験会場で試験を受けていた。カリカリと周りで受験生たちが必死に手を動かす。しかし、俺の手は全く動いていなかった。

 

 問題に向き合う俺は、自分が何のために頑張っていたのか分からなくなった。自分の為? 違う。夢見た恋人との楽しいキャンパスライフはもうあり得ない。ならここにいる意味はなんだ? 由香里と同じ大学の試験を受ける意味は? なぜあの時、俺は謝った? 本当に俺が悪いと思ったからか? 憎しみが籠った彼女の糾弾が怖かったからか? なら、ここで合格して何になる? また由香里と顔を合わすことになるぞ? 弱い俺にそんな事耐えられるのか? 由香里と会うのはいやだ。いやだ……いやだ…………

 

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!! 嫌だ!! 嫌だ!!!!

 

 ザザザザァァァァァァアアアアアアアアアアアアア!!!!

 

************************************************************

 

 気づいたときには、病院のベットの上だった。

過呼吸を起こして倒れたらしい。

 

 情けなかった、…………悔しい。

 

 俺はベットの上で、惨めにまた泣いた。

 

************************************************************

 

 佐藤甘利の研究室。そこで、安瀬と西代は黙って佇んでいた。外ではまだ文化祭を楽しんでいる人たちの笑い声が聞こえている。しかし、外の雰囲気と二人の表情はまるで真逆のものであった。

 

 ガラッと、ドアが開かれた。佐藤甘利が帰ってきたのではない。彼女はいま出張中。そこにいたのは猫屋だった。目の端が少し赤い。

 

「猫屋……その…………陣内君は?」

「…………」

 

 彼女は何も言わずに首を振った。

 

「そう、であるか」

 

 三人に重い沈黙が流れる。陣内の事を深く心配していた。

病的に青白くなった陣内の顔。どれだけ酒を飲んで二日酔いになろうと、あんな彼の顔を三人は見たことはなかった。

 

「猫屋…………お主、何か事情を知っておらんか?」

 

 安瀬が猫屋に問いかける。彼女は陣内が過呼吸に陥った際に、猫屋が『何もっ』と言っていたのを思い出していた。

 

 安瀬はその言葉に違和感を感じていた。陣内の異変は急に起こった。『どうしたの?』なら分かる。しかし、それはまるで()()()()()()()()()()()()()()事を後悔しているといった風に聞こえた。

 

「あ、……その……」

「何か知ってるなら、僕達にも話してくれないか? 頼むよ……」

 

 言い渋る猫屋。それを見た西代が彼女に(すが)るようお願いする。

 

「…………」

 

 猫屋は悩んでいた。プライベートな事だ。話してしまい、さらに陣内を傷つけることにならないかを恐れていた。ただ、迷いは一瞬のものであった。彼女達なら不甲斐ない自分なんかより、頼りになって信頼できる。猫屋はそう思い、ポツポツと事情を話し出す。

 

「私も詳しくは知らない。昔に彼女がいて、浮気されて、酷い振られ方をしたって」

「浮気に、()()()()()()……であるか」

「それが原因で、お酒飲むと性欲が湧かくなったらしい……」

「陣内君の体質はそういう……」

 

 群馬の旅行の際、あれだけの精力剤を盛ったのになぜか陣内は興奮状態にはならなかった。その理由が判明した。

 

 精神が変調するほどの衝撃があったのだ。そして、恋人に再開しだけで過呼吸を起こすほどのトラウマが彼の中には存在した。

 

「それが、あの由香里という女のせいでありんすか」

「たぶん、そうだと思う……」

 

 西代が窓から外を眺めだした。何かを探しているようだった。

 

「……いた、ステージ前だ。今日の応援作業は終わったのかな、随分と楽しそうに笑ってるよ」

 

 西代はその驚異的な視力で、群衆の中から由香里と呼ばれていた女を発見する。

 

「ハハハっ、……笑っている、でありんすか?」

 

 安瀬の乾いた笑い声が響く。ただし、その目は一切笑ってはいない。

 

「あぁ、彼氏と一緒に」

「…………ッ!!」

 

 バンッ!! っと力強く猫屋が机を叩く。

右肘の古傷など、彼女はまるで気にも留めていなかった。

 

 その顔は怒りに打ちひしがれていた。どんなことがあったのかは知らない。

ただ、浮気しておいてヘラヘラしながら陣内に近づいて、おまけに自分は新しい彼氏と仲良くデート……? 彼女の胸の内がどす黒く染まっていく。

 

「……ぶっ殺す。(おもて)を歩けなくしてやるッ!」

 

 その言葉には殺意が籠っていた。大切な友と自分の両方を汚く侮辱されたと猫屋は感じていた。

 

「恥知らずというのなら、どのような(はずかし)めを受けようと問題はあるまい。泣き叫んでも決して許さん」

 

 安瀬は青ざめた陣内の顔を思い出し決意を固める。安瀬にとって陣内は特別な存在であった。

 

「復讐は前に進むために必要な儀式だ。僕は例外なくそうしてきた、今回もだ」

 

 西代は自身の正当性を説いた。今はこの場にいない友の為、正義の剣を残虐に振るう事を心に決める。

 

 三女は何も言わずに懐から煙草を取り出し火をつけた。

研究室内は禁煙だが、怒りに染まった彼女らにそんな事を気にする余裕はなかった。

 

 立ち昇る紫煙は開戦の狼煙。復讐と報復は確実に決行されるだろう。

 

************************************************************

 

 俺はベットの上で目を覚ました。あの後、猫屋から逃げるように帰宅した俺は大量の酒と煙草を摂取して、気絶するように眠った。

 

 頭が少し痛いが酒のせいではない。過呼吸による弊害だろう。

 

「いま……何時だ?」

 

 ベットの隅にある目覚まし時計を見る。時刻は午後9時。どうりで外は真っ暗だ。

眠って一旦落ち着いたおかげか、胸の中で渦巻くような複雑な感情は軽くなった。

 

「…………」

 

 だが今日の出来事を思い出すと、再び胸が苦しくなる。

俺と由香里の事はいい。アレは俺自身の問題だ。

 

 猫屋の手を振り払ってしまったことだけが気がかりだ。彼女の傷ついた表情が脳裏に焼き付いている。

 

「ちゃんと謝らないとな……」

 

 明日、大学に行って彼女に頭を下げよう。

いや、そうだった。ビンゴカードの入力作業が今日の夜あるんだ。

今からでも手伝いに行こう。そこで彼女に本気で謝ろう。安瀬と西代にもお礼を言わないと。俺のせいで皆で準備した計画に迷惑を掛けたくない。

 

『私ね! 今年から大学の学祭実行サークルに入ったの。だから今日はこの大学の応援に参加してるんだ!』

 

 明日も大学に行くのか? 由香里とまた会うかもしれないのに?

 

 ザァァァアア! と嫌な記憶とともに雑音が流れた。キンキンと眩暈がする。

胸が締め付けられるように痛く、気分も悪い。

 

「……情けない」

 

 猫屋に明日になったら平気と言った。ただ、由香里がいるとなると平気ではいられないかもしれない。弱い自分が本当に嫌になる。

 

 入力作業だけ手伝いに行こう。そして、明日の文化祭に行くのはやめておこう。また過呼吸でも起こして今度は騒ぎになったら、こっそりとカードを集める俺たちの計画も破綻する。

 

 俺は安瀬たちに連絡するためにスマホを手に取った。

 

「……ん?」

 

 そこには一件の新着メッセージと動画が送られていた。

メッセージは『見てね☆』っと動画の視聴を促す物であった。

 

「なんだ……?」

 

 俺はとりあえず動画の再生ボタンを押した。動画が長いのか読み込みは遅く、30秒程度待ってから再生が始まった。

 

『大爆走! トイレを求めて三千里!!』

 

 ババーーンっ! というふざけたSEとともに、動画のタイトルと思われるテロップが表示された。

 

「え? なんだこれ……?」

 

 俺が意味も分からずに困惑していると、なぜかスーツ姿の安瀬がマイクを持って画面に現れた。

 

「はい! 始めりました、トイレを求めて三千里!! 実況、解説、撮影をすべて任されている、みんな大好き安瀬桜でありんす!!」

 

 番組キャスターを思わせる謎の口調で話す安瀬。

は? な、なにが始まろうとしてるんだ……?

 

「本企画の挑戦者は……苗字は知らんが、名は由香里とかいうゴミ女じゃ!!」

 

 そう言うと、動画の映像が急に乱れた。

そして、彼氏と一緒に飲み物を飲んでいる由香里が映し出された。

 

 心臓がドクンっとはねた。由香里を見たからだ。

安瀬は由香里の事をゴミ女と言った。彼女が俺の元恋人であることを知っているようだ。恐らく猫屋が話したのだろう。それは構わない。

 

 だが、いったい何をする気なんだ? 挑戦者とは?

 

「いま、奴が飲んでいるのは西代が実行委員に偽装して『文化祭応援のお礼に』と手渡したホットワインである」

「西代が……?」

 

 何故、委員に偽装してまで由香里に飲み物を?

 

「あの中には、()()()()()()をたっぷり入れてるでやんす……!」

「はぁ!!??」

 

 俺はあまりの突拍子の無さに大声で叫んだ。

 

「さて、今回のルールは簡単じゃ。由香里とやらが無事にトイレまでたどり着ければ彼女の勝ち。そして脱糞すれば我らの勝ちじゃ」

 

 おいまて、なんか凄い事言いだしたぞコイツ!!

 

「もちろん、拙者たちは全力で妨害するぜよ! 猫屋なんかは珍しくブチ切れてたからの…………我もじゃが。まぁ、今から楽しみにしておいて欲しいである!!」

 

 俺の寝ている間に恐ろしいことが起こっていたようだ。

 

「おっと、長々と解説している内に挑戦者の顔色が悪くなってきたようじゃの」

 

 ジジッっとカメラが由香里の顔を大きく映した。安瀬の言う通り、彼女の顔色が青紫色に変わり、冷や汗を流し始める。彼氏に何かを話し、由香里は足早に走り去っていく。

 

 それを追って安瀬も走り出した。どうやら前に肝試しをした時に使った小型カメラで撮影しているようだ。走っていると画面が揺れてまともに撮影できていない。

 

 それでも安瀬は走りながら解説を続ける。

 

「大学本館は防犯の都合で1階のみの解放。そして、1階の女子トイレは今日はずっと混みあっておる。確実に10分以上は並ぶことになるでやんす」

 

 由香里が本館のトイレにたどり着いた。ただそこには、安瀬の言うように長蛇の列ができている。由香里の顔が苦痛に歪んでいる。今にも漏らしそうなのだろう。

 

「となると、ここから一番近いのは教授棟の中にあるトイレでありんす。あそこは教授たちの仕事場である故、今日も解放されておる」

 

 確かに、その通りだ。だが、他大の生徒である由香里がそれを知っているのか?

 

「彼女は文化祭の応援として来たようでござる。実行委員から緊急時のトイレの場所を聞いている可能性はある……もし聞いていたのなら面白い物が見れるぜよ」

 

 安瀬の言ったように、由香里は何かを思い出したように走り出した。

教授練に向かっているようだった。

 

「ふ、ふふふ。計画通りであるな……」

 

 恐るべし安瀬の企画力。由香里はまるで糸で操られた人形のように誘導されていた。

 

 由香里が教授練まで辿り着き、自動ドアをくぐる。教授たちは自室にこもって仕事をしているため、教授練の長い廊下には誰もいない。トイレは廊下の途中にあった。

 

「まず第一の仕掛けじゃが、まぁシンプルに……ワックスとローションじゃ」

 

 その時、つるっと由香里が転んだ。バタンっと大きな音が響く。

そのまま廊下を滑走していき、トイレを取り越し、()()()廊下の突き当りに置いてあったペンキ缶の山に突っ込んだ。

 

「きゃっぁぁぁああああああああああ!!??」

 

「おぉ、何とも胸がすくような悲鳴じゃわい」

 

 由香里は様々な色のペンキを頭から被ってしまい、なんか現代アートみたいになっていた。クツクツと笑いながら隠れてその姿を盗撮する安瀬。

 

「なんなのよ!! 一体!! ……っぐ!?」

 

 当たり前だが滅茶苦茶怒っているな、由香里。しかも漏れそうにしてお腹を押さえている。怒りながらなんとか立ち上がった彼女は廊下を這うようにしてトイレに向かっている。

 

「うむ、実に無様でありんす」

「そーねー」

 

 いつの間にか、安瀬の横には猫屋がいた。

猫屋は何故か口元に布を巻いている。

 

「やっほー? 陣内見てるー?」

 

 猫屋がカメラに手を振ってくる。今の現状には全然あっていない声音だった。

 

「あの女子トイレの個室はぜーんぶ、私が先回りして内側から鍵かけてるんだー」

「おいおい、マジかよ」

 

 恐るべき事実を飄々とした口調で語る彼女。つまり、あのトイレは由香里にとって偽りのゴールとなっているようだ。そうとも知らずにトイレに入っていく由香里。

 

「じゃあ、手筈通りに()()投げ込んでくるー」

「行ってらっしゃいでやんす」

 

 そう言って、猫屋が取り出したのは爆弾としか形容できない何かだった。丸く包装紙に包まれており、導線のような紐が伸びている。それにジッポで火をつけると、猫屋は本当に爆弾をトイレに投げ込みに行った。

 

「あぁ、この動画を見てる陣内よ。安心してくりゃれ。あれは花火と爆竹と煙玉と胡椒と七味と催涙スプレーを適当に詰めた物でありんすから」

「いや、多すぎだろ。何も安心できねぇよ」

 

 俺は思わず画面内の安瀬に対してツッコミを入れる。彼女が語っているのは、純然たるただの凶器だった。

 

ボンッ!! ボンッ!! ピューーーっ!! ババババッ!!!

 

「ぎゃぁぁああああああああああああーーーー!!??」

 

 そうして、爆弾は起爆したようだ。由香里の絶叫が聞こえてくる。

花火の綺麗な光と、異常に赤い煙が女子トイレから漏れ出した。

 

「ふぅー、ただいまー」

「おかえりでありんす」

 

 猫屋が一仕事終えてスッキリしたような顔で帰ってくる。

トイレ内は未だに阿鼻叫喚の渦だろう。ビカビカっ! と緑色の蛍光色が点灯している。

 

「なんか催涙スプレーにしては煙が赤すぎるような気がするでやんすね?」

「あー、普段私が家で使ってるー、激辛香辛料も交ぜたからかなー?」

 

「うあああぎゃぁぁああああああああああああーーーー!!??」

 

 恐るべき事実をサラッと口にする猫屋。コイツの普段使いの調味料とか舐めるだけで悶絶するレベルのものだろう……死んでないだろうな由香里。

 

 俺の心配をよそに、何とかトイレから出てくる由香里。

その顔は本当に酷い物だった。目が真っ赤な癖に顔が青白く、見た目は極彩色のペンキまみれ。一瞬、新しい日本の妖怪かと思った。

 

「っぶ、マジでやばそうな顔してるー……!」

「であるな! いやぁ、ここまで用意したかいがあったで候」

 

 それを見てキャキャっと楽しそうに笑う安瀬と猫屋。悪魔か……?

 

「……う、……ぐ…………トイレェ!!」

 

 由香里がよほど切羽詰まっているのか、大声で叫ぶ。

そうして、彼女はすぐ近くの男子トイレの方に向かった。この際、男だ女など言っていられないのだろう。というか今の姿で彼女の性別を当てられる者はいない。

 

「お、予想通りでござるな」

「あっちも、全部内側から鍵してるもんねー」

 

 お前ら本当にすごいな。人を追い詰める天才かよ。

 

「後は西代が間に合えば─────」

「おまたせ!!」

 

 委員に偽装した姿の西代が急に動画に現れる。

その手には、手作りだと思われる放水器が握られていた。

水色のホースを束ねて、先端には発射口として大きな口が開いている。

尋常な大きさではない。

 

「標的は?」

「男子トイレに入ったところー」

「ナイスタイミングぜよ」

「良かった。機械工学科に忍び込んでポンプを盗んできたから時間かかったよ」

 

 西代はこの企画のためについに泥棒に手を染めたらしい。変装しているのは、万が一盗みがバレても委員に罪を擦り付けるつもりなのかもしれない。

 

「じゃ、急いで放水してくる」

「うむ、火刑の次は水攻めと決まっておる」

「ペンキは油性だから落ちないしねー」

 

 スタスタとホースを引きずりながら駆けていく西代。

彼女たちはローションやワックスの撒かれた床を把握しているようだ。滑ることなく男子トイレの外まで辿り着いた。

 

 西代は真顔で放水器具の蛇口を回した。

 

ドゴゴォォォォォオオオオオオオオオオオ!!!!!!!

 

 ちょっと引く量の水が男子トイレ内部に向けて発射された。

恐らく機械工学科にある実験用化け物ポンプの出力をマックスにして放水しているのだろう。たしか、毎秒40Lほどの出力を誇るはずだ。ちなみに消防車で毎秒60Lだ、ほぼ変わらない。

 

「おぼぼぼぼぉぉおおおおおおおおおお!!!??」

 

 由香里の絶叫がまたも響き渡った。

 

「アハハハ!! 西代ちゃんマジでイカれてるーーー!!」

「ゲヒャヒャ!! おぼーって言ってるござるよ!!」

 

 大声で由香里の醜態を嘲笑う彼女達。

何がそこまで楽しいのだろうか。彼女に恨みがある俺でも可愛そうになってきたぞ。

 

 時間にして3分は放水したであろうか、西代が満面の笑みで帰ってくる。

 

「一瞬、圧力で吹き飛ばされるかと思ったけど、中々スリリングで楽しかったよ」

「どーう? 中のゴミ死んだー?」

「反応が無くなったから多分気絶しただろうね。後、ほのかに臭かったから多分漏らしてる」

「おお! 作戦大成功でやんすな!!」

 

 そりゃそうだろうな。消防車レベルの放水を受ければ、誰でも漏らすと思う。

彼女らは作戦の成功をワイワイと喜び合った。まるで狩猟の成功を祝う原始人だ。

 

 その後、カメラに向き直って画面越しにこちらを見て話しかけてくる。

 

「どうだったかの陣内! 楽しんでいただけたでありんすか?」

「アハハハ! まぁちょっとやりすぎたかもしれないけどー」

「ふふ、全然思ってないでしょ猫屋。ずっと笑ってるし」

 

 三人は俺に向かって各々好きな事を言ってきた。

楽しんでくれたかだと……?

 

「じゃあ最後に武士の情けとして、(ふんどし)だけ置いてくるでござるよ!!」

「ぶっ!!」

「ぷ、くく、いいね、それ。目が覚めたら履くのかな?」

 

************************************************************

 

 西代の嫌味を最後に動画は終わった。スマホの画面が暗くなる。

ポツリと画面に水滴が落ちた。気づけば、俺の涙が流れ落ちていた。

溢れて止まらなかった。

 

「ハハハ、本当にあいつら馬鹿だな……」

 

 口ではいつものように馬鹿にした。だが、胸の奥から感謝の言葉が湧き出ていた。動画を見終わった時、俺の心にもう由香里はいなかった。俺の大切な所にはこっちを見て笑っている安瀬と猫屋と西代の姿だけがあった。

 

 この動画を見て思った。浮気を目撃した瞬間、俺が本当にするべきだったことは話し合う事ではなく、彼女を力いっぱいぶん殴る事だったのだろう。あの時を逃したから、俺は苦しんだ。

 

 だが、俺が後から由香里に動画と同じことをしたとしても、暗い過去の記憶は晴れなかっただろう。彼女たちのおかげだ。あの3人が俺の為にこの動画を作ってくれた。俺の為を思って頑張って、準備して、計画を練って、笑って、由香里を成敗してくれたから俺の心は楽になった。

 

 この大学に入って3人に会えてよかった。ありがとう、お前ら大好きだ。

 

 その時、ブーブーっとスマホに電話がかかってきた。着信先をみる。

由香里からだった。SNSはブロック済みだが、着拒にはしていなかったようだ。

 

 俺は特に躊躇もせずに電話に出た。

 

「なんだ」

「ちょっと梅ちゃん!! アイツらなんなのよ゛!!」

 

 あいつらとは安瀬たちの事だろう。俺と一緒にいるところを見られているし、俺と接点があると思って電話してきたようだ。

 

「私、あいつらに信じられない目に遭わされたんだけど!! 彼氏にも振られたし!!」

 

 だろうな。彼女が脱糞すれば千年の愛も覚めるってもんだ。

しかし……、本当に……

 

「ハハハハハハハ!! 面白かったよ、マジで! お前の脱糞ショー……!!」

「…………はぁ!!??」

 

 俺はあいつらを真似てゲラゲラ笑う。

本当に愉快痛快だった。俺はあの動画を思い出して、腹を抱えて笑っていた。

 

「ふざ、ふざ、ふざけてんじゃないわよ゛゛……!!!」

「ハハハ! ふざけてねぇよバーカ!!」

 

 鬱陶しい耳鳴りはもうしない。呼吸も心臓も平常運転。気分もスッキリしている。

俺は自信に満ちた表情で、ごみ女に言い放つ。

 

「おい、次その汚い面でヘラヘラ近づいてきてみろ。マジで顔面ぶん殴るからな」

「え、は、ちょ─────」

「じゃあな、クソゴミ。ウンコくっせーから、二度と電話かけてくんなよ」

 

 俺は返事も待たずに電話を切った。

青天の霹靂。過去の呪縛は俺の中から完璧に消え去った。

 

「ハハハハハハハハハ!!」

 

 通話が終わっても、俺はしばらく笑い続けた。

いつも馬鹿やって笑っていたはずだが、心の奥底から純粋に笑ったのは久しぶりな気がした。笑いすぎて涙が止まらなかった。

 

「ハハハ!! ……ふふ、笑ってばっかじゃだめだな」

 

 笑いすぎて痛くなった腹を押さえて、俺は、()()()()()()()に戻ることにする。

 

「よし、手伝いに行くか!!」

 

 俺は安瀬たちに連絡を取った。今回の楽しい悪だくみはまだ終わってはいない。俺の知る酒飲みモンスターズならあの動画を撮った後、しっかりとビンゴカードを回収したはずだ。作業が遅れた分は俺も頑張って挽回しないとな。

 

************************************************************

 

 時刻は午後7時。すでに辺りは暗くなっている。普段なら大学にこの時間まで残っている人間は稀だ。街灯が珍しく全力で輝いていた。

 

「おい、始まるぞ」

「私、ドキドキしてきたー……!」

「まぁ、頑張って集めたけど確定ではないからね」

「後は天に祈るだけで候」

 

 ビンゴ大会は大きな歓声とともに始まった。

ステージ上の進行役が番号の書かれたボールを箱から取り出す。

 

「西代、1つ目の番号が出たぞ!」

「分かってるよ。しっかり打ち込んだ」

 

 西代が持ってきたノートパソコンを操作し、自家製アプリに数字を入力する。

 

 進行役はどんどんとボールを箱から出していく。4つ目までは誰もビンゴはできない。そこで引くのを溜めても場は盛り上がらないだろう。

 

「4つ数字が出て、リーチは12枚」

「まぁ、悪くはないのか……?」

「というかよく考えたら4つのカードが、同時に最初に当たるって普通ないよねー」

「そう言われたらそうでござるな……」

 

 そして、運命の5つ目のボールが箱から引き抜かれた。

番号は44。何とも不吉な数字だ。

 

「どうであるか、西代!」

「……ビンゴはない」

「嘘だろ!?」

「344枚もあるんだよー……!?」

 

 彼女たちが俺が寝ている間に集めてくれたビンゴカードの枚数は344枚。配られた、半数以上を俺たちは牛耳った。だがしかし、最短でビンゴしたカードは存在しないようだ。

 

「だ、だけど、リーチは30枚まで跳ね上がったよ!」

 

 西代がディスプレイを見ながらそう言った。

俺達は他にビンゴした者が出ないように祈り始めた。

 

「お願いしまーす! お願いしまーす! おねがーーい!!」

「本当に頼む! でるな景品泥棒!!」

「あれは拙者たちの物なんじゃ! 七福神よ、今こそ力をお貸し下さい!!」

「ぼ、僕は天に選ばれたギャンブラー! こんな所では躓かない!」

 

 進行役のビンゴした者を確認する声が響き渡る。当選者がいたのなら、そいつはステージに上がって景品を選ぶ権利を手に入れる。

 

 俺たちの願いが天に通じたのか、当選者は現れなかった。

そして、盛りさがることを嫌った進行役はすぐさま、新しい番号を引いた。

番号は77。さっきとは正反対だ。

 

「きた! ヒット枚数は……4枚!! 該当カードは9番、38番、91番、203番!」

「はいはーい……!!」

 

 西代の言葉を受け、カードの束から指定された番号を抜いていく猫屋。

 

「はいこれ!! 皆急いで行くよーーー!!」

「「「ぉぉおおおおおおおおお!!!」」」

 

 猫屋からカードを受け取り、俺たちは一目散にステージに向けて走り出した。

 

 見事に当選者として認められた俺たちは大型冷蔵庫、ドラム式洗濯機、クロスバイク、最新ゲーム機といった高級品を根こそぎ掻っ攫った。そのせいでビンゴ景品は些かランクダウンして進行役は微妙な顔をしていた。

 

 俺たちの企画荒らしは無事に大成功。洗濯機とゲーム機は陣内家にそのまま残されて、他二つは売り払った。その結果、30万もの臨時収入を俺たちは得ることができ大満足。その夜は全員で酒を飲んで大いに盛り上がった。

 

************************************************************

 

 俺の予感通りだった。俺にとって初めての文化祭は最高に楽しいものになって幕を下ろした。この二日間の俺達の行いは、人によっては決して褒められる行いではなかっただろう。女に集団で危害を加え、金儲けの為に平等に皆にいくはずだったチャンスを奪い去った。

 

 だがそれがなんだ。俺たちは20歳になったばかり。大人未満の子供以上がやった事だ、大目に見てくれ。

 

 そりゃ、酒は飲めるし、煙草は吸える、ギャンブルだって何でもできる。犯罪行為を犯せば新聞に名前が載って刑務所行きだ。だが、まだ社会にすら出ていない。存在そのものが違和感を感じさせる、大人でもなく子供でもないその狭間を彷徨っている不思議な者達。

 

 大人に半歩だけ足を踏み込んだ、()()()()()()()()大学生。

それが俺たち。このくらいの茶目っ気は許してほしい。

 

 だが大人になろうとも、酒に煙草、そして程々のスリルは決して忘れないと思う。

後はまぁ……気を置けぬ友人達は何歳になっても大切にしていることだろう。

 

 酒と友人は古いほどいい、と言うしな。

 



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耐え忍べ、酒飲み

 

 激動の文化祭が終わり、冬休みを目前に控えた俺達。

大学生の長期休みというのは世間一般的には長いイメージがある人が多いのではないだろうか。だがそれは文系の大学に限られている。理系の大学はカリキュラムの問題で休みの長さは高校生とあまり変わらない。

 

 まぁそれでも3週間程度の長期休暇があるだけましであろう。社会人になればそんな休みは取れない。今から考えても労働という国民三大義務の一つには大きな嫌悪感を感じる。

 

 しかし、社会人には存在しない苦労も俺たちにはある。

 

「……う゛、……ぅう゛」

「いかん! 西代が机に向かいすぎて泣き始めたぞ!!」

「私もー、勉強のしすぎで視界が霞んできたー……」

「それは眠気だ、今寝たら死ぬぞ。単位的な話で」

 

 冬休み前、つまりは中間テストの時期だ。

1週間のテスト地獄。俺たちの血を吐きながら続ける悲しいマラソンは始まっていた。

 

************************************************************

 

 大学の中間テスト。それは科目にもよるが、単位の成績30%を占める手の抜けない真剣勝負。40%は2月末の期末テスト。残りの30%は、出席点というものがあるのだが、普段から講義をサボりまくっている俺たちにはほぼ存在しない。

大学の単位習得条件は成績が60%以上だ。

 

 つまり、俺たちは馬鹿のくせにテストで点数を稼がなければいけないという事だ。

 

「う、……ぐ、我、酒飲みたくなってきた」

「馬鹿か安瀬! 今、飲んだら──プシュッ──絶対に止まらなくなるぞ!」

「いや、陣内君。無意識にビール開けてるよ」

 

 うぉ……!? 気づいたら体が勝手にビールを開けていた。何を言っているのか分からないかもしれないが、俺も分からん。俺の頭ではシュワシュワと炭酸が光る金色の液体の事しか考えられていない。

 

「さ、酒、……酒、……酒」

「ちょ、ちょー、陣内!! テスト期間は断酒しないとー! マジで単位落とすよ!!」

「っは……!? あっぶね! 助かったぜ、猫屋」

 

 俺たちはテスト期間中、断酒していた。それは普段の生活を考えれば、狂気の苦行であることがよく分かるだろう。俺たちはここ半年間、休肝日すら碌に取っていなかったのに。

 

「今日で断酒4日目じゃな。明日のテストが終わるまでの我慢でありんす……」

「僕きのう、肝臓から仕事を寄こせってテロを起こされる夢をみたよ」

「くそ、酒飲みながら勉強したい」

「それ、前期でやってー、酷い目にあったじゃーん……」

 

 安瀬の言う通り俺たちのテストは明日、金曜日を最後に終わる。ただ、教授の仕事の都合で金曜日にテストは集まっていた。その科目数はなんと6科目。普通ならあり得ない量だ。

 

 もちろん予習、復習などという言葉は4人の辞書には存在しない。俺たちは一夜漬けでこの難局を乗り切ろうとしていた。だが、まぁ、しかし……

 

「うぐ、ヤバいぜよ。……我、マジで眠い……」

「僕も……もう英単語覚えられない……」

 

 俺たちの体は連日のテスト勉強による寝不足とバイトでボロボロだった。テスト期間であろうとバイトは休めるものではない。俺たちは今、全員バイト後に集まって勉強会を開いている。正直、体力の限界が来ていた。

 

「………………あれ? 私、目開けながら寝てたー?」

「それやばいな。寝てても起こせないぞ」

 

 時刻は深夜3時。だが、まだまだ対策しなければいけない事は山ほどある。テスト範囲に包囲されての四面楚歌、そして体は満身創痍。デスウィークの最終関門を前にして、俺達は永遠ともいえる眠りに落ちようとしていた。だが、それだけは何としても、防がなければならない。

 

 俺は意を決して、ある覚悟を決めた。

 

「なぁ、安瀬。これはもうアレをやるしかないと思うんだ」

「じ、陣内……まさか禁忌に手を染めようと言うのでござるか……!?」

 

 安瀬の眠そうだった眼が驚愕に開かれた。

 

「やろうぜ、()()()()()……!!」

 

 カンニング。それは大学生にとっての禁断の果実。

成功すれば楽してテスト点数を稼げるが、バレた時のペナルティはあまりにも重い。

 

「バレたら、後期の単位全没収でありんすよ!?」

「ハハハハ、安瀬。オールオアナッシングって言葉知ってるか?」

 

 勉強不足で単位を落とせば来年、3つも年下の学生と一緒の授業を受ける羽目になる。ならここで綺麗に散った方がはるかにましだ。

 

「いいね、陣内君。僕はその話乗ったよ……!」

 

 俺の危険で無謀な話を聞いて、半死していた西代が覚醒する。さすが、イカれたスリル中毒者(ジャンキー)西代さんだ。

 

「わ、私も乗ったーー! ここまで頑張って単位落としたらー、死んでも死にきれなーい!!」

「よし、後は安瀬だけだ。どうする……?」

「う、うぬぅ……」

 

 安瀬は眉間に眉を寄せて悩んでいた。ノミ虫のような小さな善性と強大な悪性が脳内で戦っているのだろう。その勝敗は既に決まっているはずだ。

 

「……ええい、いいであろう。死なばもろとも。一度死ねば二度は死なぬ。武士道と云うは死ぬ事と見付けたりじゃっ……!!」

 

 安瀬もこの話に乗った。今、頭働いてないからよく分かんない口調で話さないでほしんだが…………まぁいいや。

 

「よし、陣内家非常事態宣言を発令し、カンニング作戦の開始をここに宣言する!!」

 

 珍しく、俺が仕切ってみる。気分が高まってテンションが上がる。いいなコレ。

 

「「「やーやー!!」」」

 

 ノリよく彼女達が相打ちを打ってくれた。我が軍の士気は十分なようであった。

 

 

************************************************************

 

「じゃあ、安瀬。カンニングのやり方教えてくれよ」

 

 今回のテストはカンニングで乗り切ろうという事に決まった。

なので、俺はその道のプロ、先駆者に助言を請う。

 

「ちょっと待ちなんし。なぜ我に聞くんじゃ……?」

 

 安瀬は何故か俺の問いに顔をヒクつかせていた。

 

「なんでって、そりゃお前が前期のテストでカンニングを────」

「この(うつ)け! あれは本当に拙者の実力でとったものじゃ!!」

 

 安瀬が大声をあげて自信がまだ清い身であると主張しはじめた。

おいおい、誰が信じるというのだ。

 

「えー、噓でしょー」

「嘘だね」

 

 二人も同意見のようだ。

 

貴様(きさん)らな!!」

 

 安瀬は頬ふくらまし大きな声で怒鳴った。

うん、流石にふざけすぎたか。安瀬は本当に自力で勉強し前期の単位を全て獲得した。その事実は到底受け入れがたいものだが、いい加減受け入れよう。

 

「まぁ、不本意ではあるがお前の要領の良さは認めざる負えない」

「安瀬ちゃんて何というかー、努力の効率がいいタイプだよねー」

「自頭は間違いなくいいだろうしね」

 

 さっきとは正反対に安瀬を褒めだす俺達。

 

「……ふふふ。で、あろう?」

 

 そう言うと安瀬はまんざらでもなさそうに得意気になった。ちょろいな。

 

「じゃー、頭の良い安瀬ちゃんに何か案を出してもらおうかー?」

「え、……?」

 

 隙を見せたな安瀬。いや、別に競い合っているわけではないのだけれど……。正直、頭が回っていないので、皆何も考えたくない。

人が考えてくれるなら、それに越したことはない。

 

「う、うーーーむ」

 

 安瀬は頭を抱えて悩みだした。彼女は虹色に光る狂った脳細胞の持ち主だ。常にイカれた罰ゲームや企画を発案してくる。そのビックバンレベルの閃きを俺たちは期待していた。

 

「まず、カンニングペーパーは効率が悪いの」

「そうだな」

 

 安瀬はポツポツと呟き、ロジカルに頭を回す。俺は相槌を返して彼女のアイデアを引き出そうとする。

 

「となれば時代はペーパーレス。電子情報媒体を使用するのは確定じゃな……」

「安瀬ちゃん、かしこーい。私もそう思ーう」

 

 猫屋も音頭を取るように返事を返す。

 

「そして、我らは四人おる。コレを不利とはとらえず利点と考えるでござる」

「と、いうと?」

 

 西代もノリノリだ。

そうして、ついに安瀬が何かを思いついたようにパッと顔を上げた。

 

「我らの背中にスマホを張り付けるでありんす!」

 

 ニッコリ満面の笑みで笑ってそう告げた。

うん、やっぱり頭おかしいコイツ。

 

「おい! 途中まではいい感じだったろ!!」

「まぁ待て陣内。少し説明を飛ばしすぎたぜよ」

 

 そう言うと、ノートを取り出し。何か図を描きだした。

そこには、教室と思われるものが書き出された。

 

「テストの席順は学籍番号順に決まるであろう。我らの学籍番号は近い」

「……あぁ、そうだな」

 

 学籍番号は本来なら名前順に決まる。しかし、生まれた年が同じ中でだ。

まず現役で大学合格した人から名前順に番号をつけられて、俺らの様な浪人組はその後だ。俺たちは2浪している。なので4人の学籍番号は一番最後に固まっていた。

 

「つまり、我ら4人は縦に一直線に座ることになるでござる」

「まー、そーだけどー……」

「そこで、背中にスマホを張り付けるんじゃよ」

「いや、見回りの先生いるしバレると思うよ。というか、まず操作できない」

 

 前の席の奴の背中に頻繁に触ってたら、怪しいとかいうレベルではない。

 

「いや、スマホは検索エンジンさえ操作できればよい。服の袖に無線のマイク機能付きイヤホンを仕込めば小声で操作できる」

 

 そう言われればそうだ。最近の音声認識は本当にすごい。

音声で文字を打ち込み、記事を書くライターなどがいるくらいだ。

 

 安瀬は自身の考え付いたカンニング方法について話を続ける。

 

「見回りの先生からスマホを隠せるように今から服を改造するぜよ。糸で引いたら布で隠れる仕掛け……みたいなやつじゃ」

「なんか、違和感がでそうだが」

「なに、多少不思議がられても、女の背を触ろうとする教授は今の世にはいないであるよ。陣内は知らん、筋肉とでも言って誤魔化せ」

 

 おい。……しかし、うーむ、確かにそう言った改造道具も我が家にはある。主に安瀬が持ち込んだ小道具だが。俺の仕掛けを他よりクオリティ高く作ればまぁ誤魔化せるか……?

 

「いや、それだと一番前の席の奴はカンニングできないだろう」

「1人くらいはいいんじゃないかい? 僕らも1科目ぐらいは何とかできるものがあるだろう」

「そーだねー。私、英語なら余裕だよー」

 

 席順は決まっているが、先生方も俺らの内で入れ替わったぐらいでは気づかないだろう。そして、カンニングの必要がない科目がある奴は、4人の一番前に座ってもらうと。

 

 ……あれ? 可能ではないだろうか。

 

「問題は全部解決したかえ?」

「あ、あぁ、何かできそうな気がしてきた」

「安瀬ちゃんて、マジで悪い事には頭回るんだねー……」

 

 俺と猫屋は素直に感服した。この短時間で割と隙の無さそうなプランを練りあげるとは……。

 

「安瀬、本当に前回カンニングしてないのかい?」

「あぁ、なんか発想が常習犯のソレだ」

「してないと言っておろう!!」

 

 安瀬のプンプンとした可愛らしい怒り声が響いた。

安瀬に謝った後、俺たちはカンニングのためコソコソと準備を始めたのであった。

 

************************************************************

 

 俺たちのカンニング改造服の作成は深夜5時まで行われ、そして完成した。

悪くない出来栄えだ、後ろから見ても違和感は特にない。

 

 最初のテストの開始時刻は9時からだ。我が家ならテスト開始10分前に出ればいいので、当然俺たちはギリギリまで寝ていたかった。

 

 しかし、朝8時にスマホに着信があった。佐藤先生からだった。

テスト前に研究室に顔を出すようにという急な連絡だった。

 

 そうして俺たち4人は佐藤研に集まっていた。

 

「佐藤せんせー、私たち死ぬほど眠いんですけどー」

「僕達、呼び出し食らうようなことやってませんよ……ふぁー……」

「行儀悪いから口を閉じろ、西代」

 

 俺たちはローテンションで佐藤先生に呼び出された理由を聞く。

正直、本当に眠いのでテストギリギリまでもう一度寝なおしたい。

 

 そんな俺達を見て少し申し訳なさそうに佐藤先生は話し出す。

 

「いえ、ごめんなさいね。私の研究室に所属する生徒には毎年、確認していることがあるのよ」

「確認?」

「それ、今どうしてもやる事でありんすか?」

 

 安瀬の意見はもっともだ。佐藤先生の頼みなら快く受けたいとは思うが、今はテスト前だ。タイミングとしては最悪に近い。

 

「いえ、今しか確認できないのよ。()()()()()()()()()()なんて」

 

「「「「ぶ、゛゛!!」」」」

 

 俺たちは仲良く卒倒しかけた。あまりにタイミングのいい佐藤先生の言葉。

な、なぜだ。まだ何も怪しい事などしていないのに……!

 

「困ったことに、この時期になるとカンニングする生徒が多いのよ」

「へ、へーー、そうなんで、で、ですねー」

 

 猫屋が尋常ではない量の汗を垂らしている。口調もしどろもどろだ。

バレるから頼む、黙っていてくれ。

 

「ほら、情報工学生って電子機器に強いでしょう? 彼ら、自分が用意した方法ならバレないって思いこんで、カンニングをして単位を没収されるのよ。だから私の担当生徒からそんな子がでないように毎年確認するようにしてるのよ」

 

 なんて優しい先生なんだろう。

先生の生徒を想いやった対策に俺は思わず涙が出そうになった。

 

「ハ、ハハハ、世の中無謀な事に挑戦する奴もいるんですね」

「そうねぇ、そういった物に一番詳しいのって私達、教授なのにねぇ」

 

 言われてみれば、その通りだ。なぜ理系の大学で技術力に頼ったカンニングができるなどと思いあがったのだろうか。

 

「とりあえず、荷物を全部見せてもらうわよ」

 

 佐藤先生は俺たちの所持品チェックを始めた。

俺達の所持品は財布とスマホに筆箱、それに小さな無線のイヤホンのみ。

これではまだ流石に見破られないだろう。背中をチェックされればアウトだろうが。

 

「んー、おかしいわね。貴方たちなら今日絶対に何か仕込んでると思ったんだけど……」

 

 大正解です先生。流石、若くして女だてらに助教授まで上り詰めた才女。考察力が並ではない。俺達が悪の道に行く事をきちんと見越していたようだ。

 

「ぼ、僕達でも流石にカンニングはしませんよ……」

「……うーん」

 

 西代の弁明を受けても、佐藤先生はまだ納得していない様子だった。

唸りながら、俺たちの事をつぶさに観察している。

そして、どこか諦めたような顔をし不満げに口を開いた。

 

「はぁ、あまりこの手は使いたくなかったんだけど、ね。身銭を切ることになるわけだし……」

 

 先生はよく分からない独り言を言いながら、研究室備えつきの冷蔵庫を開きそこから何かを取り出した。

 

 ドンっと重い重量のソレを机に置く。

俺達はその薄赤い内容物を込めた瓶を見て絶句した。

 

「うっ!? ジャ、ジャ、ジャ、ジャ、」

 

 驚きで体と口が固まる、安瀬。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()……!!」

「ぼ、僕、前買おうとして諦めたんだよね。う゛眩しい……!」

 

 断酒している俺たちになんてものを見せるのだろうか……!!

 

 ジャックダニエルという名前は聞いた事がある人は多いだろう。コンビニにでも売っているアメリカ産の有名酒だ。ウイスキーの中に確かに感じる事ができるバニラのような甘みが売りの一品だ。ウイスキーとしてはかなり甘い部類に入る。値段からは考えられないほど美味い。飲みすぎて中毒になる人は後を絶たない。

 

 だが、シングルバレルとなると別世界の話となる。その名の通り、この酒は1つの樽から詰められている。それが普通ではないかと思われるが、本来は味の均一化を図るために複数の樽の酒を混ぜて瓶詰するのが一般的だ。さらにシングルバレルが作られる樽は熟成しきった特別なものを使用するように厳選している。つまり、オーク樽の豊潤な風味がガツンと聞いた物になっている……らしい。

 

 俺でも飲んだことはない。先ほど話した製法故、生産数が少ないためか非常に高い。700mlで1本、7000円近くする。

 

 う゛、う゛、飲んでみたい。

 

「このお酒、()()()()()()()()()()()()()()のならプレゼントしてあげる」

 

 俺達の脳天に雷が落ちた。

 

 佐藤先生が提案してきたのは悪魔の取引。俺達が今禁酒している事を佐藤先生はその優れた観察眼見抜いたのであろうか。比喩表現ではなく、本当に喉から手が出るほど欲しい。

 

 というか、まずい!!

 

「し、シングルバレルー……シングルバレルーー……うぅーー……」

 

 猫屋はあまりの衝撃で目が虚ろになり、意識が朦朧としているようだった。まるで夢遊病を患ってしまったように、酒瓶に近づいていく。アルコール依存症の為、飲酒欲求が極限まで高まり脳を完全に支配したようだ。猫屋はジャックダニエル信者だった。

 

「おい、猫屋を止めろ!」

「分かった……!」

 

 俺の言葉に反応して、西代が猫屋を羽交い絞めにする。

異性の俺が抑え込む訳にもいかなかったので、彼女の迅速な行動は助かった。

 

「は、離して西代ちゃーん……! シングルバレルが私を呼んでるのーー!!」

「猫屋落ち着いて! 目先の利益にとらわれちゃだめだよ……!」

 

 西代の言う通りだ。

このまま酒に釣られて自白したら、昨日の努力がみずの─────

 

「いまなら、ジョニウォカのグリーンラベルも付けてあげるわよ?」

「服の背中にスマホ入れ作ってきました!!」

 

 気づけば、俺の口が勝手に動いていた。

 

「ぅー?」

「え、……?」

「陣内、お主……」

 

 女子3人が俺の顔をあり得ないといった顔で見てくる。

や、やってしまった。

 

「あぁ、なるほどねぇ。どうりで少しダサい服を着てると思った」

 

 そう言って、佐藤先生はスタスタと放心した俺の背後に近づいて来た。

そして、布地に隠れたスマホ入れスペースを発見する。

 

「へぇー、結構凝った作りになっているのね……工作的だから、これならもしかして他の教授陣も騙せたかもしれないわねぇ」

「ハ、ハハ。どうも……」

 

 俺は先生のお褒めの言葉に乾いた笑いしか返せなかった。

 

「とりあえず全員、上着を脱ぎなさい。没収よ」

「え、……でも、着替えとか持ってきてな───」

「早く」

 

「「「「……はい」」」」

 

************************************************************

 

 俺たちは上着を没収され、上半身を露出していた。

 

 俺に今アルコールは入っていない。つまり、性欲は平常運転だ。

しかも、ここ1週間は忙しく自分で処理もできていない。

 

 そのせいか、隣のブラジャー姿が可憐な女性陣の破壊力はとんでもなかった。

 

 安瀬はやっぱり胸大きいなとか、猫屋は細身でくびれた腰してるなとか、煩悩が脳を駆け巡り続けていた。心臓がバクバクいって、血流を体の一部分に集めようとしている。

 

「ちょ、ちょっと! 陣内、こっちみないでよーーー!!」

「わ、悪い! マジでごめん!!」

「む、むぅ、助兵衛(すけべえ)じゃのぅ……」

 

 恥ずかしがる、安瀬と猫屋。それに比べて西代は平然としていた。

 

「ふっ……(うぶ)いね、二人とも」

「お前は俺も平気だわ。もっとヤバい物みてるからか?」

 

 西代の半裸姿を見ても俺は平穏を保つことができた。手ブラ姿を見た事があるせいだろうか。むしろ落ち着いてくる。強い刺激を受けると弱い刺激になれるって本当なんだな。

 

「あ、あのーせんせーい? 寒いし恥ずかしいんでー、服返してくださーい……」

「うむ、もうカンニングなど卑劣な企みはしないのである……」

「だめよ。あの服は二度と使えないよう私の方で処分します」

 

 俺たちの懇願は受け入れられず、徹夜で作った服は燃やされるらしい。

カンニングしようとした不届き物に容赦はないようだ。

 

「え、じゃあ、僕たちこの格好でテスト受けるんですか? もうテストまで10分切りましたよ」

「え!? うっわ本当だ……!」

 

 俺は西代の言葉を聞いて慌ててスマホで時間を確認した。

すでに試験開始8分前。テストに遅刻はもちろん許されていない。

この時間では俺の家に着替えを取りに行く暇はない。そもそもこの格好で外をうろつく勇気もないが。

 

「あら、着替えならあそこにあるじゃない」

 

 そう言って、佐藤先生は部屋の隅に置いてある()()()()()()()()()()()()を指さした。

 

 安瀬はそれを見て後ずさる。

 

「あ、あれは……!」

「この間、安瀬さんが私の研究室に忘れて帰ったダンボールよ。中身を見たけどアレは宴会用の変身グッズかしら?」

 

 文化祭、前祭の記憶が蘇る。

 

 たしかあの中身は、鼻眼鏡、バーコドのカツラ、馬面の被り物、バニースーツ、スクール水着、(ふんどし)、新選組と書かれた羽織、踊り子の服。

碌な服はなかったはずだ。

 

 その事実に気づいた俺たちの顔はサァーと青くなった。

 

「先生! 後生(ごしょう)の頼みです!! 服を返してください!!」

「だめです」

 

 西代撃沈。

 

「せんせーい!! あんなの着てたらテストで結果が出せませーーん!!」

「どうせ、たいして勉強してないでしょう」

 

 猫屋惨敗。

 

「先生! 我らが単位を落としても良いというのでござるか!!」

「カンニングがばれて、単位全没収よりはましだと思うけど」

 

 安瀬自爆。

 

 どこかで見たこの流れ。歴史は繰り返される。デジャヴュとはこの事か。

だが俺は歴史から学ぶ男、陣内梅治。同じ失敗は二度と繰り返さない。

 

 俺は我先にとダンボール箱に近づいた。その姿はまさに疾風迅雷の電光石火。

そして、その中で()()()()だと思われる"新選組と書かれた羽織"を取り出した。それを急いで羽織って、忘れずに酒瓶二つを抱えて出口まで逃げる。

 

「あ、!」

「ちょ、!」

「ま、!」

 

 出遅れた間抜けどもの、呆気に取られた声が遅れて聞こえてくる。

 

「では皆様方、お元気で。アデュー……!!」

 

 捨て台詞とともに、扉を勢いよく閉めた。

背後から聞こえてくる仲間達の怒声を置き去りにするように、テスト教室まで走り抜ける。気分はまるで新選組。逃げるが勝ちだ。

 

************************************************************

 

 その後、俺よりも後にやってきた彼女たちの恰好は爆笑ものだった。

安瀬のバニースーツ、猫屋のスクール水着、西代の踊り子衣装。

俺に出し抜かれたのが悔しいのか、3人の表情は屈辱にまみれていた。

 

 美少女3人の露出の多いコスプレ衣装に周りの生徒は狂喜乱舞の大騒乱。男子比率も多いので、場のテンションはテスト前に関わらず最高潮に達した。口笛を吹いて拍手する者もいたくらいだ。彼らも俺たち4人の奇行に慣れてきたようだ。

 

 恥ずかしがるあいつらの顔を見て、俺はただただ笑っていた。

馬鹿みたいな恰好だ。頭のネジが何本か外れているのだろうな。

 

 その姿を周りに見られたせいか、俺の悪名に"鬼畜変態組局長、陣内梅治"が追加されたらしい。あのコスプレは俺が命令してやらせていると思われているようだ。

不名誉極まりないんだが……?

 

 そして一番重要なテストの結果だが、意外にもそこまで悪くなかった。金曜日にテスト科目が集中することを教授たちは見越していたのか、問題の難易度は優しかった。

 

 どうやら、俺たちは睡眠時間を削って恥をかいただけだったらしい。

 

 だが恥と交換で手に入れたお酒は、禁酒明けの俺たちにとって頬が溶けるくらいに美味しかった。その夜の飲み会はよく盛り上がった。

 

ちなみに、抜け駆けした罰として俺はスピリタスをショットで10杯飲まされた。

 

 死ぬかと思ったぜ……

 



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先に救われたのは私

 

 人が雑多に行き交う交通道路。大きな建物やビルが摩天楼のように立ち並ぶ、人工物の密林。

 

 俺は電車を使って、栄えた都心部の方まで来ていた。

 

 今日の俺の目的はショッピングだ。いつも買い物などは近くのスーパーか通販で済ましてしまう俺だが、今日の目的の品は実物を見て購入を検討したかった。

 

 駅前に現地集合で安瀬と待ち合わせしている。猫屋と西代も来たそうにしていたが、バイトの休みが取れなかったらしい。

 

 集合時間は12時ピッタリ。だが、俺は酒をスキットルに詰めていたら電車に乗り遅れて、15分ほど遅刻していた。

 

 スキットルとは度数の高い蒸留酒を入れる携帯用水筒。ウイスキーボトルとも呼ばれ、よく西部劇に出てくる。バイト代が入ったので、前から欲しがっていた猫屋と一緒に購入した。俺の方には太陽の刻印、猫屋には月の刻印がされたものだ。

ペアルックの様で少し恥ずかしい……

 

 俺は首を左右に振って安瀬を探す。たしか、腰かけが設置してある大きな景観木で待っていると連絡が入っていた。遅れているので急いで合流しなければ。

 

 安瀬の姿は簡単に見つかった。

だが、彼女の隣には()()()()()。そいつが彼女に執拗に話しかけていた。

 

 ナンパだ。

 

 凄い、初めて見た。どうやら彼らは絶滅していなかったようだ。最近はナンパ系YouTuberというのがいるらしいが、もしかしてそれの類か……?

 

 安瀬はスマホを弄りながら、男をガン無視している。男はその態度にめげずに、ずっと笑いながら話しかけているようだ。凄い執念だ、少しでも反応してくれれば楽しませる自信があるのだろうか。話術のプロ気取りだな。

 

(って、冷静に観察している場合じゃないな……)

 

 安瀬がナンパに付きまとわれているのは俺が時間に遅れたせいだ。

 

 俺はスキットルを取り出して中身を煽る。入っているのは度数40%のテキーラ。

ストレートは少しきついが、飲めば元気と勇気が体の奥からあふれ出してくる……!

 

 酒を入れた俺は無敵だ。

 

「おーーい! 遅れて悪い!!」

 

 ドンッ! と俺はナンパ男を跳ね飛ばして、安瀬の元に近寄る。

勢いよく男は地面に倒れ込んだ。もちろん、わざとだ。

 

「………………遅かったな」

 

 安瀬は不機嫌そうに俺を()め付ける。どうやらナンパ男が相当に癪にさわっていたようだ。明るくて気立てのいい彼女が、こういった顔をすると迫力があって怖い。

 

「いや、本当に悪い。酒を用意してたら遅れた」

 

 俺は包み隠さずに遅刻の理由を打ち明ける。酒飲みモンスターズ以外に使えばドン引きされる理由だろう。

 

「中身はなんじゃ?」

「テキーラのサウザ ブルー」

 

 サウザ ブルー。フレッシュでシトラスの香りが漂う、シルバーテキーラらしい味がする酒だ。俺にしては珍しく甘くない。爽快感を感じさせる一品。

 

「ふん、上等な品ではないな」

「あぁ、でもお前(ごの)みかと思ってな」

 

 機嫌取りの言葉ではない。本心だ。

 

「……今はそれで手打ちとしようかの」

 

 俺の一言で安瀬は少し機嫌を直してくれたようだ。

スキットルを手渡すと、クイッと可愛らしく中身を煽る。強い酒だが彼女なら平気だろう。プハッと飲み口を離して、今度は懐から煙草を取り出して咥えた。

 

 俺は素早くライターを取り出して、その煙草に火をつける。携帯灰皿は持っている。あとは煙を他の人が吸わない様に、俺が体を使って盾になろう。

 

「ふぅー……」

 

 目を細めて、煙を噴き出す彼女。ナンパを受けるだけあって、その姿はどこか妖艶で官能的。元気のよい安瀬が気だるげに煙草を吸うのは新鮮で、なんとも絵になる。

 

「……まぁ、及第点じゃな!」

 

 そして、花咲くようにニッコリと笑う彼女。

 

「まったく、次は気を付けるでありんすよ……?」

「ハハハ、ありがたや、ありがたや」

 

 どうやら接待のかいあって、許してくれたらしい。

ナンパ男はいつの間にかいなくなっていた。まぁ、会ってすぐに酒と煙草をやり始めたら怖くて逃げだすか。

 

「じゃあ、行くか。……とりあえず飯か?」

「近くに煙草の吸えるラーメン屋があるでござる。そこでよかろう」

「いいチョイスだ」

 

 俺たち2人は町中に向かって歩き出した。

 

************************************************************

 

 文化祭で30万もの臨時収入を手に入れた俺達。その使い道については入念に話し合いが行われた。酒や煙草といった嗜好品に全てを費やすのも悪くないのだが、それでは今一面白みには欠ける。

 

 そこで唐突に安瀬が()()()()()()()()と言い出した。

 

 某アニメに触発され爆発的に人気の出た、大人の趣味。確かに、外で焚火を囲みながら飲む酒と煙草は格別なものになるだろう。直火で作る味の濃いおつまみも美味しそうだ。移動手段として車もあるのでテントや寝袋の持ち運びも困らない。

冬休みに行けば平日に遊びに行けるので、キャンプ地も混みあわないだろう。

 

 安瀬の提案は天啓と思われ、すぐさま可決された。そして、早速キャンプ計画を練り準備を始めた。俺達はキャンプギアを目的に都会に足を運んだというわけだ。

 

 そして今、大型ショッピング施設の一角にあるキャンプ専門店に到着した。

 

「「おーーーーー!!」」

 

 俺たちはキャンプギアのラインナップに度肝を抜かれていた。

店内展示の馬鹿デカいテント、多種多様な寝袋に渋い焚火台。薪ストーブやテントサウナなどのもはや家具と言っても過言ではない品々。好きな人が見ればここはまるで遊園地だろう。

 

「結構いろんなものがありんすな!」

「そうだな!」

 

 俺たちのテンションも大きな店内展示を見て盛り上がっていた。

本来、貧乏学生である俺達にはそのような高級品は縁遠い物であろう。だが今の俺達は大金持ちだ。何でも揃えられる自信があった。セレブキャンパーの仲間入りだって夢じゃない。

 

「安瀬、俺キャンプでサウナやってみたい……!」

「いいであるな!! 出た後のビールが美味そうじゃ!」

 

 興奮した面持ちで商品を見ようと近づく俺と安瀬。

 

「「う゛っ……!」」

 

 だが、値札を確認した瞬間二人の息は止まる。

 

「8万円……」

「こ、こっちのは15万するでやんす……」

 

 衝撃の価格設定。15万と言えば軍資金の半分だ。

人数分の就寝器具やテントを買わなければいけないのだ。とても払える値段ではない。

 

「お、おそるべし、キャンプギア……!」

「独身貴族の趣味になる理由がわかるぜ。家庭持ちにはきつい値段だ……」

 

 俺たちの想像よりもキャンプギアというものは高いようだ。性能やディテールになど拘っていてはいくらお金があっても足りないだろう。

 

「ま、まぁ今日は猫屋たちもいないし、下見程度じゃな……」

「あぁ……買っても常識的な値段の物にしとこう」

 

************************************************************

 

 キャンプギアの下見は特に語ることもなく終わった。サバイバルナイフコーナーを見て男子には必ず存在する中二病が疼いたくらいだ。

 

 俺たちはせっかく都会の方まで来たのだから、服でも見に行こうとショッピング施設の階層まで向かった。その途中、俺が便意を催しトイレに行って出てきた時だ。

 

 また、安瀬がナンパされていた。

 

 この短時間でよくもまぁ男を寄せ付けられるなと正直感心する。傾国の美女かよ。

しかし、さっきとは状況が異なり今度は安瀬と男が口論になっている。先ほどあれほどのスルースキルを見せた安瀬が、ナンパ男と口を利くとは。よっぽどしつこかったのだろうか?

 

 俺は再び酒を飲んで、ナンパ男に向かって言った。

酒を飲めば俺は無敵だ。魔法の言葉を胸にいざ鬼退治に出陣。

 

「おい、あんた」

「ん……?」

 

 男がビックリしたようにこちらを振り向く。中々体格の良い奴だった。身長は180cmはあって肩幅も広い。だが硬派な漢という感じではない。顎髭なんかを伸ばしていて如何にもなナンパ師だ。

 

「そいつ俺の連れなんだ、他の女を当たってくれ」

「……、…………あぁん?」

 

 そう言うと、髭男は顔を歪めてこちらを威嚇してきた。

何というか危険な雰囲気を感じる。危ない奴かもしれない。

 

「ちょ、! じんな─────」

「おい! てめえ、喧嘩売ってんのかぁ!? 俺が誰に声かけようが、俺の勝手だろうが!」

「んだと……?」

 

 髭男の自分勝手な言葉に腹が立つ。

こっちは友人と仲良く遊びに来ているんだ。そこに間に入ってきて邪魔する権利は目の前の男にはないはずだ。

 

「彼女は()()遊んでる。もう一度言うが、他の女をあたってくれ」

 

 言外に安瀬は俺の恋人だとにじませる。もちろんデタラメだ。

これであきらめてくれればいいのだが。

 

「ほぉ……マジで喧嘩売ってんだな」

 

 諦めるどころか、逆に圧力を強めてきた。

どう解釈すれば、さっきの言葉が喧嘩を吹っ掛けているように聞こえるのだろう?

 

「いいか、俺は柔道3段の黒帯だ。死にたくなかったら女置いて消えな……」

 

 武力を背景にした遠回しな恐喝とは、コイツ本当に危ない奴かもしれない。

まさか現代日本にこんな漫画の中でしか見ないような蛮族が存在していたとは。

 

「……うるせぇ。やるなら場所を変えようぜ」

 

 虚勢を張ってなるべく強く威嚇する。そして、安瀬にだけ見えるように上手く体で隠しながら"逃げろ"とジェスチャーを送る。

彼女を巻き込む訳にはいかない。

 

 相手の言葉に威勢よく乗ってしまったが、俺は人生で喧嘩などほぼした事がない。武道経験はもちろん皆無だ。恐怖を酔いで誤魔化して何とか話しているだけ。多分、酔ってなかったら足が震えてると思う。

 

 というかマジで喧嘩になったら、最悪死ぬよな……どうしよ。

 

「おめぇ……おもしろ─────」

「───何も面白くないわ、この(たわ)けッ!!」

 

 安瀬が怒号とともに、髭男を後頭部からぶん殴る。

バゴンっ! と凄まじい音がして男は倒れ込んだ。

体格のいい男よりも、後頭部への打撃を躊躇なく振りぬく彼女の方が俺は怖くなった。

 

「この、おたんこなすのっ! 脳たりんのっ! スカタンめがっ!」

「ちょ、ごめ、やめ……!?」

 

 そして、そのまま倒れた髭男の股間を何度も踏みつけだした。

うん、同じ男としてソコはやめてあげて欲しいのだが。

髭男は謝罪の言葉を発し、完全に戦意は喪失したように見える。

 

「あ、安瀬、そろそろ止めた方が……」

「ふぅーー……! ふぅーー……!!」

 

 俺は鬼神と化した安瀬を止めようとした。本当に潰れたらコチラがどう考えても過剰防衛で捕まってしまう。

 

「このクソ兄貴めっ! 調子こいて保護者面してるんじゃないでござる!!」

「ゴホッゴホッ……! いや、うん、普通に反省した……」

 

 は? 兄貴……?

 

 安瀬の執拗な攻撃が止み、兄貴と呼ばれた男はゆっくり立ち上がった。

 

「イタタタ……、どうも、桜の兄の安瀬 陽光(ようこう)です」

「えっと、ご丁寧にどうも、あ、…………桜さんの友達の陣内梅治です」

 

 先ほどの喧嘩腰とは打って変わって紳士的な自己紹介。

全く事態が飲み込めない。

 

 とりあえず相互理解の為、俺は先に自分の事情を話すことにした。

 

「えっと……その……俺は朝、彼女がナンパされてたんで、またその類の奴に絡まれているのかと」

「はい、そうだと思いました。私は兄として妹が悪い男に捕まってないか心配してまして……先ほどの様な態度をとってしまいました。誠に申し訳ございません」

 

 陽光さんとやらは、その大きな体を90度折り曲げて頭を下げてきた。

さっきとは印象が真反対でとても腰が低く、大人としての礼儀作法がしっかりしているように感じられる。

 

「はぁ……親切心では済まされんぞ」

「ご、ごめん。……でもまぁ定番だろ? ちょっと1回やってみたくて」

(……そういう所は血の繋がりを感じるな)

 

俺が血の濃さを感じてると、陽光さんが何か文句を付けたそうに口を開いた。

 

「そもそも、桜。お前が昼から酒臭いのが問題だろう? 連れの男にでも染められたのかと……」

 

 あぁ、それでトイレ前なんかで口論してたのか。

偶然会った妹が昼から酒臭かったら、兄としては多少心配になるな。

 

「さ、酒臭くなどないである!! ……それに、安心しろ愚兄。そこの陣内も飲んでおる」

「……え?」

「あ、すいません。酔ってます……というか酒を用意したのも俺です」

 

 何とも、微妙な間が空間を支配する。

俺は居た堪れなくなり、陽光さんからスっと視線を外す。

え、もしかして俺って常識ないダメ男?

 

「ま、まぁさっきの態度を見ても悪い方ではないようで……すよね?」

 

 さっきの態度とは、安瀬を逃がすために陽光さんに立ち向かったことだろうか。

ギリギリであの行動の方が評価されたようだ。

 

「というか、桜さんの出身は広島ですよね? なぜお兄さんが埼玉に?」

 

 俺は気持ち悪い口調で疑問を口にした。

安瀬の事を桜さんなどと呼ぶと鳥肌が立ちそうだ。

 

「あぁ、実は私はこの近くで働いてまして」

「我の様な可憐な娘が県外の大学に行くには、親族が近くにおらんと親が心配するであろう」

 

 あぁなるほど、色々と得心がいった。安瀬が居るから陽光さんが埼玉にいるのではない。陽光さんがいたから、安瀬が埼玉の大学に来れたのか。

俺がようやく全て事態が飲み込めたのを見て、安瀬がため息をつく。

 

「はぁ、なんか疲れたぜよ。我も(かわや)に行ってくるでありんす」

「あ、うん。待ってるわ」

「私も待って───」

「兄貴は帰れ! お節介で邪魔じゃ……!!」

 

 兄に厳しい言葉を投げつけて、安瀬はトイレに向かった。

 

「な、仲いいんですね?」

「私にはずっと反抗期みたいなんですよ、昔から」

 

 安瀬は意外と兄離れができていないっと。俺は心のメモ帳に安瀬の弱みを一つ刻み込んだ。面白そうなので後で安瀬に昔話とか聞いてみよう。

安瀬が居なくなると、陽光さんは改めて深く頭を下げてきた。

 

「先ほどは本当に申し訳ございませんでした。あの子はあの容姿故に変なのに絡まれやすくて。今回は本当に悪い虫がついたかもと試させてもらいました」

「え、あぁ、なるほど」

 

 確かに、安瀬は見た目だけは美人だ。ナンパとか良くされるのだろう。それを武道の有段者である兄貴が追っ払っていた。そんな生い立ちが垣間見える。

安瀬の軽薄な男を完全に無視するスキルもそこからか。

 

「しかし、久しぶりに見たら桜の雰囲気が随分と変わっていたので驚きました」

「そうなんですか?」

 

 安瀬は()()()()()()()()()()()()が、俺達と打ち解けてからはずっとあの調子だ。変な口調と気狂いな行動。ウチの大問題児だ。

 

「少なくとも、昼間に酒を飲んで外をウロウロする子ではなかったですね」

「な、なんかすいません」

 

 俺のせいではないのだが、何故か謝ってしまった。

本当に俺のせいではない。俺達4人の酒好きは生まれた時にDNAに刻みこまれている。

 

 

「それに……大学に入る前はもっと塞ぎ込んでいましたから。けど、今は昔みたいに明るくなってよく笑っているようなので、兄としては嬉しいかぎりですよ」

 

 

 陽光さんは自分の事のように、うれしそうに微笑んでいた。

 

「………………」

 

 俺は何も言わなかった。俺が知っているのは明るくて面白い安瀬だけだ。

入学前の事は気にしない。今のは忘れよう。

 

 俺はスキットルを取り出し、忘却の為に酒を飲む。

それを見て、陽光さんはさらに口を開いた。

 

「……もしかして、陣内さんは知っているのではないですか? 桜の───」

「陽光さん」

 

 俺は彼の言葉を遮った。

 

「あいつは友達想いで面白いヤツですよね。いつも一緒に遊んでて楽しいです」

「…………」

 

 俺はありきたりな誉め言葉で会話をぶった切った。

その話は部外者の俺がするべきではないと思ったからだ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()。しかし、自尊心が高い彼女は自分のいない場でその話をされる事を嫌がるだろう。

俺はいつもはふざけているが、本当は気高い安瀬の事を尊重したかった。

 

「…………そうか、君が」

「……?」

 

 陽光さんはよく分からない事を言った。

 

 俺が何だというのだろうか。

 

「いや……うん、桜にも言われたし私はそろそろ帰るよ」

「え、あぁ、そうですか」

 

 まぁ正直少し気まずいので助かる。間違いなくいい人ではあるのだろうが、異性の友達の兄とどう話していいか分からなかった。

 

「じゃ、陣内君。()()()()()()()()()。あとお酒はほどほどにね」

「え、ハハハ、はい」

 

 陽光さんは俺にしっかり釘を刺して去っていった。

どうやら、お兄さんは妹と違って大酒飲みではないらしい。

 

 たぶん、俺らの一ヵ月の酒の消費量知ったら卒倒するんだろうなぁ。軽く100Lは越えてると思う。

 

「待たせたの」

 

 陽光さんとは入れ替わるタイミングで安瀬が戻ってきた。

 

「……兄貴はもう帰ったのかえ? 絶対にまだいると思ってたでありんす」

 

 キョロキョロとお兄さんを探す彼女。

迷子になった子クマが母クマを探しているように見える。少し寂しそうだ。

 

「安瀬って意外とお兄ちゃん子だったんだな」

「は、はぁ!? 陣内、何を勘違いしておるんじゃ!!」

「ハハハ、そうやって必死に否定するのが証拠だろう」

 

 俺は安瀬を思いっきり揶揄ってやった。

その後はプリプリと怒る安瀬をさらに馬鹿にしつつ、買い物を楽しんだ。

 

************************************************************

 

 そして、その夜。俺達は終電ギリギリまで酒を飲んでいた。

別にいつもの事だ。ただ都会は人が多いからか、いい酒も多いのだろう。

適当に入った居酒屋は思ったよりも当たりが多く、俺たちは上機嫌だった。

 

 へべれけで気分のいい帰り道。

 

「はっはっは! あの時は、陣内の事を本当に馬鹿でどうしようもないアル中だと思ったでありんす!!」

 

 大声でバカみたいな話をしながら、我が物顔で歩道を歩く。

酔っ払いの歩き方だ。

 

「消毒液を飲みだそうとして、全員で慌てて止めたのでござるよな!!」

「あ、あれは大昔の事だろうが! アルコールなら何でも分解できる自信があったんだよ!!」

 

 安瀬が昔の事を引き合いに出して大声で笑ってきた。

前期の中間テストの時の話だ。

 

 勉強の為に断酒してたら、大学内の除菌用消毒液を見て『あれってアルコールだよな、飲めるのでは?』と思ったのだ。それを見て女子3人はドン引きしてたが。

 

「ふふふ、戦後闇市のバクダンでも少しは飲めるように処理しておったというのに」

「……なんだそれ? というかお前のその意味わからん知識はどこからくるんだ」

「歴史の勉強は苦手かのぅ? まぁ、そもそも馬鹿は勉強が苦手でござるか!」

 

 カッカッカと人を喰ったように笑う彼女。

何がそんなに楽しいのやら。

 

「っけ、まぁあの時は工業用アルコールの危険度を知らなかったからな。失明は怖すぎる」

「まぁ、危なかったでありんすな。止めた我らに感謝するで候」

「へいへい」

 

 ぶっきらぼうに返事を返す。その話は本当に恥ずかしいので勘弁してほしい。

 

 その時、どこからか強い風が吹いた。おそらくビル風というやつだ。この時期に吹いてくる風はとても冷たい。酔った俺には心地よいが、安瀬にはどうだろう。女性は体を冷やすべきではないと聞く。

 

 少し歩幅をずらして、風を遮るように歩く。

 

「…………………………」

 

 安瀬が何故か急に黙った。

 

 さりげなく行ったはずだが、気づかれただろうか。

そうなら凄い恥ずかしいのだが。

 

「なぁ、陣内。危ない……で思い出したのじゃが」

「え、なんだ?」

 

 安瀬が声のトーンを少し落とす。

 

「何で兄貴に絡まれた時、我だけに逃げろとジェスチャーを……? 一緒に逃げればよいとは考えなかったでありんすか?」

「え、あぁ……」

 

 予想していなかった質問に思わず返事に困ってしまう。

あの時は……

 

「あの時は、お前が逃げてくれれば、俺も走って逃げれるからそうしただけだ」

 

 俺は淀むことなく、言ってのける。

だが、安瀬は急に俺の前で立ち止まって、真剣な眼差しでコチラを見てきた。

 

「……本当か?」

 

その目を見るに、俺の先ほどの答えでは納得していないようだった。

 

「なんだよ。それ以外に何がある?」

()()()()()を気にしておるのではないか……?」

 

 彼女は相変わらず鋭い。確かに、あの事件で俺は彼女らに大きな借りができた。

その借りを返す為に俺が体を張ってでも彼女を助けようとした、と安瀬は思っているのだろう。

 

「バーカ、考えすぎだ。阿呆め」

「………………」

 

 ()()()()()()()

 

 あの事件以来、3人は俺の中で 掛け替えのない親友になった。

多分こいつ等に危険が行くのなら、俺は特に考えもなく火の粉を払う盾になるだろう。

別にそんな高潔な話ではない。ただ、恩は返すべき。そういう事だ。

 

「そうか、まぁそう言うのであればこれ以上聞くのは止そう」

 

 それだけ口にすると、彼女はすっぱりと態度を切り替え歩き出す。

何とも竹を割ったような彼女らしい。俺はその後ろをついていく。

 

「あぁ、真面目な話をすると、せっかくの酔いが醒めちまうよ」

「ハハハ! 確かにそうでありんす。もう一軒行くでござるよ……!」

 

 真面目な話など本当に俺達には似合わない。

ずっと酒飲んで、ふざけていればいい。

さっきの会話は俺が余計な気を使いすぎたせいだ。

 

 さっさと飲みなおして、気分良く帰ろう。

 

************************************************************

 

 

 『安瀬にとって陣内は特別な存在であった』

 

 

 彼女の気持ちが陣内に届くのは、もっと先の話になるだろう。

 



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最強の酒飲み

 

 赤を基調として作られた外装。個室の天井に設置された幾何学的模様(きかがくてきもよう)の照明。そして、中華料理店特有の円卓状の回転テーブル。

 

「まずは皆さん、中間テストお疲れ様でした」

 

 佐藤先生が俺たちに労いの言葉を掛けてくる。

 

「いえ、教授達の方がテスト期間は忙しいかと……」

 

 俺は目上の方に気を遣わせる言葉を頂くのが申し訳なく、急いでおべっかを使う。

 

「そうでござるよ、採点とか大変そうである」

「まぁ毎年、研究をしながら問題作成とか採点とかやってられないって感じはするわね」

 

 佐藤先生は苦虫を噛みつぶしたような顔をして憂鬱そうだ。

まだ、冬休みに入ったばかり。採点の方は終わっていないのだろう。

 

「まぁー、嫌な事は忘れてパーっと飲んじゃいましょーよー」

「そうですよ先生。せっかくこんな豪華な中華料理店なんですし」

 

 俺たち4人は佐藤先生に飲み会に誘われた。

先生行きつけの都内の高級中華料理店にである。しかも個室だ。

 

「そうね、とりあえず注文しましょうか。会計は私が全て出すわ。今日は気兼ねなく飲み喰いして頂戴ね」

「「「「はーーーーい! ありがとうございます!!」」」」

 

 太っ腹な事に今日は佐藤先生の奢りだ。こんなお高い所、普段なら俺たちは遠巻きに眺めることしかできないだろう。俺達4人は楽しみすぎて朝から断酒断食をしていたほどだった。

 

 この集まりは中間テストのお疲れ様会と、ちょっと早めの忘年会を兼ねたものだ。冬休みに入れば、年明けまで俺たちは大学には行かなくなる。その前に全員で集まって楽しく飲みあおうという趣旨だった。

 

「さぁ、何を飲むでやんすか……」

「とりあえずー、私、紹興酒が飲みたーい!」

「いいね。でも僕は先にプーアル茶と小籠包で飲茶(やむちゃ)と洒落込みたいな」

「おいおい、先生の注文が先だろ」

 

 我先にと、落ち着きのない酒飲みモンスターズ。

 

「ふふふ、気を使わないでいいわ、今日は無礼講よ。貴方たちとの飲み会は遠慮しなくていいから楽でいいわ」

 

 主催のありがたいお言葉。相変わらず取っつきやすくて優しい先生だ。

 

「ならお言葉に甘えまして……」

 

 口では冷静を装ったものの、俺も楽しみで仕方なかった。

 

 メニュー表を熟読する。つまみには餃子、焼売、小籠包によだれ鳥。主菜は回鍋肉に担々麺、油淋鶏。甘味に杏仁豆腐とゴマ団子もある。他にも多種多様な中華が書かれている美食の教本。

 

 中華料理と飲み会の相性は驚くほど高い。つまみが豊富で飲みがいがある。

胃袋の大きい男として生まれた事をありがたく思う。

 

 まぁ、どうせ、後半になれば()()()になる。幸せなうちに、最初から飛ばして飲み食いしよう。

 

************************************************************

 

「う~~~まい! 私ー、麻婆豆腐大好きー!!」

「相変わらず辛いの好きでありんすな、猫屋は」

 

 パクパク、ゴクゴクと赤い豆腐と紹興酒を交互に食べる猫屋。

その表情は幸せそうだ。だが、そんな勿体ない飲み方をする酒じゃないぞ……

 

 俺も彼女と同じ紹興酒をグイっと煽る。

 

 古越龍山(こえつりゅうざん)の20年物。俺はあまり紹興酒は知らないが、紹興酒の中でトップの生産量を誇る有名な銘柄らしい。

 

 20年の年月がほどけるように、ふわっと甘い。その後に薬効の様な後味がキリっとして後を引かない。何とも目が覚める味だ。噛みしめる様にその深い味わいを堪能する。シンプルに美味い。

 

「へぇ、そうなのね。少し意外だわ」

 

 佐藤先生が猫屋の辛党に意外そうな声をあげる。

 

「こいつ、なんにでも七味とかタバスコをぶち撒けるんですよ」

「この間は陣内君が作った自家製ピザも赤く染め上げてたね……」

「ふふ、まぁ、個性的でいいと思うわよ?」

 

 佐藤先生が慈愛があふれる表情で笑う。

俺達と先生は15歳以上年が離れている。親戚の大きい子供の悪食を見て微笑ましく思う、くらいの感覚なのだろうか。

 

 笑いながら、先生は円卓においてあるボトルを手に取る。

泡盛の古酒だ。銘柄は知らない。だが、その黒い瓶からは高級感があふれている。

 

 先生は突然その瓶をラッパ飲みし始めた。ゴキュゴキュっと恐ろしい速度で飲み干していく。

 

 その姿を俺たちは唖然とした表情で見ていた。食事の手を止めて見入ってしまうほどの飲みっぷりの良さ。ちなみに、泡盛の古酒はアルコール度数が50%を超える。

 

「あぁ゛゛……やっぱり美味いわね泡盛。中華にもよく合うわね」

 

 先生はあっさりと500mlはあろう酒を飲み下した。

度数50%の500mlだ。俺が飲めば致死量だろう。

 

「あ、相変わらず恐ろしいほどの酒の強さ……」

「僕はいつ見ても曲芸を見ている気分になるよ」

「私もー……」

「わ、我もじゃ」

 

 そもそも、常人があんな事をすれば喉が焼けて()せかえるだろう。

猫屋とは別方向で先生の口内はステンレス製のようだ。

 

「せんせーって、あれだけ飲んで二日酔いには一切ならないらしいよー」

「おそらく前世がハムスターであったのじゃろうな……」

 

 俺たちはその酒を飲み干した姿を恐怖と敬意を持った目で眺めていた。

 

「…………ヒック!」

 

 始まってしまった。

 

 佐藤先生は酒に異常に強いが、酔いやすいという謎な体質の持ち主だ。いや、本来ならあの量を飲めば酔っぱらうのは当然だが、アルコール耐性が強すぎて酩酊のバランスが取れていない気がする。

 

「……酒に潰れた人間が見たい気分だわ」

 

 かつ、先生は超ド級の酒乱だった。

酒に酔うと、普段の落ち着いた態度とはかけ離れた前時代的な言動をとり始める。

 

「せ、せんせー? 教師が今の時代に、そのような発言はまずいかとー……」

 

 猫屋が恐る恐るといった様子で佐藤先生の失言を咎める。

 

「そこよ!」

 

 そう言うと佐藤先生は勢いよく立ち上がる。

 

「なにがアルハラよ! 人にお酒も勧められないような文化を、私は認めないわよ!」

 

 空き瓶をマイクに見立てて訳の分からない演説を開始した。

 

「それはアルコール強者の意見だと僕は思いますよ……」

 

 教職者とは思えない発言。しかし、西代の一般的な意見を無視して先生は話を続ける。

 

「あぁ、……昔はよかったわ。上司の酒は断れないのが当たり前。新入社員は飲むのが仕事。酒を飲めるものこそが偉い!」

「前時代的な懐古厨ぜよ……。今だとSNSで即炎上ですじゃ」

 

 俺たちは酒にはそこそこ強いので大丈夫だろうが、酒が飲めない人には地獄のような時代だったろうな。

 

「私、教授になる前は一般企業にいたんだけど、その時の新人歓迎会は凄かったわ。新人社員5人で、日本酒の一升瓶を10本飲まないと返さないって」

「そーんな、時代もあったんですねー……」

 

 目上の人の昔話。猫屋が遠い目をして相槌を打つ。

どうやら、今の常識からは考えられないような行事が昔の日本にはあったようだ。

 

「もちろん、私はそんな理不尽な要求は跳ね飛ばして参加している全員を酒で酔い潰していったわ。社長も含めてね。酒に関して平等、というのは私の美徳よ」

「か、かっこいいっすね。マジで……」

 

 先生はアレだな、異世界転生の無双系主人公というよりは、強すぎて周りに誰もいなくなった一騎当千の狂戦士と言った感じだ。触れる物を皆、傷つける哀れな化け物でもいい。

 

「と、いうわけで貴方たちには潰しあいをしてもらいます」

「「「「やっぱりそうなりますよね……」」」」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()。俺たちは入学して少し経った頃、調子に乗っていた。自身のアルコール耐性を棚に上げ、大学で酒を飲んではこれ見よがしにイキり散らす。若者あるあるではあるのだろうが、なんともお恥ずかしい話。

 

 そんな俺たちはある日、佐藤先生から飲み会に誘われた。俺たちは自らのアルコールの耐性を見てもらおうと意気揚々と参戦し、もちろん結果は惨敗。テキーラをひたすら飲まされ、先生が予め用意しておいたエチケット袋に吐き散らかす羽目になった。先生はその姿を眺めて大爆笑。格の違いというものを見せつけられ、井の中の蛙という言葉を俺達は体で思い知った。

 

 ようするに、先生は酒で人を潰すのが大好きという事だ。

俺達も仲間内では潰しあうが、先生の場合はどうにも無差別的に思える。

 

「せんせー、流石にこのお店で嘔吐はダメですよー」

「大丈夫よ。エチケット袋は持参してきたわ」

「いや空気と匂いが最悪なんで……」

「…………つまんなーい」

 

 酔っているとはいえ、年上の女性のぶりっ子は見ていてキツイ物があるな。

 

「昔の様なひりつく飲み会がしたいのよ、私は!」

「まぁ先生ほどのアルコール強者だと、現代の飲み会はつまらないかもしれませんけど……」

 

 西代は孤高の飲酒チャンピョン佐藤に同情する。

 

「今でも思い出すわ……何とか私をベットに誘おうとして挑戦してくる(つわもの)たち」

「それー、成功者いるんですかー?」

「今の旦那よ。8回くらい吐きながら私の酒に付き合ってくれたわ」

「良く生きてましたね……」

 

 佐藤先生が既婚者である事は知っていたが、そんな吐しゃ物にまみれた馴れ初めだったとは。旦那さんはその夜、本当にベットで頑張れたのだろうか?

 

「そうだわ! 私、久しぶりに王様ゲームやってみたい……!」

 

 唐突な先生の発案。酔いで情緒が不安定のようだ。なぜそのような合コンみたいなものを…………。いや、今では合コンでも廃れていそうだ。

 

「割りばしを使って適当にやりましょうよ」

「先生、割りばしは地球温暖化うんたらで大切にしましょう」

「僕、実はエコロジストなんです」

「私もー」

「拙者もでござる。では、4対1でこのお話はお流れという事で……」

 

 俺達は一致団結して王様ゲームを拒否する。

佐藤先生の事だ。王様になって誰かに高い濃度の酒を飲ませたいのだろう。そうなれば、確実に誰か死亡する。良い中華の店なのでそんな事はしたくない。

 

「…………教授棟の1階トイレ」

「え、トイレ?」

 

 佐藤先生のポツリとした呟きに俺は思わず生返事を返す。

 

「女子トイレから多量の粉塵、男子トイレはバケツをひっくり返したように水浸し。誰がやったのかしら……?」

 

 どこかで聞いた事のある話だった。

俺は安瀬たちに視線を向ける。

 

「「「………………」」」

 

 女子3人が俺と佐藤先生の視線から逃れる様にそっぽを向いた。

 

 たぶん、こいつらは由香里を成敗して満足した後、後片付けもせずに去っていったのだろうな。うーむ、今回の場合、俺の為にやってくれていたので怒るに怒れない。

 

「監視カメラの映像は私がコッソリと消しておきました。絶対に貴方たちの仕業だと思いましたから」

「え、マジですか?」

 

 俺らがお酒の耐性があり、佐藤先生のお気に入りなのは薄々感じていたが、そんな事していいのだろうか? 准教授であってもやりすぎな気がする……

 

「本当に佐藤先生には足を向けて眠れないね……」

「アハハ! 多分あたしたちー、先生いないと5回くらい停学になってそー」

「我もそう思う。神様、仏様、佐藤先生様じゃ」

 

 三者は媚びる様に佐藤先生を崇め奉る。

 

「じゃあ、神である私の提案は断らないわよね?」

「「「「……はい」」」」

 

 今回は俺の責任でもあるので、一緒に返事をした。

 

************************************************************

 

「準備できたわね」

 

 佐藤先生は持ってきていた化粧道具で王様ゲーム仕様の割りばしを作成した。

口紅で書かれた赤い王様が当たり、アイラインで書かれた黒い番号がハズレだ。

 

「吐くのは本当にお店に迷惑が掛かるので、死にそうになった時点で勘弁してください。あと一人が潰れたら終了という事で……」

「仕方ないわね」

 

 先生は渋々と俺たちの妥協案を受け入れてくれた。こういった所での嘔吐は罰金を取られるし、マナーとして最悪だ。やっぱり吐くなら、宅飲みに限る。  

 

「じゃあ、始めるわよ」

 

 そう言い、佐藤先生が卓上テーブルの中心に割り箸を持ってくる。

 

(この勝負、負けられんでござるよ)

(せっかく美味しい物食べたのにー、気分悪くなりたくなーい)

(これも一種の賭博と思おう)

(変な命令が来ませんように……)

 

俺達は祈るように割りばしを掴んだ。 

 

「「「「「王様だ~~れだ!」」」」」

 

 そして、掛け声とともに引き抜く。

 

さて、一回目の王様は……

 

「ラッキーー! 私だーー!!」

 

 猫屋が大声を上げ飛び跳ねる。よほど王様をとれたのが嬉しいようだ。

気持ちは痛いほどわかる。

 

「えーなに命令しようかなー……?」

 

 猫屋はルンルンとした雰囲気で笑っている。だが、先生がいるのだからあんまり変な事は止めて欲しい所だ。既婚者だからHな奴は本当にダメである。

 

「じゃあ、2番の人にー、肩でも揉んでもらおうかなー!」

「え、その程度でいいでござるか?」

「まぁー、最初だしー、このくらいでー」

 

 なるほど、いい塩梅の命令だ。このくらい緩い雰囲気を作った方が、常識的な命令が多くなりそうだ。グッジョブだ猫屋。肩をもんでやろう。

 

 俺は無言で席から立つと猫屋の背後に回った。

 

「えっ、えっ、2番て陣内なのー!?」

「おう、不服か?」

「い、いやそんなことはー……」

 

 猫屋は頬をポリポリとかきながら肩をすくめる。いつもは体の軸に芯が入った姿勢の良さなのに、今はどうにも彼女らしからぬ姿勢だ。もしかして、恥ずかしがっているのだろうか。それは良くない。俺は姿勢の良い姿の方が好きだ。

 

「よいしょっと」

 

 なので肩甲骨付近のツボを押して、無理やり姿勢を正してやる。

 

「ぁ……!?」

 

 急な刺激に声をあげる猫屋。いかん、流石に強く押しすぎたようだ。

反省して、今度は普通に肩をもんでやる。

 

「ん、おぉ……きもちー……ん、中々うまいじゃーん」

「お褒めにあずかり光栄の極みです」

「アハハハー、いいよー陣内。もっと敬えー」

 

 ふざけたやり取りでほのぼのとした謎の空間ができあがる。

あれだな、ノリの良いお婆ちゃんの相手をしている気分だ。

 

「こう、目の前でイチャつかれるとなんだか、むずかゆいものがあるね」

「………………で、ありんすな」

「若いっていいわぁ……」

 

 他3人が俺達を見てコソコソと何か話している。

それに気づいて、パッと手を離す。なんか、揶揄われていそうで気恥ずかしくなった。

 

「まぁ、こんなもんだろ」

「あれー? もう終わりー?」

 

 猫屋の不満そうな声を無視して、自分の席に戻る。

 

「さ、先生、次やりましょう」

「ん、そうね」

 

 そして、全員の割りばしを集め再び卓上にて引き直す。

 

「おぉ、我であるか」

 

 今度の王様は安瀬だった。場に少し緊張感が走る。俺ら4人の中で一番の問題児だ。はたしてどんな無茶ぶりがくるのだろうか……

 

「ふむ、では……3番の者が王様である我を全力で褒めるでありんす!」

「ん?」

 

 安瀬にしては案外平凡な命令だった。やっぱり、普段から褒められない奴は命令してでも褒めてほしくなるものなのだろうか。

 

「3番は私ね」

「…………先生であったか! なんというか、ちょっと恐れおおいでやんすよ」

 

 確かに安瀬の言う通りだ。佐藤先生は酒癖だけは悪いものの、大学教授の中では早熟の才女。おまけに、あの酒の強さだ。ここにいる全員が敬意の念を抱いている。

 

「安瀬さん……」

 

 先生は安瀬の手を両手で優しく包み込んだ。真面目な声の抑揚だ。

そして安瀬の顔を真剣に見つめながら、口を開いた。

 

「貴方は素晴らしい人間です。普段の行動のせいか誤解を生みやすいけど、本当のあなたは高潔な人よ。心根が真っ直ぐで、まるで太陽みたい。先生、あなたのそういった所が本当に好きよ」

 

「う、ゅ……」

 

「「「おぉ~~~」」」

 

 安瀬はヒクヒクと顔を引きつらせて、顔を赤くしていた。俺たちは先生の見事な褒め殺しに驚きの声をあげた。あの安瀬をこうも簡単に恥ずかしがらせるとは。

 

「まぁ、こういうのは恥ずかしがった方の負けよね」

 

 そう言って、先生は席に戻った。大人の余裕というものを感じる。

 

「あぁ、でも割と本心も入っているわよ?」

「いや、もうお腹いっぱいなので大丈夫でござる」

「ちゃんとフォローも忘れないとは流石ですね、先生……」

 

 落ち着いていて優雅な女性だ。西代のなんちゃってクールとは品が違うな。

これで酒乱でなければミスパーフェクトと呼んでいた。

 

 俺の中でまた先生の株が上がったところで、再びクジがセットされる。

 

 ……どのくらい続くんだろうか、このゲーム。

 誰かが潰れないと終わらないという終了条件はまずかったかもしれない。下手をすると閉店時間まで終わらない可能性がある。そろそろ、何かヤバいのが来るのではないだろうか。まぁ、俺の不安なんぞ関係なくゲームは進んで行くのだが。

 

「「「「「王様だ~~れだ!」」」」」

 

 引き抜かれた当たりクジ、それはこの場で人を酔い潰そうと画策する大魔王様の元に吸い寄せられた。

 

「あちゃー、先生が引いちゃったかー」

「お手柔らかにおねがいしますね」

 

 猫屋と西代が微妙そうに顔を歪める。

俺もこれから来る、致死量不可避の飲酒命令に身構えた。

 

「そうねぇ……」

 

 佐藤先生は足を組み、顎に手を当て真剣に考えている。

その口からは一体何が出てくるのだろうか……

 

「なら、4()()()3()()()()()()()()しましょうか? もしくは、4番がジョッキ半分の泡盛をイッキのみして頂戴」

「「「「……!?」」」」

 

 予想よりも、随分と恐ろしいモノが吐き出された。

デッド or キッス。何とも王様ゲームらしい命令だろうか。先ほどまでの緩やかな雰囲気は一瞬で霧となり消え去った。

 

「ふぅ、我は1番でありんす。助かったぜよ」

「僕は2番だね」

「で、俺が3番で」

「…………」

 

 猫屋が黙ってうつむいていた。どうやら死刑宣告を受けた4番は消去法で彼女の事らしい。まぁ、俺も終身刑くらいの実刑を受けてはいるが。

 

「あ、あ、あのー、そういった二択を迫るのはルール的にありなんですかー?」

「え、なに? ディープキスだけのほうが良かった?」

「そんなわけないじゃないですかーー!?」

 

 セクハラとアルハラの二者択一。教職に就く人間の言っていい事ではないだろう。なお当の本人は、猫屋の慌てふためいた否定を見てケラケラと笑いながら罰ゲーム用の酒を用意している。

 

「て、ていうかー! なんで普通のキスじゃなくて深い方なんですかー!?」

「口以外にされると私が興ざめしちゃうから」

「あぁ、逃げ道を塞いだんですか」

 

 確かに"キスをしろ"という命令なら、おでこや手の甲でもいいわけだ。

なんとも、意地の悪い……

 

「じ、陣内は何でそんな平気そうなのーー!!」

「……そりゃ役得であるからじゃろう?」

「違う」

「え、違うんだ?」

 

 今、俺には酒が入っている。そのため、人類三大欲求の1つは完全に封印されている。酒が入っている俺は無敵だ。

 

「今の俺にとって、接吻なんぞ挨拶と変わらん」

 

 ハードボイルドを気取って、大胆に宣言する。

 

「「「おぉ~~」」」

 

 猫屋以外の3人にはカッコいいと思われたようだ。……自分で言うのも何だが結構馬鹿っぽい発言だったと思うのに。

 

「わ、私とのキスを挨拶扱いかー……」

「……いや言い過ぎた。普通に粘膜接触だわ」

「そっ! その言い方はなんか卑猥だからやめろー!!」

 

 猫屋は俺と違って、物凄く恥ずかしそうだ。だが、俺が落ち着いてるのには他にも理由がある。

 

 猫屋は絶対に酒を飲む方を選ぶからである。コイツが俺にベロチューとか罰ゲームでもやらないだろう。だから先生は酒という逃げ道をちゃんと提示して猫屋の反応を面白がっているのだ。

 

 これで脱落者は猫屋で決まりだな。

 

「陣内、絶対に私がお酒を選ぶと思ってるでしょー……!」

 

 猫屋から鋭い指摘が入った。いかん、顔に出てしまっていたか。

 

「……まぁ、だって……なぁ?」

 

 要領を得ないあいまいな返事。俺は少し恥ずかしくなり西代に話題を振ってしまう。酒が入っていても恥という感情は俺にもある。

 

「え、いや、まぁ、普通にそうなんじゃないかい? いいから早く飲みなよ、猫屋」

 

 西代が飲酒を適当に催促する。ここでゲームを終わらせるか、もしくは早く次のくじを引きたいのだろう。だがその言い方は少しまずい。

 

 俺の危惧通りに猫屋の眉がピクンと跳ねる。爆発の兆候だった。

ここまで、恥ずかしがった彼女。沸点は随分と低くなっているはずだ。

 

「……やってやるー。キスがなんぼのもんじゃーーー!!」

 

 いつかのダーツを思い出す意気込み。突発的に間違った方向にやる気を出してしまう猫屋。彼女は見た目も口調もユルユルの癖に、負けず嫌いというか天邪鬼といった所がある。酒も入っているし、気性の荒さが本性として滲みでてしまったか?

 

「おいおい、落ち着けよ」

 

 彼女の暴走行為に俺は呆れた声音を作って静止を促した。

だがそこに、さらに待ったをかけられる。

 

「いや待ちなさい、陣内さん。……面白いからこのままで」

「佐藤先生……」

 

 この状況では確かに貴方は面白いでしょう。だが、この暴走でもし俺と猫屋が接吻するなどといった事態になれば、俺は明日からどのように彼女と接すればよいのだろうか。

 

「じーんなーい……! そこから動くなーー!!」

 

 顔を真っ赤にしてこちらを睨みつける般若(はんにゃ)。しかし、全然怖くないな。指で突いたら大声を上げて逃げ出しそうだ。明らかに無理をしている。

 

「大人しく、お酒にしようぜ」

「うるさーい、女はー……度胸っ!」

 

 だが、その無理を突き通そうと、彼女はずんずんと俺に近づいてくる。

 

「………………」

「………………」

 

 近づいてくる彼女の綺麗な顔。真っ赤とはいえ、その美しさに陰りなどはない。

ガラス細工のように綺麗で大きな瞳が潤んで震えていた。緊張してくれているのだと思うと何故か少しだけ嬉しい。

 

 そのどこか愛くるしい姿にドクンっと心臓が跳ねる。

 

 ……え? どくん? ……………………あれ?

 

 不整脈ではない。あれは少し痛みを伴う。今回は自然に飛び跳ねた。

 

 では、いったい…………何が原因で?

 

「…………」

「………………ね、猫屋?」

 

 唇との距離は俺の心象問題など置き去りにして、現在進行形で縮まってしまっている。

 

 すこし、止まって欲しかった。

 

 だが、あそこまで見栄をはっておいて、今さら変な気が出たなど口が裂けても言えるものではない。周りの外野共は止めるどころか、黙って俺たちの行く末を見守っている。役に立たない野次馬共。

 

 俺の異変を気にせずにゆっくりと近づく猫屋の唇。

ちょっと待て、今はなんか体がおかしい……!

 

「す、すとっ──────」

「や、やっぱり、むりぃぃぃぃいいいいいーーーーーー!!??」

「え……?」

 

 猫屋は唐突に大声を挙げ、回転テーブルを掴む。そして、勢いをつけて円卓をぶん回した。

 

「おろ?」

「あれ?」

「あら?」

 

 ガラッと食器を載せたまま回る円卓台。佐藤先生の前に置いてあった、泡盛入りジョッキグラスも当然回っている。それを猫屋はタイミングよく掴み……

 

 ゴク、ゴク、ゴク、ゴクッ!

 

 煽って飲み始めた。滝壺に落ちる水流の様に、酒を胃に流し込んでいる。

そして、全てを飲み終えるとガンッと乱暴にジョッキをテーブルに叩きつけた。

 

「っ、キューー……」

 

 変な声をだして、猫屋は静かにその場に座り込む。

 

「お、おい大丈夫かよ」

 

 体の異常はひとまず置いておき、急に力が抜けてた彼女を心配する。

 

「ぅあ゛゛、これ、やばいかもー」

「とりあえず水飲んどけ」

 

 俺は彼女に水を差しだす。深酒にはとりあえず水だ。

 

「ありがとー、陣内……」

 

 お礼を言うとゆっくりと水を飲み始めた。まぁこれで吐きはしないだろう。

でも、なんかシンプルに可哀そうだな。

 

「先生、こんな感じで潰れるのがお望みでありんすか?」

「……なにか違うわ」

 

 人が潰れたところが見たいといった張本人は、何故か不満げだ。

それを見た西代が会話に混ざる。

 

「僕なりに先生の話を分析してみたんですけど、立ち向かってくる無礼な酒飲みを倒す事が爽快で気持ちよかっただけなんじゃないんでしょうか?」

「……たしかに。よく考えてみたら私に絡んできた人と調子に乗っている人が潰れてたのを見て、笑ってた記憶しかないわね」

 

「「「「…………」」」」

 

 ここまでやってなんだ、その落ちは。俺はその言葉を吐き出さずに何とか飲み込んだ。どうやら、先生は挑んでくる者しか喰らわない、誇り高いライオンのようであった。

 

 だがまぁ、アルハラ気質なのは良くない事だと俺は思うので早急に改善して欲しい。

 

************************************************************

 

 俺たちは王様ゲームを切り上げて外に出た。今回の飲み会は中々にグダグダだったが、中華と酒は文句なく美味しかったので概ね満足だ。

 

 安瀬と西代の二人が猫屋の肩をもって介抱をしている。

異性の俺がそこに混じるのは抵抗があったので、外の喫煙所で煙草を吸っていた。

 

 そこに、佐藤先生が現れる。

 

「あら、随分と恰好がついているわね。手慣れようが、20歳とは思えないわ」

「……ノーコメントでお願いします」

 

 返答には何も意味はない。意味を持った言葉を返せば俺の立場が不利になりそうだ。

 

「でも、猫屋さんの反応を見るかぎり、本当にあの3人に手を出していないのね。そっちの倫理観はしっかりしているのね、陣内さん」

「……急に猥談ですか先生?」

 

 先生は俺の失礼な返答を受けて静かに笑う。

 

「ふふふ、ごめんなさい。でも大学生って皆、積極的なのよ? 私が昔担当した生徒には学生結婚した子がいたぐらいに。……悪い事ではないけどね」

「責任が持てないのなら悪い事だと思いますよ、俺は」

 

 思ったことをそのまま述べる。子供を育てるというのは金のかかる事だろう。

 

 経済的に自立しているなら良い。親が資産家で育てる環境があるのでも良い。貧乏でも頑張って生きていく決意を決めているのなら、応援する。

 

 だが惰性に流されて行くのは、違う気がする。

この考えは俺がまだ、社会の苦を知らない夢見がちな子供であるせいであろうか。

 

「責任ね……あなたは取れそうかしら?」

「え?」

 

 言葉が詰まった。俺に、責任? 将来的に結婚した時の話をしているのだろうか?

 

「……まぁ、その時が来れば覚悟が決まるんじゃないでしょうか」

 

 場当たり的で何とも頼りない言葉。先ほどまで子育てについて思慮を巡らせていたとは、思えないほど薄っぺらだ。

 

「君の年ならそれくらいの感覚でいいと思うわよ」

 

 俺の自虐を感じ取ったのか、先生は優しくフォローを入れてくれた。

先ほどとはまるで別人に見える。早くも酒が抜けたのだろうか。

 

「でも、私の言う()()はそういった意味じゃないわよ?」

「……先生?」

 

 先生の声音が少し変わった。先ほどよりも芯がある言葉。

 

 

「綺麗な女の子が3人も貴方のそばにいる」

 

 

 ドクンっと心臓が跳ねた気がした。

俺の驚いた様子を無視しして先生は続ける。

 

「貴方はあの3人のうち、誰を選ぶのかしら?」

 

 先ほど起こった俺の異常。いや、本来は正常な反応というべきだろうか。

 

「…………」

 

 あれは偶然だ。おそらく、酒が足りていなかった。

 

「俺が選ぶ事はあり得ませんよ、絶対に」

「あら、それはなぜ?」

 

 ()()()()()()()()()()。それが先生の問いで真っ先に浮かんだ答えだ。

俺はこのままの関係を望んでいる。あいつら3人だってそのはずだ。

 

「友達だからですよ。その先以上はないです」

「そうね、友達以上恋人未満。男女間の深い友情は貴方が主軸で成り立っている」

 

 その理屈なら、俺が変わればこの関係は終わることになるのだろうか。

なら安心だ。俺の酒好きは生涯変わらない。という事は、俺が彼女たちに手を出すことは決してありえない。

 

「先生、俺はあいつらを見て性欲とか湧かないんですよ。体質的に」

(ゆが)みが大きくなる前に、ちゃんと責任について考えておきなさいよ?」

 

 急に歯車がズレたみたいに、整合性の取れなくなった先生との会話。

(ゆが)み? え、何の話だ?

 

 俺は先生に言葉の意図を聞こうとした。

だが、そこに割り込んでくる車のクラクション。

 

「あ、旦那が迎えに来たわ。じゃあ陣内さん、良いお年を」

「え、あ、はい。…………良いお年を」

 

 先生と俺は来年まではもう会う事はないだろう。

俺が大学に行くのは年明けになるのだから。

 

 佐藤先生は迎えに来た旦那さんの車に乗って帰っていった。

 

「……なんだ? アレ、どういう意味だったんだ?」

 

 俺の疑問は煙草の煙のように簡単には消えてはくれなかった。

 



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酒キャン!

 

「広くて綺麗なところだな。人も少ないし」

「平日だからね。それに山の奥深くにあるし、意外と穴場なのかも」

「見てー! 大きな川あるよー!」

「山地が多く水源豊富な日本らしい、いい所であるな」

 

 俺たちは冬休みを利用して、神奈川県某所のキャンプ場に遊びに来ていた。

 

 山中の奥深く、川辺沿いの平らで長い平地。対岸沿いに鬱蒼と茂った木々をみているとマイナスイオンのおかげか妙に心が安らぐ。キャンプ場のHPで見たが、春には桜が咲くらしい。

 

 景色はすごく綺麗だ…………が、それにつけても

 

「あ゛ぁ゛ー、ビールが飲みてぇ」

「この景色を眺めて出てくるのが、それでござるか……」

「うーわ、ちゃんとアル中だねー」

 

 ここに来るための運転は全て俺がやった。

 山道を運転する事が想定されていたため、この中で一番馴れている俺が担当になったのだ。普段、俺の家に車が置いてあるせいか全員で成約したはずの車の使用頻度は俺がぶっちぎりで多い。

 

「お前らは既に飲んでるから平気なだけだろ」

 

 当然、彼女らが車内で2時間近くも酒を我慢できるはずもない。車の床シートには空き瓶が5本は転がっている。

 

「悪いね。僕達だけ、すでにほろ酔いで」

「いや本当にな。お前らが隣で飲むせいで飲酒欲求が天元突破しそうだ」

 

 本来は一人ぐらい、緊急時のため飲酒を控えるべきだ。まぁ、酒飲みモンスターズにはそのような配慮を求めても無駄だろうが。俺も一杯やりたいところだ。しかし、目的地にはついてなお、俺はまだお酒を飲むことができない。

 

「まだ飲酒は許さんでありんす」

「暗くなる前にー、温泉に行かなきゃねー」

 

 当然、キャンプ場に風呂場などはない。その為、また俺が運転して公衆浴場まで全員を運ぶ必要がある。男の俺としては、1日くらい風呂に入らなくても死にはしない。

 

 だが、女はそういうわけにはいかないだろう。

 

「酒飲みてぇ…………」

 

 改めて欲望をそのまま口に出す。

 

「はいはい、悪いけど煙草で我慢してね」

「その代わり、テント設営は拙者たちで頑張るぜよ!」

「いや、力仕事だしそれは手伝う。お前らは俺の前で酒を飲むのを我慢してくれればいい」

「「「無理」」」

 

 俺のお願いは一考の時間もなく破棄された。

 

 というか、"いや"でも、"したくない"でもなく"無理"ときたか。

彼女たちは、決して人の事をアル中と馬鹿にできない。

 

************************************************************

 

 俺たちの初めてのテント設営は難航したが1時間程度で何とか終わった。

8万円ほどする、大きな高級テント。4人が寝ころぶことができる程のサイズだ。

天井には薪ストーブ用の換気孔まである。

 

 安瀬と猫屋はそのテント内でコットと寝袋を用意している。コットとは寝具台の事だ。俺と西代は外で寛ぐ(くつろ)準備。

 

「ふぅ、結構疲れたな」

 

 日除け用の広いタープに、人数分の座り心地がよいローチェア。テーブルと焚火台もすでにセットした。準備としてはほぼ終わっただろう。

 

「僕はペグを打ち込みすぎて、腕が筋肉痛だよ」

 

 テント設置の為にハンマーで杭を打ち込んでいた西代は腕を痛そうに摩っている。

 

「タープも張ったし、その下で煙草でも吸って休んでろよ」

「そうさせてもらうよ。……陣内君は?」

「俺はこれだ」

 

 そう言って、俺は受付でレンタルした釣り竿を見せる。

 

「川釣りか、元気だね。ここでは何が釣れるんだい?」

「ニジマスとかヤマメ」

「おぉ、それは食欲をそそるね」

 

 包丁は当然持ってきている。内臓を処理して塩をふって焼けば、とれたての川魚が楽しめる算段だ。ビールにも日本酒にも恐ろしく合う事だろう。

 

「でも、あんまり期待するなよ。釣りなんてほぼド素人なんだ。ヤマメなんぞとても釣れない」

 

 釣りの経験など父親に数回連れて行って貰った事しかない。

 

「ふふふ、僕はちゃんと期待してて待っててあげるよ」

 

 意地が悪そうに西代は笑う。その捨てセリフだけ残して、彼女はタープ下に向かって行った。なんか変にプレッシャーをかけられたような気がする……

 

 俺は川沿いを荷物を持ってのそのそと歩き出した。

釣りポイントは上流の方にある。

 

 ……10分くらいは歩いただろうか。

 

 釣り可能、と書かれた看板が設置された場所まで辿り着いた。

周りには人はいなかったので、自分の好きな所に座り込む。

 

 灰皿置いて煙草を吸いながら、黙々と餌を釣り竿につける。

そして、特に考えもなしにそれを水面に放り投げる。

ぽちゃんと音がして沈み込んだ。

 

「……………………」

 

 そして、無の到来。

 

 季節故に少し肌寒いが、風はないので震えることはない。

対岸の森には様々な生物がいるのだろう。彼らの声が環境音として聞こえてくる

ゆっくりと雲を眺めるような時間の使い方。そこで美味い煙草を吸いながらひたすらに鎮座する。落ち着いて悪くない。

 

************************************************************

 

 30分は過ぎただろうか。獲物は全くかかっていない。

うーむ、まぁ、ダメで元々だ。もうちょっと粘ろう。

 

 そこに、じゃりじゃりっといった軽石を踏む足音が聞こえてくる。

 

 猫屋だった。

西代から俺が釣りをしているのを聞いて、見に来たのだろう。

 

「やっほー、釣れてるー?」

「いや、まったく」

「アハハハー、だよねー」

 

 横に座り込もうとする猫屋。

 

「あ、待てよ」

 

 俺はそれにストップを掛ける。

 

 比較的に綺麗な岩砂利が敷き詰められているが、野ざらしの地面だ。俺は持ってた大きめのハンカチを地面に敷いてやる。

 

「え、いいのー……?」

「いいよ別に、今日はたまたま持ってただけで普段は使わん」

「そういうことなら、おかまいなーく。ありがとねー」

 

 お礼を言い、俺の横に座る猫屋。彼女の手には酒が入っているであろうタンブラー。

 

「何飲んでるんだ?」

「"池"っていうー、静岡の日本酒」

「また美味そうなのを、人の隣で……」

 

 彼女から甘い日本酒の香りが漂う。

 

「ねぇ、釣りってたのしー?」

 

 ただ何もせずに竿を握り座っている俺の顔を、猫屋は不思議そうにのぞき込んでくる。

 

「うーん、そうだな……」

 

 彼女は釣りの経験がないのだろう。

俺は身近なところで分かりやすい例えを出してやる。

 

「パチンコと一緒だ」

「…………それ怒られるよー、マジで」

 

 俺の例えに、微妙な声音で返事をされる。

彼女の同意が得られるように、一応補足を入れてみる。

 

「まぁ俺は素人だから、釣りなんて運ゲーに等しい。大当たりがでるまで待つだけだ」

「そう言われればー……まぁ、たしかにー?」

 

 どうやら納得して頂けたようだ。魚がヒットすればアドレナリンが噴き出すが、それ以外は虚無。それが俺の釣りだった。

 

「……? なんか竿が震えてなーい?」

「…………手の震えだ」

「うっわー! まじかー……」

 

 猫屋が俺を心底可哀そうな目で見てくる。

 

「お酒、少しは控えたらー?」

「違うぞ猫屋。これは寒いから震えているだけなんだ。まじでそれだけだ」

 

 思わず早口で弁明する。これはアル中特有の症状ではなく、手が寒くてシバリングを起こしているだけだと。

 

「アハハっ、絶対うそー」

 

 彼女は俺を馬鹿にして楽しそうに笑う。そして懐から煙草を取り出して1本咥えた。

 

「あ、ジッポ、テントに忘れたー……」

「ほい、ライター」

 

 うっかり屋さんに火を恵んでやろう。自分のライターを片手に持って、ジジッとライターの火花を散らして火をつける。それを彼女が咥えた煙草にゆっくりと近づけてやる。

 

「せんきゅー」

 

 煙草の先に優しい赤い燃焼が起きる。

 

「ふぅーーー、うまーー……」

「酒に煙草、いい御身分だな」

「まーねー」

 

 特に悪びれた様子はない。隣の男は酒を我慢するという大業をなしているというのにだ。

 

 そこで何故か猫屋がクツクツと突然笑い出した。

急にどうしたのだろうか。

 

「あ、いやー、なんか前の事思い出してー……」

「前?」

「ほらー、陣内の家の前で鍵が無くてボーっと座ってたやつー」

「あぁ、あの時か」

 

 確かに状況は少し似ていた。猫屋に火種がなく、二人で隣通し地べたに座り込んでいる。あの時は変なマッチを使って火を起こしたな。

たった2月前のことだがどこか懐かしかった。

 

「なんか私達、結構長い付き合いになりそうだよねー」

 

 猫屋の言いたいことは何となく俺に伝わった。

これからの4年間、俺たちはどこかに旅行に行ったりして楽しく過ごすのだろう。

 

「……そうだな」

 

 その後二人に会話はなかった。もう1時間ほど粘って、テントに帰ることにした。魚はもちろん釣れなかったが、不思議と悔しくはない。二人分の時間を無駄に使ったおかげか、どこか穏やかな気分だった。

 

 なお、西代は本当に魚を楽しみにしていたようでがっかりしていた。

 

************************************************************

 

 パチパチと音を立てて、勢いよく燃える木々。俺たちは薪を囲んで椅子に座っている。もう周りは既に暗い。お風呂はすでに行って済ませていた。

 

「アヒージョとバケットの組み合わせが絶妙でござるな」

「あぁ、オリーブオイルとニンニクのおかげで酒が進む」

 

 焚火台の上に網を引いて鉄鍋を置き、それで作った特製アヒージョを摘まむように食す。あとは買ってきたバケットを主菜にゆっくりと酒と煙草を楽しむ。シメとしてパスタを入れるのも美味しそうだ。

 

 自然を感じる外での飲み会。これぞキャンプの醍醐味というものだろう。

 

「うーん、こんなもんでいいかなー?」

 

 そんな優雅な中で、猫屋が組み立て式のテーブル前で何かしていた。うろちょろしていて嫌にも目に付く。西代も俺と同じように気にしている様子だ。

 

「なにしてるんだい?」

「生け花ー、みたいなー?」

 

 彼女がそう言って見せてきたのはバケツだった。

その中に市販の氷を山ほど入れて土台をつくり、さまざまな種類のビールを突き刺している。

 

「コロナバケツでビールの生け花でござるか」

「どーう? 写真でとったら映えそうでしょー?」

「そうか?」

 

 夏にやるなら確かに氷とビールで清涼感がでるが、冬のキャンプ場でやるとアル中の証明にしかならなそうだ。

 

「何でもいいが、満足したならビールをくれ。サッポロのブラックラベルな」

「拙者にはエビスをよろしくであろう」

 

 俺と安瀬が仲良くビールを催促する。発泡酒ではなく、今日はお高いビールを買っている。早速飲みたい気分だ。

 

「僕はハイネケンで……。よく考えたら、僕らってビールの趣味バラバラだよね」

「たしかにー、私はコロナビール大好きだしー」

 

 言われてみてばたしかに西代のいう通りだ。俺たちの好きなビールには一つも被りはない。

 

「瓶ビールは()()()()、美味しいだけではないかえ?」

「あぁ、それはあるかもな」

 

 瓶のコーラが一番美味いという論文があると聞いたことがある。

飲み口の感触が満足感に影響を与えているとかなんとか。詳しく知らないが。

 

「それは聞き捨てならないね」

「たしかにー」

 

 それに不満を持ったのは瓶ビール派の二人だ。同時に彼女らは外国産ビール派閥でもある。

 

「こうねー、コロナはそぅ、えっと……うん」

「ハハ、食レポが下手だね猫屋。ハイネケンはその……あれだ。一番うまいよ」

「どっちもド下手でござるよ」

「何も伝わらなかったな」

 

 だが、彼女たちが言い淀んだのも分かる気がする。

ビールのうまさとは案外表現しづらい物なのかもしれない。

 

「いやー、本当に一番美味しんだけどねー」

「スーパードライくらい特徴がはっきりしてればいいんだけどね」

「あれはただ炭酸がキツイだけで候」

「その通りだが、言い方が遠慮ないな。夏に飲めば最高に美味いだろ?」

 

 俺も一番好きなサッポロビールを頭に浮かべて、食レポをしてみる。

 

 麦の原始的な味、炭酸の爽快感、濃厚な泡、奥深い味わい。

……普通のビールの説明になってしまった。なんで、あんなに美味いのに説明できないんだろうか?

 

「………効きビール大会、やるでござるか?」

 

 安瀬が少し面白そうな提案をしてくる。

 

「いいな、俺達が何をもって各種銘柄を好きだと言ってるか分かるかも」

「さんせー」

「同時にビールの味も分からない、()()()()()()も暴かれることになると……」

「西代よ、良く気付いたと褒めて進ぜよう」

 

 その言葉で俺たちのプライドに一瞬で火がついた。それはもう轟轟と。

目の前の焚火をはるかに凌駕する熱量だ。

 

「なぁに、今回は楽しいキャンプじゃ。罰ゲームなどと無粋な真似は止めておこう」

 

 安瀬は足を組んで顎をだし、俺達を見下ろしていた。

彼女は言外にこういっているのだ。

 

『最下位にビールを飲む権利はない。安物の発泡酒かノンアルで我慢しておけ』と。

 

「おもしれぇ……」

「これは逆に負けられなーい……!」

「無謀な挑戦だと鼻で笑ってあげるよ」

 

 これは、いつものように恥や酒を賭けたゲームではない。

いわば、己がブライドを賭けた真剣勝負。

 

「うむ、では早速準備にとりかかるがよい!」

「「「ははっ!」」」

 

 どこにいようと、ノリだけは良い俺達であった。

 

************************************************************

 

「今更だが、わざわざキャンプ来てやる事か、コレ?」

「どうしたのさ、突然?」

 

 目の前に用意される、複数のプラコップと目隠し。

それを見て俺はこんな所まで来て何をしているんだ、という気持ちになる。

 

「キャンプなんぞ自然を感じながら、飲み食いするだけであろう? 我らの場合はそれが酒を飲む方向に強いだけでありんすよ」

「……たしかに」

 

 景色を楽しんだ後は、飯食べて寝るだけだ。友達がいれば雑談したり、ゲームしたりするだろう。だが、それは家にいても同じだ。キャンプとは非日常感を味わいながら普段通りに過ごすという矛盾を秘めたものなのかも。

 

「なんでもいいからー、はやくやろー」

「そうだね。じゃあ、言いだしっぺから始めようか」

「望むところでござるよ」

 

 西代が安瀬に目隠しを取り付ける。この目隠しは先ほどのハンカチだ。

もちろん洗ってある。焚火で干したのですでに乾いていた。

 

「見えてないよな?」

「うむ。視界不良である」

 

 よく分からないが見えていないなら、それでいい。

 俺はコポコポとコップにビールを注ぐ。どれに注いだか忘れないようにしなければ。銘柄は全部で5種類。先ほど言っていた各々が好きなものにバドワイザーを追加した。

 

「できたぞ。あ、でも動くなよ安瀬。火があって危ないから」

 

 目の見えない状態で動いて、火に突っ込んだら大事故になってしまう。

 

「俺がコップ持たせるから」

「頼んだでありんす」

 

 そう言って、コップを安瀬の目の前に持っていき手を取って握らせてやる。

 

「ん」

 

 彼女は少し驚いたようにピクッと反応した。目の見ない状態で急に触られたので驚いたのだろう。だが、動揺を見せたのは一瞬ですぐに酒を煽り始めた。

 

「……ふぅ、次じゃな」

「口直しに、水も用意したよー」

「不要である」

「随分と強気だね」

「まぁの」

 

 俺は彼女の催促に従って、次々にビールを持っていく。

そして5杯全てを飲みを終わったところで、安瀬はニヤリと笑って自信満々に答えた。

 

「順番に言うぜよ、ハイネケン、エビス、コロナ、ブラックラベル、バドワイザーじゃな」

「お、おぉ、凄いなお前」

「全問正解だよ」

「やるねー、安瀬ちゃん……!」

 

 まさか全て完璧に言い当てるとは……。

不正の余地も今回はないし、大した味覚だ。

 

「我の素晴らしき感性が露見してしまったの! 自信を無くすな、凡庸な諸君よ!!」

「安瀬ちゃんてー、性格以外は割と完璧人間だよねー」

「これは負けていられないな。次は僕がやろう」

 

 そうして俺たちは安瀬に負けじとゲームを進める。

酒飲みの誇りを賭けてはいるが、その絵面は何とも地味だ。

 

西代の結果は。

 

「3つ正解か。まぁ、惜しかったね」

 

俺の結果。

 

「2つか。やっぱり、このゲーム普通に難しいぞ」

 

そして、猫屋は……

 

「ぜ、ぜんぜん分かんなかったー……」

 

 まさかの全問不正解。

頭を抱えて地面に跪く彼女。どうやら酒飲みのプライドがそうとう傷ついているようだ。だが彼女の辛党ぶりから惟みるに、この結果は正直予想できていた。

 

「やっぱり味覚音痴はお前か」

「納得の結果であるな」

「当然の帰結だね」

 

 味の分からない彼女はこれからビールを飲む必要はない。

発泡酒で十分であろう。

 

「お、おビール様に合わせる顔がないーー!!」

 

 猫屋の悲痛の叫びをゲラゲラと笑って、楽しく夜を過ごしたのだった。

 

************************************************************

 

 時間は深夜。場所はテント内。

明るい焚火は消え失せ、俺たちはとっくに就寝していた。

 

 俺は地面から浮いた就寝台の上で目を覚ます。むろん、寝袋の中でだ。

 

(…………なんだ?)

 

 何か軽い衝撃があった。体をゆすられるような感覚。

ぼんやりとした意識でその正体を探る。

 

「すぅ……」

 

 ()()()西()()()()()()()()()()()()()()()

俺の意識は驚きのあまり一気に覚醒する。

 

「っ! ばっ……!?」

 

 思わず大声を挙げそうになった。今この状態で叫んで他二人を起こして、この場面を見られるのは非常にまずい気がした。いつかの野球拳の再来を感じる。

 

「…………なんだい? うるさいね」

 

 俺の漏れでた声を聞いて西代が目を覚ます。うるさい、ではない。

寝ている二名を起こさない様に、静かな声で理由を問いただそうとする。

 

「お前、なんで俺の寝袋にいるんだよ……!?」

「あぁそんな事か、冷え性でどうにも寒くてね。ビールを飲みすぎてしまったようだ」

 

 そういう彼女の体は確かに冷たいような気がする。

密着しているせいか、体温と肌の感触がじかに伝わってくる。

 

「そこは普通、同性のところに行くだろうが……!」

「彼女らのコットはせまいだろう? 陣内君のは大きくて耐久性が高いからさ」

 

 確かにキャンプギア購入の際、俺のだけは大き目で耐久性があるものを購入しておいた。寝袋も女性陣と比べて広く厚い。

 

「い、いやそれでもな……」

「別に陣内君ならいいだろう? とにかく寒いんだ……」

 

 そう言うと、彼女はさらに体を押し寄せる。胸や太腿の感触がダイレクトに伝わってくる。ドクンっと心臓がはねた。……酒が足りていない。

俺の事を安心な湯たんぽとでも思っているのであろうか。彼女の髪から香る、蜂蜜のように甘い匂いに理性が刺激される。

 

「あったかいね……」

 

 俺の気持ちなどは知らず、西代は気持ちよさそうに再び眠り始めた。

今すぐにでも、酒を摂取したいがこうなってしまうと抜け出すのは困難だ。

 

「…………」

 

 仕方がないので、このまま眠る事にする。幸いにも酒は抜けきっていないようで興奮はそこまで強くはない。俺の事よりも寒がっている彼女を優先すべきだ。

冷え性というのは大変の様だし。

 

 スッと西代の背に手を回し、軽く抱きしめる。こうした方が暖かいはずだ。

小さい彼女がすっぽり体に収まる。何故か俺も少し安心した。

 

 明日は早く起きて、朝から火を焚いてやるか。

他二人に見つかるのも揶揄われそうで嫌だし。

 

 そんな事を考えながら、俺は西代と仲良く一緒に就寝した。

 



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女たらし

 

 冬休みに入って早くも5日が経過した。キャンプに行った以外は、いつものように集まって酒を飲む日々。講義が無いのに、なぜ酒飲みモンスターズは我が家に集まるのだろうか。今日も猫屋が遊びに来ている。というか、昨日もいた。

 

 今は二人で昼ご飯を作っている。ピーマンの肉詰めだ。

少し手間だが熱々のご飯、それにビールとの相性はバッチリだろう。

 

「ねぇー、陣内?」

「なんだ?」

 

 俺がひき肉をこね、猫屋はピーマンの下処理。

今日はお互いにバイトはないので、酒を飲みながらだ。恥ずかしながら俺達4人はキッチンドリンカー。家事をするときは基本、お酒がセットだ。

 

「明日、クリスマスイブだねー」

「あぁ、そうだな」

 

 今日は12月23日。キリストの生誕、前々日。外国ではどのように祝うのか知らないが、日本では恋人とデートする日だ。

 

「猫屋は彼氏とデートとか行くのか?」

「それさー、私に絶対彼氏がいないと思って聞いてるよねー」

 

 俺の分かりきった質問にふてくされる彼女。

彼氏がいたのなら俺の家に入り浸りなどはしない。

 

「そもそも、明日は私達全員バイトでしょー」

「……嫌になるなぁ」

 

 聖なる夜ぐらいは働かずに、七面鳥とシャンパンを飲んでゆっくりしたい。

しかし、繁忙期にバイトというモノは中々休めないものだ。

 

「カラオケはクリスマスとか特に忙しんじゃないか?」

「うん、夜10時から朝5時まで働きっぱなしー。恋人と子供連れで店内がごちゃ混ぜになるらしー」

 

 彼女は明日の事を想像して憂鬱そうに顔を曇らせる。確かに、レジャー施設などはクリスマスは大忙しになりそうだ。

 

「俺もバイトは夜からだな。まぁ、明日の昼間はゆっくりしてようぜ。どうせ今日も泊まっていくだろ?」

「……………………」

 

 俺の確認に彼女は少し黙った。何かを考え込んでいるのか、ピーマンの種を除ける手が止まっている。

 

「じんなーい……?」

 

 そうして、こちらを下からのぞき込むように見ると、ニヤリと意地悪そうに笑った。

 

「明日、()()()()()しよっかー」

「……っ!?」

 

 慮外の発言に驚き、言葉に詰まる。

デート? 俺と? 猫屋が?

 

「おい、冗談はよせよ。心臓が止まるかと思ったぞ」

「えー、ひどーい。冗談じゃないよー?」

「はいはい」

 

 ひき肉まみれの手をプラプラと振って、適当に彼女をあしらう。

 

「私、今日は家に帰るからさー、明日はちゃーんと車で迎えに来てね?」

「……本気か?」

 

 その発言で、一気に言葉の真実味が増した。今日の夜は安瀬と西代が来る。

いつもの飲み会だ。それを蹴ってまで、デートの準備をしてくると彼女は言っているのだ。

 

「うん、陣内もー、ちゃんとお洒落してきてねー」

「え、あ、あぁ」

 

 生返事で返してしまったが、どうやら本気らしい。俺に彼女の隣に立つほどの身支度などできるわけがないだろう。

 

 だが、男として進められたグラスを引くような真似はできない。彼女の真意が何なのか分からないが、とりあえずこの余興には付き合おう。

 

 そんなこんなで、明日は何故か猫屋とクリスマスイブデートすることに決まってしまった。デートと言っても、どうせ適当に遊ぶだけだろうが……

 

************************************************************

 

 翌日。

 

 ヘアアイロンで柔らかくして、ワックスで自然に束感を出した髪。

黒いダウンジャケットにデニムズボン、そしてお気に入りの真っ白で大きな靴。

最後に、香りの薄目な柑橘系の香水を軽く振る。

 

 ガチガチでお洒落してしまった……!!

 

 デートという言葉を本気にしてると思われて引かれたら、どうしよう。

この姿を見て、『あ、ごめん。冗談だったのに……なんかごめんね?』とか言われたら泣く自信があるぞ。

 

 俺は猫屋が自身の賃貸から出てくるのを、車の中で待っている。

本当にデートみたいになっているので、緊張してきた。酒を飲んで誤魔化したい。

 

 悶々としていると、コンコンっとドアのミラーを叩く音が聞こえてくる。

 

「ごめーん、お待たせー。ちょっと準備に時間かかっちゃったー」

 

 猫屋が窓越しに俺に話しかけてきた。

 

 目がいつもより大きく見える薄い化粧。桜色のリップが唇に光沢と潤いを演出している。綺麗に巻かれた艶のある金髪。耳には丸いイヤリング。

 

 それは俺が彼女の誕生日にプレゼントしたモノだった。今日の為に着けてきてくれたのだろう。そんなに高くない物だが使ってくれると嬉しい。

 

 俺はドアのロックを外して彼女を車内に招き入れる。

 

 彼女の全容が露になる。上着は灰色のロングコート。下には珍しく丈の長いスカートを穿いている。いつもはジッポを太腿で点けるために、ジーパンを好むはずなのに。黒いストッキングがその細い足をさらに強調している。

 

 よかった。この気合の入れようをみるに今回はマジのデートのようだ…………。マジのデートってなんだよ。

 

「おぉー、中々かっこいいじゃーん」

「お前にはボロ負けだよ」

「アハハハ、ありがとー」

 

 ニコニコと朗らかにほほ笑む彼女。

雑に褒めたが、本当に可愛らしいなコイツ。

 

「で、今日はどこいくんだ? 悪いけど、急な予定だったからプランなんて考えてないぞ」

 

 それに、クリスマスイブだからどこも予約でいっぱいだろう。

行ける所としたら、映画館くらいしか思いつかない。

 

「大型ショッピングモールまでよろしくー」

「……そんな所でいいのか?」

「今日の目的はー、西代ちゃんの誕プレ選びなわけよー」

 

 唐突なデート目的のカミングアウト。だがようやく、合点がいった。

 

「そう言えば、あいつの誕生日1月7日だったな」

「年明けすぐだからねー。()()()()()()()()けど、プレゼントはちゃんと選んでおこうと思ってー」

 

 西代の誕生会は行われない。当の本人が不在のためだ。彼女はなぜか実家で祝ってもらうそうだ。その頃にはすでに冬休みは終わっているはずだが、アイツまた講義をサボるつもりだろうか。

 

「ていうかー、デートって言ってたから単純な陣内は意識しちゃったかにゃー?」

 

 ぶりっ子口調で俺を嘲笑う猫屋。その表情は小悪魔的に口角を釣り上げている。

……酒のない俺には、今日のコイツの姿は目に毒だ。よし、思いっきりふざけて返事してやろう。

 

「あぁ、凄い意識してきた。興奮して昨日は寝付けなかったくらいだ」

 

 俺らしくない真剣な声音で声を作る。

ガチガチコーディネートと合わさって効果がでればいいが、どうだ……?

 

「へ、へー……。あ、その、ね、うん、ありがとー……」

 

 猫屋は俺の真面目な回答に顔を少し赤らめ、頬をポリポイと掻いた。

それは彼女が恥ずかしがっている時の癖だ。どうやら仕返しは成功したらしい。

 

「……っくふ」

 

 その様子がどこか可笑しくて、俺は堪らず笑いがこぼれてしまった。

 

「あ、あーー!! 謀ったな、きさまーー!!」

「はははっ! 安瀬みたいなこと言うのな。……まぁ今回、先に仕掛けたのはお前だ。これくらいはいいだろ?」

「ぐ、ぐ、ぐーー……!」

 

 猫屋は何も言えずに押し黙った。俺はカーナビに目的地を入れて、車をだす。

 

 俺たちのなんちゃってデートはこうやって始まった。

 

************************************************************

 

「人、多いねー」

「休日だしな」

 

 クリスマス仕様のショッピングモール。店内広場には大きなモミの木に装飾が施されており、子供たちが群がっている。他にも俺達みたいな男女のペアもちらほらと見られる。

 

「今日はどこもこんな感じなんだろうな」

「だねー、……フフっ、迷子にならないように手でも繋ぐー?」

「それ、俺がいいよって言ったらどうするつもりなんだよ……」

 

 さっきの会話から彼女は何も学んでいないようだ。

 

「……なーんか周りに染められて頭がピンクになってるかも、私」

「わかる」

 

 すれ違う男女のカップル。その多さは普段の非ではない。

人間は集団的生活をする生き物だ。長い者には巻かれろ、朱に交われば赤くなる。無意識に周りに影響を受けているのは気のせいではないだろう。

 

「さっさと目的の物を買って帰ろうぜ。夜はバイトがあるし」

「だねー、家で煙草をスパスパしてゴロゴロしたくなってきたー」

 

 猫屋に賛成だ。外に気合を入れて出かけた時ほど、何故か帰りたくなる事がある。

今回の場合は人の多さと雰囲気が理由だ。

 

「で、西代に何を贈るかは決まってるのか?」

「実はそれが全然決まらなくてー……」

「え? 何で?」

「西代ちゃんの趣味ってさー、酒と煙草とギャンブルに、後は本ぐらいしかないんだよねー」

「あー……」

 

 確かに彼女の言う通りだった。西代の賃貸に行った事があるが、最低限の家電を他に本棚しかなかった。服も女としては最小限。部屋にはTVすら無く、ミニマリストかと思うほどのガランドウ。

 

 西代曰く、『酒と煙草と本。それに程々のスリルがあれば、僕の暮らしは十分に豊かなのさ』らしい。アイツの言うスリルは絶対に程々ではないが。

 

「なら本でいいんじゃないか?」

「それも考えたけどー、本って自分で選びたい物でしょ? それに私、小説とか読まないから詳しくなーい」

「……そうだな」

 

 俺達4人の中で読書を嗜むのは安瀬と西代だけだ。安瀬が読むのは歴史小説だけだが。彼女らは偶に読んだ歴史小説の感想をグラスを傾けて語り合っている。その姿は俺と猫屋にとってはどこか近寄り難い大人の雰囲気だった。恰好がついて、ちょっと羨ましい。

 

「俺も思い浮かばんな……」

「ならもうお店をグルグル回って、ビビッと来るものを探すしかないよねー」

「なるほど、俺が誘われた理由は相談役か」

「そーいうことー」

 

 二人で探せば、ある程度まともな物が選べるであろう。

 

「とりあえず、プレゼントだし消耗品は無しだよな」

「明日のクリスマス会で、皆がお酒を持ち寄るしねー」

 

 明日の夜は、全員がバイト後に集まってクリスマスを祝う予定だ。

その時にプレゼント代わりに各自がお酒を持ち寄る。予算は5000円以内。

 

 俺はシンデレラシューを3本ほどクリスマスセールで購入した。

 

 いわゆるパリピ酒。ガラスでできた靴の瓶が特徴的な品だ。中に入っている酒を選べたので、ピンク、黄色、青の3種類にした。それぞれが別種の果実種になっている。結構、綺麗なので喜んでくれると嬉しいが。

 

 まぁ、今はそんな事より西代の誕プレ選びだ。

 

「雑貨店にでも行くか」

「それが無難かなー」

 

************************************************************

 

 俺たちは西代が好みそうな品を探して歩き回る。

結果はあまり良くなかった。気づけば自分たちが欲しい物ばかりに目がいっている。

 

「わぁー……! このチークかわいーー」

「…………」

 

 今なんぞ、猫屋に付き合って化粧品コーナーに入っていた。男の俺にとっては全く縁遠い場所だ。最近の男は化粧をする奴がいるらしいが、俺はしない。

 

 猫屋は化粧品に夢中なようだか。

 

「西代って、あんまり化粧に熱心なイメージないな」

 

 名目上は誕プレ探しなので、そちらに目的を戻そうとする。

 

「んー、そうだよねー。西代ちゃん、マジで可愛いからもったいないよねー」

「化粧は最低限て感じだよな。まぁ、俺も着飾るよりは酒と煙草だけどな」

「アハハー、わかっちゃうー」

 

 そう言う猫屋であるが、我が家では一番のお洒落さんだ。化粧は上手いし、上品な着こなしをする。実際、目の前の彼女は魔性だ。横顔から見える唇がいつもより濡れて艶やかに見える。

 

「でも女って凄いよな。素材が良ければ、口に紅を塗っただけで唇にハリがでるもんなんだ」

 

 例え美男が紅を塗っても、あぁは綺麗にならないだろう。

 

 俺の言葉に、彼女はピクンと反応する。何か言いたそうだ。

 

「そんなわけないじゃーん。化粧って大変なんだからー。唇がふっくらしてるのは、カプサイシンの効果だよー」

「か、かぷ……!?」

 

 カプサイシンは確かトウガラシなどに存在する辛味成分のはずだ。

 

「お前は重度の辛い物好きだと知ってたが、化粧にまで転用するとは……」

「そんなわけないじゃん!! 最近はカプサイシン入りのリップが売ってるのー。唇が少し腫れて、ハリがあるように見えるって理屈」

「……化粧てすげーな。マジで」

 

 というか女が凄い。なんという情熱と発想力だ。口紅に辛料を仕込むなんて、俺には絶対考えつかない。美の探求者だな。

 

「痛くないのか?」

「ぜんぜーん。人によるらしいけどー」

 

 なるほど、彼女なら余裕で耐えられるか。

 

「それにしても随分と熱心に見ているな、欲しいのか? そのチーク」

「うーん、やっぱりいいや。似たようなの持ってるしー」

 

 そう言って彼女は周りを見渡す。次に行く所を見繕っているようだ。

 

 俺も彼女に習って、周りを見てみる。

すると、あるフロアに目が留まった。

 

「あ、花か……」

 

 彩り豊かな花が咲く、品揃えが良さそうなお花屋さん。

 

「花? でも西代ちゃんて、小まめに水やるタイプー? そりゃあ貰えば世話はするだろうけどさー」

「まぁ、いいからちょっとついて来い」

「え、ちょっとー」

 

 不満そうな猫屋の声を無視して、1人で先に行く。俺の見立てが正しいなら良い物が置いてあるはずだ。

 

 店内に入った俺は、ガラスで覆われた1本の青い薔薇を見つけた。

他にも芍薬や睡蓮、ガーベラといった綺麗な花たちがガラスドームのインテリアとして販売されている。

 

「やっぱり、あったな。アイスフラワー」

 

 冷凍によって美しいまま、寿命を延長された花。決して、配管工のパワーアップアイテムではない。

 

「わぁー、綺麗……。いーじゃんコレ! でも枯れないの?」

 

 俺に追いついた猫屋がアイスフラワーに見とれている。

 

「5年くらいは持つらしい。西代の何もない部屋にはピッタリなインテリアになると思わないか?」

「……いいねー、それ!」

 

 机に置かれた酒のグラスと一本の青い薔薇。

それを背景に本を読む西代を想像すると恐ろしく絵になる。

 

「私、この青い薔薇にするー! ……陣内は他の花にするの?」

「俺は地元に帰った時に探すわ」

 

 西代の誕生日は年明けだ。今焦って買う必要はない。

 

「そっか、じゃあ私はコレ買ってくるねー」

「行ってら…………あ、悪い。俺ちょっと個人的に買いたい物あるから先に車で待っててくれ」

 

 そう言って、彼女に車のキーを差し出す。

 

「へ? ……あ、うん」

 

 猫屋は間の抜けた声を出してそれを受け取った。特に詮索される事はなかった。

 

 俺は彼女と別れて店の外に出た。

 

************************************************************

 

「待たせたな」

「遅くなーい?」

 

 必要な物を買い揃えた俺は車に戻ってきた。

猫屋の言うとおり、結構時間がかかってしまった。

 

「悪い悪い、コレやるから許してくれ」

 

 俺は有無を言わさず、紙袋を手渡した。

 

「え、……コレなーに?」

「クリスマスイブのプレゼント」

 

 その言葉に猫屋は大きな瞳を収縮させた。

女性とイブにデートして手ぶらで返すほど、俺は非紳士的ではない。

 

「え、え、ちょっ! なんで? というか私へのプレゼント買いにあそこで別れたの!?」

 

 よっぽど驚いているのか、緩い口調はどこかに飛んでいってしまったようだ。

 

「まぁ、そんな所」

 

 適当に誤魔化しておく。恥ずかしいわけではない。

 

「えー、うー、嬉しいけどなんか悪いー」

「いいよ別に、今日は結構楽しかったし。そのお礼とでも思ってくれ」

「い、いい男だなー、陣内のくせにー」

 

 猫屋は今朝と同じように、ポリポリと頬を掻いた。プレゼントは一応成功のようだ。

 

「ねぇ、中見てもいーい?」

「どうぞどうぞ」

 

 俺の許可をわざわざ取って、彼女は紙袋から商品を取り出す。変な所で律儀な奴だ。

 

「リボン?」

「すまんな、あんまりセンスが無くて」

 

 淡い緑色の長い紐。初めは彼女が熱心に見ていたチークにしようとしたが、似たような物を持っていると言っていた。それに、化粧品の良し悪しなど俺には分からない。なら猫屋に似合う物を贈るべきだと考えた。

 

 だか、普段から洒落た彼女には子供らしすぎただろうか?

 

「そんな事ないよ」

 

 そう言って、猫屋は自身の髪にリボンを結び始めた。手先を器用に使って髪に紐を結う動作は、隣に座る友人が女性である事を俺に強く意識させる。

 

「どう? 似合ってるでしょーー!」

 

 落ちてきた夕日に照らされる、優しい顔。

一瞬、目を奪われた。

 

「……ぁ、ああ。俺の目に狂いはなかったみたいだな」

 

 誤魔化すように、威勢のいいことを口走る。

ぐぐぐ……俺が恥ずかしがってどうする。

 

「なにそれー、褒めるのか自画自賛かわかんなーい」

「ちゃんと褒めてるよ」

 

 ただ、真正面から褒めるのは酒が入っていないとできそうにない。

 

「……さ、帰ろうぜ。俺のバイトの時間も近い」

「ぐぇー、バイトマジで行きたくないなー」

「俺も……」

 

 俺たちはバイトの愚痴を言い合いながら帰宅した。運転中、赤信号に止まるたびに夕陽を反射してキラキラと光る彼女の金髪に見惚れてしまっていた。

 

 プレゼントのお返しを貰った気分だ。

もちろん、そんな恥ずかしい事は猫屋には死んでも言わない。

 

************************************************************

 

 翌日の深夜3時。クリスマス会終わりで女子3人が寝静まった時間。

 

 俺は1人で台所の換気扇下で煙草を燻らせていた。なんとなく眠れなかった。酒の興奮作用のせいだろう。

 

 その時、ガラッと台所の扉が開かれる。

 

「ん、なんじゃ、起きておったのか」

 

 そこには、寝ていたはずの安瀬がいた。

なぜか目を覚ましたようだ。

 

「まぁな、お前はどうした? 煙草か?」

「煙草が吸いたくて起きる阿呆はおらんじゃろ。喉が渇いたから何か飲みにきただけでござる」

 

 寝室は加湿器で加湿してあるが、冬なのでどうしても乾燥する。それに加えて酒を飲めば喉も渇くか。

 

「あぁなるほど……麦茶でいいだろ?」

 

 俺は冷蔵庫を開いて、大量に作り置きした麦茶を取り出した。そして、返事も待たずにコップに注ぐ。

 

「うむ、良きにはからえぜよ」

「なんだそりゃ」

 

 彼女なりのお礼らしいが、感謝の意は全く伝わって来なかった。俺は冷めた麦茶を彼女に手渡す。

 

 それを受け取り、美味しそうにゴグゴクと飲み干す彼女。

 

「ふぅ、……これでよく眠れそうである」

「明日の夜にはお兄さんと一緒に実家に帰るんだろ? なら、今のうちに酒抜いてよく寝とかないとな」

 

 陽光さんが早めに仕事納めに入れるらしく、安瀬もそれに合わせて一緒に帰るようだ。やっぱり仲の良い兄妹だ。

 

「兄貴はネチネチとうるさいのでありんす。もう子供でもないのじゃから、酒くらい自由に飲ませて欲しいでござるよ」

「ハハハ、俺らはまだまだ子供だと思うぞ。無茶苦茶に酒を飲む所とかがな」

 

 クリスマス会も大人から見れば下品極まりない内容だった。用意した酒を一晩で飲みきり、ダーツやTVゲームで大騒ぎ。罰ゲームで人の不様を大声で嘲り笑う。

 

 良識ある大人にはまだまだなれそうに無い。

今が楽しいので、なる気もないが。

 

「はぁ……まぁ、正月は家に篭って兄貴でも酔い潰して遊ぶかの」

「え、安瀬の方がお酒強いのか? 体格的にお兄さんもかなり強そうに見えたけど」

 

 体が大きければ、それに合わせて臓器も大きい。当然、大きい方が性能が高いと考えるのが普通だろう。

 

「兄は父親似じゃからの。肝臓は並の性能でありんす」

「……そうか」

 

 ……二人もいないし、渡すならこのタイミングだな。

俺は台所の収納スペースに置いてあった紙袋を取り出した。

 

「なんであるか、それ?」

()()()()()()()()()()()()だ。実家に持って帰ってくれ」

 

 猫屋と別れた後、俺は緑のリボンを買ってもう一度花屋に戻っていた。

その時に購入したそれらを、安瀬に押し付けるように手渡した。

 

「…………っ」

 

 受け取った彼女は面食らったような顔をして硬直していた。まぁ、突然渡したらそんな反応になるよな。

 

 俺は煙草を灰皿に押しつけ、安瀬に背を向けるように寝室の方へ歩いた。

 

「じゃあ、俺も寝るわ。コップの片付けは自分でやってくれ」

 

 捨て台詞を言い、台所の扉を閉める。

()()()()()()()()()()()()()が、小っ恥ずかしいので早く逃げたかった。

 

 

************************************************************

 

「……カッコつけすぎじゃ、馬鹿」

 

  安瀬しかいない台所で独り言がポツリと響く。ギュッと彼女は紙袋を大切そうに抱きしめた。安瀬にとって陣内の贈り物は、()()()()()()()()()()()()()

 

 紙袋の中に入っていたのは、青い薔薇ではなくピンク色の睡蓮だった。

 



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偽りの伴侶

 

 年越しまで後二日。我が家に巣くう酒飲みモンスターズは一人を残して帰省した。安瀬は兄と一緒に広島へ。猫屋は昨日、高速バスで群馬の実家に帰っていった。

 

 俺もこの後、西代を車で空港に送ってから実家に帰るつもりだ。

 

「忘れ物はないか?」

 

 車に乗り込んで、助手席に座る彼女に最終確認をする。

次に俺の家に来るのは年明けになる。財布なんぞ忘れたら目も当てられない。

 

「うん、着替えくらいしか持って行く物もないしね」

 

 そういう彼女の荷物は少ない。リュック一つと実にコンパクトだ。

 

「……ずいぶんと身軽なんだな」

「そうかい? 替えの下着とYシャツにズボン。あとは今着ているコートがあれば十分だろう?」

 

 なんとも飾り気のない奴だ。彼女の場合、優れた美貌があるのだからもっといろいろな服を着ればいいのに。

 

「親に土産とかはないのか?」

「あぁ、確かに必要だね。途中で買っていこうか」

「空港にお土産屋さんがあるよな。そこで買ってけ」

「…………」

 

 俺の言葉に西代は何故か沈黙で返した。返答に困るような内容ではないはずだが?

 

「今から飛行機で実家の香川まで帰るんだろ? まさか新幹線で帰る気じゃないだろうな」

 

 ここから四国まで新幹線で行こうとしたら、かなりの金がかかる。おまけに途中から電車に乗り換えも必要なはず。飛行機のほうが安いし、1時間くらいで着く。

 

「いいや、このまま車で行くよ」

「……阿呆か。ここから車で香川なんて高速道路で16時間くらいかかるぞ」

 

 西代の天然じみた発言に俺は頭が痛くなってくる。

どうしたんだ、こいつ。酒も飲んでいないのにIQが下がりすぎじゃないか。

 

「まだ言っていなかったね」

 

 そう言うと、彼女は懐からセッターを取り出して火をつけた。

そして煙を吸って、吐いて、たっぷりと間をとってから続きを話し出した。

 

 

「僕は正月は実家に帰らないよ。このまま陣内君の実家にお世話になろうと思ってる」

「……はぁ!!??」

 

 

 あまりに突拍子のない発言。驚きすぎて眼球が零れ落ちるかと思った。当然だが俺はそんな約束を彼女とした覚えはない。

 

「お前、急に何言ってんだ!? 馬鹿じゃねーの!?」

「馬鹿とは失敬だな。ちゃんと理由はあるよ?」

 

 恋人でもない限り、正月に異性の実家に泊まる理由はないだろ。

 

「まず、僕は正月が大嫌いだ」

 

 西代は顔を露骨に歪めて、年明けという祝い事に唾を吐いた。

 

「親戚連中が実家に集まるのがとにかく嫌でね。家に蛆虫が沸いている気分になる。自分勝手なことで悪いが、本当に帰りたくない」

「……そうなんだ」

 

 何とも返事がしにくい問題。人の家庭事情は様々だ。あんまり口を突っ込んではいけないし、理解を示す必要もある。じゃあ賃貸にいてやり過ごせば? とは言わない。一人で正月を過ごすのは孤独だろう。

 

 だけども……

 

「それで俺の実家に避難しようとするのは納得ができんのだが」

「安瀬の家は遠い。猫屋の家は出てくる食べ物が辛そう。となると消去法的に陣内君しかいないだろう?」

「猫屋の方は我慢すればいいだろうが!」

 

 その程度の理由で異性の家に寝泊まりしようとするなよ。

……普段からずっと俺の家に居るわ、こいつ。

 

「……あんまりこういう事言いたくないが、正月くらいは親に顔見せたらどうだ?」

「僕の誕生日に帰省するから、その時に会える。冬休みを1週間延長してゆっくりするさ」

 

 そういえば西代は誕生日を実家で祝うと言っていた。理由は帰省の時期をずらして、親戚と顔を合わせないためか。彼女の事だから、講義の出席回数の計算は済ませているのだろう。

 

「バイトはどうするつもりなんだよ?」

「一昨日に辞めてきたよ。業務には飽きていたし、丁度いい機会だったね」

「……あ、そう」

 

 そこまでするか。

 

「ならせめて、事前にアポとってくんないかな」

「直前に言わないと、逃げられると思って」

 

 子供かこいつは。おまけに太々しくて面の皮が厚い。

 

 しかし、まぁ、彼女には大きな借りがある。親族関係の複雑な事情があるなら力になってやりたい。そうは思うんだが……

 

「親になんて説明しよう……」

「友達でも恋人でも、僕はどっちでもいいよ。あ、でもさすがにセフレとかはやめてほしいね」

「叩き下ろすぞ」

 

 意外と下ネタ好きな西代。

酔っている時は大歓迎だが、今は反応に困るので辞めて欲しい。

 

「フフっ、ごめんごめん。でもさ、本当に頼むよ」

 

 西代は少しだけ真面目な顔をして俺を見る。灰皿に煙草の灰が落ちた。よく観察すると煙草を吸う速度がいつもより早い。もうフィルターぎりぎりだ。

断られたら本当に困るのだろうか。

 

 まぁ、家庭の事情を聴いた時から俺の心は決まっていた。共同生活自体はいつもとあまり変わらず楽しいだろう。問題は親への説明だ。()()()()()()()()()()()()()()必要があるかもしれない……

 

「……まぁ、今年だけな。来年は猫屋の方に行けよ。先に言っておくけど、後悔するなよ」

「君と一緒なら今年は楽しい正月になるだろう。ありがとう……陣内君はやっぱり優しいね」

 

 そうやって微笑を浮かべてお礼を言う西代。受け入れられて安心したのか、彼女は背もたれに深く体を預けた。唐突な話ではあったし最悪の場合、一人で正月を過ごすことも覚悟していたのだろう。

 

 その姿を見て、俺は嬉しくなってしまった。少しでも借りを返せたせいか、または庇護欲や憐憫の情が働いているのだろうか。

 

 ……え、でも、こんな美人を連れて実家に帰るのか?

俺の方の家庭事情もあるし、絶対にめんどくさいことになるぞ。

 

 煙草を取り出して、甘い煙を肺に入れる。

そして、必死に家族への言い訳を考えながら車のイグニッションを回した。

到着までに思いつけばいいのだが。

 

************************************************************

 

 目の前に見えるのは、勝手知ったる我が家。

結局、言い訳は何も思いつかなかった。

 

「いい住まいだね」

「お世辞は親に言ってやれ。俺が建てたわけじゃない」

「……つれないね。やっぱり、僕を連れての帰省は嫌だったかい?」

 

 俺のテンションが低い理由はそこでは無い。

 

「親にお前を紹介するのが大変なんだよ」

「……? 異性という事が変に思われるかもしれないが、普通に友達でいいだろう?」

 

 そうはならないから困っている。

実は、俺が女を家に連れ込むという行為には特別な意味が出てくる。

どうやら彼女にそれを理解してもらう必要があるようだ。

 

「由香里と別れて以降、俺は必死にモテようとした」

「………………え? 急になんだい?」

「まぁ、ちょっと聞いてくれ」

 

 俺は自身の黒歴史について語り始めた。

 

「半年くらいの間だ。髪を派手に染めて、筋トレして、料理の練習をして、自分を磨き、とにかく女に声をかけまくった。自分でもかなり軽薄な奴だったと思う」

 

 新しい彼女でも作れば、由香里の事を忘れられると本気で思っていた。

そうすれば、心の傷とこの体質も治るだろうと。

 

「い、今の陣内君からは考えられないね……。というか、君のイタリアンの腕前はそれが理由か」

「まぁな。小洒落た洋食とか作れば女子ウケが良さそう、とか思ってた」

「馬鹿さ加減は今と変わらなくて安心したよ」

「うるさい」

 

 話に水を差されて脱線したが、本筋へ戻そう。

俺が彼女に言いたいのはそんなことではない。

 

「半年ほども勉強もせずにチャラチャラとして、いつも違う女を家に連れ込む俺。それを見かねた父親はついに俺をぶん殴った」

「え、女つれこ、え、うそ、は? まさか、モテたのかい?」

 

 明らかな狼狽を見せる西代。殴られた事じゃなく、そこに引っかかるのか。

おそらく俺が女性をとっかえひっかえにしていたと勘違いして驚いているのだろう。

 

「家に連れてきたのは中高の女友達だけだ。もちろん、誰一人として手は出してない。楽しく遊んで帰ってもらっただけだ」

 

 正確に言うなら、手を出せなかったが正しい。由香里に振られてから半年程度、実は俺は軽いEDを患っていた。時間の経過で何とか改善したが、もしあのままだったらと思うとゾッとする。

 

「そんなだから、父さんに泣きながら殴られたよ。手を挙げられた事なんて人生でその一度だけ。優しい父親の姿を見て、自分の軽率な行動を後悔した俺は素行を改めた訳だ」

「まぁ、いい話だけどさ。結局、僕とどう関係するんだい?」

 

 突如始まった俺の昔話。その要点が掴めないのか、彼女は不思議そうな顔をしている。

 

「その時、俺は父親に誓った。『もう軟派な真似はしない。次、家に連れてくる女は将来の花嫁だ』と」

「……そ、それってつまり」

「あぁ、そういう事だ」

 

 俺は西代に向き直る。ガシッと強く彼女の細い肩を掴んだ。

 

「お前は友達などという関係を遙かに通り越し、()()()()()として振る舞ってもらいたい」

「……本気かい?」

「マジだ」

 

 真剣に彼女の目を見つめる。俺は決して冗談でこんな事を言っているのではない。

今回のように何の相談も無く女を実家に連れ込むなど、親に軟派な態度が再発したと思われかねない。変な心配はかけたくない。

 

「えっと、せめて恋人のふりぐらいでお願いしたいんだけど……」

「結構な大事件だったんだ。悪いが、この誓いは破りたくはない」

 

 名づけるなら、陣内家愛の拳事件ともいうべきか。

荒れていた俺に喝をいれた父には感謝しかない。

 

「と、いうわけで超ラブラブな感じで行くぞ」

「らぶっ゛゛……!?」

 

 西代が噴き出した。言ってる俺も恥ずかしいが、やるしかない。

 

「俺の事はジン君と呼べ。お前の事はモモちゃんって呼ぶから」

「モッ!?」

「俺に"愛してる"とか"好き"だとか頻繁に言いまくれ」

「はぁ!?」

「親への挨拶は『初めまして西代 桃です。将来的には陣内 桃になります』、だ」

「まって、まって、まって……!?」

 

 俺の無茶苦茶な要求に、勢いよく手を出して静止をかける彼女。

顔が真っ赤だ。ここまで焦る西代を見るのは初めてかもしれない

 

「後悔するなよ、って言ったはずだ」

「言ってたけど……! そんな事情があるなんて、僕は聞いてないよ!!」

「そもそも、事の原因はお前にある。俺も相当に恥ずかしいから、我慢してくれ」

「うぐ、ぐ、ぐ、ぐ……」

 

 急なお願いでなければ俺にも根回しや準備のしようがあった。

だがこの数時間では対策もいい訳も思いつかなかった。

 

「数日の辛抱だ。基本は俺の部屋に籠ってるようにするから、……な?」

「……分かった。もともとは僕のお願いだ。覚悟を決めて頑張ってみるよ」

 

 西代の覚悟は決まったようだ。彼女の瞳が薄暗く曇っていく。魔の西代さんモードだ。賭博以外でもできたんだな、それ。でもどうやら本気で未来の花嫁を演じきってくれるようだ。

 

 それを見て俺の覚悟も決まった。意を決して家の敷地を跨ぐ。

 

 俺の年末は偽りの伴侶とともに始まってしまった。

 

************************************************************

 

「そうかい、西代 桃さんというのか」

「はい」

 

 ソファに腰掛け、テーブルを挟んで両親と対面する俺達。

 

「梅治にこんな可愛い彼女ができるなんてねぇ、お父さん」

「まったくだ」

 

 優しく人の良い笑顔を西代に向けているのが父の陣内 春夫(はるお)。その隣で趣味の紅茶を飲んでいるのが母の陣内 栄子(えいこ)。俺の自慢の両親だ。

 

「けど、何の連絡もなく梅治が女の子を連れてきた時は本当にびっくりしたわ」

 

 いきなり正月に息子が女を連れてきた。そして、花嫁宣言を受けた両親は大きく驚いた。今は詳しい話を聞くために客室に4人で集まっている。母が大急いでお茶請けと香りの良い紅茶を用意してくれた。少し申し訳ない。

 

「そうだな母さん。また、フラフラとした気の多い奴に戻ってしまったと思ったよ」

「お、おいおい父さん。恋人の前なんだ、昔の話はやめてくれよ」

「あ、そうだな。すまんすまん」

 

 俺の推測通り、俺の軟派な態度の再発は疑われたようだ。

西代にラブラブ作戦をお願いしてよかった。

 

「ところで、二人はどうやって知り合ったのかしら?」

 

 母が俺たちの馴れ初めについて興味を持った。いきなり恋人を連れてきたのだから当然だろう

 

 というかヤバい。

そこらへんのエピソードは一切考えていない。

 

「ジン君とは入学してすぐに仲良くなりました。僕達、学科と年が同じなんです。恥ずかしいお話ですが、僕も2浪していて……でもだからこそお互いに惹かれたのかな? ね、ジン君」

「そ、そうかもなー……」

 

 西代の完璧なアドリブ。事実を混ぜているせいか嘘っぽさは微塵も感じない。女は役者とはいうが、彼女の場合はハリウッドでも通用しそうだ。だけど、俺が指定したとはいえ"ジン君"呼びはちょっと背筋がゾワッとした。

 

「あらそうなのね? ご実家はどこかしら」

「四国の香川です」

「それはまた随分と遠くから来たのね」

「はい……。ですがジン君と同じ墓に入る覚悟はすでにできています、お母さま」

 

 全く動揺することなく、俺と骨を埋める覚悟を示す彼女。

流石、西代だ。博打で養ったであろう肝の座り方が尋常ではない。

 

「あらやだ! お母さまなんて!」

「はっはっは! これは孫の見れる日も近いかもな」

 

 上機嫌に笑いあう両親。両親は俺が6年間も付き合った恋人と別れたことは当然知っている。もしかして、孫ができるかどうか心配してたのだろうか。

 

「二人とも気が早すぎるだろ。俺たちはまだ学生の身分だぜ?」

「確かにそうだな。学生の内は清い交際であるべきだ」

「あら、私たちの頃はその年で結婚する人も多かったわよぉ?」

「……僕達も早く籍をいれようね?」

「お、おう、そうだな!」

 

 正直、芝居が死ぬほど恥ずかしい。だが、なんとか信じてもらえているようだった。

 

「今日はめでたい日ねぇ、今夜は寿司でもとろうかしら?」

「いえそんな……どうかお構いなく」

「それは良いな母さん……。そうだ、お酒は好きかな西代さん? 私は晩酌が趣味でね。今日は是非、夕餉と一緒に飲んで行ってほしいんだが」

 

 父は俺と同じでお酒が大好きだ。日本酒が大好物。良い物を出してくれるつもりなのだろう。息子としてはそろそろ健康的に控えてほしいが、仕事を頑張ってる我が家の大黒柱にそのような事は言いづらい。

 

「はい、僕もお酒は好きです」

「あら、よかったわねぇお父さん。まぁ、梅治の恋人なんだから酒好きなのは当たり前なのかしら」

「フフ、おっしゃる通りですね」

 

 ハハハっと良い雰囲気で談笑を続ける俺達。

騙しているのは心底申し訳ないが、父の秘蔵の酒を飲めるのは正直楽しみだ。

父さんも母さんも楽しそうだし、茶番劇がこのまま順調に終わってくれればいいのだが。

 

「梅治もよく飲むからな。……越乃寒梅の超特撰を2本くらい下ろすか」

「「なんだって……!?」」

 

 思わず、俺たちは席から勢い良く立ち上がった。

 

 1本5000円はする超有名酒だ。2本も飲んでいいのかよ……!!

 

「……えっと」

 

 父さんが驚いた様子で俺達を見ていた。

 

「「あ……」」

 

 俺と西代はお互いに顔を見合わせる。酒に釣られて、素の反応を見せてしまった。

西代は顔を赤くしながら、恥ずかしそうにゆっくりと座る。

 

「す、すいません」

「ハ、ハハハ! いやなに、私としては喜んでくれそうで嬉しい限りだよ!」

「そう言って頂けると……」

 

 どうやら、落ち着いた恋人の意外な茶目っ気程度の認識で済んだようだ。

父さんとしても良い反応をしてもらって嬉しそうだ。

 

「フフフ、そう言えば西代さんは何か趣味とかあるのかしら?」

 

 場の雰囲気を変える母さんの突飛な言葉。恐らく、恥をかいてしまった西代を気遣っての質問。後は彼女の人柄をもっとよく知りたいという意図もあるだろうか。

 

 西代は落ち着いた様子で母さんに答える。

 

「はい、パチン───」

「ん゛っ! んん゛゛っ!!」

 

 喉を強引に鳴らして、西代の横腹に肘鉄をねじ込む。

 

「ぐはっ……!?」

 

 こいつ、何言おうとしてんだ……!!

趣味がパチンコなんて答える花嫁とかいるわけないだろ!!

 

「「ぱ……?」」

 

 俺の行動と西代の言葉を不審がる両親。

まずい、何か適当に答えないと……

 

「ぱ、ぱ……パン作り!! モモちゃんはパン作るのが趣味なんだよ! な!」

「う、うん。僕はパン屋さんでバイトをしていたことがありまして……」

 

 頭をフル稼働させて、なんとか言い訳をひねり出した。

それに西代が戸惑いながらも同調してくれる。ちなみに彼女の元バイト先は本屋だ。

パンなど作れるはずがない。

 

「あ、あぁパン作りか。……珍しい趣味だね」

「でも家庭的で良い趣味だわ。紅茶にもよく合いそうで素敵ね」

「あ、ありがとうございます」

 

 何とか誤魔化せたようで、ほっと胸をなでおろす。

だが、どうにも長引くとまずそうだ。

 

「じゃ、じゃあ、そろそろ俺たちは部屋に行こうかなー」

 

 俺は早々に撤退を決意する。

 

「え、もうか? 私はまだまだ彼女に聞きたい事がいっぱいあるぞ」

 

 だが父さんは当然俺達を引き留めようとしてくる。席について10分くらいしかたっていない。まだ話し足りないのだろう。

 

 しかし、西代は酒飲みモンスターズの賭博担当。これ以上会話を続けてたら、必ず致命的なボロを出すに決まっている。せめて、酒の席でないと誤魔化せそうにない。

 

「ジ、ジン君は馴れない運転で疲れてるんだよね?」

 

 そこで、西代のナイスなフォローが入る。

 

「あぁ、それもそうだな。車を成約したという話を聞いて驚いたが、恋人がいたなら納得だな」

「そうねぇ、ペーパードライバーだったんだから無理しちゃ駄目よ? 他家の大切な娘さんを載せてるんだから」

「わ、わかってるよ」

 

 嘘ついてごめんなさい、父さん母さん。群馬に行ったり、山中の複雑な道を女3人連れて運転しました。正直、運転にはもう慣れました。この程度の距離は苦にもなりません。

 

 そんな事は言えないので、このまま嘘をつきとおす。

 

「そういうわけだから部屋で休むわ! モモちゃんも俺の部屋見たいだろ?」

「うん、もちろんだよジン君……!」

 

 当然、西代も連れていく。

手を繋いで、仲良く部屋を去ろうとする。俺も彼女も手汗がダラダラだった。

 

「仲がよさそうで何よりだな、なぁ母さん」

「そうねぇ、若い頃の私達をみてるようだわぁ……」

 

 二人の生暖かい視線が俺を射抜く。

恥ずかしいし、心苦しい。さっさと逃げてしまおう。

 

「あ、ちょっと待て梅治」

 

 足早に去ろうとする俺を父さんが引き留めた。

え、なんだ? 怪しまれたか……?

 

 父さんが俺にだけ聞こえる様にこっそりと耳打ちしてくる。

 

「分かってると思うが、学生の内はしっかり避妊するんだぞ?」

「………………」

 

 両親には俺の体質の事は何も話していない。

父親の意味のない忠告が恥ずかしくて、俺は何も言えなかった。

 

************************************************************

 

「あぁ゛゛ーー、疲れたーーー」

 

 俺はベットに寝転がった。

現在の時刻は夜の8時。既に夕食の飲み会を家族と済ませた所だ。

珍しく母さんも飲んでいたので、食事中は特に怪しまれることはなかったと思う。

 

「何とかやり過ごせそうだな」

 

 まさかゆったりとした帰省がこんな風になるとは。彼女と居ると楽しいが、非常に疲れる。その西代は今、風呂に入っている。俺は先に入らせてもらった。

そろそろ出てくるころだろうか……?

 

 俺の予想通り、部屋の扉が開いた。

 

「お風呂いただいたよ」

「おう、って、お前その恰好……!」

 

 風呂上がりの西代が着ていたのは俺のTシャツだった。

サイズがまるで違うため、ぶかぶかだ。

 

「か、カレシャツ……!」

「お母さまが『最近はこういうのが流行りなんでしょ?』って用意してたんだ。そう言われたら、僕は着るしかないだろう?」

 

 母さんのその謎知識のソースはどこからだ。ドラマか?

 

「……なんか悪い、臭かったらすぐに脱いでくれ」

「そんな事ないさ。それに意外と着心地はいいよ。やっぱり、男物は楽でいい」

 

 確かに彼女は普段からボーイッシュな格好をする。

男物の冬用部屋着は厚くて暖かいし、動きやすいので彼女好みなのだろう。

 

 寝ころんでいる俺の隣に西代が座ってくる。

 

「もう寝るのかい?」

「あぁ、なんか今日はやけに疲れた」

「わかるよ。……フフっ、君にモモちゃんなんて呼ばれるたびに背筋がゾワゾワした」

「俺もだぜ、モモちゃん」

「黙りなよ、ジン君」

 

 ゲラゲラとふざけて笑いあう。

西代とこんな風になるとは思ってなかったので可笑しくて仕方ない。

 

「……それで僕の寝床はどこだい?」

「そりゃ同じベットだ。将来の伴侶と寝床が別々ってのも変だろ?」

 

 予備の布団は1階の押し入れだ。出してる所を見られたら不審がられる。

 

「まぁそうなるよね」

 

 俺たちは正月が終わるまで一緒のベットで眠ることになるだろう。

晩酌は必須になる。むしろ大歓迎だが。

 

「また、陣内君と同衾(どうきん)か」

「別にもう気にしないよな?」

 

 俺達は同じ寝床に入ることになるが、異常に落ち着いていた。俺は酒が入っているので無敵だ。西代は女としての感性が枯れているのか、俺を湯たんぽとしか見ていないのか、男と共寝する事に抵抗はないようだ。若い男女の癖にずいぶんと色気のない話である。

 

「じゃあ、電気を消して寝ようか」

「そうだな…………お休み」

 

 そうして俺たちは安心して一緒のベットに入った。

何も起きる事はなく、疲れていたせいかすぐに入眠できた。

 

************************************************************

 

 朝、起きた時に目の前に広がっていた風景。

 

 家のシャンプーの甘い香りを漂わせる西代の無防備な姿。伝わってくる体温と柔らかい肌の感触。目の前には、触れれば沈み込みそうな胸元。耳に入ってくるのは彼女の可愛らしい浅い呼吸音。

 

 隣で眠る黒髪の美女を見て理性が蒸発しそうになった。

酒が抜けてしまう寝起きの事を、俺はすっかり失念していた。

 

 急いでベットから飛び起き、1階に降り、冷蔵庫を漁って、酒を呷った。

朝から、何とも間抜けな話だった……

 



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地雷原

 

 正月、元旦の朝。

 

 新しい1年の始まり。しかし、この日の特別感は年々薄れてしまっていると俺は思っていた。おせちを食べて、餅焼いて、特番を見て過ごす。あとは神社にお参りに行って終了だ。19年間、毎年同じことをすれば飽きも出てくる。

 

 だが今年は違う。20歳を迎えての初めての正月。

朝からたらふく酒を飲んでも許される1日。世間一般の常識的に誰にも白い目で見られることはない。

 

「おせちって、あんまり美味い物じゃないと思ってたが酒があると違うな」

「そうだね、いいつまみになる」

 

 俺と西代は席に座って、朝から冷酒とおせちを楽しんでいる。甘い黒豆と伊達巻が俺好みで美味しい。親は二人とも台所だ。母さんは雑煮を、父さんは燗酒を作っている。

 

「しかし、本当に悪いね。僕も正月料理くらい作ろうと思ってたのに……」

 

 西代は宿泊の恩義を返そうと家事を手伝おうとした。普段、俺の家に滞在するときも率先して洗い物とかを行ってくれる。酒飲みモンスターズは意外にも家庭的だ。しかし、両親は彼女を客人として丁重に持て成した。未来の伴侶に少しでも居心地の良い場所だと感じてもらいたいのだろう。

 

「それを言ったら俺とか何もしてないんだが……」

「陣内君はずっとお酒飲んでるだけだよね」

 

 俺は実家に帰ってきてからの2日間、だらけきった生活を送っている。

西代は昨日、年越しうどんを作って皆に振る舞ってくれていた。彼女は宿泊中の唯一の見せ場として張り切ってくれた。その甲斐あってか、うどんは滅茶苦茶美味かった。本当に何もしていないのは俺だけである。

 

「飲んだくれの穀潰しか。なんとも恥ずかしい」

「君は自分の家だから別にいいだろう? 僕なんて嘘をついて君の両親にすり寄る詐欺師の気分だよ。自分で泊めてくれとお願いしたが、本当に心が痛い……」

 

 俺たちの話題は新年早々暗かった。そもそも、俺がずっと酒を飲んでるのは隣の無防備な奴のせいでもある。朝からその身体で理性をぶっ壊そうとしてくる。

 

「ま、まぁ、とりあえず飲もうぜ。年明けに辛気臭い話は無しだ」

 

 そう言って、彼女が持つ平たい杯に酒を注ぐ。

 

「そうだね」

 

 微笑を浮かべて、西代はそのまま一献傾けた。

正月らしい朱い綺麗な酒杯が、黒髪の大和撫子な彼女によく似合っている。

 

「……これ寒梅(かんばい)かい?」

「おぉ、よく分かったな。家のお屠蘇(とそ)は毎年この酒だ」

 

 寒梅とは埼玉の日本酒。辛口で美味いが、有名酒みたいな特徴はない。だが、不思議と自然と体に入ってくるので、俺は嫌いではなかった。地酒だからだろうか?

 

「埼玉に住んでれば結構飲む機会が多いからね。……しかし、また()か。陣内君の名前と言い、この家ではずいぶんと梅の名がつくものが多いね?」

「あ、気づいた? 実は俺の名前はそこから取られたんだよ」

 

 越乃寒梅、寒梅、梅錦、他に例を挙げるなら雪中梅もあるか。

梅が名につく酒は結構多い。父は日本酒好きだし埼玉出身だ。地酒である寒梅から一文字取って、俺は"梅治"と名付けられた。

 

「フフフ、君の酒好きは生まれた瞬間に決まっていたわけだ。治める、の方はどこからきたんだい?」

「それは母さんが引っ付けた。酒をおさめる。酒は飲んでも飲まれるなっていう事らしい」

 

 子供の頃は『何だその名付け方は?』と思っていたが、今は結構気に入っている。

 

「しかし、残念ながら治める方の効果が出なかった、と」

「うっせ。お前の方はどんな意味なんだよ、モモちゃん」

「別に普通だよ。不老長寿を与える桃。そして美しく育って欲しいという意味さ」

「なら西代も半分しか効果は出てないな。大酒飲みは早死が基本だ」

 

 彼女に悪態をつきながら、俺も杯を飲み干す。辛口の酒がなんとも美味い。

すると、西代がスッとお銚子(ちょうし)を差し出してくる。

俺は何も言わず、そのまま酒を注いでもらう。

 

「……お前みたいな美人にお酌させると、なんか悪い事してる気分になる」

「その軽口はチャラ男時代に身に着けたものかい?」

「チャラ男だったことはねぇよ……。たぶん父さんの影響だろうな」

「へぇ、それはずいぶんと素敵な教育方針だね」

 

 適当な話をしながら、またトクトクと酒をお互いに注ぎあう。

清酒に身を委ね、気の置けない友人とくだらない話を延々と続ける。

正月の朝とは思えないほど、落ち着いて心安らぐ時間になった。

 

************************************************************

 

「遅いな……」

 

 俺は玄関で座り、西代を待っていた。彼女は神社に行くために着付けをしている。

母さんのお古の物を借りるようだ。

 

 正直、今日は外に出る気はなかったが母さんに『お酒ばっかり飲んでないで恋人を初詣に連れていってきなさい』と言われたので仕方ない。俺も(はかま)を着て、彼女にふさわしい恰好になっている。

 

「ま、またせたね」

 

 背後から声がかかる。

 

 振り向くと、そこには艶やかなピンク色の包装に包まれた花のような女。少し古臭い着物であったが、彼女が着れば逆に格式の高さを感じさせられる。普段の西代は男装の麗人といった服装だ。なので女らしい今の恰好は強いギャップを受ける。見事だ。

 

 彼女を美しく飾り付けた母さんが興奮した様子で俺に話しかける。

 

「ねぇ、梅治みなさいよ! 西代ちゃんって本当に別嬪(べっぴん)さん! テレビにでてくる女優さんみたいよねぇ。ふふっ、私の不出来な息子には釣り合いが全然取れないわね」

「いえ、その……お母さまの着物が綺麗なだけで、僕はそんな……」

 

 彼女は顔を少し赤くして謙虚に振る舞う。母にベタ褒めされて恥ずかしいのだろう。というか、いつの間にか母さんが西代を"ちゃん"付けするようになっている。友達が母親と仲良くなると、何故かむずかゆい感覚になるな。

 

「おう、モモちゃんにぴったりな綺麗なピンク色だな。凄く似合ってるよ」

「あ、ありがとう」

 

 まぁ、がっつりと酒が入ってるので美術館の陶芸品を見ている気分にしかならないが。我ながらつまらない男だ。

 

「母さん、5時までには帰ってくるよ。さ、行こうぜ」

「あ、うん」

 

 自然に彼女の手を取って、玄関のドアを開ける。

 

「…………!」

 

 酒が入っている俺は無敵だ。この程度のスキンシップを演じることは何でもない。というか、帰省してすぐに手を繋いでたしな。

だが、西代は少し驚いていたようだ。やっぱり急な事だと恥ずかしかったか。

 

 後で謝っておこう。

 

************************************************************

 

 人混みが賑わう、正月の境内。地元の小さ目な神社であるが、参拝客であふれかえっていた。出店が多く開かれているためか家族連れが多い。それが混雑に拍車をかけているのだろう。

 

「お、イカ焼きがあるな。小腹も減ったし、食べようぜ」

「僕は遠慮しておこうかな……万が一にでもこの綺麗な服を汚したくない」

「……確かにな、その粋な格好を汚すのも忍びないしな」

「粋というのなら君も相当だろう……。(はかま)酒瓢箪(さけひょうたん)なんてどの時代の人間のつもりだい?」

 

 西代が俺の持っている酒器を指さす。

(うるし)仕立ての上下に丸くくびれた瓢箪に赤い紐をくくりつけた物だ。

正月くらいしか使えないがお気に入りの品である。当然、中には酒が入っている。

 

「猫屋は小物に(こだわ)るけどさ、陣内君は酒器とか入れ物の蒐集癖(しゅうしゅうへき)があるよね」

「言われてみれば確かに……」

 

 スキットルに酒入れ用の水筒、それに酒瓢箪。他には宅飲み用の徳利と盃を数点持っている。最近は(うぐいす)徳利が欲しいと思っていたくらいだ。クソ高いので諦めたが。

 

「安瀬が前に褒めてたよ。『陣内は意外と酒器選びのセンスが良い』ってね」

「アイツは古い物が好きなだけだろ」

 

 適当に茶化したが、自分の知らない所で褒められると存外に嬉しいもんだな。

今度の休日、安瀬と一緒に陶芸屋でもめぐってみるか。

 

「そう言うお前はどうなんだよ。本以外に何か集めたりしないのか?」

「ないね。どうにも、部屋に邪魔なものがあると目障りになる性質(たち)らしい」

「本は邪魔じゃないのか? 電子書籍にすれば、さらに部屋がコンパクトになるぞ」

「別にミニマリストという訳ではないさ。本の香りが好きなのかもね? 家にあると落ち着くんだ」

「へー」

 

 ちゃぷんっと音のする瓢箪を傾けて酒を煽る。今日は彼女とこういった無駄話をする事が多い気がする。別に苦ではない。むしろ楽しい。良い正月だ。

 

「あれ? おい、梅治じゃないか?」

 

 そんな事を考えていると、人混み外れの脇道から俺を呼ぶ声が聞こえてきた。

声のした方に目をやると、見知った男達が3人ほど集まっていた。

 

「あ……」

「誰だい?」

「高校の友達」

「あぁ、なるほど。……少し席をはずそうか? 僕は先にお参りを済ませてくるよ」

「……すまん、助かる」

 

 西代が気を使って別れてくれた。彼女には悪いが正直ありがたい。無視するわけにいかないし、彼女と一緒に行くのも気恥ずかしかった。それに、久しぶりにあいつ等とも話したかったし。

 

 俺は懐かしい顔の彼らに近づいて声をかける。

 

「久しぶりだな」

「……おう、まぁ、久しぶり」

「マジでな!! 最後にあったのはきょね……いや年明けたから2年前の同窓会か!」

「もうそんなになるのか……」

 

 ゴリゴリの体育会系の淳司(じゅんじ)にうるさい健太(けんた)、そして大人なしめでメガネの雄吾(ゆうご)。懐かしい高校の友人たちだ。

 

「みんなで仲良く初詣か?」

「俺らも偶々ここで会ってな」

「なー! マジで偶然」

「まぁ、地元で初詣と言えばここしかないもんな……」

 

 どうやら、俺が一人除け者にされていたわけではないようで安心した。

 

「梅治、その瓢箪はなんだ?」

「酒にきまってるだろ」

「あ、あいかわらず酒好きなんだな……」

「てゆーか! アル中だろ!!」

「う、うっさいぞ健太」

「ハハハっ、っていうかさ! ていうかさ!」

 

 健太が興奮した様子で俺に詰め寄ってくる。

 

「どうしたよ! 袴なんか着やがって! 隣にいた着物の美人はいったい誰だよ!!」

 

 相変わらず、うるさい奴だ。でも、懐かしくて嫌な気持ちになどに一切ならないから不思議だ。教室で5人で騒いでた頃を思い出す。……あ、余計な糞女もカウントしてしまった。

 

「あ、あー、大学の知り合い……って感じだ」

「それ、もう彼女って言ってるようなもんじゃないか?」

「そうだぜ! あーんな可愛い子連れておいて適当言うなよ! 彼女じゃないって言うなら紹介してくれよな!」

 

 それはお前の肝臓的にもお勧めできないぞ、健太。

 

「というか由香里はどうしたんだよ! あの子を紹介してくれなきゃ、お前が美人連れて歩いてることばらすぞー?」

「お、おまえな……」

 

 随分と痛い所を楽しそうに突いてくる。まだ俺が由香里と付き合ってると思っているのだろう。彼らに俺達が破局した事は話していない。情けなかったし、気持ちのいい話ではなかったからだ。

 

「別れたんだろう?」

「……え? なんだ淳司、知ってたのか?」

 

 俺と由香里と彼らは同じクラスだった。彼女から聞いていたのだろうか?

いや、アイツが自分が浮気した話を話すとは考えにくいが……

 

「この前、急に電話が着てな。その時に、な」

「へぇ……ま、アイツの事なんてどうでもいいよ」

 

「………………どうでもいい?」

 

 淳司の顔が何故か曇った。

あぁ、そうか。こいつは俺と仲が良かった由香里の姿しか知らないのか。

 

「もう2年も前に別れたんだ。俺には関係ないやつだよ」

「なぁ、お前どうしたんだよ?」

 

 俺がそう言うと、淳司が悲痛な表情で俺を睨んできた。

え、なんだ急に……?

 

「どうしたって……何が?」

「由香里とはあんなに仲が良かったじゃねぇか、それをもう関係ないだと?」

「まぁ、梅治と由香里は端から見ててもラブラブカップルだったな……」

「ハハっ、今となっては苦い思い出だな、それ」

「あぁ……?」

 

 さらに眉間にしわを寄せる淳司。何か態度がおかしい。

こんな喧嘩腰になるやつではない。俺と違って大人っぽく、頼りになる奴だ。

 

「ちょ、ちょーい! なんか雰囲気悪くない!? その、さ、もう別れて終わった事なんだろ? 今は楽しくいこうぜ?」

「そうはいくかよ」

 

 今度は淳司が俺に詰め寄ってきた。なんだこの雰囲気は?

 

「俺は由香里から聞いたんだ。()()()()()()()()、偶然再会したら酷い嫌がらせをされたってな」

「……………………はぁ?」

 

 淳司の滅茶苦茶な言葉に俺の頭が困惑する。

俺の方が浮気? …………マジで頭おかしいな、あの脱糞女。

普通、そこまで自分を擁護する恥知らずな嘘を周りに言いふらせるか?

 

「おいおい、それは由香里の嘘だ。浮気されたのは俺の方だよ。お前、アイツに騙されてるんだよ」

 

 俺は余裕を持った態度で自分の正当性を主張する。

淳司が怒っているのは、ちょっとした勘違いのせいだ。

俺が訂正すれば、すぐにわかってくれるはずだ。

 

「信じらんねぇな」

「……え?」

 

 だが、俺の言葉は彼には届かなかった。

 

「お前、一昨年くらいの自分の行いを覚えてねぇのかよ。髪を派手に染めて、クラスの女に声かけまっくてたらしいじゃねか」

「あ、それは、だな……」

 

 思わぬ反証に口ごもってしまった。確かに彼の言っている事は正しかった。俺の軽率な考えと行動の話。

 

「まぁ、あの時は俺も由香里に振られて自暴自棄になってだな……」

「俺は逆だって聞いたぞ。梅治が浮気し始めたから破局したってな」

「ち、違う!」

 

 俺は堪らずに大声を挙げて否定した。そんなふざけた嘘は絶対に認められなかった。

 

「アイツが先に浮気したんだよ。俺じゃない」

「……なぁ、梅治。電話越しに由香里が泣いてたんだよ」

 

 その口調は攻撃的でイラつきを抑えられていなかった。苦虫を噛みつぶしたように淳司の顔が歪んでいく。俺を見るその目には、段々と敵意の様なものが沈殿していくように見えた。

 

()()()()()()()()()()されたってな。……それはどういう事だよ!」

 

 淳司が俺の胸倉をつかんでくる。本気で怒っている。

息が詰まって苦しい。なんだ? 一体なんだよこの状況は……!?

 

「そんなこと由香里にしておいて、お前は新しい女と酒飲みながらデートだぁ!? 見損なったぞ、テメェ!!」

 

 俺の心臓がキュッと締め付けられた。

 

 あの時と立場が逆だ。

 

 俺の為にあの3人が怒ってくれたように、淳司は由香里のことを思って俺に怒りをぶつけている。これは罠だ。由香里が仕掛けた時限式の地雷。俺はそれにまんまと足を踏み込んだ。彼女の呪縛が再び足に這いよって来た気がした。

 

「ちょ! 二人ともストップ、ストップ!!」

「落ち着けって……!」

 

 二人が淳司をなだめようと間に入ろうとする。

だがそれは火に油を注ぐ行為。一度、手を出してしまったらもう喧嘩は止まらない。

 

 俺は淳司にさらに強く揺さぶられた。

 

(何とかして、誤解を解かないと……!)

 

 俺は彼を納得させる言葉を必死に考える。

これはただの不幸なすれ違いだ。淳司はいいヤツだ、詳しく話しあえばきっと分かってくれるはずなんだ。

 

 そんな俺の思惑をよそに淳司の激しい叱咤は続く。

 

「おかしいと思ってたんだっ! お前が急に俺達を避け始めて! 馬鹿みたいに酒飲むようになってよっ……!」

「ちが、ちがうんだ……!」

 

 確かに俺は由香里と別れてから、彼らとは少し疎遠になっていた。

だがそれは、やましい事をして逃げていたわけではない。俺の情けない事情を誰にも知られたくなかったからだ。親にすら詳しい事は話していない。

 

「何が違う!? お前がフラフラしてアイツを傷つけたんだろうが!!」

「お、おい、いい加減にしてくれ! 俺の話も聞いてくれよ……!」

 

 胸倉を掴む力はどんどん強くなっていった。この袴は俺のものではない。

父さんの物を借りているだけだ。初詣の為に特別に貸してくれた。父の好意を、こんな下らない事で傷つけたくはなかった。

 

 

「うるせぇッ! いますぐ俺と一緒に由香里の家に謝りに行くぞ!! ちゃんと頭下げるまで許さねぇからな!!」

 

 

 謝る?

