挽肉になるまで、あと1センチ (ほいれんで・くー)
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挽肉になるまで、あと1センチ

元ネタ:猿夢


 よく書けている、と彼は思った。実によく書けている。字数にしてわずかに2,500字程度、さっと読むだけならば10分もかからない。だが、その文の量に比して内容は非常に充実している。「夢」という普遍的なテーマ、気味の悪い風景、お猿の電車、トンネル、ボロを纏った四人の小人、活けづくり、えぐり出し、挽肉……そして、まったく爽快ではないオチ。1000年後の人類にこの書き込みを読ませてもおそらく恐怖するであろう。あるいは1000年前の人類が読んでもきっと恐怖するに違いない。電車とかトンネルとか、そういう近代的な用語に関しては解説が必要になるだろうが……

 

 (らち)のない思考といえた。それだけ彼は疲れていたのであった。仮に、彼に名前をつけるならば「車掌」とでも「駅員」とでもいおうか、より「夢」の内容に寄り添った名前にするのならば「車掌」の方が相応しかろうが、とにかく彼、車掌は、疲労していた。このところずっと、彼は疲労していた。彼は駅舎の中でスマホを弄りつつ、脚付きの箱型灰皿の前に座って煙草を吸っていた。煙草は妙に辛く感じられた。吸っていても不快感しか得られないが、それでも車掌は煙草を吸わずにはいられなかった。それはこの20年と少々の年月の間に彼の中で醸成された習慣によるものだった。

 

 この20年と少々の年月の間、車掌は悩み続けていた。それはある意味で自業自得ともいえた。彼自身が作り上げたこの「夢」の完成度があまりに高かったために、彼は悩み、苦しんでいた。それは何かを作り上げる者たちに特有の苦しみであった。

 

 端的に言えば、車掌はスランプに陥っていた。マンネリに苦しめられていた。

 

 スランプに陥る以前にも、彼は回を重ねるごとに夢がマンネリ化しているのを自覚していた。だが、彼はあまり危機感を抱いていなかった。なぜなら彼にとってその仕事は紛れもなく楽しいものであったし、やりがいのあるものだったからである。しかし今となっては、彼は泥沼にはまったような、出口の見えない苦しみにどっぷりと浸かっていた。

 

 きっかけは、とあるネット掲示板に書き込まれたある話だった。それは「猿夢(さるゆめ)」と通称される話で、その鮮烈なまでのグロテスクさと名状しがたい気持ちの悪さによって瞬く間にインターネット上で「死ぬ程洒落にならない怖い話」の筆頭格として評判になっていった。車掌はまた画面に視線を走らせた。やはりよく書けている。ホラーとしては出色(しゅっしょく)の出来と言っても過言ではあるまい。だからこそ車掌は苦しんでいた。チッと、彼は舌打ちをした。なにが「こっちの世界では心臓麻痺でも、あっちの世界は挽肉です」だ。被害者ヅラをしやがって。被害者云々を言うのならば、俺の方が紛れもなく被害者だ。

 

 あいつを二回も見逃したのは、まったく大失敗だった。彼は唾を吐いた。

 

 あの書き込みが、ある意味で彼の仕事の形を定めてしまった。いや、より正確に言うならば、彼の仕事に対する考え方を定めてしまった。定められるというのは、言い換えればある種の強制である。強制は良い面においても悪い面においても作用するが、今のところ車掌にとっては悪い面でしか作用していない。あの書き込み以前はもっと自由に、楽しく、気の向くままにお猿の電車を動かしていたような気がする。車掌は吸っていた煙草を乱雑に揉み消すと、また新たに一本を取り出して火をつけた。今ではどんなに仕事に没頭しても、あの書き込みが頭の片隅にこびりついて離れない。まったくもって、自由とは程遠い状況と言えた。

 

 書き込みの内容を、超えなければならない。その考えは血のシミのように彼の精神に染みついて取れなかった。しかし、彼にはその糸口すら見えなかった。

 

「あ、あの……」という声がした。車掌が目を向けると、そこには小人がいた。ボロボロの布を身に纏っており、刃物を持っている。刃物は酸化して真っ黒になった血がこびりついており、エッジの部分だけが鈍い金属色を発していた。それは「活けづくり」に使う刃物であった。

