え? 女子なのにブルーロックですか? (エゴイヒト)
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哀神友の失格
沢山の才能を終わらせてきました。
自分には、人間の気持ちというものが、理解できないのです。
自分はさる名家の令嬢として生れましたので、フットボールの試合を見たのは、よほど大きくなってからでした。
自分はボールを、蹴って、走って、そうしてそれがゴールの中に入れる遊戯だという事には全然気づかず、ただそれは子供っぽくじゃれ合うように、勝ち負けなんて無く単純で、仲良く運動をするための遊戯だとばかり思っていました。
しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ボールの蹴ったり
というのも、自分は子供の頃、屋敷の使用人と蹴鞠をしていましたので、フットボールもやはり、競い争う遊戯ではなく、ただ高く蹴り上げるよりは、転がして追いかける方が落とした責任を追及することも無く、気楽にできる遊びだから、とばかり思っていました。
自分は子供の頃から天才で、何をやってもその道の第一人者より優れ、競争をつくづくつまらない行為だと思っていました。楽しそうに遊ぶ同年代の子供たちに羨望の眼差しを送っていましたが、彼らがしていた遊戯ですら何かを競うものだった事を、10歳近くになってわかって、人間の
また、自分は、困難という事を知りませんでした。いや、それは、自分にできないことは無いという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「困難」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。変な言い方ですが、どんな難題を前にしても、それが実際に不可能でないならば、他の可能な事と難易度の違いがわからないのです。例えば、小学校の1桁の足し算と、数学の未解決問題。自分が齢7にしてそれを解くと、周囲の人たちが、よくやった、お前は天才だ、何故こんな小娘が、どうやって、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、難しかった、と嘘を吐いて、誉め言葉や嫉妬の視線を浴びるのですが、困難とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
自分だって、それは勿論、大いに不可能な事がありますが、しかし、誰かに何かで負けたりした記憶は、ほとんどありません。女の子には難しいと思われたことをします。前人未踏で不可能と思われたことをします。また、大人が何十年かけてやったこと、できなかったことを、1週間もあればたいてい成し遂げます。そうして、子供の頃の自分にとって最も苦痛な時は、親が自分の家に招いた天才を、自分の鼻っ柱を折ってやろうと息巻く彼らを、逆に絶望させてしまう瞬間でした。
高校生となった自分は、たっての希望で、一般的で庶民的な高校に通わせて貰っていました。セキュリティの観点から、都内のタワーマンションの一室を買って、一人暮らしをしております。過保護な親、というより、家格を考えれば当然というか、これでも最大限の譲歩なのでしょう。自分が自分自身の価値を理解していないだけなのです。
ただ、学校の知人には家のことを隠していますので、友人と下校をすることはできません。帰り道は、いつも一人なのです。帰る方向が同じ生徒だっているものですから、帰る姿を見られるのは困ります。いえ、まさか、家の前まで着いてくる人はいないでしょう。ですが友人ともなれば、何かがきっかけでそうなる可能性を否定できません。
それでいて、私は人目を惹く容姿をしているものですから、何もせずとも友人ができます。人付き合いが苦手、というわけではないのです。人と話すのは寧ろ好きな方で、人に好かれもします。動物には嫌われますが。
親友と呼べるほど仲の良い人はつくらず過ごしておりました。けれどぐいぐいと来る子はいたもので、それこそ異性には、家まで送っていく、と申し出されたこともありました。
ですので、自分は生徒会に入りました。放課後、下校の時刻がズレれば、伴って帰ろうと声を掛ける者もいなくなるだろう、との目論見です。
果たして、この試みは思った以上に効果覿面でした。元より周囲から推薦されていたこともあり、自分はすんなりと生徒会長になりました。生徒会というものは、放課後、生徒会室に誰かが残っていなければならないのですが、本学ではこれを当番制で回しており、自分は率先して請け負いました。
その日はさして生徒会としての業務も無く、当番は他の子で、自分は早く帰っていました。普段であれば、そうした日でも一緒に居残ったりするものなのですが。二年生になり、11月、肌寒さを感じる季節を迎えた時分。虫の知らせのように、予感がありました。
家に帰ると、そこには見慣れた顔の人物が立っておりました。自分が小さい頃から、容貌がちっともかわっていない、白頭の執事。
彼は自室の前で忠犬のように、自分が来るまで背筋をピンと伸ばして待っていたようです。
