リムグレイブ 新たなる王政 (ポジョンボ)
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新王と古騎士

 

 

 

 

断崖に聳え立つ広大にして巨大なストームヴィルの古城を、天より吹き荒ぶ嵐が打ち付ける。それは少しの間も止むことなく古城の周りを纏うベールのように包んでいる。

 

 

古来より嵐とは生命とその営みを奪う破壊の具現、人の手が決して届かぬ大いなる自然の厄災、その一つだと人々に認識されていた。

 

 

だがこの城を包む風は違った、巻き起こる風が邪なるものの尽くを吹き飛ばして掻き消す、辺りの空気は少しの淀みもなく美しく澄み切っていた。

 

風は空に漂う暗雲すら吹き飛ばし、上空からは常に晴天が顔を覗かせる。

 

 

 

しかし嘗てのストームヴィルは違った。吹く風は淀み、ただそこを歩む者の体温を奪うだけ。

 

上空にはまるでこの城と統治された領土の行先を暗示するかのような、深い暗雲で埋め尽くされていた。

 

城の中には澄み切った気配など皆無、城の支配者たる男のもたらした血生臭い狂気と妄執が邪気となって渦巻いていた。

 

 

 

城の主の妄執を断ち切り、ストームヴィルを変えたのは二人の戦士、共闘の果てに邪悪に堕ちた神血の末裔を討ち滅ぼした。

 

共に祝福を失った褪せ人なれど、いつかエルデの王座に見えんと誓った戦友が二人。その片割れが今、このストームヴィルに居た。

 

 

 

「ストームヴィル、か」

 

 

 

長く続く城内の最奥、城門を超え、中庭を超え、兵の居留地を超えて、その先に見える王座への道。

 

奥まった小屋の先にあるのは数多の墓標が立ち並び、それと共に剣が幾つも地面に突き刺さる広場。2つの賢人の像がその先にある王座へ謁見する者を見定めるかのように両側に配置されている。

 

 

 

「この場所で共に戦った、昨日の事の様に思えるよ」

 

 

 

まさにこの場所こそ世界の理の破片を掛けて死闘が演じられた場所。そして今そこに立ち、空を見上げて呟くこの女が二人の戦士、その内の一人。

 

 

 

「お前の戦いも終わったのだな…」

 

 

 

その出で立ちは戦士と呼ぶに相応しく、腰に指す美しい装飾の入った二振りの斧。毛皮と少量の金属で形成された肌の露出が多い軽装鎧。

 

手には腕あて、足には靴代わりに布が巻かれ、胴は肩当てと腰巻き、後は布の胸当て。頭に被る頭巾には何か意味が込められているのか、伝統を思わせる紋様が入っている。

 

 

それらに包まれたその肉体も紛うことなき戦士のそれ、筋肉質で引き締まった体は勿論、褐色の肌を所々に走る大小様々な傷跡、猛禽類のように鋭い眼つき。

 

 

だが粗暴かつ野蛮な気配は無い、女は強者なれど、その力の意味を履き違える事は無かった。

 

それぞれの戦い、葛藤、苦難の果てに二人の戦士は己の切り開いた道を行く。片割れの女にとって、このストームヴィルこそがその道であった。

 

 

「ここに居られましたか、ネフェリ王」

 

 

晴天の陽が指すその広場にもう一人、兵の駐留所の方角から姿を表したのはまだ若い金髪の男。

 

手の込んだ刺繡と上質な布と毛皮で出来たローブを羽織る。若々しいその顔に皺は刻まれねど、その目には確固たる信念と矜持が映る。

 

 

「何度も言うが堅苦しい呼び名は止めてくれ、ケネス ただネフェリと呼んでくれれば良い」

 

 

「そうはなりません、貴女は今や名実ともにこのストームヴィル、そしてリムグレイブの統治者なのですから」

 

 

豪華な貴族服の男の名はケネス・ハイト。ストームヴィルの王を支える右腕たる重鎮であり、リムグレイブに点在する砦の一つを収める領主でもある。

 

 

そして女の名はネフェリ・ルー。祝福の導きを失った褪せ人の戦士、そして紆余曲折を経て他ならぬケネス・ハイトによって見出されたストームヴィルの新王である。

 

 

「律儀な男だな…お前も」

 

 

ここは嘗て大いなる祝福に満たされし狭間の地、その南に位置する生命豊かな緑の地、その名をリムグレイブと言う。

 

 

 

 

 

 

「王もご存知の通り…ゴドリック亡き後は貴女が城主となり、そして新たなるエルデの王も誕生しました なれど…このストームヴィルとリムグレイブにはまだまだ改善と復興の必要がありましょう」

 

 

執政たるケネスと共に、ネフェリ・ルーは王座の間に鎮座してその報告を聞く。王座の間には中央にネフェリが座す王座、部屋の壁には微笑みを浮かべる聖者達の石像。

 

そして王座の真後ろの壁には大斧を手にした壮年の戦士の石像。まるで王座とそこに座る者を見守る様に建てられている。

 

 

「確かにそうだ、このストームヴィルにはまだゴドリックの爪痕…奴の妄執と狂気の残滓が刻み込まれている」

 

「かの愚王め…落ちぶれて逃れた末に人々を巻き込み外法に走るなど言語道断、もとより奴には王たる素質などありはしなかったのです」

 

「そうかもしれないな、だが奴はもう死んだ 死者をこれ以上罵る事も無いだろう…それに」

 

「ほんの少しだけだが…ゴドリックの心情も理解できる気がする」

 

 

ネフェリは不意に王座より立ち上がり、その後ろの戦士の像に歩み寄る。それはゴドリックの敬愛を受けた一人の男、彼の祖先にして過去の狭間の地を統べし王。

 

その像を前にゆっくりとその言葉を紡いだ。

 

 

「私はゴッドフレイをこの目で見た」

 

 

「…!なんと…では真実だったのですか、黄金樹が燃え、封じられし死が解き放たれたあの時、かの王が狭間に帰還したと言うのは…貴女もそこに?」

 

 

「そうだ、ローデイルの王都、灰に呑まれ終わりゆくあの城の王の間で、エルデンリングに見えんとするアイツの戦いに手を貸した」

 

「そこには私と奴と…そしてゴッドフレイがいた、奴が立ち向かい、私もそれに続いた…それが王たらんとするあの二人が交わす問答だった」

 

「ただこの身に宿る全てを持って刃を振るった、ゴッドフレイはひたすらに苛烈で、ひたすらに偉大、そして強かった…強さこそが彼の王たる所以だった」

 

 

「そして……」

 

 

ネフェリの脳裏にその時の光景が浮かび上がる、少しも褪せることなく魂に焼き付いたその戦い、その結末。

 

ゴッドフレイが明かした己の真髄、もう一つの名を。

 

 

「奴の力が勝った…古き王を下し、その先の神を下し、奴はエルデの王となった」

 

「そしてかの神人の魔女と共に旅立ち、黄金樹と大いなる意志の時代を終わらせた…私はその歩みに一時なれど手を貸せたこと、それを誇りに思う」

 

 

「…………おぉ…なんと」

 

 

全て語り終え、王座へと座り戻すネフェリ。それを聞いたケネスは驚愕の余り感嘆の声を漏らすので精一杯であった。

 

 

「かのエルデの王と既知の仲でしたとは…ある褪せ人と共にゴドリックめを討った事は知り得ていましたが…」

 

「まさか…エルデの王となったかの褪せ人とは」

 

 

「あぁ、この場所でも共に戦ったのだ」

 

 

ネフェリは微かに微笑みを浮かべてそう答える。

 

 

 お前も知っている男だ その言葉は言わなかった。

 

 

以前、再開した時にケネスが騎士として迎え入れてやる、そんなふうに宣言していた相手がまさに本人だ、などとは。

 

 

 

「…ゴッドフレイのあの強さ、その威を間近で受けてゴドリックの事を思い出した」

 

「奴を狂気へと誘ったのは焦燥と劣等の念だけではない、先祖たるかの王への強すぎる憧憬もあったのではないかと」

 

「奴の所業を許すつもりは毛頭無い、だがその憧憬だけには、僅かながら共感できるのだ」

 

 

 

醜悪にして下劣、邪悪にして暴虐、暗君たるゴドリックも根底には強くあらんとする戦士の心があったのではないかとネフェリは感じていた。

 

それが己の非力への失望、不遇な境遇からくる嫉妬に憎悪、歪みに歪んだその果ての暴走であったので無いか。

 

 

 

「なるほど…そう思えば奴も哀しく憐れな男なのやもしれませんな」

 

「あぁ……話が逸れてしまったな」

 

 

 

「さて、私も城主の務めを果たさねばならない、やらねばならぬ事は一体どれ程ある、ケネス」

 

「はっ、まずは何と言ってもストームヴィルの復興です、紡ぎ木の残骸はあらかた撤去しましたが、城の流刑兵や失地騎士の処遇、それに城外に点在する野営地に配備された正規兵と騎士の処遇を決めねばなりません」

 

 

「彼等もまた忠誠を誓った兵達だ、主が変われば簡単にはそれを認めぬだろう」

 

 

「えぇ、ただ元より行く宛の無かった失地騎士に流刑兵はその殆どが今の新王の統治を容認しています…問題はリムグレイブ各地に派遣された正規兵達です」

 

 

「混乱もあるのでしょうが…招集にも応じず、戻って来て新たに使えると言ったのはごく僅かな者達のみです」

 

 

「仕方が無い事だ、だが何とかするしかないだろうな…他にはどんな問題がある」

 

 

「他にはやはり捨て置かれた拠点の再建です、各地の野営地や見張り塔に廃墟、そして砦」

 

「半島のモーン砦は混種の反乱こそ鎮圧できたようですが砦をまとめる責任者が長らく不在です…今、どうなっておるのやら…最悪の場合またもや混種の手に堕ちているかも解りません」

 

「後は…ウム…私がこう言うのは何やら卑怯にも聞こえましょうが…霧の森のハイト砦もです」

 

 

解ってはいたつもりであったが、やはり統治者として取り組まねばならぬ問題は山とあった。ネフェリは頭痛がするような思いで小さく浅い溜息を溢す。

 

 

「斧を振るうしか能の無い者には余る責務だな…だがやらねばならない、迷いも不安も、全て吹き飛ばす風をもたらすと誓った」

 

 

王座よりまた立ち上がるネフェリ、嘗てその目を曇らせ、歩みを留めた迷いや絶望はもうそこにはない。強い信念と意思で満たされていた。

 

 

「では王よ、さしあたり門番のゴストークより伝達があるとの事です…如何なされますか」

 

 

「あぁ、行こうか、ケネス」

 

「承知しました」

 

 

 

王座の間より外へと、小後を導く新たなる王の一歩を踏み出した。そらは変わらず、これ以上なく青々と澄み渡っていた。

 

 

 

 

 

 

城の城門、その付近にある兵の居留地たる広場にネフェリとケネスは来ていた。そこには當を見渡す櫓が両脇に二つ、松脂を使った火炎を吐き出す砲台に、敵の進行を阻む尖らせた丸太の壁。

 

敵の進軍に備えた迎撃の備えが施された広場であった。

 

 

「改めて見ますと…壮観ですな、今更ながらストームヴィルも侮れたものではない」

 

「そうだな、義父が言っていた、最弱のデミゴッドの治める城と言えど城は城 尋常の輩が踏み入り超えることは叶わぬ…と」

 

「ですが…王の戦友たるその褪せ人…かのエルデの王はこの陣を超えて王と共に城の主を討ったのでしょう?なんとも…偉業を為す者とはかくも壮健であるのでしょうか」

 

「この目でその姿を一目見てみたかったものです」

 

 

やがて二人が来たとは反対の方角、城門の方から一人の男がネフェリ達の元へやって来る。

 

痩せ細った体に何処か覇気の抜けた気怠げな雰囲気、若くはないが実際の年齢より遥かに年老いて見えるのは心に抱えた淀みのせいであろうか。

 

 

「わざわざ呼び立てるような真似をお許し下さい…ケネス様、ネフェリ王」

 

 

白い肌のその男、前掛けのような色褪せた白の市民服、本来首からかけていた黄金樹の民たる首枷は外されていた。もう信仰の象徴そのものが終わりを告げたからであろう。

 

 

「お前まで堅苦しく呼ぶのか、ゴストーク」

 

 

「いえいえとんでも無い、尊敬のできる使えがいがある王には…敬意を示さねば成りませんからねぇ」

 

「門番の務め、ご苦労であるぞ、私も王も…門番の務めを忘れぬうちはお前の手癖の悪さにも目を瞑る」

 

「…クククッ 有り難きお言葉です」

 

 

男の名はゴストーク、今も昔もストームヴィルの門番であることに変わりはないが、この男もまた紆余曲折の果てに奇妙な縁をネフェリ達と結ぶことになる。

 

互いがこのリムグレイブに思う心を持ち、王無き城に集ったのだ。この新王の統治、その始まりの3人である。

 

 

「おっと、いけない、本題に入りましょう…王よ、貴方に会いたいと言う者が城を訪ねています」

 

「私にか…まぁ、そういうこともあるだろうな、民としては新たなる王を試す気持ちもあるだろう」

 

「もう城へと入れたのか?」

 

「はい、すぐそこまで案内しました、近くに兵もおりますので…会うか合わないかは王のご判断に」

 

「会う、護衛も不要だ、案内してくれ」

 

「承知しました…では此方へ」

 

 

ゴストークに連れられて広場の先にある中庭に向かう、そこにいるのは多数の流刑兵。すぐにも戦闘を始められるよう気を張っている、何故ならその来訪者の素性が素性だからだ。

 

 

「さて、王を訪ねるという者は…あやつか…むっ」

 

「…ふむ、貴公は」

 

 

 

そこに佇むは全身鎧の人物、正規兵の装備よりも更に重く頑強な重鎧。だが金と緑で彩られたその紋様は間違いなくリムグレイブの領地を示す物だ。

 

左手の大盾、これにも太陽の紋様、背にしまわれた騎士大剣、その気になれば右腕で直ぐ様抜き放てるだろう。

 

左胸に付けられた所属を示す胸当てを兼ねたバッジ。

 

 

頭頂部に色褪せた房の付いたフルフェイスの兜に覆われてその表情も性別もまるで不明。

 

来訪者の正体とは、デミゴッドの率いる軍勢、その主力たる兵を指揮する役目の騎士、ゴドリック陣営の騎士であった。

 

 

「お初にお目に掛かる、新王ネフェリ・ルー」

 

 

その声は男のものだった、くぐもったその声からは感情を推し測ることは出来なかった。辺りの流刑兵やケネス達にさらなる緊張が走る。

 

 

(ゴドリックの陣営お抱えの騎士か…今更招集に応じるとは、目的はなんだ…?まさか、主の敵討ちか?)

 

(あり得るぞ…ゴドリックの兵とは皆、王都からの敗残兵なれど…騎士達は元は王都の警護を任されていた精鋭達だ)

 

(その忠誠心は他陣営の騎士達に劣るものでは無いだろう…次の瞬間にも剣を抜き放ち、ネフェリ王を…)

 

 

新王の賛同者を装った暗殺、事の顛末を知っていれば十分にあり得る話。何せ稀代の暗君なれど、ネフェリはその手でこの地の王を殺めたようなものなのだから。

 

 

「今更ながら招集に応じ参上した、遅れし非礼の罰は如何様にも受ける」

 

 

「構わん、貴公の任ぜられた配置場は何処だ」

 

 

「嵐の丘東、聖人橋前の野営地を任されている」

 

「……今日、此処に来たのはリムグレイブの新たなる王を名乗る貴女に、我が願いを聞き入れたく思った次第」

 

 

「ネフェリ王への願いだと…?うぅむ…申してみよ」

 

 

「我が願いとは…新王よ」

 

「今から私と戦って欲しい、決闘を申し込む」

 

 

その言葉が発せられた途端、見守る流刑兵達にざわめきと同様が走り、ゴストークはやっぱりかと言うようにその顔を歪める、慌ててケネスが静止した。

 

 

「な、何を言い出す!気は確かなのか!一介の騎士が王と決闘を行うなどと!」

 

 

「良いだろう、受けて立つ」

 

 

「なっ…!」

 

「はぁ…やっぱりこうなっちまったか」

 

 

「感謝する、新王…」

 

 

 

考える間も置かずネフェリは是と答える、相変わらずヘルムに隠された表情は見えぬが、それでも目の前の騎士をネフェリはただ黙って見据えていた。

 

 

 

・ 

 

 

 

「手出しは無用、例え私がこの者に敗れようとも、それを理由にこの者を罰する事は許さぬ」

 

 

王座に続く道の手前の広場、そこで王と騎士は向かい合って対峙する。辺りには流刑兵や失地騎士が集い見守る、未だに微かなざわめきが所々から漏れる。

 

 

そして少し離れた場所でその様を眺めるケネスとゴストーク、辺りに人の目が無いからか、交わすその言葉は初めてあった時のように砕けていた。

 

 

「こうなると解っていたのか、ゴストーク?」

 

「何となくはなぁ、あの騎士妙に殺気立つというか…何か決めたみたいだったからな」

 

「厄介事を持ち込んでくれたな」

 

「どうせいつかこういう奴は出てきた筈だ…我らが王がその時どうするかも予想できてただろ」

 

 

「……あぁ、そなたの言う通りだ、それにしても奴め、目的はやはり主君の仇討ちなのか?よもやネフェリ王を下せば己が王に、等と考えているのでは無かろうな」

 

「さぁね…だとしたら中々大したやつかもな…おい、始まるみたいだぜ」

 

 

 

両者の間で充満していた剣呑な闘気が限界点を迎えて爆発せんとしていた、見るものが自然とその手を握り締め、首筋には汗が伝った。

 

 

「では…」

 

「あぁ、来い」

 

 

最早、言葉は不要と言わんばかりに、会話と言うには短すぎる言葉の後に二人は己の獲物を抜き放つ。

 

大剣と大盾の堅実にして堅牢な攻守一体の鎧の騎士。

 

双斧を構える戦士の王、守りを捨てた攻一点の構え。

 

 

比べれば正反対とも言える様相の両者が相見える。

 

 

「はあっ!」

 

 

先に動いたのは騎士であった、大盾を瞬時に背中に掛け、空いた左腕も使って両手で大剣を握る。

 

そして大剣の切っ先をネフェリに向け、己の視線の高さまで上げて水平に構える。まさに瞬きほどの速さでこの動作を終えてみせた、その動きは紛うことなき卓越した剣士のそれ。

 

 

そして深く力強い震脚、踏み込みの力をそのまま攻撃に乗せる、地がひび割れんばかりの力で踏み出して、騎士の必殺の戦技が発動する。

 

 

「おおっ、速いぞ!」

 

 

広場に集った内の誰かが言った、踏み込みからの突進突き、騎士の鎧の重量をまるで感じさせぬその技はクロスボウの矢すら越え、バリスタ砲の槍の如き大ボルトに比類する破壊力。

 

高速で疾走する一本の大槍と化して騎士の大剣はネフェリを貫かんとする、間合いなど元より無かったかのように瞬時にその眼前まで到達した。

 

 

「王よ!」

 

 

ケネスの叫びが響く、だがネフェリは少しも臆さず怯まず、ただ無言で迫りくる死を乗せたその切っ先を凝視する。

 

そして右側に体を倒れ込ませる様に転がって回避、切っ先が身を掠るかどうかの紙一重の回避だ。周囲から息を呑む声が聞こえた。

 

 

「覚悟!」

 

「はああっ!」

 

 

そこから踏み出した騎士の追撃、初めから避けられるのは解っていたのか直ぐ様大剣を振り下ろす動作へと移行する。

 

躱したネフェリもまた斧の片方を腰に下げ、両手で握った斧の戦技を放つ、その斧に力を込めて振り上げた。

 

