Bad Apple (Marshal. K)
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Bait on the Hook

 

 

 マフィア。この街の――そしてアメリカ中のあらゆる都市の――裏社会を牛耳る犯罪組織。一般人のマフィアに対する認識というのは、まあこれくらいだ。

 多くの人々は、生まれてから死ぬまで一度もマフィアと関わり合いにはならない。少なくとも、本人の認識の範疇では。実際には、彼らが街中のあらゆる産業に浸透している以上、どこかしらでその構成員や協力者とニアミスしている。単純に気付かないだけだ。

 私立探偵(PI)という、合法と違法のライン上を綱渡りするような仕事で食べていた私でさえ、"単純に気付かないだけ"以上の知識はなかった。気付けなければ、厄介事に巻き込まれること間違いなしだったから、それぐらいの知識は持っていた。普段はそれらしい連中に気付き次第、その仕事から距離を取っていた。

 

 とはいえあの日、私は気付けなかった。だからそう、結局のところ私も一般人の一人だったわけ。

 

 

 

 Dec. 27th, 1942, Kurono Tower, Financial District, NYC

 

「59階、展望室でございます」

 

 チン、という到着ベルの音に続いて、リフト・ガールがそう言った。対象に動く気配が無いのを確認して、私はケージの隅から離れると、開いたドアから地上260ヤードの展望室へと足を踏み入れた。ここに来るのは三日連続四回目だ。

 背後でエレベーターのドアが閉まり、私はため息を吐いた。窓際にある金属製の手摺りにもたれかかり、眼下に広がるニューヨークの夜景を眺めながら、私は60階から上に入るための策を練ろうとした。

 

 今回の追尾対象、ウィリアム・ヒルデブランドは初老の税理士だった。私立探偵お決まりの依頼、奥さんからの浮気調査でここ三日間、退勤後の彼を尾けまわしている。

 

「最近帰りが遅いわね、あなた」

「仕事だよ、新しい顧客(クライアント)ができてね」

「まあ。どんな方なの?」

「言えないんだ、悪いね」

 

 という感じの会話の結果、ミセス・ヒルデブランドは旦那さんが不倫していると思ったらしい。実のところ私の体感では、この手の直感が当たっている確率はひいき目にみても五割といったところだ。それでもお金を貰っている以上、しっかり調査はするけれど。

 

 この三日間の追尾の結果、ヒルデブランドは自分の税理士事務所を退勤すると、必ずここにやって来ていた。ニューヨークに林立する摩天楼の一つ、ウォール街40番地。その主要出資者であり、工事一切を取り仕切った建設会社の社長の名前から"クロノ・タワー"の愛称を持つこのビルに。

 ビルの60階から70階までは件の建設会社、バンクロニー社の本社が入居している。69階・70階の一部と、最上階71階の全部はバンクロニーの社長私邸になっていた。

 

「この階でエレベーターを降りないってことは、彼はそのどっちかに用事があるってことよね。普通に考えたら、バンクロニー社が"新しいクライアント"なんだろうけど......」

 

 決めつけるのは早計だ。従業員の誰かと不倫関係にあるのかもしれないし、ひょっとしたら気鋭の女社長オーロ・クロニーと関係を持っているのかもしれない。

 それに、本社へのアクセス方法もちょっと怪しい。バンクロニー本社直通のエレベーターもあるのに、なんで一般用の高層階エレベーターを使ってるんだろう?

 なんにしても事の真偽をハッキリさせるには、バンクロニー本社に入り込まなきゃいけない。そういった類の、つまり"潜入"は、我がワトソン探偵社(エージェンシー)(従業員:1名)の目玉商品だった。

 

「失敗するわけにはいかないわね......といっても、下準備なしでできることもないし、今日も吸い出しと送り込みに留めておくか」

 

 今日は昨日までと同じように、ビルから出てきた対象が寄り道なしで家に帰るのをしっかり確認する、という程度に留めようというのが、展望室をぐるっと一周する間に出した結論だった。

 年末だというのに、展望室はがらんとしていて無人だった。というのも、去年の冬に日本軍がパール・ハーバーを襲って以来、アメリカは本格的に戦時体制に移行していた。発電用燃料節約のために灯火管制が敷かれたニューヨークの夜景は、寂寥感に溢れていてまるで死者の街みたいだったし、そもそもこのご時勢に観光しようなんてアメリカ人も少なかった。

 

 だから展望室に他にお客がいないことにも、リフトマン以外誰もいない下りエレベーターに乗った時も、何の違和感も感じなかった。私が初めて違和感を覚えたのは、下りだと思って乗ったエレベーターが上に向かい始めた時だった。

 

 "これ、マズいわ......"

 

 まさに今度潜入しようとしていたバンクロニー本社に、このエレベーターは向かっている。そんな状況の何がマズいの? って思うでしょう? チャンスに見えて、実のところとってもマズい状況だ。

 今の時点では、潜入にあたってなんの準備もできていない。つまり、このまま行っても受付の人に追い返されるオチが見えている。そこで顔――特に目元――を覚えられたら大変だ。私の変装は、映画のように特殊メイクを駆使するやり方ではないから、顔を覚えられるとバレてしまう確率が跳ね上がる。

 

 なんとか運転係に頼んで引き返してもらおうとしたとき、もう一つの違和感に気付いた。運転係はリフトマンだった。そう、リフト"マン"なのだ。1940年から徴兵が再開されて、男性労働者がどんどん本国からいなくなってるこの時期にリフトマンだって? しかもどう見ても徴兵対象の年齢だ。兵役免除になりそうなケガもないし、眼鏡をかけてもいない。

 とはいえ運転ハンドルを握ってるのが彼な以上、話しかけない選択肢はなかった。

 

「あの、失礼? 下りエレベーターと間違えちゃったみたいなんだけど」

「いいえ、間違えてませんよ」

 

 イタリア訛りでそう言いながら振り返ったリフトマンの手には、拳銃が握られていた。銃口は真っすぐ私のお腹を狙っている。

 

「70階までお連れすることになってます。そちらで色々、お話を伺いたいので」

 

 

 

 

 

「う......くぅ......」

 

 それからどれくらい経ったのか。私は何度目かの失神から目覚めた。まだ10回には達していないと思うけれど、わからない。私がいる豪華な応接室――だと思う――は建物の内側にあって、外の様子はまるでわからなかった。私はその部屋のシャンデリアから吊るされた鎖で両手を縛られて、ほとんどつま先立ちで監禁されていた。

 

 

 

 

 

「単刀直入に訊こう。ミスター・ヒルデブランドを尾行するよう君に命じたのは、どこの誰だ?」

 

 この部屋に連れて来られた当初、大きな革張りのソファに座っていた大男は私にそう訊いた。イタリアのシチリア島から産地直送されたような彫の深い顔に、ひどいイタリア訛り。6フィート(180センチ)超の巨躯を包むのは、ブルックス・ブラザーズの高級スーツ。挿絵付きの雑誌から飛び出してきたようなマフィア構成員だった。

 目の前にはそんな男がいて、背後からはさっきのリフトマンが相変わらず銃を構えている。探偵は信用第一の商売だけど、こんな状況で守秘義務を盾に出来るほど、私は向こう見ずじゃなかった。なんてことない浮気調査だと、私は素直に包み隠さず話した。

 

「なるほど、なるほど。聴く限り、実に単純なことらしい」

 

 男は鷹揚そうに言って立ち上がり、私の前にやって来た。

 

「次はもうちょっとマシな嘘を吐くんだな」

 

 野球のキャッチャー・ミットくらいありそうな握りこぶしが、お腹に深々と沈み込んだ。肺の中の空気が絞り出されて、私は体を折り曲げた。

 

「はっ......がっ......」

 

 息を吸い込むことすらままならない中で、ぼやけた視界に高速で迫ってくる何かが映った。次の瞬間には上等なツイード織りのズボンに包まれた膝が、私の鼻筋に激突した。

 

「がぁっ!」

 

 頭を跳ね上げられた私は、そのままふかふかの絨毯が敷かれた床に仰向けに倒れた。右手でお腹を、左手で折れた鼻を押さえると、鼻血がどばっと喉に逆流して、私は地上70階で溺死する危機に瀕した。

 

「げほっ、げほっ......うぅ」

 

 咳き込むと、殴られたお腹がずきずき痛んで、私は絨毯の上で横になった。体を折り曲げ、胎児のように丸まってなんとか苦痛をやり過ごそうとする。

 しかし息をつく暇もなく、男は私の前髪を掴んで頭を引っ張り上げた。

 

「素直に話す気になったか?」

「さっきから、素直に話してる、わ......」

 

 折れた鼻から止めどなく流れる鼻血でふがふが言いながら、私はなんとか答えた。男が納得してくれる淡い希望を信じて。

 

「奥さんの依頼の、浮気調査。本当に、それだけ、なの」

 

 男は溜息を吐いて首を振り、私の希望は静かに潰えた。

 

「もうちょっとマシな嘘を考えろと言っただろう」

 

 前髪を思いっきり引っ張られて、私は無理矢理上体を起こされた。

 

「やっ......」

 

 反射的に、髪を掴んでいる手に自分の両手を添えてしまった。結果、がら空きになった私のお腹に二発目の拳がめり込んだ。

 

「ぐぶっ......」

 

 今度はさっきよりも少し上、肝臓の辺りに直撃した。私は前髪がぶちぶち音を立てて抜けるのもかまわず床に崩れ落ちると、上等な絨毯の上に夕食のホットドッグの残骸をぶちまけた。

 

「げえええぇぇぇ......えほっ、えほっ、えええぇぇ......」

「あーあー、吐きやがって。この絨毯高価いんだぞ」

 

 鼻血混じりの反吐をまき散らす私を見下ろして、さして怒ってもいないような声で男がそう言うのが聞こえた。霞む視界の端に、つま先が尖ったイタリア風の靴がちらりと映り、それがさっと引っ込むのが見えた。

 次の瞬間にはそのつま先が脇腹に食い込み、私は嘔吐(もど)しながら絨毯の上を転がった。もう悲鳴を上げる体力も余裕もなかった。

 仰向けになり、自分の反吐と鼻血で溺れそうになっている私のお腹に、イタリア製の靴が追撃を加えた。無防備なお腹を何度も踏み付けられながら、私の視界はゆっくりと暗くなっていった。

 

 次に目覚めた時にはすでに、今みたいに吊るされていた。

 

 

 

 

 

 男は最初のうちこそ素手で殴ってきていたけど、拳が痛くなってきたと見えて、鞭やらブラックジャックやら杖やら、得物を使うようになった。そのせいかどうかはわからないけれど、失神と失神の間隔がどんどん短くなっているように私は感じた。その分一撃当たりの苦痛は増したけど。

 そして今もまた、私に苦痛と絶望を与える足音が部屋に近づいてきている。

 

「も......いや......」

 

 私の弱音は、私以外の誰の耳にも届かなかった。届いたところで止めるような連中じゃないけど。前回――前々回だったかもしれない――ついに我慢できなくなって粗相をした私は、みじめな子供みたいに泣じゃくってしまったのに、「女は嘘泣きするから嫌なんだ」などど言われて拷問は続いた。泣き言ごときで止めるわけがない。

 ドアが開く音がしたけれど、私は足元の絨毯――自分が垂れ流した色んな液体で、いくつもの大きな染みと無数の小さな染みができていた――に目を落としていた。

 

「いい格好ね、間抜けな探偵さん?」

 

 こんなところで聞くはずはないと思ってた人物の声が聞こえて、私は信じられない思いで戸口に目をやった。

 

「......ぐら? なんで、ここに?」

「なんでって、警察官は困ってる人を助けるもんでしょ?」

 

 恐らくニューヨーク市警察でも一、二を争うレベルでその台詞が似合わない警察官、がうる・ぐら刑事は、いつもと変わらない生意気な笑顔でそう言った。

 

 

 

 

 

 がうる・ぐら。ニューヨーク市では、それなりに知られている名前だ。フィオレロ・ラ・ガーディア*1やトム・デューイ*2、あるいはオーロ・クロニーほどじゃないにしても、アメリア・ワトソンよりは間違いなく有名だろう。

 彼女は巡査拝命から6年という、異例というほどではないがまあまあ早いスピードで刑事に昇任した。そして1年足らずという異例どころかぶっちぎり新記録の早さで、刑事局殺人課の席を手に入れた。

 そんなアイルランド系でさえできないようなアクロバティックな昇進の陰には、彼女のパトロンが影響していると噂されていた。なにせ彼女の月給とほぼ同額のスーツを着て、ダンヒルだかダビドフだかがキューバから輸入している葉巻を好んで喫い、アッパー・イーストサイドの高級アパートメントに住んでいるのだ。誰か、までは誰も知らなかったけれど、羽振りのいいパトロンが存在しているのは確実だった。

 

 とはいえ、ニューヨーク市民は彼女に寛容だった。著名人が死んだり、スキャンダラスだったりしたいくつかの殺人事件を、彼女は鮮やかに解決して見せた。殺人課所属にも関わらず、路上犯罪狩りにも熱心だった。その手腕ゆえに多くの市民は、いかにも賄賂を貰っているらしい彼女の暮らしぶりに目をつぶっていた。

 そしてその内の一件、彼女の分署刑事課時代に殺人課移籍を後押ししたある強盗殺人事件の捜査の中で、私はたまたまぐらと知り合うことになった。その時の話は今度にするとして、それ以降、ぐらはなにくれとなく私の事務所に暇つぶしにやってきたり、ホーム・パーティーに私を招いたりするようになった。

 ようするに、友達になったのだ。私は"懐かれた"って印象を持ったけど。

 

 

 

 

 

 その友達によって、私はバスタブに放り込まれた。大理石で出来ているらしい大きなバスタブには、痛めつけられた私の体に優しいぬるめのお湯が張られていた。浴室の床は青黒白の三色タイル張りで、アール・デコ建築特有の幾何学的な紋様を床に描いている。柱時計が描かれたステンド・グラスからは、柔らかな朝の光が射しこんでいた。

 薄いブルーのお仕着せ姿のメイドがやって来て、石鹸と柔らかいボディ・ブラシで私の体を洗い始めた。文字通り体の隅々まで洗われて、暴力の次は羞恥心で死にそうになったけど、それに抵抗できるような力はまだなかった。それに、私が汚いのも事実だったし。

 

「うえーっ、アメ、あんた自分がいま、どんな臭いしてるか知ってる?」

 

 私を抱っこして運ぶ途中、ぐらは大げさに顔をしかめて言った。

 

「想像したくないわ」

「野生のヤギみたいな臭い。すっごく臭い」

 

 拷問されている間に、血、涙、汗、鼻水、よだれ、胃酸、おしっこと、身体から出る液体として考え付くものはほとんど垂れ流していた。それを考えれば、私がそんな臭いを放っていてもなんの不思議もない。

 

「あんたに会って謝りたいって人がいるんだけど、先にお風呂に入った方が良さそう」

「お風呂よりもお医者さんの方が必要だと思うんだけど......」

「今こっちに向かってるから、先に出来ることからやっちゃおう」

 

 というわけで私は服をひん剥かれて、お風呂に入らされていた。ずたずたの裂け目と汚い染みだらけになった私の服と下着は、メイドの一人がどこかに持って行ってしまった。処分するんだろうけど、私はこのあと何を着ればいいんだろう?

 

「ねえぐら、私の着替えとか持って来てくれたり、してない?」

 

 ぐらはしばらく沈黙を挟んでから、なんともバツの悪そうな表情を浮かべて答えた。

 

「......たぶん、すっぽんぽんでも向こうは気にしないよ」

「私が気にするのよ......」

 

 叫び返したいところだったけれど、私には弱々しくそう返す体力しか残っていなかった。

 

 

 

*1
市長

*2
州知事



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Bait on the Hook #2

 Dec. 28th, 1942, Krono Tower, Financial District, NYC

 

 

「おはよう、アメ。ずいぶんひどくやられたね?」

 

 応接室――私にとっての悪夢だった部屋とは違う、大きなフランス窓が三つもある部屋だった――のドアを開けて入ってきたのは、ぐらが手配してくれた馴染みの医者だった。借り物のバスローブに身を包んだ私は、青い革張りのソファの上から弱々しく手を上げて返した。

 

「おはよう、イナ。一晩中嬲り者にされたわ」

 

 応接室の窓からは、眩しい朝日が射し込んでいた。ほとんど一晩中あの拷問を受けていたらしい。

 

「みたいね。じゃあ早速触診させて」

 

 イナはそう言って抱えていたイーゼルを床に下ろすと、絵具や絵筆が入ってそうなボロボロの革の鞄から鉗子やら鋏やらの道具を出して、コーヒー・テーブルの上に並べ始めた。鞄の中身に目をつぶれば、写生に行く画家としか見えない――ベレー帽まで被ってるし――出で立ちだ。

 私はバスローブの前をはだけて、痣だらけの体をイナに晒した。イナはいかにも医者らしい超然とした無表情で、私の体をぺたぺた触ったりぎゅっと押し込んだり、打診器で肋骨をコツコツ叩いたりしながら、私の反応を伺っていた。

 

「ここ、押されても痛くない?」

「ちょっとずきっとするけど、ひどくは痛まないわ」

「こっちは?」

「同じような感じ」

「ふむ......診たところ、折れたり破れたり破裂したり、っていうのはなさそう」

 

 イナはテーブルの上に置いたバットにアヘンチンキをひくと、ガーゼをそれに浸して、鉗子を何種類か並べながら続けた。

 

「鞭で殴られたりした?」

「した」

「じゃ、背中の擦り傷はそれか。数はそれなりだけどさして大きくないから、縫わずに後で膏薬塗るけど、それでいい?」

「それでいい」

「オーケイ。じゃあ、鼻の方をやっちゃおうか」

 

 アヘンが沁み込んだガーゼを鼻の中に詰め込まれて、麻酔が効いてくるのを待ってる間に、紙袋を抱えたぐらが戻ってきた。

 

「着替え買ってきたよ、アメ」

あひはほ(ありがと)

 

 鼻の中のガーゼのせいで不明瞭な発音だったけれど、私はお礼を言ってから続けた。

 

いふらははっは(いくらかかった)?」

「お代は気にしないで。人違い料としてクロニーに請求するから」

 

 それにしても、まだ信じられない気分だ。あのオーロ・クロニーがマフィアのボスで、ぐらのパトロンだなんて、誰に想像できるだろう。ルチアーノ*1以来非イタリア系のマフィア構成員も珍しくないとはいえ、こうも堂々と表の顔――しかも有名な顔――を持っているとは、思っても見なかった。

 鼻の感覚が無くなって少し経つと、イナが鼻からアヘンガーゼを抜き取った。

 

「じゃあ、戻すよ」

「お願い」

 

 大きな鉗子で鼻筋を掴まれて、ぐいと引っ張られる。鼻を折ったのはこれが二回目だったから、この奇妙な感覚も初めてじゃない。それでも、ばかでかい鉗子で挟まれてるのが見えるのに、その感覚が全然無いのは変な気分だった。

 イナは私の鼻の様子を確認してから小さく頷くと、乾いたガーゼを鼻腔の中に詰め物として入れて、鼻梁を外から湿布とテープで固定した。

 

「これでいいかな。麻酔が切れたら今日明日くらいは痛むと思うから、無理しないでアスピリン服んでね」

「わかった」

「年明けに私の家に来て、様子を見せて。何事もなければガーゼとテープを外してあげる」

「オーケイ。ありがとねイナ、こんな朝早くから」

「いいのよ。副業とはいえ仕事は仕事だから。ほら、ローブを脱いで後ろ向いて。膏薬を塗ってあげるから」

 

 膏薬は背中の傷にすごく沁みた。できるだけ声をあげないようしたけれど、きゅう、という感じの高い音が漏れて、ぐらが肘掛椅子の一つ――彼女が座っていると、肘掛椅子でさえ巨大な玉座に見えてくる――から腹の立つニヤニヤ笑いを飛ばしてきた。

 

「これでよし、と。アメ、あなたの家ってバスタブはある?」

「ないわ」

 

 グリニッジ・ビレッジにあるアパートメントの狭いバスルームには、そんなものを置くスペースはどこにもない。もう少しお金を貯めればチューダー・シティの、独り身にはちょっと贅沢なアパートメントに住めるようになるけれど、それまではあのおんぼろアパートメントで我慢しなきゃいけない。

 

「アタシの家にはあるよ」

 

 ぐらが横から口を挟んだ。彼女のアパートメントはマスター・バスルームの他にゲスト・バスルームもあって、私の記憶が正しければその両方にバスタブがあったはずだ。まったく、一体いくら家賃を払えばあんなところに住めるんだろう?

 

「できれば痣がひくまで、毎日お湯に浸かってほしいな。そうすればたぶん、一週間くらいで良くなるはず」

「んじゃ、アメは今日からアタシの家に泊りね」

 

 はしゃいだ感じの声で、ぐらはそう言った。ぐらは時々見た目年齢相応な――そして実年齢不相応な――無邪気さを出すことがあって、それはそれで彼女の可愛い点ではあるのだけれど、それでも私はいつも困惑させられていた。それなりに長い付き合いなのに、私はまだこの不思議なギャップに慣れ切っていなかった。

 とはいえ、断る理由もなかった。すでに何度か泊ったことがある、あの贅沢なアパートメントに一週間泊めてもらえるという誘惑ははねのけ難かったし、そもそもぐらのアパートメントは私のより事務所に近いのだ。目に青タンがある状態で街道を歩く必要があるなら、その距離は短いに越したことはない。

 

「ありがとう、ぐら。甘えさせてもらうわ」

「よしと。じゃあ話が付いたし、着替えなよ、アメ。クロニーもそろそろ朝ご飯が終わる頃だよ」

「じゃあ私はこの辺で」

 

 テーブルの上の器具をまとめていたイナがそう言って、鞄とイーゼルを持って立ちあがった。そのイナに、ぐらが声をかける。

 

「イナもありがとう。診療代はクロニーからふんだくって、後で払いに行くから」

「来るなら夕方以降にしてね。お日さまが出てる間はバッテリー・パークで写生するつもりだから」

 

 どうやら鞄の中身は医療器具だけじゃなかったらしい。私が着替えている間にも、二人の会話は続いてる。

 

「へえ。お仕事?」

「まさか。息抜きよ。ここ最近は政府からの仕事ばっかりで、描きたい絵を描かせてもらえないから」

 

 ニノマエ・イナニスの本業は画家だ。元々はそれなりに知られた現代画家だったんだけど、戦争が始まってからは軍用品の取扱説明書の挿絵とか、戦時国債購入や物資節約をよびかけるポスターなんかを描いてて、それに追い回されているとよく愚痴っていた。

 医者稼業は売れない画家だった時に、食い扶持を稼ぐために始めたことらしい。つまり闇医者ってやつだ。

 今では闇医者が小遣い稼ぎになった画家と、俸給より賄賂が主収入の汚職警官が話している脇で、私は着替えを終えた。ぐらが持ってきた紙袋の中身はコットンのブラウス、ツイードのスカートとサスペンダー、シルクのシュミーズとパンツ、ナイロン・ストッキング、それに革の編上げブーツだった。

 タグを見る限り、全部まともに買おうと思ったら配給通帳(レーション・ブック)を丸々一冊吹っ飛ばしてしまう品揃えだから、バカ正直に五番街で買い揃えて来たわけじゃないのは間違いない。どこで買ったのかは、訊かない方が良さそうだ。

 

「じゃ、また後でね、ぐら」

「また後で......さあアメ、この街の裏ボスとご対面、といこうか」

 

 

 

 

 

 クロノ・タワーの最上階に位置するその部屋には、大きなダイニング・テーブルが鎮座していた。ずらりと並んだ椅子の中で、熾り火のはぜる暖炉を背後にした一つにオーロ・クロニーは座っていた。朝も早い時間なのに、テイラー・メイドのスーツを一分の隙もなく着込んでいる。彼女は毎朝こんな感じなんだろうか? 敏腕な若手経営者という彼女の評判を考えれば、そうであっても全く驚かないけれど。

 私とぐらがダイニング・ルームに足を踏み入れると、クロニーがニューヨーク・タイムズ紙から顔を上げて口を開きかけた。しかし彼女の喉が音を発する前に、ぐらが先制した。

 

「おはよう、クロニー。あんたらしくない、杜撰な仕事をしたみたいじゃん」

「おはよう、ぐら」

 

 オーロ・クロニーの声は、以前彼女がラジオ番組に出演した時に聞いたことがあった。それでも目の前で本人が発するその声は、機械越しの時とはまた異なる印象を私に与えた。ずっと深く、ラジオの雑音が無いぶん澄んでいて、静かながら迫力のある声だった。

 

「ミス・ワトソン。昨晩はどうも、私の友人が早とちりした上、あなたに随分......不快な思いをさせたようだ」

 

 "不快"とは、鼻を湿布とテープで固定された上、腫れた右頬と左目の痣を持った女性に対するものとしては、随分な言い草だ。思わずむっとした目でクロニーを睨むと、彼女は自分の向かいの席を指し示して言った。

 

「あなたにはお詫びをしたいし、あなたが求めるなら可能な限り事情を説明したい。どうぞ座って」

 

 まだ憤懣やるかたない気分ではあったけれど、相手が――一応――下手に出ている以上、罵倒や捨て台詞を吐くような場面ではなかった。被害者は私と言っても、表裏どちらの顔をとってもクロニーの方が格上なのだ。

 私が大人しく席に着くと、それを確認してぐらも座り、メイドたちが私たちの前にお皿を並べ始めた。

 

「昨晩のことは重ね重ね、申し訳なかった。私の友人の失態は、私の失態でもある」

"私の友人"(フレンド・オブ・マイン)ってのは、正規構成員の遠回しな言い方ね」

 

 横からぐらが、そう耳打ちしてくれた。そして言い終わるなり目の前に並ぶ皿に向き直ると、三日は食べてないかのような勢いでベーコン・エッグにがっついた。

 

「生憎とベニー――君を痛めつけた彼――は、この場に来て君に謝ることができない。彼の分と合わせて、私の謝罪を受け取ってほしい」

「彼はなぜここに来られないの?」

 

 できれば、一晩中嬲り者にしてくれた彼に直接謝ってほしいところだった。クロニーは、そんな感情が表に出てたらしい私の表情をじっと見つめてから、おもむろに返した。

 

「私は、適当な仕事をする奴が嫌いなんだ。会社の部下であれ、友人であれ。その彼なり彼女なりの無能を見抜けずに、仕事を任せてしまった自分の無能さにも腹が立つから。そういう人間には、速やかにお引き取り頂くことにしている。部下であれば辞めてもらうし、友人に関しては......」

 

 クロニーは言葉を濁したけれど、ベニーとかいう大男の末路は想像がついた。もう生きてはいないだろう。生きていたとしてもどのみち今夜、船の往き来も絶えたような時間に、ロワー・ベイかサンディー・フック湾に投げ込まれることになる。死んでいたとしても、死体は同じ道を辿るに違いない。

 

「わかった、わかったわ。謝罪に関しては、あなたからまとめて受け取ることにする。事情については......聴かない方がよかったりする?」

「そうかも」

 

 横からぐらがそう口を挟んだ。バターをたっぷり塗ったパンケーキを口いっぱいに頬張っていて、その声はちょっともごもごしていたけれど。

 それをごっくんと――比喩抜きに――音を立てて嚥み下してから、ぐらはクロニーに問うた。

 

「ねえクロニー、その事情を聴いた後でも、アメは後戻りできる?」

我々(コーサ・ノストラ)の内情を知った後で? それができると思う、ぐら?」

 

 短い間、ぐらとクロニーはにらみ合った。

 

「......ちょっとアメと二人で話をさせて」

「いいとも」

「アメ、こっち来て」

 

 重苦しい雰囲気の中で、目の前のベーコン・エッグを切り分けるだけで口を付けてなかった――お腹は空いていたけれど、喉を通る気がしなかったから――私は、これ幸いと席を立って、ぐらに続いて次室に入った。

 

「いい、アメ。これはあんたの人生の分岐点だよ」

 

 私がドアを閉めると、ぐらは真剣そのものの表情と声で言った。こんな彼女を見るのはいつぶりだろう。

 

「どういうこと?」

「アメ、あんたマフィアについて、どの程度知ってる?」

「よくは知らないわ。秘密主義の犯罪組織で、全米の色んな産業に浸透してるってことくらいしか」

「それだけの規模の組織ってことは、あそこのクロニーの他にもアメリカ中に何十人もボスがいて、何百人も構成員がいて、数えきれない準構成員や外部協力者がいる。ってことくらいは想像つくでしょ?」

「まあ......」

 

 正直言って想像はつかない。言いたいことはわかるし納得もするけど、そんな規模の秘密組織の存在なんて、想像できるものじゃない。

 

「なのに、あんたはクロニーがボスの一人だってことを昨晩まで知らなかったし、他のボスも誰一人として――ルチアーノとかは除いて――知らないし、構成員も誰一人知らない。それだけの規模の組織なのに秘密が保ててる。なんでだと思う?」

「喋らないから、でしょ? ルチアーノみたいに」

 

 四半世紀後にヴァラキというマフィア構成員が法廷で証言したところによれば、彼らはオメルタと言う死をともなう掟で縛られ、それによって自分たちの組織のことを誰にも――オメルタのない準構成員や外部協力者にさえ――話さないらしい。とはいえこの時の私はそんな内情なんて知らないから、単にラッキー・ルチアーノが法廷で沈黙を通したところから推測しただけだったけれど。

 

「なにか誓いとか掟とか、そういうのがあるんじゃないかしら」

「まあ、そう。あいつらは組織のことを、その必要が無い人間には絶対に話さない。そしてもし、うっかり知ってしまった人間が現れたら、しっかり始末をつける。そうやって秘密を保ってる」

「......つまり? 私は今、始末をつけられそうになってる、ってこと?」

 

 朝食が喉を通らなかった理由はこれだ。あっさり帰してもらえるなんて、さすがに思っちゃいなかったから、不安のあまりご飯どころじゃなかったんだ。

 

「そう。でも今回のはクロニーのミスだから、彼女はアメに選ばせようとしてる。つまり、知る必要のある立場になるか、ベニーってやつと一緒に片道クルージングに向かうか」

「それって、選択肢があるって言えるの?」

 

 片方の(えだ)が死なら、それは無いようなものだ。

 

「いつものクロニーのやり方を考えれば、選択肢がある方だけど、アメにとってはそうじゃない。でしょ? だから、アタシがもう一択を付け加えて上げる。以降クロニーにもその取り巻き(クロニー)にも関わらない。ここで見聞きしたもの一切を口外しない。それと引き換えに、この建物から五体満足で出て行く。どう?」

「......できるの?」

「できる」

 

 即答だった。でも私はその答えに対して、さらなる質問を加えた。

 

「それでその代わりに、あなたは何を失うの?」

 

 ぐっとぐらは言葉を詰まらせた。思った通りだ。金づるを失うだけなら、そう即答できるはず。

 

「ぐら、あなたが私のことを大切に思ってくれてるのは知ってるし、感謝してるわ。でも、私だって同じくらいあなたが大切なの。だからもし、あなたが私の命と引き換えに、自分の命や人生を手放そうとしてるなら、私は今すぐ隣に戻ってクロニーから事情を聴くわ」

「アタシの人生はアタシのものだ。アメにとやかく言われる筋合いは......」

「あるわ。天秤のもう片方に載ってるのは私の人生だもの。その皿の上に私の人生を載せるかどうかは、私が決めるわ」

「......わかった」

 

 渋々、って感じがありありと出ている声でぐらはそう言い、ぴっと指を一本立てて付け加えた。

 

「ただし、一つだけ条件を付けさせて」

「なに?」

「即答はしないで。何日か――できれば一週間くらい――じっくり考えてほしい。一回でも関わったら、もう二度と抜け出す機会は無いよ」

「わかった」

 

 二人で戸口に向かうと、ダイニング・ルームへ戻る前に、私はぐらに言い足した。

 

「でも、たぶん答えは変わらないわよ」

「その時はその時でいい」

 

 

 

 10:08 AM, Amelia's Apartment, Greenwich Village, NYC

 

 きゅう、とお腹が鳴って、私は荷造りの手を止めた。

 

「そういえば結局、クロニーのところで出された朝ご飯に全然手を着けなかったっけ......」

 

 ぐらはきれいさっぱり平らげていたけれど、私は結局コーヒーを飲んだだけだった。一度空腹を覚えてしまうと、なにかお腹に入れなきゃ収まりがつかなくなってきた。

 角のデリカテッセンでパストラミ・サンドイッチでも買おうかと思って、部屋を出ようとしたときだった。

 

「あ......」

 

 玄関の横にかけた鏡に、自分の顔が映った。大きな湿布を顔の真ん中にテープで固定して、頬っぺたと目の周りを腫らした、目立つ上に醜い顔だった。腫れは、クロノ・タワーのバスルームの鏡で見た時よりもひどくなっているようだ。

 手に取ったコートをハンガーに戻して、私はソファに沈みこんで頭を抱えた。

 

「こんな顔じゃ、どこにも行けないじゃない......くそ、部屋に何かあったっけ」

 

 キッチンの戸棚をひっくり返して、賞味期限切れのベイクド・ビーンズ缶を見つけた。マッチを擦ってガスコンロに火を着け、缶ごと温めてそのまま食べた。なんだかひどく情けない気分になった。

 

「ああ、もう。はやくぐらの家に行っちゃおう。あそこならデリバリー頼んでも、ベルマンと顔を合わせるだけで済むし......」

 

 なんならベルマンとも顔を合わせたくはないけれど、あの建物の従業員ならまだ信頼できる。少なくともこんな顔で近所を歩き回って、あらぬ噂を広められるよりはよっぽどましだ。

 忘れ物がないかざっと確認してから、恐る恐るドアを開けて廊下に誰もいないのを認めて、タクシーを呼ぶために公衆電話までダッシュした。

 

 

 

*1
実在のマフィア。それまで密造酒ビジネス一本だったマフィアの収入源を多角化し、非シチリア系にも構成員の門戸を開くなど、ポスト禁酒法時代のマフィアの在り方について先鞭をつけた



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Bait on the Hook #3

 Dec. 31st, 1942, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

「アメ、ただいま」

「おかえりなさい」

 

 ぐらは大晦日の夜、日付が変わる前に帰ってきた。警察主催の年越しパーティーを切り上げて帰ってきてくれたんだ。

 小さな体を包む大きなコート――大きすぎて裾はくるぶしあたりまであるし、腕を下げると手が袖の下にすっぽり入ってしまう――を脱がせて、玄関脇のフックにかけながら言う。

 

「帰って来ちゃってよかったの? あなたと話したいって警官は多いと思うんだけど」

「あんたを一人でほったらかしにしとく価値があるヤツなんて、そんなにいないよ」

 

 例年通りならぐらが私を同伴者に指名して、一緒にパーティーに出てたところだ。ところが今年の私は鼻をテープで固定してる状態ときている。頬と目の腫れは引いたけれど、やっぱりこんな顔で公の場に出たくはなかった。

 

「警部補とその奥さんには挨拶したし、警部にも部長にもした。それ以外はいいかなって」

「本当に必要最小限じゃない。同僚の人たちとかはいいの?」

「どうせ年明けに会うからいいの」

 

 そういうものでもない気がしたけれど、それ以上口出しはしないことにした。私のために帰ってきてくれたんだし、なによりこの広いアパートメントにたった一人なのは、実のところちょっと寂しかったから。

 と、玄関ドアがノックされた。

 

「お、来た来た」

「誰が?」

 

 私の不審げな質問に、ぐらはにんまりと笑いを返して言った。

 

「ちょっとしたお土産。入っていいよ!」

 

 ドアが開いて、ベルマンがカートを押しながら入ってきた。

 

「失礼します、マーム」

「奥のテーブルの上にお願い」

「かしこまりました」

 

 カートの上に載っていたのは、いくつかのお皿に盛りつけられた料理だった。数こそ少ないけれど、スライスされたロースト・ターキー、スモーク・サーモン、スペア・リブにマリネ。それとシャンパンらしい瓶の入ったアイス・ペールも載っていた。

 

「年の瀬にパーティー無しってのも寂しいでしょ? だから、会場からいくらか失敬してきた」

「ぐら......ありがとう」

「いいのいいの、これくらいなら無くなっても誰も気にしないし」

 

 ぐらは何でもないような感じでそう返して、アイス・ペールからシャンパンの瓶を抜いて、コルクを外しにかかった。ワイヤーを緩めながら、お皿を並べ終ったベルマンに訊く。

 

「ありがとう、ジョー。あんたも一杯くらい呑んでく?」

「ありがたいんですが、マーム、シャンパンの匂いをさせて戻るとスタンに怒られそうなので......」

 

 スタンレーはこの建物のベル・キャプテンだ。ベルマンたちの手綱をしっかり握っていて、住人達からの信頼も厚い。

 

「そっか。じゃあよいお年を、ジョー。これチップね」

「ありがとうございます、マーム」

 

 ぐらから50セント銀貨(ハーフ・ダラー)を受け取って、ジョーは部屋から出て行った。

 

「スタンも年の瀬くらい休めばいいのに......」

「年の瀬だからじゃないの?」

 

 コルクの針金に悪戦苦闘しているぐらを横目に、戸棚からフルート・グラスを出しながら私は言った。

 

「ぐらみたいに、ベルマンにお酒をあげたがる住人も多いと思うし。一々貰ってたらみんな酔っぱらって、誰もベルに反応しなくなっちゃうんじゃないかしら」

「そんなもんかな......おっ」

 

 ポンッと小気味いい音がして、コルクが飛んで行った。白い泡が吹き出して、絨毯の上にこぼれる。

 

「うわっとと......アメ、グラスグラス」

「はいはい」

 

 二脚のフルート・グラスいっぱいにお酒が注がれると、ぐらはわざとらしくしゃちこばってグラスを掲げた。

 

「まだちょっと早いけど、乾杯しちゃおう。1943年が、今年よりも良い年でありますように」

「私にとっては、今年というよりここ数日が一番最悪だったけどね」

 

 ぐらと軽くグラスを触れ合わせてから、私はそう言った。

 実のところ個人的には、1942年はそこまで悪い年ではなかった。配給制(レーショニング)は41年よりもキツくなったけれど、食うに困るほどではなかった。ぐらの紹介もあっていくつかの中堅企業から、従業員の素行調査の継続的な依頼を受けることができて、収入もだいぶ安定した。

 先日の最悪の一晩が無ければ、そう、今年は個人的には結構いい年だったと言えたかもしれない。

 

「あれに関しちゃね......でもあんたがクロニーにどう答えるにしても、アタシはアメの味方だよ」

「ありがとう、ぐら」

 

 二人で空になったグラスを置いて、テーブルに並んだ料理に取り掛かった頃、音を絞ってつけっぱなしにしてたラジオからはヴェラ・リンの歌声が流れていた。

 

――また逢いましょう

  何処でとも知れず、何時とも知れないけれど

  ある晴れた日に、きっとまた逢いましょう......

 

 来年とは限らないけれど、"ある晴れた日"はきっとやって来るはず。私とぐらにも、この世界にも。

 

 

 

 Jan. 2nd, 1943, Krono Tower, Financial District, NYC

 

 ぐらの青い41年式クライスラー・ニューヨーカーは、朝のウォール街をのろのろと進んでいた。凍った路面を恐れる自動車通勤者たちが過剰なまでに安全運転を心がけるせいで、ニューヨークの通りはどこも上空の雲量と同じくらい混みあっていた。

 もっとも、その安全運転も無駄ってわけじゃない。歩行者でさえあっちこっちで滑りこけているし、ここに来るまでの間に交差点でひっくり返ったフォードと、立ち木につっこんだシボレーがいて、どちらの現場でも交代時間前に通報を受けてしまった不運な制服巡査が、仏頂面で運転者から話を聴いていた。

 小一時間近い低速ドライブの末、私たちはようやくクロノ・タワーの正面玄関にたどり着いた。

 

「これ買った時、ケチらないでヴァカマティック付けて良かった」

 

 車を降りてドアマンに手招きしながら、ぐらが言った。

 

「小一時間も半クラッチしてたら腰が死んじゃう」

「私のフォードじゃ望むべくもないわね」

 

 クラッチが要らない変速機を積んだ車はどんどん増えているけれど、私が乗っている39年式フォード・スタンダードはオプション装備を含めても全然だった。ゼネラル・モータースやクライスラーと違って、フォードは変速機の自動化にあまり興味が無いらしい。

 

「もうちょっとお金が貯まったら、オールズモビルに乗り換えようかしら......」

「それはちょっとおっさん臭すぎない?」

 

 朝の通勤時間ゆえに混みあったロビー――エンパイア・ステート・ビルと違ってこのビルはテナントがたくさん入っていた――を抜けて、バンクロニー社の1階受付に向かう。名乗るとすぐに入館証を渡されて、本社直通のエレベーターに通された。

 出勤するバンクロニー社の従業員たちと一緒にエレベーターに乗って、ビルの高層階へと向かう。この中のいったい何人くらいが、自分たちの社長がマフィアのボスだって事実を知ってるんだろう? そんな彼らも60階から68階まででみんな降りてしまって、70階の社長室まで乗っていたのは私たち二人だけだった。

 チンとベルが鳴ってドアが開くと、ぐらのそれに負けず劣らず高級そうなスーツに身を包んだ、ガタイのいい男が立っていた。

 

「おはよう、それとあけましておめでとう、ジョニー」

「おはようございます、刑事。ミス・ワトソン」

「アメ、こちらジョン・トネッリ。クロニーの秘書ね」

「初めまして、ミスター・トネッリ」

「初めまして、ミス・ワトソン。社長がお待ちです」

 

 クロノ・タワーの内装はいかにもアール・デコ調の、真鍮とかの金属を多用した金ぴかデザインだけれど、トネッリに案内された社長室はもっとずっとシックで、落ち着いた雰囲気でまとめられていた。どっしりとしたニスの濃いオーク材を基調に、壁紙や絨毯は濃い青と黒で構成されている。

 ユタ州くらいの広さがありそうな巨大なデスクに、オーロ・クロニーは着いていた。彼女の背後のフランス窓の向こうには、白亜のマンハッタン行政ビルがそびえ立っているのがよく見える。

 

「それで、答えは決まったのかな?」

 

 黒い革の執務椅子から、クロニーは落ち着き払った声で訊いてきた。まるで大して重要なことではなく、日常業務の進捗を聞くような、そんな調子だった。

 

「ええ」

 

 私の答えはずっと決まっていたから、それを口に出すのにためらいはなかった。

 

「事情を聴くわ」

「そう」

 

 クロニーの反応は平坦だった。特に意外そうな様子もない。こっちにちらっと視線を飛ばしてから、執務卓の前に並んでいる二脚の客用椅子に手を振った。

 

「どうぞ座って。お望み通り事情を説明する前に、ぐらに確認しておきたいのだけれど」

「なに?」

 

 ぐらはちょうど、スーツの上着の内ポケットから葉巻を取り出したところだった。クロニーの執務卓の上にあるシガー・カッターに断りもなく手を伸ばしていたけれど、それを咎めようってわけではないらしい。

 

「彼女は間違いなくクリーンなんだね?」

「ああ、それならアタシが保証するよ」

 

 バチンと音を立てて、喫い口をV字型に切りながらぐらは言った。

 

「アメはまだ、誰のお手付きでもない」

「だが、連邦政府(フェッド)は?」

「フェッド?」

 

 真面目な調子のクロニーとは対照的に、ぐらは吹き出すと失笑するの中間みたいな笑い方をして続けた。

 

「ない、絶対ないね。アメは確かに腕のいい探偵だけど、ピンカートンってわけじゃない。あの気取り屋どもはアメに協力を仰ぐくらいなら、自分の銃を咥え込んでぶっぱなすと思うよ」

「なんだか貶されてる気がするわ」

「アタシは事実を指摘してるだけ」

 

 ぐらは葉巻用の軸の長いマッチを擦って、その炎で葉巻の先端を炙りながら飄々とそう返した。

 

「本当に政府職員(Gメン)と繋がりがあるならそう言いなよ、アメ。そしたらこの話はナシになるからさ」

「無いわ、残念ながら」

「ほらね」

 

 濃い紫煙をぷかっと一服して、憎たらしい笑顔を浮かべてから、ぐらはクロニーに手振りで先を促した。

 

「では、事情を話すとしよう。ミス・ワトソン......」

「アメリアでいいわ」

「アメリア。あなたが尾行していたミスター・ヒルデブランドには、先月から私の会社の顧問税理士を勤めてもらっている。そして同時に、私のファミリーの税務顧問も担ってもらっているんだ」

 

 私の推測は、半分は当たっていたわけだ。彼が奥さんに説明していた"新しい顧客"は、バンクロニー社だった。

 

「前任者が胃癌で入院したので、その彼から数字の魔法に長けている人物を紹介してもらってね......ところがある筋から、ヒルデブランドの周辺を嗅ぎまわっている動きがあると情報が入った。あなたのことじゃない」

 

 機先を制して、クロニーは私の質問を潰した。

 

「我々の同業者だ。それでベニー――彼の魂に安らぎあれ――が誰の差し金なのかを調べていたところ、あなたをその誰かしらの手先と早合点して捕まえ、先日のような失態に至った。そういうわけだ」

「身辺調査のダブル・ブッキングかあ」

 

 ぐらが面白がるような声で言った。

 

「よくよく不運だね、アメ」

「鼻を折られるのは"不運"で済ませていいレベルじゃないわ」

 

 私がふくれっ面で返すと、ぐらは面白がってさらにけたけた笑った。それが概ね治まるのを待って、クロニーは静かに切り出した。

 

「事情は大体こんなところだ。そして説明が終わったところで、一つ聞いてもらいたいことがある」

「何かしら」

「ベニーの調査を引き継いでもらいたい。つまり、ヒルデブランドの近辺を探っているのが何者で、その目的は何か。それを調べてほしい」

「でも、あなたはもうその答えを知っている。そうじゃないの?」

 

 先ほど、"ある筋からの情報"が私のことを指しているわけではないと断言したときのクロニーの口調から、半分カマをかけるつもりでそう訊いてみた。クロニーはうっすらとした笑みを浮かべて、変わらず落ち着いた口調で答えた。

 

「そうね。だが、裏付け調査は大切だ。そのためにベニーを動かしていたわけだし」

「オーケイ、わかったわ。これは依頼ということでいいのね?」

 

 確認のためにクロニーにそう訊くと、横からぐらが口を挟んだ。

 

「アタシとアメは外部協力者だから、クロニーから"命令"されることはないよ。"依頼という名の命令"は来るけどね」

「つまり、拒否権はないの?」

「いいや、あるとも。形の上では」

 

 クロニーが憎たらしいほど落ち着き払った声で続けた。

 

「あくまで依頼は依頼だ。あなたは断ることができるし、完遂すれば報酬を受け取ることもできる」

「でも、アタシなら断るって選択肢は取らない。よっぽどのことが無い限り」

 

 なら、私からの質問はあと一つだけだ。

 

「わかったわ。で、報酬はいくらなの?」

 

 

 

 10:30 AM, Ina's House, Flushing, Queens.

 

「うん、もうテープと詰め物を外しても大丈夫そうだね」

 

 イナは私の鼻の様子をじっくりと見てから、うんうん頷いてそう言った。場所はクイーンズにあるイナの家だ。こじんまりとした褐色砂岩(ブラウンストーン)のおしゃれな建物で、それなりに売れている画家の住まいとしては、結構いい部類だ。

 もちろんその購入費用が画家としての稼ぎだけじゃなくて、今まさに私が受けている闇医者稼業からも出ていることは、その副業を知っている人間からは自明だったけれど。

 

「じゃあ詰め物を外すから。痛かったら言ってね」

「はーい」

 

 イナがピンセットで、私の鼻の奥から綿の詰め物を引き抜くと、膿とも鼻水ともつかないものがねっとりと尾を引いた。鼻をかもうとハンカチーフを取り出すと、イナがぴっと人差し指を立てて言った。

 

「あんまり強くかまないこと。まだ鼻血が出るかもしれないから」

「わがっだ」

 

 言われた通りかるくかむに留めたけれどそれなりの量が出てきて、かわりに鼻の奥がひどくすっきりした。すっきりしすぎて、なんだかちょっと寂しいくらいだ。

 

「詰め物された当初は違和感しかなかったけど、なくなったらなくなったで、なんだか変な気分ね」

「慣れちゃうでしょ? 一週間もしてると」

 

 鼻回りのテープを剥ぎながら、イナは笑い交じりで言った。

 

「人間は本当に、慣れの生き物だよね......さあ、これでよし。身体の痣の方はどんな感じ?」

「ほとんど引いたわ。染みみたいなのがちょっと残ってる程度ね」

 

 目の周りの痣も、すっかり消えてしまっていた。これでもう、外を歩いても無用な注意を惹くこともない。

 

「それはよかった。アスピリンはまだある?」

「私の家には、あるわ」

「あー、はい」

 

 私がぐらの家に泊まる云々は、イナもあの日クロノ・タワーで聞いていたから、私が消費したアスピリンはほとんどぐらの物だってすぐにわかったらしい。

 

「ぐらなら、配給スタンプなしでも調達できるか......じゃあアメ、今日はもう帰っていいよ。お大事に」

「ありがとう、イナ」

 

 イナの家から出ると、冬のニューヨークの冷気が容赦なく襲い掛かってきて、私はぶるりと身震いした。この一週間というもの、ほとんどぐらのアパートメントにこもりきりか、ぐらのクライスラーで移動するかだったから、ようやくこれで人間に戻れたような気分になった。

 歩道の雪はすっかり掻かれていたけれど、路面には薄い氷が張っていて、私はその上をそろそろと慎重に歩いて地下鉄フラッシング線のメイン・ストリート駅に向かった。

 

 

 



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Bait on the Hook #4

 Jan. 7th, 1943, W 81st Street, Upper West Side, NYC

 

 私はアッパー・ウェストサイドの路肩に借り物の38年式シボレー・マスターを駐めて、ヒルデブランドの帰宅を待っていた。

 退勤後に彼が辿る道のりは常に同じだ。徒歩でクロノ・タワーに向かい、そこで秘密の仕事をして、再び徒歩で事務所のあるビルに戻る。駐車場から自分の車に乗って、アッパー・ウェストサイドの自宅に帰る。

 ここ数日はそんな規則正しいヒルデブランドのお尻を追いかけてたけれど、ある事情から、今夜の私はヒルデブランドの自宅付近で出待ちをしていた。

 

「さてと、そろそろ帰って来る頃ね」

 

 ガソリン節約のためにエンジンを切っていたから、車内はすっかり冷え切ってしまっていた。

 雪こそ降っていないものの、気温は氷点下にいってるはずだ。華氏三十度とか二十五度とか、それくらいだろう。その空気を取り込みたくなくて通風孔(ヴェント)は閉めっぱなしだったから、車内にはこの一時間で灰にした煙草の煙が、うっすらと漂っていた。

 チョークを入れてキーを捻り、始動ボタンを押し込んでエンジンをかける。目的の連中が来るまでは暖機運転だけで、排気ヒーターは切っておいた。

 

「お、来た来た」

 

 コロンバス街との角を曲がって、一台のビュイック・センチュリーが西81丁目に乗り入れてきた。通りをゆっくりと進んで、大きな庭付きの家の私道に曲がって行く。

 外から火を見られないよう、半分ほど残っているキャメルを灰皿につっこんだ。

 

「よし、今日も来てるわね」

 

 ビュイックと距離を置いて、一台のパッカード12型が81丁目にやってきた。ヒルデブランド以上に慎重に道を進み、彼の家の前でさらに速度を緩めて私道の奥にビュイックがあるのを確認すると、そのままアムステルダム街の方へ抜けていく。

 

出発進行(ヒア・ウィー・ゴー)

 

 パッカードが隣を通り過ぎて離れて行くと、私はそう独り言ちてシボレーを発進させた。クラッチを慎重に繋ぎ、アクセルを絞って、音で連中に気付かれないようにゆっくりと路肩から離れる。ヘッドライトは、アムステルダム街との角から点けた。

 

 

 

 11:55 PM, "The Swing Street", Midtown Manhattan, NYC

 

 スウィング・ストリート。あるいは大抵のニューヨーカーにはザ・ストリートというだけで通じるその界隈は、西52丁目の六番街と五番街の間のことを指していた。この辺りはジャズ・クラブがひしめき合っていて、伝説的なその名前の由来になっている。

 ブロードウェイをずっと下り続けたパッカードは、西52丁目との角で東に折れ、ちょうど帰宅しようとしている人々の車とタクシーで混雑したザ・ストリートにやってきた。

 

「この時間にスウィング・ストリートねえ。ジャズ・クラブそのものに用があるわけじゃなさそうね」

 

 シボレーをゆっくりと進めながら、私は呟いた。不自然でない程度に道を譲り、路肩を離れる車やタクシーを入れてあげる。

 そのうちに前方で、パッカードが路肩に寄るのが見えた。三軒隣のクラブの前にいた私は、丁度路肩から離れようとしていたシボレーのタクシーに道を譲って、パッカードの様子を観察した。

 男が二人、車から降りてキーを駐車係(ヴァレー)に預けた。

 

「ふーん......ますます興味深いわね」

 

 どこも店じまいの時刻なのだ。普通なら追い返される。とはいえ、このクラブにはちょっと心当たりがあった。

 私はそのままクラブを通り過ぎ、ザ・ストリートを抜けた。そのまま東52丁目をマディソン・アヴェニューまで進むと、北に折れてアッパー・イーストサイドを目指した。

 

「ロスト・ヘブン、か......」

 

 

 

 Jan. 2nd, 1943, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

「さてと、クロニーから仕事を引き受けることになったわけだし、アメが知っといたほうがいい事を教えとこうかな」

 

 クロノ・タワーでオーロ・クロニーから依頼――ぐらに言わせれば依頼と言う名の命令――を受け、クイーンズの褐色砂岩(ブラウンストーン)の家で鼻のテープを剥がれた後。ぐらは六時過ぎに帰ってきて居間のソファに落ち着くなり、そう切り出した。加湿箱(ユミドール)から葉巻を取ってこっちにも一本勧めてくるあたり、長くなりそうだ。

 

「クロニーとは対面を果たしたわけだけど、ニューヨークの裏ボスはあいつだけじゃないんだ」

「あんなのが他にもいるの?」

 

 あんなの呼ばわりがぐらのツボに入ったらしく、ぐらは葉巻用マッチに火を点け損ねた。長い軸が半分に折れて、先端部分がどこかへ飛んでいく。

 

「くふっ、あんなの、ふふふ......そう、あんなのがあと四人もいるんだよ」

「四人!?」

 

 ニューヨークは大きい街だ。アメリカ最大、いや世界最大の都市だ。そんな大都会の裏社会をたった一人の人物が切り盛りしている、とは思っていなかったものの、想像以上に人数が多かった。

 ぐらは新しいマッチを擦りなおして、自分の葉巻を炙りながら言った。

 

「そ。その五人が、地理的な境界線やシノギの分野ごとに、この街の裏社会を区切って仕切ってる」

 

 ぐらは火の着いた自分の葉巻を脇にやると、別のマッチを擦って私の前に差し出してきたので、ありがたくその火を使わせてもらった。あまり吹かさず気長に炙っていると、口の中にハバナ煙草特有の強い甘みが広がりはじめる。

 充分火が着いたと判断して火先を引くと、ぐらはちびたマッチを灰皿に放り込んで講釈を続けた。

 

「オーロ・クロニーはマンハッタンのほとんど全域を支配下に置いてる。麻薬とか売春とかのお決まりのやつから、お酒の密造、盗難美術品の密輸、武器商、組合トロール、現代版奴隷市場までなんでもアリ」

「途方もない話ね」

 

 こんなことになる前に同じ話を聞いても、一笑に付しただろう。そんな大悪事を働いてる人間が、どうやって大手建設会社の社長なんて表の顔を保っていられるのかって。ぐらはその質問を先回りして答えた。

 

「クロニーは役人を買収してるからね。連邦、州、市のどのレベルでも、実権を握ってたり実務を担ってたりする連中の半分は、クロニーから金を貰ってる。この市に限って言えば、九割方はクロニーに逆らえない。金で言うことを聞かない人間は、弱みを突いて強請る」

「それでも言うことを聞かなかったら?」

「始末して、扱いやすい人間が後任に来るように計らう。ここの動きがすっごく早いんだ」

 

 ぐらは感心するような口調で、ぷかっと紫煙を吐いて続けた。

 

「そいつがクロニーのことを告発する暇も与えない。不慮の死を遂げたり失踪したり、やり方は色々だけど、調べる当局がそもそも買収されてるんだから永遠に解決しない」

「そして自分は富も名誉も手に入れる。表でも裏でも」

 

 その通り、と言わんばかりに葉巻を軽く振って、ぐらは続けた。

 

「と言っても、何もかもを手中に収めてるわけじゃない。マンハッタン以外の地域は他のボスが仕切ってて、クロニーは"影響力がある"程度にとどまる。その辺の均衡を崩さないために評議会(カウンシル)があって、利害の対立は戦争じゃなくてそこでの話し合いで決めることになってる」

「へー......で、他の四人って言うのは?」

「今はまだ知らない方がいい......って言いたいところだけど、クロニーの依頼が依頼だからね」

 

 ぐらは溜め息のように煙を吐いた。

 

「クロニーに次いで勢いがあるのがハコス・ベールズ。ブルックリンが主な支配地域だけど、マンハッタンにも飛び地をいくつか持ってる。いや、あれは持ってるって言っていいのかな......」

 

 ぐらはソファにもたれかかると、ふーっと天井に紫煙を吹き上げた。

 

「ベーは何て言うか......趣味が悪い」

「どういうこと?」

「ヘルズ・キッチンとかハーレムとか、あの辺りって地回りのチンピラたちの抗争が絶えないでしょ?」

「そう聞いてるわ」

 

 黒人系やヒスパニック系のギャング――と言えるほどの統制は無いらしいけど――たちが、永遠に内輪揉めを続けている地区だ。方針が違うとか宗教が違うとか、言葉とか出身地とかで細かい派閥があるらしいけれど、外からはよくわからない。

 

「ベーはわざと、自分が利権を持ってる地域の諍いの種をそのままにしてる。そこから生まれる混沌を眺めるのが愉しいんだって」

「......ちょっと理解できないわ」

「理解出来たら、アメはベーの後を継げるよ......さておき、悪趣味女はギャンブル狂でもある。自分でも打つし、胴元もやる。つまるところ、ニューヨークの違法賭博はぜーんぶ、ハコス・ベールズに繋がってる」

「ひょっとして、ヘルズ・キッチンとかをほったらかしにしてるのって......」

 

 ぐらがにやっと笑ったけれど、その笑みにはどこか疲れたような風があった。

 

「大正解」

 

 私は何も言えずに顔を覆った。そのベールズとかいう女ギャングは、闘犬の感覚でチンピラ同士に抗争を起こさせ、それを賭け事にして稼いでいるのだ。彼女と、幸運な博打打ちたちの儲けの下で、一体何人の人間が命を落としてるんだろう?