 

 こいつ、手入れをサボってやがる。車掌はそう思った。しかしそれを正面から指摘する気にはなれなかった。彼自身もここ最近は電車の整備をまったくしていなかった。マンネリ化が加速している夢に対して彼はそこまで真剣になれなかった。真剣にならねばマンネリ化を打破できないのは分かっているのだが、逆に真剣になればなるほど夢をさらにマンネリ化させてしまうかもしれないと思うと、彼はまったく身動きできなくなってしまうのだった。

 

 小人はどこか遠慮がちな態度を車掌に示していた。しょぼしょぼとした目を、きょときょとと落ち着きなく動かしている。こいつは猿だ。車掌は冷たい視線を小人に向けた。群れからパージされて、猿山のどこか目立たないところで所在なさそうに時間を過ごしている猿。自分からは一切なにもしないくせに、誰かからピーナッツが投げられるのを待っている。

 

 ある意味で、俺もピーナッツが投げられるのを待っているのかもしれない。彼は自嘲した。この八方ふさがりの状況を変えてくれるような、ピーナッツの粒。たったの一粒でも孤独な猿は喜ぶ。だが、それが投げられることはない。

 

 車掌が無言で、しかし視線に力を込めて小人を見つめ返すと、小人は申し訳なさそうな顔をして目を伏せた。クソ。分かっているぞ、お前の言わんとしていることは。車掌は内心で毒づいた。言いたいことがあるならはっきりと言えば良い。車掌はそう思った。要するに、「マンネリだ」と言いたいのだろう。彼は煙草を吸い、煙を吐き出した。

 

「あ、あの……」とまた小人が口を開いた。そしてまた口を閉じた。だが、車掌にはその次にどういう言葉が続くのか聞こえるような気がした。「また、次もやるんですか? また、同じことを」 小人は口を開かなかったが、そう言いたがっているのは確かであるように車掌には思われた。「また、同じことを」 車掌の中でそのフレーズが残響音を伴って繰り返された。同じこと! そう、同じことだ、所詮は!

 

 なにせ、マンネリなんだからな!

 

 憤怒と、苛立ちと、やるせなさが車掌の中で膨らんだ。車掌はそばにあった椅子を蹴とばした。小人がビクッと体を震わせた。椅子は小人の前にまで飛んでいった。小人はおずおずとした様子で椅子を持ち上げると、もとの位置に直した。椅子を蹴とばすのはいつものことであり、小人が椅子を直すのもいつものことであった。こんなところでもこの夢はマンネリ化していた。

 

 突然、けたたましい音が駅舎内に鳴り響いた。それは壁に設置された赤いベルから発されていた。車掌はうんざりとした気持ちになった。またこの「猿夢」に誰かが来たらしい。その瞬間、車掌はハッとした。猿夢! 自分でその言葉を使ってしまったことに彼はまた苛立った。俺は、この夢が「猿夢」であるなどとは思ったことはない。しかし、今やあの書き込みが存在する以上、俺の仕事は「猿夢」としか言いようがない。そして、名前が「猿夢」である以上はその内容も「猿夢」とする他はない。

 

 彼は椅子から立ち上がると、ベルを切った。彼は窓へ向かった。窓から駅構内をのぞくと、そこにはピンクのジャージ姿の若い女が立っているのが見えた。歳の頃は、二十代前半だろうか。

 

 若い女は髪の毛を金色に染めていた。あまり程度の良い顔つきではない。顔色が悪く、目つきは茫洋としていて、阿呆のように口を半開きにしている。安物のピアスを唇の右端につけていて、裸足の足指の爪は長く伸びていた。ペディキュアは剥げかかっている。以前ならば、このような人間を見ると彼の体中にやりがいが満ち溢れたものだった。どういう風にして「恐い目に」遭わせてやろうか、どんな声音でアナウンスをしようか、どんな速度で電車を動かしてやろうか。小人にどのような得物を持たせてやろうか。どの部位から体を切り刻んでやろうか。そういう前向きで、生産的な気持ちに満ち溢れたものだった。だが、今ではただ気怠いだけだった。この金髪の女もきっと、この夢のマンネリ化を補強するだけの材料に過ぎないだろう。