 

 その言葉で、頭の線が切れた。

なんで? 俺は悪くない。また? また、アイツに謝れだと……!?

 

「ふざっ! ふざけんなよ、テメェ……!!」

 

 今の言葉は友達でも許せなかった。袴の胸元を自分で大きく崩し、強引に手を振り払う。そして、今度は俺が服を引きちぎるつもりで胸倉をつかみ上げる。

 

「俺がっ! アイツと別れてっ! どんな気持ちでいたかテメェに分かんのかよ!!」

「あぁ!? 知るかよ、クソがッ!!」

 

 俺に負けじと、淳司が吼える。

そして、再び取っ組み合いになった。周りの参拝客も俺たちに注目していた。

大の男の叫びあい。このまま、泥にまみれた本気の喧嘩が始まると誰もが思っていただろう。

 

「────そこまでにしてもらおうかッ!!」

 

 そこに、強い意志を感じる女の声が響く。

西代が俺たちの喧嘩を止めに入った。

 

************************************************************

 

「西代……? なんで──」

「お前、さっき梅治と一緒にいた女だな」

 

 淳司の憎しみが籠った目が俺から西代へ移った。確かに不毛な喧嘩は勃発することなく止まった。だが彼女の介入によって事態はより困惑した局面を迎えてしまうように思えた。

 

「そうだ……淳司君、でいいのかな。悪いが話はだいたい聞かせてもらったよ」

 

 彼女は強い意志を瞳に宿して、大柄な淳司に近づいていく。その歩みに一切の躊躇はなかった。彼女は怖くはないのだろうか。俺は怖くなった。西代の背丈は小さい。そして、今の淳司は頭に血が上っている。何が起きるか想像できなかった。

 

「西代、ってんだな……お前には関係のない話だろうが。外野は引っ込んでろよ」

「いや、違う。その話、むしろ僕の方が張本人なんだ。だから口を挟んだ」

「……あ?」

 

 瞬間、背筋に悪寒が走った。彼女が何を言おうとしているのか、俺には分かる。

止めなければならない。あれは全部、俺の為にやってくれたことだ。

 

「ま、───」

「由香里に下剤を仕込んで、水をぶっかけたのは僕だ」

「……は?」

 

 淳司が唖然としていた。コイツの口ぶりから察するに『酷い嫌がらせ』の内容までは聞かされていなかったのだろう。

 

「お、おまえ! すました顔して何言ってんだよ!!」

 

 淳司の怒りが少し霧散したような気がした。あまりに突飛な内容だったからだろうか。

 

「事実さ。彼女には僕もムカついていたからね。ちょうど今の君みたいに」

「…………」

 

 挑発とも受け取れる言葉。彼女は俺を庇ってくれている。俺が糾弾されている状況を変えようとしてくれている。だがその不遜な態度と物言いに、淳司の怒りのボルテージが再び上がっていくように感じた。

 

「そうか、お前なんだな……あんなに仲の良かった二人の仲を引き裂いたのは」

「はぁ!? 何言ってんだ馬鹿……!!」

 

 俺は淳司のまったく見当違いな言葉を思いっきり否定した。

 

「そうだ。彼に振り向いてほしくてね」

 

 その言葉に何故か西代が乗った。

 

「おいっ! おまえもなに言って──」

「うるせぇぞ梅治! 今は俺がこの女と話してんだ!!」

「そうだね、君は少し黙ってなよ」

 

 より大きな声で俺の抗議は掻き消された。おまけに西代にまで黙ってろと言われる始末。西代の意図が理解できない。

 

「僕が由香里に害をなした」

 

 犯罪の自白じみた宣言。西代はカツカツっと木製の草履を鳴らして、淳司の目前に迫る。そして、彼の顔を見据えて言い放った。

 

「なら謝るべきは陣内君じゃない。僕だろう?」

 

 ようやく、彼女の狙いが完全に理解できた。西代はあの報復に()()()をつけようとしている。自分が頭を下げることによって、この場を治めようとしていた。

 

 西代は俺の全てを救うつもりでいる。

それに気づいたとき、あまりの衝撃に頭が真っ白になった。

 

「言ったな、テメェ……? なら今から俺についてきてもら───」

 

 パシャッ

 

 水の飛び散る音が響く。俺が淳司に酒をぶっかけたからだ。

怒りで頭が沸騰している彼にはちょうどいい冷や水だろう。

 

「おい……何の真似だよ、梅治……!!」

 

 頭から清酒に濡れた彼は、拳を震わせていた。

恥辱に震えているのだろうか。だがそれは俺も同じだ。

 

 このような方法で彼女に庇われる訳にはいかなかった。貸し借りの話ではない。

あの糞女に西代の頭を下げさせようとするのが酷く癪にさわった。確かに、彼女は一般的に見れば悪い事をした。人によれば犯罪行為だと非難を受けるだろう。

 

 だが、そんなものは助けられた俺には関係ない。

彼女の名誉を安売りするような行為を、たとえ本人が望もうとも俺は絶対に許すわけにはいかなかった。

 

 

「お前うぜぇよ」

 

 

 心底冷えた口調で俺は淳司を侮蔑する。

悲しいが、本心から出た言葉だった。

 

「なっ!? てめぇ──」

「もういいから消えてくれ。二度とその(つら)みたくねぇ」

 

 絶縁を告げる言葉を放った。中高の6年間、彼とは長い付き合いだ。

一緒に馬鹿をやったし、よく笑いあった。一番仲の良い男友達だったかもしれない。

 

 だが、もういい。俺を助けてくれたのは彼女達だ。

 

「いくぞ、西代」

「え、ちょっと、陣内君……!?」

 

 有無を言わさず西代の手を取って、その場から離れた。

強い力で彼女を引っ張って行く。

 

「待てよ梅治……!」

「いや、淳司!! お前、一旦落ち着こーぜ!!」

「大勢の人が俺達を見てる! 警察沙汰になったらまずい!」

 

 背後をチラリとみると、健太と雄吾が暴れる淳司を抑えつけていた。

遠ざかっていく昔の親友たちを見て、俺の心は薄暗い気持ちで閉ざされていく。

 

 最低で最悪の元旦だ、ちくしょう……

 



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外れかけの錠前

 

「陣内君っ!」

 

 西代が俺を呼びかける。ここはもう境内の外だ。

彼女の手を引く必要は無くなった。

 

「……悪い」

 

 手を優しく払った。

何に対する謝罪なのかは分からない。ただ、彼女には謝りたいと思った。

 

「いや、その、僕の方こそごめん」

「西代が謝る事なんて、何一つないだろ?」

「でも、僕が余計な真似をしたからあんな事に……」

 

 喧嘩の仲裁に入ってくれた事を言っているのだろう。それか『俺に振り向いて欲しかった』と嘘をついた事でもあるだろうか。意図は何となく理解できている。俺には余計な真似には思えなかった。むしろ、彼女が俺を庇おうとしてくれた行為自体は嬉しかった。

 

「そんな事ないだろ。……でも、ハハハ、あの嘘はちょっと驚いたな」

 

 雰囲気を変えたくて軽口と共に笑って見せた。

 

「……そうだね、我ながらその場の勢いに任せすぎたよ」

 

 西代も何とか笑ってくれた。張り付けたような薄い微笑だったが。

 

「でも、嬉しかったよ。ありがとう」

 

 それでも俺は明るく振る舞ってお礼を口にした。

 

「悪いな、正月早々変な事に巻き込んで」

「いや、仕方なかったよ」

「……そうだな。帰ってさ……煙草でも吸おうぜ」

 

 再び謝った。それと、喫煙の誘い。

今はどうしようもなく、脳にニコチンをぶち込みたい気分だった。

 

「うん……帰ろう」

 

 トボトボと家に向かって歩き出した。ここからだと歩きで20分程度だ。

西代と話でもしながら帰ればすぐに時間は過ぎる。

 

 だが、帰り道は今朝のようには話が進まず、どうにも気まずかった。

 

************************************************************

 

 煙草を吹かし終わった後は、特に何をするでもなくボーと過ごしていた。

会話はどこかぎこちなくで、気を使ったものばかり。

西代は時折、物思いにふけて難しい顔をしている。責任を感じているのだろうか。

 

 俺の方は時間を置いた事で幾分か気分は落ち着いていた。

ああなってしまっては仕方ない。

 

 時間は過ぎていき、今は晩飯の時分。

俺達は4人で食卓についている。父さんがまたいい酒を下ろしてくれていた。

今度は久保田の万寿だ。日本最高レベルの高級酒。正月という事もあってかなり奮発している。飲みやすくて美味しい。

 

 父さんは上機嫌に酔っていた。息子と可愛い彼女がセットで座っているのを見て、親心が爆発しているのだろう。こんな事で喜んでくれるのなら、息子としては嬉しい限りだ。荒んだ心が安らぐのを感じる。

 

「どうだったかね、西代さん。梅治との初詣は?」

 

 だが、どうかそこを蒸し返すのは止めてほしい。

 

「ま、まぁまぁだったよな?」

「う、うん」

 

 はぐらかすしかなかった。

無茶苦茶、気まずい……

 

「懐かしいなぁ。私達も若い頃に何度もあの神社に初詣に行ったんだよ」

「そうねぇ、今は人混みが多くて元旦にはいかないけどね。若かったわぁ」

 

 上の空で浮かれ、そこで心が繋がっている両親。仲がいいのは良い事なんだろうが、ちょっと恥ずかしいので西代の前では止めてくれ。

 

「そうだ、高校の友達も来ていたんじゃないの?」

「淳司君とか、よく遊んでいたよな梅治は。一緒の部活だったからよく覚えてるよ」

 

 話題がとにかく最悪だった。なぜ、今日はこんなに運が悪いのだろうか。おみくじを引いていれば確実に大凶だっただろう。

 

 確かに淳司とはよく遊んで、気もあった。だがもういい。あんな話の分からない馬鹿だとは思っていなかった。いくら長く付き合おうとも、相容れない事はある。

 

「会わなかったよ。まぁ別に正月に会わなくてもいいだろ」

「……」

 

 西代の表情が少し曇って見えた。

彼女がそんな顔をする必要はないはずだ。

 

「母さん美味いよ、このお雑煮」

 

 話題を変えた。せっかくの、めでたい日だ。

もっと明るい話をしたい。

 

「あら、梅治ったら。いつ間にかお世辞が言えるようになったのねぇ」

「いや、マジだって」

 

 俺は母さんが今朝から作っていた雑煮を食べていた。

味噌と柔らかい餅が美味い。食いでがあるので酒も進む。

 

「な、モモちゃん?」

 

 西代にも話題を振る。今は和気藹々と彼女と話したい気分だ。

そんな俺の思いを察してくれたのか、彼女はポツリと口を開いた。

 

「……餡餅(あんもち)じゃないお雑煮は初めて食べたよ」

 

「「「…………え?」」」

 

 俺の憂いなど簡単に吹き飛ばす、西代の驚愕の発言。

え、なに? 雑煮に餡餅?

 

「も、モモちゃんそれ、どういう事?」

「え、雑煮にはふつう餡餅じゃないかい?」

「そう言えば、香川ではそういった風習があるって、テレビでみたことあるわね」

「へぇ、そうなのかい」

 

 びっくりした。そういった風習があるなら納得だが、猫屋の様な悪食癖が西代にもあるのかと思った。

 

 だがそれは……

 

「美味いのか?」

 

 どうにも想像がつかない。

雑煮と言えば塩気の効いた具材が美味しい物だろう。

 

「塩大福と同じ原理さ。中に入れてある餡子の甘さが増すんだ。僕は好きだよ」

 

 確かに味噌は元を辿れば、塩と豆だ。

 

「……明日、雑煮の残りで試してみようか」

「そうね」

「やってみよう」

 

 俺たち家族は未知の味への探求心を輝かせていた。

文化祭の時のタピオカと同じ流れだな。

 

 しかし、西代の意外な発言のおかげでその後の会話は明るく楽しい物になった。

……ありがとう西代。

 

************************************************************

 

 翌日の1月2日。俺はベットで目を覚ました。昨日は父さんに付き合って、よく飲んだ。晩酌後も西代とゲームをして遊んでいた。

楽しかったが、体が少し重い。

 

 隣では気持ちよさそうに眠る美しき姫君。相変わらず無防備な奴め。

のっそりと起き上がって、枕元に置いてある酒に手を伸ばそうとする。

 

 だが、その途中で手が止まった。

 

「…………」

 

 気分が高揚していなかった。昨日の事が喉に小骨が刺さっているかのように気になっている。もしかして、俺が酒を飲んでいなかったのなら、淳司はあそこまで怒らなかったのではないだろうか。そう思うと、朝から酒を飲むのは気が引けた。

 

「飲まないのかい?」

「うぉっ!」

 

 西代の唐突な問いかけに驚く。

まだ、眠っていると思っていた。

 

「起きてたのなら目ぐらい開けろよ……」

「いつも朝起きた時に、陣内君が何をしてるか知りたくてね」

「別に、(よこしま)な事はしてねぇよ」

「朝からの飲酒はだらしない事だとは思うよ」

「ほっとけ」

 

 どうにも罰が悪い。彼女は俺の体質を知っている。

俺が朝から酒を飲んでいる意味も理解しているだろう。単に酒が好きだからなどとは思ってはいまい。

 

「起きたなら、朝飯食べに行こうぜ」

 

 罪悪感と羞恥心を誤魔化すように、俺はベットから離れようとする。

 

「ちょっと待った」

 

 起き上がろうとする態勢をとった俺に、西代が手を伸ばした。

そのまま自身の方に俺を引き付けて二人揃ってポスンと、再び布団に倒れ込んだ。

 

「お、おい……!?」

 

 寝ていた時よりもさらに距離が近い。本当に恋人のようにお互いを抱きしめて、シーツにその身を預けている。互いの顔の距離など5cm程度しかなかった。

 

「ありがとう、昨日の夜はおかげで楽しかったよ。正月とは思えないほどだった」

「礼なら普通に言え……!」

 

 バクバクっと心臓が早鐘を打ち始めた。

甘い匂いと絹の様な肌の感触のせいだ。さっきの飲酒の憂いなど忘れて、今すぐにでもアルコールを血潮に打ち込みたい。

 

「それで一晩、考えてみたんだ」

「何をだよ……!!」

「この事を話すかどうか」

「……? と、とりあえず離れてくれっ」

「嫌だ、このまま話そう」

「だから、何をだよっ!」

 

 俺がそう言うと西代がさらにギュッと距離を詰めてくる。あり得ないくらい柔らかい物が俺に密着してくる。さらさらとした黒髪が俺の顔にかかった。

グルングルンと循環する煩悩と血流。その到着点は言うまでもないだろう。

 

「僕の心の恥部だ」

 

 俺の耳元で消えそうなほど小さな声が囁かれた。

 

「は? どういう事だよ」

「人生の汚点と言い換えてもいい」

「…………」

 

 西代は真剣な眼差しをして俺の目を見ていた。

その声音はどこか震えを感じる。状況が理解できないが真面目な話のようだ。

 

「僕には友達がいない」

「……え? 俺達がいるだろう?」

「っ…………ふふ、そうだね。ごめん、少し言い間違えた」

 

 何故か彼女は嬉しそうに笑った。

声の震えは消えて、少しだけ抱擁が緩む。

 

()()()()()()()()()()、が正しい」

「……1人もか?」

「うん」

 

 ギュッと背を丸めて縮こまる彼女。その姿は得体のしれない何かに怯える子供の様だった。

 

「君と同じさ。地元で嫌な事があった」

「待ってくれ、西代」

 

 俺はすぐに彼女の告白を止めた。言わせたくはなかった。

ここまでの会話で彼女が自分の薄暗い過去を話そうとしている事に察しがついた。それは自傷行為に等しい。彼女が身を切るような痛みを味わう羽目になる事は、痛いほど予想できた。

 

「もう、それ以上は話さなくていい」

「詳しくは僕も話さないさ」

「でも──」

「聞いてくれ」

 

 強い意志を感じる言葉。何をどういった意図で話そうとしているのかは分からない。だが、聞けというならこれ以上は止めはしない。

 

「子供の頃から、本ばかり読む根暗なやつだった」

 

 彼女の昔話が始まる。"心の恥部"と称したくらいだ。

そこには自虐的な意味が多分に含まれているように感じた。

 

「落ち着いた子だったんだろ? 想像がつく」

「口調だって男みたいで変だ」

「安瀬に比べればましだろ」

「ふふっ、まぁね。たぶん、本の中の主人公に影響を受けたんだ」

「あるあるだな」

 

 フォローしているのかよく分からない言葉を出す。

 

 

「だから、まぁ、色々とあった。嫌な事が、ね……」

 

 

 言葉は少なく、酷くあいまいな表現。

だが俺には、()()()()()()()()()()()()っという風に聞こえた。

 

「だからさ、友達は大切に、ね……?」

 

 実体験からくるであろう重い言葉が俺の心を貫く。

 

「不幸なすれ違いなら、きっと何とかなるよ」

「別にあんな馬鹿どうだっていいよ」

 

 思わず反論してしまった。

西代の意外な過去に動揺して、胸の中がグチャグチャしている。

 

「俺には、お前らがいる……だから、べつに……」

「うん、僕もそうだ。でも、彼とも仲が良かったんだろう?」

「……」

 

 あぁそうか。また彼女は俺を助けようとしている。

自身の言いたくないだろう暗い過去まで話して、不貞腐れた俺をなんとか仲直りさせようと。その献身の理由は、今の話から伝わってきた。

 

 俺はガキだ。クソガキだ。ちょっとした行き違いで喧嘩して、自分勝手に友達を捨てようとした。

 

「…………」

「…………」

 

 しばらくの間、俺たちは無言で見つめあっていた。

 

 覚悟が決まった。淳司に謝ろう。

ここまで、西代にやらせたんだ。

いや違うな。一方的に縁を切ろうとする俺を、彼女が正しい方向に導いてくれた。

 

 俺は彼女を強く抱き寄せた。親愛を意味するものだ。下卑た目的はない。

 

「え、ちょ、え、陣内君!?」

 

 西代が慌てだした。男と一緒に寝ておいて、何を今さら。

 

「すまん、ありがとう」

「……っ!」

 

 しっかり30秒は抱きしめておいた。

頑張ってくれた彼女に深い感謝を伝えたかった。

 

「……よし行くか。悪いけどちょっと待っててくれ」

 

 これで十分に感謝の気持ちは伝わっただろう。俺もちょっと暴走しすぎた。

あぁ゛ー恥ずかしい。

 

 スマホを手に取って、寝具から跳ね起きた。

部屋を出る足取りは軽かった。

 

************************************************************

 

 

「さ、さすがの僕でもこのスキンシップは胸に響くよ……」

 

 誰もいない部屋で、誰も聞いていないだろう、真っ赤な言葉を西代は口に出した。

 

 

************************************************************

 

 俺は近所の公園に淳司を呼び出した。

由香里と別れ話をした嫌な思い出が満載の場所。正直、二度と来たくなかった。

だが、今回はこの場所こそがふさわしいと思った。 

 

「……来たか」

 

 指定した時間通りに淳司は現れた。

俺が先に声をかける。

 

「おう、悪いな淳司。呼び出して」

「何だよ梅治。二度と顔が見たくないんじゃねぇのかよ」

 

 開口してすぐの嫌味。眉間に皺を寄せて、こちらを睨んでいる。

当然、怒っている。酒までぶっかけたのだから。

 

「まぁ、まずは謝らせてくれ……ごめんっ!!」

 

 会って早々に、俺は深々と頭を下げる。本気の誠意を彼に感じてほしかった。

 

「…………何についての"ごめん"だよ、それは」

 

 淳司は俺から目をそらして、虚空に向けて言葉を吐いた。

彼の言う通りだ。俺が何について謝るかで、この謝罪の意味は大きく変わるだろう。

 

「……俺がこの2年、お前たちを頼らなかった事についてだ」

「……はぁ?」

 

 淳司は訳が分からないといった様子で声を挙げる。

 

 そもそもの話、今回の喧嘩の発端は俺にあった。

由香里に振られて、心に傷を負って、一人で暴走して、その事情を誰にも……親にすら話さなかった。"恥ずかしかった"なんて理由で全てを隠して遠ざけた。

 

「聞いてくれ、淳司」

 

 息を大きく吸い込んで、決心を決める。

 

「俺は由香里の浮気現場を最初から最後まで見てたんだ」

 

 全てを包み隠さず話すことにした。

今朝の西代が勇気を持って過去を話したように、俺も痛みを恐れずに全てを吐き出そう。

 

「え、は? いやそれは────」

「目の前で、あいつら、俺が見てるとも気づかずにおっぱじめやがった」

 

口調が速くなる。緊張してるせいだろうか。

 

「受験の1週間前にだぜ? 信じられるか? ってまぁ、信じてほしいから話してるんだけどな」

「……」

 

 淳司は俺の話を黙って聞いてくれている。

 

「その後、由香里をこの公園に呼び出してな。訳を聞いたんだよ。なんで浮気したんだ? ってな」

 

 2年前、この公園での出来事だった。

 

「そしたら由香里のやつ。急に俺を滅茶苦茶に罵倒し始めたんだぜ? 結構酷いこと言われたな」

 

 ここまで詳しくは彼女らにすら話していない。

 

「『人の部屋で隠れてんじゃないわよ、この変態』『そもそも私が浮気したのはお前のせいだ』『あの程度の大学にも合格できない馬鹿』『エッチだって彼の方が上手い』……とまぁ色々と」

 

 目から勝手に涙が零れていた。

 

「そこから受験にも失敗したんだ。試験中に由香里のことを思い出して、過呼吸を起こした。……たかが浮気されてフラれただけなのに情けないだろ?」

 

 本当に情けない。

 

「そ、その後は由香里を忘れるために、髪染めてチャラチャラと……新しい恋人探し。まぁ、もちろんそれも上手くいかなかったよ。お、俺半年くらいEDになって───」

「────もういいッ!!」

 

 泣いていた。黙って話を聞いていた淳司も泣いてくれていた。

淳司は悔いる様に顔を俯けている。

 

「……信じてくれるか?」

「あぁ、すまなかった……騙された俺が馬鹿だった」

「うん…………ありがとう。俺もごめんっ。本当にごめんっ!」

 

 この勘違いの原因は、自身の傷から逃げた事だ。

恥をさらしたくないと逃げた弱い自分のせいだった。

 

「お前たちに話して、馬鹿にされながら、慰めてもらって、大騒ぎすればよかったんだ。友達なんだから、な」

「……馬鹿になんてしねぇよ」

 

 そう言ってくれると嬉しい。

間抜けな俺をただ慰めてくれていたというのなら、俺はもっと早く救われていた。

 

「…………」

「…………」

 

 気まずい雰囲気が二人の間に流れる。(わだかま)りは解消したが、なんて言っていいのか分からない。次の言葉が見つからない。

 

 困っていた時に浮かんでくるのは、俺の大切な所にいる彼女らの姿だった。

こんな時、あの3人ならどうしただろう。

 

「……酒、だな」

「え?」

「わ、分かってくれたなら、酒奢ってくれ。今から飲みに行こう」

 

 俺の出した結論はやっぱりそれだ。

ニッコリとわざとらしく口角を釣り上げてみる。

 

「え、は? 今からか??」

「おう! 健太と雄吾も呼んでさ! ぱぁーーッといこうぜ!」

「…………」

 

 少しわざとらし過ぎただろうか。

 

「……ハ、ハハハっ! 本当に酒好きだな、梅治!」

「! まぁな! あ、ちょうど話したい事ができたぜ、あのゴミ脱糞女のことだ!」

「それって由香里の事か?」

「あぁ、聞けばマジで笑えるぜ。俺の大学の友達の話だ───」

 

************************************************************

 

 俺たちの間柄はすぐさま高校の時に戻った。気の置けない男友達。

遊び場が教室から居酒屋に変わっただけ。健太と雄吾も呼びつけて、酒飲んで大騒ぎ。もちろん昨日の喧嘩については淳司と一緒に謝った。二人はすぐに許してくれた。そこからはイカれた文化祭の動画を見せて大盛り上がりだ。

 

 後からだが、西代も呼んだ。彼女も楽しそうに俺たちに混ざってくれた。

俺以外の男の目は少し恐怖に染まっていたような気もするが……

 

 まぁ、大団円、雨降って地固まる。そんな言葉がぴったりな結末となった。

 

************************************************************

 

 三が日が終わって1月5日。

俺は空港に向かって車を走らせていた。西代を送るためだ。

 

「はぁー、しかし花嫁のふりなんて本当に疲れたよ……」

「ハハハっ、お疲れ様だな、モモちゃん」

「その呼び方、もうやめてくれ。安瀬たちの前で出てしまったらどう説明するつもりだい?」

「……確かに」

 

 恐ろしい妄想が俺の脳内で繰り広げられた。

安瀬と猫屋にひたすらに弄られて馬鹿にされるという屈辱的な内容だ。

 

「まぁ、陣内君のおかげで人生で一番楽しい正月になったよ」

「そりゃどうも。俺は中々心苦しかったけどな」

 

 両親は西代を完全に未来の嫁に接する態度で扱っていた。

実はただの女友達でした、とはもう言えないだろう。

 

「来年は猫屋の方に行くから、安心してくれ」

「……なぁ、それなんだけどさ」

 

 俺の頭には一つの疑問があった。

 

「もしかして、俺が地元の友達と喧嘩になる事を予見して、俺の方について来たんじゃないか?」

 

 俺は、自分でも突飛すぎると思うほどの疑問を西代に向けて言い放った。

 

「……なんでそう思うんだい?」

 

 彼女が驚いた様子で俺の顔を見てきた。

 

「いくら猫屋の家の飯が辛くても、普通は同性の方にいくだろう?」

 

 西代が実家の親戚が嫌いな事は嘘ではないだろう。

ただ飯が辛いだけ、という理由で異性の家に行くのは釣り合いが取れていないように感じた。

 

「それに、あの喧嘩の仲裁のタイミング。お前、お参りに行くって言っていたけどコッソリと俺たちの会話を聞いてたよな?」

「…………」

「あとは庇うまでの判断の速さだな。なんか出来すぎてた気がするんだよ。今回の西代の行動は」

 

 西代は何故か黙って懐から煙草を取り出した。

その手に握られているのは珍しくウィストンだ。俺のお気に入りの嗜好品。

 

「すぅー、ふぅーー……」

 

 彼女は俺の疑惑には答えずに、黙って喫煙していた。

 

「おい…………なんとかいって───」

 

 突如、俺の口に新品の煙草が突っ込まれた。

 

「んぐっ!」

「大人しくしておきなよ」

 

 そういうや否や、彼女は顔を近づけてきた。

シガレットキッス。クールで美人な彼女の大胆な行動。不意を突かれたせいか、心臓が跳ね上がった。

 

 俺は彼女の言う通り、大人しく火がつくのを待つしかなかった。

乾燥した(きざみ)が赤く燃え始めたところで、彼女は離れる。

 

shut up kiss(シャラップ・キッス)ってやつさ。余計な詮索をせずに黙って運転しなよ」

「……キスで黙らせるってか。恥を知れ、恥を」

「シガー越し、おまけに『美人にキスしながら安全運転ができる人間は、キスに十分集中していない』だ。僕がそんな無意味なキスに恥を感じる必要はないね」

「減らず口め」

 

 だが、これ以上彼女を追及する事は止めておこう。隣で皮肉そうに微笑を浮かべる、男装の美しき麗人。もう一度口を塞がれれば今度こそ運転に集中できなくなりそうだ。

 

 それに、彼女が俺を助けるために動いてくれたのは確かだ。

 

「なぁ、もしよかったらさ……」

「うん?」

「来年の正月も家に来ていいぞ。その、えっと、親にお前と別れたと思われて、悲しませたくないしな。また嘘つく事にはなるんだろうけど……」

 

 俺は煙草の煙を思いっきり吸いこんだ。 

恥ずかしくて、顔から火が出そうだ。

 

「うん、また来年ね」

「あぁ」

 

 優しげな微笑を浮かべる彼女に、俺はぶっきらぼうに返事をした。

 

************************************************************

 

 場所と日時が変わった、数日後。

西代はとある人物に電話を掛けていた。

 

「はい、もしもし佐藤ですが」

「あ、先生。あけましておめでとうございます、西代です」

「あぁ、おめでとう西代さん……。その様子だと今度はちゃんと"後始末"はつけられたようですね」

「はい。先生の言った通りになりました」

 

 西代は電話越しの女助教授に畏怖と敬意を抱いていた。

無論、アルコール耐性にではない。先見の明にだ。

 

 文化祭の翌日、西代は教授練トイレの後始末を忘れていた事を思い出し、佐藤甘利に電話をかけた。事情を話して証拠の隠滅を図るためだ。

 

「やっぱり女の恨みは恐ろしいものよね。由香里さんって人が聞いた通りの性格なら、嘘を吹聴するぐらいはやるでしょう」

「おっしゃる通りです」

 

 佐藤甘利は監視カメラの映像を消す事を条件に、陣内梅治の体質とそうなった経緯を把握した。西代はその事を誰にも言っていない。黙っていることも条件に入っていたからだ。

 

 今回の騒動を予見して西代を陣内に付き添わせることを提案したのは佐藤甘利だ。

 

「あの、でも、先生? 今回の後始末には先生にどんなメリットが?」

「私はただ、担当生徒にキッチリと卒業して欲しいだけよ。そのために余計な心労を生徒に与えたくはないの」

 

 佐藤甘利は本心を語る。

 

「……それじゃあ私は仕事があるから、失礼するわね」

「あ、はい」

 

 短い会話で佐藤の方から電話を切った。

 

「さて……」

 

 これで、陣内梅治の心の錠前はまた一つ外れた。

彼女らの関係は楽し気だが、どこか歪。健全な男女の在り方では決してない。

恋慕という火の点いた導火線は確実に爆薬庫に向かっている。

 

「その症状が完全に治った時。あなたはどう()()をとるのかしらね」

 

 佐藤甘利は陣内の体質を、症状と呼称する。

精神的な疾患であり、()()ものだと。

 

「痴情の(もつ)れ……そんな理由で退学だけは本当にやめて欲しいわね」

 

 佐藤甘利は気怠そうに、彼らの未来を案じる。

 



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大人の飲み会、再び①

 

 冬休みを終え、俺の大学生活が再開して2週間が経過した。

日常に変わりはない。講義に出て、バイトで金を稼ぎ、酒を飲む毎日。

 

 その間に変わった出来事は、西代の誕生日パーティを行った事ぐらいだろう。

 

 珍しい事に、安瀬ではなく俺が計画したサプライズ企画。誕生日を実家で祝って帰ってきた西代に、追い打ちの祝砲を喰らわしてやろうという趣旨だ。

 

 誕生日プレゼントはもちろん、豪華な食事と酒、部屋を彩る装飾品。ボードゲームなんかも用意して彼女を盛大に祝い遊んだ。

 

 ……まぁそれだけで済まなかったけど。

 

 問題は安瀬が用意した市販の()()()()()()だ。あの阿呆は、俺の部屋で何喰わない顔で花火を点火しやがった。眩しい極彩色が目の前で打ちあがった時は、目がチカチカして失神するかと思った。流石に本気で説教した。殺す気か。

 

 ……前置きが長くなったが、俺は大学生活を平和にエンジョイしている。

 

「「「ぜひ、合コンに参加して俺達を助けてください!!!」」」

 

 早速だが訂正しよう。

現在、俺はおかしな事件に巻き込まれようとしていた。

 

************************************************************

 

「えっと、……どういう事ですかね?」

 

 俺の目の前には赤、黄、緑、とどこかで見たような髪色をした男達。

以前、酒飲みモンスターズにボロ雑巾のように酔いつぶされた信号機トリオだった。

 

「はい、実は"女を侍らす漫才師"の異名を持つ陣内さんにお助け頂きたい事がありまして」

 

 うん、誰だそれ? そんな異名持った覚えはない。

 

「えっと、その、まずは敬語やめてくれませんか? 俺は1回生なんで……」

 

 確か、彼らは3回生のはずだ。たぶん同い年とはいえ、立場上は彼らの方が位は上。敬語を使われるのは体面が悪い。

 

「……そうだな」

「でもアンタは2浪していて、俺達と同い年なんだろ?」

「なら陣内も敬語はいいよ」

 

「あ、うん、ありがとう」

 

 急に馴れ馴れしくなる彼ら。そっちの方が俺も気が楽だが、ずいぶんと切り替えが早いな。

 

「……あれ? 何で俺が2浪したのを知ってるんだ?」

 

 そこまで異名とともに大学で広まっているのだろうか。

だとすれば恥以外の何物でもない。

 

「あぁ、俺たちの後輩がアンタと同じ学科でな。そいつから聞いた。何でも講義中だろうが女侍らせて酒を飲んでいる、()()()()()()()()()がいるって」

 

 俺たちの学科の生徒は、学籍番号の仕組みにより浪人した者を把握する事ができる。しかし……

 

「ご、誤解だ。それはシンプルに誤解だ」

 

 確かに講義中だろうとお茶でも飲むかのように酒を呷っているが、女を侍らせたことなどない。酒飲みモンスターズは俺が持参した酒目当てで近くに座っているだけだ。

 

「というか、俺はアンタらの事知らないんだけど……」

「確かに話が急すぎた。まずは自己紹介から始めようか」

「あ、うん、よろしく」

 

 赤髪が爽やかな笑みを浮かべて俺に話しかけてくる。

友達は多い方が良さそうなので、せっかくだし紹介して貰おう。

 

「俺は赤崎だ」

「俺は緑川」

「俺は黄山っていう」

 

「…………うん、よく分かった。俺は陣内だ」

 

 本当に本名なのだろうか。芸名と言われた方が納得ができる。

 

「おっと、俺たちの髪色と名前を結び付けたな」

「ふっ、その時点で術中にはまっているのだよ」

「覚えやすい名前と特徴は合コンでは必須だからな!」

 

「……なるほどな!」

 

 とりあえず、強く同調しておいた。

人間は第一印象が大切と聞く。そして目立ったもの勝ち、といった要素のある合コンに置いて奇抜な頭髪はプラスに働くのだろう。

 

 だが、何か大切な物を失ってはいないだろか?

 

「それで? 俺に何の用なんだ? 合コンに参加?」

 

 彼らの名前は分かった。

では次に、初対面で頼みこまれた謎の依頼について知りたい。

 

「細かい経緯を説明するとだな」

「あの恐るべき酒豪3女と飲み会をして以来だ」

「俺たちの合コンのお持ち帰り率が著しく低い。スランプというやつだ」

 

「はぁ」

 

 凄まじい会話のチームワークを魅せつけて、どうでもいい事をぺらぺらと話し出す信号機達。

 

「今日の夜、俺達は合コンをセッティングしている」

「看護学校の天使達だ。しかも全員美人ぞろい。絶対にモノにしたい……」

「そして、俺たちはあの美女3人を普段から飼い馴らしている天才モテ男がこの大学にいると聞いた」

 

 飼い馴らしてはいない。俺の賃貸に寄生しているという表現が正しい。

 

「「「どうか、我ら合コン戦士をそのモテテクでサポートして頂きたい」」」

 

「……ま、まじかよ」

 

 彼らのお願いとは、合コンのヘルプだ。

ヨイショ役をしてくれという意だ。

 

「向こうの人数は4人だ。陣内が持って帰りたい子がいたら一人は口説いてもらってもいい」

 

 なるほど、それが俺への報酬と彼らは考えているようだ。

 

「普通に嫌なんだけど……」

「な、なんでだ……!? ま、まじで美人ぞろいだぜ今日は!!」

 

 俺は露骨に顔を歪めて見せた。興味が無い訳ではないが、合コンには酒がつきもの。ワンナイトという淫らな行為は俺には不可能だ。それに彼らとは特に仲がいい訳でもない。そんな三枚目を演じる必要は俺にはないだろう。というか、モテテクなんて特殊技能は俺は修めてはいない。

 

「そこを何とか……!」

 

 赤崎が俺に頭を下げる。そんな事されても困ってしまうだけだ。

 

「いや、悪いが断───」

「もちろん、飲み代は出させてもらう!!」

 

「よぉ、兄弟!! 今日は全力でお前たちをサポートさせてもらうぜ!!」

 

 俺の心は決まった。彼らは最高に素晴らしいヤツらだ。

 

************************************************************

 

「そういう事情で、今日は合コンに行ってくる」

「…………………………」

 

 陣内梅治は靴ひもを結びながら、傍にいる安瀬に話しかける。

黙って彼の言葉を聞く安瀬はピクピクと表情筋を痙攣させながら固まっていた。

 

 陣内は彼女の様子には気づかずに、立ち上がってドアノブに手をかけた。

 

「じゃ、俺もう行くわ。あの信号機達と事前の打ち合わせがあるからな……。あ、面白がってコッソリとついてくるなよ」

 

 そう言い残して、彼は出かけて行った。

残された安瀬はプルプルと体を震わせて、口をパクパクと閉口させていた。

 

「き、き……」

 

 安瀬は大急ぎで台所にある鍋とお玉を手に取った。

それをカンカンッ!! と叩きながら、リビングの引き戸を足で開けた。

 

「緊急事態であるッ!!!!」

 

 突如として陣内家に響く、エマージェンシーコール。

炬燵に入って煙草を吸っていた、猫屋と西代は何事かと彼女を凝視する。

 

「え、なーに? どうしたの安瀬ちゃん」

「うるさいよ。……僕、この後バイトだからゆっくりしたいんだけど」

 

 事態を把握できていない二人は迷惑そうな口調で安瀬に反応する。

 

「ゆ、悠長なことを言っておる場合では無い! 陣内が合コンに出かけた!!」

 

 けたたましい轟きと共に、猫屋と西代に落雷が落ちた。

 

 あ、あのアル中が……合コン!? と脳内で驚愕の言葉が暴れだす。

 

「ちょ、ちょっとー!! それどういう事!?」

「それは聞き捨てならないね!!」

 

 吸いかけの煙草を灰皿に押し付けて、炬燵から立ち上がる彼女達。

表情は真剣そのものだ。どこか鬼気迫ったものを感じる。

 

「いったい、どういった事情だい?」

「あぁ、それはじゃな────」

 

 安瀬は陣内から伝えられた、今回の経緯を二人に話す。

 

「…………なーんだ。タダ酒に釣られて参加しただけじゃーん」

「よく考えたら、陣内君が合コンで一夜の夢を見る、なんて真似できるわけないよ。体質的に不可能だ」

 

 二人は先ほどとは打って変わって、落ち着いていた。

彼女らは、陣内がこの場にいる絶世の美女を差し置いて女を漁りに行ったのかと思い、焦っただけのようだ。

 

「……しかし、恋人なら作って帰ってくるかもしれんでござるよ」

「「っ!?」」

 

 安瀬の目から鱗のような発言。確かにワンナイトという行いは陣内にはできない。しかし、健全でプラトニックな関係を築いてしまう事は可能だった。

 

「そ、それはー……それはなくなーい?」

「ぼ、僕達と恋愛関係になっていない時点で、その可能性は薄い気がするんだけど」

 

 猫屋と西代は自分の容姿とアルコール耐性だけには自信があった。

 

「……もし、もしもの話ではあるが、陣内と()()()()()()()()がいた場合。我はありうると考えておる」

 

 酒飲みモンスターズは対外的な行動と性格に関しては自己評価が低い。女らしくない事を自覚していた。

 

 そして過去の事件もあって、陣内の恋愛対象は外面よりも内面を重視する傾向があるのかもしれない。それならば美しき自分達と生活を共にしても惚れない理由としては成立している。3女はまたもや自分たちを棚に上げて、見当違いの方向に思考を進める。

 

 今回の合コン。彼の理想の内面を持った女性がいたのなら、陣内は口説いてしまうのでは……?

 

「……まず陣内ってさー、モテる?」

 

 この事象が成立するには、彼の魅力が高い必要があった。

 

「顔の造形は普通だよね。目は一重だし」

「男の目には糸を引け女の目には鈴を張れ、という言葉があるぜよ」

 

 男の目は線を引いたように細く、女の目は鈴のように大きい方が良い、という容姿の基準を表現した(ことわざ)だ。

 

「それってー、何時代の美醜感?」

 

 猫屋はその時代遅れの感性を否定する。

 

 (…………あれ?)

 

 古い感性を持っている安瀬は、意外と陣内の顔を気に入っているのでは?

 

 猫屋は心の中で、隣にいる友の好みのタイプを勝手に想像した。

彼女の憶測をよそに議論は進む。

 

「それに、ヤツは妙に女馴れしておる所がありんす」

「あ、あー、……確かにねー。恋人がいたなら当然かもしれないけどー」

「…………」

 

 西代には心当たりがあった。陣内が手当たり次第に女を部屋に連れ込んでいた黒歴史だ。彼の名誉のために口には出さない。だが、女を篭絡する技術を彼が持っている可能性は高い。

 

 それを踏まえて、西代は友を重んじる。

 

「そもそもさ、陣内君に恋人ができたとしてだ。……残念だけど、僕らは彼を祝福してあげるべきじゃないかい?」

 

((…………え? "残念"?))

 

 西代が無意識に出した不用意な言葉。そこに二人は引っかかる。

しかし、今は別議題で討論中。かつ、当の本人が平然な顔をしているので詳しくは突っ込む気にはなれなかった。

 

「そ、そーだよねー! じ、陣内に、こ、恋人ができた所で私には関係な────」

「う、(うつ)けか貴様(きさん)ら! 恋人がいる男の部屋に、拙者達が寝泊まりできるわけなかろう!!」

「「あ、……」」

 

 今度こそ緊急事態宣言の意味が理解できた猫屋と西代。

安瀬が2番目に恐れていたのは、そこだ。

 

「や、やだ。それはやだー!」

 

 猫屋が愚図りだした。

 

「私、1限がある日は陣内の家じゃないと絶対起きれなーい!!」

「ぼ、僕も……」

「せ、拙者もでござるよ……」

 

 情けない弱音を曝けだす3人。

酒飲みモンスターズは単位喪失の危機に陥っていた。

 

「……妨害、するよね?」

 

 ぽつりと西代が呟く。

かなり最低な提案であった。

 

「我もそうしたい所であるが、『ついてくるな』と言われたでありんす」

 

 陣内は当然、彼女らが揶揄いに来る事態を想定していた。

なので、予め牽制の言葉を安瀬に放っている。

 

「合コンに潜入したとしても、すぐにバレて追い出されるで候」

「こ、困ったねー。……そもそも、合コン場所は聞いてるのー?」

「隣町の『バッカス』というバーでありんす。陣内の行きつけじゃな」

 

「……え?」

 

 西代がキョトンとして、間抜けな声をだす。

 

 

「僕、先週からそこで働いてるんだよ。そう言えば、誰にも言ってなかったね。あそこ、陣内君の行きつけだったんだ」

 

 

 安瀬と猫屋はゆっくりと西代に視線を合わせた。

 

「西代ちゃん、今日はバイトって言ってたよねー?」

「うん」

「無線カメラとインカムは、この家にあるでござるな」

「……わかった、まかせてくれ」

 

 妨害手段は確保できた。

酒飲みモンスターズは邪悪に満ち溢れた秘め事を練り上げ始めるのだった。

 

 



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大人の飲み会、再び②

 

 薄暗い店内。簡素な木製テーブルに長くて座り心地の良いソファー。

優しい寒色の光が落ち着いた大人のムードを演出していた。

 

「雰囲気いいだろ?」

 

 俺は信号トリオ達に感想を聞こうとする。

 俺達男子4人は先に店内の個室に入っていた。『バッカス』はバーにしては珍しく、奥に個室が存在している。注文は電子パネル。もちろん、マスターに直接オーダーを出せば、メニューに載っていないカクテルも作ってくれる。少し値が張るが、俺のお気に入りの店だ。

 

「確かに雰囲気は良いけどさ……」

 

 赤崎はどこか不満げな口調だった。

 

「合コンって普通は食事しながらやるもんだろ?」

「知ってるか? 食欲が満ちると、性欲って落ちるんだ」

「……え、まじ?」

「あぁ、だから開始時間を遅くして、いきなりバーなんだ」

「遅い時間なら女性陣もご飯食べて来てくれて、話してたら満腹ではなくなるな」

「それに、酒も進む。……終電も逃しやすい」

 

 一応、俺が言っているのは口から出まかせではない。

 

「あと店内が暗い方が女を意外と落とせる。クラブとかで、店内ではイケメンに見えたけど外出たら微妙だった、なんて話聞いた事ないか?」

「……あるな」

「クラブと違って、ここはバーだからな。外に出すまでに酔わせて、審美眼を狂わせればいい」

「な、なるほど」

「おまけに、この個室にはカラオケがあるだろう? だから防音だ。騒いでも問題ない」

「おぉ、考えられてるな。さすが、天才女たらし」

 

 なお、ここまでは全て偶然だ。俺が行きたいバーが偶々このような内装になっていただけ。彼らには悪いが勘違いしてもらおう。

 

「あ、でも酔い潰して強引に持ち帰るのはなしな。その時点でお前らを酒で潰す」

「「「え、なんで?」」」

 

 この猿ども……。その性欲を酩酊時の俺に分けて欲しいくらいだ。

 

「20歳を超えてるのなら、酔いに任せて体を許すのは自己責任の範疇だとは思う。けど、せめて合意はないとダメだろ。俺の目の黒いうちは許さん」

 

 男性目線の一方的な判断基準ではあると思う。家に蔓延る女子3人に聞かれたら怒られるかもな。

 

「なるほど、紳士的にベットインが理想か」

「草食獣のふりをして、後ろから襲うと」

「難易度は上がるが、燃えてきたぜ」

 

 信号頭たちは俺の基準に合意してくれたようだ。

こいつ等、本当に馬鹿なんだな。ちょっと愛着じみた物が湧いて来たわ。

 

「あとは事前に教えたカクテルの知識でも語って、口説いてみたらどうだ? そういうのが好きな女には効くだろ」

 

 これは本当に適当。

映画でそんなシーンがあるが、実際に成功した例を俺は知らない。

 

「陣内の酒の知識量はすごいよな。とても同い年とは思えん」

 

 緑川が俺の事を褒めてくれる。

酒の事で褒められると滅茶苦茶嬉しい。

 

「好きな物こそ何とやら、だな。……そろそろ来る頃じゃないか?」

 

 俺の予想通り、5分もしない内に個室の扉は開かれた。

看護学校に通っているらしい同い年の4人組。

赤崎らの前評判通り、暗い所でもはっきりと分かるくらいに美形ぞろいだ。

 

「あれ? またせちゃった?」

「い、いや俺達も来たばっかりだよー!」

 

 黄山がテンション高く彼女たちを歓迎する。

合コンは始まった。

 

************************************************************

 

 場所はバーの奥にある従業員スペース。

西代は変装用のカツラと伊達メガネをかけてインカム越しに声を出す。

 

「こちら西代。合コン相手が到着した模様。オーバー」

「確認したでござる。オーバー」

「このまま注文が入るまでは待機する。おー……。めんどくさいから止めにしないかい?」

「そーだねー」

「うむ」

 

 安瀬と猫屋は『バッカス』を外に出て斜向かいの所にある、ネットカフェを拠点にして西代と交信していた。ネカフェのPCの画面には、()()()()()()()の映像が映し出されている。

 

「無線の調子はどうだい? 安定してるかい?」

「それは大丈夫じゃが、店内が薄暗くて見えにくいでござる」

「まぁー、いいんじゃなーい? 声さえ聞こえれば状況はわかるしねー」

 

 西代は清掃という名目で陣内達が予約した部屋に入りこみ、無線カメラと収音マイクを隠すように設置していた。

 

「お、早くも陣内のヤツがお酒を頼もうとしているようじゃのう」

「うーんと、なになにー……、ダイキリかー。ラムベース好きだよねー」

 

 安瀬たちの言った通り、ピピっと店内のオーダーディスプレイに注文が表示される。

 

「実際にカクテルを作るのは店長だ。僕はそれを運ぶだけ」

「つまりー、その時に細工できるってわけねー」

「そういう事。注文が入ったから少し黙るよ。通信はそのままでお願い」

「了解じゃ」

 

 西代は従業員専用のスペースを出て、店長がマスターを務めるバーカウンターに向かう。作られたカクテルを個室まで運ぶためだ。

 

 10分もしないうちに、陣内達が頼んだ8人分のカクテルは出来上がった。

 

 酒を盆に載せて、店内奥の個室へと運ぶ。

そして西代は何食わぬ顔をして部屋のドアをあけた。

 

「失礼いたします」

 

 中では男女の自己紹介が行われており、陣内も相槌を打ちながら場の雰囲気に合わせていた。

 

「ん?」

 

 しかし、どこかで聞いたような声を耳にして、ウェイター姿の西代に注意を向ける。

 

「……、…………にっ!?」

 

 当然、陣内は気づいた。西代はカツラと眼鏡をかけているが、普段から一緒にいる彼がその程度で気づかない訳が無い。変装は面識のある信号トリオの方に気づかれない様にするためだ。

 

 西代は声には出さず、『し・ご・と』と口パクで表現してみせた。

彼女のジェスチャーを受けて、陣内はフリーズする。

 

 事態を把握した彼は両手で顔を覆い隠しガックリと項垂れた。西代が正月前にバイトを辞めていた事を思い出したのだ。

 

 だが、彼には予想しようがないだろう。まさか、彼女の新しいバイト先が偶然にも合コン先に被っていたなどとは。

 

「こちら、ダイキリになります」

 

 そう言って、西代は陣内の前にグラスを置く。

 

「……ありがとう」

 

 素直に礼を言って、陣内はグラスを手に取る。

それをしっかりと確認して西代は退室した。

 

 陣内はカクテルグラスを穴が開くほどジッと見つめた。

 

「なぁ、赤崎」

「? どうした陣内」

「俺、実はダイキリ苦手なんだ。間違って頼んでしまった」

「え、そうか。……俺のマティーニと交換しようか?」

「本当か? すまん、恩に着るよ」

 

 陣内と赤崎は持っているグラスを交換した。

その後、酒がみんなの元に行き届いたのを見て、赤崎は立ち上がった。

 

「えー! では本日は皆さん、お集まりいただきありがとうございます!」

 

 よくある乾杯の音頭だった。

 

「ここに集まったのも何かの縁! 20歳という同年代の仲間が集まったのは何か特別な意味があるのでしょう!! 今日は無礼講、皆で楽しみましょう!」

「「「「いぇ~~~~い」」」」

 

 周りもノリよく応えた。

場を盛り上げるという点について赤崎には自信があった。

陣内もそのスムーズな進行と発言には感心していた。

 

「では、かんぱーーーい!」

「「「「かんぱーーーい!」」」」

 

 大声と共に、全員が一気にグラスを煽る。

 

「ぐっばぁ゛゛゛゛゛───ッツ!!!??」

 

 突如として赤崎は倒れ込んだ。

 

「あー、やっぱりな」

「どうした、赤崎ッ!!」

「しっかりしろ!!」

 

 赤崎の周りを取り囲む、緑川と黄山。

看護学校の女子たちも、彼の卒倒を心配そうに眺めていた。

 

「ゲホッ! オホッ! ……初めて飲んだが、ダイキリってこんなに度数強いのかっ」

 

 赤崎は何とか立ち上がって、フラフラとソファーに座った。

顔を赤くして、荒い呼吸を繰り返している。

 

「そうだぞ、赤崎。ダイキリは度数が凄い高い」

「そ、そうだったのか。どおりで喉が焼けるし頭がクラクラするわけだ」

「知ってるかと思ってた。……本当に、マジで、なんかごめん」

 

 陣内の言っている事はもちろん嘘である。ダイキリの度数は25%。

カクテルなら十分飲める度数だ。

 

 

「「「……ちっ」」」

 

 

 扉の外で中の様子を窺っていた西代。それに加えて、個室の映像を見ている安瀬と猫屋が同時に舌打ちする。

 

 西代は酒を運んでいる途中、ダイキリと予め用意しておいた()()()()()()()をすり替えた。内容物は持参したスピリタスと砂糖のみ。ダイキリは白く濁った酒。レシピ的にバレる事はない。

 

 インカムを手で押さえて、西代は結果を報告する。

 

「こちら西代、プランS(スピリタス)失敗」

「我らも確認したぜよ」

「陣内の癖に勘がするどーい……」

 

 悪女達は目を細めて、運よく逃げた標的を睨んだ。

 

「まぁ、そもそもあの程度の量のスピリタスで落ちるとは思っておらん」

「そうだね、陣内君にはもっと強い刺激が必要だ」

「じゃー、次のプランだねー……」

 

 地獄の夜はまだまだ続く。

 

************************************************************

 

 恐るべきことが発覚した。なんと、西代が『バッカス』でバイトしていたのだ。

変装までして何を考えているのか知らないが、碌な事ではないのは確かだ。

事実、すでに1名犠牲者が出た。

 

 俺の隣で合コン開始早々に赤い顔をしている赤崎。

名は体を表すというが、もう、身体の殆どが赤いのではないだろうか?

 

「あ、見てみてー! このお店面白いメニューがあるよ~!!」

 

 俺の心配をよそに、女性陣の一人が気を引こうと声をだす。全員の視線が看護学生女子に集まる。自己紹介して貰ったはずだが、西代のインパクトのせいで名前は憶えていない。彼女は電子パネルのメニュー項目を指さしている。

 

「ロシアンルーレットたこ焼き?」

「…………」

 

 その項目には商品イメージ画像が付与されていない。いかにも突貫工事で追加しました、という雰囲気を感じた。嫌な予感がする。

 

「1つだけ辛いたこ焼きが入ったやつだよな」

「最近はカラオケでもそういうのあるよなー!」

「いいね! 面白そう!」

「早速、頼んじゃおうよ!」

「ちょ、ちょっとま────」

「は~~~い! 頼んじゃいまーす!!」

 

 そういうや否や、彼女は注文用のディスプレイを操作してたこ焼きを頼んでしまった。

 

 ディスプレイに注文完了の文字が表示された瞬間、個室のドアが開いた。

そこには西代がホカホカのたこ焼きを持って立っている。

 

「おまたせいたしました」

 

「「「「……!?」」」」

 

 注文した品は一瞬にして届けられた。

いや、いくら何でも早すぎるだろう。事前に準備してスタンバってやがったな。

 

「こちら、ロシアンルーレットたこ焼きでございます。器は男性用と女性用で分けられております」

「そ、そうですか。ありがとうございます」

 

 戸惑いながらも看護女子がお礼を言うと、たこ焼きが入った二つの耐熱容器がテーブルに置かれた。一見して、見た目は普通に見える。

 

 だが、もし今回の"()()()()"に猫屋が参加しているのなら、このロシアンルーレットは本来の拳銃を使ったものと何ら変わらない。

 

(1個が激辛のたこ焼き……!)

 

 俺の想像する激辛は致死量レベルの辛さだ。

もはや猛毒と言っても過言では無い。俺達の内、誰かは確実に死ぬ。

 

 死を目前にして血流が加速する。冷や汗も出てきた。

猫屋のお気に入りの香辛料は陣内宅の罰ゲームでも使用禁止令がでた。

それぐらいヤバい物だった。思い出したくもない。

 

「じゃあ、皆でせーので食べよっか!」

「お、いいね~!」

「へへっ、俺は辛いの好きだから案外平気かもな」

「あ、それずる~い」

 

(ならお前が食ってくれッ!! 緑川!!!)

 

 緩い会話が繰り広げられる中、俺は血眼になって爆弾を探す。

その甲斐あって、ほんの少しだが赤みがかったたこ焼きを見つけた。

暗くて判別は付きにくいが、恐らくこれがハズレだろう。

 

 俺は急いで、他のたこ焼きを爪楊枝で刺し手に取る。

 

「お、早いな陣内。もう決めたのか」

「あ、あぁ。思い切りが良い方なんだ」

 

 俺は理由を話さずに適当に誤魔化した。

本当にごめん、赤崎。俺はまだ死にたくはない。

 

 他の全員もたこ焼きを選び終わった。わざわざ、器を分けたのだから女性陣の方には何も入っていまい。そこは安心して見ていられる。

 

「じゃあ、いくぞ~~~……」

 

 またも赤崎が音頭を取った。

すでにフラフラなハズなのに女を目当てに頑張っている。凄い執念だな。

爆弾は俺を除いて1 / 3 の確立だ。彼には当たって欲しくはない。

 

「「「「せーーーのっ!!」」」」

 

 その瞬間。俺の脳裏に違和感がよぎった。

 

 1 / 3 ? あいつらが? そんな偶然に頼る?

 

「俺、タコ嫌いだった!」

 

 隣で大口を開けている赤崎。

その口に急いで俺のたこ焼きを放り込んだ。

咄嗟の緊急回避。成功判定はすぐに表れた。

 

「お、おぎゃぁぁぁぁぁああああああああ!!!???」

「うごぐぇぇぇぇえええええええええええええ!?!?!?」

「──っ────っっ──っ─────っっっッッツ───!!??」

 

 死屍累々の阿鼻叫喚地獄が目の前に広がった。

緑川と黄山を大声を上げてのたうち回り、二つ食べる事になった赤崎に至っては泡を吹きながら痙攣を起こしていた。

 

 あの小さな球体に、どれほどの劇薬を詰めたのだろうか。

辛い物が得意と言っていた緑川も、もがき苦しんでいる。

 

「お客様っ! 大丈夫ですか!」

 

 バタンッ! と勢いよく西代がこの惨劇に入場してくる。

 

「なにが大丈夫ですか、だ! 殺す気か!!」

 

 俺は西代を大声で糾弾する。本当に死ぬところだった。

 

「申し訳ございません。香辛料の分量とハズレの数を間違えてしまいました」

 

 紳士的な態度で頭を下げる西代。

だがその声は平坦で抑揚などない。棒読みだ。

 

 嘘をつけ、と心の中で罵倒する。俺が見つけたたこ焼きの赤みは彼女らの罠だ。

ハズレを一つだと俺に誤認させるため、紅ショウガの欠片でも入れておいたのだろう。

 

「「「……ちっ」」」

 

 聞こえてるぞ、その舌打ち。

なぜか、安瀬と猫屋の分も聞こえた気がしたが。

 

************************************************************

 

「こちら、西代。プランN(ねこや)失敗」

 

 彼らに謝って退室した西代は苦々しい表情で失敗を報告する。

 

「こっちでも確認済みー! あ゛ー、つまんなーい!」

「あのアル中めが! 今日はムカつくほど冴えておるのぅ」

「酒が入っていないと防衛本能が働くのかな。本当に生意気だよね……!」

 

 忌々しそうに呪言を吐く、酒飲みモンスターズ。

彼女たちは焦っていた。まさか、あのトラップを1人だけ切り抜けるとは考えてはいなかった。他男子3人は半生半死。このままだと、陣内だけで女4人を相手に合コンが再開するかもしれない。

 

 そう考えると、彼女達は苛立ちを感じて仕方なかった。

 

「こうなったら、()()()L()を決行するでありんす」

 

 安瀬が用意しておいた最後の作戦名を告げる。

 

「え、いいのかい?」

「よい。陣内の鷹揚(おうよう)とした態度をぶっ壊してくれる……!」

「おー、やる気だねー! 私も頑張っちゃうよー!!」

「準備に時間がかかるで候。時間稼ぎは頼んだであるよ、西代」

「わかった。なんとかしてみる」

 

************************************************************

 

 緑川、黄山の2人は俺の蘇生作業のおかげで何とか息を吹き返した。

赤崎は残念ながら今夜は起きる事はない。もう、体中の全てが赤く染まっている。

魔女達の姦詐(かんさ)を俺の代わりに受けたのだ。今度、酒を奢ってやろう。

 

「失礼します」

 

 再び、ドアが開かれる。また西代だ。

今度は何を企んでいるんだろうか。

 

「先ほどは申し訳ありませんでした。こちら当店からのサービスになります」

 

 そう言って、彼女は人数分のグラスを差し出してくる。

カルーアミルクだ。説明するまでもない超有名カクテル。

 

「え、いいんですか?」

「あ、甘い物はありがたい……」

「どうかこちらで口内を洗い流してください」

 

 彼女の言う通り、牛乳にはカプサイシンを抑える効果がある。

皆がグラスに手を伸ばす。緑川と黄山は嬉しそうにゴクゴクと煽っている。

だが、俺は怪しくて口をつける気にはならない。

これは西代が用意した物だからだ。

 

「…………」

「ご安心ください」

 

 西代はスッと俺に近寄ってくる。

他の奴らはカルーアを飲んでいて気付いていない。

 

「これには何も入ってないよ」

「信じろと?」

「他の人たちも平気にしてるだろう? ……それじゃあ、合コンを楽しんで、ね?」

 

 そう言って、西代は一礼して部屋から出ていった。

 

 彼女の言う事はもっともだった。

ここに居る人数は8人。俺に何かを仕込んだ酒を飲ませたいのなら、1 / 8 の確率になる。カルーアは激辛たこ焼きのお詫びとして提供された。

俺以外がハズレを引けば、さすがに誰かが店にクレームを入れるだろう。

 

「まぁ、大丈夫か……」

 

 俺は疑う事を辞めてグラスを手に取って煽った。

甘いコーヒー牛乳の味がする。甘い酒は特に好きだ。

煙草が吸いたくなってきた。

 

「あ、ごめん。煙草吸っていいか?」

「ん、あぁいいぞ。女の子たちも別にいいよね?」

「え、う、うん……」

 

 黄山が女性陣にも確認を取ってくれた。だが反応が微妙だ。

女子は基本的に煙草の匂いが嫌いだ。煙を彼女たちの方に飛ばさない様にして、吸うのは1本だけにしておこう。

 

 ライターで加えた煙草に火をつける。

甘い酒精と甘い煙。猫屋の偏食を俺も馬鹿にはできない。

 

「ふぅーー……」

 

 一服つけて、気分を落ち着かせる。

酒飲みモンスターズのせいで楽しい飲み会が台無しになっている。

碌に酒を注文できていない。

 

 周りは俺を置いて楽しそうに会話を回している。

赤崎は完全に沈んだが、緑川と黄山は酒でなんとか回復したようだ。持ち前のコミュ力を生かして、女性陣を楽しませている。

 

 今回の俺の役割は彼らのサポートだ。

黙って煙草を吸っているだけだが、それで彼女らの恋愛対象外となっているのなら多少は貢献できたのだろう。

 

 ニコチンで鈍る頭でボーっと彼らを見ていると、ふと、一人の女と目が合う。

彼女は会話に参加せずになぜか俺を見ていたようだ。俺は反射的に会釈を返してしまう。それに合わせて、彼女も会釈を返してくれた。

 

 騒ぐ周りを置いて、俺たちの間だけに不思議な縁が生まれた。

……なんか、合コンぽいな。

 

 彼女はあまり騒ぐタイプではないようだ。だが、話す相手がいないのはつまらないだろう。俺だってそうだ。煙草を灰皿に押し付けて、席を移動する。

 

「えっと、どうも陣内梅治です。ごめんね、煙草吸いだしちゃって」

 

 いつもより口調を和らげて、二度目の自己紹介とともに謝罪する。

初対面だし俺の名前など憶えていないだろう。

 

「あ、いえ。私は煙草の匂い嫌いじゃないです。……おじいちゃんが吸ってたから」

「あぁ、俺のじいちゃんもだよ。あの年代の人はよく吸ってるよね」

「そうですね、匂いがどこか懐かしくて」

「へぇ、同じ煙草だったのかな?」

 

 俺は煙草のパッケージを開けて、彼女に近づける。

 

「この煙草、甘くていい匂いがするんだ。ちょっと嗅いでみてよ」

「え、う、うん。……あ、本当だ。甘くていい匂い」

 

 まぁ、煙草の葉に甘いフレーバーが香りづけされているので当然だ。

バニラとチョコがミックスされた甘い香りがする。

 

「この甘いのがどうにも好きでね。気づいたら病みつきになってた」

「ふふふっ、甘いのお好きなんですね」

「そうかも。逆に辛い物はそんなに得意じゃなくてね」

 

 別にそんな事はない。会話を続けるために頭を空っぽにして話す。

 

「だから、外れの辛いたこ焼きなんかは苦手で食べたくなかったよ」

「あぁ、だから赤崎君の口に……」

「そうなんだ。……赤崎には悪い事をした。香辛料が多かった、なんて想像できなかったんだ」

「それなら、仕方なかったですよ」

「ハハハ、ありがとう」

 

 思ったより軽いテンポで小気味よく雑談は続く。

このまま合コンが終わるまで、話していてもいいかもな。

 

「あ、ごめん。もう一回、名前聞いてもいいかな?」

 

 彼女の名前が気になった。

 

「あ、はい。私は────」

 

 刹那、バタンッ! と強い力で扉が開かれた。

 

「ジン君!! 誰よ、その女はッ!!!」

 

 唐突な乱入者。その登場に全員が会話を止めて、視線を入口に集める。

 

「あ……安瀬?」

 

 そこにいたのは、珍しく本気の化粧を(ほどこ)した安瀬だった。

服装は冬だというのにどこか露出が多い。彼女の官能的なスタイルの良さが前面に押し出されている。

 

「いや、おまえ、なにして───」

「私がいるのに、信じられない!! あんなに深く愛し合ったのに!!」

 

 空気が氷点下まで凍り付いた。

俺は彼女の支離滅裂な言葉に頭を大混乱させる。

 

「おま、おま、お前、何言ってんだよ!!」

「私とはお遊びだったのね! 酷い!!」

 

 なんだその、うすら寒い口調は!

普段のイカれた語尾はどこにいった……!!

 

「あれ、誰?」

 

 看護女子の一人が呟く。

 

「え、あぁ、たしか陣内の彼女」

 

 緑川がその問いに返答した。

反射的に答えたのだろうが、それは誤解であるし今はまずい。

 

「え、彼女いるのに合コン?」

「ありえなくない?」

「……ひどい。話しやすい人だなって思ってたのに」

 

 看護女子たちの冷えた視線。

すでに心底凍えていた俺には大ダメージだ。

 

「ち、ちが、これは誤解であって……」 

「こんな可愛い彼女さんがいて、誤解ってどういうことですか!!」

 

 先ほど俺と話していた女子が本気で怒鳴ってきた。

彼女はとてもいい子だ。俺も逆の立場なら同様に怒っただろう。

だが、いわれなき中傷に心は傷つく。マジで誤解だ。

 

「…………っふ」

 

 俺は安瀬の(あざけ)りを聞き逃さなかった。勝ち誇ったような目をして、ニタッと笑っていやがる。

 

 こ、これが狙いか、クソ女狐……!!

 

 せっかくの無料の飲み会だったが、もはや酒を楽しめる雰囲気ではない。

看護女子達の軽蔑と辛辣な表情。台無しだった。

 

 今日は良い酒が飲めると思って楽しみにしてたのに!

 

 俺は席から立ち上がり、怒りの形相で彼女に詰め寄った。

 

「安瀬ぇ……、今日という日は絶対に許さねぇぞ!」

「あっはっはっは!! ……逃げるが勝ちでござる!」

 

 そう言って、彼女は店外へ向かって走り出した。

 

「っ、待て! このド阿呆!! 鼻からスピリタスを飲ませてやるッ!!」

 

 俺も彼女を捕まえるために全力で走りだす。

安瀬は俺を発言を聞いて、必死に速度を上げて逃げる。

 

「そ、それは乙女に対する仕打ちではないでありんす……!!」

「じゃあ、ケツの穴だ!! 直腸摂取させてぶっ殺してやる!!」

「け、けつ!? セクハラじゃぞ馬鹿者ッ!!」

「馬鹿はテメェだよ!! 目に物見せてやるッ!!」

 

 二人の逃走劇はスタートした。

 

************************************************************

 

「こちら西代。プランL(ラバーズ)は成功した」

「おつかれー! いやー、終わってみれば楽しかったねー!!」

「ふふっ、うん、そうだね。……安瀬は逃げ切れるかな?」

「逃走経路は事前に考えてたみたいだしー、大丈夫じゃなーい?」

「それもそうか。でも猫屋も早く逃げた方がいいよ。化粧をしたのが猫屋ってバレてると思うから」

「そうだねー。陣内、ブチキレてたしー。私も逃げちゃおー……」

 

************************************************************

 

 翌日。

 

 一晩経って怒りも散っただろうと楽観的に陣内宅に集まった酒飲みモンスターズ。

 

 当然、まだ怒り狂っていた陣内は彼女たちを荒縄でふん縛り、本当にスピリタスを鼻に流し込んだ。泣きながら大声で謝罪する彼女達……

 

 この出来事は鼻孔酒拷問事件と名付けられたのだった。

 

 



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白猫

 

 視界は一面、純白の銀世界。

足を踏み出せば雪に足跡が残る。それだけで新鮮な気分を感じさせた。

人工的な積雪だが気分が上がる。

 

「ねぇーーーーー!! 今の見たーーー!? 私、凄くなーーーい!?」

 

 猫屋が人目を気にせずに大声で俺の注意を引こうとする。笑顔で手まで降っていた。無邪気か。

 

 一瞬の出来事だったが、俺は確かに見た。

猫屋がジャンプ台で横方向に3回転を決めたのだ。

 

 彼女は30分ほど前に()()()を始めた初心者のはず。運動神経は良さそうと思っていたが、化け物か。名前の通り、猫屋は霊長類ではなくネコ科であったようだ。

      

「見てたよ!! 凄いな!!」

 

 返事をしない訳にもいかなかったので、手短に彼女を褒めた。

 

「でしょーー!! 先に行ってるから、早く来てねーーー!!」

 

 そう言うと、彼女は颯爽と滑走していった。

俺はスノボ経験者だったので最初に彼女に手ほどきをしたが、実力は既に抜かれてしまっていそうだ。

 

「陣内君、絶対に手を離さないでね……!!」

 

 それに比べて、隣で俺に支えられる西代の何とも情けない事。

プルプルと震えるその様は、まるで生まれたての小鹿だ。

 

「なぁ、俺が支えたままで、どうやって下まで滑るんだ?」

「うるさいよ。そもそも、この時代に雪場を滑走する行為が間違ってる」

「ウインタースポーツを全否定するなよ……」

 

 西代は運動が苦手そうだとは思っていたが、ここまでとは……。

いや、猫屋がおかしいだけで彼女は少し要領が悪いだけか。

 

「まずは手を離して立つ所から始めようぜ。という訳で一旦手をはな──」

「滑って転ぶから絶対に嫌だ……! 僕は死んでも離さないよ」

「西代……」

 

 俺は憐みの視線を彼女に向ける。賭博の時はあんなに頼りになるのに……。

そんな視線を受けた彼女はむすっとした顔で口を開く。

 

「こ、これは僕のセンスが悪いんじゃない! このツルツルと滑るスキー板が悪いのさ!」

 

 ついには道具に文句をつけだした。

確かに、俺たちのスキー用具はレンタル品でオンボロだ。心なしか不自然に湾曲しているようにも感じる。だが、他の皆は普通に滑れているので大した問題はないだろう。

 

 ちなみに、安瀬はここにはいない。下の合流地点で佐々成政(さっさなりまさ)とやらの雪像を作っている。1月に雪山に来たことに使命感を感じたとかなんとか。

 

 なぜ、我が家の酒飲みモンスターズはここまで統一感がないのだろうか。

 

「とりあえず、いったん降りるぞ。俺も少し自信がないが、背面滑りで手を引いてやる」

 

 俺はスノボだが、西代はスキーだ。足の間にスノボを差し込むように滑れば可能だろう。

 

「そ、それは本当に安全なのかい?」

「……保証はしない」

「え、僕こわ──」

「いくぞ!」

「え、ちょ、あ、あぁ────っ!!」

 

 クールな彼女には似合わない叫び声。

涙目の西代を引っ張って、俺は雪坂を滑り落ちた。

 

************************************************************

 

「ひ、酷い目にあったよ……」

「3回も転んですまん……」

 

 俺たちは雪にまみれながらも、命からがらリフト乗り場の集合場まで滑り降りた。

 

「ん、おぉ、二人とも随分と遅かったであるな」

「疲れた顔してるけどー……大丈夫?」

 

 安瀬と猫屋が俺達に気がついて声をかける。

俺は平気だが、元々冷え性の西代は寒いのか震えている。

 

「ぼ、僕はもういいかな……」

 

 西代がうんざりしたような顔でポツリと呟いた。

 

「暖かい休憩スペースで、雪山を見ながら酒と本でも楽しんでるよ」

「う、うん。ゆっくり休んでくれ。……なんか、ごめん」

 

 西代はスキー板を外して、ザッザッと重い足取りで去って行った。

 

「むぅ、今日は無料でスキー体験できるのにもったいないのぅ」

「まぁー、西代ちゃんは寒いの嫌だろうし仕方ないよー」

 

 俺たちは今回、地域支援サークルの旅行企画に参加していた。3ヵ月に1回、一般生徒から参加者を募り部費を使って()()()()()()に行けるという太っ腹な企画だ。そのため参加を希望する生徒は非常に多い。普通なら俺達4人が同時に参加する事は難しい。

 

 だが、赤崎、緑川、黄山の三人がこのサークルに所属しており、恋人に合コンに参加したことがバレたお詫びにと、企画に無理やりねじ込んでくれた。

 

「というか安瀬、お前もスキーを楽しんでないだろ」

「後ろの大きいのがー、佐々成政?」

「そうじゃ! まだ完成はしておらんがの」

 

 持参した折り畳みのスコップを担いで、彼女は得意気に笑う。

安瀬の背後には、等身大の人型像が作られていた。彼女の言う通り、まだまだ造形が荒い。

 

「何した人ー?」

「『さらさら越え』、では伝わらんか。戦国時代に飛騨山脈を踏破した武将じゃ。あの信長の銃撃隊を指揮した益荒男でありんす」

「飛騨って、北アルプスか。なんでそんな所に……」

「ざっくり話すとじゃな。秀吉が嫌いで家康に挙兵の嘆願をお願いしに行ったでござるよ。当時は敵に囲まれて、山を登るルートしか無かったらしい」

「ほぉー、で、結果は?」

「登山には成功し、家康には無事に会えたが断られたでござる」

「なーんか可哀そうな人」

「で、あろう? なので、我が慰霊像を作って無念を沈めようとじゃな……」

「あぁ、うん、分かった。頑張ってくれ」

「私たちは、もう1回滑ってくるからー」

 

 安瀬に適当な応援を残して、俺たちはリフトへ向かう。

趣味に走る彼女は放って置くのが一番であることを、俺たちは理解していた。

 

************************************************************

 

 俺達は二人仲良くスキー リフトで山頂に運ばれている。2人分の最低限のスペースしかない狭いベンチ。肩同士が当たり、横を向けば猫屋の顔がすぐ近くにある。運動中に変な気は起こさないだろうが、酒を持ってきていてよかった。

 

「そのリボン、使ってくれてるんだな」

 

 緑のリボンを使って、猫屋は髪を横に一纏めにしている。滑るのに邪魔になるのだろう。安瀬のポニーテールとは違い、今の彼女の髪型はサイドテールというモノだ。

 

「ん? あー、中々お気に入りなんだよーこれ」

「そう言ってくれると、贈った側としては嬉しいかぎりだ」

「でしょー? もっと貢いでもらってもいいよー?」

「調子に乗るな」

 

 意地悪な顔を浮かべて、俺を挑発する猫屋。

相変わらず、人を揶揄うのが好きな奴だ。

 

 そんな彼女に俺は一つ疑問があったのを思い出す。

先ほどの、異常なスノボの上達速度だ。

 

「お前ってさ、謎に運動神経いいよな。見た目はか弱い女子っぽいのに」

「え、そう? か、か弱いかな?」

「何か子供の頃から習い事でもしてたのか?」

「…………ひーみつっ!」

「そ、そうかよ」

 

 稚拙な言葉と笑顔で誤魔化す彼女。

ガキかよ……。だが、触れられたくないのなら俺もむやみに詮索はしない。

俺は話題を変えるため、両手をこすって見せた。

 

「しかし、体動かしてないと寒いな」 

「着こんでるけど、標高も高いしねー」

「飲んで体を温めるか」

 

 俺は厚手のスキージャケットからスキットルを取り出す。

 

「いいねー!! 私もー」

 

 彼女も同様にスキットルを取り出した。俺と一緒に購入した月の刻印がされた物。

俺の方は太陽だ。

 

「私達ってさー」

「うん?」

「周りから見たら、結構ヤバ目のカップルに見られてるのかなー?」

「……まぁな」

 

 スキーリフトは開放的だ。前と後ろの乗客からは、俺達がお揃いのウイスキーボトルで飲酒を楽しむアル中カップルに見えるだろう。

 

「まぁ、俺は見知らぬ周りの目なんか気にならん、それよりも酒だな」

「……アル中って馬鹿にしようと思ったけど、私も一緒だったー……」

「ははっ、同じ穴のムジナめ。猫屋は何を詰めてきたんだ?」

 

 俺は彼女の月のスキットルを指さし、中身を問う。

 

「ジャックダニエル。陣内はー?」

「ダバダ火振(ヒブリ)だ」

「な、なにそれー?」

「高知の栗焼酎だ。西代がお勧めしてきたから買ってみた」

 

 四万十川で有名な高知県。名産品として有名なのはカツオやレモンだが、栗の名産地でもある。四万十川の流域で育てる栗は大粒で甘いらしい。そんな栗を焼酎にしたのが、ダバダ火振だ。

 

 なお、火振りとは鮎漁由来の言葉なので雪とは一切関係ない。

 

 俺はボトルを傾けて、胃に熱を落とす。

度数は25%だ。体は十分あったまる。

 

「あぁ゛゛、……効くな」

「栗を使った焼酎なんて珍しいよねー」

「たしかに、あんまり見ないな」

「美味しいーの?」

「ん、あぁ、ホレ」

 

 俺が飲んでいたボトルを差し出す。

飲んでみろ、という意図だ。

 

「ぁ、うん。……いただきまーす」

 

 彼女は少し戸惑ったようだが、俺のボトルを手に取り飲み始めた。

度数が分からなくて、躊躇(ちゅうちょ)したのだろうか?

 

「ふぅ……。え、芋焼酎と変わらなくなーい? そんなに甘くないしー」

「芋焼酎も原材料はサツマイモなのに甘くはないだろ?」

「あー、言われてみればー」

「それに、少しは栗の風味がするはずだ」

「……分かんなかったー」

「味音痴め」

 

 俺は彼女からボトルを奪い取る。

繊細な舌を持たない彼女にはもったいない酒だ。

 

「あ、もう一口欲しかったのにー」

「俺の酒だ。味が分かる様になってから出直せ」

「ひっどー! ……まぁ、私にはダニエルがあるからいいけどさー」

 

 そう言って、彼女はそっぽを向いて自身のスキットルを呷る。

その時、彼女は空いた手をベンチに置いた。俺も空いた手をベンチに置いていた。

ベンチは二人分ギリギリのスペースしかなく狭い。

 

 つまり、彼女の手が俺の手の上に重なった。

柔らかい手の感触で、()()()()が俺の脳内を回帰した。

 

「っ! ご、ごめ───」

 

 猫屋が急いで手を退けようとする。

 

 俺は反射的にその手を掴みなおしていた。

 

「へ!? え、ちょっ! じ、陣内!?」

「あ、いや、これは、だな……」

 

 俺は別に変な気を起こして彼女の手を握ったのではない。

文化祭での出来事を思い出していた。

 

 猫屋は俺を慰めようとしてくれた。だが、その慈愛を俺は振り払った。

人の善意を踏みにじった行為。もちろん、あの出来事については既に謝っている。

しかし、彼女個人に心のこもった礼を述べてはいない気がする。

贖罪は果たしたが、献身には感謝が必要だと感じていた。

 

「あ、あの時は、ありがとな。そ、その……本気で嬉しかった」

 

 心の奥からの本心を吐露する。

 

 視線を彼女から外し、高所から美しき銀世界を見る。

我ながら、本当に阿呆だ。言葉足らずだし、不明瞭。

"あの時"が何時の事かなど、伝わるはずがない。

 

「…………」

 

 猫屋の反応は無言だった。

彼女がどんな表情をしているか確認したいが、振り返る勇気がない。

ポカンっと呆気に取られて『何を言ってるんだ、コイツ?』という顔をしていたのなら、俺は恥ずかしくてここから飛び降りてしまうだろう。

 

 だが、俺の羞恥を掻き消すように、彼女は俺の手を強く、優しく、ギュッと握り返してくれた。

 

「気にしないでいーよ。……わざわざ、ありがと」

 

 どうやら、無事に伝わっていたらしい。

猫屋の読解力と慈悲深い心に感謝する。

やはり、彼女は底を抜けて優しい。

 

「あぁ、うん。ありがとう」

「アハハハ! またお礼言ってるー」

「う、うるさい! 笑うな!」

「だってさー! 急に真面目になっちゃってー、あーおかしい!」

「あぁ、そうだよ! 急に、真面目で、悪かったな!」

「ふふっ、じんなーい? 今、めちゃくちゃ恥ずかしいでしょー」

「…………」

 

 俺はもう何も返事せずに、酒を煽った。どう返事しても今は彼女に揶揄われるだけだ。飲まなくてはやってられない。

 

 

「…………ねぇ、もうちょっと手握ってていーい?」

 

 

 心臓がドクンっと跳ねる。

……猫屋の意外な言葉に身体が驚いたのだろう。

 

「いいぞ、降りるまでな」

「ヒヒヒっ。こう見るとやっぱり私達カップルみたーい」

「言うな、恥ずかしい」

「そうだねー。……ふふっ、恥ずかしーね」

 

 ニコニコと笑う彼女は全然恥ずかしそうにしていない。

俺とは正反対で、どこか不公平だ。

 

「…………」

 

 猫屋の手は、暖かい。

冷えた手に熱がしみ込むようだった。

 

************************************************************

 

 手を繋いで俺たちはスキーリフトから降りる。

乗り降りの補助をするバイト達の視線が妙に生暖かかった。

 

 雪原にボードを着けしばらくした後、俺達は握っていた手を紐がほどける様に解いた。

 

「……つ、次は上級者コースでも大丈夫そうだな!」

「そ、そうねー!!」

 

 俺達は無意味に大声で意思の疎通を図る。

ベンチに乗っている最中は平気だったが、降りてみたらお互いに恥ずかしくて仕方ない。なぜか雪がピンク色に見え始めていた。

 

 その幻視を振り払うように、俺は()()()()を猫屋に持ち掛ける。

 

「なぁ、猫屋。次のコースでどっちが先につくか競争しようぜ」

「っ、面白いじゃにゃいのー……!」

 

 もう慣れた彼女のぶりっ子口調。その軽い口調とは違い、顔つきが獰猛な肉食獣のように変わっていた。獲物を追う野獣の心に火がついたようだ。

流石、ネコ科だ。

 

 猫屋が猛獣なら、俺はそれを狩る狩人だ。ぶっ飛ばしてやろう、という気が高まってくる。

 

 狙い通り、先ほどの雰囲気は正しく霧散した。

 

「おっと、お前は初心者だったな。ハンデをやろうか?」

「ふんっ、じんなーい? さっきの私の滑りを忘れたのー? あ、そっかー、アル中は物忘れが激しーもんねー」

「ぬかせ、ヤニカス」

「うっさい、バーカ」

 

 熱光線のような視線が交差し、バチバチと弾け飛ぶ。

こうなればもう誰も俺達を止められない。

 

「余裕だな。なら、何か賭けるか」

「いいねー、そっちの方が燃えるー」

 

 俺は自分が負けるなどとは、びた一文も考えない。

『出る前に負ける事考えるバカいるかよ』とはいい言葉だ。心が燃える。

 

「俺は酒だな。アマレット・エクストラが欲しい」

「なら私は煙草を100本ほど手巻きで作って貰おっかなー。巻き方はキャンディ、煙草の葉(シャグ)はアメスピとバージニアを7:3で」

 

 二人の要求がでそろう。

 

「…………」

「…………」

 

 (て、手巻きで100本……)

 (ア、アマレット・エクストラって5000円くらいするよねー……)

 

 思っていたよりも重い罰に俺は内心震えた。

だが勝負前に相手に弱みを見せるわけにはいかない。

俺は余裕そうな顔を浮かべて笑って見せた。

 

「よ、よし。賭けは成立したな」

「や、やってやろーじゃーん……!!」

 

 何をしてでも勝たなくてはいけない。

 

************************************************************

 

 陣内梅治と猫屋李花は雪上に引いたスタートラインに立っている。

ボードを横から少しでも縦にすれば、猛スピードで斜面を下り落ちていけるだろう。

 

「よし、準備はいいな?」

「ばっちりー!」

「じゃあ、よーいドンでスタートだ」

「オッケー!」

 

 上級者コースは蛇行と急斜面が多い雪道。

コースの途中には1箇所、木製のグラインドレールが滑り台のように設置してある。

そこを通れば、余計な蛇行道をショートカットできる。

 

 難易度は高いが、面白いコースである。

 

「「よ~~いっ」」

 

 2人は姿勢を低く構える。

合図と共に、彼らは飛び出すだろう。

陣内は怒気さえ込めて大声で合図を叫ぶ。

 

「「ドンッ!!」」

 

 両者がジャンプと同時にボードを脚力で宙に引き上げ、向きを横から縦に変えた。

これで、後は何もしなくとも加速していく。

 

「にゃっ」

 

 その時、パンッ!! と猫屋が陣内の目の前で両手を叩いた。

 

「っ、おぉ!?」

 

 スノーボードを装着している者は足が固定されているため、不意の衝撃に脆い。

陣内はポスンとその場に尻もちをついて座り込んだ。

開幕の猫だましが綺麗に決まった。

 

「アハハ! じゃーねー! この、まぬけーーー!!」

「あ、ちょ、猫屋っ!!」

 

 猫屋は陣内を馬鹿にすると、脱兎のごとく滑走していった。

性悪猫という言葉が彼女にはふさわしいだろう。

 

「待てコラーーーーッ!!」

 

 倒れた彼は、すぐさま態勢を立て直して彼女を追う。

卑怯な手を使いやがって!っとその表情は怒りに歪んでいた。

 

 加速して難なくコースを駆け巡る二人。

体重が重い男性の方が当然スピードは出る。しかし、コースにはカーブが多い。

猫屋は持ち前のセンスを生かして、最小限の減速でカーブを通り抜ける。

 

 両者の差は縮まらない。陣内のスタートダッシュの失敗はレースに大きな影響を与えていた。

 

「いいこと考えたぜっ」

 

 カービングターンの際に、陣内は大きく体を傾けて雪面に手を添えた。

その際に、雪を手に掴む。カーブを抜けた後で滑りながらボール状に雪を握った。

 

「くたばれ、野良ネコ!!」

 

 罵倒と同時に、手で作った雪玉を猫屋に向かって投げつけた。

 

「んにゃっ!!??」

 

 執念深い恨みのおかげか、雪玉は猫屋の後頭部に直撃した。

猫屋はゴロゴロと縦に回転しながら雪上を転げ落ちる。

10m程度転がった所でようやく止まった。体中が雪まみれだ。

 

「はっはっは!! ざまぁみろ!!」

 

 その様を心底楽しそうに笑いながら、陣内は彼女を置き去りにしようとさらに加速する。ここで彼が前に出れば、猫屋に逆転の目は無くなるだろう。

 

「ぐ、ぐ、こんにゃろめーーーーッ!!」

 

 猫屋が甲高い声で吠えた。

自身が装着していたスノーボードを外し、陣内の進路に向かってぶん投げたのだ。

 

「う、ぉおおおッ!?」

 

 猛スピードで滑走していた彼は当然ボードに躓いた。

陣内はゴロゴロと縦に回転しながら雪上を転げ落ちる。

10m程度転がった所でようやく止まった。体中が雪まみれだ。

 

「お、おまえ阿呆か! 死ぬかと思っただろうが!!」

「知るかバーカ!! そっちこそ、乙女の頭に雪玉とかふざけんなーーッ!」

 

 ガヤガヤと大声で罵りあう2人。お互いに雪のせいで頭からびしょ濡れであった。

 

「って、こんな事してられなーい!!」

 

 猫屋は口喧嘩を一旦中断し、投げ飛ばしたスノボに飛び乗って再びレースに戻った。

 

「い、いかん、置いてかれる!」

 

 それを見た陣内も雪を払いのけて立ち上がり、彼女を追いかけた。

乱闘のおかげで、二人の距離は大幅に縮んだ。

このレースの結果は紙一重の分からない物になった。

 

ミシッ……

 

「?」

 

 どこからか異質な音が聞こえ、猫屋は首を傾げた。音に気を取られて、彼女のスピードが少し落ちる。その隙に陣内は彼女に近づく。

2人は手の届く距離で並走し始めた。

 

「よぉ、完全に追いついたぜ!」

「陣内のくせに頑張るじゃーん!!」

「お前を負かして飲む酒は、たいそう美味いだろうと思ってな!」

「それは私のセリフーーー!!」

 

 二人は横並びに滑走しながら、一直線にショートカットの木製台を目指す。

台に乗ってグラインドできるのは1名のみ。同じタイミングで乗る事はできない。

つまりはチキンレースである。

 

「おい、どけよ! 怪我するぜ!」

「そっちがねーーッ!!」

 

 猫屋は陣内の威嚇を恐れずに、全体重を乗せて加速する。

その進入スピードは狂気的だ。もし台にうまく乗れなければ怪我をする可能性もある。

 

「お、おい、まじかよ!!」

 

 向こう見ずな彼女の加速を見て、陣内は怖気づいた。

彼女に張り合って速度を出せば、台の上でぶつかって両者ともにホワイトアウト。

猛スピードで積雪に突っ込む羽目になる。

 

「のろまは置いていくよーーッ!!」

 

 猫屋が雪で作られた飛び台を勢いよく抜け、木製台に着地した。

 

ベキィ!

 

「??」

 

 猫屋の耳に今度はハッキリと破裂音が響いた。

だが今はグラインドの最中。滑る以外にできる事はない。

彼女は気にせずに最高速度で台の上をすべる。

 

「くそッ! 待てよ!!」

 

 陣内も彼女に追従して、ショートカットに飛び乗った。

猫屋を追って、彼も必死だ。

 

(ふっふっふー、このショートカットを抜けたらゴールは目の前! 勝ったーッ!!)

 

 心中で勝利を確信する猫屋。彼女は決して油断することなく速度を保ちながら木製台から勢いよく降りる。

 

その時………

 

ベキキィイイッ!!

 

「え、?」

 

 猫屋のスノーボードが真ん中から真っ二つに折れた。

 

「う、うそぉおーーーー!!」

 

 もともと、レンタルの碌にメンテナスもされていないボロボロの骨董品。

それが先ほどの暴虐的な扱いと台を降りた衝撃で、ついに寿命を迎えたのだ。

 

 猫屋は何とかバランスを保とうと必死に両足に力を籠める。優れた運動センスが発揮されたおかげか、猫屋は二つに分かれたスノボをスキーのように操り態勢を保つことができた。

 

「ふ、ふぅー、たすか───」

「まずい、猫屋! どけ!!」

「え?」

 

 猫屋を襲う更なる不運。少し遅れてショートカットを抜けた陣内が、急に減速した彼女に突っ込もうとしていた。

 

「ちょ、ちょ、ちょ!!」

「う、う、うお!!」

 

 両者はあわや衝突寸前の所で、なんとかお互いの腕を掴み奇跡的に転倒を免れた。

死を目前にした、息の合ったコンビプレー。

 

「あ、あぶなかったー……」

「ぶ、ぶつかると思ったぜ……」

 

 ほぅ、と2人は息をつく。

絶体絶命にも思えた危機を何とか乗り切ったためだ。

 

 だが2人は依然にもスピードを出して傾斜を滑り落ちている。

割れたスノボをスキー板のように装着した猫屋の股下に、陣内のスノボが突っ込んでいる。西代との背面走行とは状況が違う。猫屋のスノボは折れて不安定だ。

 

「なぁ……コレ、どうやって止まろう」

「あ、あれ……? 結構ヤバーい状況?」

 

 冷静な分析をする彼らを差し置いて、事態は加速していった。

 

************************************************************

 

「ふぅ……やっと完成したでござるよ!!」

 

 安瀬の目の前には2mを超える大きな雪像が作成されていた。

佐々成政を称えた鎮魂像である。

 

「む、むふふ。我ながら素晴らしき出来でありんす!」

 

 佐々成政の姿は浮世絵として後世に残っている。しかし、それだけでは武将らしい力強い顔が表現できない。なので安瀬は、成政の生涯から彼の形相を彼女ならではの解釈で予想し、精巧に顔を彫りぬいた。

 

 腰には脇差2本と打ち刀。両手に火縄銃を持ち、服には棕櫚(しゅろ)の家紋を刻んでいる。人工雪で制作したとは思えない完成度。ディテールへの拘りは彼女の熱意を強く感じさせる。

 

「よし、ではスマホで記念撮影を───」

 

「「ぎ、ぎゃあぁぁぁぁあああああああああ!!!???」」

 

 大声を上げて、仲良く抱き合いながら陣内達は滑り降りていた。

雪を巻き上げながら滑走する姿は、まるでブレーキの壊れた暴走列車。

その進行ルートの終着点は佐々成政の雪像である。

 

 バゴォォォオオオオオオオオオオオオオオオンッッ!!!!

 

 佐々成政は粉々に砕け散った。

彼はどうやら報われない運命にあるらしい。

 

「「ぶはっ!!」」

 

 陣内と猫屋が雪だまりの中から顔を出す。

 

「い、生きてる……!」

「ま、マジで死ぬかとおもったねー……」

 

 二人は暴走列車からの生還に心から安堵した。

 

「………………き、」

 

「「……え?」」

 

 後ろに控える般若は湯気が立つほどに頭を沸騰させていた。

スコップをワナワナと震える手で握りしめ、勢いよく口を開いた。

 

貴様(きさん)ら! ぶっっっ殺してやるッッ!!! 生きたまま雪の下敷きになれッ!!」

 

 安瀬はスコップで雪床を掘り出し、彼らに向かって大量の雪を放り投げる。

 

「ちょ、! あ、あぜ!? や、やめっ」

「死ねッ! クソゴミアル中ども!! あの世で佐々成政に土下座して謝ってこい!!」

「ご、ごめ。あぜちゃん! ま、まじで死ぬーッ! 生き埋めになるーーーッッ!!」

 

 この日、スキー場に若き二人の氷漬けが出来上がった。

 



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強風直撃

 

 週末の土曜日の夕方。

俺は安瀬と一緒に買い出しから帰ってきた所だった。

 

 今は賃貸の入口前。

 

「車を成約してから買い物が楽になったでござるな!」

 

 ニコニコと上機嫌に笑う彼女。

今日はバイトの収入が入ったので良い酒を買った。

それが楽しみなのだろう。

 

「そうだな。後は2人が帰ってくるまでに晩飯を用意しておくだけだな」

 

 猫屋と西代がもうすぐバイトから帰ってくる。

『バッカス』は昼間は居酒屋に様変わりして、西代が言うには昼営業の方が忙しいらしい。猫屋も朝からカラオケで長時間労働だ。

 

 疲れて帰ってくる彼女たちの為に、美味しい晩御飯と熱い風呂を用意してやろう。

 

 ……ん? あれ? 俺たちはいつからルームシェアしてるんだ?

というか、なぜ俺がそんな専業主婦のような労いを??

 

 自分の思考に漠然と疑問を抱いていた時、ある人物が俺に話しかけてきた。

 

「あら、梅治?」

「ん、あぁ、()()()()。こんばんは」

 

 俺の名を呼んだのは、この賃貸の管理者である斎賀(さいが) (まつ)さん。

母さんの妹で、俺の叔母に当たる人だ。

年齢は39歳で結婚している。苗字は旦那さんの性だ。

 

「久しぶりだねぇ」

 

 女性にしては低い声で松姉さんは俺に挨拶してくる。

 

「そうですね。最後に会ったのは夏休みの前ですから」

「正月は忙しかったからね。家族でハワイに行っていたよ」

「あ、相変わらず、お金持ちですね……」

「ははは。ごめんねぇ、少し鼻持ちならなかったね」

「そんな事ないですよ。すいません、変なこと言って」

 

 松姉さんの夫はお医者さんだ。年中忙しいらしい。

俺達家族も正月くらいは、斎賀家だけで団欒と過ごして欲しいと思っていた。

 

「しかし、本当に久しぶりだねぇ。私はここの管理を業者に任せてるからほとんど来ないのよ」

「どこも最近はそうでしょう。……今日は何でここに?」

「火災保険の責任者確認ってやつでねぇ。今ちょうど終わったところさ」

「あぁ、なるほど。お疲れさまです」

「梅治も火の扱いには気を付けなよ? 部屋で煙草を吸うのは別にいいけどさ」

「はい、気をつけます」

 

 相変わらず、雰囲気のある話し方をする人だ。

母さんとは正反対で人に威圧感を感じさせる。

俺は小さい頃から、叔母さんにはよく遊んでもらったので大好きだけど。

 

「ん? そっちの子は?」

「あ、えっと、こんばんは」

 

 安瀬の口調は外行き用だった。

俺の叔母さんという事で気を使ってくれているのだろう。

礼儀を正して挨拶してくれるようだ。

 

「どうも初めまして、私はあ───」

 

 

「あぁ! あんたがモモちゃんだね? ()()()()()()()っていう」

 

 

 

 突如、雷を纏った嵐が俺達を直撃した!!

 

 

 ぶおおん、ぶんんぶんっ!!ぶおおおおん!!ぶおおおおおおんっ!!!

 

 吹き飛ばされる意識と魂!!

 

 荒れ狂う正気の自我(イド)!!

 

 雷撃傷が精神体に浮かび上る!! 

 

 西代が麺棒で瀬戸内海をかき混ぜ、どこまでも人を飲み込む大渦を作り出す!!

 

 俺たちは鳴門海峡大橋の渦潮に為す術もなく飲み込まれていった……

 

 

 

 

 

「えっと、どうかしたかい?」

「「っは……!」」

 

 松姉さんの言葉で俺達の意識はようやく現実に引き戻される。

あまりの衝撃で、幻覚を見ていたようだ。

 

「え、あの、こん、……え?」

 

 安瀬は今までに見た事ない顔で汗をダラダラと流していた。

 

「ん? 違うのかい? 確かに姉さんが梅治に婚約者ができたって……」

「あ、あぁ! そうだよ!! 彼女が()()()()()()()()西()()()だ!!」

「うえ!?」

 

 俺はようやく事態を把握する事ができた。

 

 母さんは俺の嘘によって西代の事を将来を誓い合った恋人だと思い込んでいる。母さんがその事を、松姉さんに()()()()話す。そして、祝日の夕暮れ時に買い物袋を持って俺と一緒に部屋に入ろうとする安瀬を西代と勘違いした。

 

 俺の脳内CPUはここまでの考察を0.04秒でたたき出す。

緊急事態により、異常な伝達速度で神経パルスを巡らせることができた。

 

「あぁ、やっぱりねぇ……うん? 聞いてた話によれば、モモちゃんは黒髪じゃ───」

「染めた!! 茶髪に最近染めたんだ!! な、モモちゃん!!」

「モッ!?」

 

 俺のモモちゃん呼びに、今度こそ安瀬が完全にフリーズした。

ここで会話が途切れるのはまずい。

俺は安瀬にだけ聞こえるように小声を短く絞り出した。

 

「たのむ……! 今は西代のフリをしてくれ……!」

「え、え、な、なんでじゃ!? どういう事でありんやんす!?!?」

「理由は後で話す……! 頼む……!」

「う、え、わ、わかったぜよ……」

 

 まだ混乱しているようだが、安瀬はなんとか了承してくれた。

 

「は、はじめまして、西代桃と申します」

 

 安瀬は名を偽って、松姉さんに深く頭を下げた。

後で土下座して謝ろう。好きな酒も買って、感謝の言葉を伝えよう。

 

「ん、あぁ、これはご丁寧に。梅治の叔母の斎賀松です」

 

 松姉さんも深く頭を下げた。背を丸めずに流麗な所作だ。

年と教養の差を感じさせる。

 

 久しぶりに会ったのでもっと話がしたいが、今は嘘が露呈する前に逃げるべきだ。

 

 もしボロが出た場合、そのままずるずると俺の部屋に酒飲みモンスターズが常在してる事が露見しそうだ。恋人でもない、それも複数人の女性を部屋に連れ込んでるなど、部屋中で下卑た酒池肉林の宴が行われていると邪推されてしまう。

 

「ま、松姉さん。会ったばっかりで悪いけど、この後友達が家に泊まりに来るんだ。だから早めにご飯の準備をしないと……」

 

 俺は適当な言い訳で煙に巻いてこの場を逃げようとした。

 

「……このマンションに()()()()()()()()()()()()()()()()()()と話は聞いていたけど」

「え?」

「それは梅治とモモちゃんの友達の事だったのかい」

 

 ツーっと背中に冷背が流れた。

そんな噂が出回っていたのか。まずい。

松姉さんはおっとりとした母さんと違って、かなり鋭い。

 

 急に叔母の視線が疑心的なものに変わった。

 

「……なんか、ちょっと怪しいねぇ?」

「な、なにがだよ、松姉さん!」

「いや、梅治じゃあない。モモちゃんの方だ」

「わ、私ですか?」

 

 話題を振られた安瀬が焦ったような声をだす。

なんていう、鋭さだ。女の勘というモノだろうか。

 

「恋人の家に複数人の女友達を連れ込む? 梅治を取られるのが怖くないのかい?」

「え、いや、えっと」

 

 予想外の質問に口ごもる安瀬。

普通、俺の様に大して魅力がない男が取られるなんて心配はしないだろう。

だが、松姉さんはかなりの過保護だ。俺の事を親目線の贔屓目で見てしまっている。

 

「し、信頼できる友人達なんです」

 

 安瀬は焦りながらも言葉を返した。

松姉さんは納得がいっていない様子だ。

 

「梅治の方が手を出すとは思ってないんだね?」

「は、はい。信用していますから」

「松姉さん、俺はそんなことしないって」

 

 これは本当だ。俺はそんな事はしない。先ほどとは違い言葉に淀みはない。

しかし、松姉さんの疑いは晴れなかった。

 

「もしかして、このマンションが大学の近くだからって梅治の部屋を宿舎代わりに使っていないかい? 梅治とは()()()()()目当てで付き合ってる……とか?」

「っ」

 

 なぜそこまで、確信的な結論にたどり着けるんだ!?

相変わらず、恐ろしいまでの勘の良さ。小さい頃、かくれんぼで遊んでもらって一瞬で見つかり泣いた事を思い出した。

 

「違います。撤回してください。それだけの理由で彼と付き合っているわけではありません」

「…………へぇ」

 

 俺の心配をよそに、安瀬は平然とした態度で問いを返した。

その表情はどこか冷たい。普段の明るい彼女のものではない。

 

「不快な思いをさせたならごめんねぇ。でも、梅治は大きくなったとはいえ私の子供同然なんだ。今は姉さんに代わって保護を任されているしねぇ」

「そうなんですね」

「大切な預かり子に寄生虫がとりついた。なんて事はないわよねぇ?」

「はい、ありません。彼とは愛し合っていますから」

 

 バチッと放電が起きた気がした。

なんでだろうか。

虎と竜が一触即発の睨みあいをしている風景が見えた。

 

「"西代さん"、急で悪いけど来週の土曜は予定を開けてくれないかい?」

「……なぜでしょうか?」

 

 安瀬は怪訝そうな顔をして、目を細めた。

叔母の彼女に対する敬称が変わった。物凄く嫌な予感がした。

 

「なぁに、ちょっとした親睦会さ。ご飯を食べて縫い物でもしながら親交を深めようじゃないかい」

 

 ()()()()()だった。

 

 俺は松姉さんには本当に気に入られていた。昔、松姉さんの子供と一緒によく遊んでいたからだ。楽しそうに年下の面倒を見る俺を見て、母さんの子供という事もありとにかく可愛がられた。

 

 松姉さんは俺にふさわしい婚約者であるかどうか目利きをするつもりだ。

なんて、無意味でお節介な事を。

 

「喜んで参加させていただきます! 何でもしますので気兼ねなく申し付けてくださいね!」

 

 安瀬は大輪を咲かせた向日葵のように笑って提案を受けた。

だが、俺には彼女の内情が分かる。その目がドブ川の様にドス黒いヘドロで覆われて濁っていたからだ。

 

 なぜか、彼女はブチ切れている。

 

「ふふっ、そうかい。ならこのマンションの503号室でランチしようか」

「503って、確か一番大きくて長い期間使われていない空き部屋じゃあ……」

「そうだねぇ。ちょっと、掃除を手伝ってもらう事になるかもしれないけど……かまわないだろう?」

「はい! 誠心誠意、心から頑張らせていただきます!」

 

 俺の脳内に嫁をいびる姑という言葉が浮かんだ。

実際に今の状況は少しに似ている。

 

「ふふふ、よろしくねぇ?」

「ふふふ、こちらこそ」

 

 安瀬は売られた喧嘩は買う主義だ。そして、叔母さんもだ。

もはや俺の事など差し置いて、器量試しの女の争いは宣言された。

 

************************************************************

 

 その夜。

酒飲みモンスターズが集結した我が家。

俺達は先ほどの叔母との騒動について話し合っていた。

 

「え!? じ、じゃあ、西代ちゃん、正月に陣内の実家に泊まってたのー!?」

「まぁね。正月は実家に帰りたくなかったから」

 

 猫屋の大声に反して、西代は平然としていた。

俺は自身の黒歴史と家庭事情を含めて、正月に西代がついて来た事情を彼女たちに話した。もちろん、淳司との喧嘩や西代の過去は省いてだ。

 

「ねー、それってさー、大丈夫だったの?」

「何がだい?」

「ほ、ほらー。陣内に襲われたりー……」

「ねーよ、阿呆。ずっと酒飲んでた」

「お主ら、我らに隠して影で付き合ってるとかではないであろうな?」

「ねーよ、ド阿呆」

 

 俺は2人の疑惑をすぐさま否定した。

西代は素敵な女性だが、俺は友達として接していたい。……本当に素敵だろうか。

素敵な女性はパチンコで大負けして泣かない。

 

「同じベットで寝たりはしたけど、僕らは男女の仲ではないよ」

「べっ!? えーー!?」

「お、お主ら、倫理観がバグっておるでありんすよ!」

「口調がバグってるお前に言われたくない」

 

 西代の発言に二人は明らかに狼狽えた。

 

 西代のヤツ、安瀬と猫屋の反応が楽しくてワザと誤解を生みそうな発言をしているな。事実、彼女は煙草と酒を手に彼女らの姿をクツクツと笑っている。

 

「おい、いい御身分だな」

「ふふっ、正直この事態がちょっと面白くてね」

「なんも面白くねぇよ…… 」

 

 彼女はこの婚約者騒動に関して、傍観者の立ち位置を決め込むつもりのようだ。

 

「けど安瀬、僕の名前で喧嘩を買ったんだ。来週の嫁姑対決は負ける事は許さないよ」

「お、おぉ? よく考えたら、なんで我が西代の名誉の為にこんなめんどくさい事を……」

「違うぞ安瀬。西代の為じゃなくて俺達の為だ。お前が婚約者として相応しくないと判断されたら、たぶん両親に連絡が行く」

「え、そーしたらどうなるのー?」

「詳しい話をされると、安瀬と西代の特徴の違いが浮き彫りになる」

「あー、ウソがばれちゃうわけかー」

 

 そのような事態になれば、俺が実家に連れてきた女と部屋に連れ込んだ女は別人となり、どういう関係なのか根掘り葉掘り聞かれることになるだろう。

 

「最悪、お前らはこの賃貸から出禁を喰らう可能性すらある」

「「「な、なにーッ!?」」」

 

 余裕な態度だった西代まで一緒になって驚嘆の声を上げた。

 

「そ、そんな横暴な事が許されるのかい!?」

「建物の管理者は叔母さんだからな」

「わ、私たちは健全な関係なのにー!?」

「信じてくれる訳ないだろ」

 

 俺は自身の体質については親族に話していない。友達とはまた気の使いようが異なるからだ。由香里との出来事はもう解決したし、心配を掛けたくないので身内に話す気はない。

 

「「という事は……」」

 

 猫屋と西代がゆっくりと安瀬を見る。

 

「え、なんじゃ2人とも」

 

 彼女は煙草を吸い冷酒で一杯やっていたが、2人の視線を受けて面喰う。

 

「この気狂いを1週間で素敵な婚約者に?」

「絶対にむり、おわったー……」

 

 露骨にがっかりする二人を見て、安瀬は部屋隅にあった模造刀を取り出した。

 

「そこに直れ、()れ者共ッ! 叩き切ってくれる!!」

「そういうとこだぞ、安瀬」

 

 ここ俺の家なんだが。趣味の品は自宅に置いてくれ。

 

 だがまぁ、彼女らの言い分も分かる。

見た目は100点満点だろうが、必ずと言っていいほど突飛な行動が飛び出すのが安瀬だ。

 

「まぁ、でも約束までしたんだ。やるしかないだろう。俺も正月の嘘はバレたくない」

 

 松姉さんと出くわしたのが運の尽きだ。

覚悟を決め計画を練ろう。幸いにも1週間も準備期間はある。

それに、だ……

 

「意外と楽しそうじゃないか?」

 

 俺はニヒルに笑い、落ち込む2人に挑発的な言葉を放つ。

 

「安瀬を立派なレディにプロデュースだ。どうだよ?」

「……安瀬ちゃん、魔改造計画かー」

「ふふっ、確かにいいね。新しい悪だくみという訳だ」

 

 危機的事態ではあるが、3人で楽しそうに頬を釣り上げる。

騙し嘲り偽り誤魔化す。俺達は本来、この手のイベントは大好物。

大酒飲みはいつもツマミになる話を求める。

真剣な松姉さんには悪いが、今回も楽しい事になるだろう。

 

 安瀬魔改造計画、もしくは偽りの花嫁作戦とでも呼ぼうか。

 

 問題は本人のやる気だ。

先ほどは松姉さんの口車に乗せられて喧嘩を買ったが、その威勢はまだ彼女に残っているだろうか?

 

 俺たちの期待に満ちた視線が安瀬に集まる。

 

「……はぁ、お主らの見世物になるのはちと癪じゃが、元々は我が買った喧嘩でありんす」

 

 彼女はガバッと勢いよく立ち上がった。

そして刀を掲げて声高に宣言する。

 

雲中白鶴(うんちゅうはっかく)とは我を差す言葉なり! 品の違いを見せてやるでござるよ!!」

 

「いい気っ風だね」 

「たのもしー!」

「よっ! 我らが総大将!!」

 

 豚もおだてりゃ木に登る、とまでは言わないが似たような気分だった



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全てが理想の彼女

 

 松姉さんとの約束当日。

俺と安瀬は503号室のドア手前に突っ立っていた。

 

「お前、本当に、見た目だけは凄まじいよな」

「なんじゃ、その雑な誉め言葉は?」

 

 隣に立っている、本気で着飾った彼女はまさに傾国の美女。

合コンに乱入してきた時のような露出に頼ることなく、また違った魅力を振りまいている。服装は白のカーディガンにベージュのロングスカート。成人し、色香に花開いた女性の装いだ。化粧は猫屋直筆のメーキャップ。艶のある髪と大きな瞳。モデル顔負けのスタイル。

 

 咲き乱れる花を集めてギュッと濃縮し極上の1本を作り上げたのなら、彼女のような傑作が出来上がる。そう思わせるほどの美貌だ。

 

「今から我らは仲睦まじい婚約者。旦那様が嫁に向かってその言い草ではとても乗り切ることはできんな」

「うっ……」

 

 今回のミッションは俺の態度も重要になる。

"ラブラブ"なんて糞ったれな言葉を松姉さんに感じさせるように演じなければならない。

 

「金と暇かけて、このような手土産まで用意したのでありんす。失敗は許されん」

 

 安瀬は手に持っているブレッドケースを俺につきだしてくる。

 

 ケースの中身は手土産用のパンとワインだ。

この1週間、安瀬は別の事で忙しかったので代わりに西代が作成した。

 

 以前、両親に西代の趣味を聞かれた際、俺はとっさにパン作りと答えた。そのため、わざわざオーブンを買ってまでパンを用意したのだ。購入費用は俺のバイト貯金からでた。身から出た錆だが、身を切る思いだ。

 

 確かに、安瀬の言う通り。

ここまで張り切って、失敗などは御免被る。

 

「そうだな。お前は、俺が()()()()()()()()()()()()()()()だよ」

「っ、……その調子である。やればできるではないか」

「まぁな。あ、おべっかではないぞ。本心だ」

 

 女性を褒める時は全力をだせ、とは父さんの言葉だ。

結構な頻度で忘れそうになるが、今日くらいは全力で実行しよう。

 

 安瀬は返事を返さず俺から目を反らし、正面に向き直った。

どうやら、やる気に満ち溢れているようで安心だ。

 

「じゃあ行くか」

 

 俺はドアノブを捻って開いた。

 

 その先には、フローリングにワックスがけをする松姉さんの姿があった。

 

「あら、少し早いんじゃないかい?」

 

 503号室は長い間空き部屋で手入れもされていないため汚いはずであったが、部屋はなぜかピカピカになっていた。

 

「あれ、松姉さん。掃除は俺達も一緒にやるんじゃ?」

「そう思ってたんだけどねぇ。埃まみれの部屋に2人を呼ぶのは流石に悪いと思って」

 

 言われてみればそうか。安瀬が気合を入れてお洒落してくるのは目に見えていた。

叔母からすれば、客人の服を汚す真似はできまい。

 

「西代さん、今日は時間を作ってくれてありがとうね」

「いえ、本日はお招きいただきありがとうございます。しかし、叔母さまに掃除していただくのは私としては万感胸に迫る思いです。今からでもお手伝いします」

 

 ぞわっと体の芯に気持ちの悪いものが走る。

安瀬の流暢な敬語を聞いたからだ。違和感がすごいな。

 

「ちょうど終わったところだから大丈夫」

「そうですか」

「それより西代さんには別に頼みたいことがあってねぇ」

「はい、何でも申し付けてください。ジン君の叔母さまの頼みとなれば喜んで」

 

 今度はサブイボが立った。

安瀬にまでジン君呼びされる日がこようとは……

 

「なら、台所で昼ご飯を作って貰っていいかい? ランチに誘ったのは私なんだけど、ここの掃除で手一杯でねぇ」

「分かりました。材料はありますか?」

「あぁ、備え付けの冷蔵庫に色々詰め込んでるから好きに使って。調味料も基本的なものは置いてある」

 

 503は大部屋で家電付きだ。そのため、料金が高くなり今は誰も成約していない。

大学近くの賃貸としては経営戦略的に失敗している。

 

「では何か、リクエストがあれば遠慮せずに言いつけてください」

「ほぅ、そうだね……西代ちゃんの一番得意な物で頼むよ」

「分かりました。では早速、取り掛かります」

 

 そう言うと、安瀬はそそくさと台所に向かう。

 

 部屋には俺と松姉さんの2人きりになった。

 

「梅治、西代さんって料理上手いのかい? 随分と自信がありそうだったけど」

「和洋中なんでもござれ、ですよ。特に和食は美味いです」

「へぇ! それはすごいねぇ」

 

 この1週間、俺と猫屋による料理指導のおかげで安瀬のレパートリーは格段に増えた。もともと、べらぼうに和食は上手だった安瀬ではあるが、その料理の腕前は俺達4人の中ではトップに君臨しただろう。

俺も今度、彼女に和食料理を何か教えてもらおう。

 

「今どきの女の子は料理下手が多いって聞いてたけど、それは安心できるねぇ」

「俺の自慢の恋人ですから。松姉さんのために頑張ってくれると思いますよ」

「そうかい……。なんだ、結構ちゃんとした子なんだねぇ」

 

 松姉さんの評価は早くも上がっているようだ。

まだ、料理を口にはしていないが俺の言葉を信じてくれているのだろう。

 

「けど、他はどうなんだい?」

「他とは?」

「愛だよ、愛」

「……いや、急に何言ってるんですか」

「婚約までしてるんだ。恥ずかしがることないだろう? それに、愛情表現は長い結婚生活にいては重要なファクターだよ」

 

 既婚者の重みがある言葉。

 

「え、まさか、松姉さん。旦那さんと上手くいってないとか……」

「はははっ、邪推は止しなよ! 忙しいけど旦那とは上手くいってるさ」

 

 俺の余計な心配を松姉さんは笑い飛ばした。

 

「でも最近は、ほら、離婚率がとにかく高いだろう? 彼女はたしかに美人だけど、どこかクールで気の強そうな印象があってね」

 

 なるほど、つまりはこの年で婚約するほど熱々な間柄には見えないと。

 

「人前だと恥ずかしがってるだけで、普段はラブラブですよ」

「へぇ、じゃあ、梅治の方からアーンを頼んでみなよ」

「……いいですよ、そのくらい。俺としてはむしろ嬉しいですし」

「おぉ、惚気るねぇ」

「案外彼女の方から耐え切れなくて甘えてくるかも」

「ふふっ、それはまさかだろう。ちょっと想像できないよ」

 

 俺の袖には、集音マイクが仕込まれている。安瀬の耳には無線イヤホン。彼女の長い髪に隠れているので、周りからは見えない。

 

 そういうわけで、今の会話は安瀬に筒抜けだ。

また、無線は俺の部屋のPCにも繋がっているので、猫屋と西代は俺たちの茶番劇を酒を飲みながら楽しんでいる。不公平だ。

 

************************************************************

 

「はい、ジン君! あーーーーん!」

 

 安瀬がプルプルと箸を震わせながら、俺の口に熱々の天ぷらを運ぼうとする。

その表情は笑顔だが、頬が引きつっている。俺も同じ気持ちだ。

 

「あ、あーーーん」

 

 俺は彼女の頑張りを無駄にしないようそれを口で受け取った。

衣がサクサクで非常に美味しいのだが、この羞恥プレイは結構きつい。

 

************************************************************

 

「あはははははははは!!! あ、あの安瀬ちゃんが、あ、あーーんって」

「ははははははははは!!! 安瀬の甘えた声なんてはじめ、っふ゛゛あははは!!」

 

「「げひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!!!!!」」

 

************************************************************

 

 なぜか割と近くで、凄い笑いものにされているような気がする。

 

「ほ、本当にお、お熱いんだね……」

 

 松姉さんは、安瀬のギャップに驚いていた。

猫なで声で俺に甘えてくる彼女に引いてるようにも見える。

 

「さ、流石に松姉さんの前では恥ずかしいかな……!!」

「う、うん。でもジン君にはいつもこうやって食べてもらってるから……!!」

 

 安瀬の口から出まかせ。

恥ずかしすぎて滅茶苦茶言っているな、コイツ。

 

「い、いつもかい!? ……へ、へぇ、そう。最近の子はすごいんだねぇ」

 

 俺らのラブラブ演技を見て、松姉さんは若者の恋愛事情について考え込んでいた。

 

************************************************************

 

「い、いつもって!! わ、私、今度安瀬ちゃんにあーんしてもらおっかなーー!!」

「い、いいねそれ! じゃ、じゃあ僕は逆にあーんしてあげようか!!」

 

「「げひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!!!!!」」

 

************************************************************

 

「ふぅ、美味しかったよ。まさかこんな短時間で揚げ物を作ってくれるなんてねぇ」

「お口にあったようで嬉しいです」

「衣がサクサクで絶品だったよ。何かコツでもあるのかい?」

「てんぷら粉にビールを少しだけ。フリットと同じです」

「あぁ、確かにビールも用意してたよ。忘れてた。なるほどねぇ、この分だと確かに洋食も得意そうだ」

 

 あ、コイツ、冷蔵庫のビールを見て我慢できずに飲んだな。

その為に、わざわざ手間のかかる揚げ物を作ったんだろう。抜け目ないヤツ。

 

「じゃあ今度は私のちょっとした縫い仕事を手伝ってもらっていいかい? 私の一番下の子が小学生で、体操袋を破いてしまってねぇ」

 

 姉さんの目がキリっと光った。まだ、試験は続いているようだ。

料理の次は裁縫か。少し古典的なように思えるが、主婦としては必要な技術なのだろう。

 

「分かりました。ミシンはありますか?」

「ん、あぁ、隣の部屋に体操袋と一緒に置いてあるよ」

「では、10分程度おまちください。すぐに直してきます」

「え、うん、その、ありがとうねぇ」

 

 そう言うと彼女は、料理を作った時と同じようにスタスタと去っていった。

 

「彼女、珍しいね。今どきの子なのにミシンも使えるのかい」

「お兄さんが柔道部で、よく部活中に道着を破ってたらしいです。それを学校のミシンを借りてよく直していたと」

「へぇ、お兄ちゃん思いのいい子だねぇ。梅治は会った事あるのかい?」

「はい。陽光さんって言って妹想いの優しい人でした」

 

 懐かしいな、陽光さん。安瀬とキャンプ用品を見に行った時に一回あっただけだ。

 

「……お兄さんにも挨拶は済ませてるんだねぇ、梅治」

「え、あ、はい」

 

 この流れは良くない。あまりにある事ない事言っているとウソがばれやすくなる。

安瀬が頑張っているのに、俺のせいでバレたなんて事は御免だ。

 

「というか、松姉さん。もういいでしょう。料理に裁縫ができたら嫁としては最高だと俺は思いますよ」

「まぁ、たしかにねぇ。でも、せっかく色々と用意したんだ。最後までたのしませてもらうよ」

「ま、松姉さん。本音が出てますよ」

「おっと」

 

 俺がそう言うと叔母さんは困ったように笑った。すでに十分安瀬の事を認めているようだった。あとは彼女がどれほどの傑物か見てみたいという好奇心が強いのだろうか。

 

「俺、もう帰ってもいいような気がするんですけど」

「だめだめ。いとおしい恋人がいなくなったら"西代ちゃん"が泣いちゃうだろう?」

 

 再び、叔母の敬称がかわった。

既に、ミッションコンプリートのようだ。

 

 俺が胸をなでおろしていると、隣の部屋から安瀬が返ってきた。

 

「終わりました」

「随分とはやいねぇ!」

 

 確かに早い。まだ5分程度しかたっていない。

 

「兄の道着をよく縫い繕っていましたから。厚い道着に比べれば楽な物です。出来栄えはどうでしょうか、叔母さま」

「…………うん、いい、ばっちりだよ!」

 

 松姉さんは嬉しそうに笑った。カラッとした姉御気質の気持ちの良い笑顔。

その様子を見て、安瀬も釣られたように微笑を浮かべる。

まだ器量試しは続くようだが、この分ならそう悪い事にはならないだろう。

 

************************************************************

 

 松姉さんのお題は多種多様だった。

 

 ある時は洗濯。

 

「ここにコーヒーを溢したカシミアのコートがあってねぇ」

「お任せください」

「え、でも、水洗いはできないよ?」

「ご安心ください、心得ております」

(そのあたりは予習してきたしな……)

 

 ある時は紅茶。

 

「……美味しいねぇ」

「ありがとうございます」

「俺でもこのくらいはできるよ」

「え、なんでだい!?」

((よく、焼酎を紅茶割りで飲むからなぁ……))

 

 ある時は教養。

 

「最近は共働きが基本だよねぇ」

「そうですね」

「西代ちゃん、学歴はどの程度──」

「いや、松姉さん。彼女、俺と同じ大学だよ」

「あ、……」

 

 ある時は花。

 

「わ、私の趣味が華道でねぇ」

「私も1年程度、華道を嗜んでいました」

「ぅ、え、本当かい? 花は用意しているからちょっと活けて見せてくれないかい?」

「はい。久しぶりですが、恥をさらさぬよう頑張ります」

「………………」

 

************************************************************

 

「おい、梅治」

 

 安瀬が花を活けている最中に、松姉さんが俺にこっそりと話しかけてくる。

 

「? なんですか松姉さん」

「お前、あの子をどうやって落としたんだい。言っちゃ悪いがまるで釣り合いが取れちゃいないよ」

「……俺もそう思います」

 

 以前からやればできる奴だとは思っていたが、ここまでとは……。

今の花を添える手付きも、素人目から見ても可憐だ。

恐らく相当な芸達者なのだろう。

 

「器量良しで、家事全般は完璧。茶と花の技量も備わっている。……うちの長男を婿にあげたいくらいだよ」

「ははっ、駄目ですよ。彼女は俺のものです」

 

 松姉さんの評価は最高点に達していた。最愛の息子を差し出しても惜しくはないようだ。だがその場合、婿殿の肝臓が強い事は絶対条件だ。

 

「それによく見なよ、あの花を添える顔を。想い人を思ってるんだろうねぇ。梅治、アンタ幸せ者だよ」

「…………」

 

 確かに、はんなりと花を手に取る彼女の姿は神秘的だ。この光景に情景を感じない者はいないだろう。しかし、想っているのは俺などでは決してない。

 

「松姉さん、もう試験も出尽くしたでしょう? これで終わりでいいですよね?」

 

 俺は帰って、酒と煙草をやりたい気分だった。

この騒動は緊張感があって面白かったが、今は安瀬の頑張りを称える祝勝会をひらいてやりたい。

 

「……いや、まだ最後に残ってるものがあるのよねぇ」

「?」

 

 松姉さんは卑屈で邪悪な笑みを浮かべていた。

今までの試験ではそのような変な表情は見せていなかったというのに。

 

「西代ちゃん! 華道の腕前は良く分かったからこっちにおいでー!」

 

 松姉さんの呼びかけに、集中していたであろう安瀬がピクンと反応する。

彼女は用具を最低限片づけて、足早に俺たちの方へ近寄って来る

 

「はい、なんでしょうか?」

「昨日の発言を本気で謝っておこうと思ってねぇ……」

「……あ、いえ、そのような事はもう」

「私が謝りたいのさ。本当にごめんなさいね。叔母さんはあなたになら安心して梅治を預ける事ができる。梅治をよろしくねぇ」

 

 真正面から直球で安瀬の事を認める叔母さん。

 

「……はい」

 

 安瀬は恥ずかしそうに返事をした。

そりゃそうなる。俺と彼女はただの友達なんだから。

 

「あ、それでねぇ。最後に用意しておいた物があるのだけれど……」

「?」

 

 首をかしげる安瀬。

松姉さんの誉め言葉もあり、もうこの交流会は終了と思っていたのだろう。

 

「円満な夫婦生活の条件として、もう一つだけ欠かせない要素があるわ」 

 

 松姉さんはミシンを用意していた部屋と逆の方。俺の部屋にはない、もう一つの部屋のドアに近づいた。この大部屋は3LDKだ。

 

 スッとその部屋が開かれた。

中は畳が敷き詰められた和室。そこには大きな布団が1床のみ。

 

「夜の生活よ!」

「…………はぁ!!??」

 

 俺は松姉さんの下ネタに遅れて大声を上げた。

 

「な、なにいってるんですか、マジで!?」

「い、いやぁ、ごめんねぇ。念のために用意しておいただけで、もちろん出すつもりはなかったんだよぉ?」

「じゃあ出さないでくださいよ!」

「なんかここまで完璧だと悔しくて……」

「こ、子供かっ!」

 

 親族の下ネタを女友達に聞かれるなど、恥以外の何物でもない。

俺は急いで安瀬に謝ることにした。

 

「あ……いや違う、モモちゃんごめん! 普段はこんな人じゃ───」

「分かりました。いいですよ」

 

「「………………え?」」

 

 俺と松姉さんは固まった。

いま、こいつ、なんていった?

 

「え、西代ちゃん? ごめん、今なんて……?」

「別に問題ないと言いました。あ、ですが叔母さまは流石にご退室くださいね? お土産のパンとワインを忘れず」

「へ?」

「明日にでもジン君に感想を聞いておいてください」

「ちょ、お前! 何、言って!?」

「ほら、行きますよジン君」

 

 そういうや否や、俺の手を引っ張って和室に向かう安瀬。

 

「お、おい、おい、おい……!!??」

 

 俺はあまりの衝撃に身体に力が入らずにそのまま彼女にずるずると付いていく。

 

「さ、最近の若者ってすごいのねぇ。そ、そういう事ならお邪魔虫は退室させてもらおうか」

 

 叔母さんは布団の用意はしたが人の交接を盗み見る気は無いようで、急いで出ていく為の準備を始めた。

 

「ちょ、ま、松姉さん!?」

「今日は本当にありがとうねぇ」

「いえ、私も楽しかったです。ではまた……」

「あぁ、こちらこそ。あ、いくら汚してもかまわないからね?」

「ご配慮痛み入ります」

 

 2人はぺこりとお辞儀して別れの挨拶を済ませた。あまりに展開が速すぎてついていけない。

 

 バタンっと扉を閉めて、松姉さんは本当に帰った。

 

「あ、なるほど。これが狙いか……」

 

 俺はそこでようやく安瀬の狙いを理解した。この状況を見越してあのような暴挙に出たのか。なるほど、よく知恵の働く奴だ。

 

「なにを独りで()ちておる。早う、(しとね)にむかうぞ」

「……は?」

 

 再び、彼女は俺の手を引いて布団まで向かおうとする。

今度こそ、もう訳が分からなかった。

 

「は、え、おい!?」

「抵抗するでない。今日の褒美代わりじゃ」

 

 よく分からない事を言われながら、俺たちは布団手前まで辿り着いてしまう。

 

「ふんっ!」

「ぐぉ!?」

 

 そして、俺は勢いよく安瀬に押し倒された。

バサッと安瀬が上になる形で布団に倒れ込んでしまう。

 

 柔らかい、とても柔らかい何かが俺に密着していた。

それが何かは当然俺は知っている。だが、そのサイズ感は初めてのものだった

 

 

「……二人きりじゃな」

 

 

 安瀬が耳元で美声を吐く。その蠱惑な声音で、頭が茹で上がりそうになった。

 

「ふぅ……今日は本当に疲れた」

「あ、あぁ、悪いな。付き合わせて」

「本当にじゃぞ。まぁ、でも……悪い気分ではなかったでありんす」

 

 そう言うと彼女は俺の胸元に顔を埋めてきた。

バクンッと鼓動が高鳴った。今日の俺は酒を一滴も飲んでいない。

今の着飾った美しい彼女は刺激が強すぎる。

は、はやく退いてもらわなければ……!!

 

「お、おい、安瀬! ま、まずいから……!」

「ん、あぁ、安心するがよい。手を掴んだ時に、お主の袖に仕込んであったイヤホンは取っ払っておる」

 

 それは余計にまずい気がする。何も良くない。

『二人きり』とはそういう意味か。

 

「アイツらの事じゃから、10分もしない内に飛び込んでくるであろう」

「……まぁ、来るだろうな」

「それまで辛抱するんじゃな。我はもう寝る。疲れが限界でありんす……」

「ま、まじか!」

「西代とは同衾(どうきん)したのであろぅ……」

 

 つまり、彼女は()()()()()()()()()()()()と存外に言っている。

俺は今から、男としての器を試されることになる……!!

何という悪魔じみた発想。普通、自分の体を使ってそこまでやるか!?

 

 俺の葛藤など一切気にせずに、安瀬はうつらうつらと舟をこぎ始めた。

 

「ふふっ……乳や尻を……揉んだら……流石に起きるからのぅ…………まぁ、……お主な……かま……、い…………」

 

 余計な言葉を最後に残して、彼女はすぅー、すぅーと可愛らしい寝音を立てて眠りだした。その声音が俺の理性を多量に蒸発させる。

 

「っぐ、……ほんとにっ……!」

 

 黙っていれば死ぬほど美人だ。髪はサラサラだし、いい匂いもする。

酒だ、酒がとにかく飲みたい。しかし、彼女を跳ねのけて逃げる気が不思議と一切湧かない。今の俺はどうしようもなく男だった。

 

(猫屋、西代、早く来てくれーーーーッ!!!)

 

 心の中で彼女たちを大声で呼びつける。

アイツらをここまで頼った事などこれが初めてだった。

 

************************************************************

 

「ちょ、ちょっとーーー!!?? な、なんか陣内と安瀬ちゃんがイケない夜の実習を始めちゃったんですけどーーー!!」

「ね、猫屋、落ち着こう!! や、やってるわけがない! あの2人がそんな、そんなまさか……!!」

 

 陣内の家で余裕を持って待機していた2人は、顔を赤く染めて大騒ぎしていた。

無線から伝わってくる会話は布団に安瀬が向かっている途中で途切れている。

当然、彼女たちは"親友たちが甘い蜜月の時を過ごしているのではないか?"と考えていた。

 

「に、西代ちゃん! い、急いで現場に踏み込むよーーー!!」

 

 猫屋はスマホを握りしめて、503号室に突入しようとする。

早々に真偽を確かめたかったのだ。

 

「ま、待って!!!」

 

 慌てて駆けこもうとする猫屋を西代が静止する。

 

「な、なにーー!? い、急いで行かないと本当にはじまっちゃ───」

「もう…………始まっていたとしたら?」

 

 猫屋の動きがビタッ! と止まった。

 

「………………そ、そんなわけないじゃーん」

「う、うん……ごめん、そうだよね……」

 

 2人は想像してしまった。艶めかしく絡み合う男と女。

そこに踏み込んでしまう自分達。もし、その情交を直視してしまえば、生娘でおぼこな彼女らの精神はその場で吹き飛ぶことになる。

 

「……ゆ、ゆっくーり、行こっか」

「そ、そうだね。み、見つからないように……」

 

 その後、陣内が救出されるまでなんと1時間もかかった。

彼はその長い時間、自身で体を抓って、なんとか性欲と煩悩を打ち払っていた。

 

 陣内は体中が赤い斑点まみれになったその姿を、安瀬にしばらくの間笑われることになった。

 



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大岡裁き

 

ゴクゴクゴクゴクゴクっ

 

「ぷはッ…………ねぇ、この部屋ってさー」

 

 猫屋がハートラントビールをラッパ飲みしながら部屋内を見渡す。

ハートラントは500ml瓶だ。ハイネケンやコーラの瓶とは違い、大きい。

そのため今の猫屋の恰好は、なんというか、けっこう下品だ。

 

「せまくなったー?」

「部屋が縮むかよ」

「いやー、そういうことじゃなくてさー……」

「分かるよ猫屋。僕も手狭に感じるよ」

 

 西代が猫屋の意見を補足する。

彼女はアカマルワインをキャンプ用品のクックとガスバーナーで温めている。

 

「まぁ、結構散らかっている事は認める」

「そうれあるぞ~陣内。整理整頓が~~……ヒックっ、できてないでやんす~~」

 

 安瀬は呂律が回っていない。日本酒の一升瓶を片手に深酔い状態だ。床にもう2本ほど同様の瓶が転がっている。

 

 俺は炬燵台の()()()()()()()()()でズブロッカのロックを楽しんでいた。

瓶中にバイソングラスという香草の入ったウォッカだ。

桜餅の甘い香りがする。

 

「そうだぞー、家主! 私は客人としてー、綺麗で大きな部屋を所望しまーす!」

「確かにこの部屋は物が多すぎるね。少々、目障りだ」

「酒瓶を、ヒック……置く場所も無いでござる!!」

 

 俺の堪忍袋の緒は鋼線で作られている。加えて、酒の席で何を言われようと穏便に受け流すのが酒飲みとしての流儀だ。しかし、彼女たちの言葉はまるで金切りバサミのようだった。いとも簡単に、俺の忍耐をズタズタに引き裂いた。

 

「お前らが!! 俺の部屋に!! 物を置きすぎなんだよ!!!!」

 

 酔っ払いにも聞きやすいように、3回に分けて緩慢とした大声でがなる。

 

「う、うるさっ! ちょっとー、声量を考えなよー」

「いいや! この際だから一人ずつはっきりと言わせてもらうけどな!」

 

 俺はまず、猫屋に指を突き付けた。

最初に説教するべき対象は彼女だ。

 

「いつ間にか置かれていた化粧台と衣類ラック! ここは自宅か猫屋!!」

「ア、アレは女にとっては必需品でー……」

「ここ男の家なんだよ! 持って帰れ!!」

 

 女物の服がずらりと並び化粧道具が散りばめられた部屋の一角。男の部屋としては異常な光景だ。

 

「次ぃ、西代!」

「なんだい、騒々しいね」

「本は家に持って帰れ! 人の家で本棚まで組み立てやがって……!!」

 

 彼女の酒、煙草、賭博、以外の唯一の趣味である本。

とても文化的で素敵な趣味だと思うが、人の家に読み終わった本の墓場を作るのは間違っていると思う。

 

「あと、お前は偶には帰ってくれ。今日で何泊目だよ」

「13……いや15泊目かな?」

「す、すごいねー西代ちゃん。1人になりたい時とかないのー?」

「不思議と居心地が良くてね。明日は流石に帰るよ」

 

 その言葉は昨日も聞いた。西代は俺を丸め込むのがとても上手い。気づけば気分良く酔わされて、朝起きたら西代が当たり前のように泊っているという状況が15日続いている。

 

 それに、西代は2人きりの時は熱源を求めてベットに潜り込んでくるのでたちが悪い。

 

「まぁ、今はその問題はいい。本命はお前だよ安瀬」

「拙者でござるるか~?」

 

 へべれけで目がトロンとした安瀬。

彼女も今日は帰るつもりはないのだろう。

 

「お前、意味わかんない物持ち込みすぎなんだよ!!」

「うぇ~?」

 

 安瀬が俺の家に持ち込む物は多種多様だ。趣味の刀や長刀(なぎなた)。リサイクルショップから仕入れてきた大して使いもしないガラクタ群。最近はインテリアとして鎧武者のセットが俺の部屋に勝手に置かれた。

 

 もはや内装は複雑怪奇の魔境だ。

 

「あのさ……()()()()()()()と思うけどな」

 

 俺は改まって彼女たちに告げる事にする。

 

「来週、地元の友達が遊びに来るんだよ! モノを減らさないと俺が処分するからな!!」

「えーー!! 人の物勝手に捨てるのはよくないでしょーー!?」

「化粧品と女物の服は全部撤去だよ! 変な誤解されるだろうが!!」

 

 来週の週末、淳司たちが俺の部屋に遊びに来る約束になっている。

俺の部屋で女物の服が見つかれば、彼らは何かを誤解して俺に優しい目を向け深い理解を示すことになるだろう。俺に女装の趣味など無いというのにだ。

 

「えぇー……めんどくさーい」

「彼らなら僕とは面識があるし文化祭の動画を見せたんだろう? なら別に女物の服があっても平気じゃないかい?」

「その場合、俺がお前ら3人のうち誰かと付き合っているって言わないと理屈が通らんだろ」

「僕は別にいいけどね」

「俺がなんか嫌だ。それにいい加減この部屋の惨状をどうにかしたいと思っていたところだ」

 

 足の踏み場程度はある。しかし、綺麗でないのは確かだ。

正月はとっくに過ぎ去っているが、大掃除をしたい。

 

「……い~ぃ考えがあるぜよ~」

 

 酩酊状態の安瀬が間抜けな声を出す。

 

「いい考え? その酔っ払ったナリで考える頭があるのかよ?」

「前から考えてたんじゃがのぉ~。サークルを立ち上げて部室を手に入れてみんかえ~?」

「「「サークル?」」」

 

 既存のサークルに入るのではなく、立ち上げると彼女は言った。

 

「あぁ、確か部活動には10人以上の申請が必要だけど、同好会サークルは3人いれば立ち上げ申請が可能だったね」

「え、部とサークルって同じ意味じゃないのか?」

「違うね。部は大学から部費が出るけど、サークルにはでない。部の方が上位互換なのさ。サークルが部費のため人数を集めて部に昇格する」

「……いや、地域支援サークルは出てるよな、部費」

「あれは俗称だよ。正式名称は地域支援活性化部だ」

「へー、西代ちゃん詳しいー」

「少し調べたことがあってね」

 

 西代の言う通りなら俺達でもサークルの申請はできるという事か。

西代は酔って頭が茹っている安瀬の代わりに説明を続ける。

 

「サークルには金銭的援助はでないが部室が貰える」

「あー、なるほどー。そこを物置として使おうって魂胆ねー」

「そ~でござる~」

「僕も前に考えたことがあるけど、確か今は()()()が満杯でサークルの立ち上げは中止していたはずだよ?」

 

 部室棟。それは俺達が講義を受けている本棟とは2km程度離れた場所にある大型施設だ。大学の敷地というのは高校などと比べ広大だ。次に講義を受ける教室に移動するために自転車で敷地内を移動するという話も珍しくない。

 

 そこが運動部や文化部、同好会サークルの活動拠点となっている。

 

「オカルト研究サークルとやらがのぅ……最近廃れたらしいでござるぅ」

「という事はー……」

「サークルの申請が再開している、と」

「……欲しい、俺は物置が欲しい!!」

 

 俺は心の底から主張した。

安瀬のよく分からないガラクタや西代の本が無くなるだけで我が家の空きスペースは広がる。

 

「私の服の一時避難場所にもぴったりー!」

「それはこの機会に持って帰れよ」

「いやぁ~あの衣類ラックには我の着替えも吊るす予定じゃからだめであるぅ」

「僕もだ」

「お、お前らな……」

 

 どうりで一人で使うには大きい物を持ってきたわけだ。

 

「では~、サークル申請作戦の発令を~~」

「今回はいいだろ。お前の酔いがやばいし」

「細かい計画は僕らで練っておくからさ」

「もう、安瀬ちゃん寝ちゃえばー? 明日は1限なんだしさー」

「ん、あぇ……そうであるな」

 

 猫屋の言葉に従い、安瀬は覇気なくフラフラとした足取りで寝室へと向かって行った。

 

「なんで安瀬はあんなに飲んでたんだい?」

「婚約者騒動のお礼に日本酒買ってやったら、嬉しそうに全部飲んだ」

「あー、なるほどねー」

 

************************************************************

 

 俺たちは翌日の講義終わりに大学の事務室を訪れた。

サークルの申請用紙を持参してだ。講義中に中身は書いておいた。

 

 俺達が設立するのは『郷土民俗学研究サークル』。

もちろん名ばかりの団体だ。

 

 初めは飲酒サークルや賭博サークルといったものにしようと思ったが、既にその系列のサークルは存在していた。それならば、もういっそのこと誰も興味がなさそうなサークル名にしてしまおうというのが俺たちの狙いだった。これで卒業まで部室は俺たちのものだ。

 

「じゃサークル長。申請を頼んだ」

「うむ」

 

 この団体の長は安瀬だ。発案者は彼女だし、俺たちの中で別格のリーダーシップを持っている。おまけに彼女は歴史にはかなり詳しい。民俗学とは少し毛色が違うがもし活動内容について詰め寄られた時に誤魔化すくらいはできるだろう。

 

 安瀬がコツコツと受付に近づいて、申請用紙を机に出す。

だがそれと同時に()()()()が隣で同じような用紙を出した。

 

「『郷土民俗研究サークル』の申請をお願いします!」

「『クイズ研究サークル』の申請をお願いします!」

 

「「…………ん?」」

 

 同時に申請用紙を出した2人が顔を見合わせる。

 

「お、お主は確か信号頭の赤担当……」

「ア、アンタは確か陣内の彼女……」

 

 意外な人物との鉢合わせ。

前に合コンに俺を誘った赤崎が、何故か事務室でサークルの申請を出そうとしていた。

 

「お~い、赤崎! 申請は無事に終わったかー?」

「ふっふっふ、これでまた俺たちの愛の巣が一つ増えることになるな」

 

 事務室の入口から声が聞こえたのでそちらに振り向くと、緑川と黄山がこちらに歩いてきていた。

 

「い、いや、ちょっとトラブルだ」

「「……え?」」

 

 赤崎の発言にポカンとした顔を浮かべる緑と黄。

明るい所に3人揃うと、なんだか色合いが派手で眩しいな。

 

 俺達4人と信号機トリヲは事務室の中でお互いに顔を見合わせる。

 

「貴方たちもサークルを立ち上げるのですか?」

 

 安瀬が外行用の口調で彼らに声をかける。

 

「あぁ、オカ研が廃部になったって聞いてな」

「そこで俺達は大学内のヤリ……活動場所が欲しくてな」

「サークルを立ち上げようという話になった」

 

 どうやら彼らもかなり個人的な理由で部室を手に入れようとしていたようだ。

 

「へー……大学校内でヤリ部屋作りねー……」

「女の敵だね」

「そうですね。端的に言って気持ち悪いです」

 

 女性陣からの容赦のない罵倒。だが、俺達だって彼らと同じように真面目にサークル活動する気など無い。そう考えると俺達に彼らを罵倒する権利はない気がするが……

 

「おいおい、言いがかりは止してくれよ」

「俺たちは『クイズ研究サークル』を立ち上げて真面目に活動するつもりさ」

「君たちは『郷土民俗研究サークル』だったね。活動内容がよく分からないな。君たちの方こそ大学内にラブホテルでも作るつもりじゃないかい?」

 

 赤崎が得意気な顔をして反論してくる。

はい論破、とでも言いたそうだ。命知らずなヤツだな。

 

「「「…………」」」

 

 セクハラじみたその発言に、酒飲みモンスターズの視線が険しい物になった。

目を細めて極めて不快そうに赤崎を睨みつける。殺意で射殺すつもりだ。

美形ぞろいな彼女たちに本気で睨まれると生きた心地がしなくなるだろう。

 

「す、すいません。言いすぎました」

「おい赤崎!」

「怯むなよ!」

「だ、だってよぉ……」

 

 蛇に睨まれたカエルの如く、赤崎は彼女たちの圧力に負けて縮こまった。

今のは彼が悪いとして、そもそも2つの申請がなされ部室棟の空きが一つしかない場合、大学側はどういった判断を下すのか気になる。言い争いはそれを確認した後でも遅くはない。

 

 俺は事務の受付の女性に話しかけて詳細を聞くことにした。

 

「すいません」

「はい、なんでしょう」

「このように同時に申請された場合ってどうなるんでしょうか?」

「そうですね……今空いている部室は一つしかないので、原則として人数の多い方を新しいサークルとして認めています」

 

 よかった、どうやらこういった事態を見越した制度があるようだ。

前例でもあったのだろう。

 

「分かりました。ありがとうございます……と、いう訳だ赤崎。悪いが俺達に譲ってくれ」

 

 俺たちの人数は4人。彼らの人数は3人だ。

彼らが真面目に活動する気なら権利を譲ることを考えただろうが、邪な理由の様なので譲る気もない。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれよ、陣内!」

「そりゃないぜ! 人数差なんかで取り消しとか!」

「そうだ! 酒奢ってやるから、考え直してくれよ!!」

「酒だと!?」

 

 瞬間、脳内にシュワシュワとした欲望が渦巻く。

 

 うん、いいなお酒。お酒は全てにおいて優先される。

何を買ってもらおうか。ヘンドリックスが欲しかったんだよなー。

いや、冷酒器なんかも欲しいな。どうせなら手に残る物の方が嬉しい。

 

「いや陣内君。君も雑貨類の退避場所は必要だろ?」

「…………そうだな」

 

 西代の言う通りだ。頭の欲望の泡がパチンとはじけ飛んだ。

確かに、俺には物置が必要だった。

 

「え、お前らそんな理由で部室が欲しいのかよ」

「いいぜ、荷物くらい好きに置いても」

「ベット一つあれば俺たちは別にいいしな」

 

 信号機達が革新的な折衷案を持ちかけてくる。

両陣営の望みを叶えた素晴らしい提案だ。さらに酒を奢ってくれると言うなら、これほど俺にとって都合のいい話はない。

 

「おぉ! じゃあそうしよ───」

 

「断固として反対します」

「そいつらとー、共同で部室使うなんてありえないからー」

「僕もだね。本が汚れそうだ」

「……えー」

 

 事が穏便に終わると思ったその時、酒飲みモンスターズの強い抗議が入った。

 

「別にいいだろ? 穏便に事を済ませられるんだ」

「絶対に嫌ですね」

「私たちの服とか置く予定だしー」

「君は酒が欲しいだけだろう?」

 

 取り付く島もないようだ。

彼女たちがこの様子では仕方ない。酒は諦めるしかないようだ。

 

「おいおい、それは陣内が決める事だろう?」 

 

 諦めかけた俺に赤崎が意外な言葉を掛けてくる。

 

「え、俺?」

「この話の決定権はお前にあるように思えてな」

「俺たちは3人。女子も3人だ。お前の選択次第でどちらがサークルを設立できるかは変わってくるだろう」

「彼女たちの荷物を置くために部室を使いたいんだろ? なら、陣内は好きな方につけばいい」

 

 言われてみればそうだ。もともと、俺の部屋に不法投棄のように散らかされた不要物。それは彼女たちに必要な物であって俺には不必要の物だ。俺の好意で置かせてやっているだけ。勝手に処分したり、赤崎らのヤリ部屋に持って行っても文句は言えない。目から鱗といった気分だ。

 

「あ、赤崎。俺、冷酒器という物が欲しくてだな……!」

 

 俺は彼らの提案を喜んで受け入れる事にした。

 

「はぁ!? じんなーい!?」

「う、裏切るつもりかい!?」

「さ、最低ですね」

「うるさいぞ、寄生虫ども」

 

 よく考えれば、事の発端は彼女たちの我が家での身勝手な振る舞いのせいだ。

 

「わ、わかりました。私達が買いましょう、冷酒器」

「安瀬ちゃんマジでーー!?」

「……必要経費と割り切るしかないか」

 

 酒飲みモンスターズはガックリと肩を落として、不満たらたらのようすで信号機達と同じ賄賂を俺に渡そうとする。

 

「「「俺たちはそれに加えて酒も付けよう!!」」」

 

「え!? まじ!? いいのかッ!?」

 

「「「っ!?」」」

 

 たかがサークルの立ち上げがとんでもない儲け話に変わった。

俺の酒器コレクションも増えて、秘蔵のお酒も増える。

なんて約得な立場なんだ。

 

「わ、わ、私達も、お、お酒を……」

「うぅ……ひっく……」

「苦しい゛……吐き気が……!」

 

 彼女達は大粒の涙を流しながら、身銭を切って俺に更なる賄賂を渡そうとしていた。そんなに金を使いたくないのかよ。

 

「さらに、もう一本酒を追加しよう」

 

 信号機達のレイズは止まらない。

弱みを見せた相手への追い打ちは交渉事では基本だ。

 

「わ、わた……うぅぅ……」

「うわぁぁああんんん!! ひどいよーー!! こんなのずるじゃーん!!」

「い、今からパチンコに行ってくる。すぐに増やしてくるから待っててくれ!」

 

 安瀬はせせり泣き、猫屋は大声でぐずり、西代は暴走寸前。

いちいち大袈裟な奴らだな。まぁたかが部室ごときに大金をつぎ込みたくない気持ちはよく分かる。

 

 俺も金を積んだ方に転ぶマネーゲームは面白くない。

今日の絶対優位者は俺だ。なら、俺が味方に付く方は面白い方に決まっている。

 

「盛り上がってる所悪いけど、ちょっと俺の話を聞いてくれ」

 

 今回、俺が思いついた悪だくみについての話だ。

 

 



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つまらない結末

 

「では張り切っていきましょう!! 俺こと、陣内梅治を賭けた争奪戦の開幕だぁ!!」

 

 様々なレジャーが楽しめる大型アミューズメント施設。その駐車場にて俺は意気揚々と俺自身を商品とした催しの開始を宣言した。もちろん、すでに俺は大量の酒を飲んでいる。フラフラで心地の良い酩酊状態だ。

 

「おい、陣内。こんな所まで運転させておいてどういう事じゃ」

 

 安瀬が不満そうな声で俺の先ほどの発言の意図について聞いてくる。

赤崎たちがいるが口調が戻っている。取り繕うのが。めんどくさくなったのだろうか?

 

「なんだよ、察しが悪いな安瀬。酒飲みモンスターズとナンパ信号機達のガチ対決だよ」

「……酒飲みモンスターズ?」

「それってさー、私たちの事?」

「おっと」

 

 いかんな。酒を飲みすぎたせいで口が軽すぎる。

あの蔑称は俺の心の中でのもの。口に出してしまうのは流石に彼女達に悪い。

 

「ナンパ信号機……」

「陣内、俺たちの事をそんな風に思ってたのか」

「たしかに赤黄緑だけど……ショックだぜ……」

 

 こいつ等に関しては別に心は痛まないな。

蔑称がピッタリと似合っている。

 

「これから、部室の使用権利を賭けてお前らには様々な種目で争ってもらう」

 

 俺は彼女彼らを前にして今回の企画のルールを一方的に話し始める。

 

「運動、知力、遊芸の3回勝負で競ってもらおうか。あ、負けた方は冷酒器を俺に買ってくれよな」

 

 自分でも理不尽かな? と思ってしまう要求を彼らに突き付ける。

 

「いいね、面白いよ。なかなか素敵な催しを考えるじゃないか」

「だろう? 西代、お前ならそう言ってくれると思ったよ」

 

 賭博狂いの彼女はこの手のスリルある企画は大好物であろう。

金銭こそかけてないが、実質同じようなものだしな。

 

「うぇ、西代は謎にやる気満々のようでござる」

「それだよねー。はぁー……楽に物置が手に入ると思ったのにー」

 

 逆に他の2人は不満そうだ。

西代と違って余計なリスクは好まないのだろう。

 

「別に辞退してもいいぞ。そうなったら俺が責任を持って、お前らの家に不要物を届けてやる。車があるから苦ではないしな。お前らもそれなら困りはしないだろ?」

「困りはせんが不便じゃ。我らの賃貸は隣町で遠い」

「いざ欲しい時に物が手元にないとねー。取りに行こうとしても、いつも酒飲んでるから車は基本的に使えないしー」

 

 彼女達と俺の賃貸では距離が電車一駅分は離れている。

それに比べて部室棟なら徒歩で15分程度だ。労力の差は如実だ。

 

「そう思うなら頑張ってくれ。お前らといえども、ジャッジに贔屓はしないからな」

 

 俺は今から提供される、酒のつまみの味に大きく期待した。

 

************************************************************

 

 一回戦目は運動競技、バッティングだ。

20球のボールを何球ヒットにできるかを競ってもらう。ホームランは出た時点で打った方の勝ちだ。まぁ、この中に野球経験者はいないようなので出る事はなさそうだ。

 

「頑張れよ、赤崎!」 

「任せろ!」

 

 唐突に始まった勝負であるが、彼らは意外と乗り気のようだ。

まぁ信号機達からすればこれは4対3の合コンみたいなものだろう。

 

 彼らは俺の恋人は安瀬だと勘違いしている。残りの猫屋と西代についてはフリーと思っており、いまだに少しだけ狙っているのだろう。これは格好つけるにはいいチャンスだ。

 

 まぁ、3人ともが俺の恋人だと思っていないようで何よりだ。そんな勘違いは俺が女にだらしのないヤツみたいで嫌だ。

 

「猫屋! 負けるでないぞ!!」

「初戦は重要だよ。ここで格の違いを見せつけてやろう」

 

「オッケーーーー!!」

 

 酒飲みモンスターズからは猫屋が選出された。

スキーの際の彼女の運動センスを鑑みれば当然の選択だな。

選ばれた二人は別々のケージ内に入りバットとヘルメットを手に取った。

 

「っふ、君の様なか弱そうな女の子が元サッカー部のFWである俺に勝てるとでも?」

「野球にサッカーって関係あるー?」

「筋肉量の話さ」

「あっそーー。なら私も手加減無しで本気でやったげるねー……!」

 

 2人はケージの網越しで挑発的な言葉を投げかけ合う。

猫屋は負けず嫌いなところがある。赤崎の言葉でやる気に火がついたようだ。

 

「野球観戦しながら飲む酒って、最高に美味しいよな」

 

 俺はそう言い、持ち込んだクーラーボックスからネパールアイスビールを引き抜いて煽った。

 

 バッティング対決は早速面白そうな組み合わせだ。純粋な身体能力なら赤崎の圧勝だろう。だが、猫屋はセンスでいくらでも挽回ができそうだ。

勝敗がどっちに転ぶかは予想ができない

 

「友同士の争いをつまみに晩酌であるか。陣内、碌な死に方せんでござるよ」

「お前らに言われたくはない」

「いいねぇ、ネパールビール。僕にも少し頂戴よ」

「西代はこの後が控えてるだろ」

「ビールくらいで酔いはしないさ」

「それもそうか。ほれ」

 

 俺は彼女に瓶を差し出した。

彼女はそれを受け取ると嬉しそうに飲み始めた。

 

「ふぅ、美味しいね。やっぱりビールは外国産に限る」

「……我も飲みたい」

「いいぞ、帰りは猫屋に運転させるか」

「賛成である」

 

 パキンッ!!

 

「おっ」

 

 そんなやり取りをしていると甲高い金属音が木霊した。

赤崎がボールを前に飛ばす。綺麗な快音だった。

飛んでいった玉はヒットゾーンに着地する。

 

「ヒット1本だな」

「へぇ、自信満々に言うだけ合って運動神経がいいんだね」

「中々やるのぅ。……猫屋の方はどうじゃ?」

 

 対して猫屋の方を見てみると、彼女はそもそもスイングなどせずにそっぽを向くようにどこかを見ていた。

 

「ア、アイツ、なにやってるんだ?」

 

 彼女の視線は150kmの直球を投げる上級者向けのケージに向かっていた。その中で早い打球を難なく飛ばす大柄の男を眺めているようだ。フォームを参考にでもするつもりだろうか?

 

「ちょ、ちょっと猫屋!! バットを振らないと、そもそも勝負にならないよ!」

 

 その様子をみた西代が野次を飛ばす。確かに彼女の言う通りだ。

すでに投球は3球目。このままボーっとしていれば赤崎との差は開くばかりだ。

だが猫屋は動こうとはしなかった。集中した様子で大柄な男を一心に見つめている。

 

「…………よーし」

 

 投球が5球目に入ったところで、ようやく猫屋が視線を戻してバットを構えた。

脇を締めて、軽くひざを曲げて重心を落とす。バットのヘッドを後頭部の少し後ろでクルクルと回し始めた。

 

 素人目にだが、猫屋の構えは堂に入っているように思えた。

とても野球初心者のものには見えない。

 

 バシュンっ

 

 電光掲示板に映った投手からストレートが投げられる。

 

「んにゃっ────!!」

 

 パキィィインッッ!!

 

 赤崎のヒットとは比べ物にならない快音。炸裂する金属音とともにボールはホームランと書かれた上空の板に着弾する。

 

 デレデレデデーーン!! ホームラーーン!!

 

 バッティングフロア全体に機械音声が響いた。

 

「う、うそだろ……?」

 

 俺は猫屋のデタラメさ加減に驚き、新しく開けたビールを落としそうになっていた。俺以外の全員も驚きのあまり声も出さずに固まっていた。

 

「イエーーーーイ!! 楽勝って感じー! どんなもんよーーー!!!」

 

 当の本人が嬉しそうにこちらを振り向いて笑顔でピースサインを掲げてくる。

 

「み、 見取り稽古……」

 

 隣で猫屋のスーパープレーを見た安瀬が変な言葉を呟いた。

 

「安瀬、なんだいそれは?」

「言葉通り、自分より上手い者の姿を見て真似る技術である。武道の演武で特に重要視されるぜよ。しかし、あのレベルでの模倣なぞ見た事がない。武芸者として兄貴なんかより確実に上である……」

 

 安瀬は呆れたような、もしくは末恐ろしいものを語るような口調で説明した。

陽光さんより上の武芸者ってどういう事だ。あの人、柔道3段だぞ。

 

「……猫屋ってさ、絶対に何かの種目でスペシャリストだったよね」

「で、あろうな。恐らくは武道系、拙者は剣道だと睨んでおる」

「でも煙草大好きだよね。スポーツ選手って煙草吸っちゃ駄目だろう?」

「うぅむ、ちょっと勿体なさを感じるのぅ」

 

 女性陣2人が猫屋の運動神経を見てワイワイと勝手に考察を交わし合う。

彼女たちの意見には俺も同意する。今のホームランはスノボの時より、非常識的だ。

だが……

 

「まぁ余計な詮索は無しにしてやろうぜ。輝かしい過去ならアイツの口から勝手にでてくるだろう」

 

 俺は手短に話を切った。猫屋の右肘には古傷があったはずだ。

運動をするもの者にとって、怪我をするのは大きな意味を持つ。

 

 猫屋は自身の運動経験を語りたがらない。

なら、そっとしておいてやるのが友達として正しい振る舞いだと俺は思った。

 

「……そうだね。僕は少しトイレに行ってくる」

「あ、我も一緒に行くでござる」

 

 2人は俺の言葉を聞いて余計な憶測を止めて席を外した。その途中に猫屋に向かって笑顔で手を振っていた。ホームランへの賞賛であろう。

 

 俺はケージに向かって行った。

俺は言葉で彼女を称えてやろう。

 

「凄いな猫屋。マジでビックリした。おかげで酔いが吹き飛んだよ」

 

 ゲージ越しに俺は猫屋に話しかける。

 

「え、そんなにー? え、えへへへー、陣内っておおげさだよねー」

 

 彼女は嬉しそうに頬をポリポリと掻いた。

控えめに笑う彼女は、先ほどの鋭いバッティングを見せた同一人物にはとても思えない。

 

「横でイチャつくなよお前ら……」

 

 負けた赤崎がどんよりとした目で俺達を見てくる。ホームランが出たことで今回の勝負は彼の負けだ。敗者に茶化されるのはムカつくので、適当に煽っておこう。

 

「赤崎、こんなか弱そうな女の子に負けて恥ずかしくないのかよ」

「ぐ、ぐえ……。陣内、自分がやってないからって好き勝手言うんじゃねーよ」

「いーや、私もそう思うよー? 男の癖になっさけないねー?」

 

 ニヤニヤと笑い、追撃を加える猫屋。彼女と一緒に人を馬鹿にするのは効果が異常に高い。罵倒を受けて赤崎はさらに肩を落とすのだった。

 

 

************************************************************

 

 続いては知識部門……のはずだったんだが。

 

「も、もう動けないです……」

「お、俺も吐きそう」

 

 なぜか緑川と黄山がトイレ前でぶっ倒れていた。

その顔は蒼白になっており、呼吸は不自然に荒い。酸素を求めて喘ぐ魚のようだ。

 

「おい、安瀬。一体2人に何をしたんだ?」

 

 俺はトイレに向かっていた安瀬に声をかける。

 

「我は知らんぞ」

「なら、西代か?」

 

 安瀬は容疑を否認したので、同じく西代の方に事情を問いかける。

 

「トイレを出たらなぜか彼らが僕に絡んできたんだ。だから『僕を酔わせられたら一晩付き合ってあげる』って言って酔い潰した」

「お、おまえ本当に凄いな……」

 

 そんな安い言葉に釣られた2人は馬鹿としか言いようがないが、成人男性を一瞬で酔い潰す西代の肝臓の強さに改めて驚く。

 

「何飲ませたんだよ?」

「テキーラを延々と飲みあい続けただけさ」

「あ、お前、俺のクーラーボックスからテキーラを盗んだな」

 

 何をするか分からずに付いて来た彼女が酒など持っているはずはない。

先ほど、トイレに行くときにコッソリと抜き取ったのだろう。

 

「安酒だからいいだろう? たいして美味しいものでもないしね」

 

 人の酒を勝手に取っておいて味にケチまでつけるか、コイツ。

 

「まぁ、これで部室は僕たちのものだね」

「……………………え、今回の企画これで終わり? まじで?」

「対戦相手がこの様なんだから、仕方ないだろう?」

 

 じゃあここまで来た意味はなんだったのだろうか?

俺のワクワクを返して欲しいのだが。

 

************************************************************

 

 数日後、俺たちは本当に『郷土民俗学研究サークル』を立ち上げて部室を手に入れてしまった。

 

 こんな簡単に悪だくみが上手くいくと、()()()()がくだりそうで心配になるな。



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サプライズプレゼント

 

 余計な物が無くなり小ざっぱりした綺麗な部屋。

俺はそこで鼻歌を歌いながら掃除機をかけていた。

 

 今日は我が家に酒飲みモンスターズは誰もいない。

俺の高校の友人たちが遊びに来るため、彼女たちは安瀬の家で飲んでいる。

今は1人で家の掃除中だ。

 

 思えば1人で家にいるのはかなり久しぶりだ。新年に入ってからは初めてになる。

最近は高確率で西代が宿泊していくし、西代がいない時は他の2人のどちらかがいた。

 

 逆にあいつら、普段は自分の家でなにしてるんだ?

 

 西代は本を読んでいるとして、安瀬と猫屋は部屋で1人の姿が想像できない。酒飲んで煙草吸って寝る。その程度の事しか思いつかなかった。

 

 ピンポーーン

 

 酒飲みモンスターズの生態を真剣に考察しているとチャイムが鳴った。

淳司たちが到着したのだろう。

 

「はーーい! いまでるからーー!!」

 

 俺は掃除機を床に置いて、急いで玄関で待つ友人たちを出迎えに行った。

ドアを開けて彼らを迎え入れる。

 

「今日は邪魔するぜ、梅治」

「俺! お前がアホみたいに飲むと思ってよー!! 酒とお菓子いっぱい買ってきたんだぜ!!」

「本当に馬鹿みたいに飲むからな、梅治は……」

 

 体育会系の淳司、うるさい健太、眼鏡で大人しい雄吾、そして俺を含めた高校でのメンバーは正月ぶりに結集した。

 

************************************************************

 

「よーし! 早速、ベットの下のエロ本でも探すかーー!!」

 

 健太は俺の部屋に入り込み荷物を下ろすと、いきなり寝室に突っ込んで行った。

 

「ねぇよ、そんなもん。何年前の人間だよ」

 

 俺は健太の奇行を止めるでもなく、彼が買ってきてくれた低度数の缶チューハイを開く。自分ではあまり買わないが、たまに無性に飲みたくなる。

 

 寝室は普段なら酒飲みモンスターズの万年床が広がっているが、今は撤去済みだ。その他私物に関しても大学の部室に避難させたので健太に見られて困る物はない。

 

「缶を開ける速度が凄まじいな……」

「そうか? 我が家ではこんなもんだぞ」

「肝臓ぶっ壊すなよ、梅治」

 

 淳司、雄吾の肝臓の性能は並だ。健太は低度数の缶チューハイ一本でダウンする。

それなのに健太は俺の為に大量の酒を購入して持って来てくれた。宿泊代には多すぎるくらいだ。俺の家を好き勝手に冒険する権利くらいは喜んで差し上げよう。

 

「それで、淳司。例のカタログは持ってきてくれたか?」

「あぁ。でも本当に買えるのかよ?」

「毎月4万は貯金してたから、50万はある。それと学生時代のお年玉貯金を合わせれば足りる」

 

 俺はある物を買うために大学に入学した時からずっと貯金をしていた。ここの家賃は格安であるにも関わらず俺が万年金欠なのはそのためだ。

 

「よくそれだけ貯める事ができたな」

「俺は毎食自炊してるからな。酒代とパチンコ代が多少かさむがそこは仕方ない」

 

 パチンコにはよく行くが大負けしない程度で帰るし、たまには勝つ。

それに4人生活というのは金銭的にはコスパが良い。あいつ等は自分たちの家賃を払っているので貯金などできていないらしいが。

 

「俺の社員割りで購入してやるから、それだけありゃ()()()()()()()()なら大丈夫だな」

 

 俺の購入したかった物とは大型バイクの事だ。

淳司は専門学校を卒業してすでに働いている。彼の就職先はバイク屋だ。

 

「梅治、お前から話を聞いたときは驚いたぜ。まさか俺が知らない内に大型二輪の免許を取っているとはな」

「由香里と別れてすぐの事だしな」

「一応、取得理由を聞いておこうか……」

「バイク乗ってればモテそうって思ってた」

「それで大型免許まで取る執念がすごいよ。チャラチャラした梅治を一度見てみたかったな……」

「やめてくれ、黒歴史なんだよ」

「ハハハハ! だから見たかったんだよ!」

 

 淳司が俺の背をバンバンと楽しそうに叩く。

 

 あの頃の話は恥ずかしい歴史でいっぱいなので本当に勘弁してほしい。

免許を取った後にバイクを買う金が無い事に気づいたくらいだ。行動が空回りしすぎていた。

 

「まぁ、その話はいいだろ? それよりも俺が買うバイクの相談をだな───」 

「お、おぉぉぉおおおおお!!??」

 

 突如、健太の大きすぎる雄叫びが寝室から響いた。

 

「え、なんだ? どうしたんだアイツ」

「あのバカ、人の家なのにうるせぇんだよ」

「同感だな……」

 

 俺達が健太の奇声を訝しんだ。

酒飲みモンスターズの忘れ物でも見つけたのだろうか?

もしそうなら説明が少し面倒だな……

 

 ガラッと引き戸を開いて、寝室から健太が戻ってくる。

先ほどまでテンションの高かった彼だが、何故か今は顔を赤くして落ち着いているように見える。

 

「う、梅治。やっぱりお前スゲーよ……俺、男としてマジで羨ましい」

「は? なんだよ急に、どういう事だ?」

「いや、その……な。とりあえず、こ、これはお前の手で返しておいてくれ。俺が持ってたら彼女たちに悪いから! な!!」

 

 そうして健太が突き出してきたのは、3枚の布切れだった。

正確に表現するのなら、真ん中がパックリと開いたパンツだ。

 

 もっと俗に言うのなら、エロ下着だ。

 

「「「っ゛゛!!??」」」

 

 な、何でそんな物が俺の家に!?

 

 理由はすぐに思いついた。彼女たちの意地の悪いイタズラだ。

恐らくは面白半分で購入した物を俺の家から去る前にベット下に放り投げたのだ。

 

「お、お前、あの動画の3人を侍らせてんのかよ。由香里に振られた反動で色事師に覚醒しちまったんだな」

「や、やっぱり3人同時に相手したりするのか……? 後学のために是非、聞いておきたい……」

 

 全員が俺に有らぬ誤解をしている。

この状況はあの悪魔の様な3人が画策した、俺を辱めるための罠だ。

 

「すっげぇよなーーー!! 4Pってことかよ!! やるな梅治!!」

 

「できるか阿呆!! あ、あのクソ大馬鹿どもめーーーー!!!!」

 

 俺はどういう言い訳をすればいいか分からず、本気で頭を抱える事になった。

 

************************************************************

 

 ここは女が3人寄り添った姦しい安瀬の賃貸。

女達は珍しく、陣内梅治を欠いた状態で酒盛りをしていた。

 

「陣内君、気づいたかな? 僕たちの仕掛けたエロトラップに」

 

 クツクツと実に楽しそうに笑う西代。

酒精が良く回っているようであり、その顔は赤い。

 

「その言い方では、まるで我らが触手でも仕掛けたように聞こえるんじゃが」

「ははは! もしそうだったなら、陣内君の純潔は既に散らされたことになるね」

「に、西代ちゃんってさー、下ネタ結構好きだよねー。酔っぱらうと特に……」

 

 安瀬と猫屋もかなりの量の酒を飲んでいた。陣内が久しぶりに女性のいない時間を楽しんでいたように、彼女達も男性のいない時間を酒と一緒に楽しんでいる。

 

 所謂、ガールズトーク。男子禁制の着飾らない本音の話。

 

 時刻はすでに深夜2時。

そこではズボラで面の皮が厚い彼女達でも陣内の前では話さない会話が繰り広げられていた。

 

「そうかい? 自分じゃ自覚がなかったよ。最近、官能小説を買った影響かな?」

 

 止まらない、西代の下ネタトーク。

彼女はどこか楽しそうに猥談を友たちに振りかける。

 

「また何故にそのような珍妙な物を? 普通、女子が買う物ではないでありんす」

「死刑囚を題材にした小説の主人公が官能小説を読んでいてね。少し興味が湧いたんだ。アレは凄いよ。書いている人は間違いなく天才だね。今度、貸してあげようか?」

「……ちょっと読んでみたいでござるな」

「うぇ!? 安瀬ちゃん変な方向に知的好奇心がでてるよーそれ」

「っふ、江戸四十八手を見た我に純情な心など残っておらぬ」

「そっちこそ、また随分と珍妙な物を……」

 

 江戸四十八手は性交の体位を示した江戸時代の性教育本である。

齢21歳の女子が嗜む物ではない。

 

「それ私でも聞いた事ある。凄いよねー、Hの体位なんて私、4つくらいしか思い浮かばないんだけどー」

「……猫屋ってさ、見た目の割に乙女だよね」

「で、あるな。何というか、男慣れしてない感じが強いでござる」

「え、えー……? そうかなー?」

 

 ポリポリっと頬を掻いて肩をすくめる猫屋。

同世代の友たちに、男性と接した経験が少ないと言われるのは彼女にとって恥ずかしい事だった。

 

「私は中高と女学校だったからかなー? お父さんも離婚してて近くにいなかったしー」

「い、いきなり重めの家庭事情を突っ込んでくるね」

「そうでありんすか? 我の高校にも片親の子は結構いたぜよ?」

「……最近は離婚率高いから案外普通の事なんだね」

「そうだよー? 特に女学校に入る子なんて、親が男性不信を拗らせてる場合が多いからさー。私の周りにも結構いたねー」

「うぅむ。嘆かわしき日本の家庭事情ぜよ。夫婦仲が円満だった改革の徒、坂本龍馬が草葉の陰で泣いているであろう」

「あぁ、日本で初めて新婚旅行をしたのが竜馬だったね」

「へぇー2人とも博学だねー」

 

 適当な感想を述べながら猫屋はシガーケースから煙草を取り出す。

陣内に巻いてもらった自家製の手巻き煙草だ。猫屋はホームランを打った記念に陣内に作って貰っていた。

 

 猫屋はジッポで火をつけて、ゆっくりと燃焼させる。

煙草は低温でゆっくりと吸った方が美味いものだ。

彼女もそれを理解しているため、優しく煙を吸って吐き出す。

 

「ふぅー……2人は確かに男に慣れてるよねー。告白もバッサリと断れてたし」

「10人単位で告白されたら、嫌でも馴れるさ。この大学に入ったことで唯一後悔しているのはそこだね」

「拙者もでござるよ。クリスマス前なんぞ、1日に他学科の男子5人に呼び出されたでありんす」

「す、すっごいねー! 流石、西代ちゃんと安瀬ちゃん。見た目だけは100点満点の女達……」

「「見た目だけは余計だ」」

 

 男女比9:1の理系大学で美人な彼女達は常に女に飢えた男子生徒たちに狙われている。男子たちは、金髪が目立つ猫屋には手を出しづらく、逆に落ち着いた髪色の西代と安瀬を狙い目だと考えてしまい、2人の方に告白が集まってしまっていた。

 

 その結果、猫屋とは違い2人の振り方には遠慮がないので心を折られる者は急増していた。

 

「……そういえばさー、陣内の誕生日会どうするー?」

 

 猫屋はここにはいない男性の友人。

自分たちに告白も何もしてこない稀有な人材について考えようとする。

陣内梅治の誕生日は2月3日。翌週だった。

 

()()()()()()()()()()の準備は進んでるけどさー、それ以外はあんまり計画を練れてないよねー」

「うむ、そうであるな……!」

 

 陣内の誕生日会と聞いて安瀬の目が輝いた。

お祭り騒ぎのイベントは彼女の代名詞。おまけに陣内の誕生日会となると、安瀬のやる気は周りが見れば不安な気持ちを覚えるほどに燃え上がっていた。

 

「では、お酒も十分入ったところで! 『家主、大狂乱! 祝って騒いで感激号泣作戦』の作戦会議開始をここで宣言させてもらおう!!」

 

「「はいはい、やーやー」」

「……むぅ、なんだか今日はノリが悪いのぅ」

 

 お座なりな2人の反応を見て、安瀬は不満そうな声を漏らす。

 

「いや、作戦名が過剰すぎてね。あの陣内君が嬉しくて涙を流すなんて事態は想像できないよ」

「あははー、それねー」

 

 陣内梅治は割と涙もろい方だが、彼女らはそれを知らない。

彼には見栄っ張りな所があるので女性の前で泣くような真似は意地でもしない。

 

「そこを我らの努力で突破するのでござるよ」

「まぁ落涙させるぐらいの意気込みで、というくらいには頑張ってみようか」

「なるほどねー……。個別のプレゼントは何にするか決めたー?」

 

 猫屋は陣内へのプレゼントを決めかねていた。陣内は酒好きだが、誕生日プレゼントに消耗品を送ることは躊躇われた。どうせなら形に残る物を送って、大切にしてほしい。

 

「我はもう買っておるぞ! 馬上杯にしたでありんす!」

「それなーに?」

「司馬遼太郎の作品にも出てきたね。確か、馬に乗りながら酒を飲むための杯さ」

 

 西代が特殊な酒器についてつらつらと説明した。

 

「この間、陣内と一緒に骨董屋を廻ってな。その時に物欲しそうな眼をしておったからコッソリと購入したでやんすよ! ……ふふふっ、アレは楽しかった。あ奴は生意気にも唐津物(からつもの)を選ぶ審美眼がしっかりしておるからのう」

 

「「…………」」

 

 2人は幸せそうに思い出し笑いをする安瀬をジトっと見つめる。

安瀬の買い物に付き合える同世代男子などは陣内くらいしかいないだろう、と思っていた。古くさい陶器類の良し悪しなどは2人にはまったく分からなかった。

 

「安瀬のデートの話は置いておくとして、僕は男性物のベルトを買ってあるよ」

「で、デートなどではない!」

「ブランドはー?」

 

 安瀬の否定を無視して彼女たちは会話を続ける。

 

「ダンヒルさ。煙草の銘柄と同じでね。陣内君ならそういった関連付けを喜んでくれると思ってね」

「あー、なるほど。西代ちゃん、かしこーい……」

 

 猫屋は友人たちの粋なプレゼントに脱帽していた。

自分には到底思いつかないような物だ、と彼女は内心で思っていた。

 

「はぁーー……なにあげよー」

「猫屋の場合、生クリームを体に付けて『プレゼントは私』でいいんじゃないかい?」

「ぶふっ! め、名案であるな!」

「……なるほどー、ケーキとか焼いてみるのはありだねー。もちろん、具材には安瀬ちゃんと西代ちゃんを使ってね」

「「はははははははは!!」」

 

 2人の揶揄いを軽く受け流し、猫屋は一笑いを取って見せた。

彼女は下品に笑う安瀬と西代を呆れたような顔で見つめる。

 

「ははっ、でも、ケーキを焼くのはいいね。せっかくオーブンを買ったんだ。使わない手はない」

「おぉ、そうであるな! 陣内は甘党じゃし、市販の物より手作りの方が喜んでくれそうでありんす!」

「確かにありだねー。でも、うーーん、陣内の目の前でケーキを焼くのも微妙じゃなーい?」

 

 パン作りの為に買ったオーブンは当然、陣内家にある。祝う本人の前で、あなたの為にケーキを作っています、というのは確かに無粋に思える。

 

「陣内君なら、誕生日は夜まで帰ってこないよ」

「え、なんでー?」

「聞いてないかい? どうやら彼、誕生日に大型バイクを購入するらしい」

「え!?」

「そ、それは拙者も初見でござるよ……」

 

 西代から発せられた新事実に彼女たちは目を丸くして驚いた。

 

「この前、気分良く酔わしてたら勝手に話し出してね」

「……そう言えば陣内のヤツ、意外とマメに貯金をしておったな」

「だからって大型バイクねぇー……私も免許だけは持ってるけどさー」

「え、そうなのかい?」

「離婚した父さんがバイク好きでねー。小さい頃によく乗せてもらってた。私も好きで車の免許を取った時に一緒に取ったんだー」

「なるほどね」

「夜まで陣内が帰ってこないなら、パーティーの準備は何の問題もなくできそうであるな」

 

 3人の珍しくまともな作戦会議は順調に進んでいた。

普段お世話になっている友人に感謝を使えるために、彼女達も本気を出すようだ。

 

「って事はさー、サプライズプレゼントの搬入作業もバレることなくできそうだねー!!」

「ふふっ、そうだね。陣内君、死ぬほどビックリするだろうね!」

「それこそ、涙を流しながら喜ぶことになると思うでござるよ!!」

 

 突如として、邪悪な気配が酒飲みモンスターズを包み込む。

悪女達の考えるサプライズプレゼント。

 

 それはきっと、碌な物ではない事だけは確かだった。

 



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燃える誕生日会

 

 「……最高!!」

 

 俺は興奮が冷めず、大声を上げてヘルメットを脱いだ。

 

 今日は俺の誕生日であり、納車日。

 

 淳司の勤めるバイク店で大金を支払い、中古のKAWASAKI『Z1000』を購入した。

 

 淳司からは『女を後ろに載せてツーリングするようなバイクではないぞ?』

と言われたが、俺は彼女らをタンデム(二人乗り)する気は無いので別にかまわない。年間成約した車があるので、そっちを使えばいい。

 

 俺は今、バイク屋から自宅までバイクで帰ってきた所だ。

 

 半年以上の間もお金を溜めて買った俺の愛車は、教習所で乗っていたスーフォアとはまるで馬力が違った。加速が凄まじく、肌に感じる風が緊張感と高揚を与えてくれる。お金が無いのに無駄に高速道路に乗って帰ってきてしまったくらいだ。明日ももう一度これに乗ってどこかに出かけてみよう。

 

 自転車置き場に駐輪した俺の『Zちゃん』を優しくバイクカバーで覆い、チェーンで鍵をかける。中古で購入したので細かい傷はあるがすでに愛着が湧いている。

 

「さて、……問題はここからだな」

 

 俺は浮かれた意識を即座に切り替える。

何度も言うが、今日は俺の誕生日。それは彼女達、酒飲みモンスターズも知っている。自意識過剰でなければ、誕生日会を俺の部屋で開いてくれるはずだ。

 

 祝ってくれる事は凄く嬉しい。彼女らの心遣いには素直に感謝し、21歳となったおめでたい日を楽しく過ごしたい。

 

「…………」

 

 俺は自宅の目の前で、扉の向こうから感じる邪気を感じ取っていた。

アイツらがまともに俺の事を祝う? ちょっと信じることができない。西代の誕生日会では、部屋内で打ち上げ花火を点火したような奴らだ。

 

 俺は自身の直感に従う事にした。何があってもいいように、汚したくない新品のヘルメットと上着を扉の横に置いた。これで大丈夫だ。

 

 そして、意を決し、ゆっくりとドアを開いた。

 

「た、ただい────」

「「「陣内! 誕生日おめでとう~~~~~!!」」」

 

 ポン!! バシャバシャバシャッ!!

 

 俺のただいまは大きな祝いの声で掻き消され、同時に彼女たちは俺に向かって瓶に入った大量の液体をぶっかけてきた。

 

「ぶくぶくぶくぶく…………」

 

 顔面に放たれた液体の正体は、炭酸のよく効いたビールだった。激しく炭酸が弾けて目を開けていられない。だが、この事態は予想できていたので俺はたいして慌てずに彼女たちの好意を受け止め、飲んだ。ビールの濁流は10秒もしない内に止まるだろう。

 

 思ったよりは酷い事にならなくて安心した。

 

「ぷはっ! …………あ゛ー、美味かった」

 

 頭からビールまみれの俺は、ビールの感想を愚直に口にした。

銘柄は分からなかったが発泡酒ではないだろう。

 

「それはよかったでありんす!」

「ビールシャワーなんて受けた事ないと思ってね」

「アル中の陣内にー、浴びるほど酒を飲んでもらおうと思って用意したんだー!!」

 

 酒飲みモンスターズは悪戯が成功した子供の様に無邪気な笑顔を浮かべていた。

こいつらは本当に成人しているのだろうか。

 

「はいはい、ありがとうな。早速の大歓迎で、俺は嬉しいよ」

 

 本音半分、呆れ半分の感情でお礼を言う。ビールシャワーは思いのほか楽しかった。開始早々この有様だ。今日の誕生日会は最後まで退屈しないだろう。

 

「とりあえず、風呂に入りたいんだが。泡まみれで全身ビール臭い」

「もちろん、風呂には湯を張ってあるぜよ!」

 

 そう言うと、安瀬が俺の手を掴んで引っ張った。

 

「今日は、お主が主賓じゃからの! 猫屋が特別に背中を流してくれるでござるよ!」

「え!? 私そんなこと聞いてないんだけどーー!!」

「別にいいんじゃないかい? 減る物じゃないんだしさ」

 

 ハチャメチャな会話を聞きながら、俺は安瀬に引っ張られていった。

 

************************************************************

 

 風呂に入っている最中のことだが、猫屋がスクール水着を着て本気で背中を流そうとしてくれた。俺は大爆笑しながら、断っておいた。気遣いは嬉しいが方向性が間違っている。

 

 真っ赤な顔をしていたので、相当に恥ずかしかっただろうに、よくやってのけたなと思う。どうやら今日は俺を全身全霊で祝ってくれるつもりのようだ。

 

 暑い風呂でビールと汚れを流し落として、いつもの部屋に案内される。

 

 部屋の内装は風船やHappy Birthdayと書かれたパネル、折り紙で編まれたリボンなどで色鮮やかで綺麗に飾り付けられてあった。

 

「おぉ! すごいな! いつもと同じ部屋のはずだけど、内装が変わると違った風に見えるぜ」

「でしょーー!! 家主様の誕生日会だから結構頑張ったんだよー」

 

 スクール水着からまともな服装に着替えた猫屋が自信ありげに胸を張った。

この細かく綺麗な内装は彼女が用意した物なのだろう。

 

「飯も凄い豪華だな、ケーキまであるのか」

 

 テーブルに置かれた美味しそうなご飯を見ていると、ある瓶に目が行った。

彫の深い外国人の中年男性がラベルにプリントされたものだ。

 

「ド、ドンパパまで用意してくれたのか!」

 

 ドンパパ。フィリピン産のダークラムだ。バニラの香りが強く香る、度数40%の甘い酒。オーク樽でしっかりと熟成された後に、不純物ろ過するため雑味が一切感じない深い味わいが特徴らしい。

 

「俺、飲んだことなかったんだよ!」

「あれ、5000円もするからね」

「なんで洋酒の美味しいのはあんなに高いんだろうねー」

「関税でござろう」

 

 俺が甘い酒が好きだから、ダークラムをチョイスしてくれたのだろう。

なんて、気の利いた奴らだ。今日は夢の様な1日だな!!

