ハリー・ポッター -Harry Must Die- (リョース)
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賢者の石
1.生き残った男の子


皆さま初めまして。この度、初投稿させていただく、リョースと申します。
ギャグのようで真面目なようでマー髭な感じで頑張っていこうと思います。

タグは随時増やしていく予定です。


 

 

 

 ハリー・ポッターは目を覚ました。

 階段下の物置を住処とするこの十歳の子供は、実にみすぼらしい身なりをしている。

 好き勝手に伸び散らかしてツンツンした黒い髪の毛、ガリガリにやせ細った矮躯、年下の子供もかくやというほどの低身長。かつて愛用していたボロボロの眼鏡は、レンズが割れてどこかへ行ってしまったので無用の長物と化し物置の棚に放置してある。

 そして額には稲妻型の傷跡がある。これは小さい頃にできたものであると聞かされているが、ハリーはこの傷が嫌いだった。鏡を見るといつも見えてしまうので、前髪を伸ばして目元を隠すようにもなった。

 

 時刻は朝の五時半。

 一般的な起床時間としては少々早い程度だが、十歳の子供が起きる時間には早すぎる。

 それは現在住まわせてもらっている家の主――ダーズリー家から決められたルールであり、絶対に破ってはならない従うべき事項であるというものが理由だ。

 ハリー・ポッターは物心もつかぬほど幼い頃、両親を亡くした。

 死因は交通事故と聞いている。

 その際、運良く……いや、運悪く生き残った子供がハリーであった。

 ハリーの両親はとんだろくでなしであったと、ペチュニア・ダーズリー夫人は言う。

 それを幼いハリーへ面と向かって言うのだから、ハリー自身、自らの両親がひどい存在であったのだろうという、諦観に似た認識を持っていた。

 だからもう、亡き両親への興味はない。

 そんな親のもとに生まれた身は親戚中を転々とし、遂に引き取ったのがダーズリー家とのこと。

 初めて自らの境遇に疑問を持って叔母たるペチュニアに問うたところ、この答えとともに「質問をしてはならない」というルールが追加されてしまった。

 それ以降、ハリーは幾度か自らの出自に関する問いをしたが、そのルールに抵触する事の危険さを身を持って思い知ったため、現在そのような愚行を犯すことはない。

 

 ハリーの毎日は、こうだ。

 朝、五時半に起床。

 庭の掃除と、家の前の掃除を手早く済ませる。

 その際に用いられるのはボロの竹箒で、これが壊れると素手でやらざるを得ない。

 プリベット通りの住人に見つからぬようこれを終えると、次は朝食の支度。

 大量のベーコンとスクランブルエッグ。卵料理はポーチドエッグに変わることもある。

 トーストは家とは反対方向、ハリーが通う学校の向こうにあるスーパーで売っている、健康志向の食パンを使ったものを綺麗な狐色になるまで焼き上げる。少しでも黒く焦げようものならその日一日の食事がなくなるので、目を離す事は出来ない。

 新鮮で濃厚なミルクと、一杯のオレンジジュース。

 そして、シャキシャキとしたレタスと瑞々しいトマトを用いた簡易的なサラダ。

 これら全てを仕上げ終えるリミットは、六時五〇分まで。

 ダーズリー家の人間が起きてくる前に全ての仕事を終わらせていなければならない。

 

「やぁ。おはよう、ハリー」

「……おはようございます。バーノン叔父さん」

 

 この日のミスはひとつだけ。

 それは、家主たるバーノン・ダーズリーと出会ってしまった事だ。

 ハリーが食事をとるときは、決まって自室……つまり階段下の物置にてと決まっている。

 それが義務だからだ。

 居候如きが家の者と食卓を共にするなど、とんでもないらしい。

 ダーズリー家の面子と同じテーブルで食事するのは、何らかの記念日でしかありえない。

 もっとも、ハリー自身は記念日であろうと共に食事をしたいと考えた事は一度もないが。

 

「ハリー」

「ごめんなさい叔父さん。今日は食事を……」

「いや、いや。いいんだ、ハリー。今日は特別な日だ!」

 

 家のルールを破ってしまった以上、食事が抜きにされるものと思ったハリーだが、バーノンの上機嫌な声によってそれは遮られた。

 そうだった。とハリーは嫌そうな顔を懸命に打ち消した。

 今日は一年で最低の記念日。

 ハリーの親愛なる従兄弟、ダドリー・ダーズリーの誕生日なのである。

 

「ハリー! いい日だな!」

「ッが!」

 

 ゴッ、という鈍い音とともにハリーは廊下を転がされた。

 顔面、特に鼻に鋭い痛みがじくじくと残っている。

 鉄のような苦々しい味が口内に広がっているあたり、鼻血も出ているに違いない。

 それになにより、視界が真っ白で周囲を銀色の何かがきらきらときらめいている。

 パンチを放ったのは先程話題に上がったばかりのダドリー当人。

 油断した、と口中で呟くとハリーはそのまま気を失った。

 これらは全て、本日十一歳の誕生日を迎えたダドリー少年の拳によるものだ。

 ダドリー・ダーズリーは、十人が十人すべてが一目見て「巨漢」と答え、聞かれてもいない五人が「痩せた方がいいんじゃないの」と言ってくるような容姿を持つ。

 ハリーより頭二つ分は大きな身長。横幅に至ってはハリー二人分と言っても、大げさではあるまい。丸太のように太い手足の先には、私は毎日誰かを殴ってきましたと言わんばかりにごつごつとした拳骨と、驚異的な体重を支えきる大きな足が付いている。

 彼は、二年前まではただの豚であった。

 バーノンとペチュニアという、二人の愚か者……もとい、両親の溺愛によってぶくぶくと脂肪ばかりを身にまとって「健康」の二文字を鼻で笑う人生を歩んできた。

 しかしそれも、二年前のとある日まで。

 不摂生がたたって、遂には病院に担ぎ込まれたのだ。まぁ当然である。

 そしてその日から、ダドリー少年のダイエットが始まった。

 当初はとても嫌がった。己が欲望を叶えてきた両親が、初めて息子に反旗を翻したからだ。

 しかし愛する父親の提案したダイエット方法は、ダドリーにとって実に魅力的であった。

 

「さすが我が息子だ! 鼻っ柱をへし折るパンチでダドリー・ダーズリーに五〇点!」

「やったねパパ! ぼくどんどん強くなってるよ!」

「ああ、わしの自慢の息子だからな!」

 

 ダドリーの実践しているダイエットは、『ハリー狩り』というスポーツを行うこと。

 彼の身体の如く、実に巨大に迷惑なダイエット方法である。

 サンドバッグにされるハリーからすると、たまったものではない。

 ダイエットを始めたその日に顔面へパンチを食らったハリーは、鼻の骨が見事にへし折れてめでたく病院のお世話になっている。

 その治療費は、毎日ハリーが行っている家事により返済を行うことになっているが、ハリーは治療費の金額を教えてもらっていない。きっとずっと続くだろう、と確信しているが、ダーズリーに逆らえるはずもないので黙っている。何より、質問は禁止だ。

 ちなみにその甲斐あって、我が愛しの従兄弟は若干十一歳にして、英国南東部ボクシングジュニアヘビー級チャンピオンというとんでもない称号を手にしている。

 十代後半のボクシング少年たちを殴り飛ばせるのだから、いわんやハリーなど紙屑だ。

 

「ありがとうよハリー! お前の、お・か・げ、だ!」

「ああ、ダドリー! こんなゴミに礼を言えるなんて、なんて素晴らしい男に育ったんだ!」

 

 以降ハリーは常に警戒心を抱き、周囲に気を配る獣のような目付きになってしまった。

 ダドリーからの攻撃は全力で回避せねば、今回のように意識を刈り取られるからだ。

 しかし避ければ避けるほど、ダドリーのパンチも成長しているのをハリーは知っている。

 矮躯故にすばしっこく逃げ回るハリーを、ダドリーが的確に殴り飛ばせるようになっていくのはハリーにとって最悪のことでしかない。

 避けなければ痛い。避ければ相手が強くなっていく。

 もはやどうしようもないことである。

 

「おい起きろよハリー! 今日は動物園に行く日だろ!」

「ッごほ! そ、そうだね、ダドリー。どう、動物園に行く日だ……」

 

 従兄弟に蹴り起こされ、ハリーは肺の中の空気を全て吐きだした。

 鼻血でカーペットを汚さぬよう自らの服で拭き取り、ハリーは即座に返答する。

 叔父の前で従兄弟の言葉を無視するなど、自殺行為としか思えない。

 なぜならば、ダドリーに対して反抗的な態度をとると罰として数週間は階段下の物置に閉じ込められるのだ。

 おかげで学校の出席日数は最低。友達などいるはずもない。

 そもそもこんな小汚い身なりをしたやつを、誰が相手にしようか。

 年がら年中毛玉だらけのぶかぶかセーターに、貧相な体つき、ぼさぼさ髪に、傷もの顔。

 学校の教師にはクラスメートたちの足を引っ張るどうしようもない不良であると認識されており、気にして貰えるどころか相手にしてもらえない。ハリーが自らの境遇は紛うことなき虐待であると知りながら、周囲の大人……いや、誰にも助けを求めない理由のひとつがこれだ。

 

「ハリー! ハリー! 行くぞ、楽しみだろ!」

「ああ、とっても楽しみだ。ありがとうダドリー」

 

 ハリーは、もはや絶望を通り越して諦めているのだ。

 成人してこの家を出て行っても、きっと仕送りと称して相当な金額を持っていかれてしまうことは想像に難くない。

 勝手に死んでいったろくでなしの両親。

 恨み憎んでいた時期もあったが、もはや彼らへの関心もない。

 毎朝の掃除を手早く終えて余った時間でジョギングをし、体力をつけてダドリーのパンチを回避できるようになること。とにかく知識を吸収し、独りでも生きていけるようになること。

 ハリーの目下の興味は、その二つに絞られていた。

 十歳という、幼さをまだ残している小柄な子供。

 明るいグリーンの瞳が泥のように濁り、獣のように鋭くなったのも、仕方ないことである。

 

 ロンドン動物園。

 当初ハリーは近所に住んでいる猫好きフィッグ婆さんの家に預けられる予定であったが、彼女は自らの飼い猫につまづいて足を折ったのがもとで、昨年ぽっくり他界してしまった。

 故に、家に一人残すのは信用ならないという理由で、ダドリーの誕生日祝いの一つである動物園行きに同行させてもらえることになった。

 結果的に、これはハリーにとって人生最大のラッキーであったといえる。

 ダドリーの取り巻き……もとい仲の良い友人たちから散々腹を殴られ、脇腹を突かれ、胃液を吐き出すまいと車中で我慢した甲斐があった。

 ――ハリーは、蛇と話したのだ。

 そんな、まるで魔法のようで夢みたいな体験もダドリーが近寄ってきたのを感知してやめたおかげで、気付かれることはなかった。

 ガラス越しに、ヘビが同情的な言葉をかけてくれたことがとても嬉しかった。

 涙が出そうなほどに嬉しかった。何せ、ほぼ初めてハリーの味方になってくれたのだ。

 たとえ幻覚であってもいい。いや、いっそ夢でも素晴らしい。

 孤立し味方のいない状況で、会話という当たり前のことをすることができた。

 ハリーにとっては、それだけで十分なのだ。

 視線で「ありがとう」と蛇に向かってできる限り最大限の礼を贈り、ハリーは一年で最低の記念日が人生で最高の記念日になったことを確信したのだった。

 

 しかし、ハリーの驚きはこの日だけでは終わらなかった。

 翌朝。朝早く起きて日課をこなしたハリーがポストから手紙を取り出すと、ふと気になるものがひとつ手の中にある事に気付いた。

 

「プリベット通り四番地、階段下の物置宛て……?」

 

 手紙の宛名は誰あろう、ハリー自身だ。

 十年間生きてきて、自分へ手紙が来たことなど一度もない。

 半ば茫然とした心地でその手紙を懐にしまうと、時間が二〇分も余っていると言うのにジョギングをするのも忘れてダーズリー家に飛び込んだ。

 そしてテーブルにダドリー宛ての手紙とバーノン宛ての手紙を置き去りにすると、自室と化している物置へと手紙を放り込む。

 後で読もう。絶対に読もう!

 ハリーは今までにない早さと手際の良さを発揮して朝食を作り終えると、自分の分の朝食である賞味期限切れのパンとダドリーが不味さのあまり食べかけでやめたチョコレート・バーを手に、急いで物置へと向かって行った。

 人生初の手紙。

 それに気をよくして注意力を失っていたのが、ハリーの敗北であった。

 隣家の覗き見が趣味のペチュニアが起きていたことに、ハリーは気付かなかった。

 そしてそんな下劣な趣味を持っていた彼女が、ハリーの様子に気がつかないはずがない。

 

「ハリー! 隠したものをお出し! しらばっくれるとただじゃおきませんよ!」

 

 長年の虐待により染みついた反射は、ハリーに反論すら許さなかった。

 ハリーが自らの手で物置から手紙を持ってくるはめになり、それをペチュニアに手渡す。というよりも、ひったくられる。そして、彼女はその差出人の名前を確認して、絶叫した。

 愛する妻の叫び声に飛び起きたバーノンがどすどすと二階から地響きを鳴らして降りてくると、まず視線を横切ったハリーを突き飛ばし、怯えた様子の妻の肩を抱く。

 そうして彼も手紙の差出人を確認し、首を絞められた豚のような奇妙な声でこう絶叫した。

 

「手紙から逃げるぞォ! いいな! 反論は認めん!」

「ああ、バーノン……」

「オーマイガッ。パパがおかしくなっちまったぜ!」

 

 二階から降りてきたダドリーが生意気な口調でそう呟く。

 始まったのは、手紙からの逃亡生活という奇妙で「まともじゃない」ものだった。

 そういえばバーノン叔父さんは魔法やらファンタジーやら、そういった非科学的で「まともじゃない」ものが大嫌いで、五歳くらいの時にハリーが魔法少女モノのジャパニメーションをダドリーと一緒になって見ていたところ、顔を真っ赤にして激怒していた覚えがある。

 奇妙な逃亡生活も一週間を過ぎた。

 バーノンの努力をあざ笑うかのように、手紙は文字通り雨あられと降り注ぐ。

 ある時はサレー州を飛び出し、ある時はどこだかわからないド田舎にまで逃げ込んだこともあったが、手紙はそれでも追ってきた。

 しかしその迅速な対応は功を奏しており、手紙を読ませたくない人物のハリーはあれ以降、手紙のての字も見ていない。

 それより車で移動するので、隣席のダドリーに太ももを抓られたり腹にパンチされやすくなった方が余程問題であった。

 人生初の手紙。

 確かに読んでみたい。互いを思いやった会話など蛇としか行ったことのないハリーだからこそ、自分宛の手紙などというものは宝物にしか思えなかった。

 だが、ダーズリーの面々と行動をともにして太ももや二の腕にアザを作るくらいなら、別に必要ないのではと思い始めてもいた。

 そうだ。明日、バーノン叔父さんにそう言おう。

 手紙の送り主に、迷惑だからもう送らないでくれという返事を書いてくれ、と。

 果てはフランスあたりまで行ってしまったが結局イギリスに舞い戻り、何やら海の上に建てられたわけのわからない孤島に立つとんでもないボロ屋に行き着いて、毛布なしで床にごろ寝するハリーはそう決心した。

 

 決心したその次の瞬間、雷のような轟音が鳴り響いた。

 ガバッと起き上がり異常を確認すると、ハリーはドアがノックされていることに気づいた。

 すっかりノイローゼ気味になったバーノンとペチュニアも飛び起き、夢の中から叩き戻されて半泣きのまま怯えつつあるダドリーをその背に隠して散弾銃を構えている。

 その銃口がハリーの方を向いているのは、おそらく気のせいではあるまい。

 轟音を響かせていたノックがだんだん苛立たしげになっていき、ついに痺れを切らしたのかドアの向こうから野太く荒々しい大声で呼びかけてきた。

 

「ハリー・ポッター! ここにはハリー・ポッターがおるだろう!」

「そんなガキはここにはおらん! 帰れぇ!」

 

 短い悲鳴と共に語るに落ちたバーノンが答えると、荒々しい声は荒々しい拳でもってドアをぶち破った。

 ペチュニアとダドリーが声にならない悲鳴にも似た叫びをあげ、バーノンの人差し指がピクピクと動き引き金を引きそうになる。

 今まで以上に命を握られているハリーは、これ以上あの赤ら顔の叔父を刺激しないでくれと懇願しようと闖入者へ目を向けると、ハリーは己の目を疑うはめになった。

 それは人というには、あまりにも大きすぎた。

 大きく、ぶ厚く、重く、そして大雑把すぎた。それはまさに巨漢だった。

 クマみたいだ。後にかけがえのない友人となるルビウス・ハグリッドの第一印象は、この一言であった。

 

「『エクスペリアームズ』! 武器よ去れ!」

 

 バーノンが迷わず発砲しようと引き金を引くより早くハグリッドがピンクの傘を向けて叫ぶと、銃の発砲音にも似た爆音を立てて赤色の光球が射出された。

 それがバーノンの構える散弾銃に狙い違わず直撃すると、ぽん、と間の抜けた音を立てて銃身がクラッカーに変身した。目を白黒させるバーノンはそのまま引き金を引き、ばほーんと空気の抜ける音ともにクラッカーを破裂させてしまう。

 ハリー自身もその摩訶不思議な光景に腰を抜かして目を丸くした。そういった邪気のない表情をすると鋭い目つきも柔らかくなり、優しい緑色の瞳もあって年相応の子供に見える。

 紙吹雪が舞散る中、ハリーはその中の一つに目を止めた。

 『ハリー・ポッター。たんじょび、おめでとう』。

 綴りが間違っているもののそれは誕生日祝いの言葉であり、ハリーが生まれて初めてもらったものでもあった。

 確かに今日はハリー・ポッターの誕生日、七月三一日だ。

 ハリーは自身の誕生日を知らなかったわけではないが、またそれがめでたい日であると思ったことも一度もなかったので、自分一人寂しく祝うといったこともしなかった。

 ダーズリー家の刻んだ傷は、深い。

 

「ハグリッド。正しい発音は『エクスペリアームス』です。他に理由はありましょうが、そんなことですから呪文も失敗するのですよ」

「す、すまねぇですだ。マクゴナガル先生様」

 

 上品な声とともにボロ屋へと入ってきたのは、これまた上品な服を着た壮年の女性だった。

 ピシッと皺ひとつないブラウスに黒いベスト、そしてまた夜闇のように黒いスカート。

 まるで図書館の司書さんみたいだ、とハリーは思ったが、彼女の姿を見てペチュニアが潰れたヒキガエルのような悲鳴をあげたので、きっとそうではないのだと感じた。

 何らかの毛皮を仕立てたらしき服を身にまとった大男を後ろに従えて、長身の壮年女性が腰を抜かしたままのハリーの前に立つ。

 彼女が懐から取り出した杖を一振りすると、だらしなく大股開きのままであったハリーの足が、独りでにぴちっと閉じられた。

 そんな『まともじゃない』光景に、ハリーはまた目を丸くする。

 

「はしたないですよハリー」

「……え、あ。は、はいっ」

 

 ぴしゃりと鋭い声に思わず返事をして、ハリーはその場に姿勢正しく立ちあがった。

 マクゴナガルと呼ばれた女性が杖を振るたびに、ハリーの尻や足の埃が自分からぴょんぴょんと跳ねて逃げていく。そんな非現実的な光景をダーズリー家の面々は潰れたウシガエルのような怯えた目で眺めているだけだ。

 ハグリッドが暖炉の方でなにやらごそごそといじると、赤い炎がぶわりと燃えあがった。

 ペチュニアが躍起になって火をつけようとしたものの、湿りきってどうしようもなく諦めたはずのそれが赤々と暖炉の天井を舐めている様を見て、ハリーはただでさえ真ん丸になっている目を、目玉がこぼれてしまうのではというほどもっと丸くする。

 ハリーから埃を払い終えたマクゴナガルがハグリッドを一睨みすると、ばつの悪そうな顔をしてソファの後ろに陣取った。マクゴナガルはというと、バネや綿の飛び出たソファに向かって杖を振り新品同様に綺麗に変えると、ハリーに座るよう勧めた。

 棒きれのような杖一本で、こんな有り得ないことを可能とする女性の言うことに逆らおうとするほどハリーはマヌケではないし、何より彼女の話を聞きたいと強く思っていた。なので大人しくふかふかのソファに座る。そういえば、ソファに座るのはいつ振りか。

 向かいのソファにも同様の処理を施して座ったマクゴナガルは、座り方一つ見ても気品が溢れている。適当に座ったハリーは自分のそんな姿が潰れたアマガエルのように見えて、ハリーは自分が恥ずかしくなった。

 

「さて、ハリー・ポッター」

「は、はい!」

「まずは、十一歳のお誕生日おめでとう。ささやかながらプレゼントです」

 

 マクゴナガルがまたも杖を一振りすると、テーブルの上にそれはみごとなチョコレート・ケーキが出現した。

 どうも手作りらしいそれは、まるで岩のような硬さをありありと見せつけているが、不器用な形ながらも手製の蝋燭があったり、チョコプレートに「おめでとうハリー」という文字があったりと、愛情が詰まっていることがありありと見て取れた。

 ケーキという好物を目の当たりにして一瞬反応した子豚……もとい従兄弟を視界の端にとらえながら、ハリーは困惑のまなざしをマクゴナガルに向ける。

 毎日の食事がビスケット一袋というハリーは、ケーキどころか人から貰い物をしたことはなかったのだ。それを察したのか、マクゴナガルが優しい声で「あなたのものです」と言ってくれなければ、きっとダドリーの胃袋に吸い込まれるものと思いこんでいただろう。ソファの後ろに陣取る巨漢、ハグリッドはそのコガネムシのような黒い瞳を怒りに染めてダーズリー家を睨みつけている。

 

「ありがとう……ございます」

「ええ、お礼を言えるというのはとても良いことですよ、ハリー。……さて。本日の要件はあなたの誕生日祝いというだけではありません」

 

 ハリーには、マクゴナガルの表情が憂いを秘めた優しいものである事に気づいた。

 彼女が合図をすると、ハグリッドがその毛皮のコートから一通の封筒を取り出した。

 それはいつだったかハリーが手にして今日までついぞ見ることのなかった、ハリー宛ての手紙そのものであった。

 バーノンがそれを読ませるなとばかりに悲鳴を上げるが、ハグリッドが傘の石突きを向けるだけでしゅんと大人しくなった。それを眺めてから、マクゴナガルはハリーにその手紙を手渡す。

 

「ハリー。その手紙を?」

「読んでいません」

「……だと思いました。読みなさい、ハリー」

 

 やはりハグリッド一人では厳しかったようですね。

 厳しい声に、ハグリッドが顔を逸らす。ハリーには、元々自分に会いに来るのはこの巨漢一人だけだったということがそれで予想がついた。それは事実であり、嫌な予感がするので私も一緒に行きます。とマクゴナガル自らがハグリッドに声をかけたのだ。

 

「やめろ! ハリー! 何も見るんじゃな――」

「ダーズリー。ちょいと黙っちょれ」

「あ、はい」

 

 ハグリッドに一喝されたバーノンが黙りこむのを見てから、ハリーは手紙を開く。

 そして開いたハリーが「魔法学校……?」と声を漏らす。

 手紙の内容は、こうだ。

 

【ホグワーツ魔法魔術学校 校長アルバス・ダンブルドア

――親愛なるポッター殿

  このたびホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。教科書並びに必要な教材のリストを同封いたします。あと、新学期は九月一日じゃ。まぁ色々と大変じゃろうが、がんばりたまえよ。ほっほっほ。 敬具】

 

 その手紙を読み混乱した顔のハリーを見て、マクゴナガルは思う。

 初っ端から散弾銃をぶっ放そうとする叔父に、やせ細った身体になってもまともな食事を与えない叔母、痣だらけの身体を見るに従兄弟からは暴力を振るわれている。肉体的にも精神的にも過酷な虐待を受けている事は明らかである。

 ハグリッドは当然として、マクゴナガルもダーズリー達を吹き飛ばしたい気持ちで一杯だった。

 二人はほとばしる怒気を、ハリーが手紙を丁寧に読む姿を見て抑えきった。

 しかしそれも、ハリーが声を発するまでの事であった。

 

「これは……その、つまり……ぼくは……」

「そうです、ハリー。あなたは魔法使いなのですよ」

「つまり、えーっと……ぼくはこの学校に通えるということですか?」

「そうだぞ、ハリー。しかも訓練さえ受けりゃ、そんじょそこらの魔法使いなんぞメじゃねぇさ!」

 

 マクゴナガルに恐る恐る質問するハリーに対し、ハグリッドが誇らしげに宣言する。

 片手間に、なにやら懐からフクロウを取り出すと窓を開けて外へ逃がしてしまっているあたりこの男は不可解だとハリーがわかりやすく表情を変えると、その誇らしげな顔もさっと曇ってしまう。

 ホグワーツ、という学校がある。

 それは英国で最も名門の魔法学校であり、ハリーの名前は生まれた時にはすでに入学名簿に載っていたほどのもの。上等な教育を受けることのできるまたとない機会なのだ。

 ぼく、行きたい! という喜びの声を予想していたのか、ハグリッドがその巨大な顔を笑顔にしている中、ハリーはその唇から爆弾を吐きだした。

 

「すみません。ぼく、いけません。バーノン叔父さんに叱られちゃう」

 

 頭を大鍋で殴られたかのような気分とは、まさにこの気持ちだろう。

 二人は、自身の心が悲しみで満たされていくのが分かった。

 厳しい家庭に住むことになるとは聞いていたが、よもやこれほどとは!

 絶望したように暗い顔に変わった二人とは対照的に、バーノンは喜色満面のしたり顔だ。

 ペチュニアから聞いていた。

 このハリーという子供は、『まともではない』。ならば、『まともな人間』が叩きなせば、その腐りきった性根も多少はまともになるのではないだろうか?

 結果はご覧の通りだ。

 まともではないが、まともであろうとしている。

 これは我々の思想が正しかったことへの証左を示す最たるものではないか。

 

「ま、マクゴナガル先生……こいつは……」

「ええ、想像以上です。ハリー。あなた、自身のことについてどれほど知っていますか?」

 

 バーノンの豚のようなにやにや顔は止まらない。

 ダドリーはわが父の余裕を見てとったのか、同じく豚のような笑顔を浮かべている。

 ペチュニアだけがただ一人、そのこわばった表情が変わらない。

 

「いいえ、まったく」

「両親のこともか? ジェームズにリリーのこともだぞ? これっぽっちも?」

 

 せき込むようにハリーに詰め寄るハグリッド。

 少し怯えた表情を見せるハリーに気付き、一言すまねぇと謝罪してから、返答を待つ。

 今までの会話内容から鑑みてそういう返答が来るであろうことは怖々ながら予想していた。

 だが、実際聞いてみてハグリッドは、自身の理性が吹き飛ぶのを止められなかった。

 ハリーの返答はよりによって、こうだ。

 

「それが、ろくでなしの両親の名前なんですか?」

「ダァァァアアアア――ズリィィィイイイイ――ッ!」

 

 爆音としか言いようがない絶叫があがる。

 今度こそハリーは飛び上がり、ネズミのように素早くソファの後ろに隠れた。

 ピンクの傘をバーノンの眉間に突き刺さんばかりに突き出すと、絶叫を聞くまでのニヤケた赤ら顔がチーズのような真っ青になり、そして腐ったオートミールのような白になり、そして甲高い悲鳴を短く漏らす。

 傘の先から青い光が飛び出す。バーノンのすぐ近くにそびえたつ柱に着弾、爆散した。

 ケーキに視線が釘付けであったダドリーが何事かと振り向いた先には、か細い悲鳴を上げて崩れ落ちる父親の姿があった。どうやら腰を抜かしたようだ。

 バーノン・ダーズリーの短くない人生の中でも渾身のしたり顔は、五分ともたなかった。

 

「ハグリッド! おやめなさい!」

「こいつらは――ハリーの――誇り高い――! とんでもない――この――」

「おやめなさいと言っているのです! 相手はマグルですよ!」

 

 荒い息をふーふーと肩を上下に揺らし、視線で滅びよと言わんばかりの睨みを飛ばしたハグリッドはその場にどかりと座りこむ。床板がバキバキ悲鳴をあげた。

 安全を確認できたのか、ハリーが元の位置に座るとマクゴナガルは話を続けた。

 ほげほげ意味の分からない言葉を漏らすバーノンを起こそうと躍起になるペチュニアを無視しているあたり、彼女も腹にすえかねているらしい。という事はハリーにも分かる。

 

「ハリー。貴方のご両親がどのように亡くなったのか、知っていますか?」

「自動車事故って聞いてます」

「自動車事故! リリーとジェームズは、そんなもんじゃ死にゃせん!」

「ハグリッド」

 

 口を挟むな、とマクゴナガルの視線が語る。

 ハグリッドが憮然とした顔で黙りこむと、話が再開される。

 

「いいですかハリー。辛い話になりますが、よくお聞きなさい」

「客人、やめろ。やめるん――」

「黙れ」

「ふぁい」

 

 マクゴナガルがそう前置きすると、ハリーは不思議な感覚に陥った。

 初めて自分のことを知るのだ。

 今までは痛みから逃れられるようになることばかり考えていた。

 それが今や、勇気を振り絞ってでも何かを言いかけた叔父に、あまり注意が向かない。

 こんなこと今までなかったというのに――。

 そう。ハリーはおそらく、生まれて始めて自分に興味を持ったのだ。

 

「あなたの両親、ジェームスとリリーの死因は自動車事故などではありません。……ええ、そうです。……殺されたのです」

「……殺され……」

「そう、殺したのは英国史上最悪の闇の魔法使い。名前を言ってはいけないあの人……いえ、これでは伝わりませんね。――言いましょう」

 

 恐れるように名前を口にしなかったマクゴナガルが、強く瞼を閉じて決意したように言う。

 これに平静を崩したのはハグリッド。

 ギクリとその巨体がたじろいだ。

 

「あなたの両親、そして多くの人間の仇。その名は、ヴォルデモート」

「ヴォルデモート……」

「彼が殺すと決めた人間は、その全てが殺されてしまいました。魔法使い、マグル問わず」

「マグル?」

「非魔法族のことです。あなたや我々が魔法族、彼ら――ダーズリーのように魔法を使えない者たちがマグルです」

 

 ハリーがちらりと目を向けると、そこには阿鼻叫喚のダーズリー一家が。

 自分を虐げた者たちの醜態を愉快かと問われれば、ハリーは間違いなく愉快であると答えることができる。だが、それと同時に嫌々でも虐待しながらでも、育ててくれたことには変わりないのだという思いが心のどこかにある。

 その二つの感情が心の中でどっちつかずの行ったり来たりを繰り返し、ハリーは彼らの様子を見ても笑うことはできず、微妙な表情を取らざるを得なかった。

 マクゴナガルはハリーのその様子を見て、予想よりは歪んでいないと少しだけ安堵する。

 あれほど熾烈な虐待を受けていては、下手をすれば人格が分裂していてもおかしくない。

 

「魔法使いにもマグルにも、彼はどうすることもできませんでした。しかし残された安全な場所のひとつがホグワーツです。ええ、校長のアルバス・ダンブルドアは彼も一目置く存在でした。しかし事は、十年前のハロウィーンに起こりました。あなたたち家族三人が住んでいた村に、彼が現れたのです。あなたは一歳になったばかりでした。そして、そして……」

「殺されてしまった?」

「……ええ、そうです。とても哀しいことですが。そして、彼はあなたをも殺そうとしました。何故そうしようとしたのか、動機は分かりません。もしかすると殺人自体が楽しみになっていたのかもしれない、あの人はそういう男です」

 

 ハリーが目を見開く。

 自身の身に起こったことだというのに今まで全く知らなかったこと、そしてその知らなかった内容があまりにもあんまりなことであった割には、ハリーは妙に落ち着いていた。

 実際にダドリーという脅威から逃げ続けるには、それくらいでないといけないのだから。

 いったん言葉を切ると、マクゴナガルがソファを立ってハリーの隣へ歩いてきた。

 くしゃくしゃの黒髪を撫で、優しく微笑みかける。

 ダーズリー家に来てからはじめて頭を撫でられて、多少気恥ずかしかったものの、しかしその微笑に憂いが混じっている事をハリーは見逃さなかった。

 この人は、この話を自分にすることを悲しんでいるのかもしれない。いや、後悔だろうか。

 そう思えたハリーは、少しだけ彼女の話を信じてみることにした。

 

「そういった無差別に人を殺し、一時期を暗黒時代に染め上げた闇の魔法使い。ただし、彼は今や死んでしまったものとされています」

「死んじゃったの?」

「ええ。あなたを殺そうとして放った呪いが、その身に跳ね返ってきたのです。数多の魔女魔法使いたちを死に追いやってきたその闇の呪いも、あなたにだけは効きませんでした。ですからハリー、あなたは魔法界では有名なのですよ」

「そうだぞ、ハリー! お前さんの事を知らない連中は、誰ッ子ひとりいやしねぇ!」

 

 辛い話を語り終えて長々とため息をつくマクゴナガルと、ハリーのことをまるで自分のことのように誇らしげに言うハグリッドを、当の本人、ハリーはじっと見つめた。その目はいぶかしむ色がありありと表れており、話を信じてよいものか半信半疑であると物語っている。

 ハリーはこう考えていた。

 自分が本当に魔法使いなのだとしたら、なぜダドリーのサンドバッグにされているのだろう。

 本当に魔法使いならば、本当にそのボルデモンド? だかなんだかいう闇の魔法使いを返り討ちにしたのなら、ダドリーの手足の一本や二本、簡単に吹き飛ばせるはずではないか。

 十歳の……いや、今日で十一歳の誕生日を迎えた子供にしては物騒なことを考えているが、心の内はいざ知らず、ハリーが口にした言葉に関して言えば、マクゴナガルの想定内だった。

 

「でも、……その、マクゴナガルさん」

「先生」

「マクゴナガル先生。ぼくが魔法使いだなんて、ありえません。だって、その、まともじゃない」

 

 ハリーが泣きそうな声でそう言うと、驚くことにマクゴナガルもハグリッドもくすくす笑った。

 それに驚いたのはハリーだけではない、バーノンも、ペチュニアもだ。

 因みにダドリーはケーキに向かって這い寄っていた。

 

「魔法使いじゃないだって? ハリー。おまえさんが恐ろしいと感じた時、どうしようもないと思った時、何か不思議なことが起こらんかったか? え?」

「いえ。なにも」

「だろうが? ハリー・ポッターが魔法使いじゃないなんて有り得……えっ、今なんて?」

「ですから、特になにも」

 

 自信満々に問いかけたハグリッドに対して、半目になって答えるハリー。

 その目が語るは「不信感でいっぱいです」というものだ。

 途端にうろたえる大男を見て溜飲を下げたのはダーズリーの面々であり、それに対して落ちついた返答をするのがマクゴナガルだ。

 

「では聞きますが。ハリー。あなた、眼鏡がないのによく見えていますね」

「…………、……言われてみれば」

 

 眼鏡はダドリーの一撃により粉砕されて、いまや物置の棚に飾られた前衛的オブジェだ。

 それからしばらくは、乱視気味であったこともあり見るモノ見るモノが奇妙に見えたものだ。例えば、ダドリーがイケメンマッチョに見えたり、空飛ぶバイクを見たり、お辞儀をする人々を見たり、エトセトラエトセトラ。

 しかしいつの日か、それらはまともな光景に変わっていった。

 質問をしてはいけない。それはよくわかっていたつもりだったが、質問の形にならないよう細心の注意を払ってそれとなく聞いてみたところ、毎日言うことをよく聞いて『まともな態度』をとっていたから、きっと目がよくなったのだろうとペチュニアにぞんざいに言われたことを思い出す。

 それをマクゴナガルに話してみると、彼女はにこりと微笑んだ。正解だったようだ。

 因みにそれを聞いたペチュニアは、まともじゃないことをハリーがしていたという事実にショックを受けて卒倒した。

 

「じゃあ、ぼく……本当に魔法使いなんですね」

「そうですよ、ハリー。あなたには魔道を歩み、魔法を学ぶ権利があるのです」

「おまえさんはホグワーツで凄く有名になるぞ。いまに見ちょれ、今までの生活が屁みてぇなもんに思えてくるはずじゃて」

 

 マクゴナガルとハグリッドが、優しげな笑みを以ってハリーを歓迎する。

 なるほど魔法使いか。

 確かにそんな夢のような将来があるのなら、絶対にそちらへ進みたい。

 ダーズリーから離れられる。なんて嘘みたいな話。なんて夢のよう……。

 ホグワーツからの手紙を握りしめ、ハリーはその鋭い目つきを柔らかく閉じた。

 ああ、行ってみたい。魔法の世界に、行ってみたい。

 ハリーのそういった心変わりを見てとったバーノンは、崩れ落ちる妻を支えながら、なけなしの勇気を振り絞って叫ぶ。

 

「行かせん、行かせんぞ。ハリーをそんないかれたとこになぞ、絶対に行かせない」

「何故です、バーノン・ダーズリー。あなたはこの子を厄介者扱いしていたはず」

 

 マクゴナガルの問いに、バーノンは蒼白だった顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

 

「そいつが『まともじゃない』からだ! そいつはストーンウォール校に行くんだ。そして、それを感謝する日がきっとやってくる。わしはおまえらの手紙を読んだぞ。呪いの本だの魔法の杖だのフクロウだの……そんな品々が学校の授業に必要? 異常だ、まともじゃない。『まともじゃない』……。冗談じゃないぞ。ペチュニアと、妻とともにその子を引き取る時に誓ったんだ。両親から受け継いだであろうねじ曲がった性根をたたき直して、そう、『まともな人間にしてやる』と!」

「おまえのような凝り固まったマグルに、この子の意思を止められるものか」

 

 バーノンの剣幕に、ハグリッドが唸る。

 今度ばかりは正念場と思っているのか、バーノンは多少たじろいだものの踏み直す。

 とばっちりが来てはかなわん、とハリーは抜け目なくマクゴナガルの後ろに隠れていた。

 そんな姿を見てマクゴナガルは、臆病が過ぎる性格になってしまったようだがこの強かさがあればホグワーツでもなんとかやっていけるだろうと確信する。

 一方、バーノンとハグリッドの口論はヒートアップしていった。

 

「ハリーにはまともになる権利がある! 見ろ、多少は現実を見れる子に育っておる!」

「ホグワーツ歴代校長でも、最も偉大なアルバス・ダンブルドアのもとで学べるんだぞ!?」

「そんな得体のしれないくるったじじいのもとに、ハリーをいかせられるかッ!」

「きさま! おれの前でダンブルドアをばかにするなッ!」

 

 バーノンが吐いた暴言に憤怒してハグリッドの身体が膨れ上がり、傘を振り回す。

 マクゴナガルが止めようとした時にはもう遅い。

 ハグリッドの傘の先から紫色の光が飛び出すと、今まさにケーキに向かってダイブしようとしていたダドリーが尻を抑えて蹲った。すると、全ての服がはじけ飛んだかと思えば、最後の砦たるブリーフがばりばりと裂けていくではないか。見るに堪えない光景にハリーは目をふさいだ。ダドリーは「ああん! ああん!」と快感なんだか恐怖なんだかよくわからない奇声をあげている。ハリーは耳もふさいだ。

 やっぱりハグリッドも魔法使いだったのだろう。つまり魔法でアレ以上のことをしたかもしれない。恨みがないと言えばうそになるが、それでも育ての親たるバーノンがイボガエルにでも変えられたら寝覚めが悪い。

 怒り狂ったマクゴナガルがハグリッドを叱りつけている姿を見て、ハリーは一人落ちついてそんなことを考えていた。

 痴態をさらす息子と未だに気絶したままの妻を抱えて、バーノンは血相を変えて隣の部屋へ引っ張っていく。

 最後にハグリッドを一瞥、マクゴナガルを見て、ハリーと目が合う。

 木製のドアが壊れんばかりにぴしゃりと閉められた。

 

「なんてことを! ハグリッド、今のはアルバスに報告させてもらいます!」

「ああ――マクゴナガル先生様――すまんこってす――つい、つい――」

「なりません! まったく――こんな大事なことをあなたに任せるなど、賢明ではありませんでした! まったく――まったく!」

 

 保護者? たるダーズリーが隣の部屋に籠城してしまったので、三人はボロ屋の外へ出た。

 ここへ来た時はひどい大雨だったはずだが、どういうわけか小屋の周りだけ晴れている。

 狐につままれたような顔をしたハリーを見て、怒り心頭のマクゴナガルも表情を和らげた。

 

「さて、ハリー。夜も遅いですが、早いとこ向かうとしましょう。あんなところに居ては気が変になってしまいます」

「ところで先生」

 

 小舟に乗って陸を目指している最中、ハリーはマクゴナガルに問いかける。

 ハグリッドは叱られた上に校長に報告されると宣告されて抜け殻のようになってしまった。

 いままで質問が禁じられていたために聞きたいことは山のようにある。

 余談だが、この小舟はダーズリー達と共に孤島へやってきたときのものである。

 ……彼らはどうやって帰るのだろう。

 

「なんです、ハリー」

「ぼくの両親を殺した悪い魔法使い……、ヴォルデモートは、なぜ僕を殺せなかったんですか?」

 

 ヴォルデモートの名前を出した途端、抜け殻に魂が戻ってきて巨体がびくりと動いた。

 小舟が揺れて怖いのでハグリッドには動かないでほしかったのだが……。

 話を聞いていた時に、少し疑問に思ったこと。

 当時一歳のぼくがそんな大それた力を持っていたとは思えない。

 それゆえの疑問だったが、マクゴナガルはその疑問に対して答える術を持たない。

 

「……そのことですが、よくわかっていないのです」

「わかっていない?」

「ええ、謎なのです。あなたに放った死の呪いは、あなたにその額の傷を残してあの人自身へ跳ね返っていきました。だから、力を失い姿を消してしまったとされています」

「死んじまったっちゅー奴らもおるが、そんなこと言っとるやつは阿呆だ。奴につき従っていた馬鹿ども――死喰い人《デスイーター》っちゅーんだけどな――も次々戻ってきたもんだが、あれほどの力を持った男が死んだとは思えん」

 

 魂を取り戻したハグリッドが話を引き継ぎ、ハリーにコガネムシのように輝く瞳を向けた。

 ハリーには困惑しかない。

 

「おまけに、あの人は呪いを跳ね返された直後、なけなしの力を振り絞ってあなたに呪いをかけました」

「おまけにって」

「その邪悪な魔法は、失われたはずの闇の魔法。『命数禍患の呪い』です」

「は?」

 

 ハリーの困惑が頂点を目指して全力疾走を始めた。

 いま、なんと言った?

 

「命数禍患の呪いです。その邪悪な呪いをかけられた者は、成人するまでの人生で降りかかるであろう試練の全てが、よりハードに、より厳しいものになってしまうのです」

「ちょっ……」

「ハリー。叔父夫婦一家のあなたへの虐待が妙に過激だったのも、あなたの現在の環境も、おそらくはあなたへの扱いも。ほとんどはその呪いが影響しているのです」

 

 絶句しかなかった。

 確かに人より幸福ではない人生を送ってきたという自覚はあったが、まさかそれが他人の手による作為的な悪意であったとは。

 確かに幼少の頃は、なぜ自分ばかりがと泣き叫んだこともあった。

 不運な星の元に生まれたものだと諦めるしか、自らの心を守る手段はなかった。

 冗談じゃない。ふざけた真似をしてくれたものだ。

 ハリーは激怒した。ハリーには魔法界が分からぬ。だが髪の毛が逆立つほどに憤怒した。

 そんなハリーの怒りに拍車をかけるように、ハグリッドの一言が響き渡った。

 

「まぁ、ほれ。落ち込むなやハリー。俺にはさっぱり分からんが、おまえさんの中にある何か……なにかが、やっこさんをやっつけたことには違ぇねぇんだ。そう、だからこそハリー、おめぇさんは有名なんだ」

「ええ、そうですよハリー。あなたは魔法界では、こう呼ばれているのです――」

「――『生き残った男の子』、ハリー・ポッターとな!」

 

 ……。

 …………。

 沈黙が場を支配する。

 誇らしげに言い放ったハグリッドの顔色がさっと青ざめ、不安げになっていく。

 もはや激怒を通り越して疲弊しきったハリーは、己の姿を見下ろして唇をとがらせている。

 具体的には胸を。

 ハリーの様子を見て何かしらほっとした様子のマクゴナガルが、見かねて言葉を紡ぐ。

 

「ハグリッド。ハリーのフルネームを言ってご覧なさい」

「えっ」

「いいから言いなさい」

「えっ……あ、ああ。ハリー・ジェームズ・ポッター。……じゃろ?」

 

 何かを探るようなハグリッドの目付き。

 なんてことを言ってるんだコイツは、とハリーの唇から盛大なため息が漏らされた。

 多少涙目になったまま、半目でハグリッドを睨みつけているその姿は少々可愛らしい。

 未だにおろおろしているハグリッドに対して、マクゴナガルはこう言い放った。

 

「ハリーは愛称ですよ、ハグリッド」

「なんじゃと」

「正しくはハリエット。ハリエット・リリー・ポッター。将来の立派なレディです」

 

 そう言うとマクゴナガルは懐から杖を取りだし、軽く振った。

 

「『スコージファイ』、清めよ」

 

 すると杖から迸った泡がハリーの頭を洗い流し、ダーズリー家ではシャンプーの使用を許されなかったために水洗いでぼさぼさになった黒髪が、さらさらのそれに生まれ変わる。傷跡を隠すために長めにしていたため、整えていないはずの髪型もそれなりに見える。

 ダドリーのお下がりである毛玉をふんだんにあしらったセーターとダボダボ・ジーンズも、ぴしっとノリの効いたブラウスとすらっとした黒のパンツに変わる。

 埃まみれの肌も綺麗な白に拭かれれば、そこにはボーイッシュな出で立ちの少女が座っていた。

 見目も悪くはない。いや、むしろ、よい。

 小汚い少年と思われたハリー・ポッターは、実のところ小柄な少女であった。

 その事実を初めて知ったハグリッドは、黒い瞳を真ん丸に見開いて驚いている。

 

「驚き、桃の木、マーリンの髭。こりゃー、おったまげた……」

「……まぁ、無理もないのかもしれませんね。あの人がハリーにかけた呪いは、きっとこういうことだったのでしょう……」

「あー、うむ。失礼したな、ハリー。いや、ハリエットか?」

 

 久々にさらさらの髪の毛を取り戻して、内心大喜びしていたハリエット――ハリーは、その言葉に反応した。

 いままでのとんでもない人生が、全てそいつの所為だというのなら。

 許すことは出来ない。

 身を焼かれるような憎悪と、理不尽な仕打ちへの激情が湧きだしてくる。

 そして彼女は、ひとつの決心をした。

 

 ――そんなふざけた野郎、ぼくがこの手で殺してやる。

 

 そう、呟く。

 わずか十歳、いや十一歳の少女がうちあげた復讐の狼煙。

 それを耳にした大人二人は、己の耳を疑いながら、ただ目を丸くする。

 これが後に闇の帝王に立ち向かう、勇者の誕生の瞬間である。

 ハリエット・ポッター――ハリーは、父譲りの黒髪をかきあげ、母譲りの翠眼を、両親のどちらにも似ていない飢えた獣のような鋭い目つきで細め、笑った。

 獅子のように獰猛な笑みのまま、ハリーは船の行く先を、水平線の彼方に見える英国の大地を見つめる。

 それは七月の終わり、八月に至る熱い夏の日だった。

 




長ぇ。
というわけで、ミスター・ハリーはミス・ハリーでした。女の子でした。

【変更点】
・彼から彼女へ。ハリエット・リリー・ポッター。
 女性化することによってパワー的な意味で弱体化。取っ組み合いは死を意味する。
・ダーズリーによるイジメの過激化により、ビビりメンタル化。
 目つきが鋭く攻撃的な思考になり、若干友情を築きにくくなるバッドスキル付与。
・フィッグ婆さんのご冥福をお祈りします。
・メガネ「俺が何をしたって言うんだ」

まずは賢者の石を書き切ろうと思います。
基本的に正史と同じ展開で物語が流れていきますが、彼女が生き残るために頑張る(予定な)ので、だんだんとズレていくことでしょう。
悪魔泣かすイケメン本人は出てこないですが、このハリーはやるときはやる女です。
どうか楽しんで頂けたら幸いです。

因みに今日はハリーのお誕生日。尻に敷いたケーキをあげよう。


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2.九と四分の三番線

 

 

「ハグリッドェ」

 

 ハリーは一人つぶやいた。

 場所はロンドン、キングズ・クロス駅。

 学校への汽車が出るからそこへ行くように、との事だった。

 華奢な白い両手が握るのは、大量の荷物が積まれたカート。カゴに入った白フクロウ――教科書にあったイカした名前を拝借してヘドウィグと名付けた――まで乗っているのだ。目立つどころの話ではない。

 じろじろと突き刺さる視線を感じながら、ハリーは亡きフィッグ婆さんから貰った猫柄のハンカチで手の汗を拭う。

 なぜこうなったのか。

 思い返すのは七月三十一日、ハリエット・ポッター自身の誕生日のこと。

 ああ、本当に、どうしてこうなった――。

 

 

 孤島からの脱出後、小舟は滑るように海を走り、岸辺へ辿り着いた。

 マクゴナガルとは、そこでしばしの別れであった。

 どうやら彼女はホグワーツの副校長先生らしく、忙しい中あまりに心配だったのでやってきたのだという。確かにハグリッド一人では何か失敗してしまいそうだと失礼にもストレートにそう思ったハリーは、ありがたみを感じていた。

 封筒に入っていた、新一年生に必要なモノが記述された二枚目の手紙をよく読み、正しいものを買って、間違ったものを買わないようになさい。あとハグリッドが余計なことしたら報告してください。と言い残すと、マクゴナガルはハリーが瞬きをしたその途端、その姿が掻き消えていた。

 

「ふぃー」

「大丈夫、ハグリッド。マクゴナガル先生が苦手だったの?」

「いや、いや。先生様がいると、ちょいと緊張してな。うーむ、いかんいかん」

 

 ハグリッドは毛皮のコートから、ハリーが腰に巻くとスカートになるのではと思うほどのサイズをしたハンカチを取り出すと、玉のような汗を拭う。

 そうして二人がやってきたのは、英国首都ロンドン。

 魔法界への入口があるとのことでやってきたのだ。

 地下鉄でのハグリッドは、やれ狭いだの、やれ電車はすっとろいだの、あまりにうるさかったので、ハリーが小さく「報告」と呟いて黙らせた。

 そんなハグリッド曰く、ハリーがホグワーツへ通う七年の間に必要なお金は亡き両親が遺しておいてくれていたらしい。ハリーが一歳の時に亡くなったというのに、見通しの良さがとんでもないなと思ったが、当時は闇の魔法使いヴォルデモートとかいう奴に、いつ誰が殺されるかわからない物騒なご時世だったことを思い出した。

 荒れ果てた世の中であってなお両親は自分のことを考えていてくれたという事実に感謝し、彼らが決してろくでなしなどではないということをハリーは思い知った。

 

「じゃあ、そのポークビッツ銀行ってとこに行くんだね」

「グリンゴッツな。魔法使いの世界にただ一つある銀行だ。小鬼が経営しとる」

「小鬼て」

「おうともさ、小鬼だ。だからこそ、銀行強盗なんて狂気の沙汰じゃて。奴らドラゴンまで用意しちょる。あー欲しい。羨ましい」

「ドラゴンまで……ほんと御伽噺みたいだ。でも欲しいってなに、ペットみたいに?」

「おっと、ハリー。着いたぞ、漏れ鍋だ。有名なとこだぞ」

 

 ハリーの問いを遮るようにハグリッドは大きめの声でそう言った。ハグリッドが大きめの声を出すということはつまり、周囲の人間――恐らく全員マグル――が全て振り返るほどの声量だ。

 たくさんの人に怪訝な顔で見られてハリーは顔が熱くなるのを感じ、ハグリッドに対して早く行こうと鍋蓋のような手を突っついた。

 突っついても感じていなかったようなので、拳でぶっ叩いた。

 しかし、周囲の人間にあれだけ見られていながら、漏れ鍋と称されるパブに注意を向けるような人間がいない。

 これはいかなることかと訝しむも、魔法界の入口というだけあって、魔法でもかかってるんじゃないかとハリーは思った。そう思った途端、みすぼらしいパブはおどろおどろしい魔窟に見えてくるのだから、人は現金なものである。

 一体どのような悪鬼羅刹がいるものやらと少々怯えていたハリーは、ハグリッドに促され中に入ってみて勝手ながら落胆した。中に居たのは、朝っぱらからシェリー酒を飲む三人の老婆と、胡桃のように禿げたバーテンと話すシルクハットの小男。

 ハリーが入った時に天井にいた何かと一瞬目が合ったが、それはすぐに何処かへ行ってしまった。不気味なところだ。ハグリッドが窮屈そうに屈んで店に入ると、皆が笑って声をかけている。どうやら店内の全員が彼の事を知っているようで、一杯やるかい。だの、今日はカードで遊んでいかないのか。だの、実に友好的な声が多い。

 なんだ、ぼくが有名なんてことを言っておいて、自分の方がしっかり広い顔を持っているんじゃないか。とハリーは思った。今のいままで多少情けない大男という認識しかなかったハグリッドが、急に大きな人に見えてくる。

 

「いや確かにデカい人だけどさ」

「ん? 何か言ったか、ハリー」

「いいや、なんにも」

 

 ハグリッドの言葉に反応したバーテンが、おやという目でハリーに目をやる。

 そうして何やらはっとしたような顔になると、カウンターから出てきてハグリッドに向かって慌ただしく詰め寄った。

 この後ハリーは、数分前の自分の考えを後悔する事になる。何をハグリッドに対して卑屈になっていたんだ。なんだこれは、とんでもない。

 

「は、ハグリッド。もしや、もしやこの子……いや、この方が……」

「トム、そうだとも。ホグワーツの仕事でな」

 

 すると雷に打たれたような顔をしたのはバーテン――トムだけではなかった。

 店全体が静まり返ったところで、トムは感極まった声を絞り出した。

 

「やれ嬉しや! ハリー・ポッターか!」

 

 トムのその一言は、パブ漏れ鍋をハリー・ポッター握手会場に変える呪文だった。

 パブ中にいた全ての人間がハリーに握手を求め、ハリーが少女である事にたいそう驚いていた。『生き残った男の子』……。いったいどれほど広まっているのか、せめてハグリッドの友好範囲内であってほしい。とハリーは内心で汗を流して願っていたが、あしからず魔法使い全員がそう思っている事は知らぬが仏である。

 そうしてしばらく握手会を続けて、昔ダドリーと一緒になってテレビで見たアイドルになった気分だと変な感覚になっていたところで、ターバンを巻いた青白い顔の男が握手を求めに現れたことに気付いた。

 

「クィレル教授でねぇか! ハリー、この方はホグワーツで先生をやっとられるお方だ」

 

 ハグリッドの紹介を受けて、クィレルが神経質そうな声を漏らす。

 

「ミ、ミ、ミスター・ポッター。いや、いや、ミスだったんだね。お会いできて光栄です」

 

 クィレルの骨ばった手と握手を交わす。

 ――瞬間。

 どうにも抗いがたい頭痛にこめかみを撃ち抜かれて、ハリーの身体が硬直する。

 目の前が緑の光で激しくまたたいた。

 見覚えがあるような、ないような、そんな不思議で悪辣な閃光と、頭蓋を貫く激痛。

 だがその程度の痛みならダドリーの拳で何度も味わっているので、すぐに平静を取り戻す。

 数瞬で立ち直ったハリーはクィレルに、この数十分で獲得した営業用スマイルを向ける。

 それは、つい数時間前までハグリッドに男の子と言われていたとは思えないほど魅力的だった。

 

「こちらこそお会いできて光栄です、クィレル先生。なんの教科を担当しているのですか?」

「や、やみ、闇の魔術に対する、ぼ、防衛です。あ、ああ恐ろしい。き、きみの、おかげで、もはや無用の長物と、か、化していますがね。が、学用品を、かいっ、買いに来たんだね。いっ、いい成績をとってくれることを、い、祈っているよ」

 

 クィレル先生との握手を終え、最後にやってきた男性ともう一度握手を交わし、バーテンのトムがくれた濡れタオルを手に持ってハグリッドとともにハリーは裏庭へ出た。

 別に汚い手をした奴がいたから、などという理由ではない。単純に衛生的な問題である。

 ありがたくタオルで手を拭きながら、ハリーはハグリッドに問うてみる。

 

「ホグワーツの先生って割には、なんだか神経質な人だったね」

「以前はあんなんでもなかったんだがなあ。授業で使う教材をおれのもとに取りに来たりしてたんだ。……ああ、おれはホグワーツで森番をやらせてもらっているんだ。で、だ。どうもどっかで吸血鬼に出くわしたらしくて、それ以降はくっさいニンニクを身に纏ったり、誰に対してもビクついちまったり……人が変わってしもうたわい。恐ろしいことじゃて」

 

 ドラゴンだの吸血鬼だの……。

 なんだか魔法界って、想像以上に危ない所なのではないだろうか。

 

「そういうの……ホグワーツには来ないの? えっと、吸血鬼とか」

「ホグワーツは絶対に安全だ。世界のどこを見たって、あすこ以上に安全なところはないぞ」

「なんで?」

「校長先生さまが、世界最強の魔法使いだからだ」

 

 誇らしげに言うハグリッドの言葉に、本当だろうか? などとハリーが考えているうちに、ハグリッドは例のピンク傘を取り出して煉瓦の壁をカツカツと叩き始めた。

 叩き方から見てどうやら規則性があるらしいが、ハリーにはさっぱり分からない。

 そうすると煉瓦がひとりでに動き出し、ガラガラと擦れる音を立てながら巨大なアーチ型の入口に変化していったではないか。

 驚くハリーに対してにっこり笑ったハグリッドが、その大きな手を広げて言う。

 

「ここがダイアゴン横町だ。そして、ようこそ――魔法使いの世界へ」

 

 その様は圧巻の一言に尽きた。

 黒いローブを着て天よ貫けとばかりに高い三角帽を被った魔女。

 赤に青、緑に紫と色とりどりのローブを着ている子供は、綺麗な箒が飾られているショーウィンドウにへばりついて「ニンバスの新型だ!」「すっげぇ」と大興奮している。

 薬問屋の前では小太りの中年女性がドラゴンの肝が高い事に不平を漏らしている。

 大鍋が積み上げられた店では、中身を自動で掻き混ぜる金の大鍋の実演販売をしていた。

 呪文の本を売っている店がある。「憎いアイツを豚に変える魔法」「呪いのかけ方、解き方」「帝王・女帝への道~これで君もスリザリン主人公~」……なんだか物騒な題名が多いが、実に興味深いものばかりでどれも読んでみたくなる。

 あたりをきょろきょろ見渡していると、ハグリッドが指差してあれが銀行だと言う。

 高く伸びた白い建物。なんだか建築法ガン無視な不安定な曲がり方をしているが、きっと魔法でどうにかなっているのだろう。そうでなければ崩れてしまっている。

 長い指で金貨や銀貨をかちゃかちゃ天秤に乗せて計っているのが小鬼だろう。

 ハリー・ポッターの金庫を開けたい。とハグリッドが手隙の小鬼に黄金に光る鍵を渡すと、小鬼は承知しましたとしわがれた声で一言。次にハグリッドが懐から手紙を取り出し、

 

「ダンブルドア教授から。七一三番金庫のものを」

 

 と、誇らしげな声で重々しく言った。

 それについても小鬼は淡泊な声で承知の旨を告げる。

 そこからは、まさに魔法といった光景だった。

 グリップフックと名乗る小鬼に連れられて、一人でに走るトロッコに乗って洞窟のような通路を超速で走っていく。まるでジェットコースターだ。……ハリーは乗ったことがないが、ダドリーが誕生日に遊園地へ連れて行ってもらったことを自慢されたのを覚えている。

 そんな回想をしている内に目的地に辿り着いたようだ。ハグリッドが気持ち悪そうにしているので、あの超高速に酔ってしまったのだろう。意外と繊細な男だ。

 小さな扉の金庫をグリップフックが開けると、中には金貨や銀貨、銅貨がずらりと並んでいた。

 

「おまえさんの父さん母さんが遺しておいてくれたものだ。おまえさんが成人するまで……ああ、魔法界では十七歳で成人だ。だから、その年齢までの学費分は十分あるぞ。もっとも、無駄遣いはできんがね」

 

 グリップフックが差し出した袋に、金貨や銀貨をある程度詰め込んでいく。

 ポケットに入りそうなほど小さな袋なのに、明らかに質量保存の法則を無視した量が入っていく光景を見て、ハリーはコンピューターゲームのお金はきっとこうなっているのだろうと関係ないことを思った。

 ハリーの小柄な体ではなかなか時間がかかりそうだったので、ハグリッドが手伝った。

 

「金貨はガリオンで銀貨がシックル、銅貨はクヌートだ。十七シックルで一ガリオン。一シックルは二十九クヌートだな」

「ありがとう、覚えておくよ。ところでハグリッド。ぼく、内緒でやったベビーシッターのアルバイトで少しだけお金あるんだけれども、一ポンドで何ガリオンかな?」

「ハリー、ポンドって何だ? スパイか?」

「何も言ってないよハグリッド。忘れて」

 

 続いてトロッコで走っていったのは、七一三番金庫。

 先程ハグリッドが何やら小鬼に言っていたところだ。

 小鬼が金庫の扉に向かって長い指でするりと撫でると、扉が音もなく消え去った。

 中にあるのは、薄汚れた小さな包みただ一つのみ。

 他人の金庫の中身を覗くのは何だかはしたないな。と思ってハリーが目を逸らすと、偶然グリップフックと目が合った。そしてにやりと笑われる。

 

「グリンゴッツの小鬼以外の者がこれをやりますと、扉に吸い込まれてしまいます」

「……どうなるの、それ」

「閉じ込められますな。十年に一度の点検の日まで、ずっと」

 

 ハリーは身震いした。魔法界ヤバい。

 ハグリッドが包みを懐に入れ終えると、またトロッコに乗って地上を目指す。

 トロッコから解放されて陽の光を浴びる頃には、ハグリッドの顔色は空のごとく青かった。

 

「先に制服を買った方がいい。おれはちょっと、その、うっぷ。……これだ。漏れ鍋で元気薬をひっかけてくるから、ちょいと先に行っておいてくれ」

 

 言うが早いが、大男は人込みをかき分けて行ってしまった。

 「マダムマルキンの洋装店」という看板のかかった店に入って行く途中、いやな液体音と低いうなり声、複数人の悲鳴が聞こえてきたがハリーは何も聞かなかった事にした。

 ずんぐりした体型の魔女、マダム・マルキンはハリーが店に入るなり、

 

「坊っちゃんもホグワーツなのね?」

 

 と声をかけてきて、ハリーが「坊っちゃん」に抗議する前に巨大な姿見の前に放り込んだ。

 マダムが藤色のローブから巻尺を引っ張り出すと、巻尺は勝手にハリーの全身の寸法を測りはじめる。ふと視線に気づいて顔を向けると、隣では顎の尖った青白い肌の男の子が別の魔女に採寸を受けているところで、ハリーの事を見ていたところだった。

 

「やあ。君もホグワーツかい?」

「うん。じゃあ君もだね」

 

 男の子の呼びかけに、ハリーが先程覚えた笑顔でにっこりと返す。

 ダーズリーの家でもこの愛想のよさを覚えていれば、もう少し待遇も違ったのだろうか。

 笑いかけられた男の子の青白い頬に、少し桃色が差した――本人は気付いていないが、身だしなみを整えたハリーはかなり器量がよい――が、マダムがハリーにズボンを当ててサイズを計っている事にハッと気が付くとふるふると首を振って言葉を続けた。

 最初の挨拶もそうだったが、どうも気取った喋り方をする少年だ。

 プラチナブロンドの髪をオールバックにしているのもあって、まるで貴族のようだ。

 

「僕の父は隣で教科書を買っている。君は……見たところまだみたいだね。薬瓶はいいものをそろえた方がいい。ガラス製なんてダメだね、クリスタル製なら魔法薬が劣化しないよ」

「うん、覚えておくよ。ありがとう。じゃあ、君はもう学用品は……」

「当然そろえたさ。これから競技用の箒を見に行くんだ。一年生が持ちこんじゃいけないだなんて、意味が分からない。父をちょっと脅して、一本や二本くらい買わせてやるさ」

「脅すて」

「君はクィディッチをやるのかい? というか、自分用の箒はある?」

「クィディッチ? ……あー、いや。持ってないよ」

「なら是非持つべきだ。僕はいま、コメット二六〇を持っている。以前はツィガー九〇を買ってもらったんだが……アレはダメだね。いい箒じゃなかった。何を買ってもらおうかな……クリーンスイープはもう古めのものだし、やっぱりニンバス二〇〇〇がいいかな」

 

 言葉の上では上品だが、言ってる事はかなりアレだ。

 まるで気品のあるダドリーみたいだ。とハリーは思った。

 そんなハリーの失礼な感想などつゆ知らず、その後も男の子は喋り続ける。

 

「君の両親も魔法族なんだろう?」

「らしいね。死別しているから、会った事は覚えていないけれど」

「おや、悪かったね。でもあれだなあ、他の連中は入学させるべきじゃないと僕は思うね。なにせ奴らは、なんて言えばいいのかな、そう、信じられない奴らさ。入学するのは僕らのような純粋な魔法族に限るべきさ。君もそう思うだろう?」

 

 その後もハリーは採寸されながら、男の子がぺらぺらと喋るのを聞いていた。

 よく喋る男の子だ。とハリーが思って答えを返そうとした時、ハリーの後ろから今のいままで聞いていた自慢話の声とそっくりな声がかけられた。

 

「スコーピウス。採寸は終わったのかい?」

 

 ハリーが振り返ると、まさに隣で喋っていた男の子と瓜二つの男の子が目の前にいた。

 青白い肌、尖った顎、プラチナブロンドのオールバック。

 隣の男の子――スコーピウスと違うのは、声が多少落ちついているくらいか。

 双子か。とハリーが思った時、もう一人の男の子がハリーに声をかけてきた。

 

「すまないね。僕の弟は喋り好きなんだ」

「ドラコ。余計なこと言わないでくれ」

 

 採寸が終わったらしいスコーピウスは、ドラコと呼んだ兄の隣に並んだ。

 まるでコピーしたかのようにそっくりだ。

 もし二人が腕を組んでぐるぐる回ったら、ハリーにはとても見分けがつかなかっただろう。

 

「じゃあ、次はホグワーツで会おう。たぶんね」

「さようなら。同じ寮になれるといいね」

 

 気取った声のスコーピウスと、落ちついた声のドラコが去っていく。

 ハリーはそれを見送っていると、窓の外にハグリッドが立っているのが見えた。手には二つの巨大なアイスクリームが。バレーボールほどあるのではなかろうか。

 マダムが二〇分もあればできるから、後でおいでなさいな、と言ってくれたのでハリーは店から出てハグリッドの袖に掴まった。

 

「どうしたハリー」

「たいしたことないさ。ちょっと疲れただけ」

 

 ハグリッドが持って来てくれたアイスクリームを食べながら、ハリーは彼に対して何度目かわからない質問をしてみる。

 

「さっき店の中で会った男の子に聞いたんだ。クィディッチってなに?」

「ああ、そうだった。おまえさんクィディッチを知らんとは! そりゃ損だ」

 

 ハグリッドは手の中のアイスを一口で半分ほど食べると、箒専門店らしき店を指差した。

 先程の子供たちが未だにへばりついているショーウィンドウに、綺麗な箒が飾ってある。

 

「俺たちのスポーツだ。みんなが夢中のエキサイティングなもんで……えーっとだな、おう、マグルでいうサッカーっちゅうやつみたいなもんだな。ルール説明は面倒なんで今度だ」

「サッカーは知ってるんだね。……じゃあ、次。その子の双子のお兄さんが、学校で同じ寮になれるといいね、って言ってくれたんだけど、寮って複数あるものなの?」

「おうとも。グリフィンドール、レイブンクロー、ハッフルパフ、んでスリザリン。その四種類だな。俺も、お前の両親も、グリフィンドールだったぞ」

「へえ、じゃあぼくもそこに入りたいな」

「おう、おう。そりゃ嬉しいことを言ってくれる。むしろお前さんがスリザリンに入ったらびっくりだな。悪の道に走った魔法使いや魔女はあすこ出身のもんが多い。『例のあの人』もそうだ」

「ボルシチ……じゃなかった、ヴォルデモートも?」

 

 ハリーがその名を出した途端、周囲十人ほどの魔法使いたちがビクッと肩を揺らした。

 中には犯罪者を見るような目でハリーを睨む人まで居る始末。

 ハグリッドが慌ててハリーの口をふさぎ、せかせかと急ぎ足でその場を去った。

 

「これ。これ、ハリー。その名をむやみに言っちゃいかん、まだ恐れとる魔法使いが多い」

「ご、ごめんなさい。……じゃあ、ヴォル……あの人もホグワーツ出身だったの?」

「むかーしな。昔々、のことさ……」

 

 数々の教科書に錫製の大鍋や天秤、望遠鏡に薬瓶――スコーピウスの忠告通りクリスタル製だ。少々高くついたが――の他には真鍮の物差しを買うと、お昼の時間が近くなってきた。

 くぅ。とハリーがお腹の虫を鳴らして顔を真っ赤にすると、ハグリッドは大笑いして頭を撫でる。

 

「おう、おう。あとは杖だけだ。そんでもって、誕生日プレゼントも必要だな」

「えっと、そんな、うー……」

 

 ハリーの髪の毛をくしゃくしゃにしたハグリッドが満面の笑みで言う。

 不器用で力強すぎる撫で方だったが、なんだか悪い気分ではない。

 誕生日プレゼントなど、恐らく生まれてこの方もらっていないハリーはなんだか恥ずかしくなって口をもごもごさせてしまったが、ハグリッドは遠慮するないと言ってハリーを杖の店に放り込んだ。楽しみにしておきな、と言い残して。

 放り込まれた杖の店の名は、オリバンダーの店。ハグリッドが言うには高級杖メーカーだそうで、世界一の杖職人がやっている店だから杖はここに限る、だそうだ。

 

「ごめんくださ――」

「はいよ」

 

 静かな店の中、シュガッ! と椅子をスライドさせて現れたのは老人だった。ハリーは空中に浮いた椅子にもそうだが、大きな音に驚いて短い悲鳴を漏らした。

 女の子みたいな悲鳴をあげてしまった……いやぼくは女の子だ……なにがわるい……。

 そんな意味のない思考をしているうちに、オリバンダーが微笑んている事に気づいた。

 

「待っていましたよ、ハリー・ポッターさん。お母上と同じ色の瞳にさらさらの髪……色が黒いのはお父上譲りじゃ。でも目付きだけは二人と違いますな、まるで獅子のように鋭い」

「二人を知っているの?」

「もちろんですとも。二人がこの店に来たのを、昨日のように覚えとる。お母上は二十六センチの柳の杖、お父上は二十八センチのマホガニーじゃったな。二人とも、優秀な魔法使いに育ってくれた」

 

 オリバンダーがハリーの隣まで歩いてきて、その髪を撫でる。

 ハリーは今までろくでなしだと思っていた両親を誰もが褒めているので、ちょっとばつが悪かったがそれでも悪い気はしなかった。

 老人の節くれだった白い指が、ハリーの額に触れた。

 そこにあるのは稲妻型の傷。闇の帝王がつけた忌まわしい傷。

 

「哀しいことじゃが、この傷をつけた杖もわしが売ったものですじゃ。イチイの木でできた三十四センチの杖……ああ、あの杖も恐ろしい者を選んでしもうた……」

 

 老人の憂いの声が、少し湿っぽくなったのを感じてハリーは気まずくなった。

 

「しかしルビウス。ルビウス・ハグリッドのやつめ。わしに会わんよう逃げおったな」

「えっ?」

「あやつ、実はホグワーツを退学になっておってな。そいでその時の処罰として、わしの作った杖を折られとるんじゃ。どーせまだ使っておるわい、あのバカもんめ」

 

 憂いの声は、突然ハグリッドのことを話しておどけた色に染まる。

 きっとハリーの気分を察してくれたのだ。

 ハリーは有難い気持ちになって、オリバンダーの事を信頼する気持ちが芽生えた。

 そして老人は話しながら、自動で長さを計る巻尺を取り出してハリーの腕を計りはじめた。

 

「このオリバンダーの作る杖は、強力な魔力を秘めた様々な物品を芯に使っとります。じゃから一つとして同じものは存在せず、つまりそれは他人の杖を使っても、自分の杖程の効果は出ないということになりますな。おまけに杖は持ち主を選ぶ。他人の杖を勝手に使っても杖が主人と認めてくれねば、本来の半分も効果は出んじゃろうな」

 

 巻尺が勝手に鼻の穴のサイズを計ろうとしたのに気付いて、それをつかみとって千切るぞと小声で脅すと、巻尺は大人しく腕回りを調べに戻った。

 それを見てオリバンダーは「威勢のいいお嬢さんだ」と言ってくれたのに対して、彼がまともに女性扱いしてくれた事でハリーは上機嫌になった。実はマダムマルキンの店で、結局ハリーが言うまでスカートでなくズボンを見立てられたことに腹を立てていたのだ。

 そして何本かの杖をハリーに持たせ、ひったくって別の杖を持たせ、またひったくるというよく分からない行動をしたのち、最終的に一本の杖をハリーに持たせた。

 

「柊と不死鳥の羽根。二十八センチ、良質でしなやか。……振ってみてくだされ」

 

 オリバンダーに言われるまま杖を振ると。

 美しい赤と緑の光が杖から飛び出し、金色のフリルがそれらを取り巻いてハリーを飾り立てた。それを見てオリバンダーは素晴らしい! と叫ぶ。

 

「いやはや、素晴らしい。ブラーヴォ。こんなこともあるのですな……いや不思議じゃ、まったくもって不思議じゃ」

「……不思議って、なにがです?」

「ポッターさん、その杖に使われておる不死鳥の羽根じゃが……じつはもう一本だけ。他の杖にも、その尾羽が使われておるのですじゃ。ああ、恐ろしい。兄弟杖がその傷を刻んだというのに……」

 

 ハリーはハッとした。

 つまりそれは、ヴォルデモート。

 名前を言ってはいけない例のあの人と呼ばれる彼も、ハリーと同じ芯の杖を持っている。

 ハリーはバーノンの影響で、運命などという『まともじゃない』ものは信じないことにしているが、この時に限ってはそういうものもあるのではないかと思っていた。

 オリバンダーは続けて言う。

 あの人もある意味では偉大な事をした。あなたもきっと偉大な事をなさるだろう。ですが道を踏み違えてはなりませんぞ――。

 杖の代金を払って店を出たハリーは、そこでハグリッドが白いフクロウの入った大きな籠を持って立っていることに気付く。「ハッピーバースデイ!」と彼が屈託のない笑顔で言うと、ハリーは先程の不吉な気分が溶けて流れ去っていくのを感じた。

 彼は、ちょっとばかり阿呆だ。だがそれを補うほどにいい人だ。素敵な人なのだ。

 ハリーはにこりと笑うと、ハグリッドの腕に勢いよく抱きついた。

 

 ロンドン地下鉄。

 プリベット通りへ戻るための電車に乗るためここまで一緒にやってくる道中、ハリーはハグリッドと色々な話をしていた。

 ホグワーツはどんなところなのか、何に気をつけるべきなのか、両親はどういった人だったのか。そして何より、自分の知らないところで自分が有名であることが不安だ、ということも彼に対して吐露した。

 自分の弱みを決して見せないように育ってきたハリーにとって、誰かに悩みを相談するというのは初めてのことであった。

 

「ハリー。心配することはない。たしかにお前さんは有名になっちまった。これはもう、仕方のないこった。んでも、それがなんだってんだ。おまえさんはおまえさんだ、ハリエット・ポッターだろう。まぁおれはてっきり男の子だと思っちょったがな。……そうむくれるな、今度からはレディとして扱っちゃるか? だがな、ああ。ホグワーツは、楽しいぞう?」

 

 彼と話している最中、ハリーは終始笑顔だった。

 それは実に魅力的なもので、実に年相応の女の子らしかった。

 十一年間の人生で初めての友達を手に入れたのだ。

 嬉しくないはずがない。

 ホグワーツでまた会おう。と約束をして、ハリーはハグリッドと別れて地下鉄に乗った。

 

 ダーズリーの家に辿り着いてまず行ったことは、ダドリーに対して頭を下げる事だ。

 今まで己をサンドバッグにしてきた相手だ、憎くなかったと言えば嘘になるし殺せるものなら殺してやりたかったが、あの醜態は流石にちょっと可哀想だった。

 だがダドリーはハリーに対して豚のような悲鳴をあげると、冗談みたいな速度で部屋に逃げ込んでしまった。開けゴマしようものならショック死したかもしれない。

 バーノンはバーノンで、ハリーを居ないモノとして扱ってきた。ハリーが何をしようともガン無視だ。ハリーが脱衣所にいる時に入ってこようとしたときは殺すつもりで石鹸を投げたところ、息子そっくりの悲鳴をあげた。

 ペチュニアはと言うと、何故かは知らないがハリーに服を与えるようになった。ゴマスリのつもりだろうかとハリーは訝しがったが、どうやら吹っ切れたというか自棄になっているようだった。実は娘も欲しかったのよねェーえ、オホホのホォア! と血走った眼と裏返った声で言われては、反論などできようはずもない。ハリーはホグワーツまでの一ヶ月間、大人しく着せ替え人形になった。

 もうダーズリーの連中が無理強いすることはなくなったが、なんだか落ち着かなかったので毎朝の掃除とジョギング、朝食の用意という日課は続けることにした。

 八月の第二日曜日。オレンジのラインが入った紺色のジャージ(ペチュニアが嬉々として買い与えてきたもので、ここまでくるとハリーも素直に感謝し始めていた。もっとも、ペチュニアのチョイスは若干少女趣味に過ぎるが)を着て毎朝のジョギングをしていたところ、ハリーが自身の肩に重みを感じて視線を向けると、なんと茶色いメンフクロウがとまっていた。

 すわ何事かとたまげたハリーだが、フクロウの首にホグワーツの校章が入ったスカーフが巻かれている事に気づいた。これはハグリッドの言っていた『フクロウ便』というものだろうとハリーは考え、案の定フクロウの肢に括りつけてあった手紙を受け取る。

 羽根をひと撫ですると、ホーと嬉しそうな声を残してフクロウは飛び去っていった。

 早朝で幸いだった。

 プリベット通りの住人に見られれば、噂好きの彼らの事だ、ペチュニアやバーノンの耳に入るのは間違いない。そんな『まともじゃない』ことをハリーがしていたとなれば、今更ではあるがいい顔はしないだろう。下手に刺激したくはない。

 

「なにこれ? 切符? ……と、手紙だ」

 

 歩道で突っ立って読むのもアレなので、ハリーは一度ダーズリー家に戻って読むことにした。

 丁度起きてきたダドリーがハリーを見て悲鳴をあげて逃げ出すのを無視しながら、ハリーは新たに二階へ宛がわれた自室に入っていった。ダドリーは隣の部屋なので、ハリーが扉を開けると自分の部屋に来たものと勘違いしたのか、絹を裂くような悲鳴をあげていた。最初は哀れに思ったものだが、最近では鬱陶しいだけだ。慣れって怖い。

 埃っぽくない、清潔なベッドに座るとハリーは手紙を開いた。

 

【親愛なる我が友、ミス・ポッター

 ようハリー。驚いたか? これがフクロウ便だ。魔法界ではこれが主な連絡手段になるから、よっく覚えておくがええ。んでもって、今回の要件なんだが、まずはすまなかったと謝らせてもらう。ホグワーツに行くには、同封した切符が必要だ。渡し忘れちょった。マクゴナガル先生様に言われてようやく思い出したわい。おれぁこれから先生のお説教を受けにゃならんから、用件だけ書いて送っておく。なに、全部切符に書いとる。心配めさるな、学校で会おう。

 P.S.ダーズリーに何かされたら俺にフクロウ便を送れ。とっちめちゃる。 ハグリッドより】

 

 手紙にはこんな事が書かれていた。

 遅い! というかこんな大事なことを忘れていたのかあのデカいのは!

 ハリーがそう叫ぶと、隣の部屋からブヒィと悲鳴があがった。

 我に返ってちょっと頬を染めたハリーは、手の中の切符を再確認して――

 

 

 ――今に至る。

 チェックシャツにデニムというボーイッシュな服装(ペチュニアイチオシ)をしたハリーは、途方に暮れていた。

 キングズ・クロス駅まではバーノンの車で送ってもらえた。

 別れる際ににやにやしていたのには、理由がある。

 ハリーのホグワーツ行き切符に書かれていたのは『九月一日、キングズ・クロス駅発。九と四分の三番線』というもの。

 九と四分の三? ……まともじゃない。

 バーノンの影響ですっかり口癖になった台詞を呟き、ハリーは切符から顔をあげた。

 九番線には列車が止まっている。人類の技術進化を感じさせる近代的なデザインだ。

 十番線には何もない。

 念のため駅員に聞いてみたところ、やはり知らないと言われたし、ホグワーツという名前すら通じなかった。悪戯と思われて嫌そうな顔をした駅員が行ってしまうのを見て、ハリーは泣きそうになった。というかちょっと涙が出た。

 ハグリッドめ。

 明らかな説明不足に、ハリーは歳の離れた友人を恨んだ。

 ハリーはハンカチで涙を拭ってから、魔法の杖を取り出すか迷った。

 確かハグリッドは、ダイアゴン横町に入るときに煉瓦をコツコツと傘で叩いていた。

 あのピンクの傘の中身には、オリバンダー曰く折れた杖が入っている。

 つまり九と四分の三番線……九番線と十番線の間にある三つの柱のうち、十番線に一番近い柱を杖で叩けばいいのではないだろうか。魔法使いは魔法界の存在をマグルに秘匿する義務があるそうじゃないか。つまり、魔法を使えない者にはわからないよう魔法がかけられているに違いない。きっとそうだ。具体的には、見えない通路とか、ワームホールとか。

 他にも魔法使いがいれば、きっと分かるはずだ。

 何せハリーは大量の荷物を持っている。カートに乗せねばならないほどに。

 つまりホグワーツへ行く生徒は、ある程度のデカい荷物を持っているはずだ。

 するとその荷物の中に、まともな人間なら持たないような品々を見つければいい。

 たとえば、呪文の本。たとえば、大鍋。たとえば、フクロウなどいったもの。

 自分がそのまともじゃない部類に入ることを自覚しているハリーはちょっと恥ずかしくなりながらも、必死で周囲を見渡した。

 しかしそれらしき姿は見当たらない。

 まずいぞ、あと十分しかない。

 

「ヤバい、泣きそう」

 

 ハリーは結局手当たり次第に試してみようと思い、先程予想した柱に向かって歩みよる。

 懐から杖を取り出して、煉瓦をぺちぺちと叩いてみる。

 杖から微量の火花が散るが、それ以上の効果はない。

 それどころか、こんな事をしていては非魔法族――マグルに見つかって何かしら言われるかもしれない。……魔法使いだとバレたらどうなるのだろう?

 あれ、ひょっとしてこの行動ヤバい?

 ハリーがそう思い立って懐に素早く杖をしまうのと、後ろから女性が話しかけてきたのはほぼ同時であった。

 

「坊や、もしかしてホグワーツへは初めて? 行き方はそうじゃないわよ」

 

 天よ!

 ハリーは心の中で叫んだ。

 坊や扱いなんぞ最早どうでもいい。

 このふっくらしたおばさんが、ハリーには聖母にも見えた。

 

「ああ、ええ、そうです。そうなんです。ぼく、行き方がわからなくって……」

「安心していいわ。凄いわね、場所は間違っていないのよ。ただ、杖で叩くんじゃなくってそのまままっすぐ突っ切るだけ。怖がってはいけないわ、そういうものなの」

 

 おばさんの声はとても優しかった。

 この優しさは、マクゴナガルやハグリッド以来のもの。

 ダーズリーの家に居ては決して得られないようなものであった。

 ハリーは彼女の言葉を信用する事にした。

 

「さ、ロンの前にどうぞ。ああ、ロンって私の息子のことね。この子が忘れ物しちゃって、いったん戻ってきたのだけれど。でも正解だったわ。だってあなたに会えたんだもの。さ、いってらっしゃい!」

「わかりました……」

 

 ロンと呼ばれた子の前に立つ。

 正直、彼には注意が向かず背の大きな子だなという印象以外は、すべて吹き飛んでいた。

 ハリーはカートを押したまま、一気に柱に向かって駆けだす。

 はたしてハリーは柱にぶつかることはなく、新たなプラットホームへと飛び出していた。

 目の前にあるのは、近代的とは程遠い紅色の蒸気機関車。

 横目で見ると、九と四分の三とかかれた看板も見える。そうか、ここが。

 ハリーは開いているコンパートメントを見つけて、荷物を中に詰め込もうとしたがあまりの重さに、トランクを自分の足の甲に落として悲鳴をあげてしまった。

 すると赤毛の双子がコンパートメントから躍り出るように降りてきて、「手伝うぜ」とトランクをあげるのを手伝ってくれた。「もっと喰った方がいいぜ」「デカくなれないぜ」と陽気な励ましを受けたハリーは、やっとの思いで客室にトランクは収めることができた。

 とても背の高い双子だった。小柄なハリーからすると見上げなければ顔が見えない。

 汗をかいた額をハンカチで拭いながら、ハリーは双子に礼を言う。

 双子は異口同音にどうしたしましてと言おうとして、「どう」の部分で固まった。

 片方がハリーの額の傷を指差して言う。

 

「驚いたな……それ、なんだい?」

「何が?」

 

 ハリーが聞く。

 もう片方が丸くした目のまま、言う。

 

「おいジョージ、彼だ。いや、彼女だった」

「そうだ、そうに違いない。きみ、ハリー・ポッターだろう?」

「ああ、うん。そのことか。そうだよ、ハリー・ポッターだ。本当はハリエットだけど」

 

 それからはもう、質問の嵐、嵐。

 魔法界一有名な気分はどうか、その傷は痛いのか、もう一回傷見せて、なんで男の子だって言われてたのか、例のあの人の顔見た? など、など。

 双子の質問攻めから解放されたのは、先程のおばさんが二人を呼んだからだった。

 どうやら親子らしい。

 客室でしばらく外の景色を眺めていると、何人かがハリーを指差してひそひそと囁き合うのが見えた。ハリーは恥ずかしくなって、窓から顔を引っ込めたほうがいいと判断した。

 だが汽笛が鳴ると皆が窓から顔を出したので、あまり意味はなかったかもしれない。

 赤毛の女の子が泣きべそをかきながら追いかけてくるのが見えて、ハリーはほほえましくなった。きっと兄弟に置いてかれて寂しいのだろう。

 ハリーの心は躍った。

 それと同時に、暗い感情が芽生えてきた。

 

「怯えるなよ、ハリエット。これからだ。ここから始まるんだ……」

 

 ぼくはこれから、学校で魔法を学ぶ。

 主に攻撃的な、戦うことに長けた魔法を重点的に学ぼう。

 それに何なんだ、『命数禍患の呪い』って。そんなものは、教科書には載っていなかった。

 だから多分、教科書には載らないようなレベルのものなのだろう、そうに違いない。

 最終目標は、ヴォルデモートに一発叩き込むこと。鼻をへし折ってやる。

 その為には強くならなくちゃいけない。

 幸いこれから向かう先は学び舎だ。

 強くなるにはもってこいだろう。

 いつか見てろよ、ヴォル野郎。

 お前の鼻っ柱を殴り飛ばして、鼻の骨をブチ折ってやる。

 ハリーはその明るい緑色の目を細め、一人獰猛に笑ったのだった。

 




【変更点】
・両親の遺産が原作よりも減少。金銭感覚狂ったら人間おしまいよ。
・やせいの マルフォイA マルフォイB が あらわれた!
 マルフォイEX。兄という生き物は、弟妹への見栄と意地で強くなるのだ。
・バイト経験あり。ポンドになら抱かれてもいい。
・ペチュニアの態度が軟化し、ハリーの心中でも好感度が変化してしまう。
・キングズクロス駅でウィーズリー家とすれ違い、九と四分の三番線を教えて貰えない。
・ハリーや、ヴォルさんに鼻はないよ。

【新キャラ】
『スコーピウス・トーマス・マルフォイ』
 本物語オリジナル。名前は原作フォイの息子と俳優から拝借。
 ドラコの双子の弟。多少泣き虫だが、陰湿さは原作フォイ以上。

ホグワーツまでは駆け足しないと、ダドリー坊やがストレスで死んでしまう。
彼女には明確な目標があるので、原作ハリーよりは成績が良くなることでしょう
ハグリッドはどの世界線でも素敵な人なのです。


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3.ホグワーツ

 

 ハリーが一人笑っていると、コンパートメントの扉が開いた。

 その音で窓に映る自分の笑みが真っ黒いことに気付いて、ハリーは笑みを引っ込める。

 振り向くと、そこにはデカい少年がいた。

 身長はどう見繕ってもハリーより頭二つ分はデカい。

 体つきはひょろりとした長い野菜のような印象があるほど細長い。

 顔はそばかすが目立ち、手足が長く大きく、鼻が高い。

 ……上級生だろうか?

 

「ここ空いてる? 他はどこもいっぱいだったんだ」

 

 ハリーはこくこくと頷くと、少年は席に腰かけた。

 怖そうな子が来ちゃったなあ、とハリーが困っていると、少年が声を発した。

 

「君が、ハリー・ポッターかい?」

 

 勘弁してくれ。

 ハリーはそんな気持ちでいっぱいになりながら、前髪をかきあげて傷跡を見せた。

 ほー、と感心したような声が漏れる。

 その声色はどこか幼く、なんだか同年代のような感じがしてハリーは彼の方を見た。

 やっぱりデカい。しかしなんだか、どことなく先程の双子と似ている。

 つまり、世話になったあのおばさんと似ている。

 

「えーっと、君は……」

「ロナルド・ウィーズリー。ロンでいいよ、皆そう呼ぶ」

「じゃあ、ぼくの事はハリーで。ハリエットでもいいよ」

「ハリエット? まぁ、わかったよ。ハリー」

「……」

 

 漏れ鍋の握手会でも、この自己紹介をした。

 だが、女性名で呼ぶ人はいない。何でだろうね。

 

「……えっと、じゃあロン。君の家族に双子はいる?」

「フレッドとジョージのことかな。もう二人には会ったんだね。彼らは僕らウィーズリー兄弟で四番目と五番目、ホグワーツ入学は僕で六人目だ」

「ちょっと待って!?」

 

 ハリーは叫ぶ。

 

「六人目! お母さん頑張りすぎじゃ……、え、なに? というか同い年?」

「そうなるね。……まぁ下にもう一人妹がいるけど」

 

 ハリーは絶句した。

 きっと魔法界の食べ物を食べると、このくらい大きくなるに違いない。

 ハグリッドもそうだったし。

 そういった会話をすませると、あとはだんまりが空間を支配した。

 ハリーはロンの巨体から発せられる威圧感に萎縮して話しかけられないでいるし、ロンは黙ってハリーをじっと見ているだけだ。

 勘弁してくれよと泣きそうになった頃、ロンがおもむろにカバンの中から一つの包みを取り出してハリーに放り投げてきた。パッケージを見ると、『蛙チョコレート』とある。

 マジかよ。魔法使いって蛙喰うのか。

 と思ったが、成分表を見るとどうやら蛙を模しているだけらしい。心底ほっとした。

 しかしハリーはまだ知らない。

 魔法薬の授業などで、蛙のみならずゲテモノ類を嫌というほど触るようになることを。

 

「食べなよ。僕はこのおまけのカードを集めていてね。アグリッパが出たらちょうだいね、そいつだけまだ出てないんだ」

「うん。ありがとうね、ロン」

 

 パッケージの裏を見てみると、どうやらおまけ付きのお菓子らしい。

 因みにハリーはチョコレートを食べるのは人生で二度目だ。

 一度目は、ハグリッドの手作りだという誕生日ケーキ。あれは美味しかった。

 包みを空けると、なんと蛙のチョコが動いている。

 短い悲鳴をあげて放り出すと、窓にはりついたチョコカエルは隙間から逃げてしまった。

 茫然とそれを見ていると、ロンが笑っていることに気付く。

 頬を膨らませて抗議すると「ごめんごめん」と年相応の笑顔のまま謝ってきた。

 そこからは、先程の空気も嘘のように話すことができた。

 ふとおまけの事を思い出してカードを見てみると、半月眼鏡をかけた、おちゃめな表情の老人が描かれていた。ヒゲがものすごく長い。というか、なんと、驚いた。――動いている。きっと魔法界の写真には魔法がかかっているのだろう……改めて今までの世界との違いを、ハリーは思い知った。

 名前を確認してみると、

 

「アルバス・ダンブルドア? このお爺さんがそうなんだ」

「ダンブルドアの事を知らないの! マグルの世界で育っているとはさっき聞いたけど、そこまでとはね……」

 

 カードにはダンブルドアのことがいろいろと書いてあった。

 近代魔法使い史で最も偉大な魔法使い。最強の闇の魔法使いグリンデルバルトを破った。ニコラス・フラメルとの錬金術の共同研究で有名。ドラゴンの血液研究でも有名。

 カードの裏側を読む限りで彼について分かったことは、存命魔法使いの中では『世界最強』とされる室内楽とボウリング好きの耄碌ジジィであるということだった。

 ダンブルドアがどういう人なのか、ロンの知る魔法界はどんなものなのか。ハリーがロンから聞いていると、コンパートメントのドアががらりと開いた。

 現れたのは半泣きの小肥りな男の子と、たっぷりした栗毛の自信満々な女の子だ。

 

「ネビルのペット、ヒキガエルのトレバーがいなくなっちゃったの。あなたたち知らない?」

「知らない」

 

 男の子の肩に手を置きながら、女の子が一言一言言い聞かせるような喋り方をする。

 あれはきっと、己の自信に裏打ちされたものではない。幾分かの虚勢が混じった喋り方だ。

 それにしてもヒキガエルをペットにするとは。……ロンのペットもネズミだというし、魔法族とマグルでは動物への価値観が違うのかもしれない。

 しかしそうか。ペットとはいえ失せ物探しか。

 ハリーはチャンスだとばかりに懐から杖を取り出した。

 

「あら。魔法を使うの? 見せてもらおうかしら」

 

 栗毛の女の子はそう言うと、ハリーとロンの了承も取らずロンの隣に座った。

 ネビルと呼ばれた男の子は泣きそうな顔のままドアのところで棒立ちだ。

 

「まぁ、実際に魔法を使うのは初めてなんだけど……」

「いいから、はやく。見ててあげる」

 

 偉そうな。

 

「それじゃ失礼して。『ドケオー・トレバー』、場所を教えて」

 

 ハリーがそう唱えると杖の先に淡い水色の光が灯って、カクカクと辺りを彷徨ったあとに隣のコンパートメントに尾を引いて向かっていった。

 途中ネビルのほうを振り返るような動作をしたことから、ついてこいと言いたいらしい。

 

「ほら、トレバー……だっけ。あっちにいるってさ」

「ありがとう、探しに行くね! ぼくネビル・ロングボトム! 後でお礼がしたいんだ、君は?」

「お礼なんていいよ。ぼくはハリー・ポッター」

 

 ネビルが驚いて硬直したが、早くトレバーを迎えにいったほうがいいと言うと、慌ただしく走って行った。

 ロンが褒めてくれてハリーが頬を染めている中、栗毛の女の子は少し残念そうな顔をしている。

 間違っていたら指摘したかったのかなとハリーは予想した。

 

「あらびっくり。あなたが、ハリー・ポッターだったのね?」

「うん。ハリーでいいよ。ハリエットでもいいけど」

「よろしくハリー。私はハーマイオニー。ハーマイオニー・グレンジャーよ」

 

 そう言うと、女の子……ハーマイオニーはさっと立ち上がった。

 そして「失礼」と一言添えてロンの鼻先に杖を突きつける。

 当のロンはびっくりして目を丸くしていた。

 

「『スコージファイ』、清めよ」

 

 ハーマイオニーが呪文を唱えると、ロンの顔の影がするりと消え落ちた。

 魔法の腕をどうしても披露したかったのだろうか。きっとハリーがあのボロ眼鏡をかけていれば、それを直したに違いない。だが奴は死んだ。もういない。

 どうやらロンは顔全体が薄汚れていたらしく、汚れが消えた顔は、年相応のものだった。

 変な影とかは別にない。威圧感も多少は消えてくれたようだ。

 

「もうちょっと身嗜みに気を使ったら?」

「うるさいな! 着替えるんだから出て行ってくれ。覗きの趣味でもあるのかい」

 

 指摘された恥ずかしさにロンがぶっきらぼうな口調で刺々しく言う。

 ロンがそう言うので、ハーマイオニーとハリーが立ち上がった。

 するとキョトンとした顔でロンがハリーに声をかけた。

 

「ハリー、どこいくんだよ。一緒に着替えよう」

 

 それを聞いてハーマイオニーが目を丸くし、ハリーが鋭い目で睨みつけた。

 そしてロンが引きつる言葉を、ハリーはその唇から放つ。

 

「ぼくは女の子だ! 覗きの趣味でもあるのか、ロン・ウィーズリー」

 

 ホグワーツ。

 まるで古城のような風体の、巨大な学び舎だった。

 引率の先生がハグリッドであったため、ハリーは沈んだ気分が晴れていくのを感じた。

 自動で動く小舟にハーマイオニーとネビルの三人で乗って、城へと進んでゆく。

 マダムマルキンは結局あのあと、ハリーの制服にズボンを選んだらしい。

 仕方ないのでそれを穿いて機嫌が悪くなっていたのだ。

 ロンは一応隣に居るが、実に気まずそうにしている。

 ハリーを怒らせたのだからむべなるかなだが、今のいままで同性の友達だと思っていた子が実は異性であるということを知って、戸惑っているようにも見える。この年代の子供にとって、性別というものは如何ともしがたい大きな壁だ。

 しかしハリーはそんな彼の心境に気付いていながらも、先程の無神経な発言に少しむっとしていたので、まだ許す気はなかった。

 ハグリッドが新一年生を連れていったのは大きな扉の前であり、そこで待っていたマクゴナガルが新一年生全員に、此処で大人しく待っているようにと鋭い声で言い残して扉の中へ入っていった。

 途端、子供たちがざわざわと話し始めた。

 これだけ興奮した子供たちに大人しくしていろというのは、土台無理な話だろう。

 

「やぁ。君がハリー・ポッターだったんだね」

 

 そんな中、人込みをかき分けてハリーのもとへやってきた男の子がいた。

 恐らく魔法界で一番有名であろう名前を言ったので、周りの子供がハリーの方を見たり指差したりしながらひそひそ話を始める。ハリーは少し恥ずかしかった。

 やってきたのは、プラチナブロンドの髪の毛。つんと尖った顎。青白い肌。

 マダムマルキンの洋装店で出会った子だ。いや、兄の方か?

 

「やぁ、また会えたね」

「あの時はスコーピウスが世話になった。改めて挨拶をと思ってね」

 

 どうやら兄のドラコの方だったようだ。

 隣に居るスコーピウスにハリーがにこりと笑いかけると、彼はふんと鼻を鳴らして視線を逸らす。するとドラコの反対側には、とんでもなく大きな男の子がいた。二メートルはあるのではないだろうか。ロンよりもさらにデカい……あとゴツい。本当に十一歳か?

 ハリーが目を丸くしていると、ドラコは気がついたようで無造作に言った。

 

「こいつはグレセント・クライルさ。それで隣はご存知スコーピウス」

「よろしくね二人とも」

「おう……よろ、しく……」

「ふん。よろしくしてやってもいい」

 

 クライルと呼ばれた男の子は、鼻にガムが詰まったような声で答えた。

 スコーピウスはもったいぶった仕草で、ネクタイを締める動作をする。

 貴族然とした外見から、年を経てから同じ動作をしたならば実に様になっていただろうが、如何せんまだ十一歳ゆえスコーピウスのそれは微笑ましいだけだった。

 

「そして、僕がドラコ。ドラコ・マルフォイだ」

「改めてよろしく。ぼくはハリー・ポッター。ハリエットでもいいよ」

 

 ハリーがそう名乗ると、いよいよ周囲がどよめいた。

 まさか。嘘だろう。女の子じゃないか。ズボン穿いてるぞ。ポッターは今年入学だよな。

 様々な声が周囲でどよどよと聞こえて、ハリーは自分の耳が赤くなるのを感じた。

 そんな中、ドラコの名前を聞いてくすくす笑いを誤魔化すような咳払いが響く。

 耳ざとく気付いて咎めたのはスコーピウスだ。

 

「おまえ。僕たちの名前が変だとでもいうのか? 赤毛で、ひょろひょろのっぽのデクノボウで、おまけにそばかすだらけの子だくさん。知っているぞ。おまえ、ウィーズリー家の子だろう。人の事を笑えるような身分ではないと思うけどね?」

「なんだと! もう一度言ってみろ!」

 

 一触即発。

 クライルがスコーピウスの隣に立ち、その丸太のような足を踏み鳴らした。

 腰巾着とはこういうものを言うのかと思いながら、喧嘩が始まってしまったら真っ先に逃げておこうと油断なく観察し始めたハリーを見て、ドラコが声をかけた。

 

「やめるんだ、スコーピウス。むきになるな」

「だけどドラコ!」

「そんなのを相手にしていると、品位がないと思われるぞ」

 

 ドラコの一言で、スコーピウスはぐっと黙る。

 どうやら未熟な弟を持っていることで、ドラコには自制心が芽生えているといったところだ ろうか。いくら兄とはいえ、十一歳の少年ではなかなかできないことである。

 ドラコ・マルフォイはハリーに振り返ると、弟とそっくりな気取った声で言った。

 

「ポッター君。見ての通り、家柄のいい魔法族とそうでないのがいる。間違った者とは付き合わない方がいい。そこらへんは、この僕が教えてあげよう」

 

 そう言って、手を差し伸べてくる。

 ハリーはここで、少し迷った。

 ドラコの考えは、現実をよく表したものだ。魔法界はきっと、差別的な思想が強い。

 非魔法族をマグルと呼称するのも、おそらく似たようなものだろう。

 手を取るのもいい。だが、それをやるとロンとは間違いなく友好的な関係を結べない。

 ハリーは自分が強くなれるためにはドラコのような人間も、ロンのような人間も必要だと考えている。誰がどう役に立つか分からないのだ、友好的にするに越したことはない。

 ひとつの方法を選択した。

 

「ドラコ。その言葉は嬉しいよ」

 

 ロンが絶望的な顔をした。

 ハリーはドラコの手を自分の手で包みこんだ。

 握手では、ない。

 

「でも、ぼくはね。皆と仲良くしたいと思っている。彼とも、もちろん君ともね」

 

 そうしてハリーは、自分が出来る限りの笑顔でそう答えた。

 スコーピウスはそれに対して嫌そうな顔をし、クライルはお菓子を食べるのに夢中だった。

 そしてドラコ。ドラコ・マルフォイは。

 

 「そうかい」

 

 嫌そうな顔こそしなかったが、失望の色が見えた。

 

「君の考えは僕たちのそれとは相容れないものだね。だけど気をつけた方がいいぞポッター、朱に染まれば赤くなるという言葉もあるんだ。そいつみたいなのと付き合っていると、いずれ身を滅ぼすぞ」

 

 と、ハリーの手を振りほどいて行ってしまった。

 隣のハーマイオニーが大丈夫? と声をかけてくるのに手をあげて曖昧な返事をして、ハリーは少し離れた位置のロンに向かって笑いかける。するとロンは、自分も笑いかけるかどうか迷った結果、そっぽを向いてしまった。

 どうやらマルフォイ達との会話が気に入らなかったらしい。

 電車の中でも散々スリザリンについて辛辣に語っていたことから、マルフォイ達と親しげにするハリーに対して不信感を抱いてしまったのだろう。確かに、ハグリッドもスリザリンに対してはあまりいい話をしなかった。

 しかも、先程のロンとスコーピウスの会話からするに、どうも家族単位で仲が悪そうだ。

 おまけに、ドラコ・マルフォイ当人も去ってしまった。

 二兎を追う者はなんとやら。ジャパンのことわざそのまんまではないか。

 誰とも仲良くしたい、そう欲張った結果がこれだ。

 きっとどちらかの側についていれば、かけがえのない親友を得たことだろう。それこそ、選ばなかった方が、今後の学校生活で顔を合わせるたび喧嘩をする、不倶戴天の敵になる程に。

 選択に失敗したハリーは寂しい気持ちを心の底に降り積もらせたが、ダーズリー家にてギチギチに踏み固められた心は、その程度では動かない。結果、表情も変わらない。目だけはいつも通り鋭い獅子のようで、かつ死を秘めた毒蛇のようでもあった。

 そんなやり取りをしているうちに、マクゴナガルが戻ってくる。

 

「これより組分けの儀式を行います。一列になって付いてきなさい」

 

 扉に入ると巨大な玄関ホールが出迎え、二重扉を通ると大広間へと至った。

 そこでハリーは、自分の口が開くのを止められなかった。確かに、教科書には書いてあった。だが実際に目にするのとは大違いだ。大量の蝋燭が宙に浮かび、火が踊り、墨を溶いた水に宝石をちりばめたかのような美しい星空が、きらきらと瞬いてハリーたちを歓迎している。

 ハーマイオニーが「ここ本で読んだところだわ!」と叫ぶのと横で聞きながら、ハリーは左右の長テーブルに座る上級生たちでも、奥で真剣な顔をして新入生を眺めているダンブルドアらしき老人でもなく、中央に置かれた四本足の椅子に興味を引かれた。

 新一年生たちのざわめきが小さくなると同時、帽子の裂け目がさらに裂けて口のように動くと、帽子は高らかに歌い始めた。

 歌の内容は、こうだ。

 

――この私はホグワーツ組分け帽子。心を見抜き、相応しい寮へ案内しよう。

  勇気ある者はグリフィンドール。勇猛果敢な騎士はここに立つ。

  誠実なる者はハッフルパフ。忍耐強く心優しき者を受け入れる。

  賢者行くとこレイブンクロー。知識欲を満たす者こそ相応しい。

  挑戦者たるはスリザリン。果てなき欲は必ず目的果たすだろう。

  さぁ、私が見抜こう、教えてあげよう。それが最初の試練だ、小さな勇者諸君――

 

 帽子を被ると心を見透かされるのか。

 そんな恐ろしい考えがハリーの全身を支配しているうちに、既に組分けが始まっていた。

 ファミリーネームのABC順に呼ぶのだろう。ポッターのPはもう少し後だ。

 四つの寮に次々と振り分けられる生徒を見ながら、なるほど確かにそれっぽい生徒が寮にいっているものだとハリーは感じた。ハーマイオニーやネビルはグリフィンドールに配属された。その後に呼ばれたマルフォイ兄弟は二人ともスリザリンだ。その時ロンが不安のあまり呻き声をあげているのに気付いたが、ハリーに構っている余裕はなかった。

 なぜならば、

 

「ポッター・ハリエット!」

 

 ついに、呼ばれたからだった。

 周囲の新一年生どころか、大広間に居る生徒全員がひそひそ話を爆発させる。

 

「ポッターだって?」「あのハリー・ポッター?」「例のあの人を斃したっていう?」

「でもハリエットって何?」「女の子に見えないか?」「ばか、ズボンはいてるだろ」

 

 もうちょっと小さな声で言ってくれ、全部聞こえているんだ。

 それに内容はさきほど扉の前で囁かれたことと似たり寄ったり。

 ハリーはそれらの声を振り切ると、前に進み出て自ら帽子を被った。

 どういった心の読み方をするのだろうか。

 ハリーが戦々恐々としていると、頭の中に声が響いた。

 

『ううむ、なるほど難しい……これは難しい……』

 

 帽子の声だ、とハリーは気付いた。

 

『ほほう、勇気に満ちておる。優しい気持ちもある、知恵も求めておる。そして、なんと苛烈な欲望の渦か。いやはや、久々に面白い子が来たものだ。この心の淀み方……本来ならばスリザリンと即答するような子だ。実際にスリザリンに入れてもよいが……いや、はたして……』

 

 なるほど確かに、ハリーの心中を言い当てている。

 ハリーは自分のことを、欲深き女だと自覚している。

 誰にだって優しくできるならそうしたいが、嫌いな人物はその限りではない。

 強くなるためは勇気が必要と知っているが、力を求める貪欲さもまた必要だ。

 更には淀んでいることも否定しない。

 あんな環境下に在って、なおそれを強制的にとはいえ受け入れていたのだ。

 それはきっと、『まともじゃない』のだろう。

 ふと思い、ハリーは心の中で帽子に呼び掛けることにしてみた。

 

(帽子さん、組分け帽子さん)

『ほう?』

(ぼくは、何よりも力が欲しい。だけどその為に何が必要か、ぼくにはまだわからない)

『その為に私がいる。身を委ねるかね? それとも君が決めるかね?』

 

 その言葉に、ハリーは少し迷った。

 

『私のおすすめはスリザリンだ。スリザリンに入れば、間違いなく君は偉大になれる』

(偉大になれるからといって、それが強くなる道とは限らない?)

『それはそうさ、よくおわかりだ』

 

 そして、自分の目標を見据えて思い出す。

 復讐。顔も知らぬ闇に染まったあの男をブン殴る。そして殺す。

 その為に必要なのは力だ。

 彼女の魂はこう言っている。――『もっと力を(I need more power)』!

 ならば。世界最強の魔法使いと同じ寮に入れば、何か見つけられるかもしれない。

 そうと決まれば、ハリーが呟く事はひとつだ。

 

(ぼくの事は、ぼくが決める。ぼくが行くのは、校長と同じ寮だ)

「よろしい! ならば――グリフィンッ、ドォォォール!」

 

 グリフィンドールのテーブルから、歓声が爆発した。

 双子のウィーズリー兄弟が何やら叫び回り、監督生らしき赤毛の生徒が大きな拍手で出迎えてくれる。ちらりと来賓席を見るとハグリッドがウィンクしているのが目に入った。背中をばしんばしん叩かれ、痛い思いをしながらハリーは監督生に勧められた椅子に座る。

 ほどなくしてロンもグリフィンドールに決まり、もう一人の生徒をスリザリンに入れると組分けの儀式が終わった。

 すっくとダンブルドアが立ち上がり、長い長い髭をゆらして優しげな笑顔を浮かべる。

 そして、大きな声で言った。

 

「おめでとう、新入生諸君! そしてようこそ! ジジィの長話を聞く前に、諸君には大事なことがあろうじゃろうて! ではいきますぞ、そぅーれ、わっしょい、こらしょい、どっこらしょい! Catch this!」

 

 ダンブルドアの挨拶に盛大な拍手と歓声が返される。

 ハリーはというと、満足げな顔で座るダンブルドアを半目で眺めていた。

 世界最強の魔法使いというからにはどんな人かと思えば、本当に耄碌ジジィなのか?

 数分前のぼくの判断は、ひょっとすると間違いだったのでは?

 

「あの人アタマおかしいんじゃないの」

「なんて辛辣な。でも、最高さ! ほら、食べなよポッターくん!」

 

 監督生――パーシー・ウィーズリーというらしい、きっとロンの身内だ――に勧められ、今まで何もなかったはずのテーブルに現れたありとあらゆる料理にハリーは驚いた。

 ダーズリー家で食べられたのはビスケットやパンくらいで、運がいい時に野菜の切れ端をもらえたりする程度だったものだから、何が何だかよく分からないくらいだ。

 その後は「激動」の二文字が正しかった。

 食事を終えるとダンブルドアから今度は礼儀正しい祝辞の言葉を述べられ、四階の廊下には決して近づいてはならないこと。禁じられた森への立ち入り禁止。廊下でむやみに魔法を使わぬようにとの管理人からのお願い。クィディッチ選手の予選があるのでやりたい子はおいで、マダム・フーチに連絡してね。と諸注意を述べた後に、校歌斉唱を行った。

 パーシーの案内でグリフィンドール寮へ急ぎ、中の人物が勝手に動きまわる肖像画――太った婦人に合言葉を告げると、肖像画が開いて中に入れるようになる。合言葉を忘れると当然入れないというのだから、厳しいものだ。

 

 しかしここで少し、いや重大なハプニングが起きた。

 なんと、ハリーの相部屋がロン含めた男子生徒だったのだ。

 確かに螺旋階段が男女で別れていて変だなとは思っていたが、この事件はそんな思考力が低下する原因となる眠気も吹っ飛ぶようなことであった。

 これに激怒したのはハリーでなく、ハーマイオニーたち女子生徒だった。

 ハリー自身はそのくらい別にいいんじゃないか? と思っていた。

 ダドリー相手にそんなことを気にしていたら、あの家では暮らしていけない。

 しかしハーマイオニーたち女性陣の猛反発を見て、反論できる雰囲気ではないと悟る。

 でも確かに、男の子だらけのところはちょっといやだな。とハリーは思った。 

 いったいどうなっているのか、いくらなんでも酷い。ハリーが男の子に見えるのか?

 女性陣がパーシーにそう詰め寄ると、最後の質問に首を縦に振りそうになったところでハリーが杖を取り出したのを見て、彼は慌ててマクゴナガルのところへ走っていった。

 マクゴナガルも寮部屋を取り決めた誰かに激怒してくれたが、結局空いているベッドはなく彼女が「明日には必ず、新しいベッドを用意させます」と言ってくれたので、ハリーはハーマイオニーの厚意で彼女のベッドで一緒に寝ることになった。

 寝る時に少し話したのだが、ハーマイオニーは案外正直にものを言う子で、

 

「確かにハリーは男の子みたいにカッコいいけれどね。うん、でも悪くないわ」

 

 などと言っていた。

 着替えの時に下着を確認するまで性別を疑っていたらしい同室のパーバティ・パチルなんかは「確かに悪くないわ。まるで王子様みたいよ」などとうっとりした顔で言っていたので、ハリーは多少の寒気を感じた。

 ダドリーの見ていたジャパニメーションで「男装女子」というのがあったな、とハリーは思い出して、ちょっとげんなりした。

 しかし激動の一日はあまりに大きな疲労をハリーに詰め込んでいたのか、既に寝息を立てていたハーマイオニーの豊かな栗毛に顔をうずめると、その瞬間に眠りに落ちてしまった。

 

 翌朝。

 パジャマから制服に着替える際、ハリーはパーバティに「あなたもっと食べないと死んじゃうわよ」と浮き出た肋骨を撫でられる羽目になった。

 くすぐったさのあまりについ笑ってしまって二人でじゃれあっていると、とっくに着替えていたらしいハーマイオニーが授業の時間が迫っていると急かしてきた。

 朝食よりも授業が楽しみらしい。

 パーバティがウゲェと嫌そうな声を漏らしたが、……実を言うとハリーは、ハーマイオニーの意見に全面的に同意だった。

 なぜならば、強くなるためには豊富な知識が必要になるからだ。

 強くなる為に学ぶ必要があるのならば、ハリーは喜んで挑む。

 

 天文学。望遠鏡で星を眺め、惑星の動きを学ぶオーロラ・シニストラ先生の授業。

 薬草学。ずんぐりした魔女ポモーナ・スプラウト先生と温室に赴いて魔法植物を学ぶ授業。

 魔法史。なんと教授のカスバート・ビンズ先生は幽霊だ。これは歴史を学ぶ、退屈な授業。

 妖精の魔法。フィリウス・フリットウィック先生という小さな教授が教える授業で、一年生は妖精の悪戯のような魔法を学ぶ、ハリーが想像していた魔法の授業そのままだった。

 変身術は、ミネルバ・マクゴナガル先生の授業だった。ハリーは笑いかけたが、マクゴナガル先生は厳格な表情で返してきた。それでハリーは、この女性は公私でえらく態度の変わる先生だという事に気づいて親しげな反応は期待しないことに決めた。

 

「変身術とは、この学校で学んでゆく魔法の中でも極めて危険なモノの一つです。いるとは思いませんが、授業を妨害する生徒は豚に変えてその日の夕食に出させていただきます」

 

 生徒の大半は笑ったが、マクゴナガルは笑わなかった。本気だ。

 先生が机を豚に変えたり、自身が猫に変身した――「動物もどき」というらしい――時は皆が感激したものだが、実際の変身術はまず、散々複雑な理論を学ぶ必要があった。その時点でやる気をなくした生徒が多いことにハリーは気付いた。なにせ、近い席に座っていたロンがウゲーといった顔をしていたからだ。

 最強の魔女になるという目標があるハリーと、勉強そのものが楽しくて仕方ないという隣席のハーマイオニーのみがノートをすらすらと書いてゆく。

 実技については、配られたマッチ棒を針に変えるというとんでもないものだった。

 確かにこれは教科書には、初歩の初歩と書いてあったが、本当にできるのだろうか?

 ハリーは開始直後にハーマイオニーが見事成功させたのを見て焦りながら、授業が終わるギリギリになってようやくマッチ棒を針に変身させることができた。

 しかしどうやらマッチ棒を変身させることができたのはこの二人だけだったらしく、マクゴナガル先生は二人の成果と努力の結果を褒め、以前のように微笑んでくれた。

 

 闇の魔術の防衛術については、なんというか、臭かった。

 ダイアゴン横町でハグリッドが言っていたように、クィリナス・クィレル先生はどうやらニンニクを常備しているらしく、ニンニクのお腹の減る匂いを教室中に充満させていたので、皆はお昼ごはんが待ち遠しかった。

 ハリーはこの授業に多大なる期待をしていたのだが、やはり期待外れだった。

 ヴォルデモートは最悪の闇の魔法使いである。なんて言われるくらいだから、きっとこの授業が一番役に立つと思って教科書に変なクセがついてしまうほど読み込んだというのに。

 クィレルが危険な生物に対していきなり魔法を使おうとせず、それが何なのかを見極めてから適切な行動を選びましょう。という基本的な説明をしたのに対して「もし何らかの危険な存在に襲われた場合、どういった呪文で乗り切ればいいのですか」と質問したところ、

 

「そんな恐ろしい状況……私には耐えられない! ヒィーッ!」

 

 と叫んで崩れ落ちてしまった。

 マジかよ。

 そんなところからも、この教科に対する期待外れっぷりが窺い知れようものである。

 ハリーに対抗意識を燃やして、続けて自分も質問しようとしたハーマイオニーの目が、真ん丸になって固まっていたのが横目で見えた。

 ロンはその授業、後ろの方でずっと眠っていた。

 

 昼食。

 向かいの席でロンがマーマレードパイにがっつくのを見ながら、ハリーは自分のペットたる白フクロウのヘドウィグが初仕事を終えたのをねぎらっていた。

 手紙を運んできたのだ。内容は、ハグリッドからのお茶のお誘い。

 この時間は数十羽ではきかない数のフクロウが手紙を届けに大広間の天井を飛び回るのでとてもうるさいが、ハリーはこの時ばかりはその騒音に感謝した。

 「やった」と叫んだ理由は、ロンと仲直りができるかもしれないとうものだったからだ。

 ロンとは入学式のあれ以来、まともに口をきけていなかった。

 やはりスリザリン生と仲良くしたいというハリーの思想は、彼には認められないらしい。

 隣でバゲットを頬張っていたハーマイオニーに「一緒に行こう」と誘い、二つ返事で了承を貰ったハリーはテーブルを回りこんでカスタードプティングを口に含んでいるロンを誘った。

 ロンはもごもご言っていたが、しばらく悩むそぶりを見せたあと「今度、今度ね。いまはちょっと……まだ、気持ちの整理ができてない」と言ってくれた。

 それによりハリーは、意気揚々と満面の笑顔で次の授業に向かって、

 

「ああ……、ハリー・ポッター。我らがアイドルだな」

 

 その笑顔を吹き飛ばされた。

 スリザリンとの合同授業である、魔法薬学。

 ハリーは教室の中にドラコの姿を見つけて、隣に座ろうと思って近寄ったがスコーピウスが素早くハリーの前に飛び出してきてあっちへ行け! と威嚇されてしまった。

 肩を竦めて他を探してくれ、とゼスチャーするドラコに頷いてから、ハリーはハーマイオニーを見つけてその隣に座る。遅れてロンがやってきて、ハリーの隣しか席が空いていないことに気付くとしばらく迷ったのち結局隣に座ってきた。

 途端、扉を開けて入ってきた教師がハリーの顔を見るや否や、そう言ったのだ。

 それもねちっこい、嫌味ったらしい声で。

 

「この授業では魔法薬の微妙な科学と、厳密な芸術を学ぶ。我輩が教えるのは、名声を瓶詰めにし、栄光を醸造し、死にさえ……蓋をする、方法である。――ただし、我輩がこれまでに教えてきたマヌケなトロールどもと、諸君らが同じでなければの話だが」

 

 セブルス・スネイプ。

 それが魔法薬学の教師の名で、ハリーの直感ではこの教師は、自分のことを嫌っていた。

 しかし、それは間違いであったことを確信する。

 嫌っているのではない。――憎しみを抱き、そして、戸惑いをも抱いていた。

 突然「ポッター!」と呼ばれる。

 

「アスフォデル球根の粉末に、ニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか?」

 

 いきなりの指名ときた。

 しかもこの問題、めちゃくちゃ難しい部類に入るものだ。

 

「い、生ける屍の水薬です、先生。えーっと……効果は、強力な眠り薬です」

 

 しかしハリーは即答できる。

 闇の魔術に対する防衛術、妖精の呪文に次いで、魔法薬学はハリーが最も求めた知識の一つだからだ。つまりそれは、学校が始まる前に教科書を暗記したということである。

 しかも今回は運良く、この魔法薬のことが載っている本をハリーは持っていた。遅れて切符を寄越したハグリッドに手紙を送り付けて何冊か上級生の教科書を手に入れているのだ。そちらの方は三割も読み解けていないが、ちょうどこの薬があった。一年生の最初であるということを考えるとそれでも十分なほどだが……というかこれ、もっと上級生で習う薬じゃないのか?

 セブルス・スネイプ。なんて意地悪な男。

 ハリーが答えたのを見て、スコーピウスががっかりした顔をする。おおかた、失敗したハリーを囃したてるつもりだったのだろう。ずいぶん嫌われてしまったようだ。

 ロンやクライルが何言ってんだコイツという顔をしているのは兎も角、ドラコが感心したような表情をしているのが気になる。隣で指名してもらおうと踏ん張って挙手しているハーマイオニーは無視しておこう。

 スネイプが感心したように笑うと、またもや質問の襲撃を開始した。

 

「よろしい。では、ベゾアール石を見つけて来いと言われたらどこを探すかね?」

「ヤギの胃の中です。茶色の萎びた石で、大抵の魔法薬の解毒剤となります」

「それもよろしい。ではモンクスフードとウルススベーンとの違いは?」

「……同一の植物です。それは、つまり……えっと、トリカブトのことです!」

「よろしい。よく教科書を読んでいるといえよう。グリフィンドールに二点を与える」

 

 攻撃が終わった。乗り切った。しかも、点まで入れてもらえた!

 ハリーの鋭い目が柔らかく閉じられ、ほっとしたような笑顔になった。

 スコーピウスがクライルに八つ当たりしているのが目に入る。

 ロンはほー、という顔をしているし、ドラコはハリーを見て爛々と目を輝かせている。

 ハーマイオニーは、悔しそうに椅子に座るところだった。立ってまで当ててほしいのか?

 最後の方に記憶の井戸から知識を引っ張りあげて疲労したハリーが、ようやくほっとしたその瞬間。スネイプが意地悪な笑みを濃くして最後の追い打ちをかけた。

 

「では最後に。丸ごと食せば熱さましとして使える、愛の妙薬の原料を答えよ」

「えっ?」

 

 またか! とハリーが思う間もなく、その問いの内容に絶句する。

 この一、二ヶ月でずいぶん脳のしわが増えているとハリーは自負していたが、それがまだまだであったことを思い知らされた。

 表情を歪めて必死に脳内にある「薬草ときのこ一〇〇〇種」や「魔法薬調合法」のページを紐解いても、まったくわからない。

 ハリーは三分ほど脳内図書館を荒らしまわった挙句、ついに降参した。

 

「……わかりません」

「アッシュワインダーの卵だ、ポッター。『幻の動物とその生息地』は読んでおらんようだな」

 

 読んでいる事は読んでいる。

 だがあれは、闇の魔術に対する防衛術などで使われる教科書だ。

 魔法薬学ではない。

 

「おや、おや。卑怯と思うなかれ、魔法薬学ではそういったものも扱うのだ」

 

 ハリーの表情を読み取ったスネイプが、にんまりと笑う。

 

「補足しよう。ベゾアール石の見た目は石というよりも干からびた内蔵に近く、かなり希少である。そして生ける屍の水薬だが……材料は先に述べたものに加えて、刻んだカノコソウの根に催眠豆の汁なども必要だ。ポッター。ああ、ポッター。思いあがりは身のためになりませんぞ。グリフィンドールから三点減点する」

 

 その後もスネイプは、ハリーに加点して減点するという性質の悪い芸当をやってのけた。

 生徒二人でペアになって「おできを治す薬」を作る実習に至っては、ハリー・ハーマイオニーペアが完璧に調合したのを褒めて五点を与えた直後、教室の反対側でネビルが調合に失敗してしまいスネイプの指示で医務室に送られる際に、何故注意をしなかったのかと叱りつけて六点を引かれてしまった。

 合計で二点のマイナス。

 魔法薬学の教室――まさかの地下牢だ――から戻る時さすがに落ち込んでいると、ロンが後ろからやってきて「フレッドとジョージなんて君とは比べ物にならないほど減点されてる。気にしない方がいいよ」と笑って言ってくれた。

 ハリーが嬉しそうな顔をしたのでロンははっとなり、せかせかと歩いて行ってしまった。

 スネイプのあんまりな態度を見て、ハリーへの不満を一時忘れてしまったらしい。

 ロンと少しだけ仲直りできたのと、スネイプの人となりを知れたことが今回の収穫だった。

 

 ハグリッドの家では、予想よりも美味しい紅茶と、とんでもない硬さのロックケーキをご馳走になった。

 ハーマイオニーは食べるのに四苦八苦していたが、ハリーは正直これより堅い物体をダドリーに食べさせられたことがあるので、特に苦労もなくガキンゴギンと噛み切ることができた。

 ハリーとハーマイオニーはこの一週間の授業内容をハグリッドに話した。魔法を学ぶのは結構楽しい、お互いに競うようにモノを覚えていくのはかなり素敵なことだった。等といったことをハグリッドが聞くと、二人とも勉強熱心だな、と豪快に笑った。

 耳やらへそやらを舐めようと執拗に迫ってくるハグリッドの飼い犬ファングを足で牽制しながら、ハリーはロックケーキを噛み砕いて言った。

 

「スネイプ先生は、どうもぼくのことを憎んでいるみたいだ。あと、何だか戸惑っているような気がする」

「なにを阿呆なことを。戸惑うっちゅーのはようわからんが、憎む理由がありゃせんわい」

 

 ハグリッドはそう笑い飛ばしたが、何故だかハリーとは目を合わせてくれなかった。

 ハーマイオニーが魔法動物についてハグリッドに質問を飛ばしている間、ハリーは紅茶のポットの下に敷いてあった新聞を眺めていた。日刊予言者新聞とかいうものだ。

 どうやらグリンゴッツ銀行に強盗が入ったらしい。――強盗?

 

「ねぇ、ハグリッド」

「うん? どうしたハリー?」

「この新聞記事。事件が起きたのは、ぼくの誕生日だ。あの時ぼくら危なかったのかな」

 

 しかしその何気ない言葉に対して、ハグリッドは目を逸らしてしまった。

 そこでハリーは気付く。なにかある、と。

 注意深く記事を読んでみれば、『その日、荒らされた金庫は既に空にされていた』とある。

 ハリーは自分の金庫を空っぽにするという愚を犯してはいない。

 しかしハグリッドの開けた七一三番金庫はどうだろう?

 はしたないと思い直ぐに目を逸らしてしまったが、入っていたのは小さな包みが一つだけ。

 しかも小鬼のグリップフック曰く、相当厳重なセキュリティがかけられていた。

 ついでに言うと、あの小包はダンブルドアからの手紙に関係あるものだそうじゃないか。

 これははたして偶然だろうか?

 

 お土産に持たせてもらったロックケーキをバギンバギンと齧りながら、二人は夕食の時間に遅れないうちに城に向かって歩いていた。

 ハーマイオニーはお土産でスカートのポケットがパンパンで、実に歩きづらそうにしているが、魔法動物について色々な話を聞けて満足そうだ。ハリーと繋いだ手も実に暖かい。

 なんだろう? ハグリッドは何を隠している。

 スネイプについてもだ。アレは明らかに何かある。

 なんだ? これは――たぶん、なにかあるぞ。

 ハリーはその鋭い目をさらに細くして、思案を巡らすのだった。

 




【変更点】
・異性なのでロンが余所余所しい上に、ドラコとのやりとりで不信感が。
・ただし、同性との仲はそこまで悪くない。今のところは。
・スネイプの態度が原作よりもちょっとだけ軟化。でも陰湿なのがスニベルスだ。
 やはり少女だとリリーの面影があるので仕方ないこっちゃ。ゆ、優遇じゃないよ!
・『幻の動物とその生息地』。入手は困難ですが、我々マグルでも買えますよ。
・食に関しては、食えりゃいいタイプ。ロックケーキは今後彼女の好物に。

【オリジナルスペル】
「ドケオー・○○、場所を教えて」(初出・3話)
・淡い水色の光が、探し物の場所へ案内してくれる。○○には対象の名称を入れる。
 元々魔法界にある呪文。生活に便利な魔法。

【新キャラ】
『グレセント・クライル』
 ほぼ本物語オリジナル。
 クラップ+ゴイル=十一歳児のゴリラ。パワーは二倍、バカさは三倍。

申し訳程度のDMC要素。
ああ、このペースで投稿していたら、ストックがすぐに切れてしまう。
一話一話を短くすべきだろうか迷うところ。
ハリーちゃんはこれから強くなるよ! たぶん。じゃないと、一年生で死んでまうで。


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4.フラッフィー・パニック

 

 

 

 ネビルが、ぐしゃりと潰れた。

 飛行訓練の授業中に起きたことだった。

 グリフィンドールとスリザリンの合同授業。

 鷹のような目をした担当教師、マダム・フーチが慌ててネビルへ駆け寄ってゆく。

 口の端からどろどろと血を垂らして呻くだけのネビルを抱えたマダムが鋭く言う。

 

「そのままで待機! いいですね! ちょっとでも箒に乗ってごらんなさい、クィディッチのクの字すら言えないようにしますからね。つまり、退学です」

 

 ネビルはちょっと焦ってしまっただけだった。

 箒に乗ってまずは数センチ浮こう。という初歩の初歩の練習のはずだった。

 しかし勢い余ったネビルは、ひゅぽんとコーラの栓が吹っ飛んでいくような勢いで空に舞い上がったかと思えば、ホグワーツの城壁に衝突してそのまま真っ逆さまに落ちたのだ。

 ハーマイオニー他、女子生徒は盛大な悲鳴をあげた。

 度胸ある女であるハリーはネビルが落ちた瞬間に目を閉じずに凝視してしまったので、彼の口や鼻から赤い液体が噴き出すのを見てしまった。しばらくミートパイは食べられない。

 結構な量の血だけが残されて、さすがに誰も笑わなかった。

 ただ一人、スコーピウス・マルフォイを除いて。

 

「見たかい、あの大マヌケの顔を! なさけないったら!」

 

 追従してクライルが笑うと、肝の据わったスリザリン生が何人か笑った。

 スコーピウスが地面に落ちている透明な玉を掠めるように拾い上げて掲げた。

 『思い出し玉』というマジックアイテムで、それを握っているときに何かを忘れていると、中に封じ込められた煙が赤く染まるという、ネビルの祖母が彼に送って寄越したものだ。

 彼が握っている今の状態は、赤。

 それの意味をスコーピウス含めてスリザリン生の誰も知らないのだからお笑いだ。

 

「それを返せよ、マルフォイ!」

 

 喰ってかかるはロン・ウィーズリー。

 スリザリン嫌いとして知られる彼が、友人のネビルを笑いの種にされれば激昂するのも当然というものだった。掴みかからないのは単純に、クライルが立ちはだかっているからだろう。

 喧々諤々と突っかかるロンをせせら笑うようにあしらうスコーピウスに痺れをきらしたのか、ついにロンがとびかかろうと姿勢を低くした、その時だった。

 

「なぁ、ポッター? ハリエット・ポッター」

 

 スリザリン一年生の中で、ボスのように振舞っている少年が歩み寄ってきた。

 ドラコ・マルフォイ。

 スコーピウスの双子の兄であり、彼を弟に持つことで落ち着いた雰囲気のスリザリン生だ。

 そして、純血主義。自らの血筋を誇りに思う、まさに貴族といった風の少年だ。

 その彼が、争いを遠巻きに見ていたハリーを指名する。

 

「ポッターがその玉を取れたなら、返してやろう。ウィーズリー」

「そんなことしなくっても、それはネビルのなんだぞ! 返せよ!」

「いいから」

 

 ドラコは指を鳴らすとクライルを呼び、彼を連れてハリーの前までやって来た。

 クライルはロンがドラコに飛びかかれないようにしっかりガードしている。

 

「せっかく手元にあることだし、箒だ。これを使おう。僕が投げるから、あの玉を先に掴んだ方の勝ち。……どうだい、クィディッチみたいだろう」

「……ドラコ。それは、ぼくと勝負がしたいってことなの?」

 

 ハリーが問う。

 ドラコはそれに対して、ニヤリと笑っただけで答えなかった。

 

「来いよ、ポッター!」

 

 スコーピウスに思い出し玉を投げさせると、ドラコは箒に飛び乗って空中でキャッチし、空高く舞い上がっていった。

 これはドラコと話をしてみるチャンスかもしれない。

 そう思ったハリーは箒に跨り、ふと自分が箒について何も知らないことを思い出した。

 ハリーがマグル世界で育ったことを知るハーマイオニーが叫んだ。

 

「ダメよハリー! 退学になりたいの? それに、箒の乗り方なんてしらないくせに!」

 

 いや、とハリーは否定した。

 全身の血液がやけに熱い。本能の赴くままに地面を蹴ると、既にハリーは空に居た。

 なんら問題はない。飛ぶってなんてすばらしい! ああ! 滾る、昂ぶる!

 一気にドラコのいる高度まで飛び上がると、ハーマイオニーがまるで芥子粒のようだ。

 グリフィンドール生――特にロンの歓声がひと際大きい――の歓声が聞こえる。

 風を切り裂く感覚が心地よい。箒の上でバランスを取るだけで心が躍る。

 ハリーは自分の唇が吊りあがっていくのを感じた。

 

「来たかポッター。いい度胸だ、女にしておくのは惜しい」

「女で悪かったね。だけどドラコ、いまそれは関係ないぞ」

 

 挑発だ。

 スコーピウスや他のスリザリン生と違って、ドラコは分かっている。

 これがただの、獅子と蛇のよくある寮同士のいざこざでないことくらい。

 だけどハリーは心が昂ぶっていくのを、とてもじゃないが抑えられなかった。

 ああ、はやく、ドラコ、はやくしてくれ。

 

「いくぞポッター。ロングボトムの大事な玉だ」

 

 ハリーの気持ちにこたえるかのように、ドラコは笑った。

 獰猛な笑みだ。これと同じものを、ハリーはどこかで見たことがある。

 ドラコが陽の光に輝く思い出し玉を掲げて、

 

「取れるものなら、取るがいい! ほら!」

 

 無造作に天へ向かって放り投げた。

 玉が天高く飛び上がっていき、

 ドラコとハリーの視線の先で放物線の頂点へ達し、

 それがだんだん、スローモーションでゆるりと落下し始めた、

 ――その瞬間。

 二人の箒が弾かれたように高速で飛び出した。

 互いが互いのルートを邪魔しないよう、螺旋を描いて直進する。

 そして二人が並んだそのとき、ハリーとドラコは同時に箒の先を地面に向けた。

 がくんと垂直に折れ曲がり、二人は地面に向かって一直線に落ち始める。

 向かう先は、風を切って落ちゆく思い出し玉。

 二人のスピードは玉が落ちるよりも、断然早い。

 全身で風を切り裂き、地上で皆が上げる悲鳴を置き去りにして、

 ハリーとドラコは二人同時、全く同じタイミングで手を伸ばした。

 スパァン! という小気味よい音とともに思い出し玉を手中に納めたのは、ハリーだ。

 視界の隅で、隣のドラコが悔しそうに顔を歪めるのが目に入る。

 今度は地面に正面衝突しないようにしなければ、という思考をコンマ一秒にも満たない速度で脳裏に閃かせた二人は同じ姿勢で同じ動きをして、地面すれすれで水平に立て直した。

 そうして二人して草の上に転がって勢いを殺し、仰向けになったまま倒れこむ。

 

「ッはァ! ぼくッ、ぼくの、勝ちだ! ドラコ! ぼくの勝ちだ!」

「はぁ、はぁっ、ポッター、くそっ! こいつ! なんてやつだっ!」

 

 心配して駆け寄ってきた赤と緑の寮生たちが心配そうに覗きこむ中、ふたりはガバッと起き上がって互いが獰猛な笑みを浮かべているのを見てまた笑う。

 ハリーは確信した。

 思想が違う、といってあの時ハリーの手を跳ねのけたことは確かに跳ねのけた。

 あの時あの瞬間、ハリーとドラコの道は分かたれたのだ。

 それはある意味では正しく、ある意味では別の意味を持っていた。

 彼がハリーを仲間として受け入れることは、おそらくもうないだろう。

 これがスコーピウスなら、きっと犬猿の仲になり対等の立場に立つことなど無理な話。

 だがドラコは違う。

 スコーピウスという少々困った気性の弟を御せる程度には成熟しており、クライルという自分より力のある者を別のチカラで従えることができる。

 そして何よりも、あの獰猛な笑み。

 ドラコ・マルフォイ。彼もハリーと同じく、何か大きな目的を抱えている男だ。

 二人は互いの瞳の中に、そんな思いを感じていた。

 新たに誕生した「宿敵」は、フフフと不気味な笑い声を漏らしたまま向かい合って微動だにせず周囲を不気味がらせていたが、鋭い声によってその黒い笑顔は真っ青に萎んでいった。

 

「ハリー・ポッター!?」

「ドラコ・マルフォイ!」

 

 つかつかとかなりの速度で歩み寄ってくるのは、ミネルバ・マクゴナガル教授とセブルス・スネイプ教授の二人である。

 その二人の姿を見て、ハリーはしまったと思った。

 今の高揚した気分が、今しがたのダイビング並みのスピードで消え去ってゆく。

 『退学』。

 その二文字が頭に思い浮かんで、ハリーは震えが止まらなくなった。

 ヤバいなんてものではない。ドラコに至っては脂汗まで流している始末だ。

 

「よくも――こんな大それた――首の骨が折れていたかも――」

「ミスター・マルフォイ。我輩と来たまえ。いま、すぐ、だ!」

 

 言葉が詰まったかのようなマクゴナガルと、土気色の顔をしたスネイプ。

 スネイプに腕を引っ張られて、涙目になったドラコが助けを求めるようにハリーを見た。

 だいじょうぶ、ぼくもヤバい。

 同じく涙目になったハリーがドラコを見送ると、今度はハリーが引っ張られる番だ。

 つい先ほどまで熾烈な競争をしたライバル同士は、逆方向へと連れられて校舎へ戻っていった。

 ロンの焦った顔、ハーマイオニーの引きつった顔、スコーピウスの泣き顔。

 それぞれの顔が各々心配する先の方へと向けられていた。

 

 やってしまった。

 マジか。マジでか。

 ヴォルデモートをぶん殴ってやると高らかに宣言しておいて、このざまか。

 退学になればまた、ダーズリーの元へ戻ることになるだろう。

 そうすればあの日々がやってくる。

 ここまで高くあげてから落とされれば、ハリーの心は死んでしまうだろう。

 もはや蒼白な顔色になって、廊下を素早く歩くという曲芸をこなすマクゴナガルにハリーはとぼとぼと付いていった。

 あのプリベット通りに戻るのだけは嫌だ……。

 

 だが、話はそうはいかなかった。

 聞けば、今年度グリフィンドールにはシーカーがいなかったのだという。

 クィディッチの試合ではいつもスリザリンに負けて、寮監のスネイプと話すたびに悔しい思いをしたのだとか。

 ことここに至ってハリーはようやく、クィディッチという魔法族のスポーツ、その選手になってくれという話になっていることに気づいた。

 クィディッチとはハグリッド曰く、最高にエキサイティングで、スピーディで、そして『危険極まりない』スポーツなのだそうだ。

 そうアツく語るのはグリフィンドールのクィディッチ・キャプテンを名乗る、上級生のオリバー・ウッド。がっしりした体格のスポーツ馬鹿といった印象の青年で、ハリーの失礼千万なその第一印象は、後になって事実であったことが判明した。してしまった。

 ハリーは緑の瞳を爛々と輝かせて了承の旨を告げた。

 

「まったく! 一歩間違えたら死んでしまうところだったのよ!」

「すみませんでした」

 

 大広間でヨークシャープティングにぱくついていたところにハーマイオニーからお叱りの言葉を浴びせられ、ハリーはない胸が痛んだ。

 確かにドラコとの勝負は心が踊った。

 だが確かに、あれは他人から見れば二人仲良く地面に向かって突進しているだけだっただろう。

 そう思って一言謝ったその時、やってきたのはロン・ウィーズリー。

 彼は実に男の子らしく、ハリーがファインプレーを見せたことで上機嫌になり、気まずい仲だったことを忘れてしまったようだった。

 男の子はどうも、いつまでも禍根を残すような生き物ではないらしい。

 

「そうぷりぷりするなよ! ハリーは寮の代表選手になったんだぜ!? 百年ぶりの最年少シーカーなんだよ!」

「私が怒ってるのは、そういうことじゃないのよ!」

「へぇー? じゃあなんだい。規則破りをしたことがご立腹なのか、ハーマイオニー」

 

 ハリーはこの状況になってみてようやく、二人の関係に気づいた。

 この二人、徹底的に気が合わないようだ。

 勉強好きで、規則第一。自分にも他人にも厳しすぎるきらいのある性格のハーマイオニー。

 勉強嫌いで、反骨精神・イズ・クール。良くも悪くも男の子で、好奇心旺盛な性格のロン。

 ロンや他の男の子の行き過ぎた悪ふざけを正そうと叱りつけるハーマイオニーはなるほど、いわゆる学級委員長タイプの女の子だ。だが、それはお調子者が多いグリフィンドールの男子たちには反感を買ってしまう行為だ。

 勇猛果敢な騎士道精神を持つ者の集うグリフィンドールと人は言うが、ここの寮生が子供のころから皆が勇者であるということは、決してない。

 スリザリンはそもそも純血のお坊ちゃんが多いので、仲間と馬鹿やって笑うといった子は少ない。ハッフルパフは大人しい子が多く、騒ぎ立てること自体に忌避を感じる子がほとんどだ。レイブンクローに至っては馬鹿騒ぎなどまさにバカのする事だと思っている節がある。

 つまり学級委員長気質のハーマイオニーと典型的なグリフィンドール男子のロンでは、ハリーが間で緩衝材になっているだけで基本的に相容れない系統の存在だったのだ。

 

「そうじゃないわ、なんでわからないのよ!」

「大きなお世話だよ放っておいてくれ。――それよりハリー、今日の真夜中にマルフォイ弟から決闘の申し込みを受けてるんだ。介添人として来ないか? 君にスリザリンがどういう連中なのか、教えてあげたくってね」

 

 憤慨するハーマイオニーにぞんざいな返答をし、あろうことかその目の前で規則破りのお誘いをするという挑発的な事をするロン。

 夜に寮の外をうろつくというのは、教師に見つかれば減点対象にもなりうる。

 ついさっきスネイプに二点も差っ引かれたハリーとしては勘弁願いたいところだが、ロンと仲直りするいい機会かもしれない。それに、スコーピウスが来るというのなら彼とも話をする機会があるやも。

 だが減点は怖いし……などとハリーが迷っていると、あっという間に夜になってしまった。

 寮の談話室でロンを待っていると、十一時半というギリギリになってからロンは男子寮から降りてきた。ダドリーもそうだったが、男の子ってみんな時間にルーズなのだろうか?

 意気揚々とマルフォイをやっつけてやる! と息巻くロンに対してハリーは言う。

 

「ねぇ、やっぱりやめない? バレたら退学かもよ?」

 

 それに対してロンは、一瞬迷った顔を見せるが頭を振って否定する。

 

「男にはね、ハリー。やらなくっちゃいけないときってのがあるんだよ」

 

 ここは男の僕が先導しなければならない。女にはわからないことなのだ。

 と考えているのがよく分かる。

 因みに後で知ったことだが、今の台詞はロンお気に入りのマンガの主人公の台詞だった。

 彼はこの騎士的な行為に酔っているのだ。

 瞳を輝かせるロンを半目になって見ているハリーの後ろから、委員長が現れた。

 

「やっぱりね。ハリー、あなたじゃ止めきれないと思ってたわ」

「まーた君か! なんなんだよもう!」

「本当はパーシーに言おうと思ったのだけれどね。監督生だし、あなたのお兄さんだから。言うことを聞いてくれるかと思ったのだけれど……最近の様子を見るに、あなたきっとそれじゃ止まらないでしょう」

 

 憤慨した様子のロンは、ハリーの腕を引っ張って談話室から外に飛び出した。

 ハリーは何故ぼくが? と思ったが、そういえばスリザリンがどういうものかという事を教えるとか言っていたのを思い出す。

 ハーマイオニーがアヒルのように怒鳴り続けるも、ロンは聞く耳を持たず歩き続ける。

 ロンが腕を強く握りすぎて、ハリーが「痛いよロン」と言ってようやく手を離した。

 

「あー、ごめんハリー。気が急いて、つい」

「ロン。やっぱりぼくは気が進まない。ハーマイオニーの言うことが正しいよ」

「そんな!」

「君と仲直りできるかもと期待してはいたけど、仲直りの代償に退学になっちゃうよ」

 

 ハリーがぶっちゃけたことを言うと、ロンはショックを受けたようだった。

 でもこれは君のためになることなんだよ。としどろもどろに言うロンを放っておくことに決めて、ハリーは談話室へ戻ることにした。

 今朝がたマクゴナガルがハリーのベッドを用意してくれたので、寝心地を確かめたい。

 初めてできた女の子の友達と夢の世界に旅立つまで、下らない噂話をするのもいいだろう。

 だが談話室前の「太った婦人の肖像画」の前で茫然としているハーマイオニーを見て、ハリーは気付いた。婦人がいない。ホグワーツでは絵の中の人物が何処かへ行ってしまったりするのは既に知っていたが、談話室の肖像画もそうだったのか。というかこの場合ぼくたちはグリフィンドール寮へ戻れるのか? 答えは決まっている。否だ。

 

「これは行くしかないね。そうだろ?」

 

 ロンが意気揚々と言い、ハリーは仕方ないので従う事にした。

 ハーマイオニーまでついてきたのをロンは咎めたが、「フィルチに捕まったらあなたを証拠として突き出すつもりよ。私とハリーの保険のためにね」と言うのを聞いて、憤慨した。

 喧々諤々と言い争いを始めた二人に、ハリーが静かにしてくれと言う。

 ここまで騒いでいては、管理人フィルチかその飼い猫ミセス・ノリスに見つかってしまう。

 彼らに見つかったが最後、ねちっこく責めたてられて減点の憂き目にあうだろう。

 そんな事になったらロンに悪霊の呪いをかけてやろうかと思いながら、ハリーたちはついにスコーピウスが待っているというトロフィー室前についた。

 マルフォイめ、やっつけてやる!

 などと息巻くロンに呆れながら中に入ろうとして扉を開けようとドアノブを捻ると、

 

「ほぅら来たぞ、悪い生徒たちだ……退学にしてやる!」

 

 というフィルチの声が響き渡った。

 トロフィー室の中で、フィルチが待ち構えていた!

 ――やっぱり罠じゃないか、この赤毛のっぽ野郎!

 そう気付いたハリーは、悲鳴をあげそうになったロンの口をふさいで、ハーマイオニーに扉を開かないようにしてくれとアイコンタクトを送る。

 ハーマイオニーが扉を勢いよく閉め、フィルチが駆け寄ってくる音に慌てながらも「『インパートゥーバブル』、邪魔よけ!」と唱えて扉に触れられないようにした。

 トロフィー室でフィルチが扉に触れようとして弾き飛ばされてトロフィーの上に倒れ込んだのかは知らないが、耳障りな金属音が大音響で響くのを尻目に、ハリーとハーマイオニーはあらぬ方向へ駆けだした。ロンは半泣きで後からついてきた。

 見つかればどうなる? 知れたことだ。

 立ち止まればどうなる? フィルチもバカではない、すぐ追いついてくる。

 

「なんで!? なんでフィルチが何で!?」

「スコーピウスに嵌められたのよ馬鹿じゃないの何度も言ったわよ馬鹿じゃないの!?」

 

 あえぐロンに、半ギレのハーマイオニーが叫ぶ。

 いま一体どこを走っているのだろうか。

 正直よくわからない状態だったが、どうやらこの中で一番足が早いのはハリーのようだ。本来ならばロンであろうが、彼はいまパニックになっていて使いものにならない。ゆえに自然、彼女が先導する形になるのだが、いかんせん道が分からないので適当に走るしかない。

 すると、後ろからばたばたと不格好に走る音だけが聞こえてきた。

 もう追いついてきたのか!

 ハリーが涙目になっている自分の顔を袖で拭いながら、近場にあった扉に飛びついた。

 だめだ、鍵がかかっている。

 

「お、おしまいだ! もうダメだ!」

 

 悲痛な声をあげるロンに苛立ちながら、ハーマイオニーが鋭い声で叫ぶ。

 その手には素早く抜き出した杖が握られていた。

 

「邪魔よ、どいて! 『アロホモラ』ッ!」

 

 小さな魔力の渦が鍵穴に入り込み、軽快な音を立てて扉が開いた。

 考えている暇などない。

 素早く身体を滑り込ませ、素早く、だが音を立てないように扉を閉めた。

 恐らくフィルチであろう、どたばた足音はこの部屋を通りすぎてどこかへ行ってしまう。

 それもそうだ、この部屋には鍵がかかっていたのだから居るとは思うまい。

 ハリーとハーマイオニーが抱き合う形で安堵のため息をつく。

 胸がどきどきして心臓がはじけそうだ。

 毎日ジョギングしていたハリーでさえそうなのだから、ハーマイオニーは玉のような汗を流してせき込み、あえいでいる。彼女の背中を撫でながら、怒りを込めてロンを睨みつけた。

 しかし、その怒りも彼が怯えているのを見て霧散する。

 ひぃひぃ情けない悲鳴をあげる彼の視線の先を見て、ハリーは冗談じゃないと心中叫んだ。

 ここは部屋ではない。廊下だった。

 しかもダンブルドアが言っていた、禁じられた廊下。

 入ったら死ぬ……確かそんなことを言っていたような。

 それも納得だ。

 ハーマイオニーもハリーの様子に気づき、目の前にいるそれに気がついたようだ。

 デカい犬。第一印象はそれだ。

 あと、頭が三つ。ぐるるると低い唸り声もあげている。

 どうやら彼にしてみれば夜食が飛び込んできたように思えるらしい。

 いや、問題はそこだけではない。

 それが、あと二匹。

 ――つまり、三頭犬が三匹もいるのだ。

 目玉は合計十八個。穴があきそうだった。ついでにハリーの胃にも穴があきそうだった。

 どうする!? どうしたらいい!?

 ハリーの脳裏には、クィレルにした質問が思い浮かんだ。

 

Q.もし何らかの危険な存在に襲われた場合、どういった呪文で乗り切ればいいのですか?

A.そんな恐ろしい状況……私には耐えられない! ヒィーッ!

 

「だめだ! 逃げろぉぉおおお―――ッ!」

 

 ハリーが大声で叫ぶと同時、金縛りにあっていた二人も弾かれたように扉へ逆戻りした。

 フィルチに見つかるか? 知ったことではない。死ぬより幾分かましだ。

 これまたどこをどう走ったものか、ハリーらは数分でグリフィンドール寮へと辿り着いた。

 そのころには太った婦人も絵画に戻っていて、何故かネビルと話をしていた。

 こんな時間になにやってんだあいつとかそういう感想は頭からすぐに流れ出てゆく。

 二人は走ってきた三人を見て、心底たまげていた。

 寝間着で涙目の少女二人と、半泣きの少年一人。しかもこんな夜中にだ。

 

「ど、どうしたのさ三人とも? ぼくみたいに合言葉忘れちゃった?」

 

 惚けた質問をしてくるネビルを押しのけて、ハリーは息も絶え絶えに言った。

 

「あなたたち、こんな時間になにをしていたの?」

「だまれ。『豚の鼻』」

「まあ!」

 

 暴言を吐いたハリーが婦人の肖像画を開け寮の中へ入りこむと、ハーマイオニーが我先にと談話室のソファに倒れ込んだ。

 ロンももう一つのソファに倒れ込もうとしたが、それはハリーが蹴飛ばして自分が座り込んだ。

 床に転がったロンは不満げだったが、文句を言う体力は残っていないようで目で訴えるのみ。

 便乗して談話室に戻れたネビルが心配そうにしていたので、ハリーは図々しくも水をお願いした。

 下男のように甲斐甲斐しく水差しを持ってきたネビルに視線で礼を言い、伝わっていないようだったが構わず中の水をマナーも減ったくれもなくそのまま飲んでゆく。

 栗毛と赤毛の二人からそれを欲する視線を感じたが、ハリーは英国紳士(少女だが)としてレディファーストを行い、彼女が水差しから口を離したころには、中身は空っぽだった。

 ロンの顔が絶望に染まったがハリーは無視した。

 男女の喧嘩は陰湿である。

 

「なんなんだ――あれ! あんなもんを学校に置いておくなんて正気か!?」

「し、死ぬかと思った。ダドリーよりよっぽど怖かった。何のためにあんな……」

 

 悲痛な叫びを漏らすロンとハリーに、ハーマイオニーはうつ伏せになったまま言う。

 

「三匹もいるからちらっとしか見えなかったけど……仕掛け扉の上に立っていたのよ、アレ。きっと何かを守っているのよ……」

 

 確かにハリーも見た気がする。

 しかしそうすると、本当にあそこには何かがあるようだ。

 

 ハグリッドの言葉が思い出される。

 ホグワーツは絶対に安全。世界のどこを見てもここ以上に安全なところはない。

 なるほど、ハグリッドが金庫から引きだしたあの包みはあそこにあるのか。

 だが、包みがなんなのかはわからない。

 重要なモノではあるだろうが、ぼくには関係なさそうだ。

 そして、その考えがすっかり溶けだすころには、ハリーは眠くて仕方がなかった。

 そう思ったハリーは目を閉じて、夢の世界へ旅立った。

 その考えが大いなる間違いであったことに気付くのは、もう少し後の事になる。

 




【変更点】
・ネビルは投げ捨てるもの。
・ドラコ「一応原作でも実力はあるフォイ!」
・ハリーのロンへの扱いが雑。まだ『友人』ではないため。
・弱体化ばかりではないの。むしろ生き残るため自らを魔改造せねば死ぬぞハリー。
・三頭犬が一匹だけじゃ物足りないだろう、吾輩からの贈り物だポッター! 難易度三倍だ! 

【オリジナルスペル】
「インパートゥーバブル、邪魔よけ」(初出・原作5巻)
・扉などへの接触を防ぐ呪文。無理矢理接触を試みると、勢いよく弾き飛ばされる。
 元々魔法界にある呪文。モリーが不死鳥の騎士団会議の盗聴を防ぐために扉に掛けた。

クィディッチシーンは大好きです。
いつかクィディッチワールドカップを…一心不乱のワールドカップを……
次回はちゃんと杖を使ってのバトルシーンを書きたいですね。ビューン、フォイよ!


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5.アンハッピー・ハロウィーン

 

 

 

 ハリーはとてつもなく不機嫌で、かつ素晴らしく上機嫌だった。

 前者の理由は簡単だ。

 ロン・ウィーズリー。あの男の存在が彼女を悩ませる。

 彼の顔を見ると、耳までカーッと熱くなって呼吸が荒くなる。

 そばによると拳がわなわなして、あのそばかすだらけの鼻をへし折りたくなってしまう。

 この煮え滾る気持ち……これが恋か。いいや、違う。こりゃ怒りだ。

 ハリーとハーマイオニーの忠告に一切耳を貸さず、スコーピウス・マルフォイから決闘の誘いなるものに乗って、まんまと罠にかけられた。しかもこちらを巻き込んで。

 下手をすれば退学になっていたのだ、冗談ではない。

 

 あの三頭犬ズがいる部屋から逃げ切ったあと、ぷりぷり怒って寝室に戻ったハーマイオニーの後ろ姿に「ぼくが引っ張り込んだとでもお思いなのですかねぇ!?」などと言ったロンの横っつらに、ハリーは平手をブチ込んだ。

 そして赤くなった頬を抑え、

 

「ああそうかい! 君もハーマイオニーの肩を持つってわけか! 嫌な奴同士寄り添ってろよ、この――ぺちゃぱい!」

 

 などという『名称を言ってはいけない例のあの暴言』にプッツンしたハリーが、頬の腫れたロンの鼻っ柱を一発ブン殴って倒れたロンの脇腹に四発蹴りを入れて石化呪文をかけて掃除用具入れにブチ込んで、扉にハーマイオニーが使った呪文と同じものをかけて扉が開かないようにして以来、目も合わせていない。

 まだ十一歳だ。将来性があるんだ。そのはずだ。

 ネビルが大慌てで何とかしようとしたので、たぶん飢える前には救助されただろう。

 横っ面をビンタされた上に螺旋右ストレート、そして全体重を乗せた蹴りプラスアルファ。

 非力な彼女でもそこまでやれば、彼の意識を奪うには十分であった。

 ハリーって思ったより激情型な女だわね、とはベッドで泣いていたハーマイオニーにロナルド駆除を包み隠さず話した感想だ。

 心外である。

 ダドリーから日常受ける暴力は、こんなものではなかった。

 マクゴナガルの迅速な対応によりベッドは既に用意されていたのだが、その日の夜はハーマイオニーと眠ることにした。

 どこか上っ面な友情だなと感じていた彼女との関係が、信頼へと形を変えた気がした。

 

 次に、上機嫌な理由。

 いつだったかロンとロンの同室の男の子が行ったクィディッチとサッカーどちらが面白いかという論争を聞かされ、マクゴナガルとウッドの熱弁を叩き込まれたハリーは、もはやすっかりクィディッチのファンだった。

 それゆえに今朝の朝食時に、マクゴナガルからの贈り物に度肝を抜かれたのだ。

 なんと、競技用箒の『クリーンスイープ七号』をプレゼントされた。

 ウッドが勧めてくれた実用的な箒で、身軽ですばしこい動きが得意な選手にはピッタリな代物。プロでも採用される信頼度の高い箒である。それでも「ニンバス二〇〇〇だったら優勝は確実だったんだけどなあ」などと未練たらたらなことを言っているあたり、ウッド含め男の子はロマンを追い求める生き物のようだ。

 美男子のように端正な顔を表面上はだらしなく緩めているだけだったが、ハーマイオニーはハリーが内心で狂喜乱舞しているだろうことを見抜いていた。

 フクロウが届けに来た細長い包みを、目の前で開けた時のロンの情けない顔ったら!

 この前や昨日、散々喧嘩したことを水に流して一緒に箒について騒ぎたい、と思っているのは顔に書いていなくても分かったくらいだ。

 しかしそんな虫の良い話はないだろう。と思ったハリーは赤毛の男の子を無視した。

 ハーマイオニーが小声で子供っぽいわよと忠告してきたが、ここで許すつもりはないだけだよ。というハリーのアイコンタクトで納得したのか、諦めたのか、それ以上は言ってこなかった。

 それよりも『一年生は箒を持ってはならない』という規則を、ハリーが堂々と破っていることの方を問題視していた。

 プレゼントカードでマクゴナガルからのものであることがわからなければ、ハーマイオニーは引き下がらず喧嘩に陥っていたかもしれない。

 

「へぇ、クリーンスイープか。子猫ちゃん寮生の割には、悪くないセンスじゃないか」

 

 そんな中かかってきた声は、お馴染みドラコ・マルフォイ。

 少し離れた席に座っていたロンが颯爽と立ち上がったが、こちらに回り込もうとする前にドラコは行ってしまった。

 喧嘩を売ろうとした彼が不良在庫を抱えたまま席に戻っていく姿は寂しげだった。

 スリザリンテーブルに彼が座ると、おとものクライルとスコーピウス、他数名の何某たちがこちらをニヤニヤと笑っている。馬鹿にしているというよりは……なんだろう、少し違う気がする。

 一体なんなのか?

 不気味なものを感じながら、ハリーたち二人は教室へと足を向けた。

 

 授業終わり。

 居残ってフリットウィックに魔法力の強化について延々と聞いていたハリーは、先に行ってもらっていたハーマイオニーを探すことにした。

 今日はハロウィンだ。

 ちょっと頭が固いけど勤勉な女の子、ハーマイオニーという初めてできた親友とパンプキンパイに舌鼓を打ちながら、この前読んだ本について論戦するつもりだった。

 ハロウィンパーティーは十八時からだ。近道をいけば一度寮に戻って、荷物を置いてきてもまだ十分間に合う。

 そう思って小さな中庭を通ると、

 

「あの女ども、デキてるんじゃないのか?」

「いや、案外そうかもね。ガリ勉女があの男女以外とつるんでるとこは見たことないし」

「あいつ友達いなさそうだもんなあ。それより聞いた? さっきの授業でのガリ勉の言い草」

「あー、むかつくよなあ。『違うわ! あなたのはレビオサ~よ!』だってよ!」

 

 などという陰口が耳に飛び込んできた。

 ロン・ウィーズリー、ディーン・トーマス、シェーマス・フィネガン。

 集まると調子に乗るタイプの男の子が、三人揃っておしゃべりしている。

 ディーンは黒人のロンドンっ子。シェーマスは、水を酒に変える魔法が苦手な男の子だ。

 内容からして、まず間違いなくハーマイオニーの悪口である。ついでにハリーのも。

 心外な。

 それにしても幼稚な口撃だとハリーは鼻で笑った。

 ダドリー軍団に居たピアスキーという少年の嫌味は、もっと苛烈で残酷だった。ハリーが無視しても容赦なく的確に心を抉り、女が嫌がる言葉を限りなく突き刺し、子供が怖がる暴言を隙間なく叩きつけ、気丈な男の子のように振舞うハリーがただの女の子のように泣いても嘲笑い続けるという、ある意味で剛の者であった。っていうか悪魔だった。

 とりあえず。あのくらいなら自分にダメージはないから、相手にする事はない。

 自分の過去が『まともじゃない』ことくらい、ハリーは自覚している。

 同年代の女子と喧嘩したこともなさそうなロンの言う事だから、ハリーは大目に見れる(何発も殴って蹴ったことはこの際放っておいてもらおう)のだ。

 だが他の女の子もそうだとは、とてもじゃないが言えない。

 ハーマイオニーに聞かせるような愚は犯してくれるなよ、と思って通りすぎようとした時。

 ディーンの声が聞こえた。

 

「でもロン、いいのかい」

「何がさ」

「ハーマイオニー。お前の悪口聞いて泣いちゃったじゃんかよ」

「い、いいんだよっ! あんな、あんなおせっかい、僕には関係……な……」

 

 ロンがしどろもどろになりながらも言い返そうとした言葉が、するりと喉に引っ込む。

 そして顔がみるみる青くなっていった。

 ディーンとシェーマスが振り向いた瞬間、彼らの未熟でお粗末な脳みそは午前中に受けた授業内容を即座に思い出していた。

 教科書、「幻の動物たちとその生息地」。ニュート・スキャマンダー著。

 その四十七ページ、ドラゴンの項目。

 危険度は、英国魔法省の分類基準で最大値である五。

 「一般的にメスの方が大きく、より攻撃的である」の一文。

 眼前に居たのは、まさに竜そのものであった。

 絹のようにさらさらなショートカットの黒髪が、風もないのに揺れている。

 普段は明るい緑の瞳のおかげで、鋭い目付きでありながら王子様のように凛々しい瞳をしている。だが今はまるで、飢えた竜のように獲物を見定めているではないか。

 小さなドラゴンはその鋭い牙――杖を振り回し、それ以上に鋭く大声で叫んだ。

 

「『エクス……ッ、ペリアァァァームス』ッ! 吹きとべ、馬鹿ロン!」

 

 いつかあのとき、ハグリッドが使って失敗した呪文。

 呪文集などで読んだことはある。理論は知っているが、使う機会などあるはずもない。

 見よう見まねで初めて使った、怒りの一撃。

 だがそれは、怒りという感情でブーストされたことによってハリーに成功をもたらした。

 この呪文は本来「武装解除」と呼ばれるもので、相手の武器を無力化する呪文である。

 ロンは特に杖などを構えていなかったが、或いはそれがいけなかったのかもしれない。

 巨大な魔力の奔流に吹き飛ばされたロンは、きりもみ回転をしながら大きく宙を飛んで噴水の中に突き落とされた。どぼしゃーんという派手な音と水が撒き散らされ、何事かと数人の生徒が噴水を覗きこむ。

 ディーンとシェーマスはただ青くなるだけだった。

 そんな数人をかき分けて突き飛ばして、噴水から顔を出して呆然としているロンの鼻先にハリーは憤怒の形相で杖を突きつけた。

 

「泣かせた? ハーマイオニーを泣かせただって? 暴言を吐く相手は選べよ、ロナルド・ウィーズリー……! おまえは、加減というものを知らないのか? 泣かせるまでやるなんて、『まともじゃない』ぞ!」

「は、ハリー……っ、ぼ、僕、ごめ――」

「ぼくに謝るなあッ! 悪いと思っているなら、ハーマイオニーに謝れ! ばか!」

 

 もう一度杖を突きだすと、特に呪文も唱えていないが怒りの感情が何らかの魔力を放出したらしく、ロンが何かに殴られたかのようにまた水の中に突っ伏した。

 ハリーはハリーで、感情的になりすぎてボロボロと涙がこぼれている。

 激情家かつ暴力的であったことをお披露目したハリーが、口汚く悪態を吐き捨てて足音高く立ち去ってからようやく、二人組がロンの元へやってきた。ロンは未だにびしょぬれのまま呆然としていた。

 その心中はいかなるものか。

 それは彼のみにしかわからない。

 

 

 ハロウィンパーティ。

 決死の覚悟をしていたはずのロンは、大変焦っていた。

 グリフィンドール寮テーブルのどこを見ても、ハリーとハーマイオニーの姿がないのだ。

 場合によっては、皆の前で頭を下げることも考えた。

 それはとても恥ずかしい。

 でも、泣かせてしまった。泣かせるまで喧嘩してしまった。

 ハリーは悪い奴じゃない。女の子だけど、趣味嗜好は男の子に近く話の合ういい子だった。

 ハーマイオニーだって、悪気があってうるさいわけじゃないことくらいは、わかっていた。

 わかってはいたが……どうしても、言うことを聞く気にはなれなかった。

 どうせ女だから。こっちは男だから。

 スリザリンの奴と、仲良くしようとしていたから。

 喧々諤々うるさい、生真面目な委員長だったから。

 そういったことに拘っていた自分が、ばかみたいだ。

 噴水から出た後、もはや白い顔をしたディーンとシェーマスに相談して得た答えがこれだ。

 グリフィンドールの一年生が大喧嘩をしていると聞いてすっ飛んできたパーシーにも、相談してみた。いけすかない生真面目な兄ではあったが、こういうときは真摯に聞いてくれる。ばつの悪そうな顔をした親友二人、そして怒った兄の言うことはおおむね、こうであった。

 ――泣かせた時点で、お前の負け。

 ちょっと理不尽な気がしないでもないが、事実だった。

 泣かせてしまったのは他でもない自分、ロナルド・ウィーズリーなのだ。

 ハーマイオニーには心ない言葉で、彼女の気持ちも考えずただただ傷つけた。

 ハリーには男の子と同じような感覚で接し、彼女の感性を無視して傷つけた。

 

「もう二人と友達になれない、なんてのは……いやだな……」

 

 そして決め手は、この単純な想い。

 自分は思慮が足りなかった。子供すぎた。

 そう思い、二人との心が永遠に離れないためにロンは謝りたかった。

 だが肝心の二人がいないではないか。

 ロンは男の子だ。女子寮には入れないから、彼女らと同室のラベンダー・ブラウンに聞いてみたところ、既に大広間に向かっているのでは? と言われた。

 だからパーティ会場である大広間に来たのだが、いないではないか。

 若干ラベンダーを恨みながら、やっぱり探しに行こうと思って席を立ちあがった、その時。

 

「トロールがァァァあああああああああ―――ッ!」

 

 絶叫とともに、乱暴な音を立てて扉が開け放たれた。

 やってきたのは闇の魔術に対する防衛術の教授、クィリナス・クィレル。

 ローブはよれよれになって、ご自慢のターバンも変にずれている。

 ハロウィンに浮かれてお喋りしていた生徒たちは、一体何事かと静まり返った。

 そして食事を中断した教師陣の方に向かってよろよろと歩きながら、クィレルは喘いだ。

 

「とッ、トロールがァ……! 地下室にッ、地下室に侵入して……! お知らせをォ……」

 

 きちんと言えた奇跡は、そこまでだったようだ。

 クィレルはその体勢のまま、前のめりにばったり倒れて気を失ってしまった。

 そこから先は大パニックだ。

 あちらこちらで悲鳴が上がる。クィレルは多分踏まれているだろう。

 マグル生まれのディーンは状況が呑み込めていないようだが、シェーマスが狂乱の叫びをあげているのでとても不安そうだ。ハッフルパフのテーブルも、レイブンクローもたいして変わりはない。スリザリンですら、泣き始めたスコーピウスを「な、泣くなスコーピウス。だ、だい、大丈夫だ。問題ない」とろれつの回らないドラコが慰めている。

 如何なる魔法を使ったのか、ダンブルドアが甲高い破裂音で皆を沈めてくれなければ酷いことになっていただろうことは想像に難くない。

 黙りこくった生徒たちに向けて、ダンブルドアは毅然としたよく通る声で命ずる。

 

「落ち付きたまえ生徒諸君。監督生よ、すぐさま自分の寮の生徒たちを寮へ引率しなさい。例外は許さん」

 

 ざっと立ち上がったのは、兄パーシーだ。

 まるで水を得た魚のように生き生きしている。誇らしげに生徒たちの引率を始めたあたり、あれは根っからの監督生野郎なのだろう。

 監督生野郎とは如何なものかと思われるだろうが、ロンにとってしっくりくる表現だった。

 彼は普段は鬱陶しい限りだが、有事の際は実に頼りになるリーダーシップを持っている。

 張り切る兄の引率に粛々と従い、皆でどよどよと寮へ歩を進めるうちにはっと気付く。

 ハリー・ポッターと、ハーマイオニー・グレンジャー。

 二人は何処か?

 少なくとも大広間にはいなかった。

 では、この事態を知っているのだろうか?

 きっと何処かで二人、ロンの悪口を言い合っているのだろう。

 問題は、その場所だ。

 寮の談話室か? それとも女子寮の寝室か? それはいい。最善だ。

 最悪は、そうでなかった場合。

 もし地下室近くの教室だったら。何処かの廊下を、大広間目指して歩いていたら。

 

 ――その場合、学校に侵入したトロールに出会う確率はいかほどか?

 

 やっと思考がそこに至ると途端、どっと汗が吹き出してワイシャツを濡らした。

 トロールとは。

 仮にもロンは純血ウィーズリー家の子供で、純然たる魔法族だ。

 そのくらいのこと、マグルの子供が蜻蛉とは何かを知っているかのごとく知りえている。

 身の丈は四メートル、体重は一トンというのが平均的な個体。

 そのような桁外れの巨体と並外れた暴力を併せ持つ、大変危険な魔法生物。

 彼らは生肉を食す。好き嫌いという上等な嗜好などなく、それは人肉でも一向に構わない。

 そして、最大の特徴がある。……彼らは、馬鹿なのだ。

 極々稀に、人語を解するほど知能の高い個体もいる。だが今回の個体もそうであると期待するくらいならば、ウィーズリー家がガリオンくじに当選する方が遥かに可能性は高い。

 つまり、何をしでかすか一切合財予想がつかない。……馬鹿だからだ。

 あれを自在に操ることのできる魔法使いがいるとすれば、それは桁外れた天才か、常軌を逸した馬鹿のどちらかだろう。そのくらい、扱いに手を焼く魔法生物であるということだ。

 では。

 その馬鹿が。

 黒髪と栗毛の女の子二人を目の前にして、どう動くのか?

 答えは至極単純である。

 いただきます、だ。

 

「パ、ぱぱぱパーバババティ? ちょちょちょちょっと、ねぇ、ちょっと」

「な、何よウィーズリー。お、お、驚かさないでちょうだいな」

「い、いや、一つ聞きたいんだけど……いや、聞く資格がないのは分かっていて、なお聞かせてもらうんだけどさ。……ハリーとハーマイオニー、何処か知らない?」

「はぁ? アンタがそれを聞くの? ハーマイオニーは一階の女子トイレで泣いてたわよ。あ、ん、た、の、陰口の所為でね。だからハリーもきっとあの子のところに……、ってあれ?」

 

 あの子たち、トロールが侵入したこと知ってるのかしら?

 と、パーバティの思考がそこへ行きついた。

 彼女のきめ細やかな褐色の肌がさぁっと青くなり、甲高い悲鳴を漏らした。

 悲鳴をあげたいのはロンも一緒だったが、そんなことをしている場合ではない。

 パーバティを落ち着かせようと寄ってきたパーシーを跳ねのけて、弾かれたように駆けだした。

 目指すは一階の女子トイレ。

 パーシーが制止する声など、最早耳には届かない。

 自分の所為で女の子二人が死ぬかもしれない、などという上等な思考には至らなかった。

 自分が助けにいったところで何ができるのか、そんなことも考え付かない。

 自分が行って彼女らは嫌な顔をするだろうか、いやそれすらもどうでもいい。

 余計なことは一切考えず、ロンはもつれる足を必死に動かして走り続けた。

 階段を飛びおりるように駆けおりて、ロンはようやく一階へ到達する。

 あった。あそこだ、女子トイレだ。

 そう、ロンの目がそれを認めた途端。

 ――女子トイレの扉が、爆散した。

 そして悲鳴が響く。絹を裂くような、女の悲鳴だ。

 ロンは最悪の未来を一瞬脳裏によぎらせ、駆けだしながら無我夢中で叫んだ。

 

「ハーマイオニーィィィ! ハリーィィィ!」

 

 

 

 ハーマイオニーは泣き腫らしていた。

 自分は気丈な女だと思っていたが何のことはない、ただ単なる少女に過ぎなかった。

 ロンの何の気のない言葉にショックを受け、こうして涙を流しているのだから。

 泣き場所に誰も使わないような女子トイレを選んだのは、最後の意地だった。

 談話室や寝室で堂々と泣くことはできなかったのだ。

 やはり自分は間違っているのだろうか? 規則を破ることも必要なのか?

 ハーマイオニー・グレンジャーは、マグル生まれの魔女だ。

 両親は二人とも歯科医者。

 歯は人の一生を左右する。立派な職業だ。

 人の健康を支え、その人生の一助となれる。

 それのなんと素晴らしい事か。

 ハーマイオニーは真実そう思っていたし、己も懸命に勉強して医者になると思っていた。

 だが、九月十九日。ハーマイオニーの十一歳の誕生日のこと。

 人生は一変した。

 ホグワーツ魔法魔術学校というところからの手紙。

 そして、その事情を説明しにやってきたマクゴナガル先生の存在。

 その二つが、ハーマイオニーの将来を決定づけた。

 問題は両親にはなんと言おうかだった。

 魔法使いになりたいだなんて、プライマリースクールの時ですら言わなかった世迷い事だ。

 しかし、両親に話したときは少し残念そうな顔をしながらあっさり受け入れてくれた。

 父曰く、ハーミーが言うのなら魔法も実在するのだろう。この年になって新発見だ。

 母曰く、私の娘が魔女だなんて素敵じゃない? がんばってね、ハーミー。

 理解のある両親でよかった、と心底誇りに思ったのを覚えている。

 こんなにも誇らしい二人にだって名が届くような、立派な魔女になりたい。

 魔法を即座に受け入れたマグル夫婦を目の当たりにして目を丸くするマクゴナガルの隣で、ハーマイオニーは強くそう思ったものだ。

 それが、なんだ。このザマは。

 たった一人の男の子の悪口を聞いただけで、こんなにも泣いて。

 

「本当……情けないわ……」

「そんなことはないさ」

 

 ぽつりと漏らした泣きごとに返されるはずのない声。

 驚いて振り向くと、しっかり施錠した個室のドアが見えるのみ。

 ぎし、と軋んでいるので向こうで寄りかかっているのだろう。

 ……ハリーだ。

 彼女の特徴たるハスキーな声が湿っている。

 あの子が泣くようなことなんて、いったいなにがあったのだろうか。

 いや、わかる。ロン達が悪口を言い合っているのを聞いてしまったに違いない。

 

「そんなことはない。君が情けないなんてこと言わないでほしいな、ハーマイオニー」

「ハリー……」

「ロンが何を言ったって気にすることないじゃないか。あんなの、ただの男の子だ。それより聞いてよハーマイオニー、ぼくあいつのことやっつけちゃったんだよ」

 

 気丈に笑い飛ばしながら哀れなロンを吹き飛ばしたときの話をするハリーの声を聞きながら、ハーマイオニーは猛烈に彼女を抱きしめたくなった。

 悪口を聞いてしまってショックを受けたのではなく、それを聞いて、かっとなってロンを吹き飛ばしたですって?

 そっちに行きたいから退いてくれ、と言ってトイレの扉を開けるが早いか、ハーマイオニーは涙に濡れたハリーの小柄な体を抱きしめて引きよせた。

 個室になだれ込むようになってしまい目を白黒させるハリーを、大事な妹を慰めるようにその黒髪を撫で続ける。すると最初は驚いて弱々しく抵抗していたハリーも、諦めたようにハーマイオニーの身体に腕を回した。

 

「ありがとう、ハリー……。私のために怒ってくれたのね」

「や、やめてよハーマイオニー。恥ずかしいよ」

「ううん、やめてあげない。私ったら、友達がいないなんて言葉で泣いちゃってばかみたい。ちゃんとここにいるじゃない、小さな小さな王子様がね」

「……そうさ、ちゃんとお姫様を助けに来ただろう? 君はひとりじゃない。……まぁ、悪役くんにはあとで謝らせるけどね」

 

 そう言い合って、お互いの茶色と明るい緑の瞳を見つめ合ってくすくす笑う。

 二人はお互いを抱きしめ、お互いの髪を撫でながらしばらく笑い続けた。

 ハリーがロンを吹き飛ばした話が本当かどうかを聞いたハーマイオニーが、ハリーに「あとでロンにも謝りましょうね」と言うと、ハリーは少々渋ったが結局了承の旨を告げた。

 ロンが本当に悪い奴であるとは、まさか本気では思っていない。

 誰だって嫌なことを言われ続ければ、つい悪口の一つも飛び出てしまうものだろう。

 彼女らは十一歳という年齢ながら、独自の考え方を見つけ出してお互いをどう許せばいいのかということを考え続けた。考えた結果が、これだ。「喧嘩両成敗」。

 先に陰口を叩いたのはロンだが、こちらだって十分すぎるほど報いを与えている。

 主にハリーが。ハリーの拳と杖が。少々やりすぎだが、ここは女を泣かせたという事で。

 だったら、子供らしくごめんなさいして、あとは忘れて遊ぼう。

 単純で頭の悪い、スマートさの欠片もない方法だが、きっとそれが一番いいのだ。

 

「さぁ、ハーマイオニー。そうと決まれば大広間へ急ごう」

 

 王子様、と呼ばれたのもあって、ハリーは冗談めかしてレディをエスコートする紳士のように手を取った。ハーマイオニーはそれを見てまたくすくす笑う。

 

「そうね。パンプキンパイでも食べながら、ロンとクィディッチについて話すのも悪くないわ」

「きっと乗ってくるよ。なんだったら、クリーンスイープに乗せてあげたっていい」

 

 お互いでお互いの目元が真っ赤に腫れているのを見て笑い、習って覚えたばかりの呪文でお互いの顔を綺麗にする。フリットウィック先生は便利ですが難しい呪文ですよ、と言っていたが、もう彼女たちはお互いの魔法の腕を、いや、お互いのことを信頼していたので、二人とも綺麗に元の顔に戻っていた。

 顔も綺麗にした。髪の乱れも問題ない。心だって、落ち着いている。

 さあ、大広間へ行こう。

 ロンと仲直りをしに行こう。

 と、二人は手をつないで、意気揚々とトイレの個室を出た。

 すると何だろう、腐った生ごみのような臭いが女子トイレに充満していた。

 確かに一階のトイレはほとんど誰も使わないようなところだから、臭いのも仕方ないかもしれない。だけれども、この悪臭はちょっとばかり異常だ。

 更に言うと、ぶーぶーという妙な鳴き声が聞こえてくる。

 主に、頭上から。

 

「……ハリー? な、ななな、何か……何かしらコレ……」

「は、ハーマイオニー。ふ、振り向かないと。ふふ振り向かないと……」

 

 油を差し忘れた機械のように、ぎこちない動きで二人は振り返る。いや、見上げる。

 すると果たして。そこにはグレセント・クライルがいた。

 いや違った。ドラコが苦笑いするような阿呆でも、流石に女子トイレには入ってこない。 

 トロールだった。

 灰色の肌で、最も凶暴とされる山トロール。

 それだけでも最悪だというのに、ぶーぶー言っているのは、彼(?)だけではなかった。

 薄緑色の肌をした森トロール、紫色の肌で毛深く角の生えた川トロールまで勢ぞろい。

 棍棒を引き摺り、突如目の前に現れた小さい人間二人に驚いているのは、計三体のトロールであった。しかも頑丈そうな棍棒装備で、明らかに空腹状態で苛立っている。

 ハリーとハーマイオニーはしっかり勉強しているので、肌の色だけで彼らがどの種類であるかを見抜いたし、森トロールが一番凶暴で、彼らはヒトすら食べることを知っていた。

 だが知っているからと言って、怖くないとは限らない。

 

「「「ブォォォオオオオオオオオオオオオオオ――――――ッ!」」」

「「きゃあああああああああああああああああああああああああ!」」

 

 ゆえに。トロールが獲物を見つけた雄叫びをあげた時。

 彼女らも一緒になって恐怖の絶叫をあげたのも、無理はないだろう。

 

 

 マジか。マジでか。

 まともじゃないぞ、こんなことは。

 ハリー・ポッターは、この上なく焦っていた。

 自分の喉からまるで女の子みたいな……いや女の子だけど、そんな甲高い悲鳴が長々と出るだなんて、これっぽっちも思いもしなかった。

 おまけに何か対抗手段が思い浮かぶかと言えば、答えはノーだった。

 普段の勉強は何のためにあったんだ?

 普段のヴォルデモートへの憎悪はなんだったんだ!?

 混乱した思考の中、トロール全員が棍棒を振り上げる様が見える。

 間違いない。

 叩き潰してから美味しくいただくつもりなんだ。

 そう思った瞬間、頭から血の気がさっと引いた。

 そのおかげかは知らないが、どうすればいいのかがまず思い浮かぶ。

 杖だ。

 

「はッ! ハーマイオニー!」

「きゃあ!」

 

 迷いなく彼女を棍棒の届かない範囲まで突き飛ばした。

 そして自身は懐から杖を引き抜く。

 しかし有効な呪文はなんだ!? こいつら三体同時に何をすればいい!?

 麻痺呪文か! いや、違う、それだと一体が失神するだけで他二体の棍棒が来る!

 武装解除!? いや、違う、それも同じ結果になるだけだ。

 浮遊呪文で棍棒を空中に浮かして殴るか? いや、ダメだ、だから結果は同じだ!

 

「ハリー! 炎よ! 馬鹿だから多分火を怖がるわ!」

 

 トロールが狙いをハリーに定めた瞬間、鋭い声があがる。

 それに返事をする余裕もなく、必死に脳に刻んだ通りの動きを自らの腕で再生する。

 手首のスナップを利かせて、対象に杖先を刺すように向ける!

 

「『インセンディオ』ォォォ―――ッ!」

 

 杖から飛び出した炎が、真ん中にいた森トロールのザンバラ髪に着火して顔を赤く染める。

 自分の頭が燃えれば、如何に馬鹿であろうとも流石に気付いた。

 頭の火を消そうと振り上げたままの棍棒を振り回せば、自然と両脇に居るトロールに棍棒がぶつかって、獲物を叩き潰すどころではなくなるだろう。

 つまり、同士討ち狙いだ。

 自分はおたおたまごついていたというのに、ここまで的確な判断ができるとは。

 ハリーはハーマイオニーの頭脳を改めて尊敬するとともに、ようやく現状認識を始めた。

 敵はトロール三体。山、森、川と三種類勢ぞろいだが、種類ごとに大きな違いは特にない。

 強いて言うならば、ハリーたちから見て左に位置する灰色の肌の山トロールが最も大きな身体を持つというところだが、彼らの棍棒を一撃でも喰らえば戦闘不能になるこちらとしてはたいした違いがあるとは思えない。こちらの勝利条件はトロール達全員から逃げ切る……いや、それは無理だ。数が多すぎる。では完全に無力化するか。または、殺すか。それしかない。

 ハリエット・ポッターは今までにハエ以上に大きな生物を殺したことはない。

 しかしここで覚悟を決める必要がある。

 ヴォルデモートに一撃を入れるならばそれはつまり、生きるか死ぬかの戦いになるだろう。

 己の人生を勝手にハードモードにされたという恨みこそあれ、奴を殴り飛ばすという目標は多少軽い気持ちで決めたことではある。だが、あの時の激情が嘘かと問われれば否だ。

 ここは、彼らトロールには申し訳ないがぼくの練習台になってもらおう。

 そう決めたハリーの行動は早かった。

 

「『ペトリ……フィカスッ・トタルス』ッ!」

 

 呪文発動の補助になる言葉である「石になれ」をつける余裕はない。

 未熟な魔法や苦手な魔法はこうして呪文の後に補助単語をつけることで、より発動を確実にする意味合いがあるのだとフリットウィックは授業で言っていた。

 だがハリーは自分の呪文に自信がある。ゆえに、発動の確実さよりも発動の速さを選んだ。

 石化呪文の青い閃光が山トロールの突き出た腹にブチ当たる。

 山トロールはまるで石になったかのように動きを止めたが、炎を消そうと棍棒を振り回す森トロールに顔面をしたたかに打たれて、ブァーッと雄叫びをあげて活動を再開した。

 ばかな。魔法の発動が確実じゃなかったのか?

 これに少なからず動揺したハリーは、実戦経験が少なすぎたと言わざるを得ない。

 

「そんな!? 確かに当たったのに!」

「きっとお腹の脂肪が分厚かったのよ! 次は顔に――ハリー! 危ない!」

 

 ハーマイオニーの悲鳴のような声に、川トロールの方を向くハリー。

 そこには、完全にハリーを目的に棍棒を振りおろそうとする姿があった。

 まずい! とハリーはとっさに考え付いた呪文を叫んだ。

 

「エッ……『エクスペリアァァァームス』!」

 

 ロンに向けたのと同じ呪文。

 あの時は怒りのあまりに魔力がブーストされて発動に成功した。

 本来は二年生あたりで習う呪文だが、ハリーはそれでもできると不思議な確信をしていた。

 とっさの行動は果たして、ハリーに正解をもたらした。

 パチッと何かがはじけるような軽い音がして、棍棒が川トロールの手から弾き飛ばされる。

 弾かれた棍棒は降りおろそうとしていた川トロールの顔面にブチ当たり、情けない悲鳴をあげてのけぞったせいでバランスを崩してしまい、女子トイレの入り口がある壁を背中で押し潰した。

 ハリーは轟音を立てて飛び散る木片から顔を守るために左腕で庇い、杖を持つ右腕を倒れたばかりの川トロールに突きだした。視界の隅で、ハーマイオニーも同じ動作を取っているのが見える。

 二人は今度こそ成功させるために、異口同音で叫んだ

 

「「『ペトリフィカス・トタルス』! 石になれえっ!」」

 

 青い閃光が二つの杖先から飛び出し、空中で合体したかと思うと閃光は人間大の大きさになって倒れ伏した川トロールの股ぐらに飛び込んで行った。

 青い光が川トロールの醜い身体を包みこみ、一瞬で光が消え去った後はピクリとも身動きしない川トロールが出来あがった。腰布すら不自然な形で固まっている。

 やった! と喜ぶ暇もなく、ようやく頭の火を消し終えたらしい森トロールと山トロールが喧嘩をはじめたようだった。先程の同士討ち狙いがようやく効果を発揮したらしい。

 原因は問うまでもなく、森トロールが振り回した棍棒のせいだろう。

 さすがのホグワーツも、トイレ内まではそんなに広くはない。そこで四メートルもの巨体が二体暴れるものだから、破壊された陶器の洗面台や個室の木片が雨あられとハリーに向かって飛んできた。

 両腕をクロスして顔だけは守ったものの、ひと際大きな陶器片がハリーの胸を強打して、彼女の矮躯を壁まで吹き飛ばす。

 背中を壁にぶつけてウッと息が詰まったハリーは、悲鳴をあげながら駆け寄ってきたハーマイオニーに抱きしめられながら上を見た。

 ダドリーと一緒に見させられた、ウルトラボーイとかいう特撮映画を思い出す光景だった。

 怪獣大決戦かよ。ハリーが呼吸を回復させると、顔面にパンチを貰ったのか歯をぼろぼろにした山トロールと、頭髪がすっかり燃え落ちてつるっ禿げになった森トロールがこちらに狙いを定めていた。どうやら喧嘩をしてお腹が空いたらしい。マジかよ馬鹿すぎるだろう。

 ゆっくりと棍棒を振り上げ、叩き潰してミンチにするつもりらしい。

 先程から振り下ろす系統の攻撃しかしてこない気がするが、たぶんトロールの脳みそはそこで限界なのだろう。ぶーぶー唸ってはいるが、互いで意思疎通をできている感じすらしない。

 だがそのパワーは、依然として脅威のままだった。

 このままでは、死ぬ。

 死んでしまう。

 

「まずい……どうにかして気を逸らさないと……! 片方を潰してももう片方が……!」

「でも、でもどうやって……!? どうやってそんな……!?」

 

 諦める気は毛頭ない。

 自分の身体を強く抱きしめるハーマイオニーの体温を感じながら、ハリーは思考を巡らせた。

 だが、答えは見つからない。

 ここまで轟音を立てて暴れているのだから、誰か来てくれてもいいものを!

 とハリーが益体もない願いを心中で叫んだその時。

 聞きなれた、それでいて先程までは腹が立って仕方なかった声が、トイレに響き渡った。

 

「ハーマイオニーィィィ! ハリーィィィ!」

「「ロン!?」」

 

 間違いない。

 赤毛で、ひょろひょろのっぽ。

 熾烈な喧嘩をしていたはずの、ロン・ウィーズリーだ。

 助けに、来てくれたのか。ハーマイオニーに腹が立っていても、ハリーがあれだけのことをしても、助けに来てくれた。

 嬉しさと気恥ずかしさが入り混じった気持ちが少女二人の心を満たそうとするが、状況はそれを許さなかった。

 ハリーとハーマイオニーの視線がロンに向かうと同じく、トロール二体の視線もロンへ向いた。

 そのうち森トロールの目が恐怖に見開いたのを、ハリーは見逃さなかった。

 ロンの燃えるような赤毛を、炎と見間違えたのかもしれない。

 怪物の視線を受けて一瞬たじろいだロンは、それでも果敢に懐から杖を抜き放った。

 しかし使う呪文に迷っているようだ。

 驚きから回復した山トロールが獲物に迷ってこちらへ振り返ったのと同時、

 隙ができたと判断したハーマイオニーは、ロンに向かって叫んだ。

 

「ロン!」

 

 その一言で、ロンは彼女が何を言いたいかを把握したのかもしれない。

 ロンは長い腕を振り回し、一回転させると最後に小さく跳ねあげる。

 ハリーとハーマイオニーも、一度ロンの方を向いて此方に狙いを定めるという、致命的な隙を見せた山トロールに杖を向けた。

 そして、三人はほぼ同時に叫ぶ。

 

「『ウィンガーディアム・レヴィオーサ』!」

「『エクスペリアームス』! 武器よ去れ!」

「『ステューピファイ』! 麻痺せよ!」

 

 ロンの浮遊呪文が、森トロールから棍棒を取り上げる。

 ハリーの武装解除呪文が山トロールの手から棍棒を弾き飛ばす。

 ハーマイオニーの麻痺呪文が山トロールの意識を奪い去る。

 浮遊呪文の効果を持続させきれなかったのか、ロンが息を切らして膝を突くと同時に宙に浮いた棍棒が森トロールの脳天に落下して鈍い音を立てた。

 ハリーの弾いた棍棒はそんな森トロールの顔面に直撃。緑色の彼は轟音を立てて壁に倒れ鼻血を垂れ流したまま、そのままずるずると床に這いつくばった。

 山トロールに至ってはもはや抵抗の術すらない。

 ハーマイオニーの麻痺呪文は的確に山トロールの眼球に飛び込んでいき、灰色の巨人はその意識を一瞬で奪われて、白目をむいて立ったまま気を失っていた。

 

 ハリーは荒い息を吐き出し、力が抜けたのかその場に膝を突く。

 案外度胸の塊であったハーマイオニーがそんなハリーを抱きしめた。

 安堵のため息をつく二人は、ロンが驚きの声をあげるのを聞いて顔をあげる。

 そこにはトロールよりも恐ろしい顔をしたマクゴナガルが飛び込んでくるところだった。

 スネイプとクィレル(トロールの姿を見た途端ヒーッと叫んで座りこんだ)もあとからやってきて、三体のトロールが倒れている様を見て驚いている。

 トロールの状態を調べているらしいスネイプを見る暇もなく、マクゴナガルが大声で怒鳴った。

 

「一体全体、どういうおつもりですかッ!」

 

 声も出なかった。

 トロールと生きるか死ぬかという戦いを終えた後だというのに、こんなに怖いとは。

 ロンに至ってはぽかんと口を空けたままで、スネイプがマクゴナガル先生の前に行きなさいと言わなければそのまま座りこんでいたかもしれない。

 魔法生物の棍棒より教師の一言の方が怖いとは。

 

「えっと、その、えーっと」

 

 しどろもどろになるハリーに構わず、マクゴナガルは追撃を飛ばす。

 

「殺されなかっただけ運が良かった! 寮に避難しているはずの貴方がたが、なぜこんなところにいるのです! パーシー・ウィーズリーが報告してくれなかったら危ない所でしたよ!」

 

 ロンはそれで察した。

 あのときパーシーから隠れようともせず、彼の制止を振り切って飛び出したのだ。

 当然グリフィンドール寮監であるマクゴナガルに報告が行くだろう。

 生徒が一人、足りませんと。

 パーバティからの証言を聞いたかもしれない。

 だからこそ、一階のトイレとかいう辺鄙なところに来たのだろう。

 それに、これだけ派手に壊れていれば騒音も酷かったことだろうし。

 ハーマイオニーがマクゴナガルに何か言おうとしたのをロンが手で制し、泣きそうな顔になりながらひとつの決意を秘めた目でマクゴナガルの目を見据えた。

 

「僕が悪いんです、先生」

「ロン……?」

 

 訝しげな声をだすハーマイオニーに黙るよう目で告げて、ロンは言う。

 

「僕が、この二人と喧嘩をしたんです。それで二人を泣かせてしまって……」

「それで? なぜ貴方は此処に居るんです?」

「そ、それで、えーっとですね。その、パーバティに教えてもらったんです。謝ろうと思って。それで、それでトロールが入ってきたって聞いて……それで……居ても立ってもいられなくなったんです」

 

 正直に告げた方がいいと思ったのだろう。

 ロンは包み隠さず話している。教師に嘘をついてもバレると思ったのだろうか。

 マクゴナガルが三人をじっと見て、ふと柔らかい顔をした。

 しかし次の瞬間には、すぐ厳しい顔に戻っていた。

 

「ミスター・ウィーズリー。レディに涙させるなど、紳士にあるまじき行為です。あなたの愚かしい行動にグリフィンドールから十点減点。ポッター、あなたはどうやら魔力が枯渇している上に怪我をしているようですね。寮に戻る前にマダム・ポンフリーのところへ寄りなさい」

 

 減点されたことにロンは多少ショックを受けているようだったが、どこかすっきりした顔をしている。

 妙に晴れやかで憑きものが落ちたような感じだ。

 そんなロンを見ていると、スネイプが妙にこちらを睨むようにしているのが目に入った。

 しかしハリーと目が合うと、すぐにそっぽを向く。

 そこまでぼくのことが気に入らないのだろうか? とハリーは少し哀しい気持ちになった。

 

「ミス・ポッター、ミス・グレンジャー」

「ふひゃい!」

「はっ、はい!」

「貴方がたは不運でした。しかし、大人の野生トロール相手に、こうまでできる一年生はそうはいないでしょう。さらに様子を見るに、見事な魔法だったようですね。それに対して一人十点、グリフィンドールに差し上げましょう」

「え? あ、え……?」

「さあ。今日はもう、寮に戻りなさい。ポッターはくれぐれも医務室に行くことを忘れないように」

 

 ハリーは自分の耳に入ってきた言葉が信じられなかった。

 丸くなった目をハーマイオニーに向けると、彼女は微笑んでいた。

 医務室へ向かって、ハリーはしこたま怒鳴られた。

 マダム・ポンフリー曰く、ハリーは肋骨が一本折れていたそうだ。

 華奢な腹が真っ青になっていたのが、マダムの薬一つできれいさっぱり健康的な白に戻る。

 魔力を使い切って尚絞り出すように魔法を使っていたためにボロボロになった身体も、彼女の治癒によって明後日にはすっかり元通りになるだろうということを告げられた。

 安堵と健康とともにたっぷりお説教をいただいた後、二人はグリフィンドール寮へ戻る。

 談話室はウィーズリーの双子を中心に大騒ぎであった。

 どうやら食べ物を持ちこんで、ハロウィン・パーティーの続きをやっているらしい。

 誰もハリーたちが戻ってきたことに気付かないで歌い踊っている。

 そんな中、入口の隅の方で一人ぽつんとロンが立っているのが目に入った。

 横目でこちらをちらちらと見ているのが、実にいじらしい。

 どう謝ろう、どのタイミングで謝ろう、と顔に書いてあるのがよくわかる。

 ハリーとハーマイオニーが顔を見合わせてくすりと笑うと、二人は彼のもとへ歩み寄った。

 

「あっ、あのっ、ハーマイオニー! ハリー! ごめん、ごめんなさい。僕、僕……」

 

 つっかえながらも眉を八の字型にして情けない顔をして言葉を絞りだそうとするロン。

 ハリーは笑って、彼の首に飛びついた。

 そうして背の高い彼の顔を自分たちのところまで下げさせると、

 

「ロン。ぼくたちとってもお腹すいてるんだ。でも背の高い君じゃないと、あの人込みからお菓子は持ってこれないだろう? だからさ。頼むよ。君じゃないとできないんだ」

 

 ああ、とロンは合点のいった顔をする。

 そうしてお菓子目当てに跳梁跋扈する寮生たちの中に飛び込んでいき、その大きな両腕に大量のお菓子を持ってこちらへとんぼ返りしてきた。

 その途中、食べ過ぎて寝転がっていたネビルに躓いてしまって盛大に転び、手に持っていたフィフィフィズビーだのバーディー・ボッツの百味ビーンズだのパンプキンパイだのが空中に放り出される。

 ハーマイオニーが杖を一振りしてそれらを停止させ、ハリーの顔面を汚すことを阻止した。

 ハリーが彼の大きな手を握って助け起こすと、三人はそろってくすくすと笑う。

 

「ねぇハーマイオニー」

「なぁに、ハリー」

「……女って、勝手なもんだねえ」

「……なんのことかしらねえ」

 

 ロンが何を言っているのか分からないという顔をしているのを見て、二人はまたくすくす笑う。

 この日から三人は、かけがえのない『友達』同士となった。

 人と人とのつながりなど、何がどうなってこうなるのかなんて、誰にもわからない。

 ただ三人の場合は、トロールをやっつけるという、とても興奮する出来事を共にしたという経験がそうさせただけだった。

 三人はきっと、何十年経ってもこの日のことを忘れないだろう。

 






【変更点】
・侮辱に対しては殺人すら許されるんだし、これくらいは。
・マクゴナガル先生だって、そこまでお金持ちじゃあないんです。
・ロンは犠牲になったのだ。
・禁じられた廊下の扉を叩くと、わんこが3つ。もひとつ叩くとトロールも3つ。
・両生類顔の医者はいないけど、ホグワーツにはマダムがいるので安心して常連になろう。
・どの世界でもこの三人は『友達』になるのです。

ストックなんてしったことか!おれは部屋に戻る!
戦闘回でした。この話で、魔改造の兆しが見え隠れしはじめたはず……。
トロール相手で入院コース。医務室の常連と化しても優秀なマダムが居るので安心。


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6.クィディッチ

 

 

 ハリーは吐きそうだった。

 別にダドリーがホグワーツに降り立ちハリーの腹を殴って飛び去っていったわけではない。

 緊張のあまり、胃の中の物を全て戻してしまいそうだったのだ。

 トロールのことがあって二週間も経たないうちに、ハリーは大事なイベントに直面した。

 クィディッチだ。

 ハリーはひょんなことから、グリフィンドール寮のクィディッチ選手に選ばれてしまったのだ。

 しかも、ポジションはシーカーというもの。

 三種類ある個性的なボールのうち、《スニッチ》という逃げ回る金色のボールがある。

 このボールを手にすればその時点で捕獲チームに一五〇点が追加され、試合が終わる。

 つまり相手に一五〇点差をつけられる前にこれを取るか、開始してからすぐさま取るかをしてチームを勝利に導くことができるのだ。逆を言えば、これを取らなければ延々と試合を行う羽目になるのだ。例えば両チームのシーカーがトロール並みの無能であれば、何週間かかってでもやり続けるほどである。

 シーカーはこのボールを捕まえることのできる唯一のポジションだ。

 ほかの選手が触ると、スニッチニップという反則になる。もっともこれは、七〇〇ある反則のうち一つであるというだけで、他にも凶悪でアホくさい反則はいっぱいある。

 そして箒で飛ぶという危険極まりないスポーツである中で、シーカーは最も危険である。

 執拗なマークや悪辣な反則でタコ殴りにされるというのも珍しくはない。

 ハリーの矮躯ではそんな総攻撃にあった場合、容易にぼこぼこにされて沈んでしまう。

 それでガチガチに緊張しているのかと言えば確かにそうだが、最たる理由は他にある。

 なにせ、初陣なのだ。

 しかもシーカーは、たった一人の選手でありながら試合を左右する一番重要なポジション。

 負けたらどうしよう。本当に試合になるのだろうか?

 そんなネガティブなことを考えていたからだろうか。

 キャプテンたるオリバー・ウッドが大声を出したとき、ハリーは心臓が縮みあがった。

 

「いいか野郎ども!」

「女もいるけど?」

 

 クアッフルという赤いボールをシュートして得点を手に入れるポジション、チェイサーのアンジェリーナ・ジョンソンが口を挟む。いよいよ俺の演説だぞ、といった具合だったウッドは微妙な顔をして、咳払いした。

 

「では淑女諸君も」

「よろしい」

「ウッドったら、いつも忘れるのよね」

 

 同じくチェイサーのアリシア・スピネットとケイティ・ベルが続けて言う。

 ウッドはもはやどうにでもなれという具合にため息をついていた。

 

「いよいよだ。今年度は、きっとここ数年最高のクィディッチ・チームであると俺は信じている。つまり何が言いたいかと言うとだ。勝てる! 勝てるぞ! 俺たちは!」

「このチームで勝てないなんて、そりゃ大問題だなあ」

「今までスリザリンに勝てたことなんてあったかな?」

「黙れよウィーズリーズ。ともあれ試合だ! さあ行くぞ野郎ども! ……と、女ども!」

 

 ウッドはそう叫ぶと、勢いよく更衣室から飛び出して行った。

 一方でハリーは心臓を口から吐いてしまいそうだった。

 まともじゃない……特別措置で選ばれたんだぞ……ぼくがシーカーだなんて……。

 本当に実力があるんだろうか? というかこれトロール戦より緊張してないかぼく?

 負けたらどうしよう……いや、ぼくが出るんだ……負けちゃうかも……。

 思考がいよいよ危ないところまで行き詰った時、ハリーは自分の尻が左右同時に思い切り叩かれたことにびっくりして大声であられもない悲鳴をあげた。

 

「ふぎゃあ!?」

「ハッハー! ハリー、案外女の子らしい声出せるんじゃないか!」

「こりゃあいいもん触っちゃったぜ。ご利益で勝てちゃうかもな!」

 

 顔を真っ赤に染めて振り向くと、陽気な笑顔の双子が目に入った。

 彼らはプレイヤーを追いかけまわして箒から叩き落そうとするとかいう、あまりに物騒すぎるボールである二つのブラッジャーを追い払う、ビーターという役割を持っている選手だ。

 フレッドは右手を、ジョージは左手をわきわきと下品な動かし方をしている。

 そして顔はにやにやと悪戯したあと特有のイヤーな笑顔。

 ……こいつらか! 人の尻を触ったのは!

 

「フレッド! ジョージ! 君ら次やったら呪うぞ!」

「怖い怖い! こうなったら空へ逃げるに限るね!」

「来いよハリー! 飛ばないと呪いは届かないぜ!」

 

 双子はそう囃し立てると、まるで踊るようにピッチへと出て行った。

 ばっかじゃないの、子供なんだから、とアリシア、ケイティの二人も続いて行く。

 そうして最後にアンジェリーナが、

 

「どうだいハリー。緊張は取れた?」

「……え? ……あっ……」

「よーし、そうでなくっちゃ。ほら行くよ、女は度胸!」

 

 パチンと尻を叩いてきた。

 またか。またなのか。

 こうなるとハリーはたまったものではない。

 

「なんでアンジェリーナまで叩くんだよぉ!」

 

 もはや緊張など何処へなりとも消え失せたという様子でハリーは頬を膨らませて更衣室からピッチへと足を踏み出して、深紅のクィディッチ・ローブを揺らす爆発めいた歓声に驚いた。

 右を見ても、人、人、人。左を見ても、人、人、人。

 縦五〇〇フィート、横八〇フィートの楕円形のピッチ、それを取り囲むような上空に設置された観客席には赤い応援旗を掲げるグリフィンドール寮生と緑の応援旗を振り回すスリザリン寮生、そしてその両者に挟まれるような形でハッフルパフ生とレイブンクロー生、さらにその反対側には貴賓席なのか教師たちが一塊になって座っているのがよく見えた。

 ピッチ両端には高さ十六メートルの金の柱があり、これの頂点には同じく金の輪がとりつけられている。クアッフルをあそこにブチ込んで一〇点をもぎ取るのが、三人娘の仕事だ。

 ピッチのド真ん中ではスリザリン・チームが既に整列している。

 ああ、また緊張が――

 

「いや、落ち着かないとマズい」

 

 ……ダメだ。

 公衆の面前だろうと、きっとまた尻を撫でられる。

 フレッド&ジョージ(おまけに三人娘もだ)がにやにやしていたので、きっとその危惧は正しかったのだろう。ハリーは身震いした。緊張なんぞしている場合じゃない。

 不穏なセクハラ魔たちの事に気付いているのかいないのか、恐らくいないのだろうウッドはハリーが緊張していない様子を見て鼻の穴をふくらませて勝てる! と叫んでいた。

 マダム・フーチが審判をやるようだ。

 その手にはクアッフルを持っていて、足元にある箱には革のベルトを引き千切ろうとガタガタ暴れているブラッジャー二個がある。金のスニッチは……恐らく真ん中の扉の中に納められているのだろう。

 マダムがその鷹の目のような黄色い目でじろりと選手全員を見渡して言う。

 

「みなさん、くれぐれも正々堂々と戦ってください!」

 

 その言葉にグリフィンドールキャプテンのウッドはびしりと姿勢を正したが、スリザリンキャプテンのマーカス・フリントはへらへら笑っているままでハリーを舐めまわすように見ている。

 この視線には覚えがある。

 ハリーのどこを殴ろうかと思案している時のダドリーだ。

 ただ、親愛なる従兄の場合はハリーの弱いところを確実に突いてくる豚のくせに狼のような目をしていたのに対して、フリントのそれはただ脅しているだけのように思える。

 笑わせる。

 ハリーが微笑みかけると、フリントは面食らったようだ。

 ふいっと顔をそむけてしまった。

 

「さぁ! 箒に乗って!」

 

 マダムの号令に従って、ハリーはクリーンスイープ七号に跨る。

 そうしてぐんっと重力を味わうと、煩わしいそれを振り切って空高く舞い上がった。

 それぞれのチームが三次元的なフォーメーションで試合開始前の位置に着く。

 シーカーはほぼ真ん中に近い、一番上の全体を見渡せる場所に着くことになっている。

 目の前には、相手チームであるスリザリンのシーカーが陣取った。

 ハリーはその人物の姿を見て、目を見開いた。

 プラチナブロンドのオールバック。

 青白い肌に、とがった顎。

 薄いグレーの瞳はぎらぎらと輝いていて、己の敵をまっすぐに見据えている。

 それはさながら、飢えた竜か蛇だ。

 

「……ど、ドラコ……!? ドラコがスリザリンのシーカーなの?」

「そうさ、ポッター。お前の相手は――この僕、ドラコ・マルフォイだ」

 

 鋭い笛の音と共に、試合が始まる。

 実況はウィーズリーの双子の仲間であるリー・ジョーダンという生徒がやっている。

 しかしその解説の声はハリーの耳に届かない。

 周囲でクアッフルが飛び交い、ブラッジャーを殴り飛ばす様も眼には入らない。

 在るのは目の前の、ドラコ・マルフォイただ一人。

 

「ポッター。僕は今日が楽しみだったぞ」

「……ぼくも、これは負けられない、ね」

「そうさポッター。……せいぜい本気でやるんだ、なッ!」

 

 ドラコが急激に箒を回転させ、操縦者ごと横回転する。

 すると丁度ドラコの頭があった位置から、ブラッジャーがハリーの顔めがけて飛んできた。

 慌てて顔を引き、宙返りするように暴れ球を避けると、急いで箒を操り体勢を立て直す。

 ぐるりと縦に一回転する形になったハリーは、目にかかった髪を顔を振って払う。

 体勢を戻して二メートルほどバックすると、その前ではドラコがニヤニヤと笑っていた。

 

「おいハリー! 大丈夫か!」

 

 ブラッジャーを追いかけてやってきたらしいウィーズリーの双子どちらかが、ハリーの隣でぴたりと止まる。ついでにドラコをちらと見遣るが、今は試合中と割り切ったのか、またもハリーに襲いかかってきたブラッジャーを手に持つクラブでばこんと一撃。すぐ近くを横切ろうとしていたフリントの顔めがけてすっ飛ばしていた。

 頼むぜ、とウィーズリーがハリーの背中をポンと叩いて風を切って混戦の中へと飛び込んでいく。

 そのやり取りの間、ハリーはずっとドラコとの視線を外せないでいた。

 クアッフルが互いのゴールに入ったり、弾かれたり、キーパーがナイスセーブをしたりと言った情報が右の耳から飛び込んで左の耳から突きぬけてゆく。

 一筋の汗がハリーの黒髪を濡らし、ぽとりとグローブに落ちたその時。

 瞬間、今度はドラコめがけてブラッジャーが真下から突っ込んできた。直前に木製の打撃音がしたので、ウィーズリーがドラコめがけてブチ込んだものだろう。危なげない動きでドラコがブラッジャーを避けたその時、ハリーは視界の隅に金色に光るものを見つけた。

 ――スニッチだ!

 ハリーはドラコが体勢を立て直す前に、その場で回転するように方向転換。スニッチの方へ頭を向けて全速力で疾駆した。

 数瞬遅れたドラコが、舌打ちをする間も惜しいとばかりに弾かれたように飛び出す。通常ならばその程度、一呼吸以下の隙とも言えない合間であった。だが、ことクィディッチにおいてその瞬間の差は致命的である。

 まるで放たれた猟犬のように、金色の光めがけて突き進む紅色の矢は、ピッチの端を巡るように逃げ回るスニッチ目指してみるみるうちに加速していき、クリーンスイープ七号の出せる最高速度まで達した。

 届く。届く! あともう少しで、ぼくの世界まで追い詰めてやれる!

 ハリーがそう確信し、左手を箒から放して眼前を逃げ去ろうとするスニッチを捕まえようとしたその瞬間。

 

「……ッ、ぐ!」

 

 予期せぬ衝撃がハリーの真横から襲ってきた。

 ブラッジャーではない。

 スニッチを取らせまいとしたマーカス・フリントが、無茶なタックルを仕掛けてきたのだ。

 彼の体重の半分もないハリーは軽々と吹き飛ばされ、不安定な姿勢であったために危うく箒から叩き落されそうになる。

 この高度から、なんの魔法補助もなく地面にたたきつけられれば骨の一本や二本、簡単に圧し折れていることだろう。打ち所が悪ければ死をも免れ得ない。

 しかし、それはタイミングを合わせたウィーズリーズが小さな体を受け止めてくれたことによって防がれる。

 けほ。と小さな咳をこぼすと同時。紅色と緑色の観客席から怒号と歓声が爆ぜた。

 

「反則じゃないのか今のーっ!」

「いいぞフリント! ポッターを突き落とせ!」

「ふざけるなフリント! この×××野郎ーッ」

 

 品があるとは言えない罵詈雑言が飛び交う中、マダム・フーチが笛を鳴らして試合を中断させるとフリントに厳重注意を与えた。

 ウィーズリーズに礼を言って箒に尻を乗せ直したハリーは、スニッチがもう目の届かない所へ逃げ去ってしまったことに気付いて歯噛みする。

 魔法で空中に表示されている得点板を見ると、一〇対四〇と表示されていた。

 

「……まずい、負けている」

 

 試合が再開されるなり、ハリーは再度空高く舞い上がってピッチ全体を見渡した。

 紅色のローブを着た選手が――あれはアンジェリーナか――クアッフルを抱えて高速で飛んでいる。スリザリンのビーターがブラッジャーを打ちつけるも、彼女は箒ごと横に一回転する事でスピードを落とすことなく軌道をずらすことなく、ゴールに向かってクアッフルを投げつけた。

 しかしスリザリンもさるもの、三つあるゴールのうち、一番遠くに陣取っていたはずの緑色のキーパー選手が素早く箒を使って、まるでベースボールのようにクアッフルを打ち返した。

 だがアンジェリーナの策は実る。キーパーが打ち返した先に居たのは、獅子寮チェイサー三人娘が一人、ケイティ・ベル。すっ飛んできたクアッフルを、まるで意趣返しのように箒で叩きだすと、それはそのままゴールの輪へ吸い込まれるように飛び込んでいった。

 グリフィンドールに一〇点追加である。

 他を見れば、ビーター同士の小競り合いも起きている。

 フレッド・ジョージ、そのどちらかがブラッジャーをクラブで打ち抜く。それはスリザリン・チェイサーであるエイドリアン・ピュシーの後頭部を強かに打ちつけた。気絶でもしたのか、使っていたコメットシリーズの箒からクアッフルと手足がするりと抜けて、ピッチへと落下していく。彼の仕返しのためか、スリザリンビーターのデリックは、ブラッジャーの進路に躍り出ると、そのクラブを以ってして、叩くのではなく突きを繰り出した。スコットランドのプロチーム、 《ウィグタウン・ワンダラーズ》が編み出したビーターの技《パーキンズシュート》である。

 まるでビリヤードの玉のように信じられない速度で突き出されたブラッジャーは、自身の速度とデリックの放った《パーキンズシュート》の勢いをプラスして、獅子寮ビーターたるウィーズリーへと襲いかかる。

 しかし悪戯コンビのコンビネーションは伊達ではなかった。片方が狙われるのを予知したかのように相方のピンチに駆けつけたもう片方が現れると、二人揃ってクラブを振り被り、全く同一のタイミングで同じブラッジャーに叩きつけた。ジャパンチーム《トヨハシ・テング》お得意のビーター技、《ドップルビーター防衛》である。

 二人分の腕力を込められた打撃は、デリックの《パーキンズシュート》を真正面から打ち砕いて、それを放った張本人に直撃する。紅色の観客席から歓声の爆発と、緑色の観客席から落胆の呻きがそれぞれあがった。

 チェイサーとビーター、そしてゴールを守るキーパー達の熾烈な争いは、一〇点を奪い奪われて互いにしのぎを削っている。

 しかしシーカーは未だ、その役割を果たしていない。

 果たすその時こそが、試合の決着だからだ。

 ――次こそ。

 次こそドラコを出し抜いて、スニッチを手に入れてやる。

 獣のような目をさらに鋭くギラつかせ、スニッチを睨み殺すと言わんばかりのハリーの目はしかし、次の瞬間に大きく丸く見開かれた。

 

「え……っ? あれ、えっ、えええっ!?」

 

 箒への尻の座りが悪い? などと考えたのも束の間。

 ぶるぶる箒が小刻みに震えたかと思うと、途端にクリーンスイープ七号は暴れ牛にでもなったかのように荒ぶりはじめたではないか。

 上下に揺さぶったり、左右にぶんぶんと尻を振ったり、ぐるんぐるんと横回転したり。

 その上に乗っているハリーはたまったものではない。

 いくら箒には呪文がかかっていて乗り心地が改善されているとはいえ、そんな無茶な動きをされては股や太腿に食い込んで痛いなんてものではない。あと、それどころではない。いまハリーが居る場所は高度二〇メートル近くあるのだ。ここから落ちればただでは済まない。

 箒が壊れた? コントロールを失った? それとも箒がぼくを乗せるのに嫌気がさした?

 あらゆる原因を考えるが、ハリーはそのどれをも否定した。

 結論。箒にしがみつくことだけを考えないと、振り落とされる!

 

「うわっ! う、ああっ!? ひゃ、やだッ、うわあああっ!?」

 

 

「ハリーは一体何しちょるんだ?」

 

 隣の観客席でハグリッドが呟いた。

 その巨体を窮屈そうにベンチに乗せ、隣に座る生徒たちもまた窮屈そうにしている。

 だがいまはそんなことどうでもよろしい。

 ハリーが、我らがシーカーのハリーがどうやら箒のコントロールを失っているらしいのだ。

 しかしそれにしては様子がおかしい。

 あれでは、どうみても箒がハリーを振り落とそうとしているようではないか。

 

「さっきぶつかったときに壊れちゃったのかな?」

「観客席で誰かが呪いをかけてるのかも!」

 

 シェーマスやパーバティがそう声に出す。

 だがハグリッドはその両方を否定した。

 

「いんや。箒っちゅーのはお前さんらが思っとるよりも堅固な守りが施されとる。多少ぶつかった程度じゃ壊れやせんし、未成年のチビどもが扱う呪いくらいじゃあ、箒に悪さなどできやせんよ」

 

 ハグリッドが心配そうな声ながらも事実を言うその隣で、ハーマイオニーが双眼鏡を振り回すようにして観客席を見渡していた。

 ロンがハーマイオニーの肩を掴んで言う。

 

「な、何してるんだよハリーが大変な時に! 落っこちちまいそうだ!」

「大変な時だからこそよ! ――居たわ! まさか、でも――」

「何がまさかなんだよ!」

 

 ロンがハーマイオニーの双眼鏡を奪い取ると、彼女が見ていたあたりへ照準する。

 ハーマイオニーの指示に従って見てみると、黒い髪に鉤鼻、深い皺を眉間に刻んだセブルス・スネイプが瞬き一つせずに何やらぶつぶつ呟いている。

 ハリーとハーマイオニーの二人から勉強指導を受けていたロンは数秒思い出そうとして、スネイプの目を見て脳裏に閃いた。あれは、何かの呪文を使っている姿だ。

 ロンは悲鳴をあげる。

 

「スネイプがハリーに呪いを!? いや、奴さん教師だぜ? ……やりかねないけど」

「わからないわ。ホグワーツの教師なんだから、そんなこと……でもやりかねないわ」

 

 こういう時はどうすればいいのか。

 数瞬迷った二人だったが、ハリーが常々言っている事を思い出した。

 彼女曰く、「疑わしきはぶちのめせ」。

 いったいなにが彼女にそんな思想を植え付けたのか。二人はそれを聞いた時とても心配であったが、今この時においてはその言葉を聞いていてよかったと心底思った。

 二人は弾かれたように立ち上がると、その勢いのまま観客席を疾走した。

 クィディッチへの熱狂とポッターの不穏な様子への心配と、二種類の大声が響き渡るスタンドを走って走って、ついにはスネイプの居る貴賓席の裏側まで回ってきた。

 ロンはそこで人込みに衝突してしまい数人を薙ぎ倒したが、ままよと人込みを掻き分けてハーマイオニーが通れるように隙間を作る。

 滑るようにその隙間を駆け抜けて杖を取り出したハーマイオニーは、できるだけ小声で、しかし鋭く正確に呪文を唱えた。

 ――対象は、哀れなスネイプのローブだ。

 

「『ラカーナム・インフラマーレイ』!」

 

 唱えるが早いか、ハーマイオニーは元来た道を疾走してロンと合流する。

 杖から飛び出した青い炎は、込められた魔力が消費されるまでは決して消えない魔法の火。

 たとえ水をかけても、消えはしないだろう。

 より威力の高い同系統呪文の『インセンディオ』もあったが、此方の方が時間稼ぎにはぴったりだ。なにせ今回はスネイプを焼き尽くすのが目的ではないのだから。……いや、チャンスがあればやってしまってもいいかもしれないが、今はその時ではない。

 二人の連係プレーで瞬時に人ごみにまぎれてしまったので、恐らく下手人がだれかはわからずじまいだろう。ひょっとしたら熱狂した何処ぞの阿呆の仕業と思ってくれるかもしれない。

 鋭い悲鳴が背後で響き渡り、火を消せという叫びを聞きとって二人は急いで群衆から飛び出し、ピッチの上空を見上げた。

 ハリーは、ハリーは無事だろうか。

 ピッチ上空を飛び交う選手たちの中、そのうちの赤い一人。

 もはや片手で箒にぶら下がっていたハリーが、まるで曲芸のように一回転して箒に飛び乗った姿を見て、二人はようやく成功を確信し、抱き合って喜んだ。

 

 

 ハリーが箒に飛び乗った時、既に体力の限界を迎えていた。

 玉のような汗で黒髪を額に張り付け、飢えた獣のようにピッチ全体を見渡す。

 歯を剥いて射殺すような瞳で睨みを利かせるその顔は、女の子がしていいものでは決してない。

 だが今は試合中。性別など関係ないのだ。

 そして明るい緑の瞳はようやく目標を発見した。

 プラチナブロンドのオールバック姿が、遥か地表近くを疾走している。

 ――見つけたぞ、ドラコ・マルフォイ!

 ハリーは箒を力の限り握りしめ、一気に最大速度まで加速させると地上に向けて突っ込んでいった。ドラコの行く先を目指して急降下し、地表すれすれ、彼の眼前に躍り出て水平に持ち直した。

 

「ポッタぁーッ! きさまぁ!」

「へへん! いくぞ、ドラコ!」

 

 ドラコの鋭い叫び声が聞こえる。

 目の前にはやはり、スニッチが飛んでいた。

 二人のシーカーから逃れようと必死に銀の翅を細かく振動させて逃げ惑う。

 蛇のような軌道を描いて、ドラコがハリーのすぐ後ろで追いすがる。

 金を追いかける紅と緑は、ピッチの芝生すれすれを舐めるように光速で飛び回る。

 科学を軽んじる魔法界において、ピッチ外周の骨組はコンクリートなどではなく当然のように魔法で組み立てられた木製である。

 つまり、隙間がある。

 狡猾なスニッチはその隙間へ潜り込み、二人のシーカーから逃れようと画策する。

 しかしハリーとドラコは、そのようなことで怯むような脆弱な度胸は持っていない。いや、かつては持っていたのかもしれない。しかしドラコは考えなしの弟や学友への対応や、貴族間の社交界で味わった苦渋や策略などの経験を積んだことからくる自信。ハリーはダドリーからの暴力で培った観察眼と安全を見抜く力、闇の帝王への憤怒と憎悪からくる獰猛な心。

 二人の獣は、木材の隙間を縫うように奔った。

 各々が独自に安全かつ素早く動けるルートを見抜き、互いの身体を用いてタックルを放ち、スニッチを追いかける。

 

「―――ッ」

「……チッ」

 

 このフィールドで逃げ回る事に利を見出せなかったのか、業を煮やしたのか。まるで謀ったのようにスニッチがひと際大きな木材を這うように、誘導するように飛んでいったことに二人は気付き、苦い顔をする。

 黄金の目論見通り、二人はあの木材を避けざるを得ない。だが上手く避けなければ、相手のリードを許してしまう。どうにかしてギリギリまで追跡を続けるしかない。つまり、これは、チキンレースの始まりだ。

 正確に、急激に方向転換する事の出来る魔法が掛けられたスニッチは、難なく木材に触れる数ミリ前で直角に動いてピッチ上へと飛び出す。二人を叩き付けんと画策しているようだ。今の速度、今の姿勢では二人とも真正面から木材に衝突して意識を手放すか、最悪首の骨が圧し折れることだろう。

 見失ったときのために用意されているらしき、クィディッチ選手の姿を映す魔法スクリーン。ピッチ上空に投影されたその画面でシーカーの姿を観戦していた観客たちが、大きな悲鳴をあげた。

 二人は、スニッチが悪辣に嗤ったかのような錯覚を覚える。砕けよ、挫けよ、と。

 だが、二人はそれぞれ右足と左足を曲げると、互いの身体を同時に蹴り飛ばした。

 スニッチの直角移動ほどではないにしろ、それによって急速に互いの位置をずらした二人は、箒の柄を必死に持ち上げることによって木材の枠組みから上空に向けて飛び出した。

 

 観客席から、幾度爆ぜたか分からない歓声があがる。

 ここで二人の勝負を左右したのは、単純なところ運であった。

 重要なのはピッチに飛び出した時点で、スニッチに近かったのがハリーだったということ。

 ハリーの獰猛な気配に気づいたのか、魔法が掛けられた無機物にあるまじきことだが、スニッチは自らが逃げようとしたのとは別の方向へ逃げようとした。

 急激に角度を変えて、上空に逃れようとする気配がハリーに伝わる。

 だが、一手遅い。

 鬼気迫る顔で追うドラコよりも早く、逃げるスニッチよりも早く。

 右手を伸ばしたハリーが、スニッチを手中に納めようとしたその瞬間。

 がつん、と後頭部に衝撃を受けた。

 あまりにあんまりなタイミングでハリーはバランスを崩し、箒から転げ落ちてもんどりうってピッチに倒れ伏す。

 会場が、一気に静まった。

 死んだんじゃないか? という無粋な誰かの呟きすらが、何処かから聞こえてくる。

 何が起こったのか分からないハリーは大の字の状態から起きあがろうとして、ふと自分が息を出来ないことに気がついた。

 即座に酸欠か? と思い浮かぶが、違う、何か喉に詰まっている!