この程度のセキュリティ、哀神の関係者であれば紙より容易く破れます。鍵であれ、指紋認証や暗証番号などの電子ロックであれ、警備員であれ。
事実、1階の警備員は素通りしてきたようなので、彼が自分の気が付かない内に頻繁にこのマンションに出入りし、顔を覚えられていない限りは、正規ではない手段で突破してきたことは明らかであります。
けれど、この扉の先に入ることはしなかった。使用人とはいえ、あるいはだからこそ、勝手に家の中に入ることは憚られたのでしょう。
「お帰りなさいませ、お嬢様。お懐かしゅうございます」
その声を聞いて郷愁にかられながら、彼を自宅の中へ招き入れます。
さて、この者、哀神家の召使いがわざわざ自分の家を訪ねてくるのには、相応の訳があるに違いありません。
何せ、屋敷を出てから1年半が過ぎております。その間、実家とは一度たりとも連絡を取り合わなかったものですから、何事かと身構えるのも無理ありません。
「旦那様より申し付かっております」
そう言って、彼は一枚の便箋を差し出します。自分は、思わず首を傾げました。口頭ではなく書面で伝えるのであれば、彼がここにくる必要はなかった筈です。電話でもメールでも、それこそ本当に手紙でも、手段は色々と。
受け取って中身を確認した限り、それはどうやら、かつての日常と同じように、自分に対する
ブルーロック
それは何ともまあ、
ただ、問題は、何故自分にそんなことを教えたのかということです。自分は、当然ながら、サッカー部に所属しているわけではありませんし、マネージャーもやっておりません。それ以前に、自分は女子です。
女子サッカーという競技もあることは知っていますが、それでも「サッカーW杯」というと、注釈を入れるまでもなく、男子サッカーを指すのが普通です。そのブルーロックとやらも、書き記すまでもなく、男子サッカーの選手を育成するための計画、ないし施設でありましょう。
白状すると、そんなことを考えながらも、既にその時点で、自分は書き手の、父の意図がわかっていました。
「また、父の道楽ですか」
「ええ、ええ。その通りでございます」
彼も、父の自分への扱いに呆れた様子でした。立場上、彼は父に逆らえませんが、気持ちの上では自分の味方をしてくれることに、感謝の念を覚えるよりも、滑稽や可笑しさを覚えてしまいます。
またぞろ、父は「才能」を試そうとしているのでしょう。誰の才能かは、聞いたこともありませんので、わかりません。自分か、天才と呼ばれる者達か。どちらでもいいことです。自分にとって、それが忌むべき競争であることに変わりはありません。
かつて、自分にその全てを終わらさせてきた愚行を、父は再び繰り返そうというのです。親バカなのか、親より優れた娘への嫉妬なのか、理由はわかりません。
自分は、人間の気持ちが理解できないのですから。
エゴイストとは、他人のエゴイズムのことを、少しも考慮しない人のことである。
――――アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』
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哀神友の投獄
強化指定選手に選出されました。
見出しのその一文が自分を指していることに、少女、哀神友は未だ実感が湧かなかった。実家からの令状に添付された、もう一通の封筒。差出人は日本フットボール連合。JFUに招待されてやってきたのは、人気のない簡素なビルだった。
施設を前にして、日本のサッカー業界は金欠なのだろうか、と哀神は疑問符を浮かべる。クラブ経営には選手の年俸を含めて湯水のように資金を使っているイメージ――彼女は二つの金銭感覚を持っている。ここ数年で得た
まさかこれが本部というわけでもなかろうが、それにしたってもう少し大きな高層ビルを持っていてもおかしくはない。ただ、表札にはたしかにJFUの文字が入っているため、案内が指し示す場所はここで間違いない。
しばらく用紙と建物を交互に睨めつけていたが、やがて観念して施設の中へ歩を進める。案内の通りに進んでいくと、両開きの扉が彼女を出迎えた。中から聞こえる音で人がいるのが分かる。それも、かなりの数だ。少女は話声や足音、布擦れの音だけで、概算で100人以上いると推測できた。
中に入ると、そこは打ち上げなどの小さなパーティーにも使えそうなホールだった。会場を埋め尽くす人、人、人。軽く1学年分は居る。歳の頃15~18の、男子高校生達。共通項はすぐに分かった。彼らもまた、招かれてここへやって来たのだ。
彼女と違うのは、フットボールに青春を捧げる少年であること。哀神はフットボールになど微塵も興味がない。自分がプレイヤーとしてピッチの上に立つことは勿論のこと、観戦すらしたくなかった。ただ、そんな内情は他人には分からない。彼女はより明確な相違点のために、周囲から特別の視線を集めていた。
それは、女子だからだ。この中でたった一人の女子という存在は、嫌が応にも目を引いた。晴天の空のように青白い髪は腰まで真っすぐと伸ばされ、宝石のような碧い双眸は眺めているだけで意識を無に吸い込まれる。モデル体型で、制服を押し上げる豊かな胸、身長は女性にしては高く160cm半ばはあるか。だが、高身長揃いのサッカー少年達に囲まれると一回り以上小さく、そういう点でも目立っている。そして何より、美少女と美女の境目を跨ぐような美貌に、少年達は思わず見とれてしまった。