 

 この金髪の女は、ピーナッツを投げるだろうか。どうもそうとは思えない。今回も望み薄であった。

 

「あ、あの……」と、また声がした。車掌が顔を向けると、そこには小人がいた。小人の数は四人に増えていた。どの小人もそっくりで、やはり猿にそっくりだった。小人たちはみんなもじもじとしていた。一番左端にいる小人が少し口を開きかけ、そして車掌の顔を見て口を閉じた。やはり小人は「また、今回もやるんですか? また、同じことを」と言おうとしているようだった。少なくとも、車掌にはそのように思われた。ああ、そうだよ。相変わらずのマンネリだよ。車掌はあごで示した。小人たちはそれでもなおその場に佇んでいたが、やがて微かに首を振りつつ駅舎から出ていった。

 

 しかし、小人が一匹だけ残っていた。小人は「あ、あの……」と言った。車掌が軽く頷くと、小人は言葉を続けた。「あの、今回こそはですね、アレを試したいと思うんです。アレなら、きっとすごく痛いでしょうし、それに珍しいですし、より残酷になると思うんです。だから、その、あの……つまり、いつもと違うのになると思うんです。今回こそは」

 

 アレとはなんだ、と車掌は思ったが、やがてそれが何であるか思い至った。「腰斬(ようざん)」だ。巨大で鋭利な刃物で腰から胴体を真っ二つにする。首を切断されるのとは異なり、腰斬はなかなか死ぬことができない。西洋におけるもっとも残酷な処刑法が八つ裂きの刑であるなら、東洋におけるもっとも残酷なそれは腰斬である。先日の反省会で、この小人は「次こそは何か新機軸を、たとえば腰斬とかをやってみたい」と言っていた。車掌は面倒くさくなった。頷くと、小人は少しだけ目を輝かせた。小人は小走りでその場から去った。

 

 馬鹿なやつだ。どうせ何も変わりはしないのに。

 

 車掌は操作盤の前へ移動した。彼は咳払いをした後、マイクに向かって言った。「まもなく、電車が来ます。その電車に乗るとあなたは恐い目に遭いますよ~」 うまくアナウンスできたのだろうか? そう、たぶんうまくできただろう。彼はボタンを操作し、駅構内へ電車を移動させた。長い間ろくに整備されていない電車であるが、今回もまた何も問題なく稼働した。それは当たり前と言えば当たり前のことであった。なぜならこの夢はマンネリ化しているからであった。

 

 電車はプラットフォームへ音もなく滑り込んだ。金髪の女はきょろきょろと辺りを見回していたが、やがて「なんなんだよぉ~、もぉ~」と知性の片鱗も窺えない口調で言うと、電車に乗り込んだ。それは後ろから三番目の座席であった。そこしか空席がないようになっているからである。彼女の後ろには男と女が乗っていた。男も女も無言で、無表情で、土気色をした顔をしていた。これもいつもどおりであった。

 

 車掌は「出発します~」とアナウンスした。電車は動き始めた。いったい何が面白いのか、金髪の女は半笑いをしながら「マジでなんだよ、もぉ~」と言いつつ、周囲を見回している。電車はホームを出るとすぐにトンネルに入った。

 

 さて、今回はどうしようか、と車掌は思った。トンネル内の照明はいつも通り、紫色で良いだろう。これまで何度か照明の色を変えようと考えたこともあったが、紫以外に特にこれといったものはなかった。紫色が一番「悪夢っぽい」のであり、「猿夢」っぽいのだから、強いて変更する必要はない。車掌は舌打ちした。何が「猿夢」っぽい、だ。俺は、俺のこの夢を「猿夢」だなんて思ったことはないぞ。そんなことを思いながらも、彼の手は習慣に従って操作盤の上を動き続けた。

 