 

「わかんない。市警もあのあたりの界隈にはめったに手を出さないから、まともな統計なんてないし」

「それでよく苦情が来ないわね。この街でも治安最悪な地域をほったらかしにしといて」

「来るわけないじゃん。殺し合ってるの連中が連中だもん。黒公(ニッグ)とかスペ公(スピック)とかは生まれつき野蛮だから殺し合うんで、止めようがない。彼らが白人に手出ししないなら、後は白人がその地域を避ければいい。ってのが善良な一般的アメリカ人(ソリッド・ジョー・シチズン)の考えだからね」

「......」

 

 言い返そうとして、私は黙り込んだ。そういった感覚が私の中に無いって、どうして言い切れる? 息をするように肌が白くない人間を野蛮人と決めつける国に、肌が白い人間として生まれ育った以上、まるでお国柄のようなその意識が存在しないなんて、どうやって断言するって言うの?

 そしてハコス・ベールズは、そんな白人たちの差別――意識的にせよ無意識的にせよ――を利用して稼いでいる。

 自分も無意識的に加担している可能性に気付いて自己嫌悪に陥りかけたところで、ぐらが咳払いをして注意を戻した。

 

「悪いけど、自己嫌悪の毒で自家中毒を起こすのは後にして。この講義は今夜中に済ませたいから」

「ごめん......」

「三人目は七詩ムメイ」

 

 ぐらは今までと変わらない、淡々とした口調で講釈を続けた。責めるわけでもなければ、私を労わるわけでもない。一番欲しいものではなかったけれど、とにかく気持ちを仕事モードに戻すことができた。

 私立探偵アメリア・ワトソンでいる間は、自分のことでも非情に、冷静に脇に置いておける。自分を責めるのは後でいい。

 

「ムメイはカウンシル随一の知恵袋(アイデア・ガール)だよ。いっつも何かを考えていて、それをメモに取ってる。それが自分のシノギに生かされることもあるけど、大抵は他の連中の商売を助けてる。本人が覚えてられないんだよ」

 

 私の質問を先読みして、ぐらはそう答えた。

 

「極度のシングル・タスクで、思考が切り替わったらその前に考えてたことはコロッと忘れちゃう。だからメモを取ってるわけだけど......声に出して考えてることもあって、その場にいた他のボスにアイデアを盗まれることも多い。そしてその誰かがアイデアをモノにした頃には、ムメイは誰が発案者なのかを覚えてないってわけ」

「それ、聞く限りだといいように利用されてるって印象を受けるんだけど」

 

 ぐらはにんまりと笑って答えた。

 

「もちろん、その程度じゃカウンシルに名を連ねることはできないよ。ムメイはブロンクスと、大陸側のニューヨーク州のほぼ全域を支配下に置いてる。オルバニーは当然クロニーの方が強いけど。でも、国境辺りは完全にムメイのシマ。米加国境を越えて違法な何かをしたいなら、ムメイに話を通さなきゃいけない。この利権がとんでもない利益を生むんだよ」

 

 長くなってきた灰を灰皿に擦り付けながら、ぐらは続けた。

 

「州内のあちこちに、彼女自身が発案した色んな工場を建てて、成果物を他のギャングたちに売り捌いてる。密造酒、覚醒剤、ヘロイン、量産拳銃(サタデーナイト・スペシャル)......イナが言うには、どっかに偽造名画の工房も持ってるらしい」

 

 知恵袋の名は伊達じゃなさそうだ。自分でしっかり扱えてる分だけでも、相当な利益を生んでるのは間違いない。

 

「ムメイはギャング向けのサービス業もやってる。家具屋とか、葬儀屋とか、配管屋とか」

「それのどこがギャング向けなの? 葬儀屋はわかるけど」

「全部ダミーなんだよ」

 

 ぐらは喉の奥をくっくっと鳴らして笑った。

 

「家具屋は家具の中にトミーガンをいれてデリバリーするし、葬儀屋は上げ底の棺桶を使って、カタギの死者と一緒に"死体が見つかったら困るヤツ"を埋葬する。配管屋は屋内に発生した血の風呂を処理して、証拠を綺麗さっぱり下水に流すのがお仕事ってわけ」

「なるほど、だいたい呑み込めて来たわ」

 

 それが彼女たちの秘密を守り続けてるわけだ。

 

「四人目はファウナ・セレス。麗しのクイーンズとロング・アイランドの全域――ブルックリン以外は――を支配下に置いてる。カウンシルで一番の穏健派で、シノギの種類も保守的。本人の信条で麻薬と売春を扱わないんだよ」

「珍しいわね」

 

 ぐらはきゅっと肩をすくめた。

 

「良く言えば昔かたぎ、悪く言えば古臭いってところ。主な収益は建設業界への組合トロール、公共事業ゴロ、土地転がし、銀行強盗、酒、銃、賭博。そんなところ」

「待って。建設業界への組合トロール?」

 

 私は慌てて口を挟んだ。

 

「クロニーはどうなってるの?」

「いいとこに気付くじゃん」

 

 さも愉快そうな笑みを浮かべて、ぐらは答えた。

 

「ファウナはクロニーがバンクロニーを立ち上げるよりもずっと前から、事業者連合と労働組合の双方から建設業界を支配してた。静かに、粛々とね。クロニーがそれに気付いたときには、もう遅かったの」

「なんとまあ」

 

 最大勢力のボスが、一番穏健派のボスに首輪をつけられてる状態なのか。なんだか三すくみみたいで面白い状況だ。

 

「五人目は九十九サナ......だったんだけど、彼女は引退したの。今は五人目の席は空席になってる」

「空席? じゃ、そのサナって人が持ってた利権は?」

「宙ぶらりん」

 

 紫煙を吐き、足を組みかえてぐらは続けた。

 

「サナはリッチモンド郡と、ハドソン川沿いのニュージャージー州を支配してた。NYNJ州境を越えて違法なことをしたいなら、昔はサナに筋を通す必要があった。これもなかなか金になるの。知っての通り州境をまたいだ途端に、この国の警察の連携度合いはがくっと落ちるからね」

 

 自嘲するようなぐらの笑みから見る限り、ニューヨーク市警察とニュージャージー州当局――ハドソン川沿岸の保安官事務所や地元警察署――の関係がギクシャクしたものなのは間違いなさそうだ。

 

「州警察同士の関係はそこまで悪くないんだけど、市警は州警と仲が悪いから。港湾利権はクロニーが握ってたけど、造船業はサナが支配してたね。ブルックリンのベールズ、ニュージャージーのサナ」

「で、その宙ぶらりんの利権はどうなったの?」

「戦争になりかけたんだけど、カウンシルの存在があったからね。話し合いで解決するってことになって、もう何年も経つ。実務としては、カウンシルの相談役が運営管理を代行して、収益は積立金に入ってる」

「その相談役って?」

「これはアメも知ってる人だよ」

 

 にんまりと、今日一番いたずらっぽい笑顔を浮かべて、ぐらは言った。

 

「アイリス。"ロスト・ヘブン"の支配人兼専属シンガー。そしてカウンシルの相談役」

 

 

 



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Bait on the Hook #5

 Jan. 8th, 1943, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

「おはようございます、ミス・ワトソン」

「おはよう、ヴィック」

 

 翌日の朝。ビルのエントランスに降りると、玄関の前にはベル・デスクに電話した通り、私の39年式フォード・スタンダードが駐められていた。昨日使ったシボレーはぐらが今日、保安官事務所の押収車庫に返しに行くはずだ。

 ドアマンのヴィックに挨拶を返してキーを受け取ると、フォードの脇で待機していた駐車係(ヴァレー)にチップとして25セント銀貨(クォーター・ダラー)を渡した。

 

「ご苦労様。今朝はまた寒いわね」

「どうも。夜には二十度を切るそうですよ」

「雪が降ってもおかしくなさそうね」

 

 天気予報では、今月前半は降水無しらしいけれど、これだけ寒かったらみぞれくらい降ってもおかしくなさそうだ。

 寒いフォード――ガソリンが配給制になってから、大抵のヴァレーはエンジンを切って引き渡すようになった――に乗り込んでエンジンをかけると、ヴィックが制帽の庇に手を当てるのが見えた。

 

「行ってらっしゃいませ、マーム」

 

 いい気分だ。いかにも仕立てのいいお仕着せに、師団か艦隊を指揮できそうな金モール飾りのついたドアマンに見送られるのは。ぐらの高級アパートメントで暮らしていると、自分が目標にしているチューダー・シティの中流向けアパートメントがひどく霞んで見えてしまう。

 

 "帰っちゃうの?"

 

 鼻のテープも取れて目の周りの痣もひいた日の翌日、つまり三日に客間で帰り支度をしていると、それを見たぐらは悲しそうな声でそう言った。

 

「ズルいのよね、あいつ......」

 

 例えば、大好きな通いの乳母が帰宅する時の子供のような、あの悲しそうな瞳で見つめられたら、私はとても帰る気にはなれなかった。たとえ相手がほとんど歳の変わらない、この街でも一、二を争う狡猾さの悪徳警官だとわかっていても。

 どうしたものか頭を悩ませながら、私はクロノ・タワーに向かって緑のフォードを走らせた。

 

 

 

 

 

 パーク・アヴェニューからブロードウェイに移り、ロワー・マンハッタンに入ってすぐのことだった。

 

――ガシャーン!

 

「きゃっ!」

 

 12丁目との交差点が赤信号だったので停車すると、後続車が私のフォードに思いっきり追突したのだ。金属同士がこすれ合うガリガリいう音と、何かが割れるような音がした。

 

「ちょっと、もう!」

 

 ドアを蹴るように開けて車から降りると、フォードの後部に鼻先をつっこんでいるパッカードへと歩み寄った。そちらの運転席からも、背広姿の男が降りてくる。

 

「ちゃんと前見て運転してんの? 赤信号なんだから停まるに決まってるじゃない」

「そっちこそ前見てんのか? ブレーキかけるのが急過ぎだぞ」

「はあ!?」

 

 もうちょっと北の方の界隈なら、路上で突如勃発した言い合いを遠巻きに見物する人たちがいてもおかしくなかっただろう。でもここはロワー・マンハッタンだ。歩行者も自動車も、面倒事を避けるように通り過ぎて行く。

 パッカードの助手席からも背広姿の男が降りてきて、私はそっちに目をやった。

 

「大体、そっちがちゃんと車間距離を......あれ?」

 

 助手席から降りてきた男に見覚えがあって、私は彼をまじまじと見つめた。

 それは昨晩、ヒルデブランドの後を自宅まで尾けたあと、閉店間際のロスト・ヘブンに入って行った二人組の一人だった。

 

「......あ」

 

 私がそれに気づくのとほぼ同時に、大きな手が私の後頭部を押さえてパッカードのボンネットに叩き付けた。

 

「うぁっ! ちょっと、何をむぐっ」

 

 柔らかい布が口の中につっこまれて、私の抗議は中断させられた。

 もう一度頭をボンネットに叩き付けられた私が目を回している間に、男たち――もう一人の男も車を回って加勢に来たようだ――は手際よく私の手足を縛めると、私をかついでパッカードの後部座席に放り込んだ。

 後席ドアが閉まり、前のドアも次々と閉まる音がして、パッカードはタイヤをキュルキュル鳴らして慌ただしく発進した。

 

 

 

 

 

 突然だけど、直感あるいは虫の知らせってやつを、あなたは信じる?

 アタシは信じてる。なぜなら4年前のあの日、オールド・テンダーロインでたまたま見かけた街娼に声をかけてなかったら、アタシはまだ交通課あたりにいただろうし、レノックス・ヒルの高級アパートメント・ホテルになんか一生手が届かなかったと思う。

 だからアタシは38年式シボレー・マスターのエンジンをかけた後、ブルックリンの市保安官押収車庫に向かう代わりに、いやな予感に従ってアメの後からパーク・アヴェニューを下った。

 そしてブロードウェイと12丁目の交差点まで来た時、ちょうどアメがパッカード12型に放り込まれるところを目撃した。

 

「ああくそ、そういうこと......」

 

 咄嗟に車を降りようとドアハンドルに手を掛けたところで、アタシはクロニーの意図に気付いて呻くようにそう呟いた。

 アメリアは釣り餌(Bait)だったんだ。そしてこの場合、釣り針(Hook)はアタシだ。

 

「ふーっ......待っててアメ、ちゃんと助けてあげるから」

 

 腹立たしいけど、ここはクロニーの思惑通りに動いた方がいい。アタシはハンドルを握りなおして、逃走するパッカードの後を目立たないように尾けた。

 

 

 

 8:12 AM, Lower West Side, NYC

 

 ロワー・ウェストサイドの倉庫街、二十年くらい後にトライベッカと呼ばれるようになる地区のボロアパートに、男たちはパッカードを駐めた。借主不在の倉庫と、今にも崩落しそうなアパートメントが立ち並ぶこの界隈に、ピカピカのパッカードはあまりにも場違いだ。きっとアタシがあの建物から出る頃には、盗まれて無くなっているだろう。

 アタシは半街区(ブロック)ほど離れたところの路肩にシボレーを寄せて停めた。自分のクライスラーならともかく、このおんぼろシボレーは見向きもされないだろう。

 男たちはパッカードからアメを引っ張り出すと、抵抗するアメのお腹に一発ぶちこんでから担ぎ上げて、アパートメントの中に入って行った。

 アタシは十秒数えてからシボレーを降り、念のためにしっかりドアを施錠してから件のアパートメントに向かった。

 

「うわ、見れば見るほどおんぼろね、ここ......」

 

 前世紀に建てられたとしてもおかしくない古さだった。玄関ドアの錠は壊れていたし、ロビーの内扉にいたっては蝶番が外れて壁に立てかけられていた。

 集合ポストを見る限り、住人のほとんどは来るべき崩壊の時を予期して逃げ出してしまった後らしい。郵便物の溜まり具合からして、管理人はもう一年近くこの建物に来てないようだ。あるいは管理人室で死んでいるか。

 

「拉致監禁にはもってこいの場所ってわけだ」

 

 足音をさせないように、注意深く階段を登る。

 二階の廊下では公衆電話が壊されて、ばらばらになって床に散らばっていた。誰かが小銭目当てで叩き壊したらしい。

 埃っぽい廊下に残った最新の足跡は、三階のアパートメントの中に続いていた。

 

「ふーん、デッドボルト二つ、か」

 

 誰であれかつてこの部屋に住んでいた住人は、古めかしいレバータンブラーの仮締(ラッチ)錠だけじゃ心許なかったらしく、本締(デッドボルト)錠を二つ追加していた。玄関の様子を見る限り、その気持ちはわからないでもない。

 ただこのタイプのデッドボルト錠は、内側からも鍵を使わないと開け閉めできなかったはず。不法侵入者が鍵を持ってるとは思えない。

 アタシはコートの内ポケットから飛び出しナイフを取り出すと、ぱちっと刃を開いて、ドアとドア枠の間に差し込んでラッチを探った。

 

 

 

 

 

「よーし、それじゃあ質問だ、お嬢さん。あのヒルデブランドって税理士を尾けまわしてる理由はなんだ?」

 

 両手足を縛られて埃っぽい床に転がされた私は、その質問になんとも言えないデジャヴを感じていた。それに対する私の答えもまた、いつかしたようなものだ。

 

「浮気調査よ、奥さんからの依頼で」

「ほーん、そうかい。じゃ、昨晩俺たちをロスト・ヘブンまで尾けて来たのはなんでだ?」

 

 背筋に寒いものが走った。バレてたのか。

 

「......さあ? 何のことかわからないわ。私は昨晩、イリノイ州まで行ったりした覚えはないけれど?」

「面白いお嬢さんだ」

 

 男は内ポケットからアルミ製の何かを取り出した。手首のスナップですぱっと開く。折り畳みナイフだ。

 

「その態度がどれくらい保つか、試してみようか」

「や、やめて......」

 

 一番親しい友人がナイフ使いだったから、その凶器の恐ろしさはよくわかっていた。一瞬で命を奪うかと思えば、殺さず苦痛だけを与えて拷問することもできる。何をされるにしても、ろくなことじゃないのは容易に想像がついた。

 芋虫のように体を動かして、部屋の隅へ這って逃げようとする。といっても、その先に退路があるわけじゃない。私は簡単に追い詰められて、ナイフ男に組み敷かれてしまった。

 シャツの襟をつかまれ、ナイフの刃が前合わせを切り開くのとほぼ同時に、バチンと大きな音がアパートメントの入り口の方から響いた。

 

「な、なんだ!?」

 

 もう一人の男は狼狽えたようにそう叫んだけど、ナイフ男は素早く私を抱きかかえると、喉元にナイフを当てて部屋の入り口に向き直った。

 ナイフ男と同じで、私も音の正体がすぐに分かった。ラッチ錠をこじ開けた時の音だ。探偵稼業をしていると、割とよく耳にする。つまり、誰かがこの部屋に押し入ってきたのだ。

 ごく短い沈黙の後、青灰色のチェスターフィールド・コートにすっぽり覆われたような人影が姿を現した。それはどう考えても、親友の悪徳警官に他ならなかった。

 

「や、アメ。ひどい恰好じゃん」

 

 ぐらはいつもと変わらないニヤニヤ笑いを顔に浮かべていた。なんでかわからないけれど、その腹の立つ笑顔を見た途端、私はちょっと安心した気分になった。相変わらず喉許にはナイフが突きつけられているのに。

 

「誰かと思えば、ミス・オーロの飼い刑事(ポケット・ディテクティブ)か。こんな薄汚いところまでご足労どうも」

 

 ナイフ男が皮肉めかしてそう言うと、ぐらも同じような調子で返した。

 

「普通なら、こんなところに足を運んだりしないんだけどね。この靴なんか20ドルもしたんだよ? でも、あんたらが攫ったその探偵は、アタシの親友なんだ」

「その親友さんが、俺たちの後を尾けてたんだよ」

 

 ぐっと喉元に刃が食い込む。

 

「あんたは何か知らねえか?」

「知ってるよ。でも引き換えに、アタシも教えて欲しいことがあるんだけど」

「何だ?」

 

 ナイフ男の声は、人質をとっていることから来る優越感に溢れていたけれど、ぐらのほうも負けず劣らず余裕綽々といった風で訊いた。

 

「あんたらもヒルデブランドを尾けまわしてたのはわかってる。問題はその理由。ヒルデブランドをそっちに引っ張り込むスキを伺ってたからなのか、あるいは......ネズミの監視役をしてたのか」

「こいつ......!」

 

 男が気色ばむのと同時に、だぶだぶのコートの裾がばさっと跳ね上がった。きらきら光るものがしゅっと飛び出し、私の頭のすぐ横をかすめて男の喉に突き刺さった。

 

「ごぼっ」

 

 生暖かい液体が私の頭に吹きかかって、男は湿った音を立ててナイフと私を取り落とした。

 

「お礼に教えてあげるけど、探偵があんたたちを追っかけてたのはクロニーがそう命じたからだよ......聞いてないか」

 

 ぐらは青いスーツの下から大きなKA-BARナイフ――大抵の刑事が拳銃を保持している左腋下に、ぐらは野戦用ナイフを仕舞っていた――を取り出すと、こちらも投擲用ナイフが喉に刺さっているもう一人の男に歩み寄って、太腿の裏側にその刃を走らせながら私に訊いた。

 

「大丈夫、アメ? どこか怪我してない?」

「ええ......ええ、大丈夫」

 

 頭を振ると、赤い血潮が床に飛び散った。早く洗い流さないと、固まって髪の毛ごと切り取る羽目になる。

 ぐらはこっちにやってくると、ナイフ男の太腿にも同じ処置をして――血飛沫が20ドルの靴と200ドルのコートを濡らした――から、血塗れのKA-BARナイフで私の手足を縛っているロープを切った。

 

「やれやれ、アメには一人で帰ってもらって、アタシはここで後始末をするつもりだったんだけど。今のあんたを見る限り、それは無理そうだね」

「そうね。私もおっぱい丸出しで出歩く趣味はないわ」

 

 ナイフの刃はシャツだけじゃなくて、その下のシュミーズも引き裂いていた。つまり、今の私はおっぱい丸出し女だ。頭から血を被って、密かに誇りを抱ける程度には大きいおっぱいを丸出しにしてる女なんて、あまりにも目立ちすぎる。

 ぐらはけたけた笑って、立ち上がりながら言った。

 

「ここで待ってて。"信頼できる"人間を呼んで、そいつに後片付けを押し付けちゃうから」

 

 

 

 9:35 AM, Amelia's Apartment, Greenwich Village, NYC

 

 ぐらが呼んできたのは、グリーンフィールドとかいう制服巡査だった。ガリガリに痩せていて顔も土気色で、私服で路地裏にいるところに出くわしたら大麻密売人(グラスホッパー)と勘違いしそうな風体だ。たぶん、自身も薬中(ジャンキー)ポン中(ホプヘッド)なんだろう。こんなナリじゃ、徴兵を免れてるのも納得だ。

 そいつと、後から来るらしいベルビュー病院の知り合いとやらに死体を任せて、私とぐらはウェスト・ビレッジの私のアパートメントに戻っていた。

 久しぶりに戻ってみると、我が家のみすぼらしさがよくわかる。さっきまでいたおんぼろアパートメントほどじゃないにしても、ロビー内扉の錠は壊れているし、エレベーターはないし、暖房の効きは悪いし、シャワーのお湯はちょろちょろとしか出ない。おかげで髪に付いた血を洗い流すのにかなり時間がかかった。

 

「お待たせ、ぐら」

 

 バスタオルを巻いて部屋に戻ると、ぐらは私のベッドに腰かけて葉巻を喫っていた。ちっぽけなスタジオ・アパートメントには似つかわしくない、ハバナ煙草の香りが立ち込めている。

 ぐらは懐に手を突っ込むと、ダンヒルの白い包装紙に包まれた葉巻を取り出して勧めてきた。

 

「いる?」

「いや、私はこっちでいい」

 

 テーブルの上に置いてあったキャメルのパックを取ると、中身を一本振り出す。パックでとんとん叩いて喫い口を空けると、鳥目(バードアイズ)マッチをテーブルの裏で擦って火を着けた。

 

「で? 彼らはベールズの手下ってことで間違いないのね?」

「そうだよ」

 

 葉巻をぷかぷかやりながら、ぐらは答えた。

 

「前に会ったことがあるんだ。と言っても、こっちが勝手に見たことがあっただけだけど。顔を覚えられてるとは思わなかったな」

「どうかしら。ぶかぶかの高価そうなチェスターフィールド・コートを着たチビのサメなんて、そうそういないと思うけど」

「それはそうか」

 

 にたっと笑ったぐらに灰皿を差し出すと、ぐらは長くなっていた葉巻の灰を擦り落とした。

 

「でも、ちょっと気になるんだけど」

「なに?」

「ロスト・ヘブンの支配人はアイリスなんでしょ? ベールズが関わってくるのはなんでなの?」

「あー、言ってなかったか。ロスト・ヘブンのオーナーはベールズなんだよ。アイリスはベールズの相談役だったころからあそこの支配人をしてて、独立した今でもそれを続けてるの」

「ベールズはそれを良しとしてるの?」

 

 天井あたりに揺蕩う紫煙に、ふーっと新しい煙を追加して、ぐらは答えた。

 

「アイリスの歌が目当てで付いてる客も多いからね。それに、あの二人はなんだかんだ仲がいいし」

「そういうもんなの?」

「そういうもんなんだよ」

 

 そういうものらしい。ちょっと納得できないけれど、ぐらはそこに疑問を感じてないみたいだから、私が口を挟むようなことじゃなさそうだ。

 ぐらは喫い差しの葉巻を灰皿に置くと、ベッドから立ち上がった。

 

「じゃ、アタシは今度こそあのシェビーを保安官のとこに返してくるから。アメも着替えて、ヒルデブランドがネズミだってことをクロニーに報告しに行きなよ」

「髪の毛が乾いたら、そうするわ」

 

 

 

 11:06 AM, Krono Tower, Financial District, NYC

 

「なるほど、ヒルデブランドにはベールズの息がかかっていたか」

 

 クロノ・タワー70階の社長室。オーロ・クロニーは自身のデスクでなにかしらの書類を読みながら、私の報告に相槌を打った。

 

「思っていた通りだった?」

「まあね」

 

 書類のページを繰って、何か気に喰わないことが書いてあるらしく眉間にしわを寄せながら、クロニーは続けた。

 

「ベールズはここ最近、野心を見せ始めてるから。私のシマとコネを奪うことができれば、評議会(カウンシル)の存在も彼女の脅威ではなくなるからな」

「ふーん」

 

 私は大して興味もなく、部屋に入った時に注いで貰ったウィスキーを舐めた。ライ・ウィスキーっぽいけど、いつも呑むようなものとはちょっと違う、独特の風味がする。ボトルのラベルに楓葉(メープル・リーフ)が描かれていたところからして、カナダ産らしい。

 

「これが報酬」

 

 立派なデスクの上に置かれていた、みすぼらしい紙袋――そこいらの雑貨店で買い物をしたら貰えそうなやつだ――をこっちに押し出しながら、クロニーは言った。

 

「またなにか依頼したいことができたら、君の探偵社か自宅に電話する」

「どうも」

 

 グラスの中身を干してバー・カウンターに戻す間に、クロニーはデスクの上の電話機から受話器を取り上げていた。その背後のフランス窓をガタつかせて、四発エンジンの爆撃機か輸送機が飛んでいく。

 航空エンジンの爆音を背後に社長室のドアを閉めるとき、クロニーが電話に話しかけるのが小さく聞こえた。

 

「ジョン? ミスター・ヒルデブランドにクルージングの手配をしてあげて......」

 

 

 



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House Keeping

 Mar. 7th, 1943, Kiara's Dinner, Meatpacking District, NYC

 

「お、いたいた」

 

 ウェスト・ビレッジのアパートメントから少し歩いたところにある、食肉工場地区(ミートパッキング・ディストリクト)安食堂(ダイナー)。私はよくここに朝ご飯を食べにくる。今日もいつも通りライ麦パンのサンドイッチ――オニオン抜き――をパクついていると、そのことを良く知る友人がふらっと店に現れた。

 

「おはよう、ぐら」

「おはよう、アメ」

 

 相変わらずダウンタウンのダイナーにはあまりにも似つかわしくない、濃い青のラシャ地に黒いベルベットの襟がついたチェスターフィールド・コートに身を包んだサメの獣人がうる・ぐらは、カウンターの向こうの店主に「いつもの」と言ってから、私が食事をしている一番奥のボックス席にするっと入り込んできた。

 

「珍しいじゃない、ここに食べに来るの」

「まあ、たまにはね。それにクロニーが呼んでるってのを、伝えに来なきゃいけなかったし」

 

 例のヒルデブランド税理士の一件以来、クロニーからは何一つ音沙汰がなかった。

 あれから数日ほどで、ニュー・ジャージーの海岸でヒルデブランドが見つかった、という新聞記事を読んだくらいだ。モンマス郡保安官の発表によれば、トミーガンの弾倉丸々一つ分の弾丸が撃ち込まれていたらしい。文字通りハチの巣というやつだ。ぐらによれば、クロニーからベールズへの牽制らしいけれど、それ以降の動きは何も聞いていない。

 そんなわけで私はこの二か月間、去年までのような平和な――あくまで私立探偵としては平和な――日々を過ごせていたんだけど。

 

「新しい依頼?」

「たぶん」

 

 ウェイトレスがぐらのお皿を持ってきた。目玉焼きとトースト二枚、焼きトマト、エスプレッソ。そしてぐらがいつも頼む、黒いサラミ・ソーセージみたいなもの。

 

「どういう依頼か聞いてる?」

「いや、全然」

 

 ぐらが目玉焼きにナイフを入れると、とろとろの黄身が流れだした。それにソーセージを擦り付けて口に運ぶ。

 

「ねえ、前から訊こうと思ってたんだけど、その黒いサラミみたいなのって、何なの?」

「これ? ブラッド・ソーセージ」

 

 口の中の物を呑み込んでから、ぐらは続けた。

 

「書いて字の如く、血を詰めたソーセージ。ミートパッキング・ディストリクトだからこそ食べられる逸品だよ」

「ああ、そう......」

 

 まるで食欲が湧かない紹介をされてげんなりする私を尻目に、ぐらはお皿の上の物をもりもり口に運び続ける。

 

「そう急ぎでもないみたいだったけど、アタシの勤務の都合があるから、これから一緒にクロノ・タワーまで行かないかと思ってさ」

「一緒に呼ばれてるの?」

「そう」

 

 口の中の物をエスプレッソで嚥み下すと、ぐらは皿の上に残った卵をトーストの一枚でふき取りはじめた。もう一枚は、すでにぐらのお腹の中だ。

 

「一緒に行動させてくれるとは限らないけど、とりあえず依頼の説明くらいは一緒にしてくれるみたい」

「一緒に行動までさせてもらえれば、一番心強いんだけどなあ」

 

 本心だった。グレーな綱渡りの仕事なら、いままで散々やってきたと自信を持って言えるけれど、一線の向こう側――今やこちら側――の仕事については、私はまだまだ素人なのだ。悪徳警官が親友で、しかも一緒に動いてくれるとなったらどれだけ心強いか。

 

「アメなら大丈夫。一人でもやれるって」

 

 トーストの最後の欠片を口に放り込みながら、ぐらは言った。それは教え諭すような言い方ではなく、励ますような言い方でもない、当たり前の事実を指摘するような言い方だった。

 

「そう......そうね」

「そうだよ、アメならできるって!」

 

 突然、明るく突き抜けるような第三者の声が割り込んできて、私はびくっと顔を上げ、ぐらはぎくりと身を引いて、背後に立つ彼女に目を向けた。

 

「キアラ、いきなり後ろから声かけないでよ!」

「ごめん、ごめんって」

 

 明るく笑うこの女性、小鳥遊キアラは、このダイナーの店主だ。この地区の工場で働く、地味に舌の肥えた精肉労働者たちを相手に、故国オーストリアの自慢の味――ぐらが食べてるブラッド・ソーセージもその内の一つだ――と典型的アメリカン・ダイナー・メニューの双方を提供している。ちなみに店主おすすめの品はルイジアナ州仕込みのフライド・チキンだ。

 そのお味はというと、朝の店内が出勤前の日勤精肉労働者たちと、退勤中の夜勤精肉労働者たちで九割方埋まってしまうほどの物だ。つまり、超イケる。

 

「話は全然聞いてなかったけど、アメなら大丈夫! 」

 

 バシバシと結構な勢いで背中を叩かれて、オレンジ・ジュースを飲んでいる途中だった私はむせ返った。

 

「ぶふっ! げほっ、ごほっ」

「おっと、ごめんごめん」

「全く、キッチン離れていいの?」

 

 ハンカチーフを取り出して顔に付いたジュースを拭っている間に、ぐらが呆れたような声でキアラにそう訊いた。

 

「いいの! 仕込みは終わってるし、今は注文が一段落着いたところだから。それで? 二人はこれからデートなの?」

「まあ、そのようなもん」

 

 ぐらは曖昧にそう言うと、10セント玉(ダイム)をテーブルに置いて立ちあがった。

 

「車取ってくるから、アメはここで待ってて。キアラ、いくら?」

「ぐらは......いつものプレートとエスプレッソ一杯で33セントだよ」

 

 チーンとレジが鳴って、ぐらは店から出て行った。

 

「それで? そっちはカリとはどうなの?」

「私? んふふ、明日の夜に映画を見に行く予定なの」

「なら、明後日の朝食は他のところで摂った方がよさそうね」

「なんで!?」

「あなたにノロケ話を散々聞かされる未来が、それはもう鮮明に見えるからよ!」

「なんでよー......」

 

 半ベソのキアラを適当にあしらっている間に、店の前の路肩に大きな青いクライスラーが停まるのが見えた。ぐらのダイムの隣にもう一枚追加して、まだ涙声――とてもわざとらしい――のキアラにお暇を告げる。

 

「私ももう出るから。20セントよね?」

「そうだよー、ぐすん」

 

 席を立ってレジカウンターまで歩き、ポケットから20セント分の小銭を出して、カウンターの向こうに回ったキアラに渡した。

 

「ごちそうさま。また来るわ」

「ありがとうございましたー! デート、楽しんできてね」

「あなたもね」

 

 肩越しにキアラにそう返すと、私はドアを潜って三月のニューヨークに踏み出した。

 風はまだ依然として寒いけれど、二月までの凶悪な寒さはだいぶ鳴りを潜めて、早ければあと一週間ほどで来るだろう暖かい春を予感させる。

 早朝には薄く積もっていたはずの雪はすっかり溶けて舗道を濡らすか、あるいは歩道と建物のへりや路肩に吹き寄せられて、汚い黒っぽいかたまりになってへばりついていた。これも段々春らしくなってきた兆候だ。

 四歩歩いて、私は再びまだ冬のニューヨークに短い別れを告げると、暖かい41年式クライスラー・ニューヨーカーの中へと滑り込んだ。

 

 

 

 7:55 AM, Krono Tower, Financial District, NYC

 

「少々まずいことになってね」

 

 クロノ・タワー70階の社長執務室。大手建設会社バンクロニーの社長にして、この街最大のマフィアを率いるボスの一人、オーロ・クロニーが巨大な楢材(オーク)のデスクの向こうから、客用椅子に座った私にそう言った。言葉そのものとは裏腹に、表情にも声音にもまずいことが起きているような気配は一切ない。

 

「ミスター・ヒルデブランドを覚えているかな、アメリア?」

「忘れられるもんですか」

 

 この泥沼に足を突っ込むことになった原因の税理士だ。彼自身には落ち度も恨みもないけれど、忘れるのは難しい。

 

「彼は仕事の関係で我が社の帳簿を持っていたわけだが、どうやらコピーを取っていたようでね。知り合いの悪徳弁護士に預け、自分が死んだらそれをハコス・ベールズの許に送るよう指示していたそうだ」

「それを何で知ってるの?」

「件の弁護士が、ベーのところよりも先に私のところに来たからね」

 

 なるほど。"悪徳"弁護士の肩書に相応しいハゲタカムーブだ。

 

「彼は帳簿のコピーを買い取ってほしいそうだ。分割払いで」

「末永く搾り取ってやるぞ、ってわけか」

 

 ぐらが呆れたようにそう言うと、クロニーは一つ頷いて続けた。

 

「頭金は払ってやった。大した額ではないし、時間も稼げる。ただし、延々払い続ける気も毛頭ない。そこでアメリア、あなたにはこの......"抵当品"の回収を依頼したい」

「その弁護士というのは、どこの誰なの?」

「ヘンリー・ゴールドバーグ。事務所はここから遠くない、シンガー・タワーの18階だ」

「ゴールドバーグかあ」

 

 ぐらが厭そうな声を上げた。

 

「極悪人を、極悪人と知りつつ弁護するタイプのヤツだね。無罪評決だけじゃなくて、保釈、執行猶予、差し止め命令、仮釈放、その他諸々を勝ち取るためならどんな手でも取る。もちろん、金を払える極悪人に限るけど」

「その厭そうな声は何なの? 同族嫌悪?」

「単純に客層が被るんだよ」

 

 真鍮の灰皿に葉巻の灰を擦り付けながら、ぐらは続けた。

 

「アタシを買収した方が話は早いし安いんだけど、悪人共は悪徳警官より悪徳弁護士の方が頼れるって思うらしい」

「安い女は信用できないと」

「その言い方には悪意を感じるね、アメ」

 

 二人でじゃれ合っていると――じゃれ合っているのよ? これ――クロニーが控えめな咳払いをして、私たちの注意を自分に戻した。

 

「ゴールドバーグが"抵当品"をどこに持っているのかはわからない。ただ一つ言えるのは、どこかに隠しているにしても、誰かに預けているということは無さそうだ」

「それはなぜ?」

 

 私の質問には、クロニーよりも先にぐらが答えた。

 

「悪人は、自分がやることを他人もやると思うからだよ」

「なるほどね」

 

 ゴールドバーグは、ヒルデブランドが死んだのをいいことに預かっていた帳簿を、言伝を無視して脅迫の材料に使っている。それと同じように自分が預けた誰かさんが、それを横取りしてしまうのを警戒してるってわけか。

 

「頼んだよ、アメリア。帳簿については回収したものを全て、私のところに持って来てくれ。処分は自分でする。彼がコピーを取っている可能性もあるから、それも残らず回収してくれるとありがたいな」

「やってみるわ」

「期待しているよ」

 

 オーロ・クロニーの口から発せられたと考えれば、かなり重い言葉だ。彼女の期待を裏切った者の末路については、私はもう知っているから。

 密かに生唾を呑み込みながら、私はクロニーに頷き返した。

 

 

 

 10:47 PM, Singer Building, Financial District, NYC

 

 依頼を受けた後の私は、ゆったりした日曜日を過ごした。特に買い物する予定もなく五番街の百貨店をうろついて回り、目についたカフェでサラダ・ランチを食べ、夜には映画を観に行った。

 つい先日、アカデミー賞最優秀作品賞をはじめ六部門賞を総なめにした"ミニヴァー夫人"が、再びかかっていた。

 初めて観た時と同じく、キャロルが死んでケイが憔悴するシーンでは涙ぐんでしまったけれど、フィナーレのミサのシーンで少し醒めてしまった。あれでは神父さんのお説教というより、上院で演説する大統領といった風情だ。もう少し厳粛な雰囲気で締めてくれた方が、後に続く"進め、キリストの(つわもの)たち"と合わさって、ヴィンの覚悟が際立ったものになっただろうに、と思うのは素人考えだろうか。

 

 そんなこんなで映画館を出た私は、再びフィナンシャル・ディストリクトに戻ると、リバティー・ストリートを挟んでシンガー・ビルディングの向かいにあるカフェに入った。窓際の席で、美味しい代わりに一杯15セントもする紅茶を飲みながら、大して興味もないライフ誌を読むふりをしつつ、シンガー・ビルのドアマンの様子を窺っていたんだ。

 このビルは、夜9時以降は正面玄関が閉鎖される。出入りに使えるのはリバティー・ストリート・エントランス――いま私が見張っているエントランス――と、その少し西にあるアネックス・エントランスだ。前者は一晩中ドアマンが張り付いていて、後者は施錠されているうえに、入ってすぐに守衛室の窓口がある。他にも一階のテナント・スペースの入り口もあるけれど、表通りに面したこれらの入り口でごそごそピッキングするのは気が進まない。

 そんなわけで、私はよく使われる攻略法を採用することにした。

 

「すみません、お会計を」

「30セントになります」

 

 テーブルにダイムを置き、レジで30セント――一杯おかわりしちゃった――を手早く支払ってカフェを出ると、リバティー・ストリートを足早に渡ってエントランスに向かう。遠目に見たところまだ17歳にもなってなさそうなドアマン君は、小用を足すためにたったいま建物の中に入ったところだ。

 コートの下から陶製のバター・ナイフを取り出し、観音開きのドアの間に差し込んでラッチを探る。ノブを回してばね錠のラッチを見つけると、それをこじって静かにドアを開けた。道行く人に怪しまれないように素早く内側に入ってドアを閉め、音をさせないように回転ドアを通り、ロビーに入ってすぐのところにあるコンシェルジュ・デスクの中に身を隠した。ドアマン君がいるであろうトイレは私の進路上にあるから、鉢合わせするのは避けたかったんだ。

 思った通り、二十秒ほどで足早にブーツを踏み鳴らす音がした。回転ドアが回り、外のドアを開けて誰かが出て行く。少し間を置いてからそっと首を突き出すと、ドアのガラス窓越しに制服の後姿が見えた。

 

「よしよし」

 

 デスクの陰から出て、玄関広間(ホワイエ)の方へ足を向けた。

 コンシェルジュ・デスクの向かいには三基の自動運転エレベーターがあるけれど、これは18階までは行ってくれない上に、稼働させたら間違いなくドアマン君の注意を惹く。他のエレベーターはリフトマンが運転する古いタイプ――古いビルなんだから仕方ない――だから、やはり使うわけにはいかない。残業してるらしく明かりが点いているオフィスはちらほらあるけれど、深夜に昇っていく人間は怪しすぎる。

 だから18階までは徒歩だ。

 

「まあ、ゆっくり行きましょう」

 

 大理石と銅で飾られた、壮麗なホワイエの大階段を前に、私は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

 

 

 

 

 

「18階、やっと着いた......」

 

 薄暗い保安灯に照らされた"18"の数字を見て、私はそう呟いた。ゆっくりペースで登ってきたものの、ここまで階段で来るのは結構きつかった。

 階段室のドアを細めに開けて、18階の様子を窺う。廊下も階段室と同じように、薄暗い灯りに照らされているだけで人の気配はまるで無い。

 全部で16室の貸しオフィスがある18階だけれど、その半分はゴールドマン法律事務所が借り切っていた。法律事務所も他のテナントも今日は休業日で、休日出勤の人間もいないようだ。

 

「羨ましいわね。私も休日出勤とは無縁の仕事をしてみたいな......」

 

 私立探偵には、休日なんて存在しないようなものだ。

 

 暗い廊下をぐるっと回って、階段室と反対側にあるエレベーター・ホールに向かった。四基のエレベーターと向かい合うように三つのドアが並んでいて、左から順に1801、1802、1803と書かれている。1801事務室には"ゴールドマン法律事務所"の金文字も一緒に貼られていた。ここが玄関ってわけらしい。

 ドアはピンタンブラーの本締(デッドボルト)錠で施錠されていたけれど、袖口の下から取り出したレーク・ピックとレンチでくすぐってあげると簡単に回った。仮締(ラッチ)錠は再びバター・ナイフでこじ開け、次の瞬間には、私は1801事務室の中に侵入を果たしていた。

 ドアのガラス窓とオフィスの窓から射し込む微かな明かりで、オフィスの様子は概ねわかった。ここと隣二部屋は続きの大部屋になっているらしい。

 

「大きな事務所ね。よっぽど儲けてないと、これだけの事務員とか法律助手(パラリーガル)とかを抱えてられないでしょう......このデスクは受付かな?」

 

 目の前にはドアの方を向いたデスクが一つあり、構内通話機(インターコム)が置かれているところからして、受付嬢のデスクのようだ。

 部屋の右側には1802事務室に続くドアが、左側には1816事務室と1815事務室に続くドアがあり、1815のドアには小さな紙切れが貼り付けてあった。近付いて読んでみる。

 

「"秘書"......とすると、弁護士先生の執務室はこの奥の可能性が高いわね」

 

 ドアのデッドボルトを護るピンタンブラー錠は、事務所の入り口ドアのそれと大差ないものだった。簡単にこじ開けて、1801よりも狭い1815事務室に侵入する。

 部屋の中は綺麗に整頓されていた。二つあるデスクはどちらも片付いていて、タイプライターにもしっかりカバーがかけてある。インターコムがあり、ボタン電話機があり、口述録音機(ディクタフォン)もあった。

 

「典型的な秘書さんのデスクね。で、こっちは......」

 

 部屋の反対側に、隣の1814事務室に続くドアがあった。"1814"の数字の他に、"ヘンリー・ゴールドバーグ 法務博士(J.D.)"という金文字も貼られている。ビンゴだ。

 薄暗い中で目を凝らしてみると、このドアの錠は付け替えられているのがわかった。デッドボルト錠もラッチ錠も、新しい型の錠前に変更されている。レーク・ピック程度では言うことを聞いてくれないだろう。

 

「ふーん、見られたくないものがあるわけね、ゴールドバーグ先生」

 

 私はドアの前に屈みこむと、コートの内ポケットからロック・ピックのセットを取り出して、道具の吟味を始めた。

 

 

 



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House Keeping #2

 11:03 PM, Singer Tower, Financial District, NYC

 

「あっ、くそ......」

 

 ピンが下まで落ちる小さな音がして、私は何度目かわからない悪態を吐いた。

 

 これを読んでいる善良な読者諸氏のために、ロック・ピッキングの基礎についてちょっと触れておこう。

 私が前にしているピンタンブラー錠という錠前は、円筒形のタンブラーと、プラグというタンブラーよりも一回り小さな円筒、そしてその二つを繋いで固定するピンで構成されている。プラグは奥のデッドボルトに繋がっていて、プラグが回転するとデッドボルトが引っ込んだり、出っ張ったりするという構造だ。

 一本一本のピン――この錠前には4本のピンがある――は、実際には上下に分かれていて、上からバネで押し付けられている。このピンたちの上下の境目を、タンブラーとプラグの(シアー)に揃えてあげれば、プラグを自由に回すことができるようになる。これがピッキングの基礎だ。ピンが二列になったり、ウェイファーという板状のものに置き換わったりしても、基本は変わらない。

 

 では私、アメリア・ワトソンは何に苦戦しているのか? それはこの性悪錠前のピンが、セキュリティ・ピンという特殊なピンだからだ。

 セキュリティ・ピンには、ピッキングをする人間が上下の境目と勘違いするように、複数の刻み目が入っている。当然だけどあくまで刻み目であって境目じゃないから、これを揃えたところで錠は外れない。ミスター又はミズ・おばか(ダム)から室内の物を守るには、うってつけってわけ。

 ところで私は金髪だけど――そしてその綺麗さを多少とも誇りに思っているけど――、おばかな金髪女(ダム・ブロンド)*1じゃない。賢いアメリア・ワトソンは、セキュリティ・ピンの対処法も知っている。詳しくは企業秘密とさせてもらうけれど、大事なのは左手の加減だ。

 

「くそ、このままじゃホントにおばかな金髪女(ダム・ブロンド)の仲間入りよ、アメリア・ワトソン」

 

 溜め息を吐き、ドアを蹴飛ばしたい衝動を抑えながら、私は自分に言い聞かせた。左手の加減をすでに三回も失敗していて、ちょっとばかり焦ってもいた。暖房の切れたオフィスでコートを脱いでいるにも関わらず、この五分ほどですっかり汗びっしょりだ。シャツと、その下のシュミーズが体にぺったり張り付いて、少々気持ち悪い。

 ちょっとだけ息をついてから、右手のピックと左手のレンチを持ち直して、仕事を再開する。

 

「よし、ピンは揃った。少しずつ......少しずつ......」

 

 テンション・レンチにかけるトルクを、ほんの少しずつ緩めていく。

 カチリ。ついにシアー・ラインが揃う音がして、プラグがぐらりと動いた。喝采を叫びそうになるのを堪えつつ、レンチでプラグを回転させる。ガチャリと音がして、デッドボルトが錠箱(ケーシング)の中に引っ込んだ。私の勝ち。

 バター・ナイフで仮締(ラッチ)錠をこじ開けて、私はようやくゴールドバーグ弁護士のオフィスに侵入した。

 

 

 

 00:08 AM, Mar. 8th, 1943

 

 丸一時間ほどかけた執務室内の捜索は、今のところ空振りに終わっていた。本棚、書類整理棚(キャビネット)、デスクの上、抽斗の中を注意深く見て回ったものの、収穫はゼロ。加えて侵入の痕跡を残さないため、調べた本や書類は丁寧に元の位置に戻すよう気を使わなくちゃいけなくて、精神的な疲労もかなりのものだった。

 

「くそ、これじゃあの性悪錠前に苦労させられ損じゃない......」

 

 実のところ、このオフィスに"抵当品"があるとは全然期待していなかった。夜間休日に無人になるような場所に、そんな重要なものを置いておきたがるとは思えない。特にゴールドバーグのような生粋の悪党は。

 とはいえ、オフィスの錠前が立派なものだっただけに、「ひょっとしたら......」って期待しちゃったのも事実だ。そうやって侵入者を期待させておいて、実は目当ての物が無いって状況に落とし込んで落胆させるためにあの錠を付けたのだとしたら、その目論見は現在進行形で成功している。

 

「残るはこの金庫だけか」

 

 部屋の片隅に鎮座している、ダイヤル錠の付いた金庫を前に、私はそう呟いた。床置き式で、私の胸くらいの高さがある。

 金庫の前に跪くと、ダイヤルを手に掛けてゆっくりと回した。指先にディスクの切れ目の引っかかりを感じると、折り返して次のディスクを探る。一、二、三、四......四枚だ。

 続いて扉に誇らしげに貼られている金属板からメーカー名を読み取る。頭の中の台帳をめくって、この会社が四桁のダイヤル錠金庫に設定している初期設定番号の組み合わせを思い出し、六通りほどのそれを片っ端から試していく。と、二通り目でがこっとレバーハンドルが動いて、ぶっといボルトが厚い鋼板の扉の中に格納された。

 

「うわっ......じゃあこの金庫の中もハズレっぽいわね」

 

 金庫の組み合わせ番号を初期設定のままにしておく人の多さは、それは驚くべき程だ。しかし自分のオフィスのドアの錠を、あの性悪錠前に置き換えるほどにはセキュリティ意識の高い人間が、大事なものを仕舞っておく金庫の番号を初期設定のままにしておくとは、ちょっと考えられない。この金庫には、そう大したものは入ってなさそうだ。

 

「どれどれ......訴訟資料、訴訟資料......差し押さえの送達と抗告状のコピー......訴訟資料、ホントに大したことないわね」

 

 ゴールドバーグ陣営の出方を読みたい検事補や相手方弁護士には垂涎モノだろう資料が山を成していたけれど、生憎と私にとっては紙屑の山と同義だった。

 扉を閉め、ダイヤルを回してリセットし、私が弄る前にそうだったように"64"が一番上に来るようにしてから、金庫から離れた。

 

「はー、くそ、マジでなんにも無いじゃない。これじゃ本当に侵入し損だわ......」

 

 最後にダメ元でゴミ箱の中身を漁った。重要な書類は秘書室のシュレッダーにかけてしまうだろうし、一番見込みが薄い場所だ。

 

「"スミスに1887年3月の最高裁判決を再確認させる"......"抗告状の〆切、今日まで"......"Oのところに五百持って行かせる"......"今夜九時、コパ"......」

 

 くしゃくしゃのメモ用紙は、やることリスト代わりに使われているものらしい。

 

「これは?......電話代の請求書か。それからこっちは......貸金庫?」

 

 マンハッタン銀行(バンク・オブ・マンハッタン)からの、貸金庫利用料に関する請求書兼領収書だった。支払いは同行に開設されている銀行口座から引き落とされたらしい。

 

「ふーむ......」

 

 私はしばらくの間、その請求書片手に考え込んだ。

 この請求書の重要性はどれくらいだろう? 裁断せず、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に突っ込んでいるあたり、大したことは無いのかもしれない。あるいは、秘書の手に渡して裁断してもらうことすらできないほど重要なものかもしれない。マンハッタン銀行のセキュリティを信頼していて、知られたところで大したことはないと思っているのかもしれない。

 どうとでも取れる。

 

「一旦こっちは保留で......」

 

 とにかく、次のターゲットは彼の自宅だ。

 私はミノックスで貸金庫の請求書を撮影してから、オフィスを後にした。性悪錠前にもう一度言うことを聞かせて施錠しなければならず、今度は三分強に短縮できたものの、探索の間にあらかた乾いた汗がすっかり戻ってきてしまった。

 

 

 

 Mar. 8th, 1943, Amelia's Apartment, Greenwich Village, NYC

 

 翌日、私は昼前まで寝過ごしてしまった。シンガー・ビルディングから出て家に帰りついたのが1時前で、そこからさらに頭脳労働に小一時間程を費やした結果、ベッドに倒れ込んだのは2時前という深夜もいいとこな時間だった。寝るときは全裸派――なに、悪い?――な私も昨日ばかりは疲労困憊のあまり、コート以外の服と、汗をたくさんかいた下着を身に付けたまま寝てしまったことに気付いたのは、目を覚ましてからだった。

 ぬるいと冷たいの中間やや冷たい寄りのシャワーを浴びながら、洗濯カゴでクライスラー・ビルディング並みの高さになりつつある洗濯物の山に、昨晩使ったシーツを追加しなきゃいけないことを考えて私は暗澹たる気分になった。いつになったらあの山を処分して、ベッドの上で皺を付けてしまったシャツとスカートをプレスする時間を取れるんだろう?

 シャワーを終えて歯を磨き、リステリンで口を漱いで何とか人間らしい気分を取り戻してから、箪笥から最後の清潔な――ただし擦り切れてしまいそうな――下着を取り出して身に着けると、まだそこそこ着られる麻のブラウスにキュロット・スカートを合わせて部屋から出た。階段の公衆電話に行くだけだから、このくらいの格好でもいいだろう。

 幸いにも、1階と2階の間の踊り場に据え付けられた公衆電話機の前は無人だった。受話器を取り上げ、背伸びして5セント玉(ニッケル)を放り込み、記憶にある第14分署の番号をダイヤルする。

 

「......はい、こちらニューヨーク市警察局、オハラ巡査部長です」

 

 呼出信号一回で受話器が持ち上げられて、がらがらのアイルランド訛りの声がそう言った。

 

「こんにちは、部長(サージ)

「ああ、アメリアの嬢ちゃんか。"借金取り(ローン・シャーク)"ならいねえぜ」

 

 "借金取り(loan shark)"は、市警の同僚たちからぐらに贈られたあだ名だ。クロニーに代わって取り立てをしていたからとも、単独行動が多い事からついた"ひとりぼっちのサメ(lone shark)"が同音の別語に転じたとも聞いている。

 

「この時間にいたら驚くわ。伝言を頼みたいんだけれど、いいかしら?」

「ああ、いいぞ」

 

 言伝を終えて電話を切ると、今日はもう出社するのはやめにして――どうせ待ってる従業員もお客もいないのだ――洗濯にかかることにした。明日の下着が無いのは、やっぱり大問題だ。

 

 

 

 00:23 PM, Amelia's Apartment

 

 アパートメント・ビルの地下には、共用の電気洗濯機と脱水機と、染み抜きやらアイロン掛けやらの設備が置かれた家事室(ユーティリティ・ルーム)がある。電動機械の使用料は一回25セントで、洗剤とかは自己負担だ。

 階上で公衆電話機のベルが鳴った時、私はじめじめした薄暗いコンクリート打ちっぱなしの地下室で、キイキイ悲鳴をあげながら稼働する洗濯機を前に、部屋から持ってきたドライ・フルーツの缶詰をくちゃくちゃやっているところだった。缶にぽんと蓋をして、拷問並みに座り心地の悪い木製のベンチから腰を上げると、階段を登って一階に向かう。一階に上がりきったところでちょうど、目の前の管理人室のドアが開いて、奥さんが顔を出した。

 

「あら、あんたここで待ってたの?」

「下にいたんですよ。ベルが聞こえたので」

「あっそう」

 

 興味が無いみたいに装った声で、管理人夫人は続けた。

 

「あんたのガール・フレンドから電話だよ」

「ぐらはガール・フレンドじゃありません」

「へええ、そうかい」

 

 ことさら大げさにそう言って、夫人は管理人室へひっこんだ。私は階段を踊り場まで登ると、公衆電話の受話器を取った。

 

「もしもし?」

"おはよう、アメ"

「おはよう、ぐら。というかもうこんにちは、だけど」

"ああ、でもあんたはまだおはようでしょ?"

 

 無駄にするどいヤツめ。

 

「ええ、そうね。ちょっと直接会って頼みたいことがあるんだけど、時間はとれるかしら」

 

 どうせ管理人夫人は、管理人室の電話機でこの会話を聴いているだろう。テナントの部屋の鍵穴に目や耳をくっつけるタイプの人だから。

 ぐらもそれを知っているから、あえて反対はしなかった。

 

"いいよ。えーっとね......一時にオイスター・バーはどう?"