「……マネージャー?」
誰かが口にした言葉。高校の制服を着ているので、フットボール連合の係員というわけでもない。となると、推論としては妥当というか、それ以外考えられなくて当然だ。
一方、注目の的となっている少女当人といえば、何を勘違いしたのか。哀神はファッションモデルのように腰に片手を当てる。自信過剰と言うには、妙に様になっているのが憎たらしい。困惑の視線すら日光浴でもするように受け止め、なお涼し気な顔を崩さない。
そうこうしている内に、会場には次々と少年達が揃う。
「あー、あー。おめでとう、才能の原石共よ。お前らは俺の独断と偏見で選ばれた18才以下のストライカー300名です。そして俺は絵心甚八。日本をワールドカップ優勝させるために雇われた人間だ」
スポットライトに照らされて現れたのは、おかっぱ頭にスクエアタイプの黒縁眼鏡を掛けた痩身の男。いきなりの自己紹介、そしてワールドカップ優勝という大きく出た発言に、会場内は騒めく。
続けて、絵心の口から語られたのは、生徒達を殆ど監禁する趣旨の計画。集められた少年の中には全国大会を控えた者もおり、当然のことながら拒絶の声が出てくる。一方で、哀神はそれを心底興味なさ気に聞いていた。彼女には元より拒否権など無いので、口にも心にも文句を垂れることはない。端から諦観で満ちている。
それから、絵心は少年達の凝り固まったサッカー観を嘲笑する。余りに過激な演説に、聴衆からは反感を買う。ただし、やはりその内容は、哀神の中を右から左に流れていった。ヒートアップし、ひりつく空気など意に介さず、少女は暇を持て余す。これならば、注目を浴びていた方がよほど楽しめたものだ。本人も無自覚にナルシズムが入っている彼女は、衆目を集めること、特に肉体を見られることは、それが例え低俗で獣欲に塗れた目であろうと、気にしない性質だった。
最終的に、少年達はこの男に感化されたのか、教化されたのか。一人が飛び出すと、堰を切ったように皆が扉の向こうへ走り出す。
「……どうした、来ないのか? あとはお前ら3人だけだぞ?」
皆が去った後、最後まで彼らは残った。薄い灰色の髪にたれ目の少年、凪誠志郎。紫色の髪の御曹司、御影玲王。招待者唯一の少女、哀神友。
絵心の言葉で、玲王は自分達二人以外にもう一人残っていること、さらにそれが注目を浴びていた少女であることに気付く。2・3呼吸の間、彼女が何者であるかに思考を巡らそうと視線が釘付けとなったが、すぐに呆けている場合ではないとかぶりを振る。
「……行きます! いくぞ、凪。俺達も"
「いや、行かないよ。めんどくさそうだし」
「おい、凪。せっかくここまで来て……」
「多分俺には"
「ほう。俺の話は退屈だったか?」
「うん、だって――W杯の決勝ゴールなんて、俺には簡単に思い描けたし」
特に根拠のないその言には、しかし玲王が総毛立つ程に凄みがあった。
「いや、お前には無理だ」
それを、絵心はすげなく否定する。
「お前はまだ、自分の"エゴ"を理解していない。お前みたいな自称天才君は世界にいくらでもいる。そうやって無駄な自信を飼い慣らして、戦いもせず大人になって、傷つかずに生きていたいだけの自意識肥大野郎に興味はねぇ。ぬくぬくと腐っていけ。
凪と絵心の間で目線が交錯する。暫し、無言の圧がこの空間を支配した。
「はーい」
先に折れた、というよりは、元より張り合うつもりもなかった凪が、あっさりと絵心の言葉を受け流した。話はこれで終わり、凪はブルーロックに参加することなく立ち去る――とはならなかった。
「フザけんな!! 凪はそんな、そこら辺にいる天才もどきじゃない!!」
「……レオ?」
ここには御影玲王がいる。当然ながら、彼は相棒を貶されて黙ってはいられない。
絵心は眼鏡のブリッジを片手で押し上げて、それに嘲るような瞳を返す。
「いいや、偽物だ。今のままでは、
そう言って、絵心は哀神を指した。
「……は? いや、でも、こいつ女子だろ……?」
まさか、自分達の横に居るこの少女が、凪より上だとは思ってもみなかった玲王。どちらが上なんてどうでもいいと思っている凪でさえも、流石にこれには目を丸くした。決して対抗心からではなく、単純に、客観的に、男子と女子を比べて
一方の哀神は、引き合いに出されたことに迷惑していた。最後まで残ったのは、単に混雑していたからであって、この先にあるであろう送迎への乗り込みでもどうせ同じようなことになっているだろう故に、時間を置いて行こうと考えたまでである。既に、彼らの問答に付き合う必要もない。哀神は呆れるように首を振って、刺さる視線を振り払うように、ゆるゆるとした足取りで扉へ向かう。
「……人間は、優劣をつけるのが好きですね」
擦れ違い様に囁かれた言葉に、絵心の瞳孔が大きく開いた。言葉には悪意も威圧感も覇気もない。少女の甲高く可愛らしい声に、どこにも恐怖を感じる要素はない。にも拘わらず、彼の背筋は凍った。ならばこれはきっと、生物的な本能なのだろう。