 ストップウォッチに目をやり、ちょうど45秒が経過したところで車掌は「次は活けづくり~活けづくりです。」とアナウンスした。どこか投げやりな声音だっただろうか? と車掌は自問自答した。いや、ちゃんとそれっぽくアナウンスしたはずだ。車掌はいつの間にか自分がいつもの勤労意欲を取り戻しているのに気付き、愕然とした。クソ、やっぱりこうなるのか。俺が、他ならぬ俺自身が、この夢のマンネリ化を加速させている。

 

 様子を見ると、金髪の女は夢の中であるにもかかわらず、居眠りをしそうになっていた。たったの45秒間という短い時間すらも我慢できないらしい。おそらく動画や映画を二倍速で再生するような奴だろう。20年前にはこんな奴はいなかったのだが。最近は人間の質がどんどん悪くなっている。車掌の舌下に苦いものが溢れた。

 

 操作盤の左上にある四角いボタンを車掌は押した。直後、四人の小人たちが電車の上に現れ、最後尾の座席に座っていた男の体を切り刻み始めた。「活けづくり」の開始である。小人たちの動きは迅速で、的確だった。男がけたたましい悲鳴をあげる。正中線に沿って肉が切り裂かれ、白い肋骨が露出した。皮膚の下の脂肪層が切断され、黄色い脂肪の粒がぼろぼろと座席にこぼれ落ちる。ピンク色の長い腸が地面から掘り出されたミミズのようにのたくり、腹膜(ふくまく)に包まれていた臓器が次々と取り出されていく。小人たちはその作業を遂行しつつ、皮を剥ぎ、肉を刻み、毛を剃り落して活けづくりを作っていった。血しぶきがトンネルの紫色の灯りで染められて、やや青みがかった非現実的な色彩を放っている。激痛で男は失禁し、座席を糞便と尿で汚したが、それでもなお悲鳴をあげるのをやめない。

 

 この夢の中で一番勤勉なのは、おそらくあの男だろう。車掌はそう思った。あるいはその前の座席に座っている女もそうかもしれない。なにせ、これまで何百、何千回と繰り返されてきた「活けづくり」の中で、あの男が手を抜いたことは一度もないのだ。切り刻まれ、内臓を生きたまま取り出され、糞便を撒き散らし、悲鳴をあげる。あの男は一連のシーンを作り上げることに関して一度も疑問を持ったことも悩んだこともなく、それゆえ自分の芸(と言って良いかは分からないが)を磨くことができた。小人たちがことあるごとに自分に対して意味もない提案をしてくるのとは対照的である。だが、悩むことのない者ははたして尊敬の対象となるだろうか? 車掌はしばらく考えた。いや、ならない。あの男は、言うなれば電車の部品の一部のようなものだ。車輪や車軸、ブレーキやシリンダーを尊敬することがないように、自分があの男を尊敬することもない。

 

 金髪の女が「おい、なんだよこれ! なんだよ!」と叫んでいるのが耳に入って、車掌の意識は思考から引き戻された。「おい、ざけんな、おい! マジで!」 なんとも語彙力の乏しい女だ。車掌はそう思った。あの書き込みをした奴も語彙力が乏しかったら良かったのに。そうすれば、あの書き込みは出来が悪くなったはずであり、そうなればネット上で話題になることもなかったはずである。そもそも書き込み自体なされなかったかもしれない。

 

 すべては、あいつのせいだ。あいつが「猿夢」などという書き込みをしなかったのならば、ここまで自分が悩み苦しむことはなかったのだ。あの時「どうせ次に来た時に始末できる」と思って、さっさとあいつを挽肉にしなかったのは失策だった。

 

 最初にあれを読んだ時は、なかなか誇らしい気持ちがしたものだった。甘美な感覚とも言えた。だがそれも、僅かな時間に過ぎなかった。自分のやっていることが「死ぬ程洒落にならない怖い話」として話題になり、やがて二次創作が作られ、漫画化され、メディアのコンテンツのひとつとして消費されるようになると、次第に車掌の中で焦りにも何かが生まれるようになった。彼は仕事のたびに「これで良いのだろうか」とか、「今までと同じことを繰り返すだけで良いのだろうか」とか、さらには「自分がいまやっていることは本当に自分が表現したいことだろうか」と思うようになってしまった。

 