 

その瞬間、ネフェリと騎士がいる付近に閃光と轟音が響く、遅れて強風が突如吹き荒れる。

 

突然の事態に兵の殆どはうめき声を上げて怯む、歴戦の失地騎士達と、その強さを知るケネスとゴストークは何が起きているのかをその目で見て理解する。

 

 

「そ、その技は…!?」

 

 

それは嵐であった、ネフェリの振り上げた斧から嵐の如き突風が渦を巻いて吹き荒れる。嵐呼び、古くよりこのストームヴィルに伝わる風にまつわる戦技の一つにそれは酷似していた。

 

事実、失地騎士も戦闘時はその戦技を奥の手として振るう、だがネフェリのそれは似てはいるが同じではなかった。

 

ネフェリのそれは雷も伴う、吹き荒れる嵐が斧の破壊力を倍増させ、雷が敵を焼き焦がすと同時にその力を斧にも伝える。雷を纏う斧を震えば斧と風と雷が一体となった破壊の嵐が局所的にもたらされる。

 

 

「うぐっ…!」

 

 

本来は連続して振るわれ、敵を文字通り粉砕する威力を秘めたその戦技。展開されたのは一瞬なれど、振り下ろされた騎士の大剣を切り砕き、その手より弾いて無力化された。

 

 

「ぐっ…ぬおおおっ」

 

 

騎士本人もその身を落雷で焼かれ、突風に打ち付けられ、決して無視はできない痛手を負っていた。それでも闘気をなお滾らせて反撃に出る。

 

背に背負った大盾を瞬時に取り出し、両手で構える。身を屈め、大盾の影にその姿が隠れた次の瞬間、全ての力と体重を込めて、騎士は構えた大盾を前方に押し出した。

 

 

シールドバッシュ、重量のある大盾を利用した戦技であり、堅牢な大盾は鈍器としての役割を充分に果たし敵を打ち砕く。

 

刃無くともその威力は決して侮れるものではなく、歴戦の猛者たる騎士のシールドバッシュは並の相手ならば当たればそれだけで決着足り得るだろう。

 

 

「受けて立つ!」

 

 

だがネフェリは避けない、腰からもう一つの斧を抜き放ち、両手に持つ斧を交差させる構えで迫りくる壁のようなシールドバッシュと激突した。

 

 

凄まじい力同士の追突を感じさせる衝突音が広場にこだまする。両者はその場から動いていなかった、ネフェリの剛力が迫る大盾の威力を完全に受け止め、その動きを食い止めていた。

 

 

「ゴドリックの騎士よ、貴公の心中、よく解った」

 

「なんだと…?」

 

「貴公の本当の望みが何なのか…はあっ!」

 

 

短い雄叫びと共に交差させた斧を力任せに振り抜いた、余りの力に大盾を構える騎士の態勢が無理やり崩されかける。

 

 

「ぬおぉ…!」

 

 

そこにすかさず追撃を与える、右足による襲撃、単純なれど速く、鋭い崩しの体術が大盾に命中する。

 

ぐらついた態勢では禄に力も籠らず、呆気なく大剣同様、大盾猛者その手を離れて後方の地面に吹き飛ばされて転がされる。

 

急いで態勢を正そうと向き直る騎士、だがそれと同時に首元にネフェリが持つ斧の刃が添えられる。

 

 

「決着だ」

 

 

王による終幕の宣言であった。

 

 

 

「……………」

 

「……………」

 

 

決闘は終わり、だが歓声は無い。皆が感じていた、まだ終わりではないのだと。誰もが騎士と王の次の言葉を待っていた。

 

 

「負け、か…ならばトドメを 此度の非礼、この命を持って贖う事に少しの意義も無い」

 

 

「やはりな…貴公の目的は主君の仇討ちでも、ましてや我欲の為でも無い、貴公は死に場所が欲しかったのだな」

 

 

「………何故そう思った」

 

 

「貴公の振るう刃から伝わるのは憎悪や高揚では無い、ひたすらに深い悔恨の念だった」

 

 

 

「………………」

 

「…そうだ、遥か以前より私は…いや、私達は皆が迷い、悔いていたのだ」

 

 

片膝を付くゴドリックの騎士は俯いて少しづつ溢すように、その心中を明かし始める。それは彼だけではなく、彼と使命を同じくするゴドリックの兵全ての心の内。

 

 

「ゴドリック様と共にローデイルより敗走しリムグレイブヘ落ち延びながらも…あの方は王都への帰還を諦めてはいなかった…」

 

「いつか我等共に、再び黄金の地へ…その言葉だけが我等の希望であり縋るべき縁だった」

 

「そして歪み、狂いゆくゴドリック様をただ何もせず見ていたのだ…忠誠だ、騎士の有り様だと取り繕えど…その実は威信を奪い戻す力も、主の目に見えた過ちを正す気概も無かっただけのこと…我等はただひたすらに弱かった」

 

「ゴドリック様は…そんな我等の迷いと疑心を感じておられたのだろう、我等を正規の兵としつつも、ストームヴィルの城内を誰一人として守護させる事は無かった」

 

「やがてゴドリック様は討たれ、帰るべき王都は灰に消えた、遂には黄金樹の民ですら無くなった…時代の変革をただ何もせず指を咥えて見ていただけ…」

 

「このまま貴女の新王政に仕えれば、成る程、こんな我らでもまだ何者かでいることができよう…だが…」

 

 

「だがもう疲れたのだ…何も識らず、何も成せぬ、蒙昧な塵の如き我が有り様には…ならばせめて最後くらいは、新たな王の手で古き時代の残滓として終わらせて欲しい…ゴドリック様と同じように…」

 

 

「最後くらいは主と共に、というわけか」

 

 

「まったくもって浅ましく、無様な我が姿を嗤うが良い…騎士の務めも禄に果たさず、主を信じ抜く事も出来ず、散り様だけは飾りつけよう等と…つくづく愚かであろう」

 

 

 

騎士が語り終わり、広場には沈黙が満ち満ちる。

 

誰一人として何も言わなかった、騎士のその言葉とその姿、語る真意にそこにいた皆が、それぞれの思う感情を完全には排せなかった。

 

沈黙の中、騎士も周りの兵も、その処遇を王に委ねていた。やがてその王がその口を開く、騎士の処断が下される。

 

 

「そうか…」

 

「ならば良いだろう、その身に終わりを与えよう」

 

 

片手に持つ斧の刃をゆっくりと騎士の頭部に向ける、騎士も、兵も、二人の同士も、誰一人黙って見届ける。

 

だがそれ以上、その刃が騎士に近づくことはない。その首筋に食い込むこと無く騎士の眼前で止められている。

 

 

 

「よく聞け、今より貴公は死んだ…騎士としての生は終わりを告げた、もうゴドリックに仕える敗残の騎士ではない」

 

「これよりは我がストームヴィルの新たなる戦士、黄金樹にでも、ゴドリックにでもない、ストームヴィルに仕えるリムグレイブの民の一人」

 

 

「…………!」

 

 

「新たなる時代の歩みをリムグレイブと共にする同士の一人だ、この地に吹き荒れる嵐に誓い、その剣で災いと苦難の一切を吹き飛ばす護国の剣となれ」

 

 

「……だが私は」

 

 

「後悔だけの死に名誉など無い、本当に消え入った過去を悔やむなら、その亡骸の上に立ち新たなる時代を歩んでみせよ」

 

「嫌とは言わせんぞ、貴公は既に死した身だ」

 

 

 

「……………」

 

 

「…仰せのままに、我が王」

 

「この身は王の剣となり、民の盾となりましょう」

 

「我が身命を賭して!」

 

 

沈黙から一点、周囲の者達から歓声の声が上がる。

 

この時、若き王の元、ストームヴィルにまた一人の騎士が加わった。晴天と心地の良い風が吹くその日が、新たなる騎士の襲名式となった。

 

 

 

 

 

 

「いやはや見事、実に見事で御座いました、やはりこのケネスの目は間違っていなかったのですね」

 

「よせ、そんなに称賛されるような事じゃない、小っ恥ずかしいし、むず痒くなる」

 

「ご謙遜を…民の迷いを晴らし、新たなる道を指し示す、これが正しき王の在り方でなくてなんと致しましょう」

 

「わかった、わかったからもう止めてくれ」

 

 

一連の騒動を終え、城奥の王座の間へと戻っていたネフェリとケネス、あれから時間が経ち、空は薄っすらと青を濃くしていく。やがて日が落ちて夜となるだろう。

 

 

「……私もあの騎士と同じだった、居場所を失い、祝福を失い、先の見えぬ絶望の中で義父に拾われた」

 

「義父…かの百智卿ギデオンの事ですね」

 

「あぁ、義父は偉大で、無知な私にはその歩みこそが世界にとって必要な正道だと信じられた」

 

「だが結局、私は義父に見捨てられ、また絶望の中に堕ちた…道を指し示してくれたのは共に刃を振るった戦友だった」

 

「そして私は今、ここにいる すべき事を見つけたんだ…アイツのようにな」

 

 

「そうでしたか……ならば、王よ」

 

 

「ん?なんだ」

 

 

「願わくばどうか、どうかその清い御心のまま…」

 

「醜い姿、醜い心、その何方とも無縁のままに、王となって下さい…このケネスはそう願っております」

 

 

「……フフ、そうか、あぁそのつもりだ」

 

「さて、もうじき日が暮れるな、今日はもう側近の勤めは終わりにしていいぞ、ケネス」

 

 

「そうですか、では王も、良い夜を」

 

 

 

ケネスが王座の間より離れていく、やがて城にも夜が来る。冷たい闇と暗月の光が照らす世界、ネフェリもまた王座の間より離れ、広場に経ちその訪れを待つ。

 

雲が晴れた夜の空には、青白い月がよく見える。

 

 

「良い夜を、か…確かにな」

 

 

手を伸ばそうとも決して届かぬ遥かなる月、だがその場所にはきっと、狭間の王となった戦友がいるのだろう。

 

ネフェリは誓う、月に、我等の王に、その伴侶たる王妃に、王が旅立とうとも、この地を命尽きるまで守り抜くと。

 

 

ネフェリ・ルーは戦士だった、その眼差しの奥の煌めきは今も、褪せることなくそこにあった。

 

 



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集う不埒者共

 

 

 

ストームヴィル城、夜

 

 

太陽が沈み一日が終わる頃、城の者達は巡回する見張りを除いて眠りに就く。それは王であっても変わらない。褪せ人の戦士でもあるネフェリもその時は休息を取る。

 

復興中のストームヴィルに王族専用の寝室は無い、故にケネスが比較的状態の良い部屋をネフェリの為に用意した。

 

辺りには武具や道具が壁に立て掛けられている、部屋の中央にに縦長のテーブルが幾つか、その上には何かが書き記された書類の束、元は城に住まう者達が集い語らう為の場だろうか。

 

 

空いている壁に背をかけて、片膝を立てた態勢で座って眠る。ケネスら家臣は上質な布の褥などを用意すると言ったがネフェリにはこれで良かった。

 

元来、褪せ人とは見てくれや形式に拘らない性質を持つ者が多い、目の前に広がるのが猛毒の沼だろうと、血と汚物に濡れた薄暗い部屋だろうと、そこに祝福があればそこを一時の住処とする。

 

 

暖かな布に包まるよりも、何かあっても動けるよう、身構えるような姿勢でいるのを好む。それは戦士として各地を渡る内に付いた習性だ。

 

 

そしてそれが役に立った。

 

 

「………なんだ…」

 

 

唐突に眠りから覚めたネフェリが立ち上がる、野生の獣の如く、眠りの深度に限らず何かを察知した肉体は自然と覚醒する。戦士であるネフェリの本能が捉えたのは僅かだが、しかし確かに存在する戦闘の気配。

 

 

戦いの前の急速に張り詰めていく空気の気配。

 

 

窓から差し込む月明かりで部屋の中が青白く照らされる、そこにはネフェリ以外の誰もいないように見えた、だがその気配は更に増していく。

 

 

「賊か…?」

 

 

常に近くに置いてある両斧を手に取り、壁を背にして奇襲に備える。かつて義父から魔術や特別な技法で姿を消し去り、闇に紛れて襲撃する者達の存在をネフェリは聞いていた。

 

 

やがて遂にその殺気立つ気配が頂点まで高まり、未だ姿の見えぬ何者かの攻撃が始まる確信が訪れる。

 

 

「何処から現れる、さぁ来るがいい」

 

 

ネフェリが背にした壁が淀んだ黄の光を放つ、波打つ水面の様なそれにネフェリが気付くのと、そこから何かが飛び出してくるのは同時だった。

 

 

「ぐがぁっ…!」

 

 

背筋に強い衝撃が加わる、脊髄が圧し折れるかと思うほどの圧力でミシミシと嫌な音が聞こえてくる、肺の中の空気は一瞬で全て吐き出される。

 

 

壁から飛び出したそれはその勢いのままネフェリを吹き飛ばし、荒々しく床を踏み鳴らして着地する。

 

壁から現れたというのに、その場所の壁は破壊痕どころかヒビ一つ無い、まるで壁を通り抜けて現れたようだった。

 

 

「ガハッ…壁を…破って…?」

 

 

うつ伏せの姿勢から立て直そうと瞬時に仰向けの姿勢となる、呼吸も整う間近だったがそれ以上は許されなかった。

 

襲撃者が追撃を始めた、大きな影を部屋に落とし、ネフェリにのしかかる。月明かりに照らされて明らかとなるその存在はネフェリの記憶にある情報の一つと合致する。

 

 

死体を思わせる青白い肌、黒い窪みとかした虚ろな目、仮面のように感情の映らぬ顔。

 

巨大な体躯をよく見れば豪華な装飾や衣服が包む、礼式ばったそれも色褪せ、汚れ、それの姿を不気味に映すだけ。

 

そして地を這う虫の如く、胴から生えるは複数の異様に伸びた腕、その声は悲嘆の叫びとも憎悪の呻きとも取れる悍ましさ。

 

 

「王族…の、幽鬼…」

 

 

エルデンリングが修復され、神々の時代が終わる以前、並み居る褪せ人の歩みを阻んだ狭間の地の魑魅魍魎、そのうちの一体にして一際厄介な怪物。

 

 

「ギュアアアア」

 

 

全体重をかけてのしかかり、ネフェリを拘束する。二本の腕でネフェリの両腕を、更に別の両腕でネフェリの両足を、残りの二本で首筋を絞め付ける。

 

ギリギリと強く絞める音が聞こえるほどの力が籠もっている、骨ごとその肉体を絞め砕かんとするようだ。

 

 

「……ッ…かッ…」

 

 

脳に酸素が行き渡らず、視界は点滅し霞んでいく、血が溜まり肌が赤く変色し、酷く熱を持った様に感じる。

 

このままではやがて肉体が麻痺したかのように力が抜け落ち、そのまま意識は闇へと沈み、二度と浮き上がることは無いだろう。

 

 

だがそうはならない、かの魔境に立ち向かい、遂にはその地を統治した偉大なる王とも刃を交えたネフェリの命を掻き消す事は出来ない。

 

 

「ぐうう…!」

 

 

ネフェリの四肢の筋肉に力が漲り隆起する、王族の幽鬼は手から伝わる筋肉の感触がハッキリと変わるのを感じ取る。まるで雄大な大木の堅牢さが、その腕に凝縮されたかのような、握りしめた己の手が徐々に開いていく。

 

 

「があっ!」

 

 

「ギィアアアッ」

 

 

遂には腕の拘束を腕力のみで跳ね除ける、そのまま両手の斧を交差させて振るう。王族の幽鬼は急いで飛び引くも間に合わず、腕を抑えた両手は手首から切断され、足と首を絞める手には深い傷跡が刻まれる。

 

 

「ごほっ…ぐっ……ふぅ、さて仕切り直しか?」

 

「ギィィィ」

 

 

後退して着地しようにも足に刻まれた損傷が響き、体制を崩しかける。まともな肉体を持たぬ幽鬼は痛みにも出血にも怯まず戦闘を続ける、だが敵の反撃に合わせて戦法を帰る本能は持ち合わせている。

 

 

またもや黒の混じる濁った黃光が溢れ出す、それは幽鬼の足元から漏れ出している。揺れる水面の様なその光の中に王族の幽鬼が沈むように消えていく。

 

 

その特異な移動法を利用した奇襲を目論む。

 

 

「させるか」

 

 

地面に潜り始めた幽鬼の白面にネフェリの斧が叩き込まれる、だがネフェリが距離を詰めた訳ではない、攻撃して妨害するのが間に合わずとみたネフェリが双斧の片割れを投擲、円を描いて飛来する。

 

幽鬼の顔面を正中線から左右に分けるように縦に深く食い込み叩き割る、青白い体液が吹き上がる。

 

 

「ギュイアアア!アアアア!」

 

 

耐え難い叫びを上げて幽鬼が崩れ落ちる、頭を垂れる様に、断頭台に乗せられた罪人が首を差し出す様にネフェリの眼前に無防備な隙を晒す。

 

傷口からその身に宿したルーンの光が漏れ出す、それは完全なる昏倒状態を現している。

 

 

「これで終わりだ、幽鬼」

 

 

勿論その致命的な隙を突かない筈もなく、苦悶の声を上げる幽鬼の顔面の斧を掴んで強引に引き抜く。堪らず引きずられる様に幽鬼が血を撒いて前に倒れ付す。

 

そこに叩き込まれるもう一つの斧、刃を横にして叩き込む一撃の後、更にその傷口を深く広げるかのような二撃目。

 

戦いの決着をもたらす致命の一撃だ。

 

 

「ギュイ…ァ」

 

 

消え入りそうな声を上げて幽鬼の肉体から力が抜け落ちていく、生命の光たるルーンが蒸発するように溢れ出す、生命力の残らぬその体は今にも煙となって消え去ろうとしている。

 

 

「ギィ…ギュアアアアアアッ!」

 

 

しかし突如、死にゆく幽鬼が吠える。それは逃れられぬ死と敗北を前にした怨嗟の慟哭だった。消えゆく筈の力が漲り、虚なその口をあらん限りに広げた。

 

酷く濁った、緑の粘液が大量に吐き出される。それは激しい打ち水の様に、不意を突いてネフェリに直撃する。

 

 

「なっ…最後の足掻きか」

 

 

異臭を放つ煙上げて幽鬼の毒液がネフェリの肌から侵食していく、それは床に飛び散った毒液も毒霧と化して更に呼吸から毒の侵食を早める。

 

 

「アアアッ」

 

「ぐうっ…」

 

 

怯んだネフェリを健在な腕を使った横薙ぎで吹き飛ばす、振り払った腕が腹部を捉え、重たい打突音を響かせる。

 

テーブルや壁掛け棚を巻き込んで破壊し、壁に叩き付けられるネフェリ。毒液が肌を溶かし、砕けた木片や装飾の武具が体を切り裂く。

 

もっともその攻撃もまた、歴戦たる褪せ人の戦士であるネフェリの命にはまだ届きはしない。時には毒沼や溶岩で溢れる場所ですら構わず戦場とする褪せ人、とりわけ接近戦を得意とする褪せ人達の生命力と打たれ強さは尋常ではない。

 

 

「アア…ァァ」

 

 

真っ当な命の宿らぬ歪んだその身なれど未だ死は恐れるのか、幽鬼は消えかかった肉体を引きずり逃げ延びようとする。また淀んだ黃光を呼び出して退避を始めた。

 

 

「逃しはしない、前時代の終わり切れぬ残り火よ、私が死の運命を与えてやる…ん…?」

 

 

逃げ出した幽鬼の命の灯火はその生の執着ごと断ち切られる。騒ぎを聞き付け、部屋へと踏み入ってきた失地騎士の斧槍が首から上を切り飛ばす。

 