「一時半でいい?」

 

 とりあえず、いまフーバー洗濯機の中にある洗濯物を片付ける時間は欲しかった。洗濯して、脱水して、部屋に干すだけの時間が。

 

"一時半ね、いいよ"

「じゃ、また後で」

 

 

 

 1:30 PM, Grand Central Terminal, Midtown East, NYC

 

 昼過ぎのオイスター・バー・アンド・レストランはがらんとしていた。グランド・セントラル駅の地下にあるこのレストランは、昼のピーク・タイムには大勢の勤め人たちでにぎわうものの、彼らがオフィスに戻るべき時刻を過ぎた後はすっかり閑散としてしまう。

 私は吊り下げ照明の光を反射してキラキラ輝くグアスタビーノ・タイルのアーチ天井の下で、オイスター・チャウダーとポテト・サラダをつつきながら、ぐらがやって来るのを待っていた。

 ざっと見渡した限り他のお客は、昼まで商談が長引いたらしくカキフライ・サンドイッチを慌ててお腹に詰め込もうとしているビジネスマンと、生牡蠣とバドワイザーの壜を前に雑誌を読みつつ仕事をサボっているビジネスマンくらいのものだ。ウェイターたちは厨房に続くスイング・ドアの横で立ち話をしているし、バーテンダーはカウンターの内側で暇そうにしていた。

 

「お待たせ、アメ」

 

 ぐらはオイスター・バーに入るとがら空きの店内を見渡し、すぐに私を見つけて歩み寄ってきた。ウェイターの一人が世間話を切り上げて、炭酸水のボトル片手にやって来ると、慣れた様子でメニューも見ずに注文した。

 

「シュリンプ・サラダとデミタス。コーヒーはすぐ持って来て」

「かしこまりました」

 

 ウェイターはぐらのグラス――イナがいたらしばらく笑いが止まらなくなりそうなジョークだ――に炭酸水を注ぐと、注文を伝えに厨房へと下がった。

 

「オイスター・バーに来といて牡蠣を頼まないの?」

 

 ハーフ・クリームの滑らかなスープに包まれた牡蠣を咀嚼してから、帽子を脱いで炭酸水を口に含んでいたぐらにそう訊く。それに対する答えは実にあっさりしたものだった。

 

「エビの方が好きなの」

 

 なら仕方ない。

 ウェイターがお盆にデミタス・カップを載せて戻ってきて、サラダもすぐに来ますと告げたので、ウェイターがもう来なくなるタイミングまで私は冷たいポテト・サラダを食べ、ぐらはコーヒーをすすっていた。

 

「......んで? アタシに用ってのは?」

「プラザに入りたいんだけど、手引きしてくれる知り合いとかいないかなーって」

「プラザかあ......ゴールドバーグの家に入りたいんだよね?」

「そう」

 

 ヘンリー・ろくでなし弁護士・ゴールドバーグは、セントラル・パーク・サウスに面した高級ホテル"プラザ・ホテル"のスイートを年単位で借りて、そこを住居にしている。

 

「プラザには前にも単独で入ったことがあるんだけど、同じ手はもう使えないだろうし、伝手があるなら助かるなーって思って」

「うーん......」

 

 ぐらは珍しく、しばらく考え込んでから言った。

 

「試してみる。二日ちょうだい」

「わかったわ」

「それと、実はアタシからもアメに頼みたいことがあってさ」

「なあに?」

 

 ぐらはなんだか、ちょっと気が進まないって感じにためらってから切り出した。

 

「クロニーからちょっとした雑用を頼まれてて......それを手伝ってほしいんだけど、いい?」

「いいわよ」

 

 私に異存はなかった。貸金庫の方は、妙案が浮かぶまで置いとかなきゃいけなかったし。

 ぐらは明らかにほっとした顔になって、サラダボウルから小エビを口に放り込んだ。

 

「よかった。正直アタシじゃどうしようもなくてさ......助かるよ」

 

 ぐらじゃどうしようもないことって、一体何なんだろう?

 

 

 

*1
金髪女はバカ、というアメリカ映画のテンプレのこと



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House Keeping #3

 Mar. 8th, 1943, Lower East Side, Manhattan, NYC

 

 ぐらに連れられて来たのは、ロワー・イーストサイドの裏路地だった。そこに駐められていた大型トラックを見上げて、私はぐらに訊き直した。

 

「運転するの? これを?」

「そうだよ」

 

 使い古されて赤い塗料は剥げ、あちこちにサビが浮き出ているGMC・AC型トラックにすたすたとぐらは歩み寄り、さっさと助手席に乗り込んでしまった。

 

「でも私、こんなでっかいトラックを最後に運転したの、だいぶ前よ?」

「でも運転の仕方はわかるでしょ?」

「わかるけど......」

 

 ぶつぶつ言いつつも、私は運転席のドアを開けて、高い運転台に身体を引っ張り上げた。"雑用"の中身も聞かずに安請け合いしたのは自分なのだ。

 キーを捻り、始動ボタンを押してエンジンをかけ、普通車より重たいクラッチを踏んでギアを入れ、慎重に表通りに向かわせる。

 

「助かるよ、アメ。普段はピックアップなんだけどさ、なんか手違いがあったらしくてトラックがこれになっちゃって」

 

 アベニューBを北上するトラックの中で、ぐらが煙草に火を着けながら言った。彼女にしては珍しく、葉巻ではなくポール・モールを喫っている。

 

「ピックアップならアタシでも運転できるんだけど、このGMCじゃ足が届かなくってさ」

「でしょうね。私でもギリギリよ」

 

 ブレーキもクラッチも普通車より重いのに、足がフロア・エンドまで届かないから余計に操作に気を使った。西14丁目との交差点で信号停車すると、私もコートのポケットからキャメルを取り出して、マッチを擦って火を着けた。

 

「んで? 雑用って、具体的に何なの?」

「んー、今アタシたちが咥えてるモノに関すること」

「煙草?」

 

 ぐらはポール・モールの濃い煙をふーっと吐き出して答えた。

 

「正解。前に、評議会(カウンシル)の連中について説明したとき、クロニーが港湾利権を持ってるって話したの、あれ覚えてる?」

「覚えてるわ」

 

 信号が変わって、私はトラックを発車させた。腰にクる半クラッチ操作を続けながら、トラックを左折させる。

 

「港の連中は、クロニーに逆らえない。彼女が壊せと言ったものは壊すし、盗めと言ったものは盗む」

「待って、じゃあこのトラックの積み荷って......」

 

 脳裏をよぎったのは、二か月前にラジオで聴いたニュースだった。ナチスの工作員が港の倉庫に侵入して、軍需物資を運び出したって話。新聞もラジオも、工作員の仕業ということで意見が一致していたけれど、実は工作員なんかじゃなくて......

 ぐらはニタリと笑って、私に言った。

 

「これであんたも、"ナチスの工作員"の仲間入りだねえ」

 

 

 

 02:32 PM, Meatpacking District, NYC

 

「ちょっと腑に落ちないんだけど」

 

 食肉工場地区(ミートパッキング・ディストリクト)にある、屠殺工場の裏庭。そこでトラックのテール・ゲートを開けながら、私はぐらに訊いた。

 

「こんなことして、クロニーに何の得があるわけ?」

「まあ、まず一つとして、タダで手に入れた煙草を売れば儲かるでしょ?」

 

 ぐらに促されて荷台に登ると、中には軍艦色の木箱(クレート)が積まれていた。

 全部で15箱くらいだろうか。配送伝票かなにからしい紙を剥がしたような痕が、側面に残っていた。

 

「二つ目として、お偉いさんに恩を売れる」

「恩?」

 

 私が聞き返したタイミングで、遠巻きにこちらを見守っていた精肉労働者たちの一団がこっちにやって来た。

 

「よう、サメの嬢ちゃん。今日は二人で商売かい?」

「ええ。この大型トラック、アタシじゃ運転できなくて」

「だろうさ!」

 

 白いエプロン姿の大男たちはげらげら笑ってから、ぐらに訊いた。

 

「今日の演目は?」

「いつも通り。ラッキー、キャメル、チェスター」

「じゃ、ラッキーをワンカートンくれ」

「アメ、お願い!」

「はいはい」

 

 なんとなく自分の役割を察して、荷台に積まれているクレートの蓋を開けてまわった。4つ目で、ご注文のラッキー・ストライクが詰め込まれた箱を見つけ出し、カートン1つ取り出してぐらに放る。

 

「ほいっと。はい、ラッキーをワンカートン、2ドルね」

 

 キング・サイズの煙草はワンパック15セント、ワンカートン1ドル80セントが定価だ。闇煙草ということで、若干高めに価格設定されてるらしい。ちなみにぐらが喫っているポール・モールは高級品なので、キング・サイズでワンパック50セントもする。

 

 こんな感じで丸一時間、入れ替わり仕事を抜けてやってくる精肉労働者たちに煙草を捌いて過ごした。

 

 

 

 04:50 PM, Wards Island, NYC

 

 ハーレム地区で黒人ギャングたちを相手に煙草を卸したあと、私たちはブロンクスに向かうためにトライボロ橋を渡っていた。25セントの通行料は、ぐらが料金所でバッジを見せて踏み倒していた。警察官や消防士がよくやると聞いてはいたものの、実際に見たのは初めてでちょっと感心してしまった。

 

「で、恩ってなんなの?」

 

 長いドライブの途中で、先程の話が途中だったのを思い出して訊くと、ぐらは一瞬何のことかわからなかった顔をしてから答えた。

 

「ああ、さっきの話か......要するに、こういうこと。ナチスの工作員が港で悪さをする。国や州のお偉いさんは、本土でナチスをのさばらせていることについて、非難を受けることになる。そしたら彼らはクロニー――知ってる人は彼女の裏の顔を知ってるからね――のところへ行って、港を安全にしてくれと頼む。でもそもそも、"工作員"云々はクロニーの仕業だから......」

「自分で騒ぎを起こして、自分で鎮圧して、政治家や官僚たちに恩を売る、と」

「そういうこと」

「自作自演ってやつね」

 

 そして盗み出した軍需物資はこうやって金に換える。お偉いさんに恩を売りつつ実益もともなうなんて、なんてボロい商売だろう。

 そんなことを考えつつ橋梁を登っていくと、サイレンが一声鳴って、一台の警察バイクが回転灯をきらめかせながらトラックの前に付いた。「付いて来い」という感じで、手で合図している。

 

「ぐら、これって」

「大丈夫大丈夫」

 

 ぐらはまるで気にしない様子で、何本目かのポール・モールを吹かしながら言った。

 

「あいつに着いて行って」

「わかった」

 

 州警察のバイクは私たちのトラックを先導して、下りランプからワーズ島へと降りた。この島はマンハッタン、クイーンズ、ブロンクスの真ん中にある島で、精神病院や墓地、州警分駐所などが置かれている。

 バイクは私たちを、分駐所の広い駐車場へといざなった。駐車場には他に、白と緑の市警パトカーと、白と黒の州警パトカーが数台ずつと、バイクが何台か駐まっている。そして一ダースほどの制服警官たちが集まっていた。

 先導のバイクに従ってトラックを停めると、ぐらがコートの裾をなびかせながら助手席から飛び降りた。

 

「あ、ちょっとぐら!」

「アメも降りて、ちょっと手伝って!」

 

 運転台から降りると、ぐらは二人の制服警官とにこやかに話していた。片方は黒い制服の市警巡査部長、もう片方は灰色の制服の州警巡査部長だ。両者とも共通して、袖に青い山形章(シェブロン)が着いているから階級がわかった。

 

「どうも部長(サージ)、いつも通りでいい?」

「ああ、よろしく頼むよ」

「わかった。アメ、全部の種類を二箱ずつお願い」

「二箱って、カートン?」

「いや、クレート。まだ開けてないやつで」

 

 ちょっと驚きつつ私は荷台に飛び乗って、言われた通り手をつけてないクレートを全部で六箱、テール・ゲートに押しやった。それを市警と州警の制服巡査たちが受け取って、パトカーに手分けして積んでいく。

 その様子を眺めていると、先程の州警巡査部長がやって来て、しみじみと呟いた。

 

「警官だって、煙草を喫うものでね。配給制もいいが、手に入りにくいと余分に金を積んででも手に入れたくなるのは、市民も警官も変わらないんだよ」

「なるほどね」

 

 妙になれなれしい見ず知らずの警官に、適当に相槌を打っていると、ぐらがやって来て巡査部長に聞いた。

 

「そっちのお代は?」

「おっと、失敬」

 

 20ドル札の束が受け渡されると、ぐらはそれを懐に仕舞いながら続けた。

 

「それじゃ、巡査部長。今日もラッキー?」

「うーん、いや、今日はキャメルにしておこう」

「アメ、キャメルを一箱ね」

「クレートで?」

「そんなわけないでしょ!」

 

 ニヤニヤ笑いながら私は奥に引っ込むと、残ったクレートの一つからキャメルを1カートン取り出し、ぐらに放った。

 

 

 

 Mar. 10th, 1943, Amelia's Office, Midtown South, NYC

 

"モニカってやつが、プラザで客室係をやってるんだ"

 

 二日後。探偵社で依頼人に引き渡す写真――この日シカゴに出張に行ったはずの旦那がニュー・ジャージー州のレストランで、アラブ系らしい見事な褐色肌の美人に鼻の下を伸ばしている――を整理して封筒に纏めていると、ぐらが電話をかけてきて開口一番そう言った。

 

"今日の午後12時45分に、58丁目エントランスの横にある通用口に来て欲しいって"

「12時45分?」

"だめ?"

 

 時計を見上げる。この写真を引き渡す相手が、午後一時に来ることになっているのだ。

 とはいえ、これはクロニーからの依頼に関することだし、最優先で進めた方がいいだろう。旦那の不倫の証拠をその目で確かめたい奥さんには悪いけど、私の命に関わることだし。

 

「いいわ。先方からなにか、お願いとかはある?」

"えーっとね、客室係に黒人とかヒスパニックはいないから、そっちの変装はやめてくれって"

「わかった」

 

 フック・スイッチを押して電話を切ると、依頼人の番号をダイヤルした。受話器を肩に挟んで、写真の整理を再開する。

 

「......ああ、こんにちは、ミセス・オリーブ。例の写真の件なんですけど。いえ、撮れてます。ただ、引き渡しをもう少し遅らせてもらえませんか? 現像が遅れてまして......」

 

 ミスター・オリーブとアラブの美人が、連れ立ってホテルに入って行く写真を一番下にして、封筒に入れた。

 

 

 

 12:45 PM, The Plaza Hotel, Central Park South, NYC

 

「ミス・ウィルソン?」

 

 プラザ・ホテルの58丁目エントランスは、月単位や年単位で部屋を借りている上客専用の出入り口だ。五番街側の正面玄関よりも、ドアマンの監視の目は厳しい。その彼から刺すような視線を向けられながら、エントランスの脇にある階段を下ると、突き当りの通用口の横で煙草を喫っていた客室係――お仕着せ姿だから一目でそうとわかる――が、イタリア訛りの強い英語でそう訊いてきた。

 

「ええ、そうよ」

「"借金取り(ローン・シャーク)"から話は聞いてる」

 

 どうやらこのあだ名は、警察の外まで広がってるらしい。

 

「ついてきて」

 

 モニカと思しき客室係は、まだ半分くらい残っているラッキー・ストライクを投げ捨てると、鍵を使って通用ドアを開けて私を招じ入れた。

 彼女に続いて入った廊下はリノリウム張りで、清掃用のワゴンが左側に寄せてずらりと並んでいた。モニカは右側に並ぶ倉庫のドアの一つを開けると、私を先に入れてからドアを閉め、後ろ手に鍵をかけながら言った。

 

「ヒスパニックはいないって言ったはずだけど」

「ヒスパニックじゃないわよ」

 

 私は南部訛りの英語でそう返した。

 確かに、肌の上から薄くクリームを塗ってちょっとだけ褐色の肌にしてある。でもこれは日灼け――の演出――だ。自慢の金髪はまとめて、薄茶のかつらの下にしまっている。

 

「あんた、南部人の肌も見たことないわけ?」

「オーケイ、わかった。そういうことにしとくわ、カウ・ガール」

 

 面倒くさそうに手を振って、モニカは話を終わらせた。

 

「そこのワゴンに、あんたが必要とするものは全部用意したよ。制服、清掃用具、合鍵」

「どうも」

「部屋を出て今来た道を戻って、最初の角を右に曲がったら住人用のエレベーターがあるから、それを使って」

「わかった」

「今は本来の清掃時間じゃないけど、誰かに訊かれたらこう答えて。"鍵束ばあさんからやり直すよう言われた"」

 

 "鍵束ばあさん"は、このホテルの主任客室係(ハウス・キーパー)のあだ名だ。以前入り込んだ時に得た知識によると、支配人以外のおよそあらゆるスタッフから嫌われているらしい。口調からして、モニカもその例外ではないようだ。

 モニカの言ったセリフを――イタリア訛りを南部訛りに直して――復唱すると、彼女は頷いて続けた。

 

「それでみんな納得するから」

「鍵束本人に会ったらどうすんの?」

「会うことはないと思うけど、あんたが客室係の格好で鍵束に会ったら、侵入者だってすぐバレる。あのばあさんは客室係全員の顔を覚えてるから。だから言い訳よりもっと他の心配をすることね」

「オーケイ、だいたいわかった。手助けご苦労様」

 

 モニカに背を向けてワゴンの中身を確認し始めると、彼女がふと思いついたように訊いてきた。

 

「ねえあんた、"借金取り"とヤッたことある?」

「......ない」

 

 不自然な間をごまかすように身を起こして、怪訝な目で睨みながらそう答えると、モニカは半笑いと薄笑いの中間みたいな顔で続けた。

 

「あたしはそれであいつにしょっ引かれたの。テンダーロインで商売してたらあの生魚が来て、"舐めてくれるなら前金をあげる、手早くイかせてくれたらもっとあげる"って言うから路地裏に誘ったのに。銀貨を受け取ったら、地べたを舐める羽目になっちゃった」

 

 手垢のついたような風紀取締員の手口だ。ただ、ぐらに言わせれば男がやるより、レズかバイの振りをした女の方が警戒されないらしい。でもまあぐらは、バイの"振り"なんかする以前にそもそも......

 思考が変なほうに行っていることに気付いてはっと目をあげると、モニカがさっきより笑いの濃くなった視線でこっちを見ていた。小さく咳払いをして尋ねた。

 

「街娼上がりなのに、プラザで働けるの?」

「あたしは要領がいいからね。魚女が前科を消して、推薦状を書いてくれたの。以来あたしは職業倫理に反して、ここで見聞きしたことをあいつに伝えたり、こんな無茶な注文を聞いたりしてるわけ」

 

 モニカはドアに寄り掛かると鍵を外しながら、妙にキラキラした目で私の方を見て続けた。

 

「それでも文句はないわ。ここの連中はみんな気前がいいし、"借金取り"もお巡りのくせに、ここの連中並みに気前がいいから。あんたもその同類だといいんだけどな......?」

「はいはい」

 

 溜め息を吐いてポケットからクリップを取り出し、1ドル札を抜いてモニカに押し付けた。

 

「毎度。それと、もう一個いい?」

「なに?」

「動揺すると訛りが抜けちゃうの、なんとかした方がいいわよ。やっぱりあんた、サメ女とヤッたんだね」

「出てけ!」

 

 モニカを蹴り出してドアを閉め、ワゴンから持ってきた合鍵の一つを使って錠を下ろした。

 

"終わったらこの部屋に戻しといてよ!"

 

 愉し気な声でドア越しにそう言って、モニカは去って行った。くそ、誰かの掌の上で転がされるのは、やっぱり気に喰わない。

 鍵をドアに挿しっ放しにして、私は着替えを始めた。今身に着けている軍服地のオーバー・コートと、ちょっとみすぼらしいスリー・シーズン用のワンピース、編み上げのブーツを脱いでワゴンに放り込み、リネンで覆い隠す。

 お仕着せの制服に袖を通すと、サイズがピッタリだった。

 

「あ、さては......」

 

 もちろんたまたまピッタリだった可能性もあるけれど、ぐらがモニカに、私の服のサイズを伝えていた可能性の方が高い。それであんな借問をされたのだ。

 

「余計なことを......今度会ったらシメるわ、あの生臭魚」

 

 ぶつぶつ言いつつもワゴンを押して、ドアを開けて鍵を抜き、モニカに言われた通り廊下を元来た方へと辿りはじめた。

 

 

 



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House Keeping #4

  Mar. 10th, 1943, The Plaza Hotel, Central Park South, NYC

 

「"鍵束ばあさん"がね、やり直せって」

 

 上へ向かう長期滞在客――スタッフの言い方を借りれば"住人"――用エレベーターの中。私は地下から一緒になった客室係に、モニカから教わった言い逃れを実践していた。名前も知らない彼女は特に支障なくそれを信じたらしく、「あー......」と曖昧に音を伸ばしてから続けた。

 

「ご愁傷さま」

「全くよ」

 

 三階でエレベーターが停まると、彼女は降り際にこっちを向き、ぐるりと目を回して言った。

 

「鍵束なんか大っ嫌い」

 

 何か言い返す間もなくドアが閉まり、私は虚空に向かって呟いた。

 

「随分嫌われてるのね、鍵束ばあさん」

 

 その後、エレベーターはノンストップで私を11階まで運んだ。ドアが開くとケージから降り、分厚い絨毯が敷かれた廊下を東に、ついで北に向かった。

 お目当てのスイートは北東の角、59丁目と五番街の角に面した部屋だ。ホテルの名前の由来となった大陸軍広場(グランド・アーミー・プラザ)を眼下に眺めることができる、このホテルでも最高クラスのスイート・ルームに、悪徳弁護士は居を構えている。

 モニカはカートの中に、スイートの大雑把な間取り図を一緒に入れてくれていた。それによると廊下から彼のスイートに入るドアは、全部で四つあるようだ。その内の一つ、いかにもここから入れという感じに矢印が書き込まれているドアの前にカートを停めた。

 さっと周囲を確認して――誰もいない――から、合鍵の一つを使ってドアを開ける。自身とカートを中に入れて、素早くドアを閉めて錠を下ろした。

 

「けっ、お金持ちってやつは......」

 

 広々とした空間に入って、私は思わずそうこぼした。

 ホテルで客室のドアをくぐったら、普通その先にあるのは部屋そのものだ。スイート・ルームでも大抵は狭い控室(アンテチャンバー)がある程度で、間違ってもゆったりとした玄関ホール(ホワイエ)があったりはしない。

 

「ぐらのアパートメントのホワイエより広い......しかも家具も高級品ね」

 

 天井の高さという点では、あちらの方が上だ。二階建て(デュプレックス)で、ホワイエは吹き抜けになっているから。

 それでもこちらのホワイエは一階建て(フラット)とは思えない天井の高さだし、調度類の一つ一つをとっても最高級品だ。目の前にある中国陶器の花瓶は、百年以上前のものとみて間違いなさそうだし、それを支えているロココ様式のコモードも、それ一脚で私のアパートメントのビルを丸ごと買い取れるくらいはするだろう。めまいがしそうだ。

 

「ぐらと一緒にいるとお金持ちの生活に慣れた気になっちゃうけど......上には上がいるものね」

 

 私は嘆息しつつ、まずは見取り図を参考に室内をざっと見て回ることにした。

 目の前にドアがある、このスイートで唯一五番街に面した部屋は、主寝室(マスター・ベッドルーム)として使われているらしい。

 

「あっと、鍵がかかってる」

 

 ガチャリとノブに抵抗されて、私は思わずそう呟いた。

 これは興味深い。合鍵で開くだろうけど、これはたぶん客室係に対する"入るな"のメッセージだ。リネン類の交換とかはどうしてるんだろう?

 

「ここに入るのは後にして、次は......」

 

 ホワイエから南に続く長い内廊下を行くと、その先には食料庫(パントリー)とウォークイン・クローゼット、マスター・バスルームがあった。いずれも未施錠だ。

 

「ふーむ......クローゼットとバスルームは一旦除外してよさそうね。クローゼットにはランドリー・サービスのスタッフが出入りするでしょうし、バスルームは客室係がすみずみまで綺麗にするから、そんなところに置いときたくはないはず」

 

 内廊下をホワイエに戻って反対側、北端のドアを開ける。59丁目と五番街の角、グランド・アーミー・プラザを望むこの部屋は応接室(パーラー)だ。

 

「うはー......」

 

 部屋に入るなり、私はため息を吐いた。

 室内の調度類は、ホワイエのコモード同様ロココ調の高級品でまとめられていた。目が覚めるような白、装飾の金、繊細な彫刻、優美な曲線。テーブルもソファも、キャビネットや炉棚(マントル・ピース)、それらの上の写真立て、置時計等々全て、文句のつけどころのない一級品だ。

 壁紙は白い家具たちの高級さを引き立てるローズ・レッド。クラウン・モールディングは白。

 そして石膏の天井からは壮麗なクリスタル・シャンデリアがぶら下がり、電灯が切られているにもかかわらず、自然光でそのクリスタルと真鍮の金具を煌めかせていた。

 

「真っ白なグランド・ピアノまである......この部屋に入って唖然としない人は少ないでしょうね」

 

 ぐらだって、この部屋に踏み込めば一瞬目を瞠るだろう。それは賭けてもいい。

 パーラーの役割は、客人を迎えてもてなすことにある。もてなすといっても、食事(ディナー)は隣の食事室(ダイニング・ルーム)で行われるから、ここはディナーが始まるまでの待機場所だったり、終わった後に女性陣が引き下がる部屋(ドローイング・ルーム)として使われたりする。

 あるいは書斎に呼ぶほどプライベートではないが、仕事場に招くほどフォーマルでもないビジネスの場として使われることもある。

 そういった客人たちに対して富を顕示し、趣味をひけらかし、誰が格上なのかをわからせる――あるいは自分が、相手と対等な富とセンスを持っていることを伝える――ために、パーラーはこんな風に荘厳極まりない部屋になりがちだ。貧乏人の私はたった今、この場にいないゴールドバーグから札束パンチを喰らって、見事にわからせられた格好だ。

 

「......んで、こっちがダイニング・ルームね」

 

 わからせ部屋――いや、この呼び方はプラザ・ホテルに対して失礼ね。やめよう。

 パーラーの西側は壁の代わりに、落ち着いた深紅のカーテンで仕切られている。その向こうは、南北に長い食事室だ。

 部屋の中央に、長辺と同じ向きで長いダイニング・テーブルが置かれている。その周辺の椅子を数えた。

 

「一、二、三、四......十二か」

 

 所謂お誕生日席にも椅子を置けば、最大で十四人まで招けるわけだ。

 一方その場合、十三人のゲスト、あるいは主人を含めて十三人の会席者となって、どちらも都合の悪い数字が絡んでしまう。前世紀から合理主義(プラグマティズム)がどうのと口にするアメリカ人も、この辺の験担ぎはなんだかんだ気にする人が多い。

 

「そしてこっちの家具はルネッサンスか。パーラーよりは居心地重視ってわけね」

 

 テーブルも椅子も、周辺の食器棚や床置時計も、ニスの濃い木目調に緻密な装飾が彫られたルネッサンス様式でまとめられていた。壁紙は落ち着いたグリーン。シャンデリアはあるけれど、より小規模。

 この部屋では家具じゃなく、プラザのシェフが供する素晴らしい料理で圧倒するつもりなんだろう。

 

「そしてこの奥が居間(リビング・ルーム)、と」

 

 目立たないドアをくぐった先は、ゴールドバーグが普段生活しているらしいリビング・ルームだ。この部屋も、パーラーやダイニングと同じように清掃が行き届いているけれど、家具は豪華さより居心地を重視したものが配置されているし、読みかけの本や雑誌、新聞なんかがあちこちに置かれていて、生活感があふれている。

 窓はこれまでの部屋にはなかったフランス窓で、その外にはセントラル・パークを見下ろす小さなテラコッタのバルコニーが突き出している。

 奥の一画は天井まで届く本棚が配置されていて、両袖の執務卓が置かれていた。

 

「ここはたぶん書斎スペースね。要チェック、と」

 

 東西に広い居間を抜けた最後は、短い内廊下がある。左右にそれぞれギャレー・キッチンとバスルームがあり、突き当りは隣接する1117号室へのドアになっていた。

 ゴールドバーグに限らず、そしてプラザに限らず、高級ホテルのスイートを家代わりにしている人々は、必要に応じて隣接する客室を借りて客間として使う。このドアはその時に使われるものだ。

 

「キッチンの中は......ピカピカ、と。こんなキッチンで朝食を作る人もいるらしいけど、ゴールドバーグは違うみたいね」

 

 共用廊下に直通のドアもあるし、普段このキッチンは客室係が居間でくつろぐゴールドバーグに、お茶や軽食を給仕するために使うのだろう。となると、ここも除外してよさそうだ。

 

「さてと、まとめましょう。除外してよさそうなのは2つのバスルーム、クローゼット、ホワイエ、2つの内廊下、パーラー、ダイニング・ルーム、キッチン。逆に可能性が高そうなのはパントリー、マスター・ベッドルーム、リビング・ルームの書斎スペース。こんなところね」

 

 探す順番を少し考えたけれど、一番を決めるのは簡単だった。

 

「まずはベッドルームから行きましょう。他と違って、そもそもまだ中を見てないし」

 

 ホワイエに戻ると合鍵を使って錠を外し、五番街に面した主寝室へと入った。

 

「......?」

 

 入り口からさっと中を見渡した時、何かが引っかかった。何か......違和感がある。

 

「......だめ、わからない。とりあえず、部屋の様子を見ましょう」

 

 寝室も居間と同じく、贅より質といった感じの調度類がそろっている。コーヒー・テーブルとソファ、肘掛椅子、寝椅子(カウチ)

 キング・サイズのベッドは、ぐらが五人くらい並んで寝られそうな広さだ。寝具は乱れていて、確かに今日はリネン類の交換がなかったらしい。

 そしてこちらにも両袖のデスクがあった。居間のそれは綺麗に片付けられていたけど、こちらは書類や本――恐らく法律書――で散らかっている。

 

「なるほど、あっちと違って仕事道具を一々抽斗に仕舞って、鍵をかけなくてもいいわけね」

 

 とはいえ、このデスクに帳簿があるか?

 ざっと見る限り、天板の上の書類は訴訟関係のもので、お目当ての物はなさそうだ。抽斗の錠前は簡単なもので、ロック・ピックどころかナイフやプラスチック片でこじ開けられる。セキュリティとしてはお粗末だ。

 

「うーむ......そういえばこのスイート、金庫が無いわね」

 

 厳密には、クローゼットに一つあった。けれどタンブラー錠だけが付いた小さなもので、おそらく合鍵の中のどれかで開けることができる。後で確認はするけれど、ゴールドバーグならあんなとこに帳簿を隠しはしないだろう。

 

「床置きの金庫を置くようなスペースはなかった。となると壁金庫ね」

 

 それを念頭に、再び室内を見回す。

 

「......ああ!」

 

 違和感の正体に気付いて、私は暖炉に駆け寄った。

 そう、暖炉。私の家にはないけれど、ぐらのアパートメントにはある、割と見慣れた暖房器具。このスイートも、各部屋に豪華な暖炉が一基ずつあった。

 それらの暖炉とこの寝室の暖炉には、違いが二つある。一つは煤一つ無くて、とても綺麗だってこと。まあ、前回客室係が磨き上げてから、一回も使ってないって可能性もあるけれど。

 

「それでも、火掻き棒とか火箸とかが一つもないのは流石におかしい。なぜなら......」

 

 身体を反り返らせ、指先でマントル・ピースを掴んで、上体を暖炉の中に突っ込んだ。

 

「やっぱり、煙突に繋がってない」

 

 この暖炉は飾りなのだ。だから薪入れや石炭入れ、あるいは火掻き棒、火箸、石炭シャベルみたいな、暖炉に付属する諸々が見当たらないんだ。他の部屋の暖炉には、しっかり真鍮の道具があったのに。

 

「となると、あんたが怪しいわね」

 

 私は暖炉の上に飾られた、額縁入りの絵画を睨んでそう呟いた。エドガー・ドガの踊り子。本物がこんなところにあるわけないから、印刷された模造品だろうけど。

 

「こういうのって大抵こうすると......お」

 

 額縁に指を引っ掛けて、下に力を入れると、がたりと少し下に動いた。手をはなすと、踊り子はそのままゆっくりと上に上がって行き、黒光りする金庫が顔を出した。大当たり。

 

「これは......いい金庫ね。破りがいがあるわ」

 

 桁数を探るためにダイヤルを回して、私はそう呟いた。ディスクの切れ目を探るのがとても難しい。

 できれば指先の感覚だけじゃなくて、全身を金庫にくっつけて機構を感じ取りたいところだ。ところが相手は壁金庫で、しかも大きなマントル・ピースが前に突き出していると来ている。

 

「聴診器、持ってくればよかった......」

 

 聴診器を使うのは、金庫破りとしては三流だ。でもこの状況だと、少しでも多くの手数が欲しい。くそ、探偵社の抽斗にしまい込んだままにしていた自分がちょっと恨めしい。

 

「......五......六......六桁か」

 

 厄介さはさらに増した。

 一応初期設定の番号を試してみるも、全部ハズレ。

 

「オーケイ。じゃあ、ゆっくりじっくり付き合ってあげるわ......」

 

 

 

 15:08 PM, Goldberg's Suite, The Plaza Hotel, NYC

 

 がこっとレバーが動いて、下着姿の私はへなへなとその場に崩れ落ちた。三十分強に渡る私と壁金庫の逢瀬はたった今、金庫がついに屈服して終わった。

 

「はーっ......はーっ......」

 

 私も満身創痍、汗びっしょりだ。顔面から垂れる脂汗に、偽りの日灼けを演出するファンデーション・クリームが混ざって、白いシュミーズを汚していく。途中で制服を脱いだ判断は大正解だった。

 しばらく息をついて、ようやく私はふらつきつつも立ち上がった。

 

「ふーっ......さてさて、中身を見せてもらいましょうか」

 

 中から出てきたのは、バンクロニー社のレターヘッドが捺された帳簿だった。大当たりだ。

 帳簿は、一見同じように見えるものが二冊入っていたけれど、たぶん中身が少し違うのだろう。社内用の物と、内国歳入局に提出する物に分けてあるらしい。二重帳簿というやつだ。

 喝采を叫びたい気分を押さえつつ内廊下に戻ると、清掃カートに隠したコートを取り、その中からミノックスを出して帳簿を撮影した。今日はまだ盗らない。

 

「これは......ほうほう、リスク管理がなってないな、ゴールドバーグくん」

 

 帳簿と一緒に入っていた書類を見て、私は偉そうな独り言を垂れた。

 マンハッタン銀行のレターヘッドが捺された、貸金庫の使用契約書だ。これもミノックスで撮影して、さっと斜め読みする。

 

「ふーむ......」

 

 なるほど、こちらもなんとか攻略できるかもしれない。

 コートから手帳を出し、金庫の組み合わせ番号をメモしてから寝室に戻ると、帳簿と契約書を金庫に戻して閉め、ダイヤルをリセットして"64"が上に来るように合わせた。事務所の金庫と同じだ。

 カートから持ってきた清掃道具を使って、金庫の扉にべったりと付いた私の脂汗をふき取り、綺麗に磨き上げた。

 

「次はクローゼットだけど、その前に......」

 

 主寝室に隣接するマスター・バスルームに入ると、洗面台で顔を洗った。汗で流れてあちこちに筋が入っているクリームを洗い落とし、備え付けのタオルで綺麗にふき取る。

 

「ふー......」

 

 鏡を見ると、いつも通りのアメリア・ワトソンがそこにいた。かつらは金庫破りの途中に外したまんまだったし、目が吊り気味になるよう目尻を固定していた小さなテープも、たった今流れてしまって、やや垂れ気味の自分の目が、鏡の中からこちらを見返していた。

 一旦カートに戻って使用済みのタオルを放ると、新しいタオルと清掃道具を持って戻り、使用前と寸分変わらぬように洗面台を磨き上げた。私、客室係もやれるかもしれない。

 

 

 

 15:30 PM, The Plaza Hotel, Central Park South, NYC

 

 さらに三十分ほどかけて他の部屋の捜索も行った私は、ゴールドバーグのスイートを出た。かつら以外の変装が落ちてしまった顔をあまり見られないように、俯き加減で廊下を進む。

 南側の住人用エレベーター・ホールに着くと、下りエレベーターを呼んだ。ここが一番どきどきするところだ。

 

「誰も乗っていないエレベーターが来ますように......」

 

 チン、と控えめなベルが鳴ってドアが開くと、幸いにもケージは無人だった。急いでカートと一緒に乗り込むと、鍵の一つを地下階のキー・スイッチに差し込んで捻った。

 ドアが閉まって下りはじめると、さらに操作盤の下の方にある"直通(シャトル)"スイッチに鍵を使い、誰も乗り合わせないようにした。いい感じに運が味方してくれている。

 

「このまま誰にも見られなければ......」

 

 フラグって知ってる? その時の私にそう訊きたいところだ。

 地下に着いてドアが開くと、エレベーター・ホールにはベルマンがいて、軽食やティー・セットの載った配膳カートを押して入って来ようとしたところだった。

 一瞬目があった後、ベルマンは自分のカートを引いて、先に出るよう私に促した。

 

「どーも」

 

 南部風に母音を伸ばして言い、エレベーターから降りる。ベルマンは軽く会釈を返して、カートと一緒にエレベーターへと消え、私はこっそりと溜め息を吐いた。

 最初に来た倉庫に戻って内側から鍵をかけ、制服からワンピースとコートに着替える。汚れたタオルや清掃道具は、モニカがなんとかしてくれるだろう。たぶん。

 錠を外すと、合鍵の束をカートに放り、私は倉庫を後にした。

 

 

 



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House Keeping #5

 Mar. 10th, 1943, Gura's Aparment, Upper East Side, NYC

 

「んで、なんであんたはアタシのアパートメントでくつろいでるわけ?」

 

 プラザ・ホテルのスイート・ルームに比べれば、慎ましく居心地のいい居間のソファに寝そべってぼーっとしていると、ようやく帰ってきた部屋の主が呆れたような顔と声でそう言った。

 私はソファの上からぼけっとした声で返した。

 

「この街で最高クラスのスイートに押し入ってきたの。このまま自分のアパートメントに帰ったら、温度差でショック死しちゃいそうだったから、中和中」

「まったく、灯りも点けないで......」

 

 ぐらが電灯のスイッチを捻って室内がぱっと明るくなると、私は眩しくて目を瞬いた。ぐらはもぞもぞ蠢く私を見ていつものにやにや笑いを浮かべると、キャビネットの方に歩み寄り、葉巻の入った加湿箱(ユミドール)を取り出しながら訊いてきた。

 

「プラザの、ゴールドバーグのスイートに押し入って来たの?」

「正解」

「収穫は?」

「あった」

 

 ソファの上に起き直って、ぐらから喫い口の切られた葉巻を受け取ると、テーブルの上から葉巻用マッチを取って火を点け、火先を炙る。

 

「あそこに二つもコピーを隠してたわ。ホテル備え付けの金庫と、壁金庫に一つずつ」

 

 ちびたマッチを捨ててもう一本取り、側薬で擦ってぐらの前に差し出す。

 

「ホテルの金庫は合鍵で開いたけど、壁金庫はだいぶ時間を取られたわ。三十分以上かかっちゃった」

「ふーん......」

 

 ぐらは葉巻に十分火が着くと身を引き、ソファにもたれて濃い紫煙をぷかっと吐いた。

 

「あんたがそんだけ手こずったってことは、よっぽどいい金庫だったんだね。で、盗って来たの?」

「いいえ、まだ」

 

 私もふかふかのソファに埋もれて、遥か南のキューバからの贈り物を楽しみながら答えた。

 

マンハッタン銀行(バンク・オブ・マンハッタン)の貸金庫にもある可能性が高いの。そっちの算段がつかないかぎり、ホテルのを今動かすのは危険すぎるわ」

「なるほどね」

 

 やるなら全部一気に盗んでしまわないといけない。途中で気づかれてしまえば、帳簿は手の届かないところに移されたり、最悪ベールズや当局の手に渡ることになるだろう。そして私は死ぬ。

 

「でもまあ、やりようはあるわ。あとは日程の都合をつけるだけ」

「そう」

「それとね、ぐら。あなたに言いたいことがあるんだけど」

「なに?」

「あなた、モニカに私の服のサイズを教えたでしょ」

 

 こてんと首を倒してから、ぐらはにやっと笑って答えた。

 

「教えたよ。制服、ぴったりだったでしょ?」

「おかげでいらない勘ぐりを受けたわ」

「そう?」

 

 にやにや笑いがさらに大きくなっていく。くそ、薮蛇だったかもしれない。

 

「気にすることないでしょ。モニカだって両刀なんだし、事実無根ってわけでもなし」

「事実無根じゃないから恥ずかしいんでしょうが」

「それでそれで?」

 

 すっかり愉しんでいる声音で、ぐらが訊いてきた。

 

「その感じだと、モニカの借問に引っかかって弄ばれたんでしょ? その文句を言いに、わざわざうちに来たの? 中和なんて方便使ってさ」

「それもあるけれど、他にも訊きたいことがあるのよ」

「へ?」

 

 それは想定外って表情が一瞬ぐらの顔に浮かんで、私は内心でほくそ笑んだ。残念だったわね。

 

「ゴールドバーグの出廷日程を教えて欲しいの。今週中かできれば来週で、午後いっぱい裁判所から出て来ない日ってない?」

「......ちょっと、今ここじゃわかんないな」

「じゃ、わかったら教えて。葉巻を御馳走様」

 

 半分ほどになった葉巻を灰皿に置くと、私はソファから立ち上がった。きょとんとした表情のぐらをそこに置いて、私は玄関ホール(ホワイエ)に出ると、軍服地のコートに袖を通した。

 

「それだけ?」

 

 ぐらが後を追ってきて、なんとも寂しそうな声で訊いてきた。年明けに私をここに引き留めた、例の悲し気な表情を浮かべている。くそ、卑怯なやつ。

 

「......今日は無理だけど、明日にでも一緒に晩御飯食べましょ?」

「言ったね? 約束だよ」

 

 今にも泣き出しそうな顔から一転して、してやったりの表情を浮かべてぐらは言い放った。このやろう。

 

「ええ、約束ね」

 

 

 

 PM 7:40, The Lost Heaven, Swing Street, NYC

 

 その日もスウィング・ストリートは盛況だった。観光客こそいないけれど、ニューヨーカーたちは戦時中だろうがジャズ・クラブにも映画館にも足を運ぶ。戦前から変わらない日常の風景だ。

 もちろん人々の装いは、戦前と今とでは大きく違う。男性は九割方が陸軍か海軍の軍服に身を包んでいるし、女性は揃いも揃って軍服地のコートを羽織っていた。このコートは配給点数が一番低いのだ。

 そんな軍服コートの一団の一人だった私は、52丁目に立ち並ぶジャズ・クラブの一つ、"ロスト・ヘブン"へと足を踏み入れた。

 

「こんばんは、ミス・ワトソン。刑事さんは、今日は一緒じゃないのね?」

「こんばんは、シンディ。ええ、違うわ」

 

 クローク係のシンディにコートを渡すと、番号札を受け取ってホールへと向かった。このクラブは以前から行きつけの一つではあったし、ぐらと一緒に来ることも多かったけれど、今日はダメだ。

 

「こんばんは、ミス・ワトソン」

 

 ホールを見渡せる位置にある案内台に向かうと、そこを定位置としている給仕長(メートレ・ディ)が声をかけてきた。仕立てのいいグリーンのタキシードを着込んではいるものの、どことなく盛装したごろつきのような雰囲気が漂っているのは、素性を隠しきれていないからなのか単に隠す気が無いのか、私はいまだに判断しかねていた。

 そんなうさんくさい給仕長の側に歩み寄って、両手でしっかりと握手する。

 

「こんばんは、フランク」

「今日もボックスですか?」

「ええ。この日を選んできたんだもの」

「そうでしょうとも。すぐにご用意しますので、バーでお待ちください」

 

 手を離してバーの方に向かう。右手の掌の中に忍ばせていた六枚の5ドル札は、きれいさっぱりなくなっていた。

 バーの止まり木に空きを見つけて、アイロンの利いた濃紺の水兵服と、野暮ったい薄緑のツイードの背広の間に身体を割り込ませると、カウンターに1ドル札を置いてバーテンダーを待った。

 

「よければ奢りますよ、お嬢さん」

 

 一杯機嫌の声が、軍服の方からかけられた。

 

「ありがたいけれど、待ち人がいるの」

「そうですか、それは残念」

「何にしましょう?」

 

 バーテンダーがそばにやって来たからか、水兵服は名残惜しそうな顔をしつつも紳士的に身を引いた。

 

「スコッチ、オン・ザ・ロックで」

「かしこまりました」

 

 飲み物が運ばれてくると、それを舐めながらホールをざっと見渡した。

 数組の男女が、ステージ上のビッグ・バンドが演奏するイン・ザ・ムードに合わせて踊っていた。フランクは相変わらず案内台にいて、目端の利かないボーイを指を鳴らして呼びつけては、注文取りや給仕や会計に走らせている。その合間を縫って、ウェイトレスやシガレット・ガールがテーブルの間を行き来して、気の大きくなっている帰休兵たちから、少しでも多いチップを毟り取ろうと奮闘していた。

 

「失礼します、ミス・ワトソン」

 

 ぼうっとホールを眺めていると、視界の端にボーイの白い制服が映り、ほどなくその服の主が喋った。

 

「お席の用意ができました。どうぞこちらへ」

 

 カウンターの上の釣銭を20セント残して、ショット・グラスを持ったまま止まり木から下りると、ボーイについて店の奥のボックス席へと向かった。

 観葉植物と植栽に囲まれた、一段高いところにあるその席は、ステージもホールも見渡せない代わりに向こうからも視線が通らない造りになっていた。知らなければ、ここにボックス席があるとは誰も思わないだろう。

 そして待ち人は、すでにボックス席の中におさまっていた。

 

「ハイ、アイリス」

「ハイ、アメ」

 

 ロスト・ヘブンの支配人にして専属シンガー、そして評議会(カウンシル)の相談役を務めるアイリスは、彼女がお忍びで人と会う時に使うそのボックスで、マンハッタンのチェリーを齧っていた。

 

「今日は中間報告?」

「ええ。現物を確認してきたところ」

 

 私はハンドバッグから封筒を取ると、取り急ぎ現像したマイクロフィルムを振り出して、アイリスの前に差し出した。アイリスはそれを受け取り、天井の照明に透かして見た。

 

「......小さくって、よくわからないね」

「でしょうね。引き延ばす時間はなかったから」

 

 しばらくネガフィルムを矯めつ眇めつしていたアイリスは、それを私の方に戻しながら訊いてきた。

 

「どのみち、現物をこっちに持って来てくれるんでしょ?」

「持って来ない選択肢が私には無いの、わかって訊いてる?」

「ええ、わかって訊いてる」

 

 私の逆質問にアイリスは、左右で色の違う目――まるでルビーとサファイアを別々に埋め込んだみたいだ――を邪悪に歪めてそう答えた。私は最初の質問への答えを、ため息交じりに吐き出した。

 

「ええ、持ってくるわ」

「よかった」

 

 アイリスはにっこり笑うと、カクテル・グラスを干して立ちあがった。

 

「あなたならやってくれるって信じてるからね、アメ。アル、彼女をテーブル席にお通しして」

「いや、いいわ。私はもう帰るから」

「あら、そう?」

「まだまだ、やらなくちゃいけないことがあるの」

「お仕事に邁進、か」

「邁進させてるのはどこの誰だと思ってるの?」

「クロニーよ。私じゃない」

 

 でしょ? と念押しして、アイリスはボックスのすぐ横にあるスイング・ドアからバックヤードへと入って行ってしまった。まったく、お仕事を上乗せしてるのはそっちのくせに。

 溶けだした氷で若干薄めになっていたスコッチの残りを片付けると、ボーイのアルフォンソにさよならを言って、私もボックス席を後にした。

 

 

 

 Mar. 11th, 1943, Minetta Tavern, Greenwich Village, NYC

 

 ミネッタ・タヴァーンはワシントン広場(スクエア)の二街区(ブロック)南、マクダグラス通りとミネッタ・レーンの角にあるレストラン・バーだ。

 この店に来る最大の利点はディナー・タイムでもテーブル席に楽々座れるという所で、実際に私とぐらがお店に入った時にも、テーブル席は片手で数えられる程度しか塞がっていなかった。お客はいっぱい入っていたけれど、八割方は男で、そのほぼ全員がバー・カウンターに群がっている。

 

「コートをお預かりしましょうか」

「いや、アタシはいい」

「私はお願いするわ」

 

 私は、ケープがついたお気に入りのベージュのコートを脱ぐと、クローク係に渡した。係はいかにも上等そうな――つまり多額のチップになりそうな――ぐらのチェスターフィールド・コートをちょっと名残惜しそうに見たけれど、あきらめて私のコートだけを持ってクローク・デスクへと戻って行った。

 傍目には、150ドルのコートを着ているのに25セントそこそこのチップを渋るけちんぼに見えないこともないけれど、ぐらのコートには半ダースの投擲用ナイフが仕込まれているのだ。人に預けたがらないのも無理はない。

 奥の方の席に向かう間に、バーの男たち――軍服姿とスーツ姿が入り混じって、本人たちは男にしかわからないと思っている話題で話を弾ませている――はこちらに視線を向けて、女二人連れと見るや十人十色の反応を見せた。品定めするような不躾な視線を向ける者、横目でこちらを窺いつつ関心の無いふりをする者、露骨な流し目やウインクを寄越す者、もっと露骨に口笛を吹いて興味を惹こうとする者、等々。

 そちらには視線の一つも送らずに、二人で席に着くと、男たちは皆諦めて"男の会話"へと戻って行った。ただそれは表面上のことで、少なくとも半数はこちらを横目でちらちら伺っていたけれど。

 

「昨日訊かれた件だけど」

 

 注文したステーク・アンド・フリットが運ばれてくると、ぐらはそれをものすごい勢いでお腹におさめながら、もう雪は降らないだろうという話題を切り上げて本題に入った。

 

「来週の火曜に、ゴールドバーグが朝から夕方まで、裁判所から出られないような訴訟が入ってたよ。担当地方検事補が乗り気で、予備審問手続きにほぼ丸一日かかる見通し」

「来週の火曜ね?」

「そう」

 

 ナイフとフォークを置いて、それをメモに取った。よし、これで計画を最終段階に進められる。

 せっせとお皿を空にしながら、ぐらが訊いてきた。

 

「上手く進みそう?」

「ええ、たぶんね」

「ならよかった」

 

 私のお皿には、まだ料理が三分の二は残っているのに、ぐらは早くも最後のお肉とポテトの束を口に入れて、それをもぐもぐと咀嚼していた。まったく、なんて食べるのが早いんだろう。

 私が残りのステーキとポテトを片付けている間に、ぐらはハーフ・ボトルの赤ワインを頼むと、自分と私のワイン・グラスにそれを注いでから、ダンヒルの葉巻にジッポのライターで火を着けた。オイル・ライターで葉巻に火を着けるのは嫌いだって人も多いらしい――私はキャメル党だからよくわからない――けれど、ぐらはあまり頓着しないほうだった。

 ぐらがのんびりワインと葉巻を楽しむ姿勢に入ったので、私も自分の料理にゆっくり時間をかけることにした。せっかくの美味しい――そして97セントもする――ステーキなんだから、楽しまなきゃ損というものだ。

 

 

 

 

 

「さて、この後はどうする?」

 

 私が料理をお腹におさめて、キャメルとともにグラス一杯の赤ワインを空けたあたりで、ぐらがそう訊いてきた。

 

「そうね......劇場地区(シアター・ディストリクト)まで足を延ばして、映画かミュージカルでも観に行く?」

「賛成に一票」

 

 ぐらはのんびりとテーブルの上の勘定書きを手に取ると、添えられていたペンでチップの額を書き加えてサインした。ポケットから5ドル札を抜き出して、勘定書きと一緒にテーブルに置くと、札入れから自分の分の紙幣を抜こうとしていた私を掌で制止した。

 

「いいよ、アタシがおごるから」

「え、でも......」

「その代わり、ミュージカルはあんたがおごって」

「げっ」

 

 平日の夜の部とはいえ、バルコニー席とかじゃない限り5ドルは軽く超える。私は長々と溜め息を吐いて、情けないお伺いを立てた。

 

「メザニン席でもいい?」

「いいよ。アメの隣なら、どこでも」

 

 こーんなクサいセリフを平気で言えるから、こいつはずるいんだ。

 

 

 



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House Keeping #6

 

 Mar. 16th, 1943, The Plaza Hotel, Central Park South, NYC

 

「ふあ......」

 

 その日の朝七時、私はふかふかのマットと素晴らしい肌触りのシーツの上で目を覚ました。当然私の家ではないし、ぐらのアパートメントでもない。

 ここはプラザ・ホテル。の、一番安い客室だ。

 一番安いと言っても、プラザはそもそも高級ホテルだ。だからこの部屋は、巨大なキング・サイズのベッドと、アル・ブロジス*1を悠々支えられそうな大きさの肘掛椅子二脚、お洒落なコーヒー・テーブルと書き物用のデスクが入ってなお、まるで狭いと感じないような広さがある。そして一泊当たりのお値段は......ごめん、このことは考えさせないで。

 

「今日は雨か......」

 

 中庭に面した窓の外を見て、私はそう呟いた。柔らかい春の雨が、眼下のパーム・コートの天窓にしとしとと落ちている。

 金ぴかの洗面台で歯を磨いて口を漱ぎ、陶製のバスタブでシャワーを浴びた後、滑らかなバスローブに身を包んで体と髪が乾くのを待ちながら、私は今日一日の動きを再確認した。メモ帳をめくり、日付と時系列を確認して、齟齬や失敗する可能性を一つ一つ確認していく。

 

「よし......よし。これでいける、はず」

 

 もちろん失敗する可能性はゼロではない。なんなら、割と向こう見ずかもしれない。とはいえ今回は頼もしい味方――ぐらではない――がいる。後はまあ、私の計画だから当然だけれど、私次第だ。

 

 

 

 

 

 お昼を回ったところで行動開始。

 まずは着替えだ。今日のために用意した、シャネル・スタイルのレディース・スーツに袖を通す。ヒールが高めの靴を履き、ちょっと大きめの肩掛け鞄を持てば、いかにもオフィス・ガールといった感じだ。これなら、金融地区(フィナンシャル・ディストリクト)の法律事務所の秘書か、その使いっ走りのタイピストだと説明しても疑われることはないだろう。

 

 ありふれた軍服地のコートを腕にかけて、第一段階開始だ。

 テーブルに客室係への10セント玉(ダイム)を置いてから自室を出て、すぐ隣の階段室に入ると、7階から11階へと上がる。廊下を北の角へと進んで、見覚えのあるドアの前まで来ると、ポケットから鍵を出してドアを開け、室内へと滑り込んだ。

 この鍵は、以前ここに侵入したときにモニカが用意してくれた客室係用の合鍵から、型を取って作ったものだ。つまり、合鍵の合鍵ってわけ。ちゃんと使えるか不安だったけれど、タンブラーはあっさりと回ってくれた。頼もしい味方は、今回もいい仕事をしてくれている。

 念のために部屋中をぐるっと見て回って、誰もいない――ゴールドバーグがいないのは間違いないけれど、昨晩誰かと寝たりしたかもしれないでしょ?――のを確認してから、まず壁金庫から、次いでクローゼットの金庫から帳簿を回収した。組み合わせ番号はわかっているから、もう楽勝だった。

 五分後には、私は廊下に戻っていた。静謐で誰もいない廊下から階段室に入ると、7階まで下りてからメイン・エレベーターホールに向かった。ブザーを鳴らして、下りのエレベーターを呼ぶ。ケージはすぐにやって来て、制服姿のリフト・ガールが真鍮の格子戸と銅張りの外扉を引き開けた。

 

「ロビーまでお願い」

「かしこまりました」

 

 ドアが閉まり、ケージは滑らかに下降した。途中の階で止まることはなく、すぐにセントラル・パークに面した宿泊客用ロビーに着いた。

 コンシェルジュ・デスクに鍵を預けてから、軍服コートを羽織り、回転ドアをくぐって外に出る。

 

「どうぞ、マーム」

 

 ドアマンが路肩に停まっているタクシーのところまで走って、後部ドアを開けてくれた。次の目的には地下鉄で行くつもりだったけれど、私は少し考えてから、素直にタクシーに乗り込むことにした。雨のニューヨークで空車のタクシーを見つけるのは、砂漠で一粒の麦を見つけるよりも難しい。

 

「ありがとう」

 

 歩道を小走りに横切ると、タクシーのドアを持っていたドアマンに、ポケットから引っ張り出したダイムを渡して、黄色と赤の39年式チェッカー・キャブに乗り込んだ。三月だけれど、暖房の入っていない車内はなんとなく肌寒い。

 ドアを閉めて、運転手に目的地を告げる。

 

「アベニューCと12丁目の角までお願い」

「はあ?」

 

 自分の聞き間違えじゃないか、という顔で、運転手がこっちを振り返った。プラザ・ホテルから出てきたオフィス・ガール風の女から、アルファベット・シティ*2に行くよう頼まれるとは思っていなかったに違いない。

 

「アベニューCと12丁目の角。早く出して」

「はあ......」

 

 運転手は前に向き直って、料金メーターの空車表示レバーをガチャンと倒すと、車を路肩から離して濡れた59丁目を東に走らせた。

 

 

 

 12:55 PM, East Village Loan and Pawn Shop, Alphabet City, NYC

 

 イースト・ビレッジ金融質店(ローン・アンド・ポーン)はアベニューD沿いに建つ、ぼろぼろの雑居ビルの一階にある。右隣りは十年以上前に潰れてほったらかしの靴屋、左隣りは韓国人が経営している洗濯屋だった。

 この界隈はどの店も、入り口や飾り窓(ショー・ウィンドウ)の前に鋳鉄の鉄格子を入れていて、この質屋も例外ではない。格子とガラス窓の奥にはカラフルなネオン・サインがいくつもあり、

 

「金・銀・宝石 買い取ります」

「ウェスタン・ユニオン短期融資(ペイデイ・ローン)取扱店 小切手引き受け・為替手形払い」

「冬物コート・ファー 預かり致します」

「猟銃・弾薬・釣具・スポーツ用品 大安売り中」

 

 などと謳っている。生憎と灯火管制で全部消灯していたけれど。

 ドアを押し開けて店内に入ると、お店の奥の方でビーッとブザーが鳴るのが聞こえた。

 

「だからあ、これは本物の銀時計なんだって」

 