 ネット上にあふれる「猿夢」のコンテンツを見るたびに、彼の焦りは大きくなった。いや、そもそも俺が本家本元(ほんけほんもと)なのだ、と彼は開き直ろうとした。いうなれば、俺が公式なのだ。なぜ公式がおもねる必要があるのだろうか。俺がやること、俺の仕事、俺がやろうとすることがまさしく一般に言われるところの「猿夢」なのだ。だから俺が他の「猿夢」的なコンテンツを斟酌して、いわばそれに迎合するような形で、猿夢の内容や形式を変える必要はないのだ。むしろ、俺がそのようなことをすれば「猿夢」自体が終わってしまう。「猿夢」が猿夢である意味がなくなる。いつも彼はそのように結論付けて思考を打ち切っていたが、彼の中での「マンネリ化」に対する焦りと恐れは大きくなっていく一方だった。

 

 金髪の女はしばらくの間、「おい!」「マジで!」「ざけんな!」を繰り返していた。彼女はそう叫びつつ「活けづくり」にされている男の方を見ていたが、やがて前を向くと体を屈めて震え始めた。ここまでは順調であると言えた。だいたいいつも「犠牲者たち」は同じ反応をする。金髪の女が震えている間に、小人たちは手早く「活けづくり」になった男を座席から片付けた。凝固した血液がプリン状になって座席に残された。電車はさらに先へと進んでいく。ストップウォッチが2分間経過したことを示した。金髪の女はやや気を取り直したのか、こわごわと先ほどまで男が座っていた座席の方へ目をやっていた。

 

 次は、「えぐり出し」だ。彼はマイクに向かって「次はえぐり出し~えぐり出しです。」と言った。そして、また四角いボタンを押した。金髪の女は「おい! なんだよ、えぐり出しって!」と叫んだ。次の瞬間、二人の小人が現れて、彼女の後ろの座席に座っていた女の目をぎざぎざスプーンのようなものでえぐり出し始めた。甲高い悲鳴がトンネル内に響いた。見る間に女の形相はすさまじいものへと変化していった。眼窩の周囲の肉がえぐり取られ、血が噴出し、眼球が飛び出している。眼球には無数の血管が張り付いていた。まず、左目が顔からなくなり、次に右目が同じような手順のもとにえぐり出された。えぐり出された眼球は無造作に座席へと投げ捨てられた。それは二匹の潰れたナメクジのようだった。

 

 金髪の女は「おい! ざけんな! おい! マジで! シャレにならねえって!」と叫んでいた。そして、また前へ向き直ると体を屈めて震え始めた。車掌は操作盤の前に設置されているモニターへと目をやった。モニターには、金髪の女が何を考えているのかが表示されていた。「死んじまった」「ひどい臭いだ」「ありえない」「次はわたしかも」 どうやらこの女は、明晰夢を見ることができるようなタイプではないようだ。車掌は少しだけ安堵の念を覚えると同時に、残念な思いも抱いた。

 

 まったく、明晰夢を見る奴は厄介だ。あの時、あいつがこの夢から逃げることができたのも、あいつが夢の中にいながらそれが夢であると判断できる力を持っていたからだ。あいつは、明晰夢の天才だった。本来ならば、あいつはあそこで挽肉になる予定だったのに。左手の指先から機械にかけ、長い時間をかけてゆっくりと、生きたまま挽肉にしていく。左腕全体が骨片と筋肉の筋が入り混じった生温かい挽肉の塊になったら、今度は右腕に同じことをする。次は左足、その次は右足……

 

 ストップウォッチが、そろそろ「次」を告げるべき時間を示しつつあった。車掌は考えた。電車が発車する前、小人は俺に「腰斬(ようざん)」を提案してきた。試してみるか? この金髪の女は知能が低そうだが、生命力は強そうだ。腰から真っ二つにしたら、長く苦しむに違いない。だが、やはり挽肉は捨てがたいのではないだろうか。「猿夢」といえば、いや、この夢は断じて「猿夢」などではないが、しかしこの夢から「挽肉」という要素を抜くことは許されないのではないだろうか。マンネリ化は恐ろしいが、だからといってこの夢らしさを失うわけにもいかない。

 