 寝返りを打って四つん這いになると、ハリーは懸命に喉に詰まった何かを吐きだした。

 けぽ、という可愛らしい音とともにハリーの手の中に落ちてきたのは、なんとスニッチだ。

 静寂に包まれたピッチの中において、ハリーはずきずき痛む後頭部を左手で抑えながら、捕らえられて大人しくなった金のボールを天に向かって突きあげた。

 

「うォォォおおお―――ぁぁぁあああああああああ――――――ッ!」

 

 全くもって少女らしくないが、勝利の雄叫びをハリーがあげた瞬間。

 試合会場の全てが歓声と怒号の爆発に包まれた。

 

 試合終了――。

 結果は、一七〇対六〇。

 グリフィンドールの勝利である。

 異議を申し立てようと審判に詰め寄ったフリントが、ハリーの頭を蹴り飛ばした事についてドラゴンのような形相のマダム・フーチや観客席から飛び降りてきたマクゴナガルからお説教を受けているのを尻目に、グリフィンドールチームの面々が次々に地上に降り立ってハリーを抱きしめてきた。

 ウィーズリーズが抱きついてきて、また冗談で尻に手を伸ばしてきたが、笑顔のハリーに全力ビンタを喰らう。しかしそれでも笑っていた。チェイサー三人娘はハリーを代わる代わる抱きしめ、その頬や額に熱烈なキスの雨を降らす。

 ウッドに至っては喜びのあまり、もう少しでハリーを絞め殺しそうになっていた。

 撫でられ過ぎた黒髪はくしゃくしゃにされ、皆の歓声で耳がおかしくなりそうだったがハリーはそれでもよかった。今この時だけは、それでも構わなかった。

 いまこのときだけは、喜びと興奮の感情のみが、ハリーの心を占めている。

 こんな、こんな事は初めてだ。

 ハリーは観客席から走ってくるグリフィンドール寮生の中に、ハーマイオニーとロンの姿を見つける。そして二人に向かって、無邪気で屈託のない笑顔を見せていた。

 そうして揉みくちゃにする皆から抜けだすと、二人の首に飛びつくように抱きしめる。

 まともな英語が口から出てこないが、それでもハリーの喜びは二人に伝わっているだろう。

 二人の頬にキスをすると、ハリーはまた幸せそうに笑いをこぼす。

 きっと、今日のことは一生忘れない。

 赤くなったロンと朗らかな笑顔のハーマイオニーを見ながら、ハリーはそう確信したのだった。

 ああ、よかった。

 ぼくは、ホグワーツに来ることができて本当に幸せだ。

 




【変更点】
・全体的に選手たちの技量アップ。
・リア充イケメンはセクハラすら許される。
・戦闘やクィディッチに関してはどんどん魔改造して逝きます。エクストリィーム!

ピッチの外観や構造は映画と同じように想像してください。
クィディッチのみでお送りしました。流石にこれ単体だと、文章が短くなりそうで大変。
文章中に唐突に現れるダドリーが便利すぎて、コイツ魔法生物か何かじゃないかなぁなんて。

※誤字をしないよう気を付けているつもりですが、私もマグルですのでうっかりしてしまいます。報告じつに有難いです。


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7.セブルス・スネイプ

 

 

 ハリーは今、呪いをかけられていた。

 なぜだか足が先程からタップダンスを踊って止まらないのだ。

 もはや息をするにも苦労する有様で、荒い息と汗で張り付いたシャツが気持ち悪い。

 杖を取り落とさないよう持ち続けるのが精いっぱいで、上半身を懸命に固定する。

 そうしてふらふらと何度かぼそぼそ呟いたのち、ようやく呪文を唱えることができた。

 

「ふぃ、『フィにゃーとぁ、ふにゃ、『フィニート』! っぷあ!」

 

 短縮呪文である。

 魔法界に無数にある呪文の中には、短縮しても効果が得られるものが多々ある。

 例えばこの呪文。『フィニート・インカンターテム、呪文よ終われ』。継続系の呪いを停止させる類の呪文であり、先程ハリーが掛けられていたダンス呪文を終了させる効果がある。

 『呪文よ終われ』は補助単語であり、呪文の効果をより正確に、または苦手な呪文を正しく発動できるようにするための言葉だ。要するに、自転車でいう補助輪である。

 そして補助輪を外した状態で唱えるのが、あらゆる状況において役立つ形。この場合で言うと、『フィニート・インカンターテム』である。

 口から紡ぐ言葉が短ければ短いほど呪文は早く発動でき、有事の際に素早く使えるというのはそれだけでアドバンテージを得ることができる。特にこの呪文は限定的ではあるが相手にかけられた呪いを解けるので、短縮できると便利だ。

 そして此度の《短縮呪文》。それが『フィニート』だ。

 前半部分の『フィニート』だけでも呪文は発動できるが、その場合の発動難易度は一気に跳ね上がる。箒で言うと、両手を柄から離して全速力を出すようなものだ。未熟であれば呪文は不発に終わるし、呪文によっては自らに跳ね返ってくることもある。これをリバウンドという。

 上級生になると《無言呪文》と呼ばれる、まさに読んで字の如く無言で呪文を扱う技術を学ぶのだが、これには多大なメリットと共に多少のデメリットが存在する。

 相手に何の呪文を発動したのか、ほとんど悟らせないという多大なメリットはある。更には呪文を唱える時間がないので、ほぼタイムラグ無しに次の呪文を放つことだってできる。

 しかし、要するに無言呪文は計算でいう暗算と同じものだ。素早いが、正確さに欠ける。十全の威力で魔法を放ちたいのならばスペルを唱えるべきであるし、魔法というものは精神力が重視されるので、しっかり唱えた気分になれる、というのも重要な要素なのだ。

 さて。

 現在ハリーがかけられていた呪い『タラントアレグラ、踊れ』は、呪う対象の動物にダンスを踊らせることができるという、バカバカしくも恐ろしい呪文だ。

 一年生の終わりごろに習うこれは、主に学生同士の喧嘩で使われる程度の攻撃的呪文だ。波乱万丈な学生生活を送る予定のある悪い子には垂涎もの、覚えておいて損はない。

 だがこの呪文。阿呆のようだが実に凶悪で、踊りはじめのころに解呪できれば何のことはないが、時間が経過すればするほど息切れで正確な呪文発音ができなくなり、踊りをやめられずに激しく熱い夜を狂おしいほどにヒャーウィゴーする羽目になる。これは拷問に等しい。

 では何故ハリーがこの呪文をかけられていたのかと言うと、実のところ覚悟の上である。

 大の字で床に寝転がって胸を上下に揺らし、顔を真っ赤にして汗を流しているという大変はしたない格好でいるハリーの前に立っているのは、魔法薬学教授セブルス・スネイプその人だった。

 

「立ちたまえポッター。その程度で疲労困憊していては、先が知れるぞ」

「……待っ、……待ってくだ、さい、……せ、んせい……っ」

「ならん。実戦で本当に待ってくれる相手など、余程のマヌケでもない限りあるはずもなかろう。『エレクト』、立て」

 

 びんっ、とバネ仕掛けの人形のようにハリーの身体が勝手に立ち上がった。

 スネイプの呪文により無理矢理立ちあがったハリーは、息を切らしながらも杖を構える。

 だが今のふらふらの状態では、呪いの言葉を吐き出すのも苦しげだ。

 

「『コ……、『コンふぇあ……っ、『コンファンド』ぉ!」

 

 ハリーの杖の先から紫の光球が飛び出し、ひょろひょろと情けなくスネイプの胸元へと向かってゆく。そんな無様を鼻で笑ったスネイプは、容赦なく杖を振った。

 

「『アドヴェルサス』、逆行せよ」

 

 スネイプの杖から薄黄色の板状の光が、ハリーの出した光球の行き先を阻むように現れた。

 そうして光球がそれに触れた途端、恐ろしい勢いでハリーの元へと戻ってゆく。

 目に落ちんとした汗を脱ぐっていたハリーは回避が間に合わず、自ら放った錯乱呪文をその身に受ける羽目になった。

 

「ポッター。呪文と言うのは術者の資質のみならず、発動時点の体力によっても出来が左右される。今の自分が放った錯乱呪文の遅さを見たかね? あれがその証左だ。一方未だ体力を消費していない我輩が使用した跳ね返し呪文は後の先を取った。つまりはそう言う事だ。そのちっぽけな脳みそで覚えておきたまえ」

「ふぁ、ふぁぁぁい……ほああ」

 

 ハリーが弱っていた事で跳ね返された錯乱呪文も弱まっていたのだろう。

 運良く奇行に及ぶことはなかったが、それでもろれつが回らなくなった舌で返事をする。

 そうしてまたばったりと倒れこんでしまった。

 

「ふむ。だらしのない。これが授業であれば減点しておりましたぞ、英雄ポッターどの」

「ほにゃ」

「……」

 

 呆れた声を出すスネイプにまともな言葉も返せないハリーを見て、彼は杖を一振りする。

 するとハリーの乱れた衣服も汗まみれの身体も荒い息も、その全てが拭われたように綺麗さっぱり消え去った。

 ぽかんとした顔のままのハリーを置いて、スネイプはさっさと教室を出て行ってしまう。

 彼も疲れているのか、どうにも歩き方がおかしい。片足を庇っているような歩き方だが、ハリーの呪文がひとつでも当たっていたのだろうか? いや、どうなのだろう。わからないが、彼は一度も振り返ることはなかった。

 ハリーはおよそ女子がしてはいけない乱暴さで椅子に座ると頭を掻いて、ため息をつく。

 何故、ハリーはスネイプに呪いをかけられ放題になっているのか。

 ことの起こりは、マクゴナガルへの頼みごとにあった。

 

 

 クィディッチでグリフィンドールが勝利し、しばらく廊下ですれ違う獅子寮生徒がハリーの事を英雄扱いしてくるという騒動が、ようやく沈静化してきた十一月の半ば。

 ハリーはハグリッドの小屋へお茶をしに行っていた。

 もちろん、ハーマイオニーとロンの二人も一緒だ。

 

「スネイプが呪いをかけていたんだ」

 

 ロンが言う。

 

「ハーマイオニーがローブを燃やして中断させたけど、あいつがハリーの箒に呪いをかけてたんだ。目を離さないで、ぶつぶつぶつぶつと根暗そうに!」

「阿呆か。あやつは仮にもホグワーツの教師だぞ、んなこたぁするもんか」

 

 ロンがそう説明するも、ハグリッドは譲らない。 

 彼はダンブルドアの認めた男であって、それならば疑いの余地はないと。

 しかしハーマイオニーもこれに喰ってかかった。

 

「でも私見たのよ。目を逸らさず、絶え間なく呪文を紡ぎ続けるだなんて呪いをかけている仕草そのものなのよ。『呪いのかけ方、解き方』に載っていたわ」

「だが、そんなことをする理由がありゃせんだろう。いっくらスネイプ先生がスリザリン贔屓であっても、リスクとリターンが見合わなさすぎやせんか?」

 

 それに対する答えもハーマイオニーは用意していた。

 お茶を啜っていたハリーの肩を小さく叩いて、言葉を促す。

 

「あー、えっとねハグリッド。トロールが侵入したあの日、ぼくスネイプに睨まれたんだ。怖い形相で。だから、ぼくのことを……その、憎んでいるんじゃないかなって」

 

 多少しょげたようにハリーが言うと、ハグリッドは彼女の頭をポンと優しく叩く。

 だがそれでもあまりに力強く、ハリーは自分の身長が縮んだ事を確信した。

 

「いくら憎んでたとしても、彼が生徒を殺すなど絶対にねえ。これでも喰って忘れろ」

 

 陰気な話はここで終わりだ。とばかりにハグリッドがどさっとバスケットを机に置く。

 中身はロックケーキだ。今度はクランベリーやラズベリーが練り込まれているようで、甘酸っぱい匂いが漂っている。

 ハグリッドの様子を見て、ロンとハーマイオニーの二人はこの話を諦めたようだ。

 ハリーが目を輝かせたが、ハーマイオニーの笑顔はどこか苦々しげだった。

 ロンはそのケーキの異常な硬さを知らない。

 一個まるごと頬張ろうとして、金属音めいた音で自分の前歯にヒビが入ったことを知った。

 

「でもさぁ、スネイプったら酷いんだよ! 僕が分からないところばーっかり当てるんだ!」

「お言葉ですけどロン? 枯れ木に花を咲かせる薬は、先週習ったばかりのところよ」

「そうだったっけ? スネイプの話を聞くくらいなら、チャドリー・キャノンズがいかにして優勝するかに想いをはせた方がよっぽど有意義だと思うんだけどね」

「ところでロン。チャドリー・キャノンズって何年優勝してないんだっけ」

「全部で二十一回も優勝してるんだぜ!」

「最後に優勝したんは一八九二年で、一世紀も前だろうが。え?」

 

 三人の子供たちがぺちゃくちゃ喋るのを楽しそうに聞いていたり、時折口をはさんだり、ハグリッドはまるで親友と息子娘が同時にできたかのようにとても楽しそうだった。

 特に今までホグワーツに通ってきた生徒たちには不評だったらしいロックケーキが、ハリーには大好評だったこともあってもはやご機嫌は天井知らずだ(ハーマイオニーとロンは食べるふりをするのに忙しかった)。

 ハリーがお茶を淹れたり、ハーマイオニーが魔法で作ったクッキーを振るまったりと、三人は空が赤く染まるまで実にのんびりとした休日を過ごした。

 そろそろ帰らねばマクゴナガルが怒る。という時間になって、ハリーがふと言葉を漏らす。

 

「そういえばさぁ、ハグリッド。動物に詳しいんだよね?」

「うん? なんだハリー突然。そりゃーあ、詳しいっちゃあ詳しいが」

「この前フィルチに追いかけられて逃げ込んだ廊下で、頭が三つある犬に出くわしちゃったんだけど、なんて種類か知ってる?」

 

 件の、禁じられた四階の廊下での話だ。

 規則破りをしたことを堂々と話したことにハーマイオニーがぎょっとしたが、ハグリッドはかんらかんらと笑っていたのでほっとしているようだ。

 ロンがそれについてからかうような目を向けて、ハーマイオニーに肘打ちを喰らっているのを見てハグリッドは話を続ける。

 

「やんちゃでよろしい。おまえは父さんの子だなぁ、ハリー。あと、そりゃあフラッフィーのことだな。種類はケルベロスだ。ギリシャあたりの怪物じゃて」

「フラッフィー? あれに名前なんてあるの!」

 

 脇腹を抑えたままのロンが嫌そうな声を出す。

 それにハグリッドはにやりと笑って、わざわざおどろおどろしく言う。

 

「そうだとも。それぞれフラッフィー、プラッフィー、ブラッフィーっちゅーんだ」

「適当すぎやしないかそれ」

「何を言う。ダンブルドア先生へお貸しするとき名前を聞いてくすくす笑っとったんだぞ」

「ハグリッド、その笑いは別のものだと思うわ……」

 

 誇らしげなハグリッドへ冷静にツッコミを入れる二人を見て、ハリーはくすくす笑う。

 ロックケーキをバギボギンと齧りながら、ハリーは何の気なしに言った。

 

「ダンブルドアに貸したって、あの人もああいう危険な動物が好きなの? やっぱりあの人頭おかしいの?」

「そりゃどういう意味じゃいハリーや。いんや、あの人は別にそうでもないんじゃねえかな。ダンブルドアは守るために借りていって……」

 

 ロンはその言葉を聞き逃さなかった。

 

「守るため? 一体何を守っているって言うのさ?」

 

 しかしそれは悪手だった。

 ハグリッドが自らの失言に気付き、しかめっ面をして押し黙る。

 眠くなったハリーがそろそろ門限だよと言うまで、二人は何とかして情報を引き出そうと四苦八苦していたがその全てが無駄に終わった。

 ロンとハーマイオニーが何を言おうと、ハグリッドはまともに取り合ってはくれなかった。

 

 次の日、ハリーは朝早くに目が覚めた。

 休日であるため、隣のベッドで眠っているハーマイオニーと男子寮で眠っているだろうロンは、あれから夜遅くまで分厚い本を読み漁って情報を得ようと躍起になっていたようだ。

 談話室でしばらくのんびり本を読んでいても二人とも起きて来なかったので、ハリーは寮から外に出ることにした。

 雪がちらほらと降り始めて来週には真っ白だろう、という中庭で先程読んだ魔法の練習をしていると、通りがかったマクゴナガルが声をかけてきた。

 どうやら杖の振り方を間違えていたようだ。

 それから一時間、唐突に始まった課外授業によってハリーは変身術の課題である、無生物に手足を生やす魔法を会得するに至った。

 これに喜んだのは、ハリーだけではなくマクゴナガルもだ。

 勤勉な生徒は珍しくて嬉しいですと言うと、ご褒美としてグリフィンドールに一点をプレゼントしてくれた。それにより笑顔になったハリーは、ふと、かねてより考えていたことを相談してみることにした。

 

「マクゴナガル先生、ちょっと相談したいことがあるのですが」

「なんです、ポッター。まあ、無碍にする事もないでしょう。ついておいでなさい、温かいココアでも淹れてあげましょう」

 

 二人して人の少ない城の中を歩き、マクゴナガルの部屋へと辿り着く。

 

「ポッター、おかけなさい」

「はい先生」

 

 マクゴナガルが魔法でテーブルの横に椅子を出し、ハリーは礼を言ってからそれに座る。

 暖炉でぱちっと爆ぜる音が響き、マクゴナガルが肉球の絵が描かれたマグカップにココアを注ぐのを横目に、部屋を一通り眺めた。

 シックな内装で、とても落ち着いた空間にデザインされているのが実に彼女らしい。

 暖かな紅色のカーペットや、学術書に魔術書が入っているらしい整頓された棚が目につく。

 ハリーはその棚の中に、猫缶が入っているのを見逃さなかった。

 

「さて、では相談事とはなんですか?」

「ええ……」

 

 ハリーとマクゴナガルがココアを一口飲む。

 そして、相談の内容へと取りかかった。

 

「先生。初めてあった日のことを覚えていますか」

「もちろんですとも。……ですけれど、実はあなたが幼い頃に一度会っているのですよ」

「え?」

「ダーズリー家へ預ける日のことです。まだほんの小さな赤ん坊でしたね……。失礼、それでなんです?」

 

 危うく思い出話に突入しかけたが、そこは聡明なマクゴナガル。

 脱線することなくハリーに話を促した。

 小さく頷いたハリーは、言葉を紡いでゆく。

 

「ぼくにかけられた呪い、『命数禍患の呪い』のことです」

「ああ……」

 

 ココアを飲もうと傾けていたが、彼女はそのマグカップをテーブルに戻した。

 

「あまり詳しく話していませんでしたね」

 

 マクゴナガルは懐から眼鏡を取り出すと、それを鼻に乗せた。

 やはり彼女は眼鏡をかけている姿が似合っている。

 彼女は自分が猫に変身した時、目の周りにまるで眼鏡のようなブチがついている事を知っているのだろうか?

 

「『命数禍患の呪い(メルムミセリア)』。あれは、強力な闇の魔法です。その凶悪さから秘匿され続けてきており、これを知る者はこの現代ではほぼ居ない、とされています。……つまり何が言いたいのかというと、ここから先の話は誰にもしてはいけませんよ。誰にも、というのはあなたの信頼する友人たち……ウィーズリーとグレンジャーくらいにはよろしい、という意味です」

「…………」

「もちろん、貴方の心の準備ができてからのお話ですが」

「…………はい……」

 

 マクゴナガルは何かを考えるように数秒、眼鏡の位置を調整していた。

 そしてココアを一口飲み、話を続ける。

 

「ダンブルドア校長曰く、その呪いは対象となる人物の『運命』に干渉するようなのです」

「運命……そんなものが、本当に……」

「それが実在するかどうかはともかく、考え方の一つではありますね。ともあれ、その呪いは運命を奪い取るもの。つまるところ、本来あなたが経験するはずだった幸運は『あの人』が得て、『あの人』が陥る不運はあなたへ振りかかると……そういうものだそうです」

 

 ハリーはココアを飲んでいるはずなのに、まるでハグリッドの入れた泥のようなコーヒーを飲み干したような顔になった。

 

「それじゃなんですか? ぼくがヴォルデモートの分まで損してるってことですか?」

「……、そうなりますね。他者の人生を食い物にするという恐るべき闇の秘術。『あの人』……いえ、ヴォルデモートのやりそうなことです」

 

 怒りで頭がおかしくなりそうだ。

 ヴォルデモートの勝手で両親を奪われ、ヴォルデモートの勝手で不運を味わい、ヴォルデモートの勝手で、今のいままで本来はしなくてよかったはずの苦労を背負い込んでいる?

 ハリーは頭の中で、未だ顔も知らぬヴォルデモートを殴って鼻をへし折った。

 

「それで?」

 

 脳内ヴォルデモートが水車に取り付けられ高速回転し始めた頃、マクゴナガルが言った。

 眼鏡の奥で光る彼女の瞳は、ハリーの考えを見抜いていたようだ。

 観念したようにハリーは白状した。

 

動物もどき(アニメーガス)になる方法を知りたいんです」

「……そうですか」

 

 マクゴナガルはハリーの目を見て、居住まいを正した。

 手を組んで膝の腕に置く凛とした姿は、老いてなお美しいとハリーは思う。

 重ねた歳月と彼女の堂々とした空気がそう見せるのだろう。

 

「ポッター。私はダンブルドア校長の手ほどきを受け、在学中に動物もどきになりました」

「……! じゃ、じゃあ!」

「落ち着きなさい。……自分で言うのもなんですが、一つの例としてお教えしましょう。O.W.L.試験とN.E.W.T.試験という二つのテストのことは、ご存知ですね?」

 

 ハリーは頷いた。

 入学するにあたって、魔法というもののマの字も知らないハリーは買った教科書を読みあさり、ハグリッドに買ってもらった本もまた読んでいた。

 その中の一冊にあった、ホグワーツ在学中必ず受けることになるテストの内容を見て、不安を覚えた記憶がある。マグル生まれやマグル世界で育った魔法使いの皆が通る道とはいえ、何も知らない世界に飛び込む者には、少々酷な内容であった。

 O.W.L.試験とは、普通魔法レベル試験の頭文字をとってそう呼ばれる試験のことだ。ホグワーツに在籍する五年生が六月に受ける、将来の進路に大きく影響する重要な試験である。受験最大学科数は十二。

 この試験で一定以上の成績を収めた生徒のみが、六年生から始まるN.E.W.T.レベルの授業を受けることが許される。

 N.E.W.T.試験(めちゃくちゃ疲れる魔法テスト)の実地は、七年生の六月だ。

 その名の通り、酷い疲労とパニック、中にはストレスで発狂しかける者までいる。

 これも、将来就きたい職業の幅を広げるためには必須の試験だ。

 もっとも、難しさはO.W.L.の比ではない。

 魔法の事を知らないハリーが練習問題を一問紹介してあるページを見た途端、その文字の濁流を読むことそのものを拒否したほどだ。

 

「私はその二つの試験でトップの成績を収めました」

「嘘だと言ってよミネルバ」

「本当ですよ失礼な。そこまでいって、動物もどきに挑戦できるのです。何が言いたいかというと、これは相当厳しいものなのですよ。それこそ、年単位で時間を消費するほどに」

 

 要するに、何かを考えながらなれるようなものではないと。

 マクゴナガルの目はどこまでもハリーの頭の中を見透かしていた。

 

「……やめておきます。時間が厳しそうです」

「そうでしょうね。それに、何の動物になるかは貴方の適正次第です。たとえるなら昆虫、天道虫などになってしまっては出来ることは限られてしまうでしょう」

「……はい……」

 

 話を中断すると、マクゴナガルはハリーにココアを飲むことを勧めた。

 少し渋ったが、ハリーは大人しくそれを飲む。

 甘い味がふわりと広がるのに比例して、気持ちも大分落ち着いてきた。

 ハリーがんっくんっくとココアを飲み終えるのを待って、マクゴナガルは口を開く。

 

「ポッター。強力な魔女を目指すのならば、何も動物もどきという小難しい手段を求めることはありません。目標へと至る道は、色々とあるのです」

 

 マクゴナガルは言う。

 ハリーの本来言いたかったことは、こうだ。

 『ヴォルデモートをぶちのめす為に強くなりたい。でもその方法が分からない』。

 例のあの人、闇の帝王、名前を呼んではいけないあの人、などと呼んでヴォルデモートの名前すらをも恐れているこのご時世、そんなことは口にできないとハリーは思ったのだろう。

 しかしそれは、マクゴナガルを見くびりすぎだった。

 ハリーは改めて、マクゴナガルに願う。

 

「先生。ぼくは強くなりたいんです。それも、普通の速度ではなく。早く、実戦的な力が欲しいんです」

「ではポッター。何故そうまで急ぐのです? この学校ホグワーツでは、闇の魔術に対する防衛術という授業がある時点で、きちんと授業を脳味噌に刻んでいればある程度の戦闘力を手に入れられるのですが」

「……この前のトロール相手に、ぼくは無力でした。ハーマイオニーがいなければ、あの時点で殺されていたと思います。ある程度じゃダメなんです。普通の速度ではダメなんです」

「…………」

 

 ハリーがまくしたてるのを、マクゴナガルは黙って聞いていた。

 

「今学期が始まる前にハグリッドに上級生用の本を貰ったりはしていたんですけど……。多分、本を読んで勉強するだけじゃ得られない……そういった力が必要なんだと思います」

 

 ようやくその言葉を絞り出したハリーが落ち着くまで待ち、マクゴナガルは言った。

 

「ポッター」

「……はい」

「その考え自体は悪くはありません。トロールの時と言い、思い出し玉の時と言い、あなたはやはりトラブルに巻き込まれやすいようです。呪いの事も加味すれば……、ええ。私は賛成です」

「先生……!」

「ですが私では行えません。きっと、どうしても手心を加えてしまいますからね」

 

 ぱぁっと表情を明るくさせたハリーは、その一言に不吉なものを感じて笑顔のまま眉をひそめるという器用な真似をする。

 その不安は後になって嫌と言うほど的中していたが。

 

「協力してくれる先生は私が探しましょう。校長先生にも相談しておきます」

 

 そうしてやってきたのがセブルス・スネイプその人だった。

 曰く、決して手抜きをせずより実戦に近い形で教えてくれる適任者、だそうだ。

 ダンブルドア教授イチオシの指導者である。

 確かにそうだろう。彼はハリーのことがどうも気に入らないようなのだから。

 嬉々として嫌味を飛ばし、ハリーが見たことも聞いたこともないような呪文を用いて実戦形式で鍛えてくれるという事なのだ。

 因みにハリーは、これをロンには言っていない。

 ハーマイオニーには言ってある。しかし彼女でさえ大いに心配して反対したのだから、スリザリンとの因縁深い彼が知れば、猛反対したに違いない。そしてきっと、ハリーの身が危ないと言って止めただろう。

 現に二人は、ハリーを箒から叩き落そうとしたのがスネイプだと言っている。

 ハリーにはそれが事実かどうかは分からない。

 スネイプはハリーに点を与えたり、それを帳消しにするように差っ引いたりするので、いまいちどんな人なのかが読めないのだ。

 いや、意地悪で性格のねじ曲がった人物なのは確かだが、それでも魂まで歪んでいるとは思えない。

 

「ポッター。立ちたまえ」

「むにゃ」

「…………」

 

 彼は容赦なくハリーに呪いをぶちまけるし、彼女の攻撃は全て見事にあしらった挙句に辛辣な嫌味を飛ばしてくる。

 だがハリーが本当にへばったり参ってしまったときは、何かしらの治癒魔法でさりげなく気遣ってくれるのだ。その処置はまさに完璧・パーフェクト・スネイプ。衣服の乱れや崩れた髪型、汗やそれによる体臭、更には空腹まで満たしてくれるという、彼の魔法には細やかな気遣いが見て取れた。

 ハーマイオニーやロンはああいうけれども、本当に彼がぼくの箒に呪いをかけたのか?

 いやしかし、課外授業では毎回手加減などしてくれないし、若干嬉しそうだし……。というかアレ手加減はしていても一切容赦していないだろう。呪文を唱える速さが尋常ではない。教えるつもりがあるのか?

 そう思ってしまったハリーは、意地悪で悪辣な彼のことを本心から嫌うことができなかった。

 週に三回、放課後にその時々空いている教室で、課外授業は行われる。

 クィディッチの練習も週に三回やるので、ハリーは結構多忙だった。

 その日は練習と課外授業の日程が被ってしまい、彼女はクィディッチローブを脱いで軽くシャワーを浴び、シャツと短パンに制服のローブを羽織っただけ、というラフな姿で急いでいた。

 本日の課外授業は普段より三〇分早く始めることになると、フクロウ便で通達されていたというのに、もうタイムリミットの一〇分前だ。既に二〇分もオーバーしている。

 

「怒られる。絶対怒られる。遠まわしにねちねちと嫌味言われる。絶対言われる!」

 

 今日はクリスマス・イブだ。余計な皮肉を貰って嫌な気分にはなりたくない!

 どぱん、と乱暴に扉を開けて教室に飛び込んだハリーは、スネイプの姿がないことに安堵のため息を吐きだした。

 課外授業はあまり他の生徒に知られたくはないと言うスネイプの意を汲んで、基本的にはスネイプの地下教室で行われる。だが上級生が自習に使って空いていなかったり、ゴーストがいたり、ポルターガイストのピーブスが悪戯して酷い有様だったり、様々な理由で教室変更がなされる。

 今回使う教室は初めて利用するところだったが、もう長い間使っていない教室のようだった。隅っこに積み上げられた机や椅子のうち一つを勝手に持ち出し、ハリーはボロボロのそれに座りこむ。

 ふと見渡してみると、部屋には巨大な鏡が置いてあった。

 それはあまりに大きかった。派手な装飾が施された頭が、天井を多少擦っているようだ。

 

「……みっともなくないかな」

 

 ハリーは鏡の前に立って、身だしなみを整える。

 慌てて更衣室から出てきたので、シャツからおへそが少しはみ出ているのが見えた。

 服装の乱れは心の乱れですなポッター。五点減点。……などという幻聴が聞こえてくるようだ。それに淑女として、だらしないのは如何なものだろう。なんにしろ、直しておいた方がよさそうだ。

 さて、スネイプが来る前にしっかり直して難癖をつけられる余地をなくそう。と思ってもう一度鏡を見て、ハリーは驚きの声をあげた。

 

「ハーマイオニー? それにロン?」

 

 鏡には彼女の親友二人が、屈託のない笑顔でハリーの後ろから歩いてきている姿が映っていたのだ。慌てて振り向いたハリーは、二人の姿がないことにまた目を丸くする。

 もう一度鏡を見てみれば、確かに二人は映っている。しかし、現実には居ない。

 

「……鏡の、中だけにいるのか……?」

 

 ハーマイオニーはその豊かな栗毛を揺らして、楽しげに笑っている。

 いつも澄まし顔の彼女にしては、珍しい笑顔だ。ハリーはそれをとても魅力的だと思う。

 ロンはやはり、身長が高い。小柄なハリーでは彼の顎に届くかどうかといったところだ。

 赤毛の彼はその長い手で、鏡の中だけでハリーの頭をわしゃわしゃと撫でている。

 

「……、……ッ?」

 

 そうして魅入っていると、新たな人物がまた後ろからやってきた。

 くしゃくしゃな黒髪で眼鏡をかけている、ハシバミ色の瞳の男性。

 深みがかった赤く美しいさらさらな髪の、明るい緑色の瞳の女性。

 ハリーに記憶はない。ないが、あれは……。

 

「パパ……、ママ……?」

 

 まだいる。まだまだ、大勢やってくる。

 鳶色の髪の男性や、黒い髪のハンサムな男性。小柄な茶髪の男性もいる。鳶色と茶色の男性はマクゴナガルやハグリッドと笑い合い、黒髪の男性と睨み合って互いにフンと鼻を鳴らすのはスネイプだ。

 あれは、ペチュニアおばさんか。バーノンにダドリーもいる。あれだけ厳しかった三人が、少し申し訳なさそうに、それでも愛情をこめて微笑んでいるではないか。ロンの母親や、父親らしき少し頭髪の薄い男性。フレッドやジョージ、それに他のウィーズリーの兄妹達も。ハーマイオニーにそっくりな、彼女の両親だろう夫婦もいる。

 それに、ドラコ・マルフォイだ。鏡の中のロンと不機嫌そうな顔を交わすものの、ゴツンと拳と拳をぶつけ合う姿は親友のそれに違いない。スコーピウスにクライル、彼らもいるのか。ドラコやロンに呆れ顔をされながらも、楽しげに笑っている。ああ、動物園で出会ったあのヘビもいる。亡くなってしまったフィッグ婆さんや彼女の愛した猫たちも、ヘドウィグまで。みんなみんないる。

 

「ああ、あああ……」

 

 ハリーは澎湃と涙があふれるのを、止めることができなかった。

 その涙すら、目の前の光景を眺めるのを邪魔する障害ですらない。

 ローブの袖で乱暴に涙をぬぐい、一心不乱に団欒の景色を眺め続ける。

 母が、微笑んでいる。父が母の肩に手を回し、ハリーの頭をわしわしと撫で始めた。

 ロンとドラコがクィディッチの雑誌を片手にハリーの頭の上で、ぎゃあぎゃあと論争を始めた。ハーマイオニーがその様子を見てくすくすと笑っている。

 スコーピウスにクライルは先生方と共に、ヘビやフクロウたちとじゃれあって遊びはじめた。彼らはとても楽しそうで、無邪気な笑顔を浮かべている。

 黒髪のハンサムはにこにこと笑って、鳶色の髪の男性と茶髪の男性と笑い合っているし、その三人はウィーズリー夫妻、グレンジャー夫妻とも親しげだ。きっと家族ぐるみの付き合いをしているのだろう。

 ウィーズリーの兄弟たちは、泣き続けるハリーを励まそうとふざけたりおどけたり、眼鏡をくいっと上げながら元気の出る魔法について講釈を始めたりしている。

 ああ、ついに声まで聞こえてきてしまった。

 

『なに泣いてるんだよ、ハリー。何を困ることがある?』

『そうさ。私たちの可愛いハリー。君は笑顔でいる方がよっぽど美人だよ』

『何を言う。男の子だったら一緒に遊べたのに、なんて言っていたのは何処の誰だい』

『しょうがないさ、彼は格好つけの女泣かせなんだ。ハリーの前でもそうありたいのさ』

『ほら、ハリー! 君も言ってやってくれ、マルフォイはこの良さがわからないらしい!』

『そんな弱小チームの何が面白いんだか! ポッター、君までこんなチームがいいのか?』

『やめなさいってば二人とも、ハリーが困ってしまうわよ。ハリーも二人を止めてよ、もう』

 

 いつの間にか、ハリーの両肩には彼らが置いた手や、頭には撫でてくれる手の感覚がある。

 きっと後ろを見ても、横を見ても姿はないのかもしれない。

 だけど彼らの体温は確実にいま、この身体で感じている。

 声だって聞こえる。

 ハリーは実のところこれを、自分の願望だと、叶うはずのない悲願だと感じ取っていた。

 だけど、だけれども。

 例え叶わぬ夢だとしても、この暖かさを感じられるのならば。

 今この一時だけでも。

 感じていたって、悪くないのでは。

 

『ねぇ、ハリー。元気をお出しよ。僕らがいるだろ?』

『ハリー! 泣くなよ、僕はもう殴らないぞ。ほら泣くなって!』

『おい、ポッター。君が女々しいと僕が困るんだ。しっかりしろよ』

『なぁ、ハリエット。君が泣いていると今度は私たちが困ってしまうぞ?』

「ああ、ああ……。みんな……、みんなぁ……っ」

 

 親との思い出など、必要ないと思っていた。

 ダーズリー一家と仲良くできるなど、きっと有り得ない未来だ。

 ドラコともロンとも仲良くしたいと思っても、片方を取れば片方は取れなかった。

 ハーマイオニーとロンの二人と友人になれたけれど、真実の意味で心を許せてはいない。

 自分の思い通りになることなんて、この世の中には有り得ない。

 自分は底辺のゴミクズで、それが当たり前なのだから。

 それ以上を考えてしまっては、そんなに高いところから落ちては、心が死んでしまう。

 あの動物園の。

 あのヘビと会話ができた、あの時から。

 どうやらぼくは、欲張りになってしまったらしい。

 誰かと普通に会話をできただけで、言葉にできない喜びを感じられたのに。

 今だってそうだ。

 随分高望みをしてしまっている。

 願わくば、ぼくは、

 彼らと、

 ずっと――

 

「ポッタァ――――――ッッッ!」

 

 鋭い声にハッと息を飲んで、心臓が跳ねあがる。

 目の前の光景は煙のように霧散し、彼らの暖かさは露と消えた。

 すべてが消えた。

 声は、もう聞こえない。

 

「……ッあ、……! ……ッ!」

 

 手を伸ばして、せめて残滓をつかみ取ろうともがく。

 しかしその手に触れた鏡は、冷たく、冷たく、何も暖かくなどなかった。

 声にならない憎しみをこめて振り向くと、そこには蒼白な顔色のスネイプが立っていた。

 音高くつかつかと歩み寄り、ハリーの両肩を乱暴に掴む。

 とめどなく溢れる涙を隠そうともせず、ハリーは叫んだ。

 

「……邪魔をッ、なぜ、なぜ邪魔をしたんだ! スネイプ、先生ッ! あんた、何でだよッ! なんで……っ、なんで……」

 

 しゃくりあげながら、スネイプの胸を力なく殴りつけながら、ハリーは泣き続けた。

 縋りつくようにもたれかかり、大声をあげて泣いた。

 ただの少女のように、泣いた。

 十一歳の子供のように、泣いた。

 スネイプはそれを責めもせず、怒りもしない。

 ただハリーが泣きやむまでの長い長い時間、彼女の好きにさせるようにしたようだ。

 鉤鼻の上で昏く光る黒い瞳が、じっと鏡を見つめていた。

 

 ようやくハリーが泣きやんだとき、空はもう橙色の光を隠して暗い藍色になっていた。

 また嫌味を言われるのではないか?

 いや、彼のローブは胸のあたりがぐっしょり濡れている。

 全部ハリー自身の涙だ。たぶん、一人の乙女として認めたくはないが、鼻水もだ。

 恐る恐るスネイプの顔を見てみると、驚くことに全く怒っていなかった。

 それどころか、多少労わるような色さえ見えるではないか。

 

「ポッター」

「ひゃっ、ふぁい!?」

「これはな、《みぞの鏡(The Mirror of Erised)》というものだ。幾百、幾千もの魔法使いが、これに囚われてきた」

 

 訥々と語る彼の言葉を、ハリーは大人しく耳に入れる。

 普段あれだけ嫌味を交えて話すのが嘘のようだ。

 

「何を見たかは、今は問うまい。ああ、問うまい。……これは、決して、真実を映したりはしない。では何を映すのか。分かるかね、ポッター」

「……えっと……たぶん、願望。その人が欲しい……願っている、欲望を……」

「ふん、英雄様は優秀ですな。その通り。そして補足をするならば、これに一定以上魅入られた魔法使いは、鏡の中に吸いこまれて消化されてしまう」

「……食べられちゃうの?」

「概ね正しい。餌をおびき寄せるため望みを読み取って見せ、幻聴を弄してくる、というわけだ」

 

 ハリーは身震いをした。

 スネイプに寄り添っているため、彼の体温がとてもありがたい。

 何の変哲もない巨大な鏡が、まるで大口を開けた怪物に見えてしまう。

 

「そして、重ねて、言おう。これに映るものは、決して、真実ではない。かつて魅入られた者たちのように、死の国へ旅立ちたくはあるまい。この鏡はダンブルドア校長に……ああ、彼に言って何処か余所へ移してもらおう。絶対にだ。ゆえに、これをもう一度見たいなどと。……思ってくれるな、ポッター」

 

 ああ、とも、イエス、とも声が出ない。

 ――あのスネイプが。ぼくを気遣ってくれている?

 そんなハリーの失礼な考えを見抜いたのかそうでないのか、それきり言うとスネイプは目元を赤く腫らしたハリーを放って教室から出て行ってしまった。

 一人残されたハリーは、もう一度鏡を見た。

 散々泣いて心が空っぽになってしまったからなのか、鏡にはもう何も映っていない。

 両親も、友人たちも、もう誰も映らない。

 声も聞けなければ、会うことも二度と叶わない。

 

「だけど、たぶん、それでいいんだ。きっとそれが正解なんだ」

 

 ハリーは寂しい気持ちを胸の奥にしまいこんで、教室を出た。

 今頃グリフィンドール寮では、双子のウィーズリーを中心に馬鹿騒ぎしているに違いない。

 そんな考えを巡らせて廊下を歩く中、ハリーは思う。 

 スネイプは、ぼくが泣いている間哀しそうに鏡を見ていた。

 彼は、あれに、いったい何を見たのだろうか。

 




【変更点】
・すにべるすのたのしい課外授業。嬉々として呪ってきます。
・原作よりハグリッドの口が固くなった。あまり情報を引き出せないよ!
・動物もどきになりたいおんなのこ。
・みぞの鏡がより凶悪でクレイジーに。そんなもの学校に持ってくるな。
・ハリーの望みは『皆が笑って隣に居る世界』。絶対に叶わない夢です。
・ダンブルドアではなく、スネイプが登場する。

【オリジナルスペル】
「アドヴェルサス、逆行せよ」(初出・7話)
・薄黄色の板状の光を出し、これに触れた魔法を術者に跳ね返すことが出来る。
 半純血のプリンスの創作呪文。『ワディワジ』の上位版。

「エレクト、立て」(初出・7話)
・対象を直立させる呪文。結構乱暴なので、怪我人にはまず使用しない。
 元々魔法界にある呪文。威力の低い『アセンディオ』。

多少のオリ展開が入りました。魔改造された以上、歴史もズレ始めます。
ついにストックエンド!正確にはこれの途中から、生中継でございます。
更新速度が遅れるでしょうけれど、ボリュームは減らさないように致します。
次回からはラストに向けてアクセラレーション。戦闘シーンが増えてまいります。


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8.ちっちゃなノーバート

 

 

 本日は十二月二十五日。

 クリスマスである。性なる日である。

 ジンッグッベェア! ジンッグッベェア! すっずーがァ、鳴ルーモス! HEY!

 きょッおーはぁー楽っしーいー、クーリースーマーステューピファイだオラァ!

 サンタの格好をしたスネイプが百人に分裂して大広間の天井を飛び交い、蛇そっくりな顔のおっさんとワルツを踊って爆発した。犬と鹿がタップダンスを踊り、鼠と狼が拍手喝采。ピンクのゴスロリ服を着たカエルがウィーズリーの双子にサンドバッグにされているその背後で、頬を染めた乙女のような顔のダンブルドアが金髪のハンサムガイとディープで熱烈なキスをしている。クレイジーでロックなまともじゃない四人組がここにホグワーツを立てようと宣言した、その瞬間。

 ハリーは目が覚めた。

 

「――夢か」

 

 なんだったんだ今のは。

 汗こそかいていないものの、代わりに涙が出そうだ。

 誰も見てはいないが、ハリーはそれをガウンを羽織って忘れることにした。

 確か、ハグリッドが巨大な蜘蛛を「お前の婿にと思ってな」と紹介してくる夢だったはず。

 こんな聖なる日に、まったく冗談ではない。

 

「ハリー! 起きておいでよ!」

 

 ロンの陽気な大声が談話室から、女子寮たるここまで届いてくる。

 いまはクリスマス休暇の真っ最中。

 このグリフィンドール寮にはハリーとウィーズリー兄弟の五人しかいなかった。

 他のみんな、ハーマイオニーも含めて全員は家族の元へホグワーツ特急で帰っていった。

 ロンやフレッド&ジョージ、パーシーは両親が次男のチャーリーが働いているルーマニアに行っているので、帰っても仕方ない。とのことらしい。フレッドとジョージは居たらそれだけでにぎやかだし、ロンは親友。パーシーは多少口うるさいところもあるが、勉強のわからないところを教わるにはもってこいの頼れる人材だ。

 こういう長期休暇にプリベット通りへ帰らなくて済むのは、実にいいことだった。

 昨日の出来事で、自分がダーズリー一家と仲良くできたらという願望があることを知ってしまったのは多少ショックだった。彼らが過去のことを悔いることができ、ハリー自身が彼らからの虐待を許すことさえできれば、それも不可能ではないだろう。

 だが現実で彼らとそういう関係になるには、少なくとも今は無理な話だ。

 女子寮から出て階段の踊り場から下を見ると、談話室には巨大なツリーが飾られていた。

 そのツリーの周りにはプレゼントボックスや手紙が山と置かれている。

 そして、その前に立っているのは満面の笑みのロン。

 

「おはようさん、ハリー! メリー・クリスマス!」

「ああ。おはよ、ロン。メリー・クリスマス」

 

 そういえば誰かとクリスマスを祝うのは初めてだな、とハリーは涙が出そうな嬉しい気持ちという不思議なものに浸りながら、ぱたぱたと降りて行った。

 ロンが手作りと思わしきセーターを着ているのをハリーがみていると、君の分もあるよとロンがもこもこと膨らんだ包みを差しだした。

 ハリーが首をかしげると、ロンが微笑みながら君宛てだよと言う。

 驚いたハリーが半信半疑のまま包みを丁寧に開くと、なんと、まあ、ウィーズリーのおばさんからのプレゼントだった。

 エメラルドグリーンのセーターに、ホームメイドのファッジ。それに手紙。

 手紙には、ロンからあなたにプレゼントを送るようにとの知らせを受けたこと、フレッドとジョージが素晴らしいシーカーだと騒いでいたこと、パーシーが優秀な生徒だと褒めていたこと、ほかにもいろいろなことが書かれていて大変分厚かったが、ハリーはそれがとてもうれしかった。

 

「因みにそのセーター、ママの手作りなんだ。僕のはいつも栗色さ」

「いいじゃない。ハーマイオニーの髪の色みたいで綺麗じゃないか」

 

 ロンがその言葉に顔を真っ赤にしたのを見て、ハリーはけらけら笑う。

 大きいガウンの方が可愛いのよ、と言うハーマイオニーに従って大きめなサイズのガウンを羽織っているが、どうにも袖が長すぎて手が動かしづらい。

 どうせだからと階段の影に隠れて、ガウンとパジャマを脱ぎすててウィーズリーおばさんお手製のセーターを着てみた。もこもこで気持ちがいい。

 

「じゃーん」 

「似合ってるよ、ハリー!」

 

 ハグリッドからは手彫りらしき木製の横笛。

 吹いてみるとフクロウの鳴き声のような低い音が出て、ハリーはいたく気に入った。

 おまけは綴りの間違った荒々しい文字のクリスマスカードに、チョコやラズベリーやナッツの入った大量のロックケーキ。ハリーはちょうどいい朝ご飯だとばかりにバギャブギョと一つ頬張った。ロンにも勧めたが、朝食前なのに彼はお腹がいっぱいだったようだ。

 なんと、マクゴナガル先生からもある。変身術の上級生用参考書と、綺麗な黒い羽ペン。丁寧な文字のクリスマスカードには、しっかり勉学に励むようにとの有難いお言葉つきだ。

 そして更になんとなんと、ダーズリー家からも来ているではないか。

 あんまりにも驚いたものだから、上級生用参考書の表紙を見て目を回していたロンも一緒になってハリーがぴしっとラッピングされた小ぶりな箱を開くのを見ている。

 開けてみるとメモ用紙に走り書きで、

 

――クリスマスプレゼントだ。 バーノンおじさんより。

 

 とだけ書いてあった。……五〇ペンス硬貨だ。しかもセロテープで張り付けただけ。

 あの家族はこういう行事ごとの贈り物だけはしっかりやるから、心の底から憎めない。

 たとえそれが、五〇ペンスぽっちであろうとも。

 箱の大きさに比べて随分質素なプレゼントだなあ、と思いながらもありがたく頂戴して、箱の方を空けてみた。するとバーノン以上の走り書きで、

 

――夏休みにはこれを着てきなさい。 ペチュニアより愛憎をこめて。

 

 などという文句が書いてあった。愛憎て。

 嫌な予感がしながら開けてみると、中には真っ白なワンピースが。

 ご丁寧にも麦わら帽子まで入っていて、絶対着ろよという有無を言わせない威圧感まで同封されていた。かなり高価そうなのが見て取れるため、無碍にもできない。

 所々にフリルがあしらわれていたりと、完全にペチュニアの趣味だ。

 遠回しな嫌がらせなのか、それとも娘が欲しかったというあの時の奇声は本心からだったのか、どちらにしろ善意という形を保っているために嫌がることも断ることも出来ないという、ハリーにとって最上級のいやらがせだった。

 何を勘違いしたのかロンが、

 

「聞いていたよりいい叔母さんみたいだね、ハリー」

「……そ、そだね……」

 

 などと言ってくるのも、またダメージがデカい。

 どうやらダドリーからもあったようだが、チョコの包み紙が入っているだけだったので、彼が用意したプレゼントに何があったかはお察しの通りであった。そんなオチはいらん。

 だがこの調子だと、無難にお菓子を贈っておいて正解だったようだ。たぶん。

 ハーマイオニーからは、蛙チョコレート詰め合わせパック。これもデカい。

 クリスマスカードが入っていた小さな箱には、可愛いリップクリームも入っていた。

 使うたびに香りが変わる魔法がかかっているために、飽きずに楽しめそうなのが良い。

 

 最後に残っていた包みは、どうやらロンの物ではないらしい。

 ロンがハーマイオニーからの百味ビーンズを片手に見守る中、その包みを開けてみた。

 すると銀色のさらさらした布が滑り落ち、床にきらきらと折り重なる。

 どうやらマントのようだ。

 まるで液体のようだとハリーが思いながら広げてみると、ロンが大声で驚いた。

 短い悲鳴を漏らしたハリーが睨みつける。

 

「なっ、なんだよ! びっくりさせないでよ!」

「ご、ごめんハリー。でも、でもそれ! 見てよ、鏡! 自分の姿! ほら!」

 

 不審に思いながらもハリーはマントを広げたまま、鏡を見てみる。

 不覚にもまた変な悲鳴をあげてしまったが、取り乱さずには済んだ。

 鏡に映っているのはハリーの生首。

 一瞬《みぞの鏡》を思い出してしまったが、マントを下ろしてみると自分の身体がきちんと映ることに安堵した。あれはスネイプが校長に頼んで撤去したはずだった。

 ロンが囁くような声で言う。

 

「ハリー、それ『透明マント』だよ……!」

「透明マント? ……なんか安直なネーミングだな」

「文句言っちゃいけない! それがどれだけ貴重でとんでもないものか……」

 

 口を開きっぱなしでロンが見つめてくるので、ハリーは彼にも貸してあげることにした。

 小躍りするように喜んで、いや実際に踊りまわって、ロンは鏡の前で生首になったり手足だけ出したり上半身だけになったりして飽きもせずに遊び始めた。

 そんな姿を眺めながらハリーは、包みに同封されていたカードを手に取る。

 それには見覚えのない細長い文字で、

 

――君のお父さんが亡くなる前に、これを私に預けた。

  君に返す時が来たようだ、上手に使いなさい。メリークリスマス。

 

 とだけ書いてあった。名前は、書かれていない。

 おおはしゃぎのロンとは対照的に、ハリーの心は疑心でいっぱいだった。

 こんな貴重でとんでもないもの、いったい誰が? 

 しかし、どうだろう。

 これがあれば何ができる?

 みぞの鏡は……ああ、いや、論外だ。

 あの光景をまた見たくないと言えば嘘になるが、だがもう、あれには関わらないと決めた。

 スネイプのあの姿を見て、あの言葉を聞いてしまった今となっては、それが一番だ。

 だがこのマントを使って姿を隠しているならば、きっと先生に見つかることはない。

 夜間徘徊はもちろん、もしかすると図書館の閲覧禁止の棚にある本を読めるかもしれない。

 あれは上級生の、しかも先生の許可を取った者しか許されない。

 ヴォルデモートに報いを与えるという目標がある今、知識はあるに越したことはない。

 しかし……そうか、ああ、うん。

 

「パパの、マントかぁ……」

 

 フレッド&ジョージとへとへとになるまで遊びまわったり、ロンとチェスをしたり。

 双子はあきれるほど無尽蔵の体力をもっていたし、クールな悪戯を何個も知っていた。ロンのチェスの腕前もあきれるほどであった。一体何手先まで読んで指しているのか想像もつかない。その頭脳を勉強面にも向けて欲しいものだ。

 時にはパーシーに勉強を教えてもらったりもした。ああだこうだと魔法理論について意見を飛ばし合う二人の後ろで、残りの三兄弟がウゲーと舌を出していたのが印象的だ。

 そして時には夜更かしもした。読書していたシリーズ物を全て読み終えてしまったので、続きをどうしても読みたいと渇望し、透明マントを着て図書館へお邪魔したこともあった。

 閲覧禁止の棚にもふらふらと足が引き寄せられもしたが、そのたびに自制心が勝った。

 もし見つかったらどうする?

 減点されるのは目に見えているし、なにより閲覧禁止の棚には唐突に叫び出す本や読者を物語の中に引きこんで主人公と同じ行動をしなければ出られなくする本、燃やすと魔界に飛ばされてしまう本などがあるそうじゃないか。因みにこの情報はすべてウィーズリーズによるもので、全て体験済みだそうだ。どういうこっちゃ。

 ハーマイオニーがロンに対して常々口を酸っぱくして言っているが、もう少し己を律する必要があるかもしれない。好奇心を抑える心が。

 冬休みの間はロンと共に幾つの規則破りをしたのか、ハリーにはわからなかった。

 透明マントを着ていても危うくフィルチに遭遇しそうになったことも何度かあるし、廊下ですれ違ったダンブルドアなど、ひょっとしてバレているのではないかと思わせる微笑みを浮かべていたこともある。

 世界最強と呼ばれるほどの男だ。もしかすると本当に見えていて、面白がって見逃したのかもしれない。透明マントも、もしかしたら万能ではないのだろうか。

 

 休暇が開ける、その前の日。

 寝つけなくて夜の散歩にでかけたハリーは、誰かがぼそぼそ話している声を耳にした。

 こんな時間にいったい誰だ? 決して人のことは言えないが、この学校にはいまほとんど生徒がいないはずだ。そうすると教師の誰かだろうか。

 廊下をまっすぐ進むとちょうど近づいていることになるのか、声はだんだん明瞭になってきた。どうやら言い争っているらしい。片方の語調が強すぎる。

 気になって近付いたものの、もし痴話喧嘩だったりしたらどうしよう。

 ハーマイオニー達と面白い噂話ができそうだが、普段接する教師のそんな姿は見たくない。

 そう思って来た道を引き返そうとしたら、曲がり角から二人の教師が飛び出してきた。

 片方が片方を壁に押さえつけている。

 まさか! まさかこの場でコトをおっ始めるつもりか!?

 しかも……二人の教師とは、スネイプとクィレルだ!

 えっ、いや、まさか!? ああ、そんな! まともじゃない!

 黒髪と紫ターバンが夜のランデブーであっちっち!? でも二人は男性同士だぞ!?

 しかし、言い争っていたはずだ。もしかすると夜の逢瀬ではないのかもしれない。

 

「な、なんで……セブ、セブルス、何で、こんな事を……」

「このことは二人だけの問題にしようと思いましてね」

 

 やっぱり夜の逢瀬だった!

 ハリーは自分の口を押さえて声が漏れないようにしたが、耳まで赤く染まるのがわかる。

 まさか、そんな。

 ダドリーがジャパニーズコミックを読んでベーコンレタスという表現に喜んでいたの横目で見ていた記憶が蘇る。男の子ってそんな食べ物が好きなんだな、という感想を持とうと懸命に努力して現実逃避したものだが、まさか、実際にその現場を目にしてしまうとは!

 もはや茹でダコのように真っ赤になったハリーは、その場を立ち去るという考えが頭からすべて吹き飛んでいた。透明になっているハリーには気付かず、二人は話を進めてゆく。

 ハリーの「ぼくは十一歳なのにこんなものを見ていいのか」という心配は杞憂に終わった。

 二人の話に何やらきな臭いものを感じたからだ。

 続く会話は、彼女のその予想が実に的確であったことを証明した。

 

「生徒諸君に《賢者の石》について知られると困るのは、……君だけではないでしょうな」

 

 クィレルが息を飲んで、喘ぐようなぜいぜいとした呼吸に変わる。

 賢者の石? その、仰々しい名前の代物が二人の争いの焦点なのか。

 ハリーは言葉の意味を考えようとしたが、会話は構わず進んで行ってしまう、

 

「ああ、クィレル、クィレル。我が友、ミスター・クィリナス」

「ひ、ひぃ……」

「私が何を言いたいのか、お分かりのはずですな?」

 

 スネイプの粘着いた声が蛇の舌に変わって、クィレルの背筋をちろりと舐める。

 しかしその舌は棘がびっしり生えているようで、スネイプが言葉を一つ一つ紡ぐごとにターバンが揺れてクィレルが短い悲鳴を漏らす。

 脅しているのか……? しかし、いったいなにを。

 先程飛び出たハリーの知らぬ単語である、『賢者の石』なのは分かる。

 だが、スネイプはそれをどうしたいのだろうか。

 

「あなたの怪しげなまやかしについて、是非とも……お聞かせ願いたいものですな?」

「な、何のことやら……わた、私には……、さささっぱり……」

「よろしい。では、また、お話しする機会があることでしょう。その時までに、どちらへ忠誠を尽くすのか……じっくりと……その、頭で。考えておくことですな、ミスター?」

 

 ハリーは愕然とした。

 スネイプには一定の信頼を置いていたのだ。

 だから、ハーマイオニーとロンがハリーの箒に呪いをかけていたのがスネイプであるということも、未だに半信半疑だった。

 本当にスネイプが? あの、細かな気遣いのできる男が?

 確かに、意地悪で性根がひん曲がっていて粘っこい目で女生徒人気のない男だが、そこまでか?

 しかしこの会話は確かに脅し脅されのそれだ。スネイプも、いつもの嫌味と皮肉を足して無愛想で割った彼の口調とは全く違う。クィレルのどもりですら普段より三割増しだ。

 それに、なんだ?

 忠誠を尽くすとは……どういう意味だ? いや、片方だけは分かる。

 ダンブルドアだ。

 ホグワーツの教師陣たる彼らが味方するのは、世界最強の魔法使いたるアルバス・ダンブルドアに他ならない。

 では、もう片方は。

 ――もう片方は、誰だ?

 

 ひと気のない、グリフィンドールの談話室。

 ハリーはハーマイオニーとロンと共に、隅っこのソファに座っていた。

 眉間にしわを寄せたハリーと思案顔のハーマイオニー、苦虫を噛み潰したような顔のロン。

 クリスマス休暇が明けてハーマイオニーが帰ってきたその日の夜、ハリーは二人を呼び出した。

 談話室から人がいなくなるのを待って、休み期間中に見聞きしたスネイプとクィレルの件を相談してみることにしたのだ。

 

「もしかしたら、やっぱり、君達が正しかったのかもしれない」

 

 ハリーがぽつりと言う。

 彼女の予想としては、ハグリッドが七一三番金庫から引きだしたモノこそまさにそれだ。

 そしてその隠し場所は、禁じられた四階の廊下。

 巨大な三匹の犬が守っていた仕掛け扉の奥にある。はずだ。

 パズルのピースは殆ど揃っていた。ただ、その手に持っている事に気付いていないだけだった。

 必要なのは、そのパズルを組む意思だけだったのだ。

 

「あの三匹の三頭犬が守っている仕掛け扉の奥にあるのは恐らく、『賢者の石』ってものだ。あれはニコラス・フラメルって錬金術師が作り上げた、不老不死を実現する秘宝らしい」

「ニコラス・フラメル……。『過去の偉人、及び巨大な功績』って古い本に載っていたのを覚えているわ。寝る前の軽い読書に読もうと思って枕元に今もあるわよ。確か六〇〇歳半ばくらいで、何世紀も錬金術について偉大な功績を残している人物のはずよ」

「そりゃさぞ眠れそうな本だね。僕も覚えがあるよ、もっとも、蛙チョコレートのカードの裏だけどね。ダンブルドアと一緒になって研究してる人だよ、確か。ダンブルドアのカードだけは大量に出てくるからね……すっかり覚えちゃってるよ」

 

 三人の知識は、答えに至る道を紐解いてゆく。

 今のいままで問題視していなかった事案が、実は巨大な問題であったということが判明。

 ハリー曰く、スネイプとクィレルの密会は実に怪しいものであった。

 そして、そのどちらかが。

 

「ヴォルデモートに組みしている……」

「でも例のあの人はもう死んだって話じゃないか! 他でもない君の手で! それにやめろよハリー、その名前言わないでよ」

「いやだね、ぼくの宿敵だ。それ、ヴォルデモート!」

「やめろったら!」

 

 名前ごときに怯えるなよ、とロンに意地悪するハリーを制してハーマイオニーが言う。

 ロンが救いの女神を見る目でハーマイオニーに縋ったが、それは果たして間違いであった。

 

「ハリー曰くハグリッドも言っていたそうだけれど、あれは力が弱まっているだけらしいわ。あの人が関係なくっても、あの人の信奉者がまだいるかもしれないじゃない。もしかしたら復活させようと思って、賢者の石を狙っているのかもしれないわ。あれにはそれだけの力があるもの」

「そんなの君の予想にすぎないじゃないか!」

「それに、主君の敵討ちにハリーを狙っていたっておかしくないじゃないの」

「それは……! ……そうだけどさ……」

 

 ハーマイオニーとロンの話が熱くなってきたのを、今度はハリーが止める形になった。

 ヴォルデモートというのは、名を出す事すら恐れられるほどの影響力を未だに持ちえている。

 それは恐ろしい事だ。

 死していると、多くの魔法使いや魔女たちが闇の帝王は、英雄ハリー・ポッターの手によって打ち滅ぼされ、その魂は冥府へ突き落とされてしまったのだと。

 そう信じているのだ。盲信しているのだ。

 狂ったように思い込んでいるにも関わらず、それでも恐れられている。

 まるで地獄の釜の蓋から腕を伸ばして、名前を呼んだ者を引きずり込もうと舌舐めずりしていると本気で思っているかのように。

 

 そしてハリーの話を聞いた二人の出した結論は、こうだ。

 やはりスネイプが賢者の石を狙っているのではないか。

 クィレルは、賢者の石に施された『まやかし』……つまるところ、守りの魔法を知っているのではないだろうか。だからスネイプに迫られていたのでは。

 仕掛け扉の前にあんな怪物を置いておくくらいだ、他に番人がいたっておかしくはない。

 ひょっとしたら動物ではなく、呪いなのかもしれない。

 それこそ、ダンブルドアに味方するホグワーツ教師陣が全員関わるほどの。

 その守りの魔法の破り方を教えるよう、クィレルを脅したのか?

 ハリーがスネイプには一定の信頼が置けると思う。と言ってはみたものの、二人はハリーの箒に呪いをかけたのはスネイプで間違いのない事だと言うし、なによりあのクィレルに闇の帝王に組みするという大それたことができるとは思えない。

 スネイプは課外授業の時そんなそぶりは見せなかった。とハリーが言うと、それを初めて聞かされたロンが「君はなんて無防備なんだ! マーリンの髭なんてものじゃないぞ!」と大憤慨してしまい逆効果だった。

 

「とにかく! 賢者の石を狙っているのはスネイプだ! そして、その秘密を守っているのが……クィレル、なんだけど……」

「それじゃダメよ。彼がスネイプの押しに勝てるようには見えないわ」

「……もって、三日かな」

 

 三人は火が消えかけた暖炉の前で、深いため息を漏らした。

 

 数週間後。

 クィレルの頬はげっそりとやつれていた。

 スネイプは執拗にハリーから点を差っ引いた。

 しかしそれはクィレルがスネイプに抵抗し続けていることの証左であり、ハリーたち三人を大いに驚かせたと同時に、賢者の石が無事である安堵を与えてくれた。

 クィディッチの試合でスネイプが審判を買って出たと聞いた時は、流石のハリーも訝しがらざるをえなかった。ハーマイオニーも一体何が目的かと考え込んでいたが、ロンはその目的を見抜いていたようだった。彼曰く、審判という立場を利用してハリーを箒から叩き落すつもりだ、とのこと。

 

 しかしロンの物騒な予言は杞憂に終わった。

 その理由は至極単純で、ダンブルドアが観戦に来ていたからだ。

 まさか世界最強がいるところでハリーを殺そうとはするまい。

 勝敗によってグリフィンドールが首位に立てるかどうか、という問題のハッフルパフ戦は実に順調に終わった。スネイプがハッフルパフに理不尽な贔屓をすること以外は全く問題なし。特に理由のないペナルティーシュートや全く理由のない試合中断、一切理由のない厳重注意などがピッチ上空を飛び交ったが、ハリーが試合開始から五分も経たずにという前代未聞の素早さでスニッチ・キャッチを決めたことで試合は見事に終了した。

 爆発のような歓声が紅色の観客席から湧きあがり、皆がやんやと大騒ぎを始める。

 箒から飛び降りたハリーたちグリフィンドールチームは、抱き合って歓声をあげた。

 ダンブルドアが勝利チームによくやった、がんばった。と声をかける中、ハリーは苦々しげな顔をしたスネイプと目が合った。にっこりほほ笑むと、むすっとした顔のままフンと鼻を鳴らしてどこかへ行ってしまう。

 そのことでまた、ハリーはスネイプという人物がよくわからなくなってしまった。

 

 期末試験まで十週間を切った頃。

 一年間学んだことの復習を行うため、ハリーたち三人は図書館へ足を運んでいた。

 ロンはぶつくさ文句を言っていたがハーマイオニーの熱心な言葉によって不安を煽られて、やりたくないとは言っていたものの、結局一緒にやらざるを得なくなったのだ。

 ハーマイオニーはもう一月前からやるべきだったと後悔して必死にガリガリ羽ペンを走らせているし、ハリーは気が散って『実践的に実戦的な魔法十選』を読み始めている。ロンに至っては居眠りまで始めてしまった。

 日が天辺から傾いてハリーが本を読み終える頃になってようやく起きあがったロンがあげた声には、未だにガリガリやっていたハーマイオニーもハリーも目を上げた。

 

「ハグリッド! 君が図書館に来るなんて珍しいな!」

「君が言えることか? ロン」

 

 ハリーの声を無視してロンはハグリッドの方へすたこら歩いて行った。

 ハーマイオニーが肩をすくめるのを見て、ハリーは自分も行くかどうか迷ったがロンがすぐに戻ってきたのが見えたので、持ち上げかけた尻をまた椅子に戻す。

 しかし興奮したロンの様子は、女性陣二人の興味を引くには十分であった。

 

「ハリー! ハーマイオニー! おいで、おいでよ。ハグリッドの奴、面白いことしてる」

 

 そうしてやってきたのは森近くのハグリッドの小屋。

 蒸し暑い夕方だというのに、全てのカーテンを閉め切っている。そうなれば当然窓も全て降ろされている。

 ノックをするとハグリッドがドアを素早く開けて、三人を引き摺りこむとすぐさま閉めた。

 びっくりした三人は更に驚くことになる。

 まさか、この季節に、暖炉に火を入れているとは。しかも火力は相当に高く、外と比べてもむわっとして息苦しい。ハグリッドが勧めたイタチ肉のサンドイッチを頬張りながら、ハリーはハグリッドに問う。

 

「ハグリッド……なにやってんの……? いや、何考えてるの……?」

「ハリー、いやあ、こいつぁだな……」

「こんな暑い日に熱い部屋で……ついに頭おかしくなったの?」

「断じて違ぇからな」

 

 遠慮なく言うハリーにハグリッドが失礼な、と一言呟いて椅子に座る。

 ヤカンから三人に配ったお手製らしきいびつな形のカップの中に、お湯を入れる。

 ティーパックすらもお手製なのか、ハーマイオニーのパックは少し破けていた。

 その会話の合間を突いて、ハーマイオニーがハグリッドに言う。

 

「ところでハグリッド。賢者の石の事だけれど」

 

 動揺のあまり、ハグリッドが茶をひっくり返した。

 カップの着地点に居たロンが悲鳴をあげてのたうち回る。

 

「んなっ、何故知っちょる!?」

 

 ハーマイオニーの狙ったタイミングは完璧であった。

 油断どころか予想だにしていなかっただろう。

 

「いや、俺は知らん! 知らんぞ! 何の事じゃろな賢者の石って!? そりゃお前らの知っちゃならんモノだ!」

 

 語るに落ちとる。

 にやりと笑ったハーマイオニーを見てハリーは、この女はとんでもない奴だと確信した。

 親友ではあるが、そう、敵に回したくはない。

 

「それをスネイプが狙っているのよ」

「……、なんだって?」

「ハリーが見たのよ! クィレル先生を脅して、何かを聞き出そうとしているの。あなたの三頭犬が守っているものって賢者の石でしょう?」

 

 ハグリッドは何も答えない。

 このタイミングでそれは、肯定と同じ意味を持ってしまう。

 しかし否定することもまた難しい。ハーマイオニーは狡猾であった。

 

「それで、もしかしてだけど、ハグリッド。ダンブルドアが賢者の石を守るために、何かを仕掛けてあるんじゃないの? ハグリッドから三頭犬を借りたように、他の人も……多分、呪いとか、仕掛けとか……」

 

 ロンの頭をタオルでごしごし拭いて、首を折りかけたハグリッドは深いため息をつく。

 ドライヤーを使ったようにロンの髪の毛が逆立って、乾燥が完了する。

 片眉を吊り上げたロンが後ろを振り返った時、あまりにも強引なやり方にあきれ果てた顔のハグリッドがそこに居た。

 だが、ほぼ何もヒントがない状態からここまで来れた事、恐らく答えを持っているであろうハグリッドまで問いにきたこと、そして破天荒な学生生活のどれかを気に入ってくれたのだろうか。意外とすんなり答えてくれた。

 

「どうやってそこまで辿り着いたのかは、まぁ聞かんでおこう。およそ学校の規則を三〇は破っちょるだろうからな。そして、そう。お前さんらは知りすぎだ。これはな、学生のお遊びで関わっていいものではないんだ。分かるな? え?」

「そんなこと、分かってるさ! でも、スネイプが狙ってるんだ!」

 

 ハグリッドの諭すような言い方に、ロンが噛みつく。

 しかしハグリッドは動じない。

 ゆっくりと、言い聞かせるように話を続ける。

 

「そこも問題だ。スネイプ先生は仮にもホグワーツの教師だ。いっくらスリザリン贔屓でグリフィンドールから減点したり意地悪しても、そりゃ彼が寮監だからだ。贔屓もしたくなる。……行き過ぎちょるがな」

「でもハグリッド。以前も言ったことだけれど、スネイプはハリーの箒に呪いをかけていたのよ?」

「それもおかしい。奴さんにはハリーを守りこそすれど、呪う理由がないんだ」

「……でも、ぼくを憎んでいるようだったよ」

「だが殺すほどではなかろう。うん? それに、ハリーをどうにかするんなら、課外授業で二人っきりの時に一年坊主なんぞどうとでもできるじゃろ」

 

 一年坊主、というところにロンが反論しようとしたがハリーはそれを制す。

 確かにそうだ、その通りだ。……坊主ではないが。

 ハリーは去年から今までずっと、スネイプに実戦的な魔法を師事している。

 妨害呪文や麻痺呪文、束縛呪文に気道確保呪文、爆破呪文も切断呪文も教えてもらった。

 それまでハリーの使えた術など、武装解除呪文や浮遊呪文くらいにすぎない。

 嫌味を言いながらも恐らく、渋々褒めてくれたことだってある。今にも舌打ちしそうな、苦虫を口いっぱい頬張ってむしゃむしゃしたような顔で言った言葉が褒め言葉だと言うのなら、そうだ。そうに違いないのだ。

 彼が根っからの悪人であるとは、あの脅しの現場を見てもなかなか信じられないのだ。

 それに、なにより、

 

「あのダンブルドア教授が認めている。それだけで、スネイプ先生を信頼するには十分だ」

「でもハグリッド……!」

「そうだよハグリッド!」

「まったく」

 

 ハーマイオニーとロンの頭をわしゃわしゃと撫でまわし、困った笑みを浮かべる。

 あまりの力強さにハーマイオニーは首を痛めたのか、ぐりんぐりんと回して調子を整えている。ロンはきっと身長が縮んだのだろう、痛みに呻いている。

 いいぞハグリッド。そのノッポをチビに変えろ。そいつと話していると首が痛いんだ。

 二人を撫で終えたあと、ハグリッドはハリーの頭もくしゃりと撫でた。

 やはり力が強すぎる、加減が下手くそだ。

 椅子が軋むほどの圧力を受けたが、ハリーは彼の分厚い掌で撫でられるのが好きだった。 

 友達として接してくれるハグリッドだが、こういうときは実に大人らしい。

 黒く小さな目を細めて、ヒゲもじゃの口元をにんまりと曲げる。

 それは、聞き分けのない子供を相手にする大人の顔だ。

 ハリーにはそれがちょっと悔しく、そして頼もしくもあった。

 彼女がハグリッドの評価を心の中であげて、彼の掌に頬ずりして甘えていたところ。

 思う通りの答えを得られなかった上に痛い目まで見て、すんすんと泣きごとを言い始めたハーマイオニーとロンを見かねたのか、ハグリッドがクッキーが数枚吹き飛ぶ威力のため息とともに、口を開いた。

 

「じゃあ、ちょっとだけ教えちゃろう。教えても問題ないところを、な」

 

 二人の顔がぱぁっと明るくなった。

 そしてハリーの内心でハグリッドの評価が下がった。

 

「おまえさんらが思っちょる通り、石を守るにはそれなりの理由がある。……それなりだ、ロン。そんな顔をしてもここは教えてはやらん。そう、だが、石を守るためにホグワーツの教師陣ほとんどが協力しているのは確かだ」

 

 お調子者なきらいのあるハグリッドが、今のいままでかたくなに口を閉ざしていたのだ。

 こうして喋ってくれるのならば聞き逃す事など出来ないとでも思ったのか、ロンは大きな耳に手を添えて聞きもらすまいとしているし、ハーマイオニーに至ってはマグル製の手帳にメモ書きなどをしている。

 

「森番の俺がフラッフィー、ブラッフィー、プラッフィーを貸した。番犬代わりにな。あとは……そう、先生方のほぼ全員が、ちょちょいのちょいとな」

「先生方って……しかも教師陣のほとんど?」

「そうだとも。スプラウト先生、ビンズ先生、フリットウィック先生。マクゴナガル先生はもちろんだし、フーチ先生にクィレル先生もだ。ああ、あと、お前さんらはまだ一年生だからよく知らんだろうが、上級生の授業を受け持っちょるシニストラ先生に、バーベッジ先生。バブリング先生にトレローニー先生も協力しちょるんだ」

「そんなに……!? ホグワーツの先生ほとんどじゃない!」

「そして、そうそう。忘れちゃいかんのが、ダンブルドア先生様も、もちろん手を加えとる」

 

 ハグリッドが名を連ねたのは、ホグワーツに勤める教師のほぼ全員だった。

 管理人や校医、司書といった役職の人や、あとは数人の教授の名がないだけ。

 本当にホグワーツ教師陣が、総出で守りを固めているらしい。

 ハリーは今あげられた名前のほとんどの顔を思い浮かべることができるし、いったいどんな守りを構築しているのかも予想がつく。それぞれの教授の得意とするものを障害として設置しているのだろう。ハグリッドが凶暴な魔法生物を提供している以上、それは想像に難くない。

 マクゴナガルならば変身術を用いた何かだろうし、スプラウト先生なら何やら危険な魔法植物でも使った罠を置いているのだろう。

 だが、魔法史を教えているビンズ先生や、占い学のトレローニー先生なんかも関わっているというではないか。一体なにをどうやって彼らが守りを固めているのか、全く想像できない。

 ハリーたち三人は、これを聞いてそれなら安心なのではないかと考え始めた。

 それも、ハグリッドの次の言葉を聞くまでの短い間ではあったが。

 

「そうじゃて。コトはそれだけ大きく、危険だ。ああ、スネイプ先生だって協力しちょるぞ」

「え!? スネイプが!?」

「そりゃあ、そうさな。奴さんもホグワーツ教師の一人、優秀な魔法使いだからな」

 

 ハグリッドがこうも簡単に話したのは、こういった理由からだ。

 つまり、「知ったところでお前たちにできることはない」ということ。

 それを言いたかったのだろう。

 

「ほれ、分かっただろう。一年坊主では手に負えん問題なんだ、これはな」

「むぅ……」

「でも、スネイプはクィレル先生を脅していたのよ……?」

「それも、きっと何かの勘違いだろうよ。中立の考えを持つハリーが聞いたっちゅーのがあれじゃが、うむ。そうだな、スネイプ先生は誤解されやすいお人だ。むしろその塊だな」

 

 これをトドメに三人は納得したと思ったのだろうが、ハグリッドの思惑は逆効果だった。

 スネイプが守りを固める側の人間だった?

 ならば、その守りの内容は、彼に筒抜けだということに他ならないのではないか。

 しかしクィレルに詰め寄っていたのは、なぜか。

 クィレルは元々、修行のため休職をする以前はマグル学という学問を教えていた教師だ。それが今年になって復職し、人が変わったようにおどおどした性格になってからは闇の魔術に対する防衛術の教鞭を取っている。 

 つまり、新しく構築した彼の守りをよく知らなかったからなのか?

 

「……ハグリッド?」

「おう、なんじゃハリー」

「フラッフィーたちを大人しくさせる方法って、あるの?」

 

 ハグリッドはそれに笑顔で答えた。

 

「おう、あるとも。だが、それは俺とダンブルドア先生しか知らん。心配めさるな、こればっかりはダンブルドア先生の指示でたとえ他の教師だろうと教えちゃおらん。……そう、お前さんらの心配する濡れ衣の大悪党、スネイプ先生にもな?」

 

 茶目っ気たっぷりに言われた答えに、ハリーたち三人は大きく安堵する。

 それならば問題ない。

 あの三頭犬を呪文一つで攻略できるなどとは思えない。少なくとも二人か三人は用意して、一斉に呪文を唱えないと、きっと分厚い毛皮に阻まれて通じすらしないだろう。

 安心した途端、三人は部屋の暑さが気になってきた。

 特にハリーとハーマイオニーは、ブラウスが汗で湿ってしまうのを嫌がった。

 それに、話に熱くなりすぎてもう日が暮れている。

 いくら蒸し暑い日とはいえ、夜にこんな状態で出歩いたら風邪を引くかもしれない。

 更にこの室温から考えて、温度差のあまりにそれは確実だろう。

 それゆえにハーマイオニーが立ちあがり、ハグリッドに言う。

 

「ねぇ、ハグリッド。ちょっと部屋が暑すぎるわ。窓を開けてもいい?」

「おっと。悪ぃな。それはできん相談だ」

 

 そう言ったハグリッドの視線が、暖炉へと向けられる。

 なにやら毒々しい色の卵らしき物体を茹でているようだったが、ロンが驚きの声をあげた。

 ハリーとハーマイオニーが何事かと彼に視線を向け、そして彼のブルーの瞳がきらきらと輝いている事に気付く。それはつまり、厄介事であるという事だった。

 なにか、アレはとんでもないものに違いない。

 そう思った少女二人の心境も知らず、ロンは興奮した様子で言う。

 

「ハグリッド……あれ何処で手に入れたの! あんな、ああ、さぞ高かったろう?」

「いんや。賭けに勝ったんだ。知らん奴とトランプでな。そいつは厄介払いができたと喜んでおったが、俺にはその気持ちが分からんね。こんな素敵なものを手放すだなんて」

 

 しかもハグリッドお墨付きの素敵なもの、ときたもんだ。

 彼の趣味はここに居る全員がよく知っている。

 危険で刺激的な魔法生物が大好き。彼はそれらにすっかり恋をしているのだ。

 つまり、あの卵は食用のために茹でているのではない。

 ……孵そうとしているのだ。きっと。

 

「これが孵った時のためにな。さっき図書館で本を借りたんだ。ほれ、『趣味と実益を兼ねたドラゴンの育て方』っちゅー本だがな、なかなか面白いぞこいつぁ」

「ドラ……。ハグリッド? え、じゃあ、なに? あれ、ドラゴンの卵なの!?」

「おうともハリー。とっても美しい生き物を見せちゃれるぞ」

 

 マジでか。

 そういえばハグリッドは、ダイアゴン横丁でドラゴンが欲しいと言っていた。

 それを実現したというわけだ。

 とんでもない話だが、なるほど、ハグリッドならばやりかねない。

 

「おおっ、そろそろ孵るぞ!」

 

 ハグリッドがミトンを付けて卵を鍋から取りあげる。

 本に書いてある文章を真とするならば、どうも母ドラゴンの吐息がごとく温めなければ孵らないらしい。さもありなんと言うべきか、ふざけんなと言うべきか。

 テーブルの上のタオルに鎮座した卵は、既に深い亀裂が走っている。

 ぴきぱきと軽快な音を響かせる卵は次の瞬間、キーという鳴き声と共に爆散した。

 破片が小屋中に飛び散り、仔ドラゴンは派手な誕生を見せつける。

 額に殻の欠片を乗せたままロンが感嘆した。

 

「ハグリッド、これノルウェー・リッジバッグ種じゃないか。すっげー……」

「の、ノルウェー……?」

「ノルウェー・リッジバッグ種。桁外れに攻撃的なドラゴンで、すっごい珍しいんだよ。すっげー……いやほんと、すっげー……」

 

 ロンとハグリッドの男の子二人は黒とブルーの瞳をきらきらと輝かせている。

 カッコいいものはイコール正義であり、あらゆる不正からも許されるもの。

 それが男の子という生き物だ。カッコよければそれでいいのだ。

 女二人はうーんという顔をして孵ったばかりの仔竜を眺める。

 しわくちゃで粘液にまみれた羽根、爬虫類のような独特な目、ずらりと鋭い牙。

 ハリーは初めてまともに話せた相手と言うことで蛇が好きな動物に挙げられる稀有な少女の一人であるのだが、これはどうにも可愛いとは思えない。ハーマイオニーに至ってはただ単に怖いだとか気持ち悪いだとかそういった感情を抱いたようだ。あまり近寄ってほしそうな表情ではない。

 少女たちがうーんと唸っていると、テーブルの周りを動きまわってあちこちからドラゴンを眺めているロンが、ふと窓の方をじっと見始めた。

 そして鋭く叫ぶ。

 

「マルフォイ!」

「ロン、コイツの名前はノーバートに決めたんだ。そんな名前は嫌じゃて」

「いやそうじゃないよ馬鹿じゃないの! いま! マルフォイがこの家を覗いてたんだ!」

「そんな!」

 

 見間違いであってくれ。

 などという願いは神に通じるはずもなかった。

 ローブをなびかせ走り去る後ろ姿は、まず間違いなくマルフォイ兄弟のどちらかだ。

 そして多分、あまり優雅とは言えない仕草から見るに、弟のスコーピウスだろう。

 さらに彼が小屋を覗いていた理由はわからないが、この後の行動は明白だ。

 常々ちょっかいをかける彼のことである。スネイプか、もしくはマクゴナガル。

 教師のもとへ告げ口しに言ったのだろう。

 グリフィンドールの減点を目論んで。

 

 透明マントがあれば隠れて帰ることができるが、そこではたと気付く。

 ……しまった、女子寮の自室だ。取り寄せ呪文は……無理だ、理論を知らない。

 ハーマイオニーならできるか? と思い、彼女へ視線を向ける。

 ダメだそうだ。頭を抱えて、解決策を呟いて自ら否定しているのがいい証拠だ。

 奴とは違ったルートで学校へ戻れるか?

 いや、無理だ。

 それにハグリッドの小屋は、森への見張りも兼ねて見晴らしのいい場所に在る。

 それはつまり、城からも良く見えるということだ。

 姿を消すことはできない。隠れることはできない。

 

「あー、これは……」

「ハ、ハリー! なにか思い付いた!?」

「いや」

 

 状況のまずさをわかっているのか、ロンが焦った声で問うてくる。

 だがハリーは諦めたように、木製の椅子に座りこんだ。

 さすがに死ぬことはないとはいえ、これはきっと、厳しいことになるだろう。

 

「万事休す、だ」

 




【変更点】
・ハリー、あなた疲れてるのよ。
・ダーズリー家は常識的な一家なのです。
・透明マントをアンロック。これ無しは流石に無理ゲー。
・ハリーちゃんは健全な十一歳女子です。しかたないのです。
・このハグリッドから情報は引き出せないッ!と思って頂こうッ
・ホグワーツ教師陣の本気。全員原作の先生ですヨ。

戦闘シーンが増えるとキッパリ言ったが……スマンありゃウソだった。
実はこのお話、次話と分割しております。森での罰則は次回に持ち越しです。
そして石の護りが固くしすぎた。やったねポッターちゃん、試練が増えるよ!!


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9.禁じられた森

 

 

 

 規則破りの代償は高くついた。

 スコーピウスがハグリッドの小屋を覗き、彼の不法行為が発覚して数十分後。

 これ以上時間をおいても無駄だろう。それよりも早く寮へ戻って知らん顔したい。

 そう考えたハリー、ハーマイオニー、ロンの三人はハグリッドに別れを告げ、こっそりと戻ろうとしたところで――見つかった。

 恐る恐る廊下を抜き足差し足忍び足している途中、そこには恐ろしいまでに無表情のマクゴナガルが廊下に仁王立ちしていた。ハリーは漏らさなかった自分を褒めてやりたかった。

 その背後には、にたにたと腹の立つ顔を引っ提げたスコーピウス・マルフォイ。

 まず間違いなく告げ口したのだろう。

 マクゴナガル女史の怒りは、それはそれは激しいものであった。

 

「まったく――こんな夜中まで外出しているとは! ハグリッドにもキツく言っておきますが、貴方がたには罰則が必要です! それとグリフィンドールとスリザリンは一人につき五〇点減点します!」

「ご、ごひゅっひぇん……」

「きっ、聞違いですよね!? いまスリザリ」

「だまらっしゃい! あなたがた五人ともっ! 一人、五〇点です! 情けない声を出すんじゃありませんウィーズリー!」

 

 ハリーはマクゴナガルを信頼しているが、それと同じくらい厳しい先生だと思っている。

 すっかり縮こまってしょげているが、それはきっと隣に居るネビルには負けるだろう。

 彼はスコーピウスがハリーたちを嵌めようとしていることを聞きつけ、ハリーたちに忠告するために走り回っていたそうなのだ。惜しむらくは忠告先の三人組を見つけることができず、外出禁止時間を過ぎるまで廊下をうろついてしまったことか。つくづくハズレくじを引きやすい子である。

 そしてしょげているのはグリフィンドール生の四人だけではない。

 スコーピウスも憮然とした半泣き顔で、マクゴナガルに怒られていた。

 女史曰く、ベッドを抜け出して夜出歩いているのだから同罪である。とのこと。

 

 ハリーはグリフィンドールから二〇〇点も引かれてしまったことにもショックを受けていたが、ネビルには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 別にハリーは、その気になれば誰がなんと言おうと全く気にしないことができるつもりだ。

 あいつが、ポッター一味がグリフィンドールの優勝杯を砕いたのだ、などと言われても「ぼくがクィディッチで稼いだ分を差し引いてもお釣りがくるぞ」で済ますことだってできる。

 だが、彼らは違う。

 ロンは大層気にしてお腹を壊して何度もトイレに消えてしまうし、ハーマイオニーは授業中に自信たっぷりに発言する事がなくなってしまった。ネビルに至っては、たっぷりした頬がげっそりとやつれてしまったかのようで見るに堪えない姿になっている。

 意外な事に、スコーピウスも参ってしまっているようだった。

 どうやらドラコが「君はマルフォイ家の恥だ」とこっぴどく叱ったらしく、いつもクライルとスコーピウスを引きつれて三人で歩いている姿を廊下で見るが、最近では全く見ない。スリザリン一年生のボス的存在たるドラコに冷たくされては、自然とほかの蛇寮生も似た態度をスコーピウスに取ることだろう。

 きっと彼は、ハリーたち以上に肩身が狭いに違いない。

 そしてハリーは、自身が思っているほど太い神経を持っているわけではない。

 浴びせられる罵詈雑言には全く堪えていないかのように、飄々と過ごしているようには見える。だがクィディッチの練習中や授業中の魔法の扱いなど、細々としたミスが目立つのだ。

 おまけに件の日から彼女は、一度も食事のために大広間へ足を運んでいない。ハグリッドがくれたロックケーキ数個で日々を過ごしているようで、ロンとハーマイオニー、ネビルは彼女が見る見るうちに痩せていく姿を見て、いつ倒れるのかずっとはらはらしていた。

 彼女曰く、ダーズリー家に居た頃はこの程度なんでもなかった。とのことだが、一度幸せを知ってほぐれた彼女の心が、今この時でも強固なままであるなどと誰も信じていない。

 この状況は、確実に彼女の心も削り取っているのだ。

 

 罰則は、本日の真夜中行われる。

 ハグリッドと共に、禁じられた森の探索を行うようだ。

 どうやら彼自身もマクゴナガルからたっぷり絞られたらしく、仔竜のノーバートをルーマニアに送られてしまったこともあってすっかり小さく見えた。

 それに至るまでには結構な物語があったのだが、今のハリーにはどうでもいいことだった。

 この場所までハリーたち五人を送ってきた管理人のアーガス・フィルチは言う。

 

「お前たちはこれから森へ行く。そこで探索をしてもらうぞ」

「森へ!? そんなの、召使いのする事じゃないか!」

 

 スコーピウスが悲痛な声をあげるが、フィルチは嬉しそうにそれを遮った。

 この男はいつもそうだ。

 生徒が嫌がったり、悲しんだり、痛がったりする姿を至上の喜びとしている節がある。

 ハリーが思うに、それはきっと嫉妬という感情だ。いつのことだったか、かつてバーノンが彼の母校たるスメルティングス男子校の同窓会で、一番の落ちこぼれだったパウェル・オフラハティが事業で大成功し、バーノンよりも巨大な富を得て悠々自適に暮らしている、という話をペチュニアに愚痴っていたのをハリーは聞いたことがある。

 なにせ、リビングのすぐ外にハリーの部屋、階段下の物置があったので、聞いてしまったのは仕方ない事なのである。盗み聞きしたくてしたわけではないのだ。そうなのだ。そういうことなのだ。

 つまりその時のバーノンの声色と、フィルチの声色はとても良く似ていた。

 何に嫉妬しているのかは、わからない。十一歳かそこらの小娘には分からない事なのかもしれない。だが、きっとその感情に間違いはないのだろう。

 くだらない嫉妬でキツく当たられてはたまったものではない。

 

「ならば荷物をまとめた方がいいねぇ。え? ホグワーツ特急をおまえのために出してやろう」

「…………」

「それで、よろしい。罰則が終わる頃に身体の無事な部分があればいいんだがねぇ……」

 

 クケケと笑い声ひとつ残してフィルチは去って行った。

 もはやネビルは泣きそうだし、スコーピウスに至っては既に涙を目に溜めている。

 森の探索内容としては、ユニコーンを探す事であった。

 どうやら近頃、ユニコーンを傷つけてまわる何かが森に潜んでいるらしい。

 傷付いたユニコーンを見つけたならば手当てして、助からないようならば楽にしてやらねばならない。そういった内容の罰則であった。

 これは生徒が、それも魔法もろくに学びきっていない一年生のやることなのだろうか? とハリーは思ったが、だからこその罰則なのだろうと思いなおした。

 ネビルが怖々とハグリッドにその旨を訪ねてはいたが、「俺か、ファングがついてりゃ森のモンたちゃお前らを襲ったりはせん」との言葉に多少安堵のため息を吐いていた。

 ハグリッドが引率するハリー、ハーマイオニーのチームと、ファングを連れたスコーピウス、ロン、ネビルのチームに別れた。

 女子二人を大男が守り、男子三人を屈強な番犬が護衛する。

 きっと妥当な組み合わせだろう。

 ……たぶん。

 

「見ろ、ハリー。ハーマイオニー。銀色の血……ユニコーンの血だ。こんなに傷付いたあれらを俺はみたことがないな」

「ユニコーンって……どういう生き物なの、ハグリッド」

「一角獣、とも呼ばれとるな。ユニコーンっちゅーのは、とても純粋な生き物でな。その血を飲めば、たとえ死ぬ寸前だとしても延命ができるって話じゃて」

 

 魔法界には、そこまでとんでもないものがあるのか。

 角や尾の毛は魔法薬の授業で何度か扱った経験があり、魔力の詰まった代物だということはわかっていたが、よもやそこまでとは。

 だがそんなとんでもない効果があるのならば、乱獲とかされそうなものだが。

 

「そんなことにはならない。あれだけ美しく無垢な生き物を自分の利のために殺すっちゅーんだから当然なんだが、ユニコーンの血を飲んだ者は呪われちまう。不完全な命になるってー話だ。生きながらに死んでいる、なんて言われとるな。恐ろしいことだよ、そんなことをするのもさながら、それをできる奴がいるっちゅーんはな……」

 

 ハグリッドの小さく低い声は、ハリーの背中をなめてぞくっと身震いさせた。

 そういった生き物を傷つける者が、この森にいる。

 そう考えれば考えるほど、暗雲のような恐怖がハリーの心を占めていく。

 視界に入ってくる木々のざわめきを見ると、その茂みの向こうに黒いフードをすっぽり被って鋭い牙を隠そうともせず口元を三日月に捻じ曲げた怪人が現れて、たちまち襲いかかりハリーたちを瞬く間に八つ裂きにしてしまうのでは、という不安が湧きおこる。

 しかしハグリッドがいるのだから、そんなことにはならないだろう。

 と思った次の瞬間。

 

「ほんぎゃああああああああああ……!」

 

 情けない悲鳴が森に響き渡った。

 この声は……、ネビルだ。

 赤い光も上空に上がっており、煌々と夜空を照らしている。

 あれは、救難信号がわりの花火魔法だ。

 それを見たハグリッドの目が、真剣なそれへ変わる。

 

「そこで待っとれッ! いいか、一歩も動くなよ!」

 

 まるで雷のように鋭く大きな声でハリーとハーマイオニーに言い放ったハグリッドが、さながら砲弾のように茂みをなぎ倒しながら矢のように闇の向こうへ飛んで行った。

 ギャアギャアと何かの鳥が上で鳴く中で、二人の少女は互いの手を固く握ってただひたすらに待っていた。会話はない。このような状況下で、思い付くはずもない。

 いやな想像ばかりが膨らむ。ネビルは、皆は大丈夫だろうか? 何かに襲われてはいないだろうか? 草根を掻き分けて歩く小動物や、虫の飛ぶ音、這いずる音、鳥の声などが、すべてがすべて悪魔のささやきに聞こえてしょうがない。

 ハリーとハーマイオニーはそこそこディープな読書家であるために、想像力も人一倍だ。

 どれくらい経っただろうか。

 ハリーが警戒するため杖を上げていた腕が疲れ始めた頃、ハグリッドが去って行った方からガサガサと大きな音がした。

 ――ハグリッドだろうか?

 しかし件の不審者であった場合、目も当てられない。

 油断なく身構えていたところ、茂みの向こうに大きな髭もじゃ男が見えてきた。

 よかった、本物だ。……たぶん。彼に化けた何者かでなければ。

 少しの疑惑を含んだ視線をハグリッドに向ける二人は、ハリーたちを美味しくいただこうとする何者かであれば絶対に抱えていない者を見て安堵した。

 腰を抜かしたらしいネビルと、頭頂部を抑えて涙目になったスコーピウス。そして頬を赤く腫らしておかんむりなロンだ。

 ロンの説明を聞くに、どうやらスコーピウスがネビルを驚かしたらしくそれに驚いたネビルが大きな悲鳴をあげたとのこと。そして、半狂乱のネビルに突き飛ばされるという思わぬ反撃を受けたスコーピウスが木の根に引っ掛かって転び、手に持っていたランタンを強かにロンの横っつらに打ち付けてしまったというらしいのだ。

 ハグリッドにお叱りと拳骨を貰ったスコーピウスがぐずぐずと洟をすする中、ハグリッドは子供たちの班分けを再編成する必要を感じたらしい。

 直径五メートルはあろうかという切り株の上に皆で座って審議した結果は、ハリーにとっては大いに不満であったがハグリッドの顔を立ててその通りに従った。

 

「まったく……何故僕がポッターなんかと……!」

「……置いて行くぞ、スコーピウス」

 

 メンバーは以下の二名と一匹。

 尊大な貴族、スコーピウス。生き残った女の子、ハリー。んで、ファング。

 なぜスコーピウスと二人っきりなのかとハグリッドに問うてみれば「おまえさんならば、あやつもそう簡単に手を出せまいて」とのこと。

 そういったわけで二人はファングを連れて闇に包まれた森の中を歩き回っていた。

 スコーピウスの持つランタンが揺れて、どうにも不気味な影をいたるところに投げかけている。

 すると、またも茂みががさがさと音を立てた。

 盛大に驚いたスコーピウスが自分の後ろに隠れるのを無視して、ハリーは杖を取り出した。

 しかし出てきたのはただのネズミ。

 こちらを一瞥すると、どこかへ向かって駆け出していく。

 チチッと走り去る姿を見て、スコーピウスは安堵のため息を漏らす。

 別の物も漏らしちゃいないだろうなとハリーは不安になった。

 

「ど、どどどどうした、こ、怖いのか、ポポポポッター」

「きみ、ちょっと落ちつきなよ」

 

 スコーピウスが肩を掴んだまま震えているので、うっとうしくてしょうがない。

 態度の割に小さなその手を振り払うと、ハリーはさっさと先を歩いていく。

 慌てて後を追ってくるものの、その頼りなさはハリーが今まで見た男の子の中では一番だ。

 かといってファングが頼れるかと問われると、答えはノーだ。

 さっきからくぅんくぅんと情けない声を漏らしてハリーの太腿にすり寄っている。

 コイツもコイツで邪魔だ。

 

「ぽぽぽったたたー」

「落ちつけッて」

 

 暗闇の中、スコーピウスが震える声で話しかけてきた。

 そんなに恐ろしいなら見栄を張らなくてもいいのに、と思う反面、なぜそんなに震えた声を出してまで話しかけてきたのかハリーには興味があった。

 

「き、きみは。……なぜ、ドラコに認められているんだ」

「……?」

「ふん。何を言われているのかわからない、って顔をしてるね。これだからグリフィンドールは困るんだ。愚鈍にすぎる」

 

 鼻を鳴らして、馬鹿にした風のスコーピウス。

 普段ならいらっとくるような仕草だが、今のこの時ばかりは少々違った。

 そうだ、いつもならその目に宿るは嘲りや侮辱の色である。

 だが。いま彼の眼に宿っているのは羨望のそれだからだ。

 

「僕は、僕は情けない話だけれどドラコにいつも怒られてしまう。もちろん僕もだけど、彼はそれ以上に優秀だからね、父上の厳しい教育も顔色一つ変えずにこなすんだ。そして、僕を怒るとき、ドラコは事あるごとに君を引き合いに出すよ」

 

 スコーピウスは誇らしげに、そして口を歪めて悔しげに言葉を紡いでいく。

 兄弟のいない(ダドリーは豚であって兄弟ではない)ハリーにとって、その感情はよくわからないものであった。

 誇らしい気持ちは、想像がつく。ロンを見ていればそれは分かる。

 血を分けた自分の兄弟なのだ。そんな人間が立派な人物ならば、まるで自分のことのように誇らしく思ってしまったって別段おかしなことではない。

 兄だから、兄弟だからこそ認めたくない。

 何かと腹立たしく、気に入らなくて、ちょっかいをかけてしまうその気持ち。

 

「だから、気に入らないんだよ。そんなドラコに認められている君のことがね」

「ま、待ってくれ。認められている? ぼくが?」

 

 彼からの予想外の言葉に、ついハリーは驚いた。

 ドラコとは良いライバル関係であると思ってはいる。

 しかし彼は純血主義者だ。良い好敵手と思われてはいるだろう、という自覚はある。

 だが、彼が人を認めるというのは話が違う。と、ハリーは思うのだ。

 いったいどういうことだろうか。

 

「それは……どういう……?」

「……、」

 

 耐えきれなかった、といった様相でスコーピウスは舌打ちを漏らした。

 ハリーがそれに怪訝な顔を向けると、彼は状況への恐怖を忘れたかのような顔で彼女を睨みつけている。それはさながら、縄張りを脅かされた野良猫のようだった。

 

「先日、ドラコはな。僕に対して『ポッターが純血であれば』と言ったんだ。それはつまり、君の血筋以外の全てを彼が受け入れていることに他ならないんだ。分かるか? そんなことを言われた僕の気持ちが」

「……ぼくは君じゃない。わからないよ」

「だろうね。ドラコがあんなことを言ってしまったと、もしもパパに知れたらと思うと恐ろしいよ。いったいどうなってしまうんだろう」

 

 最初は、また何かしらの嫉妬かやっかみかな、と思っていたハリーも驚いて、スコーピウスの薄い青色の瞳を見つめた。

 

「君は、危険なんだ。僕にとっても、ドラコにとってもね」

 

 情けない、甘やかされたお坊ちゃんかと思っていたが。

 なんだ、この子。やれば出来る子だったのじゃあないか。

 

「だから、ポッター。君はもうドラコとほんぎゃあああ今のなんだ怪物か!?」

「ほんともう、きみ黙っててくれないかな」

 

 前言撤回だった。

 スコーピウスの見せた、兄を想う気持ちらしきものを垣間見ることができたハリーだったが、ファングのくしゃみに驚いて抱きついてこようとしたのを見て、幻滅してしまった。

 仕方ないと思うんだ。この鼻水を垂らして泣き出しそうな情けない顔を見てしまっては。

 こんな情けない男の子はハリーの趣味ではないので、抱きつかれるのは丁重にお断りした。

 足蹴にして。

 

「『ルーモス』、光よ」

 

 怯えてびくびくするスコーピウスを横目に、ハリーは杖を取りだす。

 その杖を掲げて呪文を唱えると、杖先にほんわりと明かりが灯った。

 話しているうちに、ずいぶんと暗いところまで歩いてきたらしい。何はともあれ、灯りがなくては、何も見えなくてはお話にならない。

 優しげな光があたりを照らすと、ふと視界の隅に闇が固まっている事に気づいた。

 きらきらと輝く液体のそばで蠢いている闇の塊は、どうやらその液体を飲んでいるようだ。

 となるとこれは、生き物か。

 よくよく見てみれば、人型をしている。

 銀色に反射した光がその生き物の口元を照らしており、ぼどぼどと液体が滴っていた。

 この、ツンと鼻につく鉄の臭い。これは……血だ。

 血の匂いだ。

 ハグリッドの言っていた、ユニコーンの血だ。

 それを啜っていた。

 ということは。

 つまり。この怪人は。

 ――呪われている。

 

「ギャアアアアアアアアア!」

 

 ハリーの背後でスコーピウスが絶叫した。

 ばたばたと慌てて手足を振り回すのが視界の隅に映っているので、どうやら腰を抜かしたらしいことがわかる。

 ファングは……どうやら逃げたようだ。薄情者め。

 しかしハリーも人のことは言えない。

 ああ、明りをつけたらいきなりご本人のご登場だ。

 もし二人、もとい一人と一匹が取り乱していなかったら、自分が絶叫していただろう。

 

「……ハァー、ァァァア……、ァアアア……」

 

 怪人の息遣いがごろごろと掠れているのが分かる。

 口からは飲みきれなかったらしきユニコーンの血がぼたぼたと垂れており、目深に被られたフードの奥は闇に染まり、顔はうかがえない。まるで、影か闇そのものだ。

 隙間から伸びてきた青白く骨ばった手が、ビキビキと音を立てて変化した。

 五本の指がそれぞれナイフのように鋭くなった。杖灯りを反射してギラリと光る。

 魔法だろうか? しかし、呪文は聞こえなかった。

 なにはともあれ、危ないのだけは確かだ。

 

「おい! おいスコーピウス! 立って逃げろ!」

「あわわわわ。ふぉふぉいのふぉいぃ……」

 

 ダメだ、使いものにならん。

 フォイフォイうるさいスコーピウスは放置する事に決定。

 明かりをつけたままの杖を怪人に向けて突き出し、ハリーは叫ぶ。

 

「『ステューピファイ』、麻痺せよ!」

 

 ハリーの杖先から赤い閃光が勢いよく飛び出した。

 それはまっすぐ怪人の胸あたりへと伸び、見えない壁に突き当たって弾け飛んだ。

 今のは、おそらく盾の呪文だ。

 しかしその威力や効果範囲は、ハリーの使うそれとは桁違いで、まるで別物だった。

 更にだ。よもや、呪文すら唱えずに、杖すら用いずに魔法を使うとは!

 ヒトかすら定かでない怪人相手に呪文が効くかどうかと思いながらの攻撃であったが、そもそも届いてすらいない。実にまずい。

 

「くっそ! 化物かこいつッ! 『エクスペリアームス』!」

「……」

 

 武装解除の赤い光が、怪人めがけて空中を奔る。

 怪人はその光を鉤爪で薙ぎ払い切り裂くと、滑るようにハリーに向かって跳んできた。

 重力に支配されていては到底できない、あまりに不自然な動きで眼前に詰め寄ってきた怪人は、その鋭い爪でハリーの顔を薙ぐように振るってきた。

 あんなもので切り裂かれては、首から上が無事であるかなどわかりきったこと。

 ならば防がねばなるまい。

 

「『プロテゴ』、護れッ!」

 

 半透明な盾で爪の一撃から身を守ると、ハリーはその場を離れるかどうかを思案した。

 スコーピウスを置いていくか?

 兄のドラコと違って、弟のスコーピウスはあまり気に入らない性格をしている。

 だが自分の行動の所為で死んでしまっていいほどかと問われれば、答えはもちろんノーだ。彼だってただ粋がってるだけの男の子に過ぎない、それに彼にも愛してくれる両親や兄がいるのだ。見捨てることなど、できはしない。

 ハリーは明るい緑の瞳を細め、怪人を見据えた。

 爪を向けてくる怪人の動きに隙はない。

 しかし、体運びはまるで素人のそれだ。直線的すぎて、格闘技経験者の動きではない。

 少なくとも、ダドリーの方がよっぽど洗練された動きで厄介だった。

 ついでに言えば、彼は超重量物体であったため、体当たりに当たれば最後。意識が粉砕される。しかも表面積が巨大なので、避けることそのものが至難であった。

 つまり、相手が何者であろうとも、避けられさえすれば怖くはない。

 ダドリーオススメのジャパニメーションでも言っていたではないか。

 

「当たらなければ、どうということはない!」

 

 突進してくる怪人の爪を、横っ跳びに逃げることで何とか避けきる。

 ローブの端っこが切り裂かれる様を見て青ざめるも、立ち止まれば死あるのみだ。

 小柄で、非力で、何の一撃も与えられない。

 だが体力だけには自信がある。

 毎日毎日愛しの従兄たるダドリーに追いかけ回され、それに対抗するためジョギングで体力づくりをして、女の身という不利な条件を覆すために努力した日は無駄ではなかった!

 ありがとうダドリー、今度お礼に魔法で豚にしてやるよクソ野郎!

 

「『ステューピファイ』! 『ステューピファイ』! 『エクスペリアームス』!」

 

 避けながら、ほぼあてずっぽうに呪文を乱射する。

 魔力切れが刻一刻と近づいてくるような無茶ではあったが、それでも死ぬよりはマシだ。

 それに件のトロールとの一戦で、魔力切れになっても絞りだせば魔法が撃てることは分かっている。ゴマと魔法使いはなんとやら、なのだ。あのときは結果、枯渇した魔力を回復させるために苦しい思いをしたものだが、死ねばその思いもできなくなるのだ。

 いまは後先考えず、目の前の怪人を、殺せ。

 

「『ディフィンド』、裂けよ! 『ディフィンド』! もいっちょ『ディフィンド』!」

 

 ナイフを振るうように杖を跳ねさせると、その軌道の通りの斬撃が杖先から飛び出した。

 仄かに青い光を纏った白刃が、三連撃。

 奇妙で複雑な形状の刃が、滑るように怪人の首を刈り取らんと向かってゆく。

 だがハリーは己の目を疑った。

 単純に横薙ぎの一撃目を、サイドステップで容易に避けられる。

 稲妻のような形の二撃目は、宙返りしながら前進するという曲芸で対処される。

 最も複雑で悪辣な形状の三撃目は、怪人が着地と同時に足が滑ったかのように前進し、背中から肩を利用してウィンドミルのような動きで回避されてしまった。

 これら三撃を、一度も停止せず、驚くべきことにこちらに突き進みながら行われてしまった。 

 

「くそっ、そんなばかな! イ、『イモビラス』ッ!」

 

 魔法強化か、それともヒトではないためか、どちらにしろ身体能力は相当高いのではないかと判断していたが、これは流石に冗談では済まされない。

 いまも、ハリーの射出した停止呪文が体をすり抜けるかのようにして避けられてしまった。

 目と鼻の先。怪物が、弓を引き絞るかのように腕を引いて、

 

「……ッ、ぎ、痛ッ……づァ……!?」

 

 矢のような爪が心臓へ、胸の中心へと伸びる影が微かに見えた。

 まずい、直撃コースだ。

 などと思うよりも速く。灼熱の感覚を右肩が訴えて、ハリーは悲鳴を漏らした。

 痛い、というよりは熱い、という感覚が先に来る。

 刺される瞬間、眼前に迫られたときには既に後退しようとして、木の枝に引っかかって後ろ向きに転んだのが幸いした。突き刺さったのは、怪人の指の中ほどまでだ。貫通はしていない。

 しかし、怪人にとっては殺傷力を高めるため腕を捻っていたのが災いした。

 半分脱いでいたハリーのローブが怪人の腕に絡まり、彼女の肩から指を引き抜いたときには、もはや力ずくで引き千切るしか外す手段はなくなっていた。

 

「……、……?」

 

 ぽたり、と。

 ハリーの血が滴る音と、落ち葉と枯れ木を踏む音のみの世界に、異音が紛れ込む。

 怪人は訝しんだ。

 たしかに液体が地面に落ち、吸い込まれる音ではあった。

 だがそれは、地面に蹲っている汚らしいハリーの肩から滴る血液ではない。

 ハリーのローブが吸って滴る彼女の血液でも、彼女が息を切らして口の端からこぼした涎の音でもない。なんだ? 失禁でもしたのか? いや、違う。もっと、こう――

 もっと、甘い匂いの――

 

「――、……ッ!?」

「ッハハァ! 気付いたか!?」

 

 甘い、匂いの、――酒だ。

 これはなんだ? 匂いから考えて……そうだ、ラム酒だ。

 一体どうやって? そんなのは愚問だ。魔法族にとってその質問は愚かにすぎる。

 『水をラム酒に変える魔法』など、魔法学校の一年生ですら簡単に使える魔法ではないか。

 この酒の滴るローブ。酒は恐らく、血液を『変身』させたもの。

 そして酒とはなにか?

 アルコールが含まれた飲み物。人の欲を刺激する事から、魔法媒体としても使われる。

 だがそれ以上に今この場において注目すべきことがある。

 遅まきながらそれに気付いた怪人は、慌ててローブを引き千切ろうと爪に力を入れる、が。

 既に魔力を練り終えて、杖先を怪人へ向けて嗤うハリーが叫んだ。 

 

「……ッ!」

「遅い! 遅すぎるんだよ、変態野郎! 『インッ、センディオ』ォォォ――ッ!」

 

 バシュッ、と存外軽い音を立てて、ハリーの杖先から赤い火球が飛び出す。

 大きさは赤子の拳ほど。随分と頼りないサイズになってしまったが、この場では関係ない。

 酒の、アルコールの特徴。

 それは。可燃性液体である、ということだ。

 

「…………ッ!? ……ッッッ!」

「熱っづ!? あぢぢぢ!」

 

 声にならない悲鳴をあげる怪人。

 猛火は瞬く間に怪人の全身に燃え広がり、無様に地面を転げ回る。

 それによって運悪く少量の酒が飛び火したハリーも地面を転がってそれを鎮火するが、怪人は腕に酒の染み込んだローブを巻き付けているので、たっぷりとした燃料を孕んだ松明のようなものと化している。

 ゆえに、未だに轟々と、赤々と燃え続けているのだ。

 

「……、……ッ!」

 

 自分の腕を筆頭に、全身が燃える痛みとはハリーにとって想像の埒外である。

 ハリーのいままで味わった最大の痛みは、ダドリーの放つ貫手を肋骨の隙間に差され骨を握り潰される、というものである。 

 アレと同程度かそれ以上だとしたら、相手はまず間違いなく行動不能に陥っているに違いない。

 その隙に赤い花火を空に打ち上げようと杖を上空に向けそれを放った途端、ハリーの目はありえないものを見てしまったために、恐怖と驚愕に見開かれた。

 

「う……でッ、を……!?」

 

 腕を、引き千切った。

 怪人が燃え盛る自らの右腕を、もう片方の手でブチブチと千切り取ったのだ。

 発火源たる右腕を左手に持った怪人が、そのギラついた眼光を以ってハリーを貫く。

 それに竦み上がったハリーは、唯一の武器たる杖を構える事も出来ず、ただただ恐怖した。

 今現在、自分の状態はどうだ。無防備に杖を空に向けている阿呆の極みの姿は。

 燃え続けたままの右腕が今、ハリーの眼前へと投げつけられる。

 異様な速度だ。とてもではないが、ヒトが片手で投擲した物体の速度とは思えない。

 アレが当たれば、どうなる?

 決まっている。

 死だ。

 

「あ……っ、いや、ぁ、ああっ、―――ッ」

 

 恐怖に呑まれてしまう。腹の底からの、巨大な恐怖。

 腰が抜けてしまいそうだった。失禁してしまいそうだった。

 あと一息。一呼吸すれば、きっとあの燃え盛る腕はハリーの柔らかな頭蓋を吹き飛ばし、血と脳漿を森の養分としてばらまくことだろう。

 死は、怖い。

 原初の記憶が蘇る。

 毒々しい緑色の世界。寒々しい純白の世界。

 廃墟と化した住居に一人立つ、黒のローブを羽織った、蛇のような赤い目の―――

 

「――ルォォォォオオオオオアアアアアアアアアアアアアアッッッ!」

 

 瞬間。

 世界は暴力的な怒声によって打ち払われた。

 木々を薙ぎ払い跳んできたのだろう、まるで上空から地面に突き刺さるようにして着地した巨体が、火球と化した右腕をその巨大な掌で掴み取った。

 もはや拳と化した掌の中から、くぐもった破裂音がする。

 一本一本がハリーの持つそれと比べて倍以上ある指を開くと、最早なんだったのかわからない程に圧縮されたゴミクズ、もとい右腕が地面にカサリと落ちた。

 怒気により胸を膨らませ、獣のような咆哮を吐きだす巨体。

 それは、まさに。見覚えのある、頼れる友人。

 

「ハグリッド!?」

「ゴォォォアアアアアアアアアアア!」

 

 およそ人語のそれではない雄叫びをあげ、ハグリッドは樹木から引き抜いたらしき棍棒のような枝を振るう。

 大振りで単純なそれは、怪人が数メートルほどバックステップを踏むことによって、脅威的な身体能力もあって簡単に避けられてしまった。

 だがそれだけでは終わらない。枝を振り抜いた体制のまま、ハグリッドは地面を蹴る。

 途端。爆発呪文でも使ったかのごとく土を撒き散らし、砲弾のように怪人へ向かって一直線に飛び出していったではないか。これに対応するため、怪人は着地と同時に残った左腕を構えんとする、が。

 

「―――ッ、」

 

 ガクン、と膝が曲がり地に落ちた。

 腕という部位は、存外かなりの重量を内包している。そんな大事なモノを、一本喪失しているのだ。普段と同じような動きなど、できようはずもない。

 バランスを崩した怪人が、ハッとした気配でハグリッドを見据える。

 悪鬼。

 まさにその言葉に相応しい憤怒の表情で、袈裟に振り抜いたばかりの枝を、その人智を超えた膂力を以ってして先程とは逆方向へと無理矢理に方向転換。怪人の眼前に跳び込みつつ、それと同時に逆袈裟へ振り上げた。

 

「ガァァァアアアアアアアア!」

「……ッ、……!」

 

 空気が切り裂かれる爆音を巻き上げながら、ハグリッドの枝は怪人の胴体を強かに打ちつける。銀色混じりの胃液を吐き散らして、砕けた枝とともに吹き飛ばされる怪人。数本の樹木を薙ぎ倒しながら上空へ向かって吹き飛んでいく様は、何かの冗談のようである。

 それを行った猛者は、怪人が吹き飛んだ方向へ地を蹴って飛びだす。

 一歩一歩地面を踏みしめる足音は一つ一つが爆発となる。荒々しくも一直線に駆け寄ったハグリッドが、怪人が吹き飛んで飛び込んだ樹木の幹に向かって拳を振り抜いた。

 正拳の打撃を受けた樹木が一瞬、周囲の景色ごと捻じくれたかのように歪む。そしてその異常が元に戻ったときには、数百年成長したであろう一本の樹木は粉微塵に爆ぜ飛んだ。その木を棲み家にしていたのだろうか、哀れな羽虫や蝙蝠たちが飛んで逃げてゆく中、ハグリッドははらはらと落ちてくる葉の中で闇を睨み続ける。

 逃げられたと判断したのか。

 ハグリッドはのっしのっしと地面へ座り込んだハリーの元へ歩み寄ってきた。彼女の肩を掴んで揺さぶるその表情は悪鬼のようなそれではなく、いつもの人のいいヒゲもじゃだ。

 怖いとは、思わなかった。

 

「ハリー! ハリーお前さん大丈夫か! 怪我しちょらんか!? え!?」

「あうあうあう。揺らさないでくれぇえ。あと痛い、肩が痛いからやめやめうえっぷ」

 

 慌てふためいたハグリッドの行動が、いま一番ハリーの命を脅かしている。

 それに気付かないあたりに彼のそそっかしさがよく表れている。いつもはほほえましく楽しくなってくる彼のその特徴だが、今はやめて欲しい。切実に。

 同じく、いやきっとそれ以上に慌てて駆けもどってきたロンやハーマイオニーが、ハリーを心配して次々と声をかけてくる。

 安心感から緊張の糸が切れ、意識を手放しそうになるハリーは、無事を示すために微笑んでみせた。逆効果だった。ロンの諦めるなという声や、ハーマイオニーがかけようとして失敗している習ってもいない治癒呪文が聞こえてくる。

 

 ハリーは薄れる視界の中、夜空を見上げる。

 夜空へ向けて自分の小さな手をかざした……つもりだったが、力が入らない。

 口角がより吊りあがり、ハリーは自嘲的に笑った。

 この、一〇分にも満たない小さな小競り合いは、彼女の精神に大きな打撃を加えることになった。自分の小ささ、弱さ。そして、殺すことへのためらいのなさが必要だと思わせるには、十分な出来事であった。

 先程の怪人。

 ハグリッドが来なければ、狩られていたのは自分の方だ。

 手下か? 賛同者か? わからない。わからないが。 

 きっとあれは間違いなく、ヴォルデモートに関する何者かだ。

 つまり。

 殺すべき敵だ。

 




【変更点】
・原作より更に減点。ネビルェ。
・罰則の内容が、何故かキツくなった。
・ハリーに兄弟はいない。いいね?
・森で出会う怪人を魔改造。原作の出番は二〇行以下だった。
・ハグリッドが間に合ったため、ケンタウルスとの面識なし。

此度は戦闘回でした。分割の後、更に足しまして。
魔力に関する設定は独自のものです。これから強化されるんだし、足枷もね。
ホグワーツの森番は最低限このくらいできないと内定もらないらしいですね。
ローブで顔を隠した怪人……いったい何者なんだ……。


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10.小手調べ

 

 

 ハリー・ポッターとマダム・ポンフリー。

 二人の女性はいま、魔法医学についてのお話をしていた。いや、説教だった。

 魔力枯渇を短期間にそう何度も引き起こせば、ふと何でもないとき急に魔力を練れなくなることがある。というお説教だ。

 ガラスのゴブレットを例に出せば分かりやすいだろうか。

 耐熱性のないそれに熱湯を注げば、ビキキと白くひび割れてしまう。一度だけならばまだしも、それを何度も続ければヒビは大きく深くゴブレットを侵食していき、ついには穴をあけてしまう。そうすれば注がれた湯はどうなるだろう。明快である。漏れ出でるのだ。

 それと同じことが、魔法族の身体でも起きてしまうのだという。

 幸いなのが、もしそうなったとしてもガラスのゴブレットとは違って治療法があるというところか。

 魔法というものには原理がある。

 魔法族の血液には、魔力が含まれている。これは血小板などと違って物質的ではない、精神的なエネルギーであり、これを含んだ血液の事をエーテルと呼んでいるのだそうだ。

 余談ではあるが、純血の魔法使いはそれだけで濃密なエーテルが体内に流れているということになる。それはつまり、それだけで優秀な魔法使いになれる可能性があるということだ。もっともそれはあくまで可能性であり、その魔法使いが日々を鍛錬するか怠けるかによって血中の魔力量が増減することを考えれば、必ずしもそうとは言い切れないのが不思議なところである。

 さて、この魔力を生成するのはもちろん血液と同じく、日々の食事と健康的な生活である。つまり睡眠や栄養摂取を怠ると魔法の力も弱まってしまうのだ。それは体力と何ら変わりのない、至極わかりやすい構造である。では健康的な魔力の詰まった血液を、魔法の源たるエーテルを全身に送り出すのは何か。

 決まっている、心臓だ。別名を魔力炉といい、全身の血管へエーテルを行き渡らせて、魔法のエネルギーとする。

 先ほどの例をこれに当てはめれば、心臓とはつまりガラスのゴブレットだ

 ではそのゴブレットがひび割れてしまえば、穴が開いてしまえばどうなるか?

 これもまた明快。死、あるのみ。

 

「わかりましたかポッター。魔力枯渇とは、それほど恐ろしく愚かしいことなのです。以降は余裕をもって魔法を使い、常に一定量の魔力を体内に残しておくようにしておきなさい」

「わかりました、ありがとうございますマダム・ポンフリー。……でもこれ試験前日にいうことじゃないですよね!? 明日は期末試験なんですけど!?」

「なにをいうのです! 試験など生きていればまた受けられます! たとえ試験に落ちて来年もう一度一年生をやることになろうとも、健康であればそれでよいのです!」

「心が死んでしまう!」

 

 そうなのだ。

 今は学年最後のテスト期間、その真っ最中であった。

 禁じられた森での罰則にてまたもやその体内魔力を枯渇させてしまったハリーは、肩の傷を癒すためにも保健室へ赴いたのだが、そこの主によって巨大な雷を落とされてしまったのだ。

 ロンはそれに憤慨して荒い鼻息を噴き出したが、ハーマイオニーは当然だとばかりに鼻を鳴らした。

 彼女によって一定期間中は授業内外問わず、魔法使用を禁じられてしまった。つまり実技点が得られないということだ。彼女は、成績を取り戻すために普段よりも勉強量を増やす必要があった。

 もともと座学においてはまじめに勉強していただけに、そこまで大変な所業ではなかったのが不幸中の幸いというところか。これで実技便りにたいして勉強をしていないなんてことがあったならば、本当に留年の危機が待っていたことだろう。

 そして待ちに待った、恐怖の期末試験。

 不安感から若干ノイローゼになったハーマイオニーと、それに巻き込まれて勉強に勤しんだ死にかけのロンはふらふらと寝室に戻っていった。まだ眠るには早すぎる時間だが、ホグワーツの試験は数日を要して座学と実技をみっちり行う、厳しいものだというので明日に備えてしっかりと脳みそに休息を与えようと考えたのだろう。

 

 魔法薬学は悪辣で引っかけ問題の多い試験で、変身学は小難しい魔法理論ばかりを記述する……のかと思っていたが、実はそうでもなかったことをハリーたちは知った。

 どうやらこのテスト問題、魔法省が発行しているらしい。

 スネイプやマクゴナガルのように特徴的で本人の趣味や性格が滲みでたような問いではなく、淡々と必要な知識を習得しているかどうかの問いかけばかりが目立った。

 魔法史のテストについては、製作者にハリーのファンでも居たのかと思いたくなるほど、近代魔法史の半分以上がハリーのことについて占められていた。試験時間も後半になり、皆が近代魔法史の問いに挑み始めたころ会場での雰囲気が妙なものに変わってしまった。この瞬間、ハリーは皆が自分のことを考えていることに気付いて、赤面しっぱなしだった。

 しかし会場の監督は、ホグワーツの教師だ。

 ハリーの得意科目は闇の魔術に対する防衛術、変身術、妖精の魔法、飛行訓練。苦手な教科は魔法史、そして魔法薬学。

 特に恐ろしいのが、よりにもよって苦手である魔法史と魔法薬学の試験だった。

 魔法史については言わずもがな。いつもの教室プラス、ビンズ先生プラス、試験特有の静かで張りつめた空気。これはいったい何の睡眠呪文かと叫びたくなるような睡魔が教室中を飛び交っており、幾人かは情けないことに試験開始直後には机に突っ伏していびきをかいていた。

 ハリーは頑張って頑張って、己の太ももを何度もつねりながら最後まで必死に起き続けた。内容は知っているものばかりだったので、試験結果については心配ない。心配が必要なのは誤字脱字をしていないか、だ。後半はほとんど夢の中から現実へ腕を伸ばすようにして羽ペンをガリガリ動かしていたので、ミミズがのたくったような文字になっていたかもしれない。

 魔法薬学は最悪の一言だった。

 試験内容は悪辣ではない。問題を解くことだってできた。

 だが。だがしかし。試験監督はかの蛇寮寮監、セブルス・スネイプ。

 生徒一人一人の背後をじっくり、ゆっくり、ねっとりと練り歩き、カンニングの疑いをかけられたくないがために背後を振り向けない生徒たちの解答用紙を覗き込むような気配を漂わせ、最後に、「ふん」と小ばかにしたような鼻息を残していく。

 回答が間違っていたのか? なにかひょっとしてマヌケな回答を書いてしまっていたのか?

 そんな不安感を刺激するには十分すぎるほどの悪魔の所業であった。もちろんやり過ぎである。気の弱い生徒、特にスネイプ教授を苦手とするネビル・ロングボトムなどは、椅子から転がり落ちて気絶しかねない風であった。

 

 若干の騒動がありながらも、ハリーたちは無事に期末試験という試練を乗り越えることができた。

 お祝いというほどのことでもないが、彼女たち三人はハグリッドの小屋へお茶をしにきていた。

 ハリーは胡桃入りロックケーキをバゥゴシャボギャァオと食べながら、ロンとハーマイオニーが試験内容について頭を悩ませている様を眺めている。どうやらハーマイオニーが一問ずつズレて回答したかもしれない、と半泣きになっているのを、ロンが気にするなよ僕なんてほぼ白紙だから、と慰めているのか煽っているのかよくわからないことを言い、今まさに口喧嘩が勃発したところだった。

 ごぎゅんと飲み込んで、ハリーは自分もテストについてハグリッドに聞いてみることにした。

 

「ねえハグリッド。ゴブリン反乱軍のリーダーの名前ってグリップフックだっけ」

「いんや、ハリー。そりゃグリンゴッツ銀行で世話んなったゴブリンの名前じゃて。お前さんごっちゃになっちょるぞ」

 

 しまったなあ、一点逃したか。などと言っているハリーは、試験官がビンズ先生ではなくグリップフックだったら捗ったかもしれないのに、と笑う。

 そんな都合のいいときに都合のいい奴が来てくれるものか。とハグリッドも笑う。

 せっかくの魔法界なのだから、そういう展開があってもいいんじゃないかな。とハリーは考えたが、ふとそこで、思考の端っこに生えた木の根にローブの端っこが引っ掛かった。

 なんだろう? いまぼくは、変なことを言っただろうか?

 

「どうしたんだハリー? なんかまた間違いでも思い出したか?」

 

 ああ、なんだろう。

 ハグリッドの面白がっているような、ほほえましいような、そんな顔を見つめながらハリーは考える。

 間違い……? あれ、ちょっと待て。

 なんだ。何が……、

 

「……都合のいいときに都合のいい奴は来てくれない」

「うん? どうしたハリー」

 

 ハグリッドの言った言葉を再度、口中で繰り返す。

 それに対して訝しげに覗きこんできたハグリッドの顔、その口髭をハリーは掴んだ。

 

「何するんじゃい」

「ハグリッド。あのさ、ノーバートの事なんだけれども」

 

 ヒゲを掴まれたまま、ハグリッドは傷付いた子犬のような目をした。

 それもそうだろう。

 彼は危険な生物が大好きで、目を抉ろうとしてくるような生物が多いが、それこそ目に入れても痛くないほどに、だ。

 だがそんな彼でも、ついこの間の事件は随分と反省したらしい。

 なにせ自分のせいで、ハリーに傷を負わせてしまったようなものなのだ。

 孫と親友を一度に持った気分だったぞ、とでも言って消えてしまいたいくらいであった。

 ハリーは彼がそんな罪悪感を持っている事を知っていて尚、問いかける。

 

「ノーバートのタマゴ、誰に貰ったって?」

「んあ? おー、誰だったかな。パブでトランプして……あー、誰だったか……。ああ、いや。知らん奴だな。フードを目深にかぶってたし、覚えがないわい」

 

 ああ。

 この時点でハリーは、嫌な汗が止まらなかった。

 ギシギシと、脳髄の奥を刺してくるような頭痛までしてきた。

 雰囲気が変化したのを気取ったか、ロンとハーマイオニーも口論をやめて此方を向く。

 

「それで、他には何か話した?」

「おお、したぞ。ドラゴンについて、どう可愛いかどれほど美しいか、そりゃー延々と朝までな。奴さんも興味を持ってくれたようで、話が弾んだぞ」

「ドラゴンの話だけ?」

「いんや。奴さんは他の生き物についても興味津々でな、フラッフィーたちの話もしたぞ。あいつらに比べりゃー、ドラゴンの世話なんて軽いもんだってな」

 

 さて。

 都合のいい時にやってくるのは、いつだって都合の良くないものだ。

 森での罰則でやってきたのは元気なユニコーンの姿ではなくその無残な死体。そして悪の帝王ヴォルデモート、もしくはその賛同者。

 与えられたのは罰則を終えた安息ではなく、肩への激痛と恐怖、二日の入院。

 さて、さて。

 違法なドラゴンの卵を欲しいと願ったとき、やってくるものは何か?

 実際に手元にやってきたのは、お望みの品であった。 

 では、それを与えたのは何か?

 名も知らぬ、顔も知らぬ、さらには違法品であるドラゴンのタマゴを持ち歩いているという、不審者という名では足りぬほどの怪しい人物。

 疑わしきは呪わずという言葉もあるが、こればかりは変だ。

 厄介払いをしたかったのだろうと考える事も出来る。しかし、それにしては賭けで譲るという手段はあまりにも遠回りだし、何より不自然かつ危険だ。もしその賭け相手が闇祓いだとしたら、などという懸念を考えていなさすぎる。

 危険な代物を手元に置いたままにしてはいけない、と考えられる程度の危機感を持っている人間が、ちょっと軽率すぎやしないだろうか? いくら焦っていたのだとしても、だ。そう、あまりにあんまりな手段だ。たかだか十一年しか人生を経験していない程度の少女に断言されるほど、稚拙にすぎる。

 さて、さて、さて。

 ならば考え方を変えてみよう。

 違法なドラゴンのタマゴをパブまで持ち歩いている不審人物。

 それを欲しがっていたハグリッドに、都合よくお目当ての品を持って話しかけてきた。

 闇祓いか、またはその類ではと警戒もせず、賭けの品に違法品である竜卵を提示してくる。

 その無警戒さは、ハグリッドが闇祓いではないと知っていたからではないか?

 いや、むしろ、ハグリッドが危険な生き物大好き野郎だと知っていたのでは?

 違う。きっと、順序が逆なのだ。竜卵を持っていたからハグリッドに接触してきたのではなく、ハグリッドと接触するために竜卵を手に入れたとしたら?

 そもそもドラゴンについての話をするつもりはなく、それが切っ掛けに過ぎないとしたら。

 その後の、フラッフィーについての話がメインだとしたら。

 たとえば、そう。四階の廊下を攻略するための――

 ――手懐け方とか。

 

「ハグリッド。以前フラッフィー達を大人しくできるって言ってたけど、本当にそんな方法あるの?」

「おう、ちゃんとある。まぁ、教えてはやらんがね。お前さんらが無茶しちまったらいかん」

「いや。僕に言わなくてもいい。その、パブで賭けをした人には言ったのかい?」

「内緒だ」

 

 ハグリッドは首を横に振った。答えないつもりらしい。

 もっとも、答えなくても十分だ。その目は、実に正直者のそれであった。

 そこまで露骨にそらさなくてもいいだろうに。

 

「……、……ヤバいぞ二人とも」

「……ええ、そうねハリー」

「え、何が?」

 

 今の話で理解できなかったロンを放っておいて、ハリーとハーマイオニーは弾かれたかのように走りだした。

 ハグリッドが止める声と、ロンが待ってくれと叫ぶ声を置き去りにして、二人は城の庭を突っ切って廊下を疾駆する。

 目指すは、ダンブルドア校長の部屋。

 ここまで来ては、もはや自分たちの手には負えない。

 校長に助けを求めなくては。

 足音高く走り続けていると、廊下の隅からマクゴナガル先生がすっと顔を出した。

 彼女の後ろで管理人のフィルチがにやにやと笑っているあたり、どうやら廊下を走っている姿を彼に見られてしまい、それでマクゴナガルを呼ばれてしまったようだ。

 行く手を遮られてしまい、ハリーたちは立ち止まる。

 しかし、彼女でも問題はない。むしろ好都合だ。

 

「マクゴナガル先生っ!」

「なんです、ポッター。廊下を走るなど淑女にあるまじき――」

「ダンブルドア校長に会う必要があるんです! 彼が、彼がいま必要なんです!」

 

 息せき切って矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

 罰則が与えられるのを今か今かと待ち侘びて、にたにた笑いが大きくなるフィルチの顔が憎らしい。

 今はそんなもの気にしている場合ではない。

 説明しようにもハリーは泡を食っているために、代わりにハーマイオニーが口を開いた。

 

「賢者の石のことなんです」

「……なぜ、それを」

 

 相も変わらず、ずばっと核心から攻める女だ。

 

「あれが危ないんです。誰かが石を盗もうとしているんです! 先生方の仕掛けた守りも、三頭犬やら何やら、きっとその全ての突破口を掴まれています!」

「そんなばかなことがありますか! あなた方がどうやってそれらを知ったかは分かりませんが、守りは堅固にして厳重です。少々やりすぎたかと思っているくらいなのですよ!」

「でも先生! それならせめて、校長先生に警告を!」

 

 ハーマイオニーが喘いだ。

 しかしマクゴナガルはふっと表情を変えると、ぱちんと指を鳴らす。

 彼女の持つ羊皮紙の書類に挟まれてあった羽ペンが、見る見るうちにメンフクロウへと変身した。

 

「では念のため。彼に手紙を運ばせましょう。運が良ければ、途中で会えるでしょう」

「途中……? ちょっと待ってくださいマクゴナガル先生! 校長先生はいまどこに!?」

 

 杖で描かれて空中に浮かぶ魔力文字をさらさらと羊皮紙に移しながら、マクゴナガルは澄まし顔で答える。

 

「ロンドンです」

「ろっ!?」

「今朝方、魔法省からフクロウ便が届きまして。緊急の要件だそうなので、お昼前にはここを発ちましたよ」

 

 校長が、ダンブルドアがいない?

 この大変な、一大事に。世界最強と呼ばれる男が、いない?

 ハリーやハーマイオニーはもとより、これにはロンも青ざめた。

 そしてその焦りが、致命的な間違いを呼び込んでしまう。

 

「スネイプだ!」

 

 ロンが叫ぶ。

 ハーマイオニーがまずいと思うより先に、彼の舌は動いてしまった。

 

「なんですって?」

「石を狙っているのはスネイプなんだ! 間違いない、ダンブルドアがいないなら、もう侵入してるはずだ!」

 

 マクゴナガルの顔色が、訝しげなそれから憤怒のそれに変わる。そして、最終的には呆れのそれになってしまった。

 ここでハーマイオニーに続いてハリーも、ロンの失態に気がつく。

 ハーマイオニーが、いやハリーでもいい、彼女らが言えば、まだ何かしらの理由があると思われただろう。

 しかし、ロン。

 ロン・ウィーズリーは、マルフォイ他スリザリン生と、散々喧嘩だの口論だのといった問題を引き起こしている、典型的なグリフィンドールのやんちゃ坊主である。

 そしてセブルス・スネイプ。彼はご立派なグリフィンドール嫌いだ。

 ウィーズリー家のスリザリン嫌いことも、スネイプのグリフィンドール嫌いの事も、両者の生い立ちや、そうなってしまう経緯を知っているマクゴナガルとしては、ロンがこう叫ぶのも止む無しとも思ってしまったのか。呆れた顔のまま呆れ果てた声を絞り出した。

 

「……寮へ戻りなさい。フクロウ便は、一応出しておきましょう」

「マクゴナガル先生! でもスネイプが」

「くどいですよミスター・ウィーズリー! セブルスは確かに意地悪な面もありますが、そのような愚かなことをする男ではありません! 寮へ戻らないというのなら減点してさしあげましょうか!」

 

 マクゴナガルの大声に、ショックを受けた顔をしたロンは口を噤んだ。

 ハリーらもそれは同じ気持ちだったし、何よりへまをやらかしたロンの向う脛を蹴り飛ばしてやりたかった。

 だが今この時ばかりはそんな時間すら惜しい。

 今朝方届いたフクロウだって?

 ダンブルドアが出かけたのは昼ごろ。

 途中で引き返して来たりといった不慮の事態を避けて、ちょうどいい頃合いといえば何時くらいか?

 ハリーは腕時計を覗く。午後四時二〇分だ。

 きっと、今だ。

 

「ではマクゴナガル先生、失礼します。ロンったらテストが終わって浮かれてるんです」

「ちょっ、全部僕のせいか!?」

「だまれ。そうだねハーマイオニー、行こう。失礼しますマクゴナガル先生」

 

 渋るロンを引きずるように、ハリーとハーマイオニーは寮への道を歩きはじめた。

 フィルチが罰を与えないことに抗議をはじめたが、禁じられた森での行き過ぎた罰についての話を持ち出したマクゴナガルに大声で説教を受けていた。どうもアレは彼の独断で決められた罰だったらしく、マクゴナガル以下教師たちは相当お冠だったようだ。

 まあ、死ぬとまで脅かされた禁じられた森なのだ。たかだか生徒への、それも一年生の罰で使われるような場所ではないだろうとは思っていたが、まさか独断とは恐れ入る。

 大人しくなったロンを連れて、三人は廊下を歩き続けた。

 三人で顔を見合わせ、ひとつ頷く。

 角を曲がり、マクゴナガルとフィルチの姿が消えてからも歩き続ける。

 ちらちらと後ろを見るロンの尻をつねって、ハーマイオニーが深呼吸した。

 そして彼女の説教の声が届かなくなった途端、背中を蹴飛ばされたかのように走りはじめた。

 

「ハリー! ハーマイオニー!」

「ええ、たぶんお察しのとおりよ」

「行かなくちゃ。これはきっと、ぼくたちがやらなきゃならないのかもしれない。……奴が賢者の石を手に入れるっていうのは、ぼくにとっても都合が悪いんだ」

 

 風のように廊下を駆け抜け、階段を駆けあがり、薄暗い廊下へと飛び出す。

 魔法仕掛けの蝋燭がひとつひとつ点火されて足元を照らしていく中、彼女らは立ち止まる。

 禁じられた廊下。

 黴臭い木製の扉を前に、ハリーたち三人は立ち尽くしていた。

 

「ハーマイオニー、ロン。覚悟はいい?」

「いいけど……ねぇ透明マントかぶっていかない? 三頭犬にみつからないように」

「もちろんよハリー。あとねロン。相手は犬なのよ、匂いでバレるわ」

 

 ハーマイオニーが諭すようにロンに言ったが、ハリーは首を横に振る。

 それに驚いたハーマイオニーが何かを言おうとするが、ハリーが懐から杖を出すのを見て口を閉じた。

 

「いや、一応被っていこう。一瞬見えないだけでもお得な気分だ」

「そうかしら……」

「『クェレール』、取りだせ」

 

 ハリーが軽く縦に杖を振ると、空中にはまるでナイフで裂いたかのような跡が残っていた。

 目を丸くするロンの目の前で、ハリーがその裂け目に左手を突っ込んだ。ずるりと引き出されたのは、流水のような美しい布。透明マントだ。

 ハリーはそれをかぶって姿を消すと、杖を額の前に構えて集中しはじめた。

 そして鋭く言い放つ。

 

「ハーマイオニー、扉を開けて」

「うーん、わかったわ。『アロホモラ』!」

 

 渋るような反応を見せたものの、何か策があるのだろうとハリーを信じて頷くハーマイオニー。

 彼女の振るった杖によって、扉の錆び付いた鍵穴が魔力反応で仄暗く光った。

 その光が収まるや否や、ハリーは特殊部隊よろしく扉を蹴り飛ばして中へと飛び込んだ。ハーマイオニーとロンにはその姿が見えていないので何とも言えないが、独りでに扉が開いたように見えただろう。

 しかし透明化したハリーが扉の中に入って目にしたのは、三匹の三頭犬が眠りこけているところ。透明マントを被る被らない以前の問題であった。

 自動演奏の魔法がかけられた竪琴が放置されている。優美な音楽が、いまこの場にまったく似つかわしくなかった。

 

「……これは……」

「そんなに警戒することなかったみたいだね」

 

 ハリーが呆然とそれを眺める中、ロンとハーマイオニーも扉を開けて入ってきた。

 念のため扉を開けっ放しにするつもりらしく、ロンの抜いだローブが丸めて挟み込んである。

 しばらくは竪琴に込められた魔力が切れる様子がないので、ハリーらはこれ幸いと部屋の探索を始めた。

 探すは仕掛け扉。

 数分ほど部屋を探しまわり、そうしてハリーたちは部屋の中央に集まった。

 結論から言って、仕掛け扉は案外すぐに見つかった。

 

「見つかったねハリー」

「ああ、見つかったねロン」

「どうしましょうかハリー」

「ああ、どうしようかハーマイオニー」

 

 三人の視線は床に集中している。

 仕掛け扉は見つけたのだ。

 見つけたのだが、

 

「どぉぉぉして、わざわざ扉を枕にして寝るのかなぁぁぁ……」

 

 ロンが盛大なため息とともに、その場にしゃがみ込む。

 ハリーたちの力では、三頭犬の頭を持ち上げることはできない。

 よしんば魔法で何とかできたとしても、今度は操っている者が此処で脱落してしまうことになる。これだけの重量物に浮遊呪文をかけて、かつ持続せねばならないとすると、一年生という幼い身体で生成される魔力では圧倒的に量が足りない。

 ではどうしたら良いのか。

 決まっている。

 

「どいてもらうしかないな……」

「でも、どうすればいいんだい? こんな重い物、僕らの力じゃどうにもならないよ」

「君はもうちょっと自分の頭で考えたらどうだい」

「……ハリー、君ちょっとスネイプに染まってないかい」

 

 ロンが嫌そうな顔をしてハリーを見る中、ハーマイオニーは顎に手を当ててぶつぶつと何かを呟いていた。

 攻略への糸口を探っているようだ。

 

「そうだわハリー。なにか、てこの原理とかを使ってどうにかならないかしら……」

「てこ、かぁ。……だとして、長い棒とかがないしなあ……魔法で出そうにも、魔法式を知らないし……」

 

 ロンが竪琴を見る。

 彼の視線を追っていたハリーは、眉間にしわを寄せて考えていたが、溜め息を漏らした。

 

「やっぱり……起こすしかない、か」

「起こすだって!? 何考えてるんだよハリー」

 

 とんでもない、といった風に両手と首を振るロン。

 しかしハリーも、嫌そうな顔を隠そうともせずに伝える。

 

「でも、彼ら自身に動いてもらわないとダメだ。前足が乗っかっているとか、そんな程度の話じゃないんだ。ぼく達から何もできないのなら、こいつら自身にやってもらおう」

「でも、どうやって起こす? できるだけ穏やかに、それでいて怒らせずに」

 

 ロンが心底怯えながら、といった風におずおずと申し出る。

 

「あら。そんなの簡単じゃない」

 

 ハーマイオニーがあっけらかんと言うので、ロンの表情は太陽のように明るくなった。

 勉強好きなハーマイオニーなら。ハーマイオニーならなんとかしてくれる。まだあわてるような時間ではなかったということだ。

 期待に輝いたロンと、なにをするつもりだこいつという訝しげな表情のハリーを尻目に、ハーマイオニーはその懐から自身の杖をするりと抜いて、

 

「『レダクト』、粉々!」

 

 竪琴を吹き飛ばした。爆発四散、慈悲はない。

 ぱらぱらと軽い音を立ててあたりに散らばる木片と糸を呆然と目に目にして、ロンは大口開けて、ハリーは目を点にして驚愕を露わにしていた。

 やりやがった、この女。

 知識を豊富に詰め込んだその頭脳は大変頼りになる少女だが、その実やることなすことが大味なところがある。今回はそれがよく表れていた。

 というか思い切りが良すぎだ!

 

「ハァァァーマイオニィィィ――ィイ! なにやってくれちゃってんですかァーッ!?」

 

 ロンが絶叫したくなる気持ちもわかる。

 竪琴が奏でている間、フラッフィーズは赤子もかくやというほどぐっすり眠っていた。

 おそらくあれがハグリッドの言わなかった、フラッフィーズの対処方法なのだろうことは明白。

 つまり、音楽が鳴らされている間は起きなかった。だが竪琴はもうない。

 起きるのだ。怪物が。

 

「だけど君はそれをぶっこわした! 起きちゃうじゃないか!」

「あら。起きないと退かせられないじゃない」

「心の準備ってもんが必要なの、心の準備ってもんがァ!」

 

 ケルベルスというのは、古代よりその存在を確認されている古い魔法生物である。

 古代ギリシアの魔法使いが作り出した人造魔法生物とされる説もあれば、はたまた未確認神的存在による創造物という説もある。そのどちらかだとしても、それ以外の何かがルーツだとしても、相対する魔法使いにとっての驚異は然程変わらない。

 彼らの毛皮は魔法耐性の性質が宿っており、その原理はドラゴンの外皮と変わらない。長い月日の中で幾多の魔法使いから数多の魔法をその身に受け、まるでウイルスに対する抗体のようにさまざまな魔法耐性を手に入れた。というわけだ。

 おまけに頭部が三つもあるという、恐ろしい特徴まで備えている。

 彼らは脳を三つ持っている。つまるところ、下手な呪文は効かないことが多いということだ。

 たとえるならば、睡眠呪文。うまく当てて眠りへ落とすことができたとしても、三つある頭のうちの一つだけしか夢の国へ誘えないだろう。ただでさえ魔法耐性を持つ毛皮を備えているため体を狙いにくいというのに、そんな特徴まで持っていては手に負えない。

 いわゆる、魔法使いの天敵とも言うべき魔法生物のひとつである。

 

「起きたぞ! いいか、合図したら撃つぞ!」

「ロン! 手首のスナップだけを利かせるのよ! 肘に力を入れちゃだめ!」

「わ、わわ、わかってるよ! 大丈夫、いける、いける」

 

 未だに眠そうにとろりとした目つきをしたケルベルスたち。そのうち一頭の三頭犬が、ぐぐ、と強張った体を伸ばすように起き上がる。

 胡乱な目のまま、起き上がったフラッフィー(ブラッフィーかもしれないし、プラッフィーかもしれない)が鼻をひくつかせて、侵入者たる三人を発見する。

 唸り声を腹の底から響かせることで完全に覚醒した頭で、重いまぶたを開いて獲物を見たとき。

 彼(彼女)の意識が吹き飛ぶ直前に見たのは、杖をこちらに向ける三人組であった。

 

「「「『ステューピファイ』、麻痺せよ!」」」

 

 三人の一糸乱れぬスペルが重なり、ひとかたまりとなった魔法反応光がまばゆく輝き、フラッフィーの視界を奪う。

 外皮に魔法耐性があるとはいえ、決してそのすべてを無効化できるというわけではない。三頭犬に炸裂した失神呪文は頭のひとつに吸い込まれ、バツン、とゴムが千切れたような音とともに意識を刈り取った。

 しかしこうべを垂れたのは、ハリーらからみて左の頭だけ。

 他二つは、兄弟がやられたことに怒り狂って唸り声をさらに激しくしただけだ。

 その威嚇の声は、どうやら残りの二頭にとってちょうどいい目覚まし時計になってしまったようだ。ゆっくりと、眠気を振り払うようにゆっくりと起き上がってくる。

 これは非常にまずい。

 ただでさえ一頭で命の危険を感じているというのに、それが三倍になっては手に負えない。

 

「だめだ! 左側の頭が気絶しただけだ!」

「三頭犬ってそれぞれの意思が独立してるのね! 脳は三つあるのかしら? 肉体への命令系統がどうなってるのか興味深いわ!」

「ハーマイオニー、きみいまそれ言うこと!?」

 

 三人は今しがた魔法を使ったばかりで、連続して使うには少々の無茶が必要になる。

 それはハリーの得意分野だ。マダム・ポンフリーに怒られたばかりだが、この際そんなものは知ったことではない。スイミングで苦しくなって、さあ息継ぎをしようと思ったがもう少し頑張って潜る、という感覚に近い。

 ハリーはホースを潰して中に残った水を押し出すように、体内エーテルから魔力を無理矢理にかき集めて呪文を叫ぶ。

 

「跪け! 『スポンジファイ』!」

 

 杖先から飛び出したカナリアイエローの魔力光が、三頭犬の前脚の付け根に命中する。

 何も起こらなかったことに、二つの頭が怪訝な顔をしたかのように見えた。再び唸りはじめ、驚かせた憎々しい黒い頭のちんちくりんを引き裂こうと、一歩前に出た、瞬間。

 関節を外されたかのように、三頭犬がよろけた。

 

「……っ!?」

「ふふ。君は果たして、肩がスポンジになっても立っていられるかな」

 

 嗜虐的な笑みを浮かべたハリーに、ロンが後ずさった。ドン引きである。

 生き物が立つという状態を維持するには、意外とかなりの力を入れているということがわかる。先程ハリーがかけた呪いは弾力化呪文という魔法であり、魔法反応光に触れた対象をスポンジ状に変化させる、変身術の一種である。

 では、力を入れねばならぬ部分が柔らかいスポンジになれば、どうなるのか。

 そうすると自然、重力に従って巨体が崩れ落ちることになる。

 

「やったわ、ハリー!」

「まーぁねん」

 

 三頭犬のうち一頭を無力化した賛辞に、ハリーは振り返って得意げな顔を披露した。くるくるくる、とガンスピンのように杖を回して口を吊り上げている。

 ロンがため息をついたその時、ハーマイオニーにぐいっと肩を引っ張られて、彼女の隣に引きずり出される。何をするんだよ。という間もなく、彼が見た光景は、残りの三頭犬が完全に敵意をむき出しにして此方を睨みつけているという恐ろしいものだった。

 ひゅい、とロンが息を飲む。

 それを合図にしたのかどうなのか。

 残りの二頭が、攻撃を開始した。

 片や刃物のような牙を並べた大口を開けて飛びかかり、片やヒトの骨など粉微塵にできるであろう凶悪な爪を振るってくる。

 魔法使いの天敵のひとつたる、ケルベルス。

 だが。

 人間という生き物には、天敵など存在しない。

 

「『ステューピファイ』ッ!」

「うぃっ、『ウィンガーディアム・レヴィオーサ』!」

 

 素早く杖を抜き放ったハーマイオニーの唱えた失神呪文が口中へ飛び込んだと同時に、幾分か遅れてロンの放った浮遊呪文が顎を持ち上げて強制的に口を閉じさせる。

 結果的に、そのタイムラグが命運を分けた。

 逃げ場のなくなった呪文が真ん中の頭の口内で暴れに暴れた結果、噛みつこうとした三頭犬の瞳がぐるりと上を向き、そのまままぶたの裏へ消えていく。どうやら、身体への命令権は真ん中の頭にあるらしい。左右二つが、驚きながらも未だ吠えていることから、それが予想できる。

 ハッと気づいた二人があわててその場から飛び退くと、身体を動かせなくなった三頭犬が先ほどまで二人のいた位置に倒れこみ、盛大な音と埃を撒き散らした。

 もう片方はどうなった。とロンが振り向くと、そこには三つの頭すべてから牙が、二本の前足から爪が抜け落ちて情けない鳴き声を漏らす三頭犬がいた。

 ハリーが杖を構えたまま息を整えている姿を見て、ロンが驚きと心配の声をかける。

 

「ハリー! だいじょうぶかい?」

「大丈夫……だよ。ちょっと、さすがに怖かったからね……。一頭仕留めたからって、調子に乗るもんじゃないな」

 

 額には汗が浮いている。

 ハーマイオニーが推測するに、恐らく武装解除呪文を極限まで魔力を込めて射出したのだろう。力を込めて物を殴れば相応の破壊が起きるように、魔力を込めれば相応の威力を持たせることができる。同じ呪文でも人によって効果のほどが違うのは、こういった理由も大きい。

 更には、魔法耐性のある外皮に阻まれないよう、眼球めがけて魔法を放ったのも疲労の原因となっているようだ。ぎりぎりまで引きつけてからの、武装解除。さぞ緊張したことだろう。

 三頭の三頭犬を無力化したハリーたちは、仕掛け扉に粉々呪文をかけて、木製の扉を粉砕する。

 無力化したとはいえ殺害していない以上、攻撃手段のひとつを奪ったにすぎない。

 現に、最初に無力化したはずの三頭犬などは這ってでも此方へ近づこうとしているではないか。

 きっとショックから回復した彼らがその気になれば、ハリーたちの小さな体はたちまちのうちに八つ裂きにされるか、本日のディナーになっていることだろう。

 

「飛び込め!」

 

 ハリーの鋭い声を合図に、三人はかつて仕掛け扉だった床の穴へと躊躇なく飛び込んだ。

 せいぜいが地下一階ぶんくらいの高さだろうと思っていた三人は、落ち続ける感覚に恐怖を覚えた。まさか。いったいどこまで落ちているんだ。

 ひょっとすると、三頭犬たちを突破するという無理矢理な手段で仕掛け扉を降りた者には、永遠に落ち続ける呪いがかけられる。などという自動起動式の魔法陣てもしかけられていたのではないか。と豊かな想像力でハリーは頬を引きつらせる。

 なにやら紫がかった色をした地面が見えてきた。この速度でたたきつけられれば、仮に床にクッションがあっても意味をなさず、汚い花火となるだろう。悲観したロンが早くも「もうおしまいだ!」と叫んでいるが、ハーマイオニーは一人落ち着いていた。落下しながらも苦労して体勢を整え、杖腕に持ちっぱなしだった自分の杖を床に向け、叫んだ。

 

「『スポンジファイ』、衰えよ!」

 

 それは先ほどハリーが唱えた呪文であり、対象をスポンジのように弾力のあるふわふわしたものに変じてしまう魔法である。一年生で習う呪文の中では、なかなかに難易度の高い呪文だ。

 ハリーが使ったときは杖先から魔法反応光がビームのように飛び出す、光線射出型の魔法だった。

 しかしハーマイオニーの使った弾力化呪文は、はたしてどのような細工をしたのかスプレー状に光が広がっていく。ハーマイオニーが広範囲をスポンジ化したおかげで、三人はクッションのような床に叩きつけられた。

 かなりの衝撃を殺す事ができたが、それでも痛いものは痛い。

 しばらくの間痛みを紛らわすために三人が三人ともごろごろとのた打ち回っていたが、どこか安堵して弛緩した空気が蔓延している。それもそうだ、十一年の人生で頭が三つある犬を三匹相手にするなどという、奇妙かつ危険な体験を終えたのだから。

 

「痛ってぇぇぇ~~~……けど、これでようやく助かっ」

「――って、ない! 助かってなんかないぞロン!」

 

 緊張と恐怖から解放された、軽い調子のロンの声を遮ってハリーが叫ぶ。

 なんだろうと億劫そうに振り向いたロンが見たのは、何がなんだかわからない、太くてぬるぬるした触手のようなものに巻きつかれたハリーとハーマイオニーだった。

 これはいったい何だ? と心底驚いたロンだったが、次の瞬間には自分も同じ目に逢っていた。

 ロンが叫ぶ。

 

「ら、乱暴する気なんだな!? 魔法薬学の教科書みたいに! 魔法薬学の教科書みたいに!」

「ロンおまえちょっと黙ってろ!」

 

 どこからか電波を受信して頬を染めて絶叫するキモチワルイ赤毛のノッポに罵声を浴びせ、ハリーは自分の太ももをまさぐる触手を引き剥がす。

 彼女はこの触手の正体を知っていた。

 《悪魔の罠》。

 魔法植物の一種であり、不用意に触れた生物を触手のように動く極太の蔓で巻き上げて、そのまま絞め殺す。事切れた獲物はそのまま簀巻きのようにぐるぐる巻きにして保存食とし、栄養が必要となったら蔓の表面から溶解液を滲ませて獲物を溶かし、吸収する。そうして地中から得られなくなった栄養を摂取するという、食虫植物ならぬ食ナンデモ植物だ。その性質上、魔法史によれば、十二世紀あたりの魔法使いが宝を守りたい時などの罠として設置していたそうだ。ゆえに、悪魔の罠などという名前がついてしまった。

 その大きな特徴は、動物だろうが植物だろうが問わない恐ろしいまでの雑食性。数年間は栄養を摂取せずとも生存可能で、たとえ粉微塵に千切れても生命活動に支障のない異様な生命力。植物のくせに葉緑体を持たず、紫外線や熱にことさら弱く、日の当たらない地下空間などに生息すること。

 そして、捉えた獲物は逃がさないということ。

 

「はっ、ハーマイオニーぃ! どんどん巻きついてくるよぉ!」

「わかってるわよ! ロン、落ち着いて! これは悪魔の罠っていう魔法植物なのよ。スプラウト先生がおっしゃっていたわ。というか今日のテストに出たでしょう? 何やってるのよロン」

「へぇー。君が名前を知っていて実に幸いだよ、ああ! 名前よりこいつをどうしたらいいかを知りたかったなぁ前から思ってたけど君らちょっとズレてるよ本当!」

 

 ロンが涙ながらに絶叫する。

 しかしそれに対するハーマイオニーは、ずいぶんと落ち着いたものだ。

 それもそのはず。対処法を知っている者にとって、悪魔の罠とは脅威になりえないのだ。

 恐ろしいほどの雑食性を有する魔法植物、悪魔の罠。そんな彼らでも、食べられないものはある。それは無機物だ。元来が抵抗すらしない石ころやらゴミやらを捕縛して、さらにそれを溶かしたとして、そんなものが彼らにとっての栄養になるだろうか。もちろん答えは否だ。むしろエネルギーの無駄遣いである。

 それを逆手にとった攻略法が、動かない事。ただそれのみだ。

 自らを無機物と誤認させることで、悪魔の罠に見逃してもらうという単純かつお手軽な防衛術があるのだ。他にも、植物の宿命として火を放たれれば燃やされてしまうし、紫外線が苦手という特徴を利用して太陽の光を当てて縮こませる、という対処法もある。

 だが魔力を消費しない方法があるならば、この先も試練は続く以上それを選ばない手はない。

 そういった理由でじっと石のように静止していたハーマイオニーが、ハリーの鋭い叫び声で身じろぎしてしまった。そのせいで悪魔の罠に生物であると認識されてしまい、ハーマイオニーの細い腰に触手が巻き付き始めた。

 ロンはもう簀巻きだ。

 

「は、ハリー!? なにするのよ!」

「だっ、だめだハーマイオニー! 動き続けるんだ! とにかく動かないとだめだ!」

 

 ひどく焦った様子で、ハリーが暴れている。

 もはや服の中まで触手に巻きつかれているようで、不快げな顔をしているのが見て取れる。

 しかしそれでも激しく抵抗し、その分だけ悪魔の罠に締め付けられていた。

 ハーマイオニーが叫ぶ。

 

「ハリー! あなた悪魔の罠を知らないわけじゃないでしょう!?」

「知ってるさ! 知ってるけど……説明の手間が惜しい! ええいぬるぬるして鬱陶しい! 『インセンディオ』、燃えろぉっ!」

 

 ハリーは燃焼呪文を唱え、杖から真っ赤な炎を吹き出す。

 熱に弱い悪魔の罠は、火の粉から逃れようとして蔦を縮ませる。少しでも表面積を小さくして、着火しないようにするためだ。

 それにより獲物を手放した悪魔の罠は、ハリーを中心にざざざぁっと引いていく。

 触手に捕まっていたハリーもハーマイオニーも、ロンも解放される。二階分の高さを持つ部屋の、二階の床に相当する位置に悪魔の罠を敷き詰めていたようだ。天井から床に落ちるかのような高さで三人は落下し、腰を打ったり尻をぶつけたりと痛い目に逢っていた。

 

「どうしてあんなことしたのハリー! 危ないじゃない!」

「そう怒らないでよハーマイオニー。ほら、足元を良くみて」

 

 掴み掛らんばかりに怒っていたハーマイオニーが、はっと息を呑む。

 足元に転がっていたのは、暗赤色の植物だった。ハリーの放った火でくすぶっているものや消し炭になっているものもあるが、この特徴的な棘だらけで、しかも歯の生えた奇妙な植物は見間違いようがない。

 冷や汗を流して、ハーマイオニーが震えた声でハリーを抱きしめた。

 

「ああ、ああ! ありがとうハリー! 助かったわ、こんな、こんなのって……」

「は、ハーマイオニー? いったいどうしたのさ?」

 

 ハリーの言わんとしていることがわからないロンが、急に震えだしたハーマイオニーを訝しんで声をかける。

 自身が危険な状態であったことに気づいてしまったハーマイオニーの背中を撫でて落ち着かせながら、代わりにハリーが彼の問いに答えた。

 

「燃え尽きかけてる植物、あるだろう。赤っぽいやつ」

「う、うん。これがなにか? 悪魔の罠だろう?」

「違うんだ。それは《毒触手草》、または《有毒食虫蔓》っていう魔法植物で、かなり悪質なやつなんだ。具体的にいうと、後ろから掴み掛ってきて、鼻の穴や耳の穴に蔓を突っ込んできて、中に種を植え付けるっていう」

 

 ロンの顔がゆがんだ。想像してしまったのだろう。

 説明しているハリーの顔も苦々しげで、これの存在を知ってしまったとき、できるならばこんな知識を得たくはなかったと思っていた。

 魔法省からC級取引禁止品に指定されているため、取扱いには省の許可と専門のライセンスが必要となる危険な植物である。もちろんホグワーツ一年生たるハリーらがそれに対する術を持っているはずがないので、毒触手草の毒を注入された時点で、終わりだ。

 他にも棘だらけの茨のような蔓で突き刺してこようとする肉食植物《スナーガラフ》や、ハリーたちが今立っている地面には泣き声を聞いた者は命を落とすと言われている成体の《マンドラゴラ》が生えているなど、完全に殺しにかかっている構成である。 

 震えあがったロンは、早く扉の向こうへ行こうと催促する。

 ハリーたちにも異論はなかった。

 部屋の隅に生えている木の根元にいる、ボウトラックルを警戒しながら、ハリーたちは扉に手をかける。

 ここまでで、試練はたった二つだ。

 

「か、カギだ……」

 

 扉の向こうで、ロンが呟くのが聞こえる。

 手をつないだハリーとハーマイオニーが、誘い込まれるように扉をくぐる。

 するとそこには、大量の鍵が飛び回るという異常極まりない光景が広がっていた。

 

「なんだこれ? 変身術……じゃないな、妖精の魔法っぽいな。フリットウィック先生か?」

 

 風を切って飛び回る鍵たちは、まるでクィディッチで使われる金色のボール、スニッチのような翼を忙しなく羽ばたかせていた。

 スニッチは高速飛行する黄金の鳥、スニジェットという魔法生物を模して造られている。

 ならばスニッチの羽を生やした鍵は、何と呼ぶべきなのだろう。

 ロンが次の部屋への扉を見つけ、開錠呪文で開けようとするも、失敗する。ハーマイオニーが代わりにやってみたが、これも無意味だった。どうやら扉に魔力そのものが通らないようになっているようだった。

 ハリーに向けて二人がお手上げだ。とジェスチャーを見せてきたので、ハリーは部屋を観察した。

 飛び回る無数の鍵鳥。異様に天井の高い灰色の部屋。そして――

 

「ハリー、それ……。ああ、そんな……」

 

 ロンが情けない顔で、情けない声を出す。

 彼の指差す先にあるのは、立派な台座だった。

 なにかを乗せていた跡がある。ハリーはそれを、そこに乗っていたものがいったい何なのか、即答することができる。なにせ毎日のように見ているのだ。見間違うわけがない。

 

「ああ。……箒だね」

 

 彼の問いに答えたハリーは、台座の周りに散らばった木片を眺める。

 執拗なまでに破壊されており、一番大きな欠片でもハリーの腕程度の長さだ。とてもではないが、それに乗ることはできないだろう。

 もはやそれは箒ではなかった。元箒の現ゴミだ。

 鍵を見るうちに、この部屋での試練がわかってきた気がする。

 天井の高い、今までよりも少し広めの部屋。

 スニッチ。……モドキの、金鳥が飛び回る。

 そして箒。今では木片だが、この部屋を作ったホグワーツ教師の思惑は明白だ。

 飛んで、鍵を手に入れて、開けろ。箒なしで。

 そういうことだろう。

 

「どうしようこれ」

 

 ハリーが引きつった笑顔で、二人を見る。

 おい。目を逸らすんじゃない。

 




【変更点】
・実技の試験受けちゃダメよ宣告。慈悲はない。
・ネビルなんていなかった
・過激な女、ハーミーちゃん。女は度胸。
・フラッフィーズは実力で突破。帰りのことは度外視。
・悪魔の罠単体だと試練にならないので。
・オメーの箒ねえから!

【オリジナルスペル】
「クェレール、取りだせ」(初出・10話)
・別空間に仕舞った物品を取りだす魔法。物品は片手で持てるサイズと重量に限られる。
 元々魔法界にある呪文。反対呪文は「リムーヴァ、仕舞え」。

「スポンジファイ、衰えよ」(初出・PS2ゲーム『賢者の石』)
・不安定な魔法で、術者の認識により効果が若干変動する。今回はスポンジ化。
 元々魔法界にある呪文。ゲームオリジナル。PC版・秘密の部屋における効果。

【賢者の石への試練】
・第一の試練「三匹の三頭犬」森番ハグリッド
 三頭犬三匹を出し抜いて仕掛け扉をくぐる必要がある。

・第二の試練「悪魔的な罠」スプラウト教授&スネイプ教授
 悪魔の罠に混じって毒触手草(棘だらけの暗赤色の植物。長い触手に触ると危険。原作2巻登場)等が混じっており、焼却以外の脱出を選ぶとほぼ確実に死亡する。


魔法生物やら魔力やら勝手に色々付け足していますが、だいたい独自なのでご注意を。
人間同士のバトルだと私の心が燃えて筆もタラントアレグラなのですが、不思議なモノです。はやく対人戦を!
ハリー達は生き残れるのか! 賢者の石を狙う何者かは無事最後の部屋に辿りつけるのか! がんばれ何か色々と!
ここから試練ラッシュ。更新速度もイモビラス! 頑張れ私! Cheering Charm!


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11.オーバーロード

 

 

 

 ハリーは屈伸運動をしていた。

 ローブは脱いで、ロンに持ってもらう。

 ネクタイを解いて、丸めてポケットにしまいこむ。

 ブラウスを第二ボタンまで開けて、胸まで涼しい空気が入るようにする。

 袖を肩まで捲って、涼しくかつ動きやすく。華奢な二の腕に冷たい空気がふれて心地よい。

 万歳状態から両手を組んで上体を反らせば、ぱきぱきぱき、と心地よい音が背中から鳴る。

 それは宙を舞い踊る鍵鳥たちの羽音に隠されて消えていった。

 

「それじゃあ、いいわねハリー。制限時間はだいたい五分くらいよ。でもずーっと持続させるってのはやったことがないから、気持ち半分くらいを目途に、出来るだけ早く決めてね」

「君ならできるさ、ハリー。だって君は一〇〇年ぶりの最年少シーカーだもの!」

 

 ハーマイオニーの確認と、ロンの激励。

 ふたつの声を小さなその背に受けて、ハリーはとんとんとその場で跳んだ。

 足首の調子はいい。挫くことはないだろう。

 手首も問題なし。杖のスナップも利く。

 両肩も大丈夫だ。多少無茶な挙動をしても痛めはしまい。

 膝、腰、首、背中、股関節、すべて問題なし。オールグリーンだ。

 魔法の訓練や勉強のみならず体力づくりを怠らなかったという努力の果実が、今この時たわわに実っている。それはさぞや甘美なる味であろう。

 もう一度肩をぐるぐると回して、ハリーは拳を横に突き出し、親指を天井に向けた。

 

「いくわよハリー! 『ヴェーディミリアス』!」

 

 合図に従い、ハーマイオニーが杖を振るう。

 すると彼女の周囲に、明るい水色をした正方形の板が複数出現する。

 それらはハーマイオニーの指揮に従って、部屋のそこかしこへと飛んで行った。

 足場現出呪文。

 もとは高所における作業などで使うために開発された、歴史の浅い若い呪文である。

 煌めく鍵鳥たちが飛び交う中、ハリーは目を見開いて部屋全体を眺める。

 クィディッチで培ってきた目。

 獣のように細められた明るいグリーンの瞳は、どのような素早いものだろうと見逃さない。

 ひょい、と水色に光る足場に飛び乗って、ベルトに挟んだ杖を抜き放った。

 

「『グンミフーニス』、縄よ!」

 

 杖先から飛び出した緑色の縄が、石造りの梁に巻きつく。

 ぐいぐいと幾度か引っ張ってしっかり巻き付いていることが確認されると、縄はまるでメジャーのように勢いよく杖先の中へと巻き戻っていった。

 それに引っ張られる形でハリーが天井まで飛び上がり、猫のように梁の上に着地した。

 巻き上がる途中、掻き抱くような動作で鍵をとらえようとしたが、手のうちには何も入っていない。飛行する動作はゆったりとしている割に、回避に関しては存外素早い。失敗だ。

 ちりりりり、と鍵鳥たちがハリーの方を向いた気配を感じる。

 どうやら敵と認定されてしまったらしい。

 

「うっく、痛っ! なんだこいつら、噛む……違う、つつく? なんか突っついてくる!」

 

 鍵鳥にくちばしなどという、上等なものはない。

 あるのはスニッチのような透明で素早く動かせる翼。

 そして金属製の細長い体。

 たとえくちばしがなかろうと、そのような細く硬いものの先端が体当たりしてきたらどうなるか。

 痛いのだ。死にはしないが、それが何羽も、何百羽もいて、かつそれらすべてがハリーに向かって突進してきたら。どうなるか。

 恐怖心を煽られながらも、ハリーは鍵鳥を振り切って、梁から跳んだ。

 

「『グンミフーニス』!」

 

 自由落下の最中に、途中の壁へ縄を撃ち込む。

 通常の縄ならそんなことはありえないが、これは魔力で編んだ魔法の縄だ。

 魔力は純粋な高エネルギー体。物理的に物体を破壊するにはもってこいのものである。

 縄が壁を貫き、しっかりと固定されたらしくハリーの体を引っ張った。落下中の体重を支えたがゆえに肩が外れるかと思うほど痛かったが、そこは無視をする。

 目の前にいるのだ。お目当ての鍵鳥が。

 まず間違いないだろう。ハリーがジャングルの猿のように部屋中を跳びまわる中、彼女の眼前にはよろよろと疲れたように飛ぶ鍵鳥がいる。御自慢の羽が折れている。賢者の石を狙う下手人がだれかは知らないが、そいつが捕まえた時に折れたのだろう。しかも、身体の部分(とはいっても元は鍵なので鍵そのものだ)は錆びついていて、いかにも古そうだ。

 ハーマイオニーが出現させた足場に着地と同時に駆ける。ロープアクションだと、どうしても素早さには箒で劣る。両者を比べたとして勝っている点は、トリッキーな動きが期待できるところだろうか。だが相手が魔法生物ならばまだしも、魔法をかけられた通常の鍵ならば魔法式(プログラム)通りに動くだけだ。それもあまり期待できない。

 次々と足場を飛び下り、宙を自在に飛び回る鍵を追いかける。

 

「この……っ、なかなかに、読みにくいっ」

 

 シーカーたるその素質を最大限に生かし、ハリーは鍵の動きを先読みする。

 どう手を伸ばせば、どんな反応をするか。そう動けば、ああして逃げるか。

 体感時間ではいくら時間がたったのか、もはや把握できない。優秀なクィディッチ選手ならば感じたことのある、コンマ一秒が何十秒にも何分にも、時間が引き伸ばされる、快感にも似たあの感覚。あれを何度も繰り返せば、実際の時間の流れがわからなくなってしまっても仕方がない。

 実際にハーマイオニーの叫ぶ声は、ハリーに届いていなかった。玉のような汗を流し、前髪を額に張り付けて、アクロバティックに鍵を追い続ける。その口元は笑みの形に歪んでおり、この状況を楽しんでいることがよくわかった。

 よくわかっただけに、危険だった。

 

「ハリー! はやく! もう持続できないわ!」

「はやくしてくれハリー! ハーマイオニーの集中力が限界なんだ!」

 

 聞こえていないだろう、とわかっていながらも叫ばずにはいられない。

 現出した足場を駆け、壁や天井を蹴り、ロープで渡る。あらゆる手段をもってして鍵を追い詰めるハリー。まるで本当に箒なしでクィディッチをやっているようなその姿は、実に輝いていた。

 だが輝いてもらっちゃ困る。先に鍵を捕ってもらわねばなるまい。

 

「ああっ! ハリー、気をつけて!」

 

 冷や汗を流したハーマイオニーの足元が、一瞬ふらつく。

 長時間もの集中のあまり、魔力枯渇に似た症状を引き起こしたのだろう。マグルでいう貧血だ。

 ロンが彼女の肩を支えたが、もう遅い。

 ハリーは今しがた着地したばかりの足元が消滅したことに気づいて、酷くあわてた。縄呪文を天井に撃ち付けて、一気に上昇する。ハリーを追いかけていた鍵鳥たちも続いて上昇。あの集団につかまれば、きっとずたずたになるだろう。

 それはまずい。縄を巻き上げている途中で切断し、近くの柱を蹴って目的の鍵鳥へと向かう。

 柱と柱の間を縫うように飛び回る鍵を、ハリーは同じく縄魔法で飛んでゆく。

 特別なことは何もできない。

 先ほどからハリーがやっているのは、鍵鳥の考え方を読み取るための追いかけっこ。

 そんな狩人たるハリーから逃れるために、鍵鳥は変則的な動きでカーブを描く。しかしそれはハリーの思う壺だった。ハリーが背後から近づいて腕を伸ばせば、鍵はほぼ確実に、体があって腕を曲げにくい方へと動く。つまり現在ハリーが鍵を捉えようと左手を伸ばすと、鍵はハリーの右手側へと動いて避けた。

 彼のそんな挙動をこの数分のやり取りで把握したハリーは、小手先の技で捉えるのは難しいと判断した。カーブで逃げるのならばショートカットしてやる。と言わんばかりに、鍵の進行方向とはズレた位置に縄を撃ち込む。

 それは鍵の向かおうとしていた先であり、鍵からしてみれば目の前に突然ハンターが現れたようにしか見えなかっただろう。

 そうしてハリーは、むざむざハンターの懐に飛び込んでしまいあわてて逃げようとした鍵の捕獲に成功する。左手の中で暴れる鍵を握りしめて、ハリーは梁から飛び降りた。

 目当ての鍵鳥を捕まえたはいいものの、他の鍵たちはまだ追いかけてきているからだ。

 

「ハーマイオニー! 受け止めて!」

「んっ!」

 

 床に飛び降りたハリーは、ハーマイオニーに向けて鍵鳥を投げ飛ばした。

 少々危なかったもののしっかりキャッチできたそれを、先ほどはうんともすんとも言わなかった鍵穴にねじ込む。そのあまりにも乱暴な扱いに、鍵が羽根をばたつかせて抗議した。

 手をはたかれて驚いてしまい、思わず手を放したハーマイオニーの隙を見て、鍵が羽ばたいた。これで逃げられる、と鍵穴から離れて飛び立った。そのとき。

 飛び込むような挙動で鍵に近づいたロンが、その長い腕を活かして逃げ出した鍵鳥を見事にキャッチした。ハーマイオニーの時とは比にならぬほど暴れに暴れる鍵だったが、ロンは握る力を全く緩めない。さきほどの彼女よりもさらに乱雑な扱いで鍵穴に突っ込み、抵抗空しく鍵をひねって開錠に成功した。

 それを見てハーマイオニーは感謝するより何するよりも早く、ハリーに叫ぶ。

 

「ハリー! 開いたわ、来て!」

「わかったーっ」

 

 梁の上を走り回っていたハリーが、床に弾力化呪文をかけながら飛び降りる。

 結構な高さから飛び降りたにもかかわらず、ゴムのようになった床のおかげで怪我なく着地したハリーが、猛然と駆け抜ける。ハリーの通った道には、天井付近からダイブしてくる鍵鳥たちが勢いよく床に突き刺さって、奇妙な模様を描いていた。

 しかし、このままだと間に合わない。

 箒に乗っていれば、余裕で扉を潜り抜けて、その瞬間に二人が扉を閉めることで鍵を振り切ることも容易だったことだろう。

 その箒は今や、ゴミクズだ。自分の足で行くしかない。

 このままいけば間に合う。

 このタイミングなら、と思ったところで。

 現実は厳しかった。

 

「……ッ、が、ぁ……!」

 

 ハリーの左足、そのふくらはぎ。

 一本の鍵が、深々と突き刺さっていた。

 彼女には知る由もないことだが、その鍵鳥はあまりに密集しすぎた鍵鳥たち同士でぶつかり合い、勢いよくはじかれた一羽であった。はじかれた先は標的たる少女の未来予測位置。なればこれ幸いにと突っ込んできたのか、魔法式通りにそのまま突っ込んだかのどちらかだろう。

 ハリー自身は、この鍵がどうして自分に刺さったのかはよくわかっていなかった。

 だが、現在の状況が非常にまずいことだけはよくわかっていた。

 足が一本、だめになった。

 それは機動力の低下を意味する。機動力の低下はすなわち、回避力の低下を示す。

 それは、それは。

 ハリーは天井を見た。

 綺麗に瞬く星のような、幻想的な光景が広がっている。

 それは鍵鳥たちの刃がハリーを串刺しにしようとする、殺意の星だ。

 盾の呪文で防げるのか。と一瞬思案して、きっとそれでは守りきれないということに考えが至り、そしてもはやお手上げなのだと気付いたハリーは、薄く微笑った。

 ここまでか。

 

「おい! おいハリーッ! 諦めるな!」

 

 しかし。

 その悲観的な思いは、ロンの鋭く大きな叫び声によって中断された。

 ロンが、扉を開けて待っているロンがその大きな掌をこちらへ差し伸べている。

 ハーマイオニーが泣きそうな顔で、ロンに預けたハリーのローブを抱きしめている。

 そういえば、そうだ。

 ここであきらめたら、彼らが困るじゃないか。

 にま、と笑顔になったハリーは、止まりかけていた足を再び動かして。

 そして。手放しかけた杖を、ロンに向けた。

 

「えっ、ちょ。待っ」

 

 必死に手を伸ばしていた必死な形相のロンの顔が、呆けたそれになる。

 

「『グンミフーニス』! ロン、引っ張ってくれ!」

 

 ハリーの杖先から縄が飛び出し、ロンの左腕に巻きつく。

 ままよ、と大声で唸りながら、ロンはそれを力の限り思い切り引っ張った。

 メジャーを巻き戻すように、その場から滑るように、散々振ってから開けたコーラの栓のように、巨人と綱引きをした庭小人のように。ハリーの小柄な体は扉に向けてすっ飛んでいく。

 ロンが抱き留めて、しかし勢いが強すぎるために失敗して。

 ハーマイオニーをも巻き込んで、三人はもんどりうって床に倒れこんだ。

 瀑布の如き鍵鳥の羽音を聞きつけて、ハーマイオニーは乱れた前髪をかきあげながら上体を起こし、杖を振るう。すると蹴り飛ばされたかのように、乱暴に扉が閉じられる。

 続いて鳴り響いたキツツキのような連続音は、ひょっとしなくても扉に鍵鳥たちが連続して突き刺さっている音だろう。何十秒も音がやむ気配がないので、もしハリーがあそこで諦めていたらと思うと、恐ろしくて仕方がなかった。

 

「助かったよ。ありがとう、ロン」

「どういたしまして、ハリー。君ってフレッドとジョージ並みに無茶な子かもね」

 

 床の上にロンを押し倒した形になってしまったため、一言謝ってから退いた。

 ハーマイオニーにも抱きしめられて、お小言を言われてしまう。諦めたわね、このバカ。と。

 彼女にも謝罪の意を表明しておいて、そして治療を頼んだ。

 ハーマイオニーは治癒呪文が使える。本来ならば四年生で習うそれを一年生の時点で習得しているというのは、ハリーは実に舌を巻く思いであった。強さを渇望するハリーではあったが、彼女のその知識欲に裏付けされた豊富な知識は得難い武器だ。

 横に寝かせられたハリーは、未だにびちびちと動いて激痛を与えてくる鍵を睨む。これからコイツを引き抜くのだ。

 きっと痛さのあまり身体は暴れてしまうだろうから、力のあるロンに押さえつけてもらった。そしてハーマイオニーのハンカチを口いっぱいに頬張って、思い切り噛みしめる。痛みに呻き、ハーマイオニーに早くしてくれと目で訴える。

 ぶつぶつと呟いて集中力を挙げたハーマイオニーが、杖を振り上げた。

 それと同時に、ロンが力いっぱい鍵をハリーの足から引き抜く。ハリーは声にならない悲鳴を上げた。

 

「あ、ッぐ――――――ッ!」

「『エピスキー』、癒えよ!」

 

 痛みのあまり暴れる身体は、ロンがしっかりと押さえこんでいる。親愛なる豚のおかげで普通の女の子より体力のあるハリーだが、男の子の力にはかなわない。悔しいことも多い非力さだったが、今はそれが功を奏していた。暴れてしまっては、治療をするハーマイオニーの手元が狂ってしまうからだ。

 まるで肉を焼くような音が響き渡り、それと同時にハリーのくぐもった悲鳴も奏でられる。

 痛々しい旋律が収まるころに、ようやくハリーのふくらはぎに開いた穴は、流れる鮮血が蒸発するかのように煙となって消えると、綺麗さっぱり元通りの白い肌になった。

 粘着質な涎とともにハンカチを口から吐き出すと、ハリーは激しく咳き込む。荒い息を吐き出して、ロンとハーマイオニーに礼を言い、ためしに立ち上がってみる。

 違和感と鈍い痛みが残るものの、歩けないほどではない。先ほどのように高速で動くのはひょっとしたら厳しいかもしれないが、それでも前へ行くしかない。

 ヴォルデモート本人だろうと、その手下だろうと。

 奴に組するものならば、倒さなければならない。

 特に帝王の復活など、想像するだに最悪だとしか言いようがない。

 ならば阻止しなければならない。

 賢者の石にて完全復活など、冗談でも言いたくない悪夢そのものだ。

 

「……よし。さあ、行かないと」

「少し休んだら、ハリー」

「だめだ。こうしてる間にも、何者かが石を手に入れちゃうかも」

 

 切羽詰まった表情のハリーの肩に、ロンが柔らかく手を置く。

 いったいなんだ、と振り返ったハリーの頬に、ロンの人差し指がぷにっと刺さった。

 しばらく硬直が続く。

 

「……あにすんにゃ」

「落ち着きなよ、ハリー。それに、たぶん。この部屋で君の出番はないよ」

 

 出番がないとは如何なることか、と訝しんだハリーがロンの指差す方へ目を向けると。

 なるほど。これが予想通りのものなら、ハリーの出番はないかもしれない。

 広々とした部屋を、独りでに点火した松明が赤々とした炎でもって照らしていく。

 揺らめく光に照らされて現れたのは、巨大なチェスボードだった。

 白と黒のチェッカー、ファイルとラインともに八マスずつ、六十四マスのチェスボード。

 黒の軍勢がこちらに背を見せ、白の軍勢がこちらと敵対しているのだろう。

 わざわざバカ正直にゲームをしている暇などないので、白のポーンの間を通って行こうとしたところ、突然動き出して剣で道をふさがれてしまった。退けば、鞘に剣を収めてくれる。

 チェスで勝って進め、ということだろうか。

 ハーマイオニーが言うには、マクゴナガル先生はチェスの元英国チャンピオンだったそうだ。ずいぶんと前の大会の事らしいので、ひょっとしたら戦術は古いかもしれない。勝機があるとしたら、そこだろう。

 さて。

 ハリーら三人組のチェスの腕前はどうなのかというと、まずハリーが一番弱い。駒の動かし方を良く分かっていない時点でお話にならない。友達がいなかったので今までチェスを触ったこともなかったというのも大きいだろう。ダドリーがチェスを食べ物だと思っていたのも大きすぎる要因だろう。

 次点でハーマイオニー。あまり経験はないものの、持ち前の頭の回転の良さで先読みをして、なかなかの実力をつけている。ロンと対局するたびにめきめきと力をつけている状態だ。大人になるまでに続けていればかなりの打ち手になるに違いない。

 ダントツで最強の名をほしいままにしているのがロンだ。彼の手にかかってはハーマイオニーなど赤子同然であり、ハリーなど目を瞑っていても勝てる。事実、ハリーとハーマイオニーを含めたグリフィンドール生四人を同時に相手取って全員と故意にスティールメイトするほどの実力を有しているのだ。

 

「僕に任せてくれ。なに、たまにはいい格好見せたいじゃないか」

 

 赤毛のノッポが、不器用にニヤッと笑う。

 不覚にもちょっとカッコいいと思ってしまったハリーは、照れ隠しのために「ならさっさと指示を出せ」とロンの尻に平手を叩きこんだ。

 乱暴だと抗議するロンは、それでも盤上を観察する。

 これだ、この目だ。

 チェスをする時のロンは、随分と不思議な目をしている。

 まるで未来でも見えているのではないかというほどハリーらの手を読んでくるその先読みの異常さ、チェスに関する知識ならば他の追随を許さないその豊富さ。

 ハリーはロンの指示に従いビショップの位置へ移動して、元々そこに居たビショップに場所を譲ってもらう。我等に勝利を、なんて声をかけられても困る。

 しかし、そうか。

 自ら動いて声を出してというのなら、これは普通のチェスではない。ウィザードチェスだ。駒が自分の言うことを聞いてくれるか如何かは、駒自身が打ち手を認めているか否かに依る。ハリーが行ったウィザードチェスは通常のチェスと同じサイズなので何とも思わなかったが、相手の駒を取る際には、駒が駒を実際に破壊するのだ。クイーンならば持っている剣で一刀両断するし、ナイトならば馬の一蹴りで粉砕する。

 心配になってロンを見てみれば、ナイトの位置についた彼がハリーの表情を見てとってニヤリと笑う。

 

「心配しなくていいよハリー。この試合、勝つのは僕たちだ」

 

 なんとまあカッコいいことを。

 そんなロンを見ていると、彼はその得意げな笑顔を引っ込めて真面目な顔つきになる。

 ビッ。と間の抜けた短い音が鳴る。

 ゲーム開始だ。

 先攻は白。つまり相手側のようだ。

 重々しい音を立てて、白のポーンが動く。

 石造りのホワイト・ポーンはその足音を響かせながら二マス分を歩いて、E4のマスへと進む。そうして彼は腰の石剣に手を置いた。さあ、来い。いつでも殺してやる。物言わぬ対戦相手からそんな幻聴が聞こえる。

 しかし驚くべきは、そこではなかった。

 

「な、んだって……ッ!?」

 

 ロンから驚きの声があがる。

 巨大なチェスボードの、ほぼ真ん中。丁度D6と呼ばれる位置の色が変わったのだ。

 ぐにゃり、とマーブル模様になったと思えば、黒かった床板が白に変じる。

 それと同時。隣り合うD5の黒かった床板が、同じく白に変じた。

 白いD4と、白になったD6に挟まれて、D5が白になる。

 これは、これはつまり――

 

「リバーシ……!」

 

 ロンが絶望的な声を漏らす。

 彼に数瞬遅れてハリーは気付いたが、この試練の悪辣さに思わず悪態をこぼした。

 理解できていないハーマイオニーが疑問を飛ばす。

 試合に集中したいであろうロンにではなく、ハリーに問いを投げるあたりの気遣いが残っているのは彼女がまだこの事態に気付いていないからだ。

 

「は、ハリー? どういうこと?」

「……ああ。これはね、チェスと同時にリバーシでもあったんだよ」

 

 リバーシ。

 これもチェスと同じく、イギリス発祥のボード・ゲームだ。

 チェスと同じく六十四マスのボードを使う。もう一つは、裏表が白と黒のチップを用いる。自らのチームの色をしたチップ二つで、相手のチップ一つを挟むことで反転させ、自分のチップの色に変える。

 そういう単純明快なゲームだ。

 だからと言って簡単なゲームであるというわけではないが、ロンにとって違いはない。

 ゲームルールの内容如何にとっては、だが。

 

「……ルールだ。ルールを確認させろ! 特に、勝利条件をだ!」

 

 ロンが叫ぶ。

 これが侵入者を排除するための罠ならば、これほど滑稽なことはない。

 だが、三頭犬のときの仕掛け扉然り。

 悪魔の罠での焼却という脱出方法然り。

 此度のチェスで勝てば通れるということも、然り。

 正解が用意されているということは、これらは排除ではなく試練なのだ。

 ならばこそ、挑戦者の求める声には応じるはず。

 ロンのその予想は正解だった。

 白のキングが、その手に持った剣を床に打ちつけると、魔法文字がするりと流れ出す。

 空中に描かれた文字は、『同時に勝利せよ』と素っ気ない文章。

 だが、それにロンは苦虫を噛み潰したかのような顔をした。

 

「……チェスとリバーシを同時にやって、同時に勝利しろってことかよ」

「そんなの! できるわけないじゃない!」

 

 ハーマイオニーが悲鳴をあげた。

 ロンの強さを良く知っているハリーだが、これはチェスではない。

 一体どうしたらいいのか分からないが、ロンは大きく深呼吸すると眼光鋭く言い放った。

 

「――約束する。君達を取らせはしない」

 

 ロンが言い放つと同時、駒に指示を飛ばし始める。

 チェスでポーンを動かすと、次はリバーシの指示を飛ばす。

 ポーンとポーンが剣で斬り合い、黒いマスが白いマスを挟んで色を変える。

 白のビショップが黒のポーンを貫いて、ハリーの目の前でポーンが爆散する。ロンがナイトに指示を出せば、一足飛びにポーンの頭を飛び越えて白のビショップの首を刎ね飛ばす。

 相手が複数の黒マスを挟んで白に変えれば、ロンはそれを上回る数を挟んで縦横斜めを一挙にひっくり返す。

 チェスにもリバーシにも疎いハリーでも分かった。

 激戦だ。

 それも有り得ないほどの。

 相手が魔法式(プログラム)に従って最良の手を選んで動いているのに対して、ロンは自前の頭脳で逐一状況を判断し、己の出せる最善の手を打っている。

 そう、最善だ。最良ではない。

 ロンには相手と違って、行動に制約がついている。

 自分自身、ハリー、ハーマイオニーの駒を絶対に取らせないという制約が。

 これを破るわけにはいかない。

 ハリーとハーマイオニーは当然だ。なぜなら彼女らは女の子だ。古い考えかもしれないが、敬愛する父たるアーサーは常々言っていた。女の子を守るのが、男の子の仕事なのだと。ロンもそれに異存はない。

 自分は二人より劣っていると自覚はしている。そそっかしいし、成績も良くない。だが、この場面だ。この時がきた。親友だと思っている彼女たち二人を守るのに全力を尽くせるなど、これ以上の名誉はないだろう。誇らしいのだ。

 そして自分自身も取られるわけにはいかない。

 チェスだけなら、自分を取られることを前提に行動して、あと一手のみをハリーたちに任せても大丈夫だろう。チェックメイトをしてもらうだけの簡単な仕事だ。

 だが事は違う。リバーシもしなくてはならないのだ。

 こちらも自分が倒れたあとで、指示を出してもいいのかもしれない。

 しかし。だが、しかし。

 そう上手くいくはずがなかった。

 フル回転させた脳が悲鳴をあげ始め、激しい頭痛に集中力をかき乱される。

 つ、と鼻からネバついた血が垂れてきた。

 それに気づいた一瞬が、集中力のほつれであった。

 

「しまっ……ッ!」

 

 一手。

 そのたった一つを、ミスした。

 ゲームとしては、致命傷ではない。それは悪手ですらない。

 だが。今この時において。

 それは、やってはならない手であった。

 ハリーは取られない。ハーマイオニーは届く位置に居ない。

 ならば。

 標的は、――自分だ。

 

「ロォォォ―――ンッ!」

「いやァァァ―――ッ!」

 

 相手のクイーンが、ファイルをひとっ飛びして此方へ跳んできた。

 振りかぶられた石剣の動きが、スローモーションでよく見える。

 まずいな、と思った思考が口を突いて出た、その瞬間。

 石剣はロンの乗った馬の首を刎ね飛ばし、返す刀でロンの脇腹を貫いた。

 熱い。

 最初の感想はそれだった。

 次にわき上がるのは、嘔吐感。

 今までの人生で感じたことのない嫌悪感が胃を満たして、ごぼりと粘着質な血が溢れる。

 少女二人の、絹を裂くような悲鳴が聞こえる。

 意識が遠のく。

 それは決して手放してはならないものだと分かってはいる。

 分かっているからこそ。

 ロンは、手に届く範囲に落ちていた石の欠片を拾って己の肢に突き刺した。

 

「ぐ……、あッ……!」

「ロン! ロン!」

「血、血が! 早く止血しないと!」

 

 ハリーの悲鳴のような呼び声と、ハーマイオニーの切羽詰まった声が聞こえる。

 ロンは後者の声を聞いて、慌てて叫んだ。

 

「動くなハーマイオニーッ!」

「……ッ」

「げ、ゲームは、終わって、いない。まだ、続いている」

 

 ごぼ、ごぼ、と液体音を漏らしながらも、這いつくばりながらも、ロンは指示を続行する。

 ハーマイオニーは涙の瀑布を溢れさせ、ハリーは唇を喰い千切らんばかりに噛んだ。

 石の兵士たちが無言で従う。

 彼らが従うのは石造りの黒い(キング)ではなく、斃れたナイトの騎手(ロン)だ。

 

「……行け、クイーンに成ったポーン。お前が行くのはF5だ。……チェック! リバーシ。A1に黒を置く。これでAファイルと1ラインは僕たちのものだ」

 

 白に動揺が広がる。

 石の、無機物の、ただの魔法式に従う石ころどもが。

 何の力もない、死体同然の少年一人に怯えているように見える。

 ロンのブルーの瞳が、ぎらぎらと怪しい光を携えて盤上を睨みつける。

 燃えるような赤い髪の奥で戦場を見通す青は、勝利を確信した、まさに将のそれであった。

 赤い血を石剣から振り払った白のクイーンが、ポーンに縊り殺される。 

 仇とばかりに相手のナイトが動こうとするが、そこを動けば、キングが裸になる。

 だが、そこを動かねば白い女王を害した黒の歩兵が、白い王の首を刎ね飛ばす。

 詰み(ツークワング)だ。

 しかしルール上、相手のナイトは動かねばならない。

 憎々しげな様子で白のナイトはロンの頭上を飛び越え、先に居た黒のポーンを踏み砕いた。

 これで、白の王は、死あるのみだ。

 

「……ハ、リィ。動け。トドメは、きみ、が。刺すんだ」

「ロン……」

 

 ハリーはビショップだ。

 ただただ、斜めに動けばいい。

 早くロンの元へ行きたい一心で風のように駆け抜け、ハリーは相手の王に手が届く位置までやってきて、叫んだ。

 それはたった一言でいい、魔法の呪文。

 相手の首を掻き切る、ただ一言。

 

「チェック・メイト!」

 

 白の王が、掲げていた宝剣を手放す。

 耳障りな音を立てて剣がボードに落ちれば、同時にロンが指示を出し、盤上がほぼ黒一色に染め上げられた。白を打ちこむ隙間など、あるはずもない。

 チェスも。リバーシも。

 同時に勝利したのだ。

 

「……ッ、……!」

 

 ハリーが急かすように、降伏した白の王を睨みつける。

 生き残った白の兵士たちが全て平伏したのを合図に、中空にはコングラッチュレーションの文字が躍った。

 しかしハリーとハーマイオニーに、そんなものを見ている余裕はない。

 二人は脱兎のごとくロンのもとへ駆け寄り、急いで止血を試みる。

 あたりは既に血だまりのようになっていて、ロンは既に意識を手放している。

 ハリーは己のブラウスを引き裂き、上半身の服を脱がせたロンの腹に巻いてゆく。ハーマイオニーは杖を額の前に構えながら極限まで魔力を込めて、鋭く唱えた。

 

「『エピスキー』、癒えよ!」

 

 ほのかに緑がかった暖かな光がロンの腹を包む。

 痛々しく引き裂かれた痕の見える脇腹の傷が、ゆったりと塞がってゆく。

 ハリーがロンの頬をはたいて意識を呼び戻そうと試す。

 すると、魔法の効果もあってロンはゆっくりと目を覚ました。

 

「ロン。お願い、返事して。あなたがいなくなるなんて、いやよ……」

「……、ロン。ロン、返事できるか? 頼む、何でもいいから言ってくれ」

 

 死にかけ。

 または死ぬ寸前とでも言いたげな二人の様子に、目を覚ましたロンは小さく笑った。

 笑ったおかげで治癒されたばかりの脇腹が鋭く痛んだが、それでもロンは笑顔だった。

 

「……なん、だよ。別に死ぬわけじゃないだろう」

「ロン……!」

「あ、待ってハーマイオニー。抱きつかない方がいい」

 

 感極まって抱きしめようとするハーマイオニーを、ハリーが止める。

 流石にこの状態でそんなことをしては、殺してしまうかもしれない。

 意識を引き戻し、傷付いた肉体を魔法で治せても。

 ダメージを受けた心までは、どんな魔法でもなかなか治すことはできないのだ。

 

「おや、セクシーに、なった、ね。ハリー。へそ出し、かい?」

「うるさいな、ロン。……ちょっと休んでよ。心配させるな……」

 

 冗談を飛ばしてもしおらしいままのハリーに、ロンは薄く笑った。

 ここは大人しくしておいた方がよさそうだ。

 先は格好付けて勝つなんて言っていたのに、この様では全く格好つかない。

 カッコ悪いなあ、僕。

 そう一言呟いて、ロンはしばらく夢の世界へ旅立つことにした。

 

「バカ。十分かっこいいっつぅの」

「ロンは自分の評価が低すぎるのよ」

 

 残された二人は、体力の回復もかねて数分休むことにした。

 ハリーが足の痛みをほとんど気にしなくて済むようになった頃、ロンが呻きながら身を起こす。

 大丈夫かい、と声をかければ逆に心配されてしまった。

 人のことは言えないだろうに。

 

「よし、次へ行こう! スネイプから石を守るんだ!」

「いやまあ、スネイプかどうかはわからないんだけどね」

「ハリーが何度もそう言うもんだから、だんだん私も疑問に思えてきたわ……」

 

 怪我も癒えて、くだらない話をして疲れもある程度削いだ。

 ならば前進あるのみ。

 ロンは陽気にそう言って、次の試練への扉に手をかけた。

 

「ロン。何が来るかわからないから、十分以上に注意してよ」

「わかってるって」

 

 わかっていない様子でロンは扉を開け放つ。

 先ほどの頼れる格好よさはなんだったのだろうと思いながら二人は扉をくぐった。

 なんだか薄暗くてよく見えない。

 部屋に入った最初の感想はそれで、次に「臭い」だった。

 

「……ねえ、この酷い臭い、覚えがない?」

「ははは。やめろよハーマイオニー。脅かすなって」

 

 二人が乾いた笑いを零しているその前で。

 ハリーが懐から杖を抜きながら、ため息をつきたい気持ちを呑みこんで叫ぶ。

 

「現実逃避してる場合かッ! 来るぞ!」

 

 なにか大きなものが、風を切って落ちてくる。

 転がってそれを避けたハリーは、大きく振りかぶって呪文を唱える。

 しかしその失神呪文は、何か大きなもので阻まれた。続いて援護に放たれたハーマイオニーとロンの呪文も、似たようなものに弾かれて届いていない。

 何も見えないというわけではないが、こうも薄暗いと敵との距離も把握しきれない。

 ぶつぶつと呟いたハーマイオニーが、杖を掲げて叫ぶ。

 

「『ルーモス・マキシマ』!」

 

 するとただの『ルーモス』とは違う、蝋燭のような杖灯りではなく閃光のようなまばゆい光が、杖先から発せられた。

 ドーム状に広がる光は、まるでシャボン玉が膨らむがごとき勢いで瞬く間に部屋中を覆い尽くし、闇をすべて打ち払った。ハーマイオニーが杖を掲げるのをやめても、明るさは消えることなく部屋を満たしている。

 そうして見えてきた光景を一言で表すならば、

 

「うわ、キモッ」

 

 ロンが呟いたそれである。

 バカ、バカ、バカ。見るに堪えない光景の名がそれだ。

 トロール。全長三メートルから四メートルのトロールが、ずらりと並んでいた。

 その数、全部で十匹。

 十匹のバカが鼻息荒く、棍棒を持って立っていたのだ。

 かつてハロウィーンの夜に見た光景よりも酷いものを見て、ハリーとハーマイオニーが叫ぶ。

 

「気持ち悪っ!」

 

 バカなりに悪口だと解釈したのか、トロールたちが怒りの声をあげた。

 ブーッ、と鼻息荒く十匹が十匹すべてが棍棒を振り上げ――

 お互いの顔面に思いきりぶつけてしまう。

 そうして始まったのは乱闘だ。

 お前が悪い、いいやお前だとでも言いたげな呻き声が部屋でぶーぶー鳴り響き、地団太やたたらを踏む音がずしんずしんと響き渡る。

 なんと下らない光景だが、彼らは巨体だ。彼らから見ればチビ助に過ぎないハリーら人間にとっては、遥かにデカく重い生物が暴れているというのはそれだけで既にかなりの脅威だ。

 だがハリーはこめかみを抑えて頭痛をこらえる。

 

「どうやって突破しようこれ」

 

 ロンとハーマイオニーは苦笑いを返すしかできなかった。

 




【変更点】
・逆に考えるんだ、箒なんてなくたっていいさと。
・数少ないロンの魔改造ポイント。
・実際、同時勝利って出来るのかな。
・ロンを放置は出来ないので連れていく。足枷ウィーズリー。
・モンスターハウスだ!

【オリジナルスペル】
「ヴェーディミリアス」(初出・PSゲーム『賢者の石』)
・足場を出現させたり、隠し通路を暴く呪文。術者にはかなりの集中力が求められる。
 元々魔法界にある呪文。ゲームオリジナル。

「グンミフーニス、縄よ」(初出・11話)
・杖先から魔力で編んだ縄を射出する魔法。本来は捕縛などの用途に使われる。
 元々魔法界にある呪文。魔力の込め方次第で長さや太さが決まる。

【賢者の石への試練】
・第三の試練「君もダイ・ルウェリンに」フリットウィック教授&マダム・フーチ
 箒に乗って飛び交う鍵鳥から目当ての物を見つけ、扉を開ける。……だけだったはずが、石を狙う何者かが箒を破壊したせいで無駄に難易度が上がった。

・第四の試練「ディープブルー・チェス」マクゴナガル教授
 チェスとリバーシを同時に行って勝利する必要がある。
 このステージで魔力は必要ない。チェスを知らない者はその時点でチェックメイト。


今回、チェスは悩みに悩みました。私チェス出来ないのです。色々と不自然な点は多々あると思いますがオブリビエイト! 君は何も見なかった、いいね。
ここまでが比較的イージーステージです。次回からは適性のある人間でないと全くできない試練ばかりになる事でしょう。頑張れハリー、胃薬は暴れ柳の下の部屋だ。


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12.スターゲイザー

 

 ハリーは即座に動いた。

 相手の反応が遅いことはハロウィーンの夜に学んでいる。

 杖を抜き放ち、手首のスナップのみで突き刺す動作で呪文を放つ。

 

「『エクスペリアームス』、武器よ去れ!」

 

 バチン、と弾かれる音とともに、正面のトロールが持っていた棍棒が手放された。

 くるくると宙を舞う棍棒を、今度はハーマイオニーの浮遊呪文が捉えて支配下に置く。

 ハーマイオニーが操る杖の動きに合わせて棍棒が突進し、一体の森トロールの側頭部に鈍い音を立ててぶつかった。

 あまりの衝撃にのけぞった森トロールは、朦朧とした意識で自身の体重を支えきれずに崩れ落ちる。その際に隣にいた山トロールを巻き込んで倒れたので予想外の儲けだ。

 その隙をハリーは見逃さなかった。痛みと怒りに唸る山トロールの左目に向けて、失神呪文を放つ。どれだけ頑強な肉体を誇る魔法生物でも、眼球まで頑丈な種はそうそういない。トロールも例外ではなく、目玉に打ち込まれた呪文が脳に達し、まるで事切れるかのように失神した。

 ハーマイオニーは再度浮遊呪文を唱えると、二本の棍棒を同時に操るという離れ業を見せてのける。空中で独楽のように回転させて威力を高めると、それぞれ呆けていた森トロールと川トロールの顔面にシュートする。

 

「やったぜハーミー! 撃墜数が増えたよ!」

「なに変な電波受信してるのロン! 引っ込んでなさい!」

 

 ハーマイオニーの叱咤に、ロンは大人しく壁際に下がっていった。

 どちらにしろ、今の状態では少し腹に力を入れるだけで傷口が開いてしまう。

 くやしいが、足手まといだ。

 

「『インセンディオ』、焼き尽くせッ!」

「『ラカーナム・インフラマーレイ』!」

 

 ハリーとハーマイオニーが、同時に赤と青の炎をばらまく。

 ハロウィーンの個体と同じく、ヒトよりは獣に近い脳構造を持つトロールは火を恐れる。

 案の定、怯えた声を出して魔法火から離れだす。仲間がやられた怒りは、どうやら今の恐れで忘れてしまったようで完全に怯えた声しか出していない。

 こうして完全な優位に立って始めて、ハリーは気づいた。

 この部屋にいるトロールのすべてが、頭から出血している。

 ハリーたちがノックダウンした個体は言わずもがな、まだ相手取っていないトロールまでもが怪我をしているのだ。なぜか。それはおそらく、石を狙う下手人がやったのだろう。やはり、先に進んでいる。それもこれだけの数を、頭部のみの外傷で済ませて。

 倒すべき敵の強大さに身震いするも、ハリーは止まるわけにはいかなかった。

 一気に駈けだして、ハリーを捕まえようとする巨大な手をスライディングすることによって速度を緩めず避けて通る。トロールの股下を潜り、背後を取るとそのままの体勢で呪文を唱える。

 狙うは、アキレス腱だ。

 

「『ディフィンド』、裂けよ!」

 

 バヅンッ! と派手な音が響いた。

 ハーマイオニーは戦闘中にも関わらずびくりと肩を動かし、やった張本人であるハリーもたまげた。

 足首が小さく裂かれたトロールの腱は、自重もあって大きく切れてしまう。

 痛々しい悲鳴をあげた灰色の肌のトロールは、あまりの痛みにその場に倒れこんでしまう。

 少し同情するし申し訳ないと思うが、悪いが生き残るためであり、押し通るためだ。

 恨むなら存分に恨んでくれ、と心の中だけで言い訳しながら、ハリーは失神呪文をかけて倒したトロールの意識を奪った。

 続いてハーマイオニーは、トロールらが暴れたことにより生産された瓦礫を集めて、宙に浮かばせていた。ごがぁと怒りの雄叫びをあげて突っ込んでくる川トロールに向けて杖を振ってそれらを射出し、飛礫の雨を降らせる。重量によって押し倒されたトロールだが、鬱陶しそうに瓦礫を払って起き上がろうとするあたり、人間ならば入院もののダメージであるはずだが彼らには効いていないようだ。

 だがハーマイオニーの狙いは、そこではない。

 トロールの周りに瓦礫を集めることこそ本懐なのだ。

 

「『コンフリンゴ』、爆ぜよ!」

 

 どぱ、と空気を押しのけて岩が飛び散った。

 紅蓮の光を撒き散らして、拳大から人の頭ほどの飛礫と変じた岩がトロールに牙を剥く。

 火薬を使っていないので熱はそうでもないが、それでも爆発呪文により爆ぜた物体の威力は、対象物の大きさによるので、此度の爆発は中々のものである。それが幾度も重なって、至近距離で食らってしまうというのは出来れば想像したくない状況だ。

 それを全身にしこたま浴びせられた川トロールは、苦痛の呻きを残し、その動きを止めた。

 

「ハーマイオニーッ! そういうことするなら先に言ってくれ! 危なかったぞ!」

「あっ! ご、ごめんなさいハリー!」

 

 失神したトロールを盾にして飛礫をやり過ごしたハリーの叫びに、いまさら気づいたのかはハッとなったハーマイオニーから謝罪が飛んでくる。

 残り三体。

 ブーッ。とリーダーらしき個体が吠えると、両隣にいたトロールが棍棒を振りあげた。

 奴らが統率役か。

 ハリーはそう判断し、その割にはあまり統率がとれていなかったな、という思考を押し込めて走り出した。ハリーのいない位置に棍棒が振り下ろされるが、バカにはできない。問題は床が揺らされたということだ。足を取られないように細心の注意を払って踏み込むが、ハリーの軽い体重ではどうしても体が浮いてしまう。

 リーダー格の黒い肌のトロールが棍棒を振り上げたのを見て、ハリーはまずいと歯噛みする。

 

「ハリー!」

 

 ハーマイオニーの声。

 その声に一瞬で作戦を立てたハリーは、方向転換して逃げに徹した。

 杖を下に向けて、口中で呪文を唱えながら走るのは結構難しい作業だが、できる。あとはハーマイオニーがうまくやってくれると経験からわかっているからこそできる。

 すばしっこい黒髪のチビを壁際に追い詰めたと見て、護衛トロール二匹が舌なめずりをして喜んだ。今夜のメインディッシュは決まりだ。

 しかし二匹は、冷水を浴びせられたかのような気分になって一気に気持ちが萎えてしまう。

 否、違った。冷水を浴びせられたかのような気分ではなく、実際に冷水を浴びせられたのだ。

 

「……『アグアメンティ』。さあどうぞハーマイオニー、見せてくれ」

「任せてハリー」

 

 冷気がハーマイオニーを中心に渦巻いて集まり、白い霧の中心で杖を振るう彼女は、まるでお伽噺の魔女のようだった。いや、事実魔女である。ホグワーツの誇る、秀才の魔女。

 複雑な紋様を描くように杖を振るい、最後に水を薙ぐように空を切って杖先を突きつける。

 狙いは、水浸しの床だ。

 

「『グレイシアス』、氷河になれッ!」

 

 杖先から白い煙が噴きだす。

 それが水にあたると、たちまちのうちに硬質な音とともに凍り始めた。

 驚いた護衛トロールが飛び退こうとするも、すでに遅い。ハリーの魔法で全身が水浸しになっていた二匹は、たちまち体中が氷漬けになっていく。

 慌てふためいた様子ではあるが、もはや何もすることはできまい。

 驚愕と恐怖の表情のまま、二匹は醜い彫像となってその動きを止めた。

 

「ブォォォ――ォォァァァァアアアアアッ!」

 

 それに激しい怒りを表したのは、最後のリーダー。

 海トロールだ。

 山トロールと川トロールを気の遠くなるような回数かけ合わせて、それでいて突然変異によってようやく創りだされたとされる、魔法使いの創りあげた魔法生物である。

 言語は扱えないが、解せないわけではない。

 むしろトロールのバカさ加減に辟易した近代の魔法使いが、どうにかして克服できないかと試行錯誤して創ったものなのだから、原種よりも頭脳の出来がよくて当然である。

 さらに海トロールは外皮に多少の魔法耐性が付与されており、申し訳程度ではあるが、それでも野生のトロールと比べれば、遥かに魔法に対して強い。少なくとも、極限まで魔力を込めるなどをしていない十一歳の魔法など、たいした効果が見込めないほどには。

 だが。所詮はトロール。

 頭脳戦などできようはずもなく、ただ、普通のトロールよりも少しだけ出来がいいというだけの話。しかし、こと本能が大きなウェイトを占める戦闘というジャンルにおいては、海トロールはうってつけだ。本能的な力に、ほんの一握りの頭脳。

 厄介極まりない暴力装置の体現である。

 

「ハーマイオニー! 下がれ!」

 

 唐突に。

 ロンのよく通る声が響いた。

 咄嗟にその声に従ったハーマイオニーは、兎のようにぴょんと跳ねてバックステップを取る。するとちょうどハーマイオニーの立っていた位置に石の飛礫が飛来して、床を抉って転がっていった。

 青ざめるも杖を取り落すまいと気丈に振る舞うハーマイオニーを見て、ハリーは心底安堵する。

 そして次に飛んできた指示は、ハリーへのものだった。

 

「ハリー! トロールの足元に瓦礫をばらまいて! とにかく動きを制限するんだ!」

「任せろロン! 『ウィンガーディアム・レヴィオーサ』!」

 

 ロンの指示に従い、ハリーは散らばった瓦礫を浮遊させて放り投げた。

 本来ならもっと素早く、それこそ巨人が蹴り飛ばすような勢いで放りたいものだが、如何せん浮遊呪文はその名の通り、元来浮遊させるためだけのものなので、スピーディにものを動かせるとは言い難い。

 ならば途中まで浮遊させて、あとは慣性と重力に任せて放った方が、よほど素早く大きく重いものを放りだせるというものだ。

 足元に瓦礫を放られたトロールは鬱陶しそうにしながらも、その一つ一つを棍棒でたたき割っていく。選択肢としては上等だ。先ほどハーマイオニーの使った呪文は、対象の瓦礫が大きかったから一撃でトロールを昏倒させるほどの爆発ができた。だから、瓦礫を砕いて小さくするというのは頭のいい方法ではないが、愚行ではないのだ。もっとも、魔法で飛んできたそれ自体に意思があって自分を攻撃してきた、と思っていたという可能性もあるので、一概にあの個体の脳みそが上出来かは判断がつかない。

 ならばとハリーは《粉々呪文》を唱える。あれだけ砕かれてしまっては、爆破してもそんなに威力の大きな爆風で攻撃できないというのなら、身動きを封じてやろうという魂胆だ。

 狙い通り。ハーマイオニーの放つ切断呪文に小さな切り傷を受けるのを嫌がって、たたらを踏んだトロールの足の裏を、まきびしのようになった瓦礫の欠片が貫いた。今までハリーが他のトロールたちにやってきたことに比べれば微々たるものだろうが、痛いものは痛い。

 痛いという警告信号を受け取ったならば、それを避けようとするのは魔法生物でも備わった本能であり、彼にもやはりそれは備わっていた。切断呪文を嫌がるも、下がれば足の裏に鋭い痛みを味わうことになる。

 さて、トロールはバカである。

 訓練次第では警備員の真似事ができる個体がいるとはいえ、そんなものは魔法省所属などといったとてつもない希少な部類である。この部屋のトロールは総じてバカそのものであり、とてもではないが調教によって侵入者を攻撃するなどという命令を受け入れられるような個体ではなかった。

 その点、この海トロールはかなり優秀であった。全十匹の群れのボスとなることで命令系統を手に入れ、侵入者に対しての攻撃という単純な命令も下すことができる。人間の言を操れずとも理解はできる。トロール同士の意思疎通すら可能だ。

 だがそこはトロール。

 複数の状況が重なって、それの解決策を考えるとなると脳みそがパンクしてしまう。

 侵入者を叩き潰さなくてはならない。だが邪魔な呪文が飛んできて痛い、それは嫌だから避ける。しかし避けると足元のちくちくした何かが足に刺さって痛い。だから避けない。けれど動かなければ呪文は当たるし、侵入者を攻撃できない。だからといって動けば……という思考の無限ループである。

 窮したトロールは、ついに強硬手段に打って出た。

 

「ブゥゥゥゥ――――ッ! ンモォォォ――ッ!」

「うわっ! 駄々をこね始めたぞ!」

 

 兎にも角にもとりあえず暴れる、である。

 棍棒を振り回し、壁を破壊し、石柱をなぎ倒す。巨大な醜い赤ん坊は、周囲に破壊を撒き散らしながら大暴れする。しかし、それは、大きな過ちだった。

 海トロールが我を失ったことによって余裕ができたハーマイオニーが、杖に魔力を集中する。数秒という短い時間だが、こと戦闘中に置いては那由多にも等しい隙になる。そうして極限までの魔力を込めたハーマイオニーは、最大限の威力を伴った切断呪文を打ちつけた。

 

「『ディフィンド』、裂けよ!」

 

 教科書の手本に載っても相違ないほどに綺麗な動きで杖を振ってトロールに突きつければ、杖先から風の刃が飛び出した。

 それは狙い違わず飛来し、海トロールの額に大きな切り傷を負わせた。

 だらりと流れる血に慌てた彼が暴れるのをやめた、その瞬間。

 既に杖を構えていたハリーが、鋭く唱えた。

 

「『アナプニオ』、気道開け!」

 

 《気道確保呪文》。

 本来は読んで字の如く、何かを喉に詰まらせたり溺れた者の気道を開き、生命維持を試みる応急処置の呪文である。

 あろうことか、ハリーはそれを悪用した。

 トロールの傷口を無理矢理に気道であると認識することで、呪文の発動を可能とした。

 そうしてトロールにできたほんの少しの傷を開き、巨大な傷口となるまで引き裂いたのだ。

 垂れる程度の流血がどく、どく、と噴き出すようになってから、トロールはようやく自分の視界が真っ赤に染まっていることに気付いた。そしてその視界も、随分と霞がかっている。

 ハリーはそれを隙とみて、武装解除呪文を射出した。 

 海トロールの眉間に赤い閃光が直撃すると、棍棒が弾き飛ばされると同時、余剰魔力に打ち据えられ、海トロールは背中から大きく倒れこんだ。

 轟音も収まり土煙も収まった後には、静けさが残るのみ。

 

「……殺したの?」

「どうだろう。殺すつもりでやったけど、普通にまだ生きてそう」

 

 恐る恐るといった風にロンが覗き込んでくるものの、ハリーの答えは微妙だった。

 無力化はできたと思うんだけど、とロンの方を振り向いた、その時。

 ロンの顔が、歪んだ。

 何事かとハリーが思うのと、そのロンがハリーを突き飛ばしたのはほぼ同時。

 倒れこんだハリーを擦るように、黒い何かが過ぎ去った。

 ハーマイオニーの悲鳴のような声が響いた。

 獰猛な声が、すぐそばで唸った。

 まさか。と思って振り返れば、すでに事態は終わっていた。

 完全に失神した海トロールが、腕を伸ばしたまま白目をむいている。

 悲鳴のように叫びながらもしっかりとした失神呪文を放ったハーマイオニーは、息せき切って壁際に駆け寄っている。その先には、ロンだ。ハリーを庇って、トロールの拳を受けてしまったのだろう。幸いなのはトロールの意識が消えかけの状態で全く威力がなかったことと、元来がハリーを狙った一撃だったためロンには直撃していないということか。

 だが、ハリーは血の気が引く思いだった。

 驚きのあまりよく言うことを聞かない己の足を叱咤し、ロンの方へ這うようにして寄る。

 ハリーを突き飛ばした際に伸ばしたままだった左腕に、トロールの拳がかすったのだろう。肩の付け根から奇妙な方向に折れ曲がったそれは、見ていて違和感と痛々しさ、そしてすり潰されそうな罪悪感をハリーの心にもたらした。

 下手な癒者(ヒーラー)よりよほど経験を積んでしまったハーマイオニーの治癒呪文を受け、ロンは痛みに呻きながらも笑う。

 それに対して、ハリーが震える声で問う。

 

「ロン、ロンなんてことを。どうして、なんでこんな……」

「いやあ、ほら。だって僕も男だもの。女の子を守るくらいさせてくれよ」

 

 あの戦いを見ているだけで、しかも怪我をさせてしまってはウィーズリーの名折れだ。

 そんなことを貧弱な語彙で言うロンは、情けなく笑っていた。

 

「なんだよ、もう。カッコいいことばっかするなよロン」

「そうよ! 心配させるようなことばっかりして!」

「ごめんよ二人とも。でも、まあ、ほら。いいじゃないか、無事だったんだから」

 

 まったく。

 普段あれだけマヌケで頼りない姿を見せられても、こうして実際に助けられる身となってしまえば、途端に格好よく見えてしまう。勝手なもんだなと思ったが、悪い気はしなかった。

 

 またしてもロンの治癒と休憩に時間を割いてしまった。

 仕方のないこととはいえ、早くしなければスネイプもしくは他の何者かが石を奪ってしまったかもしれない。

 そういう意見がハーマイオニーから出されたので、ハリーとロンは慌てて次の部屋への扉を探す。

 見つけた扉に手をかけると、鍵がかかっていた。

 そして扉から発せられた淡い赤の光が部屋全体に薄く照射されるのを見て、何か来るのか、と心臓が跳ね上がる。しかし部屋全体を光が照らし終えたところで、扉にまたもコングラッチュレーションの文字が浮かび上がる。

 鍵の開く軽い金属音が鳴った。試しに扉を押してみれば、普通に開く。

 トロールを倒したかどうかのスキャンだったのだろうか、と思いながらハリーはそのまま扉を押しあけた。三人でなんの魔法だったのだろう、と思いながら扉をくぐれば、そこに広がるのは図書館であった。

 

「わあ、素敵! 本がいっぱい!」

「わあ、最悪! 頭が痛くなる!」

 

 ハーマイオニーとロンがそれぞれ感想を述べる。

 図書館だとすると、今度の試練はマダム・ピンスか?

 しかしマダムは、試練を組んだ教職員には含まれていなかったはずだ。

 今までの試練を思い出して考えると、森番のルビウス・ハグリッド、薬草学のポモーナ・スプラウト、妖精の魔法のフィリウス・フリットウィックと飛行訓練のロランダ・フーチ、変身術のミネルバ・マクゴナガルからの試練だった。先ほどのトロールはおそらく、闇の魔術に対する防衛術のクィリナス・クィレルだろう。

 ならば次は誰か。

 その疑問にはハーマイオニーの声が答えてくれた。

 

「ハリー、ロン。この本に試練の課題が書いてあるわ」

 

 さして広くもない図書館の中央に設置された台座の上にある、茶色い古ぼけた本。

 一冊のそれを見てみれば、題字には銀のインクで「ゴブリンの反乱」と書かれていた。

 ゴブリンの反乱とは、十八世紀に起きた事件である。

 イギリスのスコットランド北東部、アバディーン郊外にある小さな町で、鍛冶屋をしていたゴブリンが起こしたのが始まりだ。

 魔法省からの仕事を請け負った魔法戦士隊(ウォーロックス)が、当時の魔法省魔法生物問題対策部門の役人とともに、先の町に立ち寄った。アバディーン近郊を襲った若く凶暴なマンティコアを退治するために、魔法省が戦士隊のためにゴブリンたちへ装備の製造を依頼していたからだ。

 素晴らしい技術には相応の対価をと、多くのガリオンを支払って最高の剣を手に入れた彼らは、その剣を用いて見事戦いに勝利することができた。

 問題が起きたのはその後だ。

 討伐が終わったあと役人と魔法戦士隊は、立派な剣を打ってくれたゴブリン職人に感謝をと、アバディーン郊外の町へ礼を言いに訪れた。しかし代表して礼を言いに行った魔法省役人はその日、帰ってくることはなかった。不審に思った戦士隊の隊長が町に住む魔法使いに問うてみれば、なんとゴブリンたちに捕えられているというではないか。

 どういうことかと隊員を引きつれてゴブリンを問い詰めたところ、我々はその剣を貸し与えただけなので直ちに返却せよという、無礼極まりない答えが返ってくる。戦士隊が、我々は購入の契約をした上で金を支払ったのだと主張するものの、ゴブリンたちは頑として聞き入れなかった。生物としての価値観の相違からくる諍いである。

 口論が白熱し、ゴブリンの誰かが発した戦士隊への悪罵に激怒した隊員の一人が、杖を抜いて侮辱したゴブリンを脅した。それが反乱の始まりだった。

 一週間にわたる、アバディーン郊外の町での小競り合い、そして小規模な戦闘。ゴブリンと戦う術を知らなかった魔法戦士隊の対応が遅れに遅れたのが長引いた原因だ。

 事件は、コトに気づいた魔法省が派遣した《魔法武装取締執行隊》の手によって終結した。現代では《魔法法執行部隊》と《闇祓い局》に分かれた部署であり、犯罪者への保護法などがまともに整備されていない当時は、過激派中の過激派であった。

 以降、ゴブリンのみならずヒトに属する魔法生物に関する条例への問題へ発展していくのだが……「ゴブリンの反乱」としてはここまでだ。

 その事件に関する本が、なぜここに?