 

 コツンッ

 

「?」

 

 酒に気を取られ、思わず足を踏み出した。

その時、何か固い物を足で小突いた。

 

「なん───」

「酒の事よりさー!」

 

 猫屋が興奮した様子で俺に話しかけてきた。蹴とばしてしまった物は気になるが彼女の話を先に聞こう。

 

「バイクはちゃんと納車できたのー!?」

 

 彼女は俺のバイクに興味を示しているようだ。

猫屋は大型二輪の免許を持っている。なので、次に発せられる言葉は容易に想像できた。俺は会話を先回りして返答する事にした。

 

「保険に入って、ガソリン代を自分で払うなら別に乗ってもいいぞ」

「え、マジでー!! 陣内、やっさしいーー!!」

 

 キラキラと目を輝かせ、喜ぶ彼女。

俺が苦労してお金を貯めたのだからお前は乗るなよ、なんて心の狭い事は言わない。今日のように、彼女には普段から世話になっている。

『Zちゃん』には悪いが、中古なので多少転んでも文句は言うまい。

 

「ただ、事故だけは起こすなよ」

「それはお互い様だよねー」

 

 それもそうだ。バイクの事故は洒落にならない。

気を付けておこう。

 

************************************************************

 

 誕生会は進んで行き、豪華な酒とご飯を楽しんだ後の話。

 

 俺は彼女達から誕生日プレゼントを貰い、気分が最高潮に舞い上がっていた。

 

 安瀬は以前に高くて購入を諦めた馬上杯、西代はカッコいい男性物のベルト、猫屋はコカボムグラスやアブサンスプーンなどといった酒に使う小道具類をプレゼントしてくれた。

 

 いやー、今日は本当に素晴らしい1日だな! 安瀬がとんでもない企画を練っていると身構えていたが、ここまでで驚いた催しはビールシャワーくらいだ。アレくらいのサプライズなら嬉しい限り。酒は高いものが多くて、飯も美味しかった。それに、このプレゼントのセンスの良さだ。どれも俺好みで、彼女たちが真剣に選んでくれたと思うとちょっと感激した。おしゃれな品で使うのがとても楽しみだ。

 

「こんな良い物ばっかり、ありがとうな!」

 

 俺は満面の笑みを浮かべてお礼を述べた。

 

「お礼なんて別にいいでござるよ、水臭い」

「ふふっ、喜んでもらえて嬉しいくせに」

「安瀬ちゃんの見栄っ張りー」

「う、うるさいでありんす!!」

 

 俺の素直な反応に三者三様の反応をみせる彼女達。

今日は珍しく、彼女たちが見た目通りの天使に見えた。

 

「汚したくないし、今は押し入れにしまっておくな!」

 

 俺はそう言って席を立ち、押し入れがある寝室へと向かおうとした。

 

「「「あ、ちょ───」」」

 

 上機嫌にガラッと引き戸を開く。

 

 

 そこには、山のように積まれた段ボールが置いてあった。

 

 

「……? え、なんだこれ?」

 

 俺は呆気に取られていた。普段なら、寝室には彼女たちの寝床が広がっているはずだったが、布団は邪魔だと言わんばかりに綺麗に畳まれ隅に置かれている。

 

「あーあ、バレちゃったー……」

「せっかくサプライズとして用意してあったのにね」

「まぁ、仕方ないでござる。寝室を封鎖しておかなかった我らが悪い。少々早いが更なる贈り物を送るとするかのぅ」

 

 俺がその段ボール群を見つけたことに彼女たちは露骨にがっかりと落ち込んで見せた。

 

 更なる送り物?

 

「おいおい、何だよサプライズって。こんないい物を用意してくれたのに、まだ俺に何かくれるつもりだったのか?」

 

 目の前の段ボールがサプライズプレゼントというのなら、その中身は凄い量になるとおもうのだが。

 

 そんな事を考えていると、安瀬が俺の隣にまで来てニヤリと笑って見せた。

 

 嫌な予感がする。

彼女がそういった笑みを浮かべるのは決まって頭の可笑しい事を宣言するときだ。

 

 

「サプライズプレゼントとは、我ら3人の事でありんす」

 

 

「…………は?」

 

 安瀬の唐突な『プレゼントは私達』といった発言。

急に猥談とはどういう事だ。意味が分からない。

 

「今日から、僕たちは()()()()()ことにしたんだ」

「………………はぁ!?」

「もう賃貸も解約してきたよーー!! という訳でこれからもよろしくねー!」

「はぁあああああああ!!!???」

 

 俺の絶叫が室内に木霊した。

ついに、ついに、ついに、こいつら、やりやがった。

 

 踏み越えてはいけない一線をいとも簡単にぶち破った。

 

「あぁ、もちろん家賃はしっかりと払うぜよ」

「電気代もガス代も4分割さ。これでより効率的に生活できる」

「生活費が減ってー、お酒とか旅行にお金を使えるようになるねー!!」

 

 好き勝手に共同生活のメリットを語る酒飲みモンスターズ。

デメリットの事を彼女たちはまるで気にしていない様子だ。

そのデメリットとは当然、俺の事だ。

 

「お、お、お、俺、男なんだぞ??」 

「「「知ってる」」」

 

 知っていたようだ。

本当に()()()()()()()()()()を始めるつもりのようだ。

 

 確かに、俺は酔えば性欲が無くなる体質だ。

しかし、常に酒を入れているわけではない。プライベートの時間が完全に無くなれば俺の理性など一瞬ではじけ飛ぶ自信がある。それだけの魅力が目の前の綺麗な華達には存在していた。

 

「い、今すぐ賃貸を再契約してきてくれ!!」

 

 俺は必死になって彼女たちに懇願した。相談なしに勝手に移住を決め、それをサプライズプレゼントなどと宣った事を怒る気にすらなれない。それくらい危機的状況に追い込まれた。

 

「もう家電を売り払ったから、ここ以外に僕たちには行くところはないよ?」

 

 ピシッと音を立てて意識にひびが入った。

 

「陣内が私たちの事をどーしても追い出したいって言うのなら、仕方ないから出ていくけどー」

 

 パキンと今度は心が折れた。

 

「そうなった場合、我らは1週間ぐらいは宿無しであるな!」

 

 バキバキッ! と音を立てて、俺の何かが崩れ落ちた。

 

 こいつ等は不退転の覚悟を決めているようだった。自らの身を盾にしてまで、俺に同棲生活を強要している。もはやそれは、脅しと何ら変わりない。

 

「………………」

 

 こうなれば、俺は彼女たちの提案を受け入れざるを得ない。女を泊まる場所も無く放り出すほど俺は鬼畜ではないし、彼女たちには深い情と思い入れもある。

 

 そもそも、このサプライズはかなり前から入念に準備されていたように思える。衣類掛けの運搬は事前に行われていたし、段ボール群は引っ越し業者に依頼して運んでもらったはずだ。

 

 安瀬が部室棟に空き部屋ができた事を知っていたのはこの計画の為だったのだろう。本来、3人分の荷物はこの部屋には多すぎる。普段は使わないが捨てたくない物もあるだろう。しかし、部室という名の物置を手に入れた事によってその問題も解消された。

 

 あの事件はトリガーになっていたのだ。

 

 そこまで準備したのだから、今この場は、俺が適当な言い訳で断ることができないものに仕立て上げられているはずだ。

 

「で、家主どの? 是非、我らからのプレゼントを素直に受け取って欲しいのでありんすが?」

 

 ポスンと安瀬が俺に身体を預けた。

上目づかいに俺を見て、返答を待っている。

 

 どうせ断れないのだから早く認めろ、と言われているようだった。

 

「……せめて寝室は分ける様にしような」

 

 断るわけにもいかないので、俺は仕方なく彼女達の同棲を許可した。

 

************************************************************

 

 酒飲みモンスターズの提案を受け入れた陣内は寝室の段ボールを避けて、押し入れに彼女達から貰ったプレゼントを収納している。

 

 その手付きはフラフラとして、頼りない。

明日から飲まなければいけない酒の絶対量を計算していたのだ。

 

「やったねーー!! これで生活費がグンっと安くなるよーー!!」

「今まで何であんな賃貸にお金を払っているのか疑問だったよね」

「これからは大学の近くで遅刻を気にせず毎日酒盛りぜよ!!」

 

 その隣室で計画の成功を喜び合う彼女達。 

 

「よし! 計画の成功を祝ってシャンパンでも開けるぜよ!」

「いいねーー!! ()()()()のやつだよね!」

「また凝った物を用意するね、安瀬は」

 

 安瀬はソファの下に隠しておいた、花火用ボトルキャップを付けた特性シャンパンを取り出す。コルクの先端を花火が王冠のように囲んでいる。花火を取り付けるのに邪魔であった、留め具の針金は既に取っ払ってあった。

 

「猫屋、火を付けて欲しいでやんすよ」

「はいはーい!」

 

 猫屋は銀のジッポに火を灯し、慣れた手付きで全ての導火線に火をつける。

その時、西代はある違和感に気づく。

 

「あれ? 花火って先端のコルクに着けるんじゃなくて、その下の瓶の部分につけるんじゃないのかい?」

「え?」

 

 安瀬は西代の指摘を受けて、シャンパンを傾けてチラリと飲み口を覗き見る。

それに合わせて、コプリと内容物が流動する。

 

 

 その軽い揺れが、これから起きる大惨事の引き金になった。

 

 

 シャンパンは針金の留め具を外すと、何もしなくても中の圧力でコルクがはじけ飛ぶことがあるぐらい不安定な物だ。おまけに、隠されていたシャンパンには陣内の足先が当たっていて、すでに十分な衝撃が加わっている。

 

 ジュッ! と全ての花火に火がつくと同時に、ポンっ!! と大きな音を立ててコルクは寝室に向って発射された。

 

「「「っ……!!」」」

 

 彼女達は突然の事に驚いて腰を抜かす。

シュワシュワと瓶の中から中身が溢れ出した。

 

 本体から離脱し、花火を搭載したコルクは、段ボールの山を越え、さらに陣内梅治の頭を超えて、押し入れの奥へと着地した。

 

「うお! な、なんだ……!?」

 

 シューーーー!! っと勢いよく綺麗な閃光を上げる花火。薄暗い押し入れ内が急に明るく照らされて陣内は声を上げ驚いた。

 

 陣内家の押し入れには様々な雑貨が存在している。おでんの入った鍋を寝かせておく為の新聞紙といった紙類も仕舞ってある。あまり使わないので紙類は押し入れの奥の方に置いてあった。

 

 運悪く、新聞紙に火花が引火する。

 

「え、ちょ、お、まじか!!」

 

 火がついてからは早かった。束になった新聞紙が丸ごと火種となってしまい、押し入れ内は小さなボヤ騒ぎへと発展していく。

 

「おい!! 花火が引火したッ!! 水! 水を持って来てくれええッッ!!!!」

 

 大慌てで陣内は、零れたシャンパンの片づけをしていた女性陣に声をかける。

陣内の焦った声に、3人は目を丸くして驚いた。

 

「わ、わかった!!」

 

 その声にとっさに反応したのは西代だった。陣内の簡潔で分かりやすい指示を受けて、台所に急いで水を取りに行く。

 

「わ、我も!!」

「あ、あわわわ…………!!」

 

 少し遅れて安瀬が駆け出し、猫屋は何もできず間抜けな声をあげるばかり。

陣内はそれを見て、すぐには水が来ない事を確信する。

 

「ええと……! な、なにか、消火できる物……!」

 

 彼は左右を見渡して、使える物が無いかを探し始めた。

その時、火が広がる押し入れの一角に無数に存在する、()()()()()を発見する。

 

「ひゅ────ッッッッッッ!!!???」

 

 陣内の口から、恐怖のあまりおかしな呼吸が漏れた。

 

 酒だ。陣内家にストックしてある大量のアルコール類。その中にはスピリタスやアブサンといった度数が50%を超える酒が乱立している。

 

 火の手は酒瓶に群れにあと数センチといった所まで近づいていた。

 

 それを見た陣内は段ボールを蹴とばしながら、一心不乱に寝室を飛び出した。

 

「猫屋ッッ!!!」

「え、ちょ、陣内!?」

 

 そのままスピードを落とさずに猫屋を強引に担ぎ上げて、台所と広間を分ける引き戸を蹴り飛ばす。なりふり構わず、とにかく一目散に逃げる事しか考えてなかった。

 

「安瀬! 西代!! やばい!! アルコールに引火する!! 外に逃げろッ!!!」

「「うぇえええ!!??」」

 

 陣内の信じられない言葉を聞いた2人は、背筋を震わせ彼と同じように玄関に向けて駆けた。

 

 4人は、人目も気にせずに素足のまま外へと逃げ出した。

 

次の瞬間────

 

 ボォォォオォォォォオオオオオオオオオンンン!!!!

 

 彼らの先ほどまで居た部屋から耳を劈くような炸裂音が響き渡った。

 

************************************************************

 

 ウオーーン、と俺の近くで大きな音を上げるサイレン。

赤いランプがチカチカと眩しく、目の奥から鋭い痛みが走る。

 

 メラメラと燃え上がる、俺が昨日まで寝泊まりしていた部屋の一室。

 

「「「「…………………………」」」」

 

 俺達4人は何も言わず、安全な外で放水作業を見守っていた。

 

 この分だと隣の部屋までは焼ける事はないだろうな、とか、この建物って確か火災保険にしっかり入ってたよな、とか、自身の罪を軽減するような言い訳ばかり考えている。

 

 その時、黙っていた安瀬が口を開いた。

 

「こ、これって、わ、私のせい…………だよね?」

 

 いつもの口調は強い衝撃でどこか遠くに行ったようだ。目の前で起きている事態に正気を蹴落とされているのだろう。動揺のあまり顔が笑ってるように引きつっている。目の端には涙さえ浮かんでいた。

 

 俺も涙を流しながら、彼女の方を振り向く。泣き顔など見せたくはないが、勝手にあふれてくるのだからしょうがない。

 

「お前のせいじゃないよ……それに、生きてるだけで十分だ……」

 

 今回の事件は誰のせいでもないと本気で思った。

運が悪かった。……………………だが、明日からどうしよう。

 

 

 



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行きついた所

 

 チュンチュンチュン

 

 朝だ。眩しい朝日を受けて意識がぼんやりと浮上してくる。

完全に頭が覚醒する前に、俺は抱いていた酒瓶を取り出して素早く煽った。

 

「…………くぅ」

 

 俺のすぐ右隣で天使の寝息が聞こえてくる。安瀬のものだ。甚平を着たまま寝たせいか、開けた胸元からピンク色の下着がチラリと見えている。彼女の胸は白桃のように豊満であった。

 

ゴクゴクゴクッ!!

 

 左隣には猫屋がいる。就寝用の短パンを履いており、すらりと伸びた細く白い脚が煽情的だ。布団に散らばるサラサラの髪が、金糸のように光り輝いている。

 

ゴクゴクゴクゴクゴクゴクッッ!!

 

 俺に抱き着くようにして眠っているのが西代だ。彼女は()()()が寒いのか、朝起きたら必ず俺に抱き着くように寝ている。突きたての餅のように柔らかい各部の感触が、俺の理性をドロドロに溶かそうとする。

 

ゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクッッッ!!

 

 そして部室内全体に漂う、強い女の香り。シナモンとバニラを抽出し水飴に溶かしこんで部屋内で煮詰めているかのように甘い。そのくせ、ベビーパウダーのようにいつまでも嗅いでいたくなる。本能を撃ち抜く危険な香り。

 

 俺は酒瓶を置き、煙草を咥えて火をつける。吸うのはいつもの甘い煙草ではない。ニコチンとタールが強めの青いアメスピだ。 銘柄をオーガニックリーフ・ターコイズという。この部屋では甘い煙などとても吸っていられない。

 

「すぅぅぅぅううううううう…………はぁぁぁーーーーーーーー…………!!」

 

 部室内は禁煙だが、そんな事を守る余裕はない。理性、危機一髪。

この4日間は毎朝、この性欲を散らす作業に没頭している。

ここまでして、ようやく理性の波が穏やかになった。

 

 俺の部屋が火事になって、5日が経過した。

 

 火災は幸いな事に俺の部屋だけで収まり、怪我人も出る事なく無事に終わった。鎮火を見届けた後、賃貸の管理人である松姉さんに偶然による事故であった事を説明し、必死に頭を下げた。安瀬も一緒に謝った。

 

 松姉さんは火事に関しては何も責めず、ただ俺たちの無事を喜んでくれた。本当に叔母さんには頭が上がらない。火災保険にはしっかりと入っているので、部屋はほぼ無料で直るらしい。金銭的な問題はないようだ。

 

 問題は寝床だった。俺の賃貸は燃え、彼女たちは賃貸を解約した。となれば、俺達に使える寝床は大学の部室しかなかった。運動部が使うシャワー室も近くにあるので風呂にも困らない。

 

 だが、部室は4人で生活するには狭すぎる。物置に使っていたため邪魔な物は多いし、そもそも広くない。4人で寝るにはギリギリのスペースだ。

 

「くぅ……」

「すぅー……」

「すぅ……」

 

 眼前の、無防備に寝ている綺麗な友人達。

 

 ぶっちゃけて言うと、3回くらいは本気で手が出そうになった。

今の状況は本気でまずい。香りと感触と光景が男の俺には殺人的だ。

 

 早急に新しい住処を見つける必要があるが、松姉さんの管理している賃貸を再契約する気はない。松姉さんは気にしなくていいといったが、正直火事の負い目があって戻る気になれなかった。不動産に行くのは週末になる。家が焼けようが大学にはいかなければならないし、バイトも休めないから直ぐには家探しはできない。恐らくこの部室に最低でも1月は寝泊まりする必要があるだろう。

 

 俺は憂鬱な気分で枕元に置いてある灰皿に煙草を押し付ける。

そろそろ彼女達を起こさなければいけない。大学に行く時間だ。

 

「おい、起きろお前ら」

「んーー、後5分……」

「今日は朝から実習だろ。早く顔洗って目を覚ませよ」

 

 それだけ言って、俺は西代を引きはがして立ち上がった。

 

「俺は先に行ってるからな」

 

 着替えを鞄に詰めて部室棟の男性更衣室に向かうため部屋から出た。

酔っぱらったせいか、朝からフラフラの千鳥足だ。

 

 この様では、朝の実習はまともにこなせないだろうなぁ……

 

************************************************************

 

 バイト終わりの夜。

陣内梅治と女子3人は部室内でご飯を食べていた。

 

「今日も鍋でござるか。これで4日連続じゃぞ……」

「毎日味を変えてるけど飽きてきたね」

「仕方ないだろ? カセットコンロは1つしかない」

「うぅーー……広い部屋が恋しいよー……」

 

 狭い部屋の狭いテーブルで彼らは鍋をつつく。

部室内には炊飯器と冷蔵庫が置かれている。酒飲みモンスターズが自身の家電を売った資金で購入した物だ。安瀬がバイトしているリサイクルショップで買ったので値段は安かったようだ。

 

「確かに、この狭さだけは不愉快だね」

 

 西代はそう言うと、食事中にも関わらず陣内に身体を預けた。

まるで座椅子にでも座るように気がねない。

 

「おい、もたれ掛かってくるなよ」

「この部屋で一番大きい荷物は陣内君だろう? 狭い思いをさせてる事を反省して、座椅子の代わりぐらい快く努めてくれ」

「暴論だぜ、それ……」

 

 陣内は彼女の物言いと行動をたいして咎めずに飯と酒を嚥下する。

この生活での彼の最優先行動は酒を飲むことだ。酔いが抜けた瞬間、傍にいる無防備な女性陣にあてられて、彼の性的欲求が跳ね馬のように暴れ狂ってしまうからだ。

 

「ねーー、そんなに飲んで肝臓は大丈夫なわけー?」

「平気だな。保命酒(ほうめいしゅ)も飲むようにしているし」

「保命酒? 養命酒じゃなくてかい?」

「拙者の故郷である広島の薬味酒の事じゃ。火災の詫びに取り寄せて陣内にくれてやったでござるよ」

 

 広島県福山市にある観光地『鞆の浦』。保命酒はそこに店を構える老舗の酒屋が出している物だ。16種類もの生薬を用いて作られる酒の味わいはケミカルな香りと重厚な甘さがマッチしてとても美味い。度数は40%と高い。なので陣内はお湯で割って飲んでいる。湯気と共に立ち昇る薬膳の香りが部屋に充満していた。

 

「体にいい物ではあるが所詮アルコールじゃ。飲みすぎは体に毒であるから気をつけるんじゃぞ」

「そうだよー。最近は朝と夜の同時に深酒しているじゃーん」

「どうしたお前ら? 珍しく人の心配なんかして。いつもならもっと飲めって煽るだろ?」

 

 陣内は怪訝そうな顔をして安瀬と猫屋を見る。

彼の言う通り、2人は陣内の飲みっぷりの良い姿が割と好きだった。

 

「い、いやぁー……ねー?」

「わ、我らだって心配くらいするでありんす」

「へー、そりゃあどうも」

 

 2人は本当に陣内に申し訳ないと感じていた。彼女らは朝起きた時に陣内が酒をイッキ飲みしている姿を、まだ眠っているふりをして秘かに見ている。その行為の意味はもちろん分かっている。

 

 陣内は自分たちを見て性的に興奮しているのだと。

 

 自覚はある程度あったが実際に目の前でその事実を突きつけられると、まだ清い乙女である二人は恥ずかしさと申し訳なさが混ざった気持ちで一杯であった。

また、朝に陣内の()()()()()()()()()()()()()事も彼女らは確認している。

 

((…………なんか、本当に、ごめん))

 

 2人は陣内の恥部を見てしまった事に心の底から謝った。

 

「陣内君の肝臓なら、この飲酒ペースでも一月くらいは平気だろう?」

「……まぁな」

 

 西代は他の女2人と違って、その辺りの機微は全く気にしない。

野球拳や正月の抱擁と同衾。それのせいで西代の男女間の倫理はバグっていた。

 

************************************************************

 

 深夜3時。俺の秘密のミッションはスタートした。

部室での生活が始まって早4日。酒で誤魔化しているとはいえ、朝起きた時の興奮は日を費やすごとに増すばかり。俺のリビドーが爆発を起こしている。

肝臓の方は平気だが、下の方が限界だ。

 

 この部屋を何とか抜け出してトイレに行く。

それが今回の最重要目標だ。

 

 男なんて出すものを()()出せばスッキリする。賢者タイムとはよく言ったものだ。今日は赤玉がでるまでやる。行く所まで行くつもりだ。

 

 スマホを握りしめて音を立てない様に起き上がろうとする。

酒は既に抜けているのでふらつきはしない。しかし、体に不自然な重さを感じる。

 

「すぅ……」

 

 西代だ。また彼女は木にしがみ付いたコアラのようにして俺にくっついている。

 

 俺は西代を起こさない様に、湯たんぽ入りの抱き枕を取り出した。予めそれを背に敷いて眠っていたのだ。抱き枕と俺の体をゆっくりと入れ替える。

 

 俺がコソコソしている理由は純粋にバレたくないからだ。スマホを持って長時間トイレから帰ってこない男。……何をしているか察しが付くだろう。

 

「……よし」

 

 何とか、入れ替えは成功した。西代は気持ちよさそうに抱き枕にしがみ付いて眠っている。彼女さえ突破できればもう危惧するものはない。

 

(正直、もう本当にヤバいから早く行こう……)

 

 俺は両手を床についてのっそりと起き上がろうとする。

その手を不意につかむ者がいた。

 

「っ!?」

「うにゃー……」

 

 猫屋だ。白魚の様な細い指が俺の手に絡みついてくる。

 

 心臓が跳ね上がった。俺の性欲は本当に限界ギリギリ。柔らかい手の感触だけでご飯3杯はいけてしまう。

 

「ふぅーーー……!! ふぅーーー…………!!!」

 

 深呼吸しながら心を鎮めようとする。

逆効果だった。いい匂いしかしない。火に油を注いでしまった。

こうなったら仕方ない。

 

「……ぅッ!!」

 

 俺は舌を噛んだ。赤い血が口からツーっと垂れたが、そのおかげで欲望と理性の分水嶺でのせめぎ合いを何とか制した。

 

 起こさない様にゆっくりと彼女の手をほどく。

ふぅ、……とんだアクシデントだったぜ。

 

 だが今度こそ、部屋を抜けて天国の扉(ヘブンズ・ドア)に向かおう。

安瀬を跨げばすぐそこだ。人を跨ぐのはよくない事だが、後で跨ぎなおせば問題ない。俺はそのように両親に教わった。

 

 音を立てない様に、抜き足差し脚で足を大きくだす。

 

「曲者であるッ……!!!」

 

 瞬間、安瀬が寝言と共に左手を大きく振り上げた。

ガキンッ!! と強烈な金属音が体の奥底から響いた。

 

「ッッッ!!!???」

 

 目の奥で光がはじけ飛んだ。あれは何かな? 彗星? いや違うな、俺の金星がビックバンを起こしたんだー…………いってぇぇぇええええええええ!!!

 

「ひゅっ……ひゅっ……」

 

 過呼吸になるほどの痛みを我慢しながら俺は転がるように、部室から逃げだした。

 

************************************************************

 

「うぐおおおぉぉぉおお……」

 

何とか外まで逃げだした俺は股間を抑え必死に痛みを散らそうとしていた。

 

「こ、こ、殺す気かよ、あのド阿呆」

「本当にね? 大丈夫かい?」

「お、女にこの痛みはわか、ら……ん?」

 

 背後を振り向くと、そこには西代が立っていた。

 

「お、おま、なんで……」

「安瀬の寝言で目が覚めてね」

 

 納得の理由だった。

あの大問題児にかかれば、俺の計画など寝ていても破綻させられるようだ。

 

「しかし、陣内君」

 

 西代が呆れたような顔をして、俺を不機嫌そうに見てきた。

最悪だ。俺の行いがばれてしまった。軽蔑される。もうお嫁にいけない。

 

「君も薄情なヤツだね……」

「え、なに? 薄情?」

 

 薄情とはいったいどういう意味だ?

 

「こんな夜更けに一人で抜け出して、何を食べに行くんだい? 僕も鍋には飽きていたんだ。誘ってくれてもいいだろう?」

「…………」

 

 よかった。どうやら彼女は俺が行おうとした秘め事を勘違いしているようだ。

今は話を合わせよう。

 

「あ、あぁ、バイクでラーメンでも食べに行こうと思ってな」

「ふふっ、いいね。安瀬たちには内緒で2人で食べにいこう」

「……そうだな」

 

 俺は深夜の隣町までラーメンを食べに向かう事になった。

まぁ正直、股間の痛みで致す気も失せていた。バイクは部室棟前の駐車場に止めてある。ヘルメットは2つともバイクに引っ付けたままだ。

 

 2人で深夜のラーツウに洒落込むとしよう。

 

************************************************************

 

「バイクって結構楽しいんだね。風を勢いよく突っ切って進む感じがスリリングだったよ」

「お、分かってんな西代。お前も免許取ったらどうだ?」

「今は金欠だから無理だね」

「……それもそうだな」

 

 俺たちは隣町の飲み屋街にある深夜営業しているラーメン屋の目の前までやって来ていた。俺の『Zちゃん』の爆速だと20分程度だった。

 

 暖簾をくぐって店員さんが案内してくれた席に座る。

俺は豚骨醤油の大盛り、西代は醤油のチャーシューを追加にトッピングした物を注文した。

 

「しかし、まぁ、災難だったね」

 

 西代が煙草に火を付けながら、俺を哀れんでくる。

 

「それは今日の安瀬の一撃の事か? それとも火事の方か?」

「前者の方さ。……やっぱり凄く痛いのかい?」

「まだ少し鈍痛が響く。こう……あれだな、……やっぱり、女には説明が難しいな」

 

 多少の恥ずかしさもあって、金的の痛みを女性に説明するのは俺には困難であった。

 

「僕には存在しない器官だからね。……出産を男に語るようなものか」

「それ、お前、経験ないだろ」

「未来の話さ。僕もいつか……いつか経験するのかな?」

「いや、俺に聞かれてもだな」

 

 彼女は何も考えていなさそうな顔をして問いかけてきた。

西代の未来を俺に聞かれても困る。

 

「だって、妊娠中は酒も煙草も御法度だろう? 十月十日も僕は我慢できる気がしない」

「……確かに、俺もそう思う。もし、女に生まれていたのなら子を持つことは諦めてた」

「ふふっ、君もそうおもうかい? でも僕は断言まではしないよ。それはやっぱり男性の目線の軽い考え方さ。女は生まなきゃいけないっていう義務感も多少はあるんだよ? 最近は少子化だしね」

「…………難しい話だ。酒が飲みたい」

「僕もだよ」

 

 遠い未来の話。責任感というものがごっそりと欠如している会話内容は俺達がまだまだ精神的に成熟していない証だろう。

 

「なぁこれって真面目な話なのか? それとも猥談か?」

「間を取って、アダルトな話としよう」

「ハハ、なんだそれ?」

 

 適当な会話を続けてラーメンが来るまでの暇をつぶす。

 

 あんな大きな出来事があったのに結局、いつもとあんまり変わらない。

親友と過ごす当たり前の日常。

 

「…………僕さ」

「うん?」

 

 西代が煙草の火をジッと見つめて少し声音を変えて呟く。

 

「火事って、もっと大事になるかと思ってたよ」

 

 彼女は5日前の大惨事について話したがっているようだ。

たしかに、あの事件はインパクトがあった。

 

「あぁ、俺もだ。警察とかも介入してきて事情聴取されたり、何百万って金を請求されたりしてな」

「だよね。…………実際は2日くらいで何事もない日常に戻れたよね」

「今の部室暮らしが日常と言えるか?」

 

 あんな桃色空間が日常となってしまえば、俺は煩悩から解脱するために頭を丸める。

 

「少し不便なルームシェアさ」

「少しか? あの部屋はとにかく狭すぎる。それさえなかったら俺だって楽しめる気がするけど……」

「ふふっ、確かに狭いね。……でも、僕は凄く楽しいよ? 小学生の夏休みにでも戻った気分だ」

 

 西代は煙草を美味しそうに吸いながら、店内の大窓から見える夜の街を眺めていた。その顔は何故か、どこまでも幸せそうだった。安心している表情と言い換えてもいい。

 

『僕には友達がいない』

 

「………………」

 

 その表情を見て、脳裏に過去の言葉が思い浮かんだ。一度だけ聞いた彼女の昔話。それから察するに、西代の学生生活は明るい物ではなかったのだろう。2浪したぐらいだ。高校生の時に何かあったのだと勝手に憶測してしまう。

 

 彼女の安心した顔が、何故かとても誇らしかった。

その程度で俺の受けた恩を返せる訳ではないのに。

 

「俺も……」

 

「ん?」

「俺も毎日楽しいよ。お前らと居るといつも腹の底から笑ってる」

 

 素直に胸の内を吐露した。

彼女に深く同調したい。今はそんな気分だ。

 

「そうかい?」

「あぁ……だから」

 

 俺は改めて本気で決意する。こんなラーメン屋なんかで決める覚悟ではないが、彼女の笑顔を見て心は完全に固まった。すぐに揺れ動く自分の心に活が入ったのだ。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 

 西代の楽しい青春はきっと今なんだ。

漠然とそんな言葉が頭に浮かんだ。なら、性欲なんぞは肝臓をぶっ壊してでも抑え込もう。

 

「卒業まで末永くよろしくな!」

 

 豪快に笑って、心の中で誓う。

 

「というか卒業しても案外一緒にいるかもな、俺達」

「…………うん、そうだね」

 

 何かを確かめ合うように俺たちは頷いた。

その後、すぐにラーメンが来た。美味そうな匂いが俺の食欲を刺激する。

 

 やはり、俺に性欲なんて必要ない。西代とくだらない話をしながら食べる夜食は最高に美味しいのだから。

 



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猫屋李花の受難①

 

 固いアスファルトの地面を嚙みしめる分厚いタイヤ。グングンとスピードを上げて風を切り裂く緑色と黒の機体。狂気的な速さからくる緊張感と全能感。マフラーから響くガスの大きな排出音が気分を高揚させていく。

 

 俺が運転していたのなら。

 

「猫屋ッ!! 早すぎる!! スピード出しすぎだ!!」

 

 ヘルメット内のインカムを通して俺は猫屋に声をかけた。

 

「えー? これくらい普通だよー?」

 

 追い抜き車線でズバズバと車を追い抜いていく、俺たち。

猫屋が邪魔でスピードメーターが見えないが150キロは出ているのではないだろうか。高速道路だが普通にスピード違反だ。

 

「アハハハハ! 風が気持ちいーね! 陣内!!」

「お前はそうだろうな!!」

 

 後ろに座る俺に存在するのは恐怖だけだ。先ほど横にいた車があっと言う間にはるか後方に消えていく。ジェットコースターに安全バー無しで乗っているような気分だ。

 

「いいねー、Zちゃん。私、かなり気に入ったよー!」

 

 そりゃあ、これだけの速度でバイクを操れれば楽しいだろう。

 

 猫屋のドラテクはそのスポーツセンス故にか一級品だ。部室棟前の駐車場で軽く試運転をさせてみたら、乗車してすぐさまクイックターンを見せつけ、そのまま急発進と同時にウイリー走行。速度を上げながら駐車場のギリギリまで走り抜け、急制動からのジャックナイフ。

 

 その光景を見た俺はあんぐりと口を開けながら、驚きのあまり固まってしまった。

彼女の軽い体重で200kgを超える俺の愛車を無茶苦茶に振り回す。白昼夢でも見た気分だった。

 

「なぁ、そんな急がなくてもいいだろ?」

 

 ()()()()()()()()()()まで2時間くらいだ。時間に追われているわけでもない。

 

「えー……だって速度出した方が面白いじゃーん」

「後ろに酔っ払いが乗ってんだよ」

「それ、飲んだ方が悪いでしょー……」

 

 俺だって、飲みたくて飲んでいる訳ではない。

毎朝の恒例行事になってしまった朝の禊。酒は大好きだが本来ならあのような暴飲は俺の信条には反する行いだ。

 

 だが、彼女にそのような言い訳はできない。

 

「……まぁ、確かに俺が悪い」

「でしょー? そもそも陣内が着いてきたいっていうからー乗せてあげてるわけでー」

「乗せてあげてるって、……これ、俺のバイクなんだぞ」

「でも、高速道路をタンデムできるのは私だけでーす!」

 

 高速道路の2人乗りには運転手の二輪免許取得から3年以上の経過が必要だ。俺は免許を取得してからまだ1年と少し。猫屋は高校時代には普通二輪免許を持っていたようで条件をクリアしている。

 

「荷物君はー、大人しく私の話し相手になっててねー」

「誰が荷物だ」

「アハハ! さーて、まだまだかっ飛ばして行くよーーー!!」

「え、ちょ、おぉぉぉぉおおおお!?」

 

 猫屋はアクセルを捻ってさらに速度を上げた。

俺は振り落とされない様に必死で後部座席の取っ手を掴んだ。目的地につくまでこの風圧に耐えるしかないようだ。

 

************************************************************

 

「あ゛ー、疲れた」

「アハハハー。ごめんごめん。なんかテンション上がっちゃってー」

「はぁ、まぁいいよ別に。それより、ここはどこだ?」

 

 到着したのは山中にある大きな建物。

何かの商業施設に思える。途中にはのぼり旗が何本も道路の脇道に突き刺さっていた。猫屋が速度を出しすぎるので何が書かれているかは見えなかったが。

 

 猫屋は燃えてしまった服の代わりを自分の実家に取りにいく為に、俺のバイクを借りた。西代と安瀬の服はたまたま部室に置いてあり無事だったが、猫屋は彼女達より前に俺の部屋に服を搬入していた。

 

 今回の目的地とは猫屋の実家だ。無論俺は彼女の家にお邪魔する気は無い。外で待機して彼女が服を持ってくるのを待つだけだ。

 

 だがしかし、ここが彼女の実家には見えなかった。

 

伊香保(いかほ)温泉だよー。知らない?」

「……聞いた事ないな」

「まぁー、草津の方が圧倒的に有名だもんねー」

「何で群馬の温泉に? え、まさか、お前の実家って旅館か??」

「そんなわけないじゃん。ほらー、最近シャワーばっかりで湯船に浸かれてないからさー。温泉に入りたくなっちゃって」

「あー、なるほど」

 

 部室暮らしを始めてからの俺たちの湯浴み場は運動部用の簡素なシャワー室だ。

肩まで湯に浸かって学業とバイトで溜まった疲れを猫屋は癒したかったのだろう。

俺も足を伸ばして熱い湯に浸かりたかった

 

「湯に浸かった後はー、伊香保町名物、水沢うどんを食べる! って計画なわけよー」

「……お前、天才かよ!」

 

 猫屋の魅力的な提案に俺は食いついた。水沢うどん、とやらは知らないが名物というくらいだからきっと美味いのだろう。他所の県で湯を楽しみ名産品を食べるなんて、まるで日帰り旅行のようだ。最近、良い事が無かったから気分転換にもなる。

Zちゃんが心配でついて来てよかった。

 

「でしょー!! 服を取りに帰るだけっていうのもめんどくさかったからねー」

「なるほどな! 早速、風呂入りに行こうぜ!」

 

 俺は急いでフルフェイスのヘルメットを外した。自身の内から、それこそ温泉のように湧き出る期待感を抑えきれずに猫屋を急かす。

 

「あーはいはい。ちょっと待ってね」

 

 俺の催促に従うように、猫屋は勢いよくスポンッとヘルメットを外した。

 

「ふぅー……あーぁ、バイクに乗ると髪が風でぼさぼさになっちゃう」

 

 猫屋が自身の髪を弄りながら、不満そうな声を出す。

発言の通り、彼女の綺麗にパーマがかかった髪が少しだけ乱れていた。

 

「……いつも凄い綺麗だもんな、髪」

 

 少し勿体なく感じてしまい、気が付けば言葉に出していた。

 

「…………へ?」

「あ、いや、何でもない」

 

 俺の言葉に猫屋はポカンとした顔をしていた。

いかん。声音に気持ちが籠ってしまい、本音のようになってしまった。彼氏とかならともかく、俺にこんなこと言われても気持ち悪いだけだろう。

 

「悪い、さっさと行こうぜ」

 

 それに加えて、気恥ずかしかった。なので、俺は彼女に背を向けて先に温泉に向かって歩き出した。

 

「あ、えっと……うん」

 

 猫屋はたいして反応せずに俺について来てくれた。

良かった。これで変に揶揄われたら滅茶苦茶恥ずかしかっただろう。

 

 

************************************************************

 

 水はけのよい竹タイルでできた床板。少し古臭い扇風機がカタカタと音を立てて回っている温泉の脱衣所。祝日のため人が少し多い。

 

 猫屋李花は服を脱いで、竹かごに入れる。受付で購入したタオルを持ち、湯船に向かう。その足取りは軽い。鼻歌まで歌っていて上機嫌だ。

 

 湯船に向かう途中、彼女は洗面台の大きな鏡に映った自身の姿に目が留まる。

 

 細く女性的で均整のとれた肉体。特にスラリと伸びた長い脚がスタイルの良さをより一層と輝かせていた。モデルのように整った小さい顔も相まって、まるで成熟した妖精のようだ。

 

「ふふっ」

 

 猫屋は鏡に映った自分を見て、零れるように笑う。

決して自身の肉体美に酔っている訳ではない。彼女の視線は、少し乱れた自分の髪に向けられていた。

 

『……いつも凄い綺麗だもんな、髪』

 

 先ほどの陣内の褒め言葉。陣内は女性を素直に褒める方だが、その口調はいつも芝居掛かっていて嘘くさい。だが、その時の言葉は猫屋には本音のように感じ取れた。

 

 陣内の言葉を聞いたときの気持ちを、猫屋は再び想起する。

 

「えへへへー、なんか、ラッキー……」

 

 ニマニマと笑いながら頬を掻く。

風呂に入る前だが、彼女の顔は少し赤かった。

 

************************************************************

 

「はぁ……最高。お腹いっぱいだ」

 

 身が溶ける様に心地の良い風呂を堪能した俺たちは、猫屋が言っていた水沢うどんを食べた。形の良い麺にゴマの風味のつけダレが合わさって美味かった。

追加で頼んだキノコの天ぷらも香りが強く、笠が大きくて食いでがあった。

 

 非常に満足した。

 

「そうだねー。これで煙草が吸えたら文句なかったよー」

「本当にな。外出て食後の一服と行こうぜ」

「さんせー」

 

 俺たちは席を立ち会計に向かおうとする。

その時、俺の目に気になる物が写った。

 

 店の窓ガラスに一滴ほど落ちた雨粒が俺の目に映ったのだ。

 

「…………」

 

 それを見て、俺は無言でスマホを取り出して急いで天気予報を調べる。

 

「おい、猫屋」

「ん? なーにー」

「雨が降るらしい」

「……え?」

「結構大きい雨雲が群馬に近づいてる。……あと30分くらいで降り出すって」

「いつまで降るの?」

「明日の朝まで……」

 

 俺はスマホの画面を彼女に見せながら説明した。

 

「…………緊急事態宣言を発令しまーす」

「認める」

 

 俺たちは再び席に座りなおした。

早急にこの後の行動を決める必要がある。

 

「案1つめー。このまま急いで埼玉に帰るー」

「却下だな。すでに埼玉は大雨らしい。帰る途中に雨に打たれることは確実だ」

 

 雨の中でのバイク走行は危険だ。なにより雨で体がずぶ濡れになる。

温泉に入ったばかりの綺麗な体を雨で汚したくはない。バイクも当然汚れる。

 

「案2つめー。このまま伊香保温泉に泊まっちゃうー」

「それも却下だ。だってここ歓楽街だろ? 今は祝日だし、宿泊料なんてすごい高いだろ?」

 

 人数も2人しかいないので宿泊料を割って、草津温泉のように格安で泊まることはできない。

 

「えーと、……じゃー」

 

 猫屋が次の案を必死に考えている。

彼女ばかりに考えさせるのも悪い。俺からも案を出そう。

 

「案3つ目。ネカフェで雨が止むまで退避」

「あー、なるほどねー」

「少し費用が掛かるが、俺はこの案がベストだと思う」

 

 バイクを買って、家が燃えて、教科書や最低限の私物を買いそろえた俺にとっては、遊び以外での無駄な出費は正直勘弁して頂きたいところだ。だが、まぁ、今回のような場合は仕方ないだろう。

 

「……うー」

 

 急に猫屋が頭を抱えながら机に突っ伏して、唸り声をあげる。

 

「どうした?」

「お金、使いたくないよねー? こんな無駄な事にー」

「まぁ、そりゃあな」

「…………」

 

 俺の返事を聞いてしばらくした後、彼女はゆっくりと抱えた頭を起こす。

 

「完璧な案があるよー……。お金も使わずに雨宿りができてー、バイクを置くガレージまであるとっておきの場所がー……」

 

 猫屋の言葉には自虐的な含みが籠っていた。

顔も卑屈気に歪んでいる。

 

()()()()()の事か?」

「うん」

 

 俺も雨宿り候補の1つとして、思い浮かんではいた。

だが、口に出す事はしなかった。異性の友達の家に泊まらせてくれとは、西代ならともかく俺には言えない。

 

「いや、それは悪い」

「もともと、今回は私の私用だったわけだし、気にしないでいーよ。少しだけ恥ずかしいけどさー」

「いや、そもそも俺が勝手について来たのが──」

「はい! うだうだ言うの終わりーー!! これが一番の最適行動なんだから即座に実行するべーーき!! こんな事している内に、雨が降るって!!」

 

 そういうや否や、猫屋は俺の手を取り引っ張った。なんか最近は引っ張られることが多い気がする。

 

「ママたちだってー、事情を話せばただの友達だって分かってくれるはず!!」

「……それもそうか」

 

 俺の実家ではないのだ。恋人や花嫁と勘違いされるような変な話にはならないはずだ。猫屋と彼女の家族には悪いが、ご厚意に甘えさせてもらうとしよう。

 

************************************************************

 

「ママーーー!! 姉ちゃんが彼氏連れて来たよーーー!!」

「な、なんですってーーーー!!??」

 

「ち、ちがう!! 彼氏じゃないからーーーー!!!」

 

 なんで、また、こうなってしまうんだ……?



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猫屋李花の受難②

 

 猫屋家の玄関前。俺達よりも年下に見える少女と、少女の母親と思わる人物が飛び出してきた。

 

 猫屋の母親と妹と思われる2人組。

 

李花(りか)! アンタ、ようやく彼氏ができたのかい! ……男っ気の無かったアンタがねぇ。ママは嬉しいよぉ……オヨヨ」

「姉ちゃん、女子高だったもんねー。やっぱ大学って出会い多いんだー」

 

 母親の方は俺の母さんと違い、まだかなり若そうに見える。女性の年齢を勝手に推測するのは失礼だが30代後半ぐらいに思えた。二人の子供がいるというのに、若々しくエネルギッシュに見える。

 

 妹と思われる方は、まるで垢の抜けてない猫屋だ。その緩い口調もあって、非常に姉によく似ている。きっと高校生くらいの年齢だろう。

 

「だーかーら!! 違うってーー!! 友達!! 友達だから!! 雨が降るから泊めてあげて欲しいって言ってるのー!!」

 

 俺達の関係を勘違いする2人に対して、猫屋は顔を赤くして必死に事情を説明する。帰宅早々、玄関前で楽しそうに大騒ぎ。猫屋が明るく育った理由がよく分かる。

 

「ほら、陣内もボーとしてないで何か話せーーー!!!」

 

 冷静に猫屋家について想い馳せる俺を見て、猫屋はこちらに話題を振る。どうやら、俺にも弁明を手伝えと言っているようだ。

 

 確かに、挨拶もせずに棒立ちは印象がよくない。今日はお世話になる予定なのだし、しっかりと自己紹介をしておこう。

 

「初めまして、陣内梅治と言います。ね……李花さんとは同じ学年でいつも仲良くしてもらっています」

 

 猫屋の家族に対して軽く頭を下げる。俺は酒飲みモンスターズの事を苗字で呼ぶ。恋人でもない女性を下の名前で呼ぶ事には抵抗があるからだ。しかし、今この場には猫屋が3人。誰の事か分からなくなりそうなので、猫屋の事を李花と呼ぶ事にした。

 

「これはどうもご丁寧に。あたしは母親の猫屋 勝美(かつみ)

「私は猫屋 花梨(かりん)ねー、よろしくー」

 

 気っ風の良い姉御肌の母親と、ダウナーで少し背伸びしたような口調を見せる妹。

随分と個性的な家族だ。

 

「あ、はい。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくね。……それで、梅治君はいつから李花と付き合ってるんだい?」

「あ、いえ、俺達は本当にただの友達で、今日は急に大雨が降るという予報を見まして、それで、あの……」

 

 その続きを俺の口から出すのは図々しいように思えた。

異性の友人の家に泊めてくれと頼む男など本当にふてぶてしい。

 

「ほら、事前に連絡してたでしょー? 服取りに帰るってー! 陣内にバイク借りたのに大雨降りそうだから泊めてあげたいの! 別にいいでしょ、ママ?」

 

 猫屋が俺の代わりに事情を説明してくれた。

言いづらかったので助かる。

 

「あぁ、なんだ、そういう事かい。もちろんいいよ」

 

 勝美さんは少しがっかりした様子を見せたが、快く了承してくれた。

俺の両親もそうだったが、子供に恋人ができるというのは親としてはそこまで嬉しいものなのだろうか。

 

「バイクはガレージに適当に止めといてくれていいよ」

「もう私が止めといたよー」

「そうかい。アタシはこれから仕事で12時くらいまで帰ってこないから、李花、アンタがちゃんと梅治君をお持て成するんだよ」

「分かってるってー」

 

 勝美さんはどうやらこれから仕事のようだ。今日は土曜だから何かのサービス業の仕事に就いているのだろう。

 

「いえ、そんな、持て成すなんて。……どうかお構いなく」

「アハハ! いいんだよ気を使わなくて。李花の友達なら大歓迎だよ。ご飯はカレーがあるから、李花と仲良く食べておくれ」

 

 ……うん? カレー? 猫屋家の? え、大丈夫か、それ?

 

「それじゃあ、アタシはもう出るから」

 

 そう言うと勝美さんは俺の方を向いて、ポンっと俺の肩に手を置いた。

 

「災難だったね梅治君、今日は家でゆっくりしていきな。何か不便があったら李花に言いつければいいから」

「あ、いえ。どうもお気遣いありがとうございます」

 

 俺は自分の失礼な考えを心の底から恥じた。人様の家に泊まろうとして、なおかつご飯まで提供していただけるのだ。心の中であろうと、出てくるご飯にケチをつけるのは人として最低の行為だ。

 

「今日はお世話になります」

 

 俺は心を込めて、猫屋家の面々に対し深くお辞儀した。

 

************************************************************

 

 ぐつぐつと煮えたぎる溶岩だまり。俺の目の前に出された皿を形容するなら、まさにそれだ。血の様に赤い、トロミのついた流動性の液体。気化した香辛料が目に入って、まだ一口も食べていないのに涙が出てきた。

 

 先ほどの発言を撤回させてもらおう。これは人の喰えるものではない。

サイボーグ、もしくは地球外生命体にしか食べられないような劇物だ。

 

「美味しそうーー!! 私、ママのカレー久しぶりー!」

「姉ちゃん、最後に帰ってきたの正月だからねー」

 

 地獄の窯で作られたような危険物を前にして、猫屋姉妹は嬉しそうに眼を光らせていた。どうやら、彼女たちは人間ではないらしい。

 

「な、なぁ、李花さん」

「ん? なーに、陣内」

「あの、申し訳ないんだけどさ…………牛乳ってある?」

 

 この猫屋印の激辛カレーをちゃんと食す気ではいる。人の家で出された食べ物を残すつもりはない。だがせめて、胃の粘膜に保護液を張らなくてはいけない。でないと、俺の胃が焼け落ちる。

 

「あーはいはい、まったくもー。いつも思うけど、この程度の辛さで情けないよねー」

 

 やれやれといった風に彼女は肩をすくめる。

そのまま席を立って冷蔵庫から牛乳を取ってくれた。コップに注いで俺に渡してくれる。

 

「ほーい」

「ありがとよ。……あと、明日のバイクの運転も任せた」

 

 恐らく、牛乳を飲んでいたとしても、明日は確実に腹痛だろう。

バイクの運転に支障をきたしそうだ。

 

「え、いーの!? やったねー!!」

「…………」

 

 猫屋が無邪気に喜ぶ様子を、彼女の妹である花梨ちゃんがジーと眺めていた。

 

「姉ちゃんさー、マジで梅治さんと付き合ってないのー?」

「はぁ? カリン、何度言えば分かるのよー? 私達はそんなんじゃ──」

「手料理、振る舞ってあげてるのに? 『いつも』、『この程度の辛さ』ってことはさー、間違いなく姉ちゃんの手作り料理じゃーん」

「……友達と一緒の時に振る舞ってんのっ!!」

 

 妹の詮索を強引に振り切ると、猫屋はガツガツとカレーを食べ始めた。

ここは一応、俺もフォローを入れておこう。

 

「カリンちゃん……でいいかな? お姉さんの言ってる事は本当だよ。いつも同じ学科で遊んでる奴等と一緒にご飯を食べてるから」

「へぇーーそうなんだ。……姉ちゃんも大変だねー」

「……? なにがよー?」

「恋敵が多くてー」

「ふ゛゛っ!?」

 

 猫屋が盛大にむせ込んだ。

この激辛カレーが気管支に入ったら絶命すると思うんだが……

 

「ちょっと、カリン!! 友達の前でふざけたこと言ってると本気でぶっ飛ばすよーー!!」

 

 流石、猫屋。俺の心配をよそにピンピンとしている。

味蕾だけではなく、内臓器官までステンレス製のようだ。

 

「え、そーいう話じゃないの?」

「違うから! 陣内とは友達!! 私は恋愛とか興味なーい!!」

「はぁー、()()()()()()()んだからさー……いい加減、男の1人くらい捕まえてきなよー」

 

 ピシっと猫屋の体が硬直する。

へー、妹さんには彼氏がいるのか。

 

「か、か、カリン……アンタ、いつの間にー……」

「半年くらい前からー。姉ちゃんには黙ってたー」

「な、なんでよー!?」

「いやーほらー、妹にそういった経験を追い越されるのは、姉としては傷ついちゃうかなーって」

「ぐっ!!」

 

 妹の危惧した通り、猫屋は結構ショックそうだった。

 

「男を家に連れて来たからー、そろそろ言ってもいいかなーって思ったけどー。なんか、ごめんねー姉ちゃん」

「う、ぐぬぬぬぅ」

 

 うん、なんかいいな。こういった姉妹の微笑ましいやり取り。俺は1人っ子だったから少し羨ましい。

 

「ハハハ、仲いいんだな2人。まぁでも、李花さんほどの器量良しならすぐに恋人くらい見つかるだろ。そんなに落ち込まなくていいんじゃないか?」

 

 適当に会話に混ざってみる事にする。

かわいそうなので、妹に馬鹿にされている猫屋をフォローしてやった。

 

「「………………」」

 

 猫屋姉妹が何故か黙って俺の顔をジッと見てくる。

 

 え、俺、なんか変な事を言っただろうか?

事実として、猫屋はモテる。この1年、他学科の男子に告白される所を俺は何度か見た事があった。

 

「……姉ちゃんも大変だねー」

「そうかもだけどー。……でも、別に、そ、そういうんじゃないからね」

「はいはーい」

 

 姉妹は彼女らだけに分かる会話をしながら、ガツガツとカレーを食べ始めた。

いったい、さっきの間は何だったんだろうか?

 

************************************************************

 

 死ぬような思いをして何とかカレーを食べきった俺は、風呂を借り、その後猫屋の部屋に通された。

 

 シンプルな机とベット、空のガラス棚にクローゼット。それだけの簡素な部屋。酒飲みモンスターズの中では唯一女子っぽい彼女。それにしては、寂しい部屋だ。

 

「賃貸とはずいぶんと違う内装なんだな」

 

 以前、彼女の賃貸に訪れた事があるが、その時に見た彼女の部屋は女子力全開のキャピキャピした物だったと記憶している。

 

「まぁねー……子供部屋なんてそんなもんじゃなーい?」

 

 猫屋は俺の分の敷布団を敷いてくれながら、適当に答える。

 

「よく考えたら、俺の実家の部屋もベットと勉強机以外はゲームと漫画くらいしかなかったな」

「今はそこにー、酒の空きビンもあるんでしょー?」

「……よくお分かりで」

 

 成人してからの正月は西代が居たせいで、部屋で滅茶苦茶酒を飲んでいた。

未だにベッドの下には無数の酒瓶が転がっているだろう。

 

「今日はもう、お酒飲まないの?」

「い、今は口内に刺激物はちょっとな」

 

 それに、口内の痛みのおかげで性欲は一切湧かないだろうしな。

 

「猫屋は?」

「私、実家では酒も煙草もやらないんだー」

「え? ……なんでだ?」

「ママがうるさくてさー。飲みたいときは居酒屋に逃げるー」

「へー」

 

 世の中には子供と晩酌を楽しむ親もいれば、子供の健康を願って飲酒を咎める親もいる。そういう事だろう。

 

「愛されてるんだな」

「んー、そうなのかなー? でも、結局隠れて飲んで吸ってるし」

「ハハハ、親の心子知らずだな。まぁ、俺達も成人してるんだし、親に縛られる必要もないか」

「学費出してもらっててそれ言うー?」

「……最低限、留年だけはしないようにしようぜ」

「酒カスの私達にできる親孝行はそんなものかー」

 

 適当に冗談を言い合いながら、ケラケラと2人で笑う。

 

「あ、布団を勝手に引いたけど、もしかして私と同じベットで寝たかったかにゃー?」

「……はぁ? なんだ急に?」

 

 意味の分からない煽りを猫屋は言い出した。

 

「いやー、陣内ってば女子と共寝するの大好きじゃーん? だから今回も期待しちゃってたのかなーって」

「おい、なんで俺が女子と同衾するのが好きなキャラになってるんだよ」

「西代ちゃんと安瀬ちゃんと寝てたからー。今日は私と一緒に寝て、コンプリートを狙ってるんでしょー?」

「変な邪推は止めろ、阿呆」

 

 なんだコンプリートって。

お前たちのどこにコンプリートして嬉しい要素がある。

 

「はぁー……布団ありがとよ」

 

 一応、お礼を言って猫屋の敷いてくれた布団にドスンと横たわった。

今日は楽しかったが、疲れた。早めに就寝したい。

 

「……ん?」

 

 寝そべった態勢になった事によって、ベットの下が目に入った。

そこで手袋のような物を発見した。恐らく猫屋の私物だろう。布製のように見えるし変な物ではあるまい。

 

 俺は何も考えずに手をベットの下に入れて、それを引っ張り出し、猫屋に突き付けた。

 

「なんか落ちてたぞ、ほれ」

 

 

 

 

 猫屋の顔が酷く歪んだ。

 

 

 

 

 彼女の急な表情の変化を見て、俺は固まる。

明るい彼女の辛そうで苦々しい表情。俺は猫屋と知り合って半年以上が経つが、そんな彼女の顔は見た事が無かった。

 

「あーあ……全部、捨てたと思ってたのになぁー」

 

 彼女の声は低かった。

心底、不愉快そうな目で俺が取り出したものを見ていた。

 

「わ、悪い! 勝手にベットの下を漁ったりして……!」

 

 俺はすぐに謝った。何が彼女を不快にしたのかは分からないが、とにかく謝らなければいけないと思ったからだ。猫屋が俺のせいで嫌な思いをした。

それだけで針の筵に座った気分になる。

 

「…………」

 

 彼女は俺の手から手袋のような何かを受け取った。

そして、握ったそれを勢いよくゴミ箱に向かって投げつけた。

 

 ゴミ箱が投げつけられた物の勢いに耐え切れず、バタンと倒れる。

 

 俺は呆気に取られていた。何が彼女の琴線に触れたのか分からない。

正確に言えば、きっかけは分かる。先ほど投げられたあの何かだ。

 

「……凄いよね、陣内は」

 

 下に俯いて猫屋はポツリと呟いた。内容は意味が分からなった。

 

 俺が? 凄い? 何で? 俺は今、友の怒りの原因すらわからなくて情けなく狼狽えているというのに。パンチの効いた皮肉だろうか?

 

「皆で群馬旅行に行った時さー、私の、……私の無神経で馬鹿な質問に答えてくれたじゃん。辛い過去の話なんて、したくも無かったでしょ?」

 

 群馬旅行と辛い過去。彼女が言っているのは、俺と猫屋が深夜に旅館で2人きりで飲んでいた時の話か。確かに、あの時、俺は自身の過去について少しだけ話した。

 

「私はさー……、少しも話す勇気が出ないんだよね」

 

 彼女の声はどこまでも暗い。聞きたくない。何か不快な思いをさせたのなら謝るから、いつもの明るい猫屋に戻って欲しい。

 

「皆に運動神経が良いって褒められて、昔、()()()()()()()? って聞かれた時とかさ」

 

 これは恐らく、彼女の暗い過去の話だ。

 

「……別に、いいじゃないか。人に言いたくない事なんて、生きてればいっぱいあるだろう? それに、辛い過去を話す人が凄いなんて事は絶対にないよ」

 

 俺は言葉を選びながら彼女に相槌を打つ。

思い出したくない暗い過去は、蓋をして墓場まで持っていけばいい。

 

 しかし、彼女は俺の言葉など耳に入っていないかのように話を続ける。

 

「聞かれるたびに、馬鹿みたいに、ヒミツなんて言って誤魔化して、さ。別にそんな大したことじゃないのにね」

 

 俺には彼女の思いが痛いほどよく分かった。

 

「俺だってそうだ。たかが女にふられただけだ。恥ずかしくて情けなくて、何も凄い事なんて無い。お前たちに助けて貰ったおかげでやっと吹っ切れたくらいだ」

「私なんて、もっと、下らないよ」

 

 猫屋は自身を徹底的に卑下する。

見ていられない。

 

「……それを決めるのはきっと他人じゃない。お前自身なんだ。猫屋にとって、何が大切だったかなんだよ」

「っ、は、はははー! 良いこと言うね、陣内!」

 

 俺の方を見ずに俯いて空虚に笑う彼女。

 

 俺が見つけた物は、多分、猫屋にとってのトラウマだった。

俺は彼女の柔らかく腐った心の一部に土足で踏み込んだ。

 

「なぁ猫屋……本当にごめん! 俺が変なこと──」

「謝らないでッ!!」

 

 絶叫。

 

 俺の謝罪は彼女の大声で掻き消された。

 

「あ、ご、ごめんね? 本当に下らない話だから、ね? 陣内が謝る事ないよ」

 

 申し訳なさそうに俺に謝る彼女。

 

 なら、なんで、そんなに苦しそうなんだ。

 

「ねぇ、聞いてもらえる? 私もさ、陣内みたいに勇気をだしたい……」

「お前の話なら何でも聞くよ」

「……本当にやさしいねー! 陣内は!」

 

 口調を戻して彼女は明るく振る舞った。

気を使っている俺の様子を察したのだろう。

 

 違う、本当に優しいのはお前だ。

俺はお前の底を抜けて優しい性格を知っている。

 

「……猿腕(さるうで)って知ってる?」

「え、いや、悪い。知らない」

「そっか。肘の可動域が人より広い事を言うんだけどね、私がそうだったんだー」

 

 そう言って彼女は自身の左腕を水平に伸ばした。

その腕は、肘の所からくの字に大きく曲がっている。確かに、一般的な可動域ではない。

 

「ちょっと気持ち悪いでしょ?」

「んなことねぇよ」

 

 俺は彼女の自虐を強く否定した。

猫屋はどこを切り取っても綺麗だ。

 

「アハハ、ありがと。そ、それでさ、実は私、()()()()()()()んだー」

「……そうか」

「うん、防具着けて打ち合うやつでね。あ、さっき投げたのは昔使ってた拳サポーターなんだ」

「へぇ、そんなのがあるんだな」

「うん。そ、それでね、……私、強かったんだー! 肘のせいか拳の軌跡が予想されずらくて、面白いように打撃が通ってー。あ、ママの仕事がキックボクシングジムのインストラクターでね? 小さい頃から格闘技を習ってた事も相まってさー」

 

 懐かしい過去を思い出すように彼女は語る。

 

「本当に、凄かったんだよー、私! た、大会とか全部、優勝! 50キロ級の全日本強化選手に選ばれたりしてさー! 本当に無敵だったんだー!!」

「……やっぱり、お前、凄いヤツだったんだな」

 

 猫屋は一見すると楽し気に自身の過去を話している。凄い話だった。彼女は如何にも自分には才能があったように話すが、その結果を叩きだすには並大抵の努力では足りなかっただろう。誇りたくなる事が当然の自慢話。

 

 だが、俺には虚構にしか感じられない。

彼女の張り付けた笑顔の下は、苦痛で歪んでいるようにしか思えない。

 

「でもね、高校3年の最後の大会。その1試合目で()()()()

 

 猫屋の目が死ぬ。

 

「猫屋」

「偶然だったんだ。私が右腕を振りぬいたとき、相手の子が拳を避けようとして(つまず)いた」

「猫屋、辛いならもう……」

「伸びきった私の腕を、相手の子が巻き込みながら、倒れて」

 

 暗い、暗い、闇に沈む両眼。

その深い闇に一縷の光が見えた。

涙が光って流れ落ちていた。

 

「それで、開放骨折」

 

 俺は思わず目をつむり顔をそむけた。

彼女の骨が、皮膚を突き破ったその瞬間を想像してしまった。

 

「そこからは、そこからは、……り、りは、リハビリを、して──」

 

 猫屋の目から大粒の涙が滝のようにあふれ出した。彼女の言うリハビリが上手くいかなかった事は一緒に大学生活を過ごしている俺には分かった。辛いのだ。思い出す事が本当に辛くて苦しいのだ。

 

 見ていられなくて、俺は急いで彼女を抱きしめる。

 

「そうか、そうか! お前は頑張ったんだなッ!! 肘が折れても諦めずリハビリして! 必死にッ!!」

 

 俺も泣いていた。泣きながら彼女を必死で肯定した。

 

「ぅん、……うん! 私ね! 高校卒業しても諦められなくてッ!! でも、でも、全然治んなくてッ!! 前みたいに動かなくってッ!!」

 

 そんな不幸が無くてもいいではないか。

昔から彼女は優しい奴で努力家だったのだろう。だから、そんな何もかも奪い去るような不幸など彼女に与えなくていいはずだ。

 

「全部! 全部が嫌になってっ! だから、トロフィーとか道具とか全部捨てて、煙草を一杯吸って全部台無しにしてやった!!」

 

 俺と同じだ。逃避の為に酒に頼った俺と同じ。

だが、彼女のショックは俺とは比べ物にはならなかっただろう。彼女の半生にも及ぶ努力は、たった一度の事故で全て無に帰したんだ。苦しくて、振り返りたくもない過去。大学に入って、なんとか前に向かって進みだしたけど、足枷のように絡みついてくる辛い過去。

 

 だから、吐き出したいんだ。これは急な告白ではない。きっかけは何でも良い。俺の時は淳司との喧嘩だった。恥ずかしいけど、打ち明けて、完全に過去のものにしてしまいたいんだ。でないと、心の底から笑って進めない。

 

「頑張ったんだなぁ、猫屋……本当に、凄く……」

「でもっ! わた、私は結局、あきらめて──」

 

 自身を否定する彼女を俺は強く抱きしめた。

必死に努力して苦しんだ彼女の事が愛おしくて仕方なかった。

 

「いいや、お前は頑張ったんだ。逃げたんじゃない。不幸な事故にあって、でもちゃんと立ち直って、前に向かって歩き出せたんだよ」

「っ!!」

 

 俺を助けてくれた彼女の全てを肯定してあげたかった。

 

「お前は誰よりも立派だ。俺は心からお前を尊敬するよ」

 

 お前は誰よりも凄い奴なんだって、言ってやりたかった。

 

「っ、ひ、う、うぁぁぁぁあああああああん!! あり、ありが、ありがとうっ! ありがとう、陣内!!」

 

 彼女は俺の胸の中で大声を上げて泣いた。

俺は黙って彼女が泣き止むまで抱きしめ、幼子にしてやるように頭をなで続けた。

 

************************************************************

 

 涙が止まった猫屋はそのまま俺に抱き着いて離れなかった。俺も暗い過去をすべて吐き出した不安定な彼女を離す気にはなれず、抱き合ったままベットに横になった。

 

 俺たちは何も言わず、ただ横たわっている。

 

「ねぇ、起きてる?」

「あぁ」

 

 しばらくの間、会話の無かった俺達。

しかし、猫屋が会話のきっかけを作った。

 

「ごめんね? 急に、見苦しい所みせて」

「いや、その原因を作ったのは俺だろ? 俺がお前に昔を思い出させたのが悪い」

 

 俺が彼女のベットの下に手を突っ込まなければ、彼女は涙を流さなかっただろう。

 

「でも、そのおかげでスッキリした。ありがとっ」

「嘘でもそう言ってくれると助かる」

「ほ、本当だからねー! こんなに本音をさらけ出した事、家族にもないんだからー」

「あぁ、なんか分かる。俺も自分の体質の事を家族に言ってないし」

 

 受験に失敗して迷惑をかけたせいなのか、それとも単純に家族には話しづらいの内容だと感じているのかは分からないが、暗い過去という物は親には相談しづらい。

 

「……私と陣内ってさ、少し似てるよね」

「俺と、猫屋が? どこらへんがだよ?」

「見栄っ張りでー、偏屈なところー」

「おい、お前な」

 

 猫屋の自虐とも罵倒ともとれる発言。だが、偏屈は彼女には当てはまっていない様に思える。確かに、俺は偏屈な所があるかもしれないが、猫屋は素直な方だ。

 

「空手を諦めた後はさー、別の何かで穴埋めするように、メイクの勉強したりお洒落して遊んだんだー」

「……俺も振られた後、必死に別の女を探そうとした」

「ほらー、やっぱり似てるー」

「ははっ、確かにな」

 

 猫屋は嬉しそうに笑った。それに釣られて俺も笑った。

傷をなめ合うように寄り添う俺達。不思議と悪い気分ではない。

 

「……私、さ」

「なんだ?」

「多分、もう、言えるよ。昔、空手やってたんだって」

 

 先ほど、全ての膿を彼女は吐き出した。

他の人が自身の過去に触れても、平気になったのだろう。

 

「……そうか。多分、2人とも驚くぜ。強化選手に選ばれるくらいなんだから」

「えへへー、そうだよねー。私、本当に凄かったんだー」

「今でも、お前は十分凄いよ。運動神経が半端じゃない。たまに見惚れる」

「……あ、ありがとー」

 

 俺の胸の中で彼女はポリポリと頬を掻く。

どうやら落ち着いてきたらしい。

 

「あ、でも、これで私の言った通りになったねー?」

「? 何がだ?」

「私達全員と一緒の布団で寝た事になるじゃん。やーい、陣内の女たらしー」

 

 良かった、いつもの猫屋だ。

俺を揶揄って笑う、憎たらしい俺の大切な親友。

 

「うるせぇな。あれは全部、不慮の事故だ」

「という癖にー、今回は私から離れないんだー」

 

 確かに、俺は彼女を未だに抱きしめたままだ。

だがこれは、下卑た目的のある拘束ではない。

親愛を伝える事を目的とした、友愛の抱擁だ。

 

「……辛い時は誰かが傍にいなくちゃな」

「っ」

 

 猫屋に教わった事だ。文化祭で傷ついた俺を、彼女は傍にいる事で励まそうとした。まぁ、結局、俺はその救いの手を振り払ってしまったわけだが。

 

 だから、今回は俺の番だ。

 

「覚えててくれたんだ」

「忘れるかよ。あの時は……ありがとうな」

「ううん、私も、今、ありがとう」

 

 礼を言い合って、俺たちは再び強く抱き合った。

お互いの体温がどこまでも溶けていき心地が良い。

 

 泣き疲れた子供と同じように背を丸める。外ではザァーザァーと雨が降っていた。雨音が良い子守歌になり、よく眠れそうだ。

 

 今日、俺は猫屋の辛い過去を知った。そして、彼女はまた一歩先に進むことができたようだ。

 

 その補助が少しでもできたという事が、俺には死ぬほど誇らしくて嬉しかった。

 

************************************************************

 

 ──カチャリ

 

 錠前はまた一つ外れる。

 



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怖がりな西代

 

 2月の中旬の昼前。

 猫屋家にお邪魔した日から3日ほどが経過した。今日はオープンキャンパスのため大学はお休みだ。埼玉インフォメーション技術大学は年に3回もオープンキャンパスを開く。休みが多くなるのは嬉しいが、生徒数が足りてないのだろうか?

 

 そんな事を適当に考えながら、俺は部室の前で鎮座している。眩しい日光を浴びながら、タールの濃い煙を吸って頭にニコチンを巡らせていた。

 

「あ、あの、陣内さん? でしたよね?」

「ん、あ?」

 

 急に俺に対して声がかけられる。

起床後の大切な、煩悩払いの時間。その時間を邪魔する見知らぬ女の子。

 

 いや、よく見たら知った顔だ。 

 

「君は確か、同じ学科の……」

 

 思い出すのは、第1回目の合コン騒動。その時に酒飲みモンスターズが助けた光の女子の内の1人。俺の所属する情報工学科の数少ない女子だ。

 

「はい、土屋(つちや) 美右(みゆ)です」

 

 あぁ、そんな名前だったか。

俺は学科内に闇の女子以外に友達はいない。なので、彼女達以外の名前など憶えていない。

 

「以前は彼女さん()に無理なお願いを聞いてもらいありがとうございました」

「いや、そんな、畏まらないでくれ。俺は何もしてないよ」

 

 ん? あれ? 彼女さんたち? この場合の複数形はおかしくないか?

 

「あの、陣内さんは何でこの部室の前にいるんですか?」

「ん、あぁ、それはだな……俺、ここのサークルに入っているんだ」

 

 余計な事は一切話さず、嘘偽りなく答える。

俺が闇の3女とここに住んでいることは言う必要はない。変な誤解を生むだけだ。

 

「え、そうなんですね! それは話が早いかも……」

「?」

 

 土屋さんは1人で勝手に何かを納得する。

よく考えれば、何で土屋さんは講義もないのに大学にいるのだろうか?

 

「実は急な話で申し訳ないのですが、陣内さんにお頼みしたいことがありまして」

「え? 俺に?」

 

 酒飲みモンスターズではなく、あまり接点のない俺に頼み事をしたいという彼女。

あまりに突拍子の無い話であるため虚を突かれる。

 

「えぇと、とりあえず、話を聞かせて欲しいんだけど……」

「そ、そうですよね、すいません。えっと、長い話になるのでできれば室内で話したいんですけど……」

 

 チラリと土屋さんは部室の扉を見る。確かに外で長話はしたくない。季節は2月。まだまだ、寒い。だが、背後の扉を1枚隔てた先では闇の女たちが爆睡している。見せていい物だろうか?

 

「……ま、いいか」

 

 光の女子達は確か、俺と酒飲みモンスターズの誰かが付き合っていると思っていたはずだ。なら、言い訳のしようはある。最近は花嫁だのと振る舞っていたので、その手の偽証には自信があった。

 

「とりあえず入ってくれ」

「あ、ありがとうございます!!」

 

 彼女は礼儀よく頭を下げる。俺は年上だが、同級生でもある。なので、彼女にそんなに敬われる必要はない。

 

「敬語は別にいいよ、同級生だろ? あと、ちょっとお目汚しを失礼」

 

 そう言って、俺は部室の扉をガラっと開いた。

 

「おい!! いい加減起きろ、この寝坊助ども! もう11時だぞ!!」

 

 もう昼が来るというのに、一向に起きる気配を見せない酒飲みモンスターズを大声で起こす。まぁ、俺も先ほどまで一緒になって眠っていたのだが。

 

「なぁーにー、陣内? ……休みの日くらいゆっくり寝かせてよー」

「うっ、眩しい。僕まだ眠いんだけど……」

「あ゛ー、まだ昨日の酒が抜けてないぜよ。頭が痛いのぅ……」

 

 寝ぼけ眼をこすりながら、彼女たちは各々起床する。

その姿はハッキリ言ってだらしない。安瀬は寝間着が乱れて下着が見えているし、猫屋は髪がボサボサ、西代に至っては口から涎の通り道が光っている。

 

 酷い光景だ。

 

「なんで安瀬さん達がここに!?」

「あー、昨日ここで飲み会したんだ」

 

 驚く土屋さんに対して、俺は事実を簡潔に話した。

 

「だ、大学内で飲み会ですか。さ、流石ですね。…………あ!? 安瀬さん、下着が見えちゃってますよ!!」

「…………なんで、土屋さんがここに?」

「そんなこと良いから! 早く隠してください!!」

「あぁ、俺の事なら気にしないでいいぞ。もう見慣れた」

 

 土屋さんが信じられない物を見る目で俺を見てくる。

 

 いや、だって仕方ないだろう。生活スペースが一緒で、なおかつ部屋が狭いのだ。ブラジャー姿くらいはよく見る。逆に3人も、俺のパンツ姿くらいならもう見慣れただろう。不健全な話だとは思うが、酒が入れば気にならない。

 

「…………やっぱり、3人と付き合ってるんですね」

「そ、それは流石に誤解だよ」

 

 俺は彼女の疑惑をやんわりと否定する。

 

「認めないつもりですか!? ま、まさか、セフレだとでも──」

「もっと誤解だ!!」

 

 俺は大声を出して彼女の声を遮った。

外でなんてことを言おうとしてるんだよ…………

 

************************************************************

 

「「「「幽霊退治??」」」」

 

 俺たちは揃えて素っ頓狂な声を上げる。

 

「はい、正確に言うなら幽霊騒動の原因を突き止めて欲しいんです」

 

 土屋さんは真剣な顔をして、非現実的なお願い事を言い切った。

俺達の頭に疑問符が浮かび上がる。彼女の頼み事は理由も含めて意味が分からない。

 

 安瀬が俺達を代表して、口を開く。

 

「どういう事ですか? 全く事情が理解できないのですが……」

 

 外行き用の口調で彼女は問いかけた。

この口調になった安瀬はその凛々しい容姿が相まって、高貴で可憐な日本令嬢といった雰囲気を醸し出す。どこかカリスマ性すら感じる。

 

「えっと、順を追って説明すると、まず、私はピアノ奏楽部で部長をやらせてもらっています」

 

 吹奏楽部でも軽音部とかでもなく、ピアノ専門の部活動か。

随分と先鋭的な集団だな。

 

「はぁ……、1年生なのに凄いのですね」

「いえ、3年生の早めの引退で経験者の私が選ばれただけです。……それで、部員をまとめる立場になっちゃったんですけど、最近、音楽室で夜になると幽霊がでるって噂が部員たちの間で広まっていまして」

 

 夜の音楽室で幽霊騒ぎか。

 

「…………まぁ、別にいいんじゃないか? 幽霊がでても演奏に影響はないだろ。夜に活動するわけでもないんだろ?」

「来年の新入生勧誘の為に変な噂が立っていると困るんです。部の存続条件は部員が10人以上。来年、所属している4年生が抜けると10人未満になっちゃうので絶対に新入生を勧誘しなきゃいけなくて……だから、幽霊が出る、なんて噂は早めに払拭しておきたいんです」

 

 俺と安瀬は顔を見合わせて、首を傾げる。

 

 彼女が幽霊退治という非現実的な現象で困っているのは分かった。しかし、それを俺達に頼む理由が分からない。俺たちは酒には詳しいが、陰陽師の真似をして清酒で御払いなんて事はできない。

 

「そこで"オカルト研究サークル"の皆さんにこの調査をご依頼したいんです!」

「「「「オカルト研究サークル?」」」」

 

 どこかで聞いた事がある響きだった。

 

「あーー、確か、ここの前のサークルがそんな名前だったよねー?」

「うん。…………この部屋に入る前に、全員で怪しい物が無いか調べたよ」

「西代は怖がって何もしてなかったろ」

「陣内君、うるさい」

 

 俺達の前に、この部室を使用していたのがオカルト研究サークルだ。

話が見えて来たな。

 

「土屋さん、俺たちはオカ研じゃないよ」

「え?」

「あのサークルは既に潰れてるんだ。今は俺たち、郷土民俗研究サークルがこの部室を使ってる」

 

 つまり、彼女はまだオカ研が存続していると思っていたのだ。

そして、部室前の俺との問答で俺達をオカ研の部員だと勘違いした。

 

「えぇ!? そ、そんな……」

 

 その事実を知った土屋さんはガックリといったように肩を落とした。

勝手に勘違いしたのは彼女だが、少しだけ申し訳ない。

 

「ど、どうしよう……。わ、私、オバケとか本当に苦手で、自分で解決しようとしても怖くて無理なんです」

「うん、気持ちは凄くわかるよ」

 

 西代が土屋さんの意見に同調した。

彼女もホラーの類は大嫌いだ。

 

 西()()()()()()()()()。去年の夏、俺たちは肝試しを開いた。もちろん、言いだしっぺは安瀬だし、企画と演出も彼女が行った。暗い大学校舎内に施された安瀬特性の怪トラップ。俺と猫屋にとっては楽しい催しだったが、西代は普段のクールぶった姿を保てずに発狂していた。そして肝試し終盤、臓物の飛び出た落ち武者のコスプレをした安瀬が俺達に襲い掛かってきた。それを見て飛び出した西代の名言『お酒をあげるから、どうか命だけは助けてください』に俺たちは大爆笑。彼女のおかげで肝試しは最高のものになった。

 

「部長なんだから、部員に頼んだらどうだい?」

 

 そんな臆病者の西代が土屋さんにたいして疑問を投げかける。

早くこの話を終わらせて帰って欲しいのだろう。

 

「いえ、部員が調査したのですが原因がまったく分からなくて。なので専門家の方たちにご依頼しようと……」

「あぁ、なるほどね。……まぁでも、僕たちはオカ研じゃないからね。悪いけどこの話は別の人に──」

「いえ、待ってください」

 

 土屋さんの依頼を断ろうとする西代に安瀬は待ったを掛ける。

彼女の頬は歪に吊り上がっていた。それを見て、俺は察しが付く。たぶん、悪い事を思いついたのだろう。

 

「土屋さん、確か貴方は部長でしたよね?」

「え、あ、はい」

「少し聞きたいのですが、ピアノ奏楽部の活動場所は主にどこでしょうか?」

「? 別館にある音楽室です。そこにピアノが何台か置いてありますから」

「では部室は何に使っているのですか?」

「いえ、特には……物置ぐらいにしか使っていません。活動するのはほとんど音楽室ですから」

 

 安瀬が次々と質問をしてピアノ奏楽部の内情を暴いていく。

彼女は何を考えているんだろうか?

 

「では、私たちが幽霊騒動を解決できれば、その報酬として1月ほど、この部屋の雑貨類を置かせていただけませんか? その条件なら私達が調査して確実に原因を突き止めて見せましょう」

 

 安瀬の提案。それは俺たちの居住スペースを確保するためのものだった。ただでさえ広くない部室に置かれた、運よく焼却を免れたガラクタ達。安瀬の鎧武者セットや猫屋の化粧台、西代の本類がぎちぎちに部屋内に積み上げられている。

 

「え、本当ですか!? そ、その条件なら大丈夫です! 部長なのでそれぐらいの融通はできますから!」

「そうですか。では確かにご依頼を承りました」

 

 提案はあっさりと受諾された。

安瀬は中々良いネゴシエイターになれるだろう。

 

「ちょっと待とうか、安瀬」

 

 そこに余計な口を挟みこんだのは、当然西代だ。

彼女は顔を青くして、安瀬の肩に手を置いた。

 

「べ、別に僕は今の生活スペースで満足できているよ。だ、だから、無駄な事をして体力を消費させるのはよくないと思うんだ。そんな事より今日は誰もバイトが入ってないんだし、ゆっくりとお酒でも飲んで楽しく──」

「猫屋、頼みました」

「はいはーーい!! 西代ちゃーーん? ちょっと、あっち行ってよーねー!」

「え、ちょ、な、なにしてるんだ猫屋!? は、離してくれ!! ぼ、僕は嫌だぞ!! 絶対にいや────」

 

 もがく西代を猫屋が羽交い絞めにして、部室の外まで連れて行った。

実に鮮やかな人の連行法。さすがは武道経験者だ。

 

「邪魔者が入りましたが、さっそく話を詰めましょうか」

「え、えっと、その、西代さんは大丈夫なんですか?」

「問題ありません」

 

 連れていかれた西代を不憫に思う土屋さん。一方、ニコニコと楽しそうに笑う安瀬。2人の表情はまるで真反対だ。

 

 俺もこれから起きる事態を想像して笑みを抑える事ができない。

俺は安瀬にだけ聞こえる様に小声で彼女に話しかける。

 

「随分と楽しい事になりそうだな」

「ふふっ。で、あろう?」

 

 クツクツと2人で静かに笑いあった。

 



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幽霊退治

 

 時刻は夜の10時。

俺達は音楽室の鍵を土屋さんから譲り受け、音楽室に張り込んでいた。

 

 彼女から聞いた幽霊騒ぎの詳しい話はこうだ。

一、突如として音楽室内の人物画が揺れ動いた。

二、軋んだような音が音楽室内に響き渡った。

三、防音のはずである音楽室から小さな女の声が聞こえる

 

一と二、は夜遅くまでコンクールに向けて練習していた所、部員たちが実際に遭遇した怪奇現象らしい。三、に関してはたまたま夜に残っていた生徒が廊下で聞いて震え上がり、大学に相談までしたようだ。

 

 実に定番の内容。

このラインナップなら幽霊が出ると噂もするだろう。

 

「中々、骨のありそうな依頼だよな。酒で体を清めておこうぜ」

 

 俺は日本酒を煽りながら、感想を述べる。

 

 持ってきたのは上善如水(じょうぜんみずのごとし)。スーパーでも売っている日本酒だ。特徴としては、水のように透明感があってとにかく飲みやすい。個人的には濃いめの蕎麦によく合う酒だ。今回は名前が清らかなので持ってきた。

 

「私、ウォッカとグラスを持ってきたんだー。後で、お祓い用の清め塩でソルティドック作ろーよ」

「お、いいな。更に清まりそうだ」

「君たち、ほどほどにしないと罰が当たるよ……」

「その罰を懲らしめにきたでござるよ」

 

 そう言うと、安瀬は俺の飲んでいた上善をひったくるように奪って飲み始めた。

ゴクゴクっとラッパ飲みで水のように流し込んでいく。

 

「あ、おい」

 

 確かにこの酒はそういった風に飲めるのも売りだ。

勿体ない飲み方だが、たまに俺もやる。

 

「…………ぷはっ。よし、酒も入ったところで、さっそく電気を消して蝋燭に火をつけるぜよ」

 

 安瀬はそう言って、懐から大きな蝋燭を取り出した。

流石、安瀬だ。用意が万端過ぎる。

 

「はぁ!? な、なんでだい!? 明るいままでいいだろう!?」

 

 西代が大袈裟に反対する。

その動揺した姿は実に哀れで笑いを誘う。

 

「何を言ってるんだ。これは依頼達成のために必要な行事だろ」

「やっぱりさー! 幽霊は暗い所じゃないと出てこないよねー?」

「うむ、我ながらいいアイデアじゃ。ついでに怪談でもして酒のつまみとするかのぅ」

「っひ、うぐ」

 

 俺たちの完璧な理論武装。

西代はぐうの音も出ず押し黙った。

 

 俺たちの主とした目的は依頼の達成などでは決してない。

西代の怖がる情けない姿をつまみに面白可笑しく酒を飲む。それが主目的。

土屋さんには悪いが幽霊退治などは所詮、おまけだ。

 

「じゃあ、ポチっとな」

 

 俺は音楽室の電気を勝手に消した。

 

「ひゅい!?」

「アハハハハ!! 西代ちゃんビビりすぎーー!!」

「ハハハハハ!! 恐怖系に対しては本当に糞雑魚ナメクジでござるな!!」

 

 真っ暗な室内に3女の声だけが聞こえてくる。

西代を馬鹿にして凄く楽しそうだ。俺も早く混ざりたい。

 

「なぁ、早く蝋燭に火を──」

 

 ギィィィイイ......

 

 瞬間、部屋内に木の軋む音が響いた。

 

「き、きゃあああああああああああああああああああ!!!???」

 

 絹を裂いたような絶叫が暗闇で響き渡る。

当然、西代のものだ。

 

「ちょっ!? 西代ちゃん!? そんな掴まないでよー!」

「ぐぇっ! く、首が……しま……」

「っひっきゅ、っ!!」

「なんだよ、うるせぇな」

 

 俺はポケットからライターを取り出す。

フリントを回すと火花と共に火が灯り、部屋内を照らした。

そこには西代が両手で安瀬と猫屋を抱きしめていた。目に涙まで浮かべて震えている。

 

「姦しいオブジェだな」

「じ、じ、陣内君は何でそんな平気なんだい!!」

「酒が入ってるからな」

 

 酒が入った俺は無敵だ。性欲に関して言うまでもなく、恐怖や倫理観に至るまでしっかりと抑圧される。まぁ、飲酒からくるアドレナリンで変に気が強くなるだけだが。

 

「というか、安瀬が窒息しそうになってるから離してやれよ」

「しっかりと決まっちゃってるよー」

「ぎ、ぎぶ……」

「ご、ごめん」

 

 西代が安瀬の拘束を少し緩めた。だが、手を離しはしない。

顔を青くして2人をギュッと掴んでいる。

 

「し、死ぬかと思ったでやんすよ」

「そうなったらー、化けて西代ちゃんの枕元に立ってたねー」

「安瀬なら怖くないよ!」

「ネタにマジになるなよな……」

 

 いつもの頼りになる西代はいなくなった。賭博の魔に囚われた姿が西代さんモードとするのなら、怪事の闇に恐怖する姿は西()()()()()モード。

大和撫子七変化と言うが、彼女にはまだ見ぬ一面があと5個はありそうだ。

 

「陣内君! こ、怖くないなら()()()()()()()を見て来てよ!!」

「準備室?」

「う、うん、さっきの音、隣の部屋から響いて来たから」

「え? そーなの?」

「お主、耳が良いな」

 

 やはりあった西代の意外な一面。どうやら彼女は目だけではなく耳まで良いらしい。

 

「自分で確かめに行く気はないでありんす?」

「ぼ、僕の霊感センサーが最大音量で危険を知らせているから……」

「お前、今度は霊感キャラかよ」

 

 そんな設定を追加しなくとも、西代のキャラは十分すぎるほど濃い。

 

「まぁ、分かった。隣の部屋だな。さっさと行ってくるよ」

 

 一応、土屋さんから依頼を受けた身だ。最低限、調査の体を取らなくていけない。

もし運よく原因を突き止められたなら万々歳だしな。

 

「き、気をつけてね陣内君」

「何にだよ?」

「ゆ、幽霊に」

 

 西代は大真面目な顔をして幽霊が俺を襲うと口にする。

 

「ふ゛゛っ!! アハハハ!! マジトーンで言うの止めてよー!!」

「ハハハハハ!! 幽霊をあの西代がビビってるでござる!!」

「お前本当に大学生かよ!」

「こ、怖い物は怖いんだから仕方ないだろ!!」

「ハハッ、分かった分かった。じゃあ行ってくるわ。帰ってくるまでに、火を蝋燭に付けとけよ」

 

 ゲラ笑いする二人と、この世の終わりの様な顔をする西代を置いて、俺は隣の部屋にむかった。

 

************************************************************

 

 ギィィ、ギィィ、ギィィ、ギィィ

 

 隣の部屋に入った途端、音が断続的に聞こえて来た。

 

(何かいるのか?)

 

 自然に発生する音ではない。明らかに何かがこの音楽準備室にいる。

猫やネズミと言った小動物であろうか? 俺は幽霊などは信じない。死んだ人間は天国かどこかで現世の人間を見守っている。決して、現世にイタズラなどしない。

 

 スマホを光源にして暗い部屋を照らす。

 

 ()()()()()()()()()()

 

「「「…………」」」

 

 全裸の男女と、固まる俺。

 

 もう一度言おう。

緑川が、簡易的なベットの上で、情交していた。

 

 俺の脳裏に土屋さんから受けた怪異の説明が蘇る。

 

 一、突如として音楽室内の人物画が揺れ動いた。

ピストン運動が隣の部屋まで伝わった。

 

 二、軋んだような音が音楽室内に響き渡った。

床に2人分の振動が加わったせいだ。

 

 三、防音のはずである音楽室から小さな女の声が聞こえる

ここは準備室。防音がされていないのだろう。

 

「服を着る時間をやる。その後で説明を聞こうか」

 

 俺は有無を言わさぬ口調で彼らを威圧した。

事件の原因は明らかになったし、後は詳しい話を聞こう。

 

************************************************************

 

「俺らに部室を取られた後、()()()()()()にこの音楽準備室を選んだ、と」

 

 服を着た緑川との尋問めいた事情聴取。どうやら彼らは大学校内にラブホテルを作ることを諦められなかったようだ。

 

 先ほどまで居た、女は慌てた様子で逃げだした。

この音楽準備室には俺が入ってきた正規の扉とは別に、隣の部屋と通じる引き戸があった。そこから逃げたので、安瀬たちとは鉢合せてはいないだろう。

 

「というか、何でここに入れたんだよ。鍵は全てのドアにしてあるだろ」

「特別教室の鍵は事務室で名前さえ書けば誰でも借りられるんだ。だから鍵を借りて複製した」

「それで赤崎たちと共通の愛の巣に、ねぇ……」

「俺らも幽霊騒ぎになってたなんて知らなかった……」

 

 呆れて物も言えない。無断の鍵複製は普通に犯罪行為だろう。まぁ、俺達も活動理由を偽って部室を手に入れたので強くは糾弾できないが。

 

「他にも色々聞きたい事がある。俺たちの前にピアノ奏楽部が調査に来たはずだ。その時は何でバレなかったんだ?」

「あぁー、黄山の知り合いがピアノ奏楽部に居てな。部活のスケジュールを把握してるんだよ。まぁ完璧じゃないがな」

「なるほど」

 

 練習日はなるべく避けていたわけだ。だが、把握してない練習日とたまたまバッティングしてしまい噂になったわけか。

 

 何がそこまで彼らを突き動かすんだろうか。

やはり、性欲か……

 

「というか、よくこんな所まで女を連れ込めるよな。どうやったんだよ」

「専門学生とかは、大学を見せてあげるって言ったら結構ついてくるぞ」

「……常套手段かよ」

「まぁな。スリルもあって最高だぜ?」

 

 倫理観的には最低ではないだろうか?

 

「後さ、前々から思ってたけど就活の準備とかしなくていいのか? 3年だろ、お前たち」

「あぁ、俺たちは全員大学院に進むから」

「……ま、まじかよ」

 

 下半身で物を考えているような奴らの癖に、意外と頭が優秀なのか。

やはり合コンにはある程度の知的な駆け引きが重要のようだ。

 

「はぁ……しかし、つまらん」

 

 俺は露骨に溜息をついた。事情は全て分かった。

もっと面白い催しになると期待していたが、案外呆気なく終わってしまった。

これでは以前の部室争いの時と同じだ。

 

「え? それ俺のセリフなんだけど。いい所だったのに邪魔されて──」

「俺もいい所だったんだよ」

 

 無理やり緑川の言葉を遮る。

他人の行為の話など聞きたくもない。

 

「西代の恐怖面を楽しみにしてた、の、……に」

 

 いや、待てよ? この騒動の原因を知っているのは俺だけだ。

まだ、取り返しがつくのではないか?

 

「…………」

「え、なんだよ。急に周りを見渡して……女の忘れた下着なんて落ちてないぞ」

「そんな物、探すかよ」

 

 この準備室には不思議と絵具や小道具という音楽には関係ないものが揃っていた。

種類が豊富なので信号機達の持ち物ではあるまい。

 

「なぁ、もう一つのドアの先って、もしかして美術室か?」

「ん、あぁそうだぜ。ここは音楽室と美術室の共同の準備室だ」

 

 俺は頭の中である企画を考える。酒のつまみにピッタリな俺にとって笑える企み。

即興で不確実なものではあるが、隣のこいつが手助けしてくれれば最高のショーになるかもしれない。

 

「なぁ、大学には黙っていてやるから少しだけ俺に協力してくれよ」

 

************************************************************

 

「じ、陣内君、遅いね……」

 

 西代がプルプル震えながら、幽霊騒動の原因を探りに行った陣内を心配する。

 

「そうであるな。……もしかして何かあったのか?」

「な、何かって………」

「ぷっ、ま、マジで幽霊とかー?」

 

 猫屋は2人の危惧を鼻で笑う。

 

「西代ちゃん、博打の時の肝の座り方はいったい何処にいったのさー」

「そう言うなら、猫屋。君が見に行ってくれ。じ、陣内君が心配だ」

「え、まぁ、いーけどさー」

 

 西代の指示に猫屋は渋々といった様子で従った。

幽霊は信じていないが、帰りの遅い陣内の事は彼女も気になっていた。

 

 猫屋は西代の拘束を解いて、立ち上がる。

そのまま、ジッポを取り出して音楽準備室の扉に向かった。

 

「は、早めに帰ってきてよ」

「一応、何かあったのならすぐに連絡するでござる」

「はいはーい」

 

 友たちの心配の声に適当に返事を返して、猫屋は扉を開けて部屋に入った。

真っ暗で雑多に物が積まれた室内。念のため、猫屋は扉を完全には閉めずに半開きにしておいた。

 

 室内の光源は扉から入ってくる蝋燭の光のみ。猫屋の視界はほとんどが闇に覆われいた。

 

 猫屋は右手で太腿のジーパンにジッポのフリントをこすりつけて、火を灯す。

 

「えーと? 電気つけるところはー……」

 

 彼女は少ない光源を頼りに、室内電灯のスイッチを探す。

 

 バタンっ

 

「っ!?」

 

 猫屋が部屋に入って数歩進んだ瞬間、半開きにしたはずの扉が閉じた。

扉は蝶番がさび付いているせいか、立て付けが悪い。自重で閉まることはない。

不可解な現象が、彼女の警戒心を跳ね上げる。

 

「……じんなーい? ふざけてないで出てきなよー?」

 

 猫屋は扉が閉まったのは陣内のイタズラだと思い込む。

彼女は幽霊など非科学的な物は信じないたちだった。

 

「こ……こ、猫……」

「? 陣内?」

 

 かすかに聞こえてくる陣内の声。

その方向に猫屋はジッポの光を向ける。

 

 そこにいたのは、頭から血を流す陣内だった。

 

「え、は? じん、ない……?」

「猫屋……う、うし、ろ」

 

 流血し瀕死の重傷を装った陣内は、猫屋の背後を指差す。

猫屋はその動きに釣られて、振り向いた。

 

「あぁー! あぁ、あぁーーーーー!!」

 

 その先に居たのは、全身が緑色をした河童だった。

緑色の上半身を露出し、手に水かきまでつけた真緑の異常生命体。

その名を緑川次郎という。

 

 河童は奇声を上げながら両手を伸ばし全速力で猫屋に駆け寄ろうとした。

 

 河童が一歩踏み出した須臾(しゅゆ)の間。

 猫屋の両目が危なく光った。武道において、敵意を持った接近というのは立派な攻撃の部類に入る。そして、血を流す親友の姿。その二つが猫屋李花の闘争のスイッチを連打した。

 

 彼女は火の付いたジッポを真上に放り投げる。

勝負の制限時間は、火が床に落ちるまで。

 

 彼女は上体を反らし緑川の手を回避しながら、槍のような左前蹴りを繰り出す。ブーツの固い靴底が緑川の鳩尾に食い込む。

 

「ぐえっ!?」

「……」

 

 そのまま、出した左足を戻さずに踏み込む。同時に腰を回して捻りによる溜をつくり、即座に開放して速度のある左ボディを肝臓に叩き込んだ。

 

「ごぼっ!!??」

 

 痛みに悶絶して床に倒れ込む緑川。

 

 猫屋は身を翻し、落ちて来たジッポを難なく受け止める。

彼女は緩慢な動作で煙草を咥えて火をつける。紫煙を纏い、血を流す陣内に向かって話しかける。

 

「ふぅー……念のため、ボコったけどさー。ドッキリ……で、いーんだよねー?」

 

 彼女は不敵な笑みを浮かべて、この珍事の説明を彼に求めた。

 

「……ははっ、まぁな」

 

 陣内は何事もなかったように笑って答える。

彼の頭から流れていたのは美術部の備品の赤い絵の具だった。

 

「しかし、本当に凄いな猫屋。綺麗な動きだったよ。……緑川は生きてるのか?」

「あー、今の河童、信号機だったんだー。動きが素人っぽかったから凄い手加減しておいたー……でも、ごめんね?」

「い、生きてるぜ、陣内。何秒か、息が止まったけど」

 

 話を振られて、のっそりと立ち上がった河童もとい緑川。

本当に手加減がされていたようで、数秒悶える程度で済んだようだ。

 

「彼女、強すぎだろ……。格闘技経験者か?」

「そんな所だ。はぁ、しかし、せっかく急いで準備したけど、猫屋にはやっぱり通じなかったか」

「ふーーん? ねぇ、だいたい事情は分かったからさ。フヒヒっ! 今度は私も交ぜてよー」

 

 暗い準備室で猫屋は心底楽しそうに微笑んだ。

 

************************************************************

 

 猫屋が音楽準備室に入り、10分が経過した。

 

「遅い、であるな」

「う、うん」

 

 相変わらず安瀬に抱き着いたままの西代。

帰ってこない2人を心配して震えていた。

 

「お主、1人の時に怖い夢を見たらトイレいけるのでありんすか?」

「無理だ。だから寝る前に絶対トイレ行ってから寝る」

「……子供でござるか」

「なんとでも言ってくれ。怖い物は仕方ない」

「酒を飲んで恐怖を紛らすがよい」

 

 そう言って、安瀬は拘束されたまま手を伸ばして酒瓶を取ろうとする。

その時、ブーっとスマホが震えた。

 

「ん?」

 

 安瀬がスマホを確認する。そこには猫屋からのメッセージが表示されていた。

 

 タスケテ、っと。

 

(おー、随分と凝った催しを企んでいるようじゃの)

 

 安瀬は短文を見て、全て察した。本当に緊急の事態があったのなら、わざわざカタカナで文章を打たない。帰ってこない2人が音楽準備室で待ち構えている事を安瀬は即座に看破した。

 

「西代、ほれ」

 

 彼女は陣内達の意を汲んだ。猫屋から送られてきたメッセージを西代に見せる。

 

「ぼ、僕の方にも通知が来てた……ど、どうしようか」

「助けに行くしかあるまい」

「え、な、なにから? 2人は何で助けを呼んでいるんだい?」

「……お主は何だと思う?」

「し、知らないよ!! 考えたくもない!!」

「では、確かめに行くぜよ」

 

 震える西代を自分と一緒に強引に立たせて、引きずるように安瀬は音楽準備室まで向かおうとする。 

 

「あ、安瀬! ちょっと待ってくれ!! 引っ張るな! こ、心の準備という物がだね──」

「女と博打は度胸でござるよ」

 

 適当な言葉で西代を誤魔化して、自ら進んで陣内達が待ち構えるであろう音楽準備室の扉を開けた。

 

 何の躊躇もなく、暗闇の中を進んで行く。

 

「ほ、本当に待ってくれ!! ぼ、僕、怖いのは苦手で!」

 

 バタンっ

 

 部屋に入って数歩進んだところで、ドアが閉まった。

 

「っぴ!?」

 

 西代は不自然なドアの移動に驚いた。

奇声と共にその場にへたり込んでしまう。

 

「なんじゃ今の声。くふふっ、笑わさないで欲しいでやんすよ」

「だ、だって……」

「ここまで弱った西代は本当に珍しいのぅ。だがほれ、さっさと、陣内達を探すである」

 

 怯えて腰が抜けた西代を置き去りにして、安瀬は進もうとする。

 

「ま、待ってく──」

 

 何とかついていこうとする西代の足首を、白く細長い手が掴んだ。

 

「………………え?」

 

 西代は、その手の先にゆっくりと視線を送る。彼女の優秀な視力が本人にとって不本意な形で発揮された。

 

「たす、タスケ、たすけ……」

 

 足首を掴んでいたのは倒れ込み、流血した猫屋だった。時間が無かったため、頭から絵具を被って、軽く傷メイクを施したのみ。しかし、持ち前の美貌が乱れたギャップとメイクの技術力により、その姿は十分すぎるほどの破壊力を有していた。

 

「きゅっ、い……!?」

「に゛し゛し゛ろ゛ち゛ゃ~ん……」

 

 顔を青白くさせて、必死に逃げようと後退する西代。

だが、足を掴まれているせいで逃げる事は出来ない。

 

 この程度で彼らの悪意は終わらない。西代のもう片方の足首を男らしい大きな手が力強く掴んだ。

 

「に゛、に゛ししろ~……! い、いたいよ゛~~……!!」

 

 今度は陣内の番だった。猫屋と同じように流血した装いである。

陣内は腰が抜けて力が出ない西代を引っ張るようにして強く迫った。

 

「う、う、う、うぴ、っひ、きゅ~…………」

 

 友人たちの血塗られた姿を直視して、早くも西代の意識は限界を迎えた。

ブクブクと白い泡を吹いて、電気が切れた人形のように倒れ込む。

恐怖のあまりに気絶したのだ。

 

「ありゃー、ちょっとやりすぎたー?」

「河童の登場の前に失神するとはな。脆すぎるぞ、西代ちゃま」

 

 その姿を見て、陣内と猫屋は演技を止めた。

 

「むぅ、随分と2人で楽しそうじゃな。我も交ぜて欲しかったでありんす」

「安瀬は夏の肝試しで十分楽しんだだろ?」

「そーだよー。今回は私達の番ってわけー」

 

 不満そうな安瀬を宥め、2人はスマホを片手に西代の顔を覗き込む。カメラを構え自身達と泡を吹く西代をフレーム内に入れて記念撮影。彼らに西代を心配する気は無いようだ。容赦のない死体撃ち。

 

 既にお開きの表装を見せ始めた肝試し。その雰囲気を察して、待機していた河童こと緑川が姿を現す。

 

「結局、俺の出番は1回だけか。わざわざ体に塗料を塗りたくったってのに」

「うぉ!? か、河童?? なんじゃお主は!?」

 

 西代に対して行われた残虐行為を面白そうに見ていた安瀬が急な河童の登場に驚く。

 

「あー、緑川だ。コイツが幽霊騒ぎの原因」

「あ、あぁ、そうだったんですね……」

 

 とっさに口調を戻して、平静を装う安瀬。

彼女は陣内と猫屋だけでドッキリを仕掛けてくると思っていたので動揺してしまった。もし、西代が気絶を耐えて河童が登場していたのなら、安瀬も驚いて無様を晒していたことだろう。

 

「さて、十分楽しんだし、帰って飲み直すか」

「さんせー!西代ちゃんを蘇生してー、いじりながら楽しく飲もー!」

「陣内、俺は帰るぜ。べたべたして気持ち悪い」

 

 緑川は全身、絵具まみれ。

早く体を洗い流したそうにしている。

 

「俺達もだな。ここ埃ぽいし、さっさと部屋から出て──ん?」

 

 その時、陣内は何かを踏みつけた。

彼には暗くて輪郭しか見えないが衣類の類に思われた。

 

(緑川の脱いだシャツか?)

 

 陣内は踏んだ物から足を退けて、それを手に取る。

同時に、安瀬が美術室に通じるドアの方に向かって話し出した。

 

「緑川さんのお連れの方ですよね? 貴方は特に絵具とかで仮装してないんですか?」

「んー?」

「え?」

 

 安瀬が突如として、この場にいないはずの第三者に向けて言葉を掛けた。

陣内と猫屋は驚いて視線をドアの方に向ける。

 

 

 そこにいたのは、白いワンピースを着た長髪の女だった。

 

 

 グチャグチャに乱れた髪と靴を履いていないため露出した素足。ここは大学校内。こんな深夜に警備員はいたとしても、そのような風貌の女はいない。

 

 女は荒い呼吸を繰り返し、陣内を指差して口を開いた。

 

「……か……え……し……て…………」

 

 ゾクゾクっ!! と陣内と猫屋の背に悪寒が走る。あまりに雰囲気のある見知らぬ女の登場。そして掠れて途切れる様な彼女の言葉。彼らは戦慄し恐怖した。

 

 陣内は急いで西代を担ぎ上げ、猫屋は安瀬の手を掴んだ。

 

「に、に、に、逃げるぞお前ら!!」

「え?」

 

 事態を未だに理解できていない安瀬が不思議そうに首を傾げた。

 

「ま、マジのオバケの登場は聞いてないんですけどーーッ!!??」

「え!? 仮装ではないのか!?」

「撤収!! お、俺まだ死にたくない!!」

 

 ドタバタと急いで女から逃げ出す、大酒飲みモンスターズ。

息の合った逃げ様はまさに電光石火。あっという間に全てを置き去りにして、一目散に部屋から出て行った。

 

 部屋に残ったのは、河童と幽霊女の2人だけ。

実に奇怪な組み合わせであった。

 

「み、緑川君? その恰好は……何?」

「まぁ、色々あって……君こそ、何で戻ってきたんだ?」

「慌てて帰ったら、上着と靴を忘れちゃって……」

「あぁ、なるほどね」

 

************************************************************

 

「ん、……」

 

 西代は電灯の眩しい光によって目を覚ました。

彼女は上体を起こして、ゆっくりと周りを見渡す。

 

「あれ? 僕は何で部室に?」

「き、気絶したお前を俺が運んだんだ……」

 

 西代の疑問に、妙に顔が白い陣内が答える。

 

「あぁ、思い出したよ……しかし、酷いね陣内君。僕が怖いの苦手なのに、あんなドッキリしかけるなんて……」

 

 西代は準備室での彼らのイタズラを思い出して、不機嫌そうに顔をしかめた。

 

「い、いや、うん。本当にごめんな。もう二度としないから」

「わ、私もすごーーく、反省してるー……」

「わ、我もじゃ。今まですまんかった」

「……? どうしたんだい君たち? 悪いものでも食べたのかい?」

 

 気味が悪いほどに素直に反省する陣内達を見て、西代は首をかしげるのだった。



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陣内 vs 酒飲みモンスターズ

 

「最近、我らの扱いが雑になってないかの?」

「同感だね」

「えー、そう?」

 

 大学の講義が終わった夕方。3女は狭い部室内にて、カセットコンロを使いチョコレートを溶かしていた。

 

 明後日は2月14日、バレンタインデー。

日本企業の巧みなマーケティング戦略に翻弄された男女が、チョコレートを贈り送られる恒例行事。

 

 彼女達も慣例に習い、意中の男子……とまでは言わないが仲の良い男子の為、甘菓子作りに精を出していた。陣内はバイトが入っており、遅くまで帰ってこない。

 

「猫屋、この前の大事件を忘れたでありんすか?」

「あーー、あれねー……。やばかったよねー……」

 

 猫屋は顔を赤くして、新たに彼らの事件簿に刻まれた珍事を思い出す。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 平日の朝の事であった。陣内はいつものように彼女達より先に目を覚まして飲酒喫煙。その後、普段着に着替える為に男子更衣室まで足を運んだ。もちろん、部室を出る前に爆睡する酒飲みモンスターズを陣内はキチンと起こしていた。

 

 だが、彼女らは平然と二度寝した。講義に遅刻しないギリギリの時間に仕掛けられたアラームが無ければ、そのまま昼まで目を覚まさなかっただろう。最終警告を告げる音楽に飛び起きて、その場で着替え始める彼女達。女子更衣室を使っている時間の余裕は無かった。

 

 そこに、着替え終えた陣内が帰ってくる。

 半裸の美女達と酒の入った陣内。何も起こるはずはなく、硬直する女性陣を無視して荷物をまとめ『先に行っているからな』とだけ言い残し、陣内は何事もなかったように立ち去った。

 

 その時の反応は三者三様。顔を赤く染めて黙り込む安瀬、半狂乱で慌てふためく猫屋、特に動じていないが陣内の反応が不満そうな西代。

 

「僕らが悪かったから怒りはしなかったけど、彼の平然な顔は少し癪に触ったね」

 

 4月ほど前には部屋内で下着を干していたくらいで慌てていたのに、と西代は心の中で子供のように拗ねる。

 

「そ、そうであるな。し、下着姿を見られたくらい平気ではある、……が」

「だ、だよねー。でも、その後の陣内の反応がさー……」

「微妙だったね。お酒が入っていた故のリアクションの薄さだとは思うけど、"綺麗だ"くらいのコメントは欲しかった」

 

 恥じらいのある安瀬と猫屋。羞恥心がどこかに吹き飛んでいる西代。

意識の違いは多少あれど、自身の乙女のプライドが傷つけられたと感じているのは同じだった。

 

「凄い変なこと聞くけどさー? 私ってちゃんと可愛いよね?」

 

 自尊心が在るのか無いのかよく分からない疑問を猫屋は問いかける。

自分以上に容姿が優れていると思っている二人に判断して欲しかったのだ。

 

「猫屋は才色兼備(さいしょくけんび)さ。その運動神経とスタイルの良さが羨ましいよ。僕は背が低いからね」

「そう言う西代は花顔雪膚(かがんせっぷ)じゃな。白く透き通る肌が雪の様でありんす」

「えぇと、なら安瀬ちゃんは……優美高妙(ゆうびこうみょう)? 綺麗で教養があるし……四文字熟語とか詳しくないけど意味合ってるー?」

 

 大喜利の様な言い回しでお互いを褒め合う女子達。

だが、その傷のなめ合いの効果は不発に終わる。 

 

「……同性で褒め合っても、ね?」

「いや、嬉しくはあるでござるよ? ただ、やっぱり、のぅ?」

「わ、わかるー……」

 

 目のハイライトを消して、酒飲みモンスターズは深く落ち込む。

ここに、陣内の女たらしの効果が遺憾なく発揮されていた。

 

 陣内はチャラ男時代に養った口説きスキルのせいか、彼女たちが()()()()()()()()()を口にする事が度々ある。普段は辛口気味な彼の裏表の無い直球な誉め言葉。それは、恋愛経験皆無の糞雑魚喪女たちの脳内に甘い痺れのような愉悦の感情を生み出していた。

 

 生暖かい青春の風を、無意識的に彼女たちは気に入ってしまっていた。

 

 だが、最近は陣内が常に酩酊状態にあり甘酸っぱい雰囲気になる事は少ない。

もともと、酒、煙草、賭博、といった依存性の高い物に陥りやすい彼女達。

無自覚的に、信頼する異性からの承認欲求に餓えていた。

 

「うー、なんかモヤモヤするー…!!」

「なんだろうね、この気持ち」

「……なんでござろうな」

 

 彼に傷つけられた乙女の純情を癒す方法は二つ。

傷つけた張本人からの褒め言葉、もしくは陣内梅治の動揺した姿を見る事で溜飲を下げることだ。

 

「やってみるかえ? ()()()()()()()()

 

 碌でもない計画の発案をするのは、やはり安瀬だった。

干物女たちの目に火が灯る。悪だくみの時間だ。

 

「悪くないねー! いい憂さ晴らしになりそー!」

「僕も乗った。ここらで、僕達の本気を陣内君に見せつけておこう」

「うむうむ。そうであろう、そうであろう!」

 

 2人の溌剌とした返事を聞いて、安瀬は上機嫌に笑う。

安瀬は自分の企画を楽しそうに受け入れてくれる彼女達が大好きだった。

 

「では早速、今回の作戦の概要を練ろうかの!」

「とりあえずの目標はー、陣内に私たちが最高のレディーだって事を思い出させることだよねー?」

「その認識で異論はないよ。ただ、どうせやるなら陣内君に赤面くらいはさせたいね」

「んー、でもさー、酒が入った陣内は全然恥ずかしがらないでしょー?」

()()()があるぜよ」

 

 トラブルメーカー安瀬が自身の荷物スペースからある物を取り出す。

 

「アルコール依存症用の薬でござるよ」

「「……え?」」

 

 安瀬が提示したのはプラスチックの包装に包まれた錠剤だった。

 

「な、なんだい、それ?」

「嫌酒薬と呼ばれるものである。コレを服用した状態で酒を一滴でも飲むと、悪心、嘔吐、頭痛、動悸、呼吸困難を引き起こすというとんでもない代物でござるよ」

「うえーー!? 何その劇薬!?」

「コレを陣内に飲ませた状態で篭絡デートに出陣でござるよ」

 

 身も凍るような悪魔的な作戦。草津温泉の際は媚薬を盛ったが、今度は正真正銘の毒薬を盛るつもりの安瀬。普段から安瀬に負けずに滅茶苦茶な事をする猫屋と西代も今回は流石に引いていた。

 

「ど、どこで入手したのさ、その薬」

「通販サイトであるな。最近の陣内は飲みすぎじゃからの。ドクターストップ用に購入しておいた」

「あいかわずのとんでも行動力だねー……」

 

 陣内の身を案じての行動という事で、入手経路については2人は納得した。

 

「でもさー、それをどうやって陣内に飲ませるの? 精力剤と違って酒には交ぜられないよー??」

耄碌(もうろく)したか猫屋。我らが今作ってるものはなんぞ?」

「あ、なるほどー」

「チョコレートをオブラート代わりか。甘いからちょうどいいね」

 

 着々と練られていく陣内見返し大作戦。一番の難関と思われた服毒方法もバレンタインのおかげで解決してしまう。

 

「薬を飲ませた後は、4人でどこかに出かけて、各々にアピールタイムでも設ければ良い。あぁ、ついでに、()()()()()()()()()()()()()()競うか? ふふっ、まぁ我の圧勝だとは思うがの!」

 

 安瀬の流れる様な煽りにピクンと2人が反応する。

 

「安瀬、君の悪事に対する頭の巡りの良さは常々驚かされるよ。僕らに軽く挑戦状を叩きつける、その短絡的な思考にもね……!」

「やってやろーじゃん……! 酒の入ってない陣内なんて、軽く100回は赤面させてみせるよー……!!」

 

 お粗末な挑発に2人は簡単に乗った。

 

 彼女らは異性にモテた事はあっても自らアプローチをかけた経験は一切ない。それにも関わらず、自身満々そうに笑みを浮かべる三者。その根拠の無い自信はどこから来るのであろうか。

 

「言ったな! 吐いた唾は吞めぬでござるよ!!」

「そっちこそー!! お洒落には結構自信があるんだからねー!!」

「ははっ、2人とも実に愚かだね……! この僕に勝てると思っているのかい?」

 

 バチバチと熱視線を交差させる酒飲みモンスターズ。

 

「なら、最下位は罰としてアニメキャラコスプレで講義に出席でござる!!」

「「望むところだ!!」」

 

 陣内見返し作戦とやらは、何時の間にか女のプライドを賭けた戦いへとシフトチェンジしてしまった。

 

************************************************************

 

「はい、陣内。あーーーん!!」

 

 嫌な予感が止まらないッ!!

 

 今日は2月14日、バレンタイン。酒飲みモンスターズが俺の為にわざわざチョコレートを作ってくれた。それは別に良い。甘い物は好きだし、俺だって男子だ。バレンタインにチョコを貰う事は素直に嬉しい。

 

 しかし、その他の行動に強烈な違和感を感じる。

 

 今は早朝。彼女達は俺が起こさない限り、基本的に昼まで寝ている。その寝坊助達が俺よりも早く起床している。何かおかしい。

 

 加えておかしいのは、目覚めて直ぐの俺に安瀬がチョコを食べさせようとしている事だ。あ~ん、なんて普段は絶対に口にしないような言葉を添えて、だ。絶対におかしい。

 

 そして、何よりも意味が分からないのが()()()()()()()()()()()

白粉と紅を塗り、付け爪やネックレス等の装飾品を携え、皺ひとつない綺麗な服装。ファッションに無頓着な西代でさえ、恐ろしく綺麗に着飾っている。

 

 何かが、絶対に、おかしい。

俺の頭の中で大音量のサイレンが鳴り響いていた。

 

「待て、安瀬。チョコを貰うのは嬉しいがあ~んはちょっとな……。後、寝起きだから先に歯を磨きに行きたい」

 

 俺はもっともらしい理由を付けて逃避を試みた。

とにかく、今はこの場から逃げて情報を集めなければ。

 

 しかし、安瀬は俺の言葉の裏を読み取ったのか、優しい天使の微笑みを悪魔の形相へと変化させてしまった。

 

「ふんっ、大人しく食せばよいものを……猫屋、頼んだ」

「おっけー」

 

 何とか離脱しようとする俺に、猫屋がにじり寄ってくる。

彼女が傍によると、甘く優美な香りが鼻腔をくすぐった。軽く香水をつけているのだろう。

 

「陣内、ごめんね?」

 

 そう言うと、彼女は俺の手首の少し下を親指で押さえてきた。

 

「えいっ」

「い、っ!?」

 

 可愛らしい掛け声と共に、彼女が俺の痛点を的確に圧迫する。

神経に流れる耐えがたい痛みの信号。

 

「ほれっ」

 

 痛みによって開かされた口に丸いチョコが放り込まれた。

 

「よいしょっ!」

 

 次の瞬間、俺の顎を閉じるように猫屋の掌底が撃ち込まれる。

 

「ぶっ!!??」

 

 俺は口内のチョコを強制的に嚙み砕かされる事になる。混乱する俺に猫屋は更なる追撃を加えてきた。掌底を打った手をスライドさせ、俺の口を塞いできたのだ。

 

「僕の出番だね」

 

 今度は西代が俺の鼻を摘まんで空気の通り道を塞いだ。流れる様なコンビネーション。

 

「死にたくなかったら、そのまま飲み込んでね?」

(え、俺、殺されるのか!?)

 

 俺に殺意を感じさせる言葉を吐く西代。その目は黒く濁っていた。魔の西代さんモードだ。賭博でもないのに、何故か彼女は本気を出して、俺にチョコを食わそうとしていた。

 

 訳が分からないまま進む拷問の様なバレンタインデー。

俺は西代の脅しに即座に屈し、口内のチョコを飲み込んだ。せっかくの甘味だったが味わう余裕は無い。

 

 食道が動いた事を確認して、西代と猫屋がようやく俺を開放した。

 

「ぶはっ!! ……朝からいきなりなんなんだよ!? ふざけんじゃねぇぞ!!」

 

 俺は珍しく本気で彼女たちに怒号を飛ばした。起床してすぐにこのような扱いを受ける覚えはない。

 

「いやー、流石にやりすぎかなー?」

「まぁ、仕方ないだろう? 僕らの善意を疑った陣内君が悪いよ」

「そうであるな!!」

 

「許すかどうか決めるのは俺だろうが!! いいから説明しろ! 俺に何を食わせやがった!!」

 

 自分勝手に話し出す彼女達を大声でまとめ上げる。

彼女らのイタズラにしては強引で暴力的すぎる。ただのチョコではないヤバい物を食わされた事は確実だった。

 

「嫌酒薬、でござるよ。お主なら知っておろう?」

「……っ!? あのアル中殺しのやべーヤツか!?」

「おー凄い、本当に知ってるんだねー。酒に関する知識量だけは凄まじーね」

 

 俺は一度だけあの薬を飲んだことがあった。

 この大学のセンター試験の1月前。どうにも受験勉強に身が入らずに酒ばかり飲んでいた俺は断酒する為に自ら嫌酒薬を購入して服用した。効果を試すためにウイスキーのロックをダブルで飲んだが、俺は自分の軽率な行動をすぐに後悔した。丸1日、重度の二日酔いと同等の苦痛を味わう羽目になった。1日をほとんどトイレで過ごし、胃の中が空っぽになるまで吐き散らした。

 

「な、何でそんな物を!?」

「あー、ほら、陣内は最近お酒飲みすぎだからー心配になってー」

「僕らは休肝日が必要だと判断したんだ。それと、鬱憤の解放に気保養(きほよう)への招待もね」

「気保養? ……要するに遊びの誘いか?」

「正解である! 最近は色々と忙しかったからの! 今日と明日は遊びまくるでやんすよ!!」

 

 今年のバレンタインデーは土曜日だ。安瀬の言う通り、二日間は遊び費やすことができる。俺のバイトは人が足りていたため土日は休みだ。だが、彼女たちはそうではあるまい。

 

「お前らバイトは?」

「「「無理言って、他の人にシフトを変わって貰った」」」

「………………」

 

 嫌な予感は止まっていない。彼女たちは生物学的に女性に入るがバレンタインデーなどというイベントに張り切る類の女子ではない。どうにもきな臭い。俺だけが知らされていない悪だくみの真っ最中。そんな感じがする。

 

 ……だけど、まぁ、しかしな。

 

 俺は不思議とこの誘いを断る気が起きなかった。理由は彼女たちの装いにある。

何か企んでいるようだが彼女たちは本気で着飾ってきた。そして、俺は男だ。彼女たちの心意気に誠実に答える義務がある。

 

「はぁ、分かった。10分……いや、20分待ってくれ」

「ん? 何でじゃ?」

 

 安瀬が不思議そうな顔で首を傾げた。

 

「お前らの横を歩くんだ。身だしなみはキッチリと整えないと、な?」

「あー、なるほどねー。別に気にしなくていいのにー」

「そうはいくかよ。鏡見たのか? ちょっと凄いぜ、今日のお前ら」

「凄い? どういう意味だい?」

「高かったろ、その新しい服。全員、よく似合ってるよ」

「「「……!!」」」

「とりあえず、顔を洗ってくる。お前らは先に車で待っててくれ」

 

 俺はそれだけ言って、部室から出て行った。

 

 変な物を飲まされたが、仕方ない。酒が飲めない事は死ぬほど残念だが、別の楽しみを見出そう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ただの2連休のつもりだったが面白くなってきた。

 

************************************************************

 

「僕の服は気づくとしてさ、2人の方にはよく気付いたよね?」

「私たちの事、案外ちゃんと見てるよねー……」

「ふふっ、常日頃から我らの美貌に目が釣られておるという事じゃの!」

 

 



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安瀬だけの気持ち

 

 瀟洒(しょうしゃ)な美女たちには似合わない小さな軽自動車。運転手もまったく釣り合っていない、凡庸な男。彼女たちとはいつも一緒にいるが、今日は随分と居心地が悪い。本気で身だしなみを整えたが、まるで太刀打ちできていないせいだ。

 

 赤信号で停車したため、横目でチラリと助手席の安瀬を見る。

 

 体のシルエットが浮き出る薄手の黒ニット。膝まである白のロングスカートと黒タイツ。その下にはモデル顔負けのグラマーなスタイルをさらに際立たせようとするピンヒール。

 

 ここまで可憐な安瀬は、松姉さんとの騒動以来だ。

外窓に肘をついて外を眺める姿が何とも絵になる。

 

「なぁ、何で今日はそんなに気合を出してるんだ?」

「ん? まぁ、拙者とて年頃の女子でありんす。偶には綺麗に見られたいという事じゃ」

「ふーん、そんなもんか」

 

 俺はとりあえず納得した風を装って見せたが、内心の疑念は解消していない。彼女1人だけがお洒落していたのならば、今の答えで納得はできていた。しかし、後部座席に座っている2人も今日は何故か可憐な装いだ。特に、普段は白シャツと黒ズボンという簡素な服装を好む西代まで着飾っている事は異常事態だ。

 

 酒飲みモンスターズは確実に何かを企んでいる。そして自意識過剰でなければ、それは俺を主軸とした計画であるだろう。だが、サプライズ的な祝い事である可能性は薄い。今日はバレンタインデーという特別な日ではあるが、チョコは先ほど最悪な形で頂いた。

 

 俺は自力で彼女たちの悪しき企みを防ぐ必要がある。そうしなければ碌な事にはならないだろう。しかし、その問題は置いておき安瀬には一つだけ言っておきたい事があった。

 

「似合っているとは思うけど、そんな背の高いヒールなんて履き慣れてないだろ?」

 

 安瀬は普段ヒールの類を履くことはない。動きやすいシンプルな女性靴を選ぶ傾向にある。それに比べて、ピンヒールはひどく不安定で頼りない物だろう。少しだけ彼女の事が心配だった。

 

「初めて履いたがグラグラするでありんす……」

「危なっかしいな、気をつけろよ?」

「そうでござるな。もし転びそうになったら()()()()()()ぜよ」

「……まぁ、それくらいなら」

「うむ! 頼りにしておるからの!」

 

 足でも挫いたら大変だし、その程度の迷惑なら幾らでも請け負おう。

 

「あー……、なるほどねー。その手があったかー……」

「酒の入っていない陣内君に、体を使っての直接攻撃か。流石安瀬、中々考えて来てる……」

 

 後ろで猫屋と西代がコソコソと何かを話している。

もしかして、今の会話に悪だくみの要素があったのだろうか?

 

「なぁ、今日と明日はどこに行くんだよ?」

 

 彼女達の悪企みを推測するための情報が欲しく、俺は彼女たちに今回の遊び先を問う。車を運転しているが目的地は知らされていない。カーナビに入力されていた目的地の案内通りに走らせているだけだ。

 

「今日は昼過ぎまでショッピングじゃな!」

「……なんか随分と普通なんだな」

 

 少しだけ身構えていた俺は拍子抜けしてしまった。彼女たちのことだから、飲めない俺を酒のつまみにしての居酒屋巡りといった拷問行事を企画しているのではないかとまで思っていた。

 

「今日はそうかもね。でも明日は凄いよ」

「凄い? どこに行く予定なんだ?」

「明日はー、山梨の遊園地で遊びまくる予定だよー!」

「おぉ、まじか」

 

 山梨には様々なアトラクションが楽しめる世界的にも有名な遊園地がある。子供から大人まで平等に楽しめる大型アミューズメント施設。時速180キロで爆走するジェットコースターなどがあるくらいだ。

 

 遊園地は結構久しぶりなので楽しみではある。……あるのだが。

 

「まぁ、凄い楽しみだけどさ、本当に普通に遊びに行くだけに聞こえるんだが?」

「え? 何言ってるのー? 普通に遊びに行くだけに決まってるじゃーん?」

「……」

 

 どうにも疑わしい。山梨と言えばブドウの名産地としても有名だ。ブドウと言えばワイン。女の感性が死に絶えている酒飲みモンスターズなら遊園地よりもワイナリー巡りを優先するように思える。

 

 ショッピングと遊園地。まるで付き合って間もないカップルのデートプラン。酒飲みモンスターズが立てたにしては平凡すぎる予定だ。やはり、ただの旅行と言うには何か違和感がある。常に警戒を怠らず、彼女達の動向を見張り、緊張感をもって楽しむことにしよう。

 

************************************************************

 

 県外にある超大型ショッピング施設。中のテナントとして入っている企業は優に50種は越えている。以前に西代の誕生日プレゼントを購入した場所とは規模が違う。

 

 立体駐車場に車を止めて、俺たちは早速店内を回り始めたわけだが……

 

「なぁ、猫屋と西代はどこに行った?」

「さぁ? 私は知りませんよ」

 

 ウインドウショッピング開始早々に2人とはぐれてしまった。酒飲みモンスターズの協調性の無さには呆れを通り越して驚かされるばかり。どうやればこの短時間で迷子になれるのだろう?

 

「それとな、何でそんな畏まった口調なんだ? 普段のグチャグチャした語尾はどうしたんだよ?」

「失礼ですね。私の口から発せられる言葉は大日本帝国よろしくのウィットに富んだ、コケティッシュで蠱惑的な──」

「分かった。分かったから」

 

 早口の弁明を適当にあしらう。

 

 ござる、である、ありんす、やんす、(そうろう)、ぜよ。そこに頻度の少ないレアな"くりゃれ"と"おじゃる"を含めた系8種類の語尾。それに加えて時代錯誤な言い回しをする話し言葉。安瀬はその奇天烈珍妙な口調をかなり気に入っている……はずなのだが、今は何故か外行き用の口調になっている。冷たく距離を感じさせる隙の無い敬語だ。

 

「はぐれた2人の事は放っておきましょう」

「え、でも──」

「どうせゲームセンターでパチスロでも見つけて遊んでいるのでしょう」

「……西代がいるならあり得る」

「それに、後で連絡を取れば難なく合流できますから」

「まぁ、それもそうか」

 

 パチスロかは分からないが、きっと何か気になる店を見つけて2人で入って行ったのだろう。別行動にはなるが楽しんでいるのなら別にいいか。

 

「で、何か見たい物でもあるのか?」

 

 この施設で買い物がしたいと言い出したのは彼女達だ。

何か欲しい物があるに違いない。

 

「酒ですね。火災でかなりの数が燃えてしまいましたから」

「なるほど、補充するわけか」

「ですね。ついでに、珍しそうな物があればドンドン開拓していきましょうか」

 

 そう言って、安瀬はニッと笑って見せた。快晴の青空を思わせる元気溢れる笑顔。

口調こそ大人しいが性根の部分は変わっていない様に思える。

 

「だな。目利きを頼むぜ、日本酒大臣」

「お任せください」

 

 俺たちは酒売り場まで足を延ばすことにした。

 

************************************************************

 

 陣内と安瀬のはるか後方。二人に隠れるようにしてコッソリと猫屋と西代は彼らを監視する。双眼鏡を片手に彼女たちは友の女子力を測定しようとしていた。

 

「おー、安瀬ちゃん、口調を変えて完全に本気モードだねー」

「普段とのギャップでも狙っているのかな? 口調さえ直せば、安瀬はただの美女だからね」

「アハハ! 行動の方も直さないとだめじゃなーい?」

「ふふっ、そうだね。口調を直してもトラブルメーカーのままだった」

 

 安瀬の袖には小型の集音マイクが仕掛けられている。

安瀬魔改造計画の時と同じように猫屋と西代は彼らの動向を逐一チェックする事ができた。

 

「しかし、酒売り場か……トップバッターを譲ったのは失敗だったかな。いかにも陣内君が喜びそうな場所だ」

 

 今回の女子内での魅力度争い。様子見に徹しようとする2人を置いて先陣を切ったのは安瀬であった。

 

「えぇー? 確かにそうだけどさー、ただのお酒選びであの陣内を赤面させるって難しそうじゃなーい?」

「……言われてみればそうだね。やっぱり最終的には直接的なボディタッチで攻めるのかな?」

「その手腕に乞うご期待っ、て感じだよねー」

 

************************************************************

 

 様々な食材が並んだ食品売り場の一角にあるお酒の販売コーナー。陣内と安瀬はそこで和気藹々と買い物に熱中していた。彼らは酒について語らせれば丸1日は話し続けられるほどの酒好き。2人の会話も当然盛り上がっている。陣内だけが知らないデートもどきの経過は順調そうに見えた。

 

 陣内はプラスチック状の板で区切られたあるスペースを指差して声を上げる。

 

「山口の日本酒コーナーなんてのがあるぜ! かなり遠いはずなのに品揃えが凄いよな、この酒屋!」

「確かに珍しい……あ、白狐がありますね」

白狐(びゃっこ)?」

「実家で飲んだことがあります。フルーティーな口当たりなのに、後味がキレのある辛口でとても美味しいです。確か湯田温泉の白狐伝説に(ちな)んだお酒です」

 

 スラスラと淀みの無い口調で酒の解説を行う安瀬。

普段の彼女の口調からは考えられないほど清んでいて凛としている。

 

「へぇ、流石詳しいな」

「どうも。……買いますか?」

「そうだな! せっかくだし買って帰るか! お前が美味しいって言うのなら味は間違いないだろうし」

 

 ニコニコといつもよりテンション高く返事をする陣内。

今は酒が飲めないとはいえ、彼は骨の髄からの大酒飲み。すでに脳内ではシュワシュワとした飲酒欲求が絶えずあふれ出ていた。

 

 その様子を見て、安瀬は嬉しそうに微笑む。

 

(将を射んとする者はまず馬を射よ、とはまさにこの事であるな! ふふふ、逢引の基本は相手の趣味に合わせる事とみたり! 悪くない雰囲気でござる!)

 

 今回、安瀬が考えてきた作戦はシンプルな物であった。陣内の気分を最大限良くしてやった後、不意打ちぎみにそのグラマラスな体を押し付けるだけ。ピンヒールで伏線をすでに張っているため、不自然に思われることもない。

 

(まぁ、体に頼るしかないとは我ながら情けない話ではありんすが)

 

 安瀬に恋愛経験は一切ない。男心をくすぐる甘酸っぱい会話技術は当然持ち合わせていないため、体を使って男に甘え媚を売る術しか思い浮かばなかった。

 

「どうしたんだボーっとして?」

「いえ、別に……それより、あっちには洋酒コーナーがありましたよ。ここは品揃えが豊富なので珍しい物があるかもしれません」

「おぉ! 見に行こうぜ!!」

 

 まるでトランペットをショーケース越しに眺める子供のように目を輝かせて陣内は店内を回る。

 

「あ、もう……待ってください」

 

 その三歩後ろを安瀬はついていく。

 

 はしゃぐ陣内の様子を見て、安瀬は仕掛けるタイミングはここだと感じ取った。彼女は斜め後ろから素早く陣内との距離を縮める。

 

「おっと、失礼しますね」

 

 そう言うと、できるだけ自然に陣内と腕を絡める。安瀬は自身の優れた容姿を完璧に把握していた。口調を正して、精神と物理の距離を隙間なく埋めてやれば、どんな男でも手玉にできる自信があった。

 

(……まぁ、色仕掛けなどあまり好きではないが、勝負とあれば仕方ないでありんす)

 

 安瀬は小さく溜息をつく。陣内に身体を預ける事が嫌なのではない。『陣内は安瀬にとって特別な存在である』。そのため、陣内が他の男共と同様に自身を好色な目で見てしまうことがとにかく嫌だった。普段から彼は自分たちをそのような目で見ない様に努めている事もその気持ちに拍車をかけた。

 

(これで動揺しない男などおらんであろうしな)

 

 彼女の豊満な胸が陣内の腕に押し付けられる。

特別な男を自らの手で(おとし)めるような行為。

 

(……)

 

 至極身勝手な話ではあるが、安瀬は心のどこかで陣内が腕を振り払い『はしたないから止めろ』と怒ってくる事を望んでしまった。

 

(むぅ、我ながら本当に身勝手な──)

「……ちょっといいか?」

 

 だが、陣内梅治はその展望を大きく超えてみせる女たらしである。

 

「え、あ、どうかしましたか?」

 

 安瀬の方に振り返り、真剣な表情で安瀬を見る陣内。

その表情に一瞬、安瀬は面喰う。もしかして本当に怒られるのだろうか? と安瀬は少しだけ身構える。

 

「その外行き用の口調……なんでずっと使ってるんだ?」

 

 陣内の口から出た言葉は安瀬の予想外の言葉だった。

 

「え? え、えっと、ですね……特に理由なんてないです」

 

 突拍子の無い言葉に動揺しながら、安瀬は咄嗟に嘘をつく。

普段の口調は女らしくないので止めておいた、とは言えなかった。

 

 当然、陣内はそのような取って付けた嘘を真には受けない。

 

「グチャグチャした語尾、なんて言ったから怒ってるのか? ……悪かったよ」

「そ、それは違います!」

 

 安瀬はブンブンと顔を振って必死に否定した。

自分達の悪だくみで陣内が謝ることは流石に申し訳なかったからだ。

 

「なら、そろそろ戻してくれよ。……お前の口調、割と気に入ってるんだ」

「え?」

 

 呆気にとられたような声が安瀬から零れる。

 

「それに、ちょっと、な。……ずっとそれだと、なんか、()()()()()()。距離を感じるって言うか……まぁ、そんな感じで」

 

 陣内は少しだけ恥ずかしそうに目をそらし、ぶっきらぼうに呟いた。

安瀬のおかしな口調は心を許した者の前でしかださない特別な物。いわば信頼の証。

それが急に感じられなくなり、陣内は不満毛な様子だった。

 

 見方を変えれば、"甘え"とも取れる彼の言葉と表情。

 

 

 その態度が安瀬の心をドロドロに融解させる。

 

 

(…………やばい、やばい、やばい!!)

 

 安瀬は絡めた腕を強く引き寄せて、その腕に顔を隠すように埋める。

 

「お、おい?」

 

 陣内は急に黙り込んで動かなくなった安瀬を不思議そうに見降ろした。

 

************************************************************

 

 私は顔の口角が上がっていくのを止める事ができなかった。

 

 ニマニマとだらしなく頬が緩み続ける。その変な顔を見られたくはなかったので、陣内の腕に顔を押し付けひた隠す。胸の奥から湧き出てくるのは淡い高揚感。体の方では発火しそうなほど熱く血潮が乱れ狂う。心臓が早鐘を鳴らして異常事態を告げていた。

 

(う、ぅ、ううう~~~~……!!)

 

 意味をなさない言葉が心の中で反響する。

 

 (たま)らなかった。私の身勝手な策略を裏切る形で、陣内は女らしくないと思っていた素の自分を強く肯定してくれた。それが、何故か、どうしようもなく胸を焦がしてしまう。陣内の手によって胸の奥に暖かい液状の何かがトクトクと注がれているようだった。

 

「くひゅ、うひひ……」

 

 気持ちの悪い声が勝手に漏れ出てしまった。

おかしい。ただの言葉でここまで心をかき乱されるなんて絶対におかしい!!

 

「おい、本当にどうした? 大丈夫か?」

 

 何時まで経っても顔を上げない私を見て、陣内が心配そうに声をかけてきた。

早く何か返事をしなければ、変に思われてしまう!

 

「ふ、ふへへ、何じゃお主。ず、随分と可愛らしい事を言うではないか」

 

 彼の要望通りに口調を戻して、必死に口角を抑えながら私は陣内を精一杯揶揄ってみた。上手く表情を取り繕えているかは分からない。

 

「……う、うっせ」

 

 私の軽口に、忌々しそうな顔をして悪態をつく。

その顔ですら今は目が離せそうにない。

 

「お前の敬語口調、冷たい感じがして俺に使われるのは嫌なんだよ」

「っ!」

 

 

 私だって……我だって自分を偽ってお主と逢引するのは嫌である!!

 

 

 急いで袖に仕込んだ集音マイクのスイッチを切った。ここから先は猫屋達には聞かれたくは無い。()()()()()()()()()()、自分だけの物にしておきたかった。

 

 ギュッとさらに強く腕を絡めとった。そのまま彼がいなければ立っていられないくらいに体を預ける。先ほどまではあまり気乗りしなかった色仕掛けであるが、今度は全力で慣行する。今は陣内に自分を強く意識して欲しかった。

 

「ちょ、おまっ!?」

 

 我の目論見通り、陣内は目を見開いて強く動揺する。

細く線を引いたようなカッコいい目つきが台無しではあったが、真っ赤な顔がどこか愛くるしい。

 

「ヒールを履いてて歩きにくいのは分かるけど、腕を絡めるは止めろよ!! う、う、動きにくいだろうが!」

「ふひひっ、なんじゃ陣内? これくらいで照れおって」

「わ、わざとやってんのかテメェ……!?」

 

 あぁ、そうじゃ、もちろんわざとでありんす。

だからもっと我を意識しろ、この朴念仁(ぼくねんじん)め!! 今日と明日は目に物を見せてくれる!!

 

「約得であろう? さ、うだうだ言ってないでとっとと行くぜよ。まだまだ酒は買い足りないでありんす!!」

「あ、おい……!!」

 

 そのまま、陣内を引っ張って強引に逢引を再開させる。腕から感じる彼の体温が非常に心地いい。

 

 とりあえず、後の時間は勝負の事なぞ気にせずに陣内と2人きりの買い物を楽しみたい気分であった。後方で我らを見張っている2人は強敵であるが、1ポイントは確実に取ったので今はこれで満足しておこう。

 



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正体不明の感情

 

 バクバクと異常な心拍数で跳ねあがる心臓。その原因は先ほどからずっと俺の腕に当たっているお椀状の塊のせいだ。

 

 安瀬に視線を落とせば、胸の間にできた深い柔肌のドーバー海峡が俺の意識を奈落の底に引きずり込もうとする。酒が入ってる状態ならどんなに深い海溝でも余裕で潜水して浮上する自信はある。ただ、今は本当にまずい。

 

 柔らかいし、いい匂いがするし、可愛いし、気も合う。心の底から認めよう。安瀬は恐ろしいほど愛嬌のある魔性の女だ。

 

 もうこの際、死亡覚悟で酒を飲んでしまいたい。そんな、破滅的な気分にさせられている。ただ、そういう訳にもいかない。

 

 抱き着かれている方の手をズボンのポケットに収納し、その中で全力で太腿を抓る。痛みで煩悩を打ち消さないと、色欲にまみれた頭で変な事を口走りかねない。

 

「あ、あの、安瀬桜さん? マジでちょっと離れてくれません? き、距離間がおかしいと思うんですが?」

「敬語はやめるでありんす。なに、お主と我の仲ではないか。何も恥ずかしいことはなかろう?」

 

 そう言うや否や、彼女は腕に抱き着いたまま、手を入れていたポケットに自身の手を突っ込んできた。小さなポケット内で重なる俺と安瀬の手。柔らかく白魚のような彼女の手が優しく絡みつく。

 

「っ!?」

 

 そのせいで、俺は太腿を抓る行為を中断せざる負えなかった。さらに近づく物理と心理的な距離。もはや、俺のリビドーは臨界点を突破しようとしていた。

 

「ん? ふふっ、ポッケの中で何かしておったのかえ?」

 

 姦計(かんけい)

 安瀬の可愛らしい悪戯顔を見て、俺の頭内に浮かんできたのはその言葉だった。理性を焼き焦がす彼女の女夢魔じみた振る舞いのおかげで、俺はようやく今回の計画の趣旨を理解する事ができた。

 

 酒飲みモンスターズは俺の事を(はずかし)めて酒の(さかな)にでもするつもりだ。

 

 嫌酒薬を喰わせたのは、アルコールという名の精神無敵盾を取っ払うため。そうして無防備になった俺の情緒を無茶苦茶にする魂胆なのだろう。

 

 事実、俺の心は既にぐちゃぐちゃにかき乱された。親愛と愛欲の狭間をさまよう俺の意識は興奮のあまりに変調している。具体的な症状を言えば視界がピンク色に歪んでいた。

 

(な、何でそんな嫌がらせを……?)

 

 思い当たる理由は酒飲みモンスターズを性の対象として見ないようにするため、最近彼女達を女扱いしていなかった事くらいだ。女のプライドを取り戻す為の催しというのなら他の男にやってくれ。俺はもう十分、彼女たちが魅力的なことを理解しているつもりだ。

 

「さて、このまま服屋にでも立ち寄るでござるよ!」

「え、服?」

 

 先ほど買い込んだ大量の酒は全てコインロッカーに預けてきた。なので、まだまだ荷物が増えても平気ではあるが……

 

「お前、今着てる服を買ったばっかりだろ? また新しいのを買うのか?」

 

 火災で服が燃えたのは猫屋だけだ。確かに、女性と言う生き物は服など幾らでも買い揃える生態をしている。しかし、安瀬は熱心に服にこだわる性分ではない。

 

「いや、なに……せっかくじゃからな。お主に服を見繕うてほしくてのぅ?」

「俺に?」

 

 服屋にあまり関心の無い俺とは相反して、安瀬は積極的だった。彼女は俺の耳元に寄って小声で囁く。

 

「お主が好きな服で着飾って欲しいでありんす」

 

 媚び、甘える蠱惑的な色声(いろこえ)

 

「どの様な格好でもかまわん」

 

 ゾクゾクと背筋に痺れが走る。

 

「どうか、我を好き勝手にしてくりゃれ?」

 

 妖艶な彼女の提案によって、一瞬で頭が煮えたぎった。

安瀬以外の景色がピントがずれた様にぼやけてしまう。

 

「あ、お、お前な! そういう事は冗談で言うもんじゃ──」

「別に冗談ではない。今はすこぶる気分が良くての。お主の趣味に付き合ってやりたいと思っただけじゃ」

「そ、そうなのか? ……ならゴスロリとかはどうだ? お前なら凄く似合うと思うんだけど」

 

 ……? あれ、なんか変な事を口走ったか?

 

「え、お主、そんな服装が好みなのかえ? 結構ニッチなセンスしとるのぅ?」

「あの女性の可愛さを凝縮した感じが、とにかく俺の琴線に触れてだな」

 

 グルグルと思考が瞑想している。気が付けば、俺の中で酩酊とはまた違った心地よさが身体中に広がっていた。

 

「……ふふ、よいぞ? 本当に好きに着飾ってくりゃれ」

 

 妖艶に彼女は笑う。

その笑みを見て、思わず喉を鳴らして唾液を飲み込む。

 

「さぁいざ、ファッションショーに出陣でありんす」

「あ、あぁ」

 

 ……いいのか? 既に俺の心の奥底には汚泥のように粘りついた欲望の沈殿物が堆積している。安瀬のロリータファション姿など見てしまえば、ちょっと、本当に、なんか、危険な領域に思考が突っ込んでいきそうだ。

 

 思考が纏まらない。視界がグニャグニャと歪んで胸が苦しい。

もう何も考えられな──

 

「「ストーープッッ!!」」

 

 俺の不安定な思考は急に現れた猫屋と西代の大声で断ち切られることになった。

 

「はい! 安瀬ちゃんの時間終わりーー! 次は私の番だからねー!」

「そう言う訳だ! 一刻も早く、()()()()()()()()()陣内君から離れてもらおうか!」

「あ、貴様(きさん)ら!」

 

 西代が何かを叫びながら俺から安瀬を引き離す。

唐突に現れた彼女たちのせいで、頭の中が完全にパニック状態に陥っていた。

 

「はいはーい! 陣内は私と一緒にちょっと休憩しましょーね!」

 

 猫屋が俺の手をつかんでくる。柔らかくスベスベしていて恒久的に触っていたくなる感触だ。俺はその感触に追従するように、猫屋に引っ張られていくことにした。

 

 あ゛ー、なんか頭がグルグルする。

 

************************************************************

 

「まったく……やりすぎだよ、安瀬」

 

 呆れたような顔をして、西代は不満げに声を漏らす。

 

「陣内君、我慢のしすぎでパンク寸前だったじゃないか」

 

 酒屋に入ってから安瀬はずっと陣内にくっつき、自分の武器を全力全開で使用して陣内を魅了していた。西代はその過激すぎた安瀬のスキンシップを咎める。

 

「君の体は、酔っていない陣内君には刺激が強すぎるよ」

「う、うむ、確かに少し遊びすぎたでござるよ」

「遊び……ね。マイクのスイッチまで切って、いったい陣内君とどんな風に遊んでいたと言うんだい?」

 

 意地の悪い西代の質問。西代と猫屋は、その凶悪な体を利用して陣内を弄ぶ安瀬の悪魔的な行為を観察していた。楽しそうに陣内を振り回す安瀬と、終始顔を赤くした陣内。

 

 2人は心中で『そこまでして勝ちたいか』と競争相手の執拗な色仕掛けに(おのの)いていた。

 

「おっと、スイッチが切れていたでござるか。すまんすまん、気づかなかったでやんすよ」

「……まぁ、そう言うのなら、そういうことにしておこう」

 

 西代は友の怪しい言い訳を特に追求することなく流した。

それよりも西代にはこのふざけた催しに巻き込まれた陣内のために話しておきたいことがあった。

 

「それと、ちょっとルールを改訂しようか」

「改訂?」

「身体的スキンシップは一回までにしよう。じゃないと彼が少しかわいそうだ」

 

 顔を真っ赤にして自身の欲求と戦う異性の友人の姿を思い出して、西代は少しだけ申し訳ない気持ちになっていた。安瀬は陣内を本気で誘惑していたわけではないのに彼だけ欲求を抑えるのは不公平だ、と西()()()思ったのだ。

 

「まぁ、我ながら結構激しめに振り回した自覚はあるでござるが、随分と過保護であるな?」

「自己防衛のためでもあるのさ。陣内君のさっきの目、まるで血に飢えた獣の目つきだったよ? 多目的トイレに連れ込まれて処女を喪失したいと言うのなら、僕は別に構わないけどね」

「しょっ、……西代、さてはお主、飲んでいるな?」

「ばれたかい? カンパリのソーダ割りを少しね」

 

 そう言って、西代は小さなバックの中に入った水筒を見せつける。

 

「度数はそんなに無いけど、柑橘系の甘い匂いがするから香水代わりに適切だろう?」

「まぁ、そうであるな」

「あぁそれと、猫屋との協議の結果、安瀬の"陣内君動揺ポイント"は1点だけとさせてもらうよ」

「うえ!? な、なぜに?」

「乳房が当たってる間、彼はずっと狼狽えてたからさ。カウントととしては一回だけになるだろう?」

「……そ、そうはっきりと言われると、面映(おもは)ゆいでござる」

「ふふふ、ちょっと暴走しすぎたね」

 

************************************************************

 

 俺はコインロッカーの横にある休憩用ベンチに座り込み、下を向いて自身の中で荒れ狂う欲望と戦っていた。

 

 猫屋はここにはいない。煙草を切らしていたので、俺は彼女に買いに行ってくれるように頼んだためだ。正直、今の性欲ガンギマリ状態では猫屋がそばにいるだけでキツイ。それを察した訳ではないだろうが、猫屋は特に不平も言わずに了承してくれた。早く、思考を鈍化させる魔法の煙を肺に満たしたい。煙草では性欲は薄れないが、無いよりはましだった。

 

(そういえば……)

 

 俺はのっそりとした動作で立ち上がり、傍にあるコインロッカーを開いた。そこには安瀬と一緒に購入した大量の酒類が転がっている。

 

 安瀬……可愛い、胸、柔らか——

 

 頭をぶんぶんと振って、フラッシュバックした邪な気持ちを霧散させる。

どうにも、自意識が正常に定まらない。

 

 コインロッカー内の酒群からノンアルコールのビール缶を引き抜く。

ジュース代わりに飲用するため先ほど購入しておいたものだ。今は興奮のせいか無性にのどが渇いている。気分転換も兼ねて、爽やかな炭酸でスッキリとしたい。

 

「んっぷ、………………………………ん?」

 

 ノンアルコールビールを勢いよく煽ってすぐの事。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のを感じた。

 

「え、は? え……?」

 

 自分の体の異常事態に激しく困惑する。俺が飲んだのは、味こそビールそっくりだがその実は正真正銘、度数0%の麦ジュース。こんなもので俺の体質が発動するわけがない。

 

「…………………………」

 

 冷めて落ち着いた脳で考えてみると、俺のアルコールを摂取すれば性欲が湧かなくなる体質は、厳密にいえば体質ではなく精神障害に分類される。つまり大雑把に表現するなら気持ちの問題。

 

 まさか、酒と認識していたらなんでもいいのか?

 最近のノンアルビールはすごい。酒精こそ感じないが、麦の苦みと炭酸の切れ味はまさにビールそのもの。俺の酒センサーが誤審を起こす事も納得できる。

 

 今まで、酔いだけが性欲を減らす事のトリガーになっていると思っていたがどうやら違ったようだ。今の現象から解析する限り、酒を飲む行為自体が俺の精神無敵盾を起動するトリガーになっている。

 

 突如として発見された、俺の新しい魔除けの清酒。

これは世紀の大発見に思えた。

 

 俺は購入した全てのノンアル缶を開封して一気に飲み下した。

 

俺の性欲を抑える要因が、酔いの深度だけではなく、飲んだ酒の絶対量に起因しているのなら、これで全ての邪な感情を抑えることができるはずだ。

 

「……げっふ!」

 

 一気に3本の缶を飲み干した俺の視界は青々として澄み切ったものに変わっていた。安瀬のたわわを想像しても心の底からどうでもいいと思える、男としては終わっている精神状態。

 

 突如として俺に舞い降りた、精神的ウルトラC。

 

 先ほどまでとは別種の強い高揚感。重力を発見した時のアインシュタインもこのような気持ちだったのだろう。

 

 興奮のあまり、3本の空き缶をまとめて握り潰した。 

 これで今回のあいつらの企みは水の泡のように消え去ることになる。

この精神状態にある俺は無敵だ。今なら例え全裸の女が目の前にいても、冷静に警察に通報できる自信があった。

 

「おまたせーー!!」

「っ!」

 

 猫屋が煙草を手に持ち帰ってきた。

急いで空き缶をコインロッカー内に詰め込み鍵を閉める。

 

「陣内? なんかしてたのー?」

「いや、何も」

「……あれー? なんか顔色が随分と良いねー? さっきまでグルグルと目を回して辛そうにしてたのにー」

「あぁ、もう治った。はは、何だったんだろうな、あれ?」

 

 俺は先ほどの興奮状態を適当に誤魔化した。

安瀬に心をかき乱されたなど恥ずかしくてとても言えなかった。

 

「ふーーん……なら、煙草は要らなかったー?」

「そんな事はない」

 

 ニコチンを注入したい気分ではあった。

 

「わざわざありがと、喫煙所に行こうぜ。お前も吸うだろ?」

「あー、私はさー……」

 

 猫屋は喫煙の誘いに対して曖昧に返した。

普段の彼女なら、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく誘いに乗ってくるはずだ。

 

(あ、臭いか……)

 

 女と煙は相反している。煙草の煙は一般的にいい匂いではない。今日の猫屋は甘い香りの香水を身に漂わせている。その状態でタバコを吸うのは躊躇われるのだろう。

 

「やっぱり、俺も煙草はいいや」

 

 俺は煙草の匂いを気にしない所か割と好きな方だが、この場合、俺の気持ちはどうでもいい。ヘビースモーカーの猫屋がお洒落のために煙草を我慢していると言うなら、その努力を無駄にするのではなく尊重しよう。

 

「それより他の2人は?」

 

 話題を煙草の事から逸らすため、今いない安瀬と西代の所在を問う。

 

「あ、え、あーー……、2人は歴史物の短編映画を見に行ったよー」

「へぇ、そう」

 

 なるほど、表向きの言い訳はそれか。確かにこのショッピングモールには映画館も存在する。歴史物というチョイスも俺らの気を引かない。

 

「短編なら上映時間は1時間と少しか。なら、それまで適当に時間を潰すか」

「? なーんか、随分と物分かりがいいねー? 普通、遊びの最中に勝手に映画を見だしたら怒らなーい?」

「あいつらが勝手なのはいつもの事だろ」

「……確かにー」

 

 猫屋は神妙な顔つきでウンウンと頷く。

 

 いや、『あいつら』の中にはお前も含まれるけどな?

 

「それなら、陣内はどこか行きたい所なーい? 私は寛大にもー、()()()()()()()()()()()()()()()()ー。好きな所に付き合ってあげるよー?」

 

 どこかへアピールするような声音で、猫屋は俺の行先の希望を聞いてくる。

 

 ……もしや、この会話は盗聴されているのか? アイツらならそれくらいはやりかねないな。マウントを取ったという事は、今回の企てはやはり女子力の競い合いといった内容か。女子力の物差し代わりに俺を使わないで欲しいのだが。

 

「俺の行きたいところね……」

 

 どこか得意げな顔をした猫屋の全容をジッと観察する。

 

「? どーしたの? 顔に何かついてるー?」

 

 彼女の綺麗で整った顔には何一つ余計な物はついていない。

だが今回の場合、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。悪だくみをぶっ潰す前に行っておくべき場所がある。

 

「いいや……ならお言葉に甘えて、少し俺の買い物に付き合ってくれ」

「オッケー! じ、……陣内と一緒ならどこでも楽しーいから全然いいよー!」

 

 猫屋が急に上目遣いになりぶりっ子の体で俺に媚びてきた。

 

「お、おう」

 

 今度は誉め殺し作戦か。顔が少し引き攣っているが見て見ぬ振りをしてやろう。

 

************************************************************

 

「え、なんでここなわけー?」

 

 やって来たのは豊富な種類の耳飾りや髪留めが並んでいる女物の装飾品店。そこにあるピアスやイヤリングの陳列棚を俺たちは前にしていた。本来、男の俺には用がない場所。

 

 こんな所に連れてこられて猫屋は怪訝そうな顔をしていた。

 

「いや、なに、ちょっと新しいイヤリングを探しにな」

「ぎょ、ぎょえ!?」

 

 俺の言葉にビクッと猫屋は体を震わして大袈裟に驚く。

 

「…………い、い、イヤリングねー……」

 

 猫屋は目を(せわ)しなく動かして大粒の冷や汗をかき、あからさまに動揺し始めた。青くなった顔を俺から逸らして彼女は口を開く。

 

「あ、あ、あのー、もしかして気がついちゃった?」

「まぁな。……落としたんだろ? ()()()()()()()()()()

 

 猫屋の誕生日に贈ったブランド物のイヤリング。以前、猫屋とデートもどきをした時に付けていた代物だ。

 

「な、な、なんでわかったの?」

「はは、なんでだろうな」

 

 俺がその可能性に気づいたのはつい先ほどの事だ。目の前の猫屋は俺が贈った緑のリボンで髪を結っているが、イヤリングを耳につけていない。

 

 俺を相手に女試しをしているのなら、俺が贈った物は身につけてくるだろう。

 

 恐らくは彼女はバイクのヘルメットを脱ぐ時にでもイヤリングを落としてしまったのだろう。ヘルメットは安全の為、頭の大きさにピッタリのサイズなので窮屈だ。

 

「ご、ごめ——」

「いいよ」

 

 猫屋の謝罪を予見していたので、俺は遮る形で言葉を出す。別に怒っていないので頭を下げて欲しいとは思わない。

 

 それに──

 

「お前の方が気にするだろう?」

 

 普通の感性をしていれば、人から貰った誕プレを落とせば申し訳ないと思うはずだ。

 

「いやー、プレゼントをなくされた方がもっと落ち込むんじゃなーい?」

「そうか?」

 

 俺はあまり気にしていない。質屋に売り払ったなら怒るが、落としたのなら仕方ない。だが、猫屋がそう言うのなら、その発言を逆手に取ろう。

 

「ならお詫びとして"落としたイヤリングの代わり"を今、俺にプレゼントされろ」

「えぇ!?」

 

 命令口調で有無を言わさずに俺は猫屋に贈与の無理強いをする。

元よりアクセサリー売り場に来た時から再び贈ろうと思っていたのだ。

 

「そ、それは流石に!」

「ははは、お前に拒否権はない。この店内から好きな物を勝手に選べ!」

「…………もぅ、かっこつけすぎー」 

 

 猫屋は罰が悪そうに頬をポリポリと掻いた。照れているわけではなく、純粋に申し訳ないのだろう。

 

「先週バイト代が入ったばかりだから懐も暖かいしな。こないだ実家に泊めてくれた礼とでも思って、あんまり気にせずパッと選んでくれ」

「!」

 

 一宿一飯の恩義と言う古語もある。

受けた厚意は蔑ろにせず、誠実とした対応を取るべきだ。

 

「あれは……だって……私の方が」

「? なんだ?」

 

 猫屋はもごもごと口を動かして何かを言ったが、声が小さくて聞こえなかった。

 

「……何でもなーい。陣内がそう言うならコレにするー」

 

 彼女は陳列された様々な耳飾りの中からある1つを手に取った。

 

「おい、それって」

「うん、ピアス」

 

 彼女が手にしたのは丸いリング状のシンプルなピアス。以前、彼女に贈ったものと同じ形の物。

 

 大きな違いはピアスである事だ。イヤリングは耳たぶに挟むようにつけるが、ピアスは耳たぶに留め具を貫通させてつける。猫屋の耳にピアス穴は開いていない。

 

「いい機会だしさー、ピアスホール開けようかなって。ピアスなら絶対に落さないだろうしー」

「イヤリングを落としたことは本当に気にしないでいいんだぞ?」

「ピアスの方が可愛い種類が多いし、前から開けようとは思ってたんだー」

 

 猫屋はそう言うと金糸の様な髪を耳にかけて、手に取ったピアスを耳元に重ね見せつけてきた。

 

「ど、どーう? 前と同じ形だから変ではないよね?」

 

 銀色のリング状のピアスは、そのシンプルさ故に彼女の美しさを曇らせずに女らしさをより強調しているように思えた。

 

「……まぁ、ぶっちゃけ、かなり似合うな」

「えへへー、でしょー?」

 

 猫屋は無邪気な口調で朗らかに笑う。金髪のクルクルとしたパーマも相まって、本物の猫のような愛嬌を感じさせる。

 

「……でもいいのか? もっと高いのでも俺は──」

「これがいーの!」

 

 猫屋は急に声を荒げて俺の言葉を遮った。

 

「私、陣内が誕プレに選んでくれたヤツ気に入ってたんだよね。だから、また買って貰えるなら同じようなのがいいのーー!」

「…………」

 

 本当に可愛いな、コイツ。万人が認めるであろうルックスと人を気遣える優しい性格。

 

 大学入学当初、俺が由香里のせいで女性不信を拗らせていなければ出会って3日で恋に落ちていた可能性すらある。

 

「分かった。ならソレを買ってくるよ」

「あ、待ったー」

 

 彼女の手からピアスを取ってレジに向かおうとする俺を、猫屋は呼び止める。

 

「えっとさー、……ちょっとお願いがあるんだけど」

「え、なんだ?」

「ピ、ピアスホールはさー、陣内に開けて欲しい……みたいなー……」

 

 もじもじと歯切れ悪く猫屋はお願いを口に出した。なんと、彼女はわざわざ俺にピアス穴を開けて欲しいと言う。

 

「別にいいけど、なんでだ?」

「わ、私、先端恐怖症なんだよねー。それに、自分でやって耳たぶの中心からずれても嫌だし」

「あぁ、なるほどな。じゃあ、この後はピアッサーと消毒液を買いに薬局でも探すか」

「う、うん。さんせー」

 

 化膿でもしたら大変だし、後でピアス穴の開け方を詳しく調べておくことにするか。

 

************************************************************

 

(……なーんで、陣内にピアスホールを開けて欲しい、なんて思っちゃったんだろう?)

 

 会計を済ます陣内梅治の姿を見て、猫屋は物思いに(ふけ)る。

 

(変な嘘までついてさー。……絶対、おかしーよね?)

 

 彼女は横にいる異性の顔を盗み見る。糸を引いたような細い目元と三白眼(さんぱくがん)が特徴的な容姿。ドラマに出てくるような容姿の整った男の顔ではない。男らしくはあるが、平々凡々な風貌。

 

 

 だが、猫屋はその顔から目を離せないでいた。

 

 

 ──トクン。

 

(………………?)

 

 

 猫屋李花はまだ、胸の内から湧き出るその感情の正体に気づかない。

 

 

************************************************************

 

 陣内達が買い物をしている装飾品店から少し離れた所にある大きな観葉植物。

西代はその影に隠れるように身を潜めていた。

 

「ただいま、である」

 

 そこに安瀬が声をかける。

西代が陣内達の様子を盗聴中に、安瀬はどこかに行っていたようだ。

 

「随分と遅かったね?」

「トイレが思いのほか混んでいてのぅ、祝日じゃし仕方ないのじゃが……そんな事より、あ奴らの状況はどうかえ? 我が離席中に何か面白い事はあったか?」

「特に何もないよ」

 

 安瀬の問いかけに、西代はつまらなそうな様子で答えた。

 

「陣内君が()()()()()()()()()()()()、って話をしていただけさ」

「そうか、そうか。それは大して面白く、な、…………はぁ!!??」

 

 ギョッとした形相で安瀬は西代に詰め寄る。

 

「ななな、なんじゃそれは!? ほ、本当に陣内が暴走してしまったでありんすか!? い、急いで猫屋を救出しに──」

「く、くふ、くふふふ」

 

 自分の番が来るまで暇だった西代は、安瀬を揶揄って遊ぶのであった。

 



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不動を望む者

 

「ん、あれ? アイツどこ行った??」

 

 テナント内の薬局で耳の穴開け道具を調達し終え、店外に出た直後の事。少し目を離した途端に猫屋の姿がどこにも見当たらない。

 

「さぁ? どこに行ったんだろうね」

「うぉ!?」

 

 真横から急に聞こえきた馴染みのある声。このショッピングモールに入ってから一向に姿を現さなかった西代がそこにはいた。背が小さいので声を掛けられるまで気が付かなかった。

 

「お前、何処から……」

「あそこからさ」

 

 そう言って彼女は店から見える映画館のフロントを指差した。

 

「僕が安瀬に付き合って歴史物の映画を見ていたのは知っているだろう?」

「ん、あぁ。猫屋から聞いた」

「それが思ったよりもつまらなくてね。まだ上映中だったけど、僕だけ先に抜けてきたのさ」

 

 え? なんだこいつ本当に映画を見ていたのか? てっきり、はぐれる為の都合の良い言い訳だと思っていた。もしかして、辱め作戦は俺の誇大妄想? ……いや、まだ分からないな。ただ話を合わせているだけかもしれない。

 

「映画はどんな内容だったんだ?」

「コアなファン向けの本格的なシナリオでまったく理解できなかったよ。僕は安瀬レベルの歴女ではないからね」

 

 肩をすくめ、やれやれといった仕草を見せる西代。その動作に嘘っぽさは微塵も感じられない。

 

(これはどっちなんだ? 本当に何もないのか?)

 

 なら安瀬のあの過剰なスキンシップは何だったんだ?? 何故か猫屋はピアスを贈ってから()()()()()()()()()、特にボディタッチはしてこなかった。そのため、彼女たちの行動に統一性が無く、その目的が把握できない。

 

「さて、陣内君。ちょっと僕の買い物に付き合って欲しいんだけど構わないかな?」

「ん、あぁ、それは別にいいけど他の奴らは……」

「放置でいいだろう? それとも、僕と2人きりでは気まずいかい?」

「はぁ? そんなわけないだろ」

「ふふっ、君ならそう言ってくれると思ってたよ」

 

 西代が静かに笑う。会話術とその美貌で話題を逸らされてしまった。

 

「じゃあ早速行こうか。ついて来てくれ」

 

 そう言って、西代は小さな手で俺の手を掴み歩き出す。シュルリと指を絡みつかせた恋人繋ぎ。

 

「っ!?」

 

 手には神経が集中しているためか、その小さな手の輪郭が細部までよく分かった。モチモチと柔らかく、とにかく指が細い。

 

 恋人繋ぎでモール内を歩く俺達。端から見ればどう見てもカップルだ。

 

「今日は随分と迷子になる人が多いようだからね。こうして、()()()()()()()()()()()、はぐれはしないだろう?」

 

 西代はこちらを見上げて楽しそうにもっともらしい訳を述べる。

 

「……まぁそうだな」

 

 なんと恐ろしい事を簡単にやってのけるのだろうか。俺の精神がもし先ほどの暴走状態だったなら、プチ旅行中の事など忘れて彼女をそのまま大人の休憩所に連れ込んでいたかもしれない。

 

「……? 案外、気にしないんだね? てっきり、赤面してすぐに払いのけられると思ってたよ」

「え、ぅ」

 

 いかん、今西代に俺の性欲が無い事がバレるのはよくない気がする。

何か適当に言い訳をしなければ。

 

「顔に出さない様にしてるだけで()()()()()()()()()()()()()。正直、辛抱堪らん」

「…………へ、へぇ。そ、そうなんだ。ご、ごめんね? やっぱり手を握るのは止めておくことにしようか」

 

 やばい!! 何だ今の気持ちの悪い自白は!? つい、変な事を口走ってしまった!! 西代が滅茶苦茶引いてるっ!!

 

「いや! 離さなくていい! 何ならずっと握っていたいくらい小さくて可愛い手だ! …………あれ??」

「……君、どうしたんだい?」

 

 西代の言う通りだ。なぜか情緒が安定していない。

というか彼女から伝わってくる体温が火種となり、心の奥底からチリチリと情欲の火が漏れ出している感じがする。

 

(やっぱりノンアルコールだと効果が安定しないのか?)

 

 ビールを3本も飲めば、俺の体質は2時間は継続するはず。だが、まだそこまでの時間は経っていない。酒精が無いぶん、鈍り方も曖昧な気がする。

 

(まずいな……)

 

 ノンアルコール缶はもう残っていない。今から買いに行くのも不自然だ。減欲効果が切れてしまえば、彼女たちに翻弄される俺に逆戻りだ。その事態は望ましくない。

 

 こうなったら多少強引にでも、西代から悪だくみの内容を聞き出す必要がある。

酒飲みモンスターズが何かを企んでいる可能性は非常に高い。こうなれば強硬手段だ。

 

「西代」

 

 俺は顔を傾げた彼女を呼び掛ける。

 

「なんだい?」

「悪いが予定変更だ。先に俺の用事に付き合ってくれ」

「え? ……まぁ急ぐ訳ではないから別にいいけど、どこに行くんだい?」

「ここだ」

 

 俺は偶然にもすぐ横にあった大きな男性物のアパレルショップを指差した。

 

「新しい服が欲しいのかい?」

「あぁ、せっかくだからセンスのいいヤツを見繕ってもらおうと思ってな。お前なら男性物にも目利きがあるだろ?」

「なるほど。そういう事なら任せてくれ」

「あぁ、頼んだ」

 

 俺は彼女を連れて足早に入店する。そして服などには目もくれずに試着用の更衣室に向かって一直線に突き進んだ。

 

「陣内君……? え、服は──」

「よいしょっと」

「え、ちょ!?」

 

 ポンっと、彼女の背を軽く押して、自分ごと更衣室の中に彼女を軟禁する。それと同時にカーテンを引いて外界からの視線を遮った。これで邪魔が入ることはない。

 

「え、え、急に何だい?」

 

 狭い空間に男女で2人きり。西代は俺の急な異常行動に狼狽えていた。

 

 そんな西代を無視して、俺は逃げ道を塞ぐように彼女の背後の壁に手を着く。所謂壁ドンのポーズ。

 

「っ!?」

 

 口説くつもりなどは全くないが、威圧感を与えるにはピッタリの体勢だ。

事実として西代は目を見開いて驚いている。

 

「えっと……いったいどういうつもりだい? か、か弱い淑女をこんな所に押しとどめるのはあまり感心しないね」

「淑女ってキャラかよ、お前」

「むっ、デリカシーが足りないね。僕はこれでも成熟した1人の女だ」

「襲う気はないから安心しろよ。()()()()()()()()()()()()()()()直ぐにでも解放する」

 

 俺の言葉を聞いて西代は目を細めた。

 

「悪だくみ? ふっ、一体何のことだい?」

 

 ニヒルに顔を歪めて、彼女は平然とした口調で白を切る。

 

「とぼけるなよ。嫌酒薬まで食べさせておいて、何もないは通じないぜ」

「いいや。本当に何を言ってるのか僕には分からないね」

「口を割る気はないんだな」

 

 なるべく圧力をかけるため、声音を落として西代に問い詰める。

 

「ふふ、どうせ大したことはできないだろう?」

 

 だが、彼女は毅然とした態度を崩さない。人を舐め腐った表情と言葉。酔っていない俺にそこまで酷い事はできやしないと高を括っていやがる。

 

「言ったな?」

 

 女にそんな事を言われれば、男として黙ってはいられない。

 

「……話は変わるが、西代。去年、2()()()()()()()()()を覚えているか?」

「? ……まぁ、かなり衝撃的な思い出だからね。それが何だい?」

「あの時の罰ゲームはまだ不履行だったな」

 

 俺は壁についた手をゆっくりと引き戻す。

 

 思い出すのは懐かしき俺の部屋で、半裸になり青ざめる西代の姿。あの時の西代は白シャツに黒ズボンといった装いだったが、今は違う。

 

 萌え袖が可愛いオーバーサイズの白い厚手のシャツ。ぶかぶかな上着とは逆に、下は黒のミニスカート。自身の容姿をよく理解した最適な格好と言える。

 

 だが、しかし──

 

「珍しくスカートなんぞ穿いてきたのは過失だったな!!」

 

 

 俺は彼女のスカートの中に両手を突っ込み、その内にあるパンツだけを足元までずり下げた。

 

 

「………………………………ぴゅいっ!!??」

「おぉ、今日履いてるやつはコレか」

 

 西代の細い足首に引っかかっている絹のショーツ。それはフリルのついたピンク色の代物。彼女と同棲状態にある俺は当然それを見た事はあった。やはり手に取ると男の物とは違って布面積が小さく感じるな。

 

「じ、じ、じ、じ、陣内君ッ!! 君は一体何をしてるんだッ!?」

()()。ほら、完全に脱がすから暴れるなよ。転んだりしたら中身が見えるぞ」

「っっっ!!??」

 

 俺の言葉に過敏に反応して、西代はスカートを力強くガバっと押さえる。

俺はそれを見て、ゆっくりと彼女の足にかかっていたパンツを丁寧に取り外す。

 

「よし、取れた取れた」

「ひゅー……!! ひゅー……!!」

 

 西代は茹でたタコのように顔を真っ赤に染めて荒い呼吸を繰り返している。瞳の端に涙さえ蓄えて、こちらを睨みつけてくる。しかし、その下半身は内ももになり小鹿のように震えていた。

 

 実に好い眺めだ。

戦利品である下着を人差し指に引っかけてクルクルと回しながら、俺は彼女を追求する。

 

「コレを返して欲しかったら、さっさと話せ」

「人のショーツを振り回すな馬鹿ッ!! 君は僕の事を何だと思っているんだ!!」

「賭博狂いの麗人」

「女だと思っているなら、下着を返してくれ!!」

「いやだ。……早く話せよめんどくさい。それに俺は不履行だった罰ゲームを実行しているだけだ。責められる非はない」

「ぐっ」

 

 陣内家の罰ゲームは必ず実行される。その掟を彼女も忘れたわけでは無かろう。我ながらなんて完璧な理論武装なのだろうか。

 

 恥辱に震える西代はスカートから片手を離して、袖口を口元に引き寄せた。

 

緊急事態発生(エマージェンシー)!! 安瀬、猫屋、聞いているだろう!? 助けてくれっ!」

「あぁ、無線のマイクならここにあるぞ?」

 

 俺はそう言って、ポケットから小型の無線マイクを取り出して見せた。

もちろん既にスイッチは切ってある。

 

「な、なんで陣内君がそれを!?」

「さっき手を繋いだ時にスッた」

「はぁ!?」

 

 盗聴の時はいつも袖口にマイクを仕込んでいたので今回もそこだと思い、更衣室に向かう際に調べた。スッた時点で禄でもない事を画策している事は確定した。それが今回の俺の凶行を実行させるきっかけとなった。

 

「さて、これで頼もしすぎる同士の助けは期待できなくなったな」

「…………」

「まだ何か言いたそうだな?」

「ぼ、僕の胆力を舐めないでもらおうか」

 

 窮地に陥っているはずの西代だが、その目は生意気にも未だに生気を残していた。

 

「このまま外に出て新しい下着を買いに行くことくらい、僕にとってなんてことは無いっ!!」

 

 西代の"ノーパンなんて恥ずかしくないよ"宣言。

 

 こいつ、さっきは自分の事を淑女って言ってたよな? 普通、淑女はノーパンでうろつくことを良しとはしない。

 

 仕方ない、本気で脅しにかかろう。

 

「……おいおい、西代さんよ」

 

 スッと、俺は彼女の細い腰とスカートの間に指をねじ込んだ。スカートのゴム紐に圧迫されて、腰の柔肌に俺の指が食い込む。

 

「ぴゅっ、ぴゅい!?」

「あの時の罰ゲーム内容は、確か"全裸の鑑賞"だったはずだよな??」

「──ッ!!??」

 

 今度こそ、西代は完全に固まった。俺が人目のない更衣室に西代を連れ込んだのはこの脅し文句を言うためだ。アパレルショップに足を踏み入れた瞬間に、彼女の敗北は決まっていた。

 

「話すと言うならパンツは返すし罰ゲームは無しだ」

「ひっ、ひっ……」

「だが、もし、口を割らなかった場合は全裸になるまでこの場で引ん剝く」

「ぜ、ぜ、ぜ……!!??」

「もちろんその後、5分はしっかり鑑賞させてもら──」

「分かったっ!! 分かったからッ!! 話すからもう勘弁してくれ!!」

「その言葉が聞きたかった」

 

 俺は西代の腰から手を離す。

 

(ふぅ、上手くいってよかった)

 

 内心で安堵する。もしここで西代が折れなかったらどうしようかと思っていた。

 

 俺と彼女の関係はすでにあの頃とは大きく変化している。全裸など見る気はサラサラない。

 

「……鬼畜アル中男」

 

 まぁ、俺の葛藤など西代は知る由はないが。

 

「鬼、悪魔、人でなし、変態パンツ泥棒」

「なんとでも言え」

「お父さん、お母さんごめんなさい。僕は汚されてしまいました……うぅ、もうお嫁にいけない……」

「そこまではしてねぇよ!」

 

************************************************************

 

「俺を動揺させた回数を基準に女子力の競い合い……ね」

 

 俺を辱める意図はそこまでなかったようだが、概ね予想は間違っていなかったようだ。

 

「お前らさ、なんでそんな身売りじみた企画やってんだよ?」

「女には引けない戦いというものがあるのさ」

「自分をもっと大切にしろ、この大馬鹿」

「ご忠告どうもありがとう。人のパンツをはぎ取った人間の言葉とはとても思えないね」

「俺がやる分にはいいんだよ」

 

 俺には無敵の減欲体質があるので、何かをする際に彼女たちの安全は保障されている。ただ、彼女たちの方から急に迫られると飲酒の準備が整わない。今回に至っては嫌酒薬と言う劇物まで飲まされる羽目になったわけだしな。

 

「……そう言った君の態度が今回の騒動の引き金になったような」

「え?」

「いや、何でもないよ。それより、これからどうするつもりだい?」

「ん、あー……」

 

 これで当初の目的通り、酒飲みモンスターズの計画を潰すことは叶ったと言えるだろう。もう彼女らの色香に惑わされることはない。逆手にとって彼女達を揶揄う事もできる訳だが……。

 

「ちょっと疲れたな……」

 

 安瀬にやたらめったに振り回されたせいか、体の奥がどうにも重たい。

糖分とニコチンを脳に給油したい。

 

「僕もさ。君のおかげで気疲れが凄い」

 

 顔に影を落として西代は忌々しそうに呟く。彼女のその姿を見て、溜飲も下がった。実害は無かったし、仕返しは今度でいいや。

 

「お前もそう言うなら、なんか甘いものでも食べに行こうぜ」

「それならちょうどいい。ここの階にチョコの専門店があるんだ。もとより君とそこに行こうと考えていた所さ」

「へぇ、またなんで?」

「せっかくのバレンタインチョコがアレじゃあ、陣内君がかわいそうだと思ってね。市販品を再度プレゼントしようと考えてたのさ」

「え、まじか」

 

 意外にも彼女は俺の事を気遣ってくれるつもりだったようだ。

 

「奢ってもらえるのは嬉しいけど、いいのか? 俺さっきお前のパンツひん剥いたんだぞ?」

「それは今後一生口に出さないでくれ。……まぁ、先行投資ってやつさ。ホワイトデーのお返しを楽しみにしておくよ」

 

 そう言うと西代はぐっと体を伸ばす。

 

「どうせなら安瀬たちも呼び戻してチョコでも食べながら一旦休憩しよう。君にバレた時点で勝負は無効試合。やる気もなくなったしね」

「賛成だ。俺も明日に疲れを残したくない」

「明日?」

「遊園地。俺、けっこう楽しみなんだよな」

 

 久しぶりの遊園地。明日は嫌酒薬も飲まされないだろうし、酩酊状態で遊園地を楽しめるわけだ。

 

「遊園地……ね」

 

 西代は俺の言葉を確かめるようにつぶやく。

 

「友達と遊園地なんて何年ぶりだろう」

「あぁ、俺もだ。最後に行ったのは……」

 

 一瞬、由香里との遊園地デートを思い出してしまった。あの頃はまだ楽しかっただけに振り返ると微妙な気持ちになる。

 

 だけど──

 

「お前ら3人とならあの時よりも絶対楽しいだろうな」

 

 それがきっと俺の忌まわしい記憶を上書きしてくれるだろう。

 

「……え?」

「……ん?」

 

 俺は西代と思わず顔を見あわせた。

 

(あれ? 今、無意識に口に出してたか?)

 

 少しだけ恥ずかしい。未だに由香里との思い出に翻弄されるとは。ノンアルでの減欲状態のせいもあってか、どうにも口が軽い。

 

「うん、そうだね……。このまま、4人で、楽しく、ずっと……」

「西代?」

 

 西代はブツブツとした独り言を虚空に向かって呟いている。

俺の失言を笑わないのはありがたいが、その反応は少し意外だった。

 

 

「……ふふっ、確かに明日も楽しみだね!」

 

 

 微笑を浮かべる小柄の佳人(かじん)。普段は男装めいた服装だが、今の彼女は女性服に身を包んでいる。その笑った素顔と満面の笑みはギャップを感じさせ、いつもより光り輝いて見えた。

 

 クールぶった彼女の屈託のない笑顔は凄く綺麗だとは思う。しかし、やはり男の俺には目の保養であると同時に目の毒だ。あ゛あ゛、早く強いアルコールを飲みたい。

 

「あ、先に言っておくけど、僕はお化け屋敷にだけは絶対に行かないからね?」

「え、俺、お前がビビり散らかすの滅茶苦茶楽しみにしてたんだけど」

「また嫌酒薬を飲まされたいようだね……!!」

「ははっ、冗談だ。もうオバケ騒ぎは懲りた」

 

 ふざけ合って俺たちはそのまま安瀬たちと合流するためスマホで連絡を取り合う。その後はチョコを食べながら一息ついた。

 

 何とも締まらない終わり方だが、俺としては酒飲みモンスターズの企みを暴けたので満足だ。

 

***********************************************************

 

 翌日。

 

 某遊園地の入場口。休日なので、どこを見ても人で一杯のアミューズメント施設。

 

 そんな中で──

 

「ぎ、ぎゃあぁああ!!?? 兄貴が若い女を連れて歩いていたでござるッ!! あのデリカシーの欠片もない兄貴に恋人などありえん!! 絶対に援助交際じゃ!! 一族の恥晒しめッ! 我が責任をもって止めてやる!!」

 

「ぎ、ぎゃあぁああ!!?? い、妹が男とふ、ふ、2人きりで歩いてたーー!! 姉を差し置いて彼氏とデートなんぞ1000年早いわーー!! ぼ、ぼ、ぼ、妨害してやるぅ!! 学生の本分と姉の恐ろしさを同時に思い出させてやるからなー!!」

 

「「…………」」

 

 なぜ俺たちはまともに休日を楽しむことができないのだろうか?



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母の日

 

「なぁ、俺達って毎回こんな事してないか? コソコソ隠れて誰かを監視するみたいな……」

「今はそんな下らない話しをしている場合ではござらん。あの汚髭兄貴(おひげあにき)が若い女と逢引しとるんじゃぞ?」

 

 山梨県の某遊園。その園内で俺と安瀬は観賞用植物の生垣(いけがき)に身を隠して、安瀬の兄である陽光さんを尾行していた。

 

「別に普通の事なんじゃないのか?」

 

 俺たちの視線の先で、陽光さんは綺麗な女性と楽しそうに会話しながらアトラクションの待ち列に並んでいる。至って普通な成人カップルの姿に思える。

 

「ほら、見てみろよ。普通に楽しそうに話し合ってるぞ? 援助交際とか美人局(つつもたせ)の類じゃないだろ?」

「いいや……! お主は分かっておらん。自堕落で放蕩(ほうとう)であり、得意分野と言えば柔道くらいしかないのが拙者の愚兄である。あの野蛮人にどうして恋人ができようものぞ!」

「今まで陽光さんに恋人はいなかったのか?」

「おらんかった! 部活ばっかりに熱心で色恋などまるで興味を示さなかったド変人である! それが今になって恋人ができるなど怪しさ満点でありんす!!」

 

 安瀬の話を聞く限りでは陽光さんは学生時代、真剣に部活に取り組んでいたらしい。素晴らしい青少年だったのだろう。だが社会人になり部活動などの打ち込めるものが無くなれば恋人ができることは当然に思える。安瀬の兄である陽光さんの容姿は当然優れている。休日にデートをしていても何の不思議もない。

 

「…………はぁ」

 

 俺は露骨に溜息をついて見せた。大好きな兄を見知らぬ女に取られて嫉妬している妹、といった図にしか見えない。酒でも飲まなければやってられないな。

 

 懐から水筒を取り出し中のアルコールを煽る。口内に穀物類の深い味わいが広がって心地よい。嫌酒薬の効果は1日経ってすでに消えているし、園内は飲酒可能だ。安心して酒を楽しめる。

 

「今日の中身は何かえ?」

「少しだけ加水したバランタインのファイネスト」

「我にも寄こせ」

「はいはい」

 

 俺は彼女の望むがままに水筒を手渡す。安瀬は俺が口をつけた水筒を何も躊躇せずグビグビと飲み下す。

 

 バランタインは度数40%のスコッチ。加水していると言っても中身はまだ30%近くある。スコッチの中では圧倒的に飲みやすいバランタインだが、それを苦も無く嚥下する安瀬の勇ましさには舌を巻く。

 

「ぷはっ……けっこう効くのう。気合が入るでやんす」

「何でもいいから俺達もアトラクションの列に並ぼうぜ? けっこう距離もあるからバレないだろ?」

「……まぁ、そうであるな」

 

 せっかく高い金を払って入園したのだ。このまま尾行に1日を費やすのは御免被る。

 

「む、ちょっと待つでござる」

 

 安瀬が俺の服を掴んで静止を促した。

 

「え、なんだよ?」

「あれを見るぜよ」

 

 そう言って彼女が指差したのは手押し屋台の売店だ。油で揚げたお菓子類や遊園地らしいカラフルな装飾品が売ってある。

 

「あれで変装するでござるよ」

「……え、そこまでするのか?」

「念には念を入れよ、である。金は拙者が出すから頼むでござるよ」

「別にいいよ。それくらいは自分で出す」

「ふむ……ならお主はここで待っておれ。買い出しくらいは拙者が受け持とう」

 

 そう言うと安瀬は俺を置いてスタスタと売店の列に並ぶ。まだ開園して早い時間の為か売店にそこまでの人は並んでいない。5分もしない内にお目当ての物は購入できるだろう。

 

 その時、スマホが静かに振動する。画面を見るとそこには西代からのメッセージが届いていた。

 

『そっちはどうだい?』

 

 俺達は猫屋と西代と行動を共にしてはいない。彼女たちは猫屋の妹である花梨ちゃんの方を監視している。

 

 俺はこちらの現状を伝えるためにメッセージを送信する。

 

『どうにも安瀬が暴走気味だ。兄に初めての恋人ができて心配で堪らないらしい』

『猫屋も似たようなモノさ。口では悪態をつきまくってるけど、妹に変な虫がついてないか心配しているよ』

『不器用な奴らだ』

『本当にね』

 

 俺と西代は1人っ子だ。兄弟姉妹を持つ者の感覚は正直よく分からないが、その家族愛に溢れるさまは少し微笑ましい。

 

『暴走しすぎないように俺達で見張っておこうぜ』

『そうだね。何かあったらまた連絡する』

 

「陣内っ!」

 

 西代との連絡が終わった瞬間、売店に行っていた安瀬が帰ってきた。

 

「おう、おかえ……う゛っ!」

「どうじゃ! 中々、ハイカラでござろう?」

 

 ハイカラと言われればその通りだと思う。毒々しい色で塗装されたサングラスにビカビカと過剰に光るカチューシャ。加えて、遊園地のマスコットぬいぐるみを安瀬は傍らに抱えている。

 

「おま、お前な……」

 

 修学旅行中の高校生でもそんな浮かれた恰好はしない。

 

「ほれ、お主の分も買って来てある。ぺ、ペアルックになってしまうが気にしないであろう?」

「ぐぇ!?」

「……なんじゃ? 何か文句でもあるのかえ?」

「いや、あの……ここまでやる必要があるのかなって」

 

 正直、遊園地の回し者のような恰好はしたくはない。

 

「当然であろう。お主も一応、兄貴とは面識があるんじゃから、やるなら徹底的にである」

「……ちなみに、コレらのお値段は?」

「お主の分だけで税込み4800円」

(た、たっか……!?)