 あと数秒で決断を下さねばならなかったが、車掌の思考は目まぐるしく変化した。そうだ、あの書き込みがなされ、それが話題になって数多くの派生コンテンツが生まれた時、多くの作者たちは別の、もっと残酷な処置を「猿夢」の中に盛り込んだものだった。「吊し上げ」とか「ヤキニク」、「串刺し」というのもあったかもしれない。車掌はそれら「猿夢」コンテンツを熱心に読んだ。しかし、読んでいる最中は興味深く思い、「これは俺がやってみたらきっと面白くなる」と思っても、いざこの操作盤の前に座り、アナウンスをし、レバーを操作してボタンを押していると、そのような考えは一切消え、最後にはやはり「次は挽肉~挽肉です~」と言ってしまっているのだった。

 

 ストップウォッチの針が、時間を指し示した。あの小人は、提案が退けられてがっかりするだろうか? するだろうな。だが、それがなんだと言うのだ。そんなことを言うなら、俺の方ががっかりしている。彼はそう思いながらマイクに向かって「次は挽肉~挽肉です~」と言い、そしてボタンを押した。小人が金髪の女の膝の上に出現し、機械をゆっくりと近づけ始めた。高速回転する無数の刃が立てる「ウイーン」という音が、走行音に混ざってトンネル内に響いた。

 

 どうせ今回も、いつもと同じように終わる。車掌は無表情のままモニターを見つめていた。ピーナッツは結局投げられなかった。マンネリ化した猿夢は、さらにマンネリ化していく。それを俺が止めることはできない。車掌は溜息をついた。なぜなら、認めたくはないが、この夢はとっくの昔に「猿夢」になっちまっていて、他ならぬ俺自身もその猿夢の一部だからだ。一部が全体を変えることはできない。

 

 今まで、車掌は何回も猿夢を変えようとしてきた。次こそは串刺しにしようと思ったこともある。挽肉の代わりに「ヤキニク」にしたり、電車を新幹線に変えようと思ったこともある。すべてはマンネリ化を打破するためだった。だが、そのいずれも上手くいかなかった。何をどうしようが、いつも電車はトンネルに入り、男が活けづくりにされ、女の目がえぐり出され、最後は挽肉で終わる。車掌がどれだけ新しいことをしようとしても、車掌がこの猿夢の中で車掌という役割を当てはめられている以上、夢そのものを変えることはできなかった。車掌はこの夢の中では最もこの夢について知っており、その全体を把握している存在であったが、彼が夢の一部であって夢そのものではない以上、夢を変えることなどできるはずがなかった。

 

 これまでのところ、真の意味でこの夢を変えることができたのは、あの書き込みをした人間だった。苦い思いと共に、車掌はそのことを思った。書き込みによって、名前のついていない単なる悪夢に「猿夢」という名がつけられ、その内容が定められたのだ。

 

 それどころか、あの書き込みはこの悪夢を悪夢以上のものに変えてしまった。あの書き込みは、悪夢そのものの怖さを描いたから名作になったのではない。それ以上に、「夢を見る」ということそれ自体を恐怖の対象へと変えたから名作になったのだ。

 

 夢を見ない人間などいない。生きている以上は夢を見るし、必ず悪夢を、猿夢をまた見ることになる。一晩経ち、三晩経ち、千回目の夜が明けてなお無事であったとしても、いつかは「挽肉」となって終わるかもしれない。千回普通の夢が続いたからといって、千一回目もまた猿夢が来ないとは限らない。死刑囚がおののくのは、首にかかる縄の冷たさを想像するからではない。いつ処刑の朝が来るか分からないからおののくのだ。あの書き込みの怖さのエッセンスは、実にここにある。

 

 人間は「千回続いたのだから、千一回目もそうだろう」という生き方をしている。それはまったく論理的な生き方ではない。逆に言えば、論理を意識しないからこそ人間は快適に生きることができているのだとも言える。毎回毎回、「次はどうなるか分からない」となれば、平静な気持ちでいられるだろうか。

 