 薄暗い店の奥から、まだ少年の域を脱していない感じの高い声が聞こえてきて、私は入り口で先客の商談が済むのを待つことにした。気怠そうな、低めの女の声が少年に応える。

 

「冗談はその顔だけにしときなよ。どう見たってニッケルメッキの安物じゃんか」

「そんなわけ無いよ、親父の形見なんだからさ。俺の親父は金持ちだったんだよ、知ってるだろ?」

 

 金持ちの息子とはとても思えない、どぎついアイルランド訛りで少年はそう言った。もうちょっとマシな言い訳は思いつかないんだろうか。

 しばらく似たようなやり取りが続いてから、女がしびれを切らしたように言った。

 

「わーかったわかった、それを質草に5ドル出してやる。それでいいだろ?」

「5ドルだって!? バカ言うなよ、純銀なんだぞ! 最低でも50ドルは貰わないと」

「5ドルで質料天引き。それ以上欲しいなら、よそをあたるんだね」

 

 旧式のタイプライターで質札を打つガチャガチャ言う音の間、少年は黙っていた。これ以上店主が譲歩しないのは、ちゃんとわかったらしい。

 やがてロールから用箋を抜き取る音がして、女店主が言った。

 

「さてと。ウォーターベリー*3の懐中時計、入れは5ドル、利率5%で、手取りは4ドル75セント。期限は2週間、過ぎたらすぐ流すぞ。これでいいな?」

「ああ、いい」

「んじゃ、サインしてくれ。やり方はもうわかるだろ?」

「ああ」

 

 ペンを使い慣れないらしく、紙を引っ掻くような音が、間を空けて三回した。

 

「......よし。ほら、金と質札だ」

 

 店主が言い終わるよりも先に、慌ただしく椅子を引く音がした。

 

「ちゃんと受けに来なよ!」

 

 陳列棚の角を曲がって、薄汚れたオイルスキンにぼろぼろのジーンズを穿き、汚らしい灰色のハンチング帽を被った男が現れた。背丈が高いので、コートの襟を立てて帽子を目深にかぶり、黙っていれば大人に見えないこともない。

 長身の少年は、二枚の銀貨を1ドル札と質札でくしゃくしゃに包みながらコートのポケットにつっこんで、店主にも私にも挨拶一つせず質屋を出て行った。

 私はそばに置かれていた、流質した品物のふりをしている壺に手を入れると、中から鍵を取り出した。外の格子戸をガシャンと閉めて鍵をかけ、内側のドアの本締(デッドボルト)錠二つもしっかり施錠すると、店の奥に向かう。

 そこにはニスの剥がれたひどいマホガニーのカウンターがあり、質屋や銀行なんかでお馴染みの真鍮の格子が、店舗側と事務所側を仕切っていた。黄色がかった金髪の頭に大きな犬みたいな耳を乗せた女店主は、表面がすっかり曇ってところどころへこんでいる懐中時計を、格子の向こうから私に掲げて見せて言った。

 

「正真正銘の銀時計で、50ドルはするんだそうだ。5ドルで買い叩いてやった」

「どうみても銀色メッキの安物だし、転売しても1ドル半がいいとこね」

 

 店主はきゅっと肩をすくめて、カウンター下の抽斗に時計を仕舞いながら言った。

 

「まあ、質受けには来ねえだろうな。酒とハッパに全部使って、来月の今頃になったら、またガラクタを持ち込みに来るさ」

「まあまあ、随分お優しい質屋さんなのね、ポルカ」

 

 "ポルカ"というのが、この店主の名前だ。ギブン・ネームなのかサーネームなのか、そもそも本名なのかさえわからないけれど。

 店主の背後に掲げられている市の質業許可証には、ベドルジッシュカ・"エリカ"・ポラッコヴァと書かれているけれど、店主自身はそれを正確に発音できたことが一度もなかったし、名前に反して彼女の言葉からはチェコスロバキアの訛りも、ポーランドの訛りも感じられなかった。

 かすかに聞こえる訛りがアジア系の移民だと教えてくれているけれど、ごく微かなので具体的な地域はわからない。そもそも私が変装するときにそうするように、訛りを偽っている可能性もある。

 

「まあな。あんたらみたいな悪党からふんだくるから、ああいうガキに優しくしてやってもお釣りがくるんだわ」

「前言撤回。あなたって、金にがめつい自己満足の偽善者ね」

 

 にんまりとチェシャ猫みたいな笑いを浮かべて、ちびたラッキー・ストライクをカット・ガラスの灰皿に突っ込んでから、ポルカはカウンターから離れた。

 

「ご注文の物は用意できてるよ。取ってくるから、ちょっと待っててくれ」

 

 ポルカはそう言って、質蔵に通じる鋼鉄製のドアの前に立った。私からは見えないようにダイヤル錠を操作し、チャブ社の銘板が誇らしげに貼られているレバータンブラー錠に鍵を挿して捻り、真鍮のハンドルに体重をかけて回すと、ドアを固定している四本のデッドボルトがドスッと頼もしい音を立てて外れた。

 私にこの金庫を開けることができるかって? 絶対無理。チャブ式検知錠なんていう怪物の相手は、うぬぼれても一流半がいいとこの私では相手にもならない。なにせ超一流の金庫破りが持てる限りの技術と、50時間を超える時間を費やしてようやく"不可能を可能にした"のだ。

 チャブ社が自社製品のキャッチ・コピーに使っている、「チャブの銘板を見れば、泥棒は逃げ出す」に誇張は一切ない。それは――その泥棒が超々々一流でもない限り――純粋な事実の摘示に過ぎない。

 

 そんな益体もないことを考えているうちに、ポルカが一封のマニラ紙封筒を携えて戻ってきた。ドアをドスンと閉め、ハンドルを回してボルトを下ろし、鍵をかけてダイヤルをリセットする。

 それからカウンターの前に戻ってくると、格子の下の隙間から封筒を私に滑らせてよこした。

 

「ほら、確認してくれ」

 

 封筒を開いて、中の書類を取り出す。リーガルサイズの用箋にはゴールドバーグ法律事務所のレターヘッドが捺され、手書きのメッセージと署名が書き込まれていた。

 

――ゴールドバーグ法律事務所

  ニューヨーク市マンハッタン区 ブロードウェイ149番地

  シンガー・ビルディング 1801号

 

  ミスター・グリーン、

  貴行との契約に基づき、本委任状持参の代理人、リンディ・オーティス・ウィルソンを、当職契約の貸金庫64号に案内されたい。

  また当職は本日、貴行の営業時間内にあっては多忙に付き、電話等での連絡を行えない。明朝、当職からの電話連絡を待たれたい。

  敬具。

 

  W・H・ゴールドバーグ 署名

  法学士(LL.B.) 法務博士(J.D.)――

 

「素晴らしいわ」

 

 私は溜息とともにそう感想を漏らした。

 シンガー・ビルの法律事務所で、私がミノックスで撮影した貸金庫契約書、法律事務所のレターヘッドとゴールドマンの自署、そして屑籠から失敬してきた手書きのメモ。それらをポルカに渡せばあら不思議、ゴールドマン直筆かつ自署入りの委任状ができあがりだ。

 

「自信作だよ。なんなら、もう五枚分くらいお値段を上乗せしてもいい所だな」

「払わないわよ」

 

 ぴしゃりと言ってから、コートの内ポケットから小銭入れを取り出して、格子の下をポルカの方に滑らせた。

 

「十五枚って話だったでしょ? これしか手持ちはないわ」

「残念」

 

 さして残念そうでもない口調で、ポルカは小銭入れを受け取った。口を開けて、中身の20ドル金貨(ダブル・イーグル)の枚数を数えてから、さっきの時計と同じ抽斗にしまい込む。

 

「毎度ご利用どうも。また何か必要だったら、是非声をかけてくれ」

「それなら是非、お願いしたいことがあるの」

「あ?」

 

 

 

 1:20 PM, Bank of Manhattan, Financial District, NYC

 

「ミスター・ヘンリー・ゴールドバーグの代理の者で、彼の貸金庫を開けたいのだけれど」

 

 見事な楢材(オーク)のカウンター・デスクと、ぴかぴかに磨き上げられた真鍮の格子の向こうの副支配人は、私が渡した委任状を注意深く調べてから、椅子から立ち上がりながら言った。

 

「あちらの守衛のところへ行ってください」

 

 マンハッタン銀行本店のホールは、入り口の左右から長いカウンターが奥へと伸びていた。ホールの真ん中あたりでカウンターは湾曲して、U字型を描いている。一番奥まったところではデスクが途切れていて、窓口と同じ真鍮の格子戸があって、その前に制服姿の守衛が立っていた。

 守衛は警察官と同じような濃紺の詰襟の制服だけれど、左胸に留められているバッジは四角い銀色だった。民間の警備員が共通して使うバッジで、警官からは"四角いバッジ(スクエア・バッジ)"と――半ば侮蔑的に――呼ばれている。もっとも警察は安月給で警備員の方が稼げるので、"スクエア・バッジ"を副業で着ける警官は少なくない。

 モザイク・タイル張りの床を歩いて、屈強な守衛の前に立つ。厳めしい表情といい、ぴしっとした立ち姿といい、間違いなく銀行専属の訓練された守衛だ。日雇いや副業の警備員である可能性は限りなく低い。

 とはいえ、弱気な姿勢を見せるわけにもいかない。こちらも背筋を伸ばして凛とした立ち居振る舞いを心がけていると、副支配人がやってきて、内側から格子戸を開けた。

 

「こちらへどうぞ」

 

 副支配人に付いてカウンター後ろの帳場を抜け、大理石の柱に挟まれた戸口からエレベーター・ホールに入った。ドアも壁も銅張りでぴかぴかのエレベーターを使って、地下へと降りる。

 ドアが開くと、間接照明だけが使われた薄暗い、金庫室の前室だった。

 副支配人は私をともなって正面のデスクに歩み寄ると、そこに着いていたピンストライプのスーツの男に声をかけた。

 

「ステファン、こちらの方がミスター・ゴールドバーグの金庫をお開けになりたいそうだ」

 

 男は台帳から顔を上げた。広い肩幅に似つかわしい、厳つい顔立ちをしている。高校大学とフットボールをやってました、って感じだ。首もかなり太く、頭とそう違わない幅を持っている。

 

「委任状は?」

「これだ」

 

 副支配人から委任状を受け取って目を通すと、ステファンと呼ばれた貸金庫係は副支配人に言った。

 

「後は引き受けます、アイザック」

「じゃあ、頼んだよ」

 

 副支配人が去ってエレベーターのドアが閉まると、貸金庫係が言った。

 

「貸金庫係のステファン・グリーンです」

「ゴールドバーグ法律事務所のリンディ・ウィルソンよ」

「今回の訪問について、事前のご予約がありませんでしたね、ミス・ウィルソン?」

「急なことでしたので」

 

 緑のシェードで覆われた卓上灯の光で、顔に彫りの深さを強調する濃い影ができているグリーンを相手に、臆さず淡々と答える。

 

「委任状にある通り、本日のミスター・ゴールドバーグは一日中裁判所から出ることができません。しかしその裁判で想定外の展開があり、こちらに預けている書類が急遽必要になったのです」

「なるほど」

 

 私から目を離さず、ほとんど瞬きもせずにグリーンは言った。

 

「では、合言葉を伺います。"子殺しの女"*4

「"愛と――裏切り"*5

 

 まったく、シラーが好きな悪徳弁護士なんてどういうこと?

 ともかくグリーンはある程度納得したらしく、警戒を少し緩めた声で続けた。

 

「では、規則に基づいてあなたの身分を記録させて頂きます。身分証はお持ちですか?」

「免許証でよければ」

 

 札入れからリンディ・ウィルソン名義の運転免許証を出して、グリーンに渡した。

 この免許証は偽造ではなく、正真正銘ニューヨーク州陸運局が発行した本物だ。どうやって手に入れたのかは、まあ、また今度お教えしましょう。

 グリーンは受け取った免許証を、前室の隅にあったマイクロフィルム撮影機に入れて、謄写を取った。それからデスクに戻ってくると、こちらに台帳を差し出しながら言った。

 

「では、こちらにサインを頂きます」

 

 卓上のペンを執り、L・ウィルソンと読めないこともないサインを殴り書きした。読もうと思えばリンカーンとも、レバーソーセージとも読めるだろう。

 グリーンはそれで満足したらしく、背後の巨大な金庫扉の方へと私をいざなった。

 

「こちらです。足元にお気を付けください」

 

 金庫室の中に入ると、前と左右にも同じような金庫扉があった。正面の扉は大金庫のものらしく閉まっていたけれど、貸金庫室に通じているらしい左右のものは開きっぱなしにされていた。

 

「こちらでお待ちください」

 

 テーブルのところに私を残して、グリーンは左の貸金庫室へと入って行った。

 複雑にして精巧な造りの金庫扉――私では到底開けられそうにない――を眺めていると、一分ほどでグリーンが戻ってきた。長い直方体の箱を携えている。

 グリーンは箱をテーブルの上に置いて鍵を開けると、「済んだらお声がけ下さい」と言って前室へと戻って行った。

 

「......さてと、ご開帳といきましょうか」

 

 蓋を開けると、そこにはバンクロニー社のレターヘッドが捺された帳簿が入っていた。まさに探していたものドンピシャだ。さらに親指サイズのマイクロフィルムもある。

 鞄から、手持ちサイズのマイクロフィルム・ビュアーを取り出してフィルムを差し込み、何が写っているのか確認した。

 

「おっと、これは思わぬ収穫ね」

 

 それはゴールドバーグが帳簿の謄写に使ったらしい、ネガフィルムだった。これを持って帰ればクロニーはほくほくだろう。

 他にも別の企業の帳簿らしいものや警察の書類、高額紙幣の札束などがあったけど、無視することにした。何が狙いだったのか、ゴールドバーグにしっかりと伝わった方がいいだろう。

 必要な物を鞄に詰め込み、金庫箱の蓋を閉めると、私は悠々と金庫室から出た。

 

 

 

 1:37 PM, Krono Tower, Financial District, NYC

 

 三分後には、私はクロノ・タワーにいた。そもそもマンハッタン銀行の本店は、ウォール街を挟んでクロノ・タワーの向かいにあるのだ。

 滞りなく70階のバンクロニー本社社長室に通されると、私は鞄の中から戦利品を出して、クロニーのデスクに並べた。

 

「全部回収できたと思うわ。ホテルの金庫に一冊、お向かいの貸金庫に一冊、そしてマイクロフィルム・コピーのネガ」

「素晴らしいな」

 

 クロニーは抽斗から一枚の小切手を出して私の方に押しやると、席を立って酒瓶をいくつも収めたキャビネットの方へと向かい、私は額面二千ドルの横線小切手を財布にしまってから、客用椅子の上でキャメルに火を着けた。

 

「それが、君が見つけた戦利品の全部なんだね?」

「ええ、もちろん」

 

 我ながら完璧な返事と態度に、内心で自分に感心してしまった。食い気味でなければ言葉が詰まったりもせず、声のトーンも全く同じ。身じろぎ一つせず、椅子の上で悠々と煙草を吹かしながらの、完璧な返しだ。

 

「ならばいい。これで頭痛の種が解決だ。あなたならやってくれると信じていたよ、アメリア」

 

 例のカナダ産ライ・ウィスキーが注がれたグラスを受け取ると、それを掲げながらクロニーに訊いた。

 

「どっちを願ったほうがいいのかしら? あなたのビジネスに幸あれ? それとも、あなたの前に立ちふさがる者に災いあれ?」

 

 クロニーもショット・グラスを片手に、にんまりと笑って私に返した。

 

「もちろん、両方だよ」

 

 

 

 9:50 PM, The Lost Heaven, Swing Street, NYC

 

「素晴らしいわ」

 

 "ロスト・ヘブン"の奥まったボックス席で、ステージ衣裳に身を包んだアイリスがそう言った。今日は彼女がステージに立つ日だったけれど、無理を言って合間に出てきてもらったのだ。

 アイリスは帳簿のページをぱらぱらめくり、その所得隠しの巧妙さをほれぼれとするような目で眺めた。

 

「私の友人もきっとよろこぶよ。ありがとう、アメリア」

「どういたしまして」

 

 私はテーブルの反対側で、先程シガレット・ガールから受け取ったラッキー・ストライクを喫いながら、帳簿に夢中なアイリスを眺めていた。

 

「ねえ、ミスター・Hは相変わらずなの?」

「え? ああ、彼は相変わらずだよ」

 

 帳簿から私に目を戻して、アイリスは続けた。

 

「部下からの突き上げも、上からの圧力もどこ吹く風って感じらしいから。彼抜きで話を進められるかどうかは、アメ、あなたの働きにかかってるんだよ」

 

 私の深い深い溜め息を、アイリスはにやにやした顔で眺めていた。

 

「これが報酬ね」

 

 アイリスが押しやってきた、紙製の買い物袋を受け取り、中の紙幣を数える。

 

「......クロニーがくれた小切手の1/4くらいね」

「仕方ないでしょ、私にだって予算があるんだもん」

 

 するりと席を立ち、アイリスは二色の瞳で私を刺しながら言い放った。

 

「いやならクロニーに恭順して、私を売ってくれてもいいよ。その場合、あなたの友人も必ず道連れにしてあげるけどね」

「わかってるわ」

 

 アイリスが立ち去り、私はショット・グラスの中身を一気に呷った。

 

「アルフォンソ、同じものをもう一杯持って来て」

「かしこまりました、マーム」

 

 ボーイが去り、私は瞑目した。去年の暮れの出来事以来、物事はどんどん複雑になっていくばっかりだった。

 

 

 

*1
フットボール選手

*2
とても治安が悪い

*3
有名な廉価懐中時計メーカー

*4
シラーの詩の題名

*5
上記作品の第六十四行



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Hoplophobia

 

 Jul. 15th, 1943, Hell's Kitchen, Midtown Manhattan, NYC

 

「ぐら!」

 

 叫ぶのとほぼ同時に、私は25口径コルト・ベストポケットの引き鉄を引き絞った。轟音、閃光、硝煙、腕から肩に伝わる反動、湿った音と、コンクリートが弾ける音。

 私は自分の銃を構えたまま、ぐらから奪い取った拳銃を片手に倒れている男に駆け寄ると、その頭部の左半分が吹き飛んでいるのを確認してから、脇腹を蹴って親友の上からどかした。

 

「ぐら! ぐら!」

 

 抱き上げて肩を小刻みに揺すると、海の浅い所のような透き通った青の瞳が、ゆっくりと私の顔に焦点を合わせた。

 

「......あ」

 

 唇を震わせて小さくそう呟くと、ぐらはついと目をそらした。視線の先には、先程彼女が取り落としたナイフがある。

 

「ごめんワトソン、あたしが足引っ張っちゃった......」

「あなたが大丈夫なら、それでいいの」

 

 大きなコートに包まれた小さな体をぎゅっと抱きしめると、ぐらの左手がおずおず動いた。私のお腹の右下、シャツと下着の下で傷痕が盛りあがっているところを、無意識のように撫でている。まるで、そこから血が出ていないことを確かめているみたいに。

 

「やっぱり、まだ銃は怖い?」

「うん......」

 

 ぐらは弱々しくそう答えた。普段寂しがる時とはまた違う、憔悴しきり、怯えて芯の無くなった声音だった。私の腕の中で小刻みに震えるぐらは、その見た目と相まって怯えきった子供そのものだ。

 全身ですっぽりとぐらを包みこんで、彼女が落ち着くのを待つ間、私は四年前のことを思い出していた。そういえば、事の始まりはちょうど今日くらいだったはずだ。

 

 

 

 Jul. 17th, 1939, Watson Detective Agency, Chelsea, NYC

 

「どうかお願いします、探偵さん。息子を捜してくれませんか」

 

 当時、開業したばかりのワトソン探偵社(エージェンシー)(従業員:1名)のオフィスは、チェルシーとオールド・テンダーロインがオーバーラップする、西27丁目のブロードウェイと六番街の間にあった。

 六階建てでエレベーターの無い雑居ビルのオフィスとしては、一番賃料の安い部屋を借りていたから、最上階の六階に位置する北西向きのその部屋は、窓を全開にしても華氏九十度近くという地獄のような暑さを呈していた。八月にはさらにひどくなるだろう。

 そんなオフィスの中で汗をかきつつも、すっかり弱り切った声で私にそう訴えたのは、市外のウェストチェスター*1に住む、とある裕福なご婦人だ。

 このクソ暑い――外気温でさえ八十度はある――日に、藤色の外出用ドレスをしっかりと着込み、襟元までボタンをかけ、日傘を携えた手にはシルクと思しき長手袋を嵌めている。私だったら、暑すぎて道のど真ん中でぶっ倒れてしまいそうな格好だ。

 

「しかしですね、ミセス・キャラウェイ」

 

 蒸し暑さからくる怠さを極力感じさせないよう努力しながら、私はご婦人相手に言葉を紡いだ。

 

「あなたのようにその......社会的地位のある方のご子息となると、警察も失踪人課を急かして可能な限り速やかに見つけようとすると思うんです。それがこうも音沙汰無しとなると、私のような私立探偵で見つけられるかどうか......」

 

 慎重な言い回しを選びつつ、私はなんとかこの依頼を回避できないかと考えていた。地雷の臭いがぷんぷんしていたからだ。

 これは懇意にしている、とある弁護士から回されてきた依頼だったけれど、彼自身は"大恩ある先生"から頼まれた、と言っていた。つまり、アップタウンの五番街かマディソン・アヴェニュー沿いに事務所を構える上流階級専門の弁護士が、ミッドタウンの南端にオフィスを構える三流弁護士に回した依頼が、チェルシーのいかがわしい界隈にある私のオフィスにやって来たわけだ。

 たらい回しの気配を感じ取れないようなら、探偵なんかやめてしまえ。いくら家賃の支払いが滞ってるからって、肉体的あるいは社会的な死が待っていそうな依頼に、自ら飛び込んでいくのは大馬鹿だ。

 

「ですからその、他の探偵をあたられた方がいいと思いますよ? 私もこの街に来て数年程度ですから、"ディペンダブル"とか、有名な探偵さんに払ったほうが有用なお金の使い方に......」

「お金など、なんの問題でもありません」

 

 私の言葉を遮って、目の前のデスクにバシンと札束が叩き付けられた。マンハッタン銀行(バンク・オブ・マンハッタン)の帯封で締められた、10ドル紙幣100枚分の束だ。

 

「報酬は五千ドルです。引き受けていただけるなら、千ドルをいまここでお支払いします」

「よろこんで引き受けさせてもらいます」

 

 嗚呼、私ってどうしてこう強欲なんだろう。

 

 

 

 10:45 AM, Mark Callaway's Apartment, Morningside Hights, NYC

 

 マーク・キャラウェイはアッパー・ウェストサイドのさらに北、彼が学籍を置くコロンビア大学のあるモーニングサイド・ハイツの新築アパートメントに居を構えていた。

 玄関ドアの横には、各戸の呼鈴を鳴らすための押しボタンがずらっと並んだ真鍮製のパネルがあり、構内通話機(インターコム)のスピーカー・マイクも一緒に嵌め込まれていた。これがあるだけでも、家賃は平均より高くなること間違いなしだ。

 

「ふーん......いい錠前ね」

 

 玄関ドアを守る本締(デッドボルト)錠の鍵穴をじっくり見て、私はそう感想を漏らした。なかなかいいピンタンブラー錠を使っている。レーク・ピックでくすぐって数秒程度で開ける、というわけにはいかなそうだ。

 

「ま、今回は鍵があるんだけど」

 

 ベージュのケープ付きコートの下から、ミセス・キャラウェイから預かった鍵を取り出して、錠を外してロビーに入った。ドアを閉めて後ろ手に錠を下ろそうとすると、ばね錠らしく自動でデッドボルトが下りるがちゃんという音が背後からした。

 

「うーん......まあこれは善し悪しね」

 

 ばね錠にした方が、住民の誰かが鍵をかけ忘れてどうこうってことはないだろうけれど、うっかり締め出されて不便な思いをする住民の方が多いんじゃないだろうか。

 同じ鍵でロビー内扉の仮締(ラッチ)錠も開けて、ネオ・ゴシック風のお洒落なデザインだけど狭苦しいエレベーターに乗り込み、4階まで上がった。各階には四室ずつアパートメントがあって、マークの部屋は通りに面した4Bだった。

 

「悪くないわ、悪くない」

 

 4Bの――それと同じ階の他のアパートメントの――ドアには、玄関ドアのそれと同じようなピンタンブラーのデッドボルト錠が二つ付いていた。どちらにもこじ開けられたような形跡はない。

 鍵を開けて室内に入る。

 ドア板がごつんと音を立てたので裏側をのぞき込むと、つっかえ式の警察錠(ポリス・ロック)が付いていた。ドアに金具で留められている鋼鉄製の棒を、床のソケットに差し込んで、ドアを固定するための物だ。

 さらにドア枠からは、結構な太さのチェーンも垂れ下がっていた。

 

「防犯チェーンと、警察錠もあるのか。ちょっとやりすぎ?」

 

 モーニングサイド・ハイツは、そんなに治安の悪い地区ではない。ハーレムに隣接し、ブロンクスもすぐそこにあることを考慮すれば、むしろ奇跡的なレベルで治安が良いとも言える。

 

「なのにチェーンと警察錠まで追加するのは、ちょっと偏執的かな」

 

 押し込み強盗になにかトラウマがあるのか、あるいは見られたくない何かがあるのか。

 

「いや......何かがあるというよりは、何かをしていた、でしょうね」

 

 防犯チェーンも警察錠も、内側から施すタイプのセキュリティだ。在室中の押し込みは防げるけれど、外出中の空き巣には効果がない。

 

「とはいえ、家捜しはしましょう。めぼしいものは全部、失踪人課の人が見つけてると思うけれど」

 

 アパートメントは居間と寝室の二部屋からなっていた。

 居間には簡素なギャレー・キッチンが造り付けられていて、私はその戸棚から漁りはじめた。物を隠す場所としてはちょっとベタすぎるから、警察ももう見ているだろう。とはいえ、順序はしっかり踏むべきだ。

 

「芽の生えたじゃが芋、これはもう処分ね......袋入りのいんげん豆、にしんの缶詰、ドライ・フルーツ」

 

 ドライ・ラックには半ダースのグラスとお皿の他、フォーク、ナイフ、スプーン、マグとティーカップが一組ずつ置かれていた。いかにも一人暮らしの男性のキッチンって感じ。いや、まあ、私のキッチンも似たような感じだから、あんまり人のこと言えないんだけど。

 缶詰や袋は未開封のものが多かったし、どっちにしても何かが隠されている風はなかった。調味料の壜の中にも、塩や胡椒以外のものは入っていない。

 畳んで積まれた布巾の間や、ペーパー・タオルの芯の中にも、秘密のメモ書きや鍵の類が隠されている様子はなかった。流しの下の戸棚も、数種類のキッチン・ナイフや洗剤、オリーブ・オイル、料理用のシェリーの壜などはあるけれど、それ以上のものはない。

 蝶番から栓抜きが紐でぶら下がっているケルビネイターの電気冷蔵庫――これもかなり高くつくだろう――の中も、物を隠すどころか大した内容物が無い状態だ。

 

「シュリッツが二本、クアーズが一本、ハイヤーズが三本*2、一本は飲みかけね......あとはバターと、チーズと......このハムはもうダメそう」

 

 表面が紫色になって、ほのかに異臭を放っている肉塊を冷蔵庫に戻して、さらに製氷室の中や制御盤の裏を調べ、扉を閉めてから機械の後ろ側も確認した。コンプレッサーのために開いている後ろ側に、なにかしら隠されていることがたまにあるのだ。今回は何もなし。

 居間の本棚には、経済学やギリシャ哲学に関する本が並んでいたけれど、テーブルの上に出しっ放しになっているのはグラビア雑誌ばかりだった。その両方を一冊一冊手に取って、一ページずつ丹念に調べる。

 

「ふーむ......マークは経済学専攻で、おそらくケインズ主義者(ケンジアン)かその信奉者で、赤毛の女が好み、と」

 

 あんまり役に立ちそうにないプレイ・ボーイ誌――おっぱい丸出しの赤毛の女が、水着姿で寝そべっている見開きページに折り目が付いていた――をテーブルの上に放って、私は捜索範囲を寝室に広げた。

 

「わあ、大きなベッド」

 

 寝室の大部分は、キング・サイズのベッドに占拠されていた。一人暮らしの男にはちょっと贅沢すぎる。

 ベッドを避けて窓際に向かい、抽斗付きの簡素なサイド・ボードを眺めた。天板の上には灰皿があり、チェスターフィールドのパックとストーク・クラブの紙マッチが、並んで乗っている。

 灰皿の中は綺麗だ。出かける前に空にしたのか、そもそもそんなに喫わないのか。居間には灰皿が無いから、後者かもしれない。

 

「おっと、おたのしみ用宝箱、はっけーん」

 

 深めの抽斗を開けると、その中には壜入りの潤滑剤、様々な形状の性具、アルミ包装のコンドームが入っていた。

 性具の形状を見る限り、マークは女性の前の穴と後ろの穴、両方に興味があったらしい。後者の玩具(おもちゃ)は自分用かもしれないけれど、どちらにせよこのベッドの大きさは、二人以上で寝ることを前提にして選んだようだ。

 抽斗の隅には手巻き煙草用の巻紙と一緒に、乾いた蕾のようなものを詰めたビニールの小袋がいくつかあって、私はそれを手に取って口をほどき、匂いを嗅いでみた。

 

「......なかなかいいわね。一袋15ドルくらいかしら」

 

 カリフォルニアや南西部なら5ドルくらいでも手に入るだろうけれど、東部で乾燥大麻(マリファナ)を手に入れようとすると三倍はかかることになる。それでもヘロインや覚醒剤よりはずっと安い。

 

「これが丈夫な防犯対策の理由かな......?」

 

 その可能性はある。性具と一緒に仕舞い込まれているから、連れ込んだ誰かさんと一緒に大麻煙草(リーファー)を喫っていて、その現行犯を押さえられたくなかったのかもしれない。

 売人関係を当たるべきかしら? いや、これも失踪人課が見つけてるだろうから、彼らがもう当たったに違いない。

 

「それにしたって、こんないいものを仕舞ってる抽斗に、鍵をかけないのかしら......」

 

 小さな違和感。玄関はあんなにがちがちに固めているのに、違法な物が入ったこの抽斗には、ちゃちな錠一つ着いてないなんて。

 しばらく抽斗を――中身に興味があるわけじゃないわよ――矯めつ眇めつ眺めていた私は、あることに気付いて、抽斗そのものをサイド・ボードから外した。中身をベッドの上にぶちまけ、底板を中と外から挟み込むように両手で押さえる。

 

「......やっぱり」

 

 両手の間には、2インチほどの隙間があった。手触りからして、底板自体に2インチもの厚さがある可能性は低そうだ。

 

「上げ底ね。深めの抽斗だったから、危うく見逃すところだったわ」

 

 警察の連中も見逃したのだろう。開け方はわからないけれど、何かでこじ開けたような痕跡もないから。

 二人組――そうに違いない――の刑事たちが抽斗の中を覗いて、最近の若者の奔放さを嘆き、あるいは揶揄ってから、頭を振って抽斗を閉める様が目の前に浮かぶようだ。その底が2インチも持ち上げられていることに気付かぬまま。

 

「うーん、これは......もう一度開けることを想定してない感じかしら?」

 

 底板は抽斗にぴったりと嵌め込まれていて、取っ手がわりになりそうな金具や、ナイフなんかを差し込むための隙間も見つからなかった。

 

「うーん......壊すしかない、か」

 

 脳筋と呼びたいならそうするがいい。

 私はキッチンに戻ると、流しの下の戸棚から一番小さい果物ナイフを持ってきた。薄い刃をなんとか、底板と側板の間に差し込もうとする。

 

「これが、入れば......てこみたいにして外せる......はず」

 

 両方の板を傷だらけにして、なんとか刃を差し込むことができた。

 

「よおし、これで......!」

 

 ナイフの把手に体重をかける。

 ばきっと大きな音がして底板が割れ、ナイフの刃が根元からぼっきりと折れた。

 

 

 

 11:55 AM, Gilbert Realty, Lower East Side, NYC

 

 ギルバート不動産(リアルティ)のオフィスは、ハウストン通りとアベニューAの角を少し南に行った、小学校の向かいのおんぼろ雑居ビルの四階に入っていた。私が探偵社を間借りしているビルといい勝負のおんぼろさだ。

 薄暗くて紙屑だらけの汚いロビーを通り過ぎ、吸殻と痰があちこちに落ちている廊下を抜けると、階段室の手前に狭苦しいエレベーターが一基設置されていた。私のビルの負け。

 リフトマンは、向かいの小学校を卒業したばかりではないかと疑うくらい幼い少年で、だぼだぼの制服をなんとかずり落ちずに着ていられる、という程度の体格だった。彼は四階にケージを停め損ね、それでパニックになったのか幾度となく発進と停止を繰り返し、ケージの中で上下にがくがく揺られまくった私はついに耐えかねて、露骨な咳払いをした。

 リフトマンは顔を真っ赤にして俯き、2インチ以上の段差を残した状態で格子戸を引き開けると、口の中でもごもごと「足許にお気を付けください(Mind the gap, please)」とも「態度に気を付けろ(Mind your atitude)」とも取れるつぶやきを発した。この地区では残念ながら、後者の可能性の方が高い。

 

 ギルバート不動産は隣り合った二つの事務室を借りていて、私は社名が箔押しされている方のドアを押し開けた。

 

「ええそうよ、家賃は27ドル。それと保証金ね」

 

 真鍮の支柱とガラス板で仕切られたデスクの中から、受付嬢が電話にしゃべりながら、私に掌を向けて待つように促してきた。経営者用の大きな両袖デスクだけれど、受付嬢の両側には恐ろしく大きな書類の山が出来上がっていて、彼女の領分は一般的なタイピスト用デスクのそれよりも狭そうだ。

 

 

「うーん......ワシントン広場(スクエア)より北だと、家賃は月60ドルからになるわね。同じ条件でよ......ええ、キッチンとバスタブで......もちろん、保証金は別よ......オーケイ、マクダグラス通りの方でいいのね? 家賃は27ドル、初月は保証金込みで54ドル。キッチンとバスタブ、温水暖房付き......じゃあ都合のいい時に、サインした契約書と初月分の小切手を持って来てちょうだい。そしたら鍵を渡すわ......オーケイ、じゃあまた」

 

 若い受付嬢は指でフック・スイッチを押して電話を切ると、幼少のみぎりは見事なブロンドだったと推察できる薄茶の髪の下から、見た目年齢を十プラスさせる疲れた緑の目をこちらに向けて訊いてきた。

 

「何の用?」

「さっき電話したワトソンです。私立探偵(PI)の」

「ああ。パパ......じゃない、ミスター・ギルバートは隣よ。そこのドアから入って」

 

 つっけんどんにそう言って名簿に目を落とすと、受付嬢はWA(ワトキンス)局の番号をダイヤルし始めた。もう私に興味は無くなったらしい。

 私はきゅっと肩をすくめると、電話で申し合わせた通り1ドル札を受付デスクに置いてから、隣接するミスター・ギルバートのオフィスへ続くドアに手をかけた。

 

 

 

*1
ニューヨークの北に隣接する郡。郡北部やハドソン川沿いには、植民地時代からの大邸宅が多くある

*2
シュリッツとクアーズはビール、ハイヤーズはルートビアの銘柄



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Hoplophobia #2

 

 Jul. 17th, 1939, Gilbert Realty, Lower East Side, NYC

 

「ああ、確かにこれはうちが出した契約書だな」

 

 マーク・キャラウェイのアパートメントの抽斗に隠されていたのは、別のアパートメントの賃貸契約書だった。ミスター・ギルバートは鼻眼鏡をかけ直し、私が渡したその書類を顔からかなり遠ざけて読んでからそう言った。

 

「うちのレターヘッドが捺してあるし、俺のサインもある......ああ、なんだっけな。今にもこう、面白い話を思い出しそうなんだがな」

 

 ギルバートはこめかみを揉み、薄く開けた目から狡猾そうな視線を私に向けた。ああもう、こいつらは親子そろって。

 ポケットのクリップから1ドル札を抜き取り、デスクの上に滑らせる。ううーん、とわざとらしい唸り声が上がり、私は溜息とともにジョージ・ワシントンをベンチに下げると、エイブラム・リンカーンをマウンドに立たせた。

 

「おお、そうだ。まさにそれで思い出したよ」

 

 ぱちりと指を鳴らして、ギルバートは続けた。

 

「契約自体はいつも通りだった。"新聞広告を見た"って電話があって、あれこれ質問して、こっちがそれに答えた。決めるのに何日か時間をかける客もいるが、キャラウェイは即決する方だったな。それで、都合のいい時に小切手を持って来るよう言ったんだ」

「今のところは、ワシントン一人分の価値もないわね」

 

 遠回しに話をせかすと、ギルバートは鼻髭を撫でながら、勿体ぶった口調で言った。

 

「そう急かしなさんな。ロレッタもそうだが、今の若いのは堪え性というのが無いな。いかんいかん」

 

 見たところ五十代後半くらいのギルバートは、八十歳のおじいちゃんみたいな口調でそう言って、デスクの裏で擦った鳥目(バーズ・アイ)マッチでオールド・ゴールドに火を着け、ゆっくりと一服した。客用椅子を蹴って出て行きたい衝動を堪えるために、私もギルバートに倣って、自分のキャメルに火を着けざるを得なかった。

 

「ふう......それでだ。てっきり電話越しに聞いた、上流階級の子息らしい声のやつが来ると思ったんだ。ほら、わかるだろ? 生まれつきどことなく人の上に立つことに慣れてる、超然とした感じの、余裕のある声さ」

「ええ、わかるわ」

 

 キャメルの煙混じりの生返事でも、ギルバートはとにかく満足したらしい。瞑目して、話を続けた。

 

「ところが、実際に来たのは気取った若者だった。そいつは名刺を出して弁護士だと名乗り、ミスター・キャラウェイの代理だと言ったんだ」

「それで? その人相手に契約を結んだの?」

「ああ。そいつが持ってきた契約書にはサインがあったし、小切手もちゃんとした預金小切手(キャッシャーズ・チェック)*1を持って来てたからな」

「よくあることなの?」

 

 答えは分かっていたけれど、そう口を挟んだ。この手の教えたがる男から話を聞きだすには、教えさせてやるのが一番だ。そうすれば勝手に、5ドル以上のことまで喋ってくれる。

 欠点は、とにかくまどろっこしくて、精神的に疲れることだけど。

 

「ああ、特に金持ち相手の場合はな。愛人を囲う妾宅とか、人目を憚る乱交パーティーの会場とか、そんなのを探してる場合だな」

「なるほどね......ちなみに、その弁護士も若者だったんでしょ? それがミスター・キャラウェイ本人だって可能性は?」

「いいや、無いね」

 

 煙草の灰を書類で弾き飛ばしながら、ギルバートは私の質問を言下に否定して続けた。

 

「ポール・ステュアート*2のスーツなんか着込んで、ポマードでてかてかの髪をしてたが、間違いなく金持ちの子息って感じじゃなかった。俺にはわかる。あんたにはわかるか?」

「うーん......気取りすぎてたから?」

「それもあるが、そうじゃない」

 

 オールド・ゴールドの濃い煙をふうっと吐いて、まだ半分ほど残っている煙草をもみ消しながら、ギルバートは続けた。どうやら重い煙草を一本まるまる喫える体力は、もうないらしい。

 

「ひけらかしてたからだ。スーツも靴も、オーバー・コートも煙草入れ(シガレット・ケース)も、とにかく高価(たか)いものならなんでも手を出したって感じの取り合わせだったからな。金を持っていて、それをひけらかして楽しんでる顔だった」

「上流階級の子息だって、高価いものならなんでも持ってるじゃない。どう違うの?」

「違うさ。連中にとって、金があるのは当たり前なんだ。俺たちがロバート・ホール*3あたりで吊るし物のスーツを買うのと同じ感覚で、連中はロード・アンド・テイラー*4とかでスーツを買うのさ。だから高価いかどうかよりも、合うかどうかで服と靴と小物を合わせる。そしてそれを身に着けていて当然だと思ってるから、自慢げな表情なんて欠片も見せない。それが上流階級の連中ってやつだ」

「なるほど......参考になるわ」

 

 そんなことだろうと思ってたけれど、ギルバートの確信が妄想なのか確かなものなのか、確認しておく必要があった。筋は通ってるし、私も同じような物の見方をするから、彼の確信は今のところ信用に値する、と言える。

 

「とにかくそれで、そいつがキャラウェイ本人じゃないって確信はあった。ただ、電話の相手が上流階級の人間だったのは間違いなかったし、上流階級でキャラウェイって言ったら、思いつく家は一つだけだろ?」

「まあね」

「それでまあ、ちょっとばかりカマをかけたわけよ。"キャラウェイって、あのキャラウェイか? ウェストチェスターに城みたいな屋敷を持ってる?"ってな。そうしたらそいつ、この部屋に他に誰かいるみたいにきょろきょろしてから、さっきのあんたみたいに5ドル札を出して言うんだ、"これは他言無用だ、他の誰にもな"、だと!」

 

 ギルバートは傑作とばかりに膝を叩いて、豪快に笑った。高価い背広をひけらかす若者が、似合わないタフ・ガイ気取りの言動をするさまを思い描いて、私もくすくすと笑いを漏らした。

 

「5ドルで黙ってろって言われたのに、私に5ドルで喋っちゃってよかったの?」

「いやあ、もう10ドルで喋っちまった後だからな」

 

 言ってから、ギルバートは露骨にしまったって顔をした。

 

「喋った? 誰に?」

「いや、その......」

 

 警察ではないな。このおっさんはバッジを見せられたら、10ドル札を出されなくてもべらべら喋るだろう。

 

「黙ってろって言われたんだ、そいつからも。おっかない黒いやつを連れてて、誰かに喋ったら殺すって」

「私があなたから聞いたって言わなきゃ、そいつにもわかりゃしないわ」

 

 そう言ってデスクの上に、さらに5ドル札を追加した。間を置いてさらにもう一枚。

 

「ああもう、わかったわかった!」

 

 デスクの上の5ドル札が四枚になると、ギルバートはそう叫んで、紙幣をかき集めて抽斗につっこんだ。金で動くタイプの人間には、結局これが一番効果的だ。前金のお蔭で余裕があるとはいえ、手痛い出費ではあるけれど。

 ギルバートは先程と打って変わって、せかせかと二本目のオールド・ゴールドに火を着けると、私の方に身を乗り出して小声で言った。

 

「どっちも名乗らなかったから、正確にどこの誰なのかは、俺にもわからん。黒いほうは一言も喋らなかったしな」

「何も言わずに、この部屋に入って来たわけじゃあないんでしょ?」

「ああ。連中は――というか、二人の内の白い方が――マーク・キャラウェイの友人だと名乗ったんだ。この部屋の事も、もう知っていた。先週の今頃だったと思うが、契約書を持ってきた弁護士のことを聞きに来たんだ。10ドル出させて、さっきの笑える話を聞かせて、名刺を見せた。ほら」

 

 抽斗から弁護士の名刺が出てきて、デスクの上をこちらに滑ってきた。それを手に取り、メモ帳に名前と住所を書き込みながら、私は質問を続けた。

 

「そいつの特徴は?」

アイルランド野郎(ミック)だった、それは間違いない。黒髪、青い目、髭は無し。背は俺と同じくらいで、目方は向こうの方が十ポンドは軽そうだった」

 

 私はその特徴もメモした。今のところ使えるあてはないけれど、何の折に役立つかわからないし。

 

「ありがとう、ミスター・ギルバート。それと、もう一つお願いしたいことがあるんだけど」

「何だ?」

「ミスター・キャラウェイに貸した部屋の合鍵とかって、持ってない?」

「いいや、残念ながら」

「そう。じゃあ、その建物の管理人に電話して、私を中に入れるように言ってくれる?」

「待ってくれ、待ってくれ!」

 

 ギルバートは煙草を振り回し、一本目よりもさらに残っているにもかかわらず灰皿に突っ込んだ。

 

「あんたに何の権利があってそんなことを頼むんだ?」

「ミスター・マーク・キャラウェイは、二週間前からずっと大学を欠席してるわ。モーニングサイド・ハイツの自宅にも帰ってなくて、キャラウェイ夫妻は大変心配してるの」

「じゃあお巡りに任せればいいだろ。私立探偵の出番か?」

「ミセス・キャラウェイは、そうお考えの様ね。"ニューヨーク市の精鋭(ニューヨーク・シティズ・ファイネスト)たち*5"は、言うほど有能(ファイン)じゃないって思ってるみたいよ」

「しかし......」

 

 ギルバートが渋る姿勢を見せたので、私は客用椅子から立ち上がると、彼のデスクの電話機から受話器を持ち上げて訊いた。

 

「市外だけど、一本電話をかけてもいいかしら?」

「市外? どこだ?」

「オールバニー*6よ。キャラウェイ上院議員に電話して、あなたが非協力的で、息子さんのことについて何か知ってるらしいけれど隠してるって言うわ」

「おい待て、待てったら!」

 

 構わず0(OPERATOR)をダイヤルすると、ギルバートは慌てて手を伸ばしてフック・スイッチを押さえた。

 

「わかった、わかったよ! 言われた通りにするから、受話器をよこせ!」

「はい、どうぞ」

 

 にっこり笑って受話器を渡すと、ギルバートがぶつぶつ言いながらMU(マーレイ・ヒル)局の番号をダイヤルして、電話の相手に頼みごとをするのを見守った。

 

 

 

 12:40 PM, Mark Callaway's Second Apartment, Murray Hill, NYC

 

「気に喰わん。俺は全く気に喰わんぞ」

 

 マークが別宅に選んだのは、マーレイ・ヒルのパーク・アヴェニュー沿いに位置する高層アパートメント・ビルの一室だった。ドーソンと名乗った初老の雇われ管理人は、不動産屋からの電話と、私からの1ドル札を受け取ると、ぶつぶつ文句を言いながら私を五階に案内した。

 

「こんなことは特例中の特例だからな。州上院議員がバックに付いてるんでなけりゃ、あんたごときにこんなこと許したりしねえんだが」

「はいはい、わかってるわ」

 

 そんなことは百も承知だ。今回みたいな特殊な事情が無かったら、私もこんな正面突破はせずに、ドアマンのいない夜間に侵入を試みていただろう。

 問題は、その時に何を見つけてしまうか、だ。跡取り息子の失踪という重大事を三流弁護士にたらい回しにするあたり、アップタウンの顧問弁護士は何かを知っている。その何かを、自分で見つけたくないのだろう。

 それを見つけてしまった時、事の次第によってはそれを警察に引き継がざるを得なくなる。その時自分が第一級不法侵入罪に問われる――あるいはそれをちらつかせて賄賂を強請られる――のは、極力避けたかった。せっかく使えるライオンの皮があるんだから、かよわい驢馬の私としては、それを被らないって選択肢はない。*7

 

「くそ、誰だ、廊下で吐くか漏らすかしやがったやつは」

 

 エレベーターが停まってドアが開くと、ドーソンは吐き捨てるようにそう言った。少し遅れて、私の鼻もそれを捉えた。饐えた排泄物のような臭いがほのかに、五階の廊下に漂っている。

 

「俺は、のべつ反吐や糞を掃除するために雇われてるんじゃねえんだぞ、くそったれの酔っ払いめ。ほら、ここだ」

 

 36丁目に面したアパートメント5Fのドアに着くと、ドーソンは鍵束を出して、五階のマスター・キーを本締(デッドボルト)錠の鍵穴に挿して捻った。

 

「全く、いいか、これは本当に特べ......」

 

 ドアを開けた瞬間すさまじい音がして、真っ黒な霧のようなものが私たちを包んだ。

 

「うわっ!」

「ぎゃっ!」

 

 それは蠅の大群だった。両手で顔を守り、目や鼻や口から入ろうとする不埒な虫を払っていると、今度は激烈な臭気が鼻を襲った。

 

「げっ!」

「ぐえっ!」

 

 その臭いはとてつもない強さで、私たちの鼻のみならず目をも刺した。咳き込み、涙を流しながら、私は姿勢を低くして、蠅の大群と強烈な臭いをやり過ごそうとした。

 

「ああ、もう! これはいったい......」

 

 目をしばたき、なんとか視界をマシにしてから、部屋の中へと目を転じた。

 それは、玄関から見える居間の真ん中にあった。茶色っぽい巨大なハムの塊のようで、しかしそうじゃないのは明白だった。

 それは人間の残骸だった。腕も脚もぱんぱんに膨らみ、胴体は大きく裂けて蛆虫の苗床と化してしまっている。それを中心に、工場廃液のような真っ黒な液体が放射状に飛び散り、部屋中を汚し、バクテリアが繁殖していることを示す悪臭の源になっていた。

 

「う、ぁ......」

 

 視界が白く染まり、私はそのまま倒れそうになった。実際、そのままだったら失神してただろう。

 

「うっ」

 

 苦しげな呻き声と膝をつく音が横から聞こえて、私の意識は一気に引き戻された。

 

「ミスター・ドーソン?」

 

 初老の管理人が、廊下の床に倒れ込んだ。屈むような姿勢で胸を押さえ、苦しげな顔には玉のような汗が浮かんでいる。

 

「ミスター・ドーソン。ミスター・ドーソン!」

 

 一瞬死骸のことを忘れて、私はドーソンに駆け寄った。首筋に手を当てて脈をとる。

 

「......脈がとれない」

 

 ショックで心臓がいかれたんだろうか。どっちにしても、このままじゃ死体がもう一つ増えてしまう。

 

「あれを使うしかないか......」

 

 私は、悪臭と蠅の巣窟と化している5Fの控室(アンテチャンバー)に足を踏み入れた。四歩歩いて、白いお洒落な――しかし黒い液体がべっとりと付いている――電話機から受話器を取り上げる。ぬるぬるする手のことは極力考えないようにして、0(OPERATOR)をダイヤルした。

 

 

 

 12:47 PM, Herald Square, Midtown Manhattan, NYC

 

「刑事、DBらしいですよ」

 

 お昼休みのビジネスマン相手に六番街で掏摸を働き、メイシーズ・ヘラルドスクエアの前でアタシに見つかりさえしなければ、今日一日で五百ドル近く稼げていたはずの少年のお尻に座ったまま、アタシは簡易書式の逮捕手続書から目を上げてその巡査を見上げた。

 コーツ巡査はついさっきまで、ヘラルド・スクエアの路肩に駐めた39年式プリムス・ロードキングの無線車から引っ張り出した受話器を耳に当てていて、どうやらそれで死体(DB)発見の通報を受けたらしい。

 

本部(セントラル)は、誰か徒歩巡査(ビート・コップ)を見つけてセントラルに電話(10-3)させるように言ってますけど、どうします?」

「アタシが行くよ」

 

 正直言って、気は進まなかった。このまま無線車に乗って分署に戻り、正式に手続きを進めたほうが、アタシにとっての実入りはいい。

 一方で、直感が行くべきだと告げてもいた。この直感は、アタシを警官の道に進ませ、今やマフィアの幹部になりおおせている元娼婦に声をかけさせ、一度はアタシを死地から救ってもいた。今のところ、この直感に逆らうべき理由はない。

 手早く書類の残りを埋めて、サインを殴り書きする。

 

「このアホのお守りをお願いね、コーツ」

 

 アタシは少年のコートに手を突っ込み、数ある魔法のポケットから財布を一つ取り出すと、中身の現金67ドルを抜いて自分のポケットにねじ込んだ。

 

「マクレリー巡査部長によろしく言っといて」

「了解しました。指令番号は137です」

 

 自分の取り分が増えて嬉しそうなコーツ巡査に後を任せて、32丁目まで二街区(ブロック)歩いて非常電話ボックス(ゲームウェル)を見つけた。警官用の鍵を使って蓋を開け、矢印型の発呼スイッチを"非常通報"から"WRQP"に切り替え、背伸びして受話器を取ってフック・スイッチをがちゃがちゃ叩いた。

 

"......はい、通信課です"

「がうる・ぐら、第14分署刑事課(14DS)、シールド875。先通報の事案、指令番号137を扱います」

"了解。DB発見、及び救急患者の通報。マーレイ・ヒルのアパートメントにて、市民が腐爛死体及び救急患者を発見。現場、パーク・アヴェニュー20番地アパートメント5F、パーク20の5Fです。現着次第救急患者の容態を確認して、救急隊出場の可否を電話(10-17)願います"

了解(10-4)。徒歩巡査は呼び出してますか」

"第14分署が、受持区(ビート)のゲームウェルを鳴動中です"

「10-4。32丁目と六番街の角から向かいます」

 

 電話を切り、矢印を"非常通報"に戻してから蓋を閉め、しっかりと鍵をかけた。

 

「ちぇっ、ついに直感が外れる日が来たかなあ」

 

 腐爛死体なんていう、はずれ事案もいいとこな事案――しかも受け持ちの徒歩巡査はサボっているのか、非常電話に出ていない――を引いてしまった自分を恨みながら、アタシは32丁目をパーク・アヴェニューの方へと歩き出した。

 

 

 

*1
自己宛の線引小切手。アメリカでは家土地や自動車の取引によく使われる

*2
アメリカの老舗紳士服ブランド

*3
郊外型の衣料品量販店

*4
五番街の老舗百貨店

*5
市警の警察官のこと

*6
州都。この年度の予算に違憲判決が出たため、州議会は予算再編成のため臨時会を開いていた

*7
"ライオンの皮を被る驢馬"は"虎の威を借る狐"に相当する言いまわし



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Hoplophobia #3

 

 Jul. 17th, 1939, Mark Callaway's Second Apartment, Murray Hill, NYC

 

「失礼ですが、居住者の方ですか?」

 

 パーク・アヴェニュー20番地は、通り沿いを丸々一街区(ブロック)分占める大きな高層アパートメント・ビルだった。

 緑の日除けに覆われた玄関から入ろうとすると、濃紺の制服に身を包んだ"四角い(スクエア)バッジ"のドアマンがアタシを呼び止めた。警察ほど服装規定が厳しくないと見えて、詰襟のカラーを緩めている。

 

「がうる・ぐら刑事、NYPD」

 

 水色のレインコート――クソ蒸し暑い日だけど、脇の下に吊った拳銃を隠すために我慢して着ていた――から円形の刑事バッジを出して、ドアマンに見せて続ける。

 

「ここから救急の通報があったの。アパートメント5Fって五階? 六階?」

「五階です」

「ありがと」

 

 小さなエレベーターは無視して、階段で五階まで上がると、廊下はむっとする臭気に満ちていた。監察医務院の、鋼鉄のドアの先にある廊下や部屋でよく嗅ぐ臭いだ。

 北に向かって角を曲がると、すぐのドアが開いていた。悪臭は間違いなく、その部屋から流れてきている。

 そしてその敷居の上に初老のおっさんが一人倒れていて、小柄な――アタシよりは背が高そうだけど――女が必死の形相で心臓マッサージを施していた。

 

「NYPD。そのおっさんはどうしたの」

「その! 死体を! 見て! 倒れた! の!」

 

 心臓マッサージの合間を縫って、女は叫ぶようにそう言った。

 ドアが開きっぱなしの5Fの中に目をやったアタシは、それを見た。

 

「げっ」

 

 流石に吐きはしないけれど、そんなひどい腐爛死体を見たのはかなり久しぶりだった。この蒸し暑い日が続いてることを考えても、一週間は優に経ってそうな感じだ。

 アタシは立ちあがると、顔から滝のように汗を滴らせて今にも倒れてしまいそうな女に声をかけた。

 

「一本電話をかけたら、すぐ代わってあげる。それまで頑張って」

「わかった!」

 

 室内に踏み込むと、控室(アンテチャンバー)に置かれていた白い電話機に歩み寄った。受話器には黒い液体がべっとりと付いていて、それに手形のような跡もある。たぶん、あの女がこの電話で通報したんだろう。

 

「なかなか度胸あるじゃん」

 

 小さく口のなかで呟いてから、受話器を持ち上げ、暗記している分署の番号をダイヤルした。

 

 

 

 1:28 PM, 20 Park Ave.