 

「答えはこれよ、ハリー」

 

 ハリーが目を向ければ、本が置かれている台座に、魔法文字が浮かんだ。

 視線で起動するタイプか、などと思いながらそれを読む。

 

「『この事件の問題を解決せよ』。……これ本当に試練か? 学年末テストとかじゃないの?」

「知らないよ。僕に聞いてわかると思うのかい? こんな事件聞いたこともないのに」

「ロンあなた……これ今日のテストに出たところじゃないの……」

 

 ショックを受けた顔のロンを放っておいて、ハリーは本を手に取った。

 手触りとしては、ハードカバー特有の音と感触がする。

 しかし、そうか。

 歴史ということは、これは魔法史教授、カスバート・ビンズからの試練だ。

 やはり試練としてはなんだか、こう、ぬるいというか甘っちょろいというか。

 今までが今までだったので、無駄に警戒心を抱いてしまう。いったい何をさせるつもりだろう、と。

 本の中身は、意外や意外。白紙だ。

 つまりこれに答えを書けということだろうか、と思って羽ペンを探すも、どこにも見当たらない。まいったなと思って本に視線を戻せば、新たな文字が浮かび上がっていた。

 

「『ただし、実際に』……。……、え? どういう意味?」

 

 ハーマイオニーもロンも、首を傾げる。

 いったいどういうつもりでこんな問いを投げかけてくるのだろう、と思っても、物言わぬ本が答えてくれるはずはなかった。

 そう、なかったのだ。本来ならば。

 ページとページの継ぎ目が裂けるように、裂け目から黄金の光があふれだす。

 これは如何なることかと三人が驚くと同時。金色が小さな図書館を呑みこんだ。

 本が閉じられた後には、図書館に人の姿は一つもなかった。

 

 

「…………どこだここ」

「…………どうなったの、これ?」

「…………さあ?」

 

 ハリーたち三人は、とある町の広場に立っていた。

 花崗岩で作られているらしい町並みは、白く美しい。

 馬車がかろかろと車輪を軋ませ、薬問屋が威勢よく新商品を売り出している。

 古着屋は旅人と商売で口論しているし、酒場には昼間から飲んだくれる老魔女がいる。

 どうもマグルの町のようだが、それにしては魔法使いが散見されているように見えた。

 大っぴらに魔法を使っているとは言えないが、それでもハリーたちの知る常識で考えれば、十分に魔法省に厳重注意を受けるような行いがあちこちで見られる。

 ここはいったいどこだろう。

 先ほどまでぼくたちは、賢者の石を守るために四階の廊下の先にある試練へ挑んでいたはず。

 つまり校内。あれが元は何の目的で城のどこに建造された施設なのかはわからないが、少なくともあれはホグワーツの中にある施設のはずだ。

 それが、なんだ? 全く見慣れない町に放り出されているではないか。

 ロンが身震いをする。

 彼は生まれてこの方、常に魔法が周りにある生活を送ってきた。だがこのようなことは、ただの一度もなかった。摩訶不思議に満ちた魔法界においても、こんなのは聞いたこともない。

 

「こっ、ここはどこですか! 私たちホグワーツにいたはずなんです!」

 

 ハーマイオニーが切羽詰まって、すぐそばで突っ立っていた若い男性に話しかける。

 分からないなら質問する。勉強でも生活でも、それはいつだって有用な手段で、優秀な教科書だ。

 

「ここは、アバディーン郊外の町だよ!」

「アバディーン!? どうしてそんなところに! あ、あの。ロンドンへはどうやって行けばいいんですか?」

 

 しかしその教科書には、両方の場合においても共通する但し書きがある。

 『ただし、質問する相手は選ぶこと』。

 

「ここは、アバディーン郊外の町だよ!」

「え? それはさっき聞きましたよ。ですから、地下鉄への行き方を……」

「ここは、アバディーン郊外の町だよ!」

「それはもう聞きました! ロンドンへ行きたいんです! どうしたら」

「ここは、アバディーン郊外の町だよ!」

「そ、そうじゃなくて」

「ここは、アバディーン郊外の町だよ!」

「ムキィィィ――――――――――ッ!」

「ここは、アバディーン郊外の町だよ!」

 

 あまりにも話が通じない相手に、ヒステリックに叫ぶハーマイオニー。

 ロンは男性の脳みそが実はアイスクリームなのではないかと疑い始めたが、一方でハリーはいやな汗をかいていた。

 これは……見覚えがあるやり取りだ。

 具体的にはダドリーがやっていたコンピューターゲームで。

 

「ハーマイオニー。ちょっとそこ退いてくれ」

「えっ、ハリー?」

 

 甲高くキーキー言うハーマイオニーを押しのけて、ハリーは男性の前に立つ。

 そして、思い切り脛を蹴りあげた。

 

「ちょっと!? すっ、すみませんこの子ガサツで短絡的で乱暴で直情的なだけで根っこはとても優しいいい子なんです!」

「ここは、アバディーン郊外の町だよ!」

「本当にすみませ……、……。どういうこと?」

「君のぼくへの評価もどういうこと?」

 

 ハーマイオニーが、あまりにも異常な反応の男性に怪訝な目を向ける。

 彼女の謝罪の言葉はしっかり聞いていたようで、ぶすっとした顔でハリーが男性の元から戻ってきた。二人は唖然とした顔でハリーを見守っている。彼女自身の口から説明されるのを待っているようだ。

 ぼくだって完全に分かっているわけではないんだけれど。と前置きしてから、ハリーは語る。

 

「ここはね、たぶん現実じゃないんだ」

「現実じゃないって……?」

「ほら、コンピューターゲームの中とか、本の中とか。……ああ、そうか。さっきの本なのかもしれない。いったいどんな魔法なのかはわからないけどね」

「コンポタージュゲイってなんだいハリー。僕はノーマルだよ」

「ロンは黙ってて。でも、えっと、それじゃあ何? あの本は禁書の棚に置かれてるような本だったってことなの?」

 

 ハリーが首を縦に振る。

 どこかでそういった本があるという話を聞いた覚えがある。

 それに、とハリーは男性をつついた。

 

「この奇妙な男の人も、」

「ここは、アバディーン郊外の町だよ!」

「うるさいな。こんな大規模な術式が書き込まれているなら、たぶんこの男の人(モ ブ キ ャ ラ)にまで魔力を割いてないんだよ、リソースがもったいないから。だからこんな単純な受け答えしかできないんだと思う。この人は人間じゃない、いわゆるNPC……ノンプレイヤーキャラクターさ」

「ハリー君いま英語しゃべってる?」

「ロンは黙ってなさい。ハリー、あなたそれが本当だとしたら、いま私たちがいる本はものすごい価値がある本よ。それこそ魔本そのものだわ」

 

 ハーマイオニーの言に、ロンが心配そうな顔をする。

 しかし心配なのは三人とも同じだ。ここから出られるのだろうか?

 とりあえず彼らは、元の場所に戻るための方法を模索し始めた。聞き込みだ。

 肉屋の主人やパン屋などは、どうも同じ会話を繰り返すのみらしい。

 通行人の中でも、特定の人間は多少まともな会話になった。とはいっても、YESかNOかで答えてくれる程度であり、実在の人間とは程遠い。

 そこで判明したことは、現在はゴブリンの反乱の真っ最中であり、事件の渦中そのものだということ。ゴブリッシュを話せる人間がいないため、ゴブリンたちが何を要求しているのかわからないこと。そして人質の魔法省役人を傷つけずにゴブリンを鎮圧する方法がない、ということ。

 そう考えると、先ほどの商売人たちは、小規模ながら戦場そのものだというのに普通に商いを続けているということになる。見上げた根性だ。

 とはいえ、実際はそんな商魂たくましい理由ではない。マグルだからゴブリンたちの認識阻害魔法のせいで彼らが見えないのだ。マグルの間でも未だに魔術や錬金術がにわかに信じられている十八世紀という時代であってもなお、ゴブリンたちという異形の人型たちをマグルの目に入れるにはためらいがある。迫害の恐れがあるからだ。魔女狩りの再来など、考えるだに冗談ではない。ゴブリンたちも、魔法を解さない者たち(マ グ ル)との接触を良く思わない。ならばこそ認識阻害によって自らの存在を秘匿したのだ。

 そういうわけもあって、街中で堂々と魔法戦をしていながらもマグルたち町の人間はそれに気づくことなく、平穏な日常を送ることができているのだ。

 さて。

 今回の奇妙な冒険において、恐らく目的は『この事件を解決すること』。そしてその方法は、『反乱軍を鎮圧すること』であると思われる。

 はたしてそれを行うには、どうすればいいのだろうか。

 

「ロン」

「うん、ロンの出番だ」

「何なんだよ」

 

 そして。

 少女二人に大任を任された少年は、意気揚々と魔法戦士隊の集まるところへと歩み寄っていく。

 二人が導き出した結論は、こうだ。

 『ロンが戦いの指揮を執ってゴブリンやっつけちゃえばいいんじゃない?』である。

 

 結果として、それは大正解であった。

 魔法生物としか戦ったことのない魔法戦士隊の面々は、ロンという頭脳を得て見違えるような怪物集団と変貌した。NPCだからなのか、それともこの《人を取り込む本》の趣旨がそういったモノだからなのか、彼らはロンの言うことを疑うことなく受け入れてくれた。

 ロンのまるでチェスを行うかのような指示により、戦士たちは一騎当千の力を得た。

 反乱軍は魔法を使えないという圧倒的不利をものともしない。ゴブリンの創る金属の武器には、自身を強くするものを吸収する特性がある。例えば、ゴブリン製の剣を持った者に失神呪文を放つとする。すると水カタツムリを与えられたプリンピーのように、剣が魔法に喰いつくのだ。それはさながら熟練の剣士の技が如き反応であり、剣の素人が使おうが、まず使い手が魔法に撃たれることはない。そして失神呪文を貪った剣は、その刃で斬った者を失神させる魔法効果が付与される。

 つまり、ゴブリンの造る剣はマジック・キラー・ソードとも言えるのだ。

 そしてロンは、それを最大限に利用した。

 魔法戦士隊にも数振りのゴブリン製の剣がある。ならばとロンは、戦闘を挑む前段階として剣が軋むほどに魔法を放ったのだ。失神呪文、武装解除呪文、切断呪文、くすぐり呪文、などなど。そうして魔法に耐えきれなかった剣は、ぱさりと乾いた音を立てて砂になってしまう。

 そうして数振りの実験を経て、剣の魔法を喰える限界点を見極めた。そうなれば、あとは簡単だ。

 戦闘にゴブリンが剣を持ち出せば、あらかじめ決めた人数の魔法戦士隊隊員が一斉にそのゴブリンへ魔法を放つ。それも、魔力消費の少ないどうでもいい呪文を。『収納呪文』や『包帯巻き呪文』、『穴掘り呪文』に『花咲き呪文』。自身の容量以上の魔法を喰ってしまった剣は、その場で灰となった。

 自らの創った物に異様なまでの誇りを持つゴブリンのことだ。自身の創った剣が、そんなくだらない魔法に耐えきれず破砕してしまった。それは彼らのプライドをも粉々にする事と同義であり、剣を失い膝を突く彼らに、もはや魔法も捕縛も必要なかった。

 そうしてロン・ウィーズリーは英雄となった。

 鬨の声をあげる戦士たちは「ウィーズリーバンザイ!」「ウィーズリーバンザイ!」と大騒ぎである。担ぎあげられて笑顔のロンは、まさに一端の将軍のようであった。

 ハリーとハーマイオニーの二人は、苦笑いと共にそれを見送る。

 

「ロンもとんでもない才能持ちだったんだねえ」

「さてはて、案外簡単にいったもんだわね。ロンの実力ならいけるとは思ったけど」

 

 夜になり、散々もみくちゃにされたロンを放っておいて二人は酒場で夕食を楽しんでいた。

 空に浮かぶのは装飾華美な字体の魔法文字で描かれた、『Congratulation!(君 達 の 勝 ち だ)』の一言。

 やっとこれで試練に戻れる、と気合いを入れ直した、

 次の瞬間。

 ハッと気づけば、空は美しい青を見せていた。

 

「ここは、アバディーン郊外の町だよ!」

 

 昼間、ハリー達が話しかけたNPCの青年がすぐそばに居る。

 立ち位置も昼間と同じだ。

 つまり、これは……時間が巻き戻っている?

 空を見上げれば、『Don't let it get to you!(正 解 だ と 思 っ た ?) I'll give you another chance!(ほ ら も う 一 回 や っ て み ろ バ ー カ)』との文字が。

 キレたハリーが空へ向けて無意味に魔法を乱射しているのを放っておいて、ハーマイオニーとロンは考え込む。

 ひょっとするとこの世界は、正解するまでずっとループするのではないか?

 息を切らしたハリーが戻ってきてこの説を提示したところ、概ねの同意を得られた。小馬鹿にしたメッセージが、未だに空でゆらゆら揺れているのもその理由の一つだろう。

 

「さて。それなら、次は史実通りそのまま進めてみましょう」

「史実通りって、ハーマイオニー。君そこまで細かく覚えているのかい?」

 

 驚いたロンの言葉に、ハリーはまさかという顔をする。

 しかしそれに帰ってきたのは、ハーマイオニーの不敵な笑顔だった。

 

「もちろんよ。『子鬼と好意的な旅』という本に書いてあったわ」

 

 だめだった。

 青々とした空に浮かぶ『What are you thinking about?(君はひょっとして頭からっぽなのかい?)』という文字に魔法を乱射するハーマイオニーを放っておいて、ハリーとロンは悩んでいた。

 いったいどうしたらいいのだろう?

 この三人組において、いや、ホグワーツの一年生、いやいや、ひょっとするとホグワーツ生全体で比べても豊富な知識を持つ彼女がダメだったのだ。

 割と力押しを好むハリーと、そもそも考えるのが苦手なロンは完全に煮詰まっていた。

 

「『この事件の問題を解決せよ』って……なんなんだ……」

「勝利で終わらせてもダメ、史実通りでもダメ……。ビンズはいったい何を考えてるんだ?」

 

 息を切らしたハーマイオニーが戻ってきて、さて次はどうするかという会議が始まる。

 ゴブリン側を勝たせてみるか? いや、それはあまり意味がないだろう。おそらく、ロンにやらせたことの逆が起きるだけで大して変わらない。

 問題点といえば互いの見解の相違が原因で起きた諍いなので、価値観を直すか? いや、現実的な答えではない。

 うんうん頭を悩ませながら、時には酒場に赴いておいしいものを食べてリフレッシュしながら、ハリーたちは青く透き通る空が、燃えるような赤に変貌するまでじっくりと考えていた。

 アフタヌーンティーを飲んでいるときから焦りのあまり現実逃避が目立ってきたが、日が沈んでからはもはや諦観が前面に押し出されている有様である。

 

「あー。うー、あー」

「なんか、ダメっぽいね……」

「なんとか戦いは無益だと説得してみたけど、ギスギスした雰囲気のままだよこれ。正直今までで一番悪い状態だよこれ」

 

 次の日にして、その日の朝。

 町だよ宣言男に蹴りを入れるハリーとロンを放っておいて、ハーマイオニーは考える。

 ひょっとすると前提条件からして間違っているのでは?

 問題点の解決というのは、必ずしもゴブリン達と関わることではないのでは?

 男性に尻を蹴り飛ばされたハリーとロンが戻ってきたとき、ハーマイオニーは一つの疑問を二人に投げかけた。

 

「ねえ、二人とも。この世界は作り物で、余計なところに魔力を割いていないってこと。あれは事実でいいわよね?」

 

 自分の尻をさすりながらハリーが答える。

 

「そうだね。初日に聞き込みに行ったときに民家のドアが開かなかったから呪文で砕いてみたけど、ドアの向こうは何もない真っ白な壁だったって話はしたよね?」

「ええ。不気味よね」

「この上なくね。それで、その民家はこの試練を行う上で全く必要ない部分だから作りこんでいなかった、ってことが理由だと思うわけよ」

 

 ハリーの言うように、この世界には徹底的に無駄がない。

 唯一の無駄といえば空に浮かぶ、女性二人の沸点を易々と突破したメッセージのみ。

 ひょっとしてもしかして万が一にも、あれが攻略のヒントなのかとハーマイオニーが忌々しげに空を見上げたとき。

 ふと。

 脳の奥に、違和感を感じた。

 

「…………、……」

「どうしたのハーマイオニー? 疲れたなら休もうか?」

「黙りなさいロン」

「ねぇハリー! どう思う、この僕への扱い!」

「笑えばいいと思うよ」

「ハッハのハーッ、だ!」

 

 ハーマイオニーに拳骨をもらった二人が大人しくなった頃、彼女は忙しなくあちこちへ足を運び始めた。町の中央広場。露店広場。宿屋周り。商店街。ゴブリンたちの立て籠もる鍛冶場。魔法戦士隊が待機している教会前広場。

 青々とした空の下、青がオレンジになり、オレンジが真っ赤になって、藍色に染まっていくまでそれは続く。

 ハリーとロンが首を傾げながらもうんざりした表情になっていることに気づいているのかいないのか。真剣な顔で一日中見回ったハーマイオニーが、もうすっかり日の沈んでしまった空を見上げて呟く。

 

「やっぱりそうだわ」

 

 なにが? と問いたい二人を手で制して黙らせ、ハーマイオニーは笑顔で言う。

 

「たぶん間違いないわ」

「だから。何に気づいたのさ、ハーマイオニー」

 

 我慢できなくなったロンが問う。

 ハーマイオニーはもったいぶって説明を始めた。

 

「空を見て。綺麗でしょ」

「ハーマイオニー、ついに気が変になったのかい? キミはケンタウルスじゃないんだよ」

「ケンタウルス?」

「ああ、ハリーは気を失ってたから会ってないんだね。禁じられた森で、君が気を失った後にやってきた変なやつさ。火星フェチなんだよきっと」

「……ねえ。私の話、聞くの? 聞かないの?」

 

 青筋を立てたハーマイオニーに、ロンが答えだけ聞きたいというと彼女は完全に不貞腐れてしまった。ロンを叱りながらハーマイオニーの頭を撫でて、宥めすかして説明してもらう。

 曰く、今までの情報はそのほぼすべてがブラフであり、本当の解法は空にあったのだという。

 一日が変わらないのは何のためか。あれだけ手を抜くべきところは抜いている効率的な魔法式(プログラム)なのに、影の位置がなぜいちいち変わっているのか。どうしてあんな腹の立つメッセージを、わざわざ空に浮かばせたのか。そしてその空の美しいまでの再現度は、いったい何のためなのか。

 その答えが、この星空である。

 オーロラ・シニストラ教授。一年生からの必須教科、天文学を教える先生である。

 天文学のテストでも満点を取った自信のあるハーマイオニーが、空を見上げる。天文学は天体の位置やその魔法的意味、月の満ち欠けに潮の満ち引き、さらには星占いも教える学問である。

 今回の場合、その中で必要とされた技術は星占いで使われる星読みの力。

 ロンはわからなかったが、ハーマイオニーに促されて空を見上げたハリーは、ああ、と唸る。

 あまりに自然と溶け込んでいる上にハリー自身天文学に造詣が深いわけでもないので多少わかりづらいものの、空には星読みをすることで見える文字がしっかりと書かれていたのだ。

 

「『魔法戦士隊隊長に酒瓶を振り降ろせ』、かな? ……これは気付けって方が無茶だろう」

「うーん、僕には何て書いてあるのかさっぱりだ」

「ハリー? ロン? これも昨日の夜のテストで出たでしょう? 『魔法戦士隊隊長に酒を振舞え』よ。まったく、ロンはまだしもハリー、あなたまでなんて……」

「出てないぞハーマイオニー。出てないからな。これ七年生で習うようなレベルだからね? 一〇〇点満点中一三九点も取れるキミと一緒にしないでね?」

 

 ハーマイオニーが酒場で貰った酒瓶を隊長に渡すと、常にしかめっ面で不機嫌そうだった彼は、まるで太陽の光がごとくニカッと笑う。

 そうして酒瓶を魔法で開けると、ぐいっと一つ豪快に飲んだ。

 ごっごっごっ、と喉を鳴らしてラッパ飲みするその姿に、隊員たちはやんやと大騒ぎ。

 一滴残らず飲み干した酒瓶を床に投げつけ、ガシャアンと派手な音を立ててガラスを散らす。

 それを合図に、教会広場のあちこちに隠れていたらしき隊員や町人、商人たちやはたまた敵対してはずのゴブリンまでもが集まって、皆明るい笑顔で大きく叫んだ。

 

「「「「コングラッチュレーィショーン! おめでとう、正解だ!」」」」

 

 

 大声が一瞬にして消え、ハリー達は小さな図書館に戻っていた。

 本から黄金の光と共に吐き出されるようにして飛び出してきたハリー達は、床に倒れ込んでいた。予想外の脱出の仕方に、誰も咄嗟に反応できなかったのだ。

 それぞれ好き勝手に悪態をつく。

 ロンがハーマイオニーの尻を触ってしまったらしく、怪我人だと言うのにビンタの報復を喰らっているのを放置して、ハリーは自分たちの入っていた本を手に取った。入り込む前には気付かなかったが、裏表紙には魔法戦士隊隊長の肖像画が描かれていた。結構似ている。

 特に魔力がこもっている様子はない。機能を終えたので魔力切れといったところだろうか。

 魔法戦士隊との大騒ぎはなかなか楽しかったな、と思いながら、本を閉じた。

 さて、次の試練に挑まなければ。

 ハリーが二人の言い争いを仲裁して、出現した扉をくぐって部屋を去る。

 あとに残るは小さな図書館と、ゴブリンの反乱の本のみ。

 挿絵の隊長が、酒瓶を持ち上げて武運を祈っていた。

 




【変更点】
・回復要員ハーミーちゃん
・オリジナル試練。不勉強だと脱出不可なタイプ。
・ロンが自分の才能に自覚し始めたようです。

【オリジナルスペル】
「グレイシアス、氷河となれ」(初出・PS2及びGC『アズカバンの囚人』)
・水を凍らせる呪文。術者の力量によっては周囲に水が無くても使える。
 元々魔法界にある呪文。ゲームオリジナル。ゲーム中ではハーミー専用呪文。

【賢者の石への試練】
・第五の試練「愚か者の楽園」クィレル教授
 トロール十匹と同時戦闘を行い、全員の意識を奪うか殺害せねばならない。
 既に先行した何者かがある程度のダメージを与えていたため、幾分か楽になった。

・第六の試練「天文学的な魔法史」ビンズ教授&シニストラ教授
 ゴブリンの反乱を解決に導かねばならない。というお題目だが、同じ一日をループするため実際は不可能。実は夜空を見上げて星読みを行うと脱出できるという引っかけ問題。
 因みにメッセージを考えたのはビンズ先生。

……英語は、英語はたぶんこれでいいはず。ですよね、エキサイト先生。
一年生にはまず不可能なハズだった試練。だいたいハーミーちゃんのおかげ。
石を狙う何者かとの戦いまでに体力を回復させておかないといけないのです。
試練はもうちょっとだけ続くんじゃ。


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13.親友

 

 

 

 ハリー達が次に行き着くのは、白く狭苦しい部屋。

 先程の小さな図書館よりもさらに狭くて何もない、何のためにあるのか分からない部屋だ。

 肩から先と腹にうまく力が入らず、実質戦力外と化したロンを下げて、二人は杖を構えたまま部屋を精査する。試しに適当な呪文を投げかけても、特に変わったことは起こらない。結論としては何の変哲もない、ただの通過点のようだ。

 念のために杖を構えたまま部屋へ踏み込んだ、その瞬間。

 

「……な……ッ」

「ま、またなの……?」

 

 三人が次に放り出されたのは、雑踏の入り混じる近代的な街だった。

 ふっと顔を明後日の方向へ向ければ、新大英図書館ビルが見える。左に向ければ広い幅の道路を、二階建てバスが走っている。信号が青になり、スーツを着た男性や、紙袋に野菜やパンを入れた女性が信号を渡りはじめる。スケートボードに乗った悪ガキが迷惑な大声で笑って、バンタイプのパトカーから顔を出した警察官に怒鳴られていた。

 『まともな』スーツ姿など、魔法界ではめったに見られない。

 信号などもってのほかである。キングズクロス駅を利用する割には、魔法使いは基本的にマグル製品をまったく、もしくはほとんど知らないような者ばかりなのだ。

 つまり。

 

「……ロンドンだね」

「それも、キングズ・クロス駅の目の前だわ」

 

 またもや別の場所に放り出されたのだった。

 ハリーは、頭を抱えて頭痛と戦っていた。

 しばらく痛みをこらえて雑踏に耳が慣れたころ、溜め息と共に言葉を漏らす。

 

「……今度はなにをやらされるんだ?」

 

 だが。結論として。

 この試練は二〇分足らずで終わった。

 普通の魔法使いならば間違いなくチェックメイトされてしまうような試練なのだが、ハリー達とはあまりにも相性がよかったのだ。ただ、ハリーたちであるというだけで有利になるほど。

 まず、ひとつ。

 何時の間にか持たされていたバッグに入っていた羊皮紙に書かれていたのが、古代ルーン文字であったこと。

 つまりバスシバ・バブリング教授の試練だ。これはハーマイオニーという頼りになる頭脳のお陰で、多少てこずったものの解読それ自体には成功した。ハリーだけではもちろん、ロンと二人だけだったとしてもここで終わっていただろう。

 

「こんな難しいの、私初めてみたわ! この羊皮紙を持って帰れないかしら……ものすごく勉強になるわよ、これ。……将来古代ルーン文字学を履修したときはこれさえあれば万全だわ」

「それはよかった。いいかいハーマイオニー、早く結果を言ってくれ。早く早くハリーハリー」

「え、なに? 呼んだ?」

「いやそっちのハリーじゃない、違う。今回も何かと戦うような試練だと思って緊迫してたからといって、別にボケて空気を和ませなくてもいいんだよハリー!」

 

 解読された羊皮紙に書いてあったのが、『マグルの店で、マグルの金銭を用いてカナル型イヤホンを買うこと』というもの。署名にはチャリティー・バーベッジ教授の名があり、これがマグル学の試練でもある、ということが窺えた。

 先の通り、普通の魔法使いならばここでまず間違いなく脱落することだろう。マグルの服装すらまともに知らない人が多い魔法界の人々だ。マグルの街で『電化製品』を売っている店を探しだし、尚且つ『イヤホン』が何なのかを理解し、さらにはその中でも『カナル型』とはどのような種類なのかを把握し、そして何ポンドで買えばいいのかと言ったことも分かっていなければ、この試練はクリアできない。

 バーべッジ先生は確かにマグルに関する造詣が深い魔女のようだ。ただ、あまりにも知識がディープすぎるためにこんな試練となってしまったのだろう。わざわざカナル型を指定しているところにはもはや熱意というより悪意すら感じる。

 そして、ふたつめ。

 ハリーとハーマイオニーが、マグルの世界で育った人間であったこと。

 

「うーわ、何これ。うーわあ、やーらしーぃ。なにこの悪意まみれのお財布は」

「ほんとだわ。ポンドだけじゃなくてドルや円が一緒になって入ってるわね。うわあ、スターリングだけじゃなくてエジプトポンドまで入ってるわ。硬貨に至っては……なにこれ、ゲームセンターのコインじゃないの。ここまで来ると意地悪を通り越してギークっぽいわ」

「なにこれ? ポンド? 変なの! スパイか何かかい?」

「ロン。君、ハグリッドと同レベルだったんだね」

 

 こんなとんでもない引っかけがあったとしても、生粋の英国マグルであった二人は引っかからない。

 ハリー自身はイヤホンに詳しいとは言えない生活を送っていたものの、イヤホンがどういった物体なのかなどというのは常識レベルだ。ハーマイオニーは特に虐待やらを受けていたわけではないが、運よく父親がイヤホンやヘッドホンの音質にこだわるタイプの人間だった。カナル型と言われてピンとくるのは、そういった理由からだ。

 ハーマイオニーの父親が音楽を聴くような人間ではなかったら。ハリーとハーマイオニーがマグル出身の魔女ではなかったら。それだけで断念せざるを得ないミッションが、今回の試練だ。 その事実に一人気づいたハーマイオニーは、試練が終わって幻術が解け、元の白い部屋に戻された際に背筋の寒くなる思いをしていた。

 

「楽な試練だったねハリー」

「そうだね。ロンが何度言っても黙ることを覚えない以外はとても楽だったよ」

「お、怒らないでよハリー。珍しくって、つい……」

「怒ってないよ。イラついてるのさ」

「ホントごめんて」

 

 次の部屋へ至る廊下を歩きながら、ロンとハリーが喋る姿をハーマイオニーは黙ってみていた。

 どうしたのだろう、と二人が振り向くと、ハーマイオニーは意を決したように口を開く。

 

「ねえ、ロン」

「なにさ、ハーマイオニー」

「あなた。ここで引き返しなさい」

 

 彼女の言葉が完全に予想外だったのか、驚きに目を見開くロン。

 隣でその様子を見ていたハリーは、ハーマイオニーの言いたいことがわかって俯いた。

 ロンはいま、片足を引きずって歩いている状態だ。

 ウィザードチェスで腹を貫かれ、トロールとの戦いで肩から先を折られ。

 いくらハーマイオニーが治癒呪文を使えるとしても、そもそも癒者でもない以上、完璧な治癒ではないのだ。ローブで隠されて見えないが、もしかすると彼のシャツには赤い染みが滲んでいるのかもしれない。

 つまり。彼はもはや戦力外というだけではなく、足枷と化している。

 

「……それは、僕が邪魔だってことかい?」

「…………、……申し訳ないけれど。……そうよ。足手まといなの」

「ッ、ハーマイオニー!」

 

 低い声を出したロンに対して答えた彼女の真意に、一瞬遅れて気づいたハリーが叫ぶ。

 ハーマイオニーはロンを危険から遠ざけようとしている。

 しかし、ロンはそれを受け入れないだろう。

 普段がどれだけ情けなかろうが、有事の際は勇気を出せる男の子だと、少女らは知っている。

 だから女の子を二人だけでこの先へ進ませるのは、彼が頑として受け入れないだろうということは想像に難くない。

 だからハーマイオニーは、悪役を買って出たのだ。

 わざわざロンの悪感情を煽る言葉選びをして、怒らせることでこの場を去らせようとする。

 頭のいいやり方であった。

 だが、方法がスマートだからといって結果がついてくるとは限らない。

 

「……いやだ。僕はついていくよ」

「ロン!」

 

 ハーマイオニーの悲痛な声があがる。

 不貞腐れた顔のロンではあるが、意地になってそう言っているわけではないようだった。

 

「トロールの部屋で証明できたように、戦力にはならなくっても、盾にならなれる」

「ま、待てよロン。それじゃ君の体が、」

「女の子に戦わせてるんだぞ!? そうでもしなきゃ、僕は一生自分を誇れなくなる!」

 

 口を挟んだハリーだったが、ロンのその叫びに、彼女はすっかり黙り込んでしまった。

 プライドだ。

 女の身である自分にはわからないが、恐らく男の子には意地があるのだろう。

 矜持とも言うべきか。

 ロンの母親モリー・ウィーズリー、旧姓モリー・プルウェットは、とある名家の出身である。

 魔法戦士を多く輩出したプルウェット家は、古くから続く家系であった。そのため、彼女の息子であるロンにもその心構えの教育は、意識せずともしっかり根付いている。

 女の子を戦場に放り出しておいて、安全な場所へ逃げ帰るなどということは、ロンとしては断固として許せないものであった。

 ハーマイオニーは知らずとはいえ、彼の心の奥深くを冷たい針で突いてしまったのだ。

 

「絶対についていく。ハーマイオニーが何を言おうとも、僕は身を挺してでも守るんだ」

 

 完全に、裏目に出た。

 これではてこを使ってもロンはついてくるだろう。

 先の二つは、直接的に戦闘を要する試練ではなかった。だが、だからと言ってこれから先もそうだとは限らないだろう。

 もしそうだった場合にロンにかかる負担は、相当なものになる。

 それこそ、今度こそ死を意識してしまうほどには。

 

「次の部屋だ。先に行くよ!」

「ま、待ってよロン! おい、待てって!」

 

 先走るロンの腰に抱きつくようにして、ハリーが彼の暴走を止める。

 もしまた何らかの魔法生物や魔法が襲い掛かってきたらと思うと、冷や汗が止まらなかった。

 そんな悲観的な予想に反して、明るい部屋にたどり着いた三人が見たのは小さい台座に、赤ん坊の頭ほどの、美しく丸い水晶玉が乗っかっているだけの光景だった。

 水晶玉ということは、占い学の試練なのだろうか。

 しかし占いの試練とはいったいなんなのか?

 訝しげな顔を浮かべながら、各々が杖を取り出してまずは水晶玉を調べようとした時。

 部屋の中央に位置する中空に、魔法文字が浮かび上がった。

 動くものが視界に入って反射的に杖を向けたが、そこに書いてある内容を見てハリーは黒い感情が心の底に降り積もった錯覚を覚えた。

 『己の心を覗く勇気ある者は我に触れよ。心を認めよ。自分を飲み込め。さすれば道は開かれる』。

 これは、つまり……。

 

「……? なにこれ、これが試練なの?」

「戦うタイプの試練じゃなくてよかったけど……なんだろうこれ。この水晶玉に触って、自分の心を見てみろってことかな」

 

 ハリーはこれが最悪な試練であることを見抜いていた。

 自分の心を覗くだと?

 それはハリーが一番見たくないものである。

 諦観と憎悪、憤怒と欲望。半ば死を熱望しながらも、怠惰に生を貪った。

 自身の存在価値を底辺とすることで、脆弱でひび割れた心を守ろうとした、その意地汚さ。

 それを見せられるのか?

 いま。この場で。ハーマイオニーとロンの前で?

 そう考えただけで、かなり辛い。

 

「……僕がまず触ってみるよ」

「ロン……」

「僕はそれくらいしか役に立てないからね」

 

 嫌味とも取れる一言を残して、ロンは怪我をしていない方の手で水晶玉に触れる。

 途端。

 部屋中にロンの声が響き渡った。

 

『いやだ』

「な、なんだよこれ。僕の声だ!」

『いやだ、いやだ。もう嫌なんだ』

 

 動揺したロンは水晶玉から手を放そうとするも、まるで根が張ったかのようにピクリとも動かなかった。

 いったい何が始まるのかとハリーとハーマイオニーが警戒し始めた時、またも水晶玉からロンの声が響き渡る。

 

『ずるい。ずるい。ずるい』

「何なんだよ、僕の声を勝手に使って何を言っ――」

『ハリーばっかりずるい。ハーマイオニーだってずるい』

「――――ッッ!?」

 

 驚きと不満をあげていたロンの声がひっくり返り、奇妙な悲鳴が漏れる。

 唐突にずるいなどと言われてしまい、ハリーとハーマイオニーが怪訝な顔をする。

 ロンはどっと汗をかいて、挙動不審になり始めた。

 おそらく、この内容に心当たりがあるのだろう。

 

『ずるい』

 

 声は続く。

 

『フレッドとジョージは面白くってみんなの人気者でずるい。パーシーは頭がよくてママに褒められてずるい』

「あ、ああ……! あああ……!」

 

 ロンの顔が、見る見るうちに羞恥に染まっていく。

 それを見てようやく、なるほどと合点がいった。

 これは、ロンの心の声そのものなのだ。

 

『チャーリーはあんなに力持ちでたくましくってずるい。ビルはかっこよくって頼られていてずるい。ジニーは可愛がられていてずるい。ママは愛する人がいっぱいいてずるい。パパは自分の楽しめることが出来てずるい』

 

 もはや声も出ない様子で、ロンが滝のような汗をかいている。

 ちらちらとハリーとハーマイオニーを盗み見ているあたり、二人の反応が気になるようだ。

 当の二人は困惑と、居た堪れない様子で佇んでいる。

 

『ハリーばっかり強くって目立っててずるい。ハーマイオニーばっかり頭がよくって優しくってずるい。ずるい。ずるい、ずるい……』

「そんな、違う、嘘だ、そんな、そんな――」

 

 ぶつぶつと否定の言葉を漏らすロンの顔は、もはや蒼白を通り越して白かった。

 膝が震え、立っているのがやっとといった様子だ。

 無理もあるまい。

 これはきっと、ロンの心の奥深く。

 誰にも見せたくなかった、見せるつもりも言うつもりもなかった、闇。

 心の闇そのものだ。

 

『ずるい! ずるいッ! 僕だって、僕だって目立ちたい! 欲しい! 欲しいッ!』

「や、やめ、やめてくれえっ!」

『僕だって人気者になりたい! 僕だってママに褒められたい! 僕だってたくましくなりたい! 僕だって頼られたい! 僕だって可愛がられたいんだ! 僕だって愛する人が欲しい! 僕だってやりたいことがやりたいんだよ! ずるい! ずるい! みんなずるい! ハリーみたいに強くなりたい、目立ちたい! ハーマイオニーみたいに頭がよくなりたい、優しくなりたい!』

 

 心の声は次第に、次第に強く大きく、そして荒々しくなっていった。

 まるで心の底に降り積もった澱を払うように。

 

「やめて! 聞かないで! ハリー、ハーマイオニー! お願いだ、聞かないでくれえっ!」

『あああ、ああああ! あああああ! ずるいんだよぉっ! みんな全部全て僕が欲しかったものばかりだ! 僕だって目立ちたいんだ! みんなに褒められたり注目されたり噂されたりしたいんだ! 僕だって僕だって僕だって! ぁぁぁあぁああッ! くそっ! くそおっ!』

 

 懇願なのか、慟哭なのか。

 ロン本人の羞恥にまみれた悲鳴と、ロンの心からの絶叫が部屋中に満ちる。

 

『あぁぁぁッ! 僕だって、僕だって主役になりたかったんだァァァ――――――ッ!』

 

 ぶつ、と。

 最後の嘆きをひとつ残して、心の声は消え去った。

 水晶玉からロンの掌が離れて、自分の体重を支えるのでやっとだった彼は尻もちをついてしまう。

 滝のような汗をシャツの袖で拭って、ロンは二人を見た。

 ハリーと、ハーマイオニーを。

 

「……、…………。……、……。……聞いただろう。……あれが、僕だ」

 

 ぽつり。

 一滴の汗が床に落ち、言葉も滑り出る。

 

「嫉妬、してるんだ。羨ましいんだ。ハリーは、シーカーをやってるし、体も鍛えてる。強くって、いいなあ、って。ハーマイオニーは、頭もいいし、優しくしてくれる。そういうの羨ましいなあ、って」

 

 これは告白だ。

 ロンは羨ましがっていた。

 ホグワーツで、気兼ねなくバカをやれるのはディーンとトーマスだ。

 だけれど、一番仲がいいのは誰かと言ったら、やはりハリーとハーマイオニーの二人だ。

 男の子は自分一人だけだけれど、二人はとても優しい。

 ハリーは激情家で時々冷たいけれど、何だかんだで人を見捨てられない優しい子だ。

 ハーマイオニーは頑固で融通が利かないけれど、人を想って行動できる優しい子だ。

 翻って、自分はどうだろう?

 優しいだろうか。いや、そんなことはない。

 人のことを考えられるだろうか。いや、そんな余裕はない。

 人を見捨てずにいられるだろうか。いや、そんな度量はない。

 仕方ないとはいえスリザリン生とみればまず敵だと思ってしまうし、相手の気持ちを考えて投げかける言葉を選ぶなんてこと毎度毎度やっていられない。

 それができる君たちがうらやましい。

 僕だって、目立ちたいんだ。みんなに隠れた日陰者でいるのはいやなんだ。

 

「……、……どうだい。これが、僕さ。ロナルド・ウィーズリーなんだ」

 

 ぽつりぽつりと、静かに、だけれどしっかりと伝えた。

 軽蔑されるかもしれない。

 ハリーには、下らないと冷たい目で言われるかもしれない。

 ハーマイオニーには、バカみたいと思われるかもしれない。

 それでも言った。

 言い切った。

 勇気を出し切ったロンは、すっかり座り込んで俯いて震えている。

 そんな震える男の子は、ふわりと抱きしめられる。

 栗色の豊かな髪が、暖かくもくすぐったい。

 

「……ロン。ああ、ロン。あなた、あなたは……」

 

 ハーマイオニーの声も震えていた。

 人の心の闇に触れるなど、普通に生きてきた十一歳の少女には初めてだろう。

 ロンの肩に手を置いて、どういう表情を作ればいいのか戸惑っていたハリーは、やがて不器用に笑った。

 

「ロン。君がいなければ、ぼくらはここまで辿り着けていない。君が目立っていないだって? まったく、チェスゲームのとき君はヒーロー以外の何物でもなかったんだぞ」

「そう、そうよ。ロン。あなた、とてもかっこよかったのよ。それに。女の子二人にあんなに心配かけさせて、何が不満なのよ。ばか。この、ばか」

 

 ついに泣き出してしまったハーマイオニーの声を聞きながら、ロンはぼーっとした顔で二人を交互に見つめる。その顔には疑問の色がありありと浮かんでいたのをハリーは見て取った。

 彼の疑問に答えるため、ハリーは顎に手を当てて考えるポーズを見せる。

 

「なんだい。ひょっとして君、軽蔑されるかもとか思ってた?」

「う、うん……なんで、君たちは……」

「なんでって、あなた、それは……。その、えっと」

 

 ロンの恐る恐るといった風の問いかけに答えようとしたハーマイオニーが、見る見るうちに赤くなる。

 彼にはその様子を見る余裕もないので、なぜ彼女が顔を染めているのかも当然わからない。

 二人を見下ろせる位置に立っているハリーからは二人の表情が丸わかりで、そして心の中までも丸わかりだった。こんなもの、魔法なんて使わなくても十分に分かりやすい。

 なのに分かっていないロンがおかしくって、真っ赤になってあうあう言っているハーマイオニーが可愛くって、ハリーは思わず笑い声を漏らしていた。

 

「くふっ、うふふふ。なんだよ君ら。可愛いなあ、おい」

 

 ロンの背中から手を回し、ハーマイオニーごとぎゅっと力いっぱい抱きしめたハリーは、数秒間二人の暖かさを楽しんでからぱっと離れた。

 びっくりした顔をして振り返る二人を見て、ハリーはおかしそうに笑う。

 ハーマイオニーもそれにつられて笑い、最後に、ロンがぎこちないながらも笑顔になった。

 そりゃあ、そうだ。

 言えるわけがない。

 水晶玉から聞こえてきたあの声が、本当にロンの本心だとしたら。

 あれほど嬉しいことはないだろう。

 確かに嫉妬というのは、いうなれば負の感情であり忌避されるべきものとされる。だがそれを逆に考えてみれば、相手の長所をわかっているということにはならないだろうか。

 もちろん場合にもよる。現にハリーの場合は、目立ってて羨ましいという言葉が入っていたが、ハリー自身そんなに目立っても困るだけであって、言われてもたいして嬉しくはない。その後の強い、という言葉は素直にうれしかったので、ハリー自身もあまりハーマイオニーの事は言えない。

 しかしハーマイオニーからしてみれば、褒め言葉のオンパレードにしかならなかっただろう。『ハーマイオニーばっかり頭がよくって優しくってずるい』だなんて、なんて下手くそな口説き文句だろう!

 本人には全くそのつもりはなくとも、こんなことを言われてしまえば、口説き文句に聞こえてしまう。それが気になる男の子からのものなら、なおさらだろう。

 顔を真っ赤にして意味のない言葉を呻くハーマイオニーをにやにやして見ていると、ついに限界に達したハーマイオニーがロンを突き飛ばして立ち上がった。

 急に押されたので尻もちをついたロンが軽く抗議をすると、小さく謝ってからハーマイオニーは水晶玉に向き合った。

 

「まったくもう! まったくもう! ……いいわ、次は私が触れるわよ」

 

 湯だった顔を冷やすように、ハーマイオニーは毅然と言い放つ。

 別に同じことをしなくてもいいのではないだろうか、とハリーが言うも、ハーマイオニーは首を振って否定した。曰く、次の部屋へ行く扉はまだ出現していない。試練に挑みに来た全員が『心を認める』必要があるのだろう、と。

 ぼくが先にやろうか、と進言するハリーを手で制して、ハーマイオニーは水晶玉に手をかざす。

 深呼吸をひとつ残し、すこし不安げな声で一言漏らす。

 

「やるわよ」

 

 ぱし、と勢いよく水晶玉に手をついた。

 途端。

 部屋中に響かせて、ハーマイオニーの心の声が聞こえ始めた。

 

『いいなあ』

「……何を言われるのか怖いわね」

 

 本人がぽつりと言うと、心の声は続きを紡ぎ始めた。

 

『ハリーは可愛いなあ』

「ひょえっ!?」

 

 奇声をあげたのは、褒められた黒い髪の少女だ。

 ロンもハーマイオニーも変な顔をして、心の声の続きを待っている。

 ハーマイオニー自身はどうもこの内容に心当たりがないようで、戸惑っているようだ。

 

『黒い髪は綺麗だし、柔らかくって羨ましいな。きっと伸ばしてみたらすごく似合うはずよ。顔立ちもかっこいい美少年みたいだけれど、パーツが可愛い系でまとまってるから、成長したら間違いなくずるいくらい可愛い子になるはずだわ』

 

 随分と高評価である。

 自分の心の声だというのに苦笑いするハーマイオニーとは対照的に、ハリーはまるでグリフィンドール寮旗のように真っ赤だった。両手を頬にあてて、時折頭を懸命に振って熱を逃がしているようにも見える。

 しかしその微笑ましい姿をいつまでも見ているわけにはいかない。心の声が続きを始めたのだ。

 

『パーバティは綺麗よね。同じ黒髪だけど、ハリーと違ってエキゾチックな艶と魅力があるわ。お風呂で見たけどスタイルもいいし、本当に同じ十一歳かしら?』

「ごくっ」

「おい、こら。ロン」

 

 生唾を呑みこんだロンの尻をハリーが叩いた。

 ばつの悪そうな顔をしたロンだったが、ハーマイオニーの顔を見て訝しげになる。

 彼女の顔色が悪いのだ。

 

『ラベンダーも魅力的ね。可愛いとか綺麗とかではないけれど、あのフランクで遠慮のない性格は男の子にモテそうだわ。実際トーマスが気になってるっていうし、ああいう子がモテるのね』

 

 なんだ?

 ハリーが怪訝な顔をした。なんだか心の声のトーンが、ずいぶんおかしくなってきた。

 夢見るような声色から、だんだんと低く呟くようになっている。

 

『レイブンクローのジェシカ・マクミランも可愛いわね。ウェーブがかった金髪と褐色の肌がチャームポイントで、猫っぽい可愛さがあるわ。ハッフルパフのハンナも優しい子でとても魅力的だわ。スーザン・ボーンズみたいに三つ編みの似合う理知的な子もいいわね。スリザリンの双子のクロー姉妹なんて、真っ白い肌で綺麗なのに』

 

 褒め方が、なんだろう?

 羨んでいる色が見え隠れしていると言うべきか。

 どこか卑屈な感じがする。

 

『どうして、』

 

 続く言葉で、ハーマイオニーは声にならない悲鳴を漏らした。

 

『私は可愛くなかったんだろう』

 

 ついには耳をふさいでしゃがみこんでしまったハーマイオニーの隣で、ハリーは驚いていた。

 意外だ。

 彼女が寝室で自分の髪を梳いている姿を、ハリーは幾度か見たことがある。

 その後、自分の髪を見て諦めるような溜め息をついていたことも。

 その際に櫛の使い方が下手なのかと思い、ハグリッドが来て以来人が変わってしまったペチュニアに聞いて教わった方法で自身の髪の手入れをしているハリーが助言を進言したのだが、ハーマイオニーには苦い笑みと共に遠慮されてしまった。

 いわく、今まで放っておいたツケを支払っているのよ、と。

 ハーマイオニーは、自分の容姿に少なからずコンプレックスを持っている。

 お風呂上りにハリーの髪を梳きたがったり、同室のパドマ・パチルのきめ細やかな肌を触りたがったりと、自分にないものを羨んでいる節があったことも知っている。

 

『髪はいくらシャンプーを変えてもぼさぼさのままだし、手入れしても手入れしてもサラサラになんてならない。鼻だって低いし、目立って野暮ったいわ』

「やめてよ……こんな、恥ずかしい……」

 

 ハリーはこの試練を、心の闇を見せつけられる類のものだと判断していた。

 以前にハリーが心を囚われかけた、《みぞの鏡》と類似したものだと。

 心の後ろめたいところ、人には言いたくないところを読み取って、対象の精神を揺さぶるような魔法具。闇を認めるか受け入れるかすると、何らかの魔法でそれを感知して次の部屋への扉が開く。最初に聞かされた『心を認めよ、自分を呑みこめ』という囁きは、きっとそういう意味なのだろう。

 

『脚だって長いとは言えないし、背も高くない。遺伝的にも将来伸びる可能性は低いわ。前歯も大きすぎて無様で嫌いよ。知ってるんだから、みんな陰でビーバーって呼んでたの。胸だって、グランマやママのを見てるとそうそう大きくなってくれるとは思えない。女性らしさを求めて髪を伸ばしても、みっともないだけだったわ』

「やめ、て……やだぁ……」

 

 しかし、今回の独白を聞いてハリーは思う。もしや違うのではないだろうか、と。

 ハリーは実のところ、ハーマイオニーの闇を打ち明けられたことがある。

 周りの子がバカに見えて仕方ない。そういう傲慢さからくる悩みを打ち明けられたのだ。

 ハロウィーン以前の、肩ひじ張って虚勢を張って、周囲を見下し気味だったころの話だ。

 ハーマイオニーは将来の仕事に歯医者を見据えていたようで、プライマリースクールのころから一日のほぼすべてを勉強にあてるような子だった。進学校であるにも拘らず飛びぬけて頭脳明晰であり、時には教師よりも頭の回転が早かった。

 そして、そのころから頑固で融通が利かなかった。

 努力して勉強すれば誰でも何でも分かるようになると、本気で思っていた。教師であっても彼らも人間だ。間違いくらい誰だってするが、ハーマイオニーはそれを指摘して直させた。

 そんな子供が可愛いはずはない。

 教師も敬遠する、クラスメートは遠巻きにする。両親は愛情を注いでくれるが、だからこそ心配させることを嫌ってこの現状を打ち明けるわけにはいかない。勉強すればするほど、知識を得れば得るほど、勉強しない努力しない周囲がバカにしか見えない。そうなればまた、態度も硬くなる。二進も三進もいかない、心が締め付けられて固まって、まったく余裕がない状態。

 それが、出会った頃のハーマイオニーだった。

 

『ハリーが羨ましい。パーバティが羨ましい。ラベンダーが羨ましい。ジェシカ・マクミランも、ハンナも、スーザン・ボーンズも、クロー姉妹も、みんなみんな羨ましい』

「うう、ううう……」

『私だって可愛くなりたかった。男の子に噂されたりもしたかった。性格だってエロイーズみたいに優しく心の広い子になりたかった』

 

 魔法の存在を知り、ホグワーツに来ても、それはあまり変わらなかった。

 特にグリフィンドールはそれが顕著だ。

 知識を最も重んじるレイブンクローはともかくとして、スリザリンには純血の貴族であるお坊ちゃんやお嬢様が多い。ゆえに勉強することは生活の一部として当たり前なのだ。ハッフルパフには劣等生が多いなどと他寮から馬鹿にされるものの、それはとんでもない偏見である。真面目で大人しい子が多いからそう見えるのであって、前者二寮と比べればそうでもないが、彼らの大多数も勉強は欠かしていないのだ。ではグリフィンドールはどうかというと、古い常識に囚われず、いつだって新たな世界を打ち立てる先駆者にしてユーモアあふれるやんちゃな子が多い。本当に大事なのは仲間やその思い出だったりと、勉強を重視する子が少ないのだ。

 事実、ハーマイオニーは組み分け帽子にグリフィンドールかレイブンクローかで迷ったと言われている。レイブンクロー寮の生徒からも、どうしてうちに来なかったのかと聞かれたこともあったそうだ。

 

『――私って、醜いわ』

 

 だが。

 ハーマイオニーが選ばれたのは、グリフィンドールだ。

 勇猛果敢な騎士道の、勇気溢れる獅子の心を持つ寮だ。

 

「……二人とも。これが、私よ」

「ハーマイオニー……」

 

 涙をためて、鼻を赤くした姿で二人を見るハーマイオニーは、泣きだす寸前であった。

 居心地悪そうに困ったようなハリーを見て、ハーマイオニーは言葉を続ける。

 

「見ての通り、こんな情けない女なのよ。醜いわ」

「そっ、そんなことない!」

 

 ハーマイオニーの告白に割って入って遮ったのは、ロンだった。

 眉を綺麗なハの字にして、しどろもどろで言葉選びをしているようだが頭が回っているようには見えない。

 

「君が醜いなんて、あるわけ、その、ないだろ。ほら、ハーマイオニー。えっと、うん。そのお……」

 

 おそらく彼が思い、そして言うことは飾り気のない本心。

 ハリーはロンの口から出る言葉の続きを察して、ああ、と微笑った。

 まぶたを閉じて、呆れたように、大きな溜め息を一つ。

 それと同時に、ロンが口を開いた。

 

「君は十分、あー……えっと、ああ。可愛いと。思う、よ」

 

 赤い髪の下で頬も赤くした少年の言葉に、栗色の下が真っ赤に染まった。

 単純なものだ。

 幾百幾千の悪罵を浴びせられても、そんなものはただ一つの光で打ち払われる。

 きっとハーマイオニー自身は気づいていなくても、そういうものなのだ。

 現に見ればわかる。

 己の闇を知られた羞恥と情けなさに震わせていた肩も足も、今はロンの放った一言のせいで火照った熱を逃がすのに夢中なようだ。まったく、お忙しいことで。

 

 しかし、困った。

 ついにハリーの番が来てしまった。

 心の闇を露呈するにしろ、コンプレックスが暴露されるにしろ、ろくでもない事に違いない。

 ハリーは、自分の心の大半が憎悪で占められていることを自覚している。

 顔も知らぬヴォルデモートへの憎しみ。怒り。虚しさ、殺意。

 それを暴露されるのはちょっと、遠慮したかった。

 だが、受けなければならない。

 そうしなければ先へ進めないのなら、多少の犠牲くらい喜んで支払おう。

 ヴォルデモートの野望を打ち砕けるのなら。

 奴の目論見を妨げて、失意のどん底に叩き落とせるのなら。

 

「……よし。じゃあ最後だ。ぼくも触ろう」

 

 自分のメンタルなど、どうでもいいことだ。

 少し落ち着きを取り戻したハーマイオニーとロンが見守る中、ハリーは水晶玉に掌を向けた。

 最後になってしまうけれど、覚悟できるだけマシか。と思いながら、ぺたりと触れる。

 途端。

 ハリーの静かな声が、部屋中に響き渡った。

 

『わからないな』

 

 なんだ? と二人は訝しんだ。

 いつも聞いているハリーの声ではあるのだが、なんだか違う気もする。

 ハスキーで、まるで男の子みたいで、いつもの声ではある。高くも低くもない。

 しかし、感情が全くこもっていない。

 

『さっぱりわからない。ラベンダーはディーンだっていうし、パーバティは三年のセドリック・ディゴリーだろう?』

「……何の話だ?」

 

 ロンが訝しげな顔をする。

 己の事だというのにハリーは未だピンと来ていないようだったが、どうもハーマイオニーは気づいているらしい。はらはらとした様子で落ち着きがない。

 

『アンジェリーナはフレッドがいいなんて言うし、ハンナに至ってはネビルだ。挙句の果てにハーマイオニーはロ』

「わーっ! わーっ! うわーっ! うわぁぁぁーっ!」

 

 ハーマイオニーが突如大声をあげて、心の声を遮る。

 ただ単にびっくりしただけのロンとは違って、ハリーはそれで合点がいった。

 まさか、こんなことを言いはじめるとは。

 ぼくはいったい何を考えているんだ?

 

『みんなみんな、何を言ってるんだろうね』

 

 ぽたり、と。

 綺麗に澄んだコップの水に、一滴の泥が入り込んだかのような。

 小さく些細な、それでいて異常とはっきりわかる極小の違和感。

 泥のように粘ついたその感覚は、徐々に広がってゆく。

 

『誰が好きー、だとか。誰が親友だぁー、とか。お前の頼みなら、とか。君のためを想って、だとか。何なんだろうね、こいつらは』

 

 苛々と。沸々と。

 湧いてくるように、沸いてくるように。

 徐々に徐々にだんだんとゆっくりと、無色の声には色が塗られてゆく。

 タールのように真っ黒い、ドス黒い泥が。

 泥が。

 

『親友だ、とか。家族だ、とか。恋人だ、とか』

 

 泥が。

 

『くっだらないなぁッ! ほんっとうにッッ!』

 

 爆ぜた。

 突然荒げた声に、三人ともびくりと身体を竦ませる。

 ハリーが本気で怒ったことは何度かあった。

 ロンがハーマイオニーを、心無い言葉で泣かせたとき。

 スコーピウスがネビルに、度の過ぎた罵倒を向けたとき。

 だが、こんなにも憎々しげに怒声を放ったことはない。

 ハリーは極限まで感情が高ぶると、喜怒哀楽に関わらず泣いてしまうタイプだ。

 事実、ロンに怒っていた時も泣きながら吹き飛ばしていたし、スコーピウスを折檻するときもドラコが止めにくるまで泣きながら殴り続けていた。

 だというのに、これは如何なることか。

 

『くッだらない! なんでみんな、そんなに軽々しく言えるんだ!? なーに言っちゃってんだろうねえ。笑っちゃうよねえ』

 

 不穏な空気が流れ始める。

 唖然としたロンとハーマイオニーは、心の声が何を言いたいのかを理解するのに精一杯だ。

 ただ一人。

 ハリーはよくわかっている。

 これは心の奥底で思っていたこと。

 彼女の、本心なのだから。

 

『親友? お友達ぃ? ははっ、友情だってさ。笑っちゃうよね。……なんだそりゃ?』

 

 ざあ、と。血の気が引く音を聞いた。

 これはまずい。これを聞かせてはならない。

 ヴォルデモートに対する憎悪ならばまだマシだ、ずっとマシだ。

 だがこれは、これだけはいけない。

 こんなものを聞かせてしまったら、今後の関係にひびが入ってしまう。

 いや、今後だけではない。この先の試練に支障が――

 

「やめ――」

『ハーマイオニーもロンもさ。よくやるよねえ。フツーここまでついてくるか? 彼女らは『例のあの人』とは、なーんも直接の関係はないってのに。よくもまぁついて来る気になったもんだよ。『まともじゃない』よね。ま、便利だから助かるんだけど』

 

 言って、しまった。

 思っていても言わなかったことを。

 言ってしまっては取り返しのつかないことを。

 言われてしまった。

 

「……ぁっ、……、……」

 

 ああ。

 これだ。

 この感覚だ。

 独りぼっちだった、あのときの。

 ダドリー軍団に虐げられて、独りだったあのときの。

 憐みからでも嬉しかった、やっと話しかけてくれた女の子。

 翌日、顔に痛々しいあざを作って、もうあなたと関わるなって言われたの、と。

 ダドリーたちが大笑いするその前で、あなたのせいで痛い目に逢いたくない、と言われて。

 後日、なぜかハリーがやったことにされていて、その女の子の父親に殴られて。

 痛みに泣きたかったけれど、それ以上に胸の中心が痛くて。

 あまりに痛くて、心がどろりと溶けてしまいそうで。

 戸棚に映った自分の目が、濁った泥みたいで。

 生きることに飽いて諦めていて。

 ともだちが、いなくて。

 味方なんてなくて。

 心が死にゆく。

 その感覚。

 いやだ。

 嫌だ。

 

「……ぁ、……。が、ぅ……、」

 

 掠れた声がハリーの喉から這い出て零れ落ち、外気に晒され消えてゆく。

 掠れた声が溶け込んだ空気はざらついていて、とても目が痛い。

 掠れた声が、掠れた声が。

 

「……、う。違う、違うッ! 違うッッ!」

 

 掠れた声が唇から飛び出し、腹の底から絶叫する。

 ハリーの本心に驚いて凍っていた二人が、今度はその大声に驚いて竦む。

 真っ向からの、否定。

 

『僕たち三人は親友だ。私たち大人になっても一緒にいようね。はっはっは。なんッだそりゃ』

「違うッ! やっと出来た友達なんだ! そんなこと思ってるわけないだろう!」

『くだらないの。バカなんじゃないの?』

「黙れ黙れだまれッ!」

 

 絶叫による否定。

 二人に聞かれたくなくて、声を張り上げている。

 しかし脳髄の奥底に釘を突き刺すように、釘そのものが喋っているように。

 三人の頭にはハリーの本音が突き立てられる。

 

『友情なんてさ。そんなもの、あるわけないじゃん』

「あ、―――ッ」

 

 あ、終わったな。

 今までの友人関係を握り潰すかのような一言に、ハリーはふとそう思った。

 追い詰められすぎて、口元に笑みまで浮かんでくる。

 混乱して焦燥して、真っ白だった頭には妙に軽い考えが浮かぶ。今なら冗句だって言える。

 もう、笑うしかないのだ。

 

『親友だとか言われても困るんだよね。信じられるわけないだろう。でもひとりよりは多く居たほうが『あの人』の妨害に成功する確率は上がる。だったらなおさら本心を言えるわけがないんだけどね。裏切られたら困るもの』

「…………、……」

 

 そこまで、言うのか。

 ハリー自身も気づいてはいた。

 先ほど聞かれてはまずい、と思ったのも、そうだ。

 本当に友人として二人を見ていたのなら、あんな打算的な考えは浮かばないだろう。

 ハリー自身は、ハーマイオニーとロンのことを友人として見る事ができない。

 ホグワーツに来てこの一年間、共に勉強したり遊んだりお喋りしたりする者はいた。

 だが。

 心の底から友人と呼びたい人間は、ついぞ見つからなかった。

 魔法という脅威を得てからのハリーは、ダドリーからのいじめを受けなくなった。

 次は豚にされるかもしれないとハリーに怯えて豚のような悲鳴を上げるダドリーを見て、滑稽さや爽快さよりも哀れみを感じてしまうほどには、魔法を知る以前以後での心境は大幅に違う。

 ハリーが魔女である限り、二度と彼からの暴力は受けずに済むだろう。

 しかし、それは仮初の平穏にすぎない。

 彼が十年間ハリーを虐げてきた事実は変わらないし、ハリーの心にはもう、ダーズリーという恐怖が奥の奥まで魂の根源まで深々と刻まれている。

 以前よりダドリーが脅威でなくなったというのは、心的外傷を乗り越える理由にならない。

 ダドリーでなくても、悪辣な人間はどこにでも居る。

 そして、件のトラウマ。

 今後似たような事が起きないとは、限らない。

 リスクを考えてまで友人を求めるのなら、そんな不安定な要素はない方がマシだ。

 端的に言って、ハリー・ポッターは人間不信である。

 

『人は絶対に裏切る』

 

 呟くように。

 

『誰かを信じるなんて馬鹿なこと、二度とやってたまるか』

 

 染み込むように。

 

『ぼくは、誰も信じない。愛なんて、くだらない』

 

 心の声は切り捨てるように断言し、以降は静寂だけを残して消えた。

 この時点で、ハリーは諦めていた。

 ホグワーツにおける生活の中で、得難い友人を得ることはできるだろう、と考えてはいる。

 だがそれには長い年月が必要だとも。

 ハーマイオニーとロンには、一定の信頼を置いてもいいのではないか、と思っていた。

 以前ハロウィーンで起きた、トロールとの戦いでの経験が彼女にそうさせている。

 しかしそれも御破算だ。

 これだけ今までのやり取りが全て打算の上でやっていたことを暴露され、さらにはハリー自身の取り乱しようで、親切にも御自らそれが真実だと宣言しているのだから。

 

「ハリー……」

「っ、……、……。うーん、ごめんねハーマイオニー。事実だ。ぼくは君らを信用してはいない。一緒に居て楽しいなとは思えるけど、実は友達だと思ったことなんて一度もないんだ」

「……ッ」

 

 容赦なく心の臓腑に突き刺される本音。

 楽しかったけど、でもそれまでだったと。

 所詮は『役に立つから』、親友であると勘違いさせたままだったと。

 今のハリーは、友人関係というのは強い絆があると錯覚させられるため、便利な繋がりだとすら思っている。強い絆というのは、時に実力以上の結果を出すことのできる重要な要素であるため、決して蔑ろにすることはできない。そんな風に自然と思えてしまうのだから、ハリーは自分に他者を信じることは無理なのだと、ホグワーツに入る前に覚悟していた。

 だが、ここでそれがバレるのか。

 彼女たちと過ごす時間を、心地よいものだとうっすらと思い始め、誰をも信じないと決めたはずなのに、このことがバレると思うとあんなにも取り乱した。

 そうか。

 やはり、仮初の友人関係だったとはいえ、彼女たちを悪しからず思っていたのか。

 

「ハリー……泣いてるのかい?」

 

 ロンの声が聞こえる。

 頬に触れてみれば、確かに暖かく濡れている。

 泣くほど嫌だったのか。信じてもいない人間が、離れていくのが。

 それは、なんて――なんて傲慢。

 自分からは愛さないけれど、他者からは愛されたい?

 どれほど救いようのない愚か者なのだろう。呆れのあまり嘲笑すら出ない。

 

「ごめんなあ、ハーマイオニー。ごめんね、ロン。ぼくは、こういう女なんだよ」

「…………」

 

 ぼう。と低い音を立てて、扉が出現した。

 ハリーが認めたのだ。自信の心の醜悪さを。

 あれを開ければきっと次の試練へ、もしかすると石のもとへたどり着けるのだが、誰もその場を動こうとしない。ハリーの独白は、まだ終わっていない。

 

「嬉しいとか、腹が立つとか、楽しいとか、哀しいとか、君たちと過ごした一年でいろいろと感じてきたけどさ。好ましい、だとか。頼りになる、なんて。そういうのも感じたよ」

 

 すっかり言葉を失った、仮初の友人二人が佇む。

 ハリーは彼らがそれを聞いているのかいないのか、確認もせずつらつらと言葉を述べる。

 

「でもさ」

 

 そう切って、そこでハリーは二人へ顔を向けた。

 泥のように濁った瞳には、自嘲の色すら浮かんでいない。

 ハーマイオニーはここで確信した。

 彼女は、自分にすら信用を置いていないのだと。

 この世界で彼女が信じるものはなにもないのだと。

 

「友情だとか愛情だとか、そういうのは感じたことがなかった。おかしいかな? グリフィンドールの仲良し三人組なんて呼ばれていたのは知ってたけど、それを聞いてもなんとも思わなかったんだ。その通りだ、と誇ることも。冗談じゃない、と嗤うことも。何にも。なーんにも、だ」

 

 とぷ、と涙が零れてしまえば、もう止まることはない。

 ハーマイオニーは小さく嗚咽を漏らして泣きながら、ハリーの独白を聞き続けた。

 ロンは口を開いて呆けた顔のまま、涙を流して心中を吐露するハリーを見続けた。

 

「ああ、ここで帰ってもいいよ。ここから先はぼくがやることだし、もう十分役に立ったから」

 

 ずっと続くだろうと。

 大人になっても時折会って、思い出話で笑いあうだろうと。

 子供ができて親になって、互いの息子や娘の自慢でもするだろうと。

 そう思っていたのだけれど。

 それは夢に過ぎなかった。

 

「じゃあ、さようなら。また明日、学校でね」

 

 事もなげに、そう言い残して。

 ハリーが扉へ歩み寄り、ドアノブへ手をかけようとした、

 その時。

 左腕をぐいと引っ張られて、ハリーは後ろ向きに倒れこんだ。

 あまりに力が強かったのと予想していなかったこと、そしてハリーが軽すぎたことが原因だ。

 床に寝転がる羽目になるのを阻止したのは、引っ張った張本人であるロンだ。

 ロンに抱えられたまま少し驚いていたハリーは、殴られるかな、と思っていた。

 しかしロンから出たのは拳ではなく言葉だった。

 

「あ、ごめんハリー。強く引っ張り過ぎた」

「別にいいよ。でも離してくれないかな、女の子にこれはセクハラだぞ」

「許してくれよ。友達だろう」

「だから友達じゃないって」

 

 この期に及んで何を言い出すのだろう。

 怪訝な顔をしてロンの顔を見つめる。

 いつものロンならば照れて目線をはずすのだが、この時ばかりは違った。

 

「じゃあ、さ。ハリー。今からでも友達になろうよ」

「…………、……は?」

 

 こいつは。

 話を聞いていなかったのか?

 

「……何を言ってるんだ。この一年、君たちに友情を感じなかったって言ってるだろう」

「じゃあ、来年は?」

 

 来年?

 言われていることを理解できていないハリーに、ロンは言葉を紡ぎ続ける。

 

「再来年は? 四年生になったら? 五年生になって、六年生も七年生も一緒に過ごして。そうしたら、心境も変わるかもしれない」

「変わらないと思うけれど」

「変わるかもしれないじゃないか。試す価値はあるだろう」

 

 何なんだこいつは、本当に馬鹿なのか?

 怪訝な表情を崩さないハリーを見ているのかいないのか、燃えるような赤毛の男の子は言う。

 笑顔で。難しいことはさっぱり考えていないような笑顔で。

 

「なんだったらホグワーツを卒業しても、一緒にいようよ」

「……、…………」

 

 それは。

 それはちょっと。

 気恥ずかしいセリフだ。

 まるでプロポーズそのものではないか。

 ハリーは自分の顔が耳まで赤く染まっていくのを感じた。

 

「んなっ、なに言ってんだよ! バカか君は!」

 

 ロンの腕の中から離れようと慌てふためくハリーを、今度はハーマイオニーが抱きしめた。

 ついに完全に拘束されてしまった。

 などと、焦燥が一回転して冷静になっているからと言って茶化している場合ではない。

 ハリーは先ほど、憎まれても仕方ないほどの告白をしたのだ。

 なのに彼女はなぜ、わんわん泣きながら抱きついてくるのだろう。

 

「はりぃ。ああ、ハリー。あなた、あなたなんて子なの! もう、信じられないわ!」

「……失望させて悪いねハーマ――」

「そうじゃないわよバカ」

「――イオにゃー?」

 

 ハーマイオニーの指がハリーの頬をつまみ、きゅっと引っ張った。

 無駄な肉どころか必要な肉すらないハリーではあまり柔らかくなかったが、それでも構わずひっぱるため、むにっと変な顔になってしまう。

 なにをするんだという抗議を視線に乗せて飛ばすと、また彼女が泣いてしがみついてきた。

 どうしたものか。ロンを見上げてアイコンタクトを試みるも、目をそらされる。役立たずめ。

 

「ぐずっ、うう。ひっく。はりーぃ。あなた、ばかじゃないの。ほん、ひぐ。ほんとに、ばかよ」

 

 ハーマイオニーが涙と洟をローブで拭うと、ぼろぼろの顔のままハリーの目を見つめる。

 泣きすぎて赤く充血しているが、その気迫は本物だ。

 本気で怒っていて、かつ本気で悲しんでいる。

 

「は、リー。あなたね。あなたが私たちを信じられなくても、私たちはあなたを信じてるわ」

「……、……おいおい。そういう冗談はシャレにならないって」

「この私が。この状況で、そういう嘘を言うとお思いかしら」

「…………いや、」

 

 そうは、思わない。

 なぜなら。

 同じ寮であり、同室であり、『友達』であり、

 そして……、そして、なんだ?

 ハリーにとって、この子はなんだ?

 

「ロンの言うように。一年間でダメなら二年間、二年間でダメなら三年間つきあって、もっと長い時間でもつきあって。それでゆっくりと友達になっていけばいいのよ。時間はまだあるの。私たちには、まだいっぱいあるの」

 

 ハーマイオニーが抱きしめてくる力が強くて苦しい。

 さっぱり理解できない。

 いったい、なぜ。彼女らは、こんなにも。

 ぼくを繋ぎとめようとする?

 

「……なんでだ?」

「え?」

「ぼくは君達を友達だとは思ってなかった。なのに君達はどうしてぼくに構う?」

 

 ハリーが心の底から感じた疑問に対する返答は、二人の困ったような、それでいて呆れたような笑顔。ハーマイオニーが抱きしめる力を強め、頬ずりをする。二人の体重を支えているロンの腕も、力が増してぎゅっと抱きしめられているようだ。

 困惑したハリーの頬にひとつキスをして、ハーマイオニーは言う。

 

「そんなの。私たちがあなたを友達だと思ってるから。理由なんてそれで十分じゃない」

「理由になってないよ」

「いいのよ、そんなもので。一年前の私はそれすら分かってなかったけど、これを教えてくれたのはあなた達なのよ、ハリー」

「……?」

 

 さっぱり理解できない。

 ひとつ呟いて、ハリーは二人を押しのけて立ちあがった。

 

「もう、ハリー。待ってよ、一緒に行きましょう」

「ほら、ハリー。僕らを置いていくんじゃないぞ」

 

 そうすると、ハーマイオニーとロンもハリーの隣に立つ。

 立って、共に歩く。

 ハーマイオニーが左腕を抱きしめてきて、ロンが肩に腕を置いてくる。

 二人ともハリーより背が高いので、かなり歩きづらい。

 特にロンだ、こいつは腹が立つほどノッポなので、やろうと思えば立ったままハリーの頭に顎を乗せる事も出来るだろう。ハーマイオニーもハリーより幾分か背が高く、腕に抱きつかれているとは言っても、まるで持ち上げられているかのようだ。

 扉まで行くにも一苦労。

 両手が塞がれているので、また苦労。

 次の試練に至る階段を下りるのも、大変な苦労。

 だけど。

 それでも。

 なぜだろう。

 悪い気は、しなかった。

 

 三人は団子になって階段を降りようとしたため、ロンがハリーの足を踏んだり、ハーマイオニーがハリーにぶつかったりと本気で鬱陶しくなったため、手を繋ぐことで妥協させた。

 まるで小さい子供のように三人並んで階段を降りてゆく。

 魔法を用いて石を切って作ったのだろうか。今まで石畳のように丸みを帯びた石を敷き詰められていた床は、灰色の美しいなめらかなものになっている。

 次の試練へと至る階段も、妙に長い。

 ひょっとすると先ほどの悪辣な試練が、最後の試練だったのかもしれない。

 そう思ったハリーは、二人に一言注意を言って懐から杖を取り出して構える。

 三人の間に緊張が走った。

 もしかすると。居るのだ。

 この扉の向こうに、闇の帝王の眷属が。

 

「……、……」

「ハリー。落ち着いて。急く気持ちもわかるけど、落ち着かないと勝てるものも勝てないわ」

「…………わかってる、つもりだ」

 

 ひとつ。頬を伝う大粒の汗をぬぐって。

 柔らかな黒髪の下で獰猛に光る明るい緑の目を細めて、口の端を吊り上げる。

 この一年。

 奴を殺すことを夢見てきた。

 ヴォルデモートのことは、正直言って恐ろしい。

 心の声が決してその名を呼ばなかったことからもわかる。

 だが、それでも。

 殺したい、嬲りたい、侮辱したい、凌辱したい、蹂躙したい、貶めたい。

 そういった悪の感情を心の奥底で煮詰めていたハリーは、歓喜の気持ちでいっぱいだった。

 そうはいってもヴォルデモート本人がこの先で待っていることは、まずないだろう。

 居るのは奴の賛同者か、手下。はたまた信奉者か。

 構わない。

 やることは変わらない。

 無残に、容赦の欠片もなく、持てる力のすべてを以って、

 

「殺すだけだ」

 

 呟きと共に、扉が開け放たれる。

 心配そうな二人の視線を無視して、ハリーは部屋中に杖先を向けて調べた。

 誰もいない。

 まだ試練は続くのか、と思って部屋に入った、

 その時。

 

「やっと来た」

 

 男の声がした。

 急いで振り返り杖先を向けるも、そこには誰もいない。

 ハーマイオニーとロンも遅れて杖をあちらこちらに向けるが、部屋の中には三人以外に人はいない。せいぜいが部屋の隅に小汚いネズミや蜘蛛がいるくらいだ。

 声はすれども姿は見えず。

 魔法界ではもっとも注意すべきことの一つとされている現象だ。

 

「誰だ! どこにいる、姿を見せろ」

「ハリー! 落ち着いて!」

 

 適当な場所に呪文を撃ちこみながら、ハリーは叫ぶ。

 血走った眼は誰が見ても冷静さを失っていることは明らかだ。

 その様子を見ているのか、声はハリーの醜態を嗤う。

 

「ひどい形相だ。女の子のものとは思えないね、ハリー」

「いいから姿を見せろッ! 会話なんてする気はない! 早く出てきて、早くぼくに殺されろ!」

 

 またも適当な場所に失神呪文を放ち、鈍い音を立てて石壁を抉る。

 癇に障る声がまたも部屋中に響き、ハリーを嘲笑う。

 しかし、この声。聞き覚えがある。

 誰だったか――いや、しかし。そんなはずは。

 ふっと脳裏に浮かんだ顔を否定する。彼がここにいるはずはない。

 彼のように気の弱い人物が、ヴォルデモートの手下?

 ばかな。ありえない……。

 

「ああ、ハリー・ポッター。どうしたんだい、いつもみたいな勇敢さを見せておくれ」

「ッ! そこかあッ!」

 

 声が発せられる方向がわかった。

 姿は見えずとも、何も相手は空気というわけではない。

 ならばその方向へ広域に散らした魔法を放てば、少なくとも相手には当たるはずだ。

 その考えのもと、ハリーは単純に広範囲へスプレーするように杖先から魔力を射出した。

 果たして判断は正しかったのか。

 ハリーが抉った柱の陰から、黒い影が飛び出した。

 天井を舐めるように跳ぶ影に向かって、狙い違わず失神呪文が放たれる。

 予測進路上、ジャスト。誤差は有れど胴体には命中するはずだ。

 当たった! と確信した途端、相手が小さく呟いて発動した盾の呪文によって赤い閃光は弾き飛ばされ霧散してしまった。舌打ちをするハリーを苛立たせるように、影は音も立てずにふわりと着地する。

 そして小馬鹿にするように、ハリーに向けて優雅に一礼した。

 

「お見事。でもハリー、君はここに来ちゃいけないんだ」

 

 その姿を見て。

 その声を聴いて。

 ハリーは自分の根幹を揺さぶられたと思うほどに動揺した。

 

 怪人の元へ墨を水で溶いたような闇が集まり、ローブとなる。

 ――フードを目深に被った、闇のようなローブ。

 綺麗になっているが、あの禁じられた森で見た時と同じものだ。

 怪人は長い礼を終えて、芝居がかった仕草でゆっくり顔をあげた。

 ――闇の中で鈍く輝く白く禍々しい、髑髏の仮面。

 話に聞いたことがある、あの忌々しい白骨のことは。

 

「……まさか、そんな」

 

 ハリーが半歩、一歩と後ずさる。

 殺す殺すと息巻いていたハリーの怯えた姿に、ハーマイオニーとロンが驚いた。

 驚いたと同時、ローブ姿の髑髏仮面に杖を向けて睨む。

 二人のハリーを想っての行動は、ハリーの目には映らなかった。

 信じられない。

 悪い冗談だ、と。夢ではないだろうか、と。

 しかしこの場で現実逃避をすることは、死にも等しい愚かな行為。

 歯を食いしばるようにしてハリーは、自分に気合を入れるため髑髏仮面を睨めつけた。

 

「……ここに居るのが君だとは、全く思っていなかった。なんで、何でなんだ」

 

 白い手が、自らが被る仮面に手をかける。

 髑髏が剥がれ、黒い髪の下に隠れる顔が見える。

 

「……なぜ、君がここにいる!」

「ハリー、君はここにいちゃいけないんだ。これ以上減点されたら困るだろう?」

 

 嗤いながら、彼は仮面を脱ぎ捨てると同時、その勢いでフードが外れる。

 捨てられた仮面が甲高い音を発して割れ、同時に白い魔力となって空気中に霧散する。

 硬質な音にまぎれ、ハーマイオニーとロンの息を呑む音が部屋に響いた。

 今までの人生で、ここまで驚いたことはなかっただろう。

 そして同時に、ここまで失望した気分も味わったことはなかった。

 ハリーは憎悪と困惑、そして怒りを込めてその名を叫ぶ。

 

「なんで、君なんだ! ――ネビルッ!」

 

 闇より深い漆黒のローブを揺らし、髑髏の仮面より禍々しく嗤う。

 最後の試練の間に現れたのは、誰あろう、ハリーの知る限り最も優しいグリフィンドール生。

 ネビル・ロングボトム、その人であった。

 




【変更点】
・マグル学の試練。純血主義者とか来たら死にそう。
・占い学の試練。我は汝、汝は我。
・ハリーの闇。十年で負った心の傷は、一年では治らなかった。
・絶望しろんぐぼとむ。

【賢者の石への試練】
・第七の試練「マッドなマグル学」バーベッジ教授&バブリング教授
 マグルのやり方に従ってメモ通りの買い物をしなくてはならない。ただしメモに書かれているのは古代ルーン文字であり、解読する必要がある。
 元々マグルの知識を持っていないと絶対にクリアできない試練。ハリー達にとって楽だっただけ。

・第八の試練「弱くて強い心」トレローニー教授&ダンブルドア教授
 自分の弱い心をきちんと認めなければならないという、それだけの試練。
 ハリー達は三人で来たため、互いに一番醜いところを知られてしまう結果となった。
 ロンは目立ちたい願望、ハーマイオニーは容姿のコンプレックス、ハリーは人間不信。
 HMDのハリエットちゃんは、奇しくも若き日のトム・リドルと同じ闇を抱えています。

試練も次で最後!やったねハリーちゃん、絶望がやってくるよ。
寮の談話室で三人を止めるというネビルの出番が削られていたのはこのため。
次回はネビルとの戦闘。私は対人戦闘を書くのが一番好きです。目指せスタイリッシュ!


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14.最後の試練

 

 ハリーは、杖を構えた腕が震えるのを感じていた。

 まさか、嘘だろう。悪い冗談だ、そんなはずはない、何かの間違いだ。

 そう思いたくなるほどに、彼女たち三人の前に立ちはだかった敵の正体は、信じられない者だった。

 

 ネビル・ロングボトム。

 ホグワーツの一年生で、ハリーたちと同期。

 グリフィンドール寮の生徒であり、丸顔で人懐こく心優しい、小太りな少年。

 そしてその心の内には、誰よりも多大なる勇気を秘めていることを知っている。

 ハリーたちがドラゴンに関わってしまって窮したとき、一番心配してくれていたのが彼だ。

 自分も罰を受ける羽目になってまで、警告を発してくれようとした、勇気ある少年。

 魔法薬学とその担当教授セブルス・スネイプが大の苦手で、たびたび夢の中でスネイプに襲われていることを寝言で白状してくれるのは、グリフィンドール生たちの周知の事実だ。

 薬草学が大の得意で、もしかするとその教科のみならば、学年主席は間違いないとされるハーマイオニーにすら届くという事はあまり知られていないが、それも彼の大きな長所だ。

 それが、ハリーたちの知るネビル・ロングボトムという少年だった。

 

 だが。

 なんだ、これは。

 目の前で嗤う人物は、本当にネビル・ロングボトムなのか?

 あの子の性格は、人との争いが苦手で臆病だった。

 あの子の笑顔は、ハリーですら心暖まるものだった。

 あの子の雰囲気は、人を和ませる独特なものがあった。

 どんくさくて、要領が悪くて、でも誰も彼を見捨てられないで、つい気になる。

 なのに、なんだ?

 

「いやあ。遅かったね。あの試練を越えてきたんだろ? 随分と苦労したみたいだね」

「ネ、ネビ……ル……? い、いや! 嘘よ! あなたがネビルなはずないわ!」

 

 ハーマイオニーがヒステリックに叫ぶ。

 気持ちはわかる。ハリーだって叫びたい。

 しかし今のネビルから感じる魔力は、あまりにも邪悪だ。

 禁じられた森で殺し合った怪人と、ほぼ遜色ないほどに漆黒だ。

 ハリーたちを心底蔑み、見下している。

 

「僕がネビルじゃない? それは変だなあ、僕はネビルだよ。ネビル・ロングボトム」

「嘘よ! ネビルがそんな顔できるはずがないわ!」

「分からない子だなあ、ハーマイオニー。ひょっとして君、バカ?」

「ッ! 『スペシアリス・レベリオ』ッ! 化けの皮剥がれよ!」

 

 閃くように杖を振って呪文をさく裂させたハーマイオニーが、ネビルを名乗る人物に対して《看破呪文》をかける。これは何であれ正体を隠した偽物を暴く呪文であり、変身術を使って他人に化けていてもこれ一つでその目論見は崩れ去る、高度な呪文だ。

 上級生ですら扱えるかわからない上級呪文を見事に成功させたハーマイオニーの魔力反応光が、ネビルの体を包み込む。

 そこに慌てた様子はない。

 何も変わらず、歪んだ薄笑いを浮かべたままだ。

 ネビルの体はしばらく薄紫色に光り続けたものの、結局なにも起こらずに光は霧散した。

 魔法が失敗(ファンブル)した様子ではなかった。解呪(レジスト)すらされていないだろう。

 つまり。

 奴は疑う余地もなく、本物のネビルなのだ。

 彼が敵なのだ。

 

「いやあ、ずいぶん待ったよ。はやく、早く殺したくてたまらなかった」

 

 ネビルが自身の杖を振り上げて叫んだ。

 

「『レダクト』、粉々!」

 

 彼が呪文を紡ぎ終える前に、ハリーはその場を飛びのいた。

 ハリーの今まで立っていた床が、粉々に破壊される。

 転がって衝撃を逃がしながら、ハリーは思う。

 本気だ。ネビルは本気で、ぼくらを殺す気だ。

 ならばどうしたらいい。

 決まっている。

 

「『エクスペリアームス』!」

「ハリー!?」

 

 ハリーが武装解除呪文を放ったことで、ロンが驚きの声を上げる。

 立っているだけでもつらそうなのに、それでも杖を構えたままなのは感心だ。

 だが彼の咎めるような声に、ハリーは少し不快感を感じた。

 

「ネビルはもう敵だ! 敵である以上は殺す!」

「何も殺さなくてもいいじゃないか! 友達だろう!」

「友達なんていない!」

 

 次々と射出されるハリーの呪文は、そのすべてが攻撃呪文。

 失神呪文、武装解除呪文、切断呪文、はたまた魔力の放出まで行っている。

 一片の容赦もなく絶え間なく、人殺の呪いを撒き散らす。

 その行動原理は憎悪。

 闇の帝王に対する憎悪と空虚が、彼女の体を動かす血液だった。

 その同類と思わしきネビルも、当然のこと憎悪の対象になる。

 己が身をも焦がすような殺意をばらまくハリーに対して、ネビルは冷ややかだった。

 杖を軽く振れば、盾の呪文が効果を発揮して緻密な魔法防御障壁を編み上げる。

 ネビルにこんな魔法の実力があったとは。

 つまり今まで学校では、この膨大なパワーを隠していたということになるのだろうか。

 そうなると途端に憎らしく思えてくる。

 一生懸命やっても、生来のどんくささで失敗してしまう。わざとではないから応援したい気分になっていたのだ。それがすべてわざとだとしたら、今までかけられてきた小さな迷惑の数々も酷いしこりとなってイラつかせてくれる。

 怒りの感情は魔法をブーストさせる。

 女の子がしていい表情をはるかに振り切って、憤怒の形相でハリーは魔力弾を放った。

 

「……おっと、これはまずい」

 

 普段のおっとりした響きが全くないネビルの声がする。

 軽く呟いた直後、ネビルの張った障壁は打ち破られた。

 呪文そのものは当たらなかったようだが、余剰魔力によって吹き飛ばされる。

 ネビルの体が床で数回バウンドしながら、壁に叩きつけられる。そのせいで肺から空気が逃げたのか、激しく咳き込んだ。

 そこをハリーは見逃さない。

 騎士の扱う剣のように鋭く杖を突きだしたハリーの唇から、呪文がこぼれる。

 

「『グンミフーニス』!」

 

 杖先から勢いよく飛び出した光の縄は、ネビルの首に巻きついた。

 彼がはっとした顔をするが、もう遅い。

 設定を少しいじったハリーによって、この呪文は今ネビルを絞首刑にする役目を担った。

 数時間前に鍵鳥相手に見せたロープアクションのときのように、杖先に縄が巻き戻る。

 それに引っ張られてハリーの小柄な体が、高速で跳んで行く。

 制止するハーマイオニーの悲鳴とロンの怒鳴り声を無視して、ハリーは空中で体制を整えて、両足をぴたりとそろえた。

 そして着地。いや、着弾とするべきか。足を着いた場所は、ネビルの腹だ。

 折角吸い込んだ肺の空気をすべて吐き出し、それどころか胃の中身まで吐き出して、内臓もいくつか痛めたのか赤いものも吐き出した。

 吐瀉物を避けるようにネビルを蹴って床に降りたハリーは、首に縄を巻きつけたまま杖を振った。

 杖の動きに連動して縄も動き、膝をついていたネビルを無理矢理に引っ張る。本来であればハリーの非力な腕力ではできないが、魔法がそれを可能とする。この魔法は元来が犯罪者の捕縛目的で使われるものだったが、用途としては身動きの取れなくなった者を縛り上げるだけではなかった。逃げる敵を捕まえて、引き寄せることにも使われた。

 それを悪用したのが、この光景だ。

 ハリーが杖先を動かすと、パワーアシストされた縄が捕縛されたネビルを引っ張る。倒れ込んだ状態から無理矢理引っ張られたので体勢を崩して倒れ、ハリーのもとへと勢いよく床を引きずられてゆく。そしてハリーのいる場所を通り越して、反対側の壁まで放り投げられた。

 壁からずり落ちるネビルは苦悶の声を上げている。首を絞められているうえに、壁に叩きつけられたことによる全身へのかなり強い衝撃。骨が数本折れていてもおかしくはない。

 完全に殺害目的の攻撃である。

 

「だめよ、ハリー! ネビルを殺しちゃだめ!」

 

 ハーマイオニーが絶叫する。

 彼のような心優しい人物がこのようなことをするからには、相応の理由があるはずだ。

 ならばそれを聞かなければいけない。

 それ以前に、ハリーに人殺しなどという重すぎる罪を背負わせたくない。

 ハリーはそう思っていなくとも、こちらは彼女を大事な友だと思っているのだ。

 それゆえに、止めなければならない。

 

「もうネビルは動けないわ! それ以上攻撃しちゃ、だめ!」

「だまれ!」

 

 追撃しようとする姿に制止の声を投げかけるが、それは絶叫により遮られた。

 ハリーの鋭い叫びは、声も裏返って全く余裕のないものだ。

 憎悪と興奮とで、精神が高ぶり過ぎているのだろう。

 

「殺す! こいつは殺す! 『あいつ』に与したんだ! ならアズカバンは必然だろう、だったら殺したっていいだろう!」

「おいハリー! ハリー! ハーマイオニーの話聞いてるのか!?」

「殺す!」

「だめだこりゃ聞いてないぞ!」

 

 壁に背を預けて項垂れていたネビルが、ぴくりと反応して急激に走り出す。

 まるでアッシュワインダーのように素早く移動するネビルめがけて、ハリーが聞き取りづらい発音で呪文を叫んだ。杖先から飛び出した魔力反応光から察するに、切断呪文か。連続して複数の呪文を放ち続けるハリーの姿は、よく言って鬼気迫るという風で、ロンたちから見れば逆に追い詰められているようにしか見えなかった。

 ハリーの凶行を止めたいが、戦闘中に無理に止めたりすると下手をしたらハリー自身が危ない。もちろん彼女の放つ呪文がハーマイオニーやロンに当たるという可能性もあるので、どちらにしろ言葉でハリーを止めるしかない。

 部屋の隅まで走り切ったネビルめがけて、好機とばかりにハリーが武装解除呪文を放つ。

 しかしネビルは如何なる呪文を用いたのか、はたまた魔法具を用いているのかわからないが、部屋の隅に辿り着いたネビルは、その勢いのまま壁を駆け上がっていった。

 ジャパニーズコミックに出てくるニンジャめいた光景に一瞬驚くも、《身体強化魔法》というものを会得しようと勉強していたために納得して、驚愕はすぐに引っ込めて殺意を前面に出す。

 しかしあの魔法は、ハリーも未だに習得の目途が立たない魔法だ。まだ骨格どころか内臓すらしっかりと形成されていない、十一歳という幼い体で身体強化魔法を行使するのは、あまりにも無茶である。特にハリーは女性であり、初潮もまだ来ていない。生理不順で済むならばまだマシだ。下手をすれば、内臓に異常をきたして子を成せなくなる可能性もある。

 現段階では恋愛だの友情だのに全く興味を示せないハリーも、この一年をハーマイオニーやロンと過ごした結果、少しは心境に変化があったのだ。だからこそ先ほどは異常なまでに動揺し、一度は嘘をついてでも否定しようとした。もしも将来自分に愛する人ができて、彼の子を産みたいと願ったところで後の祭り。などという状況は避けたいとハリーは思ったのだ。

 だが、ネビルはそれを使用している。

 技術的にも身体的にも、ましてや魔力的にも知識的にすら彼にはその魔法に追いついているとは思えない。これはいったいどういうことなのだろうか。闇の帝王のしもべたる彼にかかれば、その程度は造作もないといったところなのだろうか。

 いや、そんなはずはない。

 彼も十一歳の子供であることは変わらないはずだ。

 いったい、なぜ。

 

「避けろハリー! 上だ!」

 

 ロンの鋭い声が、ハリーの頭を包んでいた疑念の霧を打ち払う。

 言われた方向を見る暇もなくその場から飛び退けば、ハリーが今までいた場所に轟音を立ててネビルが着地した。体勢を立て直しながら見てみれば、恐ろしいことに石畳が蜘蛛の巣状に割れている。あんなものが直撃したら、ハリーの柔らかい体など容易くミンチと化すだろう。

 転がった状態から起き上がりざまに、ネビルのいる方向に向けて魔法を放つ。

 

「『ステューピファイ』!」

「『プロテゴ・トタラム』! おぅい。どうしたハリー、君はその程度なの?」

 

 ハリーが全力で放った赤い閃光は、ネビルの張った障壁の前にあっさりと霧散する。

 やはりだ。やはりおかしい。

 今の呪文は、盾の呪文の上位スペルだ。

 彼は、ネビルは闇の魔術に対する防衛術が苦手だったはずだ。

 それなのに、ハリーにもハーマイオニーにも使えない呪文を先ほどから平然と使用している。

 それとも、これが闇の魔法使いが誇る力なのか?

 

「くっ、そ……ッ! 『アグアメンティ』! 『グレイシアス』!」

「『ラカーナム・インフラマーレイ』!」

 

 ハリーは水を凍らせた即席の弾丸を放ったが、ネビルの炎魔法にすべてが溶かされる。

 絶対におかしい。今の魔法にはかなりの魔力を込めたはずだ。

 それをいともたやすく。しかも、二度も。

 魔力をだいぶ消費したハリーが玉のような汗を流し、肩で息をしている状態なのに対してネビルの顔は涼しいものだ。

 今も身体強化魔法を使ってこちらに駆け寄ってくるほどには元気があるらしい。

 

「くッ!」

「ほォら、避けてごらん!」

 

 ハリーの数メートル手前で跳んだネビルは、三角跳びの要領で天井を蹴ってハリーのいるところへドロップキックを放ってきた。あまりの速さに回避が間に合わないと判断したハリーは、両腕を交差して顎や心臓の付近をガードする。

 車に衝突されたかのような衝撃が走る。蹴られたところが熱い。もしかすると折れてしまったか、ひびでも入ってしまったか。

 大きく吹き飛ばされたハリーは床にぶつかる際、転がることで衝撃を逃がして更なるダメージを避けた。格闘技の覚えはなかったはずだが、ダドリーの見るプロ格闘技の試合を見て覚えていたのかもしれない。やろうと思って即座に実行できたのは幸いだった。

 転がる最中に姿勢を直して起き上がっても勢いは残っていたのか、靴底を削りながら壁まで押し流される。背中にドンと衝撃を感じると同時、最大限の魔力を込めて両手で杖を構えた。

 特徴的な魔力反応光だ、ハーマイオニーなら気づくだろう。

 ……できれば巻き添えを避けてほしい。

 

「『インッ……センッ、ディオォ……ッ!」

「ろ、ロン! 私の後ろに隠れて! 『プロテゴ』! 『プロテゴ』! 『プロテゴ』! 三重の盾よ、防げ!」

 

 ハリーの力がこもった詠唱によって何をするかを察知したハーマイオニーが、盾の呪文を三重に唱える。

 半透明な盾が重なって出現し、ハーマイオニーとその後ろにいるロンを守る。

 盾の呪文はただでさえ、大人の魔法使いでも使えない者がいることからもわかるように、緻密な魔力コントロールが必要となる高難易度の呪文だ。

 それを三度も連続で行使できると言うのは、恐ろしいことである。

 だがハリーは、彼女がそれを出来ると確信していた。

 なればこそ、遠慮はいらない。

 

「……マキシマ』ァァァアアアア――――――ッ!」

 

 真紅の中にイエローとオレンジが混じった、まるで炎のような魔力反応光が杖先から噴き出す。

 閃光は瞬く間に部屋を横切り、ネビルにその着弾を気付かせないまま彼の体を火達磨とした。

 熱さを感じた時には、すでに全身に炎が燃え広がっている。

 ネビルはすぐに鋭い悲鳴を上げて床に転がるが、効果があるようには思えない。

 それもそのはず、『インセンディオ』系統の上位種たる先の呪文は、燃焼に重きを置いた進化を遂げている。転がった程度で消せるのならば、先人の労苦が報われまい。

 やっとの思いで炭と化す定めのローブを脱ぎ捨てたネビルが頭を上げた時、すでにハリーが杖を突きつけている光景を見ることになった。

 

「『エクス、ペリアァームス』ッ!」

 

 弾くような軽い音と共に、ネビルの持つ杖が彼の手から離れた。

 彼の杖は空中で幾度か回転しながら、ハリーの手の中に納まった。武装解除呪文は本来、魔力運用がしっかりしていれば相手の武器を奪う事も可能な魔法である。しかしそこまで緻密な魔力操作を行うには、戦闘中という精神状態の安定しない場においては相当な集中力を要する。

 つまり。ハリーは今現在。勝利の安堵と殺人への暗い歓喜によって、異様なまでに落ち着いており、静かな凪ぎの心を持っていた。

 身体を半身にし、杖先をネビルの喉に向けている杖腕を前に、奪ったネビルの杖を持つ手を、己の体を挟んでネビルに届かない位置に動かした。

 跪くネビルに対して、杖を突きつけるハリー。

 その状態を好機とみて、ハーマイオニーが動いた。

 

「『グンミフーニス』、縄よ! 『フェルーラ』、巻け!」

 

 魔法縄での拘束。

 杖がない以上、これでネビルは自分からは全く身動き取れない状態となった。

 眼前の獲物が、唐突にボンレスハムとなったことでハリーは驚き、ハーマイオニーを見る。

 ハリーがネビルを殺すつもりだと知った時から泣いていたハーマイオニーは、今やあふれる涙をローブの袖で拭いながらも気丈に杖を構えている。

 とどめを刺しやすいようにした、というわけではないだろう。

 しかし。それでも聞いておきたい。

 

「ハーマイオニー。なぜ拘束を?」

「だって、ハリー。あなたネビルが危険だから殺す気なんでしょう? だから、無力化したわ。それなら、殺す必要はなくなるわよね」

 

 冷たい汗を流してハリーの様子をうかがう。

 明るい緑の瞳は濁りきっていて、そして漆黒の殺意が溢れだしている。

 ハーマイオニーは寝室で、ハリーがダーズリー家で受けた虐待の傷跡を幾度となく目の当たりにした。それは肉体的にも、そして精神的にも傷だらけであった。

 学校に来たばかりの頃は着替えの際に痛々しい痣が見え隠れしており、風呂に入る際に彼女の裸身を見れば、栄養失調を疑うほど痩せ細っていた。普段の言動にもどこか生に飢えた異常性が散見されており、一度激昂すれば野生動物さながらの獰猛さを見せる。孤独でささくれ疑心で歪んだ、濁ったような瞳もまた特徴的だった。

 更に言えば、基本的に欲がない。恋愛に関する話は女の子という名の魔法生物の主食であるため、夜の女子寮では時折そういった情報交換会が行われる。皆がきゃあきゃあ騒ぐ中、彼女は全く興味を示さない。今思えば、先の試練で発覚した『誰も信用できない』という彼女の心の闇がそうさせているのだが、甘いお菓子にも興味を示さず、クィディッチ以外の娯楽にも食指が動かず、ホグワーツのご馳走も単純に栄養摂取としてしか見ていなかったように思える。

 そしてそうなってしまったほとんどの原因が、ダーズリー家の人間だ。

 近年では諦観が先に立って何も感じない人形のようになっていたが、それでも憎んではいたし、可能ならば殺してもよいのではとも思っていた。

 だが、それも叶わなくなった。

 魔法を用いれば、いとも容易くえげつない責め苦を与えられるだろう。

 実際に殺人を犯すにはリスクが高すぎるためにやらないとしても、いつでもそいつを殺せるという優越感は、いけないと思いながらも彼女の精神を非情に安定させていた。

 そういった暗い安寧を抱いていたというのに。彼女を虐待していた側の一人、ダーズリー夫人たるペチュニアの変貌がいけなかった。

 ハリーが自身を魔法使いだと知った後。魔法に怯えているとも取れるが、彼女はまるで開き直ったかのようにハリーに対して、ごくごく普通の接し方を始めたのだ。まるで今までが間違いだったかのように、抑圧されて凝り固まっていた、彼女の中の何かが取り払われたかのように。

 それがいけなかった。

 彼女を心の底から憎めなくなってしまったのだ。

 憎悪という感情は、殺意という意思は心の中に降り積もってしまった。だが、それを向ける相手がいなくなってしまう。それは困る。困るが……どうしようもなかった。

 そしてハリーは、ヴォルデモートへの殺意を煮詰め、滾らせた。

 今までのことはすべて奴が引き起こした、意図的な人災。

 ただでさえ歪んでいた彼女の心は、一見正常に見えるほど完全に捻じれ曲がった。

 それが、その結果が、この目だ。

 泥のような瞳。

 ハーマイオニーを無言で見つめている、その瞳だ。

 

「そうだね。ここまで縛られちゃ、脅威ではないね。杖もぼくの手にあるし」

「そ、そうよ。もうネビルは危険じゃないわ! 殺さなくってもいいのよ!」

 

 納得したようなハリーの一言に、ハーマイオニーは喜んだ。

 が、その喜びも直ちに霧散する。

 ハリーには杖を下す様子が全く見られないからだ。

 

「でも、殺す」

「ハリー……!?」

 

 表情が歪む。

 これは、いけない。

 ハリーはネビルを無力化するために殺すのではなく、殺すために殺すつもりだ。

 憎悪と焦燥が先行し過ぎて、状況判断がまともにできていないのか?

 こうなったらハリーを拘束してでも止めないとだめかとハーマイオニーが思い始めた時、ロンがネビルに声をかけた。

 

「なあ、ネビル……。嘘だよな? 君が、よりにもよって君が死喰い人なんてありえない」

「……、…………」

「ネビル。答えておくれよ。なんで君は、こんなところにいるんだ?」

 

 ロンは何か事情を知っているのか。

 ネビルは、ネビルだけは、何があろうと闇に染まることなどありえないと断じている。

 そこに何があったのか、マグル出身の少女二人にはわからない。わからないが、ロンとネビルは生粋の魔法族出身であるために通じ合うものがあるのか、それともこの二人だからわかるものがあるのか。理由は定かではないが、ロンの呼び声にネビルがぴくりと反応したように見えた。

 

「ネビル! どうして死喰い人なんかになったんだ!」

 

 ロンの悲痛な叫び。

 それが届いたのか、どうなのか。

 ネビルの唇がめくれあがり、異様な笑顔を作った。

 そして、言う。

 

「ハリー、君はここに来ちゃいけないんだ」

 

 先ほどと寸分違わぬ台詞を吐く。

 バカにしているのか、とロンが激昂して胸倉を掴みあげるも、怪我の痛みで手を添えただけのようになってしまう。

 ロンがネビルの顎を掴み、真面目に答えろと叫ぶがそれでもネビルはにやにやと恍惚に満ちた笑顔を引っ込めようとはしない。

 杖を突きつけたままのハリーが魔力を練り始めた。どうやら待ちきれないようだ。

 決して、彼女を人殺しにしてはならない。先の試練で彼女の心の闇を知り、完全に仲違いする覚悟でハリーに杖を向けようとハーマイオニーが決心した、

 その時。

 

「……まッ、待って! ハーマイオニー! ハリー! 見て、見てよ!」

 

 何事かと驚いた二人に、ロンはネビルの顔をよく見るようにと言う。

 訝しげに二人がネビルの顔を覗き込む。

 

「へらへらと笑っている。殺してやりたい」

「お団子鼻が可愛いけど、ちょっと太り気味だわ」

「違う、そうじゃない。そうじゃないよ二人とも。目を見てくれ、ネビルの目だ」

 

 ハリーは未だに怒りに震えており、ハーマイオニーは顔の造形を酷評した。

 だがそうではないのだ。ロンは怪我をしていない方の手で、苦労してネビルの瞼を開かせた。

 ――濁っている。

 ハリーの瞳とは、違う。彼女の瞳には希望の光が感じられない濁り方だが、ネビルの瞳は、文字通り白く濁っているのだ。焦点は合っていない。ぼんやりと杖先が灯るように眼球が発光しているのに気づいたが、これは……魔力反応光だ。

 ここで二人は、そうかと合点がいった。

 眼球から漏れ出る魔力反応光は、脳にまで魔法効果が及んでいる証だ。それも、魔法式で定められた必要魔力よりも多くの魔力が込められている。魔力を逃がさなければならないほど過剰に。

 これはどういうことか。

 ハーマイオニーがその特徴に気付いた時には、既にロンが声を張り上げていた。

 

「ネビルッ! 君がそのくそったれな呪文に負けちゃ駄目だ! 心を強く持て!」

「君がここにいちゃ……、いちゃ、いけ、な、……ううう……」

「ネビル!」

「ロ、……リー、いちゃいけない、いけない、ロン、いけいけロンないなななロロロロンン」

 

 流れがおかしくなってきた。

 ここにきてようやく、ハリーは溢れ出るような殺意を納める。

 ネビルは敵だ。ヴォルデモートの部下、死喰い人(デスイーター)だ。

 特徴的なあの衣装は、まず間違いなくそうであるはずだ。だが、これはなんだ? ハリーにあっさりと敗北を喫し、そして拘束されてもなお笑顔で有り続ける異様な姿。そして、まるでハリー以外の人物が見えていないかのように靄のかかった瞳。

 明らかに正気ではない。

 そして、自分の意思をも持ち得ていない。

 

「そうか、服従の呪文か……!」

 

 ぽつりとハリーが呟いたのが、答えだった。

 ――《服従の呪文》。

 許されざる呪文として知られる魔法であり、これを使おうものならば魔法界最低最悪の大監獄アズカバンへの収監はまず確実とされる、魔法使い最大の禁忌。

 《磔の呪文》、《服従の呪文》、《冒涜の呪文》、《簒奪の呪文》、そして《死の呪文》。

 それらの魔法を扱うには闇の魔術への適性と、闇に染まった心、そして強大な魔力を要する。

 今回の《服従の呪文》に限っては、相手を屈服させたい支配したいという強い気持ちも必要とされる。

 そのような魔法を使えるからには、ネビルを服従させた術者はよほど我の強い人間か、または性根が捻じれ曲がった人間と予想される。

 さておき、ネビルの襲撃が自分の意志ではない、彼は死喰い人ではない可能性が高くなった以上は、処遇をどうするか。

 ハリーは何がなんでも殺す、という主張を取り下げた。流石に闇の魔法使いでもないのに殺害するのは無益であると理解したのだろう。

 代わりに、雁字搦めに拘束して身動き一つとれないようにしたいと願い出た。これにはハーマイオニーも同意だった。

 ロンが必死にネビルに呼びかけるものの、効果があるようには見えない。

 仕方なしにハーマイオニーがネビルに《足縛りの呪文》をかけ、ハリーが《全身石化の呪文》をかけた。

 

「ネビル……」

 

 寂しげなロンの声が、ネビルに投げかけられる。

 彼らの間にどんな事情があったのか、いまは聞こうなどとは思わない。

 いつかは彼らの方から言ってくれるだろう、というのがハーマイオニーの言だ。

 

 ネビルをがちがちに拘束したのち、ハリーたちはどうするかを話し合った。

 彼を操った者が真に賢者の石を狙っている下手人なのか。

 そしてそれに該当する可能性がもっとも高いのは誰か。

 更にはその人物はどこにいるのか。

 情報が少なすぎて意見が飛ばない中、考えることが苦手なロンが落ち着きなくあたりを見回す。

 ハリーとネビルの戦闘で、柱は抉れ壁に罅が入っているなど、ずいぶん悲惨な光景だ。

 ところどころに散見される赤いのは……、ネビルの方をちらと見て、考えるのをやめた。

 哀れな被害者から視線を戻す途中、ロンが視界の隅にふと違和感を感じる。

 あれは……?

 

「ねえ。ハーマイオニー、ハリー」

「許されざる呪文を使ってる以上、相手はまず間違いなく死喰い人で――何よ、ロン」

「だったらなおさら殺った方がいいよ。殺らなきゃこっちが殺られ――何だよ、ロン」

「うん息がぴったりなのはいいことだ。それはどうでもいいからさ、ほら。あれ見て。僕にはちょっとわからないけれど、二人ならわかるかなって」

 

 死喰い人に遭遇した場合どうするべきかと口論し始めていた少女二人が、少年の言葉に壁際を見る。すると、どうだろう。何もない。何もないはずなのだが、違和感を感じる。まるで、目で見ているはずなのに、脳みそが気づいていないような。

 ハーマイオニーがもしかして、とつぶやくのに対して、ハリーはその違和感を感じる場所へ足を運んだ。広い部屋だ、特に何の変哲もない壁にしか見えない。

 ……いや、そうではない。あれは……。

 

「ロン。……たぶんお手柄だ」

「ええ、きっとそうね。私の知ってる通りの魔法具なら、大手柄よ、ロン」

 

 先ほどまで殺す殺さないと剣呑な雰囲気だった女の子二人に手放しでほめられて、ロンの耳が赤くなる。惜しむらくはその様子を二人が全く見ておらず、見つけた謎を解明しようとしていたことか。

 ハリーは違和感を感じる場所をよく見てみる。

 戦闘の余波で周囲は瓦礫と埃だらけだ。

 違和感の一つは、これだ。この場所だけ、四角く綺麗なままなのだ。雨が降った後にどけた車の下、色が全く違うアスファルトが思い出される。それだけ違和感が酷い。

 さらにもう一つは、脳に起きた不具合のような感覚。

 気付けないようにされている、といった方が適格かもしれない。違和感のある場所に目を向けたところで、別の方向へと視線が向かってしまう。その場所を、十秒と意識することができない。これは明らかなる異常だ。そこには『何もない』ように感じてしまうが、それ以外のすべてがそこに『何かがある』ことを証明している。

 ハーマイオニーに目配せすると、ハリーにそこから離れるよう指示される。

 彼女が数歩後ろに下がって大丈夫だと判断、複雑な軌道を描いてハーマイオニーは杖を振った。

 

「『スペシアリス・レベリオ』、化けの皮剥がれよ」

 

 先ほどネビルに使った呪文だ。

 今度は効果があったようで、景色が奇妙に歪んだかと思えば、絵具を溶かすようにして背景に色が付き始める。輪郭がしっかり見えるようになり、色が着々と塗られてゆく。

 十秒ほどかけて出来上がったそれは、複数のゴブレットが置かれた台座であった。

 いったいなんだろう、と思い机の上を見てみれば、見覚えのある文字で問題が書かれていた。

 いや、『おそらく』問題なのだろう文章だ。ハリーにはわからない。

 いや、いや。それ以前の問題だった。

 ……読めないのだ。

 

「英語じゃないな。……なにこれ、カンジ? じゃあこれ中国語か?」

「……、……いいえ。日本語よ、これ」

 

 日本語。

 それは極東の島国、日本で使われている公用語。

 マグルとしては、イカレた発想を実現する高い技術力を持つ、食べ物にうるさい和の国。

 魔法界としては、十九世紀前半から魔法に携わった若い国で、独自の魔法体系を持つ国。

 妖怪なる魔法生物が近年脚光を浴びていることで、英国魔法界でも有名な魔法文化国だ。スネイプの授業でも河童というモンゴル発祥(ハリーが河童は日本産であることを指摘したところ、彼にしては珍しく自分の発言を訂正したことに教室中が驚愕した後、なぜか減点をもらった)の魔法生物を扱った。

 そんな国で使われている言語が、なぜこんなところに?

 

「……ハリー、読める?」

「……いや、ごめん。平仮名ならまだしも、漢字が分からない」

「私がある程度読めるわ。……ちょっと解読してみる」

 

 困ったときのハーマイオニーである。

 なんでも、プライマリースクールで取っていた第二言語の授業が日本語だったのだとか。

 いったいどれほどの進学校に通っていたんだとハリーが戦慄する中、ハーマイオニーがぶつぶつ呟きながら杖先を使って空中に魔法文字を描く音だけが部屋に響く。

 数分後。

 ハーマイオニーがまるで癇癪を起したかのように壁を蹴った音で二人は驚いた。

 

「ど、どうしたハーマイオニー? わからないのか?」

「落ち着きなよハーマイオニー。ほら、急いては呪文をし損じる、だよ」

「ロンは黙ってて」

「僕に対する扱いの改善を要求する!」

 

 栗色の秀才に八つ当たりされた赤毛が涙目になる中、ハリーが恐る恐る尋ねる。

 いったいどうしたのか、と。

 

「どうもこうもないわ。これ、暗号なのよ」

「暗号?」

「そう。解読しても意味を持たない単語の集まりだったから、まず間違いなく暗号よ」

 

 暗号。

 異国の言葉で、暗号。

 それは何と言えばいいのか。そう、一言で言って「悪趣味」だ。

 

「何々……ああ、子供向けの暗号ね、これ。タヌキ言葉っていうのよ」

「え、ポンポコポンがなんだって?」

「『シレンシオ』、黙れロン。文章から平仮名の『た』を抜いて読むのよ。えっと、タヌキ? かしら、これ? 青くて丸いけど多分タヌキね。とにかく、そういう暗号なの」

「――――!? ――、――――ッ!」

「流石にロンが哀れだ」

 

 埃だらけの床に直接座り込んで、ガリガリと杖で空中に文字を刻みつけるハーマイオニー。

 いっそ不気味ささえ感じるその様相をハリーたちは直視できなかった。

 顔を逸らした先、ぐるぐる巻きにされて拘束された上に石のように固められたネビルを見る。

 いまは不思議と、殺そうという気が起きない。

 なぜだろうか。あんなにも殺さねばならないと思っていたはずなのに。

 殺さなければ、自分が自分でなくなるような……そういった切羽詰まった感覚があったのに。

 どういうわけか今はネビルを見ても、いいように操られた哀れな被害者としか思えない。

 ハーマイオニーに諭されたからだろうか? ロンの悲痛な顔を見たからだろうか?

 どちらにしろ、もう自分が誰かを殺したいとは思ってないことで安心した気がする。

 ハリーが自分の思考に足首まで沈み始めた頃、ハーマイオニーが立ちあがった。ハリーは脚を思考の海から引き抜いて、彼女に声をかける。

 

「分かったわ」

「流石。それで、何て書いてあるの?」

「この出題者の性格が捻じ曲がって趣味が悪くって人をおちょくるのが大好きなクソ野郎だってことが分かったわ! ちくしょう!」

―――――(ハーマイオニーが、)―――――(畜生って言った)!?」

「ロン、声でないなら無理して言わなくていいよ」

 

 今度は台座を蹴り飛ばすハーマイオニーを見て、ハリーは不安になってきた。

 なだめすかしてどのような内容が書いてあったのか聞いてみたところ、翻訳後にもまた日本語の問いかけが出てきたのだと言うそれだけならばまだ怒らない。だがそれも五度続けばイライラも最高潮に達してしまうだろう。

 そうしてようやく英文に直す問題が出てきて、それを解けば何とそれもまた問題。

 やっとの思いで辿りついた文章を見てみれば、最初に日本語で書かれていたタヌキ言葉を縦読みしてみれば最終問題に辿りつける。という、何と言えばよろしいものか、とにかく人をコケにしたものであった。

 日本語は縦書きにも、そして横書きにしても全く違和感なく読むことができるとされる奇妙な言語だ。だからこそのギミックなのだが……実際に問題を解く側のハーマイオニーとしてはたまったものではない。

 イライラが抑え切れなくなり、ついに脚が出たというわけだ。

 

「この出題者ほんっと性根が腐ってるわ! 学生時代はいじめられっこの泣きミソだったに違いないわよ!」

「ちょ、ハーマイオニー。試練を作ったのホグワーツの教師だから。忘れてる?」

「別にいいわよそんなの!」

 

 ハーマイオニー曰くイラクサ酒の論理パズルが最後に隠されていたらしく、つまりは透明だった台座の上に乗っているゴブレットの中に注がれている酒の中から正解を選び出して飲めば、その者のみが最後の部屋へ行けるそうだ。

 論理パズル自体は、興奮したハーマイオニーによって十数分かけて今もなお解かれている。

 出題者をなじっていたのが嘘のように褒め称え、これだけ論理的なパズルが組める魔法使いがいるだなんて誰なのかしら、ぜひともお話したいわとまるで夢見る乙女のようだった。

 しかしハリーは台座の隅に、セブルス・スネイプの署名があることを見逃さなかった。見逃さなかっただけで、それを教えることはしなかった。彼女はそこまで愚かではない。

 

 ふと、気づく。

 やはり楽しい。この三人で居ると楽しいのだと。

 同時に惜しいとも思った。なぜならハリーは、この関係を捨てたのだから。

 あの時の試練で本心を曝け出した。それは人と人との繋がりを断つ、致命傷を裂く刃。

 人間の関係という繋がりは、実に脆く繊細な糸でできている。

 寄り合い結び合い、絡み合って繋がって、時や経験を重ねれば強く逞しくなる。

 関係という糸は思うよりも頑健な出来をしているが、それでもやってはならないことがある。

 切るのはまだいい。仲直りして結びなおせば、また(ひと)(ひと)は繋がる。

 捻じれ絡まるのもマシだ。根気よく紐解いて誤解を解けば、拗れても元に戻る余地はある。

 では。

 先ほどのハリーのように。

 関係という糸を焼き尽くすような、残酷で苛烈な激情を吐きかけてしまったら。

 どうなるかなど、容易な問いかけだ。関係修復の可否を問うような次元の話ではない。

 それを直せるかどうかなど愚問である。なにせハリーの場合、関係を結ぶ糸そのもの自体がなかったからだ。あるのは吐かれた火焔のみ。糸など在りはしなかった。

 

 しかしそれならば、この気持ちはなんだろう。

 二度と味わえないはずだった、この、暖かい気持ちは。

 人を殺す覚悟はしてきた。魔法を知ってから一か月、あのプリベット通りで。

 ダーズリー家での経験が、ハリーの胎内に蠢く漆黒の殺意を育んだ。

 それが産声をあげようとしていたのだ。先の殺し合いで。

 誕生は阻止された。だが生まれ出でようとした人殺しの怪物は、霧散して消えたわけではない。

 今もハリーの腹の内で蹲って、機会を窺っているに過ぎない。

 血を啜り肉を食み、爪を以って敵を引き裂こうとする絶好の機会を。

 息を潜めて待っているだけだ。

 そんなものを飼ったままで誰かと関係を結ぶなど、できるだろうか。

 ハリーの答えは否だ。

 間違いなく、どうしようもなく否だ。

 受け入れられるはずがない。人殺しに焦がれ手を赤く染めんとする女など、願い下げだ。

 

 ……だが。

 だが、二人ならどうだ?

 ハーマイオニーと、ロンなら、どう答える?

 嫌われることなど怖くない。すでにそれだけのことを言った。

 怯えられることは厭わない。己が成りたいのはそういう女だ。

 ならば。聞いてみてはどうだろう。

 恐れる必要はもうないのだから。

 

「ロン、これよ。これだわ、正解のゴブレットはこれよ」

「――。――――?」

「あらごめんなさい。まだ喋れなかったわね」

「――――ッ!? ――……すがに酷いんじゃないかなッ! あ、喋れた」

 

 二人の方を見てみれば、どうもハーマイオニーが論理パズルを解いたらしい。

 賢者の石を狙う下手人、下手をすれば死喰い人と戦う可能性もあるというのに随分とリラックスした状態で会話をしている。

 思えば先ほどからそうだ。

 命を懸けた戦いになるだろうことは知っていたはずなのに、己の命そのものを軽視しているハリーはともかく彼らまでハリーと同じく軽い態度で臨んでいた。

 何故か。考えるまでもなく、ハリーに合わせていたのだ。

 彼女を気遣い、彼女が自身の異常性に気づかぬように。

 何故だ。どうしてそこまでしてくれるのだろう。

 半ば答えがわかっていながら、ハリーは二人に向けて、

 

「……ねえ、二人とも。……ちょっと、聞いてくれるかな」

 

 一歩。

 前に踏み出した。

 




【変更点】
・服従の呪文って便利! 親世代はこんな展開が日常ですよ恐ろしい。
 呼び声でレジストされかけたのは、術者に闇の魔法への適性がなかったからです。
・ふざけるなよネビルぅっ!おいてけ!思い出し玉おいてけ!
・スネイプ先生はやっぱりひねくれてないと。こっちが本当の最後の試練。
・ハリーの告白。

【オリジナルスペル】
「アニムス、我に力を」(初出・14話)
・身体能力強化呪文。肉体を強化して戦闘向きに変える呪文。変身術に属する。
 1978年、闇祓いアラスター・ムーディが開発。守護霊並みに習得難易度の高い呪文。

「インセンディオ・マキシマ、焼き尽くせ」(初出・14話)
・火炎呪文。魔力の導火線を空中に設置して魔法火を着火するため、精密性に優れる。
 元々魔法界にある呪文。単純にインセンディオの上位スペル。

「カダヴェイル、尽くせ」(初出・14話)
・《冒涜の呪文》。詳細不明。
 1982年《許されざる呪文》に登録。暗黒時代、ヴォルデモート卿が開発。

「ディキペイル、寄越せ」(初出・14話)
・《簒奪の呪文》。詳細不明。
 1982年《許されざる呪文》に登録。暗黒時代、ベラトリックス・レストレンジが開発。

【賢者の石への試練】
・番外の試練「友と死合い」ネビル・ロングボトム
 賢者の石を狙う何者かに《服従の呪文》をかけられた学友との殺し合い。
 哀れにもハリーとの戦闘で重度の魔力枯渇になったため、ネビルは全治二週間。

・第九の試練「暗号と論理パズル」スネイプ教授
 何重にも暗号化された謎かけをクリアしなければならない、忍耐力と知恵を試される試練。
 やはり最後は彼の論理パズルでないと。ちなみに青ダヌキの絵を描いたのは教授ご本人。

これにてホグワーツ教師陣の試練は終わりです。
ハーマイオニーとロンがいなければハリーはここで殺人を犯して後戻りできなくなり、第二の闇の帝王に内定が貰えるところでした。今後益々のご盛栄をお祈りいたします。鬱ルート回避。
因みにネビルの眼の状態は、映画『炎のゴブレット』でのクラムを想像してください。
次で最後。ハリーは下手人を倒せるのか!


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15.同じ道を歩もう

 

 

 ハリーは、勇気を振り絞った。

 すべての試練を終え、あとは賢者の石を狙う下手人の潜むだろう部屋へ至るのみ。

 そういった状況にあって尚も。

 石を奪われる前に急いで向かう必要がある状況にあって、尚も。

 彼女は二人に声をかけた。

 そうしなければ先へ進めないからだ。

 だから、一歩。 

 前に進んだ。

 

「……ねえ、二人とも。……ちょっと、聞いてくれるかな」

 

 冗談を言い合っていた二人が、ハリーの声に振り返る。

 どこか悲痛なその声に気づいていながら、二人はそれでも笑顔を崩さなかった。

 人間のできた子たちだ。そう思いながらも、ハリーはそれに甘えることにした。

 

「なにかしら、ハリー? 私は私の仕事を終えたわよ、あとは覚悟するだけ」

「なんだいハリー。僕は戦力外だ。まったく、マーリンの髭もいいところさ」

 

 二人そろってハリーの隣にやってくる。

 スネイプの用意した台座の上に置かれたゴブレットはどこかへ追いやられ、三人のベンチへと早変わりした。ハーマイオニーは完全に問題を解いた自信があるらしい。二つのゴブレットを除き、魔法で消し去ってしまった。

 ハリーが何を話すのかはわからないはずだ。

 それでもなお、彼女らはハリーが自分たちに不利益をもたらすとは全く思ってもいない顔をしている。恐ろしいまでの純粋さだ。どこまでもハリーの事を信頼している。

 

「……ひとつ。ぼくは君たちに秘密にしていたことがある」

 

 何をいまさら、とハリーは内心で自嘲した。

 友達と思っていなかったという告白も、かなりとんでもない秘密である。

 そう思っていてなお、さらに秘密を隠し持っていているなどと、本当に最低だ。

 そして彼女らにとって負担になると知っていて伝えようとしている。

 自分は何をしているのだろう?

 

「ぼく、が。ヴォルデモートに殺されなかった、って話は知ってるよね」

「ハリーその名前を言わなごぁっ! な、なんでもないよ続けて知ってるよハリー」

 

 ハーマイオニーがロンの脇腹に肘鉄を打ったのを見たが、何も言わないでおいた。

 そんなものに構っている余裕はない。

 

「……マクゴナガル先生から聞いた話、なんだけど、さ」

 

 ハリーは未だ躊躇っていた。

 当惑される。拒絶される。隔離される。否定される。

 それらの未来が確定する言葉を、ハリーは紡げないでいる。

 まるで喉が干上がって、どこかへ行ってしまったかのようだった。

 今この時になって、ようやく分かった。

 怖いのだ。

 二人が自分から離れていくのが、どうしようもなく怖い。

 以前にも考えたことだが、ハリーの心はホグワーツに来てから本当に脆くなってしまった。

 独りでなら耐えられたことが、二人、いや、何人も隣にいる今では絶対に耐えきれない。

 唇が震えて、続きが言えない。

 

「ハリー」

 

 口をぱくぱく動かすだけの人形になったハリーに、ロンが声をかける。

 悪戯っぽく得意のしたり顔をしているのが妙に腹立たしい。

 

「言っちゃいなよ。そうすれば楽になれるぜ。そう、マーチンミグスみたいにね」

「ロンあなた何言ってるの?」

 

 面白くなかった。

 場を和ませようとジョークを飛ばされたが、悲惨なまでに面白くなかった。

 恐らくとっておきのものだったらしく、かなりショックだったようだ。

 ついでに言うと意味も分からなかった。

 だが、それでも、ハリーの心をほぐすには一役買ったようだ。

 損な役回りではあったけれど、ロンもなかなかやるじゃないか。そんなことを思いながら、ひとつ大きなため息を吐く。そしてハリーは続きを口にした。

 

「ぼくはね。どうもヴォルデモートに呪われたらしいんだ」

「……呪文を受けたってこと?」

「いや。文字通り、呪われたんだ。ぼくが一歳になる誕生日。パパとママを殺したその足で、ぼくを殺し損ねた後、呪ったんだ」

 

 ハーマイオニーが悲痛な表情を浮かべ、ロンが息を呑んだ。

 それもそうだ。

 ヴォルデモートはハリーを殺し損ねたことで死の呪文が魔法反転(リバウンド)を起こして死んだ。もしくは力を失ったとされているのだ。

 それが、ハリーを呪う余力があっただなんて。

 何の呪いをかけられたのかは非常に気になるところであったが、二人はハリーが言うまで我慢することにした。

 

「それで、だね。ぼくにかけられた呪いは……」

 

 深呼吸。

 額は汗で前髪が張り付いて鬱陶しいし、ブラウスは胸にぺたぺたとくっついて気持ち悪い。

 頬を一筋の汗が流れて床に落ちたのを合図に、言葉が雪崩れた。

 

「《命数禍患の呪い》。成人するまで、対象の『運命』を奪い取る呪文……らしい」

「なんだそりゃ! パパが魔法省勤務だから、僕もある程度は詳しいつもりだけど……そんな呪文、聞いたことないや」

「本来ぼくが経験するはずだった幸運は『奴』が得て、『奴』が陥る不運はぼくへ振りかかる……そういう邪悪な呪文らしい。マクゴナガル先生が言うにはね」

 

 歯切れ悪く言うハリーに、ロンが疑問の声を投げかける。

 疑っているのではなく純粋に疑問に思ったようだ。

 

「『らしい』って。ハリーはよくわからないの?」

「正直言ってわからない。図書館で調べてはみたけれど、そんな呪いどこにも載ってなかったんだ。強力な闇の魔術だから秘匿してるって言ってたし、もしかすると禁書の棚かもしれないね」

「それはたぶん、禁書の棚にも置けないほど酷い魔法だからってことじゃないかしら。私よく図書館に通ってるからマダム・ピンスと仲が良いけれど、許されざる呪文関連はその名前と効果だけ書いてあって、詳しいことは絶対に載せないようにしてるみたいなの」

「誰かが読んで会得したら困るから?」

「ええ。五〇年近く前、ダンブルドア先生が直々に図書館のそういった本を整理したみたいだわ」

 

 この大事なタイミングで魔法省なんかに行ってしまった耄碌爺さんだが、意外なところで仕事をしていた。ただのクレイジーなジジイではなかったようだ。

 組み分けの儀のときやハロウィーンパーティのとき以外、ハリーはあまり見ない人だったが、やはり校長職だから忙しいのだろうか。最後に顔を見たのは、透明マントで《みぞの鏡》に通っていたあの時だ。

 まあ今はそんなこと、どうでもいい。

 要するにハリーがそういった凶悪な呪いをかけられているという、その事実のみが伝わればそれでいい。

 話を続けよう。

 

「とにかく、ぼくにはそういう呪いがかけられてるんだ」

「……ええ」

「胸糞悪い話だな……」

「……それ、で。……ここからが、本題。なんだ」

 

 勇気を振り絞れ。

 お前はどこの寮に入った女だ。

 知識のレイブンクローか。いや、違う。

 優しさのハッフルパフか。いや、違う。

 目的遂げるスリザリンか。いや、違う。

 そうだ。

 勇気のグリフィンドール! そうだろう!

 

「……、ッ、……うん。ぼくと居ると、つまりぼくと関わると、たぶん君たちの幸運も奪われることになると思うんだ」

「…………」

「マクゴナガル先生曰く、普通に降りかかる災難もよりハードになるそうだからね。ぼくはもともとがトラブルに巻き込まれやすい立ち位置なのに、そんなことになったら命がいくつあっても足りやしない」

 

 ハリーは、鼻の奥がつんと熱くなってきた。

 なんだいまさら。怖いのか。いや、怖いのだ。さっき自覚しただろう。

 言え、言うんだハリエット。

 邪悪だろうと。『まともじゃなくて』も。人殺しを許容する薄汚れた女でも。

 せめて、勇気を出せ。

 

「だから、ぼくは提案する」

 

 勇気を。

 

「もう二度と、ぼく、に。関わらないで、くれ。足手まといだ」

 

 そうだ。

 それでいい。

 ああ、認めよう。

 ハリーは彼女たちに、微かながら、友情を感じてしまった。

 ハーマイオニーとロンは、ハリーとは、ひいてはヴォルデモートとは無関係だ。

 だから呪われた自分のせいで、彼女たちに余計な危害を与えたくない。

 例えば。ハリーが何の呪いもなく、ただの一人の勇敢な子供であったなら。ヴォルデモートという巨悪に立ち向かうため、仲間の力を要してロンとハーマイオニーに協力を仰いだだろう。信頼できる仲間とともに挑むことほど、心強く達成できると思えるものは他にないからだ。

 だが現実、ハリーは呪われている。

 呪いそのものはハリー個人に対するものでも、その危害が周囲に及ぶのならば、ハリーは我慢できる少女ではない。自分の優先順位が低いために周囲を遠ざけ、自分独りで苦しめばよいと考えてしまうのだ。

 それはどれほどの孤独か。

 楽しかった時間を経てハリーは気づき始めているが、完全に自覚してしまえば心が折れる。

 だが、折れたからと言ってなんだ。

 足が折れたら手で這えばいい。

 手が折れたら歯で食らいつけ。

 彼女らを危険に巻き込んでしまうことは耐え難い苦痛だと気付いた今、もう隠す必要はない。

 自分に言い聞かせて騙す必要もなくなった。

 

「いまさら何を言ってるのかと思うかもしれない。虫のよすぎる話だと自分でも思う。……だけどお願いだ。ぼくのせいで君たちに危害が及ぶのは嫌なんだ、だから。――離れてくれ」

 

 ハーマイオニー・グレンジャー。ロン・ウィーズリー。

 彼女らは、大事な人たちだ。

 ネビルすら殺そうとするハリーを止めようと考えるほどお人好しで、友達だと思っていないといても態度を変えることはしなかった。

 ハリーにはそんな二人が眩しくて、羨ましくて、疎ましくて、嫉妬していた。

 そうだ。

 意地を張って、嫉妬していたのだ。

 友達じゃないなどと心の声が言ったことも、今のこの態度も。

 自分では生きられなかった光溢れる人生がうらやましくて。

 だからこそ突き放す。

 二人には愛してくれる両親が、兄弟が、家族がいる。

 翻って自分には誰がいる?

 居ないのだ、誰も。かつては居たが、だからこそ、彼女たちを危険に巻き込みたくない。

 失いたくない。

 

「お願いだ。……たのむ」

 

 ハリーは頭を下げた。深く深く、下げた。

 優しい彼女たちのことだ。拒否されて一緒に行くと言われるのは想像に難くない。

 意地を張ることをやめた今では素直に嬉しいと思えるが、それでも駄目だ。

 ネビルとの戦闘で分かった。

 当たり前の話かもしれないが、敵は一切容赦してこない。

 ただの一年生であるネビルを駒に起用するあたり何か考えがあるのかもしれないが、少なくともハリーには、ネビルの瞳を通して敵の殺意を垣間見た。

 あれは、人殺しの目だ。

 禁じられた森で出会った、あのローブの怪人に見られた時と同じ感覚。

 あんな視線を送れるような者に打ち勝つには、無力化させようとする意志では敵わない。

 殺そうと明確に思わなくては。

 魔法は、意思の力だ。敵を縊る覚悟を持たなければ、恐らく勝てない。

 二人がそんな真っ黒い覚悟を決める必要は、ない。

 だから、

 

「そうさせてもらうわ」

「分かったよ」

 

 そう言ってくれと願っていても、いざ言われると絶望的な気持ちになってしまう。

 離れてゆく。

 友達だと言ってくれた人たちが、行ってしまう。

 そんな表情を見せたくなかったハリーは顔を上げなかった。

 ゆえに、二人の表情を見ていない。

 

「ただし、この一時間だけだわね」

「だからここで帰りを待つことにするよ」

 

 がばっと顔を上げれば、ハーマイオニーとロンは微笑みを隠してもいなかった。

 にこにこと、まるで妹の成長を喜ぶ姉と兄のような顔で。

 穏やかにハリーのことを見つめていた。

 

「そういえば、言ったかしら。このゴブレットね、これを飲んだ一人だけを次の部屋へ通すらしいの。だから、その役割はきっとハリーなんじゃないかって思って」

「そうだよ。一人で送り出すのはちょっと心配だけれど、ハリー、君なら大丈夫。君なら間違ったことはしないと信じることができる」

「そう、勉強ができたり、戦略を組めたり、きっとこの先に必要なのはそういうことじゃないの。友情だとか勇気だとか、そういうものなのよ」

「だからハリー。君ならいけるさ。勇気の塊だし、なにより僕らがいるだろう」

 

 二人の声が背中を押してくれる。

 ハーマイオニーがゴブレットを手渡してきて、ロンが背中をやさしく叩いてくる。

 ただそれだけの行為なのに、とても胸が暖かい。

 心がほぐれて洗われる。

 つい先ほどまでもう帰ってほしい離れてほしいと願っていたのに、こんなことで決心は揺らぐ。

 嬉しいのだ。どうしようもなく、泣きたいほどに嬉しい。

 自分のことを想ってくれると実感できるのが、情を感じられるのが、とてもうれしい。

 この場に居ても危険はあるというのに、敵が死喰い人である可能性が高い以上は二人を教師のもとへ行かせるべきなのに、それなのに嬉しくて嬉しくて仕方がない。

 ハリーは桜色に染まった頬を隠すようにそっぽを向き、もごもごと口を動かして言うべき文句を探す。

 だが唇から文句が飛び出す前に、ハーマイオニーにぎゅっと抱きしめられて頬にキスされた。

 面喰って呆けた顔をするハリーを笑いながら、ロンがハリーの黒髪を掻き回すように撫でる。

 なにをするんだ、と振り払おうとするも、体が行動に出てくれない。

 友達じゃない、と叫ぼうとしても、喉の奥が熱くてなにも言えない。

 ハリーはこの日、はじめて声を漏らして泣いた。

 

「……い、行ってきます」

「気を付けてねハリー」

「油断するなよ」

 

 涙を拭いて洟をかんで、ハリーはローブを着直した。

 鍵鳥のせいでへそ出しとなったブラウスも直し、破れたズボンもきちんと直した。来年度はスカートを仕立ててもらおう、絶対にそうしよう、と心に決めながら裾を直す。

 ローブも洗浄呪文で綺麗にした。せっけんのいい香りがする。

 ぼさぼさだったり血で絡まっていた髪も綺麗にしたし、泥や埃だらけの肌も綺麗にした。

 別にこれから戦うのだから見目に気にする必要はないとハリーは主張したが、ロン曰く余裕を見せることが大事ということでハーマイオニーが全力を出したのだ。

 怪我もない。体力もある程度回復した。魔力も十分残っている。

 なにより、心が軽い。

 

「長い階段だ」

 

 こつこつ、と。

 独りで扉をくぐって階段を下りる。

 石造りの段を下りるごとに、気温が低くなっている気さえする。

 不気味だ。こんなにも薄暗くて、蝋燭に灯った魔法火しか明かりはない。

 お化けでも出てくるんじゃなかろうなと思いながら、そういえばホグワーツには普通にゴーストがいたな、と思うと自然と笑えてくる。精神状態にも余裕があるようだ。

 だからなのか。

 最後の大部屋についた途端に響いた声に、心臓が跳ね上がってしまった。

 

「随分と余裕そうだが……遅かったな、ポッター」

「……あなただったんですか」

 

 襟を詰めた黒い服に、バイオレットのローブ。

 ローブと同色のターバンで頭を包んだ、ホグワーツ教師陣の一人。

 闇の魔術に対する防衛術、その教授。

 

「クィリナス・クィレル……」

「先生、だろう。ポッター」

 

 普段のおどおどした様子は微塵もない。

 どもり癖もまったく見られず、どうやら演技だったことが窺える。

 確かに、クィリナス・クィレルは賢者の石を狙う下手人の候補に挙がっていた。

 スネイプとの会話がその理由だ。ハーマイオニーとロンが主張していたスネイプ黒幕説の次点で有力だった説である。

 

「……いくつか質問をよろしいでしょうか、先生?」

「嫌味を言えるようになったかポッター。いいだろう、言え」

 

 口元を歪めるクィレルは、なるほど邪悪な目をしている。

 ハリーのことを路傍の塵とすら見ていない。

 あんなにも人を見下した顔を見たのは、初めてだった。

 ダーズリーでさえあんな高圧的な顔はできなかったはずだ。

 自分への絶対なる自信からくる、高慢な態度。

 惰弱な自信家か、または高慢が許されるほどの実力を持っているかのどちらかだ。

 だがハリーは、クィレルが後者であると思っている。

 

「なぜネビルを操った」

「ネビル? ああ、あの男子生徒か。いや、なに。ポッター、貴様たちを止めなければ、と私に言いつけに来たからちょうどいい手駒に、と思ってね。おまえたちとの交友があるのは知っていたから、ちょうどよかったのだよ。試練で囮に使ったりね」

「……じゃあ、ネビルじゃなくてもよかったわけだ」

「それはそうさ。誰が、好き好んであんな落ちこぼれを使うか。現にスネイプの試練では一人しかここに来れないからな。彼はそこで捨てた」

 

 酷い言われようだ。

 そしてネビル。彼はノーバートの時に続いて、こんなところでも不運を味わっていたのか。

 結果的にだが殺さないで本当によかった。

 もし殺害していれば、ハリーの心は自分の行いに耐えきれなかっただろう。

 ネビルの事を想い、そして次の問いを投げかける。

 

「ハロウィーンの日。トロールはどうやって入れた」

「ほう。あれが私の仕業だと、どうして思ったのかね?」

 

 正解に近い答えを導けそうな、それでいて間違っている出来の悪い生徒を見るような目だ。

 しかしこの男はきっと、正解を教えはしないだろう。

 授業態度が悪かったとは言えないが、教科書通りの教え方をするのみなので、この男の授業は面白くなかった。それはなるほど、この男が人にものを教えることに向いていないからなのだろう。

 

「私はトロールを操ることにかけては特別な才能があってね。奴らはバカだが、きちんと手順を踏めば主に従属する忠実な駒となる」

「それを三体もぼくらに差し出してくれるとは、ずいぶんと太っ腹だな」

「勘違いをしてくれるなポッター。あれはブラフだ」

 

 ブラフ。囮にしたというのか?

 しかしトロールを三体も使い捨てるほどの陽動を必要としてまで行うこととは何だ。

 まあ、いま目の前に見える光景がその答えだろう。

 四階の禁じられた廊下にでも挑もうとしたに違いない。

 

「で、失敗したと」

「チィッ! そうだ。……あの忌々しいスネイプめが! 私の邪魔をしおったのだ!」

 

 ここでその名前が出るか。

 スネイプ黒幕説は覆り、スネイプ天使説が持ち上がる。

 当然だ。ハリーとの個人授業のとき、彼はいつでも殺すことができたのだから。

 苦々しげにスネイプへの文句をぶつぶつ言うクィレルに、ハリーはまた問いを投げる。

 

「じゃあ、もう一つ。どうして帝王側なんかに行ったんだ? 十年前、ぼくを殺し損ねてからは落ち目もいいところじゃないか」

 

 この問いに、クィレルは少しだけ肩を揺らした。

 ハリーは見逃さない。あの感情は『恐怖』に違いない。 

 

「……私の命を御救い下さったのだ。忠実を誓うには、それで十分だろう」

「ホグワーツでマグル学を教えるっていう、安定した立場を捨ててでも?」

「当然だッ! 優れた魔法使いたる私の上に立つ以上、優秀な主であるべきなのだ! それを、なんだ、あのダンブルドアは! あの男はこの私をコケにしたのだ!」

 

 少女の問いかけに、男が憤怒の形相でまくしたてる。

 それはあまり美しい光景とは形容できない、あまりにあんまりな姿だった。

 口角泡を飛ばし、必死さまで滲ませて激昂する。

 大人の取るべき態度ではない。

 

「貴様はスネイプにずっと護られていた。クィディッチのときも……反対呪文で抵抗されなければ、もう少しで箒から叩き落とせたというのに……!」

「アレあんたの仕業か。くそ、教師失格だよ」

「そんなもの、どうでもいい」

 

 そう吐き捨てると、クィレルは自分の背後にある何かに顔を向ける。

 ハリーがそれへ視線を動かすと、恐ろしいことに《みぞの鏡》が置いてあった。

 何故あれが、あんなところに。 

 スネイプがダンブルドアに言って、片付けさせたはずだ。

 恍惚とした顔で鏡を横目で見つめながら、クィレルは言う。

 

「さあ、ポッター。こちらへ来い」

「その前に答えろ。ヴォルデモートはどこだ」

 

 ぎくり、とクィレルが怯えた。

 死喰い人であろうはずなのに、主人の名が恐ろしいのだろうか。

 ひょっとしてヴォルデモートにとって死喰い人たちとは忠誠心や仲間意識で繋がっている仲間なのではなく、恐怖で縛り従える駒かそれ以下だとでもいうのか?

 目を吊り上げてハリーを睨むクィレルが、唸るように大声で叫んだ。

 

「来いと言っている! ポッターッ!」

 

 クィレルがぱちんと指を鳴らすと、ハリーは自分の背中を複数の拳で押されたように感じた。

 そのままよろけるようにしてクィレルの傍へと行く。

 杖もなしに、一体何をした。魔力を叩きつけたわけでもないのに、一体何を。

 だが余裕があれば、隙があれば斃せる。

 その一心で近づいたものの、実際どうしろというのだ。

 まったく隙がない。

 目を凝らして視てみると、膜状に加工した盾の呪文をまとっているではないか。

 いったいどのような魔法式(プログラム)を組めばそのようなことができるのか。

 

「ポッター、これを見ろ」

「……《みぞの鏡》なんかに、何の用が」

「見ろと言ったのだ! 口答えするなァ!」

 

 ヒステリックに叫ばれ、頭を掴まれて無理矢理鏡の方へ向けられる。

 また、皆が映るのだろう。

 今あの光景を見れば、ハーマイオニーとロンとの関係が構築できた以上、あの時よりも幸せを感じられるかもしれない。

 だが、あれは二度と見ない。そうスネイプと約束した。

 しかし目を見開いたまま顔の方向を変えられたためにまともに見てしまう。

 人を食らう、悪魔の鏡を。

 

「……ッ、」

 

 クィレルと二人でいる姿が、鏡には映っている。

 自然な光景だ。現実の様子を左右対象になって見せてくれている。

 しかし。

 鏡の中のハリーが、クィレルの脛を蹴った。

 もちろん現実のハリーはそんなことをしていない。

 蹲るクィレルを足蹴にしながら、鏡の中のハリーは己の懐をまさぐっている。

 そうして取り出したのは、赤黒い宝石のような何か。

 蝋燭の焔が反射してきらきらと煌めいている。あんなにも美しいものがこの世にあるとは。

 生命の輝き。そうか、あれか。あれが、『賢者の石』か。

 鏡の中にある『石』に見とれていたハリーは、次に心の底から驚くことになる。

 鏡のクィレルがすっかり気絶したことを確認した鏡のハリーは、石を手に取って、現実のハリーに向けてにこりと微笑みかける。そして彼女が石をズボンのポケットにしまった途端、

 ずしり、と意外なほど重い感触がズボンに走った。

 そんなまさか。

 そう思ってクィレルに気づかれぬよう何気なく自分のポケットを触ってみると、

 ……ある。

 既に、ある。

 ――賢者の石を、手に入れてしまった。

 

「……どうしたポッター! 何が見えるッ!? 私が聞いているのだぞ、速やかに答えろッ」

 

 一体何が起こったのか、さっぱりわからない。

 《みぞの鏡》はそういう道具だったのか? スネイプの説明不足?

 ぐるぐると脳内を渦巻く疑問と驚愕に、ハリーは気が抜けたかのように呆然としていた。

 いつまでも鏡を見つめているハリーに焦れたクィレルが、大声を出して彼女の意識を引き戻す。

 ハッとしたハリーは、とにかく嘘をつかなければと焦って適当なことを口走った。

 

「くぃ、クィディッチで優勝してる! ぼくがドラコを足蹴にして勝ち誇ってる姿が!」

「嘘を吐くな! そんな子供だましの嘘、わからんとでも思ったか!」

「……あんたを足蹴にしている」

「嘘を吐くなと言ったはずだぞ、ポッター!」

 

 本当のことなのに。

 この悪意溢れる映像はいったいなんだろう。

 本当に自分が望んだ光景なのだろうかと、ハリーは己の心が正常か否かを疑った。

 自尊心ばかり肥大していいように扱われていることに気付かないクィレルは、ハリーの思惑通りポケットにある石の存在に気付く様子はなかった。

 しかしハリーの口から飛び出す出任せに顔を真っ赤にして怒鳴っていたところ、急激にその動きを止める。

 ぜんまい仕掛けの人形めいたその動きにハリーが警戒レベルを最大にまで上げた、その時。

 ハリーの全身の肌が粟立つような声が聞こえてきた。

 

『嘘だ……』

 

 ぞわり、と。

 長く冷たい舌で全身を舐められた。そんな気持ちの悪い感覚が走る。

 なんだ、今の声は。

 クィレルではない。彼の声はここまでしわがれていない。

 ではこの場に現れた新たなる第三者か。だが声はクィレルから聞こえる。

 いったい、いったいどういうことなのか。

 恐怖の感情を見せないよう気丈に振る舞って、ハリーは袖の中に隠した杖を意識した。

 

『私が直に話そう……』

「い、いけませんご主人様。あなた様はまだ弱っておられます」

『案ずるな。そのくらいの力はある……』

「しかし……」

 

 クィレルが目に見えて狼狽した。

 いったいなんだというのだろうか。

 怯えだ、あの感情は間違いなく怯えていることに間違いない。

 だというのに、あの眼はなんだ?

 まるで敬虔な信徒のそれだ。信ずる神が眼前に降り立つ姿を見るような、輝いた瞳。

 不気味だ。

 

『従え、クィリナス』

「……は。仰せのままに、我が主よ」

 

 クィレルが深く頭を下げた。

 いったい、誰に? 奴は何をやっているんだ?

 じりじりと後退しながら、いつでも袖から杖を出すことができるように杖腕を強張らせる。

 この大部屋はすり鉢のようになっており、《みぞの鏡》が置かれた円状の床を取り囲むように同じく円環状の、幅が広い階段がある。後ろ向きに歩くには非常に辛い形状だ。

 転ばぬよう気を付けながら距離を取り、三段ほど上の階段からクィレルを見下ろす。彼はすでにこちらを見ており、するするとターバンを外しているところだった。

 今まさに逃げようとしていたようにも見えるのに、何故止めなかった?

 不可解だ。

 この男、不可解すぎる。

 おまけに、長すぎるターバンをひと巻き、またひと巻きほどいてゆくごとに、彼から感じる邪悪な魔力が際限なしに膨らんでいく気配がしてならない。

 同級生でも一、二を争うほどに魔力貯蔵量、生産量が多いとされるハリーであっても、彼から感じる膨大な魔力と比べれば、月とフロバーワームのようなものだった。

 ありえない。

 ただの人間がこんな大容量の魔力を、溜め込んでおけるわけがない。

 確かな恐怖を感じながら、ハリーはクィレルがターバンを外しきった姿を見た。

 常にターバンを巻いている姿しか見たことがなかったので、そのスキンヘッドの頭は意外なほど小さく感じた。クィレルがターバンを放り投げると、ターバンは自分からクィレルの首に巻きついてマントへと変じる。

 そして、見た。

 鏡に映ったクィレルの後頭部。そこにもう一つ、人の顔が存在するのを。

 気持ち悪い、とハリーは素直にそう思った。悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたい。

 グロテスクな魔法生物など、図書館で色々と見て、慣れたつもりだった。

 だが、あれは異質だ。

 多頭生物など、つい先ほど可愛い子犬が三匹もいたではないか。

 だというのにクィレルの後頭部に浮かぶ人面は、ハリーの心の底から嫌悪感を呼び込んだ。

 

『ハリー……ポッター……。久しぶりだな……』

 

 喋った!

 

「やだ気持ち悪っ!」

「ポッター貴様ぁ! ご主人様に向かってなんて無礼なァ!」

 

 素直に口からついて出た感想は、クィレルのお気に召さなかったようだ。

 しまった、つい。とハリーは真面目な気持ちを取り戻して、クィレルを、鏡に映る彼の後頭部を見据える。

 ハリーの暴言に対しても、人面は低く笑うだけだった。

 

『……確かに。このような醜い姿になってでも生き残っているわしは、さぞ気持ち悪いだろう』

「ご主人様! そのようなことは!」

『事実だ。クィリナス、クィリナス、クィリナス。おまえにも、嘘を吐くなといったはずだ……』

「ひっ……」

 

 そうだ、あれだ。あの怯え方だ。

 どもりのクィレル、おどおどクィレルとからかわれていたクィリナス・クィレル。

 彼の普段怯えていた様子と、いま後頭部から凄まれて怯えた様子が合致する。

 ……こいつ、常にあの人面後頭部と行動を共にしていたのか。

 

「……『久しぶり』。それで『ご主人様』。……そうか、そうか……」

『頭は悪くなさそうで安心したぞ、ハリー・ポッター』

 

 ハリーのひきつった頬が、平常に戻る。

 桜色の唇が、口元が、三日月のように、裂けるように、笑みの形に歪んだ。

 暗い濁った眼を見開き、感極まったように叫ぶ。

 

「お前が、おまえがヴォルデモート……ッ!」

『如何にも。私がヴォルデモート卿だ。……もっとも、今やゴーストにも劣る霞でしかないがね』

 

 ハリーの憎しみに狂った顔が醜く歪む様を、ヴォルデモートは愉悦に染まった顔で眺める。

 それはさながら娘を見守る父親のように見えて、ハリーをさらにイラつかせた。

 ヴォルデモート自身もわかっていてその顔をしているのか、ハリーの顔がさらに憎悪に歪むのを嬉しそうに嗤っていた。

 ぼくのすべてを奪ったお前が、お前のすべてが憎い、と。

 少女と帝王の間には言葉にせずとも、その悪意の念が伝わっていた。

 

『ポッターよ……死合う前にひとつ、問おう……』

「……なんだ」

『……お前は、『どこまで分かって』いる?』

 

 父親の次は教師の真似事か。

 ハリーはさらに苛々しながらも、突き刺すように言葉を紡いだ。

 

「クィレルを手駒に、ユニコーンの血肉を貪って延命処置をしたのはお前だな」

『……如何にも』

「そして今度は賢者の石を使って『命の水』を創り、永遠の生命を手に入れようとしている」

『……ああ、そうだ』

「そして、おそらくだけど……わざと、ぼくを誘い込んだ。殺すために」

 

 ヴォルデモートが満足そうに頷く。

 クィレルにとっては反対方向に首を曲げられて苦しげだが、体の主導権はまさかヴォルデモートにあるのか? 魂を売るに飽き足らず、体まで明け渡したのか。

 それは……恐ろしいまでの献身だ。

 

『ククク……くはははは。よくできました、ポッター。グリフィンドールに十点!』

「ばかにするな!」

『はッはははは。いやいや、面白いことだ。実に面白い』

 

 悪意に満ちた哄笑を響かせて小馬鹿にするヴォルデモートに叫ぶ。

 いったい何がしたいのだ、この男は。

 いや、冷静になれ。

 ぼくを殺すためだ。冷静さを奪われてしまっては、勝てる勝負も勝てなくなる。

 ひとつ大きな深呼吸をして、ハリーは落ち着きを取り戻した。

 そうしてしっかりとクィレルを見据える。

 

『さて、少女よ』

「なんだ」

 

 ぶっきらぼうなハリーの返事に、口の端を吊り上げて帝王は言う。

 

『その右ポケットに入っている、賢者の石を渡してもらおうか』

「!」

 

 バレている!

 いったいどうしてだ。あてずっぽうではない、ポケットの左右まで当てたのだ。

 心を読む魔法? そんなものあるのだろうか。

 と、思ったまさにその時ハリーの脳裏にとある魔法が閃いた。

 いや、まさか。そんな。冗談ではない。

 もしヴォルデモートが、もしくはクィレルがその魔法を心得ていたらハリーに勝ち目はない。

 

『頭のいい子に育ったようだな、ポッター』

 

 突然ヴォルデモートが声をかけてきた。

 クィレルは主人の手前なにも言わないが、ヴォルデモートが突然そう言った理由をわかっているとは言い難い表情をしている。

 ということは、ヴォルデモートの方か。

 奴は、奴は心を読めるのか!

 『開心術士』なのか!

 

『ほほう……よく勉強している。まあ、よい。はやく石を渡すのだポッター』

「……!」

『そうだ。おまえに勝ち目はないのだ……。賢くあれ、少女よ……』

 

 渡して当然と思っているかのようなヴォルデモートに、ハリーはもう我慢の限界だった。

 人を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。

 それに、もう殺したくて殺したくてたまらない。

 

『どうしたポッター。石を渡さねば、両親と同じ末路を辿るのみだぞ』

 

 ぶづん、と。ハリーは頭の中にある何かが切れたような気がした。

 鼻の奥から脳の中心にかけてが異様に熱い。視界の隅が赤く見えるのは錯覚か。

 心臓がどくんどくんと動き、全身にとんでもないエーテル濃度の血液を送り込んでいる。

 先ほどネビルと戦ったとき以上に、心が高ぶっている。しかし頭は冷静だ。

 どうやってヴォルデモートを、クィレルごと殺そうかとフル回転している。

 目が熱い。火が吹くように、赤い憎しみに染まっていくのが分かる。

 

「ポッターの目が……!」

『ククク……クィリナスよ、いい目だとは思わんか』

「ご主人様……?」

『この世には力を求める者と、求めるには弱過ぎる者がいる……あれは後者だ。偉大な目だ……』

 

 クィレルの驚く声と、ヴォルデモートの怪しげな笑い声が聞こえる。

 そりゃあ好きだろうさ、おまえが元凶で成った眼だ。敵意を振り撒くひどい目つきだ。

 濁った瞳が、それでいてなお眼光鋭くクィレルを見据える。

 威圧感にクィレルは一瞬気圧されるも、十一歳の少女に気迫で負けたその事実に怒り狂った。

 喉の奥から奇声を吐き出しながら、呪文を叫んだ。

 同時に、ハスキーな少女の殺意に満ちた呪詛も響く。

 

「『ステューピファイ』ッ! 麻痺せよ!」

「『グレイシアス』、氷河となれ!」

 

 ハリーの杖先から飛び出した赤い閃光と、クィレルの杖先から飛び出した青白い光球が二人の直線状で激突し、爆発した。飛び散った光が当たった場所に呪文の効果が及ぶ。白くきらきらと光る氷の粒が宙に舞い、それが床に落ちる前には二人とも次の呪文を放っていた。

 

「『エクスッ、ペリアァームス』ッ!」

「『エクスペリアームス』、武器よ去れ!」

 

 武装解除呪文が宙でぶつかり、またも光を撒き散らす。

 短縮呪文を用いたハリーが、クィレルの丁寧な呪文が放った余剰魔力に一瞬よろけ、たたらを踏む。それを見逃すクィレルではなかった。即座に杖から魔力波を発し、不安定な体勢だったハリーを吹き飛ばす。

 しかしハリーも負けじと、空中でなんとか体勢を立て直して背中から落ちる前に魔力を放出、空中で体勢を立て直すと危なげなく両足から着地した。

 バッと顔を上げてクィレルを見れば、すでに呪文を唱えたようで赤い閃光がこちらに迫ってくる。

 

「『プロテゴ』、防げッ!」

 

 咄嗟に唱えた盾の呪文が、ばぢんと閃光を弾いた。

 クィレルの顔が歪む。おそらく今の一撃で仕留めたと確信していたのだろう。

 もしくは、一年生であるハリーが《盾の呪文》を覚えているとは思っていなかったのか。

 攻撃のチャンスだと判断したハリーが杖を振るおうとするも、彼女はその選択を後悔した。

 クィレルによって幾度も風切り音が響くような、複雑な軌道が素早く描かれる。かと思えば、驚くべきことにクィレルは呪文も唱えずに魔法を放ってきた。それも、一度に十以上もの閃光が迫ってくるのだ。

 通常、射出系の魔力反応光を発する呪文で出てくる閃光は一筋だ。それを如何なる手法を以ってしてか、二桁もの閃光を発したのだ。変わった形状の杖でなら不可能ということもないが、一本の通常の杖を用いてのこれは、明らかに異常だ。

 ヒステリックで自尊心ばかり高い男かと思っていたが、評価を上方修正する必要がある。

 こちらに飛んでくる魔力反応光から察するに、あれらはすべてが失神呪文。

 当たったその瞬間が終わりだ。

 

「『プ……ロ……テ、ゴ』ォッ!」

 

 最大限に魔力を込めて、一メートル四方ほどの分厚い盾を作り出す。

 杖を動かすと盾も一緒に動き、ハリーの目測によって捉えた閃光を防いでゆく。

 後ろ向きに跳びながら、ひとつひとつを対処してゆくうちに、酷い汗をかいていたようだ。最後の閃光を防ぎ切った瞬間、瀑布めいた汗が全身から噴き出してきた。

 息を切らして肩を揺らしながらも、ハリーは杖をクィレルめがけて構えている。

 不愉快そうな顔をしているクィレルに対して、ヴォルデモートの声は面白いショーをみた少年のように喜んでいた。

 

『何をしているクィリナス。お前は、一年生の少女にも劣る男だったのか』

「申し訳ありませんご主人様! ッく、ポッターァァァ――ッ!」

 

 ヴォルデモートに失望されたのはお前のせいだ、と言わんばかりにがなり立てるクィレル。

 あれは己の手下を嘲って遊んでいるだけだということに、なぜ気づかないのだろう。

 今度はもはや一切容赦していないのか、呪文を一切唱えずに魔法を行使し始めた。 

 その速度たるや、声に出して呪文を放つよりもはるかに素早く、ハリーは盾の呪文で防ぐので精一杯だった。とてもではないが、反撃できる隙が見つからない。

 『無言呪文』。それがクィレルの行っている手法だ。

 まさに読んで字の如く、無言のまま呪文を放つ高等技術。本来は発声により自身の脳にこれから放つ呪文を強烈に認識させて、物理法則に魔法式をねじ込むことによって現実世界に干渉し、捻じ曲げ、そうしてやっと魔法を発動できる。

 だが無言呪文は、意思の力のみで現実を歪ませているのだ。

 ゆえに高い集中力と実力、なにより使用する魔法の魔法式を隅々まで理解していることが必要となる。

 もつれそうになる舌を必死に動かして、盾を振り回すように閃光を防ぐ。

 先ほど彼女が感じたように、魔力量には相当な差がある。全力で魔法を打ち合えば、先に魔力枯渇に陥るのはハリーであることが必然。

 魔力を回復するための魔法薬の作成といった技術を持たないハリーには、魔力回復の手段はない。そうなれば自然、先に限界が訪れるのはハリーだ。

 ハリーが構え続けた魔法障壁は、盾の呪文の効果が切れることによって消失する。

 再度自身の命を守る盾を作り出そうと杖を振るものの、霞のような不完全なものしか出てこない。青ざめたハリーが杖を少し揺らしただけで、それは宙へと霧散して消えた。

 見れば、顔色も悪い。足元はふらついており、目線も胡乱でクィレルの杖先も見えているのか定かではない。

 いったい、何が、起きた? まだ、魔力はあるはずだ。

 

「ま、ず――」

 

 思い当たる節が、一つだけ。

 『魔力枯渇』。いや、正確にはまだ枯渇には至っていない。感覚としてはバケツ一杯分ほどの、その程度の魔力はまだハリーの体内に残っている。

 では、このエーテル濃度の薄さはなんだ。

 いや、知っている。事実から目を背けてはいけない。

 学年末試験の前日、マダム・ポンフリーとの会話で出たではないか。

 『魔力枯渇を短期間に何度も引き起こせば、急に魔力を練れなくなることがある』、と。

 無理をしたツケが、ツケがきた。こんな重要で命がけの場面で。

 よりによって、こんなタイミングで取り立てが来てしまうだなんて。

 なんて。なんて、無様な。

 

「よくやった……と言いたいところだが、所詮は一年生ということか。いや、素晴らしい実力だったよ、ハリー・ポッター。『エクスペリアームス』、武器よ去れ」

 

 ぱちん、と。

 ハリーは右手を杖で叩かれたような、小さな衝撃が走るのを感じた。

 他人から武装解除の呪文を当てられたことがなかったので、初めて知る感覚だった。あまり、いいものではない。

 杖が、この一年を共にした最大の武器であるハリーの杖が、クィレルの足元へと飛んでいき、そしてからころと床に転がる。

 嘲るクィレルの声が、頭でがんがん響く。

 黙れ。喋るな。こっちに、来るな。

 

『クィリナス、簡単に殺すでないぞ』

「かしこまりましたご主人様」

 

 ヴォルデモートの命令が聞こえる。

 せせら笑うように冷酷な響きだ。

 殺すな、とは言われたが。何か別の嫌がらせを考え付いたに違いない。

 どうせろくなことではない。

 

『少し、怖い目に遭わせてやれ』

「ええ……冥府への良い手土産となることでしょう」

 

 ほら、やっぱりそうだ。

 相手は死喰い人だ。ただの十一歳の子供である自分よりも、よほど悪辣なことを考え付くに違いない。

 磔の呪文でも使うか? それとも服従の呪文で屈辱でも味あわせるか?

 

「さて、ポッター。授業を始める」

 

 どうやら、とことんまでいじめるつもりのようだ。

 膝をつくことだけはしまい、と意地で立っているハリーだが、情けないことだが今なにかされれば、その場で倒れ伏す自信がある。

 ハリーの強がりを見抜いているクィレルは、なおも嗤う。

 

「ほぼすべての呪文には、『反対呪文』というものが存在するのを知っているなポッター」

「……、……っ、……」

「おやおや、駄目だなポッター。グリフィンドール五点減点」

 

 この男。

 息を切らして言葉を発せないのをいいことに、いやらしい奴だ。

 ハリーは睨むのみで、何も言えないのが悔しかった。

 口から息を吸い込んで、食堂を通し、肺にまで到達させてそこから吐き出すだけでも辛いのだ。

 エーテル不足の体が、酸素を、休息を求めている。

 だが休むわけにはいかない。

 休んだその時が、永遠の休息を取る時になる。

 

「反抗的な目が不愉快だ。十点減点。教師には跪け、ポッター」

 

 クィレルが杖を振り下ろす。

 なにか魔法を使った様子は感じられなかった。魔力を放出したのでもない。

 だというのに、ハリーの体は上から何かに押さえつけられるかのような感覚に崩れ落ちた。

 まるで日本人の日常挨拶である土下座のようだ。

 立ち上がろうとするも力の入らないハリーは、ただの塊になったままぜいぜいと息を吐く。

 それを面白い見世物であるとでも言うように、クィレルは哄笑した。

 

「いい格好だポッター! さて、まずは失神と蘇生の繰り返しを味わってもらおう」

「……!」

 

 顔も上げられぬまま、ハリーは目を見開いた。

 失神呪文は、実戦的で強力な呪文である。その魔力反応光が当たりさえすれば、対象の意識を閉ざすことができる。頭を殴ってショックで気絶させることや、薬品を嗅がせて眠らせることなどと比べれば、実に素早く確実に昏睡させることができる。

 何かのプロセスを通さず、ただ脳に失神せよという命令を叩きつける魔法。それが失神呪文。

 それの反対呪文として、蘇生呪文がある。

 別段失った生命を復活させる魔法ではなく、失った意識を覚醒させることのできる魔法だ。

 失神呪文による気絶はもちろん、先に述べた物理的な要因による気絶にも効果範囲内であり、さらに言えば眠っている人物を無理矢理に叩き起こすことも可能である。

 だが蘇生には、若干の痛みと違和感を代償にする必要がある。

 蘇生後も、頭全体に鈍痛を感じるという症状も残る。手足の痺れも報告されたことがある。

 なにせ失神呪文と同じく、脳に直接命令をぶち込むのだ。そう表現すると軽い痛みや違和感程度で済むのなら、まだ御の字だと思われる。

 だがそれを何度も繰り返すというのは、洒落にならない痛みを引き起こす。

 本来ホグワーツならば、失神呪文とは上級生になって、妖精の魔法を学び終え、呪文学と呼ばれるようになってから習う呪文だ。

 しかし習得難易度としては、そこまで難しい魔法ではない。ハーマイオニーに習いながらでも、標準的な勉強の苦手なホグワーツ生代表であるロンが使えることからも、それはわかる。

 ならばなぜ上級生になってから習う呪文なのかというと、身体の成熟が必要となる呪文だからだ。

 脳に直接影響を与える呪文は須らくそういった措置が取られている。若い未成熟なうちに脳に影響を与えては、まずい事になってしまうかもしれないからだ。人間である以上、成長に関する事柄はマグルと大差ない。ゆえに、魔法という危険と隣り合わせの学問を学ぶ以上は細心の注意を払う必要がある。

 仮にも魔法魔術学校で子供たちに『マグル学』と『闇の魔術に対する防衛術』を教えてきた身であり、それをわかっていながら、クィレルはその拷問を行おうとしている。

 喜悦のため、愉悦のためだけに。

 一人の少女に危害を加えようというのだ。

 

「くそ……ッ! こんな、こんなときに……」

 

 悔しい。

 純粋に悔しい。

 憎みに憎んで、殺すことを切望して、そしてやっと到来した機会。

 だがそのチャンスは、するりとハリーの手から逃げていった。

 

『やれ』

「はっ。始めるぞポッター……『ステューピファイ』!」

 

 赤い閃光が目の前に迫る。

 咄嗟に避けようとするものの、弱った足腰と蹲った体勢からではろくな動きもできない。

 土下座のような恰好だったのが、仰向けになっただけだ。

 だめだ、当たってしまう!

 …………、……。

 …………。

 ……、

 

「……ッ! ……ッ、……。…………、……え?」

 

 ぎゅっと目を瞑り、迫りくる恐ろしい拷問に怯えた様子のハリーが、うっすらと目を開ける。

 赤い閃光は確かに身を包んだ。

 ハリーの喉元あたりに魔力反応光が直撃し、ブラウスが焼け焦げて白く細い鎖骨が見え隠れしている。

 まさか。とは思うが、十一歳では体もまともに形成されていない。

 それにクィレルの怯えきった様子を見てみれば、そういう目的ではないこともわかる。

 片や万全の状態で杖を構え、いつでも殺せる大人。

 片や満身創痍で疲労困憊な上に、杖すらない子供。

 なぜ、クィレルは怯えているのか。

 なぜ、クィレルの放ち続ける赤い閃光はハリーの服を焼くだけで、肌に傷一つ作れないのか。

 なぜ、……自分には失神呪文が効いていないのか?

 

「な、何だ、何が起こったんだ……!?」

『これは……どういうことだ……? クィレル、直接締め殺せ!』

 

 ヴォルデモートの怒声にはっとしたクィレルが、ハリーの元へと走りだす。

 しまった、千載一遇のチャンスを棒に振った!

 ハリーは慌てて立ちあがろうとするも、力が入らないことを忘れていたため無様に倒れた。

 ただただ呆然と、クィレルが宙を飛んで高速で向かってくる姿を見るのみ。

 彼の魔手はそのままハリーの細く白い首にかけられ、骨を折るつもりかというほどに強く乱暴に握りしめてきた。抵抗する間もなく、無理矢理に気管を閉じられる。全く息ができず、喉が潰されて酷く気持ち悪い。えずこうにも出すべき場所がない。吐こうにも出口がない。

 涙をぼろぼろとこぼしながらハリーは、死への恐怖ともう優しい友達二人に会えないことを悲しんだ。

 ――だが。

 その苦しみから、急に解き放たれた。

 胃液を吐き、涙を拭きながら、それでもハリーはクィレルを睨めつけた。

 

「あああっ!? あ、あああっ、がァァああああァ――ぁぁぁあああ!? ああっ、ぐぎゃああああああああああああああ――――――ッ!?」

 

 どういう、ことだ。

 クィレルの右腕が、じゅうじゅうと嫌な音を立てて焼け爛れてゆく。

 ひび割れて色を失ったかと思えば、まるで灰か塵にでもなったようにボロボロと崩れてしまう。

 恐ろしい光景だ。

 完全に狼狽して冷静さを失ったクィレルが、右手を失った喪失感と驚愕、そして恐怖に歪んだ顔で金切り声をあげているのもまた、ハリーの精神をガリガリと削る。

 その状況を生み出したのが、自分であろうということもまたハリーの心に突き刺さった。

 だが、罪悪感に浸るのは後だ。

 いまは弱った体に鞭打ってでも、あの男を斃さねば。

 

「な、なんだこの魔法はァァアアッ!?」

『愚か者! 杖を使え!』

 

 ――使わせてはならない!

 どういうわけだかクィレルは、ハリーの手に触れると身体が焼け爛れて塵と化すらしい。

 ならば、あとはただ、奴の腕に触れるだけでいい。

 幸い奴は混乱していて、ハリーと距離を取るということをしていない。

 既に煙と消えた右腕が杖腕だったのか、苦労して懐から杖を取りだそうとしているクィレルに、ハリーは力を振り絞って跳びかかった。

 そして彼の左腕にしがみつく。

 途端、不愉快な音とともに彼の左腕がたちまちひび割れて灰を撒き散らしていった。からん、と軽い音を立てて彼の杖が取り落とされる。使う腕がないのだから当然か。

 たまらないのはクィレルだ。

 己の腕が両方とも塵と消えてしまい、英語にもならない絶叫を喉の奥から絞り出している。

 

「うッ、腕がァッ!? 私の両腕がァァァ――ッ!? あぁぁぁ、ああああァァァッ! さいっ、再生しない!? なんで。なんでェェェ――――ッ!?」

『なぜ、何故このような、こんな力が……』

 

 クィレルの悲鳴と、ヴォルデモートの混乱した声が部屋中に響く。

 ハリーは続けてクィレルの顔に掴みかかった。

 じゅう、と焼ける音が響く。クィレルがまた絶叫した。

 狙うは目だ。視界を潰せば、幾分か有利になれる。

 

「目がァァァ――ッ! あぎぃぃあぁぁあああああ!」

 

 このまま焼き潰せば、奴の頭部がまるごと灰になるはずだ。

 そうすれば、殺せる。

 殺されかけている以上、殺害するのもやむを得ないだろう。

 しかし、そこで終わりはしなかった。

 両の腕を失くしながらもクィレルは、残った足でハリーの体を蹴飛ばしてきたのだ。

 ああ、自分が男の子だったなら! あのくらいの弱々しい蹴りくらい、なんともなかったのに!

 恐ろしい憤怒の形相で、クィレルは長々と叫び声をあげている。まるで傷ついた野生の獣のように吠えている。床に転がされたハリーは、よろよろと起き上がりながら、最大のチャンスを逃したこととその遠吠えに怯えてしまった。

 怖い。純然たる恐怖が、ハリーの全身を舐め尽くす。

 バジリスクを前にしたカエルのように、ハリーは竦んだ己の身を抱きかかえるように震えていた。

 ハリーの目線の先で、クィレルがこちらを睨むのが見えた。

 もはや彼に眼球など存在しないはずなのに、それなのに。

 それは、か弱い獲物であるハリーを食い殺そうとする捕食者の目だ。

 

「な、んだ……あれ……ッ! あ、ああ……!?」

 

 クィレルの。

 奴の顔が、びきびきとひび割れてゆく。

 灰と化す様子はない。あれはハリーのやったことではない。

 

「私ィのォ、わたァァァしィィィのォ、目がァ……腕ェェがァァァ……よくも、よくも……ポッター……ッ! ポッターァァァアア……ッ!」

 

 クィレルは怨嗟の声を漏らす。

 彼の両腕はもうない。二度と杖を握ることはできないだろう。

 両目も焼き潰した。彼に光はなく、ハリーのいる方向すらわからないはずだ。

 そうだ。わからないはずだ。

 なのに、なぜ奴はこちらに顔を向けている?

 なぜ、奴からの視線を感じる?

 

『クィレルよ』

「ご主人様ァァァ! もォう我慢がなりませんッ! 奴をッ! 奴を殺す許可をォッ!」

 

 猛り狂ったクィレルが、唾液を撒き散らしながら叫ぶ。

 ヴォルデモートは呆れたような失望したような声を漏らし、一言だけ残す。

 

『……よかろう』

「有ァり難き幸せェェェァアアアがァァァぁあああああああああッ!」

 

 クィレルの頬から目元にかけての皮膚には深い亀裂が入っている。

 ぼろぼろと皮がこぼれたその下には、銀と赤の流動体が蠢いている。

 あれはなんだ、と疑問に思う前に氷解した。あれは、あれは血だ。血液だ。

 赤色はわかる、人間の持つ血の色だ。だが銀は……、そうか、あれはユニコーンの血だ。

 延命のため多数のユニコーンを殺し食らい、啜った結果があの有様なのか。

 スキンヘッドのため、頭皮もぼろぼろと崩れて赤と銀が見え隠れしている。潰した目からは涙さながら瀑布と血を流し、裂けた口内にはずらりと鋭い牙が並ぶ。

 ……こいつ、人間じゃないのか!?

 ハリーの考えがそれに至ったとき、変化が起きた。

 クィレルの手の指一本一本が鋭い刃物のように変化し、ぎしぎしと軋む。

 元はターバンだったマントが不自然に動き、腕のようにゆらゆらと蠢く。

 ハリーの倍はある大きく開かれた口からは、紅い霧がごとき息が漏れる。

 知っている。

 あれの正体を、ハリーは知っている。

 他ならぬクィレル自身が、授業で言っていたではないか。

 

「ハァァ――ァァアアアAAAA。……ポッターァア……」

「あ、あんた……あんた、その姿は……」

 

 ハリーは、震えながらもなんとか言葉を出す。

 二の腕から先の両腕がなく、目も見えない怪物。

 皮膚の色は血色を感じられず、そしてひび割れたその下は赤と銀の流動体。

 だがそれでいてなお、捕食者とエサの関係は変わらない。

 何せ、なにせ奴は、

 

「吸血鬼……ッ!」

「YEEEEEEES……、正ィ解ィィだァ、ポッター……」

 

 人類の上位種。

 ヒトたる生物にカテゴライズされる、夜の一族。

 悪の化身。不死者。魔王。塵の王。ノスフェラトゥ。ノーライフ・キング。

 様々な呼び名がある、かつての魔法界最悪の生物。

 それが吸血鬼。

 

「私は、ルーマニアでVAMPIREに遭ってね」

「じゃあ、命を救われたっていうのは……」

「その時だ。MASTERに助けられはしたものの、既に噛まれていた私は、その時その瞬間より吸血鬼となった。陽の光のもとを歩けぬ、NIGHT WALKERに……」

 

 そんなバカなことがあってたまるか、とハリーは叫びたい気分だった。

 だが事実だろう。

 こんな場面で嘘をつく意味がない。

 つまり、奴は本物の吸血鬼。人間の、天敵。

 思い当たる節はいくつかある。

 赤と銀の流動体、つまり彼の血液。そのうちの銀の血液。

 つまり奴こそが禁じられた森で出会った怪人その人であり、呪われた命持つ者。

 では、と考えると奴にはおかしいことがある。

 腕だ。

 森においてのハリーとの戦闘で、奴は自ら腕を引き千切ったはずだ。

 それが、今は再びハリーが奪ったとは言え、先程まで彼の失くしたはずの腕は健在だった。

 何故なのか。それが、この答えだ。

 ユニコーンの血の効果もあるだろうが、それ以上に吸血鬼であるために、失くした腕を再生したのだ。

 

「この姿を晒すことになるとは、何たる屈辱! 貴様! YOU! ポッタァーッ!」

「ひぅ。ああ、あ……っ」

「そォォォうだァ、その顔だァ! その怯えた顔が見たかったッ! POTTER! 血を吸い尽くして、貴様をミィィィィイイイイラァァァにしてやるるるるRURUUUUUUUUAAAAAAAAAAッ!」」

 

 瞬間、轟音を立ててクィレルが床を蹴り砕いた。

 いや違う。跳んだのだ。ただの踏込で、床の石材を打ち砕いた。

 ハリーが見上げると、天井を蹴ってこちらへ砲弾のように拳を放つ姿が見えた。

 慌てて腕を十字に構え、心臓や顎、首といった致命傷を避けようとする。

 触れば、触りさえできれば勝てるのだ。

 例え肋骨を砕かれようとも腕を砕かれようとも、脳や心臓、そして手が無事ならば奴を倒せる。

 そう信じて、ハリーは両腕を犠牲に差しだした。

 だが――

 

「無ゥゥ駄ァァァだァァァッ、ポッッッタァァァーアアアアッ!」

 

 クィレルの絶叫通り、ハリーの防御行動は全くの無意味と化した。

 ばぎべぎごぎ、という鈍く硬質な音と共に、ハリーの両腕が弾かれた。

 両腕が、熱い。変な方向にぐにゃりと曲がっており、骨を粉砕されたのが見てとれる。

 激痛に泣き叫びそうになるが、続けてクィレルの蹴りの威力が貫通して腹に響く。内臓に傷が入ったのか、赤黒い液体が喉を通って出口に殺到、床を汚してしまう。

 よろけながらも倒れまいとするハリー目がけて、続けてクィレルはマントを振るった。触手か何かのように自在に動いたマントはハリーを殴り飛ばし、階段から突き落とす。

 大部屋の中央、《みぞの鏡》の鏡面に叩きつけられたハリーは、咳き込みながら血を吐きながら、それでもクィレルを睨めつけた。

 頭のどこかを切ったようだ。どろり、と鼻を伝って血が垂れている。

 先ほど蹴られたときにどこかの内臓を痛めたのか、心臓の動きに合わせて耐え難い激痛を継続的に感じる。

 抵抗する力はもう、残っていない。

 杖など何処へ行ったか分からない。

 だけど。

 だけれども。

 

「……ッ、ぐ、うううっ、ああ……っ!」

 

 倒れない。

 斃されてなどやらない。

 鏡にもたれかかりながらも立ち続け、血の足りなさから霞んでよく見ない目で敵を睨む。

 クィレルはそれを不愉快そうに睨みつけ、人外の奇声を叫ぶ。すると紫のマントがばさりと翻され、クィレルの体は無数の蝙蝠と化した。

 禁じられた森での光景が思い起こされる。

 ハグリッドが大樹を破砕したとき、多くの羽虫や蝙蝠が飛び立っていた。そうか、ああやって逃げていたのか。と思うと同時、人型ならまだしも多数の蝙蝠などという姿で攻撃されては、拙い防御を行うことすらできないだろうとハリーは絶望感が胃に流れ込むのを感じる。

 高速で突っ込んでくる蝙蝠たちの羽根に体中を切り裂かれながら、ハリーは叫んだ。

 恐怖からの叫びではない。

 まるで、敵の首を跳ねんと挑む戦士の雄叫び。

 闇雲ながら両腕を振り回し、その柔らかく小さな拳で少ないながらも蝙蝠を打ち落とす。

 だが現実は厳しく残酷だ。

 ばぎ、と聞くに堪えない音がハリーの左膝から響いた。

 焼けた鉄を埋め込まれたかのような暑さと痛みを感じる。視線だけで見れば、クィレルのものらしき足のみが蝙蝠の背中から生えている。

 ……蹴り折られた。こいつ、こんなこともできたのか。

 怯んだ隙をついて、右膝の裏を蝙蝠の一匹に体当たりされる。膝を床に打って膝立ちにさせられたハリーは、眼前に蝙蝠が集まって人型を成すのをただただ見つめるしかなかった。

 牙を剥いて、唾液を垂らし、大口を開けてハリーの首筋に噛みつこうとしている。

 ああ、血を吸われて死ぬだなんて。

 自分の死は飢えか衰弱かと思っていたハリーにとってそれは予想外で、嫌な死因だった。

 しかしハリーの心は、不思議と静かに凪いでいた。

 死への恐怖は感じる。

 せっかくできた友人……いや、親友に対する無念もある。

 それでも、それ以上にハリーが感じるのは一つの感情だった。

 解放感。

 この世界は地獄だった。生きる価値などなかった。

 自分の居場所などない、自分を愛さない世界なんて耐えられない。

 やっとだ、やっとなのだ。まるで愛する恋人にようやく会えたかのような顔で、

 涙も流さずに、ハリーは、呟く。

 

「……ああ。やっと、死ねる――」

 

 その微笑みは、十一歳の少女とは思えないほど妖艶に美しく。

 泥のような瞳が、恍惚としてこの世に有り得ざる世界に魅入られる。

 死への渇望。

 自分でも気づいていなかった、ハリーの願い。

 心の闇にすらなっていなかった彼女の切望が、今ここに姿を見せる。

 

 ――だが、死の女神は彼女の来訪を許さなかった。

 

 クィレルが全身を形成して床に降り立ったその瞬間。

 ハリーのポケットから、紅い石が滑り落ちた。

 硬質な音を立てて床に転がったそれに、クィレルが目を取られる。

 彼女の中の生存本能が、鎌首をもたげた。

 咄嗟に左腕で、クィレルの左脚へ全力の拳を放った。

 まるで小麦粉の袋を殴ったかのような感触と共に、服の中の脚が灰と化したのを驚いた顔で見るクィレルは、完全に虚を突かれていた。

 完璧に心を折られた少女が、まるで操られるかのように突如攻撃してきたのだ。

 片脚を失ってしまっては立つこともままならない。

 倒れるのを防ぐため、膝を床についた。

 その間クィレルが見たのは、自分と同じ目線になった少女の姿。

 固く握り締めた右手を振りかぶって、拳を放つその姿。

 

「――ッッッらァァァあああああああああああああああああああ――――――ッ!」

 

 ハリーの声が大部屋に響き、灰が吹き荒れる。

 どちゃ、べちゃ、と。

 固くも柔らかい何かが、床を転がっていくのが視界の端に映る。

 その何かが、《みぞの鏡》にぶつかって止まり、それは鏡面に映った。

 

「――、――――」

 

 クィレルの顔。

 左半分の顔面のみが、転がっていた。

 ちょうど人間の頭部を、縦に四分割したらああなるだろうか。

 断面が灰と化しながらも、耳や眼孔からはとめどなく赤と銀の血液が溢れている。

 もはや何も喋れぬクィレルの欠片は、自信の死を信じられない驚きに見開いた目だ。

 ハリーと目が合う。彼女は徐々に消えゆくその視線を外すことができなかった。

 そうしてしばらくハリーを恨めし気に見つめたのち、ぐるんと白目を剥いて、二度と動かなくなった。

 

「――――う、ぐっ」

 

 もう胃の中にはほとんど物がない。少量の黄色い液体が床を汚す。

 その液体音と共に、もはや動かなくなったクィレルの身体が床にその肉塊を横たえた。

 ハリーにその光景を見る余裕はない。

 衣服が汚れるのも気に留めず、床に倒れ伏す。

 体力も、心も限界だ。

 彼女はゆっくりと、その意識を手放した。

 ハリーは闇に、深い深い闇に、

 ゆるりと沈みゆく。

 

 

 はっと目が覚めると、小汚い石造りの大部屋などではなく、清潔感あふれる白の部屋。

 いったいどこなのだろう。

 

「……知らない天井だ」

 

 起き抜けだというのに、なにか電波を受信した。

 言わなければいけない台詞を宣ったのち、ハリーはゆっくりと身体を……起こそうとして、痛みに呻いた。

 焦りを感じながら周囲を見渡せば、白いカーテンで周りが隠されている。

 ああ、と納得。保健室だ。

 隙間から見える隣のベッドには、見覚えのある男の子がいる。

 ネビルだ。ぐっすり眠って居るようで、可愛らしい寝息が聞こえてくる。

 その痛々しい姿に申し訳なく思いながらも、ハリーは努めて無視しようとしていた人物へと目を向ける。

 すると彼は嬉しそうに微笑んだ。

 

「おお、ハリーや。気づいてくれて嬉しいよ」

「ええ……はじめまして、ダンブルドア校長」

 

 アルバス・ダンブルドア。

 世界最強と言われ、学問の面でも多大なる貢献をしている老齢の魔法使い。

 ハリーが自分の寮を決める切欠になった男。

 

「はじめましてではないよ、ハリー」

「え?」

「君をダーズリーの家に預けるときにちっちゃな君を抱いていたのが、わしじゃよ」

 

 瞬間。

 ハリーの拳が空を切った。

 いつの間にかベッドの反対側に移動したダンブルドアが、少し眉を寄せている。

 何をされても余裕綽々で微笑んでいるような爺さんかと思ったが、意外とそうでもないようだ。

 その姿を見て、ハリーは隠すことなく舌打ちする。

 

「どうしたのかね、ハリー」

「ぼくを地獄に突き落とした人物の鼻にハエが止まってまして。払って差し上げようかと」

「それはありがとう。それには及ばんよ」

 

 ダンブルドアは厳しい表情を緩めて、好々爺然とした笑顔に戻る。

 ハリーはその笑顔を、なんとなく嘘だと思った。

 それもそうだろう、一生徒にいきなり殴りかかられたのだから。

 

「ほっほ。このお菓子は君の信奉者たちからの贈り物のようじゃの」

「……しんぽうしゃ?」

「うむ」

 

 ハリーのベッド脇に置かれた小机には、山と積まれたお菓子が大量にある。

 種類も様々で、お見舞い用のメッセージカードが添えてあるものもある。

 ハーマイオニーとロンの物はすぐに見つかった。友情パワーで。

 羽ペン型砂糖菓子はマクゴナガルからの物。下手なラッピングがなされた包みは、まずハグリッドのお手製ロックケーキだろう。アンジェリーナたちのクィディッチチームの女三人衆からは何を考えたのか、揉むと増えるマシュマロセットだ。ウッドからは最後の試合をボイコットしたことへの恨み言が綴られたクッキーが贈られている。その他いろいろな人たちからの贈り物に、ハリーは思わず笑顔になった。

 

「お、バーティーボッツの百味ビーンズじゃ」

 

 ダンブルドアがそう言って手に取ったのは、たぶんリー・ジョーダンからの物だ。

 

「わしゃこれが嫌いでの。若いころ、シュールストレミングと洗顔料のパフェ味にあたったことがある」

「オエーッ」

「おや、封が開いておるの。……このドドメ色のビーンズなら、食べても大丈夫じゃろ」

 

 ハリーが見ている前でゼリービーンズを口に入れたダンブルドアが、顔を顰める。

 吐き出したいのを堪えているようにしか見えない。

 

「なんと……一年間放置した生ごみ味じゃ。いやはや……」

 

 おどけるダンブルドアの様子に、ハリーはくすくすと笑った。

 そんな彼女の様子を見て安心したのか、ダンブルドアの雰囲気も柔らかくなった気がする。

 

「さて、ハリーや」

「はい先生」

「何か、今晩のことで聞きたいことはあるかの」

 

 ベットのそばにあった椅子を魔法で引き寄せて、腰かけたダンブルドアが問う。

 質問できること、答えてくれる人がいることにハリーは小さな幸せを感じる。

 だがそれを噛みしめるのは後だ。

 まずは真相を知らねばならない。

 

「ヴォルデモートはどうなりました」

「おう。それを真っ先に聞いてくれるとは」

 

 まっすぐにダンブルドアを見つめる。

 少し迷うような仕草を見せたが、言っていいものだと判断したのだろう、彼は口を開いた。

 

「死んではおらん。ただ、退けただけじゃ」

 

 確信めいたものが宿る声だ。

 奴は死んではいない。憑代となったクィレルをやっつけたのだから、或いはと思ったのだが世の中そううまくはいかないようだ。なにせ、死の呪文が跳ね返っても生きているような輩なのだ。保険として何かあるのかもしれない。

 では、とさておいてハリーはベッド脇にあるとんでもない物に目を向ける。

 

「あの」

「何じゃね」

「あれ賢者の石ですよね。無防備にこんなとこに置いてもいいんですか?」

 

 そうなのだ。

 起きたとき横を見たらぽんと置いてあってドキッとしたものだが、何故だろう。

 こんなぞんざいな扱いをされては、守った甲斐がない。

 

「ああ。聞いてくれてうれしいよ。実はの、アレ偽物なんじゃ」

「えっ」

「偽物じゃ。本物はずっとわしのポケットの中に入っておったよ」

 

 力の抜ける話だ。

 つまりハリーは、命がけでレプリカを守っていたということになるのだ。

 ベッドに倒れ込んだハリーが呻く。タヌキジジイめ、とも呟いている。

 それを聞いても微笑んだままのダンブルドアが、説明を続けた。

 

「あれはの。『石を見つけたい者』だけが取り出せる仕組みなんじゃよ。『石を使いたい』でもなく、ただ『見つけたい』者だけ。使う意思があってはいけないのじゃ。んでおまけに取り出せたとしてもそれは偽物。ヴォルデモートに勝ち目はなかったのじゃよ」

「ぐぬぬ」

 

 おのれ。

 そうと知っていれば行かなかったものを。

 可愛らしくさえ見えるジトっとした目でにらみながら、ハリーはため息を吐く。

 一呼吸置き、ダンブルドアが話し始めようとしたのを見計らってハリーは問うた。

 

「何故ぼくたちを行かせたんですか」

 

 開きかけていた口を閉じ、ダンブルドアは微笑む。

 言え、と目で示すハリーに彼は微笑みとともに教えた。

 

「君たちの成長を見たかったのじゃ。万が一の事があれば、わしが何とかするしの」

 

 思えば、不自然だった。

 クィレルは確かに物知りな男だが、頭のいいとはとてもではないが言えなった。

 自尊心ばかりが肥大して、高い実力を自重で潰してしまっている。

 そんな男がダンブルドアを出し抜けるだろうか。

 いま実際に会って分かったのだが、この爺さんは結構抜け目ないタイプだ。

 クィレル如きの謀など見抜けそうなものなのだ。

 

「……とんでもないクソお爺様ですね」

「ほっほ。すまないの、ハリー。君たちに必要な試練だと思ったのじゃ」

 

 ぶん、と空気が殴られた。

 ダンブルドアは動いてもいないはずなのに、確実に軌道上に彼の鼻があったはずなのに、ハリーの振りぬいた薬瓶は空を切っていた。

 

「これ、ハリーや」

「いやいや。もうこれはしょうがないと思うんだよね」

 

 もう一度ぶん、と空を切る。

 今度はハリーの手には薬瓶はなく、ダンブルドアの手の中にあった。

 魔法を使った形跡もないのに行われた不思議に目を丸くし、ハリーは溜め息と共にベッドに戻る。

 眉をひそめたままのダンブルドアに、ハリーは言った。

 

「ぼくが試練を受けるのは別にいいです。強くなるのに必要だから」

「では、何故わしを殴ろうと?」

 

 ダンブルドアの問いに、ハリーは答える。

 

「友達を巻き込まないでください。大切な人たちなんです」

 

 ぽつり、と照れるように放った言葉。

 それを聞いて、ダンブルドアは心の底から嬉しそうな笑顔を見せた。

 まるでクリスマスとハロウィーンとイースターが同時にやってきたような、子供のような満面の笑み。

 先ほどのように嘘が混じった笑みではない。

 本物の、おちゃめな笑顔だ。

 

「そうか、そうか。ハリーや。信頼する友ができたのだね」

「……はい」

 

 ハリーの耳が赤くなった。

 散々な扱いをしておいて、いまさら友人面するなど、という恥もある。

 しかしそれ以上に、ハリーはあの二人が愛おしくてたまらなかった。

 だから。

 彼女はダンブルドアの言葉に、笑顔で答えることができる。

 

「ハリー。その気持ちを、忘れるでないぞ」

「――はいっ」

 

 一週間と少し後。

 ハリーが退院する前の日に、学年末パーティは終わってしまった。

 今年一年おつかれさま。夏休みが終わったらまたおいで、という宴だ。

 そしてホグワーツ生には欠かせないものがある。

 寮対抗戦だ。

 生徒たちの行いによって点数が加減され、最後に優勝した寮は一年間の王者となる。

 六年連続でスリザリンが優勝しているこの対抗戦は、他三寮が熾烈な思いを燃やしていた。

 目的のためなら手段を選ばない傾向にあるスリザリン生は、他寮生徒から嫌われている者が多い。

 ゆえに皆してスリザリンから優勝杯を掻っ攫いたいのだ。

 しかし結果は惨敗。

 四位がグリフィンドール、二六二点。三位はハッフルパフ、三五二点。二位はレイブンクローで、四二六点。そして一位がスリザリン、ぶっちぎりの五四二点だった。

 だが、これは暫定に過ぎない。

 学年末パーティで御馳走をたらふく食べて頭が空っぽになる前に、もう一つ大事な発表がある。

 成績だ。

 教育機関なのだから当然である。

 そしてこの成績ももちろん、寮対抗戦に影響する。

 七学年それぞれの学年において、主席には四〇点、次席には三〇点の点数が加算されるのだ。

 さらに、特別な功績を成した生徒にも点数が追加されることもある。

 今年はスリザリンのクィディッチ歴代最速スニッチ・キャッチを称えて、ドラコ・マルフォイに特別功績点が追加された。どうやら最後のグリフィンドールとスリザリンの試合、ハリーがいないことに激怒した彼は、試合開始六分二八秒でスニッチを捕ったのだという。

 主席や次席への加算では、なんとハーマイオニーが一年生の主席として点数をもらっていた。

 嬉し泣きを我慢しきれなかった彼女だったが、直後に発表された一年生の次席がまたもやドラコ・マルフォイであることを聞いて引っ込んでしまったようだ。

 様々な要因が重なり合って、順位は変わらないものの四寮間で点数差がほとんどなくなった。七年連続で優勝を得たことで狂喜乱舞するスリザリン生だったが、

 しかし、驚きは終わらなかった。

 なんとダンブルドアは、クィレルの暴挙を暴露。

 具体的に何を盗もうとしたかはうまくぼかして明かさなかったものの、ハリーら三人がその野望を食い止めたとして特別中の特別で、大量の点数が加算された。

 それによって順位がひっくり返り、グリフィンドールが一位に躍り出るというとんでもない展開に。

 あまりにあんまりな仕打ちに泣き出すスリザリン七年生もいたらしく、ハリーはロンとハーマイオニーの話を聞きながらハリーは苦笑いと共にスリザリン生に同情した。知らなかったとはいえ自分もその片棒を担いでいるのだから、間違っても口には出さない。スリザリン生全員を敵に回してしまいそうだ。

 閑話休題。

 結局悪事を暴露されたクィレルは、ホグワーツをクビになったとのことだった。

 ハリーは実際には自分が殺害してしまったことを知っているのだが、真相は闇の中だ。

 流石に教師が悪い奴に取り憑かれて死にました。などとは言えないのだろう。

 

 さて。

 ハリーらがホグワーツ最後の週を楽しんで、トランクに詰めた荷物をホグワーツ特急に乗せた時。

 大きくてひげもじゃで図体のデカい優しくて素敵な男が、ハリーをひょいと持ち上げた。

 三メートル近くあるハグリッドは、冗談抜きでハリーの二倍近くあるので脚が全く届かなくて怖い。しかも、彼の抱擁は骨が折れる(比喩表現ではなく)のでできれば遠慮願いたかった。

 

「ウオーッ! ハリー! すまなかったーッ! 俺がもっとちゃんと教えてやりゃあ、あんな怪我しなくてすんだってーのに!」

「げほっ! げっほげほっ! ハ、ハグリッド、肋骨が折ぐえぇあっほえっほえっほ!」

「女の子なのにすまなかったなあハリー! 傷跡のこってねえか! 大丈夫だな! だめでもちゃんと婿さん見つけてやっからなーっ!」

「ぐげほぉ――ッ!」

 

 コンパートメントの中でハリーを見捨てたことを謝罪する二人を無視して、ハリーはハグリッドからもらったアルバムを眺める。

 ジェームズ・ポッターとリリー・ポッターのアルバムだ。

 一冊にまとめられているが、学生時代の両親や当時の学友たちの写真よりも、赤ん坊のハリー・ポッターと三人一緒に撮った写真の方が多い。

 なかなか面白いものだ。

 写真の中ではまるで男の子みたいな格好をさせられている赤ん坊ハリーがずいぶんと嫌がっているようで、魔法製品らしきガラガラをジェームズの眼鏡にぶつけていた。ずり落ちた眼鏡を直す彼の姿を大笑いしているのは、きっと彼らがホグワーツにいたころから仲の良かった人たちだろう。

 茶髪の小柄な青年と、鳶色の髪のやつれた青年、そして黒髪のハンサムな青年。皆楽しそうで、朗らかに笑っている。

 他の写真では、また別の青年が映っている。母のリリーと共に、こちらも笑顔だ。

 ハリーを抱く黒髪の理知的な青年が――

 

「うわっ!? スネイプ先生だ!」

「黒幕がなんだって!?」

「ロンあなたまだそのネタ引っ張るの」

 

 写真の中では、若い頃のスネイプがハリーを抱いていた。

 母親のリリーと鳶色の髪の青年が笑ってジェームズと黒髪のハンサムを抑えているのを余所に、ハリーが今まで見たことのない優しい表情のスネイプが写真の向こうにいる。困惑しながら、それでも微笑んで。

 そんな写真を見た三人は、驚きに口を半開きにしたまま閉じることを忘れてしまった。

 スネイプに関する謎がまた一つ増えたところで、何の魔法だろうか、マグルでいう汽車内でのアナウンスが鳴る。

 残り数十分でキングズ・クロス駅につくので用意をしろとのことだ。

 それを聞けば途端に寂しくなる。

 他の者にとっては、愛する家族に会える夏休みは楽しいだろう。

 だがハリーにとってはそうではない。

 あの地獄に帰らなければいけないのだ。

 しかし今回に限って、ハリーはあまり心配していない。

 なぜなら彼らは、ハリーが学校の敷地外で魔法を使ってはいけないことを知らないからだ。

 

「バレないようにするのが一番の課題ね」

「実際に使わざるを得ない機会が来なければいいんだけどねえ」

 

 ハーマイオニーとハリーの会話に、ロンが口を挟む。

 

「魔法を使うと魔法省からお知らせのフクロウ便が来るんだ。だから保護者には簡単にバレちゃうし、間違っても使っちゃいけないよ」

「珍しいねえロン。何でそんなこと知ってるの?」

「フレッドとジョージが証明した。身を以って」

「あっそう……」

 

 汽車がゆっくりと速度を落とし、ひと揺れして止まった。アナウンスがキングズ・クロス駅に着いたことを教えてくれる。

 ハリーは椅子から立ち上がり、さて、と気合いを入れる。

 これからが本当に厳しい戦いの始まりだ。

 攻撃はできない。魔法すら使えない。それら全てを隠し通さなくてはいけない。

 なんと厳しい戦いなのだろうか。

 

「……ハリー、大丈夫?」

「はは、まぁ、うん。ちょっと怖いけど」

 

 けど、と言葉を切って。

 ワンピースの裾を揺らして微笑んで。

 

「ヴォルデモートと比べれば、まぁ怖くはないね」

 

 二人の親友はただ苦笑いするしか出来なかった。

 この一年で成長したのは、どうも心だけではなかったようだ。

 ハリーは少しだけ、ほんの少しだけ、憎き宿敵に感謝したのだった。

 




【変更点】
・ハリーの心の闇緩和。持つべきものは素敵な友達です。
・真のラスボスは、やっぱり合体事故(クィレル)先生。
・私は人間を辞めるぞポッタァ―――ッ! 難易度超上昇。
・ダンブルドアの胡散臭さグレードアップ。信頼度は原作よりは低い。
・ヴォルデモート≧ダーズリー家>越えられない壁>その他

【新キャラ・変更のある登場人物】
『クィリナス・クィレル』
 原作人物の魔改造。下級死喰い人。
 ルーマニアへ修業した際に吸血鬼に噛まれて脱人間。分不相応に傲慢な性格。
 本来なら魔力の続く限り肉体を再生する能力を持っていたことで、帝王に気に入られる。
 一応かなり優秀な魔法使いだが、闇の魔術への適性はなかった。石仮面とは関係ない。

大変お待たせしました。一週間かけてこんな量。最長です。
これにて「賢者の石」は終了となります。秘密の部屋は……うん、頑張ります。
今後の難易度に影響する変更点はこの話の中にいくつかありますので、暇なマグルの皆さんは探してみてください。ざっくざっく出てきます。
一年目はハリーが友情(と絶望)を知るお話でした。二年目はどうなるか、楽しみにして頂けると幸いです。
拙作を読んでいただき、ありがとうございました!


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賢者の石・変更点

一巻の「賢者の石」時点での変更点やら独自設定やらをまとめました。
登場人物の中には私の脳内設定で挿絵がありますけれども、ご自身の想像を壊したくない方はどうぞ気にせずスルーしてください。


 

【原作との大きな変更点】

 ハードモードとするにあたって原作から変化した要素。

 場合によっては今後に大きく影響する部分もあるため表記。

 

 

・ハリーが女性。

  これによってクィレルに組みつけなくなり、窮地に陥った。

・虐待が過激化。

  人間不信になり、一年生時において誰一人信用できない状態に。

・フィッグ婆さん死亡。

  ウィゼンガモットにおけるハリーの裁判での証人が消滅。

・マルフォイ強化。

  原作における賑やかしキャラから、敵対すると厄介な男へ。

・ペチュニアの態度が軟化。

  それに伴ってハリーの好感度も変化。後のちかなり大変なことになる。

・性別変化のため、周囲の人間関係が変化。

  特にロンが顕著で、この頃の男の子にとって異性の友人は扱いが大変。

・スネイプの態度。

  どちらかというとパッと見リリー似なので仕方のないこと。

・三頭犬など、ホグワーツ教師の試練が強化。

  三人組のマッハな心労を代償に、大量の経験値を得る事になります。

・箒はニンバス二〇〇〇ではない。

  クリーンスイープ七号だってイイ箒なんですよ。まぁ、うん。お察し。

・トロールも三倍。

  せっかくハロウィンなので恐怖も味わってもらいました。

・みぞの鏡シーンにはスネイプが登場。

  我輩とハリーの縁がより深くなるのだ!

・森で出会う怪人が強化。

  正体は吸血鬼クィレルであるため、蝙蝠に変身されて逃げられた。

・三人組が互いの心の闇を知る。

  これにより原作より若干オープンな関係に。依存度も多少高くなる。

・ネビルが不幸。

  服従の呪文を経験する。今後プラスになるかマイナスになるかはネビル次第。

・クィレル強化。

  奴は死喰い人でも最弱、闇の勢力の面汚しめ。ハリーが強敵と戦うに必要な通過点。

・ダンブルドアへの対応。

  次に大切な友達を巻き込んだら殴る、と宣言。老人はそれを受け入れる。

 

 

 

【独自設定】

 深く考える必要はなく、だいたい語感の通り。

 細かい設定なんて考えてられっかよクルーシオ!

 

 

魔力反応光

 杖先から飛び出る光のこと。魔法反応光とも言う。

 人体から生成された魔力が魔法として外気に触れる際に起きる反応。

 要するにだいたいの場合この光が当たれば、魔法が作用する。

 威力を拡散してスプレー状に射出するなど、術者の裁量でいくらか融通が利く。

 

魔法式(プログラム)

 何であろうと魔法を使う際には、プログラムをしっかり組んで発動する。

 杖の振り方、呪文の発声、原理を理解しているかどうかなど。

 これの組み方に問題があると、魔力暴走で不発になったり爆発したりする。

 

魔力枯渇

 読んで字の如く、体内で生成される魔力が不足に陥ること。

 この状態でも搾り取るように魔法を使うことはできるが、不快感や頭痛などが生じる。

 頻繁にこの状態になると、脳がリミッターを設けて突如魔法が使えなくなる症状が起きる。

 

寮対抗戦

 ダンブルドアが急に駆け込み点じゃ!とか言いはじめて酷いものだと思ったので追加。

 その年の学年ごとの主次席に点を与えたり、その一年で偉大な事をした生徒に点を与える。

 特別扱いとかではなく、その範囲内にハリー達の行いが入ってたよ!というヘリクツ。

 

 

 

【オリジナルスペル】

 ハードモードにするにあたって、呪文も追加。

 やったねハリー! より攻撃的な魔法や、スタイリッシュな戦闘シーンができるよ!

 なお、原作で呪文が出なかっただけの魔法も一応オリジナルとして表記しておく。

 

 

「ドケオー・○○、場所を教えて」(初出・3話)

・淡い水色の光が、探し物の場所へ案内してくれる。○○には対象の名称を入れる。

 元々魔法界にある呪文。生活に便利な魔法。

 

「インパートゥーバブル、邪魔よけ」(初出・原作5巻)

・扉などへの接触を防ぐ呪文。無理矢理接触を試みると、勢いよく弾き飛ばされる。

 元々魔法界にある呪文。モリーが不死鳥の騎士団会議の盗聴を防ぐために扉に掛けた。

 

「アドヴェルサス、逆行せよ」(初出・7話)

・薄黄色の板状の光を出し、これに触れた魔法を術者に跳ね返すことが出来る。

 半純血のプリンスの創作呪文。『ワディワジ』の上位版。

 

「エレクト、立て」(初出・7話)

・対象を直立させる呪文。結構乱暴なので、怪我人にはまず使用しない。

 元々魔法界にある呪文。威力の低い『アセンディオ』。

 

「クェレール、取りだせ」(初出・10話)

・別空間に仕舞った物品を取りだす魔法。物品は片手で持てるサイズと重量に限られる。

 元々魔法界にある呪文。反対呪文は「リムーヴァ、仕舞え」。

 

「スポンジファイ、衰えよ」(初出・PS2ゲーム『賢者の石』)

・不安定な魔法で、術者の認識により効果が若干変動する。今回はスポンジ化。

 元々魔法界にある呪文。ゲームオリジナル。PC版・秘密の部屋における効果。

 

「ヴェーディミリアス」(初出・PSゲーム『賢者の石』)

・足場を出現させたり、隠し通路を暴く呪文。術者にはかなりの集中力が求められる。

 元々魔法界にある呪文。ゲームオリジナル。

 

「グンミフーニス、縄よ」(初出・11話)

・杖先から魔力で編んだ縄を射出する魔法。本来は捕縛などの用途に使われる。

 元々魔法界にある呪文。魔力の込め方次第で長さや太さが決まる。

 

「グレイシアス、氷河となれ」(初出・PS2及びGC『アズカバンの囚人』)

・水を凍らせる呪文。術者の力量によっては周囲に水が無くても使える。

 元々魔法界にある呪文。ゲームオリジナル。ゲーム中ではハーミー専用呪文。

 

「アニムス、我に力を」(初出・14話)

・身体能力強化呪文。肉体を強化して戦闘向きに変える呪文。変身術に属する。

 1978年、闇祓いアラスター・ムーディが開発。守護霊並みに習得難易度の高い呪文。

 

「インセンディオ・マキシマ、焼き尽くせ」(初出・14話)

・火炎呪文。魔力の導火線を空中に設置して魔法火を着火するため、精密性に優れる。

 元々魔法界にある呪文。単純にインセンディオの上位スペル。

 

「カダヴェイル、尽くせ」(初出・14話)

・《冒涜の呪文》。詳細不明。

 1982年《許されざる呪文》に登録。暗黒時代、ヴォルデモート卿が開発。

 

「ディキペイル、寄越せ」(初出・14話)

・《簒奪の呪文》。詳細不明。

 1982年《許されざる呪文》に登録。暗黒時代、ベラトリックス・レストレンジが開発。

 

 

 

【大きな変更のある人物】

 彼らは基本設定はそのままに、生い立ちや性格に手が加えられています。

 ハリーが女性であるというだけで、かなり対応の変わる人物も多くいるはず。

 

 

ハリー・ポッター (Harriet Lily Potter)

 本作の主人公。世界的大犯罪者ヴォルデモート卿に命を狙われるも唯一生き残る。

 「生き残った男の子」などと呼ばれるが、女性である。サラサラの黒髪に母譲りの緑の目、獅子や蛇のように鋭い目付き。額に稲妻型の傷。全体的に母親似だが、父親の面影も感じられる。

・原作よりダーズリー家で虐待が苛烈であったため、激情家で容赦のない性格になった。現実主義寄りな悲観主義者。自身の人生を捻じ曲げたヴォルデモートに強い憎しみを抱いており、その打倒を目標に据えて鍛錬や勉強に力を入れているのが原作ハリーとの最大の違い。若干脳筋。

・『賢者の石』編にて、ハーマイオニーとロンという真の友人を得て考え方が変わった。友情や愛情も、また大切なものであるとして受け止められるようになる。

 

【挿絵表示】

 

 

ロン・ウィーズリー (Ronald Bilius "Ron" Weasley)

 ハリーの親友。ウィーズリー家の六男で、例に漏れず赤毛のっぽ。

 兄たちが全員優秀なためひけ目を感じており、更には友人の女性二人も優秀な部類のため強い劣等感を抱いていた。そのため原作より少し自己顕示欲が強い。

・『賢者の石』編にて、ハリーの心の闇を知ってからは彼女を守らねばという意識が芽生え、一歩だけ大人になった。原作より現状把握能力に優れ、ウィザードチェスで見せた指揮官としての適性が高い。また、宿題を見てくれる頼れる友人が二人に増えたため、頭脳も平均より少し上に。

 

【挿絵表示】

 

 

ハーマイオニー・グレンジャー (Hermione Jean Granger)

 ハリーの親友。マグル出身。一年生時での主席。

 栗色の髪の毛はハリーお気に入りの枕。すっかり描写を忘れてたが原作通り前歯は大きめ。

・原作よりも愛情深く、大人っぽい。ハリーの事を妹のように愛しており、カッとなりやすく不安定な彼女の事を心配している。ハリーから悪影響を受けて、原作よりも怒りっぽく癇癪を起すとブチ切れる。よいライバルが常に隣に居るため、成績は原作より良い。

 

【挿絵表示】

 

 

ドラコ・マルフォイ (Draco Lucius Malfoy)

 ハリーと同学年の男子生徒。ハリーのライバル的存在。

 プラチナブロンドの髪をオールバックにして、薄い灰色の瞳。髪以外は父親と瓜二つ。

・原作より大幅に魔改造されており、手のかかる双子の弟がいるため大人っぽく達観しているきらいがある。ハリーの事を対等な好敵手と見なしており、事あるごとに突っかかる。退学やトロールに怯えるなど、年相応の臆病さもある。

・勉強の出来や魔法の腕は原作よりもはるかに上で、ハーマイオニーに次いで一年生時の次席。根深い純血主義ではあるが、盲目的ではない。なにか野心を持っている。

 

スコーピウス・マルフォイ (Scorpius Thomas Malfoy)

 ハリーと同学年の男子生徒。ドラコの双子の弟。

 臆病で泣き虫そして意地っ張りなため、自分の尊敬する兄が認めているという理由でハリーに突っかかるも、その未熟さに呆れられている。家族想いであるため、ハリーと関わりを持って欲しくないという真摯な面もある。どちらかというとロンのライバル。

・原作ではハリーの息子アルバス・セブルスと同級生で、全く純血主義ではない。ただ『HMD』では原作マルフォイの役に。ただしただの噛ませ犬ではなく、家族を愛しているという行動理念がある。

 

グレセント・クライル (Grecent Crayle)

 ハリーと同学年の男子生徒。ドラコの子分。

・原作登場人物の合成獣。リーダーの子分は二人で十分なんだラホラサッサーイ。十一歳にして二メートル近い巨体を誇るバカ。代償として原作よりおバカになった。スネイプのお気に入りでなければ一年生にして留年するレベル。

 

ネビル・ロングボトム (Neville Longbottom)

 ロンのルームメイト。黒髪にぽっちゃりした心優しい男の子。

・原作と大きな違いは無し。周囲の変化に巻き込まれてちょっと不運になった程度。

 

アルバス・ダンブルドア (Albus Percival Wulfric Brian Dumbledore)

 ホグワーツ校長。銀色の長髪と長いヒゲ。ブルーの瞳と、半月型の眼鏡が特徴。長身。

・原作より出番が少ないものの、透明マントを贈るなど仕事はしている。ハリーの生い立ちを全て知っているため心配していたが、友人が出来たと告白してくれたことを心から喜んだ。世界最強の魔法使いと謳われているため、ハリーにとって当面の目標。

 

ミネルバ・マクゴナガル (Minerva McGonagall)

 ホグワーツ副校長。黒いひっつめ髪と理知的なメガネ。変身術教授で、獅子寮寮長。

・本作では女性であるハリーをよく面倒見てくれる、同性としての目線で見守ってくれる貴重な保護者。原作ハリーより目をかけ、また勉学面ではそれ以上に厳しい。

 

クィリナス・クィレル (Quirinus Quirrell)

 ホグワーツ教授。スキンヘッドに紫のターバン。闇の魔術に対する防衛術を担当。

・原作ではそのような描写はなかったが、本作では明確な死喰い人でありヴォルデモートに忠誠を誓っている。原作と同じく自己顕示欲が強く、優秀な魔法使いではあるが慢心しやすく浅はかな面があるため、ハリーに追い詰められても認めず油断したまま敗北した。

・本作ではルーマニアへの修業の際に本当に吸血鬼に襲われたことになっており、彼自身も吸血鬼となった。日光や流水などに強い代わりに、吸血鬼としては落第点な能力しか持ち合わせていない。

 

【挿絵表示】

 

 

ヴォルデモート卿 (Lord Voldemort)

 ハリーの仇敵。英国魔法界の歴史上最悪の犯罪者。

 かつてハリーの殺害に失敗して肉体を失い、クィレルの後頭部に寄生していた。

・原作と役割や立ち位置は同じだが、メンタル面がだいぶレベルアップした。ハリーに対してどこか特別扱いしている節があった。なお、クィレルはただの便利な駒程度だった模様。

 

 

キャラの身長差

 

【挿絵表示】

 




だいたいこんな感じの変更がありました。
本文に乗せるのもアレかなと思いましたが、変更点が多いので必要かなと。
秘密の部屋編やアズカバン編も情報が増えればこうやって書くことに……なるんでしょうね。多分。


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秘密の部屋
1.最悪の誕生日


 

 

 

 ハリーはお腹が減っていた。

 昨年と比べると幾分か肉がついて健康的になったお腹が、くきゅうと鳴く。

 原因はダドリーだ。

 この夏唐突に「戦いたい奴がいる」等と言いだして、無茶な減量を始めたのだ。

 ダドリー自身、スポーツマンとは言い難いわがままな性格をしているので、自分だけが我慢するという状況が耐えられなかったのだろう。バカ親……もとい親馬鹿であるバーノンが、ダーズリー家に住む者全員のダイエットを命じたのだ。

 ダドリーが茹でた鶏ササミを調味料なしでふたつ。ダーズリー夫妻はササミひとつ。ハリーはササミの茹で汁だ。一日三食すべてがそれである。奴は燃え尽きるつもりだろうか。

 ハリーはそのメニューを聞いたとき何の冗談かと笑ったものの、ペチュニアの真顔っぷりにその悪質なジョークが真実だと悟った彼女は、夏休み初日、友人に助けを求めた。

 ロンやハグリッドにはフクロウ便を飛ばし、ハーマイオニーには電話でだ。

 やんちゃな男の子の親友はお菓子ばかりを贈ってきた。蛙チョコの詰め合わせパックや、ウィーズリーおばさんお手製のはちみつたっぷりのパンケーキ。甘くて甘くて、匂いがダドリーにバレやしないかとひやひやしたものだが、不思議とハリーの部屋にのみ匂いが充満するようになっているようだった。

 大きなひげもじゃの友人は、やっぱりロックケーキだ。元気が出るようにとメッセージが添えてあった薬味入りのものがあったので食べてみたところ、一日中顔色が青と紫のマーブル模様になったので部屋から出れなくなったのは、今となっては笑い話だ。新学期に会ったら殴ろう。

 ハーマイオニーはというと、有り難いことに栄養のある野菜類が入った食料を送ってくれた。日持ちがするようなものばかりだったので多少味気なかったが、それでも有り難いことは有り難い。だが一緒に入っていた無糖のお菓子群は何かのメッセージだったのだろうか。

 ところでハリーは、新しい部屋を手に入れていた。

 ダドリーが物置部屋に使っていた、二階の小部屋だ。錯乱したかのようにハリーに対して普通に接するようになったペチュニアが、「女の子なんだからクローゼットに入るくらい服を持たなくっちゃァねェア!」と言いだしたのが始まりである。

 当のダドリー坊やは最初はグズったものの、クリーンスイープを手入れするハリーの姿を見てからは、箒に吊るされて空中散歩をされるとでも思ったのか快く譲ってくれた。

 

 さて。

 そんな忙しい毎日の中、問題が発生していた。

 手紙が来なくなったのだ。

 夏休みの最初の週は、それこそ毎日手紙のやり取りをしたものだが最近はとんと来ない。

 ハーマイオニーとは電話で話せるかもしれないが、居候の身で電気代を使いすぎるのもどうかと思う。更には最近、かけてみても通話中ばかりで通じないのだ。

 少しばかりの寂寥感を覚えながら、ハリーはドレスのようなスカートの埃を払う。

 髪も綺麗に梳いてあり、唇も普段より柔らかくぷるんとして見える。ペチュニアの命でリップというものを付けたのだ。

 素材がよいためにお洒落をしたハリーはかなりの美少女であり、ダドリーですら一瞬見惚れるほど可愛くなっていた。

 ではなぜこんな恰好をしているのか。

 バーノンの商談に必要だからだ。

 

「ミスター・メイソン! ミスター・タチバナ! さあさこちらへ!」

「やぁダーズリーくん! わたしゃ今日を楽しみにしていたよ!」

「お久しぶりですね。お邪魔致しますダーズリーさん」

 

 バーノン・ダーズリーが長を務める企業、ダーズリー穴あけドリル株式会社は工事器具を扱う業界では有数の実力派企業だ。

 社長の厳格な性格から、信頼と実績と結果を積み重ねてきたために、こうして海外の社長さんを招いての食事会&商談をもぎとったのだ。

 フランスのメイソンドリル会社と、日本の立花重工の二社。その社長夫妻を迎えてのおもてなしと、自社商品を買わせるための心理戦がダーズリー家のリビングで繰り広げられる。

 そう、ここはビジネスマンの戦場! ……を、お茶を持って歩くのがハリーの仕事だった。

 要するに、見目がいいことを買われての給仕係だ。

 これにはハリーも参った。

 自室にいて居ない者として扱われた方がよっぽどマシだ。面倒臭すぎる。

 何故だか熱心にハリーに話しかけてくるタチバナ夫人を漏れ鍋で習得した営業スマイルであしらい、這う這うの体で自分の仕事を終えて自室へ退避する。

 あとはバーノンが商談をうまく済ませることができれば、万事解決だ。彼の機嫌もよくなってくれれば、ハリーも幾分か助かる。主に八つ当たり的な意味で。

 ハリーはスカートのまま、着替えもせずベッドにぼふんと倒れ込む。この後まだ呼ばれる予感がするからだ。そのとき部屋着に着替えていて恥をかくのは自分だ。

 くぐもった声を漏らしながら、ハリーは枕の中に手を突っ込む。

 しん、静寂を部屋に満たした次の瞬間、枕の下に仕込んであった杖を抜き放ってクローゼットへ突きだして低く小さめの声で脅した。

 

「今すぐ出てこい! さもなくば殺す」

 

 傍から見れば子供の遊びか、狂人のそれ。

 しかしハリーは魔女。魔法使いだ。

 ハリーが念じれば杖からは呪文が飛び出し、対象に呪いをかけるだろう。

 未成年の魔法使いが学校外で魔法を使うことは特定条件下を除いて禁じられている。そう、今回はその特定条件下に該当するかもしれないのだ。

 所属国魔法省の認可を受けた一部の未成年魔法使いが使うとき。

 所定の手続きを済ませたうえで、学校の課題のため練習するとき。

 ――命の危険が、迫ったとき。

 

「三つ数える。出てこない場合はクローゼットごと消すぞ」

 

 気配を殺す術を知らないらしい侵入者に対し、警告を発するハリー。

 クローゼットを『消失』させればとりあえずは倒せるだろう。

 油断なく杖先を向けたまま、ハリーは数を数えながら魔力を練り上げる。

 カウントダウンがゼロになった。

 

「警告はした。『エバネス――」

「おッ、お待ちを! ハリー・ポッター様!」

 

 呪文の詠唱を中断する。

 魔力を注ぎかけていたが自らファンブルさせ、詠唱を破棄した。

 クローゼットから無抵抗を主張しながら恐る恐る飛び出してきたのは、小さな妖精だった。

 ハリーはホグワーツで学ぶ前、妖精というのはエルフのように美しい小さな悪戯好きたちだと思っていたが、現実は残酷だった。こんなものに妖精なんて名づけるなよと思ったものだ。

 汚らしい布きれを身にまとい、長い耳と大きく裂けた口。大きな目と小さく長い鼻が特徴で、身長はヒトの子供ほどの醜い魔法生物。

 《屋敷しもべ妖精》だ。

 魔法使いの住む家屋に憑いて、特定の魔法使いを主と崇めて従う本能行動を持つ。

 確認されているだけでも紀元前からその存在がわかっている彼らは、当然ながら魔法使いが創りだした元魔導生命体である。元、というのは長年かけて繁殖と死を繰り返していった結果、通常の生物として世界に認識されたからである。恐らく創造された当時は、必要になるごとに作りだされる守護霊のような存在だったのかもしれない。

 それが彼ら、しもべ妖精だ。

 主たる魔法使いや魔女に従属することを生物としての至上の命題としており、生存意義である。元が魔法界での奴隷制度を廃止するために創られた魔導生命体なので、要するに奴隷の代わりだ。

 慈悲といえば、その労働を彼らが快感と認識できるように創ったことか。魔法使いは労働力が手に入る、しもべ妖精は労働という快感を得ることができる。ウィンウィンというやつである。

 さて。

 ハリーの目の前に現れた屋敷しもべ妖精は、どう考えてもダーズリー家に憑いた存在ではない。

 なにせマグルの家に屋敷しもべ妖精は憑くことができないからだ。

 彼らも飲食は行えるが、あくまで栄養補助としての役割が大きい。料理を任されるしもべ妖精にとっては味見も行う必要があるため必須の技能なのだ。

 彼らは通常、空気中に存在する極微量の魔力を摂取して存在している。つまり魔法使いや魔女などと違って体外に魔力を出す術を持たないマグルが多い場所では、しもべ妖精にとってはまるで山頂のように空気が薄いような気分を味わっていることだろう。

 だというのに、彼、または彼女はここにいる。

 何故だろうか。

 

「君は?」

 

 杖を向けたままハリーが問う。

 侵入者たる屋敷しもべ妖精は魔女の言葉に従おうとするものの、しかし怯えきってしまっていて、どうにも言葉が出てこないようだ。

 杖が怖いらしい。どうやら彼の主人はあまり良い扱いをしてこなかったようだ。

 

「杖は下げた。言ってくれ、君はなんだ」

「ひぅぅ……。は、はい。わたくしめは屋敷しもべ妖精のドビーと申します」 

 

 キーキーと甲高い声でドビーと名乗った彼は、恭しく礼をする。

 若干ペチュニアに影響されているハリーは、小汚い彼の事をあまり好くことができなかった。

 

「そう。で、ドビーとやら。何をしにここへ来た」

 

 あえて冷たく言い放つ。

 怯えているならばそれでも結構。

 その方がより聞きたいことが聞きだせそうだ。

 

「ドビー、ドビーめは。ハリー・ポッター。あなたに警告をしに参りました」

「……警告?」

 

 予想外の言葉だ。

 誰ぞ血筋のよい家からの使いかと思えば、警告ときた。

 いったい何を言われるのかちょっと想像できない。

 ハリーは少しだけ身構えた。

 

「内容は」

「ハリー・ポッター。……あなたはホグワーツに戻ってはいけません。あそこは危険です」

 

 突飛に過ぎる。

 ホグワーツに戻るな? いったい何を。

 それに危険だというのは去年度のことでよくよく身を以って知り過ぎるほどに知っている。

 ハリーは無意識に額の傷を撫でながら、言った。

 

「危険なのは承知の上だ。でも、わざわざ言いに来たからには、ぼくの知りえない内容で危険だということなんだろうね」

「仰せの通りにございます」

「じゃあ言ってくれ。何がどう危険なんだ」

 

 ハリーが何気なく言ったその言葉に、ドビーは黙り込む。

 言おう、言おう、としているのに言えない様子で、おそらく彼の宿る家の主義に反した言葉なのだろうことは容易に考えられた。

 つまり、彼は自らの主に背いてでも警告しに来た?

 ぼくに。この、ハリエット・ポッターに?