 

「ア、ァァ…ァ」

 

「王よ!ご無事ですか!」

 

 

夜間の警備を任されていた失地騎士だ、月明かりにその銀色の鎧を映しながら、流刑兵数人を引き連れて現れる。

 

 

「大丈夫だ、要らぬ手間をかけたな」

 

「とんでもない!しかし、今のは幽鬼…?何故、この城に…しかも王を狙うなど…」

 

「わからない、王族の幽鬼など嘗ての狭間でもそうそう見ることは無い相手だ」

 

「黄金樹の祝福も消え、かの王の手によって大いなる死が解き放たれなお、まだこの地にかような怪物が潜んでいようとは…まさか…!何者かの手引で…!?」

 

「……ふむ」

 

 

やがて更に騒ぎを聞き付けた者達が寝床より起きて集まってくる、だがそれも王の一言により大きく騒ぎになる前に収束した。

 

 

 

 

 

 

 

後日、早朝 リムグレイブ街道─

 

 

「おのれ…幽鬼めが、しくじりおって…!」

 

「廃墟の地下から解き放ってやったものを…所詮は卑しい死に損ないの化物か!」

 

 

苛立ちの声を上げながら、街道を渡るのは年老いた男。干からびたように痩せ細る体に杖をついて歩く。

 

その体は褪せた黄金色の服で包まれている、よく見れば布の質は上等で、高貴な者達の纏う貴人の礼服であることが解った。

 

だがその男にそんな気配は皆無、埃を被ったみすぼらしい姿、その性根もまた酷く歪んでいた。

 

 

「あんな小娘一人に何をしている!どいつもこいつも、何が王だ!ふざけおって!リムグレイブを統治するなら何故私に城での地位を与えない!?私は貴族、高潔なる者達の末裔なのだぞ!」

 

「それをそこらの市民と共に雑用まがいの兵士と街道の巡回だと!?巫山戯ているのか!各地の廃墟の復興ばかりで城には禄に見張りも居ない!そもそも…」

 

 

 

「そうか、それはいい事を聞いた」

 

「王も兵も、多忙ゆえに城は手薄か」

 

 

溢れ出せば止まらぬ男の妬みで彩られた不満の澱、前すら見ずに歩く男の声を、別の声が遮った。

 

 

「あ?……え…あっ」

 

 

不意に耳へと飛び込んだ声に反応して俯いてた顔を上げる、目の前のその姿を認識する前に、腹部から響く強い異物感に視線を落とす。

 

自分の腹部に、光を反射する鉄で出来た何かが埋もれている、その周りから止めどなく赤い水が溢れてくる。

 

男が視線を上げるのと、目の前の誰かが何かを突き出したのは同時だった。やがて鋭い痛みを感じるが、声を上げる前に男は倒れ伏して絶命した。

 

 

 

「ふぅむ…であれば、実に好ましい」

 

「さて、任務開始だ 諸君」

 

 

声の主は鎧の男、銀色の鎧部分に青いサーコート、頭頂部の飾り羽に胸元のエンブレムに書かれた紋様はリムグレイブのものではない。

 

後ろに続く者達も同じく、騎士の男と同じ紋様のサーコートを羽織る兵士、頭部の防具がリムグレイブのものとは異なる雑兵。

 

 

それらの紋様が示すはリムグレイブより北に位置する地、リエーニエ。

 

冷たい霧と魔力の宿る結晶で彩られ、かのレアルカリアの魔術学院、そしてカーリアの王家が本拠を構える魔術に縁深き湖の大地である。

 

そのエンブレムを掲げる騎士達は、カッコウの名で知られている。本来、リムグレイブにはいるはずのない者達だ。

 

 

 

 

 

「ふん、こんなものだろう」

 

 

カッコウと呼ばれる騎士の一団はリムグレイブの王城に続く街道から外れた場所、人気の寄り付かぬ霧の森と呼ばれる箇所に野営の拠点を建設していた。

 

 

「やけにすんなりといきましたね、黄金の一族が支配していた国にしては…」

 

「ハッ、ゴドリックか?奴の暗君話は我等の耳にも届いているわ、挙げ句褪せ人なんぞに敗れ…今や新たな王に取って代われる始末」

 

「最も、我等がこうしてリムグレイブに来たのも元を言えばそれが理由、感謝するべきなのかもなぁ、ゴドリックの呆れた無能ぶりに」

 

 

野営地に控えた他の兵士や雑兵からも嘲笑の笑い声が上がる。騎士は上機嫌にそのまま会話を続ける。

 

 

「黄金樹は死に、運命の死がもたらされ、エルデの王は消えた…邪魔なデミゴッド達の時代は終わり、今や我等人の時代よ」

 

「ローデイルは黄金樹と共に灰に埋もれ、ケイリッドは未だ腐敗に苦しめられ、ゲルミアは等に滅び、聖樹の都とやらは実在も怪しい」

 

「健在なのはリエーニエとリムグレイブくらいか…あの邪魔なカーリア王家も…今やあの卑しい魔女を失い滅び行く定めよ、フハハハ!」

 

「であれば、ここは学院の盟友たる我等カッコウがこのリムグレイブを支配してやろうではないか、聞けばこの地の新王とやらは何も知らん女らしい、かような者に国を任せては民は心許無いだろう」

 

 

「へへへ…リムグレイブへの大橋がぶっ壊れちまってたが…学院の連中が偶然ここに繋がる転移門を見つけたんですよねぇ?」

 

 

「そうだ、それで我等に声が掛かったのよ、このまま放置されたこの森に潜伏する、秘密裏に野営地を建て、少しずつ向こうから兵を呼び寄せる」

 

「充分に兵力が揃えばそのまま城を容易く落としてくれよう、なに、案ずるな、お前達も知っていよう」

 

 

「リムグレイブは兵も騎士も皆、脆弱にして半端」

 

「無様な敗残の兵共に居場所をなくした失地者、流刑人などを兵として利用する始末、挙げ句の果てには…」

 

「こんな下等な畜生共と関係を結んでいたと聞く!フハハハ!愚かな!なんと馬鹿馬鹿しい」

 

 

高らかに嗤う騎士の見下ろした足元には無数の死体が打ち捨てられて転がっている。人よりも背丈の小さい、ボロ布を纏った小人達、何処か獣の様相を持つそれらは亜人と呼ばれた生物だ。

 

 

「森に入るなり愚かしくも我等に刃を向けるとは…しろがねに勝るとも劣らぬ下劣な愚昧ぶりよ」

 

 

「コイツら数だけでまるで大したことねぇぞ、リムグレイブは兵だけでなく化物共も貧弱か?」

 

「言えてるなぁ!これなら城を落とした後も簡単に各地を開拓できそうだぜ」

 

 

「フハハハ、そう言ってやるな、脆弱な兵ではこの程度の獣に対抗するのも困難なのだろう、ククク、逃げた先でもその様だ、弱卒に相応しいわ、ハハハハ!」

 

 

カッコウの騎士達は尚も嗤う、もはや既に侵略が成功したかのように。数人の笑い声は静寂に満ちていた霧の森によく響く。中には酒らしきものを取り出す兵までいた。

 

 

その傲慢な嘲りの声が、その野蛮な行いで流れた血の香りが、一歩一歩、確実に、森の奥から破滅を呼び寄せているとも知らずに。

 

 

 

 

 

「そして幽鬼を放った疑いのある男を追跡していたら、見慣れぬ騎士の集団に男が殺された…」

 

「その騎士達があのカッコウの騎士団だったと…?事実なのか?ケネス」

 

 

「はっ、事実でございます、カッコウと男が繋がっていたのかは解りませぬが…追跡していた兵によれば本当です」

 

 

 

ストームヴィル城の王座の間にて、新王と腹心が言葉を交わす。その議題とは先日起きた事案、王が寝込みを襲撃されたという城を揺るがす大事件。

 

 

「このケネスめの見通しが甘かったのです…人外の者とはいえ、安安と侵入を許すなど…それにもしこれがカッコウの陰謀であったなら…!」

 

「そう悔やみすぎるな、大事には至らなかったのだから、だが確かにカッコウの騎士は気掛かりだな…まずどうやってこのリムグレイブに渡ってきた」

 

 

「…はい、ご存知の通りリエーニエに続く大橋は破砕戦争の折に破壊されてそのまま、この城の最奥にある隠し通路の存在は秘中の秘、いくら学院と繋がりのあるカッコウとて知る術は無いはずです」

 

 

「ともあれ何か手を打たねばならないな、目的が何であれ、カッコウの悪名は無知な私の耳にも届いている、友好的な考えでないのは確かだろう」

 

 

「間違いないかと…ただ、もしかすると此度の騎士団に関しては…手を打つ必要はなくなるかも知れませぬ」

 

「ん?どういう意味だ?ケネス」

 

「報告によればそのカッコウ共が姿を消したのは…あの霧の森の中なのです、兵もそれ以上追跡を続けませんでした」

 

 

「…成る程、確かにそれは対策の必要は無いかもしれないな…大方、兵を駐留させる秘密の拠点を建てようとしたのだろうな」

 

 

「えぇ、少なくともその企みは叶わぬでしょう、何故なら霧の森は今…ヤツらの縄張りですから」

 

 

「気配も消さず踏み入れば間違いなく気付かれる、下手に刺激しなければ横を通り過ぎる事もできるだろうが…新参者が住処を建てるとなれば彼等も許しはしないさ」

 

 

「まったく無知と言うのは時として恐ろしい毒と変じるものです」

 

 

 

 

 

 

 

「ハァ…ハァ…クッ、クソッ!」

 

 

霧の森から少し離れた草原をカッコウの騎士は走っていた、銀色に光を放つその鎧は至るところが細かく傷つき、歪み、汚れ、サーコートの布はほつれや破れた箇所が目立つ。

 

まるでその様は戦に破れた敗残の騎士。

 

 

 

「何なんだ…何なんだアレは!?あの怪物は!?」

 

「手下も…野営地も…やられた、全部…!」

 

「おのれ…!クソォッ!」

 

 

簡単な任務であった筈だ、統率の取れてない愚かな兵達の目を掻い潜り人気のない場所に拠点を建てる。

 

相手は狭間の地で最も脆弱な弱卒の集まりだと、取るにたらぬ連中だと、全てが容易く成功するだろうと。

 

 

それが何故か、任務継続の可能性は一切断たれ、己は今こうして無様に逃げ回っている。

 

 

栄光が微笑んでいる筈だった、邪魔な王家が完全に途絶え、他の国々が力を失い、己等の勢力を拡大するのを阻む如何なる障壁も存在しない。

 

学院の連中もそう言っていた、自分だってそう思う。

 

 

騎士の脳内でそのような思考が巡る、それは走馬灯にも似て、事態を好転させる助けにはならなかった。

 

 

「ハァ…ハァ…」

 

 

息が切れ立ち止まる、膝に手を付き、しばしの後意を決して振り返る、そこにはあの悪夢のような存在はいなかった。

 

 

「何だと言うのだ…あの様な怪物の存在は聞いていない…!話が違うぞ!陰険な魔術師共めが!」

 

「禄に人手も無い舞い上がった愚かな王を引きずり降ろし、我等がこの地を支配する計画が…あの様な怪物なんぞに!」

 

「おのれ…おのれ!何が新王!呪ってやる!舞い上がった褪せ人の戦士風情が!エルデの王でもあるまいに!そもそも…」

 

 

 

「そう、それはいい事を聞きましたね」

 

「かの新王様は、褪せ人…なのですね」

 

 

 

理不尽を呪う騎士の怨嗟の声は一度溢れれば止まずに溢れる、俯いて叫ぶその声を、別の声が遮った。

 

 

「あ?……え…あっ」

 

 

不意に聞こえたその声に反応して俯いていた顔を上げようとした、だがおかしい、一瞬の衝撃の後、浮遊感だけがある。

 

騎士はその光景を見下ろしていた、空中から。目の前には一人の女性、声の主だろう。白布のローブに羽織と頭巾、何かの巫女だろうか。

 

その右腕には巫女にはまるで不釣り合いな、黒鉄の巨大な刃物が握られる。横薙ぎに振り抜いた姿勢のソレは一瞬重量のある大曲剣にも見えたが違う、それは包丁だった、人の身の丈ほどもある解体包丁であった。

 

あの女の前にいる、首から上を無くして血を吹き出す鎧の人間は何だ?見覚えがある気がする、やがて浮遊感が落下の感覚に変わり始めた頃、騎士は何かに気がつけそうな気がしたが、そこで永遠にその意識を失った。

 

 

 

「本当なら、好ましいわ…実に」

 

「もう久しく見ていないもの…褪せ人は…」

 

 

 

騎士を惨殺したその包丁の女は、上機嫌に城へと向かって歩いていった。

 

 

 

 

 

 

ストームヴィル城内、王座の間─

 

 

王と腹心がいるその部屋に、今はもう一人の姿があった。白いローブと肩にかける羽織に頭巾、その女性の素性は巫女だろうか。

 

 

「遥々この城に足を運んでくれたこと、王として嬉しく思う、ぜひ名を聞きたい、旅の巫女殿」

 

                   ・・・・・

「光栄なお言葉痛み入ります…私の名前はアレクシア…お察しの通り、各地を周り、死者に祈りを捧げる旅巫女で御座います」

 

「今日、この場に来たのは、この城で流れた多くの血と死者達に、そして新王様のこれからの良い行く先にぜひ、か弱きながらも我が祈りを捧げたく…」

 

 

「おぉ!なんと素晴らしい、祝福なき後も弛まぬ信仰と慈愛の心、それこそまさにこれからの世に必要なものそのものだ!このケネスめも貴女に感謝を」

 

 

「うむ、私からもお願いしたい、知っているかもしれないが…この城は長い間、必要のない流血と悲劇で満たされていたからな」

 

 

「えぇ…我が祈りが少しでも新王様と、この地の皆様にとって力となるなら…つきましては、僭越なのですが」

 

 

「あぁ、解っている、城への滞在と内部を歩く事を許可する、幾らでも居てくれていい」

 

 

「あぁ…身に余る光栄…感謝します、王よ」

 

 

 

深々と頭を垂れるアレクシア、床に対面するほど下げたその顔には、巫女とはまるでそぐわぬ凄惨な笑みが浮かんでいた。

 

だがそれも立ち上がり、次にその顔を見せる頃には消えている、慣れたものである、無害な善人を装う、それはアレクシアにとって得意な技能ですらあった。

 

 

「では早速、まずは城の方への挨拶も兼ねて」

 

 

「あぁ、少し城の中を見てくるがいい……ところでアレクシアよ、一つ聞きたい」

 

「はい、なんでしょう?」

 

 

「一人でこの狭間を旅するのは大変ではないか?未だこの地には人の手が及ばぬ怪物が蔓延っている、邪な考えを持つ人間だっているだろう」

 

 

「はい…私自身、多くの危機や苦難に直面しました、ですがそれは我が道の正しさの証明なのだと信じています、艱難辛苦の道こそ信仰の道…」

 

「それに心の荒んだ者であっても、対話を捨てぬ限りいつか解り合えるものと信じています」

 

 

「ますます良い心掛けだ、貴公ならば心無い邪悪の徒であっても本当に理解し合えるかもしれないな…盗賊に呪い師、他には…」

 

 

 

「聖者に化けて騙し殺す、人肉食いの狂女なんかも」

 

 

 

 

アレクシアの体が硬直する、にこやかだった笑みは口角を上げたまま凍りついたように表情筋が停止する。

 

細められていた目が開く、その奥には確かな動揺があった、完全に硬直した肉体とは対象的に、その脳内の思考は目まぐるしく回転し駆け巡っていた。

 

 

「どうした、アレクシアよ」

 

 

「………いえ、その様な悍ましい行いをする者の存在は知らず…初めて聞きました、そのような話は…」

 

 

「褪せ人の間では有名だ、褪せ人を導く指巫女の姿で偽り、解体し食らう狂人…そうだ、アレクシア」

 

「貴公が着るその服装も指巫女の物だな、祝福も褪せ人も無い今、指巫女もまた姿を消したと思っていたが、使命を変えて各地を旅していたのだな」

 

 

 

正体がバレている?アレクシアの首筋から汗が滴る、何故解った?どうする、ここで下手に反応するのは認めたも同然、すっとぼけるか、あるいはもう…。

 

 

「な、嘆かわしいですね…信仰の証をそのような…あっ、あぁこの装いですか、これはそう!譲り受けたのですよ!偶然出会った指の巫女様から…その、祈りを広く伝えてほしいと…」

 

 

「アレクシア」

 

「どうか、この地の迷える魂に安らぎを与えてくれ」

 

 

苦し紛れの言い訳じみた嘘、それを遮ってネフェリが腕を差し出して握手を求める。何やら先程の会話の流れと一致しない気もするが、ほぼ反射的にアレクシアはその手を掴み、取り繕った言葉を口にする。

 

 

「えっ、あ、あぁ!勿論です、仰せのまま……に」

 

 

両手で持ったその腕に視線を落とす、一瞬の内に脳内へと飛び込んできた情報、即ち、傷付いて血が滴るネフェリの腕。

 

いつの間に傷が?自分で付けたのか?何故?