彼とて、哀神を招き入れるリスクは承知していた。ブルーロックの全てが水泡に帰す可能性を。それでも実際に哀神友という少女と会って彼が感じ取った悪寒は、選択を間違えたのではないかと錯覚させるほどだった。
バスに揺られて辿り着いた先は、青のペンタゴン。
少年達がそれぞれの棟へ振り分けられていく中、哀神はただ一人の女子ということもあって特別扱いを受けていた。
20代前半の年若い女性に連れられ、個室へと案内される。赤髪の女は、帝襟アンリと名乗った。
鍵は指紋認証式のオートロックで、アイリと哀神が登録されているとのこと。入室すると、241Vと書かれたトレーニングウェアを渡される。
「今日以降、ここがあなたの自室となります。まずはここで着替えて、その後、10分以内にルームVへ移動して下さい」
言うや否や、アンリが出て行くよりも前に、哀神は着替え始めてしまう。
同性とはいえ何も目の前で着替えなくても――と、完全に出て行くタイミングを失ったアンリは内心気まずい。仕方なくその場に残るわけだが、やはり視線は着替え中の哀神を追ってしまう。そのプロポーションときたらあまりに豊かなものだから、思わず感心する。同時に「本当に女性なんだ」と、改めて目の前の存在がブルーロックにおける例外であることを認識した。
「ところで、
哀神家の令嬢である彼女は高校を卒業する必要など究極の所無いのだが、実益の問題ではなく気持ちの問題として、彼女は高校生活にある程度の執着を抱いていた。できることなら、なるべく早く戻りたいものである。
着替え終わるまでつい見惚れてしまっていたアンリは、少女から声を掛けられてようやく我に返る。
「えーと……それはちょっと私の口からは言えないかな」
それは、彼女に情報を教えることはできないという意味でもあるし、同時に教えられるような情報は持っていないという意味でもある。正確には、絵心の裁量一つで計画は如何様にも変更されるのだから、発言に責任を持つことはできないと言うべきか。
「そうですか」
はあ、と哀神は溜息を溢す。その返答は、彼女でなくとも予測できたことだ。施設に閉じ込めて蟲毒のように争わせ、一番を決める。こんな人体実験染みた試みで、その計画概要を被験者に伝えることは、結果に深刻な影響を及ぼしかねない。だから、彼女の溜息はけして質問への回答が得られなかったことに対するものではなく、他へ向けられたものだった。
絵心によるブルーロックプロジェクトの説明は、概ね彼女が父から事前に知らされていた内容と同じだ。ただ、ここにいるのが総勢300名であり、つまりこのブルーロックでは他の299名を蹴散らす必要があるという点だけは初耳だった。そんなに多くの人間を一度に
哀神は割り当てられた自室を後にする。ルームVまでは、そう遠くなかった。中に入ると、そこには11名の男子高校生。おや、と彼女は
他の男子達が列を成して次々と施設内で振り分けられていく中、哀神は諸般の都合上、待機させられていた。そうして彼らが居なくなった後に彼女は案内されたので、必然、哀神友がこの部屋にもっとも遅くやって来た人物であろうことは想像に難くない。
となると、この部屋に集められたのは12人ということになる。哀神は、そこが引っかかった。サッカーは11人で行うスポーツであるが、それは1チームを構成する要件であり、対戦相手を含めると、試合を行うには最低でも22人必要となる。ここで何かするにしても人数が足りない。
勿論これは、公式戦またはそれを意識した形式で行われる場合の話であり、ストリートサッカーならばそのような制限などない。偶数なので、今からここで試合をするのであれば6対6。哀神は、目算でこの部屋がペナルティーエリアと同じ縦横比とサイズであることに気付く。何かしらの意図があってのことのようだが、しかしゴールは見当たらない。
これが単なる班決めとしての顔合わせなのであれば、数は11人の方がキリが良い。12人では、これから他のチームと試合をする際に、1人だけベンチということになってしまう。進行上の問題は無いとはいえ、確実に揉める。
従って、今からここで行われる可能性が高いのは――
「1人脱落、といったところでしょうか」
少女はぽつり、と独りごちる。
元々、最後にやってきたこともあり、少年達は待たされていた。ドアの開閉音で、何人かは彼女の到着に気付いた。残った彼らの意識も、声を皮切りに彼女の方へと集中する。
「お前……!!」
「水色ちゃんだ」
声を上げたのは、つい先ほど面識を持った二人組の少年達、凪と玲王。哀神は軽く首を落として会釈をする。
「何コイツ、マネージャー?」
浅黒い肌にツーブロックのガタイの良い男の胡乱気な目線が、哀神の頭から足先まで舐めるように這いまわる。本日二度目の勘違いを、特に煩うわけでもなく無視する哀神。彼女に否定し訂正する気がないのが、誤解を助長している。
「
「ジャーマネ……つまりドラッガーというわけか」
「それ野球だろ」
頓珍漢な事を宣ったのは、眼鏡を掛けたインテリ風の男、剣城斬鉄。即座に玲王から突っ込みを貰っている。
「残念だが、そいつは君達のマネージャーじゃない」