 

「くそったれ、食べたばかりの昼を戻しちまいそうだ、くそ」

「まったく、一階で倒れてくれりゃいいのに」

 

 "ベルビュー病院 救急医"と書かれた制帽を被った若い研修医(インターン)と、中年の救急車運転手がぶつぶつ言いながら、おっさんを担架に載せて運んで行った。あの狭いエレベーターには入らないだろうから、階段で降ろすことになるんだろう。

 彼らと入れ替わりに、別の二人組が狭い廊下をやってきた。先頭に立つ白衣をまとったほうは知り合いだったので、アタシはひょいっと手を上げて挨拶した。

 

「や、カリ」

「よう、ぐら」

 

 アタシよりもはるかに背の高いそいつは、ベルビュー病院の病理医の森カリオペ。ベテランの病理医である彼女は市の監察医も兼任していて、マンハッタン区の監察医たちを束ねる部長監察医(Deputy CME)でもある。

 異様なまでに透き通った白い肌と真っ赤な目――たぶんアルビノ気味なんだろう――を持っていて、現場の警官たちからは"死神"という、医者としてはあまりありがたくないあだ名を頂戴していたけれど、カリ本人は気にしていないようだった。

 

「そこの5Iか?」

「いや、向かいの5Fだよ」

 

 寄り掛かっている5Iのドアを指して、アタシは続けた。

 

「結構ひどいことになってるから、アタシは先に失礼させてもらうね」

「わかった。リッチー、吐くならエレベーター・ホールに共用トイレがあったから、そこにしろ」

「まさか、吐きませんよ」

 

 カリオペと監察医補佐のリチャードが軽口をたたき合っているのを尻目に、アタシは現場の向かいのアパートメント5Iの中に入った。

 

 

 

 

「かなりひどい顔してるけど、どう? だいぶ楽になった?」

 

 クソ暑い日だというのに水色のレインコートを着込んだちんちくりんの女刑事は、5Iの居間のソファに沈み込んでいる私を見るなりそう声をかけてきた。特に返事を期待していたわけではないらしく、すぐにこの部屋の主であるミセス・サマセットの方に向き直って続ける。

 

「部屋を貸してくれてありがとうございます、マーム。なにせ向こうの部屋は......ひどい状態なもので」

「いえいえ、構いませんのよ」

「ミスター・ドーソンはどうなったの?」

 

 私は気力を振り絞ってそう尋ねた。腐爛死体を見た精神的ダメージと、十分近くにわたって続けた心臓マッサージの疲れとで、今すぐにでも意識を手放してしまいたいところだったけれど、これを聞かずにはいられなかった。

 

「ミスター・ドーソンってのは、倒れてたおっさんのほう?」

「ええ、そう」

「救急隊がベルビューに運んで行ったよ。救急病棟の方ね」

 

 刑事がそう付け足した。ベルビュー病院には市内最大の救急病棟の他に、ニューヨーク市じゅうの変死体が集められる監察医務院が併設されている。それを念頭に、死んでいないことを強調したかったのだろう。

 

「まだ意識は戻ってないけど、とりあえず死んではいないよ」

「そう......」

 

 私がふたたびソファに沈み込むと、ちんちくりん刑事は咳払いをしてから私に言った。

 

「お疲れのところ悪いんだけど、あんたから話を聴いて、報告書を書かなきゃいけないんだ。歩けそう?」

「ええ......ええ、大丈夫」

「そりゃよかった。じゃ、下の車まで一緒に来て」

「あの、ここじゃだめですの?」

 

 優しそうなミセス・サマセットは、私を気遣ってかそう言ってくれた。いや、単に好奇心旺盛で事の成り行きを見守りたいだけかもしれないけど。

 

「二人きりで話す必要があるもので。この部屋を使わせてもらう場合には、マーム、あなたにはどこかよそで時間を潰してもらわないといけません」

「私はもう大丈夫ですから、ミセス・サマセット」

 

 思い切ってソファから立ち上がって、私はそう言った。

 

「お茶をごちそうさまでした。お蔭で気分がだいぶましになりました」

「そう? ならよかった」

 

 刑事に続いて廊下に出ると、キャラウェイのアパートメントのドアは閉まっていた。中に人がいるらしく、なにやら話し声が聞こえてくる。

 むっとする死臭が漂う廊下を歩き、階段で一階まで下りると、玄関の前に二台のパトカーが駐まっていた。周辺にはニューヨークの物見高い市民たちが集まって、野次馬の垣根を形成している。制服巡査とドアマンが二人がかりで、彼らがビルの中まで入って来ないよう奮闘していた。

 刑事は、緑のボディに白文字で"NYPD 14th PRECINCT"と書かれた方のパトカーのドアを開けると、助手席に乗るように手で促してきた。素直に乗り込むとドアが閉められ、刑事は車外をぐるっと回って運転席の方に乗り込んできた。

 

「ちょっとごめんよ」

 

 ちんちくりん刑事は私の前に身を乗り出すと、短い腕を精一杯伸ばし、グローブボックスから書類挟みを取り出した。ぱらぱらめくって、レターサイズの用箋を抜き出し、コートの下から万年筆を出してキャップを外しながら訊いてきた。

 

「まず、名前は?」

「ワトソン。アメリア・ワトソン。あなたは?」

「あれ、名乗ってなかったっけ?」

「ええ」

 

 刑事はごそごそとコートの下を探って、黒い革の財布のようなものを取り出した。ぱかっと開くと、中には金色の円形バッジが留めてあった。

 

「がうる・ぐら、第14分署刑事課。これでいい?」

「ありがとう、がうるさん(ミス・がうる)

がうる刑事(ディテクティブ・がうる)、ね」

 

 呼称に関する訂正が入ってから、質問が続いた。

 

「んじゃ、ミス・ワトソン。あんたはなんであの部屋にいたの?」

「仕事よ」

「仕事ね。何の?」

「私立探偵」

「へーえ?」

 

 ちんちくりん刑事改めがうる・ぐら刑事は、腹の立つにやにや笑いを浮かべながら私の方を見た。その表情はなんというか......クソガキ、としか形容のしようがなかった。

 

「ちょっと、私はあなたのバッジを見ても、"へーえ?"とは言わなかったわよ」

「そりゃあ失礼」

 

 全然失礼とは思ってない口調だ。すごく腹が立つ。

 コートの内ポケットから札入れを取り出し、私立探偵の営業免許を抜き取って刑事に放ると、彼女はそれを興味深そうに眺めてから言った。

 

「ふうん......で? 私立探偵さんが、何の用であのアパートメントに行ったの?」

 

 そこに至るまでの経緯を、私は包み隠さず全部話した。お金の誘惑に逆らえずにきな臭い依頼を受けたこと、登録住所のアパートメントで隠された契約書を見つけたこと、不動産屋を買収して話を聞き出したこと、ライオンの皮ならぬ上院議員の皮を使って管理人を脅したこと。抽斗の中の乾燥大麻(マリファナ)のことも、気取り屋の弁護士のことも、そいつのことを不動産屋から聞き出したアイルランド野郎(ミック)のことも、洗いざらい全部。

 

 クソガキ刑事はチェスターフィールドに火を着けて、それを銜えたまま私の話をメモ帳に書き込みながら、黙って聴いていた。車内はあっというまに、バージニア莨の甘い匂いで満たされた。

 私が概ね話し終えると、刑事は長くなった煙草の灰を灰皿に落として、自分が書いたメモをぱらぱらと見返しながら訊いてきた。

 

「あんたが捜してるマーク・キャラウェイってのは、どんな人相をしてるの?」

「私が知っている限りでは、白人、黒髪、灰色の目。身長5フィート半、体重110ポンドくらい。写真があるわ」

 

 ミセス・キャラウェイから受け取った写真は、復活祭(イースター)あたりで撮ったらしい家族写真を引き伸ばしたものだった。刑事はそれを受け取ると、しげしげと眺めながら訊いてきた。

 

「さっきの腐爛死体だけど。あれの人相は見た?」

「......見てない」

 

 正確には、見ることができなかった、だ。人間の残骸、としか形容のできないものに視線を向けることが、私にはどうしてもできなかった。電話をかけるときも、心臓マッサージを代わってもらった後も、可能な限り目をそらし続けていた。人としてはさておき、人捜しの依頼を受けた私立探偵としては、落第点な行動だったかもしれない。

 私の暗澹たる内心を知ってか知らずか、刑事は特に気にするそぶりも見せずに言った。

 

「アタシが見た限りでは、黒い髪なのは間違いなかった。肌の変色が激しいから監察医の判断待ちだけど、たぶん白人。目の色は、目ん玉がどっか行っちゃってたからわかんなかったけど、身長はたぶん5フィート半くらいだね」

「じゃあやっぱりマークの死体......」

「さあね」

 

 煙草を灰皿につっこんで、刑事は続けた。

 

「顔はもう、人相が判別できないくらいぐちゃぐちゃだったし、監察医が何て言うか次第かな。だからあんたも、ウェストチェスターのご夫人に変なこと言わないでよ?」

「わかったわ」

 

 とはいえ、お金を貰っている以上、報告に向かわないわけにはいかない。少なくとも、彼女の息子が賃借している部屋で死体が見つかった、くらいの報告は上げておかなければ。

 

「ねえ、あなたはいつ頃ウェストチェスターに行くつもり?」

 

 そう訊くと、刑事はじとっとした目つきで私を睨みながら答えた。

 

「それを聞いてどうすんの?」

「私が報告に向かうのは、あなたが訪ねて行った後の方がいいかなって思って」

「そんなこと言って、アタシより先に報告に馳せ参じようとしてるんでしょ」

 

 ぎくっ。

 

「......バレた?」

「バレバレだよ」

 

 盛大な溜め息を吐いた後、ちんちくりん刑事は口から出そうとした言葉をふとひっこめて、何か考え込むような顔つきになった。

 

「いや......その方がいいか」

「何が"その方がいい"の?」

「いやね......アタシ、この後ウェストチェスターまで行くつもりなんだけど、あんたについて来てもらったほうがいいかなって」

「ええ!?」

 

 狭い車内にもかかわらず、驚きのあまり私は大声を出して刑事の顔を顰めさせた。

 

「うるさい」

「ご、ごめんなさい......あの、差し支えなければ理由を聞いてもいいかしら?」

「左手の臭いは落ちた? 探偵さん」

「......いいえ」

 

 警察に通報するとき、私は腐った体液がべっとりと付着していた電話機を使った。その結果、受話器を握った左手にはその臭いが沁みついてしまったんだ。

 ミセス・サマセットのご厚意で石鹸を使わせてもらったけれど、念入りに洗ったにもかかわらず、その臭いはほのかに、手に残り続けている。

 

「アタシも同じような経験をしたからこう言えるけど、一週間は落ちないよ、それ」

「一週間も......」

「そ。あんたはその臭いを感じた時とか、手を洗う時とか、ことあるごとにマーク・キャラウェイとあの死体のことを考えるようになる。んで、それでも割り切って、何もしないでいられるほど冷たい人間じゃないと思うんだよ、あんたは」

「つまり、勝手に動き回られる前に首輪を付けちゃえってことかしら?」

「その通り」

 

 ちんちくりん刑事は、牙のようにギザギザな歯を剥きだしにして、にんまりと笑った。

 

 

 

 

 

「んじゃ、そこで待ってて。アタシは監察医とちょっと話してくるから」

 

 私立探偵にロビーで待つように言って、アタシは普段なら絶対に使わないエレベーターに乗り込んだ。ベニヤの外扉と鉄の格子戸を閉めると、5と書かれたボタンを押す。ケージが大きく揺れてからゆっくりと昇りだすと、アタシはケージの壁に自分の頭をがつんと打ち付けた。

 

「何やってんだ、あたし......こんなの公私混同もいいとこじゃん」

 

 一目惚れだった。自分がこんなにも面食いだとは、思ってもいなかった。

 ドーソン――ミセス・サマセットによると、この建物の管理人らしい――に心臓マッサージを施しているときの必死な顔とか、それを代わった後の放心した表情とか、ミセス・サマセットと話しているときに見せていた柔和な表情とか。言葉遣いから垣間見える純朴そうなところとか、言葉の端々に残る中西部あたりの訛りとか。

 およそ"ニューヨークの私立探偵"というイメージからかけ離れたところにいる彼女を、とにかく愛おしいと思っている自分がいて、あたし自身がそれに一番驚いていた。自分が恋に落ちる相手がいるとして、それはたぶん生粋のニューヨーカーみたいなやつだろうと、漠然と思ってたから。

 

 そして自分でも一番驚いたのは、あたし自ら帯同を求めてしまったことだ。理由は単純、彼女ともっと一緒にいたかったから。ただそれだけ。

 もちろんだけど普通の刑事は、私立探偵なんて部外者を帯同させたりしない。シャーロック・ホームズが活躍していた時代のロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)と、現代のニューヨーク市警察局(センター・ストリート)では事情が違いすぎる。理由を訊かれてテキトーなこと言っちゃったけど、不審に思われなかっただろうか。

 

 衝撃と後悔とがないまぜになった気分で身をよじっていると、ケージが再びがくんと揺れて、五階に着いた。

 

「言っちゃった以上、もうどうしようもないか......とにかく、カリに話を聴こう」

 

 格子戸を開け、外扉を押し開けてエレベーターから降りると、カリオペとリッチーが煙草を喫っているところに出くわした。エレベーター・ホールには砂を満たした脚付きの灰皿が置いてあり、二人はそこでラッキー・ストライクを黙々と灰にしていた。

 

「カリ、ちょっといい?」

「ああ、いいぞ」

 

 灰皿の輪に加わって、チェスターフィールドをパックから出して銜えると、リッチーが火を点けたロンソンを差し出してくれた。ありがたくその火を使わせてもらう。

 

「ありがと、リッチー......で、DBはどんな感じだった?」

「腐ってるな」

 

 カリオペは至極端的にそう言うと、灰皿に灰を叩き落として続けた。

 

「お前があの部屋で見て取った以上のことは、今は私たちにもわからん。ああいや、目は灰色だった。ソファの下に転がってたよ。でもそれ以上のことは、剖検を待ってくれ」

「剖検はいつ終わる? 明日?」

「勘弁してくれ。この地獄のような街が"死神"に、一日に何体の死体を送ってよこすと思う?」

 

 短くなってきたラッキー・ストライクを振り回しながら、カリはうんざりした声で言った。

 

「今朝の時点で四体が解剖未了で、今日中にもっと増えるだろうし、内の一体は"無縁墓地(ポッテリーズ・フィールド)*1"から引き揚げられてぶよぶよで、すぐにでも腑分けしないと解剖室がひどい有様になるのが目に見えてる。マンハッタン病院から来た新入り共は、自動車解体工に解剖させた方がまだマシに見える手付きだし、スタンスキのクソ野郎は、相変わらずヤンキースのホーム戦のボックス席を御所望だしな」

「んじゃこれで」

 

 アタシはコートのポケットから5ドル札を引っ張り出すと、カリオペに押し付けた。

 

「くそったれ検査部長にチケットを買ってあげなよ。んで、これは」

 

 カリオペの渋面を見て、もう一枚引っ張り出す。

 

「あんたとかわいいコックさんの、デート代の足しにして」

 

 紙幣が白衣のポケットに消えると、カリオペはちびた煙草を灰皿に入れて、監察医補佐に合図しながらアタシに言った。

 

「明日の昼過ぎに電話する。リッチー、そろそろお客さんをお送りするぞ」

「へいへい」

 

 階段を下りる途中、二人の会話が小さく聞こえてきた。

 

「お前は何も聞かなかった。そうだろ、リッチー?」

「何の話ですか? 俺たちは黙って煙草を吹かしてただけですよ」

 

 2ドルくらい渡したんだろうな、と思いながら階段を下っていく間、アタシは自分の心臓が早鐘を打つように高鳴りだすのを、いやでも意識せざるをえなかった。

 

 

 

*1
ブルックリンのワラバウト湾のこと。イースト川の流れの関係上、死体を含む漂流物がよく流れ着いている



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Hoplophobia #4

 Jul. 17th, 1939, Westchester County, New York.

 

 一時間ほど前、チェルシーのハドソン川沿いにあるタクシー・ガレージから、小生意気な刑事は十年落ちのフォードB型を借りて来た。

 今、私はおんぼろフォードのハンドルを握って、古めかしいV8エンジンをパタパタ言わせながら、昼下がりのハドソン川に沿ってニューヨーク市から北へと伸びる連邦国道9号線を走っていた。

 この車は最近の車よりも速度が出ないので、時々路肩に寄って、ぴかぴかのクライスラーやビュイックを先に行かせてやる必要があった。この調子じゃ、往復に四時間以上はかかりそうだ。

 

「ね、あんたってこの街の出身じゃないでしょ?」

 

 一時間以上の沈黙を挟んでから、助手席のちんちくりん刑事は唐突にそう言った。

 

「カンザスとかネブラスカとか、そのあたりの出身じゃない?」

「ネブラスカよ」

 

 答えてから、ちらりと横目で刑事の様子を窺う。この質問の真意はなんだろう?

 

「ネブラスカか......なんでニューヨークに出てこようと思ったの?」

「なんでと言われてもね......田舎が嫌だったから。それだけよ」

 

 そう答えつつ、私は相手の出自に思いを巡らしていた。

 彼女のニューヨーク訛りは、いかにも地元っ子らしいけれど、生まれ育ちではなさそうだ。たぶんニュー・イングランドのどこか、ボストンとかコンコードとか、そのあたりの出だろう。

 それを踏まえて、理由を補足する。

 

「田舎って言葉じゃ生温いわね......一面のトウモロコシ畑って、想像できる?」

「トウモロコシ畑?」

「そう。東西南北、どの方角を向いても、見えるのは地平線まで埋め尽くすトウモロコシ。平原地帯で山なんてないから、トウモロコシの上には空しかないの」

 

 瞼を閉じれば――運転中だからそんなことしないけれど――簡単に思い浮かべることができる故郷の景色。懐かしくはあるけれど、帰りたいとは微塵も思わない、アメリカの辺境。

 

「あそこにはトウモロコシしかないの。車で二、三時間移動したら、今度は地平線まで続く麦畑。牛と豚の群れ。ビルと言えば四階建てがせいぜいで、車と言えば五年落ち、十年落ちのフォードT型と、シボレーのトラクターくらい。クラブなんて洒落たものはなくて、ボロいバーに集まるのは純朴を通り越して愚鈍な農夫たちと、野蛮がジーンズを穿いて歩いてるような牛飼い(カウボーイ)たち」

 

 借り物のフォードが走るのは、彼の地とはかけ離れて起伏に富み、緑豊かなハドソン川沿いの渓谷だけれど、田舎の記憶を思い起こすのは忌々しいほど簡単だった。

 

「教養よりも家畜や作物の育て方を学んで、それ以外の事は知らないような男と結婚して、トウモロコシの皮を剥いたりニワトリの世話をしたりして、それに一生を費やすのは嫌だったの。田舎でも映画館はあったし、ジャーナル・アメリカンとかも届くのよ?」

 

 映画や、グラビア印刷の雑誌に描かれる、輝ける大都会。ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルス。そこに住む人々。

 

「頭蓋骨の中がからっぽの男に頼らなくたって、女が自立できる仕事が、都会にはあったの。タイピストとか速記者とか、秘書とかね。私は興味なかったけれど、ブロードウェイやハリウッドで大成すれば、スター女優として上流階級の仲間入りだってできるわ。そのどれ一つあの町には無かった。だから全部捨てることにしたの」

「ふうん......」

 

 ちんちくりん刑事は"ロスト・ヘブン"の紙マッチを擦り、チェスターフィールドに火を着けた。傍目には、カッコ付けようとしている不良少女、といった感じの見てくれだ。

 

「でも、都会への憧れは田舎の女の子なら、誰でも一度は持つもんでしょ? 大体は踏みだす前に諦めちゃうけど、あんたは諦めなかったわけだよね。そのきっかけは何だったの?」

「さあね」

 

 私は大げさに肩をすくめて見せた。

 

「負けん気が強かったというべきか、思い込みが強かったというべきか......とにかく、諦めきれなかったの。だから、なるべくしてなったわけ。きっかけなんてのはたぶん、些細なものだったと思う。よく覚えてないし」

 

 サメ刑事は吊り気味の目を、探るようにこちらに向けてきたけれど、これ以上話すつもりはなかった。

 

「......あなたはどうなの? あなたもあの街の出身じゃないみたいだけど」

「アタシ? アタシは......」

「あ、待って。ストップ」

 

 自分から水を向けておいてなんだけれど、私は刑事の話を遮った。ハンドルを切り、道端のガソリン・スタンドに乗り入れる。

 

「ちょっと道を訊いてくるから。ついでに何か、買って来てほしいものとかある?」

 

 まさにフォードから降りようとしていた刑事は、自分が銜えているものに目を留めて、その手を止めた。

 

「煙草があと一本しかないから、チェスターフィールドがあったらワンパックお願い」

「わかった」

「よろしくね......アメ」

 

 車の外から、私は車内を見返した。

 

「......いいけれど。あなたがそう呼ぶなら、私もあなたのことをぐらって呼ぶわよ。刑事さんじゃなくて」

「いいよ、それで」

 

 ドアを閉めて店舗の方に向かいながら、私はずっと首をかしげていた。一体いまのは、どういうことなんだろう?

 

 

 

 4:10 PM, Callaway Residence, Westchester, New York.

 

 マーク・キャラウェイの実家は、ウェストチェスター郡中部の小高い山の中腹に立つ、クロトン湾を見下ろす石造りの大邸宅だった。

 屋敷自体はオランダ領ニュー・ネーデルラント時代に建てられたものらしいけれど、キャラウェイ一族が建てたわけではない。彼らはイギリス領ニュー・ヨークになってからここにやって来て、オランダ本国に戻る元の持ち主から、この英蘭(アングロ=ダッチ)バロック様式の邸宅を買い取ったらしい。

 どちらにしても、この屋敷もキャラウェイ一族も、アメリカ合衆国より長い歴史を持っていることは変わらないけれど。

 

「......というわけで、息子さんが賃借されたアパートメントに向かったのですが、そこで男性の死体を発見したわけです」

 

 その屋敷の応接室(パーラー)で、私はキャラウェイ夫人に事のいきさつを説明し終えた。

 

「なんてこと......」

「まだ息子さんだと決まったわけじゃないので」

 

 ちんちくりん刑事改めぐらが小さく咳払いをして、そう口を挟んだ。

 

「確認を取るために、色々とお伺いしたいんですけど、いいですか」

「ええ......ええ、もちろんです」

 

 夫人は割合早く最初のショックから立ち直った。死体の身許が確定していないという事実が、なんとか彼女の気丈さを支えているようだ。

 

「死体の損壊が進んでいても、骨とか歯とかはほとんどそのまま残るんです。ミスター・キャラウェイに骨折とか虫歯とか、そういったものの治療歴があるなら、治療を担当したお医者さんと併せて教えて頂きたいんですけど......」

「虫歯でしたら......マーティン先生に診ていただいておりました」

 

 上院議員夫人の回答は、妙に歯切れが悪かった。ぐらもそれを感じ取ったらしく、ジョージ・マーティンとかいう歯科医の住所を書き留めてから、探るような視線を向けて言った。

 

「他に何か、ありませんか?」

「......ございません」

「ミセス・キャラウェイ、骨が折れたりとかひびが入ったりとか、そういう怪我を治療した痕は、骨に残るんです。一生ね。今回のように人相とか指紋とか、そういうのを判別できない死体の身許を調べる時には、骨とか歯の治療痕をとっかかりにするんです」

 

 キャラウェイ夫人が呑み込むための間を置いてから、淡々とぐらは続けた。

 

「あなたがご存知でない怪我の治療痕とかがあったとしたら、私たちはそれが何時できたものなのか、特定できるまで調べます。身許確認にも事件捜査にも、重要なことですからね。ですので、」

 

 短く息継ぎを挟んで、

 

「ご存知のことは全て教えていただきたいんです、マーム。それがミスター・キャラウェイを......発見する大きな助けになるかもしれません」

 

 応接室に恐ろしい沈黙が降りた。

 キャラウェイ夫人は鋭い視線でぐらを睨みつけ、一方ぐらの方は、その子供みたいな容貌からは想像できないほど穏やかな目つきで上院議員夫人を見返していた。

 私はというと......その二人をテニスの審判よろしく交互に見ていた。口を挟めるような空気では全然なかったし。

 

「......このことは、一切公表してほしくありません」

 

 耐えがたいほど長かった沈黙は、結局キャラウェイ夫人が自ら破った。

 

「我が一族だけでなく、他の家の名誉にも関することなのです」

「事件に関係のない事でしたら、もちろんです、マーム」

「あなたもです、探偵さん」

 

 鋭い視線が私の方にも刺さった。

 

「ここであなたが耳にする事は、先に交わした契約における秘密保持条項によって、当然に保護されると考えます。よろしいですね?」

「結構です、ミセス・キャラウェイ」

 

 決意を固めようとするように、一つ大きく深呼吸してから、キャラウェイ夫人は口を開いた。

 

 

 

 6:50 PM, Inwood, Manhattan, NYC

 

「なんとまあ」

 

 タクシー会社のフォードがハーレム川を渡ってインウッドに入ったところで、しばらく運転に集中していたぐらがぽつりとそう言った。

 

乾燥大麻(マリファナ)のことをあんたから聞いたときから、ずいぶんやんちゃなヤツだなって思ってたけど、思った以上に......活発なんだね、ミスター・マーク・キャラウェイは」

「活発どころか、スキャンダラスもいいとこね」

 

 そう、疑いようもなくスキャンダラスだ。

 マーク・キャラウェイはストーム・キング高校(スクール)*1に在学中、後輩の男子生徒を手籠めにしようとしたのだという。しかしフランス式護身術を身に着けていた後輩から返り討ちに遭い、左腕の骨を折ったのだとか。

 学校にほど近い陸軍士官学校(ウェストポイント)に勤めている軍医が、キャラウェイ上院議員の口利きで秘密裏に治療を施したらしい。ミセス・キャラウェイから書付を預かり、事情を説明したところ、軍医はしぶしぶながら、ニューヨーク市監察医務院に電話して治療痕の詳細を伝えてくれることに同意した。

 

「しかし、男色かあ......」

 

 ブロードウェイと181丁目の交差点でフォードが停まると、私はそう呟いた。

 

「賭けてもいいけれど、依頼をたらい回しにした弁護士事務所はたぶん、このことを知ってるわね」

「だろうね。たぶん、ストーム・キングでの事件の揉み消しにも噛んでるだろうし」

 

 弁護士事務所――少なくともその担当者――はマークが全然懲りずに、別宅をこっそり借りてまで男色に耽っていることを把握して、それどころか手助けしていたんだろう。

 

「でも上院議員夫妻は、絶対にそれを許容しないだろうからね。知らんぷりをして、しょぼい探偵に依頼を回したわけだ」

「しょぼいとはなによ」

 

 夕暮れの街を南へと進むフォードの中で、私は不服を申し立てた。

 

「言っとくけど、あなたのところの失踪人課の人たちよりはマシだと思うわ」

「それはそう。上げ底も見つけられないんじゃね......」

 

 ぐらは、本気でバカにするような口調でそう言ったので、自分で比較しといてなんだけど、失踪人課の人たちがちょっとかわいそうに思えてしまった。

 

「で、あなたはこの後どうするの、刑事さん?」

「剖検の結果は明日の昼まで出ないからね。今日は帰って、明日の朝に弁護士先生に話を聴きに行くよ。例の二人組が接触してる可能性も高いし」

 

 不動産屋から気取り屋弁護士の話を聞き出した二人組の事だ。

 ギルバートによると、彼らはキャラウェイの"友人(フレンド)"と名乗ったらしい。友人は友人でも、ボーイ・フレンドの可能性は高く、そしてこの事件に何らかの形でかかわっている可能性も高い。

 とはいえ......その辺は私の依頼に含まれてはいない。

 

「そう。頑張ってね」

「何言ってるの、あんたも来るんだよ、アメ」

「ええー?」

 

 私は思いっきり顔をしかめて、ぐらの方を見やった。

 

「あのね、私が受けた依頼はミスター・キャラウェイを見つけることなの。あのぐずぐずの死体がマークなのかはまだわからないんだから、他の線を追っちゃダメなの?」

「他の線があるの?」

 

 そんなものはない。ゆえに、私は黙り込んだ。

 

「あんたの家まで迎えに行くからね、アメ」

「わかったわかった、好きにして......」

 

 自宅と事務所の住所はどちらも、私立探偵の営業免許を見せた時に割れている。

 

「じゃ、今日はこのまま送ってくよ。ビレッジだったよね?」

「......いえ、イースト・ビレッジの方にお願い。アルファベット・シティで」

 

 

 

 7:15 PM, East Village Loan and Pawn Shop, Alphabet City, NYC

 

「男色家のアイルランド系(アイリッシュ)と黒人?」

 

 曇った真鍮の格子の向こうから、ポルカは眉根を寄せながら訊き返してきた。

 ちょうど閉店するところだったので、カウンター・デスクの向こう側には、手回し式卓上計算機や質札の束や、分厚い帳簿が散らかっている。古めかしいレミントン・ランドのタイプライターは、脇の方に押しやられていた。

 

「名前が知りたいの」

「名前ねえ......そんな連中、ばっちい界隈に行けばごまんといるぞ。バード地区(サーキット)とか、八番街とか。おっと、あんたはあの辺りに住んでたんだったな」

 

 悪い悪い、と全然悪いと思ってなさそうな顔と声で、ポルカは謝った。その仕草が妙にぐらを彷彿とさせて、私は一瞬戸惑う羽目になってしまった。なんで私、あんなやつのことを意識してるんだろう?

 なんとか生意気な刑事の顔を頭から締め出して、意識を目の前の質屋に戻す。

 

「彼らはひょっとすると、上流階級の人と"関わり"があるかもしれないの。それならどう?」

「上流階級ねえ。具体的には?」

「......この州の、さる名家の長男、とだけ」

 

 ポルカは何も言わず、格子の向こうから私の方をじっと見つめていた。紫玻璃色(アメジスト)の瞳には、何の感情も浮かんでいない。

 でも、私だってバカじゃない。それが人を不安にさせ、いたたまれなくして自らもっと喋るように仕向ける技巧(テクニック)だってことは知っている。私も時折使うし、刑事たちも使う。

 結局ポルカは、私が口を開かないとみるや早々に諦めて、自分の椅子から立ち上がった。

 

「そこで待ってな」

 

 そう言い残して、質蔵に続く金庫扉とは別のドアを開け、奥の事務室へと消えた。

 

 

 

 Jul. 18th, 1939, Thomson Susdorf and Schyster, Upper East Side, NYC

 

「がうる・ぐら刑事、NYPD」

 

 トムソン・サスドーフ・アンド・シャイスター法律事務所は、カーネギー・ヒルの少し南のマディソン・アヴェニュー沿いに建つ、新古典主義(ネオ・クラシカル)様式の五階建てビルを丸々一つ所有していた。その一階にある受付デスクに向かうと、ぐらは受付嬢にバッジを呈示して言った。

 

「こちらにお勤めのミスター・メルビンのことで......」

「ええ、伺っております」

 

 眉間にしわを寄せて、ぐらがこちらを見た。困惑しているような表情だ。受付嬢はそんなぐらを意に介さないようで、淡々と続ける。

 

「そちらのエレベーターで四階へどうぞ。シャイスター先生の秘書が応対いたします」

「ど、どうも」

 

 黒い小洒落た制服姿のリフトマンが運転するエレベーターで四階へと上がると、シャネル・スタイルのレディース・スーツに身を包んだ女性が、私たちを待っていた。

 

「警察の方ですね?」

「そうです」

「シャイスター先生にお伝えしてまいります。こちらでお待ちください」

 

 ソファや肘掛椅子がいくつか置かれている、待合室らしい部屋に通されると、秘書はそう言い残してさっさと出て行ってしまった。

 部屋には他に誰もいなかったので、私はぐらに、さっきの困惑顔の理由について訊いてみることにした。

 

「ねえ、ぐら、さっき困ったような顔してたでしょ」

「へ? ああ......アタシ、事前にアポとったりはしてないはずなんだけど」

「受付の人は、"伺っております"って言ってたわね」

 

 明らかに、警察から事前に連絡があったって感じの応対だった。

 

「事前に連絡があったとしたら、それは......」

 

 待合室のドアが勢いよく開いて、ぐらが言葉を切った。

 

「くそったれ、こりゃ一体どういうことなんだ」

 

 部屋に入ってきたのは、グレーのくたびれ切った背広に身を包んだイタリア訛りの大男だった。見たところ五十代の後半くらいで、緑がかった安葉巻を銜えている。

 ぐらがぱっと肘掛椅子から立ち上がって、そのおっさんの方に歩み寄って言った。

 

「カッソ刑事」

「あ? お前、第7分署風紀課のサメガキか。こんなところで何してやがる」

「もう金バッジだよ。第14分署刑事課。ここに勤めてるトム・メルビンに、話を聞きに来たんだけど」

「ああ。それならお前さん、ベルビューに行くべきだな。もっとも、行ったところで何も喋っちゃくれんだろうが」

 

 鳥目(バーズ・アイ)マッチを親指の爪で擦って葉巻に火を着け、脂っぽいチェリー・タバコの煙をふうっと吐いてから、カッソ刑事は続けた。

 

「そいつなら昨日、水死体で見つかったよ」

 

 

 

*1
ニューヨーク州中部にある全寮制の名門私立高校



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Hoplophobia #5

 Jul. 18th, 1939, Bellevue Hospital, Kips Bay, NYC

 

 ベルビュー病院は17世紀末に開設された、アメリカ最古の公立病院だ。この街の病院地区であるキップス・ベイで、東西をイーストリバー・ドライブと一番街に、南北を27丁目と28丁目に囲まれた一街区(ブロック)を丸々占拠している。

 

「カリ! ちょっと訊きたいことがあるんだけど!」

 

 アタシは、そんな歴史ある病院の管理棟二階にある、部長監察医室のドアを蹴り開けた。デスクに着いていたドクター森は、書類仕事の手を止めずに迷惑そうな声で言った。

 

「なんだ? マーレイ・ヒルの身元不明死体(ジョン・ドゥ)なら、スタンスキの報告書待ちだぞ」

「それも聴きたいところだけど、他の死体(DB)の事」

「他のDB?」

 

 石膏像のように端正な眉根を寄せて、カリオペはアタシの方を見上げた。

 

「昨日言ってたぶよぶよの水死体ってやつ。あれはトム・メルビンのことだったんだね?」

「ああ。誰から聞いた?」

「カッソ刑事。あいつが担当してるってことは、他殺だったんでしょ?」

 

 あのふとっちょは殺人課の刑事だ。ということは、剖検の結果他殺か、その疑いが強いと判断されたってことになる。

 

「ああ、そうだ。相応にぶよぶよで、相応に魚の餌になってたが、肋骨と腹膜に.25ACPが残っていたからな」

「じゃ、射殺?」

「そう見ていいだろう。どうした? お前は殺人課じゃないよな?」

「メルビンが、アタシの事件の参考人(POI)だったの」

「それは残念だったな」

 

 デスクの上の書類の山を漁って、カリオペは数ページ分の用箋を取り出した。

 

「えー......死体の損壊が激しいから、死因(COD)死亡時刻(TOD)について確かなことは言えない。だが第四肋骨の胸側を砕き、第六肋骨の背中側にめり込んでいた.25ACPが、左心室を吹き飛ばしたのがCODと見ていいだろう。TODについては、川の水温と体内の腐敗ガスの溜まり具合から、一週間程前だと思う」

「一週間か......」

 

 アメリアは確か、例の二人組が不動産屋に現れたのがちょうど一週間前だと言っていた。その当日か、一、二日後に犯行に及んだ可能性が高いかな。

 

「ジョン・ドゥの方はどう? いまカリが言える範囲でいいから」

 

 カリは執務椅子に深々ともたれかかって、うう、ともぐう、とも聞こえる唸り声を漏らしてから、口を開いた。

 

「公式な報告書にするのはスタンスキ待ちだが、さしあたりお前が捜査を進める上では、あのDBはマーク・キャラウェイだと考えて差し支えないと思うぞ」

「そっか」

 

 公式な解剖検査報告書が出次第、キャラウェイ夫人に電話をかけたほうが良さそうだ。当直警部補に任せてしまう手もあるけれど、すでにお互い顔を合わせている以上、アタシから連絡した方がいいだろう。

 

「TODは、これも正確には言えない。だが短くても一週間は経っている。八日から十日まで、暑かっただろ?」

「うん」

 

 その三日間は八月並みの暑さだった。今日も華氏八十度はあるけど、あの三日間よりはずっとマシ。

 

「あの部屋はオーブンの中みたいになったはずだ。腐敗の具合から言って、あの三日間か、その前に死んでいるな。十日の昼以降ということはないだろう。白骨化が思ったほど進んでいないから、先月以前ということもない」

「とすると、一日から十日か......」

 

 アメリアと、失踪人課のマヌケとから聞き出した話を総合すると、マークが最後に人前に出てきたのは七月四日の午後になる。なので想定TODは四日の夜から十日の午前中までってところか。

 

「それからCODについてだが。これはいささか面白いぞ」

「面白い?」

 

 

 

 

 

「撲殺?」

 

 三番街鉄道の28丁目駅に向かう道すがら、ぐらは私にマーク・キャラウェイの死因を説明してくれた。私は監察医務院の中に入れなかったから、ベルビュー病院の銑鉄の門の前で、キャメルを灰にしながらぐらを待っていたんだ。

 

「そ。後頭部の頭蓋骨が砕けてたんだって。他に目立った外傷もないから、薬化学検査で何も出なければ、たぶん鈍器で殴られたか、鈍器の上に倒れ掛かったんだろうってことらしい」

「てことは、他殺かしら?」

「たぶんね」

 

 ぐらはチェスターフィールドをパックから一本振り出すと、マッチを探してコートをばたばた叩いた。その声も仕草も、わかりやすく不機嫌だ。

 

「なんでそんなに不機嫌なの? 多少は進展があったわけじゃない」

「そうかもね」

 

 無事に煙草に火を着けて、高架駅の鉄階段を登りながらぐらは続けた。

 

「でも監察医が公式に報告書を出したら、アタシはそれを警部補に報告しなきゃいけないんだよ。そしたらたぶん、この事件は殺人課に移されることになる」

 

 ちょうど二両編成の電車が、ギイギイ言いながらホームに滑り込んできたところだった。

 ぐらは車掌の側を通って乗る間、ちょっと黙った。料金函に5セント玉(ニッケル)を投入して、車両中央のボックス席の一つに陣取ると、再び口を開いた。

 

「殺人事件は殺人課が扱う。そういう決まりだからね。向こうを捜査主任にして、アタシが捜査そのものを続けるように言われる可能性も、無いわけじゃないけど、たぶんカッソが弁護士の方と併せて扱うんじゃないかな」

「じゃ、急がないとね」

 

 動き出した車窓から私に、憂鬱そうな視線を投げてきたぐらに、ちょっと眉を上げて見せて続ける。

 

「報告するまでは、あなたが捜査できるんでしょ? だったら、例の二人組を当たってみてからでも遅くはないんじゃないの?」

「言われるまでもなく、当たるよ」

 

 ふーっと紫煙を吐いてから、ぐらは怪訝な目を私に向けた。

 

「どういう心変わりなわけ? 昨日はあんなに嫌そうだったのに、今日はずいぶん乗り気じゃん」

「まあ、乗り掛かった船ってやつよ」

 

 実際、自分でもちょっと驚いている。たぶんだけど、自分が仕入れた情報の答え合わせがしたいんだろう。つまり、純粋な自己満足のための好奇心だ。

 それと、これを認めるのは癪だけれど、ぐらと一緒にいるのがなんだかんだ楽しくなり始めていた。普通に私立探偵をやっていたら、こんな状況にはならないからだろうか。ある種冒険みたいなもので、それにとっても興奮しているのかも。

 ぐらは私の適当なはぐらかしで納得したのか、それとも追及するのが面倒になったのか、車窓の方に目を戻して小さく呟いた。

 

「一日くらいで警部補を納得させられるような進展があるかなあ......」

 

 

 

 1:05 PM, Corner 53rd St. and 3rd Ave., Turtle Bay, NYC

 

 目的の建物は、53丁目駅の階段を降りてすぐのところにあった。看板の類は出ておらず、鉄格子の向こうの窓には分厚いカーテンがかかっていて、お店をやっているようにはまるで見えない。でも、ここにはバーが入っているんだ。

 "この手"のお店は大抵屋号に鳥の名前を冠していて、ゆえにお店やそこに集まる人々を総称してバード地区(サーキット)なんて言ったりする。ポルカに言わせれば、"ばっちい界隈"だ。このバーもその例にもれず、"青いオウム(ブルー・パロット)"という屋号が付いている。

 

 薄暗い玄関ホールに入ると、アーチ状の入り口の向こうにがらんとしたダンス・ホールが見えた。夕方以降には、他に行き場のない男たちが集まってにぎわうんだろうけれど、今は準備中だから誰もいない。

 そしてクローク・カウンターの横の戸口から、背の高い男が一人、私の方を見つめていた。この夏の暑い日に黒いトレンチ・コートに身を包み、屋内だというのに黒い中折れ帽を目深にかぶっている。

 

「ワトソンよ。ポルカからの紹介で来たんだけど」

 

 そう自己紹介すると、男は小さく頷いて奥へ引っ込んだ。ドアが閉められなかったのを招待と解釈して、男について中に入る。

 そこは窓の無い、玄関ホール以上に暗い待合室か応接室のような部屋で、男は私に、ソファに座るよう促した。油布が破れてぼろぼろのソファに腰を下ろすと、男もこちらのソファの同じくらいぼろぼろの、張りぐるみの肘掛椅子に座った。

 

「そっちの質問に答える前に、二、三確認したいことがある」

「どうぞ」

 

 男はそう言ったものの、なかなか確認に入らなかった。ゆっくりと煙草を取り出し、"コパ・カバーナ"の紙マッチで火を着ける。焦らし戦法だ。

 ふーっと必要以上に長々と一服してから、ようやく本題に入った。

 

「お前の雇い主だが。調査結果の如何を問わず、このことを表沙汰にするつもりは一切ない。それで間違いないな?」

「ええ、間違いないわ」

 

 マーク・キャラウェイは長男だったけれど、一人息子ではなかった。キャラウェイの名を継いで政財界に乗り出す予定だったのは、彼一人ではない。キャラウェイ夫妻は、家の名を汚すことを厭うだろう。私やぐらに口止めにかかったあたりからも、それは窺える。

 中折れ帽の男は私をまじまじと見つめてから、煙草の脂で黄色くなった二本指で、ラッキー・ストライクを口から離して続けた。

 

「ここの持ち主も、お客たちも、物事が公になることを望んでいない。誰がここを経営してるのか、知っているか?」

「具体的な誰、とは知らないわ。でも、それが重要なんでしょ?」

 

 バード・サーキットの店は大多数が、マフィアの経営下にある。同性同士でのダンスは条例違反だし、同性愛そのものは州法に反している。それをお目こぼししてもらうためには、マフィアの伝手で警察を買収するのが一番手っ取り早い。そして連中は、ここのお客たちが他に行き場がないことは先刻承知だから、薄い酒をぼったくり価格で出して儲けるわけだ。

 目の前にいる痩せぎすの黒服男が、この店のお目付け役かなにかを務めているマフィア関係者なのは、疑いようもなかった。普段なら、あまりお近づきになりたくない人だけれど、今日ばかりは仕方ない。せっかくポルカが手を回してくれたんだから。

 

 男は重々しく頷いた。

 

「ああ、重要だ。彼は約束を必ず守る男だ。だから、他の人間にもそれを求める」

「でしょうね」

 

 男は再び、ゆっくりと天井へと立ち昇る紫煙越しに、長々と私を見つめていた。

 

「......お尋ねの二人組だが、確かにうちのお客にそういうやつらはいる。だが、断定はできないぞ」

「どうして?」

「写真を見せられたわけじゃないからな。あの質屋から聞いてると思うが、白人と黒人のカップルなんて、ここじゃ珍しくもなんともない」

「それでも構わないわ。人違いなら、他を当たるだけだから」

 

 一つ頷いて、男はスーツの内ポケットから、一枚のメモ用紙を取り出した。万年筆のものらしい青いインクで、二人分の名前と住所が書かれている。ずいぶん几帳面な、整った筆跡だった。

 

「これがお望みのものだ」

「ありがとう」

「参考までに付け加えておくと、二人はチェルシーの、アイルランド野郎(ミック)の家の方で一緒にいることが多いそうだ」

「ご親切にどうも」

 

 

 

 1:20 PM, W 30th St., Chelsea, NYC

 

 西30丁目には、昔からこの地区に住んでいる移民系労働者向けの、古いアパートメント・ビルが立ち並んでいた。街区(ブロック)の真ん中やや八番街寄りの建物が、オブライアンという件のアイルランド系が部屋を借りているビルだ。

 玄関には管理人室の呼鈴ボタンがあったけれど、ぐらはそれを無視して、コートから革製のケースを取り出した。すぐにそれが何なのか察した私は、屈みこんだぐらを通りの通行人たちから隠すように立って、いかにも管理人が取り次ぎに出てくるのを待っているように装った。

 ぐらはちゃちな本締(デッドボルト)錠に二十秒近くもかけて――つまり、ヘタクソってこと――ようやくこじ開けると、何食わぬ顔でドアを開けてロビーに入った。私もその後に続き、後ろ手にドアを閉めて錠を下ろす。

 

「3Cだっけ?」

「そうよ」

 

 ロビーの郵便ポストを確認しながら、ぐらにそう返した。あの黒スーツ男から渡されたメモに書かれていたアパートメントのポストには、確かに"オブライアン"と書かれた紙切れが貼り付けてある。ひどく角ばった、小学生が書くようなブロック体の文字だ。

 階段室へ続くロビーの内扉は、防犯用というより砂埃対策用らしく、錠の付いていない薄い木製のスイング・ドアだった。それを押し開け、階段を三階に登る。

 3Cは階段の真正面だった。そのドアの前に立つと、ぐらは背伸びをして呼鈴を鳴らそうとしてから、ふと私の方を振り向いて言った。

 

「んじゃ、鳴らすよ」

「どうぞ」

 

 爪先立ちでぷるぷるしながら、ぐらはなんとかボタンを押した。薄いドア越しに、アパートメントの中でベルが鳴るジリジリジリという音が聞こえる。

 少し間を置いて、男らしく歩幅の広い足音がドスドスと近づいてきた。錠を外す音がガチャガチャしてから、ドアが細目に引き開けられる。

 

「ミスター・オブライアン?」

「ああ、そうだ。悪いけど、あんたらが何を売ってるにして、俺は興味ないからな」

 

 応対に出てきたのは、しわしわのシャツ姿の男だった。今慌てて着たらしく、上の方のボタンは開けっ放しだし、下から二番目のボタンは掛け違えている。そのくせ首許には、派手な赤い柄入りのカーチーフを巻いている。黒い髪の毛はぼさぼさで、青い目は眠たげだった。火曜日の昼過ぎだというのに、起き抜けらしい。

 

「自分に必要なものは、もう持ってるんでね」

「押し売りじゃなくて警察だよ、ねぼすけ」

 

 ぐらがバッジを出して、ミスター・オブライアンのしょぼしょぼの目にねじ込まんばかりに突き出した。

 

「がうる・ぐら刑事、NYPD。いくつか話を聞きたいんだけど、入れてくれる?」

「話ってのは、具体的に何の話だ?」

「聞きたい? なら、今ここで教えてあげてもいいよ。隣近所にしっかり聞こえるように、大声でね」

 

 オブライアンは顔をしかめて、大きな音を立てて舌打ちをした。

 

「......今は都合が悪いんだ。後にしてくれねえか」

「アタシたちの都合は悪くないから、後にはしない」

 

 警官特有の横柄さ全開で、ぐらはそう言った。のだけれど、小さな体格と腹の立つニヤニヤ顔をあわせると、クソ生意気なガキにしか見えない。

 

「とはいえアタシも令状を持って来てるわけじゃないし、あんたのプライバシーは尊重しなきゃいけない。だからあんたが、どうしてもアタシたちを部屋に入れたくないって言うんなら、車を呼んで一緒に分署まで来てもらうけど、その方がいい?」

「ああもう、わかったわかった、入ってくれ」

 

 こうして私たちは、トム・オブライアンの家に上がり込んだ。

 隅に汚いギャレー・キッチンのある居間は、ひどく散らかっていた。床や椅子には、脱いだ服や靴下が点在し、テーブルの上は読みかけの――あるいは読み終わった――本や雑誌が置きっぱなしで、灰皿には吸殻のピラミッドが出来上がっている。

 油汚れがひどいキッチンも、片手鍋やフライパンが出しっ放しで、流しには汚れた皿とグラスが山積みだった。部屋の中はオーデ・コロンの匂いでむせ返りそうだったけれど、キッチンからはほのかに下水の臭いも漂ってきている。

 キッチンの反対側に、寝室に通じているらしいドアがあって、それは閉まっていた。

 私たちの――と言うかぐらの――態度に腹を立てているらしいミスター・オブライアンは、私たちには特に飲み物を薦めたりせず、冷蔵庫からクアーズの壜を一本出して流しの角で王冠を外すと、半分ほど一気に飲んでから、テーブルの椅子に着いた私たちに怒りのこもった目を向けた。

 

「で? あんたらのくそったれな話の内容ってのはなんだ?」

「それはあんた自身が一番よくわかってると思うんだけどな?」

 

 ぐらは灰皿の横に置かれていた"ストーク・クラブ"の紙マッチを勝手に使って、チェスターフィールドに火を着けると、挑発するような視線でオブライアンを見返しながらそう言った。オブライアンの頬に赤みが注してきているのは、ビールのせいだけではないはずだ。

 

「さあ、皆目見当もつかねえな」

「ほんとに? 世話の焼けるアイルランド野郎(ミック)だな」

 

 挑発を重ねながら、ぐらは手帳を取り出した。わざと時間をかけてぱらぱらめくって、焦らし作戦も組み合わせている。意図的に爆発を誘う魂胆らしい。

 

「......よおし。じゃあ、これからいこうか。あんたがついさっきまで寝室で喫ってた大麻煙草(リーファー)について」

 

 ごとん、と大きな音を立てて、クアーズの壜が床に落ちた。

 

 

 



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Hoplophobia #6

 Jun. 18th, 1939, 53rd St. and 3rd Ave., Turtle Bay, NYC

 

 アメがバード地区(サーキット)のお店に入っている間、アタシは53丁目と三番街の角にある公衆電話から、伝言を確認するため分署に電話をかけていた。

 

"......こちらニューヨーク市警察局、マクレリー巡査部長です"

「や、部長(サージ)。アタシだ、ぐら」

"おう、サメか。ちょうどよかった、オライリー警部補がお前を探してたぞ"

課長(スキッパー)が?」

 

 カリの剖検報告が、刑事課長のところに直接上がったんだろうか? いや、検査部長のスタンスキがいつも通りなら、午前中いっぱいはまず上がらないはずだけど。

 いぶかしんでいる間にも、マクレリーが喋り続けていた。

 

"お前さんに急ぎの用事があるんだそうだ。電話を回そうか?"

「お願い」

 

 チチチ、とダイヤルを回す音がしてから、ぶつりと何も聞こえなくなった。交換機が保留状態になったんだ。それからすぐに、回線を切り替える音ががちゃがちゃしてから、マクレリーよりもさらにアイルランド訛りの強い男が出た。

 

"ぐらか?"

「はい、警部補」

 

 電話越しにも関わらず、アタシは反射的に居ずまいを正した。

 上下の帯域がカットされて機械的な声になっているにもかかわらず、その口調から怒りの色を感じ取るのは簡単だった。つまり、相当怒っている。アタシ、なんかまずいことしたっけ?

 

"お前、監察医務院に水死体の話を聞きに行っただろう。ワラバウト湾から引き揚げられた、弁護士のやつだ"

 

 アタシはそっと唇を舐めた。誰か――たぶんカリオペ――がカッソに、アタシが来たことを教えたんだろう。それにしても、上司に告げ口して牽制するのはカッソらしくない気もする。あのふとっちょはどっちかといえば、直接アタシにガツンと言うタイプのはずなんだけど。

 そんな風に思いを巡らしていると、次に受話器から流れてきたのは思いもよらぬ言葉だった。

 

"その水死体だがな、お前が扱え"

「......は?」

 

 全然想定してなかった命令を受けて、アタシの脳はしばし機能停止した。

 アタシは受話器を耳に当てたま口をぱくぱくさせていた。はたから見ればかなりマヌケ面だっただろうけど、ニューヨーカーたちはまるで気にせず、電話ボックスの外を飛ぶように通り過ぎて行く。

 

"なんだ、聞こえなかったのか?"

「いえ、その......警部補、アタシと他の誰かを間違えてません?」

"いいや、間違えてない。ロビンソン警部からの命令なんだ、お前に扱わせろってな"

 

 ロビンソンは、第14分署の分署長だ。分署長はその管轄内で起きるあらゆる事案に対して、神の右腕に等しい権限を持っている。

 ただし、"殺人事件は殺人課に"という神たる規則には反しているから、独断専行か、より上からの命令のどっちかだ。

 

「アタシ、殺人課じゃないんですけど......何か理由とか聞いてますか?」

"聞いてない。警察本部(センター・ストリート)に呼び出されて、帰って来るなり俺を署長室に呼びつけて、担当をお前にしろとご命令だ"

 

 より上からの命令か。なんとなく、命令の出所がわかった気がする。

 ついでに、オライリーがなんでこうも怒ってるのかわかった。雲の上の人々から、自分たちの部署で横紙破りを通されるのが、腹立たしくて仕方ないんだろう。それをアタシにぶつけないでほしいんだけどな。

 とはいえ、アタシには渡りに船だ。

 

「わかりました、やります」

"よろしい。報告書は毎日上げろ。俺じゃなくて、警部にな"

「了解」

 

 フック・スイッチを押し下げて電話を切ると、コートのポケットに手を突っ込んで5セント玉(ニッケル)をもう一枚探したけれど、見つからなかった。舌打ちして10セント玉(ダイム)を取り出し、スロットに投入してTR(トラファルガー)局の番号をダイヤルする。相手は呼出信号一回で出た。

 

"はい、もしもし?"

「オーロ・クロニーに替わってくれる?」

"じゃ、かけ直せ。番号違いだ"

「いいから替わって。アタシはがうる・ぐら」

 

 カチリとボタン電話機が保留モードになった。

 

 

 

 1:25 PM, O'brian's Apartment, Chelsea, NYC

 

「な、なんのことだ?」

 

 すっとぼけるにはあまりにも震えすぎている声で、オブライアンはぐらに訊き返した。クアーズの壜は床の上で横倒しになって、ビールをどくどく垂れ流している。

 ぐらは挑戦的な態度を崩さず、相変わらずのにやにや笑いを浮かべながら言った。

 

「お巡りに嗅ぎ分けられないわけがないでしょ。あんたが十分以内に大麻を吸ったばっかりなのは、玄関で会った時すぐにわかったよ」

 

 私は匂いを嗅ぎ分けられなかったけれど、一つ得心がいった。玄関を開けた時にオブライアンがとろんとした目をしていたのは、寝起きだからじゃなくて麻薬でラリっていたからか。

 ぐらはわざとらしくくんくんと鼻を動かしてから、怯えと怒りがないまぜになっている顔のオブライアンに続けた。

 

「しかもあんたからは、別の匂いもする。さしずめそれを隠すために、オーデ・コロンをばらまいたんだろうけど。あんたはたぶん今朝から、隣の寝室にいる男と盛りがついた獣みたいにヤッてて、それが一段落してハッパをキメてるところにアタシたちが来た。ちがう?」

「たわごとだ!」

 

 オブライアンは喚いた。怒りが爆発して、ビール壜を蹴り飛ばし、ぐらの座っている椅子まで詰め寄る。そのまま襟首を掴みあげそうな勢いだったけど、そこまではせず、いまや明らかに怒りで真っ赤になっている顔を、ぐらの小癪なにやにや顔に思いっきり近づけて怒鳴った。

 

「人を侮辱しやがって! いいか、警察本部のフランクリン警視は、俺の叔父なんだぞ! 俺が一本電話をかければ、お前なんか......」

「あんたが連れ込んでるのが女なら、」

 

 ぐらはオブライアンの恫喝を、全然気にせずに続けた。大きい声ではなかったけれど、強い自信を感じさせるその口調が、オブライアンに脅し文句の続きを呑み込ませた。

 

「この散らかった部屋に、一つくらい女物があってもいいはずでしょ? 服、下着、靴、鞄、化粧入れ(パウダー・ケース)とか口紅......でも、それらしいのは何一つない」

「そりゃ......そりゃ、全部俺のだからだ」

「それはどうかしら」

 

 私は椅子から立つと、寝室のドアの近くに歩み寄った。そこに転がっている靴を取り上げてひっくり返す。裏のサイズ刻印は10だ。

 

「ミスター・オブライアン、あなたの身長は5フィート半かその前後ってところよね。そしてどっちかと言えば痩せ型。それで男物の10の靴は大きすぎるんじゃない?」

「そりゃ......」

「アタシはね、いま殺人事件を二つ抱えてるんだよ。マーレイ・ヒルで見つかった腐った男と、イースト川から引き揚げられた弁護士で、どっちもアイルランド野郎(ミック)黒公(ニッグ)の二人組が関わってる」

 

 ぐらが話を転換した。

 私は靴を放り捨てると、近くにあったパンツを二本指で拾い上げた。サイズは35。オブライアンの体型なら、33でも大きすぎるだろう。35は確実にずり落ちてしまいそうだ。

 

「監察医によると、腐ったヤツの爪に、そいつ自身のとは血液型が違う肉と皮の痕跡があったらしいんだよ。両手の指にね。つまり、誰かを両手で掴んでたことになる。爪が喰いこむくらい、しっかりと」

「それなら、掴まれた人の体にはその痕が残ってるでしょうね」

 

 大きすぎるパンツも放って、私は口を挟んだ。

 

「二週間くらい経ってるけど、まだ痣の痕くらいは残ってるはず。それに爪が喰いこんだなら、その傷痕も消えてないでしょうね」

「んで、アタシはあんたを一目見た時から気になってたんだ。そのカーチーフ」

 

 オブライアンは、はっとしたように首許に手を当てた。派手な柄入りの赤いカーチーフを巻いた首に。

 

「服はそんなに乱れてるのに、首飾りだけはしっかりしてる。まるでなにか、見られたくないものがあるみたいじゃん?」

 

 オブライアンは何も言わない。ぐらを凝視したまま後ずさりして、ケルビネイターの冷蔵庫にお尻をぶつけた。

 

「怖がることないでしょ? その下になあんにもないなら、ちょっとアタシに見せてくれればそれで......」

 

 ぐらが不意に言葉を切った。顔からにやついた笑いが消えて、ぱっと私のほうを振り返って叫んだ。

 

「アメ、そこから――」

 

 ぐらが言い終わるよりも先に、私の背後のドアが勢い良く開いた。私は振り返りながら、反射的にスカート――正確には、その下の拳銃――に手を伸ばそうとする。しかし私がスカートをめくり上げるより先に、大きな拳が勢いよくお腹に突き刺さった。

 

「ぐっ......」

 

 息が詰まり、身体をくの字に折り曲げると、ぶっとい腕が私の首にまきついた。

 

「うぁっ!」

 

 つま先がぎりぎり床に着くくらいの高さまで引っ張り上げられて、私は呻いた。首がギリギリ絞まったし、殴られたお腹が体を起こされたことに異議を申し立てて、とてつもなく痛い。

 その腕に両手をかけたところで、固くて冷たいものが、私の頭に押し付けられた。

 

「動くんじゃねえ!」

 

 腕と同じくらい太い、黒人訛りの叫びが響いて、私は動きを止めた。

 

「銃を置け、サメ女。さもねえとこの金髪女(ブロンド)の、中身の少ない脳みそを吹っ飛ばすぞ!」

 

 大いに反論したいところではあったけれど、「じゃあ確認するぞ」とか言って本当に頭を吹き飛ばされるのはごめんだったから、私は黙って言われた通りに動きを止めた。

 

「そっくりそのまま返すよ、丸ハゲ(キュートボール)

 

 ぐらはすでに、銃を構えおおせていた。ブルーイング処理された45口径のコルト・ガバメントだ。小さな体と小さな手には、不相応どころか滑稽なほど大きい銃だ。

 

「アメを放して銃を置け」

「やなこった。銃を置くのはお前だ!」

 

 二人が言い合いをしている間に、ぐらの注意が完全に逸れていたオブライアンが、冷蔵庫からお尻を離して動き出した。両手を肩の高さに上げて、ぐらに飛び掛かる姿勢を見せている。ぐらの一挙手一投足に注目していた私がその動きに気付いたのは、オブライアンが奇襲の決心を固めたのとほぼ同時だった。

 

「ぐら、後ろ!」

 

 遅かった。ぐらが反応して振り返りきるよりも先に、オブライアンの、痩せているけれどぐらより大きな身体が、水色のレインコートを押しつぶした。

 

「うわっ!」

 

 二人がもつれ合って床に倒れ込む。ぐらの右手が床に叩き付けられて、コルトが轟音とともに暴発した。

 それと同時に、私の右脇腹に大きな衝撃が走った。

 

「ぐふっ......え?」

 

 混乱できたのはその一瞬だけだった。次の瞬間には激痛が、この黒人男に殴られた時とは比べ物にならない痛みが、身体の中の階段をかけあがって私の頭を制圧した。

 

 痛い。

 痛い痛い痛い、

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!