 

それらの疑問が浮かぶより速く、ネフェリの他の褪せ人と比べても上質な筋肉と、そこから香る鮮血の香りを嗅いだアレクシアの意識は本人の意志を問わず、暗転した。

 

 

 

「あ?……え…あっ」

 

 

気が付くとアレクシアは出されたネフェリの腕を瞬時に手繰り寄せ、その傷口に深々と歯を突き立て齧り付いていた。

 

口内に長らく待ち望んでいた至福の味が広がる、だがそんなこと今の正気に帰ったアレクシアが気に留める余裕はない、ゆっくりと、恐る恐る、視線を上げてネフェリの表情を見る。

 

 

まったくの無表情だった、鋭い戦士の目がただアレクシアを見下ろしていた。

 

 

「これは……その…」

 

 

「旅の聖者を装えば無下にはされぬと考えたか?本当の名を名乗るのも躊躇われたようだな、ともかく…」

 

               

「会うのは初めてだな、褪せ人食いのアナスタシア」

 

 

「騎士よ!」

 

 

側に控えるケネスの号令と共に、王座の間の横脇にある部屋から、隠れて待機していた失地騎士達が続々と姿を表す。

 

襲撃者にそれとの関係を疑われる別国の一団、そして突然の来訪者、初めから警戒して王座の間近くに戦力を忍ばせていた。

 

だが正体に気付けたのは、ネフェリがアナスタシアの存在を知っていたからだ。百智を謳う義父から警戒すべき敵としてその詳細な情報を与えられていたのを覚えていた。

 

 

それに理屈などなくともネフェリは見抜いただろう、初めて姿を表した時から、その目の奥の狂気に満ちた渇きをネフェリの澄んだ両目は見据えていた。

 

 

「うぐううっ」

 

 

恐ろしい悪名とは裏腹に呆気なく騎士達に拘束されるアナスタシア、だがそれも当然、王座の間にいる騎士は十名にも及ぶ、幾ら何でも獲物一本で覆せる状況ではない。

 

 

「うぅむ、怪しいとは思いましたが…まさか褪せ人食いなどという邪悪な存在であったとは」

 

「さて王よ、この者の処遇、いかが致しましょう」

 

「そうだな…生かす理由も無いが…」

 

 

「ご、御慈悲を…ううっ…どうか…」

 

 

「そうか、褪せ人食いでありながら貴公もまた褪せ人であったな、完全に祝福絶えた今、死ねばそれまでか」

 

 

「うぐっ…」

 

 

「王よ、処断は」

 

「うむ、生かす理由は無いが…殺すだけが罰ではあるまい、確かリムグレイブ坑道の労働係が不足していたな」 

 

「はい、石堀りのトロルが鍛石を求めた褪せ人に敗れ、残りの者達で作業をしております」

 

「ではリムグレイブ坑道での労働の刑に処す、あの場所にはこの者の邪悪な欲望を満たす物は何も無い、良い薬になるだろう」

 

「解りました…寛大な王の慈悲に感謝せよ、そなたにはこれより無期限の労働を課す、解ったか」

 

 

騎士の斧槍で押し止められ、頭を垂れる姿勢のまま、その言葉を聞くアナスタシア。心中穏やかであるわけが無いが、反抗すればどうなるか目に見えている。

 

やがて絞り出す様に、声を上げた。

 

 

「……はい、仰せの…とおりに…」

 

 

「うむ、さぁ連れて行け」

 

 

 

騎士達に拘束され連行されていく不埒者、王座の間から遠ざかっていくそれを眺める王と家臣。

 

 

「予想外の珍客だったな、カッコウといい抱えてる問題の他にも厄介事は現れるものか」

 

「まったくです、とんだ不埒者共だ」

 

 

王と家臣は溜息を溢し、また山積みとなった責務へと取り組むための語らいを再開していった。

 

 

 

 



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壺と門番

 

 

 

 

 

いつも通り雲の晴れた空の下、ストームヴィル城門前の横脇に立てられた門番用の個室にゴストークはいた。

 

その部屋は休憩の為の長テーブルと椅子が置かれ、蝋燭の火が照らす。長らく手入れがされておらず寂れていたが今では補修の手が入る。

 

個室奥の倒壊し、吹きさらしとなった壁も今では簡易的ながらも塞がれている。

 

 

「まぁ…こうなるって事は解ってたがな」

 

「何をしようが門番は門番…城を訪れる者がいなけれりゃ開門の仕事も何もねぇもんだ」

 

 

 

狂気の城主ゴドリック亡き後、城はネフェリを新王とした新たなる統治を始めていた。その以前よりストームヴィルの門番であったゴストークは、リムグレイブの領主の一人であるケネス・ハイトと共に新王となるネフェリの背を後押しした。

 

それから暫くの時が立ち、旧王の狂気で穢された城も再建され、新王の統治を認める賛同者も増え始めた。

 

だが狭間の他方に比べては比較的無事といえど、例に漏れずリムグレイブも長らく荒廃と行って良い有り様であったことは事実。

 

民の住まう地区は崩壊し打ち捨てられた廃墟と化し、主要な砦は未だ手付かずのまま。

 

そんな有り様では城を訪れる者も少なくなる、城に使える者達は日夜、城外の復興に奔走していた。

 

 

「何かしたい事があったわけでもねぇけどよ」

 

 

退屈とも言える門番の勤め、だがゴストークは気紛れに口にするがそれ程その退屈を持て余していた訳では無い。

 

かつてのリムグレイブ、そしてかつての自分では、この退屈な時間を享受する事さえ無かっただろう。

 

 

ゴドリックへの憎しみからその心は歪み、城を訪れる者達を賊の如く陥れ、力尽きたその者達の遺品を漁る卑しい獣の如きあり様。

 

そこから解放されたのは旧城主の死、求めていた筈の自由の虚しさ、そして新しき王の誕生がゴストークの歪んだ心を変えた。少なくとも今のゴストークは憎しみを他者にまでぶつける様な人間ではない。

 

死体漁りなどせず、真っ当に門番を務めている。

 

 

「俺にはこの程度が見合ってるのかもな…」

 

「ケネスみてぇに頭を使うことも、失地の騎士共みてぇに腕っぷしで役に立つこともない…もっとも、出来たとしても忙しくこき使われるなんざまっぴらだが」

 

 

「狂った老醜の下じゃなければ何でも良いさ」

 

 

ゴストークは一人呟き、立ち疲れた訳では無いが壁に寄りかかった背を起こし、テーブルに向かい合わせ並べられた椅子の一つに腰掛ける。

 

暇を持て余したなら雑談か散策の一つにでも繰り出してみたい所だが生憎それは許されない。

 

門番が門を離れるなどあってはならず、気まぐれの言葉を交わす同僚もここにはいない。

 

それ以前に新王の元に真っ当な忠誠を誓った今のゴストークは職務を放棄するつもりは無かった。

 

 

それから何をするでもなく視線を伸ばす眼と部屋の壁の間にある虚空を眺めるゴストーク、暫しその時間が続く。

 

その静寂は不意に聴覚が拾い上げた異音によって終わりを迎える。

 

 

「…ん?なんだ?…物音…?」

 

 

ゴストークは最初それが足音だと気が付かなかった、ごつごつという硬くそれなりの重量がある何かが地面にぶつかり擦れる音。

 

その音に連続した規則性を見出して初めてそれが誰かの足音だと理解した、その音は少しずつこの部屋へと近づいてくるようだった。

 

 

「……………」

 

 

ゴストークは身構えて椅子から立ち上がる。危険極まりない存在のひしめく狭間の地、最も安全とされるリムグレイブでさえ油断はできない。

 

足音を耳にすれば姿を見るまで安心はできない、それがいつ何時、どの場所でも異音の正体が敵対的な存在である可能性は十分にある。

 

鉱石を思わせる音、金属で作られたグリーブの足音ではない、つまりこの城の兵士達のものではなく、当然人間や生き物の足音ともかけ離れている。

 

 

「獣か?ここに至る道には兵士共が常駐している筈じゃねぇのかよ…」

 

 

もしこの足音の主が危険な存在である場合、それはつまり城への道を守護する数十名の兵士達を退けて辿り着いたという事。当然ながら狭間に住む屈強な獣とてそれは不可能に近い。

 

どれだけ警戒してもゴストークに戦いの技法は無い、もし本当に危険な存在が迫ってきているのなら…

 

 

やがて背後から差す陽の光を浴びながら、前方に影を作る足音の主が遂に部屋の入口にその姿を現した。

 

 

 

「……あぁ?」

 

 

そこにいたのは壺だった、粘土を焼き固めて作られる壺、丸みを帯びて所々に焼き目とヒビの入る壺、紋様の描かれた紅い止め蓋で封がされている。

 

狭間の地では投げ壺と言って戦闘にも用いられる。

 

その壺がいた、人一人が収まるほどの大きさで、岩石を粗く削り出して作られた様な両手足を生やしながらそこに立っている。

 

 

まるで時が停滞したかのような不穏にも少し似た空気が齎される、数秒経ってようやくゴストークはソレの正体を思い出す、そしてソレが口無きその体から声を発するのも同時だった。

 

 

「……生き壺か」

 

「初めまして、門番さん、であってるのかな?」

 

 

その声は硬質な外見に似合わず、まだ幼さを残す少年の様であった。

 

 

 

 

 

 

 

「生き壺が一人旅…ねぇ」

 

 

突如として城門前に姿を現した謎の歩く壺、ソレは今、ゴストークと共に休憩室にて向かい合い、語り合う。

 

 

「うん、そうだよ、僕はね…立派な戦士になりたいんだ、戦士の壺だからね」

 

 

その生き壺は言う、その単語にはゴストークも聞き覚えがあった、何せ城内で実際に見たことがある、最も既に戦いに敗れ砕かれた残骸であったが。

 

 

戦士の壺、人外魔境たる狭間の地でも由来の不明とされている生き壺達の中で一際大きく、戦闘の能力に秀でた壺達。

 

岩石の剛腕を存分に振るい、彼等の力の根源たる内部の肉片を包み守護するその躰は並の武器では刃が立たない。

 

少なくとも雑兵の寄せ集めや正規兵数人等では対処は不可能な程の力を持つ。

 

 

「あぁ知ってるよ、その名には2つの意味があるってことをな…その腕っぷしを指して戦士と呼ぶが、実際は言葉通りの意味である、そうだろ?」

 

「うん、物知りなんだね、門番さんは」

 

「ならお前もそれなりに戦いの技法ってのを持ってるわけだ…聞いてた話よりも見てくれは小せぇが」

 

「これから大きくなるんだよ、おじちゃんも言ってたよ、戦士とは旅を通して成長するものだって」

 

 

目の前の戦士の壺はそう語る、本来は生き物であるはずも無い壺の体が如何に成長するというのか、まさか心の成長が肉体をも変化させるわけではあるまい。

 

だがゴストークに今そんなことはどうでも良かった、この戦士の壺が姿を表して以来、疑問であった事を緊張と共に問い掛ける。

 

 

「お前が戦士の壺ならよ…お前…ここに来るまでにいた兵士共を…」

 

「あぁ、野営地と丘の道にいた兵士さん達?」

 

 

ゴストークは出来るだけ音を押し殺す様に唾を呑む、生き壺達は度々その特異な生態の一部を目的とした乱獲の対象になっていた。

 

他とは違う少数に属する者達は、往々にして人々の掲げる法や正義から守護すべき対象だと見做されない事がある。

 

ましてや人が、国が、世界そのものが狂っているとすればもはや言うまでもなく、狭間の地では今まで多くの生き壺達が悪意の餌食となってきた。

 

 

「あの人達はね…」

 

 

虐げられた同族や、或いは己自身が受けた不条理への憎悪を見境なくぶつけて回る、そんな衝動を持つ個体が存在しても何ら不思議では無い。

 

 

「とっても良い人達だったよ、少しお話したらね、この先に通って良いよって、城に入れてもらえるかは解らないけど、門番さんに聞いてみろって」

 

 

ゴストークはため息の様に呑んでいた息を吐き出す、今の言葉が真実ならば目の前の存在に危険は無く、流血の類も起きてはいない。

 

 

「そうかい…」

 

 

だがゴストークはまだ警戒を解いてはいなかった、確かに目の前の戦士の壺に戦いの形跡は無い、こびりついた返り血や肉片、武器による傷跡や消耗、殺意を隠した不穏な不自然さも。

 

ゴストークは僅かな時間で対象を目ざとく観察することに長けていた、それはゴドリック健在の時に重ねた浅ましく卑劣な蛮行によって培われた技法。

 

今ではそれが門番として、訪れた者に門を開くかどうかの判断に役立つのだ。

 

 

 

何よりもゴストークは知っていた、理不尽に虐げられた弱者、その有り余る憎悪を内包した呪詛の声を。

 

それは道理や道徳など軽く忘れさせ、関係のない他者にまで振り撒かれる、ゴストークにはこの城の誰よりもそれが理解できる。

 

何故ならそれと同質の呪詛の叫びは、かつてゴストークからも発せられていたのだから。

 

 

「残念だが…そう簡単に城へは入れねぇ…どうしてもってなら中の連中に話を…」

 

「そんなことしなくて良いよ、ただ大っきくて立派な城だったから近くで見て見たかっただけなんだ」

 

 

「門番さんは…僕が人間を恨んでいるかもしれないって、思ってるんだよね?」

 

「…!そいつは…」

 

 

目の前の戦士の壺は以外にもゴストークの内心と懸念を言い当ててみせた、発言はどこか気の抜けた物を感じさせたこの壺だが、その言動の奥には確かな芯の様な物がずっとあった。

 

 

 

「隠さなくても良いんだよ…人間が僕達にどれ程酷い事をしてきたのか、全部解っているから」

 

 

 

ゴストークは押し黙る、目の前のこの壺から自分と似た物を感じた、不思議と解ったのだ。

 

虐げられた者の悲哀、奪われた者の哀しみ、だがそこにはかつて己を支配していた歪んだ憎しみだけは無いように思えた。

 

 

「…それなら、それなら憎くねぇのか、お前は…そんな奴らは皆この手で殺してしまいたいって…そうは思わねぇのか」

 

 

「…うん、思わないよ」

 

「村の皆や優しかったお兄ちゃんを傷付けた奴らは許さない、いつか会ったら僕が皆の仇を討つ」

 

「でもね…だからって関係無い人達まで無闇に傷付ける事はしたくない、それで気が晴れるのだとしても…」

 

「なんだかそれは…凄く、とっても虚しい事だと僕は思うんだ」

 

 

「そうか…そうだな…」

 

 

この壺は自分とは違う、悲劇と不遇の中で世を呪わず他人を憎まない心根を持っている、屈折した心の持ち主から見ればそれは自分の醜さを暴く光のようで、不快にすら映るかもしれない。

 

だがゴストークは自分では不思議なほど、その壺の言葉が何故だが嬉しい様に感じられた。

 

かつては善人など陥れ易い獲物でしかなかったのに。

 

 

 

「お前…この城の歴史に興味はあるか?せっかくここまで来たんだ、城に入れる事は兎も角、話くらいならしてやれる」

 

「そのかわりって訳じゃ無いが…お前の話を聞いてみたくなった…お前がよければだが」

 

 

「うん、良いよ お話しよう!」

 

 

卑屈で卑怯で他人なんてどうでも良かった自分が、何故だが今ではこの壺について興味を持っている、悪い気分はしなかった。

 

 

 

 

「壺村…そんなものがリエーニエにねぇ」

 

「僕はそこから来たんだ……うん、寂しくはないよ、故郷は遠く懐うものだから」

 

 

 

 

「成る程、そしてその後にリムグレイブに来たのか、だが大橋は未だ壊れたままだ、どうやってここまで来た」

 

「ここを目指してた訳じゃ無いけど…崖際の道を歩いていたらいつの間にかね、近くには多分その大橋があったよ」

 

「そうか、大橋横の崖際の林か…まだそこから続いていたのか、ケネスの奴にでもに教えてやろうか」

 

 

 

 

「そうなんだ、この城はあのデミゴッドが治めてた城なんだね 立派だとは思ってたけど」

 

「城だけさ…立派なのは、醜い心に醜い体、ここの旧主は嫉妬に狂った愚王そのもの、ゴドリックなんぞ……まぁ、今はこの城もマシになった ネフェリ王はゴドリックとは違う」

 

「さっき言ってた新しい王様?」

 

「そうだ、お前は戦士に憧れてるんだろ…一度会ってみたらどうだ?あの人は王であり、戦士でもある」

 

「王であり戦士…それって何だかゴッドフレイみたいだね!そんな強い戦士に僕もなりたいなぁ」

 

 

 

 

「リムグレイブってのは大きく分けてストームヴィルのあるここと…辺境と呼ばれる啜り泣きの半島の2つの地区がある、お前、地図は持っているか」

 

「持ってないよ、だからよく迷っちゃうんだあ」

 

「…まぁいいさ、それなら余りをくれてやる、お前も決して無力ではない見てぇだが、半島に近づくのは止めとけ」

 

「危険な場所なんだね?」

 

「あぁ、野蛮な混種と亜人に怪生物、極めつけは忌まわしき狂い火に侵された村だってあると聞いてる」

 

「うん、解った、覚えておくよ」

 

 

 

 

ゴストークと戦士の壺の不思議な語らいの時間は穏やかに過ぎていった、やがて話し合いにも終わりが近づき、床に足を投げ出すように座り込んでいた壺が立ち上がる。

 

 

「ありがとうね、門番さん、ここに来て良かった、いっぱい楽しいお話が聞けたから」

 

「そうか、もう行くんだな、本当に城の中には入らなくていいのか?門番がこんなこと聞くのもおかしな話だが」

 

「うぅん、確かに城には入ってみたいし…戦士の新王様にも会ってみたい…けど、やっぱり今はいいよ」

 

「なんか邪魔になることがあったら嫌だし…それに戦士は孤独な者だから」

 

「…そうか、まぁお前の好きにすればいい」

 

「うん、それじゃあね…門番さんも」

 

 

やがていよいよその時間が終わろうとしたその時、休憩室の入口の向こうから慌ただしく地面を踏み鳴らして駆ける喧騒のような足音が迫ってくる。

 

 

「き、騎士を!城内から騎士を呼んでくれ!」

 

 

息を切らして荒々しく入室したのは一人の兵士、リムグレイブの紋様の描かれたサーコートとチェインメイル、安価な作りの直剣と真鍮の盾、この城や城外の各所を警護する衛兵である。

 

 

「何かあったか?その様子じゃあ聞くまでもねぇか」

 

「トロルだ!この近くの野営地を襲撃している!」

 

「あぁん?…その程度お前等でもわけねぇだろう?一人で戦り合う訳じゃねぇだろう、お前らの隊長の騎士様はどうした」

 

「あ、あの人は今、半島の方に任を受けて出向いている!暫くは帰らんのだ!」

 

 

「ふむ、コイツらどうやらお困りみたいだな、お前に門番の仕事を見せてやることができそうだ」

 

「あの門を開くんだね?」

 

「あぁそうだ」

 

 

額と頬を汗で濡らし慌てふためく兵士を横目に、ゴストークが戦士の壺と耳打ちするように小声で会話する。流石に明確に助けを求められたとあった以上はゴストークも行動を起こす。

 

 

「解った、今すぐ門を開ける、そのまま中の奴らにその事を伝えてこい……おぉい、門を開けてくれ!急の知らせがあるそうだ!」

 

 

ゴストークが休憩室から外に移動し、城壁のように堅牢な黒鉄の鉄柵の向こうに向けて声を張り上げて合図を示す。

 

すると少しの沈黙の後、何かが作動する音と共に巨大な鉄柵が上へと上がっていき城内への道が姿を表す。

 

 

「ほら、さっさと言ってこい」

 

「あ、あぁ、感謝する!」

 

 

短いやり取りの後、兵士はまた慌ただしく体温を上昇させながら駆けていく。その背を暫し見送った後、ゴストークはまた戦士の壺に向かい合う。

 

 

「何だか大変な事になっちゃったね」

 

「あぁ、気の触れたトロルだとよ、確かにそんなのが暴れてるんじゃ落ち着いてお別れもできねぇよな?」

 

「…さっきの兵士さんは騎士さんに助けを求めてたみたいだけど…兵士さん達じゃ勝てなかったのかなぁ」

 

「失望したか?人間の戦士は脆弱だって」

 

「うぅん、そんなことないよ、人間の戦士さんだってとっても強くて立派でカッコいいって知ってるよ」

 

「まぁ、兵士共を庇うわけじゃ無いが…トロルってのは恐ろしい怪物だ、何せあの伝承の巨人共を祖に持つ末裔なんだからな、バリスタでもない限り確かに数を揃えても厳しい相手かもしれん」

 

「だが…城の騎士共が出張ってくるなら安心だな、奴らは護城の要、トロルだろうと叶わねぇさ」

 

「運が良かったな、お前、騎士と巨人の決闘なんてまるで壮大な英雄譚だ、なかなかお目にかかる機会はないぞ」

 

「騎士さんかぁ、カッコいいよね、僕もね…憧れてる人が3人いてね、そのうち一人は騎士さんなんだよ」

 

「そりゃいい目標を持ったな…お?速いお帰りだな」

 

 

二人が城への道を挟んだ向こうで起きている喧騒に反して呑気な雰囲気で会話する中、城の中へと助けを呼びに行ったはずの兵士が戻ってくる。先程よりも更に疲弊した息遣いで、だがその背後に救援に現れた銀色の甲冑姿は見えなかった。

 

 

「クソ…ダメだったよ…」

 

「あぁ?どういう意味だ」

 

「騎士達は殆ど出払っている…ほら、最近リエーニエのカッコウ共が妙な動きをしてるって…リムグレイブに渡る手段を探してるって話…あれの、調査に…」

 

「…あー、そういやあケネスがそんな事を」

 

「何か問題があったんだね」

 

「そうみたいだ、残念ながら勇ましい英雄譚を拝むのはお預け見てぇだな、しかし騎士達は…そうか」

 

「戦争が起きるかもしれないから調べてるんだね」

 

「まぁそういうことだ、カッコウの略奪者共がリムグレイブに攻めてくるとすれば一大事だ…あぁ、カッコウってのはな」

 