 

「言えないのか」

「……はい」

 

 しょんぼりと落ち込んでしまった。

 ちょっとかわいい。

 

「ならいい。勝手に推測しよう」

「え?」

「それにぼくは、何を言われようとホグワーツへ行くよ。力を得るためには知識が必要だ。そのためにはあの城で学ぶ必要がある」

 

 警告に来てくれたのは感謝するが、受け入れることはできない。

 そう言われたドビーは、ショックを受けた顔で固まってしまった。 

 とりあえず何か出してやるか、と思って魔法界製の布袋からロンのクッキーを出そうとしたところ、背後からゴツンゴツンという鈍いが聞こえてきた。

 屋敷しもべ妖精は、種族の宿命として人間を攻撃することが絶対にできない。ロボット三原則を思い出させる本能だが、今この時ばかりは有り難い判断材料だった。

 この肉を打つような音は、自分への攻撃ではない。

 ならば何か、と思いつく前にハリーは行動に出ていた。

 

「やめっ、やめろドビー! 何やってんだ!」

「ドビーは悪い子! ドビーは悪い子!」

 

 電気スタンドを自分の頭に打ちつけている姿は、どう見たって正気には見えない。

 慌ててスタンドを取り上げ、なぜこんなことをするのかを問いただそうとした時。

 部屋の扉がバターンと開いた。

 

「ハリー・ポッター! ぬぁーにを騒いで……なにやっとる、はしたない。パンツ丸出しで」

 

 怒り心頭で入ってきたバーノンが、ハリーの姿を見た途端呆れた声を出す。

 おそらく商談の最中に、ハリーの声が階下に届いてしまったのだろう。

 しかもドビーが見えていない。魔力がないと見えないのだろうか? いやしかしマグルにも使えないだけで魔力はあるはずで……、と少し思考の海に沈みそうになったが急いで現実へと意識を引き戻した。今はその時ではない。

 バーノンの言葉を思い出す。

 スカートのままベッドに寝転んだせいで、スカートがめくれあがっている。

 見え隠れするどころかその存在を盛大に主張しているのは、真っ白なショーツ。デフォルメされたワンポイントのフクロウがチャーミングだ。

 己のあられもない姿に気づき、顔を真っ赤にしたハリーは甲高い悲鳴をあげた。

 

「まったく! おまえのせいで、とんでもない誤解を受けるところだった!」

「誤解じゃないでしょう! ノックくらいしてくださいバーノンおじさん!」

 

 リビングでハリーとバーノンが口論するという、ダーズリー家初のイベントが催された。

 商談は見事成功。ダーズリー穴あけドリル会社は世界に羽ばたく大企業への一歩を踏み出したのだ。口論しつつも上機嫌なバーノンによれば、メイソンドリル会社と立花重工、業界でも有名な二社と組んで新型の穴あけドリルを開発する。そういった結果を勝ち得たそうだ。

 おかげで明日の夕飯はパーティだそうだ。ハリーの悲鳴で誤解を受けたバーノンの取り繕いようがコミカルで、堅物だけが取り柄ではない男だと思われたのがプラスに働いたおかげだそうだ。つまりハリーも同伴を許された。余計なお世話だった。

 ペチュニアが婦女子の部屋に押し入るとはなんたることかとバーノンを叱っているのを尻目に、メイソン夫妻とタチバナ夫妻に出した料理の残り物がタッパーに保存されている。ダイエットはいいのだろうか? とも思ったが、まあこれだけ食べた後で余計なことを言うのも無粋だろう。ということでハリーはそれらを有り難く頂戴し、部屋へと持ち帰った。

 隣室からアダルトな感じのアニメ声が聞こえてきたので、ノックして一言残す。するとダドリー(ブ タ)のような悲鳴と共に音量が下がったので、ハリーはそのまま部屋へと入った。

 ミックスベジタブルはヘドウィグと半分こ。チキンスープの中から少しふやけたチキンを取り出して、ヘドウィグの餌皿に入れてやった。ホー、と低く甘えるような声と共に、指を甘噛みされる。お気に召したようだ。

 穏やかな時間が続く。これでロンたちから手紙が来たら文句なしなのに。

 ハリーはスミレの砂糖漬けケーキと共に、ちょっとした幸せを噛み締めていた。

 

「あの、ハリー・ポッター?」

「うわびっくりした、忘れてた」

 

 部屋の隅にいたらしいドビーが声をかけてきて驚いた。

 元々あまりものだったため少量しかなく、その小さなケーキを頬張ってハリーは言う。

 

「それで、ドビー。ぼくはホグワーツに帰るよ。危険なのはどちらにせよ今さらな話だし、それにあそこはもうぼくにとっては家なんだ」

「ですが行ってはなりません! 罠なのです、貴方様のお命を奪う罠! あなたの損失は、魔法界の……いえ、それだけではありますまい! 世界の損失なのです!」

「罠? 損失? 危険って、誰かの手によるものなのか。それは死ぬほどのものなの?」

「……いけない。これは言ってはならなかった」

 

 再び自分を罰しようとするドビーを慌てて止めるハリー。

 今度彼に襲いかかろうとしたのは、壁だ。

 部屋の向こう側にはダドリーがいるはずで、しもべ妖精の頭でドラミングでもしようものならきっと悲鳴と共に盛大に漏らしてしまうに違いない。

 間髪入れずにまた騒いだら、さすがにバーノンの機嫌も悪くなるだろう。

 

「やめろって! 大人しくしろっ」

「はやく罰しませんと! ドビーは悪い子! ああっ、いけない子!」

「罰しない事こそが罰だと思え! 本能すら自由にできない罰と思えばいい」

「この素晴らしい発想、やはり天才……」

 

 そんなところで尊敬されても困る。

 しかしこれは困った。このドビーとやら、思っていたより意固地になる性格だ。

 誰に仕えているかは知らないが、しもべ妖精への扱いが悪く、しかしそれでも仕えているとなればそれなりに血筋の良いところだろう。

 聞いてもまず答えてはくれないと判断し、ハリーは彼にお引き取り願うことにした。

 

「まぁ、そういうわけだ。御主人からの命令かそうじゃないかは聞かないけど、諦めてくれ。ぼくはホグワーツへ帰らなくちゃいけないんだ」

 

 翌朝。

 ハリーの言葉を聞いて寂しそうにその場から煙のように消えたドビーの顔を思い出しながら、ハリーは新聞配達のアルバイトをこなしていた。

 魔法省発行の書状によれば課題のための魔法使用期間は昨日の一日間だけなので、魔法の練習は行えない。あとは肉体を鍛えるのみだ。

 ダドリーから聞いた話では――そう、聞いたのだ。決して脅してなどいない――フィットネスジムに行けばかなりの運動になるということだ。そのための資金稼ぎなのだが……彼はなぜそんなことまで知っているのに痩せないのだろう。ブタか。ブタなのか。

 せっせと走りながら、ハリーはスパッツとタンクトップ姿でプリベット通りの家々に新聞を投げ込んでいく。

 誰からも手紙が来ないので、いい加減暇を持て余したハリーは既に宿題を片付けてしまっていた。ゲームをやる趣味はない上に、手持ちの本は読み終えたのでやることがないのだ。

 再来週は、ハリーの誕生日だ。

 流石に誕生日には手紙のひとつくらいは送ってくれるだろうと思う。人がいない早朝でよかった、楽しみでにやけてしまう。

 

「これで終わりっと」

 

 最後にダーズリー家に新聞を投げ込んで、本日分のノルマを達成する。

 いい汗をかいた。風呂掃除のついでにシャワーを浴びてよいと言われているので、さっさと冷たいシャワーを浴びたい。七月も後半だ、日差しも強い。

 タンクトップの胸元をぱたぱたとしながら風を呼び込んでいると、

 ――自動車が突っ込んできた。

 

「えっ!? ちょっ、お、わ、うわあああああああ――――ッ!?」

 

 杖を取り出す暇もなく、確実に一二〇キロ以上のスピードでスポーツカーが疾駆してきた。

 狙いは違わず歩道の上のハリー自身。

 すわヴォルデモートの刺客かと思ったが、彼らがマグル製品たる車に乗ってくるとは思えない。

 五時半という早朝であるため周囲には車も人もおらず、横に飛び退いても車が曲がってくればそのまま潰されて確実にお陀仏だ。

 コンマの世界で思考を巡らして導き出した答えは、跳ぶことだった。

 車体とコンクリートの壁の間にハリーを潰すつもりのようだ。ハリーはその壁目がけて全力疾走。車に追いつかれる直前、壁を蹴って車の屋根へと転がり込んだ。

 轟音を立ててコンクリートに突っ込むスポーツカー。

 体を丸めて主要器官を防御、屋根の上をごろごろと転がって地面に叩きつけられた。

 砕け散ったコンクリートの破片が肌を傷つけ、大きめの瓦礫が打撲を造りだす。

 どこか骨が折れたかもしれないが、結構な勢いで壁に衝突した車からガソリンが漏れているので爆発でもされたら目も当てられない。

 転がるようにその場から離れようとするものの、ふらりと体勢を崩して倒れ込む。

 目の前が赤い。血か、血を流したのか。クィレル戦で味わったあの暖かさと同じ感覚。

 頭でも打ったか、地面に倒れ伏したハリーはそのまま意識を手放した。

 

 全治一ヶ月弱。

 医者からあの事件現場に居てたったこれだけとは奇跡だ、と感心されてしまった。

 少なくとも三週間は病院で療養し、あとは自宅療養でいいのだとか。

 骨も折れておらず、外傷は少々酷いものの命に別状はなにもなし。

 だが打撲は酷いものだそうで、肌に傷を残したくないならば入院は必要だそうだ。

 見舞いに来たダーズリー一家からは入院費に関する嫌味をねちねちと言われたが、それでもフルーツ詰め合わせを持って見舞いに来るあたり世間体を気にしすぎというか、律儀というか。

 大人しく治療を受け、清潔なベッドで横になる。

 そこでやっと思考できるほど余裕ができた。

 

「……本当にただの事故だったのだろうか?」

 

 タイミングが良すぎる。

 ドビーが学校に来るなと警告したその次の日に、こんなド派手な事故が起きるなど。

 それも、ハリーを入院させてしまうほどの怪我を負わせて。

 さらには怪我人がハリーだけだというのもおかしな話だ。運転手はどうした。ならばアレは無人で動いていたのだろうか。それはつまり、魔法が用いられている事を意味する。

 ひょっとすると長期入院するほどの重傷を負わせれば、恐れをなしてホグワーツに行かなくなるとか思ったドビーが下手人なのではあるまいな。

 そんな短絡的なことするわけないか、と自分の考えに呆れながら、ハリーは壁掛け時計を見た。

 零時。これで七月三十一日になったわけだ。

 十二歳の誕生日。

 祝ってくれる友はいたはずなのに、その日フクロウを見かけることはなかった。

 今まで何度もこうやって過ごしてきたはず。だというのに、酷く寂しい。惨めだ。

 数ヵ月前に賢者の石を巡る騒動で泣いて以来、なんだか涙腺が弱くなったような気もする。

 意地でも涙を流すまいとして、ハリーは仰向けにベッドに倒れ込む。

 その日は何故だか枕が冷たくて、あまり寝る事が出来なかった。

 

 三週間と少し後。

 入院費がばかにならないということもあって退院を許され、あとの数日は自宅療養となる。

 肌に残った痣を消すのに思ったより長引き、明後日がホグワーツへ行く日になってしまった。

 患者衣を脱いでベッドの上に放り、シャツを探す。

 その時、ふと姿見に映った自身の裸身が気になって、じっくりと眺めてみた。

 まだ顕著な変化はないものの、そろそろ下着を買った方がいいのだろうか。

 昨年はハーマイオニーやパーバティがいたためそういう話もできたし成長の速いパーバティの話はとても参考になったが、今はそれを相談する相手もいないので何ともし難い。

 ハリーは自分の胸をむに、と触ってみた。

 乳腺が発達してきたわけでも、ましてや乳房が膨らみ始めてきたわけでもない。

 十二歳なのだ。同年代と比べると少々遅いかもしれないが、別段おかしなことでもない。ただ少々の違和感を感じるため、そろそろだろうか、という予感がするだけである。

 思えばホグワーツでの栄養ある食事のおかげで、多少は女性らしい体つきになってきた気がする。以前は肋骨が浮くほどガリガリに痩せていて、性差など感じられなかったが今は違う。

 太ももはその名の通り多少は肉がついてきた、腰回りも骨盤の形がわかるほどではなくなっている。骨と皮だけのひょろひょろとは言えない自分の姿に、ハリーは多少の満足を覚える。

 こんこん、と。

 窓を叩く音が聞こえてきた。

 ここは病院の四階である。よって、窓を叩いてくるものなど限られる。

 やっと誰かからフクロウ便がきたのか。

 誕生日から二週間以上過ぎてしまっているが、それでも送ってくれただけで魔法界とのつながりを感じられて、とても嬉しくなる。ヘドウィグはプリベット通りの家に居るから、誰だろうか。ウィーズリー家のエロールだろうか。それともホグワーツからの手紙か。

 

「やあハリー! 全く連絡がないから心ぱ、い……、……ウワーオ……」

「おっとこりゃまずい。目は逸らしてやったぜハリー。俺は見てないよ」

「流石に見ちゃまずい。紳士としては当然だぜハリー。忘れちゃったよ」

 

 窓の向こうにいたのは、フクロウではなかった。

 ウィーズリーの双子と末弟の三人だ。

 三人が何らかのシートに座っているあたり、内装を見る限りは車を透明化させたうえで宙に浮かばせているのだろう。ハリーのいる病室の窓からはばっちり見えているが、おそらく外から見れば何もないように見えるだろう。

 たかが猛禽類如きに裸を見られる程度は気にしないが、それでも男の子に見られてしまうのは屈辱の極みだ。それに、その、なんだ。恥ずかしいという気持ちもある。

 患者衣で体を覆って隠したハリーは、死んだような目で窓の外へメンチビームを放った。

 

「君ら、ちょっとこっち来い」

 

 

「あらあらあら! まあまあまあ! はじめまして、ハリー!」

「会いたかったです、ウィーズリーおばさん」

 

 ぎゅっとふくよかなお胸とお腹で抱きしめられ、ハリーは暖かい抱擁を味わった。

 モリー・ウィーズリー。

 ロンやフレッド・ジョージの母親であり、七人兄弟を子に持つウィーズリー家のボスである。

 クリスマスのときに彼女からの手紙と手作りお菓子をいただいたので、直接の面識はなくとも知り合いではあった。だからなのか、それとも男所帯において女の子という存在が大歓迎なのか、熱烈なキスを頬に貰ってしまった。

 隅の方ではロレッジョ三兄弟が肉の塊となって積みあがっており、ハリーから事情を聴いたパーシーが説教を行っていた。少々拳を痛めたハリーはウィーズリーおばさんとハーマイオニーの慰めを受け、幾分か精神を回復していた。

 

 場所はダイアゴン横丁。

 ハリーらはフローリシュ・アンド・ブロッツ書店で教科書を買う列に並んでいた。

 手紙を送っても返事が届かず、さらにハリーからも手紙が届かないということで心配になったウィーズリーの面々は、ハリーを迎えに行くことにしたそうだ。本来ならば誕生日当日に迎えに来てウィーズリー家でもてなしたかったそうだが、肝心のダーズリー家にハリーはいなかった。入院していたのだから当たり前か。

 ならばダーズリー家の人間に直接聞いた方がいいだろう、とのことだったが、生粋の純血魔法族であるウィーズリー家の面子では、ダーズリーへの心証がよろしくない。そういうわけでマグル出身者である常識的なグレンジャー親子の到着を待っていたため、予定が遅れてしまったそうだ。

 ハリーは彼らのその行動こそが正解だと、強く感心していた。

 仮に、ウィーズリー家の誰かがハリーを迎えに行ったとしよう。例えば店の外でグレンジャー夫妻を質問攻めにしているアーサー・ウィーズリーがダーズリー家に行ったとしたら、まず間違いなく反感を買っていた。彼は熱狂的なマグルファンであり、馬鹿にしているように見えてしまうほど魔法を使わないマグル製品に愛を注いでいる。特に最近では電化製品に恋をしているようだ。

 現にグレンジャー親子でハリーを迎えに行ったとき、外面だけは完璧なダーズリー家は暖かく夫妻を迎え入れとっておきの紅茶で持て成し、ハーマイオニーにはお客様相手には大人しいダドリーを宛がってしばらくの間は談笑までしたとのことだ。

 事情を知らないグレンジャー夫妻は礼節ある家だと思ったようだが、ハーマイオニーはその真実を見抜いていたようで、ハリーと顔を合わせるなり熱烈なキスと抱擁を施してきた。

 あの家には、ダーズリー一家の匂いしかなかったそうだ。

 写真や服、家具に食器。はては食料品など、人間はそこにいるだけで一定の匂いを残すことになる。だがあの家には、ハリーの匂いが欠片たりともなかった。恐らくバーノンが徹底的に気を使っているのだろう。これであの家にはもう一人女の子がいるなどと、いったい誰が思おうか。

 

「はいハリー。これホグワーツからの手紙。ウィーズリー家の方に来てたわよ」

「ああ、だからぼくの方には来なかったのか」

 

 去年見た手紙と同じく、綺麗な便箋をハーマイオニーから受け取る。

 中身はやはり、進学おめでとうの文字と、必要な教科書類のリストであった。

 歩きながらリストを読んで必要な金銭を頭に思い浮かべながら、ハリーはふと気づく。

 今年は妙に必要教科書が多い。

 二年生になるから、という理由だけでは説明がつかない。闇の魔術に対する防衛術だけで何冊あるのか。いったい何ガリオンかかるのだろう。

 しかも気になることに、著者がすべて同じだ。

 大学教授が自分の出版した本を教科書指定する、というのはよくある話だ。

 それと似たようなものか。

 

「ああ、この《小鬼と好意的な旅》って読んだことあるな」

「私が貸したやつね。面白かった?」

「うん。防衛術の観点から見ると微妙だけど、小説としてはかなり面白かった」

「でしょう!? やっぱりハリーはわかってるわ。ロンったら読んで一分で放り投げたのよ」

 

 それは内容以前の問題だと思う。

 しかし、そうか。この小説群を教科書に指定するとは、この本を選んだ教授はよほどのロックハートファンなのだろう。

 代表作『私はマジックだ』で知られる小説家。その名もギルデロイ・ロックハート。

 お茶の間の奥様方に人気な、ちょっと古いタイプのハンサムガイだ。

 魔法界での職業分類は《魔法戦士》になるのだろうか。要するに冒険家であり、その実体験をもとに物語を執筆している。戦士というよりも小説家としての方が有名な人間だ。マグルでいうアイドルや、芸能人といった方がわかりやすいだろう。

 そんなロックハートがどんな人物かというと、顔を前に向ければよい。

 うっとりした顔のマダム達を相手に、輝く笑顔でド派手なサイン会を行っているのが彼だ。

 

「いったいあれの何がいいんだか……」

「あらわかってないわね。彼っていろいろな魔法生物を倒してきた、偉大な魔法使いなのよ」

 

 辟易したロンの呟きに、ハーマイオニーが噛みつく。

 意外なことにホグワーツ一年生の主席様は、あのハンサムにお熱なのだ。

 それは子鬼の本を貸してもらった時に十分すぎるほどわかっている。その際にハリーが貸してくれなどと一言も言っていなかったことからも、よくわかるだろう。

 とりあえず一目見ておこうかなと野次馬根性を出したロンとハリーは、後悔しながら本屋の外へ出ようとする。

 しかしそこに、耳の奥が痒くなりそうな声が届いた。

 

「もしや、ハリー・ポッターでは!」

 

 イケメンの声だ。

 厄介事の匂いを感じとったロンに、ハリーは見捨てられた。

 あとで絶対殴るからな、と視線を送りながら、ハリーは新聞記者らしき男に引っ張られて書店内へと引きずり込まれてしまう。そして放り出されたのは、ハンサムの胸元だった。

 こッ、こいつ! 肩を抱いた!? いや、抱きしめてきやがった!

 即座に鳩尾へ肘鉄をぶち込んだハリーは、急いでロックハートから離れようとした。

 しかし彼もハンサムとしての意地(?)があるのか、ハリーの全力攻撃を食らっても呻くだけで、もう一度ハリーの肩を抱いてきた。感心するべきか呆れるべきか、非常に迷う。

 

「げほっ。今日は記念日ですよ! なにせこのギルデロイ・ロックハート! と、ハリー・ポッターが一度にそろった素晴らしい日なのですから!」

「離せ」

「ああーっ、分かってます。分かっていますよぉ、ハぁリーぃ。照れなくてよろしい! ウン! なにせ私は、ぁハンッ、サムッ! っでェ~~~すからねぇぇ――ッ」

 

 ああ、とハリーは納得する。

 これが「ウザい」という感情か。

 

「なんと彼……おや? おっと! 女の子だったのかいハリー・ポッター!」

「ちょっと髪伸ばしてるだろう見てわからないのか! というか腰を触るな変態っ!」

「いやー、ハハハ! 失ゥ礼! レディに対してあまりにも失礼でしたねっ! ウン!」

 

 謝罪とはウィンクしながらするものではないはずだ。

 しかしハリー・ポッターが女性であるというのは、あまり広まっていないらしい。

 新聞記者は慌ててカメラのフラッシュを焚きすぎて、書店内の天井を煙で白く染め上げている。

 奥様方は驚きのあまりどよどよとざわめいており、ハリーはなんだか悲しくなった。

 というか、どうして自分が男の子だ、などという情報が流れているんだろうか。

 

「なんと彼女! ミス・ポッターが私の本をお買い求めになりにきましたっ! おほん! この、ギィルデロォーイ・ルォォックハァァァーットの! 本! をッ! というわけで私から無料でプレゼント。もちろん全冊、そしてサイン入り!」

「鬱陶しいなあ」

「美しいって? ハハハありがとうハリー! さてここで重大発表です! なんと私! ハンサムなギルデロイ・ロックハートは! んハァァァアンスァァァムぬぁ、ギぃルデるぉぉイ・るぉぉぉックふぁぁあートはァん! 今年度九月から闇の魔術に対する防衛術の名誉ある素敵でハンサムな教授としてハンサムホグワーツ魔法魔術学校に栄誉あるハンサム赴任をすることになりましたハイ拍手!」

 

 魔女たちの拍手と黄色い悲鳴が書店に響く中、ハリーはげんなりしていた。

 はやく解放してくれ。

 助けを求めて視線を彷徨わせると、なんと、なんということか、こういう光景を見てほしくない人物に思いっきり見られていたではないか。

 書店の二階から、吹き抜けを通してこちらを見て笑っている人物。

 ドラコ・マルフォイだ。あと弟。

 まさか、まさかあいつにこんな情けない姿を見られるとは!

 

「ハリー・ポッターくん! 学校は楽しいかね!」

「イエス」

「それはよかった! 明日はもーっと楽しくなるよね! ハリ太朗!」

「イエス」

「ああーっ、ベリーナイス! でも今年からは私が居ます! さらに素晴らしい日々になることでしょう!」

「ノー」

「え? イエス? ハハハハそうだろうねぇ。ではハリー! 学校でまた会おう!」

「絶対にノゥ!」

 

 やっとの思いで解放されたハリーを迎えたのは、羨ましそうなハーマイオニーと報復に怯えたロン(サ ン ド バ ッ グ)、そして嘲笑うスコーピウスと腹を押さえて笑い転げるドラコだ。

 ロンとスコーピウスが険悪な雰囲気で相対しているのを尻目に、ジニーとハーマイオニー、そして笑い過ぎて目尻の涙を拭うドラコがハリーに声をかけてくる。

 

「羨ましいなぁハリー。ロックハートにあんなに親しくされるだなんて」

「そっすか」

「羨ましいわハリー! あとで抱きしめさせてね! あれよ、間接ハグよ!」

「そっすか」

「羨ましいよポッター! どこでもヒロインってわけだ! ぶふっ、くくくく……」

「そっすか……」

 

 何がそんなに面白かったんだ。

 もはや噛みつく元気もないハリーは、おざなりな返事を残してふらふらと書店から出る。

 しかしその進行は、銀細工の蛇で飾られた立派な装飾のステッキに遮られた。

 誰が邪魔をしているんだ、と見上げてみれば、プラチナブロンドの長髪をオールバックにして、黒系統のローブで身を固めた上品な魔法使いだった。四〇代後半くらいだろうか。

 髪色や目付きがマルフォイ兄弟そっくりだ。

 となれば、彼らの父親か、または親類ということになる。恐らく前者だろう。

 

「君が、ハリエット・ポッター、ですな。お初にお目にかかる」

「初めまして」

「ああ。私はルシウス・マルフォイ。あれら双子の父親だよ。君の話は息子たちから、よく、聞いている。今後とも、よろしくしてくれると嬉しい」

 

 挨拶の際の一礼すら優雅だ。

 遥か年上の男性にこうも恭しく扱われると、なんだか面映ゆくなる。

 これが本物の英国紳士か……と、ハリーが感心していると、後ろから声がかかった。

 ウィーズリーズの父親、アーサーだ。

 

「マルフォイ。うちのお客さんに何の用だね」

「これは、これは、これは。ミスター・ウィーズリー。相も変わらず清貧を貫く崇高なる精神、まこと恐れ入る。魔法族の、面汚しになってまで、粉骨砕身働いているというのに」

「きさま。もう一度言ってみるといい、そのお高い鼻が折れ曲がるぞ」

 

 紳士じゃなかったのかよ。

 アーサーと顔を合わせた途端、まるで蛇のような狡猾な顔を見せたルシウス。

 案の定始まるのはおとなげない口論であり、実に子供っぽい喧嘩である。

 それはさながら、ロンとスコーピウスの図をそのまま大人にしたかのような光景だった。

 隣でドラコが少し溜め息を吐いているのが見える。

 

「父上はご立派な人なのだけれど、ウィーズリー家に対してだけは酷く子供っぽくてね」

「あれ、意外。ドラコはお父さんのこと大好きだから、全部正しいと思ってるとばかり」

「そりゃ家族だから愛しているよ。でも親も人間だ、間違うことはある。同レベルに見られるからウィーズリーとは二度と喧嘩しない、って前にも言ってらしたのになあ」

 

 何時の間にか取っ組み合いの喧嘩になっていたイイ歳した大人二人を止めたのは、やはりというか当然と言うか、彼らの奥様であった。

 ウィーズリー夫人のモリーはカンカンになってアーサーの耳を引っ張り、説教を突き刺して旦那を小さく委縮させている。一方マルフォイ夫人のナルシッサは、上品な佇まいのまま冷たい視線をルシウスに突き刺しており、氏が頭を下げるまで一言も喋らず目線を外さなかった。

 自分が人の親になる、などという珍事がもしも起きるとして、ああいうしっかりした母親になれるのだろうか、とハリーはなんとなく将来が不安になった。

 

 さて。

 ハリー達は大いに急いでいた。

 ダイアゴン横丁での買い物を終えて、一日だけウィーズリー家にお泊りしたその翌日。

 そろそろキングズ・クロス駅に行かねばならない、という話が出たのが午前十時少し前。

 だが此処で大きな問題が起きる。

 魔法族の用いる一般的な時計は、マグル製品と同じく(もっとも技術的には一世紀ほど遅れてはいるが)腕時計を用いる。そして家に使われるのは、壁掛け時計という名の何かだった。家族の人数分だけ針があり、その針は『仕事中』や『命が危ない』などという冗談のような文字を指すのだ。

 なのでウィーズリー家には正確に時間を計ることができない。普通はそんなことなく、通常の時間を指す時計があるのが一般的だが、この家の大黒柱は熱心なマグル信者であるので、つい先日彼らの家の時計は解剖台へと連行されていたのだ。

 故にハリーとハーマイオニーの腕時計を頼りに時間を見ていたのだが、前日には通常通りの時間を示していた二人の時計が、共に何故かきっかり一時間遅れてしまっていたのだ。

 これに慌てたウィーズリー家にハリーとハーマイオニーは、大いに急いでロンドンへと直行。夫妻の手で多少魔法を用いてズルをしながら、例の空飛ぶ車を使ってキングズ・クロス駅に着いたのは十一時四〇分。本当にギリギリである。

 さて、さて。

 しかし本当に困った問題が起きるのは此処からだった。

 

「ほら急いで! フレッド、ジョージ! 冗談言ってる暇はないのよ! ありがとうパーシー、先に行ってちょうだい! ほらほらジニーちゃん! 急いで! ロン! ロナルド! あなたまた鼻の頭に泥をつけて! ハーマイオニー、ハリー! このおバカをお願いね! さ、行きますよ!」

「モリー母さんは凄いなあ」

「おじさんそう言ってる暇があるなら走りましょうよ」

 

 荷物を大量に詰め込んだカートを押しながら、人込みを巧みに縫って駆け抜ける。

 マグル達が何事かと見てくるが、それを気にしている余裕はない。

 パーシー、フレッド、ジョージとウィーズリーの面々が、九と四分の三番線に続く壁をすり抜けて先を急ぐ。

 

「ロン! もたもたしないの! 先に行って!」

「うるさいなあハーマイオニー、君は僕のママか!?」

 

 手早く素早く。

 こんな事態に陥った責任として、ハーマイオニーとハリーは先にウィーズリーの面々を行かせた。夫妻は多少渋ったものの、議論している暇はないと急かしてさっさと行かせる。

 ペット足る鼠のスキャバーズをとっ捕まえるのに苦労していたロンを向こう側へと放り投げるように行かせて、少女二人は頷いて先を急いだ。

 十一時五〇分。駅員に頼んでカートから荷物を汽車の中に放り込んでもらっても、間に合うかどうかギリギリの時間だ。駅員は魔法を使える大人であるからして、その心配はいらないだろう。

 間に合った!

 ハリーがそう思って安堵した、その瞬間。

 

「うっ! わ、うわあ!?」

 

 すり抜けられるはずの壁が、ハリーとそのカートを拒絶した。

 かなりの勢いで突っ込んでしまったため、金属のひしゃげる音とハリー自身の悲鳴が駅構内に響き渡る。更には籠の中のヘドウィグが抗議の声をあげるおまけつきだ。

 

「どうしたのかね?」

「い、急いでいたらカートが制御できなくって……」

 

 女性の悲鳴ということで心配したのか、立派な腹の駅員がハリーを助け起こしてくれる。

 新米なのだろうか、一緒にやってきた若い駅員はひっくり返ってこぼれ落ちたカートの荷物を積み直してくれている。

 ひょろっとした新人の彼に礼を言いながら、困り顔の太った駅員に怒られてしまう。

 

「危ないからね、気をつけなさい。今後はもっと時間に余裕をもってくれると嬉しいよ」

「ご迷惑をおかけしました」

「いや、なに。これも仕事のうちさ」

 

 去ってゆく二人組を見送るついでに、壁に掛けられている時計を見る。

 それが示す事実を数瞬かけてようやく認識したハリーは、絶望感のあまり呻いた。

 十二時。

 なんて、ことだ。

 ホグワーツ特急に乗り遅れてしまった。

 これはつまり、どういうことか。

 簡単に分かる事だが、脳が理解を拒否する。

 しかし認めねばならない。

 ハリー・ポッターは、ホグワーツには行けなくなったのだ。

 




【変更点】
・何故かダーズリー家単位での強化。
・死ねばホグワーツ行かなくなるんじゃね理論。
・ウィーズリー家での楽しい思い出作りイベントフラグが折れました。
 よってノクターン横丁へも行かない。いくつかフラグが折れました。
・九と四分の三番線へ行けないのはハリーだけ。

秘密の部屋です。今年も元気にハリーの心をアバダっていきましょう。
今のところ、正史とは然程大きなズレもなく進むと思います。交通手段が違えど目的地が同じなら問題ないというドラちゃん的な理論で。
紳士淑女の諸君のために一言添えると、今年はまだハリーはつるぺったんです。
ところでロンはそろそろ目を潰した方がいいですかね。マーリンの髭!


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2.狂ったブラッジャー

 

 

 

 ハリーは呆然としていた。

 ただちに行動を起こさなくてはならないことは分かっていたが、それでもあまりにもショックが大きかったため、キングズ・クロス駅構内のベンチに腰掛けて呆けていた。

 いったい、自分の何がいけなかったのだろうか。

 ダンブルドアに殴りかかったことで不興を買ったか?

 それとも交通事故の影響で、魔力生成に不具合が?

 冷静な状態であればまだしも、混乱しきった今のハリーでは正常な判断が出来なかった。

 

「ぼくが通れなかっただけなのか? それとも、あの壁自体が機能不全を起こした? そうするとウィーズリーさんたちを始め、家族の人々は向こうでどうしているんだろう? こっち側に戻れるのか?」

 

 考えれば考えるほど、不安になる。

 ふと顔をあげれば、アーサー・ウィーズリーの持ち物である空飛ぶ車が見えた。

 そこで考え付く。

 あれに乗って空を飛んでいけば、ホグワーツまで行けるのでは?

 そう考えたハリーの行動は早かった。

 カートの荷物をフォード・アングリアのトランクに詰め込んで、運転席に乗り込む。

 そこで気付くが、鍵は何故か開いていた。まぁかけ忘れたのだろう。

 

「これで、これで大丈夫だ」

 

 大丈夫じゃなかった。

 どうやってエンジンをかけるのか分からなかった上に、運転席にチビな女の子が座っているのを見つけた警察のおじさんにこっぴどく叱られてしまった。

 親を待つのなら、後部座席に座りなさい! 好奇心から死んでしまっては、両親に申し訳ないと思わないのか! とのことだ。

 その両親がいないハリーには思うところもあったが、ここで何かを言っても無駄に対立を生むだけだ。人はこうして嘘をつくことを覚えるのだな、などと適当なことを考えながら、ハリーはフォード・アングリアから外に出る。

 そしてまたベンチの上だ。

 時刻は午後三時。ホグワーツ特急はそろそろ自然たっぷりな風景を終えて、岩山地帯を進んでいる頃だろう。

 いっそここで待っていれば、ウィーズリー夫妻が車まで来た時に分かるだろう。

 そう思ってハリーは、手持ちのトランクからホグワーツの歴史という本を取りだした。

 ホグワーツ特急が用いられるようになったのは、当時の魔法大臣オッタリン・ギャンボルによってマグルの技術である汽車を使うことを提案したのが始まりだそうだ。

 それまでホグワーツの生徒たちは、各々でホグワーツへ向かって新学期を迎えていたそうだが、三分の一は辿りつけないなどという冗談のような本当の事態に陥っていたことがその発想が出る原因だそうだ。

 では当時の生徒たちはどうやってホグワーツへ向かっていたのか。

 一六九二年に国際機密保持法が制定される前は、色々な手段が用いられていたそうだ。

 テレポートのような魔法的移動手段である『姿現し』ができる親や兄姉を持つ生徒は、彼らに『付き添い姿現し』をしてもらって連れて行ってもらったそうだ。これも数年に幾度か、この危険極まりない魔法を使うための厳しい試験がなかったため、未熟な術師に頼った生徒がばらばらになってホグワーツに現れるというショッキングな事件もあったようだ。

 または、先程ハリーが行おうとしたように空を飛んで向かう者。

 ハリーも得意な箒を用いての飛行や、魔法生物に乗っての飛行、国際条約で禁じられる前は空飛ぶ絨毯で向かう者も少なくなかったそうだ。

 一番確実だった方法は、貴族など身分の高い生徒が用いた手法だ。フクロウ便を飛ばしてホグワーツ教師に来てもらい、そこで『付き添い姿現し』。ホグワーツの教師が使う術ともなれば、安心だろう。

 そこまで読んで、ハリーはあっと声をあげる。

 ばっと隣を見てみれば、籠の中で不満そうなヘドウィグが。

 

「そうか、そうだよ。普通に考えりゃ分かることじゃないか」 

 

 ハリーは急いで羊皮紙の切れ端にホグワーツ特急に乗れなかった旨を書き込み、申し訳ないが誰か迎えに来てくれると嬉しい。としたためた。

 動物虐待だの野生に逃がすななどと文句を言われないために建物の陰に隠れて、手紙を持たせたヘドウィグを飛ばす。彼女に向かわせた先は、当然ホグワーツだ。

 一仕事終えたハリーは、安心してベンチに腰掛ける。

 気が抜けたせいか、急激に眠気に襲われてしまう。魔法界ではないが、それでも外で荷物を持ったまま眠るなどというのはあまりにも無防備で危険だ。

 だというのに、ハリーは睡魔に逆らえず、ベンチにその矮躯を横たえた。

 

 どれほど眠っていたのだろうか。

 空がオレンジ色に染まり、カラスがロンドンの空を飛んでいる。

 慌てて起きあがれば、何者かがハリーの荷物に手をかけているところだった。

 少女が起きあがった事に気づいた男は、騒がれる前に黙らせようと思ったのかもしれない。その大きな手でハリーの口を塞いできた。鼻まで塞いだら死ぬだろうが!

 この野郎、と杖を抜き放って吹き飛ばしてやろうとしたところで、男が宙に浮いた。

 

「な、なんだ!?」

 

 驚いた。ハリーはまだ何もしていない。

 大慌ての男は空中で両手足をばたばたと忙しなく動かすが、勢いよく壁にぶつかって気を失ってしまう。あれはどこぞ骨でも折れてしまったのではないだろうか。

 いったい誰がこの魔法を、と思って振り返れば、そこには杖を構えたまま怒りの形相で肩を震えさせているスネイプが立っていた。

 

「ス、スネイプせんせ――」

「この大馬鹿者が! どれほど無防備なのだ愚か者!」

 

 ぶつぶつと文句を言いながら、ハリーのもとへつかつかと歩み寄ってくる。

 周りのマグル達が何事かと振り向いて野次馬根性を出してくるが、スネイプが杖を振るたびに不思議と興味をなくしてどこかへと行ってしまう。

 怒っている。

 見るからに激怒している。

 

「だいたい乗り遅れるとは前代未聞の大間抜けであるからしてポッター貴様の愚鈍さはまさに親譲りのメガネ野郎のだらしなくて面倒くさがりで人任せで傲慢で卑しくてついでにいやらしくて時間にルーズすぎる奴の特徴をしっかりと受け継いでいるようだな!」

「スネイプせ――」

「何故にこの我輩がポッターめを迎えに行かねばならないのか確かに他より適任であるとは言えしかしてあの老獪なるボケ老人の思惑に乗るのは癪であっても矢張り正しいことも多く従うべきとは分かっているが、やはり腹立たしい! ええい、ポッター! 何故遅刻などした!」

「……うう、」

「えっ?」

 

 予想外の声に驚いて、ようやくハリーの顔を見たスネイプは更に驚いた。

 ハリーが、ぼろぼろと涙をこぼしていたのだ。

 後に聞けばあまりに心細い中、ようやく知り合いが来てくれて安心してしまったとのこと。

 ハリー自身は涙腺が弱くなりすぎたことに多少自己嫌悪しているようだが、スネイプからしてみればとんでもないことだった。往来で、三〇代の男性が、十代前半の女の子を泣かしている。と、見えなくもない。

 駆け寄ってきたマグルの警察官や通行人たちの記憶を杖で何とかしてから、スネイプはハリーの首根っこを引っ掴んで即座に『姿くらまし』した。

 ホグズミード駅のはずれ、ホグワーツ特急の到着を待つハグリッドの前に、二人は現れた。

 この数分でげっそりやつれたスネイプと、彼のローブを摘んでしくしくと泣くハリー。

 ハグリッドまでもがあわや勘違いをするところだったが、これ以上の面倒はごめんだとばかりにスネイプは手で制する。ハリーのぐしゃぐしゃになった顔を魔法で綺麗にしてから、ローブを翻して城の方へと黒い魔法使いは消えていった。

 

「なあ、ハリー。大丈夫か? え?」

「うん。だいじょうぶ。スネイプ先生に、助けて、もらったから」

「おう、おう。心細かったろうなあ、もう大丈夫だぞ。ヘドウィグの手紙もちゃーんと届いとる。俺が世話しちょるからな、安心せい」

 

 ホグワーツ特急から降りてきたハーマイオニーやロンには大いに心配され、城に行ったときにマクゴナガルからは何故遅れたのかの説明を求められた。ハリーが待っていたあの数時間、確かに九と四分の三番線へ通じるゲートが封鎖されているとの記録が残っていたそうだ。やはり危惧した通り、ウィーズリー夫妻含め見送りに来た人々は戻れなかったようだ。

 この尋問によって新学期の組み分けを見逃したものの、ダンブルドアが学期最初のお話をする前に席に着くことができた。この新学期パーティのご馳走を食べそびれるのは、あまりにも大きな損だ。

 

「諸君。また一年がやってくる。夏休みの間に去年学んだことなどすっかりとろけてしまったじゃろうが、それを思い出す前にいくつか話しておくべきことがある」

 

 ダンブルドアの言い回しはやはり変だ。

 気持ちはわからないでもないが、教師のする物言いではない気がする。

 

「昨年度からいる生徒向けのお知らせじゃ。四階の廊下は立ち入りが許可された。ただし、鍵のかかった部屋に入ってはならんことは同じじゃ。闇祓いの試験会場じゃからして、痛い目に逢うだけじゃ」

 

 ここでダンブルドアと目が合った。

 なるほど。賢者の石を巡ったあの場所の事か。

 学校の中にあんなとんでもない施設を作ったのはなぜかと思ったが、闇祓いの人たち用の施設だったのか。試験会場ということは、毎年採用する際にはこの学校でテストを行っているのだろうか。

 ハリーのそんな考えをよそに、話は続けられてゆく。

 

「森へは、相変わらず生徒の立ち入りを禁ずる。そして今年は《暴れ柳》がひどい風邪をひいてしまったようでの、移されぬよう生徒諸君は体調管理にしっかり気を付けることじゃ」

 

 暴れ柳とは、数十年前ホグワーツに植えられた木であり、魔法界でもぶっとんだ代物である。

 近づく者をその枝で殴り飛ばす。それだけの木だ。

 いったい何がしたいのかさっぱりわからない。

 生物とは総じて、動物であれ植物であれ何らかの目的や生存競争を勝ち抜くための工夫をして進化してきたはずであり、それは魔法界の動植物も人工生物でない限り変わらないはずだ。

 だというのに、なんだそれは。

 対象を殴るだけだなんて、本当に何がしたいのかわからない魔法植物だ。

 

「今年度も、廊下での魔法使用を控えてほしいと管理人のミスター・フィルチからの涙ながらの通達じゃ。さて、それでは諸君らにとってどうでもいいお話は終わりとしよう。それ、宴じゃ!」

 

 ぱん、とダンブルドアが手を打ち鳴らすと大広間のテーブルに、料理たちが湧いて出た。

 相変わらず茶色い料理ばかりで食べきれないが、それでもハリーにとっては貴重な栄養源だ。

 取り皿にフライドチキンやマッシュポテト、レタスとトマトのサラダにかぼちゃジュースといったおいしそうなものを放り込んでゆく。

 隣のロンが声をかけてきた。

 

「ありー、もっひょうももぐもぐもぐ」

「汚い! ちゃんと飲み込んでからにしろよロン」

「ごくん。ごめんよ。ハリー、九と四分の三番線のゲートが通れなかった理由って聞かされたかい?」

「いや。いま調べてるんだってさ」

 

 嘘ではない。

 何故かハリーと目を合わせようとしないスネイプや、呆れ顔のマクゴナガルによれば、何者かが細工した可能性が高いとのことで魔法法執行部隊とともに調査をしているとのことだ。

 それを聞いてハリーは、忘れがちだが自分が結構な人物であることを思い出す。

 要するに、闇の帝王を打倒した唯一の人間であるハリー・ポッターを狙った死喰い人残党の仕業ではないか。という見解だったようだ。

 学校内の人間にはクィレルが窃盗未遂犯であることは知れ渡っているものの、彼が死喰い人であったことまでは伏せられている。それもそうだ、ヴォルデモートくんが一年間みんなと一緒に特等席でお勉強してました、などという説明ではパニックになってしまう。

 ロンも不思議そうな顔をしながら、ローストビーフにかじりついていた。

 

「でもハリー、あなた今から疲れていたらあとが大変よ」

「なんで?」

「忘れたの? 来週には今学期初のクィディッチの試合があるじゃないの。伝統の初戦対戦カード、グリフィンドールとスリザリンの!」

 

 ――忘れてました。

 夏休み中に勉強していたとはいえ、やはり他の生徒と変わらず多少の知識が脳みそからすっ飛んでいたハリーは、一週間必死に勉強して遅れを取り戻した。

 そして臨むスリザリン戦。

 目の前には箒に乗ったドラコ・マルフォイが嬉しそうに、かつ怒りに燃えた目でハリーを睨みつけている。口元が笑っていながら目は吊り上っている不思議な表情だ。

 

「ポッター。去年はよくも」

「えっ、ちょっと待って、ぼく何かした?」

 

 下でフーチ先生が正々堂々とお願いしますと叫んでいる中、ドラコが恨みがましい声をかけてきた。

 何かしただろうか? とロンに対してはいっぱいあるものの彼に対しては思い当たる節がないハリーが頭をひねっているところに、噛みついてきた。

 

「何もしていないのが問題なんだ! よくも逃げたな、臆病者!」

 

 ここにきてようやく、ああ、と合点がいった。

 賢者の石を追ったあの事件。最後に試練に挑んだ次の週に試合があったのだ。

 つまりクィレル戦で大怪我を負ったハリーが意識不明で、欠場した試合。

 今回の試合前にもクィディッチ魔人のウッドに激励なのか脅迫なのかわからない叱咤を受けたが、たぶんそのときの激情も混じったものだったのだろう。

 しかし逃げただの、臆病だの、ちょっとばかり心外だ。

 

「去年のことは悪かったと思うよ。だから今ここで君を叩きのめしてやろう」

「……やってみせろ、ポッター」

 

 ホイッスル。

 二人は試合開始と共に、シーカーであるはずが全力でコートを疾駆し始めた。

 一瞬他の選手が驚いて動きを止めるものの、試合は問題なく開始される。

 紅いクアッフルがパスされて飛び、黒いブラッジャーが選手を狙う。スリザリンのマーカス・フリントがその剛腕でクアッフルを投げつけるも、箒を巧みに操った宙返りで勢いをつけた踵落としで、ゴールにはならなかった。

 魔法がかかっているため水中のようにゆっくり落ちるクアッフルをかすめ取ったのは、グリフィンドールのチェイサー、ケイティ・ベル。

 螺旋を描いて奪われ難い飛行を見せつけるも、スリザリンビーターのデリックがヘッドショットを決める。ケイティがティンダーブラストから滑り落ちてピッチに叩きつけられた。

 危険なプレイだが、ルール上はなんら問題ない。獅子寮応援席の怒号と蛇寮応援席の歓声を浴びながら、エイドリアン・ピュシーがクアッフルを捕りこの間隙を突いてゴールを決める。

 

「ちっ、危険なことをする!」

「でもそれがクィディッチだ!」

 

 選手たちの合間を縫って、フィールドを縦横無尽に飛び回るハリーとドラコはその高速飛行の中でスニッチを探していた。上空で目を皿のようにするよりも、高速環境下での細く尖った集中力で見出した方がよい。二人は同時にそう結論付け、相手に先を越されないためのレースを開始したのだ。

 観客席すれすれにドラコが突っ込み、ハリーがそれを追えばフェイントを仕掛けられていたことに気づいてすれすれで停止し、観客に悲鳴を上げさせる。

 そのまま方向転換してゴルフボールが飛ぶような軌跡を描き、ピッチ上空を横断した。

 

「ドラコは、奴はどこへ行った!」

 

 見失ったかと思い、フィールドの遥か上空へ飛んでピッチを見下ろす。

 ――居た! だが、ドラコはスニッチを追っているわけではないようだ。

 ただハリーを振り払ったいまのうちにスニッチを探そうとしているらしく、ピッチの周りを円状にぐるぐる回っていた。まずい、あれではいずれ見つけてしまう。

 

「すぐに行かなくっちゃ――ッ、うわ!?」

 

 ハリーがクリーンスイープの頭を地面に向けたその時、横合いからブラッジャーが殴りかかってきた。慌ててそれを回避し、体勢を立て直しながら急降下する。

 スニッチを、金の影を探して目を皿のようにしていたのが幸いか。

 はっと気がつけば、高速で降下するハリーと並走するものがあった。

 何者かと思えば、先ほどのブラッジャーではないか。

 上空にいたからハリーが一番近いのはわかるが、随分としつこい奴だ。

 

「フレッド! もしくはジョージ!」

「残念! 僕はフレッジョさ!」

 

 ピッチの中央あたりですれ違ったウィーズリーズに一声かけると、それだけで意味を察したようだ。ハリーを追いかけるブラッジャーを、フレッドは大きく振りかぶったクラブで打ち抜いた。

 くぐもった悲鳴を上げながら飛ばされたブラッジャーは蛇寮のモンタギューを箒から吹き飛ばした。

 蛇寮応援席から悲鳴が上がるも、ハリーはそれを気にする余裕がない。

 

「――居た」

 

 今し方吹き飛ばされたモンタギューの巨体が予想外の進行妨害になったのか、不自然な空気の流れで金色の気配が直角に曲がっていった。

 あれだ。あれがスニッチだ。

 ピッチへ落ち行くモンタギューを飛び越えるように突き進んだハリーは、その緑の瞳で間違いのない金色の輝きを捉えた。恐ろしい形相のドラコが、反対側からこちらへ突っ込んでくる。

 まるでチキンレースのように正面衝突しそうになるが、二人はスピードを緩めない。

 互いのハートを試す命知らずの勝負。

 その軍配は、

 

「うおおおお――ッ」

「く、お、お……ッ」

 

 ハリーにあがった。

 度胸勝負は、ハリーの勝ちだった。

 ヴォルデモートと真正面から対峙した女が、今さら怪我の一つは恐れやしない。

 一瞬だけ怯えを見せたドラコを嘲笑うかのように、ハリーは伸ばした右手にスニッチを握りしめた。悔しさに顔を歪めたドラコをすり抜けて、スニッチを捉えた腕を高々と突き上げる。

 紅い応援席から、歓声が爆発した。リー・ジョーダンのマイクを通して興奮した声が掻き消されるような大声の中で、ハリーは笑顔で応える。

 己を責めるような顔をしているドラコが、フンと対戦相手を湛えたのか悔しがっているのかわからない反応で鼻を鳴らしたのを見てハリーは苦々しく笑う。それを見たドラコが勝者は勝ち誇るべきだ、と言いだしたのでハリーが反論しようとしたとき、二人は同時にその場から飛び退いた。

 まるでスニッチを狙い撃つように、ブラッジャーが突っ込んできたからだ。

 魔法式で動いているにしては、動きがあまりにも悪辣すぎる。

 

「ブラッジャー!? 試合は終わったのに、なんで!」

 

 思わず手放してしまったせいで、スニッチが逃げてしまった。

 試合は終わったので逃げてしまっても大丈夫なのだが、思わず周囲を見回して探してしまう。するとドラコがくぐもった声を漏らしたので、そちらへ意識を向ける。

 そこには、側頭部にブラッジャーを食らった彼の姿があった。

 信じられない、という顔をしたドラコは、そのままコメット二六〇から滑り落ちる。

 上空五〇メートル近くある上空からの自由落下は、流石に看過できない。

 いくら柔らかい芝生が敷き詰められているといっても、叩きつけられたら肉塊と化すだろう。

 

「――ッ、だめ!」

 

 クリーンスイープ七号の柄をみしりと握り締め、ハリーは急降下した。

 ブラッジャーがドラコのコメット二六〇を粉々に喰らい尽くしたのち、まっすぐにハリーを狙って飛来してくる。間違いない、あれには誰かが手を加えている。悪意のある誰かが。

 本来はチェイサーがビーターからの攻撃を躱すために行う動き、《イナヅマロール》を用いて不規則にジグザグ走行しながら、ブラッジャーの猛攻を避け続ける。

 地面に向けて落下するドラコへ手を伸ばすも、ブラッジャーが真横から突進してきて手を引っ込めた。あの勢いと硬度では、まず間違いなくハリーの細腕は砕かれるだろう。

 

「くそっ! くそっ! 間に合えェェェえええええ!」

 

 観客席からは歓声が消え、悲鳴がとどろく。

 風を切る音がびゅうびゅうと耳を叩く。

 気が付いたのか、ドラコがうっすらとまぶたを開けた。

 大分出血しているようで、身体を動かせるようには見えない。

 だが、届かない。

 あとほんの数十センチが遠い。

 だが、逆を言えばたったの数十センチだ。

 無茶をすれば、何とかなる。

 

「……っぐ! ああっ、あ……!」

 

 身に余る結果を勝ち取るには、相応の、或いはそれ以上の対価を支払わなければならない。

 そこでハリーはあえて、自らと並走しようとするブラッジャーの射線上へと躍り出た。

 同じ方向へ飛んでいるために多少は威力が弱まるものの、それでも強烈な一撃である事に変わりはない。背骨が軋む音と口の端から暖かい液体が漏れる感覚を覚えながら、ハリーは自身の身体がクリーンスイープの限界速度を超えて加速するのを感じながら、ドラコの身体を抱きしめた。

 力の抜けた人体がこれほど重いとは知らなかった。細腕に全力で力を籠め、最近は腕立て伏せとかもしておいてよかったと場違いな考えを浮かべながら急ブレーキをかけないよう気を付けて、ハリーは緩やかに弧を描いて勢いを逃がしながら芝生のピッチに転がった。

 歓声を無視して、ハリーは必死でドラコに呼びかけた。

 

「おい、おいドラコ! しっかりしろ!」

「う……さ、ぃぞ、……ッター……」

「意識を失うなよ、頼むから!」

 

 軽口をたたく余裕があるなら、まだ大丈夫だ。

 慌てて着地地点に待機していたらしいマダム・フーチにドラコを預けると、ハリーは大きくため息を吐く。試合が終わったのにブラッジャーが選手を襲うことなんて、本当にあるのか。いや、目の前で見たのだ。有り得ないとは思うが、かけられている魔法が経年劣化で緩くなっていたのだろうか。

 ハリーが原因について考えているとき、妙な風切り音を耳にする。

 なんだろうと思うのと、嫌な予感が胸を貫いたのは、ほぼ同時だった。

 

「くっ!?」

 

 ズドン! と大砲のような音を立てて着弾したのは、やはりブラッジャーだ。

 ハリーが飛び退いた、一瞬前まで彼女の頭があった位置に大きくめり込んでいる。

 これには思わず嫌な汗をかいた。

 

「おいおい、ウソだろ! うわったッ!?」

 

 転がって跳ねて、脚を開いて仰け反って。

 試合で極限まで体力を削られたハリーは、その場から走って逃げることができない。

 いや、そもそもこのブラッジャーはそんな隙を与えてくれるだろうか。

 ズドンズドンと絶え間なく上下に黒光りするその球体を動かして、忙しなくハリーを狙うブラッジャーには明らかに何者かの意思を感じる。

 

「ハリー!」

「はッ、ハーマイオニー!」

 

 勝利したのだ、応援席からハリーを抱きしめるためにやってきたのだろうハーマイオニーの声が聞こえる。杖を抜いて魔力を練っているあたり、彼女がなんとかしてくれるだろう。

 というかハリーには杖を抜く余裕も、集中して魔力を練る余裕もない。

 早急な対処を、と心の中で悲鳴を上げたハリーは、さらに悲鳴を上げることになる。

 ハーマイオニーを押しのけて、新任の教師が現れたからだ。

 

「危ないですよ、お嬢さん! ハンサム……じゃなかった、私に任せなさい!」

「ロックハート先生!」

 

 ギルデロイ・ロックハートだ。

 闇の魔術に対する防衛術の新任教師として赴任してきた、稀代の小説家。

 自伝のような本を読む限りは、様々な魔法生物の問題を解決を導いてきた戦士でもある。

 実際の授業を受けたレイブンクローのパドマ・パチルに様子を聞いたところ、「実際に受けてみればわかるわ。素敵よ!」とのことだった。だがハッフルパフのアーニー・マクミランが言うには「頭がおかしい」とのことだ。

 それがどういう意味だったかは、今この場で知ることになる。

 

「そう! これは明らかに闇の魔術の仕業! ハンサムな私の出番ですね! ウフフ! さぁロックハートちゃんったら大活躍しちゃうぞ!」

「いや早くしてくんない!?」

「おおっとそうでした! いま助けますよハリー!」

 

 ロンの悲痛な突っ込みに我に返ったロックハートが、懐から杖を抜き放つ。

 彼も貴賓席から全力で走ってきたため、その動作ひとつで汗が舞った。

 きらきらと輝いてスタイリッシュに杖を構えるその姿は、本人が整った顔とイカした髪型をしているだけにそれだけで芸術品のようだったが、今そんなこたぁどうでもいいのだ早くしろ。

 

「『マキシマム・ドー・ラムカン』!」

 

 ロックハートの杖から飛び出した、レインボーな魔力反応光が見事ブラッジャーに着弾。

 無駄に螺旋を描いてカッコいい反応光だったが、そのおかげで射出型の割には範囲が広かったのが小さな的に命中できた所以だろう。そういうやり方もあるのか、とハリーは感心した。

 だが感心もそこまでだ。

 空中で制止したブラッジャーが、ぶるり、と不自然に大きく震える。

 そして、ぼばふんと爆発した。

 

「は?」

 

 ハリーがマヌケな声を出した。

 それはそうだ。ブラッジャーを爆破したのだ。

 とはいっても威力は低く、暴れ球が少し砕ける程度のもの。

 だがそれが一番まずい。

 かつて古代のクィディッチでは、ブラッジャーは石で出来ていた。

 それはあまりにも脆く、魔法で強化されたクラブでたたけば容易に砕け散ることになる。

 そうなれば、ブラッジャーにかけられた魔法である《プレイヤーを追いかけて叩きのめす》という性質がその破片ひとつひとつに適用され、当時のクィディッチ選手は試合中は飛礫と砂利に追いかけられる羽目になったという。

 それがどんな悲惨なものだったかは、今のハリーを見ればわかるだろう。

 

「うわああ!? 痛い! 痛っ!? ひぎゃあ!」

 

 この場に居るマグル出身の者、またはマグル学を修めている者は一様に同じ感想を持っただろう。

 これ散弾銃だ、と。

 

「いだだだだだ!? ちょ、やだぁ!?」

「ちょッ、ちょ、ハリー!?」

「いやー、ハハハ。まさかこんなことになるなんて、参りましたね! ウン! でもこれで、もうブラッジャーには襲われていないでしょう?」

 

 快活に笑うロックハートを押しのけたロンがやってきて、ハリーを助け出そうと飛び出した。

 特に魔法も使っていないため彼も散弾ブラッジャーの餌食になるが、それでもハリーには有り難かった。なにせ、肉の壁になってくれたのだから。

 彼のおかげで魔力を練る余裕のできたハリーは懐から杖を抜いて、ロンとタイミングを合わせてブラッジャー郡に呪文を放った。

 

「『イモビラス』!」

 

 杖先から飛び出した魔力反応光が、スプレーのように拡散して破片どもを呑みこむ。

 するとまるで粘ついた空気に捕まったように、ブラッジャーたちの動きが恐ろしく緩やかになった。

 こうなってしまえば、もはや脅威ではない。

 ロンに礼を言って立ち上がると、ハリーは自分の体を見下ろした。

 試合用の紅いローブがところどころボロボロになってしまっている。

 篭手を外して腕を見てみれば、白い肌に痛々しい痣がいくつかできているようだ。

 同情してくるロンを押しのけて、ロックハートが輝く白い歯を見せて微笑みかけてきた。

 

「やあハリー、大丈夫だったかね! 乙女の敵は、私の敵も当然ですからねっ!」

「おかげさまで」

「それはよかった! 私も微力ながらッ! キミを、助・け・た、甲斐がありますよ!」

「それはどうも」

「あなたの肌に傷がついていてはいけませんね! 私が診てさしあげましょうか!」

「やめてくれよ」

 

 ロンに背負ってもらって医務室へ急ぐ間もそうだったが、医務室へハリーを運んでからも、ロックハートは「この私が診察するからにはもう大丈夫」だの「レディの扱いがなっていないですねぇフハハン」だのと非常にうるさかったので、マダム・ポンフリーが大激怒して追い出してしまった。

 向かいのベッドでは頭に包帯を巻いたドラコが、スリザリンの友人たちに心配されていたがそれらもマダムが追い出してしまう。悲観したスコーピウスが泣きじゃくっていたが、それすら無視である。彼女にとって、患者の前で騒ぐ者は等しく敵なのだ。

 それを察知してか、グリフィンドールの面々はまるでお通夜のように静かだった。

 やめてくれ縁起でもない。ハリーはそう思うが面倒くさいので言わなかった。

 

「あのブラッジャー、やっぱり魔法がかかっていたと思うわ。ロックハート先生の魔法を受けても動いていたんだもの」

「……ハーマイオニー、君ひょっとして」

「なによ」

「な、何でもない」

 

 ロンの言葉に、只事ではない視線を向けるハーマイオニー。

 彼女は案外ミーハーであり、ロックハートの小説にハマって以降は彼にお熱なのだ。

 溜め息をついたハリーだったが、マダム・ポンフリーにぐいと出しだされた飲み薬を前に嫌そうな顔をする。ドドメ色に濁ったそれは、見るからに酷い味なのがわかる。

 覚悟して飲んだところ、夏場放置した生ごみのような臭いとねっとりした舌触りに思わずえずく。

 マダム曰くこれを飲みさえすればもう退院してよろしいとのことなので、ハリーは我慢してすべて飲み干した。チームの面々から歓声があがる。

 袖から見える白い肌から痣が煙を上げて消え去っていくのを見たマダムは、ハリーを触診するため皆に退室を命じた。特に男連中などもってのほかだ。

 マダムの適切な処置によって跡形もなく綺麗になったハリーは、制服を着て医務室を出た。

 最後にドラコの様子を見たが、今は薬で眠っていて話せる状態ではない。

 怪我の程度も頭蓋骨骨折と酷いものだったが、マダムの手にかかれば今晩にでも退院できるだろう。安心したハリーは、ドラコのベッドの横にあった羊皮紙の切れ端に「早く治せ」と一言だけ残して医務室を後にした。

 

「なんかお腹空いた」

「あんな目に逢っておいて、元気な子だな」

「やあ、セドリック!」

 

 医務室を出て会ったのは、ハッフルパフの上級生だった。

 セドリック・ディゴリーと言い、昨年度からハッフルパフのシーカーになった男だ。

 その長身と恵まれた体格はハリーと対極と言ってもよく、ドラコを含めてシーカー争いをしたならばこの三人は意地でも一番を譲らないだろう。よきライバルというやつだ。

 そんな彼がなぜここにいるのかというと、二人が心配だったからだそうだ。

 

「相変わらずかっこいい人だね、君は」

「やめてくれハリー。こんな形でライバルが減るのは不本意ってだけだよ」

「それをかっこいいと言うんだよ。あと、今は行ってもマダム・ポンフリーに追い出されるだけだと思うよ。ドラコはぐっすり寝てるみたいだし」

「そうなのかい? じゃあ、後にしておこうかな」

 

 やめる、と言わないあたりがまた律儀だ。

 せっかくなので夕食をとるため大広間まで一緒に歩く。

 途中でロンとハーマイオニーに出会い、四人で談笑しながら夕食へと思いを馳せた。

 クィディッチ選手二人とロンの贔屓のプロチームの話にハーマイオニーが呆れたり、女性二人と上級生の勉強の話にロンが嫌そうな顔をしたり。

 実に平和な時間を過ごすことができた四人は、はたと足を止めたハリーを振り返った。

 

「どうしたハリー」

「大広間はそっちじゃないぞ」

「待って。ちょっと静かにして」

 

 ハリーが手で制すと、三人はすぐに黙った。

 訝しげな顔で耳に手を当てているハリーは、何かの音を聞き取ろうとしているようだ。

 実際それはその通りで、ハリーは一種だけ聞こえた何かをもう一度聞こうと努力している。

 聞き流すには、あまりにも不穏すぎる言葉だった。

 

『……、……。……』

「……何だ? 何を言っている……?」

『……す、殺してやる……殺す……殺す……』

「――ッ!?」

 

 背後だ!

 この声は、背後から聞こえる!

 

『――殺してやるッッ!』

 

 その前にぼくがおまえを殺してやる、と意気込んで魔力を練り上げる。

 懐から杖を抜き放って振り返るも、そこにあるのはただの壁だった。白塗りの、ただの壁。

 そんなバカな、と呟いたハリーに、今度は三人が訝しげな顔をする。客観的に見てみれば、談笑していた女が急に魔力を練って杖を抜いて壁に向けているのだ。馬鹿じゃなかろうか。

 確かに声は聞こえたはずだ、と三人にハリーが問いかけると、そんな声は聞いていないと言われてしまった。まさか。幻聴だろうか? いや、そこまで疲れているつもりはない。

 では、いまのは……?

 

「ハリー、きっと気のせいだわ。どこかのゴーストが会話してたんじゃないかしら?」

「いや、それにしては随分と物騒なことを……」

「僕もうお腹すいたよハリー。早く行こうよ」

「あ、ああ……」

 

 ハーマイオニーとロンの言葉に、多少納得できないながらもハリーはその場を立ち去る。

 明日は一番にロックハートの授業が、次にスネイプの授業がある。

 セドリック曰くかなり疲れるだろうから今日は早めに寝るべきだそうだ。

 ひとまずは夕食を食べ、お腹いっぱいにしてお風呂に入ることが先決。

 四人はそう決めて、大広間へと立ち去った。

 不穏な空気を残したまま。

 




【変更点】
・マクゴナガル先生と同じ結論に辿り着いたのは彼女の教育の賜物。
・役得スニベリー。よかったネ。
・今年度は色々と狂ってるヤツが多いックハート。
・ドラコが被害に。一体誰の仕業なんだ……。
・セドリック登場。原作より親しいです。

【オリジナルスペル】
「マキシマム・ドー・ラムカン」(初出・17話)
・物体を支配下におく呪文、のつもりだった。ドラム缶と新車は爆発するもの。
 ロックハートの創作呪文。魔法式すら組まれていないため、失敗して当然。

ちょっと駆け足気味ですが、そのぶん2巻は追加要素が多いのでご勘弁を。
一人で他人の車を運転するなんてことはなかったんや! そこまで冒険家ではない。
狂ったハンs…教師に狂ったブラッジャー。何だか今年度は心に拷問を受けている気分。
今年度は何がハリーに襲いかかるのか。いったい何ックハートなんだ……。


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3.穢れた血

 

 

 ハリーは唖然としていた。

 新学期に入ってから、まだ二週間とたっていない。

 だというのに、ハリーはグリフィンドール寮から二〇点も引かれてしまった。

 原因はもちろんスネイプだ。いつにもまして機嫌の悪い彼は、ハリーの顔を見るたびに点数を引いていったのだ。「その髪の色が不愉快だ! グリフィンドールから五点減点!」などと理由も適当であり、相当機嫌が悪いことがわかる。

 それもハリーと顔を合わせるまでは普通だったということなので、原因は確実にハリー自身だ。ハリーは今年も課外授業があるとしたら、いったいどんなことをされるのかと不安で仕方なかった。

 

 唖然とする前に落胆したのは、スネイプの前に行われたロックハートの授業だった。

 ダメ教師。その一言が彼にはぴったりだ。

 教科書は彼の執筆した小説。

 その物語を演劇調に再現するのが、彼のお気に入りの授業だった。

 これはいったい将来なんの役に立つのだろう。たかだか十二歳前後の少年少女がそう思ってしまうほど酷いものだった。クィレルは単純につまらなかったが、これはつまらないとかそういうレベルでは収まらない。酷い。

 そしてロックハートお気に入りの女優は、もちろんハリー・ポッターだ。

 

「ん夢の競演ッ! んあはァーン! 素ン晴らしい! ハンッ、スァム! そこで君には『トロールとのトロい旅』で出てきたヒロイン役のジェシカの役をやっていただきたく」

「先生、授業してください」

 

「そう! ここで私はこう言います! 『素敵なお嬢さん、私は旅の魔法使い。あなたと一緒になることはできない……』するとハリー! ああ、君じゃなくて私が助けたお嬢さんフランソワーズの台詞ね。彼女はこう言ったので、君もそういうのです! 『ああっ! ロックハートさん素敵! 一晩限りの愛でもいいの! 抱いて!』とッッッ!」

「あーはいはいセクハラですよー」

 

「そして狼人間というものは多大なる誤解を受けた一族なのです彼らは吸血鬼に対抗する闇の一派の片割れであり私がならず者退治をした実はその彼は吸血鬼一族の姫ヴァンプちゃんの恋人で彼女は『ロックハートさんあなたの殺した狼人間は私の恋人ギルデロイなのです私は貴方が憎くてこの身が塵と化してしまいそう私のギルデロイを返して』と言いました私はもちろんこう言いましたよ『それは私だ』とねそうするとヴァンプちゃんは『あなただったのですか』というのでハリーきみはそこで『まったく気づかなかった』と言うメイド吸血鬼のパイアーちゃんの役をやっていただきたいのですすると私が『暇を持て余したロックハートの遊び』というので君はすかさず」

「長ァァァ――いッ! 長いよ鬱陶しいよお! そしてもはやヒロインですらないのかよ! もう配役というか大筋がわけわかんないよ! 助けてロン! 助けてハーマイオニーッ!」

 

 そういうわけで彼女は大変疲れた状態で魔法薬学を受ける羽目になったのです。とパーバティがハリーを庇ったところ、スネイプは苦虫を茶碗一杯噛み潰したような顔をして、ハリーいじめをやめてくれた。

 その反応から教師陣もロックハート症候群にかかってしまっているらしい。迷惑な話だ。

 ハリーはというと、スネイプのねちねちした攻撃からは逃れられたが、ロックハートとのやり取りを逐一説明されたことで余計なダメージを負っていた。

 

「どんまいだわよハリー」

「落ち着きなってハリー」

「そうだぜ、カッカしたって健康によくないぜ」

「全くだぜ、落ち着かないと大きくなれないぜ」

「双子は余計なお世話だよ」

 

 一日を終えてもなお怒りが収まらないハリーを、ハーマイオニーとロンが慰め、ウィーズリーズがからかう。

 余計なことをするなと怒られるが、不機嫌なハリーはそのままソファに横になってしまった。

 皆があーあと零して去ってゆく中、ハリーは一人考える。

 『あの声』はなんだったのか。

 大変聞き覚えのある、独特な感覚だった。

 だからハリーも、どこかで聞いたことがあるはずなのだ。

 英語だった。それは間違いない。ただ、ハグリッドのように訛っていたのだろうか。それとも、日本人の喋る英語みたいに妙に形式ばった説明臭い英語のようだっただろうか。一瞬しか聞けなかったために、詳細が思い出せない。分からない。

 だが、聞き過ごすことができない。

 『殺す』などと。

 冗談で言える言葉ではない。

 何せヴォルデモート一派が好き放題猛威を振るった《暗黒時代》から、まだ十年と少ししか経っていないのだ。あまりにも深い爪痕が残る中、それを気軽に口にできる人間などそうはいないだろう。

 しかしハリーは、事実その言葉を聞いた。

 殺意に満ちた声で。獲物を前にした捕食者のような声色で。

 このままでは、間違いなく、誰かが殺されてしまう。

 

「ハリー」

「……、なんだい? ジニー」

 

 思考の海を遠泳していたハリーを引き戻したのは、ウィーズリー家の末っ子。

 七人兄弟で唯一の女性である、ジニー・ウィーズリーだった。

 ロン曰く、ハリーに憧れて強い女になりたがっているらしいが……。勘弁してほしい。

 

「ハリー、迷ってるのね」

「え?」

「迷ってるように見える。私にはね」

 

 内心を当てられてドキッとしたものの、別にバレて困るようなものでもない。

 ハリーは笑って返した。

 

「そうだなあ。まあ、いろいろ悩みはあるよ。たとえば、今日の晩ご飯はなにかなとか。食べ終わった後ベッドの上でハーマイオニーたちと何の話をしよう、とか」

「うーん、そういうのじゃなかった気もするけど……まあいいわ。困ったときは相談するのが一番よ。気が楽になるし、問題が解決するかもしれないもの」

 

 誰かに相談する。

 去年までのハリーならば、まず間違っても選ばなかった手段だ。

 誰も信じるに値しなかったのだから当然だが、しかし今は違うとはっきり言うことができる。

 ハーマイオニーに、ロン。なんなら先生方の誰かだって構わない。

 とにかく言ってみるだけタダなのだ。

 言う価値はあるだろう。

 

「ありがとうジニー」

 

 ハリーがそう礼を言うと、ジニーは真っ赤な髪の毛と同じ顔色に変化した。

 湯気が出るのではというほど頬を染めたジニーは、どもりながらも言葉を残す。

 

「そう、それが一番よ。なんたって、私もそうやって解決したんだもの」

 

 

 ハグリッドの小屋では、お茶会が開かれていた。

 彼自らが育てて積んだグリーンティという種類のお茶だ。

 名前の通り濃い緑色をしており、そしてお茶のくせにまた随分と苦い。

 東方の友人からもらったんだと嬉しそうに言うハグリッドが微笑ましく、ハーマイオニーとロンはおいしく飲んでいるふりをするのに必死だった。

 そんな中、ハリーはお代わりを一口飲んだあとに話を切り出すことにした。

 例の、怪しすぎる声の事だ。

 

「なに? そーんな物騒なこと言っちょる奴がおるんか」

「ハリーまだ言ってるのかい、それ」

「ロンちょっとこっち来なさいな」

「え、あ、ちょ」

 

 ロンをハーマイオニーが黙らせたうえで、ハリーは話を続ける。

 

「場所は廊下で、後ろは壁だった。なのに声が聞こえたんだ、ぼくら以外に人はいなかったのに」

「ゴーストじゃねえのか?」

「僕もそう言ったんだけど、ハリーは違うって確信してるみたいなんだ」

 

 そう、違う。

 ゴーストは、いわゆる木霊だ。

 魔法式のように、生前の彼らの行動が封じ込められた現象に過ぎないのだ。

 はっきり言ってしまうと、自ら考えて動いているわけではない。そう見えるにすぎないのだ。持っている情報を並べて組み合わせて会話などはできるが、その情報をバラして新たな情報を作り出して話す、といったことはできない。

 死者は、所詮死者であることに変わりはない。彼らはそこを嘆くからゴーストなのだ。

 つまるところ、彼らは物理的に現実へ干渉する手段がない。

 それは声に関しても同じだ。

 魔法界の人間にいくら言ってもわからないかもしれないが、声というのは声帯を振動させて空気を震わせ、その振動を鼓膜に伝えてはじめて声となって相手に届く。

 だが先述の通り、ゴーストにはその手段は使えない。彼らの会話は、どちらかと言えばテレパシーに近いものがある。脳に直接認識させるという、直接的なようで随分と遠回りな手段をとっているのだ。

 だからこそ、あるはずがない。

 耳元で囁かれたかのような、あの声色。あの感覚。

 ぞわりと総毛立ってしまうようなあの不気味な囁き声。

 あんな冗談にもならない声を、ゴーストが再現できる道理がないのだ。

 

「うーむ、よう分からんこっちゃな。ホグワーツじゃ不思議なことは当たり前っちゅーが、ハリーの言うそれはもっと分からんこっちゃ」

「そうよハリー。魔法界でも声はすれども姿は見えず、なんてことは異常なことなのよ。『例のあの人』たちのせいで、縁起でもないことだってこともあるし、親しい人以外には言わない方がいいかも」

 

 優しいハグリッドと信頼するハーマイオニーはそう言ってくれたが、ハリーはそれでも気になってしまう。どうしても頭の端っこに引っ掛かって、気になってしまう。

 何故こんなにも気になるのだろうか。

 空耳だったかもしれないというのにどうして、こんな。

 釈然としないものを感じながら、ハリーは紅茶を飲んだ。

 ハグリッドとのお茶会が終わった後日、今度はマクゴナガル先生とのお茶だ。

 今度はお呼ばれではなく、ハリー自身が話があるのだと彼女に声をかけたのである。

 

「それで、話とはなんですかポッター」

「ええ。ちょっと突拍子もないことなんですけど、いいですか」

「ホグワーツ教師として、生徒の疑問に答えない道理はありません」

 

 相変わらずな人だ。

 その頼もしさにハリーは笑った。

 他者を信頼することは、きっと弱さではないのだろう。

 

「なんかぼくにだけ変な声が聞こえるんです」

「ポッター。ポピーの治療は完璧です、医務室へ急ぎましょう」

「そうじゃないでーす。待ってくださーい」

 

 ひとまず冗談はそのあたりにして、二人は紅茶と茶菓子のスコーンを置いた。

 ジャムをつけすぎるきらいのあるハリーを注意してから、マクゴナガルは続きを促した。

 結果、よくわからないということが分かった。

 

「誰も聞こえない声が、自分にだけは聞こえる……ですか。それは、なんとも奇異なる話ですね」

「そうなんですよ。魔法界でも縁起の悪いことだ、ということなので、ハーマイオニーには親しい人以外にはあまり相談しないほうがいいとも言われたんですが」

「そうですか……」

 

 そっけなく言うものの、マクゴナガルの耳はほんの少し桃色に染まっていた。

 なんだこの人、可愛いな。

 余計な思考へそれそうになったものの、ハリーは懸命に意識をもとの線路に戻した。

 脱線事故を起こすといつだってろくなことにはならない。

 

「まずそれは、いくつかの可能性をあげる事ができます」

「はい……」

「ひとつは、皆の言う通り幻聴。疲れから来るこれは案外ばかにできませんよ」

「で、ですけど先生!」

「最後まで聞かないならばここでお話をやめますが、如何でしょうミス・ポッター」

 

 ハリーは黙った。

 それはずるいんじゃないかな、と視線で訴えるも綺麗に無視される。

 よろしい、とマクゴナガルは続けた。

 

「ひとつは、何者かが念話で語りかけてきたというもの」

「念話……?」

「要するにテレパシーのようなものです。悪戯目的で誰かがやったという説」

 

 しかしそれにしては言葉選びが悪質すぎる。

 マグル世界出身の者ならば躊躇いなく使える言葉かもしれないが、それでも十分に常識の範疇を飛び越えたレベルの暴言だ。他人に聞かれてしまえばまず問題になるだろう。

 考慮したくないというのもあるが、まずこの案は置いておいても構わないだろう。

 事実、本当にこれが原因だとしても、精神的にはともかく害はないのだから。

 他にはあるのだろうかと問うと、最後の答えが返ってきた。

 

「ひとつ、本当にあなたにだけ聞こえる声だった」

「それは……」

「ええ。それはとんでもない事です。不吉な、不吉な前兆です。特にあなたの場合、かなり苦労することでしょう、ポッター。なにかあればウィーズリーやグレンジャーでも、私でも他の教師でもいいのです」

 

 マクゴナガルはいったん言葉を切ると、微笑んでこう言った。

 

「頼りなさい。あなたにはもうそれができるはずですよ、ハリー」

 

 収穫はなかったが、無駄ではなかった。

 とにかく何か不吉なことが起きている。これからではなく、もう既に。

 それがわかっただけでも十分だ。

 どうやら、気の休まらない一年になりそうだ。

 

「え? 退院していない?」

 

 薬草学の授業が終わった後、ドラコと話をしようとしたがスコーピウスとクライルの二人しかおらず、疑問に思って問いかけた答えがそれだった。

 不安でおろおろしたスコーピウスは棘がなく、ドラコは本当は重傷だったのではと心配していたので一応慰めておいた。

 その際の怯えようといったら、なるほどドラコが達観するのも頷ける。まるで赤ん坊だ。

 純血一家の家庭環境がどういうものなのかはわからないが、おそらくマルフォイの家で彼になにかあったのだろう。そうでなければ、こんなトラウマを刺激されたような反応はしないはず。

 兎にも角にも、ドラコが退院していないということなので、ハリーはセドリックを誘って見舞いに行こうと考えていた。昨日の夕方、彼は後で行くと言っていたが、その際の様子も聞いておきたい。

 

「え? セドリックも医務室?」

「知らなかったのかい? いまホグワーツは風邪が大流行してるんだよ」

 

 医務室前の廊下で出会ったアーニー・マクミランが、耳から煙を吹き出しながら返答してきた。周囲にはまるでホグワーツ特急のような姿をした生徒が、ちらほらと見える。

 これは《元気爆発薬》という魔法薬の副作用であり、耳から排熱することでものすごい煙が噴き出しているというあまりにあんまりな姿になる。だがこんなマヌケを晒す甲斐はあるもので、マグルでいう予防接種のようなものだった。

 暴れ柳が風邪をひいているという話だったが、結局生徒たちは移されてしまったのか。ドラコも怪我は治ったそうだが、ひっきりなしに医務室にやってくる生徒たちの誰かから移されたこの風邪で寝込んでいるらしく、面会はさせてもらえなかった。

 マダム・ポンフリーにとっ捕まってそれどころではなかったということもある。

 

 耳から煙を噴射しながらハリーは次の授業に向かう。

 会う者会う者みんながこんなマヌケを晒しているのだから、いっそ気にすることはない。

 教室の天井が煙で真っ白になったことで、ハーマイオニーはおかしそうにくすくす笑っていた。しかしハリーが笑えなかったのは何たることか、妖精の呪文の授業なのに、教壇にはロックハートがいたことだ。

 何故、この男が?

 

「ンぅみなさんッ! 本日行われるハンサムの呪文は、ぁ私ギルデロイ・ロックハートが執り行います。フリットウィック先生はお風邪を召してらしてね! んん~、それでこのッ! 私ぐぁっ! 大・抜・擢、されたというわけですねこれが! さて授業をしまっしょい!」

「うわーんウザいよー」

 

 案の定ロックハート劇場が始まると思われたものだが、案外まともであったのが苛々する。

 フリットウィックから指導用の教科書を借り、その通りにやっているので当たり前と言えば当たり前なのだが、それができないからロックハートなのだと言われていたことを鑑みるにとんでもない驚きである。

 本日行ったのは、前回理論を習った清浄呪文の練習だ。

 ハリーとハーマイオニーは完璧にこれを扱えるため、授業中は皆の見本となった。

 随分と気前のいいロックハートは大喜びで、ハリーとハーマイオニーそれぞれに一〇〇点を与えようとして、廊下を通りすがったスプラウト先生に慌てて止められていた。

 やはりロックハートはロックハートか。

 結局二人で十点をもらったがそれでも得点に違いはなく、大喜びで談話室へと駆け込む。

 談話室内は、煙でいっぱいだった。

 風邪が流行っている。

 

「にゃにごとなの?」

「朝だ! クィディッチの時間だぞーッ! ウオーッ」

 

 クィディッチの季節がやってきた。

 ハリー達は今年こそ優勝するぞと息巻くウッドに連れられて、クィディッチピッチへと急いでいた。どうやらウッドの熱意に負けたマダム・フーチが、クィディッチピッチの練習許可をウッドに与えたらしい。

 うきうき気分のウッドについていった寝ぼけたままのハリーの元へ、応援にきたのか暇だったのか、ハーマイオニーとロンがやってくる。ハーマイオニーはハリーの髪に櫛を入れているし、ロンはハリーの手から滑り落ちそうだったクリーンスイープを代わりに持った。

 こんな調子でハリーは練習になるのだろうかと心配だったが、それは杞憂となる。

 

「おや、ポッターじゃないか」

「スおーひウふ?」

「スコーピウスだよ寝てるのか君は!」

 

 緑のローブをまとったスコーピウス・マルフォイが現れたからだ。

 彼の後ろには、これまた同じ緑色のローブをまとったスリザリンチームの面々。

 これに憤慨したのはウッドだ。

 この競技場を予約したのは自分たちであって、君達の出る幕はない。さあ帰れ。

 そういった意味を持つ英語を高速でまくしたて、少し困惑した顔のフリントが気を取り直して意地悪そうな顔をして笑った。

 

「我々は優秀なシーカーであるドラコを失ってね。臨時シーカーの特訓のため、スネイプ先生から直々に書状を貰っているんだよ。ホラ見てみるがいい」

「なにい? なんだこのミミズののたくったような小汚い字は! へんっ! 読めないね! ぎとぎと油の根暗教師を呼んでこいっ! この僕が直々に問い詰めてやる!」

「ウッド。煽った俺が言うのもなんだけど、お前本当ちょっと落ちつけ? な?」

 

 顔を真っ赤にして唾を撒き散らすウッドに後退りながら、フリントは書状をちらつかせる。

 今すぐ掴みかかって破り捨てたいという顔をしているウッドを尻目に、スコーピウスは念願叶ってハリーと同じ位置に辿り着けたため意気揚々と挑発を始める。

 

「ポッター。君はあっちでヌードモデルにでもなってきたらどうだい? 大興奮した君のファンが写真を欲しがっているようだよ」

「ぁあ?」

 

 侮辱されたハリーが凄んでスコーピウスのおでこに自分のおでこがくっつきそうなくらいの近距離で睨みつけるが、彼は怯えながらも果敢に応援席の方へ指差した。

 そこには何やら、フラッシュを焚いて写真を撮りまくるグリフィンドールの一年生が。

 ハリーはげんなりした。

 あれの名前はコリン・クリービー。今しがたスコーピウスに挑発された通り、ハリーの熱狂的なファンだ。そしてちょっとばかり遠慮を知らないため、悪質なファンでもある。

 廊下でハリーにすれ違うたびに、持ち歩いているカメラでハリーの写真を所望してくるのだ。

 女性としての恐怖を感じたのはあれが初めてだった。

 

「『ああ、ハリー! ハリー! あなたに会えるなんてまるで夢のよう! あ・写真とっていいですか? あなたの素敵な可憐さを弟にも教えてやりたいんです! そう。手始めに二〇枚くらい! ねっ!』……あれは傑作だったねえ、目立って気持ちよかったかいポッ」

「黙れマルフォイ。箒からと言わずその首を叩き落とすぞ」

「ひょぇぇっ!?」

 

 コリンと出会った時、自分より若干背の高い年下少年に迫られて本気で恐怖したときの恥ずかしさを思い出したハリーが、殺気を伴ってスコーピウスを恫喝した。

 ハーマイオニーとロンがその殺気に気付いて止めなければ、流血沙汰になっていたかもしれない。余談ではあるが、ネビル戦のときよりも殺気は濃かった。

 

「マルフォイ、あなたね。女の子にあまりそういうことは言わない方がいいわよ」

 

 安易に挑発したスコーピウスにももちろん責任はあるが、軽々しく殺気を放ったハリーにも問題があった。追い詰められて涙目になったスコーピウスの言葉が過ぎるのも、仕方のない事かもしれない。

 だからこそ、内心で見下しながらも勝つことのできない彼女、ハーマイオニーの忠言にカチンときてしまったのだろう。

 スコーピウスは叫んだ。

 

「うるさいっ! おまえの意見なんて求めていないんだっ、この、『穢れた血』め!」

 

 途端に怒号があがった。

 ハリーとハーマイオニーはきょとんとしたままであるが、その他の皆は怒りに顔を染めていたり、慌ててマルフォイを庇ったりと反応が二極に分かれている。

 とりあえず侮辱されたんだな、そうなんだな。とハリーは彼をどう料理してやろうかと思案していたが、それ以上に激怒している人物がいる事に気付く。

 ロンだ。

 怒気のあまり髪が膨らんでいるようにさえ見える。

 あれほど怒らせるとは、いったい――

 

「よくも、よくもそんなことを言えるなマルフォイ! それでも魔法使いか!?」

「ハッ、何を言うんだいウィーズリー! 純血だからこそ、穢れた血なんかに――」

「一度ならず二度までも! 『リマークス・ウォメレ』、ナメクジ喰らえ!」

 

 完全に激昂して周りが見えなくなったロンが、懐から杖を抜くと同時にスコーピウスに呪いを放った。その動作はハリーをして見事と言わざるを得ないほどなめらかで、そして怒りに満ちた一撃だった。

 薄緑色の閃光を胃のあたりに受けたスコーピウスは、一瞬ウッと息が詰まって青ざめるも、何も起こらないことにせせら笑う。しかし馬鹿にするため声を出そうとした時、代わりにナメクジが口中から飛び出してきたことで皆が静まった。

 困惑するスコーピウスが四つん這いになると、次々と口からはぬめぬめしたものが飛び出してくる。

 それを見たスリザリンチームは、杖を抜かん勢いで怒りだした。彼らは他三寮から卑怯者だの姑息だの言われているが、その実仲間内では結束力が強く、仲間想いだ。生意気な可愛い後輩が呪われては黙っていられないのだろう。

 あわや殴り合いとなるところで、現れたのはセブルス・スネイプだった。

 呪われて蹲るスコーピウスを見て、何の呪文で呪われたかを看破したのだろう。

 杖を持って息を荒げる人間を見つけて下手人もわかったらしい。

 にやり、と笑った。

 

「それでは、ウィーズリー。ミスター・マルフォイを呪ったその理由をお聞きしようか」

「そいつ――言った――ハーマイオニー――胸糞悪い言葉――」

「なるほど。……ミスター・マルフォイ? 女性の容姿を悪く言うのはよくありませんな?」

「スネイプ、きさま!」

 

 本人もこの騒動に一役買っているというのに、彼の唇から出たのはねっとりとした嫌味だった。

 侮辱されたハーマイオニーの顔がさっと赤くなり、じわりと涙をにじませたのを見てハリーが殺意を膨らませた。思わずスネイプにも杖を向けようとしたロンを、怒り心頭ながらも冷静なハリーが止める。暴れはじめたロンの耳元に一言囁いて大人しくさせると、ハリーはスネイプを睨んだ。

 少し驚いた様子のスネイプだったが、それでも笑みを濃くしたのは間違いないだろう。

 

「何かね? ポッター。何かご不満でも」

「いいえ、スネイプ先生。なにも。……なにも」

 

 濃厚な殺気を飛ばして怒りを表現するハリーは、口調だけは丁寧だった。

 その様子を見て満足げなスネイプは、にっこりと笑うとロンに向かって罰則を言い渡した。文句を言ってさらに罪を重ねようとするロンに、先ほど囁いた通りハリーは彼の股座を蹴りあげて黙らせる。

 これ以上重い罰則を言い渡される口実を与えてはならない。

 涙を流して苦悶の声と共に崩れ落ちるロンを引きつった顔で見たスネイプは、それ以上いじめることをやめたようだ。スコーピウスを介抱していたモンタギューに、彼を医務室に連れて行くように命じた後、一瞬だけハリーを見てどこかへと立ち去って行った。

 男性諸君から畏怖の目で見られていることにも気づいていないハリーは、鋭い目でその背を追っていた。

 

「……あいつ。ハーマイオニーに何の恨みがあるんだ」

「おっどろきー。ハリーったらスネイプを追い払っちまった」

「おったまげー。我らが弟は平和的解決の犠牲になったのだ」

「ハリー、大変! ロンが、ロンが息をしてないの!」

 

 一週間後のクリスマス。

 あの日から歩き方がおかしくなり、ハリーを見るたびに短い悲鳴を上げていたロンも元に戻り、実にめでたい聖なる日を迎えることになった。

 うかつなハーマイオニーは、ほとんど首なしニックに『絶命日パーティ』へ誘われてそれを承諾、貴重なクリスマスパーティの時間を無駄にしてしまった。あまり言及したくない外見の強烈な激臭を放つローストビーフ(だった何か)や、何やら蠢いているポトフ(らしき物体X)を食べる気にもなれず、時折体をすり抜けて気分も体温も下げていくゴーストたちに辟易する時間を送っていた。

 血みどろ男爵からパーティがどういうものか聞いていたハリーは、彼女を一人だけで行かせるのは可哀想だと思ってついていったのだが早くも後悔していた。ハリーからしたらゴースト用の料理は食べられないこともないので、少しばかり頂こうとしたのだが真っ青になったハーマイオニーに止められたのだ。

 大広間でのパーティも終わり際になって解放された二人は、急いでクリスマスの料理を胃に詰め込んだ。ようやく罰則を終えたロンは既に腹を膨らませており、殺意をみなぎらせた親友の少女二人の間で肩身狭そうに縮こまっている。裏切り者と蔑まれているような気さえするのだから、女性の怒りは恐ろしい。

 チキンやシチューでお腹を満たした二人は幾分か機嫌が回復し、医務室からの廊下を歩いていた。

 ハーマイオニーの提案で、一応先に手を出したのはこちらなのだからという建前でスコーピウスの見舞いに行ったのだ。ロンも同行し、頭を下げさせた。

 本人は不満そうだったが、ハリーは彼女の狙いを見抜いている。しかもわざわざドラコが見舞いに行っている時間を見計らっての行動だからなおさらだ。

 案の定、ドラコに行いがバレたスコーピウスは青褪めた顔をしている。ドラコは純血主義ではあるが、品のない行動を何よりも嫌うところがあるというのはハリーがよく知っていた。スコーピウスと同じくマグル出身者を見下している節はあるものの、表に出すことは決してしない。

 ただでさえ世間ではそういった単語を出すことが憚られて品がないと言われているというのに、それを面と向かって公言し侮辱するとは何たることか。君はマルフォイ家の教えが根付いていないようだ。と、ハリーたちが医務室を出てすぐに聞こえてきた怒声がまさにその証左だ。

 最大限の効果が出るときを見計らって仕返しする……ハーマイオニーも恐ろしい女である。

 ドラコの怒鳴り声が聞こえなくなる頃、ロンは大笑いを始めた。

 ハーマイオニーがスコーピウスをやり込めたことに余程スカッとしたらしく、行きと違って上機嫌で廊下を歩く姿は浮かれていたのだろう。

 廊下で固まっていた上級生の背中に、どんとぶつかってしまった。

 

「わっ。ご、ごめんなさい」

「気をつけろ。……ん? おまえ、ハリー・ポッターか!」

 

 スリザリンの上級生だろう、ぽっちゃりした顎の生徒がハリーの顔を見咎めた。

 驚く間もなく太い腕に襟首を掴まれたハリーは、人だかりになった生徒たちをかき分けて進まされてその中心に放り出された。

 尻餅をついて痛がるハリーを待ち受けていたのは、冷たい床。なんと、濡れている!

 下着まで濡れてしまって気持ち悪い思いをしながら、ウエーと嫌がるハリーを持ち上げたのはなんと、スネイプだ。憤怒の表情でハリーを至近距離で見つめるその顔は、恋する乙女とは言い難いものだった。

 

「ポッター!」

 

 スネイプが唸った。

 

「な、なんでしょう」

「これはどういうことかね。即座に答えたまえ!」

 

 襟首を掴まれて持ち上げられたハリーが、ぐいと見せられたのは猫だった。

 一匹の猫。

 少々ぼさぼさの毛並みに、黄色い目を見開いて倒れ込んでいる。

 四肢はぴんと伸ばされ、まるで立ったまま眠り込んでそのまま横倒しにされたかのようだ。

 その姿にハリーは見覚えがあった。

 いや、あったなんてものではない。ひょっとするとハーマイオニーたちの次に親しいかもしれない仲だったのだから。

 

「みっ、ミセス・ノリス!?」

 

 予想外の反応に驚いたスネイプが手を放し、ばしゃっと床に墜落するハリー。

 己の制服がずぶぬれになるのも構わず、ハリーは猫に縋りついた。

 

「そんな! まさか、嘘だろう! し、死んでしまったのか!? ああ、そんな! 神様!」

 

 周囲の生徒たちが目を剥いて驚いている。

 それもそうだろう、ミセス・ノリスと言えば学校中の嫌われ者だからだ。

 管理人アーガス・フィルチの愛猫。生徒の不正を見つけてはいやらしく笑って罰則を下し、生徒が苦しむさまを見て悦に入るとんでもない男の、その猫だからだ。

 ミセスは、生徒たちの不正をフィルチに伝える仕事をしている。だからこそ大部分の生徒に嫌われているのだが、ハリーはどうやら稀有な生徒の一人だったようだ。

 あれは一年生の秋ごろ、嫌っている生徒に呪文をかけられて痛い目に逢い、不貞腐れていたところをハリーが見つけたのだ。

 その頃のハリーはまだハーマイオニーにもロンにも完全には心を許しておらず、それでも信じてみたいという欲が出始めたころだったので精神的にも若干不安定であった。

 そこに出会った女二人(片方は猫)。互いの愚痴を言い合うかのように、ミルクで乾杯したりハリーがササミを持ってきたりノリスがネズミを捕ってきたりとそこそこに親しい仲を築き上げていたのだ。

 そんな友人の一人を亡くしてしまったと思ったハリーは、彼女の死を嘆いた。

 自分の愛する猫の死をここまで悼んでくれる生徒がいた。その事実に、愛しいノリスに懐かれていたハリーが怪しいのではと何故か思い込んでいたフィルチはギャップに感動したのか、おいおいと醜い顔を歪ませて大泣きし始めたではないか。

 もはや取り返しがつかない。ハリーが犯人だと決めてかかっていたスネイプですらおろおろする始末。

 実にカオスである。

 

「うんうん。友人の死を悲しめる子は、将来素敵なレディになりますネ。ウン」

「……ロックハート先生、素敵」

 

 雰囲気をぶち壊すような感想を漏らすロックハートには、大多数の者がげんなりした。こいつはこんな時ですらこの調子なのか、と。

 ただ数人の女子生徒はいつも通り、うっとりした声をこぼす。

 ハーマイオニーもその一人だ。

 自分の親友である少女二人のそんな奇行、もとい行動を見たロンはぽつりと呟く。

 

「女の子って、なに考えてんだろ……」

 

 数分後、ダンブルドアがやってくるまでその騒ぎは続いた。

 泣きそうな顔をしたハリーを少しうんざりしたような顔のマクゴナガルが抱き留め、その場から引き剥がす。

 私が直して差し上げましょうッ! なあに、この手の闇の魔術は私の冒険で何度もッ! 相手をしていますからねッ! とウィンクしながら叫ぶロックハートを放っておいて、ダンブルドアはミセス・ノリスの検死を始めた。

 ばしゃばしゃとどこかの壊れた水道管から水が漏れ出る音とフィルチが洟をすする汚い音が響くのみで、あたりは一気に静かになる。

 そしてふと、ダンブルドアはぽつりと呟いた。

 

「……生きておる」

 

 その言葉に過剰に反応したのが、フィルチとハリーだ。

 咳き込みながらも真偽を問う管理人に、ダンブルドアは優しい声ではっきりと言う。

 

「アーガス、この猫は死んではおらんよ。生きておる。石になっておるだけじゃ」

 

 中年男性と十代前半女子が抱き合って歓喜の声をあげた。

 その異様な光景に目をそらしながら、マクゴナガルは問いかける。

 

「しかしアルバス。いったいどうして、このような状態になってしまったのでしょう。石化呪文ですら、どのような魔法式を組んでもこのような状態にはならないはずです」

「そうじゃな。誰ぞ編み出した未知の呪文という線も考えられるが……それはないと見てよいじゃろう」

「ええ……」

 

 二人は同時に、水にぬれた床へと目をやった。

 横たわるは、四羽の鶏。無残にも首を掻き切られてその亡骸を晒している。

 真っ赤な鮮血が彩る線が続く先は、ベージュ色の石壁。

 そこには毒々しくも瑞々しい、丁寧な書体でびっしりと血文字が書かれていた。

 それらの中にある一文に、ダンブルドアは年を取ってなお光る目をやる。

 そして、キラキラしたブルーの瞳を哀しげに細めた。

 

「『秘密の部屋は開かれたり。継承者の敵よ、気をつけよ』。恐ろしい、ことじゃ……」

 

 クリスマスが終わって、新年を迎え、冬休みが終わった。

 風邪の流行りは未だに消えないようで、時折廊下では煙を吹き出している生徒が散見された。

 体調がよくないと機嫌も悪くなるもので、グリフィンドールとスリザリンはたびたび衝突して教師に怒られたり減点されたり罰則を受けたりして各々平和に過ごしている。

 ミセス・ノリスを治すためのマンドラゴラも、賢者の石の試練で使った残りがあったので既に薬に煎じられて猫大復活である。このときハリーとフィルチはまた抱き合って喜びを分かち合った。

 だがそんな鬱屈した雰囲気も今日まで。

 そう、クィディッチの試合があるからだ。

 ドラコはまだ風邪が治っていないようで多少調子が悪そうにしていたが、応援席に居る姿がちらりと見えた。

 今回は、グリフィンドール対レイブンクロー。

 紅と青の試合だ。

 

「正々堂々と戦って下さい! いいですね、正々堂々と!」

「フーチって最近ここでしか見ないなあ」

 

 ロンの呟きをよそに、ハーマイオニーは胃を削られる思いだった。

 前回の獅子対蛇の試合を思い出しているのだ。

 何者かの意思を感じた、とハリーとドラコが口をそろえて証言したブラッジャー。

 現在では調査が終わり、学外から持ち込まれた私物であるとの調査が出ている。しかし不用意に破片となってしまったため持ち主を特定できず、さらには妙な魔法がかかってしまったため虹色に光り輝いて誰が魔法をかけたのか判別できず、調査は難航してしまったとも聞かされた。

 だいたいロックハートのせいだった。

 そのブラッジャーの件があったのだ。

 今回もなんだか、嫌な予感がする。

 

「ハリー、大丈夫かしら……」

「……なんか別の意味でも大丈夫じゃなさそうだわね」

 

 ハーマイオニーの隣に座るラベンダーが一言漏らす。

 なんだろうと思って視線を戻せば、レイブンクローのシーカー、チョウ・チャンが闘志に燃えた目でハリーの事を睨みつけて何かを喋っていた。表情からして何かを宣戦布告しているようにも見えるが、その割にはハリーが困惑しているのが不可解だ。

 まさかセドリックに関してああだこうだと言われているとは、誰も夢にも思うまい。

 マダム・フーチが、一年生に手伝って貰って厳重に封印された箱を持ってやってきた。

 箱の中には二つのブラッジャーに、クアッフル、そして更に封印された扉の中にはスニッチが納められている。クアッフルはともかく、残り三つは封じねば勝手に逃げたり誰かを襲ったりしてしまうので必要な措置である。

 がたんがたんと箱を揺らすほどに暴れているのがいい証拠だ。

 杖先を向けたマダムが「試合開始!」と叫ぶと同時、箱が開け放たれた。

 そうするとブラッジャーが箱から飛び出した。彼らは試合開始後三〇秒ほどは、ピッチのどこかへと飛んでいくようになっている。そうしなければ、箱から直接選手の元へ飛んでいく事態になりかねないからだ。

 小さな観音扉を開けてスニッチを取りだすと、マダムはそれを空に解き放つ。

 高速で飛び回りはじめたスニッチは、ハリーとチョウの顔周りを挑発するように飛び回る。試合前は毎度これをやってくるが、からかっているつもりなのだろうか。

 少しだけイラッとした気分でその軌道を眺めていたのが幸いしたか。

 ハリーは命拾いした。

 

「うわあっ!?」

 

 鼻先を擦るほどの近距離を、ブラッジャーが通り過ぎて行った。

 視界の隅で、チョウが慌てて箒を操って流れ弾を避けているのが映った。

 先日の嫌な経験が脳裏を駆け抜け、ハリーは慌てて周囲を確認する。

 しかし今度は一手、遅かった。

 

「ごぉ、ぼ――」

 

 背骨。

 人体において非情に重要な役割を持つその部位が、砕かれた。

 間違いなく折れた。

 燃え盛る激痛と闇に落ちゆく意識の中、ハリーは自分の腰に突撃したブラッジャーに視線を移し、そしてクリーンスイープから滑り落ちる。

 ようやく惨状を理解したのか、水を打ったように静まり返った会場が悲鳴に包まれる。

 追い打ちをかけるようにハリーが墜落して地面に叩きつけられるまでの数秒間も惜しいのか、最初に通り過ぎたブラッジャーがとんぼ返りしてきて彼女をまたも殴打した。

 一つ殴打されるごとに確実に何かが折れていく壮絶な音に、観客席からまた悲鳴があがる。

 そして貴賓席の一つから稲妻のように飛んできた魔力反応光がハリーを包み込むと、薄桃色の球体を作り上げた。

 それに構わず突進したブラッジャーは、その光に絡め捕られて機能を停止する。何の呪文かとクィディッチ選手の幾人かが確認すると、仁王立ちしたダンブルドアが杖を向けている姿が見える。

 ゆっくりと地面に下ろされたハリーの元に、大急ぎで様々な人がやってくた。

 クアッフルを取り落として蒼白なマダム・フーチ、涙が決壊しそうなハーマイオニー、青褪めたロン、唇がくっつくのではというほど真一文字に結んだマクゴナガル。そして、満面の笑みを浮かべたロックハート。

 

「これは! ぁ私にお任せください! んなぁーに、ちょちょいのちょいで」

「邪魔だヘッポコ!」

 

 ロンの蹴りを尻に受けて吹き飛んだロックハートを無視して、マクゴナガルが杖を振るう。

 ふわふわの担架が造り上げられ、完全に意識を手放したハリーの身体がそれに乗せられると全く揺れを見せず、なおかつ素早く城の方へ飛んで行った。

 泣きじゃくってハリーの安否を問うてくるハーマイオニーを振り払い、マダム・フーチは医務室のマダム・ポンフリーへ念話を飛ばす。

 今から致命傷を負った患者が運ばれるので、最大限の対処をとの連絡だ。

 大騒ぎの中、クィディッチの試合は中止される。

 ピッチに残されたのは壮絶な空気と、芝生に残る赤だけだった。

 




【変更点】
・度重なるセクハラでハリーが過剰反応するように。
・杖が無事なので、呪いは成功。罰則だウィーズリー!
・スネイプが選択肢を間違えて好感度ダウン。
・ロンは犠牲になったのだ。犠牲の犠牲にな。
・ノリスも犠牲になったのだ。ただし愛がある。
・ブラッジャーが一つだと誰が言ったかね。

【オリジナルスペル】
「リマークス・ウォメレ、ナメクジ喰らえ」(初出・18話)
・ナメクジを吐く魔法。子供向けの簡単な攻撃呪文だが、口が塞がるため結構厄介。
 元々魔法界にある呪文。原作では名前だけ出た呪い。

いい加減にしろよドビー。略してハンッ、サム!
このブラッジャー……いったい何ビーの仕業なんだ……。
不穏な空気が漂う中突如巻き込まれる事件、秘密の部屋らしくなって参りました。
「にゃにごとなの?」は原作台詞だ! 別にロリーの可愛さテコ入れじゃないぞ!
※賢者の石編が終わった後に、一巻時点での設定や変更点をまとめました。話数が変なのはそのためです。


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4.怪物

 

 

 

 ハリーは夢を見ていた。

 原初の記憶。全ての始まり。

 男性の雄叫びと、物が壊れる破砕音。

 女性の悲鳴と、毒々しい緑色の閃光。

 そして冷たい高笑いと心臓を鷲掴みにするような殺気。

 緑。白。そして何もない瓦礫の山に、佇む邪悪な何者か。

 漆黒の怪人が笑う。赤い、紅い、蛇のように冷酷な目で、

 こちらを見て、空に浮かぶ月のように口を裂いて、嗤う。

 

 深夜。

 激痛と吐き気に襲われたハリーは、呻きながら目を覚ました。

 全身が動かないと思ったら、どうやら魔法具で固定されているようだった。

 何故こんな拘束をされているのだろうと思ったら、昼間の事を思いだす。

 背骨をやられたんだった。記憶がないだけでどんな治療をされたのかはわからないが、きっと想像を絶する苦痛が待ち構えていたことだろう。そういう意味では幸いだった。

 目玉だけを動かしていたらカレンダーが目に入った。なんと、あの日から一週間が過ぎている。すると一週間眠りっぱなしだったのか? まあ、下手をしたら一生下半身不随なんてことになていたはずだ。そう考えるとたった一週間、安い代償だろう。

 それよりも問題は目下にある。

 比喩表現ではなく、本当にハリーから見て下にある問題。

 

「マダぁ、……が、ぁ…………」

 

 マダム・ポンフリーはいないのかな、という短い台詞すら言えない。

 声が声帯を振動させて空気を震わせる原理だという事は知っているが、こんなドデカい振動だとは今まで生きていて終ぞ知らなかった。知りたくなかった。

 苦悶の表情を浮かべて悶えるハリーに、目下の問題さんが声をかけてきた。

 

「ああ、ハリー・ポッター。お労しや……」

 

 ドビーだ。

 屋敷しもべ妖精の、ドビー。

 そこでハリーはひょっとしたら、と想像する。

 こいつはまたもや性懲りもなく、手紙をせき止めるといった妨害で叶わなかったハリーを、今度こそホグワーツから追い出そうと企んでいるのではないだろうかと。

 彼は言葉を発せないハリーに向けて涙を流しながら罪を告白する。

 

「ああ、ああ……ハリー・ポッター。申し訳ありません……すべて、すべてわたくしめの仕業にございます。ホグワーツ特急に乗れなかったのも、ブラッジャーに襲われたのも、すべて、このドビーめの仕業です」

「…………」

 

 目で続きを言え、と指図する。

 怯えた様子のドビーは恐る恐るといった様子で話し始めた。

 

「だめなのです。罠です。ハリー・ポッターはお帰りにならねばなりません。殺されてしまいます」

 

 ぼくは君に殺されてしまうところだったよ、と目線で訴えるも気づいてもらえなかった。

 涙ながらに土下座をする勢いで告解は続く。

 

「ドビーは考えました。ない知恵を振り絞って考えました。ホグワーツは楽しい素敵なところ、それはご主人様からも聞いて知っておりました。ですからハリー・ポッターは学校に行きたい。学校から離れたくない。ならば、学校を恐怖の象徴にしてしまえばよいのだと。そうして、行きたくないと思っていただければ、結果的に御命をお救いすることができるのだと。そう考えました」

 

 冗談ではない。

 物には限度というものがあるのだと、彼の主人は教えなかったのだろうか。

 いや、案外教えているのかもしれない。

 こうして独りで勝手に他者の前に現れている現状に、明らかに犯罪ともいえる行為を屋敷しもべ妖精に行わせる者はいない。簡単に捕まるからだ。

 では何故ドビーがこうしているのかというと、やはり彼の独断だろう。

 主人の意に背く行為を続けているというのは屋敷しもべ妖精にとっては、恐ろしいことだと言われている。人間で言えば、法を守る者の目の前で常に犯罪を犯しているくらいの心理的重圧がかかっているとされる。

 それでもドビーは、ハリーを救おうと様々な手を使ってホグワーツから追い出そうとしている。

 ハリーにはわかっている。

 それは悪手だと。

 

「ドビーめは、ハリー・ポッターのためを思ってやっているのでございます。ハリー・ポッターはドビーめを怒ってはだめなのでございます」

 

 ふざけるな殺すぞ。

 ぎらぎらした殺意を込めて蛇のような目でそう訴えると、ドビーは怯えた。

 理屈と感情は別物なのだ。

 どうにかハリーを説得しようと思考を巡らせ、いい言葉が思いつかなかったのか慌ててドビーが口を開いた、その時。

 

「――――ッ!」

「――――、――!」

「!」

 

 ずいぶんと騒がしく、複数人がやってくる声と音が聞こえてきた。

 その行い上、ドビーは自身の姿を誰かに見られることを厭うようだった。

 廊下へ繋がる扉の向こうとハリーを交互に見て、諦めたように息を吐く。

 そしてハリーにきつく言った。

 

「お願い申し上げます、ハリー・ポッター。秘密の部屋は開かれてしまった! 怪物に殺される前に、早く!」

 

 ぱちん、と鞭で床を叩くような音と共に、しもべ妖精は消えた。

 それと同時にけたたましい音を立てて扉が開け放たれた。

 足音を響かせながら現れたのは、マダム・ポンフリーを筆頭にした教師陣。

 来たのはマクゴナガルにスプラウト、スネイプやフリックウィットにダンブルドアまで。

 彼らは皆一様にひとつの魔法担架を囲んで憚ることなく口論している。

 

「なんて恐ろしい! いったい、いったいどんな者がこんなことを……」

「例のマンドレイク薬も、ミセス・ノリスに使ったのが最後です。また新しくマンドラゴラを植えなければ新しい薬は作れないわ……」

「更にはいったいどんな魔法を使えばあの石化に至れるのかもわかっておりません。魔法生物の線も考えましたが、ケトルバーン先生もハグリッドも、こんなことができるものには心当たりがないとのころです……」

「問題は、それだけではありませんな。生徒が何者かに襲われたとなれば……保護者連中も、果てはホグワーツ理事や委員会の面々も黙ってはおりますまい……」

 

 襲われた? 生徒が?

 訝しんだハリーが先生たちの方へ視線を向けようとするも、首まで動かせないため無理だった。

 動かしたら痛い目に逢うのは自分なので、大人しく目だけで懸命に見ようと努力する。

 そしてハリーは声が出ないことを有り難く思うことになった。

 担架に乗せられていた生徒は知っている者だった。

 コリン・クリービー。

 あの写真に狂った一年生だ。

 あまり好きな子ではなかったが、それでも知ってる顔が酷い目に逢っているのはいい気分ではない。

 驚きのまま、彼の様子を見た。

 写真を構えた状態のまま、固まっている。あれは、あれはそうだ、ミセス・ノリスのときと同じ硬直の仕方ではないか。

 まさか死んでしまったのでは――いや、ノリスは大丈夫だった。

 だから彼も無事だと信じるんだ。

 

「カメラを持っています」

「もしかしたら事件のヒントを何か撮っているかも」

 

 スネイプとスプラウトが苦労してカメラを引き剥がし、フィルムを見るため蓋を開ける。

 すると嫌な臭いと共に、電気を交えたようなバチバチとした煙と共にカメラが破裂した。

 取り落とされたカメラが、がしゃんと静かな医務室に音を響かせる。

 あれはなんだ。いったい何の魔法反応なんだ?

 

「ア、アルバス。これは……、これは、どういうことです?」

「……秘密の部屋の調査を、急がねばならん。我々が知らぬふりをしてきたツケが、……いまようやく回ってきたようじゃ」

 

 翌日。

 ハリーはマダム・ポンフリーに妙な薬品が塗られた布で体を拭かれていた。ピンクの蛍光色となった自身の胸や腹を見ていると、ぶっとんだ奇病にかかったようで妙な気分になってくる。

 ふと視線を移せば、所々のベッドが埋まってカーテンが閉められているのがわかる。風邪をこじらせて寝込んだ者たちが多くて幸いだった。固められたコリンのことに気付くものはいないだろう。

 マダムが用意した汚れてもいいシャツにもそもそと着替え終えたとき、またも慌ただしくなってきた。

 またか、とハリーは嘆息する。

 ホグワーツでは異常なほど風邪が流行していた。

 暴れ柳という魔法植物から移されたのだから、スプラウト先生やスネイプ先生が頭をひねって解毒薬やら治療薬の開発に専念しているものの、どうも進捗は芳しくなようだ。

 しかしやってきたのはウィーズリーの双子だった。

 ひどく慌てた様子で、いま担ぎ込まれた生徒は誰かと視線を向ければ彼らの兄、パーシーだった。

 彼は監督性としての責任からか、それとも友人としてか、ほぼ毎日ハリーを見舞いに来てくれた生徒の一人だ。ゆえに寝込んでいる他の生徒から風邪を貰っても仕方のない事ではあるのだが……、明らかに顔色がおかしい。

 何事かと思ったハリーは、そのまま聞き耳を立てた。

 

「マっ、マダム・ポンフリー! 頼む、パーシーの様子がおかしいんだ!」

「昨日の夜から熱っぽいとは言ってたんだけど、今朝ぶっ倒れちまった!」

「朝食も全部戻しっちまったし、汗でびっしょりなんだ!」

「鼻水の色がおかしい! お願いだ、なんとかしてくれ!」

 

 切羽詰まった様子のフレッドとジョージに一喝して、マダム・ポンフリーは杖を振って異空間から医療用らしき魔法具を取り出した。以前ハリーが使っていた魔法と同じものだろう。

 体温計と尿瓶を混ぜたような道具をパーシーの鼻の穴に突っ込むと、魔法具の中に詰められた赤い液体がぐるぐると目まぐるしく変化する。

 

「……まさか」

 

 ぽつりとマダムが呟いた。

 不安げに見守る双子を余所に、彼女は魔法具を傍の机へ乱暴に置いて、同じ道具を新たに取り出す。それでパーシーの様子を見るも、どうやら結果は同じだったようで見るからに動揺していた。

 普段の冷静な態度はどこへやら、杖を振って何やら唱えた。

 そしてマダムは杖先を己の右耳へ当て、そこから線を引くように口元へ引っ張る。

 淡く光る魔力反応光の残滓を残して、興奮しきった様子の彼女は何事かを囁く。

 内容は聞き取れない。しかし顔が青褪めているあたり、良くない事であることは確かだ。

 そしてマダムは杖でマスクを取り出し、ウィーズリーズとハリーに与えた。

 ここでようやく双子はハリーに気づいたらしいが、構っている余裕はなさそうだ。ジョージの背からベッドに降ろされて息苦しそうにしているパーシーをしきりに気にしている。

 しばらくすると、エコーがかった声が城内に響き渡った。

 

『全ての授業は中断します。生徒はそれぞれの寮へお戻りなさい。教職員は全員、至急職員室へ。繰り返します、職員室へ来てください』

 

 マクゴナガルだ。

 何が起きるのかと不安になってくるが、フレッドとジョージが代わりにマダム・ポンフリーに聞いてくれるようだった。

 

「マダム! いったいなんだってんだよ!」

「パーシーは大丈夫なのか? 先生方を呼ぶって何なんだ!?」

「お静かに。今わかります。先生方が来たらあなた方にも説明しましょう」

 

 マダムは静かにそう言うと、ハリーのもとへやってきた。

 近くの小さなテーブルに置いてあった薬瓶から琥珀色と黒のマーブル模様を描く液体をゴブレットに注いで、さっとカーテンを開けてきた。

 そしてそれをグイッとハリーに突きだす。

 

「飲みなさいポッター。事情は後々ミネルバが話すでしょうが、あなたは今日で退院です」

 

 マダム・ポンフリーですら全治一週間なのを、今日で退院にする薬とはいったい何なんだ。

 ぞっとするものを感じながら、飲まないともっとひどい目に遭うことを経験上分かっているハリーは一息にぐいっと飲み干した。

 熱いような冷たいような、しゅわしゅわした喉越しだ。ハリーは飲んだことはないが、ダドリーがよく飲んでいた炭酸飲料のような感じだろうか。だがダドリーはいつもこんな苦しい思いをしてまでアレらをおいしそうに飲んでいたのだろうか。ちょっと理解できない。

 胃の中で薬が暴れる感覚を我慢しているうちに、ハリーは急激に眠気を感じた。

 おかしい、頭は全く眠くないというのに身体が眠ろうとしている。

 胡乱な目でマダム・ポンフリーの方を見れば、きゅっと唇を結んだまま彼女は言う。

 

「お眠りなさいポッター。一生痛い思いをしたければ別ですが、週末まではベッドから出てはいけません。大量に汗をかくことでしょうが、ルームメイトにでも拭いてもらうことです、いいですね」

 

 返事をしようとするも、最後の方にはよく聞こえなかったし口までもが重たい。

 もう抵抗するのも面倒になったハリーは、そのまま意識を手放した。

 

 ハリーが目を覚ました時は、グリフィンドール女子寮の中だった。

 心配顔のハーマイオニーが顔を覗き込んできたようで、目が合う。

 目が覚めていることを確認したハーマイオニーはどっと安堵の息を吐いた。

 

「よかった、目を覚ましたのねハリー」

「むにゃ。おふぁよぅ、ハーマイオにゅあー」

「言えてないわよ。しかしよく眠ったわね、あなたが退院してからもう二日よ」

 

 なんと。

 あの薬の催眠作用はちょっと高すぎやしないだろうか。

 お昼休みに寮へ戻ってきたハーマイオニーは、少しだけハリーとお喋りしてから授業へと出かけて行った。

 ハリーはまだ下半身の骨が再生されている途中で、ベッドから降りることは許されていない。この二日間眠り続けたのも、背骨の再生に体力を取られていたからという理由がある。

 

 とても暇だった。

 浮遊呪文でハーマイオニーの机を漁り、指定教科書ではないロックハートの小説を見つけたので勝手に読んでみる。『おいでおいで妖精と思い出傭兵』という小説で、彼の著書にしては珍しく物悲しくもホラーちっくな話に分類されるようだ。

 これまた珍しく、ヒロインがほとんど出ない。ロックハートが学生の頃に仲良くしていた先輩と久しぶりに出会い、魔法戦士として活躍していた彼に師事を乞う内容だった。一応教科書として指定されている彼の小説はすべて読破しているため、ハリーには時系列の一番初めか、そのあたりだと思えた。

 いつものようにコミカルな文調ではあるものの、内容は一貫して普通だ。

 トロールを華麗に誘導してキメラをやっつけたり、バンパイアにおろしニンニクシャワーを浴びせたり等といった派手な行動をしていない。ハリーはニンニクが降りしきる中で戯れるクィレルとロックハートの姿を脳内から振り払い、物語に集中した。

 かつての親友であった傭兵がロックハートに杖を向け、隙を見抜いたロックハートが傭兵に武装解除の呪文を浴びせて無力化したところで、ハリーは外がオレンジ色に染まっていることに気がついた。

 部屋ではパーバティとラベンダーが着替えており、ハリーがこちらに気が付いた様子を見て声をかけてきた。

 

「あらハリー。ようやくお目覚め?」

「今日は午後ずっと起きてたけど……」

「ギルデロイな夢からよ。それにしても、その作品よく読めるわね。私長すぎてやめたわ」

「ハーマイオニーが持ってる本だよ。つまり、軽い読書さ」

 

 ラベンダーと軽口を叩き合ってる間に、パーバティが魔法で湿らせたタオルを持ってきた。

 はいはいお喋りもいいけど脱ぎなさいね、との指示に従って服を脱ぎ捨てる。

 気づけば随分と発汗していたようで、背中の部分がべっしょりだ。

 

「あらま。ちょっと発育し始めてるわね」

「そう? 最近ハーマイオニーも膨らんできてるし、ちょっと負けたくないな」

「あたしの勘では、年末にはもうぺったんこ卒業な気がするわ。視線に気をつけなさいね。それにあなたの魅力は脚だといっても、ちょーっと隙間ができれば野郎どもはまず目が行くわよ」

「阿呆なこと言わないでくれ。想像したくない」

「なんならハリー、下着のサイズが大きくなったら買い物に付き合ってあげるわよ?」

「え、持ってないんだけど」

 

 怒られた。

 乳房が膨らんでおらずとも、擦れて痛い目を見るのは自分なのだと怒られた。

 まだ必要ないだろうとは思ったものの、経験者の言を無碍にするのもどうかと思うので、せめて下に肌着くらいは着るようにした。それすら着ていなかったのかと呆れ果てた二人は、ハーマイオニーに事情を説明。当分の間、彼女のスポーツ用の下着を貸してもらうことになった。

 

「なんか違和感が」

「慣れなさい。必要なことなのよ」

「面倒くさぁい」

 

 世話焼きな姉たちに口うるさく言われながら、ハリーはベッドにもぐりこむ。

 ひとしきり言い切ったのち、彼女たちは大広間へ夕食をとりに行った。

 三〇分ほどするとホグワーツの紋章が入ったキッチンタオルを纏った屋敷しもべ妖精がやってきて、丁寧に夕食は何にするかと聞いてくる。

 ……三つ編み? 女性なのか、こいつ。見てくれも清潔であるし、うーむ……謎だ。

 とりあえず消化に良く、少し腹にたまるものをと注文すると嬉しそうにパチンと消える。

 ホグワーツにもしもべ妖精がいるとは知らなかったが、まぁその特性を考えたらいないほうがおかしい。きっと歴々の校長に従うようにしているのだろう。かの暴れん坊しもべのドビーとはかなり違うようだ。

 ふとここで、彼のような屋敷しもべ妖精の思考回路を少しでも把握しておきたくて彼女が戻ってきたときに聞いてみることにした。

 少し離れたところでパチンという音が聞こえ、安定した様子でポトフの入った深皿とバターロールの置かれた平皿を持ってくる。

 起き上がって礼を言ったハリーに、しもべ妖精は恐縮した様子で言う。

 

「とんでもないことでございます。私めにはもったいのうお言葉です」

「そうかい?」

「ええ。私どもは魔法使いや魔女に()()()()()()ことを喜びとする存在。無礼になりますゆえ不要とまでは申しませんが、身に余るお言葉なのでございます」

「ほー……。そういうものなのか」

「そうなのでございます」

 

 感心したように頷いて、バターロールを食む。

 名をヨーコというしもべ妖精に、失礼を承知でと前置きしたのちに問いを投げた。

 

「あるしもべ妖精が言っていたのだけれども、君たちの種族間において『主の意に背こう』と思うようになるってのは、どれほどのものだと思う?」

「そッ!? それは……、私どもの誰か、誰かあなた様に、それほどのご迷惑をおかけになったのですか?」

「あー、いや。すまない、落ち着いてくれ。ホグワーツの妖精ではないと思うよ」

「さ、左様でございますか」

 

 予想以上に動揺されてしまった。 

 いったい人間換算で言えばどれほどとんでもないことなのだろう?

 

「私が口にするのも憚られると申しますか、何と申した方がよろしいのでしょうか……」

「口にしづらいなら……」

「ああ、いえ。少々後ろめたいだけですので、大丈夫でございます。……そうですね、貴方様がたで例えますと……、好きな女の子に気持ちを気付かれて彼女とデートをするに至ったけれども財布がぺしゃんこになるまでお買い物に連れ回された挙句デートの終わり際偶然出会った彼氏を抱きしめてキスをする姿を見せつけられた。くらいの仕打ちを受けたような気分にでもならなければ、とてもではないですが背信しようとは思いません」

「……ワーオ」

 

 とんでもなかった。

 次ドビーに会った時はもう少し優しくしてやろう。

 具体的には杖での制裁をやめて蹴り飛ばす程度で済ませるくらいには。

 

「とにかく、同種族であることを恥に思うようなことであることはわかった」

「ご理解いただき有難うございます」

「助かったよ。そしてごちそうさま。ひょっとしてこの城で出る料理って……」

「ええ。私どもがお作りなさっております。お気に召しましたら幸いです」

「うん、いつも美味しいよ」

「もったいなきお言葉にございます」

 

 ヨーコと別れ、膨らんだ腹をさすって息を吐く。

 腰にもう違和感はない。あとは太ももから足の先までの違和感と痛みがなくなればよいだろう。

 一時間ほど後、夕食後のハーマイオニーらと共にマクゴナガルが現れた。様子を見がてら変身術と妖精の魔法、魔法史の宿題を渡しに来たのだ。

 その際に最後となるだろう飲み薬を手渡されたのだが、それは本来ならマダム・ポンフリーがくれるものだったので疑問に思ったハリーは問うた。

 

「体調管理のできていない生徒が多いため、ポピーは忙しいのです」

 

 ラベンダーやパーバティが目を逸らした。

 なんだろう。違和感のある答えだったが、ハリーにそれを解く術はない。

 どうでもいいやと思って考えを放棄し、マクゴナガルに礼を言う。一言二言お小言を残してから、彼女はハリーたちの部屋から出て行ってしまう。

 急ぎ足のため、これからまた仕事が残っているのかもしれない。大変なことだ。

 

 数日して、ようやくハリーはベッドから起き上がることを許された。

 久しぶりに湯船につかることができて幸せな気分だ。

 この数日間で変わったことは特になかったが、ラベンダーが風邪でダウンしたということくらいだろうか。暴れ柳が名前通り大暴れしているようだ。

 移ってしまってはいけないということで、医務室に隔離されてしまった哀れな彼女の分も羊皮紙に板書したため、細い腕がぱんぱんだった。

 緑がかった暖かいお湯が肌に吸い付く。魔法具である蛇口から流れるお湯は、例えば今ハリーがピンクがいいなと思えばその通りのお湯が出てくるという魔法の蛇口から生まれ出でたお湯である。肩こりとか怪我の治りが早くなるとか、そんな効能とかありそうだなとハリーは期待しているが、そんなものはない。

 誰もいない風呂場で、ハリーは一人を吐く。

 ふとハリーは、先が尖りはじめた自分の胸を見下ろす。

 素直に奇妙だと思う。今までダーズリー家で、性別を意識した扱いをされたことはなかった。もともとダドリーはハリーと一緒に風呂に入ることを嫌がったし、そもそもペチュニアが忌避していた。

 女性扱いされ始めたのは、ホグワーツの存在をハリーが知ってペチュニアがぶっ飛んでからだ。

 なんだかむず痒い感じがする。

 ルームメイトを思い出す。パーバティとラベンダーは、すでに大人っぽい下着をつけねばならないほどには成長している。とはいっても、十二歳前後としては大き目という意味だ。上級生を見れば何だテメー胸にメロン仕込んでんのかコラと思うような子はそこそこいる。

 ハーマイオニーですら、胸には丸みを帯びた膨らみがあった。

 ハリーは実のところ、自身が女性であることを嫌がっている節がある。

 はっきり言って貧弱なのだ。特に昨年度末。ネビルとの、そしてクィレルとの戦いで強くそう思った。

 あの時ハリーは、ネビルに対して全体重を乗せた蹴りを放った。魔法で相当威力をブーストしたうえでだ。しかし結果は、ネビルの内臓をひとつかふたつ傷つけただけ。殺す気で放った一撃だというのに、たったそれだけ。骨すら折れていない。

 クィレルに対しては、頭部に掴み掛って灰化させて殺そうとした際のことだ。奴が吸血鬼であったことを差し引いても、腕がないにも関わらず振り払われた。頭を振ってハリーの手がすり抜けたところを、蹴り飛ばされたのだ。

 力が欲しいと思って腕立て伏せなどの筋トレを行っても、大して筋肉はつかなかった。

 今までがほとんど栄養失調状態だったのだから、一年やそこらで健康的な肉体が培えるわけではないとはわかっている。効果が出るとしても数年後かもしれない。

 けれどハリーは、自分の胸を見下ろして、浮き出る肋骨を見て、腰の細さを見て、嘆息する。

 

「面倒な身体だ」

 

 そして心の方も、面倒くさかった。

 

 

 フリットウィック先生が倒れた。

 原因は重度の風邪だそうだ。

 秘密の部屋などという不可解なうわさが流れている昨今、ひょっとしてそこから這い出てきた怪物の仕業なのではという素っ頓狂なうわさが流れてしまっている。

 その不安は不安を呼んで、決闘クラブなるものを発足させるほどだった。

 決闘クラブとは、文字通り決闘する集まりである。まんまだ。

 要するに今回のケースでは、決闘の際に必要となる攻撃的な呪文を知ることによって多少の自衛手段を得るとともに、生徒たちに安心感を与えたいという思惑があったのだろう。

 そういった課外授業のような催しは生徒たちに大変人気で、すでに六回目の開講と相成っている。

 さてこの決闘クラブ。

 ハーマイオニーから話を聞いたとき、ハリーは少しだけわくわくしてしまった。

 ひょっとすると上級生と決闘できるかもしれない。そうすると二年生の身空では習うことのできない魔法もきっと使ってくるに違いない。だとするとそれを盗めたらステップアップにつながるのではないだろうか? 戦闘力の向上ができるのではないだろうか?

 隣で親友がろくでもないこと考えてるなと直感しながらも、ハーマイオニーとロンは第七教室まで歩いて行った。今回の行われる決闘クラブの会場はそこだからだ。

 

「私だ」

 

 お前だったのか。

 自らの自伝を顔の横に並べ、表紙の写真と同時に白い歯を見せるスマイルを飛ばしてからの同時ウィンク。そして投げキッス。

 杖を抜きそうになる心を自制するのに必死な生徒たちを放っておいて、ロックハートは輝く笑顔で授業の詳細を朗々と何故か演劇調に話し始めた。

 

「いいですか? まず私がお手本を見せてさしあげましょう。カァムォ――ン助手助手くぅ――んッ」

「…………」

 

 うわっと声が上がった。

 ロックハートに呼ばれて出てきたのは、こめかみを抑えた姿のスネイプ。

 たぶん無理矢理引っ張り出されてきたのだろう。不機嫌なのが目に見えて分かる。

 

「それでは三、二、一で一斉に相手に魔法をかけるのです。さぁーってではではいよいよお手本をお見せいたしまっしょい! ああ、安心していいですよォう。魔法薬学の先生を消し飛ばしてしまったりはしませんか・ら・ネッ! 明日以降も授業はありますハイ!」

「………………」

 

 ハリーはスネイプのこめかみに青筋が浮かび上がったのを見た。

 あれは相当怒っている。というか苛立っている。

 間違っても彼の視界に入らないようにして、その気配が気に入らないなどという理由で減点されても困るので極力息を潜めて見守った。

 ド派手な格好をしたロックハートと、いつもの黒尽くめからローブを脱いだ格好のスネイプ。ハーマイオニーがぽろりと零した言葉によれば、スネイプのあの詰襟みたいな服は、一応ブランド物らしい。意外な事実だった。

 両者ともに細長い台の上に上がり、中央まで歩み寄る。

 その行動の逐一を解説するロックハートは笑顔を絶やすことはない。ここまで来ると流石だ。

 

「中央で互いに対峙したら、こうやって顔の前に杖を構えます。これは獲物を相手に見せることで、『俺はこの杖で正々堂々お前を倒すのだ。ハァーン・スァーッムッ!』って宣言することになるんですね」

「……………………」

「そうしてそれをかっこよく振り下ろす! あっ、ホラ見て下さい今スネイプ先生がやったキレのある振り下ろし方は満点です。ああいう風に自分の中でかっこいい己の姿を思い浮かべて、シュッと振り切る。ここで恥ずかしがってはだめです、彼のように威風堂々と己のカッコよさをイメージして……おやスネイプ先生どうしました、息が荒いですよ」

「………………………………」

「そうそして相手に背を向けます。大股で三歩分だけ歩きまして、そして振り返って杖を構える! ああ、ホラ、スネイプ先生の構え方とかカッコいいでしょう? 一晩寝ずに考えたポーズでもよし、自分が思い描くヒーローの姿でもよし、私もよし、あなたもよし、みんなよし。ああやって杖の構え方にも優雅さが必要とされるのが、決闘という文化なのです。……スネイプ先生大丈夫ですか? 体調の方は……あぁー、問題ない。ありがとうございまっする。んではみなさん、よく見てごらんなさい。スネイプ先生が負けても、笑っちゃいけませんヨ!」

「…………………………………………………………」

「そして三つ数えたあとに魔法を撃ち合います。ここではお手本ですし、相手の武器を取り上げるだけにしておきましょう。んでは、始めましょう。ワン・トゥー・スリー」

「『エク――」

「……でもいいですし、アン・ドゥ・トロワでも、イッチ・ニー・サンでも」

「『エェェェエエックスペリアァァァアアアアアアアアアアムス』ッッッ!」

 

 スネイプの半分裏返った声がスペルを紡ぐ。異常なほどの魔力が込められて、教室中が真っ赤に染まるほど強烈な武装解除呪文が彼の杖先から吐き出した。

 驚いた顔をしたロックハートの鳩尾に魔力反応光が直撃して、彼の身体が天井近くにまで吹き飛んでいく――男子生徒の歓声があがった――尻からどしんと台に落とされた。

 

「ロックハート先生大丈夫かしら!?」

「頭がかい? 手遅れだよ」

 

 尻を抑えて無様にうめき声をあげるロックハートを余所に、男子生徒からは歓喜のスネイプコールが巻き起こる。おそらく生涯でそんな歓迎をされたことがないのだろう、仏頂面ではあるがハリーは彼が照れていることを見抜いていた。耳が少しだけ赤い。可愛いぞ中年。

 どうやら尾てい骨が折れたらしいロックハートが医務室へ運ばれてゆき、生徒それぞれの決闘練習が始まった。ロンはディーンと組んだので、ハリーはハーマイオニーと組もうと思って横を見る。

 

「やあポッター」

 

 だが居たのは栗色の秀才ではなく、白金の蛇であった。

 押しのけられて迷惑そうな顔をしたハーマイオニーが、こちらを見て一転心配そうな顔になる。

 ハリーとしては悪い事ではなかった。

 そうか、上級生でなくとも糧になりそうなやつが居たじゃないか。

 ハリーはほくそ笑むと、顎でドラコに向かう先の台を指示をする。

 にやりと笑ったドラコが頷くと、二人そろって用意された台の方へと歩き始めた。

 周囲の生徒がその様子に気づき、青褪めた者はモーセのように道を開ける。野次馬根性を出した者は二人がやってきた台の周りに集まり始めた。

 スネイプが騒ぎに気付き、ねっとりとした深い笑みを浮かべた。

 

「ミス・ポッター。ミスター・マルフォイ。皆の手本になりたまえ」

「はい先生」

「もちろんです」

 

 ハーマイオニーはスネイプを睨みつけ、余計なことを言うなと念を飛ばす。

 しかし魔法でもない念は通じるはずもなし、これから始まるショーに皆が注目してしまう。

 ハリー・ポッターとドラコ・マルフォイ。

 今年度ホグワーツの二年生ならば、誰もが知っている因縁の対戦カードだ。

 特にグリフィンドールとスリザリンの二年生は皆が覚えている。

 昨年の飛行訓練の授業。二人の獰猛な笑い声。

 やばいことになるんじゃないだろうか、という二人の予感は的中することになる。

 

「では、二人とも。台の上で礼をしたのち、杖を掲げ敬意を相手に」

「『エヴァーテ・スタティム』!」

「『リクタスセンプラ』!」

「――背を向けて一歩ずつ離れ話を聞け莫迦者どもグリフィンドール一点減点」

「ポッターきさま! 『ステューピファイ』!」

「痛ッたいなぁ! 『エクスペリアームス』!」

「同じことを言わせるな我輩の話を聞いているのかグリフィンドール二点減点」

 

 シュールなことになっとる。

 ハリーとドラコが、スネイプの制止の言葉も聞かずに呪文を撃ち合っている。

 そのあまりにもド派手な応酬に、周囲の生徒は自分たちの決闘をやめて野次馬に変化した。

 もう二人を止めることは諦めたのか、最後に「おのれポッター」とスネイプは呟く。

 赤や緑、青に紫と、多種多様な魔力反応光が二人の間を飛び交ってゆく。時にはハリーが走って近寄り、ドラコに直接蹴りを入れることもあれば、ドラコがその足を掴んで放り投げてしまうこともある。

 野次馬たちは何かのショーを見るように大騒ぎし始め、いっそ祭りの様相を呈してきた。

 だがその熱狂も、ドラコの放った呪文で水を打ったように静かになる。

 

「『サーペンソーティア』、蛇出でよ!」

 

 ばしゅ、とドラコの杖から飛び出してきたのは一匹の蛇。

 大人の腕ほどの太さを誇るその蛇はハリーを睨みつけると、しゅるしゅると這い寄ってゆく。

 それに対してハリーは、口を開いた。

 そして次の瞬間。

 次々と後続の蛇を生み出してハリーにけしかけていたドラコの笑みが凍る。

 

【止まれ】

 

 ハリーの唇から零された言葉に、周囲がびくりと身を竦ませた。

 それは野次馬な生徒たちだけではなく、ドラコも、スネイプも、蛇ですらそうだった。

 シューシューと、まるで蛇のような。

 いや。蛇そのものの言語を以ってしてハリーは呟く。

 

【さあ、おいで蛇たち。こっちにおいで、ぼくに従え】

 

 まるで姫の号令に従う騎士のように。

 ドラコが造りだした蛇たちはハリーの足元に集まると、そのこうべを垂れた。

 そうするのがさも当然というように、ハリーは笑みを深くした。

 杖を持っていない左腕を高々と掲げて、振り下ろす。

 

【奴を、ドラコを絞め落とせ!】

 

 命令に従った蛇が、弾かれたようにドラコへ飛び掛かった。

 呆然としていたドラコがはっと気が付くも時すでに遅く、胴やら首やらにとぐろを巻くように蛇たちが巻きついた。停止呪文で蛇たちを消そうとするものの、ハリーが飛ばした指示によって青大将の尾が突っ込まれ、口がふさがれる。

 もがき続けたドラコが、蛇を振りほどこうとして失敗し、ふらりとよろけて倒れる。

 酸欠で気を失ったのかもしれない。

 そこでスネイプが決着がついたとして、声を張り上げた。

 

「『ヴィペラ・イヴァネスカ』!」

【蛇ども!?】

 

 ハリーの悲痛な声と共に、蛇はそのすべてが焼失したかのように消え去った。

 いったい何をするんだ、と言いたげなハリーの目は、すぐに怯えに変わる。

 スネイプが。

 セブルス・スネイプが憤怒の表情をしていたからだ。

 今までに見たことのない、憎悪と激情、そしてほんの少しだけ畏怖が込められた顔。

 口から洩れるシューシューといった息が、震えた英語に変わる。

 

「ス、ネイプ、先生――」

「決闘クラブは終わりだ。解散とする。ポッター! ……来い、ドラコを運ぶのを手伝いたまえ」

 

 周囲の刺すような視線からハリーを逃がそうとして、ロンとハーマイオニーが近づいていたがスネイプの一喝によりその目的は阻まれた。

 ドラコの身体を杖で浮かばせ、スネイプは低い声でハリーに着いて来いと命じる。

 粛々とそれに従うハリーは、背中に突き刺さってくる視線の意味が分からなかった。

 

「ポッター。いつからだ」

 

 ドラコが医務室へ放り込まれ、その扉の前でスネイプに鋭く問われる。

 何のことかわからないという顔をすると、彼はさらに声を張り上げた。

 

蛇語使い(パーセルマウス)だ! 魔法界では貴様のような者のことをそう称する。ポッター。きさま、いつごろから蛇と喋っていた?」

「ど、どういうことですか? 魔法界では動物と話すなんて普通にやるんでしょう?」

 

 ハリーのうろたえた答えによって、スネイプは怒りを溶かしてしまったようだった。

 顎に手を当て、何かを考え込む仕草を見せる。

 

「先生……?」

 

 そして彼はハリーに向き直り、いつもの固い表情で告げる。

 

蛇語使い(パーセルマウス)は読んで字の如く、蛇の言葉(パーセルタング)を操る術者のことを指す」

蛇 語 (パーセルタング)……」

「この言語は後天的に学ぶこともできるが、まず声帯の構造が違うので習得率は低い。ゆえに、ほとんどは生まれつきの才能や血筋によるものが多い。これには世界中、過去数多の術者が該当した。ギリシャの腐ったハーポは明確に記録が残っている最古の蛇語使いだ。中国の楊家や凰家、インドの王家にエジプトの王家も代々蛇語使いだ。日本の土御門家も有名とされてる。そして我が国イギリスでは、かのサラザール・スリザリンが生粋の蛇語使いとして英国の頂点に君臨していたと記されている」

「……!」

 

 サラザール・スリザリン。

 それはホグワーツ生ならば知らぬ方がおかしい名前だ。

 ホグワーツ創始者が四人のうちの一人で、蛇寮を司った伝説の魔法使い。

 ゴドリック・グリフィンドールにロウェナ・レイブンクロー、ヘルガ・ハッフルパフの三人と共にこの学び舎を作りあげ、若き魔法使いや魔女の教育に腐心した男。純血主義者であり、魔道の血が濃いものにこそ本を与えるべきであると主張するも、魔法族ならば分け隔てなく知識を与えるべきとする他三人と真っ向から対立した結果、ホグワーツを去ることになったとされている。

 頭脳になにより自信のあったロウェナ・レイブンクローは、知性の象徴として青き大鷲を。

 優しく人望の厚かったヘルガ・ハッフルパフは、洞穴でのんびりおおらかにと黒き穴熊を。

 騎士であったゴドリック・グリフィンドールは、何よりも心からの勇気を貴び紅き獅子を。

 蛇語使いだったサラザール・スリザリンは、狡猾なる野心こそ崇高として愛する緑の蛇を。

 四人が夢を見て作り上げたホグワーツは、皮肉にもその夢によって四分割に分かれてしまったとされる。

 

「そして、」

 

 ハリーはスネイプを見る。

 泥のような明るい緑の目で、

 

「闇の帝王もまた、蛇語使いであったとされている」

 

 黒く光る昏い目を見る。

 ハリーではない誰かを重ねて見るような目で。

 スネイプはハリーをじっと見つめていた。

 




【変更点】
・風邪がヤバい。何がヤバいってとにかくヤバい。
・女性としての成長。胸は一番わかりやすい変化ですね。
・屋敷しもべ妖精への認識。
・蛇語使いのバーゲンセール

【オリジナルキャラ】
『ヨーコ』
 本物語オリジナル。ホグワーツの屋敷しもべ妖精で、女性。
 グリフィンドール寮の女子寮清掃を担当している。夫は蛇寮掃除担当のジョン。

ロックハートは楽しいし筆が進むけど、こいつがいると話が進まない。なんだこいつ!
謎が少ないだけに展開が早い。その分ハリーも大変。全くホグワーツは地獄だぜ。
この2巻においての酷い追加要素を当てた君にはバジリスクの視線をプレゼント!
原作の蛇語使いはサラザールにゴーント家やハリー、ダンブルドアのみ。これがジャンプならもっと出てきたはずなのにと思いました。こいつがスーパー蛇語使い3! 今後は別に出てこないかもしれない。ヨーコも二度と出てこないかもしれない。


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5.災厄

 

 

 

 ハリーは額に包帯を巻いていた。

 廊下を歩けば、時折生徒たちから罵声が浴びせられるか、または呪文が飛んでくるか、はたまた何かを投げつけられるようになった。

 あの時からだ。あの時、決闘クラブのあの時から。

 どうやらハリーは、スリザリンの末裔のような扱いを受けているようだ。

  蛇 語 (パーセルタング)を操ることができるのが理由。そして、秘密の部屋を開いたのもハリー。生徒を襲ったのもハリー。ハリーハリーハリー、すべてあいつが悪い。

 流行り風邪のせいなのか、体が弱れば心も弱る。心身ともに衰弱し始めたホグワーツの生徒たちには、子供たちには自制心を抑える材料が必要だった。それに選ばれたのがハリーだったというだけ。ストレスのはけ口を、弱者を貶めることで自身の優位性と安全性を信じたかったのだ。

 心無い生徒たちからの誹謗中傷に、実力行使に出る者達からの攻撃。そして、敵意。

 ハリーにとってホグワーツは家のような場所で、心安らぐ城であった。

 そうだったはずだ。このような針のむしろでなければ。

 

「ハリー……」

 

 ハーマイオニーは知っている。

 ここ毎晩、ハリーが毎晩涙を流さずとも泣いていることを。

 昨年のハリーならばまだ表面上は平気でいることができただろう。

 そこそこ交流のあったハッフルパフのアーニー・マクミランや、レイブンクローの女子生徒、はたまたグリフィンドールの者からまで疑われているのだ。

 締め付けられて踏み固められた心は鋼のように固く、硬く、頑なで、どうでもよい有象無象の言葉など、彼女の心にはまったく届きはしなかった。

 しかしハーマイオニーとロンという二人の宝物を手に入れたハリーの心は、すっかりほぐれて柔らかくなってしまった。周囲に耳を傾ける勇気を得た先に待っていたのは、悪意と敵意のナイフ。どす黒い刃は心の奥深くまで突き刺さり、突き刺さる切っ先は彼女にとって大切な芯を少しずつ、しかし確実に抉っていった。

 ハーマイオニーが添い寝して、母親のように抱きしめて安心感を与えるということを思いつく前は、汗に濡れて深夜に跳び起きることもあったのだ。そういうときは決まって二人の名を縋るように呼んでいるあたり、想像したくもない酷い悪夢を見ているようだ。

 どうやら。相当、参ってしまっているらしい。

 

 翌日、ハーマイオニーが魔法史の授業で質問をするというホグワーツにおいて数世紀ぶりの快挙を成し遂げた。惜しむらくは内容が『秘密の部屋』についてで、ビンズ先生がそんなあるかどうか分からんものを信じるくらいなら寝ないで授業受けてくれないかとオチをつけたことか。

 その間、疲れから悪夢を見ず快眠できる貴重な時間を満喫していたハリーは、ひどい尿意を感じてトイレに駆け込んだ。女性は体の構造上尿意を我慢できず、男性はいくらでも我慢できるという話をフレッドから聞いたが、本当だろうか。いやどうでもいいこと考えてないでトイレに行かねば。

 我慢して意地張ってその結果、女として終わるのは流石にいささか嫌だ。

 必死な思いでハリーは廊下を駆け抜け、とりあえず目についた女子トイレに飛び込んだ。

 多少へんな匂いがするが、まぁ問題ない。

 

「よし間に合った! どれ、個室に――」

「あ・ハリー」

 

 問題大ありだった。

 トイレで仁王立ちしていたのはグレセント・クライル。

 ホグワーツ二年生の同級生にして、二メートル近い巨漢のスリザリン生。

 ……男の子だ。

 女子トイレに、男の子。二人っきり。

 しかも十二歳には思えない巨漢で、相対すれば本能的な恐怖が呼び起される。

 精神的に余裕のない状態のハリーが、尿意で身体的にも余裕がなくなればどうなるか。

 

「~~~~~~~~~~~ッ!?」

 

 甲高い悲鳴を上げたハリーは、そのままへたりと床に座り込んだ。

 何やってんだこのトロール。ついに自分の性別も判断できないようになってしまったのか。

 ってか本当に何を考えているんだここは女子トイレだぞ訴えられたら即敗北レベルなんだぞお前ほんと何しにこんなとこ来たんだよこの変態め何も考えていないんだなそうなんだな。

 驚きのあまり女として終わってしまうところだったハリーは、これを切欠にして精神的に限界突破してしまった。まるでただの女の子のように半泣きでしゃくりあげながら、クライルに罵声を浴びせ、目元を袖で拭い続ける。一部の魔法使い諸氏にはご褒美であるが、残念ながらこの場にいる者にはその様は性癖はない。

 おろおろするクライルを押しのけて現れたのは、

 

「ハリーッ! ああ、ハリー! ごめんなさいね、驚かせちゃって! それクライルじゃなくてロンなのよ! ロンであってクライルじゃないの。わかる?」

 

 人面犬ならぬ()()()の女子生徒だった。

 素っ頓狂な声をあげて驚くクライルに、何やらけたけた笑っている女のゴーストまでいる。

 声はハーマイオニーだというのに、顔は猫そのまんま。もうちょっと、こう、何とかならなかったのだろうか。例えるならば彼女のふわふわの栗色の髪に猫耳を装着だとか。尻尾も追加で装備だとか。どうにかならなかったのだろうか。

 追い詰められすぎたハリーはぷつんと頭の奥で何かが切れる音を聞いて、その場に倒れ込んだ。

 キャパシティ・オーバーである。

 

「ふにゃあ」

「きゃーっ!? ハリーが私の顔を見て倒れたわ!? ロン、ローンッ!? 私そんなにブサイクかしら!? そんなにひどい!? ねえ。ねえロン!?」

「うーんその毛むくじゃらじゃあ、気絶されても仕方ないんじゃないかな。君の顔がどうとかじゃなくてさ。もうハーマイオニーには見えないよ、それ」

 

 数分後。

 ハーマイオニーの蘇生呪文によって覚醒し、起きあがったハリーはロンに事情を説明された。

 どうやらハリーが重傷で寝込んでいる間、どうにかして秘密の部屋の継承者を探れないかと試行錯誤した結果、《ポリジュース薬》という禁術に手を出したらしい。つまり先ほどのクライルはロンで、今目の前にいる猫面人はハーマイオニーというわけだ。

 ポリジュース薬とは、対象となる人物の体の一部を入れて調合することで、細胞単位で対象の人物に変身できるという魔法薬である。この薬の最大の特徴は、変身後の状態ならば決して見破られないことにある。マグル的な表現になると指紋に虹彩、声紋にDNAまで同一の存在となるのだ。ドッペルゲンガーと言えば聞こえはいいが、そんな生易しいものではない。魔法的に看破する手段が一切ないのだから、かつては所持するだけで法律で罰せられる類の魔法薬だった。これを使われれば、対象の人物が本当は既に殺されている人間だとしても誰も気づけないのだから、むべなるかな。

 陽気に聞こえる名前の響きとは裏腹に、校則を三〇以上は破らねばならないという間違っても二年生の作っていい魔法薬ではない。調合に失敗、または取り扱いを間違えれば本来の姿には二度と戻れないかもしれない危うい薬なのだ。禁術扱いされるのも仕方のない事である。

 それを知っていたハリーは、二人がそんな危険なことをしていたのかと怒りだし、この考えなしどもめと罵りながら栗色の秀才をヘッドロックして、なぜ止めなかったと赤毛の末弟にローリングなソバットを放った。

 床に倒れ伏すロンを尻目に、猫頭を押さえるハーマイオニャーンからその後の顛末を聞く。

 見ての通り、ハーマイオニーは調合に失敗した。

 どうやら純血の名家であるマルフォイ兄弟が継承者の秘密を知っていると確信していたようで、スリザリン生徒に化けようとしていたのだ。ロンはグレセント・クライル、ハーマイオニーはミリセント・ブルストロードに。

 ロンは見事クライルの髪の毛エキスを飲み干してトロールになれたが、ハーマイオニーはブルストロードの髪の毛ではなく彼女の飼っていた猫の毛で調合してしまったので失敗したというわけだ。ポリジュース薬は元々人間に変身するために創られた魔法薬なので、変身先が人間でなければこのように失敗するのだ。

 ハーマイオニーを抱きしめて、そんな危険なことはしないでくれと呟く。ハリーの小柄な体を抱きしめたハーマイオニーは、ぽつりと謝るのみだった。ロンはまだ倒れていた。

 禁術に手を出して人外化してしまった以上、ハリーらだけで元に戻す術はない。

 ハーマイオニーに頭からローブを被せて、周囲から不審者を見る目でじろじろと見られながらも医務室へと辿り着いた。マダム・ポンフリーは事情こそ聞かなかったものの、大変ご立腹のようで喋っている間ずっと口元が引きつっていた。

 

 さて。

 次の日になってその日の授業を終えたのち、ハリーはグリフィンドールの談話室でロンと話をしようと考えていた。しかし談話室にはハリーを継承者扱いする四年生の女子が複数人居たので、ロンが気を利かせて自室へとハリーを招いた。

 男子生徒は女子寮へは決して入れないが、その逆はそうでもない。現に彼氏彼女の関係になった上級生たちが、モーニングコールのために男子寮を訪れることも時折あるのだ。もっとも、なにか間違いを起こそうものならマクゴナガル先生から特大の雷を落とされることだろう。

 男子寮に初めて入ったハリーは、その意外な綺麗さにびっくりした。これに比べたらハリーたちの隣室に位置するジニー・ウィーズリーらの部屋はゴミ屋敷だ。異性の目がないとみんなこうなるのよね、とジニーが嘆息していたが、まさにその通りだったようで。

 シェーマスのベッドの下に何やら雑誌が乱雑に詰め込まれているのが見て取れたので気になったが、それを見ようとしたところその部屋の男子全員から猛烈にして必死な妨害にあったので諦めることにした。

 絶対に見ないように、と念を押しながら出て行ったシェーマスやディーンの背中を見送ってから、ロンはハリーに向き合う。ハリーはロンのベッドに座って、話を聞いた。

 

「結論から言うと、マルフォイは白だった」

 

 シェーマスのベッドの柱に寄りかかったロンが言う。

 

「僕はクライルに化けて、マルフォイの弟に話しかけたんだ。『継承者って誰なのかなぁ』って。そうしたらあいつ、『いまドラコが調べてる。あーあ、僕たちマルフォイ家じゃないのはおかしいよ。そうは思わないかい?』だってさ。一発で目的の情報をゲロってくれたよ」

「スコーピウスに聞いたのは正解だったね。バレなかったのかい?」

「うん、でも怪しまれた。歩き方が変だの、喋り方とか発音まで変だって言われた。あいつどれだけ子分のことよく見てるんだよ。おかしいよ」

 

 なるほどとハリーは思った。

 あまり機会はないし親しくもないものの、ハリーは時折スリザリン生の女子と話をすることがある。主にフレッドにジョージ、セドリック・ディゴリーやら、ハリーの友人であるハンサムたちの情報目当ての子だったりするが、まぁそれでも何かしら話はする。女の子にとって最も必要であるらしい情報の前においてだけは、寮間での諍いなど知ったこっちゃないのだ。

 その話の中でブルドックにそっくりなとある女子生徒から、ドラコとスコーピウスは案外女性人気があることを聞いた。名家の長男と次男でありお金持ち、父親を見る限り将来はハンサム間違いなしのルックスを持つ双子の兄弟ときたらもう、家柄の分フレッドとジョージの上位互換だわさと興奮気味に聞かされたのだ。

 そう、頼りになる静謐さを秘めた兄と甘えん坊で仲間思いの弟。しかも双子。これは薄い魔導書が分厚くなるのも必然ってもんだわさァーッ! と叫んでいた彼女を放っておいたのは悪くないと思うの。

 閑話休題。

 とにかくマルフォイ兄弟は、秘密の部屋の継承者とは無関係だった。では他のスリザリン生かと問われれば、まあまず違うだろう。マルフォイ家以上に良い家柄の子供など、現代のスリザリンにはいない。ひょっとするとホグワーツにすらいないかもしれない。純血を貴ぶスリザリンの残した部屋を継ぐ者なのだから、純血にふさわしい者でないといけないのは至極当然とのこと。間違っても他寮の子から選ばれたりはしないだろう。

 

「じゃあどうしろっていうのさ。このままただ手をこまねいて、秘密の部屋の被害者を増やしていけばいいのかい? 今はまだミセス・ノリスのみだけど、これから増えていくかもしれないんだぞ」

「あー。そうだった。そのことだけど、ロン。ぼくが医務室で寝てたとき、コリンが運ばれてきたんだ」

「変態小僧か。なんだ、また着替えでも盗撮され……ごめん僕が悪かった、泣かないでくれ」

「な、泣いてないよ。とにかく、あいつが運ばれて――ありがとう、ハンカチ洗って返すよ――運ばれてきたんだ。かちこちの石みたいになってね」

「それってつまり……」

「秘密の部屋の被害者だ。もう人間にも出てるんだよ」

 

 ロンが小さくざまあみろと言うのを聞かなかったことにして、ハリーは思案にふける。

 秘密の部屋が開かれ、それによって石のように固められる被害者が出ている。

 かの部屋に封印されていたのはサラザール・スリザリンが残した怪物と言われているらしい。では、人を石のように固める怪物とはなにか? ハーマイオニーが散々調べた結果、ギリシャ魔法界において史上最悪の魔法生物についての記録が残っていた。

 《メデューサ》。古代ギリシャ魔法界において闇の魔術を極めた魔女が、さらに深い闇に落ちて人の身を捨て魔人へと変化した成れの果てとされている。

 魔法使いや魔女が魔法を極めて魔人に変じるという報告例は、少なくとも近代や現代ではない。なにせ魔法を極めた結果、人間という殻を脱ぎ捨ててエーテル体の塊になって魔法生物となるという人外レベルの業だからである。

 イギリス魔法界では古代において、モーガン・ル・フェイという魔人化した魔女が当時の王を助けたという伝説が残っているだけだ。だが、魔人へと至るに最も近かったといわれている魔法使いは現代においても存在する。

 ゲラート・グリンデルバルト。かつてダンブルドアが死闘の末打ち破ったとされている、ヴォルデモートよりも前の世代で現れた()()()闇の魔法使いだ。

 魔法史では近現代における最恐の闇の魔法使いはヴォルデモート卿であるとされるが、最悪なのはゲラート・グリンデルバルトと言われている。世界最強の魔法使い、ダンブルドアですら幾度も敗北した末に勝利を掴み取ることができたのだとか。

 話を戻そう。

 仮に秘密の部屋から放たれた怪物がメデューサだとすると、もうホグワーツは生徒を家に帰していることだろう。なにせメデューサの魔眼を見てしまった者は、視覚情報から脳を支配され、自分が石であると勘違いして石化してしまうのだ。今回のミセス・ノリスやコリン・クリービーのようにカチコチに固められるのではなく、本物の石に。

 つまり今回の怪物はメデューサではない。そもそもメデューサは一個体のことであり、種族名ではない。あんなものそうそう何体もいてたまるか。

 ではいったい何なのだろう。

 人を石のように変えてしまう怪物……。

 

「ひとまず纏めてみよう。……ロン、このボロいノートは君のものかい」

「いや、僕のじゃないな。使っていいんじゃない? 白紙みたいだし」

 

 ロンの羽ペンを借りて、ハリーは拾い上げたノートにさらさらと書き込む。

 ひとまずは怪物候補の名前だけでも羅列しておこうと思って取った行動だったが、それは予想外の結果を生んだ。メデューサ、と少し丸っこい字で書いたところ、インクが乾く前にページに染み込んで白紙になってしまったのだ。

 驚いたハリーとロンは、ためしに羽ペンの先からインクを一滴こぼしてみることにした。

 するとノートはまたもやインクを吸い込んで真っ白になった。ページの裏を確認する。何もついていない。さらさらの乾いた紙のままだ。

 

「……どうなってるんだこれ?」

「フレッドとジョージが作った悪戯グッズかな?」

 

 ハリーはノートを閉じて表紙を見た。金字でスマイソン製とある。どうやらマグル製品のようなので双子の濡れ衣は消えた。売り出された日はどうやら今から五〇年近く前らしい。

 その右下には同じく金字で『日記』とポップなアルファベットを使って書かれていた。

 なるほど、これは日記帳だったのかと納得すると同時、裏表紙に魔法で刻んだらしき銀の文字で名前が書かれていることに気付いた。

 

「『トム・マールヴォロ・リドル』。……誰だこれ」

「知らないよ。少なくともグリフィンドール生の中にはいないはずだ。それにリドルなんて家名は聞いたことがない。その日記……マグル製品なんだっけ? ならマグル出身の子かもしれないね」

 

 兎にも角にも、このおかしな日記はリドルという少年らしき者の所有物らしい。

 ならば勝手に使うのはまずいだろうということでページを閉じようとしたとき、ロンが異変に気付く。

 

「ねえハリー、文字が浮かび上がってる!」

「え?」

 

 半分閉じられたページをロンがめくりあげると、そこには何もなかったページに黒いインクで文字が浮かび上がっていた。読んでみれば、『あなたは誰ですか?』とある。

 これはどういうことだろう。会話ができる魔法具とでも言うのだろうか?

 少し装飾過多な文字で書かれた質問文は、ハリーが読み終えるとするりとページに溶けていく。

 裏側のページを見ても、何も書いていない。

 物は試しにということでハリーは羽ペンを走らせてみた。

 

「『ぼくの……名前、は……』」

「『アルバス・ダンブルドアじゃよ』っと」

「おいロン」

 

 ハリーの書いた文字の隣に、ロンが勝手に文字を書き足した。

 これで本が勘違いしたら、これからこの日記にとってハリーはダンブルドア扱いだ。

 そんなのいやだ。

 日記には多少震えた文字で『えっ? 嘘でしょう?』と書いてある。可哀想に。

 

「ほら本がビビっちゃってるよ」

「そりゃーそうか。悪いことしたな」

 

 ロンが名前を訂正した。ハリー・ポッターとロン・ウィーズリー。

 すると日記がまたもや文字を書き始めた。

 

――ハリー・ポッター。会えて光栄です。

 

「僕のことが書いてないぞ」

「怒らせたんじゃないの?」

 

 憤慨するロンを放っておいて、ハリーは日記に続きを書いてみる。

 なんだろう、何故かなかなかに面白い。

 そして、ふと五〇年も前の日記ならいろいろと知っているのではないかと思って

 

「『貴方はトム・リドルですね』」

 

――その通りです。

 

「『秘密の部屋について何か知っていますか?』」

 

――ええ、よく知っています。

 

 すごいな。

 ハリーがぽつりと漏らすと、ロンが日記に羽ペンを走らせた。

 何を書くのかと思ってみてみれば、ハリーはばかばかしくなってロンの脳天に手刀を落とす。

 内容は『ダンブルドアが腹踊りを始めました。見ますか?』だ。

 案の定日記はロンのことを無視した。

 

――秘密を知りたいですか、ハリー・ポッター。

 

 文字が震えていたのは気のせいではないだろう。日記ながら肝の小さい奴だ。

 ハリーはイエスと一言書いて、日記の反応を待つ。

 隣に座るロンと共に何が起きるのかを見守っていたものの、日記の反応は劇的だった。

 バララララッ、と勝手にページがめくられてゆく。驚いたハリーはロンと共に仰け反りながらも、日記に浮かび上がった文字を読み取ることができた。

 いわく、『ではお連れしましょう、五〇年前の世界に』。

 

「わあっ!?」

「はッ、ハリーッ!?」

 

 ページの裂け目から黄金の光が飛び出したかと思えば、それはハリーを絡め取って飲み込んでゆく。ハリーもロンも、その魔力反応光には覚えがあった。賢者の石の試練の際に、本の中に飲み込まれた時だ。

 咄嗟にロンがハリーの細い肩を抱き止めて、助け出そうとする。しかし反応光はハリーを同じ光の粒に変えると、ページの中へと飲み込んでいった。

 ぱたん、と勝手に閉じられたそれはハリー以外の全てを拒絶しているようにも見える。

 三人は昨年度も本に食われている。またあんなことが起きるのだろうか。

 

「……まずいぞ」

 

 青褪めたロンがそう呟いた。

 部屋にいるのは彼ただ一人。

 残るは古い日記と静かな寝室だけだった。

 

 

 セピア色だ。

 世界がすべてセピア色に見えてしまう。

 ハリー以外のすべては色褪せており、ここが否応なしにも現実ではないと認めざるを得ない。

 見覚えのある壁と扉がある。あれは……そうだ、ホグワーツの壁だ。

 ここはやはり、本の中の世界。なるほど、五〇年前のホグワーツか。すると記憶か?

 しかもあれは奇しくも、秘密の部屋についての文言が書きなぐられた場所。

 そこに立っている青年が一人、落ち着きなくあたりを見回していた。

 ハリーはそんな彼の隣にいる。

 

「あの、あの。すみません。ここはいったい……?」

『…………』

 

 青年はハリーの言葉が聞こえていないようだった。

 忙しなく扉を気にしているあたり、待ち人来たらずといったところか。

 顔を見てみれば、恋愛ごとにあまり興味のなかったハリーもはっとするくらいのハンサムだ。すっと通った鼻は高く、彫りの深さから影のかかった赤みの強い瞳は意思の強さが見て取れる。真一文字に結んだ唇はなにか心配事があると雄弁に語っているようだった。

 お洒落に気を使う年ごろだろう、黒髪を整えた彼は扉を開けて出てきた老人に声をかけた。

 

『先生、ダンブルドア先生!』

「……ダンブルドア?」

 

 青年が駆け寄った老人は、驚くべきことにアルバス・ダンブルドアその人だった。

 現代の彼と比べると、半月眼鏡は丸眼鏡であるし、髭も髪も今よりずっと短い。確かに少しだけ若々しい雰囲気はあるものの、それでも老齢の魔法使いだ。……こいつこの頃から爺さんなのかよ、いったい何歳なんだ。賢者の石でも使ってるんじゃなかろうな。

 呼び止められたダンブルドアは、青年に憂いの瞳を向ける。

 ハリーとしてはあまりダンブルドアと会ったことはないものの、こんなにも悲しそうな目をする彼を見るのは初めてだった。

 

『やあリドル。消灯時間はとっくに過ぎておるよ』

「……彼がトム・リドルなのか」

『すみません先生。どうしても聞いておきたくって』

 

 ダンブルドアに詰め寄るようなリドルは、自分の心配事が目下の最優先のようだった。

 溜め息をついたダンブルドアは、首を横に振る。

 リドルの表情が絶望に染まった。

 

『そんな……!』

『あの女子生徒は既に亡くなっておった。君が自分を責めることはない』

 

 亡くなっていた?

 つまり人死に。ホグワーツでそんなことが起きるなんて……いや起きるか。近年でも、危険な授業でバカをやった生徒が魔法事故で亡くなってしまうことが極々稀にある。

 五〇年も前のことならば、今より規則や法律が緩い面もあるだろう。それも納得である。

 

『生徒は全員、家に帰さねばならぬ。秘密の部屋が開かれた以上、もはやここに安全はない』

「!」

 

 秘密の部屋!

 まさか、五〇年前にも開かれていたのか。

 では何故いまになってまた開いたのだろう。

 ひょっとするとこの《記憶》には、何かしらの真実が……少なくとも情報があるに違いない。

 ハリーはそのまま話を聞く覚悟を決めた。

 

『……秘密の部屋の、怪物』

『そうじゃ。人間をあのように死に至らしめるモノはあまりにも危険なのじゃ』

『……せ、先生。ぼくには、帰る家がありません。ここホグワーツこそが家なのです』

『しかしそれでも戻らねばならない。もはや死は平等に降りかかる』

 

 リドルの蒼白な顔が、土気色になったように思える。

 セピア色になってしまっているので正確な顔色はうかがえないが、表情を見る限りあながち間違ったことではないだろう。リドルはショックで俯いたまま、ぼそりと呟く。

 

『犯人を、ぼくが犯人を捕まえれば……』

『……なにか言ったかね、リドル』

『――――……いいえ、先生。何でもありません』

『そうか。ならば寮に戻るといい。ハロウィンパーティの続きを、みな談話室で楽しんでいることじゃろう』

 

 ダンブルドアが去り行く。

 リドルはその姿が見えなくなるまで見届けてから、ずいぶんな早足で歩き始めた。

 小柄なハリーでは足幅の関係上、ほとんど走るようにしなければ着いていくことのできないような速度であった。羽織ったローブにある紋章を見るに、彼はスリザリン生だ。

 だがこの方向は、スリザリン寮のある地下室への道ではない。

 しかし彼の脚に迷いはない。いったいどこへ?

 

『……、……うん……大丈夫……うまくいく……ああ、……』

 

 彼は独り言を漏らしながらも、辿り着いた先の扉に張り付いた。

 懐から抜いた杖が構えられている。どうやら中には危険があるらしい。

 扉の中では誰かが喋っているような、くぐもった音が聞こえてくる。

 それでいて、ハリーにはこの声が聞き覚えのあるものであることに気付く。

 しかし、いや、そんなまさか――

 

『動くんじゃない!』

『ッ!?』

 

 開錠呪文で鍵を開けたリドルは、扉を蹴破って中にいる人物に杖を突きつけた。

 リドルの脇をするりと抜けて部屋に入り込んだハリーは、驚きに声を上げた。

 ハグリッドだ。

 もじゃもじゃのヒゲがないが、肩まである髪の毛は今と同じくぼさぼさだ。それになにより、、彼の身長は高い。この時点で二メートルは越しているだろう。

 そんな若いハグリッドが、杖を向けてきたリドルに驚いて声をあげる。

 それに呼応してか、ハグリッドの足元にある箱がガタガタと暴れて音を立てた。

 

「な、何か入ってる……」

『さぁ、ハグリッド。そいつを出すんだ。怪物は飼えるものじゃあないんだよ』

『ち、違ぇんだトム! アラゴグはやってねえ! 違ぇんだ!』

『何が言う、人が死んでいるんだぞ。君にとってはお散歩させてやりたかっただけかもしれないが、怪物は所詮怪物だ。人の手に負えるものではない』

 

 リドルの冷たい言い草に、ハグリッドが反論した。

 だがその声色は弱々しい。自分の立場が悪いことをよくわかっているのだろう。

 

『そんなことねえんだ! アラゴグは、アラゴグは俺の友達なんだ!』

『いいや、怪物さ。それも人殺しのね。明日、女子生徒のご両親が学校にやってくる。せめて怪物の首を用意しておかねば、もう秘密の部屋は閉じられて学校は安全だと証明しなければ、この学校の威信にかかわるかもしれないんだよ』

 

 リドルとハグリッドの言い争いは続く。

 互いに一歩も譲らないうち、ハグリッドが背後に隠していた箱から何かが砕ける音が鳴った。

 緊張した顔を歪めたリドルが見たのは、毛むくじゃらの巨大な何か。

 長大な肢をがさがさと動かして這いずって逃げようとするその怪物に、激昂したかのようなリドルが複雑な軌道で杖を振って大声で叫んだ。

 

『逃がすものか! 『アラーニア・エグズメイ』ッ!』

 

 リドルの杖先から飛び出したのは、毒々しいまでに眩いばかりの真っ白な魔力反応光。

 恐ろしく複雑で精密な魔力式が組まれたそれは、おそらく青年の創作呪文だろう。

 一度唱えただけで連続での発動を可能にする式が組み込まれた呪文は、乱打となって怪物に牙を剥く。必死に這ってそれらを避ける怪物は、格好の逃げ場を見つけてしまったようだ。リドルが用心深くも避難経路を確保するつもりで扉を開け放っていた扉が裏目に出た。

 長い肢でリドルを突き飛ばし、忙しなくたくさんの肢を動かして廊下を去ってゆく。激怒したリドルが当てずっぽうに先の呪文を放つものの、終ぞ当たることはなかった。

 逃がしてしまった、と顔に書いてあるリドルが追いかけようとするも、その体はハグリッドのタックルによってノーバウンドで五メートルほど吹き飛んでしまう。驚くべき身体能力を用いて空中で身をひねることで姿勢を整えたリドルは、靴底を削りながらも着地に成功して、そのままハグリッドへ杖を向ける。

 愛するペットを殺させまいと正常な判断力を失ったハグリッドに対し、リドルは叫ぶ。

 

『ウオオオオオオ! ア、アラゴグ! アラゴグぅー!』

『諦めるんだ! こんなことを仕出かした以上、君は退学になる! あの怪物も殺さねばいけないんだ!』

『う、うぐぐ、うううううーっ』

 

 杖を向けたままのリドルが大声で、それでいて冷たく叫んだ。

 騒ぎを聞きつけた者達がざわざわとやってくる音がハリーの耳に入る。

 

「そんな……」

 

 ダンブルドアをはじめとした教師たち、それに幾人かの生徒が部屋の前に集まってきた。

 リドルを尊敬の目で見る者、難しい顔をした者、哀しそうな顔をした者。

 その場の一人残らずが、ハグリッドを見つめていた。

 

「ハグリッドが――」

 

 咽び泣くハグリッドの姿が遠くなる。

 杖を収めながらも周囲の人間に怪物が逃げたと訴えるリドルが消える。

 集まってきた野次馬の生徒が蒸発し、大慌てで校内を捜索し始めた教師陣が煙と化す。

 最後にダンブルドアがこちらを振り向き、彼の眼鏡がきらりと光ったその瞬間。

 

 

 ハリーはベッドの上に放り出された。

 現実では日記の中に吸い込まれてから数秒と経っていないのだろう、いまだに慌てていたロンを下敷きにしてハリーは座り込む。

 自分の腹の上に座るハリーを見て少し安堵した様子のロンは、しかしすぐさまハリーの異変に気付いた。

 情けない恰好ながらロンは優しい声で問いかける。

 

「どうしたんだい、ハリー。日記の中で何かあったのかい」

「……ハグリッドだったんだ」

 

 要領を得ない。ロンが聞き返す。

 

「どういうことだい?」

「ハグリッドだったんだよ! 五〇年前に秘密の部屋を開いたのは、ハグリッドだったんだ!」

 

 興奮しきったハリーを宥め、ロンは彼女の話を整理した。

 ひとつ、秘密の部屋は五〇年前にも開かれていた。

 ひとつ、怪物は実在する可能性が高い。

 ひとつ、五〇年前には一人の女子生徒が亡くなった。

 ひとつ、下手人はハグリッドなのかもしれない。

 どれ一つとっても信じがたい話はあるが、日記の魔法を信じるのならば事実なのだろう。

 しかしロンが一つ忠告してきた。曰く、

 

「ハリー。脳みそがどこにあるかわからないモノの教えてくれることには、常に一握りの疑いを持たねばならない。魔法界で有名な格言だよ。僕はパパに教えてもらった」

 

 ということらしい。

 日記からの情報を鵜呑みにしないことは確かに重要だった。

 あれはトム・リドルの、つまりはハグリッドを捕えた者からの視点だ。

 ひょっとしたら盛大な誤解があるのかもしれないし、もしかすると事実は違うのかもしれない。

 ハリーだって優しい友人であるハグリッドを信じたい。

 彼が悪いことをするはずがないのだと。

 

「やあ、ハグリッド」

「おう。ハリーにロン。久しぶりじゃーねえか。ええ?」

「うえっぷ。おうっぷ。げろげろげろ」

「ごめんよハグリッド。ハリーったら呪われちゃって」

 

 ある日の午後三時。

 ハグリッドからの手紙でお茶に呼ばれた二人は、彼の家にお邪魔していた。

 ハリーへの風当りは、依然強いままだ。

 ほとんど全校生徒がハリーを秘密の部屋の継承者であると思い込んでおり、恐怖のあまりハリーを倒せば平穏が戻ると勘違いした生徒に呪いを撃たれたのだ。

 不意打ちに近い初撃を完全に避けたハリーの姿は、その高い能力自体が周囲を刺激してしまう。不届き者になにをするつもりだ、と詰め寄ろうとしたところ、継承者に殺されてしまうと勘違いした第三者の上級生がハリーに呪いを当てたのだ。

 奇しくもそれは、ロンがスコーピウスにかけたのと同じ呪文。

 口から妙なものが飛び出す姿を見られるのは女性として嫌だろう、と配慮したロンが自分のローブをハリーにかけるため、自分を呪った上級生の黄金のスニッチを蹴り飛ばしていたハリーを捕まえて、ハグリッドの小屋まで逃げてきた。

 そして現在に至る。

 

「そりゃーひでえ話だ。この前のマルフォイ家のがきんちょといい、最近のホグワーツ生は節度やら慎みっちゅーもんがない気がするわい」

「ハグリッドにはあるのかい、その二つ」

「昨日ヒッポグリフに食わせちまった」

「げろげろげろげろげーっ」

「無理して何か言おうとしなくてもいいよハリー」

 

 ハリーの背中をさすりながら、ロンとハグリッドは会話をする。

 混ざりたくても口からミニマムサイズのふわふわなうさぎちゃんが出てくるので、苦しくて何もできない。同じ呪文なのにどうしてこんなにも違うんだろう、これが三枚目と美少女のキャラクター差か、とロンは疑問視していたがそんなことは激しくどうでもいい。

 

「それでねヘグリッとぁおえぷー」

「無理するなって」

「そうじゃてハリー。ロン、代わりにおまえさんが言っちゃれ」

「ハグリッド、五〇年前に秘密の部屋を開けて怪物とランデブーしたのは君かい?」

 

 ハグリッドがティーポットをひっくり返した。

 お茶をかぶったロンが悲鳴をあげると同時に、驚いたハリーの口からうさぎが飛び出した。

 床をぴょんぴょこ跳ねるうさぎを捕まえながら、動揺したままのハグリッドが言う。

 

「な、なぜアラゴグのことを知っとるんだ? あっ! 違う、違うぞ! 俺は部屋を開けちゃおらん! 俺じゃあない!」

「うん。うんわかった。君が正直者だってことはよく知ってるつもりだから。うえっぷ」

 

 半泣きでひいひい言うロンに水をかけて治癒呪文もぶっかける。

 動揺収まらず新しいお茶を入れようとするも、ポットから落とされるお茶はティーカップに入らず机を汚すのみに終わった。

 ようやく吐き気が収まり始めたハリーは、部屋中をぴょんぴょん跳びまわるうさぎに囲まれながらハグリッドに日記のことを話した。初めは恥ずかしいやら情けないやらで身を縮こまらせていたハグリッドも、その日記の異常さにしかめっつらをしてしまう。

 

「うーん、ハリー。そりゃあよくねえもんだ。別にリドルのことを悪くいうわけではありゃーせんが、そりゃーよくねえ。俺ぁ詳しいわけじゃねえから間違っちょるかもしれんがな」

「いや。ロンとも話して、これの内容を全部信じるわけにはいかないとは思ってたよ。ハグリッドに相談した後、マクゴナガル先生とかそのあたりに相談しに行く予定だった。この日記の持ち主が本当にトム・リドルなら、五〇年前のスリザリン生の私物がロンたちの部屋にあったのは不自然だからね」

「言われてみれば確かにヘンだな。……すごいねハリー、よくそういう発想できるね」

 

 ハグリッド曰く、確かに怪物そのものは育てていたそうだ。

 ロンが悲鳴を呑みこんだような顔をするのを横目にしながら、ハリーはその詳細を聞こうとしていた。

 だがその時、ハグリッドの家の扉が乱暴にノックされる。

 びくりと肩を竦ませるハリーとロン。

 外を見れば、もうすっかりオレンジ色が藍色に侵略を受けている時間だった。確実に外出時間を過ぎている。透明マントは一応魔法空間に入れてあるものの、バレた時が怖い。去年の、マクゴナガルが激怒した顔を思い出してしまう。森での罰則はもっと怖い。

 ハグリッドはおろおろする二人の首根っこをむんずと掴み、若干湿った樽の中に放り込んだ。

 

「そこに隠れちょれ! 透明マントは持ってきとるな? ん?」

 

 ハグリッドの小声をなんとか聞き取って、二人は樽の中で折り重なって透明マントを被った。これで樽の中身は空っぽにしか見えないはずだ。

 

(ロン、きみ大きすぎるよ。こんなの入らないって!)

(ハリー、君のその台詞はあらゆる意味で割とまずい)

 

 ハリーの身体が小柄で、少女であるため細いのが幸いしたか。

 ロンのガタイが良くてもなんとか樽の中に二人でいることはできた。

 樽に開いた穴を見つけて、ハリーはそこから何とか外を覗いてみる。

 ハグリッドが扉を開けると、まず青いローブを着たダンブルドアが入ってきた。

 次に入ってきたのは、落ち着かない様子の背広を着こんだ壮年の男。多少デザインが古いものの、魔法界のスーツは見た目に関する限りマグルのものと大差ないようだ。

 壮年の男が誰なのかわからなかったが、ロンもハリーと同じく樽の穴から見ていたらしく小声でハリーに教えてくれた。

 

「あれはコーネリウス・ファッジ魔法大臣だよ。パパのボスさ」

 

 要するに魔法省のトップ。マグルでいうところの首相や大統領のようなものだろう。

 そんな重要人物がなぜこんなところに来ているのだろうか。

 しかも表情からして、あまりいいニュースではないようだ。

 

「ハグリッドや、悪いニュースがある」

「はい。なんでございましょうダンブルドア先生」

「なんでございましょうではない! 怪物の犠牲者がまた出てしまったのだ!」

 

 ロンはハリーの口をふさいで、彼女が息を呑んだときの音が聞こえないようにした。

 ファッジのヒステリックな叫び声はそれほどショッキングな内容だったのだ。

 

「それも同時に五人もだ! 監督生専用の風呂場で、全員が固まってしまっていた! マーカス・フリント、ミランダ・ブレーズ、ペネロピー・クリアウォーター、ヘイシン・コウ、パーシー・ウィーズリー……! その全員がだ!」

「なんだって!?」

 

 今度はハリーがロンの口をふさいだ。

 なんと、パーシーが。まさか彼までもが被害に遭ってしまうとは……。

 

「ついてはハグリッド。君を重要参考人として連れて行かねばならない」

「重要参考人? 五〇年前のことを言っちょるんですかい、魔法省大臣様」

「左様。事実はどうあれ、記録では君が秘密の扉を開けたことになっている。ならば皆を安心させるために君を連れて行かなくてはいけないのだよ。情けない事だがね」

 

 疲れた様子の魔法大臣は、冷たくそう言い放つ。

 それを聞いたハグリッドの変化はわかりやすかった。

 最初に訝しげだった顔を蒼白に染め、次に土気色に変わって、そして最後には諦めたような表情になった。

 本人も理解しているのだろう。ひとまずの安心を得なければ、次はハリーが攻撃されるだけでは済まない。疑心暗鬼による集団パニックという恐ろしい未来が待ち受けている可能性すらあるのだ。だが、納得はできなかった。理解はできても、納得はできなかった。

 

「お、俺はアズカバンに行くんですかい? そんな、そんなのって……!」

「事実ですな、ルビウス・ハグリッド。ホグワーツの森番よ」

 

 悲痛なハグリッドの声に対して凍るような冷たい声を浴びせたのは、一人の男性だった。

 金髪をオールバックにして、その氷のような目はハグリッドを見据えている。

 黒いローブに銀蛇の装飾が施されたステッキを持つさまは、貴族の優雅さにあふれていた。

 

「ルシウス・マルフォイ……何しに来おった。ここはお前さんの来る家じゃあねえ!」

「無論だとも。こんな……あー、家? に、来たくて来たわけではない。学校に行けば、校長ならばここにいると言われましてね」

 

 わざわざ歩いてきたのだよ、と。

 ハグリッドに向けて全く敬意を払っていない。 

 フローリシュ・アンド・ブロッツ書店でハリーと会話したときは、まさに紳士のそれだったというのにハグリッドに対しては異常なまでに冷酷だ。侮蔑的ですらある。

 まだ何かを言おうとしていたハグリッドを遮って、ルシウスはダンブルドアの方に向き直った。銀色の老魔法使いは、そんな彼を見ても微笑みを絶やしてはいない。それを見て舌打ちしそうになったのか、顔をしかめたルシウスは言葉を続けた。

 

「解任命令です。理事全ての合意によって決定されましたぞ、校長殿」

「ほほう」

「かっ、解任だって!? そんな、ダンブルドア先生様がいなくなっちまったら、誰がホグワーツを守るってぇんだ!」

 

 ハグリッドの慌てた言葉を斬るように、ルシウスは言う。

 

「要らんでしょう。被害を止められぬ無能な校長など、この学校には必要ない」

 

 その言葉に激昂したハグリッドがルシウスに掴みかかろうとしたが、ルシウスは何をしたのか魔法も使わずそれを跳ね退けた。

 まるで自分から宙返りしたかのようにズシンと転がったハグリッドは、その勢いのままドアを粉々にして家の外へ転がり出てゆく。驚いた顔のファッジを放っておいて、ルシウスは鼻で嗤うとダンブルドアに何かしらの手紙を手渡し、さっさと家から出て行ってしまった。

 ロンはあの巨体がルシウスのような細身な男に捻られた事をただただ不思議そうにしているだけであったが、ハリーはそれがその実とんでもない仕業であることを理解して、感嘆に目を見開く。

 友人の心配も忘れ、ハリーは新たな可能性という光り輝く欲望に舌なめずりをした。

 あれは、格闘技だ。

 ハグリッドの勢いのみを利用して投げ飛ばした、純然たる技術だ。

 魔法実力主義者が八割を占めるこの英国魔法界において、魔法使いが格闘を行うなどという発想をするのは闇祓いかそれに準ずる実戦的な職業の者だけだろう。

 それをああも実戦的な形で使うとは。

 あれが、強さの形か。

 

 

「大丈夫かね、ハグリッド。おお、そうか。それはなにより。さて、とにかく君にはアズカバンへ連れて行かせてもらう。重ね重ね申し訳ないが、抵抗はしないでくれ」

「ああ、ああ。分かっちょる。分かっておるとも、ファッジ……」

 

 むくりと起きあがったハグリッドは、恐らく去りゆくルシウスの後ろ姿を睨みつけているのだろう。家の外の光景まで見えるほど、樽の穴は高性能ではない。

 ファッジと共に歩み去る音が聞こえる中、ハグリッドが大声で独り言をこぼし始めた。

 

「あー、ファングが餌を貰えんかったら困るじゃろうなー。誰かやっておいてくれんかなー」

「何だハグリッド。急に大声を出して」

「そして謎は蜘蛛を追えば分かるんじゃねえかなー。あー、誰かさんが追ってくれんかなー」

「ハグリッド、不安なのはわかる。だが気を確かに持つんだ……」

 

 勘違いしたファッジに慰められるハグリッドが去ってゆく。

 ダンブルドアも大根役者の芝居に乗っているようで、これまた下手糞な芝居で去る。

 彼はもうちょっと腹芸を覚えた方がいいんじゃないかなと思いながら、ハリーとロンは樽から這い出て一息ついた。

 しかし、蜘蛛か。

 

「蜘蛛を追えだって? なんて的確で分かりやすいアドバイスなんだ。涙が出るよ」

「仕方ない。ハグリッドなりにバレないよう考えたんだから」

 

 『蜘蛛を追え』。

 言葉どおりに捉えるならば、そのまんま蜘蛛を見つけて後を追えということか。

 なにかの比喩表現だったり暗号だったりする可能性がないこともないが、ハグリッドの考え方からするにそんなまどろっこしい方法は取らないだろう。よって単純に最初の案こそ一番可能性が高い。

 そう結論付けた二人は、まず窓を見た。

 

「こ、これを追うのか……。ちょっとキツいな……」

「うえええ……ちっちゃいふわふわなうさぎちゃんじゃダメなのかよ……」

 

 うじゃうじゃ。という表現がぴったりだろう。

 我先にと窓へ向かってハグリッドの家から逃げる蜘蛛たちは、異様であった。

 一体なにが彼らをここまで駆り立てるのか。何から逃げているのか。ハグリッドは部屋の掃除をしているのか。掃除をする間までこの家にはお邪魔しない方がいいのか。

 ぐるぐると考えを巡らせてパニックになりかけているロンの手を引いて、ハリーはハグリッドの家を飛び出した。ファングを連れて行こうかとも思ったが、彼は臆病者だ。足手まといになるか有事の際は一目散に逃げ出すか、そのどちらかなのは目に見えているため放っておいた。

 蜘蛛たちはどこへ向かっているのかと地面へ目をやれば、いるわいるわ蜘蛛の列。

 ハリーは未だにすんすんと泣きごとを言うロンの手を引っ張って、歩きはじめた。

 列の進む先は、木々の生い茂る暗い闇の中。不気味な空気が漂っている。

 

「さーて、鬼が出るか蛇が出るか。情報が欲しいなら、もう行くしかないね……」

「ねえハリー。これ以上アレなモンスターに襲われたら、僕たぶんチビっちゃうかもしれない」

「ごめん半径二メートル以内に近付かないで」

 

 秘密の答えを得るため、ハリーらは行かねばならないのだ。

 危険溢れる、禁じられた森へ。

 




【変更点】
・ポリジュースイベントにハリーがハブられる。
・ロンが罰則を受けていないのでリドルの情報がない
・マルフォイ氏が強化されております。
・全体的に原作よりも進みが遅い。

秘密の部屋の怪物……いったい何リスクなんだ……。
やっぱり秘密の部屋は難しい。対人戦がほどんとないのがまた難しい。
ハリーの受難はまだ続く。ホグワーツの一般生徒は原作でも拙作でも厄介な敵です。
ここからはクライマックスに向けてファイアボルトします。頑張れハリー、生き残れ。


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6.蜘蛛の王

 

 

 ハリーは自分の脚を動かすことに必死だった。

 くも、クモ、蜘蛛。まさにスパイダーパラダイスだ。

 指の先程度の蜘蛛ならば、ダーズリーの家でたくさん見た。階段下の物置が自室だったのだから慣れているのだ。だが自分の腰まである大きさの蜘蛛は本気で勘弁してほしい。虫に悲鳴をあげるヤワな女になったつもりはないが、それでも生理的に気持ち悪い。

 時折短い悲鳴をあげるロンを横目に見ながら、少なくともこれよりはましかなと思ってハリーは歩を進めた。湿った土を踏み固める音と、巨大な蜘蛛が後をつけ回してくる掠れた音。

 いやな気分になりながらも辿り着いたのは、不自然なまでに抉れた巨大なクレーターだった。本来ならば窪地と表現した方が正しかったのだろうが、これだけ異様な有様を見せられてはそんな名前は相応しくない。

 齢数千年はあるだろう木々をなぎ倒し、月の光で鈍く輝く白い糸で――ハリーの胴より太いそれは糸とは呼べないかもしれない――巨大な蜘蛛の巣があちこちに張られている。

 ガサガサと身を隠すようにしているものの巨大すぎて隠れていない蜘蛛たちを眺めながら、ハリーたちはクレーターの中央に陣取った。

 明らかに二人を狙って距離を測っていた若い蜘蛛がハリーにちょっかいをかけようとしてきた姿を見て、ロンは声にならない悲鳴を漏らす。ハリーが十二歳の少女がしてはいけないような顔で睨みつけると、若い蜘蛛が怯えたように後ずさった。

 ロンが女神か何かを見るような目でこちらを見てきたので少し鬱陶しかったが、今はそれどころではなかった。なにせ先ほどから腰下をうろつく蜘蛛どもよりもっと恐ろしいものが目の前に現れたからだ。見れば、ハリーを一飲みに出来そうなくらいの大きさだ。びっしりと毛の生えた足をゆらりと動かし、頭をこちらに向けたときに見えた白濁した八つの目から、彼または彼女が盲いていることがわかる。

 気絶しそうなロンの手をしっかり握って、ハリーは勇気を出した。

 魔法薬の授業で虫を材料にしたものを普通に飲んでいるのだ。一年生の最初の半年はマグル出身の生徒がウゲーという顔をする光景をよく見たものだが、一年も経てば人間は慣れる。ゆえにある程度は平気だと思っていたが、よもやここまで鳥肌が立つような光景を見ることになろうとは。

 

「……君が、アラゴグかい」

「如何にも」

 

 ハリーの問いかけに、巨大蜘蛛はなんと英語で受け答えを始めた。

 魔法生物がヒトの言葉を操ることはよくあることだが、まさか蜘蛛という声帯の構造すらよくわからないどころか有無すら定かではない生物が喋れるとは驚きである。

 だがそれ以上にハリーが驚いていることがあった。

 ハリーはこの巨大蜘蛛に見覚えがあるのだ。

 昨年の闇の魔術に対する防衛術にて、クィレルが授業で紹介した恐ろしい生物のうちのひとつ。

 《アクロマンチュラ》。

 魔法省が指定する危険度において最大値を誇り、もちろん英国内での育成、孵化、卵の所持は厳罰とされている。理由としてはあまりにも危険すぎる上に、調教によって手懐けることがほぼ不可能だからである。

 中世フランスにおいて闇の魔法使いが孵化に成功したという記録はあるものの、その一週間後には蜘蛛の餌となってしまったために育成に成功した記録は一切残っていない。ハグリッドは魔法史において初の快挙を成し遂げていたというわけだ。

 ふざけるなよハグリッド。こんな歩く危険物に相対させて何をさせたいんだ。

 

「ああ、如何にも。儂がアラゴグだ。そういう小僧らは何だ?」

「ハグリッドの友達だ。彼の危機によって助力を求めに来たんだ」

「おお、ハグリッドの。しかし彼はここに人を寄越したことはない。証拠はあるのか」

 

 証拠と言われても。

 

「君の名を知っている。それは理由にならないのか」

「ならぬ。ハグリッドから聞き出す手段はいくらでもある」

「んな物騒な。ぼくらじゃ彼をどうにかすることなんて無理だろうに」

「言われてみればさもありなん。小僧らの細腕では如何様にもできまいて」

 

 ハグリッドを脅して名前を聞き出すなど、例えハリーが十人いても難しいだろう。

 ただ褒めて煽てて美味しいものでもご馳走したら口を滑らせそうな気はするが、それは言わぬが華だ。わざわざ余計なことを言って立場を悪くすることはない。

 

「とにかく。いまハグリッドが危機にある。アズカバンに連れて行かれそうなんだ」

「アズカバンとは何か。魔法使いの知識は儂にはない」

「……ハリー」

「ロン、黙ってて」

 

 魔法使いに関する知識がないのか。

 すると魔法使いが創りだした魔導生命体であるという線は、ないとみていいかもしれない。

 サラザール・スリザリンが秘密の部屋に怪物を残したというのならば、千年以上は生きていると見て間違いないだろう。それだけの長い時を生きられる生物は、いくら魔法生物と言えど限られている。

 

「アズカバンとは端的に言って牢獄だ。この現代において秘密の部屋を開けた者がいて、彼がその犯人として罪に問われている」

「莫迦な。あれはハグリッドではない。濡れ衣である。彼に罪はないのだ。五〇年前に殺された女子生徒はトイレで見つかったとハグリッドから聞いた。儂は、育ててもらっていた物置部屋から外に出たことはなかった。ただの一度も……」

「ハリーぃぃ……」

「うるさいぞロン。――すると君が秘密の部屋の怪物というわけではないの? 五〇年前は君を退治ようとした青年がいたはずだけれど」

「否。断じて否。儂らはあれの話をしない。あれは儂らの天敵だ。恐ろしや」

 

 天敵。

 アクロマンチュラの天敵。

 これだけで怪物の正体にかなり近づくことが出来たのではないか。

 

「……それが何かを知っている、という事でいいのかい」

「無論だ。知らぬはずがない。繰り返そう、あれは儂らの天敵だ。あれが学校を這いずる気配を感じる度に、ハグリッドにここから出してくれと懇願したことはよく覚えている」

「なるほど」

 

 アラゴグが時折ハサミを打ち鳴らしている様が食卓で食器を鳴らす子供のように見える。いや、見えるどころかまさにその通りなのだろう。視線は感じないが、気配が雄弁に物語っている。あれはハリーらを食物程度にしか見ていない。

 得るべきものはすでに手にした。ならばここを離れるのが得策だ。

 

「わかった。ありがとうアラゴグ。この情報を以ってして必ずハグリッドを助けよう」

「うん? それはつまり帰るということかね」

「ああ、そうだ。ハグリッドのためには長居する選択はない」

「それは出来ぬ相談だ、ハグリッドの友人。久方ぶりの新鮮な肉である。むざむざ我らが食卓に飛び込んで来おった夕食を、逃す手はなかろうて」

 

 うーん、やっぱりこうなったかぁ。

 ハリーは引き攣った笑みと共に杖を抜き放ち、アラゴグへ向ける。

 先ほどからハリーを抱きしめて震えていたロンを振りほどけば、彼が怯えていた理由がはっきりとわかった。あまりわかりたくなかったが、そうも言ってはいられまい。

 囲まれていたのだ。大なり小なり、アラゴグの子孫かまたはその類。アクロマンチュラなのかはたまた別種のものなのか、兎にも角にも巨大な蜘蛛がうじゃうじゃと。

 これにはさすがにハリーも全身の肌が粟立った。

 嫌悪感だけではない。死の危険すら感じる。現にアラゴグはいただきます宣言をしているのだ。

 逃げなければ死ぬ。

 

「彼は妻モサグのみならず、よく馳走をも持ってきてくれたものだ。彼に感謝していただこう。さらば、ハグリッドの友人よ」

「……そうかい。ならお仲間が殺されても文句はないね」

「出来るものなら」

 

 ハリーの啖呵とアラゴグの宣言が終わるや否や、上空から糸を使ってぶら下がってきた蜘蛛が、その巨大な顎でハリーの首を食い千切らんと飛び掛かってきた。

 それに対してハリーは慌てることなく杖を振って見よう見まねで呪文を唱える。

 激しい感情をこめて、魔力をブーストさせての一撃。

 

「『アラーニア・エグズメイ』!」

 

 ハリーの杖先から飛び出した純白の魔力反応光は、蜘蛛の眉間に直撃するとその命を奪い去った。

 恐ろしい効き目だ。

 不思議と絶対に失敗しないと確信していたが、この呪文は蜘蛛に対して絶対の効果がある。

 一撃で仲間が葬り去られたのを見て、蜘蛛たちは一瞬たじろぐ。

 その小さな隙を見逃すようでは、ハリーは今まで生きてはいない。

 即座に杖を振って、極限まで魔力を込めて口を開いた。魔力式が体内エーテルを通して、全身に行き渡る奇妙な感覚を味わった。冷たい飲み物が喉を通る感覚に似ているかもしれない。ハリーは高揚感のまま、呪文を叫ぶ。

 

「『アニムス』、我に力を!」

 

 途端、ハリーの全身が淡い青の光に包まれた。

 全身に力が漲る、不思議な感覚だ。感覚が鋭敏になって、空気の流れが肌で分かる。

 背後から肢を振り上げた蜘蛛の胴体を蹴り飛ばすと、爆破されたかのようにばしゃりと四散する。その破片や体液が地に落ちる前に動き、手ごろな大きさの蜘蛛をサッカーボールのように蹴り飛ばした。数十匹をなぎ倒してボールが吹き飛んだ先には、不恰好ながらも逃げ道が出来上がっている。

 杖を抜こうとしているロンを無理矢理に背負うと、ハリーは脱兎のごとく駆け出した。

 普段なら自分より二〇センチ近く背の高いロンを背負うなど無理な話だが、魔力によって身体強化がなされている今ならば話は別だ。青白い軌跡を残して風のように疾駆し、襲いかかってくる蜘蛛たちからあっという間に遠ざかる。

 身体強化呪文。これは異常なまでに習得難易度の高い呪文で、使える状態になるまでに一年以上かかった。それでも相当に速い習得だと自負している。だがそれでも完璧に使えるようになったわけではない。魔力を常に消費する呪文ではあるが、熟練者ならば自動で回復する量が消費量を上回るため、半永久的に使えるようになるとされている。しかしながら慣れぬ魔法であるため魔力運用が下手糞なのか、今のハリーでは燃費が悪いらしい。保ってあと数分だろう。

 風を追いこしての疾走中、蜘蛛の肢が地に擦れるカサカサという音を捉えた。まさか、もう追いついてきたのか。いくら地形を考えて多脚の方が疾駆に際して有利とはいえ、あまりにも速すぎる。

 

「ハリー! 奴ら木に糸を撃ち込んでこっちに来るよ!」

 

 ロンの絶叫を聞いてようやく分かった。

 蜘蛛の糸は魔法的な意味合いから見れば、魔法薬を整える役割などを持つ。だがマグルとして科学的な側面から見ると、同じ太さで考えた場合でも鋼鉄の約五倍以上であることが知られている。その強靭な糸を以ってして、木々に撃ち込み、それを戻す力で身体を引っ張って加速しているのだ。

 畜生のくせに良く考えるものだ。

 

「わっ、うわっ! 後ろだ!」

 

 背中の上から響く絶叫に反応して、ハリーはスライディングのように身体を滑らせた。

 ロンの赤毛をいくつか引き裂きながら、蜘蛛の巨体がすれすれを跳んでゆく。まさかまさかとは思っていたが本当に追いついているとは恐れ入る。ハリーはウィーズリー家のフォード・アングリアが恋しかった。

 ロンドンの高速道路を走ったところで違和感のない速度で疾走するハリーは、ここにきて跳んでくる蜘蛛の顎を避けながら走り続けるという苦行を強いられることになった。

 二本脚を持つ人間である以上、舗装されていない走りづらい地形はそれだけで多脚を誇る蜘蛛たちに有利な上に、地の利は完全に向こうにある。

 ほぼ長距離を跳ぶようにして走るハリーの横を並走する、巨大な蜘蛛が現れた。まず間違いなくアクロマンチュラである。アラゴグは落ちついた性格だったので目にする機会はなかったが大分興奮しているようでハサミをがちゃがちゃと打ち鳴らしている。

 そのハサミがハリーに振るわれるも、ハリーはハサミの付け根を蹴り飛ばす事で難を逃れる。そしてその蹴り飛ばした勢いでアクロマンチュラの肢がもげるものの、それを犠牲にしてハリーは距離を稼いだ。

 着地する前にハリーの足元に滑り込んできた奴を下敷きに、ハリーは跳びかかってくる蜘蛛を次々と足場にして跳躍する。木々をの高さを越えるほどにまで跳び続け、幾匹目かのアクロマンチュラを蹴って跳んだ瞬間、ハリーは全身から力が抜け出て霧散するのを感じた。

 身体強化呪文の時間切れである。

 

「くっ! ロン、ぼくにしっかり抱きついて! 『グンミフーニス』!」

 

 ロンに警告すると同時に、杖から光の縄を出して木の枝に撃ち込んだ。

 まるでバローズのターザンのように木の枝を伝ってロープアクションで逃げ続ける。

 だがハリーの腕は十二歳女子のそれであり、自分の体重とロンの体重を支え切れるほどの腕力はない。縄魔法の効果によっていくらか補助はあるものの、身体能力強化によって出したスピードからの遠心力に耐え切れるほどではない。

 杖を手放すまいと必死になっていたところ、ロンがハリーに向かって叫びをあげた。

 

「飛び降りて!」

「ええっ!?」

「いいから、飛び降りるんだ。僕を信じて!」

 

 血迷ったかとも思ったが、彼はこんな場面で嘘をついたり冗談を飛ばす男ではない。

 ハリーは親友の言葉を信じて縄魔法に供給していた魔力を打ち切り、重力に任せたまま落下する。

 時速一〇〇キロ以上は出していただろう、着弾するように地面に叩きつけられたら中身をぶちまけて死んでしまうだろうなという思いは杞憂に終わった。巧みに衝撃を逃がすようにして受け止めてくれたものがいたからだ。

 

「大丈夫ですか。ハリー・ポッター」

 

 蹄の音。

 状況がうまく呑み込めないハリーは、ひとまず周囲の光景から情報を得る事にした。

 まず、自分たちは死んでいないらしい。

 次に、自分たちを受け止めてくれたのはこの上半身裸の男のようだ。

 最後に、自動車のような速度で走っていたハリーにすら追いついていた蜘蛛どもをあっさりと引き離す猛スピードを誇る半裸男の脚を見てみれば、馬の下半身がついていた。

 ケンタウルスだ。

 まさか。彼らは気位が高く人を背中に乗せるようなことはしないはずなのに。

 

「フィレンツェ! ……でいいんだよね」

「そうですロナルド・ウィーズリー。ヒトにはわからないでしょうに、よく見分けがつきましたね」

「そりゃあ、まあ。僕らを乗せるケンタウルスに心当たりは君しかいない」

「そうでしょう。星が示す黒白の御子を死なせるわけにはいきません」

 

 どうやらこの二人は知り合いらしい。

 なんでも昨年度に森で受けた罰則のとき、ハグリッドと怪人(正体はクィレルだったが)との戦闘音を聞きつけてやってきたケンタウルスを宥めてくれたのが、彼なのだとか。その時ハリーは気絶していたので知らなかったのだ。

 命からがら森から逃げ延びた二人は、森の入り口でフィレンツェに礼を言う。特に何よりも大嫌いな蜘蛛の魔の手から助けてくれたロンは感涙せんばかりの勢いだった。

 フィレンツェは愛しい我が子に対するように二人の頭を優しく撫でると、言う。

 

「今夜も、火星が明るい」

「火星が? ケンタウルスは星読みが得意だって聞いたけど、それのこと?」

「ええ。黒白の御子よ、気を付けなさい。火星が明るいのですから」

「ごめんよフィレンツェ。ぼくは天文学に明るくないんだ。その意味を教えてくれるかな」

「つまり、火星が明るいということです」

「駄目だこいつ話が通じねえ」

 

 もう一度心からの礼をフィレンツェに言うと、二人は城に戻った。

 透明マントを持ってきていて本当に良かった。姿を消して城に入り込む際に、すぐそばの廊下をマクゴナガルが酷く慌てた様子で走り去っていったからだ。こんな夜更けまで外にいて、かつ禁じられた森にいたのだ。見つかっていればどれほど減点されていたか。

 城の中は落ち着かない空気に塗れており、何やら誰もが慌ただしい。

 二人のいない間に何が起きたのかと不思議に思っていると、ハッフルパフのアーニー・マクミランが見えた。彼も何やら走り回っていたようで息を切らしており、ハリーを見ると悲痛な声を上げた。

 彼もハリーを秘密の部屋の継承者だと信じていたクチであり、それによって悲鳴を漏らしたのだろうかとハリーは憂鬱な気分になったが、それは間違いであった。

 走り寄ってきたアーニーが、ハリーの目の前で地に額を擦りつける勢いで頭を下げたのだ。

 

「ごめんなさいハリー! 僕は、僕はなんて過ちを!」

「ど、どうしたのアーニー。頭を上げてくれ」

「本当にごめんなさい、君を疑っていたのは間違いだったんです。君が彼女を襲うはずがないって分かっていたのですが……、ごめんよ、ごめんよう」

 

 涙ながらに謝り続けるアーニーの肩を叩きながら、ロンが問いかける。

 

「彼女を襲うって、まさかまた怪物の被害者が出たのかい」

「し、知らないのですか! 君たち今までどこにいたんですか!?」

 

 ロンの問いかけにひどく驚いたアーニーに連れられて、ハリーらは医務室へ急いだ。

 マダム・ポンフリーが《泡頭呪文》をハリーたち三人にかけると、彼女らの頭のまわりに分厚く巨大なシャボン玉が現れた。マダム曰く、風邪は感染者の唾や気化した汗などが口に入ることで感染するものなのでこうした措置が必要なのだとか。

 奇妙な姿になった二人が医務室に入れば、そこは今や、戦場のような有様であった。

 風邪をこじらせたのか、あちこちで咳が響いて熱にうなされる者が大勢寝込んでいる。

 いつもは八つほどあるベッドも、三倍以上増えており、心なしか部屋そのものまで広くなっているような気がする。恐らくこれもホグワーツそのものにかかった魔法だろう。

 その中でいくつかカーテンの閉められたベッドがあった。

 ハリーはそのうちの一つに、見覚えがあった。コリンのベッドだ。つまり秘密の部屋の怪物に石のように固められてしまった者達が安静にしているベッドなのだろう。

 アーニーはそのうちの一つに歩み寄って、カーテンに手をかけるとハリーとロンの方を向いた。その顔は悲痛に満ちており、そして申し訳ないとも思っている顔であった。

 

「……開けてくれ」

 

 言葉を選ぼうとしていたアーニーを気遣って、ハリーはそう言い放つ。

 目を伏せたアーニーは黙ったまま、白いカーテンを開けて中身を見せてくれた。

 それを目にした途端、ロンが腹の底からの絶叫をあげる。

 

「ハーマイオニーッッ!」

 

 ハリーは絶句していた。

 猫化してしまって一ヵ月は安静だったはずの彼女が、なぜ。

 ハーマイオニーは目を見開いて、右手を突き出した形でそのまま固まっていた。

 どこから見ても完全に硬化しており、ハリーが彼女の手を触ってもまるで人肌の鉄を触っているような感触だった。ここ最近、毎晩のように抱きしめてくれた彼女の柔らかさなど欠片もない。

 涙を我慢するロンの横で、ハリーはほろほろと涙を流していた。

 死んだわけではない。スプラウト先生が調合しているマンドレイク薬が完成したならば、すぐにでも彼女は元に戻るだろう。だが、涙が止まらない。何故こんなにも悲しいのだろう。

 アーニーがおろおろする横で、ロンに差し出された少し薄汚れたハンカチで涙を拭う。

 

「ハーマイオニー、何か持ってるね……」

「何でしょう。紙切れのようですね」

 

 アーニーとロンの会話が、耳に入ってこない。

 何故、彼女が襲われなければならなかったのか。

 マグル生まれだからか? スリザリンの純血主義はそういった者に牙を剥くのか。

 だが、その説は否定する。

 ハーマイオニーの隣のベッドに寝かされているのは、監督生のマーカス・フリントだ。

 彼はスリザリン生であり、立派に純血の一族である。純血主義者でもあった。

 どこかのベッドで寝かされているはずのパーシー・ウィーズリーも純血だ。マグル生まれに手を差し伸べる、魔法界では珍しいタイプであるため純血主義とは真っ向から対立する家系ではあるが、それでも現代の英国魔法界では絶滅しかけている純血の一家であることに違いはない。

 何なんだ。

 スリザリンの継承者が生徒を襲っている、その基準がわからない。

 

「ロン、ローン! ここにいたんだ、探したよ!」

 

 驚きに飛び上がった。

 そういえば先の状態で夜だったのだから、今では間違いなく深夜だ。外出禁止時間どころか、寮の外に出ていい時間すら過ぎている。先生に見つかればただでは済まないだろう。

 だが聞き覚えのあるこの声は、ネビルのものだった。

 

「ネビル? どうしたのさ」

「たっ、大変なんだよロン! 今すぐ来てよ!」

 

 アーニーに別れを告げ、三人は大急ぎでグリフィンドール寮まで飛んで行、こうとしたところマダム・ポンフリーに捕まった。マダムによって念入りに全身を消毒されたあと、ハリーも一緒にロンたちの部屋に飛び込んだところ、そこには酷い光景が待っていた。

 ずたずたにされた枕に、引き裂かれた毛布。勉強机は大して使われた形跡がないため綺麗なものだったが、それも見る影もなく大破していた。引き出しは無造作に引き抜かれ、ほとんどの中身が床に散乱している。

 教科書類も残らずぐちゃぐちゃになっており、インク壺が倒されて真っ黒に染め上げられているではないか。羽ペンに至っては予備も含めて真っ二つに折れてしまっている。

 

「な、なにこれ!?」

「僕たちが夕食を終えて戻ってきたときにはこうなってたんだ……。悪戯にしてはひどすぎるよ。ロン、何か取られちゃったものとかないかい?」

「取られるようなものはないと思うんだけど……貧乏だし」

 

 ロンたちががさごそと荷物を調べているときに、ハリーは一点を見つめていた。

 インクがこぼれて真っ黒く染まった床。

 その一点だけは、インクがまったく付着していなかった。

 まるでスポンジで吸い取ったかのように四角く切り取られたそれは、ひとつの事実を指している。

 

「ロン」

「なんだいハリー、何か気付いた?」

「日記がないぞ。リドルの日記だ」

 

 慌てたロンが確認したところ、確かにリドルの日記だけがなかった。

 インクを吸い込む性質があることは確認済みだ。あそこに日記が置かれていたのだろう。

 あれは危険なものであるということはハグリッドとの会話ではっきりした。

 そんなものを狙ってこのようなことをする者とは、何者なのか。

 答えなどひとつしかない。

 

「継承者、か」

「じゃあ継承者ってグリフィンドール生なの!?」

 

 ネビルがショックを受けた顔で項垂れるのを、ハリーは頭を撫でて慰めた。

 彼が落ち込むのも、ひとえに彼の優しさゆえだ。

 同じグリフィンドールの仲間たちを疑わなければならないという気持ちは、優しすぎるネビルには耐えられないものなのだろう。ロンもネビルの肩を叩いて優しい言葉をかけていたが、次の瞬間響いた大声に誰もが飛び上がった。

 

『生徒は全員、ただちに寮へ戻りなさい。先生方は至急、職員室前まで集まってください。繰り返します――』

 

 マクゴナガルの声だ。

 何かあったのだろう。ひょっとしたらまた誰かが襲われたのかもしれない。

 しかしそれならば、継承者がリドルの日記を奪った可能性があることを伝えないとまずい。

 ハリーとロンは顔を見合わせると、寮から飛び出した。

 扉の先でぶつかりそうになったのは、フレッドとジョージだ。

 

「ウワッ!」

「危ないぞロン!」

「そうだぞロン!」

「ごめんよ二人とも! ロン、急いで!」

 

 二人に謝って駆け抜けようとするも、がっちりと掴まれてしまって身動きが取れない。

 ロンが暴れるも、何をしようとも抜けられる感じではなかった。

 

「待って、待って二人とも。ぼくたち急いでるんだ、間に合わなくなっちゃう」

「職員室に行かなくっちゃいけないんだよ! 離せフレッド、ジョージ!」

「おやおや。そいつは奇遇だね。職員室なら僕らも呼ばれてるぜ。ロンもな」

「そうそう。とんでもない偶然。職員室まで連れて来いって言われてるんだ」

 

 二人に組みつかれながら歩いたところ、どうやら二人はロンを職員室まで連れてくるように言われていたらしい。

 三〇センチ以上は身長差のある二人に両腕を捕まっていると、まるでFBIに捕獲された宇宙人のような気分を味わえる。だがそんな気分は今味わうべきものではない。

 るんたるんたと奇妙なステップを踏まされながら辿り着いた職員室前の廊下は、まるでお通夜のような雰囲気であった。異様な空気にさすがのフレッド・ジョージも黙り込み、大人しくマクゴナガルの前まで四人で進み出た。

 四人に気付いたマクゴナガルは、一瞬ハリーに目を向けるも「まあ無関係ではないですし」と呟いて話を始める。

 

「ウィーズリー兄弟。そしてポッター。心して聞いてください」

 

 そう始めたマクゴナガルの顔は、悲壮に満ちたものだった。

 否応なしに悪いニュースであることが伝わってくる。しかもこの面子。

 ハーマイオニーのことかとも思ったが、それだとフレッドとジョージまでわざわざ呼ばれた意味がわからない。いったい、なんの――

 

「秘密の部屋に、生徒が連れ去られました。……ジニー・ウィーズリーです」

 

 ロンの脚の力が抜け、膝をついてしまう。

 倒れないようハリーが慌てて支えるものの、彼女自身も内心ひどく驚いていた。

 乾いた笑い声を漏らしたジョージが、「エイプリルフールはもう過ぎただろう」と呟く。

 双子であるが逆の反応を示したフレッドが、マクゴナガルに食って掛かった。

 

「そういう冗談は面白くないですよマクゴナガル先生。やめてください」

「……事実です。これをごらんなさい」

 

 マクゴナガルが廊下の角を曲がり、壁を示した。

 そこにあったものを見て、四人は絶句した。

 血文字だ。

 秘密の部屋が開けられた時のように、血文字が塗りたくられていたのだ。

 乱暴な書体で、かつ細い文字で書かれているのは恐ろしい文句であった。

 

――継承者の敵よ、絶望せよ。じきにホグワーツは闇に統一される。

  糧となりしジニー・ウィーズリーの屍は、永遠に秘密の部屋で横たわるであろう――

 

 信じないぞと怒りだしたフレッドと、悲観して目元が潤み始めたジョージ。

 愛する妹が失われるかもしれないと絶望した表情のロンと、俯いて苦痛に耐えるハリー。

 家族が失われるかもしれないというのは、ここまでひどい感覚だったのだろうか。

 ハリーは自分の両親が死んだときの記憶はないが、妹のようにかわいがっていたジニーがこんな目に逢ってしまったというだけでこの感覚なのだ。本当に血のつながった家族である彼らの想いは、ハリーには想像もできない。

 希望を失った親友を慰める言葉をかけることもできず、ハリーはただロンの手を握ることしかできなかった。

 

「そ、そうだ。マクゴナガル先せ――」

 

 この空気に耐えきれなかったハリーが、リドルの日記のことを報告しようと声を出した、

 その時。

 

「んお待たせいたしましたァ――んッ」

 

 陽気な声が廊下に響いた。

 白けた顔や怒りに燃えた顔が向けられるも、彼にとってスポットライトと然して変わらないのだろう。ハンサムな甘いマスクを自慢げに輝かせながら、煌びやかなローブを揺らしてモデル歩きでこちらへ来る。

 ギルデロイ・ロックハートだ。

 

「髪のセットに手間取ってしまいましてねえ。んふふ。……んで、何のお話で?」

「………………」

「………………」

「おんやぁ~? どうなされましたみなさん。元気がないですねえ。そうだっ! ホラ、私の笑顔を見れば元気ハツラツ! 輝くスマイルの前では泣き妖怪バンシーも裸足で逃げ出していきますからね! はっはっは!」

「…………………………」

「…………………………」

「おやおや、本当にお元気がありませんね。あ、ひょっとして秘密の部屋の怪物のことが不安なんですかぁ? だーいじょうぶでっすよーぅ、アレは老いによって死にかけだと職員会議で判明したじゃーなーいでーっすかーぁ。魔法戦士団も呼んだことですし、来週にもなればもう恐れることは無くなってみんなハッピーになりますよぉう! ほーらほら、笑顔えがおっ! 輝く笑顔はハンサムの証っ、ギールデルォォォイ・ロッ――」

「ああ、ああ。ギルデロイ。英雄、ギルデロイ」

 

 ロックハートの鬱陶しさが最高潮に満ちた時、ねっとりした猫撫で声がかけられた。

 スネイプだ。

 散々嫌っていたロックハートに自ら声をかけるとは、とハリーが驚く中、猫撫で声はロックハートの心をくすぐり始めた。ハリーはこれに覚えがあった。彼お得意の、上げて落とす殺法である。

 

「ミスターはずいぶんと怪物退治に精通していらっしゃるようで」

「ええ! もちろんですよっ! ウーン、スネイプ先生……いやっ! スネイプ()()も、やぁーっと私の魅力に気づくことが出来ましたか。先生喜ばしい限りですよぉ、うんうん! サイン欲しいですかぁ?」

「……。おお、それは有り難いですな。しかし我輩らが今欲しているのは別の物であって」

「サインいらないんですかぁ? んもう、もったいないですねえ。損しますよ、スネイプ」

「…………。あー、うむ。我々としては、今回は君の出番だと思いましてね。ぜひとも協力を仰ぎたいのだ」

「ああーっ、そうですかー! 皆々様では力不足ゆえ、この私ッ! んルォックハァァァ――ンッ、ト! に、頼りたいというわけですかぁそーぉうでっすかぁーん。いやー、力がないことを素直に認めるとは私にはできない偉業です。自慢してもいいですよっ! ところでホントにサインいらないんですか?」

「………………。秘密の部屋に生徒が連れ去られた。貴殿の出番ですぞ、ギルデロイ」

「ンッンー、セブルスが私のファンになったということは一曲披露する必要がありますよね。えーっと、ホグワツ海峡冬景色。心を込めて、歌いま……、……なんだって?」

「怪物が出たからさっさと倒してこいと言っているのですぞギルデロイさぁ早く行きたまえ君の英雄譚をみな楽しみにしているのだ君は常々言っておりましたな怪物など私にかかればフォフォイのフォーイと言っておりましたなええ言っておりましたとも忘れたとは言わせませんぞロックハートでは行きたまえさっさと行きたまえ今すぐに吾輩の視界から消えて何処へなりとも消えうせるといい」

「え。あー。それは。えっと、ですね……ハッハー! そう、君はきっと緊張してい」

「行け」

「ハイ」

 

 いつもの輝くスマイルも、曇って見える。

 彼の頭の中はいつもお花畑でピクシー妖精がきゃっきゃうふふしていただろうが、ここまで面と向かって悪辣に言われてしまったら、都合よく脳内変換もできなかったのだろう。

 勘違いとはいえ今まで仲の良いお友達だと思っていたスネイプの裏切りに、かなりショックを受けてしまったようだ。とぼとぼ去り行くロックハートの背中は、なんだか哀愁が漂っていた。

 そんな彼の背中を眺めるスネイプの口元がゆがんでいるのは、やはり彼の感性も歪んでいると言わざるを得ない。

 

「ウィーズリー兄弟にポッター。寮へお戻りなさい。ジニー・ウィーズリーのことは、魔法戦士団を呼びました。明日から明後日には到着するよう急がせます。どうか、彼女の無事を祈ってあげてください」

 

 スプラウト先生の優しい言葉と、マクゴナガル先生の心底心配した顔で四人は寮に戻ることにする。

 すっかり意気消沈してしまったジョージを慰めるため、片割れのフレッドとともに部屋へと戻っていく。その背中に、ハリーは声をかけることができなかった。

 しょぼくれてしまったハリーの肩に、誰かが手を置く。

 少し驚いて振り返れば、そこには真面目な顔をしたロンがいた。

 

「ハリー」

 

 ロンが小さく呟く。

 彼の心はまだ折れていない。

 その意思は瞳に表れており、彼のブルーは勇気にあふれている。

 何故だろう、親友の背中がすこしだけ大きく見えた。

 

「行こう。僕たちが行かないで、誰が行くんだ」

 

 ハリーは親友の顔を見た。

 怒りに震えているだとか、自棄になっているだとか、そういう顔をしていない。

 勝算があって言っている確信のこもった表情をしていた。

 それは不思議でならない。

 怪物の正体もわからない、どうやって生徒を石化していたのかすらわからない。更には秘密の部屋の場所すらわかっていないというのに、何故こんなことが言えるのだろう。

 

「ロン。ぼくだってジニーのため助けに行きたいけど、でも情報がなさすぎる」

「それは、移動しながら説明するよ」

 

 談話室に置きっぱなしだったフレッドの鞄から何やらごそごそと漁りながら、ロンは言う。

 とりあえず彼に従ってローブを羽織り、出かける準備を済ませたハリーは彼の行動を観察した。

 どうやら双子が作った悪戯用品を持ち出すようだ。

 

「行こうハリー」

「何を取ったんだい」

「《気配消失薬》。フレッドとジョージの奴が、悪戯のために相手を後ろから驚かすためだけに開発した……というか既存の物を改造した魔法薬だよ。必要になると思ってね」

「……あの二人は本物の天才(バカ)だな」

 

 呆れながらも、二人は廊下を走る。

 絵画の中から時折怒られるものの、相手にしている暇はない。

 ロンが向かっている先は、闇の魔術に対する防衛術の教室。

 なるほど。

 目当てはロックハートか。

 

「先生!」

 

 ロンが初めて彼を先生呼ばわりするのを耳にしながら、二人はほとんど蹴破るようにして扉を開けて中に転がり込んだ。

 果たしてその中には、あらゆる荷物をトランクに詰めている最中のロックハートがいた。

 ……これから怪物退治に行こうとする恰好ではない。

 まさかとは思うが、この男は。

 

「……何してるんだ」

「ん? ああ、ハリーに……誰だったかな。まあいいや。私これから出かけるんですよ」

「僕の妹はどうなる!? あんた逃げるのか!」

「ハハハ! 逃げるだなんて、とんでもない! あまり私を馬鹿にしないでほしいですね!」

 

 派手な意匠の服を次々とトランクに詰め込んでいくロックハートの姿からは、全く説得力がない。

 逃げる準備を万端にしておいて逃げるわけがないなどと、よく言えたものだ。

 

「あんたあんなに多くの事件を解決してきた魔法戦士なんだろう!? 何弱気になってんだよ!」

「君たちは子供だ。あまりにも純粋だから、あんな作り話を信じるんだよ」

「な……」

 

 ばたん。と最後のトランクを乱暴に閉じて、ロックハートは振り返る。

 その顔に笑顔はなく、ハンサムなそれも幾分か老け込んでいるように見えた。

 

「あれをすべて私の実体験だと思ったのかい。私は小説家だよ、冒険家じゃない。いくつかはフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。ってやつさ」

「そんな、まさか。あんな華々しい活躍が、全部ウソだったのか……?」

「いや、いや。そんなこたぁーない。作品にはリアリティが必要でね、あれらは実際にその事件を手がけた魔法戦士たちの話をつぶさに聞いて、そしてハンサムで世間ウケする私を主人公として書いたのだよ。物語として面白くなるよう、かなりの誇張を入れてね」

 

 恐ろしい独白だった。

 ロックハートの手がけてきた実体験録は、つまり他人の活躍だったのだ。

 他者の手柄を奪って己の物としたその心境はいかほどか。

 それは彼の顔を見ればわかる。

 

「だいたいおかしいでしょう。魔法生物は危険でいっぱいなんですよ。トロールやおいでおいで妖精ですら、危険に満ち溢れている。吸血鬼なんてもってのほかだ、人間が敵うわけがない」

「……、…………」

「だから私は逃げる。ある程度の魔法生物ならば嘘吐きの私程度でもなんとかなるでしょう。しかし、今回ばかりは敵うはずがありません。だから逃げます。命は惜しいのです」

「……あん、た。いや、おい。あんた、教師だろう。子供を見捨てるのかよ」

「あ、思い出した。君の名前はウェーザビーくんですね。ウェーザビーくん、教師が何か別の生き物と勘違いしてませんか? 同じ人間で、君たちが成長したその延長線上にいるただのヒトなんです。それに私が雇われた時の契約に、『命がけで怪物と戦う』なんて職務内容はありませんでした。つまり、私がやる必要はない」

 

 愕然とした。

 ロンのみならず、ハリーにとってもこれは衝撃的だった。

 マクゴナガルを初めとしたホグワーツの教師陣は、なによりも生徒のことを一番に考える人ばかりだ。それは大人として子供を導くことへの責任感もあったことだろう、教師という他者にものを教える仕事への誇りもあったことだろう。

 それゆえ、彼女らを基点として考えた場合は考え方が固定されてしまうのだ。

 大人は、責任ある者。

 教師は、子を導く者。

 ロックハート曰く、大人とは成長しただけの子供であり、違いはないのだと。

 理解できる主張ではある。だが納得はできない。

 

「ですから、私は行きません。教職も本日限りで辞めます。世間の目と自分の命、天秤にかけたらどちらに傾くかは明白でしょう? 家族が浚われた君たちには悪いと思います。ですが私には力不足なんですよ。犠牲者一覧に死体がひとつ追加されるだけです」

「だから、逃げると」

「そうです。情けないでしょう? ですがこれが本物の大人なんですよ。ここにいる教師はみな頭がおかしい。ただの仕事なのに、命までかけている。そんな人生、楽しくなんてないでしょうに」

 

 喋りながらもロックハートに油断はなかった。

 不意に動き出した彼にロンの警戒心が最大限に高まったが、遅かった。

 ロックハートは腰から引き抜いた杖をロンの眉間に突きつけて、嫌そうに言う。

 

「申し訳ありませんが、ここまで聞いたからには記憶を失ってもらいます。なに、私は《忘却術》だけは得意中の得意でね。一切の後遺症を残さず、私に関する記憶のみを忘れてもらいます。すまないね、ウェーザビーくん。あとハリーも君と同じよう、に……。あれ? ハリーはどこに行っぎゃおあばがぼげほにゃ!?」

 

 突然奇妙な悲鳴をあげて倒れたロックハートから、ロンは目を逸らした。

 両手で股間を抑えてぶくぶくと口から泡を吹いている光景は、同じ男として見ていられない。

 右脚を振り上げた格好のハリーが、満足しきった実に魅力的な笑顔をしているが、ロンからしたら悪魔にしか見えない。ロックハートにとっては言わずもがな。

 びくんびくんと悶えるロックハートに対して、ハリーは冷たく言い放つ。

 

「さ、行きましょうか先生。次のお仕事はぼくらの肉の盾ですよ」

「あばうごえば。うぎぎぎぎょうぎょう」

「ああ、ご心配なく。報酬はあなたの命です。さっさと立ってください、次は踏み潰しますよ」

 

 こめかみに青筋を立てたハリーの横に並びたくないロンは、彼女の斜め後ろを楚々と着いてくる。ロックハートに至ってはひょこひょこ歩きの上に、ハリーによって背中に杖を向けられているのだ。

 ロンの指示に従って歩き、たどり着いたのは三階の女子トイレだ。

 確かここは、ハーマイオニーとロンがポリジュース薬を作っていたトイレだ。

 そこでハリーは閃いた。

 アラゴグの言っていた情報と、年代。そしてあの時ちらりと見たゴースト。

 記憶のパズルがつながっていき、一つの図面を作り上げる。

 

「ああ、なるほど。ここが――」

「うん。そうだよ、ここが秘密の部屋への入り口だ」

 

 五〇年前に、秘密の部屋は開かれている。

 その際に、一人の女子生徒が殺されてしまった。

 運悪く別の怪物を育てていたハグリッドが犯人として処分された。

 その怪物であるアラゴグ曰く、女子生徒が殺された場所はトイレとのこと。

 そして、その亡くなった女の子が、今も変わらずそこにいるとしたら。

 女の子が、ゴーストとなってまでこの世に留まっているとしたら。

 嘆きのマートルが、事件のすべてを知っているとしたら。

 

「やあ、マートル」

「あぁら。ロンじゃないの。まーたヘンな薬作りにきたのん?」

「今日は違うよ。ちょっと聞きたいことがあって」

 

 マートルの媚びるような声色に、ハリーは察した。

 あ・これ恋する乙女の声だ、と。

 マジかよ、とハリーは幾度目になるかわからない溜め息を漏らす。

 ロンは意外とモテると思ったが、まさかゴーストにまで惚れられているとは。

 それでいて本人は自分を三枚目と思っているから、自分はモテないとまで思っている。

 ダドリーの見ていたアニメ曰く、ドンカンケイというらしい。

 

「あぁらん。なんでも答えてあげるわ」

「じゃあ、思い出すのも嫌だろうけどさ。君が死んだときのことを聞きたいんだ」

 

 少女のゴースト、マートルは少し嫌そうな顔をしたが、それでも嬉々として話し始めた。

 五〇年前のあのとき、同級生の女の子にニキビについてからかわれてトイレで声もなく泣いていたとき、男の子の声が聞こえてきた。ここは女子トイレなのにいったい何をやっているのかと思うと、悲しさが吹き飛んで怒りが湧いてきたマートルは、文句を言うために個室のドアを開けて、

 前触れもなく死んだそうだ。

 自分が死んだときの気持ちをつぶさに説明していくうちに哀しくなったのか、大粒の涙を流しながらどこかへと飛んでいき、個室トイレからばっしゃーんと派手な音が響いた。……まさかとは思うが便器の中に逃げ込んだのだろうか。いや、まさかね。

 

「ところでマートル、君に紹介したいんだけど」

「そこの女の子のことなら言わなくていいわ」

 

 今後も会う可能性を考えて、ロンがマートルにハリーのことを紹介しようとするも、取りつく島もなかった。というか便器の中から声が聞こえてくる。ああ、本当にその中に入っちゃったのね。

 

「え、何でだい」

「その女は将来、巨乳になる気配がするわ。きぇーっ、あたしの敵よぉ!」

「知ったことか!」

 

 マートルが立ち去った後、ハリーはロックハートを縛り上げてからロンと手分けしてトイレ内の怪しいところを調べてみた。

 個室ひとつひとつ、便器ひとつひとつ、そして鏡など。

 ハーマイオニーに教えてもらったらしい、化けの皮を剥がす呪文をロンが連発して異常がないかを調べるも、そのすべてが不発に終わった。

 汗をかいたロンが蛇口から水を出して顔を洗っている。春も終わりごろ、今年度も終わりごろだというのに、今年もまたとんでもないことに巻き込まれてしまった。

 ふとロンが驚きの声を上げたので、ハリーは振り返る。

 水浸しの顔を拭くのも忘れて、興奮した様子で彼が示すものを見てみれば、蛇口には蛇のレリーフが彫られていた。おそらく、ビンゴだ。他に怪しいところはないが、蛇の目にスリザリンのシンボルカラーであるエメラルドが埋め込まれているとなれば、まず間違いないだろう。

 さてどうやって秘密の部屋への入り口を開けるかが問題だ。

 継承者しか開けない、というからには何か特別なことしなければいけないのだろうか。

 《開錠呪文》は当然効かない。ひょっとして闇の魔術でも使わないといけないのか?