 

 首に巻かれていた腕がほどかれ、私は床の上に転がった。身体を胎児のように折り曲げて、両手で脇腹を押さえる。ぐちゃり、と湿ったシャツが音を立てた。

 

"アメ?......アメ!"

 

 痛い、で埋め尽くされた意識の向こうから、誰かが私に呼びかけた。一方の私は息を呑み、歯を食いしばって痛みに耐えるのに必死で、答えるどころか悲鳴を上げることすら叶わない。

 誰かの足音がばたばたと近付いて来て、私の体を揺すった。鋭い痛みが身体中を駆け抜け、歯の隙間から唸り声が漏れる。

 

"やだ......やだやだやだ! あたしのせいだ、あたしが......"

 

 ぽたり、と頬に何かが垂れた。生暖かい、小さな雫だった。

 私の肩に置かれた手が、ぎゅ、と握られてから離れた。

 

"待ってて、アメ、すぐに戻るから、絶対すぐに戻るからね!"

 

 足音がぱたぱたと離れて行く。

 いや、足音だけじゃない。アパートメントも、痛みも、指の隙間から溢れる生暖かい液体の感触も、なにもかもが遠のいていく。それでも頬の上に落ちてきた、三つの雫の感触は、私が意識を手放す寸前まで残り続けていた。

 

 

 

 Jul. 15th, 1943, Hell's Kitchen, Midtown Manhattan, NYC

 

 私とぐらは通りに立って、ムメイの葬儀屋の到着を待っていた。

 とてつもなく暑い日で、今も殺人的な午後の太陽に照らされ続けているけれど、ぐらは私の横にぴったりとくっついていた。まるでそうしていなければ、過去から弾丸が飛んできて、私の脇腹にもう一度突き刺さると思ってるみたいに。

 

 あの事件が結局、どのような流れで結末まで導かれたのか、私はよく知らない。

 イナニス――彼女とはそれが初めましてだった――の家の、客用寝室という名の病室で目を覚ました時にはすべてが終わっていて、ぐらは殺人課の席を手に入れていた。

 新聞各紙ではマーク・キャラウェイの死が報じられていたけれど、男色のことは伏せられ、オブライアンが押し込み強盗の上で殺人を働いたことになっていた。後に司法取引が行われ、オブライアンは有罪答弁と引き換えに、暴行致死での起訴と、五年の刑の仮釈放付き判決を手に入れた。私がぐらに撃たれたことは、闇医者のところに担ぎ込まれたことからもわかる通り、もみ消された。

 私に銃を突きつけた黒人男の存在は、新聞には何一つ書かれていなかった。ただし、私がお腹に弾丸を喰らったのととても近い時刻に、ボビー・レオンという黒人が、チェルシーの八番街でタクシーに撥ねられて死んでいた。

 新聞には、トム・メルビンの死亡公告も出ていた。監察医務院長(Chief Medical Examiner)名義の公告によると、死因は溺死で、特に事件性はないらしい。

 

 こうして、マーク・キャラウェイの放埓な人生とその終焉は、闇の中に葬られて幕を閉じた。

 

 私のお腹に飛び込んだ弾丸は、暴発弾の上に跳弾だった。勢いがかなり削がれていたため、腸壁を部分的に破った上で骨盤に当たってそこで止まり、ほかは腎臓にも膀胱にも子宮にも、これといったダメージを与えてはいなかった。45口径だったことを考えれば、これ以上ないほど幸運だ。

 ただし私の右脇腹には、弾丸を摘出して腸を吻合し、傷口を縫合した痕が生々しく残ることになったけれど、贅沢は言えない。

 

 ぐらの方は、刑事に昇任してから市警史上最短の日数で、殺人課の仲間入りを果たした。そしてそれと引き換えに、およそ一切の銃器を扱えなくなってしまった。それは、今でも続いている。

 

「......ねえ、ワトソン」

 

 私に寄り添い、私の右腕を両手でぎゅっと握りしめていたぐらが、不意に口を開いた。その声は、まだ微かに震えている。

 

「なあに、ぐら」

 

 穏やかに返すと、ぐらは躊躇うようにすこし言葉に詰まってから、先を続けた。

 

「......こんなこと、二度と言わない。絶対に二度と言わないから。でも......でも、弱気になってる今だけ確認させて」

「なに?」

「あたしは絶対、何があってもあんたの味方だから。だから、だからワトソンも、あたしの味方でいてくれる?」

 

 眉をひそめて見返すと、ぐらは私の腕に縋りつきながら、絞り出すような声で続けた。

 

「あたしの気のせいかもしれないんだけど......誰かに狙われてる気がするんだ。誰かがあたしを陥れようと企んで、狙ってる気がするんだ......」

 

 一瞬、全てを喋ってしまおうかと思った。私が知っていることを洗いざらいぶちまけることが、彼女との友情と信任に報いることではないかと、そう思った。

 けれど、結局私は口を噤み続けた。なんであれ、知らない方が幸せなこともある。

 

「大丈夫よ、ぐら」

 

 足をかがめてぐらの身長に合わせ、その肩を抱き寄せた。

 

「私も絶対に、あなたの味方だから」

 

 そう、私は絶対にぐらの味方。他のすべてを裏切ってでも、この地獄のような街に銃ではなくナイフで立ち向かう、立ち向かわざるを得ない、小さなかわいいサメの味方。

 

 

 



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Hoplophobia #7

 10:30 AM, Krono Tower, Financial District, NYC

 

 時は遡ってその日の午前。私はクロニーの許に呼び出されて、仕事の説明を受けていた。

 

「そういうのってもっとこう、荒っぽい仕事を担当する人間に任せたりしないの?」

 

 依頼の内容は要するに、殺しだった。およそ私立探偵に頼むものではない。

 けれどクロニーは、表情一つ変えずに答えた。

 

「だからあなたに任せるんだ、アメリア。正確には、あなたとぐらに」

 

 タイプ打ちされた書類にサインをして、決裁箱に入れると、次の書類の束を取りながら、クロニーは続けた。

 

「ぐらはこういう荒仕事に適任だが、なにせ銃が使えないからな。ぐらから、あなたは銃の扱いが上手いと聞いている。そんじょそこいらの警官よりも、よほどいい腕をしているとか」

 

 それは事実だ。自慢じゃないけれど、私の射撃の腕はかなりいい。生憎と私立探偵は、発砲するどころか銃を抜く機会すら少ない仕事だから、活かせているとは言い難いけれど。

 

「だから、ぐらと組んでこの仕事にあたってもらう。そうすれば万全だろう」

「わかった、わかったわ。ぐらに電話して、一緒に動いてもらう」

「そうしてくれ。ああ、アメリア」

 

 キャメルを灰皿につっこんで、客用椅子から立ち上がると、クロニーが私を呼び留めた。

 

「もう一つ、あなた単独に依頼したいことがあるんだ」

「なにかしら」

「ぐらを監視してもらいたい」

「......は?」

 

 私は、正気? という意味を視線に込めて、クロニーを見返した。ただし、そのクロニーの表情はいたって真面目そのものだ。

 

「どういうこと?」

「ここ最近、私の"ビジネス"は低調でね。取引がご破算になったり、余計な邪魔が入ったり、ネズミが見つかったり。そのどれもが、ぐらが何らかの形で関わっている案件なんだ」

「つまり、あなたはぐらの裏切りを疑っている、と。そういうこと? クロニー」

「そういうことだ」

 

 私は立ったまま客用椅子の背もたれに手を着くと、デスクの向こうのクロニーを見下ろして言った。

 

「二つ、訊きたいことがあるわ。一つ、なぜ私にそれを頼むの? 私とあなたは、この関係になって半年も経ってないのに、親友のぐらのことについて私があなたを裏切らないと、どうして思えるの? 二つ、そもそも親友をスパイしろなんて依頼、私が受けると思うの?」

「その質問には、両方とも答えられる。そしてその答えはどちらも同じだ。あなたがぐらの親友だからさ」

 

 私が顔をしかめると、クロニーは書類を脇に押しやり、抽斗からメイプル・リーフが描かれた加湿箱(ユミドール)を出して言った。

 

「まあ説明しよう。座りなさい」

 

 しぶしぶながら、私は客用椅子に戻った。カナダ産葉巻は断り、二本目のキャメルに紙マッチで火を着ける。

 クロニーは葉巻用マッチを擦ってホワイト・オウルの火口を炙りながら、ゆっくりと言った。

 

「ぐらはあなたに気を許している。私がまるで見たことがないほど、そうだな、懐いていると言っていいだろう。そして私の見立てが正しければ、あなたも同じくらいぐらに気を許している。ぐらをとても大事に思っている。違うかな?」

「違わないわ。だからこそ、ぐらをスパイしろだなんて依頼、受けたくない」

 

 クロニーは目の端でにやりと笑って、先を続けた。

 

「だからこそ頼むんだ。あなたは、私が裏切り者に対してどのような態度で臨むか、この半年でよくよく見てきたはずだ」

 

 火を着けたキャメルを、私はほとんど喫わずにいた。立ち昇る紫煙越しに、クロニーを睨みつけ続ける。

 

「だからそう、あなたがこの依頼を断ったとしよう。そうしたら、私は別の人間にぐらを監視させる。もし彼なり彼女なりが、ぐらが私を騙している証拠を持ってきたら、私はぐらに、厳正な態度で臨まなければならないだろうな」

 

 一瞬、いやなイメージが私の頭をよぎった。身体中に150発分の弾丸を撃ち込まれ、見るも無残な姿になって、イースト川にぷかぷか浮いているぐらの死体。

 それを振り払うために、キャメルを吸った。強く吸い過ぎて、巻紙がちりちり音を立て、煙はきつくいがらっぽくなった。

 その様子を見てクロニーはまた笑い、先を続けた。

 

「だが、あなたがぐらを監視し、彼女との友情に基づいて、彼女のために裏切りの証拠を見出してくれるのなら、私はその見事な友情に敬意を表して、もっと寛容な態度をとる気になるかもしれない。例えば、この街に二度と戻らないことを条件に、二人とも五体満足で見逃してやる、とかな」

 

 親友のことを告げ口するのが、"見事な友情"と言えるだろうか? 私なら、絶対に言えない。

 

「ところでぐらのことだが。彼女は意外と敵が多いんだよ。ぐらはあくまで外部協力者だが、私は正規構成員と同じように扱っている。なにせ他の構成員の誰よりも、私との付き合いが長いからね。それが気に喰わず、彼女に失脚してほしがっている連中は大勢いる。私があなたの代わりに、ぐらの監視を頼む人物がそうでないと、どうして言い切れるかな?」

 

 くそ。くそくそくそくそ!

 どうやっても、クロニーは私にぐらを監視させる気だ。

 

「そうだとしても、なぜあなたは、私のことを信頼できるの? ぐらに失脚してほしい連中と同じくらい、私はぐらに死んでほしくない。私がぐらの、裏切りの証拠をひた隠しにしないと、どうして言えるの」

「簡単さ、そんなことをするなら、私はあなたも裏切り者として見るからだよ、アメリア」

 

 葉巻の濃い煙を吐いて、鼠をいたぶる猫のような表情を浮かべながら、クロニーは続けた。

 

「あなたの選択肢は三つだ。全てに目をつぶり、耳を塞いで、ぐらが陥れられるままにするか。あるいは彼女の裏切りの証拠を揉み消し、二人仲良く魚の餌になるか。そして、彼女を監視し裏切りの証拠を――あるいは裏切り者でない証拠を――見つけ出し、私に彼女の助命を乞うか。選ぶのはあなただ、アメリア」

 

 

 

 

 

「あああ、もう!」

 

 クロノ・タワーの地下駐車場で、私は自分のフォードのタイヤを蹴りつけた。

 

「一体どうしろって言うの......」

 

 緑色のボディに寄り掛かって、私は頭を抱えた。

 クロニーの"ビジネス"が低調なのは、理由がある。ある人物が妨害工作をしているからで、その上私はそれが誰かを知っている。

 でも、それを口にすることはできない。クロニーに喋れば、彼女の恫喝と同じくらいの確実性で、私にもぐらにも終わりが訪れる。

 

「くそ......どうしてこう、ぐちゃぐちゃになるかなあ」

 

 私の小さなつぶやきは、地下駐車場の換気装置の轟音にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。

 

 

 

 Jan. 3rd, 1943, The Lost Heaven, Swing Street, NYC

 

「知らなかったわ、あなたがマフィアの幹部だったなんて」

 

 ぐらから評議会(カウンシル)についてレクチャーを受けた翌日、私は"ロスト・ヘブン"の支配人室で、デスクの向こうに座るこの部屋の主にそう言った。

 

「そうと知ってたら、お近づきになったりしなかったんだけど」

「そんな寂しいこと言わないでよ」

 

 このクラブの支配人にして専属シンガー、そしてカウンシルの相談役を務めるアイリスは、左右で色の違う目を細めて答えた。

 

「だいたい、スウィング・ストリートのクラブなんてほとんどが、禁酒法時代に違法酒場(スピークイージー)だったところなんだよ? そこの支配人がマフィアと無関係なわけないじゃん」

「初めて会った時は、ただのシンガーだと思ってたのよ......」

 

 私の弱々しい弁解を、アイリスは鼻で笑い飛ばした。

 

「もっと気を付けることね、探偵さん......んで、どうするつもりなの?」

「なにが?」

 

 アイリスは銀張りのジッポに火を点け、ダンヒルの黒くて細長い紙巻煙草の先を炙ってから続けた。

 

「あなたの今後だよ、アメ。あなた、このままこの業界に居座って、上の方を目指すつもり?」

「......」

 

 正直言って今のところ、今後のビジョンなんて一つもなかった。人生の方向性が180度転換してから、まだ数日しか経っていない。腰を落ち着けようとするので精いっぱいだ。

 そんな私の様子をじっくりと観察してから、アイリスは唐突に言った。

 

「もし、あなたを堅気(ストレート・アップ)に戻してあげられるって私が言ったら、どうする?」

「できるの?」

 

 一も二もなく、私は飛びついた。もちろん、無条件でそんなことをしてくれるほど甘い話じゃないことは、アイリスの表情を見ればすぐにわかる。それでも私は、その誘惑に逆らえなかった。望んでこの道に踏み入った人間以外で、その誘惑に逆らえない人間がいるだろうか?

 ただ、その先に待っていたものは、私の予想をずっと超えていた。

 

 アイリスはデスクの抽斗から、黒い革の財布みたいなものを取り出して、私に渡した。それを受け取って開くと、銀色の星型バッジが顔を出した。

 

「へえ、よくできてるじゃない」

「でしょ? なんたって本物だからね」

「は?」

 

 まじまじとバッジを見つめる。五芒星の中央に星条旗の意匠が施された盾があり、その周りを文字が囲っている。合衆国特別局(United States Secret Service)

 

「まってよ、ちょっと整理させて......つまり、あなたはここの支配人で、ジャズ・シンガーで、マフィアの親玉たちの相談役で、しかも財務省の特別捜査官。ってこと?」

「そう、その通り」

「オーケイ」

 

 全然オーケイではない。頭の中が感謝祭の記念パレード並みにカオスになってきた。もうわけがわからない。

 

「それで、その連邦捜査官様が、私みたいなしがない私立探偵の何を必要とするの?」

「なんてことないよ。ちょっとだけ、私たちの計画に協力してくれればいいの」

 

 目をそばめて煙草を喫って、その煙をゆっくり吐き出しながら、アイリスは続けた。

 

「具体的になにをしてほしいかは、また後日伝えるけど。今、特別局は連邦麻薬局(FBN)内国歳入局(IRS)と合同で、クロニーを潰そうとしてるの。それにニューヨークの州政府と市役所も一枚噛んでる。デューイ知事もラ・ガーディア市長も、自分の州や街からマフィアを一掃したがってるからね」

「でも、クロニーが実務者を買収してるから上手くいってない。でしょ?」

 

 ぐらのレクチャーの知識を基にそう訊くと、アイリスは残念そうにうなずいた。

 

「残念ながら、その通り。FBNとIRSは浸透度が低いんだけど、州政府と市役所はずぶずぶ。しかも連邦捜査局(FBI)のフーバー局長も、クロニーとずぶずぶっぽいんだよ」

「そんな状態で、あなたたちがどうこうできることがあるの?」

「あるよ。大統領と連邦検事を直接動かせば、フーバー抜きでも事は運べる。FBIだって一枚岩じゃないから、私たちに協力してくれる捜査官たちもいる。彼女の基盤を崩すために、私は信頼できる部下を使って、目下クロニーのお仕事を色々妨害してるの」

 

 煙草を灰皿の上で揺すって灰を落としながら、アイリスは続けた。一連の動作の間も、その目は私の方を見据えている。

 

「もう一つ、私があなたにしてあげられることがあるよ。あなたのお友達の、がうる・ぐら刑事に関して」

「ぐらがどう関係するのよ、あなたたちの作戦に」

「直接は関係しないよ、財務省の作戦にはね。ただ、デューイとラ・ガーディアは別」

 

 ふーっと私の方に煙を吹きかけて、アイリスは続けた。

 

「彼らが汚職に対してめちゃくちゃ潔癖なのは、あなたも知ってるでしょ? ところがぐらときたら、汚職を隠さない派手な暮らしぶりをしてて、それでもなお、警官として優秀だからってニューヨーカーたちからお目こぼしを貰ってる。知事も市長も、それは面白くない」

「でも二人とも、選挙で選ばれる公職者じゃない。市民が目をつぶってることに堂々と切り込む勇気があるのかしら?」

「あるんだな、これが。どのみちニューヨーカーたちも、ぐらがクロニーのお願いを聴いて何をしてきたのか知ったら、きっと掌を返すと思うよ。私たちの作戦が成功してクロニーが失脚したら、間違いなくぐらも刑務所送りだね」

 

 アイリスは、宝石のような鮮やかな色の目を細めて、薄っすらと口の端を吊り上げた。

 

「ダネモラの冬は寒いよ。ギャング関係者は女でも、ベッドフォード・ヒルズじゃなくてあそこに行かされるからね。ファウナはダネモラに五年くらいいたことがあるけど、あそこのことをリトル・シベリアって呼んでたよ。冬は寒くて夏は暑くて、囚人も看守も州内からゴミが吹き寄せられたみたいだったってさ」

 

 ダネモラ刑務所――正確にはクリントン刑務所――は、男性重罪犯用の州立刑務所だ。そこが厳しい所だって話は、善良な市民たちも含めて誰もが知っている。

 

「ファウナはマフィアとしての後ろ盾があったし、伝手もあったから、所長を買収して囚人としては結構な暮らしを送ってたけど、それでなお、そう言うんだよ。クロニーが失脚した後にぐらが放り込まれたら、どうなるかな?」

 

 紫煙の向こうで愉し気に、アイリスは目を細めた。

 

「女囚区には、たとえ所長でも看守長の許可無しじゃ入れないけど、それは規則の話。ぐらは警官なんだから、あの中には恨みがある連中が、いっぱいいるんじゃないかな。しかもあそこは元々犯罪者精神病院だったから、ぐらみたいな身体でしか勃たない連中なんかもぶち込まれてるわけだし」

「やめて」

 

 自分でもそれとわかるほど震える声で、私は口を挟んだ。

 

「わかったから、お願いだからもうやめて......」

「そう?」

 

 そのにんまりとした悦楽の表情を殴りつけたくてしょうがなかったけれど、まさか実行に移すわけにはいかない。

 コートから煙草の箱とマッチを出して、キャメルを口に銜える。紙マッチを擦ろうとするけれど、手が震えて上手くいかない。

 

「はい、火」

 

 アイリスが自分のジッポを点けて差し出してきたけれど、無視した。誰のせいだと思ってるんだ。

 

「あっつ!......」

 

 親指を火傷しそうになりながら、なんとかマッチを擦って、キャメルに火を着ける。トルコ莨の乾いた風味とニコチンも、私の動揺を完全に鎮めてはくれなかった。

 黙々と喫っては吐いてを繰り返していると、アイリスが静かに言った。

 

「とにかく、このままいくと、ぐらのダネモラ送りは確実なんだよ。別にあなたの協力がなくたって、遅かれ早かれ私たちはクロニーを潰すからね」

 

 ぷかっと自分の煙草を一服して、アイリスは続けた。

 

「ただ、当然早く片付くならそれに越したことはない。でしょ? あなたは間違いなく、私たちが一年かけて集める証拠を一週間で持って来れる位置にいる。あなたが協力してくれるなら、私が上に掛け合って、デューイとラ・ガーディアがぐらに手を出せないようにしてあげられる。FBNはぐらに大した興味を持ってないし、IRSは追徴課税ができればそれでいいみたいだから」

 

 キャメルは早くも、指のあたりまで燃えてしまっていた。もう一本取り出し、ちびた方から火を移す。

 新しい一本を一服してから、私は肚をくくった。選択肢など、あってないようなものだ。

 

「わかった、やるわ」

「ほんと? 助かるよ」

 

 アイリスはにっこり笑った。天使のような笑顔だけれど、私にとっては悪魔以外のなにものでもない顔だった。

 

 

 



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The Stamp-Ralley

 Oct. 25th, 1943, Amelia's Office, Midtown South, NYC

 

 その日はもう店仕舞いにしようとしていたところだった。電話はチンとも鳴らず、懸案の依頼などもなく、依頼人が来る約束もなく、オフィスで暇を潰しただけの一日を終え、まさに事務室から出ようとしたところで電話が鳴った。

 一瞬私は戸口で、このまま出て行くか電話を取るべきか悩んだ後、部屋に戻って受話器を取り上げた。

 

「はい、こちらワトソン探偵社(エージェンシー)です」

"こんばんは、アメ"

 

 電話の向こうから聞こえてきた声はまだ見ぬ依頼人ではなく、とても聞き覚えのある声だった。

 

「ハイ、アイリス。この時間は忙しいんじゃないの?」

 

 時計はもうすぐ六時を指そうとしている。ジャズ・クラブの支配人なら、どんどん忙しくなってくるはずの時間帯だ。

 

"いやあ、ちょっとアメに頼みたいことができちゃってね。これから会える?"

「いいわよ、ちょうどオフィスを閉めようとしてたところだったし。"ロスト・ヘブン"に行けばいいのね?」

"いや、私のアパートメントに来てほしいかな"

「私は構わないけれど。この時間帯にお店を空けて大丈夫なの?」

"この話をお店でする方が大丈夫じゃないから。私の家はわかる?"

「いいえ」

 

 アイリスが教えてくれたのは、レノックス・ヒルのパーク・アヴェニュー沿いの住所だった。ぐらのアパートメントの、一つ北の街区(ブロック)だ。

 

"どの建物かわかる?"

「わかるわ。あの辺りにはよく行くから」

"ああ、そう言えばあなたのガール・フレンドが72丁目の角に住んでるんだっけ。ごめんごめん"

 

 それは聞き流して、一言だけ言い置いて電話を切った。

 

「じゃあ、ニ十分くらいで行くから」

 

 

 

 6:15 PM, IRyS's Apartment, Upper East Side, NYC

 

 アイリスのアパートメントは、呆然とするほど広かった。この建物は元々、各アパートメント・ユニットがワンフロア丸ごと使っている造りだってことは知っていたけれど、アイリスのアパートメントはさらに上下の階を螺旋階段で繋いでワンユニットにしているらしい。

 私が通されたのは上階側の居間だった。アンティークの調度品に囲まれたその部屋は、いつか侵入したプラザ・ホテルの最高級スイートの応接室に勝るとも劣らない豪華さだ。なんなら単純な広さはこっちのほうが上かもしれない。

 

「ねえ、このアパートメントって何部屋あるの?」

 

 勧められた葉巻――リングにはオランダ東インド会社の紋章が描かれている――に火を着けてから、純粋な興味でそう訊いた。

 

「寝室は四部屋だよ。下に主寝室(マスター・ベッドルーム)客用寝室(ゲスト・ベッドルーム)が三つ。それからそこの厨房の奥に執事室(バトラー・ルーム)があるね」

「執事さんがいるの!?」

「今は外してもらってるけどね。ここはぐらのところと違って、ルーム・サービスが無いから」

 

 さらに説明してもらったところによれば、この階には居間の他に食事室(ダイニング・ルーム)と厨房、書斎、娯楽室(ゲーム・ルーム)映画室(ホーム・シアター)があるらしい。

 

「郊外の豪邸みたいなラインナップね......」

「これでも評議会(カウンシル)のメンバーとしては、一番狭いところに住んでるんだよ、私」

「はー......」

 

 天井から吊られている壮麗なシャンデリアを眺めながら、私は紫煙混じりのため息を吐いた。永遠に手が届かない世界だ。

 

「本題に入りたいんだけど、いい?」

「おっと、ごめんなさい」

 

 ふかふかのソファの上で座り直して、自分を仕事モードに切り替える。おうち探訪に来たわけではないんだった。

 

「あなたに頼みたいことがあるの、アメ......と、その前に一つ、正直に答えてほしいんだけど」

「なに?」

「あなた、ヤミの配給通帳(レーション・ブック)って買ったり使ったりしたことある?」

「イエス、って答えたら逮捕したりしない?」

「流石にしないよ」

 

 どことなく諦めを含んだ笑みを浮かべて、アイリスは続けた。

 

「ヤミの配給通帳とか、親戚知人から貰った配給切符(スタンプ)綴りとか、そういうのを使ったことがある人を片っ端から逮捕してたら、この街を刑務所に作り変えなきゃいけなくなっちゃう」

「ええ、あるわ」

 

 真珠湾攻撃と日本への宣戦布告を受けて、第50議会は1942年1月30日、1942年緊急物価統制法を制定。砂糖に始まって、農産品以外の様々な食料品や日用品に配給制が敷かれた。来月からは新たに食肉、獣脂、乳製品、加工食品、暖房用の薪と石炭などが統制対象になる布告が出ている。

 これらの品目を購入するには、統制価格分のお金と一緒に、必要点数分のスタンプがいる仕組みだ。スタンプの綴りは配給通帳として、月末に各家庭へ発行される。通帳一冊当たりの食品や衣類のスタンプの数は、その家庭の構成人数によって変わるけれど、燃料や機械類なんかは家庭単位で統一されている。自動車用のガソリンやタイヤのスタンプは、"自動車を使う正当な理由"が承認されなければ発行さえしてもらえない。

 

 そんな不自由な戦時経済の中では当然の結果として、違法に売却されたり偽造されたりした配給通帳が、ヤミ市によく出回っていた。そもそも配給通帳やそのスタンプは作りが粗雑で、ドル紙幣や郵便切手に比べて偽造しやすいらしい。

 他ならぬ私も去年、バワリーのヤミ市に何度か出向いて偽造スタンプを買ったことがある。余分なゴム長靴とナイロン・ストッキングを購入するためだった。どちらも物資不足で、その年の必要配給点数がとんでもなく高く設定されていて、通常の配給分ではとてもじゃないけど足りなかったんだ。

 

「まあ、あるよね......そのヤミ配給通帳だけど、誰が流通を仕切ってるか知ってる?」

「どうせクロニーでしょ」

「あたりー」

 

 それ以外には考え付かない。少なくともこの街において、他の人間がそんな美味しい商売をしようとしたら、クロニーから制裁を食らった上で横取りされるに決まっている。

 

「印刷してるのはムメイのところだけどね。ただ、誰もがヤミ配給通帳のお世話になっている以上、これでおおっぴらにクロニーを糾弾したって、国民の支持は得られない」

「それはそうでしょうね」

 

 戦時の経済統制が必要だって言うのはわかる。配給制になっていなかったら、今頃は必要配給点数じゃなくて物価そのものが、とんでもない値まで跳ね上がっていたことだろう。

 とはいえ、この寒い街ではナイロン・ストッキング、ゴム長靴、石油ストーブや灯油なんかは冬の必需品だ。買えなかった、で済ませられるものじゃない。みんな内心では、配給通帳を偽造してる人間にちょっとだけ感謝しているんだ。

 

「だから、クロニーにはもっと悪いことをしてもらう。具体的には、物価統制事務所から発送前の配給通帳を盗んでもらう。正規の通帳の発送が遅れれば、ヤミ通帳がよく売れるでしょ?」

「ええ......? そんなストレートに国民の反感を買いそうなこと、クロニーがするとは思えな......まさか」

 

 いやな可能性に思い当って、私は椅子の上で身を引いた。私を呼びつけてこんな話を聞かせる理由は、一つしか思いつかない。

 アイリスはにんまりと口の端を吊り上げて、蘭印葉巻の煙をぷかっと吐いた。

 

「そうだよ、アメ。あなたが盗むの。あなたが盗んで、クロニーに押し付けるんだよ」

「やっぱり......」

 

 私はがっくりとうなだれた。連邦施設に押し入り強盗に入る上に、それをこの街最大のマフィアのボスに擦り付けろなんて、二匹のガラガラヘビを同時に踏まされるようなものだ。

 

「泥棒の方については心配しないで。協力者を用意してあるし、あれこれ手引きしてあげるから」

「クロニーの方は?」

「それを考えるのも、あなたの仕事だよ、探偵さん」

 

 葉巻の煙とともに盛大な溜め息を吐く私を見て、アイリスは面白そうに笑い声をあげた。

 

 

 

 7:35 PM, Battery Park, Downtown Manhattan, NYC

 

 戦時中でなければライト・アップされているはずの自由の女神像は、灯火管制によってニューヨーク湾にそびえる大きな影となって、夜の闇の中に沈んでいた。湾内を行きかう船の明かりが、時折申し訳程度に彼女を照らしている。

 

「遅い......」

 

 十五分前には来ているはずの待ち人がなかなか現れず、私は思わず声に出してそう呟いた。

 夜のバッテリー公園には、デートの最初のセットとしてそぞろ歩きを楽しむカップルたちがいて、私が座っているベンチのある遊歩道を行き来していた。彼らの片割れはほとんどが帰休兵たちだ。先月イタリアが降伏したので、本国への帰休を許されたらしい軍人たちが増えていた。

 ちびたキャメルを地面に落とし、靴で踏んで揉み消しながら、彼らのどれくらいがこのまま幸せになれるんだろう、と考える。ドイツと日本は依然として戦争を続けているから、一か月もすれば彼らはヨーロッパか太平洋に送り帰されることになるだろう。次に帰って来れるのはいつだろうか。そもそも無事に帰ってくることができるのだろうか? 帰ってきた時に、彼女たちは彼らのことを忘れずにいるだろうか。

 頭を振って、軍服地のコートからキャメルのパックを取り出した。私には関係のない事だ。

 

「あ......」

 

 煙草を振り出すと、それが最後の一本だった。半分ほど残っていたはずだったけれど、この待ち時間の間に全部喫ってしまったらしい。

 

「ちぇっ、早く来てくれないと、本格的に手持ち無沙汰になっちゃいそう」

 

 パックを握り潰して放ると、くしゃくしゃになった紙の塊は放物線を描いて、夜の川へと消えていった。

 

 

 

 

 

 最後の煙草を喫い終わってすぐ、黒いコートに身を包んだ初老の男がやってきて、私の隣にどっかりと腰を下ろした。ヘリンボーンの大きくて暖かそうなコートだ。たぶんブルックス・ブラザーズあたりの品で、どう安く見積もっても80ドルはする。

 彼は懐からラッキー・ストライクのパックを取り出すと、ふと私の方に目を留めたって感じで言った。

 

「煙草を一本、いかがですか」

「いただくわ」

 

 やっとか、とは口に出さず、パックを受け取った。とんとん叩くと、紙巻煙草ではなく同じくらいの太さに巻かれた紙切れが出てくる。それを取ってポケットに突っ込むと、改めて一本取り出して銜えた。

 

「火をどうぞ」

「あら、ありがとう」

 

 差し出されたロンソンの火を煙草に移し、パックを返して一服する。

 

「......ボイラー係って連中は不真面目でしてな。何度注意しても、石炭シュートのハッチに鍵をかけ忘れるんです」

「それで、どうするの?」

「今晩8時に呼び出して、小一時間くらい説教をしますよ。そうでもしないと、怒られるのは私ですからな」

 

 愚痴を言うだけ言って男は立ち上がり、自らも煙草に火を着けながら、遊歩道を歩いて去って行った。

 私はその場に残って、紙切れをポケットから出すと、穴が開くほど見つめた。何度も何度も繰り返し読んで、間違いのないように暗記する。

 ラッキー・ストライクが短くなってくると、紙の端っこをその火口に押し付けた。ぱっと火が上がって燃えだした紙切れを片手の上に乗せて、もう片方の手で川の風から守ってやる。頃合いを見て地面に捨てると、灰と燃えかすは軽い風に巻き上げられて、公園のどこかへと飛んで行ってしまった。

 私はそれを見送ってからベンチから立ち上がり、遊歩道を横切って柵に歩み寄ると、真っ黒な女神像の方に向かって吸殻を投げ捨てた。

 

 

 

 8:03 PM, The United States Courthouse, Foley Square, NYC

 

 フォーリー広場から、新古典主義(ネオ・クラシック)高層建築の連邦裁判所庁舎とマンハッタン行政ビルに挟まれたセント・アンドリューズ広場を少し東に行き、聖アンデレ・ローマカトリック教会と連邦検事局庁舎に挟まれた狭い路地――カーディナル・ヘイズ(プレイス)なんて大層な名前が付いているらしい――を少し北に行けば、そこに連邦裁判所庁舎の裏門がある。

 この庁舎はニューヨーク南部連邦地裁や第2巡回区連邦控裁の他に、司法省の地方支部を初めとしていくつかの連邦政府の地方機関が入居していた。ニューヨーク州南部を担当する物価統制事務所もその内の一つだ。

 鉄格子の門扉の高さは大したことなく、カーディナル・ヘイズ街の人通りもほとんどなかったので、私は悠々と裏門を乗り越えて敷地内に侵入した。

 

「えーっと、あっちがトラック・ゲートで、拘置室があっちで......あった、石炭シュート」

 

 緑色のハッチはしっかり閉ざされていたけれど、取っ手をひっぱると簡単に開いた。果たして本当にボイラー係の不注意なのか、あの協力者――たぶん警備を担当する連邦保安官事務所の人間だろう――の仕業かはわからないけれど。

 中に入ってハッチを閉め、傾斜のきついシュートを降りると、むっとした熱気に包まれた。たまらずコートを脱いで腕にかけ、道を進む。

 山積みにされた石炭の山を下ると、そこはボイラー室だった。暖房用の蒸気を作るために、巨大なボイラーがごうごうものすごい音を立てていて、耳がおかしくなりそうだ。

 

「ボイラー係は......いないみたいね」

 

 夜通し石炭をボイラーの投げ込む係は見当たらなかった。今頃上の方の階で、長々としたお説教を受けているんだろう。

 ボイラー室を出て鉄製の階段を地下二階に上がると、タイル張りの廊下を抜けて階段室に入り、二階を目指す。アイリスによればそこに物価統制事務所の製冊室があり、印刷局から送られてきたスタンプ綴りと表紙裏表紙などをそこで通帳に製冊して、下のトラック・ゲートから各地の配給委員会に配送するらしい。

 そしてそこの金庫には、来月から発行される四号配給通帳の、製冊待ちのスタンプ綴りが保管されているそうだ。これの配送が滞れば、11月からお肉や脂や、薪や石炭に必要になる新しいスタンプが手元に届かないって事態になる。ヤミ市は潤うだろうし、"誰の仕業"か公表されれば、クロニーはニューヨーク市民の怒りの渦に巻き込まれることになるだろう。

 

「まったく、ひどいことを考えるものね......」

 

 クロニーに同情しているわけではない。この作戦の一番の被害者は、当局の策謀の巻き添えを食って配給通帳の配送が遅れる市民たちだろう。私もその手先を務める以上、あまりどうこう言える立場じゃないけれど。

 

 階段室のドアを細く開けて、廊下の様子を窺う。話し声一つ、物音一つしない。エレベーター・ホールに出ると、案内図を見上げた。

 

「製冊室......製冊室......あった。角を曲がって、右から三番目か」

 

 ちょうどトラック・ゲートがある搬出入室の真上に位置している。とすると、搬出入室への専用の階段とか通路がありそうだ。脱出路にちょうどいいかもしれない。

 私はリノリウム張りの廊下の上を、ゴム底の靴で足音を立てないようにゆっくりと歩いて、製冊室へと向かった。

 

 

 



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The Stamp-Ralley #2

 Oct. 25th, 1943, United States Courthouse, Foley Square, NYC

 

 私はレーク・ピックとレンチを使って、製冊室のドアの錠をこじ開けた。

 

「連邦施設なんだから、もうちょっといい錠を使ってると思ってたんだけど。ちょっと拍子抜けね」

 

 さすがに金庫は、こう一筋縄ではいかないだろうけれど。

 部屋の中に入ると、後ろ手にドアを閉めて錠を下ろす。電灯を点けたり、懐中電灯を使ったりはしない。ドアの隙間や窓から、明かりがこぼれてしまうからだ。次の巡回は小一時間後だけれど、何かの拍子に誰が通るかわからない以上、余計な危険を冒す気はなかった。幸いにも製冊室は裏門の近くにあって、門の保安灯と街灯の明かりが外から射し込んでいた。

 部屋の奥の方に薄い壁と鉄格子で仕切られた一角があり、どうやら金庫はそこにあるらしい。目につく範囲には見当たらないし。いくつものデスクや作業台の間を縫ってそこにたどり着き、格子戸の錠前と対峙した。

 

「ふむ、入り口の錠よりはマシね」

 

 レーク・ピックでは無理、と判断した私は、腕にかけていたコートのポケットから革製のケースを取り出した。探偵の必需品、ロックピック・セットだ。今やってることはコソ泥に近いけれど。

 フック・ピックとハーフ・ピックを使い分けながらシアーを揃えていくと、四十秒ほどでカチャリと音がしてタンブラーが回った。悪くない錠だけれど、私の敵ではない。

 果たして仕切り部屋の中には、立派な床置き金庫が一台、どんと置かれていた。

 

「あったあった、この金庫ね。メーカーは......ブローニングか。しかも面白そうなものが付いてるわね」

 

 扉の周りをさっと触ると、明らかに後から取り付けられたらしい、一対の樹脂製の小さな箱が指に触れた。扉の端と金庫の枠に一つずつ、隣り合わせに貼り付けられている。枠側の箱からは電線が出て、壁を伝って天井へと消えていた。

 私は方位磁針を取り出すと、その箱に近づけて示度を見た。

 

「やっぱり、磁石を使った開閉検知器ね。この線は守衛室かどこかに繋がってるのかな」

 

 電線を切ってしまうわけにはいかない。金庫の扉を開けたら――つまり一対の箱がお互いに離れたら――回路が遮断されて、親機がそれを検出することで開閉を検知する機構になっているはずだ。だから電線を切っても、扉を開けた時と同じ反応が出てしまう。

 

「そんな子はこーやって......おやすみなさーい」

 

 私は電線がある側の箱に、持参した磁石をセロファン・テープで貼り付けた。これで上手くいくはず、たぶん。

 

「今日は番号がわかってるから、ちょっとおたのしみが半減ね」

 

 協力者は、ダイヤル錠の組み合わせ番号も教えてくれていた。暗記したその通りにダイヤルを回す。指先に感じるディスクの引っ掛かりからして、間違いなくしっかり覚えていたようだ。

 最後の相手はタンブラー錠だ。

 

「レバータンブラー錠か......」

 

 ピンタンブラー錠に比べて旧式な錠前だけれど、精緻なレバータンブラー錠のピッキングはピンタンブラー錠のそれよりも困難だ。そのためこの通り、金庫錠などにまだまだ需要がある。かのチャブ式検知錠もレバータンブラー錠だ。

 ロックピック・セットからカーテン・ピックを取り出して、鍵穴に挿し込んで回し、邪魔なタンブラーを開く。カーテン部分から二本のワイヤーを差し込み、一本でストンプをレバーに引っ掛け、もう一本でレバーのポケットを探る。

 金庫錠だけあって、その錠前の造りはかなり緻密かつ悪辣だった。とはいえ私だって、これまで少なくない数の金庫を破ってきている。ワイヤーをせっせと動かし続けて、二十分ほどで屈服させた。

 ピックとワイヤーを一周させて鍵穴から抜き取り、ハンドルを回すと、がこっと重々しい音がしてデッドボルトが外れた。分厚く重い扉を引き開ける。

 

「あったあった......"戦時配給通帳四号(WAR RATION BOOK FOUR)"、これで間違いないわね」

 

 金庫の中には配給切符(スタンプ)綴りの束、表紙の束、裏表紙の束がぎっしりと詰め込まれていた。表紙に書かれている文字を読んで、来月から発行されるお目当ての品であることを確認する。

 金庫の横には、大型の書類鞄(ブリーフ・ケース)が二つ置かれていた。これも例のおっさんの手引きだ。鞄を開き、金庫の中の紙束をどんどん詰め込んでいく。

 

「......流石に全部は入らないか」

 

 鞄はあっという間にぱんぱんになってしまった。金庫の中にはまだ、二割ほど残っている。

 

「いくらかはポケットに入るわね......よし」

 

 ポケットというポケットにも詰め込んで、金庫の扉を閉める。明日この金庫を開けた職員は、一目で盗難に気付くだろう。ハンドルを回してボルトを下ろし、ダイヤル錠をリセットする。タンブラー錠は面倒臭いので放置だ。磁石もテープごと剥ぎ取って、ポケットにおさめる。

 続いてポケットから懐中時計を取り出し、近くの作業台の下へ滑り込ませる。これはクロニーのところの正規構成員だけが持っている金時計らしい。純金で、サイズの割りにずっしり重く、蓋には8の字をえがく東洋の竜が彫られている。"ロスト・ヘブン"に置き忘れられたものを、アイリスがこの日のために保管していたのだとか。

 

「仕込みは完了っと。後は無事に帰るだけ......」

 

 格子戸を開けて仕切り部屋出ようとしたときだった。かちゃかちゃという金属音が、遠く離れた廊下とのドアから聞こえてきた。誰かが鍵を開けようとしている。私は慌てて格子戸を閉め直し、仕切り壁の陰に隠れた。ドアはすぐに開いて、男の声が二人分聞こえてきた。

 

「ほら、早く取りに行け」

「悪いね、ホントに」

 

 一人がどすどすと歩いてこっちに向かってくる。もう一人は戸口に残っているようだ。私は必死に息を殺して、スカートをめくって25口径コルト・ベストポケットの銃把(グリップ)に手をかけた。もちろん発砲は最終手段で、脅しにだけ使うつもりだ。でも戸口の一人はたぶん、庁舎警備担当の連邦保安官補だ。間違いなく銃を持っているだろう。撃ち合いだけは避けたいところだけれど......

 男の足音は、仕切り部屋から五メートルほど離れたところで止まった。デスクの抽斗を開け、なにやらがさごそやる音が聞こえる。

 

「......あーくそ、ねえなあ」

「車の中はちゃんと探したのか?」

「そりゃ探したさ。くそったれ、こんな天気で野宿はごめんだぞ」

 

 抽斗を開け、引っ掻き回しては閉める音が何度かしてから、探し物をしているらしい男が言った。

 

「なあ、そっちの仕切り部屋も見たいんだけど、開けてくれねえか?」

 

 どきりと心臓が跳ねた。くそ、二人一緒に来られるのはかなりマズい。

 

「ダメだ」

「なんでだよ、ちょっとくらいいじゃねえか」

「そこの鍵は持ってないんだ。ターナー統括の許可がいるし、統括はここの所長に電話して、許可をもらわなきゃいけない。お前が代わりに、一家団欒中の所長に電話してくれるならいいが」

「わかったわかった、いいよ。くそ、今日はどっかの安宿(フロップ・ハウス)泊りだな......」

 

 ぶつぶつ言いながら、男は戸口に向かった。

 

「カミさんがまだいてくれりゃ、こんなことにはならなかったんだが......」

「ほら、閉めるぞ。さっさと出ろ」

 

 ドアがばたんと閉まり、がちゃりと鍵がかかる音がした。すり減った靴とゴム底の警官靴の音が、廊下を遠ざかっていく。

 

「......ふはー」

 

 私は止めていた息を一気に吐き出した。グリップを握っていた手を離し、べたつく手汗をスカートで拭う。

 

「もうだめかと思った......」

 

 念のために仕切り壁のかげから片目だけを出して、製冊室の様子を窺う。誰もいない。

 ほっと一息ついてから書類鞄を両手に提げ、仕切り部屋を出て格子戸を閉める。ピックとレンチで手早く施錠してから、そばにある"搬出入室"と書かれたドアに向かった。

 内側からそのドアの錠を外して製冊室から出ると、そこはせまい階段室だった。下の搬出入室に直接つながっているらしい。

 ドアには仮締(ラッチ)錠だけが付いていたので閉まるに任せて、階段を降りる。下は広々としたトラック・ゲートになっていた。横幅の広いシャッターがいくつか並んでいて、一番端に通用口らしいドアがある。錠を外してそこから出ると、そのドアは鍵をかけずにおいた。ここから侵入したと思ってくれれば、協力者のおっさんにあまり疑いの目がいかずに済むかもしれない。

 レーク・ピックを使って、いかにもこじ開けたっぽい傷痕を鍵穴周辺に残してから、私は鞄両手に悠々と裁判所の敷地を後にした。

 

 

 

 9:09 PM, Krono Tower, Financial District, NYC

 

 それからしばらくして、私はクロノ・タワーの地下駐車場を歩いていた。広々とした駐車場は、この時間にはすっかり閑散としていて、換気装置の音だけがごうごう響き渡っている。

 駐車場の奥の方の一画に、一台の42年式キャデラック75型リムジンが駐められていた。駐車スペースの後ろには、"バンクロニー社有車専用"と書かれた看板が立っている。このキャディはオーロ・クロニーの専用リムジンだ。

 私は後部に回り込んでロックピック・セットを取り出すと、ハーフ・ピックとレンチを使ってトランクリッド・ハンドルのボルトロックをこじ開けた。ハンドルを回して、重いリッドを持ち上げる。広々としたスペースに配給スタンプ入りの書類鞄を持ち上げて、どすんとトランクに載せる。それからポケットに詰め込んだ分のスタンプを入れたマニラ紙封筒を、二つのトランクの間に挟み込んだ。リッドを閉じて、ラッチがしっかりかかるように押しつけながらハンドルを回し、ピックでロックをかけ直せばお仕事は完了だ。

 

 駐車場を出て小雨の降る中を二街区(ブロック)歩き、ブロードウェイにある電話ボックスに入った。5セント玉(ニッケル)を投入して、AL(アルゴンキン)局の番号をダイヤルする。

 

"はい、もしもし?"

「ワトソン探偵社(エージェンシー)です。支配人に替わって」

"少し待て"

 

 ごとりと受話器が置かれて、足音が遠ざかって行った。しばらく待っているとカチリと音がして、相手が切り替え電話に出た。

 

"もしもし?"

「依頼は済んだわ。仕込みは万全、ブツは彼女のリモのトランクよ」

"オーケイ。支払いは来週するよ。いつでも好きな時にうちに立ち寄って"

「わかった」

 

 がちゃんと受話器を置いて電話ボックスから出ると、見つからないだろう空車のタクシーを探しながら、夜のブロードウェイを北へと向かった。

 

 

 

 Oct. 26th, 1943, Amelia's Office, Midtown South, NYC

 

"ニューヨーク地方物価統制局によりますと、ニューヨーク南部物価統制事務所管内の配給委員会において、戦時配給通帳四号の配送が遅れる可能性があるとのことです。この通帳は来月より有効になる新しい配給通帳(レーション・ブック)であり、この遅配によって食肉、獣脂、灯油以外の暖房用燃料などの購入に影響が出る可能性が懸念されています。物価統制局(OPA)は遅配の理由を公表していません......"