「知ってるよ、リエーニエにいる人間の兵士さんでしょ?ここに来るまでに何度か倒したよ」

 

「お、おう…そうか、そういやぁリエーニエからお前は来たんだったな、しかし…だとしたらちとマズいな」

 

「このままではあのトロルがここまで…!一応、城内の兵士を貸し与えてくれと伝達したがそれでもどうなるか…」

 

 

「…よし、じゃあ行こう」

 

 

予想外の事態に狼狽する兵士と流石に危機感を持ち始めるゴストークの様子を知らないかのように戦士の壺が平然と言い放つ。そのままトロルが現れたという城の入口まで歩みを始めた。

 

 

「お、お前は…?さっきの生き壺…」

 

「おいおい、話聞いてたか、トロルが暴れてるんだぜ、兵士共でも手のつけられねぇ化け物が」

 

「そう…だから行くんだよ、僕は戦士の壺だからね」

 

 

「……ホスローは血潮で物語るんだよ」

 

 

 

 

 

城へと続く開門前の野営地、打ち捨てられた廃墟に簡易的な休憩所や寝床などが配置され、巨大な荷馬車や数々の木箱などかつての営みを思わせる物も目に入る。

 

 

その場所にトロルの地を震わせる咆哮が響く。

 

 

その姿は厳しく、醜悪にして恐ろしい。人間の身長では膝にも届かぬ巨躯、腹部は内臓が全てこぼれ落ちたかのような赤黒い空洞と化しており、その顔も剥き出しになった歯列と虚ろな穴と見間違う不気味な両瞳。

 

衣服の類は何も身に着けず、人との相違点は骨格の作りぐらいだろう。萎びた老人の様な皺だらけの体、色の抜けた弛んだ皮膚、だがその肉体が多大なる破壊の力を内包している事を見た者は誰も疑わない。

 

辺りの木柵は全て破壊され、兵士達が剣を抜き放ち、こぞって斬りかかるもトロルがひとたび吠え、あるいは地にその剛腕を叩きつければ発せられた衝撃の波に兵士は抗えず羽のように軽々と吹き飛ばされる。

 

トロルの腕が届かぬ遠距離から兵士達が放つクロスボウの矢も当たりこそすれどまるで手傷にはならない。

 

荒れ狂うトロルの怒号は鳴り止むことなく、地を踏み砕くかのような震脚の連打が地鳴りを奏でる。

 

 

 

「本当に暴れてやがる…」

 

「嘘の報告などするか!それよりも大丈夫なのか?」

 

「うん、兵士さん達は僕のお願いを聞いてくれたから、今度は僕が手を貸す番だよ」

 

 

その場所に立ち、暴威を振るうトロルを見上げる二人と一壺、やがて不安にかられる兵士の元から離れ、戦士の壺がトロルの眼前へと歩みを進める。

 

 

「大敵に挑むは戦士の誉れだ、そうでしょ?アレキサンダーのおじちゃん」

 

 

己に接近する壺の姿を視界に捉え認識したトロルもまた唸りを上げて地響きを起こしながら走り寄る。無言のまま静かに歩む壺とは対象的なトロルの突撃は、速度を緩めることなく間合いを詰めていく。

 

やがてその剛腕が届く範囲まで来ると、躊躇なく目の前の敵に向けて攻撃を行う、だがそれは戦士の壺も同じだった。

 

 

「むぅう…!始まるぞ!」

 

「……しかし妙な話じゃねぇか?…トロルってのも知能が無いわけじゃない、ここまで凶暴な個体なんて今まで何処に…」

 

 

走り寄るトロルが両拳を硬く握りしめ、そのまま腕ごと地面に叩きつける一撃を決行する。その威力は衝撃と風圧だけでも敵を吹き飛ばし、直撃すれば人間の体など元の形が識別困難な程に損壊させる。

 

まさしく地を震わせ岩をも砕く一撃だが、戦士の壺には当たらない、その剛腕が天に掲げられるように振り上げられた頃にはもう叩きつけの攻撃範囲にはいない。

 

 

「……オオッ…!」

 

 

地面を打ち鳴らし、衝撃と風圧に土煙を巻き起こすトロル、だがあの初めて見る形の敵を叩き潰した感触が無い。

 

その手の下の状況を確認するより速く、左脚から走る激痛がその答えを如実に伝える。

 

 

「僕が先手だね」

 

 

懐に潜り込んだ戦士の壺がトロルの左脚に攻撃を与えた、それだけでトロルは左脚の脛から血を流し、堪らず怯み数歩後ずさった。

 

 

「お、おおっ!あの生き壺は攻撃を躱したようだぞ、しかもトロルを怯ませた!大剣の攻撃すら通じなかったのに!」

 

「へぇ…リエーニエからここまで旅してきただけはあるみてぇだな…武器の類は持ってないようだが、あの岩のような拳で殴りつけたのか?それだけでトロルに手傷を…」

 

 

通常このトロルの様な己の肉体を鎧代わりとする獣の類に打撃による攻撃は斬撃に比べて効果が薄いとされる。

 

分厚い皮膚とその下の脂と筋肉に阻まれて衝撃が無効化される、出血を用いる斬撃で徐々に体力を奪うのが良いとされている。

 

勿論それは通常の兵士達の戦略の話、狭間の地の強者達はそのような常識などに縛られない。

 

鉄鎧を両断する剣士もいれば、己よりも遥か巨大な獣を殴り殺す勇者も存在する。この戦士の壺が放った拳打も、たったの一撃でトロルの脛の皮膚を破り、筋肉を潰し、奥にある骨に亀裂を走らせ折り砕いた。

 

 

「ガアアアッ」

 

 

しかしそれだけでトロルは止まらない、狭間の地で危険とされている怪物達は多少の流血や骨が数本砕けた程度では怯まない、尋常ではない殺意と闘志が激痛と恐怖を直ぐ様塗り潰して戦闘を続行する。

 

トロルは短い咆哮の後、なんと負傷したその左脚による踏み付けを繰り出そうとする、左脚を振り上げて体重と力を込めた。ある意味では不意をつくその攻撃は並の相手なら有効打になり得たかもしれない。

 

だがその行動は裏目に出る事になる、やはり戦士の壺はトロルより先に行動を始めていた。

 

 

「力比べだ」

 

 

岩石の右腕を握りしめ、肘を曲げて後ろ手に引いて構える。全身を僅かに屈ませて、その右腕のみならず両足にまで力を込める。やがてその右腕から噴火のように滾る炎の赤色が溢れ出し、猛火となって壺の右腕に纏い始める。

 

 

「あ、あの炎は!?」

 

「多分あの野郎は戦技を放つつもりだ」

 

「なんだと?拳に炎を纏わせる戦技など聞いた事が…」

 

「アイツ独自の…戦士の壺とやら独自の戦技だろうよ」 

 

 

トロルが限界まで左脚を上げて遂に力を解き放ち、踏み付けを戦士の壺目掛けで放つ。そして対する戦士の壺も必殺の妙技を向かい放つ。

 

力を込めた両足を解放、重量のあるその体が力強く、勢いよく高速で跳躍、その速度を乗せて構えられた火を纏う右腕が天高く振り上げて突き出された。業火が拳に続き渦を巻いて吹き上がりその速度を更に増す。

 

 

衝突するトロルの体重を乗せた踏み鳴らしと戦士の壺の天を衝く炎纏の拳打、その結果は、

 

 

 

「アアアアァッッ!!」

 

 

トロルのけたたましい絶叫が響き渡る、伝承の巨人を祖に持つトロルの闘争心ですら掻き消せぬ激痛が奔る。

 

戦士の壺の炎の拳による突き上げは、トロルの左脚を文字通り打ち砕く。溶岩の如き火炎がトロルの肉を焼き焦がして灰に変える、鉄よりも強固な壺の石拳がヒビの入って脆くなったトロルの骨を簡単に破壊する。

 

その後に拳打と火炎が合わさり巻き起こる爆発によって、トロルの踏み込んだ左脚は膝から先が完全に四散して消失した。

 

 

「オ、オオォ…」

 

 

気力まで完全に削り取られたトロルが体制を崩す、その巨躯を片脚で支えきるのは不可能だった、弱々しい声を上げながらうつ伏せになって倒れ伏した。

 

 

「ゴメンね、この人達は僕の友達だから…」

 

「もう終わらせるよ」

 

 

股下をくぐる形で倒れ伏したトロルの後方に回り込んだ戦士の壺、完全に無防備なトロルに最後の一撃を繰り出した。

 

両手の掌を合わせて指同士を組み合わせる、するとまるで巨大な戦鎚の様なあり様となる。

 

そしてそのまま再び天高く跳躍、先程の拳打にも劣らぬほどの力強さ、そして空中でその体を縦に一回転してみせた。

 

 

 

「あれは知ってる…獅子切りだ!」

 

 

それを見ているリムグレイブ兵士にはその技に覚えがあった、勇猛にして苛烈で知られるケイリッドの赤獅子と呼ばれる兵達の戦技。

 

伝え聞くところによると全力の跳躍の後に回転を加え、全身の力と落下の速度、そして自身の体重を最大限に発揮させる剛剣たる戦技だとか。

 

熟達の赤獅子騎士の放つ獅子切りは正しく一撃必殺、赤獅子達の愚直なまでの研鑽と恐れ知らずの勇猛さを象徴するかの様な妙技である。

 

 

「組んだ拳を武器に見立てたのか…!」

 

 

その跳躍はトロルの胴体を通り越す、そして戦士の壺の拳による獅子切りはうつ伏せに倒れたトロルの後頭部を捉えた。

 

 

「カッ…ッ」

 

 

生き物を拳で打ったとは到底思えぬ鈍く、それでいて底冷えするかのような一息に肉体を破壊する音が鳴る。

 

戦士の壺の武器に見立てて獅子切りを放った両腕が深々と関節の辺りまで突き刺さる、トロルの頭部から噴水の様な鮮血が吹き上がり、トロルは消え入りそうな声を残して力尽きた。

 

 

「じゃあね、巨人さん、生まれ変わったら皆を傷付けない優しいひとになってね」

 

 

 

 

 

「今度こそもう行くよ、じゃあね門番さん、兵士さん達もここを通してくれてありがとね」

 

「あぁ、好きにリムグレイブを見て回れ、トロルをブチのめせるなら半島に踏み入ったって大丈だろう」

 

 

トロルの暴動を戦士の壺が鎮圧し、改めて壺と門番は別れの言葉を交わす。そこには惜しむような感情の響きはなく、旅人の背を憂いなく押さんとする言葉だけがあった。

 

 

「なぁ…お前が行くと言うなら止めはしないが…このトロルを討伐した功績があれば堂々と城にも入れるのではないか?その為に来たんじゃないのか、もしかしたら城に召し抱えられる道すらあるかもしれんぞ」

 

「うぅん…でも、僕はそういうの興味ないんだ」

 

「戦士っていうのは孤独だけど…自由なものなんだ、僕はまだ未熟な壺だけど」

 

「…そうか、お前には目指す有り様があるのだな、わかった、引き止めはしない、だがいつかまた訪ねて来るがいい」

 

「うん!その時はきっと立派な戦士になってるよ!」

 

 

「じゃあな壺野郎、せいぜい気を付けて旅する事だ」

 

「うん、じゃあね、門番さん!」

 

 

戦士の壺は快活な言葉を言い残し、振り向くことなく歩いていった。門番と兵士もまたその背にそれ以上言葉を投げかけることはなく、街道の先にその姿が消えるまでの間、ただ遠ざかっていく背を眺めていた。

 

 

 

 

「それにしても…生き壺というのは皆ああも屈強な物なのか…正直言ってトロルに叶うとは思わなかった」

 

「こんなフザけた怪物共の根城を旅してるんだ…そりゃ強くもなるだろうよ、ただ…」

 

「アイツが強いのはそれだけじゃねぇな、何か、アイツの強さの源となるような、心に強い芯みてぇなのが立つ切っ掛けがあったんだろうよ」

 

 

何時もの陰険さを漂わせる態度とは違う、純粋な期待を向けるような明るい響きの言葉を発するゴストークに、意外そうにその言葉の訳を知ろうと視線を向ける。

 

その二人の背に聞き覚えのある声が投げ掛けられる。

 

 

「お前にしては珍しい、その旅人の生き壺とやらに何か感じ入るものがあったのか、ゴストーク」

 

 

二人が振り向いた先にいたのは一人の女性、筋肉質に引き締まった褐色の体を覆う伝統的な装飾の軽装備、腰に下げられた二振りの斧、己達が王と呼び忠誠を誓った新王その人だった。

 

 

「こ、これはネフェリ様、何故此処に…!?」

 

「伝令を聞いた、雑務は一端捨て置き急いで駆け付けたつもりだったが…どうやら遅かったようだな」

 

「な、なんと、まさか王自ら…!?」

 

「…つまりそりゃあ一人でトロルを仕留めるつもりだったんで…?ケネスの奴が知れば何と言う事か」

 

「あぁ、来る途中に散々言われたよ、だが動ける騎士達がいないのであれば私が行くより他にないだろう?…まぁ、その必要はなかったがな」

 

「リムグレイブの兵とその秩序を守ってくれた事、王として礼の一つでも伝えたかったのだがな…それに、一人の戦士として話もしてみたかった」

 

「…まぁ旅をしているのならまた道が交わることもあるだろう、再び見えたその時は此度の礼も兼ねて語り合おうではないか」

 

「それは賛成です!我等を救ってくれた彼は正しく英雄ですから、もう一度感謝を伝えたい」

 

「そう簡単におっ死ぬ事もねぇだろう、心配も不要か…そんじゃあ俺達は職務に戻らせてもらいますぜ」

 

「あぁ構わん、ご苦労だったな」

 

「では私もこれで失礼します」

 

 

ネフェリに礼と伝令を伝えてゴストークと兵士は持ち場へと引き返していく。城の中へと戻る最中、ゴストークはもう一度、あの壺が消えていった街道の先を見やる。

 

やはりもうその姿は見えなかったが、不思議とこれが再開の叶わぬ別れだとは思えなかった。

 

 

「…………」

 

 

思えば自分も戦士と言うものに縁がある、ネフェリは勿論そうだが何時ぞやストームヴィルを訪れた褪せ人の戦士の事をゴストークは思い出していた。

 

種族も言動も、似ていることなどまるで無い。

 

だがあの時出会った褪せ人を思い出していた、最後に会ったのはネフェリが王となり、かの褪せ人が城を訪ねて来たときでだったか

 

 

「ふむ…」

 

その感傷にも似た感情にやはり不思議と悪い気はせず、ただ静かに城へと戻る歩みを再開させた。

 

 

 



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霧の森の奪還

 

 

 

「ハァッ…ハァ…何だというのッ…!」

 

 

リムグレイブの何処か、辺り一面を深い濃霧で包まれた森を移動する影があった、その顔には焦燥が刻み込まれ、衣服の背や脇を滲み出す汗が湿らせる。

 

その霧深き森林、リムグレイブに住む民であればその特徴だけでそこが何処なのか、どの様な場所なのかすぐに理解できる。

 

 

「あんなヤツがこんな場所に!」

 

 

慎重に、しかし立ち止まることは決して無く、何度も辺りを念入りに確認しては隠れ潜める場所を探して森を彷徨い歩いていたのは一人の女だった。

 

元は穢れない純白であったであろう、白布のローブを身に纏う。今や色褪せて汚れている、それは何も森の中を移動していたからだけでは無いだろう、それより以前から染み付いたものだ。

 

 

旅などには適さぬその出で立ち、知識ある者が見れば女の身に纏う衣服はそれを着る者の素性を示すものだと理解するだろう、即ち、指の巫女、かつてこの狭間の地にて重要な責務と意味を持っていた、今は姿を消した者達の服装だ。

 

 

 「武器さえ奪われなければ…」

 

 

女の名はアナスタシア、指の巫女の装衣を纏い、しかし指の巫女ではないこの女の正体は褪せ人だ。

 

正確には褪せ人だった、かつての呼び名は〈褪せ人喰いのアナスタシア〉、狭間の褪せ人達がこぞって恐れ、憎んだ、同族殺しの褪せ人であった。

 

 

「こ、こんなところで…!」

 

 

そのアナスタシアは今、明らかに何かの存在を恐れ、リムグレイブの森の中を息を潜ませ逃げていた。

 

 

 

 

 

 

「各地の廃墟や野営地の再興…進展はどうだ」

 

「兵士達の尽力もあり順調に進んでおります、王よ」

 

 

ストームヴィルの王座の間にて、今日も今日とて新王ネフェリと忠臣ケネスがリムグレイブの再興の為にその務めを果たす。

 

運ばれたテーブルの上にはリムグレイブの地図が広げられ、各地に点在した復興途中の廃墟や野営地には印が書き込まれている、ケネスが説明のたびにその箇所を指差している。

 

 

「各地の廃教会もいずれ居住区として建て替える予定です、今手付かずの場所は…」

 

「啜り泣きの半島か」

 

「はい…あそこはリムグレイブでも取り分け危険な区域、凶暴な混種や危険な怪生物、あの場所は長い事放置されてきました」

 

「モーン砦からの報せは未だ来ないか」

 

「残念ながら…砦を任されている者も何やら姿を消して久しいとの事です」

 

「ふむ…早く手を付けなければいけないな」

 

「えぇ、それ以外にも問題が…もう一つ、ある理由で復興の進んでない場所が」

 

「それは何処だ」

 

「霧の森でございます、王よ」

 

「霧の森か…お前が治めてきた砦がある場所だな」

 

「ハイト砦の事は、まぁ…私もすぐに戻るつもりはありません、今は置いておきましょう、問題は霧の森の中腹に位置する廃墟です」

 

「ゆくゆくはその場所も、と思っておりましたが、かの森には兵士達とて迂闊には踏み入れず、したがって物資の運搬も出来ずにいるのです」

 

「かの森に住み着いた…恐ろしい獣によって」

 

 

「ルーンベアーの事だな」

 

 

「その通りです、ルーンベアー、この狭間の地に住む獣の中で一際の強靭さを誇る怪物」

 

「人食いの大蛸、混種の戦士、トロル、亜人の群れに動く怪植物…この地のどの生物と比べても屈強にして凶暴」

 

「かの邪悪なる飛竜アギールが褪せ人に討たれ姿を消して以来…奴らがリムグレイブの頂点捕食者です」

 

「ゴドリックが狂って以来、民の住む場所は手つかずとなりました…かつては森の奥深くにしか居なかったルーンベアーも、今は森全体を縄張りとしているのです、つまり…」

 

「つまり、凶暴なルーンベアーがいる限り、廃墟の復興もハイト砦を再興するのも不可能、奴らを排除しなければならないということか」

 

「……えぇ、そうです、今、討伐隊を募っております、失地騎士で結成された精鋭揃いの隊であれば…」

 

 

「いや、その必要は無い」

 

「私が霧の森へと赴こう、それで終わらせる」

 

 

ネフェリの迷いの無い、澄み渡った風の様な堂々とした一声が王座の間にもたらされた。

 

 

 

 

 

 

それから暫しの時が経ち、霧の森前の草原。

 

眼前には広大で鬱蒼とした森林が広がり、まるで地面から沸き立つ様に濃い白霧が充満して漂っている。

 

霧の森の名に違わぬ風景、ともすれば幻想的とも見えるが、この狭間の地にて人の手の届かぬ場所には決まって悍ましい何かが潜んでいる。

 

まるでこれから森に踏み入る者達からその潜んだ何かを濃霧が覆い隠しているようだと、そこに立つ者達には感じられた。

 

 

「今更私が何を言おうと止まらないのでしょうね」

 

「またお前に苦労をかける事、すまないと思っている、だが私一人が血を流す事で要らぬ犠牲を無くせるのなら躊躇う事はない」

 