 

「あ、そうだ。ハリー、蛇語でなんか言ってみてよ」

「え?」

「スリザリンの継承者っていうくらいだから、蛇っぽい何かをしたら開くかもしれないだろ」

 

 大雑把なその意見を採用したことに関して、何らかの思惑があったわけではない。

 ハリー自身、他の方法を思いつかなかったからだ。

 

「んー、ごほん」

「蛇語? 彼女は蛇語使いなのかい?」

「ちょっと黙ってなよロックハート」

【集中できないんだけど】

 

 思わず蛇語で言ってしまったが、何も起こらなかった。

 ……仕方ないのでもう一度だ。ロックハートの脛に蹴りを入れてから、ハリーは言う。

 

【開け】

 

 しゅーしゅーと空気の漏れるような音が唇を滑る。

 がごん、と重々しい音を立てて円筒状にデザインされた蛇口たちが割れて、石を擦る音と共に展開していく様は驚きの一言に尽きた。無機物が勝手に動くホグワーツに居て何をいまさら、とは思うが、なんの魔力も感じない目の前の仕掛けに驚くなという方が無理だ。

 花が咲くように変形したトイレの一角には、いまやぽっかりと大口を開けた穴があった。

 黒い。そして、底が見えない。

 ある程度の深さがあると見た方がいいだろう。

 

「うーん、何メートルあるんだろう」

「こればかりはちょっと分からないね。ハリー、こういうのを計る魔法って知ってるかい?」

「知ってるには知ってるけど……ちょっと使えないな。こんなことなら習得しておくんだった」

 

 だが。

 こんな時こそ役に立つ、便利な道具があるではないか。

 

「おいロックハート。飛び込め」

「ほあ!?」

 

 嗜虐的な笑みを浮かべるハリーに、ロンは心底恐怖した。

 この女。成人男性をイジメて楽しんでいやがる。

 

「何を言っているんですかハリー。そんな汚くて危なそうなとこ、行くわけが」

「飛び込むことによって生死を賭けるか、今ここでズタズタになって死ぬか。どっちがいい?」

「ギルデロイいっきまーす! ひゃっほーい!」

 

 勢いよく大穴へ飛び込んだロックハートが、自棄になった裏声で叫び続ける。

 その声は遠く小さくなっていき、しまいには消えた。

 もしや死んだか? とハリーが穴を覗き込むと、蚊の鳴くような声で彼の声が聞こえる。

 

「最高の心地だよここは」

 

 どうやら劣悪な環境らしい。

 覚悟を決めたハリーとロンは、二人で一緒に飛び降りた。

 

「うわーっ!?」

「滑り台だァァァ」

 

 数十秒ほどスリリングな気持ちを味わってから、ハリーとロンは床に放り出された。

 あれだけのスピードで長い時間降りたということは、ここはかなりの深さに違いない。

 何から小動物の骨が絨毯になっている不気味な小部屋だ。

 ひっくり返ったロックハートを横目で見て、ハリーは下敷きにしたロンから降りる。

 どうやら怪物が食べたエサを捨てているのだろうか。

 骨のサイズを見るに、恐らくはネズミ。

 今もそこらへんをネズミが走り回っており、ハリーたちの来訪に驚愕している。

 ここが、秘密の部屋に至る道か。

 

「ほら、立てよロックハート」

「うう……乱暴だなあ……」

 

 ロンに尻を蹴り飛ばされ、ロックハートが嫌々ながらも立ち上がる。

 従っているのは杖を突きつけられているからだ。

 何故こんなにも嫌がるのか。

 確かに怪物がなにかもわからない状態では、歴戦の魔法戦士でも怖いだろう。

 だがこの男は嘘吐きで、実際には数多の魔法生物たちと戦っていないときた。

 それでもこの怖がりようは異常だ。

 まるで、正体を知っているような……。

 

「……、……おい。おい、ロックハート」

「ううん。なんですかハリー」

 

 ちょっと、待て。

 さっきこの男は、何と言っていた?

 スネイプとの軽快な会話の中、何と言った。

 『アレは老いによって死にかけだと職員会議で判明した』と。

 そう言っていたのではなかったか。

 

「おまえ。怪物の正体を知っているんじゃないのか」

 

 ハリーの声に、ロンは驚く。

 しかしロックハートもロックハートで、かなり驚いていたようだ。

 いつもの演技が入った優雅な声色ではなく、少々怒鳴りかけている声でハリーに問う。

 

「なに、なんだい。まさか君たちは、怪物の正体も知らず挑もうとしていたと?」

「どの道殺すんだ。相手がなんだろうと立ち向かうことに違いはないからね」

 

 ハリーの言葉に、ロックハートは目を剥いて怒鳴り始めた。

 そこに普段の優雅さやハンサムさは欠片もない。ただの、駄々っ子のようだった。

 

「狂っている! し、信じられない! 君たちは子供だ子供だと思っていましたが、まさかここまでひどいだなんて思ってもみませんでしたよ! 『相手がなんだろうと立ち向かうことに違いはないからね』? そんな、そんな馬鹿な道理があるか! 何もわかっちゃいない! 魔法生物というモノはね、そんな甘い覚悟で殺せるようなもんじゃないんだ!」

 

 ものすごい剣幕に、ハリーは少し驚いた。

 まるで掴みかかろうとするほどに激昂するロックハートの背中にロンが杖先を押し付けるものの、どうやら全く気にしていないようだ。

 唾を飛ばす勢いでハリーの肩を掴み、叫び続ける。

 

「いいか! よく聞け! 君たちは知らないだろうから、私が説明してあげるよ! ああ、そうとも。知らないだろうさ、たかだか一二歳の魔法使いや魔女は知らない方がいい! そうに決まっている!」

「だから何なんだ。はっきり言え」

 

 ハリーの冷静な態度がロックハートを刺激したのか。

 彼はハリーの小柄な体を突き飛ばすと、頭を掻き毟りはじめた。

 攻撃とみなしたロンがロックハートに《足縛り呪文》をかけると、体勢を崩してロックハートが骨の絨毯の上に倒れ込む。

 それで少し彼の興奮が収まったのか、荒い息を吐いてハリーを睨みつける。

 怯えと、恐怖。そして怒りのごちゃ混ぜになった視線がハリーの胸を貫いた。

 

「いいだろう。……いや、いいでしょう。教えてあげますよ、怪物の正体を」

 

 骨に手をついて起き上がりながら、わなわなと震えた声を絞り出す。

 その異様さにハリーは気圧されるまいと必死だったが、続く言葉には声も出ないほど驚く羽目になる。

 

「まず、まず怪物は複数います」

「……ッ!?」

「ええ。そうですよハリー。生徒を石化に追いやった怪物、そして城中に病をもたらした怪物。()()()()()その二体が」

 

 冗談ではない。

 怪物などというものが一体だけでも手に余ることは確実なのに、それが二体。

 もしくはそれ以上。いったい、どうなっているんだ。

 

「まだ絶望するには早いですよ。先ほどあげた二体のうち、前者はまだ問題ありません。過去にも討伐記録のある魔法生物ですから。しかし、しかし。ええ。……ああ、ああああっ! もう! どうして知らないんだ! これだから戦うのは嫌なんだ! いつもいつも僕から大事なものを奪い去っていく! ちくしょう! 神はいつまで眠りこけてるんだ!」

 

 説明の最中に恐怖に駆られたらしい。

 震えだし、大声を出すことで紛らわすロックハートは見ていて哀れだった。

 そこまで怯えられると不安になってくるが、ハリーは毅然とした態度で問うた。

 

「それで、何なんだ。そいつは」

 

 口の端から泡がついているのも気にせず、ロックハートは絶叫した。

 その名を聞くことで、ハリーは後悔することになる。

 現代の魔法使いたちが、相対することを想像したことすらない怪物の名を。

 

「ええ、言ってあげますよ! 絶望しなさい! 秘密の部屋の怪物の正体は――ヌンドゥだ!」

 

 

 




【変更点】
・空飛ぶ車で学校に来ていないので、逃走は自力で。
・今後多用する《身体強化呪文》。使えば戦闘でかなり有利です。
・一日に事件が起こり過ぎて忙しく、ハリーが情報を拾い切れていない。
・サディスティックポッター。性癖は人それぞれだよ。
・秘密の部屋の怪物、ヌンドゥ。少年よ、これが絶望だ。

というわけで、ホグワーツで流行っている病気の原因はヌンドゥでした。
こんなの勝てるわけがないだろ。誰だってそー思う、俺だってそー思う。一応、老いによって超弱体化しているので無理ゲーではないです。多分ヌンドゥってハリポタ世界では最強生物なんじゃないかなと思います。
そして継承者の思惑よりずいぶんと予定が遅れた結果、最後の一日が物凄いハードスケジュールに。多分これもロックハートって奴の仕業なんだ。
《身体強化呪文》についてはワイヤーアクションを再現出来るレベルとお考えください。


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7.無地の王

 

 

 

 ハリーは白く濁る息を吐いて、心を落ち着けた。

 今までは気づかなかったが、この部屋はひどく寒い。

 ぶるりと震えるハリーの身体に、ロックハートの叫びが突き刺さる。

 

「――()()()()だ!」

 

 男の叫びが、小部屋に木霊する。

 その言葉にハリーの身体が固まった。

 ロンはそれを知らなかったようで、不思議そうな顔をしているが、ハリーはそれを知っている。

 この男の絶望が、少女にも感染した。

 ふざけるな。なんだ、その悪質な冗談は。

 

「ヌンドゥだ! 間違いない、怪物の正体はヌンドゥなんだ! 吐く息は激烈な病をもたらし、村一つを壊滅させるほどの苦痛を与える! 闇払い一〇〇人がかりでも殺せるかわからない怪物中の怪物!」

「そ、そんな滅茶苦茶な魔法生物、居るもんか! また嘘をついてごまかそうとしてるんだなロックハート! 僕たちは騙されないぞ!」

 

 ロンの言葉に、ロックハートは反論した。

 

「馬鹿を言いなさるな、実在の魔法生物ですよ! 一七〇〇年代、アイルランドにおいて討伐記録があります。当時の魔法戦士二〇〇人ほどの大軍団で挑み、結果無事に帰ってきたのは約八〇人! 残りは全員死亡。帰ってきた者のほぼ半数も病にかかっていたために、その後まともに戦士として生活はできなかったとされています。それほどの怪物なのですよ、ヌンドゥとはね」

「なんでそんなこと知ってる! 出まかせ言うなよ!」

「ウェーザビーくん。私の職業を忘れましたか?」

「教師だろ。あとウィーズリーな」

「違う、小説家だ。それも体験談として魔法戦士たちから直に話を聞くような、ね。私のかつての友の先祖がその戦士団に属していたそうで、話を聞きました。流石にヌンドゥと戦って勝ったなどというホラ話は書けませんでしたよ。出現しただけで大ニュースになるのはわかりますね、ウェーザビーくん」

 

 確かに、そうだ。

 ヌンドゥとは巨大な豹のような姿をした魔法生物で、魔法省指定の危険度は最大値。

 ロックハートの言うように、手練れの魔法戦士が一〇〇人がかりで挑んで倒せるかどうかというほどの厄介かつ凶悪極まりない、『災害』そのものなのだ。

 そんなものがこの現代社会にぽんと現れてみれば、どうなるか。

 まず対抗策を取れないマグルが大量に亡くなる。

 そして魔法生物の隠蔽工作に魔法界が動くも、しかしその魔法生物自体をなんとかすることができない。ゆえにまた被害が発生して、また隠蔽に動く。堂々巡りのいたちごっこだ。

 そんなものと一人で戦ってしかも誰にも知られず勝つなどと、いくらホラでも無茶にもほどがある。

 

「怪物は老いている……と、職員会議で判明したんだよね。それはどうして?」

「ええ、教えてあげましょう。《暴れ柳》。聞いたことはありますね? それの病状を調べた結果、本来のヌンドゥが引き起こす『激烈な病』からは程遠い症状でした。彼らの体内に残留する魔細菌を検査した結果はあまりに数値が低く、そして病のもととなるマギウィルスの活動も酷く鈍っていました」

 

 恐らく暴れ柳の根が秘密の部屋のどこかに通じているのだろう。

 ヌンドゥが部屋の中にいたとしたら、そこからマギウィルスに感染したと考えるのが自然だ。

 そしてマギウィルスが暴れ柳から撒き散らされ、人間にも感染していった。

 そう考えられたのだろう。

 

「……、だから、それを見てヌンドゥが老衰しかけていると判断したというわけか」

「本来は死に至るほど活発で凶悪なマギウィルスなのに、生徒たちに出ているのは風邪に似た程度の症状で済んでいます。つまりこれは、マギウィルスが人間の抗体にすら負けている事を示していますね。しかも治療により病が治っている生徒まで居ます。ウィルスを吐き出すヌンドゥ自身が、ひどく弱っている。そしてよほどブッ飛んだ魔法生物でない限り、総じて寿命というものがあるものです。千年近くも前に秘密に部屋に入れられた上にこのウィルスの弱り具合。ごく自然な推論だと思いましたよ」

「確かにそうだな……」

 

 ヌンドゥが弱っているというのは助かる。

 成体の元気な個体だった場合、もし対峙することになったらまず間違いなく勝てないからだ。

 死にかけの老体だというのなら、まだ希望はある。

 しかしそれでも、魔人級の魔法使いを呼んでこなければ無理だろう。戦闘を生業とする魔法戦士を一〇〇人連れてきても勝てないかもしれないのだ。

 ハンデがあってもなおこちらが不利だというのに、正々堂々などとやってられるか。

 

「それが本当だとしたら、サラザール・スリザリンはバカだよな」

「なんでだよロン」

「だってそうだろ。継承者サマのしもべとして、せっかくとんでもなく強い奴を用意したのに、そいつに寿命で死なれちゃうかもしれないなんてさ」

「……そうでしょうか?」

 

 ロンの楽観的な意見に、意外にもロックハートが反対意見を出してきた。

 先ほどからロックハートの性格が違うような気がするが、これが素なのだろうか。

 

「さっき私は、『怪物は少なくとも』と言いましたね」

「そうだね。それがなんだよ」

「ヌンドゥが老衰で死んでも構わないと思えるほど強力な怪物がいるかもしれない。そう考えるだけで、私は腰が抜けてしまいそうですよ」

 

 ぞっとしますよね。

 そう締めくくると、ロックハートはそれ以降だんまりを通した。

 

 歩き続けると次第に壁が湿っているエリアに来たことが分かる。

 ぬるぬると光っているあたり、ひょっとすると校庭にある湖の下なのかもしれない。

 ロンがそう推察していたところ、急に立ち止まったロックハートの背中にキスしてしまう。

 おえーと吐き真似をするロンを放っておいて、ハリーは問いかけた。

 

「どうしたの。さっさと歩いてよ」

「だめですハリー。……どうやらテリトリーに足を踏み入れたようですね」

 

 ロックハートの緊張した声に、ハリーは警戒心を高めた。

 ロンを手で制して、構えたままの杖を握りしめる。 

 

「私の杖、返してくれません? 自衛も出来ないんですけど!」

「返したら裏切るだろう」

「そりゃもう」

「じゃあ渡せないね」

「では戦えませんね。がんばれー!」

 

 ロックハートが陽気にそう言い放つと同時、彼の頭に巨大なワームが落ちてきた。

 ぎゃあ、と悲鳴をあげて振りほどかれたワームは、どうやら魔法生物のようだ。

 うねうねと直径一メートルはあるミミズのような胴は、ところどころが鱗で覆われている。

 先端は人間の赤ん坊の顔を持っているという、鳥肌おいでませな不気味生物だ。

 

「こ、これ《クロウラー》ですよ! これまた厄介な!」

「なんだそれ? 殺していいやつか?」

 

 好戦的な問いを投げるハリーに驚きながらも、ロックハートは頷く。

 ただし注意を添えて。

 

「ですけど体液に触れてはだめです。凶悪な痺れによって、下手したら一生麻痺したままになりますよ。衣服に付着したものが浸透しただけでもアウトです。じめじめしたところを好む魔法生物……だったような気がしないでもないかな、確かそんな感じです」

 

 まさに水魔法によって潰そうとしていたハリーは、びくりと身体をすくませる。

 もし水圧で潰れて、その体液が水に混じったらさぁ大変などという話では済まない。

 ここで三人そろってお陀仏だ。

 ならば、焼き尽くして体液すら蒸発させてしまえばいいだろう。

 こちらに飛び散ってくることすら許さなければ、脅威でも何でもない。

 

「ロン、合わせて! 『インセンディオ』!」

「う、うん。『インセンディオ』、燃えよ!」

 

 ぎゃあす、という悲鳴がよく聞こえる。

 まさかこれが秘密の部屋の怪物ということはないだろう。

 いや、まさかね。これで蛇です、というつもりではあるまいな。

 吐き気を催す悪臭を残して、クロウラーは二人の手によって消し炭となった。

 確かに凶悪な特性を持つ魔法生物だったが、対処法さえ知っていれば何のことはない。

 

「助かったよロックハート」

「んっんー、先生。と付けましょうハリー」

「調子に乗るなよ蹴り飛ばすぞ」

「ひえっ」

 

 しばらく歩いていくと、骨が少なくなりぱきぱきと踏み折られる音が聞こえなくなってきた。

 岩肌が露出し、足場が悪くなってくる。

 まっすぐ進むのにも一苦労な悪路になってきて、ロンとロックハートが息を切らし始めた。

 ダーズリーの家で魔法を知らなかったときからランニングを続けてきたハリーは体力だけはあるので、いまだに平気な顔をしてロックハートの背中を杖で突く。火花が飛び散って成人男性の悲鳴が響き、それに笑みを深くするハリーをロンは見なかった事にした。

 後に聞けば、授業にて演劇に付き合わされた恨みを晴らしていたとのこと。嬉々としてそう語っていた彼女は、意外とねちっこい性格をした女である。

 そして見えてきたのは、なにか巨大な生き物の陰。

 ハッとしたハリーは叫ぶ。

 

「みんな、物陰に!」

 

 反応は早かった。まずロックハートが素早く岩陰に身を潜め、一瞬遅れてハリーがしゃがんで岩に隠れる。おたおたしていたロンはハリーに引っ張られて一緒の岩陰に隠れた。

 影の正体は、巨大な抜け殻だった。安全だと判断して、物陰から出て観察してみる。

 何かと思って見てみれば、ハリーどころかハグリッドすら丸呑みにできそうなサイズの蛇。

 ……いや、ちょっと待ってくれ。

 怪物たるヌンドゥは、魔法生物とはいえ形は豹だろう。脱皮などするわけがない。

 では、これは。

 

「今度こそ第二の怪物、ですね。……しかもこの特徴的な顔。鶏冠こそないものの、これはバジリスクで間違いないでしょう。ああ、まったく。今度こそ私の冒険はここで終わってしまうようだ。まさか、よりにもよってバジリスク……これは悪夢なんじゃないだろうか……」

「や、やっぱり、バジリスクなのか。信じたくなかった……」

「え?」

 

 ロックハートがこの蛇の正体に思い当たるのはわかる。

 嘘吐きの詐欺師だったとはいえ、知識がなければ本は書けない。

 さらに曲がりなりにも闇の魔術に対する防衛術の教職を得ていたのだ。無能で無害だと判断したダンブルドアが面白がって採用したとしても、それなりの教養がなければそもそも教員免許は取れないだろう。……ホグワーツ教師に教員免許が必要なのかは知らないが。

 だがロンは? ロンはなぜ知っている。

 はっきり言って成績低空飛行の彼が物知りであるとは、口が裂けても言えないのに。

 

「あれ、ハリー。君もその場にいたはずだろう」

「なんだって?」

「ハーマイオニーだよ。ほら、彼女が持っていた切れ端」

 

 覚えがない。

 だがおぼろげながら、ロンとアーニーがそんな会話をしていたような。

 ちゃんと話を聞いておくべきだった。

 あの時はハーマイオニーが石化されて余裕がなかったとはいえ、不覚だ。

 

「バジリスク。その瞳を直接見た者は即死する魔眼を持つ最悪の蛇。過去ギリシャの闇の魔法使い腐ったハーポが孵化に成功しており、その条件は鶏の卵をヒキガエルの腹の下で暖めること。コカトリスの上位種であり、鶏の時を刻む声にめっぽう弱い。……と、この切れ端に書いてあった」

「あの子、本のページを破ったのか。我が校の誇る殺人司書にバレたらぶっ殺されるぞ」

 

 これは石化したハーマイオニーがその手の内に持っていたらしい。

 なんてことだ。

 ハーマイオニーとロンは、すでに怪物の正体にたどり着いていた。

 おそらくポリジュース薬の事件の時から、二人で調べていたのだろうと思う。

 何故自分には教えてくれなかったのか。簡単だ、ハリーのことを慮ったのだろう。

 ドビーのあらゆる工作によって死の危険すら匂わせるほどの大変さを味わっていたハリーに、これ以上の負担は大きすぎると判断されたのだろうか。確かにあの時なにか手伝ってくれと言われたら、拒否しないまでも結構辛かったのではなかろうか。

 

「……パイプ?」

 

 ハリーの目についたのは、切れ端の余白に書き込まれた殴り書き。

 かなり急いで乱暴に書いたからか判別しづらいが、Fが特徴的なハーマイオニーの字だ。

 

「ああ、それは多分……」

「なるほど。ハーマイオニーくんは優秀な魔女のようですね」

 

 ロックハートが切れ端を覗き込んで、そう言ってくる。

 親友が褒められたことで少し気を良くしたロンが、ロックハートに頷いた。

 その時。

 

「だが君は違うようだ、ウェーザビー」

 

 ロックハートの拳が、狙い違わずロンの顎を打ち抜いた。

 脳を揺さぶられて、ふらりとよろけた彼から杖を掠め取ったと気づいた時には遅すぎた。

 ロックハートはロンの杖を既にハリーに向けており、呪文を叫んでいた。

 

「『エクスペリアームス』!」

「うっ!」

 

 赤い閃光がハリーの左肩に当たり、抜きかけていた杖が弾かれてロックハートの足元に転がる。

 しまった。完全に油断していた。

 意外にもロックハートが大人しかったことと、素直についてくることで油断していた。

 更には情けない姿を見たことで、どこか舐めていた。

 相手は大人だ。さらに言うと、詐欺師だ。

 人をだますことにかけては随一だったではないか。

 

「ふぅ、やっと人心地つきました。君たちはどうも優しすぎる。恐らく同行する間に、無意識のうちに気を許していたのではないかね? いやはや、羨ましい純粋さです」

「きさま……ッ」

「そう睨まないでください。危害を加えるつもりはありませんよハリー」

 

 そう言ってウィンクし、いつものハンサムスマイルを浮かべる。

 だが取り繕ったように綻びだらけで、優雅さの欠片もない。

 疲れ切って枯れ果てた、辟易したような笑顔だ。

 

「私はこの抜け殻を持って帰り、怪物の危険性を訴えます。……本当なら『私が倒しちゃいました! んふふのふー!』と言いたいくらいですが、ヌンドゥもいるため、それはあまりにも無理ですね」

「この期に及んで、まだ逃げるのか」

「ええ、逃げます。言ったでしょうハリー、私はまだ死ぬ気はないんです。……あれ言ったかな」

 

 ロンに視線を向ける。

 いやだめだ。完全に失神している。あれでは《蘇生呪文》をかけないと目覚めないだろう。

 ロックハートは格闘技経験者か? と考えるが、しかし違うと答えが出る。

 格闘技を体得している魔法使いこそ常識はずれのそれであり、マルフォイ氏が異常なのだ。それにここまで来るのに足場の悪さによって疲れていた彼が、格闘を心得ているとは思えない。

 よって、ロンが完全に油断していたため避けることもできず、ロックハートの狙い通りに顎を打たれたと見た方がいいだろう。仕方ないとはいえ、少々マヌケだ。

 

「……ぼくを殺すのか」

「とんでもない! 子供を、しかも美少女を殺すなんてこと私にはできない」

「……じゃあ、何をするつもりだ」

「あら無反応。なーに、記憶を消させてもらうだけです。怖くはないですよ、すぐ忘れますからね」

 

 殺されるより、よほど性質が悪い。

 記憶を消されては彼の仕業であることが証明できない。

 何より、彼は自分で自分の最も得意とする魔法が忘却術であると明言している。

 ならば彼の失敗を期待するのは難しいだろう。

 せめてロンの杖が折れかけていて、暴発とかしてくれればいいのだが。

 こうなったらロンには悪いが、彼の杖をへし折るかロックハートの首をへし折るか、どちらかしかないだろう。出来れば別の道があるといいが、まだわらない。

 ハリーはロックハートの背後をちらちらと見ながら、彼の笑顔に邪悪な笑みで応える。

 

「さあ、決闘クラブですよハリー。今度は本番ですがね」

「なにを言う。相手に杖を持たせてないくせに」

 

 人の杖を踏みつけながら、よく言えるものだ。

 ハリーは自分の大事な杖を足蹴にされていることに憤りながら鼻を鳴らす。

 しかしロックハートは鼻で笑うように、にっこりと頷いた。

 

「そんな無礼も、すぐ忘れることになります。さようなら、ハリー! 『オブリ――」

【よし今だ!】

 

 ハリーが喉の奥から、シューシューと掠れた声を張り上げる。

 蛇語だ。

 ロックハートには何を言っているか理解できないだろうが、それでいい。

 それでこそハリーの策は成る。

 

「後ろに蛇でも潜ませていましたか? 視線でバレバレですよハリー!」

 

 ロックハートが高らかに叫び、自分の背後へ杖を向けた。

 後ろを見ていないのは、ハリーが操った蛇がバジリスクであるという僅かな可能性を考慮してだろう。

 スペルを呟いて水を創り、自身の前に疑似的な鏡を形成するとそれを通して背後を確認する。

 そうして狙いを定めようとしたものの、ロックハートの顔が驚愕に染まった。

 

「何もいない!? しまった、フェイク(はったり)か!」

 

 慌てて杖をハリーに向け、魔法式を構築し、叫ぶ。

 しかし自分より小柄な者と戦った経験がほとんどなかったロックハートに、ハリーは速すぎた。

 

「くっ、『オ――」

【引っかかってくれてありがとう、よッ!】

「ブリビ、ぐぅあっ!」

 

 ロックハートが忘却呪文をかけようとするも、少しばかり遅かった。

 素早く駆け寄ったハリーは、ロックハートの胸にドロップキックをお見舞いしたのだ。

 いくら細くて小柄な十二歳の少女とはいえ、その全体重を乗せた跳び蹴りを受けてはひとたまりもない。もとよりロックハートもがっちりした体形とは言い難く、すらりとした細身であったので耐えきることができなかった。

 吹き飛ばされ、尻餅をついたロックハートの手から杖が転がる。

 慌てて拾い上げようとするも、ハリーがロックハートの鼻に膝を打ち込んだために鼻血を噴いて地面に叩きつけられる。それでもまだ幼さの残る少女の蹴りだ、意識を奪われるほどの威力はない。

 反撃に拳を振りぬいたところ、ハリーの腰に当たって彼女を転ばすことに成功した。

 互いに地に伏せ、一瞬だけ睨み合う。

 

「く……っ!」

「つぁあっ!」

 

 二人同時に横へ跳び、それぞれが転がっている杖目がけて飛び込んだ。

 果たして先に杖を取ったのは、腕の長さの(リ ー チ)差でロックハートだった。

 杖を取り振り返って、飛び込んだ時にはすでに練っていた魔力を供給して魔法式に乗せて呪文を放つ。それだけの動作で魔法を発動できたのは、元来《忘却呪文》以外の魔法を苦手とするロックハートとしては快挙である。

 しかし、ハリーは。

 ハリーはすでに、杖を構えて魔力を練り終えていた。

 それに驚愕しながらも、ロックハートは腹に力を込めて叫ぶ。

 

「「『エクスペリアームス』!」」

 

 奇しくも同時。

 互いの声が洞窟内に響き渡り、互いの胸に赤い魔力反応光が吸い込まれるように命中した。

 二人の杖が手から弾かれ、円を描きながら空中を跳ねまわる。

 互いの手元へ飛んで来ようとする杖を、ただ見守っていただけでは生き残れない。

 それはヴォルデモート関連にて命がけの戦いを演じてきたハリーも。

 数多の魔法生物と対峙した魔法戦士を打倒してきたロックハートも。

 分かっている。

 分かっているため、二人は同時に跳んだ。

 宙を踊るロンの杖をハリーが、宙を舞うハリーの杖をロックハートが、それぞれ手にする。

 そして着地する前に、ハリーが叫んだ。

 

「『アニムス』!」

 

 途端、ハリーの姿が消える。

 身体強化呪文である。咄嗟に使ったのだが、ロックハートは驚いた。

 かの《守護霊》呪文に及ぼうかというほど習得難易度の高い魔法を、たかだか十二歳の少女が使ってきたのだ。まだ未熟なようで魔力運用が荒いようだが、それでも脅威には違いない。

 唇を噛んだロックハートは警戒心を最大限に引き上げ、己の放てる最大の呪文を叫んだ。

 

「『プロテゴ・オブリビエイト』! 忘却の膜よ、我を守れ!」

 

 それはロックハート自身が考案した、凶悪な防御呪文。

 要するに《忘却術》の魔力反応光に触れた相手の記憶を消す特性を、全身を覆うように展開した《盾の呪文》に上乗せしたという、単純ながらあまりにも恐ろしい呪文だ。

 高速化したハリーが背後から放った蹴りに、ロックハートは反応できなかった。

 しかし忘却の膜は、静かにその凶刃を研いでいた。

 薄紫色の膜を纏ったロックハートのうなじへ自身の足刀が迫る中、高速化された思考の中でハリーは一瞬恐怖した。アレに触れれば、どうなるかを直感で察知したのだ。

 右足を振り上げた状態で急停止したハリーは、残った片足で即座にその場から跳ぶ。

 

「厄介な!」

「お褒めに預かり光栄ですレディ」

 

 優位に立ったことで余裕も取り戻したのか、声色に優雅さが戻る。

 ハリーとロックハートが睨み合った時間はものの数秒だろう。

 爆竹を破裂させたような音と共にハリーの姿が消え、彼女のいた場所には土煙だけが残る。姿が見えないことは無い、だが速い。しかも意識の間隙を突くように移動するため、まるで消えたように見えるというのは厄介だ。

 絶え間なく地を蹴る音が響き、ロックハートは目まぐるしく周囲を見渡す。

 そして見つけた。常に彼の視界の外へ外へと移動していたハリーの踏み込んだような足音が、ロックハートの背後から聞こえてきた。即座に杖を向けたロックハートは、最小限の動きで得意中の得意な呪文を放つ。

 勝利の確信と共に。

 

「『オブリビエイト』、忘れよ!」

 

 ばちん、という着弾音と横目で見た魔力反応光の残滓。

 当たった! と歓喜したロックハートは、そこで振り返って姿を確認しようとする。

 『立つという記憶』を失うように魔法式を組んだので、地面に倒れ伏す彼女の姿が見えるはず。

 しかし。

 ロックハートの予想は裏切られた。

 見えたのは、青い軌跡。

 それを追って真上を見上げれば、赤子の頭ほどもある大きさの石を振りかぶるハリーの姿。

 忘却の膜は、触れたものの記憶を消し飛ばす凶悪な盾。

 ハリーの使った身体強化呪文に対しては、絶対の強さを持つはずだった。

 しかし。

 しかし、しかし。

 石の記憶を奪ったところで、何か意味があるだろうか。

 

「あっ」

 

 と、声を上げた時にはもう遅い。

 目から火花が飛び出るかと思うほど強く殴られたロックハートは、足の力が抜けてその場に倒れた。

 結局、地に倒れ伏すのは自分であったようだ。

 ロックハートは思う。

 この倒し方には、覚えがあった。

 かつて、ロックハートが師事した魔法戦士。

 同じハッフルパフの先輩にして、親友でもあった頼れる男。

 他人の手柄を奪い己のものとするノウハウを持っていた魔法使い。

 そして、ロックハートの功績を奪おうと襲ってきて、戦った、親友だった。

 あの日あの時。

 共に巨大な山トロールを倒した、あの夏の日。

 初めて親友を上回り、倒れ伏した彼を庇ってトロールを打倒した、あの暑い日。

 手柄を取られると思い込んだ親友が、自分に杖を向けてきて。揉み合った末に杖を向けられ、咄嗟に放った忘却術によって立ち上がる方法を忘れた彼の頭に、石を振り下ろした。あの、残酷な日。

 『おいでおいで妖精と思い出傭兵』。

 彼の執筆した、唯一実話をもとにした物語だ。

 忘却術をかっこいい武装解除に変え、それでも迫ってきた彼の頭を石で打ち、病院で治療した彼と涙ながらに和解するというハッピーエンドに変えたお話。

 暗いストーリーであるためあまり売れなかったが、それでも彼にとって一番の作品だ。

 彼にとって最良で、あってほしかった物語。

 ロックハートは思う。

 今も聖マンゴ病院で目を覚まさない、かつての親友を想う。

 ああ。

 僕もきっと。

 彼女のように、まっすぐに生きられたなら。

 この人生を、やり直せたならば、いつか、おまえに――

 

「っらァ!」

 

 ハリーの振り下ろした石は、ロックハートの脳天を打ち据えた。

 ぐるりと白目を剥いたロックハートは、無意識にたたらを踏んで、どさりと倒れる。

 血溜まりが作られる中、ハリーは荒い息を整えながら身体強化呪文を解除した。

 その場に座り込み、ロックハートに杖を向ける。

 殺すべきか?

 しかし、もう無力化している。

 それに殺さずとも抵抗を奪う術を、今のハリーは手に入れている。

 恐ろしい敵だった。

 あのおどけた無能教師の姿は、仮面だったのだろうか。

 それともただ単に、人にものを教えるという行為を苦手としていただけだろうか。

 今となってはわからないし、これからも永劫分からないだろう。

 ハリーは今から、そういうことをするのだから。

 

「……あんたは教師として、最低だったよ。人としてもダメかもしれないね」

 

 杖先に魔力反応光が集う。

 薄紫色の、すべてを忘れ去るぼんやりとした微睡みのような光。

 

「でも、技は盗めた。感謝するよ、ロックハート先生。『オブリビエイト』、忘れよ」

 

 《忘却術》。

 ロックハートが最も得意とした、そしてもう二度と使うことは無いだろう魔法。

 淡い光はロックハートを包み込み、彼というものを消し去っていった。

 ギルデロイ・ロックハートという男はここに死んだ。

 いまハリーの目の前にいるのは、ただ何も知らない哀れな男だ。

 ハンサムなだけの、無地の赤子。

 

「……、……。さて。寝坊助を起こしてやるか」

 

 ハリーはゆっくりと立ち上がり、未だ倒れ伏すロンのもとへ歩く。

 後味の悪い、戦いだった。

 

 ロンを蘇生させた後、彼の頭が切れて血が流れていたので、大慌てで治癒魔法を使った。

 仕方ないのでロックハートの頭の傷も応急処置しておくことにする。

 しかしロンは、どうも殴り倒された際に打ち所が悪かったのか、少々動きがおぼつかない。

 ここにハーマイオニーが居れば、彼女の得意とする治癒魔法で何とかなるかもしれなかったが、今ここに彼女はいない。彼女はベッドで眠っており、目覚めるのはもう少し後になる。

 さて。

 念のためロックハートをぐるぐる巻きにして縛り上げてから、ハリーとロンは相談する。

 まず疲れ切ったハリーに、ロンはフレッドの鞄から取り出した小瓶を与えた。

 中身は単なる栄養ドリンクだ。ただし、魔法界製の。

 なんだか元気爆発薬と似たような成分のそれを飲み干して、ロンにローブを敷いてもらった地面にハリーは寝転んだ。少しでも魔力と体力を回復させるためだ。

 早くしなければジニーの命が危ないかもしれないが、焦ってハリーが死んでしまっては元も子もない。明日明後日で魔法戦士団が来るという話だが、ハリーの直感ではそれだと間に合わない。

 多分、継承者はすぐにでもジニーを殺してしまうだろう。

 理由はわからないが、そうするという妙な確信がある。

 ヌンドゥかバジリスク、どちらの餌か生贄か。どちらにしろ碌なものではない事は確かだ。

 幾匹かの蝙蝠が天井からこちらを見る中、ハリーは立ち上がった。

 ロンが心配してくるものの、もうそろそろ行かねばならない。

 

「ロン、ここで待っててくれ」

「で、でもハリー! 僕も一緒に、行、うあ、」

「ほら。無理するな」

 

 よろめいたロンを抱きしめるように支えて、ハリーは彼を座らせた。

 眼の焦点が合っていない。血を流し過ぎたのかもしれない。

 それでもなお立ち上がろうとするロンの肩を押さえて、ハリーは言う。

 

「おい、お兄ちゃん」

「鬼いちゃぁん!? ど、どうしたハリー。なんかすごい破壊力だけど」

「そんな性癖なんて知ったことか! いいか、よく聞けよ。君はジニーの兄貴だろう。なら彼女が無事に帰ってきたときに、ぼろぼろの兄が待っていたらどう思う?」

 

 卑怯な問いかけだった。

 妹想いの彼にこのような質問をしたら、どう返ってくるかなど手に取るようにわかる。

 返す言葉をひとつしか持たないことに気付いたロンは、少し恨みがましくハリーを睨む。

 だが、わかってくれるならそれでいい。

 それでいいのだ。

 

「いいかい、ロン。ここに居るんだ、いいね」

「でも、君ひとりじゃ……」

「頼む。はっきり言いたくないんだ」

「……っ!」

 

 足手まとい。

 その刃は、言葉にしなくともロンの心を切り裂いた。

 ロンはまた何もできなかったと呟いて唇を噛むが、ハリーはそうは思わない。

 感情的になって怒ったり泣いたり、怪我をしたりと、いろいろなものを見逃していたハリーと違って、ロンやハーマイオニーはきちんと敵について調べていた。

 前回の賢者の石騒動のときでこそハリーは推理し考え脳を使った。しかし今回はどうだろう。ただおこぼれに与っているだけではないか。その無様さときたら如何様か。

 あまりの情けなさに悔しさまで湧いてくる。

 それだというのに、こんな暴言を投げなければいけない。状況が甘えを許さない。

 ハリーの言わなかった言葉を噛み締めて、ロンは微笑んだ。

 

「仕方ないなあ。うん、頑張っておいでよ、ハリー。手柄なんてくれてやるぜ」

「ロン……」

 

 ハリーは、これは真似できないと思った。

 いまの短い時間、ロンは自分の意思を抑え込んでハリーに全てを託したのだ。

 自分が守るべきと考える少女に守られるどころか、戦場に送り出さなければならない現実。

 全てを呑み込んで、受け容れて、認め、笑った。

 それのどれほど難しいことか。

 ロンという親友へ感謝するとともに、尊敬の念を抱く。

 これだけ頼もしい子が待っていてくれるなら、途中で斃れるわけにはいかないだろう。

 

「うん、行ってきます」

 

 ハリーはできるだけ明るく言う。

 異性の親友を安心させるだけの、花開くような笑顔で。

 秘密の部屋の、奥へ奥へとその足を進めていった。

 




【変更点】
・秘密の部屋は魔法生物のバーゲンセールだぜ。
・ロンの杖が折れていないため、ロックハート戦が発生。
 彼の作品のうち幾つかは事実な上、怪物を斃した魔法戦士を倒す程度の力はある。
・原作よりハリーが仕事してない。もっと調べましょう。

【オリジナルスペル】
「プロテゴ・オブリビエイト、忘却の膜よ、我を守れ」(初出・22話)
・忘却呪文を身にまとう魔法。生身相手には無敵を誇るが、強度は普通の盾の呪文程度。
 ロックハートの創作呪文。彼の人生の集大成といってもいい傑作。

対人戦なので、テンション高く筆が乗る。人と戦うのってサイコー!
今回はロックハートのお話でした。結局、魔法戦士から手柄を奪うという手法すらかつての親友から奪っていた、何もない無地の男だったというお話。悪党でクズだけど、ハリー達に大人にも種類があると教えるには必要なキャラクターでした。
またロンが途中リタイヤしたので、今回もハリーは単騎で戦うことになります。
頑張れハリー、負けるなポッティー。お辞儀は斜め四五度だ、ポッター!


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8.病魔の王

 

 ハリーは一人、息を潜めていた。

 透明マントを身にまとって姿を消し、遠視魔法で五〇〇メートル以上先を見ていた。

 両目の前にレンズ状の魔力反応光が浮いているため、まるで丸眼鏡をかけているような姿のハリーは俯せになったままじっとしている。

 さらには金魚鉢を頭にかぶったようにシャボン玉を纏っているため、どうにも間が抜けている。

 しかし目は真剣そのものであり、淀みの欠片も見当たらない。

 

「………………、……」

 

 視線も届かぬ視界の先には、骨と皮だけの灰色の生き物。

 こんなに遠いというのに、遠近感が狂ったような大きさをしている。

 四足の、大型の獣。

 尻尾の毛は禿げて細く弱々しい。

 毛並みも荒れに荒れており、元は黒真珠のように美しかったろうに今や見る影もない。

 骨ばってごつごつしており、あまりに肉がないのか、皮が張り付いて薄っぺらだ。

 眼窩は落ち窪んでおり、片方の目が真っ白に白濁して目脂で固まっている。

 粘着質な唾液が二筋、口の端から垂れて揺れているが、それを気にした様子もない。

 ――ヌンドゥだ。

 確かに、ひどく老いている。

 ハリーは今は亡きフィッグ婆さんの家で死を目前にした猫を見たことがあるが、それとそっくりだ。

 微動だにしないわけではなく、ゆっくりと、空気を揺らすような動きで暇を持て余している。

 ハリーに気付いた様子は、まだ、ない。

 

「……………………、………………、……」

 

 だがその脅威は、遠視しているだけでもよくわかる。

 老ヌンドゥはどうやら、もう立ち上がる元気もないようだ。

 後ろ足の筋肉がすっかり衰え、本当に骨と皮だけにしか見えないほど細く痩せている。

 しかし彼の周囲を見てみれば、そこにはネズミや蝙蝠がひっくり返ってその骸を晒していた。

 それと同じくらいの白骨が、ヌンドゥの周りに山を作っているのが見て取れる。

 ヌンドゥの吐く息は激烈な病をもたらす。

 その伝説に違わず、小動物を病死させてその肉を喰らって生き延びてきたのだろう。

 光を映さぬ白い目が、所在なさげに揺れている。

 

「………………、…………、…………」

 

 今ここで倒すしかない。

 彼ないし彼女が陣取っているのは、このパイプ状の通路のど真ん中。

 一本道だったため、他に道はなかったことは確認している。

 通るためには奴を倒すか、無力化させるかしかないのだ。

 

(……『オルクス』、見通せ)

 

 無言呪文でスペルを唱え、さらに遠視の倍率を上げる。

 ロンが託したフレッドの鞄は、今まさにハリーの命を救っていた。

 《気配消失薬》という悪戯グッズは、どうやら凶悪な魔法生物にも効果があるようだ。

 だが残り時間は十数分。恐らくこれで違いはない。それ以上は命のタイムリミットである。

 姿を消して気配を殺し、息を潜めて匂いを抑え、気取らせないまま遠距離から抹殺する。

 それがハリーの導き出した、ヌンドゥへの戦い方だ。

 要するに、狙撃である。

 

「………………、…………」

 

 本で読んだ見よう見まねでしかないものの、それでも魔法の力でハリーは完全に隠れていた。

 汚泥を見つけたのでそれに寝転がって匂いを消し、透明マントで姿を覆い隠して物理的な視認を遮断した。気配についてはどうにもならなかったが、フレッド・ジョージの魔法薬で解決だ。

 使用する呪文については、直前まで悩んでいた。

 ヌンドゥに関する情報があまりにも少ないのだ。

 何かしら呪文を通さない分厚い皮を持っているという可能性を考慮し、初めから魔力の宿った攻撃は効かないものとして物理的な狙撃をするべきだろうか。しかし本物の銃など触ったこともないハリーは、その反動に耐えきれる確証がない。身体強化呪文を使えば耐えきるどころか両手に持って乱射しても平気だが、そも銃がない。仕方がない。

 今後に備えて魔力を温存しておきたいが、全力を出さねば即座に狩られるという此度の戦闘。

 

「………………、……」

 

 ここでハリーは、己の腕を信じるという選択肢を取った。

 自身を信じられなくてこの先生き残れるとは思えない。

 若干十二歳にしてとんでもない発想だが、しかしそれでいて理にかなっている。

 ここでダメなら後々どうせ死ぬ。

 ならばとハリーは賭けに出たのだ。

 

「……、……」

 

 一撃で仕留めるのはまず無理だ。

 ならば。二撃はどうか。それで無理なら三撃。四撃。五撃。

 相手が死ぬまでここから動かず、狙撃し続けるのみ。

 

「……、」

 

 ここから先は、一対一の真剣勝負。

 いざ。

 

「――ッ」

 

 根競べだ。

 

(『ステューピファイ』、麻痺せよ!)

 

 ハリーが槍のように構えた杖先から、細く小さく凝縮された魔力反応光が飛び出す。

 赤い魔力反応光の光度は、仄暗く輝く程度に抑えられている。

 狙撃するのならば、着弾までバレてはいけない。特に相手はヌンドゥという規格外の怪物だ。

 老いて死の淵に腰まで浸かっているとはいえ、どれほど動けるのかは分からない。

 まして本来なら戦闘に通じた大人の魔法使いが一〇〇人単位で挑むような怪物。

 未熟で幼い魔女が一人だけで挑むからには、それだけのハンデがあってもなお足りないのだ。

 音もなく飛来した魔力反応光は、狙い違わずヌンドゥの右目へ向かっている。

 右は、盲いている方だ。

 完全な死角になっているはずである。

 だが。

 ハリーは。

 光を宿さないはずの右目が、確かにこちらを向いたのを見た。

 

(――、――――――ッ!)

 

 ぶわ、と嫌な汗が全身から噴き出す。

 バレた。いや、まだわからない。

 狙い通りに右目へ着弾した魔力反応光は、赤い光を撒き散らして四散した。

 麻痺して失神してくれればいいのだが、そううまくはいくまい。

 現に、ヌンドゥがゆらりと首を動かして鬱陶しそうに身震いしているではないか。

 

(フラッフィーみたいに毛皮には魔法が通じにくい魔法生物は多々いるだろうけど、まさか眼が平気だっていうのは予想外だった。眼球とか内臓を鍛えられる生物なんているわけがないのに……)

 

 冷静に思考を浮かべながら、ハリーは次の魔法の準備をする。

 幸いヌンドゥは今すぐこちらへ飛び掛かってくる、というわけではないようだ。

 ならばニ撃。仕留めねば、こちらの命がない。

 なにも確殺しなくともいいのだ、無力化さえ成し遂げれば問題ない。

 

(『ソムヌス』、眠れ!)

 

 淡い桃色の魔力反応光が射出される。

 五〇〇メートルもの距離を、重力に負けず真っ直ぐ飛ぶのは実にいいことだった。

 本来の狙撃は、重力で銃弾が落ちることも計算に入れて行わなければならないという。当然、横風も天敵だ。ほんの一ミリでもズレた場合、着弾点が何十センチもズレるか分からないとのことだ。

 しかし魔力反応光は読んで字の如く魔力でできているので、物理的な干渉はほとんど無意味だ。

 せいぜい反応光を避けるか逸らすか、着弾点に障害を置いて妨害するかしかないだろう。

 今度も狙い違わず、ハリーの放った魔の弾丸はヌンドゥの右目に向かっていく。

 いまは、眠らせてしまえばいい。

 戦士団が来るというのならば、始末は彼らに任せればいい。

 今ハリーはあの通路を通ってジニーを助けねばならない。

 嫌な予感がする。刻一刻と、悪寒が脳を浸してゆく。

 まるでジニーが一寸刻みで殺されているような。

 そんな、邪悪な予感がしてならないのだ。

 

(眠れ! 倒れろ!)

 

 ハリーの願いは、残念ながら通じなかった。

 またも目に着弾した魔法は、たいした成果が見られなかった。

 ヌンドゥがとろんとした瞳になったときは歓声をあげそうになったが、かぶりを振れば元通り。

 それに、まずい。

 ――今度こそ、気づかれた。

 目が合っている。

 姿も匂いも消しているというのに、確実にこちらへ目を向けている。

 言外に「お前の仕業か」と、眼前を飛ぶうっとうしい羽虫を見るような目だ。

 

(……ッ、『ドロル・ドロル』、苦悶せよ! 『エクスペリアームス』、武器よ去れ!)

 

 こうなれば、もはやとにかく魔法を撃つしかない。

 無言呪文は言葉を使わず魔法を行使できるという利点の他に、威力が減衰するという欠点がある。

 だからヌンドゥには効いていないのかと問われれば、答えは否だ。

 単純に通じていない。

 厄介だ、そして恐ろしい。

 これが。これが、ヌンドゥ。病魔の王。

 

(くっ、まずい……ッ! 『シレンシオ・ミー』、音喰らい!)

 

 ヌンドゥがゆっくりと起き上がり、こちらに体を向けて歩み始めた。

 ハリーは自分の動作から発生する音を消す静穏呪文を使い、素早く別の方向へ駆ける。

 息を荒げてはいけない。声を出すなどもってのほか。この呪文は、声までは消してくれないのだ。

 五〇〇メートルは先に居るはずのヌンドゥが、ひどく恐ろしい。

 心臓がばくばくと暴れ、ひょっとして聞こえてしまうんじゃないだろうかという怯えが大きい。

 しかし立ち向かわねば、結果はついてこない。

 

(『ディフィンド』、裂けよ!)

 

 ハリーは移動した先で、透明マントから腕がはみ出ないように細心の注意を払いながら、大きく振りかぶって切断呪文を放った。

 目指すはヌンドゥの真上にある、氷柱のように見える岩。

 杖先から刃状の魔力反応光が飛び出して、ヌンドゥの真上へと向かってゆく。

 これまたダークブラウンという地味な色であるため、かなり視認しづらいはずだ。

 

「ぎゃあうッ! ぎゅりる、るるるる……」

 

 岩が根元から切断され、ヌンドゥの首筋あたりに落下した。

 かなりの大きさと重さを誇るため、体勢を崩したヌンドゥは地に這いつくばる。

 ――初めて攻撃が通用した!

 やはり魔力を通さないタイプの魔法生物のようだ。

 強力な魔法生物はこんなのばかりだと心中で悪態をつきながら、ハリーは攻撃を物理手段へ切り替えた。

 

(『レダク――)

 

 途端。

 先ほどまでハリーが居た場所が爆ぜた。

 何が起きたのかと振り返れば、そこには前足を振り下ろした姿のままのヌンドゥ。

 まさか、二体目か!?

 振り返って先ほどまで見ていた個体を確認すれば、そこに姿はなかった。

 ただ小動物の死骸や骨が撒き散らされ、一直線に道ができている。

 つまり。この一瞬で五〇〇メートル余の距離を音もなく詰め、そして凶刃を振り下ろしたのだ。

 ぎぎぎ、とパイプの床を爪でひっかくと火花が散っている。

 あの爪はひょっとして鉄以上の硬度を誇っているのではないだろうか。あの死に体で、あの強度。

 そして間近で見ればわかるこの巨大さ。おそらく体高三メートルはあるだろう。全長ともなれば、もうわからない。それにあまり想像したくもない。

 若く元気であるとはいえ、少なくとも熟練した魔法使い一〇〇人単位で挑まなければいけないという話に真実味が帯びてきた。あれは確かに、一人や二人では手に負えないだろう。

 ハリーは距離を取りながら思考する。

 

(まずいぞ。いざとなったら身体強化魔法で駆け抜けてしまうつもりだったけど、この異常なスピードだと追いつかれてしまうかもしれない。いや、追いつかれると見ていい。ぼくの姿が見られるか、魔法薬の効果が切れて気配を気取られるか、声を聴かれるかしたら、その瞬間、ぼくの死は確定したと思ってもいい。なんて無茶なことをしているんだろうね、ぼくは)

 

 ハリーは念のため静穏呪文を重ね掛けし、掠っただけで即死級であるヌンドゥの肉体から少しでも離れようと静かに移動を始めた。

 ヌンドゥは自分の前足の裏になにもないことが不思議なようで、とろんとした目で肉球を見つめている。

 その口内からは、景色が歪むような吐息が漏れている。

 城で広まっているのは風邪程度であるが、もしかしたら吐かれた直後では致死性があるのかもしれない。

 早く離れねばと結論を出したハリーは、その瞬間、恐怖で失禁するところだった。

 ――見ている。

 ヌンドゥがこちらを見ている。

 明らかにハリーの動きを目で追っている。

 何故だ? 何故バレた。

 気配はまだ消えている。透明マントから何かがはみ出ているということはない。

 声だってあげていないし、念のため息も潜めている上に、静穏魔法で動作音も消している。

 では、なぜ。

 と、焦燥に熱のこもった頭で、風に揺れる透明マントが効いていないのではないかと不安を抱く。

 しかし、そこで。

 

(――待て、風だと)

 

 ハリーの胸や背中が、冷や汗で濡れはじめた。

 恐ろしい考えだ。だが無視するわけにはいかない、命に直結する大事な思考だ。

 

(あいつ、ひょっとして、空気の流れがわかるのか? つ、まり、これって……)

 

 ならば。

 先ほどから動き回っているハリーの周りの空気は、どうなっている?

 あいつからは、どう見えている?

 そして、いま立ち止まっているハリーの周囲は……、

 

(ヤッ、ヤバい! 『アニムス』! 我に力を!)

 

 なりふり構わずハリーが身体強化呪文を唱えたのと、ヌンドゥが身をかがめたのはほぼ同時。

 知覚が一気に加速したハリーが次に目にしたのは、こちらに飛び掛かってくるヌンドゥの姿だった。

 全力で床を蹴ったハリーは、二〇メートルは離れた天井近くまで跳びあがる。

 ヌンドゥの爪がパイプの床を抉った。

 しかしその盲いていない方の目は、確かにハリーの方に向いている。

 やはり空気なのか? いや今はどうでもいい。とにかく、位置がバレている!

 

(とにかく物理的に攻撃しないと! 『レダクト』、粉々!)

 

 ハリーは天井付近にある岩から適当なものを選び、ヌンドゥの真上にあるものを破砕した。

 がらがらと落ちてくる巨岩をヌンドゥにあてようと思ったが、後ろに跳ぶことで避けられてしまう。

 そしてヌンドゥは骨と皮ばかりのようでどこから力を出しているのかわからない後ろ足に力を籠め、こちらに一足飛びにこちらへ向かってくる。

 だが、それは悪手だ。

 

(『コンフリンゴ』、爆ぜよ!)

 

 ハリーが唱えた魔法は、爆発呪文。

 対象はヌンドゥではない。いま、彼ないし彼女が通り抜けようとした先ほどの岩だ。

 爆発した岩は飛礫を飛び散らせてヌンドゥの柔らかい腹を狙う。

 案の定突き刺さった岩片に、ヌンドゥは尻尾を踏まれた猫のような悲鳴を上げてしまう。

 腹にいくつか深く刺さったようだ。びゅるり、と少量の血と体液が噴き出している。

 一切容赦する気はない。殺さねば、殺されるのだ。

 狙い通りとは言えないが、それでもほんの少しでも突き刺さってくれたのは僥倖。

 おそらく老いと飢えによって腹の中身が少なく、皮膚も薄かったからかもしれない。

 怪我を負ってくれただけでも上々だが、幸運にも突き刺さってくれた。

 

(もう一度だ、『コンフリンゴ』!)

 

 爆発呪文。

 今度爆発させるのは、ヌンドゥの腹に刺さった岩片だ。

 突き刺さったまま勢いよく爆発した岩は、その傷口を大きく広げた。

 同時に小さく裂かれた内臓や、少なくない血がばら撒かれる。びちゃびちゃと不愉快な音を立てるヌンドゥは、完全に怒り狂った顔でハリーを探し回っている。

 空気の流れを感じ取れなくなったか。これは好機だ。

 このまま殺す。

 無傷で勝つのが最低条件だ。

 

(傷口を掻っ捌いてやる! 『アナプニオ』、気道開け!)

 

 決して小さくない傷を狙って、ハリーは気道確保呪文を放った。

 これが当たれば、腹の傷口を気道として認識して構築した魔法式が作用して、ヌンドゥの腹は完全に裂ける。あとは腹圧によって内臓を吐き出して、そのまま死に至るだろう。

 だが。

 ここでハリーはミスをした。

 戦闘での興奮、死への緊張感、優位に立った気の緩み、終わりへの安堵。

 それらすべてが作用して、ほんの一瞬気が緩んだ。気道確保呪文の魔力反応光を、ヌンドゥに見られてしまったのだ。つまり、正確な位置を知られてしまった。

 空間全てを押し潰すような殺気と共に、ヌンドゥはその爪を振り抜く。

 標的たるハリーの姿は見えておらず常に移動していたために、運よく空振りに終わる。

 だが。

 その爪が起こす暴風のような余波が飛ばした他愛ない塵が。

 ハリーのシャボンに、小さな穴を穿った。

 

(――――――ッ、ご、ぶあ)

 

 途端にハリーはとてつもない嘔吐感に襲われ、胃の中の物をすべて戻してしまう。

 吐瀉物の重みで完全にシャボンが割れ、外気が直接ハリーの口腔を刺激する。

 ヌンドゥの吐息が混じった、汚染された空気。

 

(が、ぁぁあ……ッ、い、痛い! 痛い痛い痛い!? な、んだよこれ!?)

 

 それがここまでのものだとは思わなかった。

 即死効果はなかったのは幸いだ。しかし、しかしこれで相当な弱体化をしている。

 本来ハリーが喰らうはずだった『激烈な病』とはどれほどのものだったのだろうか。

 

(ぎ、ぃ――。く、そっ。ま、だ。死んで、ない。殺、す。そう、だ。殺そう)

 

 視界が真っ赤に染まる。 

 動物相手に殺意を振り撒けば己の位置を教えるようなものだが、もうやめだ。

 隠れるのは、やめた。やめにしよう。

 どうせこれ以上は息もできない。あと一度でもしたら、間違いなく昏倒する。

 殺す。

 こいつを斃せば死なずに済む。

 殺す殺す。

 これ以上ダメージを受けると行動できなくなる。

 殺す殺す殺す。

 ならば攻撃は最大の防御として、疾く抹殺あるのみ――!

 

 ヌンドゥからすれば、何もない位置から何者かの胃液の匂いがすることだろう。

 鼻が利くヌンドゥにとって、それは丸見えも同然。当然飛び掛かり、爪を突き出した。

 しかし身体強化をしているハリーにその動きは見えた。

 

(『プロテゴ』、『プロテゴ』、『プロテゴ』! 守れ、三重の盾!)

 

 跳びながら盾の呪文を重ね掛けした分厚い盾を作り出したハリーは、その表面で受け流すように爪の一撃を凌いだ。そして空中で体勢を整えると、ヌンドゥの伸びきった前足に着地。二層分削ぎ取られた盾を構えて疾走した。

 骨ばった腕を駆け上がられるヌンドゥは、その身を大きく震わせた。

 酷い足場を駆けて、ハリーは巨大な肩の上まで移動する。そして杖を構え、練り上げた魔力を放つ。

 

(『ランケア』、突き刺せ!)

 

 杖から飛び出したのは、円錐状の魔力反応光。

 あたかも本物の突撃槍のように、光の穂先は怪物の背を穿った。

 ごり、という感触から擦るに骨へダメージを与えることにも成功しただろう。

 本来ならばここまで深く突き刺してしまえば、槍を引き抜くことにもひと苦労することは間違いない。ハリーのように非力な少女ならばなおさらだ。しかし《刺突魔法》によって形成された槍は、ただの魔力の塊。よって魔力供給を途絶えさせれば槍は消える上に、栓となっていた穂先が消えたことで傷口から夥しい量の血があふれ出した。

 

(『ランケア』! 『ランケア』! 『ランケア』! 『ランケア』ァァァ――ッ!)

 

 次々と突き刺される槍に耐えかねたのか、ヌンドゥはハリーを振り落そうと大きく身をよじる。

 ハリーもしばらく槍に掴まって踏ん張っていたものの、汗で手が滑って杖を落としてしまっては元も子もないので、諦めてヌンドゥの背から飛び降りた。

 

(ちぃっ! いいところを!)

 

 身体強化の恩恵で難なく着地したハリーは、心の中で悪態をついた。

 しかしヌンドゥがハリーの居た位置に爪を薙ぎ払ってきたので、慌てて駆け出す。

 ネズミや蝙蝠とすれ違い、ばたばたと倒れていく。彼らには申し訳ないことをしていると思うが、逃げねばこちらが死ぬのだ。そして、呼吸も限界に近い。あと十秒……いや、それより少なく見積もろう。五秒だ。五秒で殺す。

 

(『アニムス』!)

 

 ハリーは身体強化に充てていた魔力を、必要最低限を残してすべてそちらに回した。

 途端、世界から色が抜け落ちた。

 モノクロの世界をハリーは駆け抜ける。壊れた機械のように速過ぎたヌンドゥの動きが、よく見える。体の節々が痛い。特に足の関節がヤバい。股関節が痛いとか乙女としてどうかと思う。正直叫んで転がりまわりたい。だが。今は殺す。奴を殺す。

 反転。

 右足で急ブレーキをかけて、急制動をかける。踏み抜いた床がへこんで、ちょうどいい足場になった。

 膝を曲げて、思い切り蹴りぬく。砲弾のように体が飛び出した。

 ――残り五秒。

 こちらに向かってくるヌンドゥ目掛けて一跳びに接近し、まず前足を支える足の付け根にドロップキックを放つ。べぎごぎばぎごが、と冗談みたいな感触と共に骨が砕ける感触が足の裏から伝わる。同時にハリーの膝からも嫌な音が響いた。間違いない、痛めた。下手したらヒビが入っている。

 そしてその勢いのままヌンドゥを蹴って跳びあがると、天井に()()する。

 身体が回転するように天井を蹴って、そのまま踵落としを決めようとする者の、このスピードの世界においてヌンドゥはついてきた。なんと首を振って、ぎりぎりでハリーの蹴りを避けたのだ。

 ――残り四秒。

 強靭な生命力をフル回転させて行われた回避行動にハリーは驚くも、掠めた際に左目を引き裂くことに成功した。むわ、という灼熱の空気の中を通ったので、おそらくヌンドゥの呼気だろう。戦闘が終わった後、即座に着衣を捨てて焼かなければまずいかもしれない。

 血を吹き出して苦しがるヌンドゥを尻目に着地したハリーは、びきびきと鳴った両足の感覚から今度こそ骨の損傷を確信する。まだ魔力運用が甘かったようだ。速度強化と肉体強化が釣り合っていないため、自分の行動にダメージが入るのだ。もっと、もっと最適化しなければ。

 ――残り三秒。

 ハリーは駆け出した。足首や膝、股間からの異音は気にしていられない。出来るだけ速く早く足を動かして疾駆しなければならない。ヌンドゥの股の間を潜り抜け、ハリーは弓を引き絞るように杖を構えた。

 

(『アナプニ――う、わっ! くそっ!)

 

 自身より速く動き始めた人間に危険を感じたヌンドゥが、その長大な尻尾を振るった。

 骨と皮にちょびちょびと毛が生えたようなみすぼらしい尻尾だが、鞭のような強靭さは変わらない。

 前転することによって下半身を狙って飛来してきた尻尾を避けると、床に手をついて跳びあがる。

 ――残り二秒。

 目の前にはヌンドゥの後ろ足がある。ハリーは咄嗟に杖を向けて縄魔法を撃ち込んだ。

 ばしゅ、と突き刺さったそれは肉を貫通して、しっかりと固定された。

 多大なスピードを得たハリーの身体は、遠心力のせいでぐるりとヌンドゥの身体を周る。

 高速世界においてさらに高速である中、ハリーは最大に引き伸ばされた知覚を総動員して、縄の長さを調節する。ちょうど、着地地点がヌンドゥの腹になるように。

 ――残り一秒。

 首を振って妨害しようとするヌンドゥだが、奴の身体は大きい。奴の牙がハリーの身体を貫く前に、ハリーはヌンドゥの腹へ盛大に着地した。どむ、という鈍い音と共に、布が裂けるような音がする。傷口が広がり血が溢れ、ピンクと赤のグロテスクなものがちらりと見えたその先に、ハリーは勝機を見る。

 ――残り零秒。

 自らに課した制限時間は越えた。これでダメなら本当に最期だ。

 ハリーは力を振り絞って杖を向け、

 

(『アナッ、プニオ』ォォォオオオオオオッ!)

 

 傷を裂き切った。

 途端、溢れるように血と臓物がはみ出してきて、ヌンドゥが長々と悲痛な悲鳴を上げる。

 元々体力がなかったのだ。本来ならばここからが本番であったはずだが、ヌンドゥの身体はもう限界を迎えていた。

 勢いよく崩れ落ちる巨大な豹の身体から飛び降りると、ハリーは身体強化魔法がかかっているうちに全力で駆けだした。背後で水っぽい音が鳴り響くも、振り返る余裕はない。

 息が、息がもたない。

 苦しさのあまりぼろぼろと涙をこぼしながら、ハリーは駆け抜けた。

 走って、走って、走り続けて、足元の小動物の骨を踏み砕いて滑って転がった。

 幾度かごろごろ無様に転がり続けたのち、自分の身体から力が抜けていくのが分かる。

 強化魔法が切れたのだ。

 だめだ、息を吸いたい。アレから大分離れたはずだ。もういいはずだ。

 

「ぶっはぁあッ! があっは、げほっ! げえっほ! う、ぐ、ッあ、は。げほっげほっ!」

 

 周囲に人がいたら絶対にできないだろう無様さで、ハリーは新鮮な空気を貪欲に吸う。

 視界が狭まっている。まずい、酸素が足りない。

 落ち着いて深呼吸しようとして、咳き込んでしまうので我慢しようとして。何度も呼吸に失敗してから、ハリーはようやくまともに息を吸えるようになってきた。

 涙と洟水と汗で顔がぐちゃぐちゃだ。

 ハリーはさっさと服を脱いで全裸になる。念のため靴もショーツも含めて本当にすべてだ。

 どうせ誰もいないんだ、恥ずかしがることはない。

 脱ぎ捨てた服はすべて一か所に投げ捨てて、クロウラーと同じ目に遭わせるため炎魔法(インセンディオ)で焼き尽くした。これでヌンドゥの吐き出したマギウィルスとやらを全て消毒できたとは思えないが、やるとやらないでは大違いだろう。

 

「『スコージファイ』、清めよ」

 

 ハリーはまず自分の裸身を綺麗にした。

 泥と体液だらけでぐちゃぐちゃだった身体が、元の白を取り戻してゆくのは素直に嬉しい。

 魔法空間から引っ張り出したショーツをはいて、私服の黒い長袖シャツを着る。セットで買ったジーンズもちゃんと穿いている。靴は無骨な安全靴だ。色気の欠片もない。

 これでもう、痴女みたいな格好にはなっていない。

 

「ぐ、うぶ。おえ……ッ、う、ううう。何も出ない。なのに気持ち悪い」

 

 ローブを羽織ろうとした際に襲ってきた盛大な吐き気に四つん這いになるも、出るのは唾液ばかりで気持ち悪さが出て行かない。仕方なくハリーは杖を取出し、自分の胸にあてて呟いた。

 

「『ディアグノーシス』、全身診断」

 

 診断魔法。自分の身体のことを知るには、これが一番だった。

 ハリーの目にのみ映る文字が、ぱぱぱ、と表示される。

 まず重度の熱があるようだ。四〇度はあるらしい。死んでしまうぞ、こんな熱。

 次に眩暈に嘔吐感、寒気に免疫力の低下がある。体力も徐々に削られているようだ。

 

「う、まずい……本気で辛い。使えるか? いや理論は習ったし……」

 

 自覚して気付いたが、自分の体調があまりにも悪いことに驚く。

 今すぐふかふかのベッドに寝転んで二、三日は眠りこけていたい気分だ。

 ハリーは震える指で杖を握り、恒例のスネイプによる課外授業で習った呪文を唱え始める。

 

「『エピスキー』、癒えよ。『モルブスサナーレ』、病よ癒えよ。『フェブリスサナーレ』、熱冷まし」

 

 途端に全身がムースのようなものに包まれ、とろりとした液体に浸ったような気分になる。

 冷たくて暖かくて、柔らかいお湯のようでふわふわの泡のようで、とても気持ちがいい。

 ハリーは造りだしたムースの上に寝転んで、体力と魔力の回復に努めた。

 早くジニーを助けないといけないが、いまはこのまま道なりに進むしかないようだ。

 

「『モビリコーパス』、さっさと動け」

 

 適当な調子でムースに移動呪文をかけると、ふよふよと移動を始める。ハリーが軽くランニングするくらいのスピードなので、大して変わらないだろう。傍から見ればやる気を疑われる格好だが、先も思ったように誰もいないから楽して体力回復に努めるべきだ。

 盛大にだらけながらもハリーは、先の戦闘を思い出す。

 未熟だった。あまりにも稚拙だった。

 いくら相手が凶悪な魔法生物であったとはいえ、他に何かやりようがあったのではないだろうか。

 あれは一歩間違えれば死んでいた戦い方だった。

 しかもこんなに魔力を使って、もはや枯渇寸前ではないか。

 一年生のときのように、枯渇してもなお使い続けて、大事な場面で使えなくなるなどというのは、もう二度とごめんだ。

 ハリーは魔法空間にしまっていたフレッドの鞄を取出し、最後の栄養ドリンクを飲み干す。

 バーノンとペチュニアの教育によってポイ捨てすることに強い抵抗を感じるハリーは、ごみをわざわざ魔法空間内に放り込んだ。そして起き上がると、大分体が軽くなっていることを感じる。

 しかし健康状態とは程遠い。

 いつものように飛んだり跳ねたりするのは難しいだろう。

 魔法効果が切れてムースが消え、ゆったりと床に足を着けたハリーはそのまま歩き出す。

 ……だめだ、膝が痛い。

 骨に入ったヒビは治したはずだが、完治とは言えないのだろうか。

 仕方なくハリーは、自分の胸に向けて呪文を唱える。

 

「『レウァーメン』、鎮痛せよ」

 

 淡い緑色の魔力反応光が、ハリーの胸に這入り込む。

 途端、膝の痛みを感じなくなった。

 これは痛覚を遮断する魔法であり、あまりいい魔法ではなかった。

 聖マンゴはこれの使用を非推奨しており、できる限りなら人生で使わない方がいいとまで言う。

 理由は単純なもので、痛みというのは体の発する危険信号なのだ。

 もし痛みがなければ、傷を負ったことに気付かないまま、たいしたことのない傷を悪化させて死んでしまう。などということになりかねないからだ。

 しかし今はこれが必要になる。

 継承者と戦うにしろ、例のバジリスクと戦うにしろ、いちいち足を痛がっていてはあっさりと殺されてしまうのは、まず間違いないことだ。ならばまたダメージを受けても平気なように、使っておくのも悪くはないのではないか。そう考えた末の行使である。

 

(……水の音がするな)

 

 まだ他の怪物がいるかもしれないのだ。

 言葉に出さず、ハリーは耳を澄ませて情報を得る。

 水の音、そして何かが擦れる音。誰かが歩く音。蝙蝠の飛ぶ音に、ネズミの足音。 

 この中で一番問題なのは、歩く音。

 まず人間のものだ。苛立つような足音が響いている。

 継承者だろうか。警戒が必要だ。

 そして何かが擦れる音。ひょっとしたらロンの言っていたバジリスクかもしれない。

 目と目が合うとき恋ではなく命を落とす、というロンのよくわからない冗談も一緒に思いだしたが、そんな致死性の高い魔法生物を相手にするのは少し怖い。

 だが対抗策は、ハーマイオニーが教えてくれていた。

 これもロンから説明されたことであるが、ハーマイオニー以下、石化してしまった者たちは総じてバジリスクの目を直接見なかったことが原因だろうとのことだ。

 ミセス・ノリスは水浸しになっていた床に反射した状態で。コリン・クリービーはカメラのレンズ越しに。監督生たちもノリスと同じく水に反射したバジリスクを見たと思われるが、全員が全員それというのは少し妙だ。恐らくあの中の誰かは、クロウラーの体液が混じったお湯にでも触れてしまったのではないだろうか。もしそうであるならば、是非とも念入りに身体を洗って欲しい。

 さて。

 透明マントを纏ったまま、ハリーは遂に行き止まりに辿り着いた。

 蛇が絡まり合った彫刻がある。その蛇の目には、大粒のエメラルドが嵌め込んである。 

 何をしたらいいのかなど、分かりきった事だ。

 

【邪魔だ。道を開けろ】

 

 蛇語を唇から滑らすと、岩が擦れる音とともに蛇がうねうねと動き始めた。

 それらは複雑に絡んだ胴を綺麗にほぐすと、するりと壁の中へ消えていく。

 この先が、秘密の部屋だ。

 扉が溶けるように消え去り、ハリーに道を示した。

 姿を消したまま部屋の中へ侵入すると、なるほど趣味が悪い。

 あちらこちらに蛇の石像が置いてあり、部屋の中は水で満たされていた。

 美しく飾られただろう室内はいまや石の肌をさらけ出しており、灰色と黒に支配されている。

 部屋の中央にそびえ立つのは、一人の屈強な魔法使いの石像だ。

 その特徴から恐らくはサラザール・スリザリンその人の像だとは思うが、もしそうならばサラザールという男は酷いナルシストであったようだ。自分の巨像が立つ秘密のお部屋を女子トイレの奥に設置するとはいったい如何なる考えなのか、ハリーには全く理解できない。

 あまりにひどい趣味に辟易していると、ハリーの目に燃えるような赤毛が飛び込んできた。

 スリザリン像の足元に、その身を投げ出して横たわっている。

 

「ジニー……!」

 

 思わず駆け寄って、彼女の真っ白な肌にびっくりした。

 酷い。まるで死体のようだ。

 慌てて脈を取ってみれば、弱々しいが確かにある。

 死んではいない。しかし、この不健康な肌の色はいったい……?

 

「来たね、ハリエット・ポッター」

 

 何者かの声に、そこでハリーはようやく継承者が居るかもしれないということを思い出して素早くその場から飛びのいた。途中で床に手を突いて倒立回転のようにアクロバティックに起きあがると、腰から杖を抜き放ち、声の主へ突き出した。

 ここにいる以上、ただものではない。

 相手が誰であるかを確かめる前に、ハリーは一瞬で練った魔力で魔法を放った。

 

「『ステューピファイ』、麻痺せよ!」

「『プロテゴ』、護れ」

 

 ハリーの赤い閃光は、何処からともなく聞こえた声によって盾の魔法で防がれる。

 盾が解除されて光の粒へと消えた時、その顔が露わになる。

 黒髪にすっと通った鼻。口元は自身に満ち溢れたように吊りあがっていた。全体的にハンサムに整った顔である。顔だけを見ればハリーも嫌いではない顔立ちをしているが、意思が強いというより我の強そうな目が嫌いだった。あの目で見られるのはあまり好きじゃない。

 見覚えがある。

 

「トム……? トム・リドルか!」

 

 そうだ。

 あの日記の所有者。トム・マールヴォロ・リドルその人だ。

 ハリーより三つ四つ年上の風貌を持つが、あの日記の日付が正しければ五〇年以上前に生きていた人物である。それなのにこんな……十六、七歳のままの姿だなんて。

 

「そうだよ、ハリエット。ようやく会えた。日記越しに見るよりずっと可愛らしいよ」

「そいつはどうも。……君は、ゴーストか?」

 

 ぼんやりと輪郭のぼやけた姿に、透明度が低いとはいえ向こう側の景色がほんの少し透けて見える。ハリーがそう思ってしまうのも仕方ないだろう。

 

「記憶さ。このぼくが日記に封じ込めた、十六歳当時の記憶」

「そんな、まさか。五〇年も前の魔法がまだ生きてるっていうのか……?」

 

 有り得ない話だ。

 通常では魔法をかけたとしても、込めた魔力が切れればそのまま効果もなくなる。

 だというのに半世紀も持たせる魔力運用など、ハリーは知らない。

 禁術レベルの魔法を用いているのか、それとも単純に彼の技術か。

 

「まあ、いいさ。ぼくはあの日記から出てきてるから、これから時間はいくらでもある」

 

 リドルが指差した先には、ジニーの胸の上におかれた黒い本。

 あれは……リドルの日記だ。何故こんなところにリドルの日記が?

 とはいえ、あれから出てくるなど、いくら魔法界でもあまりに荒唐無稽だ。

 

「そしてぼくは君に聞きたいことがあったんだけれども、うん。後でいいや。それより君に恋い焦がれた人がいるみたいだから、ひとまずそっちが優先かなあ」

「恋い焦がれた人……?」

 

 いったい何を言っている、と言おうとしたその時。

 頭の天辺がぞわりとした感覚に襲われ、ハリーはその場で身を低くして飛び退いた。

 微かな殺気を振りまいて頭上を通り過ぎたのは、幾匹かの蝙蝠。

 それらがリドルの近くで集まっていく様を見て、ハリーは思わず呻いた。

 まさか、こいつが出てくるとは完全に予想外だ。

 

「……、ああ……会いたかったぞ……」

 

 蝙蝠が一つのコールタールのようなドロドロになった後、一気に練り上げられ形を作る。

 紫のターバンで顔の半分を覆った、ハリーにとってトラウマの象徴ともいえる男。

 もはや完全によれよれになったスーツを着込んだままの、あの時あの場所でのまま。

 声の主はそのままゆらりと立ちあがり、ハリーを見据えた。

 

「会いたかったぞ、ポッターァ……」

「なぜあんたがここにいる……いや、どうやって生きてるんだ!」

 

 ハリーの目の前に現れたのは、昨年度ハリーが殺したはずの男。

 クィリナス・クィレルその人だった。

 




【変更点】
・ヌンドゥ戦。既に死にかけの御老体なのにこの強さ。理不尽。
・描写されていないだけで、スネイプの課外授業は続いています。
・クィレルは死なん! 何度でも蘇るさ!

【オリジナルスペル】
「オルクス、見通せ」(初出・23話)
・目に魔力を集中させて遠見を可能とする魔法。
 元々魔法界にある呪文。一年生で習う基礎的な呪文。

「ソムヌス、眠れ」(初出・23話)
・睡魔を増幅させる魔法。当然ながら生物以外には効果がない。
 元々魔法界にある呪文。一年生で習う基礎的な呪文。

「ドロル・ドロル、苦悶せよ」(初出・23話)
・単純に苦痛のみを与える魔法。これをもとに《磔の呪文》が考案されたとされる。
 元々魔法界にある呪文。若干闇の魔術寄りな特性を持つ。

「シレンシオ・ミー、音喰らい」(初出・23話)
・動作により発生する音を消す魔法。中世フランスで排泄時の消音のため開発。
 元々魔法界にある呪文。昔は壺に用を足す時代だったので必須とされた。

「ランケア、突き刺せ」(初出・23話)
・刺突魔法。杖に硬質化した魔力を螺旋状に纏わせて、槍と化す呪文。
 元々魔法界にある呪文。魔力をランス状に固めて使い捨てることも可能。

「ディアグノーシス、全身診断」(初出・23話)
・自分の体調を確認する魔法。病巣の早期発見により魔法族の平均寿命が伸びた。
 1942年、アルバス・ダンブルドアが開発。

「モルブスサナーレ、病よ癒えよ」(初出・23話)
・軽い体調不良を治す魔法。寝不足や眩暈程度なら綺麗さっぱり。
 1975年、マダム・ポンフリーが開発。

「フェブリスサナーレ、熱冷まし」(初出・23話)
・風邪の症状を軽くする魔法。微熱程度ならば完治する。
 1971年、マダム・ポンフリーが開発。

「レウァーメン、鎮痛せよ」(初出・23話)
・痛覚をシャットアウトする魔法。痛みを感じなくなるため、少々危険。
 元々魔法界にある呪文。聖マンゴではなるべく使わないよう勧告している。

というわけで、23話はどうにも新出魔法が多い。
ヌンドゥの倒し方は本当に難産でした。一番手っ取り早いのがバジリスクをけしかけるとか牙でブッ刺すなんですけど、そんなお手軽な方法は取らせません。今後のためにハリーには頑張ってもらいました。老ヌンドゥの激烈な病は、RPGでいうバッドステータスを一気に全部付与される感じだと思って下さい。
リドルと共に再登場、クィレル先生! だいたい挿絵のままです。どうやって生き延びたのか、とかは次のお話で。どうせお辞儀さんの系列なんだし、ろくなもんじゃありませんよ。


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9.闇の帝王

 

 ハリーは油断なく杖を構えた。

 クィリナス・クィレル。元ホグワーツ教師であり、闇の魔術に対する防衛術の教授。

 鷲寮出身の優秀な魔法使いにして、吸血に依ってヒトから変異した第二世代以降の吸血鬼。

 そして。闇の勢力、ヴォルデモート卿の臣下たる《死喰い人》。

 いまハリーの目の前で殺意溢れる様子で揺らめいているのは、そういう男だ。

 

「……どうやって生き延びた」

「聞いてくれて嬉しいな。それは苦労したよ、ポッター。本当に……苦労した……」

 

 顔面の左側を覆い隠すように巻かれた紫のターバンがゆらゆらと揺れ、腕の代わりに身振りを表現する。相変わらずクィレルの両腕はない。原因は分からないが、ハリーが触ったことによって灰と化して消え失せてしまったからだ。ここから生きて戻れたら、ダンブルドアに問うべきかもしれない。

 ハリーの問いかけに人間とは思えない怪物そのものである顔を歪ませて、クィレルは嗤う。

 

「貴様に顔を砕かれたあの直後、ご主人様は私の身体を捨てて何処かへと消え去った。そして私は、貴様に頭部の四分の一を損壊させられたことで死へと向かっていた」

 

 それはそうだ。

 いくら強靭な生命力を持つ吸血鬼といえど、脳を破壊されてなお生きていられる道理はない。

 ではいったいどうやってその不可を可能と変えたのか。

 

「《簒奪の呪文》という魔法がある。知っているかね、ポッター」

「……、…………許されざる呪文か」

「然り。グリフィンドールに十点」

 

 小馬鹿にするように鼻を鳴らすと、クィレルはターバンで握る杖をジニーに向けた。

 

「なッ、やめ――」

「『ディキペイル』、寄越せ!」

 

 冗談のようにドス黒い、それでいて深紅の燐光を放つ魔力反応光がジニーの脇腹に直撃した。

 そしてその深紅の燐光は闇のような魔力反応光を辿って、まるでジニーから何かを吸い取ったかのような瘤をクィレルまで運ぶ。杖を通じてそれがクィレルのターバンに辿り着くと、彼の全身がうっすらと紅く発光し、そして霧散した。

 俯いたクィレルが顔を上げると、そこには彼が失ったはずの左目が在った。紅色に鈍く輝く瞳孔。人を越えて外法に手を染めた魔導の者特有の眼だ。

 クィレルが満足そうに頷くのに対し、ハリーは杖を向けてどうするべきかを考える。

 しかしその前に彼は言葉を発した。

 

「見よ、そのガキの顔を」

「……」

「安心していい。お前が絶望するまで、私は攻撃せんよ」

 

 その言葉は真実その通りだ。

 奴はハリーに対して山よりも高く海よりも深い憎悪を抱いていることだろう。

 それでもなお警戒しながら、ハリーは数歩後ずさってジニーの様子を確かめる。

 見て、見てしまって、ハリーは怒りと憎悪、そして焦燥に汗を流す。

 ジニーの閉じられた左の眼窩から鮮血が溢れている。

 これは。これはつまり、()()()()ことなのだろう。

 

「眼、が……ッ」

「そうだ。そうなのだポッター。《簒奪の呪文》は文字通り何もかもを奪い尽くす呪文。当然、人体であろうと例外ではない。そら、出血を止めねばガキは死ぬぞ」

「くそッ! 『エピスキー』、癒えよ!」

 

 ハリーは慌てて治癒呪文をジニーにかける。

 ポンプで押し出されるように溢れていた血は治まったものの、恐らくこれで視神経は閉ざされた。

 こうなってしまった人体欠損を治せる魔法は、ハリーの知る限りはない。マダム・ポンフリーの奇跡に頼るくらいしか方法は思いつかないのだ。

 親友の妹という大事なジニーに、自らそのような仕打ちをしたことにハリーは苦い顔をする。

 それを見て大喜びするのはクィレルだ。

 

「ハッハハハァハハ! いィィィ――い顔だァ、ポッタァーッ! いい顔をしているぞォ! そうだ、私はこの調子で生徒たちから()()()()奪っていた! ダンブルドアにバレると怖いからな。少しずつ、少しずつ、蝙蝠に化けて少しずつ奪っていった。苦労したぞぉ、ポッター。それもこれも貴様のせいだからな」

「き、きさま……!」

 

 憎悪のこもった視線を向けるも、まるで心地よいシャワーだとでも言うような表情をするクィレル。

 それがさらにハリーの心を激しく揺さぶる。

 彼の話が本当ならば、なぜヌンドゥの病以外にも風邪がここまで大流行したのかもわかる。生命力を奪われれば、当然体力も減る。そんな免疫力の低下した体では、通常の健康状態とは比べるべくもなく体調を崩すことだろう。

 何なんだ、この男は。本当に、なんなんだ。

 

「おまえ、仮にも元教師だろうが! 生徒にそんなことをして、なんとも思わないのか!?」

「『仮にも元教師だろうが』ぁ! 『なんとも思わないのか』ぁ! ぷっは、ギャハハハハハ! いやはや、ミス・ポッターは御冗談がお上手で! 教師がなんだっていうんだ、ただガキどもに講釈垂れてストレスと金を貰うだけの仕事だろう? ああ、それとも私の腹を捩れさせて殺すつもりなのかね? それは実に効果的だ! グリフィンドールに五点やろうじゃないか!」

「ふざけるな! 『エクスペリアームス』!」

「おおっと『プロテゴ』。短気はいけないぞポッター、グリフィンドールから一〇〇点減点だぁ」

 

 激昂したハリーの攻撃も、いとも容易く防がれる。

 腕がないというのに元気な奴だ。いや、ひょっとするとその腕もジニーから奪えば手に入るのか?

 まるで悪ガキが女の子をいじめて遊ぶような光景に、リドルが溜め息を漏らした。

 

「クィレル、クィレル、クィレル。ぼくも暇じゃあないんだ。さっさと用件を済ませてくれ」

「ちぃ、いいところだったのに。あまり邪魔をしてくれるなよリドル」

 

 諌めるような青年の言葉に、舌打ちで返すクィレル。

 それに対して肩を竦めるのみで終わらせたリドルは、石像に背中を預けて傍観の姿勢を取った。

 にやにやといやらしい笑みを浮かべているあたり、面白いショーとでも思っているのだろう。

 

「さて、急かされたことだし。始めようかポッター」

「……、…………何をだ」

「当然。――殺し合いだ」

 

 ハリーの肩に降りかかる重力が、途端に増した。

 クィレルのぎらついた殺気が押し寄せる中、ハリーはその刃のような殺意で以って返す。

 それに驚いた顔のクィレルと、口笛を鳴らして喜ぶリドル。

 

「ほほう、なかなか。この一年だいぶ苦労したようだねハリエット・ポッター。いい憎悪だ」

「黙れリドル! 今は私のお楽しみの時間だァ!」

「はいはい。さっさとやられてきなよ」

「ガキが! 行くぞポッター! 恐怖に塗れた顔を見せてくれ、汚物に沈んで私に殺されろ!」

 

 床を蹴り砕く勢いでこちらへ跳んできたクィレルは、爪のように鋭くなったターバンを振り下ろす。

 ハリーはそれを後ろに倒れることで避け、両手を床について両足を振り回すように回転した。

 それに足を蹴られたクィレルが体勢を崩すと同時、ハリーは杖を突きだす。

 クィレルの鳩尾に風穴が開き、口から赤と銀の血液がごぼりと溢れる。

 無言呪文による《刺突魔法》だ。抉るように杖を捻ってさらに傷口を広げると、寝転がった状態のハリーは「『アニムス』、我に力を!」と叫んだ。身体強化の呪文である。

 反動をつけて起き上がる際、ついでとばかりにクィレルの顔を両足で思い切り蹴飛ばす。強化された脚力で蹴られたクィレルは驚愕の表情を張り付けたまま仰け反り、宙へと吹き飛ばされた。

 両手で跳びあがったハリーは重力に従って落下し始めたクィレルの真下へ駆けると、更に強烈な蹴りを加えてより高く放り上げる。同じく地を蹴って宙に跳びあがったハリーは、空中でクィレルの心臓目掛けて足刀を放つ。まともに受けたクィレルは回転しながら激しく吐血し、ハリーは嫌そうな顔をする。

 だが攻撃の手は緩めない。空中に居ながらにして魔力を射出し体勢を整えたハリーは、クィレルに向かって全力で魔法を乱射する。

 

「『エクスペリアームス』! 『ディフィンド』! 『インセンディオ』! 『グレイシアス』!」

 

 武装解除によりクィレルのターバンから杖が弾き飛ばされ、切断呪文によりクィレルの首から鮮血が撒き散らされる。炎呪文で両足を焼かれ、氷結呪文で胸から上を凍結される。

 散々な扱いを受けたクィレルはそのまま床へ叩き落されると、ハリーはとどめとばかりにクィレルの上へわざわざ着地し、乱暴に蹴ると空中で数回転して距離を取った。

 リドルが嬉しそうにはしゃぐ中ハリーは、首から血をあふれ出させて血の池を作る、地に倒れ伏したクィレルを睨みつける。手ごたえは十分以上にあった。だが、彼の感情が消えた気配がない。

 怒涛の瀑布のように押し寄せる憤怒の感情が。

 

「ポッ……タァァァアァァァァ――――――ッ! きさま! よくも、この私にィィィ!」

 

 口元の氷を顎の力のみで砕き、クィレルが絶叫した。

 ごぼり、ごぼりと首から溢れる血液に気泡が混じっている。理由はわからないが、どうやら再生していないようだ。

 ハリーは冷たい目で激昂するクィレルを見下ろすと、更に杖先から呪文を放つ。

 その魔力反応光を避けるため、クィレルは両足で地面を叩くことで宙に舞いあがる。身動きの取れない宙にいるうちに当てようと、続けて魔法を放つもクィレルは身を捻ってそのすべてを回避する。

 手負いの獣がそうするように、着地したクィレルは身を低くして構える。口元からどろどろと垂れる血もまったく気にしておらず、既に見る影もない高級そうなスーツをさらに汚していた。

 

「ごぼ。侮っていたよポッター。そこまで、ごぶ。そこまで、強くなっているとは」

「それはどうも。そのまま死んでもいいんだよ」

「抜かせ。いまここで貴様を殺してやる」

 

 ボロボロの状態のクィレルの目が細められる。

 奴の杖は武装解除のせいで、どこかへいってしまった。ならば奴はその身体能力を活かした攻撃をするはずだ。いったい、どう攻めてくるのか。

 

「SYAHッ!」

「――ッ!」

 

 獣のような叫び声と共に、意外にもクィレルはまっすぐ突っ込んできた。

 その素早さたるや、普通の人間では視認するのがやっとといった程である。

 だが今のハリーは身体強化魔法の影響下にあり、例え吸血鬼であろうとそのスピードに対抗できるだけの知覚と肉体を持っている。ハリーの脇腹を抉ろうと伸ばされたターバンの槍を、左手で掴んで思い切り引き寄せる。

 ハリーの思惑としては、そのままこちらに寄せられたクィレルの顔に強烈な拳を打ち込むつもりだったが当てが外れた。するりとクィレルの頭からターバンが脱げ落ち、逆に勢い良く引っ張ったハリーが体勢を崩すことになってしまう。

 自分の腕替わりであったターバンを奪われたことに多少動揺するものの、クィレルはそのまま攻撃を続行する。腕がなくなったので、ハリーの腹にそのまま頭突きを加えた。

 吸血鬼の強靭な肉体と異常なまでの速度、その相乗。クィレルは自らの触感から、ハリーの肋骨をいくつか砕いたことを確信した。

 少女が桜色の唇を真っ赤に染める血を噴いたのを見て、クィレルは勝利を確信してほくそ笑む。

 直後。その眼は驚愕と恐怖に染め上げられた。

 目だ。

 ハリーの目が、真っ赤に染まっている。

 明るいグリーンでありながら泥のように濁った瞳をしているのが、ハリー・ポッターという少女だ。

 だが今のハリーの瞳は、紅く染まっている。

 かつて恐れ、傀儡のように従った主人である闇の帝王と、同じ瞳の色。

 そして色が同じなのは、何もカラーだけの話ではなかったのだ。

 落胆と怒り。

 ハリーの紅い瞳に色濃く表れた色もまた、主人と同じ色だった。

 

「ヒッ――」

「――ここで死ね、クィレル」

 

 怯えを見せたクィレルの首に、右手を素早く動かして杖を突っ込んだ。

 既に切断呪文によって裂かれていた傷口に杖先が突き刺さり、赤と銀の血が噴き出す。

 ジニーから奪ったクィレルの左目が、ハリーを見る。

 言葉はない。

 だがまるで命乞いをするような視線を、しかしハリーは冷酷に嘲笑った。

 

「『ランケア』、突き刺せ」

 

 ぞぶり。

 水の詰まった皮袋にナイフを突き立てたような、そんな感触が伝わってくる。

 ハリーの杖にまとわれた螺旋状の魔力は、クィレルの首と胴を泣き別れさせた。

 銀の血液と赤の血液を撒き散らし、回転しながらクィレルの首が吹き飛ぶ。

 バウンドする生首。秘密の部屋の床が水浸しであったため水の中に首が半分沈んだ状態で、クィレルの頭部は床に転がった。リドルは足元まで転がってきたクィレルをただ面白そうに見下ろすだけだ。

 一瞬遅れて残された体が倒れ込み、抉られた首からびゅるびゅると血液が溢れてハリーの靴を汚す。

 冷たく見下ろしたハリーの瞳が、紅から緑に戻るころ、首だけになったクィレルがようやく悲鳴を漏らし始めた。心を折られ、心底恐怖した傷ついた犬のような悲鳴だ。

 

「ひいっ、ひいいいい……っ、化け物、化け物ぉ……」

「おいおい。お前がそれを言うか?」

 

 半笑いでリドルがそう言うも、クィレルは返す気力もないようだ。

 いまだに冷たい目でクィレルを見るハリーに、リドルは嬉しそうに声をかける。

 

「やあ、ハリエット。お見事だよ、クィレルを斃すなんて、なかなかやるじゃないか」

「…………、……」

「おやおや、意識して人を殺すのは初めてかい? 女の子の初めてって何かいい響きだよね。うん。っていうか、こんな雑魚っぽくても吸血鬼だよ彼は。君、ひょっとしてそこらへんの闇払いよりも力あるんじゃないの?」

「……だまれよ、リドル」

 

 荒い息を整え、ハリーは呟く。

 肩を竦めたリドルはにやにや笑ったまま、ボールのように足をクィレルの頭に乗せる。

 びゅくびゅくと痙攣するクィレルの胴体を眺めていたハリーは、リドルのその行動を見た。

 人を人とも思わない、まるでおもちゃのように扱うその行動。

 眉を潜めて、ハリーは問うた。

 

「……おまえ、何者なんだ。単に五〇年前の記憶がなにもなしに、ぼくの前に現れるか?」

「んんーん。やぁっとぼくのお話ができるねえ。この有象無象(ゴミクズ)が時間をかけすぎるからいけないんだ。これだから出来そこないはいけないんだ」

 

 ユニコーンの血のせいだろう、首だけになっても死ぬことができず怯え続けるクィレルの頭を、何度も踏みつけるリドル。

 その行動は、およそ血の通った人間のできる所業ではなかった。

 黒真珠のように美しい瞳をこちらに向け、楽しそうに歌うようにリドルは言う。

 

「ぼくはね、君だよ。ハリエット・ポッター」

「ふざけているなら殺すけど」

「おおっと怖い怖い。本当のことをお話ししましょう、ハリエットお嬢さん」

 

 リドルはいつの間にか拾い上げていたクィレルの杖を掲げると、空中に文字を刻み始めた。

 杖を一振りさせて反転させると、ようやくハリーにも読みやすくなる。

 どうやら、リドル本人の名前らしい。

 

――TOM(トム) MARVOLO(マールヴォロ) RIDDLE(リドル).

 

 トム。

 男の子によくある、平凡で親しみやすい名だ。

 それを忌々しげに眺めるリドルは、ハリーに向かって自嘲気に言う。

 

「どうだい、この平々凡々とした名前は。反吐が出るだろう」 

「そうか?」

「そうだよ。冗談じゃないね、ぼくにはもっと、偉大な、相応しい名前がある」

 

 リドルはそう言うと、ひゅんと杖を振る。

 すると文字がばらけて、うねうねと動き回った挙句に別の文字列に変わった。 

 それを読んだとき。ハリーは息を呑む。そして足元のクィレルは恐怖に目を見開いた。

 

――I AM(わたしは) LORD VOLDEMORT(ヴ ォ ル デ モ ー ト 卿 だ).

 

 アナグラム。

 ある文章で使われているアルファベットを入れ替えて、全く別の文章とする言葉遊び。

 リドルは自身の名を崩すことで決別(ころ)し、新たな自分へと生まれ変わるつもりだったのだろう。

 ハンサムさと物腰の柔らかさ、人懐っこさから初対面の人間のほとんどが好印象を抱くであろう青年は、いまや英国の誰もが名を口にすることすら恐れる大悪党へと変身せしめたのだ。

 ハリーは驚き半分、そして自分でも意外なことに納得半分の気持ちで、リドルに問う。

 

「じゃあ、そうか。君がヴォルデモートなんだな」

「そうさ。正確には未来のぼくがね。この名前は在学中でも親しいものにしか名乗っていなかった。だって考えるのに結構苦労したからさ。どうせなら誰もが恐れる、素敵な名前がいいじゃないか」

死の飛翔(vol de mort)。うん、お洒落で悪趣味なネーミングだと思うよ」

「ありがとう。君ならそう言ってくれると思っていた」

 

 ハリーの答えに満足げな顔をするリドル。

 驚きもあるが、なにか納得が強い。自分の中の何かが、彼を闇の帝王だと肯定している。

 しかしやはり疑問もある。

 五〇年前のヴォルデモートだというのならば、ハリーを知っていることはおかしい。

 

「記憶とは、所詮記憶にすぎない。じゃあなんで君はぼくのことを知っているんだ、リドル」

「そりゃあ、聞いたからさ。ジニーからね」

 

 ここでジニーの名が出るとは。

 ハリーは驚きを隠すように頷いた後、どういうことかと問う。

 それに対する答えは実に簡潔なものだった。

 

「そりゃあ、君。ジニーが秘密の部屋を開いた者だからに決まっているじゃないか」

「ジニーが?」

「うん。ぼくの日記、アレを最初に所有していたのはジニーなんだよ」

 

 ジニーははじめ、どうやって手に入れたかわからない日記を届出ようとしたらしい。

 誰かの荷物が混じっていると思ったのだろう。

 しかしリドルがそれを阻止した。

 本に文字を浮かべ、ジニーの気を惹いたのだ。

 所詮は十一歳の少女。リドルにとって口八丁で籠絡するのは実に容易なことだっただろう。

 美辞麗句を並べ、彼女の悩みを聞き、時には親しい友として想いを綴られる。

 それはなんと甘美で、そして滑稽か。

 リドルは言う。「思春期女子の悩みってのはばかばかしいね。やってられなかったよ」と。

 聞けば恋愛ごとの悩みだとか、仲良くなれるかだとか、そういった相談ばかりだったらしい。

 だがそれでもリドルは、彼女の悩みを聞く必要があった。

 正確には、ジニーに日記を所持していてもらわねばならなかった。

 リドルはジニーが日記に文字を、思いを書き込むことで魂を削り取る術式を日記に仕込んでいたという。自身の記憶を封じ込めた魔法式の応用だそうだ。それを用いて、ジニーから少しずつ、少しずつ、魂という生命エネルギーを刻んで、己が胃袋へ放り込んできたのだ。

 そしていつしか。魂の容量が崩れてバランスは変わり、主従は逆転する。

 持ち主は道具へ、道具は支配者へ。

 ジニーの身体を操ることに成功したリドルは、次々と行動を起こした。

 まずは秘密の部屋を開け、バジリスクを解き放つ。そして蛇語で操れないヌンドゥが不用意に出てこれないよう、バジリスクに命じてパイプ通路へと誘導した。

 愛しいお友達であるジニーからの話でハリエット・ポッターという存在を知った。

 闇の帝王となった未来の自分を打倒したらしい。

 たかだか一歳児に敗北するなど、有ってよい話ではない。だが、実に面白い。

 ここでリドルは、ハリーに興味を持った。

 だがハリーと出会うには手順が必要だ。

 さて、どうするか。

 暇を持て余したリドルは、前座が必要だと感じた。

 自分とハリエットが出会う感動的なシーンに至るには、無様な前座が必要だと。

 役者を求めてバジリスクに校舎内の下水パイプを通して探し回ってもらったところ、灰に埋もれ憎悪に震えながらも生き延びている生ごみを見つけたそうだ。

 それが、クィレルだ。

 現代の自分が乗り捨てた玩具であることを察したリドルは、クィレルに救いの手を差し伸べた。

 一も二もなくその手に飛びついたクィレル。

 こうしてリドルは、便利な手足(腕はないが)を得ることができた。

 マグル生まれである穢れた血がはびこる校舎内を掃除しようと思い立ったらしい。

 クィレルに生命維持のための魔法をかけ、校舎内の生命力を吸い取らせて生き残らせた。

 すべてはハリー・ポッターに倒されるためだけに。

 

「そんな……、ご、御主人さま……?」

 

 リドルの説明を聞いていた生首クィレルは、絶望的な声を出した。

 やっと伸びてきた救いの手が、実は悪魔のそれだったのだからさもありなん。

 楽しそうに笑うリドルは、氷のような声で説明を続けた。

 これだけ寒いのに吐く息が白くならないその姿も、また悪魔染みた雰囲気に一役買っている。

 

「そしてぼくは、ジニーの生命力を吸う形で復活しつつある。つまり彼女の命をぼくの物として置き換え、代わりとして彼女に死んでもらうというわけさ。復活したならば十六歳とはいえ、ヴォルデモート卿が二人に増えるんだ。その絶望感たるや、魔法界のゴミどもが歪ませる情けない顔を見てみたいよねえ」

 

 だけど、とリドルは続ける。

 

「このままではジニーの魂を削り切って死なせない限り、ぼくは現出できないし、魔法だって使えない。受肉してないから、魔力が通ってないんだよね。それに彼女がいくら純血とはいえ、学校内での評判を聞いてみれば、穢れた血と通ずる裏切り者どもじゃないか。まったくもって、ぼくの糧にするには役不足だ」

「……どういうことだ。何が言いたい?」

 

 リドルはからからと笑うと、サッカーのリフティングのようにクィレルの頭で遊び始めた。

 ぽんぽん、ぽーんとクィレルの頭がリドルの靴の上で踊り跳ねる。

 ヴォルデモートという自分の主人たる帝王の前で無様を見せてしまったクィレルは、ただ怯えるのみ。血の混じった涙を流し、口の端から英語にならない嗚咽を漏らしていた。

 そんなクィレルの頭を、ひと際高く蹴り上げたリドルは、それを鷲掴みにする。

 

「ヒィッ! イヒャァ――ッ!?」

「うるさいなあ」

 

 恐怖のあまり奇声を上げるクィレルを、リドルは右手だけで持ち上げる。

 

「どうだい、ご覧よ。この闇に染まって醜い顔を」

「……、お、おい。まさか」

「うふふ。こんなにどす黒いなら、糧にぴったりだとは思わないかい」

 

 クィレルの顔を自分の真横へ寄せるリドル。

 いつ殺されるかわからず、ただ泣き続けるクィレルの顔が、ハリーに向けられた。

 ジニーから奪った左目から、死への恐怖により滂沱と涙を流すクィレルはあまりに哀れだ。

 クィレルの頭を掴むリドルの手に、力が入る。

 

「ひィ、やめて。助け――」

 

 クィレルが悲鳴のような制止の声を上げるが、リドルは嘲笑った。 

 愉悦とばかりにリドルは頬まで裂けんばかりの毒々しい笑みを浮かべて、右手に魔力を込める。

 途端、柔らかいパン生地のように顔を歪ませたクィレルは、次の瞬間水風船が破裂するような鈍い音と共に、その頭部を肉塊と血の滝に変えた。

 ぼたぼたとリドルの指の間から零れ落ちる。ピンクの何か。及び白とオレンジの何か。

 ぐちゃぐちゃと生々しい音と現物を前にして、ハリーは思わず嘔吐した。

 少女のもたらす液体音と、死がもたらす液体音。そして陶酔しきったリドルの吐息。

 苦しい時間を乗り越えたハリーが汚れた口元を袖で拭いながら顔をあげると、そこではリドルが汚れきった手を舐めとっている姿が見えた。

 ――狂っている。

 

「失礼だなあ。これもひとつのお食事だよ」

 

 リドルはそう囁くと、喉を鳴らして脳漿を呑みこんだ。

 またえずきそうになるが、こんな危険人物を前に少しでも隙を見せる気にはなれない。

 胸からこみ上げるモノをぐっとこらえて、ハリーはリドルを睨みつけた。

 すると彼の輪郭がはっきりし、向こう側の風景も見えなくなった。

 んんー、と彼が伸びをして大きく息を吐く。

 白い、寒さによって白く変化した吐息が彼の唇から滑り出す。

 頬にも赤みがさして、まるで、まるで生きているかのような――

 

「ヴォルデモート卿、復ッ活ぅ~~~ッ」

 

 一人の少年が、その両腕を広げて深呼吸する。

 陶酔した、己に酔いきった顔。それは異様なほどに醜悪であった。

 

「うーん、どうだいハリエット。変なところないかな」

「な、何を……?」

「んー? ああ、ほら。せっかく()()()()()んだから、感想くらい欲しいと思ってね」

 

 受肉できた。

 それは、それはつまり。

 

「……ッ!」

「おっと、ジニー・ウィーズリーならまだ大丈夫だよ。まだ、ね」

 

 ハリーがジニーに目を向けると、確かに微かながら胸が上下している。

 本当に微かだ。あと、もっていくらだろうか。

 恐らくリドルは、まだジニーから魂を削り続けているのだろう。

 

「まー、相応しくないとは言ったけどさ。女の子の魂って案外おいしいんだよね。やみつきってやつ?」

「……サイテーだな」

「おや。やっぱり女の子にはこの感性わからないかな?」

 

 肩を竦めるリドルに、ハリーは杖を向けた。

 どの道、彼をどうにかしなければジニーを救える手立てはないのだ。

 やるしかない。

 

「おや。ぼくとやるつもりかい? ただの二年生ごときが、このヴォルデモート卿に?」

「まだヴォルデモートじゃないだろう? それに、どうやら五〇年の間に新しい知識は増やしてないみたいだからね。その間に開発された魔法も、ぼくはよく知っているんだよ」

「へえ、そうかい」

 

 リドルは不愉快そうに、しかし興味深そうに頷く。

 そうしてハリーを再度見据え、杖を構える。

 

「試してみるかい、ハリエット」

「望むところだ。さっさと倒して、ジニーと共にここを出る」

 

 にま、と。

 まるで新しいおもちゃを与えられた子供のような、無邪気な笑顔を浮かべるトムを見て、ハリーは心底気持ち悪いと感じた。

 なぜあのような純粋無垢な笑顔に、そのような感想を抱いたのか。

 わからない。だが、危険を感じた。

 あの笑顔は、絶対何かよからぬことを企んでいる。

 たとえば、そう。

 予想の斜め上にナイフを突き立ててくるような。

 

「さぁいくよハリエット! ついておいで!」

「黙れ! 八つ裂きにしてやる!」

 

 二人で啖呵を切って、構えた杖を二人同時に大きく振り回す。

 魔力を練り、魔法式を構築し、杖先から魔力反応光があふれ出し、

 

「「『アニムス』、我に力を!」」

 

 全く同じ魔法を行使した。

 ハリーは青白い光に包まれ、リドルは赤黒い光に包まれる。

 その光景に、ハリーはやはりと内心で舌打ちした。

 この魔法、《身体強化呪文》は。ヴォルデモートが世間を絶望に突き落としていた暗黒時代に、一人の闇払いが創りあげた魔法だ。五〇年前の学生であるトム・リドルがそれを知っている道理はない。

 ただ先ほど、クィレルとの戦闘でハリーが使って見せたきりだ。

 もしそこで視て、解析し、理解し、習得したというのなら彼は間違いなく怪物だ。魔法使いという種族を逸脱し、人間の殻を脱ぎ捨て魔人の域に足を踏み入れている。

 魔人化した元人間は、肉や血から他者の魂情報を摂取することで自身の魔力を補強しようとする性質があるとされている。いくら中身が小物臭いクィレルであろうと、彼は曲がりなりにも吸血鬼である。吸血鬼自身他者から血という魂を取り込んでいる存在なのだから、その魂情報の濃密さときたら他とは比べ物にならないだろう。

 先ほどのカニバリズムにも抵抗がないことから、もしかするとリドルはひょっとするかもしれない。

 赤黒い光が、美しくも毒々しい軌跡を描いて跳ね上がる。青白い光もまたそれに続いて跳び、追いすがるように壁を蹴り柱を蹴り追いかける。

 リドルの楽しそうな哄笑が秘密の部屋に響き渡った。

 

「いィィィーい魔法だねえーっ! 魔力運用が難しいね? んー、んん、ハリエット、君もまだ十分な運用ができてないんだろう? だったらまぁぴったりかもしれないな」

「黙れ! その口を縫い合わせてやる!」

「ヒューッ、怖い怖い」

 

 二人は壁を駆け上がりながら、子供のような言い争いをする。

 おちょくるリドルに我慢できなくなったハリーは、その挑発に乗ることにした。

 まるで拳銃のように杖を突き出す、無造作で単純な魔法式。

 魔法式の容易さを見れば杖を持った赤子でもできそうな魔法だがその実、要求される魔力と度胸が尋常ではない、完全に相手を攻撃し害するためだけに編み出された魔法。

 

「『フリペンド』、撃て!」

 

 《射撃魔法》である。

 ハリー特有の、明るい緑色をした魔力反応光が銃弾の形に固められて杖先から射出される。

 射出される音も、杖先で一瞬だけ光るオレンジと黄色の魔力反応光も、マズルフラッシュに似ている。

 それもそのはず。これは中世魔法界にて、マグルの扱っていた当時のマスケット銃を見たとある魔法使いが考案した魔法だからである。似ているのも当然と言ったところだろう。

 固定した魔力(だ ん が ん)を、杖先に収束(リロード)、爆発的な魔力(かやく)射出する(う つ)

 そんな単純明快な仕組み。魔法式らしい魔法式と言えば、杖内でちょうどよく魔力を爆発させる程度か。それも一度プログラムしたならば寝惚けながらでもできるほどの容易さ。

 だがそれは、完全な攻撃に用いられる魔法である。

 魔法使いや魔女がその魔法を使うときは、相手を殺すとき。

 当然だ。他人に拳銃を撃ち込んでおいて殺す気はなかったなどと言えるのは相当な阿呆か相応の殺人鬼かといったものなのだ。相手にこの魔法を向けられる度胸を持った魔法使い魔女は、なかなかいない。

 かの暗黒時代では、自衛のためにこの魔法を覚えるようにと魔法省から勧告されていた。

 しかし《死の呪文》が最大の禁忌とされるような魔法界での道徳観念では、いざ襲われた際にこの魔法をきちんと使える者は滅多にいなかった。なにより使える者が限られるとはいえ、《死の呪文》が強力過ぎるのだ。

 《射撃呪文》は弾丸となった魔力反応光で肉を貫き、心臓を止めて殺す。

 《死の呪文》は一方、魔力反応光を当てる。すると相手は死ぬ。

 そういった理不尽でばかばかしい効果を持つのが《死の呪文》である。何のプロセスもなしにただ死ぬ。などという異常が生物にはあってはならないのだ。外傷はない、病気もない、なのに体は死んでいる。死んでいるということを除けば極めて健康体であるなどというふざけた結果になるのだ。

 そういう事情もあって、この魔法を英国魔法界で使う者は少ない。

 だがハリーは、セブルス・スネイプという優秀な教師からこの攻撃手段を教わっていた。マグルにあまりいい感情を持たない彼ではあるが、その有用性は何故かよく知っていた。ただ魔力弾を魔力爆発で撃ちだすだけ、という仕組みだけではなく、弾丸を回転させるという手法を取ったのだ。空気を切り裂いて射出される魔力弾は、通常ただ撃ちだしただけの魔力弾よりもはるかに威力が高く射程も長い。それは、マグルの悪魔的な知恵が生み出した銃の構造と同じモノであった。魔法を持たぬゆえ頭脳を捏ね繰り回すようなマグルの技術は、魔法にすら応用可能なのだ。

 そういった背景もあるこの魔法、これをハリーが躊躇いもなく使ってきたことに、リドルは少しだけ感心した。スネイプによって改良、もとい改悪された殺しのための魔法を見て、リドルはハリーへの評価を上方修正したのだ。

 

「『プロテゴ』! んんん。いい魔法だね、人を殺す為だけのいい魔法だ」

「そりゃそうだ。君を殺す為だけに使ってるんだから」

「素敵な殺意だ。フツーの子供じゃ、そんな目はできないよ、ハリエット。君は魅力的な女の子だ」

「うるさいな。黙って殺されてろよ」

「そいつは御免被る」

 

 ハリーは無言呪文で《射撃魔法》を乱射する。

 狙う個所は眉間、心臓、鳩尾、股間。そのすべてが人体の急所。

 盾の呪文を張っていても伝わってくる、確殺の気迫。

 その殺意が嬉しくて、外法に手を染めてまでこちらに向かってくる姿が美しくて、血に塗れてでも杖を振るうその少女が可愛くて、リドルは興奮し、頬が裂けるほど嗤った。

 未来の己がこのような少女を作り上げたと知った、この躍るような歓喜は素晴らしい。

 平穏無事に暮らせるはずだった人間を、このような外法と修羅の舞い踊る地獄に叩き落とす、(かばね)に満ちた光り輝く未来を与えてやれる。血の海を啜らせて、肉の山を食ませる楽しみを教えてやれる。

 トム・リドルがヴォルデモート卿となった暁には、このような愛らしい復讐鬼を幾百も幾千も。

 彼のもとへ大挙して押し寄せて、そして杖の一振りで無と消えるのだ。

 そんな素敵なことって、あるだろうか。マジで勃起もんですわ。

 想像するだけで心が軽くなるではないか。

 そう、この左手のように! ……左手のように?

 リドルの思考がそこまで至ったとき、彼は自分の左掌が穿たれている事実に気付いた。

 不思議に思ってハリーを見てみれば、彼女の杖には魔力が螺旋を描き集まっているではないか。

 あれは、いったいなんだろう?

 

「『フリペンド・ランケア』! 刺し穿て!」

 

 ハリーが叫ぶと同時、螺旋の魔力が杖先から射出された。

 それはこの戦いでハリーが編み出した、《射撃魔法》と《刺突魔法》の複合呪文。

 つまるところ、投槍である。

 螺旋の槍となった深紅の魔力反応光は、迷うことなくリドルに直進、飛来する。

 リドルが慌てて盾の呪文を三重にして構えるも、そのすべてが引き裂かれて光と消えた。

 

「あ」

 

 ぐじゅり、と。

 螺旋に回転し続ける魔力の紅槍は、リドルの腹を突き抜けて背後の壁を穿つ。

 リドルは自分の腹が穿たれてようやく、ハリーの力に思い当たった。

 五〇年前、リドルは一番だった。

 ホグワーツでは全生徒で一番の成績と実力を持っていた。

 監督生、主席は当然。時には魔法理論を間違えて演説している教授の間違いを指摘し、代わりに弁論を振るって嫌われ者の無能教師を辞職に追い込んだことさえあった。

 ヒーローだったのだ。

 生徒にとっては目指すべき目標、頼れる仲間。優秀な監督生。

 教師にとっても問題児に対処できる頼もしい生徒。学生の鑑。

 唯一力が及ばぬと感じたのは当時の副校長ダンブルドアのみであり、己の力は当時の校長すら凌駕していたと自負していた。そしてそれは紛れもない事実であった。 

 ゆえに。

 リドルは格上と戦ったことがない。

 ヴォルデモートと名乗ってからはダンブルドアや闇払いなど、幾度か恐るべき強者たちと殺し合うこともあった。命と命を削る戦いと殺しの中で研鑽され、闇の帝王が冥府の底より這い出でたのだ。

 だがリドルには、その命がけの戦いがない。まだ経験していないのだ。

 所詮は記憶。所詮はバックアップ。

 学生としては破格のトム・リドルであったが、それは目の前のハリー・ポッターにも言えること。

 入学前から命の危機に陥るような状況の中、刃物のように心を研ぎ澄まし。

 一年生の時から殺し合いの場に身を置いて、実戦の中で命のやり取りを覚えた。

 二年生になってからはこの秘密の部屋騒動だ。彼女の実力は、リドルの埒外のそれである。

 事ここに至って、リドルの計算違いはただ一つ。

 ハリー・ポッターが既に、下手な闇払いよりも強大な実力を得ていたことだった。

 

「ぐ。ごぼ。がぁ。ぁぁぁあああああああああああああああああああああァ――――――――ッ!? い、痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い! なんだこれは! 痛い、なんて。そんな。記憶である、ぼくが、痛い!? そ、そうか。受肉! 受肉したから痛覚神経が通って魔力エーテルがエーテルがエテルルルウルウルウルぎぃぃぃあああああああああああああああああああああああああああ!」

「やかましい奴だ。『シレンシオ』!」

「お腹! お腹に、穴がァ、痛い! 畜生、ちくしょう! このメスガ――、……、…………!?」

 

 五〇年ぶりの痛みに絶叫するリドルに、声が出せなくなる呪文をかけるハリー。

 口をパクパクさせて、言葉でなく少量の血液のみを吐き出すリドルをみて、冷たく笑う。

 それは、美しかった。

 戦場で微笑む剣士のような美しさ。

 幼いながらに命を削ってきたからこその美が彼女にあった。

 リドルは思う。

 これは完全に自分の落ち度だと。

 相手をなめてかかって、遊び半分で挑んでいい相手ではなかった。

 この少女は。

 敵だ。

 

「……、………………。うん、解除。『エピスキー』、癒えよ」

「ちっ、無言呪文か。対応が早い」

「そうだ。そして悪かったね。ぼくは君を侮辱していたことを謝罪する。子供と侮っていた」

 

 リドルが優雅に頭を下げる。

 ハリーは応えることなく、その頭頂部に失神の呪文をかけた。

 見越していたかのようにリドルが飛び退り、身体強化の影響により煙を残しその姿を消す。

 影響を受けているのはハリーも同じであるため、同じく足元の水を飛沫と変えて高速の世界へと足を踏み入れる。

 居た。スリザリン像のところだ。

 高速で動くハリーは、《刺突魔法》によって杖を一振りの短槍へと変じる。

 紅色の魔力反応光を放つその槍は、先ほどリドルを貫いたそれである。

 これを選んだ理由は彼への威嚇と威圧も兼ねているということと、確実に近接戦になるということ。

 槍術の心得があるわけではないが、有ると無いとでは大違いだ。

 

「――っりゃぁア!」

 

 突撃(チャージ)

 槍と化した杖の後部より魔力波を放射し、それをブースターとして加速しての突き。

 狙うは心臓。……だが、そうするためにはいささかチャンスがなかった。

 リドルもハリーと同じ魔法を使い、己の物としたクィレルの杖に、黒い槍を纏わせたのだ。

 槍を振り回し、ハリーの突きを迎撃しようとリドルが構える。

 ハリーはリドルの直前で槍を床に突き刺し、急制動をかける。迎撃しようとしたリドルの槍が空振り、リドルが体勢を崩した。タイミングを合わせたのか、勢いよく突っ込んでいったところで床へ槍を引っかけたことでハリーの身体は強烈な勢いで回転する。

 その勢いのまま、リドルに向かって暴風が如く突っ込んでいった。

 

「ごォあああああ!?」

「……ッ、く!」

 

 回転したままリドルに突っ込んだハリーの攻撃は、その半分が失敗だった。

 槍の穂先で切り裂くつもりが、当たったのは反対側である石突の方。それでも十分な打撃ではあるし、リドルの鎖骨を確実に砕いた感触を得た。

 だが、浅い。足りない。殺しきれていない。

 ハリーを叩き落とそうという魂胆か、槍を掴んできたリドルの顔面を両足で蹴りつけて、ハリーは距離を取る。ついでとばかりに宙返りの最中に槍の魔力部分のみをリドルに投擲して、短槍を杖へと戻した。

 よろめいたリドルを魔力波で吹き飛ばすと、彼の身体はスリザリン像に叩きつけられる。

 少なくない量の血を吐き出したリドルへさらに追撃しようとハリーは身をかがめて、ふと恐ろしい悪寒を感じてその場を飛びのいた。果たしてそれは、ハリーの命を救う英断であった。

 

「―――ッ、『プロテゴ』ォッ!」

 

 ぎゅっと目を閉じたハリーは、即座に盾の呪文をで全身を防御膜で包む。

 途端、まるでトラックに跳ね飛ばされたかのような衝撃を受けてハリーの小柄な体は吹き飛んだ。

 糸の切れた人形のように手足を泳がせ、轟音を立てて床に叩きつけられる。

 石造りの床を大きくひび割れ陥没させても勢いは止まらず、駒のように回転しながら水にぬれた床を滑っていった。背中から激しく壁にぶつかってようやく止まったハリーは、何があったのかを確かめることができなかった。

 直観である。

 目を開けたら死ぬ。

 それがわかる。

 

【よくやった、バジリスク】

【継承者様、勿体なきお言葉に御座います】

 

 シューシューという声が聞こえる。

 あれは蛇語だ。つまり、リドルが使っている。

 蛇語で操れるものと言ったら? ああ、それはだめだ。

 

【リドル……】

【おお、ハリエット。君も使えるんだね】

 

 嬉しそうに語るリドルの言葉は、多少水っぽい音が混じるもののある程度は平気そうだ。

 いくつか骨が折れたかもしれないハリーとしては腹立つばかりである。

 しかし、バジリスクらしき声まで聞こえる。

 囁くような美しい声でちょっとうらやましいが、ひょっとしてメスなのだろうか?

 

【ご覧よバジリスク。あれが前に話した女の子さ】

【成程、彼女が。……しかし、よろしいのでしょうか】

【何がだい? 殺すか否かでいうなら、是だ。ぼくは彼女を認めた。本気で相手せねばならない】

【いえ……そうではなく、】

 

 バジリスクがリドルに対して言い辛そうにしている。

 それはジャパニメーションでよく出てくる主人を気遣う気弱なメイドのようなイメージをハリーの脳裏に浮かべさせた。ダドリーの悪影響は根深い。

 杖を握りしめ、身体強化へ回す魔力を落ち着ける。いつでも爆発的な動きができるように身構えたハリーの耳に飛び込んできたのは、あまりにも予想外な言葉であった。

 

【――彼女も、継承者です】

 

 時が止まったような錯覚を覚える。

 バジリスクは今、とんでもないことを言わなかったか。

 

【……なんだと】

【継承者です。それに相応しい血をお持ちです】

【どういうことだ!? スリザリンの継承者は、ぼくだ! このヴォルデモート卿だけだぞ!?】

 

 この部屋で出会ってから、ハリーに腹を貫かれた時以外は常に余裕を保っていたリドルが激昂する。

 その勢いにハリーは驚いたが、バジリスクが恐縮したような声を出すのが聞こえた。

 

【事実です。私の中に刻まれたサラザールの術式が、彼女にも資格があると定義しています】

 

 どういうことだ。

 ハリーが、サラザール・スリザリンの継承者?

 それはつまるところ、ハリーの身体に流れる血にはスリザリンの物が入っているということになる。

 ポッター継承者説が流れ、ハリーがスリザリンの子孫なのではとのたまっていた生徒たちが正しかったということになる。ハーマイオニーやロンが言っていたように、数千年も前の人間ならば確かに可能性はあるだろう。

 ハグリッドから聞いた話であるが、ハリー・ポッターの父親であるジェームズ・ポッターは古くから伝わる純血の家系なのだという。ただ、ジェームズの両親がヴォルデモート一派によって殺されてしまったために系譜があやふやになってしまったのだそうだ。

 ジェームズと結婚した母リリーは、マグル出身の、ペチュニアと同じエバンズ家の出である。ただのマグルの家であり、何かしらの系譜があったという話ではない。ハーマイオニーと同じく、マグルの中に生まれ魔力を覚醒させた突然変異である。

 ではやはりポッターの家か。それがスリザリンの子孫だったのだろうか? 直系か分家かは分からないが、先のように可能性はゼロではないのだ。

 だが、しかしそれでいうならばスリザリン寮の子たちのほうが適性は高いと思えるのはなぜだろうか。これはロンから聞いた話で、純血とは親戚間などで近親婚を繰り返すことでしかもはや血を保てないのだという。驚くべきことに、ウィーズリー家とマルフォイ家ですら親戚なのだとか。それどころか純血一家のほとんどと血縁関係にある。血を存続させるためとはいえ、なんとも業の深い話である。

 そうなると、全員仲良く継承者などというわけにはいかないだろう。だが血がどうのという選定基準ならば、委細は違うにしろ似たようなことになるはずだ。誰が継承者であるとはっきり言えることはないだろう。

 ならば、選定基準は血ではない。

 

【どういうことか説明しろバジリスク! これは継承者としての命令だ!】

【申し訳ありません継承者様。私には魔術の知識がありません。その質問にはお答えすることが――】

【もういい! くそっ、あの女をその魔眼で殺すのだ!】

 

 顔を真っ赤にしたリドルが、何やら叫ぶと、ひゅんひゅんという空気を裂く音が聞こえる。

 ハリーがこれは杖を振る音だと気付き、まずい、と思った時はもう遅かった。

 

「『アペィリオ』、抉じ開けろ!」

 

 ハリーは見えない手が無理矢理顔を掴み、自分の瞼を力尽くで開けられる感覚を覚えた。

 それが死に至る所業だと理解しているハリーは全力で抵抗するも、及ぶはずもない。

 視界が開け、目の前にはリドルとそれに追従する巨大な蛇が見える。

 一〇メートルはあるだろうか。そして太さも、ハリーが一人両手を広げたそれよりも太い。

 ぬらぬらと輝く鱗に包まれた体の先には、蛇というよりも海竜のような顔立ちがあった。

 大きく長い牙を隠した口。蛇独特の模様を持った顔。そして、黄色く異質な魔眼の瞳。

 

「――――、――」

 

 視て、しまった。

 ばっちりと目が合ってしまった。

 バジリスクの魔眼は、視線それ自体に魔力が宿っている。

 その人間には濃密すぎる魔力は、視神経を通って脳に命令を送る。

 それが何の命令なのかはわからない。今回の事件で被害者が石化したように固まったことから、対象を餌とするべく『動くな』というものだったと判明するかもしれない。だが、とりあえず何を命令されるにしろ、バジリスク以外の生物にその支配命令は重すぎるのだ。

 あまりに強烈な命令に脳の処理機能が限界を超え、危険を感じた脳は破裂しないために活動を停止する。すると脳という司令塔を失った生物はショック死してしまう。 身を守るための体内の反応が過剰に動いてしまい、本末転倒なことに結果死に至るのである。

 そういった目。バジリスクの魔眼を、ハリーは真正面から見てしまった。

 

「……どういうことだ、ハリエット・ポッター」

 

 しかし。だというのに。

 これは如何なることか。

 ハリーは驚いた顔のまま、二度三度と瞬く。

 それを見てリドルは驚愕と焦燥の表情を浮かべたまま、絶叫した。

 

「答えろポッター! なぜ、――何故バジリスクを見て、死なないんだ!?」

 




【変更点】
・簒奪の呪文。初見殺しなコレによってかつて多くの犠牲が出ました。
・十二歳の女の子を襲うハゲ再登場、そして退場。
・ワイのレッドアイズ・ハリエット・ドラゴンや!
・初のハリー創作呪文。物凄い戦闘特化。
・余裕のあるときは紳士、追いつめられると小物っぽいリドル。
・バジリスクの視線が効かないハリー。

【オリジナルスペル】
「ディキペイル、寄越せ」(初出・14話)
・《簒奪の呪文》。視覚情報内に在る指定したモノを奪う魔法。内臓や魔力なども可。
 1982年《許されざる呪文》に登録。暗黒時代、ベラトリックス・レストレンジが開発。

「フリペンド、撃て」(初出・ゲーム全作品)
・射撃呪文。死の呪文にお株を奪われる前は、ごく一般的な殺人の方法だった。
 元々魔法界にある呪文。ゲームでは主に学友や善良な市民に向けられる。

「フリペンド・ランケア、刺し穿て」(初出・24話)
・投槍呪文。刺突呪文と射撃呪文を合成した、貫通力に優れる魔力槍を射出する魔法。
 1992年、ハリエット・ポッターが開発。螺旋状に回転する事で殺傷力もあげている。

「アペィリオ、抉じ開けろ」(初出・24話)
・対象を無理矢理開く魔法。鍵に限らず、閉じられたものなら全て対象になる。
 トム・リドルの創作呪文。解錠呪文の改悪。普通に施錠された扉に使うと壊してしまう。

残酷な描写タグがお仕事した、クィレル戦とリドル戦でした。
吸血ハゲはあれだけやられたのに舐めてかかって惨敗。リドルも子供と油断したため痛手を負いました。お前らは悪くない、この女がおかしいんだ。
次回は秘密の部屋編の最期にして、ついに秘密の部屋のラスボスたるバジリスク戦です。そしてジジイは出番があるのか!そしてドビーの運命や如何に!
そして十二歳で怪物扱いされる少女の風評や如何に。


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10.秘密の部屋

 

 

 ハリーは杖を構えた。

 バジリスクの目はハリーに効かない。

 理由は知らないし、どうでもいい。今はただ、目の前の男を殺さねばならない。

 ハリーから殺意が膨れ上がったのを確認したリドルは、荒げる息を整えて言う。

 

「そうかい。答えるつもりがないというのなら……言いたくなるまで甚振るだけだ」

 

 リドルが腕を振り下ろすと、困惑しながらもバジリスクがこちらへ鎌首をもたげる。

 それに対してハリーは挑発するように言った。

 

【バジリスク、君も悪い男に引っかかったね】

【お答えできかねます】

 

 ぐん、と自動車以上の速度でこちらへ首を伸ばしてくるバジリスクを見て、ハリーは笑う。

 身体強化魔法の影響でいくらでもそれ以上に素早く動けるハリーは、その場で宙返りしてバジリスクの噛みつきを躱すと、わざわざその頭の上に着地した。

 ヌンドゥに比べれば相当に遅い。バジリスクにおいて最も気を付けるべきは件の魔眼であったが、どうやらハリーには効果がないらしい。ならば好都合。残るは蛇であるゆえ読みにくい動きと、尾による強力な打撃、そして受ければ死へと直結すると言われている毒を秘める牙だろう。

 鬱陶しがるように頭を振り、ハリーを落とそうとするもそれより早くハリーはバジリスクから飛び降り、ついでとばかりにリドルへと武装解除呪文を放った。

 盾の呪文で防がれるものの、これで隙あらばリドルの方を狙ってくるとわかっただろう。

 身体強化に回せる魔力も残り少なくなってきた。ここからは虚実織り交ぜた戦い方……要するに張ったりを混ぜていかなければいけない。

 

【さぁこっちだ! どうした、おいで美人さん!】

【惑わされるなバジリスク! 尾だ! 尾で叩き潰せ!】

 

 ドスン、と床に巨大な尾が叩きつけられる音が部屋中に響いた。

 これに僅かでも当たれば、ひき肉どころかペースト状になることは間違いないだろう。

 だが当たらなければどうということはない。

 はっきり言って、魔眼さえ効かなければかなり攻略難易度は下がるだろう。ハリーにとっては魔法で即死する可能性の攻撃をしてくる上に本人の身体能力も高いクィレルや、満足に呼吸すらできなかったヌンドゥの方がやりづらかった。

 その点、このバジリスクは戦いやすい。

 一撃貰えばその時点で終わりになる可能性が高いというのは、それこそロックハートと戦った時ですらそうだ。そこだけはいつも変わりない。バジリスクの一撃も、盾の呪文の上から喰らってあの威力なのだ。生身の状態で食らえば、確実にグロテスクな感じで即死する。

 そしてバジリスクには、どうやら戦うといった経験がない、もしくは少ないと見える。

 リドルの指示に従って攻撃しているものの、そのすべてが大振りだ。

 自分をかじるネズミや鬱陶しい蝙蝠や虫を払うくらいしかなかったのかもしれない。または、獲物を仕留めるとき。

 本当に余裕がない今、これは助かる事実だった。

 

【さぁ、バジリスク……でいいのかな、名前知らないな。とりあえず、斃させてもらう】

【なにを……!】

 

 ハリーは軽くそう言うと、羽根のように跳んだ。

 不審がるリドルを放っておいて、ハリーはスリザリン像の上を滑るように駆け上っていく。

 それに追随して攻撃してくるものの、像が揺れること以外は大して問題はない。身体強化に使える魔力も残り僅か。魔力枯渇などという無茶をしていないため、残り何秒ほどで効果切れになるかがわかるというのはかなり便利だ。

 スリザリン像の頭の上に乗ったハリーは、躊躇なくバジリスクに向かって飛び降りた。

 好機とばかりにリドルが指示を飛ばすと、バジリスクはその致死毒を孕んだ大口を開けてハリーを迎え撃つ姿勢を取る。そして捕食者特有の素早い動きでハリーを丸呑みにしようと高速で頭を突っ込んでくるものの、強化状態の目ではその動きがよく見える。

 だが、当たれば死ぬという緊張感はハリーの精神を大きく削る。

 それでも余裕を見せて、優位に立っているのは自分だと強く主張する。

 

「ふっ!」

「なにっ!?」

 

 一瞬だけ杖先から強力な魔力波を放射して、ハリーは空中で移動した。

 すぐ横で、ハリーのローブを削り取るような顎の力で牙が通り過ぎた。ハリーは内心で冷や汗をかきながら、それでも表面上は余裕綽々の不敵な笑みでバジリスクに向けて呪文を唱える。

 

「『グンミフーニス』、縄よ! 『プレヘンデレ』、捕縛せよ!」

 

 魔力で編まれた縄が、呪文の効果によってバジリスクの身体に巻き付いた。

 鬱陶しそうにそれを振り払おうとするものの、《捕縛呪文》を使う際に暴れれば暴れるほど締め付けが強くなる縛り方を指定したので、腕のないバジリスクにとってこれは苦しいだろう。

 ハリーですらほどけそうにない難解かつ適当で複雑な縛り方である上に、更には縄呪文にかなりの魔力を込めたので簡単に千切ることはできそうにない。よってバジリスクはその体勢を崩し、高い波を立てて水面へと叩きつけられた。

 

【まさか。こんなにもあっさりと……】

【おいおいリドル。女の子はもっと優しく扱うもんだぞ】

「耳が痛いね、ハリエット。……これでも、まだ侮っていたとでもいうのか」

 

 歓声をあげながら安堵しているハリーの内心を知る由もなく、リドルが悔しげに吐き捨てる。

 身体強化の効果が切れ、ハリーの身体から青白い光が消えていく。

 魔力はもう残り少ない。

 リドルと魔法戦を行うことを考えれば、これ以上の消費は実にまずいことになる。

 だが、顔には出さない。常に微笑んでおく。

 ロックハートはハリーにとても大事なことを教えてくれた。

 それは、敵対した相手の満面の笑みはひどく相手をイラつかせる効果があるということだ。

 ありがとうロックハート先生。さようならロックハート先生。帰りに一発蹴っておこう。

 

「そう落ち込むなよリドル。たかが負けたくらいじゃないか」

「……確かに、これが、未来のぼくを打倒する女の力だと思えば、まぁ気分は悪くない。しかしわからないんだよね」

「なにがさ」

「なぜ君は、そんなに虚勢を張っているのか。ということさ」

 

 どきりとした。

 精一杯の強がりを見抜かれた?

 いや、表情は余裕と笑顔のままで変えていないはずだ。

 とすれば、いったいなにをどうやって見抜いたというのか。

 それとも、ぼくと同じくはったりなのか?

 

「はったりじゃないよ、ハリエット」

「――ッ」

 

 心の中を読まれた!?

 ハリーはそう驚愕すると同時、昨年度のことを思い出す。

 クィレルの後頭部に寄生していたヴォルデモートの魂は、確かにハリーの考えを見抜いていた。

 あれは開心術だったはずだ。

 もしかすると、いや、確実にそうだ。

 トム・リドルと名乗っていた学生時代には、すでに会得していたというのか。

 

「正解正解、よくできましたー!」

「く……っ! こ、の野郎。分かってて遊んでいたのか」

「女の子がこの野郎なんて言っちゃだめだよ。ま、そういうことだね。ほぅら、『フィニート』!」

 

 ばつんというゴムが切れるような音がして、バジリスクに巻き付いていた縄がぶつ切りにされ、光の粒になって消え去った。

 拘束の解けたバジリスクはゆっくりと起き上がり、その魔眼をハリーに向ける。

 たじろぎかけるも、それでも女の意地で踏みとどまった。

 

「やるねぇ、勇気のある子だ。流石はグリフィンドール」

「うるさいな。はやくジニーを地上に連れ戻したいんだよぼくは」

「そうつれないことを言うなよ、……っと。天然ものの閉心術か。十六歳のぼくじゃまだ破れそうにないな」

 

 リドルの言からして、ハリーはどうも閉心術を使えるらしい。

 自覚はないが、天然ものというからにはそうなのだろう。心の殻を破る術である開心術への反対呪文なのだから、単に他者に対して心を閉ざしているだけなのかもしれない。

 しかしこの状況でそんなことを知っても、有り難くない。

 ハリーはリドルに杖を向け、

 

「『エクスペリ――」

「遅いなあ、遅い遅い」

 

 リドルが無言呪文で放った武装解除が、ハリーの杖を吹き飛ばす。

 会話しながら無言呪文を用いるというのは、いったいどれほどの集中力があればできるのか。

 まるで頭の中で別々のことを考えているかのようだ。

 回転しながら落ちる杖をなんとかキャッチしたハリーは、再度リドルに杖を向け直した。

 楽しそうにせせら笑うリドルに対して、先ほどのような余裕は浮かべられない。

 微笑みを焦りに変えて、ハリーは額から一筋の汗を流した。

 

「んんー、虚勢で微笑む君は素敵だったけれど。まぁそれだけだね」

「く……ッ」

「さーて、どうしよっかなぁ」

 

 だめだ。

 リドルと戦うために魔力を温存しておきたかったが、このままでは戦う前に終わる。

 意を決したハリーは杖を振り、無言呪文で身体強化の魔法を己にかける。

 適当に射出された魔力反応光を避け、ハリーは床を蹴って飛び出した。

 

【薙ぎ払えバジリスク】

 

 それを見たリドルは、落ち着いた様子でバジリスクに命令する。

 大蛇は命に従い、その長大な尾をハリー目掛けて振り抜いた。

 巨大な壁が迫ってくるかのような圧倒的な暴力に、ハリーは軽く地面を跳んで避ける。宙返りのように身を捩り、なんとかバジリスクの尾に着地するとそのまま駆け上り始めた。

 先に、リドルを斃す。

 それでバジリスクが止まるかはわからないが、止まらず襲ってきたとしても、リドルの妨害がなければ頑張って倒せない相手ではないように思える。油断はしない、確殺できるまでやらねばならない。

 ハリーがバジリスクの鱗に足を引っかけて疾走している最中、リドルはずっと微笑んでいた。

 いったい何を考えているのか。

 その言葉にしなかった問いかけは、リドルに通じた。

 ハンサムな彼がその顔を醜悪に歪めて、杖を振って呟く。

 

「残念。君の冒険はここで終わりだ」

 

 途端。

 ハリーは足を滑らせた。 

 焦りのあまり失敗した、というわけではないようだ。

 そこそこの高さまで上っていたので、ハリーは背中から床に叩きつけられたとき痛みに悲鳴をあげることもできなかった。

 そばにハリーが落ちてきたことに驚いたネズミが、鳴き声をあげて逃げてゆくのが見える。……するとぼくはいま、横倒しになっているのか? なぜ、いまは戦いの最中なのに。

 いったい何が起きたのかと自分の両脚を見てみれば、なるほどよくわかった。

 黒い。

 真っ黒な、どす黒い魔力反応光が自分の両脚から漂っている。

 《簒奪の呪文》だ。

 身体強化の効果が途端に途切れた。どうやら魔力を奪われたらしい。……足が動かない。もしかして体力まで盗られたのか? この魔法、本当に何でもアリだな。

 しかしいったいどうやって、とハリーは思う。

 この呪文がリドルの後の時代で開発されたものだという疑問は、すでに解決している。

 クィレルが教えたせいだろう。いや、正確にはクィレルに教えたヴォルデモートのせいか。

 では、どうやってハリーに仕掛けたか。

 リドルを目指して走っていたのだから、彼から魔力反応光が出ていないことは確認済みだ。

 武装解除されたハリーが目を離した一瞬の間にハリーにかけていたとしても、遅延して効果が表れるなんてことはないはずだ。ではいったいどうして、どうやって?

 

【う、うう……】

 

 なんだ?

 バジリスクの声が聞こえる。

 それも苦悶に満ちた、切なげな声が……。

 

「……まさか」

 

 ひとつの考えに思い当たる。

 確認するようにリドルへ目を向ければ、にっこりと笑みを返された。

 当たりか。それは、それはなんという外道か。

 

「本当に、バジリスクに仕込んだのか……」

「そうさ。君がさっきの……なんだい? 肉体活性化魔法かい? あれを使った状態の君なら、まず最短ルートでくると思ってね。だから蛇の道を差し出したのさ」

 

 ハリーが予想したのは、《寄生の呪文》。

 スネイプとの課外授業でハリーが疑問に思い、相談してみたことの中で出てきた呪文だ。

 身体強化呪文を習得できてしばらくしたあたりで、ハリーはスネイプに問いかけた。「クィレルの頭にヴォルデモートが寄生してたけど、あれって何かの呪文なんですか」と。

 それに対して嫌そうな顔をしながらも、スネイプは眼鏡をかけてじっくりと講釈してくれた。

 曰く、

 

『闇の帝王が用いたのは《寄生の呪文》であろう。……ああ、左様。読んで字の如く、そのままの魔法だ。グリフィンドールに一点。おや、おや、おや。お賢いことですな、ポッター? 我輩の話を聞くのかご自慢の知識をひけらかしたいのか、どちらか選びたまえ。……そう、それでよい。いけ好かない出しゃばりにグリフィンドール一点減点。さて、この《寄生の呪文》は本来ならば何かに魔法を埋め込むための魔法式を用いられている。つまり、お前に我輩が魔法を仕込み、ご学友のグレンジャーめがおまえに触れれば、たちまち魔法が作用するというわけだ。要するに魔力反応光を介した効果の発現ではなく、間接的な発現を可能にする魔法、それが《寄生の呪文》というわけだ。闇の帝王はそれを利用して己そのものをクィレルに埋め込んだのであろうな。ただし、埋め込まれた側には相応の苦痛が伴われる。……試してやろうかポッター』

 

 とのことだ。

 いちいち嫌味と増減点と呪いが飛んではきたものの、案外内容はわかりやすかった。

 つまり、バジリスクに仕込んだのだ。

 仕込む魔法に含まれる魔法式の容量によって、圧迫される度合は随分と変わる。

 スネイプに試されたところ、悪戯程度の軽い呪文の場合は多少違和感を覚えるのみだ。

 だが呪いや複雑な魔法式ともなれば、相応の苦痛を伴った。スネイプも一瞬しかやらせなかったほどであり、こうした応用を知っておくことで戦いには役立つこともあるそうだ。

 ヴォルデモートが使っていたのだから、リドルが使えてもおかしくはない。

 ならばなぜ、わざわざバジリスクに仕込んだ。

 なぜ自分に従っていた蛇に苦痛を植え付けた。

 

「どういうつもりだ、リドル」

「何がさ」

「なぜバジリスクにそんなことをしたと聞いているんだ」

 

 リドルはそんなことか、と呆れたように答える。

 

「君の相手が務まらなかったからさ。だったら少しでも役立ってもらうしかないじゃないか、ねえ?あれ、ひょっとしてハリエット、きみは蛇が好きだったの? それは悪いことしたねえ!」

 

 笑いながら教えられた答えに、ハリーはひどく苛立った。

 ハリーは、蛇が好きだ。

 初めてまともに話すことのできた友達として、とても好きだ。

 ハーマイオニー以下相部屋の少女たちは誰一人として理解を示してくれなかったものの、ちろちろ見せる舌や意外と甘えてくるところなどがハリーは気に入っていた。

 バジリスクも見た目は可愛いと思っていたし、魔眼さえなければいつかは会ってみたいとすら思っていたのだ。だが、今は敵。殺すべき時は殺すと考えてはいたのだが、こうなればもう仕方ない。

 何故だか、非常に腹が立つ。

 

「――ッ!」

「うわっと」

 

 無言呪文で放った武装解除がリドルに当たる。

 ぱちん、と弾かれる音がしてクィレルの杖が床に取り落とされ、水に濡れた。

 それっきりだ。

 腹が立って何かしてやりたかったが、どうやらイラつかせるに終わったようだ。

 思ったより魔力を奪われていたらしく、武装解除を使っただけで一気に息苦しくなる。

 魔力、枯渇か。

 唯一の武器である杖を取り落してしまう。

 カツカツと靴底が床を叩く音がする。

 顔を上げる体力までない。

 頭のすぐ真横まで来たかと思えば、ハリーは側頭部に痛烈な一撃を貰った。

 こいつ。乙女の顔を蹴りやがった。

 

「腹の立つ奴だね、君は。なに? バジリスクのために怒りましたってこと? へんなやつだなぁ、君は。ぼくらはとてもよく似ていると思っていたのに」

「……くそ。ふん、どこがだ。お前みたいな変態になったつもりはない」

「変態だなんて心外だなあ。ほら、似てるだろう? 二人とも混血で、黒髪で、マグルに育てられたにも拘らず、強大な魔法力を持っている。あ、そうだ。ぼくたち孤児じゃないか」

 

 おまえがやったんだろう、と突っ込みを入れるつもりはない。

 両親を殺した、もといこれから殺すことになる相手にそのように親しげに話す道理はない。

 冗談が返ってくることを期待していたのか、少し顔を曇らせたリドルは話を続けた。

 

「まぁ、性別は違うけれどここまで似ているんだ。何か感じたりしてもいいだろう?」

「……反吐が出るね」

 

 ハリーは口の中にたまった血をペッと吐き出してリドルの靴を汚した。

 見るからに憤怒の表情を見せたリドルの顔を、ハリーは笑う。

 もう一度顔を蹴られた。……歯が折れたようだ。ひどいことをする。

 

「調子に乗るなよ、ハリエット。……君は運よく闇の帝王の手を逃れられた、ただのガキに過ぎない。君の身体に宿る力のことも聞いているよ、古く強力な魔法だ。だが、あんなものは大したことない。くだらない魔法だ」

 

 俯せになったハリーを蹴り転がして、仰向けにさせるリドル。

 彼女の腹の上に馬乗りになると、まずは一発、と呟きながらハリーの頬を殴った。

 嬉しそうな朗らかな笑顔で、二発三発と殴り続ける。

 

「どう、ハリエット。気持ちいいかい」

「ぐ、ぶ。いい趣味とは、言えないね」

 

 こういうのをなんていうんだっけ、とハリーはおぼろげになり始めた頭で考える。

 サティスファクションだったか、なんだったか。ダドリーが何か言っていたような……。

 と、ここでハリーはバジリスクがこちらを見ていることに気付く。

 所在なさげな、どうしたものかと逡巡しているように見えてなんとも可愛らしい。なので、微笑みかけておいた。しかしそれはどうやらリドルの気に障ったようで、殴打の威力が上がった気がする。

 あ、鼻が折れた。

 

「その余裕を奪ってあげるよ、ハリエット。生き残った男の子? っていうか女の子? ハ、闇の帝王には勝てないってことを教えてやるよ」

 

 リドルはそういうと、拳についたハリーの血をなめとりながら、喉の奥からシューシューと音を出す。

 

【来い、バジリスク。ぼくの横で口を開けろ】

 

 リドルがそう命じると、バジリスクはするりと近づいてきた。

 そうしてハリーたちの隣で大口を開けて見せる。

 満足げに微笑んだリドルは、無造作に一本の牙を掴むと、躊躇なくそれを引き抜く。

 バジリスクが痛みに顔を顰めたように見えるが、蛇なので表情はわからない。

 まさかと思うと同時、リドルは嗜虐的な笑みを浮かべてハリーの耳元で囁いた。

 

「ああ、ハリー。今から君を太くて固いモノが貫くよ?」

「…………、……気持ち悪いな」

「そうかいそうかい。なら、未来のぼくがやり残した仕事を今終わらせよう。――死ね、ぼくの敵」

 

 ぐしゃり、と。

 ハリーは自分の胸の中に、焼けた鉄を突っ込まれたような錯覚を覚えた。

 

「――――ッあ――――――ぎ――――」

 

 熱い。

 なんだ、これ。

 痛いとは思えない。熱い。

 じゅうじゅうと魂が焼かれていく。

 ごうごうと心が削ぎ取られていく。

 ぱしゃぱしゃと体が崩されていく。

 がりがりと精神が剥がされていく。

 胸の中心に熱という熱をすべて凝縮して他の全ての体温を奪い尽くして並べて揃えて結んで束ねて開いて閉じて、引き裂いて掻き混ぜて折り畳んで踏み付けて、爆発しそうな火の塊が胸の奥に突っ込まれてじわりじわりと全身に広がって体の先の先まで奥の奥まで自身と尊厳と意義と意思と考えを蹂躙して犯し付けて嬲り続けて殺し晒して舐り回して、――――――――。

 

「ぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――ッ! ぃぎ、っぐ。ごぉあ、ああっ、が。げぇあ、ああああああ、っが、あが、がァァア」

「うっわぁ汚いなぁ。吐き散らすなよぉまったくもう」

 

 ハリーの胸に突き立てられたバジリスクの牙は、ハリーの身体にその猛毒を流し込む。

 それは死に至る致死の毒。蛇の王と呼ばれるバジリスクの持つ、最たる武器。

 魔眼によって隠れがちなその毒は、魂を傷つけるという異様な特徴を持つ。

 要するに、ゴーストですら殺害せしめることが可能となるのだ。死者を殺すという世界の理から逸脱した現象すら引き起こす。それがバジリスクの毒だ。

 いまハリーはその魂を焼かれるという、人知を超えた痛みを味わっている。

 恥も外聞もなく、リドルにすら許しを乞うという悲痛な叫びが秘密の部屋に響き渡っていた。

 

「ははっ、いい様だ! いやー、女の子が全身を汚して悶え苦しむ姿がこんなにいいとは! ダンブルドアへの見せしめだ。素っ裸にして死体を校長室に放り込んでやろう」

 

 リドルがとんでもないことを提案しているが、ハリーには周囲の音を聞き取る余裕がない。

 喉を潰さんほどに絶叫しているハリーが身悶えするさまをうっとり眺めながら、リドルはハリーのベルトを着々と外してゆく。しゅるりとベルトを抜き取って、シャツをめくりあげた。ダーズリー家での苛烈な食事情によって肋骨の形が丸わかりになるほど骨と皮だった少女は、二年のホグワーツ生活によって程よく肉が付き始めていた。さらに彼女は毎日運動をして体を鍛えているため、うっすらと線の入った腹をしている。

 リドルはそれを見て、口笛を鳴らした。

 

「おー。結構鍛えてるんだねハリエット。でも女の子にしてはちょーっと肉付きがよくないな。もうちょっと食べるべきなんじゃないの君。まあ、今から死ぬんだし無理な注文か」

 

 涙を流して身を捩るハリーを嘲笑いながら、リドルはハリーのへそに狙いを定める。

 醜く歪む顔を隠そうともせず、リドルはバジリスクの牙を振り上げ――

 

「――ッ、なんだ!?」

 

 ハリーの上から飛び退いた。

 瞬間、今までリドルの頭があった位置を、紅色の風が奔り抜けた。

 見れば、美しい鳥だった。紅色の羽毛を逆立て、長く美麗な尾を揺らしてリドルを睨みつけている。

 不死鳥(フェニックス)だ。そして、ダンブルドアの愛鳥である。

 

「……ダンブルドアが、戻ってきたのか」

 

 バジリスクの牙を放り投げてまで杖を取出し、リドルは警戒心を露わにする。

 フェニックスとはその体すべてに魔力を有する、大変珍しい魔法生物である。

 歌声は耳にする者の心によって左右され、悪人が聞けば不安を煽られ善人が聞けば勇気が湧く。

 リドルは居心地の悪さと不安を感じながら、じりじりとバジリスクのもとまで後退した。

 泣きじゃくっていたハリーの傍らに降りた不死鳥は、ハリーの惨状を見て涙した。

 その煌めく宝石のような涙は、ハリーの胸に落ちるとたちまち白銀の煙を噴いて消える。

 ハリーの喘ぎが収まり、呼吸が静かに、正常に戻る。彼女のうっすら膨らんだ胸が上下する光景を見たリドルが息を呑んだ。

 

「これが、これが不死鳥の治癒の涙か。まさか、バジリスクの毒まで癒えたとでもいうのか……? これは。なんと、これは……」

 

 リドルとて、驚きのまま見守るつもりはない。

 先ほどのしかかったときに拾ったのか、ハリーの杖を振ってリドルは魔力波を発した。

 不死鳥が身を挺してある程度守ったものの、リドルが本気を出して放った魔力波は暴風のようにハリーの身体を吹き飛ばし、壁際にまで転がってゆく。

 憤怒で胸を膨らませたようにすら見える不死鳥を前に、リドルはせせら笑った。

 

「鳥よ。おまえがぼくを斃すとでもいうのかい? 無駄なことを。霊体のままだった記憶の状態ならばともかく、受肉し体を得たぼくに死角はない。さらに言えば――」

 

 自信満々なリドルが大げさな身振りで語り始めた時、リドルの身体が燃え上がった。

 悲鳴を上げる間もなく焦げてゆく己の身体に驚き、振り向いたリドルが見たのは青いローブの老人。

 アルバス・ダンブルドアだった。

 

「すまないリドル。遅くなった」

 

 憂いの目で燃え尽きてゆくリドルを眺めるダンブルドアが、一筋の涙を流す。

 膝をついて苦悶の声を漏らすリドルが、それを嗤った。

 

「やっと、お出まし、か。ダンブルドア」

「喋るでない。そのまま朽ちてゆくがよい」

「そうは。いかない。『フィニート・インカンターテム』」

 

 ぼ、と一瞬の光と共に、リドルの身体を焼いていた炎が消える。

 驚かされたのはダンブルドアだ。片方の眉をあげて、訝しげな表情を見せる。

 その反応に満足したのか、黒焦げになったままリドルは立ち上がった。

 ぱらぱらと、まるで脱皮するかのように黒い焦げが彼の身体から舞い落ちる。

 中から出てきたリドルは、服こそすべて焼かれてしまったものの白く美しい肌を保っていた。

 裸身を晒したまま、リドルは老人を嗤う。

 

「お久しぶりです、ダンブルドア先生。おや、老けました?」

「リドル、おぬし……」

「クィレルの持つ吸血鬼の再生力。そして日記に封じ込めた記憶という曖昧な存在。そして魂を吸い取ることによっての受肉。いやはや、クィレルは本当に役立ってくれました。本人は自分のためと勘違いしていたようですが、ぼくのために生徒たちの生命力を吸い取ってきてくれたのですから。家畜を育てるマグルの気持ちがよくわかりましたよ」

 

 はやくおおきくなぁれ。とおどけると、リドルは馬鹿笑いした。

 それを黙って見つめるダンブルドアから反応がないのがつまらないのか、リドルは笑みを引っ込める。そして憎悪と怒りの表情で老人を見つめた。

 

「今さら出てきて邪魔をするなよ臆病者。お人形がそんなに大事か?」

「ハリーは人形などではない。わしの生徒じゃ」

「ぷっは! 先生、あなたすごい滑稽なこと言ってるのわかってます?」

 

 聞き分けのない生徒を諭すように、静かにダンブルドアは言う。

 

「リドルや。大人しく消えるとよい。記憶の残滓にすぎぬ君がいてはいけないのじゃ」

「断る。今日からはぼくたち二人でダブル帝王になるのさ。暗黒時代の再来だよ、楽しいだろう?」

 

 リドルの問いかけには応えず、いつの間にぬいたのかダンブルドアが杖から爆発を生み出す。

 それはあまりに強すぎる魔力反応光だった。直撃したリドルはその体を塵と変えられるものの、瞬きした次の瞬間には元通り裸身のまま仁王立ちしていた。

 

「うふふ、無駄無駄」

「トムよ……」

「あは、今のあなたにぼくを殺す術はないですよ。さて、ここで死んでもらおう、ダンブルド――」

 

 嬉しそうな声をあげて、ハリーの杖を振り上げるリドル。

 しかしその言葉は途中で途切れた。

 リドル自身も不思議そうな顔をしており、何が起きたのかと不思議がっている。

 ダンブルドアが見たのは、リドルの胸に輝くなにか。

 見れば、リドルの逞しい胸はひび割れ、中から光の粒が漏れていた。

 

「――まさか」

 

 リドルが何か思い当った節があるのか、青褪めた顔を周囲に向けて慌てはじめる。

 眉をひそめたダンブルドアと、蒼白なリドルが同時に壁際を、倒れ伏していたはずのハリーを見た。

 彼女はいつの間にやら起き上がり、ぺたんと床に座って何かを持っている。

 白く長い牙と、黒い表紙の日記。

 ハリーは虚ろな表情のまま、日記に牙を突き立てていた。

 非力なためか、全体重をかけるようにして半ば牙にのしかかっているようにも見える。

 

「きさ、ま。どう、して」

 

 リドルの言葉が途切れ途切れに響くと、それに呼応するように胸の光も強まる。

 ハリーは日記から牙を引き抜くと、一瞬だけリドルへと目を向けた。

 クィレル戦で見せたように、紅色に鈍く輝く、昏い瞳を。

 それを見たリドルは、怯えと驚愕の表情を顔に張り付けた。

 そして呟く。

 

「なるほど。そういう、ことか。ハリエット・ポッター。おまえ、は、」

 

 ハリーが振り降ろした牙が、日記へ二つ目の穴を穿つ。

 するとリドルの胸の光が一瞬強く瞬いて広がると同時、ごぼりと血液が溢れ出た。

 胸から血を流すリドルは、裸身のままハリーへと駆け出した。

 そうしてハリーを殺さんと杖を振り上げるも、それはダンブルドアが放った武装解除によって弾かれて地に落ちる。それに見向きもせずリドルは疾駆した。

 

「ハァァァリエェェェットォォォオオオオオ・ポッッッタァァァアアアアア――――ッ!」

 

 魂ごと吸収したクィレルの能力を扱えるのか、リドルは爪を刃のように鋭く変化させるとハリーに飛び掛かる。

 しかしハリーがさらに日記へ牙を突き立てたことにより、リドルの四肢が爆裂したかのように千切れ飛ぶ。無様に顔から床に落ちたリドルは、自身が駆けた勢いのまま滑り、ハリーの足元まで転がった。

 水と血に濡れたリドルは、ハリーを見上げながら唸る。

 

「この……ッ、ダンブルドアの人形如きが……! この、ぼくを……!」

 

 何も感情を見せないハリーを見て、リドルが憤怒の表情のままひきつけを起こしたように笑う。

 何かに納得し、絶望したかのような悲痛な声が、秘密の部屋に響き渡った。

 

「そう、か。そうかあ。そういうことか。ヴォルデモートは生きている。ヴォルデモートは健在だ。闇の帝王はより強大により偉大になって凱旋を果たすだろう。気を付けよ、闇の帝王に楯突く愚か者どもよ。我々は常に見ている。常にお前を見ているぞ、ダンブルドア。うふは、うははははは、あははははははははははははははははは」

 

 悲しげなダンブルドアが目を伏せる。

 自分のすぐそばで、リドルが壊れたラジオのように笑い続けるのをハリーは見つめ続けた。

 発作のように笑い続けたリドルの動きが、ぴたりと止まる。

 ハリーがまた日記に牙を突き立てたことで、リドルの眼窩や鼻から血と光があふれ出した。

 リドルが叫ぶ。

 

【バジリィィィスク! この部屋の人間を皆殺しにしろォ! やれェ! 今すぐにだァァァ!】

 

 びくり、と反応するのは蛇の王。

 何故か石化しないダンブルドアがゆっくりとバジリスクを見るも、蛇の王は困惑した様子だ。

 残り時間のないリドルが激昂したまま、再度命令を下す。

 殺せ。皆殺しにしろと。

 ぼろぼろと体が崩れ始め、もはや肩から先がない上半身だけの状態となったリドルを見て、バジリスクは静かに、しかし確かに言い放つ。

 

【お断りします】

 

 それに時を止めたのはリドルだ。

 自らの身体が光の粒に姿を変えて消滅してゆくのを知りながら、それでいて動けない。

 きょとんとした顔のまま、リドルはバジリスクを見上げた。

 

【な……ぜ……】

【彼女は、彼女は継承者です。ゆえに、殺せません】

【ばかなことをいうな……、ぼ、ぼくを、うらぎるのか。みすてる、の、か」

 

 明確な拒絶の言葉を前に、リドルは蛇語を話すことも忘れて言葉を零す。

 ハリーを見る。こちらを見ていない。

 バジリスクを見る。視線すらよこさない。

 ダンブルドアを見る。哀しげに見つめてくる。

 水に映った、自分を見る。醜い。情けない。これが、これが闇の帝王?

 リドルは呆けた顔をして、身悶えし、泣き始めた。子供のように嗚咽を漏らす。

 

「嫌だ。嫌だあ……消え、たくない。消えたくないよう。助けて。ああ。嫌だ。怖い。逝きたく、ない。寒い、暗い。寒い。恐ろしい。……たす、けて。助けて。たすけてよ、せ――」

 

 ぐしゃぐしゃに泣きながら、リドルは消滅した。

 後に残ったのはリドルの残した大量の血液と、日記の残骸。

 

「トムや。寂しかっただろうにの……」

 

 ダンブルドアが数年老け込んだような顔をして、俯いた顔をあげる。

 日記と牙を手にしたまま倒れ込んだハリーのもとへ行き、傍らに控えていた不死鳥を拾い上げる。

 不死鳥を自らの肩に乗せたダンブルドアは、一言二言、愛鳥からの報告を耳元で聞いた。

 ダンブルドアは「ご苦労じゃったフォークス」と不死鳥を労うと、続いてハリーの頬に触れる。

 まるで死体のような冷たさだ。

 フォークスの涙によって体は回復しているはずであるが、体力も魔力も底をついている。

 医務室で休ませなければならない。

 

「フォークスや。先に行って、皆に知らせておくれ。危機は去ったと。そしてポピーに、ベッドの用意をしてくれるようにもの」

 

 頷いた不死鳥が、ダンブルドアの肩から飛び去る。

 その後ろ姿を見送った老人は、ハリーの頬を撫でながら振り向いた。

 

「あー、おほん」

 

 咳払いを一つすると、ダンブルドアの喉からシューシューと声が漏れる。

 

【バジリスクや、ちと来とくれ】

【……なんでしょう、ホグワーツ校長】

 

 ダンブルドアの呼びかけに、バジリスクは応える。

 やはりバジリスクの目を直視しても、ダンブルドアには何ら影響がないようだ。

 シューシューと息を漏らすように、そのまま会話が続けられる。

 

【おぬしは。これから、どうするつもりじゃ】

【彼が消えた今、残る継承者は彼女です。わたしは彼女に従いましょう】

 

 バジリスクが目を向けるのは、意識のないハリー。

 ダンブルドアがその矮躯を抱え上げると、驚くほど軽かった。

 

【では、わしにいい考えがある。……とっても面白い事じゃ】

【……聞くだけ、聞いてみましょう】

【なあに。あっちをちょこちょこ、こっちをこちょこちょ。じゃよ】

 

 彼女はどう思うだろうか。今回、リドルがあそこまで復活に近づくとは予想できなかった。

 賢者の石をめぐる騒動の後、ダンブルドアは《みぞの鏡》を回収するため、昨年度の夏休み中に最終決戦の場へ戻ったが、そこに灰や残骸はあれどクィレルは確かにいなかった。

 ハリーに敗北したあの様子で、自力でそこから這い出したなどとはとても考えられない。

 確実に、何者かが手引きしていた。

 それはトム・リドルではない。

 リドルは日記から出た存在ゆえ、ゴーストと同じく現実へ物理的に干渉することはできない。

 彼が実体を得たのは、この一時間ほどの話。

 さて、どうしたものかと考える。

 そしてダンブルドアは、腕の中で眠る少女を見た。

 彼女には、これ以上の困難がより苛烈になって降りかかってくるだろう。

 今回はリドルが復活してしまったことによって思わず手を貸してしまったが、ここが彼女の限界だったか。そして今回の行動を見て、ダンブルドアは悩む。

 どうするべきか。老人は、悩む。

 

 

 ハリーは目が覚めると同時、リドルはどこだと叫ぼうとして全身を襲ってきた痛みに顔を顰め、身動きせずに身悶えるという器用なことをやってのけた。

 いったい何が起きたのだろう。

 なんだか前が見えない。目が包帯で覆われているのだろうか?

 このふわふわの感覚。消毒液の匂い。そしてなんか横に感じるジジイの気配。

 ああ、とハリーは納得した。

 医務室だ。

 

「……ダンブルドア先生?」

「なんじゃね、ハリー」

「とりあえず女の子の寝顔を覗くのは紳士としてどうかと思う」

「おや、すまなんだの。しかし寝顔を見るというのは、ちと難しいと思うぞい」

 

 何の話だ、と

 ハリーは目元の包帯をずらすと、目の前には手鏡があった。

 ダンブルドアが手に持って差し出してきているらしい。

 見れば、そこにはミイラ女がいた。なんだか寄せ書きのように皆が好き勝手落書きしている。

 確かにこれでは寝顔を見ることはできない。

 ていうか誰だこんなことしたの。と、やり場のない怒りをダンブルドアにでも向けようかと思っていたところ、鏡文字でフレッドとジョージの署名を見つけた。よし殺そう。

 

「ハリーや、殺意を漲らせて魅力的な笑顔を浮かべるのもよいが、お話をしてもよいかね?」

「あ、はい」

 

 ダンブルドアに包帯を解いて貰いながらも、ハリーは返事を返す。

 どうやら真面目な話のようだ。

 

「さて。今回も学校は君たちに救われた。礼を言わねばならん。ありがとう、ハリー」

「……いえ」

 

 救った覚えなどない。

 それにハリーの記憶が正しければ、自分はリドルに敗北したはずだ。

 微かに覚えているのは、紅い鳥が泣く姿、そしてリドルがダンブルドアと会話する声。

 リドルにはもっと言いたいことがあったが、恐らくもうこの世にいないだろう。

 なんとなくではあるが、そう感じる。

 

「そして謝らなければならない。ジニー・ウィーズリー含め、生徒である君たちを危険な目に逢わせてしまったのは、すべてわしの責任じゃ。申し訳ない」

「……悪いのはリドルですよ」

「そう言ってくれると、助かるのじゃがの」

 

 ハリーには大人の事情というやつはわからない。

 戦うことに関してはもはや並大抵の大人を凌駕しているとは自分でも思うものの、そういうことはまだまださっぱり分からないのだ。

 それを察したのか、ダンブルドアは小難しい話はそこでやめにしようと言う。

 ダンブルドアがハリーの枕元に山と置いてあったお菓子を食べて身悶える姿を見て、去年も同じ光景を見た気がするとハリーはぼんやり思った。

 

「……いくつか、聞いても?」

「おお、よいぞハリー。何でも聞いておくれ」

 

 口中のビーンズを呑み込んだダンブルドアに、ハリーは声をかける。

 寝転がったまま会話するのはあまりいい気分ではないけれど、動けない以上は仕方ない。

 

「ロンと、……あとロックハートはどうしましたか」

「君の大事な親友なら、特に大した怪我もなく医務室でちょいと手当をしただけじゃ。ロックハート先生については、聖マンゴ病院に直行じゃ。どっかの誰かさんが頭を捏ね繰り回したからのう」

「…………誰でしょうね」

「ほっほ。誰じゃろうな」

 

 ロンが無事だったのはいいことだ。

 ロックハートについては、何か思うところはあるものの概ね(どうでも)いい。

 次いで、ダンブルドアは石化させられた生徒も病にかかった生徒も無事に退院することができたと教えてくれた。それにはハリーも安堵するばかりだ。バジリスクの石化については、マンドレイク薬でなんとかできるという知識はあったものの、ヌンドゥの病についてどうやって治すかは全く知らなかったのだから。

 ほっとした様子のハリーを見て、ダンブルドアは話しを続ける。

 

「続きを話してもよいかの」

「ええ、お願いします」

「うむ。秘密の部屋については、閉鎖することにした。三階女子トイレの扉も、蛇語だけではなく、いろいろとわしが直々にちょちょいのちょいしたからの。よっぽどのことがなければ、もう誰にもあそこは開けることが出来ん」

「それは……」

 

 よかったですね、とは素直に言えない。

 なにせ最初に開けたのはリドルが操ったジニーだとしても、次に開けたのはハリーなのだ。

 両方ともグリフィンドール生。他寮の生徒たちが知ったら顰蹙では済まないだろう。

 ハリーはマクゴナガルに見つからないよう、女子トイレでこそこそするダンブルドアを想像しながらも、ふと思い出したことがあって不安になった。

 

「どうしたね、ハリー」

「あー、えっと。その……」

 

 ダンブルドアは待った。

 ハリーが言うまで、ずっと微笑んで待っているつもりかもしれない。

 意を決したハリーは、口を開く。

 

「バジリスクは、彼女はどうなりますか」

「おう。おう。聞いてくれて嬉しいぞ、ハリー」

 

 微笑んでいたダンブルドアの笑顔が、より無邪気なものになる。

 なにやらローブの袖をがさごそとしているダンブルドアを見て、ハリーはまさかと思う。

 いや、そんなまさかね、ありえない。

 しかしハリーの半分開いた口元は、妙な形に引き攣ることになった。

 

「これじゃ」

【お久しぶりです、継承者様】

 

 ダンブルドアによって無造作に掴んで引っ張り出されたのは、小さな蛇が入った小瓶。

 はしたなくもハリーは、あんぐりと口を開けて固まった。

 驚きの表情を見れたダンブルドアは愉快そうにくすくすと笑うのみだ。

 

「え、なに。これ。どうなって……いや、え? 魔眼とか牙とかいろいろ……あっれぇ? ええ? というか、え? なに? 久しぶり?」

 

 未だ驚くハリーに、ダンブルドアは悪戯が成功した子供のように微笑む。

 ハリーの疑問に答えるのはバジリスクだった。

 

【継承者様、あれから二週間が経過しております】

【二週間!?】

 

 と、いうと。

 もう期末テストは終わっているはずだ。

 マジかよ。おいおい、マジかよ。二年生にして留年とか、勘弁してくれ。

 ハリーはハグリッドと同じ格好をした未来の自分が、森番としてホグワーツで丸太を運ぶ想像をした。……それは流石に勘弁してほしい。どうしたものか。

 ……一応魔法界を救った英雄扱いされてるんだし、何とかならないかな。

 ハリーが普段は嫌がっている評判を利用してまで解決策を模索し始めたころ、ダンブルドアが言う。

 

「ハリーや、慌てるでない。今年は君たちの功績によって、お祝いとして期末試験は免除じゃ」

「うあああああ! よかったァァァああああああああああああ――ッ! 本当によかったぁ!」

 

 ハリーが歓声を上げると、ヌンドゥのような顔をしたマダム・ポンフリーが怒鳴りつけに来た。

 医務室では静かにしないと生皮剥いでホルマリン漬けにしますよと脅され、ダンブルドアともども震えあがった。ひそひそと話すことにした二人と一匹は、話を再開する。

 っていうかダンブルドア先生、蛇語わかるのね。

 

「実はの、この医務室が寂しいのも、君が彼女を救ったおかげじゃ」

「……ぼくの?」

 

 そう前置きすると、ダンブルドアは語る。

 継承者であるリドルが消滅した今、いま現存する継承者はハリーだけ。

 つまりハリーについていきたいと彼女が主張したそうだ。

 

「ちょっとストップ」

「なんじゃらほい」

「そこですよ、何故ぼくが継承者なんですか? そもそもこの蛇語だって……」

「まあまあ。そこは後で説明するよハリー」

 

 しかしバジリスクがハリーについてくるとなると問題になるのは、やはり魔眼。

 秘密の部屋に居てもらうという案もあったものの、やはりリドルに散々やられてしまったハリーのことが心配で、しばらくの間でもいいから傍に居たいということだったのだ。

 そこでダンブルドアは、小瓶に魔眼殺しの魔法をかけた。そして生物の体を縮める魔法をかけて小瓶に入れ、更には特定の人物が許可しない限り蓋が開かないようになる魔法もかけて、すぴすぴ寝息を立てるハリーの枕元に置いておく。

 こうすることでバジリスクの望みは叶った。

 ハリーは今聞いた話で使われた魔法には、普通の魔法使いならば儀式を行わなければ出来ないような複雑で難解な魔法式と膨大な魔力が使われているのだが、知らぬが仏である。

 

「なるほどなぁ……」

【ご迷惑でしたか?】

【正直に言うと、かなり。でも、傍に居たいって言ってくれるのはとても嬉しい】

【継承者様……】

【ハリーでいいよ】

 

 ハリーは蛇が好きだ。

 あの動物園以降、蛇に会う機会はあまりなかったためにこれは嬉しいことだった。

 しかし本当に小瓶に入れたままでいいのだろうか?

 

「実はよくないんじゃ。パイプの中をのびのび動いてたことから、彼女の健康にもよくない」

「そう言われればそうですね……」

 

 ダンブルドアがきっぱりと言った言葉に、肩を落とす。

 がっかりした様子のハリーに、ダンブルドアが優しく声をかけた。

 

「バジリスクの影響で石化してしまった子もいる以上、やはり連れ歩くのは難しいということになるのう」

「……なるほど。連れ歩かなければいいんですよね?」

「わしゃなーんにも言っとらんよーぅ」

 

 おどけるダンブルドアに、にやりと笑うハリー。

 わからないのはバジリスクだけだ。

 

【あの、継承者さ……ハリー様?】

【ん? ああ、……んふふ。たぶんね、君は秘密の部屋で暮らすことになると思うよ】

【ですが、あそこはご老人が封じたのでは?】

【うん。『ダンブルドア先生が封じた』ってことになってるから好都合なのさ】

 

 ハリーは説明した。

 騒動中、バジリスクは壁の中にあるパイプを移動していた。

 ハリーは彼女のその声を聴いて、何かが学校の中を徘徊していると気付いたのだ。

 つまり、なんと言えばいいのだろう。

 この学校ひょっとして壁薄いんじゃないかな?

 

「ハリーや。あまり言わないでおくれ」

「でも先生、蛇の声が聞こえるって相当だと思うんですが」

「そんなこたぁないぞう。んなこたぁない」

 

 一頻り心が軽くなるようなやり取りとしたのち、ハリーはふと思い出す。

 何を聞かれるかわかっているかのように微笑んだままのダンブルドアに、少しのやりづらさを感じながら問うた。

 

「先生、そういえば……クィレルはなぜぼくに触れられなかったのですか?」

「そのことじゃがな。母の愛じゃ」

「母の愛?」

 

 ダンブルドアは微笑んだまま、ハリーに語る。

 

「ヴォルデモートはリリー・ポッターを害する際に、ひとつの大きなミスをした。それは母親の愛を軽く見ていたということじゃ。愛には、強力な魔法がかかっておる。子を守る母の愛というのは、それはもう格別なものじゃ」

「……でも、それだと今までに助かった子供がぼくだけってのは納得できません」

「……そうじゃな。子を想う気持ちが特別なのは、なにもリリーだけではない。残念ながら、子を庇った状態でヴォルデモートに害された母子が、他にいたのも事実じゃ」

 

 では、なぜだろうか。

 何故、他の母子では助からず、ハリー・ポッターだけが助かったのか。

 ハリーは別段、親は子を愛するのが当然という考えを持っているわけではない。

 これはロックハートという大人を見たことでも、それは正しいものだと考えるようになっていた。

 『大人は子供の延長線』。それがロックハートの持論だった。

 言われてみれば、確かにそうだ。

 もしも。有り得ない事ではあると思うが、もしも将来、ハリーに愛する男性ができて、その愛する人と子を成し、母となったら。

 その子を、愛することはできるだろうか。

 己の命と子の命を秤にかけて、迷わず子を取ることができるようになるだろうか。

 あまり想像したくない事ではあるが、もし何らかの都合があって愛していない人と結婚することになっても。もしハリーがヴォルデモート陣営と戦う中で敗北し、暴行されてしまったとしても。

 どちらにしろ子はできる。やればできるというか、人間とはそういう生き物だ。そうなってしまったらハリーは、自身の心を守るために自分を害すると思う。胎にできた子に罪はないと知りながら、きっとハリーは耐えられないだろう。自分が最も嫌う大人であるダーズリーのように、子につらく当たってしまうと思うのだ。

 そういう意味でもハリーは、確実に子を愛することができるか分からない。

 だから、ヴォルデモートに狙われた母子の中で助からなかった者達がいるというのも納得できる話だ。だがそうであっても、子を愛する母がいるのは確かだ。現に、リリーがそうであったというのだから。

 ならば何故。生き残ったのはハリー・ポッターだけだったのか。

 

「はっきり言っておこう。これは残酷な話じゃ」

「覚悟の上です」

 

 即答である。

 ハリーはダンブルドアを見上げ、ダンブルドアはハリーを見つめた。

 

「それは、魔法の、才能の差じゃ」

「才能……」

「残酷なことじゃが、リリーには子を守る特別な術を知っていて、そして土壇場でそれを扱える才能があった。ほかの母親にはそれがなかった。……そういう、ひどい話なんじゃよ」

 

 この話を聞いて感じるのは、ひとつの失望という感情だった。

 愛と言えば恰好はいいが、所詮はそういう話だった。

 ハリーは何か、夢を見ていたのかもしれないと思ってしまう。

 やはり自分の親だと思う人間は、特別であってほしかったのかもしれない。

 乾いた笑みを漏らすまいと懸命に我慢し、哀しげなダンブルドアに頭を下げた。

 ダンブルドアは言う。

 

「では、わしは彼女を秘密の部屋に戻してくる。ハリーや、ゆっくりとおやすみなさい。学年末パーティは終わってしもうたが、グリフィンドールの優勝じゃ。明日のホグワーツ特急で帰る際は体に気をつけるのじゃぞ」

「……学年末とは何だったのか」

「こればかりは、わしとてなんにもできなんだ」

 

 二人はそう言いあうと、くすりと微笑んで別れた。

 もっと聞きたいことはあった。だけど、なぜか答えてくれない気がした。

 なら無駄なことはしないほうがいいと思っていたのだけれど、なぜだろう。自分なら何がなんでも聞き出そうとする性格をしていたはずなのに。ひょっとしてダンブルドアは……いや、邪推か。

 窓をよく見てみれば、まだ空は深い藍色に覆われている。ならばいいだろう、とハリーはそのまま眠りにつくことにした。

 やはり疲れていたのだろう、瞼を閉じると吸い込まれるように意識が落ちていった。

 夢の中でハリーは、リドルの最期を見た。悪夢と言ってもいいかもしれない。

 寂しげに、しかし意地を張って、最後の最期まで本心を隠し続けた一人の少年。

 戦っているときには終始怒りと憎しみしか感じられなかった彼の有様に、ハリーはどうしても憐みを覚えてしまう心を止めることができなかった。

 

 

 ホグワーツ特急。

 とあるコンパートメントの一つで、ハリーはぼーっとしていた。

 ロンとハーマイオニーが楽しげに雑談する中、ただひたすらに窓の外を眺めつづける。

 理由はその格好にあった。

 シックなカチューシャ。白と黒のエプロンドレス。そして白いタイツに黒い靴。

 すべてダーズリー家からのクリスマス・プレゼントであった。

 毎度服を贈るつもりかとか、そういうのは割とどうでもいい。どうしてメイドなんだ。

 ぼーっとした表情が悲壮感に染まり、だんだん遠い目になってゆく。

 それに気づいたハーマイオニーが、ハリーの心が死ぬ前にフォローを始めた。

 

「に、似合ってるわよハリー? 可愛らしいと思うわ」

「ありがとうハーマイオニー。君の方が可愛いよ?」

「え、あ、ありがとう?」

「そ、そうだよハリー。でもその姿で足組んでるってのはちょっと」

「ありがとうロン。君はここで死ぬかい?」

「なんで!?」

 

 ロンが酷い目に逢ってようやく、ハリーは少し微笑んだ。

 その笑顔を見て安堵した二人であったが、ハーマイオニーは少し不安を覚える。

 今年の後半一ヵ月ほどは、あまりハリーと会っていなかったが、何といえばいいのだろう。

 成長していると言っていいのだろうか。

 確かに体の方は成長しているだろう。胸も今年度初めはそうではなかったが、いまとなってはもう下着が必要になっている。体つきだって、ホグワーツの栄養ある食事で多少女性らしいラインを描くようにはなっている。髪も少しずつ伸ばしているため、いまハリーが見せた笑顔は同性であるハーマイオニーも見惚れそうになるようなものではあった。

 だが問題は、心の方だ。

 ハリーは今まで育ってきた環境によって、心があまり成熟していないとハーマイオニーは思う。

 去年と今年、二度も命がけで戦ってきたから心の殻は強くなっている。それこそ、生き延びていたクィレルを殺してしまうほどには冷徹な鎧を身に着けることができるようになっている。

 問題はその中身だ。

 クィレルの首を貫いた話をハリー自身から聞いた時は大いに心配したものだが、ハリーは何とも思っていないというのだ。もう二度とストロベリージャムやチキンは食べれないねとそのとき言っていたのは知っているが、きっと彼女は平気な顔をして食べるだろう。

 体の成長に心がついていけていないのも問題だ。ハリーはロンの前でも平気で薄着になるし、体が密着するというのに肩を組んで笑ったりもする。さすがに裸身を見られれば怒ることはするようだが、そうでないときがあまりにも無防備すぎる。

 パーバティとラベンダーを交えて相談してみたものの、やはりどうも男連中の中で育ってきたという原因が大きいのかもしれない。ダーズリー家では従兄のダドリーを中心とした生活がなされているというのもまた原因の一つだろう。

 そう結論を出したハーマイオニーたちは、ハリーに今年の夏休み中、グレンジャー家へ泊りに来るよう言ってある。マグルであるグレンジャー家ならば、魔法嫌いのダーズリー家でも許可をくれるだろう。ハリーの言う『まともじゃない』一家とは正反対の、歯医者を営むごくごく常識的な家なのだから。

 

「ハリー、都合がついたらフクロウ便を飛ばしてちょうだい。フクロウを飛ばすことがダーズリーの人たちの心象に悪いっていうなら、電話でもいいわよ」

「なんだそりゃ? マグルの考え方はよくわからないな。フクロウを飛ばすなんて常識だろう」

「前から思っていたけど、魔法族とマグルって文化が違いすぎると思うわ」

「マグルにとっては空を見上げたら電線があるのと同じような考え方なんじゃないかな。ほら、電線をみてイカレてるなんて人はマグルにはいないだろう?」

 

 現にハリーも夏休み中の楽しみができたと大喜びしていたし、そのお泊りのときにみっちりいろいろと教えてやればいいのだ。それに、今年は敵も多くて大変だったろう。のんびりと過ごすのもいいかもしれない。

 ロンもロンで『隠れ穴』へ招待してくれている。年中暇なところだから、例えばガリオンくじで一等賞を当ててエジプトに旅行とかそんな有り得ないことが起きない限りは、何時でもウェルカムだそうだ。そんな幸運があるくらいなら、ダンブルドアが同性愛者であるということの方がよっぽど信憑性があるね、というロンのジョークはやっぱり面白くなかった。

 ウィーズリー家といえば、ジニーだ。

 彼女の奪われた目は、再生するとのことだ。泣き腫らして喜ぶウィーズリー夫妻にはあまり詳しくは説明できなかったものの、バジリスクの毒から作られる材料があるからこその奇跡だそうだ。

 だがそれは、少しばかり調合に時間がかかる魔法薬らしい。少なくとも来学期にホグワーツに来た時にはスネイプがそれを完成させているとのことだ。バジリスクのことをスネイプが知っているということは、ハリーがまた問題を生み出す爆弾を抱えていることを彼が知っていることになる。

 目が合った時、にやりと笑われた気がした。……来年が怖いなあ。

 

「さて、また来学期……じゃなかった。数週間したら絶対会いに行くよ」

「うん。待ってるわ、ハリー」

「僕も楽しみにしてるよハリー」

 

 ホグワーツ特急が、九と四分の三番線に到着して三人は汽車から降りた。

 相変わらず生徒とその家族でひしめき合っている。

 だからなのか、ハリーはパチンという音を聞き逃してしまった。

 くい、とスカートを引っ張られてハリーは短い悲鳴を上げる。

 慣れないモノを我慢して穿いているというのに、それを引っ張る不届き者がいるとは!

 

「ハリー・ポッター!」

 

 くいくいとスカートを引っ張る狼藉を働く者の正体は、なんとドビーであった。

 杖を向けると手を放してくれたものの、正直すごい嫌な気分だ。

 それもそうだ。何度も殺されかけたのだからいい気分になるはずがない。

 なんだか心臓が変な動き方をしてきた気がする。緊張しすぎた時みたいな、アレだ。

 ハリーから話を聞いていたロンとハーマイオニーが、ハリーを庇って前に出る。

 まるで不審者が少女に話しかけたとでも言うような扱いにも気にせず、ドビーは笑顔で言う。

 

「ハリー・ポッター! ドビーめは、ドビーめは自由になりました!」

「はあ? え、いや。どういうこと?」

「それは自由を得たということです!」

「お前もフィレンツェの同類か」

「ハリエット・ポッター。私から説明しよう」

 

 ドビーのキーキー声を聞いても要領を得ない。

 ハリーが困っていたところ、後ろから落ち着いた低い声がかけられた。

 驚いて振り向けば、そこにはルシウス・マルフォイ氏が双子の息子を連れて立っていた。

 ロンが敵意をむき出しにして食って掛かろうとするのをハーマイオニーが止め、その姿をスコーピウスがくすくす笑う。父親に睨まれて笑みを引っ込めるも、父の目が逸れればにやにやした目がロンを挑発していた。よくやるものである。

 いつも通りのスコーピウスはともかく、ドラコはどうしたのだろうと見てみれば、驚くほど無表情だった。彼らは、いったい何をしに来たんだ?

 

「まずは謝罪しよう。申し訳ない、ミス・ポッター」

「!?」

 

 な、なんだ!?

 マルフォイ一家が、頭を下げている!

 ドラコまで頭を下げているあたり、いったい何が起きているのかさっぱりわからない。

 スコーピウスは兄に睨まれて下げているが、いや本当になんなのこれ? どういう状況?

 

「ど、どういう……」

「この一年、君に散々な被害をもたらした屋敷しもべ妖精。名をドビーというのだが、恥ずかしながらマルフォイ家の屋敷に憑いたしもべの一匹でね……」

「…………」

 

 ハリーは完治したはずの背中が痛んだ気がした。

 射殺すような目でドビーを睨みつけると、短い悲鳴を上げてハリーのスカートから手を放す。

 まだ掴んでいたのか……。

 

「ついては、召使いである奴の行動は、主人たる我々の責になる。その謝罪に来たというわけですな」

「そ、そうですか。えっと、なんて言えばいいのか……」

 

 本当になんて言えばいいのかわからない。

 自分の父親よりも年配の男性に頭を下げられて、なお平気でいられる心をハリーは持っていない。

 ジニーの持ち物に、リドルの日記を紛れ込ませたのは間違いなくマルフォイ氏だという。

 要するにドビーがそういった行動に出たのは、彼自身が原因であるともいえる。

 あれ、そう考えたらこの謝罪って結構妥当なものなのでは?

 

「しゃ、謝罪を受けます」

「ありがとう、ミス・ポッター。ついては、ドビーめの処遇をあなたに決めてもらいたく思ってね」

「しょぐう?」

 

 足元のドビーが、マルフォイ氏の言葉に怯えてハリーの脚に抱きついた。

 それを蹴り飛ばしてから、ハリーは問う。

 

「処遇って、何をしたらいいのですか?」

「そうですな。屋敷しもべ妖精として死にも値する屈辱として、まず『解雇』はしたのだよ」

 

 解雇。

 それは屋敷しもべ妖精からすると、死罪よりも辛いのではないだろうか。

 グリフィンドール女子寮の掃除当番であるヨーコに聞いたら泡を吹いてひっくり返りそうだ。

 しかし、と呟いてルシウス氏はこめかみを抑えた。

 

「恥ずかしい話、ドビーというしもべ妖精はひどい欠陥を抱えていたようでね」

「欠陥?」

「屋敷しもべ妖精の本能に逆らうほどに、自由を欲していたのだ」

 

 自由。

 それは言葉の響きだけならば、とても素晴らしいものだろう。

 だが、魔法使いに尽くすことこそが生物の本能である屋敷しもべ妖精にとってそれは侮辱だ。

 彼らは自分が奉仕したことで主人の役に立つことに、誇りを持っている。

 何故なら、彼らはそういう風に創られた生き物なのだから。

 

「私が彼に靴下を与えた途端、見たのは苦悶の表情ではなく歓喜の笑顔だ。……少し堪えた」

「父上……」

 

 スコーピウスが心配そうな声を上げる。

 これ笑っていいところなのだろうか?

 

「自由にするのが罰にならないのならば、もうあとは死罪しかないだろうと思った。だが、残念ながらいまの私にこのしもべの所有権はない。ゆえに、君に決めてもらいたいのだ」

「……ぼくに?」

「ポッター。ドビー曰く、この自由はハリー・ポッターのおかげで手に入れたものとのことだそうだ。だから父上は、ポッターの決めたことならドビーも従うと思ったんだろうさ」

 

 ルシウス氏の説明に、ドラコが補足を加えたことでハリーは納得した。

 ハリーを殺してしまいそうになるほどに、ドビーは熱狂的なポッターファンなのだ。

 彼にとっての女神であるハリーの言葉ならば絶対、ということだろう。

 

「さあ、ミス・ポッター。斬首ならば首を刎ねよう。縛り首なら縄で括ろう。選んでくれたまえ」

 

 ハリーに選択するよう、ルシウス氏は言う。

 遠巻きにこちらを眺める魔法使いや魔女たちもそうだが、なんと居心地が悪いのだろう。

 あまりにぞんざいな扱いにハーマイオニーはショックを受けているようだが、ハリーからするとそうでもない気がする。あんな痛い目に遭わせてくれたのだからという気持ちがないわけではない。

 ドビーを見下ろしてみると、瞳を潤ませてこちらを見ていた。だからスカートを握るな。

 自分は薄情な女だな、と思いながらハリーは言った。

 

「いえ。もう罰は与えたのでしたら、このままでいいです」

「……ほう」

 

 ドビーの顔が輝いた。 

 苦虫を噛み潰したような顔のドラコと、心底驚いたという顔のスコーピウスが見える。

 ルシウス氏はというと、興味深そうな声を漏らすのみだった。

 

「それは、君は彼を許すということかね。殺される一歩手前だったというのに」

「ええ、それは、そうなんですけど……」

 

 英雄を見る目でドビーがこちらを見ている以上、あまり言いたくないのだが。

 ルシウス氏の目を見ていると、言わねば解放してくれない雰囲気がある。

 仕方なしにハリーは本音をぶっちゃけた。

 

「あまり彼に関わりたくないんです……」

 

 ドビーの顎が外れた。

 ドラコの眉があがり、スコーピウスがさらに困惑した顔が見えた。

 ルシウス氏は納得したような、得心が行ったような顔をして頷いている。

 だって、そうだろう。

 彼に悪気がないのは知っている。良かれと思って行動したことはわかっている。

 だけどさすがに、あれはない。

 本気で死の危険を感じたのだ。あれはちょっとどころではなく、どうかしている。

 だから、これくらい意地悪なことを言ってもいいんじゃないかな、とハリーは思っていた。

 

 マルフォイ家と別れ、ダーズリー家の車が見えるところまで来て、ハリーはロンとハーマイオニーを抱きしめた。たった数週間とはいえ、二人と全く会えないのだ。フクロウ便を出せなくなる可能性がある以上、ロンに至っては電話を持っていないために、下手をしたら『隠れ穴』に行くまで一切連絡がつかないかもしれないのだ。

 顔を真っ赤にして慌てるロンと、しっかりハリーを抱きしめ返すハーマイオニー。

 性別も性格も全く違う二人ではあるが、ハリーは二人が大好きだった。そう、もはや意地を張らずにそう言える。

 だからこそ寂しかった。

 もうドビーは邪魔しないから、今度こそ手紙のやり取りをしよう、と二人に約束して、三人は別れた。

 予定通りなら、二週間と数日の別れ。

 ハリーはダーズリーの車の前に立っていたペチュニアに会釈し、メイド姿のハリーに感激したペチュニアによって嬉々として後部座席に放り込まれた。

 既に座っていたダドリーの横幅が広いので多少手狭だが、まぁいいだろう。

 ダドリーがハリーの格好をじろじろと見て、言う。

 

「なに? お前ついに召使いになっちゃったの?」

「召使い?」

 

 と、そこでようやくメイドとはそういうものだったと思い出す。

 なんだかダドリーと普通に会話するのが、妙に久しぶりな気がする。

 というよりは、ハリーを見たダドリーが悲鳴をあげなくなったというのが大きいだろうか。

 

「ホグワーツ流でよければお持て成ししようか、ダドリー?」

「マジか」

 

 ジャパニメーションのせいだろうか、ダドリーが大喜びする。

 運転席からミラー越しにこちらを睨みつけているバーノンが見えるが、気にしない方がいいだろう。

 ハリーはにやりと不敵に笑ってダドリーに言った。

 

「じゃあまずは背骨を折らないとね」

 

 そう言われたダドリーの困惑した顔が面白くて、ハリーは今までダーズリー家では見せたことのない笑顔を浮かべた。くすくすと笑い、本心から笑みを作っている。

 なんだ、こんなものか。

 バーノンが車を発進させ、キングズ・クロス駅が遠ざかってゆく。

 今年は案外、ダドリーと仲良くやれそうだ。

 いまのハリーに、不安の色はまったくなかった。

 




【変更点】
・ヌンドゥに比べればバジリスクは比較的容易。
・やっぱりリドルには勝てなかったよ……単純に実力差で敗北。
・ダンブルドア登場。リドル対ダンブルドアは、漁夫の利でハリーの勝利。
・なんと バジリスクが おきあがり なかまに なりたそうに こちらをみている!
・ドビーへの扱いが変化。ただし立ち位置は変わらず。

【オリジナルスペル】
「プレヘンデレ、捕縛せよ」(初出・25話)
・対象を捕縛する魔法。対象周囲の捕縛できる何かが反応して対象を縛りつける。
 元々魔法界にある呪文。魔力反応光が極微弱なため気付かれにくく、実戦向き。

「セデム・ムータレ、寄生せよ」(初出・25話)
・《寄生の呪文》。対象を別のものに寄生させる魔法。
 元々魔法界にある呪文。埋め込む際には、たいてい無言呪文で使われる。

これにて「秘密の部屋」は終了です。二年目はハリーが力を身につけ始めるお話でした。
思わず助けに着たダンブルドアの手によって、生き延びたバジリスクが準レギュラー化。秘密の部屋在住なのであまり出番はないでしょうけれど、城中のパイプを通れるので、夜中に壁に向かって話してる女が居たらそれはハリーです。
魔眼が効かない理由は次回と言ったな。アレは嘘だ。ハンサムに免じて許してください。
三年目は「アズカバンの囚人」。ここから先はちょっとずつオリ脇役たちが出てくるようになります。やったねハリー、死喰い人も増えるぞ!


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秘密の部屋・変更点

二巻の「秘密の部屋」時点での変更点やら独自設定やらをまとめました。(遅い)
登場人物の中には私の脳内設定で挿絵がありますけれども、ご自身の想像を壊したくない方はどうぞ気にせずスルーしてください。


 

【原作との大きな変更点】

 ハードモードとするにあたって原作から変化した要素。

 場合によっては今後に大きく影響する部分もあるため表記。

 

 

・死ねばホグワーツ行かなくなるんじゃね?

  ドビーによる妨害が過激化。それによって不必要な怪我を負い、

  ハリーがドビーへ抱く感情が原作よりもマイナス方面へ。

・ウィーズリー家でのお泊りが消滅。

  よってノクターン横丁へも行かない。ボージンの店も行かない。

・九と四分の三番線へ行けないのはハリーだけ。

  フォード・アングリアの奪取イベントが消滅。アラゴグからの逃走手段が消滅。

・セドリックの登場が原作よりも早い。

  親しさもアップ。器が大きいのでハリーのように過激な女性でも受け入れられる。

・ロックハートのウザさがレベルアップ。

  ハッキリ言うとこれ自体に意味はまったくない。

・ハリーがセクハラ被害に遭うように。

  少しずつ女性としての魅力が出始めたので、仕方ない(?)。

・ホグワーツで流行る風邪の規模が原作よりも拡大。

  原因はヌンドゥのマギウィルスだったが、老衰死寸前のため弱体化していた。

・ハリーはポリジュース薬の制作に関わっていない。

  入院に次ぐ入院だったため仕方ない。

・マルフォイパパも強化。

  死喰い人として登場した場合、とんでもない強敵になる。

・空飛ぶ車がないため、アラゴグからの逃走が自力になる。

  『身体強化呪文』がなければ死んでいた。

・ハリーが原作よりなぞ解きをしていない。

  入院に次ぐ以下略。

・秘密の部屋の怪物にヌンドゥが追加。

  この時点では老衰している事など知らないため、絶望感がヤバい。

・ロンの杖が折れていないため、ロックハート戦が発生。

  怪物を斃した魔法戦士を倒す程度の力はあるため、そこそこ様になる戦闘だった。

・ヌンドゥ撃破。

  一戦だけでライフポイント尽きかけ。更にポケモンでいうどくどく状態。

・クィレル再登場。

  賢者の石ラスト時点のまま。そして戦闘の後、リドルの養分と化す。

・ジニーが片目喪失。

  ポンフリーが一晩で直してくれました。しかしメガネが必要なほどには視力が低下した。

・ハリーにバジリスクの視線が効かない。

  継承者だから、とバジリスクは説明しているが真偽は不明。

・バジリスク生存。

  蛇好きだから仕方ない。同時にゴドリックの剣未登場のため、ネビルが危険。

・ハリーからドビーへの好感度変化。

  ハリエットは原作ほど聖人じゃないので、苦手意識だけが残ってしまった。

 

 

【独自設定】

 深く考える必要はなく、だいたい語感の通り。

 細かい設定なんて考えてられっかよ! 前回の使い回しもあるよ!

 

 

魔力反応光

 杖先から飛び出る光のこと。魔法反応光とも言う。

 人体から生成された魔力が魔法として外気に触れる際に起きる反応。

 要するにだいたいの場合この光が当たれば、魔法が作用する。

 威力を拡散してスプレー状に射出するなど、術者の裁量でいくらか融通が利く。

 

魔法式(プログラム)

 何であろうと魔法を使う際には、プログラムをしっかり組んで発動する。

 杖の振り方、呪文の発声、原理を理解しているかどうかなど。

 これの組み方に問題があると、魔力暴走で不発になったり爆発したりする。

 

魔力枯渇

 読んで字の如く、体内で生成される魔力が不足に陥ること。

 この状態でも搾り取るように魔法を使うことはできるが、不快感や頭痛などが生じる。

 頻繁にこの状態になると、脳がリミッターを設けて突如魔法が使えなくなる症状が起きる。

 

魔法空間

 読んで時の如く、魔法で造られた空間のこと。

 中身がどこに繋がっているのか、この亜空間は一体何なのか、一切解明されていない。

 ハッキリ言って意味不明な不思議空間であるが、便利なので流通している。

 要するにゲームでいうアイテムポーチだとハリーは思っている。

 

 

 

【オリジナルスペル】

 ハードモードにするにあたって、呪文も追加。

 なお、原作で呪文が出なかっただけの魔法も一応オリジナルとして表記しておく。

 ハッキリ言ってしまうと『フリペンド・ランケア』が強すぎた気がする。

 けど多分闇の勢力から見たら児戯。

 

 

「マキシマム・ドー・ラムカン」(初出・17話)

・物体を支配下におく呪文、のつもりだった。ドラム缶と新車は爆発するもの。

 ロックハートの創作呪文。魔法式すら組まれていないため、失敗して当然。

 

「リマークス・ウォメレ、ナメクジ喰らえ」(初出・18話)

・ナメクジを吐く魔法。子供向けの簡単な攻撃呪文だが、結構厄介。

 元々魔法界にある呪文。簡単な魔法薬で癒えるが、ナメクジを一〇〇匹吐いても終わる。

 

「プロテゴ・オブリビエイト、忘却の膜よ、我を守れ」(初出・22話)

・忘却呪文を身にまとう魔法。生身相手には無敵を誇るが、強度は普通の盾の呪文程度。

 ロックハートの創作呪文。彼の人生の集大成といってもいい傑作。

 

「オルクス、見通せ」(初出・23話)

・目に魔力を集中させて遠見を可能とする魔法。

 元々魔法界にある呪文。一年生で習う基礎的な呪文。

 

「ソムヌス、眠れ」(初出・23話)

・睡魔を増幅させる魔法。当然ながら生物以外には効果がない。

 元々魔法界にある呪文。一年生で習う基礎的な呪文。

 

「ドロル・ドロル、苦悶せよ」(初出・23話)

・単純に苦痛のみを与える魔法。これをもとに《磔の呪文》が考案されたとされる。

 元々魔法界にある呪文。若干闇の魔術寄りな特性を持つ。

 

「シレンシオ・ミー、音喰らい」(初出・23話)

・動作により発生する音を消す魔法。中世フランスで排泄時の消音のため開発。

 元々魔法界にある呪文。昔は壺に用を足す時代だったので必須とされた。

 

「ランケア、突き刺せ」(初出・23話)

・刺突魔法。杖に硬質化した魔力を螺旋状に纏わせて、槍と化す呪文。

 元々魔法界にある呪文。魔力をランス状に固めて使い捨てることも可能。

 

「ディアグノーシス、全身診断」(初出・23話)

・自分の体調を確認する魔法。病巣の早期発見により魔法族の平均寿命が伸びた。

 1942年、アルバス・ダンブルドアが開発。

 

「モルブスサナーレ、病よ癒えよ」(初出・23話)

・軽い体調不良を治す魔法。寝不足や眩暈程度なら綺麗さっぱり。

 1975年、マダム・ポンフリーが開発。

 

「フェブリスサナーレ、熱冷まし」(初出・23話)

・風邪の症状を軽くする魔法。微熱程度ならば完治する。

 1971年、マダム・ポンフリーが開発。

 

「レウァーメン、鎮痛せよ」(初出・23話)

・痛覚をシャットアウトする魔法。痛みを感じなくなるため、少々危険。

 元々魔法界にある呪文。聖マンゴではなるべく使わないよう勧告している。

 

「ディキペイル、寄越せ」(初出・14話)

・《簒奪の呪文》。視覚情報内に在る指定したモノを奪う魔法。内臓や魔力なども可。

 1982年《許されざる呪文》に登録。暗黒時代、ベラトリックス・レストレンジが開発。

 

「フリペンド、撃て」(初出・ゲーム全作品)

・射撃呪文。死の呪文にお株を奪われる前は、ごく一般的な殺人の方法だった。

 元々魔法界にある呪文。ゲームでは主に学友や善良な市民に向けられる。

 

「フリペンド・ランケア、刺し穿て」(初出・24話)

・投槍呪文。刺突呪文と射撃呪文を合成した、貫通力に優れる魔力槍を射出する魔法。

 1992年、ハリエット・ポッターが開発。螺旋状に回転する事で殺傷力もあげている。

 

「アペィリオ、抉じ開けろ」(初出・24話)

・対象を無理矢理開く魔法。鍵に限らず、閉じられたものなら全て対象になる。

 トム・リドルの創作呪文。解錠呪文の改悪。普通に施錠された扉に使うと壊してしまう。

 

「プレヘンデレ、捕縛せよ」(初出・25話)

・対象を捕縛する魔法。対象周囲の捕縛できる何かが反応して対象を縛りつける。

 元々魔法界にある呪文。魔力反応光が極微弱なため気付かれにくく、実戦向き。

 

「セデム・ムータレ、寄生せよ」(初出・25話)

・《寄生の呪文》。対象を別のものに寄生させる魔法。

 元々魔法界にある呪文。埋め込む際には、たいてい無言呪文で使われる。

 

 

 

【大きな変更のある人物】

 彼らは基本設定はそのままに、生い立ちや性格に手が加えられています。

 前回紹介した人は概略のみ。

 

 

ハリー・ポッター (Harriet Lily Potter)

 本作の主人公。世界的大犯罪者ヴォルデモート卿に命を狙われるも唯一生き残る。

・女性として成長の兆しを見せ始めた。外見は、まだたいして去年と変化なし。

・ヌンドゥを倒すなど、普通の大人の魔法使い程度なら難なく勝てるレベル。

 

【挿絵表示】

 

 

ロン・ウィーズリー (Ronald Bilius "Ron" Weasley)

 ハリーの親友。ウィーズリー家の六男で、例に漏れず赤毛のっぽ。

 

ハーマイオニー・グレンジャー (Hermione Jean Granger)

 ハリーの親友。マグル出身。一年生時での主席。

 

ドラコ・マルフォイ (Draco Lucius Malfoy)

 ハリーと同学年の男子生徒。ハリーのライバル的存在。

 

ヨーコ (Yoko)

 本物語オリジナル。ホグワーツの屋敷しもべ妖精で、女性。

 グリフィンドール寮の女子寮清掃の担当。夫は蛇寮掃除担当のジョン。

・一般的な屋敷しもべ妖精としての役割を担う。ドビーはあまりにも逸脱しているので、彼女のよな屋識しもべも必要だと判断した。

 

ギルデロイ・ロックハート (Gilderoy Lockhart)

 二年目における、闇の魔術に対する防衛術の教授。ハンサム。

・原作と違ってハンサム魔法戦闘についてはそこそこ出来るようにハンサム。

・しかし末路は原作ハンサムと同じで、ハンサムに記憶を失ってハンサムでハンサムした。

 挿絵についてはハンサムにハンサムなハリーの所を御照覧あれ。

 

クィリナス・クィレル (Quirinus Quirrell)

 ホグワーツ教授。スキンヘッドに、ぼろぼろに崩れた肌と銀と赤の血液。

・前作から生き残り、再びハリーの前に立ちふさがる。復活怪人は雑魚になるの法則は当然ながら彼にも当てはまった。もはや人間という種族からは逸脱していたものの、ハリーにとって初めて殺した人物となった。

・二年生時は、リドルのために生徒たちの生命力を集めていた。風邪引きが多かったのは、彼によって体力が低下していたため。本人は自分のためだと最期まで思いこんでいたので、ある意味では幸せだったのかもしれない。

 

トム・リドル (Tom Marvolo Riddle)

 ハリーの仇敵。英国魔法界の歴史上最悪の犯罪者、になる少年。

 未来のヴォルデモート卿であり、学生時代の姿を記憶として残した《残滓》。

・原作と違ってかなり弾けた性格であり、外面はよくても家の中では独り言を叫びながら本を読んでいるような子供だった。残虐性も原作よりアップしており、ハリーを嬲り殺してダンブルドアの前にハリーの死体を放り込むつもりだった。

・最期は何かを悟ったような顔で死を迎えるも、どこか怯えた様子だった。

 




二巻時点での抜けた部分がありましたら(そこまで読んでる人いるのかしら)、どうぞご指摘ください。
まさかここまで遅くなってしまうとは……全ては描きにくいハンサムが居たから。俺は悪くねぇ! 絶対に許さねぇぞヴォルデモート!
とにかくHMDにおけるバランスブレイカーは『身体強化呪文』です。映画で光の玉になって戦っている謎演出をどう表現すべきかと思った結果、思い付きでこんなことになりました。これでもっとスタイリッシュに、もっと苛烈なアクションができます。やったねハリーちゃん!


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アズカバンの囚人
1.ナイトバス


 

 

 ハリーはバテていた。

 ダーズリー家の庭の日陰でごろんと横になり、だらしなくバテていた。

 格好はノースリーブのワンピースだ。

 一年生の時にクリスマス・プレゼントとしてペチュニアが買い与えたものだが、そろそろ胸がキツい。

 ハリーのバストは以前の夏休みと比べると、少しずつ膨らんでいた。それでもペチュニアよりは小さいし、パーバティに比べたら鼻で笑われるようなものだ。だがハーマイオニーよりは大きい。ハリーは勝ちを確信していた。

 これが成長することなのよ。とペチュニアは言っていたが、下着売り場に入るのはなんだかすごく恥ずかしくて、恥を忍んでペチュニアについてきてもらったこともあった。

 そして驚くべきことに、ダドリーはハリー狩りというスポーツをやめたようだった。

 いや。辞めざるを得ないのだろう。

 

 驚くべきことにというか、ハリーは麻痺呪文が直撃したかと思うほど驚いて、しばらく現実逃避をした出来事がある。夏休みが始まって数日した頃、ダドリーがボクシングの試合があると言って出掛けたことがあった。

 この日はもはや完全に態度が軟化したペチュニアはともかく、いまでのハリーに対して厳しいバーノンですら上機嫌でにこにこ顔だった。朝ご飯を作ったハリーに礼を述べただけではなく、頭まで撫でてきたのだ。

 試合会場についてみれば、活気が凄い。妙に大きな場所でやるんだなと思って行ってみれば、ダドリーの隣で眼帯のトレーナーが気合を入れている最中で、ダーズリー夫妻がダドリーに声援を送っていた。

 ダドリーの通うボクシングジムの子供たちがワーワーとダドリーを応援して、まるでヒーローだなと思いながらハリーは眺めているとき、ダドリーがこちらを向いた。

 

「勝ってくるぜ」

 

 ダドリーがそう言い放ち、ニヒルに笑うとそこかしこから黄色い歓声が上がる。

 ハリーはなにいってんだこいつと思いながら、その背中を見送った。

 確かにダドリーは、ハリーがホグワーツ入学前に見た時より異常な程に痩せている。それでも横幅はハリー二人分と言ってもいいくらいあるし、顎もしっかりと二重になっている。

 だが筋肉質だ。腕なんかはハリーを片手で持ち上げてもなお余裕があるほど盛り上がっているし、脚に至ってはぱんぱんでハリーの胴くらいはあるはずだ。

 そうして試合が始まった。

 実戦として幾度か蹴ったり殴ったりを経験しているハリーだったが、その試合を見て驚いた。

 相手は黒人の選手で、ミニトロールかと思うような体躯をしていてとても勝ち目がないと思っていたのだが、なんとダドリーが胸に放ったパンチ一発で膝をついた。一瞬会場内が騒然となった後、爆発したかのような歓声が響く。

 ハリーは顎が外れた。弓を引き絞るようにして力を込められているダドリーが放ったパンチには回転が加えられていて、ハリーがリドル戦で使った《投槍呪文》くらいの威力はあるとまで思ってしまうような迫力だったのだ。

 相手の黒人選手もダドリーを殴り、ダドリーも黒人選手を殴り、そうして試合が終わると、

 ダドリーは英国ボクシングの頂点に立っていた。

 何を言っているかわからないと思うが、ハリーにもさっぱり状況が分からなかった。

 ダーズリー家はそれから一週間毎日お祝いだった。ハリーはごちそうを作るのでいっぱいいっぱいだったし、王者となったダドリーは態度がデカいくせにハリーを気遣う余裕があるし、バーノンなどハリーが料理を出すたびに抱きしめてきて鬱陶しいし、ペチュニアは涙ながらにあのダドちゃんがとハリー相手に思い出話を始めるしで、ハリーはリドルと戦った時よりも疲れていた。

 そして恐怖していた。もしダドリーが癇癪を起してハリーを殴ったら、まず一撃で死ぬだろう。

 

 たかだかマグルの少年如きに、脅威度で敗北したリドルも草葉の陰で泣いているだろうと思いながら、ようやくお祭り騒ぎの終わったダーズリー家は静かであった。

 というかチャンピオンになったダドリーが、マグルからしたら一般人の少女であるハリーを大っぴらに殴れるわけがない。そして自信とプライドがついたのか、余裕が出たダドリーは性格も丸くなっていた。なるほど、キングズ・クロスまで迎えに来た車の中でハリーと普通に会話できた理由はここにあったのか。

 

「あづ……」

 

 殺傷力の高いパンチの仕方をダドリーから教えてもらった後、今日はデートがあるんだ、とさわやかな笑顔で出かけて行ったダドリーを見送ってから、ハリーは暇だった。

 ハーマイオニーやロンへの手紙は昨日送ったばかりで、返ってくるとしても早くて今日の夕方だ。

 電話はあまり使えない。流石に居候の身で何十分も電話をするのはアレだからだ。

 暑くて暇な午後、つけっぱなしのテレビの音を聞きながら、ハリーはだらけていたというわけだ。

 

『インコの何たら君があまりの暑さに水上スキーを覚えました! 見てくださいこの頭のおかしくなりそうな光景を! どうやったら物理法則を無視できるんでしょう、これは神秘です! まるで魔法だ! っていうか本当にマジでどうなってんだこれ?』

 

 陽気で知られるニュースキャスターが驚く声を聴きながら、ハリーは目を閉じる。

 思い出すのはホグワーツのこと。そして友人たちのことだ。

 昨年は大変だった。というか入学してからずっと大変だった。

 今年こそは平和でいたいものだけれど、きっと無理だろう。絶対何かに巻き込まれる。

 ああ、ハーマイオニーに会いたい。ロンに会いたい。 

 そんなことを思っていると、中からペチュニアの声が聞こえてきた。

 

「あら、いやだわ……。この近くじゃない」

 

 何のことかと思い耳を澄ませてみれば、ニュースのことだったらしい。

 

『脱獄犯のシリウス・ブラックは、現在プティングストリートに潜伏中と見られており、住人には注意するよう呼びかけられています。ブラックは件の爆破テロの主犯とされる人物であり、爆発物を持っている可能性もあるとして、現在付近を捜索中です』

「フン! 見ろ、あのひげ面を! どう見たって『まともじゃない』だろう。血走った目に、落ち窪んだ眼、ぎらついた目だ! 『まともじゃない』……」

 

 バーノンの怒声を聞いて、そんなに目が気になるか? と思ったハリーはシリウス・ブラックの顔を思い出す。彼はいま世間で話題の殺人鬼であり、それが脱獄したというから英国マグル界は不安に覆われていた。

 確かに、ひげもじゃで振り乱された長髪は不潔そうな印象を受ける。今どきの牢獄ではまともにヒゲも剃れないということもあるまい。つまりブラックはそういう人間なのだろう。

 一昔前ならば、囚人に対してはドギツい虐めがあり、鬼のような看守が魂を吸い取ろうとする勢いで殴ったり蹴ったりキスしたりしていたのかもしれない。……というのはハリーの偏見だろうか。

 

「いたっ」

 

 そんなことを考えていたハリーは、顔の上に手紙が落ちてきて声を漏らした。

 そのせいでペチュニアに居場所がばれて、あとで洗濯物を手伝うように言われてしまう。

 唇を尖らせながら顔の上の手紙を手に取れば、マクゴナガルからのものだった。フクロウはどこに行ったのかと探してみれば、もう空の彼方だ。ずいぶんせっかちなフクロウを選んだようで。

 封を破いて中身を見てみれば、三年生における課外授業の担当は、スネイプではなく新しく赴任する教師が受け持つことになったのだという内容だった。追伸にはポッターのことでしょうからさっさと宿題を終えて暇でしょう、と魔法式が書かれた紙が添えてあって大変興味深いおまけがあったのは嬉しかった。

 式の構造をちらっと見るに、変身術らしきものだったので時間がかかりそうだ。夜の楽しみにとっておこう。

 それに何より、今日は嫌な日なのだから。

 

「あっらァ~~~! ダッダー! 男前になっちゃってマァ! ニュース見たよう、最年少英国チャンピオン、おめでとう!」

「ああ、ありがとうマージおばさん。俺もこれで一人前の男になれた気がするよ」

「あっらまァ~~~! ほんとに男が上がってるじゃないのよさ! あんたも鼻高々だろうバーノン!」

「もちろんだともマージ! わしの自慢の息子だ!」

「あっらっむァァア~~~! 憎たらしいこと言っちゃってマァ! 羨ましいもんだよバーノン! ペチュニアだなんてアンタに過ぎた女を捕まえたからこんな優秀な息子が生まれてんだろう、ええ!」

 

 あ・豚が鳴いてる。

 リビングでペチュニアと料理の用意をしていたハリーは、迷いなくそう思った。

 今日はペット犬のブリーダー業を営んでいる、バーノンの妹である叔母の(ハリーと彼女に血縁関係はないが、そう呼ぶよう躾けられた)マージ・ダーズリーがダーズリー家に遊びに来る日であった。会うのは実に四年ぶりである。会いたいとは思っていない。

 玄関にて大声でほめられたペチュニアは上機嫌だし、ハリーに味方はいなかった。

 どすどすと冗談のような足音を立ててリビングにやってきたマージは、まずペチュニアの頬に親愛のキスをして、そしてじろりとハリーを睨んだ。

 

「あらま。あんたまだ居たのかい。色気づいちゃってマァ! あたしの可愛いダッダーを誘惑してたりしやしないだろうね! ええ!?」

 

 誰がするか。

 それにハリーは知っている。

 ヘドウィグに手紙を運ばせてからダーズリー家に帰ってきたとき、家に遊びに来ていたボクシングジムの後輩の一人とダドリーが、熱烈な――――うっ、頭が。

 ――――なんだったか。頭が痛くて思い出せない。何があったんだっけ。

 なんだか業が深くて神を冒涜していた気がするが、思い出せないなら些細なことなのだろう。

 とりあえず。世界が何度滅ぼうと何が起きようと有り得ない事だが、もしも万が一億が一、ハリーがダドリーに惚れたとしても勝ち目はない。それだけはわかる。そう、何故かわかる。

 とりあえずお前は両親を泣かせないうちに更生した方がいいよ、とダドリーに届かぬ思念を向けながら、ハリーは夕食の時間をやり過ごそうとした。

 マージ叔母さんは一泊してロンドンへ行くそうだ。随分と忙しい人で、ブリーダーとしては大成しておりどこに行っても人気の女傑なんだとか。

 しかしハリーは、この叔母が嫌いだった。

 ダドリーがハリー狩りをしていたときも、嬉々として見物していた性格の捻じ曲がった女なのだ。

 おまけに蛇蝎の如くハリーを嫌っている。

 はっきり言ってダーズリー一族の中で、一番ハリーが嫌いかもしれない。

 

「穀潰し。無視するんじゃないよ! 返事しな穀潰し!」

「……はい、マージ叔母さん」

「リッパーの飲み物はブランデー入りのミルクだ! ただのミルクなんて出してんじゃあないよ!」

 

 ばしゃ、と犬用の容器に入れられた牛乳がハリーに振りかけられる。

 濡れネズミより酷い有様である。

 床が汚れたのを見て、ペチュニアが嫌そうな顔をした。

 しかもこの牛乳、なんかぬるぬるしてる。というかそれを用意したのはマージ自身だ。

 持参品に関してはどうしろというのか。

 

「何か言いたそうな目だね、ええ!?」

「……何でもないです、マージ叔母さん」

「あらま、へらへらと気持ち悪いね! なぁにニヤついてんだい!」

 

 ペチュニアに許可をもらい、バーノンのブランデーをミルクに混ぜる。

 これ以上床を汚されてはたまらないと思ったのか、バーノンが小声でブランデーとミルクの比率を指示してきたので、二度目の文句は来なかった。

 冷え切った心に何を言われようと、大したことは無い。

 ハリーが全く怒ったり泣いたりしないのがつまらないのか、マージは次にリリーとジェームズを馬鹿にすることにした。しかしそれにもハリーは動じない。いや、内心では煮えくり返っているものの、ここで自分が怒鳴る資格はないと思っているのだ。

 一時期、心が死にかけていたあのとき、ハリーは両親をろくでもない人間だと本当に思っていた。

 そんなことを感じていた女に、両親を貶されて怒れるような資格はない。

 

「ペチュニアおばさん、ぼく、ちょっとシャワー、浴びてきますね」

「え、ええ。いってきなさ」

「さっさとおし! 臭くてかなわないよ!」

 

 ぶちぶちと頭の中で何かが切れる音がする。

 ハリーはもはや隠すことなく殺気を放っているため、漏れ鍋で習得した営業スマイルのまま、目だけが全く笑っていなかった。

 いつハリーが爆発して『魔のつくアレ』をやるかわからないバーノンは、怯えきった笑顔でハリーが風呂に入ることを勧めた。これ以上床を汚されるのが嫌なペチュニアも風呂を勧めた。このままではハリーがマージを殺害しかねないと気付いたダドリーは、あえてスルーした。

 

「オーケイ、ハリエット。落ちつくんだ。おまえは大人しい女だ。ふふふ、落ちつけッたら。そうだよ、それでいいんだ。カッとなっちゃいけない。クールに、そうクールにいようぜ。ほーら、ぼくは可愛い女の子だぞー優しいんだぞーうふふどうやって殺そうかなぁーあの女ァー」

 

 シャワーを浴びながら精神を落ちつけるためにぶつぶつ呟いて、頭から流れる泡が胸を通って腹を滑り、バスルームの床を白く染めていく様を、ただじっと無意味に眺める。

 全身を綺麗にしてからいくらか心を落ち着けたハリーは、鏡の前で自分の顔を眺める。まるで悪鬼のようだったぎらぎらした刃のような目を引っ込めて、穏やかな微笑みを浮かべる。よし完璧。まるで天使じゃないか。わっはっは。

 風呂から上がったハリーは、悪魔のような顔のまま濡れた髪を乾かして自室へ戻ろうとする。

 ペチュニアを初めとしてダーズリー家の面々に同情されるというとんでもない事態になりかけており、「疲れているに違いないハリーは部屋に戻った方がいいだろう」とバーノンに指示されたからだ。

 

「待ちな」

 

 呼び止めたのはマージだ。

 今度はいったい何をされるんだろう、と若干他人事のようにハリーは思う。

 

「リッパーが喰い終わった皿を綺麗にするんだよ」

「はい、マージ叔母さん」

 

 ハリーはブルドッグ犬がべろべろ舐めた後のお皿を持ち、台所へ行こうとする。

 しかしマージは、それに激怒した。

 

「何やってんだい! あんたの舌で舐めて綺麗にしな!」

 

 さすがにここまできたらダーズリー家もドン引きである。

 彼女が何かを言ったが、ハリーはそれを理解できなかった。

 ペチュニアが狼狽しているため、何かとんでもないことを言ったのだろう。

 

「あんたみたいな犬以下の女が服を着てるのももったいないね。脱ぎな。裸で四つん這いになって、皿を舐めるんだ。いいね」

 

 最初に行動したのはダドリーだ。

 自分の取り皿を持って、素早くテーブルから離れてゆく。

 それを見たペチュニアがダドリーについていき、バーノンがマージを宥めようとする。

 しかしサディスティックな提案をしたマージはそれに取り合わない。

 力尽くで無理矢理ハリーに強要させようとして、

 

「よし、殺す」

 

 ハリーがキレた。

 風呂上りに着たTシャツがふわりとめくれ、一本線の入った腹が見える。

 足元に転がっていたダドリーのダンベルが吹き飛んで、窓に風穴を開けた。

 まるで足元から吹き上げる風に吹かれてるかのように、満面の笑みを浮かべたハリーの周囲では様々な『まともじゃない』ことが巻き起こっていた。

 いくら鈍いマージでも、これだけされれば異常に気付く。

 何が起きているのかと周囲を見渡し、自分の腹が風船のように膨らんでいるのを見た。

 確かに最近太り過ぎだったが、いったいなぜこのようにファットで脂肪な太鼓腹に……!