 だが、あの書き込みは、「千回目はそうだった。だが、千一回目は?」という考えを人間に抱かせる。いつ、また猿夢が来るか分からない。これまで人間を守ってきた偶然が牙を剥く。夜寝る時、いつも、「もしかしたら、次こそ『千一回目』なのでは?」と疑うことになる。次こそが「猿夢」なのでは? それは永遠に続く苦しみだ。それと比較したら、活けづくりだの、えぐり出しだの、挽肉だのは大したものではない。

 

 あの時、俺は「また逃げるんですか~次に来た時は最後ですよ~」と言った。一回目に逃げられ、二回目も逃げられた時、俺が多少の悔しさを覚えたのは確かだ。そのようなことができる人間などそれまでいなかったし、これまでもあの人間しかいない。あの書き込みがなされて20年以上が経っているが、その間この夢から脱出できた人間が一人もいないのは実に落胆すべきことだ。それにしても、まさかあの悔し紛れの一言が、俺の夢そのものをここまで変化させるとは。車掌は電車の速度レバーを微調整しつつ、そう思った。

 

 あの書き込みをした人間は、「次に来た時は最後ですよ~」という俺の言葉を逆手にとって、猿夢そのものに逆襲をしたのだ。それは致命的な一撃だった。猿夢は単なる悪夢ではなく、一貫した意味を有する物語となった。そして物語となった猿夢は必然的にマンネリ化から逃れられなくなった。この夢はあの人間を脅かしたが、あの人間の方もこの夢を変容させたのだ、それも不可逆的に。

 

 おそらく、猿夢は、終わったコンテンツなのだろう。車掌は息を吸って、吐いた。猿夢は、そもそもあの書き込みがなされた段階で、始まると同時に終わっていたのだ。猿夢という物語は、生まれた瞬間から完成されていた。あれ以上、何も付け加えるものはない。それほどまでに完成度の高い物語となった瞬間、この夢は成長することも拡張することも終えた。後はもう、永遠の繰り返し、永遠のマンネリ化だ。もう、俺にはどうすることもできない。

 

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 その瞬間だった。モニターが、「あ! これ、もしかして!」という文字列を表示した。それとほぼ同時に、金髪の女が「わたし、これ知ってる! これきっと猿夢だ!」と叫んだ。車掌は驚いて目を見開いた。土壇場になって、知性の欠片もないと思われたこの女が、この夢が何であるかについて思い至ったのは奇跡と言えた。もしかすると、金髪の女は寝る直前かいつかに、ネットでこの「猿夢」のコンテンツに触れていたのかもしれない。

 

 金髪の女は屈みこんで、あることを口に出して一心に念じ始めた。「夢よ覚めろ、覚めろ、覚めろ……」

 

 それは久しぶりに車掌が目にする光景だった。あの時、あの人間以来、この夢から抜け出すことができた人間はいない。もしかしたら、この人間はこの夢からの脱出に成功するかもしれない。深い夜闇の中に一筋の曙光が兆したような、そんな予感が車掌を貫いた。

 

 息を飲んで、車掌は念じ続ける金髪の女を見つめていた。もしかすると、この女は脱出に成功してネットに書き込みをし、それによって新しい猿夢の形を作り出すかもしれない。そうなれば、このコンテンツの中に閉じ込められている俺も、別の形となって解放されるかもしれない。マンネリ化が打ち破られ、猿夢は猿夢以上のものとなって、新しい物語として意味を持つようになるかもしれない。

 

「夢よ覚めろ、覚めろ、覚めろ……」 金髪の女はなおも念じている。機械が近づいていく。「夢よ覚めろ、覚めろ、覚めろ……」 機械を持っている小人が、車掌に向かって困惑したような顔を向けてきた。「このまま続けて良いのですか?」と、小人はその表情で語っている。「ウイーン」と機械が唸っている。「夢よ覚めろ、覚めろ、覚めろ……」 金髪の女はまだ脱出できない。機械がさらに近づく。あと10センチ、5センチ、3センチ……

 

 脱出しろ、脱出してくれ! 車掌は強く願うようになっていた。金髪の女は、今や崇高な美をまとったものとして車掌の目に映っていた。

 

 脱出しろ! 脱出して俺たちの夢を、この「猿夢」を変えてくれ!

 

 金髪の女が挽肉になるまで、あと1センチ。



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