 

 

静かに獲物を誘い込むかのように聳える霧の森の前に立つ人物、質の良いローブを羽織る男ケネス・ハイト、その顔は僅かに歪められ、何かやり切れぬ想いを写していた。

 

もう一人の毛皮で作られた軽装鎧を着る女はネフェリ・ルー、元は蛮地を故郷とする褪せ人の戦士、現在のリムグレイブを統治する新王である。

 

 

 

「…えぇ、わかっておりましたとも、王がその様な選択を選ぶ事も、そんな貴女だからこそ我等は付き従うのです」

 

「それに王の力を思えば…道理に外れた選択ではないでしょう、なにせ王にはそれを為せる力がある」

 

「力こそが王たる故、かのゴッドフレイも斯様な言葉を残しておられるのです、単身でかの獣を打ち倒す事も王にとっては無謀ではない」

 

「ゴッドフレイか…確かにな、かの王がこの場に居たらきっと私と同じ事をするだろうな」

 

「えぇ、霧の森の掃討は王たる貴女自身が行う、その事にもう異論はありません」

 

「ですがそれは、我等家臣が王の身を案じていないという訳ではないのです、その事をどうか御心の隅に」

 

「あぁ、解っている、お前達には感謝しているよ」

 

「勿体無きお言葉です、このケネスは貴女の王座ある場にて、何時まででも王の帰りをお待ちしておりますとも」

 

 

「フッ…本当に律儀な男だな、お前は…」

 

「ではそろそろ始めよう、森の獣狩りだ」

 

 

「ご武運を、王よ」

 

 

失われた砦と居住区を取り戻とした戦いが始まる、敵は数も知れぬ屈強極まる恐ろしい猛獣、挑むのは新しき戦士の王、霧の森の所要者の座を争う争奪戦であった。

 

 

 

 

 

ケネスにその背を見送られ、遂に霧の森へと足を踏み入れたネフェリ、踏み締める大地の感触は不気味に冷え湿っている。

 

辺りには飛び交う虫の羽音や、得体の知れぬ鳥類の鳴き声、何かが草木を掻き分ける小さな音。

 

勿論、いちいちそれらに気を取られるネフェリでは無い、ここは既に敵地、なれどネフェリには油断や慢心も、過度な緊張もまるで無かった。

 

 

「ふむ…」

 

「ルーンベアーか」

 

 

ネフェリが不意に口を開く、辺りに響かぬ様に声量は落とされている、最も、ネフェリとしてはいつ戦いになろうと構わなかったのだが。

 

 

「義父から聞いた話だと大層恐ろしい相手だとか」

 

「どの程度のものなのか」

 

「戦うとなれば初見故に…楽しみでもあるな」

 

 

心底から不意に溢れたその言葉に、数瞬の間を置いてネフェリは思わず自嘲の笑いを口元に浮かべた。考えてみれば危険と解っている場所に王自らが単身出向くなど正気では無い。

 

勿論、ネフェリなりの考えがあってのことだが、それでも戦いが楽しみだ等とは、これでは野蛮と罵られても仕方が無い。

 

 

「性根とはすぐには抜け切らんものだ」

 

「もはやこの命は私一人の物では無いというのに」

 

「だがこれも兵達の犠牲を思ってこそだ…私が赴き、全ての獣を打ち倒せばそれだけで…」

 

「…………」

 

「…いや、言い訳だな」

 

 

ネフェリは立ち止まり、暫し思考する、純粋なネフェリには誤魔化しや嘘などは、例え小さくとも、例え己であろうと捨て置くことは出来なかった。

 

 

「この身は戦いを求めているんだ、未だ戦士として闘争を欲している自分がいる、今回の事を丁度良い機会だと心の何処かで考えている」

 

「兵達の為にというのが嘘では無い、だが同時にこの衝動もまた事実…」

 

 

それは果たして王として正しい在り方なのか、自問自答の言葉を口にし、短い静寂の後、空を仰ぐように虚空に答えを探すように思考を続ける。

 

やがてまた一つ、小さい自嘲の笑みを浮かべてその思考を打ち切った。

 

 

「未熟だな、敵地で迷いに囚われるなど」

 

「かつて戦士だったとはいえ、今の私は王としてここに立つのだ、己の滾る血の為ではなく、民の為に」

 

「ゴッドフレイなら、きっとそうした筈だ」

 

 

そうしてネフェリはまた、歩みを再開させ、霧の森の奥へと進んでいった。

 

 

 

 

 

 

「安心したよ、どうやら迷っていた訳ではなかった」

 

 

それから一切足は止めずに歩き続けたネフェリ、そうして辿り着いたその場所には、古く捨て置かれ、朽ち果てた遺跡の様な有様の巨大な廃墟群が現れた。

 

それは狭間の地では珍しくない、かつては住民の居住区、或いは集いの場であった廃墟、ネフェリ達が霧の森を取り返したいのはこれらの物をまた使えるように再興させたかったからなのだ。

 

 

「これが在るということは丁度中腹と言った所か」

 

「しかし酷い有様だ」

 

「だが仕方が無いか、更地になってないだけマシだ」

 

 

ネフェリが慎重に廃墟へと踏み入った、その場所はもはや崩れかけの壁が辛うじて四方にあり、人の居た痕跡は殆ど消え去り、元の建物の形状すら悟れないほど崩壊していた。

 

石床が剥がれ、剥き出しとなった地面から伸びる草木を踏み締めながら、何枚か続く壁を回り込んで超えて進む。

 

やがて開けた場所に出た、廃墟が健在であった時は最も広い部屋だったのだろうか。

 

 

すると不意にネフェリは立ち止まる、息を殺し、その気配を瞬時に薄めていく。

 

 

「…………!」

 

 

咄嗟に口を開く様な愚は犯さず、ただ静かに目の前の光景を見据え、様子を伺う、そうするべき事態が目の前にはあった。

 

 

「グゥウウ……グッ…ウゥウ」

 

 

廃墟の広場に寝そべる巨大な何か、まるで小山のような大きさの毛皮の塊がそこに居た。ソレからは唸り声から覇気を抜いた、行き詰まった吐息の様な声が溢れていた。

 

焦げ茶色の毛皮、見上げる程の巨躯、丸太を束ねたような豪腕剛脚、腹部から胸部にかけて浮かび上がった模様、人間など簡単に口内にまるごと収められるほど巨大な頭部。

 

 

討伐対象のルーンベアーがそこには居た。

 

 

静かに引き返し、近くにあった壁の裏側に回り、その場でネフェリは状況を整理する。

 

 

(どうやら眠っているようだな)

 

(好機だ、余計に暴れられて本当に此処を更地にされては敵わない、一息で仕留められれば最良なのだが)

 

(となると狙うは頭部だ、しかし一撃でとなると容易では無い…仲間を呼ばれても面倒だ)

 

(あれ程の怪物の命を一息で奪うとなると…そうだな、特大の重量武器などなら可能だろうか)

 

 

ネフェリの脳内に浮かんだのは己の知る中で最も大きく、重く、強大な一振り、ローデイルで対峙したかの戦王が振るう特大の戦斧、剛の具現化の如きあの破壊力。

 

 

(私にあれ程の力があれば…いや、先手は此方が打てる、それ以上何を望むと言うのだ)

 

 

これ以上の思考に意味はないと判断し、ネフェリは行動を開始した。思えば森に入ってからあれこれと考えてばかりで己らしくないと気付く。

 

 

(そろそろ始めよう、ケネスを待たせている)

 

 

もうその必要は無いと言わんばかりに身を潜めていた壁から広場へと静かに歩み出る、いびきを立てて仰向けに寝転がるルーンベアーの元へと進んだ。

 

 

「先ずは一体、卑怯などと思ってくれるなよ」  

 

 

腰に差した斧の片振りを両腕で掴み振り上げる、その身に張り巡らせた力が頂点へと達した瞬間、渾身の一撃をルーンベアー目掛けて振り下ろした。

 

 

「ゴッ…!……ヵッ…!?」

 

 

それは断頭斧さながらにルーンベアーの首筋を捉えた、獣臭の染み付いた血の噴水が撒き散らされて辺りを赤く染め、信じ難い程の激痛と共にルーンベアーは跳ね起きる。

 

ネフェリの斧は首筋の毛皮を断ち、傷口は骨まで達している、ネフェリの斧が一撃の威力に優れる重量武器の類であったのなら本当にその一撃で首を切り離していただろう。

 

 

「グゥウ…!」

 

 

だがルーンベアーは狭間の地の獣、それも生態系の上位に位置する怪物、血は急速に失われ、傷口からは白い骨が覗き、それすらも斧が当たった箇所が裂傷の形に削り取られている。

 

それでも死なない、恐れもしない、尋常ならざる生命力、狭間の地の怪物は皆、完全に絶命するその瞬間まで闘争を放棄することがない。

 

敵対者の急速な排除こそが取るべき最良なのだとその本能が形作られている。

 

 

凄まじい程の激憤が込められた双眼がネフェリに向けられる、地を震わせる開戦の怒号を放とうとルーンベアーが喉を震わせて吠えんとする。

 

 

「ガッ…!…!?」

 

 

しかしそれは出来ない、最初の一撃で喉の声帯が損傷したのか、遥か遠方の敵すら打ち仕留める声の砲弾も、仲間を呼ぶことさえこれでは出来ない。

 

 

「声は封じた、集団で此処をこれ以上破壊して欲しく無かったものでな…」

 

 

その言葉を理解は出来ずとも、自分が追い詰められていることは解る、すぐさま目の前の敵を排除せんと、豪腕を振り上げて岩すら砕く叩き付けを繰り出さんとする。

 

 

「そしてこれで終わりだ」

 

 

だがネフェリの方が速い、どれだけの剛力があっても初動の速さでルーンベアーはネフェリに大きく劣っていた。

 

跳躍からの両腕に持った獲物による強攻撃、ただそれだけの単純な攻撃も、歴戦の戦士であるネフェリの手によれば必殺の戦技以上の殺傷能力を誇る。

 

振り下ろされた斧に籠もる破壊力、跳躍そのものの高さと力強ささ、吸い込まれる様に命中する精確さ、どれをとっても並の褪せ人のとは一線を画するその一撃。

 

 

「ウガッ…ゥ」

 

 

ルーンベアーの頭部、その眉間に深いバツ印の裂傷が刻まれる、頭骨を砕くその一撃は、既に体力を大きく失ったルーンベアーにとって致命傷となった。

 

小山のような巨体を地面に投げ出すようにして力尽きるルーンベアー、結果として鳴き声一つあげさせる事無く敵を排除した。

 

 

「あれ程の血を流して尚動けるとは、その強さに偽りは無しか……ん?…あれは…」

 

 

倒れ伏したルーンベアーの横、先程までは視界に無かった景色が映る、比較的劣化の少ない石床に、そこだけ切り取られた様な四角い空洞がある。

 

見ればそこには階段があり、地下へと続く入り口だということが解った。

 

 

「寝そべるヤツの下になって見なかったのだな」

 

「そういえば廃墟には地下室があると義父から教えられた事があったな…これがそうか」

 

 

覗いてみれば薄暗いながらもまだ光の届く位置に地下室への入口があった、特に何かを望んでいた訳でも無いが、見つけた以上は無視するのもおかしな話だと思い、ネフェリは階段を降りて地下室へと進む。

 

苔の生えた石階段を降り、薄暗い地下室へと到達する、一目見た限りでは中は狭く家具などの形跡も無い、マトモな部屋としてではなく物を仕舞うための場所なのだと思われる。

 

 

その地下室へ一歩、踏み入れたその時、入口側からは死角となっている入口横の間から何かの影が飛び出してくる。 

 

その人の形をした影が、振り上げた光を反射する鋭利な銀色もネフェリには見えていた。

 

 

「…!うぐっ…!」

 

「また会ったな、褪せ人喰いのアナスタシア」

 

 

突然振り下ろされた奇襲の刃、下手人の腕を掴み上げて軽々と止める、その正体は以前、邪な理由で城へとやって来た見覚えのある人物だった、両者の視線が交差する。

 

 

「お、お前は…!何故ここに…!」

 

「坑道の採掘場から逃げ出したとは聞いていたが、まさかよりにもよってこの森に逃げ込んでいたとはな」

 

「わ、私を捕まえに来たというの、お前自ら!?」

 

「いいや、違う、だが見つけた以上は野放しには出来んな……ふむ」

 

 

見ればアナスタシアの服装は乱れ、足元は土と泥水で汚れている、その顔にも疲弊の色が濃く現れていた。

 

 

「大方のところ、ルーンベアーから逃げてここに辿り着いたのか、褪せ人を恐れさせる凶悪な殺人者と言っても武器を取り上げられてはどうしようもない」

 

「そのナイフは亜人からくすねた物か?それでルーンベアーに立ち向かうのは厳しいだろう…地下室に潜んだは良いがそこにやって来たアイツのせいで閉じ込められた、そんなところか?」

 

 

「ぐっ…!」

 

 

「図星のようだな、さて」

 

「生憎縛る為の鎖も縄も無い故、手荒くなるぞ」

 

「なっ…」

 

 

言うや否や掴み上げたアナスタシアの腕を引いて体制を崩す、そのまま押し倒したアナスタシアを床に叩きつけた。

 

 

「ぐうっ」

 

 

アナスタシアが呻き超えを上げて手にしていたナイフを落とす、その瞬間に踏み付けて床へと縫い付ける。

 

 

「うぐぐ、お前…」

 

 

アナスタシアもすぐさま起き上がろうとするが、ネフェリの片足に込められた力は尋常ではない、両手をついて押し退けよともまるで動かない。

 

 

「少しばかり痛むぞ」

 

 

アナスタシアの頭上からネフェリの声が聞こえる、やがてゆっくりとネフェリの片足に体重が籠められる。

 

自分の両腕を後ろ手に引っ張られて、アナスタシアはようやくネフェリが前屈みの姿勢となり、拾い上げるかの様に自分の腕を掴んでいると解った。

 

そしてネフェリが何をしようとしているのか理解し、静止の声を上げるが間に合わない。

 

 

「や、やめろ……ぐあああっ!」

 

 

凄まじい力で一気に捻り上げ、そのまま底冷えする音を立ててアナスタシアの両腕はへし折られた。

 

 

「聞け、褪せ人喰い」

 

「どのみちこの森からは逃げられない、ここで大人しく待っていろ…既に先程仕留めた奴の同族が血の匂いを辿って集まって来ている筈だ」

 

「ハァ…ハァ…ッ、な、何…?お前一人であの獣共と戦うつもり?」

 

「元よりそのつもりでここに来た」

 

「お前…正気なの…?」

 

「フッ、まさかお前からそんな台詞を聞くとはな」

 

「さて、足の方もどちらか頂くぞ、お前はただでさえ油断ならないからな、念の為だ」

 

「なっ…まっ、待って、……ぐっ、ぐぎゃあっ!」

 

「一先ずはこれで良い、お前も褪せ人だったのだ、この程度でまさか死にはしないだろう」

 

 

「……さて、奴らとの戦いはこれからだ」

 

 

腰から二本の斧を抜き放ち、動けなくなったアナスタシアを背にしてネフェリが地下室から外へと歩いて行く。

 

 

光が指す外へと出れば、既に肌で感じられるほどの大きな気配と殺気が辺りに充満していた。

 

それを抜きにしても森の奥から漂ってくる尋常ではない濃度の獣臭が、現在の置かれている状況を如実に伝えてくる。

 

 

廃墟から出てみれば、もう目視できる距離にその姿は迫っていた、立ち昇る霧の風景に、黒く巨大な影が複数映り出す。

 

 

「一、二…三体か」

 

 

尋常ならざる殺気が濃霧に混じる、既に様子見の段階は等に超えていた、少なくともルーンベアー達にとっては。

 

開戦の口火を切ったのはルーンベアー、集まったうちの一体から地を引き裂く咆哮が鳴り響き、目には見えない破壊のエネルギーが凄まじい速度でネフェリに向けて迫る。

 

 

「なんだ…!?…うぐっ」

 

 

不可視かつ音の速度で迫るそれ、所見のまま回避する事はネフェリとて叶わない、咄嗟に防御の姿勢を取るも、全身を激しく打ち付ける衝撃を浴びる。

 

まるでトロルの振り回すハンマーの如き衝撃、強く吹き飛ばされ、廃墟の壁を打ち崩しながら叩き付けられる。

 

 

「…今のは鳴き声…なのか?」

 

 

瓦礫となって自分へと降り積もった壁だった石片を払い除けながら立ち上がるネフェリ、この程度のダメージでネフェリが戦闘不能になることは無い。

 

 

「大した攻撃だ、さながら飛竜で言うところの火炎のブレスというわけか」

 

 

吹き飛ばされたその間にもルーンベアーが巨体にまるで見合わぬ速度で地を蹴り上げて疾走し接近してくる。

 

 

「ガアアアッ」

 

「グゥウウッ」

 

 

狙った訳ではないのだろうが、偶然にもルーンベアー達の攻撃が左右から迫る挟撃の形となる。それぞれがその両腕を振り下ろす渾身の叩き付け。

 

 

(速い!)