部屋の壁に設置されたディスプレイから、否定の声が降り注いだ。そこに映ったのは彼らをここへ誘った男、絵心甚八。
「ようやく揃ったみたいだな、才能の原石共。今同じ部屋にいるメンバーは君達のチームメイトであり、高め合うライバルだ」
やあやあ、と肩まで挙げた手をワキワキとさせる挨拶は、その軽薄さは、見る者を無性に苛立たせる。
「お前らの能力は俺の独断と偏見で数値化され、ランキングされてる。ユニフォームにある数字がそれだ」
全員が、一斉に自身のユニフォームの数字を確認し、そしてお互いの数字をきょろきょろと値踏みする。「また比較ですか」と哀神はげんなりした顔で、胸の下で掬い上げるように腕を組む。
「っ……! あいつが一番なのかよ!?」
玲王が哀神の数字を見て叫ぶ。釣られて他の面々も哀神の数字を確認し、驚愕と警戒、懐疑の顔を浮かべる。
「そのランキングはトレーニングや
哀神には全く興味の無い、というか関係の無い話だ。上位者は日本代表入りを強制というか確定事項のように言っているが、そも、女子が登録選手になること自体不可能なのではないか。
「ここで必要なのは"エゴ"。今から君達のエゴをテストする。鬼ごっこの時間だ、制限時間は136秒」
天井の小さなパネルが開き、そこからボールが一つ落ちてくる。
「ボールに当たった奴が鬼となり、タイムアップの瞬間に鬼だった奴が
それを最後に、絵心は画面から姿を消す。次に映ったのは制限時間と現在の鬼。すなわち最下位の252位、舐岡了。哀神をマネージャーと勘違いしたあの男子だった。
あまりに突然で、滅茶苦茶な方法で将来を左右されることを受け入れられず、困惑する男子達。一方でただ一人、玲王だけがこれを絶好のチャンスと捉えて燃え上がる。
「お前はここで俺に負けて帰るんだよ」
勝負は既に始まっている。気を抜いていた玲王と凪の後ろから、舐岡が襲いかかる。
「げ、舐岡」
「鬼さんこちら」
1メートルもない至近距離から放たれたシュート。これに対し、彼ら二人の反応は機敏だった。一人は飛び退いて避け、一人は身を捩って避けると、ボールは壁に激突する。
「だぁ、クソが! 俺はお前らしか狙わねぇ! どっちか1人をここで脱落させて引き裂いてやるよ、天才コンビ!」
青筋を立てながら、舐岡はボールを追いかける。
しかし。
「ボールはそうやって蹴るのですね。そして狙いはそうやって定める」
そのボールには、哀神の方が速く追いついた。
「な、おま――」
自らボールに触れた哀神。ディスプレイの鬼の表示が彼女のものへと切り替わる。
「ええ、もう大丈夫です。
思考回路が停止し、立ち尽くす舐岡を眼前に据えて。彼女は、ボールを勢いよく蹴る。
これが、哀神友が生まれて初めてサッカーボールを蹴った瞬間である。
にも拘わらず、たったの一見で。
舐岡了という男の、持ち前の身体能力を十二分に活かすことに特化したシュート技術。その全てを学習し、そしてその才覚と技術を上回った。
それは余りにも呆気なく、余りにも残酷な、天賦の才。
天才の中の天才。才能を終わらせる才能。
ドン、と鈍い音と共に。
舐岡了という人間の才能は、哀神友の手によって、ここで『
哀神友のプロフィール
誕生日:10月2日 年齢:17歳 星座:天秤座 出身地:不明
家族構成 父・母・兄・自分
身長:166cm 足のサイズ:25.5cm 血液型:AB型 利き足:両利き
スリーサイズ:B98 W59 H87
好きな選手:なし サッカーを始めた歳:17歳
座右の銘:"love is the law, love under will"
自分が思う自分の長所:容姿
自分が思う自分の短所:可愛げがないこと
好きな食べ物:なし 嫌いな食べ物:なし BESTご飯のお供:なし
趣味:読書、運動、会話、動画サイトで動物を見る
好きな季節:全部
好きな音楽:リスト「ラ・カンパネラ」(指の運動になる)
好きな映画:なし(あまり見ない) 好きな漫画:なし(読んだことが無い)
キャラカラー:ライトブルー
好きな動物:動物全般(動物からは悉く嫌われる)
得意科目:国語以外全て(全教科満点)
苦手科目:国語(パターンから外れた心理描写で毎回手が止まる、ただし試験は満点)
されたら喜ぶこと:親愛、求愛
されたら悲しむこと:嫉妬、恐怖
好きなタイプ:人と張り合わない人、勝ち負けに拘らない人
初めて告白されたエピソード:生まれた瞬間(兄から)
睡眠時間:7時間0分0秒
お風呂で最初にどこから洗うか:頭
きのこ派orたけのこ派:なし(茸と筍なら食べます)
最近泣いたこと:秘密
地球最後の日に何をする?:地球を救う
1億円もらったら何をするか:自宅か口座に放置、外で手渡された場合は近くの募金箱へ
休日の過ごし方:朝一のジョギング、運動、読書、ピアノ演奏、ペット動画鑑賞
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帝襟アンリの観察
帝襟アンリが哀神友という少女を知ったのは、ブルーロックが始動するより前だ。
ある日、日本フットボール連合がブルーロックに召集する全国300名のFW名簿の中に、ある人物を入れろと要求してきた。正直言って従いたくはなかったのだが、資金の追加援助をちらつかせられると弱い。ブルーロックプロジェクトは金欠なのだ。幸い捻じ込むのはたった1名。プロジェクト全体には然程影響がでないだろうと判断して、この件を絵心に打診した。