「や、ワトソン」

 

 ラジオのニュースを聞いていた昼下がり、ノックなしにドアを開けて私の事務所に入ってきたのは、親友の汚職刑事だった。

 夏場はクローゼットに仕舞い込んでいたサイズ・オーバーの青いチェスターフィールド・コートは、すでに今月の頭から戦線復帰して彼女の体をすっぽり覆っている。一目見るだけで150ドルは下らないとわかるその高級品のコートは、実のところ200ドル以上する、投擲用ナイフを半ダースも隠し持つために誂えられた代物だ。だから彼女はどこに行っても、そのコートを脱ぐことは滅多にない。

 その滅多にないことが起こる数少ない場所の一つが、私のオフィスだ。ぐらはコートを脱いで、二つある客用椅子の一つの背に掛けると、もう片方にどすんと座り込んだ。

 

「ハイ、ぐら。どうしたの? まだお昼を回ったばかりなのに、ずいぶん疲れてるじゃない」

「まあね。今日は朝からずっと振り回されててさ」

 

 ぐらはちらっとラジオに目をやった。WNYCのニュース・キャスターは、まだ配給通帳遅配のニュースを喋っている。

 

 

「その内公表されるだろうからもう言っちゃうけど、昨晩誰かが、連邦裁判所庁舎(フォーリー・スクエア)に押し入ったんだよ」

「裁判所に?」

「裁判所庁舎に。もっと言えば、そこに入居してる物価統制事務所に」

「......ひょっとして、ラジオが言ってる遅配の原因ってそれ?」

「そう。押し入りをしたやつが、保管されてた通帳を八割方盗み出して行ったの」

 

 ぐらはぐったりと椅子にもたれて天井を見上げ、私は慎重に自分の椅子に座り直した。

 

「ラ・ガーディアも"皆殺し(メセマップ)"*1も、すごい剣幕でさ。あそこは第1分署の管内だけど、市内全部の分署から盗犯に強い刑事をかき集めてる。連邦保安官は面目丸つぶれだし、連邦捜査局(フェッド)も乗り出してくるし、もう滅茶苦茶だよ」

「でもぐら、あなたって殺人課でしょ? お呼びはかからないんじゃないの?」

「まあね。"皆殺し"からは呼ばれなかったよ。ただ、呼ばれた知り合いからちょっと聞き捨てならないことを聞いてさ、さっきまでクロニーのところにいたんだよ、アタシ」

「クロノ・タワーに?」

 

 ぐらは椅子の上で座り直すと、隣の椅子のコートから喫い差しの葉巻を取り出した。抽斗から葉巻用マッチを出して、灰皿と一緒にデスクの上をぐらの方に押し出してやる。

 

「ありがと」

「どういたしまして......それで、クロニーがこの件にどう関わるって言うの?」

 

 ぐらは葉巻に火を着け直すと、何回かぷかぷか吹かしてから私の質問に答えた。

 

「関わるというか、巻き込まれたって言うべきかもね。現場に時計が落ちてたらしいんだ。こういうの」

 

 ぐらはコートの下をごそごそやって、金色の懐中時計を取り出した。私はわざと興味深げな表情をして、時計に顔を近づけた。

 

「すごい時計ね、これ。この彫られてるのは蛇?」

「竜だよ、東洋の。これはクロニーのところの正規構成員だけが持ってる時計なの。アタシは例外だけど、その例外は今のところ、アタシにしか適用されてない」

「これが落ちてたってことは、犯人はクロニーのところの人間ってこと?」

「アタシもそう思ったから、クロノ・タワーに行ったんだよ。でも、違うみたい」

「なんで?」

 

 ぐらは口を開く前に、ちょっと躊躇した。私に話すべきかどうか、ちょっと悩んだ感じだった。

 

「......フェッドが出てきたからだよ。クロニーはあそこのボスに首輪をつけてるからね。フーバーの事が気に喰わないアイビー・リーグ卒のお利口さんたちが、非公式に動き回ることはあったけど、今回は公式に捜査に来てる。クロニーがやってるなら、そんなことには絶対ならない」

「なるほどね」

「それと、クロニーはアタシに捜査を命じたの。アタシと、あんたに」

「私にも?」

 

 心臓をぎゅっと掴まれたようだった。間違いなく驚愕が顔に出てしまっている。ただの驚き、とぐらが解釈してくれるといいんだけど。

 

「そう。クロニーは怒ってる。誰かが彼女を陥れようとしてるから。その泥棒をした誰かさんは、クロニーのリムジンに盗難スタンプが詰まった鞄を置いて行ったんだよ。その証拠品を素直に警察に渡すわけにはいかないでしょ?」

「まあ、そうね......」

 

 話がとんでもないことになってきてしまった。自分がした泥棒を、自分の親友と一緒に調べなくてはいけないなんて。

 ぐらは葉巻を灰皿でもみ消して、客用椅子から立ち上がった。

 

「そんなわけだから、今から一緒にフォーリー・スクエアに行きたいんだけど、都合はいい?」

「私......ええ、空いてる」

「よかった、じゃあ......」

 

 ぐらがコートを取ったところで、ドアがノックされて黙り込んだ。

 

「......お客さん?」

「みたいね。その予定はないんだけど......どうぞ!」

 

 ドアを開けて入ってきたのは、壮年の男性だった。J・プレスのものと思しき濃いグリーンの、落ち着いた背広を着込んで、黒いツイードのコートを着ている。被っていた黒いダービー帽を脱いで、私とぐらを交互に見てから言った。

 

「失礼、私立探偵のミス・アメリア・ワトソンは?」

「私です。こんにちは、ミスター......?」

「マカラスです。フランシス・ジュリアス・マカラス」

「"脅迫屋のマカラス(マカラス・ザ・ブラックメーラー)"?」

 

 ぐらが敵愾心剥き出しの声で訊いた。

 

「その呼び名は不本意ですが、そう呼ばれもしますな」

「申し訳ないんですけど、ミスター・マカラス。私たちは急用があって、出かけないといけないんです」

「おや、おや、そうですか」

 

 すげなく断られた男にしては、あまりにも朗らかな声でマカラスは言った。

 

「まあ、私としてもミス・ワトソンとは、もっと内々にお話したいところでしたからな。こちらの刑事さんはテコでも動きそうにありませんし」

 

 ぐらは一瞬ぎょっとした。彼女の名前は、この街では有名なほうではあるけれど、フィオレロ・ラ・ガーディアやジョー・ディマジオみたいに顔と名前の両方が知れ渡ってるわけじゃない。子供みたいな背丈のぐらを見て、刑事だと一発でわかるってことは、こいつは私の交友関係を調べて来てるってことだ。相手が"脅迫屋(ブラックメーラー)"の異名を取っていることを考えれば、いい兆候とはお世辞にも言えない。

 

「よければ今晩、私の家においでください。アッパー・ウェストサイドです。後悔させませんから。では、よい午後を」

 

 そう言って、彼は名刺を一枚取り出して私のデスクの上に置き、そのまま踵を返してオフィスから出て行った。

 

 

 

*1
当時の警視総監のあだ名



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The Stamp-Ralley #3

モブレ・近親相姦に関する描写・言及があります。苦手な方はお避け下さい。


 Oct. 26th, 1943, Amelia's Apartment, Tuder City, NYC

 

「まずい......どんどんまずい状況になってきてるわ......」

 

 日も暮れ始めた午後3時半ごろ、私はチューダー・シティに新しく借りたアパートメントに戻り、居間のソファに腰を下ろした。

 フォーリー・スクエアでの捜査は散々だった。探偵として見逃すべきでないものを見逃し、現場に戻ってきた犯人として気付いてはならないことに気付き、ぐらはともかくその場に居合わせた他の刑事たち――特にリーガンという、第19分署の盗犯捜査のプロらしい刑事――からとてつもなく濃い疑惑の視線を向けられてしまった。

 結局のところぐらは、私がマカラスの件で気もそぞろなのだと解釈してくれて、私を早々に開放してくれた。おかげで現状について整理して見直す時間が取れたけれど、先の展望はあまりにも悪く、頭痛は増すばかりだった。

 

「まずはクロニー。彼女はぐらが自分を裏切ってるんじゃないかって思ってる。私にぐらを監視するよう言ってきてるけど、きっと私のことも信用してはいないわね」

 

 クロニーは、私がぐらの裏切りの証拠――あるいは裏切り者でない証拠――を見つけ出せば、ぐらを赦すかもしれないと言った。でも疑心暗鬼に陥っているマフィアのボスの言葉なんて、アル中患者の「これが最後の一杯」と同じくらい信用できない。

 幸いにもこれといった期日は指定されていないけれど、いつまでもほったらかしにはできないだろう。何か対策を考えておかなくちゃ。

 

「それからアイリス。評議会(カウンシル)の相談役で、連邦捜査官。クロニーを失脚させようとしている」

 

 アイリスの立ち位置も謎だ。ぐらから聴くところによれば、彼女とハコス・ベールズはとっても親密な間柄らしい。それも偽りの関係で、アイリスはベールズをも失脚させようとしているんだろうか? それとも、クロニーを失脚させたいベールズと政府の利害が一致して、協力体制を組んでいる――あるいはアイリスが一方的に利用している――んだろうか。

 潜入捜査官とマフィアのボスが禁断の恋に陥った、という可能性は、流石にロマンチックすぎるだろう。ミュージカルや映画ならともかく。

 

「どっちもぐらを盾に、私を協力させている。そしてそのどちらも、こっちが約束を守ったからって向こうも約束を守る保証はない......」

 

 パラノイア気味のマフィアと立ち位置不明な連邦捜査官、どっちも取引相手にするには少々ならず危険な相手だ。しかも対等な取引ではない。私の方には、抵当に出来るものがないのだから。

 

「そして今度はマカラス......彼は一体、何を掴んでるんだろう?」

 

 "脅迫屋のマカラス(マカラス・ザ・ブラックメーラー)"はお金持ちの人々を相手に、醜聞――若い日のやらかしとか、不倫、同性愛、サドマゾ、共産主義やナチズムへの傾倒などなどアメリカでは致命的な諸々――をネタに強請りをかけるのが普通だ。私みたいな木っ端探偵はお呼びじゃないはずなんだけど。

 

「気に喰わないわ......腹に一物あるのがわかってるのに、それが全然読めないのがとっても気に喰わない」

 

 今夜、彼の家でそれがわかるだろう。その時が手遅れでなければいいんだけれど。

 

 

 

 10:30 PM, McArras's Resident, Upper West Side, NYC

 

 マカラスの家は、古くからの家々が立ち並ぶ西83丁目にあった。褐色砂岩(ブラウンストーン)の二階建てで、生垣で囲まれた広い庭付きの家だった。

 

「ああ、いらっしゃい。待ってましたよ」

 

 呼鈴に応じてドアを開けたのは使用人ではなく、喫煙服姿のマカラス本人だった。広々とした玄関ホール(ホワイエ)に隣接する応接室に通されると、私は腰を下ろすよりも先に口を開いた。

 

「それで、話というのは?」

「おや、おや。そんなに急くことはないじゃありませんか。まあそこのソファに座って。ブランデーなどいかがです?」

「いいえ結構」

「そうですか? まあ、私は一杯やらせてもらいますがね」

 

 マカラスは自分の飲み物を作ると一旦奥のデスクに立ち寄り、マニラ紙の紙挟み片手に戻ってきて、私と対面するソファに座った。

 

「さてさて。あなたはすっかり焦れてしまっているようだから、さっそく本題に入りましょうか。ウィリアム・ヘンリー・ゴールドバーグという弁護士をご存知かな?」

「......名前だけなら」

 

 名前だけなら、知っていてもおかしくない。ぐらから聞いたとか何とか、言い訳はいくらでもできる。

 

「悪徳弁護士だと聞いたことがあると思うわ。そのゴールドバーグ先生が、何か?」

「悪徳弁護士ね。まあ、そうでしょうな。彼は顧客から......あるモノを預かっていて、それを横取りして強請りを働こうとしたんですな。ところがなんと、そのモノが預け先の貸金庫からまんまと盗まれてしまった。翌日に彼は失踪し、いまも見つかっていません。もう生きちゃおらんでしょう」

 

 マカラスは太くて長い葉巻に火を着け、すぱすぱやった。ぐらが喫っているのと同じ、ダンヒルのキューバ葉巻だ。

 

「この賊は女でしてな。精緻に偽造されたゴールドバーグの自筆委任状を持参して、貸金庫を開けさせたんです。あの銀行には知り合いがいましてね、彼が色々と興味深い話をしてくれたんですよ」

 

 そう言うと、マカラスは紙挟みから一枚の紙を取り出した。感光紙の中央に、ニューヨーク州陸運局発行の運転免許証がコピーされている。

 

「手続きによって、銀行はその女の免許を謄写してました。銀行としては、泥棒が入ったことを公にしたくはないが、それはそれとして何らかの手を打たなければまずい。それでお抱えの探偵を使って、その女を調べたわけですな。ところが、ロチェスター市のその住所に行って調べてみると、リンディ・オーティス・ウィルソンという女は故人だったことがわかりました。二十年以上前、二歳の時に階段から落ちて死んでいたんです」

「それは悼ましいことね」

 

 私は足を組み替え、疑念の表情を浮かべてマカラスに訊く。

 

「けれど、それが私とどんな関係が?」

「まあまあ、話は最後まで聴くものですよ......銀行の方ではそれ以上追えないというので、その知り合いはこの話を、ネタとして私に提供したわけですな。歩く死人とは興味深いでしょう? それでまず、私は免許証の偽造を疑いました。ところが陸運局の知り合いに訊いてみたところ、これは正真正銘本物の免許証でした。発行手続きには社会保障カードが使われていたので、今度は地方社会保障局の知り合いに当たりました。そして彼女が、モンロー郡公文書館から出生証明記録の謄本を取って、それを社会保障局での手続きに使っていたことを突き止めたのです」

 

 テーブルの上に、もう一枚の書類が加わった。ロチェスター総合病院発行の出生証明書のコピーに、モンロー郡公文書館の交付スタンプが押されたものだ。

 

「私の部下の男が公文書館に向かい、この謄本が本物であることを確認しました。あなたも私立探偵ならおわかりでしょうが、故人の出生証明記録の交付申請は、相続やらなんやらの手続きで珍しくありませんからな」

「ええ、そうね」

「で、その男は公文書館から出た時、あることに気付きました。駐車場の向かいのアパートメントから、彼をカメラで撮っていた人物がいたのです」

 

 つうっと、背筋に寒いものが流れた。

 

「そこで彼はそのカメラ男を訪ね、あまり紳士的でない態度と、いくらかの金を掴ませて話を聞き出しました。彼はそうやって、よそからやってくる車を撮影するのが趣味だったわけです。公文書館がいつ謄本を交付したのかはわかっていますから、後は簡単でした」

 

 出生証明書の上に一枚の写真が置かれた。見覚えのある駐車場、旧式のフォード、そこから降りる金髪の女。通りに目を走らせるその顔はばっちり写っていて、それはアメリア・ワトソン以外にあり得ない。

 がっくりとうなだれた私に、マカラスは愉し気な声で追討ちをかけた。

 

「あるいは、中央郵便局の知り合いとの話もしましょうか? 件の免許証と社会保障カードの送付先になっていた私書箱の、契約者の身許を聞き出した話を?」

「いいえ、もう結構」

 

 絶望と安堵がないまぜになった気分で、私は訊いた。

 

「それで、私に何を望むの?」

「おやおや?」

 

 マカラスは、まるで鼠をいたぶる猫のような笑顔を浮かべて、私の安堵を消し飛ばす言葉を続けた。

 

「話は最後まで聴くものだと言ったでしょう? これはまだ、あなたに興味を抱いたきっかけにすぎないんですよ......」

 

 冗談でしょう。やめて。これ以上は本当にやめて。

 けれどそれを口に出すことはかなわず、マカラスは話し続ける。

 

「リンディ・ウィルソンの身許を辿った時と同じように、私はあなたの身許を辿りました。これも偽物だったらたまりませんからね。幸いにもこちらは本物で、ネブラスカ州スワードまで辿れました。あなたは早くにご両親を亡くされたのですね」

「ええ、そうよ......」

 

 喉が渇いてたまらない。頭がくらくらする。爬虫類のような光を放つマカラスの目から、視線を逸らすことができない......。

 

「それであなたには後見人が付いた。お父様の雇い主だった、銀行の頭取で、州上院議員のお人が。私が知りたいのは――」

 

 テーブルの上に一枚の書類が滑る。聖エルジェーベト病院発行の出生証明書。

 

「そのような州政界の重鎮が、どうして妻を差し置いて自らの被後見人に手を出し、当時十四歳のあなたに子供を産ませたのか、ということです」

 

 

 

 

 

「......違う、違うの」

 

 マカラスの最後の質問からかなりの時間を経て、私はようやく絞り出すように言った。

 

「違う、とは?」

「その子は確かに私の子よ。でも父親は......父親はギリアム先生じゃないの」

「では、誰なんですか? 未成年のあなたに子供を作らせた罪深い大人は?」

 

 その言葉は、明らかに答えを知っている人間のものだった。こいつはただ、答え合わせがしたいだけなのだ。

 

「......父よ」

 

 

 

 

 

 病気がちだった母親は、私が六つの時に死んだ。私は母の面影をかなり色濃く受け継いでいて、父はことあるごとにその事に触れ、私を可愛がり、愛情をこめて育ててくれた。

 しかしいつからかその愛情は、子供に対するそれではなくなっていった。初潮が来て、性徴を迎え、体つきが女らしくなってくると、父が向けてくる視線に込められたものが、どんどん変質してきているのが厭でもわかった。本当はその時に拒絶するべきだったのかもしれない。

 

 十四歳の誕生日に、父は私を抱いた。母の名を呼びながら私を抱き、私は抱かれながら父を"パパ"ではなく名前で呼んだ。痛みと不快感しかない行為をなんとか耐えきれたのは、男手一つで私を育ててくれた父への感謝と、健気な親への愛情がなせる業だった、と今では思う。耐えきれなければよかったのに、とも思うけれど。

 私のお腹が膨らみ、その内に生命が宿っていることがわかると、私は産みたいと言い、父は堕ろさせようとした。初めて明確に対立した父娘は言い合いになった。父は娘の腹を殴り、激怒した娘は包丁で父を刺した。

 

 かくしてアメリア・ワトソンは十四歳にして孤児となった。その胎に罪深い命を宿したまま。

 

 

 

 

 

「ギリアム先生は全部なかったことにしようとしたわ。自分のところの従業員が近親相姦してたなんて、政治家としては醜聞もいいところだから。検屍官を抱き込んで、父の死を事故に偽った。でも、赤ちゃんはもう、堕ろすには大きくなり過ぎていたの」

 

 床の絨毯を見つめたまま、私はしゃべり続けた。

 

「ギリアム夫人は、私の事情を知ってとても同情してくれた。赤ちゃんを産むにあたって、父親の欄にギリアム先生の名前を入れることを黙認してくれたわ。素直に父親の名前を書いたら旦那がスキャンダルまみれになるから、そうせざるを得なかったとも言えるけれど」

「なるほど、なるほど。つまりギリアム上院議員は、君にとって大恩ある人物というわけだな」

「ええ」

 

 そしてその先生に迷惑をかけたくなかったからこそ、私は高校を出るなり早々に故郷を捨て、ニューヨークへやって来たのだ。誰も私のことを知らない、興味も持たない大都会へ。

 

「だが、この出生証明書がしかるべきところに送られた場合、どうなるかな?」

「......何が望みなの?」

 

 私は目を上げ、前髪越しにマカラスを睨みつけた。

 

「なに、私のために働いてもらいたい、それだけだよ。君は腕のいい探偵だ。私のように顔と伝手の広い人間でなければ、あの免許証から君にたどり着くことはとてもできないだろう。そんな偽の身分証を作れるだけでも大したものだ。私の仕事は、お抱えの探偵が何人いても困らないからね。むろん、タダ働きはさせん。報酬は払うとも」

 

 爬虫類のような目が、私を見つめている。まだある。まだ何か、ある。

 

「ところで、私の部下は男ばかりでな。こんな仕事だと女を作るのも難しいし、娼婦を買うのはリスクが高すぎる......だが君なら、期待できそうだ」

 

 それは考え得る中で、一番最悪の要求だった。

 

 

 

 Oct. 27th, 1943, Central Park West, Uptown Manhattan, NYC

 

 早朝で人通りのほとんどないセントラルパーク・ウェストを、アメリア・ワトソンはおぼつかない足取りで南に向かっていた。髪の毛はぼさぼさで目は虚ろ、頬には涙が垂れた痕が残り、口の周りにはがびがびに乾いた液体の痕跡がある。シャツには皺が寄り、ボタンはちぐはぐに留められ、赤いタイは歪み、ハイウエスト・スカートは一番上のボタンだけで辛うじて締められている。よろめき歩く彼女の腿には、ねっとりとした液体が一筋垂れていた。

 

 コロンバス広場(サークル)までやってくると、彼女は屈みこみ、歩道に嘔吐した。胃の中にもともとあったものはとうの昔に全部出してしまっていて、出てきたのは胃酸だけだった。それでもなお、彼女の鼻の奥には栗の花のような臭いが残っていて、それが彼女に絶え間ない嘔吐感を与え続けていた。

 しばらくえずいてから、彼女はふと顔を上げた。広場から東に延びるセントラルパーク・サウスの方を見やって、回らない頭でしばらく何事か考え込んでいた。

 

 やがて彼女は、何かに引き寄せられるように朝日の昇ってくる方角へ向きを変え、通りをレノックス・ヒルへと歩いて行った。

 

 

 

 5:30 AM, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

 その日、アタシは珍しく早起きだった。普段は夜の"ザ・ステム(ブロードウェイ)"を跋扈する路上犯罪者どもを二時ごろまで相手にしているか、夜遅くまで殺人事件の捜査をしているかで、朝早くに目が覚めることはめったにない。

 昨日アメリアのところに訪れた"脅迫屋(ブラックメーラー)"のことが気になって、あまり眠れなかった、というのが本当のところだ。

 配給スタンプ泥棒の捜査もあるし早めに出るか、と考えて、熱いシャワーを浴びて目を覚まし、トーストと卵とコーヒーで朝食にして、出るためにコートを着たまさにその時、電話が鳴った。

 一瞬、無視して出勤しようかと思ったものの、鳴っていたのは内線のベルだったから、あきらめて受話器を取った。

 

「はい、もしもし」

"おはようございます、ミス・がうる。こちらはフロントです"

 

 ベル・キャプテンのスタンレーだった。

 

「おはよう、スタン。何か用事?」

"はい。ミス・ワトソンがお見えです"

「ワトソンが?」

 

 きゅっと心臓を掴まれた感じがした。彼女が自分から、予告も無しにうちにやって来るなんて、普通なら嬉しいところだけれど、状況を考えると悪い予感しかしない。

 

「通して」

"実のところ、もうお通しいたしました。ミス・ワトソンはその......大変憔悴なさっているようです"

「わかった。ありがとう、スタン」

 

 電話を切って、足早に玄関を出てエレベーター・ホールに向かった。

 

 

 



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The Stamp-Ralley #4

モブレ・近親相姦に関する描写・言及があります。苦手な方はお避け下さい。
今回投稿分にはかなり直接的な性的描写があったため、該当する部分をPixiv版より300字ほど省略して投稿しています。ご了承ください。


 Oct. 27th, 1943, Gura's Apartment, Upper West Side, NYC

 

 リフト・ガールがエレベーターのドアを開けて、最初にケージの中のアメを見た時、アタシを襲ったものはショックだった。

 第14分署や第16分署の警官たちが相手にする、タイムズ・スクエア周辺のごろつきたちの中には、お上りさんの田舎娘たちを引っ掛けてヤリ捨てにしようと考えてる輩も多い。基本的には、そういう連中が獲物を見つける前に釘を刺すのが警察(アタシたち)の仕事なんだけど、手遅れになってしまうことも少なくない。

 ケージの中で立ち尽くすアメリアの様子は、まさにそんな"引っ掛けられた女"そのものだった。

 

「......ぐら」

 

 惚けていたような空色の目がアタシをとらえ、そして逸らされた。

 

「ごめん......ごめん、私、来るべきじゃなかった」

「ワトソン」

 

 アメリアが一歩下がり、アタシはケージの中に踏み込んでそのお腹に抱きついた。むっとする臭いが鼻を突く。アメの汗の匂いだけじゃない。中年か、それ以上の男の饐えた体臭と、それをごまかす為らしいオーデ・コロンの臭い。そして、かなりきつい精液の臭い。

 

「デイジー、一階上に上げて」

「かしこまりました」

 

 リフト・ガールのデイジーは、少なくとも精液の臭いは確かに嗅ぎ取っているはずだけれど、この建物の従業員に相応しく超然的な無表情を保ってドアを閉め、ケージを7階に上げてから再度ドアを開けた。

 

「ありがと。ほら、ワトソン、降りるよ」

 

 ふるふると震えているワトソンの腰を抱きしめたまま、7階の廊下に降りる。コートのポケットから鍵を取り出し、6/7Dの勝手口ドアを開けた。そこは家事室(ユーティリティ・ルーム)で、アタシ自身よりも客室係が使うことの方が多い部屋だけれど、れっきとしたアタシのアパートメントの一室だ。

 

「服脱がすよ」

「やだ!」

 

 ハイウエスト・スカートを辛うじて腰に留めているボタンを外そうとしたとき、初めて明確に拒絶された。でも、ここで止まるわけにはいかない。

 

「だめ」

 

 無情に短く言ってアメの手を振り払い、ボタンをはずしてスカートを下ろし、傍らの洗濯カゴに放り込む。

 

「やっ......」

 

 スカートの下のナイロン・ストッキングは、股布(クロッチ)の部分がずたずたに裂かれていた。

 

<略>

 

 腹の底でぐつぐつ煮えたぎるものをなんとか抑え込みながら、ストッキングも脱がせてゴミ箱に投げ、ちぐはぐにかけられたシャツのボタンも全部外して脱がせた。

 

「......」

 

 耐えきれず鼻から荒い息を吐き出すと、アメは目を伏せて床のタイルを見つめた。

 下着のシュミーズは引き裂かれて、片方の肩紐だけでなんとか引っかかっていた。もう片方は付け根から引きちぎられて垂れ下がり、そちら側の乳房を隠しきれていない。

 シュミーズの下の肌は生々しいキスマークだらけだった。汗と臭い唾液でべとべとで、乳首の周りには赤い噛み痕すらある。貪られた、という表現があまりにもしっくりきてしまう状態だった。

 そして左腕には、赤いポツリとした傷跡があった。皮下注射の痕だ。

 アタシは家事室から続いている主浴室(マスター・バスルーム)に入ると、ガラス張りのシャワー(ブース)にアメを押し込み、お湯の栓を全開にしてから一旦家事室に戻った。従業員用の壁掛け電話機から受話器を取り、ベル・デスクのボタンを押す。

 

"......ベル・デスク、スタンレーだ"

「スタン? アタシ、ぐら」

"大変失礼いたしました、ミス・がうる"

 

 口調が一瞬で、部下向けのものから入居者向けのものに切り替わった。普段なら切り替えの早さに感心するところだけれど、アタシにそんな心の余裕はなかった。

 

「大至急ベルマンを誰かアタシの車にやって、トランクに入ってる鞄を持って来させて。濃いブルーのやつ。鍵は預けてるキーに一緒に付いてるから」

"かしこまりました"

「お願い。それと、鞄は7階のユーティリティに置かせて」

 

 電話を切って、鞄を持って来るベルマン用のチップとして25セント銀貨(クォーター・ダラー)をアイロン台の上に置き、さっき着込んだばかりのコートとスラックスを脱いで下着姿になると、浴室に戻った。

 アメは降りかかるお湯を浴びながら、ブースの中でぼうっと立ち尽くしていた。

 

「洗うよ、ワトソン」

 

 そう声をかけても、アメは小さく頷いただけだった。

 

<略>

 

「......よし、じゃあ身体を洗うよ」

 

 お湯をいったん止めると、大きなボディ・スポンジを使ってアメの体を泡だらけにして、ごしごし擦った。さらに顔も泡で覆って、汗と脂と、口の周りの乾いた反吐と精液もしっかり擦り落とす。これで石鹸は麦粒サイズまで小さくなっちゃったけど、構うもんか。石鹸くらい、ヤミ市に行けば簡単に手に入る。

 さらにシャンプー――これも物価統制の対象で、ヤミ市でもちょっと入手は難しいけど、いまアメの髪に石鹸を使うなんて論外だ――をたっぷり使って、汗と固まった体液に塗れてぼさぼさだった髪の毛を綺麗にしていく。

 アメを頭のてっぺんからつま先まで、文字通り泡塗れにすると、もう一度お湯を出して洗い流した。泡と汚れを擦り落とし、排水口に追い立てるとお湯を止めた。

 バスタオルの一枚でアメの体の水気をざっと拭い、二枚目で髪の毛の水気を取り、髪をまとめて三枚目で包んだ。

 

「よし。アメが前来た時の歯ブラシがそこにあるから、歯を磨いて、嗽をしなよ。歯磨き粉もリステリンも、好きなだけ使っていいから」

 

 こっくりと頷いたのを見て、アタシは家事室に戻った。濡れたバスタオルを洗濯カゴに入れ、山積みのリネンに歩み寄ると、それに両手を振り下ろした。ぼすんと大きくこもった音がした。

 

「すぅ......ふーっ......」

 

 リネン相手に暴力を振るい、深呼吸をしたけれど、下腹部で暴れる癇癪は全然治まらなかった。染み抜き用の流しに向かい、蛇口をひねって水を出し、冷たい水に自分の頭を晒す。耳の外を流れる水の音を聴いていると、ようやくだんだんと落ち着いてきた。物理的に頭を冷やすのは、やっぱり効果がある。

 水を止めて身を起こし、さっきアメの髪を拭いたバスタオルを洗濯カゴから取って、自分の髪にも使った。

 スタンに頼んだ鞄は、目立つようにアイロン台の上に置かれていた。これには捜査に使う道具色々が入っているけれど、アタシは他の刑事たちが普通入れてないものも入れている。

 鞄を開いて、緑色の硝子壜と注入器、アルミ箔の小袋二つを取り出した。硝子の注入器の先端を"婦人衛生用*1リゾール"のラベルが貼られた壜に入れ、クレゾール石鹸水溶液を規定の目盛りまで吸い上げる。アルミ袋を破って生理用のタンポンとパッドを取り、注入器と一緒に持って浴室に戻った。

 アメは洗面台で、ぐちゅぐちゅ音を立てて口を漱いでいた。リステリンをどれだけ使っても、鼻の奥の精液の臭いは完全には消えてくれない。特に望まない口淫(フェラチオ)を強いられた後では、その臭いは物質的にも心理的にも長く残り続け、彼女の精神を蝕み続ける。

 アメは鏡越しにアタシを認めると嗽を止め、口の中のものを吐き出して振り返った。

 

「ぐら、それは......」

 

 アメは両腕で身体を抱くようにして、恐怖を湛えた目でアタシを見た。少しして、アタシはアメが何に怯えているのか察した。

 

「大丈夫、これは注射じゃないよ。ワトソン、さっきの椅子に、さっきみたいに座ってもらえる?」

「......やりたくない」

 

 なんとなく、それが何に使われるのか悟ったらしく、アメは目を伏せてそう言った。

 

「だめ。仮にあんたが妊娠したいんだとしても、アタシが許さない」

 

 強引なのはわかってる。エゴだってことも。

 

<略>

 

 アメがのろのろとパンツ――以前ここに泊まっていた時、帰る日に洗濯中で忘れて行ったものが一着残っていた――を穿いて、リゾールの漏れ対策にパッドを挟み、バスローブを羽織る間に、アタシは洗面鏡の横の薬棚から壜を取って、バルビタールの錠剤を二錠振り出した。アメが嗽に使っていたコップに水を汲んで、それと一緒にアメに差し出す。

 

()んで」

「いや」

 

 アメはアタシの手を押しのけると、ここニ十分で一番意思と生気ある声で続けた。

 

「嚥みたくない。眠りたくないの。あなたに話しておかなきゃいけないの。ぐら、本当ならもっと前に言っておくべきだったの。私――」

「ストップ。ストップ、ワトソン」

 

 コップを洗面台に置き、手でアメの口を塞いで、アタシはゆっくりと噛んで含めるように言い聞かせた。

 

「アメ、昨晩は眠れてないんでしょ? 一晩中ひどいことをされたんだよね。薬を打たれて、恥をかかされて、見せたくない姿を晒されて......とっても辛かったよね」

 

 睡眠薬も洗面台に置き、お風呂上がりでほかほかのアメを抱きしめる。さっきとは打って変わって、石鹸のいい匂いがした。アタシのお気に入りの石鹸の匂い。クレゾールの臭いがちょっと鼻を突くけど、精液の臭いに比べたらどうってことない。

 

「だからワトソン、あんたの心はいま、壊れかかってるの。心も体も疲れ切って、限界寸前なんだよ。きっとアメはアタシに重大な何かを打ち明ける決心をしてくれたんだろうし、それはわかるけど、いまそれをしたらあんたは確実に壊れちゃう。二度と立ち直れなくなっちゃう。だから、一回寝よう。何時間か眠って、心と体を落ち着かせるの。整理を付けて、そして話して。大丈夫、ここなら誰もアメを襲えないし、アタシは逃げないから」

「私......」

 

 アメはそれ以上続けずに、小さくこくりと頷いた。身体を離すと、自分で洗面台の薬とコップを手に取って、バルビタールを嚥んだ。

 

「いい子いい子」

「一緒に寝てくれる?」

「もちろん」

 

 二人で主寝室(マスター・ベッドルーム)に向かい、アメを先にベッドに入らせた。サイド・ボードのボタン電話機で分署に電話して、カーマイケル警部に欠勤の連絡を入れてから、アタシもベッドに入る。シーツにくるまっていたアメがアタシに抱きついて、大きく息を吸った。ちょっとくすぐったいし、少し恥ずかしい。

 

「おやすみ、ワトソン」

「おやすみ、ぐら......」

 

 最後の一音を発音する頃には、アメはもう眠りに落ちていた。バルビタールの効果と言うよりは、緊張の糸が切れたって感じだった。

 アタシもつられて眠りに落ちる......前に、考えるべきことがあった。

 

 アメは淫乱な女ってわけじゃない。いや、その、アタシの下になってる時には淫らに乱れたりすることもあるけど、そうじゃなくて。軽々に男に股を開いたりする人種じゃないってことだ。

 田舎の出だけど、この街に来てもう八年経つから、男のあしらい方だって心得てる。マカラスに脅されたんだとしても、今やクロニーの後ろ盾という強力な武器もある。

 それなのに、アメは自分の女を差し出した。一体マカラスはどんなネタを掴んで、アメを強請って、その肉体を貪る許しを得たんだろう?

 すうすう寝息を立てるアメの顔を眺めながら、アタシは小さく溜め息を吐いて目を閉じた。それはきっと、起きたアメから教えてもらえるだろう。アタシがどれほど力になれるのかは未知数だけれど、そのためなら何もかも投げ打ったっていい。その覚悟は四年前のあの日に、とうに固めていた。

 

 

 

 

 

「――! ――!」

 

 私の上に覆いかぶさっている男が名前を読んでいる。私の名前ではない。あれは母の名前だ。

 

「――。――」

 

 私も名前で呼び返す。普段呼んでいる"パパ(ダッド)"ではなくて、その男の名前を。

 行為は私にとって不快で、破瓜の痛みと相まってこれ以上ないほど最悪だった。獣のような男の表情を見るのが嫌で、私はずっと横を向き続けていた。

 

「つれないじゃないか。もっと表情をみせておくれ」

 

 突然声が変わり、あの"脅迫屋(ブラックメーラー)"の、不愉快な猫撫で声になった。ぎょっとして視線をやると、顔も体格もマカラスのそれそのものになっている。

 

「嫌っ、離して!」

 

 両足を揃えてどんと突き飛ばすと、彼が私からぬるりと抜けて後ろへとよろめいて退がった。

 

「おやおや、おてんば娘め、お仕置きが必要かな?」

 

 その手にきらりと光るものが握られる。硝子の皮下注射器。コカイン溶液入り。

 その先にあったものを、自分のものとは思えない痴態を、嬌声を、媚びる言葉を、快楽を通り越して恐怖すら感じた絶頂地獄を思い出して、私は身をよじって逃げようとした。

 

「嫌、嫌ぁ!」

 

 すぐにうつぶせに組み敷かれてしまう。左腕を延ばされ、無機質に光る注射針が近づく。

 

「やめて! 嫌!」

 

 右腕をぶんぶん振り回すと、ぼぐっと何かを殴ったような感触があって、拘束が解けた。

 私はベッドの上を這い、縁から下に落ちた。落ちて、落ちて、落ちて――

 

 

 

 5:12 PM, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

 私の体は絨毯の上にどすんと墜落した。からまったシーツを振り払い、目についたドアに突進して寝室から逃げようとする。

 

「......?」

 

 ドアを抜けた先には、吹き抜けのホールがあった。手摺りの向こうに螺旋階段があり、下へと伸びている。ちがう、おかしい、あの寝室は応接室の続きで一階にあったはず......

 

「ワトソン、待って!」

 

 そのホールに既視感を感じたところで、後ろから声がかけられた。振り返ると下着姿のぐらが、バスローブを持って駆け寄ってくるところだった。

 

「大丈夫、ここはアタシの家だ。アタシしかいないよ」

「ぐら......私」

 

 パンツ一丁の私にバスローブを着せて、にかっと笑ったぐらの右頬は少し赤くなっていて、私はようやく夢の中で誰を殴ったのか悟った。

 

「私......ごめんなさい、私、あなたを殴っちゃった......」

「大丈夫、これくらい。別にアタシを殴ったわけじゃないんでしょ?」

「でも......」

「大丈夫だって。アタシ、仕事中にもっとひどい目に遭ったこともあるんだよ?」

 

 バスローブ越しに私を抱きしめて、ぐらは落ち着いた声音で続けた。

 

「ベッドに戻ろう? 今日はゆっくりしてていいんだよ」

「いいえ......目が覚めちゃった」

 

 悪夢に戻りたくなかった、というのも理由の一つだけれど、かなり眠ったらしくあまり眠たくなくなっていた。

 

「そう? じゃあ、シャワーを浴びて来なよ。アタシは下で紅茶を淹れてるから」

「そうさせてもらうわ。ありがとう、ぐら」

 

 ぐらは私の背中をぽんぽんと叩くと、私ににっこり笑いかけてから腕を離して、階段を下の階へと下って行った。

 

 

 

*1
1936年まで、"避妊"に関する物品の流通は禁じられていた。"婦人衛生用"とは要するに、"避妊用"の言い換えである



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The Stamp-Ralley #5

モブレ・近親相姦に関する描写・言及があります。苦手な方はお避け下さい。


 Oct. 27th, 1943, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

 およそ一時間ほどかけて、私はぐらに全部を話した。最初はマカラスの件と、私がこの街に来た理由を話すだけのつもりだったのに、気付けばクロニーの疑心もアイリスからの申し出も、何もかも全部話してしまっていた。

 私が話している間ぐらは向かいのソファに座って、紅茶にほとんど手を付けずに聴いていた。外では柔らかい秋の雨が降り始めていて、大きな上げ込み窓を濡らしていた。

 

「ごめんなさい......もっと早く、全部話しておくべきだったのに」

「そうかもね」

 

 ぐらは短くそう言って、ソファからぴょんと飛び降りた。そのままコーヒー・テーブルを回り込んで来て、私の左隣に腰を下ろしながら続けた。

 

「でも、アメは今話す決心をしてくれた。マカラスの件はともかく、クロニーとかアイリスのことは、今話す必要はなかったのに、アタシに話してくれた。手遅れになっちゃう前に」

 

 私の肩に頭をもたせて、ぐらは静かに続けた。

 

「だからその二つについては、アタシたち二人で話し合ってなんとかしよう? 頭は二つあった方が、いいアイデアは出て来やすいかもしれないし」

「ええ、そうね」

「でも、マカラスのことはアタシに任せて」

 

 私の手に自分の手を絡めながら、ぐらはそう言った。

 

「もし、あんたにまだマカラスと対峙できる勇気があるなら話は別だけど」

「私......」

 

 マカラスの顔が頭の中に浮かぶ。蛙のようにぶよっとした顔と、蛇のように鋭い視線。服を脱ぐ私を舐め回すように見ていた、あの視線。

 ぐらの手をぎゅっと握りしめて、私は絞り出すように言った。

 

「私......ごめんなさい」

「謝らなくていいんだよ。あんな目に遭ったんだもん、当然だよ」

 

 うなだれた私の頭を撫でながら、ぐらは優しく言った。

 

「しばらくアタシの家に泊まりなよ。たぶん、当分の間は今日みたいな悪夢を見ると思うから。クロニーとアイリスのことは、もう少し落ち着いたら二人で考えよう」

「ありがとう、ぐら」

 

 

 

 

 

 ぐらの言った通りそれから一か月近く、悪夢に悩まされる日々が続いた。悪夢は私の睡眠を蝕み、目の下に大きなクマができ、髪の毛はぱさついて白髪がちらほら混じるようになった。

 悪夢は決まって初めて見た時と同じ内容だった。始まりは十四歳の誕生日の夜で、そこから突如マカラスの客用寝室に飛ぶ。私が抵抗すると脅迫屋はコカイン溶液入りの皮下注射器を取り出して、それを注射しようとする。そのあたりから現実の私はうなされ、身をよじって悪夢から逃れようとする。

 ぐらは毎回優しく抱きしめてくれて、私が目を覚ました時にそれ以上錯乱しないで済むようにしてくれたけど、そんなぐらを私は時折殴ったり引っ掻いたりした。なんでもない、と笑うぐらの顔の痣や引っ掻き傷を見るたびに、私は申し訳ない気分で一杯になったけど、引っ越したばかりの自分のアパートメントに戻る選択肢を取ることはできなかった。たった一人で悪夢に太刀打ちできるほどの耐性は、なかなかつかなかった。

 最初の一週間に到っては道行く人の視線すら怖くて、アパートメントの外に出ることすらできなかった。仕事も全部キャンセルせざるを得ず、収入は一時的に途絶えた。

 ぐらに養ってもらう、と言うわけにもいかず、ぐらのアパートメントの二階の電話番号と、建物の一階にある共用応接室を使わせてもらって、一週間後にはなんとか仕事を再開した。ただ、仕事の内容は大幅に制限せざるを得なかったけれど。

 

 そんなある日の夜だった。ぐらがなかなか仕事から帰って来ず、八時を回った頃に電話をかけてきたのは。

 

 

 

 Nov. 5th, 1943, Mc'Arras's Resident, Upper West Side, NYC

 

 アタシはその日の夜、マカラスの家を訪ねようとしていた。西83丁目の路肩にクライスラーを駐めて、手はずを確認する。

 暴力。結局のところ、頭でっかち野郎をどうにかする手段はこれしかない。実際問題、アタシはアメのためなら殺されようが刑務所にぶちこまれようが、全然かまわない。何発か殴り、銃を突きつけ、自分の覚悟とともに脅しをかける。アメの秘密を暴露しようとしたら殺す。アメに近づこうとしたら殺す。アメの秘密を他の誰かに教えたり、他の誰かがそれに近づこうとするのを許したら殺す。そんなところだ。

 コートの下から銃を抜いて、まじまじと見つめる。それは四年前のあの日、アメにけがをさせてしまったのと同じコルト・ガバメントだ。銃把(グリップ)を握るだけで、いやなシーンが頭をかすめる。赤黒く濡れたシャツを押さえて、床にうずくまるアメ。

 ぶんぶんと頭を振って、嫌な記憶を振り払った。大丈夫、今日はアメは一緒にいないし、本当に撃つわけじゃなし。ナイフじゃ脅しにはちょっと役不足だ。

 遊底(スライド)を引いて薬室(チャンバー)を覗き込み、装填されているのが確かに空砲なのを確認してから、コートの下にしまった。

 

「......よし、行くか」

 

 

 

 

 

 門をくぐるとき、ありふれた軍服地のコートを着こんだ女性と行き会った。帽子を目深にかぶっていて顔はわからなかったけど、それなりに齢がいってそうな感じだった。マカラスにネタを売りに来た家政婦か誰かだろうか。

 小さく会釈を交わしてすれ違い、小径(アプローチ)を通って玄関に向かった。大きな木の観音扉の横にある真鍮のボタンを押して、呼鈴を鳴らす。

 

「......?」

 

 ドアの向こうからはこそりとも音が聞こえてこなかった。少し待って、もう一度ベルを鳴らす。

 

「あれ......?」

 

 コートの下から手帳を引っ張り出し、ページを繰って予定を調べる。

 

「いや、間違いない。今日で約束を入れてるはず」

 

 印は確かに今日、11月5日についている。手帳を閉じ、ドアをどんどん叩く。

 

「ミスター・マカラス! 約束をしたがうる・ぐらですけど!」

 

 家は相変わらず静まり返って、誰かが返事する気配一つ無い。嫌な予感がして、真鍮のドアハンドルを捻った。

 

「あ、開いてる......」

 

 ドアは特に抵抗もなくすっと開いた。広々とした玄関ホール(ホワイエ)には、煌々と電灯が点いている。約束を忘れてベッドに入ったわけじゃなさそうだ。

 

「ミスター・マカラス、入りますよ!」

 

 そう呼びかけてホワイエに入り、後ろ手にドアを閉める。アタシの声はホワイエにわんわん響き渡り、たぶん家中に聞こえたはずだけど、誰かが返事をしたり、走ってきたり、椅子から転げ落ちたりするような音は一つもしなかった。嫌な予感がひしひしと募っていく。

 ホワイエの右手にあるドアが半開きになっていた。アメから聞いた話からすると、その先が例の応接室のはずだ。電灯の明かりが漏れていて、耳を澄ますと暖炉の薪がぱちぱち爆ぜる音がする。

 コートの右袖の下に仕込んである飛び出しナイフがいつでも手に取れる状態かどうかチェックしてから、ドアを蹴り開けて中に入り、さっと部屋を見渡した。

 

「......! ミスター・マカラス!」

 

 "脅迫屋のマカラス(マカラス・ザ・ブラックメーラー)"は部屋の真ん中にある、応接セットの肘掛椅子の上で伸びていた。いい仕立ての葡萄色の喫煙服(スモーキング・ジャケット)の胸と腹から赤黒い血が流れ出ている。ただ流れていて、飛沫になって吹き出したりしてないあたり、もう心臓は止まってそうだ。駆け寄って首に手を当てても、やっぱり脈は触れない。自発呼吸はなく、瞳孔はもう開ききっていた。それでもまだ、温かさは残っている。下手人はさっきの女で間違いない。

 アタシは家を飛び出すと通りに戻り、左右を見渡した。いない。さっき彼女はどっちに行っただろう。コロンバス街のほうだっけ?

 83丁目とコロンバス街の角まで走ったけれど、もはやさっきの女はわからなかった。コートと帽子くらいしか目についた特徴はなく、道行く人たちはみんな似たような格好だ。

 

「くそ!」

 

 アタシは罵声を上げて、電話ボックスに駆けこんだ。5セント玉(ニッケル)を投入して分署の番号をダイヤル......しようとして、ふと手を止めた。さっきの応接室に金庫があったはず。あの中身は空だろうか?

 しばらく考えてから、アタシはBU(バターフィールド)局の番号をダイヤルした。

 

 

 

 8:15 PM, Central Park West and 81st St., Uptown Manhattan, NYC

 

「ここでいいわ、停めて」

 

 赤と黄色の39年式チェッカー・タクシーがセントラルパーク・ウェストと81丁目の角にさしかかったところで、私は運転手にそう言って車を停めさせた。料金を払ってタクシーから降り、ドアを閉めると、公園の方から吹き寄せられた落ち葉を踏んで北へと歩を進める。

 セントラルパーク・ウェストはあの日の朝、マカラスにめちゃくちゃにされた私がとぼとぼ歩いていた通りだ。まさにこの上り車線側の歩道を、コロンバス広場(サークル)まで歩いて行ったんだ。それを思い出して私は身震いして、しっかり閉まっているコートの前をさらに引き寄せた。

 

"何も訊かずにマカラスの家に来て"

 

 十分ほど前、電話を取るなりぐらはそう言った。

 状況は全然わからない。ひょっとしたら交渉が上手くいかず、ぐらのほうが逆に脅しに屈してしまい、今から3Pでもさせられるのかもしれなかった。いや、ぐらに限ってそれはない。それに電話の声は切羽詰まっていたけれど、悔しさとか絶望感とか、そんなのは一切感じられなかった。

 一体何があったんだろう?

 

 

 

 

 

 公園沿いの通りから83丁目に曲がり、街区(ブロック)の真ん中にあるマカラスの屋敷に向かう。門の脇の路肩には、ぐらの大きな青い41年式クライスラー・ニューヨーカーが駐まっていた。

 門の前に立った私は、そのまま足が地面に縫い付けられたかのように立ちすくんでしまった。あの日の出来事が脳裡によみがえる。男の猫撫で声。女の嬌声。目もくらむような快楽。終わりの見えない凌辱。

 私は目を瞬き、門柱に手をついて身体を支えた。息が上がり、脂汗が垂れる。

 大丈夫、ここにはぐらがいるはず。彼女がいるなら、私は耐えられる。

 

「ふーっ......」

 

 門柱の化粧煉瓦に爪を突き立て、深く息を吐くと、私は目を上げて、小径(アプローチ)をゆっくりと玄関へと進んだ。あの日も押した真鍮の呼鈴ボタンに手を伸ばし、ベルを鳴らす。

 ドアはすぐに開いて、親友が少し青白い顔を出した。

 

「入って、早く」

 

 玄関ホール(ホワイエ)に入るとぐらはドアを閉め、手早く錠を下ろして閂をかけた。

 

「こっち」

 

 短くそう言って、あの応接室へと歩いて行く。その先で起きた出来事をなるべく思い出さないようにしながら、後へ着いて行った。

 

「えっ......」

 

 部屋に入った瞬間、私は絶句した。マカラスが死んでいる。肘掛椅子の上で、血を流して。

 一つには想定外だったこともあり、私が真っ先に感じたのは安堵でもざまあ見ろという感覚でもなく、ショックだった。死体を見た時に、普通の人間なら大抵感じるショック。

 ぐらがやったんだろうか? いや、ぐらは銃を使えない。ナイフでやったなら、ぐらは返り血にまみれているはずだ。でも彼女のブルックス・ブラザーズ誂えのチェスターフィールド・コートと、フローシャイムの靴には染み一つ無い。ぐらがやったんじゃない。

 

「先を越されちゃった」

 

 ぐらがぽつりとそう言った。言葉のわりに、あまり悔しそうではない。当然の報いだ、と言う感じの響きが微かに感じ取れた。

 

「ワトソン、そこの金庫は開けられそう?」

「金庫? いや、厳しいわ」

 

 あの日、私の書類を仕舞い込んでいた金庫は、チャブ社の銘板が掲げられていた。私では到底無理。

 

「あ、でも、マカラスが死んでるなら、どこかから鍵を見つけ出せないかしら」

「鍵か。ちょっと待って」

 

 チャブ式検知錠を本物の鍵で迂回できるなら、話はだいぶ簡単になる。

 ぐらは死んだ男の喫煙服を探って、首から下げられたチェーンにぶら下げられた鍵を見つけ出した。

 

「これかな。チャブって書いてあるし、二組だし」

 

 小さい方は検知鍵だろう。チェーンごと受け取って、大きい方の鍵を金庫の鍵穴に挿し込み、捻る。がちゃりと音がしてタンブラーが回った。大正解。

 

「オーケイ。じゃ、後はダイヤル錠ね」

「任せたよ。アタシは他の部屋を見て回ってくるから」

 

 金庫破りをするとき、私は自分の側に誰もいてほしくない。ぐらはそれを知っているから、そう言って私を一人にしてくれた。それでもこの部屋に私を一人にするのは気が進まなかったらしく、ドアのところから「大丈夫?」という問いかけを含んだ視線を投げてきた。頷き返すと、ぐらはドアを閉めて立ち去った。

 大丈夫。心細いけれど、大事なのは金庫と二人きりになることだ。マカラスはもう死体で、私に手を出すことはできない。全部頭から締め出せ、アメリア・ワトソン。

 コートを脱いでソファの背に放り、タイを緩め、シャツの一番上のボタンを外す。

 

「さあて、始めましょうか......」

 

 

 

 

 

 三十分ほどかけて、アタシは邸内を見て回った。居心地のよさそうな居間、豪華な食事室(ダイニング・ルーム)、清潔できちんと整頓された厨房と食料庫(パントリー)、普通の家の食事室くらいの広さはある朝食室(ブレックファスト・ルーム)、広々とした主寝室(マスター・ベッドルーム)、いくつもの客用寝室(ゲスト・ベッドルーム)、買ってから一度も読まれたことが無さそうな本がずらりと並ぶ図書室、ビリヤード台や煙草棚のある娯楽室(ゲーム・ルーム)......

 食器配膳室(バトラーズ・パントリー)家事室(ハウスキーパーズ・オフィス)、それらと続き部屋になっている執事寝室と家政婦寝室、使用人食堂(サーヴァンツ・ホール)も地下のメイド部屋も屋根裏の従僕部屋も、どれも無人だった。生活感はあるから、誰も雇ってないわけではないらしく、アメの話からして休暇を取らされてるんだろう。"商談"のある時には、使用人すら置いておかないってわけか。

 

「主に使用人からネタを買ってたって聞くし、自分とこの使用人もあんまり信用してない感じだな、これ」

 

 それでも使用人を雇ってたのは、金持ちゆえの見栄だろうか。クロニーをはじめマフィアたちでさえ、執事やメイドを雇ってるわけだし。

 

書斎(スタディ)がないな......さっきの応接室が書斎を兼ねてる感じかな、これ」

 

 デスクや金庫があったわけだし、たぶんそうだろう。

 

「アメはそろそろ、あの金庫を開けれたかな......」

 

 アタシは廊下に敷かれた高級な絨毯――毛足が長くて靴が沈み込むみたいだ――を踏んで、玄関脇の応接室へと取って返した。

 

 

 



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The Stamp-Ralley #6

モブレ・近親相姦に関する描写・言及があります。苦手な方はお避け下さい。
今回の投稿分は、Pixiv投稿分からR-18描写に該当しそうな部分を削除しています。あらかじめご了承ください。


 Nov. 5th, 1943, McArras's Resident, Upper West Side, NYC

 

「あ、開いたあ......」

 

 三十分近い格闘の末、私は遂にマカラスの金庫を開けることに成功した。ソファの背面にどっかりともたれかかって、大きく息を吸い込む。

 

「げほっ、ごほっ、げえっ!」

 

 途端、今まで意識の外に締め出していた血と死の臭いが鼻を突き、私は思いっきりむせ返った。四つん這いになって嗚咽を漏らすと、よだれが絨毯に垂れる。

 

「ワトソン、開いた?......ワトソン!?」

 

 悪いタイミングで戻ってきたぐらが、咳き込む私を見つけて血相を変えて駆け寄ってきた。

 

「しーっ、大丈夫だよワトソン。アタシはここにいるから」

「大丈夫、大丈夫よ。けほっ、あなたが思ってるようなことじゃないの」

 

 抱き起こしてくれたぐらの腕を、ぽんぽんと叩いて続ける。

 

「金庫破りをしてる間、この臭いがすっかり気にならなくなってたんだけど、集中力が切れたら途端に......」

「ああ」

 

 ぐらは安堵混じりの相槌を打って、金庫の方に歩み寄った。扉を開け、中に山積みにされているマニラ紙のフォルダーを漁りはじめる。

 

「ワトソン、ちょっと待ってね......これか」

 

 一冊を抜き取ると、それを私に差し出してきた。インデックスには"Watson, A"と書かれている。

 

「中身を確認して。あいつがあんたを脅すときに使った書類が、全部あるかどうか」

「わかった」

 

 フォルダーを開くと、一番にとじ込まれていたのは事の始まりになった運転免許証の謄写だった。二番目は私が陸運局に提出した、免許証の交付申請書の写しだ。これはあの時には見せられなかった。

 さらにめくっていくと、社会保障カードの写しや出生証明書、各種申請書の写しなどに加えて、マカラスがこの件で雇っていた私立探偵かららしいタイプ打ちの報告書――レターヘッドも署名もない――などが綴じ込まれていた。あの日私が見せられた書類は全部あり、メモ書きや便箋や報告書はもっとあった。

 私は溜息とともにフォルダーを閉じて、ぐらに差し出した。

 

「オーケイ、私が見せられたものは全部あるわ」

「......」

 

 ぐらは一冊のフォルダーを開いていて、その中身を凝視していた。

 

「ぐら?」

「んえっ!?」

 

 ぎくりと上がったその瞳が、動揺と不安に揺れる。

 

「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

 

 フォルダーを閉じると、ぐらは私が差し出していた私のフォルダーを受け取って続けた。

 

「そこの暖炉で全部焼いちゃおう。その方が、ここに書類がある全部の人のためだし、書類が無ければアメに疑いがかかることもないしね」

「そうね。そうしましょう」

 

 二人で金庫の中のフォルダーの山を半分ずつ抱えると、部屋の隅でちろちろと炎を立てている暖炉に向かった。

 ぐらが最初の一束を放り込んだ時、一番上にはさっきぐらを動揺させたフォルダーがあり、一瞬だけだったけれど、私はそのインデックスを読み取ることができた。"Gawr, G"。次の瞬間には、それもその下のフォルダーも火に包まれて、端からゆっくりと灰になっていった。

 

 

 

 10:00 PM, McArras's Resident, Upper West Side, NYC 

 

 紙の書類を焼却するときにコツは、全部いっぺんに焼いてしまわないことだ。フォルダー数冊ずつに分割して焼き、火掻き棒なんかで適宜灰を崩して中の方までしっかり焼いてしまうようにすること。そうじゃないと周辺が焼け焦げるだけで終わっちゃったりする。

 炉辺に二人並んで、黙りこくって書類を焼き終わると、二人とも汗びっしょりだった。ぐらは誰かが介入してきた場合に備えてコートを着たままだったから、たぶんシャツの下はとんでもないことになってるだろう。

 

「帰りましょうか」

「そうだね。早くシャワー浴びたいし......」

 

 金庫のレバーとダイヤル、鍵を拭って指紋を取り除くと、応接室を後にする前に、もう一度マカラスに目を向けた。椅子の上でぐったりして、その表情は苦悶と言うよりは驚愕のそれのようだ。相手を見て驚き、そのまま苦痛を感じず即死したんだろう。

 

「ワトソン、早く」

「今行くわ」

 

 私は被りを振ってドアを閉め、廃業した脅迫屋の応接室を後にした。

 

 

 

 10:23 PM, Gura's Apatrment, Upper East Side, NYC

 

 アタシは主寝室(マスター・ベッドルーム)に入ると、浴室に向かう前にサイドボードに歩み寄り、ズボンのポケットから一枚の紙きれを取り出した。

 

――10/23 I、K、Fに買取を打診。

  10/29 Kに売却。

 

 このメモ書きは、"Hozuki, I."とインデックス付けされたフォルダーに挟まれていたものだ。アメが自分のフォルダーを確認してる間に偶然見つけて、つい持って来てしまった。

 フォルダーは折り目からして、かなりの量の書類が綴じ込まれていたはずだけれど、中身はこの一枚だけになっていた。たぶん、"売却"されたんだろう。

 しばらく見つめてから、サイドボードの上に置いてあるジッポを手に取って火を点けると、その火を紙切れの端に移した。そのまま灰皿に置き、燃えるままにする。

 

「このメモの通りなら、あるいは......上手くいくかも」

 

 燻るメモを眺めていると、暖炉の中で燃えていたアタシのフォルダーを思い出した。

 

「まさかあいつが、あそこまでアタシのことを調べてたなんて......」

 

 あのフォルダーの中身があれば、アタシはいやでもあいつに逆らえない。そうしたらあいつは、アメよりもさらにいい買い物をすることになっただろう。市警本部(センター・ストリート)のおえらいさんとコネのある警官、汚職してることに定評のある警官、そしてクロニーの懐刀の警官。

 ふと、脅迫屋の本当の狙いはアタシだったんじゃないか、って考えが頭をかすめた。あいつはアタシとアメの"関係"をしっかり調べていた。その上でアメに乱暴すれば、アタシがキレて乗り込んでくるのは簡単に想像がついただろう。アメはただ、アタシの前にぶらさげるニンジンにするために襲われたんだ。何もかもアタシのせいだ。

 

「くそっ!」

 

 ベッドの支柱を思いっきり蹴飛ばしたけど、足に痛みが走っただけで怒りは全然鎮まらなかった。ふーっと息を長々と吐いてから、アタシは浴室に足を向けながら自分に言い聞かせた。

 

「落ち着け......マカラスが死んだ以上、それが本当かどうかなんて確かめようがないんだから......どうであれ、アタシがアメに寄り添い続けることも変わらないんだから......」

 

 ぶつぶつ言いながら、アタシはズボンを脱ぎ捨てた。シャワー室への短い道中でシャツも脱ぎ、汗でべたつく体からシュミーズとパンツを剥ぎ取ると、冷静さを取り戻すために湯温のダイヤルを華氏七十度に設定してシャワーを出した。

 

 

 

 

 

「嫌っ! やめて! 嫌ぁ!」

 

 死んだはずの脅迫屋はしかし、私の夢の中では相変わらず健在で、そのぶよぶよの体で私を押しつぶし、元気に腰を振っていた。

<削除>

 

「もう嫌、もう嫌ぁ。ああ、ぐら、助けて、ぐら」

 

 あの時ぐらの名前を呼んだかどうか、それはよく覚えていない。それでも夢の中の私はぐらを呼び、まるでそれに応えるかのように、悪夢の寝室のドアが轟音とともに蹴破られた。そろって戸口を振り向いた私とマカラスが見たのは、悠然と寝室に入ってくるチビのサメ女だった。いつも通りサイズ・オーバーの青いチェスターフィールド・コートを着込んで、同色のフェルト地に黒いリボンを巻いたフェドラ帽を被っている。

 

「いかん、いかん! これは台本に無いぞ」

 

 マカラスが叫び、私から自分を抜いて立ち上がった。

 

「貴様の出番はもっと後だ。出て行け。出て行くんだ、さあ!」

 

 マカラスが詰め寄ろうとしたとき、ぐらが右腕を持ち上げた。その手には一丁の拳銃が握られている。懐かしいあの日、初めて会った時に彼女が使っていた、ブルーイング処理されたコルト・ガバメント。

 次の瞬間には轟音が響き渡り、マカラスの体を吹っ飛ばした。もう一発、さらに一発。マカラスの体はきりきり舞いして、ベッドの上を飛び越して視界の外へ消えた。

 ぐらは何も言わずに、ベッドに横たわる私に近づくと、そのまま私を抱きしめてくれた。コートを着こんでいるはずなのに、その身体はまるで裸みたいな肌触りで、ぬくもりが私を包み込む。齢を重ねた男の不快な体臭ときつい香水の臭いにかわって、ぐらの匂いに包まれる。

 

 ああ、悪夢はこれで終わりだ。少なくとも、今日は。

 

 

 

 Nov. 6th, 1943, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

「落ち着いて、ワトソン。大丈夫だよ。アタシはここにいるから」

 

 耳元でぐらの声が、優しく小さく響く。

 朝日の射し込む寝室で、ぐらは私を背後から抱きしめてくれていた。シーツの中ではお互いに裸だから、夢の中のぐらの肌触りがそうだったのも、目が覚めてみれば疑問でも何でもない。

 

「安心して。あんたは安全なところにいるから。アタシがちゃんと側にいるから」

 

 私は腰に回されているぐらの腕に触れながら、小さく息を吐いてから言った。

 

「今朝はそんなに悪い気分じゃないわ」

「そお?」

 

 寝返りを打って、ぐらと目を合わせる。ぐらはすこしだけ眠たそうな目でまじまじと私を見つめてから、おもむろに言った。

 

 

「ほんとだ、そんなにひどい顔はしてないね」

「あなたが夢に出てきたの」

「アタシが?」

 

 ぐらが眉を上げた。

 

「ええ、あなたが」

「面白そうな話じゃん」

 

 ぐらは起き上がり、伸びをしてから続けた。

 

「お腹すいちゃった。朝ごはん食べながら、その話をじっくり聴きたいんだけど、いい?」

「ええ、もちろん」

 

 悪夢自体は明日以降も見るだろう。でもこれはきっと、私にとって大きな一歩だ。

 二人で並んで浴室に向かいながら、私はここ一週間で久しぶりに楽観的な気分になっていた。

 

 

 

 Nov. 7th, 1943, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

"もしもし、借金取り(ローン・シャーク)か?"