 

 やはり、安瀬は完全に暴走している。普段ならこのような買い物にお金を費やす奴ではない。……というか、こんな物にお金を払いたくない。自分で言った事だが即座に撤回したい。

 

 しかし、そんな男として糞ダサい事を口にできるはずもなく。

 

「……はい、これ」

 

 俺は財布を取り出してお金を払い、渋々と奇々怪々グッズを身に纏うのだった。

 

************************************************************

 

 くるくると回る無数の馬と荷馬車。ぴかぴかと綺麗に装飾された円環が何とも美しい。

 

「子供向けとは言え、酔ってると結構楽しいな」

 

 俺は上下する馬の玩具に跨って幻想的な体験を楽しんでいた。

程よい振動と風が何とも心地よい。

 

「ぐぬぬ……南瓜の馬車になんぞ乗って愉快そうに談笑しおって」

 

 俺のすぐ横で、奇人が忌々しそうに声を上げた。安瀬は和式馬術の立ち透かしもどきにより上半身を安定させ、双眼鏡で実の兄を監視している。馬術の話は先ほど並んでいる際に安瀬が楽しそうに解説してくれた。無駄な知識が増えた。

 

「仲良く話してちゃ駄目なのか?」

「…………あれ? そうじゃ、別にいいんじゃ……だがこの胸に去来する鬱陶しい感情は一体??」

「嫉妬だろ? 大好きなお兄ちゃんを取られて寂しい、みたいな」

「張ったおすぞ、アル中」

「へいへい、すいません」

 

 自覚がない感情に振り回される奴ほど面倒くさいものはない。

 

「むぅ、せめて相手の女子の情報が欲しい所である」

「あぁ、陽光さんの彼女さんか。美人だよなぁ」

 

 黒いロングの綺麗な髪をした大人の女性。大柄で目立つ陽光さんの隣に居ても目を引く存在感だ。

 

「ふん、あのように面が良い女という者は内面が腐っておると相場が決まっておる」

「……腐ってるとまでは言わないが、容姿が整っているほど変人の割合が多いと俺も思う」

「で、あろう?」

 

 トラブルメーカー、辛党ヤニカス、博打狂い。俺の心に居る美人たちは皆どこか気が触れている。

 

「そもそも、兄貴があのような女と出会った経路が想像できん」

「え、普通に職場とかで──」

「兄貴の職業はスポーツ新聞の記者じゃ。そんな場所、ほぼ男しかおらん」

「へー」

 

 そういえば、陽光さんは柔道3段というスポーツエリートだ。自身の経験を活かせる職というのは羨ましい限りだ。

 

「なら出会い系アプリとかで知り合ったんだろ? 最近、よく流行ってるしな」

「……我はああいう(えにし)を軽んじる物は好かん」

「お堅いな」

 

 俺たちは大学では情報……つまりはパソコン関係の技術を学んでいるわけだ。そう言った技術は日進月歩。流行り物には柔軟に対応する気質が求められると思うのだが。

 

「顔しか分からない者といきなり逢引きなどとは、我には考えられん」

「……言われてみれば確かに」

「もし出会い系なぞで知り合ったのなら、あの女が詐欺師である可能性すら考えられる」

「考えすぎだろ」

「それくらいの心意気で監視せよ、という事じゃ」

「はぁ……了解」

 

************************************************************

 

 その後、執拗に陽光さんを監視する俺達。ほとんどの時間はアトラクションの列に並んでいるだけだったが、陽光さんたちは常にデートを楽しんでいる様子だった。強いて不審な点を挙げるとするなら、絶叫系のマシンに乗っていない事だけだ。

 

「なぁ、もういいんじゃないか? 凄く仲がよさそうだぞ??」

「…………」

 

 俺の事を無視して、安瀬はどんよりとした雰囲気で兄たちを眺めている。

 

「ありえん……兄貴に……恋人なんぞ……」

 

 ぶつぶつと呪言を周囲にまき散らしている安瀬。彼女がここまでのブラコンだとは思わなかった。

 

「ん、あれ? 二人が別れたぞ?」

「なにぃ?」

 

 陽光さんとその恋人が二手に分かれた。陽光さんはどこかに赴き、恋人はポツンと日陰の下で佇んでいる。トイレ休憩だろうか?

 

「チャンスじゃ!!」

 

 安瀬はその様子を見て溌剌(はつらつ)とした声を上げた。

 

「陣内、あの婦人をナンパしてくるでござるよ!!」

「はぁ!?」

「あの女狐の本性をこれで暴いてくれようぞ!」

「いや、お前な……」

 

 支離滅裂な彼女の提案。気の多かった浪人時代でもナンパという不貞な行いはやった事がない。

 

「俺の容姿で見知らぬ女が釣れるわけがないだろうが」

「……え? いや、我は結構いけると思うんじゃが……」

「はぁ?」

 

 何をどう思ったら俺ごときがあの黒髪美人の気を引く事ができると思ったのだろうか。

 

「とにかく、俺は絶対にそんな事しな──」

「成功した(あかつき)にはハバナクラブの7年物を進呈しよう」

「大船に乗ったつもりで待っててくれ!! 酒でも飲みながらゆっくりとな!!」

 

 俺はなりふり構わずに持っていたバランタインを全て飲み干し、意気揚々と突貫を決行した。

 

************************************************************

 

 結果は惨敗に終わった。

 

「……う゛゛、オエ゛゛。ぐ、ぐるじい……ここ゛ろが悲鳴をあ゛げているぅ゛」

「す、すまん、見当違いであった……まさかあそこまで()()()()()()()とはのぅ」

 

 挨拶からの容姿褒め殺し作戦、気を引くために小粋なジョーク集、最終手段の1人漫才。その全てがあっけなく撃沈し、最後には冷笑と侮蔑の目をこの身に受ける羽目になった。

 

「ウ゛、ぐぉぉおおっ、や、やっぱり俺なんかにナンパなんぞ無理……どうせ俺は不細工で話も面白くないへちゃむくれなんだ……」

 

 俺は傷心の重圧に耐えきれず地に膝をつき、己が身の不幸を嘆く。恥と屈辱で心が張り裂けそうだ。

 

「そ、そんな事はないぞ? わ、我は、その……お主の事をいつも面白くて頼りがいのある2枚目だと思って──」

「酒ぇ……酒が飲みたい゛……俺の心の乾きを癒してくれるのはお酒だけだぁ……」

「…………そうかそうか」

 

 安瀬は懐から日本酒の2合瓶を取り出すと、なんとそれをそのまま俺の口にねじ込んできた。

 

「んぐっ!?」

「ほぉれ、たんと飲め。お主の大好きな、お、さ、け、じゃ!!」

「ごぼごぼごぼごぼっ!?」

 

 口内になだれ込む、切れ味の良い清酒の濁流。あまりの勢いに息ができず、酩酊とはまた違った方法で俺の意識が飛んでいきそうになる。

 

 酸欠に陥る前に、俺は安瀬の腕を掴みとり瓶を口元から強引に引きはがす。

 

「ぶはぁっ!! ……こ、殺す気かテメェ!!」

「ふんっ! そのまま酒の滝つぼに溺れるなら本望であろう?」

 

 悪びれない安瀬の太々しい態度。

 

「んだと……? お前の頼みだから仕方なくナンパしてきたんだぞ! このブラコン女!!」

「ぶっ!? だ、誰がブラコンじゃ!! この糞アル中め!!」

「言ったな、気狂い問題児!!」

「お主なんぞ唐変木の朴念仁のすけこましであろうが!!」

「うっせぇ馬鹿ッ!」

「阿保ッ!」

「ボケッ!!」

「間抜けッ!!」

「2人ともそのくらいで……」

「兄貴は黙っておれ!!」

「その通りだ! 陽光さんは黙って──」

 

「「……え??」」

 

 大声で罵りあう俺達の後ろから聞こえてきた優しい声音。声の方に振り向くと、そこには俺達が尾行していた陽光さんがいた。

 

「あ、兄貴……ど、どうしてここに……」

「それはこっちのセリフだ、桜。トイレから帰って来ようとしたら、2人が言い争っててビックリしたぞ……まさかデート場所が被ってるとは思わなかった」

「で、デートではござらん。誰がこんな偏屈なんぞと」

「あ、お前、また言ったな……!」

「まぁまぁ、陣内さんもそのくらいで」

 

 陽光さんが俺を宥めようと声をかけてくれる。

 

 ううむ、俺も兄の前で妹と喧嘩するほど気が強くはない。

 

「改めて、久しぶりですね陣内さん」

 

 渋々と矛を収める俺に対して、陽光さんが軽く頭を下げた。

 

「あ、はい。お久しぶりです……。前から思ってましたが、俺の方が年下なので敬語はちょっと……」

「ん、あぁ、そうか? まぁ梅治君がそう言うのなら、そうさせて──」

「何を呑気に話しておる!!」

 

 俺と陽光さんの社交辞令の場に安瀬が強引に割って入る。

 

「なんだよ桜。また大声をだして……」

「あそこで兄貴を待っているあの女子(おなご)! アレは一体全体、何でありんすか!!」

 

 安瀬は遠くでポツンと佇んでいる謎の黒髪女性を指差した。まぁ、順当に考えて彼女は陽光さんの恋人だろう。

 

「何って……嫁?」

「ぶっ!!??」

「お腹に子供もいる」

「こ、こっ! こっ! 子供ぉ!!??」

 

 今日一番の大声が安瀬から飛び出した。俺も安瀬と同じ気持ちだが、合点がいった。なぜ絶叫系のアトラクションに乗らずにいるのかと思っていたが、母体の影響を考えての事か。

 

「お、おめでとうございます陽光さん」

「はは、ありがとう梅治君」

「こっ!? こ……こっ!?」

 

 あまりの衝撃で安瀬が奇声を発するだけの人形に成り下がっている。

 

「陽光さんって若く見えますが何歳なんですか?」

「ん、あぁ、私は今年で24だよ」

「そ、それは随分と早婚ですね……」

 

 確か、日本人の平均結婚年齢は男性の場合だと30歳とかだったはずだ。平均と比べかなり早い。

 

「けっ! けっ、けっ!?」

「桜……いつまで驚いてるんだ?」

「だ、だって兄者(あにじゃ)! 正月の時はそんな事は一度もッ!!」

「そう言えば親父には報告したがお前は後回しになってたな。再来月あたりには式をあげるからそのつもりで予定を開けておいてくれ」

「…………」

 

 陽光さんから語られる衝撃的な話を受け、安瀬はポカンと口を開けたまま固まってしまった。

 

「おーーい、桜?」

「…………」

「完全に思考が停止してますね」

「まいったな。会ったついでに嫁さんを紹介しておこうと思ったんだけど……」

「この調子じゃ無理だと思いますよ?」

 

 このブラコンが急にできた兄嫁の存在を今の精神状態で受け入れられるとは思わない。

 

「はぁ……我が妹ながら情けない。……これ以上、アイツを待たせるわけにもいかないし私はもう行くよ」

「あ、はい……その、デート中にご迷惑おかけしました」

 

 俺は陽光さんに頭を下げる。恐らく、これから忙しくなる前に2人きりで思い出を作りに来たのだろうが、そこを俺達が邪魔してしまった。俺に至っては陽光さんの知らない所でナンパまでしたので非常に心苦しい。

 

「あぁ、気にしないでいいよ……そうだ、梅治君も是非、桜と一緒に式に参列してくれないか?」

「え、あ、俺もですか?」

「もし良かったらね。式に呼ぶのは私と嫁さんの知人ばかりだから桜も梅治君がいた方が楽しいだろう……コレ、私の連絡先だから参加するなら連絡してくれ」

 

 そう言って陽光さんは俺に白い名刺を手渡してくる。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 俺はそれを受け取って財布の中にしまった。

 

「じゃあ、私は戻るよ。……桜とのデートを楽しんでくれ」

「え!? あ、いや……」

「ははは! また会おう未来の兄弟!」

 

 陽光さんは豪快に笑いながら俺達の前から去って行った。紳士ぶっていても偶にお茶目なところが安瀬によく似ているな。

 

「陽光さん、俺たちの関係を勘違いしてるよな。……なぁ、安瀬?」

「こ、こ、子供。兄貴にこ、こ、こぉ……」

「お前、どんだけショックなんだよ」

「…………」

 

 安瀬の放心状態はまだ続いていた。

石像になってしまったコイツをどうやって正気に戻せばいいんだろうか?

 

************************************************************

 

 上空から見る日本で一番大きな山。立派な富士山を背景に、緩慢な速度でゴンドラは回る。安瀬の気分を落ち着かせるため、俺たちは観覧車に乗っていた。

 

「綺麗な景色だな」

「……そうであるな」

「お前は広島出身だから富士山をこんなに近くで見る機会なかったろ?」

「……今はあんな山どうでもいいぜよ」

 

 2人で外の景色を眺める。標高が高くなるにつれて安瀬の様子は落ち着いていった。口数が少なく、不機嫌そうであるが、この状態ならゆっくりと話しができそうだ。

 

「しかし、驚いたな。結婚式に招待されたのなんて初めてだ」

 

 あえて、陽光さんの話題を蒸し返す。突然の事態で混乱している安瀬に冷静に現実を受け止めて欲しかった。

 

「ご祝儀ってどれくらい包めばいいんだ? 3万円ぐらいか?」

「我への連絡を蔑ろにする不心得者への祝儀なぞ300円で良い」

 

 安瀬の辛辣な言葉。先ほどまでのブラコンっぷりはすっかりどこかに消え失せていた。

 

「……まぁ、ちょっと話が急な気がするが、そこまで怒らなくても──」

「勘違いするでない。拙者ほど兄貴の結婚を喜んでいる者はいないでありんす」

「……本当に?」

「くどい」

 

 なら、なぜ彼女は不機嫌そうなのだろうか。

 

「……先に母の本懐(ほんかい)()げるのは我だと思っておった」

 

 突然、安瀬の綺麗な瞳から一滴の涙が零れた。

 

「…………」

 

 彼女は自身の急な変化に気が付いていない。それを見て、事情を知っている俺は余計な感情を全て消した。

 

「……ん? あぁ、見苦しいものをみせたな。無意識じゃ、許せ」

「…………それは見苦しいものなんかじゃないだろ」

「そうかえ? ……()()()()()()()()()未だにこのありさまである。あれからもう3年も経つというのに……我ながら情けない」

 

 

 安瀬桜の母親は、3年前に死去している。

 

 

 安瀬が18歳の時分に急死したらしい。その不幸は、強く明るい彼女でも耐えきることができず心に深い傷を残していた。

 

「情けなくなんてない……母親を想って涙を流せるお前は何よりも綺麗だよ」

「ふん、そんな歯が浮くようなセリフをよく口にできるでござるな」

「うるさい、本心なんだから仕方ないだろ」

「…………ふふ、本当に阿呆じゃ」

 

 安瀬はクツクツと静かに笑う。安瀬の態度はいつもと何ら変わらない。しかし、瞳から流れる涙は決して(おさ)まることはない。

 

「……そっちに行って良いでありんす?」

「あぁ、遠慮すんなよ水臭い」

 

 俺の許可をわざわざ取って、安瀬は隣に移ってくる。古臭いゴンドラが体重の変動によりギィっと音を立てた。

 

「余計な慰めは決してするでないぞ」

 

 そう言って、安瀬は身体から力を抜き俺の肩に頭を預ける。

 

「誰がそんな事するか」

 

 下手な気を遣わず、同情しない。ただ安瀬が居心地が良いと思えるように自然体に振る舞う。それが弱みを見せたがらない安瀬に対して、これから俺ができる精一杯の配慮だ。

 

「お主と母の話をするのは何時ぶりの事であろうか」

 

 安瀬は静かな声音で昔を思い出す。

 

「確か、去年の()()()だったろ。入学してすぐの頃だ」

「そうか、もうそんなに立つのであるな。光陰矢の如しとはよく言ったものでありんす」

「あの頃はバラバラで仲が悪かったよな、俺達」

「ははっ、そうでござるな。猫屋は何故か荒れてて、西代は無口な一匹狼、我は転学のためにずっと図書室で勉強漬けであった」

「俺も最初はやたらとお前らを敵視してた……懐かしいな」

 

 俺たち4人は入学してすぐに意気投合した訳ではない。紆余曲折あって彼女達と仲良くなり、酒飲みモンスターズは俺の部屋に集まるようになった。

 

 安瀬の母親の事を知ったのは、俺と安瀬が初めて深く関わった時だ。

 

「時の流れは本当に早いぜよ……。あの兄貴に赤子ができるとは」

「おめでたい話だよな」

「そうであるな…………。それと同時に母の願いが叶う話でもある」

「願い? さっき言ってた本懐とやらか?」

「母は生前、孫を欲しがっておった」

 

 安瀬の涙はまだ止まらない。断続的に溢れ、彼女の端正な顔に水の通った跡を作る。

 

「自分の寿命が長くない事を悟って、孫の顔を一目見たかったのかもしれん」

「…………」

「だが、兄貴はあのように木偶の坊のド天然であろう? ……母の墓石に赤子を見せるのは、女である我の役目だと思っておった」

 

 安瀬にそのような強い使命感があったとは知りもしなかった。

 

「ただ、子とはそのような打算的な感情で作るものではない」

「愛の結晶と言うくらいだからな」

「その通りである。しかし、この我に相応しい伴侶なんぞ世界中を探してもいるかどうかわからんであろう?」

「はいはい」

 

 不遜な物言いで彼女はニヤリと笑う。落涙する彼女の強きな笑顔。俺もそれに釣られて微笑を浮かべる。

 

「大学を卒業するまでに(つが)いを見繕えなければ、精子バンクにでもお世話になろうと本気で思っていたくらいである」

「ははっ、お前らしいな」

「む、どこらへんがじゃ?」

「目の前にある強固な壁を自前の行動力で薙ぎ払おうとする所が」

 

 安瀬はやはり強い。自分で辛い過去に立ち向かう気高さがある。

 

「……物は言いようであるな。あぁ、もちろん今はそんな事は考えておらんぞ? 昔の我は本物の阿呆じゃったからな」

「今でも大して変わんないだろ」

 

 普段通りに、悪態をつく。

 

「ははっ、口を慎め下郎」

 

 入学当初の安瀬は今みたいに明るくは無かった。常に隙を感じさせない冷徹な口調で誰も引き寄せない独特な雰囲気を漂わせていた。今の安瀬を基準に考えると別人のようで、思い返すと少し痛々しい。

 

 無理をしていたのだと俺は思う。

 

「陽光さんは……」

 

 今の話を聞いて、俺の頭にある妄想が思い浮かんだ。

 

「うん?」

「お前のそういった強い所を見抜いてたんじゃないか?」

「え……?」

 

 母親の死が、これ以上安瀬の負担にならないように陽光さんは早期の結婚に踏み切ったのかもしれない。

 

 もちろん、自身の半生を共にする結婚相手を適当に選んだわけではないだろう。だが、陽光さんはまだ若く、急いで結婚をする必要はない。安瀬の心労を取り除くため無理に想い人との結婚を早めた。

 

 それには周囲の協力が必要不可欠なはずだ。結婚とは自身の周りの環境を大きく巻き込む祝い事。嫁家族、職場、友人。陽光さんはそれら全てに頭を下げて、説得していった。

 

 陽光さんは安瀬にその事を勘付かれたくなくて、恋人がいる事さえ言わなかったとは考えられないだろうか?

 

「……………」

 

 俺は自分の考えをこれ以上口に出す気はなかった。間違っている可能性の方が高い推測。だが、その可能性は確かに存在している。それを(さと)い安瀬が気づかない訳が無い。

 

「なぁ、陣内……」

 

 感情を読み取らせない声で安瀬が俺に話しかける。

 

「なんだ?」

「結婚式には猫屋と西代も呼ぶぜよ。母の話題が出るかもしれんが、あ奴らなら別に良い」

「……そうだな」

「お主はずっと我の傍にいて、この鬱陶しい涙を隠す盾になれ。主賓の妹が泣きっぱなしでは恰好がつかん」

「あぁ、分かった」

 

 安瀬は決して嗚咽や弱音を口には出さない。

 

「結婚式ではタダ酒が飲める、それが褒美で十分であろう」

「そんな物なくても、お前の頼みならどこでも行くよ」

「っ……今、そのように優しい事を言うではない、この(うつ)け」

「悪い、失言だった」

 

 俺は安瀬の顔から目を離した。

 

 彼女を可哀そうなどと思ってはいけない。

 安瀬は親が死ぬ事は誰しもが通る苦難だと考えている。自分だけが特別に苦しんでいる訳ではないと本気で思っているのだ。若くして親を亡くす苦痛が、平等な物であるはずが無いのに。

 

 安瀬は自身の不幸を特別扱いされて、慰められることをとにかく嫌う。

 

「この観覧車から降りる頃には涙も止まるであろう」

「うん、そうだな」

「だから……だから、この事は忘れて欲しいでありんす」

「あぁ、酒でも飲んですぐに忘れる。だからお前もこの記憶が飛ぶまで付き合ってくれ」

 

 慰めが許されないのなら、せめて逃げ道くらい提供させて欲しい。もっと力になってやりたいが、ただの友人である俺にできる事はそれくらいしかない。

 

「……ははっ、本当に陣内はどうしようもないアル中でござる」

「まぁな……でも、俺達らしくていいだろう?」

「で、あるな。降りたら猫屋達と合流するぜよ。猫屋の暴走をつまみに一杯やるでありんす」

「それは楽しそうだが、骨が折れそうだ」

 

 回るゴンドラが円の頂点に達する。

 

 その時、安瀬が抱きしめるようにして俺と腕を絡めた。体を押し付けるように寄りかかる安瀬に対して、俺は何も反応を返さない。

 

 ここで抱きしめ返すような下手な慰めを彼女はきっと望んでいない。

 

「後、どれくらい乗っていられるのじゃろうか」

「まぁ、10分くらいだろ」

「そうか、たった…………たったそれだけか」 

 

 そこからの10分間、俺たちは一言も喋る事は無かった。

 

************************************************************

 

 観覧車から降りて快晴な青空の下を2人でゆっくりと歩く。先ほどまでの雰囲気が残っていたため会話の口火を切ることが俺にはできなかった。

 

「さて、猫屋達はどこにいるでござる?」

 

 だが、俺とは正反対に安瀬はあっけらかんとした様子で話しかけてくる。

 

「……今、西代に連絡してる。というかもう昼頃だ。お腹がすいた。先に飯にしないか?」

「お、良いでござるな! 拙者、今日は蕎麦の気分でやんす」

「遊園地に蕎麦ってあるのか?」

「ん、まぁ、ないであろうな」

「和食がいいのなら丼物でいいだろ。それならフードコーナーで見たぜ?」

「うぅむ、仕方ない。今日はそれで手を打つで候」

 

 先ほどの出来事を本当に忘れてしまったかのように、俺たちは会話を続ける。

 

「じゃあ、アイツらにも連絡して一旦フードコーナーに集合するか」

「で、あるな……ところで猫屋の妹ってどんな感じでありんすか?」

「すっごい、猫屋と似てる。髪を染めてない猫屋って感じだ」

「ほぅ、それは恋人がいても不思議ではないな」

「それに加えて猫屋レベルの辛党」

「う、うぇ!? そ、それは彼氏がかわいそ…………」

 

************************************************************

 

 俺たちはその後、猫屋の暴走に付き合いながら遊園地を満喫した。

 

 俺は酔っ払いのふりをして花梨ちゃんの彼氏君に因縁をつけ、安瀬が猫屋の命令で彼氏君に逆ナンして、猫屋は彼氏君の食べ物に激辛香辛料をこっそりと忍ばせ、西代は無理やり連れ込まされたお化け屋敷で気絶した。

 

 そんな無茶苦茶をした結果、当たり前のように花梨ちゃんに尾行がバレて、猫屋姉妹のキャットファイトが勃発。本格的な格闘技戦が始まり、俺たちは制止するどころかどちらが勝つか賭け事を始めた。

 

 安瀬はその様を見て終始笑っていた。

 

 それだけで、この騒動の結果としては100点満点だ。

 



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安眠戦争・前

 

「おい……おい、(さくら)っ!」

「ん……? ……え、陣内??」

 

 安瀬の意識が微睡(まどろ)みから目覚める。肘置き付きの椅子に座り込んで寝てしまっていたようだ。

 

「なんだ、寝ぼけてんのか?? 陣内なんて懐かしい呼び方して。今日は大事な結婚式なんだぞ?」

「あれ……? あ、兄貴の結婚式は今日であったか」

 

 安瀬は眠気眼をこすりながら、ゆっくりと立ち上がる。

 

「はぁ? 何年前の話をしてるんだ? 今日は()()()()()()()だろうが」

「………………は??」

 

 ポカンと安瀬は大口を開けて放心する。そのすぐ後、自身の恰好がおかしい事に彼女は気付く。

 

「な、なんじゃこの真っ白な服は!?」

「何って……白無垢(しろむく)だろ。桜が婚儀は和式が良いって言ったんじゃねぇか」

「せ、拙者が!? そ、そのような事、まるで身に覚えが──」

「ぱーぱー!」

 

 突然、2歳児くらいの子供がトテトテと拙い足取りで陣内の足元へ近寄ってくる。

 

「だっこ、だっこ」

「おぉーよしよし」

 

 陣内はその小さな幼子を抱え上げて愛おしそうに頭を撫でる。

 

「ぱ、パパって……」

「順番が逆になったけど、ちゃんと式を挙げられて良かったよ。お前の晴れ姿も見られた訳だし。…………綺麗だよ、桜」

「…………」

 

 陣内の誉め言葉に何も返答できずに、安瀬は目の前の光景をポカンと眺めていた。

 

「ほら、もう行くぞ。外で皆が待ってる」

 

 陣内は急に現れた重厚な扉に向かって歩いていく。

 

(あ、あぁ、そうだった。我は確か、陣内に告白されて……そのまま……)

 

 安瀬の脳内に霞のように不明瞭で曖昧な記憶が蘇る。

 

(そうじゃ、そうじゃ。何で忘れていたのであろうか?)

 

 今日は最愛の人との婚儀の場ではないか、と安瀬は事態を完全に把握する。

 

 事態を飲み込んでからの安瀬の行動は早かった。

動きにくい正装のはずだが恐るべき速度を出し、陣内に思いっきり抱き着く。

 

「うぉ!? ちょっ、桜! 危ないだろ!!」

「我の夫が情けないことを申すな! さぁ行くぞ! 猫屋と西代が外で待ってるでありんす!!」

 

 そう言って彼女は夫と子を引きずるようにして外へと飛び出した。

 

************************************************************

 

「おい……おい、李花(りか)!」

「んにゃっ……?」

 

 陣内の呼びかけにビクッ! っと体を震わせ、猫屋は覚醒した。

 

「やっと起きたか……。もう昼だぞ」

「あ、あれ? じんなーい?」

「っは、懐かしいなその呼び方」

 

 ベットに横たわりながら陣内は昔を懐かしむ。見知らぬ部屋と寝具の上で猫屋は陣内と(しとね)を共にしていた。

 

「え、え、あ、あれー……!?」

 

 両者とも何故か素っ裸であったため、猫屋は激しく動揺する。

 

「は!? え、ちょっ!?」

「? どうした急に」

「いや、なんで裸!?」

「お、お前、そりゃあ、やる事やれば…………これ以上は言わせるな。俺も恥ずかしい……」

「え、え、ええええーー!!??」

 

 陣内の口から語られる交わりの証明。猫屋は口をあんぐりと開けて、硬直した。

 

「そ、そんな驚く事ないだろ? ()()()()()()別におかしな事はなにも──」 

「こ、恋人ぉ!?」

 

 さらに追加される驚愕の新事実。どうやら陣内と猫屋は恋仲であったようだ。

 

「どうした? 俺の告白を李花が受け入れてくれたじゃないか」

「え、あ……そーだっけ??」

 

 脳内に漂う紫煙のように(おぼろ)げな記憶。猫屋はそれを疑いながらも信じ込む。

 

「そうだよ」

「あっ、アハハー。そうだった、そうだったー」

「……この寝坊助さんめ」

 

 そう言って、陣内は猫屋の頭を優しくなでる。

 

「せっかくの綺麗な髪が乱れてるぞ」

「え、えへへー、ありがとー……」

 

 陣内との甘酸っぱいピンク色のじゃれ合い。借りてきた猫のように大人しく、猫屋は陣内の手を受け入れる。

 

「…………」

 

 しかし、その甘い時間は陣内が猫屋に覆いかぶさることで終了する。

 

「え? ……陣内?」

「安瀬と西代との飲みの約束までまだ時間があるだろ? その……その前に一回だけ……ダメか?」

 

 恥ずかしがる陣内の交接(こうせつ)への誘い。猫屋は目を丸くして驚く。陣内がそのような事を言うとは考えていなかったからだ。

 

(そ、そういう事していいんだっけー!? ……こ、恋人だからいいのかなー?)

 

「猫屋?」

「…………エッチ」

「わ、悪い」

「い、いいよ、別にー……そ、その代わり、優しくして……ね?」

「…………保証しかねる」

「あっ! ちょっと、ばか……」

 

 お互いの合意が取れた2人はそのまま一つに重なっていく……

 

************************************************************

 

「ただいま」

「おかえり、西代。()()はどうだった? 今日も疲れたろ」

 

 西代は会社から友達たちとルームシェアをしている自宅へと帰ってきたところ。陣内はエプロンを付けたまま、彼女を玄関口で労う。

 

「いつも通りさ。ずっとパソコンに向かいっぱなしで肩が凝るよ」

「我が家へのマッサージチェアの導入を考えてみるか? 4人で割れば安いだろ」

「そうして、1つの椅子を廻って争いが起こるわけだね」

「ははは! そうだな、お前の言う通りだよ」

 

 ケラケラと2人は楽しそうに笑いあう。その間に、陣内は西代の鞄とスーツを受け取る。

 

「ん、気が利くね」

「まぁな」

 

 荷物を手に持った陣内と共に、西代は部屋に入っていく。

 

「安瀬と猫屋は残業かい?」

「そうらしいな。今日の晩飯は手塩をかけて作ったっていうのに……」

「へぇ、先に聞いても?」

「昨日から醤油タレに漬けておいた刺身類がある。それを酢飯と合わせて海鮮丼だ」

「おぉ! それは何とも食欲をそそるね……!!」

「だろ? 酒のあてにカルパッチョも用意した。あいつ等が帰ってくるまで、ゲームでもしながら一杯やろうぜ?」

「ふふっ、そうだね!」

 

 西代は心底幸せそうな笑顔を浮かべて、陣内と共に部屋のソファに座りゲームを起動する。

 

「そうだ、久しぶりに何か賭けようよ」

「ゲームの勝敗に? ……負けた方がスピリタスでも飲むか?」

「……いいね。大学の頃に戻ったみたいで楽しそうだ」

「確かにな。……でも、飯食う前に潰れそうになっても容赦はしないぜ?」

「それはこっちのセリフさ」

 

 気合を入れるために両者は煙草を咥えて火をつける。今日は熱い夜になることだろう。

 

 美味しいご飯に酒と煙草。気の置けない友達と程々のスリル。

西代の幸福な日々はいつまでも続いていく。

 

************************************************************

 

「あははは~~、清酒の湖だ~~~」

 

 陣内梅治の目の前に存在する日本酒の溜め池。そこに彼は全裸で飛び込む。

 

「あ゛ー、うまっ、うま、さいこー! もう俺ここに住も~! 永住しよ~。アハハハハハハ!!」

 

************************************************************

 

 

 ぶぅぅぅぅんんぶんぶぅぅぅんんんんんんッッッ!!!!

 

 

 突如として鳴り響くエキゾースト音。それは部室の外、大学構内から鳴り響いていた。

 

「「「「…………」」」」

 

 むくりと4人は寝ている状態から体を起こす。就寝中だったが、先ほどの爆音によって叩き起こされたのであった。

 

「何か……()()()()()()、何か、凄く幸せな夢を見ていた気がするぜよ」

「私もー……」

「僕も……」

「俺もだ……」

 

 4人の表情は完全に一致していた。

 

「今日であの騒音に起こされるのは何度目じゃ?」

「毎週、3回は必ず走ってるよねー。あの()()()()()()

「この深夜の時間帯に、凄い危険なスピードでね……」

「俺はもう堪忍袋の緒が切れた」

 

 4人の意思は完全に一致していた。

 

「我は焼き討つ」

「私はぶっ壊す」

「僕は心を折る」

「俺は酔い潰す」

 

 4人の殺意は完全に一致していた。

 

「では皆の衆…………戦支度(いくさじたく)の後に、自動車部を成敗しに参るぞッ!!」

 

「「「御意(ぎょい)ッ!!」」」

 

 4人は争いに向けて、雑多な部室内で支度を整えるのであった。

 

************************************************************

 

 ナンパ信号機トリオの1人、黄山(きやま) (とおる)は自動車好きである。そのため、彼は自動車部にも入部しており部活動に精を出していた。

 

「あーこちら黄山。人影はない。走行して問題なし」

 

 黄山はトランシーバーを使い、部活動仲間に状況を報告する。安全を考慮して自動車部は見張りを立てるようにしていた。

 

 広い大学の敷地内をぐるりと囲むように設けられた道路。深夜になれば人がいなくなるため、自動車部はそこを練習コース代わりに使っていた。

 

(早く俺の番、来ないかな……)

 

 黄山は見張りを退屈そうにこなす。

 

 そのため、注意力が散漫となり背後から近づいてくる悪鬼羅刹(あっきらせつ)たちに気が付くことができなかった。

 

「よぉ、黄山」

「っ!? な、なんだッ!?」

 

 闇夜に紛れて、陣内は黄山を羽交い締めにして拘束する。

 

「自動車部、はっけーん……!!」

「コイツから情報を搾れるだけ絞り取るでござる……!!」

「見知った顔だから遠慮はいらないね……!!」

 

 薙刀(なぎなた)、激辛香辛料、スピリタス。三者三様の拷問機材を片手に酒飲みモンスターズは黄山に詰めよった。

 

「はっ!? おい!! これは何の冗談だ!?」

「冗談などではない。お主には今から自動車部の内情を全て供述(きょうじゅつ)してもらう」

 

 安瀬は前回の部室争奪戦以来、信号機トリオに対して口調を取り繕うのを止めていた。その理由は彼らを信頼した訳ではなく、単純に敬意を払いたくないためだ。

 

「え、え、なんでだよ!?」

「自動車部の不祥事を暴き、活動停止まで追い込むためである」

 

 安瀬の目は本気だった。

 

「どうせー、自動車部なんて暴走集団の集まりだしー」

「叩けば埃が山ほど出てきそうだよね」

 

 事実、彼らは大学の敷地内で道路交通法に違反した速度で爆走していた。

 

「い、いや、話の意味が分からな──」

「ごちゃごちゃ煩い。猫屋、頼んだでござる」

「オッケー」

 

 そう言うと、彼女は黄山の手首の少し下を強く押さえる。

 

「いっ!?」

「それー」

 

 猫屋は陣内に嫌酒薬を飲ませたのと同じ要領で、黄山の口に激辛香辛料をぶち込んだ。

 

「あ、あ、あぎゃっ」

「はーい、大声出さなーい」

「んぐっ!?」

 

 口が開かない様に猫屋は黄山の顎を下から押さえる。陣内に羽交い絞めにされているため、黄山は抵抗する事ができなかった。

 

「っ、っ、っ──、──、──っ、っ、っ!!??」

「安瀬ちゃーん、何秒くらいー?」

「……い、いや、もう十分であろう。お主のそれは死人がでる」

「えーー? そう?」

 

 パッと猫屋は黄山の顎から手を離した。

 

「う、ごっ、あ゛゛……み、水ッ!!」

「はいどうぞ」

 

 要求に応じるように、西代は持っていたスピリタスをそのまま口に突っ込んだ。

 

「ッッッ!!??」

「に、西代? ちょっとやりすぎじゃないか?」

「あ、ごめん、つい」

 

 陣内の発言を受けて、西代はスピリタスを引っ込めた。

 

「うぉえ゛っ!? ゲホっゲホッ!!」

「お、大人しく全てを話した方が身のためだぞ、黄山。最悪の場合、お前は1週間程度、病院送りにされる可能性がある」

「す゛、すでに、し゛にそ゛う……」

「「「なら早く話せ」」」

 

 ボロボロと涙を流して半生半死となった黄山。その様子を見て、陣内だけは同情して見せるが、酒飲みモンスターズは一切の容赦を持ち合わせなかった。

 

 彼女たちは女性と交通安全、安眠の敵にとても厳しかった。

 

「ハァ……ハァ……、そもそもここは私有地だから道路交通法は適用されてない……」

「「「「え??」」」」

「大学側にもちゃんと道路の使用許可は取ってあるんだよ!! 俺たちは何も悪い事はしていない!!」

 

************************************************************

 

 衝撃の事実。俺たちの安眠を邪魔する自動車部は合法的な許可を得て大学をサーキット代わりに使用していたようだ。黄山には少し悪い事をした。

 

「どうしようか? 騒音被害の方で大学に訴えてみるかい?」

「いや、部室を住居に使ってる俺達の方がアウトだろ」

 

 大学の周りの民家から苦情が来るなら分かるが、俺達が抗議しても意味がないだろう。

 

「えー? じゃあ、もう諦めるしかないのー?」

「ぐぐぐ、神は僕に安眠を諦めろというのか」

 

 俺も深夜に騒音で起こされるのは辛い。今月に入ってもう6回目だ。少しだけでいいから何とか活動を自粛させる手段はないものか。

 

「お主ら、頭が固いのぅ」

 

 そこで頼りになるのは、やはり安瀬だった。

 

「ここにいる黄山とやらがいれば、話は簡単であろう?」

「えー?」

「ん?」

「は?」

 

「……お、俺?」

 

 急に話を振られた黄山は事態を掴めずに狼狽する。

 

「お、俺はたかが副部長だ! 活動を休止させる権限なんてないぞ!!」

「ほほぅ、役職持ちか。なら好都合である。なぁに、お主は我らの言う通りに振る舞っておれば良い。そうすれば、もう危害は加えん」

 

 逆に言えば、従わなければ殺す、と安瀬は告げていた。

 

************************************************************

 

「自動車部の皆様! 貴方たちの()()()()()()はこの安瀬桜が預かりました!! 無事に返して欲しければ2週間の間、部活動の休止を誓いなさい!!」

「た゛、た゛すけてくれ゛゛ーーーッ!! つ、つ、次はマジで殺される゛ーーッ!!」

 

 安瀬はメガホンを使い、自動車部の集会場所にて人質を利用した脅迫行為を何の躊躇もなく行って見せた。

 

「あ、安瀬ちゃんってさー……」

「うん、生まれる時代が違ったら大悪党になってたと僕は思うよ」

「恐ろしいヤツだよな、マジで」

 



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安眠戦争・中

 

 空気抵抗を減らす為に車体を低くしたであろう自動車が並ぶ、部室棟の駐車場。

 

 俺たちはそこで人質を使った脅迫行為に手を染めていた。

 

「皆さん! ここに誓約書を用意いたしました! この黄色髪を引き渡して欲しければここに署名してください!!」

 

 安瀬は楽しそうに荒縄で拘束された黄山に薙刀を突き付ける。その隣では猫屋が秘伝の香辛料を手に持ち、西代がスピリタスをチラつかせて脅しの体裁を盤石な物としていた。

 

 俺は何もすることがなかったので酒を飲んでいた。

 

「お゛、お゛前たち゛ーー!! たす゛けて゛ー!!」

「き、黄山先輩!」

「くっそ、どうなってるんだ!?」

 

 自動車部の面々が混乱の声を上げる。どうやら、ちゃんと心配されているそうだ。黄山のヤツ、意外と人望あるんだな。

 

「アンタがいないと明日の合コンどうなるんだよ!!」

「こちとら大学入って車しか弄ってないんだぞ!!」

「っく、こうなれば素直に要求を受け入れるしかないか!!」

 

「…………」

 

 慕われている理由が分かった気がする……。この分なら意外にも俺たちの強引な人質作戦はうまくいきそうだ。

 

 俺は気を抜いて甘い煙草に火をつける。

 

「何をしているんですか!!」

 

 凛とした声が場を制す。俺たちの視線がその声の主にへと集まる。

 

「「「部長!!」」」

 

 自働車部員たちが"部長"と呼んだのは女だった。ツナギをきた背の高い女。()()()()()()()()()()()()()

 

「むっこ?」

「……梅治先輩?」

 

 六車(むぐるま) 七菜(なな)。高校時代、同じ部活動に所属していた後輩。常にむすっとした表情をしているため"むっこ"というあだ名が淳司によってつけられていた。

 

「むっこ、お前、この大学に入学してたのか」

「先輩こそ、受験に失敗したのは知ってましたが、まさか同じ大学なんて……」

 

 彼女の年齢は俺の1つ下。現役合格していれば2回生という事になるだろう。

見知った後輩に学年を追い越されると複雑な気分になるな……。

 

「先輩……だいぶ、その、……変わりましたね?」

「そうか?」

「……自分の今の姿を客観的にみてくださいよ」

 

 俺は日本酒の2合瓶を片手に煙草を楽しんでいる。

 

 飲んでいるのは、大阪府にある老舗酒造が出している秋鹿(あきしか)。原酒、火入れ、無濾過、槽搾直汲(ふなしぼりじかくみ)などなど、製法別にバラエティーが豊富な銘柄であり、その品種は20種類を優に超える。自分好みの味を探すことができる自由度の高い日本酒だ。

 

 俺が買ったのは秋鹿の生酒。冷凍庫に入れ徹底的に冷やしてから飲むと目が覚めるように美味しい。

 

「それに、この騒ぎは一体……?」

 

 むっこは拘束された黄山の方に視線をやり、怪訝そうな声を上げた。

 

 酒飲みモンスターズは俺の知り合いが急に現れた事に驚いたのか、気を使っているのか知らないが一時的に沈黙している。

 

「あー」

 

 まさか、むっこが自動車部で部長をしているとは思っていなかった。確かに、彼女は()()()()()()で高校生の時分から自動車やバイクといった動力車が大好きだ。そんな車好きの後輩の部を休止させるために人質を取って脅迫していた、なんて言うのはどうにも罰が悪い。

 

「……車の排ガス音が五月蠅いから走るのを止めてくれないか? あと2週間程度で引っ越すからさ」

 

 俺は事態の経緯をかなぐり捨て、要求を簡潔に伝えた。情報を少なくして彼女の厚意的な解釈に期待するためだ。

 

「あぁ、大学の近くに住んでいるんですか……。それは、すいませんでした」

 

 俺の目論見はなんと成功してしまった。むっこは俺がこの近くで賃貸を借りていると勘違いしてくれたようだ。

 

「ですけど、来月にサーキットの大会があるのでこっちとしても練習時間を減らすのは、ちょっと……」

「た、大会?? ま、まじか……」

 

 どうやらこの大学の自動車部というのは真剣に活動に取り組んでいるようだった。正直、暴走する若者集団くらいの認識だったので驚いた。真面目に活動しているのなら休止まで追い込むのは流石に悪い。

 

「深夜に走るのを止めてくれるだけでいいんだけど……どうだ?」

 

 俺は何とか妥協点を探る方へ話をシフトチェンジする。安眠できないのは学業とバイトに支障がでるので本当に何とかしたい。

 

「そうですね…………」

 

 むっこは顎に手を当てて俺の発言を吟味する。

 

「いや、……そもそも……あ、……そうか、その手があった!!」

「うぉっ、な、なんだ? 急に大声を出して……?」

 

 彼女は仏頂面を急に破顔して、期待に満ち溢れた目線で俺の事を射抜く。

 

「梅治先輩。自動車部に入ってくれませんか! そうすれば私が部長権限で無理やり部活を休止させます……!!」

 

 なんか、突然、変な事を言い出した。

 

「は、俺が? なんで?? そもそもスポーツ車なんて持ってないぞ、俺」

「大型バイクの免許はお持ちでしたよね? だったらバイクを持ってませんか? うちの部はバイクでもレースに出てるんで参加できますよ」

「……確かに持っているけど、なんでむっこが知ってるんだ?」

 

 俺がバイクの免許を取ったのは高校を卒業してからだ。むっこと最後にあったのは卒業式の時だったはず……。

 

「教習場で一度、見かけた事がありまして。その時は、急いでいたので声はかけませんでしたが……」

「あぁ、なるほど」

 

 俺とむっこは同じ地域に住んでいた。彼女が通っていた教習所も同じところだったのだろう。

 

「でも、何で俺が部に入ったら休部してくれるんだよ?」

 

 俺はモータースポーツをやっていた訳ではないので即戦力にはならない。勧誘理由が不明だ。

 

「そ、それはですね……」

 

 俺の質問を受けて、むっこは顔を赤くして(うつむ)いた。もじもじとせわしなく両手をこすり合わせながら恥ずかしがっている。その姿はまるで()()()()()()()()()()()()()()の様だ。

 

 その反応を見て、得心がいった。

 

 俺は()()()()()()()()()に、むっこに小声で話しかける。

 

「むっこ……お前、淳司とはまだ付き合ってないのかよ」

「っむ、むむむ……」

 

 何が、むむむだ。

 

 思い返すは懐かしき青い高校時代。部活動中に仲睦まじく甘酸っぱい雰囲気を漂わせた淳司とむっこ。お互いに奥手過ぎて中々発展しない恋物語に俺たちはヤキモキしたものだ。

 

 むっこは淳司に好意を抱いている。そして、淳司もむっこに気がある。2人は所謂、両想いというやつだった。

 

「お前ら……まさか卒業して音信不通になったとかじゃないだろうな?」

「い、いえ、たまに連絡は取り合っています」

「はぁ……でも、その様子じゃデートとか一切してないだろ」

「………………はい」

 

 淳司は結局、卒業式であっても、むっこに告白をすることは無かった。手に職を就けお金を稼げる自立した男になってからむっこに告白する、と本人は言っていた。それはもうプロポーズの域に達している気がする。だが、友人ながらなんて誠実で男らしいヤツなのだろう。ちょっと尊敬する。

 

 実際に告白をしていたのなら、な。

 

「………………」

 

 あの臆病者め。もうすでに就職してるはずなのにビビッて告白を延期しているな? そして、むっこも恋愛方面に関しては極度の恥ずかしがり屋だ。彼女からアタックを仕掛ける事は決してないだろう。

 

 そこで俺に仲介役を担って欲しい、というわけか。

 

「俺が自動車部に入って、それを口実に淳司とお前をツーリングに誘う」

「………はい」

「そこで俺に火急の用事ができる。お前たちは2人でデートする羽目になる、と………筋書きはこんなもんでいいか?」

「そ、それでよろしくお願いします………」

 

 むっこは顔を茹でタコのように赤くして、不正取引を承認する。職権を乱用してでも淳司との甘い逢引の種火を欲しがるとは………。まぁ、恋の前では部活動など塵芥(ちりあくた)に等しいだろう。恋は戦争、とはよく言ったものだ。

 

 おまけに、俺たちは黄山を人質に取っている。そのため部活動の休止を宣言しても違和感はなく、批判は俺達に行くだろう。その恨み辛みは入部した俺が上手い事立ち回って解消すればいい。

 

 少しめんどくさいが、落し所としては最良の結果だ。

 

「まぁ、任せろ。淳司にはこの前、だいぶ世話になった。お前たちをくっつけるのに全力を出す」

「あ、ありがとうございます。では、そのような取り決めで──」

 

「「「ちょっと、待った!!」」」

 

 俺の完璧なネゴシエーションにケチをつけたのは、今まで黙ってくれていた酒飲みモンスターズだ。

 

 え、いや、なに??

 

************************************************************

 

 時間は、陣内梅治と六車七菜がコソコソと恋愛相談を繰り広げる前まで遡る。

 

 酒飲みモンスターズは黄山を拘束しながら、少し離れた所で陣内とその後輩らしき人物の話を聞いていた。

 

「梅治先輩、自動車部に入ってくれませんか!? そうすれば私が部長権限で部活を休止させます……!!」

 

「は?」

「え?」

「ん?」

 

 当然、むっこは陣内を自動車部に誘う。彼女たちはその意図が理解できずに疑問符を頭に浮かべる。

 

「でも、何で俺が部に入ったら休部してくれるんだよ?」

「そ、それはですね……」

 

 陣内の質問を受けて、むっこは見る見るうちに顔を赤くしてその身を(よじ)る。陣内梅治はその様子を恋する乙女のようだと内心で形容していた。

 

「「「…………はぁ?」」」

 

 突如として表れた陣内と親し気な後輩女。彼女は急に陣内を自動車部へと誘い、その理由を聞かれて顔を紅潮させて見せた。

 

 酒飲みモンスターズも、陣内と同じような所感を得る。ただ、両者の思惑の決定的な違いはその恋慕先にある。

 

「……作戦タイムでござる」

 

 話題の2人が小声で何かを囁き合いだし、そして()()()()()()()()()()のを見て、安瀬は仲間たちに緊急事態の宣言を告げる。

 

「……賛成だね」

「……私も。……邪魔者は落としちゃうね」

「え、ちょ、ぐ、ぐ──」

 

 そう言うや否や、猫屋は黄山の頸動脈を指2本で正確に圧迫した。10秒も経たずに、邪魔者は意識を失う。"慈愛"とか"優しさ"は既に彼女達からは消失しているようだった。

 

「「「………………」」」

 

 嵐の前の静けさ。

 

 酒飲みモンスターズの勘違い。それは六車が陣内に恋心を抱いており、何とかして彼を手に入れようと自分が(おさ)である自動車部へ勧誘している、という内容だった。

 

 急に現れて横から陣内を奪い取ろうとする、泥棒女。そのピンク色の誘惑に気が付いていない間抜け馬鹿男。その2つの勘違いは彼女たちの怒りのボルテージを最高潮まで一気に引き上げた。

 

「あっっの、糞ボケ女たらしめッ!!」

 

「デレデレして、ばっっかじゃないのーーッ!?」

 

「何故か死ぬほど、むかっ腹が立つねッ!!」

 

 恐山(おそれざん)は怒涛の勢いで噴火した。

 

「どうなっておるんじゃ!? あのアル中に恋心を抱く輩がなぜこの世に存在しておるッ!?」

「本当にねーッ!! 別に、別に、たいしてカッコイイ訳でもないのにさー!!」

「しかも、その気持ちに陣内君が気が付いていないのが癪に触るね! 恋愛漫画の主人公気取りかい? あのアル中ッ!!」

 

 各々が怒髪天(どはつてん)()き、好き勝手に陣内の事をボロクソに言い合う。

 

 ただの嫉妬である。

 

「我らの生活の為にも、絶対にあ奴を奪われる訳にはいかん!」

「その通りだねー……!!」

「例え休部に追い込めなくても、陣内君だけは連れて帰ろう!」

 

 大学に近い陣内梅治の賃貸はもう存在しない。2回目の合コン騒動の時とは違い、陣内に恋人ができてはいけない理由は既に焼失している。

 

 しかし、怒りと嫉妬と焦燥に脳内を支配された酒飲みモンスターズはその事に気づかない。3匹は陣内を見知らぬ他の誰かに取られたくないだけだった。

 

「いざ突貫! ()()()()()()()()()()()の開始をここに宣言する!」

「やってやるにゃー!!」

「まかせてくれ……!!」

 

 この世で最も無意味な争いが始まろうとしていた。

 

************************************************************

 

「陣内の身柄は我ら、郷土民俗研究サークルの物である!! 自動車部なぞといった極悪卑劣集団にくれてやるわけにいかん!!」

「「そーだ、そーだ!!」」

 

 ……何言ってるんだ、こいつら?

 

 酒飲みモンスターズは俺とむっこの話し合いに急に口を挟み、よく分からない事を言い始めた。しかもなぜか、全員がブチ切れている。

 

 その迫力に圧倒されながら、むっこは控えめに口を開いた。

 

「……え、っと、この大学では部活動やサークルの兼部(けんぶ)は認められているので問題はないはずですけど」

 

 控えめなむっこの反証はとても筋の通ったものに思えた。なので、俺も彼女を支持するために口を挟む。

 

「そうだな。確か、黄山も地域支援活性化部とやらに入部していたはずだ。俺が入部しても、何も問題は──」

「「「ふんっ!」」」

「ぐはぁッ!!??」

 

 突如として、俺の右わき腹に3つの拳が突き刺さった。

 

「おぐ、おぉぉお……!」

 

 酒飲みの急所は肝臓。そこを様々な角度で刺突され、思わずうめき声をあげてしまう。一瞬、意識が遠くへ飛びかけたほどだ。し、死ぬほど痛い……。

 

「陣内君は黙ってなよ」

「そーそー。少し黙っときなってー」

「この議題に口を挟むことは拙者たちが許さんぜよ」

 

「…………は、はい」

 

 修羅のごとき形相で俺の事を睨む彼女達。暴力と相まって死ぬほど恐ろしい。訳も分からず殴られたが、抵抗する気力は微塵も沸いてこなかった。

 

「っむ」

 

 そこに反応を示したのがむっこだ。

 

「梅治先輩への不当な扱いは止めてもらいましょうか」

 

 なんて良くできた後輩なのだろうか。ビビった俺の代わりに酒飲みモンスターズに対して抗議の声を上げてくれるとは……。

 

「「「あぁん??」」」

 

 そんな俺の優しい後輩に対して、羅刹女(らせつにょ)たちは田舎のヤンキーの様にメンチを切る。身内の恥を見せているようで、死ぬほど恥ずかしい。もう勘弁してくれ。

 

「…………」

 

 だが、むっこは負けじと彼女達を睨み返して見せた。

 

「…………ほぉ、中々に肝が据わっておるようじゃのぅ」

 

 安瀬はその態度を見て、感心したように声を漏らす。3対1なので、確かにむっこの胆力は凄まじい。その気概を恋愛方面でも発揮して欲しいものだ。

 

「……まぁ、デートが掛かってますから」

「「「っ!!??」」」

 

 むっこがポツリと漏らした、淳司との逢引き計画。それに酒飲みモンスターズは関係ないはずだが、彼女たちは何故か露骨に狼狽えて見せた。

 

「う、嘘であろう?? 陣内がそれを了承したというのかえ??」

「? え、まぁ、そうですけど」

「ムッコちゃんって言ったっけー!? ちょっと、手が早すぎるんじゃないのー!?」

「恐るべき……魔性の女、むっこ……!!」

 

 なんか話がかみ合ってない気がする。口を出すなと言われ、殴られたので訂正する気はないが。

 

「せ、拙者だって陣内と骨董品屋を廻ったことが……」

「わ、私だって陣内とイブにデートしたことあるしー……」

「ぼ、僕だって陣内君とはよく2人でパチンコに……」

 

「……?」 

 

 急に各々が(うつむ)いてボソボソと独り言を口に出す。何を言っているかよく聞こえない。確かなのは3女が何故か心理的なダメージを受けている事だけだった。

 

 そして、次の瞬間。

 

「う、う、うにゃーー!!」

 

 猫屋が急に奇声を上げ、大きく伸びをする。急な彼女の豹変に、俺とむっこは言葉を発さずに驚いた。

 

「こ、こうなったら陣内を賭けてー、この猫屋李花様とレース勝負じゃーー!!」

 

 え、えぇ……。どこがどう繋がって、そう言った意味不明な勝負の話になったのだろう。

 

「猫屋……李花?」

 

 猫屋の名乗りを受けて、むっこが怪訝そうな声を漏らした。

 

「……もしかして、伊勢崎(いせさき)狂猫(きょうびょう)?」

「っ!」

 

 猫屋が驚いた様子でむっこを見つめた。伊勢崎(いせさき)狂猫(きょうびょう)? なんだそれは??

 

「え、えっとー、ムッコちゃんはもしかしてー……」

「はい、中学までは空手道をやってました。その時に、一度お相手を……」

「あ、あははー。あ、あの……その、…………」

 

 猫屋から先ほどまでの威勢がどんどんと無くなっていく。

 

 …………口を挟むべきだろうか。

 

「猫屋? 伊勢崎(いせさき)狂猫(きょうびょう)って一体何だい?」

 

 俺が迷っている内に西代が疑問を猫屋にぶつけた。

 

「……えっとね」

 

 猫屋は一瞬だけ、俺の方を見た。本当に一瞬だけ、大きく澄んだ瞳で真っ直ぐに俺を射抜く。

 

 彼女が拳を握りしめた事に、俺だけが気が付いた。

 

「昔、空手やってた事があってー……」

 

 猫屋はその昔話を口にする。さも、当然のように。

 

「がむしゃらに頑張ってたらー……」

 

 猫屋は強かった。

 

「いつの間にか、そう呼ばれるようになっちゃってたー……みたいな?」

 

 猫屋の話はそこで終わった。言い淀みの無い語り口で、彼女の昔話は終わったのだ。このようにふざけた時に話したい事ではないだろうに、彼女は平然とした様子でそれをやってのけた。

 

「「…………」」

 

 安瀬と西代はその話を聞いて固まっている。だが、すぐに硬直を解き興奮した様子で笑顔を浮かべた。

 

 

「す、凄まじいでおじゃるな! やはり猫屋は巴御前(ともえごぜん)のごとき女武芸者だったでござるか!!」

「どうりで運動神経が抜群なわけだ! ふふっ、ただのヤニカス辛党ではなかった訳だね!!」

 

 

 安瀬と西代は、猫屋を自分の事のように誇らしげに褒め称える。

 

「…………ふひ、ふひひ……だよね、だよねーーー!! 私、中々、凄かったんだからーー!!」

 

 猫屋は朗らかに、豪快に、笑った。

 

 事情を知っている俺だけが、その嬉しそうな姿を見て泣きそうになった。

 

 くっそ、何で、何で、こんな、わけわからん時に……。いや、こういう時に言えてこそなのだろうが、ちょっと、うぐぅ、あぁ、後で猫屋には酒と煙草でも奢ってやるか……。

 

「と、言う訳でーー!!」

 

 俺のぐちゃぐちゃになってしまった胸中など放っておいて、猫屋は笑顔でむっこに向かって指を突き付けた。

 

伊勢崎(いせさき)狂猫(きょうびょう)の異名を持つこの私と勝負しろー!! 私が勝った時は部活を休止して、陣内の勧誘も諦めてもらおーか!!」

「……まぁ、勝負理由はよく分かりませんが」

 

 むっこは事態が把握できていないのか、難しい顔をして言葉を続ける。

 

「動機なら既に複数個できました。デートと梅治先輩の身の安全と試合のリベンジ……。面白いです」

 

 ムッとした表情で目だけを燃やすように光らせ、彼女は勝負を許諾した。

 

(……あれ? 事態は何も解決してないよな??)

 

 猫屋の頑張りによって薄れ(こじ)れたお話の異常感。事態はより複雑な方に向かっているのではないだろうか?



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安眠戦争・後

 

 暴走集団を懲らしめに馳せ参じたはずの俺達。しかし、話が二転三転してしまい、結局、暴走行為にて事態を白黒つける羽目になってしまった。

 

 自動車部員たちは意外な事に俺たちのレース勝負をあっさりと受け入れた。素人に負けるようでは大会に出てもいい成績などとても残せない、という事らしい。

 

 石灰のスタートラインに並ぶ2台の大型バイク。それを取り囲む自動車部の面々。安瀬と西代の姿はそこにはない。()()()()()()()()()()()()()()()にどこかに消えていた。

 

 俺達のバイクの整備は、いつの間にか気絶し、そしていつ間にか覚醒した黄山が請け負ってくれた。正直、今回のアイツの扱いは散々なものであったため怒っていると思っていたが細かくバイクを点検してくれた上になんとプロテクターまで貸してくれるという好待遇。

 

 やはり信号機達は女癖が極端に悪いだけで、基本的には良い奴らだ。今度、良い酒を持って彼らと一緒に遊びに行こう。まぁ、酒飲みモンスターズは嫌がるだろうから俺1人で……。

 

「じんなーい、本気で飛ばすからお酒はもう控えといてねー?」

 

 そして、俺は現在、バイクの後部座席に座らされている。

 

「いや、あのな……? 何で俺までバイクに乗る必要があるんだ??」

 

 レース勝負で余計な荷物を背負い込む意味が分からない。俺はこの勝負を(さかな)に黄山にお酌でもしようと考えていたのに……。

 

「…………陣内はこっちの味方じゃなきゃだめだから」

「……え?」

「な、何でもなーい! ほら、もう始まるよー! 相手さんも準備万端って感じだしー……!」

 

 隣に視線をやると、バイクに跨ったむっこがアクセルを回して轟音を吹かしている。その様はまるでコチラを威嚇しているようだ。

 

「…………」

 

 むっこには悪いがこの勝負、勝った方が俺の利益は大きい。騒音被害は無くなるしわざわざ自動車部に入らなくて済む。もちろん、勝敗に関わらず淳司との逢引きの仲介役はするつもりだ。なので、猫屋が乗れと言うならそれに応じてサポートするつもりではあるのだが……1つだけ気がかりな事がある。

 

「なぁ、安瀬たちの姿が見えないんだけど、もしかして……」

「そりゃーもちろん、(しか)るべき場所でスタンバってるってー」

「いや、バイクレースで妨害って……」

 

 防具をしっかり付けているとはいえ、もし転倒などが起きれば大変な事になる。それにバイクの修理代も洒落にならない。

 

 俺の恐怖面を見て、猫屋は笑う。

 

「アハハー!! 流石の安瀬ちゃんたちも、そんなに危ない事はしな──」

「絶対にか? あの気狂いとスリル中毒者(ジャンキー)の最凶ペアだぞ? 妨害による大災害が発生しないと、お酒様に誓えるか?」

「……い、いやー、さ、さ、流石に怪我人が出るような真似……真似はー……」

 

 ダラダラと汗を流して動揺を見せる猫屋。やはり、彼女は誓いを宣言しきる事ができなかった。

 

 俺も同じ気持ちだ。あの2人なら道路上に高度数アルコールをばら撒いて火を放つくらいはやりかねん。勝負ごとの際、彼女達の中に倫理観というものは存在しない。

 

 どこまでも不安だ。

 

「何をくっちゃべっているんですか! もうカウントが始まりますよ!!」

 

 敵であるはずのむっこが俺達に向かって律儀に警告を言い放つ。

 むっこの言う通り、スタートラインの横に置かれた電光掲示板の数値が減少し始めた。

 

「おっととー。陣内、しっかり(つか)まってなよー? けっこう本気で飛ばすからねー……!!」

「お、おう」

 

 カウントダウンは残り3秒。最凶コンビの事は心配ではあるが、もう時間がない。

 

 俺は猫屋の言う通り、彼女の細い腰をギュッと抱きしめた。高速道路を2人乗りをした時は座席下の取っ手を握っていれば良かったが、今回はそれでは弾き飛ばされてしまいそうだ。

 

 猫屋の体温と柔らかい感触が伝わってくる。しかし、ほっそいなコイツ。……酒を飲んでおいて良かった。

 

「っ!!」

 

 突如としてマフラーから鳴り響く排気音。獣の咆哮のような大音量の空ぶかし。

 

 頼もしい事に、猫屋のやる気は満ち溢れているようだ。それを受けて俺のテンションも上がってくる。安瀬たちの事は確かに心配だが、どうせやるなら楽しもう。

 

「ぶっ飛ばしてやろうぜ、猫屋。お前のドラテクをギャラリーに見せつけてやれ……!!」

「…………ふひひっ、いいねー、陣内! 私、実は負けるのって大嫌いなんだよねーー!!」

 

 それは普段の言動から察している。

 

 カウントダウンが0になった瞬間、猛烈なGが俺を襲い、深夜の大学レースはスタートした。

 

************************************************************

 

 コースは大学をクルリと囲んだ四角形の一般道路。直線4つとカーブが4つ。大学内の道路にはもっと複雑な道もあるが猫屋は素人の為、それに合わせシンプルなコースが選ばれた。

 

 風を切り裂いて普段なら警察のお世話になるようなスピードで道路をかっ飛ばす俺達。だが、しかし……

 

「くっそー……!! ムッコちゃん、あり得ないほど早いんだけどーー!?」

 

 俺たちは意気揚々とスタートしたものの、むっこにグングンと差を付けられてしまっていた。

 

 既にレースは後半戦。その間、むっこは一度たりとも俺達を寄せ付けずにトップを独走していた。このままでは俺たちの敗北は確定したと言ってもいい。

 

「俺が後ろに乗ってるとはいえ、ここまで差が開くか……!!」

 

 加えて、こっちは中古の純正品バイク。向こうはカスタムチェーンした本物のスポーツバイクだ。おまけに先ほど自動車部員たちが話しているのを聞いたが、むっこは一般参加のバイクレースで優勝経験があるらしい。いくら猫屋の運動神経が凄かろうと技量差は歴然だった。

 

「こうなったらマジで安瀬ちゃん達に期待するしかないねー!!」

 

************************************************************

 

 六車七菜、通称むっこは素人相手であっても一切容赦なく実力を発揮していた。身を大きく伏せて空気抵抗を減らし、直線道路を疾走する。

 

 陣内は勝敗に関わらず彼女の恋路をサポートするつもりであるが、彼女はそれを知らないため、いつも以上に本気で勝負に望んでいる様子だった。

 

(……?)

 

 しかし、その順風満帆なレース模様に陰りが射す。道路上で微かに動く何かを彼女は視界にとらえた。

 

(見張りから何も報告は来てないけど……)

 

 むっこのヘルメットのインカムはトランシーバーと繋がっており、人が接近している場合は通信が入る手筈となっていた。

 

 一般人が見張りに偶然見つからずにコース上に入ってきた可能性を考慮して、むっこはスピードを少しだけ緩める。猫屋達との距離のマージンは既に30秒以上広がっており、その程度の減速は勝負に支障ないと判断したのだ。

 

 むっこは不審な物体の正体を確認しようとライトをハイビームに切り替えた。

 

 

 そして、光は道路脇に倒れる()()()()()()()を照らし出す。

 

 

「はぁッッッ!!??」

 

 彼女は咄嗟に急制動を掛けた。ガガガガガッ!! っと両輪のタイヤがロックするギリギリまでブレーキを強め、持ち前の操縦技術をフル活用しバイクを路肩に寄せながら緊急停止する。

 

 むっこは急いでバイクから飛び降り、女性の元まで駆け寄った。

 

(やばい、やばい、やばいッ!! 練習中に誰かが車で轢いたの!? ひき逃げ!? そんな事したら休部どころじゃなくて廃部……い、いや、今はそんな事より生存確認を……!!)

 

 突如、血まみれで倒れた女性が上体を起こした。

 

「き、きゃぁああ!!??」

 

 唐突な重症者の躍動。それを見てむっこは腰を抜かして尻もちをつく。

 

「あ、拙者でござるよ? すまんな、驚かして。やはりこの血糊(ちのり)の量は多すぎであったか……」

「……………………え?」

 

 あっけらかんとした口調で血糊にまみれた安瀬は正体を明かす。

 

 事態の理解が追い付かずに放心するむっこ。その隙をついて道路の真ん中を一台のバイクが颯爽と駆け抜けた。

 

「アハハハハーー!! 安瀬ちゃん、ナーーイス!!」

「ははははは!! お前、やっぱり天才だよ!!」

 

 嘲笑と賞賛の言葉が深夜の道路に高らかと鳴り響く。

 

「…………や、やられた!?」

 

 むっこはようやくこれが安瀬の仕掛けた罠だったことに気づく。彼女は顔をむすっと歪めて安瀬に向き直り口を開いた。

 

「こ、こんなの卑怯じゃないですか!!」

「え、どこがでござる? 貴様(きさん)が勝手にバイクから降りてきたのであろう? 我はたまたま血糊を浴びて倒れてただけである」

「へ、へ、屁理屈を……!!」

「おやおや…………拙者なんかに構っている暇はあるのかえ?」

 

 安瀬の言う通り、陣内達との差は開くばかりだった。

 

「む、むむむ……!!」

 

 むっこは急いでバイクに飛び乗り、再び猛加速してレースに戻る。

 

「こ、こんなので負けてたまるかぁああ!!」

 

 すぐさま、バイクは安瀬の前から消えさった。

 

「はっはっは!! ……この程度に引っかかるような(やから)に陣内は渡せんでありんす」

 

 安瀬は自身の悪だくみが上手くいった事に満足して、楽しそうに笑うのだった。

 

************************************************************

 

 むっこは非合法的なまでの加速を続け、陣内達を追いかける。だがその途中、再び彼女の前にありえない物が表れた。

 

(霧……? この季節に??)

 

 直線の道路上に突然現れた薄い霧。季節は冬の終わり。山岳ならいざ知らず、平坦な場所に存在する大学で発生するはずのない異常気象。

 

「…………」

 

 むっこはそれを見て冷静にヘルメットのシールドを持ち上げた。前が見えないほどではないが、シールドに水滴が付着する事を嫌ったのだ。

 

 何事もなく猛スピードでむっこは霧を突き抜ける。

 

(…………?)

 

 その霧の先には大きなプラカードを掲げる西()()()姿()があった。むっこの注意を引きたいのか、彼女はニコニコと笑いながら手に持ったそれを揺らしている。

 

 

 大きなプラカードには『先ほどの霧はスピリタスで作りました』と書かれていた。思い出すのは、駐車場でスピリタスを手に持った小柄で黒髪な女の姿。

 

 

 シールドを開けていたため、当然むっこは霧をガッツリと吸い込んでいた。

 

「ば、ば、ばっ!!??」

 

 むっこは咄嗟に急制動を掛ける。ガガガガガッ!! っと両輪のタイヤがロックするギリギリまでブレーキを強め、持ち前の操縦技術をフル活用してバイクを路肩に寄せながら緊急停止する。

 

 むっこは急いでバイクから飛び降り、怒りの形相で西代の元まで駆け寄った。

 

「あ、あ、あ、あなた!! 何、考えて──」

「あ、もちろん嘘だよ?」

「……………………は??」

「お酒様を無駄使いする事は僕の信条に反するからね。あの霧は酒を冷やすためのドライアイスで作った、ただの二酸化炭素さ」

 

 西代はあっけらかんとした口調で季節外れの霧の正体を告げた。

 

「…………」

「私有地だから飲酒運転しても犯罪にはならなかっただろうけど、流石の僕でもそこまではしないさ」

「ひ、ひ、ひっ」

 

 むっこは、あまりの下らない作戦に喉が引きつってしまい、意味の無い単語を繰り返してしまう。

 

「ふふふっ、あれ? 何で君はこんな所で立ち止まっているんだい??」

 

 邪悪な微笑を浮かべて、西代は愉悦を感じながらむっこを盛大に煽る。それを受けて、ピキパキとむっこの額に青筋が浮かんだ。

 

「あぁ、なるほど。既に、勝負を諦めて───」

「卑怯者ーーー!! お、覚えてなさいよ、こんちくしょーーー!!」

 

 むっこは情けない捨て台詞を残してバイクに飛び乗った。怒る彼女の内情を表現するかのように、けたたましい轟音を上げながら西代の前から颯爽と消え去るのだった。

 

「ははは! 素直そうないい子だけど、それじゃあ僕達を相手取るには力不足さ」

 

 西代は妨害が上手くいって嬉しいのか、心底楽しそうに笑う。

 

「……ん?」

 

 しかし、安瀬の時とは違い、その表情が少しだけ曇る。悪だくみに夢中になりすぎて、西代は大切な存在を忘れていた。

 

「そう言えば、持っていたスピリタス……どこに置いたっけ?」

 

************************************************************

 

「さっきの(もや)……一体何だったんだろうな?」

「さぁー?? でも、西代ちゃんの姿が見えたから絶対に碌な物じゃなかったと思うー……」

 

 むっこを追い抜いた後でも一切スピードを緩めることなく爆走する俺たち。

 

(むっこの姿は見えないし、これはもう勝った──)

 

 俺が勝利を確信しようとした瞬間、ゾクゾク! っと背後から途轍もない怒気を感じ取った。

 

「絶対に逃がしてたまるかーーーッ!!」

 

 距離的に届くはずのない、むっこの怨嗟の声が聞こえた気がする。振り返ってみると一筋の流星を思わせる速度でバイクが俺達に迫っていた。

 

「う、嘘だろ!? 追いついて来やがった!?」

「えーー!? 西代ちゃんの妨害が失敗したってことー!?」

「い、いや、それはどうだろ……」

 

 賭博の闇モード、西代さんが只人(ただびと)の妨害を失敗するとは思えない。なので、むっこは妨害されたうえで追いついてきた可能性の方が高い、と俺は思う。後方から迫るバイクの速度はその推論を裏付ける根拠としては十分すぎるほどだ。300キロ近くはでているのではないだろうか。

 

 もうすでにゴールまで1キロメートル。残りは鋭いカーブと直線のみ。逃げ切ってしまえば俺たちの勝ちだ。

 

「ぐ、ぐおりゃーー!!」

 

 最終コーナーに俺たちは突入する。猫屋でなければ出すことができない狂気的な進入スピード。車体をバンクさせ、俺たちはとにかく急いでゴールへとひた走る。

 

「絶対に負けないッ!!」

 

 今度は確実に耳まで届いたむっこの怒声。

 

 振り向くと、後方に迫るむっこはさらにバカげた速度でコーナーに侵入していた。膝に付けたプロテクターが地面にこすりつけられ火花を散らしている。

 

「す、すごいなアイツ!!」

 

 ちょっと常識的な運転技術ではない。只人と内心で形容した事は訂正しよう。

 

「わ、私だって1人乗りならあれくらいできるしーー!!」

「張り合ってる場合か! このままだと追いつかれるぞ!!」

 

 残りの道は技術的要素が一切絡まない、直線道路。バイクの性能差は前半のレースで既に嫌というほど味わっている。このままだと、ゴールの直前で追い抜かれてしまうだろう。

 

「ねぇー、陣内!! なんか秘策とかないのー!?」

「そんなもんねぇよ!!」

 

 こ、このまま大人しく負けを受け入れるしかないのか!?

 

************************************************************

 

 時間と場所は変わり、ゴール地点の部室棟駐車場。

 

「え、黄山さん、それ、マジで仕込んだんですか?」

 

 そこで自動車部員Aは感嘆の声を上げた。会話の相手は今回、碌な目に遭っていなかった黄山徹である。

 

「あぁ……陣内のバイクを整備するふりをして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そこら辺に瓶が転がってたしな……」

 

 黄山は悪魔の形相でせせら笑う。

 

「まぁ、出力が落ちるだけで大事にはならなそうですけど……」

 

 アルコールをタンクに入れようが、ガソリンの爆発に耐えうるエンジンが破裂する事は決して無い。

 

「だろう? 何故か……何故か、本当に散々な目に遭わされたからな、俺……。いや、まじで……これくらいの茶目っ気は許されるはずだ、うん……。それにガソリンの量を調整しといたから()()()()()()()()()()()()()()()()()()に差し掛かったくらいだ。それなら減速しても危なくないだろ?」

「……でも、大丈夫ですかね??」

「? さっきの話聞いてたか? 最悪でもエンジン内が焦げ付いて終わるだけだぞ??」

 

 アルコールとガソリンでは気化熱が大きく違う。そのため、適当に混ぜただけではエンジン内で上手く燃焼せず不調を起こして馬力が下がるだけだ。

 

「あぁ、いや……たまに聞くじゃないですか。燃料系を弄って出力が爆上がりしたって話」

 

 ただし、正確にガソリンとアルコールの比率を整えられた場合はむしろ気化熱の影響で吸気効率を大幅に向上させる効果がある。

 

「お前、それ、企業が全力で取り組んでやっとできるような代物だろ? ……ただのレギュラーガソリンにアルコールをぶち込んでパワーアップって、配合比率が完璧にならない限りは到底無理だろ……」

「ははは、ですよねー。そんなの、()()()()()()()にでも愛されていない限り、起きる訳が──」

 

************************************************************

 

「「う、う、うわああああああああああ!!??」」

 

 最終コーナーを抜け長い直線に入ってしばらくした後、唐突に異変は訪れた。なんとマフラーから火が噴き出たのを境に、バイクが信じられない速度で加速し始めたのだ。

 

「ね、猫屋!? お、お、お前!! 俺のバイクに一体何を──」

「わ、私じゃないからーー!!」

 

 車体が浮き上がってそのまま飛行機の様に飛んで行ってしまうのではないかと思うほどの暴力的な向かい風。俺たち以外の全ての物が止まって見えるほどの急加速。急増したGに脳の血流が奪われ気絶してしまいそうだ。

 

そのまま、訳も分からず、俺たちはゴールラインを突っ切ってしまった。

 

************************************************************

 

「い、生きてるか……?」

「か、かろうじてー……」

 

 俺達はなんとか車体の制御を持ち直して、転倒を免れた。今まで飲んだ酒の銘柄が走馬灯のように駆け巡った時は本気で死を覚悟した……。

 

「あ、あははー……見てー、陣内。アスファルトが焦げ付いてるー……」

「…………」

 

 猫屋の天才的な運動神経にただただ感謝しよう。それにしても、最後の殺人ブーストは一体何が原因で起こったのだろうか?

 

「だ、大丈夫ですか……?」

 

 命があることに感謝している俺達に、後からゴールしたむっこが話しかけてきた。

 

「あぁ、なんとかな……。お前も随分と張り切ってたようだけど怪我はないか? もし傷でもできたら淳司に怒られちまう」

「い、いえ、そんな……それに、まだ、淳司先輩とは何も……」

「ん? それ……何の話ー??」

 

 ガソリンタンクに突っ伏して、猫屋は気怠そうに会話に混じってこようとする。だが、これは人の恋路の話。なので、俺は猫屋を無視してむっこと会話を続ける。

 

「勝負には勝ったけど、淳司との橋渡し役はやらせてくれ」

「……え、本当ですか!?」

「あぁ、もちろん。可愛い後輩の頼みだ。明日にでも淳司に連絡を入れておけばいいだろ?」

「あ、ありがとうございます!!」

 

 安瀬たちに何か屈辱的な行いをされたかも知れないが、今回はこれで勘弁して欲しい。

 

「では、私は……()()()()()()()()()()があるのでここで……」

「ん、そうか。じゃあ、またな」

「はい! 淳司先輩の件、よろしくお願いします!!」

 

 そう言って、むっこはダッシュで黄山を探しに向かった。

 

 むっこは猫屋と同じように昔から負けず嫌いなところがあるので、俺たちの妨害工作に文句をつけてくると思っていたが随分と素直に撤退したな……黄山は後輩にかなり慕われているようだし、今回のレースの助言でも請いに行ったのだろうか?

 

「あー……、はいはい、なるほどー……そういう事ねー……」

「え、なんだ?」

 

 俺が脳内でむっこの行動を分析していると、ジトーっとした目をして猫屋がこちらを()める。

 

「はぁー……」

 

 猫屋は肺の中の空気をすべて吐き出すような大きなため息をついた。

 

「なんだか、今日は無駄に頑張っちゃったなー」

 

 そう言って猫屋は大きく体を伸ばした後、後部座席に腰掛ける俺を背もたれにするように体を後ろに倒してくる。猫屋は軽い。俺は特に文句を言わずに、彼女を支える。

 

(今回の騒動もそれなりに楽しかったと思うけど……?)

 

 ……まぁ、感じ方は人それぞれか。なんにせよ、今日のMVPは間違いなく猫屋だ。疲れるのも仕方ない。

 

「お疲れ様。……今日は──」

 

 猫屋の事を労おうとして、一瞬、言葉が詰まった。

 

『昔、空手やってた事があってー……』

 

 ……彼女は今日、レースなんかより遥かに頑張った事があったはずだ。

 

「その、なんだ……」

 

 だが、ここで"頑張ったな"っと言ってしまうのは何か違う気がした。

 

 何というか、上から目線で凄く気色が悪い。そんな言葉をこの才女に掛ける事などありえない。それに、俺と猫屋は対等な親友であって……いや、この辛党ヤニカスが俺と同等の訳は無いか。先ほどの思慮を全否定するようだが、俺より品が無いのは間違いない。間違いない……間違いないのだが……。

 

「凄かった、な……」

 

 そうだ、彼女は凄かった。尊敬の念を抱くほどに猫屋は凄かったのだ。

 

「……でしょー?」 

 

 こちらに顔を向けず、猫屋はニヒルな声音で答えた。

 

「たっくさん、褒めてくれていいよー?」

「あー、はいはい、凄い凄い」

「あ、良くないなー、そんな適当な誉め言葉はー」

「ははっ、調子に乗るな」

 

 俺は彼女と違って捻くれている。猫屋の素直さが偶に羨ましくなるくらいだ。容姿などではなく、精神的な高潔さを直線的に褒めることはどうにも恥ずかしい。

 

「…………ねぇ、陣内?」

 

 猫屋が俺の事を呼ぶ。その声音は男の物とは違って高く、女性らしい。

 

「煙草ちょーだい? 私、今、甘いのが吸いたい気分なんだー」

「ん、あぁ、いいぞ」

 

 俺は懐から煙草を取り出し、背後から彼女に差し出した。

 

 しかし、それを猫屋は何故かつまらなそうな視線で見つめる。

 

「……じ、ジッポ忘れちゃったー……陣内が火、点けてっ」

「俺がか? ……分かった」

 

 それくらいの労いは喜んで引き受けるとしよう。

 

 煙草を咥えた猫屋を背後から抱きしめるようにして両手を回す。片手で火を点け、もう片方は手で風よけを作ってやる。けっこう密着しているが、これは彼女から言い出したことだ。怒られはしないだろう。

 

 猫屋の髪から漂う、甘い匂いが俺の鼻腔をくすぐった。

 

 ドクン──

 

 ……酒が足りていない。

 

「すぅー、はぁー…………うん! 甘くておいしー……!!」

 

 そう言って、猫屋は背を預けたまま見上げるように俺の方に顔を向けた。

 

「え、えへへー、ありがとね、陣内……!」

 

 煙草を咥え、照れたように笑う、俺の……俺の親友。

 

 ドクン……!!

 

「…………」

 

 酒が足りていない。

 

 俺はスマホを取り出して、急いで現在時刻を確認した。

 

「もう3時か……安瀬たちが帰ってきたらそのままオールで飲まないか? 今日は必修の講義もないし、このままサボろうぜ」

「お、いいねー!! サボりのお誘いは何時でも大歓迎だよーー!! このまま朝まで飲み明かそーー!!」

「……だな!! お前の勝利祝いだ、今日は特別に白州を開けてやろう!!」

「ま、マジでーー!?」

 

 猫屋の言う通り、今日は疲れた。こんな日は今回の騒動を酒の肴にして、いつも通り馬鹿騒ぎするに限る。

 



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福音凶報

 

「佐藤先生、この糞忙しい時期に何の御用っすか……」

「まーた、カンニングの検査ですかー……?」

「僕達、前回あんな目に遭ったんですよ……?」

「流石にもうテストで不正はしないでござる……」

 

 ()()()()()()()に入って、既に3日目。俺達4人はテスト終わりに佐藤先生の研究室に呼び出されていた。

 

「まずは今日のテストお疲れ様でした。……貴方たち、凄い顔してるわよ?」

「……俺達、ここ3日間は禁酒とバイトとテスト勉強でありえないほど疲れてるんですよ」

 

 春休みを目前とした、2月の終わり。俺たちは多忙を極めに極めていた。

 

 理由は半年間の勉強の成果を求められる期末テストのせいだ。この試験の出来で取得単位数が決まる、大学生にとっての正念場。進級を掛けた天王山と言ってもいい。

 

「飲み会の誘いならー、春休みに入ってからにしてくださーい……」

「あ、猫屋。それはまずいよ。……僕たちの引っ越しは春休みに入ってすぐだろう……?」

「あー、そっかー……、アハハ、疲れすぎて忘れてたー……」

 

 猫屋と西代が間の抜けた会話を繰り広げる。

 

(何でもいいから、早く部室に帰って仮眠したい……)

 

 俺達は昨日、あの糞狭い部室で深夜5時まで勉強していた。禁酒と寝不足でどうにかなってしまいそうだ。性欲だけはノンアルコールによる減欲法で抑え込んでいるが、それが無ければ俺は三大欲求を我慢するストレスによって本当に発狂していただろう。

 

「……その春休みに入った、その日の話なのだけど」

 

 俺達の様子を心配そうに眺めながら、佐藤先生は話題を切り出す。

 

「体育祭があります」

「「「「…………あ、そうですか」」」」

 

 俺達と何の関係があるのかまるで分らないが、一応は全員で相槌を打っておいた。

 

「……まるで興味がなさそうね?」

「ないっす」

「ないでーす」

「ないです」

「ないでござる」

 

 この年になって、光り輝く汗を流しながら泥臭く運動会? 今のコンディションも相まって微塵もやる気が湧いてこない。もし、参加が強制だと言うのなら、酒でも飲んで適当に流そう。

 

「……優勝した場合、サークルにも活動費として10万円が支給されます」

 

「しゃあ!! やるぞ、テメェら!!」

「全員、血祭りに上げてやるにゃーー!!」

「卑怯な事は僕に任せてくれ!!」

「合戦の勝負、必ずしも大勢小勢に依らず……ただ士卒(しそつ)の志を一つにするとせざるとなり!!」

 

 体育祭、なんて素敵な響きなんだ!! 勤勉かつ健康的であることは、大日本皇帝陛下の赤子(せきし)として義務付けられていると言っても過言ではない。大学生活を思い返せば、俺たちは不摂生で怠惰な生活を続けすぎている。高校時代の泥臭さを思い出し、光り輝く青春の汗を流すのも悪くないな!

 

「若者らしく、元気に満ち溢れているようで大変よろしい」

 

 先生は俺たちの気概を見てほほ笑む。大変に有益な情報をくれた先生には感謝しかない。

 

「でも先生、なんで急に俺達を呼び出してそんな事を?」

「貴方たち……郷土民俗研究サークルとしてまったく活動してないわよね? あのサークルの責任者は私なんですから、何か実績を残してくれないと書類にサインした私の面子が潰れます」

 

 サークルや部活の立ち上げには当然、大学教員の責任者が必要だ。俺達に頼れる教員は佐藤先生しかいなかったため、先生に責任者になってもらっていた。

 

「「「「あ、あぁー……」」」」

 

 火事と物件探しに幽霊騒ぎとバレンタイン、またこの間のレース勝負などで忙しく、俺達はサークルを立ち上げてからそれらしい活動など全くやっていない。月に一度提出しなければならない活動報告書も未作成。……というか、俺達はたった一月でどんだけ馬鹿をやっているんだ。

 

「そこで体育祭に白羽の矢が立ったわけでやんすね」

「そういう事です……体育祭はサークルと部活動に入っている者だけが参加できる内々の学校行事。参加は強制ではないので人数も少ないです。おまけに文化系と運動系の区分はちゃんと分けて評価されますから、勝ち目も十二分にあるでしょう?」

 

 郷土民俗研究サークルは文化系の活動に該当している。ガチムチの体育会系を相手取るわけではないのなら、先生の言う通り勝機は無数に存在しているように思えた。

 

「名誉挽回のいいチャンスだね」

「ついでに遠征費という名のお小遣いもゲットできるわけか!」

「春休みに入ったらさー、そのお金でまた旅行にでも行こー!!」

「名案でござるな!!」

 

 俺達のテンションは活動費の使い道を考えて跳ね上がった。

 

「一応、当日は私も見に行く事にするわ。……捕らぬ狸の皮算用にならない事を期待してます」

「「「「はい!! お任せください!!」」」」

 

 最恐の問題児、安瀬桜。元スポーツエリート、猫屋李花。確率と胆力(たんりょく)の魔物、西代桃。そこに冷静で常識人枠の俺を含めれば、一般民衆など屁でもないだろう。

 

 テスト勉強や引っ越し日の調整をしながら、計画を練るのは死ぬほど大変だろうが金の為だ。張り切って今週を乗り切ろう。

 

************************************************************

 

 体育祭当日。

 

 快晴に恵まれたお天気模様。運動するには最適な、冬終わりの少しだけ肌寒い気温。

 

 こんなにいい天気だが、俺の心にはどんよりとした雨雲が停滞していた。

 

「陣内、お前、顔色が悪いが本当に走れるのか?」

 

 大学運動場の土に無理やり敷かれた競走場。それがまた俺の気分を萎えさせた。大学なのだからウレタン加工で舗装されたレーンがあってもいいだろうに……

 

「……実は体の調子はむしろいい。高校生の頃に戻ったような気分だ」

「そ、そうなのか? ……でも、そんな風に見えないぞ?」

 

 俺の隣で話しかけてくるのは、最近よく会う信号機トリオの赤担当、赤崎。

 

「お前は何のサークルの代表で出場してるんだ?」

「歌唱サークルだ」

「……意外だな。歌、上手いのか?」

「まったく。他大との交流目当てで入ってるだけ。……インカレの歌唱サークルってアホみたいに飲み会をやるんだぜ? 一時期はそれに参加しまくって、全員で入れ食い状態だったわ」

 

 どうやら、歌唱サークルに入っているのは赤崎だけではないようだ。

 

「はぁ……俺はお前たちがちょっと羨ましいよ……」

「……本当にどうした? 寝不足……もしくは二日酔いか??」

 

 俺の精神不調の原因はそんなもののせいではなかった。昨日は規則正しく9時には就寝し、酒も飲んでいない。

 

「というか、敵に情けを掛けるとは随分と余裕だな……」

「まぁ、ほら、俺は高校の頃サッカー部だったからな。走るのが仕事みたいなスポーツだし、足には自信があるんだ」

「それを言えば、俺は陸上部だったよ……」

 

 俺が高校時代、淳司やむっこ達と意欲的に取り組んだ部活動とは走る事だ。今考えれば、何故昔の自分はあそこまでひたむきに走っていたのだろうか。自動車とバイクを手に入れてようやく気が付いたが、俺は走るのが嫌いだ。疲れる……。

 

「げ、本職かよ……でも、確か陣内って喫煙者だよな?」

「あぁ、体力はガッツリと落ちてるよ」

 

 それに加え、走るという行為はメンタル面がもろに結果に影響する。

 

「はぁ……勝てる気がしない……」

 

 赤崎以外の出走者を確認しながら、俺は本音をさらけ出した。10万円の活動費は喉から手が出るほど欲しいはずだが、どうにも気分が高揚しない。

 

「おいおい、弱気過ぎだろ。……ほら、もう始まるぞ」

「……だりぃー」

 

************************************************************

 

「遠目から見て、陣内さんのやる気が感じられないのだけれど……」

 

 100メートル徒競走のゴールテープ地点。佐藤甘利は担当生徒のどんよりとした雰囲気を見て心配そうな声を漏らす。

 

 既に徒競走はスタート目前。他の参加者が各々スタートダッシュの体勢に入っているが、その中で陣内だけは微動だにせず虚空を見上げている。

 

「先生殿、ご安心をでおじゃる」

「今の陣内はー、爆発寸前の風船みたいなものでー」

「僕たちの()()()()ですぐに覚醒しますから」

 

 そう言うや否や、酒飲みモンスターズは缶ビールを懐から取り出した。サッポロ黒ラベルのロング缶が3本。アルミ材質の表面を滴る水滴が光輝き、内容物の冷たさを容易に想像させる。

 

「……? え、貴方たち? 何を──」

 

 パンッ!

 

 佐藤甘利の疑問は空砲によって中断され、各走者は全速力で走りだす。

 

「「「せーの」」」

 

 ──カシュッ──

 

 それとほぼ同時に、ビール缶のプルタブが解放された。

 

 本来なら空砲に掻き消されるはずの炭酸が弾ける小さな音色。ただ、この運動場において、その微音を唯一聞き取ることができる人物が存在していた。

 

 陣内梅治はテスト期間が終わろうが禁酒を強制的に続けさせられている。その()()()()()()()()1()()()

 

「うおおおおおおおおおぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ゛゛ッッッ!!!!!!」

 

 俊足(しゅんそく)奔走(ほんそう)馳駆(ちく)脱兎(だっと)韋駄天(いだてん)

 

 ギャラリーをドン引きさせるほどの雄叫び声を上げて、陣内梅治は光よりも早くゴールテープをその身で引き裂いた。

 

「ぜぇ、はぁ、はぁ……!! 酒……酒ぇ……酒くれぇええ!!」

 

 安瀬たちの前に、飢えた獣が1匹躍り出る。獣は血走った眼でビール所有者の許諾を待つ。

 

「「「あ、うん、はい……」」」

「ふんっ!!」

 

 陣内は3女から差し出されたビール缶をひったくる様に奪い取り、3本同時に胃に流す。5秒も経たず、計1.5リットルをアルコール中毒者は飲み下した。

 

「…………ぶっはぁああッ!! あ゛゛ーー、生き返ったぜ!!」

 

 落涙しながら陣内は生の実感を感じ取る。その目は先ほどまでとは違い、光に満ちていた。

 

「いやー、やっぱ酒が無いと気分が上がらないな! 本当に、マジで!! さっきまで空が灰色に見えてたぐらいだ!! あ゛あ゛あ゛、おビール様最高!!」

 

 アルコールの酩酊感によってハイになり、エクスタシーさえ感じている様子の陣内。

 

「「「「…………」」」」

 

 佐藤甘利を含める女性陣は、何も言わず、ただただ彼をヤベー奴を見る目で観察する。

 

「貴方たち……彼と一緒にいて恥ずかしくなる時は無い?」

 

 陣内には聞こえない様に、佐藤は真っ直ぐな罵倒を吐く。冷静な常識人などはどこにもいなかった。

 

「い、いや、アルコールさえ入っておれば、そ、そこまで悪くは……」

「う、うん。酒さえ与えておけばー……割とー……」

「……ま、まぁ、陣内君を見てると自分がまともだと思えるから、ぼ、僕は受け入れてますよ?」

 

 酒飲みモンスターズは何とか陣内をフォローする言葉を絞り出す。ここまで彼が取り乱すとは彼女達も考えていなかったようだ。

 

「この作戦を提案したのは我であるが……」

「これからはー……やめとこっかー……」

「……そうだね」

 

 以降、陣内の酒バカパワーに期待する作戦は酒飲みモンスターズの中で禁止されることになった。

 

************************************************************

 

 体育祭の第一競技、徒競走は俺の狂気的なまでの奉仕精神によって見事に1着を勝ち取った。

 

 残りの競技は、借り物競争と騎馬戦の2つ。今は運動系の団体に所属する奴らが100メートルを走っている所だ。

 

 俺は木陰に敷いた大きなビニールシートの上で体を休めながら、さらにガソリン()を補充していた。酒飲みモンスターズと佐藤先生も一緒にだ。

 

「何を飲んでるんだい?」

「アルコール入りの冷やした甘酒。西代もどうだ?」

 

 甘酒は飲む点滴と呼ばれるほどに栄養補給食品として格段に優れている。グ〇コのキャラメルは一粒で300メートル走れると(うた)っているらしいが、こっちの方が胃に負担がかからない。

 

「うん、()()()()()()()()()()()()からありがたく頂こうか」

「あっはっは! 西代の潜入工作には正直、脱帽したである!!」

「借り物競争はー、もう勝ったも同然だよねー!!」

 

 借り物競争は最初にお題を引いてゴール地点まで行くというシンプルな内容。当然、俺たちは事前調査でお題をすべて把握している。

 

 佐藤先生による情報提供により、借り物競争のお題は大学事務員によって体育祭前日に決められ、事務室に保管される事が分かった。それを知った西代は夜間の事務室へ忍びこみ、お題を盗み見たのだ。特に実害は出ていないだろうが、普通に犯罪行為。

 

 俺は西代が本当にヤベー奴なんだと改めて実感した。

 

「ふふっ、気分はまさに世紀の大泥棒。グレンキースで一杯やりたい気分になったよ」

「あぁ、確か猿顔三世が飲んでたな」

「札束にぶっかけて、随分と勿体ない飲み方であったがのぅ……」

 

 俺たちにはアニメや漫画に酒が出てきた際、それを飲んでみたくなるという習性があった。今の話も映画が起因している。

 

「というかー、あのモンキーはそんな小悪党な事しないようなー……」

「そもそも、皆さん。教員の前で堂々と不法侵入の話をしないで欲しいのだけれど……」

「「「「あ、……」」」」

 

 あまりにも自然に一緒にいるため忘れていたが、先生は完全に俺たちの味方という訳ではなかった。

 

「あ、あはは……ね、猫屋、騎馬戦では妨害の必要は無いのかい?」

 

 西代は話題を変える為、猫屋に騎馬戦について最終確認を取る。俺達が騎手として担ぎ上げるのは、この中で一番運動神経の良い猫屋だった。

 

「…………控えめに言ってもー、楽勝って感じー?」

 

 猫屋は不敵な笑みを浮かべて、大口を叩いて見せる。

 

「凄い自信だな」

「あははー、まぁねー」

「騎馬戦では外部からの助っ人が認められておる。恐らく体育会系の益荒男(ますらお)も混じってくるが、本当に大丈夫でござるか?」

 

 騎馬戦は基本的には4人でやるもの。だがサークルの設立人数が最低3人となっているため、1名だけなら助っ人が認められていた。それなら、わざわざ騎馬戦を競技に入れる必要はないのでは? と俺は思ったが、やはり大学側は華のある競技が欲しかったようで、騎馬戦を毎年の競技に定めているようだ。

 

「ん、あー……」

 

 猫屋は曖昧な返事を返しながら、左拳を自身の顎元に構えて見せた。

 

 パァンッ!!

 

 空砲を思わせる炸裂音が響いた。猫屋が目に見えぬ速度でジャブを放ったのだ。

 

「昔取った杵柄(きねずか)……ってやつー?? 足場がどれだけグラついても、多分何とかなると思うよー」

「「「…………さ、流石っす、猫屋パイセン」」」

「す、凄いわね、猫屋さん……」

 

 空気を叩いた常識外れの猫屋の拳速に、俺たちは戦慄した。

 

「ちょっ、ちょっ、そ、そんな引かないでよーー!! こ、こんなのただの子供だましだからー! インパクトの瞬間に、手のひらで大袈裟に音を出しただけでー……!!」

 

 猫屋は謙遜して見せるが、それができる技術力が凄いのだ、と猫屋を除く全員が思っただろう。本当に彼女なら騎馬戦で無双できそうだ。

 

「別に引いてはねぇよ……純粋に褒めてるだけだ」

「で、あるな。カッコいいぜよ」

「うん。凄いね猫屋」

「え、………あ、ありがとー」

「それにこの分だと、10万円は絶対に俺たちの物だよな!!」

「そうでござるな!! 猫屋のおかげで、一番の難関が容易に突破できそうである!!」

「やっぱり運動が得意なのは羨ましいね。……それにしても、くふっ、くふふ、旅行先はどこにしようか……!! 僕、暑くなる前に北海道で海鮮をつまみに一杯やりたいと思っていてね!!」

「お、良いなそれ!!」 

「試される大地……拙者も行って見たかった所でありんす!!」

「イクラ、ウニ、牡蠣……甲羅酒なんてのも乙だろう?」

「は、話を聞くだけでポン酒(日本酒)がやりたくなってくるぜよ!!」

「北海道と言えば、ガラス細工の酒器とかも…………」

 

************************************************************

 

「……………」

 

 私は何も言わず、悪友たちの邪悪で親しみのある笑顔を眺めていた。ブルーシートの上で度数の低い酒を飲みながら優勝賞金の使い道を楽しそうに語り合う彼ら。

 

 いつもなら一緒になって大騒ぎするはずなのに、何故か今はその姿を見てるだけで、幸せな気持ちでいられることに気が付いた。

 

 思い出したくも無い辛い過去。だけど私は、私の事を褒めて、支えて、認めてくれる、大切な人達の笑う姿を見て、あの出来事を受け入れていた。それどころか、こうなって良かった、とさえ感じている。……昔、陣内の言っていた言葉の意味が、よく分かった。

 

「猫屋さん」

 

 その様子を見てか、佐藤先生が私に声を掛けてくる。

 

「……この大学に入って……良かったと思ってくれるかしら?」

 

 楽しそうに旅行の計画を練る3人には聞こえない様に、佐藤先生は当たり前の疑問を投げかけてくる。

 

 先生は入学当初から私の過去を知っている。私の変に畏まった姿を見て、わざわざそんな事を確認してくれたのだろう。

 

「…………ひーみつ、です!!」

「ふふっ、そうですか」

 

 先生のおかげで、"私の居場所はここなんだ"と心の底から思えた。

 

************************************************************

 

「「「それで、本当にあの3人の誰とも付き合ってないんだな!!」」」

「え、あぁ、まぁな」

 

 借り物競争は無事に俺たちの圧勝で終わり、騎馬戦が開始される直前の事。俺は何故か信号機トリオに呼び出されていた。

 

「実は肉体関係だけあるとか?」

「ない」

「キスまでなら済ませたとか!」

「ねーよ」

「なら、あの中に好きな奴はいるか!?」

「……俺はあいつ等と恋仲になる気は微塵もない」

 

 いきなり呼び出して、何だこいつ等。

 

「陣内、どうして手を出さないんだよ!!」

「俺ならあんな可愛い子達と同じ研究室に配属されたのなら、その日に全員をホテルへ誘うね!!」

「そうだぜ!! いつも一緒にいるって事は、あの3人もまんざらでもないんだろ!?」

「………いや、急に何なんだよ、お前ら……」

 

 止まる事の無い怒涛の質問攻め。その意味が本当に分からない。

 

「いや、俺ら次の騎馬戦に出るんだけどな……」

「お前らも出るって聞いて、急いで事実確認を済ませたかったわけだ」

「陣内は騎馬で確定だろうし、騎手をやるのはあの3女の内の誰かだろう?」

 

 相変わらず、こいつ等の会話のチームワークは物凄いな。

 

「まぁ、そうだけど……お前らに何の関係があるんだ?? 敵情視察とかするタイプだったっけ??」

 

 彼らが歌唱サークルの為にそこまで本気で優勝賞金を狙ってるとはあまり思えない……。

 

「対戦相手の調査は基本だろ? で、誰が出るんだ?? Eか? Dか? Bか??」

「……ん??」

 

 E、D、B?? 酒飲みモンスターズのイニシャルはA(安瀬)N(猫屋)N(西代)だ。

 

「そんなイニシャルのヤツ、うちにはいないぞ?」

「イニシャル? ちげーよ、陣内」

「俺たちが言ってるのは()()()()()()()()()()だ」

「合ってるよな……って、手を出してないなら分かんないか」

「…………なるほど」

 

 つまり、彼らが気になっているのは対戦相手の乳か。騎馬戦は人が入り乱れる荒戦。どさくさに紛れて、胸部に手をやっても捕まりはしないだろう。

 

「まぁ、お前らの言い方で言うならBが騎手だ」

「あ゛ー、あの足の長い金髪の子か……。胸以外は最高にエロいんだけどな……」

「俺はやっぱりEの子が良かったなー」

「俺は断然、小柄でクールそうなD押しだった」

 

 やっぱりコイツ等、結構面白いよな。俺達とは別方向に全力な、愛すべき馬鹿だ。その性欲有り余る姿は、俺からすればちょっとだけ羨ましい。

 

「まぁいいや!! 陣内、情報提供ありがとな!!」 

「もう騎馬戦が始まるし戻って良いぞ。俺たちは今から誰が騎手になるかでジャンケンするから!!」

「一番揉みごたえが無いのが来たが、絶対に負けん!!」

「そうか……男として気持ちは理解できるけど、俺はそのジャンケンには負けた方がいいと思うけどな」

「「「??」」」

 

************************************************************

 

「って、事があった。気を付けろよ、猫屋」

 

 俺は即座に信号機トリオを売った。彼らが勢い余って突っ込んで、転倒でもしたら古傷がある猫屋が危ない。

 

「……本気のロシアンフックをお見舞いしてやるにゃー」

 

 まぁ、俺の心配など無意味だったのかもしれないが。

 

「いや、お前、人目があるんだから暴力はちょっと……」

 

 接触はともかく、ガチ打撃はまずいだろう……。

 

「って、ていうかーー!! Bじゃないしーー!! もっとあるから鵜呑みにしないでね、陣内!!」

「あ、はい……」

 

 俺にそのような事を言われても反応に困る。

 

 それに、信号機達の推定カップは恐らく当たっている。俺は彼女たちの下着をよく見るし、最近は一緒に洗濯するせいでだいたいのサイズは把握できてしまっていた。

 

「っぷ……そ、そうだね。猫屋はもっとあるよ──ぶふっ!!」

「ぶふっ……わ、我もそうおも──ハハハハッ!!」

 

 猫屋の必死の偽証を馬鹿みたいに嘲るのは、平均より()()()()()()()だ。まぁ、嘘をつく姿は滑稽ではあるが……

 

「お、おい。良くないぞ、そう言うのは……」

 

 男に置き換えるのなら、チビと言われるようなものだろう。ちょっと猫屋が可哀そうだ。猫屋は、その、胸なんかなくても、かなり可愛いのだから。

 

「じ、陣内にそう言われると、なんかガチでへこむーー……」

「え、えぇ? な、なんでだ??」

「そ、そうでござるよ、乙女心が分かっておらぬな。こ、こういう時は、い、一緒に笑い飛ばすものでありん……ふふっ」

「だね。……まぁ、ふふっ、無い方が悪いんだから」

「え、そういうもんなのか??」

「んな訳あるかーーッ!! もぎ取るぞ、おのれらーーー!!」

 

 そう言って、猫屋は持ってる奴らの乳を掴みにかかる。

 

「「ゲヒャヒャヒャヒャヒャヒャッ!!」」

 

 取っ組み合いの最中、安瀬と西代は悪魔みたいに笑っていた。……なんていうか、姦しい。もっと酒が欲しくなってくるな。

 

「と言うか、なーにが推定カップだ!! あの信号機共、恥かかせやがってーーーッ!!」

 

 その後の騎馬戦。赤崎の腹にコッソリと叩き込まれたボディブローを俺は見逃しはしなかった。

 

************************************************************

 

 騎馬戦は怒る猫屋の一人勝ちで幕を下ろした。

 

 俺たちの騎馬は背丈の不一致が原因でバランスが悪く機動性が一切なかったが、それでも猫屋は圧勝して見せた。彼女の鉢巻きを狙う手は呆気なく空を切り、逆に猫屋の手中にはいつの間にか鉢巻きが握られているという珍事。

 

 伊勢崎の狂猫の名は伊達ではなかったという事だ。

 

 文化系の種目は全て終わったので俺は喫煙所まで一人で赴き、疲れた体にニコチンを補給していた。酒飲みモンスターズは今日の為に用意した祝い酒の準備をしている。内容量が2斗(36リットル)樽酒(たるざけ)だ。今日の祝勝会は派手な物になるだろう。

 

「すぅーー……はぁーーー……」

 

 甘い煙草が美味しい。体育祭への参戦が決まってから、俺は禁酒だけでなく禁煙も強いられていた。煙草を吸うのは実に3日ぶりだ。

 

(全種目、ぶっちぎりの1位。まじで、旅行が楽しみだ……!!)

 

 文科部の優勝は俺たちで確定した。

 

 旅行はどこに行こうか。東北もいいが、九州の方にも興味がある。九州の芋焼酎は度数が本州の物とは違うため、どんな感じなのか気になっている……本場で飲んでみたい。

 

「あー、しかし凄かったな、あの文化部の方で騎手やってた女」

 

 俺が充実した春休みの展望に胸を膨らませていると、喫煙所に大きな声で話す2人組の男がやってきた。

 

「ほぼ全部の鉢巻きを取ってなかったか? 動きからして素人じゃないよな??」

「……あれって確か、猫屋李花だろ? 俺、群馬の出身だからよく知ってるわ」

 

 見知らぬ声が猫屋の話をするのが聞こえてくる。視線を声の方にやると体格の良い男達が俺と同じように煙草を吸いだした。

 

「あ、俺も思い出した。確か、50キロ級の強化選手に選ばれてたよな」

「あぁ、あり得ねぇほど強かったぜ。……怪我さえなかったらオリンピック出てたんじゃないか?」

「ま、マジ? すげぇな、それ……。俺達とはレベルが違うな」

「ははっ! 比べんなよ馬鹿!」

 

 どうやら彼らはこの大学の空手部のようだ。彼らも体育祭に参加しているのだろう。猫屋の一騎当千の活躍を見て、彼女の過去について色々と話し合っているようだ。

 

「…………」

 

 彼らの話は不快ではないが、あまり聞き入るべきではないと感じた。猫屋本人が話すならいざ知らず、彼女の知らない所で俺がその過去を知ることには抵抗がある。

 

 それに、ニコチンの補給はできた。さっさとあいつ等の所に戻ろう。樽酒が俺を待っている。猫屋が踵落としでの鏡開き(フタ開け)を披露してくれるらしい。迫力がありそうで楽しみだ……!!

 

 俺はまだ長い煙草を公衆灰皿に押し付けようとした。

 

 

 

「にしても、()()()()()()()()()なんてグロい話だよな」

 

 

 

 ……今、なんて言った?

 

 火を消そうとする手が止まった。

信じられない言葉が聞こえてきたからだ。

 

「え? なんだそれ?」 

「あぁ、いや、俺の高校、男女混合の空手部でな。……そこでチラッと耳に挟んだんだけど……」

 

 全神経を研ぎ澄まして、彼らの話に集中する。

 

「あの女が怪我した試合を知ってるか?」

 

 あの女とは猫屋の事か。

 

「ん、あぁ、まぁな。俺も大会出てたし」

「なんかよ、猫屋李花に勝てないからって、後輩に"軽く怪我させて来い"って指示を出した奴がいたらしいぜ?」

 

 …………………………は?

 

「で、やりすぎて骨折させたんだってよ」

 

 ただの骨折ではない、開放骨折だ。

 

「お、おい。それってかなり大事になったんじゃねぇの? 普通に傷害事件だろ?」

 

 そうだ、骨が皮膚を突き破ったんだ。

 

「いいや。結局、事故として処理された」

 

 ……なんだそれは。

 

「まぁ、そんな命令を後輩に出した奴だ。関わった全員で口裏を合わせて、事故だったって言い張ったんだろうな」

「お前、何でそんな事知ってるんだ?」

「本当に偶然、部の女子が話してるのを聞いた。……女ってマジでこえーわ」

 

 なんだ、それは。

 

「はぁー、うわぁ。……なんか、空手女子の闇を知ったわ」

「ヤバいよな? で、ここからが、もっとえぐいんだけどな?」

 

 ふざけるな。

 

「その指示を出した女、()()()()()()()()()()()()()()()()らしい──」

「ふざけるな」

 

 気が付けば、俺は何の因縁もないその男に掴みかかっていた。

 

「え、は? な、なんだお前?」

「知ってる事を全部話せ」

 

 許容できない。そんな現実は、絶対に、許容できない。

 

「お、おい! いきなりなん──」

 

 俺はまだ火が付いている煙草を見知らぬ男の目前(もくぜん)に突き付けた。

 

「いいからっ、全部話せって言ってんだよ!! ぶっ殺すぞ、クソがッ!!」

 

 汚泥のような怒りが心の底からあふれて止まらなかった。

 



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ルナティック月下美人

 

「お、おい!! 危ないだろうが!!」

「うるせえ!! 人の過去を面白おかしく話すのが好きなんだろ!? なら俺にも聞かせてくれよ、なぁ!!」

 

 赤く燃える(きざみ)を、俺はさらに目に近づけた。逆上して、大した因縁のない相手を不当に脅迫しているのは分かっている。だが、今の話は聞き捨てならなかった。あってはならない事だった。

 

「アイツが……アイツがどれだけ苦しんだと……!!」

 

 雨が降る中、猫屋の部屋で響いた彼女の慟哭。それだけが俺の脳内で何度もフラッシュバックする。

 

 コイツからは全てを聞き出さなければならない。

本当に猫屋の怪我に悪意が絡んでいたと言うのなら、絶対に許さない。草の根を分けてでも犯人を探し出して、必ずぶっ殺──

 

「ふざけてんじゃねぇぞ!!」

 

 思考の途中、横合いから殴られた。

 

「っ!!」

 

 強い衝撃を顎に受け、そのまま倒れ込んでしまう。怒りのせいか、痛みはまるで感じなかった。

 

「あ、やべ、殴っちまった……」

「おい、さっさと逃げるぞ!! コイツ、やべぇよ!!」

「あ、あぁ……」

 

 俺が煙草を突き付けた方が慌てふためき、殴った方の男に逃走の扇動をする。

 

「待てよ、コ゛ラッ!!」

 

 早く、立たなければいけない。

 

「っ……!?」

 

 しかし、足が思ったように動いてはくれなかった。力が入らないのだ。頭もふらふらする。

 

(っ、や、られた……!!)

 

 奴らは恐らく空手部だ。打撃で人を麻痺らせるなど簡単に実践できるだろう。事実、殴られたのは顎だった。

 

 俺が動けない内に、2人は走ってどこかへ去って行く。俺はそれを見ている事しかできなかった。

 

「……………くそっ!!」

 

 怒りに任せて地面に拳を叩きつけた。

 

 何だったんだ、今の話は……猫屋の怪我が事故ではなく、傷害だと?

 

「……ありえねぇ」

 

 猫屋は泣いていた。トロフィーも賞状も何もない、がらんどうの部屋で声を上げて泣いていたんだ。

 

「そんな事、許してたまるか」

 

 どこの誰だかは分からないが、下手人には必ず報いを受けさせてやる。

 

「………………陣内?」

 

 倒れた俺を背後から呼ぶ声が聞こえた。声に釣られて首だけで振り返ると、そこには安瀬が立っていた。

 

「あ、安瀬……」

 

 安瀬は地面に座り込んでいる俺を不思議そうに眺めている。

 

「……さっきの聞いてたか?」

「? 何の話でありんす?」

 

 安瀬は俺の問いかけでさらに首を傾げた。先ほどの会話と俺が殴られた事は見ていないようだ。

 

 なら、()()()()()()()()()()()()()()。猫屋が不当に(がい)された事を。猫屋の努力が、見知らぬ糞ヤロウのせいで台無しになってしまった事を……!!

 

「お、落ち着いて聞いてくれ、安瀬。実は──」

 

 一瞬、猫屋の笑顔が思い浮かんだ。

 

「…………」

 

 話していいのか?

 

「…………」

 

 落ち着かなくてはいけないのは俺だ。

 

「…………」

 

 ()()()()()()()

 

「……? 陣内?」

 

 今、猫屋は笑っている。先ほどの騎馬戦でも大活躍を見せ、楽しそうにしていた。言えなかった空手の事も言えるようになり、過去のしがらみは既に猫屋の足かせにはなっていない。彼女は完全に過去から立ち直ったのだ。

 

 それを……それを俺が蒸し返すのか? 心の底から笑っている猫屋。辛い過去を乗り越えた猫屋。そこに偶然聞いた不確かな情報を与え、また過去に立ち向かわせるのか?

 

「なんじゃ、どうして地べたなんぞに──っ、お主、顔に痣が!?」

 

 ()()()()()()()。俺には輝かしい未来があったわけではない。嫌いな奴を成敗してもらって気が晴れた。俺の時はそれで良かった。だが、猫屋の傷は心だけではない。外傷がある。

 

 怪我の原因を作った張本人を探し出して、死ぬような目に遭わせても、猫屋の怪我が治るわけではない。過去が戻ってくるわけではないんだ。なら……俺が聞いた残酷な話を伝える意味はあるのか? 

 

 それは、俺が猫屋の部屋で余計な物を見つけてしまった時のように、彼女の心を土足で踏み荒らすのと……同義ではないのか?

 

「陣内ッ!!」

「っ!」

 

 いつの間にか、安瀬が座り込んでいる俺の傍に居た。

 

「どうした!? 何があった!? その怪我はなんじゃ……!?」

「……あ、あぁ」

 

 思考が纏まらない。安瀬に、この話を共有していいのか分からない。

 

「じ、実は……」

「実は?」

「…………よ、酔っ払い過ぎて転んだ」

「…………はぁ?」 

 

 俺は嘘をついた。

 

「い、いやー、やっぱり禁酒って良くないな。肝臓が弱くなっちまう」

 

 心情とは、まるで真逆の声音を作って話す。

 

「運動をしてたせいもあるか。酒飲んで、煙草を吸ったら、クラっときて転んで顔を打ったんだ」

「………………」

「脳が揺れたせいか、ボーっとしてた。すまん、ありがとな。心配してくれて」

 

 咄嗟に出たにしては、それらしい言い訳にはなった。

 

「…………それなら、今日はもう酒抜きでござるな。脳にダメージがあるかもしれんからの」

「あぁ、そうだな」

「……どうやら頭を打ったのは本当のようじゃの」

 

 安瀬は立ち上がって、手をこちらに伸ばす。

 

「いや、いい。自分で立てる」

 

 既に脳の揺れは治まっている。俺は足に力を入れて立ち上がった。

 

「普段のお主なら、怪我をしたくらいでは飲酒を止めようとはせん」

「ん?」

 

 1人で立ち上がる俺に、安瀬は胡乱(うろん)な目を向けてくる。

 

「もう一度だけ聞くでありんす。……何があった?」

「いや、普通に転んだだけだぞ??」

 

 安瀬の鋭い問い掛けに、一瞬の迷いも無く返す。疑われる訳にはいかない。今回の事は、どう扱っていいか俺にはまだ分からないからだ。

 

「……………………ま、そうでござるか」

 

 俺の淀みない返事を信じたのか、安瀬はスパッと態度を切り替えた。

 

「一瞬、喧嘩にでも巻き込まれたのかと思ったでやんす」

「俺がそんな事するかよ。もし、喧嘩に発展しそうになっても全力で逃げるだけだ」

「で、あろうな。元陸上部なら正しい自己防衛手段ぜよ」

「だろう?」

 

 俺は上手く笑えているだろうか。

 

「はぁ、祝勝会の前にお主の怪我の治療であるな。樽酒を飲むのが遅くなるでありんす」

「ははっ、それを言ったら俺は今日はなにも飲めないんだぞ?」

 

 酒を飲む気分ではない。

 

「身から出た錆じゃ。我慢するでござる」

「…………まぁな」

 

************************************************************

 

 その日の深夜3時。

 

 祝勝会が終わり、安瀬たちは明日の引っ越し準備に向けて早めに部室で就寝している。

 

 冷たい夜風の中、俺は駐輪場にあるベンチに座って煙草を(くゆ)らせていた。1人きりで3時間はこうしている。考えているのは当然、猫屋の事だ。

 

 今日の祝勝会。猫屋は体育祭での自分の功績をふざけながら自慢して、楽しそうに笑っていた。

 

「…………」

 

 やはり、話すべきではない気がする。あの笑顔を曇らせたくはない。彼女は既に一生分苦しんだはずだ。これ以上の不幸な事実などあっていいはずがない。

 

(…………でも、猫屋の尊厳はどうすればいい?)

 

 猫屋の努力と才能が見知らぬクズによって傷つけられていた。そのゴミが何の罰も受けずに笑っていると思うと、殺意すら覚える。喫煙所の件から、既に10時間近くたっているが怒りはまったく風化してない。

 

 猫屋はもう立ち直った。だから……過去の不正に蓋をして、クズを見逃し、何も聞かなかった事にして、この怒りを鎮めるべきなのだろうか。

 

「…………」

「眠れないのかい?」

「っ!」

 

 眉間に皺を寄せて虚空を睨みつけていると、寝ていたはずの西代が声をかけてきた。

 

「び、びっくりした。なんだ、眠ってたんじゃないのか?」

「今日は何故か、僕専用の湯たんぽ君が迷子でね。寒くて起きちゃった」

「……誰が湯たんぽだ」

 

 2月終わりとはいえ、まだ寒い。暖房がない部室は冷え性の西代には辛かったか。

 

「はぁ……悪いな。すぐ戻る」

 

 俺は思考を打ち切った。これ以上考えても、納得のできる結論は出てきそうにない。仕方がないので、酒を飲んで西代の湯たんぽになってやろう。……いや、今は酒なんて必要ないか。そんな気分になるはずがない。

 

「何を悩んでるんだい?」

 

 西代は脈絡もなく、俺が悩みを抱えている事を看破した。

 

「…………なぁ、俺ってそんなにわかりやすいか?」

 

 安瀬にも変に詰め寄られた。自身の演技力の無さに絶望する。

 

「いいや? 祝勝会の時は何も感じなかった。……こんな時間に憂鬱そうに煙草を吸っていたら、誰でもそう思うだろう?」

「……なるほど」

 

 俺の演技力に問題があったわけでは無いようで安心した。祝勝会では普通に振る舞えていたようなので、彼女達に不審がられることは無かったようだ。

 

「失礼するよ」

 

 そう言って、西代が俺の隣に座ってきた。そして、俺の顔を見上げて口を開く。

 

「僕に相談する気は無いかい?」

「…………」

「案外、人に話す事で解決する悩みもあるさ」

「……」

「詳しくは話さなくてもいいよ」

 

 やはり、西代は俺を丸め込むのが上手い。詳細は絶対に話す気にはなれない。しかし、(ぼか)してもいいのなら話しても……という気になってしまった。正直に言えば、相談する相手が欲しかったところだ。俺1人では手に余る。

 

 それに、西代は俺を2度も救ってくれた。俺なんかよりきっと頼りになる。

 

「……例えばの話だ」

「うん」

 

 念頭に置いた無意味な言葉にも、西代は優しく相槌を打ってくれた。

 

「途轍もない交通事故があった。車に轢かれたAは重傷を負い、人生に大きな損失ができる」

 

 Aを猫屋だと仮定する。

 

「車を運転していたのがBだ」

 

 Bは後輩だ。先輩とやらに"猫屋にケガをさせろ"と命令された後輩。

 

「Bは謝った。それにAも仕方ないと納得して、後遺症を抱えてしまったが新しい人生を苦しみながら歩き出した」

 

 恐らく、謝罪はあったはずだ。空虚で何の意味もない最低の平謝りが。

 

「しかし、その交通事故は()()()()()によって仕組まれた事だった。指示を出したクズをCとする」

「…………」

「そして、Cの悪事を知った、Aの……親族であるD」

 

 Dは俺だ。

 

A(猫屋)は既に辛い怪我を乗り越え、笑っている。そこで……そこで、D()はどうすればいい?」

 

 俺の下手くそで突飛な例え話は終わる。あまり踏み込んだ話をして猫屋の事だと勘付かれてはいけなかったため、話の精度の塩梅が難しかった。情報が極端に少ないので、これでは西代も返答に困ってしまうだろう。

 

D(陣内)は親族の為に復讐を決行すべきだ」

 

 俺の思惑を裏切り、西代は一瞬で結論を出した。

 

 その答えの速さに驚いて、俺は彼女の顔を凝視する。

 

A(猫屋)は……その事をどう思う?」

「A? ここで大切なのはD(陣内)だろう? その話の主役はどう考えてもDさ」

 

 彼女はキョトンとした顔をして、意味の分からない事を(のたま)う。

 

「どういう事だ?」

「その例え話の選択肢は2つ。親族の為に復讐するか、しないか。それだけさ」

「……いや、もっと色々とあるだろ? 一旦、被害者であるAに相談するとか……」

 

 西代の答えはどうにも性急すぎる。他にも警察に相談する、などといった選択肢が無数に存在するはずだ。

 

「Aに言う必要がどこにあるんだい??」

「……え?」

 

 俺は今度こそ、彼女の話がよく分からなくなった。

 

「Aには何も言う必要はないね。Dはただ、BとCを地獄に叩き落とせばいいのさ」

「……それをA(猫屋)が知らない所でやって何の意味がある? そんなの誰も幸せにならないだろ?」

 

 気分が良くなるのは、勝手に復讐した俺だけだ。

 

「ん? ……あぁ、そうか。ごめん、ごめん。既に言っていたつもりだったけど、()()()()()()()に、陣内君はいなかったね」

「?」

「僕の性根というか、考え方の話さ」

 

 そう言って、西代はベンチから腰を上げた。俺の前に立ち、彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめる。

 

 

「復讐は前に進むために必要な儀式だ」

 

 

 月光を背に浴びて持論を語る西代の目は一切の曇りなく透き通っていた。

 

「大切な人に悪い事をした奴が、ニコニコと反省もせずに残りの人生を送ることを陣内君は許容できるのかい?」

「お、俺は……」

「僕にはできないね」

 

 俺の返答を待たずに彼女は話を続ける。

 

「尊厳が踏みにじられたのなら、相応の報いを加害者に与える……当然の事さ」

「当然、か」

「うん……さらに仮定の話をしようか。Dが行った復讐が成功し、BとCに天罰が落ちた。そして、偶然にもそれをAが知ったとしよう。もちろん、実行犯がDという事はAは知らずにだ」

 

 西代は微笑を浮かべる。

 

「Aは多分、薄暗い感情で少しだけ喜ぶと思うよ? まぁ、内心はやっぱり複雑かもしれないけどね」

「…………」

 

 その言葉に、俺は答えを得た気がした。

 

 

 猫屋の知らぬところで、下手人を地獄に叩き落とす。

俺の脳内で、急速に悪意の絵図が描きあがっていった。

 

 

「西代、ありがとう」

 

 彼女の回答は性善説的では決してない。むしろ、真逆。

 

「ん、悩みは解決したかい?」

「あぁ、月まで吹き飛んだ」

 

 本人が知らぬ所で行われる、自分本位で勝手な復讐劇。

 

「それは良かった。……っくしゅん!」

「あ、悪い。変な話に長い間付き合わせて」

 

 もとより、俺は悪い事は好きな方だ。

 

「はぁ、その通りだよ。……でも、親戚が轢き逃げにでもあったのかい? あぁ、いや、詮索するつもりはないよ」

「いや、全然。でも、ありがとな。もういいんだ。本当にすっきりした」

「……ふふっ、そうかい? お役に立てて何よりだ」

 

 俺の親友を虚仮にしておいて、ただで済むと思うな。

 

「部室に戻って、とっとと寝ようぜ」

「そうだね、明日は引っ越し準備があるわけだし。…………ついにルームシェアのスタートさ! 僕、凄い楽しみだよ!」

 

 必ず、報復する。

 

「お、お前なぁ……一応、男がいるんだぞ?」

「はははっ! 僕達に1年近く手を出さない奇行人種が、今さら何を言ってるんだい?」

 

 俺の自己満足で、猫屋の尊厳を取り戻す。

 

「そうか…………もうそんなになるのか」

 

 そして、何食わぬ顔をしてこの生活に戻ってくるんだ。

 

************************************************************

 

 『すまん、急用ができた。春休みが終わるまでには帰ってくる!』と書置きを残して、俺は彼女たちの元から消えた。

 



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陣内梅治はわりと限界

 

 東京都にあるオフィスビルの1階。全面ガラス張りのどうにも落ち着かない内装に、ふかふかの高級ソファーと高そうなテーブル。頼めばコーヒーが出てくるらしい、謎のエントランスホーム。

 

 場違いな雰囲気をひしひし感じながらも、俺は()()()()の対面に座っていた。

 

「……こんな所に勤めてるなんて凄いですね、陽光さん」

「ははは、オフィスがこのビルに入ってるだけだよ」

「あ、あははは」

 

 何を言っているのか分からないので、とりあえず笑っておいた。オフィスが入るってなんだ? なんで、急にマイ〇ロソフトの話??

 

「それより、いきなり電話が来たときは驚いたよ。……その内容にも、ね」

「え、あ、お、お忙しい中、お時間を取らせて本当にすいません」

 

 俺は誠意を感じてほしくて、深々と頭を下げた。

 

「いや、いいよ。……猫屋(ねこや)李花(りか)さん、の事だったね」

「…………はい」

 

 俺が復讐相手の調査を開始して3日間が経った。意気揚々と安瀬たちの前から行方をくらませたものの、俺1人の調査能力では何も捜査は発展しなかった。

 

(あの男達は探しても見つからなかったしな……)

 

 そもそもの発端である、喫煙所で会った空手部らしき男2名。彼らを探しに空手部に乗り込んでみたが、大学の道場には誰もいなかった。春休み中は練習していないのだろう。思えば、うちの大学の空手部が強いなどとは聞いた事がない。

 

 そうなると、俺の情報源は全くと言っていいほど存在しなかった。

 

 唯一、俺の知り合いでその方面に詳しそうな人は、武道経験者でありスポーツ記者を生業としている陽光さんだけだった。遊園地で会った時に名刺をもらったことを思い出してアポを取り、今現在に至るというわけだ。

 

「まさか、桜の友人にあの猫屋選手がいるとは……世の中は狭い」

「え、猫屋ってそんなに有名だったんですか?」

 

 伊勢崎の狂猫なんて2つ名が付いていたのは知っているが……

 

「連戦連勝の強さに、あのルックス。そりゃあ空手界は担ぎ上げるよ。空手道の美猫、って記事をウチのスポーツ新聞で掲載したことがあるくらいだ」

「す、凄いですね。……え? 伊勢崎の狂猫、ではなくて?」

「それ、彼女が強すぎて付けられた蔑称だよ?」

 

 そ、そうだったのか。というか、アイツ、怪我する前はどんだけ強かったんだ? オリンピックに出てたかもって話は大袈裟ではないようだ。

 

「まぁ、話を戻そうか。君が聞いたという、猫屋さんへの加害の話だ」

 

 陽光さんには既に俺が聞いた話を全て伝えている。もちろん、安瀬には話さないで欲しいとも言ってあった。

 

「難しい話だから、要点をしっかりと抑えて話そうか」

 

 そう言って、陽光さんはノートパソコンを鞄から取り出した。

 

「簡潔な資料を作成してきた、コレを見てくれ。梅治君が聞いた情報をまとめたものだ」

 

 そこにはパワーポイントで作られた分かりやすい資料が映し出されていた。

 

 内容はこうだ。

 

1、猫屋李花の選手生命を絶ったほどの怪我は、事故ではなく悪意のある過失であった。

2、"怪我を負わせた人物"と"それを命令した人物"がいる。

3、命令をした人物は強化選手に選ばれている。

 

「この3つで相違はないか?」

「はい、俺が耳にした内容はそれで間違いありません」

 

 改めて確認されると、それだけで胸中に怒りが渦巻く。

 

「そうか……なら、これを踏まえて私の調べた結果を話そうか」

 

 陽光さんは仕事の合間を縫って、俺の情報を元に個人的な調査を行ってくれたらしい。陽光さんに足を向けて眠れないな。

 

「まずは、事故があった試合の猫屋選手の対戦相手についてだ」

 

 PCに映し出された資料がスライドし、次ページに切り変わった。

 

 (いぬい) 菖蒲(あやめ)、20歳。俺の1つ下の生まれ。猫屋李花との試合後、空手部を退部。現在は群馬の大学に通っていて実家暮らし。その他、顔写真と身長、実家の住所といった細かい情報が映し出されている。流石、新聞記者であり、あの安瀬の兄。情報収集能力がハンパではない。

 

「…………………………」

 

 猫屋の未来を奪った張本人ではあるのだが、俺は(いぬい)菖蒲(あやめ)とやらに対するスタンスをまだ決めかねていた。

 

 彼女は命令されて、猫屋に怪我を負わせた。それが嫌々だったのか、嬉々としていたのか。偶然だったのか、故意だったのか……何も分からない。部内でいじめられており命令に逆らえず、意図せず大事故になってしまったと言うのなら情状酌量の余地は辛うじてある。まぁ、特に何の責任も取らずにキャンパスライフを送っているのは癪に触るが……。

 

「そして、こっちが(いぬい)と同じ高校出身であり、強化選手に選ばれた経歴のある女の資料だ。該当したのはこの1人だけ」

 

 この女に慈悲を持つ必要はない。俺は、次ページに写された女の顔写真を睨みつけた。

 

 黒羽(くろは) 桔梗(ききょう)。俺と同い年の21歳。大手格闘技団体館長の一人娘。現在は東京都の某有名体育大学の3回生であり、女子組手50キロ級の日本強化選手に選ばれている。住所は大学の学生寮。腹立たしい事に、スポーツ選手として順調にキャリアアップしているようだ。

 

「大学寮については既に調べてある。詳細はこれに入れてあるから後で見てくれ」

 

 そう言って、陽光さんは俺にUSBメモリーを手渡してくれる。

 

「ありがとうございます」

 

 本当に頭が上がらない。ここまで調べて頂けるとは思っていなかった。

 

「それと…………これだ」

 

 陽光さんはテーブルの上に()()()()()()()()を並べだした。

 

 

「監視カメラにボイスレコーダー、盗聴器と発信機。それにペン型カメラと架空の新聞会社名で作った偽装社員証だ」

 

 

「……え?」

「君の為に用意したんだ、是非とも有効活用してくれ」

 

 なんか、とんでもない物を、俺に貸してくれるつもりらしい。

 

「あ、別に返さなくていいから。壊してくれても構わない」

 

 貸し出しではなく、譲ってくれるらしい。

 

「あ、え、うぅ??」

 

 思わず変なうめき声をあげてしまった。電話一本掛けて協力をお願いしただけなのに、待遇があまりに良すぎる。俺が陽光さんと会うのはこれで3度目。正直、相談に乗ってくださった事が不思議なぐらいの薄い関係だ。

 

「あ、あの……流石にこれは受け取れませんよ」

 

 中でも偽装した社員証とやらは絶対に受け取れない。身分を偽り、取材の名目で自然に話を聞く事が可能になりそうだが、バレたら何らかの罪に問われそうだ。俺は別に良いが作成者の陽光さんにまで迷惑が掛かる可能性がある。

 

「いいや、君が本気で猫屋李花の事故の真相を暴こうとするのなら必要になると私は思う」

「…………なんで、そこまでしていただけるんですか?」

 

 俺はもう直球に理由を聞くことにした。

 

「ははっ、未来の兄弟を支援するのがそんなに可笑しいか?」

「い、いや! 俺と桜さんはマジでそんな関係じゃないです!!」

「……本当に?」

「本当ですって……!!」

「桜め……まったく、何を日和ってるんだ。…………まぁ、それでも受け取ってくれよ。私の個人的な友愛の証としてね」

「陽光さんの……個人てき、な?」

 

 なおさら、良くしてもらう理由が思い浮かばない。

 

「私はね、梅治君。率直に言うと、()()()()()()()()()()()()()()。それはもう、ものすごくだ」

 

 陽光さんはニヤリと笑って、直線的な友愛を口にした。悪ぶった顔が安瀬を連想させる。だが、その楽しそうな顔がさらに俺の脳内を混乱させた。

 

 お、俺の事が気に入っている?? な、なんでだ?? 初対面の時、酒を飲んでて引かれたよな??

 

「そう言えば、お礼がまだだった。……母に素敵な花とお供え物をどうもありがとう」

「あ、……」

 

 年末に安瀬に持たせた、アイスフラワーと甘味と酒。

 

「い、いえ、そんな……」

「桜は本当に喜んでいたよ」

 

 陽光さんは優しい目をして、虚空に語り掛ける様に話をつづけた。

 

「桜は、私よりお母さんっ子だったから……仏壇に向かって大学生活の事を楽しそうに話していたよ。やっぱり、地元から離れた大学に入れて良かった。……桜はあのままだと母への想いをずっと引きずって生きていたと思うから」

「…………そう、ですか」

 

 ……この事は胸の奥にしまっておこう。

 

「それに、遊園地で別れた後……桜は泣いただろう?」

 

 その問いかけに対しては返事をしなかった。俺はその記憶を酒を飲んで忘れているはずだからだ。

 

「兄として、もう一度心から礼を言うよ。慰めてくれてありがとう」

 

 だが、まぁ、妹のことを兄に隠せる訳は無いか。

 

「……俺は何もしていません」

 

 本当に何もできなかった。ただ、傍に居て話し相手になっただけ。

 

『辛い時はその……誰かがそばに──』

 

「…………」

 

 一瞬、猫屋が俺にかけてくれた優しい言葉を思い出した。…………猫屋の献身と、俺の消去法的で情けない対処が同じである訳が無い。自身の醜悪な思い上がりを俺は本気で恥じた。

 

「ははっ、梅治君も桜と同じで難しい性格しているね。……そうだ、この際だからはっきりと聞かせて欲しい」

「? 何をですか??」

 

 陽光さんがテーブルから身を乗り出して、笑顔で俺に詰め寄ってくる。

 

「桜の事を、梅治君はどう思っている?」

「っ!?」

 

 自分の妹をどう思っているか、だって!? な、なんて答えにくい質問を……

 

「あ、……桜さんは素敵な女性だと思います。美人で愛嬌があって、教養も凄まじいし……」

 

 俺は本気で安瀬を褒めちぎった。一応、全部本心だ。……イカれた思考回路の評価については言う必要はない。

 

「そうじゃない。聞きたいのは君の気持ちだ」

 

 この場合の気持ちとは、恋とか愛に該当する感情の事だろう。

 

「……俺はアイツとはずっと友達でいたいんです」

「桜が()()()()()()()()()()、としてもかい?」

「…………………………はぁ?」

 

 大変、失礼な声が出てしまった。安瀬が、俺に、恋心??

 

「え、いや。それはないでしょ」

 

 絶対にない。そんな感情を安瀬が俺のような男に抱くはずがない。アイツは猫屋とは別方面の才女だ。その完璧な容姿も相まって俺などとは全く釣り合わない。彼女にはもっと頼りがいのある素敵な2枚目が相応しい。後は肝臓も強ければパーフェクトだ。

 

「桜があそこまで心を開いている男は、家族以外にいないよ」

「まぁ、それは……そうかもしれないですけど」

 

 安瀬と仲が良いのは認める。しかし、だからと言って恋心は流石に大袈裟だろう。

 

「兄の目から見て、アレはかなり君に執着しているよ。……梅治君は嫌か? 桜と恋仲になるのは?」

 

 安瀬が俺の恋人に?

 

 ………………そんなの、死ぬほど嬉しいにきま──

 

 俺はすぐさま荷物から水筒を取り出して、中身を煽った。

 

「んぐ……んぐっ……!!」

「え、え!? き、急にどうした!?」

 

 中身はローヤルのトニックウォーター割り。これで俺の減欲体質は発動する。()()()()()は全て吹き飛ぶはずだ。今は怨敵への憎しみ以外はいらない。話をピンク色から真っ黒に戻さなければ……!!

 

「ぶはっ。……陽光さん、資料と機材、ありがたく貰っていきます!」

 

 俺はUSBメモリーと機材を強引にバックに詰め込んだ。

 

「よく考えたら、使える物は全部使うべきですよね!」

 

 俺は陽光さんの善意を受け取る事にした。特に監視カメラは()()()()には必需品であったので非常にありがたい。どうやって手に入れようかと思っていたところだ。

 

「じゃ、じゃあ俺はこの辺で! 今日は本当にありがとうございました!!」

 

 捜査は陽光さんのおかげで信じられないほど進展したが、まだまだやらなければいけない事がある。春休みは無限ではないのだから時間を無駄にはできない。

 

「え、あ、ちょっと……!!」

 

 急な転調に驚く陽光さんから逃げる様に、俺はビル外に向かって走った。

 

************************************************************

 

「結構、歩いたな」

 

 陽光さんから得た情報をもとに、俺は早速、(いぬい)菖蒲(あやめ)の実家まで赴いた。

 

 ここまでの交通手段は電車と徒歩だ。

 

 バイクはこの前のレース騒動以来、エンジンの調子が悪かったので淳司の店に預けてある。車は4人で成約した物のため俺個人の都合で長期間使う訳にいかなかった。俺がわざわざ公共交通機関を使ったのはそのためだ。

 

 スーツと外套を身に纏い、ネクタイまでつけて社会人に偽装。気持ちの方は新聞記者。乾を追及するための準備はばっちりだ。

 

「…………行くぞ」

 

 偽造した社員証を片手に、俺はインターホンを押した。今は春休み。乾が大学生と言うのなら、平日の昼間でも家にいる可能性はある。

 

 インターホンを押して、1分ほどで玄関の扉は開いた。

 

「……どなたでしょうか?」

 

 出てきたのは資料で見たのと同じ顔の女。(いぬい)菖蒲(あやめ)、その人だった。

 

 運がいい。いきなり彼女に会う事ができた。

 

「こんにちは」

 

 気乗りはしないが、まずは深々と頭を下げる。

 

「あ、えっと、どうも……」

 

 おどおどとした様子で乾も俺に会釈した。

 

「私は日練スポーツ新聞の記者をしております、桜庭(さくらば)と申します」

 

 陽光さんが用意してくれた偽造社員証と同じ身分を名乗る。……苗字に桜が入っているのは気にしない事にしよう。

 

「新聞……記者……」

 

 乾はそれを聞いて、少しだけ歪な声を出した。俺が来た事に心当たりがあるのだろう。

 

「そ、それでどのようなご用件でしょうか?」

「……猫屋李花をご存じですよね?」

 

 回りくどい事は無しだ。

 

「っ!!」

 

 俺が猫屋の名前を出した途端、乾は明らかな動揺を見せた。

 

「そ、それはもちろん」

 

 乾は玄関扉の影に身体を隠すように退く。

 

「……彼女には申し訳ない事をしたと思ってますが、あれは事故でした。損害の賠償責任は私にないはずです。……どうかお引き取りください」

 

 彼女は足早に自分には何の責務も無いと説明し、扉を閉めて逃げようとした。まるで予め考えていたような台詞に俺は心底イラついた。

 

 感情に任せて、閉じるドアに足を突っ込む。

 

「え、え!? な、なんですか!?」

「あの試合の怪我は、黒羽桔梗に命令されてやった事ですよね」

「っ!!」

 

 確信をついてやった。猫屋の肘をへし折ったヤツを簡単に逃がすわけにはいかない。

 

「なんで、それを……!」

 

 確定した。確定してしまった。

 

 乾から漏れ出た言葉が、俺の聞いた糞みたいな話を事実だと裏付けた。本当に猫屋の怪我は悪意によって引き起こされたものだった。

 

 頭に血が上るのを感じる。激昂に身を任せ、この女をぶん殴ってやりたい。だが、ここは冷静に畳みかけるべきだ。

 

「この会話は録音しています」

 

 インターホンを鳴らす前にボイスレコーダーは起動してある。彼女の迂闊な発言は傷害の証拠として録音された。

 

「え、あ、ま、待ってください!!」

 

 乾は閉めようとしていた扉を開いて、俺の前に躍り出た。バレていると分かった途端に、随分と積極的だな。

 

「あ、あれは黒羽さんに、言われて……!! や、やらないと、また、サンドバックにするって……!!」

 

 狼狽する乾。自己保身の言葉を吐いているのか、それとも本当に脅迫されていたのかは俺にはまだ分からない。だが、彼女は自身はイジメられてたと(のたま)っている。

 

「……黒羽桔梗についてはどう思っているのですか?」

 

 乾はどうにでもなりそうだ。本命はやはり黒羽の方。黒羽を引きずり出さなければいけない。

 

「く、黒羽先輩についてですか?」

「今、彼女は全日本強化選手に選ばれていますよね? ……過去に黒羽にそのような目に遭わされているのなら、その事実を公表しようとは思わないのですか?」

 

 スポーツ選手は若者に夢と感動を与える職業だ。その為、選手にはそれ相応の道徳心や倫理観が求められる。過去にイジメをしていたという事実を暴露すれば、黒羽のスポーツ選手としてのキャリアは閉ざされるだろう。

 

 それでも、復讐は完了する。

 

「そ、そんな事したら、私が黒羽先輩に殺されます……!! 先輩の実家の道場、このすぐ近くにあるんですよ!? ど、どんな嫌がらせを受けるか分かりません……!!」

 

 知るかよ、クソが。自己保身の事しか考えてないのかよ。過去の清算をしようともせずに、逃げてんじゃねぇ。

 

「…………、なら猫屋選手の事故について貴方はどうやってケジメをつけるつもりなんですか。それにこの事実は私という第三者にはもう知られてしまいました」

 

 怒りを抑えろ。上手く話を持っていかなくてはいけない。

 

「……ど、どうって」

「事実確認は取れましたので、私は今日中に本社に帰ってこの事を記事にしてもいい」

「そ、そんな……!?」

 

 出鱈目だ。だが、乾は信じ込んでいるようだ。

 

「ですが、私は猫屋選手とは個人的に交友がありましてね……」

 

 ここからは真実を混ぜて話す。

 

 

「彼女は今、怪我から立ち直って前を向いているんです」

 

 

 猫屋は本当にすごい奴だ。自身の凄惨な過去に打ち勝った。…………俺にはできなかった。助けて貰った俺とは心の強さがまるで違う。本当に尊敬する。

 

「……」

 

 乾は顔を伏せ、黙って俺の話を聞いていた。その感情は俺には分からない。だから、俺は怒りに任せて話を続ける。

 

「そんな彼女に、あれが事故ではなく作為的なものだった……なんて言いたくはありません」

「そ、それじゃあ……」

「はい。もし貴方が黒羽桔梗に過去、イジメを受けていたという事実を暴露するというのなら猫屋李花への傷害の件は記事にしないことを約束します」

「…………」

 

 悪い話ではないはずだ。俺は調査を始めてから、スポーツ事故というものについてネットで調べた。もし、悪意を持って相手に怪我をさせた場合、加害者は不法行為責任によって損害賠償金を払う必要がある。賠償額は100万を超える場合がほとんどだ。

 

 そのような高額を払いたくはないだろう。損害賠償金については怪我を負わせてしまった乾も知っているはずだ。

 

「で、でも、そんな事したら、私が黒羽先輩に……」

「貴方が黒羽を告発しないと言うのなら、仕方ありません。私も仕事ですからね……このスキャンダルをそのまま記事にします。3年前の事故とはいえ、世間を賑わせる面白い記事になりそうですから」

「ま、待ってください!!」

「まぁ、どうするかはあなたが決めてください。……ですが、賠償金は1000万は覚悟しておいた方がいいかと」

 

 金額は適当だが、乾を追い詰めるには十分な額だろう。

 

 俺はこの短い会話で乾を許す気は無くなった。コイツは自分の身が可愛いだけのクズだ。輝かしい未来を奪われた猫屋の事など、本心ではどうでもいいと思っているのだろう。3年も責任を取らずに暮らし、今も自身の責任の取り方が分からず狼狽える情けないヤツ。

 

(こんなのに気を使う必要は無いな)

 

 イジメの事実を暴露させて、黒羽のスポーツ選手としてのキャリアを終わらせる。そして、乾はこれからの人生を黒羽に怯えて暮らす。底辺同士の醜い争いを一生やってろ。猫屋を苦しめた罰としては生温いくらいだ。

 

「み、3日…………いえ、1日だけ考える時間をください」

「……そうですね、分かりました」

 

 丁度良い。復讐の具体的な目途が立ったため、俺も行くべきところができた。

 

「では明日のこの時間……3時頃にまた来ます」

「は、はい……」

 

 俺は再開の約束を取り付けて、その場を後にする。

 

 やる事はまだまだある。今度は()()()()()を取りに行かねばならない。

 

************************************************************

 

 俺の復讐で一番の難関は恐らくここだ。

 

 猫屋キックボクシングジムと書かれた大きな看板。中では屈強な男女がサンドバックを叩いたり、リング上でスパーリングを行っている。室外から覗いていても熱気が凄い。

 

「は、入りずれぇ……」

 

 なんというか、一般人を寄せ付けない雰囲気を感じる。……建前を取っ払って言うとちょっと怖い。ムキムキの男達が殴り合いをしているのだ。威圧感を感じて当然だ。

 

「……なんて、言ってる場合じゃないか」

 

 俺は意を決して、ジムの扉を開いて中に入った。

 

「こ、こんにち──」

「「「しゃっすッッ!!!!」」」

 

 一瞬、挨拶の熱量差で意識を持っていかれそうになった。俺はどうにも体育会系の熱血と真面目さが苦手だ。

 

「ん、あれ? アンタは確か……」

 

 ジムに足を踏み入れて、そのすぐ横の受付。そこには猫屋勝美(かつみ)さんが座っていた。

 

 俺がここまで足を運んだ理由は、猫屋の母親に話があったからだ。

 

「お久しぶりです。この間はありがとうございました。雨宿りをさせていただいた、陣内梅治です」

「あぁ、確か、李花の友達の……今日はどうしたんだい? 入会希望? というか、李花のヤツは一緒じゃないのかい??」

「あぁいえ、……今日は、李花さんの事で()()()()()()があってきました」

「…………、えっ!?」

 

 猫屋に対して行われた傷害は確定した。そして、その証拠も手に入れた。

 

 この事実を警察に伝えれば、猫屋は多額の賠償金を乾と黒羽から得る事ができる。……しかし、猫屋には空手の道具を見つけただけで取り乱すほどの心的外傷がある。そんな彼女に、金の為だけに過去を思い出させるのは……俺は嫌だった。

 

 猫屋の尊厳と体を傷つけた、乾と黒羽が落ちぶれればそれでいいと思っている。

 

 だが、多額のお金が発生する可能性があるのなら、俺の身勝手な復讐には許可を取らなければいけない人がいる。

 

 それが、勝美さんだ。勝美さんは猫屋を育てた。そこには愛情と時間とお金が多く詰め込まれている。上手く言葉にできないが、正規の賠償金を請求しないという選択には保護者の許可が必要だと俺は感じていた。

 

「え、えぇ!? 李花の事で、個人的な話ぃ!?」

「はい」

「た、大切な感じのやつかい??」

「? ……はい、超大切な話です」

「そ、そうかい……」

 

 勝美さんは俺の真剣な目を見て、何故か震える声音で答えた。

 

「……と、とりあえず、奥で話そうか」

「はい。ありがとうございます」

 

************************************************************

 

「……………………話はだいたい分かった」

 

 俺は勝美さんに猫屋の傷害の事実と、俺の身勝手な復讐についての全てを話した。

 

「はぁ……」

 

 勝美さんは気が抜けたような大きなため息をして、テーブルに突っ伏す。

 

「え、えっと……どうしました?」

「いぃや、一瞬、李花がガキでもこさえちまったのかと思って身構えてただけさ……それとは別種の大難事があった訳だけど」

「あ、あぁー……変な言い方してすいませんでした」

 

 そう言えば、大切な、とか、個人的な、とか、如何にもな言い回しをしてしまった。誤解されて当然だ。馬鹿か俺は……。

 

「まぁ、なんだ……アンタが李花の為に、色々とやろうとしてくれてる事は理解できたよ」

 

 勝美さんは突っ伏した状態から起き上がり、俺の方に向き直る。

 

「李花の気持ちを優先して事を公にしない、それはアタシも大賛成だ……アタシ達はあの子には昔から苦労をさせすぎた」

 

 勝美さんは視線を俺から外して、難しい顔をして憂いを帯びる。そう言えば、猫屋家は離婚して片親だったか。…………猫屋の人生には心労が多すぎる。

 

「……それに、お金には困ってないしね」

 

 先ほどまでのジムの熱気を見るに確かに繁盛していそうなので、金銭的な問題はなさそうだ。

 

「加えて、家の娘を傷物にしてくれた糞ヤロウにちゃんと制裁を加えるっていうのがアタシ好みで大変気に入った……!! アンタ、いい男だ!!」

「あ、ありがとうございます」

 

 勝美さんは獰猛な笑顔で俺の事を褒めてくれた。猫屋も偶にこのような顔をするが、勝美さんは別格だ。圧力があって無茶苦茶に恐ろしい。

 

「でも、まぁ……その、ちょっと、ねぇ……?」

 

 そんな勝美さんが急に獰猛な笑みを解いて、あからさまに文句があるような言い方をする。表情も段々と猜疑(さいぎ)的な物に変化していった。

 

 な、なんだ? 話の流れは順調そうだったのに……

 

「梅治君……アンタは確か、李花とは恋仲でも何でもないんだろう? 何でそこまでやってくれるんだい?」

「何でって……」

 

 理由。娘の為に複雑な復讐計画を実行しようと動いているのが恋仲でもないただの友人では勝美さんは当然不審に思うか。

 

 俺はその理由を説明しようとした……のだけれど。

 

「えっと……」

 

 ……あれ? なんだろう?? 単純に猫屋の事を(おとし)めた奴にムカついて色々と画策しているが、理由と言われたら……

 

 はらわたが煮えくり返るような怒りしかないな。

 

「た、単純にムカつきませんか?? ね……李花さんの事を舐めたクソが何の反省もなく生きてるんですよ?」

 

 怒りをそのまま口にしたら、結構口汚い言葉が飛び出てしまった。

 

「……いや、まぁ、そうだけど」

 

 俺の汚い説明を受けても、勝美さんは微妙そうな顔を浮かべるだけだった。まぁ、でもそうか。ただの友人が怒りの感情だけで行うには、今回の復讐は度を超している。

 

 勝美さんは、俺がなぜここまで怒っているのか理解できないんだろう。

 

「ね……、すいません。もう面倒なんで李花さんの事は猫屋と呼ばせてください」

「ん、あぁ」

「……あと、ここからは猫屋にはオフレコでお願いします」

「?」

 

 なら、俺の怒りの底にある物を全てぶちまけよう。

 

「猫屋は底を抜けて優しいんですよ……俺はそんな猫屋を傷つけた奴がいる事が許せないんです」

 

 猫屋に俺は助けられた。猫屋は俺のかけがえのない大切な親友だ。普段は絶対に言わないが、俺は彼女を大切にしたいと思っている。正直、かなり、恥ずかしいが、勝美さんには俺が()()()()()()()()()()()()()を伝えなくてならない。

 

「俺、アイツに本当に感謝してるんです。ほら、猫屋って普段は人を揶揄うのが大好きな奴ですけど、俺が落ち込んでる様子だとすぐにそれに気がついて慰めてくれるんですよ。見惚れてしまうような優しい笑みを浮かべて、一緒に酒を飲んでくれて嫌な記憶が薄れるまで傍にいてくれたんです。あの時はコイツと友達になれて本当に良かった、なんて臭い事を本気で思ってました、あはは。……そこからなんですよ、アイツの笑顔を見るとなんか元気が出る様な気分になったのは。ほら、猫屋って容姿端麗で運動神経も抜群じゃないですか。そんな凄い奴が俺と一緒にいてくれて、楽しそうに笑ってくれると、心の底から充実感みたいなものを感じるんですよ。いや、本当に気持ち悪いな、俺。すいません、今のは聞かなかったことにしてください。と、とにかく、アイツが傍に居てくれると俺は楽しくて仕方がないって事なんです。……あと、傍に居る、って言葉が実は俺にとっては特別で……。俺は昔、猫屋の善意を踏みにじってしまった事があったんですよ。悪意はなかったですし、俺もきちんと謝って猫屋は許してくれたんですけど、その時掛けてもらった言葉が今でも忘れられないんです。辛い時は誰かが傍に、ってやつでして、まぁ、どこにでもあるような慰め文句だとは思います。でも、俺にとってはその言葉は宝石よりも価値がある物なんです。恥ずかしい話ですけど、昔に恋人にフラれてそれが原因で女漁りをしてた時期があったんです。でも、結局、何の魅力も無い俺なんかじゃあ最後まで誰も傍に居てくれなかったんですよ。そのせいかは知らないんですけど、猫屋の掛けてくれた言葉のおかげで、俺にも寄り添ってくれる人がいるんだ、なんて気持ちになってしまってて……。はは、猫屋はそう言った意味で言ったんではないだろうから、勝手に変な感じで受け取ってしまって俺、本当に気持ち悪いですよね。……結局、何が言いたいかって言うと、アイツの優しい性格から出た本心の言葉が、俺を救ってくれたって事なんですよ。あ、猫屋が傍に居てくれようとしたことにお礼を言おうとした時も、俺のぶきっちょで口下手なお礼の言葉をしっかりと受け止めてくれたんですよ、アイツ。そ、その後、しばらく手まで握ってくれて……あ、あはは、俺の言葉がちゃんと届いたって感じがして凄い嬉しかったです。猫屋は優しいから多分、俺にお礼が届いた事を証明するために手を強く握ってくれたんだと思うんです。……本当にあいつは優しいんです。俺みたいな冴えないアル中の手を、そんな理由でずっと握ってくれるくらい、アイツは底が抜けて優しいんです。あ、思い出した。他にも猫屋に初めて会った時の話なんですが…………」

 

「分かった! 分かったから!! アンタが李花の為に本気で怒ってるのは十分に分かった!! だからちょっと、止まってくれ……!!」

「ん、えぇ??」

 

 勝美さんの急な大声を受けて、俺は語りを止めた。……おかしいな、そんな大袈裟に止められるほど話していないはずだが?

 

「…………ね、ねぇ、あんた、本当に李花とは付き合ってないのかい?」

「もちろんです」

「………………」

「?」

 

 勝美さんは、俺の事をまるで怪異をみるような目つきで見てくる。信じられない物を見つけてしまった、という感情が伺えた。な、何故だ……??

 

「……それだけの想いがあるのなら告白でもしたらどうだい? あの子は女子高育ちで男に免疫ないから、一瞬で恋仲になれるよ??」

「……え?」

「李花が恋人になるのは嫌かい? アタシとしては、そこまで思って貰えるなら嫁に出しても全然いいんだけど……」

 

 告白すれば、親公認で、猫屋が俺の恋人に?

 

 ……………………………………なってほし──

 

 俺はすぐさま、水筒のアルコールを胃に落とした。

 

「んぐっ……んぐっ……んぐっ……!!」

「え、えぇ……?」

「ぷはッ!! ハァ……ハァ……勝美さん!!」

「え、は、はい!!」

「俺は猫屋とはずっと友達のままでいたいんですよ……!!」

「あ、あぁ、そうかい……」

 

 というか、何を思いあがっているんだ、俺は??

 猫屋が俺のようなアル中の告白を受け入れるわけがない。容姿に差がありすぎて全然、釣り合っていない。それに俺はこのままの関係を望んでいる。何より猫屋には俺より頼りがいのある2枚目が相応しい。肝臓が強く、重度の辛党であればパーフェクトだ。

 

「…………それで、結局、ゴーサインは出していただけるんでしょうか?」

 

 なんか色々と話がズレたが、俺が欲しいのは保護者からのお許しだ。それさえあれば、俺は何の気兼ねもなく復讐計画を実行できる。

 

「……確かに、話がだいぶズレてたねぇ」

 

 そう言うと、勝美さんは俺の目をしっかりと見た。俺もその視線から目をそらさない。

 

()()、アンタの計画で一番気に入ったのは李花には何も知らせないってところさ」

 

 俺を呼ぶ敬称が変わった。認めてくれた、と判断していいだろう。

 

「……立ち直ったあの子にはずっと笑っていてほしい」

 

 子の事を真剣に思いやる、親の優しい表情。勝美さんの親心には敵わないだろうが、俺も同じ気持ちだ。

 

「おっけー、派手にやりな」

 

 許可の言葉と共に、勝美さんは俺に対して手を差し出す。

 

「ちゃーんと、黒羽ってやつの名誉とか、未来をぶっ壊すんだよ? アタシの代わりにね」

「……任せてください」

 

 俺は自信満々な笑みを浮かべて、勝美さんの手を握り返した。

 



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猫屋李花の受難⓪

 

 お父さんがいなくなった。

 

 私がまだ、小学2年生の頃。両親が離婚した。悲しかったが、喧嘩ばかりする2人に嫌気がさしていたので清々したのをうっすらと覚えている。それにお父さんに会おうと思えばいつでも会えた。別居に近い離婚。他の家庭に比べたら円満な家庭崩壊だったと思う。

 

 ただ片親がいなくなるとやっぱり私は寂しかったのだろう。代替品になったのはスポーツ。それに、のめり込んだ。

 

 ママはキックボクシングの選手だったが、お父さんは空手家。その為、幼い頃から私は空手を主軸として習い、妹はキックを習った。格闘一族としては当然の二分だったのだろうと思う。

 

 私には才能があった。

 小さい頃から誰にも、男子にも負けなかった。努力すればするほど自分が強くなるのが分かった。それにスポーツ空手というものが自身の性格に合っていた。キックボクシングも相当やっていたが、私は強すぎた。同年代の子が私のパンチやキックで、泣いたり、顔を歪めてこちらを睨む姿はどうにも嫌いだった。

 

 防具越しに殴る、または寸止めで評価してもらえるノンコンタクトな伝統空手が私の性根にあっていた。もちろん、格闘技である以上は殴打はするし、怪我もする。それが楽しいのだけど、度合いの違いで私は空手が気に入っていた。

 

 それに……えっと、自分で言うのも恥ずかしいけど……私は無敵だった。連戦連勝で同世代では最強。どこまでも突き抜けて行けるような全能感が堪らなかった。取材なんかも受けちゃったりして、スポーツ新聞に載ったりした。空手の実力より、容姿が取り上げられてたのはちょっとだけ不服だったけど……まぁ、本当に全てが上手く行っていた。

 

 そんな順風満帆だった私が躓いた小石。肘の開放骨折。

 

「せんせー? それで私、いつ復帰できる感じですかー?」

 

 私は大きなギプスを装着して、ベットに横になりながら担当の医者に問いかけた。先生は優秀な外科医であり、お父さんの後輩で空手家でもあるらしい。そんな先生なら、私の復帰時期など難なく答えてくれると思っていた。

 

「…………」

 

 お医者さんは、私の問いに直ぐに答えなかった。

 

 肘を折った時の事はあまり覚えていないが結構な大怪我だったらしい。私は痛みと出血ですぐに意識を落とした。手術も全身麻酔だったため、うろ覚え。気が付いたらベットの上に居た、というやつ。

 

 だから……自分の怪我の事は何も分からない。返答が遅いのが少しだけ怖かった。

 

「……李花さん。あなたの過去の試合映像を見させてもらいました」

「え、えぇー……、な、なんか恥ずかしー……」

「非常に可動域のある肘と、優秀な反射神経。……ボクシングも習っていたおかげか打撃に肩が入っていて良く伸びる」

「あ、あははー、ありがとうございまーす!」

 

 褒めないで欲しかった。この後、良くない事を言われる前振りの様だったから。

 

「まず、肘が動かせるようになったとして……縦拳での打撃は禁止です。あれは横拳より肘に負担がかかりますから」

「あ、はーい。……結構なハンデになりそうですねー」

 

 縦拳はモーション無しで打てるので重宝していた。

 

「あとは、全力での突きは絶対にやめてください。インパクトの瞬間、反動で肘に大きな負担がかかりますから」

「……ま、まぁそれもだいじょーぶ!! どうせ寸止めするしねー!!」

 

 まだ……まだ、何とかなる。

 

「最後に……」

 

 お医者さんの話がほんの少しだけ止まった。

 

「恐らくですが……神経が損傷しています。麻痺や感覚の消失といった症状が出る可能性が高いです」

「…………え?」

 

 "麻痺"と聞いて、私は一気に怖くなった。

 

「そ、それって、治るんですよねー?」

「……神経系の回復速度は非常に遅い。症状が出てしまった場合は長く付き合っていく覚悟が必要です」

「長くって……どのくらいですか?」

「10年や20年といった単位です」

「あ、あははー……!! そうなったら、こ、困っちゃうなー!! り、リハビリで何とかなりますよね……?」

「肘の伸縮に関しては努力次第で何とかなるかもしれませんが、神経の麻痺に関しては難しいかと」

「…………」

 

 結論から言えば、私の右手には後遺症が残った。右腕を伸ばしきった際に末端神経に痺れが流れるようになった。日常生活にはあまり支障をきたさないが、それは腕を伸ばせば伸ばすほど強くなる。耐えがたい、神経をなぞる強烈な電流。突きを本気で打てば、動きが止まってしまうほどの強い痛み。

 

 だけど、私はまだ前向きだった。右が不完全でも、左がある。蹴りがある。これまでの努力と栄光を簡単に手放すつもりはない。

 

 再起までの日々は本当に地獄だった。

 必死にリハビリをしたが、肘を曲げ伸ばしする事だけで半年は掛かった。初心者のような下手くそな突きを出せるようになったのは、そのさらに半年後。そこからはリハビリで衰えた自分を徹底的に虐め鍛える。地道にマイナスを0に戻す作業。苦痛ともどかしさに、歯噛みした。健康体だった頃との対比に心が軋んだ。

 

 だが、私は戻ってこれた。努力して、本当に頑張って何とか再起まで取り付けた。

 

 試合結果は惨敗だった。

 

 楽に勝てる試合もあった。だけど、誤魔化しのきかない強敵と当たった際、私は本当に何もできなかった。特に相手が右構えになると酷かった。

 

 私は基本的には左構え(オーソドックス)のスタイルを貫く。その為、右構え(サウスポー)が相手になると前手が被ってしまい左手による突きが当たりずらく、右で有効打を取りに行かなければならない。

 

 そう……欠陥品の右で。蹴りは打てた。左も打てた。だが、右が重要な場面でそれだけがポンコツだった。

 

 その日最後の試合は一番ひどかった。相手は私の右肘の怪我を知っていたのだろう。蹴りは警戒されて有効打にならず、キレの無い右は逆にカウンターの餌食。何もさせてもらえずに8ポイントの差が発生して、試合は終了した。私の1年半の努力は3分も持たなかった。

 

************************************************************

 

「…………」

 

 負け犬が逃げ込んだ先はトイレの個室。1年半も頑張ったのに、何も結果を残せなかったゴミ。私にはお似合いの場所。

 

「…………っ」

 

 咄嗟に両手で口を塞ぐ。嗚咽と涙が止まらなかった。

 

「……っひ、……っ」

 

 弱い。

 

「…………ぅ」

 

 弱い。

 

 客観的に自分を評価する。1年半も頑張った。それで、復帰戦で惨敗した。辛くて泣く。

 

 ……仕方ない。仕方のない事。だが、それをバネにしなくてはいけない。敗戦をバネにして次、頑張ればいい。一流の選手の中にはケガから復帰して成功を収めた人が大勢いる。その人たちも最初の復帰戦で勝てたわけではない。敗戦の悔しさを燃料にして、再び自分を鍛えたはずだ。

 

 だけど、私は弱かった。

 

「もう……やだ……」

 

 心が弱い。

 

「……ひっ、………っぐ………」

 

 涙と嗚咽が止まらない。胸が痛い。もう何もしたくない。頑張りたくない。空手が楽しくない。何も楽しくない……!!

 

 何もできなかった。私の1年半は……なんだったの?

 

「……うっ、ひっく…………」

 

 惨めったらしく泣く子供。それで誰かが同情してくれるとか、助けてくれるとか、許してくれるとか、理解してくれるとか、そんな事を心の奥で考えて泣く、狡猾で浅ましいガキ。

 

 気持ち悪い、私。

 

「もう……いらない……」

 

 気持ちが悪くて弱い私も、今までの努力も、才能も、過去の栄光も、何もいらない。こんな思いするくらいなら、全部捨てる。本当に全部を捨てたい。何もかもから逃げ出してしまいたい。

 

 涙で滲む視界に入ったのは、体に引っ付いているだけの右手。ちっとも役に立たないジャンク品。

 

「…………」

 

 情けなく震える体を起こして、トイレの狭い個室でファイティングポーズをとった。……こんな所で拳を振るうために私は10年以上空手をやっていたのだろうか。そう思うと、惨めで変な笑いがでそうになった。

 

 ゆっくりと、右腕を大きく振りかぶる。狙うのはタイルのような固い壁。怪我をしてから、一度も本気で振り抜いた事の無い右の正拳。壁を撃ち抜けば反動に耐え切れず肘は砕ける。いや、どうせ壊すなら派手にいこう。縦拳だ。医者に止められた右の縦拳を打とう。

 

 それで、もう、頑張らなくていいんだ。

 

「っ」

 

 意を決して、床を軸足で蹴った。腰を廻して、本気で拳を振り抜く。

 

 しかし、拳は壁に到達する直前で止まった。私の心では、臆病風の逆風を打ち破ることはできなかった。無理して急制動したせいか、右小指に強い痺れが走る。

 

「…………ははっ」

 

 キモい。何なんだろう、私は? 敗戦を受け入れて進む勇気はなく、自分の体を壊す勇気もない。

 

「ははっ、………ぅ、……ひっ…………」

 

 泣いてもいいよ。

 

「う、う……っ、あ、ぁ……」

 

 だけど……立ち上がってね? これからも頑張ろうね? 壊さないなら、まだ続けられるよね?

 

「あ、あぁ、ぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!」

 

 そこで私は完璧に折れた。

 

 家に帰り、道具を捨て、賞状を破り、空手に関する物は全て視界から消した。練習なんて一切しなくなった。物や名誉を捨てるのは簡単だった。けど、最後に残った体は、壊す勇気がなかった。

 

 だから、煙草。

 煙を吸って痛みなく、ゆっくりと選手として戻れないように自分を壊していった。

 

 心の弱い私は煙草の中毒性に一瞬で飲まれ、体力はすぐ落ちた。そこからは自分の最大の長所を失った分を取り戻すように、おしゃれして、自堕落に遊んで、働きもせず、それを見かねた親にたいして偏差値の高くない大学に入れてもらった。少なくはないお金を支払ってもらって……今は自堕落で楽しい大学生活を送っている。

 

 あれー?? 情けなく逃げた癖に、ずいぶんと楽しそーに過ごしてるんだねー? 

 

 臆病で弱虫、救いようがない脆いガキ。死ねよ、私。大嫌いだ。

 

************************************************************

 

「な、なに考えてんだよ……」

 

 勝美さんとの話を終えた頃には既に辺りが暗くなっていたので、俺は猫屋家に泊まらせてもらっていた。今は猫屋の部屋で持参したノートパソコンを使い陽光さんから貰ったUSBメモリーの内容をもう一度確認している。

 

 その中に、(いぬい)黒羽(くろは)の資料の他に2つの動画ファイルがあった。

 

 その中身の1つは猫屋が怪我した試合、()()1()()()()()()()()()だった。

 

 見たくは無かったが、これから乾と黒羽を追い詰めるためには見なければいけないと思った。

 

 乾との試合の方は、猫屋と乾が(もつ)れるように重なった際に動画は止まった。中途半端な終わり方ゆえに、その後の悲惨さが強調されるようだった。

 

 問題は復帰戦の方だ。

 

 猫屋が一方的に負けた相手。その()()()()()()()()()だった。

 

「ふざけんなよ……」

 

 素人目で見ても分かった。(なぶ)るように、猫屋で遊んでいた。

 

「自分が命令して壊した相手だろうが……」

 

 勝った時、嬉しそうに笑ってやがった。

 

「何考えてんだよ、テメェ……!!」

 

 許されるのなら、本当に殺してやりたい。

 

 その日は強い怒りのせいで寝つきが悪かった。持参していた酒を飲み、復讐の決意を抱いたまま気絶するように無理やり眠った。

 

************************************************************

 

 翌日の3時10分。約束の時間を少し過ぎたあたり。猫屋家を朝早くに出て、色々とやっていたら時間に遅れてしまった。

 

 まぁ、構わないだろう。自己保身のクソ乾を待たせたところで、俺の心は全く痛まない。むしろ、清々とする。

 

 ……昨日見た動画のせいで気分が荒んでいる気がするな。

 

「早く済まそう」

 

 俺は乾家のインターホンに手を伸ばした。

 

「桜庭さん、ですよね?」

 

 そこで、突然、俺に対して声がかけられた。桜庭は偽名のため、反応がややおくれてしまう。

 

「……えっと、どなたですか?」

 

 声の主はガタイのいい、()()()。もちろん、知り合いではない。

 

「少し、ついて来てもらっても?」

 

 男は名乗ることもせずに、俺について来いと言う。男の背後には黒くて大きな自動車が駐車している。薄暗くて見えないが車内には人影が複数確認できた。

 

 

 待ち伏せされていた。

 

 

 冷や汗が背を伝う感覚を感じ取る。得体のしれない悪寒が俺を包み込んだ。

 

「……貴方は乾さんの友人ですか?」

 

 男は俺の質問に答えない。ただ、その眉間に皺を寄せてめんどくさそうにこちらを睨んでくる。

 

 とても嫌な予感がする。

 

「それになぜ、私の名前を?」

 

 この偽名を知るのは陽光さんと乾のみ。

 

「乾さんから聞いたのですか?」

「……めんどくせーな。どうでもいいから、一緒に来い──」

 

 俺は男に背を向けて、全速力で逃げ出した。

 

「あ、おい! 待てや、コ゛ラぁ゛!!」

 

 この状況で大人しくついていく馬鹿はいないだろう。

 

「はぁ……はぁ……くそッ!! 大人数はダメだろ……!?」

 

 身の危険に任せてとにかく走る。それと同時に脳をフル回転させて現状を分析した。奴らの目的は俺の拉致だ。正しく言うなら、俺の手に入れた傷害の証拠。それの破棄だろう。

 

(だがどうやってあんな連中を集めたんだ!?)

 

 恐らく乾が用意したんだろうが、方法が分からない。陽光さんの情報によれば乾は既に空手部を退部してあるはずだ。違法行為に手を染める覚悟を決めた複数人の男共を集められる人脈などとてもないだろう。

 

「逃げられると思ってんのかッ!!」 

 

 背後からの怒声が思考を吹き飛ばす。男は俺を追いかけてきている。

 

(こりゃ、撒けないな……!!)

 

 首だけで振り向き、背後に迫る男を視界に収めた。脚力は俺の方が高いが体力はあちらの方が圧倒的に上のようだ。汗一つ掻いていない。それにたいして俺は喫煙者。短距離ならともかく、持久走はマジで自信がないんだよ……!! もう息が上がってる!!

 

************************************************************

 

「はぁ…………はぁ…………」

 

 逃走の末にたどり着いたのは、路地裏の行き止まり。小さなビルとビルの間にある、人目につかない暗い道だった。だが、その先には高いフェンス。とても登っている時間は無い。

 

「土地勘が無かったのが運の尽きだな、桜庭」

 

 背後を振り返ると、そこには先ほど声をかけてきた男……だけではない。他にも屈強なのが4人ほどいた。

 

「……なんか勘違いしてないか? 俺は確かに桜庭だが、追われるような真似してないはずだけど」 

 

 俺は念のため男たちに確認を取った。

 

「いいや? ……()()()を探るドブネズミはテメェで間違いねぇよ」

「っ!!」

 

 男達の背後から、低い女の声が俺まで届く。

 

「……本人様がご登場とは嬉しい限りだな」

 

 偽りのない本心を述べた。見事に釣れた。状況は恐らく最悪なんだろうが、なんとかヤツを俺の前に引き釣り出す事ができた。

 

 男達の背後から俺の前に躍り出てきたのは、資料で見た通りの顔をした最低のクソゴミだ。

 

「会いたかったぜ……黒羽(くろは) 桔梗(ききょう)ッ!!」

「あぁ゛゛? 初対面で呼び捨てかよ、テメェ」

 



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悲惨

 

「親によぉ、初対面の人には敬意を払えって教わらなかったのかぁ?」

 

 激甚(げきじん)

 

 俺が黒羽桔梗という女に抱いた第一印象はまさにそれだった。写真では感じられない、生の暴力性。ポケットに手を入れ、首を傾け、軽佻浮薄(けいちょうふはく)にこちらを睨む姿はケチなチンピラと相違ない。だが、その立ち姿が嫌に目を引く。

 

 格闘技というのは球技や陸上と違い、人を傷つけ傷つけられる事を前提としたスポーツ。一流の競技者になると、姿勢や気合だけで相手を威圧できる護身技能を持つと何かで聞いた事がある。それが俺の感じている圧力の正体なのだろうか。

 

 災害を振りまく竜巻を前にしたような、言いようの無い不安感。俺との体躯の差は歴然としているが、殴りかかっても絶対に敵わない。加えて、周りの屈強な男達……

 

 俺は不安感を掻き消したくて、スキットルを懐から取り出しアルコールを静かに嚥下した。

 

「……酒? そんなもん飲む前に言う事があるだろうが。挨拶もできねぇのか?」

 

 急な飲酒行為を目の当たりにした黒羽が怪訝な声を上げた。奴のいう事はもっともではあるが、俺には必要な儀式だ。酔いで恐怖心を麻痺させたかった。

 

 それに、挨拶などしてやるつもりはない。

 

「便所のゲロに敬意を払うやつがどこにいる?」

 

 啖呵を切った。切ってやった。酒で恐怖を誤魔化して何とか口撃した。

 

「…………」

 

 俺の軽口に、黒羽は何も返さない。目上の眉丘筋を不快げに動かすだけだ。……くそ、雰囲気あるな。

 

 だが、怖気づいていられない。

 

 俺は適当に走り回り、行き止まりの路地に逃げ込んだのではない。むしろ、ここに狙って逃げ込んだ。この場所には、()()()()()()()()()()()()

 

 俺が思いついた悪意の絵図。

 その内容は、黒羽を俺の前まで引き釣り出して、一発でもいいから殴らせてしまおうという短絡的なものだ。猫屋の話をチラつかせて金銭を要求したり、口汚い言葉で黒羽を罵り怒らせる。暴力の理由は何だっていい。そのワンシーンを抑えて世間に晒す。それが俺のメインプラン。

 

 発想の発端は喫煙所で空手部らしき男たちが俺を殴って急いで逃げた事だ。武道有段者の暴行は刑罰的に重い。もし、暴力を振るう瞬間を撮影してSNSに投稿できれば黒羽の立場は一気に失墜する。虐め告発の方は、乾が素直に賠償金を払うと言い出せば破綻するので予備プランだ。

 

 黒羽も大学生で、今は春休み。実家に帰省している可能性はあると思い、(あらかじ)め監視カメラをこの路地裏に仕掛けた。本当は予備プランが失敗した時にここに呼び出すつもりだったが、どういう訳か黒羽をこの場に引き釣り出せた。

 

「…………」

 

 後は煽って手を出させるだけ……のはずだったが、周りの男たちは計算外だ。複数人に喧嘩腰で囲まれるとか生まれて初めての経験だ。

 

 怖えよ、くそったれ。酔いで恐怖を抑えきれない。

 

「日練スポーツ新聞なんて会社は存在しねぇ」

「っ」

 

 調べられていた。乾から聞き出したのか? なら、乾が虐められてたとか言うのは嘘か?

 

「情報の出所がマジで分からねぇ……同じ高校のヤツかと思ってたが、そうでもねぇ。見覚えのない間抜け面だ」

 

 黒羽は苛立った様子を隠さずにこちらを睨みつけている。

 

「マジで、誰なんだ、お前さんよぉお!!」

 

 黒羽は瞳孔を開いて蛮声でがなる。ビリビリと音圧が肌を撫でるようだ。恐ろしい威圧感……だが、怯むな。

 

「乾はどこだ? 先約があってな。もう約束の時間を過ぎてるんだ」

 

 問いかけは無視した。そっちの方がイラついてくれると思ったからだ。

 

「……乾から連絡が来たときは驚いたぜ」

「なんだって……?」

「アイツとは、事故以来会ってなかった。あの糞間抜けが試合を大事にしちまったせいでこっちは大迷惑だ」

 

 つまりはこうか。

 虐めはあった。"猫屋を軽く怪我させろ"という黒羽の命令もあった。だが、乾はやりすぎたのだ。故意ではないだろうが、猫屋の選手生命を絶つほどの大怪我を負わせてしまった。

 

「……なるほどな、あの()()()()()()()()()()()()のか」

「そう言うこった」

 

 乾は黒羽への告発も、賠償金の支払いからも逃げ、自身を虐めていたはずの黒羽にこの事件の隠蔽を願ったのだ。その結果が今の状況という事か。

 

 俺の人を見る目も馬鹿にならない。乾はやはり、最低の自己保身野郎だった。

 

「………………それで?」

「あぁ??」

 

 俺の侮蔑を込めた疑問符に、黒羽は露骨に顔をしかめた。

 

「お前、何しに来たんだ?」

 

 本当に馬鹿にしたような口調で、俺は黒羽に言い放つ。

 

「…………」

「俺の事、何も分かんないだろ??」

 

 会社名も名前も偽装。年齢さえも不確か。身分証の類は身に着けていない。記者と己を偽ると決めた時からその手のものは駅のコインロッカーに隠してある。

 

「何しに来たんだ??」

 

 そんな男を、人まで用意して取り囲んで追い詰めた。コイツ等が俺の身分を知るすべはない。やれることは暴行のみ。それは俺も望んでいた。

 

「周りの男たちは、あれか? お前のセフレとかか?」

 

 黒羽が主犯という事で男たちの出所はだいたい分かった。ヤツは大手格闘技団体館長の一人娘だ。声を掛ければ、男手くらいは集まるのだろう。分かっていて下品な侮蔑を投げかける。

 

「あ、そんなわけないか。ぶっさいくだもんな、お前」

 

 煽れ。

 

「てめぇ、猫屋の親族か? もしくは恋人か?」

「俺は正義のジャーナリスト、お前みたいな醜い悪の退治を生業としている」

 

 まともな返答をする必要はない。

 

「ふざけてんのか? 状況が分かってねぇのかよ」

「くせぇ口で話しかけんな。ちゃんと歯、磨いてるのかよ」

 

 黒羽は俺の罵倒を受けて、不愉快そうに目を細める。いいぞ、もっと煽ってやる。

 

「……この場で死にたくねぇのなら、あの事件の事は黙って──」

「黙ってて欲しいのなら空手を止めろ。後、迷惑料ついでに1億万円用意しやがれ」

 

 イラつかせて手を出させろ……!!

 

「………………………………よぉし」

 

 黒羽はさらに目を細めて、周りの男たちに視線をやった。

 

「お前ら、やれ」

 

 鼻が潰れた感覚。俺が殴られたことに気が付いたのは、自身から流れる赤い液体が視界に入ってからだった。

 

************************************************************

 

 ……何分経っただろう。

 

「ぁ゛かはっ、……ははっ、自分じゃ手を出さずに高みのけんぶ────おえッ゛゛」

 

 ずっと、罵倒を続けている。

 

「ぐ、え゛゛……ぅ、あ」

 

 何発、殴られた?

 

「ゲホ゛゛、…………ハァ……ぁっ……」

 

 何発、蹴られた?

 

「くそっ───、っぅ゛く゛」

 

 殴られて倒れ込んだ。芋虫みたいになって路上に縮こまり、囲まれて蹴り踏まれる。それでも罵倒だけは続けた。

 

「っ、ゴミムシが!! お前みたいなのを生んだ親の顔が──」

 

 鳩尾に靴の先がめり込む。

 

「っごぉ゛!!??」

 

 苦しい。

 

「────────ッ」

 

 痛い。

 

「う゛゛お、おえええええええ゛゛」

 

 血の混じった吐しゃ物を吐き出す。

 

「アハハハハ!! 汚ねぇな!!」

 

 黒羽の高笑いが響く。

 

「ゲホッ゛゛……ハァ……ハァ……」

 

 ヤツは一切手を出していない。まだ、煽らなければ……手を出させなければいけない。動画は猫屋との関連を無くすため、音声無しで世間に公開する予定だ。変な言い逃れを防ぐためにも黒羽自身の決定的な暴行の瞬間が必要になる。

 

「黒羽さん、次はどうします?」

「あぁ、そうだな…………ゲロに沈めろ」

「分かりました」

「ぅ、ぁっ」

 

 髪を掴まれて、そのまま自分の嘔吐した汚物の中に叩きつけられた。

 

「ぁ゛え゛ッ!?」

 

 気持ち悪い。痛い。もう、口を閉じてしまいたい。

 

「なぁ、知ってるか?」

 

 俺の髪を掴んでいる男が話しかけてくる。

 

「俺達みたいな格闘技を修めた奴ってのが暴力を振るう時の行動は2つだ」

 

 朦朧とした意識を何とか保つ。

 

「一撃離脱か」

 

 そう言えば、喫煙所で俺を殴ったヤツは直ぐ逃げたなぁ……

 

「徹底的にやって、相手の心をへし折るかだ」

 

 そのまま、頭を何回もゲロまみれのアスファルトに叩きつけられた。

 

************************************************************

 

「………………ひゅ…………………ひゅっ…………………………」

 

 額が切れた。血で視界が滲む。鼻腔に血が詰まっているせいか呼吸音がおかしい。

 

「コイツ、ひん剥いても出てきたのはカメラとか録音機材だけです。身分証も持ってない」

 

 俺は黒羽たちに路地裏で衣類を奪われ、パンツだけにされて地面にうずくまっていた。その姿を写真で撮られもした。男の俺にリベンジポルノしようとしてるのはちょっとだけ笑えた……。

 

「……道具と身分の隠蔽手際からして、記者って言うのは嘘じゃなさそうだがここまで口を割らないってどういう事だと思う?」

「黒羽さんの言う、猫屋李花とやらの彼氏とかでは?」

 

 記者も嘘だよバーカ……。陽光さんが過剰に機材を提供してくれて助かった。

 

「とりあえず機材は全部ぶっ壊しましたし、こんなもんでいいんじゃないですか?」

「馬鹿かテメェ!! そんなもんバックアップ取られてるに決まってんじゃねぇか!!」

 

 その通りだ。昨日の時点で録音データは電子の海に保管してある。

 

「す、すいません」

「……ちっ」

 

 目だけを動かして黒羽を見る。

 

 ヤツは苦虫を嚙み潰したような表情をして、俺を睨みつけていた。その表情を見て確信する。追い詰められているのは俺だけではない。黒羽もだ。俺が手に入れた猫屋への傷害の証拠は、黒羽のキャリアをぶち壊す爆弾。集団リンチなんて暴挙に黒羽を駆り立てたのは、ヤツが自暴自棄になるほど焦っている証拠だ。

 

「ぃ、…………い、いい表情だ」

 

 口の中が切れて、声を出すと痛い。恐怖で声がうわずる。理性では、自身の優位性を理解している。だが本能が、それ以上の挑発は止めろと訴えてくる。

 

「あ゛?」

「お前みたいな、最低のゴミには……お似合いの……」

「……」

「猫屋から、逃げた、腰抜けにはお似合いの顔……」

「!!」

 

 それでも、ここまで溜めた渾身の罵倒を口に出す。

 

「猫屋に、勝てないからって、姑息な手を使った雑魚が……」

 

 怖い。怖い。怖い。

 

「……謝れよ」

「あ゛? 何ボソボソ言ってんだよ」

 

 これから、俺は、もっと酷い目に遭う。

 

「……に……」

 

 苦しい。体中が痛い。もう謝ってしまいたい。逃げたい。今すぐこの場から逃げ出したい。

 

「…屋…に……」

 

 でも、きっと……()()()()()()()()()()

 

「ね、ねこや……に……」

 

 頼む、勇気をくれ。

 

「猫屋に……」

 

 思い出せ

 

『じんなーい?』『ありがとー陣内』『陣内ってマジたんじゅんー!』『な、名前で呼ぶなバカーー!!』『手、おっきー……』『わ、私とのキスを挨拶扱いかー……』

『なんか私達、結構長い付き合いになりそうだよねー』『どう? 似合ってるでしょーー!』『…………ねぇ、もうちょっと手握ってていーい?』『……私と陣内ってさ、少し似てるよね』『これがいーの!』

 

 

『え、えへへー、ありがとね、陣内……!』

 

 

 弱い俺に勇気をくれ。

 

「猫屋に土下座して謝れ、この雑魚がッ!!」

 

 上体だけを何とか起こして、心から溢れる勇気と憤怒を吐き出した。

 

「はっ!! たいした人望だよなぁ、黒羽!!」

 

 猫屋の事を想え。俺の親友の心と体を壊したこのクズを絶対に許すな。

 

「これだけの人数集めて、やる事は素人の集団リンチかぁ!? 本当に予想通りの小物で、俺は安心したよ!!」

「…………」

「そんな小物の癖に目指すは空手の世界王者ってか!? はははは!! 随分と身の丈に合ってない夢を見たなぁ!!」

「…………ッ」

「テメェは日本の恥だ、黒羽!! うっゲホッ、…………あーあ、猫屋の方が絶対、っ、良かったなぁー。お前みたいなっ、可愛くもねぇ、性格も終わってるゴミが強化選手とか全国民が可哀そうだ」

「…………ッ!!」

「ん? あ、もしかして、ブサイクは言いすぎた、かにゃぁー??」

「おいッ!! そのクソを立たせろ!!」

「は、はい……」

 

 黒羽が手下の男共に怒声で命令する。俺は体に力が入らず、両脇から引き上げられて無理やり立たせられた。

 

 満身創痍で抱えられた俺に、黒羽は詰め寄ってくる。

 

「調子乗ってんじゃねぇぞ!! 誰が雑魚だ、あ゛あ゛ッ!?」

 

 黒羽の表情は怒りに染まっていた。

 

「お前に私の何が分かんだよ……!!」

 

 は? なんだ?