 

 

素早く前方に身を投げ出すようにしてローリングし回避する、背後で爆発のような轟音と衝撃、土煙が巻き起こる。

 

すぐさま上げた視界に飛び込んできたのは、残る一体のルーンベアーが再び喉を震わせて先程の咆哮による砲撃を放とうとしている姿だった。

 

 

「くっ…」

 

 

全力の速度で身を右方向に回避させるも完全には間に合わず、音の砲弾がネフェリの立っていた地面へと着弾し、発生した衝撃でまたもや吹き飛ばされる。

 

ダメージ自体は無かった、軽々と空中で身を正し着地してみせた、だが、その動作もまた隙となる。

 

 

「…っ、避けきれないか…!」

 

 

既に他のルーンベアーが動き出しているのには気付いていた、全速力の突進、地を一息に踏み抜いて、まるで氷上の上を滑るかのように疾走する。

 

ルーンベアーが得意とする、何の小細工もないが故に強力無比なる、規格外の体躯と怪力が合わさった高速の体当たり。

 

 

「ぐああっ」

 

 

それは獲物の全身を強く打ち付けるだけに留まらず、吹き飛ばされる瞬間に前足で獲物を地面へと素早く叩きつけて縫い合わすことで突進のエネルギーが相まって、体重を掛けながら哀れな獲物を地面と己ですりおろす形になる。

 

ルーンベアーの人間を相手にする際の必勝とも言える攻撃、今まで遭遇した人間の殆どはこの動作だけで簡単に絶命した。

 

 

ネフェリの背面を小石などが無数に埋まる地面がヤスリとなって削る、上からはルーンベアーの重量が加わる、かなりの距離をそうして駆け抜けてようやく停止した。

 

 

「グウウウア!」

 

 

興奮のままにさらなる追撃を加えんとするルーンベアー、念には念を入れるなどの理知的な行動ではなく、ただひたすらに湧き出る殺戮の本能に突き動かされている。

 

そのまま眼下のすぐ下で仰向けのネフェリ目掛けて右腕を振り下ろす、地を震わせる衝撃がまた一つ。

 

しかし獲物をすり潰した感触だけは無かった。

 

 

「今の攻撃で…他の奴らと距離が空いたぞ」

 

「先走ったな」

 

 

その声はルーンベアーのすぐ近くから聞こえていた、素早く回避しながら起き上がったネフェリが、叩き付けを避けると同時に土煙に紛れてルーンベアーの懐、腹部の真下に潜り込んだ。

 

 

「ウガアァ!」

 

 

反応してすぐさま新たな攻撃を加えんとするルーンベアー、だがやはり今回もネフェリの方が速かった。

 

両手持ちにした斧を振り上げれば、そこに全てを打ち砕く雷鳴と暴風の混ざり合う破壊の具現たる嵐が顕現する。

 

争い合う両者の力の天秤が、傾き出す瞬間が訪れた。

 

 

 

 

 

「ガウゥガウッ」  

 

「グガガガッ」

 

 

やがて遅れて二体のルーンベアーもその場に辿り着く、だが全てはもう終わったあとだった。

 

 

「グググゥ……」

 

 

目の前には事切れた同族の亡骸、うつ伏せになった死体は腹部の方から大量の地が流れ落ち、体中に焼け焦がした様な燃焼の痕が残り、黒ずんだ煙を上げていた。

 

どの様に考えても殺したのは先程の人間、それを理解する程度の知能はあった、すぐさま五感を最大まで働かせてまだ遠くには行ってないであろう敵対者を探し始める。

 

そしてその瞬間は相手の方から訪れた。

 

 

「ガウッ…?」

 

 

不意に鼻に届いた血の香り、そしてほんの一滴の水滴が頭頂部を打つ感触も、五感を研ぎ澄ましていた為に感じられた。

 

木から滴る雨水であろうか、だが理屈を超えた本能はそれを否定する、回避せよと肉体に指令を下す。

 

だが方法が解らない、敵影が見えぬ限り避け方すらも不明瞭だ、そうこうしているうちに死神の歩みが到達してしまう。

 

 

「グウウ……!!…ガガァ…!」

 

 

次の瞬間にはその頭部に深々とネフェリの斧の刃が食い込んでいた、頭骨を突き破り、脳髄を断ち切る。

 

そして間髪入れずに引き抜かれ、もう片方の斧もまた、叩き込まれる、同じ様に頭蓋を砕いて脳を破壊する。

 

 

「ァァ……」

 

 

あれ程の力を秘めた肉体から呆気なく力が抜け落ちていく、そしてすぐに永遠に何の力も籠らぬ肉塊へと変貌した。

 

 

「高所からの落下を利用した強襲…珍しくは無い戦法だがその為に木を登ったのは初めてだ」

 

「土壇場の思いつきにしては上出来だったな」

 

 

「ガウウッ…!」

 

 

残ったルーンベアーは目の前で同族の命を奪われた怒りにより、その殺意を更に激しく滾らせる。

 

この不遜な獲物を引き裂こうと、喉を震わせてルーンベアーの戦技とも言える声の砲弾をネフェリ目掛けて撃ち放った。

 

「……!」

 

 

しかし信じ難い光景をその目が映した、音速で飛来する不可視の衝撃波を、何と目の前の人間は躱してみせたのだ。

 

確かに躱した、体を右に転げさせ、今まで人も獣も何人たりとも躱すことなど出来なかった得意の戦技を。

 

 

「攻撃自体は目で見えずとも、事前の動作を見ればどこを狙っているかは解る…厄介な攻撃だったがようやく慣れてきたぞ」

 

 

ネフェリの言葉をルーンベアーはやはり理解出来ていない、だがこの攻撃がもはやこの敵には通じないのだと言うことは理解した。

 

咆哮と共に全身に力を漲らせ突撃する、この手で直接叩き潰し、牙で噛み砕く事に決めたのだ。

 

 

「ガアアアッ グガアアア!」

 

 

だが、それもまた当たらない、悉く回避される。片腕で薙ぎ払う、両腕で叩きつける、顎で噛みつく、全身を使って突進する、それら全てが虚しく地を打ち、空を切るのみ。

 

そしてその後に振るわれるネフェリの双斧、ルーンベアーの分厚い皮膚ごと肉を裂き血を流させる。

 

おかしい、ルーンベアーは僅かに残された理性でそう思考する、敵は血を流している、同族の攻撃を確かに受けていた、いつもはそれだけで戦いは決着する、なぜ終わらない?なぜ自分は未だに戦って血を流している?

 

 

「………!」

 

 

やがてルーンベアーは自分の肉体から力が抜け落ちている事に気付く、それ程までに受けた傷から流れ出た血が多いのだ、本能が急速に萎んでいき、ようやく自分の置かれた状況を完全に理解した。

 

 

つまり、自分の力が目の前の敵より劣っている事に。

 

両者の力は確かに拮抗していた、それは単純に此方が三体で向こうが一体であったから。

 

距離が空いた隙に一体が殺された、その時点で此方が不利となっていたのだ。

 

既に自分に勝利の目は無く、その命が尽きる瞬間もすぐそこまで迫ってきている。

 

 

「……」

 

 

本能が完全に鳴りを潜め、ルーンベアーの脳内に静寂が訪れる、そうしてルーンベアーは行動を選択する。

 

 

「ガアアアッッ!」

 

 

咆哮を上げて残る力の全てを前腕に籠めて振り抜いた、狭間の地の怪物に逃走は無い、戦いが始まれば何方かの絶命の他に決着はあり得ない、その様に形作られている。

 

 

「最後まで戦うか、ならば答えよう」

 

 

ネフェリが正面から双斧を構えて迎え撃つ、怪物と戦士、両者の戦いの幕引きたる一撃が交差して、最後の血飛沫が霧の立ち昇る空を舞った。

 

 

最後まで地を踏みして立っていたのは、王たる戦士ただ一人だけであった。

 

 

 

 

 

「まったく、奴め…何という執念だ」

 

 

ルーンベアーとの戦いに打ち勝ち、その後に血の匂いを察知した新手が現れぬ事から掃討が完了したと確認したネフェリ。

 

霧の森の廃墟へと戻り、思わぬ再開を果たした罪人をついでに城へと連れ帰ろうとした、しかし地下室にいるはずのアナスタシアの姿はどこにもない。

 

 

「両腕と足の片方を折られてなお逃げ出すとはな」

 

「奴を見くびっていたか…やれやれ、仕方が無い」

 

「待っているケネスには悪いが…野放しにでもしてまた凶行を繰り返されては取り返しがつかない、森から出てはいないだろう」

 

 

ネフェリは一つ溜息を溢し、冷たい霧の覆う森の奥へとまた進んでいった。

 

 



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血に穢された砦

 

 

「そう言えばハイト砦はどうなった、ケネスの話では最後に居た時は亜人達が警備していたらしいが…」

 

「まさかアナスタシアめ、そこに逃げ込んではいないだろうな、念の為に見てくるか」

 

 

霧の森の中腹、廃墟復興の為に付近に住まった凶暴な獣ルーンベアーと戦いを演じそれらを打ち倒したネフェリ、自らを最初に王と呼んだ忠臣たる男が治めていた砦がこの場所にある事を思い出す。

 

目を離した隙を突いて行方をくらました凶悪な罪人の存在もある、捜索ついでに暫く手付かずだった砦の様子を確認することに決めた。

 

 

「ケネスによれば敬意を持って接すれば亜人もまた隣人足り得ると言うが、壊れかけの律から解放されたこの世界ならそれも叶おうか」

 

 

ネフェリは霧の森の探索を続ける、今いるのはルーンベアーから取り返した復興予定の廃墟、ハイト砦とはここより南に進んだ海岸付近にある。

 

 

「さぁ行くか」

 

 

ネフェリは霧の森のさらなる奥地へと進み始めた。

 

 

 

 

歩き続けて暫く、次第に先の見えない濃霧が僅かに薄まっていくのが解った、南の海岸から吹く風が霧を飛ばす、つまりハイト砦が近付いている。

 

 

「もし…もし、そこの人…」

 

「ん?」

 

 

その道中、道行くネフェリに話しかける声があった。

 

霧の森の居住地は廃墟と化して久しく、この森に住まう者がいるとは予想していなかった、覇気のない男の声の元にネフェリは向かっていった。

 

 

「何か…何か買っていっておくれよ…時代が変わっても…儂らはずっと貧しいままだ…」

 

 

それはハイト砦へと続く道の逸れた場所に焚き火と野営の寝床を敷いて陣取る壮年の男だった。近くには痩せた馬が繋がれ、男の顔は口布と帽子で目元だけが露出し、夜の寒さに耐える防寒の毛皮が付いた旅装束を纏う。

 

 

「旅商人か、黄金樹が消えた今も狭間の地に残っている者がいたとはな、それもリムグレイブの辺境に」

 

「我ら元より何物にも縁なき者、今更旅を続ける気力も残っておらん、ならば世界がどうなろうと私には関係の無い事よ…それよりも…」

 

「何か買っておくれよ、商品はあるが客が居ない、前は近くの砦の連中とも取引した事だってあるんだ」

 

「ほう?」

 

「商品だけじゃない、お恵みをくれるならこの森で起きている危険な事に付いても教えてやれるよ…」

 

「成る程、解った、代金はルーンで良いのだな?」

 

「おぉ…ありがとう…」

 

 

ネフェリはこの旅商人が自分の知るべき知識を持っていると判断した、話をするにはまずこの男の望みを叶えてやるべきだと旅商人に歩み寄り、かざした手より生命の輝きたる黄金のルーンを幾ばくか分け与えた。

 

 

「助かるよ、これでまた生きていける…!」

 

 

狭間の地において売買の取引とは物々とその価値に見合った量のルーンによる交換である。旅商人は代金のルーンを生きる糧とし、有益な道具類を手に入れた者達はそれぞれの旅や戦いにそれを活用する。

 

だが今ネフェリが必要と感じた物は敷かれた布の上に並べられた商品ではなく森の異変という商人の言葉の真意だった。

 

 

「この森の危険と言ったな?」

 

「そうだよ、アンタが何の目的で霧の森に足を踏み入れたか知らないが今この森は嫌にざわついている」

 

「ルーンベアー共を見たかい?奴らもそれを感じ取ったのかやたらと気が立っていてね」

 

「あぁ、私がこの森に来た理由がそれだ」

 

「まさか…奴らの遠吠えが聞こえた後、何やら静かになったと思ったが……いや、それは良いんだ、問題なのはルーンベアーだけじゃない」

 

「アンタ…ハイト砦を知っているかい?」

 

「あぁ、ここより南の海岸にある砦だろう?」

 

「そう、昔は亜人達とその女王と和睦し有効的な関係を築いていたと言う」

 

「だからこの先にある森を抜けた海岸には亜人達が居るんだが、ソイツらをここ最近まるで見なくなった」

 

「何やら不穏な気配っていうのかね、そんなのを感じて海岸とその近くのハイト砦に行ってみたんだ」

 

「そこで…見てしまった…」 

 

「何をだ?」

 

「亜人達を殺す連中を、血に染め上げられた砦、悍ましい血の肉腫に覆われた野犬共とその飼い主…」

 

「あれほど気味の悪い連中を私は初めて見た」

 

「どんな様相だった?」

 

「赤と金の刺繍が付いた黒ローブに呪われた忌み角の様なものが生えていた、手には刺剣…だと思う、あんな形状の武器は見たことが無い」

 

「ここに居たら不味いと思ってね、すぐに引き返したが…今にして思えば過去もあの砦は奪われている」

 

「ふむ、確か血に狂った騎士長が亜人の女王を殺し砦を我が物としていたのだったな」

 

「あぁ、だから今回も…」

 

「そいつ等が砦を奪ったかも知れないと?」

 

「恐らく…だからハイト砦には近寄らない方が良い…」

 

「例えアンタがルーンベアーを倒せる猛者だとしても」

 

「成る程…情報と忠告に感謝する、だが起きている異変を知った以上は私がそれを捨て置く事は出来んのだ」

 

「そうか…ならせめて祈らせてくれ、アンタの無事を」

 

「あぁ、そうしてくれ…そうだ、ついでに一つ、貰いたい商品があるんだが」

 

「おぉ、何だい?ここにある物なら何にでも」

 

「コレを貰おう、フフ…勇者の肉塊か、懐かしい」

 

「物で釣る訳じゃ無いが城の皆には気苦労をかけているからな、土産の一つでも持って帰るとしよう」

 

 

ネフェリは商人との会話もそこそこに目的であったハイト砦の方角へとまた歩き出した、海岸から吹く風がより強く感じられ、やがてとうとう森の木々が途切れ始めた。

 

 

 

 

そうして歩き続け霧の森を抜け出し海岸付近の草原へと到達する、遠目にはハイト砦が聳え立ち、そこへ続く道から逸れた先に大地を抉り抜いたかの様な巨大な大穴があった。

 

 

「流星が落ちて開いた大穴」

 

「これがそうか、この目で見るのは初めてだったな」

 

 

それは大穴という形容では物足りない程に強大な破壊の痕跡だった、砦一城分程の面積の地面が消失し、底がまるで見えない深淵と化している。

 

如何なる力の働きか、砕け散った地面だった岩片が大穴の上空で浮遊している、明らかに真っ当な現象ではあり得ない神秘の類、狭間の地でもここまで異様な景色はそうそう無い。

 

 

「何かしらの魔術の力か?岩石を浮かせる重力の魔術は見たことがある、確かエンシャ殿が修めていたな」

 

「だがだとしてもここまでの芸当が出来るものか…?」

 

 

ネフェリが大穴に近寄って見てもやはりその光景は幻影の類でも無く確かにそこに存在している、ネフェリはその大穴の奥底から漂う言い様の無い力の存在を知識ではなく感覚で察知する。

 

薄煙の様に静かな、冷気を帯びた神秘の気配。

 

 

「…何の因果でどれ程の力の元にこの様な破壊が起きたのか私には理解できん、だが少なくとも砦の異変とは関係無いようだ」

 

 

ネフェリは視線をハイト砦に向ける、遠間だがその輪郭はハッキリと確認できる、雲行きの怪しい空から降りる影が砦を薄暗く彩り、それだけが理由では無い不気味な雰囲気が漂っていた。

 

 

「…砦へ急ごう」

 

 

ネフェリはその気配を感じながらもハイト砦へと向かっていった、この先で起きる戦闘を予感しながら。

 

 

砦への道を辿ること暫く、遮る物の無い平原の道は砦への距離がわかりやすい、やがてハイト砦の城門近くの尖らせた丸太で組んだ防護柵が見えてきた。

 

 

「ん?…あれは…!」

 

 

ネフェリの優れた視力はその位置からでも砦の状況が確認できる、突き出す大槍の壁の如き防護柵の周りに打ち捨てられる様に転がる亜人達の血に濡れた死体。

 

中には防護柵の丸太槍に串刺しになった者もあった。

 

 

「砦にいた亜人達か…? やはり…ッ!」

 

 

明らかな異様に直ぐ様ネフェリが駆け寄った、だがそれと同時に砦へと近付くネフェリに向けて風切音を立てて飛来する高速の影があった、ネフェリの感覚も素早くそれを認識する。

 

 

「クッ」

 

 

走る勢いのまま、硬直無くその体を右へと投げ出してローリングする回避、すると次の瞬間にはネフェリがいた地面に3本の矢が鋭く突き刺さった。

 

 

「バリスタの矢か」

 

 

ガシャンという駆動音が遠間から聞こえた、どの方角から、如何なる方法でこの矢が放たれたかなど顔を上げて確認するまでも無く、ネフェリは近くの身を隠せる岩場へと駆け出した。

 

 

「やはり砦は奪われている…正確な姿は見えなかったが、確かに城壁でバリスタを撃つ影があった」

 

「亜人達を手に掛け砦を奪った、商人の言っていた気味の悪い連中なのだろうか?」

 

「さて、どうする、此方には撃ち返す矢も弓も無い、いや…考えるまでも無いな、私にできるのはこの双斧を持って道を切り開くことだけだ」

 

 

砦に備え付けられた固定バリスタの射撃は一度目で止んだ、だがそれは攻撃の終わりを意味しているのでは無い、射手は今も岩場の影から標的が姿を表すのを標準を定めて待っている。

 

そしてネフェリが意を決して岩場から飛び出した。

 

 

「奪われたのなら返してもらおう」

 

 

そして直ぐ様聞こえる駆動音、バリスタが装填を行うその音は攻撃の予兆、ネフェリは砦の壁から突き出す足場でバリスタを構える人影を見た。

 

そしてまた大弓を超える速度と鋭さの矢が放たれた。

 

 

(バリスタは一台だけか、容易い)

 

 

ネフェリは発射の瞬間を見切って回避する、矢の速度は凄まじくともその軌道は直線、矢その物を見切らずとも発射のタイミングで射線から身を逸らせばそれだけで矢は当たらない。

 

躱した瞬間に駆けるネフェリ、バリスタはクロスボウと同じく次の矢を放つのに装填を挟まなければならない、そしてその隙に防護柵を潜り抜け、城壁の真下まで潜り込んだ今のネフェリを狙う術はもう無かった。

 

 

「さぁ、ここまで来たぞ」

 

 

バリスタ砲が見下ろす道を超えた先には横向きのハイト砦入口、踊り場のある階段を登った先から入城できる、回り込んで階段を登ろうとすれば丁度目の高さの位置に踊り場が見えた。

 

ネフェリがそこを通過しようとしたその瞬間、そこからネフェリ目掛けて飛び出す影があった。

 

 

「!」

 

「ガアアッ」

 

 

短い咆哮と共に踊り場から奇襲を仕掛ける、ネフェリはその攻撃と正体を瞬時に認識した。背後に飛び引けば眼の前に敵影が躍り出る。

 

 

「リムグレイブでは見たことが無い、気味の悪い連中とやらが連れて来たのか?見張り代わりの番犬と言った所か」

 

「ウウウ…」

 

 

唸りを上げる四足の影は獰猛な野犬だった、死体と共にルーンを取り込み格段に身体能力と殺戮本能が増した危険な肉食獣、狭間の地では有り触れながらも侮り難い怪物の一種。

 

だがその野犬の体は普通では無かった、痩せた体の至る所に不快感を禁じ得ない赤黒い肉腫が浮き上がり、濃密な血の匂いと動物のすえた異臭が混ざり合う。

 

 

「商人が話していた肉腫に覆われた野犬とはこれか」

 

「グガアッ」

 

 

血に狂った獰猛な野犬は本能のままに攻撃を開始する、四足による俊敏な疾走、そして一直線の軌道は間合いに入る直前でサイドステップの様な回り込みに派生する。

 

一瞬で獲物の横方向へ移動する、迎撃を掻い潜りその牙を届かせる、この撹乱する動きこそ多くの標的を食い殺して身に付いた狩りの技法だった。

 

しかしそれも歴戦の戦士たるネフェリには通じない。

 

 

「見た目通りただの獣では無いようだな」

 

 

常人ならば目で追うこともできないその動きに対応してみせた、横合いから片足を狙った高速の噛み付きを高く飛び上がって回避する。

 

 

「ガッ」

 

 

そして上空から肉腫の野犬を踏み付けた、その体を足場として更に跳躍、空中で一回転して着地、今度はネフェリが野犬の背後へと回り込んだ。

 

 

「ガアア!」

 

 

肉腫の野犬もそれは気付いている、攻撃を躱されただけでなく、踏み付けにされて逆に翻弄された怒りを込めて振り向きざまの噛みつきを繰り出した。

 

そしてその行動は致命的な失態だった、その場で眼の前へと飛び出して仕切り直す判断が出来れば戦いはまだ続いていただろう。

 

 

「永遠に大人しくしてもらうぞ、狂犬よ」

 

 

攻撃と同時に振り向く野犬、そしてそれよりも速いネフェリの嵐鷹の斧が巻き起こす落雷を伴う戦技たる嵐、数多の強者を屠ったその技は断末魔の悲鳴を上げる暇も無く肉腫の野犬を粉々に打ち砕いた。

 

肉腫の野犬が持つ牙は血油で汚れ、一度それで傷つければ甚大な出血を相手に与える、だがその力を発揮すること無く絶命した。

 

 

「これは想像よりも厄介な事態かも知れないな」

 

 

今倒した野犬以外にその場には他の敵影がいない事を確認し、ハイト砦の正面入口まで回り込む、階段を登ると開いた門の先に砦内の様子が伺えた。

 