絵心は最初、訝し気な目でアンリを睨んだ。やはりこの話を持ってきたのは失敗だったか、と彼女は後悔した。利権のことしか考えていない連合からの提案、まして金の力で育成プロジェクトに席を用意しようというのだから、絵心の不評を買うのは至極当然だった。
ただ、絵心はアンリが思ったよりも理性的で、頭ごなしに拒否はしなかった。一先ず、情報を見てから判断するらしい。後日、連合から件の人物の情報と映像データの入ったUSBが送られてきた。データは完全に電子化されており、暗号化によるロックがかかっていた。そのため、アンリはその選手の情報を事前に確認することはできなかった。
不安を抱えながらも、アンリはUSBを絵心に渡す。
相変わらず不機嫌な絵心だったが、しかしいざデータを確認すると、彼の様子は次第に変わっていった。最終的に、彼はモニターに齧り付くように睨みつけ、その人物を吟味していた。
数日経って、彼から結論が出た。
「良いよ。この話受けよう」
その言葉を聞いて、まず彼女の胸に去来したのは安堵だ。次に、疑問が湧いて出てきた。この傍若無人が服を着たような男、絵心甚八の関心をこうまで惹いたのは一体何者なのか。
この時点では、彼女は想像するしかなかった。彼の琴線に触れるような何かを持つ選手。浮かんだイメージは、心技体揃って一流の、まだ見ぬ男子サッカー界の超新星。世界クラスの選手と渡り合えるような恵まれた体格とプロ顔負けのテクニック、この男でさえ舌を巻く程の天才的なサッカーIQを持ち、そして内には熱いエゴを秘めている。
アンリも気になって、その期待の人物のデータを見た。
「……って、女の子じゃないですか!?」
「アンリちゃん、声でかい」
それは、アンリの想像からは余りにもかけ離れていた。俗な表現だが、筋骨隆々の大男を想像――サッカーにおいてはただ筋肉が付いていればいるほど良いという訳ではないので、あくまでも期待と現実の落差による大袈裟な表現――していたものだから、幻想は粉々に砕け散った。
アンリは、サッカーにおける男女の性差という残酷かつ絶対的な壁を重々理解していた。
心技体全てにおいて、女子サッカーは男子サッカーに劣る。それはいくら誤魔化したところで認めざるを得ない事実である。
根本にある原因は"体"。身体能力の差。
男子にできるプレイが、女子にはできない。または、クオリティが明らかに見劣りする。
すると何が起きるか。世間や観客が求めるレベルが男子を見て肥えてしまっているため、男子の方が注目され、女子は影が薄くなるのだ。
これは他のスポーツにも見られる現象だが、サッカーは特に顕著である。
女子でも、フィギュアスケートや卓球、テニスは知名度がある。また、バレーはパワーが劣ることが逆に利点として働き、ラリーが続きやすくゲームとしての見応えがあるために、女子の方が好みという人もいるだろう。オリンピックなどでメディアに取り上げられることが多い競技は、男子と遜色ない人気がある。
一方でバスケやソフトボール、サッカーなどは人気が低い。
特に体力を要求される競技であるからだが、更に団体競技であることが界隈の衰退に拍車をかけている。これらの競技は、選手の年俸などで運営費用が嵩むのだ。人気が低いということは、儲からないということ。クラブなどの経営団体や選手の収入の低さを招く。そんな業界を見て選手を目指す人は減るし、競技人口が減る。結果、有望な人材が集まらずクオリティは更に低下し、見る人が減る。やがてスポンサーが付かなくなり、テレビが視聴率を取れないものに大金払って放映権を獲得なんてしないので、知名度は低下。負のスパイラルから抜け出せず、どん底まで落ちる。
当然、そんな業界で上を目指す"心"は磨かれないし、"技"も洗練されない。
それ故に、帝襟アンリは分からない。絵心甚八ともあろう男が、女子をブルーロックに入れるという異例の決断をした理由が。事と次第によっては、この男に全てを賭けたことを後悔することになるかもしれない。
「……聞かせてください、この少女――哀神友をブルーロックに入れる理由を」
そう質問されることは彼も分かっていたのか、事前にピックアップしていたであろうデータをモニターに映す。
「まず、消極的な理由。彼女が最低限ブルーロックで戦えるレベルに達しているか、という点から話そうか。武道における"心技体"を当てはめて評価するなら、彼女は"技"と"体"に関しては十分以上に期待できると判断した」
「と言うと?」
「こいつは、サッカー経験はゼロだ」
「駄目駄目じゃないですか!! 駄目駄目じゃないですかああ!!」
怒声を上げるアンリ。二度も繰り返し叫んだ。
またしても耳を劈くような大声に、絵心は両耳を抑えて距離を取る。
「うるさいよ、ヒステリーちゃん」
これ以上鼓膜破壊ボイスを浴びせられては敵わないので、絵心は結論から話すことにした。
「哀神友は、
「………………は?」
耳を疑う言葉だった。いや、もはや頭を疑うレベルだ。
現世界一のストライカーを超えている?