 

「道場の娘なんかに生まれて、物心ついた時から練習漬けでよぉ!! 大学に入るまで自由なんて私には無かったッ。それだけの環境に身を置いて、私が選ばれないなんて間違ってる……!! 今の現状は、当然の帰結ってやつだ!!」

 

 俺の心は、最高にざわついた。急に始まった黒羽の不幸自慢と言い訳。理解なんてまったくできない。俺は黒羽の友人でも何でもない。同情心など微塵も沸かず、むしろ心に怒りという薪がくべられた。

 

「なのに、今更あの事件の事を蒸し返してんじゃねぇよ!!」

 

 黒羽は胸倉を掴み、のどを締め付けてくる。

 

「もう、3年も前に終わった事だろ!!」

 

 お前の身勝手な行いで、優しいやつが3年も苦しんだ。

 

「テメェさえ黙ってれば誰も──」

「っぺ」

 

 俺はそのムカつく面にゲロ入りの唾を吐きかけてやった。

 

「…………………………」

「ぺ、ぺ、ぺっ」

 

 黙ったその後に、3連発。下種は痰壺にするにかぎる。

 

「…………あばらってよぉ」

 

 屈辱に震える黒羽の目が、狂気に染まる。

 

「結構、簡単に折れるんだぜ? すぐには重症化しねぇしな」

「っ、……博識なんだな? 口だけの臆病者らしくよ」

 

 こ、怖い事言うなよ、クソっ。

 

「おい、時計をよこせ」

「は、はい」

 

 俺を拘束せずに突っ立っていた男が、自身が付けていた腕時計を黒羽に差し出した。それを、黒羽は拳に巻き付ける。

 

 鈍色の金属光沢が怪しく光る、()()()()()()()()()()

 

 ようやくだ。これで終わる。

 

「高みの見物は終わりか? 確かに見たかった所だ、黒羽ちゃんのへなちょこパンチ」

 

 罵倒は止めない。何かで気を紛らわせないと泣いて許しを請いそうだ。

 

「これで質問は最後だ。……お前は結局、どこの誰で──」

「人に物を頼む時はお願いしますだろうが。親に何を教わってたんだ?」

 

 あぁ、ちくしょう。痛いだろうなぁ……。

 

 次の瞬間、体の内側から聞こえてはいけない金属音が炸裂した。

 

************************************************************

 

「………………うっ……ぁ」

 

 目を覚ましたのは裏路地のゴミ捨て場。人目につかないようにするためか、黒いビニールシートが俺に掛けられていた。それを払いのけてどうにか体を起こす。傍には砂とゲロにまみれた衣類と壊れた機材類。……スマホ買い替えなきゃな。

 

 黒羽が手を出した後、俺は傷害の記事を書かない事を奴らと約束して何とか開放された。もちろん、奴らはすぐには俺のいう事を信じずに、心が折れたと判断するまで徹底的に痛めつけてきた。何度も謝罪する羽目になったし、恥も死ぬほどかかされた。威勢が良かったのなど本当に最初だけだ。……少しだけ情けない。

 

「いっ」

 

 少し動いただけで体の全てが痛む。奴らには俺を痛めつけるくらいしか対抗手段がなかったとはいえ、本当に容赦がなかった。何時間くらい気絶していたのだろう。もう真夜中だ。人目につかないのだけはありがたい。

 

 くらくらする頭を抑えて何とか立ち上がる。殴られすぎて発熱していた。

 

「───ッ!!」

 

 右わき腹から軋むような音が響く。音源を中心に泣き喚きそうなほどの激痛が走った。歯を食いしばって必死に絶叫を封じ込める。

 

「………………………………ははっ」

 

 激痛に涙を流しているにも関わらず、乾いた笑いが思わず口から漏れ出した。何とか成し遂げた。これで復讐は成就する。ボロボロだが、その事実が嬉しかった。

 

 ふらつく体を制御して汚い服に袖を通す。そして、路地裏の出口付近にある室外機の方に向かって歩く。お目当ての物はその中だ。室外機の中に仕掛けた監視カメラを取り出し、それを服の中に隠すように仕舞い込んで薄暗い路地裏から抜け出した。

 

 病院に駆け込むのはまだ早い。汚れてしまったスキットルの中身を全て胃にぶち込む。酒には解熱作用はないが鎮痛作用がある。痛み止めの代わりだ。ぶっ倒れるのはやる事をやってからにしよう。

 



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孤独な戦いの結果

 

 『女性空手家、集団暴行』

 

 3月6日、SNS上に突如として投稿された"歩きスマホを注意したらボコボコにされた"というタイトルの動画。その内容は男性一人を複数人で暴行する刑法に違反した過激な物であった。動画の捜査結果、加害者グループの内の1人が全日本空手道強化選手に選ばれ日運体育大学に通っている黒羽桔梗(21)だという事が発覚した。警察は暴行事件として、関係者に事情聴取を行っている。しかし、被害者男性には()()()()()()()()が掛かっており、身元が不明。加害者たちとの面識もなく、動画の投稿者も匿名であり足取りは掴めていない。

 

 今回の事件を受け、全日本空手道協会は黒羽選手を除名。また、日運体育大学は黒羽桔梗の退学処分を公表。迅速な対応に、昨今のSNSの影響が──

 

************************************************************

 

「ちゃんと炎上してるな」

 

 俺は病院のベットの上で新しく購入したスマホを操作していた。見ているのは俺が投稿した黒羽桔梗の暴行映像についての記事。

 

「…………凄い数の批判コメントが書かれてんな」

 

 炎上のスピードが速すぎる。陽光さんに拡散をお願いしたが、ここまで完璧にやっていただけるとは…………怪我が治ったらお礼に菓子折りとお花でも持っていこう。

 

「この記事、黒羽のやつ見てるかな? 精神的に追い詰められてりゃ最高だ……ははっ────いッ!?」

 

 軽く笑っただけだが、傷口から強烈な痛みが駆け巡る。

 

「いっ、いってぇ……」

 

 あばら骨の骨折、頭部の裂傷、体中にできた打撲。骨折は骨を戻すだけで済んだが、アスファルトに頭を叩きつけられた時にできた額の傷は思ったよりも深く、6針も縫う事になった。どうやら傷跡が残るらしい。

 

(……まぁ、上手くいったからどうでもいいか)

 

 俺の作戦はここまで怪我を負わされることさえなければ完璧だった。復讐劇は問題なく終幕した。

 

 SNS上に投稿した動画では俺の身元はおろか、容姿さえも分からない。直近で入院した負傷者を探ろうとしても、ここは()()()()()()()()()()()()()()()だ。俺の入院情報を誰にも漏らさない様に、松姉さんに事情を話して全力で頼み込んである。身を盾に迫るような行為になってしまったが、それは、もう、本気で土下座した。

 

 黒羽からバレる事も無い。奴からすれば、既に俺への暴行だけで世間からの批判はもの凄いものになっている。そこに猫屋への傷害が(あらわ)になれば空手だけではなく人生そのものが台無しになるだろう。

 

 俺への暴行理由も、カバーストーリーを用意してやった。歩きスマホを注意……というやつだ。黒羽は俺が用意した偽りの動機に従うしかない。傷害罪は証拠さえあれば相手からの告訴が無くても逮捕され懲役、もしくは罰金刑が付く。黒羽も余計な事を話して、そこに恐喝の罪を重ねる気は無いだろう。

 

 例え猫屋があの動画を見たとしても何も問題はない。だって、何も関係ないから。暴行を受けている男が俺とは分からないし、暴行を起こした黒羽は猫屋と関わるわけにはいかない。故に猫屋が今回の真相を知る由は無い。

 

 昔、復帰戦で対戦したことがあるヤツが勝手に落ちぶれた。陰鬱な感情であろうと、それを見て猫屋の気持ちが少しでも和らいでくれれば俺は大満足。

 

 完全犯罪でも起こした気分だ。

 

(かなり運良く事が運んだとはいえ、結構よくできた悪だくみだったな)

 

 色んな人を頼ったおかげだ。俺1人では何もできなかっただろう。

 

(後は交通事故にあったってアイツらに言い訳すればいい。それで元通り、…………ん?)

 

 俺がこれからの展望を考えていたその時、病室の廊下からカツカツと足音が聞こえた。時刻は深夜。見回りの看護婦が来たのだろうか。こんな時間に起きていたら怒られるな、なんて思っていたらノックもなくいきなり俺の病室の扉が開かれた。

 

 

 そこに居たのは、安瀬と、西代だった。

 

 

「「「…………………………………」」」

 

 交わる、3人の視線。

 急すぎる彼女達の出現に頭が真っ白になる。衝撃のあまりに、俺は口をパクパクと開閉して間抜け面を晒すしかなかった。

 

「………………め、面会時間はもう終わってるぞ?」

 

 俺が何とか絞り出した言葉は、あまりに間抜けな物だった。

 

「「忍び込んだ」」

「………………あ、そう」

 

 確かに、この2人ならやる。

 

「はぁ」

 

 俺は深いため息と共に、ベットの上で本気で頭を抱えた。彼女たちの出現は、俺の計画の失敗を意味しているからだ。

 

 最悪の気分になった。先ほどまでのやり遂げた気分など一瞬で霧散した。

 

「……どこまで知ってるんだ? というか、俺がここに入院してる事はどうやって知った?」

 

 情報がどこから漏れ出たかが分からない。今回の計画は情報漏洩をしない事を念頭に進めていた。陽光さん、勝美さん、松姉さん、と俺が関わった大人たちにはしっかりと口止めをしている。

 

 俺の問いかけに、西代が口を開く。

 

「陣内君のお母さんから連絡があったんだ。『息子がバイクで事故を起こしたようなんですが、詳しく話してくれないんです。西代ちゃんは何か知っていませんか?』ってね」

「あ、……」

 

 俺の怪我を知っている大人は当然、先ほど挙げた3名だけではなく親も含まれる。事情を説明する必要が無かったため、両親にはバイクでの単独事故という事にしてあった。バイク関連の保険は全て俺のバイト代から出しているため、雑な嘘でもバレる事は無いと踏んでいたが……。

 

「西代、母さんと連絡先を交換してたのかよ……」

「君の見てない所でね」

 

 やってしまった。大馬鹿だ俺は……その可能性は十分あったはずだ。

 

「連絡を受けた時、僕たちは心底驚いたよ。本当に君が事故ったと思ってね」

 

 ……彼女達に余計な心労をかけてしまったようだ。

 

「でも、すぐに思い出した。君のバイクは淳司君の所に預けてあるはずだろう?」

「……まぁな」

「そこから、僕たちの前から失踪した君の動向調査が始まったわけさ」

 

 西代は平坦な口調で俺まで辿り着いた経緯を語る。

 

「君の失踪前にあった不可解な点は二つ。陣内君が僕にした相談。それと、転んでできたという顔の痣だ。……喫煙所から逃げる男2人を安瀬が偶然にも目撃していてね。転んだのが嘘だと仮定した場合、殴ったのは彼らしかいないと思って()()()()()()()()()()()、生徒名簿の顔写真から個人情報を特定して事情聴取した」

 

 さらっと、また忍び込むなよ。

 

「それからは早かったよ。今ニュースで話題の黒羽桔梗……スポーツ関連だったから、安瀬のお兄さんを問い詰めてみたらあっさりとゲロった」

「どうなってんだよ、その調査力。シャーロックホームズでも愛読してたのか?」

「あれは意外とまともな推理をしてない事で有名だよ」

 

 西代は俺の軽口をたいして面白くなさそうに返す。

 

「……猫屋には……バレたか?」

 

 猫屋はここにはいない。何か奇跡が起きて、猫屋が今回の復讐を知っていない事に俺は一縷の望みを掛けた。

 

「猫屋……じゃと?」

 

 俺の問いかけに、安瀬は顔を伏せ体を震わせていた。異常な反応。俯いたまま拳を握りしめて彼女は口を開く。

 

「この期に及んで、人の心配をする馬鹿がおるかッ!!」

 

 安瀬は怒声を発してベットに横たわる俺の隣まで走り寄った。

 

「この大ウソつきめが!!」

 

 安瀬は俺の緩い患者着の胸元を掴み上げた。暗い病室で、月光が彼女の顔を照らす。怒りと困惑。その二つが()()ぜになったような、初めてみる安瀬の表情。

 

「安瀬、止めなよッ!!」

「うるさい、西代!! お主は黙っておれ!!」

 

 その様子を見て西代が安瀬を叱咤したが、安瀬は手を離さない。

 

「嘘をついたな!! 我に、2度も嘘をついた!!」

「……」

「心当たりはあるであろうな!!」

「……あぁ」

 

 1度目は文化祭の借りを気にしていないと言った事。2度目は体育祭での喫煙所でだ。どちらも、俺の身を案じた優しい気遣い。その両方に俺は嘘をついた。

 

「怒ってる、よな?」

「当たり前であろうッ!!」

 

 深夜の病室に響く悲鳴のような絶叫。

 

「あんな些細(ささい)な借りを気にして、我らを危険から遠ざけたつもりか!? ヒーロー気取りで猫屋を救ってやるつもりだったか!?」

 

 安瀬の激昂。俺はケジメとして、それを真正面から受け止めなければならない。頭部の裂傷に声が強く響く。

 

「その結果がこれか!?」

 

 安瀬は俺の顔を見て怒号を放つ。青痣まみれの顔を見られるのは少し恥ずかしい。

 

「ボコボコにされて!! ほ、骨を折られて! そ、そんな、そんな酷い……酷い……」

 

 安瀬の声音は段々と弱く、震えた物になっていった。

 

「ど、動画を見た」

「そう……か」

「お主……自分が、どれほどの間………(なぶ)られたと……」

 

 自分でも分からない。

 

「何故、我らを頼らなんだ?」

 

 安瀬の(すが)るような言葉。安瀬が一番怒っているのはきっと……俺が彼女を頼らなかった事だ。

 

「我ならもっと完璧な作戦を練った」

 

 ……その通りだろう。安瀬ならきっと、俺なんかよりもっと完璧で洗練された復讐を成し遂げられたはずだ。

 

「一緒に……いつものように我らと一緒にやっておれば、お主がそのような怪我をする事はなかった……。そうであろう?」

 

 俺は彼女達を頼るわけにはいかなかった。万が一にでも安瀬と西代を暴力沙汰に巻き込みたくはなかった。それに、3人でコソコソしてたら猫屋は絶対に何かに感づいた。バレンタインの時の俺がそうだったから。

 

 俺は何も返事をすることができず、安瀬から顔を逸らした。

 

「……っ」

 

 その時、小さな……本当に小さな呼吸音が安瀬から聞こえた気がした。

 

「…………不愉快、です」

 

 安瀬は、口調を変えた。

 

 身体の奥から、傷の痛みではない苦痛が俺を襲う。平衡感覚を巻き込んでどこまでも落ちていくような錯覚。罵ってくれても構わない。だから…………それだけは止めて欲しかった。だが、そんな事を口に出す権利は俺にはない。

 

「貴方みたいなっ、馬鹿に……付き合っていられません」

 

 綺麗な水滴が、安瀬の頬を伝って病室の床に落ちる。

 

「…………」

 

 本当に俺は馬鹿だ。こんな物が見たかったわけではない。こんな光景を見たくて体を張った訳じゃない。

 

「……ごめんな、心配かけて」

「っ、心配なんて…………ぅ、ぅ、…………心配なんて……!!」

 

 安瀬は俺なんかの為に、泣いてくれていた。

 

「謝るのは僕の方だ」

 

 今まで、俺と安瀬のやり取りを黙って見ていた西代が話しかけてくる。

 

「僕が陣内君に余計なことを言った。だから、安瀬。もう……それ以上は……」

 

 西代は懇願するように安瀬に語り掛ける。それを受けて安瀬は涙を袖で拭い、より悲痛な顔を見せた。暗く淀んだ失意の表情。

 

 もう……頼むからやめてくれ。いくらでも謝るから……。お前たちのそんな顔なんて、俺は見たくなかった。貫いた意地の結果が安瀬の涙だというのなら、俺は……俺は!!

 

 ガチャリ、と音がする。心の奥の奥。そこで、()()()()()()()()。施錠音らしき幻聴がはっきりと確かに聞こえてきた。

 

「すまぬ………取り乱した」

 

 安瀬は俺の胸倉から手を離す。彼女はゆっくり俺から離れて背を向けた。

 

「……それでは、どうかお大事になさってください」

 

 そう言って、安瀬は俺を一瞥もせずに病室から出て行った。……大切なものが俺から離れていく気がした。

 

 体から力が抜ける。脱力感に逆らわずに深くベットに身を預けた。

 

 自分がやった、身勝手な行い。そのせいで安瀬が泣いた。あの安瀬が。……彼女の信頼を裏切り、傷つけた最低のクズ。俺はようやく自分がしでかしたことの重さを正確に理解した。

 

「……ごめん」

 

 優しい声音で謝罪の言葉が聞こえてくる。落ち込んだ様子を見せてしまった俺を、西代が気遣ってくれた。

 

「あんなこと言わなければ、君がそんな怪我を──」

「西代」

 

 俺は彼女の言葉を遮った。これ以上の罪の意識には耐えられそうにない。

 

「行動を起こした事に、後悔はしてないんだ」

 

 西代の謝罪を俺は受け入れたくはなかった。今回も、俺は西代に助けられたからだ。

 

「多分、お前の言葉が無かったら俺は何も行動に起こせなかった」

 

 西代の助言が無ければ、俺は怒りと躊躇(ちゅうちょ)の狭間でずっと悩んでいただろう。

 

「だからさ、こんな(ざま)になって言うのもあれだけど……」

 

 俺はきっとやり方を間違えた。

 

「ありがとう。俺は、助かったよ」

 

 結果として、俺の怒りだけは霧散した。醜い自己満足だけ果たすことはできた。その犠牲になったのは俺の心の大切な所にいる3人。特に被害を受けたのは…………

 

「なぁ、その……猫屋はやっぱり──」

「それは猫屋本人に聞くべきだよ」

 

 西代の性急な返答は、俺の疑問に答えているように思えた。やはり、俺の計画は失敗していた。

 

 猫屋は全てを知ってしまったのだ。

 

「……そうだな」

「じゃあ僕も、もう帰るよ。騒いでごめん。……とにかく今は安静にね?」

 

 それだけ言って、西代も背を向けて退室しようとする。その姿を見て、どうしようもない喪失感が俺に襲い掛かった。

 

「なぁ、西代」

「ん?」

「俺の居場所って…………まだあるのかな?」

「………………………………は?」

 

 安瀬の信頼を裏切り、猫屋の心を傷つけ、西代に余計な罪の意識を負わせた。俺の独りよがりの復讐は最悪の結果に終わった。本当に大切な彼女達を、俺は(ないがし)ろにした。

 

「……馬鹿かい?」

「え?」

「あぁ、いや、本当に君は大馬鹿だった……!!」

 

 西代は去ろうとする足を止めて、俺に向かって勢いよく近づいて来る。

 

「はい、ぎゅっ」

 

 変な効果音を口にして、西代は俺の事を優しく抱きしめた。傷口に安心感のある暖かさが伝わってくる。

 

「え……あ……」

「もう引っ越しは終わったよ? 一緒に不動産で見た、あの広い賃貸さ。男手が無かったから荷運びが大変だったよ」

 

 ルームシェア。西代は落ち着く声音で、俺に戻ってこれる場所があることを示唆してくれている。

 

「そう……か……その、悪い、急にいなくなって」

「うん」

 

 帰っていいのだろうか。俺は間違え、失敗した。猫屋にどのような顔をして会えばいいのだろう。それに安瀬にだって……

 

「君ってやつは、まったく……安瀬の怒りは、君を大切にしている事の証明だろう? ……言うまでも無い事だと思ったんだけど」

「…………ごめん」

 

 俺はずるいやつだ。安瀬の怒りの理由を西代に言わせてしまった。そんな物は無粋で卑劣。安瀬に謝りたい。猫屋に会いたい。ごめん、て大声で謝って、許してもらって、また……一緒に居たい。

 

「やっぱり、怪我すると弱気になるな」

「そういう事にしとくよ。……あとね?」

 

 西代が俺の頭を幼子にするように撫でる。

 

「1人でよく頑張ったね」

 

 不意に目頭が熱くなった。

 

「ふふっ、安瀬は怒るだろうからヒミツだよ? 僕だけは褒めてあげるんだ」

 

 西代の小悪魔じみた声だけが聞こえてくる。抱きしめられているせいで顔は見えないが、きっと声音とは真逆の優しい顔をしている。

 

「君を間違った方向に導いてしまった僕が言うのもなんだけどさ……友達の為にここまで身体を張った君を、僕は心の底から尊敬するよ」

「失敗したっ、俺でも、か?」

 

 西代の優しい言葉が心の奥まで届いた。涙があふれてくる。

 

「うん」

「ね、猫屋、は……傷ついてなかったか? お、俺が、余計な事したせいでま、また──」

「安心して?」

 

 西代は俺から漏れ出る情けない言葉を止めた。彼女はゆっくりと俺から離れて、その顔を見せてくれる。

 

「全部、僕が元通りにしてみせるから」

 

 西代は落ち着いた微笑みを俺に向けてくれた。その表情は寛容的であって……俺を受け入れてくれているようで……嬉しかった。

 

「……その言葉に甘えても、いいか?」

「任せてくれ」

 

 真のある冷えた声。西代が言うのなら、全ては元通りになるのだろう。

 

「君の頑張りは無駄になんかは決してならない」

 

 そう言ってくれると少しだけ報われた気がした。

 

「また4人で馬鹿みたいに、はしゃごうね?」

「あぁ……俺も、そうしたい」

「ふふっ、いい返事だ。……それなら今はしっかり休まないと」

 

 西代は優しい手つきで俺に布団を掛けてくれる。

 

「……ありがとう、西代」

 

 西代の言葉はまるで睡眠剤のようで、意識がトロンと薄れていく。体が重い。このまま安心感のある睡魔に全て任せて、眠ってしまおう。

 

 あと、起きたら、すぐに……安瀬と猫屋……に謝ろ……ぅ……。

 

************************************************************

 

 陣内が眠った事を確認すると、西代はその寝顔をのぞき込むように眺める。青あざまみれで、所々が膨れ上がり、左目蓋の上には大きな手術後の痕跡。

 

「…………そんなに自分を卑下しないでいいのに。本当にかっこいいよ、君は」

 

 その姿を、西代は小さな声で褒め称えた。

 

()()()()、誰も立ち上がってはくれなかったしね」

 

 友の為に、大怪我を負うまで悪意に立ち向かった陣内。西代は持ってはいけない感情だと自覚しながら猫屋を少しだけ羨ましく思う。

 

「らしくないや…………。ここでゆっくりと待ってて? ()()()()()()()()、またお見舞いに来るから」

 

 西代は返事を返す訳の無い陣内に独り言を呟いて病室を去った。

 

************************************************************

 

 病室の扉は少しだけ開いていた。陣内達の大声でのやり取りは、暗い外の廊下まで聞こえている。

 

 陣内梅治の個人病室を出てすぐの所に、()()()()()()()

 

 彼女は病室に入ることができなかった。自分のせいで大怪我を負った陣内を見る勇気がなかった。どんな顔をして陣内と会っていいか分からなかった。

 

「……っ…………っ」

 

 猫屋は廊下の隅で座り込み、嗚咽を無理やり抑え込んでただただ涙をずっと流している。溢れ出る涙を必死に拭い去り、空いた右手を血がにじむほど床に叩きつけていた。猫屋の心は、陣内の優しさに震え、壊れそうだった。

 

 そんな猫屋を止める為、安瀬は彼女を包み込むように抱きしめた。遅れて出てきた西代も同じように猫屋を慰める為、傍によって抱擁する。

 

「ご、ごめんねー……、さ、さっきから、止まらなくて、さー……」

 

 安瀬と西代は何も言わず、猫屋にさらに強く寄り添った。

 

「あ、安瀬ちゃん、こ、今回、悪いのは陣内でも、西代ちゃんでもないよー……」

「あぁ、分かっておる。すまん、お主の気持ちも考えずに……本当の大馬鹿は我の事である……」

 

 安瀬は自身の感情を子供のように破裂させたことを心底後悔した。その短慮な行いで傷を負うのは、安瀬の想い人と、2人の親友たちだった。

 

「ううん、違うの」

 

 悔いる安瀬を猫屋は気遣う。

 

「わ、悪い、の、はっ、陣内の前で、泣いちゃった、弱虫の私なんだ、よねー……」

 

 猫屋は思い出す。彼女の部屋で、陣内が泣く自分を必死に慰めた事を。

 

「じ、陣内は、本当に、優しいからさー……」

 

 雨音を子守歌にして強く抱きしめて眠ってくれた事を思い出し、彼女は自分の脆弱さを改めて思い知った。

 

「弱い私を、心配して……これ以上、泣かないようにって……!!」

 

 あの時、子供の様に情緒を乱して泣きじゃくらなければ陣内は1人で事を起こさなかったのではないか? 自分が弱くなければ、彼が複数人に囲まれて異常なまでの暴力に晒されることはきっと無かった。

 

「ひっ…………う、……ぅ……」

 

 猫屋李花は弱い自身を嫌う。挫折して楽な方に逃げた自分が嫌い。弱くて脆い自分の事が大嫌い。

 

 でも、そんな自分の心を守ろうとしてくれた強くて優しい人がいた。

 

「……逃げ、ない」

 

 猫屋の涙は止まらない。しかし、言葉には強い意志が宿っていた。

 

「…………もう、逃げない」

 

 猫屋の心は、過去を踏破するために奮い立つ。

 

「本当に……全部、真正面からぶっ壊してやる……。弱い私も、過去も、何もかも全部……!! ムカつく全部を薙ぎ払って、つまらない因縁の全てに決着をつけてやる!!」

 

 そうして前に進む。何の憂いも後悔もなく、あの人生で一番楽しい時間を大好きな友達たちと全力で謳歌(おうか)する。

 

 過去の挫折を恥じて口に出す事さえ躊躇(ためら)っていた弱くて脆い猫屋は、陣内の献身により跡形もなく消え去った。

 

 彼女は過去と決別する覚悟を決めた。

 

「……猫屋、我らにも是非、手伝いをさせて欲しい」

「僕からもお願いするよ」

 

 安瀬と西代は、今回の事件の結末を指を咥えて見ているつもりは無かった。

 

 澄んだ炎を灯す猫屋の炉心に反して、安瀬と西代の心中にはどす黒い殺意の炎が渦巻いていた。傷つけられた陣内と、さらに傷ついた猫屋。2人をこのような目に遭わせたヤツを、彼女たちは決して許さない。

 

「え、えへへー。2人がいたら百人力だよー」

 

 ボロボロの顔で無理やり笑う猫屋を見て、2人はより心を深く沈めた。殺意にまで至る感情が無限に増殖していく。陣内の復讐は、猫屋への隠蔽があったせいとはいえ()()()()()()()()……安瀬と西代はそう考えて、邪悪で禍々しい報復の絵図を脳内で書き上げる。

 

 犯罪行為さえ (いと)わない、倫理観の欠如した本物の悪女たちの暴走が始まろうとしていた。

 



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クズ同士の格付け

 

 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。

 

 都心や住宅街から離れた、錆びて雨漏りがする廃屋。元は車の整備場だったのだろう。地面に大きなジャッキが埋め込まれており、車を何台も収容できる広さがあった。

 

 古く寂れたその平屋に黒羽桔梗は足を踏み入れる。

 

「ちっ……クソ乾が。こんな所に呼び出しやがって」

 

 忌々しそうに黒羽は独り言を吐き散らした。

 

 暴行事件を起こしてからの一週間、黒羽は落ちぶれる所まで落ちぶれていた。原因は当然、陣内が投稿した動画のせいだ。空手界からの除名と大学からの退学宣告。そして傷害罪による後日逮捕がほぼ確定し、黒羽は多額の罰金を支払って拘置所から出てこなければならない羽目になっていた。

 

「おい!! どこだ乾!!」

 

 苛立ちを隠すことなく黒羽は叫ぶ。

 

「乾の分際で、こんな時間に私を呼び出すなんざ──」

 

 ガシャンッ!!

 

「っ!?」

 

 錆びた整備場の唯一の出入口であるシャッターが一人でに落ちる。同時に暗かった室内に眩いほどの電光が灯った。

 

 光に目が眩んだ黒羽は咄嗟に手で日陰を作る。

 

「皆様、大変お待たせいたしました!!」

 

 突如として、場に似合わない嬉々とした声が(とどろ)く。

 

「赤コーナー!!」

「は?」

 

 光に慣れた黒羽の目に映ったのは、燕尾服の女。ビール瓶をまるでマイクの様に見立てて()()は黒羽を指差した。

 

「身長164センチ、体重は……110パウンド(50キロ)くらい!! 現在、SNS上で大炎上中!! 本日の哀れな(にえ)!! 黒羽ーー、ききょーーーう!!」

 

 黒羽の自己紹介を安瀬は勝手に済ませた。

 

「続いて青コーナー!!」

 

 安瀬の宣言と共に、安物のカーテンと木材で作られた簡易入場口から白い煙幕と綺麗なすすき花火が飛び散る。

 

「身長162センチ、体重104.32パウンド(47.3キロ)!! お前に喰えない激辛は存在しない!! 伊勢崎の狂猫、ねこやーーーーーー李花ぁああ!!」

 

 安瀬のマイクパフォーマンスに合わせて、猫屋李花は入場口からスモークを切り裂いて飛び出した。

 

「ちょ、ちょっと安瀬ちゃーーん!? 何で私の体重そんな正確に知ってるの!? ふ、普通に恥ずかしーんだけど!!」

 

 豪快な登場演出とは裏腹に、猫屋は狼狽えた様子で安瀬に疑問を飛ばす。その質問を完璧に無視して安瀬は進行を続ける。

 

「えぇー、実況を務めさせていただくのは、みんな大好き安瀬桜。解説には既にビールを7本も開けている西代桃さんをお呼びしております」

「ん……んっ……ぷはっ。はい、よろしくお願いいたします」

「解説の西代さん、本日の注目選手である猫屋のコンディションはいかかがでござりましょうか?」

「…………まぁ、多分、いいんじゃないかい? 僕、年末は基本的にテレビも見ずに部屋に籠ってるから格闘技とか見た事ないんだよね。ぶっちゃけた話、漫画とかの知識しかないから気の利いたコメントを求められても困るよ」

「それは勿体ないでありんすな。人の殴り合いは酒のつまみに最適でやんすよ?」

「コンテンツの消費の仕方として正しいのかい、それ?」

「酒が美味くなるなら何でもいいんでござる」

 

 そう言いながら、安瀬はマイク代わりにしていたビール瓶に口をつける。実況と解説を自称しながらグダグダと会話を続け酒を煽る進行役たち。

 

 茶番劇の名がしっくりくるこの状況についていけない黒羽がようやくその口を開いた。

 

「な、なんでテメェが…………」

 

 酒飲みモンスターズの茶番劇。黒羽の関心はそんな物にはなかった。突如として自分の前に姿を見せた3年前の亡霊。黒羽の視線は猫屋李花に釘付けとなっていた。

 

「い、乾のやつは……どこに──」

「あー、あの臆病者ちゃーん??」

 

 用意された入場口から降りて、猫屋は黒羽にゆっくりと近づく。

 

「あんな関わることが罰ゲームみたいなヤツにはー、多額の示談金を払ってもらって二度と私の人生に関わらないようにキッチリと処理させてもらったよー」

「じ、示談?」

「そーそー。実際に悪意があって私に怪我させたんだからさー、保護者を交えて大人の対応をしたってわけ。あはははは!! 結構、凄い額を分捕(ぶんど)れちゃったー!!」

 

 ケラケラと猫屋は実に楽しそうに笑う。

 

「その時、乾ちゃんに示談金の減額を条件に個人的なお願いをしてねー……お前をここに呼び出してもらったって感じーー」

 

 猫屋の黒い長ブーツがコツコツと歩行音を鳴らす。

 

「呼び出された理由くらいは分かってるよねー?」

「…………私への返しが目的ってわけか」

「ご明察ーー!!」

 

 黒羽の間合いのギリギリ。そこで猫屋は立ち止まり獰猛な笑みを浮かべて見せた。

 

「お前はさー……金銭なんかじゃ絶対に許してやらない」

 

 緩い口調に乗せられた明確な敵意が黒羽に刺さる。

 

「ぼっこぼこにしてー、地面に這いつくばらせてー……自分の仕出かした事を一生後悔させてやるんだー」

 

 乾に対して、猫屋は一般的で良識のある大人な対応を見せた。それに反して、今回の騒動の幕締めに彼女はガキの喧嘩を選択した。黒羽が陣内に行った野蛮で品性のない最悪のリンチ。目には目を歯には歯を、暴虐には暴虐を。黒羽と同じか、それ以下まで品性を落として彼女たちは黒羽に私刑を執行する。

 

 大人と子供。その両方の選択を臆面なく実行できる、こまっしゃくれた彼女達らしい報復方法。

 

「あ゛ぁ゛!? 頭に蛆でも湧いてんのかぁ!?」

 

 ”貴方に今から喧嘩を売ります”という宣言を受け、黒羽は怒り散らす。

 

「誰に、何を後悔させるって──」

 

 黒羽が口を開いたその瞬間。2つの瓶が宙を舞った。

 

「っ!?」

 

 1つは黒羽の頭部に向かって投擲され、もう1つはあられも無い方向に投げられた。

 

 黒羽は自分に飛来するガラス瓶を咄嗟に首を振って回避する。パリンと2つの瓶が地面に落ちて、砕け散った。

 

「…………」

 

 もし、投擲物が黒羽に当たっていれば、彼女の頭部はガラス片でズタズタになっていただろう。黒羽は冷や汗を流しながら投擲者を睨みつける。

 

 瓶を黒羽に放ったのは安瀬と西代だった。

 

「誰が勝手に話していいと言った? 僕は許可した覚えはないよ」

 

 低く冷たい怒りが黒羽に向けられた。

 

「いや、その……西代よ。気持ちは一緒ではあるが…………もう少し近くに投げてからかっこつけて欲しいでござる」

「…………ふん」

 

 黒羽に当たりかけた瓶は安瀬が投げたものであった。西代の投げた方は勢いよく地面に激突して床にガラス片を散らばらせただけ。

 

「……っ」

 

 全く躊躇せずに自身に危険物を投げた見知らぬ2人。黒羽は警戒度を一気に引きあげる。

 

「ちょっと、ちょっと、ダメじゃん2人ともーー!! ()()()私に譲ってくれるって約束じゃーーん!!」

「あぁ、ごめんね? なんか、声を聞いたら酷くムカついちゃって……」

「拙者も同感でござる…………お主が喧嘩で負けると思ってはおらぬが、まずは一発かましてやりたくての」

「だよね。せっかく今日のために色々と準備したんだ。気持ちが早って仕方ないよ」

「ほ、本当に頼もしいーね、2人とも……」

 

 黒羽の存在を無視して会話を続ける3人。酒飲みモンスターズの中では、黒羽の死は既に確定したもののようだった。

 

「……ハハ」

 

 そんな黒羽の口から失笑が漏れる。

 

「ハハハハハハハハハハハ────ッ!!」

 

 3人に囲まれているはずの黒羽は顔を歪めて大声で笑った。

 

 その様子を3女は極めて不快そうに睨めつける。

 

「お前ら、あれか!? 先週のクソだせぇ男の敵討ちってわけか!?」

 

 黒羽の煽り声。3女は暗い感情を一気に膨らませた。

 

「っは、健気なこった……アイツ、桜庭って言ったけか。お前ら、あの動画は見たよな?」

 

 その様子を見て、黒羽はさらに言葉を続ける。

 

「私がアイツのあばらをへし折った所で動画は終わってたが……続きはもちろんあるんだぜ? どうだ、聞きたいだろう??」

 

 猫屋がこの場に居る時点で、殴り合いの喧嘩になる事は確定した。黒羽はそれを見越して怒りを誘う。黒羽は立ち振る舞いを見ただけで、猫屋の連れである2人の女子が武道経験のない素人であることを看破した。3対1の乱戦になった方が黒羽の勝率は上がる。素人の中途半端な援護など、邪魔にしかならないからだ。

 

「アイツ、なっさけねぇえことによぉ……パンイチで土下座して泣きながら命乞いしやがったんだぜ!?」

 

 口に出されているのは陣内の恥だ。暴行の瞬間を撮影したカメラを持ち帰るために、見下された陣内の頭と心。言い換えれば、彼が猫屋の為に掻いた赤っ恥。

 

 猫屋の拳が強く握りしめられていく。黒羽は虎の尾を踏んでいる事に気づかない。嘲笑と侮蔑。それが陣内に向けられている事実に、猫屋は強い殺意を募らせた。

 

「ハハハ!! あの惨めな様をお前らにも見せてやりたかったぜ」

 

 黒羽の煽りは止まらない。 

 

「そうだ……お前らを返り討ちにしてよぉ!! もう一回あのクソ野郎を囲んで──」

「黒羽ちゃんさー……」

 

 黒羽の言葉に、猫屋の苛立ちを隠しきれない攻撃的な声がかぶさった。

 

「大会で何回かやりあった事あるよねー? 印象的だったから覚えてるよー……試合終わりの礼の時に、恨めしそーな顔して私の事を睨むいやーな奴」

「…………」

「私より弱い、格下の糞雑魚のくせにさー……陣内を馬鹿にしてんじゃねーよ、カス」

「誰が……お前より弱いって?」

「お前の事だよ、ザーコ!! 素人を集団で囲んどいて、変にイキってんじゃねーよ!! 恥ずかしくねぇーのか!!」

「はっ! 世の中、強い奴が正義だろうが!! テメェだってその世界に居たはずだ!! いや……テメェは情けなく引退した負け猫だったな!!」

「お前も、もう落ちたろーが!! 最底辺の前科持ち、人生の落伍者にねー!!」

 

 喧嘩前の儀式的な罵倒ではなく、本気の殺意を込めた(ののし)りあい。両者の闘争のボルテージは際限なく上がっていく。

 

「言ってろ! ……私は必ず再起してやる。裏格闘技だろうが何だろうが、もう一度格闘技で一旗揚げてやるんだよ!!」

「いーや!! お前は今日この場で私達にぶっ壊されるんだよ!!」

「やってみろよ、このジャンクが!! 誰に負けたか思い出させてやる!!」

「上等!! かかってきなよ、卑怯者!!」

 

 口汚い罵りあいの末、女たちのキャットファイトは開戦した。

 

************************************************************

 

 黒羽はスタンスを広げ、完全に半身になり拳を構える。左腕は地面と平行、胴前に備え、右拳は顎下につけた。

 

 それに対して、猫屋は軽く右足を下げて狭いスタンスで踵を浮かせた。重心を落とすことなく、両拳は顎下に構えるキックボクシングのスタイル。

 

「なんだぁ? 空手じゃねぇーのかよ」

「それはもう……捨てた」

 

 両者が全く異なる構えをとる。同じなのは両者が()()()()()()1()()()()

 

「……それ、なめんてんの?」

 

 猫屋の右腕には故障がある。故に、右拳での攻撃が重要視される対サウスポー戦は猫屋は不利になる。彼女の対戦相手は右構えになるだけで戦術的アドバンテージを得る事ができた。だが、黒羽が取ったのは左構え。

 

「おいおい、まさかお前みたいなゴミカスに私が本気を出すとでも思ってんのかよ?」

「あー……ま、いっか。グダグダ話すのもー、面倒になってきた……!!」

 

 何の駆け引きもなく、猫屋は間合いを詰める。地面を蹴り、ただ一直線に黒羽の間合いに入った。

 

「ッ」

 

 黒羽が弾かれたように牽制の順突き(ジャブ)を繰り出す。生涯を掛けて研磨した、一級品の左。常人には視界に収める事さえ難しい代物。

 

 猫屋はそれを速度を落とさず腕の内側に入り込むようにして軽く躱して見せる。そのまま速度と威力を兼ね備えた右のオーバーハンドを黒羽の左腕に被せるように放った。避けた顔の方に視線が奪われ相手の腕の影から飛び出すミスディレクション的要素を含んだ、立ち技競技で多用されるKOパンチ。

 

 驚異的な反射神経と運動センスを持つ猫屋だからできる真正面からの特攻。

 

 黒羽はそれを反射ではなく理性で対処する。左肩から拳まで腕を持ち上げるようにして使い、猫屋の突きを妨害する。それだけで拳は黒羽の目前で停止した。

 

「っ……」

 

 伸びの無い猫屋の()()。怒りに任せて拳を振るおうとも痛みは走る。一瞬、猫屋の動きが止まった。

 

 進む攻防。怯んだ猫屋の顔面に向かって、今度は黒羽の右正拳が放たれる。

 

 猫屋は構えていた左拳を跳ね上げるようにして、迫る拳を弾き上げ軌道を変える。そのまま、スウェーバックして完璧に右正拳を対処する。

 

「チッ、……!?」

 

 舌打ちして、放った右を素早く戻そうとする黒羽。

 その袖の下に猫屋の右手が差し込まれた。指でフック上に鍵手を作り、黒羽の右袖を絡めとった。猫屋はスウェーバックした勢いを殺さずに、後ろ重心のままで黒羽を引き寄せる。そして、引手とは逆の手で殺意を込めたストレートを放り込んだ。

 

 徒手空拳で最も当たりやすい攻撃はジャブではなく掴み技である。回避が困難かつ、打撃が完璧に入る危険な技。元競技者とは思えない喧嘩殺法(ダーティプレイ)

 

 それに沸くのは猫屋を応援する2人組。

 

「いいぞ、猫屋! ぶっ殺してやれ!!」

「そのまま開幕KOであるッ!!」

 

「っ……!!」

 

 体勢を崩され腕を捕られた黒羽には、体捌きやパーリング(払い落し)による回避は不可能。対処方法は1つだけ。黒羽は刹那で決断する。黒羽は引く力に逆らわずに、猫屋の脇下に飛びこんだ。足を地面から離し、華麗な飛び込み受け身で一切の負傷なく猫屋の背後に飛び出る。

 

 必殺の一手を切り抜けられた猫屋だが、攻撃の手を止める事はない。すぐさま背後に振り返り、受け身を取り膝をついた黒羽の頭に、利き足で体重の乗った廻し蹴りを繰り出す。

 

 黒羽はそれを防がない。ブーツを履いているせいか、猫屋の蹴り足は少しだけ遅い。黒羽はただ自然な足運びで半歩下がり、蹴りを目前で避ける。彼女はそのまま流暢な動きで距離を取りながら立ち上がり、競技者らしい綺麗な構えを取った。

 

 再び両者は一拳一足の間合いで相対する。

 

「猫屋、膝である!! 膝をあのムカつく顔にぶち込んでやるぜよ!!」

「いいや、まずはボディだ!! 足を使えなくしてじわじわと嬲り殺してやるんだ!!」

 

 外野が実に素人らしい野次を飛ばす。安瀬と西代は実況と解説なんて忘れてビールを片手に猫屋を必死に応援していた。

 

「………どういう反射してんだ、テメェ」

 

 黒羽は戦慄して表情を固める。とても故障を抱え一線から退いた人間の動きではない。取り分け、猫屋の反射神経は人間離れしすぎていた。久しぶりに見る黒羽のジャブを見切り、カウンターを合わせるなど人間業ではない。

 

 その様子を見て、猫屋は挑発的な笑みを浮かべた。

 

「んー? 全盛期とはほど遠いよー? 1週間くらいは錆び落としに頑張ったけどねー」

 

 天才の傲慢な発言。それを受けて、黒羽は余計な慢心をそぎ落とした。

 

「…………っち」

 

 黒羽は右足を地面に滑らせながら半身に引いて、右構えに転身した。黒羽は意外にも自身の発言を撤回したのだ。

 

「テメェさえ処理できれば、後は雑魚だ。立ち方みりゃ分かる。あの2人は素人だろ?」

「「あぁ゛゛!? 舐めるなよクソ羽!! 猫屋に頼まれなければ、お前なんて二人でどうにかしてやった!!」」

 

 仲良く外野から罵声を浴びせる安瀬と西代。そのどこか間の抜けた野次を、臨戦状態にある猫屋は集中力を切らさないために聞こえないふりをした。

 

「…………それがなにー?」

「頭の悪そうなあの2人を守りたいのなら、精々頑張れよって意味だ……。こっからが本番だからなぁ!!」

 

 黒羽が大声で吼え、動き出そうとした瞬間。

 

 (そうだねー……ここからが私の本番!!)

 

 猫屋は動く。

 下げた逆足を地面を滑るように前にスライドさせ、左構えから右構えへスイッチしながら前進する。それと連動し、体重を込めた右拳が繰り出された。差し替え追い突きと呼ばれる、空手の技法。

 

 最速の打撃はジャブ。それは全格闘技共通の認識。だが、遠くに最速で届く打撃となると話は変わる。差し替え追い突きは、速さと射程を兼ね備えた一撃だった。

 

 バンッッ──

 

 予備動作を減らす為に縦拳で放たれたフェンシングのような鋭い刺突が黒羽の顔面を叩いた。

 

(こ、この野郎っ……!!)

 

 空手を捨てたとは猫屋のブラフ。虚実に駆け引きを混ぜ込み、完璧な先の先を猫屋は取ってみせた。だが、その代償は大きい。

 

「~~~~~ッ!!」

 

 バキっ!! と猫屋の右肘が歪な音をたてる。全体重をかけた右縦拳。猫屋の神経に走る、圧痛。感電に等しいそれは、意識が遠のくほどの激痛を猫屋に与えた。

 

 彼女はそれを、想いの力でねじ伏せる。

 

「っふ!!」

 

 動きを止めないため軽く気合を吐き出し、一気に蹴りのモーションに入る。

 

 猫屋の打突により体勢を崩された黒羽はそれを未然に防げない。次の瞬間には、外靴での回し蹴りが黒羽を襲おうとしていた。

 

(馬鹿がッ!! これを凌げば、テメェに勝ち目はねぇ!!)

 

 ブーツを履いていたとしても、頭部さえ守れば致命傷を負う事は無い。そう考え、黒羽は頭部を両拳で守る。猫屋の右は既に死んだ。蹴りを凌がれれば、攻撃手段を一つ失った猫屋は黒羽に嬲り殺されるしかない。

 

(とか、思ってろバーカ!!)

 

 猫屋の狙いは黒羽の右足。そこに勢いよくローキックが振り抜かれる。

 

 黒羽は防御(カット)を諦めて足から力を抜き、最小限のダメージで猫屋の蹴りをやり過ごそうとした。

 

 キィィイインン──

 

 猫屋の長くしなる脚が黒羽の脛に叩きつけられたその瞬間、黒羽の右足から異音が鳴り響く。歪な金属音と共に、骨にひびが入ったのだ。

 

「ぐ、ぎぃ!?」

 

 たまらず、黒羽は転げるようにして倒れ込んだ。

 

「もう一発……!!」

 

 猫屋は一切の容赦を見せない。倒れた黒羽の腹をサッカーボールを蹴とばすように彼女は蹴りぬいた。

 

 ──バキッ!!

 

「う゛がッ……!?」

 

 黒羽の体が2、3センチほど宙に浮く。そのまま塵芥のように、黒羽は汚れた地面を転がった。

 

「っ゛、がはッ」

 

 足とあばら。その両方の骨を砕かれた黒羽は脂汗を流して痛みに耐える。

 

「て、テメェ……クソッ、ク゛ソ゛!!」

 

 黒羽は何か言いたげな様子で猫屋を睨みつけた。

 

()()()()()()っ!!」

「…………ふひひ、そうだよー?」

 

 黒羽と同様に、痛みに震える猫屋はカンカンとブーツのつま先で固い地面を小突く。

 

「まさか、卑怯だ……なんて言わないよねー?? こっちはもう、1年半くらい格闘技から離れてたんだからさー……い、いたた」

「…………ッ」

 

 猫屋は痛そうに右肘を抑えながら、地面に這いつくばる黒羽を太々しく嘲った。

 

 ジャリ。

 

 勝敗が決まったと思われたその時、倒れもがく黒羽の背中に何かが触れる。

 

「!!」

 

 黒羽は急いでそれを握りしめ、瀕死の体に鞭を打って何とか立ち上がった。

 黒羽の手に握られていたのは、西代が見当違いに投げたビール瓶のガラス片。切っ先の尖った凶器だった。

 

「「っ!!」」

 

 それを見て驚いたのは、安瀬と西代だ。2人は一気に警戒態勢に入る。彼女たちは猫屋の勝利を心から信じて楽観的に観戦していた。だが刃物を見て、2人は念のために用意しておいた武器を急いで取り出した。

 

「あー、2人とも、そんなに心配しなくても大丈夫だからー。あんなのが今さら私に当たるわけないしねー」

「………………ふむ、まぁ、お主がそう言うのなら」

「どうやら、余計なお世話だったようだね」

 

 安瀬は刃を無理やり研磨して殺傷能力を得た模造品の薙刀を。西代は身銭を切って購入した高性能なスタンガンをしまい込んだ。

 

「さーて、と」

 

 猫屋は呑気な声を上げて懐から煙草を取り出す。痛めた右腕を使わず、左手だけで咥えた煙草に火を灯した。先ほどの言葉通り、猫屋は黒羽の握っている凶器をまるで意に介していない。

 

「すぅーーー…………ふぅーーーー」

 

 紫煙を纏い、腰だめに刃物を構えた黒羽を見下す。冷めた憐みの視線を隠すことなく、猫屋は黒羽を(さげす)んだ。

 

「なーんか、()()()()()

「……な、なんだと?」

「弱い者いじめしてるみたいでー、可哀そうになってきちゃったー。少し手を合わせてみて分かった……凡人なりに頑張ってたタイプの人間なんだねー、黒羽ちゃんって」

「ッ」

 

 猫屋は哀れんだ振りをする。黒羽が一番屈辱を感じるだろう言葉を投げかけ、その心とプライドを一気に踏みにじった。

 

「涙ぐましい努力とかしてきたんだよねー?? 毎日、必死に頑張ってたんだよね?? それでも、私に勝てないからってズルしたくなったわけだー……うーーん、ちょっとだけ、同情しちゃうなー」

 

 猫屋は心にもない同情心を口にして、黒羽を煽る。敗者がもっとも傷つく言葉を猫屋は経験上理解していた。

 

(殺す……本当にぶっ殺してやる……!!)

 

 猫屋の侮辱に、黒羽は本気で殺人の覚悟を決める。

 例えこのガラス片を躱されて打ちのめされても、油断したところを背後から突き刺す。そのつもりで黒羽は心に憎悪を宿した。

 

「だからー、()()()はこれで終わりにしてあげる!!」

「…………は?」

 

 だが黒羽の憎悪以上に、猫屋の怒りは強かった。

 

「ここからはぜーんぶ陣内の分!!」

「おぉ、ようやく我らの出番であるか!!」

「もう……待ちくたびれたよ、猫屋」

 

 拷問担当の2人が能面のような笑みを張り付けて破顔する。今まで何もしていない最恐コンビが実に楽しそうに口を開いた。

 

「まず手始めに、坊主頭のチンチクリンにしてやるでござる」

「その後は尻に爆竹を詰め込んで花火大会といこうか」

「汚物を口に放り込んで味覚をぶっ壊してやるでありんす!」

「鼻からスピリタスも忘れないようにね!」

「全裸にひん剥いて、一生消えない敗者の烙印を刻み込んでやるぜよ!!」

「ふふっ、最後は蜂蜜を塗りたくって夜の森に捨ててやろうね!!」

「で、あるな!!」

 

 子供が虫を弄んで殺すような、純粋な悪意が最恐コンビを支配していた。

 

 安瀬と西代は友に関する感情の比重が重い。安瀬はその難しい性格故に、友と呼べる者の数が少ない。西代は過去が原因で、憩いの場は陣内達の傍にしか存在していなかった。

 

 人は他人の為ならどこまでも残酷になれる生き物。彼女達はそれを地で行く友達思いの気狂いだった。

 

「報復なぞ思いつかないよう、トラウマになるまで(もてあそ)ぶでありんす」

「そうだね。やるなら徹底的に、だ」

「…………ぅ…………ぇ……」

「ご愁傷さまー、ようやく誰を敵に回したか分かった感じかなー?」

 

 これから受ける拷問のような行いに恐怖する黒羽に、猫屋は勝ち誇った表情をむける。

 

「あ、私もちゃんと死体蹴りには参加するからねー?」

 

 猫屋は黒羽の最初の煽り文句を忘れていない。陣内が猫屋の為に掻いた恥。そんな物の存在を猫屋は許さない。

 

「……記憶が飛ぶまでボコボコにしてあげるから」

 

 据わった眼で猫屋は告げる。彼女は物理的にその恥を黒羽の脳から消そうとしていた。

 

「う、う…………うぁぁぁあああああああああああああああッ!!」

 

 自身の凄惨な未来を予見して錯乱した黒羽は、大声を上げながら猫屋に突貫した。

 

(でも、その前に……)

 

 猫屋は迫る黒羽を可能な限り引き付けて、咥えた煙草を口から吹いて飛ばした。赤く燃焼する火が黒羽の額に当たる。

 

「うッ!?」

 

 熱さと痛みで怯んだ隙を猫屋は見逃さない。猫屋は既に半壊している右腕を大きく振りかぶる。彼女の拳を止める臆病風は、優しいアル中のおかげで既に止んでいた。

 

 猫屋は弱かった()()()()()()()を躊躇せずに実行する。

 

(ばいばーい、私の……未練!!)

 

 右拳は勢いよく振り抜かれ、黒羽の鼻骨と猫屋の過去は粉々に砕け散った。

 



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プロローグは終わる

 

「…………あいつ等、何してんのかなぁ」

 

 大怪我をして2週間が経った。俺は個人病室から、お爺さんとお婆さんがいっぱいの大部屋に移され、1人の入院生活を続けている。

 

 顔の青痣が薄くなるほどの時が経ったが、あの3人はあれから見舞いに来ていない。スマホで連絡は取っているが、その返信は(まば)らで遅かった。怒っていた安瀬の返事など特に遅い。既読無視をされていないだけましだとは思う…………でも、ちょっと心が折れそうだ。西代の言葉を疑うわけではないが、俺は本当に許されるのだろうか?

 

「はぁ……」

 

 大きなため息をついて、病室の窓から外を見る。空は雲一つない快晴。俺の心情とはまるで真逆であり、天に唾を吐きつけたくなった。吐いた唾は、そのまま馬鹿で間抜けな俺に落ちてくるのだろうけど……。

 

「……寂しい」

 

 誰か見舞いに来て欲しい……。

 

 

「えー? せっかく、私が隣のベットになったのにー??」

 

 

 馴染みのある声に、俺は反射的に振り返った。

 

 隣のベットは空いていたはず。今日、入ってくる予定の患者がいるため、ここ何日かは誰もいなかった。

 

「や、やっほー! なんか久しぶりだねー、陣内!!」

 

 俺の隣のベット。そこに居たのは、セミロングの金髪にパーマをかけたゆるふわな女。

 

「ね……ね……ね……」

 

 患者着を身に纏い、右肘に包帯を巻いた彼女は朗らかに笑っていた。

 

「猫屋っ!!?? な、な、何で!?」

「ちょ、ちょ、しぃー……!! 病室で大声はダメだってー……!!」

 

 猫屋は指を立てて唇の前に置き、声量を控えるようにジェスチャーする。

 

 俺はすぐさま口を閉じた。彼女の言う通り、病室で大声はよくない。

 

「お、お前、その腕………」

「あー……これねー」

 

 猫屋がなぜここに居るのかは分からない……だが、その入院理由はすぐに察しが着いた。

 恐らく、彼女は()()()()()()()()()()。彼女たちの性格なら絶対にやる。そして猫屋は報復に、壊れかけの右を使った。

 

 大きなギブスを腕にはめた猫屋。……その怪我は間違いなく俺が原因でできたものだった。

 

「ね、猫屋、ご、ごめ──」

「はーい、ストップ」

 

 猫屋は立てた人差し指をそのまま俺の口に当てがった。

 

「っ!」

「えっとさ……謝るのは止めてほしーなーって……」

 

 猫屋はそう言って優しい微笑を浮かべて、ゆっくりと俺の唇から指を離した。

 

「………………………………」

「………………………………」

 

 猫屋は何も話さない。俺も彼女に言葉を遮られたため、何も話せない。……言葉を交わさず、2人の視線だけが宙で交わっていた。

 

「あ、あーー……」

 

 猫屋は視線を俺から外して、意味の無い声を出した。

 

「あ、あれだよねー!! 私のかかりつけのお医者さんがー、まさか陣内の叔母さんの旦那さんだったなんて……!! 世間は本当に狭いって感じだよねーー!!」

「………………え?」

 

 彼女は突然、松姉さんの旦那さんの事を口に出した。斎賀 竹行(たけゆき)。それは俺の義理の叔父であり、この病院の医者を務める人の名だ。

 

「た、竹行先生って、わ、私のお父さんのー、高校時代の後輩なんだー!! し、知ってたー? 私の肘の手術って、竹行先生がやってくれたんだよー?」

「…………へ、へぇ、そうだった……のか」

「う、うん。そーいう感じー……」

 

 ……なるほど。猫屋が俺が入院している病院で間隣のベットになった理由がよく分かった。

 

 松姉さんと、夫の竹行さんには、本当に全てを話した。俺の過去と体質、前賃貸での器量試し騒動の際に俺が松姉さんについた嘘についてもだ。

 

 松姉さんは俺に甘い。事情があったのなら仕方がないと、俺の嘘を全て許してくれた。俺の親を心配させたくないという気持ちも尊重してくれて、両親にも今回の事を詳しくは報告せずに頼みを受け入れてくれた。……その時、竹行さんも素直に協力してくれたのは、猫屋のお父さんと面識があった事が関係しているのだろうか? その善意のついでに、入院した猫屋を俺の隣のベットになるように配置してくれた……?? どうしよう……斎賀夫妻に一生かけても返せそうにない恩ができた。

 

「………………………………」

「………………………………」

 

 猫屋がここに居る経緯は理解できた。しかし、まぁ、なんというか……

 

((き、気まずっ……))

 

 え、あれ、俺、猫屋と普段どういう風に話してたっけ? 賃貸が火事を起こしてからはほとんど一緒に生活していたはずなのに、まるで初対面の人のようによそよそしくなってしまう。理由は分かる。俺がやった雑で穴まみれの復讐のせいだ。

 

 自分事ながら、何が『結構よくできた悪だくみだったな』だよ。恥ずかしくて死にたくなるわ。何も役に立てなかったポンコツ。……その癖して、猫屋と何を話せばいいんだ?

 

「そんな顔しないで」

 

 猫屋が俺の顔色を伺って気を遣ってくれる。どうやら暗い気持ちが表情に出ていたようだ。クソ馬鹿か、俺は。

 

「…………あぁ、そうだな、悪い」

「あ、謝るのはダメって言ったじゃーん。陣内のしてくれた事は、その……凄く嬉しかったんだから」

 

 頬を左手でポリポリと掻きながら、気恥ずかしそうに猫屋はお礼を言ってくれる。

 

 ……そりゃ、優しいお前はそう言うに決まってる。俺を気遣って、自分が負う必要の無かった傷を受け入れ俺に優しくしてくれるだろう。

 

「礼なんてやめてくれ。結局、俺は何も──」

「卑屈になるのも禁止ーー! 今回の事件の発端はそもそも私な訳だし……」

 

 猫屋は申し訳なさそうに下を向いた。

 

「……そう言うなら、猫屋も謝罪禁止な。あれは俺が勝手にやった事だ」

 

 俺は結局、自分の為だけに動いてしまった。猫屋にお礼や謝罪をされる筋合はないはずだ。

 

「じゃあ陣内も、感謝と謝罪は禁止でー」

 

 猫屋は俺の間抜けな失敗を無かった事にしてくれるらしい。

 

「ならお前もその辺りの行為は止めてくれ」

「それなら陣内は文化祭の事を借りになんて思わないよーにしてね」

「あぁ……お前も、恩返しとか、罪滅ぼしとか、そういった感情を持つなよ」

「………………そう言うならさー、陣内は怪我が治るまでお酒禁止」

 

 ん?

 

「……なら猫屋も怪我が治るまで煙草禁止な」

「……禁酒に追加でー、煙草もギャンブルも全部禁止にしてねー」

 

 ん??

 

「お前は退院するまで辛い物は食べるなよ。あんな劇物は、絶対に身体に悪いからな」

「陣内も甘い物はダメだからねー。糖尿病になっちゃうからー」

「……目に悪いから、ゲームとスマホもだめな」

「テレビも見ちゃだめだからねー?」

「会話禁止」

「呼吸きんしー」

 

「「……………………」」

 

 何というか……俺…………こんなやつの為に頑張ってたっけ??

 

「陣内!! 今回、ちょーっと頑張ったからって調子に乗りすぎじゃなーい!? そんな大怪我して、皆を心配させたくせにさー!!」

「お前こそ、なんだその怪我!! 痛々しすぎて直視できるか!! 俺が何のために身体を張ったと思ってんだよッ!!」

「はいはい、それに関しては本当にありがとうございましたーー!! 陣内様のお陰でー、なんか色々と吹っ切れられたよ、バーカ!!」

「テメェ、その言い草は何だボケ!! 人が心配してやってるんだからもっと慎みを持ちやがれ!! 張ったおすぞ、この辛党ヤニカス女!!」

「あぁん!? 陣内ごときが私に喧嘩で勝てると思ってんのー? 片腹痛いわ、この糞アル中!!」

「力なら俺の方が絶対に上だろうが!!」

「はい、身の程知らずの間抜けみーつけた!! クソ雑魚ナメクジの陣内とパーフェクト超人の私とじゃ、技術の差が天と地ほどあるんだからねー!!」

「よぉし、吐いた唾は飲むなよ!! そこまで言うなら、いっちょ相撲でも取って白黒つけてや──」

「病室では静かにお願いします!!」

 

 突如として、見知らぬ声が俺達の口喧嘩に割り込んでくる。周りに目をやると、看護師さんと老人たちの生温い視線が俺達に集まっていた。

 

「す、すいません」

「やーい、怒られてやんのー」

「猫屋さん、貴方もこれ以上騒ぐのなら別の病室に移ってもらいますよ」

「あ、え、い、いやー、あはははー…………すいません」

 

 看護師さんのドスの聞いた声を受けて、猫屋は縮こまる。

 

 病室なのにヒートアップしすぎてしまった。というか、怪我人の女相手に相撲って、俺は何を考えてんだ……。

 

「はぁ…………それで?」

「え、なーに?」

「黒羽とはキッチリと決着をつけてきたのか?」

 

 口喧嘩に発展してしまったが、俺が気にしているのはやっぱりそこだ。これで猫屋が負けました、なんて言った日には俺はあの女を本当に殺しに行く。

 

「アハハ! そりゃー、もうバッチリ……!! ボッコボコのケチョンケチョンにしてやったよー!」

 

 猫屋は左手でピースを作り、悪戯を成功させた子供のように笑う。

 

 猫屋の笑顔。それは俺にとって積雪を溶かすように温かくて眩しいものだ。俺が一番見たかった、どんな大金よりも価値がある表情。色々とあったが……猫屋が心の底から笑えているのならそれでいい。

 

「あぁ、そうかよ」

 

 心底安心した。猫屋はやっぱり凄い。自分で全てを解決してしまった。結局、俺がやった事は文字通り、骨折り損のくたびれ儲けだったわけか。

 

 なんか…………疲れたな、マジで。

 

「あ、あの……さー」

 

 力を抜いて天井を仰ぎ見る俺に、猫屋が戸惑いがちな声を掛ける。

 

「その額の傷ってやっぱり残るの?」

 

 上を向いたせいで、髪に隠れていた左目蓋の上にある傷痕が猫屋の目についてしまったようだ。

 

「まぁ、竹行叔父さんが言うにはそうらしいな」

 

 俺は他人事のように返事をした。

 猫屋は優しい。恐らく、彼女はこの傷跡を気にするだろう。独りよがりな俺の行動でできた大馬鹿者の烙印。こんなものは自傷行為でできたものと何ら変わりない。猫屋が気に病む必要など皆無だ。むしろ、物覚えの悪い俺には丁度好い(いまし)めになる。

 

 俺は髪をかき上げて、傷跡を強調してみせた。

 

「どうだ、前より断然男前になっただろ? 向こう傷は男の勲章って言うしな。はははっ、随分と箔が付いたぜ」

 

 どうせ隠す事はできない。それなら猫屋が気にしすぎないように笑い飛ばしてやるのが一番だ。

 

 それくらいしか、俺にできる事は無いのだから。

 

************************************************************

 

 髪を上げて笑う、陣内。そのまったく様になっていない悪ぶった顔からは、温かさを感じる優しい気持ちが透けて見えた。

 

「…………まっ、そうかもねー」

 

 私は陣内の優しさに対して、可愛げのないぶきっちょな返事をすることしかできなかった。

 

「だろ? 中々お気に入りなんだよ、これ」

 

 私の返答に気を良くしたのか、彼はさらに笑みを深めた。私に罪悪感を抱かせないようにするための気遣い。

 

(本当に……優しい……)

 

 陣内の痛快な振る舞いは、私に憧れのような感情を抱かせた。

 

「ねぇ、1個だけ……1個だけ聞いてもいーい?」

「ん?」

 

 その思いのせいで、彼にどうしても聞きたいことができた。

 

「なんで、私なんかの為にそこまでやってくれたの? やっぱり、文化祭の事を気にしてた?」 

 

 陣内が何を考え、何を思って行動してくれたのか……私はそれが知りたくて堪らなくなった。無粋な質問だと思うけど、明確な答えが欲しくなってしまった。

 

「………………」

 

 陣内は罰の悪そうな顔をして視線を虚空へと逃がす。

 私は何も言わずに、ただ陣内の顔を眺めてた。ずっと見つめていると、彼は根負けしたのか重そうに口を開いた。

 

「ちょっとこっちに来い」

 

 そう言って、陣内は自分のベットに来るように私を手招きする。

 

「あ、えっと……うん」

 

 私はその誘いに乗り、陣内のベットに腰掛けた。

 

「カーテンも閉めるぞ」

 

 陣内はベットを区切るように掛かっているカーテンを完全に閉める。第三者の視線が遮られた空間とベット。2人きりの世界。

 

 私の心臓が何故か跳ねた。

 

「よいしょっと」

 

 そんな私の様子に気が付かず、陣内は枕の下から()()()()()を取り出した。中身は高度数のウイスキー。

 

「…………え??」

「素面じゃ、とても口に出せん」

 

 陣内は素早く、それを一気に飲み干した。

 

「…………ぷはっ!! あ゛ぁ゛、めっちゃ利くな、これ」

 

 当たり前だと思う。40度近い原液の一気飲み。量が少ないとはいえ、怪我人のやる事じゃない。

 

「ひっく、うぃぃ…………い、一度しか言わないからな。よく聞いとけよ」

 

 そ、そこまで酔わないと話せないの??

 

「う、うん」

 

 飲酒の速度にかなりドン引きしたけど、私は真面目に話を聞くため気持ちを引き締めた。

 

「文化祭の事はちょっとだけ気にしてた…………でも、それよりも大きな感情に従って俺は動いた」

 

 陣内は声に抑揚をつけずに自分の想いについて語り始める。

 

「俺は…………猫屋、お前に惹かれてる」

「っ!?」

 

 突然、彼は私の事をそんな風に言い出した。心臓が狂ったように跳ね上がり、一気に血流が加速する。顔が熱くなった。

 

「まぁ、なんだ……お前は運動神経が抜群で、洒落てるし………」

(あ、あぁー! なるほどねー!!)

 

 それは確かに私の長所。運動センスと容姿、後はアルコール耐性にだけは私は自信があった。陣内の言う『惹かれている』とは羨ましいといった感情の類なのだろう。彼は勘違いしているようだけどその言葉は本来、愛を表現するための言葉。

 

 ま、紛らわしいーな、もぅ……。

 

「それに誰よりも心根が強くて、底が抜けて優しい」

「え?」

 

 急に陣内が誰の事を言っているのか分からなくなった。

 

 それは私の事じゃない。その2つは陣内の長所だ。黒羽に私はあそこまで酷い報復をした。優しい人間のする事じゃない。ましてや、私の心は決して強くなんてない。

 

「そんな訳で、()()()()()()()()()()()が、まぁ、ちょっとだけ俺の自慢みたいな感じであってだな……」

 

 それも陣内の事だ。アル中の馬鹿でかっこつけたがり。偏屈で……明るいけど、変に卑屈な所がある。だけど、強くて、男らしくて、面白くて、どこまでも優しい……私の自慢の男友達。

 

「だからまぁ、そんなお前を不当に貶めた奴に俺はムカついた…………理由としてはそれだけ。俺の気が短かった……それだけが理由だ」

 

 私だって、陣内が傷つけられて死ぬほど腹が立った。

 

「あ、えっと、まぁ……そんな凄い長所を台無しにするダメな所が、猫屋には盛り沢山なわけだけどな!! は、ははは!!」

 

 陣内は取って付けたように私を馬鹿にした。恥ずかしいのか酔っているのかは分からないけど、その顔は赤かった。

 

「…………もー、結構良い事言ってたのにー、陣内は最後の最後でふざけるんだからー」

「う、うるさい。今言ったことは全部忘れろよ!! 永久に口に出さずに墓まで持っていけよな!!」

「あー、はいはい」

 

 言われなくても、こんな素敵な送り物は誰にも言わないつもりだった。

 

(あぁ……そっかー……)

 

 陣内の気持ちを聞いて、私は気が付いた。

 

(やっぱり、陣内と私って凄く似てる)

 

 私が陣内に抱いていた感情を、陣内もその胸の内に秘めていた。

 

 一緒だったんだ。容姿とか身体的な特徴の話ではなくて、考え方や感受性が私達は似ている。境遇も近い。辛い過去があって、中毒性の高い嗜好品に逃げた。過去を恥ずかしいと思って逃げ出し、別の楽しみを見つけようと逃避した所なんかもそっくり。

 

(私が陣内に対して思ってる事が、陣内が……私に抱いてくれてる感情なんだ)

 

 この世でもっとも私を過大評価してくれているのが陣内で、逆に陣内を過大評価しているのが私。

 

 右腕を壊して、私は過去と完全に決別した。それでも……私は自分の事があんまり好きじゃない。自分の弱さで陣内に生涯残る傷を負わせた自分が大嫌いだ。

 

 そんな私の事を陣内は尊敬してくれる。

 

(嬉しい)

 

 多分、私達は世界で一番気が合う親友なんだ。きっと、他の人が一生かけても出会えないほど相性がぴったりの2人……一生涯(いっしょうがい)の……大親友(ともだち)……。

 

(いやだ……)

 

 だけど、たった今この瞬間…………()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(友達のままじゃ……いや)

 

 同じレールから逸脱したのは私の心。

 

(……あの時から……慰めて、抱きしめてくれた……あの時からずっと)

 

 私はようやく、心を満たす幸福で綺麗な感情の名前を知った。

 

 

(私、たぶん……陣内の事が……好き………)

 

 

 人生で初めて経験する淡い恋心を、戸惑いを覚えながら私は自覚した。

 

(い、いや!! 絶対、好き!! めっちゃ大好き!! だって、なんか今、超幸せな感じするしーー!! 死ぬほど陣内の事が大好きじゃん、私!?)

 

 顔が発火するのではないかと思うほど熱くなった。隣にいる陣内の顔を直視できない。

 

(ほ、ほ、ほ、ほ、惚れちゃったーー!! 愛しちゃってる!! 私、こんなどうしようもないアル中の事、ヤバいくらいに好きーー!! ど、ど、ど、どーしよー!?)

 

 私は心に飛来する強烈な切迫感に耐え切れず、左手で胸を抑えた。

 

「……? 猫屋、どうした?」

 

 そんな私を、陣内は心配そうに見つめてくる。

 

 その声が好き。優しい声音も、意地悪な声音も、全部好き。

 

「あ、あははー、ちょ、ちょっと、胸が痛くてさー」

「お、おい! それ大丈夫なのか!?」

「あ、その…………背中、少しだけ摩ってくれない?」

「え? 胸が痛いのに……背中? ま、まぁ、分かった」

 

 陣内の手が私の背中に触れた、その瞬間。

 

「~~~~っ!!」

 

 ぞくぞくとした多幸感が体中に流れる。陣内から与えられる感触で意識が持っていかれそうになった。伝わってくる体温が、私の心を震わせた。

 

 陣内の大きな手が好き。ごつごつとしていて私を安心させる、男らしい手。何回も握った事がある、大好きな人の手。

 

 顔を少しだけ上に向け、陣内の顔を盗み見る。

 

(あ、あれー? なんか…………超かっこいい)

 

 さっき見た時は変凡な顔つきだった。だけど今は……気持ちを自覚してしまった今は、その顔のパーツ1つ1つが洗練されて強く光り輝いて見えた。目も鼻も、私のせいでできた傷跡も…………全てが愛おしくて仕方なかった。

 

(う、うっそー)

 

 燃え盛る激情が、一気に私の体と心を不可逆に焼き焦がしてしまった。気が付いた時には、陣内の良い所もダメな所も、その全てが好きになっていた。

 

(本当に大好き……)

 

 私の初恋の相手は、自分によく似た見栄っ張りで偏屈なアル中だった。 

 



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目まぐるしく、変わる変わる

 

 入院、16日目。真っ白な空間で特に変化の無い時間を過ごす日々。貴重な春休みはもう残り少ない。退院すればすぐに新学期が始まり、今度の長期休みは夏だ。本来なら、春休みは4人で旅行に行って酒を浴びるように飲んで過ごしていたはず。自業自得とはいえ、何ともやるせない。

 

 そんな病院生活ではあるが、退屈だけはしていない。その理由は俺の隣のベットにいる気の置けない女友達のおかげだ。

 

「いやーごめんねー、陣内。ご飯、食べさせてもらっちゃってー」

 

 俺は右手が使えない猫屋のために、病院食を彼女の口まで運んでいた。

 

「いいよ、別に」

 

 猫屋の怪我の責任を俺は取りたかった。何年掛かろうが完治するまで、俺は猫屋の右腕の代わりを(つとめ)る心づもりだ。……他人から見ればかなり重たい決心に見えるだろう。だから、この想いは誰にも内緒だ。

 

「ほら、もう一口」

「う、うん…………あーん」

 

 ニコニコ笑って、猫屋は食事を摂る。

 

「…………え、えへへー」

「?」

 

 猫屋の食事は毎回、俺が手伝っている。その度、彼女は何故か非常に機嫌が良い。病院食は薄味なので俺はあまり美味しいとは思えない。猫屋は超が付くほどの辛党のはずだが、意外と薄味の食事も好きなのだろうか?

 

「ご飯が終わったらさー、2人で一緒に()()()()舐めよーね?」

「そうだな」

 

 飴ちゃん、とは手巻き煙草(シャグ)の隠語だ。猫屋が親の目を盗んで病院に持ち込んだ大量の煙草の葉。それをキャンディと呼ばれる巻き方で俺が作成した。だから飴ちゃん。

 

「うへへへへー」

 

 病院生活でも煙草が吸えて嬉しいのか、彼女は猫のように愛嬌のある顔でへにゃっと笑う。

 

「…………」

 

 このつまらない病院生活での楽しみは猫屋とテレビを見ながらくだらない話をしたり、看護師さんたちの目を盗んで煙草を吸うくらい。なので猫屋の機嫌がいいのは非常に良い事だと思う。

 

 でもなんでこんなにテンション高いんだ、こいつ??

 

************************************************************

 

「すぅーーーはぁーーー……」

 

 背が高く、丈夫な屋上のフェンスに背を預けて煙草を燻らせる。

 青い空と程よく暖かい日光が気持ちいい。それに背もたれがあるから姿勢が楽だ。俺は肋骨が折れているためコルセットを装着しており、背を曲げる事ができない。肩肘張って常に綺麗な姿勢でいるのはどうにも疲れる。

 

「あ、え、えーと」

「? ……どうした?」

 

 猫屋は煙草を咥えたまま、火を点けずに突っ立っていた。

 

「ジッポ、部屋に忘れちゃったー」

「あ、そう。なら俺のライターを──」

「陣内」

 

 猫屋は俺の顔を一点に見つめて近づいてくる。

 

「せ、背中曲げられないでしょ? そのままじっとしててねー」

 

 そう言うや否や、猫屋は俺に真正面から寄りかかった。彼女は背伸びをして咥えた煙草を俺の火種に押し当ててくる。

 

「っ!?」

 

 煙草の先端同士が交わり、薄く火が灯る。シガレットキッス。その行為自体は何度も経験がある。なので、この程度で狼狽えるほど俺はチェリー君ではない。

 

 問題は煙草より下の方。

 

 直立不動の俺にしな垂れかかるように、猫屋は体を預けている。異常に柔らかい2つの感触。彼女は豊満な方ではないが、密着されれば嫌でもその存在を意識せざる負えない。それに加えて、燻された煙草の葉と本能に響く甘ったるい猫屋の香りがブレンドされた退廃的な薫香(くんこう)が肺に充満する。喫煙者の俺にとっては堪らない色香。こんなものを至近距離で嗅いではいけない。

 

 正直に言って、ヤバい。脳みそに直接、色彩豊かな油性ペンキをぶちまけられたような錯覚すら覚えた。

 

 俺は咄嗟に、腰だけを引かせた。理由は言うまでもない。硬いのを押し当てるわけにはいかないからだ。

 

「ん……」

 

 火が完全につくと猫屋はゆっくりと俺から離れた。

 

「はぁーーー…………美味しーね」

「あ、あぁ」

 

 上の空で返事をして、急いで猫屋に背を向けた。理由は言うまでもない。膨らんでる所を見られたくないからだ。

 

「えへへ、耳真っ赤にしてるー……」

「え?」

 

 俺の背後で猫屋が何か小声を発した。

 

「何でも無ーい!!」

 

 首だけで振り向き、彼女を視界に収める。猫屋は満面の笑みを浮かべて実に美味しそうに煙草を吸っていた。

 

「食後の煙草ってーー、マジで超おいしーよねー!!」

「まぁ、そうだな」

「これ知っちゃうとー、もう煙草が無い生活なんて考えられないって感じー」

 

 猫屋の発言はヤニカス過ぎて軽く引くが、今現在娯楽の少ない生活を余儀なくされる俺には結構共感できた。

 

「ふふ、ふん、ふーーん、ふーん、ふーーん」

 

 俺の目に映る、上機嫌に鼻歌を吹きながら喫煙する金髪の美人。彼女は銀色のピアスをチャリチャリと指で弄って遊んでいる。そのピアスは俺がプレゼントしたものだ。ピアスホールも一昨日に俺が開けてやった。猫屋は初めてのピアスが気に入っているのか、触るたびに嬉しそうな顔をしている。

 

「…………」

 

 その姿を見て、俺は思う。

 

 最近、コイツ超かわいい。

 常に上機嫌で笑っているし、表情が柔らかい。笑顔が魔性で妖艶。どんな男の心でもぶち抜ける破壊力が存在していた。

 

 端的に言えば、死ぬほどムラムラする……!!

 

 今、俺にはアルコールが入ってない。ノンアルコールも摂取できていない。つまり俺の精神状態はフラット。性欲有り余る21歳。猫屋が隣のベットに来てからは性欲の解消もできていないので欲求は溜まりに溜まり続けている。

 

「なぁ、酒も欲しくないか?」

 

 精神無敵盾が早急に必要だった。

 

 俺が病院に持ち込んでいた酒は小さなウイスキー瓶が一本だけだ。舐めるように飲むつもりだったのだが、猫屋との恥ずかしいやり取りの際に俺はそれを全て飲み干してしまった。

 

「……陣内はお酒欲しーの?」

「え、そりゃもちろん」

 

 酒の無い生活なんて俺には耐えられない。3日も酒を飲んでいないなんて、俺にとっては異常事態だ。

 

「そっかそっかー、仕方ないにゃー」

 

 彼女は猫なで声のぶりっ子で返事する。日差しのせいか顔が少し赤く見えた。

 

「なんだよ、お前だって酒は欲しいだろ? 俺の飲酒欲求はもう限界だ」

 

 俺はあくまで酒が飲みたいだけという体を装った。性欲を散らすために酒を欲していると猫屋に思われるのは恥ずかしくて死にたくなる。

 

「まぁ、確かに欲しーかも。酒と煙草があれば、いつもの生活と変わらないしねー」

「よし、なら決まりだな」

 

 病院内の売店には酒や煙草といった物は当然置いてない。なので、俺達が酒を調達する手段は1つだけだ。

 

「夜に病室を抜け出して酒を買いに行こうぜ」

 

 俺は脱走の共犯を猫屋に持ち掛けた。

 

「…………それいいねーー!! けっこう楽しそーじゃん!!」

「そうだろ!」

 

 看護師たちの目を盗んでの大冒険。お宝は酒。他にも病院内では手に入れられない体に悪そうなジャンクフードなんかも最高に美味しそうだ。

 

「ふひひ!! 陣内って本当にこういう事好きだよねー!!」

「ぐはは!! 猫屋だってそうだろ!!」

「まぁーねー!!」

「大人しく入院してるなんて俺達には似合わないからな!!」

「マジで同感!! やるならしっかりとルートを考えなくちゃねー!!」

 

 猫屋もかなり乗り気なようで嬉しい。明るく笑う彼女を見ると、やっぱり元気がでてくるな。

 

 猫屋の楽しそうな顔を見て、このような悪事が俺よりも大好きであろう女友達の顔が思い浮かんだ。西代は見舞いに来てくれたが、安瀬は未だに見舞いに来ていない。こんな計画は彼女が我先にと提案してきそうなものだ。……退院したら、真っ先に会いに行かないと。

 

「……この入院生活、お前が一緒だから退屈ではないのだけが救いだな」

「え、え、そう? 本当にそう思う?」

「あぁ、やっぱり1人じゃせっかくの悪事にも張り合いがない」

「そ、そうでしょー!! いやー、私ってホントにいい女ーー!! 傍に置いておくだけで効果を発揮するってわけよー!!」

 

 トイレの芳香剤みたいな自慢をしないでくれ。

 

「陣内は私に感謝してもっと甘やかしていいんだからねー!!」

「はいはい」

 

 でも、本当にいい女過ぎて困る時があるよな……。あ゛゛ー、早く酒が飲みてぇ。

 

 猫屋にそんな感想を抱きながら、俺は彼女と一緒に病院脱出計画を練り上げ始めた。

 

************************************************************

 

 カチャ、ババババッ、ドカバキドカバキ──

 

「ぐ、ぐぬぬぬ」

「えい」

「あ、まっ──」

 

 ガガガン、KO!!

 

「ぐぬぁー!! また負けたでござる!!」

「これで10連敗。格ゲーで僕に勝つにはまだまだ修行不足のようだね」

 

 場所は酒飲みモンスターズが新たに成約した賃貸。時刻は陣内達が病院脱走計画を練っている最中。安瀬と西代は木製のフローリングに敷かれた厚手の絨毯に座り込み、TVゲームに興じていた。

 

「ふふっ、ほら、敗者は安酒でも飲んでなよ」

 

 10連敗の屈辱に震える安瀬に、西代はテキーラがなみなみと注がれたグラスを差し出す。敗北のペナルティは飲酒行為の強要のようだ。

 

「……運動センスが終わっとる癖に、ゲームの類は何故そうも上手いのじゃ?」

「れ、連敗中の癖して、随分と憎まれ口を叩くじゃないか……」

 

 安瀬の歯に衣着(きぬき)せぬ物言いに、西代は何とも言えない表情を作る。西代は最近になってようやく自分が運動が苦手な事を自覚した。

 

「僕は1人っ子で暇つぶしによくゲームをやってたからね。この手の物は得意なのさ」

「我もよく兄貴をボコボコにしてたでありんす」

「最近はネット対戦があるから、僕の相手は全国の猛者だ」

「はぁ、納得でやんす…………次は負けぬでござるからな!!」

 

 威勢よく啖呵を切った後、安瀬はグラスを傾けてテキーラを一気に飲み干してみせる。

 

「う゛、かはぁ~~!! …………10杯も飲むと中々に効くのぅ」

 

 安瀬は少しだけふらつく。顔が少しだけ赤かった。

 

「しかし、安酒故かあまり美味くはないの」

「テキーラってポン酢を入れると飲みやすくなるらしいよ?」

「それ、前に陣内が『微妙だった』と言ってたでござる。それに拙者は酒に変な調味料を入れて飲むのには抵抗があるで候」

「……それなら、次は別の罰ゲームにしようか」

「ふむ。と、言うと?」

「敗者が勝者の言う事を何でも一つ聞く、というのはどうだい?」

 

 西代は意地の悪い笑みを浮かべて安瀬に重めのペナルティを打診する。

 

「きゅ、急に罰が重くなったであるな」

「なんだい? もしかして怖気づいた?」

「ぬかせ。勝負事で日和るほど、我の肝っ玉は小さくはない!!」

 

 10連敗中の身の上であるが、安瀬は自信に満ちた表所を浮かべる。

 

(ふふふ、負けそうになったら脇でも(くすぐ)ってボコボコにしてやるでござる)

 

 安瀬は卑劣な盤外戦術を脳内で練る。安瀬は勝つためには手段を選ばないタイプだった。

 

「お主が負けた時は、この安酒を空にしてもらおう」

「僕が勝ったら、陣内君のお見舞いに行ってね」

「っ!?」

 

 気が合う事に、目的のために手段を選ばないのは西代も同じだった。

 

「猫屋には会いに行ったのに、陣内君とは会わなかっただろう? わざわざ陣内君の入浴の時間を調べて、猫屋だけに会おうとするなんてね。そんなに彼に会いたくなかったのかい?」

「…………ふん」

 

 西代の追求を、安瀬は鼻で笑って受け流す。

 

「あのような(うつ)けの見舞いなんぞに、何故我が(おもむ)かねばならん」

「安瀬は対人関係にはけっこう不器用だよね」

「なにぃ?」

「お見舞いにマスクメロンなんて買っちゃってさ。(いく)らしたんだい?」

「勘違いするでない。あれは猫屋だけへの贈り物じゃ」

「なら退院祝いに買ってある(うぐいす)徳利(とくり)はいったいなんだい? 6万もする超高級品じゃないか。猫屋への物じゃないよね」

 

 西代の言葉に安瀬は目を見開いて驚いた。

 

「な、なぜお主がそれを知っておる!?」

「ふふっ、さぁ? 何でだろうね?」

 

 クツクツと人を喰ったように笑い、西代は言葉を続ける。

 

「金額で気持ちは伝わるだろうけど、物で謝罪を済まそうなんていうのはあまり感心しないね」

「べ、別に謝るつもりなどない。悪いのは、あの(たわ)け者であろう」

「そうだね。君の叱咤は至極真っ当で正当な物さ」

 

 そこは西代も認めていた。彼女も自分を誘わずに1人で動いた陣内には思う所があった。

 

「でも、怒りすぎた……そう思ってるんだろう?」

「………………」

 

 安瀬は悔いるように少しだけ俯く。

 

「まったく、仲直りにいったい(いく)らかけるつもりだい? 素直にお見舞いに行って、二三(にさん)ほど話せば済むことのはずだよ」

「今は……顔を合わせとうない」

「なぜ?」

「嫌われて……おるかもしれん」

「彼はそんな人じゃない」

 

 西代は安瀬の弱気をきっぱりとした口調で否定した。

 

「うん……」

 

 安瀬はこくりと静かに頷く。

 

「しかし、素直に謝るというのは……その、あれじゃ…………どうにも恥ずかしいでありんす」

「ふふっ、そうしていると安瀬は本当に可愛いね」

「うるさい」

「仕方ない。なら僕が特別に安瀬が一番会いやすい状況をセッティングしてあげよう」

「……どうやってじゃ?」

「僕の予想だと、今晩当たりがあの()()()鹿()()()()()だと思ってるんだ」

 

 西代は遠くを睨むように目を細めた。

 

「?」

「まぁ、詳しくは君がゲームに負けた時に話すよ」

 

 そう言って、西代はゲームのコントローラーを握り挑発的に笑う。

 

「僕は本気で勝ちに行くよ。賭け事で手を抜くのは信条に反するからね」

 

 西代の目が真っ黒に濁っていく。友人との約束を果たす為、彼女は本気モードに入った。

 

「安瀬も、まぁ、精々本気でかかってくれば?」

「…………」

 

 安瀬は黙ってコントローラーを握った。

 

 彼女は卑怯な盤外戦術を実行せずに、11連敗を素直に受け入れた。

 

************************************************************

 

「よっと……猫屋、怪我は大丈夫か?」

「全然へいきーー」

 

 深夜3時の真夜中。俺たちはカーテンで作った簡易的なロープで病室の窓から脱出した。

 

「というかー、2階くらいなら何もなしで飛び降りられたんじゃないのー?」

「帰り道どうするんだよ」

「壁でも蹴って登るー」

「忍者か」

 

 片手でそんな芸当ができるのは、身軽で運動神経抜群な猫屋だけだ。

 

「戦利品の運び込みもあるからロープは必須だったろ」

「あ、そっかー」

「俺たちの退院まで、まだ5日もある。毎日飲むなら結構な量が欲しいしな」

 

 朝昼夜と深夜。その全てに酒は必要だ。

 

「私ー、今はコンビニの激辛担々麺をビールで流し込みたい気分!!」

「俺はハーゲンダッツにウイスキーを垂らして食べたい」

「好きだよねー、それ」

「なんか食べてると一気にストレスが吹き飛ぶ。アイスはあの喰い方が一番旨い」

「あ、その感覚分かるーー! 私も辛い物食べて汗流すと疲れが嘘みたいに吹き飛ぶよー!」

「そこに追い酒と煙草だ」

「アハハハー!! 最強のやつじゃーん!!」

「今日は病室でパーティだな!!」

「だねー!! 夜更かしして朝まで二人で遊ぼー!!」

「へぇ? 面白い話だ。僕も混ぜて欲しいね」

 

「「え?」」

 

 バチバチバチバチ゛゛ッ!!!!

 

「あびばびゃびゃびゃびゃびゃびゃびゃゃぁぁああああッッ!!??」

 

 西代の声が背後から聞こえたその瞬間、強烈なスパーク音と供に猫屋が悲鳴を上げた。

 

「お、おい!? 猫屋!?」

「─────きゅー……」

 

 ぷすぷすと黒い煙を体から出しながら痙攣する猫屋。気絶したと思われる彼女を支えているのは()()()()()()()()()()()西()()だった。

 

「よし、最大敵戦力の撃沈に成功」

 

 彼女は戦利品を手に入れた蛮族のように邪悪な笑みを浮かべていた。

 

「お、お、お、お、お前、なんで……!?」

「それはこっちのセリフだよ、クソ馬鹿」

 

 西代は瞳をドロドロに濁らせて怒った風に話す。賭博の魔、西代さんモード……いや、違う。目の中のヘドロがまるで化石燃料のように燃えていた。その瞳には見覚えがある。以前、俺が酔っぱらって西代の本を踏んづけて(やぶ)いてしまった時に彼女はこのような目をしていた。

 

「怪我人の癖して酒と煙草? ……冗談は程々にしてもらいたいね」

 

 背後に不動明王の御姿が透けて見える、怒りの西代()()モード。

 

 この状態の彼女は本当に容赦が無い。本を踏み抜いた俺は怒った西代に包丁を突き付けられ、(やぶ)いた単行本全288ページを醤油に浸けて食わされた。しょっぱい紙の触感が最悪であり、畜生(ちくしょう)ヤギのような気分になってかなり屈辱的だった。翌日、俺は腹を下しながら同じ本を買いに書店へ走らされた。

 

 あの西代大激怒事件を受けて、彼女を本気で怒らせるのは絶対に止めようと思っていたのだが……

 

「君たちは今の時間、病室で大人しく寝ているはずだ。違うかい?」

 

 どうやら、俺達は西代をあの時よりも遥かに怒らせてしまったようだ。

 

「いや……その、それは──」

「僕の心からの心配を無下にするなんてね…………僕は悲しいよ」

「その心配する対象が電撃で伸びている訳だが!?」

「安心しなよ。既に人体実験は何回も済ませているから、電流の塩梅は最低限のはずだ」

 

 誰で人体実験したんだよ!! くっそ怖えわ!!

 

「さて、僕の悲しみの電撃を受けたくないのなら大人しく病室に戻ってもらおうか」

 

 西代はバチバチと放電するスタンガンを俺に突きだして威嚇してくる。

 

「ま、まじか」

「マジだよ?」

 

 西代の目が怪しく光った。目で語るとはまさにこの事。彼女の本気がひしひしと伝わってくる。

 

「気持ちは分からなくはないけど、アルコールは諦めて貰おうか」

「…………っ」

 

 俺に、酒を諦めろ、だって??

 

 その場合、どうなってしまうのだろうか。

 まず、俺の飲酒欲求と性的欲求がピークに到達する事は間違いない。ここで問題となるのは性的欲求の方。男のそういった感情は理性で抑え込めるものではない。男として21年間生きてきた俺は、その(さが)をきちんと理解している。アルコールを摂取できなければ俺は欲求に耐え切れずに狼となり、隣のベットで寝ている美味しそうな金髪美女の寝床に飛び込むと…………。

 

 そんな不義理で馬鹿な真似してたまるか!! 俺がコイツ等と一緒に居るには酒は必要不可欠なんだよ!!

 

「こ、こんな所で捕まるわけにはいかねぇんだよ!!」

 

 俺は共犯者(猫屋)を置いて走り去った。気絶した猫屋が重荷となって、西代は追っては来れないはずだ。西代もこれ以上の仕打ちを猫屋に与えたりしないだろう。

 

 最低でもノンアルコールは手に入れて帰還してみせる……!!

 

************************************************************

 

「……ふぅ。ちゃんとやりなよ、安瀬」

 

 西代は友達の仲直りを心から望む。

 

************************************************************

 

「はぁ…………はぁ…………い、いてて」

 

 少しの間、全力で走ったせいで脇腹が強く痛んだ。俺の肋骨は現在進行形で折れている。運動すれば当然こうなる。

 

 だが、全力の逃走のおかげで最寄りの24時間営業スーパーの駐車場に到着した。

 

「はぁ……早く酒飲んで痛みをしず──」

「痛みを止めたいなら、薬を服用するべきだと思うのですが」

 

 

 突如、凛とした声が夜の駐車場に響いた。

 

 

「…………」

「なんですか、その顔は? 私が来てあげたのですからもっと喜ぶべきでしょう?」

 

 俺の目の前でいつの間にか安瀬が仁王立ちしていた。

 

「…………」

 

 俺は急に現れた安瀬に目を奪われていた。驚いたわけではない。西代が居たのだから、彼女がいる可能性は十二分にあった。俺が度肝をぶち抜かれたのは()()()()()だ。

 

 長く綺麗な髪をドリル状に巻いたお嬢様ヘアー。黒を基調としたフリフリのドレス。靴は先端が丸くて底が厚い、黒塗りのヒール。100倍美化された等身大の西洋人形がそのまま動いているような姿。可愛さの白眉最良(はくびさいりょう)。これほどまでの美人を、どの情報媒体でも俺は見た事がなかった。

 

「…………」

「……陣内?」

 

 見惚れてしまった。

 

「…………」

「……何か話してください」

 

 安瀬の声を受けて、ようやく思考が巡りだす。

 安瀬の服装の趣味は和に寄っている。普段着として和服を着る事は無いが、部屋着は甚平であり、安瀬もそれを気に入っていた。そんな彼女が西洋風なゴスロリファッションの服を持っているはずがない。以前、俺が口にした好みの女性服。それを覚えていてくれて、わざわざその恰好で俺に会いに来てくれた。

 

 その理由は察しがつく。

 きっと、彼女は馬鹿な俺を許しに来てくれた。

 

「…………」

 

 その行為自体は落涙するほど嬉しい……嬉しい……嬉しいんだけど。

 

「くっっっそ不器用だな、お前」

「はぁ!?」

 

 俺は思わず本心をぶちまけてしまった。

 

「やっと口を開いたと思えば、何ですかその言い草は!!」

「あ、いや、悪い。……凄く似合ってるなその恰好。本当にしばらくの間、見惚れてた」

「…………それなら、まぁ、いいです」

 

 安瀬は強いウェーブのかかった髪を指で弄る。その姿は乙女チックで実に可憐だ。やっべ、酒が飲みたい。

 

「しかし退院を待ちきれずに酒と煙草を買いに走るとは……本当に呆れました」

「…………お前だって逆の立場なら抜け出すだろ?」

 

 彼女なら絶対にやる。俺と同じように下らない悪事に手を染めずにはいられないはずだ。

 

「そもそも私は貴方のような大怪我など負いませんから」

 

 そう言われると立つ瀬がない。というか下手な言い訳などせずに、早く今回の事を謝らないと……。

 

「あ、安瀬、改めてごめん。今回は本当に反省──」

「口だけならなんとでも言えます」

「うっ」

 

 本当にその通りだ。嘘つきの言葉などに信憑性はない。

 

「許して欲しいのなら行動で示してもらいましょうか」

「え」

 

 安瀬は冷めた視線を俺にやって、淡々とした口調で語りだした。

 

「まず金輪際、私に嘘をつく事は許しません」

「……はい」

「怪我が完治するまでアルコールと煙草は禁止です」

「…………はい」

「賃貸のトイレ掃除も半年間はやってもらいましょう」

「………………はい」

「バイトや学業で()った私の肩を揉みほぐす事を特別に許可します。嬉しいでしょう?」

「……………………はい」

 

 安瀬の容赦が無い誓約に俺は首を縦に振り続けた。

 

「…………後、最後に……その……」

 

 テンポよく俺を追い詰めていた安瀬が急に口ごもる。あの安瀬が口に出すのもためらうような内容。俺が悪いとはいえ、ちょっと震えてきた。

 

「一回、私をどこか遊びに連れて行きなさい」

「はい…………え?」

「1泊2日くらいのプチ旅行がいいです。日本の古い景観が残った観光地で酒と名産品を楽しむ……ふふっ、夜は温泉宿にでも泊って湯治(とうじ)と洒落込みましょう。あ、もちろん費用は全部あなた持ちですからね?」

「……そんなので許してくれるのか?」

 

 禁酒禁煙やトイレ掃除はともかく、最後の旅行は俺にとってはご褒美みたいなものだ。安瀬と行けば、絶対に楽しいに決まっている。

 

「ええ、はい。これらを守れるのであればの話ですが」

「その程度の事でいいのならお安い御用だ」

「貴方に禁酒などといった苦行ができるように思えませんが」

 

 確かに、俺は大の酒好き。だけど酒なんかよりも大切にしたい人が目の前にいる。

 

「……それでお前が敬語を止めてくれるなら、俺は多分我慢できるよ」

 

 強請(ねだ)るように情けない懇願をしてしまう。恥知らずで軟弱な話だが、土下座してでも俺は彼女の信頼を取り戻したかった。

 

「敬語……? あぁ、これでおじゃるか」

「っ!!」

 

 安瀬はあっさりと敬語を解いてくれた。

 

「この服装には、(かしこ)まった口調の方が似合っていると思っておったが、そうでもなかったかの?」

「……それだけか?」

「? それ以外に何があるぜよ?」

「いや……そっか」

 

 心の底から安堵して胸をなでおろした。……あの時、安瀬が口調を変えたのは馬鹿な俺を見限ったからではなかった。激情を隠すために自分を取り繕っただけなんだろう。

 

 あぁ……よかった。本当に良かった。安瀬の中で、俺という人間の立ち位置は変わってはいなかった。これからも、俺たちは一緒に居られる。失いたくない。あの忌まわしき出来事のように、俺の心の奥から誰かが抜け落ちるなんてのは耐えられない。二度目は、絶対に耐え切れない。

 

 多分この状況は西代が作ってくれたのだろう。彼女の言った通り、全ては元通りになった。ありがとう……西代。

 

 そして──

 

「ありがとうな、安瀬……!!」

 

 安心感に任せて、俺は心の底からのお礼を彼女に述べた。

 

************************************************************

 

 主人を慕う犬のように人懐っこい笑顔を浮かべる陣内。安瀬はその顔を直視できずに思わず顔を逸らした。

 

(す、素の口調に戻しただけでそんなに嬉しそうな顔をするでない!! こ、こっちまで釣られてしまいそうになる……!!)

 

 頬に手を添えて、安瀬は無理やり表情を取り繕う。

 

「け、怪我はどれくらいで完治するのじゃ?」

 

 安瀬は咄嗟に話題を変えた。

 

「1月半後だ」

「骨折であろう? 随分と早いでござるな」

「肋骨って治るのが早いらしい」

「そうであるか。まぁ、あまり激しい運動は控えるでござるよ」

「あぁ、完治するまではバイトも休む」

「うむ! それは良い心がけであるな!!」

 

 望み通りの陣内の返事を聞いて、安瀬は花咲くように破顔する。安瀬と陣内の(わだかま)りは完全に解消されたようだ。

 

 陣内はその安瀬の態度を見て、控えめに口を開く。

 

「な、なぁ、安瀬。ノンアルを飲むのは別に構わないよな?」

「当然であろう」

「だ、だよな!! ならせっかくここまで来たんだし、ちょっと買ってきていいか? 禁酒にはやっぱり、代用品ってのが必要だろ?」

「……お主、そんな感じで本当に1月以上も禁酒できるでありんすか?」

「それは約束だから本気でやる。もし破ったら絶交してくれても構わない」

 

 陣内は覚悟の決まった目で安瀬を見据えた。

 

「そ、そこまで重く(とら)えるでない、阿呆」

「……それもそうだな。じゃ、ちょっと行ってくるわ。すぐ済むからここで待っててくれ」

 

 そう言って、陣内は1人でスーパーに向かって行った。

 

「………………ん?」

 

 その姿を見送っている安瀬に、天啓が落ちる。

 

(待て……1月半の……()()、じゃと??)

 

 安瀬は陣内と交わした約束について深く思慮を巡らす。

 

(もしや、これは…………好機?)

 

 安瀬は陣内の減欲体質については当然把握している。彼はひとたび酒を飲めば裸の女を目の当たりにしても、風邪をひかないように毛布を掛けてその場を立ち去る様な精神状態になってしまう。

 

 だが、しかし。

 

(これからの共同生活。あ奴は1月半もの間、()()()()()()()()()()事になる……)

 

 安瀬は自分の体と容姿にだけは絶大な自信があった。

 

(攻め時は……今?)

 

 陣内に恋慕の感情を抱いているのは猫屋だけではない。

 

(手を出させるだけでよい……あ奴は、女を手籠めにして責任を取らぬ男ではない)

 

 過去数度行われた、陣内梅治を誘惑する、もしくは意識させるといった内容の催し。その発案者は全て安瀬だ。あれは主に自分を意識して欲しくて画策した物。しかし、今までの作戦は陣内の減欲体質のせいで全てが不発と終っている。

 

(こ、告白されるのが一番であったが、この好機にそんな気長な事は言ってられん!! この1月半で、わ、我に骨抜きになってもらうでありんす!! この1月半が勝負所じゃ!!) 

 

 陣内はノンアルコールでも減欲体質を発動する事ができる。その事を安瀬は知らない。

 

(くふふっ!! 年貢の納め時であるぞ、陣内!!)

 

 恥を掻くだけで終わりそうな安瀬の思惑。彼らの共同生活は、今までよりもさらに混迷を極める事になるだろう。

 



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戻ってきた日常とひび割れ

 

 大学から徒歩10分。家賃7万6千円の2LDK。キッチン付きの広いリビングと8畳ほどの部屋が2つ。1部屋は寝室に、もう1つの方は遊び部屋と物置となっていた。

 

 寝室が男女混合になってしまっているが、俺は一切かかわっていない。何の説明もなく、さも当然のようにベット1つと布団3枚が運び込まれていた。当然、俺は抗議の声を上げた。しかし、使えるスペースが減るからという理由で俺の意見は3女に握りつぶされた。民主主義など糞くらえだ。

 

「「猫屋、陣内!! 退院おめでとう!!」」

「2人ともありがとーー!!」

 

 そんな新しい賃貸のリビングで俺達2人を囲む豪華な料理。平日の日中ではあるが、俺たちの退院記念パーティーが盛大に開かれていた。

 

「お持て成し、ありがとな」

 

 料理は和食に粉物(こなもの)。前者は安瀬作で、後者は西代作。こう考えると俺たちの得意料理は綺麗に分かれているな。和食は安瀬。洋食は俺。中華は猫屋。うどん、パン担当の西代。……なんか西代だけ限定的すぎるな。

 

「……ここにお酒があればねー」

「言うな猫屋。ノンアルコールがあるだけましだろ」

 

 どんよりとした目で料理を見つめる彼女。気持ちは俺も同じだ。料理には酒の当ても大量に用意されている。飲酒欲求のせいで唾液が出てきた。

 

「猫屋、お主も退院したとはいえ1月ほどは禁酒である」

「破ったらどうなるかは……分かってるよね?」

「あ、あはははー、うん、身に染みて分からされましたー……」

 

 猫屋は顔を引くつかせながら西代を恐怖の目で見る。凄いな、西代さま。猫屋にしっかりと恐怖を刻み込んである。

 

「でもコレだけは許してあげる」

 

 西代はテーブルの下からゴソゴソと何かを取り出して、猫屋に差し出した。

 

「はい、退院祝いのプレゼント」

 

 丸いフラスコにガラス棒が刺された、ケミカルな物体。フラスコの入口が白鳥の首のようにくびれている。用途が全く想像できない謎の品物だ。

 

「ぼ、ボングじゃーーーん!!」

 

 突如、猫屋がテーブルから身を乗り出した。

 

「何だそれ?」

「陣内、知らないのーー!? 煙草の煙を水で濾過してマイルドな煙を楽しめるっていう()()()()!! 有害な物質が水に溶けてー!! 煙が冷えるから喉が痛くならない、喫煙最強アイテムなんだーー!!」

「へぇ、そう」

 

 猫屋ほど興味を引かれない。煙草は大好きだけど、俺はそれより酒だ。

 

「わぁーーー!! フォルムが超可愛いーー!! サイズも手のひらサイズでお洒落すぎーー!! 西代ちゃん、いいの!? こんなにいい物貰っちゃってーー!!」

 

 水パイプをまるで宝物でもみるような目で見る彼女。テンションが跳ね上がっており、うるさい。

 

「水パイプならそこまで体に悪くないだろう? 猫屋はヘビースモーカーだからさ。我慢できないと思って買っておいた」

 

 猫屋は俺たちの中では喫煙量と共にニコチンタール量もトップだ。ラキストの重いヤツをまるで呼吸するかのように吸う。

 

「気に入ってくれたかい?」

「うん、うん、うん!! 超気に入ったーー!! これ高くて買えなかったんだよねーー!!」

 

 猫屋は早速、どこからか煙草の葉を取り出して水パイプに詰めた。水を内部に溜めて火を起こし、吸い口を咥えてブクブクと煙を吸い始める。

 

 説明書も見ずによく初見で構造が理解できるな。流石、辛党ヤニカス女。……傍から見ると危ない薬をやっているようにしか見えない。

 

「ぷはぁーーーー……あ゛ー、おいちーー……うへへー、コレかなり好きー」

 

 猫屋はご満悦そうに煙に溺れる。その表情は愉悦に塗れており、堕落しきっている。

 

 俺は彼女がどこかに意識を飛ばしている内に、西代を肘で小突いた。

 

「おい、あれって(いく)らしたんだ? お前、スタンガンなんか買ってたくせに金あるのかよ?」

「あぁ、実はとある女の財布から2万ほどスッてね」

 

 今コイツなんて言った!?

 

「その金でパチンコに行ったら、当たりが止まらなくて…………ふふっ、脳汁溢れる至福の時間だったよ。あの水パイプの資金はそこから出たのさ」

「…………」

 

 ど、どクズぅ……。

 

 でもいかん。それは本当にダメな事な気がするんだが相手が相手だけに、良くやった! という気分になってしまった。……まぁ、こっちは殴られまくって骨を折ったんだ。俺の入院費用を返してもらったと思うようにしよう。

 

「オホン」

 

 西代の所業に引いていると、安瀬のわざとらしい咳払いが聞こえた。

 

「陣内にはコレである。……お主は完治するまで使うでないぞ」

 

 そう言って、安瀬は俺の目の前に木箱を置く。

 

「え、まじか。俺まで退院祝いを貰っていいのか?」

「いいから、早う開けてみるでござる」

 

 安瀬はそっぽを向き、俺を急かす。ちょっと恥ずかしそうにしている。

 

「……じゃあ、遠慮なく」

 

 丁寧に木蓋を外す。中にあったものは六角形の徳利。注ぎ口の横に、小さな鳥のオブジェが飾られている。

 

(うぐいす)徳利(とくり)じゃねぇか!!??」

「えー、何それ?」

 

 猫屋がどうでもいい物を見る目で超高級徳利様を見る。教養の無いヤツはこれだから困る……!!

 

「知らないのか!? 酒を注ぐ時に鳥の鳴き声が鳴るっていう、超いかした徳利だ!! うおっ!? 笛盃まで一緒についてやがる!!」

「それって凄いのー?」

「これクソ高いんだよ!! ……あぁ、柄模様の梅木が渋い。マジでカッコイイ……これで日本酒が飲みてぇなぁ……」

 

 徳利には新梅木に鶯が羽休みしている絵が描かれていた。惚れ惚れする造形だ。酒器という物は何でこう美しいんだろう。やっぱりお酒様を受け入れる聖杯であるからか。……ぐへへへ、またコレクションが一つ増えたぜ。

 

「いい目利きしてんな、安瀬!!」

「そうであろう!! お主ならこの良さが分かると思っておった!!」

 

 酒器に関して、安瀬の古臭いセンスは抜群に発揮される。俺と安瀬が唯一趣味を共有できるのが唐津物の酒入れだ。

 

「……よく分かんなーい。お酒は好きだけどー、器なんて何でもよくなーい?」

「正直、僕も同意だ」

「はぁ? 目腐ってんのか? あぁ、そっか。品の無いお前らに風流を理解しろって言うのは土台無理な話だった。悪い、悪い」

「……喧嘩売ってるんだよねー、それ」

「アル中の癖して誰に口を聞いているんだい?」

「おう、何で勝負する? 麻雀か、ダーツか、ゲームか。トランプでもいいぞ?」

「止めい馬鹿共」

 

 一触即発の俺達を、安瀬が一声で制す。

 

「そんな事より、4人揃ったこの場で話し合っておくべき事柄があるでありんす」

「え、なーに?」

「陣内家や部室では適当に家事を担当しておったが、ルームシェアとなるとそういう訳にはいかん。家事は当番制を採用し、順番を決めておかねばならん」

「「「お、おぉー」」」

 

 安瀬のまともすぎる提案に、俺達一同は感嘆の声を上げた。まるで一家長。まとめ役として彼女ほどの適任はいないな。

 

「トイレ掃除はしばらくの間は陣内が担当するとして……」

 

 ……俺たち4人組のトイレは汚れやすい。原因は4人分のゲロのせい。今から少しだけ憂鬱だ。

 

「炊事と洗濯、風呂掃除…………あ、あ、後は、入浴の時間なんかも決めておいた方がいいでござるな」

 

 入浴の時間。それを聞いて凄く安心した。燃えてしまった賃貸の時は風呂の許可は俺が出していた。部室暮らしの際はそもそもシャワー室が男女別だったのでバッティングする可能性は無い。だが、ルームシェアの場合は違う。各々が好きに風呂に入ってよい。そうなると、風呂場で鉢合わせるというラッキースケベが起きかねない。……ラッキーにはならないな。多分、全裸なんか見たら殺される……。

 

「常に俺が先に入る。お前たちはその後。なるべく早く入るようにするから、それで構わないだろ?」

 

 俺は有無を言わさぬ口調で宣言した。女は男と違って色々ある。残り湯や痕跡を見られたくないはずだ。

 

「異議なーし」

「そうだね」

「では入浴に関してはそれで可決であるな!!」

 

 俺が常に一番風呂になってしまうな。まぁ俺はシャワーだけで済ますか。浴槽にすね毛とか浮いていたら、生物学上では女であるこいつ等は嫌がるだろう。

 

「猫屋、バイトを再開するまで家事全般は俺らが担当しようぜ」

「そーだね。私もしばらくはバイト休むしー」

「え、いいでござるか?」

「どーせ大学から帰ってきたら暇だしねー」

 

 ちょうどいいリハビリになるしな。

 

「お前たち2人はこの後バイトだろ? 俺の今日の予定はバイト先に顔出すだけだから、その時ついでに買い物してくる。晩飯は何がいい?」

「僕はシチューが食べたい気分だ」

「おぉ、我も賛成である」

 

 シチューか。時間があるからシチュールーではなく一から作るか。

 

「バゲットもよろしく頼むであるぞ!!」

「え、ご飯でいいんじゃないかい?」

「…………シチューにご飯は苦手である」

 

 西代の言葉に、安瀬は微妙そうに顔を歪めた。

 

「どうにも白米にチーズや牛乳を掛けるのは好かん」

 

 俺は酒飲みモンスターズの好物と苦手な物をきちんと把握している。しかし、喰い方の好みまでは把握できていなかったようだ。

 

「あぁ、なんか分かるぜ。俺もおでんをおかずに飯が食べれない。酒のつまみには最適なんだけどな」

「あー、私も熱々のご飯に生の刺身は無理。あと、沢庵(たくわん)とかの野菜類がおかずにできないタイプー」

「……言われてみれば、僕も納豆ご飯は苦手だ。納豆単品なら美味しく食べられるんだけどね」

 

 各々が米のお供に苦手な物を上げていく。こういう話を共有しておくことは良い事だ。ご飯を作る時に参考になる。

 

「……日本人というものは米を喰って生きてきた人種でござる」

 

 安瀬が急に神妙な声音で語り始めた。

 

「江戸時代中期にはご飯のお供番付が作られておったくらいじゃ」

「へぇ、さすが歴女。詳しいね」

「まぁの。せっかく議題に上がったのじゃから、()()()()()()()()()()()()()()?」

「「「は?」」」

「ご飯に合わないおかず選手権じゃ!!」

 

 安瀬が突拍子のない事を言うのは今に始まった事ではない……ないけど。

 

「それ、面白いか?」

 

 人の恥でご飯3杯いけると自負する俺だが、物理的に飯が不味いのは勘弁して欲しかった。

 

「……自分で言っておいてなんじゃが微妙かもしれんな」

「まぁ、やるだけやってみたらどうだい? もし食材が余っても酒の当てになるだけさ」

「でもそれだけじゃ詰まんなくなーい?」

「で、あるな…………では最下位だった者は学期始めの集会にメイド服で参加してもらおうかの」

「「「………」」」

 

 安瀬を除いた俺達3人は顎に手を当てて、罰ゲームに関して真剣に思考を巡らせる。

 

(いつも思うけど、酷い罰を簡単に言ってのけるね……)

(死ぬほどやりたくないな)

(でもー、他の3人がやってるのは見てみたーい……)

 

 一瞬だけ3人の視線が交わった。何を考えているか分かる。きっと自分以外のメイド服姿を想像している。俺だってそうだ。コイツ等がメイド服で『お帰りなさいませご主人様!!』なんて言う姿を見て爆笑したい。

 

「やろうか」

「やってみるか」

「やってやろうじゃーん」

 

 教養とセンスが試される知恵比べだ。感性が死んでいる酒飲みモンスターズに、俺が負けるわけがない。

 

「うむ、良い返事ぜよ!! 開催は明日の18時じゃ!! 各々方、全身全霊をもって食材選びに励むがよかろう!!」

「「「ははーー」」」

 

 正直、そこまで気乗りしていない今回の催し。ひりつくような逼迫(ひっぱく)感もないので俺たちのテンションもそれ相応。まぁ、退院して初めてのイベントだ。これくらいの緩い感じがちょうどいいのかもしれないな。

 

************************************************************

 

「って、事があったんだ。何かいい感じの食材はないか?」

「えぇー、急に言われても思い浮かばないっすね」

 

 俺はバイト先の店長に復帰時期について報告した後、従業員スペースで大場(おおば)(ひかり)に相談を持ち掛けていた。

 

 大場(おおば)は俺と同じ大学の2回生。学年は俺より上だが、年が下なので敬語を使ってくれる出来た後輩……に見せかけた変人。()()()()()()()()を掛けて語尾にっす、とつける癖の強いヤツだ。

 

「というかっすよ……」

 

 大場がジトーとした片目を俺に向けてくる。

 

「陣内パイセン、また随分と変な事やってるっすね」 

「……そう思うか?」

「はいっす。話を聞かされるたびに、ヤベー生活してんなって思ってるっす」

「っふ、今回はまだ控えめな方だ」

「何の自慢にもなって無くて草っす」

 

 大場は呆れたように笑う。彼女には女性の生態関係で相談に乗ってもらう事が多々あった。酒飲みモンスターズが頻繁に俺の家に泊まり始めた際に非常に助けられた。生理用品とか女の風呂場事情とかは、1人っ子である俺には理解しずらい。なので大場は俺と酒飲みモンスターズが同棲している事を知っている。

 

「あ、いいのを思い出したっす」

「なんだ?」

「そら豆とかどうっすか?」

「……普通におかずになりそうじゃないか?」

「いや、潰した生のそら豆をご飯に混ぜ込むんすよ」

 

 何が変わるんだろうか?

 

「私のおばあちゃんが良くやってたんっすけど…………色合いが緑で食欲無くなるし、潰したせいかボソボソで青臭くて滅茶苦茶不味かったんっすよ。本当にげんなりするぐらいに……」

「へぇ、良さそうだなそれ」

 

 大場は自分の出身を岡山だと言っていたが、郷土料理だろうか。

 

「しょうゆ豆でやると美味しいっすけどね」

「ふーん、まぁ、助かった。そら豆を出してみる」

「お、採用っすか! ……負けても恨まないでくださいね?」

「分かってるよ」

 

 大場の顔色からして、結構なトラウマ飯のようだから期待していいだろう。

 

「じゃ、またな。今度俺がバイトに来るのは5月中旬くらいだ。迷惑かけるけどそれまで頑張ってくれ」

「はいっす! ()()()()使()()()()()()()に掛かれば、バイト業務なんて赤子の手をひねるようなものっす!!」

 

 大場が急に眼帯にピースサインを添えて笑った。20歳女子の全力キャピキャピポーズだ。共感性羞恥のせいでサブイボが立った。

 

「いつも思うけど……その取って付けたような中二病キャラはやってて楽しいのか?」

「え、むっちゃ可愛くないっすか? 中二女子って今、流行ってるんっすよ」

 

 初めて聞いた。

 

「どこで流行ってんだ?」

「もちろん、私の中でっす……!!」

「……馬鹿みたいだから止めた方がいいぞ、それ」

「ふっ、天才とは凡夫に理解されないものなんっすよ」

「…………」

 

 俺の周りに居る女性は変なのしかいない。

 

************************************************************

 

 その翌日。

 

 俺は大量のそら豆が入ったビニール袋を片手に賃貸に向かっていた。もう片手にはノンアルビール。それをグビグビと飲み干している。

 

「あ゛゛ー、落ち着く」

 

 麦の炭酸水が喉を通るたびに心が鎮まっていく。酩酊せずに性欲減衰状態に突入する感覚は何とも言えない。

 

 俺は空き缶をビニール袋に突っ込み、スマホでエロワードを調べる。グラビア、AV、エロ漫画、エロアニメ、ロリ、熟女、貧乳巨乳、SM。高速でスマホを操作してコンテンツを流し見で消費する。目的は体質の再確認だ。病室でもノンアルは飲んだが、ルームシェアはその3倍は危険地帯。ノンアルでの減欲状態は不安定なので、どのくらいの効能があるのかを正確に把握しておく必要があった。

 

 結果は上々。

 

 直接的なアダルトを視聴しても俺の愚息はピクリとも反応せず、どこまでも広く深い性欲の大海は(なぎ)だ。これなら、あの見目だけは麗しき3女と一緒に暮らそうが何も問題は無い。というか……

 

(なんか前より効き目が強くなってる気がする)

 

 性欲の小さな火種すら感じられない。理由は分からないがラッキーだ。きっと日ごろの行いが良かったのだろう。

 

「西代ちゃん、急いで!!」

「わ、分かってる!!」

 

 自分の体質を確認していた俺は、気が付けば賃貸前に到着していた。

 

「何やってるんだお前ら?」

 

 猫屋に肩車された西代が換気扇をガムテープで塞いでいた。その横の玄関口は大量の荷物類で封じ込められている。まるで部屋を完全に封鎖しようとしているようだ。ゴキブリでも出たか?

 

「じ、陣内君、お、おかえり」

「ただい……ん? なんか硫黄の匂いが────くっさ!!??」

 

 俺の鼻腔にあり得ない汚臭が飛び込んできた。

 

「おぇ゛゛!? な、なんだこの匂い!? ドブ川の匂いがするぞ!?」

 

 肉や魚の腐臭にチーズ等のキツイ発酵臭が混じった最悪の香りが賃貸から匂ってくる。

 

「あ、安瀬ちゃんがー、部屋内で()()()()()()()()()()()を開封しちゃってー……」

「……なんだそれ?」

「ニシンの缶詰さ………」

 

 顔を青くした西代が猫屋からゆっくりと降りた。

 

「世界一臭い食べ物で有名だよ。あまりに臭すぎてテロ行為に使われた事があるくらい危険な劇物だ」

「……あ、あの気狂いめ」

 

 なんて物を部屋内で開封してくれてるんだ。異臭騒ぎになって隣部屋の方に通報されたらどうしてくれる。

 

 ガンガンガン──!!

 

「あ、開けてくりゃれ!!」

 

 玄関を叩く音と共に安瀬の悲鳴に似た大声が聞こえてくる。どうやら彼女は室内に取り残されていたらしい。

 

「死ぬ゛゛!! 臭すぎて、臭し゛ぬ゛ッ!! 後生の頼みであるからドアを開けて……うっ゛゛!?」

「安瀬、君をこの匂いが完全に消えるまで監禁させてもらうよ」

「な、何じゃと!?」

 

 扉を一枚挟んで、西代が安瀬に終身刑を宣言した。

 

「成約したばっかの賃貸でー、なんて物開封してんのさーー!!」

「うっ、だって……そっちの方が面白いと……」

「「臭すぎて面白くないよ馬鹿!!」」

「うぅ……」

 

 2人の怒声に押し負けたのか、安瀬は黙り込んでしまった。

 

 俺は扉越しの彼女に話しかけるため、少しボリュームを上げて声を出した。

 

「どんまい。まぁ喰ってしまえば匂いも消えるんじゃないか?」

「……あ、あれを我に食せと?」

「お前が開けたんだろ? それなら責任取って食べるのが筋ってもんだ」

 

 安瀬が好みそうな言葉を使い、彼女に発破をかけてみる。この強烈な異臭ではもうおかず選手権などやっている場合ではない。早急に事態を収めるべきだ。

 

「…………やれるだけやってみるでありんす」

 

************************************************************

 

 安瀬を監禁して、2時間が経過した。俺たちは激臭の中動くわけにもいかないので各自が持ち寄ったご飯に会わないおかずをつまみに酒を飲んでいた。もちろん俺と猫屋はノンアルコールだ。

 

 西代は臭さを緩和する為かハイスピードで酒を煽り、猫屋は常にブクブクと水パイプで煙を吸っている。……禁煙中だが煙草が吸いたくなってくる。

 

酒盗(しゅとう)って、この臭さの中で食べると全然生臭さを感じないね……臭いけど」

「分かるぜ。生でもそら豆が全然青臭くない…………臭いけど」

「……扉越しで、この臭さってマジでやばいよねー」

 

 口を開けば臭い、臭いと言い続けてしまう。それぐらい臭い。生ごみの隣で宴会している気分だ。

 

「安瀬ちゃん、随分と大人しくなったねー」

「諦めてニシンを食べてるんだろう」

 

 外でこの臭さだ。中は確実に阿鼻叫喚の悶絶地獄。そこで匂いの源である物質を1人で完食するのか……。

 

 身から出た錆とはいえ、ちょっとだけ可哀そうだな。

 

「……俺、中に入って様子を見てくるわ」

「え、まじー? やめといた方がいいと思うよー?」

「一度中に入ったら出てこれないと思ってくれ。僕らは異臭が収まるまでこの扉を開ける気はないからね」

「は、薄情だなお前ら」

 

 まぁ女というの生物は男以上に臭いのが嫌いだ。そういう反応は仕方ないか。

 

「はぁ……まぁ、匂いなら段々慣れてくると思うから素早く処理してくる」

 

 俺は彼女達にそう言い残して、扉を塞いでいる荷物を除けて中に入っていった。

 

************************************************************

 

「う゛、お゛ェ゛!? くさっ、お゛く゛っさ゛い!?」

 

 玄関を開けて室内に足を踏み入れたその瞬間、人生で初めて感じる汚臭で横隔膜が痙攣して吐き気が込み上げてきた。

 

(呼吸できないッ!! というか息吸いたくない!! く゛せ゛ぇえええええええええ!!??)

 

 俺は自分の軽率な行動を後悔した。安瀬なんぞ放って置いて外で待っていた方が100倍ましだった。

 

 この汚臭は慣れる事ができるような甘っちょろいモノじゃなかった……!!

 

「ウえ゛゛、う゛、ぉえ゛……く゛さ゛い゛゛ッ」

 

 俺は苦しみながら何とか足を進ませる。

 激臭に悶絶しながらリビングの扉を開けた。すると、テーブルでチマチマと魚の切身っぽい物を箸でつつく安瀬と目が合った。

 

 その瞬間、彼女はハイライトの無い暗い目を一瞬にして輝かせた。

 

「じ、陣内~~~!!」

 

 大声を上げて涙を流しながら、安瀬は俺に近寄ってきた。普段の彼女からはあまり考えられない行動だ。死ぬほど臭かったのだろうな。

 

 でも、今近寄られるのはまずい。安瀬はあの嗅覚破壊物体を食べていた。

 

「こ、心細くて゛死ぬかと思ったでありんす゛!!!! 臭くて不味くて寂しくて欝になりそうであ゛った゛ぁあ~。うぇええええん!!」

「ば、馬鹿!? 近寄るんじゃ──」

 

 幼児退行してしまったかのように、俺にすり寄ってくる彼女。俺の鼻腔に今世紀最大の汚臭がぶち込まれた。

 

「く゛゛っっっさあ゛!!??」

 

 普段の女らしい甘い匂いは一体どこに消えた!!??

 

「うっ、ひっく……お、お主なら来てくれると思っておったぞ!! さ、流石我の見込んだ男であるな!!」 

「ウェ゛゛ッ!!?? 臭すぎっ゛、お゛、お゛、お゛?! ()る……漏れ出るぅ!!」 

 

 目に染みるように臭い。人間の匂いじゃない……!!

 

「お、女に対して臭いとはなんじゃ!?」

「し、仕方ないだろ臭いんだから!! …………ウ゛゛ッ!!??」

 

 ボンッ!! と俺の頬袋が膨らんだ。

 

「おろろろろろろろろろろ」

「うぎゃああああああああ!!??」

 

 俺は安瀬の頭に向かってゲロをぶちまけた。

 

************************************************************

 

 ざぁーー、ざぁーーー

 

 背後からシャワーを当てて色素の薄い髪についた汚れを取り払う。髪質が良いのか一切の引っかかりなく指が通った。それでも女性の洗髪っていうのは男と比べて大変だ。時間がかかる。

 

「ひっく……うっ……ひっく……」

「いや、その……本当にごめんな?」

 

 俺は安瀬と一緒に風呂に入っていた。

 

 当たり前だが、全裸ではない。安瀬も俺も水着に着替えてから入浴している。……冷静に考えてかなりヤバい事をしている自覚はある。これは友人のラインを逸脱している行為だ。しかし、当然だが安瀬は俺の吐しゃ物に触れるのを嫌がった。となると、それを綺麗にするのは俺の役目だ。この状況は仕方がない事なんだ。

 

 というか俺のせいだ。マジで、本当に、ごめん。

 

「……うぅ、もう臭くないかえ?」

「あ、あぁ!! もう大丈夫だ!! ゲロは洗い流せたし、シャンプーのいい匂いがしてるぜ!!」

 

 嘘だ。正直、泡の香りに混じってほんのりとゲロと腐った匂いがする。安瀬には金輪際、嘘をつかないようにするつもりだったが早くも約束を破ってしまった……いや、でも、これは……許して欲しい。優しい嘘というヤツだ、大目に見てくれ。

 

「……でもまだ、少し臭い気がするでありんす」

「え、あ、そうか。ならもう少しだけ洗うか。目、つむってろよ」

「う、うむ」

 

 俺は彼女の生糸のような髪を梳くように洗い解す。彼女の髪に触れるたび、脳内から謝罪の言葉が山のようにあふれ出てくる。

 

「ど、どうじゃ陣内?」

「綺麗で艶のある髪だからシャンプーがよく馴染む。本当にごめんな。こんな綺麗な物を汚しちゃって」

「っ……そ、そうではない。その、えっと、ほれ……前の方にも汚れがついておらんか?」

「前?」

 

 そう言って彼女は少しだけこちらに身体を向けた。よく見ると結構きわどい水着だ。海に着ていくような物ではなく、先ほどスマホで見たグラビアアイドルが着ていそうな物。罰ゲーム用にでも購入したのだろうか?

 

(こ、この水着を着て、どうやって風呂場に突貫しようかと思っておったが……怪我の光明である…………)

「汚れてないな」

「しょ、しょうであるか」

「?」

 

 安瀬は俺の返答を受けて、何故か少しだけ肩を落とした。

 

(状況が最悪すぎて一切反応が無かったでござるぅ……)

「ほら、前向け。髪が洗いにくい」

 

 安瀬は俺の言う通りに前へ向き直った。

 少し視界に入っただけだが、彼女の水着姿は多分ドエロい。もはやその程度の低俗な表現しかできないほど、男の欲情を誘う危険物だろう。性欲が滾る感覚こそないが水を弾く玉の肌を見て、これは自分とは根本的に違う生き物なのだと強く自覚させられた。ノンアルを摂取していて本当に良かった……。

 

 無敵状態でなければ即座に襲い掛かっていただろうな。

 

 ピシッ──

 

「?」

 

 どこからか音が聞こえてきた。体の内側に響くような、亀裂の入る音。

 

「なぁ、なんか変な音が聞こえなかったか?」

「え、拙者は何も聞こえなかったでござるよ」

「? そうか」

 

 空耳か。

 

「はぁ…………風呂から出たら、2人であの劇物を処理するか」

「……今回は本当に申し訳ないでござる。つい好奇心が優ってしまった。に、二度とあんな物買わんぜよ」

 

 いや、本当にな。まじで臭い。臭すぎて失神するかと思った。

 

「反省してるならいい。次はもっと面白い企画を頼むぜ。毎度、楽しみにしてるんだからな」

「……ふふ、そうかえ? うむ、次は任せて欲しいでござる!!」

 

 安瀬が笑いながら俺の身体に背を預けてくる。人にしてもらう洗髪は気持ちがいいものだ。心地よさに任せて力を抜いたのだろう。彼女は俺を性欲無しの安心人間だと思ってくれているようだ。

 

 その信頼が嬉しい。……やはり性欲なんて俺には要らないな。俺は恒久的(こうきゅうてき)にこうやって振る舞い続けていればいい。そうすれば、きっと、彼女達は太陽のようにずっと明るく笑ってくれる。

 

 そんな事を考えながら、俺は彼女が満足するまで綺麗な長髪を優しく洗い続けた。

 

************************************************************

 

 風呂から出たその後、俺たちは5回ほど吐しゃ物をぶちまけながらシュールストレミング缶を処理した。風呂に入った意味など一切なかった。

 

 食べ物系の企画は二度とごめんだ……!!

 



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もっと入るひび割れ

 

 春休み最終日。ノンアルの甘酒を飲みながら、俺は台所で夜ご飯の仕込みを行っていた。

 

 今日の晩飯は肉類が中心だ。牛ステーキはニンニク、ポークはリンゴと蜂蜜、チキンはカレー粉を主軸としたスパイシーなタレに浸けて夕方まで寝かす。これで後は焼くなり揚げるなりすればいいだけだ。付け合わせの野菜はどうしようか? まぁ、夜までに考えておけばいいか。

 

「朝から夜飯の支度とは恐れ入るね」

 

 下準備をしている俺の横から、覗き込むようにして西代が顔を出した。

 

「起きたのか。もう少し寝てると思ってたよ」

「寝ている安瀬に掛け布団をはぎ取られてね。……体が冷えたよ」

 

 安瀬……なんて無慈悲な事を。

 

「他の2人はまだ寝てるのか?」

「まだぐっすりさ。この分だと昼前までは起きないだろうね……それにしても」

 

 西代は調理スペースに広がる肉類を見て首を傾ける。

 

「見るかぎり、今日は肉類が中心のようだけど、どうしてだい?」

「まぁこれを見てくれ」

 

 俺は台所下の収納から慎重に未開封の縦長い箱を取り出した。パッケージには曲線が美しいガラス細工が印刷されており、それを見れば中身は一目瞭然だ。

 

「ワイングラスかい?」

「あぁ。つい自分の退院祝いに買ってしまった」

 

 万能型のワイングラス。ワイングラスには、ボルドー、ブルゴーニュ、クープ、など様々な種類があり、ワインによって適切な物が変わる。俺が購入したのは汎用性の高い物だ。

 

「夜はコレを使ってワインを楽しむ予定だ」

「男ってやつは本当に……物を集めるのが好きなんだね」

「一括りにするなよ」

 

 女の猫屋だって昨日、新しいターボライターが欲しいと言っていた。蒐集(しゅうしゅう)癖は男だけの趣味ではない。

 

「それにワインはグラスによって味が変わるんだぜ? 実用的だろ?」

「それ本当かい? 錯覚だと思うんだけど」

「高いワイングラスはガラスが薄いんだ。唇が触れる面積が増えるほどワインってのは口当たりがよくなる」

「……へぇ?」

 

 あ、こいつ信じてないな。そもそも安物のグラスと高級品とでは香りの立ち方が段違いだ。一度だけ父さんの高級グラスでワインを飲ませてもらった事があるが、まるで味わいが違って驚いたものだ。

 

「ん? ちょっと待って。ワインを飲むつもりかい?」

「あ、勘違いするなよ。ちゃんとノンアルのワインだ」

「あぁなるほど、それなら安心だ。せっかくの肉料理だし、僕も今日はワインを中心に飲もうかな」

「そう言うと思って、お前らの分のサングリアも用意してあるぞ」

「え、本当かい?」

「あぁ、ワイン好きだろお前? 果物をたっぷり入れてるから絶対に美味いぞ」

 

 少し前の事だが、淳司たちとむっこが退院見舞いのフルーツ類を大量に持って俺に会いに来てくれた。4人で同時に来られる日が中々なくて、見舞いが退院間近になってしまったらしい。

 

 フルーツ類は数が多くて余ってしまいそうだった。なのでワインに漬け込んでサングリアにしたわけだ。

 

「ふふっ、君ってやつは女心を分かっていないようで分かってるんだから」

「はは、どうも」

 

 フルーツ類多めのサングリアは女性受けが良さそうと思っていた。特に、よくワインを飲んでいる西代は喜んでくれたようだ。

 

「よし、終わりっと」

 

 ジップロックに詰めた肉類を冷蔵庫に入れて、エプロンを外す。俺は時間を確認する為にスマホを起動した。

 

「あ、やばい。時間がギリギリだな」

「何か用事があるのかい?」

「淳司の店にバイクを取りに行くんだ」

 

 今日の昼飯は猫屋が担当する。その手伝いがしたいので、昼前までには帰ってきたかった。

 

「もう出る。悪いけど後片付けをお願いしてもいいか?」

「それくらいは受け持つよ」

「センキュ。じゃあ行ってくる」

 

************************************************************

 

 陣内梅治が足早に去った後、西代は台所で調理器具を洗い流した。量がそれほど多くはなかったので洗い物は10分程度で終わった。

 

「ふぅ……」

 

 しかし、起きてすぐに洗い物をしたせいだろうか。西代は疲れた様子で自分の肩を揉んだ。

 

(自動食洗器って4人で割れば安いかな。今度、皆に相談してみよ……ん?)

 

 西代の目についたのは、陣内が先ほど嬉しそうに取り出したワイングラスの箱。陣内は急いでいたため、それの収納を忘れてしまい、シンク台に置いたままになっていた。

 

 彼女は箱をじーっと眺める。

 

(どんな感じなんだろう。ちょっとだけ気になるね)

 

 西代は好奇心に任せて、箱を丁寧に開けて中身を取り出した。

 

「……確かにガラスが薄いね。気を付けないと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 西代は物珍しい物を見る目でグラスを見つめた。

 

 その時、安瀬に布団をはぎ取られ、洗い物をしてしまったせいでさらに冷えた西代の体に寒い物が走った。

 

「くしゅんっ!!」

 

 パリン──

 

「うぅ、寒い。まだ朝だけどホットワインでも飲もうか…………え? ぱ、パリン?」

 

 西代は震えた様子で、恐る恐る音源の方に視線をくれる。

 

 シンクの底には一片のガラス片が落ちていた。ぶつけた拍子に本体から分離するように欠けてしまったようだ。

 

「…………」

 

 西代はまず冷静になる為に、換気扇を回して煙草を悠長に吸い始めた。

 

「すぅーーーふぅーーー」

 

 不規則に揺れ動く煙を眺めながら、この後の対処法について彼女は思考を巡らせる。

 

(…………うん、素直に弁償しよう。悪気があった訳じゃないんだ。陣内君だって許してくれるさ)

 

 西代は自分が弁償する額を把握するために、ワイングラスを収納していた箱を手に取る。箱にはまだ値札が張られたままだった。

 

「…………2万2千円ッ!? こ、こんな脆いガラスが!? ば、馬鹿か、あのアル中!?」

 

 ワイングラスは下を見れば100円台、上を見れば10万円以上のものが存在する。陣内は中々値が張るものを購入していたようだった。

 

「あ、あばばばば」

 

 西代は高くても8千円くらいだと思っていたようで、酷く狼狽する。

 

「せ、接着剤はどこにやったっけ?」

 

 ここで事実の隠蔽に走ってしまうのが、彼女がクズたる所以であった。

 

************************************************************

 

「痛たたっ……もぅ、指切っちゃったよ。でも、ひとまずはこれで──」

「おっはよー」

「っ!!」

 

 背後から聞こえてきた猫屋の声で、西代の背が跳ねる。

 

「お、おはよう猫屋」

 

 西代は口ごもりながら、なんとか挨拶を返した。

 

「てっきり、もっと寝てるかと思ってたよ」

「あー、それはね…………くしゅん!!」

 

 西代に返答する前に、猫屋の口から大きなくしゃみが飛び出した。

 

「風邪かい?」

「いーや……。ねぇ、誰か部屋に猫の毛を持ち込んだりしてなーい?」

「猫の毛?」

「私、猫アレルギーなんだよねー」

「あぁ、そういえば昨日、安瀬が近所の野良猫に餌をあげて可愛がっていたような……」

「あー……納得。今度から猫を触った時には毛を落とすようにちゃんと言っておかないとなー……」

 

 猫屋は鼻をティッシュでかみながら、ボーっと台所を眺める。そこには、ワイングラスの箱が置いてあった。

 

「それってー、陣内のワイングラス?」

「…………う、うん」

 

 西代は少しだけ箱から距離を取った。

 

「さっき彼に自慢されてね」

「確か2万円くらいするヤツだよねー。昨日、陣内が嬉しそうに話してきたー」

「そ、そうかい。……ね、猫屋。ちょ、ちょっと僕は野暮用があるから外出してくるよ」

「へ? あ、うん。行ってらー」

 

 西代は文字通り、逃げるようにしてその場を去った。

 

 猫屋1人になってしまった台所。彼女はそこで、陣内の趣味の品を興味深そうに眺めた。

 

「……ふーーん。こんなのが2万円もするんだー」

 

 猫屋は好奇心が勝ったのか、箱を丁寧に開封して中身を手に取って観察した。

 

「なんかちょっと歪じゃない?……そんなに好きなら、私も何か買ってあげよっかなっ…………くしゅん!!」

 

 パリン──

 

「うぅ……猫は好きだけど、毛はきらーいー!! …………え、ぱりん?」

 

 猫屋の足元には、さらに欠けてしまったグラスの一片が無残に転がっていた。

 

「あ、あばばばばば」

 

 猫屋は首を左右に振って、自分の犯行を見た者がいないかを確認した。

 

「せ、接着剤ってどこに置いてあったっけー!?」

 

 クズ2号爆誕。

 

************************************************************

 

「よ、よーし。とりあえずはこれで──」

「良い朝でござるな!!」

「にゃっ!?」

 

 背後から聞こえてきた安瀬の声で、猫屋が飛び跳ねた。

 

「おは、おはよー、安瀬ちゃん」

「うむ、おはようでござる!! ……お主は台所に突っ立って何をしておるんじゃ?」

「え、あ、あはははーー!! ぼ、ボングに水を入れてたんだー!!」

 

 猫屋はポケットから急いで水パイプを取り出す。そこに猛烈な勢いで水を入れて、煙草の葉を詰め込み火を点けた。

 

「すぅーーーふぅーーー。……あ、い、いっけなーい!! 私、昼ごはんの買い出しに行かないとーー!!」

「? そうであるか。気を付けて行ってくるのじゃぞ」

「う、うん!! ありがとーー!!」

 

 猫屋は水パイプを口で支え、魚を咥えた野良猫のように走り去っていった。

 

「……やたらテンションが高かったの? ま、よいか……ん?」

 

 目敏(めざと)く、安瀬はシンク台に置かれてあった箱に気が付く。

 

「ワイングラス? あ奴、また酒器を買ったでござるか。この間、我が徳利をプレゼントしてやったばかりだというのに……」

 

 安瀬は即座にその持ち主を看破する。彼女は不貞腐れながらその箱を手に取った。

 

「ふむ、陶器ならいざ知らず、洋物には興味を引かれんの。……げっ、これ2万もするでありんすか」

 

 彼女は他の2人とは違い、パッケージを見ただけで満足したようだ。

 

「こんな所に無造作に置いておくでないわ……まったく」

 

 安瀬は比較的狭いシンク台から大きなテーブルへと箱を移そうとした。

 

 その時。

 

「うゅッ!?」

 

 安瀬の足小指にテーブルの角がぶつかった。痛みに悶絶する安瀬。当然、箱は中空に放り出されてしまう。

 

 ガシャン──ッ!!

 

「あいたたた。むぅ、ついておらん…………え、がしゃん?」

 

 安瀬の視界の先には地面に叩きつけられたワイングラスの箱。

 

「…………」

 

 彼女は震える手でそれを開封する。

 

「う、えぇ……」

 

 中から出てきたのは珪砂(けいさ)のような細かいガラス片。ついに、ワイングラスは粉々に砕け散ってしまった。

 

「あ、あばばばばばば」

 

 安瀬は手を傷つけないように慎重な手つきで散らばった破片をかき集める。

 

「せ、接着剤はどこじゃ!!」

 

 クズ3号、爆誕。

 

************************************************************

 

「んんっ、美味いな!!」

 

 俺はこんがりとキツネ色に揚がったフライドチキンに齧り付く。噛めば中から肉汁があふれてきて、朝から準備していたおかげか肉が柔らかい。油を胃に流すように麦ジュースを飲めば気分は爽快。ボリュームもあって最高だ。

 

「そ、そうでござるな!!」

「い、いやー、陣内って本当に料理がお上手ーー!!」

「ぼ、僕もそう思うよ!! もうお店が開けるレベルだね……!!」

「ははっ、おいおい、そんなに褒められても何も出ないぞ」

 

 手間暇かけたおかげか彼女達も満足してくれているようだ。自分が作った物を美味しそうに食べてくれるのはけっこう嬉しい。

 

「さぁて、そろそろ本命を出すか」

 

 美味い肉には赤いワインだ。俺はノンアルワインとワイングラスの箱を机の下から取り出した。

 

「う、美味そうなノンアルワインでござるな」

「だろ? 良い物を買ってあるからな。まるで本物のような渋みがある奴だ。3千円くらいしたんだぜ?」

 

 自分の退院祝いに結構な額を使ってしまったのはちょっとだけ恥ずかしいが、マジで楽しみだ。やっぱり初めての酒器を使う時は心が躍る。

 

「わ、割れちゃうかもしれないからー、取り出すときは慎重にねーー」

「分かってるって」

 

 俺は箱からゆっくりとワイングラスを取り出す。グラスは曇り一つなく、光輝いて見えた。

 

(ん、あれ? 僕、あんなに綺麗に直せたっけ?)

(片手しか使えないから、もっとボロボロになっちゃった気がー……)

(ふふふ、流石、拙者である。完璧な補修技術じゃ!!)

 

「じゃあ早速っと」

 

 ノンアルコールとはいえ、ワインはワインだ。空気を含ませるために、ゆっくりと音を立てないようにして慎重に注ぐ。

 

 流れ落ちる液体から香るブドウの豊潤な香りが堪らないな。

 

 ピューーー

 

 直後、まるで血を流すかのようにワイングラスはその身体から液体を吐き出した。

 

「え?」

 

 穴の開いたチーズに液体を流し込めばこうなるだろう。ワイングラスはその機能を一切発揮せずに、ワインをテーブルに垂れ流し続けている。

 

 パキンっという音がグラスから響いた。

 

 そこからは早かった。流血が増えていくと同時に、グラスにどんどん(ひび)が入っていき、神の血が溜まらないうちに、バラバラと聖杯は瓦解した。

 

「…………」

 

 そのあまりに、あまりで、あまりな、事象に俺は絶句してしまった。

 

「ざ、残念だったね。どうやら不良品だったようだ」

「う、運が悪かったねー、陣内」

「ま、まぁあまり落ち込むでないぞ? 形あるものはいずれ朽ちる運命であるからな!!」

 

 酒飲みモンスターズが何か言っている。しかし、毛ほども耳に入ってはこない。俺の意識は、血まみれになって沈む哀れな2万2千円のワイングラスちゃんにだけ向けられていた。

 

 あぁ……可哀そうに。こんなにボロボロにされて悔しかっただろう。お前だって1回くらいは使われたかったはずだ。俺もお前を使ってみたかった。…………だけど、安心してくれ。

 

 (かたき)は必ずとってやる。

 

 俺は怒りに任せて台所まで走り、収納からスピリタスを取り出した。ショットグラスではない内容量350mlのガラスコップになみなみとそれを注ぐ。危険なまでに強い酒精が香る液体を手に、再び机に戻った。

 

 そして、ガンッ!! と机にコップを叩きつけた。

 

「犯人探しだ」

「「「で、ですよねー」」」

 

 罪人候補たちは知ってた、と言わんばかりに仲良く共鳴する。

 

「下手人には無理やりにでもこの液体を完飲してもらう」

「で、でも、陣内君。さ、流石にその量は致死量じゃないかい?」

 

 彼女たちの酒のキャパシティなら死にはしないはずだ。スピリタスの量は二日酔いになる程度に抑えてある。喉を焼き焦がす激痛は知らん。

 

「安心してくれ。飲めないというのなら、俺が無理やり飲ませてやるから」

 

 当たり前だが、この中で一番力が強いのは俺だ。愚図るようなら腕力に物を言わせて直接口にアルコールをぶち込んでくれる。

 

(な、何も安心できない)

(め、目がマジだー……)

(ば、バレたら確実に殺されるぜよ……)

 

 一瞬、冷や汗をダラダラと流す酒飲みモンスターズの視線が交わった。お互いの顔色を伺い、値踏みするように目を忙しなく動かしている。まぁ、何となく考えている事は分かる。

 

(((こうなったら誰かに罪を擦り付けるしかない……!!)))

 

 コイツ等、本当に仲の良いドクズだな。まぁ、俺は下手人さえわかればそれでいい。咎人をお酒様に裁いていただいて、溜飲を下げるとしよう。

 

 弔い合戦だ……犯人を必ず酔い潰してやる!!

 

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「それで、犯人に心当たりがある奴はいるのか?」

 

 今回の絶対的な権力者は俺であり、進行役も当然俺だ。俺が主導して、この綺麗な美女たちの中から、ヘドロのように腐った精神の持ち主を見つけ出さなければいけない。

 

「この中で一番可能性が高いのは猫屋だね」

 

 俺の質問に真っ先に答えたのは西代だった。

 

「え!? わ、私!?」

「西代の言う事はもっともでござる。猫屋はほれ、今は片手が使えぬ。誤ってグラスを落としてしまったのであろう? 2()()2()()()()()()()()()じゃ。隠蔽したくなる気持ちは分からんでもないが、正直に白状した方が身のためでありんす」

 

 西代の言葉に安瀬が細かいフォローを加える。筋の通った推論だ。彼女の言う通り、ワイングラスを割った可能性が一番高いのは猫屋だ。

 

「陣内君も怪我人相手にはそこまで怒らないよね?」

「あぁ、猫屋には電撃ビリビリの軽い刑罰で済まそうと思う」

 

 俺は西代の荷物スペースから勝手に拝借したスタンガンの電流をバチバチと散らして見せた。

 

「それ全然軽くないからねーー!?」

 

 …………う、うーん。確かに怪我人にする仕打ちじゃないな。酒を飲ませる訳にもいかないし、もし猫屋が犯人だった場合はトイレ掃除を代わってもらう事で手を打つか。

 

「というーか!! そもそも片手が使えない私にあんな綺麗な修繕ができる訳ないじゃーーん!!」

「「「あ」」」

 

 その通りだ。ワイングラスは見た目だけは完璧に修繕されていた。猫屋は右利き。左手だけであそこまでの修繕ができるとは思えない。

 

「後さー、陣内。ワイングラスの値段って私以外に話した?」

「いいや。俺が値段の話をしたのはお前だけだよ」

 

 それを聞いて、猫屋はニヤリと頬を釣り上げた。

 

「あれれー? 西代ちゃんには私が値段を言ったけどさー……なんで安瀬ちゃんがグラスの値段知ってるの?」

「うぇ!?」

 

 俺達3人の視線が安瀬に集まった。急に疑いを向けられた安瀬は目に見えて焦っている。

 

「パ、パッケージに値札が付いておったの──」

「なるほどね。グラスを割ってしまい、弁償するために値段を見たら、高すぎて隠蔽したくなったわけだ」

「ちょ、ちょっと待つでござる!! 拙者は値段を見ただけじゃ!!」

「怪しいねー」

「俺のワイングラスちゃんを割って、あんなお粗末な処置で誤魔化そうとしたのはテメェか」

 

 俺はもう一つコップを取り出して、威圧のためにゆっくりとスピリタスを注いだ。これ以上飲ませるつもりはないが早く口を割らせて真実を明らかにしたかった。

 

「ひぇ」

 

 俺の本気の脅しは安瀬には効果抜群の様だった。

 

「ほ、ほら安瀬。早く認めちゃいなよ」

「そ、そーだよー……じゃないと陣内、もう一杯飲めとか言い出すよー」

「…………」

 

 窮地に追い詰められた安瀬は黙り込んで、猫屋と西代を凝視し始めた。まるで荒を探すかのよう、つぶさに2人を観察している。……なんて生存本能が強い奴だ。この状況でまだ打開策を探しているのだろう。

 

 そんな安瀬の視線がピタリと止まった。視線の先は西代の指先だ。

 

「西代……お主、その指の切り傷は何であるか?」

「っ!!」

「切り傷だと?」

「え、どこどこー?」

 

 安瀬の指摘通り、西代の指には小さな切り傷があった。それを見られた西代は、指を隠すように手を丸めて、慌てた様子で口を開く。

 

「ほ、包丁で切ってしまっ──」

「ご飯の当番は陣内と猫屋であろうが」

 

 下手な弁明に、安瀬の突っ込みが容赦なく入る。

 

「今日、包丁を触ったのは俺と猫屋だけだったよな?」

「そうだねー。珍しく焦ったねー、西代ちゃん。普通に紙で切った、て言えば良かったのにー」

「っぐ……!!」

 

 その手があったか、というような表所を西代は作る。

 

「大方、割れたガラス片で切ったのではないか? ふふっ、ドンくさいのぅ」

「あははははーー!! これでもう犯人は決まったようなもんだねー!!」

「っぐ、ぐぬぬぬ……!!」

「おい、西代。何か弁明はあるか。無いならお前を潰して終わりだ」

 

 下手人はほぼ確定した。一応、誤審を回避するために、俺は最後の言い訳ぐらいは聞いてやるつもりだった。

 

「…………」

 

 黙り込んでしまった西代の瞳が信じられないくらい汚く濁っていく。俺はその目をよく知っている。()()()()()()。どうやら、彼女にはまだ何か言いたいことがあるらしい。

 

「ないよ。僕が割った。……いや、正確に言えば()()()()()が正しいね」

「「!?」」

「なんだと?」

 

 僕も……? 俺のワイングラスちゃんを傷つけた人間がまだ他にもいるというのか!!

 

「実は今思い出したんだけど、グラスには僕の血が付いてしまっていたはずなんだ。陣内君がワインを注ぐ前、赤い汚れは少しでもあったかな?」

 

 いや。グラスは曇り一つなく、光輝いていたはずだ。

 

「つまり、誰かが洗い流したと?」

「さぁ? ()()()()()()()()()()()。あぁそれと、僕が割ったのは一片だけさ。こんなにバラバラにはしなかったよ」

 

 西代は血まみれのワイングラスを指差して不敵に微笑を浮かべる。

 

「あえて言わせてもらおうか……犯人はまだこの中にいる、とね」

「そうか。情報提供感謝する」

 

 威圧の為に2杯目のスピリタスを作ってしまったが、どうやら無駄にはならないようだ。まだ裁くべき人間はこの場に存在している。

 

 まぁ……それはそれとしてだ。

 

 俺はゆっくりとスピリタスの入ったコップを西代の前まで押した。

 

「お前にもう用は無い。飲め」

「え、あの、その…………し、司法取引的なものは……」

「ねぇよ。大人しくくたばれ馬鹿」

 

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「……ぐぎゅッ、、、ぉぇ゛!! かはッ……!!」

 

 喉が焼ける高度数のアルコールを摂取した西代がじたばたと悶え苦しんでいる。俺はその様子を動画に収める事にした。実に良い画だ。今度大画面のスクリーンで上映してやる。最高に笑えるだろう。

 

 こうなれば西代の事はもう放置でいい。後は酒精が回って眠るように気絶するはずだ。

 

「う、うわー……こんなに取り乱した西代ちゃん久しぶりに見たかもー」

「ショットではなく、グラスで一気じゃからの……」

 

 明日は我が身と言わんばかりに、彼女たちは恐怖の目で哀れな罪人を見つめている。

 

「これで下手人の1人は沈んだな。後はお前たちの内のどっちかだ……いや、犯人はもう決まっているか」

 

 西代の話を信じるとすれば、彼女はグラスを一片割っただけ。粉々にまではしていないようだ。そうなると残りの犯人は勝手に浮かび上がってくる。

 

「残りの下手人は安瀬だろ。猫屋がこんなに綺麗に修繕できる訳ない」

「うっ」

「うひ、うひひっ、そ、そうだよねー!! 片手の私がバラバラのグラスを組み立てられるわけがないよーー!!」

 

 猫屋が俺の言葉を受けて、キラキラと眩い笑顔を浮かべていた。……なんか、含みがある言い方だな。

 

「…………………………」

 

 安瀬はまたもや黙りこくってしまった。今度は目を瞑って必死に何かを考え込んでいるようだ。本当にすごい執念だ。その執念に敬意を示して、1分くらいは待ってやるか。

 

 長考の末、安瀬がパチリとその大きな目を開いた。

 

「陣内。これはお主が我らの前から失踪していた時の話である」

「ん?」

「ま、まさか!?」

 

 安瀬の語り口を聞いて、猫屋が酷く慌てだした。

 

「あ、安瀬ちゃん!! い、い、いくら私を巻き込みたいからってその話は本当にまずいって……!!」

 

 は? 巻き込む?? え、本当に何の話だ?? ワイングラスとは一切関係なさそうなんだけど……

 

「急に相談なくいなくなったお主に対して、拙者たちは少しだけ不満を持っていたでありんす」

「ん、あぁ。……それに関しては本当に悪かったな」

 

 俺は引っ越し作業を彼女達に押し付けてしまった。西代も『男手が無くて大変だった』と言っていたくらいだ。けっこうな重労働だったのだろう。しかし、まさか、その迷惑料として今回の事は水に流せと言うのだろうか。

 

「いや、よい。その見返りは、ある意味勝手に受け取ってしまったでござる」

「え?」

「アベラワーの18年物、村尾、パトロン」

「ちょ、ちょ、ちょっと待て……!!」

 

 安瀬が今並べた酒類は俺の秘蔵の品々。超高級な俺の大切な財産たち。村尾なんて蒸留所に抽選はがきを送って手に入れた超プレミア品だ。

 

 ……と、とても嫌な予感がする。

 

「引っ越し終わりに全部飲んで、中身を安酒に入れ替えたでやんす。……て、てへへっ」

 

 俺の最悪の予想は、安瀬が口に出すことによって現実へと置き換わった。

 

 ブチッッ!!!!

 

 切れた。頭の、血管が、1つ、確実にぶちきれた……!!

 

「ふぅーー……!! ふぅーーッ!! テメェら!! 人の酒器を割って謝りもせずに隠蔽して!! おまけに俺の大切なお酒様を勝手に飲み干して安酒を詰めただぁ!? 頭の中どうなってやがる!!」

 

 本当に頭にきた!! 全員、ぶっっっっっ殺してやる!!

 

「絶対に許さねぇ!! 死ぬよりもひどい目に遭わせてやるからな!!!!」

 

 俺はスピリタス瓶とスタンガンを両手に持って彼女達に詰め寄った。

 

「「あばばばばばばばばばば……!?」」

 

 怒り狂う俺を見て、彼女たちは寄り添うように抱き合った。

 

「は、発案者は猫屋である!! わ、我は止めたでありんすからな!!」

「あ、安瀬ちゃんの嘘つきーー!! 発案したのは私だけど、皆すぐに乗ってきたじゃん!!」

「そんな事は無い!! ね、猫屋じゃ!! アレは猫屋が悪かったんじゃ!!」

「こ、このイカレ口調女めーー!! あんなに美味しそうに飲んでたくせ、あびぁばびびゃぁぁぁああああああああああああああああッ!!」

 

 醜い言い争いを続けるクソ猫に、正義の落雷を落とす。……怪我人? 知ったこっちゃねぇな!! 電流は最低限だ!! 俺の優しさに感謝して眠れ!!

 

「よぉおおし、2人目処刑完了!! 次はテメェだ、安瀬ッ!!」

「────きゃ!!」

 

 気絶した猫屋を床に寝かせて、俺は安瀬に馬乗りになるように覆いかぶさった。随分と女らしい悲鳴が出たが、そんな物で絆される俺ではない。

 

 俺は彼女の口に狙いを定めて、ゆっくりとスピリタス瓶を近づける。

 

「じ、陣内? お、女を押し倒すとは意外と積極的でござるな?」

「辞世の句はそれでいいか……!!」

「いや、その!! え、えっと……な、なぁに、これは不幸なすれ違いである。ちょ、ちょっと話し合えば誤解は煙のように宙で解け散るでおじゃる。だ、だからその瓶を下ろして欲しっ、ごぼぼぼぼぼっ!?」

 

 俺は彼女の望み通りに、瓶口を口に落としてやった。スピリタスは劇薬だ。5、6口飲ませれば十分だろ。適当な所で瓶を持ち上げて、安瀬から立ち上がる。

 

「……」

 

 床に惨めに横たわる悪逆非道の3女達。執行は無事に完了した。悪がこの世に栄えた試しはない。正義はなったのだ。

 

 だ、だけど、死ぬほど虚しい……。ま、まじかぁ……俺のお酒ぇ……。

 

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「はぁ、それで結局、後始末は俺がするんだよなぁ……」

 

 俺は死屍累々の女どもを寝床にぶち込んだ。リビングにそのまま放って置くことは流石に良心が咎めた。

 

「くそ阿呆どもめ」

 

 そう言って、寝室の扉を閉める。こうなったらヤケ食いにヤケノンアルだ。食って飲んでストレスを発散しなければ気が済まん。

 

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 ワイングラス殺人事件から10分が経過した頃。俺は再び寝室に戻ってきた。

 

「………………」

 

 潰れたクズどもの体調を一応確認しておきたかった。酒飲みモンスターズの肝臓は俺よりも強いし、猫屋に浴びせた電流は本当に最低限。なので、おそらく健康に害は無いと思うが……念のために、本当に念のために確認しに来た。

 

「とりあえず、安瀬は万が一に寝ゲロしても大丈夫なように横にするか」

 

 所謂、回復体位と言うやつだ。枕元に2リットルの水も置いておこう。これで何も問題あるまい。

 

「猫屋は……絶縁体のゴムでも当てておくか? まぁ肘を下にしないように寝かせておけばいいか」

 

 酒を飲んでいない猫屋は逆に仰向けになるように寝かしつけてやる。最後に西代だ。

 

 俺は西代の手を開いて、切り傷に絆創膏を張り付けた。……綺麗な肌をしているんだから大切にしろよな。

 

「本当に大馬鹿ばっかりだな」

「ぅっく……誰が馬鹿だって?」

「あ、起きてたか」

 

 西代がフラフラと体を起こした。蜃気楼よりも不安定。これは相当酔いが回っているな。

 

「…………」

 

 西代は焦点の合っていない目で、自分の指をボーっと見る。

 

「君、本当に……そういう所だよ」

「え、なにがだ?」

「そういう…………優しいというか、僕達に甘いっていうかぁ……」

 

 西代は頼りない口調で何故か俺を褒めた。

 

 いや、俺が優しいはずないだろ。もし絆創膏の事を言っているのなら、それはマッチポンプの様な気がする……。さっきお前らを酔い潰したのは俺だぞ? 怒り狂ってたし、甘くもない。まぁ彼女は酔って正常な判断ができていないんだろうな。

 

「男の……ツンデレって、結構、胸に響くんだからね……?」

「ツ、ツンデレ?」

「普段はちょっとツンツンしてる癖に、たまに褒めたりするだろうぅ? ……ご飯とか、お酒とかの用意も良いしさ……。ルームシェアを始めてから、本当によくそう思う……」

「あぁ、はいはい。ありがとう、ありがとう」

 

 酔っ払い特有の情緒が不安定な状態だ。褒め上戸……とでも名付けておくか。

 

「酔っ払いはさっさと寝ろ」

 

 泥酔状態の西代の体をゆっくりと布団に倒して、掛け布団を掛ける。彼女は冷え性なんだから体を冷やすといけない。

 

「もう灯りを消すからな」

 

 明日は休み明けの登校日。俺は晩飯の片づけがあるが、彼女たちは早く寝てアルコールを分解する必要があるはずだ。

 

「…………ねぇ、陣内君」

 

 西代が俺の目を見て、俺の名前を呼んだ。

 

「我慢できなくなったら僕に言うんだよ? 僕なら黙っててあげる。僕なら……大丈夫だから……ね?」

 

 …………我慢? 酒の事を言っているのだろうか。確かに、禁酒はかなり辛い。飲酒欲求を誤魔化すために本物に近いワインとグラスを用意したくらいだ。……でも、西代に言ってこっそりと酒を飲ませてもらうのは絶対にダメだ。

 

「お気遣いどうも。……でも、いいんだ。これは俺が守りたいことなんだよ」

 

 素直に気持ちを伝えた。西代の意識は朦朧としている。どうせ、明日にはおぼえていまい。

 

「そう言う……意味じゃ……ない……よ?」

 

 ボソボソと寝言のような言葉が聞こえてくる。入眠3秒前、といった感じだ。何を言っているか分からない。

 

「あ……と…………誰でもいい……わけじゃ……な………」

 

 眠気が限界だったのだろう。西代は言葉を文章にする前に眠ってしまった。俺はそれを確認して寝室からでる。

 

 何故か、酷く、アルコールを摂取したい気分になった。

 



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ワスレナグサ

 

 ワイワイとした話し声がどこからでも聞こえてくる大学講義室。何時であろうと休憩時間中の教室内は騒がしいものだ。俺達もその例外ではない。

 

「ふっふふ」

「に、西代。お前、まさか……」

「あぁ、君の想像通りだ」

「ま、マジで羨ましいぞ、おい!!」

「はははっ!! そうだろう、そうだろうとも!!」

 

 普段はクールぶっている西代が大声を上げる。今日はそれだけ喜ばしい出来事があったのだ。

 

「何をやっておるんじゃお主ら」

「ちょ、ちょっと顔近くなーい?」

 

 俺たちの密談に安瀬と猫屋が割り込んでくる。

 

「……猫屋、安瀬。君たちの身長は何センチだった?」

 

 新学期のはじめの登校2日目。大学生とはいえ、恒例行事は必ず存在する。俺たちは大学で身体測定を受けた後だった。

 

「私は162センチだったよー」

「拙者は157である。まぁ、女子の平均でござるな」

 

 2人は特に淀むことなく、自身の身長を言ってのけた。

 

 くっ、こういう時、女は本当に羨ましい。まぁ俺もそこまで低い訳ではないのだけど……。

 

「っふ、僕は伸びていたよ」

「お、おぉ!!」

「へぇー、良かったねー」

「ふむ、何センチでござるか?」

「149.01さ!! ふふふ……! これで僕も1つ上のランクにステージを進めたわけだ……!!」

「おめでとう、西代……!! この年で少しでも背が伸びるなんてな……!!」

 

 西代は自分の低身長をそこそこ気にしている。俺は男なのでその気持ちはよく分かった。

 

「それで陣内君、君はどうだった?」

 

 そんな小さな彼女は控えめに今回の測定結果を俺に問うた。

 

「……171.4だ。何故か去年よりも0.5センチも縮んでた」

 

 西代が俺の肩に手をポンっと置いてくれる。

 

「辛い……本当に辛い時間だったね」

「うぅっ」

 

 21歳男性の平均身長は171.4センチだ。……本当に平均ギリギリ。もちろん、傲慢な発言だとは理解してる。平均という事は半分は俺より背が小さい人がいるはずだ。……だが、男というものは、ち〇この長さを求めるように、身長だって無限に欲する生物。高望みするのは仕方がない事だ。

 

「どうでもいいでござるな」

「そーだねー」

「…………」

 

 神は二物を与えず。それは嘘だと思う。容姿端麗、運動センス抜群、多芸多才、巨乳、細身、そしてアルコール耐性。

 

 俺は才能に溢れたウーマンズを何とも言えない顔で眺めた。

 

************************************************************

 

 時間は少し経ち、場所は大勢の生徒でごった返す大学本館前。その大通りでは木の長机が乱立しており、簡易的な受付場を無数に作っていた。

 

 春の新入生勧誘だ。部活動とサークルが一堂に集まって新戦力を補充する行事。参加は強制であり、俺達も他の団体と同じように勧誘を行っている。

 

『二十歳未満お断り。入部条件、机上の焼酎を全て一気飲み』

 

 揮毫(きごう)、つまり毛筆で書かれたその内容を新入生に晒してだ。書道半紙の上に文鎮(ぶんちん)代わりのボトルを置いている。

 

 入部条件から分かるとおり、新しい部員を入れる気は無い。

 俺は新しく後輩を入れて騒ぐのも楽しそうだと思っていたが、彼女達3人は首を横に振った。

 

 曰く、『酒と煙草、賭博ができない奴を入れても面白くないし、逆に2浪して入ってくる新入生にまともな奴はいない』だそうだ。後半は自己紹介だろうか?

 

 ぴゅーーぴゅーー。

 

 突如、春の爽やかな風が吹いて桜が舞い散る。

 

 トランプカードを配りながら、俺は頭上の木を見上げた。俺達が陣取った場所は人の目に付きにくい隅っこ。(なお)()つ、そこは細い桜の木が植えてある花見スポットだった。

 

「桜が綺麗だ」

「じ、陣内!! びっくりするから止めて欲しいでござる……!!」

「あ、そっか。悪い」

 

 安瀬(あぜ)(さくら)。確かに、彼女からすれば急に褒められたと思ってしまうだろう。

 

「うんうん。桜が綺麗だねー」

「ふふっ、そうだね。桜が綺麗だ」

「……むぅ、貴様(きさん)らは意地悪でありんす」

 

 居心地が悪いのか照れているのか分からないが、安瀬の不貞腐れた様子は少し面白い。

 

 彼女はそっぽを向いて、ぐい吞みを煽る。

 

「んっ……ふぅ。陣内、ベット」

「了解」

 

 安瀬は10と彫られたポーカーチップを5枚テーブルに投げた。

 

 俺達は、酒を飲み、煙草を吸って、賭け事に興じて暇な時間を潰している。今ゲームでは俺はディーラーの役だ。

 

「安瀬、僕は知っているよ。君がそう言った風に掛け金を釣り上げる時はブタが多いんだ」

「はっ、つまらない戯言を吐くでないわ。そう思うのなら、降りずに勝負すればよかろう」

「あぁ、そうだね。ふふふ、ブラフにもなっていないその強気が呆気なく崩壊するさまを楽しませてもらおうか。……コールだ」

 

 西代も5枚のコインを机にぶちまけた。……10と彫られたコインにはそれ以上の意味はない。10は10だ。俺たちは仲間内で超健全にポーカーを楽しんでいる。

 

「猫屋はどうするんだ?」

「んー、悔しいけどおりる。結局最後に勝つのは冷静なタイプな訳だしー」

 

 猫屋は手札を捨て、水パイプを咥えた。

 

 彼女が下りたので場は進む。俺は5枚目のコミュニティカードをめくった。

 

「ベット」

 

 安瀬が冷ややかな声で掛け金を釣り上げた。コインが10枚ばら撒かれる。

 

「レイズ」

 

 西代も間髪入れずに掛け金を釣り上げる。コインが20枚ばら撒かれた。

 

 安瀬が一瞬止まる。彼女は西代の濁った眼を射抜くように見つめていた。

 

「おや? 手札に自信があるのならここはすぐにコールすべきだろう? もしかして、本当にブタなのかい?」

「西代ちゃんノリノリだねー」

「それな」

 

 安瀬を見下すように挑発する西代は凄く楽しそうだ。イキイキしていると言ってもいい。煽っているのか、逆にそう思わせて下ろそうとしているのかは分からないが、とにかく邪悪だ。

 

「…………コールじゃ」

「ふふ、本当に賭け事は面白いね」

 

 冷笑する西代。対する安瀬は下唇を噛んで自分の選択を信じようとしていた。

 

「わー、強心臓だね二人とも。もうちょっと手札が良かったら私も参加したんだけどなー……」

「よし、じゃあ二人とも手札をめくれ」

「「…………」」

 

 2人は手に汗を握って見つめ合う。緊張の一瞬……のはずだった。

 

 その時、長机に置かれていた芋焼酎が誰かの手に取られた。

 

 ──ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ。

 

 液体が喉を通る快音が俺達4人の耳に入り込む。恐るべき飲酒スピード。度数25パーセントが水と同じ間隔で消費されている。その事実に驚愕して、意識が参入者へと集中する。

 

 もはやポーカーの勝敗などに興味はなく、俺たちは瓶をラッパ飲みする()()()()()()()を一心に見つめていた。

 

「ふぅ、美味しかった……ひっく。……これで私は入部条件を満たしたのかしら?」

「…………………………い、いや、それは、えっと」

 

 急な先生の登場に後ずさる。どうせこんな学生行事、先生方は監視していないだろうと思って好き勝手やっていたが想定が甘かった。

 

「さて、大学内で白昼堂々と飲酒、喫煙、賭博行為。その三大禁忌(タブー)を冒した事に対して何か申し開きはあるのかしら?」

「いや、酒は先生も今飲んで──」

「これは初めから空瓶でした」

「え、いや」

「空でした」

「あ、はい」

 

 先生が言うのなら白だろうが黒になる。……今の俺達に抗議する権利は無い。

 

「あのねぇ、貴方たち……新入生から『この大学はどこでも煙草を吸っていいんですね』って聞かれた私の気持ちが分かりますか? 少しは慎みを持ちなさい」

「す、すいません。ほ、ほらお前たちも謝れ──」

 

 背後に視界を向ける。そこに、酒飲みモンスターズの姿は無かった。

 

「ま、マジかあいつ等」

「凄まじい逃げ足の速さね」

 

 俺が先生と話している一瞬の隙をついて逃げやがった。く、クズどもめ……。

 

「まったく……あら? 陣内さん、もしかして春休みに事故にでも遭ったのかしら?」

 

 先生は探るような表情で俺の顔を見つめてくる。視線の先は眉上の縫い傷だ。恐れ多い事に先生はこんな俺を心配してくれているようだ。

 

「あ、えっと、はい、その通りです。まぁ、もう退院したので学業に支障はありません」

「なるほど。それなら今、お酒は飲んでないのかしら。貴方、怪我人でしょう?」

「あぁー、そうですね」

「そう。なら丁度良かったわ。ここでの不祥事を見逃してあげるから、少し()()に付き合って欲しいのだけど」

「実験、ですか?」

「えぇ。今日届いたばかりの測定器の被験者になって欲しいのよ」

 

 ひ、被験者と言われると少し怖いな。

 

「先生の頼みなら断りはしませんけど……何をするんですか?」

「脳波を取らせてもらいます」

「の、脳波? それって情報の分野というより、医療科学の方では?」

「データを取って分析する事は技術者の仕事範囲です。それに本格的な物ではないわ。生徒の卒業研究用の題材に購入したのだけど、その試験的な導入ね」

 

 なるほど。専攻分野でなくとも、取ったものが電子的なデータなら活用する。それが情報家か。

 

「でも困ったわね。暇そうな貴方たち4人で実験しようと思っていたのだけど……。陣内さん、他の被験者に心当たりはないかしら? できれば酔っていない健康な人があと3人くらい欲しいのだけど」

「他の被験者ですか……」

 

 ぱっと思いついた知り合いはむっことバイト仲間の大場。その2人だけ。数が足りない。それにむっこはともかく、部活に所属していない大場は所在地不明だ。

 

「すいません。俺あんまり大学に友達いなくて──」

 

 ………………いや、いる。

 

 俺は少し考えて、ある人物たちの存在を思い出した。

 

「……ちょっと知り合いを探してきます。ここで待っていてください」

 

 ()()()()()()に、あいつ等は絶対にこの場にいるはずだ。

 

************************************************************

 

「くぅ……!! 今年も穢れを知らない18歳達が実に美味しそうだぜ!!」

「例年通り野郎がほとんどだが、その中で光るダイヤの原石を見つけるこの瞬間がたまらないよな!!」

「待ってろよヴァージン共!! 必ずその膜をぶち抜いてやるからな!!」

 

「…………」

 

 いた。

 赤、緑、黄の三色頭がトレードマークの3人組だ。彼らは双眼鏡を片手に新入生女子を観察している。その姿はちゃんとした不審者だ。

 

 俺は声音を限りなく低くして背後から彼らに話しかけた。

 

「オホン、えぇーこちらに不審な人物がいると通報を受けてやって来たのですが」

 

 バタバタバタ!! と彼らは慌てふためきこちらに振り向いた。

 

「「「ち、違う!! 俺らは別にやましい事なんて──」」」

「いや十分やましい行為だろ、それは」

「……なんだ、陣内か」

「たく、脅かすなよな」

「マジで通報されたかと思ったじゃねぇか」

 

 良かった。信号機トリヲはちゃんと際どい事をしている自覚があったようだ。

 

「悪い悪い……あのさ、唐突なんだけどちょっと実験に付き合ってくれないか?」

「「「……は?」」」

 

************************************************************

 

「脳波の計測ですか……」

 

 俺は佐藤先生と赤崎たちを引き合わせた。彼らは実験と聞くと、意外にもあっさりとついて来てくれたのだ。

 

「確かにある事象に対しての脳波測定パターンを評価項目ごとに分けてデータ化し、コレスポンデンス分析やクラスター分析に掛けて考察すればそれだけで卒業論文が1本出来上がりそうですね」

「……え?」

 

 赤崎の口から、何かよく分からない単語が飛び出しまくった。

 

「でもその場合だとサンプルサイズがかなり必要だな」

「なぁに、それさえ取ってしまえば後はマクロにぶち込んで終わりだろ。楽な割に結構面白い研究になると思うぜ、俺は」

 

 緑川と黄山もその話に乗る。

 

「…………」

 

 だ、誰だこいつ等。先ほど新入生女子をしゃぶるように観察していた性欲猿はどこに消えた??

 

「研究事象を変えれば何度も使えそうですし……佐藤先生、面白い事を考えますね」

「そうでしょう? 卒業研究のテーマは学生が主導で考えるものですけど、ある程度の手助けは必要ですから。どうしてもテーマが思い浮かばない子の為に、救済処置的な物を用意してあげたかったのよ」

「お優しいのですね。陣内達が羨ましいですよ」

 

 ……大人の会話だった。どうしよう、彼らとは同い年のはずなのに会話についていけない。無駄にした2年の歳月を突きつけられているようで非常に心苦しい……。

 

「と、というかお前ら、佐藤先生と知り合いだったのか?」

「え? いや、そもそも俺たちはお前と同じ情報工学科だぞ」

「ま、まじで!?」

 

 情報分野の先輩だったのか。どうりで先生と会話が成り立つはずだ。

 

「何だ、気が付いてなかったのか」

「俺たちの担当教授は阿部先生だぜ。お前も知ってるだろう?」

「阿部先生ってあの……」

 

 朧げな記憶を呼び出す。確か以前、安瀬が女子高生のコスプレで講義を受けた時にセクハラ発言をした人だったはず。

 

「阿部先生はガチでいい人だぜ!!」

「俺達、入学してすぐの歓迎会でキャバクラに連れて行って貰ってな!!」

「気分良く女と遊んだ後は、先生の奢りで風俗を梯子させてくれたんだ!! 阿部研はマジで最高の研究室だ……!! 俺は一生ついていくよ……!!」

 

 類は友を呼ぶ。そんな言葉が俺の頭に思い浮かんだ。でも、やっぱり彼らの性に大らかな姿は楽しそうで少し羨ましい。

 

「随分とお盛んなのね」

 

 佐藤先生は彼らの乱れた性事情を余裕の態度で聴き流す。

 

「まぁそれはそれとして、阿部先生には私からきちんとお礼を言っておきます。それと、貴方たち確か大学院への進学を希望してたわよね? 面接の時は、多少甘めに見てあげるわ」

「「「ま、まじっすか!? ありがとうございます!!」」」

 

 信号機トリヲが仲良く頭を下げる。彼らは頭が良いようだけど、それでも大学院に行くというのは難しいのだろう。

 

 黄山がツンツンと肘で俺を突いてくる。

 

「ぐへへ、ありがとな陣内。こんなうまい話を持ってきてくれて助かるぜ。女漁りも大切だけど、大学生活も真面目にしないといけないからな」

 

 ……何というか、彼らは俺なんかより遥かにしっかりとしていた。

 

「いや、礼なんていい。この間、お前には迷惑を掛けたし」

「そ、それは気にしないでくれ……俺も結構ヤバい事やったしな」

「?」

 

 よく分からないが、感謝してくれるのならこちらも嬉しい。それに卒業研究は俺も2年後に行わなければいけない。今のうちにどんな物か知っておくことは大切だろう。

 

 俺も2回生になったことだし、今日は真面目に学業に取り組もう。

 

************************************************************

 

「「「「痛たたたたたたッ!?」」」」 

 

 西遊記、孫悟空の緊箍児(きんこじ)のような万力で俺達の頭を締め付けてくる脳波測定器。無数の突起が頭をグイグイと縮小させる。

 

「はい、ちょっと頭に水を垂らすわよ」

「「「「つ、冷たッ!?」」」」

 

 頭から水を少量かけられた。な、何だこの拷問のような扱いは!?

 

「中古で買った旧式の物ですから。こうしないと碌に脳波を読み取れないらしいのよ」

「そんなんで卒論作って大丈夫なんですか!?」

「大丈夫よ。所詮、ここは工学系の大学。データの活用法さえ学ぶことができれば元となった物の信憑性なんて二の次です」

 

 な、なんか准教授の口から聞くとやけに生々しいな……。

 

「では、貴方たちの頭が割れる前にパパっと済ませましょう」

 

 そう言って、先生は研究室にある備え付けのプロジェクタースクリーンを下した。

 

「貴方たちは今から流れる映像を見ているだけでいいわ。脳波はこっちで読み取らせてもらうから」

「な、なるべく手短にお願いします」

 

 俺は持参したノンアルビールを開封して飲んだ。痛いので気を紛らわせる何かが欲しかった。

 

「では……」

 

 Oh,Yes(あぁ……いいわ)!! Come on(もっと来て) Come on(もっと来て)!! Please fuck me(お願い、私を犯して)!!

 

 上映されたのは全裸で交わる男女の姿だった。

 

「…………」

 

 なんだコレ。

 

「ほぅ、洋物ですか」

「中々そそられる」

「そうか? 俺はやっぱり日本人が一番興奮するな」

 

 流される洋物AVに対して、信号機達は恐るべき適応能力を見せた。何だその順応性の高さは。

 

 ぴぴぴぴぴぴぴーー!!

 

 俺達が画面を眺めて10秒ほど経った時、測定機に繋がれたPCから甲高い音が響いた。

 

「良かった。正常に作動したみたいね」

「先生、それって……」

「えぇ、そうよ。強い感情を察知して音がなるようにしてあるの。今回反応したのは赤崎さんと緑川さんね」

 

 確かに、この洋物AVに関心を持ったのは赤崎と緑川だけだ。中古と言っていたけど測定器は正確に機能しているようだ。

 

「脳波を見てみると、黄山さんも少しは揺れ動いているわね。……陣内さんは全く動いてないですけど」

 

 それを聞いて、信号機達が俺を哀れな目で見つめてくる。

 

「な、何だよ……」

「陣内、お前大丈夫か?」

「ちゃんと亜鉛とか取ってる?」

「酒ばっか飲んでないで息子のメンテナンスもしてやれよ」

「う、うるせぇな!! ほっとけ!!」

 

 ぐぬぬ、屈辱的だ。この状態でなければ、俺の御柱はきちんと機能するのに……。決して不能なんかではない。そうだろう、相棒?

 

「というか先生、いきなりなんて物を見せてくるんですか。普通に逆セクハラですよ、これ」

「ふふ、ごめんなさい。でも、男女に関わらず反応を引き出すにはこれくらいインパクトが必要ですから」

 

 先生は初めは俺と酒飲みモンスターズで実験しようと思っていたはず。あいつ等にAVを見せるつもりだったのか……。

 

「じゃあ次ね」

 

 そう言って、先生はPCを操作して流れている映像を切り替えた。今度はエロアニメだ。

 

「あれだな、ヌルヌル動くな」

「なぁーに見せられてるんだ俺たちは」

「頭が痛い」

「お前ら反応悪いな。俺は結構いけるぞ?」

 

 再びPCから音が鳴り響く。どうやら先ほど反応を見せなかった黄山の脳波が大きく揺らいだようだ。

 

「佐藤先生、是非今夜のオカズにしたいので作品名を教えてください」

「お、お前な……」

 

 明け透けないヤツというか、恥を知らないヤツというか……。

 

「えぇと、"信じて送り出した幼馴染が、まさか寝取られて外国に出稼ぎに行くなんて。外国から送られてくるNTRビデオレター、100通"。……凄いタイトルね」

 

 ビビビビビビッビビビビビッビビビビビッ!!!!

 

 突如、けたたましいサイレンが室内に鳴り響いた。

 

「おいおい、寝取られ物に過剰反応している変態がいるぞ」

「まぁ最近の流行りだしな」

「はははっ、でもこの反応はヤベーだろ。どんだけ興奮して──」

「オレだ」

 

 持っていたアルミ缶を握りつぶす。

 

「「「え?」」」

「…………」

 

 俺にはこの世で許せないものが二つだけある。それは、居酒屋で出てくる不味いお通しとNTRとかいう糞ジャンルだ。

 

 ……なんでフィクションで胸糞悪い浮気〇ックスを見なきゃ行けないんだよ。○○〇に○○〇ぶち込んだらすぐにア〇顔晒しやがって。チ〇ポか? 〇ン〇がデカけりゃ現実でもああなるって言いたいのか? 男の価値は全部チンポで決まるんですか?? 