 

「何だ、これは」

 

 

そこには醜悪にして悍ましい光景が広がっていた、垣間見える砦内の地面は赤一色で染め上げられる、漂う濃密な血の匂いがそれらが全て生物の血液だということを示している。

 

所々に見えるは積み上げられた亜人達の死体の山、血を流し尽くし、あるものは赤黒い肉の塊と化していた、その死肉の山には蛆と蠅が沸いている。

 

砦の中は地面の広場と少し進めば石床の奥部屋がある、そして取付けられた階段を登り、その途中には見張り台、そして登り切ると砦上部の屋外広間と監視塔がある。

 

地面、床、壁、全てが血で塗り上げられていた。

 

 

「…やはり捨て置けんな」

 

 

余りにも異様で異質な空間と化していたハイト砦、ネフェリは躊躇いなく間違い無く危険が潜んでいるであろう砦の中に堂々と踏み入った。

 

 

「ウウウ…」

 

「砦の中にもいたか」

 

 

その気配を察知して砦内の積み上がった物資や死体の山の影に隠れていた肉腫の野犬が姿を表す、その数は三体、それにつられて別の敵影もやって来る。

 

 

「ア…ア、ア」

 

 

奥の部屋からよたよたと蹌踉めきながら現れた人型、野犬と同様に全身を肉腫に覆われた人間だった、ただし胴体は切り開かれた様に大きく抉れて損傷、その皮膚は腐り落ち、人の面影を残すのは二足で歩くその形だけ。

 

狭間の地をうろつく死に切れぬ亡者達であった。

 

 

「良いだろう、来い」

 

 

敵影がネフェリの命を奪わんと一斉に駆け出した、防護柵や置物を器用に避けて野犬が迫る、亡者達は奇妙な膨張を始めながら走り出してそれに続いた。

 

 

「ギャウウッ」

 

 

まずは一撃、一直線に走り寄った一匹目の野犬を右腕に持つ斧の強力な横薙ぎで切り裂いて吹き飛ばす。

 

そして二撃目、横から回り込んだ二匹目の野犬を方向を素早く変えて左腕の斧で地に縫い付ける様に叩き付ける、倒れた野犬を蹴り飛ばしてまた吹き飛ばす。

 

 

「うぐっ…!」

 

 

三匹目の野犬の一撃が遂に届く、二匹よりも遅らせて迫った攻撃は結果として先んじた仲間を囮として成功する。

 

背後を向けた形となったネフェリの右肩に血に狂った野犬の牙が突き刺さる、その箇所が尋常の生傷よりも熱を持った焼け付く痛みを肉体に広めていく。

 

 

「毒か…!?」

 

 

肉体的に優れた戦士であるネフェリは痛みへの耐性も高い、牙が更に深く食い込む前に噛まれた右肩を前へと振り払うと野犬が離れ、前方に降り立つ。

 

 

「ガガッ…!」

 

 

身を捻り無駄な好き無く着地した野犬、仕切り直しと威嚇の声を上げるがそれ以上何かをする暇は無い。

 

ダメージを受けた右肩でそのままネフェリが斧を振り下ろすことは予想外だったのか、吠える頭部は縦に両断された。

 

 

「これであとは手負いが二匹…ん?」

 

 

優勢となるかと思われたその時、肉体を膨張させた肉腫の亡者が遅れてネフェリの元へと到達した。

 

 

「これは…!?」

 

 

肉腫の亡者は全身から赤黒い淀んだ血液を噴き出しながら駆け寄った、接近が近づき血の匂いが鼻腔を刺激する距離までくればネフェリの体は異変を察知する。

 

肉腫の亡者が撒き散らす血やその匂い、それを浴びた肉体の奥底がジリジリと焼けるような危険な兆候たる痛みを訴える、まるで肉体がこれから起ころうとする致命的な何かに戦慄く様な。

 

 

「くっ…」

 

 

危険を感じて亡者への迎撃を中断して距離を取る、戦士としての本能が攻撃して排除するのは危険だと理屈を超えて警告した、そして吹き飛ばされていた敵がその隙に反撃を繰り出す。

 

 

「ガアッ」

 

「ッッ…!」

 

 

二体の狂犬が連携して攻撃する、ネフェリの一撃は致命傷となりかけていたがダメージなど無いかの様に肉腫の野犬は本能のままに獲物を追い立てる。

 

別方向から迫る二匹の牙を完全には躱しきれず、僅かな傷跡が褐色の素肌に浮かび上がった。

 

そしてその傷口からまた感じる不穏な焼け付く疼き、本能の警告は更に増し、肉体が何かしらの危険に陥ってるとネフェリは理解した。

 

 

そして遂に蓄積した危険が炸裂する瞬間が訪れた。

 

 

「アア…アァア!」

 

 

また肉腫の亡者が膨張し血を噴き出して接近、そしてネフェリのすぐ近くで全身の血液を濃密な血煙に変えて広範囲に爆裂させて噴き出した。

 

 

「!!」

 

 

亡者は生命の全てを使い切ったのか完全に死体となって崩れ落ちる、そしてその血煙の爆発を浴びたネフェリの傷口が激しい灼熱を持ち、込み上げる吐き気の様に細胞一つ一つの疼きが頂点に達した。

 

 

「ぐ…ぐああっ!」

 

 

そしてネフェリの肉体までもが体内の血液を大量に噴き出した、肌が張り裂けて体の至る所から生命の源たる血液が一度に消失する。

 

 

「ぐうう…!」

 

 

大量出血による目眩、意識の消失まではいかなかったが肉体的には甚大なダメージ、それは狭間の地の逸脱的生命力を持つ怪物達が相手でも有効打となる恐ろしい状態異常の戦法。

 

出血、褪せ人の間ではただ一言にそう表現されるその肉体の異常は勿論、ただの傷から流れ落ちる流血の事では無い。

 

余りにも不自然な傷口からの大量出血、それは一際鋭利な刃物や忌まわしい邪法や呪物の類で発生する常ならぬ現象、蓄積された傷が限界を超えると堰を切った様に血液が溢れ出す。

 

 

「成る程…通りで血塗れ…」

 

 

ネフェリもその技法の心得こそ無かったがそれを発生させる鋭利な武具や爪牙の持ち主と戦った事は何度かあった、最も自らの肉体を爆発させて発生させる敵にはあったことが無かったが。

 

全身の力が抜ける、だが同時に滾りかけていた血が失われ、ある意味では冷静な状態となる。

 

 

「ガアガアッ」 

 

 

だからか、危機的状況に好機として迫る二匹の野犬の動きにも冷静なまま反撃を繰り出した。一匹目が跳躍からの噛み付き、もう一匹がその攻撃への対処を行ったネフェリの隙を狙うために足に力を込める。

 

 

「簡単に食い殺されてやる訳にはいかない」

 

 

飛び掛かる野犬に右の斧を投擲、縦に円を描いて回転するそれは野犬の飛び掛かる勢いと合わせてその体を縦に腹のあたりまで引き裂いた。

 

 

「ガウウウ」

 

 

動いて隙を晒したと判断した野犬が遅らせた飛び掛かりを繰り出す、だがネフェリの想定のうち、もう片方の斧で迎え撃つ為にその場から動かずに片方を仕留めたのだ。

 

 

「私の勝ちだ」

 

 

両手に持ち替えた斧の一振りが野犬の攻撃に合わせられ、突き出されたその首を切断して宙に吹き飛ばす。

 

 

「ア、ア」

 

 

残った亡者が最後の抵抗と言わんばかりにまた血煙の爆発を行う為の膨張を見せた、当然黙って見ている筈もなく野犬から引き抜いた斧を頭頂部に叩き込んだ。

 

斧を引き抜くと同時に蹴り飛ばす、するとやはり血煙を撒いて爆発、今度は煙を浴びることは無かった。

 

 

「バリスタを操作していたのはコイツか、自ら実行する知能が残っている様には見えないが…」

 

「…まだ終わっていない、上に居るな」

 

 

ネフェリが階段を登った先の屋外広場を見る、やはりそこも大量の血で汚されている様だが、何よりもそこに居る存在の威圧感を肌で感じていた。

 

いつ来るかもわからない奇襲を警戒し、一段一段を踏みしてて慎重に階段を登り切った、その先で見えた吹き抜けの広場の様相にネフェリは少し目を見開く。

 

 

「此処に居たか、褪せ人食い」

 

 

「ぐ…ううっ」

 

 

吹き抜けの広場は石床と首元辺りの高さの壁で囲まれた空間だった、横合いに進めば監視塔に登れる。

 

その広場に椅子に縛り付けられて拘束されたアナスタシアが居た、労働を命じられた坑道から、そして霧の森の廃墟から逃げ出した罪人だ。

 

力無く椅子に座らされて縄を巻かれている、その腹部から流れる酷い出血で白かった巫女服は足元まで赤く染まっている。

 

 

「武器も無く、手足も折れているのに無茶をする」

 

「まだ生きているな、ここの連中にやられたのだろうが、もし死んでいたら追い詰めた私もそれに加担した様なものだ、凶悪な罪人とて無益に命を奪ったとなれば忍びない」

 

 

「よくも…巫山戯た、事を…お前も、何時か…!」

 

「得意気に…なんて…まだ…」

 

 

「あぁ、解っている」

 

 

ネフェリが油断なく双斧を構えて鋭く睨む、アナスタシアが縛り付けられた椅子の隣、その血に濡れた地面が突如として沸き立ち始める。

 

深度など無いはずがその床の箇所から噴水の様に吹き上がり、やがて赤黒い影がその中からゆっくりと浮上してくる。

 

そうして出来上がった赤黒い影はやがて輪郭を鮮明にしていく、それは一見すると人に似た姿だった。

 

 

「ソイツは…血の貴族…」

 

「血の貴族、成る程な、そういう事か」

 

「かつて義父が言っていた血の君主なる存在に使えているという謎の存在、悪名高き血の指と関係があるとされてきたが」

 

「この砦の様子を見れば納得だ」

 

 

「……」

 

 

血の貴族の外見は旅商人の言う通りの物だった、黒金と赤を基調とした貴族の名に合った風格と気品を思わせるローブ、忌み子の特徴である忌み角の様な突き出した捻れ角。

 

その手に持つそれは異形の重刺剣、鮮血が形を成したかの様な色合いと、有り余る害意を具現化したような凶悪な裂傷を与えられる形状。

 

その恐ろしいほど冷たい殺意を浴びずとも、誰しもが一目見てそれが邪悪の部類に入ると理解するだろう。

 

 

「ようこそ…我らの王朝へ…」

 

「なに?」

 

「あぁ、偉大なる王、荘厳なる王朝…そうだ、この場所こそがそうなのですね…!そうなのでしょう…?」

 

「王たる貴方様が滅びる筈など無い…王朝は不滅だ!」

 

「何を言っている、王朝とは何の事だ」

 

「…耳を貸す必要は…無いわ…」

 

「コイツらは…主を失い狂った…敗残の兵」

 

「何か知っている様だな、まぁ今は良い」

 

「言葉は不要か、では力尽くで砦を返してもらう」

 

「あぁ!素晴らしきモーグウィン王朝よ!」

 

 

ネフェリが血の貴族へと踏み出すのと、血の貴族が袖口から取り出した刃を横に薙ぐ軌道で投擲したのは同時だった、飛翔するその刃もまた、血の貴族の獲物と同様に複雑な傷跡を残すための歪な形状だった。

 

 

「この鋸にも似た赤黒い刃、あの野犬共の牙と同じ役割か、まともに受けては先の二の舞いだ」

 

 

ネフェリが迫りくる歪んだ刃を斧で弾き飛ばす、そのままローリングで距離を詰めて間合いに入る。

 

そのまま斧を振り下ろそうとするが、血の貴族も迎撃に動く、手にした重刺剣の刃先で石床を削り取る様に傷付ければ、まるで生き物の肌でそうした様に血液が石の床から吹き上がった。

 

血の貴族が剣を振り払えば飛び散る血液は床を這うように一気に広がり、間合いに踏み込むネフェリの足元まで届いた。

 

 

「くっ…」

 

 

床に広がった血液は酷く淀んで泥濘んだ、それを踏む足からまたあの恐ろしい出血の前触れである焼け付く痛みの感覚を認識してネフェリは飛び引いた。

 

 

「さぁ血を流すが良い!」

 

 

そして血の貴族が異形の重刺剣で攻撃を繰り出す、切っ先を突進と共に一直線に突き出す戦技、貫通突きによく似た一撃。

 

褪せ人の間でも広く普及していた戦技である貫通突きは凄まじい殺傷能力を発揮し、多くの褪せ人の戦いで活躍した、その動きと酷似した血の貴族の一撃も同様の破壊力を秘めている。

 

 

「良いや、これ以上流す訳にはいかないな」

 

 

重さは槍と同等の刺突突進を横に転がり回避する、そして武器を持つ腕を伸ばし切った血の貴族を横合いから狙う。

 

 

「!」

 

 

だが振り上げた斧の一撃を中断してまた飛び引く、血の貴族は伸ばした獲物を素早く引き戻し、体の中心に沿わせるように片腕で獲物の切っ先を向けて構える。

 

刺剣の突きの構えに似ていたが何かが違う、迎撃の為の一撃ならこちらが速い、だがネフェリは今まで培った戦闘経験からその構えの真意を読み取った。

 

 

「ほう、良くぞ気が付いた、我等が王朝に不遜にも忍び込んだ賊などにしては腕が立つ」

 

 

(今の構えは…パリィと言うやつか)

 

 

脱力しながらも神経を研ぎ澄ました目で相手の一撃を待ち構える、ネフェリはこれが武器を用いた受け流しの技法だと予想した。本来なら盾を用いて行うが一部の武器でそれを実践する者達もいると聞いていた。

 

 

(洗練された技巧、私には縁の無い技であったが…)

 

 

「そろそろ終わりにしようか、双斧の戦士よ」

 

 

「…あぁ、そうだな」

 

 

血の貴族がまたも切っ先を水平に構えた貫通突きの構えを取る、これ以上の駆け引きは無用と判断した。

 

自分には強烈な重刺剣の一撃と出血の技、そして受け流しの技法を用いれば速度に劣る斧の攻撃を無力化することは可能だった、不安も躊躇いも無く突進を繰り出した。

 

 

「我等が王朝の礎となれ!」

 

 

血の貴族が突き出す重刺剣がネフェリに迫る、そこから回避する素振りもしないネフェリ、そして重刺剣の切っ先がネフェリに届かんとしたその時、

 

激しく鼓膜を震わせる金属を打ち付けた甲高くも重量も伴った轟音が鳴り響いた。

 

 

「な、なに!」

 

 

血の貴族の重刺剣の一直線だった切っ先は狙っていたネフェリの胴を貫くこと無く、強烈な力で血の貴族の右腕ごと弾かれ、それに引きずられ血の貴族の上体すらも右後ろへと傾いた。

 

 

「こ、これは…どうやって…!?」

 

「見様見真似だが、成功か」

 

 

それはネフェリが繰り出した一撃が血の貴族の獲物と衝突しそれを弾き飛ばした、ネフェリのこれは受け流しの技法から発想を得た動き。

 

本来、パリィの類は余計な力を脱いた脱力状態で敵の振るう獲物の最適な角度とタイミングを見切り、横合いから加える力で攻撃を弾いて隙を作る。

 

 

「決着をつけさせてもらう」

 

 

ネフェリのは結果は同じでも過程が違う、脱力では無く真逆である全霊の力を持って振り払う、そうして当たった武器は相手の武器を力付くで弾き飛ばす。

 

だがこれは切っ先を見切るネフェリの反応速度、それに合わせる熟達の勘、横合いからの一撃、そして人外じみた筋力、全ての要素が合わさって可能となる。

 

前提として相手より膂力で勝らなければならないこの力任せのパリィは、しかし優れた戦士であるネフェリが使えば戦いの選択肢たる技になり得る。

 

 

「があぁ…ッ」

 

 

血の貴族の胴体へ叩き込まれるネフェリの斧、骨と内臓を破壊し次の一撃で胴体に致命的な損傷を与える、崩れ落ちる血の貴族が尚も重刺剣を握る力を込めるが、それよりもネフェリのトドメの一撃が速かった。

 

 

「お前が何を持って大義とし忠誠とするのか私には解らん、だがこの地を穢す事を見過ごす事はできない」

 

「血の貴族とやらよ、さらばだ」

 

 

戦闘が終わり、血の貴族が倒れた事でハイト砦の敵対者の気配は完全に消えた、勝利を治めたネフェリは森の探索を続けた本来の目的へと歩み寄る。

 

 

「さて、次はお前だ、褪せ人食い」

 

「…坑道には戻らないわ…!」

 

「そうだな、坑道での労働程度じゃお前を心変わりさせるには足りない様だ、もっと頑丈な檻が必要か?」

 

「ぐっ…お前…!」

 

「褪せ人食いよ…お前のその衝動、どうやっても抑えつける事の出来ないものなのか」

 

「なに…?」

 

「時代は変わった、もう同胞同士で血を流して奪い合う必要は無い、略奪者を強いられる世界は終わった」

 

「お前のその衝動が初めからあったものなのか、変わってしまった結果なのか、何方にせよ新たな世界で真っ当な人生を歩み直すつもりは無いのか」

 

「…何を言うかと思えば…私の事を知っているでしょう、そんな言葉に今更意味があると思うの?」

 

「あぁ、お前は凶悪な殺人者だ、だがお前もかつては同じ祝福を宿した狭間の地の同胞だったんだ」

 

「もし少しでも望みがあるのなら…その可能性を信じてみたいと思う、城に来て罪を償え、アナスタシア」

 

「私はもう戦って敵の命を奪うだけの戦士では無い、この地の王だ、同じ人間を有害だからとただ切り捨てて終わりにはしたくない」

 

「…………」

 

 

そう語るネフェリの瞳をただ眺めてるアナスタシア、その目の中に何かしらの隠された意図を探るも澄んだ目の中にそれらの陰りは少しも無かった。

 

 

「随分と…甘い奴…大層な腕を持ちながら…」

 

「正直、お前の事はここで殺すべきなのかも知れない、この選択で後に後悔するのかも知れない」

 

「だがお前がこの手を取るのなら信じよう」

 

 

ネフェリがアナスタシアを拘束している椅子の縄を切り裂いて解く、アナスタシアが立ち上がるも血を大量に失い力が入らず膝を付いて倒れる、差し出されたネフェリの手を、沈黙のあとアナスタシアは掴んだ。

 

 

「フン…なら望み通り何時か後悔させてやる」

 

「つまり今は大人しくするという意味か?まぁ、お前にしてはマシになった方だな」

 

「抵抗なんて…したくても出来ないでしょう…」

 

「それもそうだ、では帰還するとしよう」

 

 

ネフェリがアナスタシアに肩を貸して背負うように歩く、不浄な血で穢されたハイト砦から霧の森へ、そしてストームヴィルの城へと罪人と王は帰還する。

 

 

「…あら、周りの匂いで気付かなかったけどお前も血を流しているのね…ふふふ、良い香りね」

 

「やっぱり今…少しだけ味見しようかしら」 

 

「…やはりここで始末するべきか?」

 

「ハァ…砦を元に戻す必要があるな、何より…」

 

「随分と長くなった、またケネスに小言を言われる」

 

 

人知れず奪われていた砦の奪還に成功したネフェリはその日のうちにストームヴィル城へと戻って行った。

 

アナスタシアは兵達に引き渡され、城内での拘束を課せられたが、それに抵抗の類は無かったという。

 

王から仔細を聞いたハイト砦のかつての領主である腹心は、深い感謝の念を抱き、口にする小言の数も少しは減ったと言う。

 



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