何の冗談だろうか。それが本当なら、全ての前提がひっくり返る。世界一のストライカーを日本に誕生させるというブルーロックのコンセプトが、根底から破綻する。なぜなら、創るまでもなく既に存在しているのだから。
「ふ、ふざけているんですか?」
「至って真面目だよ、アンリちゃん。というか、誰が見てもそう評価せざるを得ない程に、自然な推論だ」
片手で端末を操作すると、モニターに彼女の経歴が映し出される。
まず、頭脳。1歳で大学教授並みの知識量。幼少期から各方面で天才と呼ばれた者達と競わされ、その全員を打ちのめした。7歳でミレニアム懸賞問題を全て解いたが、社会的影響力を鑑みて公表はせず、適当な未解決問題の解を一つだけ匿名で公表。他にもチェスや将棋といったボードゲームにおいて、プロを打ち負かした最新のAIを破っている。
更に彼女の才能は頭脳だけに留まらない。フルマラソンを2時間フラットで走る体力。空手、柔道、合気道、剣道、弓道……凡そ武道と呼べるもの全てにおいて、当代最強を相手に全戦全勝する技術。
「正直言って、人間辞めてる」
挙げればキリがない程の多方面での才能。いや、ここまでくると才能という言葉で片づけていいものか。まるで、世界が彼女を中心に回っているかのような……。それこそ、漫画の世界の住人だ。
「こいつは文句のつけようも無い真性の
なるほど、確かにそこまで広範なジャンルで才能を発揮している人物であれば、サッカーにおいても期待できるというのは分かる。ただ、やはり。実在の人物の話をしているのか、フィクションの話をしているのか、途中から分からなくなってきた。脳が理解を拒んでいる。アンリの口からは疑いの言葉すら出て来ず、無心で訊ねる。
「はあ。でも、その……女子なんでしょう?」
「つい最近。本当に、つい最近のことだ。現行の男子サッカーを、全面的に
「……はい?」
「それも全世界同時に、だ。急に話が持ち上がって、何時の間にか成立していた。公的な発表はまだのようだが。気味が悪い」
表向きは、ポリティカル・コレクトネスだとか、そういう謳い文句だろう。それでいて、女子サッカーは独立に存続するらしい。ダブルスタンダードもいいとこである。
といっても、日本代表に女子が入ることはまずないだろう。それどころか、国内の2部・3部リーグのクラブにさえ、誰一人、ベンチにすら座ることはない。男女共に等しい基準で実力を見られるというのだから、当然である。あくまでも規則上、選考や選手登録の資格を得るだけであり、実力が満たなければ採用はされない。
要は、結果の平等ではなく機会の平等である。
「事実上、哀神友のためだけにあるルール改正だ」
「頭が痛くなってきました、何者なんです、その、哀神という女の子は」
「
皮肉まじりに、彼は言った。とても、そんなレベルで片づけていい規模の影響力ではない。アンリはじろりと睨みつけて、納得のいく説明を要求する。
後頭部を掻いて一つ溜息を吐くと、絵心は続けた。最初に、あくまでも状況証拠、と念を押して。
「……哀神友の経歴や能力をそのまま信じるなんて、流石に俺もしなかった。いくつか映像データはあったけど、それも捏造はできる。だから、裏を取ろうと色々調べてみた。すると、"アイガミ機関"という単語が度々出てきた」
恐らくそれも、全て誘導。絵心が取るであろう行動を読んで、態と掴ませたのだ。フットボールの男女混合化の件を、本来情報を得られる立場にない彼が先んじて手に入れられたのも。将棋やチェスの連盟、大学や研究機関など各方面に問い合わせると、何も言わずに哀神友の実績を証明する署名が得られたことも。
今この瞬間も、
「何です、それ」
「目的は不明だが、金と権力が絡む社会の深層に影がちらつくグローバルな組織。実在を証明するものは何もなかったけど、噂というか、都市伝説のようなものらしい。そういうの疎いから知らないけどね」
アンリは、これを的確に言い表す単語を知っている。
口端を痙攣させながら、彼女は訊ねた。
「それって、陰謀論ってやつじゃないですか?」
ブルーロック、始動初日。
各チーム12人の内からたった1人の脱落者を選ぶ加入テストが行われる中。
ただ一つ、余りにも呆気なく、そして例外的な結末を迎えた部屋があった。
「舐岡了、
真っ白な空間に、スピーカーから淡々としたアンリの声が響く。テスト開始から僅か5秒にして、脱落者が決定した。唯一人を除いて、この部屋にいる誰もが唖然としている。
何が起こったのか。それは至極単純である。
哀神が蹴ったボールが、舐岡了の腕に当たった。
ただ、それだけのことだ。
「ちょ、ちょっと待て! 今のは意図的じゃないだろ!」
他でもない失格を宣告された舐岡が、堪らず声を荒げて抗議する。
「それを言うのであれば、意図的に他人にボールを当てるという行為自体に疑義を唱える必要があると思われますが」
哀神がピシャリと言う。
そもそもが、公式なサッカーのルールに則っていないのだ。
意図的でないハンドであればセーフ、なんてのはこのゲームを強いた絵心が決めるものであって、全ては彼の一存で決まる。