 

「じ、陣内。お前があの美人たちに手を出していないのはもしかして……」

 

 映像を睨む俺を、赤崎が真剣な目で見つめてくる。もしかして俺の過去を察してくれているのだろうか? ……気遣いは嬉しいけど俺は別にEDという訳ではない。そこは訂正しておかないとな。

 

 俺は弁明のために口を開こうとした。だがその前に、赤崎が言葉を続ける。

 

「自分の性癖を満たすために()()()()()()()()()()()()のはちょっとやりすぎじゃね?」

「そうだな。でも、寝取られ性癖のやつって現実にいたんだな」

「なぁ、これは真剣な相談なんだが俺達もお前の趣味に協力させてもらう事は──」

「逆だ糞ども!! あと本当に見境ねぇなお前ら!!」

 

 酷すぎる勘違いに俺はひたすら怒るしかなかった。

 

************************************************************

 

 十分に測定器が動くことが確認できたので実験は早々に終了した。

 今は器具の片づけを手伝っている所。付き合ってくれた赤崎たちは先に帰したため、研究室には俺と佐藤先生の2人だけ。

 

「……ふぅ、これで終わりですか?」

「えぇ、ありがとう陣内さん。とても有意義な時間だったわ」

「いえ、そんな……色々と不祥事を握り潰してもらってますし、この程度のお手伝いならいつでも頼んでください」

「ふふふっ、そうね。まったく、貴方たちには手を焼かされてばかりだわ」

 

 先生は困ったように笑う。今日も本当にすいませんでした。

 

「あ、あはは、御迷惑おかけしました。……じゃ、じゃあ俺はこれで失礼します」

「陣内さん」

 

 退室しようとする俺を先生は呼び止めた。

 

「はい? なんですか?」

「貴方のその体質、ノンアルコールでも発現するのね?」

「…………」

 

 俺は静かに驚いた。先生の発した言葉が、あまりにも慮外のものだったせいだ。

 

「特異な症状よね。きっと、貴方の情の深さが引き起こしてしまった物なのでしょうけど」

「え、あ、ど、どうも」

 

 反応に困り、適当に返事をしてしまう。

 

「……あれ? 俺、先生にこの体質の事を話ましたっけ??」

「冬休みの飲み会で言っていましたよ。自分はそういう体質だって」

「そうっすか」

 

 あまり覚えていない。別にバレて困る話ではないけど、自分が変な体質のビックリ人間であると知られているのはちょっと恥ずかしい。

 

「自分の事ながら変な体質ですよね。まぁ、便利だとは思うんですけど」

「恋心と性欲の違いをご存じかしら?」

「……え?」

 

 先生と俺の会話が急にズレる。前にもこのような事があった気がする。

 

「恋心と性欲。それらは愛という大きな感情を構成する要素であり、2つは混合され結びついている物である。その為、2つに決定的と言えるほどの違いは存在しない。……私が目を通した心理学的恋愛論文にはそう書かれていたわ」

「は、はぁ」

 

 とりあえず、相槌を打った。何の話かよく分からない。

 

「貴方、お酒を飲んだ時に性欲以外の感情も抑制されたことはない?」

「…………」

 

 そう言われれば、そんな気もするような……?

 

「そもそもの話、性欲だけがピンポイントで抑制されるというのもおかしな話です。人の感情は複雑に絡み合う坩堝。他の感情も巻き込んで抑制されていると考えるのが自然……そうでしょう?」

「な、なるほど」

「性欲だけが抜け落ちるのではなく、お酒を摂取する事によって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。……それが私の立てた推論なんですが、どうでしょうか?」

「お、おぉー」

 

 ──パチパチパチ。

 

 俺は先生の理路整然とした語り口に感動して、思わず拍手を返した。

 

「……随分と他人事なのね?」

「あ、いや、別に興味がないわけではないですし、先生の考察が()()()()()()俺も嬉しいです」

 

 素直に思ったことを口にする。

 

「それで俺が困ることは何一つないんで」

 

 むしろ、先生から太鼓判を頂けたようで安心する。恋愛感情も搔き消している、か……それが本当なら何とも便利な話だ。あの3人と生活する上でとても頼もしい。恋心なんて持つ気は全くないが、恋は急に落ちる物というしな。

 

「忠告します」

 

 俺の無頓着な態度を受けて、何故か先生が表情を険しいものに変化させた。

 

「そのような心身症(しんしんしょう)を自分の都合よく使うのは止めなさい」

「え?」

 

 先ほどの高説を語る口調とは違って、芯の入った声だった。

 

「心はれっきとした人体の一部です。正常な反応を無理やり捻じ曲げ続ければ、そこには必ず異常が生じます」

 

 ()()。先生はそこを他よりも強く発音した。

 

「陣内さん、これは決して大袈裟な話ではありません」

 

 真剣な眼差しが俺を貫く。

 

「心療内科への受診を強くお勧めします。……異常が現れる前に、症状の改善を──」

「お断りします」

 

 拒絶した。ハッキリとした声音で先生の言葉を切った。……何故だろうか。胸の奥から()()()()()()()()がする。

 

「失礼だと思いますが言わせてください。それは余計なお世話です」

 

 先生は俺の言葉を受けて目を点にしていた。本当に失礼な物言いだとは思う。しかし、今の発言を取り消すつもりはない。

 

 症状の改善? ……冗談じゃない。

 

 仮に先生の言う通り、俺のEDが再発したとしよう。いや、そうだな……本当に強い異常が現れて一生不能になってしまったとしよう。確かにそれは男として嫌だ。

 

 だがその代わりに、あいつ等の隣に居られるというのなら別に構わない。

 

 あの3人と一緒に生活するのは本当に楽しい。下らない事で笑って、馬鹿みたいにはしゃぐ夢のような毎日だ。

 

 ただ、俺は男であり、あいつ等は魅力的な女性。きっと、先生の言う心身症(しんしんしょう)? が無ければ俺は欲望に負けて手を出していた。1年もの長い付き合いになんてならずに、関係は破綻していただろう。

 

 でもこの体質さえあれば、少なくとも卒業までの3年間は彼女達と遊んでいられる。

 

 彼女達が関係を壊す事もあり得ない。

 ()()()()()()()()に恋心を抱く人間はいない。容姿は平凡で背も高くない。学力はお粗末、大酒飲み、おまけに2浪した碌でなし。たまたま、見目麗しい才女たちと気が合った。それが俺だ。

 

「すいませんが先生。今日はもう失礼します。このお詫びはまた」

 

 俺はそれだけ言い残して研究室を去った。

 

************************************************************

 

 陣内が去った後の研究室。そこで佐藤は困ったように目頭を押さえた。

 

「はぁ……まさか、あそこまではっきりと拒絶されるなんて……過去は順調に清算されていたはずなのに……」

 

 佐藤甘利の思惑は外れた。彼女は人の良い陣内なら少しは聞く耳を持ってくれると思っていたのだ。だがそれは、春休みに入る前までの話。

 

「……母親を早くに亡くした問題児」

 

 ポツリと、彼女は安瀬桜の過去を口に出す。

 

「怪我を負い引退を余儀なくされた元スポーツエリート」

 

 次は猫屋李花。

 

()()()()()()()()()()()()退()()()()()()()()()()()

 

 次は西代桃。

 つらつらと佐藤は彼女たちの過去を並べる。

 

「そこに過去の恋愛でトラウマを抱えたグループ唯一の男子。……どうして、こう、面倒なのが一か所に集まったのかしら」

 

 ただの苦労人、佐藤甘利の胃がキリキリと荒れる。 

 

「何が起きるか本当に想像できないわ……もし4人同時に退学でもされたら、評価がだだ下がりなのよねぇ。はぁ……」

 

 若くして准教授に上り詰めた佐藤。彼女は彼らへの愛着と自身の身可愛さを混ぜ合わせて1人(なげ)く。

 

「せめて限界を迎える前に、()()()、彼の錠前を外してくれるといいのだけれど……」

 

************************************************************

 

 ……少しだけ陰鬱な気分で廊下を歩く。俺は今、絶賛自己嫌悪中だ。自分を心配してくれた目上の人に、感情に任せて生意気な口を利いてしまった。

 

 ガキすぎる。反省しろ、阿呆。

 

「はぁ」

 

 ため息をついて、何となく廊下の窓ガラスから外を眺めた。季節は春。大学内には観賞用の花々が綺麗に咲いてる。花でも見て心を安らげたい気分だった。

 

 青とピンクのワスレナグサ。その上を蝶がふらふらと舞い踊っている。

 

 花蜜に群がる夢虫(ゆめむし)。それはまるで今の自分のようではないか。ふと、そんな感想が思い浮かんだ。

 

「いや、どうした俺。流石に卑屈すぎるわ」

 

 酔っていないせいだ。テンションをアッパーにする為だけに酒が飲みたい。だけど、そういう訳にもいかないので飲酒欲求を振り払うようにずかずかと廊下を進む。

 

 目的地は家だ。今日の予定はもうない。俺を置いて逃げた酒飲みモンスターズを叱るためにも早く帰宅しよう。晩飯の用意もあるしな。

 

「……ん?」

 

 廊下の途中。就職指導室の前に陳列された用紙群を横切った。それらは就職に役立つ資格の申し込みパンフレットだ。

 

 その中の1枚を手に取った。

 

 見ているのは情報系として登竜門のような資格の用紙。1月ほど真面目に勉強すれば取れるものだと聞いた。……ちょうど禁酒の残り日数もそのくらいだ。

 

「……参考書でも買ってみるか」

 

 今日は色々と自分の未熟さを考えさせられた。

 なので、害虫ではなく、せめて益虫と思えるくらいには自分を磨いてみようと思う。別にそれで何が変わるわけではないのだろうけど、漠然とした不安を抱え、ウジウジとするくらいなら行動を起こすべきだ。

 

 そんな、らしくない事を考え込んでしまった。

 



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クズ可愛い?

 

「はぁ、入院中にもっと陣内にアプローチしておけばよかったー……4人でいると、楽しすぎてずっとふざけちゃーう……」

 

 飲食店内のテーブル席で猫屋が憂鬱そうに煙を吐いた。プカプカと浮かぶ紫煙は、彼女の頭上にある換気扇に吸い込まれていく。

 

「……あのさー、()()()()。3つも下の妹に恋愛相談って頭大丈夫?」

「う、うっさいなー。アンタの大学入学祝いも兼ねてるんだからねー? ありがたく相談相手になりなさいよー」

「ならせめて禁煙席にしてよー」

 

 場所は焼肉屋の喫煙席。猫屋姉妹は仲良く肉を焼いて食べていた。

 

「煙草の煙も、肉焼く煙も同じでしょー?」

 

 そう言って、猫屋は再び水パイプを咥えてブクブクと音を鳴らす。煙で水を泡立たせる過程が実に楽しそうだ。その後に来るマイルドで温度の低い薫香も堪らないのだろう。彼女はニコニコと満面の笑みを浮かべている。

 

 猫屋は親友(西代)が贈ってくれたボングをとても気にっていた。

 

「……タバコくさーい」

 

 猫屋花梨(かりん)は微妙な顔をして姉を見つめている。姉と違い、彼女は煙草の匂いが苦手そうだった。

 

「というかー、私じゃなくて普通に高校の女友達に相談すればいいんじゃないの? 姉ちゃん、友達多い方だったよねー?」

「花梨、女子校で育った人間の恋愛観、舐めてるでしょー」

 

 猫屋は女子校に通っていたが、花梨は共学に通っていた。

 

「え? どーいうこと?」

「私の友達、1人は卒業してすぐに20歳年上の教師と結婚して、もう一人はマッチングアプリで知り合った30歳の年上男性と付き合いだしたからね」

 

 猫屋は淡々と恐ろしい現実を口にする。

 

「ね、姉ちゃん……! それ、何で止めてあげなかったのー!?」

「し、仕方ないじゃーん。本人が幸せそうなんだからー。……恋愛ってのは個人の自由でしょー?」

「そりゃあ自由だけどさー……え、て、てかさー。あ、あの、姉ちゃん?」

 

 普通とはかけ離れた恋愛事情を聴いて、花梨は女子校あるあるの一つを思い出した。

 

「女子校って同性に告白しちゃう女の子がいるって聞くけどー……」

「……まぁ、そっちに目覚める子もいたよー? 思春期のガキ詰め込んでんだから当たり前じゃーん」

「ほ、ほえー……姉ちゃんはどうなの? 私、姉ちゃんの高校時代の話って部活動のことしか知らないしちょっと気になるー。……やっぱり告白とかされてた?」

「まぁ、年に12回くらいはされてたけどー」

「月に1回ペース!?」

 

 花梨は姉のモテモテ具合に驚愕する。

 

「自分で言うのもなんだけど、私、高校生の頃は王子様的なポジションだったからー……。あーそれと、相手の子を馬鹿にしたら許さないからねー。向こうは……その、マジだったわけだしさー」

「馬鹿になんてしないし、むしろ少しだけ納得ー…………強かったもんね、姉ちゃん」

 

 花梨が姉と同じ高校に通わなかった理由がそれだった。猫屋が10年に一人の天才だとしたら、花梨は優秀ではあるが凡庸。姉と比較される事を妹は嫌がったのだ。

 

「……今でも私より喧嘩つよそー」

「アンタは健康体なのに腑抜けすぎ。……彼氏君と同じ大学で同棲始めたんだってー? はぁー、私に勝てなくて泣いてた、あのガキンチョがねー? 人の変化ってーマジで速ーい」

「いや、姉ちゃんに言われたくないんだけどー」

 

 花梨の視線が猫屋の右肘に向けられる。花梨の声質が少しだけこわばった。

 

「それ、どうしたの? あんなに扱いには気を付けてたのに……」

「あー、これ?」

 

 猫屋は肩だけを持ち上げるようにして、まだギブスで固定されている右腕を動かした。

 

「どーでもよくなってね、こんなの」

 

 猫屋の視線は発言の通り冷めきっていた。

 

「先生が言うには1年くらいリハビリしたら曲げ伸ばしくらいはできるようになるらしいーし、大学卒業までに動かせればそれでいいやー」

「い、いいやーって……」

 

 花梨は言葉を選ぶために、少しの間、思考を回す。

 

「……曲げ伸ばしできるくらいに治ったらさ、どこまでやっていいの? 突きとか出せそう?」

「いーや。拳を振りぬいた慣性にすら耐え切れずにー、肘が脱臼するらしー。神経の圧迫も前よりひどくなってるのは確実なんだってさー」

 

 猫屋はあっけらかんとした口調で自分の右腕の説明をする。

 彼女は妹との会話を特に気にする事なく、左手で箸を使い焼き肉を器用に掴む。そのまま十分に加熱された牛タンを口へと運んだ。

 

「うーーん!! 美味しーーい……!! あ゛ー、ビール飲みたーい……だ、誰も見てないだろーし、こっそり飲んじゃおーかな……」

「姉ちゃん、こっちは結構真面目に話してんだけどー……」

 

 花梨は呆れと悲しみが混在した表情を一瞬だけ見せた。

 

「……もう復帰は絶対に無理なの?」

 

 花梨は姉の天下無双の姿をまじかで見て育った人間だった。猫屋の才能がどれほど希少で優れたものだったかをこの世で一番理解していた。その為、口にしたことは無いが本人以上に姉の引退に未練を感じていたのだ。

 

「ん? ……まぁ、無理だねー。というか、煙草吸いまくってるからー、もとより不可能だったんだけどー」

「……じゃあー、次の質問。ケガは痛くないの?」

「雨の日とかは痛むけどそれは昔からだしねー。痛み止めの代わりに煙草吸ってたら気になんないしー」

「……ねぇー、何があったのか知らないけどさー。もっと自分を大切にしなよ」

「うるさいなー……それに、別にコレ、悪いことばっかりじゃないよ?」

 

 猫屋は耳につけているピアスをチャリチャリと弄る。先ほどとは違い、彼女は熱っぽい視線で今の生活に思いを馳せた。

 

「これのおかげでー、あははっ。陣内、すごく優しくしてくれるし……」

 

 少し歪んだ思い出し笑いを浮かべ、猫屋は想い人について饒舌に語り始める。

 

「料理の時とか、何も言わずに右側に立っててー、当たり前みたいな顔して手伝ってくれてー……階段上る時とかも右側で、買い出しの帰り道でも右側。荷物ももちろん持ってくれてー、授業中も私がちゃんとノート取れてるか確認してくれてー…………くひゅ、くひゅひゅ……4人でいる時はずっと楽しくて、2人きりの時はただ居てくれるだけで、ちょっとヤバいくらい幸せー……ふひひっ。わたしー……今、人生の絶頂期かもー……本当に腕ぶっ壊して正解だったー……」

 

 常に明るい彼女にしては珍しく、ブツブツとうわ言のようにしておっもい言葉を紡ぐ。

 

 そんな彼女の様子を見て、姉を心配していたはずの花梨の全身が一気に(あわ)立った。

 

「……おっえーー!! 恋愛ポンコツな姉のせいで鳥肌が立ったッ!! 私の心配返して欲しいんですけどー……!! 姉ちゃん、メンタルヘラってるよ、それ!!」 

「だ、誰が恋愛ポンコツだってーー!?」

「ポンコツじゃん!! だってマジでやばいよ、今の!! 普通にダメ!! そんな重そうな感じ出してたら、梅治さんにめんどくさい女って思われるからねー……!!」

「そ、そんなに言わなくてもいいじゃーん」

 

 妹の容赦のなさすぎる酷評に、猫屋は軽く落ち込んでしまう。

 

「ふ、ふん……い、言われなくてもわかってるしー。こういう、陣内の善意につけこむようなのが良くないって事くらいはさー」

 

 三度(みたび)ドン引きする妹を見て、さすがに猫屋も先ほどの発言の重さを自覚したようだ。

 

「で、でもー、なんか、もうちょっとこのままでもいいかなーって。え、えへへー……!」

 

 しかし、陣内が2人きりになった時にだけ自分に向ける優しい視線を思い出して、猫屋は堪え切れず、またニヤニヤとした笑みを浮かべるのだった。

 

 そのどこまでも幸せそうな表情は恋する乙女の物だった。

 

「………………はぁー」

 

 花梨はそれを見て、気が抜けてしまう。

 

「本当に変わったね、姉ちゃん」

「ん? えー、そーお?」

 

 変わった、と言われて猫屋は意外そうな顔を作る。

 

「どのあたりがー?」

「どのって……高校卒業したくらいの姉ちゃんはさー、毎日、吐きそうなほど走ってて、顔が土気色になるまで練習して、食べる物は蒸した鶏むね肉と野菜、それとプロテインばっかり。あとは体重を増やすために不味いオートミールを大量に体に詰め込んで、良質な栄養素を確保するために変な油とかサプリメントばっかり飲んでて……」

「あ、あー……私、そんなにヤバかったー?」

「うん。目が逝ってたし、あの頃は見てて怖かったー」

「…………はぁー」

 

 文字通り地獄のような練習の日々。猫屋にとってかなり辛い過去だったはずだが、既に彼女は気にも留めていない。それよりも恋する乙女には重要なことがあった。

 

「本当に女らしくないよねー、私」

 

 猫屋はソファーに深く体を預け、緩くパーマのかかった金髪をクルクルとねじる。発言とは真逆で、そのアンニュイな姿は女らしさそのものだった。

 

「え、そーう? 今は筋肉もかなり落ちて脂肪もついてるし、前より全然色っぽいよ、ねーちゃん。体重も身長に比べてすごく軽そうだしー、腰とか脚のライン、ヤバヤバだよ?」

「…………」

 

 妹の正当な評価を受けてなお、猫屋の表情は暗い。

 

「これ見なさい、花梨」

「え、なーに?」

 

 猫屋はスマホを操作して一枚の写真を妹に見せる。そこに映し出されていたのは草津温泉に行った際に撮影した記念写真だった。

 

「この2人に告白しない男がさー、私に振り向いてくれると思うー?」

 

 浴衣姿の安瀬と西代。猫屋は2人を指差した。

 

「あー、前に遊園地で会った奴等かー……乳デカい方は私の彼氏に色目を使ってたから特によく覚えてる……」

「アハハ…! あったねー、そんなの!!」

 

 以前、遊園地で遊んだ際に、安瀬は猫屋の命令で渋々と逆ナンをさせられていた。

 

「……次会ったらぶっ飛ばしていーい?」

「か、花梨!!」

 

 猫屋は妹の無謀な発言を聞いて震えあがる。

 

「し、死にたくないならこの2人だけは敵に回さないよーにしなさい!! わ、私なんかより1000倍恐ろしいからね!! この人たち!!」

「え、えー……」

 

 自分を片手の状態で制するほど強い姉の忠告を受けて、今度は姉の友人関係に花梨はドン引きするのだった。

 

「……と、とりあえず話を戻そっかー」

「う、うん……け、けどさー、確かにこの2人は馬鹿みたいに美人だけど、姉ちゃんも負けてないと思うよー?」

「……でも男ってさー、胸が大きい子とか、背が小さい子の方が好きでしょ?」

 

 猫屋の身長は162センチ。女性の平均身長は157センチ程度なので背の高い部類には入る。

 

「胸はともかく、背は梅治さんより低いんだからそこまで気にしなくていいんじゃない? てかー、男って自分よりか弱い子が好きなだけっぽくなーい?」

 

 花梨の指摘は概ね正しい。男性が異性に魅力を感じる要素の一つに、庇護欲は確実に存在している。

 

「そ、そんなこと言われたら、私、今でも素人なら4秒くらいでぶっ飛ばせる自信があるんだけどー」

「や、やばすぎでしょ……」

 

 もう引く要素しかない姉であった。

 

「……いいよねー。か弱い女子はさー……西代ちゃんとか本当に小さくて可愛いしー。安瀬ちゃんは言うまでもなく巨乳で美人だしー」

 

 猫屋は女として完成された美貌を持つ友人たちに羨望の感情を抱く。

 

(ん? あれ? か弱い……かにゃ? 性格的に、なんか、私より強い暴力性を抱えたモンスターな気がー……)

「姉ちゃん、考えすぎじゃなーい?」

 

 猫屋の失礼な思考は花梨の言葉で打ち切られた。

 

「男なんて適当に押せば落ちるでしょ? 梅治さんも年頃の男なんだしー、姉ちゃんクラスが本気出せば楽勝だってー」

「……」

 

 妹の楽観的な態度を見て、姉は目を細める。

 

「……参考までに聞くけどさー、アンタはどうやって彼氏君と付き合えたの?」

「向こうが告白してきたー」

「全然参考になんなーい……!!」

 

 陣内は他の男と違ってめんどくさい感じなのに!! と猫屋は内心でさらに文句をつける。

 

「というか、そんなにか弱く見られたいのなら2人きりになって()()()()()()()()()()()()()ー?」

「……弱みって、例えば?」

「それこそ、右腕が痛いふりしてマッサージしてもらったりしてさー。そのまま色んな所を触らせまくって、エッチな雰囲気に持ち込んで…………ん?」

 

 花梨は自分の発言に対して疑問を覚え、首をかしげる。

 

(自分で言っておいてなんだけど、それって結構ゲスい感じするー……)

 

 相手の善意を利用した色仕掛け。道徳的に正しくないのは確かだ。"恋と戦争においてはあらゆる戦術が許される"とは言うが、実際に手段を択ばない人間は稀である。

 

「それ超いいじゃーーん!!」

 

 だが、1ミリも悩まずに猫屋はその作戦を採用する。彼女はキラキラと目を輝かせて妹の発言に"うんうん"と首を振っていた。

 

 陣内と猫屋は、安瀬や西代と比べて良識がある方ではあるが、それでも十分にクズの部類。倫理観は4人ともちゃんと終わっていた。

 

()()()()()()()()()()()()()()!! その時に何とか2人きりになって、色々と仕掛けてみよーーっと!!」

「……うん、姉ちゃんが良いなら、それで私もいいんだけどねー……」

 

 クズは恋愛の仕方までクズなのか……。そんなことを思って、花梨は姉が奢ってくれる焼肉を黙々と食べた。

 



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男の癖して攻略難易度が一番高いバグキャラみたいな酒カスと何故か一番良い空気を吸っているズルい女

 

 ずずずっとノンアルを啜り、ポテチをかじる。夕餉を食べ終えたばかりのはずなのに、無性にお腹が減る。入院して体重が減ったせいだろうか。

 

「んん……?」

 

 ポテチ袋の隣で参考書を開き、問題を解く。少しだけズレた眼鏡を指で戻した。普段は裸眼だが、俺は勉強をする時は眼鏡をかける。

 

「テスト期間でもないのに、君が勉強なんて珍しいね。明日は槍でも降るんじゃないかい?」

「うるさい。集中してるんだ、静かにしてくれ」

「やだね」

 

 シュルリと衣擦れの音が鳴る。西代が背後から首に両手を回して抱き着いてきた。

 

「今日は()()()()()()()()()んだ。一人じゃ暇だから、ちゃんと僕に構いなよ」

 

 ……相変わらず男女の距離感がバグってるやつだ。胸が背中で潰れているし、頭が肩に乗って重い。

 

「見てわかんないか? 学生の鏡とも言える、この姿がよ。放っておくことが友達ってもんだ」

「いつものパチンコ屋、今日は新台が入る日だよ?」

 

 ………そう言えばそうだったな。

 

3(さん)1(いち)9(きゅう)のミドルスペック。大当たりの後、2回ほど2分の1を突破すれば継続率75パーセントの上位ラッシュさ。出玉は全て1500発以上。35パーセントは大当たりで3000発。もちろん、6000発の脳汁演出もある」

「………………」

「今の時間なら、朝からハマりすぎて打つのを辞めて帰る人がいるはずだ。その台をハイエナしに行こう。なに、1000もハマっていればすぐに当たるさ」

 

 西代が俺の耳元で悪魔のように囁く。

 

「だから一緒に脳汁フィーバーしに行こ? ね? きっと楽しいよ?」

 

 こ、こいつ………。マジで俺の扱いが上手すぎる。ドル箱を山のように積み上げる、愉悦の妄想が脳内で勝手に作られていった。かなり強い賭博欲求が俺を支配しようとする。しかし、俺にはどうしてもパチンコに行けない理由があった。

 

「悪いけど、バイト代が入らなくなったからしばらくパチンコは無理だ」

 

 怪我の療養を理由に親に仕送りを増やしてもらっている。2浪して親に迷惑をかけまくっている俺だが、この状態でギャンブルに行くほどの親不幸者ではない。

 

「……そういう事なら仕方ないか。はぁ……」

 

 瞬間、生暖かい吐息が俺の耳に覆いかぶさった。ゾワゾワとした感覚が俺の背中を走る。

 

「み、耳元でため息をつくなよ……」

 

 ノンアルを飲んでいるので欲情はしないが物理的な感覚は流石に誤魔化せない。

 

「あ、ごめん……もしかして、性感帯だった?」

「酔ってない時に下ネタはやめろ。反応に困る……!」

 

 泥酔状態なら、非常に楽しく彼女と馬鹿みたいな下ネタトークをする俺であるが、素面では流石に恥ずかしい。

 

「ふふっ、これだから初心な坊やは」

「……処女の耳年増の分際で、経験豊富なお姉さんの振りとかクソ痛いぞ」

「ぐっ……なんてひどい事を言うんだい」

「事実だろうが」

 

 彼女の性知識の温床は本類からだろう。実際に経験があるわけではあるまい。

 

「……あれ? よく考えてみたら、陣内君は経験あるんだよね?」

「え?」

「エッチの」

 

 突如、恐ろしく生々しい淫語が彼女の口から飛び出した。

 

「……お前、そういえばかなり飲んでたな。酔ってるだろ」

 

 西代は酔うと会話内容に下ネタが増える。夕飯を一緒に食べた際に、彼女は桜尾ジンをうまそうに飲んでいた。

 

「まぁ少しだけね……それよりも、ほら、早く答えなよ。勉強がしたいと言うのなら僕の話し相手もちゃんと努めないとね」

 

 彼女は存外に"僕に面白い話題を提供しないと妨害するよ?"と言っている。酔っ払いのダル絡みだ。

 

「なんで俺がそんな(はずかし)めを……」

「そういった意図はないよ。純粋に、ただの知的好奇心さ」

 

 えぇ……何だその知的じゃない好奇心。

 

「…………まぁ、そりゃあるぞ」

 

 カリカリと手を動かしてノートに文字を書きながら、無心で返事をする。勉強の邪魔をされたくないので、少しだけ付き合ってやる事にした。

 

「6年も付き合ってた彼女がいたんだ。童貞な訳ないだろ」

「…………」

 

 西代が何故か、目を細めて俺を軽く()めた。

 

「いや、自分から質問しておいて、なんで睨む?」

「え、何のことだい?」

「眉間に皺が寄ってるぞ」

「?」

 

 西代はペタペタと自分の顔に手を付ける。そのまま不思議そうに首を傾げた。

 

 ……どうした、こいつ? 酔いすぎて表情筋がバグってんのか?

 

「……? ……まぁいいや。じゃあ初体験はいつなんだい?」

「ふ゛゛ッ」

 

 思わず、口に含んでいたノンアルビールを噴き出した。

 

「AVの質問コーナーかよ……!!」

「あはは!! 確かに、それっぽくなっちゃったね……!!」

 

 先ほどとは正反対に楽しそうに西代は笑う。本当に感情が酒でおかしくなっているようだ。

 

「はははっ……それで? どうなんだい? いちいち突っ込まずにキビキビと答えなよ」

 

 セクハラおやじかよ。クソ面倒だな。

 

「……初めて、か。確か、中1の時だな」

「────────、え」

 

 俺の返答で、西代は固まった。コロコロと表情を変えて忙しいヤツだな。

 

「中学……1年? え? ……12歳?」

「あぁ、まぁな」

「は? え? ほ、本当かい? 見栄を張って嘘を──」

「ついてねぇよ。確かに早い方だとは思うけどそんな驚く事か?」

「い、いや、え、ぅ…………ちょっと異常だと思う」

「そこまで言うか」

 

 何となく、過去を思い出す。本来は桃色の景色のはずなのだが、そこは既に色褪せた錆色の記憶。何の感情も沸いてこない。

 

「……ぼ、僕、今、21歳なんだけど」

「? 知ってるけど」

「ら、来年には22歳になっちゃうんだけど……」

「それが?」

 

 彼女は今日一番の曇り顔を俺に見せてくる。

 

「……これからは、君の事を"陣内さん"って呼ぶようにするよ」

「お、お前な」

 

 どうやら西代は21歳で経験が無い事を恥じているらしい。

 

「……あ、あの、えっと、その」

 

 西代の言葉切れがさらに悪くなる。顔が少しだけ赤い。下ネタに動じない、太々しい精神力をした、彼女の珍しい赤面シーンだ。

 

「ズバリ、直球に聞きたいんだけど──」

西()()

「ぅゅ」

 

 容易にその先に続く言葉が想像できた。どうせ行為の詳細を俺の口から説明させるつもりだ。なので強引に言葉を遮って、トントンと参考書を強く指で叩いた。

 

「猥談するくらいなら、勉強を教えてくれ」

 

 これ以上の羞恥プレイは勘弁して頂きたい。

 

「お前、プログラミングとか得意だろ? 問題が分からないから助けてくれ」

「…………そこら辺は確かに得意だけど専門用語とか覚えるのは僕、嫌いだよ? 一応聞くけど、何が分からないんだい?」

「16進数の四則計算。やり方を忘れた」

「あぁ、それなら大丈夫。任せてくれ」

 

 西代は横からシャーペンを取ると、図表を書きながら細かい解説を始めてくれる。

 

(…………)

 

 その内容は分かりやすくて、馬鹿な俺でも簡単に理解できた。

 

「はぁ」

「ん? ごめん、分かりずらかったかい?」

「いや……こう考えると俺、去年は本当に遊んでばっかりだったなぁって」

「別にいいだろう? まだ2回生なんだ。真面目になるのは3回生の秋くらいからでいいと思うな、僕は」

「…………」

 

 正直、俺もそう思っていた……けどなんか最近自己肯定感が酷く薄れている気がする。こういうマイナスな気持ちはよくない……。自己嫌悪の特効薬は、自分を磨く事だけだ。

 

「2回生からは少し真面目になろうと思ってな。遊んでばっかりじゃやっぱりダメだろ?」

「でも今のうちに遊んでおかないと、社会に出てから後悔しそうじゃないかい?」

「……まぁ、それは確かに……」

「卒業までに、いっぱい遊んでおかないとね。再来週の京都旅行も凄く楽しみさ。お金が全然かからない訳だし」

 

 昭和の日がある再来週の三連休。それを利用して俺たちは旅行に赴く予定だ。体育祭で勝ち取った優勝賞金10万円の使い道がそれだ。

 我らが『郷土民俗研究サークル』が遠征先に選んだのは京都だった。理由はなんか民俗ぽくて活動報告書が作成しやすそうであり、観光スポットも多く楽しそうだからである。

 

「僕、京都なんて小学生の遠足以来だよ。……湯豆腐に湯葉。ニシン蕎麦に左京極かねよつの出汁巻き卵ウナギ丼……」

 

 ……ぐへへへ。それは、俺もマジで楽しみだ。それに、京都の魅力は飯だけじゃない。

 

(なだ)の男酒、伏見(ふしみ)の女酒って言うくらいだし、酒も大いに期待できるぞ?」

「なんだいそれ?」

「京都伏見は水質が良いんだ。酒造りに水は大切だろ? あぁ、女酒ってのは軟水で醸造した口当たりがまろやかな日本酒の事だ」

 

 淡麗で上品な女酒に、繊細な味付けの京都料理はとてもよく合うことだろう。……まぁ、俺は禁酒中なんだけど。

 

「……ねぇ、君。ちょっと酒に詳しすぎやしないかい?」

「安瀬もこのくらいは答えられるぜ? 酒飲みとしての教養が足りてないな」

「その熱意を勉強に向けていたら、もっとましな大学に入れただろうね」

「そ、そこは同意する」

 

 酒に関する勉強なら無限にできる気がする…………あ、そうだ。酒の話で思い出した。

 

 俺は机から立ち上がって、冷蔵庫に向かって行く。そこから綺麗に包装した四角形の箱を取り出して、西代に手渡す。

 

「ほら西代」

「これは……チョコかい?」

「バレンタインのお返しだ」

 

 ホワイトデーは入院中に過ぎてしまった。だけど、彼女たちの嫌酒薬入りのチョコのお返しを俺は忘れてはいなかった。

 

「お前と安瀬の分だ。4個あるから2個づつ好きなのを食べてくれ」

「え? 僕と安瀬の分だけ?」

「猫屋には酒が入っていない別のやつを用意してる」

 

 俺が作るチョコは当然、洋酒入りだ。

 

「へぇ、何を使ったんだい?」

「ラムとブランデーとキュラソー」

「各種銘柄は?」

「モルガンにVO。キュラソーはグランマルニエだ」

「おぉ……最後のは最高においしそうだね。あれは本当にチョコに合うから」

「あぁ。味見はしてないが自信作だ」

 

 グランマルニエは40%のオレンジリキュール。コニャックにオレンジの甘さだけを落とし込んだように甘く、瓶は赤いリボンが封蝋されていてとても可愛い。スイートかつキュート。品のいいビターオレンジの香りも素晴らしい。洋菓子との相性がとても良く、パティシエの間で頻繁に用いられている。氷を沢山入れたコップに原液を流し込み、5分程度待ってから舐めるように飲むのが俺好みの飲み方だ。柑橘類の甘さとコニャックのブドウが鼻に抜ける感覚が本当に心地よい。

 

 甘党で大酒飲みである、俺好みの酒だ。味を想像しただけでよだれが出てくる。

 

「ふふっ、なるほど。1個は大当たりというわけか」

「あぁ、他のよりは値段が高いしな」

 

 700mlで2500円くらいする。

 

「わざわざありがとう。じゃあ早速、いただこうか」

 

 西代が礼を言い、箱のチョコに手を伸ばした。

 

「ん?」

 

 だが、西代の手が途中でピタリと止まる。彼女の目がチョコレートのように濁った。賭博魔、西代さんモードだ。

 

「チョコは4つあるのに、酒の種類は3つなのかい?」

「…………あぁ。ラムはダークとゴールドで分けたからな」

 

 あまりの勘の良さに驚き、少し返答が遅れてしまった。

 

「どうした? 早く食べてくれよ?」

「1個だけ()()が混じっている……なんてことはないよね?」

 

 ……やるじゃねぇか。

 

「ははは!! まさか!! 疑い深いにもほどがあるぜ、西代!!」

 

 調理中にたまたま目についた、高度数の劇薬(スピリタス)。……そんなもん、入れてみる以外の選択肢はない。

 

「ふふふ、そうだよね? まさか、嫌酒薬の仕返し、なんて陰湿な真似を君がするはずがない」

 

 西代の言葉の意味は真逆だ。俺なら必ず報復する。言葉から悪意の信頼が感じ取れた。

 

「まぁな。……でも、そうだな……。一番右端のやつはあまり上手く作れなかったから安瀬にくれてやったらどうだ?」

「なるほど、正解者へのご褒美ってわけかい?」

「さぁな。当たりの方は自分で引き当ててみせろよ」

「……君はクズだけど、時宜(じぎ)を得た遊び所ってやつをちゃんと心得てるよね。悪くない……本当に悪くないよ」

「……はは」

「……ふふふ」

 

 西代が愉快そうに微笑する。俺もその邪悪な笑みにつられて頬を吊り上げた。

 

「「げひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!」」

 

 その後、西代はちゃんとキュラソー入りのチョコを引き当て、コロコロと舌で転がして幸せそうに食べてくれた。心理学的に考察したのかは知らないが、さすがは賭博狂い。確率が絡めば彼女は無敵だ。

 

 残念な事に西代には切り抜けられてしまった……だけど、安瀬が悶え苦しむ姿が今から最高に楽しみだな!

 



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先天性じゃじゃ馬の恋路

 

 場所は(みどり)深い庭苑(ていえん)が映える料亭。月の光と鹿威(ししおど)しが(こうべ)を垂れ、()(かえ)る夜。寂寞(せきばく)の世界。

 

 料亭の室内で、女は膝を立て酒升(さけます)を煽る。品のない姿が、サカシマにみやび。桜散る(あで)やかな着物で身を包み、(おごそ)かな雰囲気すら漂わせ、彼女は酒精を血に廻す。

 

「保育園に預けられていた時、ハイハイしかできないはずなのに園から脱走したのがこいつだ」

 

 安瀬陽光は隣の妹を指さす。対面に座っているのは、お腹が大きい妊婦さん。

 

「……え?」

 

 妊婦さんの温和そうな顔が驚きで固まった。

 

「ふむ、保育園側の監督不行き届きであるな」

「あ、そういう事……」

「小学生の時、神社の賽銭箱を勝手に開けて警察沙汰になった事もあった」

「げ、元気な子供だったん……ですよね?」

「金を盗む意図はなかったでござる。かくれんぼの隠れ場所にちょうど良さそうでの」

「中学生の時、水泳部を盗撮していたロリコン教師をボコボコにして停学になりました」

「……!?」

「高校生の時には『過去にタイムスリップした時に備えて黒色火薬の作り方を学んでくるでござる!!』と言い残し、1カ月以上の家出を──」

「す、ストップ……!!」

 

 安瀬陽光の婚約者、高木(たかぎ)千代美(ちよみ)は手を大きく突き出して話を止めた。今日、安瀬は来月に開かれる兄の結婚式の打ち合わせをするために料亭にやってきていたのだ。

 

「い、妹さんの紹介だよね、これ? ギャグ漫画の話とかじゃなくて?」

「残念ながら、すべて事実だ」

「え、えぇ……」

「そんな不詳の妹だが、来月にはお前の家族の一員となってしまう。どうか気を強く保ってくれ」

「あ、え、その…………ヨロシクオネガイシマス」

 

 千代美は恐る恐るといった様子で安瀬に頭を下げた。

 

「こ、コラ! 兄貴のせいで千代美さんが引いておるではないか!!」

「だって、お前のキチガイぷりを認識しておいてもらわないと不味いだろう?」

「誰がキチガイでござるか!!」

 

 今のエピソードを聞いた人間の大半は安瀬の精神性を疑ってしまうだろう。

 

「というかの、盗撮事件の時は兄者も一緒になって暴れてくれたではないか……覚えておるぞ? 『俺の妹を盗撮した罪は死んで償え』と言って2階から人を放り投げた瞬間を……」

 

 安瀬は若かりし兄の蛮行を思い出してニヤニヤと陽光を眺める。

 

「はっ、あれは中々の大立ち回りであったな、兄上?」

「……若気の至りだ。今考えると本当に危ないことをしてしまった……」

 

 過去の無鉄砲な自分を恥じてか、陽光は頭をぼりぼりと搔く。

 

「……陽くん、昔から正義漢だったんだね」

 

 その話を聞いて、千代美は表情を和らげる。キチガイが兄に対して信頼しきった顔を見せたからだ。

 

「私を痴漢から助けてくれた時も凄かったのよ。一瞬で犯人を制圧して警察に突き出しちゃって……ふふっ、お礼も聞かずに立ち去ろうとした時はちょっとカッコつけすぎな気がしちゃったけどね!」

「ほぅ! それが兄者と千代美さんの馴れ初めでありんすか。興味があるでござる!!」

 

 2人は初対面であったが、互いに好きな者の昔話で会話に花が咲く。共通の話題を見出したおかげか、わぁわぁと大いに盛り上がり始めた。

 

「………………」

 

 話題の人、陽光は居心地が悪そうに黙ってお吸い物をすする。それを飲み終えた後で、2人の会話に口を挟んだ。

 

「俺の恋路の話は別にいいだろ。それこそ結婚式の余興で聞け。それよりも梅治君とはどうなってるんだ、桜」

 

 陽光は妹の恋心を完全に見切っていた。安瀬が自分以外に信頼しきった顔を見せる男は彼だけだったからである。

 

「梅治君が相手なら俺は安心してお前を任せられるよ。だから早く捕まえてきなさい」

 

 陽光は陣内梅治の事を義弟として迎え入れたいと思うほど、気に入ってしまっていた。

 

 婦女の名誉を守るために大怪我を負うまで体を張った。また、陣内はこの前の事件のお礼として陽光のもとへ赴き、感謝の意を込めた菓子折りを手渡していた。その2つの事柄が元より高かった陽光の評価をさらに引き上げた。彼がアル中ということを差し引いても陽光は陣内を非常に好ましく思っている。

 

「……兄貴の口から、陣内の名を聞くと(はらわた)を引きずり出してやりたくなるぜよ」

 

 陣内の復讐計画を黙っていた恨みを忘れていないのか、彼女はひどく腹を立てた様子を見せる。

 

「い、いや、あれは、未来の兄弟の(いさお)を立ててあげたくて……」

「クソ愚兄が! この場で切り捨ててくれようか……!!」

「すいませんでした」

 

 安瀬の噴火を見越して、兄は威厳も気にせずに素早く頭を下げた。

 

「あ、あの、桜さん?」

 

 何の話かは分かっていないが自分の婚約者が頭を下げている状況を変えたくて千代美は話題を変えようとする。

 

「恋人がいるんですか? 桜さん、本当にかわいいから彼氏さんもかっこよさそうですね」

「……で、あるな。拙者はこれでも、幽世の女傑。地元では"生まれる時代を間違えた傾国の美女"と持て(はや)されておりました……」

 

 安瀬は持っている升をプルプルと震わせる。

 

「でも!! あやつ!! 全然!! 我に()()()()にならないんじゃ!!」

 

 そして随分と可愛らしい洋語を口から吐きだした。

 

「一緒に風呂に入っても全く動揺せんし!! この我を押し倒してもいつも通りふざけておる!! その癖、作るご飯は美味しくて、細かい所に気が利いて……!! 何で我だけこんなドキドキせねばならんのじゃ!! 不公平でありんす!!」

「おいおい、店内で騒ぐなよ。飲みすぎ──え、風呂ぉ!? 押し倒された!?」

「あ、い、今のは出鱈目である。すぐに忘れるんじゃ!!」

「ちょ、ちょっと2人とも……声が大きい」

「あ、いや、悪い…………桜、お前、結構アグレッシブに攻めてるんだな。もっと日和ってると思ってたぞ」

「……まぁ、半年くらいは淑女らしく控えめにやってたでござるが……陣内の奴、ちょっと事情があって熊本城の如く難攻不落での。そんな事を言っていられなくなったのである」

 

 よく分からない例えを出して、しょぼんっと安瀬は肩を落とす。

 

「そ、そこでじゃ!」

 

 だが、それも(つか)の間。安瀬は姿勢を正して千代美を眩しい瞳で見つめだした。

 

「今日は千代美さんに是非とも聞きたいことがあるぜよ……!」

「え、私?」

「はい。この唐変木な兄貴を見事に堕としたその手腕。是非、ご教授願いただきたいですじゃ」

「と、唐変木は言い過ぎだろう」

「兄貴、今はちょっと黙っておれ」

 

 気狂い乙女の恋愛相談。そこに茶々を入れることは兄でも許されない。

 

「えっと、その……そういったお悩みなら協力できそうなんだけどね?」

 

 千代美は急な安瀬の頼みに驚きながらも、相談に乗ることにした。

 

「まず陣内さんってどんな方なのかな? 人柄を教えて欲しいな」

「陣内の……人柄でござるか」

 

 特に間を開ける事なく、安瀬は陣内梅治という人間の評価を口に出す。

 

「基本的にはアル中じゃ。大学だろうが公道であろうが、お茶を飲むように常に酒を飲んでおる。学生の分際で手が震えているくらいでござるからな。飲みすぎぜよ」

「…………」

 

 やはり、おかしな人間はおかしな人間に惹かれるのか……と、千代美は心の中で納得する。

 

「でも、まぁ」

 

 ポツリと、安瀬は顔を緩ませて甘い吐息を吐きだした。

 

「面白くて、優しいやつでありんす」

 

 そのシンプルで単純な物が、安瀬の心からの評価だった。

 

「……きっと桜ちゃんにとってお兄さんと同じくらい良い男なのね」

「ふん、それはないで(そうろう)。兄貴なんぞより100倍は頼りになる」

「うぐっ」

「あら、私のフィアンセをそんなにイジメないであげて」

「あ、いや、そういったわけではなくての……」

「ふふふ、冗談……桜ちゃんはその陣内さんって人の事を良く理解しているのね……とっても素敵!!」

「あ、あはは……ど、どうもでおじゃる」

 

 安瀬は恋愛という生ぬるい空気を感じて恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 

「それでね、えっと、私が今思いついた()()があるんだけど……」

「お、おぉ……!! こ、この短時間で策を思いつくとは、さすが兄貴を堕とした女性でござる!! どのような奇策であるか!」

「あの、すごく言いにくいのだけど……」

 

 千代美は空気を一白ほど溜める。

 

「普通の女の子らしくふるまってみたら?」

「……え、…………ふ、ふつ……え、ふつう……普通?」

 

 安瀬にシンプルな落雷が落ちた。

 

「さっきのエピソードを聞く限り、どう考えても普段から色々とやらかしてる感じだよね?」

「…………」

 

 記憶に新しいシェアハウス悪臭事件。陣内と一緒に沐浴までしたのに一切相手にされなかったという悪夢。それを思い出し、うなされる子供のように安瀬は顔をゆがめる。

 

「あ、あの……千代美さん……普通ってなんでござろうか」

「ま、まずその口調をどうにかしてみたら?」

「……それはダメです。私の口調を、陣内は気に入っていますから」

「!?」

 

 急に真面目腐った口調になった安瀬に千代美は驚く。やればできる、という事を安瀬は示しておきたかったようだ。

 

「えぇ? う、うーーん……? なら、もう()()()()()()()()()()()()()()()()んじゃないかしら?」

「と、突撃でござるか?」

「うん。世の中には直接的に言わないと察せないニブチンなのが沢山いるんだからね」

 

 千代美は自身の婚約者を流し目で見る。

 

「私がわざと終電を逃してみたり、ホテル街で食事しても、この人は全く意図を理解してくれなかったから。……最終的に私のほうから告白したのよ? 信じられる?」

「お、おい。あんまり妹に変なことを教えないでくれ」

「……正直に……き、気持ちを……」

「話を聞く限り、かなり長い間、片思いをしているんでしょう? それならもう気持ちを伝える以外の方法はないと思うのだけど……」

「…………」

 

 安瀬は静かに酒を煽った。酒と一緒に千代美の提案を吟味する。

 

(こ、告白……)

 

 安瀬はここ半年、ずっと告白され待ち状態だった。自分ほどの美女が近くに居て、なおかつ朗らかに笑っている。その状況で恋心を抱かぬ男なぞ存在しないと彼女は考えていたからだ。

 

(わ、我に告白されて、喜ばぬ男はいない……はず……である。……で、でも)

 

 陣内梅治は恋愛関係に置いて、かなりめんどくさい部類に入る。単純な美貌や誘惑が通じにくい相手であると安瀬はここ半年で思い知っていた。

 

「もし……フラれてしまったら」

 

 安瀬が危惧するのは今の生活の崩壊だった。想いを伝えて失敗すれば、きっと今までの生活は変わってしまう。そう考えると、安瀬はどうしても臆病風に屈してしまいそうになった。

 

「それはフラれてから考えましょう」

「え?」

「恋愛ってものはね、フラれたらそこで終わりじゃないの。友人関係がしっかりと築けているなら変に執着しすぎない限り、元の関係に戻れるものよ」

「ふ、ふむ」

「それに1回の告白で諦めるのもナンセンス! 世の中には10回告白してようやく恋仲になったカップルだっているんだから!!」

「そういう……モノでござるか?」

「そういうモノです!」

「うぅむ……」

 

 安瀬はそのバグまみれの思考回路を廻し、告白の成否状況をシミュレーションする。

 

(まず、成功パターンはこうであるな)

 

 脳内仮想、陣内梅治は安瀬の告白を受けて真っ赤に顔を染めた。

 

『え!? …………お、俺もずっと好きだった。だけど、絶対受け入れられないと思ってて……正直、死ぬほど嬉しい、ありがとう。お、俺みたいなクソ馬鹿大間抜けで唐変木の味噌っかすアル中でよければ、どうかよろしくお願いいたします!!』

 

(うむうむ……!! 我のような女と恋仲になれる幸運を噛みしめておるようで感心であるな!!)

 

 恋愛経験皆無の糞雑魚喪女である安瀬はどこまでも自分を棚に上げて考える。

 

(……そ、それで、失敗パターンは)

 

 仮想陣内梅治2号は覇気のない、ヌボーっとした顔でノンアルコールビールを開封した。

 

『え、……あ゛ー、悪い。お前は無茶苦茶可愛くて面白れぇー女だけど、今は酒飲んで遊ぶことしか考えられない。……というか、お前だってそうじゃないか? 恋人なんかより酒だよ、酒。こんな話してないで、今から酒屋で新しい酒を開拓しに行こうぜ』

 

(ま、まぁ、こんな感じでござろうか)

 

 先ほどの妄想よりはまだ現実的な予想結果が組みあがった。

 

(…………意外と何とかなりそうでござるな)

 

 千代美の助言は的を得ている。安瀬と陣内の関係性は、気持ちを知られたくらいで変わるような物ではないし、ましてや嫌われれるはずなど絶対にない。

 

『彼はそんな人じゃない』

 

(確か、そうであったな。西代)

 

 自身に発破を掛けてくれた親友の言葉を思い出し、安瀬はついに腹をくくる。

 

「で、では、その方向でやってみるでありんす……」

 

 

 安瀬は、陣内梅治との関係を進める事を決意した。

 

 

「おぉ、頑張れよ、桜。俺の見立てだと()()()()()()絶対に成功すると思うぞ」

「ふふふ、()()()頑張ってね、桜さん」

「う、うむ」

 

 家族と家族になる者の声援を受け、安瀬の心に乙女らしい勇気が湧き始める。

 

「…………あ、それで少し話が変わるであるが……」

 

 安瀬の声音が先ほどとは違い、少し、真面目な物へと変化する。

 

「千代美さんに、ちょっとお願い事があるでござる」

「私にお願い?」

「は、はい。そ、その……赤子が生まれた後の話である」

 

 安瀬は千代美のお腹を優しく見つめた。

 

「千代美さんが真っ先に抱き上げて、兄貴とご家族が触れ合った後で……拙者と一緒に……母の墓参りについてきてほしいでござる」

 

 安瀬は言葉を選ぶように紡ぐ。

 

 安瀬の母親は生前、孫を欲しがっていた。安瀬はそれを急死した母の遺言だと解釈しており、なるべく早く、亡き母に孫を一目見せてあげたいと強く願っていた。

 

「……えぇ、もちろん。私から誘おうと思っていたくらいよ」

 

 千代美も桜と陽光の母親が亡くなっている事は予め知っていた。可愛らしい義妹の真剣なお願いを、彼女は快く受け入れる。

 

「あ、ありがとうございます……!!」

 

 安瀬は、ぱっと柔和な笑顔を作る。安瀬の頼みは、人様がお腹を痛めて産んだ子供を自分の願いで振り回す行為。家族になるとはいえ、酷く気を使ってしまうものであった。

 

 頼みにくいお願いを許諾してもらい、気が抜けた安瀬は、はにかむ様に表情を変化させる。

 

「あ、あはは、申し訳な──」

 

 瞳から一滴の液体が零れ落ちた。

 

 流星を思わせる綺麗な水の流動。この世で最も美しい、母を想うて湧き出る慈しみの涙。どこまでも深く刻まれ、誰にも治せない彼女の心傷。身を知る雨は、いまだ彼女の心に降り注いでいる。

 

「……ぇ」

 

 それを見て、千代美の顔が驚きで固まる。

 

「…………」

 

 千代美の表情から、安瀬はすぐに自身の変化に気がつく。

 

「…………外でタバコ吸ってくるでござる!!」

 

 空気から逃げるようにして、安瀬は部屋から去った。

 

************************************************************

 

 時間が止まったままの和室。突然の変化に、深く事情を知らない千代美はついていけず、自らの婚約者に助けを求めるように声をかけた。

 

「あ、あの陽くん──」

「桜にとっては、普通のお別れじゃなかったんだよ」

「え?」

「あれでもかなり吹っ切れたんだ」

 

 陽光は、去った妹の残滓を見るように虚空を眺める。

 

「タバコを吸い始めたのは大学に入ってからだし、酒だって、母に付き合ってこっそり梅酒を飲むくらいだった」

 

 昔を懐かしむような、家族の言葉が響く。

 

「元のイカれた性格に戻ってくれて本当にうれしいよ」

 

 安瀬陽光は妹の回復を心から祝福する。そして、同時に思う。

 

(でも本当に……どうやったんだい、梅治君?)

 



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彼らは頭がオカシイ

 

 許して

 

やめてやめて燃やさないで、ゴミじゃない、ゴミじゃないゴミじゃないそれはゴミじゃない、寝ているだけ、すぐ、もうすぐ起きるはずなんです、だから、骨だけにしないでまだ顔を見させて、まだ母に声を掛けさせていっぱいおはなしをさせてください親孝行なんてまるでできてない、急にいなくなった、急にいなくなるからお別れの言葉さえ言えなかった、いや、それよりも謝らせて、あやまらせてあやまらせて謝らせて不出来であなたにふさわしくない娘であったことを、どこまでも愚鈍で愚かなクズであったことを謝らせて母を不幸にしたことを許して…………お願いだから、何でもいいから返事をして何でもいいから返事をしてください起きてもう一度、なんで、そんなのはいや、いやだむりやだいやだたすけてどうしてどうしてどうして、許してなんでわたしだけ、他の家ではまだ生きて、まだ死ぬような年じゃ倒れるような、わた、わたしのせいで、ぁ、ぁぁ、ぁ、ああああ、お願いかみさまなんでもするから起こしていきかえらせて起こして

 

 もう一度だけでいいから声を聴かせて

 

 お母さんを燃やさないで

 

 お願い

 

 やめて

 

 骨を(くだ)かないで

 

************************************************************

 

「──────は」

 

 目が、覚めた。

 

「────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────ふぅ」

 

 久しぶりに、母の事を夢に見た。火葬場の思い出。あれは夢である。過去の想起的な夢でありんす。

 

 中々、厳しいモノを……いや、良きモノを見たぜよ。夢のおかげで母の顔をしっかりと思い出せた。記憶は薄れていくものである。こうやって思い出せる事は幸運でござろう。

 

 ………まぁ、しかし、体が……少しだけ重い。

 

「すぅー」

「すぅ……」

「…………」

 

 体が重いのは、西代がくっついて寝ているからであった……。彼女は冷え性故に、温かい方に吸い寄せられる性質がある。

 

「……我の方が、猫屋より体温が高いようでござるな」

 

 隣では間抜け面を晒しながら猫屋が眠っている。昨日は、()()()()()が楽しみでよく騒いで飲んだ。その疲れに身を委ねているのであろう。

 

 西代を起こさないように、ゆっくりと引き離す。時刻は5時。まだ出発予定時間まで余裕がある。いつもなら西代なんぞ気にせずに二度寝する我であるが、今は意識がハッキリとしていた。

 

「…………」

 

 布団から立ち上がり、ベットに視線をやる。

 そこに陣内はいなかった。既に起床して、朝ごはんでも作っているのであろうか? ……あ奴は、本当に細かい所で気が利くというか、人が喜ぶ小さな善行を積めるタイプの人間であるな。

 

 そんな陣内を探すために、寝室から出る。リビングに広がる珈琲の良き香。朝食の準備をしていると思われた陣内は、珈琲を啜りながら机に齧りついて勉学にいそしんでいた……いいや、朝食の準備もしていたようである。台所にはサラダとトーストの用意があった。

 

「えっと…………あ゛あ゛? なんだこの問題。くそ、こんなの分かるかよ……」

 

 最近、陣内は資格の勉強に精を出している。

 頑張る(おのこ)の姿とは、何とも言い難い微笑ましさがあるでござるな。……まぁこの感情は、身内びいきというか、恋煩いが引き起こす物であるのかもしれんがの。

 

「おはようでござる」

 

 声を掛け、胡坐(あぐら)で座る彼の背に合わせるようにして、背中を預ける。

 

 顔を見られたくはない。今はきっと、我の目からは涙が出てしまっている。

 

「ん……なんだ、今日は随分と早起きなんだな」

 

 彼がこちらに振り向こうと首を背後に廻そうとする。だが、()()()()()()()()()()()。陣内の顔は、我の顔を見る直前で止まったのだ。

 

「…………おはよ。今日はいい天気だ。天気予報が言うには、今日はずっと晴れだし、明日も明後日も雨は降らないらしい」

「そうであるか。まさしく天晴(あっぱれ)な旅行日和であるな」

「あぁ」

 

 陣内のシャーペンを握っていた手が解かれ、体の支えになるように床に突っ伏す。拙者も床に手をついていた。

 

 小指の先。その僅か1ミリが、我の手に触れている。

 

「朝飯は何がいい?」

 

 陣内は、いつもと同じ声色で話す。

 

「……既にサラダとトーストが見えるが?」

「は? 何を勘違いしてんだ。アレは、俺の勉強の間食だよ。お前らの朝食はまだ作ってねぇよ」

 

 彼の隣は心地いい。

 

「退院してから腹が減って仕方ないんだよ」

「まぁそれは、当然、であるな」

「ついでに言うと、今日は和食の気分だしな」

 

 背中を預けただけで……雰囲気だけで全てを察してくれる。

 

「味噌汁と、焼きおにぎりなんてどうだ? 炊き立てのご飯に濃い口醤油とみりん、鰹節をぶち込んで、それをごま油でパリッと焼くんだ」

「……食欲がそそられる話でござる」

「だろ? 食前酒に梅酒も開けるか。絶対に美味いぞ」

「朝から酒でやんすか……」

 

 口では不満を装ったが、今はちょうど梅酒が飲みたい気分であった。

 

「お主が用意してくれると言うのであれば飲んでやるぜよ」

「あぁ、当番だしそれくらいはしてやるよ……それとな、へへっ、一杯でいいからご同伴させてくれよ」

 

 下卑(げび)た、三下の声音が聞こえてくる。それは作られた声音だ。陣内がわざと作っている声だ。

 

「酒が飲みたくて手が震えてる……もう飲酒欲求が限界寸前なんだ。なぁ、頼むぜ? 安瀬さんよ」

 

 いつもと同じように、陣内は振る舞おうとしてくれる。きっと、我の気持ちを酒と一緒に全て吹き飛ばすつもりだ。

 

「……まだダメに決まっておろう。約束も守れんのか? この糞アル中めが」

「えぇ? 真面目に頼むぜ」

 

 お主が、この約束をきちんと守ろうとしている事くらいはちゃんと分かっておる。

 

「ふん、いいから我らの為に朝飯の用意をしてこい」

 

 それでも、お主は我の気持ちを優先してくれるのであるな。

 

「はぁー、仕方ないな。……ちょっとそのまま待ってろよ」

 

 陣内は()()()()()()()()()()()()に、台所へ向かって行った。

 

「…………ぁぁ」

 

 お主のそういう所が、本当に……本当に好きでござる。

 

(約束のプチ旅行……2人きりで行きたかった。……なんて思ってしまうのは、流石に2人に悪いか)

 

 もっとも、親に仕送りを増やして貰っている陣内に、あの約束を完璧に守らせる気は我にはなかった。

 

 そんな、子供の我儘みたいな事を言うつもりはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

************************************************************

 

 

 

 

 

 

 

 

 "親から受ける最後の()()"。その言葉を最初に言ったのは誰なのだろうか。親は生涯最後、子供に死を教え込むらしい。

 

 高校生の頃、授業の一環で"教育"について作文を書いた事がある。その時、言葉の正確な意味をネットで調べた。ヒットしたのは日本国家が運営する文化科学省(もんぶかがくしょう)のホームページ。そこでは、俺達日本人の代表が教育という言葉を定義している。

 

 (いわ)く、教育とは。

 『人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない』

 

 ()()()()()

 馬鹿な俺がその言葉を解釈しやすいよう言い換えると、それは()()()()()というモノになった。

 

 教育は大人になる為に必要な物だと思います。……確か、作文にはそんな感じの文字を書いた。

 

 安瀬桜という人間に対して、俺の評価は以下の通りだ。

 幼稚で悪逆。天真爛漫な癖に、意外と気難しくてプライドが高い。そして、親しい友人だけに素の自分を見せる子供のような奴。明るくて、馬鹿で、一緒に居て楽しいから……友人として俺は大好きだ。

 

 そんな彼女だけが、俺達の中で唯一、大人になる最後の条件を満たしてしまっている。

 

 何というか……現実はどこまでもクソだ。酒と煙草、あとは観光地で夢見心地のままに遊んで全てを吹き飛ばしてやりたい。

 

 過去も未来も何も考えずに、安瀬には今を、今だけを子供のように楽しんでいて欲しい。膨大な量の楽しい時間が、彼女には必要なんだと思う。時間だけが全てを解決してくれる。

 

 今よりもクズだった昔の俺は、そういった結論を出した。

 

************************************************************

 

「乾杯でござる!!」

「ふふ、乾杯……!!」

 

 朝7時の車内。安瀬と西代がビールを開けやがった。

 

「「っち!!」」

 

 助手席に座る猫屋と共に、俺は盛大な舌打ちを出す。

 

「怪我人に運転を任せて、自分たちは酒盛りかよ!」

「ホントにねー! マジで常識なーい!!」

 

 朝から飲んでいた安瀬は仕方ないとして、西代まで一緒に飲み始めるとは……猫屋の言う通り、マジで常識が無い。

 

「んっ……ん、ぷは。……うるさいよ、君たち」

 

 西代が速攻でビールを飲み干した。あ゛ー超美味そう……。俺も酒飲みたい。最近、手の震えが止まらないので勉強の時に困っているくらいだ。

 

「6時間も素面でいるなんて、僕達には不可能だ」

「で、あるな。いいから黙って我らを運ぶぜよ。もう飲んだから運転は無理でおじゃるからな」

 

 京都までの交通手段は車だ。4人で割れば車が一番安いし、車内でなら騒ぎたい放題だ…………まぁ、運転者が非常に疲れるというデメリットがあるんだけどな、くそ。

 

「置き去りにして、2人だけで旅行に行ってやろうか」

「…………それはちょっと、ホントに少しだけアリかもー……」

 

 猫屋が何かボソボソと小言を漏らす。良く聞こえなかったが、後ろの馬鹿2人に対する呪言か何かだろうか?

 

「あ、陣内。疲れたら私と運転代わってねー。片手でもオートマなら楽勝だしー」

「……あぁ、その時はよろしく頼むぜ。まぁ休憩は多めに取るつもりだし大丈夫だろうけどな」

 

 流石にちょっと危ないので、運転は全て俺が担当するようにしよう。

 

「さてと」

 

 文句も大方出尽くしたので、俺はイグニッションを廻した。それに合わせて安瀬が口を開く。

 

「さぁ、旅路の門出を祝してもう一度乾杯である!!」

「そうだね。早速、パリピ酒でも開けようか」

「え、コカレロでも持ってきたのか?」

「そっちじゃないよ。アレ、かなり高いだろう? 僕が用意したのはこれさ」

 

 そう言って、西代はクーラーボックスから大きなツノを生やした鹿が印刷された瓶を取り出した。

 

 三大パリピ酒の1つ、イェーガーマイスターだ。56種類ものハーブが使用されているドイツの薬用酒である。不思議でケミカルな甘さが濃厚でかなり美味しい。湯で割って飲めば安眠を誘い、冷やして飲めば薬効によって気分が高揚する……という触れ込みだ。正直に言えば、グビグビ飲んでしまうので効能とか気にしたことが無い。

 

「試験管グラスも持って来ているよ」

「それ、俺のコレクションじゃねぇか……」

 

 イェーガーの通で粋な飲み方は、試験管グラスに入れてキンキンに冷やし、それを一気に煽る事だ。ダークな色合いの薬用酒が、試験官の科学的不気味さとマッチして洒脱(しゃだつ)に見える。

 

「このグラス、硬くて割れにくいから車内で飲むのにちょうどいいと思ってね」

「だからって了承も得ずに持ってくるなよ」

「まぁ勝手に私物を拝借した事は謝るよ。その代わり、陣内君にはお詫びの品を用意してある」

「え、マジで?」

「この特別な水を贈呈してあげよう」

 

 西代が俺に溶けた髑髏がプリントされた缶を渡してくる。

 

Liquid(リキッド) Death(デス)か」

 

 Liquid(リキッド) Death(デス)はハイセンスに装飾された水だ。『バーで飲んでいてもダサくない水』というキャッチコピーで売り出されていて、クラブやフェスで爆発的に売れている。物凄くカッコいい水だ。……お酒やエナジードリンクを飲んでいる気分になれる水。マジで、ただの水……酒飲みたい。

 

「あー、ちょうどいいやー。それ少し分けてー。ボングの水欲しかったんだよねー」

「あぁ、はいはい」

 

 俺は猫屋に適当に返事して、車を走らせ始めた。

 

 ……京都に早くついて欲しいなぁ。

 

************************************************************

 

 警察官、鬼塚(おにづか)正義(まさよし)は早朝パトロールの最中であった。

 

「…………」

「ふぁ~~あ。俺、朝のパトロールってかなり好きっすわ。普段の書類仕事を忘れてドライブしてる気分になりますから。……お、可愛い子発見」

「……今日から3連休だ」

 

 鬼塚は隣の若い警察官に対して、低く威厳のある声で話しかける。

 

「他県に外泊する家族も多いだろう。気をしっかりと引き締めなさい」

「……いつも思うんですけど、たまたま違反を犯しちゃった旅行中の家族とかを捕まえるのって、俺すげー罪悪感あるんすよね」

「言いたいことは分かる。だが、俺達が取り締まることによって、運転への意識改革に繋がればそれだけで悲惨な事故が減るはずだ」

 

 だから、これは大切な業務の一環なのだと鬼塚は部下に言い聞かせた。

 

「それに、この近辺で全国的に()()()()()()()()()()()()()()らしい。警戒を強めなければな」

「あー、なんか報告に上がってましたね。被害件数が300を超えるヤベーのがうろついてるって」

「そうだ。不審者を見逃さないためにも、常に気を張っておけ」

「ま、そうですね! 俺も鬼塚さんを見習って真面目に業務に取り組もうと思います!!」

「あぁ、今日は一日よろしく頼むぞ」

「へへっ、はい────ぇ?」

「? …………どうした、青信号だぞ。早く出せ」

「………………」

 

 若い警察官は同じく信号で止まっていた隣の車を凝視していた。鬼塚もそれに釣られて視線を横にやる。

 

 隣の車は陣内達の物であった。

 

 運転席で陣内はリキッドデス(酒を飲んでいるようにしか見えない)で喉を潤し、助手席では猫屋が水パイプ(違法な葉っぱを吸引しているようにしか見えない)で喫煙を楽しみ、後部座席で安瀬と西代は、試験管に入った真っ黒な液体(違法薬物にしか見えない)を飲んで大騒ぎしている。

  

「「──────────、」」

 

 飲酒運転とドラッグパーティー。白昼堂々と、ド級の違反行為に手を染めている若者たちを見て、2人の警察官は大口を開けて絶句する。

 

 2人の時間は30秒ほど止まってしまった。

 

「ば、……あ、ば。なっ、な」

 

 陣内達の自動車が遠くに進んでようやく、鬼塚の硬直が解ける。

 

「な、なにを惚けている!! 早く、追え!! い、急いで捕まえるんだ!!」

「え! あ、はい!!」

 

 若い警察官はアクセルを踏み、鬼塚は車内スピーカーを急いで手に取った。

 

************************************************************

 

 ──ウオオン、オンオオオオオオンン

 

『そ、そこの頭がオカシイ軽自動車!! 今すぐ止まりなさい!!』

 

「「「「!?」」」」

 

 突如、俺達の後方のパトカーがサイレンを鳴らし始めた。俺達4人は、普段の行いのせいかビクッと過剰に反応してしまう。

 

「……え、軽自動車って、おい」

「ま、周りに、僕たち以外に軽自動車はいないけど……」

 

 つまり……。

 

「な、な、何がバレた!?」

 

 そう言う事である。

 

「え、え、ええええーーー!? あ、あれかな!? この前の喧嘩がバレちゃったのかなーー!?」

「びょ、病院に忍び込んだ件かもしれぬ!!」

「だ、大学でお金を賭けてポーカーしたやつかも……!!」

 

 や、やべぇ……逮捕される心当たりしか存在しない……!!

 

「陣内君!!」

 

 サイレンが俺の脳内をグチャグチャにかき乱す中、西代が俺を大声で呼びかけた。

 

「逃げるんだ!!」

「は、はぁあ!?」

「そうである!! 急いで逃げるでござる!!」

「に、逃げちゃえ、陣内!!」

 

 マジかコイツ等!? 本気で言ってやがるのか!?

 

「ちょ、は、逃げ、逃げるって!?」

「いいから!! 早くアクセルを踏むんだ!!」

「そこの角を左に曲がるでござる!!」

「え、ぅ、えぇえ……!?」

 

 俺は訳が分からなくなり、彼女達の言う通りにハンドルを切る。

 

「次はすぐに右じゃ!! 細い路地をやみくもに逃げまくるんじゃああ!!」

「え、ぅ、え、え、ええ、えええええええええええええええええ!!??」

 

 俺は半狂乱のパニックのまま、彼女達に従った。

 

************************************************************

 

「に、逃げきれてしまった……」

 

 俺達4人は奇跡的にパトカーの追跡を振り切り、自宅へと帰還していた。……帰還してしまった。

 

「「「「………………」」」」

 

 明かりもついていない室内でテーブルを囲み、全員が顔を伏せて冷や汗をダラダラと流し続けている。

 

(や、やってしまった……)

 

 今回ばかりは申し開きのしようがない。完全に終わった。詰んだ。完璧に人生終わった。罪の重さに耐えきれない。

 

 俺は頭を抱えて卓上に額を押し付けた。

 

「あ、ああ……ついに、ついに、俺は警察から逃げて……は、犯罪を……」

「え、いや、陣内君。逃げるだけなら何も()()()()()()よ」

「…………え、そうなのか?」

「うん。逃げる時にパトカーに車体をぶつけたり、違法な速度で走行しない限り、何の罪も罰則もないはずだ」

「そ、そうか。なら良かった……」

 

 …………でも、なんでだろう。人生の中で一番悪い事をした気がする……。

 

「れ、冷静に考えたらさー、私達ってなんで追いかけられたんだろー……」

「確かにね。よくよく考えれば、僕達の悪行がバレたとは思えないよ」

「ふむ……」

 

 安瀬が顎に手をやり、一呼吸だけ考え込んだ。

 

「我なりに考察してみたのであるが、車内の状況が酷すぎたのが原因ではないかの?」

「あぁ、なるほどね。猫屋のボングは危ない葉っぱを吸っているようにしか見えないから」

「俺の水も、後ろで酒飲んでたお前らも結構危ない雰囲気だったと思うぜ?」

「あーー、そういうーー……」

 

 そうなると、さっき追いかけられた件については罪は無いし、俺が逃げた事にも違法性は無い。今回に関しては俺たちは完全に無罪……という事になるのだろうか?

 

「まぁでも、とりあえず、警察署に出頭するか?」

 

 恐らくだが、外では先ほどの警察官が逃げた俺達を探している。誤解を解くためにも、違法性が無かった事を説明しておきたい。

 

「いや待って、陣内君。そんな事をしたら、間違いなく長時間拘束される羽目になるよ。僕達、逃げちゃったんだから」

「西代の言う通りぜよ。我らには今、飲酒運転と違法薬物摂取の疑惑が掛かっているはずでありんす。車内の捜索とアルコール検査。それに加えて尿検査は確実であろうな」

「ま、マジ!? 尿検査ーー!?」

 

 猫屋が大音量の声を上げる。

 

「そ、それは絶対に嫌!! 健康診断ならともかく、警察署なんかで尿を摂るのなんて死んでも嫌だからねーー!!」

「…………」

 

 猫屋が嫌がるのは当然の反応だ。ドラマで見た事があるが、警察が行う尿検査では排尿する所を人に監視されるらしい。そんな羞恥プレイは俺も御免だ。

 

「で、あるな。そんな下らない事に大切な休日の時間を消費するのは嫌……嫌…………嫌……で……」

 

 急に、安瀬の歯切れが異常に悪くなる。そのまま彼女は追加の冷や汗を流しながら押し黙った。

 

「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………の、のぅ……こ、このまま京都に、に、()()()()()()()()()()()?」

 

「「「────」」」

 

 俺達3人が、驚愕の視線を安瀬に向ける。3人とも、コイツマジか、という顔をしていた。

 

「あ、安瀬、本気か?」

「ほ、他に何か代案あるかえ?」

 

 ……確かに。この緊急事態。京都まで逃げて3日もやり過ごせば、なんやかんやで、綺麗に収まってしまうのではないだろうか……?

 

「うぇー……。つ、ついに私達、追われる立場になっちゃうのかー……」

「猫屋。そういう言い方は止めるんだ」

「そうである。()()()、拙者たちは悪事を働いてはおらんではないか」

 

 強いて悪いものを挙げるとするなら、運が悪かった、という事になるのだろうか。

 

「うん。()()()、僕たちは何もしていないよ」

「まぁ。()()()、私達悪くないのかなー?」

「あぁ。()()()()()、俺達に正義がある……のか?」

 

 4人のフラフラと頼りない視線が机の中央で交わる。

 

「「「「…………」」」」

 

 その視線は段々と、強く結びついていった。

 

「「「「……に、逃げるかぁ」」」」

 

 4人の意思はここに一致した。

 

「……で、では!!」

 

 その瞬間、我らがリーダー格、安瀬桜が勢いよく立ち上がる。

 

「こ、ここ、ここに!! ぎゃ、逆都落ち大作戦の決行を宣言する!!」

「「「や、やぁー」」」

 

 あの安瀬の声が震えている。いつもなら、もっと堂々と悪巧みの宣言をする彼女であるが、流石に今回は肝が縮みあがっているようだ。……まぁ、それは皆同じなんだけど……。

 

「な、なお!! 本作戦は国家権力を相手取る、激やば作戦となっておる!! けっっっっっして!! 作戦中に捕まるような危ない行為、または警察官様に迷惑を掛けるような行為はしてはいかんぞ!!」

「「「は、ははぁ~~~!!」」」

 

 俺達史上、最大の逃亡劇が始まる。

 




出典:文部科学省ホームページ (https://www.mext.go.jp/)


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恋愛中毒・甲

 

「西代、どうだ?」

「……警察のような人影は見当たらないよ」

 

 賃貸を出て、しばらく歩いた十字路にある大きなゴミ収集ステーション。その近くで、目が良い西代が周囲を確認してくれている。今日は燃えるゴミの日だからゴミ袋が山盛りに積まれていた。身を隠すのにちょうどいい。

 

「駅まで逃げられたら俺達の勝ちだ」

「そのまま電車で大宮まで出てー、新幹線で京都にサヨウナラー、だよね!」

 

 車は賃貸に置いてきた。パトカーから逃げた時、そこそこ距離があったのでナンバーは見られていないだろうが車種と色は絶対に覚えられている。なので車は使えない。少し高くなってしまうが公共交通機関を使う事が逃走の最適解だ。

 

「駅まで2キロ弱でありんす。このまま接敵しなければ案外簡単に行けるのではないか?」

 

 よくよく考えると、俺達を追いかけていたパトカーは1台だ。逃げてから時間はそこまで経っていない。という事は捜索人数は2名だけだろう。そんな少人数から逃げる事くらい何でもない。

 

「あんまり慎重に進みすぎても見つかりそーだしー、ササっと行っちゃおーう!」

「そうだな。このまま素早く逃げ──」

「ちょっと待って……!!」

 

 安直に進もうとする俺達を、西代が手で制した。

 

「何か……聞こえる」

 

 西代が目と耳を(そばだ)てる。そう言えば、西代は耳も良かったな。

 

「「「…………」」」

 

 西代が視線を向けている二つ先の通路に、俺達も目を向ける。

 

 ──バタバタバタバタ!!

 

 そこに、大人数の警察官が走って現れた。

 

「「「「ばッ!?」」」」

 

 身を隠すため、俺たちはゴミ捨て場に頭からダイブした。

 

************************************************************

 

「……よし、ここで別れるぞ。必ず二人一組で行動するように」

「捜索対象は()()()()がメインだ。鬼塚(おにづか)さんが逃がした若者4人組は緊急性がないので後回しにする。通報があってからまだ時間は経ってない。急いで探せ!!」

「「「「はい!!」」」」

 

************************************************************

 

「…………行ったか」

「行ったでござるな」

 

 ゴミ袋を持ち上げて、警官たちがいない事を確認する。

 

「……く、臭い」

「さいあくーー……。服に匂いついてないよねー?」

 

 西代と猫屋がどんよりした顔でゴミから顔を出した。

 

「ふっ、2人とも情けないのぅ」

「ははっ、それな」

 

 2人に反して、俺と安瀬はまるで平気だ。

 

「シュールストレミングを完食した我らに、この程度の悪臭は屁の河童であるな、陣内?」

「あぁ。あの臭さに比べたらここは天国だぜ」

 

 仲良く安瀬と肩を組んで調子づく。マジで苦にならない。

 

「……私、いったん家帰ってシャワー浴びたーい」

「僕も……」

「まぁ、我も服くらいは変えたいでありんす」

「あー、まぁ、電車内で悪臭を放つわけにはいかないしな」

 

 それに、追加で言うなら見込みが甘かった。

 

「このまま駅に向かうのは無理そうだよな」

 

 あの量の警官を無策でやり過ごすのは無理だ。計画を立て直す必要がある。

 

「そうであるな。一回家に帰って態勢を整えるでござる」

「さんせー」

「異議はないよ」

 

************************************************************

 

 帰宅中であろうと警察に見つかれば俺達の逃亡劇は終わる。なので、まるで忍者ごっこのように隠れ潜みながら、俺達4人はコソコソと移動している。

 

「にひひ」

 

 安瀬が微笑をもらす。彼女は、もうこの状況を楽しんでるようだった。

 

「忍者仮装セットでも買っておけばよかったでござる」

「それ逆に悪目立ちするだろ」

「ふふふ、でも分かるよ、安瀬。正直、僕も気分が高揚している」

 

 キチガイとスリル中毒者(ジャンキー)が仲良く意気投合している。2人もかなりビビっていたはずだが、いざ実行に移してしまえば恐怖心などないようだ。

 

 この状況を楽しめるとか、悪党の素質100点満点かよ。

 

「その感性は理解できねぇ……」

「わ、私もー。警官相手にリアル鬼ごっことかマジでヤバいからねー?」

「なに、捕まっても無罪さ。危ない事さえしなければ、僕たちは無敵だ」

「で、あるな。くくく、完璧な逃亡プランを練ってやるぜよ。我の手で国家権力を出し抜いてくれる……!!」

 

 わぁー、本当にノリノリだわ、こいつ等。

 

「……まぁしかし、下着ドロであるか」

 

 急に安瀬が難しい顔をして、先ほどの警察官たちが話していた内容について言及した。

 

「何とも間が悪い……そのような不埒な輩のせいで、我らまで大迷惑である」

「そいつを囮にする作戦でも考えてみる、というのはどうだい?」

「おぉ! 名案でござるな、西代!!」

「作戦会議は家に帰ってからにしようぜ」

 

 もう家までの距離は目と鼻の先だ。というかもう、賃貸マンションの1階にある俺達の部屋が見えた。

 

「だねーー…………ん?」

 

 その時、俺達の賃貸の扉が勝手に開いた。

 

「「「「え?」」」」

 

 刹那の間で思い出す。先ほど俺達はパトカーに追われ、混乱のまま方針を決めて外に出た。

 

 つまり、家の鍵を閉め忘れていたのだ。

 

「いやー、大量大量。大きいのから小さいのまで、多様多種だ。警官から逃げてて、若い女たちが鍵を掛けずに出ていった時は、思わず神様に感謝しちまったぜ……ははは、サイコー。味見が楽しみだわ」

 

 俺達の賃貸から出てきたのは、リュックを前に担ぎ、その中身を確認する中年男性だった。

 

「かなり美人だったしなぁ、あの女達。あぁ……今からスゲェ興奮するぜぇ」

 

 マスクと眼鏡で顔を隠した、下着ドロだった。

 

 

 本日2度目、俺の脳内で緊急非常事態ボタンが連打された!!

 

 

 変態犯罪者に出くわしたせいではない。そんな奴はどうでもいい。()()()()()()()()()()()()が、3人ほど俺の隣にいる。

 

「「「…………ッ」」」

 

 自分に舐めた態度を取ったヤツに対して、どこまでも残虐に報復を実行するヤベー奴らが俺の隣に居る……!!

 

「ま、待てお前ら……こういう時ほど落ち着こうぜ? な?」

 

 下着を知らぬ男に盗まれる。その生理的に受け入れ難い嫌悪感は、男の俺には想像ができないほどの物だろう。死ぬほど気持ち悪いだろうし、憤怒の感情が湧き出て止まらないはずだ。でも、この状況はまずい。俺達も今は追われる身だ。ここで彼女達に暴走されたら収集がつかなく──

 

「コロス」

「コロス」

「コロス」

 

「ひぃ……」

 

 地獄の最下層、無間地獄(むけんじごく)から響くような声だった。

 

「女の敵ィ、生きて帰れると思うにゃよー……」

臓物(ぞうもつ)を抉って野鳥の群れにばら撒いてやるぜよ……」

「生まれてきたことを確実に後悔させてみせよう……」

 

 やべぇ、完全に臨戦態勢だ!? 

 

「あっ、まず」

 

 下着ドロは彼女たちの殺気を感じ取ったのか、俺達に気がつく。そして、大慌てで逃げだした。

 

 それがスタートの合図だった。

 

「猫屋ぁ!! お主はあのドぐされを追うでござる!!」

「僕たちは部屋で拷問器具を整えてくる!!」

「了解ーー!! 先に捕まえてボコボコにしとくーー!!」

 

 逃げた下着ドロを見て、最恐モンスターズは各自動きだした。

 

「ちょっと待て馬鹿どもぉおおおお!?」

 

 まずい、まずい、本当にまずい!! 彼女たちはアウトローだ。普段は大人しく学生を演じているが、本来の姿は規律に外れた行動を取ることに躊躇がない、社会不適合者だ。

 

 キレたコイツ等は、凶器と変わらない。激情に任せて、下着ドロをちょっと口にできないような状態にしてしまうだろう。

 

 普段なら別に止めない。一緒になって下着ドロを捕まえ、笑いながらその口にスピリタスを流し込んでいたはずだ。俺は何があろうと、大恩ある彼女達の味方をする。

 

 でも今の状況だと確実に警察に見つかり、過剰防衛でお縄になる!!

 

(こ、こうなったら!!)

 

 俺は即座に判断を下し、猫屋と下着ドロを追って全力で走り出した。

 

(俺が先に下着ドロを捕まえるしかない……!!)

 

 警察から逃げながら、先にヤツを捕らえて、下着を奪い返す、という訳の分からない珍事を成し遂げるしかない!!

 

「くそが!! 京都にはいつ行けるんだよ!!」

 

 どんどん悪くなる状況に、俺は大声で悪態をつくしかなかった。

 

************************************************************

 

 元陸上部である俺の足は当然速い。おまけに、ここ1月は禁酒喫煙していたおかげで体力もかなり戻っていた。

 

 なので、女性の猫屋くらいなら一瞬で追い抜く事はできる。

 

「ちょ、陣内!? 危ないから私より先に行かないで欲しいんだけどーー!!」

 

 彼女も相当早い部類には入るが、流石に俺にはかなわない。

 

「はぁ……はぁ……!!」

 

 だが、問題は男の方。中年男の癖して結構早い。いや、泥棒らしく逃げ足が俊敏だと言った方が正しい。追いつくのにもう少しかかる。

 

「…………ちっ!!」

 

 男が背後を向き、忌々しそうに舌打ちする。このままでは追いつかれる事を悟ったようだ。

 

「は、おい、嘘だろ!?」

 

 男はリュックから縄状の物を民家の仕切りの細高いブロック塀に向かって投げた。カギ縄梯子だ。下着ドロは縄の梯子を急いで登っていく。

 

「なんでそんな物持ってんだよ!?」

「はーはっはっは!! 俺はその道10年のプロだ!! サツから逃げる為の道具は一通り揃えてある!!」

 

 下着ドロが縄梯子を回収しながら、律義に俺の疑問に返事を返した。

 

「なんだそれ!? アンタの10年それでいいのかよ!!」

「ぐ……女3人侍らせてる、テメェなんかに俺の気持ちはわかるまい!!」

「侍らせてねぇよ!! ただの友達だ!!」

 

 俺の弁明を聞く前に、変態は細いブロック塀を伝って逃げて行った。

 

「くそ、回り込むか……」

「じんなーい!! そのままーー!!」

「え」

 

 背の高い壁に手をついている俺に、猫屋が一直線に向かってくる。

 

「とぉーう!!」

 

 猫屋は速度を落とさず俺に向かって跳躍した。

 

「な、────ぐぇ……!?」

「にゃっ!!」

 

 彼女は俺の背中に、猫みたく足二つ手一つを着き、俺を踏み台にして4メートルは跳ね上がった。彼女はそのまま細いブロック塀に着地する。

 

「よ、ほーい。ありがとー、陣内!」

 

 猫屋は高みから笑って俺に手を振る。

 

 彼女の超越した身体能力に関心する一方で、危機感と不安感の両方が俺の心にあふれてきた。

 

「猫屋!! お前、追ってどうするんだよ!! 片手で捕まえられるわけないだろ!!」

「ふふーん、陣内、私を舐めすぎー!! 捕縄術(ほじょうじゅつ)くらい、ちゃんとお父さんに習ってるからー!!」

 

 な、なんだその術……。

 

「そ、それって使っても大丈夫な技術なの──」

「じゃーね、陣内!! 怪我してるんだから、追ってくるなら慎重にねー!! ……変態、待てオラーー!!」

 

 猫屋は俺の話なぞ聞かず、怒声と共に民家の間に消えていった。

 

「あ、あの阿呆。お前も怪我人だろうが!!」

 

 というか、猫屋の方が重症だ。俺の肋骨なんてもう痛くも痒くもない。でも猫屋はまだ右手を動かす事ができない。

 

「何をする気か知らないが、急がないとな……」

 

 俺は猫屋と変態の行先に回り込む様に、急いで走った。

 

************************************************************

 

 警察と鉢合わせないよう、周囲に気を配りながら走る。ここで俺が捕まれば終わりだ。捕まって時間を消費している間に、酒飲みモンスターズが何かヤバい事をする。

 

 そんな未来を危惧していた時、視界の端に二つの影が映った。

 

「…………はぁ!?」

 

 ありえない物が宙を舞っていた。

 

 民家の隣にあった大きなマンション。そこで、()()()()()()()()()()。建物と建物の間を飛び跳ねていた。

 

 猫屋がパルクールじみた事をしてやがりやがった。

 

「うっそだろ、馬鹿、お前、片手……なんですけど」

 

 追い詰められた下着ドロが隣のマンションに飛び移り、それを猫屋が追ったのだろう。そりゃあ彼女のバネとか運動センスはちょっと並外れている。常人とは違う物差しで体を操り、落ちることなく高所を駆け巡れるはずだ。

 

 それでも心配すぎて、意識が軽く飛びかけた。

 

(……首根っこ捕まえて3時間くらい説教してやる。その後、鼻からスピリタス流し込んで、鼻で煙草吸わせて、鼻毛全部抜いてやろう……)

 

 お仕置きの内容を考えながら、ポンポンと高所から高所に飛び移るドロボウと猫屋を深く観察する。行先を予想して先回りし、両方をまとめて捕まえてやるためだ。

 

「ん? アイツ等の終着点って……」

 

 マンション群の一番端。そこにあるのは大学に一番近い位置にある、見覚えがある賃貸だった。

 

 俺は、俺達が部屋を燃やして出ていったアパートに向かって全力で駆けた。

 

************************************************************

 

 そうして、俺は賃貸の非常階段を降りた先にある路地裏についた。

 

「ぜぇ……はぁ……!! な、なんなんだ、あの身軽な金髪女は──」

「追い詰めたぜ、このド変態野郎……!!」

 

 この建物の間取りならよく知っている。絶対にここに出てくると思った。

 

「て、テメェはさっきの!!」

「挟み撃ちだ……。ほら、とっととそのバック置いてどっか行けよ。下着を返してくれるのなら見逃してやるから」

 

 下着さえ取り戻せば、彼女達の怒りも収まるだろう。コイツも警察に捕まるのは避けたいはずだ。

 

「ちっ……!!」

 

 だが俺の思惑に反して、男は棒状の長いバールをリュックから引き抜いた。

 

「え、ちょ!?」

「怪我したくないならそこを退け」

 

 男は低い声で俺を威嚇する。先ほどの間抜けなやり取りで感覚が薄れていたが、コイツは10年も窃盗を繰り返している、ベテランの犯罪者だった。ガチで危ない人間だ。

 

 も、もしかしたら、マジで殴られるかも……。

 

「…………」

 

 うん、引こう。パンツに命を懸ける気など全く起きないし、こいつが彼女達から逃げてくれるならそれでいいや。

 

「何してんだテメェ!!」

 

 突如、獣の咆哮じみた怒声が聞こえた。

 

************************************************************

 

 一瞬、誰の声か分からなかった。

 

「ね、猫屋?」

「…………」

 

 下着ドロの背後に、追いついて来た猫屋がいた。

 

「何してんだって聞いてんだよ、おい」

 

 いや、猫屋じゃない。あれは虎だ。瞳孔を縦に開いた、人喰い化生(けしょう)の虎がいる。そう思わせるほどの迫力が今の彼女にはあった。

 

「あー、やっぱいい」

 

 機嫌がすこぶる悪いのか、猛虎は足早に会話を止めた。

 

「その汚い口を開くな」

 

 空間さえ歪んで見えるほどの怒気を滲ませて、猛獣は得物を見定める。その威圧感に下着ドロは少し後ずさった。

 

「ちょ、ちょっと待て猫屋!!」

 

 下着ドロ越しに、俺は猫屋に静止を促す。

 

「ここで喧嘩なんかしたらマジでやば──」

「どうでもいい」

 

 な、なんだと!?

 

「二度と傷つけてたまるか、二度とあんな思いしてたまるか……」

「……? 猫屋?」

「私に()()を思い出させやがって……ッ」

 

 ……何を言っているのか分からないが、いつもの猫屋ではない。彼女は俺達の中では最低限の良識があって、優しいタイプの人間だ。なのに、今は口調が攻撃的で恐ろしい。

 

(き、キレすぎだろ……)

 

 猫屋がカツカツとブーツを鳴らして男に迫っていく。自分より背丈が大きく、武器を持った相手に一切の迷いなく突き進む。

 

「病院送りにしてやる」

 

 伊勢崎(いせさき)狂猫(きょうびょう)。彼女の二つ名の理由が垣間見えた。もはや彼女は言葉では止まらない。もう飛び掛かる3秒前だ。

 

 こうなれば最終手段だ。

 

 俺はたじろいでいる下着ドロの横を通り抜け、猫屋の元へ向かい──

 

「す、ストップ!!」

 

 猫屋を拘束するように抱きしめた。

 

「っっっ!?!?!?!?」

「大人しくしてくれ!!」

 

 怒り狂った彼女を止めるには、物理的に抑えるしかないと俺は判断した。

 

「じ、陣内……!?」

「利き腕が使えないんだからあんまり危ない事はするな……!! そりゃあ、お前は技術的には強いんだろうけど、本身は()()()()()()()()()()()()!!」

「っ!!」

 

 拘束し、"冷静になれ"、と彼女を諭す。猫屋からすればパルクールも喧嘩も何ら危険性のない行為なのだろうが、俺には危なっかしくてとても見ていられない。……心配してしまうので、もう少し控えめに暴れて欲しい。

 

「……きゅぅ」

「え、何その返事」

 

 彼女は、借りてきた猫のように俺の腕の中で大人しくなった。猫屋の気の抜けた炭酸ガスのような返事は謎だが、どうやら俺の説得は成功したようだ。

 

 俺は猫屋に気がつかれないように、無言で顎をしゃくって、下着ドロに早く行けというジェスチャーを送った。

 

 下着ドロは事態が飲み込めていない様子だったが、じりじりと裏路地の出口へと向かって行く。

 

「……行ったか」

「………………」

 

 男が去った事を確認した俺は、猫屋を解放する。

 

「悪いな」

 

 一応、抱きしめた事を謝っておく。俺は起きた瞬間からノンアルを飲んでいるので猫屋に邪な感情を抱いてはいない。だが、男女の仕来(しきた)り的な物で謝っておきたかった。

 

(好き好き好き、マジで無理。ずるい、ずるい。もうほんとに大好き。私の王子様。陣内、マジで好き。キュンキュンしすぎて胸が張り裂けそう。ずるい、好き、ずるい、好き、大好き──)

「おい、猫屋?」

 

 ぽぉーっと放心している様子の猫屋に声を掛ける。今になって自分がやっていた事に怖気づいたのだろうか。

 

「あ、いや、その…………もう、終わり?」

「え?」

「も、もうちょっとだけ──」

 

「ぎゃあああああああああああああ!?」

 

 すぐ近くで、男の悲鳴が聞こえた。

 

「ま、まずい!!」

 

 ヤベー奴は猫屋だけじゃなかった!!

 

 俺は猫屋の左手を掴んだ。

 

「え、あ、陣内!?」

「いいからお前も来い!!」

 

 猫屋を引っ張って、急いで悲鳴の元へ向かった。

 

************************************************************

 

「捕まえた……!! さぁ、どうやって粛清しようか!」

「カッカッカ!! 胴を掻っ捌いて、直腸を燻製にしてやるでござる!!」

 

「うわぁ……」

 

 変態が漁業用の大きな網に掛かって悶えていた。なんでそんな物を持っているのか、なんて事は聞かない。どうせ出所は安瀬のバイト先だ。

 

 網に掛かった得物を見て、2人は悪魔みたいな酷い笑みを浮かべている。

 

「おい、馬鹿2人。その辺りにしとけ」

「ん、なんじゃ陣内。遅かった……の?」

 

 安瀬は手を繋いだ俺達2人を見て、少し止まった。

 

「な、なんで、2人は手を繋いでおるんじゃ?」

「あ? リードだよ。暴れ猫を抑えておくためのな」

 

 まぁ、もう必要ないか。

 

 俺は繋いでいた手を優しくほどいた。

 

「え、陣内。そ、そんな理由で私の手握ってたのー……?」

「その理由以外に何がある……」

 

 まぁ、これで何とか間に合ったな。下着ドロは特に怪我はしていないようだし、このまま盗んだ物を返してもらってトンズラしよう。

 

「居たぞ!!」

 

 俺達が網の下で暴れている変態の前で駄弁っていると、切迫した男達の声が聞こえてきた。

 

 警察官たちだ……!!

 

「ふん、岡っ引きが来てしまったではないか」

「あーあ、ここでタイムアップかー」

「タイミングが悪いね……せっかく捕まえたのに」

 

 酒飲みモンスターズは警察の出現に、今回の悪事はここで終了か、といった雰囲気を漂わせていた。

 

「い、いや、お前ら……キレて忘れてるのか?」

「「「え?」」」

「俺達も追われてるんだろうが!!」

「「「あ……」」」

 

 どうやら彼女たちは逃げていたことを本当に忘れていたらしく、綺麗な間抜け顔を晒した。

 

「確保ぉぉぉぉおおおおおおおおおおおお!!」

 

 声を荒げ、警察官様たちが俺達目掛けて迫ってくる。

 

「に、逃げろおおおおおおおおお!!」

 

 俺は本日何度目かの全力疾走を敢行(かんこう)した。

 

「え、ちょ──ふぎぃ!?」

 

 まず最初に、足の遅い西代が押し倒され。

 

「あ、ま、待って欲しいでござ──」

 

 次に、安瀬がワッパに掛けられ。

 

「にょ、尿検査はいやーー!!」

 

 走りまくって体力の尽きたヤニカス猫屋が捕まり。

 

「旅行はどうなったんだよおおおおおおお!?」

 

 最後に、飲酒運転と違法薬物所持の疑いで俺が緊急逮捕された。

 



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猫は三年の恩を三日で忘れるが、彼女は生涯忘れない

 

 病室とはまた違った白色の綺麗な部屋で、俺は目を覚ました。

 

 あぁ、なんて優雅な朝なんだろうか。

 

 ここは、最近流行っている監獄ホテルというやつだ。バイト仲間の大場(おおば)(ひかり)が『監獄カフェとか監獄ホテルとかが今、女子に大人気なんっす!! 陣内パイセンも男なら覚えておいた方がいいっすよ?』っと言っていたが、これで事前リサーチはばっちりだ。俺もお洒落男子の仲間入りというわけだな。

 

 いやぁそれにしても、このホテルは中々悪くない。1人部屋にしては広いし、空調も程よく利いている。部屋からの見晴らしも素晴らしい。鉄格子から外を覗けば、廊下の先まで一目瞭然だ。それに防犯対策だって凄い。時折、警察官様が見回りの巡回をしてくれているからな。まぁ、日の光が一切届かない地下室なのが唯一の不満点かな、アハハハ!! …………ハハハ、ハ………ハハ。

 

 クソが!! ここはただの留置所だよ、ちくしょう!!

 

************************************************************

 

 警察に誤認逮捕された俺達は長時間にわたる取り調べを受けた。

 

 アルコール検査と尿検査、加えて下着ドロを私人逮捕した事に対する事情聴取…………それを4人分だ。無罪とはいえ身の潔白を証明するためにかなり時間がかかってしまい、その日中には調査が終わらず、日を跨ぐことになった。

 

 しかし、一度逃げてしまった俺達に帰宅は許されない。"逃亡や証拠隠滅を防ぐための施設"、つまり留置所にぶち込まれたのだ。

 

 俺は男性留置場に、他の犯罪者予備軍は女性留置場の方だ。

 

「ここ、プライバシーの欠片も存在してない……」

 

 動物園のパンダの気分だ……いや、それよりも酷いか。見回りの警察官と目が合うたびに、本物の囚人のような気分に陥ってしまい生きた心地がしなかった。

 

 当然、まったく眠れていない。

 

「…………早く出してくれぇ」

 

 切実に願う。お願いだから俺を旅行に行かせてください、と。

 

************************************************************

 

 現在時刻、午前10時。

 

 朝から尋問されたり、書類を書いたりして、俺たちはようやく解放された。

 

「疲れた……」

 

 警察署の玄関口で、思ったままの感想を口に出す。

 

「中々、楽しかったであるな!!」

 

 隣から、安瀬の元気いっぱいな声が聞こえてくる。俺とは真逆の感想だった。

 

「僕、腰縄(こしなわ)で連行されるなんて初めての経験だったよ。ちょっとドキドキしちゃった」

 

 西代が微笑を浮かべ、興奮した様子をみせる。

 

「だよね、だよねー!! 監獄ホテルみたいでー、超面白かったーー!!」

 

 猫屋が目をキラキラとさせて楽しそうに笑う。

 

 というか、本当に流行っているんだな、監獄ホテル。俺は既に嫌いになったけど。

 

「サツの見回りを気にしながらコッソリお喋りなんてー、まるで修学旅行の夜みたいだったしー!!」

「ふふ、なるほど。修学旅行と言えば京都だし、ここはほぼ京都だったわけだね」

「で、あるな!! 惜しむべきは、酒と煙草がやれなかったことだけぜよ!!」

 

 こいつ等、無敵か? メンタルがダイヤモンドで出来ているのか?

 

「……俺、ゴリラに小便する所を見られたし、そのあと、ヤクザより人相が悪いオッサンに死ぬほど怒られたんだけど……」

 

 いや、本当に怖かった。机とライトしかない無機質な室内で、自分の3倍はふとましい筋骨隆々のおっさんに理詰めで説教されるとか恐怖でしかない。よく警察の事情聴取は犯罪隠避を防ぐために苛烈に行われると聞くが、その通りだった。

 

 恥ずかしい話、この年になって泣きべそを掻いてしまった……。

 

「確かに尿検査は恥ずかしかったけど、他は大した事なかったよ? 検査官も事情聴取をした人も同性だったわけだしさ」

「まぁの。親ならいざ知らず、あのように業務上、仕方なく怒っているような(やから)の説教などは我の心にはまったく響かん」

「私なんてー、向こうがメンチ切ってくるのが可笑しくってー、ずっと変顔で対応してやったー!! 私より弱い奴から威圧感とか感じるわけないのにねー!! アハハハー!!」

 

 ガラ悪りぃ……。

 

「やっぱりそうだよね。僕もあの程度の詰問(きつもん)は余裕さ。スロットに10万円飲み込まれそうになった時の方が緊張感があったよ」

「俺はもうドン引きだよ……」

 

 この世から犯罪が無くならない理由をここに見た気がした。……その後、10万円は返ってきたんだろうな。

 

「…………行くか。京都」

 

 貴重な三連休の初日を無駄に消費してしまった。こいつ等は楽しかったようだが、俺は何も面白くない。それに昨日のように予約したホテルが無駄になってしまうのは嫌だ。

 

「さんせー!! 私、ドライブしながら煙草が吸いたーい!!」

「うむ!! 我も車内で酒を飲みたい気分である!!」

「久しぶりに晩酌をしなかったわけだしね。……でも安瀬、流石に車内で飲むのは日本酒かワインにしておこう。猫屋も、周りから見えないようにボングを吸ってね」

「ううむ、煩わしいのぅ」

「マジそれーー」

「………」

 

 もうなんか、逆に尊敬するわ、お前ら……。

 

************************************************************

 

 昨日と違って、京都までの道のりはとても順調だった。彼女たち3人と、はしゃいでいれば6時間などあっという間だったし……まぁ、楽しいドライブの時間になった。寝不足のせいで、眠気に襲われないか心配だったが杞憂だった。

 

 適度にアクセルを踏み、桜の花びらで埋まった道路をゆっくりと走る。今、俺たちは高速を降りて京都市内に到着していた。

 

「おぉ、凄いな、あれ」

 

 道路の横に出現した馬鹿でかいお寺を見て、俺は感嘆の声を漏らす。古風な木造建築物が街路樹の桜でドレスアップされているようだった。その佇まいが日本人の心に強く響く。

 

「安瀬、あのお寺はなんなんだ?」

「あれは東本願寺でござる。過去に4度ほど焼失した歴史を持つ、生命力溢れたありがたーいお寺じゃ」

 

 観光客と他の車が多いせいで、俺達の進みは遅い。京都風に言えば牛車と同じ速度だ。だが、歴史に詳しい安瀬の話を聞いていれば退屈はしない。

 

「よ、4回は凄いねー……」

「その度に建て直したのかい?」

「うむ……。まぁ、再建はここに限った話ではないがの。京都の寺は大抵が全焼しておる」

 

 安瀬の解説は歴史に興味がない俺が聞いていても面白いものだった。旅行のお供として彼女ほど頼れる人間はいない。

 

「しかし、()()()()()()()()()。なんて言うのは、もはや大昔の話でありんすな。観光客が山のようじゃ。出店も多くて、退屈しそうになくてよい」

「…………ふふふ、なんだい安瀬。漱石かい? 君の事だから平家物語あたりから即妙(そくみょう)な言葉を持ってくると思ってたよ」

「あっちは祇園精舎云々(うんぬん)が有名すぎて詰まらんぜよ」

「まぁ、そうだね。……でも本当に、風雅でアルカイックな町景色だ。見ているだけで感銘を受けるよ」

「しかし、絶景というは樽肴(たるさかな)ありてこそとは、である」

「ははは!! 確かに、僕たちにはそのくらいの言い回しがちょうどいいね」

 

 変な会話を始めた安瀬と西代をバックミラー越しに見る。2人はニヤニヤと笑いながら酒瓶を手に持っていた。

 

「「乾杯……!!」」

 

 そう言って、安瀬と西代は本日5回目くらいの祝杯を挙げた。

 

 奇怪なテンションで酒を酌み交す2人を見て、俺と助手席の猫屋は思わず目を合わせた。

 

「あ、あの2人ってさー、たまに訳の分からないこと言って笑い合うよねー……?」

 

 猫屋の言う通りだ。どこに笑うポイントがあったのか理解できない。

 

「どうせ歴史とか本の話だ。俺達に分かるわけがない」

「……なんで理系の大学に入ったんだろー」

「それはいつも思う。……でも本質は賢い振りをしているだけのキチガイ達だから。狂人と魔人の宴だからな、あれ」

「あはは、それちょっと言えてるー」

「そこ!! 聞こえているからね!!」

「誰が狂人と魔人じゃ!! 不敬罪でぶった切ってやろうか!!」

 

 ぷんすかとサイコパス大魔人達が怒りだす。こうなると面倒だ。適当にあしらってしまおう。

 

「あぁ悪い、(いのしし)武者の間違いだった」

「…………うむうむ、それなら許してやろう」

 

 安瀬は満更ではなさそうな顔をして神妙に頷いた。安瀬の扱いなどこんなもので良い。

 

「そ、それでいーいんだ……」

「僕はそれ嫌なんだけど……」

 

 まぁ、そんな感じで、なんだかんだ仲良く、俺たちは京都に無事についたのだった。

 

************************************************************

 

「絶対にニシン蕎麦ぜよ!!」

「カラシそば以外ありえなーい!!」

「ここはどう考えても卵サンド一択さ……!!」

 

 適当な駐車場に車を止めてから5分も経たない内に彼女たちは喧嘩を始めた。

 

「…………」

 

 京都に着いた途端にこれだよ。さっきまで、10年来の友人のようだった安瀬と西代さえもが、いがみ合っている。そこに猫屋も加わり、三つ巴の戦いだ。

 

「ふん、ポン酒(日本酒)には蕎麦であろう? 貴様(きさん)ら、やはり教養とか脳みそが足りてないのでござろうな!!」

「はぁーー?? 普通、旅行の時はさー、ご当地でしか食べられないような物を食べるもんでしょー!? ニシン蕎麦なんて学食の蕎麦にニシンでもぶち込んで食べてなよーー!!」

「猫屋の言う通りだね。でも、辛いの物は別にいいだろう? 猫屋はいつも持っている、人間失格な劇毒香辛料をご飯に掛けてなよ。僕は、ワインに合う卵サンドを所望させてもらおう……!!」

 

 1日分、休日を無駄にしてしまった俺達。元からの予定プランは狂っていた。食べる物のプランも、もちろんガタガタ。彼女たちの喧嘩の原因はそれだ。

 

「なぁ、どうでもいい事で喧嘩するの止めようぜ。もう俺、お腹ペコペコだし、ちょっと眠いんだよ……」

 

 車を停めてから、急に眠気が襲ってきた。彼女たちの下らない言い合いを見たせいではない。俺は一昨日は早起きして勉強をしていたし、昨日は監獄だ。寝不足のツケが今になって来たのだ。

 

「旅行中に悪いけど、ご飯食ったら1時間くらい車で仮眠させてくれ」

 

 ちょっと、この状態で運転を続けるのは危ない。一旦、脳をリフレッシュしたいと考えていた。

 

「え、そんなに眠たいのかい?」

「言ってくれれば運転代わったのにー……」

「せっかくの旅行なのに勿体ないでありんす……」

 

 彼女たちは少し心配そうに俺の顔色を伺ってくれる。……確かに、猫屋にあまり運転をさせたくなくて、全部引き受けたのは良くなかった。反省しよう。

 

「あぁ、すまん。昨日、眠れてなくてな……。だから早く何食べるかを決めてくれ」

 

 俺がそう言うと、再び酒飲みモンスターズはお互いの顔をキッと睨みつけた。

 

「ニシン蕎麦である!!」

「カラシそばーー!!」

「卵サンドだ!!」

 

「…………はぁ」

 

 思わずため息が飛び出した。彼女たちの脳内に譲歩という言葉は存在しないようだ。こうなれば仕方ない……

 

「分かった。いつも通り、ゲームで決めようぜ」

「「「え?」」」

 

 酒飲みモンスターズは俺の発言を受け、仲良く首を傾げた。

 

************************************************************

 

 俺は車内に当然のように転がっていた()()()()2()()()()()()を彼女達に手渡した。

 

「チキチキ~、げっぷ我慢選手権~~~」

「「「ッ!?」」」

 

 投げやりな言葉で、今回のゲーム名を俺は告げる。

 

「ルールは簡単だ。安瀬と西代は瓶ビールを、猫屋は炭酸水を一気飲みしてげっぷを我慢する。最後までげっぷを我慢できた奴の勝ちだ」

 

 眠気で鈍った頭で思いついたゲームにしては、中々面白い催しではないだろうか? 俺は少しだけ得意気な気分になった。

 

「陣内君……君も時々、安瀬と遜色ないくらい酷いゲームを考えるよね」

「はは、そう褒めるなよ」

「そうだね。もっと罵倒すればよかったよ」

 

 失礼な。このゲームはとても公平な物だ。これなら禁酒している猫屋でも参加できるし、大量のアルコールで誰も潰れない。旅行中に行う賭けとしては最適と思える。

 

「まず最初に、乙女の意地として確認させてもらうけど、最後まで生き残った場合は遠くに逃げる事を許してくれるんだろうね?」

「あぁ、当然だ。誰も聞いてない所で思う存分、ガスを吐き出してくれ」

 

 ……一応、最低限の配慮として男の俺はずっと耳を塞いでいよう。

 

「なら僕は乗った」

 

 おお、流石に西代だ。一切の躊躇なく女を捨てやがった。

 

「よし、なら2人はどうする?」

「…………げ、げっぷ我慢……でござるか?」

「…………ま、マジでー……?」

 

 2人は、その端正な顔を歪めて何とも言えない絶妙な顔を晒していた。

 

(こ、今回の旅行で告白する予定の身で、そ、そんな下品な真似ができる訳が無かろう……!?)

(じ、陣内にげっぷ聞かれるのは、や、ヤバいよねー……女として見てくれなくなっちゃうー……)

 

「……?」

 

 どうしたのだろうか? 俺たちは常日頃から吐しゃ物に塗れた生活を送っている。嘔吐中、お互いに何度も背中を擦りあった仲だ。げっぷ程度の下品など、そこまで気にならないと思っていたんだが……。

 

「ゲームをやらないなら、西代の不戦勝って形を取るぞ?」

 

 その場合、今日の遅めの昼食は卵サンドになる。……お腹すいてるし、美味しいだろうな。

 

「……陣内君、もう出発していいんじゃないかい? どうやら、この雑魚で意気地のない2人はすでに戦意を喪失しているみたいだよ?」

「「…………あ゛ぁ゛ん!?」」

 

 西代の流れる様な煽りに、安瀬と猫屋がキレた。沸点が低すぎる。

 

「少々、僕は君たちを買い被りすぎていたようだね。生粋の博徒である僕と君たちとじゃあ、胆力の格が違ったようだ……くふふ。あ、申し訳ない。口先だけの臆病者を見ると、つい、失笑がこぼれてしまってね?」

「「ぐ、ぐぎぎぎぎぃ……!!」」

 

 西代の明け透けな挑発を受け、安瀬と猫屋が歯を軋ませる。西代のヤツ、なんて高い煽りスキルを持っているんだ。

 

「こ、こ、今回だけは見逃してやるでござる……!! 精々、夜道には気を付けるんじゃな!!」

 

 夜襲する気かよ。

 

「お、覚えてなよー!! 私は七代先まで恨みを忘れないんだからねー!!」

 

 お前は化け猫か。

 

「ははは、負け犬の遠吠えがキャンキャンとうるさいね。さぁ陣内君、格付けは済んだわけだ。早速、出してくれ」

「え? なんだ、マジでやらないのか」

 

 意外だ。安瀬と猫屋の性根なら、あそこまで煽られたら決着が付くまでやりあうと思ったんだが……。

 

「面白いゲームだと思ったんだけどな」

 

 俺は落胆の声を出して、車のキーを回した。なんか、余計に眠くなって来た。勝敗が決まったというのなら、早く行ってしまおう。

 

(こ奴、酒を飲んでなくてもこれか……)

(な、何で私、こんなのに惚れたんだろー……)

「ふふふ、卵サンド、楽しみだなぁ」

 

 西代の上機嫌な鼻歌をバックミュージックにして、俺は運転を開始した。

 

************************************************************

 

 ご飯を食べ終わった陣内は彼女達を観光スポットまで運び、宣言通り車内で仮眠を取り始めた。

 

 3女はコンビニで陣内お気に入りのスイーツとノンアルビールを買って車内に残し、寝た陣内の顔にマジックで『運転お疲れ様!!』っと落書きをした後で、3人だけで観光に(おもむ)いた。

 

 ()()()までの緩くて長い坂道を3人は登っていく。陣内梅治()を欠いた状態での彼女たちの姿は、色とりどりに実った果実の行進を意味していた。

 

 長く、後ろ1つに纏めた色素の薄い御髪(みぐし)(やなぎ)の如く揺らし、

 ウェーブの掛かったブロンドを煙のように大気に緩ませ、

 光を逃がさない漆黒の髪を景色に溶け込ませる。

 

 見目麗しい彼女たちとすれ違った観光客は思わず振り返り、その美貌を思い出すようにして後頭部を見つめていた。

 

「あー、鬱陶しーい」

陣内君(壁役)がいないと僕らはこんなものさ」

「贅沢な悩みであるとは思うがの」

 

 見返り美人たちが視線を感じて煩わしそうに声を上げる。

 

「…………女3人ではどうにも舐められるぜよ」

 

 そこで、安瀬がピタリと止まった。

 

「ちと面倒な話ではあるが、くふふ、とりあえず木刀でも腰に差して歩くかの!! お主ら、少しだけ待っておれ!!」

 

 そう言うや否や、安瀬は近くにあったお土産屋さんにスタスタと入っていく。了承の言葉も待たずに駆けていく安瀬に、2人は呆れた様子でため息をついた。

 

「どう考えても、余計に悪目立ちするだろう……」

「それねー……やっぱり安瀬ちゃんって木刀とか買っちゃうんだー……」

「目がキラキラしてたからそれだけじゃ済まないと思うよ。下駄とか兜とか和っぽい物をフル装備して戻ってくるはずさ」

「好きだよねー、そういうのー……とりあえず私達もここら辺で何か見るー?」

「いいね。出店を軽く冷やかしに行こうか」

 

 取り残された猫屋と西代は、安瀬が入店したお店周りからあまり離れないように周囲を散策し始めた。

 

「……軽食とか甘味のお店ばっかりだね」

「だねー。お腹いっぱいだし、お酒がないと興味惹かれなーい」

「同感だよ。猫屋は安瀬みたいに何か欲しい物は無いのかい? 君、変な小物が好きな性質だろう?」

「へ、変って……可愛いって言って欲しいなー」

 

 猫のシガーケースや大鷲のジッポ。陣内とペアの月のスキットルに変わったマッチ。猫屋は日用品の小物には拘るタイプだった。

 

「まぁ、欲しい物はもちろんあるよー? 京都って言えばー、七味が有名じゃーーん!! いい機会だからダース単位で買って帰ろうと思っててさーー!!」

「うん、まぁ、猫屋の消費量ならそれくらい買わないと駄目だよね……」

 

 西代は自身が作ったうどんに七味瓶をまるごと入れられた事を思い出し、どんよりとした目を猫屋に向ける。

 

「でしょー? この近くにないかなー? 七味専門店ーー!!」

 

 猫屋がテンションを上げ、期待に満ちた視線で周囲を見渡す。酒飲みには食道楽が多い。彼女も類に漏れず、自身の好物には目が無かった。

 

「あ」

 

 猫屋の視線がとある店の方向で止まる。

 

「…………………………」

 

 彼女は先ほどとは違い、どこか真面目な顔をして売店の一角を眺めていた。

 

「猫屋?」

「あ、えーと、ね……ちょ、ちょーーと、ここで待っててくれる?」

「え、あぁ、もちろん。でも、何か買いたい物でも見つかったのかい?」

「うん、そんな感じー!! パパっと行って、すぐ戻ってくるからーー!!」

 

 そう言って猫屋も、安瀬と同じように個人的な買い物へと駆け出した。

 

「……………物欲があまり無い人間というのも考え物だね」

 

 1人ポツンと残されてしまった西代は少し寂しそうにして、大人しく友達の帰りを待つのだった。

 

************************************************************

 

「待たせたでござる!!」

 

 下駄を鳴らし、空色の羽織を袖に通して、安瀬桜は意気揚々と帰ってくる。

 

「はっはっは!! 今、我、ちょーカッコいいぜよ!!」

 

 腰に大小の刀を差した安瀬は得意気に笑う。

 

「君が帯刀すると絵になるね。まるで女性版、近藤勇だ」

 

 褒めた内心で、西代は『男子小学生かな?』という感想を胸に抱く。

 

「そこは花形である土方歳三と言って欲しいでありんす! しかしやはり、武士は二本差しであるな! 脇差が無いと本刀が映えん!! 帰ったらこれでチャンバラでもするでござるよ!!」

「それ、例え素手でも猫屋の圧勝で終わりそうだけど大丈夫かい?」

 

 3人を床に転がして"げひゃげひゃ"と高笑いする猫屋の姿が西代には容易に想像できた。

 

「おっまたせーー!!」

 

 楽しそうに雑談していた2人の元へ、猫屋が()()()()()()帰ってくる。

 

「おかえり、猫屋。君は何を買ってきたんだ? 京都限定の味覚崩壊スパイスかい?」

「もしくは煙管(キセル)でも売っていたかえ?」

「ふ、2人が私の事をどう思ってるかはよく分かったー……」

 

 辛党ヤニカス女は友達の酷評じみた言葉に少しだけ肩を落とす。

 

「えっと、さ……はい、これ」

 

 猫屋は紙袋から(まり)のような球体がついたストラップを取り出して、2人に手渡した。

 

「これは……()()()でござるか?」

 

 香り袋とは、香料を布に詰め封じた京都の工芸品の1つである。内容物は多種多様であり、自分好みの香りを選べるためお土産として人気が高い。

 

 安瀬には赤色の物を、西代には青色の物を、猫屋は購入していた。

 

「う、うん。プレゼントって感じー……」

「へぇ、素敵だね。嗅いでもいいかい?」

「もちろーん」

 

 安瀬と西代は花を嗅ぐようにして、香り袋を顔に近づける。

 

「あ、桜の香りがするでありんす」

「僕の方は桃だね。い草みたいな落ち着く匂いも相まって心地がいい」

「あ、あはは、どーもー」

 

 誉め言葉を貰い、猫屋は照れたように笑う。

 

「凄く嬉しいのだけど、急にどうしたんだい?」

「で、あるな。当たり前であるが、我らの誕生日は今日ではないぞ?」

 

 2人は不思議そうな顔をして首を傾げる。安瀬と西代には贈り物をされる覚えなど全くなかった。

 

「……」

 

 猫屋は2人の疑問にすぐには答えず、少しだけ視線を逸らした。そのまま彼女は控えめに口を開き、自分の想いを形にする。

 

「ふ、2人にはさ、この前、すごーくお世話になったからー……」

 

 安瀬と西代はその不明瞭な言葉の意味をすぐ察した。この前とは、猫屋が過去を打ち砕いた時の話だ。

 

「そ、そのお返しー……みたいなー……」

 

 銀色の丸いピアスをチャリチャリと弄りながら、猫屋は恥ずかしそうに顔を赤らめる。そして、羞恥で心臓をバクバクと鳴らしながらお礼を続けた。

 

 

「……あの時は、一緒に居てくれてありがとう」

 

 

 "この前"や"あの時"。気恥ずかしさ故に、猫屋はそういった(ぼか)した曖昧な表現をしてしまう。

 

 それでも、あの事件を有耶無耶にして終わらせてしまうことを彼女は許さなかった。献身には心からのお礼が必要だ。彼女はそう思っていた。

 

 猫屋李花の精神性は、本当に陣内とよく似ていた。

 

「2人が居てくれたから、私は、あの、頑張れたって言うかー……3人だったから、何も怖くなかった……って感じー……」

 

 顔を真っ赤にして、声を震わせながら、猫屋はより真剣なお礼を2人に述べる。

 

「だ、だからね? い、い、いつも、本当に、あり、ありがとー……」

 

 猫屋は、短く不器用で優しさに溢れた、彼女らしい感謝の意を伝えきった。

 

「「………………………………あ、えっと……」」

 

 いつになく真剣な言葉を、安瀬と西代は真正面から受け止めていた。猫屋の純真な気持ちが、2人の捻くれた心には深く突き刺さっていた。

 

「……き、気にする事なかれでござる。ぶ、武士は相身互いというくらいでありんすからな!!」

「そ、そうだよ。ぼ、僕たちは、その……べ、別にいつも通りに振る舞っただけさ。ふ、深く感謝をされる覚えはない」

 

 2人は猫屋の誠意を茶化す気になど、とてもなれなかった。

 

「うん、でも、嬉しかったから。……そ、そんな感じだからっ!!」

 

 ついに耐え切れなくなった猫屋は言葉でぶった切るように大声を出す。『ここでこの話はおしまい!!』といった彼女の内情が伺える会話の締め方だった。

 

「「「………………」」」

 

 それでも、気恥ずかしくて生暖かい空気は取り払えず、3人は暫くの間、顔を赤くして黙りこくってしまう。

 

「あ、あのね……」

 

 その空気を取り払おうとしたのは、この雰囲気を作った猫屋本人だった。

 

「きょ、今日だけはお酒解禁してくれない? ……い、今は3人で飲みたいなーって」

「え、でも、猫屋は怪我が……」

 

 猫屋の控えめなお願いに、西代は戸惑う。

 

「ほ、ほら!! 私の怪我って完治するもんじゃないしー!! 少し飲んだくらいで良くも悪くもならなーーい……って感じだから、ね?」

 

 猫屋は早口でまくしたてるようにして、言い訳がましい言葉を紡いだ。

 

「だめ、かな?」

 

 猫屋は、身内にはどこまでも優しい2人に気を許し、心から甘えてみせる。彼女は何時ものように酩酊に身を委ね、馬鹿みたいに楽しくはしゃぎたかったのだ。

 

「……はは、仕方ないのぅ。今日だけでござるからな!!」

「うん、そうだね。仕方ないから、今日だけは3人で飲み歩こうか」

 

 安瀬と西代は、猫屋の想いを尊重する。ニヒルな笑顔を浮かべて憎たらし気な言葉を使い、彼女の頼みを受け入れた。

 

「……えへへ」

 

 安瀬と西代の許しを受けて、猫屋は眩しいまでの笑顔を作る。過去を乗り越えた彼女にこそ、春の風は優しく吹く。

 

「2人とも、だーい好きーーーーー!!」

 

 猫屋は勢いよく、全力で2人に抱き着いた。

 

「「ぐぇ……!?」」

 

 裸締めのような抱擁に、安瀬と西代は思わずうめき声を出す。

 

「ちょ、ちょっと、猫屋!! 右手、右手!!」

 

 西代の方の抱擁には、まだあまり動かしてはいけない猫屋の右手が使われていた。それを見て、西代は焦った様子で声を出した。

 

「だいじょうぶ、だいじょーぶ!! そんな事よりー、向こうでキュウリの一本漬け売ってたー!! それ摘まみにビールのもー!! ビール!!」

 

 猫屋は自身の怪我などまるで気にせずに、2人を引きずるようにして緩い坂を歩く。その歩調に合わせて、彼女のスマホに着いた()()()()()()がポケットから飛び出し、フラフラと揺れていた。

 

「そ、そんなに引っ張らないでくれ……!!」

「あ、あわわ。こける、こけるでござる……!!」

「あははははーー!!」

 

 彼女は周りの視線など一切気にせずに大声を上げて笑う。猫屋李花は、大好きな友人達と人生で一番楽しい時間を謳歌する。

 

 心の底から湧き出る歓喜の声は、彼女の幸福を象徴するようだった。

 



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あと一撃

 

 お寺の閉門時間はだいたい17時。そのため、俺達の2日目の観光もその時間に合わせて終了した。もう今日の予定は事前に予約しておいたホテルでの食事だけだ。

 

 なので、俺たちは早めにホテルにチェックインを済ませていた。

 

「あー、さっぱりする」

 

 そして、今、俺はご飯の前にホテルの大浴場に入浴している。そこで自分の顔をゴシゴシとタオルで洗っていた。あの馬鹿共に書かれた落書きを落とすためだ。

 

「アイツ等、大学生にもなって普通にお礼が言えないのかよ」

 

 『運転お疲れ様!!』の文字。……これのせいでチェックインした時、受付の人に何とも言えない表情で見られた。この借りは、落書きとは別の方法で報復しようと思う。

 

「ふぅ」

 

 汚れが落ちた事を確認して風呂場まで足を延ばす。そのまま、芯まで伝わるような熱い湯に身体を浸した。

 

(もう旅行2日目が終わりか……)

 

 いや、1日目は旅行じゃなかったな。この場合は連休の2日目が終わった、と言うべきだ。

 

(あぁ、マジで癒される……)

 

 俺は賃貸ではシャワーだけしか浴びていない。なので湯船に浸かるのは久しぶりだった。全身から日ごろの疲れが抜け出ていく。

 

(……酒飲みたい)

 

 俺にはとても素敵な習慣があった。それは風呂場にキンキンに冷やしたビールを持ち込み、酩酊とともに1日の疲れを洗い流す事だ。最近はシャワーだけしか浴びていないし禁酒中だが、その習慣があったせいで、風呂に入ると飲酒欲求が爆発しそうになる。

 

「……とっとと出るか」

 

 せっかくの湯船なのでもっと満喫していたいが、飲酒欲求が破裂しそうだった。それに、俺にはやりたいことがあった。

 

 資格の試験まで後1週間くらいだ。アイツ等が風呂から出た後では勉強などできないだろうし、早めに出て少しでも勉強しておきたい。

 

************************************************************

 

 鍵を使い、305と書かれたドアを開ける。低い室温が肌を撫でた。空調を付けたまま出たので、室内は風呂上りに丁度よい温度に保たれていた。

 

「……ん?」

 

 寝室に入ると、猫屋が座椅子に座って水パイプを吹かしていた。

 

 少しだけ濡れた金髪と湯浴み着、それと口から細く出る白煙がよく似合っている。

 

「あれー、陣内? ずいぶん出てくるのが早いねー?」

 

 猫屋が俺に気づき、水煙草をテーブルに置く。

 

「お前の方こそ早いな。風呂は長い方だっただろ?」

 

 酒飲みモンスターズは全員、風呂好きのはず。賃貸では常に各々が好きな入浴剤を常備しており、毎日違う香りを楽しんでいるくらいだ。

 

「あー、そういう日もあるって感じー」

 

 猫屋はそう言って、ハイボール缶を手に取って飲み始めた。俺から視線を外し、窓から見える京景色に視線をやっている。

 

「………あ、そう」

 

 猫屋のどこか素っ気ない態度で、()()()()()()()()。生理ではない。俺にそのように思わせるためにわざと猫屋はそう表現した。

 

「…………」

 

 馬鹿な俺のせいで、さらに深くなった彼女の外傷。他の2人を置いて風呂から早めに出てきたのは、きっとそれが原因だろう。

 

************************************************************

 

 整形外科の診察室。肋骨を折って入院し、猫屋が隣のベットに来た数日後。俺は猫屋の診察をした医者を訪ねていた。

 

「単刀直入に聞きます。……猫屋の右手はどうなるんですか?」

「…………」

 

 角刈りで彫の深い顔をした白衣の男性。俺の義理のおじさんである斎賀(さいが)竹行(たけゆき)は俺の質問を受けて、眉間に皺を寄せた。

 

「梅治君、患者の個人情報を私に話せと言うのか?」

 

 叔父さんは尤もな理由を口に出す。……確かに、竹行おじさんの言う通りだった。よく知らないが、医者には患者の個人情報の守秘義務という物があるはずだ。

 

「えっと、それは、その……」

「君が家内のお気に入りなのは重々承知しているがね……あんまり無理を言わないでくれ。私は本来、仕事に私情を挟まないタイプの人間なんだ」

 

 叔父さんは困ったように頭を掻いた。もとより、おじさんには俺の入院情報の隠蔽や、猫屋を俺の隣のベットに配置して貰うなどの温情を掛けて頂いている。これ以上の無理を言うのは失礼だ。

 

「す、すいません。でも、そこを何とかお願いできませんか?」

 

 それでも、俺は脇腹から来る痛みに耐えながら背を曲げて、頼み込んだ。

 

「ちょ、ちょっと梅治君。そういう事は正直言って困る……」

「…………」

 

 これは怪我を盾にして迫る行為だ。良くない行いをしている自覚はある。しかし、俺はどうしても猫屋の怪我の状態が知りたかった。

 

「はぁ。どうしたものか……」

「ケチケチした事を言ってるんじゃないよ!」

 

 その時、威勢の良い声と共に病室の扉が開かれた。その声音は女性にしては低く、気品のある物だった。

 

「ま、松姉さん……!?」

 

 そこには、俺のお母さんの妹であり、竹行おじさんの妻である、斎賀(さいが)(まつ)さんがいた。

 

「ま、松。何でここに?」

 

 竹行おじさんは松姉さんの急な出現に怪訝な声を上げた。どうやら、叔父さんが呼んでいたわけではないらしい。

 

「やだねぇ、ほら。アンタが私がせっかく作ったお弁当を忘れて行ったんじゃないか」

 

 あらあらオホホっといった様子で松姉さんは上品そうに笑った。

 

「あ、そうだったのか。悪いな」

「いいんだよ、別に。ついでに梅治の具合を見に来たんだから」

 

 松姉さんは弁当袋を机に置き、診察台に腰かける。

 

「それで、梅治。怪我の具合はどうだい? 栄子(えいこ)に様子を見てくるように頼まれててね」

 

 栄子とは俺の母親の名前だ。松姉さんは専業主婦だが、母さんは働いている。なので、平日に時間が取れる松姉さんに俺の状態を詳しく報告してもらうよう頼んだのだろう。

 

 だけど、俺の怪我なんてのはどうでもいい。

 

()()経過は順調ですよ」

「…………なるほどねぇ。梅治は、自分の怪我なんかよりそっちが気になるわけかい」

「あ、いや、あの……」

 

 無意識的に嫌味ったらしい言い方になってしまった。斎賀夫妻には本当に良くしてもらっている。自分の要望が通らないからと言って、このような態度は不義理で横暴だ。親族とはいえ遠慮が無さすぎる。

 

「ま、マジですいません。お、俺、今、ちょっとどうかしてまし──」

「そう大袈裟に気を遣うもんじゃないよ」

 

 松姉さんは目を細めて、俺の言葉を遮った。そのまま、叔父さんを流し目で見る。

 

「話してあげたらいいじゃないか、アンタ。不埒な事をする訳でもないんだしねぇ」

 

 斎賀夫妻は、両親でも知らない俺の怪我の事情を全て知っている。当然、俺が猫屋の個人情報をどうこうしようとは思っていないはずだ。

 

「…………はぁ。患者の心労を増やしたくはなかったんだがね」

 

 竹行さんは諦めたように、空気の塊を吐き出す。そして、目つきを鋭くして俺に向きなおった。どうやら、俺に猫屋の事を話してくれる気になって頂けたようだ。

 

「まず、梅治君。……聞く、というのなら責任を負いなさい」

「責任、ですか?」

 

 叔父さんの話の出鼻の意味が分からず、オウム返しで意味を聞き返した。

 

「あぁ。……なぁなぁで済ます事を私は決して許さないよ。聞くというのなら、彼女を支えてあげなさい」

 

 それは、本当に責任の話だった。叔父さんは医者として、患者の術後のケアの話をしてる。

 

「まぁ、永遠に一緒に居ろ、という訳ではない。しかし、大学を卒業するくらいまでは寄り添ってあげなさい。途中で投げ出すような真似は例え親族であっても──」

「絶対に投げ出しません」

 

 そんな事は言われるまでもない。

 

「うん、いい返事だ。じゃあ、具体的な話に移ろう」

 

 叔父さんはデスクの引き出しからカルテのような物を取り出した。

 

「脅しのような前置きだったが、まずは安心しなさい。幸運な事にそこまで酷い後遺症になりはしないだろう。術後診断の結果を見るに、下垂手(かすいしゅ)になる可能性もない」

下垂手(かすいしゅ)?」

「手首を上に返す、または指を伸ばすといった動作ができなくなる症状の事だ」

「そ、そんな症状があるんですね……」

 

 叔父さんの説明を聞いて、恐怖と安堵の感情が同時に押し寄せてくる。もし猫屋にそのような後遺症が残れば、俺はどう償いをすればいいのか分からなかったからだ。

 

「ただし神経痛の症状は確実に酷くなるだろう」

 

 叔父さんは、淡々とした口調でカルテを読み上げる。

 

「……痛み止めで何とかならないんですか?」

「薬を飲めば痛みは治まるだろう。しかし、ほら、あれは基本的に眠気がくる。だから意外と不便な物なんだよ」

 

 ……眠気が来ると言うのは、確かに学生には面倒な話だ。

 

「話を神経痛の方に戻すよ。まず、基本的には周りの筋肉に圧迫されると、末端神経に痛みが走るはずだ。それと、3か月くらいは()()()()()()()()()()()()()()()だ」

 

 叔父さんが机の上に置かれた人体模型の肘の部分を指さした。

 

「ここら辺の炎症が膨れて神経に響くからね。猫屋さんにも話したが、長風呂は控えるべきだ。でも、周りの筋肉が凝り固まっても良くない。その場合でも、神経が圧迫されてしまうからね」

「……そ、それってどうすればいいんですか?」

 

 長湯してはいけないと言うのなら、凝りが取れずらいだろう。

 

「実際に痺れが走るのは末端神経、つまりは手の方だ。そっちをマッサージしてあげなさい。それで多少は痛みが和らぐはずだ。間違っても素人が患部である肘を触ったりしてはいけないよ?」

「……は、はい」

 

 そ、それは難易度が高くないか? さっきは威勢のいいことを言っていたが、俺は尻すぼみしてしまった。

 

 だって、男の俺からどうやってマッサージをさせて欲しいと頼めばいいのだろうか? …………とりあえず、猫屋が痛そうにしていたら全力で頭でも下げてみるか?

 

「それに加えて、彼女の肘は衝撃に非常に弱くなっている。無茶に右手を酷使した代償だ」

「……はい」

 

 噛みしめるようにして再び相槌を打つ。聞いていて、胃が痛くなってきた。

 

「もう2度と、彼女は運動に右手を使う事は出来ないだろう」

「……っ」

 

 猫屋の運動神経は並外れている。元からの才能もあったのだろうが、それは何年にも渡って研磨されたものだ。どれだけの努力が詰め込まれていたのか想像もつかない。

 

 きっと怪我さえなければ、猫屋は人に勇気を与えられるようなスポーツ選手になっていただろう。誰もが羨む美貌も相まって、人気を博したはずだ。成功が約束された未来を歩んでいたはずなんだ。

 

「…………」

 

 改めて思う。

 

 あの事件の時の俺は最低だった。クズ以下のゴミだ。俺がもっとやり方を選べば、猫屋の後遺症は取り返しがつかない所までは悪化しなかった。

 

 もう、きっと、猫屋に復帰の道はない。

 

「そんなに思い詰めたような顔をするんじゃない」

 

 叔父さんは俺の顔を見て、厳し目な口調で声を掛ける。

 

「本来なら後遺症を抱えてしまった場合は、メンタルケアの方が重要だったりするんだ。梅治君がそんな調子では、彼女も落ち込んでしまうだろう?」

「………その通りですね」

 

 猫屋の右腕の代わりを務めると言う俺の思いは、絶対に悟られないようにしよう。

 

「とにかく一緒に居て、笑ってあげなさい。怪我や病気の一番の特効薬は笑顔だよ。彼女は根明(ねあか)で武道で培った精神力がある。過度な気遣いよりは、何気ない幸せな日常が大切だと私は思う」

 

 叔父さんの言う通り、猫屋の心は強い。1人の友達として、俺は彼女を尊敬している。心が弱い俺とは違って、メンタルに関しては心配はない。それに、"笑わせる"というのなら問題は無いだろう。家には安瀬と西代がいる。…………マジで問題ない。断言する。アイツ等と一緒に居て精神を病む奴はいない。

 

「以上で説明は終わりだ。もし君にその気があるのなら、手のツボが書かれた本でも貸し出すが、どうだね?」

「え、いいんですか?」

 

 そんな物があるなら是非、勉強しておきたい。入院中はどうせ暇だ。猫屋に隠れて熟読しておこう。

 

「もちろん。…………あぁ、それと、勝美さんと花園(はなぞの)さんから言伝を預かっているんだった」

「え? 花園さん?」

 

 勝美さんは猫屋の母親だ。だが、花園(はなぞの)とは誰の事だ?

 

花園(はなぞの)龍一郎(りゅういちろう)。私の学生時代の先輩で、猫屋さんの父親だよ」

「あぁ、なるほど」

 

 猫屋家は離婚している。"猫屋"というのは、猫屋の母親である勝美(かつみ)さんの性だ。順当に考えて、猫屋は父親とは性が別だ。

 

 ……昔は花園(はなぞの)李花(りか)だったのか、アイツ。猫屋にピッタリな凄く可愛い名前だ。

 

「まず勝美さんからは『色々とありがとう。また気軽に遊びに来な!!』だそうだ」

「あ、あはは。そうですか」

 

 印象通りで、元気で明るい人だな。松姉さんとはまた違った姉御肌だ。

 

「そ、それで……花園さんの方なんだが……」

 

 竹行おじさんは顔を渋そうに歪め、何故か、急に俺から視線を外した。

 

「『直弟子にしてあげるから、退院後、俺の運営するジムにくるように』……だ、そうだ」

「………………え、な、なんですか、それ?」

「ご愁傷様、梅治君。えらく気に入られてしまったようだね」

 

 お医者様にご愁傷様と言われたのは生まれて始めてだ。縁起でもないのでマジで止めて欲しい。

 

「花園さんは、まぁ、中々に奇人なんだよ」

「いや、意味が分からないんですけど……」

 

 というか、直弟子ってなんだ。面識のない人にそんなこと言われても怖えだけだよ。

 

「彼女の父親は主流な格闘技には全て精通している化け物でね。……通称、伊勢崎の熊殺しさ」

「……まぁ、猫屋の父親なら納得できますけど……」

 

 でも、何で親子そろってそんな変な2つ名がついてるんだよ。

 

「娘の彼氏に求める物は強さだ、と花園さんは言っていたよ」

「あはは!!」

 

 それを聞いて松姉さんが笑いだした。

 

「梅治、丁度いい機会じゃないか。鍛えて貰ったらどうだい?」

「いや、俺もう金輪際、暴力沙汰に関わるつもりはないんで……というか、猫屋と俺は恋仲じゃありませんよ」

「ふぅん? じゃあ、梅治ぃ、だぁれが本命だって言うんだぁい?」

 

 松姉さんがニッコリと、意地が悪そうな笑顔を浮かべた。

 

「迷っているなら、私は西代ちゃ……あぁ、いや、名前を偽ってたんだったか。あの子は……そう、安瀬ちゃんだ。私は安瀬ちゃんがいいと思うね」

「松姉さん、何言ってるんですか」

 

 前の賃貸での騒動から思っていたが、松姉さんはこの手の話が大好きだな。

 

「だってねぇ、女の子3人とルームシェアする予定なんだろう? モテモテじゃないか、このこの」

 

 松姉さんはおかしなテンションで俺を肘で突っついて来る。

 

「それ、マジで父さんと母さんには言わないでくださいね」

「あぁ分かってるよ。……けど、栄子が言うには本物の西代ちゃんもかなり可愛いらしいじゃないかい。それに、アンタにベタ惚れだってぇ?」

 

 西代が俺にベタ惚れというのは、正月の偽りの伴侶事件の事を言っているのだろう。

 

「可愛い女の子も3人を侍らせながら大学生活なんて、アンタも悪い男になったねぇ?」

「邪推は止めてくださいよ。……それに、西代は俺に惚れてなんかないです」

「一緒のベットで寝てた、って聞いたけど?」

「…………」

 

 そ、それは距離感のおかしい西代が悪い……はずだ。

 

「と、とにかく、俺みたいな奴にあいつ等が想いを寄せるなんてのはあり得ないですから」

 

 それに、このような話は3人に悪い。俺は松姉さんの勘ぐりを適当に流して、足早に退室する事にした。

 

「じゃあ、俺は病室に戻ります。このお礼はまたいずれ必ず」

 

 手のツボを記した本だけを受け取り、俺は椅子から立ち上がる。

 

「医者へのお礼は快復の知らせで十分だよ、梅治君。まずは自分の怪我をしっかりと治すように」

「はい、今日は本当にありがとうございました。失礼します」

「あ、ちょっと、梅治ぃ──」

 

 退室の際に軽く頭を下げてから、俺は診察室を後にした。

 

************************************************************

 

「…………」

 

 俺は、同じ部屋にいる湯浴み着姿の猫屋を無言で観察する。叔父さんの話を思い出すのなら、今の猫屋には痛みがある可能性が高い。

 

「なぁ、猫屋」

「んー?」

 

 口にハイボール缶を付けたまま、彼女はちょこんと首を傾げる。

 

「右手の調子はどうだ?」

「あー……まぁ、ぼちぼちー? そんなに酷くなーい」

「そうか」

 

 猫屋の痛みがどの程度のものなのかは、返答からは分からなかった。案外平気なのかもしれないし、強がっているのかもしれない。

 

「あ、あー、でも、ちょっと、あんまり動かさないから筋肉がこわばっちゃって──」

「マッサージしようか?」

 

 猫屋の言葉に、俺は思わず食い気味に飛びついた。それは願っても無い言葉だったからだ。

 

「え、え!? そ、そんなあっさりぃー!?」

「……あっさり?」

 

 何があっさりなんだ? ……やっぱり、異性から体を揉まれるのは忌避感があるか?

 

「わ、悪い。やっぱり嫌だよな。忘れてくれ」

 

 俺は猫屋から離れ、勉強道具を取り出す為に自分のバッグの方に向かおうとした。

 

「す、ストップ!!」

 

 だが、その途中で猫屋に腕を掴まれ引っ張られる。

 

「うぉ……!?」

「そ、そんな事ないからーー!! はい!! よ、よろしくー!!」

 

 そのまま猫屋の方へ引き寄せられ、俺の目の前に猫屋の右手が差し出された。爪を綺麗に伸ばしているせいか、その手は男の物とは全然違って、煌めいているようにすら感じる。

 

「あ、あぁ。じゃあ触るぞ?」

「う、うん」

 

 俺は恐る恐る、彼女の柔らかい手を両手で握り、マッサージを始めた。

 

「「………………」」

 

 お互い、何故か無言になってしまう。

 

「あ、えっと、な……今押しているここが労宮(ろうきゅう)っていう自律神経を整えるツボなんだ」

 

 俺は無言に耐え切れなくなり、とっさにツボの解説を始めた。何かで気を紛らわせないと恥ずかしくて仕方がない。

 

「ここは魚際(ぎょさい)って言って飲みすぎとか食べすぎに効くツボだ。俺達にはよく効くだろうぜ……あと、ツボって押しすぎてもダメらしいんだよ。適度に4、5回押して痛気持ちいくらいの力強さでだな─────」

 

************************************************************

 

(手ックス!! これ、手ックスってやつだーー!?)

 

 猫屋は陣内の話をまるで聞いてはいなかった。

 

(雑誌に載ってたヤツじゃん!!)

 

 猫屋が思い出しているのは、高校生時代の事。女子高の教室内で友達と回し読みした、女学生向けファッション雑誌に掲載されていた記事を思い出していた。

 

(う、うわーー!? 私、今、陣内と()()()()()()()()!!)

 

 手ックスとは、カップルが手を愛撫しあい性行為への気持ちを高めるための前戯に近しい行為である。

 

 なお、必死に猫屋の手を解しながらツボの解説をしている陣内にそのような気は当然ない。

 

(わ、私、陣内に誘惑されちゃってるーー!!)

 

 陣内梅治にそんなつもりはない。

 

(い、いーいのかな!? もう、これ、オッケーって事でいいんだよねーー!?)

 

 勝手に1人で舞い上がってしまう猫屋。マッサージが始まって数秒も経たない内に、彼女の気持ちはフルスロットルで暴走を始める。猫屋の脳内は好意を寄せる男性からの愛撫のおかげでぶっ壊れそうだった。

 

「ふぅーー……!! ふぅーーー……!!」

 

 猫屋は熱っぽい息を荒げ、色欲の籠った眼で、真剣にマッサージを続ける陣内を見つめる。それはまさしく、獲物を見つめる獣の眼光だった。

 

(む、無防備な姿を晒しちゃってー……!!)

 

 湯浴み着の端からチラチラと除く首元や胸板を見て、猫屋の心中はどんどんピンク色に染まっていく。

 

(や、やっちゃっていいんだよね……!! これ、もう、お互いに合意済みって事でいいんだよねーー!!)

 

 猫屋は陣内に気がつかれないように、ゆっくりと就寝用の浴衣の帯に左手を掛ける。

 

 彼女は次の瞬間にはそれを引き抜くつもりだった。湯浴み着は衣服としては当然、頼りない物だ。そのため、帯を引き抜けば猫屋はすぐに服を脱ぐことができる。

 

 しかし、猫屋は脱衣するために帯に手を掛けたわけではなかった。陣内梅治を()()()()()()に帯が必要だったのである。

 

「にゃっ!!」

 

 猫屋は覚悟を決め、短く息を吐き出して、一気に帯を引き抜いた。

 

「うおりゃーーー!!」

「え、は、ちょ!?」

 

 猫屋の手をマッサージしていた陣内の両手に細長い帯が勢いよく巻き付けられる。そのまま帯は、手首から陣内の胴体に移り、足首を括りつけた。

 

 その間、僅か3秒足らずの早業であった。

 

「取ったーー!!」

 

 猫屋が実践したのは捕縄術(ほじょうじゅつ)、または縛法(ばくほう)と言われる縄を使った人体拘束術であった。猫屋は、武術好きな父親からその技法を習っていたのだ。

 

「ぐ、ぐぇ!!」

 

 帯に縛り取られて、陣内はたまらずに虫のように地面に這いつくばる。

 

「よーーし!! 拘束かんりょーー!!」

 

 その様を見て、猫屋は満足そうにガッツポーズをとった。

 

「な、何しやがる、猫屋!!」

 

 当然、陣内は無駄に洗練された技術で捕縛された事に対して抗議の声を上げる。先ほどまでの甘酸っぱい雰囲気は、既に消え去っていた。

 

「じ、陣内が悪いんだからねーー!!」

「はぁ!? な、なんで!?」

「そ、そんなに無防備な格好で、わ、私を!! 私を!! 私を挑発したんだからーーー!!」

「何言ってんのお前!?」

 

 陣内はうつ伏せのまま、猫屋の意味の分からない戯言に驚愕する。

 

「ぐ、ぐぎぎぃ……!!」

 

 彼は早々に猫屋への説得を諦めて、自らの力で拘束から脱しようとする。

 

「ハァ……ハァ……ハァ……!!」

 

 その様をみて、猫屋の情欲的な加虐心に完璧に火がつく。

 

(ぐ、グチャグチャにしてやるー……。私っていう存在を、陣内の心に刻み込む!! 私とまったく同じようにしてやるーー!! 私の事が、好きで好きでしかたなくしてやるんだからーー!!)

 

 猫屋は気がついていないが、陣内の心には既に猫屋李花という存在はしっかりと刻み込まれている。当然それは、安瀬と西代もではあるが。

 

「か、覚悟しなよー、陣内!!」

「ええぇ!? お、俺、今からシバかれるのか!? そ、そんなに悪い事したか!?」

 

 拘束された後、"覚悟を決めろ"と言われた陣内は、これからボコボコにされる以外の未来は無いと考えてしまう。

 

「そ、そんな事、私が陣内にするわけないじゃーーん!! 今から陣内は私に……今から……私に……今から……今……から?」

 

 陣内との問答の途中で、猫屋は言葉を途切れさせながら段々と冷静になっていく。

 

(…………あれ? ここからどうすればいーの?)

 

 床で悶える陣内を前にして、そういった経験の無い猫屋はフリーズした。

 

(え、あ……え、あれ? と、とりあえず、服を脱がすんだよね? そ、そこから? え、あれ? わ、私が脱がすの!? 陣内の服を!? そ、それって、あ、あのえっと…………あれ、あれれーー!?)

 

 猫屋の脳内は、陣内の具体的な裸体を想像してパニック状態に陥った。未だ清い身である彼女に、緊縛的な上級者プレイは不可能だった。強姦に等しい彼女の暴走はそこで完全にストップしてしまう。

 

「ぐ、ぐぐぐ……!! ふん、ぬッ!!」

 

 猫屋がそうこうしている内に、陣内は力づくで拘束を解く。本来、捕縄術は完璧に決まれば自力で解けるものではない。しかし、猫屋は片手しか使えなかったため結び目が緩くなってしまっていたのだ。

 

 陣内はうつ伏せの姿勢から勢いよく立ち上がり、猫屋を睨みつける。

 

「猫屋!! てんめぇ、コレは一体どうい事だ!! ちゃんと説明し…………ろ」

 

 その時、陣内梅治の視界に染み一つない綺麗な柔肌が飛び込んでくる。帯を引き抜いた事によって、湯浴み着は服としての機能を失い、猫屋は首元から股下までの肌を晒してしまっていた。

 

「────────ぁ」

 

 さらに、この時の猫屋は片手の状態でブラを付けるのを煩わしく思い、上の下着を装着していなかった。

 

 塗れた髪で被さって大部分は隠れていたが、猫屋はほとんど上裸になってしまっていた。

 

 バキィッ──

 

 その可憐な姿を見た陣内の脳内にトンでもない刺激が直撃する。陣内の胸中に、過去最大の炸裂音が響いた。

 

「ぅ、ぅ、えゅ、あ、きゃ、きゃあああああああああああああああああ!?」

 

 自身が男に肌を晒しているという状況に気が付き、猫屋は座り込む様にして、前を必死に隠した。

 

「お、お、お、お前!! 何でブラ付けてないんだよ!?」

「う、うっさい!! 今こっち見るなバカーー!!」

「誰が馬鹿だ!! 馬鹿はどう考えてもお前だろうが!!」

「ぅ、う、ぅ、うぅぅううううううううーーー!!」

 

 いわれのない罵倒に怒る陣内と顔をリンゴの様に真っ赤に染め意味の無い言葉を出し続ける猫屋。2人の考えは珍しくどこまでもかみ合わない。

 

「何事でござるか!!」

「どうした、猫屋!!」

 

 その時、部屋の外で猫屋の絶叫を聞いた安瀬と西代が、その現場に踏み込んでくる。

 

「え?」

「は?」

「あ……」

 

 2人の目に写ったのは、手に帯を握りしめた陣内と、はだけた胸を隠すようにしてうずくまる猫屋の姿だった。

 

「陣内……」

「陣内君……」

 

 凍り付いた女子2名の視線が陣内を貫く。

 

「……ははは。見直したよ陣内君。まさか、君が怪我をしている女の帯を奪い取るとはね? 随分と男らしくて、卑劣な真似をするじゃないか」

「どうやら我は……いえ、どうやら私はあなたの事を見誤っていたようですね。罪状は拷問の末に磔刑(たっけい)でよろしいでしょうか?」

 

 安瀬は怒りのあまりに普段の口調が鳴りを潜め、西代は憤怒の炎を目に灯した西代さまモードに移行する。

 

「ちょ、ちょっと待て、お前ら……」

 

 2人のその様子を見て、陣内は心底震え上がった。

 

「こ、これは違うからな!! 俺は何もやってない!! 何もやってないからな!!」

「犯罪者はみんなそう言うのさ」

「ですね。……まぁ、ご安心ください。私達がきちんとその歪んだ心を矯正して差し上げます。私が信じていた陣内梅治という理想像になるまで、力づくで形を整えてあげましょう」

 

 一切の感情を表に出さずに、2人は陣内に近づいていく。

 

「や、ヤバい……!!」

 

 自分の凄惨な未来を予見して、陣内はうずくまる猫屋に声を掛けようとした。

 

「猫屋!! テメェの胸とかどうでもいいから、恥ずかしがってないであいつ等に事情を説明しろおおお!!」

「陣内!! 私の胸がどうでもいいとか、どういうことだーーー!!」

 

************************************************************

 

 この後、キレた猫屋が陣内に座布団を投げ、陣内が偶然にもそれを躱し、投擲物は西代の顔面に直撃した。当然、西代はキレて、今度は西代が猫屋に座布団を投げようとする。しかし、座布団はすっぽ抜け、真横に居る安瀬の頭に着弾する。今度はもちろん、安瀬がキレた。

 

 そこからは収拾のつかない喧嘩に発展し、彼と彼女達の夜は騒がしく更けていった。

 

************************************************************

 

 

 

 

 ばたん、という音で我は目を覚ました。

 

「……ん?」 

 

 掛け布団を除けて、上体を起こす。賃貸ではない和室に敷かれた4つの布団を見て、今が旅行中であることを思い出した。

 

「……また西代が陣内の布団に潜り込んでるぜよ」

 

 拙者の隣の布団で眠る、小柄で黒髪の友。我の隣は陣内の布団だったはずである。彼女がそこで寝ているというのなら、それは潜り込んだという事実以外の何物でもない。

 

 しかし、湯たんぽ(陣内)は布団にはいなかった。恐らく、朝風呂にでも出かけたのであろう。我が目を覚ました原因の音は、あ奴が扉を閉める音だったのでござろう。

 

「…………おろ?」

 

 陣内、で思い出す。今日はもう……旅行最終日ではないか。

 

「あ、あれ? わ、我、この旅行で何もできておらんのではないか?」

 

 初日は色々と不幸が重なり、無駄になった。2日目はほとんどが移動時間。また、陣内が仮眠を取ったり、夜は猫屋乱暴事件があったせいで、2人きりになれる時間などは存在していなかった。

 

(…………きょ、今日1日でいい雰囲気を作って、想いを伝えろと?)

 

 頭で考えて、それは無理だという結論にたどり着いた。

 

 そもそも、2人きりの旅行ではないのである。複数人との旅行で、どのように告白しろと言うのであろうか? …………できる人間はいるのであろうが、我には少しだけ難しいように思える。

 

 また次の機会を探る。……そんな、後ろ向きの考えが思い浮かんだ。

 

(…………はたして、それで良いのであろうか?)

 



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 気持ちを自覚したのは雨の日であった。

 

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 大学1年の7月。夏休みが始まる前の話。

 

「あぁ、もう、クソったれでござる!!」

 

 大雨の中、大学の帰り道を駆ける。補講を受け、レポートを大学で片づけておったせいでいつもより帰るのが遅くなり夏特有の夕立に降られていた。

 

(うぅ……びちょびちょである)

 

 雨はバケツをひっくり返したように酷く、瞬く間に拙者をずぶ濡れにしてしまった。靴の中まで浸水しており気持ちが悪い。

 

 天気予報は快晴であったが夏の時期の突発的な大雨は予期できるものではない。荷物がかさばるのが嫌で折り畳み傘を常備していなかった事を()いる。

 

 このまま駅まで行って電車に乗るのは億劫であった。

 

 そんな事を思っていた矢先、とある賃貸が見える。陣内梅治が成約している大学から徒歩5分のアパートだ。

 

「よいしょっと」

 

 陣内は何故か、雨の掛からない玄関前のスペースにいた。簡素な折り畳みの椅子を用意しておりそこに座ろうとしていたのである。

 

 特に理由も考えずに我は駆けこんだ。

 

「陣内!! 雨宿りさせて欲しいでありんす!!」

「ん? え、安瀬?」

 

 彼は一瞬、事態が飲み込めていない様子をみせたが、傘もささずに走る我を見て直ぐに頷いた。

 

「あぁー、ちょっと待ってろ。バスタオル持ってくるから」

「か、かたじけないでござる」

「いいよ。濡らしてもいいから椅子に座って待ってろ」

 

 そう言って、陣内は部屋に入っていった。

 

************************************************************

 

 陣内から貸してもらった大きなバスタオルで水気を拭き取る。これで不快感はかなり消え失せた。……体は少しだけ冷えておるがの。

 

「災難だったな。でもお前、帰るの遅くないか? もう6時前だぞ?」

「第二外国語の補講があっての」

「あぁ、なるほど」

 

 第二外国語は中国語、フランス語、ドイツ語のどれかを選んで受講する物であった。我は中国語を選び、陣内は……確かドイツ語であったか? まぁ何にせよ、授業形態が違うので陣内の方には補講は無かったのであろう。

 

「おまけにレポートを片付けていての。帰宅時間がさらに遅れて、この様でやんす。篠突(しのつ)く雨と言えば語感はよいが、この豪雨は身に染みて辛いぜよ」

「…………ま、前から思ってたが、その話し言葉はマジで何なんだ? 最近は馴れたけど、他のヤツが聞いたら頭おかしいヤツと思われるぞ?」

「これが素じゃ。拙者の事をただの大人しい大和撫子とでも思っておったか?」

「……そんなわけないだろ」

 

 陣内が目を細めて遠くを見る。初対面の時の事でも思い出しているのであろう。

 

「お主は何故(なにゆえ)この蒸し暑い中、外に椅子なんぞ出しておったのじゃ?」

 

 雨が降っているせいか気温は(いく)ばくか涼しくなっている気はする。しかし、季節は真夏。暑くてとても外に出る気にはならん。

 

「市販のシャリキンにメロンシロップ掛けて食べようと思ってな。かき氷は空調の効いた部屋で食うより暑い中で食べる方が乙だろ?」

「……お主は相変わらずじゃの」

 

 シャリキンとは確か、キンミア焼酎を凍らせた物である。我は食べた事がないが、ザクザクとした食感と焼酎の独特な味わいが交わって何とも言えないらしい。シロップを掛けたのなら、大人版かき氷と言えるであろう。

 

「まぁ、それは後でいいんだよ」

「?」

 

 陣内が少しだけ口早になった。

 

「それよりも、お前そのままじゃ風邪ひくだろ?」

「────っ」

 

 

 その言葉を受け、我は一気に隣の男を警戒した。

 

 

************************************************************

 

 幼少のみぎりから、我は習い事としてスイミング(日本泳法)スクールに通っていた。塩素で髪の色素が抜けてしまい薄赤い茶髪になってしまったが水泳は楽しかった。冷めた水温が心地よく、触れれば如何様にも変わる水の揺らめきが面白い。何をしても自由な水中は我の気性にとても合致していた。

 

 じゃが、その楽しい気持ちに陰りが射したのは中学2年の頃。体が成長し、胸が膨らみ始めてからの事じゃ。

 

 周囲の目線が変わった。

 

 仲が良かった男の友人たち。ソレの目が変わり始めた。粘り気が混じり、舐めまわすような気持ちの悪い物を水着を着た我に向けるようになった。

 

 それが嫌で、自分で考えた"女らしからぬ話し言葉"を使いだした。中学生らしい稚拙な発想であったと思う。……いつの間にか完璧に定着してしまったしの。

 

 まぁ、それでも、周りの目はあまり変わらず言いようのない不快感が思春期の我に積もっていった。親族以外の男が嫌いになりそうであった。

 

 そこに決定打となる事件が起こる。当時の担任教師が水泳部を盗撮していたのだ。

 

 水泳部の練習前、服を脱ぐ一歩手前で悪寒が走り、部室内を手当たり次第に探し回ってみた。すると、()()()()()()が見つかった。……あの時の激しい嫌悪感は今になっても覚えている。

 

 震える手で、映像データを確認してみると、学生とは違う中年男性が写り込んでいた。見覚えのある先生だった。カメラを仕掛ける際に自分を撮ってしまったのだろう。

 

 下手人が割れたというのなら、後は報復の時間じゃ。我はどうにも昔から自分の感情を抑え込むという行為が苦手であった。

 

 兄貴にだけ連絡を入れ、怒りのままに長物(モップ)を担いで職員室に乗り込んだ。ぶち殺してやろうと思った。しかし、良かったのは威勢だけ。我に武道経験はない。可愛いだけの女子中学生が複数人の大人の前で暴力行為に及べる訳がなく、あっけなく取り押さえられてしもうた。

 

 しかし、そこに遅れて乗り込んできたのが若かりし頃の兄貴。我が取り押さえられている姿を見て、兄貴はプッツンした。普段は温厚な兄貴が鬼人の如く人を投げ飛ばす光景は何度思い返しても笑ってしまいそうになる。

 

 当然、職員室で暴れまくった拙者たちは警察のお世話になった。水泳部を退部させられ、兄妹まとめて停学をくらってしまったが、我に後悔などはなかった。

 

 兄貴と一緒に暴れたこと自体は死ぬほど楽しかったでござるからな!! 結末だけを切り取れば、そこまで悪い思い出ではない!!

 

 …………()()()の美貌をひけらかす事は大好きじゃ。化粧は煩わしくて苦手であるが、たまに猫屋にメーキャップを施してもらうのは気に入っておる。コスプレじみた格好をするのも、日常から離脱したような高揚感があって大好きでござる。

 

 羨望や好奇。それらは別に良い。

 

 だが、下卑(げび)た視線は嫌い。

 

 汚らわしい性欲に塗れた男の視線は不快そのものであった。

 

************************************************************

 

 雨に濡れた我の体調を()()()()()()()()をする陣内。気遣う振りをする浅ましい男。

 

 この先が容易に予見できる。続く言葉はきっとこう。

 

 『シャワー貸してやるから部屋にあがれよ。というか、今日はもう泊って行ったらどうだ?』

 

 陣内の家で、酒を飲んで泊ったことはある。だが、その時は猫屋と西代がいた。同性がいたからこそ我は異性の家で気兼ねなく飲んで遊べた。

 

 だが男と2人きりで夜を過ごす気などない。そんな軽薄で扱いやすい女だと思われたことに対して怒りすら覚えた。

 

(ふん、コイツもその類か)

 

 少しは信頼していた。大学に入って、陣内には色々と世話になったからだ。

 

 でも、所詮、男などこんなものでござろう。

 

「いえ、私はもう帰りま──」

()()()()()()?」

「……は?」

「いや、体を温めるには酒だろ。ド定番にウォッカか? 少し時間を貰えるならホットワインとか暖かいチョコレートカクテルを用意するけど? それとも、お前はやっぱり(かん)が飲みたいか?」

「────────」

 

 想定していなかった言葉に、思わず目を丸くしてしまう。

 

 ……こ、このド阿呆はそういう奴だった。暖かい湯で体を温めるという当然の思考よりも先に()()()()()()()という発想が出てくるアル中。脳が酒に侵食された異常者…………い、いや!! 我を酔わせて、その後で部屋に連れ込む算段なのかもしれん!! 飲酒欲求と性欲は同時に存在しうるはずじゃ!!

 

「わ、私を酔わせて何を──」

「いやぁ、お前は運がいいぜ!! 先週、バイト代が入ったから色々と酒を入荷したんだよ!! スカイウォッカとモーツァルトを買ってあるし通販で買った酒が昨日届いたばっかりだ!! 聞いて驚け!! 日本酒は富士山の湧水を使った名酒、開運だし、ワインの方は超スパイシーな樋熊(ひぐま)の晩酌だ!! 他にもアマレットのいいヤツがあるからホットミルクを入れて──────」

 

 あ、これは違う。いい酒を沢山手に入れたから誰かに自慢したくてしようがないだけのアル中でござる。性欲とはまた違った欲望が渦巻いているだけである。

 

「う、うるさい!! な、何じゃ、お主は!? お主はそれでよいのか!?」

「あ゛? 何が? 酒を飲ませてやるって言ってるんだ。文句あんのかよ?」

「え、いや、まぁ、文句はないが……」

 

 な、何で逆ギレしておるんじゃ、コイツ?

 

「だろ? 本当にタイミングよかったぜ。あ、実は今なら米焼酎なんかも──」

「わ、分かったでござるから!! に、日本酒で良い!! か、(かん)で寄こせ!!」

 

 べらべらと酒について語ろうとする陣内を止めるには、ヤツの望み通り酒を飲んでやるしかないと思った。

 

************************************************************

 

「……塩気が効いてて凄く美味しいでござる」

 

 陣内が作ってくれた熱い日本酒は、何故か塩と梅の風味が効いていた。

 

「ちょっとだけ梅昆布茶(うめこぶちゃ)の元を入れてある。ほら、日本酒は凄く調和がとれた飲み物だけど塩気だけはないからな。軽く塩分を足して飲むと、また違った味わいがして美味い」

「…………」

 

 得意気な陣内の解説を聞きながら、タンブラーに入った風味の良い酒を啜る。

 

「酒本来の味が薄れるけど、塩分が不足気味な夏にはこういうのが沁みるだろ?」

「……」

 

 素直に関心した。酒類に関する知識にではない。相手を気遣い一手間(ひとてま)を加えたその手際にである。

 

「お主のかき氷はどうした?」

「お前がそれを飲み終わったら作る」

「…………」

 

 アル中の癖して、レディファーストがしっかりしておった。謎でござる。

 

「それに、今はこれがあればいい」

 

 そう言って、陣内はビール缶を取り出した。

 

 プシュッとプルタブを開いて、彼は一気にそれを煽る。夏の雨中(うちゅう)。湿気高い暑さの中、ゴクゴクと喉を鳴らして、陣内は美味そうに麦の酒精を流し込んだ。

 

「ぷはッ」

 

 陣内は満足するまでビールを飲み下した後、缶を床に置く。

 

 今度はポケットから煙草を取り出した。

 

 ボックスの底を叩き、煙草を一本だけ飛び出させ咥える。そのまま大きな手で口を隠すように煙草を支えてライターで素早く火を点けた。

 

「……あ゛ぁ゛ー、うまい」

 

 陣内は3秒間ほど無言で煙草を吸い、気怠そうに煙を吐いた。

 

「……雨の日に外で吸うたばこって無性に旨いよな? クールスモーキングってやつがいつもよりできるせいか?」

「喫煙者でない我に同意を求めるでない」

 

 この頃はまだ、酒はやれど煙草には手を出していなかった。

 

「あぁ、悪い。そうだったな」

 

 猫屋か西代と間違ったのであろう。……他人に間違えられるのは生まれて初めての経験じゃ。少しだけ新鮮である。

 

「お、見ろよ」

「なんじゃ?」

「もう雨が止みそうだぜ」

 

 陣内が煙草を咥えたまま顎で空を示す。彼の言う通り、雨雲は遠くに行ったようだ。

 

「そのタオルは持って帰れ。ちゃんと洗濯して返せよな」

「え、あ、うむ」

 

 少し、意外だった。気の利くこ奴なら『洗濯して返さなくてもよい』と言い、この場でタオルを回収すると思っていた。

 

「…………」

「あ゛ー、明日の小テストめんどくさいな」

「え、あぁ、そうじゃの」

「……物は相談なんだけど、明日は隣で答案を見せてくれないか?」

 

 陣内が媚びへつらうような笑顔でこっちを見る。クズの笑顔だった。

 

「…………はぁ、仕方ないのぅ。今日の礼じゃ。明日は我の隣に座ることを許そう」

「マジか!! いやぁ、人助けはするもんだな!!」

「お主、入学して半年経らずで勉強についていけておらぬようでは不味くないか?」

「うぐ……う、うるさい」

「ははっ、留年だけはしないように気を付けるでござる」

 

 まだ小雨が降っている外で、酒を飲みながら笑う。雨に濡れてしまったがそんなに悪くはない一時であった。

 

 この後は、暖かい日本酒を飲み干すまで陣内と適当に駄弁り『また明日』と言って我は帰路についたのだ。

 

************************************************************

 

 その帰り道の途中。

 

「ぁ」

 

 陣内と別れて直ぐに気がついた。この時、我のブラは雨で透けていた。夏服の薄い布地から、ピンクの下着が見えてしまっていた。

 

「──っ」

 

 急いで大きなバスタオルで体を隠す。

 

 そうして、また1つ気がついた

 

 陣内がタオルを持って帰れと言ったのは、きっと、このバスタオルが必要になると思ったからだ。濡れた我の姿を見て、人目を遮るためにタオルを貸してくれた。つまり、陣内は透けた下着に気がついていた。

 

 なのに、陣内は粘り気のある不快な視線で我を見なかった。邪な素振りを一切見せず、ただ……我を介抱してくれた。

 

 この瞬間だった。

 

 先ほど煙草を旨そうに吸っていた友人の顔がとても……大人びて見えたのは。

 

「…………」

 

 煙草を吸い始めたのは、その日から。

 

 ()()()()()()()()

 

 この我に、そんな日が来るとは夢にも思っていなかったでござる。

 

************************************************************

 

 母の為に、子供が欲しかった。母の様に、子供を育てたかった。母の如く、子に愛されたかった。

 

 しかし、相棒(パートナー)といえる男が見つからない。同級生やフリーターをしていた時期に出会った男どもはダメだ。奴らは不純物が多すぎるし、何よりも面白くない。

 

 そこに現れた、1人の変わった男友達。大(うつ)けの傾奇者。常に酒を飲んでいて、喫煙者で、頭も悪い。ダメ大学生の見本のような男。

 

 でも、優しくて面白いヤツ。探していたピースの欠片が埋まった気がした。

 

 そこからは、その……長い時間を掛けて、ゆっくりと、惹かれていったのでござる!!

 

 夏休みは4人で遊びまくった。何も考えず笑い続けたのは久しぶりのような気がした。

 

 風邪を引いていたのに居酒屋で酒を飲んだ。陣内に怒られながら熱心に看病された。

 

 合コンで不埒な視線を受けて気分を害した。グラスを傾けて陣内と一緒に笑い飛ばした。

 

 陣内の元カノをぶっ飛ばした。彼の心を踏みにじったクズを我は決して許さなかった。

 

 陣内が母にお供えの花をくれた。言葉少なく、同情や憐れみを感じさせない態度がとても嬉しかった。

 

 陣内の叔母に器量を見せつけるために、陣内と一緒の布団で寝た。あ奴が色欲を抑えようと必死になっているのは……不思議と不快ではなかった。

 

 4人で部室暮らしを始めた。酒を過剰に飲む陣内を見て、少し申し訳ない気持ちになった。

 

 我の口調を、陣内は気に入っていると言ってくれた。素の自分を肯定されたようで心が溶けそうになった。

 

 陣内が大怪我を負った。自分を大切にしなかった事に対して、視界が眩むほどの怒りを覚えた。

 

 陣内と仲直りをした。屈託のない顔で笑う彼を見て、照れてしまった。

 

 彼の隣に居る事への居心地の良さに惹かれた。陣内はいつも優しくて面白かった。

 

 我は、そんな陣内の事が────!!

 

************************************************************

 

 地上波で流れている恋愛ドラマの一幕。その映像をテレビの前で見ているような気分であった。

 

「あ、あのね、陣内。こ、これ貰ってくれなーい?」

「え?」

 

 伏見稲荷大社。赤い木組みと緩い石階段。観光客が多いその場所で、2人は向き合っていた。

 

 西代が(かわや)に行きたいと言い、我はその間隙を縫うように御朱印(ごしゅいん)を貰いに行った。だから、その時……陣内と猫屋は2人きりだった。

 

「これ、なんだ?」

「か、香り袋ってやつー……」

「香り? …………うぉ、良い匂いがするな、これ!!」

 

 少しだけ離れた所で2人を眺める。

 

「でしょー? 香料を自分で選べたからー、シナモンとかドライフラワーを詰めたオリジナルブレンドにしたんだよねー」

「へぇ、そうなんだ。……甘い匂いは好きだぜ、俺」

「あはははーー!! 知ってるー!!」

 

 2人は我に気がつかずに仲良く話をしている。

 

「でも、急になんでだ?」

「あ、え、えっと、それはね……皆でペアの物が欲しかった、っていうかーね?」

 

 陣内が受け取った白色の香り袋。それは我らの物とは少しだけ毛色が違った。それには、ピンク色の糸で柄模様が刺繍されていた。

 

「…………お前ってたまにマジで可愛いよな」

「う、うぇーい!? な、なに言ってんの、じんなーい!?」

「いや、変な意味じゃなくてな。こう……なんだ? キャピキャピしてるというか女子力高いというか?」

 

 ()()()()()()()()()()

 

「そ、そーう? わ、私って、ちゃんと女の子らしーいかな?」

「当たり前だろ。お前、鏡を見て来いよ。外側だけは可愛いのがいるはずだから」

 

 陣内は猫屋の為にあそこまでやった。

 

「え、えへへー。陣内ってやっぱり捻くれてるーー!!」

 

 視線の先で猫屋が陣内の腕を絡めとる。

 

 目に映るのは、甘く溶けるような表情。

 どこまでも幸せな感情と気持ち。

 共感できる、強い想い。

 

 (やしろ)の一角で腕を組みあう2人の男女は、この世で最も綺麗な物に見えた。

 

「ば、馬鹿!? お前、右手使ってんじゃねぇよ!!」

「えー? だって陣内、私の右側にしか立たないじゃーん」

「うぐっ。お前それ気付いて……!?」

「あははははーー!! 当たり前じゃん、バーカ!!」

 

 猫屋はきっと……陣内の事が好きだ。

 

************************************************************

 

「はぁ……はぁ……!!」

 

 走って逃げた。

 

 直視できずに、人混みをかき分けながら、その場から逃げだした。

 

「はぁ…………はぁ…………」

 

 そんなに走っていないはずなのに、息が荒い。

 

「お、お似合いで、ある、な」

 

 そう小声に出す。出さないと、ダメな気がしたから。

 

「あ、アル中とヤニカスのカップルとは、あはは、何とも奇天烈で、退廃的な組み合わせ、で…………」

 

 

 ──何故、猫屋なんじゃ。

 

 

 あやつ以外なら、認めなかった。邪魔をした。蹴落として略奪した。我は欲しい物を我慢できるタイプではない。策を弄し、狡猾に、どのような手段を使っても手に入れた。

 

 でも、猫屋はダメであろう?

 

 一緒に、何度、笑ったのであろうか。馬鹿をやった回数は数えきれない。怒られる時も、暴れる時も、いつも、一緒に、一緒に、何度も、何度も、何度も……!!

 

 2人から距離を離すようにして、走る。

 

 西代を探していた。

 

 今は落ち着くまで、気持ちの整理が着くまで、もう1人の友と居たかった。

 

 (かわや)の近くで首を振って、とにかく彼女を探す。荒い息を整える事もせず、彼女を見つけようとした。

 

 その時、何かが我の頬を伝った。生温い、何か。目を擦って手に付着したソレを見た。

 

「は?」

 

 涙だった。

 

 母の亡骸を目にした時から我の涙腺は壊れている。あの日から、まったく制御ができなくなってしまった。母に関する事を思い出すと勝手に涙ができるようになっていた。

 

 けど、コレは意味が分からなかった。母の事を考えたわけではない。なのに、勝手に瞳から涙が溢れていた。

 

「なんじゃこれは……?」

 

 今、涙が流れるのは違う。おかしい。

 

「だって、そんなの……」

 

 ただの色恋ざたと"母の死"が同格とでもいうのか?

 

「…………」

 

 母を■■■■にした■■もう3年前。だ■ら、罪の■■は薄■■とでも?

 

「……にししろ」

 

 嫌だ。

 

「どこじゃ。どこに、おる……」

 

 必死で周囲を見渡す。

 

「にししろ、どこにいるんじゃ……」

 

 オカシイ。胸が痛い。嫌じゃ。こんなのは嫌。考えたくない。これ以上は考えるべきじゃない。

 

 掻きむしりたくなるような切迫感。それに従って彼女を探した。そして、ようやく見知った人影を見つける。

 

「い、いた……!!」

 

 大勢の参拝客に紛れて、背丈の小さな西代がポツンと立っていた。見つけた瞬間、彼女に目掛けて一目散に走った。

 

「西代!!」

「え、安瀬?」

 

 飛び込む様にして西代に抱き着く。何でもいいから、誰でもいいから、いつもと変わらない者が欲しかった。

 

「は、え、あ、安瀬!? ど、どうしたんだい!?」

「違う!! これは違うからな!!」

 

 周りの目を憚らず、激情を彼女の胸の中で吐き出した。そうすれば、声は周りには聞こえない。陣内達までは聞こえない。

 

「す、少し、母の事を思い出しただけでござる!!」

 

 このナミダはチガウ。絶対にチガウ。

 

「母?」

「ぁ……」

 

 馬鹿だ。我は大馬鹿だ。母の事は陣内しか知らない。それを忘れて、涙の理由に母を使ってしまった。

 

 いや、そもそも、今の言い訳は、なんだ? 私は、自分の醜さの言い訳に母の死を利用するのか? そんな事に、都合よく、母の死を使うのか?

 

 母が死んでも子供のように母に(すが)るのか?

 

「ちが、あ、ちが、ぅ。これは、違う。何でもないからぁ」

 

 何が何だか分からなかった。胸を占領する苦しさが、私の心を引き裂いていた。母の事じゃないのに、意味が分からない。振られたわけではない。関係は何も変わっていない。友達の恋心を知っただけ……それだけの事なのに……!!

 

「…………大丈夫だよ」

 

 グチャグチャの脳内に、突如として西代の体温が沁み込んでくる。西代が、優しく我を包み込む様に抱きしめてくれた。

 

「分かるよって言うのは、ちょっとだけ図々しいかも知れないけど……僕にも、どうしようもなく泣きたくなる事がある」

 

 控えめな声音が我の耳に入ってくる。

 

「えっと、ね」

 

 西代は、何故か震えていた。抱き着いたまま顔を見ると、少しだけ不安そうな顔をしていた。彼女は震えたまま一呼吸だけ息をゆっくりと吐きだす。

 

「……僕、色々あって高校を退学しているんだ」

「っ!!」

 

 聞こえてきたのは自白じみた過去の話だった。

 

「辛かったことや後悔がいっぱいあるし、たまに思い出して死にたくなる…………もちろん、泣きたくなることもね」

 

 違う。違う。違う。そんな話じゃない。過去の話ではないんじゃ。

 

 西代は泣き喚く我に共感して、慰めてくれようとしている。自分の辛い過去の出来事を話して、寄り添ってくれようとしている。

 

 でも、違う。こんな物はただの失恋の話で……いや、失恋さえもしていない。だから、何でもないはずなのに。こんなに悲しくなるはずがないのに……!!

 

「昔は、僕もたまにそうなってた。訳も分からず、急に悲しくなることがあった」

「違うんじゃ。そうではないんじゃ!!」

 

 西代の告白を止めたくて、大声を出した。

 

 お願いだからやめて。こんな、こんなクズの為に、そんなこと言わないで。

 

「ううん。一緒だよ。辛いのなら一緒さ」

 

 強い意志が込められた否定。それと共に、西代の小さな手が頭に軽く被さった。

 

「辛い時は泣かないと。いっぱい泣いて、忘れてしまおう」

「そ、そんな。そんなのは……」

 

 許されない。嫌だ。泣くのは嫌じゃ。涙は嫌いだ。本来なら、我に泣く権利なんてない。

 

「安心してくれ。僕は、今日の事を2度と口に出さない。何が君の心をそこまでかき乱したのかなんて聞かない。君が落ち着いたら、全部元どおりさ……だからね、何も心配しないでくれ」

 

 西代の抱擁が強くなった。大切な物を包む様に、我を抱きしめてくれる。

 

「僕たちは、えっと、その…………友達だろう?」

「────ぁ」

 

 耳元で聞こえる、親友の口から出た友愛。

 

 

 その言葉が終わりを告げた。

 

 

「…………そ、ぅ、で、ござ、ござるな」

 

 涙はまだ止まらない。あぁ……でも、西代のおかげで気持ちの整理はついた。

 

 猫屋は大切な友人だ。

 

 まだ、1年と少しの付き合いではある。しかし20年以上生きて、この4人ほど気が合う奴らはいなかった。2年もの歳月を無駄に過ごした、品性も倫理もない、最低で碌でなしの4人組。

 

 4人で傷をなめ合うように馬鹿をやって過ごす日々は、甘露を味わうように幸せであった。

 

「あ、ぁりがとう……西代」

 

 言って、彼女の胸に顔を埋めた。

 

「いいんだ、安瀬。仕方ない時はある」

 

 忘れよう。

 

 きっと猫屋なら陣内と付き合いだしても、我らをあの家から追い出す事はしないであろう。関係は何も変わらず、たまに2人がイチャつくのを我らが茶化す。そのような楽しい日常がちゃんと続いていくはず。

 

 だから、忘れて、猫屋を応援しよう。邪魔なぞせずに猫屋の恋路を支えよう。

 

 それが、一番綺麗な散り方だと思った。

 



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顕現する歪み

 

 千本鳥居を抜けた先にある奉拝所。俺達はおもかる石という謎物体で遊んでいた。石を持ち上げる時に、軽いと感じられたら願い事が叶うらしい。

 

「ふん」

「よいしょー」

 

 だからズルをして猫屋と共に持ち上げている。これで願いは確実に叶う。今年のサマージャンボには期待していいかもしれない。

 

「……あの2人、ちょっと遅くなーい?」

 

 何の達成感もなく持ち上がったおもかる石。それを見て、つまらなそうに猫屋が問いかけてくる。

 

「そうだな」

 

 西代はトイレに行き、安瀬は御朱印(ごしゅいん)を貰いに別れた。すでに20分は経過しているが2人は中々帰ってこない。

 

「迷子にでもなったか?」

「スマホに連絡が来てないからー、それはないんじゃなーい?」

 

 言われてみればそうか。

 

「ここの御朱印(ごしゅいん)は場所によって手書きか書置きか変わるらしいし、安瀬は珍しいヤツを貰いに遠くへ行ってるのかもな」

 

 西代の方はトイレが混んでいるのかもしれない。観光地だと女性の方は混雑しやすい。

 

「……あのさー、その御朱印って結局何なのー?」

「え、知らないのか? 御朱印って言うのはな──」

 

 ──ブブッ

 

 俺が無学な猫屋に説明をしてやろうとした時、ポケット内のスマホが震えた。説明を止めて、スマホを取り出し画面を確認する。

 

『くるまいる』

 

 そこには西代から送られてきた短文が表示されていた。

 

「「………………?」」

 

 同じようにメッセージを確認していた猫屋と顔を見合わせて疑問符を顔に出す。"車に居る"という意味なのだろうが、どうにも突拍子が無さすぎる。おまけに言えば、何故かひらがなだし、接続詞が抜けているので色々とおかしい。

 

「……とりあえず、お参りしてから車に戻ってみるか?」

「だねー」

 

 俺たちは手早く参拝を済ませて、駐車場に向かう事にした。

 

************************************************************

 

 有料の広い駐車場まで素早く駆け下りて10分後。俺たちは、自分たちの軽自動車の後部座席のドアを開いた。

 

「くぅ……」

「すぅ……」

 

 そこには頬を赤くして眠る2名の女の姿があった。

 

 車内には麦やブドウの酒気。それと煙草の匂いが多分に漂っている。禁酒禁煙中の俺の脳に響く、退廃的な香りだった。

 

「こいつ等、なんで酔い潰れてるんだ?」

「わ、分かんなーい」

 

 車内の座席下にゴロゴロと酒瓶が転がっている。その総数は数えきれない。酒の種類は日本酒、ワインにビールとウォッカ。車に設置してある灰皿もてんこ盛りだ。

 

「な、なんだこの量……この短時間でどんだけ飲んでんだよ」

「しかもチャンポンでねー」

 

…………何か下らない事で喧嘩をして、潰しあいの末に泥酔といった所か? それにしては仲良く寄り添って寝ているように見えるが……。

 

「この惨状(さんじょう)。猫屋、お前はどう見る?」

「下らない事で喧嘩してー、潰しあいの末に両者ダウンって感じー?」

 

 良かった。俺と全く同じ見解だ。しかも、この飲酒量から考えるとガチの潰しあいだ。お互いが肝臓の限界まで酒を摂取している。

 

「ん?」

 

 床に転がった酒瓶を眺めていると、その群れの上に一枚の紙が置いてある事に気がつく。何かが書かれているようなので、手に取って内容を見る。

 

『寝る。拙者たちの事は放っておいて2人は仲良く嵐山にでも行くでござる』

 

 文体から、それは安瀬が書いたものだと分かった。紙には数滴ほど水が落ちた跡があった。酒瓶の水滴がついたのだろう。

 

 何があったのか分からないが、潰れる前に俺達の事はきちんと気にかけてくれていたようだ。……後でどんな珍事態があったか、しっかり説明して貰おう。

 

「2人……きり」

 

 その時、吐息の様に小さな声が聞こえてくる。俺の横で紙をのぞき込んでいた猫屋がぽつりと呟いたのだ。

 

「そうだな。この分だと2人は暫くは起きそうにない」

 

 というか、もう旅行終わりまで目覚めないかもしれない。今日は旅行最終日だ。俺は4人でぶらぶらと京都を廻りたかったのに、これでは少しだけ寂しい気がする。まぁ、でも、こうなってしまったら仕方がないか。

 

「車はここに置いて、言われた通り嵐山にでも行くか」

 

 今この車は泥酔者のゆりかごだ。かなり深酒しているようだし、運転の振動で覚醒させてアルコールの分解を妨げたらいけない。4人で廻れないのは残念だが、2人で観光に(おもむ)こう。

 

「そうだ。歩くのが怠くなったら人力車に乗ってみようぜ」

 

 嵐山と言えば人力車だ。金は賞金から出るから、バイトを休んでいる俺と猫屋のお財布事情にも優しい。結構楽しそうだ。

 

「…………」

「?」

 

 返事が聞こえてこない。思えば、猫屋はさっきからずっと黙っている。

 

 視線を彼女に向けると、猫屋は耳に手を添えてぼーっとしていた。

 

「おい、猫屋」

「え、うぇ!? は、はい!! あ、ありがとうございまひゅ!!」

「………おう。どういたしまして」

 

 何故かお礼を言われたので、適切に返事をしてやる。

 

「なんだ、そんなに人力車に乗りたかったのか?」

「そ、そぉーなんだよねーー!! ほら、嵐山って言えばやっぱり人力車じゃーーん!!」

「そうだな。俺も乗ってみたかったんだよ」

 

 人力車は2人乗りだ。どうせ4人で乗ることは無理だったし、丁度いい機会だ。泥酔した2人には悪いが、安瀬の指示通り、嵐山を楽しんで来よう。

 

************************************************************

 

 その時、猫屋李花の乙女思考回路はマックススピードで回転していた。

 

(き、キターーーー!! なーんか、よく分かんないけど確変(かくへん)入っちゃったーーー!!)

 

 陣内が嵐山へ向かうバスを調べている背後で、猫屋はキラキラと笑みを浮かべて2人きりのデートへの思いを膨らませていた。

 

(人力車って座るスペース超狭そうじゃーーん!! 腕とか組んだりー、揺れのどさくさに紛れて手握ったりしていいんだよねーー!!)

 

 猫屋は自分がセクハラ親父レベルの思考をしている事に気がつかない。

 

(()()()()()()()なら顔を真っ赤にして恥ずかしがってくれるはずーー!! 大チャンーース!! 私の事を、女の子なんだって、絶対に意識させてやるーー!!)