 

「ま、マァァァ――――――――ジ!?」

「バァァァ――ノォォォ――――ン!?」

 

 マージの座っていた椅子が、彼女の膨張に耐えきれずばきばきと壊れ始める。

 その際に飛んで行った木片がダドリーの眉間に直撃するが、ケーキに夢中な彼は気づかなかった。

 際限なく膨らんでいくマージの身体が浮き上がり、天井にぽいんとぶつかる。

 慌てたバーノンがマージの手を取って引き戻そうとするものの、物理法則に真っ向から喧嘩を掛け売りした魔法現象によって全く意味がなかった。

 ふよふよと浮くマージの身体は、逃げ場を求める室内の空気の流れに乗って窓の方へと流されてゆく。

 リッパーはとうに逃げた。

 

「ハリー! 窓を閉めろ!」

 

 バーノンが叫ぶと同時、背後で花が咲くレベルでにっこり微笑んだハリーは、窓を壁ごと吹き飛ばした。

 この一連の騒ぎの間、ハリーはずっと笑顔である。道を踏み外したダドリーでさえ美しいと思ってしまうような笑顔で、満足げにマージを見送るハリーに罵声を浴びせながら、バーノンは庭へと飛び出した。

 マージのブルドッグは我関せずという顔でペチュニアの踝を舐めており、ペチュニアは精神が限界突破したのか、調子っぱずれな鼻歌を歌いながらデザートを作ることで現実逃避しているようだ。

 ダドリーは立ったままケーキを食べながら、空へ浮かんでいく実父と叔母を眺める。

 

「マァァァ――ジィィィ――――ッ! そっちに行っちゃいかァん! わしの体まで浮いてる! 『まともじゃない!』 『まともじゃない!』 こんなの『まともじゃなァァァ――――――い!』」

「らめえええええええええええ! 飛んで行っちゃらめなのおおおおおお! バァァァーノォォォン! 手を放しちゃだめだよぉぉぉ――――――っ! だめだかんねェェェ――――――――ッ!?」

「……すまん」

「てめえ」

 

 バーノンがマージの手を放したことによって、マージの身体は際限なく空へと飛んでいく。

 もはや彼女に自力で戻る術はない。

 息をふーふーしようが無意味、短い手足をばたばたさせようと無価値。

 なにをどうしても戻れそうにないことを、マージはその小さな脳みそで悟る。

 帰ろうと思っても帰れないので。

 そのうち、マージは考えることをやめた。

 

「すげー。マージ叔母さん、もう屋根より高いや」

「ああーっ、すっきりしたぁ。んふ、気持ちいーっ」

 

 マージは犠牲になったのだ。

 バーノンがそう結論付けて、『魔のつくアレ』をやらかした女に抗議しに戻ってくる。

 どすどす足音高く家の中に舞い戻ったバーノンが見たのは、電話しながら「あ、もしもしハーマイオニー? 急にごめんねえ、今からそっち行ってもいい? あー、うん、女としてというか人として身の危険を感じてマグルに魔法かけちゃってさあ。ちょっと居たくないんだよ。あー問題ない問題ない。たぶん。んー、わかったぁ、またあとでねえ」と言っているハリーだった。

 受話器を取り上げて電話機に叩きつけると、バーノンは悪鬼のような形相でハリーに迫る。

 

「マージを元に戻せェ! 今すぐにだ! さもなくば生まれてきたことを後悔させるぞ!」

「あ、バーノンおじさん。ぼく今からちょっと出かけてきますねー。戻るのは来年かな?」

「行かせんぞォ! 行かせんぞォ! 行かせんぞったら行かせんぞォ!」

 

 ハリーの胸倉を掴みあげながら、バーノンが怒鳴る。

 真っ赤に熟れたトマトのような顔がハリーにキスをしてしまいそうなほどに近づけられ、

 

「あ、おじさんも空を飛びたいんですか? しょうがないなあバーノンくんは」

「いってらっしゃい! 体に気を付けるんだぞ!」

 

 にこやかに送り出された。

 さっさとトランクに荷物をまとめ、部屋着から外行きの服に着替えたハリーはダーズリー家を出る。

 もう日は沈んでいるが、地下鉄ならまだまだ動いているだろう。

 ハーマイオニーの家はロンドンにあるから、早いところ行きたい。

 がらがらとトランクを転がしながら、夜のプリベット通りを歩き続ける。

 

「ああ、やってしまった。つい魔法を使ってしまった。でもアレは身の危険に該当するよね? するよね? あーしなかったらどうしよう。魔法省から通達がくるって話だけど、そういえば来ないな。それとも後日郵送されるのかな? あー、いや、魔法界は郵便ってあったっけ。フクロウ便だったそうだった、やばいな混乱してるな」

 

 独り言を言いながら歩き続けると、眼前に誰か立っている。

 誰だろう、と思いながら顔をあげれば、……本当に誰だろう。見知らぬ青年が三人立っていた。

 大学生ほどの青年は、にやにやと笑いながらハリーの進む先を遮っている。

 嫌な予感がする。

 

「……通してくれるかな」

「んー? だめだめ。俺らと遊びにいこうぜ」

 

 ああ、これナンパか。

 初めてそういうものに遭遇したハリーは、珍しいものを見る目で青年たちを眺める。

 派手な格好だ。赤と黄色と緑の上着をそれぞれ着ているため、まるで信号機のようだ。

 ナンパトリオはハリーの肩に手を置いてきたので、適当に払う。

 強引に通ろうとしても、無理矢理通せんぼしたり胸に手が伸びてくるので難しい。

 

「……鬱陶しいな」

「あ? なんだこいつ生意気だな」

「OH、生意気ガール! 俺好みのボーイッシュで声もGOOD! 啼かせてやんぜチェケラ!」

「ジョアン、お前ほんと節操なしだな……」

 

 盛り上がる信号機トリオとは対照的に、ハリーは冷たい目で三人を見る。

 いっそここで吹き飛ばしてしまうか?

 ロックハートから盗んだ、精密な忘却術もあることだし。

 そうしたら英国魔法法律の、マグルに対する魔法秘匿法にも触れないだろう。

 そう考えたハリーはジーンズのベルトに挟んであった杖を抜き、構えようとしたものの。

 

「おっと、防犯ブザー鳴らされちゃたまんねえチェケラ」

「っ、離せ!」

 

 右腕を掴まれ、ねじりあげられてしまった。

 マグルだと思って舐めていた。動きが素早い、なにかスポーツをやっているのだろう。

 ……まずい。力では勝てない。

 

「ヒューッ、顔の割に結構ムネあるぜこの子チェケラ」

「おいこの子、何歳だ? ひょっとしてローティーンなんじゃねえの」

「そりゃまずい。ジョアンはロリコンだから、この子壊されちまうぜ」

 

 無遠慮な視線で体を見られて、思わずカッとなる。

 殺してやりたい。いや殺すまではいかなくとも、蹴り上げてやりたい。もしくは潰す。

 そう思って全力で抵抗を始めるものの、ジョアンと呼ばれた男に腕をねじりあげられているし、ほかの男に脚を抑えられた。がっちりと捕まえられて、全く動けない。

 あれ、身体強化魔法を使ってないぼくの身体って、こんなに非力だったか?

 ……あれ、あれあれ。……この状況、ひょっとしなくてもマジでやばい?

 ハリーがじわじわと恐怖を感じ始めた、その時。

 

「うぎゃあああああああああ!?」

「ほんぎゃああああああああ!?」

「人身事故チェケラアアアア!?」

 

 信号機トリオが一斉に吹き飛んでいった。

 きりもみ回転して宙高く舞い上がった三人は、本物の信号機に引っかかってぶら下がる。

 どうやら気を失っているようだ。

 呆然とした顔のハリーが横を見れば、鼻が何かにぶつかった。

 鼻を押さえながら少し離れて見てみれば……バスだ。巨大なバスが目の前にある。

 比喩ではなく冗談抜きで本当に目前。数ミリ単位でハリーの目と鼻の先で停車しているのだ。

 

「おーい少年。大丈夫かー?」

 

 バスから降りてきたニキビ面の青年が、陽気に声をかけてくる。

 まるで二〇世紀前半の車掌のような恰好をした彼は、まず間違いなく魔法界の関係者だろう。

 そうでなければこんな時代錯誤な格好、頭がおかしいか頭が狂ってるかのどちらかだ。

 

「……だ、大丈夫」

「未成年だからって魔法使えねぇのは大変だなあ。そう思うだろう、アーン? ……って、なんだ。少年じゃなくてお嬢ちゃんじゃねえか」

「どいつもこいつもまず見るとこはそこか?」

 

 パーバティが言っていた意味が分かった。

 なるほど、確かにこれは大変かもしれない。

 ハリーくらいの大きさでこの視線なのだから、恐らくハリーより二回りは大きい彼女の場合は相手の視線がかなりわかるのかもしれない。

 そう考えて戦うことに応用できるんじゃないかな、と思ったハリーは若干手遅れだ。

 

「とりあえず乗りな。迷子の魔法使い魔女へのお助けヒーロー、夜の騎士バス(ナイト・バス)においでませーっと。一名様ごあんなーい」

 

 ナイトバスはハリーと彼女のトランクを乗せると、急発進した。

 陽気な車内音楽をかき鳴らしながら、イギリスの道路という道路を爆走していく。

 法定速度を鼻で笑って踏みにじるようなスピードだ。

 ハリーはがたがた揺れながら、スタン・シャンパイクと名乗った青年と握手する。

 

「んで、お前さんお名前は?」

「ハリー・ポッター。ハリエットでもいいよ」

「ほー。有名人とおんなじ名前さね。ほっほー、いい名前だぁ」

 

 この自己紹介をしてハリエットと呼ばれないのは慣れているが、別人と思われるのは初めてだ。

 まぁいいや、と考えてハリーは座席代わりだろうベッドに座る。

 無駄に疲れる日だった。

 溜め息をつくと、うとうとして眠くなってくる。

 一眠りしてもいいんじゃないかなと思った時、ひときわ大きくバスが揺れて停車した。

 ……なんだ?

 

「いまなんか撥ね飛ばしたな」

「えっ、人を轢いちゃったの?」

「いや、人じゃねえだろ。風船みてぇなオバンだったわ」

「…………、……ああ、そうだね。それは人じゃないね」

 

 思いっきり心当たりがあったが、まぁ気のせいだろう。そうだろう。

 ハリーは悲鳴を上げる奇妙な風船を見なかったことにして、またうとうとし始めた。

 半分眠り始め、現実の音と夢の中の音がごっちゃになり始めた時に、スタンに声をかけられた。

 曰く、女の子が無防備に寝ちゃいけねぇ。だそうだ。

 今まで散々男の子扱いされてきたのに、ある程度胸が膨らんで見た目で見分けがつきやすいようになってからは、女の子扱いされるようになってきた。なんだかむず痒い。

 しかし、そうか。色々と違ってくるんだなあ。と思って、ハリーは面倒くささにため息をついた。

 

 数十分後。

 ハリーはロンドンの漏れ鍋の前に居た。

 おかしいなあ、ハーマイオニーの家にいくつもりだったのに。

 行き先を聞かれたときも、確かにスタン・シャンパイクにグレンジャー家の住所を告げたはずだ。

 だが現にハリーは、ここで降ろされた。

 スタン曰く、魔法省の人から連絡がきてそこで降ろすようにとのことらしい。

 

「あーあ。お前さん、魔法使っちまったんだなぁ。ま、怒られてきな。経験談だがそんなに怒られやしねえよ。ま、ガキは怒られて成長するもんだから甘んじて受けるんだな」

 

 そう言い残して、スタンらを乗せたナイトバスは消え去っていった。

 大丈夫だと思ったんだけど駄目だったかなあ。とハリーは暗い気持ちになっていた。

 仕方ないなあ、一応だけど法に触れてるしなあ。そんな呟きと共にトランクを持ち直して、はたと気づく。

 また、目の前に誰かいる。

 ナンパだったら今度こそ吹き飛ばそうと思って顔をあげれば。

 

「――――ッ!」

 

 咄嗟に飛び退いて、反射的に杖を抜く。

 心が鎧を纏って冷たくなる。目を細めて、相手を睨む。

 

「ああ、ハリエット・ポッター。ようやく、ようやく見つけた……」

 

 そう言ってくるのは、目の前の人物。

 襤褸のような服を身につけ、露出した胸元には大量の刺青が彫られている。

 黒髪は脂ぎっていて、何年も梳いていないのかボサボサを通り越してごわついていた。

 髭は伸ばし放題で顔も黒く汚れて不潔な印象をこれでもかと突き刺してくる、三〇代の男性。

 ハリーはこの男を知っていた。連日ニュースで顔が出ているのだから、さもありなん。

 

「……シリウス・ブラックか」

「ああ、そうだ。そうだとも……」

 

 男が肯定する。

 シリウス・ブラック。

 かつて十二年前。ロンドンで、爆発物を用いて一般人十数人を殺害せしめた凶悪犯。

 これの正体が魔法使いだったというのならば、アズカバンという魔法界最悪の刑務所に収監されていないとおかしいほどの人物だ。

 ……なるほど。脱獄したのはマグルの刑務所ではなく、そのアズカバンからか。

 あまりに凶悪ゆえ、注意を促すためにマグルのニュースでも流すようにしているといったところだろう。現にニュースではそれだけの人物が殺されている。その全員がマグルだとしても十分警告には値するし、その中にはもしかすると魔法使いすら混じっているかもしれないのだ。

 すると爆発物も魔法かなにかで、この男は一度に大人数を殺す術を持っているということになる。

 そんな男が、いま。ハリーの目の前にいる。

 ハリーは唾を飲み込んで、あえて不敵に笑う。

 そして問うた。

 

「……殺人鬼が何の御用かな。ここにいるってことは魔法使いだね、失礼だけど杖を使わせてもらうよ」

「そうか、マグル世界でも私はそういう扱いなのか……」

「そりゃそうさ、凶悪殺人鬼なのだから」

 

 ハリーがブラックの眉間に杖先を照準すると、殺人鬼は悲しげに微笑む。

 その表情になにか違和感を感じながら、ハリーは気を引き締めた。

 脱獄してきたというのなら杖は持っていないはず。現に、いまハリーに杖を向けられているというのに何も行動を起こしていない。子供だからと舐められているのなら、いっそ好都合。

 襲い掛かってきた瞬間に、男として生まれてきたことを後悔させてやろう。

 

「で、ぼくに何の用だい。大方ヴォルデモート関連で、多分ぼくが死ぬようなことだろうけど」

 

 自虐である。

 三年目もホグワーツの生活は平穏無事にとはいかないようだ。

 というかまだホグワーツに行ってないぞ。問題が起きるのが早すぎる。

 

「いや、さてね。君に会えたらどうしようか……私も、まだわからないんだ」

 

 ハリーの問いに、戸惑ったような困ったような、そして迷うようにブラックは答えた。

 わからない、とはどういうことだろうか。

 この男が死喰い人だとするならば、ハリーを殺そうとするだろう。

 闇の帝王とは関係ないただのくだらない殺人鬼だとしても、逃亡犯である自分の姿を見た女をどうするかなどわかりきっている。

 さらにこの男は、ハリーの名を知っていた。

 つまり、誰だかわかっていて、わざわざハリーの前へ現れたというわけだ。

 なにかを言おうとして、喉に詰まったものを堪えるような顔をするブラック。

 その様子にハリーは、杖を握りしめて冷や汗を流した。

 

「……なあ、なあハリエット。私は――」

 

 ブラックがそう言いかけた、その時。

 周囲一帯に、空気が異物に押し出される特徴的な音が響いた。

 ――《姿あらわし》だ。

 瞬いた次の瞬間、漏れ鍋の路地裏に二人きりで対峙していたハリーとブラックの周囲は、大量の魔法使いと魔女に囲まれていた。

 数はおよそ二〇人。

 その全員が、杖をブラックに向けて魔力を練り終えていた。

 

「「『ステューピファイ!』」」

「「『ペトリフィカス・トタルス!』」」

 

 強烈な魔力が込められた呪文が、ブラックに襲い掛かる。

 身を捻り、地に伏せ、驚異的な身体能力で魔力反応光を躱したブラックは物陰に飛び込んだ。

 その後を追う猛犬のように、数々の魔法が絶え間なく射出されていく。

 自分の背後からも《姿あらわし》の異音が聞こえてきたことに気付いたハリーは、その場から飛び退こうとするものの、逞しい腕が襟首を掴んできて地面に引き倒されてしまう。

 押し倒してきた下手人に無言で麻痺呪文を放つも、事前に身に纏っていたらしい盾の呪文で防がれてしまった。欠片も通じていない。いったいどれほど高密度の盾を張っているのだろう。

 魔法攻撃は無意味とみて、次に密着状態であるため杖そのものを男の目玉に突き刺そうとするも、これも防がれる。

 男はハリーを自分の背中に追いやると、ブラックの方向に杖を向けたまま、ハリーの全身に盾の呪文をかけた。高密度で、何の魔法も通しそうにない異常なまでの強度の盾。

 大柄な黒人である男が、ローブの上からでもわかる筋骨隆々な背中でハリーを守りながら囁いた。

 

「味方だ、ハリー・ポッター! 我々は闇祓い(オーラー)だ!」

 

 闇祓い。

 それは魔法省が抱える、闇の魔術に対するエキスパートたちだ。

 所属する全員が魔法戦闘に秀でており、一人一人が一騎当千の怪物たち。

 なるほど、それならば確かにブラックを攻撃し、ハリーの盾になろうとするのはわかる。

 その言葉を信じるかどうかは別として、今この場はハリーの敵ではないのだろうと判断する。

 ブラックが物陰から飛び出た。

 

「くっ、そっちだ!」

「逃がすな! 『グンミフーニス』、縄よ!」

 

 一撃で戦闘不能に至る魔法を雨あられと浴びせられながらも、前転やら宙返りやら、果てはスライディングしてブラックは一撃たりとも魔力反応光を浴びていない。

 走る勢いのまま漏れ鍋の壁を駆け上がったブラックは、避難用の階段に掴まると、身を躍らせてロッククライミングのようにするりするりと上り始めた。

 好機と見たのか、ハリーを守っていた自称闇祓いの黒人が目も眩むような魔法を放つも、ブラックはそれを予知していたかのような素早さで階段を蹴って跳ぶ。漏れ鍋の反対側にある建物へ、窓ガラスを割って飛び込んだブラックを見て、闇祓いの幾人かが《姿くらまし》して消える。

 

「ハワード、トンクスはポッターの傍で護衛! 出番だウィンバリー、暴れてこい! ボーンズ兄弟は暴れん坊をサポート! 残りは全てブラックの追跡だ! 行け、行け、逃がすんじゃないぞ!」

「了解です」

「よろしくねハリー」

「今度こそブッ潰してやんぜェ! 行くぞァ野郎どもお!」

「「ウッス!」」

 

 ハリーはそれらの一連の流れを、茫然として見守っていた。

 素晴らしい。

 心に感じた思いは、ただそれだけだった。

 一糸乱れぬ動きで相手を追い詰める、魔力反応光の動き。

 逃げられはしたものの、悪辣なまでに逃がすまいとする数の暴力。

 そして魔法の威力と精密さ。

 ブラックも異常なまでの身体能力で、杖もなしにこの人数から逃げ切っている。

 こんなにもクールなものを見れて、ハリーはかなり興奮していた。

 ハーマイオニーが聞けば、バトルジャンキーと評して溜め息を吐くような感覚ではあるが、ハリーにとっていまの光景は本当に素晴らしいものだった。垂涎ものである。

 そのためか、黒人の闇祓いが声をかけていることに気付かず、肩を叩かれてようやく意識を向けるという無様を晒してしまう。咳払いをして、話しかけてくる男を見た。

 

「大丈夫かね。怪我はないか」

「あ、だ、大丈夫です。ちょっと考え事を」

「随分と肝の据わったお嬢さんだ」

 

 心配かけてしまったかもしれない。

 魔法省の印が入った身分証明手帳を見せながら、黒人の男が自己紹介する。

 

「闇祓い局のキングズリー・シャックルボルトだ。以後宜しく、ハリー・ポッター」

「え、えと。ハリエットです。よろしくおねがいします」

 

 目の前で行われた戦闘。

 高次元の魔法と、冷めない興奮。

 今年は、いや今年もか。やはり、かなり厄介なことになりそうだ。

 しかしハリーの目は笑っていた。

 新しいおもちゃを与えられた子供のように、輝いている。

 泥のように濁った様はなりをひそめ、恋する乙女のような光が宿っていた。

 その眼を見たキングズリーは、とんでもない子になるぞとハリーの将来を心配するのだった。

 




【変更点】
・まったく意味のないダドリーの強化。
・ハリーが美人になろうと無事は約束されている
・7月31日前に漏れ鍋へ。
・シリウスと遭遇。そして闇祓いたちと出会う。

アズカバンの囚人編です。今年こそハリーの心をアバダしましょう。
だんだんと正史からズレが生じはじめました。大本のストーリーのまま、細部が変わり始める……ここが原作と違うんだなとお楽しみ頂けたら幸いです。
お気になさっております紳士淑女の諸君のために申し上げますと、うむ。彼女のは吾輩の掌に収まるサイズと言っておきましょう。はっきり言うと、この作品のテーマはありふれたテーマ――「成長」です。
ダドリーですか。彼はもう色々な意味で道を踏み外してしまいました。


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2.オーラー

 

 ハリーは暖かいココアを飲んでいた。

 夏だというのにハリーの身体は冷え切っていて、あれだけ心は興奮していたというのに肉体は緊張していたらしい。漏れ鍋の主人であるトムが気を利かせて淹れてくれたのだ。

 砂糖とミルクを多めによく練ってあり、甘くて美味しい。

 ほう、と一息ついたハリーは、周りを見渡した。

 一言でいうと、物々しい。

 筋骨隆々の黒人男性が扉の傍に陣取り、その右手にごつごつした杖を持ったまま腕組みしている。

 ハリーの隣の椅子には、桃色の髪の女性がいる。彼女は鼻歌交じりに紅茶を飲んでいるようだ。

 その反対側の椅子には、銀髪の女性がいる。目を瞑って微動だにしない。……こやつ寝ておるわ。

 部屋の隅に置かれた椅子には、ひょろりと背の高い茶髪の男性。苛々としている様子だ。

 その両隣には、双子の男性。両方ともが巨漢で、むすっと黙ったまま動かない。

 

「……有り得ねぇ」

 

 茶髪の男性、ウィンバリーがぽつりと呟く。

 先ほどブラックを追跡した闇祓いの一人だ。

 無精ヒゲを生やした頬をガリガリ掻いて、吐き捨てるように言う。

 

「秘蔵の魔道具《ヒト獲り餅》で姿くらましは封じていた。奴にゃ杖もないからよォ、あの建物から出るには普通に窓やドアを使うしかねェ。だがよ、それも《封印呪文》で封じていたじゃねぇか」

「「ウス……」」

「なんでだ!? ブラックの野郎はどうやって逃げ果せた!?」

 

 ウィンバリーがテーブルを両の拳で叩く。

 テーブルに乗った食器がガチャンと音を立てるが、誰も気に留めなかった。

 叩かれる前に手に持って避難させておいたクッキー皿から一枚とってぼりぼり食べながら、トンクスと呼ばれた桃髪の女性が言う。

 

「こんな失態、マッドアイに知られたら殺される……」

「うっ」

 

 その言葉に反応して呻いたのが、銀髪の女性だ。

 無表情のまま苦々しげな呻き声を漏らし続ける彼女の肩に、トンクスが手を置いて慰めた。

 それを無視して、黒人の闇祓いキングズリーが言う。

 

「ともあれ、ハリー・ポッターに怪我はなかったんだ。そこだけは良かったのではないか」

「あんなに間近にまで接近されといて、それも変な話だけどよォ」

「「ウス」」

 

 闇祓いたちが何やら談笑しているが……。

 今のハリーにはそんなことどうでもよかった。

 早くトイレに行きたい。

 気持ち悪くて仕方がない。

 失禁したつもりはないが、何故か下着が冷たいのだ。

 最悪な気分だ……来週あたりで十三歳になるというのに、この失態である。

 もう限界だ、トイレに行かせてもらおう。そんでもってそこで着替えるとしよう。

 

「あの、ぼくちょっとトイレ……」

「ん? おい待てよハリエット・ポッター。てめェどっか怪我してねェか?」

 

 ウィンバリーが目ざとく気づき、ハリーを呼び止める。

 やめてくれと視線に乗せて訴えてみるも、どうやら勘違いされたようだ。

 慌てた様子で駆け寄ってきた。

 

「おい、隠してんじゃねェ! 血のニオイがすっから分かるんだよ! ブラックにやられたのか!? おい、どこだ、見せろ!」

「やっ、やめ! こら、違うからっ! ちょ、おま、やだぁーっ!」

 

 肩を掴んで揺さぶるウィンバリーと、嫌がるハリー。

 強面な彼が小柄なハリーにこんなことをしていれば、傍から見れば暴漢に襲われる図である。

 何時の間に現れたのか、今まで微動だにしなかった銀髪の女性がウィンバリーを蹴り飛ばした。ウゲー。と呻きながら吹っ飛んでいくウィンバリーを放置して、トンクスがハリーの肩に手を置いて、手洗い所まで連れ去る。

 庇ってくれたのだとハリーが気付いたときには、既にすべてが終わった後。

 そして、二人から頭を下げられた。

 

「ごめんね、あいつデリカシーなくって」

「タイミング悪い子ですよねぇ。ナプキンとかは持ってますかぁ?」

 

 女性二人が気遣ってくるが、ハリーは首を傾げた。

 

「い、いや、ちょっと。何の話なんですか?」

 

 ハリーの言葉に、闇祓い二人が顔を見合わせる。

 ここでハリーは自分の身体のことを初めて知ることになる。

 初潮、または初経。それは女性として大人になる第一歩である。

 女性は月に一度、月経という生理現象が起きるという特徴を持つ。これは将来子を成す為に必要なことである。普通は母親から教えてもらうような知識だが、ハリーには母がいなかった。ペチュニアもハリーを着せ替え人形と見做している節があるので、教えるどころか気づいてすらいなかったのだろう。

 恥ずかしいことではない。これは女性として誰もが一度は通る道であり、変に思うことはないのだと。特にハリーは十二歳で、数日後には十三歳になる思春期の少女である。

 このタイミングでトンクスとハワードという、大人の女性が二人もいたというのはハリーにとって幸運であった。

 まあ、要するに今夜はお赤飯である。

 トンクスが、大人の女性に向かって成長しているんだよ、と優しくハリーの頭を撫でる。

 ハリーを着替えさせ、下着を洗いながらそういったお話をしていたため、三人が戻ったときは男性陣が暇を持て余してているところだった。何してたんだとハリーに聞いてきたウィンバリーがぼこぼこにされた後で、キングズリーの話が始まった。

 

「うむ。では改めて自己紹介といこう。私はキングズリー・シャックルボルト。魔法犯罪者の中でも、特に闇の魔術を扱う者達に対抗する組織である《闇祓い局》に務めている。先ほども言ったが、よろしくな、ハリー・ポッター」

 

 ごつい顔をしている割には、笑顔になると愛嬌がある。

 ハリーはキングズリーと握手して、その手の皮の硬さに驚いた。

 次にキングズリーは、桃髪の女性を紹介した。

 

「彼女はニンファドーラ・トンクス。まだ若いが優秀な闇祓いで、隠密と潜入を得意とする。トンクスと呼んでやってくれ、名前では呼んでほしくないそうだ。ちなみに闇祓い局でも一人しかいない《七変化》だ」

「《七変化》?」

 

 聞きなれない単語に、ハリーが首を傾げる。

 名前からして変身術に関するものだとは思うが、何だろう。

 そう思っていると、横から肩を叩かれて振り返る。

 

「うわあ!?」

「んふふ。つまりこういうことよ、ハリー」

 

 目の前にいたのはハリーだった。

 いや、ハリーそっくりに変化したトンクスだ。

 本当に瓜二つで、違いが全く分からない。ひょっとしたら細胞レベルで同じなのではないだろうか。

 

「ちなみにこんなこともできます」

「うわーっ! ぼくの胸がーっ!?」

 

 トンクス扮するハリーの胸が、ミカンサイズからメロンサイズに膨張した。

 ハリーが線の細い体つきをしているため、あまりにもアンバランスで少し気持ち悪い。

 髪も長くなったり、色がレインボーに変化したり、どういうわけかキングズリーとハリーとトンクスを足してカボチャジュースで割ったような不思議生物に変化したりと、本当に変幻自在のようだった。

 

「す、すごいね……」

「やるもんでしょう。でも彼女も凄いんだから」

 

 そういってトンクスが指すのは、銀髪の女性。

 見た目はトンクスと同じくらいに見えるが、顔つきが少々幼さを残している気がする。

 とろんとした目つきが特徴的だ。……先ほどまで寝てたからかもしれないが。

 

「彼女はアンジェラ・ハワード。今年ホグワーツを卒業したばかりの新人だが、かなりやり手の女だ。彼女も同じく名前で呼んでほしくないそうなので、ハワードと呼んでやってくれ。彼女は遠距離魔法が得意なので狙撃を任されている。そして《動物まがい(フェイカー)》だ」

「《動物まがい(フェイカー)》?」

 

 また知らない単語だ。

 一時期ハリーが目指した《動物もどき(アニメーガス)》とは別の物なのだろうか。

 そう思ってハワードを見てみれば、彼女の臙脂色の瞳が、鮮やかな黄色に変化した。輪郭を覆う銀髪もざわざわと動き、まるで羽根のように見えてくる。

 これが《動物まがい》の力?

 

「わたしは特定の動物の()()()()を引っ張ってこれるんですよぅ。いま使ってるのは大鷲の目。遠くまでよーく見えますし、動体視力もとんでもないですよぅ。まあ、夜はぜーんぜん見えませんけどぉ」

 

 なるほど、とハリーは頷く。

 全身を変えることはできずとも、一部分だけ変えることの利点が得られるわけか。

 どうやらこれは《動物もどき》とは違って先天的な能力のようで、魔法族がかつて行っていた変身術の影響が遺伝子に現れたうんたらかんたらという非常に小難しい説があるらしい。ハリーが将来もしも魔法史に関する学者になったとしたら、一度は論戦に携わるであろうもっともポピュラーな話題だ。

 ハリーはハワードと握手すると、ハワードは嬉しそうにぶんぶんと手を振ってくれた。

 

「んで、野郎どもだ。さっきから騒がしかったのは、アーロン・ウィンバリー。こうみえて戦闘技術は優秀な闇祓いで、中でも一、二を争うほどの実力を持つ男だ。口は悪いし顔も悪人顔だし、いつも一言多いのが珠に瑕ではあるが、本当に、それら以外は本当に優秀な男なんだ」

「なんだキングズリー! 随分と俺に文句がありそうじゃねェか!」

「ブラック取り逃し」

「すんませんっしたァ黙ってまァす」

 

 不満げに食って掛かった茶髪の男性は、なるほど確かに闇祓いというよりは犯罪者の方が似合う顔をしている。はっきり言ってハリーのように華奢な少女がこんなのに横を歩かれたら、一般人から通報されるレベルだ。

 ひょろりと背が高く、ローブの襟元から見える肌はよく日焼けしており、痩せているというわけではない鍛えられた身体をしているのが見て取れる。彫りの深い目元と無精ひげがよく似合っていた。

 しかしそんなに強い男ならば、一度その実力を見てみたいものだ。何らかの参考になるかもしれない。

 

「そしてその巨漢双子が、ボーンズ兄弟だ。右が兄のジャンで、左が弟のジョンだ。……なに、違う? すまんポッター、左右は逆だ。そして見ての通り無口というか照れ屋なもんだから、あまり過度なスキンシップは取らないでやってくれ。真っ赤になっておろおろする巨漢を見たいというのなら別だがな」

「ウス」

「ウッス」

 

 低く唸るように返事をした巨漢たちは、ハリーを数人分そろえたとしてもまだ彼らの方が重そうな、ずっしりとした筋肉質な身体をしている。

 握手すればなるほど、ちょっと赤くなっている。可愛いというか、少々不気味だ。

 そっと差し出された手帳を見てみれば、二人とも妻子持ちだそうだ。

 家族の写真には、ジャンとそっくりな女性がジャンとそっくりな息子を抱きかかえて、同じ顔が三人とも恐ろしい笑顔で映っている。なんだこれは、ギャグか? ジョンの写真はというと、犯罪なんじゃないのと言いたくなるような幼い見た目の女性が、これまた女性にそっくりな愛らしい少女と手をつないで、二人の後ろで悪鬼のような笑顔を浮かべるジョンが立っている。これはなんだ? 捕食シーンか?

 二人に礼を言って手帳を返すと、うんうんと笑顔で頷いている。低く漏れる唸り声のような笑い声がなければ威嚇されているのではと思うほど、滅茶苦茶怖い。ハリーは引き攣った笑みを返しておいた。

 

「さて、君を護衛する主要メンバーはあらかた紹介したかな」

「護衛? ……ああ、ブラックからですか」

「そうだ。ファッジはどうやら君がブラックに狙われていることを怖がるだろうと思っていてね。隠してやりたがっているが、私はそうは思わん。君は強い女の子だ、むしろ知っておいた方がいいだろう」

「ありがとうございます」

 

 これは有り難い事だ。

 何の説明もなしに闇祓いたちに囲まれていたら、精神が変になりそうだった。

 キングズリーが背広の懐から懐中時計を取り出すと、時計の表面から魔法陣のようなものが浮かび上がる。何かの魔法具かと思いきや、「そろそろ時間か」と呟いているあたり、本当にただの時計のようだ。

 キングズリーが扉に歩み寄り、手をかけて開いた。

 すると向こうには、壮年の男性が古風なスーツに身を包んで立っていた。

 魔法省大臣、コーネリウス・ファッジだ。

 

「やあやあハリー。はじめまして……だったかな?」

「ええ、初めまして大臣」

「うんうんよろしくな。この度はおばさんを膨らませるなんてやんちゃをしたようだが……調査の結果、君に罪はない! いやまぁ、あっても困るんだがね。でもありゃ流石にアレだよ、君。うん。なかったことにするには苦労したもんだが……ああいや、なんでもないよ。君は気にしなくてもいい。忘却術士が数人休みを返上して私が恨みを買った程度さ、何の問題もない」

「す、すみませんでした」

 

 恐縮したハリーは謝った。

 身を守るため……いや、カッとなってしまったせいで、迷惑をかけてしまったようだ。

 ハリーがそう頭を下げると、ファッジはとんでもないという顔をする。

 

「いやいやいや! あれには自己防衛が適用されている! だから未成年の魔法使用に関しても、何ら問題は無かったろう? うん?」

「ありがとうございます」

「いやいや! できた娘だ! こんな子の護衛だなんて光栄だとは思わんかねウィンバリー、え?」

「俺としちゃ、これ以上成長しなけりゃ結構好みなスレンダーボディだし嬉しゲボォァ!?」

「アーロンちゃんは黙ってましょうねぇ」

 

 話を振られたウィンバリーが余計なことを言う前に、ハワードが彼を蹴り飛ばした。

 ごろごろと転がっていく彼を見ても何ら動揺しないあたり、ファッジも見慣れているらしい。

 ハワードが小さく口を尖らせているのを、ハリーは見逃さなかった。なるほど、乙女ですな。

 ファッジがさて、と話を区切ると、(倒れ伏したウィンバリー以外)全員の視線が彼に集まる。

 

「ハリーの護衛は彼らで行う。申し訳ないけれど、ハリーは今年度あのマグルの家には戻れないと思ってくれ」

「大歓迎ですやったね万歳イェーイ」

「そ、そうかね。まあ、夏休みの残りはこの漏れ鍋で過ごしてくれたまえ。宿泊費についてはもうトムに支払っているから心配しなくていいよ。筋骨隆々な男たちと見目麗しい女性たちに囲まれてしまうことになるが、うん、まぁ我慢してくれたまえ。安全のためだ」

 

 ファッジがうんうんと満足そうに頷いている。

 確かにこの人数ならば、ブラックもそうおいそれとは襲ってこないだろう。

 のちにうっかりしたウィンバリーから事情を聞けば、やはり彼はヴォルデモートの手下でハリーを狙っているとのことだった。命が危ないのは毎度のことなので、別段動揺はしない。ついに麻痺してしまったかもしれない。

 では。と打ち切ったファッジは、どうやら忙しいようでこの後も仕事があるそうだ。

 

「それじゃあハリー。一応漏れ鍋の裏に吸魂鬼(ディメンター)を配置しておくから、本当に万が一のときは彼らがなんとかしてくれるだろう」

「吸魂鬼?」

 

 何かいま、ファッジが何か変な単語を言った気がする。

 闇祓いたちがそれに驚いて、一斉にファッジを責め立てるような言葉を発した。それに驚いたファッジが焦ってしどろもどろに言い訳をしているが、ハリーはそれどころではなくなる。

 ファッジが闇祓いたちに説明をしようとした時、ハリーは頭を殴られたような衝撃を受ける。

 その衝撃を放ったのは誰かと、ハリーはあたりを見回した。

 ……いた。

 窓だ。窓に、窓の外に何かいる。

 闇で編んだようなフードを被った、悍ましい何かが。

 隙間から見える口元はぽっかりと深い空洞になっており、かさぶただらけの肌は見るに堪えない醜さだ。ぴったりと窓に張り付いて、目など見えないがしっかりハリーを見つめていることがわかる。

 ハリーはその視線に囚われたかのように、瞬きすらできない金縛りにあってしまう。

 なにか、もう一生幸せにはなれないような、そんな最悪の気分。

 誰かの絶叫が聞こえた。

 誰かの悲鳴が聞こえた。

 誰かの哄笑が聞こえた。

 ああ、ごめんなさいバーノンおじさん。違うんです、この眼鏡はぼくがやったんじゃないんです。

 ごめんなさいペチュニアおばさん。でも、服を汚してしまったのは、ぼくのせいじゃないんです。

 やめてダドリー、痛いよ、やめて。もう泣かないから、痛いよ。お願いだ、痛いよ。痛いよう。

 ぼろぼろと涙が出て、がたがたと震えはじめたハリーは自分を強く抱きしめる。様子がおかしいことに気付いたトンクスがハリーに声をかけるものの、彼女にはどうやら聞こえていないようだ。がちがちと歯の根が合わないハリーを抱きしめて落ち着かせようとするものの、何かへの謝罪の言葉を繰り返すのみで、反応がない。

 ハワードが何かに気付いたかのように叫び、ベルトから杖を引き抜いて、なにやら叫ぶ。杖先から純白の大鷲が飛び出したかと思えば、窓が割って飛び出してゆくのが見えた。何か、何かが吹き飛んでいくのが見える。

 ハリーの意識はそこでぶつりと途切れ、意識は闇に落ちていった。

 

 

 知らない天井だ。

 何故か言わなければならなかった台詞を呟いて、ハリーは身を起こす。

 いや、起こそうとした。もぞりと身体が動いただけで、シーツがはらりと落ちる。

 外を見てみれば、どうやらまだ暗い。そんなに長い時間気を失っていたわけではないようだ。

 

「いいや、違うよハリー。二日後の夜さ。君は四十二時間くらい眠っていたんだよ」

 

 傍にいたトンクスが、信じられないことを言う。

 ホーとヘドウィグの声が聞こえる。まるで嘘ではないと言っているようだ。

 頑張って起き上がれば、どうやら服が変わっている。着替えさせてもらっていたようだ。

 それに関して礼を言うと、下着は洗って干してあると言われた。……なんだかこの最近、シモが緩いんじゃないかと呟くと、女の子がそういうことは言わない方がいいと注意されてしまう。面倒くさい。

 しかし、そうか。

 あの時ハリーが感じたのは、間違いなく恐怖と絶望だった。

 下着を汚してしまうほどの恐怖は今までたくさん味わってきたが、それを一度に凝縮したかのような濃密さと悪辣さ。とてもではないが、耐えきれるようなものではなかった。

 

「あれはですねぇ、吸魂鬼(ディメンター)っていう化け物ですよぅ」

 

 お湯の入っているらしい木桶を持って部屋に入ってきたハワードが言う。

 

「人の幸福を吸い取って糧にする、いわば魂版の吸血鬼ですぅ。もっとも忌まわしき闇の生物なんて言われてますけどぉ、あれでも魔法省の子飼いの生き物なんですよぅ。反吐が出まぁす」

 

 間延びした可愛らしい声で毒を吐いてきた。

 しかしなるほど、魂を吸う鬼ね。それで幸福を吸い取られて、あんなおぞましい記憶ばかりを思い出してしまったというわけか。それこそ、精神の限界を超えて気を失うほどに。

 なぜそんな危険な生き物をと聞いたところ、アズカバンの看守を任せているようだ。なるほど、あんな気持ちにさせられたならば凶悪犯罪者も脱獄しようなどとは考えまい。

 そしてそれに耐えきって脱獄したのが、シリウス・ブラックなのだ。

 あんな見た目からは想像もつかない、強靭な心を持っているらしい。あの絶望を感じたハリーからしてみれば、そんな心は『まともじゃない』強さだ。何か目的がないと、そんな強さは得られない。

 それがハリーを狙うことなのだろうか。

 そんな強さを生み出すほどに、狂おしくハリーを狙っているのだろうか。

 

「しかし困ったな。吸魂鬼にかち合うたびにこんなことになってたら、ハリーが社会的に死んじゃうよ。女としても人としても」

「嫌なことを言わないでよ、トンクス」

 

 だがその通りだ。

 話によれば、今年はホグワーツに吸魂鬼を配置するらしい。

 この闇祓いたちも学校に滞在して、ハリーを含め生徒たちの護衛につくらしいが、それでも人手不足は否めないのだ。なにせブラックの逮捕にも人数を裂かねばならない。優秀な彼ら六人をホグワーツに置いておくだけでもかなりの損失なのだろう。

 もし学校で。トイレに入ったら隣の個室から吸魂鬼がじゃんじゃじゃーん。そうしたらハリーは間違いなく漏らす。そんな自信がある。廊下で会おうが、教室で会おうが、所構わずそんな事態に落ちったらハリーの女としての人生は終わりだ。というか人としてアウトだ。

 

「トンクスちゃん、彼女には《守護霊》を教えた方がいいんじゃないですかぁ?」

「えー? でもこの子にできるかなあ。私あれの習得には半年かかったんだけど」

「それでも十分異常だと思いまぁす。わたし在学中から勉強してついこの前使えるようになったばかりなんですけどぉ。喧嘩売ってやがりますかぁ」

 

 互いの頬を引っ張り始めたトンクスとハワードを余所に、ハリーは夢想する。

 《守護霊魔法》、通称パトローナス。それは異常なまでに習得難易度の高い魔法で、文字通り術者の魔力を消費して守護霊を作り出す魔法だ。威力だけを考えれば下手な儀式魔法よりも高く、単体での多大な戦力を期待できる。

 魔法使いの戦いにおいて、もっとも隙が大きいのはもちろん、魔法を放つ時だ。杖を振り上げ、呪文を詠唱するその瞬間。魔法使いとは、いわゆる後衛のようなものだ。だからこそスピード重視で無言呪文や短縮呪文が重宝されるその中で、一人で前衛と後衛を使いこなすことのできる守護霊とは重要なものになる。

 それを学べるかもしれないのだ。しかも本職の、闇祓いから。

 

「ぼく、その魔法を覚えたい!」

 

 ハリーが言うと、二人は驚いた顔をする。

 トンクスはキングズリーからの忠告を思い出していた。

 この少女は優秀な魔女ではあるが、若干力に魅せられていると。パトローナスを教えて悪用はしないと思うものの、しかしその習得に至るまでに無茶をするかもしれない。

 というかあそこでハワードが実際に使った姿を見たうえに吸魂鬼に対して有効な呪文であることを知ったのだから、おそらく一人でも練習してしまうだろう。トンクスがそうだったので、その気持ちはよくわかる。そしてその危険性もよく知っている。

 そうなればむしろ、教えないと危険だ。

 困ったことになった。

 

「……まぁ、キングズリーが許可したらね」

「え、いいんですかぁ?」

「いいんじゃない?」

 

 結論から言えば、キングズリーは許可した。

 万が一ということもあるので、自衛手段があれば心強いというのが彼の言い分だった。

 講師役としては主にトンクスとハワードの女性二人が受け持つようだが、面白がったウィンバリーやボーンズ兄弟が、時間があれば入ってくるとも言っていた。現役闇祓いに教えを乞うなど、なんて贅沢なのだろう。とハリーは感動する。

 しかし、トンクスとハワードは師の影響らしく教育はスパルタ気味であることをウィンバリーから耳打ちされ、ハリーは軽く青褪めたのは余談である。

 

 

「ロンったらエジプト旅行に行っちゃったんだ」

「なになに? エジプト?」

 

 風呂上りにバスローブというあられもない恰好のまま、ハリーら三人は部屋で駄弁っていた。

 ハリーが気を失っている間にフクロウ便が届き、ウィーズリー家がガリオンくじで一等賞を当ててエジプト旅行へ行っていることが書かれていた。日刊預言者新聞の切り抜きでは、家族全員が如何にもエジプトですよって感じの服を着て写真に写っている。当然ながら写真は動いており、ロンが嫌がるスキャバーズを抱えて笑顔で手を振っているのをみて、ハリーは心が温かくなった。

 その笑顔を見られてからかわれてしまったものの、ハワードについて指摘すると顔を真っ赤にしてしまったので、からかい対象が二転三転して、とても楽しかった。

 

「ハッフルパフ寮での夜を思い出すなぁ。ウワー、いいなぁハリー。これからあと四年も学校に行けるんだもの。あれ、今年を入れたら五年かな?」

「レイブンクローだって女子寮はこんな感じでしたよぉ。暖かい暖炉の前でよくうたた寝して、風邪ひきそうになっちゃったものですぅ」

「へえ、ハワードさんって鷲寮だったの?」

「あー、知らなかったぁ? まぁ鷲はどちらかというとスリザリンの方と仲良いですしねぇ。でも君のことはよーく知ってましたよぅ。スコーピウスちゃんが時折わたしに愚痴ってきましたからねぇ」

 

 多少地味な学生生活を送っていたハワードを慰めながら、その日は早めに就寝した。

 翌朝、眠りっぱなしで警護をサボったらしいハワードが寝間着のままキングズリーに怒られているのを尻目に、ハリーは朝食を食べていた。

 サラダとベーコンエッグ、そしてシナモンの利いたフレンチトースト。そして酸っぱくも爽やかなオレンジジュースだ。フレンチトーストが甘くて美味しくて、とても幸せな気分になる。

 その後はさっそく守護霊の練習……ではなく、魔法式や魔法理論のお勉強だった。

 ウィンバリーは闇祓いの中でも守護霊を苦手としているため、これにはさっぱりだと言って近寄りもしなかった。意外なのはボーンズ兄弟で、彼らは二人ともレイブンクロー出身。当時の主席と次席を取っていたそうだ。だが無口なまま授業をするので、なんというか、重苦しかった。悪鬼と悪魔のような微笑みを浮かべる二人に囲まれて行う勉強は、まさしく拷問である。

 

「要するに、魔力運用と同時に感情制御の式も混ぜないといけないのよ」

「でもぉ、重複させちゃだめですよぅ。無駄に循環しちゃって暴発しちゃいますからぁ。そうなると有体守護霊ではなく無形守護霊とよばれる、えーっとぉ、霧とかスプレーみたいな形になっちゃいますぅ」

「そうなると威力が半減する割に、消費魔力が倍くらいになるわけよ。ウィンバリーはこれね。あいつ下手くそなのよ」

「うォいトンクス! なんか言ったかゴルァ!」

 

 ハリーは自分が結構頭のいい部類であることを自覚していたというのに、何を言われているのかちんぷんかんぷんであった。

 教えもしないというのに、時々ウィンバリーが邪魔しに来て集中力が乱されたというのも理由の一つだろう。というか確実にそうだ。ちょっかいをかけに来るタイミングが悪すぎる。

 

「おう、ハリエット・ポッター。おめー身体強化呪文使えるんだってな。俺もあれ得意なんだよ。稽古つけてやんよ、ちょっくらやってみせろやァ」

「えっと、いまスカートなので着替えてきてもいいですか」

「だめに決まってんだろ! 俺は見たいぞその純白のゴボベギャボァア」

 

 セクハラを受けたハリーの回し蹴りを顎に喰らって吹き飛ぶウィンバリーに皆が見慣れた頃、グレンジャー家が漏れ鍋に到着した。

 ハリーとの連絡を受けて、予定を変更してこちらに来るようにしたとのことだ。

 久々に会って抱き合い喜びを示すものの、ハリーの成長に気付いたハーマイオニーとあわや戦争になるところだった。近くに貧しい女の敵であるハワードが居なければ、きっと勃発していた。いったい何食ったらああなるのだろう。

 その次の日。ハリーはウィンバリーと模擬戦を行っていた。ハーマイオニーは同じく座学に強いキングズリーやボーンズ兄弟から法律関係や魔法関係の手ほどきを受けているようだが、こちらはガチガチの実戦形式である。

 

「オラオラオラァ! 遅ェんだよォア!」

「どんだけきめ細やかな魔力運用なんだよ! 一瞬も途切れてないじゃないか!」

「ったりめェだゴルァ! 二十四時間身体強化できてこそ一人前ってんだよガキがァ!」

 

 いくらジョン・ボーンズが治癒魔法を得意としているとは言っても、ウィンバリーの攻撃は苛烈だった。女であるため手加減だとかそういう意思は一切なく、顔も胸も腹も容赦なく狙ってくる。

 実際に喰らうと困るものの、しかしハリーにとっては有り難かった。

 クィレル然り、リドル然り、闇の魔法使いたちが「女の子なので手加減しますね」などと言ってくれるような甘っちょろい存在でないことはよくわかっているつもりだ。

 なのでこの模擬戦は、実に実戦に近かった。

 窓からこれを見ていたらしいハーマイオニーが、風呂の中で「あれ魔法使いの戦い方じゃないでしょ」と言ってきたが、確かにそう思う。杖を使ったのは五回にも満たないほどであったし、しかもそのどれもが物理的に効果を及ぼす魔法だった。脳筋魔法使いにもほどがある。

 その次の日は、ウィンバリーとハワードがブラック捜索の方に回されたため、訓練はお休みにした。

 代わりにグレンジャー夫妻を伴ってダイアゴン横丁を巡り、今年の教科書をそろえる。その中で一番気になったのが、今年から受けることになる授業についてだ。

 三年生からは選択授業というものがあり、将来なりたい職業によって好きなものを受けることができる。ハーマイオニーはなんと驚くべきことに、全ての授業を受ける腹積もりのようだ。

 

「いやいや、それは時間的に無理でしょ?」

「ふふ。ハリー、じつはそうでもないのよね」

 

 そう言ってハーマイオニーが見せてくれたのは、魔法省認可の許可証だった。

 《逆転時計(タイムターナー)使用許可証》。なんだろう、その逆転時計というのは。

 

「要するに時間を戻す時計なのよ」

「ハァ!? なんだその大魔術!? 儀式もなしにどうやってそんな、えっ、なにその魔道具。いったい何億ガリオンするんだよそれ」

「値段なんてつけられないでしょうよ。ホグワーツではこうやって学習意欲のある生徒のために、こういう魔道具を貸し出す制度が昔あったみたいなの。ちなみにこの制度が適用できる生徒は五〇年ぶりだそうよ」

「なんというか、まあ。無理はしないようにね」

 

 このスケジュールだとちょっと無理はしないとならないから、心配させちゃいけないしロンには内緒ねと釘を刺されてしまった。彼はそんなに口が軽いだろうか。

 ハリーはそんな無茶なことをせず、普通に魔法生物飼育学と古代ルーン文字学の二つを学ぶことにした。ハーマイオニー曰く、魔法生物のことを知れば対処ができるようになるし、古代ルーン文字を学べばワンアクションで大魔術を行使することもできるようになるとのことでの選択だ。

 あなた戦うことに快感を覚えてきてない? と言うハーマイオニーの耳の痛い言葉をスルーして、ハリーは教科書指定されている本を指差した。

 

「ほ、ほらハーマイオニー。魔法生物飼育学の本はあれだってさ!」

 

 ハーマイオニーがハリーの指差した先を見てみれば、何といえばいいのだろう。地獄絵図があった。

 鋭い牙を生やした本同士が共食いをしている。そう言えばわかるかもしれないが、とにかくそういう光景が目の前に広がっていた。本屋だというのに頑丈な檻の中で、口をばくばくさせるように動く本が互いを襲いあっている。

 どういうことだろうかこれは。

 

「もう嫌だ! 《透明術の透明本》を仕入れたときが最悪だと思ったのに! なんだこいつら、なんで大人しくしないん――あいたっ! こいつ噛みやがった! もう嫌だ! もういやだァ――ッ!」

 

 フローリシュ・アンド・ブロッツ書店の店員が嘆いているのに構わず、本を二冊注文する。

 あれを捕まえるのかと絶望の表情をされたが、仕方ない。学用品なので仕方ない。

 実のところ、ハリーはあれをハグリッドから贈られていた。誕生日の前祝い、とのことでプレゼントされたのだ。だが開封して即襲い掛かってきたアレに驚いて悲鳴を上げたところ、部屋になだれ込んできたトンクスによって木端微塵に爆砕されてしまったのだ。

 キングズリーに説教されるトンクスを尻目に、ハワードから代金を貰って「申し訳ないけれどこれで代わりを買ってくださいねぇ」とのことだった。

 相当お冠だったキングズリーに睨まれるのも嫌だったので、こうしてさっさとダイアゴン横丁にでかけたというわけだ。

 《怪物的な怪物の本》。まさにその題字に偽りなしである。

 

「見てハリー。この子、クルックシャンクスって名前にしたのよ! 可愛いでしょう」

「やばいな。この壁に正面衝突したみたいな顔とか愛らしすぎる」

「でしょう? すごいわ、びっくりよ、もう」

「親馬鹿だなあ」

 

 ハリーの誕生日は漏れ鍋で祝うことになった。

 グレンジャー一家含め、その日別件でいなかったキングズリーとウィンバリーを除いた闇祓いの人たちも一緒だ。

 プレゼントとしてハーマイオニーは《箒磨きセット》を、ロンはフクロウ便で《隠れん防止器(スニースコープ)》なる防犯グッズをプレゼントしてくれた。

 箒磨きセットの方はクィディッチをやっていたトンクスやボーンズ兄弟の注目を集め、隠れん防止器についてはこれは便利な品ですよぅとハワードに絶賛された。マグルであるグレンジャー夫妻はどれもこれも珍しいようで、しかし好奇心が強いのかどの魔法の品に対しても面白がっていて見ていて微笑ましかった。

 誕生日ケーキはトムが奮発してくれたチョコレート・ケーキで、とても甘くて頬が落ちてしまいそうなものだった。トムに礼を言うと、照れたように引っ込んでしまったので皆で笑いあう。

 その日の晩、にぎやかな誕生日を過ごしたのは初めてだと感極まったハリーが嬉し泣きをしてしまったことを除いては、終始笑顔の、とても素晴らしい十三歳の誕生日である。

 

「ハリー、集中するの!」

「一番幸せな記憶を思い出しながら、それを魔法式に組み込むんですぅ。イメージを崩しちゃだめですよぉ!」

 

 《守護霊》魔法の練習だ。

 夏休みも残すところあと一日。

 城に行ったとしても闇祓いたちに会えなくなるわけではないが、頻度は格段に下がるだろう。そうなってしまう前に、なんとしても《守護霊》を会得する必要があった。そうしないと吸魂鬼に遭遇した場合には世間的に殺害されてしまう。

 ハリーは幸せだったことを思い浮かべながら、その風景を魔法式に組み込む。多幸感に胸が暖かくなり、ハリーはその時はじめて「できる」と確信した。

 

「『エクスペクト・パトローナム』、守護霊よ来たれ!」

 

 目を閉じたままのハリーがそう叫ぶと、杖がぶるりと震えた。

 そうして杖先からあふれ出したのは、銀色の霧。本当にスプレーのように放射状に広がっている。

 それを見たトンクスが歓声を上げ、ハワードが笑顔で頷く。ハーマイオニーは驚愕していた。

 

「よっしゃあ! できたぁ! やったぁ!」

「す、すごいよハリー! 有体守護霊じゃないとしても、たった一ヵ月かそこらでモノにしちゃうなんて! アラスターが知ったらなんて言うか!」

「とんでもない子ですねぇ。……わたしはそこに至るまで半年かかりましたよぅ。くそぉ」

「ハリーあなた、どんどん人間離れしていくわね……」

 

 トンクスと抱き合って喜んでいると、うるせーぞと隣の部屋のウィンバリーが壁越しに叫ぶ。

 ちょうどいいから驚かせてやろうということで、ウィンバリーたち男性陣の部屋に飛び込んで守護霊を見せつけようとしたが、杖を向けられたことで怒ったウィンバリーに放り投げられた。結局この夏休みの間、ハリーは無精ひげの悪党面からは一本もとることができなかった。上には上がいることを再確認して、慢心しないようにとキングズリーの話が身に染みる出来事であった。

 午後になるとウィーズリー家の面々が煙突ネットワークを通して現れた。

 まず最初に出てきたアーサーはキングズリーと抱き合い、仲がいいことを見せてくれる。どうやらキングズリーが闇祓いになる前、かつては同じ部署だったらしい。

 モリーはハリーとハーマイオニーを抱きしめてキスをし、トンクスとハワードと近況報告をしていた。何らかのグループに属しているような会話だったが、少し遠くに行ってしまったので何の話かまでは分からずじまいである。

 早くも制服に着替えているパーシーは、胸を反らして偉そうに歩いている。ハリーとハーマイオニーの前を通るときにわざわざ胸のバッジを見せつけてくることから、それについて驚いて質問して欲しいのがよくわかった。

 なので無視してフレッドとジョージの語るエジプトの魔法使いがどれほどぶっ飛んでいて奇抜な魔法を考え付くかという話に夢中になった。

 不貞腐れ始めたパーシーを適当に慰めながら、ハリーはロンを抱きしめて頬にキスをする。びっくりして目を白黒させるロンを笑いながら、久々に親友たちに会えたことを心から喜んだのだった。

 

 キングズ・クロス駅。

 今年こそはちゃんと構内に入れることができて、ハリーは大いに安堵した。

 トランクを荷物入れに押し込んでから、あいてるコンパートメントを探して歩き回る。パーシーは「いいかい、僕は主席! なんだ。いいね、もう一度言ってあげるよ。しゅ・せェ・きィィィッ! だから専用のコンパートメントに行かなくっちゃいけなやめるんだジョージ! こらフレッド! 主席バッジのHBを改変するなと言ってるんだ! これじゃ主 席(Head Boy)じゃなくて 石 頭 (Humungous Bighead)だろーが! やめっ、ちょ、おま」と言って別の車両へ移ってしまった。

 フレッドとジョージについてジニーも行ってしまい、残るはハリーら三人だけだ。

 出発前になって、アーサーがハリーに手招きしてくる。

 ホグワーツ特急が発つまでにあと十分もないというのに、何の用だろうか。

 

「ハリー。ハリーや、君には言っておかないといけないことがある」

 

 何だろう。

 なんだか深刻な顔をしているが、あまりいい予感はしない。

 陽気な彼がこんな顔をするのだ。いい話であるはずがない。

 

「もうファッジから聞いてはいると思うけれど」

「ああ、ブラックですか?」

「う、うん。その彼の話だ」

 

 名前を聞いて少々動揺したアーサーは、少し怯えているようにも見たがそれでもハリーを心配している様子が見て取れた。

 大人しく話の続きを待っているハリーに微笑んで、アーサーは言葉を続ける。

 

「私は、事件を起こす前の彼のことを知っている」

「ブラックの?」

「ああ。少々キツいところもあったが人当たりのいい好青年で、とてもじゃないが理由も無しに人を殺すような男ではなかった。だが、彼はヴォルデモートの配下だったとされている。彼を知る者、友人、その全てを欺いて」

 

 人を欺くということ。

 ハリーはあまりそういうことをした覚えはないつもりであるが、それでも大事なことを黙っているということはあった。一年生の、あの一年間である。

 呪いの事を黙って、ハーマイオニーとロンのことを信じ切れずに拒絶した。

 それがどんな気持だったか、ハリーは今でも時折、夢に見てしまう。

 一言で言えば、闇だ。

 真っ暗なコールタールのような箱の中に閉じ込められたような、あの感覚。

 手を伸ばそうにも粘着質な液体に絡めとられて、そのどす黒い汚れを押しつけたくなくて、手を引っ込めてしまうあの感覚。

 それに耐え切ったどころか、跳ねのけて裏切りを決行した。そうなるとブラックは、その名以上に、鋼のような漆黒の意思を持っていたということになる。

 ハリーにはその気持ちが信じられない。

 その強すぎる意思が、ハリーに魔手を伸ばそうとしている事が恐ろしい。

 

「いいね。何があろうと、何を知ろうと。彼を追おうなどとは思わないでくれ」

「……追うって、なぜ?」

 

 なぜ追う必要がある?

 自分を殺しに来る凶悪犯を、何故自ら……?

 

「お願いだ。いいね、誓ってくれ。何があっても、何を聞いても――」

「アーサー、急いで!」

 

 モリーの声が鋭く飛んでくる。

 見れば、ホグワーツ特急が白い煙を吐き出していた。

 出発してしまう。

 

「アーサーおじさん。でも、いったい何故……」

「頼むよ、ハリー!」

 

 ハリーが汽車に飛び乗る。

 煙を吐きだすやかましい音にまぎれて、アーサーの声がハリーの耳に届く。

 真剣で、とてもではないが忘れられない声だった。

 

「なにがあっても、シリウス・ブラックを探そうとはしないでくれ!」

 




【変更点】
・ハリーも大人の女性へ。
・キングズリー、トンクス含め闇祓いたちと面識を持つ。
・死を回避するために守護霊を習得(未熟)。
・ハリーの強化計画はまだまだ続く。

【オリジナルキャラ】
『アンジェラ・ハワード』
 本物語オリジナル。動物まがい(猛禽類)の女性闇祓い。
 銀髪の美人。間延びした敬語で話すのんびりした性格。ウィンバリーを意識している。

『アーロン・ウィンバリー』
 本物語オリジナル。身体強化魔法を得意とする闇祓い。
 高身長の茶髪無精ひげ。悪人面で女好きだが、余計なひと言でムードメーカーとなる。

『ジャン・ボーンズ&ジョン・ボーンズ』
 本物語オリジナル。兄のジャンは補助魔法、弟のジョンは治癒魔法を得意とする闇祓い。
 南米系の巨漢。二人とも無口で照れ屋だが、両方とも妻子持ち。ふざけんな。

今回はオリキャラ含め、闇祓いたちとハリーの交流でした。
この時点で拙作のハリーと闇祓いが出会ったら強化イベントが起きるのは必須。でもこのハリーはディメンターと出会ったら失神じゃ済まないので……仕方ないんです(言い訳)。
あと今回ハリーの服が大変なことになってますが、別にエロスじゃないんです。これは彼女の成長物語だから仕方ないんです。原作ハリーだってきっと舞台裏でチョウの夢でも見てますよきっと。だからエロくない。そうだ。
さてブラックがあんな身体能力を見せたせいで、パワーインフレが着々と進んでまいります。これがスーパーハリエット3だ!とかにならないよう頑張ります。まる。

※誤字訂正


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3.リーマス・ルーピン

 ハリーは頬づえをついて、ハーマイオニーとロンとの三人で会話を楽しんでいた。

 ロンが夏休み中にハリーが行ったことを聞いて、口笛を鳴らす。

 

「じゃあハリー、きみ《守護霊》を作り出したってこと? おったまげー! それってきみ、えーっと、えーっと、ヤモリ試験レベルだよ!」

N.E.W.T.( イ モ リ )よ、ロン。イ、モ、リ! 両生類と爬虫類で全然別物じゃないの」

「似たようなもんだろ。でもすっげーなぁ。僕もなにか簡単なの教えてもらおうかなぁ」

「実際にその魔法を食らって覚えさせられるスパルタ教育を受けたいならお好きにどうぞ、ロン?」

「やめておく」

 

 ハリーが大げさに言っているのだろうとロンは思っているが、ハーマイオニーはそれが真実であることを知っている。ウィンバリーやトンクスの手によって人形のように吹っ飛んでいくハリーを見るのは、実に心臓に悪かった。

 田園地帯を抜けて、ホグワーツ特急は大きな橋にさしかかる。

 日が暮れはじめたので時間としてはあと一時間ほどでホグワーツかというところで、汽車が変な振動をした。まるで止まる時のような揺れ方だなと思いきや、外を見れば本当に速度が落ちている。

 いったい何事かとコンパートメントのドアから出てみれば、廊下を覗き見る生徒たちの頭がたくさんあった。車内アナウンスが『一時停車します、出発時刻は十五分後です』と言ってくれなければ、故障か何かだと思われただろう。

 よりにもよってこんなところで停車しなくてもと思うが、いまさら魔法界の非常識さを議論したところで始まらない。

 しかしその時、ロンが声を上げたことではっきり異常事態であることがわかった。

 

「……誰か乗ってくる! えっ、ウソだろう? 誰を乗せるって言うんだ?」

 

 窓に手を置いて、頬がくっつくほどに窓に顔を寄せて外を覗くロン。

 誰かが入ってくるだって? それは、それは……なんだ? どういう状況だ?

 ハーマイオニーと顔を見合わせても、頭を横に振られる。彼女も分からないとなると、本当になんなのかわからない。

 

「……あっ、ロン! 窓から離れて!」

 

 はっとした表情になったハーマイオニーが、ロンに向かって叫ぶ。

 ほぁ? とマヌケな声を出したロンを無理矢理引き剥がす為か、ハーマイオニーは杖を振ってロンを窓から弾き飛ばした。その勢いでハリーがロンの長身に押し倒されて下敷きになってしまったが、些細なことだ。

 腹の上のロンの頭を押しのけてハリーが見上げてみれば、窓がものすごい勢いで真っ白になり、ぴきぴきと細かい音を立てているところだった。あのままロンがくっついていれば、そのまま離れることはできなかっただろう。無論のこと、皮膚ごと剥がせば別である。

 ようやくハリーの上から退いたロンが、廊下から聞こえてくる声を不審がってコンパートメントから顔を出す。

 そしてすぐに引っ込めて、真っ青になった顔でこちらにやってくる。

 

「うわ、何だよ?」

「きゃっ。ろ、ロン?」

 

 ロンは青褪めたまま、ハリーとハーマイオニーの肩を乱暴に掴んで、コンパートメントの奥に押しやった。そしてロン自身は、腰が抜けた様子だが廊下に向かって両手を広げている。

 そこで二人は気づいた。ロンは、ハリーとハーマイオニーを背中に隠しているのだ。

 ほどなくして三人は、うなじから背骨にかけて氷柱を差し込まれたような感覚に陥った。

 ……廊下の窓から、何者かがこちらを見ている。

 黒いローブ。虚空のような口。闇そのものが現出したかのような禍々しさ。

 吸魂鬼(ディメンター)だ。

 早くも意識が朦朧とし始めたハリーは、二人を精一杯抱きしめる。

 二人とも冷たくかじかんでいるものの、それでもハリーより体温が高い。暖かい。

 その暖かさを得られたことの幸せを噛み締めながら、その気持ちを魔法式の根底に組み込む。

 安定式を編み込み、出力式を区切り、変換式を定着させ、発動式を起動する。

 ぼくの幸せを、持っていかせてたまるものか――!

 

「『エクッ、ス……ペクト・パトローナム』! しゅ、守護霊よ来たれぇっ!」

 

 懐から杖を抜き放ちながら呪文を唱えると、杖先から白銀の弾丸のようなものが勢いよく飛び出した。それは窓ガラスを叩き割ると、吸魂鬼の胸に突き刺さった。

 分厚いガラスをナイフで引き裂くような悲鳴を上げた吸魂鬼は、胸を押さえて去ってゆく。

 杖を向けたまま、ハリーはぼろぼろと涙をこぼしながら肩で息をする。

 できた。

 実際に吸魂鬼と相対したのは二度目なのに、撃退できたのだ。

 無形守護霊にも満たない、できそこないの欠片みたいな守護霊だけど、それでも二人を守れた。

 ハリーが抱きしめる二人の身体はまだ暖かい。それは吸魂鬼に幸福を吸われていないことの証左に違いない。ハリーは二人を、二人の心を守ることができたのだ。

 

「ハリー、ハリー! 大丈夫? ねぇ大丈夫なの!?」

「そんな泣いてちゃわからないよ、どこか痛むかい?」

 

 ひっくひっくと嗚咽を漏らし始めたハリーを心配して、二人が声をかけてくる。

 ハリーはそんな二人に対して一言、

 

「抱きしめて」

 

 という言葉だけを絞り出した。

 困惑しながらも、団子になって二人はハリーの小柄な体を抱きしめる。

 しばらくの間、コンパートメントの中に響いているのはハリーが鼻をすする音だけ。

 がらり、とコンパートメントの扉が開いたのはそんな時だ。

 

「この個室の子たちは大丈夫か――いや、大丈夫そうじゃないね」

「あんたは?」

 

 突然やってきたのは、みすぼらしいなりをした男性だった。

 ロンが警戒を隠しもしない声を出す。

 顔を見るに三〇代ほどであるだろうが、ずいぶんと老け込んでいる。白髪の目立つ鳶色の髪はしおれたように垂れ下がっており、ファッションではなく剃り忘れたのであろう無精ひげがより貧相さを増す。

 だが、その眼だけは。目だけは強く光を宿して、ハリーを真っ直ぐに見据えていた。

 

「私はリーマス・ルーピン。今年度から闇の魔術に対する防衛術の教授を受け持つ……まあ、要するに新しい先生だよ」

 

 ルーピンがそう名乗っても、ロンは信じてくれなかったようだ。

 警戒心を露わにされて、ルーピンは苦々しげに微笑む。ハーマイオニーが証拠の提示を要求したところ、ダンブルドアから教職に就く依頼の為の手紙を、ボロボロの鞄から取り出して見せてきた。

 ……なるほど確かにダンブルドアの字で、ダンブルドアの印が押してある。

 彼の印を奪ったり盗んだりできるような者がいるとは思えない以上、これは本物だろう。

 つまり彼は本物の教授である。

 

「しっつれいしましたァん!」

「いや、慣れてるからね。気にしないでいいよ」

 

 ジャパニーズドゲーザを繰り出すロンに、ルーピンは優しく微笑んだ。

 そして彼はコートのポケットから何やらチョコレートを取り出すと、パキンと折って三人に手渡す。どうやら、吸魂鬼によって幸福を吸われた際の応急処置になるらしい。

 ただのお菓子がどうしてそんなことに、と思いながらハーマイオニーが口にすると、まろやかにとろける甘みが全身に広がって、軽くではあるが重くなった心が救われたような気持ちで満たされた。

 未だにハーマイオニーの胸の中で震えるハリーの口にチョコレートを放り込むと、涙も引っ込んでようやく震えも収まったようだ。青白い顔ながらも、ルーピンに対して頭を下げて礼を示した。

 ルーピンは頷くと、他のコンパートメントの子たちにも渡してくるからと言い残してその場を去る。

 ハーマイオニーとロンは、ハリーを宥めて落ち着かせて、ようやく座ることができた。

 いまだに少し顔色が悪いものの、ようやく普通に話すことのできるようになったハリーと会話を進める。話題は主に、先ほどのことだ。

 

「吸魂鬼。アズカバンの看守ね。鬼と名がついてるけれど、吸血鬼や日本の鬼とは全くの別物よ。人間の魂や幸福感を吸い取って生きながらえる絶望の象徴。というか人の心という器から溢れた闇が、凝り固まってできるモノとされているわ。つまり便宜上は鬼扱いしてはいるけれど、ヒト種としてはおろか魔法生物としてすら認められていないの。ヒトの悪感情から生まれるから、『あの人』によって暗黒時代を経験して間もないイギリスが全世界で最も生息数が多いわ」

「それってやっぱり、『例のあの人』が吸魂鬼を増やしてたってことなのかな」

「直接的ではないにしろ、結果的にはそういうことになるわね。なにせ世間一般では力を失って逃げた、または死んだと言われているのになお名前を呼ぶことすら恐怖しているンだ物、いまもイギリス国内のどこかで新たな吸魂鬼が()()()()()()はずよ」

 

 ハワードは吸血鬼の魂版みたいなもの、と言っていたが、恐らく気遣っていたのだろう。

 ここまでおぞましいモノだとは思わなかった。銀髪の美女に感謝の思いを馳せながら、ハリーは続きを促す。反応がイイことに気分を良くしたハーマイオニーは、解説を続けた。

 

「さっき言った通り、吸魂鬼はアズカバンの看守を任されているわ。理由は簡単、囚人たちの幸福感を吸い取らせて、脱獄を防止するとともに絶望感に苛まれるという刑罰も兼ねて、危険すぎる吸魂鬼をアズカバンという一つの場所に留めるためよ。幸せな光景が想像できなくなる……違うわね、想像する傍から吸い取られていくのだから、脱獄した先でうまくいくか、そもそも脱獄自体がうまくいかないと思ってしまうのよ。だから今まで脱獄できた人は皆無だったの」

「……ハーマイオニー、つまりアズカバンが英国魔法界において最高最悪の監獄ってこと?」

「そうなるわね。ヌルメンガードは特殊すぎるからまた別物だけど……英国国内だと、アズカバンが一番だわよ。他の国の魔法界には、もっと恐ろしい監獄があるって話だけど、聞きたい?」

「や、やめとく」

 

 引き攣った顔のロンが話を打ち切ると、ハーマイオニーが少し不機嫌そうな顔をする。

 しかし監獄の話で盛り上がる十三歳の男女というのもとんでもない図だ。やめた方が賢明だろう。

 ホグワーツ特急は間もなく走り始め、城へ向かって進んでゆく。

 途中、ロンのスキャバーズに向かってハーマイオニーのクルックシャンクスが飛び掛かるという事件が起きたものの、それ以外は特に何もなく平和であった。

 汽車から降りる最中にも口喧嘩をする二人を悲しそうな目で見つめるハリーに気付いたハーマイオニーとロンは、とりあえず停戦協定を結ぶことにした。あんな捨て犬のような目で見られたら、怒りも霧散しようというものだ。

 

「え? うわあ!? な、なんだアレ!?」

 

 しかしハリーを気遣っていた二人は、その当人の素っ頓狂な声によって意識を裂かれる。

 ハリーが小柄な体をさらに縮こまらせて、馬車の方を見ているのだ。

 

「ああ、アレ? さすがホグワーツだよなあ。()()()()()()()なんて」

「馬がいない? いるじゃないか、あんな物凄い見た目の馬が! いや馬かアレ? とにかくいるだろう、あんな目立つのが見えないのか、ロン?」

「ハリー? あなた何を言っているの? 馬車には何も繋がれていないわよ?」

 

 ハリーは青褪めた。

 吸魂鬼のせいで若干心が弱っているこのタイミングで、他の人には見えないモノを見るだって?

 不吉だ。不吉すぎる。

 これ以上不審がられても損するだけだと割り切ったハリーは、ぼくにしか見えない何かがいるんだろうということで自分を納得させた。

 馬車に乗るとき、またハーマイオニーとロンの腕をそれぞれ抱きしめてしまったのは仕方ないだろう。

 

「また、一年がやってくる!」

 

 大広間でダンブルドアが朗々とした声で話す。

 ご馳走を今か今かと待ち構えている生徒たちを前にしたあの老人は、長話など置いといて先に腹を満たせと言うことのできる変人の部類である。

 だが今年は違うようだ。

 片手を高く上げ、生徒たちに静かにするよう指図する。

 しん、と静まり返った大広間で「よろしい」と呟くと、ダンブルドアは話を続けた。

 

「ご馳走や友との語らいで暖まった身体と心を冷やしてしまわぬように、暖まる前の諸君らにまず言っておくことがある。夏休みの間、アズカバンからシリウス・ブラックが脱獄したという話はご存じじゃろう」

 

 ブラックの名に動揺するざわめきが、一瞬だけ湧く。

 ダンブルドアの話の続きがみな気になるのだ。

 

「魔法省は今年度、ホグワーツにアズカバンの看守である吸魂鬼を設置することに決めた。これは諸君らの安全を考えたことであり、我が校の同意の上でのことじゃ」

 

 ハリーは内心、「そんな!」と叫びたかった。

 廊下であんなものにすれ違ったとしても挨拶できるはずがない。

 即座に杖を向けて追い払わなければ、ハリーは安心して眠ることができないだろう。

 

「ただし、奴らには君たちに接触する権利を与えておらん。ゆえに奴らと接触しさえしなければ、諸君らの心の安全は保たれていると言ってよい。そう、こちらから接触しなければ、じゃ。よいな。あれらに、君たちを害する理由を与えるでない。吸魂鬼には生半可な呪文は効かぬ。奴らの目を欺くことも出来ぬ。たとえ透明術や透明マントを使っていても同じ事じゃ。奴らは心の動きで物事を見る存在じゃからして、不審なことはしないように。繰り返そう、奴らに君たちを害する理由を、決して与えるでない。わかってくれるかの?」

 

 生徒たちが一人ひとり、神妙に頷くのを確認したのか、ダンブルドアはにっこりと微笑んだ。  

 そして両手をパンと叩く。

 ここからは楽しいお話じゃとでも言うようなその笑顔に、空気が緩んだのがわかった。

 

「さて、さて。嫌なお話ばかりではない。……いやあ、そうじゃな。やっぱりやーめたっと。わしも腹減ったからの! 先に宴じゃ! ほれ、食え!」

 

 緩み過ぎだ、とハリーは思う。

 目の前のテーブルに大量のご馳走が湧いて出たのを前に、ハリーはため息を吐いた。

 隣で苦笑いしているハーマイオニーと頷き合うと、まぁお腹を満たそうということで料理を取り皿に取り分けるのであった。

 

 しゃきしゃきの玉ねぎと共にローストビーフを口に含んだハリーが、その紙に気付いたのは年度初めの宴も中盤になってからだった。

 まず誰からだろうとサインを見てみると、なんと屋敷しもべのヨーコからだ。

 へー、と思いながら内容を読んでみて、ハリーは後悔した。

 

――申し上げます、ミス・ポッター。お食事中に無礼とは思いますがどうぞ、お許し()()()()くださいまし。貴方様が昨年仰っていたブッ飛んだ屋敷しもべのことなのですが、恐らく今年度からホグワーツで働くドビーという者ではないでしょうか。もしそうならば精神衛生上お気を付け下さいと、僭越ながらもご忠告いたします。

 P.S.御口直しというわけではありませんが、依然ご所望なさっていた品をお召し上がりください。

 

 あれが居るのか、この城に。

 溜め息をつきたい気持ちと共に、ハリーはヨーコに若干の恨みと感謝をささげた。

 唐突に会ったら悲鳴を上げていたかもしれない。あれにはどうしても苦手意識が芽生えてしまった。

 御口直しとはなんだろうと思ったハリーが皿を見てみれば、沸いてきたのはイギリスではお目にかかれない料理であった。

 ハーマイオニーが「うわぁ」という顔をしているものの、ハリーにとっては気にならない。

 確かに見た目は酷い。なんでこんな色をチョイスしたのか。

 

「……カレーライス、ねぇ」

 

 炊き上げた白米の上に、ルーと呼ばれるスパイスソースをかけた日本の食べ物。

 もとはインドから伝わったとされているそうだが、パチル姉妹曰く「あんなもの知らない」だそうだ。

 ハリーはスプーンでご飯を掬い、その上にルーを絡めて口に放り込んでみた。

 ……うん、……うん。

 なんと言えばいいのだろう。辛いというか、何というか。

 いや、まずくはない。むしろうまい。ハリーにとってかなり好きな部類で、お気に入りの一つになりそうだ。だが、なのだが、なんというか、周囲の視線が物凄い。そんなにヘンだろうか、これ。お前ら変なこと考えてるんじゃないだろうな……。

 妙に気疲れする夕食を食べ終えた頃、マクゴナガルが鈴を鳴らすような音を杖先から響かせた。

 思い思いに談笑していた生徒たちも、声を潜めて話を聞く姿勢に入る。

 髭についたカレールーを躍起になって取り除いていたダンブルドアが、立ち上がって咳払いした。

 

「さて。げぷ。おっと失礼。さてと、んでは話の続きを始めようかの。先ほどは嫌な話ばかりしたが、何も悪い事ばかりとは限らん。今年度から新しく、闇の魔術に対する防衛術を担当する先生をお招きできたことは幸いじゃ。紹介しよう、リーマス・ルーピン先生じゃ」

 

 教師テーブルの左端から、一人の男性が立ち上がった。

 よれよれのコートを着たみすぼらしい男性。ホグワーツ特急でチョコレートをくれた人だ。

 鳴る拍手もまばらであるあたり、確かに見た目ではあまり期待できそうにない。

 なんだか押せば倒れてそのまま死んでしまいそうな気がするからだ。

 

「そして次に、魔法生物飼育学のシルバヌス・ケトルバーン教授がお辞めになられた。手足が一本でも残ってるうちに、余生を楽しみたいそうじゃて。彼に用事のある生徒は、職員室までおいで。そしてその後任なのじゃが、皆もよく知っておる者が教職についてくれる。魔法生物飼育学の新教授、ルビウス・ハグリッド先生じゃ」

 

 一瞬大広間が静まり、スリザリン以外のテーブルから爆発的な歓声が上がった。

 特にグリフィンドールの者はハグリッドに良くしてもらった者が多いので、彼の幸福を祝福する歓声が多い。

 緊張して立ち上がったハグリッドは、隣にいたフリットウィック先生をひっくり返してしまうが、照れた様子で笑顔だった。

 ハリーは常々、彼がこの授業をやってみたいと言っていたのを思い出して微笑む。

 よかったねハグリッド。その視線はハグリッドがばっちり受け止めてくれたようで、ハリーに対して笑顔で返してくれた。

 

「次に、学校の敷地内だけではなく校内を守ってくれる、頼れる者達を紹介しよう。闇祓いのグリフィン隊諸君じゃ。君たちを警護してくれるヒーローじゃて」

 

 さっと立ち上がったのは、ハリーがよく見知った連中だ。

 キングズリー、ウィンバリーがきっちりしたスーツに身を包んでローブを羽織っている。胸の紋章を見るに、恐らく闇祓いの制服なのだろう。二人の後ろにはトンクス、ハワード、ボーンズ兄弟が控えている。

 ハリーが小さく手を振って微笑むと、トンクスとハワードが笑い返してくれた。

 しかし真面目な顔と恰好をしてもウィンバリーには似合わないなと内心評価していると、当人から鋭い眼光が飛んできた。まさか開心術か? とも思ったが、目も合っていないのにできるはずがなかった。単なる野性的な勘のようだ。野蛮な男である。うわ、また飛んできた。

 

「彼らには校内の、吸魂鬼には手を回させないところを警備してもらう。そう、教室や寮内にもたまに訪れるからの。だらしないところを見せたら寮の恥じゃ。気を引き締めるようにの」

 

 闇祓い達の紹介を終えると、いつも通りの注意事項をダンブルドアが述べる。

 そして、解散だ。

 ふわふわのベッドが待っている。ハリーは久々に出会ったパーバティやラベンダーとの会話もそこそこに、ぐっすりと眠ってしまった。その無垢な子供のような寝顔に、二人が苦笑する。ハーマイオニーが微笑みながらハリーに毛布をかけると、彼女の意識は今度こそ闇に落ちて行った。

 

 

 グリフィンドールが二〇点減点された。

 何が起きたかというと、まあいつも通りのことである。

 魔法薬学の授業にて、三年目の挨拶が行われた。

 

「では授業を始める。ポッターこっちを見るなグリフィンドール二点減点。では教科書の三十六ページを開いてグリフィンドール二点減点。そこに書いてある内容を朗読せよポッター。遅い、グリフィンドール二点減点。よし読んだなグリフィンドール二点減点。諸君、今の通りに調合を始めたまえグリフィンドール二点減点。制限時間はポッターが間違えた授業終わりの鐘が鳴るまで。減点! じゃなかった、はじめ!」

 

 つまりどういうことかと言うと、そういうことである。

 スネイプの機嫌は今までになく最悪で、ハリーがついに瞳を潤ませ始めた頃になってようやく減点爆撃をやめた。いつもならハリーが不快に思う直前でやめるという絶妙なイジメ・テクニックを披露していたというのに、限度がおかしい(ロンに言わせれば頭がおかしい)のだ。

 生徒たちの間でその理由は適切に推理されている。

 一つは、長年狙っていた闇の魔術に対する防衛術の教鞭をぽっと出のみすぼらしい男に掻っ攫われた事。一つは、そのみすぼらしい男とスネイプがひどく仲が悪い事。そして最後の一つは、スネイプだから仕方ないとのことだった。

 その日の放課後に「あなたを信じていたのに!」「何の話だ!」とまるで痴話喧嘩のような会話をハリーとスネイプが職員室前で繰り広げたせいで、十三歳女子相手になにかやらかしたのではと噂されて魔法薬学の教授が肩身の狭い夕食を取っているその時。

 ハワードとトンクスがハリーのもとへやってきた。

 ポトフの玉ねぎを丸ごと頬張りながら、ハワードが言う。

 

「聞きましたよぉハリー。ホグワーツ特急の中で守護霊を使って吸魂鬼を追い払ったんですってねぇ。やるじゃないですかぁ、教えた甲斐がありましたよぉ」

「うんうん、有体じゃないとはいえ咄嗟の状況で使えるのは何より心強いよ。私たちの師匠なら間違いなく言ってるね、『実戦で役に立ったならあとはなんでもいい! 油断大敵!』なーんてね」

「こ、声まで同じにしなくってもいいじゃないですかぁ。まじビビりですよぅ」

 

 そうやって三人で談笑していると、ハリーの後ろから鋭い声が投げかけられてきた。

 何事かと振り向けば、目を吊り上らせたスコーピウスとその隣でドラコが弟を眺めてにやにやしていた。スコーピウスは相変わらずオールバックが似合っているが、ドラコはどうやら髪を下したようだ。それも結構似合っている。

 どうやらスコーピウスは怒っているようで、ハリーに食って掛かってきた。

 

「どうしてお前がアンジェラと一緒にいるんだ? お前は危ない奴だから僕の親しい人たちに近づかないでくれって言ったよな!」

「ドラコに近づくなとは聞いたけど、そこまで広範囲じゃなかったかなぁ」

「だったらいま言った!」

「なら応えよう。お友達は自分で選ぶよ、お世話様」

「~~~~~ッ!」

 

 ハリーの適当にあしらう態度に腹が立ったのか、スコーピウスが杖を抜こうとして失敗する。

 理由としてはハワードがスコーピウスを睨みつけたからだ。

 ウッ、と息を詰まらせた金髪の彼に向かって、ハワードは鋭く言う。

 

「スコーピウスちゃぁん、わたしいつも言ってますよねぇ。アンジェラと呼ぶなって何度言ったらわかるんですかぁ」

「でも、でもハワード家の人がいたらみんな振り返るし。アンジェラは一人しかいないじゃないか」

「呼ぶなと言ったはずよスコーピウス」

 

 ハワードに怒られて若干涙目のスコーピウスを唖然とした顔で見ていると、ドラコがハリーに話しかけてきた。

 これは、弟の醜態を見て楽しんでいる顔だ。

 

「やあポッター。楽しんでるかい」

「楽しむって、……何あれ?」

「うん? ああ、我が弟は年の離れた従姉にお熱というわけさ。微笑ましいねえ」

 

 なるほど。

 しかし親戚だったのか。聞けばハワード家は純血の名家であり、代々レイブンクローの家系であるものの血縁上マルフォイ家とも親しくしている家なのだと。

 それ故に親交があり、かつ大人の魅力があるハワードに惹かれてしまったかわいい男の子が彼、スコーピウスというわけだ。

 ハワードからしたら手のかかる親戚の男の子で、彼の恋愛感情に気付いている節は一切ない。

 しかもハリーは、ハワードがウィンバリーに惚れていることを知っているので、何とも報われないお話である。そしてドラコ曰く、ハワードは在学中かなりモテていたらしいのでライバルは多いのだとか。

 うーん、これは……。

 

「おもしろいね」

「分かるかポッター」

 

 にやにやと薄気味悪い笑顔を浮かべながらスコーピウスとハワードのやり取りを眺める二人、を見ていたトンクスが、溜め息を吐いた。いつの世も難しい問題である。

 あわやハワードを本気で怒らせるところであったスコーピウスが謝って退散するという形で騒動は終わり、ドラコも弟を追ってスリザリンテーブルへと戻っていく。

 なかなか面白いものを見た。

 夕食を食べ終えて寮に戻る最中、ロンがハリーを呼んだので、ハーマイオニーと共に行ってみる。そこにはウィンバリーとウィーズリーの双子があくどい笑みを浮かべて待ち構えていた。

 回れ右しようとしてもフレッド(またはジョージ)に掴まってしまい、あえなくその場にお座りさせられる。そしてニヤケ面というよりも恫喝しているような笑顔のウィンバリーが、ハリーと肩を組んでくる。

 

「よォう、ハリエット・ポッター。トンクスとハワードが名前で呼ばれるのを嫌がる理由を教えてやろうか」

「いや別にいい。この面子ってことでもうオチは見えてる」

「オチってなんだオチって」

 

 ウィンバリーが痛い目に遭って終わるというオチだよ。

 

「さぁみなさんご一緒にィ!」

「かわいいかわいい水の妖精、ニンファドーラ! 親はこれを本気で名づけました」

「我が娘は神の使い天使のアンジェラ! 親が綴りを間違えて戸籍を提出しました」

 

 ハリーは吹き出さないのを堪えるのに、顔面に回せる最大範囲で全魔力を費やした。

 あまりにもあんまりな理由だ。これは確かに自分の名前を嫌がっても仕方ないかもしれない。

 だが笑わない。

 私の名前はハリエットです。と名乗ってもだいたいハリーって呼ばれてるよね。という自分のことを思い出して、他人のことを笑えないことに気付いたのだ。

 さらに言えば、いま目の前でフレッドとジョージ、ウィンバリーが悶絶して倒れたことも理由の一つか。口の中に何かを投げ入れられたらしく、しきりに何味が口の中に広がっているかを叫んでいる。

 ハワードは狙撃が得意だというから、きっと何かとんでもないものをぶち込まれたのだろう。

 彼らがいったい何を味わっているのかは、彼らの名誉のために伏せることにする。ついでにその日の夜に「目が笑っていた」として女性闇祓いの二人から受けた仕打ちについても、ハリーは墓まで持っていくつもりである。

 

 闇の魔術に対する防衛術。

 グリフィンドールとスリザリンの三年生は今年度、初めてこの授業を受ける。

 ゆえに新任の先生がどんな授業をするのか、いまから不安なのだ。そこに関しては、犬猿の仲である獅子寮と蛇寮もまったくの同意見である。

 現三年生が一年生の頃から、この科目はこう呼ばれるようになった。『呪われし科目』と。

 必須教科のくせに随分大それたあだ名がついてしまったものだが、それも仕方ないというもの。

 一年生の時はどもりでビビりな先生が面白みのない授業を続けて、挙句の果てに窃盗でクビ。しかも当時十一歳の女の子に阻まれて未遂で終わる。

 二年生のときはまともな授業はせず、特定の生徒の演技力が向上しただけという悲惨という言葉がこれほどぴったりな年は他にあるだろうかという酷さ。

 三年生の今年はいったいどうなるのだろうか。

 予想された未来で一番悲惨なのが、先生の病欠により自習に始まり自習に終わること。一番滑稽なのがコートを脱ぐと筋肉ムキムキのスーパーマンで、元闇祓いのタフガイであったというオチ。そして一番多かったのが一年持たずに病死という予想が成されている時点で、全く期待されていないことがよく分かった。わかりすぎるほどにわかった。 

 そうなると舐められるのは必然である。

 だが彼は、リーマス・ルーピンという男はそれで終わるような人間ではなかった。

 

「さて、みんな教科書をしまってくれ」

 

 授業開始の開口一番がこれだった。

 皆がロックハートのことを思い出しながら何をする気だと訝しがる中、ルーピンは鼻歌交じりに巨大なクローゼットを引っ張り出してきた。それは中身に何か得体のしれないモノが入っているのか、時折がたごと大きな音を立てて揺れる。

 ロンがジョージの言を思い出す。「最高にクールな先生だぜ」という言葉を。

 

「『モビリタブラ』、机たちよ、そこらへんに退いてくれ。さてさてさて、と。みんな、初めまして。君たちの目の前にいる貧相な男の名前はリーマス・ルーピン。今年度から闇の魔術に対する防衛術を担当させてもらう奴のことだ」

 

 シェーマスがにやりと笑った。

 いかにも彼の好きそうな、ふざけた自己紹介だ。

 

「うん、グリフィンドールとスリザリン三年生の諸君。最初の授業ではあるが、まず君たちの力を見せてもらおう」

 

 ここでざわめきが起こる。

 この新任の先生は、初日に何も教えずいきなり実戦をやらせようとでも言うのだろうか。

 つまりあのクローゼットの中には魔法生物か何かが入っているのか。

 幾人かが怯えた目を向け、黒髪の小柄な女が輝いた顔を向け、大多数が不安げな顔をする。

 ルーピンはそれに微笑んで、説明を始めた。

 

「この中にいるのは、《まね妖怪ボガート》だ。誰か、この魔法生物の特徴を言える人は?」

 

 風を切って、天高く突く少女の腕。

 その素早さたるや、隣にいたハリーですら視認が難しかったほど。

 要するにハーマイオニーが高らかに手を挙げたのだ。二年生時も学年一位を掻っ攫った彼女の活躍の場である。

 

「はい、ミス・グレンジャー」

「《まね妖怪ボガート》は不定形魔法生物の一種で、相対した者などごく間近な周辺生物の脳内情報をスキャンしてその中で最も恐怖度が高い存在へとその姿を変じて相手を怖がらせる、情食性魔法生物です。そのためボガートの本当の姿を確認された例はなく、八〇年代にマグルの技術である監視カメラを通じて観察しても、カメラの向こうにいる者または設置した者の情報を読み取って変化したという事例も報告されています」

「よ、よくできました。グリフィンドールに五点あげよう」

 

 物知りですね。

 ハリーは若干引きながらも彼女の知識に舌を巻いた。

 彼女もボガートについては知っているものの、非魔法族の観点から調べたことまでは知らなかった。

 流石は昨年度、全ての教科で一〇〇点満点中一五〇点以上を叩きだした女である。次席だというのに一〇〇点以上の差を付けられ唖然として悔しがっていたことを思い出したのか、視界の隅の方でドラコが苦々しげな顔をしているのが見えた。

 ハーマイオニーの詳しすぎる説明によってボガートについてよく知ることができた。次はいよいよボガートと実際に対峙して、やっつけてしまおうというステップに入る。

 ルーピンはにへら、と見る者が安心するような笑みを浮かべて言う。

 

「いいね、『リディクラス』、ばかばかしいだ。皆で言ってみよう、せーの」

「「「『リディクラス』、ばかばかしい!」」」

「そーう、そのくらいの元気がある方がなおよろしい。んでは始めよう。みんな! 一列に並んでくれ!」

 

 わいわいと騒がしく、三年生たちが一列に並んでゆく。

 一番最初はネビル・ロングボトムのようだ。

 

「やあネビル。君の一番怖いものはなんだい?」

 

 ルーピンがネビルにやさしく声をかける。

 若干怯え気味であったネビルが、それに少し安心した表情を見せて微笑んだ。

 

「おばあちゃんも怖いけど……僕、スネイプ先生が一番恐ろしいです」

 

 教室が笑いの渦に包まれた。

 確かにネビルなら、それも仕方ないかもしれない。

 ネビルはいわゆる要領の悪い子で、別段おつむの出来は悪くないし勉強不足というわけではないのだが、緊張してしまうと途端に手先が非常に不器用になる。座学は悪くない。むしろロンより良い。だが実技となると緊張してしまって、壊滅的な結果を引き起こすのだ。

 スネイプから一番厳しく接されているのがハリーだとすると、一番つらく当たられているのは彼、ネビルだ。あんまりな仕打ちを受けて泣きべそをかいている彼を、似た立場の者としてハリーは何度も慰めたことがある。

 殺しかけた者であるという負い目はあるものの、それ以上に彼の持つ優しさが面倒を見たくなってしまう一番の原因なのだ。なんというか、彼の仕草は心の奥底にある慈愛みたいなものをくすぐってくる。パーバティやラベンダーもそれに同意するあたり、将来のネビルは女性にモテて対処に困るに違いない。と夜に同部屋の四人で笑いあったものだ。

 さて。

 そんな彼、ネビル・ロングボトムが先陣を切る。

 ルーピンは何かをごにょごにょとネビルに耳打ちすると、とても輝かしい笑顔で親指を立ててネビルをクローゼットの前まで送り出した。

 何もしていないというのにクローゼットがばたん、と開かれる。

 生徒たちが押し黙り、ネビルが肩を揺らした。

 

「ミスター・ロングボトム……? 我輩は申し上げたはずですぞ、これ以上の失敗を繰り返すようならば留年措置も辞さないと……」

 

 低くねっとりとした、耳に残る声。

 まさにセブルス・スネイプその人だ。

 知らず、生徒たちが緊張する。ルーピンはこの後の展開を楽しみにしているのか、ニコニコと笑顔が絶えることは無い。

 

「君の脳みそは萎びているのかね我輩の魔法薬を理解できるとは思っていないがよもやここまで愚鈍だとは貴殿の思考回路は一度解剖してみるのが是非とみてよろしいですかなミスター・ロングボ――」

「りっ、りり『リディクラス』! ばかばかしい!」

 

 スネイプ・ボガートの台詞に被せ気味で、ネビルが上ずった声で呪文を叫ぶ。

 するとねちねち嫌味を言っていたスネイプ・ボガートの唇が真っ赤に色づいて、つけまつげとアイシャドーで目元がパッチリ。肌がさらに白く頬がピンク色に染まり、髪の毛がつやつやのさらさらに変化する。

 服装もいつもの漆黒のローブとブランド物の詰襟ではなく、レースをふんだんにあしらったふんわりとした女性用寝間着のネグリジェに変わった。驚くべきことに透け透けである。そのため、女性下着を着用しているのがよく見える。もちろん上下で、ピンクに黒レースという可愛らしいものだった。下半身の方は……ちょっと筆舌に尽くしがたいのであまり見たくない。

 更にお洒落なハイヒールを履いて、爪も綺麗に赤いマニキュアが塗られている。輝くような爪はよく手入れされており、女性陣がほほうと息を呑むほどの美しさを誇っている。

 どこからともなく不自然な風が吹き、まるでシャンプーのコマーシャルのような光景になった。

 そしてスネイプ・ボガートがぽつりとつぶやく。

 

「我輩。チョーカワイイじゃん?」

 

 途端、教室中が爆笑の渦に叩き落された。

 ハリーはあまりの腹の痛さに死を覚悟した。ハリーのすぐ前にいるロンなど、床に四つん這いになってひきつけでも起こしたかのように笑い続けている。ディーンとシェーマスに至っては涙を流して呼吸困難に陥ったのか、互いに魔法をかけあって治療していたほどだ。

 スリザリンの生徒たちでさえ笑いすぎて腹を抱えており、ドラコに至ってはクライルの肩を借りて立つのがやっとだった。

 

「ひー、ひー。よ、よーしネビル。よくできた! っぷ、はは。いやぁ、よくやった! いいもん見れた! よしよし次だ、次! この調子でみんな面白おかしく、ブフッ、おっと失礼、くふふ、ボガートをやっつけてしまおう!」

 

 泣き妖怪バンシーが、唐突に現れたロックハートのスマイルで萎びてしまう。

 棍棒を振り上げたトロールが、こんにゃくに変わった自らの得物を絶望の目で見る。

 大変お怒りのマクゴナガルが現れ落第を宣言するも、突然微笑んで獅子寮に十万点を与えた。

 シリウス・ブラックが許しを請うも、先の姿をしたスネイプによってディープなキスを受ける。

 スタンダードなゾンビが大量に湧いて出るも、筋肉ムキムキの変態が現れ薙ぎ倒していく。

 銀の血でべっとりなフードをかぶった怪人が、唐突に現れたハグリッドによって吹き飛ばされる。

 鋏を鳴らす巨大な蜘蛛が弾けると、大量のふわふわなうさぎになって散り散りに逃げ惑う。

 

「はっはっは! よーしよし、次の生徒、おいで、さぁやっつけ――」

 

 ルーピンが続きを促して、次に現れた生徒を見て言葉が詰まった。

 教室中は笑いすぎた生徒がヒーヒー苦しんで騒がしく、そのことは誰も気にしなかった。

 嗜虐的な笑みを浮かべたハリーが、意気揚々と前に出て懐から杖を抜く。

 ハリーを下げようとルーピンが声をかけようとするものの、遅かった。

 うさぎたちがぴくりと反応し、次々と集まって練り固められ、肌色の塊になる。それが色づき、髪と服が生えると一人の太ったマグルになった。バーノン・ダーズリーである。ハリーは一瞬笑みが引き攣ってたじろぐ。

 バーノン・ボガートが口を開いた。

 

「うちにはハリー・ポッターなどという得体のしれない『まともじゃない』者はおらん! さぁ出ていけ! これ以上お前を家に置いておくわけにはいかん! でていけぇぇえええ!」

 

 ハリーの家の事情を知っているハーマイオニーとロンが、慌ててハリーを見る。

 トラウマの象徴のような存在が目の前で暴言を振るっているのだ。

 泣き出したり、怯えたりするのでは――

 

「『フリペンド・ランケア』、刺し穿てェ!」

「たまたまなっしーいちげきひっさつぅ!?」

 

 二人が見たのは、天使(あくま)のような笑顔を浮かべたハリーだった。

 大輪の薔薇を背負うような微笑みを見せたまま、ちゃくちゃくと杖を振ってバーノン・ボガートの男として致命的なところを抉ってゆく。

 女性陣からは純粋な笑いと苦笑いが響き、男性陣からは恐怖に慄く声が漏れる。

 ルーピンが慌ててハリーに指示を出すと、我に返ったハリーが恥ずかしそうに「『リディクラス』」と呟く。するとバーノンはデフォルメされたミニ吸魂鬼に魂を吸われて抜け殻になってしまった。

 やるじゃないの。だの、怖い女だな。など、からかいの言葉と褒められているのかわからない褒め言葉をかけられて、ハリーは真っ赤になって小走りでハーマイオニーのもとへ去ってゆく。

 その後ろ姿を、ルーピンが黙って見つめていることには、終ぞ誰も気づくことはなかった。

 

 グリフィンドールの談話室で、ロンが興奮して話をする。

 スネイプのくだりを聞いたフレッドとジョージは、その場に居なかったことを本気で後悔しながらも涙を流して爆笑し続けていた。今日はグリフィンドール談話室を警護するらしいウィンバリーもそれを聞いて、大声で笑い続けている。

 そんな事態を引き起こしたネビルは英雄扱いされており、何かとヒーローネビルと呼ばれるのを恥ずかしがって部屋へ引っ込んでしまった。

 

「いやァ、しかしセブルスのそんな恰好なぁ。俺ァ見たかったぜ。というか本人に見せたいぜ」

「やめなよウィンバリーさん。スネイプ先生がブチ切れてネビルを殺しちゃうよ」

「スネイプ先生ならやりかねないわね……。ところでウィンバリーさん、なんだかスネイプ先生と親しそうな言い方ですね?」

 

 ハーマイオニーが疑問に思ったことを聞いてみると、確かにとハリーも同意する。

 乱暴にソファへ座ったウィンバリーが、机に脚を投げ出しながら言う。

 

「んああ、俺ぁレイブンクロー出身だしよ、更に混血だもんでそんなに親密じゃあなかったが、セブルスはよく勉強を教えてくれる先輩だったんだよ。いつしか道は違えたが、頼りになるイイ奴だった。……だのにどうしてあんな性癖を持っちまっ、ぶふぉぁあああ! ぶひゃひゃひゃひゃ! だーめだ、真面目な話ができねぇ! 最高だぜヒーローネビル! あひゃはははははァ!」

 

 あっけらかんと言う姿に、ウィーズリー兄弟が驚いた。

 ブラック逮捕に燃えるこの男がスネイプと先輩後輩関係だったこともそうだが、学生時代に彼がいじめられるイメージなど皆無だったからだ。いまハリーが想像しているように今の悪人顔のまま身体だけ子供になっているというならばイジメなどないのだが、当時かわいらしい男の子であったウィンバリーの言うことは事実だった。

 彼が学生であった時代は、まさにヴォルデモートが大々的な犯罪を犯す直前であった。ゆえに、カリスマ的な魅力と指導力、そして圧倒的なパワーを持っていた彼に多くの魔法使いが惹かれたのだ。今よりも純血主義者が多く、そしてヴォルデモートの掲げる『マグル追放』という主義は、当時の世論にばっちりマッチしたのだろう。

 資料は残されていないが、日刊預言者新聞は当時、腐敗した魔法省を変える期待の新星政治家としてヴォルデモートを取り扱ったことがある。尤もヴォルデモート卿は、その記事の五年後には英国魔法界を恐怖のどん底に叩き落す大犯罪者となってしまうのだ。

 笑い疲れたウィンバリーが酒を飲みに行くと言って寮から出ていったあと、ハリーは幼いスネイプを想像する。

 いったいどんな子供だったのだろう。

 いつか課外授業や廊下で彼に会った時は聞いてみよう。

 などと思いながら、ハリーはその日ぐっすりと眠ることができた。

 

 翌日。

 ハリーは成程と思いながら、ベルトでぐるぐる巻きにした《怪物的な怪物の本》を持っていた。

 ハグリッドが教科書指定したこの本は、やはりというかなんというか、彼の趣味で選ばれたものらしい。背表紙を指で撫でれば大人しくなるらしいこの本を開いてみると、なんだか涎で糸を引いていた。はっきり言ってこの本を作った愚か者は何らかの罰を受けた方がいい。

 スコーピウスが「なるほどねぇ! 撫ぜりゃーよかったんだぁ!」とハグリッドをからかって、彼がしょんぼりするということはあったものの、授業はおおむね問題なく進んでゆく。

 ヒッポグリフという魔法生物について、特徴をよく説明している。

 野外の森の中に大きな広場があり、そこで巨大な黒板を木から吊るして行う授業はとても新鮮だった。

 どうやら授業計画にはハーマイオニーが関わっているらしい。それで授業が始まる前にあんなににこにこと笑顔だったいたわけか。

 ハグリッド曰く、最初の授業はインパクトが大事だから実際に美しい魔法生物を見せちゃろう、と言いだしたのをハーマイオニーが慌てて止めたのだ。

 不思議そうにしていたハグリッドだったが、ハーマイオニーが言うならと渋々諦める。

 ハーマイオニーは、最初の授業でもし万が一にでも問題が起きたならば、その一度だけでクビになる可能性すらあると考えたのだ。なにせハグリッドは、こと危険な魔法生物に関しては要領がいいとはいえない。ノーバート然り、フラッフィーズ然り、アラゴグ然り。……しかしそう考えると、ハリーらはハグリッドにかなり迷惑を被っている気がする。そろそろ怒ってもいいかもしれない。

 

「さーて、今日はビッグイベントがあるぞう。たたらたったらーん!」

 

 授業の終わり、ハグリッドが奇妙な掛け声とともに片手をあげる。

 ハーマイオニーが天を仰いだ。どうやら忠告の意味を分かってくれていなかったようだ。

 

「これが実物のヒッポグリフだ。名前はバックビーク。どうだ、美しかろう?」

 

 出てきたのは、馬と猛禽類のあいのこといった印象の魔法生物だ。

 なめらかな毛並みに、射抜くような眼光。背から生えた翼は見るからに力強い。

 すらりとした体形は、確かに野性的な美にあふれていた。

 

「よしよし、いい子だバックビーク。さて、特徴はあらかた説明したはずだな。ん? よーし、一応O.W.L.(フクロウ)試験にヒッポグリフは出るはずじゃから、予習っちゅーことになるな。誰か、こいつを撫でてやりてぇやつはいるか!」

 

 ざぁ、と波が引くように生徒が遠ざかる。

 まさかそんな反応をするとは思わなかったハリーは、その一糸乱れぬ連携から一人取り残された。

 ハグリッドが振り向いた時、傍目にはハリーが一人集団から歩いて前に出たように見えたに違いない。相好を崩して、「偉いぞハリー」と言うと彼女を手招きした。

 参ったのはハリーだ。

 あんなでっかい爪でじゃれつかれようものなら、ハリーのように線の細い子は確実にお陀仏である。

 ハーマイオニーがハリーの手を引いて集団の中に入れようとしたものの、それよりも早くスコーピウスがハリーの背中を突き飛ばしてしまった。よろけて前に出たハリーを受け止めたハグリッドの笑顔を見てしまうと、ハリーも何も言えなくなる。

 こいつはまずいぞとロンは不安になった。

 

「さて、言ったようにヒッポグリフという連中は礼儀にうるさい奴らだ。まずコミュニケーションをとる前に、礼をする必要がある。要するに、お辞儀だな」

 

 何故か今の言葉に強く反応してしまったが、ハリーが今見るべきは現実である。

 ヒッポグリフのバックビークの前に出て、ハリーは恐々とお辞儀をする。

 もしお辞儀を返してくれなかった場合は即座にその場から離脱しないといけない。ヒッポグリフの機嫌が悪いか、なわばりを侵す敵とみなされているかのどちらかなのだそうだ。

 ヒッポグリフから目を離さないようにお辞儀したため、ハリーはお尻を突き出したような形で大変不細工な格好をしているのだが、こればかりは仕方ない。

 体感時間では数十分も、しかし実際には五秒ほど頭を下げ続けたものの、ヒッポグリフが頭を下げる様子はない。

 

「ハリー。ゆっくりと下がれ、ええか、ゆっくりとだ。刺激しねえようにな……」

 

 厳かな口調のハグリッドに従い、一歩後ろに下がったとき。

 ヒッポグリフがきゅう、と鳴いて頭を下げた。……ように見えた。

 これに「ブラボーッ」と叫んだハグリッドの反応で、向こうがお辞儀を返したことがわかる。

 グリフィンドール生たちから歓声が上がった。

 

「よーしよしよくやったハリー。偉いぞう。……ありがとうな、おまえさんが嫌がっちょるのはわかっとったが、やる人が居らんで困ってたんだ」

 

 最後に耳打ちで囁かれ、とんでもないことを聞かされる。

 苦笑いで返したハリーの頭をハグリッドが撫でてから、生徒たちにヒッポグリフの特徴をハグリッドが解説し始めた。そこからは怖がりながらも何人かの生徒が前に出てきて、バックビークとの交流を試みたり、怯えてやっぱりやめた、という者が居たりと順調に終了まで授業は運ばれていった。

 授業終わりの鐘が城から聞こえ、ハグリッドがこれにて解散。次は来週じゃぞ。と言ったことで、生徒たちは思い思いに城へ帰っていく。

 ハリーたち三人はそんな中、ハグリッドの初授業をほめたたえていた。

 

「やるじゃん、ハグリッド!」

「おう。ありがとうよロン。俺ぁバックビークを棲家へ戻しに行くから、先に帰っちょってくれ」

 

 ハグリッドがそう言って、ヒッポグリフの方へ振り向いたその時。

 髭もじゃであまり肌面積の見えない彼の顔が、はっきりと青褪めたのが見えた。

 ヒッポグリフに不用意に近づく者の姿があったからだ。

 プラチナブロンドの髪をオールバックに固めた、高慢な少年。

 スコーピウス・マルフォイだ。

 

「危ないわよスコーピウス……」

「はッ! ポッター如きができて僕ができない理由がない! そうだ、マルフォイの次男である僕ができないはずがない! なんだ、あの醜いデカブツの野獣くらい僕にだって跪かせられる! 見てろよパンジー、僕だって、僕だって!」

 

 青白い頬を赤く染めて、スコーピウスがバックビークへと歩を進める。

 ――礼をしていない。更には侮蔑までしている。

 慌てたハグリッドが、大声で制止を呼びかけるも聞こえているのかいないのか、止まる様子はない。悪態をついてハグリッドがスコーピウスとバックビークのもとへ走り出す。

 同じく慌てて走り出したドラコが見える。

 二人はカッとなったスコーピウスを止めようとしたが、

 

「グルァアアウ!」

「ぎ、ぶぁ――」

 

 全てはすでに遅かった。

 ヒッポグリフの、大樹すら削る鋭い爪の一撃を受けたスコーピウスが吹き飛んで、クライルを巻き込んで木にぶつかる。

 真っ赤な液体があたりにばしゃりと撒き散らされた。

 パンジーが金切り声をあげる。

 ロンは足元に転がってきたスコーピウスの左腕に、ウワーッと叫んで尻餅をついた。

 クライルが唸るように、スコーピウスの名を何度も呼んでいる。

 ハグリッドが城中に響くような大声でバックビークを叱りつけ、手早く縄でその場にあった木の幹に繋いだ。

 数は少ないが残っていた女子生徒の悲鳴と、男子生徒の動揺した声が広場に響く。

 血を流して倒れたままのスコーピウスのもとへ、蒼白になったハグリッドが走り寄って、唸って威嚇するクライルをどけてからスコーピウスの様子を診る。ハーマイオニーもそれに同行し、スコーピウスのけがの具合を見たが酷いものだった。首から脇腹にかけてが鋭い剣で切り裂かれたかのようになっていて、左腕はロンの足元に転がっている。

 マダム・ポンフリーに急いで治療の用意をさせるための連絡を念話で飛ばしながら、ハーマイオニーはスコーピウスの止血を試みる。ロンは壊れ物を扱うようにスコーピウスの腕を持って、その周りを右往左往していた。

 そして。

 そしてドラコ・マルフォイは。

 

「――――――――――」 

 

 その白い肌を赤く染めて、杖を手に射抜くような目でヒッポグリフへと歩を進めていた。

 それに驚いたハリーがドラコに声をかけて止めようとして、はたと気づく。

 怒っている。

 ドラコという少年と知りあって以来、ここまで激怒している彼を見るのは初めてだった。

 このままではまずいと判断したハリーが、ドラコの前に立ちふさがる。

 

「だめだ、ドラコ。落ち着くんだ」

「退けポッター。邪魔だ。二度は言わん」

「それは嫌だ。だめだ。だって君はいま、その杖でなにをしようと――」

 

 明らかに杖を使うつもりのドラコを前に、ハリーは引かない。

 しかし。

 

「――忠告はしたぞ」

 

 氷河のように冷たい声色で、溶岩のように煮え滾った言葉を吐いたドラコは、ハリーの横を素通りしていく。

 ハリーは止めきれなかったのか。否、止められる状態になかった。

 いったい何をされたのか。

 いつのまに杖を向けられたのか。

 いや、違う。ドラコは無言呪文を使ったのだ。杖を握ったままの状態で。

 ハリーの身体が全く動かない。《全身金縛りの呪文》だ。

 おかしい、いや身体が動かないのは分かる。

 だが、眼球しか動かせないのはおかしい。

 無言呪文である以上、威力減衰するのが道理だというのに、効果が全く変わっていない。

 棒立ちになったハリーのすぐ後ろで、ドラコが杖を突き刺すような動作をした。

 あれは。あの杖の振り方は。

 

「きゃあああ―――ッ!?」

 

 ハーマイオニーの悲鳴が聞こえた。

 同時にハリーは、ドラコの放った魔法の余波で棒を倒すように直立したまま地面に倒れる。

 ドラコが無言呪文で放った《射撃魔法》は、ヒッポグリフの胴体を確かに穿った。血を流し、暴れるバックビーク相手に、ハリーは視界の隅で能面のように無表情のドラコが《射撃》し続けるのを見た。

 ハリーの意識は、そこで一度途切れる。

 憎悪と憤怒に染まったドラコの顔が、忘れられなかった。

 

 

 ハリーはぱちりと目を覚ました。

 この匂い、布団の感触。間違いない。医務室だ。

 またこの天井か、とハリーが呟くと同時、突如カーテンがびりびりびりと引き裂かれた。

 何事かと思い飛び起きれば、そこにいるのは野獣であった。

 女の子そのものである甲高い悲鳴を上げるも、飛び込んできたハグリッドは大泣きしたままハリーを絞め殺しにかかってきた。もとい、抱きしめてきた。

 

「ウオオオオーン! ハリー、ハリー! バックビークが死んでしまう!」

「もぎゃあーっ! けひ、くかか。くぴ。息ががが、ウゲー、クルシーッ」

「ハグリッド!? ハグリーッド! その前にハリーが死んでしまうわ!」

 

 慌ててハグリッドを止めたハーマイオニーが居なければ、ハリーは首の骨がへし折れていたかもしれない。ベッドの中に戻され、脚だけを出してハグリッドの腹を蹴りながら、ハリーは話を聞く。

 スコーピウスは一命を取り留めたそうだ。

 ただし三日は入院。そして腕の骨が固定されるまでに一週間は腕を使ってはならないそうだ。そして幸いにして体についた切り傷についても、痕を残さず綺麗に治癒することができた。

 よかった、まだいいニュースである。

 もし生徒の一人が死んでしまえば、ハグリッドは今度こそ学校にはいられない。

 

「そうでもないわ、ハリー」

「え?」

「ルシウス・マルフォイよ。この学校の元理事の」

 

 マルフォイ氏は、昨年唐突に理事職を辞した。

 何があったのかハリーは知らないことだが、とにかくいまは理事ではない。

 しかし仮にも幾年も理事を務めた男なのだ。多大な財産を活かして様々な施設に寄付を行っているため、その発言力や影響力は計り知れない。たとえ理事ではなくなったとしても、彼の意見は強いのだ。

 息子を殺されかけた父親の心境としては、いくら息子自身のバカが原因で負った怪我だとしても、怪我は怪我。恐らく大激怒して学校に乗り込んでくるだろうことは想像に難くない。

 そう思っていたのだが、その予想は早くも的中することになる。

 慌てた様子のスプラウト先生が医務室に飛び込んできて、ハグリッドを連れて行ってしまったからだ。

 ハーマイオニーとロンが一緒についていき、ハリーも一緒に行こうとするもマダム・ポンフリーにベッドの上へ放り投げられてしまう。

 

「友達の危機なんですっ!」

「あなたは健康の危機です!」

 

 どうしても行きたいのならば、その格好で行きなさいとハリーは患者衣をはぎ取られて下着のみのあられもない姿にされてしまう。ならば制服を着ていこうとしても、マダムは先手を打って洗濯してしまったようだ。

 確かにスコーピウスの血がついていたけど、それってありなのか。と思いながらハリーは、半裸のまま寒い一夜を過ごした。

 

 翌日、特に後遺症も見られないので退院してよしとマダム・ポンフリーから許可をもらったハリーは、一目散にグリフィンドールの談話室を目指した。

 途中パーシーに見つかって怒鳴られたものの、一言ごめんと言い残して風のように去る。

 太った婦人へ合言葉を告げて(「開けろ、『皮下脂肪』!」「罵倒されてる気がするし合言葉変えるべきかしら」)、談話室へ飛び込んだハリーは、自分が入った部屋は葬式会場だったかと勘違いしてしまう。

 誰もが俯いており、誰も何も話さない。

 時折ネビルがしゃくりあげる声が響くのみで、ハリーはひどい居心地の悪さを感じた。

 

「やあ、ハリー」

 

 ロンの囁きが大きく聞こえる。

 

「昨日ですべてが終わったよ」

「すべて? 全てだって?」

 

 聞き間違いかと思えば、そうではないという。

 この空気。終わったという言葉。涙を流すネビル。

 どうあっても何が起きたのかを理解させるには、十分すぎる空気。

 ハリーの嫌な予感は的中した。

 

「バックビークは死んでしまった。――もう、処刑されたんだよ」

 




【変更点】
・ルーピンと別の個室だったため、自力で吸魂鬼を撃退。
・要するに事実上ディメンターの残機は無限。
・この時点でセストラルが見えるハリー。
・ハリーの恐怖は『かつての生活に戻ること』。故にバーノン。
・お辞儀するのだポッター。でないとああなるぞ。
・この時点でバックビーク死亡。

【オリジナルスペル】
「モビリタブラ、机よ動け」(初出・28話)
・移動呪文。テーブルを動かすためだけの魔法。
 元々魔法界にある呪文。映画アズカバンの漏れ鍋でモブが使っている。

ルーピンの授業はいままでろくな授業をしてこなかった先生方のせいで、非情に好評。
それに反してハグリッドは非常に不評。原作フォイより見栄と意地を張ったせいで、より前に出ていたのが原因。遠因はハリーへの対抗心。お辞儀するのだ!
この時点でバックビークが死亡してしまったことにより、後々地味に役立つ乗り物キャラが消滅。難易度がハネあがります。
我輩。チョーカワイイじゃん? 知られたらネビルは確実にクルーシオとアバダのフルコース。


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4.クリーンスイープ

 

 

 

 ハリーは城へ向かって歩いていた。

 危険な生物を愛し、動物たちを大切にしているハグリッドのことだ。

 バックビークが死んでしまって、きっと悲しんでいるだろう。

 心配になって彼の家へ尋ねに行ったものの、しばらく一人にしてほしいと落ち着いた声で言われてしまう。取り乱している様子はなく、ただ悲しみを乗り越えようとしている様子だった。

 無理に慰めたところで逆効果どころか、自己満足にさえなりはしないことを理解したハリーは、大人しくその場を去るしかなかった。去り際に「いつでも頼ってよ、友達なんだから」と言い残したのは、ハリーの、ぼくは君の友達なんだぞという意地と僅かばかりのメッセージである。

 少しの寂しさを感じながら、ハリーは友人の家を離れる。

 城の壁にもたれかかって、深い溜め息を吐く。

 するとハリーは、背中の方から安心するような囁き声が聞こえてきた。

 

【お悩みのようですね、ハリー様】

 

 あれ? と思って振り向くも、後ろにあるのは壁ばかり。

 前にもこんなことがあったなぁ、と思いながらハリーは薄く微笑んだ。

 

【やあ、久しぶり】

【ええ。おかえりなさい】

 

 ハリーの喉からシューシューと息が漏れる。

 蛇語で話す相手など、当然その言語を扱う蛇しかいない。

 昨年の騒ぎで友人となった、秘密の部屋に住むバジリスクだ。

 名前はまだない。サラザール・スリザリンのペットであった頃は何か特別な名で呼ばれていた気がするが、千年以上も呼ばれなかったため、もうすっかり忘却の彼方だと彼女は語った。

 そう、彼女である。やはりこのバジリスクは雌だったのだ。後々ハーマイオニーに聞いてみれば、雄のバジリスクは鶏冠があるとのこと。なんだそりゃあ。と思ったものだが、出自を考えてみれば鶏の卵から生まれているわけであるし、むしろ鶏冠以外がおかしいのだ。

 我輩は蛇であるなどと言っているとスネイプに遭遇しそうな予感がするので今は言わないでおく。どうせ蛇語で会話しても、誰にも内容はわからないのだから。

 

【まあ、悩みっていうかね。友達の力になれないのが悔しいというか】

【私も同じ悩みを抱えていますよ、ハリー様。この身体ゆえ、貴女様の力になれない】

【……ごめん】

【いいえ、お気になさらず。ただ、このように悩みとは解決できること、できないことがあります。私たち蛇ですらそうなのですから、貴方様が背負いすぎる必要はないのですよ、ハリー様】

 

 まさか蛇に慰められる日が来ようとは。

 ハリーは苦笑いしながらも、しばらくバジリスクと話し続けた。

 君の名前はどうしようか、貴女様が決めてください、というくだりになって、廊下の向こうからハリーを呼ぶ声が聞こえてきた。

 名残惜しいが話を終えて、誰が来たのかを見てハリーはげんなりした。

 足音高く胸を反らして鼻息荒くやってきたのは、我らがグリフィンドールクィディッチチームのキャプテン、オリバー・ウッドだった。

 ウッドはホグワーツの七年生。筆記の成績は中の上。実技は上の下。

 そしてクィディッチに全てを懸けるアツい男。というかクィディッチに狂っている。

 例えばウィーズリー兄弟が悪戯の計画で寝不足だった場合は、

 

「授業中に寝ればいいだろう! 練習にすべてをかけろォ! 成績だぁ? 知ったことかビーターならクラブを握ってブラッジャーを叩きのめせ! 羽ペンなんぞ握っとる場合かーッ」

 

 例えばチェイサー三人娘の誰かの具合が悪い場合は、

 

「知ったことかぁ! 僕は男女平等誰もがクィディッチ選手なら気合で治せ! デリカシーだとォ!? 知ったことかァ! おまえらチェイサーだろうがクアッフルを追いかけろーッ」

 

 例えばハリーが以下略。

 とにかくクィディッチに始まり、クィディッチに終わる男だ。

 ひょっとしたら彼が死ぬのはベッドではなく箒の上ではないかと大真面目に言われている。

 そんな男が箒を片手に、興奮した様子でこちらに寄ってくるではないか。

 スポーツへの真摯な態度は好感が持てるが、行き過ぎてて少々怖い。

 身の危険を感じながら、ハリーはウッドに相対した。

 

「どうしたのウッ――」

「ハァァァアアアアリィィィイイイイイイイイイイイイイイ! 練習だああああああああああ! さぁぁああ練習の時間だぞォォォオオオオオ!」

「ちょ、ちょっと待ってよ!? クィディッチシーズンはまだだよ!?」

「知ったことではない。コートは借りれたのだ! さァァァ練習だァ! 今年こそ! 今年こそは最強のメンバーが集まっているんだ! 優勝できるはずだ! 優勝するぞ! 優勝したぞ! やったあああああああああああああ!」

「ひゃああ!? だ、誰か! 誰かマダム・ポンフリーを! ウッドがおかしくなっ……いやいつものことか、ウッドがさらにおかしくなった!」

 

 一四〇センチほどの少女の両肩をがっしり掴んで、興奮して絶叫する一八〇センチの男の図。

 ハリーの悲鳴を聞いて通報されたのか、鎮静剤らしき魔法薬を持って飛んできたマダム・ポンフリーにウッドは連れて行かれた。ハリーの身を案じてきたハッフルパフの七年生の話からするに、今年度はこれで八度目だそうだ。

 ウッドは七年生、彼がホグワーツでできるクィディッチは、今年で最後なのだ。

 つまりそれは、彼がホグワーツでクィディッチ優勝カップを掴む最後のチャンスである。

 もしその手に黄金の盃を握れなかった場合、僕はカップのために留年するのだと言いだしてマクゴナガルがマジ切れするかもしれない。事実優秀な選手である彼は、プロチーム入りがすでに決まっている。

 どのチームになるか今から楽しみで仕方ない、と興奮気味にまくしたてる夜が何日も続いたので、同部屋のパーシーが一時期げっそりとやつれていたのをハリーは覚えている。

 この家のような場所での、最後のチャンス。

 それはいったいどのような気持ちなのだろうか。

 

【千年の間に人間はかなり変わってしまったようですね】

【……、そだね】

 

 バジリスクのコメントには、苦笑いで返すしかできなかった。

 パイプを通って帰った彼女と別れ談話室へ歩を進めたハリーは、婦人に合言葉を告げて談話室のソファへ倒れ込む。既に座っていたジョージが、ハリーの頭を労うようにぽんぽんと軽く叩いた。

 

「うへえ。ウッドのやつ、ついにそこまでくるったか! 一見というか普通に婦女暴行じゃないかそれ?」

「でもなあ。最後の学年ってのはちょっと気持ちわかるかもな。俺たちも残りはあまり時間ないからなあ」

「……二人は五年生でしょ? O.W.L.試験とかあるじゃないか」

「「そんなことより糞爆弾が大事さ」」

 

 言い切った二人をジト目で見ながら、ハリーはジョージの足に額を乗っけた。

 ハリーの髪に無理矢理リボンを結びつけはじめた二人に好きにさせながら、ハリーは呟く。

 

「……今年こそ優勝したいな」

 

 揺れるたびに鼻歌を歌うリボンを結びつけ、フレッドが言った。

 

「もちろん、優勝しない手はないね。卒業した途端ウッドが悲しみのあまり死んじまうぜ」

 

 桃色に光り輝くリボンを結びつけ、ジョージが言う。

 

「そうだな。今年こそ優勝カップを握らせないと、ウッドが死んだら化けてでてくるだろうよ」

 

 ド派手な頭になったハリーが仰向けになる。目の前に広がるのは、同じ顔の同じ笑顔。

 ハリーも笑顔になって、二人と笑いあう。

 今年こそ優勝して、ウッドに優勝カップを掲げさせてやろう。

 そう決意した三人は、互いに拳をごつんとぶつけ合った。

 

 その日の夜、ラベンダーに髪を梳いてもらいながら、ハーマイオニーが談話室でウィーズリーの双子を説教する声を聴いていた。曰く、あんなふうに女の子の髪を雑にいじっちゃだめだとのことだ。

 ハリーもハリーで、パーバティとラベンダーからお小言を貰っている。ハリーの黒髪も、今やうなじを隠すほどには伸びてきている。長すぎると絶対に邪魔なのでこれ以上伸ばす気はないが、パーバティのように艶やかな黒髪というのは少し憧れる。

 そう思うならもっと髪を大事にしなさいよ、とラベンダーに言われたところで、鼻息荒くハーマイオニーが寝室に入ってきた。頭に巨大なリボンが結ばれている。どうやら敗北したようだ。

 四人が集まったことで、寝る前のお喋りタイムが始まる。

 パーバティが双子の姉妹であるパドマが失恋したからどう慰めたらいいだろうかという話題や、ラベンダーが仕入れてきた噂話の是非を検討し合ったり。ハーマイオニーが躍起になってリボンを取ろうとするのを皆で手伝ったりする中、ハリーは日中ウッドとあったことと、双子と決めたことを話した。

 今年こそ期待してるわ、と三人に言われたところで、ラベンダーが一冊の雑誌を取り出した。

 週刊魔女だ。

 

「ならハリー、これ見てごらんなさいよ。あなた興奮間違いなしだわよ」

「なになに? ……《炎の雷(ファイアボルト)》?」

 

 広告欄には、デカデカと大きな写真が貼られていた。

 魔法界の例にもれず、これも動いている。複数のクィディッチ選手が、思い思いのまま写真の中の空を飛んでいた。中でも目立っていたのは、がっしりした体格の年若い青年だ。ぴくりとも笑わず箒にまたがってアクロバティックな動きを決めている。

 誰だろう、と名前を見てみれば、複数の名前が並んでいて誰が誰だか分らなかった。イヴァン・ボルコフ、ビクトール・クラム、アレクシ・レブスキー、この中の誰かだろう。

 しかし、いい箒だ。

 ハリーは自分の愛機であるクリーンスイープ七号以外は、授業で使った《流 れ 星(シューティング・スター)》くらいしか使ったことがない。だが、最近ではクリーンスイープが少し遅く感じるようになったのだ。

 クリーンスイープ七号はドラコが使うコメットシリーズと比べても遜色ない素晴らしい動きができるものの、ハリーにとってクリーンスイープはもはや加速に時間がかかりすぎるのだ。身体強化呪文を使って駆け抜けるという高速の世界を知ってしまったハリーは、少し他人よりもスピード感覚が高まり過ぎているのかもしれない。

 パーバティもラベンダーも、もちろんハーマイオニーにもよくわからないと言われてしまったが、仮にもクィディッチ選手として長時間空の上で過ごしたハリーが見れば、写真の中の選手たちが恐ろしいほどに有り得ない動きを繰り返していることがわかる。

 ハリーがもしクリーンスイープを使って同じ動きをしたら、まず間違いなく地面にたたきつけられるだろう。性能差は繰り手の技量で埋めるのが当然であるが、ここまで差があるとどうしようもないかもしれない。

 さらに言えば、いまプロチームでの主流はニンバスの新シリーズだ。古き良きデザインを受け継いだ《ニンバス二〇〇〇》と、最新鋭のデザインを取り込んだ《ニンバス二〇〇一》。もちろんコメットシリーズにクリーンスイープシリーズ、いぶし銀のシルバーアローを好んで使う選手がまだまだ多くいることも事実だ。

 しかしハリーのポジションはシーカー。

 なによりも速さを欲するべき立ち位置であり、そのスピード如何によって勝敗すら決する。

 そんな中で、世界最速と銘打たれたこの箒はとても魅力的であった。

 

「うーん、確かに魅力的だけど……高すぎるだろこれ」

「そうよねぇ。本当にプロが使うような箒だものね、ファイアボルトって」

 

 ハリーはその日、自分がファイアボルトに乗って飛ぶ夢を見た。

 ドラコの鼻先からスニッチを掠め取って、グリフィンドールを優勝に導く夢。

 さしあたっては明日。

 ハッフルパフとの試合だ。

 

 

 豪雨。

 クィディッチというスポーツは、どのような悪天候であろうとも決行される。

 無限に水の入った大鍋をひっくり返したかのような、滝に打たれるような雨の中、クィディッチピッチに選手が整列した。

 マダム・フーチが何かを叫んでいるが、全く聞こえない。

 むしろあの人影がマダム・フーチなのかすら定かではない。こんな劣悪な環境の中でも忠実に職務を遂行するのだから、彼女の賃金をちょっとくらい値上げしてもいいと思う。そうしないと何故か出番がなくなる気がする。

 今回の相手はハッフルパフ。

 年度初めの試合はグリフィンドールとスリザリンが行うのが定番であり伝統だったが、スリザリンシーカーであるドラコ・マルフォイが学校の備品である魔法生物を攻撃したために謹慎罰を受け、仕方なく試合相手の変更と相成ったのだ。

 ハリーはそれを聞いて、ハグリッドの友達であるバックビークを備品扱いということにも腹が立ったが、ドラコが大人しくその罰を受け入れたというのが何よりも意外だった。

 いや、今はそのような考え捨てた方がいい。

 かろうじて水のベールの向こうで笛が鳴ったのを聞き取って、ハリーたちクィディッチ選手は空高く舞い上が……れずに、いつもより低めの位置でスタンバイした。クィディッチローブが水を吸って重いのだ。

 試合開始の掛け声が、実況のリー・ジョーダンから響き渡る。

 魔法で拡声された声が響き渡る。ハッフルパフのチェイサーがボールを取りこぼし、アンジェリーナがクアッフルをキャッチし、ゴールに投げ入れて――得点。

 何故見えているんだ。

 

「……ッター! ハリ……聞こえるかい、……!」

「セドリック・ディゴリーか? 一体何の用だ!?」

「……、……! …………!」

 

 セドリックと思わしき人物が、ハリーに向かって何かを叫んでくる。

 しかし何を言っているのか全く分からなかった。

 

「くっそ……酷過ぎるだろう、これ……」

 

 ばしゃばしゃと全身を叩きつける雨は、もはや服を着ている意味をなしていない。

 下着も含めて、まるで服を着たままシャワーを浴びている気分だ。気持ち悪い感覚を無視して、ハリーはピッチに集中する。

 微かでも金色の閃光を見つければ、それがスニッチと判断する。

 自分の目を信じて、見間違えるはずがないとして探し回る。

 時折ブラッジャーが掠めていくも、当たるようなコースにはないので無視する。

 どこだ。どこにいる。

 スニッチは所詮魔法をかけられたボールであるため、気配を感じることができないから厄介だ。

 身体能力を強化さえできたら、もっとわかりやすくなるというのに。しかしルール上それはいけない。

 

「……、……」

 

 ハリーは動きを止める。

 暴風が耳を叩きつけて本物が役に立たないなら、心の耳にでも頼るしかない。

 そんなものがあるはずもないので、つまり、要するに勘だ。

 

『おーっとォ! ハリー・ポッター選手が地面に向かって突進したァ! スニッチを見つけたのかァ!?』

 

 ジョーダンの実況を聞いたのか、それともハリーを監視するように近くにいたからか、ハッフルパフのシーカーであるセドリックもハリーに追従してくる。

 高速で地面に向かって全力疾走する二人は、雨が落ちるよりも早く、顔を叩く雨粒を無視して、一直線に急降下していった。

 ハリーが右手を伸ばしている。セドリックが負けじとハリーに寄り添うように並走し、ハリーより長く逞しい左手を伸ばした。流れる風雨の中、ハリーの舌打ちがセドリックの耳に届いた。

 地面まで残り三〇メートル、二十五、二〇、十五……十……五……、よし!

 ハリーは正面衝突するまで残り三メートルほどというところで全力で箒の先を持ち上げ、地面に向かって水平になるよう体勢を立て直す。

 これに慌てたのはセドリックだ。箒を引き戻そうとするものの、雨で柄から手が滑って、泥だらけの柔らかくなった地面に頭から突っ込んでしまう。観客席から歓声と悲鳴がとどろいた。

 《ウロンスキー・フェイント》。

 シーカーがスニッチを見つけたかのように地面に向かって高速で飛び、焦りから相手のシーカーの判断力を奪って追従させる。そして地面すれすれで引き返すことによって相手シーカーを地面へ叩きつけるという、両者にとって危険極まりないシーカー技の一つだ。

 ハリーはそれができるだけの技術と度胸があって、セドリックはそれをできる実力を持ちながら悪天候という不運によって成功できなかった。つまり、それだけの話である。

 邪魔者を蹴落としたハリーは、満足げな笑みを浮かべて空高く舞い上がる。彼が意識を取り戻して、復帰する前にスニッチを見つけて捕まえなければ。

 

「さーてさてさて、出ておいでー、ちっちゃなちっちゃなスニッチちゃん、おーいでおいで、スニッチちゃん」

 

 シーカーがよく歌うとされる適当な歌を呟きながら、ハリーはピッチの真上という特等席に陣取ってスニッチを探す。

 運よく雨が弱まってきたようだ。まだ降り続ける感じはあるが、一時的なものだろう。

 好機とばかりにピッチ中を見渡して――あれか? いや、違う――では、あの――――、いや待て、ウッドの近くにあるポールに何か――なにか、見え――――。

 ――見つけた! スニッチだ!

 ハリーは言葉を絞り出す手間も惜しんで、クリーンスイープに全速力で飛ぶように命じた。途中でハッフルパフのビーターがハリーに向かってブラッジャーを打ち込んできたが、螺旋状に横回転することで難なく回避する。

 スニッチ目掛けて脇目も振らずに飛び、左手をスニッチに伸ばす。

 遥か下方で、復帰したセドリックがふらつきながらもこちらへ突進してくるのがわかる。

 遅い。こちらの方が先にスニッチを掴める。

 

「と、ど、けェェェ――――――ッ!」

 

 気合を入れるためと願いを込めての絶叫。

 篭手に包まれたハリーの左手が、逃げ惑う黄金のスニッチの羽根に掠る。

 いける、とハリーが身を乗り出してさらに手を伸ばし、息を呑んで、目を、見開いて、

 

「――、――――――」

 

 瞬間、死を連想した。

 左腕を、篭手越しに何かが掴んでいる。

 左だ。顔のすぐ近く、左に何者かがハリーの隣に何者かがいる。/視たくない。

 ハリーの頭の中に緑色の閃光が満ちた。これは何だ? 知るか。/それが死だ。

 今はスニッチを捕まえなくてはそうだスニッチ、どこにいった?/目を逸らせ。

 参ったなウッドを勝たせてやりたかったのに逃がしちゃったか。/早く逃げろ。

 逃げろ、逃げろ、逃げ――

 左腕が何かにぐいと引き寄せられ、まるで恋人にするかのように胸へ引き寄せられる。

 その胸は空洞。がらんどうの孔。

 一匹増えた。少女の腰を撫でまわしている。

 ハリーの心から、ウッドへの気持ちが消え去った。

 咄嗟であった。虚ろな目で左を確認してしまう。

 見たくなかった。かさぶただらけの醜い怪物。

 また増えた。少女の顎を指でなぞり、太ももに手を這わせてくる。

 ハリーの心から、クィディッチでの興奮が拭い去られた。

 濡れた紙に指で穴を空けただけのような、雑な造形の口が歪む。

 吸魂鬼が笑っているのだ。いや、嗤っているのだ。ハリーを嘲笑っている。

 増える、増える。頭が鼻が耳が頬が首が鎖骨が胸が腕が手が臍が腹が腰が腿が脚が足が侵される。

 ハリーの心から、抵抗しようとした反抗心が引きちぎられた。

 吸魂鬼が嬉しそうに微笑んでいる。愛おしそうに微笑んでいる。いただきますと微笑んでいる。

 少女の小さな体が抱き寄せられる。クリーンスイープが大きく揺れた。

 百にも届こうかという、ホグワーツに配置されたすべての吸魂鬼たちが、一斉にフードを脱ぐ。

 腐肉に埋もれ消え去ったはずの、空虚なるその瞳が少女の心を犯そうと見つめてくる。

 ハリーの心から、

 ハリーの心から、

 ハリーの心から、愛する親友の姿が、ずるりと引き抜かれ――

 

「――――いやだァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――ッッッ!」

 

 絶叫。

 少女はひ弱な細腕で、吸魂鬼を突き飛ばした。

 途端、バランスを崩したハリーの身体は、クリーンスイープから滑り落ちる。

 全身に纏わりついていた吸魂鬼たちの手から指から、ハリーの身体がするりと抜ける。

 重力は容赦をしない。

 涙も雨も、少女の体も何もかも、すべてを地に向けて運んでゆく。

 名残惜しそうにハリーへ追いすがる吸魂鬼たちよりも、ハリーの落下速度の方が早い。

 既に意識を手放し、何も映さないハリーの瞳には一人の老人の姿があった。

 彼は誰時のようなローブをはためかせ、白銀の髭と髪を振り乱した一人の教師。

 貴賓席に仁王立ちし、周囲が押し潰されるのではないかというほどの重圧と魔力を振り撒き、杖を振り回して何やらスペルを唱えている。

 完全に意識をなくしたハリーの身体が、ふわりと揺らめくと落下速度が極端に遅くなった。それを好機と見たのか、上空から大量の吸魂鬼が彼女の周囲に群がり――純白の猫によって追い払われた。

 平時ならば整えられた髷が凛々しいマクゴナガルが髪を振り乱し、怒りのあまり蒼白となった顔のまま杖を振り続け、彼女の守護霊たる猫に殲滅の命令を送る。滑るように少女の落下地点へ躍り出たスネイプが、氷のように冷たい彼女の身体を抱き留める。獲物を奪われるまいと背後から襲ってきた吸魂鬼を、杖の一突きで粉々に吹き飛ばすと風のように走った。 

 マダム・ポンフリーがスネイプと共に城へ走り去ったあと、クィディッチピッチには大量に倒れ伏してゆく吸魂鬼と、生徒の悲鳴、怒れる教師たちの声のみが響き渡っていた。

 

 

 ハリーが意識を取り戻したのは、それから一週間の後であった。

 体がぎしぎしと軋み、うまく動かない。首すら動かせないハリーは、痛みを感じつつも眼球だけを動かして周囲の状況を確認した。

 どうやらここは医務室のようだ。なんだか第二のホームのような気さえしてくる。ポッター専用と化しつつある定位置のベッドである。

 吸魂鬼に敗れたのか……。落ち込む気持ちと同時に、あのおぞましい光景を思い出す。

 あのガサガサに荒れた手で肌に触れられた気持ち悪い感触が残っている気がして、ハリーはとてつもなくシャワーを浴びたかった。

 体を見下ろしてみれば、

 見下ろし……て、

 

「……全裸て」

 

 見事なまでにすっぽんぽんの素っ裸である。

 なだらかに膨らんだバストが控えめに自己主張し、引き締まったウェストには縦線が入っている。

 細い手足も程よく肉が着いてきたので、しなやかになめらか。

 未だに多少痩せすぎのきらいがあるものの、ハリーは今や完全に女性の身体へと成長していた。

 

「……刺青て」

 

 そんな柔らかで儚げな身体には、真っ赤な墨で様々な魔法式が描かれていた。

 刺青かと思うほど肌にしっくりと染み込んでおり、お風呂でスポンジを用いて擦ったところで落ちないのではと思ってしまう。

 何が書かれているのか、ハリーにはわからなかった。しかし所々に《治癒呪文》に似た文言が書かれていたり、心臓を中心とした魔法陣があることから、なにか血液に関する式かもしれない。しかし臍の下あたりにも魔法陣が描かれているところから見るに、予想は間違っているのやもという考えがハリーに浮かぶ。

 しかし、寒い。

 あれだけの大雨の中、シャワーの如く冷水を浴びていたからか、体中が固まってしまったかのような気がする。

 結構な時間、医務室にいたはずである。だというのに体の芯がひそやかに凍りついている。

 全く動けないのでどうしたものかなとぼんやり考えていると、廊下の方からどたばたと騒がしい声と音が聞こえてきた。マダム・ポンフリーが何やら叫んで制止しているのが聞こえてくるが、やかましい彼らには聞こえていないようだ。

 ああ、愛しい声が聞こえる。

 

「ハリーッ! ってあら、こりゃまずいわ」

「おいハリーだいじょ……ぶっふ、く、うお。鼻血が」

「あっ、だめ! コラ、男の子は入ってきちゃだめ! 女の子が寝てるんだよ、察してよ! おいロン、ロンあなた死にたいの。鼻血吹いてないで早く出て行かないとママに言いつけるからね」

 

 まじまじと裸身を眺めてくるハーマイオニーの視線を感じ、ばっちり見てしまったらしいロンがふごふご悶える声が聞こえ、ジニーが男性陣にハリーの裸を見せまいと頑張っている。

 どうもロンには全部見られてしまったようだが……、まぁロンになら構うまい。

 それよりも吸魂鬼の影響で心が弱っているときに、彼らの声を聴けたのがとても心強かった。囁くような声で一緒に居てくれと言うと、三人が困ったように顔を見合わせて、ロンが固く目を閉じている間にジニーがハリーの上にシーツをかけて身体を隠し、ハーマイオニーが杖を振ってロンの鼻血を止める。

 マダム・ポンフリーが面会時間の終わりを告げにやってくるも、ハリーの様子を診て特別に医務室に泊まってハリーの傍に居なさいと言われる。妙に甘ったるいホットチョコレートをハリーに与え、絶対に騒がないようにと立ち去ってゆく。

 そうしてハリーのベッドの隣に座って、三人は何を話すでもなくただそのままで過ごした。

 ハリーが寝付いたあと、時折苦しそうに唸るので手を握ると、表情が和らぐさまを見てハーマイオニーが溜め息をついた。ロンが「まるで赤ん坊みたいだ」というと、まさにその通りの状態であることに気付く。ひょっとしたら軽く幼児退行でもしているのではないだろうか。

 

 翌日。

 ようやくハリーが落ち着いて、真っ赤に染めた顔でロンにヘッドバットを喰らわせてから着替え、退院の許可が出た。

 グリフィンドールの談話室でようやく一息ついた時、フレッドとジョージがやってくる。二人とも笑うこともからかうこともなく、ハリーの頭を引き寄せて抱きしめた。優しくポンと背中を叩いて去ってゆく二人を、不思議そうな顔で眺めるハリーのもとにチェイサー三人娘がやってくる。

 そこに至ってハリーはようやく、昨日の試合がどうなったかを思い出した。

 シーカーが倒れたのだ。負けはあっても勝ちはないだろう。

 敗北。その二文字がハリーの背中にのしかかってきた。

 アリシアがハリーを抱きしめ、ケイティが背中をさすってくる。アンジェリーナがウッドは昨日からシャワーを浴び続けていると言ったところで、ハリーは思い出したことがあった。

 ハリーの箒だ。

 自分が滑り落ちてしまった後、クリーンスイープはどこへ行ったのだろう。

 

「ねえ、ロン」

「な、なんだいハリー」

「おかしいな変なこと思いだすだなんて記憶が残ってるのかな『オブリビエイト』。ねえロン、ぼくの箒って誰か拾ってくれた?」

「ゴメンヨ僕ハ知ラナインダ。役ニ立テナクテ悪イネ」

「ハリーあなたの腕を疑ってるわけじゃないけど、それ失敗した時が怖いからもうやめてあげてくれないかしら」

「だいじょうぶだよ、昨日の夜の記憶だけを消し飛ばしてるから」

「ウワーオ、マーリンノヒゲーヒゲー。オッタマゲー。ワーオ」

 

 しばらく経てば元に戻ることを知っているので、二人は壊れたおもちゃのようになったロンを放っておいてアンジェリーナに向き直った。

 浮かない顔をしたアンジェリーナに箒の行方を聞けば、知らなかったのかと驚かれてしまった。

 いったいぼくの箒に何が? と思って聞いてみれば、あまり言いたくなさそうなのがわかった。それでも聞かないわけにはいかない。ハリーにとって初めて愛用した箒なのだから。

 

「……箒置き場に行けば、わかるよ」

 

 アンジェリーナはそれだけ言うと、そそくさと立ち去ってしまった。

 不安の残る言い方をされて、ハリーたち三人は急いでクィディッチピッチの横にある箒置き場へと足を動かした。すると、どうだろう。そこにはウッドが仁王立ちになっているではないか。

 鍛え抜かれた肉体美に、滴るしずくが光って美しい。上腕二頭筋がぴくぴくと動き、ふくらはぎの筋肉がしっかりと大地を踏みしめている。昨日からずっとシャワーに入っていると言われたときは冗談かと思ったが、どうやら本当だったのだろうか。髪からお湯が滴るほどにびしょ濡れなので、顔に影がかかって異様な迫力が出ている。

 っていうか全裸だ。腰にタオルを巻いただけの全裸だ。

 あまり見ていたい光景ではないので、ロンにハーマイオニーの視界を隠させてハリーは前に出た。物凄い熱気がウッドから発せられていて、正直近寄りたくないが仕方あるまい。

 

「ウッド」

「……、……。ハリーか……」

「うわっ。声ガラガラじゃないか。だいじょうぶかい」

「……君こそ、大丈夫なのか。……意外と元気そうじゃないか……」

 

 何がだい、と返すとウッドは目を見開いた。

 そうして静かに「そうか」と返すと、箒置き場の扉を開く。

 それを見てハリーは、その場にへたり込んでしまった。

 慌てて駆け寄ってきたロンとハーマイオニーに支えられてなんとか立つも、腰に力が入らない。

 クリーンスイープが。

 ハリーの愛機が、バラバラになって布の上に置かれていた。

 

「暴れ柳だよ」

 

 ウッドの声が遠くに聞こえる。

 

「君が箒から滑り落ちたあのあと、乗り手を失いコントロールを亡くした箒は、クィディッチピッチを飛んで暴れ柳に突っ込んだんだ。ほら、……その、あれだろう? あの木は近づいたもの全部を叩きのめすから……」

 

 ウッドの言いたいことはわかる。

 確かにあの木は、そういうものだ。仕方ないと言えば仕方ない。

 しかしハリーは悲しかった。

 初めて箒に乗ったときは、自分にも人よりすごいことが出来るのだという気持ちになれた。

 そして父ジェームズが同じグリフィンドール・クィディッチチームに属するチェイサーだと知ったときは、まるで家族のつながりを感じたような気がしてとてつもなく嬉しかった。それを知った時期が、一年生の中ごろで誰も心の底からは信じていなかった状態だったので、なおさら嬉しかった。

 その繋がりが、ぶつりと断ち切られてしまったような気がする。

 目の前の箒のように、ぐちゃぐちゃになってしまったような気さえする。

 それが気のせいであるとはっきりわかってはいるのだ。だがわかっていても、理屈は理解していても、感情は止まらない。

 涙こそ流さなかったものの、ハリーはその場から逃げ去ることさえできなかった。

 ハーマイオニーがクリーンスイープに修復魔法をかければ、確かに形だけは元に戻るだろう。だが箒とは精密な魔法技術によって作られた、緻密なパズルのようなもの。ピースひとつひとつが粉々になるまで破壊されてしまったパズルは、二度と組み立てることはできない。

 クリーンスイープは戻らない。

 もう二度と。

 

 なんとか談話室へ向かう意思が湧いたころには、もはや空はオレンジ色に染まっていた。

 ハーマイオニーの肩を借りながら階段をのぼって《太った婦人(レディ)》へと声をかける。

 人を支えながら階段を上るというのはかなりの重労働だ。

 ハーマイオニーは速くシャワーを浴びたかったし、ハリーは眠って嫌な気持ちを忘れたかった。

 ゆえに、俯いたまま合言葉を呟く。

 

「『ダイエット成功』」

「……、……いや、おい。おい、何だコレ」

「『ダイエット成功』。……ねぇ婦人、早く開けてよ」

「ハリー! ハーマイオニー! 顔をあげてよく見てみろよ!」

 

 ロンのひどく焦燥した声を聴いて、二人はようやく顔を上げる。

 顔をあげて――ハーマイオニーが悲鳴をあげた。

 ハリーの引き攣った顔がすべてを物語っている。

 グリフィンドール談話室を守る番人、《太った婦人》が絵画の中に居ない。

 絵の中の人物がいない事はさして珍しい事ではない。魔法界の写真は動くのだから、絵の人物とて動かないわけがないのだ。だから驚いたのは、そこではない。

 絵が。

 ぐちゃぐちゃになるまで切り裂かれていた。

 鋭利な刃物でやったのか、紙の裏にある額縁にまで深い亀裂が走っている。

 婦人がいないのは、この背景と同じような運命をたどりたくなかったからだろう。

 

「い、いったい誰が……こんなことを……」

 

 ハーマイオニーの悲鳴を聞きつけて、まずフィルチが飛んできた。

 そして事情を察した彼は、愛猫のミセス・ノリスに命じて伝令に出す。呆然としたままのロンを押しのけて、彼は絵画の様子を調べ始めた。

 ミセス・ノリスが走り去って一分も経たないうちに、マクゴナガルがやってくる。

 そして太った婦人の絵の惨状を見ると、ハッと息を呑んだ。

 続いてやってきたのはスネイプとスプラウト。絵の様子を見ると、哀しそうな顔をして目を伏せたスプラウトとは対照的に、スネイプは目まぐるしくあたりへと目を向けて何かを探し始めた。

 そして何かを見つけたのか、顔を思い切りしかめる。

 

「セブルス。レディは……」

「見つけましたが、見ない方がよいでしょうな。……レディ、聞こえますかな」

「……、…………」

 

 マクゴナガルとスネイプの会話を盗み聞くように、ハリーたちから遠く離れた場所にかけられていた風景画の中に、見覚えのある帽子があった。

 今朝から太った婦人がかぶっていた帽子だ。それだけが、岩陰の向こうに見え隠れしている。おそらく身を隠しているのだろう。尻を隠して帽子隠さずである。

 

「レディ。姿は見せずともよい、状況を聞かせてくれたまえ」

「……ええ、ええ。いいでしょう。いいでしょうとも」

 

 泣き腫らしたかのようにしわがれたレディの声が、ハリーたちの耳にも届く。

 生徒たちがざわざわと集まってきた。遅れながらも、ハーマイオニーの悲鳴を聞いたのだろう。

 それに一切構わず、スネイプは言葉を続ける。

 

「誰がやったのかね。生徒ならば文句も言わせず退学にしてやろう」

「……ああ、恐ろしい。……ええ、生徒でしたとも。生徒ですわ。ただし、もう卒業してしまった子ですけれども」

 

 スネイプの眉間のしわが深くなる。

 マクゴナガルが憤怒の様子を見せ、フリットウィックがけしからんと叫ぶ。

 話は続くようだ。スネイプは何も言わず、婦人に言葉を続けさせる。

 

「長い黒髪。伸ばしっぱなしのヒゲ。ああ、あのころのハンサムな面影なんて残っちゃいない! 悪魔だわ! ぶっきらぼうながらも優しい子だったのに、あんな獣みたいな! あああっ、恐ろしい!」

「……レディ。誰だったのですかな、その下手人めは」

 

 感情的に叫び始めたレディに苛立つかのように、スネイプが静かに問いただす。

 それは失敗だった。

 生徒たちを追い払ってからやるべきだったのだ。

 ヒステリックに岩陰から顔を出したレディを見て、生徒たちから悲鳴が上がる。

 肩口からばっさりと、自慢のドレスが引き裂かれていた。

 絵という存在であるためもちろん死にはしないだろうが、あのドレスは修復できるかすらわからない。一から書き直し、ということも十分にあり得るだろう。

 

「誰だったかですって!? ええ、言って差し上げましょう! あの子です! 名前の通り真っ暗な、闇のような髪の毛と瞳! もう人ではありませんわ! あの――」

 

 半ば叫ぶように、婦人は下手人の名を宣言した。

 

「――シリウス・ブラックは!」

 




【変更点】
・ばじりすくといっしょ。
・ウッド強化(無駄)。
・やっぱり吸魂鬼には勝てなかったよ…
・さらばクリーンスイープ。

壁に寄り掛かればあなたに懐いた巨大蛇が話しかけてくる。ばじりすくといっしょ好評殺害中。定価は貴様の命だお辞儀しろ。
やはり原作通り、箒は壊されてしまいました。ウロンスイー・フェイントなんて超危険技をかましてますが、映画だと雷に打たれてるんでどっちにしろセドリックは散々ですね。
アズカバンはほとんど動乱がない(気がする)ので、なかなか難しいです。秘密の部屋ほど短くはならないはずですが……こうなったらいっそアズカバンからシリウス級を一気に十人くらい脱獄させておけばよかっ だめだ死んでしまう。
なんとかシリウス独りで話が繋がるよう頑張ってもらいます。過労死バンザイ。
ところでロンはいい加減目を抉った方がいいかな。


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5.マローダーズマップ

 

 

 

 ハリーは一人、談話室で本を読んでいた。

 ギルデロイ・ロックハート著の『私は誰?』である。

 どうやらハリーの手によって徹底的に記憶を抹消された後でも、魂に染みついた作家魂は消えなかったらしい。病室で繰り広げられる癒者との面白おかしい会話や、隣のベッドにいる元魔法戦士のおじさんとの掛け合いが絶妙にコミカルで、ハリーは周りに秘密にしているが、この本はかなり愛読している。

 いつもは日曜になればハーマイオニーやロンと一緒に散歩したり、図書館で勉強したりと三人一緒に過ごすのだが、二人はホグズミード村という魔法使いしかいない村へ行ってしまった。

 ホグワーツでは、三年生から城の敷地外に出る外出許可が出る。保護者から許可をもらった生徒のみが許される息抜きの時間で、日々の勉強で硬くなった脳みそをほぐしてしまおうという試みだそうだ。

 だがハリーは、許可をもらっていない。

 マージおばさんを膨らませたことについては一切後悔していないし、次に顔を合わせたその時は殺さないでいる自信がない。さらに言えばあのあとバーノンを杖で脅してサインを書かせるという手もあったのだが、それはハリーの小さなプライドが許さなかった。

 ゆえにハリーは許可がもらえず、二人を見送ることしかできなかった。きっと二人が帰ってきたときは、こちらに気を遣いながらもホグズミードがどれだけ楽しかったかを聞かせてくれることだろう。

 その時に嫌そうな顔をしたり、嫉妬していたりしたら二人ともいい気分はするまい。というわけで、とにかく心が楽しくなるような本を読むようにしていたのだ。

 まあつまり、今日は特別なにもすることがなかったというわけだ。

 

「あれぇ?」

「わっ!? ああ、なんだ。ネビルか」

「なんだとはなんだ。ハリー、君はホグズミードへ行かなかったの?」

「んー、許可がもらえなくてね」

「僕と同じだ」

 

 おばあちゃんにお前はもうちょっと落ち着いてからにしなさいと言われちゃったんだ、と照れ臭そうに笑うネビルは、実に愛嬌があった。

 内情は違うのだが、別にわざわざ言ってやることはあるまい。

 仲間を見つけてうれしそうな彼の顔を曇らせるのも、あまりいい選択とは言えないだろうから。

 

「それにしてもネビル、ずいぶん背が伸びたよねえ」

「え、そう? ロンにはまだまだ届かないんだけど……」

「あんなひょろひょろのっぽの魔法生物と一緒にしない方がいいよ」

「魔法生物て」

 

 自然な動きでロックハートの本を隠しながら、ハリーはネビルとお喋りを続ける。

 ネビルは本当に背が伸びた。

 一年生のとき操られてハリーと戦った頃は、まだハーマイオニーと同じくらいの背丈で、顔もぽっちゃりしていた。顎もぷにぷにして柔らかく、ロン曰くお風呂ではたっぷりしたお腹がお湯に浮いていたとのことだ。

 だが今のネビルは、余分な脂肪を消費して成長でもしたのか、横に伸びていた分が縦に集約されてしまったようだ。ハンサムとは言えないけれども、愛嬌のある優しげな眼とほがらかな笑顔、薬草学の意外な博識っぷりなどが彼の人気の礎となっている。

 実をいうとネビルは、下級生の女の子に人気がある。学年が下に行けばいくほど彼を好意的に見る子は多くなっているので、きっと年下にモテるタイプなのだろう。……と、いうことをパーバティとラベンダーが噂していた。

 まあそんなことはどうでもよろしい。

 問題は暇なときに友達が来てくれたという、ただそれ一点である。

 

「ところでネビル」

「うん? なんだいハリー」

「ネビルは好きな子とかいるの?」

「げふっぽ、ぶふぉぁ――――っ!?」

「うわァァァネビルが紅茶を吹いたァァァ」

 

 ハリーの唐突な問いかけに、げほげほと咽込んだ。

 ネビルの紅茶を顔面に受けたハリーがウエーッとした表情で、杖を取り出して汚れを消し去る。

 しかし汚れは取れても思い出までは消えない。忘却呪文しようかとも思うが、やめておこう。

 

「ご、ごめんよハリー。……でも、なんでそんなことを?」

「え? いやあ、ラベンダーが男女の話のとっかかりはこれしかないって」

「ラベンダーァ……」

 

 脳内ピンク(ラベンダー)()お花畑女(ブラウン)

 それがグリフィンドール男子の間で囁かれる、ラベンダーのあだ名である。

 ネビルはいま身を以ってその言葉の意味を痛感したのだった。

 

「で、居るの? 好きな子」

「う、うーん。僕たちまだ十三歳だよ? そういうのはちょっと早いんじゃないかなぁ……」

「そうなの? ジニーはボーイフレンドがいるそうだけど」

「マジかよ」

 

 ていうかディーンだ。

 ジニーはどうやら年上がタイプのようで、ディーンの前は五年生の男の子と仲良くしていたらしい。もっとも、ディーンがボーイフレンドということはその五年生とは何もなかったのだろう。

 ハリーとて一人の女の子である。一年生の頃ならともかく、今ならそういった話もちゃんと耳に入れるようにしている。誰かが狙っている男の子と不用意に仲良くしようものなら、女子のネットワークによって簡単に捕捉されて面倒事に巻き込まれてしまうからだ。

 純粋に好敵手としてドラコと仲良くなりたいと思っているハリーだが、かなり多くのスリザリン女子が彼のハートを射止めようと躍起になっている。ゆえに、「アンタなにドラコに色目使ってんのよ!」だの「ドラコを狙っているならやめておくべきだわこれは忠告よ」だの「『ステューピファイ』!」だのと、色々と面倒なことになるのだ。

 正直言って、ハリーに異性として気になる男の子はいない。

 ずっと一緒にいるならどの男の子がいい? と問われれば、迷うことなくきっぱりロンと答えるだろう。だが、きっとそういう意味ではないことくらいハリーとてわかるつもりだ。

 スリザリンの女の子から思われているようなこともない。ドラコは異性として見るには、あまりに心に飼っている獣が獰猛すぎる。いわゆる同族嫌悪というのが近いのかもしれない。ハリーにはヴォルデモートを叩きのめすという目的があるものの、ドラコが掲げる目的がなんなのかまったく知れないのも、そういう目で見れない理由の一つなのだろう。

 では、他はどうか? ウィーズリーの双子。ジョージはどうか知らないが、フレッドはアンジェリーナに気があると思う。というのが、アンジェリーナ自身の推察だ。迷うことなくアイツは私に気があるわと言えるのは尊敬に値するが、確かにそういう前提でフレッドを見てみればそんな気がしないでもない。そして二人をいつもセットにして考えてしまうという時点で、ジョージもなしだ。

 他は、パーシーか。あれはないな。

 すると他に居るのはディーン……は、ジニーのモノだからないとして。シェーマスはどうだろう。少し子供っぽすぎる気がする。恋人にするという視点で見れば……ああ、考えられないな。というよりそもそもロンの友達として知り合ったわけだから、実をいうと二人ともそこまで親しいわけではないのだ。

 では……。

 

「な、なにハリー?」

 

 ネビルか。

 うーん、ネビルかぁ……。

 

「な、なななな何なんだ? 顔、顔が近いよハリー!? ええええ!?」

 

 ……、確かに顔のパーツは悪くないし、痩せればハンサムとはいかなくても魅力的な男性になるだろう。体形も案外がっしりしているし、どちらかと言えば骨太な方が好みであるハリーとしては結構いい感じになるかもしれない。

 勇気もある。優しさもある。ちょっと情けないところもあるが、そこはなんだか世話を焼きたくなってしまうので問題点どころかプラス要素だろう。

 案外ネビルはいいかもしれない。

 なんつって。

 

「わはは」

「なんかすごい失礼なこと考えなかったかいハリー」

「そんなこたぁないよ。ふははは」

 

 いったい何を考えているのだろうか。

 ないわ。ネビルはちょっとないわ。

 いくらいい子でも、いくらいい男でも、ネビルは絶対にない。

 自分が迷いなく殺そうとした者を愛することなど、まずできるはずがない。

 

「いやー、ネビル。うん、君にもきっといい女の子ができるよ」

「ハリーきみってばいきなり何を言いだすのさ!?」

 

 確かに似合わないことを言っているのはわかる。

 血と杖が似合う女ナンバーワンと陰口を叩かれていることくらい知っている。

 ホグワーツミスコンなるもので危ない香り系女子の部門を作るらしいから、是非参加してくれと失礼な頭でっかち野郎(パーシー・ウィーズリー)に言われたときは、ついカッとなって杖を使わず拳でぶん殴ったことさえあるのだ。そういうことを言われても仕方がないだろう。

 ではなぜ今さらになってこんな話題を出してみたのか。

 それは別にネビルをからかうためだけではなく、思うところがあったからだ。

 

「ねぇ、ネビル?」

「もうからかわないでくれよぅ」

「違うよ。……ネビル、君は人を愛したことがある?」

 

 またからかっているんだろう、とジト目で見てきたネビルもハリーの表情を見て、本当にからかっているのではないと気付いたネビルはソファに座りなおした。

 両膝に両肘を置いて、手を組んで顎を乗せる。

 妙に様になっている恰好のまま、ネビルはハリーの問いに答えた。

 

「あるよ。パパとママを愛している。怖いけどおばあちゃんも愛している。家族は基本、みんな愛しているよ」

「……それの中に、友達は入る?」

「入る……かなぁ。うん、入るね。ロンもディーンもシェーマスも、ハリーもハーマイオニーも、友達みんなを愛しているって言えるかもね。みんな僕の大事なお友達だよ」

 

 ネビルの笑顔は本当に朗らかなもので、本心からそう言ってくれているのがわかった。

 ハリーは浮かない顔のまま、問いを続ける。

 

「じゃあ、もう一回聞くよ。ネビルは好きな子、居る?」

 

 ネビルは少し悩み、答えた。

 

「ウーン、……実を言うと、気になる子はいるよ」

「じゃあ、その子に対する愛と、家族や友達に向ける愛。それってどう違うの?」

 

 ハリーの問いがここまできて、ネビルはようやく合点が言った顔をする。

 小さく微笑んで、問いに答えた。

 

「それはきっと、ハリーが恋をしたらわかるんじゃないかな」

 

 しばらくのち、大急ぎで帰ってきたロンとハーマイオニーが見たのは、大笑いするハリーと悶え転がるネビルだった。

 聞いてみればあまりに真面目な話をしていたというのにネビルが真顔でカッコいい台詞を言ったものだから、つい耐え切れなくなって笑ってしまったとのこと。

 ついに怒ってしまったらしいネビルに笑いながらも謝るハリーを見て、ハーマイオニーとロンは寂しがっているのではないかという心配が杞憂に終わったことを悟り、小さく安どのため息をついたのだった。

 

 太った婦人(レディ)の修復が完了した。

 しかし婦人はどうやらまだ恐怖心がぬぐえていないらしく、しばらくは別の廊下に飾られることになった。その間、グリフィンドール寮の門番を務めるという勇気ある役目を買って出た絵画はカドガン卿という騎士の絵であった。

 カドガン卿はなにやら自らをドン・キ・ホーテと間違えているのではないかと言われるほど、おっちょこちょいな騎士だった。合言葉を言い間違えた生徒を他寮のスパイではないかと疑って大騒ぎし、正しい合言葉を言えたとしても卿が疑えばしばらくは寮に入れないなど常であるから、生徒たちからは不満が爆発した。

 一刻も早くレディに戻ってきてほしいと嘆願されるも、最近のレディはご近所の絵にこもってばかりで生徒たちはなかなか会うことができない。これではもうしばらくカドガン卿が続きそうだ。

 

「よぉハリー!」

「なぁハリー!」

「やあ、フレッドとジョージ。どうしたの。っていうかO.W.L.試験の勉強はマジでどうしたの」

「あんなもんフクロウみたいに飛んでいっちまったさ! ぷーっ、だぜ!」

「どのみち僕らに関係ないからね! テストなんて知ったこっちゃない!」

 

 相も変わらず息の合ったやり取りである。

 ここまで来ると見事とも言えるだろう。

 

「テストがどうでもいいってどういうことだよ、おばさんに怒られちゃうぞ。……まあいいや、それで何の用?」

「ママの話はしないでくれ。さーってさてさて、僕たちの用事が分からない? おいおいハリーちゃんよぉ、そりゃ本気で言ってるのかい? 僕らが何をしに来たのかがわからない? そりゃーないぜ。成績優秀者様はいうことがちっがーう!」

「平和な時に鬼の話はなしだ。うんうん、僕たちの用事は実に簡単、君に関わることだよハリー! 君がホグズミードに行かないでネビルとあっつーいランデブーするしかなかったと聞いてね! そいつぁ可哀そうだと思って参上仕った次第に御座い!」

「ネビルに失礼だぞ」

「「君自分の評価低くない?」」

 

 笑いながら背中をばしばし叩かれ、いったい何のつもりでやってきたのかがさっぱりわからない。ただからかって遊びたいだけなのかもしれないが、それにしたって上機嫌だ。

 ジョージが何やら羊皮紙の襤褸切れを取出し、フレッドがハリーの肩を組んでくる。

 フレッドがなかなかがっしりした体をしていることに気付くが、まぁいまそんなこと言ったらこのおちゃらけた雰囲気が変になってしまうだろう。

 踊るようにリズムに乗って左右に揺れながら、歌うように双子は言う。

 

「ホグズミードに行けないのはだーっれだ!」

「ホグズミードにいけないのはハリーぃっ!」

「だったらなーんで行けなーいんだっ」

「フィルチのハーゲが見ってるっから」

 

 両方から肩を組まれ、まるでミュージカルのように左右に揺れて歌われる。

 ゆらゆらと揺らされながらハリーは、だんだんと苛々してきた。

 煽っているのはわかる。怒ったら負けなのもわかる。

 だが感情は別だ。

 ちょっとだけ仕返ししたって別に構うまい。

 

「アンジェリーナがこの光景見たらなんて言うかな」

「「ごめん本題に入ろう」」

 

 ぼそっと呟いた言葉に対し、ウィーズリーズはわざわざ真面目な顔で返してきた。

 仕返しされようともふざけることを忘れない態度には尊敬に値する。

 

「さーて、実を言うと俺たちとこれからデートしないかい」

「アンジェリーナ」

「ストップストップ! 別にそういう意味じゃないって!」

「フレッドおまえ慌てすぎだぜ。ハリー、ハリー、ハリー。ほら、こんなハンサム二人とデートできるんだぜ? 女の子にとっちゃ役得だとおもうんだけどなあ」

「ハンサムっていうとロックハートを思い出すからやめてくれ」

「「本当悪かった」」

「それで? デートっていう名目で本当はどこへ何しに行くの?」

「「ホグズミードに悪戯用品を買い足しにさ!」」

 

 自信満々に言い放たれたその言葉に、ハリーは目を丸くする。

 週末でもないのに、そんなことできるのだろうか。

 万が一できたとしても、校内すべてに目を光らせているフィルチが学校から出ていく生徒を見逃すはずがない。かつてホグワーツが体罰に寛容だった時代に、フィルチがもっとも辛い罰を与えることのできた格好の口実なのだからなおさらだ。

 ハリーは彼が猫好きとしてサークル《ホグワーツ猫狂いの士》を運営していることを知っているが、そういうところは好かなかった。

 

「フィルチのおやっさんなんて怖かない!」

「俺たち二代目悪戯仕掛人の手にかかっちゃあ、フィルチも形無し!」

「悪戯仕掛人?」

 

 二人がフィルチを屁とも思っていないことは承知している。

 ゆえに、そちらよりも奇妙なチーム名らしきものの方が気になった。

 

「「よくぞ聞いてくれました! 『我、よからぬことを企む者なり』!」」

 

 何やらスペルを唱えたらしい。

 羊皮紙の襤褸切れは魔法具だったのだろうが、魔力が送られている様子はない。

 いったい如何なることかと思っていると、羊皮紙の表面に文字が浮かび上がった。何事かと見守れば、それは地図の様相を呈してきて、しまいには人の名前さえ浮かび上がってくる。

 現在地を中心点として地図はリアルタイムに更新されているようで、《ハリエット》《フレッド・ウィーズリー》《ジョージ・ウィーズリー》と表示されている点がゆらゆらと揺れている。

 廊下を一本はさんだ向こうでは《ポモーナ・スプラウト》が《アーロン・ウィンバリー》と共に歩いているし、スリザリン寮では《ドラコ・マルフォイ》と《スコーピウス・マルフォイ》がソファに座って《アンジェラ・ハワード》と向かい合っている。その後方の柱に隠れて《パンジー・パーキンソン》が居るようだ。

 すごいな、他寮の中まで構造がばっちりわかるじゃないか。ふっと上の方を見てみれば、校長室には《アルバス・ダンブルドア》の名前が《ミネルバ・マクゴガル》と《セブルス・スネイプ》と共にあった。

 なんだこれは。こんなものがあれば、すぐにでもよからぬことが始められるではないか。

 

「な、なにこれ?」

「「よくぞ聞いてくれました!」」

「これこそは悪戯仕掛人、ムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングズの四人が造りだしたる《忍びの地図》!」

「高度な魔法技術がギュッと詰まった優れモノ! その割には魔力を送り込む必要がないから、とにかく見つからない! だって魔力を使ってないんだから、魔力探知に引っかかるわけがないんだよね!」

 

 それが事実ならば、とんでもない代物だ。

 はっきり言ってハリーの脳みそでは、何かバグが起こったとしても作り出せるはずがない。きっとハーマイオニーですら無理だろう。

 これだけの代物を作れるのならば、ホグワーツの警備体制は万全も万全、シリウス・ブラックとかいう頭のおかしい殺人鬼などという侵入など許さなかっただろう。いやはや、この四人組は努力の方向性を盛大に間違っている。

 

「これ、先生方は知ってるの?」

「「とんでもない!」」

「いや、でもダンブルドアは知ってるかも」

「たまに地図の名前をメッセージに変えて俺たちにお使い頼んでくるしな」

「……どゆこと?」

「名前が変わるのさ。《アルバス・ダンブルドア》が《ペロペロ酸飴を一ダース》とかにね。僕たちがハニー・デュークスに行こうとするときに限ってそうなるから、まあ多分間違いないと思うよ」

 

 あのボケ老人はいったいなにをやっているのか。

 いや、違うか。フレッドとジョージにそういった指示を出すということはつまり、二人の行動を、ひいては安全を把握していることを知らしめているということか。

 しかもわざわざ双子にも分かるように細工しているあたり、自分たちの行動が校長側にバレていると匂わせることで、ある程度の悪戯を認める代わりに過ぎた悪戯をさせないための防止策にもなっていると見た。

 意外と考えている。というよりは、なぜそこまで把握できるのかと不思議に思う。

 恐ろしい老人だ。

 

「さあ、ハリー。一緒に行こうぜ!」

「ホグズミードへ、いざや行かん!」

 

 双子に連れられて、透明マントを三人でかぶって城の中を移動する。

 すぐそばを通ったせいでフレッドに背中を小突かれたパーシーが不思議そうな顔をしていたものの、バレることはなかった。リー・ジョーダンの背中に糞爆弾を入れるという悪質な悪戯を終えて、三人はホグワーツ開校以来誰も使っていないのではないかという倉庫を通過、抜け道を通ってしばらく歩くとホグズミード駅に着いてしまった。

 本当に学外に出てしまった、と目を丸くするハリーを引っ張って、ウィーズリーズは一軒のお店の中に入っていく。そこは甘ったるい匂いが漂う店内で、透明マントによって誰もいないのに勝手にドアが開いたように見えたのか、店員が目を丸くしていた。

 

「僕たちだよ、ジョニー!」

「おおっ、フレッド! ジョージ! なんだぁそりゃ。透明マントか? これまた随分といいものを手に入れたじゃないか!」

「違うよ、僕たちのじゃあない。この子のもんさ」

「んん?」

 

 ジョニーと呼ばれた顎髭の目立つ青年が、ハリーを見つけたのかまじまじと見てくる。

 ちょっと恥ずかしくなって目を逸らしたが、彼の視線が額に向かっているのを感じた。

 

「こりゃあ驚いた。ハリー・ポッターじゃないか! え、なに? 女装させてるのか?」

「ぶっ殺すぞヒゲ野郎」

「落ち着けハリー。おいジョニー、レディもどきに対してそりゃねえだろう」

「早まるなハリー。ジョニー、膨らみかけだからって男に見えるってのか?」

「ぶっ殺すぞ双子野郎」

 

 二人の尻に全力で蹴りを入れてから、ハリーは店内を見て回った。

 ハニー・デュークスとはお菓子の専門店らしい。マグルのお店でも売っているような普通のお菓子もいろいろあるが、一番多いのは魔法のかかったお菓子類だ。フィフィフィズビー、ドルーブルの風船ガム、蛙チョコなどのお馴染みのお菓子を初め、食べると舌に穴が開くという何がしたいのかさっぱりわからないペロペロ酸飴、食べようとすると手に噛みついてくるという食べさせる気のないゴソゴソ豆板など、はっきり言って考案者の正気を疑うようなお菓子まである。

 さすが魔法界、『まともじゃない』な。と思いながらハリーは、とあるコーナーで足を止めた。《恋占いキャンディ》。舐めている間に見た幻が、あなたの運命の人です! どうぞおひとつご試食を。とあった。……ごくごく小さな字でジョークグッズと書いてある。

 ためしに一つ、と口に放り込んでみれば、すぐに幻覚が始まった。

 ……。……、……。視なかったことにしよう。

 鼻息がかかるほどに近いうえに後ろにピッタリついてくるビキニ水着の上にコートを羽織ったスネイプを極力無視しながら、ハリーは双子のもとへと戻っていった。双子はハリーのげんなりした顔を不思議に思っていたが、それはハリーの背後で腰を振って踊っている怪物を見ることができないからだ。

 いやほんと、さすが魔法界。『まともじゃない』ね。

 

「いっぱい仕入れたな」

「ああ。財布がすっからかんだな」

「二人とも、ひょっとしてお菓子や悪戯用品にお小遣い全部使ってるの?」

「「もちろん」」

「……本とかは買わないんだ?」

「「とんでもない」」

 

 買うものが女の子だねぇなどとからかってくるジョージを小突きながら、三人は城へと戻る。確かにこんな楽しい体験ができるのならば、ホグズミードへ行くというのも悪くないのかもしれない。

 もう日も暮れて、三人は談話室に入る。双子は、

 

「その《地図》、しばらく貸してやるぜ。しばらくっていうのはずっとって意味さ。僕らはもう隅々まで覚えっちまってるし、正直言っちゃうともう必要ないのさ」

「それに、君が卒業するころには、誰か貸してやりたくなる奴ができるかもしれないだろ? そしてだなぁ、そいつを使い終わったら、バレないようにこう唱えるんだ」

「「《いたずら完了》!」」

 

 フレッドとジョージと別れた後、ハリーは興奮した様子でベッドに入った。

 ハーマイオニーがどうしたのと聞いてきたが、明日の土曜日までは内緒だ。

 んふふ、と変な笑い声だけを残して、ハリーは夢の中へと旅立った。

 

 土曜日の朝、ハリーは水着姿のトム・リドルから逃げ切って起床することに成功した。

 酷い夢だった。と溜め息をついて、パジャマを脱ぎ捨てる。

 シャワーを浴びて汗を流し、バスローブ姿で自分の机の横に干してあった下着を手に取る。上下をさっさと着用し、適当な私服を選ぶ。厚めのレギンスの上にショートパンツを穿いて、ボーダーシャツの上に妖女シスターズがデザインしたという上着を羽織る。起きたばかりでいつもより髪がふわっふわになったままのハーマイオニーに、それじゃ寒いわよと言われたので上着を暖かいコートに変えることにした。せっかく買ってみたのになかなか着る機会がない。寮内でお洒落したところで全くの無意味であるし、普段は制服なので着る機会もない。ペチュニアはふりふりしたリボンやレースのついた少女趣味な服を着ていると上機嫌になるので、ダーズリー家でも着る機会はないだろう。

 淡いクリーム色のムートンコートを着て、前を閉じる。

 うーん、可愛くない。

 

「あらハリー、どこかいくの? ホグズミードでのお土産、何がイイか教えてくれない?」

「んー? ああ、いや。んふふ。今回はいらないや。んっふっふー」

「?」

 

 ハーマイオニーとロンを見送って、ハリーは城へと戻る。

 ミトンの手袋なので杖が持ちづらいが、なんとか《忍びの地図》と共に取り出した。

 年頃の少女がしてはいけないような顔でにやにやしながら、ハリーはスペルを唱える。

 

「『我、よからぬこ――」

「「おういたずらっ子! 周りをよく見ろよ」」

「ふぎゃああああ!?」

 

 尻を軽く蹴飛ばされてあられもない悲鳴をあげて振り向けば、ウィーズリーズがにやにやしていた。

 何をするんだ、と怒鳴りつけようとしたところ、唇に人差し指を添えられて黙り込む。

 

「言い忘れてたけど、そいつはフィルチの保管庫から失敬したものなんだ」

「だから周囲の目は気を付けて使ってくれよ。起動も終了も、決して見つからないように」

「君が盗んだものと思われちまうからな。そうなったらコトだ。お分かり?」

「君が見目麗しい女の子だからって、やっこさんは全く容赦しないだろうね」

 

 忠告は有り難いが尻を狙うのはやめてほしい。

 手を振って去って行った二人を見送りながら、ハリーは改めて周囲を気にする。

 誰もいないのを確認してから透明マントを羽織って姿を消し、再度スペルを唱えた。

 

「『我、よからぬことを企む者なり』」

 

 羊皮紙に文字と地図が浮かび上がる。

 おっ、とハリーは呟く。どうやら壁を隔てた向こうの廊下にダンブルドアがいるようだ。

 静かにこの場を離れようとした時、ダンブルドアの名前がぐにゃりと歪む。

 

「……名前が《程々にのう》に変わった……」

 

 完全にバレている。

 というかこんな近距離に居ることからして、ハリーが今日やることは彼にとってオミトオシだったに違いない。まぁ学年末に会うときの話ぶりからするに、老獪な面があるとは思っていたが、ここまでくるとちょっと怖い。

 しばらく道なりに進んでいると、ハリーは「あれ?」と声を漏らした。

 壁の中を誰かが進んでいるのだ。

 名前はどうも擦りきれているようで、頭文字の《H》しかわからない。

 《忍びの地図》はそこそこ年月の経っている代物だという話であるし、不調かなとも思ったが、はたと考えが浮かんで足を止める。

 透明になったまま歩きながら、ハリーは小声で口を開いた。

 

【……バジリスクかい?】

【この声はハリー様。よくお気づきになりましたね】

 

 やはりそうか。

 壁の中を移動できる、つまりパイプの中を移動しているのは彼女しかありえまい。

 なんだか数ヵ月ぶりに会話した気がする。

 

【お姿が見えないようですが……】

【透明マントだよ。ちょっとこれから悪戯をしにね】

【……お戯れも程々になさってくださいね。姫様なのですから】

【……な、なんだその呼び名は……】

 

 姫様て。

 彼女はハリーを敬ってくれているようだが、ちょっと行き過ぎではないだろうか。

 まあ、嫌われるよりはずっといい。

 トム・リドルの制御が完全で、もしハリーの蛇語に耳を貸さないよう命じられていたら、下手をしなくとも彼女とは殺し合っていた未来すら有り得たのだ。

 ハリーは蛇が好きだから、そんなのは困る。

 

【これからホグズミードってところへ行くんだ。何かお土産でも買ってくるかい】

【では、土産話を。ヒトの食べるものは口に合いませんからね】

【まるでおばあちゃんみたいなことを言うね】

【まるで、ではなく老体そのものですよ。まぁ、あと数百年は余裕ですが】

【それでは老いているとは言えないな】

 

 しばらく談笑したのち、悪戯の予定があるので。と二人は別れた。

 地図を見ながら誰にも会わないようにして、バカのバーナバス像をすり抜けてゆく。

 しばらく暗い通路を歩けば、そこはもう銀世界……ではなく、地下倉庫だ。

 ハニー・デュークスの地下は甘ったるい匂いがする。お腹が鳴らないうちにさっさと出てしまおう。

 ホグズミードではもう完全にホワイト・クリスマス気分のようで、生首ストラップが歌っているジングル・ベルなどが聞こえてくる。そういえばあのストラップは夜の騎士バスにもあったな。もしかして流行っているのだろうか?

 さくさくと雪を踏みながら、ハリーは目当ての人物を探し回る。途中、まるでマフィアのボスのように振る舞うスコーピウスとその取り巻き達が騒々しく歩き回っているのを見た。

 悪戯専門店ゾンコで買い物をしたらしく、それを試す相手を探しているようだった。普段はあまり騒いだりしないスリザリン生も、こういうお祭り騒ぎのような場所では羽目を外すのだろう。もっとも、迷惑をかけられるつもりはないので放っておくことにする。

 枯れ木となっている林を抜けると、見えてくるのはホグズミード最大のホラースポットである、《叫びの屋敷》だ。

 それを眺めている二人の男女が目に入る。ああ、見つけた。

 しかしそんないい雰囲気の二人のところへ、邪魔が入ってしまう。先のスリザリン悪たれズである。スコーピウスとクライル、そしてスリザリン生の男の子が、にやにやしながらハーマイオニーとロンへ近づいてきた。

 

「よぉう、ウィーズリー! お熱いねえ! そうでもしないと暖が取れないほど貧乏なのかい?」

「マルフォイ、あっち行ってろよ空気読めない奴だなあ」

「何の話だ? まあいいや、君たち家畜にはお似合いだね。新居のご相談かな? あそこはいいよぉ、なんたって呪われてる! 血を裏切る者達にはピッタリさ!」

「……何だと。もう一回言ってみろマルフォイ!」

 

 以前から思っていたが、スコーピウスは人を煽る天賦の才でもあるのではないだろうか。

 バックビークの件でもそうだ。ロンが彼に挑発されてカッとならなかったことはない。

 嫌な才能だなと思いながら、ハリーは面白いことを思いついて忍び笑いを漏らした。

 どうやら漏れたそのくすくす笑いが、聞こえてしまったらしい。

 ぎゃーぎゃーと騒いでいた五人が、一斉に静かになってしまった。

 

「……、……おい、ウィーズリー。今の聞こえたか」

「……そ、空耳じゃないの? 女の笑い声って……」

 

 ああ、なるほど。と合点がいった。

 今のハリーの笑い声。そしてこのホラースポット。

 確かに勘違いしてしまうのも無理からぬことかもしれない。

 

「ひょえっ!? うっ、うわぁぁあ!?」

 

 ハリーは透明マントで姿を隠しているのをいいことに、スコーピウスに向かって雪玉を投げつけた。思い切り顔面で受けてしまったスコーピウスは、驚いた顔のまま恐怖に駆られて逃げ出そうとする。

 だが調子に乗ったハリーがそれを許すはずがない。

 無言呪文で『脚縛り呪文』をかけると、彼の両脚がくっついてしまったかのようにぴっちりと閉じられて倒れ込んでしまう。くぐもった悲鳴を漏らすスコーピウスの足に杖を向ける。

 

「おんぎゃあああああああ!? なんかいる!? なにかいるよおおおおおおおお! ママァァア! パパァァア! 助けてドラコォォオオ!」

 

 まるで巨大な腕に掴まれたような感覚が彼を襲っただろう。スコーピウスの喉から甲高い悲鳴を上がるも、腕はずりずりと彼の身体を《叫びの屋敷》の方へと引っ張ってゆく。

 ついに涙目になってしまったスコーピウスの顔を見て、やりすぎたと思ったハリーは彼を開放することに決めた。ぱっと手を放し、呪文を解くと自由になった途端に弾かれたように走ってゆく。

 薄情にも子分たちを見捨てて逃げ去ったスコーピウスをクライルが慌てて追いかけ、恐怖に固まっていたもう一人の取り巻きが突き飛ばされて雪だるまになってゆく。それを見たロンは大笑いで、ハーマイオニーも苦笑いを浮かべていた。

 そんな二人を見ると、またもむくむくと悪戯心が湧いてくる。

 

「いやー、なんだあの逃げっぷり。ママァァアだってさ!」

「笑っちゃ悪いわよロ……ぷっふ。くく……ロン笑っちゃ駄、わきゃう!?」

 

 ハーマイオニーが悲鳴をあげると、ロンがびくりと笑いやんだ。

 脇腹を突っついただけなのに返された反応を見てハリーは、フレッドとジョージが自分にセクハラ染みた悪戯をやってくる理由がわかった気がした。なるほど、これは面白い。

 ロンの着ているジャケットをつんつんと引っ張り、彼の引き攣った顔を間近にしながら息を吹きかけた。ぞわぞわするような感覚にたまらずロンは悲鳴を上げて飛び退く。

 くすくすと笑い声を零しながら続きをやろうとした時、ハーマイオニーのジト目が目に入った。まさか、見えているはずがない。

 そう思って油断していると、突然ハーマイオニーが両手を突き出してきた。

 

「ひぎゃああう!?」

 

 あられもない悲鳴……というか、尻尾を踏まれた犬のような悲鳴を上げたのはハリーだ。

 なんと、ハーマイオニーの奴。人の胸を鷲掴みにしてきやがった。

 何故場所が分かったのかという叫び声も、続けざまにわしわしと揉みしだかれては口から出るのは文句ではなく悲鳴になってしまうのも仕方のないことだ。

 

「くっ、くすぐったい! ごめん、ごめんってハーマイオニー!」

「びっくりしたんだからね! このっ、この! あなた一月前に新しいの買ったばかりじゃないのよ! 栄養の差じゃないわよね、これ確実に遺伝よね! この!」

「あーっ! もげるもげる! 痛い痛い痛い!」

 

 しばらくもみくちゃになって暴れ回った後、ハリーたちはすっかり脱げてしまった透明マントを雪の上で探し回った。

 顔を真っ赤にして茹蛸のようになったロンを笑いながら、三人はベンチの上に座って話をする。

 せっかく暖かい恰好をしてきたというのに、二人して雪の上でプロレスみたいな真似事をしていては台無しだ。ハーマイオニーが出した青い魔法火を瓶詰にしたものがとても有り難かった。

 

「それじゃあなに? その《忍びの地図》があれば学内のだれもが筒抜けってわけ?」

「おったまげー。……ていうかあの二人、そんないい物を隠し持ってたわけか。弟の僕にすら内緒ってどういうこった! 弟だぞ、弟! ハリーを妹扱いでもしてるのかあいつらは!」

「お、落ち着けってロン。二人とも別にそういうつもりじゃないだろう。面白いと思ったんじゃないか?」

「ハリー、お兄さんができた気分になって嬉しいのはわかるけど笑顔は隠すべきだわ。あとロン、たぶん二人はあなたなら悪用しかねないと思ったんじゃないかしら?」

「あの二人なら悪用乱用ウェルカムなはずだろう……ほんとマーリンの髭だよ、もう」

 

 珍しくハリーに嫉妬してしまったロンを、二人して宥める。

 女の子の嫉妬ならある程度はわかるが、男の子の嫉妬はちょっとよくわからない感覚である。ロンも面と向かってハリーに羨ましいとは言わない上に気付かれていないと思っているものだから、鎮めるのには本当に苦労した。

 ハーマイオニーに背中をさすられ、ハリーに肩を組まれて少し涙目になっているロンを少し可愛いと思ってしまったのは、仕方のないことだと思う。

 その日の夜、パーバティに面倒くさい男だわねとばっさり切られるまでは本気でそう思っていた。

 

「ねえハリー、それは先生方にお渡しするべきよ。たとえダンブルドア先生が知っていても、他の先生は知らないかもしれないじゃないの」

「えー……? でもこんなに便利なもの、手放すには惜しいだろ。それにフレッドとジョージに悪いと思うぜ。あいつらがフィルチの保管庫からかっぱらってきたって話なら、芋づる式にその件がバレちまう。そうなったらひどい目に遭うぞ……」

「……フィルチって縛るのが趣味らしいしねえ」

「……それ誰からの情報?」

「ミセス・ノリスからだよ」

「倒錯し過ぎだろあのハゲ」

 

 ロンが落ち着いた後、歩きながら話していると人が増えてきたので、ハリーは透明マントを被り直した。

 ハリー・ポッターが外出していたなんて話が厳格なマクゴナガルの耳に飛び込めば、ヒヨコに変えられたハリーの身体が大鍋の中に飛び込む羽目になるかもしれない。

 マクゴナガルには絶対の信頼を寄せているが、その分だけ彼女の厳しさは身に染みて分かっている。悪行がもっともバレたくない人の一人だった。

 

「オー! ハーマイオニーにロンじゃねえか!」

「ハグリッド!」

「どうしたの、こんなところで?」

 

 人通りが多くなってきたところで、三人(ハリーは姿を隠しているので気づかれていない)は巨大なお友達とばったり出会った。

 大衆パブ《三本の箒》の前だ。ここは子供も入れる酒場であり、ちょっと大人な気分を味わえるということでマセた女の子の多いホグワーツでは人気のお店だ。

 もちろん、お酒は出ない。代わりに美味しいものを飲めるのだ。《バタービール》という、甘くて暖かい飲み物だそうで、アルコールは入っていないのにビールと呼ばれているのは、黄色い液体の上に白い泡が乗っているという見た目が、ビールそっくりだからである。

 これらは全て、ハーマイオニーとロンの受け売りである。ホグズミードに行けずに少し悔しい思いをしていた日に聞かされたので、ちょっぴり八つ当たりしておいたのは許してもらいたい。

 

「俺ぁ待ち合わせだな。……っと、ちょうど来た見てぇだ。ヨーゥ、ファッジ! 久しぶりだの!」

「やあ、ハグリッド。去年ぶりだね。いやはや、君には恨まれていると思ったのだが」

「あの時は仕方のねえことだ。あんたは大臣としてやるべきことをやったにすぎねぇ。そうだろう。ん?」

 

 恐らく去年のことを言っているのだろう。

 透明マントに隠れたハリーとロンは直接聞いていたが、冤罪であるとわかっていながらハグリッドをアズカバンへ拘留しなければならなかった秘密の部屋騒ぎのことだ。

 ……そういえば、ハグリッドはバジリスクのことを知らない。絶対に知られないようにしなくては、彼女の心の平穏がなくなってしまうだろう。忘れがちではあるが、危険な生物ナンバーワンだ。

 

「そういってくれると助かるよ。……子供たちとはもういいのかね?」

「ああ。そんじゃロン、ハーマイオニー、また城でな!」

 

 陽気にそう言い放つと、二人は身を縮ませてせかせかと三本の箒へ足を動かす。

 その後になされた会話から察するに、二人の飲みは魔法大臣の奢りらしい。恐らく先ほどの会話でも出た、アズカバンに収監してしまった事への簡単な侘びだろう。

 ハグリッドも意外と気遣われているなと感心していた三人は、友達が皆から好かれていることを知って暖かい気持ちに浸っていた。

 次の言葉を聞くまでは。

 

「にしても、ハリーがいなくてよかったわい」

「確かに。ジェームズとリリーの不幸話など、万が一にでも聞かれてはコトだ」

 

 ハーマイオニーとロンがハッと気づき、左右からハリーの腕を掴もうとしたが遅かった。

 透明化しているがゆえに、二人は予想したハリーの腕の位置に手を伸ばしたのだが、そこにはすでに何もなかった。するりと空を掴んだ二人がまず見たのは、地面。つまり、降り積もった雪である。

 いったい何に影響を受けて如何なる練習をしたのか、まるでニンジャのように雪を踏む足音すらなしに、ハリーのものらしき小さな足跡が素早くハグリッドとファッジの後ろを追っていた。

 ロンが「ハリー!」と叫ぼうとしたのを、彼女の存在がバレることを危惧したハーマイオニーが止めると同時。ハリーの足跡は、店内へと消えていた。

 

 ハグリッドが開けた扉が閉まる前に、小柄で薄い体をすべり込ませてパブ《三本の箒》へ侵入する。入る際に少しだけ胸と尻が擦ったので、成長からくる体形の変化を把握しておくべきかとハリーは頭の隅で思った。

 ハグリッドとファッジが、あまり楽しくない様子で酒場の主人らしき女性と話している。

 どうやら連れがいるようだ。

 ロスメルタというらしい女主人に案内される二人の後ろを、ハリーは出来る限り気配を殺してついていくことにした。

 

「おお、ミネルバ。会うのはお久しぶりですな」

「ああ大臣。……できればこのようなお話で会いたくはなかったです」

「尤もなことだ。ああ、ご尤もで」

 

 これは驚いた。

 マクゴナガル先生に、フリットウィック先生、スプラウト先生までいる。

 これでスネイプ先生もそろっていたらホグワーツの寮監が全員いたとスプラウトが言っているあたり、彼が寮監同士の集まりに来ないのはいつものことのようだ。

 ファッジが椅子に座り、ハグリッドが椅子に座る(椅子が悲鳴をあげてあまりの重さに抗議した)と、話が始まる。ただし、他の客に聞こえないよう極力声を潜めていたので、姿を隠している状態をいいことに、ハリーは堂々と誰にもぶつからない壁際、それも彼らの目の前に陣取ることにした。

 

「バタービール六人前、どうぞ」

 

 女主人ロスメルタが、白く泡立った黄色い飲み物をジョッキに注いだものを持ってきた。

 ……六人前? ここには五人しかいないはずだ。

 ロスメルタがひとつひとつ、盆から一瞬たりともバランスを崩さず器用にジョッキを一人一人の前に置いてゆく。そして最後の六つ目は、ハリーの目の前に置かれた。

 よもやバレたのだろうか。とハリーは腰を沈めるが、皆の沈んだ雰囲気からどうもそうではないらしいことに気付く。 

 おそらくあれは、いい意味で置かれたのではない。

 ファッジがジョッキを掲げるも、口から洩れたのは「アー」という困った呻きだけ。

 

「……なにに乾杯なさるのです?」

「……うむ、ここは彼しかおるまい」

 

 皆が目を閉じ、十数秒黙り込む。

 ああ、これは本当に聞かないほうがいい話だったかもしれない。

 ハリーが実際には行わず、心の中だけで溜め息をついた時、皆が斉唱した。

 

「我らが友、ピーター・ペティグリューに」

「「ピーター・ペティグリューに」」

 

 皆がジョッキに口を付ける中、ハリーは誰もいない席がピーターなる人物の分であることを察する。

 ロスメルタが立ち去ろうとするものの、ファッジが呼び止めた。

 マダムが作ってくれたバタービールを残されるのは、甘いものとマダムにお熱だった彼が許すまい。という理屈で、彼女に飲んでもらおうということだった。

 察したハリーがその場を離れると同時、寂しげに微笑んだロスメルタが席に着いた。

 多少は慣れてしまったが、話を盗み聞く分には何ら問題ない。

 

「ピーターは優しく、そして意外なほど勇敢な子だった」

「ええ。ポッターたちの腰巾着のように思っていましたが、のちにポッターから聞けば頼れる切り込み隊長のような存在だと言っておりました。教師として生徒を見る目がないと反省させられましたよ」

 

 どうやらピーターという、かつての生徒を悼む集まりのようだ。

 ほぼ無関係であるハリーからすると多少美化されているような物言いであるが、それでも概ねピーター・ペティグリューという男性の情報は集まった。

 気の弱い小柄な男の子で、いつもジェームズ・ポッター率いる連中の後ろを着いて歩いていた腰巾着のような位置づけ。要領が悪く、授業は筆記も実技も苦手だった。しかし何か一つのことをさせれば意外なほどの力を有するダークホースで、当時開かれていた決闘クラブでは優勝こそしなかったものの、時折ランキング上位に食い込んでグリフィンドール生らしさを見せつけていたとのこと。臆病で自分の意見をはっきり言えない子であったため、はきはきして元気の塊であったジェームズ・ポッターやその仲間たちに憧れている様子で、彼らの言うことは何でも聞いていた従順な子。

 そして、

 

「かつての友に、シリウス・ブラックに対峙して……」

「あんな臆病な子が、なぜ。どうしてあんなときに限って……」

「それでも、なけなしの勇気を振り絞ったのだろう。彼も立派な男だったということだ」

「……、……失礼。少しハンカチを……」

 

 そして、十一年前。

 ヴォルデモート卿の配下であったとされるシリウス・ブラックを止めるべく、たった一人で彼に立ち向かったが力及ばず、殺害されてしまったこと。

 そして学生時代、ブラックとピーターはまるで、近所に住んでいるの兄貴分と弟分のような関係であったこと。そんな親しい関係であった二人が殺し合い、あまつさえ片方を殺害せしめてしまったという悲劇に六人は悲しげに目を伏せた。

 

「俺は、俺はブラックに会っとった。可愛らしいお人形みてぇだったハリーを、マグルの家に預けるときに。あんときに会っていたんだ」

「それは本当ですか、ハグリッド」

 

 ハリーはついに自分自身の名前が出たことで、身を強張らせた。

 フリットウィックがその微かに息を呑んだ音に気付いたのか、ハリーの方を見る。しかしその時ちょうどその間を横切った老魔法使いの息遣いかと勘違いしてしまったのか、首を傾げて話に戻った。

 危ないところだったと冷や汗を流して、ハリーはハグリッドの言葉の続きを待った。

 

「ハリーを送り届けるときに、俺は空を飛ぶバイクを借り受けた。ありゃーブラック家のシリウスっちゅー若者のもんだった。つまり、あ奴だ。あの野郎は言ったんだ、俺がダンブルドアからの任務だっちゅってもしつこく、しつっこく! 『ハリエットは僕が育てる。僕が育てて見せるから』だ、ってな!」

 

 スプラウトが小さく悲鳴をあげた。

 それもそうだろう。逮捕前であり、ヴォルデモート配下と知られていないその当時であればハリーを預かった彼は高笑いと共にハリーを殺しただろうから。

 それに思い至ったのか、フリットウィックとファッジがけしからんと憤る。

 しかし、とハリーは己の記憶に待ったをかけた。

 漏れ鍋の前で、ハリーはシリウス・ブラック本人と意図せずして二人きりで出会っている。

 確かにあの身体能力は狂的なまでに至っていたが、闇祓いたちに囲まれる前は違った。そしてハリーと目が合った瞬間の、あの顔、あの眼は確かに狂気が宿ってはいたものの、その中には困惑と逡巡の色が多く占められていたような気がする。

 あれは目の前の人物を、ご主人様のために嬉々として殺すような人間の目だろうか?

 

「もしハリーを彼に預けていたかと思うと、ゾッとしますわ……」

「ああ。ハグリッドもよく彼の言葉をはねのけてくれた。彼に渡してしまう理由は十分以上にあっただろうに」

「ハリーを見ているようで見ていない、あの眼を見ちゃあ……渡せんわな……」

 

 ハリーがシリウス・ブラックの、あの黒い眼を思い出している間に、話は進んでゆく。

 その中でもっとも目立った言葉は、『裏切り者』という単語だった。

 ブラックが裏切り者というのはどういうことだろうか。

 

「しかしあの男がグリフィンドールなどと。どうして我が寮に振り分けられたのか……」

「人は己の心の闇とは、誰しも一度は向かい合うもの。いくら騎士道精神あふれるものが配属される寮とはいえ、己の闇に呑まれてしまうこともあるということでしょうな……」

 

 シリウス・ブラックがグリフィンドール寮?

 それでは彼は、ピーターと同じ寮生だったということになる。

 それでいてもなお殺害せしめたというのは、なるほど、如何にも『まともじゃない』。

 

「それにしてもブラックの奴め。あやつは一度に三人もの親友を裏切ったということになる」

「ええ……ピーターとも常に一緒にいたというのに、粉々になるまで吹き飛ばしてしまうだなんて。人面獣心とはこのことです」

 

 はた、とハリーは気づく。

 しかし気付きたくなかった。

 ブラックとピーターが常に一緒にいた。

 それは、それはつまり。

 

「ああ、思い出してしまった。ピーターの死にざまは、そのような残酷なものでしたかな」

「その通りですファッジ。親指一本しか残されておらず、彼の老いた母親にはその欠片しかない肉片と、英雄的な勇気を称えてマーリン勲章が送られたとのことです。……そんなものより、生きた息子を返してほしかったでしょうに。あまり良い母親ではなかったようですが、それだけはぽつりと呟いていたことを覚えていますよ」

 

 ハリーはここから立ち去るべきかどうかを迷い始めた。

 あまり情報の入ってこない、自分の両親の死についての話。

 咄嗟に行動してしまったということもあるが、知りたいと切実に思ったのもまた事実。

 だがこれ以上聞けば、ろくな目に遭わないことはわかっている。

 だというのにハリーの足は、その場に根を張ったかのように動いてくれなかった。

 

「あの男のせいでハリー・ポッターのご両親が亡くなったのだろう。まったくとんでもない悪党だ」

 

 血が沸騰する。

 ポッター夫妻の死には、シリウス・ブラックが関与しているということか。

 なるほど、いかにもヴォルデモートの配下らしい。

 両親も殺すことができたのなら、その娘を殺してしまうのも道理ということか?

 

「うむ。彼が、『あの人』にジェームズとリリーの居場所を密告したと推測されております。彼が《秘密の守り人》だったのですから、彼以外に下手人はおりませんし、不可能ですぞ。推測と言っても、我々の想像の埒外のことがない限りほぼ十割事実と思ってもらってもよいでしょうな」

「フィリウス、それはまことか」

「真実ですぞ。ゆえに、彼が裏切り者。親友を裏切った愚か者です」

 

 ハリーは。

 己の想像が、妄想ではなかったことを確信する。

 マクゴナガルが唇を開くさまが、まるでスローモーションのように見える。

 まずい。この先を聞いてしまっては、己の感情を制御できる気がしない。

 ハリーは自分がかなりの激情家であることを自覚している。 

 この場を離れなければ。

 足の裏から床に張られた根を引きちぎって、逃げるようにハリーは歩みだす。

 しかし、行動するのがあまりにも遅すぎた。

 マクゴナガルの言葉は、背を向けたハリーの耳に飛び込んでくる。

 

「ジェームズとブラックは、まるで兄弟のような親友だったのに。何故殺そうなどと……」

 

 ハリーの足は止まらない。

 もはや気配を殺すことも忘れ、人にぶつかろうと全く気にならなかった。

 親友? 親友だと?

 頭の中で渦巻く激情が、唇からこぼれてしまわないように、左手で口を強く抑える。

 代わりに熱い絶望が、頬をはらはらと伝ってゆく。

 ハリーは今の話を、自分に置き換えて考えてしまった。

 ジェームズが自分で、ハーマイオニーがブラックだとして。芯から信じている、心から愛している親友に、死を以って裏切りを告げられる様を想像してしまった。

 それはどれほどつらい事だろう。

 どれほどに悲しかったのだろう。

 ハリーは両親がどのようにして殺されたのか、実はよく知らない。

 だがその絶望は、苦痛は、悲哀は、心が引き裂かれそうになるほどに理解してしまった。

 大量殺人犯……いや、両親の仇、シリウス・ブラック。

 彼女の手によって乱暴に開け放たれた扉が、抗議するようにベルを鳴らす。

 その窓ガラスが映した涙があふれるハリーの両目は、汚泥のように紅く渦巻いていた。

 




【変更点】
・恋バナ…の、真似事。愛って何だ?
・酷い目に遭うのはスコーピウスに変更。
・何がとは言わないが三年生後半で既に、ハリー>ハーミー。
・死んだ人間は美化される。

マローダーズマップ、つまりは忍びの地図。
今回はほとんど原作通りの進みとなりました。性別が変わろうと大しておおきく変動するイベントがないんだもの! 忍びの地図なしで頑張れというのも考えましたが、ええ。その場合この学年で詰みます。故にボツ。
ハリーがピーターとシリウスとジェームズの事を知ってしまいます。原作よりジェームズ達への情が薄いように見えるハリエットちゃんですが、かつて蔑んでいた自分はまっとうに愛していいのかなと思っているだけです。なので他者からどうのこうの言われたり、今回のようなことになれば普通に怒ります。
シリウスおじちゃんは無事ハリーに箒を贈れるのか? あなた()がいないと案外後々のストーリーに支障が出るのよ! 次回「マルフォイ死す」。 デュエルスタンバイ!


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6.ジェンダー

 

 

 ハリーは一人蹲っていた。

 談話室にも行かず、ハリーは一人でベッドに座り込んでいた。

 ホグズミードで、シリウス・ブラックが父ジェームズ・ポッターを騙し死に追いやった、親友であったのだという話を聞いてからずっと思い悩んでいた。

 店から飛び出したところを心配して追ってきたハーマイオニーとロンに、散々当り散らして。

 心配するがゆえに、しばらく静かにしておいた方がいいと判断した二人によって放っておいてもらっている。いまは、そんな状況だった。

 そう、それも過去の話である。

 ハリーは自分の目つきが、決してよくないことを知っている。

 それの理由も恐らくではあるが想像はついている。

 憎悪だ。

 ヴォルデモートに対する憎悪を忘れるときは、あんまりない。

 本当に楽しかったり、嬉しかったり、我を忘れるほどはしゃいでいるときは、あのような気持ち悪い男を頭の片隅にだっておいておきたくはない。

 だがそれ以外の、少しでも気持ちが沈むようなときは。常に奴の影が頭の中に居る。

 奴のことを想うと、自分でも不自然だと思うほどに殺意と憎しみが湧いてくる。

 瞳が濁ってしまうのも、無理からぬことだろう。

 

 ベッドから立ち上がったハリーは、誰もいない寝室で服を脱いだ。

 生まれたままの姿になったハリーは姿見の前に立ち、己の姿を眺める。

 まず目に付くのは、細い腕と細い脚、そして同じく細い腰。

 ホグワーツで勉強する傍ら、ランニングや筋力トレーニングをして、鍛えているつもりなのにほとんど筋肉がつかない。恐らく魔法なしでロンと掴み合ったら、あっさりと放り投げられてしまうだろう。

 次に見るのは、ここ最近でそこそこ膨らんできた胸。

 はっきり言って邪魔である。最近では飛んだり跳ねたりすると少し揺れて痛くなってきたし、下着も買い換えないといけないために本を買うお金が減ってゆく。

 ハーマイオニーやペチュニアの希望で黒髪も伸ばしているが、これも少々邪魔だ。うなじが隠れる程度にしているが、それでも激しい動きをすると時折視界をふさいでくるのでひどく邪魔くさい。

 グラマーな上級生を羨ましく思ったりもしたものの、今は、女の身であることが恨めしい。

 ハリーはトランクを蹴り開け、取り出した下着を身に着けながら己の胸と腹を眺める。

 マダム・ポンフリーによる呪痕のあとはもうほとんど残っていない。吸魂鬼に敗北し、治療を受けた際に施された例の刺青モドキだ。あれは精神的なものに作用する治癒魔法式だそうで、これが薄くなって消えるまでは激しく魔力を消費することを禁じられていたのだ。

 だが、これならもう大丈夫だろう。じっくり見なければわからないほどにまで消えている。

 制服を着こんで、寒いのでローブを羽織る。

 今頃、みんなはホグズミードで楽しんでいることだろう。

 あれからあまり楽しめなくなっちゃったし、無許可で抜け出すのはいけないことだし、ぼくの元気が出るように甘いものでもお土産にお願いね。と少しばかり卑怯な物言いでハーマイオニーとロンを送りだしたことを思い出し、胸がちくりと痛む。

 寝室を出て階段を下り、ぱちぱちと暖炉で薪が爆ぜる音以外には何もない談話室を抜けると、寒々しい廊下に出た。吹き抜けの中心では魔法で作られたかのような眩しくない太陽モドキが上下にゆっくりと動いて暖を振り撒いているものの、足の指先にくるかのような冷気までは拭い切れていない。

 ハリーは勝手知ったる足取りで階段を上り、廊下を歩いて、途中出会ったミセス・ノリスと目礼し合ってから、実技教室を抜けて、目当ての扉へたどり着く。

 扉の向こうでピーピーと甲高い音が鳴ったかと思うと、扉が独りでにぱっと開いた。

 ノックしようとした体勢のまま驚きで固まったハリーを出迎えたのは、くたびれたローブの男。

 

「やあ、ハリー。せっかくの日曜日に、何の用かな? ホグズミードへは行かないのかい?」

「両親が居ないもので、許可を貰えませんでしたので」

「……ああ。いや、すまなかった。ごめんよ」

 

 闇の魔術に対する防衛術の教授。

 リーマス・ルーピンだ。

 

「ルーピン先生。……確か、今年度の課外授業はあなたが受け持つはずでしたね」

「……、……そうだね」

「その第一回目を乞いに来ました。……今までのように、都合が悪いから延長というわけにはいきません。今すぐ、お願いします」

 

 昨年までスネイプと行っていた、実技方面に秀でた魔法の訓練。

 今年度からは彼ではなく目の前のリーマス・ルーピンが担当するとのことで、まね妖怪ボガートの授業の後、彼に教えを乞いに行ったのだ。

 しかし彼の返答はすげないもので、その日の都合が悪かったり職員会議があったり、ルーピン自身の体調が最悪に近かったりと、今まで一度も課外授業を行ったことがなかった。

 仕方ないのでスネイプに頼もうとすれば、奇妙に不機嫌な顔で追い払われてしまったので断念。結局、今年度に入ってから件の課外授業は一度もやっていないのだ。

 しかし今。

 ハリーは力を求めていた。

 ゆえに課外授業を通し、新たな力を習得したい。

 たとえルーピンが嫌がっても無理やりにでも、通さねばならない。

 

「すまないね、ハリー。ちょっと必要なことがあって……」

「……吸魂鬼もブラックも、待ってくれないんだ」

 

 ぴくりと反応する。

 白髪交じりの鳶色の髪を揺らし、ルーピンの目がまっすぐこちらを向いた。

 ハリーはその眼を、降り積もった疲労の中に一本の芯を垣間見せる瞳を真っ直ぐ見据える。

 いまの凍りついた心ならば、たとえ開心術を使われても本心を隠し通せることだろう。

 

「……ハリー。君はまだ十三だ。なにも急いで戦う術を学ぶ必要はない」

「……吸魂鬼も、シリウス・ブラックも。手段に違いはあれど、ぼくを襲ってくる際には一切の手加減をしません。その時になって、まだ十三歳だから見逃してくださいだなんて理屈が通じるとは思わないさ。だからぼくは攻撃的な魔法を学ぶ必要がある」

 

 ルーピンの目が細くなった。

 

「では守りの魔法を教えよう。なにもわざわざ、相手を倒す必要はないんだ」

「護ってばかりで勝てる戦いなんてものはない。いずれ突破されてしまうのが目に見えている。それに、必要ならあるよ。去年も、一昨年も。相手を滅さなければこちらが殺されていたんだ、殺らなきゃ殺られる。それがぼくの答えだ。……答えです、ルーピン先生」

 

 まっすぐと、嘘偽りなく心情を述べる。 

 恐らく、このくたびれきった教師相手に嘘は悪手となる。

 疲れ切った貧相な身なりと雰囲気をしている割に、目がそうではない。

 ダンブルドアやマクゴナガルにも見られ、スネイプ同様になにか強い意志を秘めた目だ。

 もちろんハリーとて、たかだか十三年しか生きていない小娘である。人を見る目が培われているとはとでもではないが言えないが、それでもこういったものは感覚で分かるつもりである。

 ハリーがドラコを、好敵手として認めたように。そういったものは、わかるつもりなのだ。

 

「……、……どうしても必要なんだね」

「ええ。すぐにでも」

 

 まるで明るい緑の目に射抜かれることを厭うように、ルーピンが目を逸らしながら言う。

 こうなれば野生の動物と同じである。彼はハリーの視線に負け、心理的に折れたのだ。

 長いため息をついて、ルーピンは扉を大きく開け放つ。

 入ってこい、という意味だろう。

 自分の意見を通したことで若干冷静な気持ちが浮ついたのを抑えながら、それでも遠慮なくハリーが部屋に一歩踏み入れて、

 

「ひぅわァ!?」

 

 悲鳴をあげて跳びあがった。

 懐から杖を抜いて向けてみると、やかましく騒いでいるのはハリーにも見覚えのあるものだった。

 《かくれん防止器(スニースコープ)》。怪しいものが持ち主に近づくと、ぐるんぐるん回って眩い光とやかましい音を撒き散らすことで、持ち主に危険が迫っていることを教えてくれる。

 ……ということは何か? ルーピンにとってぼくは危険人物だとでも?

 

「やあ、ごめんごめん。そのスニースコープは壊れててね。誰にでもそうやって吠えかかるのさ」

 

 ものすごく輝くにこにこした笑顔だ。

 ハリーは彼がわざと放置して反応を楽しんでいることを確信した。

 大真面目な話を終えて緊張の糸を解きかけていたハリーが座り込んでいるのを見て、さぞご満悦なことだろう。腹の立つことだ。

 

「さてハリー。君が覚えたい魔法を言ってくれ。君はなんの魔法を望む?」

 

 ずるい、と思った。

 これではハリーの知らない魔法を教えてもらうことはできない。

 ならば。と無茶な注文をすることにした。

 

「《身体強化呪文》と《守護霊呪文》を更に実戦向きに、消費魔力を少なく、より完全な形に近づけたいです」

「――えっ」

 

 ハリエット・ポッターは、割と意地っ張りな女である。

 ルーピンのこういう、のらりくらりと躱す態度はまったくの逆効果。

 女にあるまじき脳筋主義者。

 それがこの女、ハリエット十三歳だ。

 

「いや、えっとねハリー。その二つの魔法は、十三歳の魔女が扱えるような魔法じゃないよ?」

「完璧ではないけれど、十分使えますよ。守護霊がなければ吸魂鬼相手にお陀仏してますし、身体強化してなければヌンドゥ相手に昇天してます」

「ヌン……ッ!?」

 

 言葉を失ったルーピンの目が、とんでもなく険しいものとなる。

 まるで危険人物を見ているかのような目で、ハリーは少し居心地が悪かった。

 いやまぁ、確かに危険人物だとは自分でも思う。高速で走り回って守護霊ぶっ放して槍を飛ばしてきて確実な死を目的として魔法を放ってくる小柄な女。……普通に考えてアレすぎる。

 だからそんな眼で見ないでほしいなぁ、という願いを込めて微笑んでみるも、呆れた顔をされてしまった。いったい彼の中でハリーという少女にどんな結論が出たのだろうか。

 

「……はぁ。仕方ない。とりあえず《守護霊》の魔法を教えることにしよう。あれがあるとないでは、吸魂鬼への対応が随分と変わるからね……」

 

 そうして始まったのは、まず座学だ。

 変身術でもまず小難しい理論を頭の中にたたき込んでから、それを自分の身体に沿った魔法式に組み替えて魔法を使うことになる。個人個人、それぞれで違う肉体を持つのだから、魔法式もまた個々人で違うものとなってしまう。それが変身術が誇る高難易度の理由だ。

 《守護霊》魔法もまた変身術と同じ、いやそれ以上の理論を頭に叩き込む必要があった。

 ハリーとて握り拳程度か、それ以下のサイズの守護霊なら今の状態でも出せる。しかしそれは十秒もあれば霧散してしまう上に、一発放つだけの魔力消費もばかにならない。霧状の守護霊は無形守護霊というのは闇祓いたちから聞いているが、有体守護霊に用いられる魔法式の難解さと形状維持の難しさは、はっきり言って想像の埒外であった。

 しかもハリーは、《守護霊》を使えないと吸魂鬼相手に酷い目に遭うことを学んでいる。

 焦りから失敗を呼び、失敗は不安を作って不安は焦りを生む。

 悪循環であった。

 

 

 後日。闇の魔術に対する防衛術の授業にて、このまま吸魂鬼への対抗手段が得られなければどうしよう。という不安から、ハリーの前において《まね妖怪ボガート》が変身する対象が、ダーズリーから吸魂鬼に変わってしまった。

 ルーピンはこれに渋い顔をした。何故ならボガートは偽物とはいっても、人間がそれを本物だと思い込めばある程度の悪影響は出てしまうからだ。要するにプラシーボ効果であり、実際に幸福感を吸い取っておらずとも気分が悪くなってしまう生徒が出るになったのだ。ハリーもその一人だ。

 授業が終わった後の、グリフィンドール寮談話室。実技授業という楽しい時間を中断させてしまった原因になったことを落ち込んでソファに寝そべるハリーの横では、ここ最近で急激に仲が悪くなってしまったハーマイオニーとロンが口喧嘩をしていた。

 どうやらペットについてのことらしいが、ハリーにはそれに構う暇がなかった。むしろまともに内容を聞いていたら、沈んだ気持ちから八つ当たりしてしまうかもしれない。二人で喧嘩するなら二人でしてくれ、二人は親友なのだから、どうせすぐに仲直りしていつも通りになる。

 そう思って放置し、頭の中で守護霊魔法についての復習のために魔法式を組み立てていたところ、唐突に背中に重いものが乗っかってきた。

 

「ぐえぇ!」

「きゃあ!」

「あっ、ごめんハリー!」

 

 潰れたカエルのような悲鳴をあげて、何者かの尻を背中で受け止める。

 非力なハリーで跳ね除けることもできないので、上に乗ってきた何者かが滑り落ちるまでそのままであった。

 いったい誰が、と思えば何のことは無い、涙を流したハーマイオニーだ。

 ……いやちょっと待て。

 何のこともなくなくねーじゃねーか。ハリーは即座に原因であるロンの胸ぐらを掴みあげた。しかしハリーの身長より体重よりずっと大きく重いロンの体を持ち上げることはできないので、子供が大人にぶら下がっているような図になってしまった。

 

「ロン。ハーマイオニーに何をした? 一年生の時のこと忘れたわけじゃないよね」

「悪いけどハリー、今回ばかりは君の意見は聞けない。それに話を聞いていなかったろう」

 

 ハリーの肩に手を置いて引き離すロンの動作は、いつもより乱暴だった。

 掴まれた左肩が少し痛いが、ロンの顔を見ればそのような痛みを忘れてしまうほどだった。

 本気で怒っている。そして悲しんでいる。

 

「見ろ、ハリー」

「……? 君のベッドシーツか?」

「問題はそこじゃない。見ろ」

 

 乱暴な口調のロンに少しばかりの恐怖を感じながら、ハリーはシーツを眺めまわす。

 すると目立つところに、赤黒い染みがあった。結構な量だ。

 ロンが鼻血でも出したのかとも一瞬思ったが、それならばこのようにシーツの端っこだけに付着したりはしないだろう。

 ではいったい、だれの血なのか。

 

「スキャバーズだよ! 僕のペットの、老ネズミ! ()()()のクソ猫が喰っちまったんだ!」

「ちが――違う、わ――そんなんじゃ、ない――違うの――」

 

 しゃくりあげながら、ハーマイオニーはロンの絶叫を否定する。

 確かに、ハーマイオニーの飼い猫であるクルックシャンクスは、以前からスキャバーズを見るたびに親の仇を見るような目で飛び掛かっていった。そしてハーマイオニーは、ロンからそいつを処分しろだの隔離しろだの言われても、じゃれているだけと取り合わなかった。

 これだけを見ればハーマイオニーにのみ非があるように思えるが、ロンの感情的な説明であったために真偽のほどは定かではない。

 ほんの少しの情報でどちらが悪いかなどと、ハリーには判断できないのだ。

 彼はもう完全に理性がとんでしまい、ハーマイオニーを突き飛ばしたことすら理解できていないだろう。ハーマイオニーも感情が振り切れて泣き出しており、自分の言葉が信じてもらえない事とロンを怒らせてしまったことで頭がいっぱいになっている。

 ロンの肩を持てばハーマイオニーをショックでさらに泣かせてしまうし、かといってハーマイオニーの肩を持てばロンが烈火のごとく怒り狂う。我関せずで済ませたら、問題が解決しようがしなかろうが肝心な時に見捨てる奴と思われてバッドエンド直行だ。

 ……中立を貫くしかない。

 

「とりあえず二人とも、落ち着いて。ほら、ハーマイオニー。ハンカチ。……失礼な、綺麗だぞ。うん、よしよし。それでいい。落ち着いて」

「ハリーっ! ハーマイオニーの肩を持つのか!?」

 

 ほらやっぱり怒った。

 仕方ないのでロンを落ち着けるにはこれしかないか、とハリーは溜め息を吐く。

 今度はハリーの胸ぐらを掴んできたロン相手に、ハリーは冷静さを失わずに言う。

 

「落ち着けよロン」

「これがっ、これが落ち着いていられるか! 何年もいっしょだったんだ、家族なんだ!」

「だからさぁ、落ち着けって」

「何言っても僕の気持ちなんてわからな――むぐっ!?」

 

 ロンの視界と、そして口を塞いだ。

 彼からしてみれば、ハリーにローブのフードを下されて両目を覆われた直後、片腕でぎゅっと抱きつかれて唇に柔らかいものが押し付けられた。これではキスで黙らされたと思うのが普通だろう。

 案の定、顔を真っ赤にして口をパクパクさせるロンは静かになった。

 ハリーが左手でフードを開ける。

 そこでロンが見たのは、にこにこ笑顔のハリーが、右手の指を二本そろえてロンの唇に当てている姿だった。

 

「んふ。びっくりしたかな?」

「……びっくりした」

「それじゃ、落ち着いたかなロンくん」

「……うん落ち着いた」

 

 多少強引な手段でロンを落ち着かせたハリーは、今の光景を呆然と見ていたハーマイオニーと共にロンをソファに座らせる。

 遠巻きにこちらを見てくるグリフィンドール生が何人もいるが、ハリーはそれを無視した。

 

「じゃあ、まずハーマイオニー。感情を沈めて、冷静になって」

「う、うん。ぐすっ、ええ。わかったわ……」

「よし。なら次はロン。君も落ち着いて。怒鳴ってもいいことはないよ」

「でも!」

「よしよし、ロン。今度は本当にキスするぞ。みんなの目の前でだ。それとも何かな、またぼくの胸ぐらを掴んでおっぱい触る気だったのかい? このスケベ」

「~~~~~~~っ! わ、わかった! わかったから!」

 

 よし、とハリーは内心でガッツポーズした。

 今の文句はパーバティから聞いたものである。男の子はこう言えばイチコロだわさ! だ、そうだ。彼女の言った通り、ロンを一撃で黙らせることができた。視界の隅にパーバティが映ったので、成功したぞとアイコンタクトを送ったら何故か呆れられた。……何か間違ったのか。

 さておいて、ハーマイオニーとロンを落ち着けることには成功した。

 次は言い聞かせる番だ。

 

「うん。何度も言うようだけれど、落ち着いて聞いてね。ロンはスキャバーズをクルックシャンクスに食べられちゃったと主張していると。んで、ハーマイオニーはそんなことはないと否定していると。ここまではオーケー?」

「オーケーっていうか事実なんだから、さっさと」

「ロン?」

「ちょ、ちょっと待ったっ。顔近い、近いよ! わかった、黙って聞くから!」

 

 やはり反論しようとしたロンは、ハリーが顔を近づけるだけで慌てて顔を逸らして黙る。

 今まで友達としてしか見ていなかった女の子から、急に性別差を意識させることを言われたのだ。しかも言ってることは嘘ではなく、事実。ハリーの胸倉を掴んだときに胸に触れたのも、勘違いとはいえハリーのキスで動揺したのも事実だ。

 意図せずとはいえ、ハリーは思春期の少年に対して相当に酷なことを仕出かしているのだった。

 

「よろしい。ハーマイオニーもオーケー?」

「……うん」

「うん。じゃあまずは、問題はクルックシャンクスかスキャバーズ、どちらかを見つけてからだ。話の様子から見るに、二匹ともどっか行っちゃったんでしょ?」

 

 二人が頷いた。

 ハーマイオニーは弱々しく、ロンはぶっきらぼうに。

 

「だったらさ。まずスキャバーズが本当に逝ってしまったのかを確認してからでも遅くはないと思うよ」

「だから! さっきのシーツを見せたじゃ」

「ロンお前本当いい加減にしないとぼく、ぼくもうちゅーするぞッ!」

「ごめんホントごめん悪かった僕が悪かった顔真っ赤で涙目になってまで頑張らなくていいから。な、恥ずかしいんだろハリー。落ち着いたよ、僕落ち着いた」

 

 ふーふーと肩で息をするハリーを宥めて、ロンはようやく浮かせた腰をソファに沈める。

 ハリーは目元を袖で拭ってから、話を続けた。

 

「だからさ。ちょっと酷な物言いで悪いんだけど、スキャバーズの欠片でも見つかれば死亡は確定するだろう。その時になってからクルックシャンクスに是非を問うても遅くはないと思うんだ。それにロン、最近スキャバーズはどこへともなく逃げるって言ってたじゃないか」

「……、……そう、だけどさ。あ、いや。文句があるわけじゃないよ落ち着いてハリー。でも僕にとって、スキャバーズはかけがえのない家族なんだよ。彼が殺されたかもって思っただけで、冷静じゃいられない。デブでマヌケで、間違って踏まれるまで避けられないようなニブいネズミだったけどさ。それでも僕には可愛いペットなんだよ」

 

 寂しげに語るロンは、本当に悲しんでいるようだった。

 ハーマイオニーに目を向けて、何か言うことはあるかと問う。

 彼女は首を振った。

 

「私はクルックシャンクスが賢い猫だって知ってる。だから、普通の家猫みたいにただネズミを見つけたから追いかけて食べちゃうような子じゃないと信じてる。だから、えっと、だから……」

 

 ハーマイオニーはロンをちらりと見て、何も言わなくなってしまった。

 恐らく突き飛ばされたことが相当にショックだったのだろう。確かに、一年生の頃も二年生の頃も、彼と彼女は口喧嘩をしなかった年がなかった。親友ではあるが、性格が正反対と言ってもいい二人なのだから仕方のないことだと思う。それに、なんだかんだ言って仲直りしているのだから、ハリーはそれもいいと思っている。

 だがロンが直接手を出したのは、今回が初めてだとハリーは記憶している。殴ったわけでも、頬を張ったわけでもない。ロンにとっては、ただ押しただけ。

 しかしそれだけのことでも、ハーマイオニーにとってはとてつもない衝撃だった。

 ハリーもロンに同じことをされたら、泣いてしまう自信がある。ホグワーツに入って感情を我慢するくせがなくなってしまったものだから、びっくりして悲しくて涙してしまうだろうことは想像に難くない。

 ふわふわの栗毛を撫でて、いちど強めにぎゅっと抱きしめてから、ハーマイオニーは寝室に帰すことにした。様子を見て察したパーバティとラベンダーが、ハーマイオニーを女子寮へと連れて行く。

 

「ねえ、ロン」

「分かってる。やりすぎた。結果がどうあれ、突き飛ばしたことは後で謝る」

「……今じゃだめなの?」

「今は……うん。カッとなってるし、ハリーが頑張ってくれなかったらきっとあいつのこと、無視したりもっとひどいことを言ってたと思う。心から謝れないと思うんだ」

 

 そういうものか、と納得してハリーは目を閉じる。

 ディーンとシェーマスが肩をばしばし叩いて、乱暴にロンを慰める。

 問題を解決することはできないが、気分を晴らすことはしてやれる。そういった内容のことを言って、二人はロンを連れてどこかへ去って行った。馬鹿騒ぎでもするのだろう。

 一人ソファに深く沈み込んで、フーッと長い息を吐くハリーのもとには、パーシーがやってきた。

 

「お疲れ様、ハリー」

「……パーシーかぁ」

「なんだ、僕じゃだめかい」

「そんなことないよ、ありがとう。……君の苦労が少しだけわかったよ」

「それはどうも。うん、ハリー、君は監督生に向いているよ。ハーマイオニーがいなければ、五年生の初めには君の胸にPの文字が輝いていたことだろう」

「…………こんなのが監督生の仕事なら、もうこりごりだ。絶対に嫌だよ」

「あっはっは! そう言うな、三人組は冷静な一人が損をするものさ」

 

 さらりと下手くそに頭を撫でて行ったパーシーを見送っていると、両脇からがっしりと肩を組まれてびっくりする。驚きはしたものの、誰がやったかくらいはわかっているつもりだ。

 案の定左右を見てみればフレッドとジョージがにやにや笑顔でいたのだが、直後にハリーの胸の中に飛び込んできた赤毛にはびっくりした。

 ジニーだ。

 

「すごいわね、ハリー。あの二人の喧嘩を丸め込むなんて」

「我らがハリーは仲裁人さ」

「男女の喧嘩に持ってこい」

「「一家に一人のポッターちゃん、夫婦円満ご満悦ゥ。ヨッホーヨッホーヨッホッホー」」

「やめろバカ双子。あとジニー。顔ぐりぐりしないでよ、くすぐったい」

 

 悔しいことに、ジニーの方が背が高いのだ。

 更にフレッドとジョージに持ち上げられて、まるでネイティブアメリカンのような奇声と共に祭り上げられれば恥ずかしいことこの上ない。今年こそスカートの制服にしようと思っていて失敗したのを根に持っていたが、まぁこういったことをされるならズボンのままでよかった。

 三人はハリーを元気づけようとしてくれていることはわかっている。

 だったら甘えてしまえばいい。

 ハリーはジョージに肩車をしてもらったり、ジニーやアンジェリーナと踊ったり、無駄に歌って踊って騒いで過ごした。夜になってもはしゃぎ続け、どこからともなくフレッドが持ってきたお菓子や軽食を摘まみながら、特に何かある日というわけでもないのに大いに騒いだ。

 あまりにやかましかったためにマクゴナガルが怒鳴り込んでくるまで、そのバカ騒ぎは続く。

 暗い事の後は、やはり友達と騒ぐのが一番だ。

 ハーマイオニーとロンも、早く仲直りしてくれたらいいのに。

 

 夜。

 ハリーは忍びの地図を眺めていた。

 守護霊呪文の特訓は、今のところ順調ではある。

 弾丸程度の大きさしか出せなかった無形守護霊が、スプレー状に放射する形で一分は保つようになったから成長は見られる。ハリーにとってはあまりの難易度にもどかしい限りであったが、ルーピン曰くまるで元から使える呪文だったのかと疑うほどの上達率であるとのことだったので、別に覚えが悪いというわけではないようだった。むしろ異常なまでに良い方だとか。

 魔力を使い果たして枯渇寸前だったので、今日のところは早めに寝ることにしたのだ。

 談話室からは、ウィーズリーの双子がパーシーに怒られながらも煽っている笑い声が微かに聞こえてくる。それは心地よい子守唄であった。

 忍びの地図の様子から見るに、どうもパーシーを囲んで二人で周囲をくるくる回って遊んでいるようだ。文字が動いているだけだというのに、見ていてとても楽しい気分になれる。あの二人は人の心を暖める天才なのかもしれない。

 湯たんぽが熱く感じてきたので布団から蹴りだし、布団の中にこもった熱気を外に逃がすと途端に寒くなることを学習しているので、ハリーは布団の中でパジャマのボタンを解放した。パジャマがめくれているのか、腹に毛布の感触が直に来るのが気持ちいい。眠くて眠くて、今さら直す気にはならない。寝るときは絶対裸じゃないと嫌だという上級生もいるらしいが、そういった者達の気持ちがよくわかる気がする。今度やってみようか。

 ほうと一息ついてハリーは目を閉じる。

 数分して呼吸が静かになり、引きずり込まれるように夢の世界へ旅立とうとして……、

 

(あ、しまった。いや仕舞ってないけどしまった)

 

 忍びの地図を展開してそのままであることを思い出した。

 ハーマイオニーが寝室に来たときにあれを見たら、目に見えて不機嫌になることだろう。

 そいつはよくないと思って、重すぎる瞼を懸命に開く。

 うーん、何も見えない。

 もそもそと枕の下に入れてある杖を手に取って、無言呪文で杖灯りをともした。

 途端。

 

「――――ッッッ!?」

 

 目の前に髭面の男が現れた。

 見覚えがあるなんてものではない。

 シリウス・ブラックだ。

 

「きゃあ、ぁぐ――――ッ」

 

 甲高い悲鳴をあげようとした口を、乱暴に塞がれる。

 どうやら布団越しに馬乗りになっているようだった。

 ――なぜ気づかなかった!?