 

 お休みを取っていたその日の昼下がり、疲れ切った男の声が電話の向こうから聞こえてきた。誰だっけ、と思い出そうとしている間に、向こうが先に名乗った。

 

"フランクリンだ、殺人課の"

「ああ、第20分署の"若造(サニー)"刑事か」

"その呼び方はやめてくれ。というか、あんたの方が年下だろ"

「で、用は何なの、サニー?」

 

 第20分署と言えば、マカラスの家がある辺りを管轄している分署だ。そして用件も、思った通りの内容だった。

 

"西83丁目の殺人事件の話は聞いてるだろ? 例の、恐喝の疑いがあった金持ちの"

「ええ、聞いてる」

"目下あれを調べてるんだけどな、推定死亡時刻(TOD)の前後に現場の前を通りかかったヤツから話を訊いたんだかが、大きな青いクライスラーが、少なくともニ十分以上は家の前に駐まってたんだそうだ"

「それで?」

"そいつが部分的にライセンス・ナンバーを覚えててな。それを車種と色と組み合わせて陸運局に問い合わせたんだが、市内で該当する車を持ってるのは、借金取り、あんただけだった"

「面白い話だね」

 

 口調をフラットに保ったまま、アタシは指で受話器のコードを弄りながら続けた。

 

「アタシがやったんじゃないかって思ってるの?」

"まさか。あんたが銃を使えないのは市警中の人間が知ってる。ただ、何か知ってることがあるかと思ってな"

「一昨日の夜は、セントラル・パークの反対側にある家にいたよ。この一週間友達を泊めててさ」

"ああ、あんたの家は泊まるにゃうってつけだろうよ"

 

 電話口の向こうでサニーは笑い、続けた。

 

"もともと証言もちょっとあやふやだったんだ。こりゃ無視してよさそうだな"

「そうしなよ......そうだ、アタシから一個訊いていい?」

"なんだ?"

「マカラス・ファイルって、ホントにあったの?」

 

 ホントにあったかどうか、それをアタシは当然知っている。この手で焼いたんだから。でも、ここでそれを訊かないのはアタシらしくない。

 "サニー"・フランクリン刑事は溜息を吐いて答えた。

 

"昨日からずっと、警官に会うたびにそれを質問されてる"

「みんな気になるんだね」

"らしいな。だがわからん"

「わかんないの?」

"ああ。金庫がこじ開けられてて、暖炉に大量の灰があった。鑑識の連中曰く、しっかり焼かれてて復元は絶望的だそうだ"

「へえ」

"何が焼かれたのかわからん以上、それがマカラス・ファイルだったのかもしれん。そうじゃないのかもしれん"

「"灰は灰へ、塵は塵へ"*1、か」

"ああ。いっそ実在してくれたら、俺の仕事も楽になったと思うんだがな"

「ご愁傷様」

 

 電話を切って、アタシは深々と溜め息を吐いた。これでアメの秘密もアタシの秘密も、その他大勢の秘密と一緒に葬り去られた。目下懸案の事項は、あと一つだけだ。

 

 

 

 Dec. 1st, 1943, Ina's Residence, Flashing, Queens.

 

 感謝祭が過ぎて12月に入ると、ニューヨークは本格的に冬へと突入しようとしていた。二日前には最低気温が華氏三十度を下回っていたけれど、今日は晴れていて少し暖かかった。天気予報によれば、十日頃から朝晩は二十度を切るようになるらしい。今はまだ、厳しいニューヨークの冬に入る前の助走期間だ。

 ぐらの大きなクライスラーは63丁目トンネルを通って朝のイースト川をくぐると、落ち葉があちこちに吹き寄せられているクイーンズの街路を走り、フラッシング地区にあるこじんまりとした褐色砂岩(ブラウンストーン)の家の前に駐まった。

 

「いらっしゃい、準備はできてるよ」

 

 玄関ドアを開けたのは、この家の主であるイナニスだ。本職は近代画家であるところのイナはしかし、今は黒っぽいブラウスの上に白衣を羽織っていた。彼女の副業は闇医者なのだ。

 

「おしっこは持ってきた?」

「ええ」

 

 鞄から、事前に渡されていた試験管を取り出して、黄色っぽい液体の入ったそれを手渡す。

 

「じゃ、早速診てみよう。こっちに」

 

 大きなガラス窓があって広々としたアトリエを通り抜けると、奥の小さな一室にその椅子はあった。いくつもの関節をもつ診察椅子は、ぱっと見は歯医者にあるもののようにも見えるけれど、大きく股を開いて足を乗せる台があることが、いやでもその椅子の目的を知らせてくれる。

 

「アメ、服を脱いでそこに座って。下着もね。ぐらはどうする?」

「アタシは待っとくよ。待合室、じゃなかった応接室で」

「いいえ」

 

 私は立ち去ろうとしたぐらの手を慌てて握りしめた。

 

「お願い、一緒にいて」

「......わかった」

 

 イナは私のおしっこ入り試験管を持って一度立ち去り、ニ十分くらいで戻ってきた。

 それから私の体を、それこそ隅から隅まで調べた。頬や首回りなんて関係なさそうだけれど、イナが言うにはここに斑点が出やすいんだそうだ。

<削除>

 

「......よし、これで診察は終わり」

 

 器具を私から外すと、手を洗いながらイナは言った。

 

「尿検査が終わるまでまだまだかかるから、家に帰ってもいいし、散歩してきてもいいよ。ああ、ぐら、ちょっといい?」

「いいよ。ごめんワトソン、ちょっと外すね」

「こっちこそごめんね、ぐら。あんまり見たくないものを見せちゃって」

「アタシは大丈夫だったよ」

 

 

 

 

 

「尿検査が終わるまで確かなことは言えないけど、アメが妊娠してる可能性は低いと思うな」

 

 書斎に入ると、イナはアタシにそう言った。

 

「まだ本人には言わないでね。ここからひっくり返る可能性も十分あるから」

「わかった」

「それと、一つ確認させて。重要なことだから嘘は吐かないで」

「なに?」

「あなたがドクターズ病院*2じゃなくて私のところに――闇医者のところに――彼女を連れてきたってことは、つまり彼女は"弄ばれた"ってことでいいんだよね?」

「そうだよ」

 

 イナを信用できなければ、この街にアタシが信用できる医者は誰一人いない。ただ、イナ相手でも喋れないことはある。

 探るような視線を投げつけたけれど、イナもそこまで深くは踏み込んでこなかった。

 

「じゃ、彼女はその時のことを夢に見たりしてない? それでうなされたりとか」

「してる」

「そういう時、どうしてる?」

「抱きしめてあげてる」

「殴られたりとか、引っかかれたりとかは?」

「......した」

 

 今でも時々、アメは錯乱状態に陥ったまま目覚めるときがあった。この一か月、アタシはほっぺが腫れたり引っかき傷ができたり、目に青タンを作ったりしていた。穏やかに目覚める日も増えているとはいえ。

 

「それでアメを怒ったりした? 怒鳴ったりとか」

「してないよ」

 

 ちょっと腹立たしい質問で、アタシは自然と不機嫌な声で答えた。

 

「アメが殴ったり引っかいたりしてるのは、アメを襲ったやつでアタシじゃない。怒ったって仕方ないでしょ」

「偉い」

 

 穏やかに、イナはそう言った。

 

「さっきのやり取りをみてて思ったけど、アメはあなたのことをとっても信頼してるんだよ、ぐら。彼女を悪夢から救い出せるのは、たぶん現状ではあなた一人なの」

 

 執務卓の向こうから、イナはアタシを力強く見つめながら続けた。

 

「彼女を支えてあげて。立ち直るには時間が――ひょっとしたらかなり長い時間が――かかると思う。でもあなたがいなかったら、きっと彼女は道に迷ってしまう」

「言われるまでもないよ」

 

 この街はお金とチャンスに溢れている。そして、それと同じくらいの謀略と裏切りにも。そんなニューヨークで、アタシが心の底から信じられるのはアメだけだ。そのアメから信頼を寄せられてるなら、アタシはそれに全力で応える。何に代えてでも。

 

 

 

 Dec. 2nd, 1943, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

 結局、尿検査は翌朝までかかるとのことで、アタシとアメは一旦家に帰った。検査結果が出なくて不安だったのか、その夜もアメは悪夢を見て、ひどく取り乱して目を覚ました。ベッドの中でアメをなだめている間にサイドボードの電話が鳴り、アタシは受話器を取った。

 

「もしもし?」

"おはよう、ぐら"

「おはよう、イナ。検査の結果が出たの?」

"うん。対面で結果を聞きたい? それとも、電話越しでもいい?"

「今聞かせて。待った、ワトソンがいるんだ、替わるよ」

 

 受話器をアメに渡すと、アタシも受話口の裏側に耳を押し当てた。

 

「おはよう、イナ」

"おはよう、アメ。検査結果が出たけど、電話越しでいいんだね?"

「ええ。早く知りたいの」

"わかった。妊娠検査の結果は陰性でした。つまり、あなたは妊娠してないよ、アメ"

 

 アメはそのままベッドの上で固まっていたけれど、肩から力が抜けたのがわかった。アタシはアメの頭を撫でながら言った。

 

「ほら、ワトソン、お礼」

「あ......ありがとう、イナ」

"どういたしまして。よかったね、アメ。じゃあ、ぐらに替わってくれる?"

 

 受話器を受け取り、お支払いに関するちょっぴり頭が痛い話を交わしてから、電話を切った。

 

「......これで、悪夢もマシになるかしら」

「そうなるといいね」

 

 ぽつりとそう言ったアメを抱きしめて、ゆっくりと背中をさする。

 

「ゆっくりでいいんだよ、ワトソン。自分のペースで。アタシはとことん付き合うからさ」

「......ありがとう」

 

 アメの指が背中に食い込むのを感じながら、アタシはしばらくアメの背中を撫で続けていた。

 

 

 

*1
葬送の祈祷に使われる聖句

*2
アップタウンの私立病院。お金持ち御用達の産婦人科を擁していた



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Cross the Boarder

 Dec. 24th, 1943, Holding Cell, Syracuse Police Department, Syracuse, NY

 

 私は薄暗い留置場の木製ベッドに腰かけて、ぼろぼろの毛布にくるまってなんとか体の震えを抑えようとしていた。鉄格子の付きの窓にはガラスも嵌められていたけれど、監房に暖房装置はなくて、夜の室温は華氏三十度か、それより辛うじて高いくらいだ。かちかち鳴る歯の間から零れる息は白く、洟が止まらなかった。

 一つ、幸いなことがあるとすれば、寒さのせいで寝付けないことだ。ここにぐらはいない。いま眠れば、間違いなくあの悪夢に苛まれることだろう。

 なぜこんなことになったのか。私は洟をすすり上げて、今日一日の出来事を振り返るという、ここに収監されてから何度目かわからない暇つぶしを始めた。

 

 

 

 7:10 AM, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

「ねえワトソン、今日なんか予定ある?」

 

 朝、食事室(ダイニング)に隣接する食器室の朝食カウンターで、二人並んで朝ご飯を食べていると、ぐらが唐突にそう言った。

 私はベーコン・エッグを咀嚼しながら頭の中で予定表をめくり、口の中のものを呑み込んで答えた。

 

「無いわ。強いて言えば、タイプ打ちしなきゃいけない書類がいくつかあるくらいね」

 

 私はほとんど以前の生活に戻りつつあった。悪夢が訪れる頻度は週の半分ほどになって、もう道で行き会う男たちに一々怯えなくなったし、仕事相手と面談することもできるようになった。

 それでも悪夢を見た朝は、いまだにぐらの助けが無ければどうにもならない。

 当のぐらはすでに自分のお皿を空っぽにしていて、まだ少し眠たそうな目でエスプレッソを啜っている。

 

「どうしたの?」

「うん。一緒にちょっとドライブに行こうかなって思って。田舎の方まで」

 

 首をかしげてぐらの方を見やると、さっと目を逸らされた。

 

「ほら、たまには田舎の方の空気を吸いに行くのも、気分転換になっていいんじゃないかなって」

「それは魅力的ね。で、本当の用事は?」

 

 ぐらは溜息を吐いた。

 

「やっぱあんた相手じゃ隠し事は無理か......クロニーのお仕事だよ」

 

 

 

 7:00 PM, A Small Village, Chautauqua Coutny, NY

 

 グランド・セントラル駅八時発のエンパイア・ステート急行に乗って、バッファロー市までかかった時間は八時間だった。二時間ほど、田舎町とその周りの森や草原や、エリー湖のほとりをぶらぶら散歩してから、湖沿いの小さな村まで小一時間かけてタクシーで向かった。タクシーはニューヨークではすっかり見なくなった、古めかしい36年式デソート・カスタムトラベラーで、ガスケットが剥がれているのか時折エンジンが銃声のようにポンッと鳴っていた。

 街の入り口辺りでタクシーを降りると、ぐらは勝手を知っているように私を先導して歩き、小さな波止場に向かった。

 

「止まれ。誰だ?」

 

 波止場には六台ほどのGMCが駐まっていて、その陰からぬっと出てきた男が私たちに問いかけた。

 

「アタシだよ、がうる・ぐら。その声はトニーかな?」

「なんだ、"借金取り(ローン・シャーク)"か。てっきり子供が迷い込んできたものとばかり」

「うるさいよ」

 

 ぐらはトニーと呼んだ男の、擦り切れ気味のトレンチコートの腹をぼすっと殴ると、私の方に手を振って言った。

 

「今日のアタシのお手伝いさんの、アメリア・ワトソン。ワトソン、こいつはアントニオ・オニール。犯罪者と犯罪者のハーフ」

「イタリアとアイルランドだ」

 

 差し出された手を握る。かなり筋張った、指の長い手だった。

 

「よろしく、お嬢さん」

「どうも、ミスター・オニール」

 

 オニールの背後では、同じようなコートと帽子姿の男たちが小さなボートから木箱を降ろして、それをトラックに積み込んでいるところだった。オニールがそっちの様子を見に戻って行くと、私はぐらに訊いた。

 

「あの積荷は何?」

「あれ? あれはお酒だよ」

「お酒? 密造酒ビジネスって崩壊したものと思ってたけど」

 

 1917年から1932年まで、合衆国憲法修正第十八条と、それに基づく連邦法によって、アメリカでは酒類の醸造・流通・販売が大幅に規制されていた。とはいえ酒といい煙草といい麻薬といい、禁じられたところではいそうですか、と止められるものでもない。結局のところ酒類の密造・密輸・密売は非合法ビジネスとして犯罪組織――とりわけイタリア系マフィア――に多大なる恩恵をもたらした。

 

「もう昔ほどぼろ儲けはできないってだけだよ。いまでもビジネスとして続いてはいる。特に最近みたいに、お酒が手に入りにくい時節にはね」

「あー、なるほどね」

 

 積み込み作業が終わると、男たちの内の何人かは、ボートに乗って湖に戻って行った。たぶん、カナダの方から来たんだろう。

 私とぐらは、先頭から二番目のGMC・AC型トラックに乗り込んだ。先頭の一台にはトニーが乗り、他の男たちも次々とトラックに乗り込んでいく。

 

「助かったよ、ワトソン。アタシ、このGMCじゃ足がペダルに」

「届かないでしょ。なんか前に、似たような会話をした覚えがあるんだけど」

「煙草の時かな、たぶん」

 

 クロニーがナチスの工作員を装って、ニューヨーク港の倉庫から軍需煙草を盗み出した時の話だ。まったく、煙草の運び屋の次は酒の運び屋ときたら、次は麻薬の運び屋でもやらされるんじゃないか。大きなハンドルと遠いペダルに悪戦苦闘しながらトラックを運転していると、そんな思いがふと、私の頭をよぎった。

 

 

 

 10:45 PM, U.S. Route 20, Onondaga Coutny, NY

 

 三時間半以上かけて、六台のGMCからなる車列は連邦国道20号線を東に向かい、シラキューズ市南郊のラファイエット町にやってきた。大きな農場を行きすぎ、前方に学校らしい建物が見えてきたところで、先頭のトラックが速度を緩めた。

 

「んん?」

 

 ぐらが体を捻って前に目を凝らす。

 連邦国道11号線との交差点の前に、白黒の車が何台も停まっているのが、前のトラックのヘッドライトに照らされて見えた。木製のバリケードが置かれて道が塞がれている。

 

「あれ、警察じゃない?」

「みたいだけど......おかしいな」

 

 ぐらが首をひねる。

 

「シラキューズ市警とは話がついてるはずなんだけど」

「州警察とか、ここいらの保安官とかは?」

「あの車は州警じゃないし、保安官も抱き込んでるはず」

 

 濃紺の詰襟の制服に身を包んだ警官たちが、トニーのトラックに何か話しかけている。

 

「ちょっと様子を見てくる」

 

 ぐらは助手席のドアを開け、ふと私の方を振り返って言った。

 

「もしも、だよ。もし、連中がこっちに来てあんたを逮捕しようとしたら、逆らわないで。こういうことをするってことは、連中もたぶん、相応に武装してると思うから」

「ええ、しないわ」

 

 ぐらからは死角になっていたけれど、運転席から見える警官の一人はトミーガンを携えていた。トラックのヘッドライトに照らされて、銃身や機関部側面の金属部品が黒光りしている。あんなのに狙われたら、あっという間にハチの巣だ。

 ぐらはぴょんと運転台から飛び降りると、トニーと言い合いをしてるらしい警官の方に歩いて行った。

 議論はそんなに長くは続かず、その警官はぐらの肩を掴むと、後ろ向きにトラックに叩き付けた。もう一人別の警官が駆け寄り、ドアを開けてトニーを引きずり降ろす。

 

「ぐら!」

 

 私が慌てて運転席のドアに手をかけようとしたところで、ぐらが後ろ手に手錠をかけられながらぐりっと首をひねった。こっちを見据えて、小さく首を横に振っている。

 私は唇を噛んで、ドアハンドルから手を離した。

 まもなく、別の警官がこっちのトラックに歩み寄って来た。ドアが外から開けられる。

 

「シラキューズ警察だ。降りなさい」

 

 言われた通り、運転台から降りる。

 

「そっちを向いて、荷台に両手を着け」

 

 言われた通りにすると、警官は服の上から身体検査を始めた。警官の手が両腕を調べ、脇の下を調べ、ついでとばかりに私の胸をぎゅっと揉んだ。

 

「ちょっと!」

「おっと、失礼」

 

 全然失礼と思ってなさそうな返しをされて、一瞬私は頭の中でその警官を蹴りつける想像をした。

 警官の方は全然意に介しない様子で検査を続け、役得とばかりに私のお尻をつねると、太もものところで手を止めた。

 

「この、スカートの下にあるものはなんだ?」

「銃よ」

「銃?」

 

 いつも通り、私は右太もものホルスターに25口径のコルト・ベストポケットを隠し持っていた。私の私立探偵としての拳銃所持の許可は、あくまでニューヨーク市のもので、市外のここでは違法だった。普段は――州境をまたぎさえしなければ――そんなに厳しく運用されていないものの、この状況ではまずいの一言に尽きる。

 

「どれどれ」

 

 警官は私のスカートを、必要以上にまくり上げた。

 

「なるほど、確かに拳銃だな」

 

 そうは言いつつ、視線がお尻の方に向いているのは明らかだ。

 警官はゆっくりとした仕草で、私のスカートの中の眺めを堪能しながら、拳銃を没収した。

 

「あんまり長く見てると、お金取るわよ」

「必要な職務を執行しているだけなので、その義務はない」

 

 強がった言葉とは裏腹に、私は内心では叫びだしそうな気分だった。欲望に満ちた警官の目の色が、あの日私を見ていた脅迫屋のそれとうり二つだったからだ。助けを求めるようにぐらの方を見たけれど、彼女はすでに警察の車の中へ連れ去られていた。一人で耐えるしかない。

 靴まで念入りな調査を終えると、警官は私の背中を突き飛ばしてトラックに叩き付けた。

 

「ぐっ!」

 

 立ち直る前に両手が後ろに回される。冷たい金属の感触が両手首に伝わり、手錠のラッチがかかるギリリと言う音が、背後から聞こえた。

 

 

 

 11:45 PM, Syracuse Police Department, Syracuse, NY

 

「後ろを向いて、鉄格子の前に立て」

 

 言われた通り、狭い監房内でくるりと回り、後ろに手を回す。鉄格子越しにがちゃりと手錠が掛けられた。

 警官は古めかしいウォード錠をがちゃつかせて開けると、私を連れだした。廊下を歩いて留置場から出、薄暗い警察署のいくつもある事務室の一つに私を通した。

 

「ぐら!」

 

 誰かの執務室らしいその部屋の客用椅子に、ぐらが腰かけていた。コートは脱がされてシャツとズボン姿で、私と同じように両手を後ろに回されている。

 

「ワトソン。一人で大丈夫だった?」

 

 ぐらは心配そうな目で、私の顔色を窺った。

 

「大丈夫よ。寒すぎて全然寝付けなかったから」

「ならよかった」

 

 執務卓の向こうに座っている男が咳払いをして、私たちの注意を惹いた。濃紺の制服姿で、詰襟の襟元に金線が一本入っている。どこの警察でも、その階級章は大体警部補のものだ。その推定警部補が口を開いた。

 

「本当に彼女でいいのかね?」

「もちろん」

 

 ぐらが続ける。

 

「アメ以上に信じられる人間は、あの中にはいないから」

「よかろう」

 

 警部補が目で合図すると、先程私を連れてきた警官が背後に歩み寄った。鍵束を探るかちゃかちゃいう音が聞こえる。

 

「いい、ワトソン。よく聴いて」

 

 ぐらが椅子の上から、私を真っすぐに見据えて言った。

 

「なんらかの手違いで、こっちの社長に"付け届け"が届いてないの。あんたはできるだけ早くアタシたちの社長のところに行って、事情を話して、持って来るべきものを持って来て」

 

 つまり、ここの署長宛ての賄賂を持って来いってことか。

 

「わかった。時間制限は?」

初回出頭手続き(イニシャル・アピアランス)まで。アタシたちが逮捕されてから24時間以内って決まりだから......警部補、ここの治安判事は何時に閉廷するの?」

「四時だ」

「明日の夕方四時だよ」

「わかった」

 

 手錠が外れた。私は早々に部屋の戸口に向かいながら、ぐらに言った。

 

「絶対に間に合わせるから。待ってて」

「間に合うよ。あんたなら絶対」

 

 

 

 12:43 AM, Dec. 25th, 1943, Western Union Telegraph Syracuse Station Office, Syracuse, NY

 

 警察署を出た私は、しばしニューヨークへのアシについて考えを巡らせた。シラキューズからニューヨークへ直通の近郊列車は無い。州都オールバニーで乗り換えが必要だけど、どのみちエリー線もハドソン線も最終列車はとっくの昔に出ている。

 当然だけれど、この辺のタクシーが五時間もかけてニューヨークまで行ってくれるわけがない。

 そこいらで車泥棒でも働くか、と考えていた私の耳に、かすかな汽笛が聞こえてきた。市の北郊にあるシラキューズ駅で、入換機関車が鳴らしていたものだろうけれど、それを聞いて別の考えが浮かんだ。何も近郊列車に限る必要はない。

 

 そんなわけで私は、延々二マイル半以上も走ってシラキューズ駅に着くと、まず隣接するウェスタン・ユニオンの電信局に向かった。思った通り、鉄道電報のために窓口は開いていて、女性の窓口係が一人、真鍮の格子の向こうで暇そうにしていた。

 一分ほど、電信局の外でぜえぜえ言う息を整えてから、中に入った。

 

「失礼。小切手を一通、引き受けてもらえるかしら?」

「ええ、どうぞ。こちらの用紙にご記入ください」

 

 電報用紙を転用した書式に、氏名、住所、その他必要事項を書き込んでいく。全部埋めてから格子の下を滑らせると、窓口係は用紙をざっと見てから言った。

 

「50ドルですと、保証金は2ドル50セントになります。よろしいですか?」

「ええ、いいわ」

 

 私はコートを脱いてカウンターの上に置くと、その裏地を引っぺがした。

 私がコートのポケットに入れていた財布、小額紙幣、小銭入れ、小切手帳その他は全部没収されて、返って来たのはコートだけだった。こういう事態を想定していたわけじゃないけれど、備えあればなんとやら。驚く窓口係の目の前で、私は一枚の小切手用紙を取り出して、書式の記入に使った万年筆で52ドル50セント分の小切手を切った。サインして、格子の向こうに押しやる。

 

「はい、どうぞ」

「少々お待ちください」

 

 窓口係は現金抽斗を開け、紙幣を数え始めた。20ドル札が一枚、10ドル札が二枚、5ドル札が一枚、1ドル札が五枚。あわせて九枚の紙幣がこちらに渡される。

 

「50ドルちょうどです。お確かめください」

「どうも」

 

 電信局を出ると、暗い駅舎を通り抜けてホームに向かった。時計は十二時五十分を指そうとしている。ベンチに座り、汽車が来るのを待った。

 

 

 



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Cross the Boarder #2

 1:30 AM, Dec. 25th, 1943, Syracuse Station, Onondaga County, NY

 

 ブレーキが軋む甲高い音がして、私ははっと目を覚ました。いつの間にかベンチでうとうとしていたらしい。幸いにも、夢の世界に入ってしまう前に汽車がやって来たようだ。

 流線型の蒸気機関車が牽引するのは、ニューヨーク・セントラル鉄道の特急列車「コモドア・ヴァンダービルト」号だ。昨日の昼一時半にシカゴを発ったこの列車は、夜一時半に給水と郵便物の積み下ろしのためにシラキューズに停車し、朝八時にニューヨークに着く。

 ホームにいた駅員二人が荷物車のドアを開けて、新聞の束を降ろし始めると、私は荷物車の後ろに連結されている寝台車のドアを開けて中に入った。がらんとした喫茶室を抜け、荷物車の乗務員室に繋がる貫通扉を叩く。

 

「はい、どうされました?」

 

 ドアが開いて、制服姿の車掌が出てきた。眠たそうな目と声が、どうやら居眠りしていたらしいことをうかがわせる。そんな車掌は私の顔をじろじろ見て、自分が車内改札した乗客ではない、と気づいたようだ。

 

「失礼ですがマーム、切符をお持ちですか?」

「ないわ、今乗ったから。ここからニューヨークまで、空いてる席で一番安いのは?」

 

 車掌は目をぱちぱちさせて眠気を払ってから、乗車表を思い浮かべているらしい遠い目をして答えた。

 

「それですと個室寝台(ルーメット)になります。プルマン寝台車料金と一等運賃で、合わせて15ドル41セントです」

 

 電報局で受け取った20ドル札を押し付けて言う。

 

「お釣りはいいわ」

「ありがとうございます、マーム。こちらへどうぞ」

 

 車掌が先に立って、後ろの車両へと通された。

 

 

 

 

 

 悪夢を見る中で、変わってきたことが一つある。それは、自分が悪夢を見ていることを認識できるようになってきたことだ。夢の中でぶよぶよに太った男に組み敷かれて、恐怖も羞恥心も感じはするけれど、これは夢だ、とわかっているのとわかっていないのとでは、雲泥の差がある。もちろんうなされ、汗びっしょりになって震えて目を覚めすのは、相変わらずだけれど。

 

 8:00 AM, Grand Central Terminal, Midtown Manhattan, NYC

 

「失礼ですが、マーム?」

 

 その朝、私を悪夢から引っ張り出したのはチビのサメ女ではなくて、プルマン社の制服に身を包んだフィリピン人の列車給仕(ボーイ)だった。狭い個室寝台(ルーメット)の隅に縮こまってガタガタ震えていた私を、心配そうに見つめている。

 

「お加減が悪いのですか? うなされておられましたが......」

「大丈夫よ、ありがとう」

 

 私は頭を振って、給仕にそう言った。ひどい寒気がするし、服の下は冷や汗でびっしょりだし、全然大丈夫ではなかったけれど。気が付くと、列車はすでに停まっているようだった。

 

「もう終点?」

「はい。グランド・セントラルです」

「ありがとう」

 

 立ちあがって歩き出すと、身体中の骨からポキポキ音が鳴った。

 列車を降り、長距離列車用の地上ホームから駅舎に入る。この時間のグランド・セントラル駅は、普段なら通勤客で込み合っているところだけれど、なにせ今日はクリスマスだ。戦時下とはいえ祭日の朝、グランド・セントラルのコンコースはがらんとしていた。

 コンコースの隅にニュース・スタンドがあり、その横に電話ボックスがずらりと並んでいる。私は暇そうにしていたニュース・スタンドの店員から、読みもしないニューヨーク・デイリーニュースを買って1ドル札を崩すと、公衆電話にお釣りの10セント玉(ダイム)を入れてクロニーに電話をかけた。

 

"はい、もしもし?"

「私よ、アメリア・ワトソン」

 

 電話越しなら、言葉遣いを選んだ方がいいだろう。

 

「ぐらから頼まれて、あなたの子羊の群れに加わってたんだけれど、途中でみんな狼に食べられちゃったわ。どうやら、狼さんはおやつを食べ損ねてたみたい」

"詳しく話を聴きたいな。どこから電話してるんだ?"

「グランド・セントラルよ」

"すぐに来てくれ"

 

 駅から出ると、人もまばらなタクシー乗り場で客待ちをしていた39年式チェッカー・タクシーに乗り込んだ。

 

「クロノ・タワーまで。十分以内に行ってくれたらチップを倍払うわ」

 

 

 

 8:13 AM, Krono Tower, Financial District, NYC

 

 証券取引所も銀行も閉まっているからか、がらんとした朝の金融地区(フィナンシャル・ディストリクト)の通りを、駅で拾ったタクシーは飛ばしに飛ばし、僅か八分でクロノ・タワーへと到着した。

 

「1ドル65セントっす」

「ど、どうも」

 

 分厚い眼鏡が徴兵の妨げになったのだろう若い運転手に、車内で散々振り回された私はくらくらする頭を押さえながら、1ドル札を二枚渡した。

 

「お釣りはとっといて」

「毎度」

 

 グランド・セントラルと同じでがらんとした玄関ホールを抜け、不運にもクリスマスに勤務が当たってしまった"四角いバッジ(スクエア・バッジ)"の警備員――傷痍兵なのか片足が少し曲がっている――に用向きを伝えると、すぐに上階へ通された。

 69階の私用応接室で私を待っていたクロニーは、祭日の朝だというのに平生と全く変わらない、一部の隙も無い青いレディース・スーツ姿だった。この格好のまま寝ているんじゃないかと疑いたくなるほどだ。

 

「話を聞かせてくれ。車列はどうなった?」

 

 クロニーは挨拶も抜きに本題に入り、私はあらましを説明した。その間クロニーは私の目を、ほとんど瞬き一つせずに見つめ続けていた。

 

「......なるほど。ことのあらましはわかった」

 

 私の話が終わるとクロニーはそう言って、私がさらに何か言うのを待つような視線をこちらに向けた。

 

「......なに?」

「なに、だって? 私からの"依頼"を忘れたわけじゃないだろう?」

「つまり......つまり、これがぐらの仕組んだことじゃないかと、そう思ってるの?」

 

 クロニーは「いかにも」という顔つきで頷き、私はその顔を一発殴りつける妄想をした。実際にはやらない。やったらすっきりするだろうけれど。

 

「あのね、ぐらも捕まってるのよ。彼女は今も、シラキューズの汚い留置場で私のことを待ってるの。ぐらが仕組んだことなら、彼女にそこまでする必要がある?」

「あるさ」

 

 眉一つ動かさず、クロニーは続けた。

 

「だって、車列に同行してる以上、一人だけ捕まらなかったら不自然だろう? もっと言えば、ぐらが捕まっっていれば、あなたは間違いなく必死になるだろう。今のように」

 

 私は奥歯を噛んで、クロニーを睨みつけた。憎たらしいほど整ったその顔は、余裕を湛えてこちらを見返している。間違いない、クロニーは何か他の情報源から、"ぐらの裏切り"を知らされている。真偽のほどはさておき、クロニーは私が"彼女に忠実かどうか"を見極めようとしてるんだろう。

 そして残念ながら、私はぐらの無実を理論的に証明できる立場にない。ぐらがどんな裏取引をしてるにしても、私がその場に居合わせることは極端に少ないからだ。「私はこの目でみた。彼女は無実だと断言できる」って証言は、それ自体胡散臭くはあるけれど、私はそれさえできない。

 

「......少なくとも、ぐらはあなたへの不平や不満を持ってはいないわ。私が見る限り、彼女はあなたをビジネス仲間として信頼してるし、その範疇において、あなたに誠実であろうとしている。証拠はないけれど状況から見れば、ぐらがあなたを裏切っているとは思えないわ」

「そうか」

 

 クロニーはそう言い、しばらく私の目をじっと見つめた。負けじと見返していると、十五秒ほどで目が逸らされ、クロニーは肘掛椅子の横の小さなテーブルに置かれていた電話機から受話器を取った。

 

「私だ。昨日と同じ要領で、二千手配してくれ......さて、アメリア」

 

 受話器を置くと、クロニーは懐から小切手帳と万年筆を取り出して、二千ドル分の小切手を書き始めた。

 

「あの車列は重要だ。だから今回は金を出すし、ぐらも解放させる。だが、急ぐことだな」

 

 切り取った小切手を私に差し出しながら、クロニーは刺すような目で続けた。

 

「私は何も、君だけに調査を任せているわけではない。判断は全ての資料が出そろってから下す予定だが、君は大きく出遅れているぞ」

「ご忠告どうも」

 

 短く言って、その手から小切手を奪い取った。

 

「その小切手は、君も行きつけの例の質屋に持って行くといい。そこが馴染みの金貸しとの仲介役をやってるのでね」

 

 

 

 8:30 AM, East Village Loan and Pawn Shop, Alphabet City, NYC

 

 再びタクシーで、金融地区(フィナンシャル・ディストリクト)からアルファベット・シティまで。この界隈でタクシーを拾い直すのは――祭日であることを抜きにしても――困難だったから、運転手に自分を待つように頼んだけれど、彼は渋面で返してきた。

 

「しかし、アルファベット・シティですよ? こんなとこで待ってたら、あっという間に身ぐるみ剥がれて車も奪われちまう」

「その場合は弁償するわ」

 

 ポケットから5ドル札を取り出して、目の前に突きつける。

 

「待っててくれるなら、運賃とは別にこれもあげる」

「わかりましたよ」

 

 深いため息とともに運転手はそう言い、紙幣を取った。私はドアを開け、降りしなに釘を刺した。

 

「ところで、クロノ・タワーにいる私の友人は州政府(オールバニー)にも顔が利くの。あなたがもし逃げたりしたら、名前とライセンス・ナンバーを彼女に伝えて、あなたの旅客運転免許(ショーファー・ライセンス)を取り消させるからね」

「わかった、わかりましたから、早く戻ってきてくださいよ」

 

 質屋にドアには"閉店(CLOSED)"のサインが出ていたものの、ドアは施錠されていなかった。電灯が消えていて暗い店内を奥に進むと、カウンター・デスクと真鍮の格子の向こうの定位置にポルカはいた。青白い顔と紫玻璃色(アメジスト)の目が、緑色の覆いが付いた卓上灯の明かりに照らされている。

 

「メリー・クリスマス。祭日なのに随分忙しそうだな?」

「メリー・クリスマス。まあね。あなたこそ、この日にニューヨークでなにしてるの? 故郷に帰らなくていいの?」

「帰って何しろって言うんだ。反ナチス・レジスタンスにでも加われってか?」

 

 女店主は鼻で嗤ってそう言った。彼女が移民申請の書類に書いた通り、チェコスロバキアの出身でないことは、お互いに承知している。

 

「小切手は?」

「ここにあるわ」

 

 クロニーが切った小切手を、格子の下のカウンターに滑らせると、ポルカはさっと目を通してから、抽斗にそれを仕舞いながら言った。

 

「急な話だったから、金はまだ来てないんだ。ちょっと待ってくれ」

「ちょっとってどれくらい?」

「もう後五分くらいだろ......いや、五分もかからなかったらしいな」

 

 表のドアが開く音がして、ポルカはそう訂正した。歩幅が狭く、つま先があまり開いていない足音が聞こえる。女だ。

 まもなく陳列棚の角を曲がって姿を現したのは、女性のハーフ・エルフだった。透き通るような白い肌で、整った目鼻立ちをしている。ごく薄い青の髪の毛は、腰辺りまで伸ばしている。髪の色より濃い目のブルーのスーツは、本物のシャネル・スーツらしい。その右手には、彼女の出で立ちに全くそぐわない、薄汚れた革の手提げ鞄を持っていた。

 彼女はポルカに何か言おうとして口を開きかけ、私を見るなり吸った息を止めた。

 

「......なんだ、お客さんいたんだ」

「まあ、お客さんっちゃそうだな。今回の引き渡し先だ」

 

 珍しいことに――少なくとも、私は初めて見た――ポルカはカウンターが切れている端まで行き、格子戸を開けて売り場側に出てきた。

 

「紹介するよ。彼女はアメリア・ワトソン。私立探偵で、クロニーの使いっ走りさん」

 

 文句を付けたい紹介のされ方だったけれど、事実ではあるので否定しがたい。

 

「アメ、こいつはラミィ。旧ユニーリア公家の娘さんだ」

「ユニーリア公って、あのカナダの?」

「その通り」

 

 ユニーリア家は、かつてカナダ北方で小さな集落を治めていた、エルフの豪族だ。イギリスがカナダにやって来た時、当時の当主を初代ユニーリア公爵に封じて、英領ユニーリア公国として大英帝国に組み込んだ。ところが最終的に、大英帝国はユニーリア公家を取り潰し、英領カナダ自治領に編入してしまった。

 ユニーリア家はアメリカに、イギリスが狙っていたその富とともに亡命したものの、すでにアメリカ金融界を支配していたエルフのコミュニティには加わらず、独自の道を取った。犯罪界の銀行家としての道を。いまやその名声は犯罪界において、私程度の浅さにいる人間でも知っているほどに轟いている。

 そのユニーリア家の娘は擦り切れた手提げ鞄を、私ではなくポルカの方に突き出して言った。

 

「はい、注文通りに持ってきたよ。使用済みで記番号不揃いの20ドル札百枚、締めて二千ドル」

「どれどれ」

 

 ポルカは鞄をカウンターに置いて開け、札束を取り出して銀行家のように手早く繰った。それから中の一枚を抜き取り、じっくりと調べる。

 

「......よし、ちゃんと二千あるし、使い古しで番号も不揃い。偽札でもないな」

「ちょっと、ラミィのことなんだと思ってんの」

「信頼できる高利貸しだと思ってる。ただ、これがあたしの商売だからな。ほい、アメ、ご入用の二千ドルだ」

「どうも」

 

 ポルカが再び二千ドルを鞄に仕舞い、私の方に差し出してくる。それを受け取ろうとすると、ポルカは鞄から手を離さずに言った。

 

「クロニーは知ってることだけど、この際だからアメにも注意しとこう。ラミィはな、ユニーリア家の娘だけど長子じゃない。この借金はラミィの帳簿じゃなくて、ユニーリア家の帳簿に記載される。つまり、ラミィをどうこうしたところで、借金は無くならない。オーニー・マドゥンって知ってるか?」

「名前は聞いたことがあるわ」

 

 30年代にニューヨークにいたギャングらしい。私がこの街に来るより前に、抗争でひどい死に方をしたと聞いている。*1なんでも監察医が、その死体からニ十発以上の弾丸を摘出して、その二倍か三倍は撃たれたらしいと判断したとか。

 

「そう発表されたからな。ところが、あいつは抗争で死んだわけじゃないんだ。マドゥンはケチなやつで、ユニーリア家から借りた金を帳消しにしようともくろみ、ラミィを人質に取ったんだ」

 

 私はまじまじとハーフ・エルフの娘を見た。顔に傷があるわけでもなく、手足が欠けたり、杖をついてたり、足を引きずってたりするわけでもない。

 

「ギャングに人質に取られたにしては、元気そうね」

「マドゥンのアジトにヒットマンが送り込まれたからな。獰猛なライオンはマドゥンの手下を皆殺しにして、マドゥン本人をハチの巣にした。身許がすぐわかるように、首から上は無傷の状態に保ってな*2

 

 よっぽどの手練れだったんだろう。アジトにヒットマンが入って来たら、大抵は人質に危害を加えるか、そう脅して盾にするのが普通だ。にもかかわらず、ラミィにはそんな目に遭ったような傷跡がない。

 

「手下どもの死体は"掃除屋(スイーパー)"か"葬儀屋(アンダーテイカー)"のどっちかが始末したらしいが、マドゥンの死体は"無縁墓地(ポッテリーズ・フィールド)"に捨てられた。ご丁寧に、市警の連中が見回りに来る前日に」

「メッセージってこと」

「その通り」

 

 ユニーリアの娘が口を挟んだ。

 

「私たちはお客様にケチな態度を取ったりはしません。しかしお客様がケチな態度を取られるなら、私たちも相応の態度で応じます」

 

 琥珀色の目はその時、獲物を見据える蛇のような剣呑な光を湛えていて、私はさっと目をそらした。

 

「ま、今回の二千はクロニーの借金だからアメには関係ないけどな。もしあんたがラミィから金を借りたくなったら、あたしに言ってくれれば仲介してやるけど、そこらへんはよおっく考えてから頼みなよ」

 

 ポルカは手提げ鞄からやっと手を離すと、私の肩をぽんと叩いてそう言った。

 

 

 

*1
このお話のためのフィクションです。実際のマドゥンの最期が気になる方は、ご自身でお調べになってください。

*2
このお話のためのフィry



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Cross the Boarder #3

 

 8:50 AM, Dec. 25th, 1943, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

「どうぞ、マーム」

「ありがとう、ヴィック」

 

 レノックス・ヒルにあるぐらのアパートメントに着くと、ドアマンのヴィックがタクシーのドアを開けてくれた。運転手に料金を払って車を降りると、手提げ鞄を受け取ろうとしたヴィックに手を振って、代わりに25セント銀貨(クォーター・ダラー)を渡しながら訊く。

 

「ぐらの車を出してもらえるかしら?」

「もちろん、構いません。おい、18番の車を出してくれ!」

 

 ヴィックの掛け声に応じて、玄関脇に控えていた駐車係(ヴァレー)がさっと玄関に入って行った。

 

「少々お待ちください、ミス・ワトソン」

 

 車を待つ間に、キャメルを銜えて火を着ける。寝不足でしょぼしょぼの目に、煙草の煙はひどく沁みた。

 

「すみません、ミス・ワトソン」

 

 顔をしかめて一服したところで、玄関からベルマンのジョーが顔を出して、声をかけてきた。

 

「フロント・デスクにお電話が入ってます。アイリス様という方が、至急お話したいとのことで」

 

 地下駐車場に繋がるスロープを青いクライスラーが登ってくるのが見え、私はちょっとだけ、このまま無視することも考えた。しかし相手が相手だ。評議会(カウンシル)の相談役にして秘匿連邦捜査官様を無視するのは、いい手とは言えないだろう。

 

「今行くわ」

 

 火を着けたばかりのキャメルを側溝に投げ捨てて、私は玄関ホール(ホワイエ)に入った。ジョーに促されて電話ボックスの一つに入り、外されている受話器を手に取る。

 

「あのね、私は今すごく急いでるの。夜に、いや明日に出来ないかしら?」

"そっちの状況はわかってるよ"

 

 電話の向こうのアイリスは、そう淡々と答えて続けた。

 

"これから子羊の群れが向かう先を、よく覚えておいて"

「は、それがどういう......」

 

 訊き返した時にはもう、私は切れた電話に向かってしゃべっていた。悪態をついて受話器をフックに叩き付けると、電話ボックスを出て、駐車係(ヴァレー)に渡すチップを探りながら外へ向かった。

 

 

 

 0:12 AM, Dec. 26th, 1943, NY Route 25, Suffolk County, NY

 

 深夜のブロンクス=ホワイトストーン橋を、GMCのトラック六台からなる車列が走って行く。私は再び二台目のGMCの運転台に座って、大きなハンドルと遠くて重いペダル――そして気を抜いたら引っ付きそうになる目蓋――に苦戦しながら運転していた。

 橋を渡り切ってロング・アイランドに入った車列は、ニューヨーク州道25号を東に折れて市境をまたぎ、ナッソー郡を通過してサフォーク郡に入っていた。

 まもなく車列は小高い丘を登り、その中腹にある倉庫のような建物の前で止まった。他のトラックから次々と男たちが降りるのを見て、私もエンジンを切ってキーはそのままに、運転台からぴょんと飛び降りる。

 

「お疲れ様」

 

 廃倉庫のような建物から、一人の女の子が出てきた。秋の枯葉のような茶髪をポニー・テイルにまとめていて、どことなく気が抜けるふわふわした声音をしている。

 

「後はこっちでやっとくから、今日は解散でいいよ」

 

 その言に従って男たちが三々五々に帰りはじめたので、私もそのまま倉庫の敷地を後にした。

 車列の一番後ろについて来ていた青い41年式クライスラー・ニューヨーカーは、門のところに停まっていた。その助手席に滑り込む。

 

「お疲れ、ワトソン」

 

 運転席でハンドルを握るぐらが、葉巻を銜えたままねぎらいの言葉をかけてくれたけれど、ニューヨーク=シラキューズ間の強行軍から一息つく間もなくシラキューズ=サフォーク間の強行軍に参加する羽目になった身として、返す言葉もなく私はシートに沈み込んだ。煙草を喫いたいけれど、キャメルのパックを取り出すのさえ億劫だ。

 留置場にいる間は煙草を喫わせてもらえなかったと見えて、ぐらはダンヒル輸入品のキューバ葉巻をばかすか灰にしていた。灰皿には灰がてんこ盛りで、ちびた吸殻が半ダース程、灰の山にトゲのように突き刺さっている。車内はハバナ莨の煙で霧がかかったようになっていた。もうこの煙でいいや。

 ぐらが吐いた煙を煙草代わりに吸っていると、急激な眠気に襲われた。「コモドア・ヴァンダービルト」号の中で眠ったのも一時間足らずだったから、三十時間近く寝てないわけだ。

 

「ごめん、ぐら。私、ちょっと眠るね......」

 

 最後まで言い切る前に、私の意識はすとんと闇の中へ落ちて行った。

 

 

 

 

 

 「ごめんって言うのはアタシのセリフだよ」って言おうとしたけれど、その前にアメの方からすうすうと寝息が聞こえてきて、アタシはそのまま言葉を呑み込んだ。

 本当に、今回の件はちょっとした気分転換にピクニックとドライブ気分で行くつもりでアメを誘ったんだ。ところが、蓋を開けてみればこれだ。

 アタシは汚い監房――窓は嵌め殺しで、饐えた大小便と反吐と汗の臭いに満ちていて、壊れた水洗便器の代わりに尿瓶と盥が置かれていて、縁の欠けた水瓶には油虫が浮いていて、毛布には蚤がたかっていた――に十八時間近く拘束され、アメはたった一人でニューヨークとシラキューズの強行軍を行う羽目になった。

 

「くそ、なんでこんなことに......」

 

 イライラと呟き、すっかり短くなった七本目の葉巻を灰皿に突っ込んだ。コートのポケットから葉巻入れ(シガー・ケース)を取り出してぱちっと開いたけれど、いまもみ消したのが最後の一本で、アタシは小さく唸り声を上げて蓋を閉じ、ポケットに戻した。

 

 クロニーがシラキューズの署長に賄賂を払わなかったとは考えにくい。今は亡きけちんぼのマドゥンとかならともかく、そんなことをすればこうなる――カナダの密輸業者はこっちの警察ともしっかりつながっているから――のは瞭然なんだから、密輸酒がそこまで大きなビジネスでないとはいえ、そこをケチる意味はない。

 署長が倍の賄賂を欲しがったのか、という疑いもあったけれど、この可能性も低い。釈放される前に署長とは、汚職警官(ダーティー・コップ)のよしみでちょっと肚を割った話し合いをしたけど、彼が賄賂を受け取ってないのは明らかだった。

 となると必然、クロニーと署長の間に立つ誰かさんがネコババをしたことになる。

 

「そう言えば、クロニーはアタシが裏切ってないか疑ってたんだよね......」

 

 クロニーの側の仲介役は、たぶん正規構成員の誰かだろう。実際に運ぶのはその傘下の準構成員あたりだろうけど、そんな下っ端がクロニーのものとわかってる二千ドルを着服するとは考えづらい。そんなのは手の込んだ自殺も同然で、まともに学校に通ってないチンピラでも理解できることだ。

 だから着服している人間がいるとすれば、それは警察側の誰かか担当構成員かのどっちかになる。

 

「アタシ、結構妬まれてるからなあ......」

 

 クロニーのところの正規構成員(マフィオーソ)のほぼ全員は、アタシの失脚を望んでいると言っていいだろう。極論、その全員が結託してアタシを嵌めようとしている、と言われても全然不思議じゃない。

 普通、犯罪一家(マフィア)はその血の掟(オメルタ)の内側に"青い血(おまわり)"を入れたがらないものだ。ところがクロニーはアタシを実質的に構成員として扱っている――しかも掟の縛りなしに――し、それどこか重宝してさえいる。当然、他の構成員たちは面白くないに決まっている。

 身内での権力レースを始める前に、結託して邪魔なサメを水揚げしてしまおう。あいつは家族(ファミリー)じゃないからな......うん、充分あり得る。

 

「うん......」

 

 アメが何やら唸って寝返りを打った。悪夢に襲われてるのかと思って視線を向けたけれど、その寝顔は安らかだ。とりあえず、今のところは大丈夫そう。

 

「やっぱり、クロニー周りは慎重に慎重を重ねるに越したことは無いな......」

 

 車はクイーンズボロ橋を渡ってマンハッタンへ入ろうとしてた。安息の我が家まで、あと少し。

 

 

 

 1:03 PM, Dec. 28th, 1943, IRyS's Apartment, Upper East Side, NYC

 

「おはよう、アメ」

 

 それから二日後の昼、私はアイリスのアパートメントを訪れていた。例によって執事さんではなくアイリス自身が案内に出てきて、以前来た居間ではなく書斎に私を通した。

 書斎には先客がいた。

 濃紺のビジネス・スーツに身を包んだ痩身の男だ。縁の細いの眼鏡をかけているけれど、そう度が強いものじゃない。手足のどれかが欠けているわけではなく、不自由があるわけでもなさそうだ。しかしその肉体でその年恰好なら、普通は徴兵されていて、軍服を着ているはず。琥珀色の液体が入ったショット・グラス片手に、ソファの一つにくつろいだ様子で座っていて、一見すると弁護士か税理士みたいな印象を受ける。でも、眼鏡の奥の切れ長の目が放つ光は、弁護士や税理士ではありえない。つまり。

 

「紹介するよ、アメ、彼はカール。下の名前は教えられないけど」

 

 カールと呼ばれた男が立ち上がって、軽く礼をした。育ちが良いことを保証するような、優雅な動きだ。しかしいかにも役人臭い、気楽な横柄さがある。

 

「彼は連邦麻薬局(FBN)の捜査官なの。カール、こちらアメリア・ワトソン。とっても信頼できる協力者さんだよ」

 

 私はアイリスの背中に向かって思いっきり歯をむき出した。こっちをぐらの件でがちがちに縛り付けて置いて、"とっても信頼できる"なんて、どの口が言うの。

 

「さっそくだけどアメ、カールはあなたが付き添った"子羊の群れ"がどこの牧場に向かったのか、とっても興味があるんだ。教えてあげてくれないかな」

「ちょっと待って」

 

 私はさっと手を挙げて、アイリスを遮った。

 

「あれは確か、密輸酒の輸送車列だったはずよ。内国歳入局(IRS)ならともかく、なんで連邦麻薬局(FBN)が?」

 

 カールから目で振りを受けて、アイリスが答える。

 

「クロニーはね、ハリファックスに手下たちがいるの。アメ、ハリファックスはわかる?」

「わかるわよ。ノヴァ・スコシアの港町でしょ?」

「せいかーい」

 

 話しながら、アイリスは頼んでもいないのにブランデーを注いで、グラスを私の手に押し付けてきた。それを舐めながら、続きに耳を傾ける。

 

「あそこからは、イギリスやソ連を援助するための船団が出てるわけだけど、クロニーはその貨物からちょっとずつ――本当にちょびっとずつ――医療物資のモルヒネをくすねてたの。41年からずっとね」

 

 自分はお酒ではなく、ダビドフの細身の紙巻煙草に火を着けて、アイリスは続けた。

 

「それがある程度貯まったから、先日こっちに持ち込んだんだよ」

「待ってよ。軍用モルヒネって確か、歯磨き粉のチューブみたいな注射器に入ってるんじゃなかった?」

 

 私の記憶が正しければ、トラックに運び込まれていた荷物は木箱に入った半ガロンの硝子壜だったはずだ。ラベルは無かったけれど、どうみても酒壜だった。

 

「だろうね。でも、その中身まで調べた? 栓を開けて匂いを嗅いだり、舐めたりとかは?」

「してない」

 

 そら見ろ、と言う表情でアイリスは私を見て、ふと話題を変えた。

 

「ところで、行先の牧場で女の子を見なかった?」

「え? ええ、見たわ。茶髪で、私と同じくらいの背格好で、ふわっとした物言いの子......」

 

 にんまりとした表情を崩さず、アイリスは言った。

 

「じゃ、あなたは評議会(カウンシル)の"知恵袋(アイデア・ガール)"に会ったわけ」

「"知恵袋(アイデア・ガール)"......七詩ムメイ?」

 

 評議会を構成するボスたちの一角にして、評議会が経営する様々な悪徳ビジネスの考案者であるという"知恵袋"が、あの子?

 

「待って、それでもわからないわ。仮にあの子がムメイだったとして、なんでクロニーは、密輸したお酒――あなたたちが言うにはモルヒネらしいけど――を彼女のところに運び込む必要があるわけ?」

「精製するのさ」

 

 ここでようやく、カールとかいう麻薬捜査官が言葉を発した。ソファから立ち上がり、どことなく高慢な態度で訊いてきた。

 

「化学の問題だ、ミス・ワトソン。モルヒネは阿片を精製したものだが、それをさらに精製すれば何になる?」

「......ヘロインね」

 

 それくらいは、私でも知っている。

 ヘロイン。薬化学的にはジアセチルモルヒネ。今世紀の初頭に、ドイツの製薬会社が発明した麻薬だ。彼らは精製阿片、すなわちモルヒネの中毒性を危険に思い、モルヒネをさらに精製すれば麻薬物質と中毒物質を分離できるのではないかと考えた。そうして"安全な麻薬"として世に出されたのがヘロインだった。

 しかし実際には、向精神作用を持つ物質と中毒作用を持つ物質はイコールだったから、モルヒネよりもさらに危険な"死に至る麻薬"が生まれてしまったのだけれど。

 とはいえ、ヨーロッパの人々もそれに気づかないほど鈍感ではなかった。十年ほどで違法麻薬に指定されて回収が始まり、アメリカでもさらに十年遅れで医薬品認定が取り消されている。しかしながらその十年から二十年の間にヘロイン中毒の患者は爆発的に増え、規制されたヘロイン工場は地下に潜って摘発を困難にした。違法麻薬市場に大量のヘロインが出回り、ほんの少量で陶酔状態になれるその薬は、大麻や麦角や覚醒剤よりも値段を吊り上げやすく、たちまち"麻薬の王様"の地位に君臨した。

 

「でも、今のアメリカではほとんど流通していない。なぜなら......」

「なぜなら、大規模なヘロイン工場はヨーロッパにあるから」

 

 私が声に出して考えていると、その後をカール捜査官が受けて続けた。

 

「大西洋にドイツ潜水艦(Uボート)群狼(ウルフパック)がうようよしていたから、ヘロインの密輸など夢の又夢だった。物資救援のために国産のケシもモルヒネも流通管理が厳しくなって、国内の中小工場もばたばた潰れた。売人共は小麦粉やらなんやらで混ぜ物をして、わずかな在庫で辛うじて食いつないでいる状態だ」

「でも、クロニーはモルヒネを手に入れた。ええっと......」

 

 半ガロン壜一ダース入りの木箱が、一台あたり十箱積まれていたはずだ。そのトラックが六台。

 

「つまり......積荷は三百六十ガロンのモルヒネだったってわけ?」

「そういうことだ」

「そこからどれくらいの量のヘロインができるの?」

 

 途方もない分量に声が震えるけれど、好奇心が勝った。カールはちょっと眉根を寄せてから、慎重に答えた。

 

「化学というやつはいいかげんだからな......精製方法次第だが、以前七詩が覚醒剤を精製してた時の手際を見るに、八十五ポンドってところだろう。ご参考までに付け加えると、現在のヘロインの末端価格は1ポンド800ドルだ」

 

 戦前の三倍に跳ね上がっている。在庫が少ない上に末端では混ぜ物だらけとなれば、当然か。

 

「とすると、単純に六万八千ドルは儲かるわけね」

「途中で値崩れするだろうから六万ってところだろう。"調達"に一万、設備投資に二、三万はかかっているはずだから、利益も二、三万ドルってところだな」

「思ったより薄利なのね」

「設備投資分があるからな。だが次からは調達の一万ちょっとだけが費用になる。相場は六百を下回りはしないだろう。たぶん、七百あたりで安定するはずだ。それ以降は約五万の利益が見込めることになる。"調達"はあと二回分あるはずだから、最終的には十二、三万ドルぐらいの黒字が見込めるわけだ」

 

 十三万ドル。途方もない金額だ。私の年収だってその100分の1に満たない。

 

「そして、考えてみたまえ。ニューヨークの、いや全米の薬中どもは麻薬に飢えている。覚醒剤やヘロインには小麦粉やらふくらし粉やらが添加され、乾燥大麻(マリファナ)にはそこらへんの雑草が混ぜ込まれている時代だ。そこに混ぜ物無しの高純度ヘロインがどっと供給されたらどうなる?」

「......中毒患者の山ができあがるわけね。いや、死体の山かもしれない」

「そういうことだ」

 

 私は気持ちを落ち着けるために、グラスのブランデーを舐めた。十三万ドルは確かに途方もない数字だけれど、何十万人もの中毒患者たちと何千人もの死者たちの人生の対価としては、あまりにもちっぽけだ。

 

「サフォーク郡の山奥よ。郡境から州道25号を東に......」

 

 アイリスがテーブルの上に置いていた地図を使って、私は過日のトラックのルートを辿りはじめた。

 

 

 



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