 

 竹林で覆われた小道を人力車に乗って進む自分と陣内。密着した状態でのランデブーを想像して、猫屋の気持ちは昨晩のように暴れ狂う。

 

 陣内がノンアルで減欲体質を発現させられることは、いまだ酒飲みモンスターズには知られていない。

 

「あ、やべ。スマホの充電がもう赤い。猫屋、悪いけどお前が調べてくれないか?」

「うんうん!! 分かったーー!!」

 

 浮かれた猫屋は特に文句も言わずに自身のスマホをポケットから引き抜いた。その時、スマホに付いている丸く小さなアクセサリーが揺れて、猫屋の目にとまる。

 

 ()()()()()()

 それは猫屋が購入した4人お揃いのアクセサリー。猫屋にとっての友情の証明だった。

 

(…………う、うーーん?)

 

 それが猫屋を少しだけ冷静にする。暴走寸前だった彼女の恋心は、それを見て回転数を落としたのだ。

 

(これって、いいん、だよねー……?)

 

 猫屋はその可能性を一瞬だけ考慮する。

 

(私って、()()()()()()()()、いいんだよね?)

 

 猫屋が心配したのは、眠っている2人の気持ちについてだった。

 

(安瀬ちゃんと西代ちゃんは、違うよね? 私みたいに、陣内が好きだったりは……しないよね?) 

 

 加速していた恋愛感情が怪しい方向に()ける。猫屋はいつもより冴えた脳でその可能性について検討を始めた。

 

(い、いやー、ないない。ふ、2人はどう考えても恋愛とか興味ないタイプ。いつも一緒にいるって言っても、相手は陣内な訳だしーー)

 

 猫屋は自分が思いついた想像を即座に否定する。

 

(西代ちゃんはデートするぐらいならパチンコに行くだろうし、安瀬ちゃんに至ってはこの前、陣内のゲロを頭から被ったらしいし……)

 

 普段の無茶苦茶な生活を思い返して、その可能性は無いと猫屋は結論を出す。

 

(それに、もし仮にそーだった場合は…………私が身を引けばいい……だけ……だけで……)

 

 猫屋は安瀬と同じ結論に至る。当然の思考だった。猫屋を救ったのは陣内だけではない。安瀬と西代も、品のない笑い声をあげながら猫屋と暴虐の限りを尽くした。猫屋はそんな2人が大好きであった。

 

「う゛あ゛ぁ゛、それにしても、酒が飲み゛て゛ぇえ゛゛」

「え」

 

 猫屋の危惧は陣内の汚い声音によって打ち切られた。陣内が奇声を上げながら、頭を抱えて地面に(うずくま)ったのだ。

 

「ど、どーしたの急に?」

「いや、車内に充満してた酒と煙草の匂いを嗅いだら、ヤバいくらい酒が飲みたくなってきた。ほら、見ろ。手が震えだしたぜ」

 

 陣内はプルプルと小刻みに震える手を猫屋に見せつける。

 

「もう1月も酒飲んでないからな、俺。あんな濃いアルコールの匂い嗅いだら、脳みそがはじけ飛びそうになる……」

「…………うっっわー」

 

 猫屋はその病的な手を見て、本気で引いていた。

 

「あのさぁー、陣内。1回マジで病院行ってきたらー? 1ヵ月間禁酒してそれはヤバすぎるってー」

「あぁ、そうだな。……ストレスから来る震えだから、パーキンソン病か。あれって神経内科だったけ?」

「もぅ、陣内のおバカさーん。アルコール依存症は心療内科だよー?」 

「誰が依存症だ!! こ、これはストレス性の物なんだよ……酒を飲めば収まるんだ……お、俺はアルコール依存症なんかじゃ絶対にない……ないんだ……」

「…………うへぇー」

 

 猫屋は自分の想い人を心底冷めた目で見下した。

 

(うん、ないなーい)

 

 それと同時に心の底から安堵する。

 

(こーんなのが大好きな物好き、ふふふっ、この世に私以外いるわけないじゃーん!)

 

 『心配して損した』と思い、猫屋は気分を入れ替える。

 

「とりあえずー、ノンアルでも飲んで気を紛らわせたらー?」

「そ、そうする……でも、そろそろマジで、本物のお酒飲まないとヤベーかもしれない……」

「あはは!! もうちょっとなんだしー、ちゃんと我慢しなよー? コッソリ飲んだら安瀬ちゃんと西代ちゃんに怒られちゃうからねー!」

 

 猫屋は何も考えずに、陣内を馬鹿にして朗らかに笑った。

 

 

 

 

************************************************************

 

 

 

 

 丸い月が綺麗な真夜中。暗い高速道路を安全運転でひた走る。

 

 3連休最後の日曜日だからか道路に車は多い。事故だけはしないように、慎重に運転する。

 

 馬鹿みたいに騒がしい京都旅行は終わってしまった。明日からまた大学だと思うとかなり憂鬱だ。

 

 目的地の家まではあと2時間ほど。

 車内に会話はない。助手席の猫屋は旅の疲れで眠ってしまった。後部座席の酔っぱらい達は未だに目を覚まさない。

 

(珍しく静かだ)

 

 4人でいるのに、まったく騒がしくない。聞こえてくるのは走行音だけ。まさしく旅行終わりに相応しい静寂。

 

 何も考えずに道に沿って走行する。夜だからといって過度にスピードを出しはしない。急いで帰る必要もないしな。

 

(あ、サービスエリアの看板)

 

 夜道で、緑色の看板が存在をアピールしていた。

 

(眠くないけど、休憩がてらに寄っておくか)

 

 眠気が来てから休むようでは遅いだろう。コーヒーでも飲んでおこう。……これで、煙草が吸えたら最高だったんだけどな。微糖の缶コーヒーには煙草がよく合う。

 

 速度を落としながら看板に従って進路を変える。何も問題なくサービスエリアに入り、空いてるスペースに適当に車を停めてエンジンを切った。

 

「…………んぅ?」

 

 その時、後部座席から寝ぼけた安瀬の声が聞こえてきた。

 

「あ、悪い。起こしたか」

 

 他の2人を起こさないように小声で安瀬に話しかける。どうやら停車時の振動で起きてしまったようだ。

 

「じん、ない」

 

 安瀬は焦点があっていない目で俺を見る。

 

「………………ここはどこじゃ?」

「神奈川に入る手前のサービスエリアだ」

「何故、そのような所に、うっ、あたた」

 

 安瀬はまだ覚醒しきっていないのかぼんやりとしている。飲みすぎで頭も痛そうにしていた。

 

「覚えてないのか? お前、旅行中なのに西代と深酒して潰れたんだよ。観光はもう終わって、今はその帰り道だ」

「─────、あぁそうか。そうで……あったな」

 

 安瀬は自分が深酒した事を思い出したのか、少しだけ表情を歪な物に変化させた。その顔を見るに、アセドアルデヒドが血中で暴れまわっているようだ。

 

「俺は自販機でコーヒー買って休憩するけど、お前はどうする? 水かお茶が欲しいなら買ってこようか?」

「気を遣わんでよい。我も自販機で適当に見繕う」

「そっか。なら行こうぜ」

 

 猫屋と西代を起こさないように優しく車のドアを開けて、俺たちは自販機の光がまぶしい休憩スペースに向かって行った。

 

************************************************************

 

 ふらふらとする体を制御し、陣内の後ろをついていく。休憩スペースはもうそこである。

 

 濁った頭で思い出す。

 西代の前で泣き散らした時の我は……少々正常ではなかった。羞恥の感情に任せて、涙を止める事もせずに西代を車まで引っ張り、ひたすら黙って酒と煙草をやり続けた。無論、西代には強制的に付き合ってもらってじゃ。

 

 その結果が今の体たらくである。……何も言わずに付き合ってくれた西代には本当に感謝しなければならん。

 

 ガンガンと鐘を鳴らす頭を手で支え、休憩所のテーブルに座る。酔い覚ましの為に買った緑茶を、寝起きで乾いている喉に流しこんだ。

 

「ふぅ」

 

 少しだけ落ち着く。

 

「それで? なんで西代と馬鹿みたいに飲んでたんだ?」

「……」

 

 頭痛の原因の男。陣内は我の対面に座って缶コーヒーを飲み、怪訝そうな顔をしながら疑問を飛ばしてくる。

 

「……さぁの」

「当ててやろうか? 西代に『御朱印なんてただの紙をありがたそうに買うなんて、安瀬はやっぱり変わってるね』とか言われて喧嘩になったんだろ?」

「違う」

 

 陣内は得意気な顔をして語ったが、見当違いも甚だしかった。

 

「適当な憶測を吐くでない、煩わしい。ただでさえ、今は頭痛が酷い」

「うぐ……そ、そうか」

 

 怒気を込めて陣内を睨む。

 

 後悔と、戸惑いと、()()。それら混合物が混ざり合い、頭痛を加速させる。今は陣内とはあまり話をしたくはない。それでも、車から降りて陣内について来たのには理由があった。どうしても聞きたい事があった。

 

 それは友の恋路でござる。

 

「猫屋との逢引きはどうであった?」

 

 我よりもずっと綺麗で一途、光のような色恋。鳥居の下で見た、この世で一番綺麗な光景。敵うはずがないし、ましてや争う気なぞまるで起きないほどの眩い情景。

 

 アレを思い出して、暖かい物を胸に感じた自分に安堵する。

 

 あそこに割って入る事だけはしてはいけないでござる。それは、猫屋を傷つけることに他ならないからじゃ。

 

 西代のおかげで、猫屋を応援すると決心できた。

 それに、我は身体ぐらいしか女らしい所が無い。猫屋はそんな我とは違って華があり、向日葵のような性格をしておる。付き合い始めたら、陣内には勿体ないほどの可愛い恋人になるであろう。

 

 そんな素敵な彼女を応援しようと、心の奥でちゃんと決めた。

 

「は? 逢引き? 何だよそれ? 急に茶化(ちゃか)すなよ」

 

 なので、目の前でポカンと首を傾げる男にはかなりイラっときたでござる。

 

「……あのような可愛らしい女子(おなご)と2人で観光地で遊ぶことを、逢引きと呼ばずに何と呼ぶ」

「まぁ、そう言われたらその通りだけど。……正直、いつもと変わんないだろ?」

 

 陣内はピンと来ていないのか、渋い顔でそっぽを向く。

 

「嵐山で人力車に乗って、運転手の解説を聞きながら風景を見ただけだ」

「それだけでござるか? 何か心を動かすようなことがあったのではないか?」

「ん? まぁ竹林を見て、帰ったら(タケノコ)で何か作ろうぜって話はしたな」

「た、(タケノコ)?」

 

 緑深い綺麗な竹の小道。幻想的で美しい庭園を猫屋(美女)と見て、(タケノコ)の話じゃと?

 

「あぁ、ちょうど今が(しゅん)だからな」

「……渡月橋(とげつきょう)はどうでござった?」

「あのバカデカい橋か。橋を渡った先にある(あゆ)の塩焼きを猫屋と一緒に食べたけど、凄い旨かったぜ!!」

「あ、(あゆ)……」

「『ノンアルじゃなくて普通のビールと一緒に食べたかった』って言いながら2人で食べ歩いたんだよ。やっぱり川魚の串焼きは酒の当てにピッタリだよな。お土産に抹茶ビールを買ってあるから、七輪でも買って今度4人で串焼きをやろうぜ」

 

 こ、こ奴ら、飯と酒の話しかしておらぬ……。

 

「ね、猫屋はどのような感じであった?」

「え、別に普通だけど。いつもどおりニコニコと煙草吸って、俺と一緒にノンアルを飲んでた」

「……はぁぁ」

 

 死ぬほど深いため息が出てしまう。

 

 "アルコール中毒鈍感男"と"ニコチン中毒恋愛ポンコツ女"。

 

 2人きりになれる時間を作ってやったというのに、関係は何も進まなかったようでござる。……どうしようもなくやるせなくて、胸がむかむかした。

 

「どうしたんだよ、ため息なんてついて」

「何でもござらん。ただ、お主らの品の無さを改めて認識しただけでありんす」

「おい。頭痛が酷いのは分かるけど、無駄に絡んでくるなよ。面倒くさい」

 

 面倒なのは、絶対にお主の方である。

 

「それに、ちゃんとお前らの分の土産も買ったんだぞ? 生八つ橋とか和菓子とか」

「なんじゃ、全部自分の好物ばかりではないか」

「そう言うなよ。お土産なんて大抵は甘い物ばっかりだ」

「……まぁ、それもそうであるか」

「あとは……その、これだ」

 

 陣内は言葉を濁しながら、テーブルに細長い紙製の箱を置いた。

 

「なんじゃこれは?」

「……お線香(せんこう)

 

 聞いて一瞬、濁っていた頭が空白に染まった。

 

「猫屋から貰った香り袋で思い出したけど、京都の名産には……仏具もあったろ」

 

 陣内は、ばつが悪そうに視線を我から外す。

 

「この3連休は色々ありすぎて個人の時間なんかは取れなかったからな。お前は酒で潰れてたし、一応買っておいた。……要らなかったら捨てろ」

 

 吐き捨てるような口調で経緯を話して、陣内はお線香を我の前までそっと押した。

 

 それは本当に一心での気遣いのように思えた。母の事を知る陣内の、冥福の気持ちだったのであろう。憐みや同情があるのなら、もっとそれらしい渡し方をする。我の事を本当に理解してくれて、細心の注意を払い、贈ってくれているのだと感じた。

 

 母の死から3年が経った。もう母に何かを献ずるのは家族しかいない。だから、家族以外からの捧げ物は、とても嬉しかった。涙が出てしまうほどの優しい善意。

 

 

 それを薙ぎ払うようにしてテーブルから弾き飛ばした。

 

 

「っ!」

 

 我の行動を見て、陣内は驚く。

 

「はっ」

 

 嘲りを込め、陣内の優しさを鼻で笑った。ポツリと、涙が頬から流れ落ちる。

 

「なんじゃ、献花の次は線香であるか。……それで我が喜ぶとでも思ったか?」

 

 勝手に醜い言葉が口から出る。

 

「哀れむな。見下すでないわ。花の時は言わなかったが、そのような気遣いは……ふ、不快じゃ。に、二度とするな」

 

 我は本当に何を言っている?

 

 嫌いになりたいのであろうか。

 嫌われたいのであろうか。

 これ以上、好きになりたくないのであろうか。

 

 胸がバラバラになりそうな感覚。猫屋の恋心を知った時と一緒で、感情の起伏が異常だった。心の平穏を保つために、陣内の善意を非情に踏みににじってしまった。

 

「……そうか。悪かったな」

 

 陣内は短く、それだけを言った。

 

「……まぁ、分かればよい。怒鳴って悪かった」

「いや、すまん。こっちこそ、悪かった」

 

 陣内はきっと『踏み込みすぎた』と思って律儀に後悔している。そんな気持ちを抱える必要はないはずなのに、心の底から傷ついている。

 

 ……今の私はきっと、なんの可愛げもない醜さの化け物なのだと思う。自分の事が嫌いになりそうだった。

 

「……」

 

 もう今日は何も考えたくない。

 

 腐った感情を煙で燻すために、懐から煙草を取り出す。一本を咥えて、火を点けるためにライターを探した。

 

「あ、ちょっと待て。動くなよ」

 

 陣内が火の灯ったライターを素早く差し出してくれる。

 

「……ん」

 

 燃焼に合わせて息を吸い、煙草の先端に薄赤い綺麗な明かりを灯す。

 

「ふぅ…………お主、禁煙はしっかり守っているのであろうな?」

「守ってるよ。ライターは持つのが習慣になってるだけだ」

「で、あるか」

「………………」

「………………」

 

 重たい沈黙が2人の間に降りる。先ほど、我が無意味に怒ったせいであった。

 

「お主は……」

「ん?」

「お主は何時から煙草を吸い始めた?」

 

 空気を変えたくて、適当に話題を切り出す。

 

「……スコッチをロックで飲めるようになってからだな。ピート香のお供として煙草を楽しむ様になった」

「なんじゃそれは。カッコつけているつもりか?」

「うっせ、マジなんだよ。スモーキーなウイスキーには、甘い煙がばっちり合うからな」

「どうやら味覚だけは大人顔負けのようじゃの」

 

 明るい話題が戻ってはきたが、今日はどうしても憎まれ口が止まらない。

 

「はは、まぁな」

 

 心はガキのままだと馬鹿にされたことに、陣内は気付かなかった。

 

「しかし、俺の禁酒禁煙も来週で終わりか……長かったぁ」

「うむ、まぁ、よく頑張ったでありんす。……これでほとんどの約束はおしまいじゃ」

 

 残っているのはトイレ掃除と肩もみくらいである。

 

「え、いや、まだ重要なのが1つ残ってるだろ」

「ん?」

「旅行はどこに行く?」

「…………は?」

 

 陣内が何を言っているのか理解できなかった。

 

「りょ、旅行? 何を言っておるんじゃ?」

「ほら、病院を脱走した時に約束しただろ。2人でプチ旅行に行くって」

「────」

 

 この日、一番の衝撃が胸を貫いた。息が止まるかと思った。

 

「俺がバイトを再開するのが5月だから、旅行は6月くらいになっちゃうけどな……梅雨の季節だ。紫陽花(あじさい)寺でも行ってみるか?」

「ちょ、ちょっと待つでござる!!」

 

 陣内の語りを無理やり止める。話題の転換についていけなかった。

 

「あ、あの約束はこの旅行の事であろう?」

「? 違うだろ。それじゃあ条件が合わない」

「条件?」

「費用は全部、俺が負担。日本の古い景観が残った観光地で遊んで、夜は温泉宿に泊まる。ほら、2つも条件に合ってないだろ」

「そ、そんなもの、誤差みたいなものではないか……!!」

 

 我にもう、その気はなかった。猫屋の気持ちを知る前とは、状況が違っているからだ。

 

 我の言葉を聞いて、陣内は目線を少し落とした。

 

「……俺はあの約束を適当に終わらせたくない」

「ぁ」

 

 あの時、薄暗い病室で、我は激情に任せて怒って泣いた。そのせいで、陣内はあの約束を完璧に守るつもりでいる。優しい陣内はあの出来事を深く受け止めていた。

 

 何もかもが、自分のせいであることに気がつき、愕然とする。

 

「ね、猫屋を……」

「ん?」

「猫屋を誘ってやれ」

 

 絞りだすようにして、何とかその言葉を吐き出した。

 

「はぁ?」

 

 陣内は、急に出された猫屋の名前に首を傾げた。

 

「なんで? 俺が約束をしたのはお前だ」

 

 その通りである。お主と、2()()()()()()()()()()()()と言い出したのは我でござる。

 

「それに猫屋は……その、長風呂ができない。お前、湯治に行きたいって言ってただろ。旅行に猫屋を付き合わせるのは悪い」

 

 もっともらしい言い訳も、都合よく転がって来た。

 

「あとな、猫屋と西代には黙ってコッソリ行くんだよ」

 

 陣内が急にあくどい卑屈な顔をして笑う。

 

「アイツ等の事だから、『安瀬にだけ奢るのは不公平だ』とか因縁を付けて俺に何か買わせようとするに決まってるぜ」

「そ、そんな乞食のような事を2人が言う訳が……………言いそうでござるな」

「ははは、だろ? という訳で、あの2人の目を盗んで遊びに行くんだよ。……あ、そ、それとも……やっぱり俺と2人きりで旅行は嫌だったり───」

 

「嫌な訳がなかろうッ!!」

 

 夜の空気に大音量の声が響く。つい、反射的に大声を出してしまった。

 

「……そ、そうか」

 

 陣内は少しだけ顔を赤くして、照れたように頭を掻いた。

 

 そのような顔をしないで欲しい。もう、自分の気持ちが分からない。

 

「じゃあ旅行のプランを立てなきゃな」

「え、ぅ……」

「特に要望がないなら、俺が組んでおく。ホテルとか飯の予約とか、面倒なのは俺に任してくれ」

 

 勝手に話が進んで行く。

 

「何だかんだ今回も楽しかったし、次の旅行も楽しみだよな!! 6月なら、俺は大手を振って酒が飲めるわけだし!!」

 

 陣内は無邪気な笑顔を浮かべていた。もう、その笑顔を踏みにじることはできない。二度目は……我にはできなかった。

 

「……う、うむ。た、楽しみで、あるな」

 

 結局、猫屋を応援するなどと言っておきながら、我は首を縦に振ってしまった。

 

************************************************************

 

 許して

 

 ……猫屋、どうか、許して欲しい。

 

 この約束が終われば、全てを諦める。6月、梅雨の季節にはこの恋煩いを完璧に沈めてみせる。

 

 だから、これは裏切りなどではないと、自分に必死で言い聞かせる事をどうか許してください。

 



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外堀を埋める才能を持って生まれてしまった男①

 

 ──カチカチ、カチカチ

 

 この雰囲気は久しぶりだ。

 

 狭い部屋で複数人が真剣にパソコンに向かっている。

 今は俺もその中の一人。画面に表示される問題を無我夢中で解いていく。

 

 知らない人と馴染みない部屋。このような環境で試験を受けるのは大学受験以来だ。緊張する。

 

(あぁー、クソ、酒飲みたくなってきた)

 

 話は全く変わるが、人間には日本酒が急に飲みたくなる事がある。熱々で香りの立った辛めの清酒をおちょこでキューーっとやるのだ。……つまみはカニ味噌、もしくはあん肝がいいな。

 

 俺にはこういう所があった。真面目な雰囲気になるほど、酒が飲みたくなるのだ。

 

(……受かるだろうか)

 

 震える手を見て、そう思う。真面目に勉強していたが、凄く不安になってきた……。

 

************************************************************

 

 試験を終え、俺は酒を飲むために早々に帰宅した。

 

 先ほど魚介系のつまみに思いを馳せたが、今日の昼飯はたこ焼きだ。目の前のカセットコンロの上で、カリカリと生地が焼けている。

 

 近年、たこ焼きが酒の肴として台頭してきていると俺は思っている。実際にたこ焼き屋でアルコールを提供している所は増えた。世間が酒とたこ焼きとの相性の良さに気がついたのだろう。

 

 熱々でトロトロの生地を、ビールかハイボールでキメたら大勝利。人生においてこれほど幸せな時間はない。

 

「ご、合格してしまった」

 

 そんな美味そうなたこ焼きを前にして、俺はスマホに表示された合格の証明書を眺めて震えていた。手が震えているのではない。ちょっと感動して全身が戦慄(わなな)いているだけだ。

 

「やるじゃないか、陣内君。おめでとう」

 

 西代が俺のコップにシュワシュワでキンキンのビールを注いでくれる。

 

「せ、せんきゅ」

 

 俺は震える手でそれを握り、1月半ぶりに胃へと流し込んだ。

 

「────う゛ぇ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

「う、うるさーっ」

 

 俺の脳内に広がる黄金色の麦畑。太陽がサンサンと脳に降り注ぐ。もはや絶頂と同等の快楽が俺を包み込んだ。

 

「あ゛あ゛!! うっっっめぇ!!」

 

 ビールは最初の一杯が一番美味い。それと1月半ぶりの飲酒と資格取得。全てが合わさって最強だ。涙が出てきそうになる。

 

「……今日が今年で一番幸せな日かもしれない」

「まったく、陣内君は大袈裟だね。たしかに試験に合格したのはおめでたいけど、君が受かったのはそこまで難易度が高いものじゃなかったはずだよ」

 

 西代の言うとおりだ。俺が合格したのは情報系の資格の中では一番下だ。しかし……。

 

「だって俺、資格に合格したのって小学校の漢検ぶりなんだよ」

「アハハハー!! 馬鹿だもんねー、陣内!!」

 

 猫屋がラキストを3本吸いしながら俺を罵倒してくる。彼女も俺と同じで禁酒禁煙は今日で終了だ。眩しい笑顔で濃い煙を満喫していた。

 

 だが、いくら紙巻を吸うのが久しぶりだからといって、3本同時はヤベーだろ。

 

「うるせ。お前も頭の出来(でき)は俺と同じくらいだろうが」

「…………私達って、似てなくていい所まで似てるよねー」

「……確かにな」

「まぁ、でも今回は頑張ったじゃないか。素直に感心したよ」

「だねーー!! おめでとー、陣内!!」

「……ありがと」

 

 素直にお礼を言って、熱々のたこ焼きを頬張る。

 

「自分で作っといてなんだが、凄い美味い……」

 

 試験勉強で忙しかったが、生地は俺が作ってあった。ちゃんと和風だしが効いている。

 

「そうだね。君の作るご飯はいつだって美味しいよ」

「へへっ、ありがとよ」

 

 あぁ、今日は本当に気分がいい!! 自尊心がグングンと回復している気がする!! アルコールも回って有頂天!! なんて幸せな休日なんだ!! 

 

「ところでさ、陣内君」

「ん?」

(ふと)った?」

 

 直後、俺の自尊心は直角に急降下した。

 

「……………………ま、マジ?」

「あー、確かに、ちょっと顔丸くなったよーな?」

 

 猫屋がさらに追い打ちを掛けてくる。

 

「ば、馬鹿な。入院して俺の体重は落ちていたはず……」

「普通にリバウンドしたんだろうね。退院してからずっと、ご飯を山盛りにして食べてたじゃないか。夜食とかも取ってたしさ」

「…………」

 

 たしかに、勉強の合間にポテチとか食べてました……。

 

「俺が……太った……だと……?」

 

 厳しすぎる現実を受け入れる事ができない。俺は生まれてこの方、太った事など無かった。陸上部だったので当たり前だ。大学に入学するまでは腹筋だってちゃんと割れていた。……今はもう脂肪の奥に引っ込んでいるけど。

 

 思えば、大学に入ってからは特に運動はしていない。それなのに、俺はほぼ毎日晩酌をしていた。ビールを飲まなかった日の方が少ないくらいだ。1年近くの蓄積が、バイトという最低限の運動を止めた事によって表面化してしまったのだろうか。

 

「……いや、そもそも、俺だけが太るっておかしくないか?」

 

 俺は当然の疑問にぶち当たる。食べている物はみんな一緒だ。酒も全員がよく飲んでいる。それに女の方が男よりも太りやすいと聞く。

 

 というか、こういうのは普通、女の方のイベントだ!!

 

「えー、私が太るわけないじゃーん。体重管理とかプロの領域だよー? 食べすぎた後はたまに走ったりするしー」

「……まぁ、猫屋はそうだろうな」

 

 階級制スポーツの最前線に居たであろう猫屋は、ボディメイクの達人と言っても過言ではない。事実として、彼女のスタイルは凄い。クビレと細い足がモデル級の破壊力を有している。

 

「でも、他2人は猫屋と違って体重管理とかしてないだろ」

「僕は飲む方のキャパシティはあるけど、食べる方は小食だ」

「……言われてみればそうだな」

 

 女性は色々な物を少しずつ食べたい、と言うが西代はまさにそれに当てはまる。箸やフォークを綺麗に使い、小さな口でパクパクと雑多なご飯を食べている時が一番幸せそうだ。偏見かもしれないが、胃が小さい人の食べ方。摂取する栄養は俺らの中では一番少ないだろう。

 

「それにバイトがあるから運動をしていない訳じゃない」

「っぐ……それなら、()()はどうなんだよ?」

「…………」

 

 流麗で薄赤い、女性らしい長髪。幼さを残す性格とは真逆の豊かな胸元。無敵の美貌を誇る我が家の最強問題児、安瀬。

 

 彼女は俺の声に反応せず、カセットコンロの火をボーっと眺めていた。

 

「おい、安瀬?」

「…………ん、あれ? 陣内、呼んだでござるか?」

「なんだ、聞いてなかったのかよ。お前はなんで太らないんだよ?」

 

 安瀬は健啖家だ。見ていて元気が貰えそうなほど、よく食べて飲む。……自分が作った物を夢中で食べてくれるのはかなり嬉しい。でも、そんな安瀬のスタイルが変わらないのは納得できない。

 

「あぁ、なんじゃ。そんなことか」

 

 どうでもよさそうな顔をして、彼女は自身の胸部に目をやった。

 

「我は食った物は全部こっちにいくでありんす」

 

 そう言い、安瀬は自分の乳房を手で少し持ち上げてみせる。

 

「や、やっぱり凄いな、お前。目に見える別腹を持ってんのかよ……」

 

 驚愕の事実だ。本当に同じ人間だろうか。

 

「はぁ、男の浅はかな意見であるな。これはそんな便利な物ではない。肩が凝ってうざいだけでありんす」

「「…………ふぅん?」」

 

 安瀬の発言に、女子2名が不機嫌そうな声を上げた。

 

「安瀬ちゃーーん…………覚悟しろオラーーーー!!」

「ぅえ!? 猫屋!?」

 

 咆哮と共に、ネコ科の猛獣が安瀬に飛び掛かる。猫屋は恐るべき手際の良さでマウントポジションを取り、安瀬の脇を(くすぐ)り始めた。

 

「ぐっ、げひゃひゃ!? くひゅひゅ……!? 猫屋、や、やめるでござりゅっ!!」

「今の発言は僕でもカチンときたよ。反省するんだね、安瀬」

 

 そこに何故か西代も加わった。

 

「ほーら、ここがいいのー? ここがいいのかなーー?」

「乳がデカいと脇の下って敏感になるのかい? ちょっと検証させてよ」

「ふひゃひゃ!! に、西代!! どこ触って、アハハハハ!!」

 

 ジタバタと悶え笑う安瀬と、悪魔の微笑を浮かべて上半身を責める2人。

 

「…………」

 

 俺は姦しい酒飲みモンスターズを無視し、瓶ビールを直接咥えて、中身をグイっと煽った。

 

 楽しそうで何よりだが、そういうのは俺のいない所でやって欲しい……。別に興奮はしていない。だが、目のやり場にちょっと困る。

 

************************************************************

 

「ひぃ……ひぃ……」

 

 笑い疲れた安瀬が痙攣しながら荒い息を吐く。実に無様だ。

 

「ふぅーー!! いっちょ上がりーー!!」

「不用意な発言はこれから控えるんだね」

「わ、悪かったで(そうろう)……」

 

 (くすぐ)り職人達は、一仕事終えたと言わん様子で自分の席へと戻った。

 

「はぁ……けど、どうするかなぁ」

 

 俺は目の前で起きた騒動をスルーして、ため息をついた。

 

 太る。それはちょっと勘弁して頂きたい。

 

 俺は幸運な事に見目美しい彼女達と一緒に暮らしている。思慮深さと品格では俺の圧勝だが、容姿だけは逆立ちしても勝てそうにない。現状でさえ、とても分不相応。大学に行けば周りの目もある。一緒にいるなら、清潔感と最低減の身嗜みは必要だ。でないと、彼女達が馬鹿にされかねない。

 

「ジムにでも通ったらどうだい?」

「そんな金ねぇよ……」

 

 今は親の仕送りで生活をしている。衣食住ならともかく、親の金でジムに通う気にはなれない。

 

 ……仕方ない。シューズと反射タスキでも引っ張り出してきて、夜中に走るか。酒は暫くの間、糖質が含まれるものは避けよう。

 

「あぁーー……」

 

 憂鬱な気分でダイエットプランを組み上げていると、猫屋が間の抜けた声を上げた。

 

「…………実は、1か所だけあるんだよねー……ここから結構近くてー、恐らく格安で使える運動施設がさー……」

「え、マジで?」

「私の古巣(ふるす)がさー、電車で20分ほどの所にあるんだー」

「ふぅー……ふぅー……古巣(ふるす)というのは……」

 

 疲労困憊状態だった安瀬がむくりと起き上がり、猫屋の方を向く。

 

「お主が空手の稽古をしていた場所でござるか?」

「うん。私が高校を卒業してからお世話になってた所。修練場の他にも、普通のフィットネスジムみたいな機材が置いてあって結構便利だったんだよねー」

「へぇ、それは凄いな」

 

 思い出せば、猫屋の母親が経営するキックボクシングジムにもウェイトトレーニングの機材が置いてあった。格闘技を教えてくれる所には置いてあるものなのだろう。

 

「たぶん、私が言えばタダで使わせてもらえるよー。陣内さえ良ければー、私が話を通しておくけどー?」

「……それはちょっと凄すぎないか?」

 

 いくら古巣(ふるす)といえども、そこまで融通が利くというのは変な気がする。

 

「もしかして、お前の実家の系列店とかなのか?」

「あぁー、まぁ、そんな感じー」

 

 猫屋はあからさまに俺の疑問を煙に巻いた。

 

 …………何か言いたくない事でもあるのか? でも激しい運動ができる場所を提供してもらえるのは正直、ありがたいな……

 

「じゃあお願いしてもいいか?」

「おっけーー!! それじゃあ明日は健康的に汗を流すって感じでーー!! あ、2人はどうするー? お金はかからないし、一緒にどーう?」

「……我は明日、バイトがある。せっかくのお誘いで悪いが遠慮するぜよ」

「あー、そっか。ざんねーん」

「僕は休みだからついていこうかな。馴染みの無い場所だから興味がある。それに、陣内君みたいにアル中のデブになったら困るしね」

 

 今なんて言いやがった!?

 

「おい!! 誰がアル中のデブだ!! まだそこまで太ってないだろうが!!」

「いやー、分かんないよー? 陣内の飲酒量なら、あっという間にブクブクになっちゃうかもー」

「……ふふっ。で、あるな!! そうならんように、キチンと脂肪を燃焼してくるでござる!!」

「ぐぬぬ……お前ら、今に見てろよ……」

 

 ここまで馬鹿にされたら、後に引けない。やってやる……!! 腹筋が割れるくらいまでバキバキになってやるからな!!

 

************************************************************

 

 そうして、翌日の日曜日。

 俺と西代は、猫屋の案内の元、3階建ての大きなビルの前に立っていた。

 

 花園(はなぞの)総合フィットネスジム、と書かれた大きな看板が掲げられている。

 

「…………花園(はなぞの)?」

 

 猫屋ではなく、花園(はなぞの)

 

 はなぞの、花園(はなぞの)、はなぞの……なんか聞き覚えがあるな。

 

「ここって結構凄いんだよー!! 1階は普通のフィットネスジムでー、2階は武道場、3階は柔道とかブラジリアン柔術のフロアで、地下にはバカデカい鏡とボクシングのリングがあるんだーー!!」

「……なんだ? その格闘技の遊園地みたいな施設は?」

「作った人間が頭おかしいからねーー」

「たしかに、ちょっとおかしいかもね……でも凄い繁盛してるように見えるよ」

 

 ビルのガラスからは中の様子が見えた。大人数の人が重りを持ち上げたり、道着を着て修練に励んでいる。

 

「というか、猫屋。お前、ココの経営者と知り合いなの──」

「よく来てくれたぁッーー!!」

「ん? うぇ!?」

 

 爆音の声量と共に、何者かに背後からガシッ!! と掴まれた。

 

「なるほど。上半身はそれほどでもないが、下半身は悪くない」

「は!? うぉ!? なんだ!?」

 

 見た事ないほど大きな手が、俺の全身を揉みしだいていった。

 

 ゾワゾワとした生理的嫌悪感が身体中を駆け巡る。半狂乱のままに暴れて手を払おうとしたが、何故か体がビクともしない。

 

「おい!? やめっ、やめろよ!!」

「じ、陣内君!?」

「ふんふん、ハムストリングの隆起が良い。この肉のつき方は陸上の短距離走か。いいぞぉーー、一瞬で相手との距離を詰められる下地ができて──」

「いきなり何やってんだ、馬鹿ぁーーッ!!」

 

 俺の背後に出現した不審者に向かって、猫屋が躊躇せずに左拳を振り抜いた。

 

「よっと」

 

 猫屋の左は、俺の目には予備動作くらいしか捉えられないほどのハンドスピードで放たれた。しかし、不審者は片手でそれを難なく払い落す。

 

「左とはいえ、随分と軽いな。鈍ったね、李花(りか)ちゃん」

 

 猫屋の打撃を防いだことによって不審者が俺の背後から離れ、その全容が明らかになる。

 

「うわっ」

 

 身長は190以上、体重は100キロを超えそうな超大男。どうやって俺の背後に音もなく忍び寄れたのか不思議なほどの巨体。クマとほぼ一緒だ。容姿はその風貌を際立てるように厳つい。その威圧感に、思わず声が漏れてしまったほどだ。

 

「……っち」

 

 猫屋は、そのクマのような大男に対して忌々しそうに舌打ちを出した。

 

「あのさーー、()()()()

「「お父さん!?」」

 

 西代と一緒に、驚愕の声を上げた。目の前の猫屋と、その大男が似ても似つかなかったからだ。

 

 と、というか、思い出した。花園(はなぞの)とは猫屋の旧姓であり、離婚した父親の性だった。

 

「私、お父さんは出てくんなって言ってなかったけ? 他のインストラクターを寄こしてって、たしかに言ったよね? 筋トレのやりすぎで、脳みそまで筋肉になっちゃった?」

 

 猫屋の緩い口調が鳴りを潜めていた。纏う雰囲気が刺々しい物に変わっている。

 

 これはかなり怒っているぞ……。

 

李花(りか)ちゃん。俺は親にそんな口を利く子に育てた覚えは──」

「私を育てたのって、大半がママなんですけどー?」

「…………」

「昔やってた自動車整備の事業が失敗したからって、ママとやっちゃいけない類の喧嘩して離婚した人にー、どういう口を利いていいかー、私、分かんなーい」

「…………………………」

「なーんで出来もしない事業に手を出すかなー? 初めからジム開いてたらよかったのにー。ママと似たような仕事はプライドが許さなかったかにゃー?」

「……………………………………………」

 

 ずぅぅぅぅん、という効果音が感じられるほど、猫屋のお父さんはガックリと項垂れた。その巨体が小さく見えるくらい、背を丸めている。

 

「お、おい、猫屋。親に向かってそんなこと言うなよ」

 

 あんまり他家の事情に踏み入っちゃいけないとは思う。猫屋だって苦労しただろうし重めの罵倒も、まぁ仕方ないはず……でも肩身の狭い男親を見て憐憫の情が湧くのは男のあるあるだ。痛々しくて、見ているだけできっつい。

 

「…………まぁ、言いすぎたけどさー。いきなり友達の体を弄られたら、私だって怒るってー」

 

 あ、うん。そこはもっと怒ってくれていい。普通に気持ち悪かった。

 

「いや、でも李花(りか)ちゃん。成人を過ぎてから格闘技を始めるなら、最初に適性を見ておくことは重要な事で……」

「え? 格闘技を始める?」

「ん? あれ? 今日は俺に空手を習いに来たんじゃないのか?」

 

 そういえば、なんか花園さんに『直弟子にしてあげる』とか言われて呼び出されてたな。完全に忘れてた。

 

「あ、いえ、今日はダイエット目的で来ました。…………改めて初めまして。猫屋さんと同じ大学に通っている陣内梅治です」

 

 忘れていたといえば、いきなりの事態で動揺して挨拶さえ忘れていた。俺は急いで背を丸めて、猫屋の父親に対して深く頭を下げた。

 

「あ、僕は西代です。陣内君と同じで、今日はお世話になります」

 

 西代も俺と同じように頭を下げる。

 

「あーー、そういう感じだったか」

 

 花園さんがポンっと手のひらを叩いて見せる。どうやら、情報の伝達が上手くいっていなかったようだ。……というか、風貌と違って随分と口調が軽いな。猫屋の緩い口調は父親譲りか。

 

「……李花ちゃん、どうしよう。お父さん、彼氏君と一緒に趣味で空手をまた始めると勘違いしてたから……」

 

 そう言って、花園さんは背後のビルの2階を指差した。

 

「サプライズで李花ちゃんのお友達とかに声かけまくってしまった」

 

 花園さんの指先には、ビルの大きな窓ガラス。そこからは、道着を来た女性達の手を振る姿が見えた。

 

「うわ!! え、えぇーー!! ま、マジで皆いるじゃん!! な、懐かしいーー!!」

 

 それを見た猫屋は、不機嫌な表情を一気に明るいものへと変化させた。

 

「猫屋、あの人達は?」

「高校の友達!! 皆、一緒の空手部だったんだー!!」

「急な話だったのに、こんなに大勢集まってくれるとは俺も思ってなかった」

 

 花園さんは、娘の人望があることが嬉しいのか満足気に頷いた。

 

「うわー、お父さんって基本的に余計な事しかしないのにーー!! 今日は凄いじゃーーん!! わ、私、ちょっと感動しちゃったーー!!」

「ぐ、ぐへへーー、そうか?」

 

 猫屋は朗らかに笑ってビルに向かって手を振った。光り輝く高校時代を思い出しているのか、テンションが一気に跳ね上がっている。

 

「ナツちゃんとか、クミちゃんもいるーー!! えーー!! マジで久しぶりーー!!」

「「…………」」

 

 猫屋の爛々(らんらん)とした様子を見て、俺と西代は顔を見合わせた。

 

「ねぇ、陣内君」

「あぁ、そうだな」

 

 意思の疎通はその一言だけで取れた。

 

「猫屋、僕達のことは良いから昔の友達と遊んできたらどうだい?」

「だな。俺たちは1階のフィットネスジムを使わせてもらうから」

 

 俺たちは猫屋と別れて運動させてもらう事に決めた。

 

「え、えぇー、でもー、それは2人に悪いよーな……」

「気にすんなよ。それに、機材の扱いはちゃんと分かってるし問題ない」

 

 俺は軟派だった浪人時代、モテるためにジムに通っていた。その為、重量物の扱いはだいたい分かっている。

 

「そ、そーお? じゃあ、久しぶりに皆とサバキでもしようかなーー、えへへ」

「……………」

 

 猫屋が嬉しそうに笑ったその瞬間、何故か花園さんにガシッと肩を掴まれた。

 

「うぇ!? 今度はなんですか!?」

「イイ。イイよ、陣内……いや、梅治」

 

 グイっと巨体が俺に迫る。距離の縮め方が2つの意味で早すぎて意味が分からなかった。

 

「強さ以外は、私が理想としていた義理の息子だ」

「え、は?」

「来週からここに通いなさい。もちろん月謝は取らないから」

「え、あの」

「地上最強の親子喧嘩とか憧れてたんだ。義理の息子だけど、この際それはいい。なぁに、3年もあれば立派な格闘家としてプロデビューをさせてあげるから。打投極(だとうきょく)の全部を詰め込んで最強の息子を──」

「恥ずかしいから止めろ格闘技バカーー!!」

 

 猫屋が再びキレて、花園さんに飛び掛かる。

 

「うぐぉ!?」

 

 父が娘におぶさるように、猫屋はバックを取った。猫屋の細腕が、花園さんの太い首に差し込まれる。

 

「うぇ────ぐふ」

 

 1秒後、大きな巨体がバタンと崩れ落ちた。

 

「よぉーーし、落ちたっと。まったくー、ちょっと見直したと思ったらコレなんだからーー」

 

 片手での綺麗な裸締めが決まり、地上最強の親子喧嘩の決着が付いた。

 

「これはこっちで処理しておくから、2人は気にせずに運動してきてねーー!!」

「あ、うん」

 

 実父を締め落したにもかかわらず、猫屋の様子はいつもと何も変わらなかった。

 

「悪いね、猫屋。そうさせてもらうよ……でもお父さんのキャラ、濃いね……」

 

 俺もそう思う……それに加えて、俺が娘の彼氏だと完全に勘違いしていた。後でちゃんと訂正しておかないと……。

 

「あぁー、まぁ一応、尊敬できる人で人格者なんだけどねーー。空手4段、柔道2段、ブラジリアン柔術3段。今はジムを運営しながら私の母校で外部指導員してるぐらいだしー……」

「……それを気絶させたお前も凄いな」

「えぇー? ふふっ、そうかなー?」

 

 猫屋は恥ずかしそうに照れて笑う。不意打ちであろうが、父親に勝てたのが少し嬉しいのかもしれない。

 

 たぶん、殴り愛の絶えない親子関係だったんだろう。人のお家事情は様々だろうが、猫屋ほど特異な家も珍しいな……。

 

************************************************************

 

「ふぅ……ふぅ……」

 

 ぐっぐっと、流れる地面をしっかりと踏みつけて走る。

 

 俺は重量物に手を出す前にアップとしてランニングマシンを使っていた。速さは心肺に少しだけ負荷が掛かるように調整してある。なのでそこまで辛くはない。

 

「ぜぇ……ぜぇ……けど、やっぱり猫屋って陽キャだった……んだね……!!」

 

 隣の西代はすごーく辛そうだけど。

 

「……そうだな」

「僕は、はぁ……ひぃ……!! (いん)の者、だったから、ちょっと、羨ましいよ……!!」

 

 まだ走り出して10分くらいしか経っていない。なのにコレだ。西代は俺の運動不足を絶対に笑えない。ちょっと体力が無さすぎる。

 

「お前は(いん)というより魔の者だろ」

「うるさい……!! 今、変な事言わないでくれ……!! つ、疲れるだろう!!」

 

 西代は汗を滝のように流しながら、隣の俺を睨んでくる。だが、威圧感は微塵もない。ただただ可哀そうだ。

 

「……ちょっと休憩するか」

 

 あと20分は走ろうと思っていたが、これでは西代が死んでしまう。

 

 俺はランニングマシンの停止ボタンをタッチした。

 

************************************************************

 

「だから言っただろ。俺に合わせる必要はないって」

「う、うる……さいよ。ハァ……ハァ……」

 

 休憩用のベンチに一緒に座って、西代の汗をタオルで拭う。彼女は相当参っているのか、俺の肩に頭を預けて、荒い息を繰り返している。

 

「なぁ、体力無さすぎないか?」

 

 彼女の学生生活があまり良い物では無かった事は知っている。運動系の部活動にはおそらく参加していなかったのだろう。……それでも、体力が無さすぎる。バイトではどうしているのだろうか?

 

「ハァ……ハァ…………僕、実は小さい頃は体が弱くてね。15歳くらいまで激しい運動を医者から止められてたんだよ」

「え、まじで? 全然そんな風には見えないぞ?」

 

 西代は背丈こそ小さいが、その身体は健康体そのもの。酒と煙草を常に嗜めるくらいだ。肝臓の性能なんて俺よりも良い。

 

「ハァ……ハァ……ハァ…………………ふぅ。……別に喘息や疾患があった訳じゃないんだよ。ただ、僕は未熟児だったんだ」

「未熟児って言うと……」

 

 保健体育で習った事がある。たしか、何らかの原因で身体が十分に成熟していない状態で生まれた赤ちゃんの事だ。

 

「だから同学年より体の成長が遅くてね。それに、どんな弊害が出るか分からないから体が十分にできるまで運動は控えていたんだ」

「……あぁ、そういうことか」

 

 人に歴史あり、とは言う。けれど西代の運動音痴の原因がそんな所に存在するとは思ってもいなかった。

 

「それは……何というか……色々と大変だったな」

「いや、そう苦でもなかったけどね。中学生までは、隠居した()()()と一緒に空気の良い田舎でゆったりと過ごしてたから。本とネット環境さえあれば、娯楽には困らなかったし」

「…………お爺様?」

「あ」

 

 (さま)って普通、家族につけるか?

 

「お、お爺ちゃんとね、あ、あははは」

「……ふぅん」

 

 …………人の家庭事情は千差万別という事か。

 

「ま、まぁそんな僕も、今ではもう健康体そのものさ。この通り、酒も煙草も運動も問題なく楽しめてる」

「…………本当に楽しんでるか?」

「全然。正直、こんなにキツイとは思ってなかったよ……帰ってゲームでもしながら一杯やりたいね」

 

 どうやら、西代は早くもギブアップのようだ。

 

「でも、この気怠い感じだけは悪くないね。空腹は最高のスパイス、なんだろう? 今日のご飯が楽しみになってくる」

 

 西代は着ているジャージで汗を拭いながら、お腹をさすった。

 

「ねぇ、陣内君。今日の晩御飯はなんだい?」

「おでんだ。今朝からしっかり仕込んである」

「へぇ、それは美味しそうだ。……でも珍しいね」

「なにが?」

「君が和食を立て続けに作るなんて」

「あぁ、それか」

 

 昨日の昼はたこ焼きで、夜は(タケノコ)炊き込みご飯とお吸い物だった。

 たしかに俺の得意料理は洋食だ。オリーブオイルにトマト、貝類の扱いなら4人の中で一番上手いと自負している。そんな俺がここ2日間、1回も洋食を作っていない事に西代は疑問を持ったのだ。

 

「……なんか最近、安瀬がちょっと変だろ?」

 

 俺は適当に言葉を濁しまくった。

 

「だからってわけでもないけど、まぁ、そんな感じだ」

 

 最近、安瀬が普通だ。

 

 3日に1回はヤベー催し物を企画する彼女だが、今週に入ってからは1回もその手の企画を発案していない。ただ西代と一緒によく花札(はなふだ)で遊んでるだけ……単純に花札(はなふだ)の面白さに目覚めた可能性はある。だがどうにも奇想天外で放蕩無頼な彼女らしくない。

 

 だから俺はここ何日か、安瀬が好きな和食を作っていた。

 

「…………」

 

 西代は一拍だけ息を溜め、俺を見据えた。……俺が安瀬の変調を心配していたのが意外だったのだろうか?

 

「猫屋の変化には気がつかないのに、安瀬の方はすぐに気がつくんだね……」

 

 そして、消えそうな声で、理解できない言葉を吐きだした。

 

「へ、猫屋?」

「……何でもないよ。…………安瀬はどうしたんだろうね。安瀬は気持ちを隠すのが上手いから、本心は同性の僕にもちょっと分からないや」

「え、あ、そ、そうか」

「それより、変といえば君だって変だ」

 

 西代の綺麗で大きな瞳と、俺の目が交差する。

 

「勉強に運動。最近、らしくないね。自堕落のアル中。そして馬鹿なのが君だったはずだ」

「は、恥ずかしながらそうだな」

 

 何も反論できない。1回生の時の俺は、勉強なんて本当にテスト前くらいしかやらなかった。ずっと酒飲んでいただけだ。

 

「……変わるのは嫌だな、僕」

「え?」

 

 西代は急に俯いて、そんな事を言い始めた。彼女の声音は何故か暗い。

 

「僕を置いて、皆が変わるのは……嫌だ」 

 

 西代の口から、それこそ、らしくない言葉が漏れ出る。彼女は詩人が短歌でも読み上げるような抑揚のない声で、未来を(うれ)いた。

 

「……ははっ、なんてね。少し感傷的になりすぎたよ。慣れない運動なんてしたせいかな?」

「…………」

 

 俺は、彼女の中二病臭い言葉を一切笑えなかった。たぶん何か……心に感じる物があったからだ。

 

「変わらない人間なんているかよ。俺からすれば、お前だって凄い変わったぞ」

「……? どのあたりが?」

「変な方言が全く出なくなった。入学した頃はよく出てたろうが」

「………いや、僕が言いたいのはそういうのじゃないんだけどね」

「いいや。そういう事だ」

 

 俺は強引に話をまとめ上げた。

 

 あぁ、嫌だ。

 真面目な話なんて糞くらえだ。

 

 安瀬の変調の原因は恐らく2つ。

 1つ目は、来月に控えている陽光さんの結婚式だ。大好きな兄が結婚して他人様と一緒になるのだ。……安瀬に残された家族は父親と兄しかいないらしい。そりゃあ不安でナイーブにもなる。

 

 2つ目は、俺がこの前の旅行終わりに無駄な気を使ってしまった事だ。クソうんちのゴミみたいな気の回し方だった。安瀬に怒られて当然だ。彼女は同情や憐れみを嫌う。分かっていたはずだった。

 

「お前が何かを気にする必要はねぇよ」

 

 そうだ、西代は何も気にしなくていい。

 

 自分のケツは自分で拭く。ガキにでもできる事だ。6月に2人で行く旅行は、絶対に楽しい物にしてみせる。酒飲ませて、遊んで、いい湯に浸かって、美味しい物を食べてパァーっとやるんだ。そうやって、安瀬の心労を優しく吹き飛ばす。

 

 それは俺のやるべきこと。だから、こんな話題は適当に切り上げてしまおう。

 

「安瀬が変なのは……たぶん、生理(せいり)便秘(べんぴ)だ。美味い飯と酒があれば、きっとすぐに元の気狂いに戻る」

「君、1回死んだほうがいいよ?」

「…………さ、流石に今のは俺が悪かった」

 

 馬鹿か!! 何で俺はこういう言い方しかできないんだ!! 最悪だよ!!

 

生理(せいり)便秘(べんぴ)って、君って、本当に、もう……」

 

 西代は堪えれないと言った風にクツクツと笑いだした。

 

「ふふふ、細かい気遣いができる癖に、本質は馬鹿の大間抜け。くくくっ、君のそういうチグハグな所が僕にはどうにも心地が良いよ」

「俺は、俺のこういう所が大嫌いだ!!」

 

 西代に死ぬほど揶揄われている。その事実が恥ずかしくて、俺は咄嗟に大声で自分を罵倒した。

 

「あはは……!! でも、そうだね!! 美味しいご飯と酒があれば、きっと全部がどうでもよくなっちゃうね……!!」

 

 西代は先ほどの様子が感じられないほど、綺麗な笑顔を浮かべ高らかに笑ってくれた。

 

「ふふ、今日のご飯も楽しみだ。話をしていたら、もっとお腹が空いてきちゃったよ」

「まだ10分も走ってないのに、なにやり切った感をだしてんだ」

「…………もう足が限界に近い。帰って良いかな?」

「おう。1人でな。帰って熱燗の準備でもしといてくれ」

「……イジワルだね」

「ははっ、寂しがり屋め。……俺はこれから重量物を上げるから、やる事なくて暇なら横で応援でもしてくれよ」

「……それはちょっと面白そうだね。うん、隣でお酒でも飲みながら見ておくよ」

 

 俺と西代は一緒にベンチから立って、ウェイトトレーニングのコーナーに向かっていった。

 

************************************************************

 

 その後、俺は元の体形を取り戻すために必死になって重りを持ち上げた。ダイエットは1日だけ頑張っても効果が出る物ではない。継続的に行う必要がある。

 

 厚かましいとは思うが、猫屋に頼んでまたここに連れて来てもらおう。そしてその時は、運動が苦手な西代もちゃんと誘おうと思う。

 

 何が楽しいのか分からなかったが、西代は必死にベンチプレスをする俺を見て、終始笑っていたのだから。

 



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外堀を埋める才能を持って生まれてしまった男②

 

 夕焼けが目に染みる、駅からの帰り道。水と焼酎で割ったプロテインを飲みながら、3人でトボトボと歩く。

 

「いったたた……これ、明日の朝、起きられるかな」

 

 久しぶりに本気で運動したので体が重い。もうすぐ賃貸だが、歩くのが億劫だ。

 

「僕も足が棒のようだ。歩くのが辛い……」

「あはは!! 西代ちゃん、目がいつもより死んでるよー? 腐った魚みたーい!!」

 

 俺や西代と違って、猫屋は元気いっぱいだ。いつもより溌剌(はつらつ)としている。

 

「猫屋はどうだった? 楽しかったか?」

「うん!! ちょー久しぶりに皆とボコスカできて、気持ちよーく汗流せたーー!!」

「その割には無傷のように見えるけど?」

「防具着けてなかったからねー」

「……ん? それ逆じゃないかい?」

「あぁーー、ほら、私ってー、邪魔な装備さえなかったら大抵の攻撃は見切って躱せちゃうからーー」

 

 …………こいつ、本当に片手だよな? どういった身のこなしをしてるんだ?

 

「あぁーー、でも、お腹すいたー」

「そうだね。バイト中の安瀬には悪いけど、先に3人で晩御飯にしちゃおうか」

「帰ってくるの遅いから仕方ないな」

 

 そんな話をしていると、賃貸の前までついた。

 

「遅かったの、お主ら」 

「あれ、安瀬?」

 

 そこには、背をドアに預けた安瀬がいた。彼女は煙草を吹かしながら、俺達が帰ってくるのを待っていたようだ。

 

「お前、バイトは?」

「…………客が少なくての。早上がりできた」

「へぇ、そうか。……というか、なんで外にいるんだ?」

「客人が来ておって、中に居ずらい」

 

 ……客人?

 

「西代。お主にじゃ」

「え、僕に?」

「うむ、お茶を出して中で待ってもらっておる。なにやら、お主の実家に雇われている者だとか?」

「…………」

 

 安瀬の言葉を聞いた途端に、西代の顔は渋そうに歪んでいった。

 

************************************************************

 

風見(かざみ)、何でここに?」

 

 俺達が家に入ってリビングのドアを開けると、そこには見慣れない初老の女性が居た。

 

「お久しぶりですね」

 

 風見(かざみ)、と呼ばれたその人は、笑顔で軽く会釈をする。

 

 年は50代くらい。シンプルで主張の薄い女性服を着た、物腰の柔らかそうな貴婦人だ。……俺の母さんも、もう少し年を取れば似たような雰囲気を漂わせるだろう。

 

「なぁ、西代。この人は?」

「…………」

 

 西代は俺の問いに答えなかった。

 

「おい、無視するなよ」

「…………家に来てくれているお手伝いさんだ」

 

 おてつだいさん?

 

「何それ?」

「分かりやすく言えば家事代行サービスの人。僕が生まれる前からずっと、家に来てくれているんだ」

「…………へ、へぇ」

 

 俺は間の抜けた返事しかできなかった。あまり馴染みの無い言葉を聞いたからだ。

 

「まぁ、僕にとっては家族みたいな人さ。小さい頃から面倒を見て貰っている」

 

 その言い草だとメイドや召使い等の現実には居なさそうな人種に聞こえるんだが……。

 

「……(いえ)の者にはここには来ないように言っていたはずだけど?」

 

 西代は責めるような口調で風見(かざみ)さんとやらに話しかける。

 

「だから部外者の私が遣わされたんです、桃お嬢様」

「「「…………桃お嬢様!?」」」

 

 初老の女性は西代の事を"お嬢様"と呼んだ。

 

 あの、クールぶった倫理観0の賭博大魔神、西代桃をだ。

 

「ぶははは!! お前がお嬢様だって!?」

「げひゃひゃひゃ!! お主がお嬢様ってキャラでござるか!?」

「アハハハハハハハハ!! わ、私もー、今度から桃お嬢様って呼んでいーい!?」

「……く、クソどもめ。これだから僕は嫌だったんだ」

 

 俺達の侮蔑を真正面から受けて、西代は顔を赤くして恥ずかしがった。

 

「…………うふふふ」

 

 西代を嘲る俺達を見て、風見さんが何故か笑い出した。

 

「随分と仲の良いご友人ができたのですね。あまり乗り気ではなかったのですが、こちらに(おもむ)いて正解のようでした」

 

 風見さんは優しい目で西代を見つめていた。

 

風見(かざみ)、揶揄わないでくれ。……それに世間話をするためにわざわざここまで来たわけじゃないだろう」

「そうですね。ですが、お嬢様も用件は分かっておいででしょう。東城(とうじょう)家ご子息の()()()()()()()()()()()()()です」

「…………はぁ」

 

 西代が片手で頭を抱え、大きなため息をつく。

 

「頭が痛くなるから止めてくれないかな。誕生日パーティーとかいうゴミみたいな物に僕を誘うのは」

「社交の場をゴミなどと言ってはいけませんよ。横のつながりという物は、家にとっては何よりも大切な物なんです」

「僕はあいつ等とつながりを持った覚えはない」

 

 西代は突き放すような口調で風見さんと口論を始める。

 

 俺たちは話の内容が理解できず、ポカンと口を開けてその光景を眺めていた。

 

「しかし、お嬢様。残念な事に、貴方には東城の方々には大きな()()があります。今回ばかりは、ワガママは通りません」

「……っち」

 

 心底不快だ、といった様子で西代は舌打ちを打った。

 

「「「……………………?」」」

 

 俺たちは互いの顔を見ながら疑問符を顔に浮かべる。

 

 意味不明だった。

 

「なぁ、そろそろ俺達にも詳しい説明が欲しいんだけど」

「お嬢様って、え、マジの話でござるか? あの西代が?」

「い、いやーー、それはないでしょー? だって、あの西代ちゃんだよー?」

「…………君たちには関係の無い話さ。僕の事は放って置いて、先にご飯を食べ──」

「お嬢様。是非、私にもそこのお方達を紹介して欲しいです」

 

 突如、風見さんが俺達の会話に混ざってくる。

 

「お嬢様のご友人というのであれば、私はちゃんと挨拶がしたいのです」

 

 柔らかさを感じる優しい言葉が西代に掛けられる。小さい頃からの付き合いというのは本当のようで、その言葉にはまるで我が子に対する暖かさが垣間見えた。

 

 風見さんの言葉を受け、西代は居心地が悪そうに顔を逸らす。

 

「そ、そういうのいいから。風見はさっさと帰って……」

 

 西代の言葉が途中で止まった。

 

「…………」

 

 彼女の目に、段々と汚い沈殿物が積みあがっていく。魔の西代さんモードだ。

 

「………………」 

 

 彼女は返事もせずに、ただ、俺達を見つめていた。

 

「………………」

「…………??」

 

 いや、どうやら西代さんの視線は俺だけに向けられているようだった。黒く濁った汚い瞳と目が合ってしまった。

 

「……うん、そうだね。紹介しておこう」

 

 西代はうすら寒い微笑を浮かべて、俺達に向き直る。

 

 どうやら紹介をして頂けるらしい。俺たちは姿勢を正して、西代の言葉を待った。

 

「まずこれがキチガイの安瀬」

「何じゃ!! その紹介文は!!」

「それでこっちがヤニカスの猫屋」

「西代ちゃーーん? 喧嘩売ってるのかなーー?」

 

 西代の紹介に2人がキレる。実に核心をついた紹介だと感心するが、これでは俺の紹介もまともな物ではないだろう。俺は心の中で怒声を発する準備をした。

 

「そしてこっちが……」

 

 突如、西代が抱き着くようにして俺の腕を絡めとった。

 

 

 

「僕の恋人、陣内君だ」

 

 

 

「「「はぁ!!??」」」

 

 西代のあり得ない紹介に、俺たちは驚愕の声を上げた。

 

「は、ちょ、おま、何言って──」

「陣内ッ!!」

「ぐぇっ」

 

 安瀬によって西代が引きはがされ、そのまま彼女は俺の胸倉を掴んだ。

 

「コレは一体どういう事でござるか!? お主ら、陰で付き合っておらぬと言っていたではないか!!」

 

 何故か怒っている安瀬にブンブンと頭を揺さぶられる。だが、困惑しているのは俺も同じだ。

 

「ちょ、2人って付き合ってたわけーー!?」

「お゛っふ゛」

 

 猫屋も安瀬に加わる。両者に頭を揺さぶられて、俺の頭がぐらぐらとヘドバンを始めてしまった。

 

 ぐ、ぐるじぃ……。

 

「う゛ぉえ……!! お、お、お前ら、落ち着けって!!」

「ふふ、君たち何を驚いているんだい? 僕と陣内君は将来を誓いあった婚約者のはずだよ」

 

 突然の恋人宣言に動揺する俺達とは違い、西代はどこ吹く風といった調子で今度は俺の事を婚約者などと(のたま)いやがった。

 

「ぐぇ゛……て、テメェ何の話をしてるんだよ!!」

「ほんの数か月前の話さ。嘘じゃないだろう?」

 

 たしかに、正月帰省の時にそういった事件はあった。

 

 だがあれはその場しのぎの嘘だったはずだ!!

 

「西代!! ふざけてんじゃ──」

「そういう訳だから、誕生日パーティーには彼を連れて行くよ。彼と僕は将来を誓い合った仲だ。お爺様に紹介したい」

「…………ほ、本気でございますか?」

 

 風見さんが、女2人に胸倉を掴まれている俺を胡乱な目で見つめてくる。

 

「お嬢様、お相手はきちんと選んだ方が……」

「おいアンタ!! 初対面でソレはちょっと失礼だろ!!」

「あ、いえ、そういった意味ではなくてですね……」

 

 じゃあどういう意味だよ!!

 

「……あの老獪なお方がお認めになるかどうか」

「まぁそれはこっちで上手くやるさ。それより、詳しい日程と場所は?」

「あぁ、はい。場所は東京。西代家が保有している高層ビルで開かれます。日時は明日の19時からです」

「地元じゃなくて、わざわざこっちの方(都会)でやるのか。見栄っ張りなあいつ等らしいよ……」

「それに関しては私も同意いたします。……ではまた明日。車でお迎えに上がります」

 

************************************************************

 

 謎の話し合いが終わり、風見さんが帰った後。

 

 俺たちは西代を問い詰めるために、円卓のテーブルに座して審問会を開いた。

 

「おい、西代!! コレは一体全体どういった訳だ!!」

「そうでござる!! まるで話が見えてこないでありんす!!」

「被告に詳しい説明を要求しまーーす!!」

「あぁ、はいはい。分かった、分かったから」

 

 西代は手をプラプラと振って、面倒くさそうに俺達をあしらう。

 

 彼女は俺達の質問には答えず、ポケットから煙草を取り出した。

 

「猫屋、火をくれないかい?」

 

 咥えたのはタールが7ミリ、白黒のセブンスター。西代がいつも吸っているヤツだ。

 

「えぇー、それより早くさぁーー」

「頼むよ」

「…………はーーい」

 

 猫屋は銀のジッポを取り出すと、指一本でキャップを弾き、指を戻す勢いのままフリントホイールを回した。ワンアクションでジッポ特有の縦長い炎が灯る。

 

「すぅ…………」

 

 ジッポから火を貰った西代は、息をゆっくりと吸い。

 

「はぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」

 

 死ぬほど不味そうに煙を吐き出した。もはや、ため息と変わらない。

 

「……ねぇ、陣内君。何か酒を持って来てくれ。度数が強いのが欲しい」

 

 項垂れた姿を隠す事もせずに、西代は俺に酒を強請った。……事情はよく分からないが、どうやら彼女はそうとう参っているようだ。

 

「……仕方ねぇな」

 

 煙草をあのように吸われたのなら、怒りを鎮めて優しくしてやろうという気持ちも湧き出てくる。俺は西代の為に酒を拵えてやる事に決めた。

 

「度数以外のご要望は?」

「自然な甘みがあるのを頼むよ」

 

 それ、漠然としすぎて難しいんだけど……。

 

************************************************************

 

 ウォッカの入ったグラスを西代の目の前に差し出す。軽く加水してあるので度数は30パーセント前後。水は水道水ではなく、わざわざミネラルウォーターを使ってやった。

 

「シロックだ。いい酒なんだから味わって飲めよ」

 

 Cîroc(シロック)

 ウォッカとしてはかなり異色の部類に入る物だ。フランス産のブドウで造られたプレミアムウォッカ。本来、ウォッカは穀物類で作られる。しかし、Cîroc(シロック)は、よく分かわないハイテク技法を使い、なんとブドウだけで蒸溜されているらしい。

 

 ウォッカとはドイツ語で"水"を意味する。水のように清らかな酒精に、ブドウの豊かなフレーバーが立ち込める芸術的な一品だ。……ワインをよく飲んでいる西代なら気に入るだろう。

 

「こっちはチェイサーとつまみだ」

 

 ウォッカに追加で、栓を開けたハイネケン(ビール)と、少しお高いスモークチーズを西代に提供してやる。この2つの酒に、チーズはよく合う。

 

「…………うんうん」

 

 西代は煙草を灰皿に置き、微笑を浮かべて頷いた。先ほど不味そうに煙草を吸っていた時と大違いだ。

 

「じゃあ、いただくよ」

 

 次の瞬間、西代はグラスを一気に煽った。

 

「あ、ちょ」

「────────ふぅ」

 

 熱いため息が西代から漏れでる。ツーフィンガーはあったウォッカが一瞬で飲み干されてしまった。

 

 味わって飲めって言ったのに……。

 

「…………ふふっ、陣内君、これはまたニクいチョイスだね。初めて飲んだけど、胃に落ちる熱とブドウの風味がたまらないよ」

「一気に煽ったやつが食レポなんてするな。いいから、さっさと訳を話せ」

 

 俺は空いたグラスに追加の酒を注ぎながら、西代を催促する。

 

「なんだい、人がせっかく褒めてるのに。せっかちだね」

 

 西代はそう言って、煙草をもう一服だけ付ける。

 

「ふぅー…………僕って人間の生まれは、かなり複雑で面倒なんだ。分かりずらいかもしれないから、順を追って話そう」

 

 西代はフィルターギリギリの煙草を灰皿に押しつけた。

 

「まず、僕の家はちょっと引くほど金持ちでね」

 

 漂う紫煙を濁った瞳で見つめて、彼女はそう切り出した。

 

「金持ち?」

「あぁ。曽祖父が大地主で、祖父が政治家なんだ」

「地主ぃーー?」

「政治家じゃと?」

 

 猫屋と安瀬が怪訝な声で相槌を打つ。

 

「うん。……まぁ、ひい爺さんは僕が生まれた時には他界していたし、お爺様は既に隠居した身なんだけどね」

 

 家族の話をしているはずなのに、西代は他人事のような口調で話を続ける。

 

「……土地と大金を持ち、政界にコネがあると、人間っていうのは格式張るものでね。本家だの、分家だの、お嬢様だのと……まるで華族ごっこ。下らない価値観に囚われた面倒くさい家に、僕は生まれてしまったのさ」

 

「何言ってんのお前? 博打の打ちすぎで頭イカレたか?」

「妄想はほどほどにするでござるよ?」

「もしかしてー、最近流行りの悪役令嬢系に自己投影しすぎちゃったー?」

 

「…………どうやら、ぶち殺されたいみたいだね」

 

 西代の目がドス黒く濁っていく。彼女は荷物スペースからスタンガンを取り出してこちらに向けた。

 

 俺たちはスッと身を引いて、魔の西代さんに平服する。

 

「西代お嬢様、そのような暴虐な行いは控えるべきかと」

「西代姫、お下品でございます」

「西代さまーー、素養が感じられないんだけどー?」

 

「殺す」

 

 バチバチッ!! と電流が空気に流れた。ふざける俺達を本気で威嚇している。

 

「いや、だって……なぁ?」

「のぅ?」

「ねーー?」

 

 西代の本気の威嚇を見ても、俺達は西代の話を信じる事ができなかった。

 

「西代ちゃん、基本的にいつも金欠だよねー?」

「ギャンブルのせいでな。賭博にハマる富豪令嬢なんて存在するかよ」

「拙者なんて、西代に1万ほど金を貸しているぜよ。金持ちというのなら(はよ)う返せ」

「うっ」

 

 西代が安瀬の言葉に怯んだ。彼女は渋そうな顔をして視線を泳がせる。

 

 友人に借金がある。そんなお嬢様はこの世にいない。俺達3人の思考は見事に一致していた。

 

「……15歳くらいの時からコッソリと、お爺様が建てたパチンコ屋で親戚から貰った多額のお年玉を突っ込んでたんだ。僕が賭博類にハマったきっかけはそれだ」

「…………色々とツッコミどころがありすぎて、どこから処理していいのか分かんねぇ」

 

 俺はけっこう本気で頭を抱えてしまった。彼女が何を言っているのか理解できない。

 

「なぁ、どうして政治家のお爺さんがパチンコ屋なんて建てるんだ?」

「昔は節税対策になったらしいよ。今はもう法が変わって無意味になったらしいけどね」

「なら親戚から貰ったお年玉ってやつは?」

「……前に僕が()()()()()だって話はしたよね」

「ん、あぁ、そういえば言ってたな」

 

 正月に俺の家に彼女が泊った事件。あれの発端は、西代が親戚と会いたくないと言い出した事だったはずだ。 

 

「アイツ等から貰った金を使うなんて僕は御免だ。だから綺麗さっぱり無くなるまで、台に金を入れ続けた。そのままドブに捨てるよりかは幾らか健全だと思ってね。店の儲けは、お爺様に行くわけだし」

「……それってパチンコを楽しんでるんだから結局使ってるよな?」

「で、あるな……というかお主、15歳でパチンコデビューでござるか」

「西代ちゃんって昔からヤバい人だったんだねー……」

「こ、細かい事をグチグチとうるさいよ」

 

 西代は過去の恥を誤魔化すようにチェイサーのハイネケンを一瞬で飲み干した。

 

 さっきから飲み方が勿体なさすぎる……。

 

「……まぁ、お前が自分を金持ちだって主張したいのは分かった。けど、それなら、何でバイトしてるんだ?」

 

 実家が太いというのなら、親からの仕送りだけで遊んで暮らせるはずだ。働く必要などない。

 

「親やお爺様のお金に頼りすぎるのも嫌いなんだ……仕送りは貰ってるけど、常識的な額にしてもらってる」

 

 俺の疑問に、西代は忌々しそうに答えた。

 

「なんで? お前自身のこだわりか?」

 

 親の庇護下から抜け出して、自立した大人になりたいという気持ちを理解する事はできる。でも西代の普段の生活からはそういった気概は感じられない。

 

 西代桃という人間は、本と酒と煙草を愛し、生活費を掛けて賭博することが大好きなギャンブル中毒者だ。自立したいという気持ちは薄いように思えた。

 

「……ここからが僕が負ってしまった、どうしようもないほど面倒な話だ」

 

 西代はセブンスターをもう一本吸い始める。

 

「ふぅ……陣内君には話したけど、僕は小さい頃は体が弱くてね」

「え、そーだったの?」

「うん。だから、中学生くらいまでは隠居したお爺様と空気の良い田舎でずっと暮らしていた」

 

 彼女は話を続けながら、今度はウォッカを舐めるように味わった。

 

「そんな感じだったから、僕はお爺様に物凄く気に入られていたのさ」

 

 孫可愛がりってやつか。

 

「お爺様は元政治家だけあって、色々と行動の早いお人だ。既に財産の相続を始めていて、僕が12歳の時には生前葬(せいぜんそう)をやったくらいだ」

「そ、それは随分と気合が入ったご隠居でござるな」

 

 ……生前葬(せいぜんそう)ってなんだ? 生きている時に葬式するのか? なんで?

 

「そしてお爺様は生前葬の際に、自分の全財産を1()()()()()()()()()()と親族の前で公表した。遺言書も、もう書かれている」

「…………話の流れから察するに、その相続先って……」

「あぁ、僕だ」

 

 紫煙に溺れて、酒精を浴びながら、西代は億劫そうに短く言い切った。 

 

「冗談であろう?」

 

 安瀬が訝しそうな目を西代に向けた。彼女は信じられないといった顔をしている。

 

「お主の祖父は何を考えておるんじゃ? 言って悪いが、惚けておるとしか思えん」

「概ね同意するよ。……でも、ボケてはいないと思う。隠居しているとはいえ、策略渦巻く政界を生き抜いた、本物の古狸。そんなお爺様のお考えは長年一緒にいた僕にも理解できないよ」

「え、そんなに変な話か?」

 

 西代のお爺さんの考えなんて簡単に分かる。西代は昔、体が弱かった。それを心配したお爺さんは、虚弱だった可愛い孫に、自分の財産を残してあげたかったのだろう。

 

 俺にはそこまで変な行動とは思えないんだけど……。

 

「馬鹿じゃな陣内。孫への相続は2割増課税であろう。相続というのは配偶者、子、孫の順番が基本でござる」

「その通りだよ。かなりの金額が税金として国に徴収されてしまうからね。僕に遺産を残したいのなら、僕の父を相続先に指定すればいいだけさ」

「……猫屋、知ってたか?」

「知ってるわけないじゃーん……」

 

 良かった。俺が無教養な訳じゃなかった。

 

 相続を経験しているであろう安瀬は知っているだろうが、ただの大学生に相続云々(うんぬん)の知識があるわけがない。

 

 …………だが、西代は何故かそれを知っている。話に信憑性が出てきてしまった。

 

「そこから僕は垂涎(すんぜん)の的さ」

 

 西代の目がより深く曇る。

 

「お爺様の財産を継ぐ予定なのは、当時12歳の虚弱体質な女の子。僕と(ちぎ)れば近い将来、広大な土地と莫大な金が転がり込んでくる……周りは(くみ)しやすいと思ったんだろうね」

 

 西代が口にする身の上話は、一般家庭に生まれた俺にはちょっと想像がつかないものだった。

 

 だけど、煙の奥に見える彼女の苦々しい表情を見る限り、それはきっと真実なのだろう。

 

「3親等以上の親戚と、その傘下の者達。他にも西代家に関わりのある連中が僕に何とか取り入ろうとするんだ…………僕を舐めてるんだよね、あの蛆虫ども」

「あぁ、なるほど。合点がいった」

 

 去年の年明け前に西代が発した言葉を俺は思い出した。

 

『親戚連中が実家に集まるのがとにかく嫌でね。家に蛆虫が沸いている気分になる』

 

 たしかに、彼女はそう言っていた。……蛆虫は言いすぎだと思っていたが、そんなお家事情なら納得がいく。彼女は恐らく、欲望の視線を親族から浴びながら思春期を過ごした。それなら親以外の親族が嫌いになってもおかしくない。

 

 そしてパーティーのお誘いとは社交の場に体よく西代を誘い出す為の口実だ。お目当ては、西代が相続する予定の莫大な財産。

 

 ならば西代が俺を恋人だと偽って紹介したのは……。

 

「お前にすり寄ってくる男達との壁役を俺にやれって言うんだな」

「あぁー、なるほどねーー」

「…………ふむ、そういう事か」

「くくくっ、察しがいいじゃないか。まさにその通りだ」

 

 西代がニヒルに笑う。その顔は悪い愉悦に塗れていた。新しい悪だくみの時間だとでも言いたそうだ。

 

「まぁ、そう言った事情があるなら手伝ってやりたいのは山々なんだが……」

 

 俺はこの話に乗ることを渋った。

 

 嘘をつく事を気にしているのではない。俺の性根は確実に悪よりだ。見知らぬ相手への偽証なんかに罪悪感は一切感じない。それに面白い悪だくみは大好きだし、西代の助けになってやりたいと本心で思っている。

 

 ……だけどこの1年、婚約者だとか、恋人だとか、偽りの恋仲を演じることが多すぎる。この手の嘘を吐きすぎると、底無しの泥沼にハマってしまう。そんな予感がしていた。

 

 『気が付いたら腰の所までどっぷりとハマって、レッドゾーンから抜け出せなくなるぞ』と俺の脳内の隅っこで警報が鳴っていた。

 

 正直に言って、ちょっと何かが(そら)恐ろしい。ほ、他の回避プランを提案した方がいいような──

 

「陣内君。コレは君にとっても悪い話じゃないんだよ?」

「え?」

 

 西代が天使のような笑顔を浮かべて、俺に詰め寄ってくる。

 

「パーティーではタダでお酒が振る舞われる」

 

 ジョバババババ!! と、飲酒欲求があふれ出した。俺の脳内に甘い痺れが走る。

 

 お酒。お酒。お酒様。

 

 うん、いいなお酒。俺、アルコールだいちゅき。

 

「見栄を張るのが生きがいのような連中だ。たぶん高いお酒が振る舞われるんじゃないかな」

「西代お嬢様ぁ!!」

 

 俺は即座に西代の足元にすり寄った。

 

「是非ご同行させて下さい!! 必ずお役に立ってみせます!!」

 

 不安感なんぞ遥か彼方に吹き飛んだ。

 

 高いお酒が俺を呼んでいる!! 禁酒明けに最高のイベントが舞い降りてくれた!!

 

「任してくれよマイフィアンセ!! 婚約者だろうが奴隷の役だろうが完璧に演じきってやる!! グヘヘェ……お前に近づく拝金主義者どもを空になった酒瓶でぶん殴ってやるからな!!」

「……うん、その調子でよろしく。……頼んだ僕が言うのもなんだけど、君って本物のろくでなしだよね」

「はっはっは!! 今は何とでも言ってくれ!!」

 

 俺のテンションは最高潮に舞い上がっていた。西代と一緒に高級で美味い酒が飲めるのだ。こんなに楽しそうな事は他にない。多少の罵倒は甘んじて受け入れよう。

 

「…………まぁ、その、悪いね」

 

 西代が俺から視線を外して、安瀬と猫屋の方を向く。

 

「そういったわけだから、明日はちょっとこのアル中を借りていくよ」

「ま、まぁー、そう言った事情があるなら仕方ないよねー……」

「…………で、あるな」

「?」

 

 テンションが跳ね上がった俺とは違い、2人は微妙そうな顔をしていた。

 

 ……きっと俺と西代だけが良い酒を飲めることに嫉妬しているのだろうな。気持ちは痛いほどわかる。

 

 可愛そうなので、コッソリと酒を水筒に入れて大量に持ち帰ってやるとしよう。

 

 あぁ、明日が本当に楽しみだ!!

 

 

************************************************************

 

 

 

 猫屋李花を除く、全員が寝静まった深夜2時。

 

 最低限の照明が光る台所で猫屋は水パイプを燻らせていた。

 

「…………ふぅーー」

 

 換気扇がくるくると回り、煙を外に排出する。

 

 猫屋は逃げる煙をボーと眺める。今日は異常に彼女は寝つきが悪かったのだ。

 

「西代ちゃんがお金持ちのお嬢様かーー……凄いなー……」

 

 小さくて可愛い友の意外な一面。それを知って彼女は、煙と一緒に羨望の感情を吐露する。

 

(……いいなー、西代ちゃん。陣内って優しいから、何があっても守ってくれるだろーなー……気兼ねなくお酒飲めてー、超楽しそーー……)

 

 ブクブクブクと、水パイプが気泡を激しく立てる。

 

(……明日は大学終わりに安瀬ちゃんと外飲みにでも行こーかなー)

 

 その時、ガラっと寝室のドアが開かれた。

 

「あれ、安瀬ちゃん?」

 

 寝室から出てきたのは安瀬桜だった。

 

「もう寝てたんじゃ──」

「寝ている隙をついて、陣内のスマホに監視アプリをダウンロードしておいたでござる」

「…………え?」

 

 何の脈絡もなく、安瀬は淡々と恐ろしい事を口にする。

 

「猫屋、明日は我らも乗り込むぜよ」

「……え、えぇーっと? 何に?」

「あのムカムカが止まらない、ゴミパーティーとやらにじゃ」

 

 そう言って、安瀬は懐からメンソールのメビウスを取り出す。ボックスを口に持っていき、品なく唇を使って強引に一本を引き抜いた。

 

「猫屋、悪いが火をくれぬか?」

「あ、うん」

 

 今日は火種を求められることが多いなぁ、と思いながら猫屋は従順にジッポを差し出した。

 

 安瀬の咥えた煙草に薄く赤色が灯る。

 

「ふぅ…………」

 

 安瀬は静かに煙を吸い、ニコチンを脳に巡らせた。

 

「西代の大変な事情…………」

「へ?」

「……恋人……婚約者……相続……誕生日パーティー………猫屋という者がありながら…………我がどんな気持ちで…………あっの糞ボケアル中…………全部……死ぬほど…………むかつくぅぅ」

 

 ボソボソとした言葉が、限りなく低い音量で安瀬の口から吐き出され続ける。

 

「あ、安瀬ちゃーーん? あの、乗り込むって、一体、どういう──」

「ぶっ壊してやる!!」

「うわぁ!?」

 

 急に大声を発した安瀬に対して、猫屋は目を丸くして驚く。

 

「猫屋!!」

「え、は、はい!!」

「お主は目一杯(めいっぱい)着飾っていくでござるよ!! ドレスコードで度肝を抜いてやるでありんす!!」

「え、え、どういうことーー!?」

「うるさい!! 口答えは許さん!!」

 

 安瀬のストレスを貯蓄していた心のダムは、一瞬で決壊した。

 

「どいつもこいつも、我の堪忍袋の短さを見誤ったな!! 明日はただでは済まさんからの!!」

 

 ここ1週間程度、鳴りを潜めていた安瀬の狂気が最悪の形で爆発する。

 

「気が晴れるまで無茶苦茶のグチャグチャにしてやるぅぅ!!」

「あ、あばばばば」

 

 正気をなくした言動を繰り返す安瀬に、猫屋は腰を抜かして情けなく震えるのだった。

 



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ズルくて嫌味な悪女の成り立ち

 

 1万円以下の薄っぺらいスーツに市販のヘアカラー剤を使った汚い金髪。耳には多くのイヤーカフが列挙。ソフトモヒカンにジェルワックスで波をつけ、最後に臭いのキツイ香水を降りかければ……。

 

「ひどいね」

「あぁ、馬鹿丸出しのヤンキーだ」

 

 不良大学生の完成だ。

 姿見に写る自分の姿を見て絶望する。頭が悪すぎる格好だった。

 

「いやいや。今の君はその程度の表現には収まらないよ。()()()()()()()()三下のチンピラ以下さ。絶対に関わりたくないオーラが滲み出ているよ」

「……それはどうもおかげさまで」

 

 俺たちは大学が終わってから直ぐに帰宅して、パーティーの為に身なりを整えていた。

 

 この短時間で俺の容姿はボロボロだ。酒の為とはいえ、髪まで刈り上げられた…………猫屋に悟られないように、少しずつ前髪を伸ばす予定だったのに。

 

(やっぱり、ヤンキーファッションってイケメンかマッチョだけに許された格好だよなぁ)

 

 金髪なんて浪人時代ぶり。客観的に見てまったく似合ってない……。安瀬と猫屋がどこかに出かけていてよかった。こんな姿を見られるのは西代だけで十分だ。

 

「なぁ、本当にこんなので大丈夫なのかよ?」

「問題ないよ。もともと僕は親族の中でも浮いた存在だ。ここまでガラの悪い恋人を連れているのなら、誰にも声を掛けられることはないだろうね。後はいつも通り、下品に酔っぱらっていたら完璧さ」

「おい、誰がいつも下品に酔っているって?」

「ふふっ、事実だろう?」

 

 俺を馬鹿にして控えめに笑う西代。彼女の姿も普段とはまったく異なる。

 

 砂漠の夜空を思わせる漆黒のロングドレス。手の込んだ刺繍の隙間から見える白い肌が、彼女の魔性ぷりを跳ね上げていた。少しだけ開いた胸元に掛かっている青色のジュエリー(宝石)も妖艶だ。クールな彼女に青い宝石はよく似合う。

 

「お前の方は、そんな上等な服なんてどこに持ってたんだ?」

「昨日、風見(かざみ)が置いていったのさ」

「あぁ、なるほど。……と、ところで、その大きな宝石って、まさか……」

「ん? あぁ、サファイアらしいよ」

 

 西代は自分の胸元をつまらなそうに見つめた。

 

「ネックレスなんて肩が凝るだけだから嫌なんだけど、風見(かざみ)が付けろってうるさくてね」

「…………」

 

 サファイアってダイヤモンド以上に高いんじゃなかったっけ? 実物なんて初めて見たんだけど……。

 

「……貴金属付けてドレスを着ると、たしかにお嬢様にしか見えないな」

「そうかい? 着飾れば、安瀬と猫屋だって同じだろう?」

「いいや?」

 

 安瀬と猫屋は確かに美人だ。だが、安瀬が着飾った場合は極道組長の一人娘。猫屋なら一代成金セレブのお調子者に見えるだろう。2人とも御淑やかさが圧倒的に欠けている。

 

 落ち着いた西代だけが、古くから続く名家のご令嬢を連想させた。

 

「お嬢様って言葉がぴったり合うのはお前だけだ。なんかムカつくほど綺麗で気品を感じる……俺と違って、本当に良く似合ってるよ」

「そ、そうかな?」

「あぁ。お前に言い寄ってくる男達ってさ、財産が目当てじゃなくてシンプルにお前を口説きたいだけなんじゃないのか? お前、純粋に可愛いわけだし」

「……………………」

「?」

 

 俺の言葉に返事をせず、西代は少しだけ顔を逸らした。

 

「……(モモ)

「え?」

 

 そっぽを向いたまま、彼女は自分の名前をポツリと呟く。

 

「今日だけは(モモ)だ。僕の事はそう呼んでくれ。君の事はジン君って呼ぶから」

「ん、あぁ、そうだな」

 

 俺たちは今日は恋人という設定になる。

 

「確かに、他人行儀な呼び方では怪しまれるか。でも、また西代を"モモちゃん"なんて呼ぶ日が来るとはな」

「……そうだね。僕も笑っちゃうよ。でも、ちゃん付けは止めてくれ。むず痒くなっちゃうだろう?」

「あぁ、分かったよ、モモちゃん」

「…………君と一緒だと今日は退屈しなさそうだよ」

 

 西代は肩をすくめて皮肉気に(おど)けてみせた。

 

************************************************************

 

 身支度を終えて賃貸で軽く酒を飲んでいたら、昨日の約束通り風見さんが車で迎えに来てくれた。

 

 賃貸の前に駐車していたのは、細かい所まで掃除が行き届いている黒のセダン。車には詳しくないので、パッと見た感じ『高そうだな』という感想しか出てこなかった。

 

 それに早速乗り込み、フカフカの後部座席に身を預けながら、俺たちは東京に向かって出発した。

 

「今日は僕の親戚である東城(とうじょう)リクの21歳の誕生日なのさ」

 

 東京に向かう道中、西代が今日のパーティーの解説を始めてくれた。どうやら偶然にも、今日の主賓は同い年の男性のようだ。

 

「…………21歳って、そんな年になって誕生日パーティーを自主開催って恥ずかしくないのか?」

 

 俺は思ったことをそのまま口に出した。別に悪い事ではないが、自分の為だけにビルを使って誕生日を祝うのはワンパクが過ぎるのではないだろうか?

 

「……く、くくくっ」

 

 俺の素朴な質問を受け、何故か西代が笑い始めた。

 

「そうだよね……!! まったく、僕もその通りだと思うよ!! あははは!!」

 

 満面の笑みでゲラゲラと笑う富豪令嬢(仮)。

 

「えぇ……」

 

 何が彼女のツボにハマったのか理解できなかった。

 

「陣内様」

「え、あ、はい」

 

 俺が微妙な顔をしていると、運転している風見さんが話しかけてくる。

 

「レセプションというのはつまり、集まりの場を作る事を目的としております。横のつながり無くして、縦のつながりは築けません。力を持つ親族との調和を図り、家名を強く保つ事が大切なのです」

「あぁ風見、その辺りの真面目で面倒な話はいいよ」

 

 俺が風見さんに返答しようとする前に、西代が会話に混ざった。

 

「ですがお嬢様。将来的に家に入るというのならば、こういった社交の常識は早めに──」

「そんな物は必要ないね。()()には、何ら関係ない話さ」

 

 多分な意味を込めるような口調で、彼女は返事を返した。

 

「……ますます垣蔵(かきぞう)様に似てきましたね、お嬢様」

「排他的な所がかい?」

「その難解な性格が、でございます」

「ありがとう、誉め言葉だよ。でも、そこは父さんに似ているって言って欲しかったな」

 

 2人は、俺には分からない内々(ないない)の話を始めた。辛うじて家族の話だという事だけは理解できたが、会話に入り込めない。

 

「…………」

 

 ふと、俺は西()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のではないか、と思った。育った環境や複雑な家庭事情を聴いたのは昨日と今日だ。

 

「なぁ、その垣蔵(かきぞう)さんって言うのは?」

 

 何となく、俺はもっと彼女の事が深く知りたくなった。

 

「ん、あぁ、お爺様の事だよ」

「元政治家だって言う?」

「うん。東城(とうじょう)垣蔵(かきぞう)。それが僕の祖父の名前だ」

東城(とうじょう)? 西代(にししろ)じゃなくて?」

「僕の父は嫡子(ちゃくし)だったけど、周囲の反対を押し切って婿(むこ)に入ってね。本家が東城で、西()()()()()()()()()()()()()()1()()なのさ」

「んん?」

 

 嫡子(ちゃくし)、というのは家督を継ぐ、てきな立場の人間を差す言葉だっただろうか?

 

「……なぁ、本家とか分家って馴染みがなくてよく分からないんだけど」

「まぁ親戚のお堅い表現だと思ってくれればいいよ」

「ふぅん」

 

 俺はこの時点で西代のお家事情への詳しい理解を諦めた。

 

 それに、今聞きたいのはもっと別の情報だ。

 

「なぁ、今日はモモちゃんの親は来るのか? 来るなら一応、挨拶しておきたいんだけど」

「いいや、来ないよ。僕の親は基本的に海外で仕事をしているからね」

「か、海外?」

「ふふ、僕の両親はかなり規格外だよ?」

 

 ニヤリと、西代は得意気に笑う。よくぞ聞いてくれた、とでも言いたそうだ。

 

「父さんは国際的なヴァイオリニスト、母さんは多くの画廊を手掛ける美術商なんだ。どっちも世界を股に掛ける本物の天才さ」

「お、おおぉ」

 

 思わず、感嘆の声が漏れ出した。

 

「それは確かに凄いな」

 

 芸術に関わる仕事をしている大人は俺の周りにはいない。どっちも漫画でしか見た事ないような職業だった。

 

「だろう? 特に父は凄いよ。昔、東城の名を捨てて母さんと駆け落ちしたんだ。国際的に評価されて名声を博し、実家の方から戻って来てくれって言われるまで家の敷居を一切跨がなかった」

 

 父親の事を語る彼女は普段より饒舌だった。イキイキとして、とても誇らしそうに見える。

 

「金持ちの家の長男の立場を捨てて、自分の努力だけで周囲をねじ伏せたのさ。まるで物語の主人公。カッコいいだろう?」

「まぁな。男らしくてなんとも憧れる生き様だ」

 

 俺は神妙な顔をして彼女に同調した。誰にも頼らず実力だけで周囲から認められたという話は、聞いていて痛快さを感じさせる。

 

 彼女の語り口から察するに、西代は父親の事を大そう尊敬しているのだろう。

 

「……まぁ両親共々、仕事が忙しくて中々会えないのが難点なんだけどね」

 

 そんな西代の表情が少し曇る。

 

「え、あぁ、そうか。海外にいるなら、会うのは大変になるか」

「うん、どうしてもね。だから小さい頃から、ほとんどお爺様と風見が僕の面倒を見てくれていたよ」

 

 海外で活躍する音楽家()画商()。どちらも移動に体力が必要な職業だろう。身体が弱かった西代が、そこに同行できる訳がない。

 

 …………幼年期は寂しい思いをしていたのかもしれない。

 

「でも、僕の誕生日とかは必ず戻って来て祝ってくれるし、いい両親なんだ」

「……そうか」

 

 感傷的な思いのまま短く返事をする。それと同時に、1つの疑問が頭をよぎった。

 

「ん? ちょっと待て。それなら、モモちゃんも楽器が弾けたり絵が上手だったりするのか?」

 

 成功している芸術家の両親から生まれたのだ。両親の影響で幼い頃からレッスンを受けていても不思議じゃない。それに彼女は、工学系大学生の癖して目と耳がかなり良い。偏見かもしれないが、その2つは音楽や絵画に重要そうな資質に思えた。

 

「…………まぁ、多少はね」

 

 彼女はぶっきらぼうに答えて、煙草を懐から取り出す。

 

「でも勘違いしないでくれよ? ()()()()()()()()

 

 彼女は慣れた手つきで煙草に火を点けた。

 

「すぅ……はぁー…………親から受け継いだ才能を十全に発揮していた猫屋と違って、僕は平凡そのものなんだ」

 

 煙が邪魔をして、一瞬だけ彼女の顔が見えなかった。

 

「音楽や絵にさほど興味も無かったしね。少しだけ齧ったけど、才能なんて、まるで無かったよ」

 

 高速で流れる車外の景色。煙の奥で、西代はどこか遠くを見つめていた。

 

 楽器を弾く、絵を描く。芸術は著しく体力を使う、体力勝負な面があると聞いた事がある。熱中すれば、スポーツとほぼ変わらない。

 

 昔、体が弱かった彼女が練習に全てを捧げられるはずがない。

 

(……なんか、さっきから……嫌だな)

 

 馬鹿で間抜けな質問をしてしまったと思った。

 

 西代もそこまで気にしている様子はないので、悲劇と言うほどの話ではないだろう。裕福に生きているのなら、きっと何も問題はない事だ。

 

 でも何かが、やるせない。

 

 ()()()取りこぼしてきた、才女。

 俺は、本当に身勝手に、西代にそんなイメージを抱いた。

 

「お前が平凡なら、俺は一体どうなるんだ? 特技なんてないし、芸術の教養もないぞ?」

 

 咄嗟にへりくだった。相対的に西代を持ち上げたかったのかもしれない。

 

「……まぁ確かに、君も平々凡々(へいへいぼんぼん)。安瀬と猫屋と違って、僕らは平凡コンビだね」

「なんだそれ?」

 

 自分を卑下したはずだが、何故かよく分からない括りで一緒にされてしまった。

 

「ふふっ、いいから仲良くやろうじゃないか」

 

 西代が俺の肩に頭を預けてすり寄ってくる。立ち昇る煙草の煙と、彼女の自堕落的な声音が妙に艶めかしい雰囲気を感じさせた。

 

「あぁ、はいはい」

 

 おざなりに返事をして、甘い煙草を軽く咥える。受動喫煙のせいで俺もニコチンを補給したくなった。車内だが西代が吸っているので別に構わないだろう。

 

 火種を探して、ポケットを漁る。その時、トントンと西代に指で小突かれた。

 

「ん? どうした?」

「火ならここにあるよ」

 

 そう言い、彼女は白く小さな顔を俺に近づけた。

 熔けた金属が繋がるように、甘い煙草がゆっくりと燃焼する。

 

「…………」

「…………」

 

 火がしっかりと灯るまで、お互いの目を見つめあいながら動かない。もう慣れた行為だ。それに多少、酒も入っている。なので、少し驚く程度でドキドキしたりはしない。

 

 しかし『この美人令嬢のどこが平凡なんだろう』とは本気で思った。西代の行動1つで、先ほどの俺の身勝手なイメージはすぐに払拭されてしまったのだ。

 

「ふぅー…………ありがとよ」

「どういたしまして」

「でも、急には止めてくれ。ビックリするだろ」

 

 一服をつけ、本心で文句を吐いた。

 

「今日の僕らは恋仲さ。熱いベーゼをかわして、周りにちゃんとアピールしないと」

 

 西代は運転席の方に軽く視線をやった。

 

 釣られて俺も視線を向けると、バックミラー越しに風見さんと目が合う。……好々爺じみた、酷く生暖かい視線を俺達に向けていた。

 

 いつもの調子で振る舞っていたが、今のは傍目(はため)から見ればそこそこお熱い行為。シガーキスなんて、よほどのヤニカスでない限り友人とはやらない。

 

 他人に見られたせいか、羞恥心でじんわりと顔が(ほて)った。

 

「……随分とヤニ臭いキスだな、おい」

 

 恥ずかしさを誤魔化すように小声でぼやく。

 

「くくくっ」

 

 西代はそんな俺を見て、おかしそうに笑う。やっぱり、西代の笑いのツボはよく分からない。

 

「シガーキスくらいが僕らにはピッタリだと思うけどね」

「…………」

 

 西代の一言で死ぬほど恥ずかしくなったので、もう俺は黙って煙を堪能する事にした。

 

************************************************************

 

 ビルのエントランスホールで、踏み心地が良い赤い絨毯の上を歩く。

 

 目的地へは、1時間ほどで到着した。風見さんは車の駐車があるというので、既に外で別れた。

 

「す、すっごいな」

 

 縦にも横にも大きいシャンデリアに目が眩みそうだった。必要性の無さそうな近未来的なオブジェや観賞用の熱帯魚が入った大きな水槽が、庶民の俺をこれでもかと威圧していた。

 

「ビ、ビルって言うよりまるで高級なホテルだな」

 

 想像していた所よりも100倍はリッチな空間に驚いている。

 

「オフィスビルとはまた違うからね」

「へ、へぇ」

 

 場にそぐわない田舎のヤンキーじみたダサダサコーディネートでは、息苦しさで窒息しそうな空間だった。今になって、物凄く恥ずかしくなってしまう。

 

「ほら、早く行こうよ」

「あ、あぁ」

 

 周りの雰囲気にビビっている俺とは違って、西代は自然体そのものだ。たじろいで棒立ちの俺を、西代は小さい手で引っ張って扇動してくれる。

 

(場慣れしている感じを見ると、一層とお嬢様感がでるな……)

 

 そんな事を考えながら、俺は彼女に引かれるままに受付に向かって行った。

 

「本日はご参加いただきありがとうございます」

 

 受付の前まで行くと、スーツ姿の女性が軽く頭を下げる。

 

「招待状はお持ちでしょうか」

 

 西代は何も言わずに、手紙のような物を差し出した。受付嬢さんはそれを受け取って書かれている内容を確認する。

 

垣蔵(かきぞう)様のご令孫でございましたか。失礼いたしました」

「別にいいよ。通って良いよね?」

「……ご同伴のお方は?」

 

 受付嬢さんが、キョロキョロと周りを観察していた俺に声を掛けてきた。

 

「え、俺? 俺は、その……えっと」

 

 招待状なんて俺は持っていない。なので思わず生返事で答えてしまう。

 

 というか、恥ずかしいので俺の存在に触れないで欲しい。

 

「あぁ、彼はいいんだ。僕の連れだからね」

「……畏まりました」

 

 受付嬢は俺のチンピラ姿を見て少しだけ眉をひそめたが、パーティーへの参加を了承してくれた。

 

「あぁ、それと、悪いけど彼の席も用意して欲しい。場所は会場の隅っこがいいな。僕の座席も彼の隣に変更してくれ」

「大変、申し訳ございません。桃様のお座席は既に決まっていまして……」

「それ、誰が決めたんだい?」

 

 西代のトーンが3段階ほど落ちる。

 

「僕に断りも入れずに決められた座席に、どうして僕が座る必要があるのかな? 是非、理由を聞かせて欲しいのだけど?」

 

 間髪入れずに、西代の冷えた声が響く。有無を言わせない口調だった。怒気さえ籠っているのかもしれない。

 

 西代の責めるような言葉で、受付嬢さんは一瞬で顔を青くする。

 

「か、畏まりました。早急に手配いたします」

「うん、よろしく頼むよ。料理も適宜(てきぎ)運んできてね」

「……」

 

 こんなにスパスパと自分の要望を通せる立場にあるのなら、今回俺なんて必要だったのだろうか?

 

************************************************************

 

 受付を済ませた俺達は大広間があるらしい8階まで行く為、エレベーターに乗っていた。

 

「嫌な女だろう?」

「は? なにが?」

 

 2人きりのエレベーター内で放たれた脈絡のない発言。まるで要領を得なかった。

 

「お爺様の威光を笠に着て、我が物顔で威張り散らす。まだ、何の力もない僕みたいな若輩がね」

「なんだ、そんな事かよ」

 

 内心安堵する。あまりに場に相応しくないから帰ってくれと言われるかと思った。

 

 だがそうではなく、どうやら彼女は先ほどの態度を気にしているらしい。正直、俺にとっては結構どうでもいい事だった。だけどまぁ、彼女が気にしているというのなら、とっとと話題を変えてしまおう。

 

「安心してくれ、西代」

 

 俺は西代の肩を力強くガシッと掴んだ。

 

「お前は"嫌な女"ではなく"すごく悪い女"だ。笑いながら人にスタンガンを押し付けたり、友達に金を借りたまま平然とパチンコに行くからな。それに比べたら、あのぐらいの我儘は可愛いものだ。むしろ、真っ当な意見だと思ったぞ」

「うん、そうだね。僕は悪い奴だから、今日は君を確実に酔い潰して便器に跪かせてあげるよ」

 

 なんと、俺の完璧なフォローに対して西代さんはキレてしまった。受付嬢さんへの態度なんかが霞んでしまうほど醜い罵倒で俺を責め立てている。

 

「おう、受けて立つぜ。この豪華な会場で令和版酒合戦(さけかっせん)を起こしてやるよ」

「……酒合戦(さけかっせん)なんて言葉、本当によく出てくるね。ちょっと素直に驚いたよ」

「そうか? 常識だろ?」

「……ふふ、なるほど。アル中にとっては常識なんだね」

 

 西代は俺の軽口を聞いて、おかしそうに笑ってくれる。

 

 うん、良かった。今日はせっかく高い酒が飲めるんだ。気分はハッピーじゃないといけない。ここは西代からすれば、あまり居心地良い場所ではないのかもしれない。だからせめて、酩酊で思考をバグらせながら、いつものように2人でたっぷりと駄弁ろう。

 

 そうすれば、きっと、今日は何も起こらずに気分良く帰れるはずだ。

 

「しかし、参加に招待状が必要なんて、本当に凄いパーティーだよな。振る舞われる酒がとにかく楽しみだぜ」

「まぁ、招待状は防犯の都合上どうしてもね。大人数のパーティーではこれがないと物取りが入る」

「そうなのか?」

「大きな冠婚葬祭では招待状が必須の場合が多いよ。ほら、この前も結婚式に泥棒が入った、なんてニュースをやっていただろう?」

「あぁ、あったなそんなの」

 

 確かに、これだけ大きなビルでパーティーをするなら、人が入り乱れる。泥棒が入っていたとしても判断が付きにくいだろう。

 

「でも、こんな豪華な所に不法侵入する奴がいるのか? 地方の結婚式場ならともかく、一等地のデカいビルだぜ? 警備の人もいるわけだしな」

「……ううん。そう言われると、確かに僕も首を傾げちゃうよ」

 

************************************************************

 

 ブォオオオっと、キャンプ品のガスバーナーから勢いよく火が吐き出される。

 

「よいか、猫屋。窓ガラスというのは熱して脆くした後、水をぶっかけて壊すのじゃ。音がでないからバレにくいのでござる」

 

 安瀬桜が、ビル外から窓ガラスを炙っているのだ。

 

「あ、安瀬ちゃん? な、なんか手慣れてなーい?」

 

 2.5メートルほどの高さにある女子トイレの窓ガラス。そこで、綺麗なドレスに身を包んだ2人は肩車をして侵入経路を作成していた。

 

「ねぇー、別に正面から堂々と入ればよくなーい? 私達ちゃんと正装してるんだしさー」

「外から軽く観察したが、警備が4人ほど見えたでござる。万が一にでも顔を覚えられたら不味い。人目は可能な限り避けるべきである」

「ま、マジでパーティーぶっ壊すつもりなんだねー……」

「当たり前であろう。……よし、割れたぜよ」

 

 安瀬の言う通り、ガラスは音もたてずに砕け落ちた。彼女は割れたガラスの合間に細い指を通し、鍵を外してから窓を開ける。

 

「拙者はこのまま入るが、お主はどうする?」

「私の事はお構いなーく。適当に入っちゃうからー」

「うむ、そうであるか」

 

 肩車されている安瀬は、そのまま猫屋を支えにして高所の窓ガラスからビルへと侵入していく。

 

「よっと」

 

 反対側の女子トイレに着地して、安瀬は見事に不法侵入をはたした。

 

「安瀬ちゃーーん!! だいじょーぶ? 足捻ったりしてなーい?」

 

 壁越しに、猫屋が大きな声で安瀬に話しかける。

 

「問題ないぜよ!!」

「……よーーし」

 

 安瀬が問題なく進入した事を確認した猫屋は、壁から少しだけ距離を取った。

 

 そのまま3歩ほど助走をつけて飛び跳ね、彼女は壁面を蹴る。蹴った反動で上昇し、宙でドレスをはためかせながら彼女は細い体をしならせて体を(ひるがえ)した。棒高跳びの選手がバーを躱すようにして、猫屋は高所の窓ガラスに身を通したのだ。

 

「よいしょっと……!!」

 

 そのまま猫屋は空中で1回転して無事に反対側へと着地する。ネコ科動物並みの運動センスであった。

 

「うむ!! 流石じゃな!! 天才的でござる!!」

 

 安瀬は共犯者の頼もしさに、快晴を思わせる笑顔で高らかに笑う。

 

「ヒールでよくそこまで動けるものじゃと感心するぜよ!!」

「……え、えへへーー。どうもどうもー」

 

 猫屋も褒められて嬉しいのか、先ほどの犯罪行為への躊躇いを感じさせない眩しい笑顔を浮かべて、安瀬とハイタッチを交わす。

 

 2人の高性能クズどもは、既に軽犯罪の高揚感に飲み込まれていた。

 

「さて、無事に潜入できた所で作戦を第2フェーズに移行するでござる」

「第2フェーズ?」

「次はパーティー会場への潜入でありんす」

 

 安瀬はガスバーナーをハンドバックに収納しながら、次の潜入先を示唆した。

 

「冠婚葬祭と同じなら、受付が必要なはず。そこを突破するぜよ」

「えぇー? 私達、参加状とか持ってないよー? どうするつもりー?」

()()()()()()()()()()、忍びの如く闇に乗じて潜り込むのじゃ!!」

 

 水を得た魚のように、安瀬は嬉々として自身の考えた作戦を猫屋に説明していく。

 

「住宅であろうとビルであろうとも、遮断機というものはついておる。扱いも普通の物と変わらんから、我らでも容易に電源を落とす事ができる」

「えぇー? いやー、ブレーカーの場所なんて、私達には分からなくなーい?」

「あんなもの、コンセントの配線でも辿っていけば一発で見つかるでありんす」

「……悪い事を考えさせたらさー、安瀬ちゃんの右にでる人は絶対にいないよねー」

「ふっふっふ。そう褒めるでない。照れるではないか」

 

 当然だが、猫屋は決して褒めたわけではなかった。

 

「さぁ!! ここからが本格的な潜入工作の開始でござるよ!!」

 

 1週間ぶりに起爆した安瀬の狂気。彼女は暗い感情を起爆剤にして、暴走状態に陥っていた。

 

「ふひひ、楽しくなってきたのう、猫屋!!」

「…………そうだねー。どうせやるならー……ふひひ、目一杯楽しんでいこーね!!」

「で、あるな!!」

 

 2人は仲良く、悪徳に満ちた笑い声を響かせるのだった。

 



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愚者の偏愛

 

 どうやら、今日の主賓は有名大学の司法学部にストレートで入学しており、順風満帆な人生を送っているらしい。将来は()()()()()()()()()を継ぐ予定だとか。

 

「司会の人、紹介しやすそうだな」

「まぁ肩書だけは立派だからね」

 

 開始時刻になり、誕生日パーティーは始まった。

 先ほどまで司会役の進行に合わせて今日の大まかなタイムスケジュールの説明がなされ、今はこのパーティーの主役である東城(とうじょう)リクの紹介がおこなわれている。

 

「…………」

 

 俺と西代だけしか座っていない、白いクロスが敷かれた円卓のテーブル。そこで俺は片肘をついて、壇上でライトを浴びている同い年の青年を黙って眺めていた。

 

 西代の親族だけあってルックスはイケメン。背は高く、手足が長いシュッとしたモデル体型。立ち姿は、背に青竹が入っているかの如く真っ直ぐと伸びていて(みなぎ)る自信と品性を感じさせる。

 

「す、凄いなアイツ。本当に同い年かよ……」

 

 眩しいばかりの勝ち組だった。金持ち、イケメン、高学歴。ちょっと並ではない。完璧人間だ。

 

「っは」

 

 俺の戦々恐々としたボヤキを、西代は鼻で嘲笑う。

 

「敷かれたレールを歩いてるだけのつまらないヤツさ。君の方が人間として魅力的だよ」

 

 彼女は目を細め、不快そうに壇上に目をやっていった。

 

「…………随分と嫌いなんだな?」

 

 俺を褒めてくれる分には嬉しいが、相手がアレでは間違いなく不公平な評価だ。私怨が混じっているに違いない。

 

「あぁ、大嫌いだ。顔も見たくないね」

 

 辟易した様子で、西代は食前酒を一気に飲み干した。もう話題にも上げたくなさそうな様子だ。

 

 触らぬ神に祟りなし。これ以上の詮索は不要と思い、俺も同じように食前酒に口を付ける。

 

「んぉ、この食前酒、美味いな」

 

 前菜と共に提供されたスパークリングワインに思わず舌づつみを打つ。銘柄は分からないが、炭酸から感じる白ブドウの香りと甘さが絶妙だった。きっとお高いのだろう。

 

「そう言ってくれると連れて来た甲斐があったよ」

 

 俺の言葉を聞いた西代は、微笑みながら硬い紙質のオーダーリストを手渡してくれる。

 

「他にも良い酒は沢山あるよ。モカンボの20年物なんてどうだい? 君、ラム好きだろう?」

「……いいや? 勘違いしてるぞ、モモちゃん」

「え? 何をだい?」

「俺はどんな酒でも大好きだ。この世の全ての酒を愛していると言っても過言じゃない」

 

 酒は神の飲み物だ。この世で最も優れた飲料。アルコールというだけで崇め奉る対象になる。

 

「ははっ、堂々とアル中宣言とは恐れ入るよ。きっと君の体に流れているのは血液なんかじゃなくて、赤ワインなんだろうね」

「俺もたまにそう思う。俺の体を構築しているのはタンパク質なんかじゃなくてアルコールなんだってな」

「真顔で狂った事を言わないでくれ。普通に怖いよ」

「ぐはは!! 何にせよ、今日は最高の日だな!! モカンボの20年物なんて滅多に口にできないぜ!! 超楽しみだ!!」

 

 俺はリストにある酒類を反芻するように熟読しながら、胸を高鳴らせた。

 

************************************************************

 

 飲食を始めて、1時間が経った。

 

 特段、何もしていない。西代と話をしながら、酒を飲んで、飯を食う。やっている事じたいは賃貸での日常と同じ。

 

 

 だが、()()()()()

 

 

 口内で度数の高いラムを転がしながら、そう思った。

 

「これ本当にうまいな!!」

 

 モカンボのロックは最高だ。年月が生み出している甘さの深みがすこぶる心地いい。本来なら、天にも昇ることができる味だろう。

 

「熟成が進んだお酒は度数が高くても飲みやすいね」

「だな!! もうめんどくさいから瓶で丸ごと持って来て欲しいくらいだ!!」

「ふふっ、僕らにはそのくらいないと物足りないね」

 

 表面上は楽しそうに振る舞っている。ただ、気分良く酒が飲めていない。

 

 理由は周囲にあった。

 

 パーティー会場はかなり広い。加えて、参加人数は100人は超えているだろう。多くの人が豪華な食事を堪能し、また、席を立って雑多に会話を楽しんでいる。

 

 俺達が座っているテーブルは会場の隅っこ。本来なら目立たない場所だ。そして、見かけだけはチンピラの俺が座っているせいか、西代に声を掛ける人間もいない。男避けのまじないはきちんと効力を発揮している。

 

 だが、合間合間に、どいつもこいつもが、俺達をチラチラと見ながら話の種に使っていた。

 

 内容はこうだ。

 

『あれが噂に聞く西代家の一人娘か』

『リクさんとは違い、あまり秀でた方ではないらしい』

『隣の男はなんだ。この場に分不相応だ』 

『何故、あのような分家の娘を垣蔵様は後継にお選びになったのか』

『やはり垣蔵様は老境に入り、正常な判断がつかなくなったのだ』

 

 ……正直、不快だった。感じるのは異物感と疎外感。視線と会話内容から、否定的な感情が隠しきれていない。

 

「…………」

 

 会場を見渡す振りをして、そいつら大多数に視線を向ける。

 

 すると、奴らは蜘蛛の子を散らすように視線を逸らした。

 

(うざい……)

 

 陸の孤島であり、針のむしろ。今の俺達の状態を表すのならそんな所だ。下手に注目を浴びているので居心地が最悪に近い。遠巻きから一方的に悪意を投げられているようだった。

 

 こんな状況で美味しく酒が飲めるか。

 

 憂さを晴らす為、ラムをハイペースで胃に落とす。同時に、同じ卓に着く西代の様子を窺った。

 

 西代はこんな空気でもどこ吹く風だ。()()()()()、といった感じだった。

 

「……なぁ」

「ん?」

「相続なんて放棄したらどうだ?」

 

 気が付けば、俺は酔いと不快感に任せて突拍子もない事を口に出していた。

 

「え、急にどうしたんだい?」

 

 当然、西代は困惑した。しかし、俺が感じられる異物感を彼女が察していないわけがない。ある程度は俺の発言の意味は分かっているはずだ。

 

「別に」

 

 当たり前の事だが、この空気の原因は彼女が相続する予定の財産にあると俺は考えている。

 

「ただ、余計な物なんて貰わなくてもいいと思っただけだ」

 

 金だろうが土地だろうが、こんな悪意に晒されるのなら迷惑な物だろう。それに西代はできるだけ自分の力で生活しようと心がけていた。家からのしがらみを排除したかったのだと勝手に推測する。

 

「たしか、遺言書っていうのは破棄できるんだろ? なら別にお前が財産とか土地なんて継ぐ必要はないはずだ」

 

 ドラマや漫画で得た知識だが、多分現実にもそのような法はあると思われる。

 

「お前だって、爺さんの力に頼り切って生きていくつもりはないだろ。だったら、別に財産なんて必要ないはずだ。違うか?」

「…………あはは、うん、まぁ、そうなんだけどね」

 

 西代は、俺の提案に対して困ったような顔をして笑った。

 

「僕は頼まれちゃったからね」

「は?」

「……遺言書ってさ。けっこう理不尽な事を書かれていても、あまり破棄されないらしいよ」

 

 彼女の綺麗の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いている。

 

「どうしてだろうね?」

 

 その問いかけは、疑念を感じさせない声音で放たれていた。

 

「どうして皆、相続内容を破棄しないんだろうね? どうして、無茶な内容にも従っちゃうのかな?」

 

 西代の問いかけに、俺は押し黙った。押し黙って、亡き母の遺言を守ろうとしていた1人の友人を思い出していた。

 

「…………」

 

 安瀬は、母の願いをとても大切にしていた。

 

 遺言とは、最期の言葉だ。亡き人の縁者ほど、遺言書に書かれた内容を叶えようとするだろう。多少自分に負担がかかろうとも、それは家族の最後の頼みなのだから。

 

「……悪い。考えなしの発言だった」

 

 俺は阿呆だ。少し、西代の気持ちに寄り添えば分かる事だった。

 

「いいさ。お爺様はまだ元気だしね。それに、君が馬鹿なのは重々承知している」

「あぁ、俺はどうせ大馬鹿のクソ間抜けだよ」

 

 素直に罵倒を受け入れる。人生経験の薄さや、自分の思慮の浅さが露呈していたからだ。

 

「もちろん、それと同じくらい、君が優しい事も僕は知っているつもりだけどね」

「…………」

「ふふっ。ジン君、今凄い顔してる」

 

 西代は、彼女に褒められて悪い気がしていない俺を揶揄って遊んでいた。

 

「…………俺が優しいわけないだろうが。ほら、前にお前のパンツ引っぺがしたことあるくらいだし」

「ごぶっ!!」

 

 恥ずかしかったので、適当に過去の恥部をぶち込んでやる。そうすると、彼女は酒を勢いよく噴き出した。

 

「そ、それは二度と口に出すなと言ったはずだ!!」

「ははは!! いやぁ、あの時は死ぬほど楽しかったよな!!」

 

 周囲を気にせずに馬鹿話を始めようとした俺達。

 

「何も楽しくないよ!! アレは僕の中では普通に痴漢扱いで──」

「おい、(もも)

 

 その間に、知らぬ男の声が混じった。

 

「………………リク」

 

 声の主に視線をやると、そこに居たのは本日の主役である東城リクだった。

 

************************************************************

 

 今日の主役様が、俺達を尋ねにやって来た。

 

 俺は、背が高くて利発そうな顔立ちをした彼の登場に無言で驚いてた。近くに来られると存在感が強い。

 

「何のようだい?」

 

 俺との会話を中断し、西代が彼に声を掛ける。

 

「君に話しかけられる要件なんて、僕にはないはずだ」

 

 普段から一緒に生活をしている俺は、西代の機嫌の変化に直ぐに気がついた。先ほどまで、彼女はこの空気の中でもどこか楽しそうだった。

 

 だけど、今は死ぬほど機嫌が悪い。怒りの西代さまモード……とか言って茶化す事を躊躇ってしまうほど、彼女の声音は死んでいた。

 

「お爺様の使いだ。そこの男と一緒に最上階の部屋まで来い、だそうだ」

「え、俺と?」

 

 いきなり話題に出されたので、間抜けな声を出してしまう。

 

「……分かった。さぁ、行こうか、ジン君」

 

 西代はこの場から早く去りたいのか、直ぐに席を立った。

 

「ん、おぉ」

 

 俺も少し遅れて席を立つ。用件は分からないが、西代の祖父に呼ばれているというのなら行かなければいけない。

 

 彼女について行く前に、勿体ないので残った酒を全部飲んでしまおうとグラスを手に取った。

 

「桃、待て」

 

 足早に去ろうとする西代を、東城リクは引き留めた。

 

「……なに? 気軽に話しかけないでくれ」

「これ以上、家の格を落とすような真似はするな」

「はぁ?」

 

 それは聞いた事もないほど暗い声だった。

 

「なんだって? もう一度聞かせてくれ。僕が、一体、なに?」

「迷惑だと言っている」

 

 突き放すような口調で、東城リクは言葉を吐く。

 

「お前には心底呆れはてたよ」

 

 突如現れた彼の言葉は続く。

 

「地元を離れ、聞いた事もない大学に入り、正月の集まりにも来ない。ようやく社交の場に顔を出したと思ったら、俺の開いたレセプションにそのような荒んだ男を連れて来て……」

 

 東城は軽蔑の意を隠すことなく、俺を見下した。まぁ正直、場に相応しくないとは俺も思っている。なので、別に怒りはしない。

 

「どこまで家名を落とせば気が済むつもりだ」

「何が家名だ。分家の僕に、何の関係がある」

「あるに決まっているだろう」

 

 東条リクは、忌々しそうに西代を睨めつけていた。

 

「お前は分家の分際で、お爺様の土地と遺産を継ぐんだぞ? それなのに、いったい何をしているんだ」

「土地と財産はしっかり引き継ぐ。ちゃんと管理だってするつもりだ」

「それでは遅いと言っている」

 

 ……なんだ、コイツ?

 

 いきなり現れて西代と口喧嘩を始めた男に、当然俺は不信感を持った。今日はコイツの誕生日のはず。それなのに、随分と辛気臭い。

 

(つと)めから逃げてばかり。遊んでいる場合か。大学なんてやめて、早く本家に戻ってこい。学業などお前には必要ない」

 

 上から目線の命令口調。俺達と同い年のはずの彼の態度は、あり得ないほど偉そうだった。

 

「どうしても大学を卒業しておきたいと言うのなら、父の知り合いが大学の理事をやっている。お前が通っている所とは比べ物にならない所だ。そっちに転学して、真っ当な道を──」

「死ね」

 

 文字通り、殺意が込められた言葉が西代から発せられる。

 

「何もせず、()()()()()()()()()、今更僕に指図するな。今日は来てやっただけありがたいと思え」

 

 彼女の目の色は、深海を思わせるほど黒く冷たかった。

 

「どうせ僕を、傘下の分家筋とくっつけようって腹だったんだろう? 当てが外れたからって僕に絡んでくるな、鬱陶しい」

「……お前、我が儘もいい加減にしろよ」

 

 西代の刺々しい物言いに、東城リクは怒りを表情に出し始めた。

 

「ただでさえお前は高校を退学し、社会のレールから一度外れた身なんだ」

「っ」

 

 西代の表情が曇る。

 

(え、退学?)

 

 それは初めて知った。あまり良くない高校生活を送っていた事は知っていた。だが、退学までしていたとは、俺は知らなかった。

 

3()()()()()()()()()()()()周囲よりも遅れておいて、そのような口が俺に利ける立場か」

「──────」

 

 彼女はそこで完全に停止する。銃弾で胸を打たれたみたく、強い衝撃で体が硬直した風に見えた。

 

「ようやく部屋から出たと思えば、親族の誰にも相談せずに勝手に1人暮らしを始めて……自分探しでもやっているつもりか?」

 

 一瞬だけ、西代は俺を見た。そして、直ぐに顔を伏せる。

 

 西代は、恥ずかしそうに、顔を伏せたのだ。

 

「ふん。だが結局、お前は何も変わらないな」

 

 東城リクは、黙って顔を伏せている西代を無視して話を続けている。

 

「自堕落で、気に入らない事があれば文句ばかり。少しは周りに同調する事を覚えろ」

 

 俺は東城の話をなるべく聞かないようにして、西代の様子だけをつぶさに見守っていた。

 

 隠していた過去を俺に知られたせいか、勝手に自分の過去を語られたことに憤りを感じているのか分からないが、西代の顔は苦痛に歪んでいる。

 

 西代が、悔しそうに、侮辱に耐えている。何も反論せずに黙っている。

 

「そもそもだ」

 

 これは(はずか)しめだ。そう思った瞬間、胸に冷えた金属の感触が広がった。

 

「そのような情けない性根だから、()()()()()を起こしてしま──」

 

 ──パリン

 

 まだ酒の入っていたグラスを床に叩きつける。話が始まって5分も経たない内に、俺はコイツを敵だと認識した。

 

「喧嘩売ってんだよな、テメェ」

 

 頭の中を、赤色灯より激しい閃光が染め上げた。

 

************************************************************

 

 西代桃は屈辱に震えていた。親しい友人に、隠していた自分の過去を聞かれた事に対して、羞恥心と強い怒りを感じていた。

 

「その喧嘩、代わりに買ってやるよ……」

「じ、陣内君?」

 

 だが、西代桃の邪気が萎んでいく。理由は、自分よりも強烈な怒気を感じ取ったからだ。

 

「ふざけやがって」

 

 低く、獣じみた声が陣内梅治の喉から響く。陣内は歯を軋ませて、強い怒りを噛みしめていた。

 

 血走った目で、彼は自身が敵と見定めた男を睨みつける。

 

「な、なんだ。お前には関係の無い話だ。部外者は引っ込んで──」

「あ゛ぁ゛!? 舐めたこと言ってんじゃねぇぞ!!」

 

 チンピラ風貌の陣内は理性を遠くに追いやって、見た目通り低俗にキレた。

 

 声を荒げた事で、周囲の視線がより一層と陣内達に収束する。一発触発の雰囲気を感じて、参加客たちにどよめきが起こった。

 

 陣内梅治にとって西代桃は親友であり大恩人だ。過去に、彼は3度も彼女に救われている。彼の精神の奥底では、楔石のように西代という女性の存在は突き刺さっていた。

 

 いかなる事情や背景があろうとも、彼は西代桃が貶される事を決して許しはしない。その溺愛っぷりは並ではなかった。

 

「ぶち殺す」

 

 そんな陣内が、東城リクに向かって一歩踏み出した。

 

「どっかの骨、へし折ってやるよ」

 

 敵意を体外に滲ませて、乱雑に距離を詰める。その荒々しい歩調には、殺意さえ籠っていた。

 

 大多数の人間が『次の瞬間には、粗暴な男が主賓に暴力を振るう』と考えたその時──。

 

 パーティー会場から一切の光が消えた。

 

「な、なんだ!?」

「て、()()!?」

 

 急な暗転に、西代と東城リクが驚く。

 

 混迷する場に安瀬桜によって更なる爆弾が投下されたのだ。

 

 怒涛の展開に、陣内達を外野から窺っていた周囲もガヤガヤと強く騒めき立つ。会場内の群衆は、軽いパニック状態に陥った。

 

 だが、その中で陣内だけが冷静に事態を俯瞰(ふかん)で捉えていた。

 

(チャンスだ……!!)

 

 陣内は暗闇を好機だと認識していた。

 

(このまま、確実にぶちのめす!!)

 

 闇に乗じて、陣内は本気で殴り掛かるつもりだった。

 

 彼は腕を大きく振りかぶる。陣内は停電前の記憶を頼りにし、東城の鼻頭があるであろう箇所に目掛けて拳を振りきろうとした。

 

「────落ち着け、この馬鹿!!」

 

 突如、陣内の後頭部に空の料理皿がブチあてられる。

 

 実行犯は、夜目が効く西代だった。

 

「ぶげぇ゛゛!?」

 

 強い音をたて、大きな皿は蜘蛛の巣状に砕け散る。

 

 東城を殴ろうとした陣内は、衝撃のあまり床に倒れ込む。陣内梅治の怒りの鉄槌は、西代の手腕により不発に終わった。

 

「いっ、い゛っ!? いってぇ!? はぁ!? な、なんだ!?」

「ほら!! 停電してるうちに逃げるよ!!」

「あ、ちょ、おい!! 西代、引っ張るな!! まだ話は終わってねぇんだよ!!」

 

 後頭部を殴られてふらつく陣内を、西代は非力ながらも全力で大広間の外まで引きずっていく。彼らは騒乱状態の会場から急いで逃げだした。

 

「…………なんだ? 一体何が起きている!? コレは一体どういう事だ!!」

 

 暗闇の中で何も事態を把握できていないまま残された東城リクは、絶えない疑念の声を漏らし続けた。

 

************************************************************

 

 ………………後頭部がズキズキと痛い。

 

「ぜぇ…………はぁ…………疲れたぁ。やっぱり、もうちょっと運動して体力つけようかな……」

「痛ててて。うぐぉ……これ、絶対にたんこぶができてる」

 

 大会場外の廊下で、俺は後頭部を抑えて蹲っていた。頭にできた大きな腫れを優しくなでる。

 

「西代。テ、テメェ……」

 

 暗闇に目が完璧に慣れたので、西代の姿を正確にとらえる。彼女も疲労に膝をついて床に座っていた。

 

「いきなり人を殴るヤツがいるか!!」

 

 俺は大声で彼女に怒鳴った。痛みと不完全燃焼の怒りが交わって、気分が悪すぎるせいだ。

 

「それはこっちのセリフだよ!!」

 

 西代も、俺の怒声に負けない声量で吠える。

 

「君ね!! なに簡単に暴力を振るおうとしてるんだい!!」

「あぁ!? 別にあんなヤツ、ぶん殴ってもいいだろうが!!」

「アイツの親は本物の弁護士だよ……!? 考えて物を言え、この馬鹿!!」

「うるせぇな!! 俺には、俺なりの考えがちゃんとあったんだよ!! 邪魔してんじゃねぇ!!」

「考え? 一体どんな考えがあれば弁護士の息子に殴りかかれるって言うんだい!! 暴力で訴えられたら確実に捕まって刑務所行きだよ!!」

 

 誰も見ていない暗がりの中、俺たち二人は床に座って本気の口喧嘩を始めた。

 

「殴った後で締め落して、テーブル下にでも放り込んで置けばいいだけだろうが!!」

 

 現代でムカつく相手をぶちのめす方法。何かと悪事に手を染めがちな俺は、そういったグレーな方法をちゃんと把握している。その方法は"酔い潰し"と"締め落し"の2つだ。

 

「高確率で前後の記憶が飛ぶから、そうやって事態を有耶無耶にするつもりだったんだよ!!」

「……馬鹿かい!? 絶対に記憶が飛ぶわけじゃないじゃないか!! そんな確実性の低い方法を取って、大学を退学にでもなったらどうする!?」

 

 西代は、俺が安易に暴力を振るおうとしたことを本気で怒っていた。

 

「そもそも、あの程度の事で君が怒る必要なんて──」

「うるせぇって言ってんだろ!!」

 

 気分が悪すぎて大声で怒鳴りつけた。

 

「怒って悪いかよ!!」

 

 今日は本当にムカつく事しか起きない日だ。

 

 頭に血が登っていて、熱い。心臓が脳みそに移植されてしまったかのように、脳内でドクンドクンと脈が鳴っている。

 

「お前があんな風に言われたら、俺は……俺はなぁ……!!」

 

 そりゃあ、西代は悪いヤツでクズだ。

 

 でも小さい頃は体が弱かったんだろう? 両親が近くにおらず、寂しい思いをしていたはずだ。それに一度、高校を退学してしまった。きっと何か辛い出来事があったせいだ。それで3年も部屋に引きこもった。 

 

 それなのに周りはアレか。

 

「嗚呼、クソが!!」

 

 腹立たしくて、地面に拳を叩きつけた。

 

 親族ぐらい、全てを受け入れて西代に優しくしてやれ。どんな事情があろうとも、彼女の味方をしてやれ。

 

 俺は恵まれている。松姉さんに、竹行おじさん。俺の親族は皆、優しい人ばかりだ。従妹(いとこ)たちとだって仲が良い。

 

 だからなのだろうか。

 

 今日見た彼女を取り巻く環境のすべてに、怒りと悲しみを感じてしまうのは。

 

「……まさか、君、泣いているのかい?」

「っ!」

 

 目の端に、涙が溜まっていた。

 

「んな訳あるか!!」

 

 急いでそれを拭い去り、何事もなかったかのように振る舞う。同情なんてしていない。

 

「ムカついてんだよ……あのゴミが、お前になんて口を利いたと思ってやがる……!!」

 

 苛立ちを隠さず、本心を声に乗せた。俺の心身を支配しているのは同情ではなく、強い怒りのはずだ。

 

「俺らに文句をつける奴なんて、全員ぶちのめしてやればいい。死ぬほど後悔させてやれ」

 

 傲慢で幼稚な発言だとは思う。だけど事実だ。

 

「俺たちは無敵だ!! 怖いものなんて何もない。そうだろ!?」

 

 いつも通り、後先なんて考えずに、俺はあの野郎をぶちのめしたかった。西代を否定する糞野郎の口を、1秒でも早く塞いでやりたかった。

 

「…………うん、そうだね」

 

 ムカつく奴はぶっ飛ばす。ガキの言い分に、彼女も同調した。

 

「でも、今回はいいんだ……」

 

 野蛮な思想に同調したはずなのに、西代は何故か、とても穏やかな顔をしていた。

 

「僕は、その……凄く満足してる。だから陣内君、今日は……もういいよ」

 

 どこがだ、と思った。

 

 西代は苦労している。難儀で複雑な人生を、その小さい体で必死に乗り越えて来た。なのに、彼女の周囲はそれを認めていない。

 

「……やっぱり、今日は君を連れてきてよかった」

 

 何か、暖かい物で満たされたように彼女は笑った。

 

 まただ。

 

 薄幸(はっこう)という言葉が相応しいまでに、彼女は何でもない事を深く楽しむ……普通の事で、西代は心底楽しそうに笑う。

 

 彼女は……本当に幸せそうに笑うんだ。

 

「さっきの事は全部忘れて欲しい。犬にでも噛まれたとでも思って……ね?」

「いや、でも──」

「頼むよ」

「………………お前がそう言うなら、分かった。もう、別に良い」

 

 何も良くない。だが、()()()()()にはきっと西代の過去も含まれている。

 

 そう言われたら、俺は同意せざる負えなかった。

 

「うん、ありがとう……さぁ、もう行こう。お爺様を待たせちゃっているだろうしね」

 

 彼女は暗い中、華奢な手を俺に差し出した。

 

「…………あぁ」

 

 短く返事をして、彼女の手を取る。

 

「ん」

 

 指と指の合間が隙間なく埋まる、恋人繋ぎ。西代は強く、未だに怒りに震えている俺の手を握った。

 

「……お爺様は気難しい人だけど、緊張しなくていいよ。君なら、絶対に、お爺様に気にいられるはずだ」

「そうか」

 

 西代が何か言っているが、俺の耳には半分も内容が入ってはいなかった。

 

 まだ、胸の冷えた金属の感触が消えていない。

 

(このままで済ますか)

 

 俺にとって、あの会場にいた全員はクソだ。

 

(見てろよ)

 

 何が誕生日パーティー。何が祝い事だ。ふざけやがって。確実にぶっ壊す。

 

 ガキみたいに暴れまわって、好いも悪いも全部台無しにしてやる。

 



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大勝利?

 

(あぁ、イラつく……)

 

 電力が復旧してビル内は明るくなった。しかし、俺の心境は薄暗いままだ。

 

 会話なく、最上階の廊下を西代と手を繋ぎながら歩く。エレベーター内でも、俺は特に何も話さなかった。

 

 冷え性なはずの西代の手は小さくて温かい。

 

「その、えっと……ね」

 

 静寂と手の感触が、俺の意識を内側に集中させる。只今、どうやってあの場をぶっ壊すかを考えている最中だ。

 

「か、勘違いしないでくれよ? こ、これは別に、僕が手を繋ぎたくて握っているんじゃないから。あくまで、恋人のふりをするために手を握っただけだからね?」

「あぁ、そう」

 

 俺は安瀬じゃない。悪だくみには、相当頭を使わなければいけない。

 

「ず、随分と気の抜けた返事をするじゃないか。ま、まぁ僕みたいに可愛げがない女じゃあ、照れもしないか」

「あぁ、うん」

 

 どうするか……やはり、背後からの奇襲か。いや、暴力沙汰は高確率で捕まるしな……。

 

「……聞いているのかい?」

「へぇ、そう」

 

 くそっ、安瀬の助力が欲しい。俺1人の考えじゃあ、猫屋の時の二の舞だ。きっと俺達にとっていい結果にならない。

 

「………………恐らくだけど、猫屋は君の事が好きだよ」

「そっか」

 

 この後、電話を掛けて相談してみようか。

 

「ふんっ!!」

 

 俺の足指先が、西代のヒールによって踏み潰された。足元から脳天まで痛みが打ち上がる。

 

「い゛っ!?」

 

 思考を中断し、思わず飛び上がった。

 

「お前何してんの!? さっきから暴力が多くないか!?」

「僕だって女なんだ。ムカつく時はムカつくからね」

「はぁ!?」

 

 回答になっていない言葉に、俺は喚き散らす。

 

「今日の君は借り物なんだ。今日だけは僕の物。僕だけの男だ。それなのに、僕を無視して考え事は良くないよね?」

 

 むすぅっとした顔をして、彼女は俺の上の空だった態度に物言いをつけた。

 

「いや、誰に借りてるんだよ」

「猫屋さ」

「…………どういうことだ、そりゃあ」

 

 ますます意味が分からなかった。俺がいつ、猫屋の所有物になったと言うのか。

 

「まったく。1月も共同生活すれば僕でも気がつくよ」

「??」

 

 西代が何を言っているのか、マジで分からない。

 

「さて、浮ついた話は一旦終わりにしようか。本日の最難関に到着した訳だしね」

 

 そんなこんなを話している間に、大きな両開きのドア前に辿り着く。豪華さから考えて、ここがお爺様とやらが待っている部屋なのだろう。

 

「お爺様の前で他の考え事なんてしてたら殺されちゃうから、こっちに集中してね」

「……なんだって?」

 

 不穏な言葉が飛び出した。

 

「怒らせたら少し怖い人なんだ。加えて、偏屈で破天荒。失礼のないようにね」

 

 どうやら、西代の祖父はかなり気難しい人物のようだ。

 

「……今のうちに詳しい性格を教えといてくれ」

 

 呼び出された理由は十中八九、俺たちの偽りの恋仲についてだろう。その手の偽装は慣れたものなので地雷を踏むことはないだろうが、情報を仕入れておく事に越したことはない。

 

「そうだね。君に分かりやすく説明するなら…………」

 

 西代は目を閉じて眉間を指で押さえた。なんて言えばいいか迷っているように見える。やはり、説明が難しい人柄らしい。

 

「……安瀬と猫屋を混ぜ合わせて、凶悪度を10倍くらい跳ね上げた人……かな?」

「それ人間じゃねぇよ」

 

 聞いた瞬間、思わずツッコミを入れた。

 

 本当に人間ではない。恐ろしすぎる。故に、どんな人か想像できない。

 

「基本的に何でもできる人なんだ。知略と暴力に長け、戦後の政界をのし上がった鬼才者。あぁそれと、僕の祖父なんだから当然、博打も大好きだよ」

 

 それなら安瀬と猫屋に加わり、西代も混ざっている。

 

 酒飲みモンスターズの10倍濃縮混合物。そんな人間がこの世に居てはいけない。世界が終わってしまう。

 

「嘘か冗談か知らないけど、昔、政敵がヤクザを使って圧力をかけてきた時に、仲間を募って逆にヤクザの事務所に乗り込んで壊滅させたらしいよ?」

「だからそれは人間じゃないって」

「ふふっ、そうだね。まさに昭和の怪物って感じの人さ」

 

 西代は楽観的に笑って祖父の事を話しているが、俺は一切笑えなかった。

 

「あの、えっと、西代さん。俺、会場に戻っていいですか?」

 

 そんな爆弾みたいな人間に会いたくない。それに、俺には会場に戻ってやる事がある。

 

「ダメだよ。僕が怒られちゃうじゃないか」

 

 西代は俺のお願いを一蹴して、ドアノブに手を掛けた。

 

「まぁ君ならきっと大丈夫だよ……お爺様、僕だ。入るよ」

「え、ちょ──」

 

 彼女は声だけ掛けて、ノックもせずに部屋に入った。

 

************************************************************

 

 ドアの先で俺が目にした人物は、ギラついた目をして受話器を耳に添えていた。

 

「あぁ、警備を増員して異常がないか隅々まで調べ上げろ。停電なんぞ、誰にでも起こせるもんだ。鼠が入っていたら即座に拘束してサツに突き出せ」

 

 仰々しい(はかま)姿であり、顔の彫が深い男老人。自然に禿げあがっただろう金柑頭がスキンヘッドのようで威圧感を感じさせる。短く整えられた剛毛の白髭(しろひげ)は、人相の悪さを加速させていた。

 

 第一印象としては、ひたすらに厳ついお爺さんだ。少しヤクザっぽい。

 

「来たよ、お爺様」

「ん、あぁ、桃」

 

 お爺さんは西代を見た瞬間、険しい表情を一瞬で和らげた。

 

「よく来た。最後に会ったのは誕生日以来か」

 

 笑顔としわがれた低い声が西代に掛けられる。風貌からは予想しにくかった、好々爺(こうこうや)の微笑みというやつだった。

 

「そうだね、久しぶり……何してたの?」

「あぁ、ついさっき停電があったろう? 念のため、警備に見回りの要請をな」

 

 そう言って、お爺さんは受話器を本体に戻した。あの固定電話は、内線で警備室にでも繋がっているのだろう。

 

「相変わらず手が早いね」

「当然だろう。今日はリクの誕生日だ。何か不手際があっては可哀そうだ」

「……それはまぁ、お優しい事で」

 

 皮肉気な顔をして、西代は肩をすくめた。

 

「ぐわはははは!! 相変わらず仲が悪いようで大変結構!!」

 

 その態度を見て、爺さんはでかい声を上げて笑う。

 

「お前たち2人の関係を見ると、儂は胸が苦しくて元気がでる!! 老骨に染みおるわ!!」

 

 …………どうやら、この爺さんは孫同士の不仲が喜ばしいようだ。

 

 先ほど西代に見せた笑顔で気が緩んだが、聞いていた通りのヤベー人のようだった。

 

「…………」

「おっと」

 

 俺が馬鹿笑いする爺さんを微妙な目で見ていると、その視線に気がついたのか、爺さんと目が合う。

 

「呼び寄せておいて挨拶もせずに放って悪かった。儂が桃の祖父、東城垣蔵(かきぞう)だ」

「あ、いえ、ご丁寧にありがとうございます。モモちゃんとお付き合いをさせてもらっている陣内梅治です」

 

 なるべく畏まる。俺の礼儀作法は年相応だ。なので、心づもりだけはしっかりと会釈した。

 

「「……………………」」

 

 俺と垣蔵さんは、しばし無言でお互いを見つめあった。

 

 俺の方は何を話していいのか分からないので黙っているだけだが、お爺さんの方は俺をつぶさに観察しているように思えた。ヤンキーファッションなので、変に思われてないかが心配だ。

 

「さて、桃。ここにお前を呼んだ理由だか……」

 

 垣蔵さんは視線を俺から孫娘に移す。

 

「久しぶりにお前の弦楽(げんがく)が聞きたいと思ってな」

「え?」

 

 いきなりの申し付けに、西代が怪訝な声をあげた。

 

「昔使っていた物を風見に用意させている。隣の部屋だ。この若いのを置いて、調弦(ちょうげん)してこい」

「……いきなり何? 僕、もう2年近くは楽器に触れてないよ?」

 

 俺は彼女の言葉に少しだけ驚いた。

 

 疑っていたわけではないが、西代は本当に楽器を弾けるのだ。リコーダーすら上手く吹けない俺にとって、楽器を弾けるというだけで尊敬してしまいそうになる。なんというかクールでカッコイイ。

 

「それに……元からお爺様に聞かせられるような腕じゃない。僕は下手だ」

「そうだな。だが、お前が儂の為に弾いてくれる旋律は妙に胸を打つ。老い先短い者の頼みを聞いてはくれんか?」

「…………はぁ、また断りづらい頼み方をするね」

 

 西代は諦めたようにため息をついた。

 

「分かった。久しぶりに聞かせてあげる。断っても、より酷いことになりそうだしね」

「ははっ、よく分かっているな」

 

 ……話の流れから察するに、俺は垣蔵さんと2人きりになってしまうらしい。気まずいので嫌だが、それを言い出せば失礼に当たるので黙っておく。

 

「それじゃあ、行ってくるよジン君。すぐ戻ってくるつもりだけど、その間、お爺様に失礼の無いようにね」

「お、おう」

 

 西代は言われた通り、部屋から退室しようとする。俺はただ、西代に『早く帰って来てくれよ』と念を送るしかなかった。

 

「あぁ、それと、お爺様」

 

 ドアを半分ほど開けた所で、西代が立ち止まる。

 

「彼に変な事をしたら、僕本気で怒るからね」

 

 彼女は濁った眼をして、自分の祖父に一言釘を刺してくれた。

 

「それ、今は僕の物だから」

 

 そう言い残して、彼女は部屋から立ち去った。

 

「……ふッ……ふふふ。随分と気にいられているようだな、小僧」

 

 西代が居なくなった瞬間、垣蔵さんは鷹の如く目を鋭く細めて、俺を視線で射抜いた。

 

「え、あぁ、まぁ」

 

 その眼光に少したじろいだ。視線に、敵意に近い物が込められているように感じたからだ。

 

「結構な事だ……立ち話もなんだ。座れ」

「……失礼します」

 

 促された通りに、高そうなソファーに腰掛ける。

 

「ふぅ。この歳になると、座るのも一苦労だわい」

 

 垣蔵さんもソファーに腰をおろした。激しい気性だが、齢80歳らしい。

 

 俺と垣蔵さんは、木の机を挟んで対面に座っている。このまま西代との関係について話し合いになりそうだ。一応、でっち上げの馴れ初めを考えてきているので、根掘り葉掘り質問されても大丈夫だと思う。

 

「よし、若いの。時間がない。早速やろうか」

「……え、何をですか?」

「ヴァイオリンの調整なぞ、絶対音感を持っている桃なら道具無しでも5分で済む」

 

 お爺さんは俺の疑問には答えず、急ぎ早く話を続ける。

 

「風見に軽く足止めを頼んでいるが、時間は稼げて20分が関の山だろうな。その時間を使って、少し遊びに付き合え」

「遊び?」

「そうだ。……種目は何にするか」

 

 短くて立派な白髭をジョリジョリと逆撫でしながら、垣蔵さんは机の引き出しを片手で開く。

 

「小僧、誕生月は?」

「? 2月ですけど」

梅見月(うめみつき)如月(きさらぎ)の梅か。生意気にも良き名を親からもらったな」

「……ど、どうも」

 

 要領を得ない会話が、一方的に話が進んでいく。

 

「それなら、コレしかあるまいて」

 

 垣蔵さんは引き出しの中から紙束のような何かを取り出した。

 

花札(はなふだ)。ルールはこいこい、3ヶ月(3回戦)、倍返しは無しでどうだ」

「…………いや、どうだと言われましても」

 

 突発的な花札へのお誘い。もちろん、ルールは分かるし、やれと言われればやるが、意図が掴めない。

 

「なに、ちゃんと賭銭(とせん)は用意してある」

 

 垣蔵さんは机の横に置いてあった重そうな紙袋を持ち上げて、乱雑に床に投げた。中に入っていた物がバサッと絨毯に広がる。

 

 床に広がったのは札束だ。

 

「1000万ある。勝ったら、()()()()()()()()()

「────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────うっびょぇ」

 

 非現実な光景に、意識が吹き飛びかけた。

 

「その代わり、負ければ桃とは別れて貰おうか」

「……は、はぃぃ?」

 

 鼻くそでもほじるような軽快さで置かれた大金に、俺は腰を抜かした。驚きのあまりに、素っ頓狂な声が自然に漏れ出すしまつ。

 

「桃に男なんぞ不要だと、儂は考えている」

 

 そこに在ったのは静かな敵意だった。

 

「まぁ、しかし、可愛い孫娘ではあるからな。あの子がどうしてもと言うなら認めよう。だが、桃に相応しい最低限の格は示せ」

 

 正気かこのジジイ。

 

 賭けの理由を聞いて、少しだけ戻った意識で再度驚愕する。つまり、垣蔵さんは孫娘の恋人の器量を測るために1000万の大博打を俺に仕掛けているのだ。

 

「賭博にはそいつの本質が現れる。人を測る天秤には持って来いとは思わないか?」

(思わねぇよ!!)

 

 心の中で毒づく。あまりの破天荒ぶりに眩暈がしてきた。

 

「受けろよ、小僧」

 

 怒涛の展開で冷や汗が止まらない俺に対して、垣蔵さんは低く脅しつけるような声を出した。

 

「この程度で腑抜けるような男を、儂は認める気は無い」

 

 目の前のご老体から禍々しいまでの威圧感が発せられる。その眼光には、幾人もの死霊が纏わりついているような不気味さがあった。

 

「うえぇ……」

 

 たしかに、この博徒気質は西代の祖父だ。同時に、安瀬の狂気と猫屋の暴力性も備わっているように思える。西代があのように表現した意味がようやく理解できた。

 

 この人、俺が生涯出会った人間の中で一番ヤベー。なんで初対面の人間に会ってすぐに1000万の博打なんか仕掛けられるんだ…………怖ええよ。

 

「あの、その、えっと…………ですね」

 

 俺はこの無茶苦茶な話を断るために、必死に頭を回転させ始める。負けて失う物は無いが、こんな大金を賭けた博打なんかは絶対にやりたくなかった。

 

(………………あれ?)

 

 1周回って冷え冷えとした頭から違和感を受け取る。

 

 よくよく考えてみれば、この爺さんに嘘をつく必要はないのではないか?

 

「あの、すいません。俺が西代の恋人っていうのは嘘です」

「……なんだと?」

 

 今、お爺さんは『桃に男なんぞ不要だ』と言った。それはつまり、垣蔵さんは孫娘を他の誰かにくれてやるつもりが、そもそもないのではないだろうか。

 

「俺はアイツの男避けのためについてきただけなんですよ」

 

 事態をなんとかする為、正直に嘘を自白した。

 

「…………そういう事か」

 

 ポツリと、毒気が抜かれた言葉が聞こえてくる。

 

「たしかに、ははは、あの子がやりそうなことだ。くくっ、得心した」

 

 顔を手で覆い、クツクツと垣蔵さんは笑った。その姿に先ほどの狂気は感じられない。

 

「怖がらせてすまなかったな、若いの。非礼の詫びだ。5束ほど持っていけ」

「い、いえ。遠慮させていただきます」

 

 撤回する。狂気的だ。

 

「ぐわははははは!! 桃の友人という割には普通だな、小僧!!」

 

 俺が只の友達と知って機嫌が良くなったのか、垣蔵さんは堰を切ったように大笑いを始めた。

 

「…………」

 

 大成する人は、どこか頭のネジが外れているものなのだろうか。目の前のお人の倫理観と金銭感覚は常人とはかけ離れていた。

 

「はははっ、そうかそうか。……しかし小僧、桃の我儘に付き合わされるとはとんだ災難だったな」

「はぁ、災難……ですか?」

 

 災難は貴方と関りを持ってしまった事のような気がします。

 

「その格好では、会場には大層居づらかったろう? リクのヤツが怒って因縁をつけてこなかったか?」

 

 リク。それは先ほど、会場で西代を虚仮にしたヤツだ。

 

「………………俺には特に。西代には絡んできました」

 

 俺はなるべく簡潔に返事をした。『この後、ぶっ飛ばす予定です』とは口が裂けても言えないからだ。

 

「ははっ、そうか」

 

 俺の一言で何かを察したらしく、お爺さんはまた笑った。

 

「まぁ、許せよ。アイツは将来的に家督を桃に奪われる。そのせいで、アレだけ優秀であるのにも関わらず劣等感に苛まれているのだ」

 

 お爺さんは、あの野郎の背景を話し始めた。

 

「劣等感をバネに自分を必死に磨き上げ、研磨する……どうだ、愛くるしいだろう?  儂はリクを見るたびに強く抱きしめてあげたくなる」

「……か、変わった感性ですね」

 

 俺は同意も否定もしなかった。

 垣蔵さんは、西代の祖父であると同時に、あの野郎の祖父でもある。少し歪な感じはするが、両方を可愛がっているのだろう。

 

「よく言われる。まぁ、リクの父親の弁護士事務所も儂が建ててやった物だ。アイツの父親も儂のやる事に文句は言わん。そもそも、親族で儂に文句を言う奴なんて桃くらいしかおらんが」

「…………あの、ちょっと聞いていいですか?」

「ん、なんだ?」

 

 最初の変な雰囲気も和らいだので、俺は垣蔵さんに西代を取り巻く特殊な環境について質問をすることにした。

 

「貴方って、凄く偉い立場の人間ですよね? 東城家でトップで、権力がある感じの……」

「そうだな。東城は、儂の祖父の代から讃岐(さぬき)の豪家だったが、儂が政界で伸し上がったおかげで更に家名を躍進させた。今では四国の中で随一の名家だ」

 

 俺が知らないだけで、東城家は地方では有名な家系らしい。

 

「西代家の他にも分家は数多くあるが、親族の中に儂に逆らえる者はおらんよ」

「……なら、なんで西代の現状を放っているんですか?」

 

 俺は当然の疑問を口にした。

 

「アイツが親族間で疎まれている事は、貴方も把握してますよね」

「まぁな」

「まぁなって……」

 

 他人事みたいな言い回しに、俺は少しイラつきを覚えた。

 

「……貴方が一声かければ、周りを黙らせるくらいの事はできるんじゃないですか?」

「それではあの子の成長に繋がらんではないか」

 

 垣蔵さんは差も当然と言った強い口調で俺の疑問に答えた。

 

「人の成長にはストレスが必要だ。儂は、あの子にはこれぐらいのやっかみを跳ね除ける力を身に着けて欲しいと思っている」

 

 真面目な表情で、垣蔵さんは自身の子育て論を語った。

 

「桃は儂の血を色濃く受け継いでいる。成人を迎えたがあの子はまだまだ育つぞ。それに加えて、これからは女の時代だ。古くから続いた男尊女卑の反動が、時代のうねりとなって押し寄せる。儂の親族の中で一番の出世株は女の桃だ。桃は将来、(ことごと)くを打ち破り人を蹂躙する傑物になる」

「…………な、なるほど」

 

 言っている事は半分くらいしか分からなかった。だが、ニュアンスは理解できる。

 

 この爺さんは、孫を愛しているが甘やかすつもりはないらしい。西代に、自分の力で、周囲を変えて欲しいと思っているようだ。

 

「……………………」

 

 それなら、人脈も西代の力の内に入るはずだ。

 

 俺はそっと財布とバイクのキーを机に置いた。

 

「ん? どうした小僧。財布と鍵なんぞを置いて」

「やっぱり、やりましょうか」

「……何をだ?」

 

 目の前に手っ取り早く、問題を解決できそうな人と手段がある。それなら、挑まない理由はない。

 

花札(はなふだ)ですよ」

 

 会って数分だが、それだけでこの人の性格はかなり理解できた。目の前の厳つい老人は、酒飲みモンスターズの格上混合物。大悪党の人格破綻者だ。

 

 勝手に想像して申し訳ないが、きっと政治家だった若い頃は汚職や卑怯な策略に手を染めて、高笑いしながら周りを蹴散らしていたのだろう。……俺はそういったクズの習性には詳しい。

 

「俺が負けたら、俺の全財産を差し出します」

 

 悪くて面白そうなことには絶対に乗ってくる。若人から金を巻き上げるなど、楽しくて仕方ないはずだ。

 

「ただ、貴方に賭けていただきたいのはお金じゃない」

 

 ……今から俺がやろうとしている事は、ただのお節介だ。西代は周囲を気にしていなかった。あのムカつく空気を、彼女はスルーできていた。彼女にとっては、あれは他人が吐いた煙草の煙程度の認識なのだろう。

 

 だが、俺は短気だ。どうあっても、あの空気を許容する気は無い。

 

「俺が勝った場合は、西代を取り巻く現状を変えて頂けませんか。貴方ならできますよね?」

「……ほぉ」

 

 俺の予想通り、爺さんは楽しそうに笑い(しわ)を深めた。顎を撫でながら、俺の提案を微笑を浮かべて吟味している。

 

「お前が賭けるのは、そのちっぽけな財布とバイクのキーだけか」

「はい。俺が差し出せるものはこれしかありません」

 

 素直に自分が吐き出せる物の価値を申告する。ここで嘘をついても仕方がない。

 

「ですが、このバイクは50万ほどで購入しました。売れば40万にはなるでしょう」

「なるほど……バイクは当然、自分の稼ぎで買った物だろうな?」

「そうです。まぁ、親に仕送りを貰って生活をしている身ではありますが」

「学生なぞ、皆そうであろう。親に頼り切って暮している者よりは立派だ」

 

 意外にも、垣蔵さんは俺をフォローしてくれた。

 

「だが、お前が負けたら、儂は本当に全てを持っていくぞ? 当然、キャッシュカードの中身もだ」

「……2つあるキャッシュカード内の片方は見逃してください。そっちには親からの仕送りが入ってます。俺の金じゃありません」

 

 そっちは俺が自由にしていい金じゃない。俺の生活費にしか使ってはいけない物だ。

 

「もう片方には10万ほどあります」

 

 俺がバイクを買ったのが2月3日。俺が入院したのは3月の初旬。つまり、2月分のバイト代はしっかりと振り込まれている。この10万はバイクを買った余りの金と1月分のバイト代だ。

 

「もし俺が負けたら、バイクも含めて全額持って行ってください」

 

 趣向品と遊び、それと安瀬との旅行を豪華にするために残しておいた虎の子の貯蓄。これが無くなれば、俺は次のバイト代が入るまでまた禁酒する羽目になる。

 

「足りんなぁ」

 

 意地の悪い顔をして、爺さんは提示した賭け金に文句をつけた。

 

「50万と言う額も半端だ。この儂を賭けのテーブルにつかせたいと言うなら、最低でもこの倍は用意せんとな」

 

 含みがある口調だった。

 

「……どうすれば、受けていただけますか」

「望むなら、()()()()()5()0()()()()()()()()()()()

 

 爺さんは1枚の紙とペンを机の引き出しから取り出した。

 

「一筆、借用書を書いてもらおう。それで良いなら、その条件で勝負を受けよう」

 

 さすが元政治家。交渉の押しどころという物に見識がありすぎる。

 

「分かりました」

 

 ノータイムで返事をした。もはや自棄(やけ)だ。とことん、冷えた金属の感触に従う。

 

「おい、儂はどんな手段を使っても負債を完済させるぞ。泣き落としは通じんと思え」

「分かっています。返済には時間がかかるでしょうけど、負けた場合は絶対に支払いますよ。……もちろん、俺が稼いだ金で返します」

「お前、学生よな? バイト代はいくらだ?」

「時給1028円です」

「……………………ぶははははははは!!」

 

 俺のバイト代を聞いた途端、爺さんは爆笑した。

 

「つ、(つつ)ましい稼ぎだな!! し、しかし、笑ってはいかんか!! 学生ならそんな物か!! ぐわはははははは!!」

(…………死ぬほど笑ってんじゃん)

 

 たしかに、1028円は県が定める最低賃金。それでも、庶民の俺からすればけっこう貰えている方だと思う。まぁ、金持ち一族の頂点に立つ爺さんには嘲笑の対象のようだけれども……。

 

「くくくっ。雀の涙のような稼ぎのくせして、ただの友人の為に100万を賭ける。……随分と男前だな、小僧?」

「……別に、そんな話じゃないですよ」

 

 そうだ。こんな勝負は美談なんかでは決してない。これは、俺が俺の為だけに行う違法な賭博。王道から外れた、いつも通りの悪だくみ。

 

「愉快に歪んでいるな。面白い。その挑戦、受けてやろうではないか」

「ありがとうございます」

 

 ……自分で言いだした事だが、スリルで胃が縮み出した。本当に、なんでこんな話になっているのだろう。

 

 負ければ何も得られずに、半年も働いて買ったバイクと貯金を失い、50万もの借金を負う。加えて言えば、安瀬と約束した旅行がさらに遅くなる………それは何よりも嫌だ。

 

 それに反して勝って得られる物は、自分の中で少しだけ恰好がつくだけ。そんなもんだ。リスクに対してリターンがまるで合ってない。1人で空廻っているようで馬鹿みたいだ。

 

(やってやるよ……)

 

 ただ、勝ちたいと言う気持ちだけは無限に溢れ出していた。

 

************************************************************

 

 手八場八(てはちばはち)。お互いに手札が8枚、場札に8枚が置かれて、1回戦は始まった。

 

 季節の花々が描かれたカード。俺はそれをブラインドにして自分の表情を隠し、目だけで対戦相手の顔を盗み見る。

 

「ははは、手が悪いな。これはカス(1点役)でゲームを流すしかないか」

 

 垣蔵さんは余裕そうに札を眺めてニヤついている。いきなり揺さぶりをかけてくるとは、随分と茶目っ気がある爺さんだ。

 

「そうですか。俺の方は中々良い手が入りましたよ」

 

 花札は自身の手札で場札を取り合って、役を作るゲーム。相手の役の成立を邪魔しつつ、自分は点数が高い役を早く作るのが基本戦略だ。よって、最初に配られた手札で、ある程度作る役の方針が決まる。運ゲーであり、頭脳戦。

 

 俺の手札には短冊札が3枚。場札にも短冊が3枚。光札が場に出ているので、そちらが先に取られるだろう。なので、優先して短冊札を取りタン役を成立させたい。

 

「じゃあ俺からですね」

 

 カードが配られる前に、先攻後攻は決めておいた。札を重ねて、短冊札を場から取る。

 

「なら儂は定石通りに……」

 

 今度は場から光札が取られた。

 

「………………」

「………………」

 

 パシパシっと交互に手札と場札を重ねて、無言で場札を取り合っていく。花札に慣れているの者であるなら、序盤のスピードは速い。深い駆け引きが始まるのは互いの狙い役が分かりだした中盤以降だ。

 

 場は進み、場札が半分になる。

 

 順調に短冊札を集められてはいるが、爺さんの取り札には光札が2枚。

 

(何が手が悪いだ。ちゃんと光札(強い手)があるじゃねぇか)

 

 ……胃が痛くなってきた。

 

 賭けている物が大きいせいか、手汗が滲みでる。威勢よく勝負に挑もうとも、小市民な性根は誤魔化せない。

 

(お願いします。頼むから光札は引かないでください……!!)

 

 早速ピンチだ。

 めくり札から雨札以外の光札が出てくれば、5点役(三光)が成立してしまう。俺はとにかく神に自分の幸運を祈った。

 

「小僧、お前は桃とはどれくらいの付き合いだ?」

 

 垣蔵さんは札束からカードをめくりながら、俺にそう問いを投げかけた。引かれた札はただのカス札だったので、幸運にも役は成立していない。

 

「なんですか急に? 今は勝負の最中ですよ」

「別に良いだろう。賭博の余興だ。雑談くらいは付き合え」

 

 真剣に思考を巡らせる俺と比べて、垣蔵さんは気楽そうだった。

 

「……1年と少しですね」

 

 胃痛を紛らわせるため、少し話に付き合う事にした。

 

「そこそこあるな。なら、お前さんに1つ聞こう」

 

 垣蔵さんは手札ではなく、俺の顔を見ながら口を開く。

 

「お前さんはもしかして…………桃の事が好きなのか?」

「んん゛゛っ」

 

 予想外の口撃に、手札を落としかけた。

 

「…………ま、まぁ、嫌いじゃないですけど」

 

 こういった話題を振られることは多いが……正直ちょっと苦手だ。男女が一緒にいると自然に発生してしまう話の種なのだろうが、俺たちに恋愛なんて一切似合わない。何よりも、俺が相応しくない。

 

「酒飲んで遊ぶだけの友達関係ですよ。俺も西代も、付き合ったりする事を望んでいません」

 

 次は俺の手番だった。

 松の札が欲しいので、俺は山札からカードをめくる。引いたのは梅のカス。これじゃない…………なんか、嫌な気分になるな。

 

「なるほど、嘘をついているわけではないか。くくくっ、そうか。てっきり、儂の可愛いすぎる孫娘に惚れておるかと思っていたわ」

 

 人を喰ったように、垣蔵さんは静かに笑う。……笑い方や雰囲気が西代とよく似ているように感じた。

 

「しかし、友人のままが良いとは珍しい奴だ。桃には縁談の話がそれこそ山のように来ていたというのに」

「縁談ですか?」

「あぁ。大抵は儂の遺産や父親の名声、もしくは上っ面の美貌が目当てだったので握りつぶしたがな」

「想像がつきますね」

 

 大学でも彼女はかなりモテていた。見知らぬ相手に告白される所を見かけた事がある。小柄で美人。そしてパッと見て御淑やかな佇まいが男を引き寄せるのだろう。魔性だ。

 

「まぁ、それ以外のあの娘の魅力が分かりにくいのは認めるがの…………お前はどう思う? 1年もの付き合いと言うなら、桃の非凡な所を答えてみよ」

「えぇ?」

 

 勝負の最中にそんな事を言われても困る。今必至で、次に出すべき月の札を考えている所だ。

 

「まぁ、順当に言えば思い切りの良さとか決断力とかじゃないですか?」

 

 俺は思ったままの事を適当に口にした。

 

「…………なに? どうしてそう思う?」 

「ほら、西代って火事場で誰よりも早く物事に対処するじゃないですか」

 

 俺が言っている火事場とは過去の3場面だ。

 

 文化祭で俺が過呼吸を起こした時。

 元賃貸で火事が起きた時。

 警察にパトカーで追いかけられて捕まりそうになった時。

 

 どの出来事も、()()()()()()()()()()()()()()。あの安瀬や猫屋が困惑する中で、西代だけがトップスピードで判断を下した。肝が据わっているので冷静なのだろう。

 

 西代の凄い所は、今日聞いたばっかりの文系的な才能では決してない。

 

 西代は緊急時の判断が早く、それでいて狂っている。パトカーに追いかけられた時の第一声が"逃げろ"というのは本当におかしいと思う。

 

 安瀬の影に隠れがちだが、西代もかなり異常だ。

 

「貴方が西代を……後継? ってやつに選んだ理由もなんとなく分かりますよ。西代は咄嗟の判断が別格に早いですよね。……それが正当かは置いてですけど」

「……!!」

 

 貴方のお孫さんは異常ですね、と言う訳にもいかないので言葉の体裁を整えた。俺の言っている事は、今日の停電中にだって当てはまっている。西代が咄嗟にキレた俺を皿で殴らなければ、俺は前科者になっていたに違いない。

 

「さぁ、垣蔵さん。あなたの手番ですよ」

「……………あぁ、そうだな。お前の言う通りだ。儂の一族には優秀な者は掃いて捨てるほどいる……。だが、儂に似て頭のネジが外れているのは桃だけだ……」

 

 ブツブツと小声で何かを呟きながら、垣蔵さんは山札を1枚めくった。

 

「ん、おぉ、運がいい。これで三光だ」

「げぇ!?」

 

 話の腰を折るようにして、5点役が飛び出した。

 

 こ、これは不味い……。

 

「当然、こいこいはしない。1戦目は儂の勝ちだな」

「ぐ、ぐぐぐっ」

 

 タンを早く作ろうとして、相手の役作りに無頓着だったのが良くなかった。5点は決定的な点差という訳ではないが、3月戦でこの差は痛い。

 

「さぁ、次戦と行こうか」

 

 垣蔵さんが先ほどまで使っていた札を綺麗にかき集める。

 

「は、はい」

 

 返事が上ずった。ほ、本当に負けたくない。……もし負けたら安瀬になんて謝ろう。

 

 いつだって、博打は敗北の兆しが見えた時に後悔する物だが…………過去最高に苦しくなってきた。胃痛に追加で吐き気も込み上げてくる。

 

 こ、ここからはもっと慎重に手札を出していこう。

 

「……小僧」

 

 垣蔵さんは淀みない手付きで花札を切りながら、俺を呼んだ。

 

「桃の婿(むこ)に立候補する気は無いか?」

「ん、え、婿?」

「あぁ、儂が特別に許しを出してやろう」

 

 シュッシュッと札同士が擦れ合い、小気味の良い音を鳴らす。

 

 垣蔵さんは、手元を見ずにカードを切り続けている。視線は俺の顔の方だ。真剣な表情をして、俺を見ていた。

 

「桃の態度を見る限り、お前さんはかなり気に入られているようだ」

「……そうですか? 別に普通でしょう」

「いや、あの娘はかなり気難しかっただろう? 桃は儂に似て排他的な所がある。よくそこまで懐かれたものだと感心する」

「……はぁ、どうも」

 

 気の無い返事を返した。

 

 大学に入学して、俺が酒飲みモンスターズの中で一番初めに仲良くなったのは西代だ。なので、気難しいと言われてもあまりピンとこない。

 

「それに、お前は桃を正確に評価した。あの娘の異常性を受け入れている、その器の広さも好ましい」

 

 交互に、俺と垣蔵さんの前に手札が投げられていった。

 

「孫娘の伴侶としては悪くない。いや、むしろ、その特異性……儂はお前を気に入ったよ」

 

 互いに2枚の札が配られる。

 

「お前さえ良ければ、桃をくれてやってもいい。お前はこのままの関係が良いと言っていたが、本当に、桃と(ねんご)ろな関係になりたくはないのか?」

「…………」

 

 俺はただ黙って垣蔵さんを見ていた。

 

「どうだ、小僧? 悪い話ではないだ──」

「待てよ、爺さん」

 

 3枚目のカードを配ろうとする爺さんの手を握って止めた。

 

「今、()()()()()()()()()()()()()()

「………………はて? 何のことだ?」

「とぼけるな狸ジジイ。こっちは全財産を賭けてんだよ」

 

 失礼だとは思うが、口調を荒げた。サマを指摘する時は強気でないといけない。

 

「特別だとか、気にいっただのと……若者を調子に乗せるお言葉がお上手ですね」

 

 会話で相手の注意を逸らすミスディレクション。イカサマをやる際の常套手段だ。

 

「会話で気を逸らしながら、オーバーハンドシャッフルで底札を調整してからのボトムディール。これで好きなカードを1枚自分に配れる」

 

 文字通り、俺はしっかりと現場を抑えていた。カードを挟んでいる爺さんの指には、底札が握られている。

 

「それと、最上段2枚がカードを集めた時のまま変わってませんでした」

 

 フェイクシャッフルだ。先ほど使われた札を集める時に、欲しい手札を最上段に置いて、混ぜたように見せた。

 

「最上段2枚を自分に配る為に、途中、セカンドディールで要らない札を俺に渡した。これで、貴方は好きなカードを合計3枚も手中に収める事ができる」

 

 垣蔵さんが握っていた底札を、裏面のまま机の上にそっと置く。机の上には垣蔵さんに配られる予定だった3枚が揃った。

 

「この3枚は"月と桜の光札"。それと、"菊の盃"」

 

 俺は裏面のまま3枚のカードの内容を予想してみせる。その後で、実際にカードをめくって手に取った。

 

 現れたのは、俺が予想した3枚だ。

 

「………………」

 

 垣蔵さんはここまでの解説を驚いた顔をして聞いていた。

 

 花見で一杯、月見で一杯。

 この3枚は上手くいけば3ターンで5点役が2つ成立してしまう強手。こいこいを宣言して点を倍にすれば20点になる。短期決戦の3ヵ月では致命打となる点数だ。

 

「少し、完璧すぎるな」

 

 この勝負の中で、垣蔵さんは初めて焦ったような声を出す。

 

「儂の札捌きは耄碌していないはずだ。怪しい動作は一切見せなかった」

 

 事実だ。爺さんのシャッフルはごく自然に行われており、違和感など微塵も感じなかった。変な会話さえなければ、俺はイカサマを指摘すらできなかっただろう。

 

「なのにお前は的確に現場を抑え、その手順と内容まで完璧に理解している。大勝負の場で、凡夫にできる芸当ではない。何故……そこまで看破できた?」

 

 

 先週、お孫さん(西代)がまったく同じことを安瀬にやっていたからです。

 

 

「な、何故でしょうね」

 

 ここまで威勢よくイカサマを解説していた俺だが、恥ずかしくなったので咄嗟に視線を逸らした。

 

 何故か安瀬の狂気が控えめだった先週。彼女は度々、西代と花札で遊んでいた。その際に、西代が同じイカサマを安瀬に仕掛けていたのだ。

 

 西代の手札捌きも祖父に劣らない物だったろうが、安瀬は()()()()()()()()()、その手順と内容を完璧に指摘してみせた。

 

 つまり、このイカサマを見破ったのは安瀬だ。俺ではない。俺は2人がキレて喧嘩していたのを覚えていただけだ。

 

 …………とにかく安瀬が凄い。アイツ、マジでおかしい。気狂いの癖にスペックが高すぎる。頭の中どうなっているんだ…………後でちゃんとお礼を言っておこう。

 

「と、とにかく!!」

 

 人の褌で相撲を取っているような気分だが、ここは強気に押さなければいけない。

 

「イカサマは当然反則負けです……!!」

 

 俺は3枚の不正札を勢いよく机に叩きつけた。

 

「この賭けは俺の勝ち!! 俺の勝ちです!! そうですよね!! そうなりますよね!!」

「あ、あぁ……」

 

 有無を言わせぬ俺の勝利宣言に、垣蔵さんはポカンとした顔を見せた。

 

「……くくっ、ははは」

 

 そして次の瞬間、堪えきらないように笑い始める。

 

「はっはっはっは!! あぁ、そうだ!! たしかに儂の負けだ!! やるな小僧、恐れ入った!!」

(……か、勝ったぁあああ!!)

 

 内心で絶叫する。運と勢いだけの大博打だったが、俺はなんとか勝ちを拾った。50万円の資産を守り切り、借金を背負う事なく、自分の我儘な願いを押し通す事ができてしまった。

 

 珍しく、俺の悪だくみは完璧に成功したのだった。

 



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残当

 

 胃酸が凄まじい勢いで薄まっていくのを感じる。それと反比例するようにアドレナリンが脳内に噴き出していた。

 

(あぁーー、頭がシュワシュワする……)

 

 ギャンブルの醍醐味はやはりこれ。瞬間的に出る脳汁だ。酒をキメていると、興奮もひとしお。口角が勝手に上がっていくのを止められない。

 

 自分を誤魔化せないほどの強い多幸感を感じている。…………ちょっとは彼女の為に何かできただろうか。

 

(俺は本当に、西代に世話になりっぱなしだった)

 

 下らないトラウマを払拭してもらって、淳司との仲直りを手伝ってもらって、薄暗い病室で…………慰めてもらった。

 

 彼女は恩返しなんて絶対に望んでいない。そもそもこの勝負事態が自己満足の類だ。本来は誰にも褒められはしない行為。

 

 それでも思わずにいられなかった。

 

 西代のために、ちっぽけな何かができたかもしれない。

 

 ……嬉しかった。建前で自分の気持ちを誤魔化す事ができないくらい、俺は嬉しかった。

 

「はっはっはっはっは!!」

 

 俺の耳に垣蔵さんの大きな笑い声が入ってくる。

 

 ……クソ真面目で何も面白くない思考は終わりにしよう。

 

「いつまで笑ってるんですか」

「はっはっは!! いや、悪い!! 隠居してからは楽しみが少なくてな!! 我ながら下手を打った!! ここまで手痛い負けは久しぶりだ!!」

 

 鳴子みたいにカラカラとした馬鹿笑いだった。老体には負担が掛かりそうな笑い方なので少しだけ心配になる。

 

(まぁ、イカサマってバレた方が楽しかったりするけど……)

 

 率直に、この爺さんは器が広いのだと思った。負けたのにここまで痛快に笑い飛ばせる人は中々いないだろう。

 

(……いや、もしかして、約束を守るつもりがないのか?)

 

 俺には何も強制力がない。『そんな決め事をした覚えはない』と白を切られれば、俺は泣き寝入りするしかなかった。

 

「あぁ、安心しろ。約束は守る」

 

 垣蔵さんは俺の胸の内を読んだように答えた。

 

「口さがない連中を表面上は黙り込ませてやろう。どんな手段を使ってもな。儂には、それだけの地位と金がある」

「……そうですか」

 

 恐ろしいので詳しくは聞かないようにしよう。

 

「そんなことより、次は何をする?」

「はい?」

「トランプ、サイコロ、囲碁にチェス、バックギャモンもある。桃と風見を混ぜて賭け麻雀なんかも楽しそうだと思うが、どうだ?」

「か、勘弁してくださいよ……」

 

 賭け事はもうお腹いっぱいだった。これ以上は俺の胃が持たない。それに、この爺さんに付き合っていたら簡単に借金地獄に落ちる。

 

「そう言うな。レートを下げてやるから、もう少しだけ付き合え」

「…………たしかに、それなら楽しそうですけど」

 

 残念ながら、俺がここに居る理由はもうない。

 

「すいません。下の会場に忘れ物がありまして……。ちょっと取りに戻りたいんですよ」

 

 適当に退室の理由をでっちあげる。だが、忘れ物がある事だけは本当だった。

 

 原因療法は済んだ。それなら次は、これ以上の悪化を防ぐため患部を直接取り除く必要がある。

 

「む、そうか…………まぁ、何をする気か知らんが儂のビルで悪戯はほどほどにな」

「え」

「絶対条件は面白い事だ。笑えれば許すし、笑えなければ許さん。肝に銘じておけよ?」

「な、何のことでしょうか」

「ふははっ、何の事だろうなぁ?」

 

 意地の悪い表情を見て、俺の背に冷や汗が伝った。

 

 さっきから爺さんの察しが良すぎる。俺は何も話していないはずなのに、ズバズバと内心を当てられている。たった15分程度一緒に居ただけなのに、人となりを完全に把捉されてしまったような錯覚を覚えた。……よくこの人に勝てたな、俺。

 

 これ以上、垣蔵さんと話すのは危険だと思った。

 

「し、失礼しますね」

 

 俺は急いで席を立った。早く逃げてしまおう。

 

()()

 

 急に名前を呼ばれて驚き、硬直する。

 

 固まっている最中、垣蔵さんが机の引き出しを開けて、そこから何かを俺に投げた。

 

「うぉっと」

 

 落さないように、投擲物をキャッチする。

 

「桃が指定した格好なのだろうが、腕時計くらいはつけろ。男の嗜みだ。貰っていけ」

 

 俺の胸元には腕時計が投げられていた。

 白い文字盤と黒革バンドのシンプルな腕時計。一見すると安物に見えるが、パーツごとの輝きが眩しい。飾り気なの無さが逆に、高貴な雰囲気を醸し出している。

 

「え、いや、こんな高そうな物は貰えませんよ」

「なに、そこまで高価な物ではない。楽しませてくれた礼だ。それに勝者が何も手にしていないというのはどうにも座りが悪い」

「………そう言うのでしたら」

 

 ご厚意に甘えて、時計を腕に巻き付ける。せっかくなので、ありがたく頂戴することにした。

 

(ふ、普通に嬉しい……)

 

 渋い大人の腕時計だ。こういう白が基調となった物が欲しかった。高い物ではないらしいが、とてもカッコイイ。着けているだけでテンションが上がってくる。

 

「ありがとうございます」

 

 お礼の言葉とともに一礼してから、出口の扉まで向かう。足取りは軽い。今日は糞みたいな事しか起こらないと思っていたが、どうやらそれは早とちりだったようだ。多少はいい事もあった。

 

 悪くない気分で、俺はドアノブに手を掛けた。

 

「じゃあ、俺はこれで……」

「最後に1つだけ言っておこう」

 

 扉を半分だけ開けた状態で、俺は静止した。垣蔵さんの声が急に暗くなったからだ。

 

「桃は面倒な女だぞ」

 

 それは諭すような言葉遣いだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 反射的に振り返る。去ろうとする足に、何か気味の悪い物が纏わりついた気がした。

 

「関係を続けるつもりなら、覚悟だけはしておくことだ」

「…………は?」

「ほら、もう行け。年寄りの戯言は終わりだ」

 

 そう言って垣蔵さんは払いのけるように手を振り、俺の退出を催促する。

 

「今日は楽しかった。またな、小僧」

「えっと……はい、また機会があれば」

 

 短く別れの挨拶を告げ、俺は退室した。

 

************************************************************

 

 豪華な木製の扉を閉め、部屋から外に出る。足元にへばり付いた何かを振りほどくようにして、長い廊下をひた歩く。行き先はエレベーターだ。

 

「……なんだったんだ、最後の?」

 

 誰もいない廊下で独り言を呟いた。

 

「知能指数が20違うと会話が成り立たないって言うけど、あの説って本当だったんだな」

 

 恥ずかしい事に、IQが低いのは俺の方だ。爺さんの言葉の意味がよく分からない。

 

 西代は面倒な女。……そんな事は言われなくても知っている。万人の知るところ、アイツは一般的な女子大生ではない。

 

 だが、そんな彼女とパチンコに行くのはとても楽しい。自分よりも散財し、青い顔を晒してくれるからだ。また、たまに大きく勝つと居酒屋で酒を奢ってくれたりもする。

 

 俺はもう既に、彼女の闇にどっぷりとハマっていると言えるだろう。

 

「……まぁ、分からない事を考えても仕方ないか」

 

 それよりも、今はもっと楽しい事を考えるべきだ。

 

「東城リク……ちゃんとあの野郎の誕生日を、盛大に、豪華に、大々的に祝ってやらないとな」

 

 あの爺さんの孫に突っかかるのは正直恐ろしい。だが、俺はどうしてもアイツを虚仮にしてやりたかった。

 

(……会場で市販の打ち上げ花火でも上げるか。それともアイツにスピリタスでも強引に飲ませるか。もしくは泥酔状態で壇上に上がって、1人漫才でも披露して場を凍らせてくれようか…………最後のは俺が傷つくだけか)

 

 低俗な悪事を練り上げる。全て、主賓に恥を掻かせる内容。俺はアイツをこき下ろす為なら、なんだってするつもりだった。

 

『劣等感をバネに自分を必死に磨き上げ、研磨する……どうだ、愛くるしいだろう?』

 

 ふと、垣蔵さんが言っていたことが脳内に思い浮かんだ。

 

「………………………………………」

 

『3年も部屋に引きこもって周囲よりも遅れておいて、そのような口が俺に利ける立場か』

 

 同時に、アイツが西代に言い放った醜い言葉も想起される。

 

「…………っは、俺の知ったことかよ」

 

 どんな事情があろうがアイツは西代の気持ちや背景を重んじなかった。ならお互い様だ。俺も何一つ、アイツを尊ばない。

 

 もう二度と俺達と関わりたくない、と思わせて見せる。それが俺の考える()()()()()の方法だった。

 

「ふっふっふんふんふーん」

「ん?」

「てーきは幾万ありとてもー、すーべて烏合の勢なるぞぉー」

 

 エレベーターに向かう途中、今の心境と180度真逆な、抜けた炭酸のように覇気のない歌声が聞こえてくる。

 

「なんだ?」

 

 その妙に聞き覚えのある声の主を探す為、俺は廊下の先に目を凝らした。

 

「烏合の勢にあらずともぉー、味方に正しき道理ありぃー」

 

 俺の視界に写った人物は、どこからどう見ても安瀬桜その人だった。

 

「……はぁ!? あ、安瀬!?」

 

 予想外にも、古臭い歌を口ずさむ安瀬がT字路から飛び出したのだ。

 

「ん、その声は……」

 

 俺の驚いた声に反応して、安瀬がこちらに気がつく。

 

「じ、じんなッ…………陣内? なんじゃその恰好?」

「い、いや、お前に言われたくはねぇよ」

 

 ワインレッドの暗めなドレス。急に現れた彼女は、大人じみた魅力が溢れる正装姿だった。

 

「……ふんっ、我はそんな恰好は好かんからな」

 

 出くわして早々、安瀬は突発的に文句をつけた。低めのヒールを下駄のようにカツカツと鳴らして、彼女はぐんぐんと俺に詰め寄って来る。

 

「金髪にピアスなんぞ軽薄であろう。元の方が絶対に良い。色々と台無しで、(いた)く気に入らんでありんす。はよう、元の黒髪に戻せ」

「何だよ突然。分かってるって。似合ってない自覚はある……」

 

 彼女は本当に不服そうだった。俺の金髪を微妙な目で眺めている。

 

「って、そうじゃない。何で、お前、ここに居るんだ?」

 

 俺は当然の疑問を彼女に投げた。

 

「というかまず、どうやってこのビルの場所を知った? 西代に聞いていたのか?」

「…………」

「それに、よく受付を通れたな。招待状なんて持ってなかったろ?」

「……………………」

「おい、何か言え犯罪者」

 

 絶対に悪い事をしたな、コイツ。少なくとも、さっきの停電は間違いなく安瀬の仕業だ。きっと暗闇に乗じて侵入しやがった。

 

「目的はタダ酒か? まったく、いつもながらイカレた行動力だな」

 

 呆れ半分、笑い半分といった心境。普通に不法侵入したのだろうが、咎める気はさらさら無い。俺に実害が無いのなら別に良かった。それに逆の立場なら、俺も絶対に潜入していた。

 

「……ま、まぁの!! お主だけ良い思いをするのはずるいでござる!!」

「はいはい、そうだな。その通りだよ」

 

 事実として、パーティーで振る舞われていた酒だけは素晴らしかった。水筒に少量しか盗み入れる事ができなかったのが悔やまれる。

 

「そ、そんな事より!! 今はドレスコードでありんす!!」

「え?」

 

 安瀬は急に、ドレスについて口に出す。

 

「少し予定が狂ったが仕方ない!! 今すぐに猫屋を呼びに──」

「あぁ、綺麗だな」

「……え」

「お前は着物を着てる時が一番素敵だけど、そういった格好も華やかだ。……凄く似合ってるよ」

 

 少しだけ暗い配色が安瀬らしくないようで気になるが、普段はあまり見られない彼女の大人な要素が前面に出ているように感じた。

 

「ぇ、あ……ぅ」

「あぁ、それと……い、いつもありがとな」

「────────」

 

 先ほどの賭博で決め手になった安瀬の慧眼に対して、俺はちゃんとお礼を言いたかった。ついでだから勢いに任せて言ってしまおう。

 

「お前には、その……助けられてばっかりだ。ははっ、なんだかんだ頼りっぱなしで悪い。今度また酒でも奢らせてくれ」

 

 流石にちょっと恥ずかしいので、少し笑ってごまかす。

 

「~~~~~~っ」

 

 みるみるうちに、安瀬の顔が真っ赤に染まる。彼女は両手を口に重ねて、目を見開いた。

 

(あぁー、やっぱりコイツって普段の行いのせいで褒められる事に慣れてないんだな)

 

 上から目線のようで申し訳ないが、俺はその姿を見て少し微笑ましくなった。軽く褒めただけなのにかなり照れている。ぶっちゃけ過剰反応だ。

 

「わ、わ、我の事じゃないわ、このバカぁ!!」

 

 安瀬は勢いよく、ハンドバックを振りまわした。

 

「うぐばッ!?」

 

 頭部のたんこぶにバックの底が直撃する。

 

「うぐおおっぉぉおお……!!」

「それは違う!! そ、それは我に向ける言葉ではない!! ね、猫屋はもっと可愛く着飾ってきたんじゃ!! 猫屋の方がもっと可愛いのじゃ!!」

 

 痛い!! 痛い!! 超痛い!! 死ぬほど痛い!!