 これだけ近くに居ながらにして、息遣いも、体温も、匂いも、気配すら。

 なにも、まったく、これっぽっちも気づかなかった。

 魔法でも使ったのかもしれないが、杖を持っている様子はない。

 この状況で杖を取り出さず、妙な形状のナイフを持っていることからもそれは明らかだ。

 ブラックは鼻息荒く、ひどく興奮した様子でハリーに顔を近づける。

 

「――奴はどこだ! どこにいる!?」

 

 囁くような声量で、しかし怒鳴るような荒々しさ。

 ハリーの耳に、ぞわぞわと嫌な感覚が這入ってくる。

 

「言え、言うんだハリエット! お前は知っているはずだ……!」

 

 更に何を言っているか分からない。

 焦燥に駆られているのか、それとも憎悪を滾らせているのか。

 悪鬼めいた顔で、唾を飛ばして詰問してくる。ハリーの口を塞いだまま顔を掴む大きな手で、激しく揺さぶってくるのがまた恐ろしい。

 口をふさがれていようと、無言呪文なら魔法を放つことはできる。通常、ホグワーツの三年生では無言呪文を習得しているはずがない。ハリーの場合はクィレル戦で用いられて必要性を痛感したから習得したのであって、一般的に十三歳の魔女(ハ リ ー)が無言呪文を使えるとは思わないだろう。

 それがお前の敗北だ、とハリーは槍魔法でブラックの眉間を貫くつもりで杖を握り締める。

 布団がめくれたのか、冷たい空気が体に触れるのに気づくと同時、自分の状態を見て、――青褪めた。パジャマが、胸の危ういところまで肌蹴ている。下の方もずり下がっていて下着が見えているに違いない。

 

「ハリエット! はやくしろ! 悲鳴はあげるな。奴の場所だけ言えっ」

 

 いま、目の前にいるのは誰だ? ――シリウス・ブラックだ。

 ではブラックの奴は、何をしに来た? ――ハリーの殺害だ。

 さておいて、自分はいったいなんだ? ――十三歳の少女だ。

 そして今の格好から考えられることは? ――そんなの嫌だ。

 ハリーはその考えに至った途端、押し潰されるかのような恐怖に心臓を鷲掴みにされた。

 頭の中で組み立てられていた魔法式が霧散し、怒りが怯えに塗り潰される。

 怖い。ただひたすらに怖い。

 体が震えるのを感じる。

 恐ろしくてたまらない。

 涙がぼろぼろと溢れて、ブラックの手を濡らした。

 抵抗しなければ、貞操どころか生命まで危ないとわかっているのに、全く動けない。

 ブラックが言う何者かの位置を吐かせるために、ハリーの口から手が退けられた。

 普段ならここで即座に呪文でも叫ぶだろう。

 今の状況なら大声で悲鳴をあげれば、誰かがくるかもしれない。

 しかし、ハリーは。

 ただ嗚咽を漏らすことしかできなかった。

 

「――っ、」

 

 ハッとした様子のブラックが、目を見開いて仰け反る。

 しまったと呟くのが聞こえるが、ハリーにはそれを理解するだけの冷静さがなかった。

 普段ならば十代前半のちんちくりんを相手に、欲情されるわけがないと鼻で笑うだろう。

 だがタイミングが最悪だった。

 今年に入って初潮が始まり、月経というものを経験してしまったこと。吸魂鬼による精神傷の治療のため前身に呪痕を刻まれたせいで、自身の身体をよく見る機会があったこと。三本の箒で体が引っ掛かって、女性として成長しているのを自覚したこと。

 それらすべての要因が、ハリーに自身の性別を意識させていたのだ。

 慌てた様子で何かを言いながら、ブラックがハリーの上から退いた。

 涙に濡れたまま、ハリーが布団を胸に引き寄せてブラックを睨む。

 途端。

 

「『エクスペリアームス』!」

 

 ブラックの身体が、横薙ぎに吹き飛ばされた。

 彼が手に持っていたナイフが勢いよく弾かれて、ラベンダーのベッドの足に突き刺さる。

 過剰な余剰魔力によって壁に打ち付けられたブラックが、くぐもった呻き声を零した。

 何が起きたのかとハリーが目をやったところ、豊かな栗毛が膨らんでいるのではないかというほど憤怒した様子のハーマイオニーが、激しい息を吐きながら追撃の呪文を放つ。

 猫のような素早さで魔力反応光を避けたブラックは、そのまま窓に突撃してガラスをぶち破った。ここはグリフィンドール寮の塔の上だというのに、上空から落ちても助かる算段があるのだろうか。

 まさかそこから逃げられるとは思っていなかったのか、ハーマイオニーは驚いた様子だったが即座に魔力を練り上げて呪文を放つ。

 

「『フェネストラ・パリエース』、塞げ! 『インパートゥーバブル』、邪魔よけ!」

 

 閉塞呪文と、接触禁止呪文。

 両者を組み合わせたことによって、二度とあの窓だった穴から人が出入りすることはできなくなった。つまり、ブラックの再侵入を防いだのだ。

 どこか冷静な部分の残っていたハリーの心が、ハーマイオニーの行動をそう分析する。

 しかしはらはらと涙を流して震えていることからも、落ち着いているとは言い難い。

 杖すら投げ捨てて駆け寄ってきたハーマイオニーが、飛びつくようにハリーを抱きしめた。

 

「ハリーッ! ハリー、大丈夫? ねえ何もされてない!? ねぇ、お願い返事をして! ハリー!」

「……、ハー、マイオ。ニー……」

「ああ、ハリー!」

 

 もう増えないだろうと思っていた涙が、どっと流れ出す。

 目玉がふやけて溶けてしまいそうだ。

 ハーマイオニーに抱きしめられながら、彼女の胸に顔を埋めながら、ハリーは泣いた。

 大声で泣いてしまいたかったが、どこか恥ずかしさが残っている。

 彼女もハリーの頭を強く抱き寄せていることだし、くぐもって聞こえないだろう。

 うん、泣いてもいいんじゃないかな。

 

「……ぅ、ぁあ、あ――――」

 

 意外と聞こえるじゃないか。

 どこか冷めきった自分と、親友に抱きしめられて安堵してしまった自分。

 真っ青な顔をしたマクゴナガルが飛び込んできて、ハリーの様子を見てハーマイオニーと何やら話し始める。続いてパーバティやラベンダー、ジニーなど知り合いたちが次々と部屋になだれ込んできた。

 そんな騒動の中、ハリーはまるで、子供のように泣いた。

 泣き続けた。

 ハリーは自分が、自分はもう女の子なのだと、この日ようやく自覚したのだった。

 




【変更点】
・ルーピンがハリーの特訓に対して若干非協力的。
・ロンハーの喧嘩を仲裁。原作よりこじれなかった程度。
・性別について意識した発言が出来るように。
・自身の性別を残酷な形で自覚。レディの扱いがなってないぜ肉球(パッドフット)

【オリジナルスペル】
「フェネストラ・パリエース、塞げ」(初出・31話)
・封鎖魔法。窓や壁の穴などある程度の範囲内を物理的に嵌め殺しにして封鎖する。
 元々魔法界にある呪文。難易度は高いが日常生活用魔法の一種。

今回は、というか三年目はハリーが自分のことを思い知る話でした。
男の子扱いされることが多いため、女の子として身体が成長し始めたばかりなのもあって自覚が薄かったのでしょう。もちろんシリウスおいたんにそんなつもりはありませんでしたが、夜くらい部屋に一人で寝てると、ヒゲもじゃの殺人鬼に馬乗りになられて、口を塞がれる女の子。トラウマモノですよホント。
そしてロンとハー子の喧嘩も、ハリーが冷静に仲裁できたおかげであまり行き過ぎない程度に変化。ついでにようにさらりといなくなるスキャバーズ。伏線がいっぱいなお話でした。奴め……いったい何ーターなんだ……?
次回から最後までアクションシーンばかりになると思いますので、頑張ります。


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7.オリバー・ウッド

 ハリーは朝食の時間に、ドーナツを舐めていた。

 ブラックが女子寮に侵入した、あの恐ろしい夜。

 あれから、一週間が経った。あの時はひどく取り乱したが、今では平常心まで回復している。

 夜の暗闇に、またあの黒い目とヒゲが浮かび上がらないかと恐ろしくなってしまったので、いつかの時と同じようにハーマイオニーに一緒に寝てもらうことになっているものの、日常生活で唐突に動悸が激しくなるようなことは無かった。

 マダム・ポンフリーが安堵していたように、ハリーの心に傷が入ってしまい、トラウマになって男性恐怖症になる恐れもあったとのことだったのでハリーは心の根っこの部分では強い方のようだった。

 そしてハリーは、少しだけ変わっていた。

 以前までは時々、鬱陶しいからブラをつけないなどで、ハーマイオニーに注意されていた。

 今はそれがない。

 髪も自分で梳くようになったし、風呂上りにワイルドな格好もしない。

 ハーマイオニーが思うに、今までいろんな人に男の子扱いされていたから意識が薄かったものが、今回のことで子供から女性になりつつあることを自覚したのだろうとのことだった。

 

 んで、ドーナツが美味しい。

 昨晩は、ロンとハーマイオニーの喧嘩の影響なのかは知らないが、ペチュニアが好きなアニメ映画の夢を見たのだ。

 最近は怖い目に遭ってしまったことだし、たまには何も考えない行動をしてもいいのではないかと思ったハリーは、朝からミートソース・スパゲティを食べるのは胃に重いので、コーヒーとドーナツを注文した。

 すると即座に机に湧いて出た。湯気を立てるブラウンのコーヒーに、甘いドーナツ。

 コーヒーにちゃぷんとドーナツを漬けて食べてみると……、……微妙であった。

 やっぱりアニメはアニメかぁ、と肩を落としてもそもそドーナツを食べていたとき。

 上空から小包みが落とされてきて、コーヒーのマグカップを叩き割った。

 ああ、郵便の時間かと思いながら、ハリーの熱い黒い液体を頭からかぶったパーシーに清掃呪文をかけながらハーマイオニーが日刊預言者新聞を開くのを横目に見る。

 さて自分の荷物はなんだろうと目をやったところで、はたと嫌な予感がした。

 この小包みの形。一年生の時にも見たような気がする。

 

「は、ハリー。それ」

「その包みの形、ひょっとして……」

 

 ネビルとシェーマスが厳かに言う。

 確かに男の子にとっては垂涎ものかもしれない。

 この細長い包みは、明らかに箒そのものだ。うん間違いない。

 そして近年の競技用箒デザインで最も顕著なのは、まるでオートバイのように取り付けられた足置きの金具。包みの形から、それの存在がわかる。

 ハリーも少しドキドキしながら、包みを開く。

 ひょっとしてこれは……Fから始まってTで終わるあの箒なのでは……?

 ファイアーなかんじでボルトっちゃうのでは?

 もしかしてもしかしちゃうのでは!?

 

「わぁ、ニンバス二〇〇〇だ!」

 

 ……。

 …………。

 

「わぁい、ニンバス二〇〇〇だ! 嬉しいなあ!」

 

 …………。

 ……いや、わがまま言っちゃいけない。

 ニンバス二〇〇〇だって、とんでもなく高性能な箒なのだ。

 この近未来的な要素を取り入れつつ、古き良き箒の面影を残したデザインとかわぁいハリーニンバス大好きマジニンバス好き。ほんとうれしいなぁ。

 ただ、なにぶんファイアボルトが凄すぎるだけなのだ。

 あんなプロ仕様の箒を使ってしまったら、性能差だけで勝負がついてしまうだろう。

 ハリーとしては、そんなものはスポーツとして楽しくないと思うのだ。ロンやシェーマス曰く、その圧倒的性能がいいんじゃないかとのことだったが、男の子のそういう感性はよくわからない。わからないのだ。だから別にファイアボルトなんて欲しくないのだ。

 それにブレた変顔のアップでラストシーンを飾りそうな未来が見えてしまった。女としてそれは、なんていうか絶対どうしても嫌だ。

 

「やったじゃないか。ファイ……もといニンバス二〇〇〇なんて高級箒だぜ!」

「お、おう」

「そうさハリー! ファイアボル……とっても素敵な箒なんだよファ……イアボルトって!」

「せやね」

 

 周囲の気遣わしげな声がハリーの心に突き刺さる。

 ぼくったらそんなにひどい顔をしているのかな。いやまぁ、確かにファイアボルトなんじゃないか? と思ってわくわくはしたよ。でもさ、ニンバス二〇〇〇だって素敵な箒ってことはわかってるよ。分かってるんだけど、こう、なんて言えばいいんだろう。「ローン今日はステーキよー」「わーい国産一〇〇パーセントビーフだねーやったーおおっと実物見てみれば豆腐ハンバーグステーキ内訳豆腐九割じゃないかーこいつぁ一本取られたぁっていうか何故に日本食だよマーリンの耳毛ぇ」みたいな感じかな。いやニンバス二〇〇〇だって悪い箒じゃないんだってば。ただ今は二〇〇二もでてるし、型落ちかなぁと思ったりもしないけどほら、柄の曲がりっぷりとかイカしてるじゃないかカッコいいじゃないか見ろよニンバス二〇〇〇だぜ最高級品なんだすっごく速いんだぜ。

 

「おいハリー、戻ってこい!」

「ヤバいぞこれ。嬉しいのに嬉しくないっていう、意味不明な感情で頭がショートしてる!」

「しっかりしろハリー! こいつがあれば明日のクィディッチの試合は大丈夫だと思えよ。そうしたらまだ意識がはっきりするはずだ」

「ウッド、ハリーは君じゃないんだからその理論は無茶だ」

 

 ウッドの気の利かない一言を聞いて、ハリーは胃の中に冷たい鉄の塊を押し込まれたような気分になった。そう。明日、明日はクィディッチの試合である。

 初回の試合で吸魂鬼に襲われ、以降は学校の箒や友人の箒を借りての参戦となったクィディッチ。

 箒の性能がよくなかったと言い訳をしたくはないが、そのどれもが厳しい成績での終わりとなった。それでも絶望的な点差にならなかったのは、ウッドによってドーピングでもされたかのように、チェイサー連中が頑張ったのだ。時には相手がスニッチを捕ってもこちらが勝つほどの点差を付けたことすらあった。

 シーカーたるハリーは、吸魂鬼がピッチの外周をふわふわと漂う姿を見かけるだけで気分が悪くなってしまうのだ。

 一時期は代理のシーカーを探すよう願い出て、シーカー代理を探してみたのだが、それでも性能の低い箒にまたがった調子の悪いハリーよりも優れた乗り手がいなかったというオチがある。

 

「とにかく、その箒を使って明日は二〇〇点差をつけて勝つんだ」

「に、にひゃく……要するに五〇点差の状態で勝たないといけないわけか。おいハリー、大丈夫なのかよ。いや冗談抜きでさ。大丈夫か?」

「まあ、その点差をつけるのはアンジェリーナたちだから……。彼女らが過労死しないよう願うことしかできないな」

 

 今朝から三人娘の姿は見えない。

 きっと明日に備えてたっぷり体力を養っているのだろう。そうでなければ冗談でなくウッドに殺されてしまいそうな気がする。

 クィディッチ馬鹿で暑苦しくてクィディッチ馬鹿でクィディッチ馬鹿なウッドを、最後の年くらいは優勝させてやりたい。グリフィンドール・チームの面々は彼から迷惑もいっぱい被ったが、それと同じくらい恩を受けている。

 箒の扱いをアドバイスしてくれたり、練習を見てくれたり。なにより自分たちがここまでの力を得ることができたのは、チームに入って一番最初に施された彼の指導によるところが大きい。

 ウッドは名監督にはなれないかもしれない。だが、名選手であり、名リーダーなのだ。

 

「勝とうぜ、ハリー」

「……ああ」

 

 だから、勝たせてやりたい。

 嬉しさのあまりウッドを泣かせてやりたいのだ。

 明日の試合は、最後の試合。そして伝統の優勝カップ争いの対戦カードでもある。

 相手は、――スリザリンだ。

 

 ハリーは緊張と苛立ちで暴れる胸を押さえていた。

 試合当日。そして試合開始まで残り、十五分。

 ウィーズリーの双子と共に、ハリーたちは着替えるために紅色のクィディッチローブを抱えてグリフィンドール・クィディッチチームの控室へと入っていった。

 実のところ、ハリーの箒は未だに手元にない。

 あのあとハーマイオニーを引き連れたマクゴナガルがやってきて、ニンバス二〇〇〇を調べると言って持って行ってしまったのだ。ハーマイオニーの言によると、あの箒を送ってきたのはシリウス・ブラックである可能性が高いとのこと。

 流石の暴挙に男性陣が激怒。ただでさえクルックシャンクスとスキャバーズの件で孤立気味になっていたハーマイオニーを、そろって糾弾し始めた。

 ハーマイオニーの言い分としては、ハリーを殺害しようとしているシリウス・ブラックが箒に呪いをかけて、死に至らしめようとしている可能性がわずかにでもある限り見逃すことも妥協することもしない。

 男性陣の勢いに多少怯えながらも、それでもハッキリとハーマイオニーは言い放った。

 すべてハリーのための行動なのだ。

 もちろんのこと、ハリーとてショックではあった。しかしそれでいて、寮の中――それも女子寮にまでシリウス・ブラックが侵入してきたことを考えると、当然の処置でもある。あの時場に居たのがハリーだけだった場合、どんな目に遭わされるかなど想像もしたくなかった。寝間着で、無防備な姿を晒していたのだ。女として死よりも辛い目に遭う可能性すらあった事を考えると、今年に入るまであまり性別というものを意識していなかったこともあってひどく寒気がする。

 ならば仕方ないかとばかりに、泣く泣くニンバス二〇〇〇を差し出したのだった。 

 ……いい加減、現実に目を向けねばなるまい。ハリーの目の前では、ウッドが髪を振り乱し、泡を口の端から垂らし、血走った目と歯をむき出しにした口で、舌を突き出しながら叫んでいた。

 なんだこいつ新手の魔法生物か?

 

「クィディッチダ! 今日コソ優勝ヲ決メル最後ノチャンスダ! ウオオオオオオッ!」

「どうしたのよウッドの奴……ついに狂ったのかしら……?」

「仕方ないわよ。今回で二〇〇点以上の点数差をつけて勝てなければ、優勝杯が逃げていくんだもの。逆に言えば死に物狂いで成し遂げれば、優勝できる、ほんとうにギリギリのライン。冷静じゃいられないんでしょうよ」

 

 アリシアとケイティが呆れる前で、ウッドは制服のシャツをばりばりと胸筋のみで破って脱ぎ捨てた。暑苦しい筋肉美が現れ、あまりの熱に湯気を発生させている。

 グリフィンドール控室に入ってきたハリーとウィーズリー兄弟が唖然としている前で、なおもクレイジークィディッチマンは雄たけびをあげる。

 

「アオオオオオオアアアアア! フレッドジョージハリー早ク着替エロオオオ! 何ナラ俺ガ着替エサセテヤルゾオオオオオオオオッ! ギャオスアジャパアアアアハアアアアア!」

「うわああああああああ! やめろウッドマジでやめろブラウスが裂けるマジで脱げる脱げちゃう脱げちゃう今年こんなんばっかだぁぁぁ嫌だぁぁぁあああっ!」

「馬鹿やめろウッド! そりゃセクハラじゃ済まねえぞやめろ馬鹿!」

「冗談じゃすまねぇよマジでやめろ! 洒落んならねぇよ落ち着け!」

「ナラオ前ラダフレッドジョージ! ハリアップ着替エルンダファッキンビータードモォ!」

「「ぐわああああああああ! 俺らがパンイチにされちまったァァァ!」」

 

 まるで乱暴された後のように衣服の乱れたハリーは、白い肩が見えた状態のまま既にクィディッチローブに着替えたアンジェリーナに連れられて更衣室へと逃げ込んだ。

 ブラックの時のように恐怖こそしなかったものの物凄くびっくりして呆然としていたハリーは、アンジェリーナに頭を撫でられて幾分か落ち着いた後、ようやくクィディッチローブに着替えることに成功した。

 更衣室から出ると、ウッドがタコ殴りにされて簀巻きにされていた。

 女性陣に向かってジャパニーズ土下座を繰り出している。

 ハリーはそれを無視した。

 

「あと五分で試合開始だぜ……」

「セドリック・ディゴリーがハリーに箒を貸してくれるつもりだったのに、ハッフルパフの連中に必死で止められたみたいからなあ」

「まぁ、そりゃそうだろうね。この試合でグリフィンドールが負ければ、ハッフルパフは自動的に二位に繰り上がるんだからさ」

「好青年セドリックくんのスポーツマンシップは味方にも牙を剥いたのであったぁ~。そして僕たちにぬか喜びという爪も残していったのだぁ」

「あと四分……」

 

 ピッチでは既に、スリザリン寮からのものらしき野次と歓声が響いている。どうやら向こうのチームは早くもピッチに躍り出ているようだ。

 スリザリンのクィディッチチームは、謹慎の解けたドラコ・マルフォイを迎え直してさらに力をつけている。具体的には三位のグリフィンドールと二〇〇点差以上つける力を。

 不安のあまりウッドが危ない動きをし始めた頃になって、控え室にマクゴナガル先生が飛び込んでくる。ウッドが雄叫びと共に抱きついた。マクゴナガルが投げ飛ばした。

 控え室の床をごろごろ転がっていくウッドをチーム全員が無視して、マクゴナガルに続いて箒を抱えて持ってきたハーマイオニーとロンを暖かく迎え入れる。

 

「ハリー、どこにも異常はなかったわ。ごめんなさいこんなことして」

「いいんだハーマイオニー。……いやまぁ、悲しかったけど。ぼくのためにやったことだってわかってたからさ。ありがとうハーマイオニー」

 

 ハリーはハーマイオニーから紅色の布で包まれた箒を受け取ると、二人を抱きしめて交互に頬へキスをする。

 二人に笑顔を向けた途端、ピッチから笛が聞こえてきた。マダム・フーチからの催促だ。

 吼えたウッドが箒に乗らず振り回しながらピッチへ走り去り、三人娘が次々とハリーの肩を叩きながら箒にまたがり、ピッチへ出てゆく。フレッドとジョージがハリーの背中をばしんと同時に叩き、曲芸のような動きで箒に飛び乗ると、同時にピッチへ出て行った。

 

「ハーマイオニー、ロン。勝ってくるよ」

 

 そう言い残し、ハリーは箒に乗って飛び去る。

 垂れ幕を抜けてクィディッチピッチに出れば、やはり観客席は満員だった。

 異様なほどの熱気に包まれて、春も中ごろだというのにとてつもない暑さだった。

 

「ホォォォアアアアアアアッ! オッホー! ホォウホォウ、ホォォォ――――ッ! あびゃぁぁぁ勝ァつぞォォォ! 我々の勝利だァァァ! 見える、見えるぞォ! 優勝カップがァァァ――ッ! やったー勝ったー! わーいわーいバンザーイ!」

「ウッド! はやく箒に乗りなさい! 吼えてないで早く!」

 

 ピッチの芝生の上を走り回る狂った男を遠巻きに見なかったことにして、ハリーは目の前に浮かぶ男を見る。

 冷たい目つき、にやりと笑った口元、風に揺れるプラチナブロンド。

 グレーの瞳を細めて、ドラコはハリーを眺める。

 ドラコは何も言ってこないし、ハリーとしても何も言うことはない。

 プレーで見せるのみだが、それ以上に目を通して何が言いたいか分かる。

 あれだけ挑発的に見られれば、むしろわからない方がおかしい。

 そう、勝つのは自分だと。

 両者ともにそう言っているのだ。

 

「両キャプテン、礼! 正々堂々と勝負してください!」

「ウォォォオオ――――ッ! 僕が勝ァつ!」

「ウッドおまえマジやばいぜ! 最高だぜ!」

 

 ドン引きしながらも嬉しそうに笑うフリントを相手に、ウッドは吼える。

 選手全員がスタートポジションについて、フーチ先生が笛を鳴らす。

 試合開始だ。

 

「そらっ! もらったぁ!」

「ああっ!」

 

 宙高く放り投げられたクアッフルを最初に奪い取ったのは、アンジェリーナだ。

 スリザリン選手の男の子が悔しげな声を漏らす。

 ん? いや待て、あれはスコーピウスか。あいつ、チェイサーになったのか。

 縫うように飛びまわるアンジェリーナを止めようと、クライルが強烈な一撃をブラッジャーに叩き込む。その剛腕から繰り出されたスピードは、ウィーズリーズが二人で打った時並みのスピードが出ていた。片手打ちでこれなのだから、両手で打たれたものに当たれば怪我は必須だろう。

 しかし見える範囲で打たれたため、アンジェリーナはその攻撃を悠々と避けるどころか、スリザリンチームの選手を盾にする形で回避に成功する。

 スリザリン選手の誰かが芝生の上に叩きつけられるのを尻目に、アンジェリーナはクアッフルをゴールへ撃ち込んだ。キーパーが箒ではじく。が、はじいた先には既にアンジェリーナが躍り出ていて三つあるうちの、一番遠いゴールへクアッフルを蹴り込んだ。

 

「よし!」

 

 先取点である。

 二〇〇点差をつけて勝たなければ、グリフィンドールに優勝の輝きはない。

 つまり五〇点差がついた時点でハリーがスニッチをキャッチしなければならないのだ。

 相手がワンゴールでもしようものならば途端に厳しくなる。

 チームのみんなは、後先考えずに開始時からフルスロットルで試合に臨んでいる。体力の温存など考えていない。五〇点差をつければ、あとは獅子のエース。ハリー・ポッターが必ず、蛇の鼻先から黄金の鳥を奪い取ると信じているからだ。

 スリザリンボール。

 チェイサーのマーカス・フリントが鬼気迫る顔でクアッフルを抱えたまま、一直線にグリフィンドールのゴールまで突っ走ってゆく。

 

「格好の的だぜ、フリントくん!」

 

 その直線上に躍り出たウィーズリーズのどちらか(挑発的な物言いから恐らくフレッド)が、自分に飛んでくるよう誘導したブラッジャーをフリント目掛けて撃ち込んだ。

 暴れ玉は狙い違わずフリントの左肩に直撃するものの、多少バランスを崩しはしたものの止まることすらせずに、一直線にウッドのもとへ飛んでいく。ウィーズリーズの片割れが驚いた隙をついて、フリントに追随したクライルが体当たりで撥ね飛ばす。

 グリフィンドールのゴール前までやってきたフリントが、振りかぶって剛速球を投げる。真っ赤な軌跡はウッドに真っ直ぐ突進し、吼えたウッドが拳でクアッフルを弾き飛ばした。

 先のアンジェリーナと同じ動きで弾かれたクアッフルの方には、既にフリントがスタンバイしている。驚くべきことに縦回転して遠心力を用いて柄の部分でクアッフルを打ち込む。ウッドも両手を使ってセーブしようと試みるものの、彼の握力をすり抜けてゴールへと突き刺さった。

 

「ッハァー! ハッハーァ!」

 

 悔しげに唸るウッドに向けて、フリントが挑発的に叫んだ。

 両者とも七年生で、今年度が最後。二人ともプロチーム入りは決まっているものの、この七年間を優勝カップを巡って争い合った不倶戴天の敵にしてかけがえのない好敵手だ。

 今までの六年間は全てフリントの勝利。

 最後の一勝を上にそびえ立つ強者が手に入れて笑うか、追いかける敗者が掠め取って逆転するか。

 それがこのラストクィディッチにかかっている。

 青春などの代名詞にされるが、スポーツというものは総じて残酷なものだ。生まれ持った才能がほとんど結果に直結する場合が九割と言ってもいい。その一割という針の穴のように狭き門を狙って、才能を持たないスポーツマンたちは勝利の女神を掻っ攫ってモノにする勢いで争い合っているのだ。

 特にクィディッチのようなスポーツはそれが顕著である。

 まずもって性別。よほどの例外がない限り、男に有利なスポーツである。

 ここ三年間のグリフィンドールチームは男女比率が同じという珍しいチームとなっていたが、それはハリーやアンジェリーナたちが相手選手に掴まらないほどすばしっこく狡猾な飛行が得意だからだ。

 特にハリーはそれが顕著で、昨年の暴走ブラッジャー以外にはプレイヤーからの攻撃を食らったことは一度もない。チェイサーというもっとも相手選手と体がぶつかり合うことの多いポジションは、ビーターと同じくらい屈強な肉体が求められる。一方アンジェリーナたち獅子寮三人娘は、防御の一切を捨ててスピード一極でゴールを狙うという、あまりにも極端な選手なのである。

 一方スリザリンはがっしりした体格のパワー溢れる男性選手を重要視する傾向がある。クィディッチのセオリー通り、押して押して弾き飛ばすというスタイルだ。チェイサーが体当たりしてこようがビクともせず、ブラッジャーが当たろうが無視して突き進む。今年度はグレセント・クライルという恵まれ過ぎた筋肉を纏うマーリンの贈り物を持つ従来通りの選手と、スコーピウス・マルフォイというスピード重視の選手も迎えて、パワーで押さえつつもスピードで出し抜くというプロチームですら採用するチームメンバーに整えてきている。

 それだけ優勝にかける熱意がたっぷりとあり、負けられない戦いがある。

 両キャプテンの熱は最高潮に高まっているのだ。

 

「ゆくぞフリントォォォ! 今年こそは僕が、僕たちが勝つ! 勝ァつ!」

「もっと吼えろウッド! そいつが俺たちへの勝利のファンファーレだ!」

 

 上空から見下ろすピッチには、何時にもまして縦横無尽に飛び回る選手たちが見える。

 クアッフルがひとところに留まる瞬間などない。いつも誰かが持っており、チェイサーたちが思い思いの技を駆使してゴールへ突き刺そうとしている。

 ビーターたちとて負けてはいない。

 まるでブラッジャーを使ってキャッチボールでもしているかのように、滅茶苦茶な打ち合いを繰り広げている。ハリーは、ビーターが折れたクラブを放り投げてブラッジャーに当てるなんて芸当を見たのは初めてだ。

 二本目のクラブをベルトから引き抜いて、フレッドはその場で回転すると同時にブラッジャーを打つ。それは狙い違わずスリザリンのキーパーに命中してブロックを邪魔する。遠心力を利用した技が多いのは、箒という小回りの利くものに乗っているが故のクィディッチの特徴である。

 獅子寮が九〇点。蛇寮が三〇点。現在の点差は六〇点だ。

 つまり、いまスニッチを捕れば勝てる。

 

『スリザリンのボール選手がブラッジャーを打った! あいたっ! ケイティ選手に直撃! クアッフルを取り落して――やった! よく拾い上げたアンジェリーナ! そしてそのままゴォォ――、ル、成らず! スリザリンキーパーのマイルズ・ブレッチリーが《なまけもの型グリップ・ロール》で受け止めました! チッ、残念。……あっ、すみません真面目に実況します。スリザリンボールで再開。ブレッチリー選手がクアッフルを放り投げ、おいおい嘘だろう! ピッチの半分以上をすっ飛ばす驚くべき剛腕! そのままフリント選手がクアッフルを受け取り、うえっ!? 自分ごと突っ込んだ!? い、いや違う、《逆パス》だ――ッ! ゴォォォール! スリザリン十点追加ァ! ウソだろあいつプロかァ!? すっげぇ!』

 

 即座に点差が引き戻された。

 これで五〇点差。猶予がない。はやくスニッチを見つけて、獲らなければ。

 焦燥に駆られて上空からピッチを見渡すと、ふと緑色の軌跡が見えた。

 ドラコが急激にピッチの東へとすっ飛んで行った。螺旋状に回転しながら方向転換する《イレギュラーターン》を用いて、コメット三六〇の上限速度まで達するとコルク栓が吹っ飛ぶような唐突さで行動を開始したのだ。

 自分の身体が箒から吹っ飛ぶほどの危険技を用いたのだ、何かあるに違いない。

 すわスニッチを見つけたかと追いかけたところで、ドラコの前には金色の輝きがないことがわかる。ここでハリーはドラコの姦計に引っかかったことを自覚すると同時、脇腹への衝撃に吹き飛ばされた。

 ブラッジャーだ。クラブを振り抜いた体勢のクライルが見える。ハリーの小さな体はニンバス二〇〇〇から振り落とされるも、掴み続けていた左手のみで鉄棒で逆上がりするかのような動きをして姿勢を整える。一瞬見失ったドラコを探せば、今度は遥か下方、芝生すれすれの距離を蛇が這うような動きで動いていた。その手の先には今度こそ、黄金の輝きが見える。

 急降下したハリーは、途中すれ違ったウィーズリーズのどちらかにアイコンタクトを送る。近くまで寄ってきて初めてジョージであると判明したが、役割をこなしてくれるならばどちらでもいい。

 ジョージへとハンドサインで指示を出す。

 高速飛行するハリーの真後ろに同行させて、空気抵抗を殺した快適な飛行を提供する。

 

「やれッ、ジョージ!」

 

 ハリーの一声と共に、ジョージがクラブを振りかぶってブラッジャーをドラコに向けてたたき出した。狙い違わず向かっていくのはドラコの背中、真ん中、ジャスト。

 一瞬きらりと光ったフリントの箒の金具で背後を確認したドラコは、シーカーがブラッジャーを避けるときによく使う手である《トルネードグリップ》を使う。大きく螺旋状に飛行することで背後から迫る暴れ玉を避ける技術だ。

 しかしドラコの判断は失敗である。

 撃ち込まれたブラッジャーを追うようにして、そのすぐ後ろをハリーが飛んでいたからだ。

 自ら敵に道を譲った結果となったことに、ドラコが大きく悪態をつく。

 

「う、お、お、おォォォ――――――ッ!」

「さ、せ、る、かァァァ――――――ッ!」

 

 ハリーが雄叫びをあげて右腕を伸ばす。

 そこに突っ込んできたのは、鬼のような形相をしたフリントだ。

 筋肉に包まれた右腕をまっすぐ伸ばし、ハリーの首にラリアットを仕掛ける形で真正面から突進してくる。直角的な動きで避けたスニッチとすれ違い、フリントの攻撃がハリーに迫る。明らかなる反則行為であり、スリザリン応援席から歓声と、グリフィンドール応援席から悲鳴と非難が上がる。

 確かにこの攻撃行動は反則ではある。反則ではあるが、シーカーがスニッチを捕ればその時点で試合が終わるのだ。フリントのこの行動は、人道的にはどうであれ、勝利を渇望する者としては至極正しい。

 しかしフリントは大きな誤算に直面した。

 ニンバス二〇〇〇の最高飛行速度は、並みの箒では追いつけないレベルだ。当然まともな人間ならば、そのような速度を生身で飛んでいるときに不意打ちされれば、ろくな反応はできない。

 だがハリーは、《身体強化呪文》にて高速戦闘下での感覚に慣れているという経験がある。それはスポーツにおいても大きなアドバンテージを得る。

 ゆえに、

 

「な、ァ――!?」

 

 ハリーがニンバス二〇〇〇の上に両足を乗せ、その場で箒から跳ぶというのは予想外の極みであった。

 自殺行為以外の何物でもないその行動に、ピッチ中から爆発のような絶叫があがる。

 しかしハリーの身体は跳びあがると同時に空中で前転しながら、フリントの剛腕を回避。それと同時に、彼の背中に着地してみせた。そしてその背を蹴り飛ばして、ニンバス二〇〇〇に飛びつく。ハリーは多少バランスを崩しながらも飛行を継続した。

 想像の埒外を目の前でやってのけた異常事態に、競技場が歓声で爆発した。

 離れ業というレベルではない。今までのクィディッチでこの技をやってのけた者は、誰もいない。それも当然のこと、こんなことをしでかした選手は、公式記録上ではハリー・ポッターが初なのだ。

 

『何だ今のはァァァアアアア!? フリントの攻撃が外れる! ポッター迫る! 迫る! 迫るッ! スニッチに手が伸びる! 伸びる! 獲るか!? 獲っちまうのか!? ウオオオオオオオすっげぇぇええええええええ!』

 

 ハリーが獰猛な笑みを浮かべる。

 勝利を確信して、白い歯を剥きだしにしてスニッチへと手を伸ばす。

 もはや黄金の球が忙しなく働かせる羽根の動きすら見えるような、極限の興奮状態。

 羽根に触れた。

 どうあっても逃れようとする必死なスニッチの羽根が、ハリーの指先にちりちりと掠る。

 さぁ、ぼくのものになれ!

 心の中でハリーがそう叫んで、身を乗り出した、その時。

 

「――ッ、な――!?」

 

 突如ニンバス二〇〇〇が、がくりと速度を落とした。

 一年生の時クィレルにやられた呪いを思い出して、一瞬だけ身が竦む。

 スニッチは追跡者に隙ができた瞬間を見逃さず、無理矢理に方向転換するとわざわざハリーの手が伸びない方向、下へ向かっていって、その股下をすり抜けて消え去った。

 その様子を目で追っていたハリーは、何故自分の箒が止まったのかを理解する。

 掴まれているからだ。

 ドラコの手によって、箒の尾を捕えられていたのだ。

 

「~~~ッ、ドラコォォォ――ッ! きさま、きさまあっ!」

「くはッ、ははッ! あははは! やらせるかよポッター!」

 

 当然、これは反則。《ブラッギング》だ。

 フーチ先生が激怒しながら、グリフィンドールにペナルティーゴールを与えた。

 実況席でリー・ジョーダンが怒り狂って、卑怯だ卑劣だと罵声を叫んでいる。

 だが反則と卑劣さは、必ずしもイコールではない。

 確かにスポーツマンシップに欠ける行為ではあるが、これもフリントの行動と同じ。

 もし今ドラコが反則を犯していなければ、スリザリンは負けていたのだ。たかだか十点や二〇点程度のペナルティで済むのならば安いもの。

 勝利のために必要な反則なのだ。

 マダム・フーチが笛を吹き鳴らす。試合中断である。

 選手が次々と地面に降り立ち、ハリーのもとへ駆け寄ってくる。心配する者、よくやったと言う者。ウッドに至っては片時も箒から離れたくないのか、宙に浮かんだまま激励を飛ばしてくる。

 フリントとドラコが厳重注意を受けているが、にやにやしたままで全く反省した様子がない。

 

「卑怯だわ! あんな手を使えるだなんて、スリザリンの連中って、欲に負ける弱さしかないのかしら!」

「いや、それは違うな」

 

 激昂するアンジェリーナの言葉を否定したのはウッドだ。

 なぜかと視線を向けてくる副キャプテンに対し、現キャプテンは言う。

 

「確かにフリントらを初め、スリザリンチームに正々堂々という言葉はないだろう。だがそれこそが彼らの強みだ。卑怯ではあるが、弱くはない。いざというときは即座にラフプレーに走れる。躊躇いなく反則ができる。欲に負けたのではない、強欲なんだ。勝利への強欲さ。僕たちにはない強さだ」

「……それの何が強みなの? ただ卑怯なだけなんじゃない? 反則勝ちしたって、そんな勝利は空しいだけよ」

「わかってないなアリシア。この世界はやっぱり、勝者こそが全てなんだよ。僕たちだって、勝つためにはラフプレーをせざるを得ない時もある。例えばクアッフルの取り合い、例えばブラッジャーの打ち合い、例えばゴール前の鬩ぎ合い、例えばスニッチを巡る奪い合い。それら全てにおいて、彼らはどれほど卑怯と罵られようと迷いなく行動に出ることができる。コンマの世界で動く僕たちにとって、その即断即決は脅威以外の何物でもないだろう」

 

 そういうところに、僕たちは六年間負けてきたんだ。

 試合開始直前まで狂っていたとは思えない、悲痛な顔でウッドは呟く。

 認めたくないが、認めざるを得ない。

 卑怯さすら力となる非情なところは、スポーツ世界に共通しているところだ。

 スポーツマンシップは確かに素晴らしい。全員あって然るべきだ。

 だが、それを打ち破るほどに反則を是とする力は強い。強すぎるのだ。

 ならばこちらも反則を繰り出し、相手の顔に泥を塗るつもりで挑まねば勝ち目はない。

 そういうことなのだ。

 だが、しかし。

 それでも。

 

「僕らだけでも、正々堂々やつらに挑みたいじゃないか」

 

 ウッドが屈託のない笑顔で語る。

 彼は三歳の頃、父親の箒を勝手に持ち出して空を飛んでからクィディッチの虜だ。

 クィディッチという魅力的な女性に恋をしている。

 燃え上がるような、選手の人生を焼き尽くすような激しい恋を。

 ならば誠実あるのみ。

 口八丁手八丁で騙して絡め取って心を得るよりも、真摯な態度で囁いて真実の愛を得たいではないか。恋愛(スポーツ)とは、そういうものだ。

 ウッドの演説を今までまともに聞いたことはなかった。

 感情論ばかりであまり実があるものではないし、暑苦しいからだ。

 だがここに至って、最後になると実感してきて、そこでウッドは告白した。

 僕は、僕たちはクィディッチを愛していると。

 

『試合再開です! グリフィンドールボールでプレイ再開! おっと飛び出した! ケイティがクアッフルを抱えて、おお――っとォ、マジかよォ! 《ワスプス・フォーメーション》だ! しかも全員が《スクリューフライト》してるなんて信じられない! お前らのバランス感覚はどうなってんだ! カットしようとするもワリントン近寄れない! 誰も近づけない! そのままゴール目掛けて、シュゥゥゥゥト! 入ったあああああ! グリフィンドール十点追加ァァァ!』

 

 開始直後に点数を奪い取って、ウッドに見せつける。

 お前のチームは頼りなくないぞと。点を取った直後、ウィーズリーズを加えて五人で曲芸飛行をこなしてアピールする。ゴール前でそれを見守っているウッドは、吼えた。

 

「ウォォォオオオオオオオオオオ!」 

『うおーっ! ウッド選手吼えた! 気合が入っています、流石はクレイジークィディッチマンの異名をほしいままにする男! 空飛ぶ獅子の男です!』

 

 上空でその光景を見ていたハリーは、とても胸が熱くなった。

 チームがみんな、一つになってウッドの夢をかなえる手伝いをしている。

 ケイティ・ベルがワリントンのタックルを避け、クアッフルをパスする。ジョージ・ウィーズリーがクライルの放ったブラッジャーを打ちかえして、スコーピウスに当てる。スコーピウスの追跡を逃れたアリシア・スピネットが《スライドターン》でモンタギューのカットを避け、シュートする。ブレッチリーが弾いたボールをスコーピウスがキャッチして、三人娘を次々と避けて数秒でウッドにまで迫る。放たれたシュートを当然のようにキャッチしたオリバー・ウッドが、吼えながらクアッフルを投擲。追い縋ったフリントの腕にフレッド・ウィーズリーがブラッジャーを叩きこんで邪魔をして、アンジェリーナ・ジョンソンがキャッチ。そしてそのままシュート。

 

『入ったァァァ! グリフィンドール一〇〇点目ェ! タイム中に何を吹き込まれたアンジェリーナァ! いつもより動きが五割増しでヤバいぜ! COOL、COOL、COOOOOOL!』

 

 眼前で繰り広げられる激戦に、目を奪われそうになる。

 だがハリーは観客ではない。選手だ。それも、シーカーだ。

 目の前で口角を持ち上げて笑い続けるドラコもそうだ。

 ハリーは、この男と一騎打ちしなければならない。スニッチを見つける速度は互角。箒の性能はハリーが上。体格やリーチはドラコの方が上。勝負にかける獰猛さは互角。あとは、技量。そして勝利を追い求める熱意だ。

 スリザリンが得点した。……続けてまた得点。追いあげている。触れれば殺しかねない勢いで、マーカス・フリントが絶叫して指示を飛ばしている。

 試合が白熱し、もはや歓声なのか悲鳴なのか、全く判別がつかない。

 

「――ッ!」

「……ッ!」

 

 そんな中。

 ハリーとドラコは、同時に獲物を見つけた。

 観客席、それも貴賓席の真上。まるで様子を窺うように漂う金色の光を。

 両者が飛んだ。弾かれたピンポン玉のように飛んだ。

 肩を寄せ合い、我先にと貴賓席に向かって矢のように飛ぶ。

 ドラコがタックルしてきたのを、ハリーは横向きに宙返りするような動きで回避する。

 しかしそれを読んでいたのか、ドラコは腕を突きだし、ハリーの胸を殴ってきた。女性選手を相手にしているという気遣いが全くない。だが、真剣勝負の前に性別など些末な問題でしかない。あの夜とは違うのだ。今は、そう今は、勝つか負けるかのスポーツだ。

 よくもやったなとばかりにドラコの乗るコメットの柄を蹴りあげて、ハリーはさらにスピードを上げる。もちろん両者ともに反則であるが、こういうのは審判の目の届かないところでやるため反則扱いにならなければ、反則ではない。

 

「ぐ、おおお……っ」

「お先っ」

 

 痛々しい叫びと共に妙にへっぴり腰になったドラコに疑問は覚えるものの、都合がいいと判断してハリーはぐんとスピードを上げた。

 逃げ続けるスニッチは、貴賓席の隙間を縫って飛んでゆく。ハリーと、それに少し遅れて続くドラコもそれに倣って塔になっている観客席の隙間を縫って飛んだ。

 平行に飛んでいては逃げ切れないと判断したのか、スニッチはまるで《ウロンスキー・フェイント》を強要するかのように地面に向かって急降下する。二人は当然、それを追った。地面すれすれまで飛行し、半ば地面に接触したスニッチは、芝生を幾本も切り裂き巻き上げながらも逃避する。

 もちろん人間には同様の飛び方などできない。両者とも体を捩じるように捻って体勢を横たえると、全力で箒へ前進の命令を下した。

 すると急降下した際の運動エネルギーを残して地面に近づきながらも、水平に高速移動するという結果が残る。スニッチと二人の距離は、五〇センチたりとも離れてはいない。

 もはや腕を振り回せば、スニッチに当たる距離。

 

「最後に笑うのは……!」

「奴を捕えるのは……!」

「「ぼく()だッッッ!」」

 

 確信の絶叫。

 それと同時に、腕を突き出した。

 時速一〇〇キロ以上のスピードで飛ぶというバランスの悪い状態で、さらに体勢を崩したために二人が同時に箒から投げ出される。もんどりうって、怪我をしないよう二人とも赤ん坊のように丸くなった形でピッチ中央までゴロゴロと転がった。

 

 会場が静まる。

 スニッチが逃げ去ったようには見えない。つまり、どちらかが獲った。

 選手が全員、その場から動けなくなる。

 見る。視る。観る。

 二人ともぴくりとも動かなかった。

 恐らくであれば、一〇〇キロ超の速度で投げ出された衝撃で、気絶している。

 ウッドとフリントが降り立ち、二人のもとへ駆け寄った。

 その足音に先に気が付いたのは、ドラコ・マルフォイ。

 上半身を起こして、駆け寄ってくるキャプテンの姿を見た。

 ドラコの握り締めた手からは、折れ曲がった銀色の羽根が飛び出している。

 スニッチの、羽根だ。

 

「……見せろ。俺のスニッチを見せてくれ、ドラコ。俺たちの、勝利の証を!」

 

 勝った。勝ったのだ。

 フリントが厳かな手つきで、ドラコの握った手をほぐしてゆく。

 ウッドが悲痛な顔で、涙をこらえながらそれを眺めている。

 会場が湧き立った。

 スリザリン応援席から、怒号のような歓声が飛ぶ。

 ……しかし。

 

「……ああっ、ああああっ!」

 

 フリントの絶望した声が、それを掻き消した。

 ドラコの手には、羽根しかない。根元から千切れた羽根。

 まだ魔力が残っているのか、まるで自切したトカゲの尻尾のように蠢いている。

 では。

 ならば。

 フリントとウッドが、ばっと振り返る。

 ウッドが未だ気を失ったままのハリーを抱き起し、遠慮がちに頬を数度張る。

 可愛らしい呻き声を漏らして、少女はやんわりと目を開いた。

 

「ハリー。……ああ、ハリー。手を、その手の中を……見せてくれ」

 

 懇願のような、かすれた声。

 ウッドの泣きそうな、笑顔一歩手前でいて怖がっているような、そんな顔がハリーの明るい緑の瞳に映る。

 それでようやく、現状を思い出したのか。

 ハリーの頬に僅かな朱がさして、はにかむような笑顔を見せた。

 泥のように濁って光を灯さない瞳が、次第にうるうると色づき、まるでダンブルドアの瞳のように、きらきらと輝きを宿してゆく。

 ふわ、と溢れた涙が一筋、頬を伝ってハリーの握り拳に落ちる。

 

「ウッド」

 

 涙ぐんだせいで掠れた声が、静かなピッチに響く。

 名を呼ばれた一人のクィディッチ選手が、ああと頷いた。

 

「――優勝、おめでとう」

 

 蕾が花開くように、ハリーの指が解かれる。

 その小さな手の平の中には、破損して動かなくなった片羽根の金。

 それを見て、数秒ほど理解が及ばないのか呆然としたあと、ウッドは吼えた。

 ハリーを力いっぱい抱きしめて、その額に熱烈なキスをして、そしてまた吼えた。

 グリフィンドール・クィディッチチームの面々が次々と降り立って駆け寄ってくる中、ウッドに抱き上げられたハリーは、涙を流しながらも笑顔で腕を突き上げた。

 日の光に反射して輝くスニッチを見た観衆が、悲鳴と怒号と歓声をあげる。

 獲物を仕留めた狼のように吼え続けるウッドの目は固く閉じられ、澎湃と涙が溢れている。男泣きに泣いて、遂に泣き崩れてしまったためにハリーの身体が放り出された。

 それを受け止めたのはフレッドとジョージだ。二人ともから左右の頬にキスを貰い、よくやった偉いサイコーとばかりにばしんばしん背中を叩かれる。痛いなんてものではないが、今は興奮のあまりに何も感じない。

 アンジェリーナ、アリシア、ケイティがウィーズリーズからハリーを奪い取ると、頬やら額やら頭のてっぺんやらにキスの雨を降らせた。三人とも大泣きに泣いて、代わる代わるハリーをもみくちゃにしていった。

 ロンとハーマイオニーが抱き合って狂喜乱舞している。ディーンとシェーマスが大笑いしながら同じく笑顔のネビルをどつきまわしている。そこらへんから引っ張ってきたのか、巨大な犬やら不格好な猫やらを連れたハグリッドが吼えて喜びを表していた。

 ドラコが泣いている。

 泣き崩れるのだけはプライドが許さなかったのか、悔し泣きに涙を流しながらも、フリントに肩を借りてハリーの前から去ってゆく姿が目に入った。

 フリントとて、最後の年を勝利で締められなかったことが悔しいだろう。

 試合後に、整列しての挨拶。

 グリフィンドールチームもスリザリンチームも、各々理由は違えど涙でぐしゃぐしゃだった。

 マダム・フーチが両キャプテンに握手をと求めるも、フリントはウッドの頬を一発殴るだけだった。ウッドも一発殴り返し、そして二人して大声で泣きながら固く抱き合った。なんだかんだ言って仇敵同士ながら、それゆえに相手の気持ちを一番わかっていたのだろう。

 と、ハリーは都合よく解釈する事にした。

 頬を腫らして嬉しそうに泣き笑いするウッドが、一言祝いの言葉を述べたダンブルドアから貰った優勝杯を、高く掲げる。

 会場が声の嵐で爆発した。

 優勝だ。

 優勝したのだ。

 きっと今なら、吸魂鬼の一〇〇体程度、あっという間に追い払えるだろう。

 だって、だってぼくは、こんなにも幸せなのだから。

 

 

 試験だ!

 一週間ほどは優勝した浮かれ気分で過ごす事ができたが、そんなこと言っていられない。

 お祭り騒ぎが終わった後はいつもさみしいものだが、寂しいだけでなく勉強地獄が待っているとなればたまったものではなかった。

 残り一週間で試験が始まってしまうのだ。

 廊下ですれ違うたびにハリーを抱きしめて、ついにクィディッチからハリーに浮気したかと笑われていたウッドも、ハリーと出会うたび歌って踊りだしたウィーズリーズも、お風呂場で盛大にはしたなく騒いだ三人娘も、ロンもハリーもハーマイオニーも、みんなみんな勉強しているんだ大変なんだ。

 はっきりいって、去年とは比べ物にならないほど勉強量が増えている。

 この時初めて知ったのだが、ハーマイオニーは全ての教科を受講しているというのだ。

 談話室の一角を占領して大量の本を広げ、鬼気迫る様子で勉強する様はハッキリ言って恐ろしかった。

 

「ウィンバリーッ! 《梵字と古代ルーン文字の違い》について教えてッ!」

「ぁあ? そいつぁヒトにものを頼む態度じゃねぇなあ」

「チッ! 使えないわね」

「んだとコラァ小娘コラァ! なんつったコラァァァ!」

「ア、アーロン落ちついてくださぁい! あの子もイラついてるんですよぅ!」

 

 暴れ始めたウィンバリーを背後から抱きしめて制止するハワードを横目に、ハリーは羊皮紙を開いた。

 しかし目当てのものではなかったため、それを放り出す。

 机から転がり落ちたのを拾い上げたのは、トンクスだ。

 

「ハリー、落ちたよ」

「ありがとうトンクス。でも要らないや」

「ええ? どうして? 狼人間のレポートなんて凄くうまく書けて……ないね。途中だコレ」

「あー、それなんだけどね……」

 

 羊皮紙二巻きにもなるレポートを指して、ハリーはため息を漏らす。

 ほぼひと月前に、闇の魔術に対する防衛術の授業にスネイプがさっそうと現れたことがあった。

 皆のあげる疑問の声を無視して、ルーピンは性病でお休みだと適当なことを言い始めた。誰も信じていない様子だったが、更にそれを無視してスネイプは授業を始めた。

 内容は、狼人間について。まさかの試験範囲外の出題に、生徒たちは当然混乱した。

 おまけに羊皮紙二牧ものレポートという宿題の強要だ。

 ついでにいうと半分だけでもこなしたハリーは珍しい方だ。唯一きちんとこなしたのがハーマイオニーだけというオチだったため、性病から(?)復帰したルーピンによってレポートは提出しなくてもいいよと言われてしまった。

 こうして無駄にこの世に生まれおちてしまったのが、この人狼についてのレポートというわけだ。

 

「なるほどねー。んじゃ、ハリーこの宿題に関する資料持ってないじゃない」

「……ねぇトンクス。エルンペントの角の安全な取り扱い条項についてなんだけど」

「あーあー、私に聞かないで。三年生の内容なんてもう忘れちゃったよ」

「ちっ、使えないな!」

「うおおおおい、やめてハリーっ! そういうのやめてーっ!」

 

 仕方がないので、ハリーは夜遅い時間ながら図書室へ行くことにした。

 外出時間はとうに過ぎているため、《忍びの地図》で人を避けていくしかない。

 寮を出るハリーを見てカドガン卿が何やら騒いでいたが、「秘密の任務なり。卿には留守を頼む」と言えば厳かに礼をして見送ってくれるので、最近コイツの取り扱いが分かってきたような気がする。

 

「『ルーモス』、光よ。『我、良からぬことを企む者なり』ってね」

 

 羊皮紙にぼんやり光る杖を押しあてて、呪文を唱える。

 すると城の完璧な地図と、誰がどこで何をしているかが映った。

 以前のこともあって、まず真っ先にダンブルドアの名前を確認する。

 ……おや、校長室にいない。いや、マクゴナガル先生の部屋にいるようだ。スプラウト先生とフリットウィック先生の名前も一緒にあるので、恐らくお茶会だろう。スネイプ先生は……下の階の廊下でフィルチと向かい合っている。この二人のコンビは実に目によろしくない。

 注意して進むことにしよう。

 

「おっと、灰色のレディがやってくるな。別の道を行こう」

 

 レイブンクローのゴーストがいままでハリーが居た道へゆくのを見ながら、違う廊下を悠々と歩く。

 ハゲタカそっくりなマダム・ピンスが、図書室で本の整理をしていたので題名を述べて、目的の本を探してもらう。マダムは鬼のように厳しい人であるが、本が好きで、なおかつ大事に読む生徒のことはとても尊重してくれる。現にハリーが外出禁止時間に出歩いていても、笑顔でお勧めの本を教えてくれるくらいのことはしてくれるのだ。

 虐待同然の教育を施してきたダーズリー家ではあるが、「公共の物は大事にする」という教えをハリーにもダドリーにも施している。その方が世間ウケはいいし、いかにも『まとも』だからだ。

 理由はどうあれ、その教えの内容自体は悪くない。こうして仲良くなれる人もいるのだから。

 

「さて、誰にも知られないように戻るとしよう。なんかニンジャみたいだなぁこれ」

 

 テスト勉強に用いる《魔法史~子鬼の帰還エピソードⅥ~》と、マダム・ピンスに選んでもらった《口から砂糖を吐かせる呪い・実践編》をグリフィンドールの寮旗を模した巾着袋に入れて、未だクィディッチのせいでふわふわした気分のまま忍者歩きで寮を目指す。

 途中、当初姿は見えなかったが、すれ違う時に顔を見せてくれたしもべ妖精のヨーコと出会う。幾つか世間話をして、見つかると怒られますよと忠告されたので別れることにした。

 さっさと帰って勉強に戻ろう。

 とハリーが地図を見たとき、後ろの廊下から《シビル・トレローニー》という名前がやってくるのが見えた。確か占い学の教授だったはず。見回りだろうか?

 ともかく見つかっては大変なので、さっさと廊下を曲がってしまおうとしたところで。ハリーは地図上におかしな名前を見つけた。

 

「……、《ピーター・ペティグリュー》?」

 

 そんなはずはない。

 彼は死んだはずだ。ブラックに裏切られ、殺されて。

 それなのになぜ、こんな時間の廊下を、いやそもそもホグワーツを彷徨い歩いている?

 地図には確かに《ニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン》などといった、ゴーストの名前も表示されている。《ハリエット》の名前もしっかりとある。生者死者の区別はないらしい。

 ならば、ピーターのゴーストなのだろうか?

 

「誰も、いない……」

 

 杖を高く掲げて照らしても、影も形もない。

 名前はもう目の前まで来ているというのに。

 それなのに、誰もいない。いや、名前がハリーの目の前を過ぎて行った。

 ……冗談だろう。何もいない誰もいないのに、名前だけが歩くなんてことあるのか?

 

「故障じゃないだろうなぁ……古いものだって聞いたし、フレッドもジョ」

『アアアアアアAAAAAHHHッ!』

「きゃああああッ!?」

 

 あられもない声をあげて飛び退いたハリーの肩を、何者かが強く掴む。

 まるで男のように野太く掠れた異常な声だ。老人と男と女が三人同時に同じ言葉を発しているかのような、聞いていて不安になる声を発しているのは、まるで占い師のような恰好をした中年女性だった。ロンの言からするに、おそらくこの人がシビル・トレローニーだろう。

 ハリーは初対面ではあるが、しかし明らかに様子がおかしい。

 ハリーと同じかそれ以上に細いだろう腕から発せられる握力は、掴まれているハリーの肩に酷い痛みをもたらしている。

 

『AHァーッ! 月が満ち輝く夜にィィしもべは主のもとへ馳せ参ずるであろォォォオOOOHHHHッ! 人を喰らう狼はァAH、同胞に食い殺されェその生涯を終えるゥゥfhgdfゥゥゥ――ッ!』

「なっ、何なんだあんた!? 何を言っているんだ!?」

『心せよ姫君よォHッ、汝が死は汝が絶望は汝が心の破滅は刻一刻と這い寄っていRURURURUゥゥゥッ!』

 

 がくがくと震えだしたトレローニーは、ついに口から泡を吹き出した。

 こいつはヤバいと思ったハリーが誰かに助けを求めようと《忍びの地図》を覗き込み、すぐそこの曲がり角から《セブルス・スネイプ》と《アーガス・フィルチ》の名が走り寄ってくるのが見えた。

 ちょうどいい、助けを求めよう。と思うと同時、この地図が見つかるのはまずいと判断する。ハリーは小声で叫んだ。

 

『AHHッ! 闇が溢れるゥ! 泥が零れるゥ! 獅子身中の虫ィ! 刃を以って閃く闇ィ! あまねく闇がァ闇がァ闇が脈動していRUUUUUU――――ッ!』

「『いたずら完了』。スネイプ先生! こっち、こっちです!」

「ポッター、そこを退けッ!」

 

 慌ただしくやってきたスネイプに押しのけられて、ハリーは尻餅をつく。

 ガクガクと機械的な動きで大変なことになったトレローニーの目を覗き込み、スネイプは杖を取り出した。

 

「『クィエスパークス』、心穏やかに」

 

 暖かな暖炉の火のように揺らめく闇が、スネイプの杖先からするりと零れ落ちた。

 時折きらきらと煌めく闇はトレローニーのひび割れた唇から喉に侵入。するととめどなく溢れていた泡がぴたりと止まり、奇声をあげて髪を振り乱していたトレローニー自身もぐったりとスネイプにもたれかかった。

 スネイプ自身は彼女の体をフィルチに預けると、ダンブルドアのもとへ運ぶようにと命ずる。生徒は当然として教師にもどこか敬意を払っていないフィルチが唯一従順に従うスネイプからの命令に、彼は嬉々として従う。トレローニーの身体を水袋でも担ぐかのように抱えると素早く去って行った。

 

「それで、ポッター」

 

 冷たい声がハリーを貫く。

 未だに冷たい床にぺたりと座っている姿を見て、スネイプはハリーの手をとって立たせた。その際にズボンについた埃を払われたことから、完全に子供扱いされていることがわかった。

 いま女性の尻を触ったという自覚はあるのかい、セブルスくん。

 

「何を聞いた」

「え?」

「シビル・トレローニーは何を言っていたと聞いているのだ」

 

 鬼気迫る様子のスネイプに、尻をはたいたことを咎めようという気持ちが霧散していく。

 何故こんなにも必死なのだろうか。

 

「答えよポッター!」

「え、えっと。しもべが主のもとに馳せ参じるだとか、お姫様がヤバいだとか、闇がどうたらとか、なんか、なんかそういうの」

 

 驚きのあまり、そこまで詳細に聞き取れていたわけではない。

 あのトレローニーは発音も不明瞭であったし、何よりひどい興奮状態だった。

 覚えていなくても無理はないだろう。

 スネイプも無理に聞き出すつもりはないようで、こめかみを抑えると溜め息を漏らしていた。

 

「……まあ、よい。彼女には、ああ。妄想癖がある。そう、でっちあげの、世迷い事だ」

 

 まるでハリーにそう言い聞かせるかのような物言いで、スネイプは話を打ち切る。

 そして次に見せたにたりとした表情に、ハリーは悪寒を感じた。

 愁いを帯びた表情から、愉悦に満ちた表情へ移り変わる様はいっそ芸術と言える。

 ――ああ、コイツぼくをイジめるつもりだ。

 

「このような時間に何をしていた?」

「魔法薬学の教授に尻をはたかれていました先生」

「げほっ。まるでリリーのような物言いを……いや、なんでもない。――質問を変えよう。なぜ、外出禁止時間に出歩いているのかね?」

 

 話を逸らしやがった。

 ジト目でスネイプを睨むと、ばつが悪そうに目を逸らされた。

 これはいけるかもしれない。きっとハリーが男の子だったら、こんなことにはならずねちねちと嫌味を受け続けた挙句ご褒美として素敵な罰則を喰らっていたかもしれない。意外と便利だな、女の子扱いって。

 攻守が逆転してハリーが悦に入っていたところ、思わぬ反撃を受ける。

 ハリーが左手に持ったままだった《忍びの地図》を掠め取られたのだ。

 あっ、と声を出した時にはもう遅い。にたぁ、と笑われてしまった。

 

「おや、おや、おや。そんな声を出すということはこれは大事なものなのかねポッター? どうやらただの襤褸羊皮紙のようだが、そのような声を出すからには大事なものに違いない。つ、ま、り? これには何かあると見てよろしいのですかな?」

「え、えっと。その、つまり。あー、」

 

 ごまかそうと思って、微笑んで可愛らしくウィンクしてみる。

 チョップを喰らってしまった。お気に召さなかったようだ。

 

「ふむ。これは……『汝の秘密を表せ』」

 

 スネイプが杖を羊皮紙に押し当てて呪文を唱える。

 するとじわじわと文字が浮かび上がっていった。満面の笑みを浮かべたスネイプがそれをハリーに押し付け、読みたまえと尊大に言いつける。

 

「え、えーっと……『ムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングズの四人がセブルス・スネイプ教授に申しあげる』。…………、あー……」

「どうした? 読みたまえ」

「……本当にいいんですか? 怒らないでくださいね?」

「何だというんだ、言え!」

「怒らないって約束してください!」

「怒らんから早く言いたまえ!」

「『他人事に対する異常なおせっかいはやめた方が身のためですぞスニベリー殿相変わらずべったりとした髪の毛でねちねちとしているのかどうせ今でもパンツを洗っていないんだろう毎日してるもんだからカピカピに』……すみません先生ぼくにはこれ以上読めません」

「ポッタァァァァアアアアアアアア――ッ!」

「ほらやっぱり怒ったぁぁぁ――っ!」

 

 顔色が蒼白になるほど激怒したスネイプと顔を隠すように身構えたハリーのもとに、一人の教師がやってくる。

 トレローニーの絶叫もそうだが、スネイプとハリーの叫び声も相当うるさかったことだろう。

 やってきたのはルーピンであった。

 

「おいおいセブルス、落ち着け。どうしたんだい怒鳴ったりして。声が枯れるよ?」

「きさま! 学生時代だけでは飽き足らず現代に至ってまでも私を侮辱する気か!」

「え? いや、なんのこ――やぁハリー。感心しないなぁ、こんな時間に出歩くなんて。そろそろ寝る時間じゃないのかい?」

 

 がなり立てるスネイプに驚いた顔をしながらも、ルーピンはハリーを見つけてしかめっ面をした。ボガートを授業に用いるというルーピンの性格からして、悪戯や夜間外出くらいは認めてくれそうな感じがしたのだが、どうもハリーの予想とは違うようだった。

 ルーピンの台詞にハリーのことを思い出したのか、意地悪い顔つきになったスネイプは未だに新たな文字を浮かび上がらせている《忍びの地図》をルーピンに投げつけた。

 それを受け取ったルーピンの目の色が、明らかに変わるのをハリーは見逃さなかった。

 

「私が……いや、失礼。我輩が見聞したところ、それは闇の魔術が詰まった品のようですな。邪悪な、眼鏡とか。そういうのが。たっぷりと。貴方の管轄ではないのかね、ミスター・ルーピン?」

「え、あー。どうやらそのようだね。よし、ではこれは私が預かろう」

「では、ポッターの処罰は我輩に任せてもらおう。辛い、厳しい、素晴らしき罰を与えてやろうではないかポッター」

 

 あ、やばい。

 ハリーは直感的にそう思った。

 ブラックによる生命と貞操の危機よりも、厄介さでは上だと判断した。してしまった。

 懇願するような目をルーピンに向けると、ちょうどばっちり視線が絡み合う。

 片眉をあげたルーピンが、仕方ないなという目をしてスネイプに向き合った。

 

「いや、セブルス。それも私に任せてくれ。彼女には課外授業での課題があってね、それもついでに増やしてやろうかなと」

「いや、いや、いや。我輩にお任せあれ。それにポッターめの課外授業は、不本意ながら、渋々、仕方なく、去年まで我輩が請け負っていたのだ。彼奴めならば忌々しいことだが課題など残すまい」

「罰を兼ねた課題の追加だよ、セブルス。どうかここは私に免じて。ね?」

「……ふん。貴殿に免ずるものなどないだろうがね」

 

 そう吐き捨てて颯爽と去ってゆくスネイプの背中を見て、ハリーは心の底から安堵の息を吐いた。確かにハリーはスネイプへある程度の信頼を抱いていたが、それもある程度にすぎない。

 怒り狂った彼は、ハリーに対していったい何をやらかしてくるかわかったものではないのだ。

 スネイプが立ち去ったのを見て、ルーピンはハリーに向き直る。

 厳しい顔だ。

 ハリーはこれで、ルーピンから怒られることを覚悟した。

 

「どこでこれを?」

「え?」

 

 しかしかかってきた声は意外なもの。

 《忍びの地図》の出自を問うものであった。

 だがそれはそれで、困る。

 正直に話せばフレッドとジョージに迷惑がかかってしまうからだ。

 自分だけに処罰が来るのならば一向に構わないが、それで大好きな二人に迷惑がかかるのは勘弁願いたい。

 ハリーは俯いたまま、小さく唸ってしまった。

 

「……言えないんだね」

「……はい」

「そっか。なら、これは没収だ。『我、よからぬことを企む者なり』」

「えっ!?」

 

 《忍びの地図》が没収されるということにはがっくりきたものの、それよりルーピンが起動スペルを知っていることにハリーは驚愕した。

 なぜ知っているのか。

 それはフレッドとジョージ、そしてハリーしか知らないはずだ。

 

「ん? なんで知ってるのか。って顔してるね。……よし、セブルスは部屋に戻ったな」

「そ、そうです。なんで、《忍びの地図》を……」

 

 ハリーの驚き一色に染まった顔に満足したのか、ルーピンは笑顔を浮かべて地図を閉じる。

 表紙となる絵には、初代悪戯仕掛人たちの名前が刻んであった。

 

「起動スペルを知っているのは君たちだけじゃないさ。だって、知らなければ作れないだろう?」 

「じゃ、じゃあまさか……」

「そのまさかさ。私が悪戯仕掛人が一人、ムーニーさ」

 

 あんぐり開いた口を、はしたないよとルーピンに指摘されるまで閉じることができなかった。

 まさか、そんな。

 ルーピン先生が悪戯仕掛人の一人だって?

 

「え、ええ? じゃあ、他の三人は……」

「うん、共同開発者だから当然知ってる。どうせ君に隠し事をしても逆効果だ。そうだろ? 教えてあげよう。プロングズはね、ジェームズ・ポッターなんだよ」

 

 ジェームズ・ポッター。

 今もハリーのベッド脇にある、デスクの上に乗っている写真で笑っている人の名前だ。

 まさか。パパが。忍びの地図の製作者?

 

「驚いたかい? でもジェームズはかなりの悪戯っ子でね。親友と二人して、ホグワーツをしっちゃかめっちゃかに引っ掻き回してたもんさ。私もよくその場に居たけれど、うーん、彼らを止めるには苦労したね」

 

 パパが、いたずらっ子。

 ハグリッドに貰った写真の中でリリー・ポッターと共に微笑んでいたり、降りしきる落ち葉の中で踊っていたりする人物のイメージとは全く合わない。ハリーの持つ写真の中にいるジェームズは、眼鏡をかけた優しい顔つきの男性で、落ち着いた紳士然とした雰囲気を持っているのだから。

 それを言ってみると、「学生の頃は誰もが子供さ」と返された。

 なるほどとハリーは納得する。

 しかし、親友か。

 

「じゃあ。ワームテールかパッドフット、どちらかがシリウス・ブラックなんですね」

「……なぜ、知っているのかはもう問わない。やっぱり君は賢い子だ――賢すぎる――そうだよ、ハリー。パッドフットがシリウスで、そしてワームテールがペティグリューだ」

 

 それが本当だとしたら、なんという悲劇なのか。

 かつて四人で名乗った悪戯仕掛人という、楽しかった頃を想起させる名前の集団。

 そのうち二人は殺され、一人は殺し、一人はいまもここにいる。かつて悪戯して回っただろうホグワーツという思い出の地で、たった一人だけ。

 憂いを帯びた顔つきになったルーピンは、ハリーの肩に手を置いた。

 

「正直言って、君には失望したよ、ハリー。ジェームズがこれを知ったらどう思うか」

「え……」

「なぜ君が夜の廊下をうろついている? 忍びの地図を持っているということはホグズミードにも行ったね? ハリー・ポッターを守って死んだジェームズとリリーが気の毒だ。彼はこんなことをする君に持たせるために、この地図を遺したのではない。そう、決して違うんだ」

 

 ルーピンの気迫に、ハリーは申し訳ない気持ちになった。

 ハリーは思う、きっとルーピンはこう言いたいのだろう。

 『ハリーを命がけで守った両親の死を無駄にするつもりなのか』、と。

 とんでもない罪悪感がハリーの心を握りしめる。特にハリーにとって、ジェームズとリリーへの不義というものはダーズリー家でのトラウマの一部にもなっている。バーノンやペチュニアの言を信じて二人をロクデナシだと思っていた事実。

 ゆえにルーピンの言葉はハリーの心に突き刺さった。

 しゅんとしたハリーの頭をぽんと撫で、ルーピンは優しく言う。

 

「ごめんよ、ハリエット」

 

 さらりとハリーの黒髪を流し、ルーピンは踵を返した。

 いま、どうして謝られたのだろう?

 謝るべきは両親のことを軽視したハリーではないのだろうか。

 ハリーは胸の奥をちくちくと痛ませながら、重い足取りで談話室へと向かってゆく。

 そして、はたと思い出して振り返る。

 

「先生」

「なんだね、ハリー」

 

 あまり抑揚のない声が返ってきた。

 怒っているようにも聞こえ、少しだけ怯んでしまう。

 しかしハリーはこれを言っておく必要があると思い、声を出した。

 

「その地図、故障してるかもしれません」

「故障? 私たちの作った地図にかい?」

「はい」

 

 怪訝な顔をするルーピン。

 しかし猜疑に染まったその目は、続くハリーの言葉に驚愕に見開かれた。

 

「そこらへんをピーター・ペティグリューが歩いてるんですから。だって、彼は死んだはずでしょう?」

 

 心に余裕がない状態であったこと、すぐに振り向いて歩き始めたこと、すぐに杖明かりしか光源がなかったことから、ハリーは気付くことができなかった。

 ハリーの言葉を聞いたルーピンの顔がとても険しいものとなっていたことを。

 ルーピンの瞳だけが、闇夜の中で爛々と輝いていた。

 




【変更点】
炎の雷(ファイアボルト)だと思った? ニンバスちゃんでした!
・クレイジー・ウッド。此処までやって捕まらないのは偏に人徳。
・原作では炎の雷で圧勝、でもニンバスなのでいい勝負。
・嬉しければ泣く。悔しければ泣く。そういうもん。
・唐突に登場して予言を残して去ってゆく危険人物。
・ムーニーが仕掛け人の正体を暴露してしまう。

【オリジナルスペル】
「クィエスパークス、心穏やかに」(初出・32話)
・興奮状態を鎮める治癒魔法の一種。発狂した人間ですら元に戻せる。
 元々魔法界にある呪文。強力すぎるため、しばらく二日酔いのような症状が出る。

【クィディッチのオリジナル技】
《イレギュラーターン》
 螺旋状に回転しながら方向転換する技。相手に飛ぶ方向を気取らせない。
 特にシーカーがよく使う。
 
《トルネードグリップ》
 螺旋状に大きく横回転することで、背中に直撃するブラッジャーを避ける技。
 全選手共通だが、背後を見ないため当然難しい。

《ワスプス・フォーメーション》
 チェイサーが三人全員で飛ぶことで、タックルやブラッジャーを防ぐ技。
 映画でもやってる。ウイムボーン・ワスプスにて開発された。

《スクリューフライト》
 文字通り回転しながら跳ぶ技。相手チェイサーからのカットを防ぐ。
 下手をすると汚い噴水が撒き散らされるので気をつけること。

《スライドターン》
 文字通り箒を水平にしたまま、尾の先か柄の先を中心にスライドする技。
 本来はトリッキーな方向転換のために使う技だが、回避にも有効的。

今回はクィディッチ回でした。
愛すべきキャラクター、ウッドの見せ場にして最高の晴れ舞台。熱を入れ過ぎて今までで最長になりました。クィディッチやって地図とりあげられるだけなのに……。ファイアボルトなんて、自転車レースにジェット機を持ち出すようなものじゃて。いらないんじゃ。
あとはクライマックスに向かって突っ走るのみ。頑張れ、ハリー! 頑張れ、おいたん! セクハラの罪は晴れるのか!


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8.パッドフット

 

 

 

 ハリーは杖を振り回し、魔法式を構築する。

 練り上げた魔力が体内を循環して、杖先へと集約してゆく。

 声帯を震わせて言葉(スペル)を発し、イメージを確定させて魔法を放った。

 

「『ルーモス』、光よ!」

 

 ぽふっ。という軽い音と共に、杖先に明かりがともった。

 試験官がウムと小さく頷いて手元のボードに何かを書き込む。

 期末テストだ。ヨーロッパ魔法学校全体での学力調査のためだか何だか知らないが、期末試験では毎回魔法省から専門の魔法使いや魔女がホグワーツで試験官を務めている。

 試験監督はホグワーツの教師がしっかりと行っているうえに、カンニング防止用羽ペンなる者を用いている。特に羽ペンを採用してからのホグワーツでは、カンニングを成功させたものは皆無だ。

 つまり失敗してとっ捕まった不届き者は存在するということである。

 ハリーの杖灯り魔法を見届けたヒゲの生えた試験官が、光源を強弱するよう命じる。それにしたがって、ハリーは豆電球レベルの明るさから太陽のような輝きまでを杖先で再現する。ほほう、と口髭を撫でながら感心した声を試験官が出したことが、ハリーの自尊心を満足させてくれた。

 最後に追加点をあげるから、何か自分の得意な呪文を見せておくれと中年女性の試験官がハリーに言ってきた。それを聞いたハリーは、ではと前置きして何か頑丈なターゲットを要求した。

 

「『プロテゴ・パリエース』、堅き壁よ」

 

 口髭の試験官がステッキのように長い杖を振るうと、鋼鉄のような鈍い輝きを持つ円柱が床からせりあがった。ノックしてみると、鈍い音が鳴る。これは相当固いだろう。

 隣で実技試験を受けていたロンが「うわぁ」という顔をする。

 ハリーが嬉しそうな笑顔を浮かべていたからだ。

 

「では、見せてちょうだい」

 

 中年女性の試験官の合図と共に、ハリーは練り上げた魔力を消費して叫んだ。

 

「『アニムス』、我に力を!」

「身体強化呪文! 僅か十三歳で!」

 

 ヒゲの試験官が驚いた声を出すが、ハリーとしてはまだ驚いてもらっては困る。

 必要に迫られた習得した数々の呪文。実践するために覚えたものではあるが、努力して得たそれらが評価されて嬉しくないわけがない。ハリーは笑みを深くして、思い切り床を蹴って天井まで跳びあがった。

 天井に着地すると同時、掃除しきれていなかった少量の埃が舞い散る。それをバックに、ハリーは杖を振ってスペルを唱えた。

 

「『フリペンド・ランケア』、刺し穿て!」

 

 三本の紅い魔力槍がハリーの周囲に出現し、合図と共に円柱に突き刺さる。

 半分ほど突き刺さってはいるが、それでもいまだに破壊はされていない。

 試験官たちがざわざわとどよめいていた。

 

「何だあの呪文は」

「恐らく創作呪文でしょう。いやはや……」

「流石はハリー・ポッターか」

 

 天井を蹴って円柱に着地したハリーはさらに杖を振る。

 言うは一言。ルーピンとの課外授業で取得した、便利な魔法……というより、小技だ。

 

「『リピート』!」

 

 ハリーが一言だけ叫ぶと、先ほどと同じ槍が出現し、また円柱に突き刺さる。

 『直前呪文』である。この呪文よりひとつ前の呪文を、杖が記憶している限り繰り返すことのできる単純な魔法だ。理論さえ理解していれば魔力を送り込むだけでできるので、ハリーにとっては簡単極まりないことだった。

 

「『リピート』! 『リピート』! 『リピート』! 『リピート』!」

 

 まるでナールのように槍だらけとなった円柱は、哀れ破砕寸前である。

 杖を真っ直ぐ円柱に指して、ハリーは微笑んだ。

 

「『バースト』」

 

 途端、全ての槍が爆発。

 魔力で編まれた槍ということはつまり、魔力の塊である。

 そのためそれらすべてを爆発力に変換してしまえば、とんでもない威力になるのだ。

 試験官たちが驚いて声を上げるも、試験官の方へ飛んでゆく円柱の破片などはハリーが無言呪文で全て砕いているため危険はない。その異様な動体視力も、身体強化の賜物だ。

 ぱらぱらと床に散らばった欠片の降りしきる中、ハリーは優雅に一礼した。

 

「ブラヴォーッ!」

 

 試験官が拍手をする。

 調子に乗って散々好きにやってしまったが、どうやら高評価だったようだ。

 安堵と共に、もう一度礼をする。

 これで呪文学の試験はかなりの高得点を得ることができたはずだ。

 

 闇の魔術に対する防衛術。

 これの試験監督は、どうやらルーピンのようだ。

 太った魔女の試験官や、馬面な魔法使いの試験官が実技教室の端に座っている。

 教室の中央に宝箱のようなデザインの衣装ケースが置かれているのが目に入る。あれには見覚えがある。ハリーがルーピンとの課外授業でお世話になったボガートが入っている箱だ。

 

「試験番号一〇六番、ミス・ポッター。さ、前へどうぞ」

 

 馬面の試験官に低い声で言われたので、ハリーはさっさと前に出る。

 箱の前に立ち、ルーピンが開け放つ用意をした。

 ルーピンと目が合うと、悪戯っぽくウィンクされる。

 なるほど。

 好きにやれということですね。

 

「始めてください」

 

 試験官の声と同時に、ボガートの入っている箱の蓋が開けられる。

 飛び出してきたのはやはり吸魂鬼だ。万が一シリウス・ブラックになったときは騒然となるかもしれないと思っていたが、吸魂鬼でも十分どよめかれていた。

 身体が寒くなってきた気がするが、それは気のせいだ。ボガートにそんな力はない。

 つまりこれはハリーが吸魂鬼のことをトラウマとして見ているということ。

 ハリーは杖を構え、クィディッチで優勝した時のことを思い出して叫んだ。

 

「『エクスペクト・パトローナム』、守護霊よ来たれ!」

 

 スプレー状に広がった無形守護霊が、ディメンター・ボガートを抑え込む。

 試験官からどよめきと歓声があがった。

 《身体強化魔法》も《守護霊魔法》も、両方ともN.E.W.T.レベルだというのだから、十三歳の魔女が不完全ながらも両方とも習得しているというのは驚くべきことなのだろう。

 ハリーは杖を振るうと、スプレーのように広がっていた守護霊を一つに束ねて鞭のようにする。慌てるディメンター・ボガートの身体にするりと巻き付いた守護霊は、そのまま衣装ケースの中にダンク・シュートした。

 ルーピンがケースを閉めて「やるじゃないか!」と叫ぶ。試験官たちも興奮した様子でガリガリと手元のボードに何やら書き始めていたので、まぁ悪い結果にはならないだろう。

 魔法薬学。

 試験監督であるスネイプの無言の妨害を除けば、うまく《痩せ薬》を作れた自信がある。

 薬草学。

 多少手こずったものの、ネビルに教えを乞うたおかげで筆記は良い点を取れた自信がある。ただ実技では、試験に使われるはずのボウトラックルがハリーを恐れて逃げ回ってしまったので、どうなるかわからないのが懸念事項だった。

 魔法史。

 眠気が最大の敵だった。以上。

 

「うあ――――っ! 終わったァァァ――ッ!」

 

 談話室に寝転がったロンが、大声で叫ぶ。

 期末テストが終わって心の平和を享受するロンと、深々と溜め息をつくハリー。そしてすべてをやりきったかのように燃え尽きてぴくりとも動かないハーマイオニー。

 三人は人が慌ただしく行き来するグリフィンドール寮内で、だらりと過ごしていた。

 これであとは数週間、消化試合のような授業をこなすだけで今学期は終わる。

 ブラックが侵入するなどして大騒ぎにはなったものの、昨年の秘密の部屋騒動や一昨年の賢者の石騒動などは、その年の中ごろから前触れのようなものがあった。

 しかし今年はそれがない。ブラックのそれがそうだというのならば話は別だが、学校内の何かよくわからない奇妙で危険な場所で命が危ない状況に陥ることはないはずだ。

 概ね平和に終わった。そのはずだ。

 

「あっ、ねえハリー。ヘドウィグが来てるよ」

 

 ソファからずり落ちてさかさまになっているロンが、窓を見てそう言う。

 コツコツとくちばしで窓を叩く白フクロウは、確かにハリーのヘドウィグだ。

 ずり落ちてめくれあがっているロンのお腹がなぜだか気になったが、ハリーはとりあえずヘドウィグのもとへ急いだ。窓を開けると、春も終わりの暖かな空気が部屋になだれ込む。

 それと同時に談話室に入ってきたヘドウィグは、ハリーの腕にとまるとその足で握っていた手紙をハリーに取れと差し出す。ありがたくその手紙を頂戴すると、ヘドウィグは満足そうにホーと低く鳴いてから、ロンが食べようとしていたビーフジャーキーを掠め取って、さっさと窓から出て行ってしまった。

 文句を言うロンを宥めながら手紙を見れば、なんと、ハグリッドからだった。

 二人を呼んで――ハーマイオニーをなんとか起こして――手紙を開く。すると、バックビークが亡くなったことの悲しみを乗り越えた様子のハグリッドの文字があった。

 バックビークの写真を入れた額縁が完成したので、見に来ないかというお誘いだ。

 それって遺影なんじゃないかなとハリーは思ったが、受けないわけにはいかない。

 なにせ大事な友人が哀しみに打ち勝ってくれたのだから。

 

「ハグリッド!」

「おう、ハリー。なんだかしばらく見ないうちに随分と可愛らしくなったな。え?」

 

 自分の腹に抱きついてきたハリーの頭をぐわっしぐわっしと撫でながら、ハグリッドは相好を崩す。続いてやってきたハーマイオニーとロンの頭もごりごりと撫でて、三人を小屋へ迎え入れた。

 入った途端に三人の目に入ったのは、壁の一面を大きく飾る額縁だった。バックビーク――処刑されてしまったヒッポグリフの写真がデカデカと入っていた。他にも何かの魔法生物らしき写真が入っているので、これらは全てかつてハグリッドが飼っていた危険なモノたちなのかもしれない。

 

「……ねぇハリー。これ、アラゴグだよな?」

 

 ロンが耳元で囁いてきて、くすぐったくて耳を擦りながら指差した先を見る。

 大勢の蜘蛛に埋もれるようにしてハグリッドが笑顔で手を振り、隣で巨大蜘蛛が楽しげにハサミを動かしていた。あのかしゃかしゃという音が聞こえてくるようだ。

 うわぁ。

 捕食シーンのような様相を呈する写真を見なかったことにして、ハリーは他の写真へも目を移す。見るだけで何かがゴリゴリ削られそうな名状し難いよくわからない魔法生物と一緒だったり、ドラゴンと一緒に撮った写真も見つけた。おや、フラッフィーズたちと写った写真もある。

 ハグリッドがお茶を入れてくれたので、最後にバックビークの写真を眺めると、目を細めてハリーを見て、お辞儀をしてくれた。嬉しくなったハリーもお辞儀を返し、写真越しに撫でると椅子についた。

 こぽこぽと琥珀色のお茶がお手製らしいマグカップに注がれ、しばらく四人で香りを楽しむ。

 おっと。と声を漏らしたハグリッドが砂糖の入った陶器の器を棚から取り出し、木のスプーンを添えてテーブルに置いた。お茶菓子は久々に食べるハグリッドのロックケーキだ。

 ボヴァギヌファサと噛み砕きながら、ハリーはなんとなくハーマイオニーが砂糖入れを引き寄せているのを眺めていた。全教科の試験を終えるという偉業を成し遂げたのだ。きっと甘いものがほしいのだろう。

 そうして砂糖入れの蓋を取ったハーマイオニーは、短い悲鳴をあげた。

 

「スキャバーズ!」

「え? 君の猫が食い殺した僕の家族がなん……ごめんハリー足踏まないでくれ潰れる」

「君ら仲直りしたはずだろう。これ以上拗れるようなことはやめてくれよ」

「違うわ、ロン。スキャバーズが居たのよ、ホラ!」

 

 ハーマイオニーが差し出してきた砂糖入れの中を見てみれば、痩せ細ったスキャバーズが砂糖まみれになって丸くなっていた。

 歓喜の声をあげたロンがそれを拾い上げ、優しく抱きしめる。

 何か言うことは無いのかとロンをジト目で睨むハーマイオニーに対し、ロンは無視して愛鼠を可愛がるだけだった。

 

「ペットのことになると、誰しもがちーっとだけバカになっちまうんだ。ロン。それにハリーにハーマイオニーもだ。ペットのことはな、友達をなくさねぇ程度に精一杯愛してかわいがっちゃれよ」

 

 今のハグリッドが言うと重みがある。

 お茶会を終えると、テストが終わったのだから暇な時間ができるだろうということで次のお誘いを受けた。快く承諾して、三人は城へと戻る。

 道を歩いているとき、フシャアという声が聞こえたかと思うとハーマイオニーのクルックシャンクスが飛び掛かってきた。ロンがスキャバーズを庇って蹲り、ハーマイオニーが慌てて愛猫を引き剥がす。

 激怒しそうな顔になったロンが「その猫をどっかにやってくれ!」と叫ぶと同時、ハーマイオニーが固く拘束していたはずのクルックシャンクスが彼女の手をするりと抜けてロンの方へ、正確にはスキャバーズへと襲い掛かる。

 これは見過ごせないとハリーが躍り出て、ハーマイオニーには悪いがクルックシャンクスを叩き落とした。

 驚いた様子のクルックシャンクスがハリーとの距離をじりじりと測っている。まさかの愛猫への平手打ちという暴挙を行ったハリーに、ハーマイオニーがやめてくれと叫ぶ。

 もはや、仲直りだとかそういう状況ではない。

 しかしここで異変が起きた。

 もはやほとんど憎悪を見せていたロンの顔がハッとなり、スキャバーズをポケットに突っ込むとこちらへ駆け出してきたのだ。何をするつもりかと驚いたが、ロンの方が早い。

 

「ハリーッ、伏せろ!」

 

 いきなりロンに抱きしめられて目を白黒させたハリーは、彼の勢いのまま押し倒される。

 強く抱きしめられながらゴロゴロと転がりながら、ハーマイオニーの驚いた声を聞く。

 何故ロンがこんなことをしてきたのかという混乱は、彼自身の悲鳴で消し飛んでしまった。

 

「ろ、ロン!?」

「来るなハーマイオ、ごォあ!?」

 

 起き上がりざま、ロンは走り寄ってくるハーマイオニーに振り返って制止を唱える。

 しかしその言葉も、ロンに飛び掛かってきた真っ黒な犬が原因で途切れてしまった。

 巨大な犬はロンを地面にたたきつけると、そのズボンを咥えて引きずり始めた。どれだけ力が強いのか、ロンの必死な抵抗も空しくずりずりと連れて行かれてしまう。

 これに慌てたのはハリーとハーマイオニーだ。

 ロンの身体よりも大きい犬など、危険極まりない。しかも今は、ロンが連れていかれそうになっているではないか。

 あれだけ体の大きい犬だったら、ロンを食い殺すことすら容易だ。

 

「ろっ、ロン!」

「だめだ! 来るなって言ったろう!」

 

 引きずられながらも気丈に叫ぶロンの声は震えていた。

 当然だ。あんな目に遭えば怖くないはずがない。犬に飛び掛かられた際にぶつけでもしたのか、酷い鼻血がだらだらと流れている様も痛々しい。

 異様なまでの速度でロンを引きずってゆく巨大犬を追いかけるハリーとハーマイオニーは、ふと周囲が異様な雰囲気になったことに気付く。

 しかし今はロンを助けねばならない。

 木の根もとに大きく開いた(うろ)のような洞穴のような狭い隙間に、ロンが引きずり込まれてゆく。足を引っかけて必死に抵抗しているようだったが、乾いた木材がへし折れるような音と共に足がぶらりと垂れ下がってしまった。

 ハーマイオニーの悲鳴を聞きながら、ハリーは無言呪文で自らに《身体強化魔法》をかけると、その場を跳ぶ。倒れ込みながらも間一髪、ロンのローブの端を掴んだ。

 あとは無理にでも引っ張って助けるのみ。見殺しになんかできない。

 

「痛ッ!?」

 

 立ち上がったハリーの踝に鋭い痛みが走り、体勢を崩してしまう。

 次に、片膝をついたハリーの腕にクルックシャンクスが飛び掛かって噛みついてきた。

 ローブを離すわけにはいかなかったので痛みに耐えるも、今度はロンのローブの方に飛び乗ってゆく。ロンを引っ張り出す邪魔をされては本末転倒。

 なおもロンのローブを引っ張ろうとするも、クルックシャンクスに思い切り噛まれた手では、少々握力が不足していた。痛みのせいで力が出ないのだ。

 するりと手を抜けてしまったロンのローブを見て、ハリーが悲痛な声をあげる。

 

「ハリーッ! 上ぇ!」

 

 今度はなんだと見上げれば、まるで鞭のような何かがハリーに飛来してくるところだった。身体強化の恩恵で得た動体視力を使えば、それは何かの枝だということに気付く。

 はっと見上げれば、大量に枝分かれした先にある枝一本一本を振り回して怒り狂っているかのような様子の木があった。

 《暴れ柳》だ。

 近づくものはなんであれ叩きのめすようになっている魔法木であり、いったい何のために誰が創ったのか、もしくは何の意味があって進化してきたのかさっぱりわからない、はた迷惑な気だ。

 さらに去年はヌンドゥのウィルスをばらまいたという、はた迷惑どころか超迷惑なことをしでかしたやつだった。犬とロンを追ってこんなところまで来てしまったのか。

 ぺたりと地面にくっつくようにして攻撃を回避したハリーは、次いで左手足を地面につけて振り下ろされた枝を右向きに転がって回避する。

 次々と加えられる鞭のような攻撃を捻り、転がり、飛び、跳ね、まるで猿のように縦横無尽に動き回って次々と攻撃を避けてゆく。

 

「きゃあっ!?」

「ハーマイオニーッ!?」

 

 しかしそれもハーマイオニーの悲鳴がなければの話だ。

 暴れ柳が彼女の太ももに絡みついて、まるで人形のように振り回しはじめた。

 あの速度で振り回され続ければ、内臓が口から飛び出してしまうかもしれない。

 そんなグロテスクな光景は見たくない。

 何より、彼女が死んでしまうのは絶対に駄目だ。許されることではない。

 

「ハーマイオニー! だいじょ――」

「『カペレ』、掴めっ!」

「えっ?」

 

 突如発されたスペル。

 ハリーも以前使ったことのある魔法だったそれは、単純に相手を掴むだけの簡単な呪文。

 ただ、暴れ柳に捕まっている彼女がそれをやればどうなるのだろう。自明の理である。一緒になって空中を暴れ回るだけだ。

 

「うわぁぁぁっ! おっ、降ろしてくれえ!」

「なに泣きごと言ってるの!」

 

 厳しい。

 振り回されるハリーはハーマイオニーにしがみつくも、彼女の「今よ!」という叫び声と共に放り投げられてしまった。

 甲高い悲鳴を長々と叫びながら吹っ飛んだハリーは、先ほどロンの引きずり込まれた穴の中へとすっぽり入ってゆく。確かハーマイオニーは勉強が得意で運動が苦手な子、だったような気がするが、気のせいだったのかもしれない。

 ごろごろと穴の中を転がって落ちてしまい、少々どころではないが痛い。痛いが行動できないほどではない。後ろからハーマイオニーが降りてきて、二人がぶつかって重なり合わなければ。

 

「無茶したけれど、上手くいったわね」

「ハーマイオニー。ほら、胸の上から退いてくれ」

「……本当に大きくなってきたわね。憎いわコレ」

「いだだだだだだ! 揉むな! 引っ張るな!」

 

 もしその場に居れば、ロンが赤面しそうなことをやってのけるハーマイオニー。

 しかしふざけている場合ではない。硬くなりすぎていた緊張感は溶かすことができたが、ほぐし終えたのならば次は鎧をまとって戦いに向かわなければならない。

 ハリーは一度《身体強化》を解除して、魔力を温存することにした。

 あの巨大な犬の目的がどうであれ、ロンに危害を加えるというのならば容赦はしない。

 そう、大事な親友だからだ。

 朱く染まった頬を隠すように、ハリーはハーマイオニーと共に駆け出した。

 

「本当に暴れ柳の下にあるのか、この場所」

「ええ。変に整ってるわよね」

 

 そうなのだ。

 ハリーたちは全速力で道なりに進んでいるが、その道が妙に整っている。

 でこぼこがなく、何か石などでっぱりがないので非常に走りやすいのだ。

 明らかに人工的な手が入っている。つまりこの洞穴は何らかの目的を以ってして、暴れ柳の下に造られたもの。いや、逆かもしれない。この洞穴が先にあって、暴れ柳を植えたのだろうか。そう考えるとしっくりくる。

 暴れ柳という、誰も近づかないような植物の下に隠し通路。明らかに何かに見つかりたくない施設、または物があるのだろう。

 そんな場所を知っていて、なおかつそこにロンを引きずり込んだあの犬は、恐らくただの犬ではあるまい。

 魔法使いの訓練を受けた、いわゆる《使い魔》というやつか。はたまた知能の高い魔法生物か。ひょっとすると例によって闇の帝王の息のかかった何者かが操っているのか。下手をしたら動物もどきという可能性すらある。

 ハリーはハーマイオニーに杖を抜くようにと忠告して、自身も袖の中に杖を仕込んだ。

 洞穴のところどころに、樽やら木箱やらが見えてくる。

 明らかなる人工物。そして走っていた地面も、踏み固められた土から木板に変わっていった。どこかの建物の地下に続いていたのだろうか。

 

「……ハーマイオニー。見て」

「血だわ。……ロンのかしら」

 

 小声で囁き合い、床についた赤を見る。恐らく、ロンの鼻血だろう。

 点々と続いたそれは、どうやら階段を通じて上に続いているようだ。

 古ぼけた階段は、踏めば確実に軋んで音がする。

 あの犬だけがいるならば、まだいい方だ。しかしそれを操っていた魔法使いがいた場合はどうしようもない。気づかれてはならない。

 ハリーは十秒ほど集中すると杖を振り、無言呪文で空間を裂いて中から目当ての物を取り出した。甘いジュースのビンだ。魔力とは精神力に依存するものであるため、飲まないよりは飲んだ方が生成量はマシである。

 ハーマイオニーにも渡して、一気に飲み干す。空き瓶を捨てた時に音が鳴っては本末転倒なので、ごみも空間内に放り込んだ。そして取り出すのは、丸めた《透明マント》。手で持てるサイズの物のみがこの空間に出入りできる条件なので、こうでもしないと透明マントは持ちきれないのだ。

 それを被ったハリーは、無言呪文で《身体強化》を再開する。

 さっとハーマイオニーを抱きかかえ、耳元で囁く。

 

「いいかい、ぼくが階段を無視して跳ぶから、着地と同時に突入する」

「分かったわ。ハリーは右側と部屋の奥をお願い。私は左側と入ってきた扉の順に杖を向けるわ」

「オーケー。確かに奇襲されたらヤバいものね。後ろは失念してた」

「さ、行くわよハリー。王子様を助けてやりましょう」

 

 ハリーが目を閉じ、開けば泥のように濁った瞳が危険な色に染まっていた。

 ハーマイオニーもそこまでではないにしろ、覚悟を決めた目になっている。

 ぐ、と足を曲げてなるべく音をたてないようにして床を蹴る。

 滞空時間を短くして、ふわりと着地。そして素早くハーマイオニーを解き放った。

 いつもの真面目な彼女からは想像もできない動きを見せるハーマイオニーが扉を蹴り開けると、ハリーも同時に突入した。

 二人が同時に、それぞれ別々の方向へ鋭く杖を向ける。

 視界の先、右側には燃えるような赤毛の男の子が倒れていた。

 こっちに向けて何かを叫ぼうとしている。

 

「二人とも逃げろ! 奴だ、奴だったんだ! ブラックは動物もどき(アニメーガス)だ!」

 

 背後、つまりハーマイオニーの真正面から魔力反応光。

 彼女の身体が吹き飛ばされてハリーの矮躯を巻き込んで倒れ込む。

 独特な風切り音を杖が弾かれて空中を回転する音と断定。

 ハーマイオニーが背中越しに小さくハリーの名を呼び、次の行動を提案してくる。

 時間がないため渋々ながら承諾。ハーマイオニーの失神を確認。

 二発目の紅い魔力反応光がハリーに向かって飛んできた。

 ハリーはそれを、

 

「なにっ!?」

 

 ハーマイオニーの身体を盾にして防いだ。

 身体強化の恩恵により、その場を高速で離脱する。

 三発目の魔力反応光がハリーの向かう先に飛んできたが、袖口から飛び出させた杖を振るって無言呪文での『盾の呪文』で防ぐ。無事、壁に()()

 壁に押し付けられるような勢いが残っているコンマのうちに駆けだして、下手人の影へと跳び蹴りを放つ。向こうは驚きながらも冷静に回避したようで、その長い髪を幾本か引きちぎっただけで命中には至らなかった。

 半ば予想はできていたが、実際に目にするとあの夜のことを思い出してしまって鳥肌が立つ。だがこれはチャンスでもある。ジェームズとリリーの仇。そしてその親友、ピーター・ペティグリューの仇。そしてリーマス・ルーピンを裏切って傷つけた心の報いを受けさせることができるのだ。

 

「流石はハリエットだ。そこまで完璧な《身体強化魔法》が使えるのか。だが、瞬間的な魔力運用に粗が見えるようだな、無駄に消費しているぞ」

「黙れ。殺す」

「……恐ろしい子だよ、きみは」

 

 ブラックが振るっているのは、ロンの杖だ。

 芯が少しはみ出しているのが、ここからでも見えるお下がりの杖。つくづく敵に奪われることが多い杖だ。何かそういった運命にでも呪われているのではないだろうか。

 脂っこい髪とヒゲを振り乱すブラックは、素早く杖を振り、膨大な魔力を瞬時に練って編み込む。その早業は見事の一言に尽きた。見た目はともかく、その所作は美しいと評してすらいいほどの一つの芸術だった。

 

「本物の魔法を見せてやろう、ハリエット。『アニムス』、我に力を!」

 

 同じ身体強化か! とハリーが心中で叫び、その場から飛び退いてブラックの背後に回る。

 そしてハリーが見ていたのは、小汚い床だった。

 

「…………は?」

 

 脇腹が痛い。

 どういうことだ?

 いったい何が起き――、

 

「ぐっふ、お……!?」

 

 鳩尾に肘鉄での衝撃。

 吹き飛んだ先で背中に蹴撃。

 その場で浮いている状態で胸に拳撃。

 動きは見えている。だがこちらより数段早く、更には動きが精密的だ。

 ブラックは格闘技を習得しているに違いない。動きがどこかで見たことがある。

 最後にブラックは、ハリーの袖と胸倉をそれぞれ掴むと、背中を使って肩越しに投げ飛ばしてしまった。床にたたきつけられてウッと息が詰まったハリーは、右手から杖が蹴り飛ばされたことに気付くのにすら数秒を要した。

 そうか。ブラックは、シリウス・ブラックは、ハリーと同じタイプの戦い方をするのだ。

 身体能力を底上げして、高速化で物理的に相手を打ちのめすことを好む。いくら強力な魔法とて、当たらなければ意味がない。決闘における最強魔法である武装解除ですら、当たりさえすれば勝利が確定するという条件付きだ。

 更に相手の意識の隙をついて行動するのがうまい。

 現にハリーには、ブラックの動きを読むどころか、捉えることすらできなかった。

 こんなの、ハリーの完全上位互換じゃないか。

 これが、ブラック。

 シリウス・ブラック。

 

「ハリー、ハリーッ!」

「しっかりしてハリー!」

 

 数秒か数分か、どうも意識がとんでいたようだ。

 ハーマイオニーの声が聞こえるあたり、短くもない時間気を失っていたらしい。

 口の端に垂れていた唾液を袖で拭きながら、ハーマイオニーに助け起こしてもらってブラックを睨みつける。その手でくるくると三本の杖を玩んでいた。

 

「魔力配分の甘い瞬間を突かせてもらった。思い知ったろう、ハリエット。魔法戦闘にはパワーだけでなく精密さも、そして魔法に頼らぬ肉体の強さすら必要なのだよ」

 

 ブラックが諭すようにハリーに語る。

 何も反論できない。

 ハリーは自分が女であるために非力だと考えているが、それにしたって格闘技を覚えることでいくらかは緩和できる。日本の格闘技には、相手の力を利用して吹き飛ばすことのできるニンジュツすらあるというのだ。

 ハリーは何も言い返せない。

 攻めて何かを言い返したいと思い、彼の罪を責める事にした。

 

「友達殺しが偉そうに」

「だまれ」

 

 ブラックの憤怒の声が聞こえる。

 彼がもう少し理性的でなかったら、きっとハリーを蹴り飛ばしていただろう怒りだ。

 やはりこいつにはこの手で責めるのが有効的らしい。

 

「さあ、そいつをこっちへ寄越せ」

 

 ブラックが温かみを感じさせない、氷のような声で言い放つ。

 ロンに強く抱きしめられた。脚が折れ、鼻から下を真っ赤に染めて、引きずられている際にあちこちをぶつけたのか青痣まで拵えていながら、それでもハリーを守ろうと抱きしめて後ろに回し、自分の身体を盾にする。

 ハーマイオニーも抱き寄せるとハリーの隣に無理矢理引き寄せ、ロンは蹲った二人の壁となって両手を広げた。殺すなら先に僕を殺せと言わんばかりの眼光に、ブラックは目を見開く。

 そして一度固く閉じ、ゆっくり開くとロンの瞳を見据えた。

 

「ハリーは殺させない。僕の名誉に、命に賭けても二人は殺させない」

「……違う、私にハリーを殺せるはずがない」

「嘘を吐くな。僕を引きずり込んだ後、やっと殺せるって何度呟いていたか忘れたのか」

「ああ、嘘ではない。今夜私は憎き者を殺すのだ。十二年間、待ち続けた……」

 

 殺すのはハリーではない、ということか? しかしその後に否定している。

 ならばいったい誰を。ハーマイオニーか。それともロンか。それとも狂人ゆえの戯言か。

 ロンならば、先ほど引きずり込んだ際にさっさと殺してしまえるだろう。

 ならばハーマイオニーか。確かに彼女は、ブラックが女子寮に入ってハリーを襲おうとした際に、邪魔をしたことがある。恨みを持っていてもおかしくは……いや待て。

 あいつはあの時、ハリーを襲おうとしていたではないか。

 だが、だがあの時ブラックは「奴の居場所を言え」と言っていた。

 それはつまり、いったいなんの……?

 

「シリウス・ブラック!」

「むっ!」

 

 突如部屋中に響き渡った大声と共に、杖がブラックの側頭部に突きつけられる。

 先ほどハリーたちが入ってきた扉から中へ侵入してきたのは、くたびれたローブの男。

 ルーピン先生だ。

 

「先生ぇっ!」

「そいつです、そいつがシリウス・ブラックです!」

 

 ハーマイオニーとロンが叫ぶ。

 ハリーは知っているだろうさと内心思っていた。

 かつての親友。裏切りの友。友殺しの男。共に育った兄弟のような友人。

 知らないはずがなかった。

 

「ああ、知っているとも。大量殺人鬼の大馬鹿野郎さ」

 

 ハリーは直感した。

 ルーピンの物言いに、悪意や敵意といったモノが全くない。

 むしろ感じられるのは親しみ。そして親愛だ。

 ショックだった。人を信頼する事を知ってから、ロックハートに大人という者の本質を教わってから、まともに信頼できる大人というのは貴重だと思っていた。だから、だから彼は信頼できるのかもしれない、と思っていたのに。

 助けに来てくれた教師を見る目が凍りつくように冷え切って、ハリーの瞳が汚泥のように暗く濁った。その様を見ていたのか、ルーピンもブラックもハリーの目を見つめてくる。

 冷たく睨むハリーは、桃色の唇から絶対零度の責めを放る。

 

「裏切り者め」

「……ああ、私は裏切り者さ。いままでパッドフットを裏切っていたんだよ、ハリー」

 

 教師然とした、いかにも優しげな声でルーピンは言う。

 苦悩しているような、それでいて罪を受け入れているような聖人めいた顔に、ハリーは吐き気を催した。こんなモノを信頼していたのか……。

 ルーピンの言葉に苦虫を噛み潰したような顔で、ブラックが吐き捨てる。

 

「その名で呼ぶな、リーマス」

「拘り過ぎだよ、シリウス」

 

 親しげに名前で呼び合い、そして固く抱き合ったその姿は、間違いなく親友のそれだ。

 裏切っただとか、騙しただとか、殺しただとか、そう言った闇を一切感じさせることのない、煌めく夏の太陽のような友情。

 それを目の当たりにして、三人の顔が変わった。

 ハリーは憎悪に染まり、ロンは恐怖に染まり、ハーマイオニーは悲哀に染まった。

 

「なんて、ことなの……」

 

 ハーマイオニーがボロボロと涙をこぼして、しゃくりあげながら訴える。

 

「う、裏切ったのね。……グルだったんだわ。ル、ルーピン先生。……あなたっ、あなたやっぱり……人面獣心のけだものなのよ!」

 

 ハーマイオニーの嘆きと罵声に、ブラックが怒りに身を乗り出した。

 短い悲鳴をあげた姿を見て、ルーピンがブラックを止める。

 

「う、ううっ。先生が、手引きしていたんだわ。……ぶ、ブラックが校内に入れるように、教師権限を、も、も、持っているのなら、うっく、女子寮へだって、入れますものね! お友達のためなら、あなた、なんだってするのよ!」

「それは違う、ハーマイオニー。私はこの十二年間、シリウスの友ではなかった。本気で彼こそが悪だと信じていた。だが、今は違う。それだけの話だ」

 

 ルーピンの返答に、ハーマイオニーの流す涙の量が増えた。

 哀しくて悲しくて、しかしそれでいて悔しくて。ぼろぼろと泣き続ける。

 怯えながらも、涙を流しながらも、それでも睨みつけてハーマイオニーは叫んだ。

 

「先生を、せんっ、せんせぇを信じていたのに! ひっく。だから正体を知っても黙っていたのに、信頼に足る人だと思っていたのに。しょ、所詮は、狼人間だったのよ!」

 

 狼人間。

 スネイプが無理矢理に授業で出した、アレのことだ。

 そこでハリーはなるほどと合点がいった。

 魔法生物としての狼人間は、元は人間であるケースが現代ではほぼ十割である。かつて真祖の狼人間に噛まれた人間が、そのウィルスを体内に送り込まれて体組織が変質。そもそもの生物として変化させられて狼人間となってしまったのが始まりとされている。

 真祖の狼人間は、もはや絶滅したとされている。かつて今よりも闇が深く濃かった時代は吸血鬼もまた魔法使いたちの脅威とされており、天敵同士であった二種族で争って敗れたのが真祖の狼人間だったのだとか。

 それはまぁいい、上級生で習う魔法史の内容だ。

 問題は、人間をベースとして生まれた狼人間も真祖と同じく、月に一度満月の夜に瞳孔から芳醇な魔力の詰まった月光を取り込むことで、変化(メタモルフォーゼ)するのだ。

 巧妙に隠してはいたが、ルーピンは月に一度だけ授業にいないときがあった。毎月のことではない。実技授業が主体だったルーピンの闇の魔術に対する防衛術は、そもそも授業数が少なくすることでうまいこと本人の不在を隠していたのだ。

 何故なら、月に一度は狼人間に変身しているのだから。

 狼人間になった場合、人間としての理性はなくなる。ただのケダモノより性質の悪い別の何かに変化するのだ。その行動原理は食欲とも性欲とも言われているが、その中でも最たる性質は、闘争本能が人間の何十倍にも引き上げられるということだろうか。

 

「聞いてくれ、ハーマイオニー、ロン、ハリー。私は狼人間だが、まだ教師のつもりだ。君たちに真実を教える義務がある。私はそう思っている」

 

 ルーピンがそう言い、ロンの脚から血が流れている事に気付く。

 治療しようとしたのかは分からないが、近づいた途端にロンが鋭く叫んだ。

 

「ち、近寄るな、狼男!」

 

 うわずったその声に、ルーピンは酷く哀しそうな目をして、一歩離れた。

 その様子を見ながらも、ロンは激しく糾弾する。

 

「彼女たちを噛む気だろう、手を出すな怪物め!」

「やめろ! リーマスにそんなことを言うんじゃ――」

「黙れ、黙れ殺人鬼が! 絶対に、絶対に殺させないぞ!」

 

 そう、狼人間とはとにかく襲ってくるのだ。

 理性なく、周囲で動くものすべてに対して敵対的になる。

 これが狼人間が、魔法界社会で排斥される一番の理由だ。

 月に一度、人を認識できない危険な獣になる。しかも噛まれればウィルスを注入されて、同じ狼人間にされてしまう。そんな人間を、いや化け物と一緒に居たいと思う人間がどこにいるのか。答えは否だ。

 脱狼薬という魔法薬が開発されてからは、彼らにも多少は人権が認められている。元人間なのだ。それが当然だ。だが今までは狼人間に噛まれるとイコール人間としてすら見られていなかったことを考えると、これは大きな進歩である。

 だが世間は冷たい。

 人権があろうと、恐ろしい怪物であることに変わりはないのだ。

 ゆえに、ルーピンがホグワーツの教職を得るには相当な苦労があったのだろう。

 分かりやすい授業に、生徒たちと楽しく会話できる度量。優しい性格の先生。

 狼人間であろうとも、これだけ紳士的な男なのである。

 月に一度、暴走しすぎないようにスネイプ先生が《脱狼薬》を煎じていることも分かった。これだけ周囲に配慮しているのだから、他人に危害を加える心配はない。

 だからハーマイオニーは、ルーピンの正体に気付いていながらもそのことを秘匿したのだ。スネイプが狼人間の課題を出して気づくよう仕向けたのも、恐らくボガート・スネイプの一件を知っての怒りから八つ当たりに近いことをしたかっただけなのだと見抜いて。親友であるハリーとロンにも言わずに、ルーピンの名誉を守り通したのだ。

 なのに。だというのに。

 リーマス・ルーピンはシリウス・ブラックと通じていた。

 親友を裏切って殺したかつての友と、同類なのだ。

 

「リーマス、殺そう。早く殺そう!」

「落ち着けシリウス」

「もう待てない! 十二年っ! 十二年もこの時を待ったんだァ!」

 

 髪を振り乱し、激昂したかのように叫び回る。

 その様はまさに狂気。

 十二年分の殺意に漲らせた男の目は、汚泥のように濁った漆黒が溢れていた。

 ハリーはその眼を、いつも鏡越しに覗き込んでいたことを思い出す。奴はぼくと同じだ。長い年月を生きる力もないのに、憎しみを原動力に殺意で心を湧き立たせて無理矢理延命してきた、歪な有様。現状を打破できる力がないので、ただただ感情だけが溢れだして心の器がヒビだらけになっても尚、湧き出す心を抑えきれない。

 この男はそういう目をしている。

 いや、ひょっとしたらハリーより悪いかもしれない。ハリーには何もなかった。家族も、友も、心の拠り所が何もなかった。だが彼は違う。ホグワーツで悪戯仕掛人として過ごした美しい記憶があり、共に夢を語り合った信頼する友がいた。

 この男は自らそれらすべてを捨て、親友を裏切って殺したということなのか?

 そう考えると何かがおかしい。

 自分と同じ目をしているというのに、その選択肢だけはおかしい。ハリーがブラックならば、そう、ハリーが大人になってロンやハーマイオニーを裏切れるだろうか。

 当然、答えは否。断じて否。

 そんなことをするくらいなら死んだ方が余程マシだ。喜んで死のう。

 おかしい。

 あの眼をする人間が、たかだか赤の他人(ヴォルデモート)のために親友を裏切るなど、できるはずがない。もっとも、学生の頃からジェームズたちを欺いていたというのなら、話は別だ。現にルーピンという仲間もいたのだ、絶対にできないということは無い。

 だからこれは賭けだ。

 ハリーにとって、有り得ないほどに分の悪い賭け。

 しかし他に手はないのだ、

 目玉が飛び出しかねないほどに大きく見開いて、ブラックはこちらに向けて怒鳴る。

 

「そいつをこっちに渡せェ!」

「いやだ! お前にハリーを殺させるものか、絶対にだ!」

 

 ブラックの叫び声に、震えながらもロンは勇気を振り絞って大声で返した。

 両手を大きく広げたまま、英国魔法史の中でも最悪の部類に入る殺人鬼を前にして、身を挺して二人を守る姿勢を崩さない。

 それはどれほどの勇気なのだろう。どれほど自分たちを大切に想ってくれているのだろう。ハリーはこんな時だというのに、なんだか嬉しくなってしまった。

 だが今はそんな場合ではない。

 ロンを殺させるわけにはいかないのだ。

 

「やめろ、ロンを殺さな――」

「渡すのはそいつだ! そのネズミだッ!」

「いでくれ……えっ、ネズミ?」

 

 思考が停止する。

 ネズミ? どういうことだ。

 この場でネズミというと、ロンが左手で握り締めているスキャバーズしか有り得まい。

 まさかこいつは遥々ペットのネズミをぶち殺すためだけにアズカバンを脱獄したとでも言うのだろうか。

 

「……ネ、ネズミ? こいつ、こいつか。スキャバーズのことか?」

「そぉぉぉうだ! さぁ、寄越せ! 私にそいつを殺させろぉ!」

「な、なんなんだこいつ……」

 

 ハリーは困惑しながらも、スキャバーズを見る。

 ロンの手から、いや、ブラックから逃れようとじたばたもがいて、ロンの指にしきりに噛みついている。ブラックの話を理解しているのだろうか。それとも、動物的な本能で殺意が自分に向けられていることを察知しているのか。

 興奮状態にあるのかロンはそれに気づかず、血が出ているというのに握り締めたままで離す様子がない。

 スキャバーズは両手足をばたつかせ、虫のような尻尾をぶんぶんと振り回して……、

 ……尻尾?

 ハリーは自分の頭の中で、電気が閃いたような感覚がした。いや、そんなバカな。有り得ない。ばかばかしい妄想だ。……だけど、だけどそれでもこれが一番しっくりくる。ブラックのあの眼の、説明がつく。

 完全に主観のみで構成された仮説が、ハリーの中でいまもっとも真実味を帯びていた。

 震えながらも、ハリーはロンを後ろからそっと抱きしめた。

 

「ハリー……?」

「……ロン、渡してみよう。スキャバーズを、あの男に渡せばわかる」

 

 ロンが困惑し、難色を示すように唸った。

 ハリーは抱きしめる力を強める。ぼくを信じてくれ、と無言で訴える。

 痺れを切らしたブラックが奪い取ろうと歩を進めるものの、ルーピンに制止された。

 しばらく唸って迷った果てに、ロンは小さく呟く。

 

「……殺したら許さないからな」

 

 そう一声添えて、ロンはスキャバーズを握る手を前に出した。

 キーキーと悲鳴をあげているスキャバーズは、本当にこれから殺されようとしていることがわかっているような気がする。魔法界のペットたちは人語を解するほど頭がいい。少量でも、魔力を持っているからだ。だがスキャバーズは、一度たりとて特別な力を示したことがないという。

 なら、ならば。ひょっとして、ひょっとするのか。

 

「さぁお見せしよう。一世一代の種明かしを! まやかしの時間は終わりだ、ワームテ――」

「――いいや。終わるのはそちらのほうですぞ、化物め」

 

 第三者の声。

 スキャバーズに向けて杖を振り上げていたルーピンが声の主へと振り向くと同時、彼の身体が吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。

 ハリーが視線を移せば、そこには息を切らしながらも、狂喜の笑みを浮かべたスネイプが居た。目は憎悪に煮えたぎっており、それなのに顔は歓喜の色がありありと見てとれる。

 明白に、狂人のそれである。

 咄嗟の事に怒り狂ったように、唸り声をあげながらブラックが飛びかかった。

 無言呪文で身体強化でも用いたのか、ハリーの目にはかろうじて見てとれるほどの速度で、ブラックはスネイプに殴りかかった。

 しかしスネイプも負けてはいない。ブラックが殴りかかった腕を引き寄せ、そのまま顔面に肘打ちを入れる。鼻が折れたのかはわからないが、血を噴き出してよろけたブラックの鳩尾に杖を突き出す。ウッ、と息が詰まった奇妙な声を漏らしらブラックは、次の瞬間に勢いよく吹き飛んで、ルーピンの身体を押し潰した。

 からからと、シリウスの持っていたハリー達の三人の杖が床に転がる。ハーマイオニーが素早くそれを回収した。これで、戦力は手に入れた。

 だが、だが……。

 ハリーはチラと壁の隅で団子になっている男二人を眺める。

 二人分のくぐもった苦悶の声が聞こえる。ブラックとルーピンが、蠢いて立ちあがろうとしているところだった。スネイプがそれに杖を向ける。

 

「ぐっ……」

「黙っていたまえ。きさまを捕まえるのが我輩であったならと、何度、何度思ったか……」

 

 スネイプの陶酔したような声に、ブラックが鼻で笑った。

 しかし喉を突き刺すような杖の動きに、黙らざるを得ない。

 今のスネイプの目は危険だ。怒りに狂っていて、正気ではない。

 

「セブルス、待て。待ってくれ。説明させてくれ。シリウスは無実だ」

「そう言うと思いましたぞ、人狼殿。おまえたちはいつでも、べったりだった。庇い合うのは当然……だから我輩は反対したのだ。このような怪物を校内に入れれば、必ず問題を起こすと」

「スネイプ、きさま!」

「黙っていろと言ったのが分からんかブラァァーック!」

 

 バーン、と大砲のような音を立てて、ブラックの身体が紙屑のように天井に吹き飛ぶ。

 ばちんと天井に叩きつけられたブラックの身体は、重力に従って床に落ちる。

 ハリーはもはや、その光景を呆然と見ているしかできなかった。

 展開が急過ぎる。

 恐る恐る、スネイプの顔を見る。

 爛々と輝いた目で、倒れ伏したブラックに向かって呟いた。

 

「――復讐は、蜜より甘い。終わりだな、ブラック」

 




【変更点】
・ホグワーツの期末試験をよりそれっぽく。
 知識は確実な戦力になるため、原作よりかなり成績はいい。
・雰囲気がちょっとだけ女の子っぽくなったハリー。
・ハリーに影響されて戦い方が渋いハーマイオニー。
・ブラック超強化。

【オリジナルスペル】
「プロテゴ・パリエース、堅き壁よ」(初出・33話)
・盾の呪文の亜種。防御の壁を出すだけなのに、習得難易度は地味にイモリレベル。
 元々魔法界にある呪文。内部魔法式を途中で変更できるという、怪物呪文。

「リピート」(初出・原作4巻)
・直前呪文。一節呪文(シングルアクション)で発動できるため、闇祓いには重宝される。
 元々魔法界にある呪文。ハリーとお辞儀の決闘で出現した呪文の簡易版。

「バースト」(初出・33話)
・炸裂呪文。一節呪文。魔力で出来た物体限定で、その内部魔力を爆発させる魔法。
 ジェームズ・ポッターが開発、リーマス・ルーピンが発展させた呪文。

「カペレ、掴め」(初出・30話)
・対象を握る魔法。目に見えない大きな掌で、対象を掴むだけの魔法。
 元々魔法界にある呪文。浮遊呪文とはまた違った用途の、生活上で役立つ魔法。

危うくスネイプの存在を忘れて出番が削れるところでした。
ついに現れたピー……ターはまだ出てきていない。スネイプ! 復讐は蜜より甘い。映画の日本語吹き替えで聞けるこの声は、実にぬるりと耳に入り込んできてそれだけで孕んでしまいそうな気がします。
アズカバン編、クライマックス。今回はあまり本編と大きな違いがありませんでしたが、ハリポタとしてもHMDとしても重要なお話となりました。
残り2話。残り2話でとんでもない展開を納める事が出来るのか……。それはダンブルドアのみぞ知る。

※おじさんが捕まってた年数を訂正。十二年に増えました。ナムサン!


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9.ビトレイア

 

 

 ハリーはその光景を呆然と見るしかなかった。

 もしやと思って期待した光景とは全く違う景色が、目の前に広がっている。

 ブラックが負けた。ルーピンも相手にならなかった。

 伊達に長年ホグワーツにて教授を務めていないということだろうか、戦闘力が二人とは段違いだった。格闘技を修めていないハリーは素人ゆえに、いったいどうやったのかもわからないが、スネイプは身体強化状態のブラックを魔法も使わず処理したのだ。

 彼も肉体を強化していない以上、見えなかったはずだ。どれほどの集中力なのか。いや、集中力で済ませられる話なのか? あの狂気に光った瞳を見ると、そうは思えない。

 

「今宵、アズカバン送りが二人になる……。ああ、甘美なるかな」

「愚かな。無実の者をまたあそこへ送るというのか、セブルス」

「黙れ人外。君には失望したぞ、自分の立場をわきまえたまえ」

 

 呻くように言葉を発したルーピンに、スネイプは杖を振って衝撃破を発する。

 空気の塊を叩きつけられたかのようにルーピンの身体がビクンと震え、苦悶の声が漏れた。

 ハーマイオニーが悲痛な声を出す。

 

「スネイプ先生っ! ま、待ってください! 二人の話は聞く価値があります!」

「黙りたまえミス・グレンジャー。出しゃばりもここまで来ると害悪ですぞ」

「お前がそれを言うかねスニベルス。出しゃばりのせいでジェームズに命を救われたお前が」

「黙れと言ったのがわからんのかブラァック! だいいち殺そうとしたのはお前の方だろうが! あいつの名を此処で出す必要があるか!」

 

 杖先から飛び出した魔力弾が、ブラックの腹を打ち据えた。

 いったいなんの話をしているのやらわからないが、どうやらシリウス・ブラックとセブルス・スネイプは不倶戴天の敵と言ってもいいくらいの犬猿の仲らしい。

 痛みに悶えるブラックを愉悦に染まった顔で見下しながら、スネイプは鼻息荒く言う。

 

「もうよい。見ているだけで不愉快だ。貴様ら二人は吸魂鬼に引き渡す。罪状は大量殺人に脱獄、婦女暴行。人外、お前は彼奴めを手引きした罪で、吸魂鬼が愛しさのあまりキスしてしまうだろう」

「君は、君は全ての話を聞いていない。誤解だ、セブルス……」

「犯罪者の話など誰も聞く耳持ってくれぬというのは……君もよく知っているだろう?」

「聞いてくれ、セブルス! そのネズミこそ――」

「くどい! 『グンミフーニス』!」

 

 爆発のような音と共に、スネイプの杖先から縄が飛び出した。

 ルーピンの口、両腕、両足とすべてに魔力の縄が巻き付き、姿勢を崩して倒れてしまう。

 

「ああ、わが友リーマスよ。感謝するぞ、毎月の薬を届けに行ったらとても素敵な地図があったのだから、我輩はブラックに気づくことができた。おまけにそれがあるということは、犯罪者の手引きもしていた証左に他ならない。重ねて感謝しよう、我輩の復讐に協力してくれてありがとう」

 

 悔しげにブラックが唸る。

 それを満足げに見下ろしたスネイプは、するりと笑みを引っ込めて言い放った。

 

「連行する。ここから出た瞬間、我輩が吸魂鬼を呼んでやろう」

 

 スネイプは杖を振ってルーピンとブラックを掴むと、引きずって扉まで大股で向かう。

 その足がはたと止まった。

 ふらつきながらも、ハリーが立ちふさがっていたからだ。

 

「そこを退け。ポッター」

「ま、待ってください。確かめたいことがあるんです」

「退け、どかんか。我輩が納得のゆく内容であるのだろうな」

「これが、彼らの言う通りなら。ブラックは無実である可能性があります」

「ポッターと名のつく人間は若いと生意気になる法則でもあるのかね? そんなこと、あるはずがないだろう」

「――いいや、あるんだなこれが」

 

 押し潰されたような声で、そう呟いたのは、誰だったか。

 はっと気づいたスネイプが目を向ければ、ブラックがぎらぎらした目で杖を振っているところだった。――ロンの杖だ。いったいいつ掠め取ったのか。

 思い切り吹き飛ばされたスネイプは、ハリーの足元まで転がった。

 何もうつさない目を大きく見開いているが、どうやら死んだわけではなさそうだ。一瞬青褪めてしまったものの、胸が上下に動いているのを確認して、そう判断する。

 続いて追撃しようとするブラックに大して、ハリーが無言呪文で『武装解除』を放つ。ぱちん、と軽い音と共に、ブラックの手から杖が離れた。

 

「何をする!」

「それはこっちの台詞だ! あんたスネイプ先生を殺す気か!」

「薄汚いこいつを生かしておく価値などない!」

「それは、」

 

 ひゅ、とハリーの杖がブラックの喉仏に突きつけられる。

 ぐ、と潰れたカエルのような声を漏らしてブラックは咳き込んで蹲った。

 他人の喉を突いたというのに、ハリーは氷のような目のまま冷たく言い放つ。

 

「自分のことを言っているのか? あんたは、何か見せてくれるんじゃなかったのか。スキャバーズをどうにかするんじゃなかったのか」

「ぐ、ぅ……」

「シリウス。ハリーの言うとおりだ。いまスネイプのことはどうでもいい。先に、あいつだ」

 

 ハーマイオニーに縄を解いてもらったらしいルーピンが、ブラックを助け起こす。

 苦しがりながらもブラックは、憎悪の瞳でロンを見た。いや、ロンの手の中で暴れているスキャバーズを見た。

 ハリーに武装解除されたロンの杖を拾い上げて、ルーピンは言う。

 

「では、お見せしよう。これがすべての真実だ。これが十二年、我々が欺かれていた現実だ」

 

 スキャバーズが悲鳴をあげた。

 ロンの指へめったやたらに噛みついて、彼の指が緩んだ隙間をするりと抜ける。

 しまった! とブラックが叫ぶも、ネズミの素早さを人間が捉えられる道理はない。

 だがそれならば、人間でなければ問題ないのだ。物陰から飛び出したオレンジ色の毛玉――クルックシャンクスが、スキャバーズの前に立ちふさがる。そして猫特有の甲高い声で叫んで威嚇した。

 それに驚いたスキャバーズは、恐慌したかのように一瞬だけ硬直する。

 ルーピンはその隙を見逃さなかった。

 

「『スペシアリス・レベリオ』、化けの皮剥がれよ!」

 

 ルーピンの杖先から射出された薄紫色の魔力反応光が、スキャバーズの身体に命中した。

 ロンが悲痛な声をあげるも、ハリーが思い切り抱き寄せて落ち着かせる。

 全身が光り続けるスキャバーズは、クルックシャンクスすら無視して走り出した。

 しかしむくむくと体が大きくなっているようで、実に走りづらそうだ。

 クルックシャンクスが追いついてスキャバーズの行く手を遮ると、彼は壁に開いた穴に向かって飛び込んだ。ここを抜ければ、サイズ上彼らは追ってはこれない。

 だが、そこまでだった。

 バキバキと木で出来た脆い穴を広げながらスキャバーズはすっぽり挟まってしまい、身動きが取れなくなったのだ。

 胴を挟まれた痛みに悲鳴をあげるネズミが、いや、()()()()()()()が、目の前にいる。

 ネズミと全く同じ動きで、のたのたと動くスキャバーズの動きをそっくりそのまま再現したような動きで、頭の禿げあがった中年男性がのた打ち回っている。

 それは、あまりにもおぞましい光景だった。

 

虫のような尻尾(ワームテール)……」

「そうだ。その男こそワームテール。……ピーター・ペティグリューだ」

 

 ハリーがぽつりと呟いた言葉に、ブラックが答える。

 ロンがひくついた声を漏らす。

 あまりにあんまりな光景を見てしまい、呆然自失としているようだ。

 無理もない。自分が子供のころから可愛がって、愛していたペットが実は見知らぬ中年男性だったというのだから。ハリーなら泣いてしまうかもしれない。

 喘ぐように事実を否定する言葉を漏らすロンの身体を、更に強く抱きしめた。ハーマイオニーが心配そうに、ロンの手を握っている。

 ブラックが穴にはまった小男を乱暴に引きずり出した。

 その際に、まるでネズミそっくりの悲鳴をあげたことで、皮肉にもあれがスキャバーズなのだということをハリーたちに印象付けてしまう。

 男を見下したような目で、ルーピンが呟いた。

 

「そしてまたの名を、ピーター・ペティグリューと言う。――十二年前の大量殺人、その真犯人だよ」

 

 やはりそうだ。

 ブラックは、無実だったのだ。

 しかし、パパとママを裏切った親友という存在は消えたわけではない。それがシリウス・ブラックから、ピーター・ペティグリューに変わっただけだ。

 ハリーは胸に抱きしめるロンの身体を、強く抱き寄せた。

 普段ならば恥ずかしくてできないことも、いまは安心を得る行為と化している。

 ハーマイオニーもくっついてくれている。ロンの背中が温かい。

 だというのに、目の前の光景があまりにも寒々しくて、恐ろしくて仕方ない。

 

「立てワームテール。我が友よ」

 

 心の底から震え上がるような声で、ブラックが呟く。

 命じられたワームテール、ピーター・ペティグリューは震えながらも立ち上がった。

 そして掠れたような、それでいて耳の奥に響くような声で叫んだ。

 

「おお、シリウス。リーマス。懐かしの友よぉぉ、ォぐッ!」

 

 言いながらも逃げ出そうとして、二人に取り押さえて壁に叩きつけられる。

 ワームテールはヒィーッ、と悲鳴をあげて後ずさった。

 ぐずぐずと泣き始めたその姿はまるで子供のまま年を食ったように見えて、とてつもない気持ち悪さを感じてしまう。

 

「殺さないでくれぇ。死にたくない、死にたくないぃ」

「いいやワームテール。まだ殺さないさ。たっぷり甚振ってからじっくりと殺してやる」

「ひぃーっ」

 

 ぐすんぐすんと涙を流すワームテールを見て、ハーマイオニーが囁く。

 

動物もどき(アニメーガス)……。そんな、まさか。ネズミに変身して、十年以上もペットとして過ごしていたっていうの……?」

 

 それは、それは恐るべき精神力である。

 だがそれを否定するように、ブラックが唸った。

 

「いいやお嬢さん。そいつにそんな強さなどない。そいつにあるのは恐怖から逃げるための卑怯さと、力に屈して友をも裏切る臆病さだ」

「そんなことはない……私はあのお方のために、あのお方のために逃げのびていたのだ……」

「嘘をつくな、ワームテール。お前が逃げていたのはかつての仲間たちからだろう? ヴォルデモートはお前が与えた情報で、ポッター家へ行ったのだ。その結果はどうだ? 彼らは、死喰い人どもは主人が破滅したと思い、そしてその原因はおまえにあると思っている」

「う、ううう……」

「……どうだ、ワームテール。おまえ、アズカバンに行ってみるか? きっと大歓迎してくれるだろう。みんなして盛大な花火をお前にくれてやるだろうさ」

「仕方ないだろう! 闇の帝王に従えと脅されたら、そうするしかない。あのお方に目を付けられては、逆らうことなどできない。殺されてしまう……」

 

 辛辣な物言いをされたワームテールが、ついには呟くように反論する。

 しかしそれに対してブラックが激昂して叫んだ。

 

「ならば死ね! 友を裏切るくらいならば戦って死ね、臆病者!」

「誰もが君のように向こう見ずでいられるわけではないんだ、シリウス……」

 

 杖で刺し殺そうとでもしているかのように、ブラックは詰め寄った。

 ここでハリーは、声をかける。疑問が抑えきれないのだ。

 

「……ワームテールが生きてるってことは、……つまりどういうこと?」

「ハリー。さっきも言ったと思うけれど、――言ったかな? まぁ気にしないでくれ――彼こそ、ワームテールこそが、十二年前の大量殺人の犯人だ。そして、ジェームズとリリーを裏切ったのはシリウスではなく、彼なんだよ」

 

 ますますもって意味が分からない。

 ハリーのその様子を見てとったのか、ルーピンが説明を続けた。

 

「ハリー。ワームテールはね、死喰い人だ」

「……なるほど」

「れ、『例のあの人』の!?」

「恐らくね、ハーマイオニー。でも間違いないだろう。私も、つい先ほどまでハリーの《地図》を見るまで、全く気付いていなかった。きっとヴォルデモートに脅され、彼の傘下に入ったのだろう。そしてスパイとなった。ポッター夫妻の居所を突き止めるためだけに」

 

 リーマスの語る内容は、こうだ。

 かつてヴォルデモートと彼の配下たる死喰い人が跋扈した、暗黒時代。

 反ヴォルデモート勢力として活動していたポッター夫妻はついにヴォルデモートにとって無視できないまでの存在として、彼の織りなす覇道の前に立ちはだかっていた。

 殺そうと探しても、どうしても見つけることができない。

 ポッター夫妻に関する情報すら見つけることもできない。

 夫妻の名を羊皮紙に書いた途端、誰にも途端に見つけられなくなったことから、ヴォルデモートは彼らが『忠誠の術』という魔法で護られていることを看破した。

 『忠誠の術』とは、《秘密の守人》という生きた人間に秘密を封じ込めることで、どうやったところで封じた内容を知ることができなくなるという儀式魔法である。

 たとえジェームズ・ポッターがヴォルデモートの目の前でタップダンスを踊ろうと、奴にはジェームズの眼鏡すら見つけることはできないのだ。

 《秘密の守人》が、その口を割らない限り。

 かつて中世魔法界では、《守人》として指定した奴隷を殺し、永遠に秘密を保ったという使われ方があった。ヴォルデモートならば別だろうが現代ではもちろんできるはずがなく、使えない手である。

 当初、その秘密の守り人に指定されたのはシリウス・ブラックだった。

 彼は友情を何よりも大事にする男で、彼ならばジェームズを売るくらいなら死を選ぶと誰もが信じたものだ。

 だがシリウスは、ここで一計を案じた。

 誰もが自分こそ秘密の守人だと思うだろう。ならば、誰もが思いもしなかった、ピーター・ペティグリューこそが秘密の守人になればよいのではないだろうか、と。

 結果は悲惨なものであった。

 あっさりヴォルデモート陣営に寝返ったワームテールは、ポッター夫妻の情報を売った。かつての仲間を売った以上、今までの場所にはいられない。そうして彼はそのまま死喰い人となった。ポッター夫妻が殺害され、その理由を唯一知ったシリウス・ブラックは、怒りのあまり一人でワームテールを追跡。

 仮にもかつて友と呼び、同じ時間を過ごした男。裏切りを許してしまった間抜けな自分にも責任はある。殺すには忍びない。裏切られようと、親友の死の一端を担おうと、心の弱さを知っていながら重い責を負わせた自分にも責任がある。

 当時のブラックは、ワームテールに自首を促した。その結果が、あの大量殺人である。

 ここでもブラックは失敗したのだ。

 当時は闇の帝王がハリー・ポッターによって敗北し、消え去った直後。闇祓いに殺しのライセンスすら与えられていた、光によって祓われたはずの闇がこびりついた明け方の時代。

 つまり、心の弱さからだろうとなんだろうと、闇の帝王に組した者にはアズカバン送りか、現行犯ならばその場での殺害が許可されていたのだ。アズカバンに収監される恐怖はもちろん、死への恐怖は言わずもがな。小心者のピーターにはどちらも耐えられなかった。

 怯えに怯えたピーター・ペティグリューは、その場で大爆発を起こして大勢のマグルを巻き込む。狡猾にも「シリウス、よくもジェームズとリリーを!」と叫び、自身の指を切り落として死体として残したことで、ブラックに全ての罪をなすりつけたのだ。

 

 裏切られてもなお信じていた友の、決定的な更なる裏切り。

 信頼ゆえ虚を突かれたブラックは、彼をまんまと逃がしてしまう。人の逃げられるような隙間などどこにもなかった。ならば、ネズミならばどうか。

 ピーターが動物もどきであることを知っていた。何故なら、それはリーマスのために皆で習得したからだ。

 狼人間であるリーマス・ルーピンは、月に一度学校からいなくなってしまう。それを不審に思ったシリウスとジェームズが、ルーピンの正体を知ってしまった。そこで考えたのは、ルーピンから離れることでも彼の秘密を騒ぎ立てることでもない。

 彼が寂しくないように、隣で支え続けるという選択だった。

 しかし狼人間は、ヒトを襲うという本能がある。月に一度、満月の夜に狼になっている間は理性も潰されてしまうので、いくら信の置ける親友たちであろうと殺してしまう。

 ならばヒトでなければいい。

 冗談のような理由で、ジェームズたちは動物もどきになることを選んだ。

 魔法使いが動物もどきになる際、その魂を構成する記憶の中から変身先の動物が選ばれる。猫の記憶を孕んだ魂を持つ魔女は、猫の動物もどきに。ワニの記憶を孕んだ魂を持つ魔法使いは、ワニの動物もどきに。

 それが一番自然で、また失敗の少ない手法である。

 だが三人は、自ら望む動物への変身を成功させた。ピーターはネズミ(ワ ー ム テ ー ル)に、シリウスは犬(パッドフット)に、そしてジェームズは牡鹿(プ ロ ン グ ズ)に。

 それはどれほど難しい事だっただろう。だが三人はそれを成功させた。

 叫びの屋敷内に作られた、ルーピンのための部屋。暴れ柳の下にある出入り口へ入るには、その木の幹のコブを触れば大人しくなるという性質を利用する必要がある。ネズミとなったピーターが鞭のような木の枝を避けながら、そのコブを押す。そうして大人しくなった暴れ柳の下から部屋に入って、ルーピンに会いに行くのだ。

 もしもルーピンの理性が持たずに暴れだした場合、大型動物に変身したジェームズとシリウスが止める。

 それぞれの役割を以ってして、友であるルーピンを支える。

 それが彼らの出した答えだった。

 だというのに。

 彼は裏切ったのだ。命惜しさに、二度も裏切った。

 

「それゆえの憎悪。ピーターへの殺意こそが、シリウスの……シリウス・ブラックの原動力だったのだろう。……全て私の憶測だが、間違ってはいないはずだ」

「じゃあ、ブラックは……濡れ衣なの?」

「ああ、その通り。ピーターの被害者。まったくの無罪だね。私も気付けなかった。恥ずかしい事だ。親友失格だよ。はずかしい……」

「な、なら『例のあの人』の一番の部下ってのも……?」

「もちろんさ。その噂を聞いたら、ヴォルデモート卿も大笑いするんじゃないかな」

 

 死への恐怖に屈しそうになるということが、どれほど辛い事か。

 ハリーにはそれがわかる。去年リドルの手によってバジリスクの牙を胸に刺し込まれたとき。あまりの激痛と恐怖に、殺すべき敵であるはずのリドルにさえ許しを乞い願った。比較的プライドの高いハリーでさえそうなのだ、小心者のワームテールにとってヴォルデモートに迫られるというのは、どれほど恐ろしいことだっただろう。

 だが決して許されるようなことではない。

 そう、決して。

 友を裏切った罪は、重い。

 

「ロ、ロン。私は君のペットだった。君なら私を殺させないだろう……? ねぇ、ねえ。優しいご主人様……」

「……近づかないでくれ。悪い夢であってほしかった。愛したペットのよしみで、僕は君を殺さないと約束しよう。……僕は、だけど。止めはしない」

「そんな……」

 

 ロンにすり寄って助けを求めるワームテールは、かつての主人に見放される。

 今まで自分のベッドに寝せたり、お菓子を分け与えたり、間違いなく愛情を注いでいたのだ。それが実は友達殺しの卑怯者で、自分を隠れ蓑にしていたのだ。

 ハリーというわがまま姫と共にいて寛大さが磨かれたロンだからこそ、こうした対応ができたのだ。きっと普通ならば拒絶されても文句は言えないだろう。

 

「お、お嬢さん。頭のよいお嬢さん。あなたならわかるはずだ……本当に悪いのはシリウス・ブラックだって。た、助けて……死にたくないよぉ……」

「ひぅ……」

 

 ハーマイオニーのスカートを摘まんですり寄ったワームテールに、ハーマイオニーが怯えきった声を漏らす。確かに女子としての目線で見たら、正直言っていまのワームテールは近寄りたい外見をしていない。

 禿げた尻尾がトレードマークの太っちょネズミ。それがいまや、太り気味の不潔なハゲ中年である。ハッキリ言って、女からすると見苦しいにもほどがあるだろう。

 ワームテールは昏く光る眼を、今度はこちらに向けてきた。

 そこに至ってハリーは初めて気づいた。

 

「ハリー。ああ、ハリー。君なら私を殺させたりしないよねぇ……ジェームズは実に勇敢で優しかったよ。ああ、勇猛果敢なグリフィンドールだったとも。こんな醜くて愚かな私を――」

「――ジェームズの名を持ち出すとは何事か!」

 

 ブラックが大声で叫び、ワームテールの背中を蹴り飛ばした。

 傷ついたネズミのような悲鳴をあげて、彼の身体が壁まで転がされる。

 埃だらけの床の上をごろごろと転がったものだから、さらに汚れてしまった。

 

「おまえにその権利があるのか、おまえに! ジェームズとリリーを売ったお前に、そんな口を利く権利など有るはずがない!」

 

 フーフーと肩で息をしてブラックが激昂を収めようとする。

 しかしそれでもワームテールは言葉を紡いだ。

 

「ああ、ハリー……ジェームズはねぇ……」

「まだ言うか!」

「ま、待てシリウス」

 

 ルーピンがブラックを止めた。

 彼もハリーと同じく気づいたのだ。

 

「ジェームズ・ポッターはねぇ、こんな私を――見下していたんだ」

 

 ワームテールが、ハリーに対してまったく媚びていないことに。

 唐突に飛び出してきた言葉に、ブラックとルーピンが固まった。

 ハリーたちも驚きのあまり、ワームテールの目を見てしまう。

 彼の、薄い色の瞳が、暗く泥のように濁っていた。

 それは、それはまるで――

 

「私は学生の頃から要領の悪い子でねぇ。誰かが何かを決めてくれないと、何もできないような愚図だったよ」

 

 ワームテールが語り始めた。

 しかしその内容には怨みや憎しみが込められていて、楽しい話ではないと思わせる。

 その異様にぎらついた瞳の力に、場にいる全員の靴底が重くなってしまった。

 続きが語られる。

 

「しかしそんな私も誇りがあった。勇気ある寮、グリフィンドールへ入れたことだ。おちこぼれの私はハッフルパフに行くのがお似合いだと、母によく言われたものさ。だが私はグリフィンドールに入れた。楽しい学校生活になるだろうと思ったさ……ポッターとブラックに出会うまでは」

 

 ワームテールがブラックを睨みつけた。

 それは今の今まで、情けない声を出して命乞いをしていた者の出来る顔ではない。

 警戒したルーピンが杖を向けるも、彼は全く意に介さず床に唾を吐いた。

 顔どころか全身が薄汚れているために、恐ろしい形相だ。

 

「彼らは素晴らしく活発で、悪戯好きなムード―メーカーだった。私が勝手に劣等感を抱く程度にはね。少しでも人気者になりたくて、勇気ある者たちに憧れて、彼らと仲良くなれば自分を変えられるかと思ったが……それは大きな間違いだった」

「なにが、何が間違いだったんだ」

「分からないのかシリウス。君たちは私をどういう風に扱った? 私が周りになんて言われていたか、知っているか?」

「どういう風って……」

 

 言いよどんだブラックに、ワームテールが噛みつく。

 

「《ブラックの腰巾着》さ! 確かに私は劣っていたから、君達と対等の友達になるのは難しいだろうねぇ。だがそれなら君たちは、別の友を大事にする姿を見せるべきではなかった! しかも、しかも私を使って! ネズミの状態で暴れ柳に向かって何度放り込まれたか、覚えているか? ネズミだ、ネズミだぞ!? 私が変身させられたのは、矮小なる小動物だ! 暴れ柳の鞭が当たれば、私はぺしゃんこになって内臓をぶちまけ即死していたのだぞ! 毎月だ、毎月その恐怖を味わった! そんなのを強要するのが友か? それが友なのか? そうなのか!? 言ってみろ、シリウス・ブラック!」

 

 感情を爆発させて、ワームテールが喚き散らした。

 ハリーは考える。きっと、ジェームズ・ポッターもシリウス・ブラックも、彼をぞんざいに扱ったつもりはなかったのだろう。だが、手のかかる舎弟のようなものとして無意識に下に見ていたのかもしれない。

 彼は自分たちが守ってやらなくては。彼にも活躍の場を与えてやりたい。そういう気持ちは、受け取る側の気持ち次第では、見下されているようで残酷な暴力にしかならない。お前は自分たちより弱い。これは教育だ、この役割をこなせ。

 そういう風に、受け取られてしまったのだろう。

 

「あのころの君たちは、とんでもないクズだった」

「お前がそれを――」

「ああ、クズさ。調子に乗って、傲慢で、世界は自分たちのもので、自分たちこそが正しいと思っていた。そう思い込んでいた愚か者どもだ」

 

 思いの丈を吐露するワームテールに、ルーピンが静かに語りかけた。

 

「確かに。あの時の私たちは浮かれていたのだろう」

「リーマス……」

「事実だろう、シリウス。私たちは彼がこんな思いでいたことに全く気付けなかった」

「遅いよリーマス。いまさら気づいてもね」

 

 卑屈な笑みを浮かべるワームテールを、ハリーはただ眺めていた。

 何の感想も浮かばない。何もコメントできない。

 友情の擦れ違いが、ここまで恐ろしい未来を生み出してしまうだなんて、考えたくもない。

 他人事ではないのだ。ハリーとてロンやハーマイオニー達と決定的にすれ違えば、どうなるかなどわからないのだ。

 片や、弟や舎弟のように扱ってきたブラック達。

 片や、対等の友人になりたかったワームテール。

 そんな思いでいたら、噛みあうはずもない。

 ワームテールが凄惨な表情を張りつけたまま、にちゃりと口を開く。

 

「――私はね、君たちがずっと大嫌いだ(うらやましか)ったよ」

 

 笑みを浮かべているも目が全く笑っていない顔で吐き捨てられた言葉に、ブラックとルーピンがひどくショックを受けた顔をした。

 きっと、きっとまだ二人とも、心のどこかで彼を信じていたのだろう。

 ヴォルデモートへの恐怖で裏切ってしまった、心の弱い愚かなる友人だと。

 裏切りによって友を殺し、許せない存在にはなってしまったが、かつての楽しかったあの思い出まで嘘だとは微塵も思っていなかったのだろう。皆で笑いあったはずの、悪戯仕掛人の一角は、最低にして悪辣な悪戯を最後に残したというわけだ。

 だからなのか。

 皆が硬直した隙を狙ったワームテールが、今までの鈍足は演技だったのかと思わせるほどに素早い動きで部屋の外へ飛び出した。

 クルックシャンクスがフシャーと飛び掛かるが、それはワームテールの拳に吹き飛ばされてしまう。床に叩きつけられる愛猫を見て、ハーマイオニーが悲鳴をあげた。

 怒り狂ったブラックとルーピンがともに魔法を撃ち込むものの、それは当たらなかった。

 ワームテールが水に溶かした墨のような闇を振り撒いて、まるで滑っているかのような動きで疾駆しているのが原因だ。あの動きには覚えがある。一年生の時、禁じられた森で見た怪人(クィレル)の動きと同じなのだ。

 それより、杖もなしに、魔法を使うとは。

 杖は魔法式を組み立てる強力な補助道具だ。実質、それがなければ魔法使いはマグルと大して変わりはない。だが魔力を体内に持っていて、魔法の理論を知っていれば、出来ないこともない。

 無論代償はある。普段なら一の魔力を消費して十の魔法を使える魔法使いでも、杖がなければ五〇の魔力を消費して一の魔法を使えたらいい方だ。更に杖というホースがないため、人間という蛇口から噴き出す魔力(みず)を制御できず、壊れる(しぬ)可能性すらある。ゆえに、並大抵の魔法使いならば杖がなければ魔法は使えない。

 ハリーは残り香のように漂う闇に、負の感情が詰まった邪悪な魔力を感じた。これがヴォルデモートが教える闇の魔法なのだろうか。

 

「逃がしてなるものか!」

 

 そう叫んだブラックが、我先にと駆け出す。

 ルーピンが一緒に駆け出そうとして、ふと、こちらへ視線を向ける。

 そうしてぎゅっと目を瞑り、開けると冷徹な光を湛えて見据えてきた。

 

「ハリーだけ来てくれ。ハーマイオニーはロンの脚を治療してやってくれ」

「待って、僕たちも行く!」

 

 ルーピンの言葉にロンが反論した。

 未だに信用しきれていないのもあり、またハリーを一人だけで戦場に立たせたくないということもある。しかしその真摯な言葉は、ルーピンによって否定された。

 

「だめだ」

「どうしてだよ!?」

「君の脚の怪我は、君が思っているより酷いもののはずだ。それにハリーの戦闘力なら耐えられると判断したのであって、君たちではついてこれない。いいかい、ワームテールは死喰い人。奴は、人殺しなんだぞ」

 

 そう言い残すと、ルーピンはハリーの手を引いて走りだした。

 連れられて走ったハリーは、一度だけ二人を振り返ったものの、すぐに駆け出す。

 叫びの屋敷に残された二人は悔しそうに呻いた。

 しかしそうするより確実な行動がある。ハーマイオニーはロンのズボンを捲りあげると、杖を構えて魔力を練り始める。

 早く治療して、ハリーの助けになりたい。

 その一心で、二人は静かに呼吸を整えたのだった。

 

 木組みの床が過ぎると、平らにならされた土を踏んで二人は駆け続ける。

 出口にあたる暴れ柳の方からは、既に戦闘音が聞こえてくる。

 ――ワームテールは今の今までネズミだったはず。杖は持っていないはずだ。

 だが、現に戦っているということは、杖があるのか? それとも先ほどのように、杖なしで魔法を行使しているのだろうか。

 

「駄目だ、危ないハリーっ」

「えっ」

 

 暴れ柳の下から飛び出す直前、ルーピンに腕を引き寄せられてストップをかけられる。

 ドスンと目の前に木の枝が叩きつけられたことでその行動に感謝をささげた。

 見れば、驚くべきことに振り回される枝の中でブラックとワームテールが戦っていた。ブラックは身体強化を行って、青白い軌跡を描いて跳び回っているのに対し、ワームテールは下半身が闇に包まれて霧のような尾を引きながら飛び回っている。

 やはりワームテールは杖を持っている。ブラックはロンの杖を使っているが、奴は、ワームテールはいったいどこからあの杖を手に入れたのだろうか。

 強化した肉体から繰り出されるブラックの強烈な魔法を、避ける動作がそのまま魔法を使う杖の動作に繋がっているワームテールが反撃する。互いに憎悪をぶつけ合っており、ただ激情が振り撒かれているだけだというのに、物理的な衝撃を伴っているような気さえする激しさ。

 あまりにも濃すぎる感情とあまりにも暗すぎる感情の爆ぜ合いが、ここまで酷いとは。

 ハリーは思う。こんな醜い光景など、あっていいものではないと。

 

「なんだよ、これ……」

 

 両者とも杖先から何か魔力で形成した刀剣らしきものをぶつけ合い、相手の首を飛ばそうと互いに戦うかつての親友たち。片や裏切りへの報復を果たさんと、片や積年の劣等感と怨みを晴らさんと。

 そして。決着がつく。

 足跡が陥没するほど強く地面を蹴ったブラックと、上空から猛スピードで急降下するワームテールが同じ呪文を叫んだ。

 槍の呪文だ。ブラックとワームテールの杖先に、螺旋状に激しく回転する魔力が纏われて相手を刺し穿たんと突き出される。穂先同士がギャリギャリと不愉快な音を立てて激しくぶつかり合う。

 凶暴な笑みを浮かべるブラックと、滝のような汗を流すワームテール。

 やはり、先ほど杖なしで行使した魔法が響いているのだろうか。

 しかし結果は、相打ちだった。

 ワームテールの杖が左腕ごと吹き飛び、激痛のあまり悲痛な絶叫が吐き出される。

 ブラックの持つロンの杖も粉々に破砕し、彼の全身から螺旋を描いて血が噴いた。

 片腕を失って血と悲鳴を撒き散らすワームテールが地面をのた打ち回り、傷ついた獣のようにその場に蹲って唸って痛みを堪えるブラック。

 その光景はあまり見ていたいものではなかった。

 

「あっ、まずい!」

 

 暴れ柳が倒れた二人を打ち据えようとするのに気づくが、ハリーが動くには遅かった。

 オレンジ色の閃光がしゅっと目の前を通り過ぎ、ぴたりと柳の枝が大人しくなる。

 目を向ければ、口元を赤く汚しながらも暴れ柳のコブを押さえつけるクルックシャンクスがいた。

 ほう、と息を吐く。

 

「……ルーピン先生、決着がついたみたいだよ」

 

 敬語は使わない。

 ワームテールが生きている以上、彼らの主張の方に理があることはわかった。

 だが一度裏切られたと思ってしまった以上、感情としては少し難しいものがある。

 ゆえに、先生呼びはしても敬った態度は捨てることにした。

 

「どうする。ワームテールを捕まえる?」

 

 ブラックが無実である一番の証明は、ワームテールの存在だ。

 あの男が女子寮でハリーに詰め寄ったことは、ちょっと許せそうにはない。

 だが無実の罪で十二年も吸魂鬼の傍にいたのだ。あれらの脅威を良く知っている身からすると、狂ってしまうのも分かる気がする。

 だから。

 だから、ブラックが無実であることを証明するくらいはいいのではないだろうか。

 ジェームズの親友であり続けた彼の手助けをするくらいは、いいかもしれない。

 きっと彼も喜ぶだろう。

 ……しかし、そういえば、先ほどからルーピンの返事がない。

 二人の戦いを見て呆けているのだろうか。

 

「……? 先生、聞いてる?」

「ハリーッ、危ないわ!」

 

 どうしたのかと思って振り返って、ハリーは金縛りに遭った。

 ルーピンがいない。

 いや、居るにはいる。だがそれはもはや、ルーピンではなかった。

 狼人間だ。

 身体のところどころに、ルーピンが着ていたスーツやローブの切れ端が残っている。

 いや待て。なぜ、いったいどうして?

 ルーピンは確かに狼人間だった。しかし、しかしどうしていま……?

 ちょっと待て。スネイプはどうして来た。

 確か彼は、ルーピンの部屋で《忍びの地図》を見たと言っていなかっただろうか。

 では何故ルーピンの部屋に来る必要があった。

 彼の担当教科は、何だったか。

 

「ぐ、ぅあ――!?」

 

 ルーピン・ウルフが振り上げた前足に脅威を感じ、咄嗟に盾の呪文を張った。

 しかしあろうことか、ルーピンはその前足で持っていた自身の杖をハリーに向かって投擲してきたのだ。その速度たるや、まるで銃弾のようだった。

 紙切れのようにハリーの張った盾を貫いて、杖先がハリーの左肩に突き刺さる。刺さっただけならまだいいが、有り得ないほどの衝撃にハリーの小さな体は、出口から外へと放り出された。

 背中から叩きつけられたハリーは、ずざざと血を削りながら滑る。

 こぽ、と口から血がこぼれた。

 肩に刺さっただけで、内臓にまでダメージが伝わったとでもいうのか?

 

「うぐ、ぅあ……」

「ジェームズッ!?」

 

 ブラックがそう叫び、ハッとしてショックを受けた顔をする。

 一瞬でもハリーとジェームズを見間違えて、咄嗟に呼んでしまったのだろう。

 その呼び声にハリーが横に目を向ければ、ブラックの向こうでワームテールが何かをしているのが見える。あれは……奴が持っているのは、ハリーの杖か。吹き飛ばされた際に手から転がって行ってしまったようだ。

 彼は自分の消し飛んだ左腕の傷口に杖先を向け、なにやら唱えている。すると、周囲に飛び散った肉片や血液が、彼の腕に飛び込んでいった。傷を治すつもりか。

 ハリーは自分の肩に突き刺さったルーピンの杖を引き抜いて、ワームテールに杖先を向けた。

 

「『エクスペリアームス』!」

 

 パチン、とワームテールの手からハリーの杖が弾かれ、持ち主の手へ飛んでくる。

 憎々しげにこちらを睨んだワームテールの身体が、徐々に小さくなる。ネズミに変身するつもりかとハリーが失神呪文を放つも、急激に的が小さくなったワームテールに当てることはできなかった。

 逃がしたか。

 そして先程まで自分が吹き飛ばしたハリーには目もくれず、ルーピン・ウルフは一番近くにいるロンとハーマイオニーに目を向けたようだ。涎を垂らし牙を剥いて、完全に理性を失っているのが見て取れる。

 それに気付いたブラックは、何かを小さく呟いて駆け寄ってきた。途中で巨大な犬に変身して、ハリー達とルーピン・ウルフの間に入り込む。

 

「し、シリウス・ブラック!」

 

 ハリーの悲鳴があがる。

 爪と爪が、牙と牙がぶつかり合う獣同士の戦い。

 駆け寄ってきたハーマイオニーがハリーを引っ張って、戦場から離脱させる。

 

「ハリーッ、危ない! 行っちゃダメ!」

「で、でもっ。でも、あいつが死んでしまう! ブラックには、シリウスには聞きたいことが山ほどあるんだ! 死なれたら困るんだよ!」

「だめだ、ハリー。君が行ったら、君が死んでしまう!」

 

 ハーマイオニーとロンの拘束を解こうとしても、肩からどくどくと流れる血がそれを許さない。ハリーの顔色は見る見るうちに蒼白になり、振りほどこうと暴れる力も抜けてゆくのが二人にもわかる。

 後ろからばたばたと走ってくる音が聞こえてきた。

 顔を怒りに染めたスネイプだ。

 ハリーたちの顔を見て、ロンの肩に掴み掛ってシリウスの居所を問おうとしてくる。

 

「ウィーズリーッ! ブラックめはどこに――」

 

 しかし、たったいま目の前で終わった戦いを見て、動きを止めた。

 黒く大きな犬が血まみれで横たわり、低いうなり声をあげる狼人間がこちらを見ている。

 真っ黒で動物的な瞳が、まっすぐこちらを見据えている。

 スネイプは素早く回り込むと、三人を自分の背中に隠した。そして杖を抜いてルーピン・ウルフに向かって素早く何かの魔法を放つ。

 鼻面に魔力反応光が命中したルーピン・ウルフは痛々しげな悲鳴をあげて、滅茶苦茶に腕を振り回しはじめた。顔の周りに赤黒い魔力反応光が飛び回っていることから、継続的に何らかのダメージを与えているらしい。

 ルーピン・ウルフのあげる痛々しい悲鳴と、倒れ伏したブラック。そして、スネイプの背中。ハーマイオニーとロンの叫び声に、どこからか聞こえてくる遠吠え。

 貧血を起こして膝をついたハリーは、抱きしめてくるハーマイオニーとロンに身を預けるようにして倒れ込んだ。

 スネイプの悲壮な横顔が、気を失う前に見た最後の光景だった。

 

 

 いつもの天井だ。

 ということは、医務室か。

 つまるところ、またすべてが終わってしまったのか。

 ハリーの知らないうちに年末パーティも終わってしまったに違いない。

 そして、シリウスも捕まったのだろう。

 もう吸魂鬼にキスされてしまったのだろうか?

 

「ハリーや。起きなさい、ハリー」

 

 静かな声が聞こえる。

 ハリーはがばと飛び起きようとして、額に手を置かれたので起き上がれなかった。

 微笑んでいるような、悲しんでいるような顔のダンブルドアが居た。

 何故起き上がらないようにしたのかと疑問に思えば、ハリーの胸や腹に直接シーツが乗っている感覚がする。なるほど、裸なのか。いや下着もか。紳士だなこの爺さん。

 シーツを胸元に引き寄せて、ハリーは上半身を起こした。

 肩から胸の上部にかけて、白い包帯で覆われている。なにやら呪文が書き込んでいるあたり、治癒力をあげているのだろう。今は痛みがない。

 

「校長先生」

「気が付いたかね、ハリー」

「……あれから、どれくらいが過ぎました」

 

 残酷な問いかもしれない。

 しかし、聞かなければならない。

 答えによってはこれからやることが全く違ってくるのだから。

 

「ハリーや。落ち着いて聞きなさい、いいね?」

「はい」

「時間はあれからほとんど過ぎておらん。せいぜい一時間かそこらじゃ」

「――ッ、」

「落ち着きなさいと言ったじゃろう」

 

 頭をぽんぽんと優しくたたくダンブルドアに、ハリーは訴えた。

 

「ブラックは、シリウス・ブラックは無実でした。真実の裏切り者はピーター・ペティグリューだったんです」

「……そのようじゃの」

「ひとつ問わせてください。……気付いていたんですか?」

 

 ハリーの、昏く濁った目が蛇のように細められる。

 ダンブルドアは悲しげにそれを見つめた後、はっきりと言い切った。

 

「いいや。わしも完全に信じ込んでおった。憎みすらしていた」

「そうですか……」

 

 何か知っていて、それがハリーたちの成長になるとかいう理由でのことならば。

 ハリーは一年生の最後に宣言したように、ダンブルドアを殴るつもりだった。

 だが何も知らないのならば、仕方のないことだ。

 そうであれば、対策を考えねばならない。

 そのためにはまず、今ブラックがどうしているかを知らねばならない。

 

「……ブラックは、……いえ、シリウスはいまどこに?」

「ああ。……ハリー。落ち着いて聞くんじゃ」

「……まさか」

「……うむ。シリウスの処刑はつい数分前に始まってしもうた」

 

 一気に力が抜ける。

 胸元からシーツが滑り落ちて肌を晒してしまうも、全く気にならない。

 ダンブルドアが気遣って、ハリーに入院着らしきピンク色の上着を羽織らせた。

 その感触でようやく我に返ったハリーは、ぼろぼろと涙をこぼし始める。

 本当に、ほんとうに涙もろくなってしまった。

 感情がすぐ表に出てしまう。

 

「彼は、ああ……ぼくは彼を憎んでしまった。無実なのに! 濡れ衣だったのに! い、今から行っても、やっぱりシリウスは……」

「うむ。……手遅れじゃろう」

「ああっ、そんな……そんな……」

「――でも。手がないわけではないのよ、ハリー」

 

 俯いて涙していたハリーが、がばと顔をあげる。

 閉め切られていたはずのカーテンの向こうから、ハーマイオニーが顔を出していた。

 ところどころにガーゼを張り付けていたりと、彼女にも怪我が目立つ。

 だが、どういうことだ?

 手がないわけではない……つまり、なにか手だてがあると?

 

「そう。シリウスを助けるには、ミス・グレンジャーの協力が必要不可欠じゃ」

「――()()()()()()()!」

 

 ハリーが大声を出して話を遮ったため、ハーマイオニーの肩がびくりと震える。

 ダンブルドアは、ハリーが叫ぶのを見越していたように静かな顔のままだ。

 その顔を見つめる、いや、射殺すように睨みつけるハリーは怒りのあまりか真っ赤な視界の中、老人に言葉を突き刺した。

 

「ハーマイオニーの協力が必要? ちょっと待ってください、ダンブルドア先生。それがどういう意味か、あんたわかって言ってるんですよね」

「……そのつもりじゃ」

 

 『君たちの成長を見たかったのじゃ。万が一の事があれば、わしが何とかするしの』。

 二年前、かつてダンブルドアが放った言葉だ。

 いくら安全が確保されているとはいえ、成長を促すためクィレルを泳がせて、ハリーたちと対峙するのを許した。結果としては成功だったものの、下手をしたら命を落としていたのだ。

 その時にハリーは、ダンブルドアを殴ろうとした。

 

「ハーマイオニーは、――ロンもですけど――ぼくの最も信頼する、もっとも愛する親友なんです」

「……知っておるつもりじゃ」

 

 これも一年生の時に話した。

 次に、二年生の時はダンブルドアの力が及ばず、危険な目に遭わせてしまったと謝罪をされた。

 そして三年生のいま。

 ダンブルドアは、積極性を以ってハリーの大事な人を危険に巻き込もうとしている。

 

「巻き込むな、と言いましたよね」

「……確かに」

「――覚悟しろ、クソジジイ」

 

 胸のあたりに包帯を巻いただけの下着姿で、ハリーはベッドから飛び降りた。

 そして思い切り振りかぶり、捻りを加えたその拳をダンブルドアの鼻に叩き込む。

 今度は、避けなかった。彼はその拳を受け入れた。

 ダンブルドアが顔を抑えて膝をつき、ハーマイオニーが短い悲鳴をあげる。

 ハリーの拳から、赤い液体がぽたりと一滴垂れた。

 

「ぐ、むぐ。……すまなかった、ハリー」

「ぼくじゃなくて、ハーマイオニーに謝ってください。……それと、ぼくも申し訳ありませんでした。退学なりなんなりと受け入れます」

「――いや、退学などとんでもない。これはわしの間違いじゃ。そう、わしの責任なのじゃ……」

 

 なにかを諦めたような、どこか一気に老け込んだダンブルドアが立ち上がる。

 そしてハリーとハーマイオニーに、頼み込むように言った。

 具体的にはなんなのか分からなかったが、その目は今までと何か違うように思える。

 

「頼む。シリウスを助けてやっておくれ」

「……でも。でも、どうやるんですか、ダンブルドア先生」

 

 ハーマイオニーから服を手渡されながら、ハリーが泣きそうな顔で呟く。

 その質問には、ハーマイオニーが答えた。

 

「ハリー。私が全教科を受講していたのを覚えている?」

「聞いたのは最後の方だけど、あまりにショッキングな内容だからね、もちろん覚えてる。……それがなにか?」

「そのために使った道具を、いまここで使うの。《逆転時計(タイムターナー)》よ」

 

 ハーマイオニーが懐から取り出したのは、奇妙な懐中時計だった。

 まるで中世の地球儀のような形をしている。

 砂時計のようなモノの中には小さな銀河が詰まっているようにきらきらしていて、時間を忘れてずっと見ていたくなるような、惹きこまれるほどに不可解な魅力があった。

 逆転時計? とは、いったいなんだ?

 

「《逆転時計(タイムターナー)》とは、不可逆事象に内包される神秘からテネルテンプスを参照して、所持者の魂魄から時間情報を読み取ることで、肉体を極限まで魔法状態に近付けることができる。それによって時空間の不干渉壁を突き破って対象者のみが時間を遡って過去に戻れるという、大儀式魔法並みの秘術を内蔵した魔法具じゃ」

「……つまりどういうことだってばよ?」

「それはタイムマシンじゃな」

「なるほど」

 

 実に分かりやすくまとまった。

 しかしタイムマシンなどマグルの知識だろうに、よく知っていたものだ。

 というか、何だ? つまり小説の題材にもなっている、過去改変をやれということだろうか。

 記憶喪失後のロックハートが贈るファンタジーシリーズでいま話題沸騰中の、児童書《ギルデロイ・ロックハートと聖者の杯》を思い出す。

 あれは確か、黒髪の悪い魔女(なぜか親近感が湧いてくる)によって記憶を消されたロックハートが、自分の思い出を取り戻すために親友の魔法戦士とともに過去へ飛んで、アーサー王伝説を好き放題に塗り替えるという話のはずだ。過去世界でなにかをすれば、現代世界に何らかの影響が出るというバタフライ・エフェクトがテーマの作品である。マグルが考えるような題材だろうに、ロックハートの話題性もあって英国魔法界ではそれを原作にした演劇が作られるレベルの人気を博している。

 さて。

 問題はその《バタフライ・エフェクト》である。

 蝶々が羽ばたくような小さな出来事でも、そこから離れた場所の将来の天候に大きな影響を与えてしまうような、無視できない巨大すぎる現象を生み出すかもしれない。といった、カオス理論におけるそういう考え方のことだ。ちょっと違うかもしれないが、日本魔法界ではよく起きる現象であり、風が吹くだけで悪卦(おけ)屋という闇の魔法用品店が儲かるということも、例としてはよくあげられる。

 それと同様のことが起きるかもしれない。

 さらに言えば、三作目の《ギルデロイ・ロックハートとアヴァロンの囚人》で取り上げられた、ロックハートの行動によって未来の自分が消滅しそうになってしまった展開。いわゆる《タイムパラドックス》も問題だ。

 ハリーが何か仕出かしたことによって誰かが消えたりなかったことになってしまうだなんて、そんなことを考えるとハリーは過去に跳んでも何もできないような気さえする。

 ハリーの不安な顔を見てとったのか、ダンブルドアが穏やかに声をかけた。

 

「ハリーや。過去へ行くのにあたって、一点だけ注意がある。それは『知り合いに会ってはならん』ということじゃ」

「えっと……それは、つまり、」

「無論、シリウスは別じゃよ。それ以外の人物じゃ。特に、君たちが今日会った人間には決して会ってはならん。自分自身に出会うなどもっての外じゃ」

 

 つまり、矛盾が出るということだろう。

 はっきり言ってしまえば、過去世界においてハリー達が知らない日本人と会おうが、その時点では大して影響はない。ハリー達からしてみれば「過去とは違う出来事」であるが、その日本人にとっては、「その時起きた出来事が唯一の現実」ということになるからだ。

 だがハリー達が行動する時間は、かつてその時間でハリー達自身が活動していた場所だ。つまり自分自身とバッティングする可能性すらあるということ。

 いまのハリー達にそんな記憶がない以上、巨大すぎる矛盾が生じる。

 更に言えば、その日本人が誰かに「あそこでハリー・ポッターにであった」等と言えば、その瞬間から世界に矛盾が生じる。そこから世界による修正が効かなければ、待っているのはすべての崩壊だ。

 だからこその、『知り合いには会ってはならない』という忠告。

 ハーマイオニーがネックレスのように首にかけていたチェーンを、ハリーの首にもかけるために杖を使って長さを調節していた。

 いったい何の素材で作られているんだろう、とハリーがチェーンを触ろうとすると、ハーマイオニーにべちんと強い平手で叩き落とされる。

 若干涙目になったハリーがダンブルドアを見遣る。がんばれ、と目で返された。

 

「ただ一回きり、まわすだけで十分じゃろう。透明マントを忘れぬようにな」

「はい先生」

 

 ダンブルドアがカーテンの外に歩み出て、最後に顔だけを出して注意した。

 

「よいか。くれぐれも、見られるでないぞ」

 

 そしてシャッとカーテンを閉められる。

 ハリーは急いでシャツを羽織って、ズボンを穿く。肩が少し痛んだが、無視できるレベルだ。シャツの前を閉めると包帯が邪魔であることに気付いたため、かなりのボタンを開放したままにした。そのままではあまりに心もとないので、ローブを上から羽織る。

 さて、とハリーはカーテンの向こうを覗き見た。ボロボロのロンが眠っている。

 ハーマイオニーも呼ぼうとしたが、《逆転時計》の設定に四苦八苦していたためぎろりと睨まれて断念した。

 ハリーはロンの寝顔を眺める。血が足りずに倒れたとの話だったが、その割りにはなんだか間が抜けている。すぴすぴと寝息を立てているのもまた愛嬌がある。

 にへら、と微笑んだハリーはその額にキスを落としておいた。きっと置いて行ったら怒るだろうし、なによりハリーはロンやハーマイオニーにキスをすると、心の底から暖かくなってきて、何でもできる気になってくる。

 何故だか火照った体温を冷ましながら、ハリーはハーマイオニーのもとへ戻った。

 

「行くわよ、ハリー」

「うん、行こう。シリウスには、聞かなきゃいけないことがあるんだ」

 

 ハーマイオニーが魔力を流し込み、《逆転時計》を起動させる。

 時計が激しく回転し始めると同時、水の入ったワイングラスを叩いた時のような、澄んだ音が響き渡った。その音はハリーたちに纏わりつくかのようにぐるぐると周囲を泳ぎ、それと同時に周りの景色がおかしくなり始めた。

 夜も遅かった空が見る見るうちにオレンジ色に染め上げられる。シャッとカーテンが開けられたかと思うとハリーたちをすり抜けて、マダム・ポンフリーがせっかく整えたベッドを崩してこちらを向いたまま後ろ向きに走り去って行った。ガーゼと消毒液のボトルを持ったウィンバリーがやってきたと思ったらそれを戸棚にしまい、またも後ろ向きに去ってゆく。ダンブルドアとマダム・ポンフリーが何やら支離滅裂な言語で話をして、きょろきょろとあたりを見回したダンブルドアがマダム・ポンフリーと共に薬品保管庫へ行った、その瞬間。

 ハリーたちは時の逆流から放り出された。

 奇妙な体験をしたせいで変な気分になったハリーは、隣のベッドを見る。……ロンがいない。

 

「ようこそ、一時間前の世界へ。今頃はシリウス・ブラックや私たちが《叫びの屋敷》にいるころよ」

「一時間も前かぁ。これカンニングとかばっちりじゃん。まぁ使ったら厳罰に処されそうな気はするけど」

「まぁ、その通りよね。逆転時計の悪用とかアズカバンレベルは固いわよ。……あと一時間後には私たちここに立っていないと、タイムパラドックスで大変なことになるから気を付けてね。……ところで、どうやってシリウスを助けたらいいのかしら」

「それもあるけど、ねぇハーマイオニー。ぼくはあの時、途中で気を失ったから知らないんだけどさ。あのあとはどうなったの?」

 

 ああ、と頷いてからハーマイオニーは応える。

 

「スネイプ先生が魔法で人狼になったルーピン先生を追い払おうとした時に、他の狼の遠吠えが聞こえてきたの。狼人間は仲間の声に反応するっていう習性を持つから、ただの狼か、考えたくはないけれど他の人狼がいたのかもしれないわ」

「そんなもんルーピン先生だけで十分だろうに。ハグリッドが芸でも仕込むつもりだったのかな」

「冗談言ってる場合じゃないし、そのジョーク、ロンのセンスそっくりよ」

 

 それはあまりにも失礼というものではないだろうか。

 

「とにかく、それでルーピン先生がどこかへ走り去った後に、スネイプ先生はシリウスを捕縛したわ。天文台の塔のてっぺんに幽閉して最後にホグワーツの景色を見せながら死なせてやるって言ってたから、私たちが行くべきはここよ」

 

 つまり。牢屋の中に先行しておいて、シリウスが放り込まれたら中から手引きをするという腹積もりだ。

 しかしそれにはきっと問題がある。

 

「でもそれ、吸魂鬼が一体でもいたら失敗するんじゃないかな」

「あっ」

「あいつらは感情を読んで行動するから、気配消失薬を飲んで透明マントで隠れても見つかるんじゃないかなあ……」

 

 まずいことになった。

 いきなりの作戦破綻である。

 先のダンブルドアの話だと、処刑はその場で行うらしいことを言っていた。

 

「じゃあシリウスを死刑場へ護送中に襲って奪い取るという手段は使えないね」

「ハリー、それ発想が完全にテロリストのそれよ」

「平和的解決はもうできそうにないよ」

 

 ああだこうだと話しているうちに、扉がガチャリと開く。

 それに気づいたハリーは、咄嗟にハーマイオニーをベッドの上に突き飛ばした。

 自身も布団に飛び込んで毛布を引っ被る。

 これで一応は見えないはずだ。

 

「あら? おかしいわね、誰かいたと思ったのだけれど」

「ポピーや、気のせいではないかね?」

 

 すっかり忘れていた。

 そういえば隣の部屋にはこの二人が居たんだった。

 突然ハリーによってベッドに押し倒されただけでなく、腰の上に圧し掛かられたハーマイオニーが驚きのあまり口をパクパクさせている。それに人差し指を当てて喋らないようにして、ハリーは異空間から透明マントを引っ張り出した。二人の体をそれでくるんで、するりとベッドから滑り降りる。

 ヌンドゥ相手に役立った《気配消失薬》は持っていない。あれがあるとないでは、隠密性は大違いである。だからまず向かうべきは魔法薬学に関連する部屋だ。

 ……ん? いや、ちょっと待て。

 ダンブルドアのじいちゃん、こっち見てね?

 

(……ッ、そうだ! あのヒトぼくが一年の頃、透明マントがあってもこっちに気付いてた節があったよな!? ってことは見えてるのか、この状況が!)

 

 ハリーは無言で身体強化魔法を用いて、ハーマイオニーを抱きかかえた。

 魔力が感知されてしまうだろうが、いっそのこと約一時間後まで追いつかれなければいいのだ。一時間後の世界(あ の と き)でもダンブルドアは何も言っていなかったので、きっと大丈夫だろう。

 猫のように素早く開いていた窓から飛び出して、ハリーは地面に着地すると同時に強く地面を蹴って城の壁に取りついた。窓枠やら排気口など、壁の出っ張っているところに足を引っかけてぐんぐんと登ってゆく。

 抱えられているハーマイオニーはいつ振り落とされてしまうか気が気ではないようで、ぎゅっとハリーの首に抱きついていた。うーん、暖かい。

 

「よっと。うーん、あそこかぁ」

 

 辿り着いた屋上から天文台の塔を見上げると、吸魂鬼がひゅんひゅんと飛び回っている。

 そろそろ叫びの屋敷では騒動が始まった頃だろうか。

 つまり、残りほんの十分かそこらでシリウスはあの塔に閉じ込められる。

 時間的猶予は全くない。

 ハリーは《忍びの地図》を開いて誰もいないことを確認してハーマイオニーに合図する。彼女は屋上の床に杖を向けると、無音で大穴を開けた。朽ちるようにして穴が開いたことから、なにやら腐らせたようだ。

 そこから侵入すると、薬品保管庫に直接行ける。まさか天井に大穴を開けてまで盗もうとする生徒がいるとは思うまい。それに、気配消失薬は四年生で習うような魔法薬だ。恐らく実習で作ったものが保管されていると睨んだのだが……ビンゴだ。

 色とりどりな液体が入っているビンが保管されている棚の中に、目当てのものがある。

 

「は、ハリーの乗り心地は最悪だわね……。さて、とりあえず気配消失薬よね。空でも飛べればいいんだけれど、学校の箒は厳重に管理されてる上に《流れ星》だから、逆立ちして逃げた方がよっぽど早いわ。だから逃走ルートは陸路になると思うの」

「逃走ルート?」

「ハリー? シリウスをあそこから逃がしただけじゃ、また捕まって逆戻りするだけよ。彼が逃げ切れるようにしてあげなきゃ」

「……だったらワームテールをボコって晒せば、無罪が証明されるんだし、ちょうどいいや。その線でやろう! っていうか殺ろう!」

「やれないわよ。しかも彼は私たちと直に会っていたのだから、自分たちと会うことにもなるじゃない。そんなことしたら発生した歴史の矛盾に対する修正現象がループして世界がドカンよ」

「クソっ、みすみすあいつを逃がすことになるのか……。っていうか、なんでそんな危険物を生徒に渡すかな。ちょっとおかしいんじゃない?」

「私の自制心と行動管理力を信用してくれたと思いたいけど、でもよく考えなくても十三歳に渡すようなもんじゃないわよねこれ」

 

 多少の文句を漏らしながら、目当ての魔法薬を複数回収して脱出する。

 そして何やら声が届いてくる。

 これは確か……そう、魔法大臣コーネリウス・ファッジの声だ。スネイプを褒め称えているようで、スネイプの声は聞こえないものの、何をどうしているのかを見事に実況してくれている。

 どうやらシリウス・ブラックを処刑するために学校中の吸魂鬼を集めにいくらしい。

 塔の上を見れば、吸魂鬼たちが扉を通って次々と屋内に入ってゆくところだった。

 これは好都合だ。

 内部から侵入するよりは、外壁をよじ登った方が手間が少なくて済む。

 更に言えば、吸魂鬼自体と出会いさえしなければ、奴らをごまかす手間が省ける。

 

「ハーマイオニー」

「まかせて」

 

 ハリーは透明マントをハーマイオニーに預けて、受け取った気配消失薬のうち一本を飲み干す。ハーマイオニーがマントをかぶって数秒すると、匂いやら視線やら、そういった彼女の気配が完全に消えた。彼女も服用したのだろう。

 身体強化に全魔力を注ぎ込んだハリーは、屋上を駆けて助走をつける。走り幅跳びのような恰好で飛び出すと、杖から魔力縄を射出して天文台の塔から突き出ている彫像に巻きつける。

 反動を利用して窓枠に飛び乗ると、蜘蛛が壁を這うように素早く塔を上り始めた。いまは透明マントをまとっていないので、できるだけ素早くこなすしかない。

 最後の最後にバランスを崩して落ちそうになる者の、強化された身体能力頼みで壁を蹴って高く跳びあがり、シリウスの閉じ込められている部屋の扉に向けて魔力縄を撃ちこむ。

 通常ならばそのまま地面へと落下してしまうが、縄を杖内に巻き戻すように縮めることで己の身体を引き寄せ、無理矢理に塔のてっぺんまで踏破を成功させた。

 

「シリウス!」

 

 扉には格子窓がついているようだ。完全に牢屋そのものである。

 教育施設に監禁用の場所があるってどうかと思う。

 格子を掴み、顔を覗かせると驚いた顔のシリウスが向こうに居た。

 その顔がおかしかったのか、生きていた安心感からか、ハリーは微笑を浮かべる。

 

「ハリ、エット。なぜ……」

「助けにきた。あんたはここで死ぬべきじゃない」

 

 シリウスが杖を持っていないと油断していたのかどうかわからないが、どうやら扉に魔法的な防護はかかっていないようだった。

 開錠呪文であっさり開いた扉を潜って、いまだに唖然としているシリウスの手を取る。

 

「ハリエット……」

「ぼくは、正直言ってまだ複雑な心境だ。あんたは無実だった。でも夜ベッドの上で見たあんたは怖かった。殺されるかとも思ったし、女としても危機を感じた」

「あ、いや、それは」

「いいんだ。アー、あまりよくないけど、もういいんだ。あんたがワームテールを探していたっていう事情があったのは、分かったから」

 

 ハリーが手を引っ張ると、見た目と反してシリウスの身体は異常なほどに軽かった。

 できるだけ朗らかに微笑んで、ハリーは言う。

 

「さあ、行こう! 《二代目悪戯仕掛人》たちから受け継いだ《忍びの地図》が役に立つ時が来たんだ!」

 

 懐から起動したままの《忍びの地図》を出して、状態を確認する。

 この屋上に続く階段の下には、《コーネリウス・ファッジ》と《セブルス・スネイプ》がいる。だめだ、この道は通れない。それにぞくぞくと吸魂鬼が集まっている。

 別ルート、ハリーがやってきた壁伝いを見てみれば、途中の窓際に《ポモーナ・スプラウト》が動かない。うたた寝しているのかもしれないが、しかし窓際から微動だにしないのでこのルートは使わない方がいいかもしれない。

 しかしそうなると飛び降りた方が早いかもしれない。……しかし上から見てみれば、天文台のてっぺんはホグワーツで一番高い場所であることがわかる。いくら身体強化で頑丈になっているとはいえ、脚の骨の一本や二本は覚悟するべきかもしれない。

 そうして悩んでいると、シリウスが杖を貸してくれと言ってくる。

 一瞬警戒してしまうものの、彼は無実だったのだ。それにジェームズの親友ということは、それだけで信頼に値すると思う。……ワームテールとかいたけどさ。

 

「はい」

「ああ。『アニムス』、我に力を。『レウィスレーウェ』、羽根のように」

 

 ハリーから杖を受け取ると、シリウスは身体強化呪文と、もうひとつハリーの知らない魔法を自分にかけた。

 身体強化の青白い魔力反応光のほかに、彼の足には薄緑色の魔力反応光がうっすらと纏われている。魔法式を見るに、どうもこれも肉体に作用するものであるようだ。

 何の魔法かを看破しようと目を凝らしているハリーに、シリウスが腕を伸ばしてくる。

 

「え? きゃ、わぁあ!?」

 

 ハリーは思わず悲鳴を漏らしてしまう。

 なんと。なんと、お姫様抱っこをされてしまった!

 膝裏と肩にぶっきらぼうに添えられた手と、堅い胸筋がハリーの身体に密着する。

 なんていうか、ものすごいドキドキしてしまうのは不謹慎だろうか?

 いや仕方ないと思う。シリウスは十二年の牢獄生活にも拘らず、随分と見事な肉体をしているのだから。ちょっとくらい反応してしまうのはしょうがないことだと思う。

 

「喋ると舌を噛むぞ」

「うそっ!? う、わ……っ!」

 

 シリウスはハリーを抱えたまま突如駆け出したかと思うと、迷いなく塔から飛び降りた。

 金切り声をあげてしまいそうになるものの、ぎゅっと目を瞑ってハリーは耐える。

 すとん、と意外にも軽い音を響かせてシリウスは見事に屋上へ着地した。しかし恐ろしいことに、床が彼の靴底型に陥没しているではないか。ここでハリーは先程の魔法が、衝撃を和らげる結果をもたらす何らかの効果を付与していた事に気づいた。

 ハリーへの衝撃も全くない。彼はいったいどこでこんな技術を学んだのだろう。

 

「さて、ハリエット。《地図》を」

「え、あ。うん……」

 

 袖に入れていた地図を取り出し、内容を眺める。

 廊下の向こうから生徒が数人歩いてくる。おいおい、外出禁止時間だろうが。

 懐から出した気配消失薬のビンをシリウスに投げ渡して、ハリーは誰も来ない方向へ行こうと小声で合図する。しかし、隠れる場所がない。

 なにか隠れるものはないかと探し回っていると、ふと廊下の端に寄せられたダンボール箱が目に付いた。

 ……いやいやいや、ちょっと待て。

 ダンボールて。

 

「シリウス」

「……おい、君はまさか」

「あれに隠れよう」

 

 まずシリウスが渋々といった具合にダンボールを被る。そしてハリーが、シリウスの長い脚の間に挟まるようにしてすっぽりと入った。

 この後どうするかをひそひそ声でシリウスに伝えて、完成だ。

 これで完璧だ。

 内側に銀色の長いひげがくっついているのを見る限り、見つかる気がしない。

 

「おい、なんだあれ……」

「……関わらない方がいい」

 

 まぁそりゃそうだよね。

 男子生徒三人組がそそくさと立ち去ろうとする姿を見て、ハリーたちはダンボールをかぶったまま立ち上がる。ヒィッという悲鳴が後ろから聞こえてきたがそれを無視して、四足の不思議生物は身体強化されたまま高速で走り出した。

 夢に出る。

 完全に気配を殺して高速疾走するダンボールという非現実的な光景を、あえて複数人の生徒に見せつけることに成功。

 誰もいない廊下に入った途端、シリウスがダンボールを脱いでハリーから杖を受け取った。

 すると、ばしゅ、と控えめな魔力反応光とともにニョキニョキとダンボールから脚が生えてきて、あらぬ方向へと全力で走り出して消えて行った。

 あれで囮になるかは若干疑問だが、こちらに注意が向かなくなるのならいいことだろう。

 

「先の廊下で生徒が集まっているようだな」

「邪魔だね。うん、ちょっと待ってて」

 

 心配はいらない。

 なぜならとても頼りになる者が近くに来ている予感がするからだ。

 ハリーは《忍びの地図》を覗き込むと、やはり目当ての者が見つかった。

 壁にとんとんと足をぶつけて囁く。

 

【いるかい、バジリスクちゃん】

【もちろんです】

 

 《地図》には、壁の中に《H》の頭文字が揺らめいているのを表示していた。

 この表示がされるのは、本名を忘れてしまった蛇の友達、バジリスクしかいない。

 城が騒がしくなってきたのを察知してハリーのもとへ来てくれるだろうと確信していたが、本当に来てくれるとは。頼れる友人に心の中で感謝する。

 シューシューと喉の奥から奇怪な音を漏らしはじめたハリーを、シリウスがぎょっとした目で見ている。ちょっと悪戯っぽく笑って、ハリーはバジリスクとの会話を続けた。

 

【頼んだよ】

【お任せください、ハリー様】

 

 ハリーがバジリスクに合図を送ると、壁の奥の方で金属がひしゃげる鈍い音が響いた。

 ばしゅ、と遠くの方で勢いのいい水音と、男子生徒の悲鳴が聞こえてくる。

 バジリスクに頼んで、トイレのパイプを少々ぶち壊してもらったのだ。きっと先ほどの悲鳴は、激しいウォッシュレットを喰らったのだろう。

 手元の《地図》を見る限り、次々と男子トイレの方へ名前たちが集まっていくのが見える。

 行き先の廊下が無人になった。

 

「行こうシリウス」

「……ああ、行こうか」

 

 流石製作者の一人というべきか、どうやらシリウスは《忍びの地図》の内容を熟知しているようだ。彼は現在地から一番近い、ハニーデュークス店の地下に出る抜け道を選んだ。

 するりと滑るように中に入ると同時、シリウスが唐突に変身して犬になった。何故かと思って地図を覗き込めば、遠くの方からこちらに向かっていくらか吸魂鬼が素早く移動しているのが見てとれた。

 天文台のところにスネイプとファッジの名があることから見るに、どうやら逃走がバレたらしい。

 強化された脚力にまかせて、二人は素早く抜け道を走ってホグワーツの敷地から出る。

 ここから先において地図は役に立たない。「『いたずら完了』!」と唱えて地図を羊皮紙に戻すと、懐にしまい込んだ。

 床の石畳を外してハニーデュークスへもぐりこむと、甘い匂いのほかに人の気配はしなかった。

 ひとまず、ホグワーツからの脱出は成功だ。

 

「いや、気を抜いちゃだめだ。シリウス、ホグズミード郊外の森の中を抜けよう。叫びの屋敷とは反対側の方へ行かないと。向こうはスネイプ先生にバレちゃってるし」

「……ああ、そうだな」

 

 少しだけ微笑んでいたシリウスが、ハリーが話しかけると途端に真面目な顔つきになる。

 いまの行動のどこに笑う要素があったのかハリーにはわからなかったが、脱出できるんだし嬉しくないわけがないだろうと思ったことでその疑問は余所に追いやられた。

 現在地はホグズミードの中心だ。

 時刻からしていくらか人がいるはずである。ここから先には、見つからずに行ける道理はない。

 

「……、ん」

「どうした、ハリエット」

 

 突然立ち止まって、何やら声を出したハリーにシリウスが問う。

 その疑問も、ハリーが手を伸ばして正体を晒させたことで氷解した。

 ハーマイオニーだ。

 透明マントを被ったハーマイオニーが、いくつかの小瓶を持って現れたのだ。

 複数の《気配消失薬》に、一杯で一週間分の食事になる魔法薬のビン、物理的な傷を治す魔法薬に魔法的な傷を癒す魔法薬。諸々のサバイバル向けなビンがずらりと並んでいた。

 傷を治す系統の魔法薬はハリーも考え付いたが、食糧関係はまったく想像していなかった。なるほど、逃げ続けるために必要なものとはこういうものだったのか。

 確かに人間、食べなければ生きてはいけない。

 

「はい、シリウス。これとそれとあれと、日持ちしないものから順に消費していくのよ。痕跡を残さないためにも使用済みのビンはポイ捨てしないで回収すること。生水は飲んだらだめですよ、寄生虫が入っていたら魔法を使えない状態だと一発で終わりますから」

「……君は、聡明な魔女なんだな」

「ほ、褒めたってなにも出ませんよ」

 

 透明マントを肩にかけた状態で中途半端にかぶっているため、奇妙に細くなったハーマイオニーが次々とシリウスにビンを渡してゆく。

 持ちきれないほどのビンを渡されて困り顔のシリウスに、見かねたハリーが異空間から引っ張り出した麻袋を渡した。ハグリッドが編んだ頑丈な袋だ。中には複数個のロックケーキが入っているが、これもついでにあげてしまおう。

 さて。

 本当なら杖を用意できれば一番だったのだけれど、流石にそれは無理だ。

 生徒の物をかっぱらってしまえば、シリウスは本当に犯罪者になってしまう。それはいけない。せっかく潔白の身だったのだから、これ以上余計なものを背負う必要はないのだ。

 

「さあ、ハリー。あとはホグズミードを抜けるまで気を抜いちゃだめよ」

「わかった。任せてよ」

 

 二人は愛しい親友をぎゅっと抱きしめて、互いに頬へキスをした。

 ハーマイオニーはここで待機だ。

 シリウスを送ったあと、今度はハリーがバレないように城へ帰る必要がある。

 そのためのサポート要員として、ここで待っていて貰わなければならないのだ。

 それに大人数だと見つかりやすくなる。

 隠密が最重要である今回に限っては、ハリーただ一人の方がいいのだ。

 

 親友と別れ、ハリーはシリウスと共に木々の間を疾駆する。

 奇妙なほどに誰もいない。

 吸魂鬼の襲撃も予想したものの、まだホグズミードまで行ったことに気付いていないのか影も形も見当たらない。まだ無形守護霊しか出せないハリーとしては、大量に襲われた場合は追い払える気がしないので、これは助かることだった。

 ホグズミードの家々がずいぶん遠くに見える。

 ハリーが腕時計をちらりと見ると、残りは三〇分ほどしかない。あれだけ素早く移動したというのに、もう半分も消費してしまった。

 だったら。

 聞いておきたいことを聞けるタイミングは、今しかない。

 

「……あの、」

「……ハリエット」

 

 ハリーが話しかけると、同時にシリウスも言葉を投げてきた。

 だんだんと走る速度が緩み、しまいには立ち止まってしまう。

 それに倣ってシリウスも歩みを止めた。

 二人して同じく、共に何やら言いたいことがあるようだった。

 ハリーは期待と不安を綯い交ぜにした表情であるのに対して、シリウスの方は蒼白な顔色だった。健康状態が悪いということもあるかもしれないが、どうやら楽しい話ではないらしい。

 

「……シリウス、先にどうぞ」

「………………いいや。君から先に頼むよ」

 

 何かを振り払うようにかぶりを振ったシリウスが、呟くように言う。

 ならばと甘えることにして、ハリーは言葉を紡ごうとした。

 しかし声が出ない。

 緊張で声が出ない。

 まるで……そう、まるで、男の子に告白する女の子のような気分だった。

 

「し、シリウス……シリウス、おじさん」

「……ああ、ああ。なんだい、ハリエット」

 

 かろうじて流れ出たか細い声を、シリウスは拾い上げるように返事をする。

 そんな彼の顔に、ハリーは勇気を振り絞った。

 敵に立ち向かう類の勇気ではない。命を懸ける必要はないけれど、それでも、ハリエットというただ一人の少女にとっては一世一代の勇気であった。

 

「ぼく……ダーズリーの家に居たとき、ときどき考える夢があったんです」

 

 ぽつり、と。

 そう前置きを零して話し始めてしまえば、あとは洪水のようだった。

 恥ずかしくて、非現実的で、ハーマイオニーやロンにさえ言ったことのない夢。

 別に隠していたわけでは、ない。

 言ってしまったら同情を買うと思い、秘匿していたわけでもない。

 ただ、なんとなく言えなかった。

 単なる夢の話。

 

「いつか、ああ、いつの日か、親戚の人が誰か、ぼくをこの絶望から救い出してはくれないかと。そして、その親戚の人がぼくを引き取って、一緒に暮らしてはくれないかと」

 

 それはハリーが歪まず、ハリーの瞳が汚泥のように濁ってしまう前の話。

 女の子なのだからぼくも学校の子みたいにスカートを穿いてみたい、と言って痛い目に遭っていた頃の夢。

 まだ希望を捨てられずに、地獄からの脱却を乞い願っていた幼い時の、希望。

 

「ああ、その時は、ぼくは、その人のためにパイを焼きたい。ペチュニアおばさん譲りで、アップルパイは得意だから。……ええ、きっと。休日のおやつの時間は、ぼくの仕事なんです。玩具なんていらない。服だって何でもいい。お化粧品なんてどうでもいい。……ぼくは。ぼくは、その夢想した親戚の人と、静かに暮らしていたい。そんな、妄想のような、ありもしない希望を抱いていたんです」

「……ハリエット、きみは……」

 

 絞り出すような声で、思いの丈を吐露するハリー。

 対するシリウスは掠れたような声で、恐る恐る問いを投げた。

 それを胸で受け止め、ハリーは

 

「ええ、シリウス。ぼく……えっと、その。全部終わったら、そう、全部終わったら。無実だと判明して、ヴォルデモートもどっかいなくなって、そう、平和に。平和に、なったら……」

 

 シリウスは言葉の続きを待つ。

 どこか辛そうに、どこか悲しそうに。

 そして、ハリーは。

 できるだけ可愛く見えるように、できるだけ朗らかに見えるように。心の底からの期待を込めて、蕾が花開くような微笑みを浮かべた。

 

「――ぼくと暮らしてください。シリウス、ぼくの希望になってください」

 

 冷や汗が流れる。

 言ってしまった。ついに、言ってしまった。

 聞きたいこともあったはずなのに、つい口を衝いて出てしまった。

 もしダメだったりした場合はなんて顔をしたらいいのだろう。

 泣いてしまうかもしれない。

 でも、でもとハリーは繰り返す。

 もしも、もし本当にオーケーだったら?

 やっぱり泣いてしまうかもしれない。

 シリウスが困った顔をしている。ああ、しまった。唐突過ぎたか。

 ハリーには家族がいない。

 両親の記憶がまったくない。

 だからなのか、ハリーは家族というものに飢えている。

 散々自分を虐げてきたダーズリー家も、本人は否定するであろうが家族と見做している。

 いったい何本ハリーの骨を折ってきたかわからないダドリーでさえ、まともに話せるようになった最近では親愛を覚える時があるのだ。ひょっとすると被害者が誘拐犯に親しみを感じてしまう感情と似ているのかもしれない。

 そんなハリーが持つ、ちいさな欲望。

 それがつい、口からぽろりと出てしまったのだ。

 

「そうか。……そうかぁ……」

 

 目を閉じて、天を仰いで。

 シリウスは噛み締めるようにその言葉を聞いていた。

 

「まさか、……まさか君が、そんなことを私に思ってくれていたなんてね……」

「……い、嫌ですか?」

 

 恐る恐るハリーが問う。

 もう既に目が潤んでいる。

 シリウスは、それに対して「そんなことはない」と呟く。

 それは。

 それは、つまり。嫌じゃないということ?

 つまりそれは、えっと。

 

「な、なら……!?」

「いや。本当にすまないが、その未来はきっと来ない」

 

 ハリーの顔がにわかに輝くも、続く言葉に一気に曇った。

 やはり、だめなのか。

 じわりじわりと湧いてくる涙が、止められそうにない。

 いま泣いてしまったら、シリウスはきっと辛いだろう。

 うぬぼれているのかもしれないけれど、自分が断ったせいで少女が泣きだせば、きっとそう思ってしまうはずだ。

 

「ご、ごめんなさいシリウス……む、むちゃくちゃ言っちゃって……」

「…………、……いいや、違う。……違うんだ、ハリエット」

「やっぱりぼくじゃだめだよね。こんな、こんなおでこに傷のある男女じゃ……」

「違うんだハリエット。君は……そう、君は悪くないのだ」

 

 ぼろぼろと涙が出てきてしまう。

 やはり止められない。哀しくて、そして空しくて涙が止まらない。

 つい自分を卑下してしまうハリーであるが、シリウスがそれを否定する。

 シャツの前を開けているせいでお腹が寒いけれど、いまはあまり気にならない。

 洟をすすって、シャツの袖で涙をぬぐって。

 ハリーはシリウスの言葉を聞く覚悟を決めた。

 

「悪いのはこちらだ。恨むなら、ヴォルデモートと……そして私を恨め」

 

 シリウスが、沈痛な面持ちでそう呟く。

 どういう、ことだろう。

 ハリーは訳が分からなくなってきた。

 期待した分だけショックが大きくなるとは知っていたけれど、予想以上にダメージを受けてしまっているのかもしれない。ちょっと、落ち着かなくては。

 ヴォルデモートはともかく、シリウスを恨む?

 これはどういうことかと改めて考えた、

 その、

 時。

 

「――――――えっ……?」

 

 強い衝撃と共に、ハリーの思考が止まった。

 敵襲か。

 ついに吸魂鬼がやってきたのだろうか。

 ――なのに寒くない。

 しかし、絶望的な気持ちになっている。吸魂鬼の特徴なのに。

 ああ、そうかとハリーは納得した。

 闇祓い達という線もあったな。そういえば、彼らはシリウスを追っている。つまりそれに協力したぼくも犯罪者だ。

 トンクスにハワード、ウィンバリーたちを敵に回しているんだ、攻撃くらいされる。

 ――だけど痛くない。

 しかし、息がとても苦しくなっている。攻撃されたと思ったのに。

 ……だめだ。

 認めたくない。

 現実を認められない。

 ハリーはぼろぼろと涙をこぼしながら、そして口の端から唾液を零して、目の前を見た。

 

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 まるで自分の身を引き裂かれているような顔で、一筋の涙を流しながら。

 それでいて目が、シリウスの黒くて濁った闇のような瞳が。

 憎しみに染まった眼でハリーを射抜いている。

 ギリギリとか細い首を握り締めるシリウスの指が。すごく痛い。

 息が出来なくて肺に酸素がなくなって。とても、苦しい。

 

「――ハリエット。……なぜなら、私は、……君を殺しにきたのだ」

 

 憤怒と憎悪を込められた目で、心を許そうとした人に睨まれるのが、

 ひどく、悲しい。

 




【変更点】
・スネイプにとってルーピン≧ジェームズ>越えられない壁>シリウス。
 原作よりも好感度の高低が激しい。ピーターはそんなのいたっけ状態。
・ピーターも好感度を変更。しかも原作と違ってある程度は帝王に忠実。
・ロンの杖が御臨終。一年間伸びた儚い寿命でした。
・可愛さ余って、の逆。不良が捨て犬を理論で、ハリーは彼に好感を抱いた。
・バックビークが居ないので、走って逃走。メタルギアハリエット。
・シリウス戦の発生。

【オリジナルスペル】
「レウィスレーウェ、羽根のように」(初出・34話)
・体重を軽くする魔法。高いところから飛び降りたりするのによく使われる。
 元々魔法界にある呪文。魔法的側面から見て軽くなるだけなので、体重計は変わらない。

少女よ、これが絶望だ。
ピーターに関しては、ちょっと乱暴な兄のような気持ちで接していたらイジメと受け取られて知らないうちに憎悪されていたというケース。そのせいで厄介な敵になってしまったのだから、色々と救われない。
逆転時計はほんと十三歳に渡すような代物ではないと思います。ですけどまぁ、細けぇこたぁいいんだよ! カオス理論って何でしょうね。儀式魔法?
そしてシリウスの殺意。今回は正史と同じルートを辿りながら、その内容がだいぶズレてきたことを象徴するお話です。ハリーは生き残れるのか。っていうか凄く教育によくない状況だ。がんばれダンブルドア、がんばれ教育者たち。
アズカバン編は後々に向ける伏線だらけな感じですが、次回でようやく終わります。
歴史の矛盾も怖いけど、HMDの誤字や矛盾も怖い。


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10.フラグメント

 

 

 ハリーは、泣いていた。

 はらはらと、ぽたぽたと、大粒の涙を流していた。

 シリウス・ブラック。

 彼は、大量殺人鬼として濡れ衣を受けていた。

 彼は、ジェームズとリリーを裏切っていなかった。

 彼は、ハリーの家族になってくれるかもしれない人だった。

 彼は、彼は、彼は。

 ……彼は、ハリーを殺そうとしていた。

 

「……か、……ぁ……」

「死ね……ッ! 死んで、くれ……!」

 

 歯を剥きだしにして、目を見開いて、髪もひげも振り乱して。

 膝を折って崩れ落ちたハリーの身体を地面に押し倒して、馬乗りになって体重をかけるようにして首を絞め続けるシリウス・ブラック。

 かつてハンサムだったろう顔は、今や憎悪で見る影もなく黒い。

 ワームテールが、裏切り者だったんじゃないのか?

 シリウスは、無実だったんじゃないのか?

 なぜぼくを殺そうとするのか。

 どうしてこれだけ憎しみに染まった眼で見てくるのか。

 ハリーには、何もかもがわからなかった。

 

「……っ、…………! ……ッ!」

 

 父の親友がこんなにも怒っているんだ。悪いのはぼくなのではないだろうか。

 だったら、……殺されてもいいんじゃないかなぁ、なんて。

 ほんの一瞬だけ、諦めてしまって。

 そして涙と共に溢れてきたのは、純粋な怒りの感情だった。

 なぜぼくが殺されなくてはならないのか。

 更にはシリウスに聞きたかったこともまた、ハリーの感情に拍車をかけた。

 『パパとあなたが学生時代に過ごした思い出を聞かせてほしい』。

 そんな素朴な問いかけだった。

 ハリーを殺すということは、シリウス・ブラックはヴォルデモートに与する者である可能性が高い。というより、それの他にはないだろうと言うほどに疑わしい。

 つまり。

 ジェームズとリリーを裏切っていたのは、ピーターだけではなかったということか?

 そうなると、こいつは。こいつは――

 

「……ッ! ……ッッ! ……ッッッ!」

 

 ぼろぼろと涙をこぼして。

 ハリーは右手を握り拳に変えて。

 明るい緑の瞳が怒りの深紅に色付いて。

 シリウスの左目を狙って親指を打ちこんだ。

 

「――――ッ、ガァアアアアアアアアアアアアッ!」

 

 ぐぢゅり、と嫌な音が響く。

 激痛のあまりハリーを投げ飛ばしたシリウスは、左目を抑えて倒れ込んだ。

 喉が干上がったように熱く感じる。同じく地面に倒れ込んだハリーは、四つん這いになって咳き込んだ。シリウスは眼窩から血を流して、どこか怯えたような目でハリーを見ている。

 その様子に恐怖を覚えるばかりか、ハリーは怒りを覚えた。

 ジェームズとリリーが殺される原因を作ったのは、恐らくピーター・ペティグリューだろう。シリウスとルーピンの怒りが演技のようには見えない。

 だが。

 いつかハリーが《忍びの地図》の件からスネイプに絡まれた時に、ルーピンは言った。『ハリー・ポッターを守って死んだジェームズとリリーが気の毒だ』と。

 そうすると、こいつはなんなんだ。

 親友を裏切った男を許せずにわざわざアズカバンを脱獄してまで殺しに来て、そしてハリーを殺しにやってきた? それは、なんて矛盾。なんて、ばかばかしい。

 

「シリウス……」

「……ハリエット……」

 

 ぎり、と奥歯が噛み砕けるのではというほど噛み締める。

 憎しみが止まらない。怒りが収まらない。

 紅く朱くドス黒い光を孕んだように鋭い眼光を放つ赤い瞳が、シリウスを射抜いた。

 そこに、言葉は必要ない。

 

「『フリペンド・ランケア』、刺し穿て!」

 

 相手が杖を持っていようが持っていまいが関係はない。

 闇祓い達との攻防を見ていた経験がここに活きる。奴は杖などなくとも、魔力反応光を避けられるほどには動体視力と身体能力が高い。

 現にいまハリーが投擲した魔力槍も、身を捻ることで難なく避けている。

 それにしても異常だ。マグルで言えば銃弾を見てから避けるようなものだ。奴が動物もどきだからなのか? しかしマクゴナガルのように豊富な知識を持っているならばともかく、十三歳の魔女に過ぎないハリーにはわからない話だ。

 だが。そんなもの、当ててしまえば問題はない。

 

「『リピート』! 『リピート』! 『リピート』、『リピート』ッ、『リピィィィィィ――ト』ッ!」

 

 直前呪文を繰り返し、五本の槍を同時に投擲する。

 二本はそのまま射出して串刺しを目的に、残る三本は激しく回転させて面制圧を目的に。

 禍々しく刺々しい赤い鳥のようにシリウスに迫った槍たちは、彼が駆けだしたことであっけなく避けられてしまう。

 そのまま獣じみた勢いでハリーに向かって突進してくるシリウスに、ハリーは焦りを見せなかった。余裕な笑みを見せつけて、相手の平常心を削ぎ獲ることこそ、戦いにおいて簡単に加えられる一味のスパイス。

 シリウスの身体能力は、それこそ身体強化状態であればハリーですら視認が難しいほどに素早い。だがいまは素の状態であり、もともとの人間としての力しか有していない。

 銃もなければナイフもない以上、ハリーを殺すためには殴るか蹴るか、はたまた抉るか掴むか、それくらいしかない。要するに投石などを含めたとしても、大きなダメージを与えるには至近距離に限られるということだ。

 ならば近づけさせはしない。

 

「『アドヴェルサス』、逆行せよ! 廻り巡れ繰り返せ(Circulation)! 報いを与えろ荊の檻よ(Retribution Sin Torture)!」

 

 スネイプから教わった防御魔法、『反射呪文』。

 これは魔力障壁を張り、相手術者が放った魔法がそれに当たれば、その魔力反応光を術者に跳ね返すという魔法だ。

 ハリーはこれを、槍の進行方向上に設置した。

 聞いたことのない呪文に眉をしかめるシリウスだが、それもそのはず。これはスネイプ自身が考案した呪文だというのだから、学生時代に見せていなければ知る由もないのだ。

 このまま使っては、もちろんハリー自身に槍が返ってくる。

 それをハリーは、魔法式を無理矢理に書き換えることで設定を変更した。

 ぶっつけ本番。やったことがなかった上に出来るかどうかすら確証がなかったが、土壇場で発揮できる力をハリーは持っていたようだ。ハリーは杖先から放たれた薄黄色の魔力障壁の透明度が限りなく上がっているのを見て、内心ほくそ笑んだ。

 障壁に直撃した槍は一本残らず反射され、全く同じ威力でシリウスに向かって再度飛翔した。

 

「――ッ、く……!」

 

 動物的な勘でそれを避けるシリウスだったが、完全な不意打ちであったため二本が脇腹とふくらはぎの肉を削いでハリーのもとへ飛んでくる。

 自分の目の前にも反射障壁を張ったハリーは、次々と同じ障壁をシリウスを囲むように設置してゆく。再度反射。次々と反射されるたびに速度を上げる紅い槍は、もはや閃光めいて残像のみを視認することが許される。シリウスはもはや勘と経験、そして空気の流れからくる予知染みた予測を立てて槍を避けている状態だ。

 ハリーは容赦をしない。次々と直前呪文を繰り返し、槍の本数を増やしてゆく。

 まるで球体のように張られた反射障壁の空間内のみに降る豪雨のような紅い槍は、掠りながらも皮膚を削ぎながらも、一度も直撃していない。本当に人間なのか疑わしい光景である。

 三〇を超える槍を作り出したところでハリーは痺れを切らし、一直線にシリウスを狙うように螺旋状に回転する槍を作り出すと同時に射出。

 それは失策であった。

 

「ふ……ッ、っつ……ぉォオオあァッ!」

「んなっ……!?」

 

 シリウスは、他と比べると唯一速度の遅いそれを、直に掴み取った。

 そして掴み取るや否や、ハリーに対して投げ返してきたのだ。

 避けようと思う間もなく、ハリーのすぐ傍を槍が通過する。前を閉じずに着流していたブラウスとローブが巻き込まれて千切れてゆく。その衝撃に巻き込まれ、ハリーも尻餅をつく形で転倒してしまった。

 倒れながらも目にしたのは、背中を数本の槍で貫かれながらもこちらに向かって地を滑るように駆けてくる巨大な犬の姿。シリウスが変身した姿だろう。

 対象が抜け出たことで障壁の空間が砕け散り、槍があちこちへとすっ飛んでゆく。ハリーの近くにも幾本かが地面を抉りながら突き刺さり、肝を冷やす。シリウスはそれすら無視して一直線にハリーのもとへやってきた。

 獣そのものの獰猛な唸り声と共に、ハリーは巨大な犬に押し倒されてしまう。

 あまりに体重が違いすぎて、前足で胸を抑えられては身動きが取れない。

 鋭く立てられた爪が胸の肉に食い込み、じくじくと痛む。

 生臭い獣同然の息がかかるほどに大きなアギトを開いて、ハリーの喉を食い破ろうとしている様子が、まるでスローモーションのように映る。

 

「くっ! う、ぁぁあああああ!」

 

 恐怖を雄叫びで追いやり、手首のスナップのみで魔法式を組み、無言呪文で失神呪文を放つ。ゼロ距離で放たれた赤い閃光が、犬の胴体に直撃――

 しようとした、その時。

 シリウスは犬のまま宙返りをすると、一瞬で犬の姿から人の姿に変じて、犬であれば直撃したはずのコースから逃れることに成功した。そして宙返りの回転の勢いで、ハリーの鳩尾に膝を突き入れる。

 予想外の衝撃に、ハリーは胃から喉に込み上げるものをこらえきれなかった。

 

「ご――ぼぁ……ッ」

 

 成人男性の全体重を乗せた、膝からの一撃。

 胃の中身を吐きだしてしまい、寝転がされて天を仰いでいる状態なので当然びちゃびちゃと頬や髪を汚してゆく。

 息が、できない。

 思わずゆるんだ指から、杖が抜き取られるのがわかる。

 シリウスに杖を取られてしまった。

 肺に空気を取り入れるのに必死になって視界がまともに機能しないが、杖を向けられている威圧感だけはわかる。

 ――だめだった。敵わなかった。

 先ほどハリーが彼のことを自分の上位互換だと感じたのは正解で、シリウスを相手取って勝つことなどできるはずがなかった。

 

「……言い残すことはあるかね」

 

 シリウスの低い声が聞こえる。

 ようやく視界が回復してきたと思えば、何やらぼやけている。

 ああ、そうか。どうも涙しているらしい。

 女々しい事この上ない。

 

「あんたを、信じていた」

「そうか」

 

 睨みつけながら言うも、女の子が泣きながら言ったところで威圧感もないもないだろう。

 ただの一言で返されてしまった。

 

「一緒に、暮らしたかった……」

「……ああ」

 

 偽らざる本音である。

 ハリーはじっとシリウスの顔を見つめる。

 髭面で、小汚くて、ハンサムだっただろう顔の面影もない。

 じっと見つめる。

 

「友達殺しが」

「その通りだ……! 私の、私のせいだ!」

 

 顔を歪ませて、ハリーの罵倒に唸るように言葉が返される。

 まだだ。まだ足りない。

 

「ペティグリューとの一件は何だったんだ」

「奴は奴で許されないことをした。だから、殺したかった。そして、……そう、君を……油断させるためだ。そうさ、ほら、城の外、君は一人だ。そうだろう!」

 

 ハリーはだんだんと、頭の中が冷静になってゆくのを自覚する。

 なるほど、と一人納得した。

 

「じゃあパパとママを殺したのも……」

「……そう、だ。私だ、私が殺したようなものだ! 君は、君はジェームズとリリーの元へは送らない。会わせはしない!」

「ぼくも殺すのか。パパとママのように」

 

 一瞬、シリウスの顔が不快げに歪んだように見える。

 しかしその割には、ああ、そうか。

 

「ああ……そうだ。今夜きみをここで殺す」

 

 そういうことか。

 ハリーは上半身を起こす。包帯で隠しただけの下着が見えてしまっているが、今そんなことを気にしたところでしょうがない。いまは、そう。

 杖を突きつけているシリウスの腕を掴み、その髭面にハリーは顔を引き寄せる。

 そして、叫んだ。

 

「だったら!」

 

 びくんと気圧されたようにシリウスが震える。

 

「何故そんな辛そうな顔をする!? そんなの、そんなのってズルいよシリウス!」

 

 ぽたり、と。

 ハリーの頬に、シリウスの涙が一粒落ちた。

 澎湃と涙を流し、顔を歪めて、洟で髭を汚しながらも、殺意を向けてくるシリウス・ブラック。だがその眼に力はなかった。心がへし折れている。殺そうとする意思が潰えてしまっている。

 この男は、そうだ。

 彼はどう見ても、ハリーを殺そうとしているようには見えなかった。

 殺す殺すと息巻いて、恐ろしい殺気を振り撒いて、ハリーを殺すと言いながら暴力を放ってくるものの、そのどれもがハリーを殺すには至らなかった。

 幾度実感したかはわからないが、ハリーは女性で、そして小柄な少女だ。

 つまり、非力なのである。

 それにもかかわらず、シリウスはこの数分間でハリーを殺しきれなかった。

 首を絞めた時も、骨ごと折ることすら可能だったはずなのにそれをしていない。

 ハリーが彼の目を突いたように、手刀で突き殺すという選択肢も取れたはずだ。

 槍結界の時もそうだ。避けるばかりで、積極的な攻勢に出ていない。さらに投げ返してきた槍に至っては、最初からハリーの身体に当たるようなコースではなかったという始末。

 先ほどの掴み合いもそうだ。

 わざわざ顎を開いて今からかみ殺すとアピールしなくても、素早く喉を食い破ればよかった話だ。回転しての膝打ちも、腹を狙わないあたりに何かの気遣いが見られる。

 そんなもの、総じて殺し合いに持ち出すような判断ではない。

 現にハリーは殺せるチャンスがあるときには迷わず必殺になりうる一撃を放っている。

 彼にはそれがない。それがなかった。

 うるさい、だまれ、といおうと思ったのだろうか。しかしハリーは彼が口を開いた時には、ハリーはすでに用意を終えていた。

 素早く曲げた両足を勢いよく伸ばし、シリウスの腹を強く蹴り抜く。本当は股間を狙おうと思ったのだが、それは咄嗟に選択肢から外しておいた。シリウスがくぐもった声を漏らした。そのまま彼を足場にして、アクロバティックに彼から離れる。

 その際に、痛みに緩んだ彼の指から自分の杖を抜き取ることも忘れない。

 杖を抜き取って宙返りしながら跳んだハリーは、宙に居る時点で杖先をシリウスに向けて、着地しながら叫んだ。

 

「『エクスペリアームス』!」

 

 結果。

 武装をしていないために余剰魔力がすべて衝撃となって襲いかかり、シリウスの体が大きく吹き飛んで、幾本かの枝を折りながら木の幹に叩きつけられた。

 葉が舞い散る中、ハリーは項垂れるように顔を伏せるシリウスのもとへ、咳き込みながら歩み寄る。

 彼女が近づいてくることに気付き、シリウスは右手で顔を隠して嫌がるような仕草をする。しかしハリーはその右手を強引に掴み、左手を彼の頬に添え、自分と視線を絡ませた。

 怯えきった捨て犬のような、主人に怒られるのをわかっている犬のような顔だ。

 

「だめだ、ああ……だめだ……私には殺せない。君は、君は……」

 

 呟くように懺悔に似た言葉を吐き出すシリウスの身体は震えていた。

 スネイプに基礎知識を教わったため、ハリーは開心術の基本だけを理解している。

 あれは他者のことを知りたい、秘密を暴きたいと強く願っていればいるほど、成功率が高くなる、他とは異なる異様な体系を持つ魔法だ。心に関係する魔法は、魔法式どころか魔力すら必要ない場合が多い。開心術や閉心術、リリーが使った愛の魔法などがこれに当たる。

 きっと今、開心術を使おうと思えば使えるだろう。成功すると確信する予感がある。

 だが、そんなものは必要なかった。

 これだけ弱り切った少年のような男を見て、誰がそんなもの必要と思えるだろう。

 ハリーはシリウスの前に立つと、シリウスの頭を抱きしめた。

 できるだけ優しく、子供をあやすように胸に包み、頭を撫でる。

 しばらくの間、林には男のすすり泣く声だけが響いていた。

 

 数分ののち、落ち着いたらしきシリウスがハリーの肩を優しく叩き、ハリーはシリウスから手を放した。十三の少女の胸で泣いてしまったのだ、もはや恥もプライドもあるまい。

 シリウスは頬を掻いて、懺悔するように謝罪した。

 

「申し訳なかった、ハリエット。私は、私はどうかしていた」

「そりゃ、まぁどうかしてるよね」

 

 容赦のない言葉がシリウスの心を抉る。

 信頼を裏切り、殺されかけたのだ。これでも生温い方である。

 ハリーがよほど家族に飢えていたということもあり、あまり冷酷な態度に出れない。そしてシリウスがいまいちハリーを殺しきれなかった理由がさっぱりわからないというのも、中途半端に優しさを見せてしまうことの要因だろう。

 

「君は、やっぱり君は、あの二人の子供だ。……そっくりだよ、本当に……」

「えっ」

 

 寂しげに、しかしそれでいて眩しそうにシリウスが呟く。

 それを聞かれると思っていなかったのか、ばつの悪そうな顔をしてシリウスは言った。

 

「最後に言われた言葉。あれはね、ジェームズとリリーが私に言った言葉とまったく同じだったんだ。彼らはいまも、君の中で生きている……」

 

 なにかに納得したようだが、ハリーには何のことかわからない。

 

「……どういうこと?」

「つまり、私はジェームズとリリーを信じ切れていなかったということさ。一番の親友だと思っていたんだがね、情けない限りだ」

 

 こんなとんでもないことを仕出かして、二人に顔向けできないと嘆く。

 何がどうしてハリーに殺意を向けたのかはわからない。シリウスは話したがらないだろうというのはよくわかるが、ハリーとしては気になるところだった。それに殺されかけたのだから、多少残酷な問いかけだろうと答えてもらう義務がある。そのはずだ。

 ハリーはシリウスに対して、その問いを投げかける。

 

「シリウス。答えてもらうよ、どうしてぼくを殺そうとしたの?」

「……、それは……」

 

 聞かれると覚悟していたのだろう。

 ウィーズリーの双子が作った《一生お口を閉じるチューインガム》を口に塗りたくられたかのように、シリウスは言いよどむ。彼が観念するまで、いくらでも待とう。これは知らなくてはならないことだと、ハリーの中の何かが囁いているのだ。

 ハリーが明るい緑の目で、まっすぐシリウスの黒い瞳を覗き込んでいると、ようやく観念したのか、口を開く。

 そして、最初の言葉を吐きだそうとしたその瞬間。

 

「――ンあれェ? もう終わっちまったのかよ、つまンねーなァ」

 

 まったく聞き覚えのない声が響き渡った。

 驚いて咄嗟に飛び退いたハリーは、その声の主に杖を向ける。

 何年も洗っていないかのようなゴワゴワしてパサついた髪に、不潔そうな無精ひげ。

 牢獄生活を営んできたシリウスも大概であるが、この男もかなりひどいものだ。

 なぜ声をかけられるまで気付かなかったのかと思うほどに獣臭い。いや、この男から発せられるのもあるが、男が持っている巨大な毛皮も原因か。

 どうしてホグズミードのはずれに、このような野性味あふれる男が居るのか。

 そして時を巻き戻している現在、この男に出会ったことは非常にまずいのではないだろうか。タイムパラドックスとやらが起きてしまうのではないか? いや、いま歴史が崩壊するなどの超常現象が起きていない以上、この男はハリーたちに会ったことを誰かに話したりしなかったという未来になるのか?