彼はハンド禁止と言った。普通のサッカーのルールに則るなら、そんな当然のことは言わなくていい。わざわざ言ったということが、言外に証明している。
実際、この場の彼らは知るべくもないことだが、他の部屋では普通ならファウルを取られるような行動でも咎めていなかった。
「……まさか、狙ってやったのか?」
この中で、ただ一人動じていない哀神。それは、彼女がこの状況を意図的に作り出したということを示唆していた。
「それよりも、審判――絵心さんに聞きたいことがあるのですが」
舐岡の方には目もくれず、彼女はモニターの方を見遣って呼びかける。
「貴方は、制限時間がゼロになった時に最後にボールに触れていた者を失格にすると言いました。ハンドは禁止と言いましたが、具体的な裁定は明らかにしませんでした。明言されている限りでは、テストの終了条件は制限時間の経過。そして、
その場の誰もが想定していなかった、恐ろしい発想を口にする。
哀神友は、どこまでも哀神友だった。結局、これまでやってきたことと何ら変わらないのだ。
彼女の視界に映っているのは、このテストではなくブルーロックという実験の早期終了。
何時だって、一度に多くの才能を終了させられる機会を狙っている。
骨の髄まで喰らおうかという彼女の姿に飢えた獣を幻視して、チームVの面々は後退りする。それでいて、敵意など感じられない無垢な表情で口走るものだから、高熱が全身を苛むような寒気がした。
モニター越しに監視しているアンリさえ、背筋が凍った。画面越しに彼女と目が合った気がして、喉から上擦った声が鳴る。
試す側に居る筈が、試されている。
アンリは、傍に座る絵心を見遣る。彼はここまで想定できていたのだろうか。
「……脱落者は一人だ。ハンドによる失格者が出た時点で、テストは終了とする」
それを聞いて、哀神は素直に引き下がった。早々に興味を失ったようで、乱れた髪を整えている。先程までの殺戮機械を思わせるような無機質な冷酷さが嘘のようである。
「そういうわけだ。舐岡了、
一人のサッカー少年の夢が終わった。
膝を着き、言葉を失う舐岡。
凪と玲王に威勢よく啖呵を切っていた彼の姿は見る影もない。
文句を言う気力も残っていない様子。その理由を理解しているのは、この部屋の中では彼と哀神だけだった。
「なあ。お前、あの蹴りのフォーム……俺のを真似したのか?」
舐岡が震えた声で、俯きながら哀神に問う。
一言に良いシュートといっても、色々ある。
ボレーシュート、ミドルシュート、オーバーヘッド、ループシュート……シュートの種類が違えば、どちらのプレイが"上"かは厳密には比較できない。
同じ種類のシュート――例えばミドルシュートであっても、回転量や蹴りの速さ、射程、正確さ、どれだけの悪体勢から打てるか等々、評価項目は多い。同じミドルシュートを得意とする選手であっても、シュートの質というものを単純比較することは難しい。だからこそ、ストライカーの評価指標とはすなわち成績。シュートの質を問うのであれば、得点率なのだ。
逆に言えば、全ての評価項目が上で、それでいて定量的に成績には直結しない癖やスタイルといったものまで再現されたら、完全上位互換を意味する。
舐岡了がこれから成長してサッカー選手としてのピークに達し、ベストコンディション、運も味方してようやく放てるであろう生涯最高の一撃。まさに舐岡了の選手生命。
こともあろうに、この哀神友という少女はそれを超えた一撃を、初見で軽々と放ってみせた。
舐岡は、哀神が自身の完全上位互換であると理解した。理解させられた。
他でもないコピー元の彼だからこそ、それが痛い程分かった。
「……貴方は、もう競争の熱に当てられる必要はありません」
問いかけに対し、明言は避けた。言わずとも既に理解していたから。追い打ちを掛ける真似はしなかった。
彼女は、何もかもを失った時の人間の顔が嫌いだった。見ているだけでも心が痛むのだ。
彼女は薄く微笑んだ。その声音は慈母のように優しかった。
「は、は。そうか。そうだな……」
その言葉で彼の中の何かが切れた。絶望を通り越した諦観の顔。それを見て、彼女は一安心する。
これで、彼は
競争には敗者が付き物だ。そんなことは分かり切っている。それなのに、何故か人は競争の舞台に身を乗り出す。そして、いざ負ければ絶望に染まるのだ。そんな辻褄が合わない人間の心を、哀神は理解できない。
何故悲しむのか。覚悟の上ではないのか。そんなことになるくらいなら最初からやらなければいいのに、と。
自ら望んでおきながら都合が悪くなれば喚く姿は、唾棄すべき程滑稽で、度し難い程愚かで、見るに堪えない程醜い。
彼女は、自ら競争に身を
彼女にとって、競争とは狂気だから。
彼女は、父に競争を強いられ他人と比較されている。
だが、たとえ負けたとしても絶望などしない。
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