 

 痛みのあまり、バタバタ!! っと地面に倒れてのた打ち回る。

 

「うごごご……!!」

 

 安瀬のバックの威力は半端ではなかった。中身の固い物が俺の弱点を強襲してしまっていた。

 

「ぉぉぐぅぅ……!! な、何しやがるこのアバズレ!!」

 

 当然、感謝の気持ちなどは痛みで一瞬で消え失せた。立ち上がって彼女に罵声を飛ばす。

 

「う、うるさい、このクソアル中!! 我は悪くない!! わ、悪いのはお主であろう!?」

「あぁ!? 人が素直に褒めてるのに何だそりゃあ゛!? お前、思考回路どうなってやがる!!」

「うるさい!! うるさい!! うるさい!!」

 

 彼女は暴言を振りまきながら、ハンドバックからスマホを取り出して自分の耳に添えた。

 

「ね、猫屋!! 一旦、()()()()()探し物は止めじゃ!! 即座に1308(ひとさんまるはち)地点にて合流せよ!!」

 

 彼女は電話越しに猫屋を呼びつけだした。

 

「……猫屋?」

 

 猫屋の名前を聞いて、少しだけ冷静になる。

 

「おい、安瀬。もしかして猫屋も来てんのか?」

 

 だとすれば、それは少しまずい。

 

「しかも、今、この階にいるって……」

 

 最上階だからか、部屋数が少ないからか、この階はそんなに広くない。なので、呼べばきっとすぐに──

 

「じんなーーい!!」

「うぉ……!!」

 

 スパンコールが散りばめられたキラキラでフリフリの黄色いドレス。大胆にも、背中を大きく開いた色気を感じる姿。妖艶なフラメンコを踊れそうな情熱的な造形。

 

 安瀬とは正反対に、眩いまでの配色をした猫屋が背後から躍り出た。

 

(やばいッ)

 

 猫屋の出現に、心の底から焦る。綺麗だ、という感情よりも焦燥感が(まさ)った。

 

 俺の現在の髪型はヤンキーの反骨精神よろしく波打って逆立っている。なので、おでこが丸出しだ。当然、大きな手術跡は面に現れている。

 

 俺の額はコンクリートで裂かれた。そのせいか、縫合跡はミミズのようにうねった感じで残ってしまっている。抜糸すれば少しはましになるかと思っていたが、経過は何も変わらなかった。

 

 無論、一緒に生活しているので完璧に隠し通せている訳ではない。

 

(それでも、もう二度と、猫屋にコレを意識させたくない……!!)

 

 不自然な行動になるだろうが、今からでもセットした髪を崩してしまおうかと本気で思った。

 

「じ、陣内、どーしたのその恰好!! ちょー似合ってんじゃーーん!!」

 

 そんな俺の焦りを、猫屋は一瞬で吹き飛ばした。

 

「「…………え?」」

 

 彼女の意味不明な発言に対して、俺と安瀬は同時に間抜けな声を漏らす。

 

「凄いカッコいいよ、陣内!! ま、前から思ってたけどさー、陣内ってお洒落する時はちゃんと頑張るよねーー!! 私の中で点数高いよ、それーー!!」

「え、えぇ……それマジで言ってるのか?」

「うん!! 金髪もカフスもいい感じーー!!」

 

 興奮した面持ちで、彼女は明るく俺を褒めてくれる。裏表がなく、本当に思ったことを口に出しているようなテンションだった。

 

「……普段から髪上げてたらー? そっちの方が断然男前だよー!!」

「そう、か?」

「私はそっちの方がいいと思うー!! 安瀬ちゃんもそう思うよねー?」

「え、ぁ……うむ。我も……普段は…………」

 

 気を使われている様子はない。猫屋は本当に俺の着こなしを気に入っているようだ。

 

 なんか、色々と……気にし過ぎだったかもしれない。

 

「ねぇねぇ、陣内もピアス開けよーよ!! お揃いのヤツ、プレゼントしてあげるからー!!」

「え、いや、申し出は嬉しいけど……女はともかく、男のピアスは柄が悪いからな。遠慮しとく」

「えぇーー!! 勿体なーい!! それに考え方も古臭ーい!!」

 

 猫屋の真っ直ぐな賛辞がむず痒くて、俺は彼女から視線を外した。

 

「陣内は絶対にピアス似合うと思うんだけどなぁー」

「……そりゃあ、どうも」

 

 正直、ここまで褒められるとお世辞でも嬉しい。

 

 猫屋は俺達の中で一番洒落(しゃれ)っ気がある。そんな彼女がここまで褒めてくれるのだから、俺の恰好は自分で思うほど酷い物ではないのかもしれない。……似合ってなければ塞げばいいし、試しにピアス開けてみようかな。

 

「…………そうじゃよな」

 

 視界の端で、安瀬が口を開いたように見えた。

 

「…………やはり、お主の方が………ずっと一途………我なんかよりもずっと…………」

 

 彼女は顔を伏せ、消えそうな声で何かを発した。

 

「? どうした、安瀬?」

「……何でもないでござる!!」

 

 安瀬はすぐに顔を上げて、元気そうに笑った。

 

「……なんか安瀬ちゃん、今ボーっとしてなかったー? 大丈夫? 疲れちゃった? ニコチン補給する?」

「いや、そこはアルコールだろ。安瀬、水筒に詰めたラムでも舐めるか? 凄く美味いぞ」

「……どっちも違うわ。この中毒者どもめ」

 

 煙草と酒を懐から取り出した俺達を見て、安瀬はがっくりと肩を落とす。

 

「はぁ……この後、どうした物かと思ってな」

 

 彼女は困り顔で腕を前に組んだ。

 

()()()()()()()()()()()()()と思って色々と考えておったが、なんかもうどうでもよくなってきたぜよ」

「え、えぇー? それはちょっと自由奔放すぎなーい??」

「陣内に見つかってしまったのじゃから仕方なかろう。……そもそも、何故お主もこの最上階にいるんじゃ? パーティー会場で西代と一緒にいるはずではなかったのかえ?」

「……安瀬」

 

 俺は質問を無視して、低い声で彼女の名前を呼んだ。

 

「……何じゃ? ふん、まぁ、気分良く高い酒を飲んでいたであろうお主からすれば、妨害計画を聞いて文句の一つも言いたくなるか」

「その計画、今からでもやるぞ」

「な、なに?」

 

 ちょうどいい。彼女達にも説明しよう。

 

「いいか2人とも、このパーティーはゴミだ。何も面白くなかった。……酒はまずいし、空気は最悪。なによりも、主賓が鼻持ちならないクソ野郎だった」

「「酒がまずい!?」」

 

 彼女たちは『信じられない』といった様子で驚いた。

 

 そ、そこに反応するのか。もっと別に驚くポイントがあるだろ……。

 

「ど、どーしたの陣内!? いつもはカップ酒でも幸せそうに飲んでるのにー!?」

「そ、そうでござるよ!! 酒に貴賎なし、とか言う馬鹿みたいな言葉はお主の常套句ではないか!?」

「テメェら、カップ酒を馬鹿にするなよ!! カップ酒は美味いだろ!! 単純に(かん)にしても良いし、出汁割りとか玉子酒(たまござけ)に加工しやすい日本が誇る超万能酒だろうが!!」

「「あ、良かった。いつもの陣内だ……」」

 

 2人はほっと胸をなでおろした。

 

 俺は凄くまともな事を言ったはずなのに、何故かとても雑な扱いを受けた気がする……。

 

「…………いや悪い、話が脱線したな。とにかく、まぁ、色々あったんだよ。色々と」

 

 細かい説明は不要なので、俺は言葉を濁した。俺が怒っている事が伝わればそれでいい。

 

「そう言った訳だから、このパーティーを潰す案があるなら俺も一枚嚙ませてくれ。頼む」

「ふぅむ?」

 

 安瀬は顎に手を添えて、考え込むように顔を傾げた。

 

「……まぁ、せっかく考えた計画も不発では収まりが悪いの。西代もこのパーティーには辟易としておったし、あ奴の為にもきちんとぶっ壊して帰るでござるか」

「そーだねー。ここまで来ちゃったしー、私もどうせなら面白そうな事して帰りたーい」

 

 物のついでような軽さで、彼女たちは悪事に賛同してくれる。なんて頼もしいんだ。

 

「良し、なら決まりだ」

 

 幸運にも、俺は最強の仲間を手に入れてしまった。高性能クズ(安瀬桜)×高性能クズ(猫屋李花)。この2人が一緒なら、大抵の計画は成功する。

 

 この悪だくみ、もはや俺の勝利は決まったも同然だった。

 

************************************************************

 

 同じ階にあった狭めの個室。部屋の片隅に机や椅子が積まれているので、ここは雑多な物置として使われている部屋なのだろう。

 

「呼び出される少し前のタイミングでー、丁度この部屋を見つけたんだけど、結局ここで何するわけー?」

 

 俺たちは猫屋の案内の元、この部屋に足を踏み入れていた。どうやら、安瀬と猫屋は別れてこのような部屋を探していたようだ。

 

「猫屋、人が多く招かれている場で、まず一番に考慮しなければいけない事柄とはなんでござる?」

「喫煙所への誘導看板の設置でしょー?」

「いや、提供するアルコールのラインナップだろ?」

「に、二度もふざけるでない、カス共。普通に考えて来賓客の安全管理であろうが……」

 

 そう言って、安瀬はハンドバックからガスバーナーを取り出した。

 

 彼女はガスの排出つまみを弄り、カチッと点火プラグを鳴らして火を点ける。轟々と音を立てて、バーナーの口から勢いよく炎が吹き荒れた。

 

 俺はそれを見て、一気に青ざめた。

 

「お、お前、まさか、()()()()()()つもりか!? それは流石にヤベーだろ!?」

 

 外まで聞こえそうな大声で安瀬の蛮行を咎める。先ほどの質問の意図から察するに、ボヤ騒ぎを起こすとしか考えられなかったからだ。

 

「阿呆か。コレはこうやって使うんじゃ」

 

 安瀬は煙草を一本咥えて、危なげなくバーナーの鋭い炎で火を灯した。

 

「すぅ、はぁぁー……」

 

 彼女は煙を肺まで入れずに、多量の煙を天井に向かって吹かした。そのまま宙を登って行く煙を安瀬は指差す。

 

「煙草の煙を使って火災報知器を鳴らして回るのじゃ。これが最も手っ取り早い」

「あぁーー、だから私に物置とか掃除用具のある部屋を探させてたんだねー」

「そうである。なるべく人目につきにくく、燃えていたらヤバそうな場所が最適じゃからの」

「あ、あぁ。なるほどな」

 

 安瀬にも最低限の倫理観があったようで安心した。確かに、この作戦ならパーティーは中止になる。しかもちゃんと安全だ。全員、ただ帰宅するだけで良いのだから。

 

「……なんか中学生の頃、学校で火災報知器のボタンを鳴らして遊んでいたのを思い出すな」

「それ懐かしーー!! あれってやっぱり皆やるよねーー!!」

「うむ、我もそこから着想を得たぜよ」

 

 懐かしい思い出を共有するように、俺たちはうんうんと仲良く頷いた。

 

(……でも、これって本当にパーティーをぶっ壊すだけだよな)

 

 どうにも、安瀬の作戦は俺の本来の狙いとはずれているように感じた。俺がやりたいことはアイツへの報復と抑止であって…………勝手だが、もっとグチャグチャで酷い作戦を期待していた。

 

「ほれ、お主らも一服付けるでありんす。煙突が一本ではセンサーが反応せん」

「はいはーーい!! そういう事なら、私も美味しく吸わせてもらいまーす!!」

「あ、あぁ……」

 

 喫煙を促されたので、とりあえずポケットから煙草を取り出す。

 

 その瞬間、バタンっ!! と部屋の扉が開いた。

 

「……お客様、失礼ですがここで一体何を?」

 

 サァーっと、俺達3人の体から血の気が引いていった。

 

 勢いよく開いた扉から、黒服のボーイさんと警備服を着た恰幅の良い男性が複数人に駆け込んできたのだ。

 

「「「…………あ、あはは、その……えっと」」」

 

 安瀬は急いでガスバーナーを隠して、煙草を携帯灰皿に投げ捨てた。俺と猫屋も一瞬で煙草をポケットに戻す。

 

「と、トイレに行こうとしたら迷ってしまいまして」

 

 咄嗟に、安瀬が苦し紛れの言い訳を口に出した。

 

「そ、そーなんですよねーー!! わ、私たちー、3人ともトイレを探してたんですよー!!」

「そうですか。私たちは()()()()()()()でございましてね」

「「ひゅぃっ……」」

 

 安瀬と猫屋の肺から、絞り出すような悲鳴が漏れ出る。

 

「1階女子トイレの窓が溶かされるように割れていましたので、誰かが不法侵入していないか探していたのでございます」

「「「…………」」」

「そんな中、扉の向こうから『部屋を燃やす』と聞こえてきましたので……」

 

 ギロリっと、複数の険しい視線が俺達を貫く。

 

「急遽、この部屋に踏み込ませて頂きました」

「「「………………………………やっば」」」

 

 俺が大声で叫んだせいで、悪事のグレードが冗談などでは決してすまないレベルまでパワーアップしてしまっていた。

 

 僅か数秒で、俺たちは不良大学生から放火魔へとジョブチェンジしたのだ。

 

 危機的状況を受け、俺たちはすぐさま互いの目を合わせる。

 

(や、ヤバくないか!? コレって本当に絶体絶命のピンチじゃないか!?)

(ほ、放火未遂ってマジでヤバいよねー!? ふ、普通に超極悪犯罪だよねーー!?)

(ど、どうするでござる!? どうやってこの場を切り抜けるぜよ!?)

 

 口では何も言わず、目だけを使って迅速に意思の統一を図る。危機感のあまり、3人とも足の震えが止まらなかった。

 

「お客様、失礼ですが招待状はお持ちでしょうか?」

「「そ、それだ!!」」

 

 ダラダラと滝のように汗を流している安瀬と猫屋が、ボーイさんの問いかけに食いつく。

 

「わ、私たちの分はちょっとどこかに置き忘れちゃいましたけど、このアル中はちゃんと招待状を持ってるからーー!!」

「ほ、ほれ陣内!! しょ、招待状とやらを出してやれ!! 拙者たちの無実を証明してくりゃれ!!」

「ない」

「「……え?」」

「俺は西代の顔パスで入ったから、そんなもんはない……」

「「…………ま、マジで?」」

 

 2人の顔が、更に青くなった。

 

「招待状はお持ちではないのですね」

 

 これで少なくとも不法侵入は確定した。

 じわじわと、俺達3人を囲む包囲網が狭まっていく。警備員さん達が無線を使って、更にお仲間を呼び始めた。

 

「……それと、もう一つご質問がございます」

 

 ボーイさんの冷めた視線が俺だけに向けられる。彼は俺が腕に巻いている腕時計を指差した。

 

「貴方が着けている腕時計ですが、そちらは200万はする高級品と存じます。それは自身でご購入を?」

「「「…………はぁぁぁああああ!!??」」」

 

 暗い部屋内に、俺達の悲鳴に近い絶叫が響き渡った。

 

「陣内!! お主、どこからそんな物盗んできた!?」

「ひ、人聞きの悪いこと言うな!! ぬ、盗んでねぇ!! これは貰ったんだよ!!」

「泥棒はみんなそー言うの!! い、いいから早く元の場所に返してきなさい!!」

「だから盗んでないって!!」

 

 今度は俺に窃盗の疑いが掛かった。雪だるま式にどんどんヤバい罪状が積み重なっていく。

 

「200万の時計なんて着けて、今までよく平気な顔してたよねーー!? 陣内、頭おかしーよ!?」

「お、俺だってそんなに高い物とは知らなかったんだよ!!」

「なるほど。価値を知らなかった、と」

「あ」

 

 口論の最中、この時計は自分で買った物ではないと証明してしまった。

 

「……放火未遂と不法侵入、それと窃盗の現行犯ですか」

「「「────────────」」」

 

 あまりにも具体的な死刑宣告に、俺たちは凍り付いた。

 

************************************************************

 

 ギィっと、木製の扉が開く。

 

「遅かったな、桃」

「うん、ごめん。つい風見と話し込んじゃってね」

 

 西代桃はヴァイオリンを引っ提げて、祖父のいる部屋へと戻ってくる。陣内梅治が部屋を退室して、既に20分ほど時間が経過していた。

 

「お茶と菓子まで用意して、大学生活の事を延々と聞いてくるから長引いちゃったよ……って、あれ?」

 

 彼女は首を左右に振って、部屋内をくまなく見渡して首を傾げた。ここに居るはずの陣内梅治がどこにも存在しなかったからだ。

 

「……ジン君はどこに行ったの? まさか、気に入らなかったからって叩き出した訳じゃないよね」

「小僧なら便所だ。急に腹が痛いと言い出してな」

「……へぇ、そう。それならすぐに帰ってくるよね?」

「さぁな。随分と神妙な顔をしていたから、しばらくは籠っているかもしれんぞ?」

「それ、本当にトイレ? 嘘だったら、僕本当に怒るよ」

 

 西代は祖父の言葉を全く信用してなかった。彼女は『お爺様は極端で残忍、そして人との接し方がぶっ壊れている』と認識している。

 

 興味がそそられない人間は冷遇し、敵対する人間は叩き潰す。そのくせ、人を認める琴線が狭くて歪にひしゃげている。東城垣蔵は面倒くさいという言葉が立って歩いているような人間だった。

 

「それよりも桃…………随分と面白いのを見つけてきたな」

「ん?」

 

 そんな偏屈ジジイは陣内梅治を思い出して上機嫌そうに笑う。

 

「くくくっ……アレはダメだ。どうしようもなくダメな男だ。間違いなく、お前と同じでタガが外れている。……久しぶりに、もう少し長生きしたくなった。アレとお前の子は、きっと儂の想像など遙かにしのぐ邪悪に育つのだろうなぁ」

「今、なんだって?」

 

 好意的かつ、あまりにも気の速すぎる発言に、西代は自分の耳がバグったのかと本気で思った。

 

「桃、次の帰省はいつだ?」

「……た、たぶんお盆休みだけど」

 

 恐る恐るといった様子で彼女は質問に答える。

 

「そうか。なら、その時にまたアレを連れてきなさい。今度は本宅にだ。一回、腰を据えてゆっくりと話がしてみたい」

「それ本気で言ってるの?」

「あぁ」

(…………き、気に入られちゃってる)

 

 祖父の好意的な反応に、西代は狼狽える。

 

(相性は良いと思っていたけど…………僕の知らない所で、お爺様の心のシャッターをずかずかと開けないで欲しいね。僕達が実は恋仲じゃないって、言いづらいじゃないか……)

 

 既に嘘がバレている事を彼女は知らない。彼女の祖父も余計な事を言うつもりはなかった。陣内梅治の苦難がまた一つ、確定した瞬間であった。

 

 ──リィリリリリリン

 

 西代が陣内の無駄なコミュ力に呆れていたその時、部屋の固定電話が甲高い音を立てて鳴り響く。

 

「何事だ?」

 

 東城垣蔵は受話器を手に取り、耳に当てがう。

 

「儂だ、どうした? …………なに? ()()()()()()()()()()?」

「え、本当に泥棒が入り込んでいたの?」

「あぁ、そうらしい……既に警察を呼んだか。よくやった。どうやら、儂の危惧は間違ってなかったようだな」

「………ん?」

 

 聴力の良い西代は、かすかに聞こえてくるサイレンの音に気がつく。

 

 ビルの13階。東城家のトップに立つ垣蔵の部屋は、皇室の御休所の如く内装が整えられていた。高所からの景観を楽しむために、大きなガラスも壁面に埋め込められている。

 

 西代は窓ガラスの方へ近寄り、その優秀な視力を使って、ビルの入り口付近で発光している赤いパトランプを覗き込んだ。

 

************************************************************

 

「違うんだぁあああ!! 聞いてくれぇええ!! 俺は盗みなんてやってない!! まだ無実!! まだギリギリで無実なんだぁぁああああ!! 垣蔵様と話をさせてくれぇええええええ!!」

「ヤバいでござる……ヤバいでござるぅ……放火未遂は洒落になってないぃ…………終わるぅ……人生がちゃんと終わってしまうぅぅ…………嫌じゃぁぁ、嫌なのじゃぁぁぁぁぁ」

「うわぁぁああああああん!! 前科ついちゃったぁぁあああああ!! 今度は本当に牢屋にぶちこまれちゃうよぉおおお!! 5年は出てこられなぃぃいいいい!! うわぁぁあああああああああん!!」

 

************************************************************

 

「…………」

 

 見知ったシルエットの罪人たちが、手錠に繋がれたままパトカーに詰め込まれ、連行されていく。

 

 西代は顔を引きつらせながら、その一部始終を視界に収めていた。

 

「あ、あのクズども……今度は一体何をやらかしたんだ?」

 

 彼女は、それが冤罪だとは1ミリグラムとて考えなかった。

 



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青春を取り戻せ

 

 クルラホーン(酒の妖精)が躍り、恍惚のお香が充満する、退廃の畢竟。

 

 永遠を錯覚させる騒乱の宴。

 

 しかし、気狂い水を飲み干し、烟草が燃え尽きれば、後に残るは空の瓶と黒い灰。

 

 時間が止まって欲しいと……僕は何度願ったのだろう。

 

************************************************************

 

 夜食にラーメンを食べに来るなんて、僕の薄っぺらい人生に置いて初めての経験だった。

 

 深夜3時過ぎのラーメン屋さん。タバコの灰を灰皿に落として、僕は街頭が綺麗に光る町の夜景を眺めていた。

 

「火事って、もっと大事になるかと思ってたよ」

 

 陣内君の誕生日である、2月3日に起こった火災騒動。僕らふうに名前を付けるのなら()()()()()()()()()()とでも言っておこう。

 

 あの事件から既に5日が経過している。そう考えると、時間の流れという物は本当に早い。

 

「あぁ、俺もだ。警察とかも介入してきて事情聴取されたり、何百万って金を請求されたりしてな」

 

 (くだん)の騒動で一番の被害を被った男友達は、遠い目をして天を仰いでいた。最小限の被害で済み、安堵しているように見える。

 

「だよね。…………実際は2日くらいで何事もない日常に戻れたよね」

 

 それでもまだ、非日常の残響が胸に響いていた。

 悪く言えば地に足がついていない、良く言えば夢見心地。『危なかったけれど終わってみればスリリングでとても楽しかった』と言うのが僕の本音。それに、新たな部室での共同生活も斬新で気に入っている。

 

「今の部室暮らしが日常と言えるか?」

 

 だけどやっぱり、陣内君は億劫そうだった。気だるそうに眉をひそめている。

 

「少し不便なルームシェアさ」

「少しか? あの部屋はとにかく狭すぎる。それさえなかったら俺だって楽しめる気がするけど……」

「ふふっ、確かに狭いね。……でも、僕は凄く楽しいよ? 小学生の夏休みにでも戻った気分だ」

 

 あの頃は……凄く楽しかったな。

 

 今で言う限界集落。お爺様が持つ土地の中では無価値に等しい田舎の辺境で、僕は15年を過ごした。

 

 幼少期の記憶は僕の宝物だ。

 

 通っていた学校は小学生と中学生が1つのクラスに集まってしまうくらい生徒が少なかった。校舎も、僕が住んでいたお爺様の別宅の方が大きかった。でも、その小さなコミュニティが僕は大好きだった。

 

 狭い教室や何もない原っぱで、学友達と甲虫やゲームを持ち寄って延々と遊んでいた。僕は体を動かす遊びには参加しなかったけど、彼ら彼女らは優しい人ばかりで、僕でも出来そうな遊びを幾つも考案してくれた。退屈な時間の方が少なかったくらいだ。

 

 仕事の都合で両親には中々会えなかったけど、学校に行けば友達が遊んでくれる。だから……それほど寂しくはなかった。僕の幼少期はとても満ち足りた、素晴らしい物だったと胸を張って言う事ができる。

 

 けれど、人生には山があれば谷もある。

 中学を卒業する間際に、ダムの開発が原因で集落は無くなってしまった。

 

 当然、学校も廃校となり皆ちりぢりとなった。僕も体が成長していたので田舎の別宅から本家へ呼び戻されて…………お爺様の意向もあり、親戚のリクと共によく知らない進学校へと入学させられた。新生活が忙しくて、あの頃の友人とは疎遠となってしまっていた。

 

(………ずっとあの田舎で生活できていれば良かったな)

 

 高校を退学してしまってから、たまにそう思う。

 

(そうすれば、きっと、僕にも────)

 

 いや、違う。

 

「…………ふぅ」

 

 煙をゆっくりと肺まで吸い込み、安堵を混ぜて吐き出す。ニコチンの陶酔感のせいか、自然と体から後悔が抜け落ちた。

 

(あの頃以上に、今が楽しい)

 

 ここ1年、初めての経験ばかりが僕の中に蓄積されていた。取りこぼしてしまった5年間の人生。その分の反動が、一気に溢れ出している。

 

 大学に入ってできた、3人の友人のおかげだ。

 

 安瀬とは信じられないほど気が合う。僕の中で莫逆(ばくぎゃく)の友とは間違いなく彼女だ。

 猫屋は馬鹿なヤニカス。なのにどこか輝かしい。一緒に居ると、彼女の朗らかな雰囲気に当てられてこっちまで頬が緩む。

 陣内君は……なんだろう? 重度のアルコール中毒者? 世話焼きなツンデレ悪友? それとも、安眠用の湯たんぽ君かな?

 

(……何にしても、4人でいると楽しい)

 

 僕の人生で一番の幸せとは今だ。

 

 あの頃じゃない。きっと今の方が、何にも代えられない宝物だ。

 

「俺も……」

 

 僕が今の生活に思いを馳せながら外の景色を見ていると、彼も外の景色を見ながら躊躇いがちに口を開いた。

 

「ん?」

「俺も毎日楽しいよ。お前らと居るといつも腹の底から笑ってる」

 

 彼は少し恥ずかしそうに、自分の本心らしきものを語った。

 

「そうかい?」

 

 意外だった。彼は少し見栄っ張りで、真面目な雰囲気が大嫌い。だから、素直にそんな事を言うとは思ってはいなかった。

 

「あぁ……だから」

 

 陣内君の細い目が、真っ直ぐに僕の瞳を見つめた。決意じみた何かが籠っているみたく、三白眼に揺らぎはない。

 

「卒業まで末永くよろしくな!!」

 

 卒業。

 大学生活の終わり。

 

「というか卒業しても案外一緒にいるかもな、俺達」

 

 その言葉は、悲しいほどに、僕の願望そのものだった。

 

「…………うん、そうだね」

 

 悟られたくない感情を誤魔化す為に、僕は頷いた。

 

 僕は大学を卒業すれば()()()()()()()()()()()()()。お爺様が譲ってくれる、土地、建物、財産。その管理をするために。

 

 いいや、もし、お爺様に不幸があれば、僕は今すぐにでも大学を辞めて地元に帰るだろう。未練という言葉では言い表せない感情を押し殺し、全てを捨てて、きっと今の生活を手放す。

 

 ……やりたくない訳じゃない。迷惑だとは思っているけど、お爺様の寵愛を無下にしたい訳じゃない。僕を育ててくれたのはお爺様だ。大好きだし、誰よりも深い家族の情がある。少しくらいは育ててもらった恩を返したい。

 

「…………」

 

 僕は黙って、体面に座る彼を見た。その背後に連想される生活を見た。

 

『僕の地元で就職するつもりはないかい?』

『就職してからも、4人で生活した方がきっとコスパが良いと思うんだ』

『実は、僕の家は少し大きい所でね。家の伝手(つて)を使えば、たぶんあっけないほど簡単に良い職につけるよ? まぁ、本当は実家の力なんて頼りたくないけど……』

『ふふっ、でもその代わりに、煩わしい就職活動なんてやらずに卒業ギリギリまで遊んでいられるよ? どうだい? いい話だろう?』

『そうだ。その空いた時間を使って、卒業旅行の為にお金を稼いでおこうよ。旅行先は……海外にしよう。父さんと母さんから、よく外国の話を聞くんだ。だから一度は行ってみたいと思っていてね』

『パスポートを取って何ヵ月もかけて色んな国を巡ってみたいな。酒と煙草と賭博。その3つの文化が無い国なんて存在しないからね。忘れられない経験になると思う。……うん、それが良い。陣内君もそう思うだろう? 安瀬も猫屋も、きっと大賛成するはずだよ!!』

 

『………………………………だから、ついて来て欲しいな』

 

 ふらふらになってしまうほどの甘い妄想に酔う。

 

 同時に、笑えない冗談だと思った。

 

 安瀬、猫屋、陣内君。

 3人にはそれぞれの人生があり、事情があり、家族がいる。()()()()()、地元に帰れば親しい友人もきっといる。そんな皆に僕の恥知らずな願いを無理強いするのは間違っている。

 

 そもそも一生4人でつるむなんて事自体が夢物語。社会に出ていない子供の幼稚な願望だ。就職、結婚、子育て。大学を卒業した僕らの行く先には、難関なライフイベントが目白押し。いつまでも子供のままではいられない。

 

 卒業してしまったら、たまに集まってバカ騒ぎする……その辺りが関の山だろう。

 

(だから、今を全力で楽しもう)

 

 この騒がしくて仕方がない、星の煌めきのような生活を、楽しむんだ。

 

 勉強なんて最低限。健康も道徳でさえ度外視。酒と煙草と賭博に溺れ、毎日一緒に居て、沢山遊びに出かけるんだ。

 

 そうして一生分の思い出を蓄えて、あの場所に帰ろう。

 

 僕が嫌いで、僕を嫌う、誰も僕を受け入れてくれない、1人寝の寂しい夜に……ちゃんと戻るんだ。

 

 

************************************************************

 

 

 3日ぶりのお日様。

 

 新鮮な地上の空気。

 

 監視が無く、プライベートが尊重された世界。

 

 清々しさの限界を超えて、生きている事に感謝するほどの自由が俺を包み込んでいた。

 

 アイ、ラブ、自由。アイ、ヘイト、牢屋。いやぁ、自由って本当に素晴らしいものですね。

 

「それで、君たち? この僕に何か言いたい事があるんじゃないかな?」

 

 だが、"自由には代償"がつきものだ。そんなよく耳にはするが、実際には遭遇する事の方が難しい局面に3匹は陥っていた。

 

「「「…………」」」

 

 俺と、安瀬と、猫屋は、東京警察署の玄関前で正座をしていた。俺達を頭一つ高い位置から見下ろしているのが、尊敬すべき西代桃お嬢様だ。

 

「君たちを無実で留置所から出すために、僕、リクの父親(弁護士)なんかに頭を下げる羽目になったよ。はぁ……これでまた、本家に貸し1つさ」

「「「す゛、す゛み゛ま゛せ゛ん゛て゛し゛た゛ぁ゛あ゛!!」」」

 

 額を思いっきり路上に擦りつける。公共の場で、誠意を込めた本気の土下座を披露した。

 

「で、でも、に、に、西代ちゃん本当にあ゛りがとぉぉぉおおおお!! わ、わ、私、こ、今度こそは正しい法の裁きを受けちゃうかと思ってぇぇええええ!! こ、今回のは本当に洒落になってなくってぇぇぇえええ!!」

 

 猫屋が泣き始める。西代の足元にしがみ付き、半狂乱で感謝を述べていた。

 

 無様だと思うが、その気持ちは死ぬほど理解できる。

 

「お゛、おれも怖かった…………う゛っ、ぐぅ……い゛き゛て゛てよかった゛ぁッ……!!」

 

 俺も泣いた。生還の安堵感に耐え切れず、ボロボロと泣いた。

 

 不法侵入と窃盗と放火未遂。俺の場合は一応全て冤罪なのだが、もし西代が助けてくれなければ10年は刑務所に入っていた。人をぶん殴って半年ほど刑期を務めるくらいならギリギリ我慢できるが、10年は無理だ、キツイ……絶対に無理……ムリぃ。

 

「か゛、垣蔵様にも後でお礼を言わせてく゛れぇ……あ、あと、ま゛、ま゛た迷惑かけてごめぇ゛ん!!」

 

 感謝を言霊に乗せて、泣きながら口を開く。

 

 …………俺は彼女に何度助けられれば気が済むのだろうか?

 

「うっ、うっ……ひっく……うぅ……わ、わ、我も脱獄の計画とこれからの逃亡人生の事を本気で考えておった……あ、あ、危うく、兄貴の子供を見ずに人生を終える所であったぁぁ。に、西代、ありがとうぅ。お、お主に貸していた1万円はチャラで良いでござる……」

 

 俺の隣で、安瀬も啜り泣いていた。

 

 彼女だけ思考が異次元だ。人のことを言えた義理ではないが、今回一番反省するべきは彼女のはず。だが、安瀬は更に罪を重ねるつもりだったらしい。

 

 やはり、安瀬は別格。してはいけないのだろうが、その精神力だけはちょっと尊敬する。

 

「もう、さ……ほ、本当に、ね」

 

 泣く俺達を見て、西代は歯切れ悪く言葉を紡いで、片手で顔を覆う。

 

「……君たち…………っ、……くくっ…………くくく」

 

 今度はもう片手で腹を抑えだした。

 

「「「…………?」」」

 

 涙で視界が滲んでいる俺達は、西代の異変を不思議そうに眺めていた。

 

「あははははははは!! 君たちって、ほんっっっとうにクソ馬鹿だよね!!」

「「「!?」」」

 

 怒っているはずの彼女は、目に涙まで浮かべて楽し気に俺たちを笑った。

 

「ぼ、僕!! お、お爺様の驚愕した顔なんて初めて見たよ……!!」

 

 ヒィー、ヒィー、っと西代は苦しそうに息を吐きだしながら、呂律の回っていない口調で話し続ける。

 

「ま、窓ガラスを割って不法侵入して!! 停電起こして、火を点けようとしたのが僕の学友だって聞いたらさ!! お爺様、顎が外れそうになるほど驚いちゃって!! 『そ、その年でハングレと付き合うのは、流石にやめた方がいいんじゃないか?』なんて言われっちゃってね!! あははははははは!!」

 

 澄み渡った青空に西代の透明な笑い声が木霊するように響き渡る。

 

「この3日間、皆の事を話してたらお爺様ドン引きしてたよ……!! 自分だって十分にクレイジーなのにね!! あはははっ!!」

「…………え、えぇと……西代よ。ゆ、許してくれるのかえ?」

 

 笑い続ける西代に、安瀬は慎重に確認を取る。

 

「ふ、ふふ……え、うん。もちろん」

 

 西代は呆気なく、俺達を許してくれた。

 

「僕の為にパーティーを壊そうとしてくれたんだろう? それなら、一言謝ってくれればもういいよ」

 

 彼女は笑い疲れたのか、一息つくためにセブンスターを咥えて火を点けた。しっかりとした味わいの煙を、ご満悦そうに体に取り入れる。

 

「ふぅ…………それに恋人が警察沙汰を起こしたんだ。僕に粉かけようとする人間なんて、これで完璧に存在しなくなったよ。リクを含めた親族はもう二度と僕を社交の場に呼ばないだろうね。そう考えるなら……収支はトントンってところじゃないかな?」

 

 警察署の目の前で堂々と路上喫煙する彼女は、どこか太々しくてクールだ。その姿を見て、俺は世捨て人のような無頼さを感じ取っていた。

 

「「「……西代お嬢様ぁ!!」」」

「っわ」

 

 俺達3匹は、大海原のように広い心を持つ彼女に飛びつく。彼女への感謝の気持ちを全身で表現したかったのだ。

 

「ありがとう、西代ちゃん!! 超やさしくて、マジ大好きぃーーー!!」

「俺もお前の広い心に感動した!!」

「我もじゃ!! しばらくは足を向けて眠れん!!」

「も、もぅ……みんな大袈裟だね」

 

 俺達の褒め殺しを受けて、西代は恥ずかしそうに頬を赤らめる。

 

「いつも血も涙もない私より暴虐な悪魔だと思っててごめんねーー!!」

「え?」

「俺も勘違いしてた!! すごく悪い女だと思ってたけど、これからは少し悪いヤツくらいに認識を改めようと思う!!」

「ちょっと」

「下水のように濁った心にも綺麗な友情の花は咲くのでござるな!!」

「…………もう一度牢屋にぶち込まれたいようだね、君たち」

 

 西代さまは底冷えするような怒りを目に宿し、俺達を脅し付けた。

 

「「「そ、それだけはご勘弁を……」」」

 

 う、うん……今のは俺達が悪かった。テンションに任せて色々と言いすぎた。

 

「はぁ……まぁ、いいや」

 

 ため息をつき、彼女は纏わりついている俺達3匹を引きはがした。そして、改めて俺達の方へ向き直る。

 

「さて、君たち。3日も牢の中に居たんだから色々とフラストレーションが溜まっているだろう?」

「ん……まぁそうじゃな。……留置所の飯というのはどうにも味気なくてのぅ。拙者はレモンを絞った唐揚げが食べたい気分でありんす」

「そう言うなら、俺は出所祝いのビールが飲みたい」

「なら私はー……ショートピースかなー? いつものラキストより濃厚な煙が吸いたーい!!」

 

 三者が各々、摂取したい栄養分を申告した。留置所では嗜好品の類は当然許されていなかったし、あんな所で食べるご飯が美味いはずもない。

 

「なら決まりだね。せっかく東京にいるんだから飲み歩こうよ。どうせ今からじゃ1限には間に合わない。もう一日、自主休講にしちゃおう」

 

 俺達を留置所から出すために色々やっていたであろう彼女もサボりは3日目。だが、そんな事に何も悪びれた様子を見せず、西代は魅惑的なサボりを打診したのだ。

 

「……それ超いいねーー!! 私、それに追加で東京の大きなスーパー銭湯に行ってみたーーい!!」

「うん、温泉もいいね。楽しそうだ」

「ふぅむ、あまりサボりすぎると後々が大変なのじゃが……まぁ、確かに今は暖かい湯と酒と煙草とご飯の気分でござるな!!」

「ふふっ、安瀬は欲張りだね」

「…………」

 

 最近、少しだけ真面目に学業に取り組んでいた俺は返事を渋る。サボりに対して迷いが出ていた。

 

 しかし、その迷いは直ぐに薄れていく。正直言って、今日は大学に行く気力が湧かない。その原因は重度の疲労にある。

 

 この1週間は、壮絶にも程がある日々だった。

 

 猫屋の父親に身体を弄られる所から始まり、賃貸に謎の使用人が訪れて西代の事をお嬢様と呼び、俺が偽りの恋人に抜擢(ばってき)され、セレブパーティーに参加。そのパーティーでゴミ糞野郎を殴ろうとしたり、彼女の祖父と100万を賭けた博打勝負までやって、最終的には警察に捕まり留置所に3日ほど収容。

 

 なんだコレ? 特に後半、俺何してんの?

 

(……反省しよ)

 

 偶然にも、事の顛末は西代にとって悪くない結果に転がったようだが、一歩間違えれば見るにも耐えない悲惨な結末となっていただろう。

 

 どうにも俺はやる事成す事、思慮が足りていない。

 特に3日前のあの時は、酒も入っていたせいか異常な心境だった。凍えるような胸の感触に、ただただイラついていたのを覚えている。

 

 次回もこんな出来事があるか分からないが…………いや、きっと、あるんだろうが……今度も無事に生還できるとは限らない。自重するように、心がけはしよう。

 

「……そうだな。電気ブランでも飲みに行くか」

 

 自分の中で整理を付けて、彼女たちの会話に混ざる。

 

 今日はもう、西代お嬢様発覚事件の振替休日にしてしまおう。ゆっくりと英気を養って、明日からバイトと勉学に勤しむ事にする。

 

 たっぷり休んで、あの日常に戻ろう。

 

「いい返事だね。それじゃあ全員の合意も取れたし、とりあえず駅まで向かおうか」

「だな。……そういや、ここって東京の一体どこなんだ?」

「両国でござるな! 休日であったなら、相撲観戦したかったところである!!」

「相撲かぁー。私、相撲はちょっとよく分からないなーー」

 

 俺たちは雑な会話を始めて、最寄り駅の方向へ歩き出す。

 

「…………ねぇ、皆」

 

 その時、西代が急に立ち止まって俺達を呼んだ。

 

 俺達3人は彼女の方へと振り返る。

 

「今回も、本当に楽しかったね!!」

 

 彼女にしては珍しい、素直で大きな声。表情からは喜び以外の感情は見えてこない。

 

 西代は幸福を噛みしめる様にして、また笑っていた。

 



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恐ろしい人

 

 東京で飲み歩いた翌日の金曜日。今週はとても時間の流れが早かったと感じる。週末までタイムトラベルしてしまったような感覚だ。月・火・水と檻の中だったので当然と言えば当然かもしれない。それに、昨日もよく飲んで遊び歩いた。

 

 浅草で電気ブランをたらふく飲み、その足で濁酒(どぶろく)専門店へ直行。どろりと濃い大人の甘みを楽しみ、次は様々な洋酒が取り揃えられた酒屋で酒を補充してカラオケに赴き……………………そこから先の記憶が途切れている。推測だが、12時間は飲みっぱなしだったろう。我ながら大学生らしい遊び方だと思う。

 

「う゛ぉぇ゛ッ」

 

 当然、二日酔いだった。

 

「……頭いてぇ。早く椅子に座りたい……」

 

 人がごった返す昼の大学食堂。俺は食券も買わず、水の入ったグラスだけを持って空いている席を探していた。頭痛が酷すぎるので、都合よく誰かが退席してくれないかと切に願う。希望を込めて、首を左右に振って周囲を見渡す。

 

 その瞬間、モーゼが海を割ったようにザバァっと俺の目の前から人が居なくなった。

 

「…………??」

 

 俺の願いは、何故か一瞬にして叶った。普段の行いが良かったのだろうか? それとも俺の顔色が悪すぎて席を譲って貰えたのだろうか?

 

(……何でもいいか)

 

 突っ伏すようにして、机に項垂れた。立っている事が苦しい。こんな体調でも大学をサボらなかった自分を死ぬほど褒めてやりたい。

 

 ちなみに酒飲みモンスターズは全員サボりだ。俺に代返(だいへん)のお願いだけして、シェアハウスで眠っている。今も布団の上で呻き声を上げているはずだ。奴らも昨日は馬鹿みたいに飲んでいた。

 

「う゛っ」

 

 昨日飲んだ酒の味を思い出して嘔吐(えず)いてしまう。いくらアルコールが好きであろうとも、二日酔いの時は流石にこうなる。

 

「くそっ、昼になったのにまだ気持ち悪い……」

 

 仕方ない。こうなったら、"とっておき"を使おう。

 

 俺は丸い円形の錠剤を鞄から取り出し、プラスチックの包装を破って水の入ったコップに放り込んだ。シュワァーーっと炭酸みたいな気泡が水に溶け始める。

 

「陣内パイセン。それ、何っすか?」

「ん?」

 

 何やら覚えのある声が聞こえてくる。視線を声の方にやると、そこには海賊のような眼帯をかけた中二病女がいた。

 

「あぁ、久しぶりだな、大場(おおば)

 

 バイト仲間の大場(おおば)(ひかり)。年齢的には1つ下、だけど学年的には1つ上の3回生という変な間柄の人間だ。最後に会ったのは確か…………病院から退院して直後のシェアハウス悪臭事件の日か。

 

「ちーっす、先輩。暗黒堕天使ヒカリちゃん、今日も元気に活動中っす!!」

 

 座る俺を前にして、彼女は眼帯に横ピースを添えながら意味不明な自己紹介を口にした。

 

「うっせぇな、お前」

 

 馬鹿みたいな挨拶が頭にキンキンと響く。

 

 嗚呼、キャラが濃い。加えて言うなら、そのキャラは昨日便器に吐いた嘔吐物よりも混沌としている。

 

「ありゃりゃ。ご機嫌斜めっすねー、パイセン。どうしたんすか?」

「昨日飲みすぎただけだ」

 

 短く言葉を返し、錠剤を溶かした水を一気に飲み下す。それだけで、ささくれていた気分が少しだけ落ち着いた気がした。

 

「相変わらずの酒好きっすねー……。あと、もう一回聞きますけど、それなんですか? ラムネ……というよりお風呂の入浴剤みたいに見えますけど?」

「アルカセルツァーって知ってるか?」

「名前めっちゃカッコイイっすね!! ドイツ語っぽい感じで語感が中二心をくすぐるっす!! もしかて超能力に目覚めちゃう系の丸薬ですか!?」

 

 そんな薬はこの世に存在しない。

 

「んな訳あるか。これは()()()()()()()

 

 Alka-Seltzer(アルカセルツァー)。解熱、鎮痛、消炎、胃もたれに効く薬だ。それだけ聞くと頭痛薬と似たような物だが、発泡錠(はっぽうじょう)のため即効性が通常の錠剤とは桁が違う。俺の場合は30分も経たない内に効果を発揮してくれる。苦しい二日酔いの時はこれがあると心強い。

 

「へぇー、二日酔いに薬ってあったんっすね」

「洋画や海外ドラマでは結構出てくるぞ。ほら、二日酔いのイケメン俳優が水に錠剤を溶かしてがぶ飲みしてるだろ?」

「洋画とか見ないんで知らないっす。日本じゃあんまり有名じゃないんすか?」

「そもそも日本じゃ売ってないぞ、これ」

「え」

 

 大場は片方しか晒していない目を収縮させ、少したじろいだ。

 

「に、認可通ってないんっすかそれ? だ、大丈夫なんっすかその薬?」

「さぁ? 俺は映画の真似がしてみたくて取り寄せただけだ。よく利くけど、おいそれとはお勧めしない。服用する時は自己責任で、だな」

「いやぁ……飲む気にならないから大丈夫っす」

 

 大場は引いているが、海外ではちゃんと一般的な薬だ。日本でも昔は販売されていたらしい。日本にはしじみ汁や雑炊といった二日酔い対策があるから売り上げが振るわずに撤退したようだ。

 

「手軽で水分も取れて楽なんだけどな。慣れれば変な苦みも気にならないし」 

 

 実際に、軽く話していただけなのに気分が楽になってきた。効き目が本当に早い。頭痛は残っているが、先ほどよりは大分マシだ。

 

「陣内パイセン、そんな変な物飲んでるからヤベー噂が立つんっすよ」

「ん?」

 

 大場の口から要領を得ない言葉が飛び出した。ヤベー噂とはなんだ?

 

「おっ、興味あります?」

 

 俺の怪訝な表情を見て、大場はニヤニヤとムカつく顔をしながら詰め寄ってくる。

 

「聞きたいっすか? 聞きたいっすよね? 私の狂言回し的な解説を聞きたいですよね?」 

 

 狂言回し的な、と言うのはよく分からないが彼女は話したそうにしている。それにどうやら俺に関する情報のようだ。彼女のテンションはうざったいが、その噂話の詳細を聞いておいた方がいいだろう。

 

「……じゃあ、頼んだ」

 

 俺の許諾を受けて、大場は得意気にほほ笑んだ。

 

「ではでは、うおっほん。……埼玉情報インフォメーション大学。そこに、全学生一の傾奇者であり、極悪非道の男あり」

「ん?」

「常に酒気を帯び、美女を侍らせ、絶えず喧嘩を繰り返す札付きの悪。その名を()()()()という。額にできた傷は闘争の日々の証明。日夜、バイクを唸らせて集団で暴走行為をくりか──」

「待て」

 

 ものの数秒で大場のふざけた語りを止める。俺の名前がもろに出ていたからだ。

 

「……それ、マジで噂になってんの?」

「はいっす」

「お、おぉぉ……」

 

 震えた。手の震えではない。彼女の真っ直ぐな肯定に、俺は震えてしまった。

 

「ど、どうしてそんな事になってんだよ……!!」

 

 たしかに、前から学科内では浮いていた。いや、浮いているどころかもはや観光名所くらいの扱いをされていた。だが、大学全体で噂が広がるのは流石におかしい。

 

「私なりに色々調べてみ……情報をトレースしてみたっすけどね」

「カッコよさげに言い直すな。いいから、もっと簡潔に答えてくれ」

「うぃっす。……なんか、陣内先輩が警察に捕まる所を見たって人がいたらしくて、その目撃証言が噂の原因っすね」

「あ」

 

 心当たりがあった。最近、俺は2回も警察のお世話になっていた。どちらかを同じ大学の生徒に見られたのだろう。額にできた傷跡と警察沙汰。その2つが俺の悪名と合わさって、ついに爆発したのだ。

 

「他にも、違法な速度でバイクレースしてるとか、大学内で賭場開いてるとか、悪い噂が大学中に広まってるっす。かっくいぃ~~、陣内パイセン!! 有名人っすね!!」

「よくねぇ!!」

 

 声を荒げて大場の言葉を否定する。すると、周囲の目線が俺達に集まった。ヒソヒソとした声が俺の耳に勝手に入ってくる。

 

『うわっ、あの人なんか怒ってる……』

『噂通りの人なんだな。こっわ』

『女の子脅し付けてるよ。野蛮すぎだろ』

『というか、女子が少ない大学でよく女を侍らせられるな』

『やっぱり悪い男の方がモテるのか……俺も今から大学デビューしようかなぁ』

 

 …………極悪人扱いされてる。

 

「さっき俺が席に座ろうとしたら、人が逃げるように散ったのは……」

「避けられてるからっすね」

 

 聞きたくない事実を、大場は何の躊躇もなく答えた。

 

「あっ私、とばっちりは御免なんでこれで失礼するっす」

「あ、あぁ」

「では先輩。また、今日のバイトで」

 

 俺と一緒に居る事が恥ずかしいのか、大場は颯爽と逃げていった。

 

「……マジかよぉ」

 

 薬を飲んだはずなのに、頭痛が鋭くなった。

 どうやら俺の周りからの評価は、女を侍らして酒を飲み奇行を繰り返す変人から、犯罪行為に手を染めている超ヤベー奴へと変化したようだ……。

 

 ──ブフ゛

 

 自身の悪名に(おのの)いていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。

 

「んだよ」

 

 陰鬱な感情を叩きつけるように、スマホのロックを荒々しく外す。

 

『詳しい話を聞きたいので、今から4人で研究室に来なさい』

 

 佐藤先生から、短いお呼び出しのメールが届いていた。

 

「ぐ、ぐおおぉ……!!」

 

 弱り目に祟り目。まさにそんな感じ。用件を詳しく書いていないが、怒られる事だけは確定している。

 

「はぁぁぁ」

 

 俺はため息をつきながら、手早くスマホを操作して返信を綴った。

 

『今日、俺以外は自主休校となっております。ご迷惑をおかけしますが、招集を来週の月曜日にしていただけませんでしょうか?』

 

 今日は無理だ。酒飲みモンスターズは夕方まで起きない。起こしに行く気力もない。

 

『仕方ありませんね。事情聴取とお説教は月曜日の放課後にリスケします。そちらもバイトを入れずに予定を開けておきなさい』

『ありがとうございます。いつもご迷惑をおかけして申し訳ありません』

 

 文面を打ちながら頭を下げた。佐藤先生様には頭が上がらない。

 

『ところで、今日の出席記録では全員出席とありますが、これは?』

代返(だいへん)してすいませんでした』

 

 俺は一瞬で罪を認めて謝った。出席はPCで管理されている事をすっかり忘れていた……!!

 

『アイツ等に脅されてしまって仕方なく(涙)。あのゴミ共の事はどうなってもいいので俺の単位だけはどうかお許しください』

『中々の処世術ですね。その仲間を売る速さに免じて、3人の"単位"取り消しだけで手を打ってあげましょう』

 

 佐藤先生は優しい教授だ。なんと俺の代返の罪は見逃してくれるらしい。これで俺の単位は助かったな、ガはははっ!!

 

「…………」

 

 俺は無言でスマホを操作し続けた。

 

『ありがとうございます。また話は変わりますが、先日、父がコエドビールの12本セットを送ってくれました。不躾ながら、この前のお詫びも兼ねて先生もご一緒にいかがでしょうか? 当方には他にもアガバレス(テキーラ)を用意する準備がございます』

『種類は?』

『レポサドです』

『申し訳ありません、先ほどのメールには誤字がありました。3人の"単位"取り消しではなく、3人の"出席"取り消しです。間違いがあったことお詫びします』

 

 賄賂は無事に受け取られた。

 

『俺は先生のような方が担当教授で幸せです』

『そう思うのなら問題行動を少しは控えなさい。何をしたらこんな噂が大学に広まるのですか?』

『いや、それに関しては本当にすいません……』

 

 謝罪の返信を打ち、俺は午後の講義を受けに席を立った。

 

************************************************************

 

「ぃぃいらっしゃまっせぇぇえ!!」

 

 無駄に語尾を跳ね上げた外連(けれん)味のある大声が聞こえてくる。どうして和風の居酒屋ではあのような挨拶が好まれるのだろうか?

 

「ご新規一名様入りましっったぁぁあ」

「「ぁありがとうございまぁす!!」」

 

 キッチン内で、大場と共に大音量で声を返す。不思議には思うが、空気を読んで俺達も過分に抑揚をつけて対応した。

 

「これってやる意味あるんっすかね? 無駄に舌を巻く感じのやつ……」

「んん、どうなんだろうな?」

「酒マスター陣内パイセンが即答できないようなら、やっぱり要らないですねこの掛け声」

「おいおい照れるぜ。俺みたいな若輩に酒マスターはやめてくれよ」

「ヒヒヒ、パイセ~ン、顔にやけてますよー」

 

 業務エプロンに眼帯という謎ファッションの大場としみったれた声で雑談を交わす。ここは居酒屋のキッチンだ。客に会話を聞かれる心配はない。

 

 俺は久しぶりのバイトに精を出していた。俺のバイト先は、奇をてらった様もなく居酒屋だ。ここほど俺が生き生きと働ける場所もないだろう。なんせ、出す物はほぼ酒とつまみ。そんな物はレシピを見なくても簡単に作れる。忙しいので天職とは言わないが、まぁ気に入っている。

 

「それにしても、金曜日なのに今日は割と落ち着いてるっすね。キッチン2人でも余裕で回せそうっす」

「新入生歓迎会のシーズンを過ぎたからな。店長もその辺りを考慮して2人にしたんだろうよ。俺も今日は早上がりだし」

 

 季節はもう5月の中旬。繁忙期は既に終わっている。

 

「パイセン、今日は何時までっすか?」

「20時。後15分で終わりだ」

 

 本当はもっとガシガシ働きたかったが、最近は従業員の体調も考慮しないと駄目とかなんとかで、店長が短い出勤しか許してくれなかった。

 

「あぁ、だからあの人来てるんっすね」

「? 何が?」

「さっき入店した人っすよ。えぇっと……()()()()、でいいんでしたっけ? 変わった名前の人ですよね」

 

 『こっちです』っと大場はキッチンの出入口へ俺を手招きする。それに応じて、俺は客席を覗き込んだ。

 

「本当だ」

 

 客席に、ポツンと1人で猫屋が居た。

 

 不揃いな棒状の鈴が無数にぶら下がった金属製のツリーチャイム。それがシャラララと彼女の傍で鳴っている。そう錯覚するほど、猫屋の服装は洒落ていた。薄い化粧と、新品らしきパリッとしたカーディガンやスキニーパンツが良く似合っている。

 

「…………アイツ、どうしたんだ?」

 

 気合の入った恰好は、猫屋なら不思議とは思わない。だけど、この場に居る事には疑問を抱く。

 

 酒飲みモンスターズたちはあまりこの居酒屋にはこない。理由は単純に、普段飲み食いしている物の方が上等だからだ。

 

 前の賃貸にいた頃から酒のラインナップはBAR顔負け。食事は和洋中バリエーション豊かで美味い。俺含め4人とも食道楽の気があるので手の込んだ物でも自分で作る。なので、ご当地の名産品を食べに行く等の理由が無ければそもそも外食の頻度が少ない。行くとしてもラーメン屋くらいだ。

 

「はわぁぁ……いつ見ても綺麗な人ですよねぇ」

 

 羨望交じりの溜息が大場から漏れた。彼女はモノクル(片眼鏡)と簡易望遠鏡を取り出して、遠目から猫屋を注意深く観察し始める。

 

「なんでそんな物持ってんの、お前?」

()()()()()()()()()()()っす。中二病の特技は人間観察って相場が決まってるんすよ」

 

 キャラ付けのためにそこまでするのか……。相変わらずマジで意味が分からんヤツだ。安瀬と同じくらい意味わからん。

 

「特にあの手のシルエット。もう100点満点っす。肌ツルツルだし、ネイルラインなっがぁい……ハンドケアとかどうやってるんっすかねぇ」

「そう言えば、いつも風呂上りにぺちゃぺちゃしてるな。爪にジェル塗ったり、ハンドクリームで保湿したりして」

 

 風呂上がりの猫屋の行動を思い出して口に出した。大場は俺が酒飲みモンスターズと同棲している事を知っているので、特に問題はない。

 

「俺が知る限りだと、毎日欠かさず手入れしてる」

「ほぇぇ、偉いっすね。フェイスケアならともかく、手の方まで気を回せる人は少ないっすよ。面倒っすからね」

 

 大場の言う通りだ。俺なんて、安物の化粧水をぶっかけただけで満足する。

 

「…………痕跡を消したかったのかもな」

「はい?」

 

 拳をしっかりと握るには爪が短い必要があり、撃ちつけられた拳頭(けんとう)付近の肌は荒れる。彼女の努力の証明は、きっと手に刻まれていた。たぶん、それは、今よりも光を放ってなお綺麗な──

 

「いや、何でもない」

 

 馬鹿が。余計な憶測だ。デリカシーのない阿呆。だからモテねぇんだよ、俺は。くたばれ。

 

「……にしても、お前美容とか詳しいのか?」

 

 咄嗟に思いついた事を発声した。

 

「地元にメイクの専門学校行った友達がいるんっすよ。その友達の影響で今、美容熱が噴き出してるっす」

「へぇ」

 

 適当に相槌を打つ。話が逸れたならそれでいい。

 

「薄い化粧っていうのも客観的に自分を見れててカッコイイっすよねー。化粧する時って、つい厚塗りにしちゃっていうか、鏡と睨めっこして少しでも良くしようと追い塗りしちゃうもんなんっすよ」

 

 右手が使えないので薄くなっただけだ。怪我が悪化する前は、女性が好みそうな色の塗り方をしていた。

 

「…………仕事に戻るか。悪いけど、この後暫くアイツと飲むだろうからドリンク作りよろしく」

「ん、あぁ了解っす。暇なんでモーマンタイっすよ。……ヒヒヒッ、でも妬けちゃうんで、あんまりイチャイチャしないでくださいよ?」

「馬鹿。茶化すなよ」

 

 大場の軽口に、軽口で返す。そして『20時に上がる。だからもう少し待っててくれ』っとスマホで猫屋に連絡を送り、俺は業務に戻った。

 

************************************************************

 

 更衣室でバイト着から着替え、その足で猫屋の座っているテーブル席へ直行する。

 

「や、やっほーー、陣内。来ちゃった!」

 

 俺に気がついた猫屋が軽く左手をこちらに振った。

 

「珍しいな、猫屋。お前がここにくるなんて」

「あ、あぁー、ほらー、今日は私以外は皆バイトじゃーん? だから暇だったー、みたいなー?」

「あぁ、なるほど」

 

 納得した。安瀬と西代も今日はバイト。猫屋はまだバイトに復帰するのは難しいのでお留守番だ。あの広い部屋に1人きりというのは寂しいだろう。

 

「安瀬と西代は22時あがりだったな。それまでここで時間を潰しに来たのか」

「そーいうこと。ここなら陣内のバイト割引が利くでしょー?」

「まぁな。……でも、キッチンの同僚に迷惑が掛かるから、つまみとドリンク以外の注文は勘弁してくれよ?」

「分かってるってー」

 

 猫屋の対面に腰を下ろす。2時間ほどの酒盛りだ。飲酒欲求がグツグツと沸き立ってくる。

 

「それでー、店員さん。ここのおすすめはー?」

「味で選ぶなら普通の生だ」

 

 偶に変な匂いが付いたビールを出す居酒屋があるが、あれは御ビール様を冒涜していると言っても過言ではない。俺が務めている店ではそのような無礼がないよう、ビールサーバーはいつもぴかぴかにしている。

 

「コスパが良いのは果実酒の類だな。炭酸割りにすれば原価が一番高いはずだ」

「居酒屋泣かせな男だねー。じゃあ私はビールで良いかなー」

「なら俺はプルシアにするか」

 

 タッチパネルのメニュー表を操作して酒と枝豆を注文する。既に同僚のホールスタッフにバイト割引の飲み放題を頼んでいるので注文は(つつが)なく通った。

 

「てか、普通に酒頼んだけどさ、お前二日酔いはどうなんだ?」

「1日中寝てたら治ったしー、もう平気ー。代返テンキュー! いやー、超たすかったよーー!!」

「お、おう。最大限の努力はした」

「…………?」

 

 俺の勿体ぶった言い方に、猫屋はコテンっと首を傾ける。これ以上の説明義務は俺にはない。単位が修得できるかどうかは、彼女のこれからの学習意欲次第だろう。

 

 俺は気まずさを誤魔化すために、テーブルの端に積まれた灰皿を1つ自分の手前まで寄せた。

 

「猫屋、ピースを分けてくれ。昨日のがまだ残ってるだろ?」

 

 甘い煙草を切らしていた。それに、バイト疲れには濃い目のニコチンとタールが望ましい。一気に疲れが吹き飛ぶ。

 

「あぁーごめんねー。今日は私、コレなんだー」

 

 そう言って、猫屋はアルミニウムの光沢が綺麗な細長い加熱式タバコをバックから出した。そのまま彼女は筒状の入口に少しだけ短い紙巻をセットする。1分もしない内に吸えるようになるだろう。

 

「そうか」

 

 俺たちはシガレットを好むが、そう言う日だってある。猫屋の今日の恰好はとても華やかだ。そして、加熱式は匂いがつきにくい。服に臭いが染み付くのを嫌ったと考えるのが自然だ。

 

「これ、待つ時間がもどかしーよねー」

 

 猫屋はペンを回すように左手でクルクルとデバイスを弄ぶ。そうしていると、ブブッとデバイスが震えた。加熱が終了した合図だ。

 

「はい、じんなーい」

「え?」

 

 猫屋の細い手が俺に差し出される。その手には加熱式タバコが握られていた。

 

「ほ、ほらー、吸いたいって言ってたじゃん……ね?」

「……悪いな。ならありがたく」

 

 初めの一吸いとは申し訳ない。そう思いながら、デバイスを受け取ってフィルターを浅く咥えた。

 

「すうぅ、ふぅぅー…………」

 

 …………沁みるなぁ。メンソールの冷めた心地が体に浸透する。

 

 まぁ、だが、しかし。

 

「当たり前なんだが、いつも吸ってる方のが美味いな」

「そりゃーねー。……でもー、アレを見たら、味なんて直ぐに追いつくんじゃないかって思う」

 

 猫屋は俺の背後を指差す。釣られて背後に振り向くと、そこには配膳ロボットが俺達の酒を運んでいた。ロボットを見るに、彼女は日進月歩な技術遷移を口にしている。

 

「きっとー、煙草もお酒もどんどん手軽に美味しくなってー、パチンコの演出ももっとド派手になるんだろーね。そう考えるとー、未来って超あかるーーい……!!」

「最後のは違くないか?」

 

 パチンコは物理的に明るいだけな気がする。

 

「あははっ、細かい事は気にしない、気にしなーい」

 

 猫屋は小気味よく笑ってテーブルに身を乗り出した。そのまま手を伸ばして、彼女は俺からデバイスを取り上げる。

 

「えへへ、もーーらい」

 

 ピンクに濡れた唇が白いフィルターを挟んだ。目を細め、猫屋は煙をゆっくりと吸い込む。空気が胸に流れ込んで膨らみ、肺が躍動していた。

 

「ふぅーー…………」

 

 吐き出される煙は、(かすみ)のように彼女を覆う。その姿は艶やかだ。女が煙草を吸う姿は男とはまるで違う。……彼女クラスがやるとエグイ。汚い煙が神秘的に見える。というか、間接キスとかまるで気にしないよな、コイツ。

 

「もーらい、って元々お前の煙草だろ?」

 

 面倒な感情を掻き消すよう悪態をついた。同時に、運ばれてきた酒を手に取って呷る。

 

「ま、まぁーなんか貰った感じするしぃー……べ、別にいいじゃん」

「んっ、んっ……ふぅ。あっそ」

 

 労働後の酒と煙草はやっぱり最高だ。

 

「あ゛ぁ゛ー、今日も酒がうめぇええ」

 

 幸せだ。本当に幸せ。もう麻薬だな、これ。多幸感が止まらない。

 

「バイトお疲れー陣内。……に、にしてもー、確かに今週は大変だったよねーー」

「ん、あぁ、そうだな。もう牢屋は懲り懲りだぜ、俺」

「私もーー……。あとー、西代ちゃんが実はお金持ちっていうのも驚きーー」

「分かる。アイツ、普段は全然お嬢様じゃないからな……」

 

 提供される話題に頷き、身内の話題に花を咲かす。居酒屋の大学生ぽい会話内容だった。日常的な感じでとても落ち着く。

 

「陣内はさー、実は石油王の息子だったりしないよねーー?」

「日本に石油王はいねぇ」

「じゃあ陣内の両親って何の仕事してるのー?」

「父さんが会社員で、母さんは税理士」

「ならー、お爺ちゃんとお婆ちゃんはどんな人?」

「どんなって…………まぁ、普通だよ。というか、何だ突然? そんなに気になるか? 俺の家族構成?」

 

 突如始まった猫屋の質問攻め。別に話しても問題ないが、彼女の好奇心の強さが少しだけ気になった。

 

「い、い、いやー、私、前からじんっ…………み、皆の事がもっと知っておきたいなーって思っててさー! ほ、ほらー、私たちってもう結構付き合いあるけどー、意外と知らない事あったりしそうじゃーーん?」

 

 ぺらぺらと息継ぎの間なく、猫屋は饒舌に理由を話した。何故か、若干しどろもどろだった。

 

「という訳でー、クエッション!!」

 

 猫屋は加熱式タバコを逆さにして俺に突き付ける。マイクの代わりらしい。

 

「好きな煙草の銘柄はー!?」

「え…………吸い口が甘いヤツだけど」

「じゃあ、好きなパチンコの演出はーー!?」

「V-フラ」

「なら、好きなお酒はーーー!?」

「アルコールならほぼ全部、特に甘いヤツ……知ってるだろ?」

 

 今さら聞かれるまでもない質問だと思った。

 

「な、ならさーー」

 

 猫屋はピアスを弄りながら躊躇いがちに続きを話す。

 

「好きな女性のタイプとか、さ…………ある?」

 

 おっと、マジか。

 

 彼女の意外過ぎる問い掛けで、意識に空白が生まれた。本当に一瞬だけ、言葉が喉に詰まってしまった。

 

(恋バナとか異性関連の話に発展しちゃう流れか……)

 

 この手の話をするのは何年ぶりの事か。

 恐らく、高校の修学旅行の夜以来だ。あの夜は友人達と下らない話をして笑い合った。恥ずかしさと照れ臭さが混じった青春の一幕が、俺達に謎の高揚感を与えてくれる。よくある定番の話題だ。盛り上がりやすい、話の種。笑い話。

 

 だから、この話題に乗る事に何の躊躇もしてはいけない。

 

「好きなタイプ、か……」

 

 甘いプルシアの炭酸割りをマドラーで時計回りにカラカラとかき混ぜる。もう片手でタッチパネルを操作して濃いめのハイボールを5つほど頼んだ。

 

 いい加減、俺もこの手の話を楽しめるようになろう。

 

 ただ、その為には酔いの深度をもっと深める必要がある気がしていた。

 



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破裂と開錠の鬩ぎ合い

 

(話の持っていき方、変じゃ無かったよねー? あー、もぅ、はっずーー……)

 

 少し熱くなった頬を冷ますために、煙を大目に吸い込んだ。だけど、胸に滞留する火煙のせいで余計に鼓動が早くなった気がする。恥ずかしくなって、陣内から少しだけ視線を逸らす。

 

(で、でも、これで舞台は整ったーー……!!)

 

 今日、私は戦いに来ていた。

 

 安瀬ちゃん風に言うのなら『戦に馳せ参じたでござる』といった感じ。わざわざ()()()()()()()()、彼のバイト先まで押し掛けた。

 

 その理由は単純に、今のままじゃまるで勝負にならないから。

 

 私の想い人は、きっとこのままじゃ堕とせない。

 

************************************************************

 

 重めな二日酔いは、2人と遅めのお昼ごはんを食べたらケロッと治った。

 

 安瀬ちゃんが作ってくれたアサリ出汁のにゅう麵は、腐っていた肝臓にバッチリと効いた。二日酔いの日は、陣内か安瀬ちゃんにご飯を作って貰うのが一番いい。

 

 西代ちゃんと『美味しい、美味しい』と言い合ってツルツルと麺を啜っていると、安瀬ちゃんは上機嫌そうに笑った。

 

「ふふん、そうであろう、そうであろうとも!!」

 

 もう二日酔いが良くなったのか、安瀬ちゃんはニッコニコだった。

 

「我特製の汁物にかかれば悪心(おしん)などワンパンぜよ!! "心が純粋な人だけが美味しいスープを作る"で、ござるからな!!」

「…………楽聖(がくせい)箴言(しんげん)、ね。ベートーヴェンならもっと適切な物が他にあるだろう?」

「ほぉ? なんじゃ西代、申してみよ」

「"一杯のブランデーは苦悩を取り除く"」

「ふふっ、(むか)え酒でもするつもりであるか?」

「くくっ、ブランデーは嫌いじゃないからね」

 

 そう言って安瀬ちゃんと西代ちゃんは、お互いの顔を暫く見つめった。

 

「「………………ゲヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!」」

「…………」

 

 2人はちょー仲いい。私と陣内が似ているのと同じで、2人はたぶん気狂いの波長が合ってる。地元じゃ無敵な2人ってぐらいの親友っぷりだと思う。

 

 まぁー、私も2人とはちょー仲いいけどね!! こういう時は普通にドン引きするけどーー!!

 

「い、いや、なーにそれ? 急に怖いんだけどー……」

「ふぅ、やれやれでござる。猫屋、お主も一端の酒飲みを名乗るのなら酒の格言は網羅しておくでやんす」

「まったくだね。教養のない貧乳とは何とも無様だ」

「で、あるな」

「あははっ、ぶちのめすよー?」

 

 平均よりもサイズが上な2人の得意気な顔は、凄くムカついた。次、胸の事でいじってきたら余計な脂肪をもぎ取ってやろうと思う。

 

「あ、そんなことよりもじゃ」

 

 安瀬ちゃんがにゅう麺の入った椀を置いて、私の方を振り向く。

 

「猫屋、今日はお主以外バイトでござろう? ……そうなると暇ではないかえ?」

「え、あぁー、うん、そーかも」

「それなら…………じ、陣内のバイト先に行くというのはどうじゃ? 今日、あ奴は20時上がりだったはずじゃからな。2時間くらいは暇をつぶせるである!!」

「あぁーー……」

 

 安瀬ちゃんの提案は嬉しいけど、ちょっと遠慮しようと思った。

 

「う、うーーん。でも、陣内の迷惑なりそうだからやめとくー。適当にご飯作って待っとくよーー」

「あ……そう、でござるか」

「?」

 

 その時、何故か安瀬ちゃんは何とも言えない顔をしていた。

 

「ねぇ猫屋。僕、久しぶりに猫屋のエビチリが食べたいな。辛さ控えめにして作ってよ」

「あぁーエビチリいいねーー。まかせてよーー!!」

 

 エビチリはよく実家で作っていたので得意料理だった。今日のバイト後ご飯の献立はエビチリと中華卵スープにしよう。

 

「……一応、我は胃腸薬の用意はしておくぜよ」

「えぇー? 安瀬ちゃん達って本当に大袈裟だよねー?」

「ふふっ、美味しいのは間違いないんだけどね」

 

************************************************************

 

 1時間ほどで晩御飯の準備は終わった。料理が終われば、後は1人の時間。安瀬ちゃんに言われた通り、ちょっとだけ暇。

 

 なので私は、妹の花梨(かりん)に電話を掛けることにした。

 

 妹とは仲が良い方だと思う。親が離婚したせいか、私が姉としての威厳を発揮し続けたおかげなのか分からないけど、花梨(かりん)は私に良く懐いている。なので、お互いが家を出てからもよく長電話する。

 

 最近の話題は、もっぱら恋愛相談だ。

 

「実はこの前、陣内が手のマッサージしてくれてさー。なんか、その……ああいう肌と肌の接触ってマジヤバいよねーー!! 高校の時は手ックスなんて下んなーい、とか思ってたけど、私その時テンション上がりすぎちゃって変な扉が開きそうになっちゃってさーー……!!」

「へぇー……」

「京都旅行で大きな橋渡ってた時にねー、陣内が『ちょっと歩きにくいから転ばないよう気を付けろよ』って心配そうにしてたんだよねー!! 私が簡単に転ぶわけないのにねー!! いやー、陣内って意外と心配性でさー……!!」

「ほーー……」

「それでー、金髪でスーツの陣内がちょーカッコよくってね!! なんていうかー、うーーん? ちょい悪系の王子様って感じー? それがもう、本当に良く似合っててー!! 見てて目が幸せって感じしてさー……!!」

「あーーー……」

 

 花梨は中々聞き上手。私の話したい事をちゃんと聞いてくれる。

 

「……あの、ねーちゃん、ちょっといーい?」

 

 いつもは楽しそうに私とお喋りしてくれる花梨が、少し暗めの声音で話を遮った。

 

「え、なーに? どーしたの? 彼氏君と喧嘩でもしたー?」

「もう1時間も惚気話聞いてるんだけどー、それは一体いつエッチに発展するの?」

「ふ゛゛っ!!」

 

 思わず噴き出した。花梨が急に舐めた事を言ったせいだ。

 

「す、す、するかクソボケーー!! 自分に彼氏がいるからって色ボケするなアホーーー!!」

 

 スマホ越しに妹を叱る。この愚妹は、彼氏と同棲を始めてから間違いなく調子に乗っている。ここは姉としてビシッと(つつし)みを注入してやらなければいけない。

 

「……姉ちゃんって今、何歳だったけー?」

「? 21だけどー? 18歳のアンタの3つ上じゃーん。んなことよりも──」

「なら悪いんだけどー、ちょっと生々しい話していーい?」

「え……う、うん」

 

 花梨の威圧感のある声に、私は尻すぼみした。何故か、怒った時のママみたいな圧力を妹から感じ取ってしまう。

 

「姉ちゃんはさー…………その歳にもなって、手つないだくらいで大はしゃぎするぐらい甘ーーい、砂糖の塊みたいな恋愛してるじゃん?」

「さ、砂糖って……そ、そんなに可愛い感じー? あ、あははは。なんか照れちゃうから止めてほしーんだけどー」

 

 砂糖と言う表現は概ね正しい。私は最近、凄く幸せだ。

 

 動かせない右腕は不便だけど、陣内(大好きな人)が目を掛けてくれるし、安瀬ちゃんと西代ちゃんが居てくれるから、女子だけのゆるーい楽な感じもある。こんな私に、ここまで都合の良い空間があっていいのかと不安を覚えるほど、今は充実していると思う。…………大学生活って、本当に楽しい。

 

「そんなガキみたいな姉ちゃんと違って、梅治さんには大人の経験があるんだよね? 元カノと〇〇〇〇とか△△△とか☆☆☆☆☆☆とかしまくってた感じの」

「く゛は゛、ぅ゛゛ッッ……!!」

 

 幸せな心が大ダメージを受け、血を噴き出した。

 

「ごふ゛っ………………か、花梨、何で急にそんなこと言うの? 酷すぎない? お、お、お姉ちゃん、心がバラバラになりそうだよー? ちょっと本気で泣きそうだよーー? う、うぅ……今まであんまり考えないようにしてたのにぃーー……」

「あぁーー……ごめん」

 

 妹は謝ってくれてるけど、ちょっと本当にきつかった。

 

 女は最後に選ばれたいって言う。だけど、私は違った。普通に一番最初が良かった……。だって普通そうでしょ? あの風説、意味わかんなーい……。

 

「……すんっ……ひっく……う、うぅぅぅ…………」

「ほ、本当にごめんね。真面目にごめんなさい。すいませんでしたー……」

「い、いいよー別にー……。じ、事実な訳だしーー」

 

 仕方ない。男性経験のない私が悪い。女学校なんかに行った私が悪い。

 

「あ、あのね、私が言いたかったのはー、もっと直球に責めてみたらって事なんだってー」

「……直球?」

「うん。ほらー、前に焼肉屋で相談に乗った時に言ったじゃーん? 梅治さんも男なんだから、エッチな雰囲気に持ち込めってー」

「あ、あぁーアレねーー……」

 

 京都旅行前の入学祝いに、そんな話を妹としていた。

 

「私てきにはー、胸揉ませて裸で迫るくらいのアタックを期待してたーー…………みたいな?」

「できるかぁーーー!?」

 

 再びスマホ越しに妹を怒鳴りつけた。それはもう恋する乙女なんて領域を超えて、もはやただのビッチだ。

 

「はぁ……ならさー、姉ちゃんどうするの?」

 

 花梨は私の怒声を軽く受け流して、呆れたような声音で私にそう聞き返した。

 

「梅治さんって、顔面が姉ちゃんレベルのあの2人と暮らしてて、どっちにも手出してないんでしょー? それって、かなり我慢強いよ? ちょっと()()()()()()でー」

「…………ま、まぁ、そーだねー」

 

 かなり長い期間恋人が居た陣内は、()()()()だ。

 それは普段の態度からも滲みでている。陣内は、ちょっとムカつくぐらい異性との付き合い方が上手だ。安瀬ちゃんには下ネタとかあまり言わないのに対して、逆に西代ちゃんにはかなり砕けた接し方をする。陣内は適切な距離感を決して間違えない。

 

 特殊な体質もあるのだろうけど、陣内は絶妙に女慣れしていて、女性に対する免疫が高すぎる。

 

 それに対して私は中高とも女学校。おまけに男子のことを考えてる時間より、人をぶちのめす方法を考えてた時間の方がはるかに長い。

 

 私はきっと()()()()。妹が言うように、ヤニカスの恋愛ポンコツ女だ。

 

「でも……」

 

 それでも。

 

「私……陣内とはちゃんと結ばれたい」

 

 陣内も私と同じになって欲しい。私と同じ気持ちになって欲しい。

 

「だから……そこまでなりふり構わないのは流石に嫌」

 

 陣内から求められるのなら良い。でも、私から迫りすぎるのは……女の子らしくない。可愛いくないからヤダ。

 

「………………姉ちゃんって、やっぱり天才肌だよね。ちょー傲慢(ごうまん)

 

 聞こえてくる花梨の言葉の意味は、よく理解できなかった。

 

「なら、もう純粋な女子力で殴り倒すしかないよねー」

「え、女子力? 殴り倒すー?」

「可愛さの暴力でぼっこぼこにする感じー。徹底的に、梅治さんの弱点(ウィークポイント)を抉らないとねーー」

 

 ……なんか、言葉選びが全然可愛くなかった。

 

「ええっとーー……つまりどーいうこと?」

「とりあえずー、梅治さんに好みタイプ聞くところから始めてみようって事」

 

************************************************************

 

「んん、好みか…………」

 

 対面に座る標的(ターゲット)は難しい顔をしていた。

 

「ちょっと考えてみるわ」

「よ、よろしくーー」

 

 低く悩ましそうに陣内は唸る。考える素振りを見せ、サワーをグビグビ飲んで、言葉を濁す。何かを待っているように見えた。

 

「………お、来た来た」

 

 配膳ロボットが追加のお酒を運んでくる。その上には、業務用のウイスキーボトルと2Lの炭酸水が直に置かれていた。

 

「大場のヤツ、分かってるな」

 

 ちょっと異常な光景だけど、それは陣内の同僚の粋な計らいらしい。彼はウイスキーと炭酸水を受け取ると、早速ハイボールを作り始める。目の前で、かなり濃い濃度のハイボールが出来上がった。

 

 眉間に皺を寄せながら、彼はシュワシュワと気泡が弾けるソレを飲み下し始める。

 

「んっ、んっ、んっ」

 

 ……私と同じで気恥ずかしくて、お酒に手を付けているのなら、ちょっと嬉しいかもしれない。少し胸がトクンと跳ねた。

 

「あ゛ぁ゛、げっふ…………やっぱり顔が良くて、痩せてて、胸が大きい女性がいいんじゃね?」

「………………」

 

 暖かい気持ちに冷水を掛けられた。想定している中で、一番ダメな答えが返ってきた。

 

「……えぇっとさー………………ぶん殴っていーい?」

「ははっ、キレんなよ」

 

 陣内は悪びれもせずに笑った。

 

「結構普通の意見だと思うぜ? 世の中見てみろよ。漫画雑誌もハーレーの表紙でさえ写ってんのはスタイルの良い水着の美人だ。悪いけど、男の感性なんてそんなもんだよ。恋人にするなら美人に越したことはない」

 

 陣内の語っている内容は、恋愛観と言うよりも、他人の普遍的な価値観に近いように思えた。

 

「というか、女だってそうじゃないのか? 性格が合うのは絶対条件として、自分の恋人は(つら)が良くて、背が高くて、筋肉質だった方がいいだろ」

「あ、あぁーーなるほどねー」

 

 感覚的には理解できる。でも、私が求めている答えはそういった方面ではない気がする。

 

「そういうのじゃなくてさー……もっとこう、細部に拘った感じって言うかー……ニッチな部分的なー?」

「……えっと、性癖の話? マジで? お前と猥談するのとかなんか緊張するんだけど」

「ち、が、う!! 髪の長さとかー!! 年上、年下好きとかのはなしーー!!」

「なんだ、嗜好(しこう)的な話か。……そうだな」

 

 陣内は腕を組んで(うつむ)き、また思索に(ふけ)る。

 

「んー…………………」

 

 少しだけ、陣内の頭が落ちた。

 

「えっと…………………………………………」

 

 落ちすぎて頂点の旋毛(つむじ)が見える。

 

「…………………………………………………………」

 

 ついに、陣内は頭を抱えだした。

 

「……可愛い服が好きだ。ゴスロリとかその辺りのなんか凄い可愛いの」

 

 悩んだ末に出てきたのは、酷く曖昧な言葉だった。

 

「それ服じゃーん」

 

 加えて言うなら、結構マニアック。私服ではあんまり着られないので参考にならない。

 

「……服装だって異性を好ましく思う要素の一つだと思います」

「なんで敬語ー?」

 

 私の否定を受けて、陣内は遠い目で虚空を見上げる。自分でも、自分の回答に納得していない様子だった。

 

「ならー、さっき言ってた性格はどうなのー? どんな感じの人がいいの?」

 

 お互いに微妙な結果だったようなので、追加で質問を投げかけてみる。

 

「……一緒に居て楽しいなら何でも良いな。人様の性格にケチつけられるほど上等な人間じゃないからな、俺」

「あぁー、陣内ろくでなしだもんねー」

「っは、お前もだろ?」

 

 ニヒルに笑って、陣内は私を馬鹿にしてくる。……正直、最近はそういうイジワルな顔も好き。馬鹿にされてるのに、何故か満更でもない気分になっちゃう。

 

「う、うっさーい。……なら次、年の差とかはー?」

 

 これはかなり重要な要素だった。年齢は努力ではどうにもならないので、私にとって都合の良い回答を神様に祈る。

 

「上はプラス5まで、下は……条例に引っかからないまでが許容範囲だ」

「超ふつーだねー」

「まぁ、そんなもんじゃないか?」

 

 …………ここまでの話を聞く限り、陣内には『恋人にするなら絶対こんな人!!』という拘りが無いようだった。単純に容姿が良い人がタイプみたい。

 

「ふーーん。陣内ってー、意外とルッキスト(外見至上主義者)だったんだねー!!」

 

 それなら良かった。安瀬ちゃんと西代ちゃんレベルには敵わないけど、私だって容姿には自信がある。化粧が絡めばもっと自信がある。男性受けが良い薄めの化粧をしてきたのは間違いではないっぽい。

 

「…………あ、あれ? お、俺って、もしかして最低のクズか? 女性を外見だけでしか判断できないタイプのカス……? ……女の敵?? クソゴミウンコマンじゃん……」

 

 ぶつぶつと何かを呟きながら、陣内はまた頭を抱えだす。これで今日、2度目だ。

 

「い、いや違う!! 違うぞ!!」 

 

 私が出した結論が不服だったのか、陣内は首をぶんぶん振って否定の意思を表す。

 

「た、たしかに昔は、明るくてよく笑う美人がタイプだった!! でも今は誠実で俺を受けいれてくれる人なら────はい、俺の話終わりぃ!!」

 

 大声で何かを喚き散らしながら、陣内はジョッキを手に取った。そして、度数が20パーセントはありそうな濃いめのハイボールを一気に飲み干し始める。

 

「ぶはぁッ!! ……そう言う猫屋はどうなんだよ! なんか拘りがあるのか!!」

「え、わたしー?」

「あぁ!! 俺ばっかり答えるの不公平だ!! お前も少しは恥を晒せ!!」

「うへぇーー、陣内。その発言は人として十分恥ずかしいからねー?」

 

 けれど、彼の言う事ももっともだった。陣内にだけ喋らせるのはちょっとだけズルい。

 

「…………私の好みのタイプはー」

 

 一瞬だけ陣内の事を考えた。

 

「優しい人」

 

 ポロっと自然に口から漏れる。だからこれは私の本心なのだろう。

 

「私に優しくしてくれる人が大好き」

 

 額に傷を残した陣内を見て、心の底からそう思った。

 

「……お前ストライクゾーン凄い広いな。優しい人間なんてこの世に五万といるだろ?」

「……ふふっ、分かってないにゃー、陣内?」

「あん?」

「私の言う優しいってー、並大抵じゃないんだよねー」

 

 陣内は底が抜けて優しくて、強い。

 

「ほら、私ってこんな性格じゃーん? だから、どんな時でも私の味方をしてくれる親みたいな人が現れたら、多分一発で好きになっちゃう。甘やかしてくれる人に弱いタイプなんだよねー」

 

 比べて、こんな子供みたいな理想を掲げる私は脆弱だ。

 

 ヘラヘラした性格に裏付けられた意思の弱さ。流されやすーい薄い性根。挫折した弱っちい心。楽しそうなら何でもOKな倫理観の低さ。タバコが大好きで辞められない、社会の風潮に逆さまな感じ。……好きな人に作った傷を見て、安心してしまうようなクズ。

 

 陣内の額の傷を見ると、嬉しい。彼の強さと優しさの証明のようでカッコいいと思う。でも、そんな私の心は醜く歪んでいて気色悪い。

 

(あーー、ぜんぶ下んなーーーーー。私、性格ブスすぎーーー)

 

 アルコールとニコチンで溶けた思考がバットに入る。丹田(たんでん)の付近がじわじわと腐っていく感覚がした。……負のスパイラルに陥りそう。

 

「分かる。スゲェ分かる……!! それだ、猫屋!!」

「え?」

 

 唐突に、陣内が私に指を突き付けてくる。

 

「ガキみたいなこと言ってんのは分かってるけどさ、やっぱり好きな人には全部受け入れてもらいたいよな!」

「……う、うん」

 

 既に泥酔しているのか、彼は上機嫌そうにニコニコ笑って私の感性を肯定してくれた。

 

「それが一番しっくりする答えだぜ!! あぁースッキリした!! いやぁ、実は俺も心の底では優しい人がいいとおもってたんだよ……!!」

「うん……うん! やっぱそーだよねー!!」

 

 肯定されるのは気持ちが良い。受け入れてもらうのは幸せだ。暗い気持ちを吹き飛ばしてくれるのは、やっぱり私の好きな人だ。

 

「俺も次好みのタイプ聞かれたらそう言う事にするわ。流石に女性を外見だけで判断してますは、クズ過ぎるしな!!」

「ふふっ、たしかにー……!! ただでさえ陣内ってアル中の馬鹿なんだからさー!!」

「おい、だから俺はアル中じゃねぇよ」

「もうその主張は通らないと思うよー?」

 

 やっぱり私と陣内って感性が似てる。それが嬉しい。熔けた意識が混じり合うような一体感が、私を安心させてくれるから。

 

(……………………あははっ、告白するのこっわーー)

 

 だけど、同時にこうも思う。

 

 陣内に受け入れて貰えないのは恐ろしい。

 

 陣内に好かれないのは恐ろしい。陣内に否定されるのは恐ろしい。たぶん、私の弱い心じゃ耐えられない。

 

 振られたら、私はきっとまたみっともなく声をあげて泣く。

 

 そうしたら……優しい彼は情けを掛けてくれるだろう。あの時のように、泣きじゃくる私を、包むように抱きしめてくれる。

 

 だって、陣内は痛みを知っている人間だから。否定されて落ちる辛さを知っている人。

 

 優しさだけで作られた偽りの感情で、私を受け入れてくれるに決まっている。

 

(怖いなぁー……)

 

 その瞬間を想像しただけで、心がクシャっと潰れてズタズタになった。

 

************************************************************

 

 その後、1時間ほど話し込んで私は陣内と一緒に居酒屋を出た。

 

(……どーしよーかなー)

 

 今日の収穫は、正直に言って微妙とといった感じ。陣内の好みはだいだい分かったけど、それは今すぐ劇的に変わるものではなかった。

 

(とりま、スキンケア頑張ってー、日光に当たらないようしてーー……太らないよーにしてーー……)

 

 頭の中で今日得た情報をまとめる。すると、少し強めな風が私を撫でつける。

 

 もう夜21時。辺りはすっかり暗く、春が過ぎた5月の夜は寒暖差が大きくてちょっとだけ寒かった。

 

 左手だけで自分の肩を抱き寄せる。すると同時に、存在感を主張しない自分の胸部にハッとした。

 

(む、胸はー……ちょっとどうしようもないよねー……。うーーん……)

「猫屋」

 

 声と一緒に、パサっと私の肩に大きくて暖かい物が掛かる。陣内が肌寒そうにしていた私に自身の上着を掛けてくれたのだ。

 

「……いいのー、陣内?」

「あぁ、俺は冬生まれだから寒いの平気なんだよ」

「そ、そーう? あ、ありがとー」

 

 素直にお礼を言って、ぶかぶかのジャンバーに袖を通す。……陣内の体温が写ってきて、暖かい。陣内は平気な顔してこういうことできるのズルいと思う……。

 

「……いや、俺の方こそありがとな」

「へ?」

「あぁ、いや、その……なんていうかな」

 

 陣内はそう言うと、私を追い抜いて暗がりの道を歩き出した。ゆっくりと歩を進めて、彼は何もない中途半端な距離で立ち止まる。

 

 

「ちょっと怖くて避けてたんだ。ああいう話をするの」

 

 

 静まり返った夜の街に、真っ白で弱弱しい言葉が溶け込んだ。

 

「だから……ありがとう猫屋。たぶん、猫屋が話し相手だったから、今日はひときわ楽しかった」

 

 陣内は背を向けてる。なので、彼の表情は見えない。

 

 感情が乗って、芯の籠った暖かい声音しか、私には知覚できなかった。

 

「……飲み足りねぇな。西代のバイト先にでも行こうぜ。アイツの働いてるBAR、ここから少し歩いた所だっただろ?」

「あ、う、うん」

「よし、なら行くか。ははっ、西代に難しいカクテルでもオーダーしてみようぜ」

 

 先ほどの言葉はまるで存在しなかったように、陣内はいつもの調子を取り戻し、私を置いて歩き出した。

 

(…………よしっ!! よし、よーーしっ!!)

 

 心の中だけで絶叫し、陣内が見てない所で何度もガッツポーズを取る。じわじわと強い衝撃が胸を伝播していた。

 

(なんか今の、ちょーいい感じだった!!)

 

 今日、私は間違いなく陣内の心に寄り添えた。

 

(手が届かない訳じゃない!! 少しずつだけど前に進んでる!!)

 

 陣内の大切な何かに近づけた。

 

(きっと、いつか、絶対に、私たちは──)

 

 お互いの全てを分かり合えた、この世で一番仲の良いカップルになれる。

 

 そんな確信じみた予感を胸に秘めて、先を歩く陣内を追いかけた。

 



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結婚指輪なくしました。

 

「もう一度言うけど、結婚指輪なくしました」

 

 俺はここまで絶望に打ちひしがれた人間を見た事がなかった。

 

「式場に来るまでは持ってたんだ。でも牧師様に預かってもらおうとした時には見つからなくて……」

 

 結婚式、開始30分前。目の前の陽光(ようこう)さんは大きな背を丸めて真っ青な顔をしている。

 

「こんな事、千代美(花嫁)にも、親父にも、誰にも言えなくて……」

 

 ガクブルと震える陽光さんの姿は端から見れば滑稽な物だろう。だが、見知った顔からすればクスリとも笑えない。

 

 俺も安瀬も、ゾッとして顔を青くしていた。

 

「どうしよう」

「「どうしようって言われても……」」

 

 地獄の結婚式が始まろうとしていた。

 

************************************************************

 

 休日の朝5時半。シェアハウスのリビングで、俺は姿見(すがたみ)を前にしていた。

 

 入学祝いに父さんに買ってもらったスーツに身を包み、白のネクタイを結ぶ。額を自然に隠すように頭髪を整え、西代の祖父から貰った高級時計を腕にはめた。

 

 するとどうだろう。多少は見れる格好になったのではないか?

 

「ふわぁ……まぁ、この前のチンピラ姿よりはましだね」

 

 身支度を整える俺に西代が声を掛けてくる。朝早いので少し眠そうだ。

 

「ありがとよ。……着けといて今更なんだが、この腕時計は本当に貰っていいのかな?」

「さぁ? あんまり似合ってないし捨ててしまえば?」

「お、おまっ、200万だぞ、これ。簡単に捨てろとか言うなよ」

 

 そ、それに似合ってないのか。そっかぁ……俺、結構気に入ってるのにな……。

 

「人から貰った高級品に価値なんてないよ。もしそれを付けて君がイキリ出したら、手首ごとハンマーでぶっ叩くからね」

「……これはもう付けないようにします」

 

 恐ろしいので腕時計を外した。

 

 俺は俗物的だ。高い装飾品を身に着けていると調子に乗るかもしれない。そうなって手首を砕かれるのはごめんだ。この時計は家宝にしよう。

 

「うん。飾り気のない素朴さが君の魅力だよ」

「えぇー、そーう? 陣内は派手にキメても悪くないと思うけどー?」

 

 寝起きにラキストを一服付けている猫屋も俺に話しかけてくる。

 

「陣内、前みたいに金髪にして行きなよー。そっちの方が絶対かっ……目立つと思う……!!」

「人様の結婚式で目立ってどうする」

 

 今日は安瀬の兄である陽光(ようこう)さんの結婚式だ。

 

 結婚式に招待されるのは初めての事なので念入りに自分の装いをチェックしていた。陽光さんに恥をかかせる訳にいかない。

 

「……なぁ、今日はお酒を控えた方がいいと思うか?」

「それは遠慮しすぎじゃなーい? 祝い事なんだからー、ガンガン酒飲んでアッパーに行った方がいいと思うけどー?」

「だね。畏まりすぎるのも逆に良くないと思うよ」

「そっか……でも悪い。ご祝儀カンパして貰ったってのに、俺だけ飯とか酒飲んじゃう事になって」

 

 ご祝儀には3万円を包んでいるが、その中身は彼女たちの好意で割り勘にしてもらっている。金だけ出してもらうと言うのは申し訳なかった。

 

「そんなの別にいいってー」

「気にせずに僕たちの分も飲んで楽しんできなよ」

 

 陽光さんに招待状を貰ったのは俺だけだった。猫屋と西代は今日はお留守番だ。まぁ、2人は陽光さんと関わりがほぼ無いので当然ともいえる。

 

 前に安瀬は2人も誘おうとしていたが……まぁ、気分が変わることもあるだろう。

 

 今日は5月の第2日曜日。

 ()()()()。今日という日は、安瀬家にとって特別な意味を持つ。

 

 安瀬は2日前から家にいない。親族なので事前にやる事でもあるのか『兄貴の結婚式に行ってくるでありんす』とだけ残し、いつの間にか自然と居なくなった。

 

「……よし」

 

 気合を入れる為、俺は度数の高い缶チューハイを開けた。

 

「そう言ってくれるのなら今日は死ぬほど飲むぞ」

 

 ゴリゴリに泥酔して、盛大にぱーーっといこう。アルコール様の大いなる力を見せつけてくれる。

 

 俺は勢いよく9パーセントの炭酸を胃に流し込んだ。

 

「ここで飲むなよ馬鹿っ!! 運転どうするつもりだい!?」

「式場までバイクで行くつもりなんでしょーー!?」

「あ」

 

 式のあと、ネカフェで酒を抜いてからバイクで朝帰りする予定だった。

 

 あ、あれ? どうやって式場まで行こう……。

 

************************************************************

 

「はい、着いたよ」

 

 飲酒運転、ダメ、絶対。

 

 俺は東京の式場前まで西代に車で送ってもらっていた。

 

 安瀬の実家は広島にあるが、陽光さんの職場や嫁家族の都合、また交通の便を考慮した結果、都会で式をあげる事になったようだ。

 

「じゃーあね、陣内。終わる時間にまた迎えに来るからー」

「安瀬のお兄さんにおめでとうございますって言っておいてくれ」

「おう分かった。ありがとな」

 

 そう言って、2人は車で去って行く。わざわざ都会まで出たので、彼女達は賭博場を廻るらしい。

 

 競馬、競輪、大型パチスロ店、ボーリング施設等々と都会は大人の遊び場が豊富だ。…………ボーリングは賭博ではないが、西代が言うには『大学生は賭けボーリングをする生き物なんだ。伊坂幸太郎もそう書いてた。つまり、ボーリング場は僕にとっては賭博場なのさ』らしい。猫屋は左手だけしか使えないので良い勝負になる、とも言っていたが……ご祝儀代を既に支払っている西代の生活費が心配になる話だった。

 

 送迎してくれた2人に感謝しつつ、式場の大きな門をくぐって受付に向かう。招待状とご祝儀を手渡し、スムーズに式場内に入った。

 

 建物内は白を基調とした広々とした空間であり、西洋の教会がモチーフなよくある日本の結婚式場だ。既に俺以外の参列者も多い。フロントは新郎新婦の関係者で賑わっている。

 

(さて、どうすっかな)

 

 式場は開いているが開始までまだまだ時間がある。当然、この場に俺の知り合いはいないので暇だ。

 

(……とりあえずヤニでも吸うか)

 

 俺は喫煙場を探しに式場内を歩き回る事にした。

 

 長い廊下を歩き、適当に散策する。時間つぶしが目的のため式場内の見取り図は見なかった。もし見つけられなかったら、スタッフさんに直接聞けばいい。

 

 そんな感じで、ぶらぶらと10分ほど歩いた。

 

「クソ兄貴、誰があ奴を呼べと言った!!」

 

 すると突然、廊下の先にある部屋の一室から馴染みのある大声が響いた。

 

「なにを言って……だ? 2人で結婚式……自分を意識させ……絶好の機会……」

「だから……不味いんじゃ……! あ奴が来るなら……2人も誘って……」

「不満な……? ちゃんと席も隣に…………のに?」

「ぐ、ぐぐ、こういう時だけ…………気の使い方しおってからにぃ……」

 

 掠れた声が耳に入る。どうやら、俺は知らぬうちに主賓の控室付近まで潜り込んでしまっていたらしい。

 

 俺はまだ距離のある部屋に向かって歩みを進めた。すると、今度はハッキリと声が聞こえてくる。

 

「というかどうした? 梅治君と喧嘩でもしたか? 絶対にお前の方が悪いからさっさと謝ってきなさい」

「してない……!! それに拙者の方が悪いとはどういう事じゃ!!」

「その通りの意味だよ。十中八九、お前の奇行が原因のはずだ。……はぁぁ、これは結婚までまだまだ先が長そうだな」

「けっ……!?」

 

 仲のいい兄妹だよなぁ、マジで。

 

 扉の内から聞こえる声でそう思った。立ち聞きは悪いので、もうこのまま部屋に入ってしまおう。

 

 コンコンっと、2回ほどノックをしてからドアノブに手を掛けた。

 

「だ、誰があんなカスと結婚するか!! 陣内なんぞアル中の馬鹿で味噌っかすの女たらしで──」

「よお、それ以上俺の悪口はやめてもらっていいか? 陣内梅治クンが可哀そうだろ」

「ふぇ?」

 

 扉を開けて話しかける。

 

 すると安瀬は直ぐにこちらに振り向いた。クルリとピンクレースのドレスが翻る。彼女の正装姿はやはり可憐だ。

 

「ぇ……ぁ、陣内」

 

 急に現れた俺に驚いたのか、安瀬の表情が固まった。

 

 硬直した彼女よりも先に、俺は今日の主賓者に話しかける事にする。

 

「お久しぶりです、陽光さん」

「あぁ、久しぶり。よく来てくれたね」

 

 陽光さんはちゃんとノック音に気が付いていたようで、俺の入室に驚きはしなかった。

 

「とりあえず、茶化すのはその辺りで勘弁してくださいよ。安瀬も困ってます」

「あはは、でも梅治君だって満更でもないだろ?」

 

 白いタキシード姿の陽光さんは意地の悪い顔で笑う。

 

 その手の話題は食傷気味であり苦手分野。返事をするのも面倒なので、軽く肩をすくめるリアクションで煙に巻く。俺達にその気はない。

 

「陽光、その方は?」

 

 聞き馴染みのない声に釣られて視線を向ける。壁際のソファに細身の中年男性が座っていた。

 

「前に話したことがあるだろ、親父。桜と同級生の梅治君だ」

 

 どうやら、その男性は安瀬と陽光さんの父親のようだ。

 

「彼がそうか」

 

 かっちりとした七三分けの髪型と細いフレームの眼鏡。眉間に寄った皺が深く、目つきが少しだけ悪い。人の性格は人相に出ると言うが、真面目で堅物そうな印象を受ける。

 

 いぶし銀な雰囲気を感じさせる大人の男性だ。

 

「安瀬雨京(うきょう)です。今日は息子の為にどうも」

 

 しっかりとした自己紹介とともに、安瀬の父親は綺麗な会釈をした。

 

「あ、これはご丁寧にありがとうございます。桜さんの友達の陣内です」

「話は息子から聞いているよ。いつも桜がお世話になっているそうで、申し訳ない」

「いえ、そんな事は……」

 

 俺の受けた印象の通り、一意そうな方だった。

 

「親父、我は別に世話になっておりはせん。むしろ、世話を焼いてやっているくらいでありんす」

 

 ふんっ、と安瀬は不服そうにそっぽを向く。

 

「あの……雨京さん、大変失礼だとは思うんですけど、1つだけ聞いてもよろしいでしょうか?」

「なんだね?」

「雨京さんも陽光さんも凄くまともそうなのに、なんで桜さんだけああなんですか?」

「おい、陣内!!」

 

 誹りを受け、安瀬が野犬の如く喚いた。

 

「人の父親になんて質問してるんじゃ! 先ほどの悪口の意趣返しのつもりか!」

「ちげぇよ。前々からお前が突然変異種なのか、それとも人の手によって作られた人工モンスターなのか興味があっただけだ」

 

 彼女の父親はしっかりとした人に見える。だが、娘は安瀬だ。世の中はなんて不思議なことだらけなんだろう。

 

「おぅおぅ、吠えるではないか凡夫(ぼんぷ)! 自分が馬鹿だから拙者の優秀な頭脳が妬ましいのであるか? はぁ~、才乏しき者の妬みは女々しく空虚に響き渡るのぅ??」

 

 お? なんだと?

 

「はっ! お前が優秀って言うなら俺は凡夫で結構だね。お前みたいなトラブルメーカーより遥かにましだ」

「……陣内、撤回するなら今の内である。今なら二日酔いくらいで許してやろうではないか」

「上等だ。その顔を便器に埋めてやるよ……!」

 

 結婚式は飲み放題だ。肝臓の真剣勝負といこう。既に俺は飲んでいるし、安瀬の肝臓は俺よりも強い。だが、飲酒に関しては俺は彼女の一歩先を行く。飲み方と盤外戦術で安瀬を見事に酔い潰してみせよう。

 

「梅治君、でいいかな?」

「え、あ、はい」

 

 安瀬と睨み合っていた俺に、雨京さんが声を掛けてくる。

 

 やっべ。売り言葉に買い言葉でいつものように振る舞いすぎた。父親の前で娘と喧嘩はよろしくない。気分を害しちゃったかも……。

 

「ありがとう」

「え?」

 

 何故か、急にお礼を言われた。

 

 意味が分からなかったのでポカンと次に続く言葉を待っていると、雨京さんは俺ではなく、陽光さんに向かって口を開いた。

 

「陽光、私は少し外の空気を吸ってくる」

「……分かった。開始10分前には着席しておいてくれ」

「あぁ」

 

 そう言って、雨京さんは出口へと向かって行く。

 

「それでは、後は若者だけで楽しんで」

 

 軽く退出のお辞儀をして、雨京さんは去って行った。

 

「?」

 

 もしかして、俺の振る舞いが癪に触って出て行ったのだろうか?

 

「……? 親父のヤツどうしたぜよ?」

 

 安瀬も退出の理由が分かっていないようで、父親に対して怪訝そうな声を漏らしていた。

 

「……俺、はっちゃけすぎたか? 親父さん、気を悪くしちゃったかな?」

「アレは拙者の父親であるぞ? あの程度で気を悪くするほど、度量が狭い訳がないでござろう」

 

 凄く説得力のある言葉だ。堅物そうな見た目だが、心はゴビ砂漠とかよりも広そう。

 

「親父は内気だからね。娘がイチャイチャしてる場面を見てられなかったんじゃないかな?」

「「イチャイチャなんてしてない(ません)!! …………あ」」

 

 咄嗟に否定したが、安瀬と声が被った。

 

「か、被せんなよな」

「お、お主の方こそ!」

「…………ふふふ」

 

 いがみ合う俺達に、陽光さんは生暖かい視線を向ける。

 

 雰囲気が恥ずかしい。ああ、ヤダヤダ。逃げてしまおう。

 

「じゃ、じゃあ家族団欒を邪魔するのは悪いですし俺はこれで。喫煙所に煙草吸いに行って来ます」

 

 最低限の挨拶は済ませた。後は式が始まるまでスマホと煙草で時間を潰そう。

 

「陣内、拙者も行く。この馬鹿兄貴には付き合っておられん」

「ん、おぉ」

 

 去ろうとする俺に安瀬も追従して来ようとする。

 

「それじゃあ兄貴、また会場での。煙草を吸ったら、我はもう陣内と広間の席に座っているでありんす」

「親父も同席するんだし、お酒はほどほどにな」

「それは約束できんな」

「………ん?」

 

 親父も同席するという事は、俺の指定席はもしかして安瀬家のテーブルか? ……それっていいのか? 俺、全然血縁とかじゃないんだけど……。

 

「何を立ち止まっておる、早う行くぞ」

「お、おぅ」

 

 安瀬に促されて俺は部屋を出た。

 

************************************************************

 

 安瀬の案内に従って式場を歩いていると、2階を登った所の喫煙スペースにたどり着いた。窓ガラスからは、ブーケトスが行われる予定のプール付きガーデンが見える。煙草を吸う環境としては文句のつけようがない場所だ。

 

 高所から景観を眺めながら、俺は早速アークロイヤルを取り出した。

 

「陣内、1本寄こせ」

「なんだ切らしてるのか。コンビニで売ってないから補充が面倒なんだぞ、コレ」

 

 悪態をついて、ボックスから1本差し出す。アークロイヤルは非常に甘いので俺の好みにぶっ刺さっているのだが、どうにも入手方法が少ない。ドンキくらいでしか売り場を見かけない。

 

「ケチケチするでない」

 

 安瀬は煙草を受け取って火を点けた。俺も同じく一服付ける。

 

「ふぅ……コイツはいつ吸っても紅茶の香りが凄いでありんす」

 

 俺と安瀬が吸っているのはアークロイヤルのパラダイス・ティー。気体状の紅茶を吸引している錯覚を覚えるほどに、吸い感が特徴的な一品だ。

 

「コレのチープな甘さが大好きなんだ。良い意味で煙草を吸ってる気がしない」

 

 ゆっくりと息を吸って、シガー先端の赤色を光らせる。

 

 ……あっまい!! 薬草系リキュールの炭酸割りが飲みたくなってくる! 苦めのアルコールと交互に楽しみたい味わいだ!

 

「あ゛ー至福だぁー、うんめぇーー……」

「……我はメビウスが恋しいぜよ」

 

 安瀬が好む煙草は爽快感が溢れるメンソール系。今吸っている物とは系統が180度異なる。

 

「切らした自分の間抜けさを呪うんだな」

「別に切らしたわけではない」

「あん?」

「ずっと妊婦の傍に居るつもりだったからの。そもそも持っておらん。シェアハウスに置いて来た」

 

 妊婦。それはつまり、陽光さんの結婚相手だ。

 

「それはまたなんで?」

「兄嫁とは仲良くしておく。当然の事であろう?」

「あぁ納得」

 

 妹として義理のお姉さんとは仲が良いに越したことはない。会える時になるべく関係を築いておきたかったのだろう。

 

「えぇっと……お嫁さんの名前、なんていったっけ?」

高木(たかぎ)ちよ……いや、もう結婚届を出しておるから、今は安瀬(あぜ)千代美(ちよみ)じゃな」

「あぁ、そうそう」

 

 招待状には、苗字が変更された後の名前も書いてあった。

 

「スゲェよな。苗字が変わるってちょっと想像できないぜ」

 

 俺は21年の間、陣内で通している。それが明日から急に変わるとなると、きっと脳がバグってしまう。

 

「苗字、であるか……」

 

 薄煙を吐き出すとともに、安瀬がポツリと呟いた。

 

「陣内はずっと苗字で我らを呼ぶよな」

「ん、まぁな」

「でも、兄貴と親父の前では名前で呼んだでありんす」

「そりゃあな」

 

 3人とも安瀬だ。誰を呼んでいるのか分からなくなる。

 

「ふむぅ……我らも長い付き合いでござる。そ、そろそろ名前で呼び合ってみる、というのはどうじゃ?」

「はぁ?」

「た、試しに陽キャらしい猫屋あたりから始め──」

「嫌だ」

 

 ニコチンで茹だる脳みその赴くままに答えた。恋人でもない女性を、名前で馴れ馴れしく呼ぶべきじゃない。

 

「もう定着してる呼び方をわざわざ変える必要がどこにある。煩わしいだけだ」

「そ、それは、えぇっとの……ゆ、友情の証明的な?」

「うぉ゛えッ!! はぁ!? クッサ!! 冗談だろお前!?」

 

 思わず鳥肌が立つ。友情の証明、なんてポワポワした物は体が受け付けなかった。拒絶反応が出る。特に、安瀬の口からそれが出た事実が気色わりぃ。

 

「そ、そんな捻くれた反応をするでない!! べ、別に良いではないか!! 臭くて何が悪い!! 我は、ちょ、ちょっとだけ憧れているでありんす!!」

「えぇぇ……」

 

 露骨にぼやく。上辺だけの敬称に価値を感じるなんて、随分と彼女らしくない。

 

「……まぁ、逆ならいいぞ」

「逆?」

「お前が俺を呼ぶ分には良いよ。そんなに呼びたいのならな」

「うぇ!?」

 

 女性が男性の名を呼ぶ分にはいいだろう。

 

「え、え!? わ、我が呼ぶのか!?」

「? お前は何を言ってるんだ? お前が欲しがったんだろ? 友情の証とやらを」

「うぉ゛えッ……な、なんじゃその言葉は……」

「はははっ、なんだよ。今更恥ずかしくなったのか?」

 

 安瀬の様子がどうにも可笑しくて笑う。

 

「ほら、どうした。呼べよ。呼んでみろよ。恥ずかしがらずに梅治さんって言ってみろ」

「ぐ、ぐぬぬぬぅ……!!」

 

 ケタケタと嘲笑い、煽ってやる。弱みにはつけこんでおくにかぎるな。

 

 俺は中高の友達には下の名前で呼ばれていた。なので、特に気恥ずかしさは感じないはず。おまけに多少酒も入っているので無敵だ。

 

「………………う、梅治(うめじ)

 

 控えによそよそしく、安瀬は俺の名前を呼んだ。

 

 濡れた瞳と朱い頬が酷くいじらしさを感じさせた。彼女は本当に恥ずかしそうに、耳まで真っ赤にしてしまっていたのだ。

 

「……………………」

 

 なんとなく、俺は無言になった。

 

「……………………」

 

 彼女も黙り込んでいた。紫煙が立ち昇るだけの時間が何故か数秒ほど続いてしまう。

 

 ジジっと、燃え尽きた煙草の灰が落ちる。

 

 同時に、俺と安瀬は思い出したようにフィルターを咥えた。胸に燻った甘い香りが充満していく。

 

「はぁーー……やめとこうぜ。阿呆くさい」

「……で、あるな」

                                   

 想像以上に威力があった。そんな感じだ。やはり、彼女は異性には少々毒が強い。改めて認識した。酒だ。酒を飲もう。

 

 胸裏の深いポケットからスキットルを取り出す。中身は安いラムのストレート。度数が高いので唾液と絡めて喉を守りながらスッと嚥下する。

 

「ふぅ。……ん、あれ、陽光さんじゃないか?」

「ん?」

 

 遠目に歩く陽光さんが見えた。先ほど別れたばかりなのに、確かな足取りでコチラに向かって来ている。

 

 白いスーツに煙の染みを作る訳にはいかないので、俺は急いで火をもみ消した。

 

「どうしたんですか、陽光さん? 何か用事でも?」

 

 はて、陽光さんも喫煙者だっただろうか? そんな話は安瀬からは聞いたことがないが……。

 

「結婚指輪なくしました」

「「…………はい?」」

 



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外堀を埋める才能を持って生まれてしまった男③

 

「…………あったでござるか?」

「いや……」

 

 式場外にある駐車場のアスファルトに頬を付けて、車の下を入念に見回す。掃除が行き届いているおかげで、何も落ちてないことが直ぐに分かった。

 

「あっっの(うつ)け者め。こんな大切な日に、一番大切な物を無くしおって」

「……やべーよな、マジで」

 

 陽光さんはこの式場のどこかに指輪を落としてしまったらしい。

 

 正直、洒落になっていない。擁護しようがないほどの大失態だ。このまま見つからなければ……一体どうなるんだ? こんな前例は聞いた事がないが、大惨事になる事だけは予見できる。

 

「結婚式が始まるまで後30分か……。なぁ、指輪交換まではどれくらいなんだ?」

「進行表どおりにプログラムが進めば後2時間程度ぜよ」

「それまでになんとか見つけないとな」

 

 時間的猶予はあるが、余裕という物はまるでない。今はもう式が始まる30分前。今日の主役であり、指輪を無くした張本人である陽光さんはもう控室を離れられないので自分で探す事ができない。

 

 なので今現在、俺達が代わりに必死こいて指輪を探し回っているわけだ。

 

「兄貴が言うに、広間はスタッフさんにお願いして探してもらっているらしいである」

「なら、探す場所はそこ以外か」

「うむ……ここに無いなら、次は庭園辺りを捜索じゃな」

「あぁ、急ごう」

 

 この結婚式の成否は俺達にかかっている。大袈裟かもしれないが、そんな使命感を胸に刻んで俺達は庭園へ向かった。

 

************************************************************

 

 こぢんまりとしたプールを無数の花々が囲う、芸術性の高い庭。プールには花びらが無数に散りばめられている。

 

 心の綺麗な人間なら水面と花びらの調和性に感心するのだろうが、俺には『管理に金が掛かってそうだな』という残念な感想しかでてこなかった。まして、今は火急だ。

 

「こ、これどこから探せばいいんだ?」

 

 式場の敷地内なので庭は広すぎるという事はない。しかし、小さな指輪を見つけるには厳しい面積に思えた。

 

「ある程度ポイントを絞るしかないでありんす」

「と言うと?」

「排水溝の隙間とかに転げ落ちてそうではないか?」

 

 安瀬はプールの排水溝を指差した。

 

「あぁ、確かにありそう」

「で、あろう?」

 

 俺と安瀬は排水溝まで近づいてしゃがみ込み、なんとかその奥を探ろうとした。

 

「側溝柵が邪魔でござる」

「だな。……でも、中には指輪ぽいのは無さそうだぞ」

 

 スマホのライトで溝の中を照らしたが、金属らしき反射は見られなかった。

 

「2人とも、そんな所で何をしている?」

「「ん?」」

 

 しゃがみ込んだまま、安瀬と共に振り返る。そこには眼鏡を掛けた中年男性が不思議そうに首を傾げていた。

 

 外の空気を吸いに部屋を出た、雨京さんだった。

 

「お、親父……」

「桜、ドレスに汚れが付く。そんな所で座り込むな」

「は、はいでおじゃる」

 

 安瀬は素直に父親に従った。彼女が立ち上がったので、俺も一緒になって立ち上がる。それと同時に、小声で彼女に話しかけた。

 

「おい」

「何じゃ?」

「やっぱり、指輪の事は言ったらまずいのか?」

 

 陽光さんは花嫁と父親には絶対に知られたくないといった口ぶりだった。でも、俺は多少恥を忍んでも頼むべきではないかと思っている。人手は多い方がいい。

 

「止めといた方がよい……親父はクソ真面目でござる。知ったら、指輪を探しに式場を駆けずり回るぞ。実親子(じつしんし)の晴れ舞台にそんな事させられるか」

 

 チラリと雨京さんを一瞥(いちべつ)する。安瀬の言う通り、七三分けの髪型とシンプルな眼鏡は、実直な性根を表しているように見えた。

 

「お前、親父さんとまったく似てないのな」

「るさい、阿呆」

 

 荒々しく、彼女は俺をなじった。でも、本当に似ていない。……いや、頭が良さそうな所は似ているのか?

 

「んん」

 

 内緒話を続ける俺達を不振がったのか、雨京さんはえへん虫を鳴らした。

 

「それで、何をしていたんだ?」

 

 雨京さんが改めて問いかけてくる。それに安瀬が間髪入れずに答えようとした。

 

「べつに。煙草吸って、プラプラしていただけぜよ」

「煙草? 持ってなかっただろう?」

「陣内から拝借したで(そうろう)

「それは良くないな」

 

 淡白な苦言を(てい)すると、雨京さんはポケットから折り畳み財布を取り出して、1000円札を引き抜いた。

 

「桜、おつかいだ」

 

 1000円札が安瀬に手渡される。

 

「コンビニで煙草を買ってきなさい。自分の分と、()()()()。マイセン……今はメビウスか。あれでいい」

「……え!? はぁ!?」

 

 一瞬遅れて、安瀬が大声をあげた。目を見開いて驚愕している。

 

「親父、煙草吸えるのでござるか!? は、初知りじゃぞ!?」

「そう驚くな。私が若い頃は、吸っていない男性の方が少数派だったんだ。付き合いで嗜んでいた」

「あ、あぁー……」

「もう禁煙して20年以上経つが久しぶりに吸いたい。頼めるな?」

「う、うむ」

 

 ふとした時、父の意外な側面を知る。所謂、親子の会話だ。俺は特に口を挟まずに黙って突っ立ていた。

 

「欲しいと言うなら、まぁ、パパっと行ってくるでありんす」

 

 急に安瀬がグイっと俺の裾を掴んで引っ張り、耳元に顔を近づけた。

 

「……手早く戻ってくるから、親父の相手を頼んだぜよ」

「おぅ」

 

 近いせいで、髪の良い匂いと煙草の残り香がする。酒を追加しておいてよかった。

 

 安瀬は耳打ちした後、小走りで外のコンビニまで駆けていく。敷地を出てすぐの所にコンビニはあったはず。数分で戻ってくるだろう。

 

「「…………」」

 

 さて、雨京さんと2人きりだ。

 

 俺のコミュ力が試される場面。最近、目上の人と話す機会が多いのでちゃんとコミュニケーションを取れる自信はある。指輪に話題がいく事はないだろうし、ウィットに富んだトークで安瀬が帰ってくるまでの場を持たせよう。

 

「桜さんにおつかいをさせるなんて、ちょっと凄いですね」

 

 普通に珍しい気がした。彼女があそこまで素直に人の言う事を聞くのは稀だ。

 

「悪童という表現が生温い娘だったが、昔から私の言う事だけはよく聞く」

「あはは、父親としての威厳がしっかりしているんですね」

「厳しく躾けた覚えはないのだがね」

 

 寡黙という訳ではないが、雨京さんは物静かさを感じさせる人だと思う。冷淡であり、表情筋がまるで動かない。とてもクールな男性だ。

 

「梅治君、好きな物はあるか?」 

「……え?」

 

 そんな雨京さんから脈絡のない質問が飛んでくる。

 

「は、恥ずかしながらアルコールです」

「聞いていた通りか。なら、運動経験は何か?」

「ちゅ、中高と陸上部でしたけど……」

「それでは趣味は?」

「え、えぇっと……」

 

 俺の趣味は酒器集めだ。それを素直に答えても良かったが、仏頂面でお見合いみたいな質問をされていて……普通に恐ろしい。

 

「あぁ、いや……唐突だった、か」

 

 強張った俺の表情を見て心中を察したのか、雨京さんは罰が悪そうに顔を曇らせた。

 

「この年になると仕事以外で若者と上手く話せなくてな。自覚はあるが、どうにもままならない」

 

 雨京さんは少し眼鏡を持ち上げて、申し訳なさそうに顔を逸らす。

 

「い、いやいやいや!! 俺の方こそ気を遣わせてすいません!!」

 

 爆速で口を回した。人の父親に気を遣わせるのは心苦しくて仕方ない。

 

「しゅ、趣味ですよね! 酒器集めですよ、酒器集め!! 俺、酒関連の事には目がないんっすよ!!」

 

 無駄に溌剌(はつらつ)として楽しそうに振る舞う。少しだけ存在した口達者のメッキは、早くも剝がれようとしていた。

 

「若いのに渋い趣味をしている。桜と気が合いそうだ」

「一部分だけですけどね。アイツは洋物には興味を持ちませんから」

「あの子の作るご飯は美味しい。お酒がよく進むだろう」

「いやぁ、そうですね!」

「君は掃除はよくする方か?」

 

 これ、俺が悪いんじゃないのかもしれない!! 雨京さん、すっげぇ口下手だ! ビックリするほど話に取っ掛かりが無い!! 

 

「は、はい。割とマメに整理整頓はする方です」

「そうか。桜は洗濯は疎かにしないが、掃除は苦手だ」

「……ですね」

 

 シェアハウスに転がっている安瀬の趣味グッズを思い出す。確かに、彼女は散らかす方が得意だ。

 

「ただ、花を扱う術はよく知っている。古風かもしれないが、そこは女らしい」

 

 そう言われれば、アイツは華道にも素養があったな。

 

「破天荒な所はあるが家庭的だ。君はどう思う?」

「は、はぁ……そうですね。俺もそう思います。桜さんは家庭的な女性ですね」

 

 ……さっきから何の話なんだ? 娘の自慢話がしたいのだろうか?

 

「あと、君は陽光とも仲が良いようだね」

 

 今度は陽光さんの話に移り変わる。話題の転換スピードに置いていかれそうになるが、俺は何とかついて行くため呂律をクルクルと回した。

 

「仲が良いって言うか、凄くお世話になって頭が上がらないと言いますか……」

「息子に?」

「えぇ、まぁ、はい」

 

 陽光さんには本当にお世話になった。仕事中にお邪魔しちゃったり……高い機材貰ってぶっ壊しちゃったり……それで結局、お言葉に甘えて弁償してなかったり……。

 

「……君はアレだ」

 

 ここまで話して、初めて雨京さんが微笑を浮かべた。

 

「私にとって都合が良すぎるな。つい、(すが)りたくなる」

 

 …………ん、んん??

 

「俺が、何ですって?」

「話ができて良かった。今日は私の事を気にせずに、娘と楽しんでくれ」

 

 ようやく笑ってもらえたと思ったら、雨京さんはクルリと背を向けて俺の前から去ろうとした。

 

「え!? あ、あの!! 安瀬のおつかいは!?」

「気が変わった。私が居て邪魔をするのは悪い」

 

 去り際にそう言い残して、雨京さんは建物の方へ向かって行く。おつかいに行かせた娘をほっぽり出して、本当に父親は遠くへ消えた。

 

「………………」

 

 暫くの間、茫然自失としてしまう。会話で振り回された感覚だけが俺の中で残響していた。

 

「陣内! 待たせたでありんす……って、おろ? 親父は?」

 

 ボケーっとしていると、レジ袋を引っ提げた安瀬が帰って来た。

 

「話してたら途中でどっか行った…………会話した気がしねぇ……」

 

 馬に括られて引きずり回しの刑を受けた気分だ。……もしかしたら、俺は嫌われていたのかもしれない。娘と馴れ馴れしくしている恋人でもない男。その存在を不快に感じていた可能性がある。

 

「あー……言い忘れておったな。親父と会話するには少しコツがいるでござるよ」

「コツ?」

「最短距離を突っ走るような物の言い方をするからの。こっちもその速度に合わせて話すのである」

 

 なんだその短距離走みたいなコミュニケーション方法……。

 

「ん? 親父がどこかに行ったというのなら、この煙草はどうすれば?」

「要らないみたいだぞ。気が変わったらしい」

「……ふふっ、相も変わらずマイペースじゃの」

 

 安瀬は父親の行動を聞いて、くつくつと小さく笑った。

 

「陣内、どうか気を悪くせんでくれ。不器用なだけで、親父殿に悪気はないのでござるよ」

「そうなのか?」

「うむ! ただのド変人である!!」

 

 ニコニコと陽気に、安瀬は父親を笑い飛ばす。そこには長年連れ添った家族にしか分からない空気間があった。

 

 雨京さんと安瀬は似てないと思っていたが、案外そうでもなさそうだ。安瀬もド変人なので父親とは波長が合うのだろう。

 

「まぁ、嫌われてないならいいや。それよりも、今は指輪の行方の方が大切か」

「はぁ……その通りじゃ」

 

 雨京さんに出くわしてしまったせいで脱線したが、今の最重要ミッションは指輪探しだ。

 

「まったく、あのどうしようもない愚兄め。せっかくの結婚式がとんだ珍事でござる。親父も遠くから来てくれているのに……」

 

 安瀬は億劫そうにため息をついて、片手で顔を覆って空を仰ぐ。陽光さんに心底呆れているといった様子だ。

 

「…………これでは母も安心して楽しめぬではないか」

 

 少しだけ、意味を理解するのに時間がかかった。

 

 だがよく考えれば分かる事だった。きっと結婚式の会場には()()()()()()()()()。安瀬の母親は、息子の晴れ姿を見るため婚儀に参加しているのだ。それなのに、息子が結婚指輪を無くしていたら慌てて式を楽しむどころではない。

 

 ポツリと安瀬の瞳から涙がこぼれ落ちる。

 

「安瀬」

「うるさい」

 

 ギロリと安瀬は俺を睨んだ。

 

 失敗した。彼女を呼んだ時の声音に、不純物が混じってしまった。

 

「放って置けば治まる。いちいち反応するな、鬱陶しい」

「……へいへい、そうかよ」

 

 安瀬は明らかにイラついていた。咄嗟の事で、俺が反応を間違えたせいだ。余計な気を遣おうとしてしまった。なんとか悪態をついたが、それも遅い。

 

 安瀬は手の甲で目を擦り、水滴を拭き取る。幸いな事に、その後に涙は続かなかった。

 

「……えぇい、だんだん腹が立ってきた。冴えない兄を祝うために、ちゃんと余興を考えてきた我がなんでこんなバカげた探し物を……」

「余興?」

「来賓と兄貴に楽しんでもらえるよう、余興でクイズ大会を開くつもりなのじゃ。優勝商品にわざわざ、自腹を切って商品券まで用意した」

「へぇ、それは手が込んでるな。結構盛り上がりそうだ」

「ふふん、であろう?」

 

 安瀬は涙こそ流すが決して取り乱さない。今だって得意気な笑みを浮かべている。

 

 彼女は強い自制心で自分を律する。本当にいつもと同じように、安瀬は振る舞えるのだ。それを邪魔するような反応を彼女は嫌っていて………………。

 

(………………)

 

 この瞬間、安瀬の反応が、俺の頭にとある仮説を組み立てた。

 

「……その苦労を無駄にしない為にも、早く指輪を見つけないとな。俺は一旦、建物内の男子トイレを探してみる」

「え?」

「もしかしたら、床に落ちてるかもしれないだろ?」

「あぁ、言われてみればそうじゃな。……ここは効率よく、別々に探すとするかの」

 

 安瀬は俺の提案に直ぐ同意した。

 

「拙者はもう少しこの場所を調べておく」

「分かった。式場内のトイレを全部調べるのは時間かかるだろうから、終わったらまた連絡を送る」

「うむ」

 

 そうして、俺と安瀬は別れて指輪を探す事にした。

 

************************************************************

 

 ()()()()()()()

 

『金輪際、安瀬には嘘をつかない』

 

 誓った約束を俺はまた破った。

 

 結局、俺という人間の本質はクズであり最低だ。刹那主義のちゃらんぽらん。反省しない愚か者。大ウソつきのカス。マジであり得ない。なんで俺はこうなのかね……。

 

 そんな自己嫌悪のループに囚われそうになりながらも、俺はノックをしてから扉を開いた。

 

「あれ、梅治君?」

 

 新郎の控室。俺は男子トイレを探すと嘘をついて、ここに戻って来た。安瀬に嘘を付いてでも、俺には確かめておきたい事があったからだ。

 

「指輪が見つかったのかい? 随分と早かったね」

 

 安瀬を引き連れずに1人で部屋に戻ってきた俺を見て、陽光さんはソファに座ったまま問いかけてくる。当然の疑問だ。指輪が見つかった以外に、この1分でも時間が惜しい状況下で陽光さんを訪ねる理由は本来存在しない。

 

「本当に無くしたんですよね? 結婚指輪」

 

 しかし、それは本当に事態が切迫していればの話だ。

 

「…………」

 

 陽光さんが硬直する。彼は一瞬、呼吸すら止めて俺を見据えた。

 

「どうして、そう思うんだ?」

 

 落ち着いた声音で陽光さんは返事をする。

 

 その内容は、俺が突然言い出した疑問を否定する物ではなく、どうしてその答えにたどり着けたかの解説を求めていた。

 

 つまり、俺の直感めいた予測の答えは当たっていた。

 

「えぇっと、その……記念日(アニバーサリー)反応、とか……その辺りです」

「……本当に驚いたな」

 

 感嘆の声が小さく上がる。あまり聞き馴染みのない言葉を言ったが、陽光さんにはしっかりと伝わったようだ。

 

「君は桜と同じ学科だろ? 医療心理学の専攻じゃなかったはずだ」

「まぁ、そうですけど…………昔、少しだけ調べました」

 

 記念日(アニバーサリー)反応、類似名で()()()()とも言う。災害や事故に遭った日、もしくは大切な人の命日に起こる肉体的、精神的な不調を指す用語だ。人によって強弱の度合いはあるが、家族を亡くした全ての人に必ず起こる症状らしい。

 

「それは桜の為に調べたのかい?」

「いいえ、違います」

 

 間髪入れずに否定した。調べようとしたきっかけは確かに安瀬だ。けれど、あれは自分の為にやった事だ。

 

「結婚式が始まってすぐのプログラムに両家ご両親の紹介がありますよね」

 

 詮索されたくなかったので、俺は自分の考えをぶつける事にした。 

 

「時間にして30分。その時に、その、えっと……」

「あぁ、そうだ。その時間、私は()()()()()()()()()()()()()()

「…………」

 

 それは透明で美しい、感動的なプログラムなのだろう。

 

 故人を結婚式に招き、ここまで育ててもらった感謝を述べる。そうする事で残された遺族の心に整理がつき、愛する人との将来をより硬い物にする。悲しみと暖かさが優しく混じり合う人間性に富んだ儀式だ。

 

「でも、それで、桜さん…………いや、安瀬は」

 

 その時、安瀬桜はどうなる?

 

「啜り泣く。それくらいならいいんだ」

 

 口には出せなかった問いかけに、陽光さんは答え始めた。

 

「でもね、俺の言葉は多分アイツには刺激が強すぎる。桜はきっと、陰で見るに絶えないほど泣き叫んで壊れるように崩れ落ちるよ」

 

 彼はその場面を確信しているようだった。

 

 

「桜は、自分が母を見殺しにしたと本気で思っているから」

 

 

 反吐が出るような(おぞ)ましい言葉を睨みつけた。

 

 陽光さんを睨んでいるわけじゃない。ただ、俺は憎んでいた。聞いているだけで不快感を覚えるその過去を。高潔であり華のように可愛く笑う安瀬の酷すぎる過去を。大切にしたい人の凄惨な過去を、俺は心の底から忌み嫌った。

 

「……私が母を思い出に変えるまで掛かった時間は、たったの1年だ」

 

 明確に声紋が暗く変わる。伺える感情は負のみだ。

 

「母が亡くなった時、私はもう家を出て仕事をしていたからね。逃げ道があった」

 

 陽光さんは悔いるように顔を俯け、そのまま話を続けた。

 

「仕事の忙しさは悲しみを紛らわすのには最適だった。それに千代美だって支えてくれた。だから、その程度だった。その程度で私は立ち直れたよ」

 

 悲痛な語り口は懺悔にも等しい。

 

「けど、桜はずっと家に居て、()()()()()()()

 

 血を吐くように陽光さんは思いの丈を晒した。俺には……彼が立ち直っているようにはとても見えなかった。

 

「結婚式を母の日にしたのは私の我儘だ。どうしても、今日この場で母さんにお礼を言いたかった」

 

 そりゃそうだろう。若くして母を失ったのは陽光さんも同じ。育ててくれたお礼を言いたくない訳がない。

 

「そのせいで、桜にとって今日はもう2回目の葬式といっても過言じゃない」

「だから、その時間だけは安瀬を式場から遠ざけたかった……」

「あぁ」

 

 短く俺に答えて、陽光さんは懐から冬毛を纏ったリングケースを取り出した。恐らく、中にちゃんと指輪はあるのだろう。

 

「酷い兄貴だろ? 妹の傷心を考慮するなら、母の事は軽く触れる程度で済ませるべきだ。なのに、私は……自分の我儘を押し通した」

 

 ……誰が彼を責められる。陽光さんは何も悪い事なんてしていない。これは、誰が悪いとかそう言う話じゃない。

 

(余計な事をした)

 

 俺は生者の墓を(あば)いた。

 

 陽光さんは妹のトラウマを刺激したくなくて、嘘を付くしかなかったんだ。なのに、俺は下らない答え合わせをしようとした。好意で作られた優しい嘘を無粋にも追及した。

 

 俺は何も考えずに、安瀬と指輪を探して奔走していればよかったんだ。

 

「なぁ、梅治君」

 

 俯いていた顔が上がる。少しだけ涙を携えた眼が、俺に向けられた。

 

「君は凄いよ。桜を立ち直らせる事は、親父にも、私にもできなかった……。一体どうやったんだい?」

「は?」

 

 立ち直らせた? 俺が? 安瀬を?

 

(馬鹿な)

 

 大学入学当初、確かに安瀬は今とは違った。でもそれは俺も同じだ。俺は今よりもクズだった。女に振られただけのみみっちい過去を引きずっていた。

 

 そんな俺が、安瀬を立ち直らせた? 

 

 それだけは絶対に違う。安瀬は大学に入って、俺達と知り合って仲良くなり、自分で過去を思い出に変えた。

 

「安瀬は何か言ってましたか?」

 

 強く否定したかったが、昔を語るには抵抗がある。彼女は誰にもあの時の事を知られたくないはずだ。

 

「いや、何も」

「なら俺から言う事は何もありません。それに、もう終わった話ですよ。だから今はとにかく……涙を拭いてください」

「…………君は優しいな」

 

 優しい。それは陽光さんに向けられるための表現だと思った。

 

「少し話題を変えようか」

 

 涙をぬぐいさり、陽光さんは正面から俺を見据える。

 

「ショック期、喪失期、閉じこもり期、再生期。この意味は分かるかな?」

「……概要くらいは」

 

 話題を変えようと言っていたが、あまり主題は変わっていないように思えた。

 

 遺族(グリーフ)ケアの中に、そういった用語がある。残された遺族の精神状態遷移を定義した物だ。

 

 その4つのプロセスを辿って、人は親族の死を乗り越えて前に進む。

 

「今、桜は間違いなく再生期だ。見てれば分かる。本当に毎日が楽しそうだ」

 

 眩い日差しが差し込むような柔和な笑顔。陽光さんは目を細めて優しい微笑みを浮かべた。

 

 ……やっぱり、優しいという言葉は陽光さんにこそふさわしい。彼は猫屋の時もかいがいしく俺に手を貸してくれた。妹に慕われる事が当然の頼れる人だ。

 

「私は千代美の出産が終われば地元に帰るんだ」

「え? そう、なんですか?」

 

 本当に急に話が変わった。なので、虚を突かれてしどろもどろになる。

 

「……安瀬が寂しがりますね」

 

 陽光さんの職場は東京であり、住まいは俺達と同じ埼玉県だ。安瀬は偶に陽光さんに会いに行っていた。

 

「あぁ……でも親父も最近また目を悪くした。それにずっと1人では寂しいだろうし、生まれてくる子供と一緒に4人で暮らそうと思ってる」

「それは雨京さんには嬉しい話ですね。初孫がすぐそばに居るなんて絶対に嬉しいですよ」

「あはは、そうかもね。不器用な親父のだらしない笑顔が今から目に浮かぶよ」

 

 ようやく、明るい話題が戻って来た気がした。赤ん坊の話は無性に暖かさを感じせる。

 

「えぇっと、出産予定日はいつでしたっけ?」

「予定では後2か月と少しだ」

 

 夏の時期か。出産祝いは何を送ればいいんだろうか?

 

「──だから俺の代わりに桜を頼む」

 

 有無を言わせない、刺すような衝撃が真っ直ぐに飛来した。

 

「このまま、アイツの涙を完璧に止めてやって欲しい。ずっと傍に居て、ゆっくりでいいから桜の心を癒してやってくれ」

 

 言葉の意味は推し量るまでもなく分かる事だった。

 

「…………」

 

 胸中から溢れ出る色んな言葉を飲み込む。

 

 恐らく、それは重圧に対する言い逃れだったのだろう。

 でもそれ以上に『彼女にずっと笑っていて欲しい』という願望が強かった。陽光さんもきっと俺と同じ気持ちだ。いや、俺なんかよりも兄である彼の思いはきっと強い。

 

 俺は許諾も拒否も、何も言う事ができなかった。

 

「これは君にしか頼めない。家族ではきっとどうしようもないんだ」

「お、俺は……」

「話を聞いてくれてありがとう。少し楽になった気がするよ」

 

 必死に答えを考える俺を無視するように、彼は感謝を述べた。

 

「じゃあ私はもう行く。そろそろ時間だ。千代美の所に行かないと」

 

 陽光さんは自然なそぶりで席を立つ。

 

「1時間もしたら、指輪が見つかったって連絡を送る。それまで桜と式場の外に居てくれ」

 

 俺の横を通り過ぎて彼は出口へと向かう。俺の意思を確認しないまま彼は退出しようとした。

 

 その途中で、背を向けたまま、陽光さんは一瞬だけ立ち止まった。

 

「……すまない」

 

 それだけ言い残して、陽光さんは去った。バタンと控えめに閉じられた扉の音が空虚に響き、嫌に耳に残る。

 

 そうして、教会を模され作られた式場の控え室には、俺1人だけが残った。

 

************************************************************

 

 ……遠くから、大きな歓声が聞こえてくる。管楽器や拍手の音も追随して耳に入った。結婚式が始まったのだろう。

 

 10分ほど、俺は何もせず、何も考えず、ただ立ち尽くしていた。

 

「…………このままでいい」

 

 1人残された部屋。そこで、誓うような声音が勝手に漏れ出す。

 

「俺さえ変な気を起こさなければ、それでいい」

 

 陽光さんは勘違いをしている。

 

 必要な物は時間だけだ。

 特別なきっかけが必要な訳じゃない。

 楽しい時間だけが全てを過去へと押しやり、喪失を埋めてくれる。

 

「…………」

 

 ポケットからスキットルを取り出して、酒を呷った。度数の高いラムをとにかく腹に落とし込む。

 

 すると、足が出入口に向かって1歩進んだ。

 

「……行くか」

 

 安瀬と1時間ほど指輪を探すふりをしよう。彼女の勘は異常に鋭いが、きっと大丈夫だ。不審がられることはない。

 

 嘘はつき慣れている。

 

************************************************************

 

 途中参加になってしまったが、結婚式はとてもハチャメチャで楽しかった。

 

 指輪が見つかったと連絡を受けた安瀬がぶち切れ、陽光さんに飛び蹴りをかまして白いスーツが赤く染まり。

 お色直しで千代美さんの花嫁衣装が煌びやかな引き振袖に変わった時は、安瀬は羨ましそうに目を輝かせて。

 ウェディングケーキが切り分けて提供され、ケーキには何の酒が合うかを安瀬と真剣に議論し。

 余興のテーブル対抗クイズ大会は、安瀬が司会を務めたおかげで大いに盛り上がりを見せ。

 最後に庭園で行われたブーケトスで、俺と安瀬が花束を本気で奪い合いプールにダイブした。

 

 酒飲んでヤニ吸って食べて騒いで、笑う。安瀬は母の遺影を見てたまに涙を流していたが、心の底から兄の結婚を祝っていた。俺もそれを見て幸せな気持ちになった。

 

 式中、酒と煙草は絶やさなかった。

 この2つは良い。タールが酩酊を加速させて思考を鈍らせてくれる。まるで魔法の薬だ。嫌な事を、全部忘れてしまえる。

 

 ……現実は悲しい。酔っぱらってないと、とてもじゃないが生きていけない。

 



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ヤニクローズドサークル・前

 

 6月の初旬。梅雨に入るか入らないか、ギリギリの季節。

 

 その深夜。俺の目の前で薪が燃えている。

 

 唐突だが言わせてもらおう。キャンプというアウトドアは一度手を出すときちんと継続する事が義務付けられる。大金を払ってキャンプギアを揃えたのだ。一度で飽きるのには勿体ない。

 

 そんなこんなで、俺達4人は見晴らしのいい高地の大草原まで来ていた。草原と土がまだら模様に点在する空間が見渡す限りに広がっている。

 

「星、ちょー綺麗……!!」

「雨が降らなくて良かったでありんす」

 

 空には満点の星空だ。

 

 座りどころの深いローチェアに体を委ね、空を見上げる。同時に、タンブラーに注いだ香り高いメタクサ(ブランデー)を軽く舐めた。ブランデーはストレートで楽しむのが基本だ。

 

「空を眺めてメタクサを飲むなんて中々粋だよね」

「ん? あぁ、そうだったな」

 

 メタクサは宇宙で初めて飲まれたお酒らしい。

 

 宇宙飛行士はきっと、重力に囚われずに宙を彷徨う菓子グミのようなブランデーをズズッと啜って飲んだ。……味に変化はあったのだろうか? そんな想像をすると何故か無性に面白い。

 

「宇宙って凄いよな……。銀河系とか馬鹿デカくて、今も無限に膨張してたりして、すっげぇ遠い感じなんだろ? はぁー、すっげぇ……」

 

 酒と煙草をキメながら、宇宙に思いを馳せ、闇の中で神々しく燃える焚火を眺める。

 

 そうすると、ぜーんぶどうでも良くなる! 永遠とこうしていられるような錯覚すら覚えてしまった。

 

「宇宙について考えてると、なんか将来の漠然とした不安とか無くなるわ」

「"宇宙の広さに比べたら私の悩みなんて"と言うやつでござるな。……と言うか急にどうした、陣内? 悩みでもあるのか?」

「……いや、別に。この間、寝る前にユーチューブで宇宙の解説動画見ただけだ」

「それ寝れなくなるやつじゃーん」

「そもそも、動画を見てその理解の浅さかい?」

「睡眠時間を削っただけであったな」

「あ゛ぁ゛ーうるせぇ゛ー」

 

 キャンキャンと騒ぐ酒飲みモンスターズを適当にあしらい、ブランデーを飲み干す。液体そのものが(かぐわ)しい。良いブランデーのこれが好きだ。

 

「陣内、宇宙の動画見ちゃったからー、キャンプに行きたいって言いだしたのー?」

「あぁ、そんな感じだ」

 

 適当に誤魔化して返事をする。今回のキャンプの発案者は確かに俺だ。だが、その目的は天体観測なんかではなくもっと単純。

 

 ……最近、なんかすげー疲れてる。

 

 大学をサボらずに足繫く通う。安瀬との旅行費用を稼ぐためにバイトを詰め込む。新しい資格の習得のため再び自主勉強を始めた。その3点のせいか……倦怠感が凄い。疲労がピークに達している。

 

 なので疲れをぶっ飛ばしたかった。最高の環境で、最高の酒と煙草をキメたかったのだ。

 

 俺はクーラーボックスからビールを、懐からは煙草の入った缶ケースを取り出した。

 

 プレミアムモルツとザ・ピースだ。

 

 主観が入るが、ビールの中で一番優秀なのはプレミアムモルツだ。誰が飲んでも美味いと言う高品質なラガー。5種類ある味覚の中の1つ、『苦み』に目覚める事ができる普遍的に最強のアルコール。炭酸で弾けるホップの味わいが堪らない。

 

 では煙草界の完全無欠とは何か? それは論ずる必要なくザ・ピースである。1箱1000円という高級シガレット。その特徴は何と言っても雑味が一切存在しない事だ。バニラ豆の自然な甘さとバージニア香が完璧な調和を成している。喉に引っかかりが無く、煙が気管を降りて行く吸い心地はもはや恐ろしいまである。

 

「……ふへへへへ」

 

 俺はプルタブを開封し、顎をしゃくるようにして一気にプレモルを飲み下した。ゴキュゴキュとたいして味わいもせずに胃に流し込む。

 

「ぶふぅ…………すぅー……」

 

 缶の半分ほどを飲んだ直後、次はピースを咥えて雑に煙を吸い込む。クールスモーキングなんかを気にせずに、多量の薫香を口内に充満させる。紙巻きの先端が勢いよく灰へと変わっていった。

 

「ぶはぁぁぁぁ……」

 

 あ゛ぁ゛ー、幸せ。

 

 この2つは、例え味覚が発達しきっていない中坊が摂取しても美味しさが理解できる程の組み合わせだ。きっまるぅぅ……。

 

「あーー!! それザッピじゃん!!」

 

 猫屋が青と金の缶ケースを指差して驚いた。次に出てくる言葉を想像するのは容易だ。

 

「1本ちょーーだい!!」

 

 ザ・ピースは値段が高い。おまけに売り場も少なくて入手が少し面倒…………まぁしかし、ケチだと思われるのも癪だ。

 

「ほれよ」

 

 俺は渋々、細い煙草を猫屋に向かって投げ飛ばした。

 

「陣内、我も欲しい」

「僕も」

「…………」

 

 無心の嵐だ。高い煙草を開けたらこうなるか。

 

「はいはい」

 

 俺は素直にピースを提供した。ヤニカスモンスターズは俺から煙草を受け取ると、一斉に咥えて火を灯す。

 

「ふぅーー……。吸いやすいのにー、ニコチンとタールがそこそこある感じがいいよねー、コレ」

「相変わらず旨いね。高級品だから普段吸いはしないけど……」

「で、あるな。常用品はメビウスで十分じゃ」

 

 安瀬の言葉を受けて、ふと、俺達の吸っている煙草の銘柄は各自バラバラだなと思った。

 

 俺がウィストン。

 安瀬がメビウス。

 西代がセブンスター。

 猫屋はラッキーストライクを基本にして他にも手巻き煙草、ボング、シーシャ、シガリロと何にでも手を出す。

 

「……良い煙草もあるし、効き煙草大会でもやるか?」

「おっ、いいねー。それ私、自信あるよー」

「たしか、前のキャンプでも効きビール大会をしたよね」

「うむ。その時は猫屋が最下位であったな!」

「うぐっ……で、でも今回は絶対に負けないからねーー!! 汚名をきっちり返上させてもらうってーー!!」

「よし。なら最下位は罰として鼻で煙草を吸ってもらおうか」

 

 御煙草様の味が分からんヤツは、風味を鼻粘膜に直接覚え込ませるべきだろう。

 

「もちろん、両穴で吸えよ? まさかとは思うが、俺達の中にこの程度の罰ゲームで怖気づくビビり君はいないよな?」

「「「…………乗った!!」」」

 

 そうして、夜は騒がしく更けていった。

 

************************************************************

 

 ──ザぁぁぁぁぁ。

 

「ん、んん……」

 

 寝袋の中で、ゆっくりと目を覚ます。

 

(…………鼻が痛い)

 

 昨日、鼻で煙草を吸ったせいで鼻奥がつーんとしていた。

 

 何が効き煙草大会だ。2度とやるか。

 

 ザァぁぁ、ザァぁぁぁーー。

 

 雨だ。雨が降っている。テントに雨粒がぶつかる音が響いていた。雨音と湿気が合わさって気持ちがいい。環境音が安らぎを生み出している。

 

「…………ん? 雨?」

 

 雨を認識した瞬間、一気に意識が覚醒した。

 

「やっべ!? 起きろお前ら!!」

「「「……ん?」」」

「雨はまずい!! い、急いで外のテーブルとか片づけるぞ!!」

「「「うぅ、えぇ?」」」

 

 酒飲みモンスターズはまだ意識がハッキリとしていないようで、寝台(コット)の上で芋虫のようにもぞもぞとしていた。時間が勿体ない。

 

「起きろクズども!! 俺は片付け始めてるから絶対に二度寝するなよ!!」

 

 しゃっきりしない彼女達に罵声を飛ばし、俺は弾かれたようにテントから飛び出した。

 

「ぐぁあ、最悪だ!! 死ぬほど振ってやがる!!」

 

 多くの雨粒が俺を濡らす。

 

 外に置いていた椅子、テーブル、焚火台がずぶ濡れだ。テーブルの上に置いていた人数分の煙草も水分を吸って使い物にならなくなっていた。

 

「あぁ、くそ……!!」

 

 缶ケースに入っているおかげで被害を免れた数本のザ・ピースをポケットに突っ込み、俺は急いで片付けを始めた。

 

************************************************************

 

「……ふぅ。これで大体は車に詰め込めたか」

 

 雨が降る中の撤収作業は迅速に終わった。一時的な避難として、車のトランクに全てのキャンプギアを詰め込むことができた。

 

 酒飲みモンスターズは些か遅れてテントから出てきたが、ちゃんと撤収作業を手伝ってくれた。

 

「はぁ、朝の優雅な時間が消え失せたでありんす」

 

 今は縦開きのバックドアを雨よけにして、俺と安瀬はキャンプギアについた水滴や泥を1つずつ掃除している。猫屋と西代はテント内で寝台(コット)やランタンの片付けだ。

 

 それらの作業が終われば、テントを畳んでキャンプは終了だ。名残惜しいが雨が降ったのなら仕方ない。

 

「コーヒーとか作って飲みたかったよな…………ん?」

 

 車を後ろから眺めていると、変な違和感を感じ取った。

 視線の先は車内前方の座席。ハンドルのある位置が斜め上に傾いて見える。

 

「ま、まさか」

 

 その場に急いでしゃがみ込み、リアタイヤを確認する。

 

「どうした陣内? 急にしゃがみ込んで」

「…………」

 

 後部の両タイヤは泥濘に沈み込んでいた。軽自動車の狭いトランクに4人分のキャンプギアを詰め込んだせいで後部に荷重がかかり、ぬかるんだ地面に食い込んだのだ。

 

「な、なぁ安瀬。ちょっと車を動かしてみてくれないか?」

「……ま、マジでござるか?」

 

 俺の行動と一言で、安瀬は全てを察したらしく青い顔をしていた。

 

************************************************************

 

 結論から言うと、車は一切動かなかった。

 エンジンをいくら吹かしても、車輪は空転を繰り返すのみ。後ろから運転手以外の3人で押しても、泥に足を取られた車はびた一文として前に進まなかった。

 

「もーー、何でこうなっちゃうかなーー」

「今日の天気予報は晴れだったはずなのに、ついてないね」

「山地にノーマルタイヤで来たのがそもそもの間違いだったな」

「キャンプの経験不足がもろに出てしまったの」

 

 テント内で円状に座って、俺達はぶつくさと文句を言い合う。外では未だ結構な量の雨が降り続けていた。帰宅手段を失ったので、俺達はテント内に閉じ込められた事になる。

 

 ……しかしまぁ、実はそこまで危機的な状況というわけではない。

 

「明日は快晴ぽいしー、昼まで待ってタイヤの泥を拭いたら何とかなりそうだよねー」

「そうでござるな」

「最悪、明日も雨が降っていたら公道まで歩いて出てタクシーを呼ぶか」

「麓のホムセンまでチェーンを買いに行くわけだね」

「あぁ」

 

 車に着けるチェーンがあれば、泥沼からの脱出も簡単だ。金が凄くかかるという点にさえ目を瞑れば無事に帰ることはできる。

 

「うむ、では」

 

 パンっと安瀬が手を叩き、俺達3人の視線を集めた。

 

「今日はここでもう一泊して、明日安全に帰宅するという結論でよろしいか?」

「「「異議なし」」」

 

 災い転じて福となす。疲れていたので何もしない日というのはむしろありがたいかもな。今日は寝袋に横になってスマホでも弄りながらボーっと過ごそう。モバイルバッテリーもある為、充電の心配もない。

 

「でもご飯とお水はどーしよー?」

「水は問題ないでござる。近くに湧水を排出する水場があるぜよ」

「飯はまだベーコンとウインナーがあったから、そこに白飯だな」

「少し彩りが足りないけど仕方ないね」

 

 カセットコンロがあるので火の確保も問題ない。

 

「まぁ、一応は危機的状況な訳でござる。申し訳ないが、個人の食糧や物資を共有してもよいか?」

「謝るなよ。当然の判断だろ?」

「そうだね。至極真っ当な話だ」

「安瀬ちゃん、こういう時は本当に頼りになるよねー」

「そ、そうかの……?」

 

 安瀬は少しだけ顔を逸らした。素直な賞賛が恥ずかしかったのだろう。だがやはり俺らのリーダーは彼女だ。ぶっちぎりの信頼がある。

 

 俺達は安瀬の指示通り、自分の荷物を漁って共有する物を集め始めた。やっている事は厳格だが、本当に危機感はない。完璧に閉じ込められているわけでもなく、食糧難に喘いでいるわけでもない。緊急事態と言うには大袈裟だ。

 

 数分後、俺は自分の出せる物を彼女たちの前に晒した。他3人も物資を提供する。

 

 テントの一角に様々の物が積みあがった。菓子類、ジュース、ウェットティッシュ、紅茶パック、モバイルバッテリー、カイロ、その他多数。

 

 だがそこに、酒と煙草は一切提出されなかった。

 

「「「「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」」」」

 

 ()()()()()

 

 テント内の空気がどす黒く淀んでいく。俺を含めた4人から、暗黒の瘴気がほとぼしった。

 

「おろろ? 皆の衆、少し品ぞろえが悪いようじゃが?」

 

 わざとらしい声音で安瀬は周りに圧を掛けた。

 

「そうだね。きっと自分だけ良い思いをしようとする卑しい人間がいるせいだ」

 

 外の泥濘地より汚れた瞳を、西代は俺達に向ける。

 

「ここで物資を共有しない奴はー、後でぶちのめされても文句は言えないよー??」

 

 猫屋はもはや直接的な脅し文句を口にした。

 

「まぁまぁ、全員落ち着けよ」

 

 暴動寸前の彼女達に落ち着くよう声をかける。

 

「今の俺達は仮にも運命共同体だ。そんな中で、1人だけ物資を独占しようなんてカスがいるわけがない。そうだろ?」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。これは今日1日の貴重な財産。砂漠に遭難した際の飲み水と同等。絶対に渡すわけにはいかない。

 

「……陣内の言う通りでござるな!!」

「いやーー、ごめんね疑っちゃってーー!!」

「あはは……!! 僕も素直に反省する事にするよ! 仲間を信じられなかった未熟さを恥じるばかりさ」

「いやぁ、俺達って本当に硬い絆で結ばれてるよな!!」

 

 闇の3女どもの反応で確信を得る。物資を隠しているのは絶対に俺だけではない。酒飲みモンスターズも何かを隠している。

 

「「「「………………………………」」」」

 

 自分の嗜好品を守りながら、他人の財産を白日の下に晒して奪い取る。今日はそういったコンセプトの戦いだ。

 

 疲れていたのでちょうどいい。この陣内梅治、この状況下で誰よりも裕福でストレスフリーに休日を過ごして見せよう。

 



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ヤニクローズドサークル・後

 

 俺達の牽制は長時間に及んだ。

 

 自身の就寝スペースで陣を張った緊迫状態が既に1時間ほど続いていた。この1時間、誰も一言も喋っていない。ワンポールテント内には依然として一触即発の空気が立ち込めている。

 

 俺はこの中、嗜好品を奪取する方法を考えていた。

 

 ──トントン

 

(……煙草を持っているのは恐らく俺だけだ)

 

 客観的に自分の有利な点を整理する。外に置かれていたせいで、酒飲みモンスターズの煙草は掴むだけでボロボロと崩れ落ちてしまうほどにずぶ濡れになっていた。

 

(だが酒は持ってない)

 

 俺が個人的に持ってきた酒は昨日既に飲み干した。共有のアルコール類も底を突いている。なので、今ここに存在する可能性がある酒は、彼女達が偶然持っていた個人の物に限る。

 

 酒飲みモンスターズは、酒飲みモンスターズだ。恐らく、1()()()()()はアルコールを所持している。

 

 ──トントントン

 

(じゃあ、どうやってその酒を奪い取ろうか)

 

 実のところ、1時間も思考を巡らせたが良い案は思い浮かばなかった。……早く何か思いつかないとヤバい。ここには悪知恵が働く人間が多すぎる。

 

 ──トントントントントントン

 

 ……さっきからうるせぇ!!

 

 寝台に腰掛け、貧乏ゆすりを続けているヤツが居る。猫屋だ。

 

「猫屋、貧乏ゆすり止めろよ。行儀が悪いぞ」

「ぅ、ぅうぅぅぅぅぅうぅぅぅ……」

 

 俺が注意すると、彼女は苦しそうな呻き声をあげた。発情期の猫でも、もっとましな声を出す。

 

「お煙草様、吸いたーい……」

 

 彼女はヤニ切れを起こしていた。流石はヤニカス。1時間ほどの禁煙が辛いようだ。

 

 まぁぶっちゃけ、煙草の離脱症状は俺もキツイ。何かやる事や目的があって断っている状況なら余裕で我慢できるが、手持ち無沙汰の時間になると無性に吸いたくなる。それが煙草だ。

 

「やはり猫屋は重度のニコ中であったか」

「一度病院に行く事を僕は強くお勧めするよ」

 

 安瀬と西代が、猫屋をなじる。

 きっと2人も煙草を吸いたいと感じているだろう。だが、喫煙量の多い猫屋は別格。間違いなく負のスパイラルに陥ってる。

 

「うぅー……う、うにゃぁーーー!! も、もう我慢のげんかーーい! 安瀬桜、かくごーーー!!」

「……はぁ!?」

 

 突如、猛獣の如く猫屋が安瀬に飛び掛かった。

 

「な、なんで拙者が!?」

「こういう時は、安瀬ちゃんが隠し持っているに決まってるんじゃーーーーー!!」

「風評被害甚だしいでござる!! ……って、うわぁ!?」

 

 瞬く間に、猫屋が安瀬を投げた。決して乱雑に床に叩きつけたのでなく、ストンっと柔らかい音がするほど優しく転がした。彼女の無駄な技量の高さが伺える早業だ。

 

 というか、猫屋のヤツ、打撃だけじゃなくて(やわ)らまで自由自在かよ。

 

「今だぁーー!!」

 

 床に寝た安瀬を跨いで、猫屋が安瀬のバックに手を突っ込む。

 

「ね、猫屋!? お主、人の荷物を勝手に漁るでない!! それは人としてやっちゃダメなやつであろうが!!」

「う、うるさーーい!! いいから煙草寄こせーーー!!」

 

 あぁ、なんて醜い争いなんだろう。ほんとクズだよな、コイツ等。見ていて胸がすく思いだ。

 

「どこだーー!? これかーー!?」

 

 何か見つけたのか、猫屋はバックから左手を引き抜く。

 

「ん? なにこれー?」

 

 手に握られていたのはビニール袋。中には布地が見えた。

 

「それ昨日穿いてた拙者の下着!?」

「うわっ!? ばっちぃー!?」

「ばっちくないわ! ぶち殺すぞ(おのれ)!!」

 

 ついに安瀬がキレた。狭いテント内の一部で、もみ合いの喧嘩が勃発する。『フシャーーーーッ!!』『グルルルルッ!!』と2人はマウントを取り合いジタバタと暴れ合った。

 

 購入費用をケチらなかったおかげで、円錐状型のワンポールテントは縦にも横にも広い。2人が喧嘩できるスペースくらいは余裕にある。

 

「やれやれ。醜い争いだね」

「ん? あぁ、そうだな」

 

 俺がクズ2人の乱闘をニコニコと観戦していると、西代が俺の就寝スペースにやってくる。争うクズ共を尻目に、彼女は俺が座する寝台に腰掛けた。

 

「ところで陣内君。()()()()()()()()()?」

 

 妖魔(ようま)、西代さんはハイライトの無い瞳を向けいきなり俺にそう問いかけた。

 

「……おいおい。そんなわけないだろ? 俺が煙草を1人占めするなんて──」

「缶ケースのピースはそこまで雨の被害を受けなかったんじゃないかい? それに、君は一番最初にテントから出た。懐に煙草を仕舞う余裕はあったはずだ」

 

 西代は早口で自分の推論を語って聞かせた。

 

 ……コイツ、探偵かよ。推理が完璧すぎて引くわ。

 

「いいや? 普通にずぶ濡れだったぜ」

 

 だがあくまで推論の粋をでない。この程度の揺さぶりで俺から煙草をせしめようというのは甘い考えだ。

 

「ふぅ。そう言うのなら仕方ないね」

 

 西代はスッと俺に身を寄せた。ぐにゅりと形の良い胸が、俺の腕によって潰される。

 

 ぐるりと脳が反転する感覚がした。

 

 プチン、プチンと、彼女のシャツの胸ボタンが2つほど外される。俺の視界に、黒いブラジャーと隆起した白のお餅が晒された。

 

「煙草をくれるなら……もう1つボタンを外してあげる」

 

 俺はすぐさま煙草を一本彼女に差し出した!! 

 

「……くくくっ、ばーか」

 

 西代は蠱惑的に微笑を浮かべ俺から煙草を奪い取ると、胸の谷間に煙草を押し込む。そのまま彼女は(はだ)けていた前のボタンを締め切った。

 

「ごちそうさま、陣内君。後でコッソリ一緒に吸おうね?」

 

 勝ち誇った表情で彼女は自分の寝台に戻って行く。

 

「────────はっ!」

 

 意識が正常に戻る。遅れて、俺はまんまと姦計にハマったのだと気づいた。

 

「う、う、うぐおおっおぉぉぉぉぉ……!!!!」

 

 寝袋に倒れ込んで、狂うほど悶えた。俺のアイデンティティが音を立てて崩壊している。

 

(こ、こ、この俺が色仕掛けに引っかかった!!!??? う、うわあああああああああああああああああああああああああ!!!!)

 

 酒が無い。ノンアルコールも存在しない。この状態の俺は普通の男子だ。酒を飲んでいない状態だと、むっつりの毛すらある。西代はそれを見抜いて、俺にすり寄った。

 

 あの女狐、男の純情を弄びやがった……!!

 

(ち、ちくしょう!! すっげぇ恥ずかしい……!!)

 

 寝袋に包まった状態で西代の方を向いた。邪気を込めて彼女を睨みつける。

 

「ふふ、なんだい? そう情熱的に見つめないでよ」

「覚えてろよテメェ……!!」

 

 俺は復讐の誓いを言霊として吐き出し…………高鳴った胸の鼓動を必死に抑え込んだ。

 

************************************************************

 

「ハァ、ハァ……や、やはりお主には敵わぬか。ギブじゃ、ギブ」

 

 キャットファイトは前評判通り、猫屋の勝利で終わった。テントの厚い床敷物の上に仰向けの状態で安瀬が抑え込まれている。

 

「いやー、動けるね安瀬ちゃん! ポテンシャル高ーーい!」

 

 流石は性格以外完璧な女、安瀬だ。片手とはいえ、あの猫屋相手に寝技で食い下がっていた。

 

「ねぇー、今度一緒にうちのお父さんから護身術でも習わなーい? 安瀬ちゃんなら、いい具合に私の遊び相手になると思うんだよねー!」

「やらん。一生頑張っても、お主の片手以下で終わりそうじゃ」

「ふひひっ、まぁーそうかもねーー! 私って、超天才な訳だからーー!!」

 

 適度な運動でストレスを発散できたのか、先ほどまで禁断症状に震えていた猫屋は打って変わってご機嫌そうだ。

 

 彼女たちの攻防は結構激しかった。タイツや緩い甚平(じんべい)で暴れ回るもんだから、猫屋の長い脚や安瀬のたわわといった際どいラインが見え隠れして非常に見ごたえがあっ…………。

 

(即急にアルコールが必要だ!!)

 

 気持ち悪い俺を酒で正常に戻さなければいけない。知的でクール、色事に動じないという無敵のアイデンティティを取り戻す。……何でもいいから、早く血潮にアルコールを注入するんだ。

 

「はぁ……無駄に動いたせいでお腹が空いたで(そうろう)

「あー、それ私もー。そっちの2人はどんな感じー?」

「僕もだよ。朝から何も食べてないしね。一時休戦にして、早めのお昼ご飯にしようか」

「!!」

 

 話題がご飯に移ったその時、俺にある閃きが舞い降りる。

 

「…………そうだな。俺も腹が減った。車から食材と調味料を取って来る」

 

 口早にそう言って、俺はテントから出て車へと向かった。

 

************************************************************

 

 車のバックドアを縦に開いて雨避けにし、その下で調味料を入れているプラ箱を開く。俺はそこから透明なボトルを取り出した。

 

「とうとう、これに手を出す時が来たか……」

 

 ()()()

 

 度数12パーセント前後。製造過程で日本酒に塩や甘味料を加えた物であり……それ以上は俺もよく知らない。味に関してはまるで未知だ。一応飲めるらしいが、それ本来の使用用途は料理に混ぜる事。飲むために作られたものじゃない。

 

 料理酒の存在に気がついた時は自分の事を天才だと思った。…………けれど正直言って、今はちょっと躊躇してる。まずい酒を飲むのは嫌だ。

 

「ま、まぁ仕方ないか」

 

 心身症とか言う、この訳の分からん体質を発揮するには酒が必要だ。それにまた西代に色仕掛けでもされたら困る。

 

 西代は手段を選ばない。男の俺相手に、割と平気でああいう事をする。逆に俺もアイツには容赦しない節があるので釣り合いは取れているように思えるが……まぁ、それは酒が入っている時の話であって、今はダメだ。やっばい。普通に可愛い。

 

 俺は手の甲に料理酒を数滴ほど落とした。それを恐る恐る、舌でゆっくりと舐めとる。口内で酒精を転がし、一応は味わってみた。

 

「ん?」

 

 …………意外とイケる。いや、むしろ美味い。少し塩気が濃いが面白い味だ。

 

「んっぷ」

 

 俺は料理酒の注ぎ口に直接口をつけた。ボトルを傾け、ジャバジャバと一気に飲み下す。

 

「……んっ……んっ、ぷはぁ! イケるなぁ、これ!!」

 

 すまし汁みたいな旨味成分がグッと濃縮されている。調味料会社の企業努力が伺える品だ。

 

「美味い、美味いぞ!」

 

 俺は、この料理酒と言うやつを気に入ってしまった。これから料理酒で何かを作る時には、少しづつ飲んでしまうかもしれない。そう思うくらいには美味しかった。

 

「じ、じんなーい」

「ん?」

 

 名前を呼ばれたので、料理酒を咥えたまま振り向く。

 

 そこには()()()()()()()()()()()()が居た。彼女は雨の中、濡れているにもかかわらず突っ立ている。

 

「お前、なんで外に居んの?」

「う、運動したら喉乾いちゃって、車に置いてたお茶取りに来たんだけど……」

「?」

 

 何故か、猫屋の冗長な口調が鳴りを潜めている。なおかつ、彼女は恐るべき物を見る目で俺を見つめていた。

 

「ま、まさか陣内がそこまで酷いアルコール依存症だったなんて!! 正直、ちょっと怖いよ!!」

「──────ぉ、ぉぉ」

 

 思わず言葉が詰まった。

 

「あ、あのね、えっと、その……明日にでも2人で病院行こう? だ、大丈夫。わ、私も一緒に付き添うから……。病気が治るまで、2人で一緒に頑張ろうね?」

「本気で哀れむなよ!! あと誰が病気だって!?」

「陣内だよバカ!! 料理酒を『美味い、美味い』って言いながら飲んでるのマジでヤバいって!!」

「ぅぐ」

 

 弁明の難しい状況になってしまった。

 

 そ、そう見えるかぁ。そう見えちゃうよなぁ……。でも美味かったのは事実だしなぁ。

 

「い、いや、これが意外と美味しくてだな」

「そ、そんなわけないじゃーん……うぅ、可哀そう。お酒の飲みすぎで、ついに頭のネジ外れちゃったんだね、陣内」

 

 猫屋は下手な泣きまねをしながら、俺に近づいて来る。

 

「絶対に見捨てないから、アル中はちゃんと治そうね!!」

 

 俺の肩をポンポンと叩き、猫屋はそれはそれはたいそう綺麗な笑顔を俺に向けた。ピカピカとしていて眩しい。

 

 明らかに馬鹿にしたものが混じっている。

 

 カチンときた。口喧嘩の時間だ。

 

「さっきヤニ切れで暴れてた奴に言われたかねぇ! お前の方こそ禁煙外来に行ってこいよ!!」

「あぁーー!! 人が心配してやってるのにそういう事言うんだー!!」

「余計なお世話だって言ってんだよ、このニコ中!!」

「んだとぅ、このアル中!!」

「だから俺はアル中じゃねぇ!!」

「私だってニコ中違うからーー!!」

 

 この論争もう何回目だよ! いい加減うんざりするわ!!

 

「よぉし、丁度いいから白黒付けようじゃねぇか。そんなに言うなら明日病院に検査受けに行くぞ!!」

「面白いじゃーーん!! もし、依存症って診断されたらー、お医者さんが良いって言うまで禁酒してよねーー!!」

「おう、良いぜ!! テメェも同じ条件でな!!」

「上等!! 泣いて謝ったって許してあげないんだからー!!」

「っは! 誰が泣くって? 暇さえあれば煙草吸ってる猫屋が検査で引っかからないわけがないだろ!! 泣くのは絶対にお前の方だ!!」

「あれれー!! 陣内こそ、四六時中お酒飲んでる癖して検査から逃れられる自信があるんだーー!! へぇーー、すっごいねぇーー!! 凄いバカだよねーー!!」

 

 俺は瞬時に押し黙ってしまった。

 

 何か、積み重なったボディブローのような不快感が俺に押し寄せる。臓腑がズンズンと重たい。具体的に言えば、肝臓付近だ。

 

 検査に引っかかたら、また、何日も、禁酒?

 

「……………………」

 

 猫屋も口を一文字に結び、目を泳がせていた。彼女は胸に手を当てて深く深呼吸を繰り返している。

 

 肺を心配している様子だった。

 

「や、やっぱり、病院はやめにしようぜ。お、俺が悪かったからさ」

「う、うん、そーだね。私もムキになってごめんね」

「いや、俺の方こそごめん」

「いやいや、私の方こそー……」

 

 俺達はペコペコとお互いに頭を下げ続ける。大切な物を守るためだ。

 

「「ははっ、あはははははは」」

 

 珍しく、平和的に、俺達は仲直りをしたのだった。

 

************************************************************

 

 猫屋と無事に和解した後、俺達は食材を持ってテント内に帰った。

 

 飯時まで争うつもりは彼女達にも、俺にも無く、調理から食事の終わりまで何1つとして諍いは発生しなかった。

 

(……そろそろ煙草が吸いたいな)

 

 腹がそこそこ膨れたので、俺は食後の煙草を満喫したくなっていた。

 

「俺、ちょっとトイレ」

 

 この場で吸うわけにはいかない。なので、一旦外に出る事にした。

 

 このキャンプ場の喫煙所はトイレの真横に存在する。そこまで行って煙草を燻らせよう。折り畳み傘を持っているので道中濡れる心配はない。

 

「あぁ、僕もついて行くよ。何がとは言わないけど、陣内君が抜け駆けするかもしれないからね」

「あー、確かに監視は必要だよねーー」

「…………うむ、そうであるな。頼んだでおじゃる」

 

 いけしゃあしゃあと、よく口が回るもんだ。西代は俺と同じく煙草が吸いたくてついて来ようとしているだけだ。

 

「ぬかるんでるだろーし、転ばないよう気を付けてねー」 

「あいよ」

 

 2人を置いて、俺と西代はテントから出た。まだ雨の勢いが強い。

 

「ほれ」

 

 傘を開いて、西代を手招く。先ほど煙草を奪われた恨みはあるが、雨に濡らして歩かせるほどではない。

 

「うん、どうも」

 

 西代は抵抗なく俺と一緒の傘に入った。

 

 そのまま小さな彼女と一緒にトイレの横にある喫煙所まで、泥に足を取られないよう慎重に歩く。

 

 寒がりの西代を濡らさないよう、傘を傾ける。少しだけ肩に雨がかかった。

 

「君と相合傘か。……これは、何だがとても悪い事をしている気分になるよ」

「随分と殊勝(しゅしょう)な心がけだな、えぇおい?」

 

 先ほどの色仕掛け。女の武器を使って俺から煙草を奪い取った事に対して、意外にも彼女は罪悪感を持っているようだった。

 

「そういう意味じゃない。…………そうだ、陣内君。僕と2人で煙草を共有しようか」

「はぁ?」

「僕と共同戦線を張ろうって言ってるのさ」

 

 同じ傘の中、彼女はこちらを見上げて意地が悪そうにニヤリと笑った。

 

「共同戦線だと? どういう意味だ?」

「そのままの意味さ。猫屋がジャックダニエル(ウイスキー)の小瓶を持ってるんだ。それを2人で取り上げよう」

「……なんでそんな事知ってるんだ?」

「昨日の荷造りの時に、バックに詰めているのを見た」

「あぁ、なるほど」

 

 そう言えば、先ほど彼女はバッグを持ってテントの外に出ていた。何かを隠し持っている事は明確だ。西代の話の信憑性は高い。

 

 煙草を共有しようと言ったのは、俺と西代だけで良い思いをしようと言うお誘いか。

 

「ちなみに拒否権はないよ? 断った時点で、君が煙草を持っている事を2人に暴露する」

「お、お前ってやつはマジで……」

 

 そんな事になれば、俺は安瀬と猫屋にボコボコにされる。手口が狡猾だ。手を組まされる事は確定してしまったように思える。

 

「…………その前に聞かせろ。どうやって猫屋から酒を奪うつもりだ?」

「なぁに簡単さ。僕が注意を引くから、隙をついて君が猫屋を背後から拘束してくれ。その間に僕が猫屋のバックに手を突っ込む。そうして酒瓶を晒して猫屋を糾弾し、仲良く皆でウイスキーを楽しむんだ。もちろん、煙草は僕たちだけがこっそり占有してね」

 

 暴力的かつ、卑怯。中々にクズい作戦だ。

 

「小柄な僕じゃ、あの猫屋を抑えておくことは不可能だ。そこで頼りになるのが男の共犯者という訳だよ、ワトソン君」  

「お前ひでぇヤツだな。俺に猫屋(おんな)を羽交い絞めにしろってか?」

「それは別に気にしないでいいと思うよ? 猫屋は喜びそうだし」

「はぁ? なんで?」

「……ふぅ、やれやれ。相変わらず、こういうのには察しが悪い」

 

 西代は大袈裟に溜息をついて、諦めの感情が含まれたような微笑を浮かべた。

 

「僕はちゃんと友達想いの良い奴で、陣内君は僕にとって都合が良い男友達って意味さ」

「……?」

 

 彼女の返答はまるで意味不明だった。西代が良いヤツで、俺が……()()()()()

 

 うろ覚えだが、最近、どこかの誰かに同じことを言われた気がする。

 

「おい、不穏なこと言うなよ。俺を財布にでもするつもりか? 今月は金、貸せないからな」

 

 再来週には安瀬との約束がある。結構な額を使うつもりなので貸し出す余裕がない。

 

「いつも僕が金を無心してるみたいな言い方はやめてくれないかな…………どうにも話がズレたね。それで結局、やるの? やらないの?」

「……はぁ」

 

 ため息で不服の意を示す。西代の申し出は断れる物ではないが、先ほど恥をかかされた身からすると少し尺だ。脅されている事も加味すれば腹立たしいまである。

 

「仕方ねぇな。乗ってやるよ」

「決まりだね。なら早速、同盟の証を頂戴しよう」

 

 西代は得意気に、俺に手を差し出してきた。そこに煙草を置けというのだろう。

 

「ふふふっ、これで今日もいつもと変わらない楽しい1日になりそうだ」

「はいはい、そうだな。俺達2人だけは休日を満喫しような」

 

 俺は渋々ポケットから煙草を取り出して、半分ほど西代に手渡そうとした。

 

 その瞬間、背後から手が飛び出す。

 

「とったでござる!!」

「「え?」」

 

 西代と一緒に、急いで背後へと振り向いた。

 

「かっかっか!! 我の洞察眼を見誤ったな、カス共!! 貴様(きさん)らが我を出し抜こうなど千年早いわ!!」

「「あ、安瀬……!!」」

 

 一瞬にして、安瀬に煙草を奪われた。

 

 2人で一緒に出ようとした俺達を訝しみ、安瀬は俺達を追跡していたのだ。雨音とぬかるんだ地面で足音が掻き消され、彼女の接近に俺達は気が付けなかった。

 

「そ、それは僕の煙草だぞ!! 返せ!!」

「ちげぇよ!! 元を正せば俺の煙草だ!!」

「はっはっは!! これはもう皆の煙草となったでござるよ!! ……では、さらばじゃ!!」

 

 安瀬は即座に踵を返そうとした。

 

 テントに戻って、直ぐに吸うつもりだ……!!

 

「待って、安瀬! 僕が悪かった!! せめて共有するのは3人だけにしよう!! 猫屋にくれてやる必要はない!!」

「お前のどこが友達想いなんだ!?」

 

 俺がツッコミを入れると同時に、テントに帰ろうとする安瀬の肩を西代が掴んだ。

 

 その時──。

 

「ふぁっ!?」

 

 突然後ろに引っ張られた安瀬は泥に足を取られ、西代にもたれ掛かるように倒れ込む。

 

「うわッ!?」

 

 西代も同じく体制を崩す。そして彼女は隣にある俺の腕に手を伸ばした。

 

「ちょ!?」

 

 ドミノが連鎖するように俺も巻き込まれた。白い煙草が宙を舞い、俺達は茶色の地面にべちゃ!! と頭から倒れ込む。

 

「うぎゅっ!?」

「ふぎゅっ!?」

「ぶぶっ!?」

 

 煙草と俺達は、両方とも泥水に沈んだ。

 

************************************************************

 

「……もう遠くまで行ったよねー?」

 

 陣内達が外であれこれしている時分。猫屋しか居ない広いテント。猫屋李花は1人きりの時間を満喫しようとしていた。

 

「さぁーーて、今の内、今の内ぃーー!!」

 

 猫屋はタンブラーにウイスキーをチョロチョロと流し込む。彼女は1人になったタイミングを見計らって自分だけ飲酒を楽しもうとしているようだ。

 

「甘いウイスキーにはー、吸いごたえのある風味豊かな煙が欲しーいんだけどーー、まぁ、今日は仕方ないかにゃーー」

 

 猫屋がジャックダニエルを愛飲する理由は煙草との相性が抜群に良いからであった。

 

「ふっふ、ふ~~ん。今日は、皆が断酒して苦しんでる顔でも見て我慢しよーっと」

 

 上機嫌に鼻歌を歌いながら、猫屋は中々最低な事を口にする。

 

 バサッ────

 

 

 その天罰が下ったのか、猫屋李花が甘い香りのウイスキーに口をつけた瞬間、ポールテントの天幕が全て吹き飛んだ。

 

 

************************************************************

 

 押さえつけていた上部のテントが消えたせいで、カラン! とテントを支えていた支柱が倒れ込んだ。

 

 俺達3人が()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ぎゃッ!? うわ、雨なんでぇー!?」

 

 遮るものを失ったテント内が激しい雨に襲われる。残ったのは地面に敷かれた六角形のビニールシートだけだ。

 

「な、なにこれーー!? な、なに!? ど、どういうことーー!?」

 

 シートの上で、猫屋は酷く狼狽していた。いきなり雨風に晒されたので、当然の反応に見える。

 

「ここに、どろんこ相撲大会の開始を宣言する!!」

 

 雨の中、泥にまみれて仁王立ちする安瀬が高らかに声をあげた。

 

「え!? えぇ!? な、なーに!? 相撲!? はぁ!?」

 

 次点、西代が口を開く。

 

「ルールは簡単さ! この六角形のシートから出て、泥に叩き落とされたら負け!!」

「優勝商品はテメェの持ってるジャックダニエル(ウイスキー)ッ!! 以上だ!!」

 

 最後に俺が声を張り上げて説明は終わった。

 

 俺達3人は全てを失った。

 

 煙草を奪い合って泥に突っ込んだ俺達は、まずは冷静になって今の現状を鑑みて『なんか、猫屋だけ綺麗なままなのはズルくね?』『それに、猫屋は酒も持っているよ?』『よし、あ奴も汚して、ついでに酒も奪い取るでござる!!』となり、この計画を実行するにまで至ったのだ。

 

「覚悟するぜよ猫屋!! その綺麗なおべべをぐちゃぐちゃに汚してやる!!」

「元はと言えば、素直に物資を提供しなかった君たちが悪い!!」

「俺の(みそぎ)はもう済ませた! 次はテメェの番だ!!」

 

 俺達は今、運命共同体。仲間外れは可哀そう。

 

 猫屋も全身きったねぇドブ色に染めてあげよう!!

 

「あ、あぁーね。そういう展開かー。……はぁーー、だっるぅ。もう色々と雨でびちょびちょだよー……」

 

 ようやく事態を飲み込めたようで、猫屋は座った状態から立ち上がった。

 

「よーするにー……皆で寄ってたかって私の大切なお酒様を奪って、なおかつドロに叩き落そうって言うんだね。へぇーー……そう」

 

 幽鬼が聳えるように、猫屋は妙な圧力を纏って臨戦態勢を取る。

 

「「「…………」」」

 

 俺達は不思議と、開けてはいけない物を開けてしまった錯覚に陥った。

 

「陣内って、身長170ちょいで、体重は65くらいだったよねー?」

「え? あ、あぁ、そうだけど」

「身長差10センチ、体重差は20キロって感じかーー……」

 

 猫屋は目を細めて、俺を一点に見つめだした。ゾクゾクと俺の背筋に悪寒が走る。

 

「それなら、3対1でも余裕じゃーん」

 

 俺より小さくて華奢なはずの彼女は、自信満々にそう言い切る。

 

「ほら、みんなおいでー?」

 

 猫屋が獰猛に笑った。

 

「やさぁーしく、いい子、いい子、してあげるからねー? 怪我とかしないように、ちゃーんとよしよしって感じで円から出してあげるーー」

「「「……………………っ」」」

 

 暴力的な子ども扱いを受けて、息巻いていたはずの俺達は思わずごくりと唾を飲み込んだ。

 

 頭から泥を被り、煙草をダメにしてしまったやるせなさでこの作戦を企画したが…………あ、あれ? や、ヤバくね? 猫屋は細身だから、相撲なら勝てると思ってたんだけど……まるで動じてないぞ? むしろ自分の勝利を確信して、イキイキとしてるような……。

 

「お、恐れるな皆の衆!! あんなのは虚勢じゃ!! いくらあ奴がネコ科最大の猛獣だとしても、3対1なら流石に勝てる!!」

「そ、そうだよ! 数の有利はこっちにある!! 陣内君もいるし、きっとなんとかなるはずだ!!」

「お、おぅ、任せろ! あ、あんな性格も体重も軽そうなヤツ、直ぐに抱えて押し出してやるよ……!!」

「あぁーー、そういうウダウダした御託(ごたく)はいいからさーー……」

 

 士気を高める俺達を猫屋は冷笑して、気怠るそうに前手を胴前に構える。その立ち姿はうすら寒い物を感じるほど堂に入っていた。

 

「早く来なよ。ビビってんの?」

 

 短い、侮辱じみた誘い文句が開戦の合図だった。

 

「「「…………う、うぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」

 

 なりふり構わず俺達は決死の覚悟で吶喊する。3人の心持は、まるで巨大な怪物に挑む勇者パーティー。今日一番の団結を胸に、俺達は勇敢に戦おうとした。

 

 1人だけ無事で、酒も持ってるとか、絶対に許してたまるかぁぁあああああああああああああ!!

 

************************************************************

 

 土俵に最後に残ったのは猫屋ただ1人だけでした。

 

************************************************************

 

 

 …………今回の"キャンプ軟禁、泥沼相撲事件"には、残念な事にまだ続きがある。

 

 

 相撲が終わった後、俺達は再びポールテントを立て直した。雨と風が酷い中で、凍えながら長時間の作業を強いられる事になり、体は当然冷え切った。

 

 その日は結局、ウイスキーを共有しながら全員で丸く固まり、なんとか体温を保ち1昼夜を凌ぐ羽目になった。

 

「へくしゅッ、へくしゅんッ!!」

 

 その更に翌日、全員がしっかりと風邪をこじらせた。

 

 くしゃみが止まらない。

 

「うぅぅ、頭が痛いでござるぅ……」

「舌が苦ーい……でもお腹すいたぁー……」

「寒い、寒いよぉ。誰か、湯たんぽ持って来てぇ……」

 

 寝室が死屍累々となる。俺達4人はまた大学を自主休講し、今度は病床に伏したのだ。

 

「………………」

 

 ベットから起き上がり、布団が縦に並ぶ彼女たちの就寝場所に目をやる。風邪で弱っているのか、酒飲みモンスターズはポロポロと涙を流していた。

 

「……少し待ってろ。薬とお粥、あと湯たんぽもちゃんと用意するから」

 

 俺は熱がある中、酒飲みモンスターズの介抱をした。

 

 こういうのは体力のある男の仕事だ。男として生まれた者の当然の責務。それに風邪を引いた原因は悪ふざけした俺にもあるので、率先してちゃんと看病しよう。

 

 ……だけど結局、疲れを取るために行ったキャンプのせいで余計に疲れが溜まった気がする。

 

 『暫く、こいつ等とキャンプはしなくていいや』と俺は心の底から思った。

 



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