 数々の疑問のうち、男が持っている毛皮については即座に判明した。

 シリウスが叫ぶ。

 

「リーマス!」

「なんだって!?」

 

 どうやらあれはルーピン先生らしい。

 怒りに犬のような唸り声をあげるシリウスを、男はせせら笑う。

 ……いや、ちょっと待て。それはおかしい。

 リーマス・ルーピンは狼人間だ。並みの魔法使いが勝てるはずがない。

 しかし男はどうやら杖を持っていないらしい。ハリーが杖を向けても何もしないことから、その可能性は濃厚だ。持っているならば構えるか、奇策としてあえて構えていないとしてもほとんどその可能性はありえないだろう。

 つまり男は、シリウスと同じように魔力反応光すら避けられる身体能力を有しているか、なにかしらの防御手段があるということになる。少なくとも二メートル以上の筋肉の塊(ルーピン・ウルフ)を片手で軽々と持っていることから、異常なまでの怪力であることは確かだ。

 男はじろじろとこちらを見てくる。

 いったい何が目的だ?

 

「こいつは驚きだ。凶悪殺人犯シリウス・ブラック、いたいけな少女を襲う。殺人罪に性犯罪もプラスかよ、林ン中で下着姿に剥くなんざ節操なさすぎンぜ」

 

 言われて、ハリーは己の格好に気づく。

 ズボンに大きな損傷はないが、土埃に汚れてしまって綺麗な状態ではない。上半身に至っては、前を開放したブラウスに、ボロボロのローブを羽織っているのみ。更にそれらはシリウスとの戦闘によって引き裂かれており、ほとんど何も着ていないに等しい。

 そしてその中は包帯で隠されてるとはいえ、下着姿だ。その包帯もところどころかが緩んでおり、ずいぶんと刺激的なチューブトップ未満の何かに成り果てている。

 このような痴女同然の格好、はっきり言ってバカ丸出しである。

 

「~~~~~~ッ」

 

 慌ててローブの残骸で身体を隠すものの、男は大笑いして嘲るだけだ。

 羞恥で顔が真っ赤になる。そして怒りでも顔が赤く染まってしまう。

 何なんだ。こいつはいったい誰なんだ。

 

「お前が言えたクチか? 薄汚い人喰い野郎のフェンリール・グレイバックめ」

「オッホー! ご存じいただけているたぁ光栄だねぇー、殺人犯シリウス・ブラック」

 

 フェンリール・グレイバック。

 まさか、とハリーは目の前の人物を見た。

 近代魔法史に名前が載るのは確実だと言われている凶悪犯だ。婦女暴行や殺人は数知れず、子供すら平気でその手にかける外道という言葉では生温い人でなし。

 さらに言えば、意図的に感染を広げる狼人間でもある。

 暗黒時代が終わった今でも魔法省から生死問わずの指名手配(デッド・オア・アライブ)されている凶悪犯罪者。そして、彼自身は厳密には死喰い人ではないが、それでもヴォルデモートに与する者である。

 当然ながら現在の顔を見るのは初めてだ。指名手配書を見たことはあっても、ロシアの魔法学校を卒業した時の写真だったので、恐らく四、五〇代であろう今とは似ても似つかない。

 そして、彼が狼人間だったというのならば納得だ。なぜルーピン・ウルフがそこでボロボロになっているのかも。

 なにせ狼人間は、同族の声に反応するという習性がある。つまり、仲間を求めるか、もしくは縄張り争いだ。グレイバックの声に呼び出されたルーピン・ウルフは、きっとそれに負けたのだろう。

 

「ンじゃま、始めますかい。ワームテールを迎えに来たはずが、こりゃーいいお駄賃だぜ」

「……ちょっと待て。どういうことだ、ワームテールを迎えにきただと?」

 

 ごきごきと首を鳴らすグレイバックに、訝しげな顔をしたシリウスが尋ねる。

 それをせせら笑う態度を崩さずに、グレイバックは言った。

 

「英語わかンねぇーのかよクソガキ? 仲間を迎えに来て何がおかしい?」

 

 シリウスはショックだっただろう。

 かつての友情が嘘であったという告白もさながら、ワームテール……ピーターが死喰い人たちに仲間扱いされている。それはつまり、奴は臆病さからヴォルデモートに従っていたというわけではないのだ。

 つまり先ほどワームテールが使っていた杖は、こいつが用意したものだったのか。

 唸り声をあげるグレイバックに反応して、シリウスもまた唸る。

 グレイバックは左手で懐から何やら仮面のようなものを取り出しながら、なめまわすような視線をハリーに向け、べろりと長い舌で唇を舐めた。

 

「ンン~、それなりにホットなもんぶら下げてんな。よし決めた。メスガキ、てめぇーを今夜俺の玩具にしてやろう。喜べ、俺は上手いぞ。何故ならクレームが来たことがない」

「な……ッ」

「ぉお、流石に意味は分かるか。そこのクソガキよりゃー気持ちよくさせてやっからよ。首筋噛まれながらヤられンのはスゲー快感らしいぜぇ」

「ふざけるなよ外道がァ!」

 

 激昂したシリウスが、巨大な犬へと変じて飛び掛かる。

 鼻で笑ったグレイバックは髑髏を模した仮面をかぶり、()()()()()人狼と化して応戦する。

 それにハリーは驚いた。あの男は狼人間の力を完全に使いこなしている。

 はっきり言ってしまえば、満月の夜以外で言えば狼人間はただの人間と変わりなく非力である。いくら今夜が満月とはいっても、そこまで自在に力を扱える狼人間がいるのか。

 

「遅ぇおせぇおッせェンだよォワンちゃんよォア! 犬が狼に勝てる道理でもあンのかよゴラァ! わかってンのかよ雑魚野郎が、ァア!?」

 

 ぶん、と。

 グレイバックは手に持っていたルーピンの身体を振り回した。

 まさかそう来るとは思わなかったのだろう、シリウスはその直撃を受けて吹き飛ぶ。痛々しい犬特有の悲鳴を聞き流しながら、ハリーはグレイバックに向かって『武装解除』を放った。

 さも当然のように首を振るだけで魔力反応光を避けたグレイバックは、ルーピン・ウルフをこちらに放り投げてきた。山なりに放ったのではなく、まるでベースボールのピッチャーの如き速度。ハリーは迷いなくルーピン・ウルフの身体に魔法を当てると、邪魔だと言わんばかりにグレイバックに向けて弾き飛ばす。

 嬉しそうな顔になったグレイバックは、跳ね返された同族の身体を空中で踏みつけて、ハリーの胸を目掛けてその腕を伸ばしてくる。鋭い爪がぎちりと音を立てて、彼のヒトとしての指を食い破るようにして現れた。

 

「その脂肪の塊を千切りとってやンぜェ!」

「下品な男だな、ったくもう! 『プロテゴ』!」

 

 盾の呪文で出した障壁が、ごりごりと音を立てて削られる。

 流石にこれを破るほどの馬鹿力ではないようだが、それでもただの身体能力で傷をつけた。それはハリーが生身で喰らえば、本当に肉を引き裂かれていただろう。十分に厄介である。

 無言呪文を用いて投槍呪文と直前呪文を使って、六本の魔力槍を投擲する。

 上半身を仰け反らせて避ける、腕を振って避ける、その反動を利用してその場で宙返りして避ける、上下さかさまのまま両脚を開いて避ける、地面すれすれになるまで伏せて避ける、ダンスのように回転しながら勢いのまま飛び起きて避ける。

 全ての槍を躱しきったグレイバックが、こちらに向けて爪を用いた連撃を放ってきた。

 盾で防ぐも、八発ほどを受け切ったところでガラスのように砕け散る。九撃目をなんとか避けたものの、ローブが巻き込まれて引き裂かれてしまった。これで本当にハリーは上半身が無防備になってしまう。

 下品に口笛を吹いて両手を打ち鳴らすグレイバックに見せつけるように、ハリーは修復呪文を使った。破れたブラウスがある程度直され、腹が出ていても構わないのでせめて胸元は隠すように体を覆った。

 わざとらしく落胆したような顔を見せる相手に対して、ハリーは地面に唾を吐く。

 

「よし殺す」

「やってみな、可愛らしいお姫さんよォ」

 

 ハリーの全身が青白く発光すると同時、強く地面を蹴る。

 すると爆発するかのように彼女の身体が飛び、あとには土煙が撒き散らされた。

 青白い閃光がグレイバックのもとへ矢のように飛び、心臓を穿たんと紅い槍を振るわれる。先の魔力槍かと看破したグレイバックは、それをあえて爪で受けた。まるで火花のように紅い魔力片が散り、ハリーの突進が受け止められる。

 ふっと抵抗する力がなくなったかと思えば、姿勢を低くしたグレイバックが両手を地に突いて、両脚をそろえて蹴りを放ってきた。まるで体操選手のような身体能力を見せつけるグレイバックも、次に起きる展開には予想ができなかった。

 ハリーが頭突きでグレイバックの足の裏を受け止めると同時、グレイバックは横合いから強烈な蹴りが脇腹から肋骨にかけてに襲い掛かったことに気付いた。

 

「ごぉ、あ……!?」

 

 グレイバックの体内からべぎごばと耳をふさぎたくなる音が響き、彼の身体がピンポン玉のように吹き飛ばされる。宙を舞うグレイバックが見たのは、青白く発光したシリウス・ブラックの姿だ。

 なぜ。

 奴は杖を持っていないはずだ。

 木々を一本なぎ倒して、グレイバックはひときわ太い幹にその体を強く打ちつける。口中から胃の中身やら血液やらが吐き出されると同時、ハリー・ポッターの手に杖がないことに気付いた。

 

「……きひっ、んなぁるほどぉ」

 

 そうか、と納得する。

 彼女が身体強化を用いて飛び出した瞬間、無駄に土煙を巻き起こしたのはシリウス・ブラックに杖を投げ渡すためだった。そして注目すべきは、恐らくこの作戦は即興で作られたものということ。ゆえに伝える手段も暇もなかったはずだ。

 首をごきごきと鳴らし、面白いものを見たとにやにや笑うグレイバックの顔が、一瞬にして曇った。

 面白くねェ、とでも言いたげに曇ったその顔の先に何があるのか、と。

 思った瞬間。

 

「くぁ、あ……!?」

 

 ハリーは自分の心の中が寒くなると同時、シリウスの悲鳴を聞いた。

 見れば、そこには黒い靄が大量に集まっている。何事かと思えば、何のことはない。

 此方にすり寄ってくる黒い影を見ていればわかる。

 ……吸魂鬼だ。

 ついに、見つかったか。

 

「グレイバック、まさか、きさま――」

「ぁあ? ンなわきゃーねぇだろうが。ったくつまんねぇ横槍入れやがって」

 

 その言を信ずるならば、奴らは輪をかけて危険すぎる。

 つまるところ、今から彼らによってもたらされる暴力には制御がされていないということに他ならないのだ。

 アズカバンの看守たる吸魂鬼は、ゆらりゆらりと揺らめきながら歓喜の歌を叫ぶ。

 その数たるや、百や二百ではきかない。少なくともハリーには数えられず、クィディッチ場を埋め尽くすサポーターのような錯覚を覚える。

 慌てて走り寄ろうとするも、シリウスが弱々しく杖を投げてきたのでそれを受け取る。

 彼の意思を酌んで、ハリーはまずそれをグレイバックに向けた。驚きながらも楽しげにこちらを眺める彼に向けて魔力縄を放つ。それが完全に巻き付いたかと思えば、彼の身体は闇そのものと化して、物理的な拘束を抜け出す。霧のような粒子を振り撒きながら、フェンリール・グレイバックはその場から離脱してしまった。

 

「きぃひぇへへ! 次はおいしくいただいてやっからよ、股座でも洗って待ってなァ!」

「……この、下種がッ!」

 

 歯噛みするハリーを置いて、グレイバックは空高く飛び去ってしまう。

 視ようにも魔法式がぐちゃぐちゃで、何をどうしてあんな現象が起きるのかまったくわからない。それにグレイバックが逃げたということは、奴にとってもこの状況はまずいものであるということか。

 まあいい。今のうちに殺しておけなかったのは心残りだが、仕方ない。

 ハリーはシリウスに纏わりつく吸魂鬼に向かって、無形守護霊を放つ。スプレー状に広がるそれの直撃を受けた十体ほどの吸魂鬼が、甲高い悲鳴をあげて消滅してゆく。

 それに脅威を覚えたのか、恐らく憤怒であろう奇声をあげてシリウスからハリーへとターゲットを変えたようだ。虚空に繋がっているかのような洞のごとき口をこちらに向けてくる。

 魂を吸うつもりか。

 いい覚悟だ。

 ならばこちらも殺すつもりで挑まねば。

 

「『エクスペクトパトローナム』、守護霊よ来たれ!」

 

 杖先から、ぱしゅ、と霧の名残のようなものが出た。

 それきりだ。

 

「……はっ?」

 

 まさか、いや、そんな。

 魔力枯渇したのか? そんなはずはない。

 体の成長に伴って、年々魔力は増加しているのだ。それはない。

 つまり、想像した幸福が、守護霊を作り出すに至らなかったとでもいうのか?

 

「ぐぁあ、ああああっ! うぁぁああああ――ッ」

 

 シリウスの悲鳴が聞こえる。

 ハリー自身の喉からも、気づけば悲鳴が発されていた。

 幸せな思い出が、コールタールのように粘ついた汚物に塗り潰されてゆく。

 あとに残って肥大してくるのは、嫌な記憶ばかり。ダーズリーたちに酷い罵倒を言われたこと、何度も怪我させられたこと、自殺を試みて何故か失敗してしまうこと、それによるダーズリーからのさらに熾烈な仕打ちのこと、ろくでなしだと聞かされていた両親のこと、友達だと思っていたのに裏切った子のこと、ネビルを殺すと決めてしまったこと、クィレルの頭部が吹き飛んだときのこと、学校中の人間がハリーに敵意を抱いたこと、ハーマイオニーが石にされてしまったこと、ロックハートによる残酷な真実を知らされたこと、クィレルを完全に殺してしまったこと、リドルに本心からの恐怖を抱いたこと、ルーピンに裏切られたこと、シリウスに押し倒されて乱暴されると恐怖したこと、シリウスが裏切り者ではないと分かったのに今度はピーターに恨み辛みを聞かされたこと、シリウスが自分を殺そうと首を絞めてきたこと、シリウスが自分の胸の中で子供のように泣いていたこと――

 すべてがすべて、ハリーの脳裏を廻っては絶望を刻んでゆく。

 最後の方にはシリウスとのやり取りでいっぱいになって、淡い少女の心と深い絶望とが踊り狂って暴れ回ってハリーの脳みそがパンクしそうだった。つ、と鼻血が垂れてきたのを自覚して、ハリーはその例えが比喩ではなく現実に起こりうることなのではと危惧する。いまハリーの頭は酷く勢いよく回っている。今までになく高速で回転している。

 混乱しているハリーの感情を吸うためにすぐ傍を通り過ぎた吸魂鬼のフードの下に隠れる顔の、瘡蓋の一つ一つを視認できるほどに、とんでもない集中力を発揮できている。

 

「――――――、」

 

 そこで気付いた。

 シリウスへの想いが多すぎることに。

 ハリーは自分でも気づいていないうちに、彼に愛情を感じていたのだ。

 それは母性愛なのかもしれない。ひょっとしたらお門違いの家族愛かもしれない。

 しかしハリーはそこに、自分が今まであまり感じたことのない暖かさを知った。

 胸の奥にじわりと広がる、太陽の光のような、叫びだしたくなる尖った感覚。

 頭の奥の方にもふわりと拡散する、お風呂のお湯のように気持ちのいい感覚。

 心の奥底から湧きだす幸せな感情は、ハリーの表情を笑顔に変えて、笑声を漏らす。

 明るい緑の瞳を輝かせて、光を湛えたまなこで絶望どもを見据え、ハリーは叫んだ。

 

「『エクスペクト……ッ、パトロォォォーナァァァ――――――ム』ッ!」

 

 途端。

 杖先から真っ白な鹿が飛び出した。

 

「守護霊、だと……」

 

 シリウスが呻く。

 吸魂鬼が純白の大鹿を見て、狂乱の声をあげた。

 牡鹿とも雌鹿ともとれない不思議な大鹿が、その巨躯を以って吸魂鬼を蹴散らす。

 尾には大蛇がついており、まるでキマイラのようだった。

 堅い剣のような蹄で鬼を追い払い、牙を剥く蛇の尾で絶望を打ち払う。

 そんな守護霊の姿を唖然としてそれを眺めるシリウスの顔が、なんだか可愛かった。

 苦し紛れに近寄ってキスを敢行しようとする吸魂鬼どもが、ついにはハリーの守護霊が放ったドーム状の純白の光によって、そのすべてが消滅していった。

 恨み言代わりに黒いローブの切れ端がひらひらと舞い落ちる中、ハリーはシリウスに駆け寄って抱きしめた。シリウスは目を白黒させるものの、寄り添うようにしているキメラの守護獣を見て、決意を固めた目に変わる。

 そしてハリーの頭を、優しく撫でたのだった。

 

 十分ほどシリウスの胸の中で泣き続けたハリーは、顔を真っ赤にして彼から離れた。

 苦笑いを浮かべる彼に、ふくれっ面で拳を一発入れる。

 そしてハリーは、シリウスに寄り添ったまま口を開いた。

 

「……ぼくを狙った理由は、話さなくていいや」

「ハリエット……?」

 

 頭をこつんと彼の胸板にぶつけて、ハリーは言う。

 

「割とトラウマなんだよね、さっきのこと」

「……すまない」

「ん。でもさ、ぼくは貴方をきっと、もう家族として見てしまっている。愛してしまっていると思うんだ。だから、あまり強く出れない。……でも、殺されかけたんだ。ちょっとくらい仕返しはしておかないといけないと思って」

 

 泥のような瞳を見て、シリウスは思う。

 この少女の目がこうまで濁ってしまう原因を作ったのは、我々大人なのだと。

 ふがいない大人がだらしないせいで、幼い少女の心に傷をつけてしまったのだと。

 

「だから、謝らせないし、言い訳もさせない。うぬぼれでなければ、きっとあなたはぼくを殺そうとしたことに罪悪感を抱いてると思う。だから抵抗できたんだし。……それを一生抱かせ続ける。ぼくに対して、負い目を背負わせ続ける」

 

 一生を縛る。

 痛い目にも合わず、責められることもない。

 だが罪悪感で圧迫され、苦しくて辛い。心が重くなる。

 どこかねっとりとこびり付くような心を、一生持ち続けろと言う。

 

「それがぼくからの、ささやかな罰だよ。死ぬまで苛んでくれ」

 

 ささやかとハリーは言うが、これは酷く重い罰だ。

 うまく折り合いを付けれなければ、寝る時でさえ心の平穏を得られないのだ。

 信頼を裏切り、少女を殺そうとした罪に対する罰としては軽すぎるかもしれないが、それでも決して優しいものではない。シリウスはその言葉を聞いて、強く目を閉じた。

 後悔先に立たず。すべては終わってからでは遅いのだ。

 

「……」

 

 ざくざくと、腐葉土の上を二人は歩き続ける。

 互いの間に言葉はない。

 そしてついに、ホグズミードから繋がる森の方へ出てしまった。

 ここから先へハリーは行くことができない。

 振り返ったシリウスは、ハリーに言う。

 

「ハリエット。……きっと君がこれから歩む道は、辛く、苦しいものだろう。だが、……こんな私が言ってもアレだろうが、それでも希望を捨てないでくれ。君には頼れる友がいる。それを大事にするんだ」

 

 ムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングズ。

 四人の友達はいまや、ばらばらになってしまった。プロングズは裏切られて殺されてしまい、パッドフットは汚名を被って逃亡生活、ワームテールは友情を否定し復讐を遂げて姿を消し、ムーニーはただ一人取り残された。

 悪戯仕掛人たちのような終わり方を迎えたいわけではない。

 ハーマイオニーとロンと、死に別れるそのときまで一緒に居たい。

 ハリーはシリウスの言葉に、強く頷いた。

 

「では、さらばだ。ハリエット」

「あ、ちょっと待ってシリウス」

 

 ハリーはそう言うと、懐から杖を取り出す。

 器用にくるくると回すと、それをシリウスに差し出した。

 

「『服従の呪文』のあとに『失神呪文』をかけてくれないかい」

「えっ? ハ、ハリエット? 自分が何を言っているのかわかっているのか?」

 

 あまりに巨大な爆弾発言に、シリウスが動揺する。

 悪戯が成功したような笑顔を浮かべて、ハリーは説明した。

 ここまで派手に戦闘してしまった以上は逃走を補助したことがバレる可能性が高くなる。

 ならばここは極悪殺人鬼らしく、ハリーを『服従』させて逃走を手伝わせ、呪文に抵抗して決闘した結果、『失神』させられて打ち捨てられていた哀れな少女という状況を作り出した方がいい。ということだった。

 そのとんでもない発想に、シリウスは数秒あんぐりと口を開けていたが、しばらくして大笑いし始めた。

 ハリーは知らぬことであるが、説明している最中のあくどい笑顔とブッ飛んだ発想が、実はジェームズ・ポッターが学生の頃によく見せていた顔とまったく同じだったのだ。

 既に汚名を被ったシリウスに、更に汚名を被せてしまうという非道な手段も、かつて彼が悪戯の際に使ったものであることも、シリウスの頬を緩ませた。

 渾身の策を笑われたと思ったハリーが頬を膨らませるのを見て、シリウスは彼女の頬を撫でる。

 

「いや、それでいこう。流石だな、酷いアイディアだ」

「もっと褒めてくれてもいいんだよ?」

 

 ハリーは女性である。

 胸の膨らみも十分大人に近づいてきているし、うなじを隠すほどに伸ばされた髪もさらさらと柔らかくて美しい。ボーイッシュな顔つきも、また彼女にとっては魅力の一つだ。

 だが、きっといま眼鏡をかければ彼女はジェームズそっくりな顔をしていただろう。

 

「君はやっぱり、立派にあいつの娘だよ。ハリエット」

 

 シリウスがそう微笑んで、ハリーも同じく微笑んだ。

 そして最後に、すべてが終わったら一緒に暮らそう。と。

 最初にハリーが望んだ通りの約束を交わしてから、二人は別れた。 

 

 

 見慣れた天井だ。

 ハリーが目を覚ました時、手に負えない悪戯っ子を見る目のダンブルドアが目に入った。

 それに対してにっこりほほ笑むと、盛大な溜め息を吐かれる。

 

「ダンブルドア先生。どうです、見事な手腕でしょう」

「目撃者はおらんかったじゃろうな」

「……」

「これが闇祓いの隠密試験ならば、落第点じゃ。まったく、歴史に影響を及ぼさぬ者だったからよかったものの……」

 

 数分間の説教を受け、ハリーはあの邂逅がとんでもなく危ないものであることを悟る。

 しかしタイムパラドックスが発生する条件がよくわからない。

 聞いても分からないだろうと判断したハリーは、とりあえず何事もなかったことを喜んだ。

 

「さて、それでも今回はようやってくれた。無実の者を助けることができたのじゃ」

 

 その当人に殺されかけましたけどね。

 などと口が裂けても言えない。

 

「さて、何か聞きたいことはあるかの」

「聞きたいこと。……、やっぱりルーピン先生のことです」

「彼か」

「ええ。……彼はどうなるのでしょう」

 

 ルーピンは狼人間だ。

 それを教師として雇ったこの老人の度胸は凄まじいものがある。

 だがハーマイオニーのように、狼人間のことを知る者ならば疑いをかけるだろう。

 毎月、満月になる前後では様子がおかしい彼のことを不審に思う者が出るだろう。

 そうすれば好奇心の強いホグワーツ生のことだ、いずれ正体を突き止めるだろう。

 それはひどくまずいのではないだろうか。

 

「まずいのう」

「いやいや。本当にどうすんですか」

「もちろん考えてある。彼には職場を移ってもらうことになった」

「えっ!? クビですか!」

「これ、人聞きの悪い」

 

 ダンブルドアが言うには、こうだ。

 彼は狼人間ゆえに職に貧窮していたルーピンの現状を聞いて、教師として招いたのだ。能力の高さは知っていたゆえに、教師としては有能だと考えたのだろう。

 ハリーに言わせれば、それも見当違いであったのだが。

 

「で、ダンブルドア先生は知っているんでしょう? シリウスがぼくに殺意を向けた理由を」

「――ハリーや、わしから言えることはない。それは、君と、彼の問題じゃ」

「……、そういうことにしておきます」

 

 唐突に話題を持ちこめば何かしら隙を見せてくれると思ったが、やはり年の功は強い。

 そして彼の答えで、ある程度の予想は立てられた。

 シリウスの手前、理由を聞かないとは言ったが、気にならないわけではないのだ。

 言い訳をさせないなどと偉そうに言ってしまった以上は、聞こうにも聞けない。だからダンブルドアからなら情報を得られると思ったのだが……。

 結論から言うと、ハリーにとってあまり有り難くないことがわかった。

 ダンブルドアが知っているということは、シリウス個人がトチ狂ってやってしまったことではないということ。つまり、ハリー側にも何らかの原因があるために、あんな事態を引き起こしたということが予想できるのだ。

 アズカバンで吸魂鬼に絶望を味合わされるせいでおかしな妄想をして、極限状態のあまりそれが現実だと信じ込んでしまっただとか、そういう理由ならばまだ救いはある。

 だがそうではなく、ハリーにも何か問題がある。

 それはいったい、何なのだろうか。

 

 今年はあまり酷い怪我をしなかったために、学年末パーティの最後には出席できた。

 教職員の席を見てみると、まだルーピンは来ていないようだ。調子が悪いのか、もしくは単に居ないだけか。……というかスネイプの威圧感が半端じゃない。なんだアレ。

 グリフィンドールの紅い寮旗が飾り付けられている以上、きっとグリフィンドールが優勝したのだろう。いったい何が起きたのかまでは聞くことができなかった。

 医務室から戻ってきたところをグリフィンドール生たちが次々とばしばし叩かれながら、ハリーはハーマイオニーとロンの間に座る。

 ロンの皿から食べかけのフライドチキンを奪ってぱくつくと、ジューシーな肉汁が口の中に溢れて幸せな気分になり、頬が桃色に染まる。なんて美味しいだろう。

 三人の中で一番ひどい怪我をしたのも、一番血を流したのもロンであるはずだ。

 片腕を吊っているロンに対して食べづらいだろうからとハーマイオニーと二人で「あーん」などをしてからかいながら、ハリーはとても暖かい時間を過ごした。

 

 翌日。

 試験が終わって授業もない。次の日に皆が自宅に帰るための準備日であるため、ハリーは暇を持て余していた。ハリーの荷物はペチュニアが贈ってきたフリルたっぷりな服と、自分で買った私服くらいしかないのだ。他の生徒と比べれば相当素早く準備を終えることができる。

 ハーマイオニーも私物を仕舞い込むのに手間取って暇だったので、適当に散歩をしていたところ、廊下でばったりスネイプと出会った。

 すっかり忘れてた。彼もあの事件の当事者なのだ。

 

「スネイプ先生……」

「さぞかし」

「?」

「さぞかし、ご満悦でしょうな。ポッター?」

 

 ハリーは杖を抜くかどうか迷った。

 スネイプの殺気があまりにも凄まじいからだ。学年末パーティでの彼からの視線を思い出す。あれはどう見ても殺気だった。

 

「な、なんの……」

「シリウス・ブラック」

「!」

 

 なるほど。

 

「貴様が逃がしたことはわかっている……。そう、わかっている……ポッターの血筋は争えんということだ……そう、お前は彼奴めの娘……そう、娘……ならば同じ……ふふ、同じだ……若い頃のあ奴と同じだ……落ち着いた頃のあ奴とは別人のようにやんちゃでくそったれで傲慢で鼻持ちならない自信過剰なくせ毛眼鏡……ふふふ……」

 

 今が物凄くヤバい状況だということはよくわかった。

 

「言えぃ、ポッター! どうやってブラックを逃がした? あんなことを仕出かすのはおまえくらいしかおるまい。なにが『服従の呪文』に操られて協力したと思われる、だ。魔法法執行部隊の無能どもめ! あんな杜撰な捜査、マグルの警察の方がよほど優秀だわ!」

「お、おう」

「おうではない! 白状するのだポッター。彼奴めに合法的に復讐できるチャンスだったというのに、きさまというがきんちょは! ウィーズリーはあの怪我だ、関与してはおるまい。え? どうせグレンジャーめが関わっておるのだろう! ……いや待てよ、確かあ奴は魔法省から認可を受けて――」

「ス、スネイプ先生!」

 

 真実にたどり着こうと思考の糸を手繰り寄せているスネイプの腕を引っ張った。

 このままではハーマイオニーに多大なる迷惑がかかる。迷惑で済めばいいのだが、スネイプのこの様子ではきっとそんな程度では済まないだろう。

 

「何だポッター、白状する気になったか」

「あー、いえ。ナンノコトヤラ」

「なめとんのか」

 

 スネイプの手が懐に伸びる。

 や、やばい。話を続けなくては。

 

「ち、父についてです」

「……」

「スネイプ先生はぼくの両親と同じ時期にホグワーツに居たんですよね? あの、その。ぼく、彼らの学生時代をあまり知らなくて……」

 

 苦し紛れに言ってしまったことだが、これはハリーが知りたいことでもあった。

 ハグリッドに聞いても、二人は立派で勇敢な青年たちだったということくらいしかわからない。しかし今年度に入ってから、ルーピンによってジェームズが悪戯好きなやんちゃ坊主である可能性がもたらされたのだ。

 悪戯仕掛人などと名乗り、《忍びの地図》なんでものまで作るほど技術の高い悪ガキどもだ。さぞホグワーツを騒がせていたのだろう。

 

「ハッキリ言ってアレは最低の人間だった」

「えっ」

 

 スネイプの自分への態度を見るに、セブルス・スネイプとジェームズ・ポッターは何らかの確執があるのだと思っていたが、しかし予想以上に評価が低い。

 せいぜいがいけ好かない奴くらいだろう、と思っていたハリーは硬直してしまう。

 それに気づいていないのか、スネイプは話を続ける。

 

「あ奴……ジェームズの奴は、とんでもないテングだった」

「天狗? 日本妖怪の名がなぜここで?」

「ん? ああ、テングのように鼻持ちならないやつだったという意味で捉えればよい。まず我輩らの出会いは最悪だったと言っていい。グリフィンドール生の中のグリフィンドール生と、どっぷりスリザリンに浸かり込んだスリザリン生と言えば分かるだろう。ミスター・マルフォイとウィーズリーのようなものだ」

 

 スコーピウスの方ですか? とは口が裂けても言えなかった。

 

「我輩とジェームズは、顔を合わせれば互いを呪うような仲であった。そうだとも、互いを憎んでおった」

「…………そこまで」

「そこまでの問題なのだよ、ポッター。相容れぬ輩という者は必ず居る。どうやらお前はまだそういう者に出会ってはいないようだが、その時が来ればわかる気持ちだろう。何がなんでも受け入れたくない、そういう肩ひじ張った意固地な気持ちだ」

 

 ハリーはスネイプの話に聞き入っていた。

 咄嗟に出た話題とはいえ、随分と饒舌なものだ。

 忌々しげな口調だというのに随分と穏やかな顔をしているように見えるが、その原因なのだろうか? 憎んでいるとは言っても、まるで、その顔は――

 

「特に我輩とブラックは酷かった。時には本気で殺し合いをしていたほどだ」

「ぇええ……」

「リーマスとは……うむ、あやつは悪い奴ではなかったな。だが決していい奴ではなかった。そうだ、ノ・ヴィータに対するシズーカ・チャンの立ち位置と言えば分かるかね? こう、ジャイアントどもの後ろでさりげなく笑っているような」

「まったくわかりません」

 

 何の話だ。

 しかし、本当に穏やかな声だ。

 話しているときも表情豊かでとても楽しそうに、そして憂えているように見える。

 だからだろうか。

 

「先生は、父のことが好きだったんですね」

 

 余計なことを言ってしまったのは。

 

「いや嫌いだ」

「ええええええ」

 

 スネイプが急転直下で不機嫌な顔になる。

 やらかしてしまったのだろうかと不安になるが、スネイプは構わず言葉を続けた。

 

「嫌いだよ、あのような男は」

「ええー……さっきまであんなに楽しそうだったのに」

「そんな顔などしていない。ポッターの人間は総じて目が悪いのかね」

 

 確かに悪かったけど、今はそうでもないはずだ。

 というかそういう問題ではないような。

 

「でも……」

「でもも何もない。……どうやらお喋りが過ぎたようだ。どこへなりとも消え失せろ」

「…………」

 

 呼びつけておいてそれはないのでは。

 しょんぼりした様子で肩を落とし、立ち去るハリー。

 アルバムに、一枚だけ入っているスネイプの写真。

 赤ん坊のハリー・ポッターを抱く彼の顔は、どう見ても嫌いな人間の子供を抱いているような顔ではなかったはずだ。

 なにやら複雑な関係のご様子。もうちょっと聞いていたかったと思って曲がり角を曲がったとき、背後からスネイプの声が届いてきた。

 

「ポッター。リーマス・ルーピンの部屋へ行け」

「え?」

 

 曲がり角を戻って顔を出せば、もうそこには誰もいなかった。

 いったい何なんだろうと訝しい気持ちを感じながらも、ハリーはその言葉に従うことにした。どうせ今日は暇なのだ。

 階段を上がって、闇の魔術に対する防衛術の教室へと辿り着く。実技教室の奥に更に階段があり、その向こうに教職員用の個室があるという変わった造りをしている。

 入ってみて初めて気づいたことがある。なにやら寂しげな雰囲気が漂っている。

 ノックをして返事をもらい、扉を開けてみれば、荷造りをしているらしきルーピンの姿があった。彼が杖を振ると、ぱたぱたとくたびれた服が畳まれて魔法の品らしきトランクの中へ収納されてゆく。クローゼットもぱたぱたと引き出しを閉じて、中身を閉じ込めると手の平サイズに縮んでトランクの中へ飛び込んでいった。

 面喰ったハリーが呟く。

 

「先生、どこへ……?」

「ん? やぁ、ハリー。ちょっと、ね」

 

 ハリーが声をかけたことで、ようやく気付いたルーピンが弱々しい笑顔を浮かべる。

 どうみても引っ越しの準備にしか見えない。いや、夜逃げの方が妥当かもしれない。

 

「どうして……? 学校、辞めちゃうんですか?」

「うーん、実はそうなんだ。あの真っ白いヒゲのおじいさんに、学生時代に信頼を裏切っていたことがバレちゃってねぇ。首だよ」

 

 そんな、とハリーは思わずつぶやく。

 ルーピンは自分を惜しんでくれるそれだけでも救われた気分だった。

 だが、続く言葉は「そんなことがあるはずがない」というものである。

 予想外に目を見開くルーピンに対して、ハリーは言葉を紡ぎ続けた。

 

「ルーピン先生、ダンブルドアは知っていたと思うんだ。なにせ、あなたがたの作った《忍びの地図》のことすら知っていたのだから」

「……なんだって?」

 

 やはりか。

 ハリーは自分の勘も信頼できるものだと内心ほくそ笑む。

 ダンブルドアの信頼を裏切った、という言葉でぴんときた。

 ということは、だ。きっと彼らは、ダンブルドアから《忍びの地図》を使った伝言を受けたことがないのだろう。

 あれがあれば、ダンブルドアはお見通しだということを知ったうえで行動をすることができる。フレッドとジョージが行き過ぎた悪戯をせずに人気者でいられるのも、ひょっとしたらこのことがあるからなのかもしれない。

 だから彼らが魔法界の法律を破ってまで動物もどきになって、ルーピンという狼人間といつまでも友達でありたいという動機であったからこそ、ダンブルドアは彼らの所業を見て見ぬふりをしたのかもしれない。

 そしてダンブルドアは、シリウスがハリーを殺そうとする理由を知っている風だった。彼が捕らわれて処刑まで至ってしまうというのは予想外だったとしても、その理由の中には、結局ハリーを殺せないだろうことまでもが含まれていたはずだ。

 どれだけ老獪な老人なのだろうか。

 ヴォルデモートがどのような手段をもってして残酷なことを行うのかは知らないが、向こう側からしてみればきっとダンブルドアも負けず劣らずとんでもない傑物に違いない。

 

「まいっ、たな……。ハリー、君はやっぱりすごい魔女だよ。物事の真贋を見抜くことに関しては大人顔負け……いや、私よりもずっと上みたいだ」

 

 呆れたような、それでいて羨ましいような。

 そしてシリウスと同じくどこかしら懐かしむような顔で、ルーピンは言う。

 

「それはきっと、リリー譲りの能力だね」

「……ママの?」

 

 ルーピンの言葉にハリーが反応する。

 それに対して嬉しそうにルーピンが答えた。

 やはり懐かしむような、大人にしかできない顔をしている。

 

「リリーはね、嘘を見抜くのがとても得意だったんだ。そしてひとつのウソから真実まで辿り着く発想と一握りの勘が、ずば抜けて優れていた。彼女の娘……そう、娘の君ならば、それを受け継いでいてもおかしくはないと思ってね」

 

 事実、リリー・ポッターは心眼のようなものを生まれながらに持ち得ていた。

 開心術とはまた違う、本人の中だけで分かる判断基準。

 心眼などと大げさに評されているものの、つまるところはただ単なる勘である。

 その鋭い勘が往々にして真実につながっているというのだから、リリーは平常時の見方からも、そして当然ながら闇の勢力の者どもからも脅威とされていた。

 それが死因の一つとなってしまったのも、また皮肉なことか。

 

「だからリリーは狙われた。気を付けるんだよ、ハリー。ワームテールは取り逃がしてしまった。そして聞いた話では、彼を支援する死喰い人までいたという話じゃないか。……ヴォルデモートの勢力は、決して潰えてなんかいない。まだ休息期間なんだ。分かるね」

「ええ。……ぼくは殺されてなんかやらない。絶対に、負けない」

 

 汚泥のように濁った闇にも近しい緑の瞳が、強い意志を秘めてルーピンを見据える。

 それに笑ったルーピンは、ハリーの頭を撫でた。

 

「ごめんね、ハリー。実をいうと、私が狼人間だということがバレてしまってね」

「えっ!? そ、それは……」

「ああ。明日にはダンブルドアの部屋目掛けて保護者たちからのフクロウ便が大勢突入することだろう。狼人間を教師に据えるとは何事か、とかね」

「で、でも! ルーピン先生は悪い狼人間じゃないでしょう!」

 

 ハリーの物言いに、くすくすと笑うルーピン。

 それが不愉快なのか、諦めている顔なのが不満なのか、ハリーは彼を睨みつける。

 それでもルーピンは微笑み続け、ハリーの柔らかい黒髪をくしゃりと撫でた。

 

「ありがとうハリー。こんな私をそんな風に言ってくれて」

「……先生」

「でもね、昨日のような事もある。誰かを噛んでいたかもしれないんだ。そう思うと……ぞっとする。こんな事はもう、もう二度と起こってはならないんだ」

 

 ルーピンの意思は固い。

 これはどういう説得をしても、もはや無駄だろう。

 今までで最高に出来のいい闇の魔術に対する防衛術の先生だったため、ハリーは彼が教壇に立てなくなることを惜しんだ。

 

「私はもう、先生ではない。だからこれを君に返すことにも、なんら躊躇いはないよ」

 

 ルーピンは机の上で広げていた羊皮紙を取り上げる。

 《忍びの地図》だ。

 どうやら展開されたままのようで、名前と足跡がうようよ動いているのが見える。

 

「私たちの自慢の品だ。きっとジェームズも君が持っていた方が幸せだと思う」

「……、…………」

「それと、これも。透明マントだ。何時の間にか落としていたのだろう」

 

 同じく机の上に畳んであったマントも手渡される。

 しかしハリーの顔は浮かない様子だった。

 

「ところでハリー、君の守護霊はどんな形だったかね?」

「守護霊?」

「ああ。吸魂鬼を追い払ったと聞いた。それはつまり、有体守護霊を作りだせたということだろう?」

 

 言われてみれば、そうだ。

 気分が沈んでいたからか、あまり考えがまとまらない。

 

「鹿です、大鹿」

「…………ほう、鹿か。では、雌鹿だったのかい? それとも、牡鹿?」

「えーっと、その、わからないです」

「わからない?」

 

 ハリーは自分の守護霊が、雄なのか雌なのかわからないと説明した。

 角はある。だが華奢な体格をしており、雄のようには見えないすらりとしたものだ。さらには尻尾の部分に大蛇まで伸びているという始末。まるでキメラそのものであった。

 それを聞いたルーピンは、難しそうな顔をする。

 

「ハリー、それは本当かい? 蛇の尻尾とか、聞いたことがないのだけれど」

「うーん……そう言われても。ぼくも守護霊に詳しいわけではないから」

 

 そう言うと、ルーピンはまたも渋面でうなった。

 ふと、ハリーは思う。

 シリウスがハリーを殺そうと目論んでいたことをダンブルドアは知っていた。

 それはわかる。なんというか、ダンブルドアなら知っていてもおかしくはない。

 では、彼は?

 あのとき、叫びの屋敷で十年以上その無実を信じられなかった友を抱きしめたあの時。

 あの瞬間から、ルーピンは知っていたのではないだろうか。

 

「ルーピン先生。先生は、知ってたの? シリウスが、ぼくを狙っていた理由を」

「……ハリー、それは」

「リーマス。おるかの」

 

 ルーピンが言葉に詰まると同時、ノックとともにダンブルドアが部屋に入ってきた。

 ハリーが睨みつけたところ、肩をすくめられる。

 本当に偶然のタイミングだったのだろうか。少し疑わしいが、ここで突っ掛かってもなんにもならない。ハリーは大人しくダンブルドアのために壁際に寄った。

 それに少し頭を下げて礼をしたダンブルドアは、ルーピンに顔を向ける。

 

「馬車が門の前に来ておる。時間じゃ、リーマス」

「ありがとうございます先生」

 

 そう言ってルーピンは、トランクを持って立ちあがった。

 不満そうにジト目で睨むハリーの頭を優しく撫でて、ルーピンは言う。

 

「また会おう。必ずね。そのころには君も、たぶん大人になっているだろう。そうであれば、きっと教えてもいいはずだ」

「……うん。また、会おう」

 

 そう言ってルーピンはハリーの前から去っていった。

 一度も振り返らずに。風によって、ぱたりと優しく扉が閉められた。

 物寂しくなってしまった防衛術の教室を見ながら、ハリーは隣の老人に目を向ける。

 すると既にこちらに向き直っており、柔和な身をたたえて話を聞く用意が出来ているではないか。相変わらず恐ろしい老人だと思いながら、ハリーは問うた。

 

「……先生」

「なんだね、ハリーや」

「ぼくは、……ぼくは何かできたんでしょうか? ペティグリューは逃がしてしまった。シリウスの無実も証明できなかった。グレイバックだって、仕留めきれなかった」

 

 俯いたハリーの顔を優しくあげさせると、ダンブルドアは微笑んでで言う。

 

「何ができたかじゃと? ハリー、それは大いなる間違いじゃ。君は大きな変化をもたらした」

「変化?」

「そう。君はあの世へ旅立つ定めにあった者を二人も救ったのじゃ。君も聞いたじゃろう、トレローニー先生の予言じゃ」

 

 トレローニー先生って誰だっけ。

 ハリーが頭をこねくり回して思い出すと、まるで昆虫のような顔の女性が出てきた。

 ああ、あの奇妙な声の奇人か。

 彼女がトレローニーのことをどういう風に考えているのか分かっているかのように、少し苦笑いしながらダンブルドアは言う。

 

「『人を喰らう狼は、同胞に食い殺されその生涯を終える』。……これは恐らく、リーマスとグレイバックの事を言っておったのじゃろう。過去に戻った君がシリウスを連れてグレイバックと遭遇していなければ、シリウスが処刑されるだけではなくリーマスまであの男の手にかかっていたに違いない」

「……!」

 

 ダンブルドアがあまりにもゆったりと、柔らかく微笑んで言うので信じてしまう。

 彼が大丈夫というのなら、大丈夫なのだろうと。

 それは短慮にも似て、しかし甘美な罠にも思える。何故だかこの老人は油断ならない。

 全幅の信頼を置くことができない。

 どうしてだろうか。

 何故ぼくは、ダンブルドアのことを信じ切れないのだろうか?

 

 ホグワーツ特急の中。

 ハリーとハーマイオニーとロンは、一つのコンパートメントを占領していた。

 腕の治ったロンは元気にもりもりとお菓子を口に含み、前面に座るハリーにその口元を拭かれている。それを呆れた目で見ているハーマイオニーに君もやるかいとハリーが言うと、真っ赤になって否定された。

 

「私、来年は《逆転時計》の使用をやめるわ」

「そうなの?」

「ええ。今年はたまにハリーを抱きしめて寝ることでストレスが解消されていたけれど、なんと言えばいいのか、あれ、まともな精神が保てないわ。いつか気が狂ってしまう」

「っていうかハーマイふぉに、――ごめんハリー。んぐっ――ハーマイオニー、どうして僕らにも内緒にしてたのさ。僕たち、友達じゃないか」

「誰にも言わないって約束していたのよ……」

 

 ハーマイオニーがそう言って、ハリーに助けを求める目を向ける。

 ハリーの格好はミニスカートサロペットに、黒くぴっちりしたシャツだ。これも勿論ペチュニアの贈り物でありコレを着て帰るようにドスの利いた字面で手紙がついていたわけだが、ハリーがペチュニアの予想以上に成長してしまったために、胸が強調されるようになってしまってロンが苦笑いするような見た目になっている。

 それで恥ずかしがって、あまりロンに触れない位置に居るようにしていたのだ。

 そんな様子のハリーを見て、ハーマイオニーは助けが来ないことを悟った。

 最近のロンは除け者にされると、すぐこうやって不貞腐れてしまって面倒臭いのだ。

 しかし、ハリーが驚いた声を出したことによってロンの文句は途絶える。

 

「どうしたの?」

「見て、これ! シリウスからの手紙だ!」

「えーっ!?」

 

 ハーマイオニーとロンと一緒になって読む。

 吸魂鬼から無事に逃げることに成功したこと。マグルの交通機関も使えないので、どこかの山奥で悠々自適なサバイバルライフを送っている事。最近ネズミを食べられなくなったこと。

 そんなことが楽しそうな文字で書いてある。

 ニンバス二〇〇〇がシリウスからの、十三回分まとめた誕生日の贈り物だということが発覚した時、ハーマイオニーはしてやったりというような顔をした。ロンに言わせればドヤ顔というやつらしい。

 手紙の最後に、この手紙を届けたフクロウをロンのペットにしてやってほしい旨が書かれていた。

 ロンが疑問に思ってハリーに問うと、彼女は小さなフクロウを差しだした。

 まるでふわふわのボールのように小さい子フクロウだ。

 訝しげな顔をするロンが、ハーマイオニーの膝の上でごろごろ言うクルックシャンクスに問う。

 

「……どう思う? こいつ、禿げたおっさんじゃない?」

 

 ロンのジョークを本気で面白いと思ったのは初めてだった。

 嬉しそうに喉を鳴らすクルックシャンクスを撫でながら、ハーマイオニーも笑っていた。

 ハリーは二人の様子を見て、シリウスが家族になってくれていたら、彼の無実を証明できていたとしたら、今頃ハリーの隣に座っていてどこに住むかを楽しく話していたかもしれないことを考えて、少し寂しい気持ちになった。

 それを敏感に察知したのか、ハーマイオニーとロンがハリーを見つめる。

 なんだか気恥ずかしくなってしまったが、ロンがハリーの頭を優しく撫でた。

 

「ハリー。私たちのこと、忘れてない?」

「大丈夫さ、ハリー。僕らはどこにも行きやしない」

 

 自分のことを想って優しい言葉をかけてくれるので、嬉しくてつい泣きそうになってしまう。

 二人はそんなハリーの事をやさしく抱きしめる。

 

 家族はいない。

 けれど親友ならいる。

 かつての悪戯仕掛け人たちは、哀しい終わりを迎えてしまった。

 一人は死を。一人は無実の罪を。一人は憎悪を。一人は寂寥を。

 ハリーは二人だけは、ハーマイオニーとロンの二人とだけはそうなりたくないと強く思う。

 二人の頬にやさしくキスして、三人は恥ずかしそうに笑う。

 ピーター・ペティグリューを逃がしてしまったことでヴォルデモートが復活してしまっても、ハリーには心強い友達がいる。きっと、怖くなんてない。

 ホグワーツ特急が汽笛を鳴らす中、ハリーは穏やかに微笑んでいた。




【変更点】
・シリウスとハリーの戦闘。
・罪には罰を。シリウスが一生ハリーに縛られるように。
・ピーターのサポートとして近くまで来ていたグレイバックと遭遇。
・守護霊は『蛇の尾がある大鹿』。
・スネイプのジェームズへの感情。原作とはかなり違う。
・ダンブルドアが信用できない。

【オリジナルスペル】
「廻り巡れ繰り返せ、報いを与えろ荊の檻よ」(初出・35話)
・魔法式を書き換える呪文。このスペルの場合、防御系呪文を編集できる。
 1993年、ハリエット・ポッターが開発。完全に即興で考えだし創った魔法。

これにて「アズカバンの囚人」は終わりです。
三年目はハリーが女性として成長し、大人たちの思惑が出てくる話でした。
シリウスがハリーを殺そうとする理由があったり、ワームテールが強化されていたり、グレイバックが出てきたり、なんというか前途多難です。ですがきっとハリーは幸せな未来に向かって頑張るでしょう。原作ではリストラされたニンバスも手に入ったし!
来年度はさらにオリジナルイベントが増えてハードになって参ります。四巻目は原作でもハードモードになってくる境目ですし、オリジナル要素も同時に強くなるので、どうか暖かい目でハリーを見守ってやってください。
ハリエットに幸あれ。


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アズカバンの囚人・変更点

三巻の「アズカバンの囚人」時点での変更点やら独自設定やらをまとめました。都合上、四巻の設定を出し切ってから書いたので遅くなったのは私の責任だ、だが私は謝らない。
登場人物の中には私の脳内設定で挿絵がありますけれども、ご自身の想像を壊したくない方はどうぞ気にせずスルーしてください。君が恐怖心を乗り越えて以下略。


【原作との大きな変更点】

 ハードモードとするにあたって原作から変化した要素。

 場合によっては今後に大きく影響する部分もあるため表記。

 

 

・ダドリーの無意味な強化と同性愛者化

 前者は遊び。ストーリーに関与しない以上、どうなろうと問題ない。砂糖水ッッ

 後者はハードモードになる以上は仕方なかった。許せダドリー。

・シリウスとの早期遭遇

 彼の葛藤と、ハリーのこれからの目標を描写するため。

・闇祓いたちとの早期遭遇、闇祓いの面子増加

 ハワード達との面識が必要なのと、ハリーの強化フラグのため。

・ハリーの初潮

 少女の成長物語を描くにあたって、これは絶対に必要だった。断じてエロスではない。

・守護霊の早期習得

 習得できた理由については四巻ラストにて判明。

・セストラルが見える

 三巻時点で既に人死にを見ているため、見えちゃうのです。

・原作と違って、ハリーに明確に怖いモノがある

 原作ハリーがスポンジメンタルなら、鎧で覆った生卵メンタルが本作ハリー。

・バックビーク死亡

 シリウスの移動手段が消滅し、今後の難易度ハネ上がり。

 三巻最後の逃走シーンがメタルギアハリエットと化してしまう。マリモナイン!

・バジリスク再び

 命名ヘンリエッタ。ハリーの新しい親友。ただし出番はほぼない。

・ルーピンがハリーに対して若干非協力的

 シリウスと同じ理由と気持ちをハリーに対して抱いているため

・ハリーが自身の性別を自覚

 乱暴されそうになったら嫌でも自覚する。これも彼女の成長には必要と感じた。

・新箒はニンバス二〇〇〇

 ファイアボルトなんてプロ仕様、子供にはもったいないぜ!

・ハーマイオニー、ハリーに影響される

 普通の十三歳の魔女は殺人鬼に対して的確に行動できません。

・シリウス強化

 戦闘スタイルはハリーの上位互換。レベルをあげて物理で殴る派。

・スネイプの好感度

 原作より高低が激しい。ルーピンには好意的に、シリウスにはより敵対的に。

・ピーターの好感度

 原作と違い、ジェームズたちへドス黒い憎悪を抱いている。

・シリウス戦

 彼なりの理由を以ってして本気でハリーを殺害しようとしていた。

・ハリーの守護霊変更

 四巻ラストの理由にて、彼女の守護霊も原作とは大きく異なっている。

・ダンブルドアへの信頼

 四巻ラストの理由にて、ハリーから彼への信頼度が低い。

 

 

【独自設定】

 深く考える必要はなく、だいたい語感の通りと解釈して問題なし。

 細かい設定なんて考えてられっか! 世界観の補強、または妄想の産物。

 

 

魔力反応光

 杖先から飛び出る光のこと。魔法反応光とも言う。

 人体から生成された魔力が魔法として外気に触れる際に起きる反応。

 要するにだいたいの場合この光が当たれば、魔法が作用する。

 威力を拡散してスプレー状に射出するなど、術者の裁量でいくらか融通が利く。

 

魔法式(プログラム)

 何であろうと魔法を使う際には、プログラムをしっかり組んで発動する。

 杖の振り方、呪文の発声、原理を理解しているかどうかなど。

 これの組み方に問題があると、魔力暴走で不発になったり爆発したりする。

 

魔力枯渇

 読んで字の如く、体内で生成される魔力が不足に陥ること。

 この状態でも搾り取るように魔法を使うことはできるが、不快感や頭痛などが生じる。

 頻繁にこの状態になると、脳がリミッターを設けて突如魔法が使えなくなる症状が起きる。

 

魔法空間

 読んで時の如く、魔法で造られた空間のこと。

 中身がどこに繋がっているのか、この亜空間は一体何なのか、一切解明されていない。

 ハッキリ言って意味不明な不思議空間であるが、便利なので流通している。

 要するにゲームでいうアイテムポーチだとハリーは思っている。

 

『グリフィン隊』

 魔法省闇祓い局に存在する、実戦向けの任務が多い部隊。

 原作人物ではキングズリーやトンクスが所属している。

 闇祓いたちをひとまとめにする際の呼称がなかったために作成。

 

身体強化呪文と闇の飛行呪文

 身体強化によって身にまとう青白い光と、闇の呪文によってまとう漆黒の光。

 自分に魔法を作用させ続けているため、魔力反応光が漏れ出ている状態である。

 映画『不死鳥の騎士団』の最終決戦をご覧になればお分かりになるだろう。あれです。

 

 

【オリジナルスペル】

 ハードモードにするにあたって、呪文も追加。

 なお原作で呪文が出なかっただけの魔法も一応オリジナルとして表記しておく。

 また、特に説明もなく出てきた魔法や道具などは、世界観を補強する小道具みたいな軽い感じで受け止めてください。説明がない以上、特に深いモノはない(ハズな)ので。

 

 

「モビリタブラ、机よ動け」(初出・28話)

・移動呪文。テーブルを動かすためだけの魔法。

 元々魔法界にある呪文。映画アズカバンの漏れ鍋でモブが使っている。

 

「フェネストラ・パリエース、塞げ」(初出・31話)

・封鎖魔法。窓や壁の穴などある程度の範囲内を物理的に嵌め殺しにして封鎖する。

 元々魔法界にある呪文。難易度は高いが日常生活用魔法の一種。

 

「クィエスパークス、心穏やかに」(初出・32話)

・興奮状態を鎮める治癒魔法の一種。発狂した人間ですら元に戻せる。

 元々魔法界にある呪文。強力すぎるため、しばらく二日酔いのような症状が出る。

 

「プロテゴ・パリエース、堅き壁よ」(初出・33話)

・盾の呪文の亜種。防御の壁を出すだけなのに、習得難易度は地味にイモリレベル。

 元々魔法界にある呪文。内部魔法式を途中で変更できるという、怪物呪文。

 

「リピート」(初出・原作4巻)

・直前呪文。一節呪文(シングルアクション)で発動できるため、闇祓いには重宝される。

 元々魔法界にある呪文。ハリーとお辞儀の決闘で出現した呪文の簡易版。

 

「バースト」(初出・33話)

・炸裂呪文。一節呪文。魔力で出来た物体限定で、その内部魔力を爆発させる魔法。

 ジェームズ・ポッターが開発、リーマス・ルーピンが発展させた呪文。

 

「カペレ、掴め」(初出・30話)

・対象を握る魔法。目に見えない大きな掌で、対象を掴むだけの魔法。

 元々魔法界にある呪文。浮遊呪文とはまた違った用途の、生活上で役立つ魔法。

 

「レウィスレーウェ、羽根のように」(初出・34話)

・体重を軽くする魔法。高いところから飛び降りたりするのによく使われる。

 元々魔法界にある呪文。魔法的側面から見て軽くなるだけなので、体重計は変わらない。

 

「廻り巡れ繰り返せ、報いを与えろ荊の檻よ」(初出・35話)

・魔法式を書き換える呪文。このスペルの場合、防御系呪文を編集できる。

 1993年、ハリエット・ポッターが開発。完全に即興で考えだし創った魔法。

 

 

 

【クィディッチのオリジナル技】

 本作は何かとクィディッチシーンが濃い気がするため、紹介。

 特に説明がなくとも「そういうもんなのね!」みたいな感じで見てもらえれば幸い。

 

 

《イレギュラーターン》

 螺旋状に回転しながら方向転換する技。相手に飛ぶ方向を気取らせない。

 特にシーカーがよく使う。

 

《トルネードグリップ》

 螺旋状に大きく横回転することで、背中に直撃するブラッジャーを避ける技。

 全選手共通だが、背後を見ないため当然難しい。

 

《ワスプス・フォーメーション》

 チェイサーが三人全員で飛ぶことで、タックルやブラッジャーを防ぐ技。

 映画でもやってる。ウイムボーン・ワスプスにて開発された。

 

《スクリューフライト》

 文字通り回転しながら跳ぶ技。相手チェイサーからのカットを防ぐ。

 下手をすると汚い噴水が撒き散らされるので気をつけること。

 

《スライドターン》

 文字通り箒を水平にしたまま、尾の先か柄の先を中心にスライドする技。

 本来はトリッキーな方向転換のために使う技だが、回避にも有効的。

 

 

【キャラクター】

 彼らは基本設定はそのままに、生い立ちや性格に手が加えられています。

 紹介済みの人は概略のみ。

 

 

ハリー・ポッター (Harriet Lily Potter)

 本作の主人公。世界的大犯罪者ヴォルデモート卿に命を狙われるも、唯一生き残る。

・女性としても成長。もう男の子と間違われることはない。

・戦闘力も平均した成人魔法使いなら相手にならないレベルには高い。

 

ロン・ウィーズリー (Ronald Bilius "Ron" Weasley)

 ハリーの親友。ウィーズリー家の六男で、例に漏れず赤毛のっぽ。

・親友の少女二人を身を呈して護る勇気を示す。原作より若干勇敢。

 

ハーマイオニー・グレンジャー (Hermione Jean Granger)

 ハリーの親友。マグル出身。一年生時での主席。

・ハリーに影響されシビアな行動が可能に。ワルになっちゃった。

 

ドラコ・マルフォイ (Draco Lucius Malfoy)

 ハリーと同学年の男子生徒。ハリーのライバル的存在。

・三巻で特に出番なし。今後に期待。

 

シリウス・ブラック(Sirius Black)

 ジェームズ&リリー・ポッターの親友。濡れ衣を着せられて投獄された悲劇の人。

 ハリエットの事情(四巻にて明記)を知っているため、脱獄の理由は原作と違ってペティグリューの殺害のみならず彼女の殺害も視野に入れてのモノだった。

 身体強化呪文を最も得意としており、珍しい肉弾戦タイプの魔法使い。相手がどれほど強力な魔法を持っていようが使われる前に寄って殴ればええやん理論。戦闘スタイルでいえば三巻時点ではハリーの完全上位互換。

 性格と外見が違いすぎるため、ハリーとジェームズを重ねてはいない。

 

ピーター・ペティグリュー(Peter Pettigrew)

 かつての悪戯仕掛人のひとり。死喰い人ワームテール。

 原作と違い、かつての親友たちから受けた親愛の交流をただのイジメかそれ以下であったと受け取っており、彼らへは憧憬と憎悪を募らせていた。魔法の腕も悪くはなく、杖なしでの魔法行使もある程度は可能なレベル。

 内面的には、原作のような保身的行動よりシリウスたちへの憎悪のほうが勝る程度の変化。

 

ニンファドーラ・トンクス(Nymphadora Tonks)

 原作キャラ。七変化の女性闇祓い、グリフィン隊隊員。穴熊寮出身。

 外見を自由に変えられる能力持ちの優秀な闇祓いで、原作同様二〇歳。

 同期のハワードがいるため、原作よりも戦闘力は高めに仕上がっている。

 挿絵左端。そそっかしさを補うため、魔法具の入ったポーチを常備。

 

【挿絵表示】

 

 

アーロン・ウィンバリー(Aaron Wimberley)

 本作オリジナル。悪人面の闇祓い。悪し様な態度と性格に難はあるが、面倒見はいい。

 不良のような粗雑な態度をとるものの、若手闇祓いでは最強クラス。三〇歳前後。

 挿絵左から二番目。身体強化呪文を得意とする肉弾戦タイプ。

 

キングズリー・シャックルボルト(Kingsley Shacklebolt)

 原作キャラ。闇祓い局グリフィン隊隊長。

 グリフィン隊連中の中では原作とほぼ変更はないものの、問題児が三人に増えているため心労と飲酒量が増えているのは完全なる余談である。純然たる後衛型魔法使い。

 挿絵真ん中。優秀な男だが、やはり原作より怒りっぽくなっている。

 

アンジェラ・ハワード(Angela Howard)

 本作オリジナル。動物まがいの女性闇祓い。鷲寮出身。

 銀髪の美人で、ホグワーツを卒業したばかりの十八歳。ウィンバリーを意識している。

 間延びした丁寧な口調のわりに、上司に対しても平然と激昂する問題児。子供のころ後天的にヴィーラの血が入ったため、純血のヒトでないことを多少気にしている。

 挿絵右から二番目。全員170㎝近くあるため小さく見えるが、彼女も150以上はある。

 

ジャン&ジョン・ボーンズ(Jean & John Borns Brothers)

 本作オリジナル。双子の巨漢闇祓い。南米系で、無口。兄弟ともに妻子持ち。

 ハリーに称された通りに酷く悪漢ヅラをしているが、気遣いのできる善良な四〇代。

 挿絵右端。同じ姿なので挿絵では一人に割愛。最近お腹が気になるお年頃。

 




三巻時点での開示されている情報はこれで全部……、のはず。何か気づいた人がおりましたらお教えください。ご指摘いただいた後、忘却術士を向かわせます。
アズカバンの囚人編ではハリエットのことも深く関係しているので、四巻が終わるまでは設定集を出す気はありませんでした。断じて、そう、断じて面倒くさかっただとか絵を描いていなかっただとかそういう理由ではありません。いいね。
前回の変更点でも記述した通り、身体強化呪文と闇の飛行呪文は映画を見ていただくのが一番想像しやすいものかと思います。あのレベルで動き回りながら魔法を放ったり蹴りを放ったりしているもんだと考えてくだされば。


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炎のゴブレット
1.夏休みは隠れ穴へ


 

 

 ハリーはだらけていた。

 タンクトップはめくれておへそが出ており、ホットパンツからは素足が伸びる。

 この夏の間に、ハリーはすっかりだらけていた。

 実にはしたない恰好であるが、このプリベット通りではむしろハリーの格好は品がある方である。ペチュニアがダドリーと共にロンドンまで買い物に行ったときは、上半身を晒して歩くタトゥー・マッチョマンやら下着同然の格好をしたファンキー・ウーマンなどがいてダドちゃんの教育に悪かった。などと文句を言っていたのを覚えている。

 ボクシングの英国チャンピオン相手に今さらそんな情操教育が必要なのだろうかと思いはしたが、ハリーはペチュニアの淹れる美味しいお茶をいただけたので、これも紅茶代のうちだと思って彼女の愚痴を黙って聞いていた。

 散々吐き散らしたペチュニアは上機嫌になり、ダドリーには内緒で買ったらしきスコーンを一袋プレゼントしてくれたので、その甲斐はあったと思う。

 恐らく不満がたまっているのだろう。

 

 なぜなら、この夏ダーズリー家はダドリーのダイエットに付き合わされているのだ。

 「戦いたい奴がいる」などと言いだしたダドリーは急激な減量を始めた。初めのうちは空腹によって不機嫌になるだけであったが、水道の蛇口に針金を巻いて封印したりと行動がエスカレートしてきて、挙句の果てには通りすがった飴をなめる子供に睨みを飛ばしたりしてしまう始末。

 狂乱したダドリーが子供を殴っては人死にになってしまう。打たれ強くなったいまのハリーでさえ生死が危ういと判断したダドリーが彼女を殴るスポーツをやめたほどだ。ただのマグルがそんな剛腕を喰らえば、テレビ放送できない状態になるのは明らかである。そして、そんなことになってしまえば()()だ。

 そこでバーノンが考え出したのが、みんなダイエットに付き合いますよ宣言である。

 ダドリーの日々の食事は、茹でた味なしのササミとプロテイン入りの無脂肪ミルクのみ。

 バーノンとペチュニアはそれの半分。ハリーはなんと、空の皿だ。出す意味がない。

 その食卓の風景を見たダドリーは自尊心を満たされたのか、満足げな顔で一本のササミをぺろりと呑み込むように平らげるようになった。

 しかしその間、絶食を強いられたハリーがやつれたかと問われれば答えはノーだ。

 日常的に繰り広げられるダドリーのダイエット風景を見て、艱難辛苦を乗り越えたハリーが危機感を抱かないはずがない。ハリーはヘドウィグを飛ばして、ハーマイオニーやロンたちに助けを求めたのだ。

 缶詰やらお菓子やら、大量の食糧を運送してきたヘドウィグはたいそうお疲れだった。その労苦をねぎらってちょっとだけ豪華なフクロウフードを与えると、指先にやさしく甘噛みしてきて可愛さのあまり悶え死にそうになったこともある。

 とりあえず。

 ハーマイオニーの送ってきた栄養のある食事や、ノンシュガーのお菓子。ロンの送ってきた甘ったるいチョコレートや魔法界製のお菓子やら、日本製のエキゾチックなお菓子。ハグリッドの送ってきたトン単位のロックケーキなどで、ハリーは飢えることなく夏休みを快適に過ごすことができた。

 というか、ちょっとだけ太ったかもしれない。

 ハリーは自分のお腹を触ると、そこそこ硬いのがちょっとした自慢だ。見た目は一本線が入ってるのみでそうでもないが、日々のトレーニングがちゃんと功を奏してきたのだ。

 ふふふ、と満足げな笑みを浮かべるハリーは、お風呂あがりに乗った体重計でショックを受けた。去年よりもかなり増えている。し、しかし、これはどういうことだろうか。胸か? これがいけないのか? 確かにちょっと重く感じるようにはなってきたけれど、でも上級生のようにグラマラスというほどではないはずだ。

 では、本当にただ単に肥えただけなのだろうか。

 そいつはまずい。実にまずい。女としてそれは滅茶苦茶まずい。

 そんなわけでハリーも簡単にダイエットをしているのだが、毎日ランニングをしたり筋トレをしたりするので、お腹が空くわ空くわで、さらに空腹で不機嫌になってしまうので、このハリエット・ダイエッター状態がかなり不毛なことに気付き始めた。

 そこでハリーは、手に持っていた魔法界製のチョコレートが原因だと気付くと同時にそれをトランクに放り込んで解決したのだった。フレッドとジョージから贈られてきたものだという時点で気づくべきであった。極刑モノである。

 

 じわじわと降り注ぐ日光がダーズリー家を温め、二階の一部屋にいるハリーを蒸している。汗がじわりじわりと吹き出してきたので、シャワーを浴びようとタオルを手にバスルームへ向かう。

 汗を流したハリーはその体をタオルで包むと、バスルームを出る。

 部屋の中をバスタオル一枚で歩くというのはレディとしてはしたない、とペチュニアにしっかり教え込まれているので、ハリーは脱衣所でさっさと着替えて自室に戻る。

 そしてラフな格好のまま、ベッドに倒れ込んだ。

 ヘドウィグはいない。彼女はいま、シリウスのもとへ飛んでいるからだ。

 最初は何かおいしいものでも贈ろうと思っていたのだが、それに対するシリウスの返事は『荷物を持ったフクロウが誰もいないはずの場所へ訪ねてきたら、そこにフクロウのお家があるとは誰も思ってくれないんだ』というものだった。ハリーは全くそこに考えが至らなかった自分を恥じた。

 手紙くらいのサイズならば特に怪しまれないため、以降は手紙だけのやり取りにしている。

 ハリーを殺しかけたことを未だに気に病んでいるらしいことが文章の端々に見られるものの、今では気に障らない程度になっている。最初は卑屈で卑屈で酷いものだった。言いすぎたかと思ったが、今でも夢に見るほどのトラウマを味わったのだ。それくらい許してほしいものである。

 

「……わからないな」

 

 シリウスからの手紙をトランクの中に仕舞い込み、ハリーは大学ノートを開く。

 はっきり言って羊皮紙なんぞより断然使いやすい。ロンドンで買って正解だった。

 羽ペンよりも便利なシャープペンシルを持って、魔法式をつらつらと書きだす。

 それはハリーが、グレイバックとの戦闘で咄嗟に考え付いた『魔法式を書き換える呪文』の魔法式だった。はっきり言って、どうしてこんなものを思いついたのかさっぱりわからない。

 O.W.L.だとかN.E.W.T.だとかそんなレベルを軽く超越しているその魔法式は、いまでもハリーの頭の中に思い浮かべることができる。だが、それがなんなのかを理解することができない。実際に今からでも使うことはできる(その場合、魔法省から警告文が飛んでくるだろうが)だろう。だが、その魔法式を視てもさっぱり理解できないのだ。

 理解できない魔法式を編み出して、初回の使用である上に実戦レベルに使える魔法?

 ばかばかしい。魔法とはフィーリングで使えるファンタジーな存在ではないのだ。

 確かに自身の感覚のみで使える魔法だって存在する。『開心術』然り、『愛の魔法』然り。しかしそれですら、魔法の才能が必要とされるのだ。非魔法族たるマグルには使えない。

 明らかに不自然なのである。

 シリウスに殺意を向けられた理由が、恐らくハリーの抱える何らかの問題にあるという結論を出して以降、ハリーは自分の不自然さに着目するようになった。

 

 ひとつ、魔法習得の速さ。

 これも結構な不自然である。ハリーは自分の努力を疑いたくはないし、ジェームズとリリーの娘だというのなら二人の魔法の才能が遺伝しているとも信じたい。だが、『身体強化の呪文』や『守護霊呪文』、更には先ほどの『書き換え呪文』など全てを習得しているのは明らかなるオーバースペックである。

 『身体強化』や『守護霊』はまだいい。ハリー自身もどうかと思うほどの練習と勉強を重ねて、一年近く、またはそれ以上の時間をかけて習得したのだ。『身体強化』に至っては、習得してから二年を費やしてようやく魔力運用が完全に近づいている。それもその呪文を得意とするシリウスからコツを教えてもらって、ようやくだ。

 だが先ほども疑問に思った『書き換え呪文』だけはおかしい。あまりにも不自然。

 次に、いま生きていること。

 どういうこっちゃと自分でも思ってしまうが、本当にいま生きていることが不自然に思えてしまう。なにせハリーは、普通の人間より多すぎる死線を乗り越えてきたからだ。

 入学前はダーズリーからの虐待。一年生の時には吸血鬼との死闘。二年生の時には最強の魔法生物や最悪の魔法生物、そして学生時代の闇の帝王との戦い。三年生の時には明らかに自分より格上の大量殺人犯(無実だったが)と現役の闇の魔法使いにして狼人間である死喰い人との殺し合いがあった。

 ハリーは重傷を負いながらも、それら全てから生き延びてきたのだ。多分に多くの人からサポートを受けてきたことが最大の要因であることは否定できない。ハーマイオニーが、ロンが、マクゴナガルが、ダンブルドアが。彼ら一人でも、他のだれ一人でも欠けていれば、ハリーはいま五体満足でここに居ないだろう。

 そういった意味で、ここまで生きてこれたことがおかしいと思うのだ。

 そして最後に、『命数禍患の呪い』。

 ハリーがここまでハードモードな人生を送っているその最たる要因、闇の帝王による《生き残った女の子》への贈り物。

 あれが未だにどんな魔法式を用いたらこんな効果をもたらすのかが分からない。単に学生程度が知り得る知識では解明できないようなものなのかもしれない。かの世界最強たるダンブルドアに匹敵すると謳われるヴォルデモートが開発したというのだ、きっとハリーみたいな小娘には想像もできないほど複雑な式が使われていることは想像に難くない。

 だからといって全く情報がないというのも、なんだか変な気がする。

 ダンブルドアはハリーに隠し事をしている。シリウスも、ルーピンもだ。

 なにか重要な気がするのだが……、さっぱりわからない。

 それがとても、もどかしい。

 

「あ、そろそろ時間か」

 

 ハリーはベッド脇に置かれた時計を見て、魔法式が乱雑に書かれた大学ノートとシャープペンシルをトランクに突っ込む。

 トランクひとつで済んだ荷物は、すべてがホグワーツに持っていく品物。

 まだハリーの誕生日前の七月中ではあるが、もうすべての荷物はまとめてあるのだ。

 理由は、いまからハリーは一か月近くのお泊りに出かけるからだ。

 

「ハリー。きちんと髪は梳かすんですよ。男の子の家なんですからね、シャワーの後に無防備な格好でいないこと。いいですね、『まともじゃない』失礼なことはしないように」

「わ、わかったよ。ありがとう、ペチュニアおばさん」

 

 やりにくいったらありゃしない。

 ここ数年のペチュニアは、ハリーをまるで可愛い姪のように扱ってくる。

 ホグワーツ入学時から着せ替え人形のように見ている節はあったものの、こういったきちんとした人間扱い……いや、女性扱いは今年度に入ってからだ。

 本当にどうしたというのだろう。

 まさか錯乱の呪文でもかけられていたのではあるまいな、と思って視てみたことすらある。現役で活動する死喰い人と遭遇してしまうような世の中なのだ、ハリーの身内と見做したヴォルデモートの配下が何らかの手を打っていないとも限らない。

 だが結果はシロ。ペチュニアは何らおかしくはなかった。むしろ今までがおかしかったのだと言わんばかりである。どこがって、そりゃ頭が。

 

「むっ、来たな」

 

 キンコン、とドアベルが鳴った。

 バーノンがまるで仇敵を見るような目で玄関を睨む。

 魔のつくなんたらっちゅー連中にナメられてはいかん。とのことで、バーノンもペチュニアもダドリーも、皆きっちりした正装をして客人を出迎える用意をしている。もちろんハリーも、ペチュニアと揃いのドレス染みた服を着せられている。背中はばっさり切込みが入っているし、胸元は開いて肩も出ているしで露出が多いタイプなので恥ずかしいが、ハリーはダドリー相手に赤面するほど愚かではない。

 問題はロンだ。いや、フレッドとジョージも問題か。双子には絶対にからかわれるし、写真でも撮られようものなら少なくとも今年度中はネタに事欠かないだろう。そしてロンにこの姿を見られると思うだけでドキドキして、顔から火が出そうになる。まったくわけのわからない感情に戸惑ってしまうほどだ。

 

「なんだよハリー、おまえ風邪でも引いたのか? 顔が赤いぞ」

「心配してくれてありがとうビッグD。あまり見ないで恥ずかしい」

 

 ダドリーもきっちりとスーツを着ている。

 この夏の超減量というか自殺行為というか、とにかくダイエットは成功した。

 ハリーと比べると未だに巨漢デブと評すことになるだろうが、それでも彼は見違えるようにスマートになった。縦より横の方がデカいんじゃねと陰口を叩かれていたダドちゃんはどこにもいない。彼はもはや、逆三角形に近いプロレスラーのような体形のビッグDなのだ。

 最年少英国チャンプの座は今年も維持しているらしく、時折家にテレビの取材などが来るようになっている。その際、ハリーはもちろん部屋に引っ込む。シリウスがアズカバンを抜け出すきっかけとなったのが、日刊預言者新聞の写真でロンの肩の上にネズミ化したペティグリューを見つけたというものだと聞いてからメディアの恐ろしさを知ったからだ。

 マグル差別万歳の純血主義者であるヴォルデモート達が、よもやソファに座ってテレビにかじりついて「見ろよマグルのチャンピオンの横にハリー・ポッターがいるぜ」なんてことにはならないだろう。ならないだろうとは思うが、用心するに越したことはない。

 全国放送で姿を晒すなど、私はここですどうぞ殺してくださいと言っているようなものだ。

 とにかく。力を付けた結果、自尊心が満たされてハリーに対して無害となったダドリーをあまり刺激したくはない。

 

「キッチンは大丈夫だわ。リビングも当然。トイレだってばっちり……」

 

 ペチュニアが魔法式でも組んでいるのかというほど低い声で、ピカピカに磨き上げた家のチェックを脳内で展開している。

 彼女は決して潔癖症というわけではないが、それでも《隠れ穴》と呼ばれるほど雑多な家に住む生粋の魔法族であるウィーズリー家からしたら、いまのダーズリー家は無菌室のように美しく綺麗に掃除されているだろう。

 頼むから汚すような真似はしないでほしい。クリスマスにペチュニアから贈られる服のレベルが恐ろしいことになるのは想像に難くないし、バーノンからの贈り物が呪いの品にでもなりそうな気がしないでもない。

 だからウィーズリーの面々には大人しく来訪してほしいものだ。

 

 そう、今日はダーズリー家とウィーズリー家の面々が一堂に会する日なのだ。

 大切な姪であるハリーを一ヵ月も与るのだから、きっちり挨拶しないといけないとウィーズリー家の肝っ玉母さんであるモリーが主張したのが原因だ。

 魔女などという得体のしれないモノを引き取ってくれるというのだから、ダンボールに詰めてでも追い出したいだろうから別にいいと言っても聞いてくれなかった。

 確かにまともな家庭ならそうするだろう。だがここは、この家はハリーに対してのみ『まともじゃない』のだ。

 一応グレンジャー夫妻か、ハーマイオニーもついてくるようにと懇願したから大丈夫だとは思うが……。

 

「いてっ!」

「え?」

 

 玄関の方から何やら鋭い叫び声が聞こえてくる。

 ドアベルを鳴らしたから開けてくるだろうことはわかるが、なぜ悲鳴が。

 

「なんだこのドアノブは? 攻撃してきたぞ!」

「ひょっとしたらマグル独特の防御機構かもしれないな」

「なるほど……小規模とはいえ雷撃で迎撃だなんて、歓迎されていないようだね」

 

 アーサー氏と……誰だろう、ウィーズリーのうち誰かの声だ。

 どうやら口ぶりからして、静電気にやられたらしい。

 たしかにペチュニアがぴかぴかになるまで磨き上げていたことだし、静電気くらい発声してもおかしくはないだろう。

 だが、それをどうやったらそんな勘違いするのか。

 静電気くらい魔法界でだって起こるだろう! どういう筋道でその考え方に至る!

 

「下がっていなさいビル。吹き飛ばしてやる」

 

 ヤバい。

 

「いやちょっと待った!?」

 

 ハリーは駆け出すと同時、玄関のドアを高らかに開け放つ。

 ドアの前では杖を構えたアーサー・ウィーズリーの姿が。

 魔法式がちらりと視えたが、ドアを爆破するつもりだったらしい。

 過激すぎる!

 

「おおっ、ハリー!?」

「おじさん、マグルの常識ではノックでドアを吹き飛ばすことはしません」

「でもハリー、見てごらんよ。客人を迎撃するドアなんて、魔法界にはない! これが噂の()()かい?」

「そうですね、噂の()()です。だから黙って家に入れ。いいな?」

「あ、ハイ」

 

 小声で脅し付ければ、ウィーズリー氏は大人しくなる。

 モリーおばさんから教えてもらった情報に間違いはなかった。

 アーサーと、背の高いハンサムな赤毛の青年、そしてロンの計三人で来たようだ。ロンと目が合った時、一瞬開かれた胸元の方に視線が動いて慌てて逸らされたのをハリーは見逃さなかった。

 男の子がそういうものだとはラベンダーやパーバティから耳にタコができるほど聞かされていたが……。なんていうか、とてつもなく恥ずかしい。軽く小突いてから、一足先にリビングへ戻る。

 出迎えたのはバーノンの不可解なモノを見る目だった。そりゃそうか。

 

「ウオッホン。わしがバーノン・ダーズリーです。この度は姪がお世話になるようで。ご迷惑をおかけするがどうぞ宜しくお願いします」

「こ、これはこれはご丁寧に」

 

 アーサー氏がすっかり恐縮している。

 普段家の中では親バカ丸出しのバーノンであるが、あれでもひとつの企業の社長なのだ。しかも最近ではフランスのメイソンドリル会社と日本の立花重工と大変仲良くしており、英仏日併せて世界の穴あけドリルになる日もそう遠くはない、国際的な企業なのだ。

 その長。威厳があり、そして人を使うことを良く知っているのがバーノン・ダーズリーである。

 自称《魔法省の木端役人》であるアーサー氏と比べると、社会的地位と相手した来た傑物のレベルが違いすぎるのだった。

 

「やぁハリー」

「えっと……?」

 

 まるで上司を相手にしているかのようなアーサー氏を眺めていると、背の高いハンサムが話しかけてきた。赤毛でのっぽという時点でウィーズリー家の誰かだろうとは思うが、会ったことは無かったはずだ。

 となると、長男か次男かのどちらかだろう。

 

「はじめましてかな? 僕はビル・ウィーズリー。あの家における長男坊さ」

 

 そう言って爽やかに微笑むその姿は、思わず赤面してしまいそうになるほどカッコよかった。長髪を後ろで結って流し、何かの牙のようなイヤリングをしている。服装はマグル準拠なのか、ロックバンドでもやっていそうなゴツゴツしたパンクなものだった。

 しかしそれにしてもカッコいい。本当にロンと血が繋がっているのだろうか。

 

「失礼だな」

「おっと悪い。聞こえてた?」

「……ふん」

 

 にや、と笑いかけるとロンがむすっとした顔になる。

 どうやらビルの顔に見とれていたとでも思われたようだ。可愛い奴め。

 

「それでですな、いま私はプラグを集めるのがブームでして! いやはや、おたくもいいコンビーフ(コンセント)を使っておりますな!」

「……え、あ、うん。お、おう」

 

 ひきつった笑みを浮かべるバーノンの目がハリーに向いた。

 それは雄弁に「この狂人をなんとかしろ」と語っている。

 無視することで溜飲は下がるだろうが、その報復は来年もしくはクリスマスプレゼントに反映される。きっとハリーが介入していなければ、リビングくらいは爆破されていたかもしれない。その程度で済んだことを感謝してほしいものだが、言っても始まらないだろう。

 

「ウィーズリーおじさん、もう時間なのでは?」

「……ん? ああ、そうか。もうこんな時間なのか。楽しい時間は速く過ぎてしまうから困る。ねぇ、ダーズリーさん!」

「そうだな。だからはよ帰れ、そいつを連れて。帰るんだ、ハリーを連れて。ハリアップ」

「あっはっは、面白いジョークですね! さすがダーズリーさんです!」

「……」

 

 侮辱されたと感じたのか、バーノンの目が危険な色に染まっていく。

 これはまずいと思ったハリーは強引に話を切り上げ、ウィーズリー氏にさっさと行こうと提案する。それにホッとしたのはハリーだけでなく、ペチュニアもだった。

 なぜか睨み合っていたロンとダドリーを引き剥がして連れて帰ろうとする。

 しかしそれに対して、アーサーはなぜかリビングの方へと突き進んでいった。

 いったい何をしようというのか……。

 

「おや? どうして暖炉を鉄格子なんかで塞いでるんです?」

「どうしてって、そりゃ……」

 

 唐突な台詞がアーサーの口から飛び出して、バーノンが面食らう。

 帰る。暖炉。この二つが結びつけるものは何だろうか。

 

「ちょいと失礼しますよ、後で直しますからご心配なく」

 

 アーサーはそういうと、杖をさっと一振りする。

 すると暖炉の前の鉄格子が溶けるように消え去ってしまった。

 目玉が飛び出さんばかりに驚くバーノンと、魔法を目の前で見て何やらへらへら笑いだしたペチュニアに、得意げな顔を見せるアーサー氏。

 ……実にまずい予感がする。

 

「さーて、それではマグルの諸君。不思議な魔法をとくとご覧あれ!」

 

 そう言うや否や、アーサーはポケットから取り出した緑色の灰が入った小瓶らしきものを暖炉の中に投げつけた。

 止める間もなく暖炉に叩きつけられて割れたガラスの中から、緑色が飛び散る。そして轟音と共に、暖炉がエメラルドグリーンの火を噴いた。

 ちなみにこれ、暖炉を模した電気ストーブである。バーノンが声にならない悲鳴をあげて、ペチュニアが倒れた。ダドリーは未だにロンとメンチを切っていて気づいていない。

 アーサーから別の小瓶を受け取り、手の中に一握りの緑灰を受け取ったビルが、ハリーのトランクを持ちながらウィンクする。

 

「さぁ、ビル。ハリーの荷物を持ってあげなさい。先に手本を見せてあげて」

「分かったよパパ。ハリー、こうやるんだ。よく見てて。『隠れ穴へ』!」

 

 暖炉の中に飛び込んだビルが家の名を叫ぶと、緑色の業火に包まれて消えて行った。

 あまりに強い火力が天井を焦がし、ダドリーの写真などといった調度品を吹き飛ばす。

 バーノンの顔色がまるで気絶寸前のそれである。怒りのあまり呆然としているからだ。

 ハリーの顔色も失神寸前である。笑うべきなのか泣くべきなのか、わからないからだ。

 アーサーによってダドリーと額をゴツゴツぶつけ合っているロンの襟首が引っ掴まれて、ハリーも一緒に暖炉の中に詰め込まれる。ロンに密着してしまうが、なんかもうどうでもいいや。

 

「さぁ行くよハリー」

 

 ロンがハリーの手を握っても、きゅんともドキッともしない。

 どこかげんなりしたハリーを連れて、ロンは煙突飛行ネットワークによってウィーズリー家である《隠れ家》へと跳んだ。

 

 ぐるぐると目の回るような感覚のあと、足の裏に押し付けられるように地面がやってきた。

 思わずバランスを崩しそうになるものの、ロンの肩に手を置く程度で済んだ。

 目を開けて見てみれば、燃えるような赤毛の青年がハリーに手を差し伸べていた。パーシー・ウィーズリー。昨年度ホグワーツを主席で卒業し、今年から魔法省に入省してバリバリ働いている社会人だ。

 有り難くその手を取って、ハリーは暖炉から抜け出す。

 

「いらっしゃいハリー、ようこそ我が家へ」

「「ようハリー! いらっしゃい!」」

 

 パーシーと、その背後から突然現れたフレッド&ジョージが声をそろえて言う。

 今日から一ヵ月、ウィーズリー家でお泊り。

 去年はシリウスが脱獄したので安全面から見てまず無理だった。一昨年はドビーの魔手に掛かってハリーが入院してしまい、お泊りするには日数がなかった。一昨々年はまずロンと会ってすらおらず話し相手は動物園の蛇だけ。

 つまり、ハリーがこの家に泊まるのは初めてなのだ。

 魔法使いの家だけあって、あちらこちらに目を向けて視れば様々な魔法式があちこちで魔力を運用している。綺麗な式を表現するようにピカピカに食器を磨いている魔法や、若干式にほつれがあって、六本目の指を作り始めている編み物魔法など、魔法魔法、魔法だらけ。

 バーノンがここに来ようものならあまりの異常さに卒倒するだろう。そしてペチュニアが来たらあまりの雑多さに失神するだろう。

 そんな、いつまで経っても退屈しない、素敵な家だった。

 

 

 ウィーズリー家にやってきて一泊。

 ハリーにはジニーと同じ部屋が与えられたため、起きるとジニーの寝顔が見える。

 ここにおいてもハリーは日課のランニングをやめる気はなかった。周辺はずっと自然だらけなので、マグルの目を気にする必要はないわよとモリーからのお墨付きだ。

 スパッツにTシャツというラフな格好に着替え、ウィーズリー家の玄関前でストレッチをする。筋肉がほどよく伸びる心地よい感覚がする。

 さて、と頬を軽く叩いて走り始めたそのとき。

 

「いてぇ!」

「え?」

 

 なにかを蹴飛ばしてしまった。

 しかも普通に英語で痛いとか言われている。

 何かと思って足元を見てみれば、醜いサンタクロースのような生き物が三匹もいるではないか。なにか本で読んだ記憶があるな。《庭小人》だったかな。と思いながら、とりあえずハリーは蹴り飛ばしてしまった者に頭をさげる。

 

「ごめんよ、気づかなかった」

「きをつけろくそあま! おれぁわるいことしてねーぞ!」

「いや、悪かったよ。でもその呼び方はあんまりじゃない?」

「そうだそうだ! あやまれくそあま! ばーかばーか!」

「ねぇ、その呼び方やめる気はない?」

「へそくらいみたってへるもんじゃねーだろうが! くそあま!」

「そっか。死にたいんだね?」

 

 最初に罵倒してきた一匹に狙いを定める。

 かなり勢いをつけた蹴りで彼方まで吹き飛ばして、その姿が見えなくなった。

 それを唖然と見送る庭小人たち。

 ハリーが唾をぺっと吐き捨てれば、慌てて向き直って揉み手をはじめた。

 

「いやーおじょうさんおつよいですなぁ! よっ、だいまどうし!」

「まったくまったく! ひっぷらいんもえろくてうつくし――」

「二匹目ーっ」

 

 ハリーの渾身の蹴りがセクハラした庭小人を襲い、その矮躯を木の幹に叩きつける。

 最後の一匹となった庭小人は、ついにさめざめと泣き始めた。

 今まで仲良くやってきた名も知らぬどうでもいい奴らが、と言っているあたり嘘泣きに違いない。というか英語の発音が下手すぎてよく聞き取れない。

 

「どうしておれたちをころすんだ! おれたちゃなんもわるいことしてねぇ!」

「害虫っぽいからいいんじゃね?」

「であってすうふんもたたずにそのあつかいか!? あんまりだ!」

「よーし言い残すことはあるか」

 

 ハリーがしなやかな筋肉をつけながらもすらりと綺麗な脚を振りかぶり、庭小人に死刑宣告を下す。それに対して逃げ場がないと思ったのか、ついに媚びへつらった態度をかなぐり捨てて庭小人はハリーを罵り始めた。

 

「ふざけるなよくそあま、このくそあま! くそあまったらくそくそりん!」

「言いたいことはそれだけかい? じゃあ死ね」

「いやまった、まだあるぞ!」

「早くしてくれない? んで早よ死んでくれない?」

「ないすぼいん。おれそんくらいのおおきさがすきだ」

「うん死ね」

 

 蹴り飛ばす予定を切り替えて、まず踏み付ける。

 激しく何度もスタンピングされた庭小人はすでに意識がもうろうとしており、ハリーはそれを足の甲で掬うように蹴り上げた。宙高くほうり上げられた庭小人はハリーのオーバーヘッドキックによって地面に叩きつけられる。その反動でバウンドしたところを、着地しながらハリーが放った回し蹴りによって何度も地面を削りながら遠くへと吹き飛んだ。

 いい汗をかいた顔のまま、ハリーはランニングを続けるのだった。

 

「ジニー、あれが逞しい女の姿よ。見習いなさい」

「いや無理だよママ」

 

 ウィーズリー母娘の声は楽しげに走り続けるハリーには届かなかった。

 

 ランニングを終え、シャワーを浴びたハリーは簡素な私服姿になる。夏も真っ只中なので、ハーフパンツに半袖シャツという色気もへったくれもない姿だ。

 最初はホットパンツを穿こうとしたのだが、それはジニーに止められた。

 いまさら女の子に困るような奴は(ロン以外)いないために視線を気にする必要はないのだが、いまのパーシーの前で露出の多い恰好はやめた方がイイとのこと。

 なんでも、魔法省にはいったことで持ち前の仕切り屋精神が大爆発を起こしたらしく、風呂上りにバスローブで出歩いていたジニーに対して盛大な説教をぶち上げた前科があるらしいのだ。

 ジニーよりも女らしく起伏のある体形をしているハリーがラフな格好などすれば、「なんと破廉恥な」とでも言いたげな完璧・パーフェクト・パーシーによって長々と説教を喰らった後に鍋底の厚さの重要さについて講釈をいただくことになるという。

 最後の意味が全く分からなかったが、きっと知らない方が幸せな類いのことなのだろう。

 

「おはようみんな」

 

 階段を下りてみると、寝惚け眼な面々に出迎えられた。

 

「おあよぅアリー、ジーニー」

「「おふぁようファーリー、ジーニン」」

「君たちそれわざとだろう。おはようハリー、よく眠れたかい?」

「ありがとうパーシー、ぐっすりさ」

 

 ジニーに教えてもらって席に着けば、ばたばたと何やら慌ただしい足音が聞こえてくる。

 どうやら寝起きのままらしい、パジャマ姿のアーサーだ。

 

「おはよう諸君! うん、素晴らしい朝だ!」

「うんおはようパパ。寝癖すごいよ」

「おっと、失礼」

 

 するりと杖を取り出すと、アーサーは杖先で髪を梳き始めた。

 頭頂部がちょっと怪しげである。恐らく大事に育てているのだろう。

 あまり見ない方がいいだろうなと思ってハリーが視線を逸らすと、モリーが七本目のソーセージをハリーの皿に入れるところだった。

 

「モ、モリーおばさん。ぼく、そんなに食べられない」

「あらまぁ何言ってるの。そんなひょろひょろしてて、もっと食べないと背も胸も大きくならないわよ! ほら、食べる食べる! イイ女になるためよ!」

「ちょ、ちょっと待って。太る。太りますって」

「私以下のお腹してたら、太ってるうちには入りませんよ」

「ママ。そりゃ無理があるよ」

 

 最終的に十本のソーセージがお皿に並んだハリーは、隣のロンに手伝ってもらってようやく食べ終えることができた。

 朝食を終えると、アーサーが仕事に行くのを皆で見送る。

 モリーが行う家事の邪魔にならないようにと、ハリーたちは外に出ることにした。

 九人家族ともなれば、洗濯物だけで膨大な量になることだろう。魔法を知る前、つまり無理矢理仕事を言いつけられていた頃の自分の洗濯シーンを思い出すと、あまり想像したくないレベルに違いない。

 とりあえず《隠れ穴》の外を探検しよう。というまるでプライマリースクールに入る前の子供のようなことをフレッドが言いだし、それにノったジョージがハリーとロンを連れて歩き出した。

 マグルの家々は近くにない。あるのは本当に自然だけの、のどかな場所だ。

 移動が不便じゃないのかと問うたが、空飛ぶフォード・アングリアがあるし、なにより魔法界出身の魔法使いたちはだいたい煙突飛行ネットワークで目的地まで跳んでいくので、屋内から屋内へ移動するだけで一日が終わることも珍しくないそうだ。

 ともあれ。

 ハリーたちは森の中を歩いていた。

 何をするわけでもないが、それでも友達と一緒にいるのはそれだけで楽しい。

 ロンは親友だし、フレッドとジョージは性別を気にするようなタイプではない。

 先にボウトラックルが居る木を見つけるゲームをしたり、庭小人同士に木の棒を持たせて勝者のみを生きて逃がす(無事にとは言っていない)ローマの皇帝ごっこをしたり、水着になって川に飛び込んで泳いで遊んだり、ハッキリ言ってはしたないとかそういうレベルを超えて、子供そのものの遊び方をして一日中過ごして回った。

 しかしフレッドとジョージはなぜハリーのサイズに合う水着を持っていたのだろうか。

 

――眩しい。

――何も見えない。

 

 翌日。

 早くもハリーがパーシーの地雷に踏み込んだ。

 

「いいかい? 鍋底の厚さが不均等だとね、いつか市場はぺらっぺらの大鍋で溢れるんだ! それは由々しき事態だ。いいねハリー、君ならわかるね? この法案の重要さが!」

 

 これには、鍋底の厚さがどうだというのだ。というのが皆が持つ共通意見である。

 友達の家にお泊りという十年以上憧れてきたことを実体験しているハリーは、楽しくて楽しくて、そして嬉しくて仕方がないためテンションが天井知らずだった。

 なので面白がって、わざわざパーシーの意見に反論してみたりもする。

 

「でもそれは、市場で自然と淘汰されていくんじゃないかな? 質の悪いものは誰だって買わないから、そんなもんを売ってるところは自業自得で消えていくと思うんだ」

「だったら他の大鍋屋がみんな真似したら? ガリオンどころかシックル数枚で大鍋が作れるようになるならそのぶん利益も上がる。君のいたマグル社会と違って、魔法界は物価が安いんだ。だって魔法で作るから人件費がメインだしね」

「真似したところで、示し合わせてこうしましょうとしたところで利益には敵わないさ。ユーザーが質のいいものを求めていたら、どこか一社だけ抜け駆けしたらそれだけでそいつの一人勝ちさ。つまり法案を作るまでもないってこと」

「だけどハリー、これは僕の任された仕事で……」

「ああだこうだ……」

「云々……」

「……」

 

 気づけば太陽が高く上っており、パーシーのお腹からきゅうと可愛らしい音が鳴ったことで舌戦は終わった。

 喉が乾いた論客(バカ)二人は、お昼ご飯のオニオンスープを三杯もおかわりする羽目になる。

 ロンがバカを見る眼でこちらを見てきたので舌を突き出して、ハリーは楽しげに笑っていた。

 

 午後。

 次男であるチャーリー・ウィーズリーが帰ってきた。

 モリーと盛大に抱き合い、頬にキスの雨を降らされたチャーリーは恥ずかしげに笑っている。

 ビルと拳を合わせて笑いあう姿は、まるで兄弟というよりは親友のようだった。

 チャーリーはウィーズリー家の中でも背が低めである。ロンがもう少しで追い抜くのではというくらいなのだからウィーズリー一族では小さい方なのだろうが、それでもハリーよりはかなり高い。ハリーはジニーにすら負けているのだ。比べるのが間違っている。

 チャーリーには、一年生の時にハグリッドが孵したドラゴンのノーバートの件で世話になっている。

 ハリーは彼と握手して、再度礼を言った。朗らかに笑うチャーリーは、他のウィーズリー達にはない爽やかなスポーツマンのような空気があった。

 

「そりゃそうだ、チャーリーは在学中グリフィンドール寮のシーカーだったんだから」

 

 実は、ハリーの先代シーカーなのだ。

 ハリーが入学した一九九一年に、ちょうど彼はホグワーツを卒業した。

 彼の凄さたるや、ハリーが来るまでは歴代グリフィンドールシーカーで一、二を争うほどではないかといわれていたほどの傑物。それに対抗心を燃やしたハリーは、スニッチを庭に離して捕まえるゲームをチャーリーに仕掛けた。

 結果だけを語れば、ハリーの勝ちである。

 伊達にグリフィンドールに優勝杯をもたらした女ではないのだ。

 しかしチャーリーは、その技量が異常の域にまで達していた。ハリーが箒から飛び出してキャッチするように危険な野郎ダイ・ルウェインすら真っ青なプレーが多いのに対して、チャーリーは箒に尻を乗せたまま易々とスニッチを追い詰めるのだ。

 最短コースを選び取る観察眼が優れている。これがハリーによるチャーリーへの評価だ。

 先輩選手にコース取りのコツを教わりながら、ハリーは楽しい日々を過ごす。

 

――緑色。

――笑い声。

 

 翌朝。

 朝食にトースト一枚とベーコンエッグを三枚いただいて、ハリーは庭に出た。

 今日は庭小人が増えすぎてしまったので、一家総出でその駆除だ。

 

「ハリーはお客さんだから、休んでてもいいのよ」

「いえ。お世話になってますし、なにより楽しいですし」

 

 事実だった。

 ハリーは庭小人の駆除に、快感を感じ始めていた。

 ヤバい性癖なんじゃないかなと思わなくもないものの、楽しいものは仕方がない。

 そうだ。ここ最近テンションが突き抜けて、奇行に近しい行動にも違和感がない。

 暴れる庭小人を縄で吊るし、それを振り回して他の庭小人にぶつける。

 その際に裏声で「実ハオ前ノコトガ嫌イダッタノダー!」などと言えば完璧。ハンマー役にされた庭小人は解放されると同時に仲間にタコ殴りにされるのだ。

 

「ハリーってここ最近かなりクールになったよな。あとファンキー」

「陰湿な攻撃が得意になったのかな。女らしくなってしまって……」

「ねぇフレッド、それアンジェリーナに聞かれたら君ぶっ殺されるんじゃないかい?」

「パーシーは口動かしてないで駆除してくれよ! アイタッ! 噛まれっちまった!」

 

 最後の庭小人が池に沈められた後、ハリーたちは箒を持ち寄って草クィディッチを行った。

 チーム《女王様と下僕たち》は、シーカーにハリー、チェイサーにジニー、ビーターにフレッド、キーパーにロン。

 チーム《年功序列万歳》は、シーカーにチャーリー、チェイサーにパーシー、ビーターにジョージ、キーパーにビルという構成だ。

 審判はいない。反則は自己申告である。

 そのルールでやってみたものの、意外や意外、これが面白い。

 キーパーをやったことがないロンとビルがあまりゴールを防げないというのもあるだろうが、ジニーとパーシーが優秀なチェイサーだったのがまた意外。

 双子はついにクラブで殴り合うし、シーカーは試合そっちのけでデッドヒートしはじめるというカオス・オブ・カオス。日が沈んで、全員泥だらけになって帰ってきてやっと、やり過ぎたことに気付いたのだった。

 夜はジニーと一緒にお風呂へ入り、片眼の視力を少々落としてしまったジニーのために眼鏡のカタログを眺めて過ごした。魔法界製の眼鏡には、なぜそんな機能を付ける必要があると魔法族ですら疑問に思う品物が多く、カタログのくせに読んでいるだけでかなり楽しかった。

 

――緑が命を貪り尽くす。

――ごとりと何かが落ちていった。

 

 翌日。

 ハリーは目が覚めると、汗びっしょりだったことに気付く。

 隣でジニーがすぴすぴと寝息を立てており、一緒に寝たのが原因かなと考える。

 シャワーを借りようとしたものの、パーシーが甲高い悲鳴と共にタオルで身体を隠している姿に遭遇してしまった。見なかったことにして彼を追い出し、さっさとシャワーを浴びる。

 身体を拭いて新たしい服に着替えて出ると、ふわふわの栗毛が抱きついてキスをしてきた。

 今日は、《隠れ穴》にハーマイオニーが来る日なのだ。

 

「久しぶり、ハーマイオニー」

「まるでもう何年も会ってないみたいだわ」

 

 二人でぎゅっと抱き合い、互いの頬にキスをする。

 その際に内心で女の戦いを終えたことは、ジニーとモリー以外気付かなかっただろう。

 敗北感に打ちひしがれるハーマイオニーと、優越感に浸るハリーがそれぞれ席に座る。

 相変わらず寝間着のままのアーサーがやってきて、朝食が始まった。

 ハムとレタスを挟んだパンを頬張って、モリーが言う。

 

「今日は学用品をさっさと買いに行きますからね。いつもより一ヵ月近く早いけど、そうしておくことで後願の憂いを断つってやつですよ」

「はーい」

 

 ダイアゴン横丁まで煙突飛行で到着する。

 モリーおばさんたちもお金をおろすらしく、とりあえずはハリーとハーマイオニーのために、グリンゴッツへ向かった。四年生の教科書はずいぶんと実践的な内容で、少々値が張るのだ。

 ビルがここで働いていることを聞いて、ハリーは驚く。

 

「グリンゴッツって人間も働けるんだ?」

「そうだよ。ただ、金勘定とかはゴブリンたちの方が得意だから、いくら受付は可愛い女の子が常識って言ってもグリンゴッツだけは違うのさ」

「ところでビルはお仕事いいの?」

「休暇さ。同僚が働いてるのに目の前で休むってサイコーゥッ!」

 

 こいつは最低だった。

 銀行で財布を肥やした一行は、それぞれの場所へ向かって行った。

 モリーは全員分の教科書を買いに。ビルとチャーリーはリストに書かれた、フラスコや羽ペンなど学用品の買い足し。アーサーとロンはオリバンダーの店へ、シリウスがペティグリューとの戦いでロンの杖を消滅させてしまったために新しい杖を買いに。ハリーとハーマイオニーは、新しい制服を買いに行ったのだ。

 

「あらハリーちゃん。来てくれたのね、今度のズボンはしゅっとしてスタイリッシュになってるわよ」

 

 ずんぐりした菫色のローブを着た魔女、マダム・マルキンが言う。

 一年生の時、男の子と間違えられて以降ずっとハリーにズボンを仕立て続けているご婦人である。確かに着心地はいい。

 しかし、今年は違うのだ。

 

「マダム。今年はスカートをお願いします」

「うん? いいのかいハリーちゃん。二年生の時、一年間ズボンに慣れたからスカートはひらひらして嫌って言ってたけれども」

「……頑張るよ」

「油断してるとパンツみられるわよ?」

「…………スパッツを用意している」

 

 そう、今年度からハリーはスカートを穿こうと考えているのだ。

 紆余曲折あれど、昨年度の体験からハリーは自分がもう完全に女性として成長していることを自覚した。胸も下着が必須なサイズになっており、しっかり腰もくびれている。

 ボーイッシュな雰囲気はあれど、もはやハリーを男の子と見間違う者はいないだろう。

 気持ちを改めるためにも、ハリーはズボンからスカートに変えることにしたのだ。

 

「ま、心境の変化ってやつだわさね。一応ズボンも完成しちゃってるから、これはプレゼントしちゃうわ。新学期もがんばってね、ハリーちゃん」

「ありがとう、マダム」

 

 微笑ましげな顔でマダムは送り出してくれた。

 私服で時折スカートを穿くものの、座るときに下着が見えないように気を付けねばならなかったりと、ハリーからすると何のためにあるのか分からない衣服だった。

 照れ臭そうにはにかんで、ハリーはマダム・マルキンの洋装店を後にした。

 

「見てよハリー、ハーマイオニー! ほら、僕の新しい杖!」

「おお、ちゃんと新品じゃないか」

「前のはお下がりだったって言ってたわよね。杖のお下がりってアリなのかしら?」

 

 杖とは持ち主との相性で決まるもの。

 古くなったから新しいものに乗り換えねばならないといったものではなかったはずだ。

 それに、前の持ち主が困るだろう。

 

「前の杖は、お偉いお偉いお兄様方からのお下がりだったんだけど、でもそっちでも既にお下がりだったんだよね」

「その前は?」

「アー、うん。ママのお兄さんの杖だったんだけど……ホラ、当時の世の中的に……」

「ご、ごめんなさい」

「僕は別にいいさ。だって会ったことないんだもの」

「じゃあ、その新品の杖こそが、ロン本来の杖になるってわけだ」

 

 そんな状態でこの三年間を生き残ってきたと考えると、ロンもかなり怪物的だ。

 杖は持ち主を選ぶというのは魔法族にとって常識。そしてオリバンダー曰く自分を主と認めていない杖を使っても実力の半分も出せないのだとか。

 無論怪物的なのはハーマイオニーにも言えること。去年の彼女の成績は一〇〇点満点中、六三一点などというワケの分からないことになっている。当然主席だ。結果を聞いた次席のドラコが唖然としていたのを覚えている。

 その唖然としていた少年も目の前にいるわけだが。

 

「マルフォイィィ……」

「ウィーズリィィ……」

 

 額と額を擦りつけ合って互いのデコの広さを用いて威嚇しているオッサン二人は放っておいて、ハリーはドラコに微笑みかける。フンと鼻を鳴らされてしまった。

 親父同士が張り合っているその横で、六男坊と次男坊もまた張り合っていた。

 困ったように笑っているのは、きっとミセス・マルフォイだろう。ドラコ達と髪の色が同じで、美しいプラチナブロンドをしている上品な婦人だ。

 

「よォうマルフォイ。お元気? ひどい風邪でもこじらせればよかったのに」

「やァウィーズリー。相変わらず貧乏臭いったら。寂しい休暇のようだしね」

 

 燃えるような赤毛とプラチナブロンドのオールバックでどつき合う二人を呆れた目で見るドラコ。新しいしもべ妖精だろうか、または元からマルフォイ家のお屋敷に居たのだろうか、随分と屈強なしもべが……いやちょっと待てアレ本当に屋敷しもべ妖精か? ドビーが百匹飛び掛かろうと挽肉にできそうな筋肉の鎧をまとってるんだけどアレほんと何?

 ハリーの当惑した視線に気付いたのか、ドラコが口を開く。

 

「ポッター。こいつが気になるのか?」

「そりゃもう」

「屋敷しもべ妖精のマクレーンだ。以前おまえに迷惑をかけた……アー、トービンだっけ? その元同僚だよ。ハッキリ言って彼は仕事ができるから待遇もアレとは大違いだ」

 

 ハリーはその言い草に驚いた。

 ドラコは屋敷しもべ妖精を蔑むような、典型的な純血貴族だ。

 だというのにマクレーンに対しては随分と評価が高い。

 それを察したドラコは、またも鼻を鳴らしながら言う。

 

「能力の高い者には相応の対応を。マルフォイ家における礼儀だ」

「ドラコ、行くぞ。用意をしなくてはならない」

 

 ハリーとの話もそこそこに、ドラコたちはマルフォイ夫妻に連れられて行ってしまった。

 ロンとスコーピウス、アーサーとルシウスの額が赤くなっていたが気にすることはないだろう。

 ウィーズリーご一行様プラス女子二人は、煙突飛行で《隠れ穴》へ戻る。

 あと、一週間。

 

――、……いよいよだ。

――始めるぞ。

 

 翌日、早朝五時。

 寝惚け眼で起き上がったハリーは、何か恐ろしい夢を見ていたようで荒い息を整えるのが一日の最初の仕事だった。

 両隣で寝ていたはずのジニーとハーマイオニーの姿がないことに気付く。

 とりあえず短パンとシャツに着替えると、適当なタオルを持って家を出た。

 鶏からタマゴを取っていたモリーおばさんに挨拶すると、妙に慌てたあとに返事を返される。いったい何をそんなに慌てていたのだろう。

 ランニングの最中、なにやら大きな包みを持ったビルに出会う。彼もまた慌てていた。

 折り返し地点の大きな栗の木の下で、チャーリーとパーシーの二人組に出会う。彼らは落ち着いていたものの、目を見ると動揺しているのがわかった。しばらくそこの原っぱでストレッチをしていたものの、二人はずっとそわそわしていたのが不可解だ。

 《隠れ穴》に向かって駆け出してしばらくすると、空をフォード・アングリアが飛んでいた。アーサーとハーマイオニー、ジニーの横顔が見えたので大声で呼びかけて手を振ると、ハンドル操作を誤ったのか大きくぐらついて女子三人分の悲鳴が空に響き渡る。

 マグルの町を通るとき、フレッドとジョージに出会った。二人はなにか悪戯をする前のような笑みを浮かべており、嫌な予感はしたものの特に何もされずに済んだ。別れを告げて走り出した際に、何かホッとしたような雰囲気を出されてしまう。何故だ。

 ウィーズリー家にたどり着き、汗をタオルでふき取ってシャワーを浴びに風呂場へ行ったとき、ロンに出会う。パンツ一丁という素っ裸直前で大慌てするロンを更衣室から放り出し、火照った頭をシャワーで冷やした。

 モリーがなにやら料理をしていたので手伝いを申し出るも、特に必要ないと言われたのですごすご宛がわれたジニーの部屋に戻る。更にはアーサーの用事があるので、朝食はちょっと遅めの八時頃になるとのこと。

 時刻は朝の六時半。毎朝五時に起きる自分が言うのもなんだが、みんなちょっと早過ぎやしないだろうか?

 

「……うわ、暇だ」

 

 ハーマイオニーもジニーもいない。

 暇つぶしの相手になってもらったロンも、十分ほど会話しているとモリーに呼ばれてどこかへ行ってしまった。

 ロンの部屋の屋根裏に《グールお化け》なるものが居るらしいので、好奇心から見に行ってあまりの醜さに後悔したり、ロンのお気に入りコミックらしい《マッドなマグル、マーチン・ミグズの冒険》を読んでみるも、あまり面白いとは思えなかった。

 何故だろうか。七月後半になってウィーズリー家に来てから、幸福値が振り切れているからだろうか、こういったふとした空白の時間が寂しくて仕方ない。

 

「ハリー」

 

 アーサーの車の音が聞こえて数分後、八時を少し過ぎて。

 ハーマイオニーとロンが呼びに来た。

 暇すぎるあまりに宿題を片付けていたハリーは、それで顔をあげる。

 ハリーは嫌なものはさっさと片付けるタイプなので、残るは一番得意な闇の魔術に対する防衛術の宿題のみだ。それも半分ほど片付けたので、羊皮紙のインクが乾くように、昨年のクリスマスプレゼントであるハグリッドの手掘り文鎮(バックビークにそっくりだった)を乗せて、ハリーは部屋を後にする。

 気のせいかもしれないが、二人がなんだかわくわくしているような雰囲気を見受けられる。

 首を傾げながら、ハリーがリビングに入る。

 すると。

 

「「「ハッピー・バースデイ、ハリー!」」」

 

 たくさんのクラッカーの音と共に、色とりどりの光球がぽんぽんと跳ねた。

 驚いて目を丸くするハリーの肩を優しく叩く者、、乱暴に叩く者、それぞれが祝いの気持ちを込めてゆく。

 未だに驚きから抜けられないハリーは、ぼんやりと部屋を見渡した。

 紙テープなどで飾り付けがされており、魔法で創りだしたのだろう小さな蛇や獅子がそこらへんを踊りまわっている。蛇を入れたのはハリーの趣味に合わせてだろうか。ああ、間違いない。蛇の尾を持つ大鹿までいる。

 天井を踊っているのは何も蛇や獅子だけではなく、『HAPPY BIRTHDAY HARRIET』との文字までゆらゆらと揺らめいている。

 ロン、ハーマイオニーがハリーの肩を軽く叩いて、席に座るよう促す。

 アーサー、モリー、ビル、チャーリー、パーシー、フレッド、ジョージ、ジニー、ロン、ハーマイオニー。みんなが笑顔で、本当に嬉しそうにハリーの誕生日を祝福してくれている。

 そうか、とハリーはカレンダーを見て納得した。

 そういえば今日は、七月三一日は、ハリーの誕生日だ。

 モリーが杖を一振りすると、姿を隠していたらしきバースデイケーキがあらわれた。チョコレートプレートに手書きで『生まれてきてくれてありがとう。十四歳おめでとう』と書いてある。

 バースデイソングを皆が歌う中、ハリーは嬉しさのあまり涙を流してしゃくりあげながら、ろうそくの火を吹き消すのだった。

 

 幸せだ。

 幸せすぎる。

 ハリーは満面の笑みで、フルーツケーキを口に放り込む。

 それはとても甘くておいしくて、そしてふわりと口の中に溶けて消えた。

 

 

 ハリーは古めかしい木でできた床を這ってやってくる蛇を見ていた。

 視点が低い。

 理由は、ソファに座っているから?

 でもそれにしても低すぎるような気がする。

 知らない部屋だ。見たこともない。

 今、ぼくはどこにいるのだろう?

 ああ、そうだ。パーティのあと、幸せいっぱいに眠ったなぁ。

 

(そっか。これ、夢だ……)

 

 大きくて太い。だがどうも間が抜けており、廊下に置かれた木箱にぶつかってちろちろと舌を出して迷惑そうに抗議しているのが可愛らしい。

 右隣を見る。

 暗くて顔が見えないが、男が二人いる。

 互いに仲良く喋っており、ワインを飲んでいるようで話が弾んでいるようだ。

 左隣を見る。

 あれ、あいつペティグリューじゃないか。

 男たちが注文したらしい料理を両手に持って、二人の前に大皿を置く。

 どうやらパスタのようだ。二人がそれを食べると、どうやら褒められたらしい。

 ほがらかに笑うワームテールの姿は、まるで十年来の親友と語らっているようだった。

 なんだかハリーも楽しくなってきた。

 彼らの団欒を見ていると、胸のあたりがじんわりと暖かくなって、

 殺したくなってくる。

 

「なぁワームテール。準備は万端だろうな?」

「もちろん、抜かりなく」

「お前ェがそう言うと怖いねえ。よっ、悪戯仕掛人!」

「やめてくれ、そりゃもう汚名だよ」

 

 ハリーが見たワームテールの姿は、怯えて媚びへつらう姿のみだった。

 だからなのか、違和感がひどい。

 普通に語り合っているような姿なのに、それが異常に思えて仕方がない。

 

「ハリエット・ポッター、ねぇ」

「順調に成長しているようだな」

「そうだなぁ。ありゃぁかなりの腕前になってるみてぇだぜ。並みの死喰い人なら出会った瞬間さようならってェやつだ」

「正直私では敵いそうにないくらいだよ」

「ずいぶんと弱気じゃないかワームテール。お前、シリウス・ブラックの野郎と渡り合えるんだろう?」

「それは奴が有り難い有り難い親友サマだったからさ。奴の動きは熟知しているが、ポッターめはそうじゃない。だから、私じゃ無理だ」

 

 ハリーの話をしているようだ。

 随分と高評価を貰ってはいるが、嬉しくはない。

 ワームテールが居るということは、つまり彼らは死喰い人だろう。自分が狙われる要素を増やしてくれたとしてもまったく嬉しくないのだから。

 むしろ弱っちい女の子とでも思ってくれていればよかったのに。

 そうであれば、油断した隙に心臓に穴をあけてやれた。

 

『おまえたち』

 

 ハリーの口から、闇の底から響くような恐ろしい声が出る。

 パーティで声が枯れるほど騒いだからかなと思うが、これは夢の中だと気付く。

 しかしあまりにも内容が鮮明だ。

 これは本当に、夢なのか?

 

『外にお客人が来ているようだ。迎えて差し上げろ』

 

 ハリーがそう言うと、談笑していた男のうち一人がぱっと消滅した。

 視界が流れる。

 目玉を無理矢理動かされているようで気持ち悪い。

 消滅したはずの男はいつの間にか部屋の外へ出ており、一人の老人を連れて部屋に入ってきた。老人は足を悪くしているのか、杖を突いてたどたどしい歩き方をしている。

 

「わしは聞いたぞ」

 

 老人がしわがれ声で言う。

 

「きさまたちが、ハリエット・ポッターっちゅう女の子を殺す計画を立てているのをな! 人殺しは許されん。すぐに警察に通報してやる!」

 

 そういった怒鳴り声に、男三人とハリーは笑い声をあげる。

 なにがおかしいと激昂する老人に対して、ハリーは言う。

 

『ああ、ご老人。愚かなる老マグルよ。あなたはそれを行うことはできない』

「わしを殺すつもりか!? いいぞ、殺せ! わしが帰らないことで妻が不審に思うに違いない!」

『嘘を吐くなよ、ご老人。あなたに奥さんはいない。そうだろう? 婚約者に逃げられてからは、一人寂しく半世紀以上を生きてきたんだもんなあ』

「な……ッ、え……? な、なんでそんなこと……」

 

 見るからに狼狽する老人を、男たちはせせら笑う。

 さーて。とハリーが合図するとワームテールが老人の腕を押さえつけた。

 短い悲鳴を漏らした老人を嘲笑うと、ハリーは冷たく言い放つ。

 

『殺せ』

 

 緑の光。

 老人が目を閉じることはもうなかった。

 何も映さないガラスのような目玉が、ハリーの姿を恨めし気に映している。

 そこには豪奢なソファに座った、黒い髪を揺らした、小さな赤ん坊がいる。

 まるで蛇のような目だ。

 ハリーには見覚えがあった。

 あれは、あの目つきは――

 

 

「ハリー、朝よ。起きて」

 

 寝惚け眼で起床すると、既に着替え終えたハーマイオニーの顔が見えた。

 酷い夢を見た。

 だが、おそらくあれは現実で起きたことだろう。

 妙な確信だが、それがわかる。

 どこか遠くで一人の老人が殺されてしまった。

 ハリーに何かが出来たようには思えないが、それでも見捨てたようで胸がむかつく。

 なんだかやるせない。

 

「まだ寝惚けてるの? 珍しいわね。とりあえず早く着替えなさい、あと四〇分で時間よ」

「……何の時間だっけ?」

「呆れた。本当に寝坊助さんなのね。忘れたの?」

 

 ハリーのとぼけた声に、眉を下げて溜め息を吐くハーマイオニー。

 タータンチェックのワンピースと白いタイツ、可愛らしいブーツを穿いた彼女は、笑顔で言った。

 

「クィディッチワールドカップの観戦でしょう?」

 




【変更点】
・原作ほど自信家ではないハリー。自分の力に疑問。
・ダーズリー家が爆破を免れ、ダドリーが無事。
・ドS趣味に足を半分突っ込み始めた瞬間。
・ついにハリーもスカート着用。
・ロンに新しい杖。
・初めて盛大に行う誕生日パーティ。守護霊十個分の幸せ。
・今なら死喰い人増量中。

四作目、炎のゴブレット編です。
大本は原作沿いですが、本作からは物語のズレが致命的なレベルになります。原作との違いをお楽しみいただければ幸いです。
紳士淑女の諸君のために言いますと、ハリーはもう完全に見た目女の子です。大きいぞ!
思春期を迎えて大変な中、四年目の試練もいっぱい頑張ってほしいです。
次話はぶっ飛んだクィディッチができるぞ!


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2.ワールドカップ

 

 ハリーは目を覚ました。

 飛び起きて身だしなみを整え、朝食のサンドイッチをバスケットに詰め終えたモリーとキッチン前で出会う。

 これを持っていてちょうだい、と言われたのでバスケットを持つ使命を授かった。

 ハリーの格好は、ホットパンツにハイサイソックス、パンクなデザインのノースリーブシャツ。キャスケット帽を被って踵の高くないサマーブーツを穿いた、ボーイッシュな格好である。

 スカートもいいが、やはり動きやすい方が好きなのだ。

 玄関前でロンに出会った。彼はジーンズに半袖シャツと、なにも飾り気がないが、すらりと背が高いので不思議と様になっている。

 彼にしては珍しく、ハリーの髪型をほめてくれた。実を言うと昨日、モリーに切ってもらったばかりなのだ。何故だか照れてしまい、耳が熱くなるのを感じる。

 ちょっと不機嫌そうなハーマイオニーと共に、三人で歩き出す。

 目的地は近くの丘の上。

 既にパーシー、フレッド、ジョージ、ジニーが集まっていた。

 モリーは後々ビルとチャーリーの『姿あらわし』についてくるらしい。なので長兄二人はもう少しお寝坊できるのだ。魔法って便利。

 ここに来る者で、残るはアーサーだけだ。

 

「あ、来たよ」

 

 ジニーの声で、ようやくウィーズリー家の大黒柱が到着した。

 何やらがっしりした体形の魔法使いと、肩を叩き合っている。

 その隣には背の高い、同じくがっしりした肉体の――

 

「あれ? やあ、セドリック」

「やぁハリー。……その服、似合ってるよ」

「ありがと。いやあ、紳士だねぇ」

「ははは」

 

 セドリック・ディゴリーだ。

 ハッフルパフ寮の監督生で、クィディッチ・チームのシーカーにしてキャプテン。

 甘いマスクのハンサムで、鍛えられた肉体と爽やかな性格はかなり魅力的だ。

 人間としても完璧に近い人格者である。ハッフルパフは優しい者が多いとされるが、監督生である彼はその筆頭であろう。他寮の人間にも分け隔てなく接するその姿に憧れる生徒たちは多い。ファンクラブまであるというのだから驚きである。

 そしてクィディッチ選手としても高い実力を持つ。ハリーとドラコの狂気とも呼べる熾烈な争いに、理性的なまま追随して来るという時点で窺い知れようというものだ。

 今年度からはウッドがいないため、試合前に彼を呪い殺そうとする者はいないだろう。

 

「セドリックだとぅ?」

「にゃんだってぇい?」

「やぁ、フレッドにジョージ。今日はよろしく」

「嫌だね」

「ノーだ」

「相変わらずだな君たちは」

 

 親しげに話しかけるセドリックを、ウィーズリーの双子は邪険に扱う。

 いつも学校で苦い思いをさせられていることを根に持っているのだろう。

 フレッドとジョージが放ったブラッジャーの直撃を受けていないホグワーツのシーカーは、セドリックのみだ。ハリーですら練習中に当てられているのだ。

 腹立たしいが選手としては尊敬できる。人間として非がないだけに難癖つけることもできやしない。相手が綺麗すぎて、そんなことを考えてしまう自分が汚く見える。

 それはそれはもう、嫌な相手だった。

 

「ハリー。今回の移動は《移動鍵(ポートキー)》を使うんだ」

「ポートキー?」

「うん。マグルに対する魔法秘匿の義務がある以上、いくらワールドカップとは言っても、大っぴらに開催するわけにはいかないからね。サッカー会場かと思ったマグルが会場に入って、箒で飛び回る選手たちを見たらコトだろう?」

「まぁ、そうだね」

「さらに言うと、かなり大きな会場が必要になるんだ。知っての通り、プロ用のクィディッチピッチには高さに制限があるからね」

 

 ホグワーツにはそれがない。

 それはプロが行うクィディッチは、たいていが屋内競技だからだ。

 ワールドカップともなれば、一ヵ月前には開催国の目立たない場所にわざわざ会場を新設してしまう。一回の試合で取り壊すのはあまりにも勿体ないので、十試合ほどは使われるがそれでもマグルから見ればかなりの大盤振る舞いだ。

 魔法で建造、取り壊しが容易にできるとはいえ、プロクィディッチで最も気を使うのは魔法の秘匿だ。

 歴史上、箒というものはもっとも流出の激しい魔法技術である。

 今でこそ飛行専門の箒が製造、流通しているものの、昔は家庭用の竹箒やデッキブラシなどに飛行用の魔法をかけたものが一般的だった。そしてマグル保護法という法律が曖昧だった時代。魔法使いたちは大っぴらに空を飛び回り、魔女たちはマグルの目も気にせず大鍋をかき回していた。

 自分たちとは違う異分子を恐れるのが人間というもの。それは純血主義者の魔法族たちを見ても分かるように、魔法族も非魔法族も人間である以上変わらない恐怖の根源。

 魔法を使えぬマグルたちにとって、そういった不可思議な未知の外法を使ってくる魔法族は恐怖の対象でしかない。

 そうして起こったのが、《魔女狩り》と呼ばれる狂乱である。

 疑心暗鬼という言葉がちょうどいい。誰もかれもが魔法使いや魔女に見えてしまい、とにかく怪しいものは魔女裁判にかける。

 重石をつけて水槽に沈めて、浮かび上がれば魔女と見做す。死刑である。溺れ死ねば人間。無罪だったけど死んじゃたからしょうがないよね。そんなトンデモ理論が平然と罷り通ってしまったのだ。

 当然、身を隠す術をいくらでも持っている本物の魔法族は、マグルの懸命の捜査にもかかわらず滅多に見つかりはしない。それはそうだ、物理法則に縛られたままでは見つけるどころか視認することすらできないのだ。

 しかし、ゼロではない。

 身を守る術を持たない子供の魔法族や、魔力炉欠乏症(スクイブ)の者などが餌食になってしまうことがごくたまにあった。それになにより、いくら魔法も使えぬ猿どもなどと蔑んでいるマグルといえど、自分たちが原因で大勢の人々が殺されているというのは、とんでもないことであった。

 そこまでしてやっと、マグルに対する魔法秘匿の法律が整備されたという過去がある。

 

「そこでこいつの出番というわけさ。ハリー、魔法族の長距離移動に用いる交通機関はわかるかい」

「えーっと、箒と、空飛ぶ絨毯、煙突飛行ネットワークもそうだし、あとは……『姿あらわし』かな」

「その通りだ。まぁ他にもあるけど、ポピュラーなのはそれだね。そして最後に、《移動鍵》が加わるんだ。実はこれ、マグルでも扱える魔法具なんだよ」

 

 ということは、魔力を込めて使うのではなく、既に魔力が込められている物品。

 未成熟な子供の魔法族でも使えるようにという配慮だろうか?

 

「だからこんなゴミみたいなものを使ってるわけか……」

「そう。マグルが興味本位で持ち帰ったりしないようなものをね。……ただ、最近これも問題があるらしいんだよ」

「問題?」

「そう! 由々しき問題です!」

「うわぁパーシー」

 

 セドリックとハリーの話に、眼鏡をくいくいとあげながらパーシーがやってくる。

 ちょっとだけセドリックが残念そうな顔をしたが、理由がわからないのでパーシーのトークを聞くことにした。

 

「最近のマグルは美化問題に取り組むようになったんだ」

「美化? あー、ってことは……」

「お分かり頂けたようで。ゴミをポートキー化させてしまうと、野山にポイ捨てなんて許せないという善良なマグルが被害に遭ってしまうんだ。このワールドカップ開催期間では既に十四件。そしてそのポートキーで移動できなかった被害者たちの苦情は既に三桁の大台にくるころだ。今頃魔法省では大わらわだろうなぁ……クラウチさん大丈夫かなぁ……」

「ん? クラウチって誰な――」

「おーっとハリー! そろそろ時間だ! 早いとこ位置に着くぞ!」

 

 パーシーがぽろりと零した知らない名前に反応したハリーは、誰なのか聞こうとしたが、その口をロンにふさがれて無理やり連れて行かれてしまう。

 恥ずかしいやら照れるやらでロンを引き剥がして、何をするのかと問うと苦笑いと共に答えが返ってきた。

 

「バーテミウス・クラウチ。パーシーの上司で、魔法省きっての仕事の鬼さ。つまり、パーシーがお熱をあげてるナイスガイってこと」

 

 合点がいった。

 大鍋の時以上の長話が繰り出されるところだったというわけか。

 ハリーはロンに礼を言いながら、ポートキーとなっている長靴のもとへ集まる。

 セドリックとロンに挟まれながら、ハリーは地面に寝そべった。なぜこんなことをせにゃならんのかと思わなくもないが、一足の長靴を十人以上で触れ続けていなければならないのだ。

 アーサーがカウントダウンを始める。 

 それがゼロになったとき、ハリーはおへその裏側を誰かに掴まれてひっくり返されるような、強烈な違和感を感じた。周囲の景色が、まるで粘土を捏ねている様を内側から見ているような風に変化していく。

 周りを見ていると酔ってしまいそうだ。

 数十秒はその感覚を味わっていると、次第にポートキーを中心にハリーたちの身体が回転し始めた。ぐるぐると高速メリーゴーラウンドを味わっていると、アーサーの叫び声が聞こえる。

 

「手を離すんだ!」

 

 それに従い、皆が長靴から手を放す。

 途端、濁流に飲み込まれるかのような感覚と共に、数時間ぶりのように感じる重力が体に纏わりつく。落下している! そう思った時には、ハリーの身体は地面にたたきつけられていた。

 意地でも無様に倒れるまいとして、左足を軸に回転することで衝撃を逃がす。なんだか妙にかっこいいポーズで着地に成功してしまった。

 ふふんと得意げに笑うと同時、倒れ込んできたロンに押し倒されて結局地に伏せた。

 人の尻を枕にするロンの頭を蹴り飛ばしてから、ハリーは土埃を払いながら起き上がる。

 

「ハリー、手を」

「ありがと、セドリック」

 

 紳士ここに極まれり。

 特に転倒もしなかったセドリックの手を借りて、ハリーは立ち上がる。

 他も似たり寄ったりのようだ。倒れていないのはアーサーとセドリック、そしていまハリーの前に来た魔法使いの三人のみだったようだ。

 

「ハリー・ポッター。会えて光栄だ。可愛らしいお嬢さんじゃないか」

「ありがとう、ミスター……あー、」

「エイモス。エイモス・ディゴリーだ。この私に似てハンサムなセドリックの父だよ」

 

 そういって快活に笑うエイモス氏は、ハリーと話を始めた。

 主に息子の自慢話で、本当に愛しているのですねと微笑ましい気持ちでハリーが言えば、当然だろうと胸を張って大笑いしていた。

 目の前で自分の武勇伝を語られてしまったからか、頬を赤く染めたセドリックが父親の袖を引く。どうやらウィーズリー家とディゴリー家の観客席は、違うブロックのようだ。

 それじゃあ、と別れの挨拶を告げてしばらく歩いていると。

 

「ふざけるなーっ!」

「はよカネ返さんかーい! 詐欺師ーっ!」

「どういうこっちゃ! どういうこっちゃ!」

 

 にわかに周囲が騒がしくなった。

 いったい何事かと、周囲で怒号をあげる人々が目に付く。

 どうやらアイルランドのサポーターたちが激怒しているようだ。

 ハリーたちが見に来たのは、アイルランドとブルガリアの試合。ワールドカップの決勝だ。だというのになぜ彼らは試合前に大騒ぎしているのだろうか。

 

「アーサー、アーサー!」

 

 先ほど別れたばかりのエイモス氏が、アーサーのもとへ駆け寄ってくる。

 二人はなにやら話し始めたが、声はこちらまで届いてこない。

 ちょうどセドリックも一緒だったので、未成年組は彼の方に話を聞くことにした。

 

「セドリック、何があったの?」

「あー、聞いて驚かないでくれよ」

「内容による」

「そうだろうね。……アイルランドが準決勝で敗退した」

 

 ロンが悲鳴をあげた。

 しかしそれはどういうことだろうか。

 アイルランド対ブルガリアの試合を見に来たはずなのに、アイルランドが負けた?

 まだ試合は始まっていないはずだ。何が起こったというのだろう。

 どういうことかとセドリックに聞いてみると、苦笑いしている。

 

「実はね、アイルランドが勝ち上がってくると予想してそのチケットを作ったみたいなんだよ」

「ええ? 試合結果も見てないのにチケットを作ったの? 魔法省バカじゃないの?」

「そう言ってやるなよ。魔法省の魔法ゲーム・スポーツ部は、いまごろクレームの嵐が降り注いでいて過労死する寸前だろうからね」

 

 つまり、こういうことだ。

 いまからハリーたちが向かう会場では、いま準決勝戦が終わったところ。

 そしてその対戦相手の国が負けると予想していたから、誰もがアイルランドとブルガリアの試合になると思って観戦チケットまで作っていたということだ。

 獲らぬドラゴンの皮算用にもほどがある。

 この場合はどうなるのだろうか? 最悪の場合、いまハリーたちが持っている観戦チケットは紙くずとなってしまうのだろうか。

 

「もう試合見れないの? 僕すっごく楽しみにしてたのに!」

「大丈夫だぞ、ウィーズリーの小倅くん。試合は見れるそうだよ。ただし、当然ながらブルガリアの相手はアイルランドではないがね」

 

 エイモスとアーサーが話し終えたようで、こちらに歩み寄ってくる。

 周囲のブーイングと怒号に負けないように多少大声を張り上げる必要があった。

 

「それで?」

 

 ジョージがアーサーに問うた。

 

「いったい何処の代表チームとの試合になっちゃったのさ、パパ」

 

 その問いに、アーサーはハリーに向けてにやりと笑いかけた。

 いったい何故ぼくに? という顔をしたハリーも、次の答えを聞けば笑いだす。

 アーサーは右拳で一本だけ立てられた人差し指を左手で握り、左手の人差し指もピンと天を指したニンジャのポーズで言った。

 

「対戦相手は、日本代表チームだ」

 

 

 試合会場の混乱がようやく収まりを見せた頃、ハリーは土産物屋が撤退していくのを眺めていた。

 アイルランドの土産物を売ってなどいられないのだろう。商売あがったりで暴動が起きかねないほど殺伐としていたものの、警備に闇祓いがついているとなれば鎮圧されるのは目に見えている。それに、暴れたところで試合結果は変わらないのだ。

 ウィーズリー家が張ったテントは空間拡大魔法がかかっており、見た目は小ぢんまりとしたテントだというのに、中に入れば二〇人以上がゆったり過ごすことのできるサイズの、古ぼけたホテルのような内装になっている。

 先程からウィーズリーの双子が大暴れしているが、そんな程度ではびくともしない。

 試合開始は昼の三時から。いまはちょうど昼食時だ。

 

「ハリー、終わったわ。行きましょ」

「うん」

 

 昼食後、ハーマイオニーが身支度を終えて外に出てきた。うつらうつらしていたので昼寝としゃれ込んでいたロンも一緒だ。あくびを噛み殺しているあたりまだ眠いのだろうが、それでもこれから行くところでは眠気も吹き飛ぶだろう。

 アイルランド関連の土産物屋がすごすごと消え去った後には、日本人らしき商売人たちがで店を構え始めた。なにやら訛りの激しい日本語で、ハリーには聞き取れない。ちゃうちゃうばかり言われてもわからない。

 そのエキゾチックさと物珍しさに、ハリーは早く見てみたくてしょうがなかったのだ。

 

「刀あるかな、刀。ジャパニーズ・サムライソード!」

「どうかしら。玩具ならありそうだけれど……」

 

 始まりはダドリーの嗜んでいたジャパニーズ・オタク文化であったが、ハリーは実のところかなり日本贔屓な趣味を持っている。ロンがチャドリー・キャノンズを好きなように、ハリーはトヨハシ・テングを応援しているのだ。

 日本の出店というのは、よくテレビで映るような神社やお寺で開催されるサマーフェスティバルの折に、心優しいヤクザ・マフィアが子供たちのために開く駄菓子屋のようなものだった。

 アップルキャンディに、クラウドキャンディ、チョコレートがけバナナや、デビルフィッシュをパンケーキで包んだような奇妙なボールまである。魚の形をした甘味まであるというのだから、日本人の魚好きは異常だ。ダドリーが買ってきたアメリカ土産のベーコンガムを思い出す。

 ダンゴブラザーズなる独特な甘味を食べながら、ハリーたちは出店を見て回る。

 怪しげなくじ引きでは、大外れを引いたと思ったら店頭に並んでいる魔法用品ではなく店の裏のダンボールに詰め込まれた雑多なガラクタを渡された。一クヌートだからよかったようなものの、もう少し高ければ訴訟モノである。

 シャテキなるものまであった。

 マグルの使う銃を模した玩具で、コルクを飛ばして商品を打ち落とし、それを手に入れるというものだ。ロンはまず銃の先から球が出るということを理解できず、失敗。ハーマイオニーはマグル出身であったため撃ち方はさまになっていたものの、狙いが定められず失敗。そしてハリーは、いつもは泥のように濁って生気を感じさせない瞳であるのにこの一時はキラキラに輝かせてハイテンションであったため、当たろうが外れようが全く気にしていなかった。

 日本魔法界で流通しているらしき《呪符》の子供向けダウングレード版が売っていたので、ハリーとハーマイオニーが興味を持ったので勉学関係の匂いを感じて嫌がるロンを引きずってでもお店の中に入る。

 ハリーたちヨーロッパの魔法族がやるように、物品に魔法式を刻み込んで、電池のように魔力を込めて魔法具を製作するのとはかなり違うようだ。

 失礼ながら勝手に内部式を視てみたところ、まず魔法式らしきものが見当たらない。さらに魔力も込められていないとなれば、ただのインチキ商品と断じることもできた。

 だが魔法族特有の感覚として、明らかに神秘が内包されていることがわかるのだ。

 降参したハリーは、お店の売り子をしていた小さな老婆に問いかけることにした。

 

「これどうやって作るんですか?」

「ほぁー?」

「おばぁーちゃーん! これ、どうやって、つくったのー?」

「あー、はいはい。あたしゃ今年で一五六歳ですよぉ」

「違うそうじゃな、うそでしょぉ!? 信じらんない!」

「ハリー、ダンブルドアも似たようなもんだぜ」

 

 売り子のおばあちゃんに英語が通じなかったというわけではないだろう。

 しっかりとした発音の英語で受け答えしてくれたのだから、ただボケているだけなのかそれとも企業秘密であるので教えられませんよということを、日本人特有の曖昧な表現でやんわり告げられたのだろうか。

 ジャパニーズほんと分かりづらい。もっとはっきりしてほしい。

 

「にしても、ブルガリア代表チームと日本代表チームかぁ」

「私たちが応援しに来た意味って何なのかしらね」

 

 ハリーが苦笑いで返す。

 確かにハリー達はアイルランド側の応援で来たはずなのだ。

 当のアイルランドがさっさと消え去ってしまったので、ひいきのチームと関係ない国の試合を見に来たということになる。

 なんたる間抜けか。

 

「オーッ! アーサーから話は聞いていたが、こんな可愛らしいお嬢さんだとは!」

「え?」

 

 唐突に現れた陽気な男が、ハリーの手を握ってくる。

 困惑気味な顔のハリーは、ロンがあげた声で彼を不審者認定しないで済んだ。

 

「バグマンさん!」

「おう! 君達のヒーロー、ルード・バグマンさんだ! しっかしウィーズリーの末っ子かァ、デカくなったな! あー、いや。妹さんがいたかな。いやはや、あそこのお夫婦はお熱い事で! それに君も中々やるじゃあないか、ロニー坊や!」

「ロニーはやめてくださいよ。それに、中々やるって?」

「ああ、モテ男くんは分かっていないらしい。美少女を二人も侍らすなんて、男の花道だろうに!」

 

 ロンの顔が真っ赤になった。

 ハリーとハーマイオニーも少なからず頬を染める。

 しかし、ルード・バグマンか。本名をルドビッチ・バグマンという元クィディッチ選手。

 確か十年ほど前のイングランド代表選手でポジションはビーターだったはずだ。

 そしてウイムボーン・ワスプスの名ビーターとして有名な男だったはず。

 アーサーは本当に顔の広い男だ。

 

「さてさてさて。初めましてだね、ハリー・ポッター。私は紳士! ハンサム! 名ビーター! の、ルード・バグマンだ。よろしく。そちらのふわふわな栗毛がキュートなお嬢さんも陽気なバグマンおじさんをよろしくね」

「きゅ、きゅーと……よ、よろしくおねがいします……」

「よ、よろしくバグマンさん。《危険な蜂野郎》と会えるなんて光栄です」

 

 ハリーがそう言うと、バグマンの顔が輝いた。

 

「オーッ! 嬉しいねえ、その名前を知ってる現代っ子がいるとは! 確か君はホグワーツ生だと思うが、君もクィディッチを?」

「ええ、グリフィンドールのシーカーです」

「シーカー! 華のあることじゃないか! 美人が飛んでりゃ更によし! ウン!」

 

 その後五分ほどバグマンと話していると、なにやら慌てたように時間がないと言って去っていった。その後をアイルランドサポーターと思わしき男たちが追いかけて行ったので、ハリー達は知らんぷりを決め込んだ。

 ロンがハリーに囁く。

 

「バグマンは魔法ゲーム・スポーツ部の部長なんだ。アイルランド対ブルガリアの試合チケットを組んだのが誰かはわからないけど、ゴーサインを出したのは間違いなく彼だよ」

「なるほど、だから追われていたのか。追いつかれたら殺されるんじゃないだろうか」

「ハリー。笑えないことを言うのはやめてちょうだい」

 

 バグマンと別れた三人だが、試合開始まで残り一時間ということでそろそろ準備をしようとテントへ戻ろうとハーマイオニーに提案される。

 ロンが多少渋ったものの、入場に混雑して面倒なことになるのは御免なので了承。

 さて、とテントへ向かって歩き始めたところで、声をかけられた。

 

「すみません」

 

 いきなり謝られてしまった。

 いったい何事かと思って振り返れば、そこにはハリーと同じくらいの背丈の少女がいた。

 スレンダーなスタイルを包むノースリーブの黒いタートルネックに、白くふわふわしたロングスカート。ベージュのキャスケット帽の下には切り揃えられた長い黒髪が伸びている。黒々とした瞳は、楽しげにニコニコと笑っている。

 その隣には、同じく長い黒髪を後ろでポニーテールのようにひとまとめにした、背の高い青年。こちらは黒いシャツに、暗色のジーンズ。黒縁眼鏡が全く似合っていない。サムライのように寡黙な雰囲気で、少女とは対照的にニコリもしていなかった。

 二人とも、肌の色と訛りから見て日本人だろう。

 そこでハリーは合点がいった。日本人はことあるごとに謝る一族だと聞いたことがある。なにかにつけて「スミマセン=トーリマス」とチョップしてくる戦闘民族だとも聞いたが、多分そっちはガセだろう。そんなことで人ごみを掻き分けられるはずがない。

 とりあえず相手が日本人なら、いきなり謝られても納得だ。不審げな表情を消し、ハリーは愛想よく日本語で答えた。

 

「どうしマシタ?」

「ワ、日本語だ。えっと、ハイ。道に迷ってしまっテ。……試合会場の入り口って、どこデショウ?」

「アー。それなら、ガード魔ンに聞いた方が早いデスネ。ほら、闇祓い(オーラー)。って言っても分からないか、あの黒いコートみたいなローブを着てる人達デス」

「ドーモアリガトウ」

 

 少女は青年を連れて、手を振りながら去って行った。

 ロンによく日本語なんて覚えていたなと感心されたが、ジャパニーズアニメを原語で見たくなったからなんてことは言えない。

 あれ、案外参考になるのだ。ファンタジーで異能バトルジャンルが多いものだから、意外と魔法戦闘のアイディアになる。マグルなのに、どうしてこんなことになっているのだろう。ひょっとして日本魔法族が作ってるんじゃあるまいな。

 やっぱり日本人は(あいつら)未来に生きてる(アタマおかしい)

 

「んー」

「どうしたのさハリー」

「いやぁ。今の二人組、どっかで見たような気がして……」

 

 ハーマイオニー曰くジャパンフリークなハリーは、とりあえず興味を持った雑多な日本情報誌を読み漁っていたので思い出せない。マグルのゲーノー界におけるお笑いゲイシャだったかもしれないし、日本魔法界関連だったかもしれない。その出所も、インターネットだったりバーノンの読み飽きたビジネス誌だったりするので、まったく当てにならない。

 とりあえず思い出せないなら別にいいだろうということで、ハリーたちはテントへと戻った。

 十分ほど、どこへいったか知れないフレッドとジョージをアーサーが探し回り、その間に『姿あらわし』でやってきたモリー、ビル、チャーリーと合流。

 試合開始十分前になって、ようやくハリーたちは試合会場に入ることができた。

 やはり大変混雑していて、誰もが我先にと入ろうとしていたが原因だろう。日本側の応援席入口は、三〇分前には既に入場を終えていたので実に羨ましかった。彼らの整列文化は異常だと思う。日本以外の国の人なら、だれもがそう思う。

 

「やぁウィーズリー! 雨が降ればまっさきに濡れる席に座る気分はどうだい?」

「スコーピウス、おまえ……!」

「行くぞ、ドラコ、スコーピウス。あの家に相手する価値はない。こちらの品位が下がってしまうぞ」

「ルシウス、きさま……!」

 

 ロンとアーサーが、偶然出会ったマルフォイ親子に噛みつく。

 しかし出会い頭に悪態を吐きあうとは、どれだけ仲が悪いのだろう。

 まるで親の仇でも見るような目ではないか。いや、違うか。炉端のゴミか。

 ドラコがひらひらと手を振って興味な下げに去ってゆくのを見ながら、ハリーはルシウスに声をかけられる。

 

「ハリエット・ポッター。今年は楽しい年になるだろう、せいぜい楽しみたまえ」

「?」

「まぁ、知らされておらんだろうな。知らなくて当然だ。ふふ……」

 

 意味深な含み笑いを残して、ルシウスはスコーピウスを連れて貴賓席へ去ってゆく。

 ハリーたちは会場一番上の、いちばん試合全体がよく見れる位置だ。

 人工的に造られたワールドカップ競技場は、小高い丘を垂直に掘って作られている。中心のクィディッチピッチを取り囲む壁のように、観客席がずらりと並んでいる。もちろん魔法的な保護シールドも張られているため、万が一ブラッジャーによって吹き飛ばされた選手が叩きつけられても、観客席に突っ込むようなことは無い。選手に対しても土に突っ込んだかのような衝撃が来るだけで、硬い鋼鉄に頭をぶつけてお陀仏なんてことにもならない。

 なにせ世界大会なのだ。万が一のことがあっては英国魔法界の信用にかかわる。

 

 さて。

 ハリーたちが試合を心待ちにしている間、先ほどセールス魔ンからハリーが買った《万眼鏡》で試合会場を見渡してみる。見た目は単なる真鍮製の双眼鏡だが、もちろん魔法具である。

 使用者の魔力をほんの少しだけ消費して、ズーム機能や録画機能、リアルタイムでスローモーションにして観たり、選手を見失わないようにする追尾機能、更には映像から読み取ってクィディッチ技の解説機能までついている優れもの。というか、クィディッチ観戦以外にはろくに使わないだろう代物だ。十ガリオンも出した甲斐はあった。

 そこでなんとなく観客席を眺めてみれば、様々な人がいるのが見える。

 反対側の応援席は日本サポーターの席なので、実に大人しい。黙って待ってる者や、何やら腕に装着した魔法具でカードゲームらしきことをして暇を潰している者。立派な着物を着た白髪白髭のお爺さんや、何らかのコスプレらしき恰好をした女性、などなど。

 なんだよ全く大人しくねえじゃん。

 

「おや? ハリーちゃんじゃないかい?」

「え?」

 

 唐突に声をかけられて、ハリーが振り向くとそこには日本人夫婦が居た。

 そしてハリーは驚きのあまり万眼鏡を取り落し、それを足でキャッチしたロンが悲鳴をあげる。しかしハリーにはそれすら耳に入らない。

 なにせ、目の前にいたのは知っている人物で、ここに居るはずのない者だったのだから。

 

「み、ミスター・タチバナ! ミセス・タチバナも!?」

 

 そう。かつてハリーが接待した夫婦だ。

 ダーズリー穴あけドリル会社と提携を結んでいる、日本の立花重工。

 つまり、マグル中のマグルが魔法界のど真ん中にいらっしゃったのだ。

 

「うふふ、やっぱり驚いた。ファッジさんからあなたの席を聞いておいて正解だったわ」

「ど、どうしてここに……」

「実は私、日本魔法界の首相……あー、英国風にいうと魔法省大臣なのよ。ちなみに主人は生粋のノーマルね。つまり、マグルよ」

「マ、マジですか」

「マジなの」

 

 驚きすぎて特に何も言えない。

 バーノンおじさんは、自分が取引していた相手が魔のつくなんちゃらにどっぷり浸かり込んでいたことを知ったらなんて言うだろうか? 少なくとも顔色が腐ったオートミール色になるのは間違いないだろう。

 同じくして提携を結んだメイソン夫妻は魔法関係者ではないようだが、いやしかし驚いた。ハリーの驚きようを堪能したのか、タチバナ夫妻は貴賓席の方へ戻っていった。

 しかも、どうやら息子が日本代表選手の一人らしい。

 マジかよ。

 

『みなさま!』

 

 夫妻が貴賓席に戻ってからしばらくして、会場内にファッジの声が響いた。

 クィディッチピッチ上空に映し出されているマジックスクリーンに、彼の顔が映った。どうやら魔法で声を大きくしているらしく、杖を自身の喉に当てているのが見える。

 ファッジは一言二言祝辞を述べ、そして興奮した様子でまくしたてる。

 

『我がアイルランドがいなくなったのにお前は何をしているんだとか、そんなことは言わないでください。私は魔法省大臣、責任者ですからね。ただし、今はただクィディッチに狂った一人のファンです』

 

 会場が湧いた。

 それに気を良くしたのか、ファッジは言葉を続ける。

 

『今宵、ここに世界王者が決まります。それは歴史的瞬間でしょう! 第四三二回、クィディッチワールドカップ決勝戦! 選手入場です!』

『解説は私、ルード・バグマンが務めさせていただきます。それではご紹介しましょう、まず最初のヒーローォオオ!』

 

 ファッジの宣言のあとに乗ったバグマンの声が、会場に響く。

 同時。どぱん、と景気のいい破裂音と共に、真っ赤な光が飛び散った。

 光の瀑布を突き抜けて現れたのは、同じく真っ赤なユニフォームを着た集団。

 荒々しくも精密な操作で箒を操り、ピッチ内を駆け巡る。

 三人組が編隊を組んで見事な飛行を披露している。箒の尾から色とりどりの煙を操って見事な幾何学模様を作り出す。

 一人一人が大きく手を振っており、一番左のすらりとした選手など両手を箒の柄から離して投げキッスまでしているではないか。

 

『ブルガリア代表の剛腕チェイサー三人組だァ! 真ん中は《ヴラトサ・ヴァルチャーズ》のヴァシリ・ディミトロフ! 今大会におけるブルガリアチームのキャプテンを務める、二〇年選手! いぶし銀のテクニックが渋く光るぜ! 彼から見て右は《ハスコヴォ・ハンターズ》のクララ・イワノバ! 同じく同チームから選出されましたアレクシ・レブスキーの黄金コンビ! 二人は昨年度のブルガリア・クィディッチ界で得点王を獲得しているぞォッ!』

 

 爆発するような声援に応えて、三人は煙で装飾華美な文字を描く。

 『We are the champion!(勝 つ の は 俺 た ち だ)』とは、これまた随分と強気だ。

 くるりと宙返りした三人の作った輪を、二人の選手が駆け抜ける。

 黒白黄の煙を四散させて現れたのは、クラブを振り回す巨漢が二人。二人は観客の歓声に合わせて、ウオーッと野太い声で吼えた。

 

『ピオトル・ボルチャコフとイヴァン・ボルコフ! 二人とも危険な野郎ダイ・ルウェリンの後継者とも噂されるデンジャラス・ガァァァイズ! 《スリヴェン・スカンクス》から堂々の出奔だァァァ――ッ! 今大会ではまだブラッジャーと間違えて相手選手を叩きのめしておりません! 国際問題ですからねっ! だめだぞぅ!』

 

 会場の笑い声に、問題児ビーター達がクラブを振り回して答える。

 その二人を諌めるように現れたのは、頬ヒゲが目立つマッチョマン。二メートルはある巨体を軽々と揺らして、箒の上に立ち上がって観客たちに向かって朗らかな笑顔と共に両手を振る。

 まるで人懐っこいクマのような巨漢だ。

 

『レフ・ゾグラフ! 《ヴラトサ・ヴァルチャーズ》の問題児レフ・ゾグラフだァァァ! 彼はキーパーでありながら、キャッチの際にクアッフルを粉砕するほどの握力の持ち主です! 今大会では既に一ダース以上ぶっ壊しております! もちろん魔法なんて使ってないぞ! 正真正銘のクリーチャー選手だァッ!』

 

 次に、ゾグラフとハイタッチをして現れた選手を見て、会場が爆発したかのような大歓声を上げた。素早いその動きは、ハリーをして追いつけるかどうか判断できなかった。

 ぱっ、とスクリーンに映し出されたのは、一人の偉丈夫。まだ若い。青年くらいか。

 スポーツマンらしく刈り上げた頭に、岩のような輪郭、そして力強い眉。

 雄叫びをあげて右手を振り上げ、ファンの歓声に応えるのは、いまクィディッチ界でもっとも注目されているヨーロッパ新人王。

 

『さぁぁぁお待たせしましたァ! こいつを知らない奴はモグリだね、ああ! 彼が生まれたおかげでヨーロッパクィディッチのレベルは一世紀以上更新されたと言われている! 北国が生んだクィディッチの化身! ピッチ上の芸術家! シーカー・オブ・シーカー! 《ヴラトサ・ヴァルチャーズ》からビクトォォォォオオ――ル・クラァァァ――――ムッッッ!』

 

 ハリーは自分の耳を押さえないと、鼓膜に被害を受けると思うほどの歓声が押し寄せてきた。

 声とは音の波であることは知っているが、それに触感があれば今まさにこのような状態になっているのだろう。全身がびりびりと震えるような感覚がする。

 

『続いて、日本代表選手の入場です。遠路はるばるイギリスへようこそ! 刃のように鋭く決勝まで突き進んできたサムライ・ダマーシィをご覧あれ!』

『さぁさぁさぁさぁ、エキゾチックジャパンなんて言われてるけどこいつらは十分ヤバい! まるでニンジャみたいな青と黒のユニフォームがカッチョイイ日本のサムライナイツが勢ぞろいだ!』

 

 まるで刃物同士をすり合わせたような鋭い音と共に、突風が巻き起こる。

 黒い風を撒き散らして現れたのは、七人の選手たち。

 真っ黒な闇を基調として青が差し込まれたようなユニフォームで、覆面を付ければ本当にニンジャのようだった。

 全員が滑らかに飛び、日本サポーターたちからの声援を受けると同時、パッと散開する。

 

『まずご紹介しましょう! 大会中彼からクアッフルをカットできた選手はいない! 《オーサカ・オンモラキ》からやってきました技巧派チェイサー、ヒデトシ・ホンダ! その隣を疾駆するは《キョート・ギョーブ》のサダハル・ホシ! んん、パワーこそ最強という主義を掲げております彼にはチェイサー以外ありえない! そしてその隣、彼の剛腕はピッチの端から端までクアッフルが届く、まさに大砲! 《トヨハシ・テング》からイチロー・キヨハラの登場だァァァ!』

 

 それぞれ投げキッスをしながら陽気に手を振る若い男、柔和な笑みを浮かべて優しく手を振るベテランの男性、両手をあげて咆哮する中年男性など、面子が濃い。

 隣でハーマイオニーが苦笑いする声を聴きながら、ハリーはすぐ隣で紹介された者の顔を見てあっと驚いた。

 

「ハーマイオニー、ロン! あれ見て!」

『続いてビーターのご紹介! 《ヒロシマ・ヒョットコ》の過酷な試合を勝ち抜いてきた、真のモノノフ! この男が打ったブラッジャーに当たった選手は、その一撃で試合続行不可能になります! 頼れる兄貴、コージ・タチバナァ!』

 

 タチバナ。つまり先程再開した立花夫妻の息子とは彼の事だろう。かなりゴツい。

 山奥に鎮座する岩を思わせるような青年は、豪快に笑いながら隣の青年と拳を合わせた。

 ハリーの万眼鏡が、いま拳を交わした人物の、風になびく黒いポニーテールを捉える。

 口を真一文字に結んで、目を細めて楽しそうに空を舞っている一人の青年。

 あの時の、道を尋ねてきた二人組の片割れだ。

 乗っている箒を見れば、日本製だろうか、《オオテンタ・ゼロシキ》と刻印されている。

 

『そしてもう一人、頼れるその相棒! サムライのようなクラブ捌きでブラッジャーを操り、今大会だけで十人以上の相手選手を撃ち落としてきたとんでもないビーター! 《トーキョー・キョーコツ》のエース! 日本の新人王、ソウジロー・フジワラ!』

 

 名を叫ばれたソウジロー・フジワラは、腰に差していたクラブを抜くとくるくるとガンアクションのように回してパフォーマンスをして見せた。

 万眼鏡を使っているから分かるのだが、まったく笑っていないしかめっ面だ。もう少し愛想がいいほうがプロ選手としてはいいのでは、と思ったが日本側応援席から黄色い声があがったので、まぁアレがいいという人もいるのだろう。というか、ポニテ王子という垂れ幕がいくつかあるがアレは何なんだ。

 日本ビーター二人組がクラブを回しているその間を、一人の選手が駆け抜ける。

 人に安心感を与えるような笑みを浮かべたスポーツ刈りの男だ。

 

『雪国の《サッポロ・サンモト》からはこの男! 日本クィディッチでは、今シーズンななななんと、無失点! つまりスニッチを取られる以外に彼に勝つ方法はないのです! 守護神と呼ばれるキーパー、マモル・カワシマ!』

 

 カワシマがビーター二人と頷きあい、目にもとまらぬ速さで墨のような光を撒き散らしながら、ピッチの中央に陣取る。チェイサー三人組がそれに突っ込み、あわやというところで見事に擦り抜ける。

 六人が向かい合い、円を作ると中心に向かってお辞儀した。

 そこから水に溶いた闇のような煙と共に、一人の少女が現れる。

 彼女こそ、ハリーに直接道を尋ねた者だ。

 黒く美しい髪を風になびかせて、墨のような瞳を笑みに歪ませた少女は、箒の上に立ったまま優雅に一礼した。

 

『《トーキョー・キョーコツ》から! 若干十五歳でありながら日本代表に選ばれた、正真正銘の天才ジョシコーセー! だが同時に今大会でウロンスキー・フェイントやトランシルバニア・タックルを何度もやらかすお転婆姫でもあるぞ! シーカーでありながら紅一点! 彼女の魅力に惑わされるなよ! ユーコ・ツチミカドォォォオオオ―――ッ!』

 

 日本応援席から野太い歓声が上がった。

 万眼鏡でヨーコ・ツチミカドの顔を見てみると、苦笑いしながらも手を振り返している。

 一部イギリス側でも騒いでいる紳士がいるあたり、変な方向に人気があるようだ。

 ハリーよりひとつ年上の少女だが、背丈はハリーと同じくらいかそれより下。しかも顔つきのせいで、より幼く見える。黒く長い髪もあってまるでお人形のよう。

 日本人は総じて童顔だと聞くが、本当にそのようだ。

 

『正々堂々とした、歴史に誇る試合を!』

 

 選手が全員揃い、ピッチ中央の上空に陣取って握手をする。

 どうやらブルガリア側のキャプテンはチェイサーのヴァシリ・ディミトロフ、日本側もチェイサーのサダハル・ホシが務めているようだ。

 審判は公平性を求めて、クィディッチ委員会から派遣されたドロテオ・イラディエルと、ジュード・カスバートソンが務めている。公正な審判として有名な二人だ。

 クアッフルを持ったイラディエルを挟んで、ディミトロフとホシが向かい合う。

 

『それでは、試合開始!』

 

 ファッジの宣言と共に、クアッフルが放たれた。

 瞬間、赤と黒の先攻がピッチを目まぐるしく駆け巡る。

 万眼鏡から目を離したらしいロンが、隣で全く目で追えないと驚嘆しているのが聞こえる。だがハリーにはそれどころではなかった。

 ツチミカドとクラムが、早くもスニッチを見つけたようなのだ。

 実況のバグマンもまだ気づいていない。

 最短距離を突き進むツチミカドと、曲芸のようにその周りを追随するクラム。

 操縦技術はクラムの方が上か。そして、当然体格差からくるパワーもだ。

 

『きゃう!』

『悪いな』

 

 万眼鏡が拾った、拡大された二人の声が届いてくる。

 クラムのタックルに、小柄なツチミカドが耐えきれなかったのだ。大きくコースから外れるツチミカドを、素早く回り込んだフジワラが受け止める。

 手を伸ばして地面に疾駆するクラムの先には、逃げ切れそうにないスニッチがあった。まるで若き怪物に恐怖しているかのような動きで、今にも捕まってしまいそうだ。

 だが試合開始数十秒で勝負が決まってしまうなど、クラムが許してもクィディッチの神はお気に召さなかったようだ。ハッと気付いたクラムが急停止したかと思うと、今まで動いていた勢いと腕の力だけで、曲芸のように箒の上に逆立ちした。

 そんなクラムの腰があったはずの場所を、剛速球のブラッジャーが駆け抜ける。直前に恐ろしい打撃音がしたため、ブラッジャーが飛んできた方向を見なくともビーターによって打ち出されたことがわかる。

 万眼鏡をツインビュー・モードに切り替え、ビーターを見てみるとタチバナが鼻息荒く吼えている姿が目に入った。その奥では抱きかかえたままのツチミカドに声をかけながらも、鋭い目でクラムを睨むフジワラの姿があった。

 

『おーっと、苛烈なシーカー合戦がいま中断を迎えた! ツチミカドはクラムに力及ばずも、仲間のサポートを得てスニッチ・キャッチを妨害に成功! ゲームはまた振出しに戻ったぞぅ!』

 

 バグマンの実況が響く中、日本代表チームの敵意が膨れ上がっていくのを肌で感じる。それもむべなるかな、チームのアイドルを攻撃されたのだ。男ならば怒るところだ。

 イワノバが紅色の尾を引いてクアッフルを運び、横に回転することでブラッジャーを避ける。そのままファイアボルトの柄から手を放し、脚の力のみでぶら下がってシュート。

 剛腕から繰り出されたクアッフルが、あわや金の輪を通るかと思われるも、日本キーパーのカワシマが難なくキャッチした。反対側のゴールに陣取っていたというのに、恐るべきスピードである。

 これには歴戦の選手であるイワノバも驚いた。

 だからなのか、キャッチした直後にカワシマが流れるようなパスでキヨハラにクアッフルを渡した時に、ようやく硬直が解けてその場から離脱した。間一髪でタチバナの放ったブラッジャーがイワノバの髪を掠める。

 クアッフルを持たない人間にブラッジャーを当てることは、本来ならば反則だ。

 しかし当たらなければ意味はない。それでも人間の心とは不思議なもので、次は本当に当ててくるかもしれないという思いが無意識のうちに出てしまうのだ。それにこの試合は決勝戦。もし悪質なプレーによって次の試合を欠場処分にされるペナルティを受けたとして、痛くもかゆくもないのだ。

 それをわかっていて放つのだから、タチバナもかなりイイ性格をしている。

 

「すごい」

「……うん、すごいわ」

 

 ロンの呟きと、ハーマイオニーの囁きが聞こえる。

 ハリーは黙って試合を見ていた。いや、言葉を失っていた。

 レベルが違いすぎる。実のところ、ハリーはうぬぼれていたのかもしれない。

 グリフィンドールの最年少シーカーとなって、何度も何度も試合で勝ち続けてきた。一切の慢心がなかったと言えば嘘になるだろう。自分に自信がなかったわけではない。

 だが目の前の光景を見れば、明らかなる差が見える。

 無茶なプレイングなど一切見せない。実力があるだけでなく、観客を魅了している。

 すべてが洗練されており、すべてが美しい。

 ハリーの瞳は、知らずしてきらきらと宝石のように輝いていた。

 

『カワシマまたも防いだ! 我々の心もハートキャッチ! パスを受け取ったのはキヨハラ! おーっと、ロングシュートだ! まさかトチ狂ったのか!? いやいやそんなこたぁありません。アイタッ! パスカットしようとしたレブスキーの篭手が砕けました! 本当に日本人かアンタ! そのままゾグラフの手をすり抜けてゴォォォ――――ル! 先取点は日本代表チームだァ!』

 

 歓声と悲鳴、怒号がピッチに巻き起こる。

 日本チームは、シーカーであるツチミカドと護衛役のフジワラを残してパフォーマンスを見せる。単純に編隊飛行するだけではなく、ディフェンスポジションに着くための動きにもつながっているようだ。

 プロ選手としてのエンターテイメント性と、試合に勝つための動きがぴたりと噛みあっている。これか、これがプロの世界なのか。

 

『ゾグラフの手からクアッフルが放たれます! キャッチしたのはキャプテン、ディミトロフ! イワノバとレブスキーを伴い、三人一緒にスクリュードライブを用いて高速パスでクアッフルを獲らせません! このままゴールに向かっ――アイタッ!?』

 

 バグマンが奇声をあげると同時に、会場から悲鳴が上がった。

 フジワラが打ちこんだブラッジャーが、レブスキーの後頭部に直撃したのだ。

 気絶したのか、全身の力が抜けたレブスキーがファイアボルトから滑り落ちる。それを受け止めたのは主審のカスバートソンだ。副審イラディエルと何やら言葉を交わして、首を振る。

 ホイッスルが鳴った。

 どうやらレブスキーの試合続行は不可能のようだ。

 場内がどよめく中、フジワラがまるで刀の血糊を払うようにクラブを振る。

 万眼鏡で覗き見たその眼は、黒々と冷たかった。

 

『レブスキー選手は脳震盪のため、医務室に運ばれました。命に別状はありません』

 

 クラムがフジワラを睨んでいるのが見える。

 その視線に気付いたのか、フジワラは無表情のまま指をくい、と動かす。かかってこい。またはその程度か、といった意味だろう。クラムの顔が怒りに染まるのがわかった。

 試合再開。

 イラディエル副審の手でクアッフルが投げられ、それをキャッチしたのはホシ。激しく縦回転したかと思うと、まるで投石器のようにクアッフルが投擲された。チェイサー技の《クレイジーバリスター》である。

 勢いが強すぎるため受け止められないと判断したのか、ゾグラフが箒の尾でクアッフルを弾く。しかし弾いた先には既にホンダが居り、掬うようにクアッフルをキャッチするとゾグラフとは反対方向のゴールへ投げ込んだ。

 ゾグラフ間に合わず、得点。

 雄叫びをあげるホンダをチームメイトがばしばし叩く。

 

『日本代表、二〇点目! さてはてどうなるのか! 試合時間も十五分を経過しました! 次はブルガリアボールでの再開です! クアッフルが……いま放たれた! イワノバが迫る、迫る、迫る! 相棒を打倒された怒りか、いま彼はとんでもないスピードで一直線にゴールへ向かっています! あーっと、しかしカットされたァ! キヨハラのタックルでバランスを崩したイワノバの手から零れ落ちたクアッフルを、ホンダが掠め取る! そしてそのまま蛇のようにブルガリアゴールへシュート! ゾグラフが防い――危ない! 今のはどっちだ? とにかく日本側の放ったブラッジャーに叩きのめされそうになったゾグラフが動きを止め、クアッフルはゴールの中へ! 日本代表、三〇点目!』

 

 会場が湧いた。 

 日本代表と言えば、去年までは参加国全三五ヶ国中、三四位になるような弱小チームだった。それが今年はどうだ。決勝戦常連として有名なブルガリアチームに、昨年からクラムという怪物ルーキーを迎えて最強の座を欲しいままにすると思われていたブルガリア代表チームが、ものの見事に押されている。

 観客というのはいつの世も、大逆転劇を望んでいる。

 王者がいつものように綽々と勝利の栄冠を掴む王道も大好きだが、それ以上にどんでん返しに興奮するのが観客という生き物だ。人は楽しいものに弱い。ゆえに、会場の流れは確実に日本の方へと向いていた。

 耳をつんざくような大歓声の中、ボルチャコフとボルコフのビーターコンビが同時にブラッジャーを捕え、二つの暴れ玉を打ち出した。《ダブルショット》。シンプルな技名を関するこの技術は、ハッキリ言ってヒールな一面を持つ。

 なにせひとつでも十分凶悪なブラッジャーを、二つも一人の選手に向けて撃ち込むのだ。しかも狙う先は、可憐な少女であるツチミカド。

 会場が息を呑んだそのとき、

 

『ウオオオオオオオオ――――ッ! うそだろう!? ジャパニーズサムライ! ニンジャだ! 奴はニンジャだったんだ!』

 

 バグマンの興奮する声と共に、会場が湧いた。

 護衛としてツチミカドにくっついていたビーターのフジワラが、一瞬でクラブを振り回してブラッジャーを叩き落としたのだ。明後日の方向に跳んでいくブラッジャーは二つ。二つ同時に襲われ、二つ同時に迎撃したその素早いクラブ捌きに、後ろの方でフレッドとジョージが興奮した絶叫をあげた。同じビーターとして感じるものがあるのだろう。

 まるで刀を構えるようにゆらりとポニーテールを揺らして佇むフジワラの後ろで、花が咲くような微笑みを浮かべたツチミカドが下品なハンドサインをボルチャコフとボルコフに向けていた。

 可憐って何だっけ。

 

『凄いものを見てしまった! そしてそのパフォーマンスに気を取られたかァ? 隙を狙ってホシがシュート! ゾグラフ間に合わない! ゴール! 四〇点目だ! ワーォ、マジかよ!』

 

 五〇点、六〇点と日本側が次々ゴールを入れる。

 ブルガリア側とて悪くはない。しかしフジワラによってレブスキーが撃墜された以上、残りのディミトロフとイワノバだけで日本代表とクアッフルを奪い合わねばならない。

 更にカワシマいう鉄壁のキーパーが居る。どの角度から打とうがどんな威力で放とうが、ものの見事に防がれてしまうのだ。危うい場面も何度かあったが、結局ゴールにまでは至っていない。

 一方日本代表チームは、次々とゴールを決めている。別にブルガリアのゾグラフが下手というわけではない。彼も十分以上に優秀なクィディッチ選手である。

 しかし日本代表のビーター。コージ・タチバナとソウジロー・フジワラがあまりにも巧みに妨害してくるものだから、本来の力を発揮できないのだ。

 

『うあーっとぉ! フジワラの放ったブラッジャーがボルチャコフを撃墜したァ! えっ、まさか、うそだろう! そのブラッジャーを拾おうとしたボルコフも、割って入ってきたタチバナによってどてっぱらにブラッジャーが命中! 審判! ……の、判定はァァァ……ああああーっと! 有効! まさかの有効です! 試合は続行!』

 

 会場に怒号と歓声が巻き起こる。

 ブルガリアの応援席からは悲鳴のような声まで聞こえ、日本側からは黄色い声まで聞こえてくる。アイルランドの応援席は各々、自分の好きなチームを応援しているようだ。

 

『これでブルガリアチームはチェイサーを一人とビーターを二人失った状態でゲームを続けなければなりません。それはつまり、ブラッジャーから身を守るすべがないということ! さぁてどうなる!』

 

 バグマンの台詞に被せるように、ツチミカドが動いた。

 ハリーがツチミカドの視線の先に目をやると、金色の閃光が地上すれすれ微かに見える。

 驚くべきことに、クラムも同時に弾かれるように飛び出している。まさか、獲るつもりか? 点数は既に一〇対一八〇で、一五〇点以上の差がついている。スニッチを獲得したとしても、それはつまり自分のチームの首にギロチンを振り下ろすような行為だ。

 自暴自棄になったのかとも思ったが、万眼鏡の先に見えるクラムの瞳にぎらぎらと揺らめく激情は、決してそのようなマイナスの感情を湛えた器ではなかった。

 貪欲に勝利を求める、獣のような瞳。

 見れば、クラムの先を奔るツチミカドすら同様の表情を浮かべている。

 風になびく紅のローブと長い黒髪。

 バグマンの絶叫が聞こえた。

 

『そんな。まさか。クラムは獲る気だ! スニッチを捕る気だ! ツチミカドに迫る迫る迫る! おいマジかよ冗談だろう!?』

 

 タチバナとフジワラがブラッジャーを操ってクラムを打ち落とそうとするも、常に射線上にツチミカドを置いて、思い切り打つことができないようなコースの位置取りまでしている。

 クラムはこれを、全て狙ってやっているとでもいうのだろうか。

 エースの意図を察したらしいディミトロフとイワノバが、二人同時にタチバナへタックルを仕掛けてきた。屈強な男二人分の体重には勝てなかったタチバナの身体が大きく吹き飛ばされるも、咄嗟にその手に持っていたクラブをフジワラに向けて投擲する。

 まっすぐ飛んできたそれを箒の柄から手を放して難なくキャッチしたフジワラは、まるで二刀流剣士のような風体でクラムに迫った。

 万眼鏡の感知機能が、まさかという信じられない情報をハリーに伝える。

 ゾグラフが現れた。

 ブルガリアのゴールを守っているはずのゾグラフが、ツチミカドの妨害に現れたのだ。彼女が直進すると横合いから衝突するコースを飛翔してきている。

 それに気づいたのか、ツチミカドの身体が一瞬震えた。

 天才シーカーが、クラムがその隙を見逃すはずもない。

 彼女のブレた隙に滑り込むように、瞬時に並んだ。

 

『クラムが並んだ! クラムが並んだ! マジかよ信じられないあいつは本物だ!』

 

 バグマンの叫びが風に流れ、消え去ってゆく。

 フジワラが二本のクラブで放った高速のブラッジャーが、ゾグラフを箒から叩き落とす。

 ツチミカドとクラムが同時に手を伸ばした。

 スニッチの羽根が二人の指を叩く音がここまで聞こえてくるようだ。

 会場が黙り込む。騒がしい歓声をあげているはずだが、何も聞こえなくなる。

 一部のクィディッチ選手たちだけが一瞬だけ入れる、灰色の世界。

 ハリーもかつて一瞬だけ入門したことのあるあの世界に、いまピッチ上の三人が突入していることが何となくうかがい知れた。

 かちり。そんな音が、すぐ隣のロンの腕時計から聞こえてくる。

 

 ――ずどん、と。

 同時にスタジアムに鳴り響いた鈍い音は、ブラッジャーが人体に突き刺さった音である。

 やられたのは、クラムだ。

 フジワラが、二本のクラブを振り抜いた奇妙な体制で浮かんでいる。

 ファイアボルトから滑り落ちたクラムが、ピッチの地面に向かって重力に引っ張られる。

 瞬間。

 この試合中まったく表情を変えなかったフジワラが、その顔を歪めて呟いた。

 

「――見事だ」

 

 万眼鏡の機能を使わずとも、その声がスタジアム全体に響くほど会場が静かだ。

 落下しながらも、クラムはその右手を高らかにあげる。

 そこには、銀の羽根が折れ曲がった黄金の光。

 スニッチがあった。

 

『試合……ッッッ、終了ォォォオオオオオオオオオオオオオ! 最後の熾烈な奪い合いを制したのはクラム! 北国が生んだ怪物、ビクトォォォ――ル・クラァァァム! 試合結果は一六〇対一八〇で日本代表チームの勝利! 誰が予想できたかこんなことぉ! うっそだろマジでか! このルード・バグマン! 現役時代でもこんなぶっ飛んだプレーは見たことがない! あっはっはっは、ゥワーオ! 信じらんないぜ!』

 

 爆発するような歓声が、スタジアムを包み込んだ。

 こんな終わり方、誰が予想できようか。

 勝利したはずの日本代表チームが、苦虫を噛み潰したかのような顔をしている。

 その逆に、敗北したはずのブルガリア代表チームがお祭り騒ぎだ。

 ハリーは少し心配になって、万眼鏡でツチミカドを見た。

 フジワラの袖を掴んで、上を向いたまま震えている。

 悔し涙がこぼれぬように我慢しているのだろう。

 新聞記者らしき魔法使いたちが群がり、次々とフジワラへマイクのような器具を向けている。どうやら今回のヒーローインタビューは彼のようだ。しかしクラムにはそれ以上の数の記者が群がっているので、試合に勝ったのは日本代表でもどちらが勝者かは明白だった。

 一言二言、記者の問いに拙い英語でフジワラが答え、時にはキャプテンのホシが通訳する。

 そして最後に、日刊預言者新聞の化粧の厚い魔女が問うた。

 

『ミスター・フジワラ? 英雄クラムに何か言うことはあるザンスか?』

 

 それを聞いて、無表情だったフジワラの顔がぴくりと動いた。

 魔女から放送器具をひったくると、クラムの方に向かって歩きだす。

 モーセのように記者たちが道を開け、十メートルほど離れたクラムとフジワラが向かい合う。そしてフジワラは、おもむろに日本語で言った。

 

『見事だ、ビクトール・クラム。俺達の負けダ。だが、次は俺が勝つ。いつか空で相見えたその時は、貴様にスニッチを見る機会があると思わんコトダ』

 

 日本人席が湧いた。

 隣にいた翻訳魔女にぼそぼそと耳打ちされたクラムは、獰猛な笑みを浮かべる。

 ガタイのいい坊主頭の男がそんな顔をすると、まるで肉食獣のようだ。

 クラムの周囲を取り囲んでいた新聞記者たちが、ぱっと離れる。

 逃げ遅れた魔女から放送器具を奪い取ったクラムは言う。

 

『今回は試合に負けたが、次は試合も勝つ。ヴぉくは逃げも隠れもしない、かかってこいサムライボーイ』

 

 こちらは拙い英語で、フジワラにも伝わるように宣言した。

 試合に負けたというのに、クラムは実に堂々としている。

 あまりにクールな二人の姿を、ハリーはきっと一生忘れないだろうと強く思った。

 

 

 テントの中は大騒ぎだった。

 ロンやハリー、ジニーが大興奮して試合のことについていつまでも話しており、パーシーやチャーリーでさえ小躍りしながらふざけている。

 フレッドとジョージは狂喜していた。

 どうやらバグマンと全財産を用いた賭けをしていたらしく、『日本が勝つけどクラムがスニッチを捕る』という予想がドンピシャリ大当たりしたのだ。

 お金を使った悪い遊びをしていたということで先ほどまで居たアーサーに叱られていたものの、それでもモリーに内緒にしてあげようと言うあたり彼も浮かれているようだ。そんなアーサーは魔法省役人の友人に呼ばれて、一杯やりに行ったようである。

 ビルはモリーとおしゃべりしており、杖を振るって夕飯の準備をしている。

 

「すごいよ、まさにクィディッチに愛されてる。天才選手だよ。いや、クラムって芸術家なんじゃないかな……」

「ふふ。ロン、クラムに恋してるみたい」

「うるさいなぁ」

 

 ジニーがからかってくるも、ロンは鬱陶しそうに笑顔で返す。

 ハリーはハリーで日本代表たちのサムライスピリッツに惚れ込んでしまったらしく、あのとき正体を知っていればサインをもらったのになぁと残念がっているのをハーマイオニーに苦笑いされていた。

 次第に引退したチャーリーも含めたグリフィンドール・クィディッチチームの四人が、今回の大会で用いられた技の数々について議論を始めた。

 あの技はハリーにも使える、ならばこの技はフレッドとジョージが力を合わせれば、などなど。ドラコもセドリックもあの試合を見ていたし、おそらくレイブンクローの誰かも見ていることだろう。

 きっと今年度、学校で行われるクィディッチで応用してくる者が出てくるに違いない。

 楽しい試合ができるぞと、まだ二週間近くはあるというのにハリーは今から学校が楽しみだった。

 しかし。

 

「随分と外が騒がしいな」

「日本人が騒いでるんじゃないのか? ホラ、ケチはついたけど世界大会の優勝だぜ」

「おいおい、日本人が騒ぐってそりゃなんのジョークだ」

 

 しかし、楽しい時は長く続かない。

 息せき切ってテント内に飛び込んできたアーサーを見て、ハリーは猛烈に嫌な予感がした。

 

「みんな! 居るな? 全員居るな?」

「あなた? アーサー、どうしたの」

 

 モリーがアーサーのもとに行くと、アーサーはモリーを抱きしめて額にキスをした。

 そしてモリーの目の色が変わり、ジニーに料理を片付けるよう指示を出す。

 

「どうしたのさパパ、酔っ払っちゃったの?」

「バカを言うな。この騒ぎはサポーターたちじゃない。今すぐ避難するんだ! 荷物は持つな! 持っていていいのは杖だけだ、そのまま行け!」

 

 ただならぬアーサーの様子に、テント内の全員は急いで杖を持って固まった。

 夫妻の指示で、アーサーは事の解決に当たるため単独行動。ビルとパーシーはジニーと共に。チャーリーはフレッド、ジョージを連れて三人で。モリーはロン、ハリー、ハーマイオニーを連れて避難場所へ行くという算段をつけた。

 決して離れないようにと厳命を受けて、全員がテントから飛び出した。

 外では逃げ惑う人々でパニックになっており、もはや秩序などあったものではない。 

 あちらこちらで火の手が上がり、魔力反応光らしきものが飛び交っている。

 緊急事態だと判断して、未成年である子供たちにも魔法の使用が許可された。万が一の場合は空に信号弾を打ち上げてから、絶対に戦ったりせず逃げるようにとのこと。

 そして散開。

 

「ハリー、ハーマイオニー! 離れないで、ママについていって!」

「ロン、きみは!?」

「僕がしんがりを務める。男の子なんだ、いい格好させろよ!」

 

 四人は一塊になって移動した。

 これだけ固まっていれば、我先にと駆ける人々に押されてはぐれるということもない。

 しばらく走り続けたのち、なにやら怪しげな集団が見える開けた広場へと来てしまう。

 どうやら彼らが暴れている者達らしい。

 近づいてはいけないとして、モリーは別のルートを指定して走る。

 ハーマイオニーとロンもそれに従って走ろうとしたが、はたと立ち止まったハリーに気を取られた。

 子供たちがついてこないことに気付いたモリーが振替えるも、既に人ごみに流された後。歯噛みして、モリーは子供たちの名前を叫んで探し始める。

 一方、ハリーが立ち止ったせいで広場に取り残された二人は、慌てていた。その中でもハリーだけは一所を睨みつけているのみで、慌てているかどうかもわからない。

 

「ハリー、はやくして!」

「……先に行ってて」

 

 杖を抜いたままのハリーが見据える先には、黒いローブを着込みフードまで被った怪しい集団。だが顔を隠している髑髏の仮面だけでそれらが何者なのかがわかる。

 ハリーの歯がぎり、と音を立てて感情を噛み殺す。

 先ほどまで素晴らしいクィディッチを見たことで星のように輝いていた瞳が、急速に冷める。汚泥のように濁り、光を失った代わりに全面に出てきたのは負の感情。

 怒りと、殺意だ。

 

「だっ、だめよハリー!?」

 

 急に駆け出したハリーを、ハーマイオニーが叫んで制止させようとする。

 ぎらついた紅い瞳が見据えるのは、仮面の集団。

 駆け寄ってくる少女を見て驚いたようで、その全員がハリーを見た。

 特徴的な白銀の髑髏仮面。

 黒い闇のようなローブ。

 

「《(デス)……ッ、喰い人(イーター)》ァァァアアア――――――ッ!」

 

 ハリーが己に課した、倒すべき敵たちだった。

 




【変更点】
・セドリックも思春期。
・決勝戦がブルガリアVS日本に。
・日本贔屓なハリー。勘違いした外人の典型例。
・立花夫妻の再登場。
・デスイーターを見つけると飛びかかる女の子。

【オリジナルキャラ】
『ユーコ・ツチミカド』
本物語オリジナル。日本代表のシーカー。トーキョー・キョーコツ出身。
日本名は土御門優子。ハリーと同程度の身長の黒ロングロリ。

『ソウジロー・フジワラ』
本物語オリジナル。日本代表のビーター。トーキョー・キョーコツ出身。
日本名は藤原宗次郎。ツチミカドとは婚約者同士という裏設定。

『コージ・タチバナ』
本物語オリジナル。日本代表のビーター。ヒロシマ・ヒョットコ出身。
日本名は立花広治。タチバナ夫妻の一人息子。上記二人とは幼馴染。

『マモル・カワシマ』『ヒデトシ・ホンダ』『サダハル・ホシ』『イチロー・キヨハラ』
日本代表のキーパー、及びチェイサーたち。それぞれサッポロ・サンモト、オーサカ・オンモラキ、キョート・ギョーブ、トヨハシ・テング出身。
日本名は川島衛、本田英寿、星貞治、清原一郎。面倒見のいい兄貴分なオッサン達。

日本登場。ハリポタ二次ではよくあること。
今後も英語以外の言語が出ますが、その表現は「~ダヨ」みたいな感じになります。英語圏の人にはカタコトみたいに聞こえるのだ、という表現。
そしてタチバナ夫妻の伏線回収。ダーズリー家でハリーを構ったのはこういう理由。だって世界的な有名人が目の前に居るんですもの、ミーハーな日本人のおばちゃんなら仕方ないんです。
日本人選手と日本のプロチーム名を考えるのが楽しかったです。んん。そしてやはりクィディッチは楽しい。アクションは最高です。
次回は戦闘回。ようやくホグワーツへ……行けるかなぁ?


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3.魔法学校対抗試合

 

 

 

 ハリーはなんの躊躇いもなく杖を振るった。

 血の色めいた霧が渦巻き、紅槍を五本ほど創りだすと同時に射出。

 死喰い人と思わしき集団はどよめきながらも、自らの頭を目掛けて飛んでくるそれを杖で防御した。慌てながらも無言呪文を用いているあたり、やはり技量は高い。

 幾人かが舌打ちと共に『姿くらまし』してその場から逃げ去る。

 それを見てハリーが激昂した。

 

「逃げるな、卑怯者っ」

 

 普段のハリーならば言わないような言葉が飛び出る。

 それを聞いた死喰い人らしき者のうち一人が、せせら笑うような声と共にこちらへ駆けてきた。

 ――速い。

 身体強化を使っているようには見えないが、足元が黒い霧で覆われている。

 恐らくあの時ペティグリューが使った、空を飛ぶ魔法と同じものだろう。視れば魔法式も似ている。だが細部が違うのは、きっと使用者の身体情報がかかわっているのかもしれない。

 まぁ今はそんなもの関係ない。

 ハリーは急いで魔法式を解析して、もっとも脆い部分を突くためによくよく視る。

 

「ッヒャァォウ!」

 

 甲高い奇声をあげて、大きく左手を振るってくる死喰い人。

 その爪へちらりと視線を向ければ、指が硬化して刃のようになっている。

 グレイバックか? とも思ったが、中身が誰だろうと構うまい。

 やることは変わらない。

 

「『ラミナノワークラ』、刃よ!」

 

 ハリーの杖が白銀の輝きに覆われ、一振りの短刀を形成した。

 身体強化は使用していないが、ハリーが考案してシリウスに手伝ってもらい完成したこの呪文独自の魔法式がある。

 

「んな、に……ッ」

 

 ハリーが刃を振るうと敵の爪がはじかれ、バランスを崩した死喰い人は大きく体勢が崩れる。

 勢いを殺さずそのまま回転し、たたらを踏んだ死喰い人の鼻を横一文字に切りつけた。

 宙を飛ぶ鼻血と、悲鳴をあげる死喰い人。それを一切意に介さず、ハリーは返す刀で敵の肩から腹までを一直線に裂く。ローブに何か特別な処理でも施していたのか、切り裂くことはかなわなかったが痛手は負わせた。

 地を蹴って距離を取るハリーは、着地する前から練り上げた魔力を用いて、着地と同時に無言呪文で『武装解除呪文』を放つ。ばち、と激しい音と共に男の爪が元の柔らかい人間の手に戻る。余剰魔力で吹き飛ばされた男は、二人の戦いを見守っていた死喰い人たちの足元に転がっていった。

 

()ッ、()のク()()ァ! ダンブルドア(だんぶうおあ)人形如き(いんごーごとい)が、(おえ)(はが)をォ!」

「落ち着けグレイバック。恐らく今のお前では敵わんぞ」

()んだと!?」

 

 やはりグレイバックだったか。

 ハリーが杖を向けて戦意を漲らせている中、長身の死喰い人がこちらを見て満足そうに溜め息を吐いたのを感じた。

 話し声のところどころに魔力を感じる。魔法で声を変えているのか?

 訝しがるハリーを放って、その死喰い人はグレイバックに話しかける。

 

「退くぞ。姫君はご立腹のようだからな」

「ふざける(あえう)なぁ! (こお)す! 殺し(こおい)てや()!」

 

 完全に怒りで我を忘れているグレイバックを見て、数人のこった死喰い人が肩を竦める。

 まるで学内で喧嘩を始めた生徒を見て呆れているかのようなその姿に、ハリーは理不尽なまでに言いようのない怒りを感じた。

 どうして自分がここまで怒っているのかも分からなくなった頭のまま、叫ぶ。

 

「次は誰だ! こい、こいよ悪党ども」

 

 ハリーの絶叫を鼻で笑った死喰い人たちが、次々と『姿くらまし』して消えてゆく。

 追いかけようとするも、足元に魔力反応光が着弾したのでハリーは足を止める。

 先ほどグレイバックを諌めた死喰い人が、髑髏仮面の上からでもわかる嘲りの笑みを浮かべてこちらに杖を向けていた。

 

「お転婆姫もよろしいですがな、もう少しお淑やかにしてもらわねば困りますぞ」

「黙れ!」

 

 ハリーの放った失神呪文はしかし、『姿くらまし』されて外れた。

 付添姿くらましで消える際に、グレイバックがこちらを憎悪の目で睨みつけているのがとても印象的だった。

 

 周囲から髑髏仮面の集団が消え、一気に静けさが戻る。

 テントの残骸の傍にいたハーマイオニーとロンが、こちらに駆け寄ってくる。

 心配そうな顔と、怒った顔の両方を器用に浮かべており、ハリーはやってしまったと反省した。

 

「ハリーッ! どうしてあんな馬鹿な真似を!」

「馬鹿な真似って、えっと、その」

「どうしちゃったんだよハリー。君あんなに過激な女の子じゃないだろう?」

「あう……」

 

 顔から火が出るようだ。

 いまとなっては、どうして突発的に襲い掛かるほど怒りに燃えていたのかわからない。

 ただあの髑髏の仮面を見た途端、守らなくてはという過剰な気持ちと許せないという異様な怒りが体中を支配していた。まるで最愛の人を守るべく立ち上がった時と、最愛の人が殺されて尚守るべき者を守り続けるという強い意志がごちゃ混ぜになったかのような、とても奇妙な気持ちだった。

 あれはなんだったのだろうか。

 まだハリーに経験はないが、きっとあれは愛の気持ちだ。

 確かにハリーはハーマイオニーとロンに愛情を感じている。だけどあれは、何だろう。親友に向けるそれとは違ったような気がする。あれではまるで、異性に向ける愛だ。

 ハリーはロンの心配そうな顔を見た。

 出会った時より成長して、青年に近づいているがやっぱりマヌケ面だ。

 ぼくが彼に恋をしている? まさか。あほらしい。

 

「ロン、きみってあまりハンサムではないよね」

「いきなり何だこんにゃろう」

 

 ヘッドロックをかけてくるロンに、ハリーは笑いながらごめんと言う。

 これだけ体が密着するようなことも平気でできるのだから、異性に対する態度ではない。たとえここでロンが急に胸を触ってきても鼻に一発叩きこむだけで許せるだろう、というくらいには怒らない自信がある。

 ただきっと、さっきのは親友に対する愛情を勘違いしただけなのだろう。

 

「とりあえず、おじさまたちを探しましょう。未成年だけじゃ魔法を使えないし、危ないわ」

「さっきぼく思いっきり魔法使ったけど」

「あれは非常事態だからいいんじゃないかしら? 現に魔法省から手紙が来ていないでしょう」

「フレッドとジョージも言ってたみたいだけど、未成年が魔法使った時の手紙ってそんなにすぐに来るものなの? 調査してからとかじゃないんだ」

「…………そうみたいね」

「……ハーマイオニー。きみ、なんで知ってるの? 僕もフレッドとジョージのを見るまでは知らなかったのに」

「……………………本で読んだのよ」

「……そうかい」

 

 それ以上は言わぬが吉だろう。

 黙り込んだロンを見て、ハリーは笑う。

 さて、とハリーが言うのを聞いて、二人は向き直る。

 周りはまるで竜でも暴れたかのように滅茶苦茶になっており、廃墟同然だった。

 これではもはやお祭り気分など味わえないだろう。既に逃げ去ったのか、誰一人として姿が見えない。

 ……いや待て。姿が見えない?

 

「……ハーマイオニー、ロン。静かに聞いて」

 

 ハリーが小さな声で囁く。

 只事ではないと感じた二人も大人しく言うことを聞いた。

 なにかを感じる。理屈ではない、感覚でなにかの存在を感じてしまう。

 

「……、……『ステューピファイ』!」

 

 ハリーが虚空に向けて失神呪文を放つ。

 それは何もいないはずのところに当たり、霧散した。

 なにかくぐもった声が聞こえる。

 ――間違いない! 何者かが姿を隠していたんだ!

 

「出てこい! こちらには杖があ――『プロテゴ』! く、っそ!」

 

 ハリーの忠告の最中に、何もないはずの空間から魔力反応光が飛んできた。

 魔力反応光の状態では視づらいが、どうやらかなり過激な呪文である構成が見えた。ただの『武装解除』ではないようだ。盾の呪文を貫いて、ハリーの右肩に直撃する。

 弾かれた杖がそこらへんに転がってゆく。油断したつもりはない。相手は戦いに優れた人物のようだ。

 そしていまの強力過ぎる『武装解除』は、きっと自己防衛に使うようなものではない。完全に敵対した者が使う類いの魔法である。

 そうしてまた飛んできた魔力反応光に、ハリーはハーマイオニーの名を叫ぶ。

 

「『プロテゴ・アペオ』、逸らせ亀の甲!」

 

 ハーマイオニーが叫ぶと同時、半透明の薄緑色のドームがハリーたちを覆った。

 姿を消した不審者が放った魔力反応光がドームに当たると、つるりと滑ってあらぬ方向へ飛んで行った。動揺した気配が伝わってくる。今がチャンスだ。

 

「ロン!」

「『ステューピファイ』!」

 

 ロンの放った魔力反応光が、ばちっと爆ぜて効果を示す。

 手ごたえがあった!

 敵を仕留めた達成感が湧いて出てくるものの、それは次に目の前に広がった光景によって霧散してゆく。不審者が苦し紛れに放った呪文なのか、青白い魔力反応光が空へ向かって飛んで行ったのが見える。

 それは空高く舞い上がって、どんと花火のように爆発した。

 しかし現れ出たのは花火などという美しいものではなく、蛇を吐き出す髑髏という禍々しくも恐ろしいものだった。

 

「あ、ああ……っ」

 

 隣にいるロンが怯えた声を出す。

 どうしたのかと思って見遣れば、ロンは空に浮かぶ髑髏を指差して震えていた。

 なにか有名なしるしなのだろうか。蛇と髑髏という時点でいい予感はしない。

 

「《闇の印》だ!」

「なんだいそれ」

「《例のあの人》と死喰い人の印だよ! じゃ、じゃあ、いまハリーが戦ってたのは本物の死喰い人? う、うわあ……」

 

 とんでもないやつだな、と言いたいのが視線だけで分かる。

 少し不機嫌そうな顔をしたハリーの頭をハーマイオニーが撫でる。

 それで少し落ち着いたハリーは二人と一言二言相談し、とりあえず姿を隠したままの下手人の正体を暴こうと決めた。失神呪文が当たった以上心配はいらないが、杖を突きつけながら近づいた方がいい。

 そう判断して杖を取りに行こうと思った矢先。

 ハリーは敵対者の存在に気付く。

 この暗い中、ハリーが咄嗟に気付けたのは、偶然に過ぎない。

 

「――っ」

 

 周囲に魔力式が散見された。

 あれは座標指定の式だ。魔力が固定される式も着々と流れ込んでおり、誰も魔法を発動させるような人物がこの場に居ない以上、そして魔力を発する生物の存在を感じられない以上、何者かがこの場に『姿あらわし』するということに他ならない。

 スローモーションのように式が構築される様を視たハリーは、二人に対して咄嗟に叫ぶことしかできなかった。

 

「二人とも伏せて!」

 

 この唐突な叫びに、ハーマイオニーもロンも即座に対応した。

 彼女たちとて、同じく三年間の恐ろしい試練を乗り越えてきた魔女と魔法使いだ。

 このくらいの反応はできて当然であり、ハリーもそれを信じている。

 空気を押し出して人間という巨大な物質が出現する際の、独特な音と共に現れた魔法使いたちは既にこちらに杖を向けていた。

 

「「「『ステューピファイ』!」」」

 

 赤い閃光がハリーたちの頭上を通り過ぎて、交差点で交わって爆発した。

 低く伏せていたハリーたち三人に影響はない。

 ハリーはその低い姿勢のまま、地面を滑る蛇のように疾駆して一番手近な魔法使いに狙いを定める。一瞬だけ確認した限り、特に髑髏の仮面をつけているわけではないようだ。だが、未成年に対して失神呪文を放ってくるような輩など『まともじゃない』のだ。

 よって、一切の容赦は必要ない。

 

「はぐっ!?」

 

 ハリーが接近した長身の魔法使いは、ハリーが少女であることに驚いたのか一瞬だけ反応が鈍った。その隙を見逃さず、ハリーは一切の加減なしで男の股間を蹴り上げる。

 物悲しげな短い悲鳴と共に男が崩れ落ちようとするものの、ハリーはそのまま男の右のふともも、腹、右肩を足場にして駆け上がり、頭に手を置いてそこを基点に逆立ちをやってのける。直後、男に失神呪文が着弾した。恐らくハリーを狙ったものだろうが、遅い。

 男の手から滑り落ちそうになる杖をキャッチして、ハリーはさらに男の頭から跳び、宙で身を縮めて回転しながら無言呪文を用い、失神呪文を乱射する。運よく二人ほどに着弾したのを確認したハリーは、着地と同時に柔らかい身体を活用して寝そべるように地に伏せた。

 ギリギリの場所を赤い魔力反応光が通り過ぎるのを感じながら、ハリーはさらに近場の男を狙う。

 今度は相手も油断しなかったようだ。ハリーが股間を狙って放った蹴りを、腰を落とすことで腹筋を使って受け止め、屈強なパワーに任せてハリーの腕を掴むと地面に押し倒した。しかしその体から一気に力が抜ける。ハリーが無言呪文で『全身金縛り』をかけたのだ。

 

「『アニムス』」

 

 小声で呪文を唱え、ハリーは自身の身体を強化する。

 自分の杖ではないからか、あまり効きがよくない。魔力運用も荒い以上、そこまで長時間戦い抜くことはできないだろう。つまり、短時間で無力化するしかない。

 ハリーを狙って『失神呪文』と『武装解除』が飛んできたので、ハリーは迷わず自分の上に圧し掛かっていた男を盾にする。周りから見れば、少女が男に覆いかぶさられて身動きのできない状態だったはずだ。

 飛び掛かろうと近寄ってきた女と男が、華奢な少女が屈強な大男を軽々と扱う姿に驚いたのか、一瞬動きが止まる。隙を見せた二人組目掛けて、ハリーは大男の身体を銃弾代わりに蹴り飛ばした。

 巻き込まれて吹き飛んだ二人を無視して、ハリーは杖から白煙を噴きだす。目晦ましだ。

 

「がァッ!?」

「どこだ! どこに、ぐっ!」

 

 視界を塞がれて大慌てする者達の背後から近寄り、ハリーは渾身の手刀を首に打ちこんでゆく。上手く気絶させることはできていないので、きっと鈍器で頭を殴ったのと似たような結果だろう。

 この煙の中、ハリーとてもちろん見えてはいない。だが、魔法式ならば視える。攻撃しようと、状況を打開しようと魔法を使えばハリーには丸わかりなのだ。

 目の前に見えた黒いローブの男の股間を背後から蹴り上げて打ち倒し、ハリーの位置を補足したのか女が杖を向けてきたものの、その杖腕を蹴り上げて杖を弾き飛ばすと、遠慮なくその胸に拳を打ちこんで吹き飛ばす。

 

「――――、」

 

 なにか四足の者が駆け寄ってくる音が聞こえる。

 動物もどき(アニメーガス)だろうか。この唸り声からして、ライオンか?

 身体強化の効力が弱まっているのを感じる。そろそろ切れる、もう頼れない。

 煙の合間からハリーの匂いをたどってきたのだろう、黄金のたてがみを振り乱して大きなライオンが牙を剥いて飛び掛かってきた。ハリーはそれを横に転がって躱し、振り向きざまに『失神呪文』を叩きこむ。

 直後、失策だと悟った。

 ハリーの放った魔力反応光を見たのだろう、魔法式がすべてこちらに集中したのを感じたからだ。

 こちらの位置に気付かれた!

 

「『フィニート』!」

 

 女の声で『停止呪文』が唱えられると同時、まるで窓の汚れを拭うように煙が消え去った。

 倒れたライオンのすぐそばに居たハリーの目の前には、恐らく『停止呪文』を使ったであろう魔女がいる。互いに一メートルも離れていない、超至近距離だ。

 視線の交錯は一瞬。

 そして行動に出る速度も互いに同程度。

 

「……ッ」

「――!」

 

 互いに互いの心臓へ杖を突きだす。

 少し意思を込めれば、互いに互いの意識を奪うことができる状態。

 しかしハリーには、既に六以上の杖が向けられていた。

 そのすべてが背後、左右など、致命的な場所を狙っている。そして恐らく上空にも一人、こちらに杖を向けているだろう。魔力式を視たところ、狙撃魔法だろうか。

 ……これまでか。

 ハリーはそう悟り、無駄な抵抗はしないと示すために杖を投げ捨てた。

 そうすることで目の前の魔女の顔を見る余裕が生まれたが、その顔を見てハリーは驚く。

 向こうもハリーのことに気付いたようで、その半開きの目をできる限り見開いていた。

 

「は、ハリー! 貴方だったのですかぁ!?」

「ハワード!? なぜ襲撃を!?」

 

 昨年度ハリーの護衛をしていた、アンジェラ・ハワード。

 彼女が襲撃犯たちの一人であったことに、ハリーはショックを受けた顔をする。

 そして右から杖を突きつけている人物の一人にも見覚えがあった。黒人の闇祓い、キングズリーだ。彼もまた驚いた顔をしている。

 しかしそうなると、どうして闇祓いがハリーたちを襲撃していたのだろう。

 彼らはむしろ、ハリーを守る側ではないのだろうか。

 

「み、みんなストップでぇす! この子ハリー・ポッターですよう!」

「証拠は?」

「え? 証拠……証拠……、えーっと?」

「ハワード。ホラ、アレ」

 

 先輩闇祓いに詰め寄られて冷や汗をかくハワード。これだけほんわかした人間でも、やはり目上の人間が不機嫌だと嫌な気分になるのだろうか。

 思いついたロンが囁くと、ハワードが柏手を打つ。

 そして素早くハリーのもとに近寄ると、一言小声で謝ってからその前髪を掻き上げた。

 

「どうですかぁ、イナヅマ型の傷! これこそハリー・ポッターの証拠でぇす!」

「どこにあるんだ、そんな傷」

「にゃんですとぉ」

 

 マヌケな声を出したハワードがハリーのおでこを見てみれば、確かにそこには傷なんてものはなかった。自然治癒するなど有り得ないし、死の呪いによる傷など前例はないがそうそう簡単に消えるようなものではないというのが学者間での意見だ。

 つまり、消えないはずの傷がないというのは、どういうことか。

 

「…………ごめんハワード。お化粧で隠してるんだ……」

「……あ、そうですかぁ。ごめんなさいね『スコージファイ』」

「ああっ、もったいない」

 

 ハリーとて思春期の少女。

 顔に傷があるというのが嫌だと思うようになり、ハーマイオニーにどうにかして隠せないかと相談した結果が化粧で隠すという手段だったのだ。

 ハワードの清掃呪文によって綺麗さっぱりお化粧が落とされたハリーの顔は、もともとおでこの傷を隠すためだけの化粧だったので大して変わりはしない。つまり、可愛らしいと断言してもいい顔は天然モノだったのだ。

 若い闇祓いが数人、おー、と歓声を上げたのでハリーは少し恥ずかしかった。

 先ほどからハリーを疑っていた、きっちりしたスーツの格好をした魔法使いはその傷を凝視する。そして一分ほど眺めつづけたのち、「まったく紛らわしい」と呟いて離れる。

 人を攻撃しておいてなんだその態度は、と思うも、流石にハリーも見知らぬ年配の人に食って掛かるようなことはしない。

 

「それで!」

 

 スーツの魔法使いが怒鳴った。

 服装からして闇祓いではないようだが、すると魔法省役人だろうか。

 

「あの印を作り出したのは、だれだ。ハリー・ポッター。まさかおまえか?」

「かのハリー・ポッターに死喰い人の容疑をかけるたぁ、なんたる恥知らずザマス」

「黙れウィンバリー!」

 

 茶々を入れたウィンバリーが怒られ、スーツの男に舌を出してから引っ込んでゆく。

 スーツの男は代わりに、ハワードを怒鳴りつけた。

 

「捜索しにゆけ! 犯人はまだ近くに居るはずだ!」

「ひゃ、ひゃい!」

 

 尻を叩かれたように走り出したハワードは、綺麗な銀髪を振り乱してさっさと逃げるように走って行ってしまった。

 知り合いだけあって、なんだかかわいそうに思えてしまう。今度会ったときは何かおいしい飲み物でもご馳走しよう。とハリーは心に決めた。

 けらけらと笑うウィンバリーは残るようだ。手伝う気はないらしい。

 

「ではポッター及び未成年諸君。何故ここに居る」

「死喰い人と戦ってました」

「ほーう、死喰い人と戦っ……なんだって?」

「死喰い人と戦ってました」

 

 ばかなことをいうな、と言いたかったのだろう。だがこのスーツの魔法使いは先ほどハリーに打ち倒された一人だ。煙の中で手刀を叩きこまれ、ハリーの想像したカンフームービーようにカッコよく気絶させることができなかった対象なので少し覚えている。

 他の闇祓い達もどこかと連絡を取っているのか、杖を携帯電話のように使って誰かと話している者が何人かいる。

 スーツの魔法使いに耳打ちすると、彼は嫌そうな顔をした。

 

「確かに目撃証言があるようだ。だが君は未成年だね。緊急時の魔法使用は許されているとはいえ、あまり無茶なことはするものではない。いいね」

「……はい」

「よろしい」

 

 素直に頷いた姿に溜飲を下げたのか、スーツの魔法使いは大声で呼んでいるハワードのもとへ歩き出した。

 ついてこいと言うウィンバリーに従って一緒に行くと、なにやらまた一悶着起きているようだ。

 なにかと厄介事には困らないらしい。

 

「クラウチ、これはどういうことかね」

「これ、は……私にも、なにが、なんだか……」

 

 どうやら先ほどのスーツの魔法使いが何か責められているようだ。

 彼に見えない位置で嬉しそうな顔をしていたハワードと目が合い、ウィンクされた。

 いったい何をやらかしたのかとも思ったが、どうやらハワードは何もしていないようだ。

 単に自分を怒鳴りつけた人物が大変な目に遭っているのでスカッとしただけだろう。

 なんて女だ。

 ちょいちょい、とハワードが倒れている何者かを指差している。

 ハリーがつられて見てみれば、そこには屋敷しもべ妖精が失神していた。

 その手には杖を持っている。

 ……まさか。屋敷しもべは杖を使えないはずでは?

 

「って、ぼくの杖だ。なんでこいつが持ってるんだよ」

「ハリー・ポッター! やはりきさまが闇の印を」

「ああん、もう! クラウチさんちょーっと黙っててくれませんかぁ!? 仮にも闇の帝王を追い払った女の子が、闇に属するわけがねえでしょうがマぁヌケ!」

「ハワード、口調乱れてる乱れてる。ぼくのために怒ってくれるのは嬉しいけど落ち着いて」

「う。お恥ずかしいところを……」

 

 激昂したハワードに驚きながらも、ハリーは彼女の背中を撫でて落ち着かせた。

 すると、ハリーの肩に大きな手が優しく置かれる。

 振り返ってみてみれば、愛嬌のある笑顔を浮かべた闇祓い、キングズリーだった。

 久しぶりという意味を込めて微笑めば、彼も同じように返してくれた。

 ハリーの味方をしてくれるらしいキングズリーが、スーツの魔法使いに語りかける。

 

「クラウチよ、とにかく彼女に事情を聞いてみよう。話はそれからだ」

「……ああ。起きよ、ウィンキー。『エネルベート』、活きよ」

 

 スーツの魔法使い、クラウチが杖を屋敷しもべに向けて何やら呪文を唱える。

 するとびくんと反応したウィンキーが、がばっと起き上がった。

 まず何もない地面を見て、次に自分を見下ろすクラウチを見る。そしてハリーを見て、闇祓い達を見る。また地面を見た。そして、ゆっくりと、おずおずとクラウチを見上げる。

 

「……ああ、ああ。旦那様。ウィンキーは、ウィンキーは……」

「しもべ。……あれは。あれは、おまえがやったのか」

 

 わなわなと震える体を我慢して押さえつけ、それでも震える声でクラウチはウィンキーと呼んだ屋敷しもべ妖精に対して静かに問いかけた。

 怒りを抑えきれていないようで、顔が真っ赤になって首の血管がぴくぴくと動いている。

 それに恐れをなしたのか、ウィンキーが小さな悲鳴を漏らした。

 当然それはクラウチの怒りをさらに買うことになり、ついに爆発する。

 

「あれはきさまがやったのだなと聞いておるのだ! さっさと答えんか!」

「はッ、はひィ……わ、わたくしめが……ああ。()()()()なりました……」

「…………何故。悪戯目的か」

「……そ、そうでございます……」

 

 ウィンキーが自身の太ももをつねりながら、そう答える。

 クラウチは怒りのあまりか、その場で立ちくらみを起こした。近場に居た闇祓いがそれを支えると、息も絶え絶えといった風に囁く。

 

「……ウィン、キー……きさま、()()。洋服だ……」

「――ッ!? そッ、そんなご無体な! 旦那様は、旦那様はウィンキーめをお捨てになられるおつもりなのですか!?」

「だまれっ。この恥知らずが!」

 

 クラウチの洋服発言。 

 それはつまるところ、屋敷しもべ妖精を解雇するという意味である。

 魔法使いの家に憑く屋敷しもべ妖精は、その家の主に仕えることこそが本能として刻まれている。当然忠誠心も高く(ドビーのような存在は例外中の例外なのである)、クビにされようものなら本物の首をくくってしまうほどの屈辱なのだ。

 愕然としたウィンキーはその場でおいおいと咽び泣き始めた。

 ハーマイオニーはそれを見てショックを受けているようだったが、ロンが小声で説明してくれる。クラウチという役人は、厳格で有名な堅物なのだそうだ。自身の身内から犯罪者を出そうものなら容赦なく断罪するような男で、ただでさえ立場の低い屋敷しもべ妖精を切り捨てて保身を図ろうとするのは、あまり言いたくないことだけれどよくあることなのだそうだ。

 ロンがひそひそと説明してくれたことで、ハリーは納得した。

 もはやクラウチにとって、ウィンキーという名の屋敷しもべが犯人であろうがなかろうがどうでもいいのだ。ただ嫌疑がかけられる可能性がある。それだけでもはやクラウチにとっては許しがたい事なのだろう。

 ゆえに、皆の前で罰することでこの者と自分は無関係であると示す。

 冷酷ながらも、的確な行動だった。

 ウィンキーの慟哭を聞きながら、ハリーは空を見上げる。

 そこでは、いつまでも髑髏が嗤っていた。

 

 

 ホグワーツ特急。

 コンパートメントを占領したハリーたちは、思い思いのことを語っていた。

 クィディッチのこと、クラムのこと、フジワラのこと、今年の授業のこと。

 四年生ともなれば色々と変わってくるものがある。特に十四歳ともなれば、いい加減に男女の性差が顕著になってくるころだ。今までは合同だった授業も分けられることもある。

 例えば天文学。夜に授業を行うという特性上、四年生からは男女で分けて授業を行うことになる。個々人で観察するという時間がある以上、間違いがあってはならないという配慮だろう。

 そもそも性別というのは、魔法的な意味合いでもかなりの重要さを占める。

 男性であれば力を求める傾向のある魔法生物に気に入られやすかったり、魔法の力強さにも影響がある。女性であればユニコーンに好かれやすかったり、魔力の生成や貯蔵が得意な傾向にあったりする。

 それは筋肉量の差や、精子を作る機能があること、子を産む能力を持っていること、染色体の関係、乳房の有無、髪の長さ、男女における考え方の差、いっそのこと価値観という違いもある。同じ人間という枠内で括られる生物でありながら、ここまでの差異を持っているのだ。それこそ魔法にも影響があって当然である。

 ともあれ。それはこの三人組も例外ではなく、微妙ながらに影響がある。

 ハリーとハーマイオニーは女性であるし、共に魅力的だ。

 ハーマイオニーは女性としては少々無頓着なため、美人になる素質はあるものの荒削りである。だが理知的な内面に反して魅力的な笑顔のギャップという武器を持っているため、彼女のことを良く知るグリフィンドール生の中には密かに憧れている者がいるほどだ。おまけに、規則にうるさい面はあるが何かと世話焼きで優しい。母性を感じるその姿に、男心をくすぐられるのだ。

 ハリーは女性としてどころか人としてどうかというほどに自分には無関心だったが、昨年度に自身の性別を自覚して以来は気を使うようになっている。もともとサラサラな髪もうなじが完全に隠れる程度まで伸ばしている。性格もあってボーイッシュな魅力は前々からあったものの、身体面でも女性として成長したためにアンバランスなことになっており、これもまたギャップでファンがついている。

 ロンは同性には親しいものが多いが異性には取り立てて注目されていない、単なる赤毛の陽気なノッポだ。

 元来が嫉妬心や独占欲の強いロンのことである。別に気があるだとか、異性として取られたくないだとか、そういう気持ちを二人に対して抱いているわけではない。だが、なんでだろう、面白くない。

 ジニーに彼氏ができたなどと聞いたらその馬の骨をぶち殺してしまう自信があるが、多分それと似たような感覚なのかもしれない。ハリーやハーマイオニーが男と付き合うなど、ロンには想像もできないが、だがちょっとでも考えると胸の奥がしくしくと妙な気分になってしまう。

 おまけに。ハリーは自分が女であると自覚してはいるものの、スキンシップの激しい部類に入る。ハーマイオニーとロンは彼女の中でも特別な人であり、抱きしめたり頬にキスしたりする程度、愛情表現であるので気軽にしてくるのだ。

 ハーマイオニーに時折窘められるものの、やめる気配はない。

 親友にそんな感情を抱くのは間違っているとロンは断じることができる。できるが、できるけどロンだって男の子なんだから仕方ないじゃない。ハリーにハグされると大きくて柔らかいものが当たるものだから、気になって仕方ないのである。

 付け加えるとハリーは主人に懐く子犬のように屈託のない笑顔を見せてくれるのだ。ロンが罪悪感に苛まれるのも当然のことであり、ハリーのスキンシップをやめさせるようハーマイオニーに悲痛な顔で頼んで呆れられるのも、無理のない話だった。さらにハーマイオニーも似たような者であり、彼女にも感極まるとハリーやロンを抱きしめる癖がある。

 それが他の人に向けられる? 親友というくくりではなく、異性という感情で? ……無理無理、そんなの耐えられるはずがない。

 くだらない感情だということは自覚しているが、こういったものは理屈ではないのだ。

 そんなハリーは今、ロンの隣で眠りこけている。

 日本のクィディッチチームについて興奮してお喋りしていたため、疲れてしまったのだろう。ロンの肩を枕にスースーと可愛らしい寝息を立てている。

 ハーマイオニーに助けを求めるも、苦笑いで返されてしまった。

 

「おや、なんだ。ポッターは寝てるのか」

 

 そんなときに降りかかってきた声は、ロンの神経を逆なでする種類のものだ。

 ドラコ・マルフォイと、スコーピウス・マルフォイ。取り巻きのグレセント・クライルもセオドール・ノットも一緒だ。

 何をしに来たと睨みつけるものの、ドラコは肩を竦めておどけて済ます。

 スコーピウスが言った。

 

「ウィーズリー。きみの家は確か、貧乏だったよね」

「急になんだ喧嘩売ってるのか買うぞコラ」

「なんで小声なんだ」

「ハリーが起きちゃうだろうが」

「……そうかい。まあ、君の家が用意したドレスローブがどんな骨董品なのか、今から楽しみにしているよって言っておこうと思ってね」

 

 せせら笑うように言い放ったスコーピウスの言葉に、ロンは首を傾げる。

 ドレスローブとは、名前の通りドレスだ。

 魔法界における華やかなパーティの時に着用されるもので、結婚式やお祝いの時に着るのが一般的とされている。

 

「マルフォイ、一体何の話をしているんだ?」

「え?」

 

 ロンの怪訝な言葉にきょとんとしたスコーピウスは、次の瞬間弾けるように笑った。

 ノットとクライルも同じく笑っており、ドラコまでもがおかしそうに唇を歪めている。

 いい加減に苛々が溢れてきたロンは、つい怒鳴ってしまう。

 

「いったい何がおかしいっていうんだ!」

「ロンうるさい」

「ぶぁ」

 

 寝惚けたハリーによって肘打ちを喰らったロンが悶絶している前で、スコーピウスは嘲りながら言い残す。

 

「君のパパは仮にも魔法省役人だろう? それなのに聞かされていないなんてね。……いやあ。悪いことを聞いてしまった。すまないねウィーズリーくん、別に僕は君の父親の地位が低いだとか何も知らされない木端役人だとかそういうことを言いに来たわけじゃなかったんだ。ホントごめんよ、ごめんごめん。気にしないでくれよ……ぷくく」

 

 顔を真っ赤にしたロンが立ち上がろうとするも、ハリーにしがみつかれているので振り払わないとそれはかなわない。

 親友を放り出してまで殴りかかることはないと判断したのか、ロンは少し腰を浮かしただけで座り直し、そのままスリザリン生たちを睨みつける。

 なおもロンを嗤っていた彼らは、汽笛が鳴ったことでそろそろホグワーツに着くことを悟り、フロバーワーム一匹ほども気持ちの籠っていない謝罪を最後に残して去って行った。

 

「……何だったんだよあいつら」

「気にしない方がいいわ。それよりハリーが寝苦しそうよ」

「君もうちょっと僕のこと考えてくれてもいいんじゃない?」

「知らないったら、もう」

「……何これ?」

 

 ホグワーツにつく十分ほど前にハリーを起こした際、顔を真っ赤にしたハリーによってロンが痛い目に遭うというハプニングもあったものの、一行は無事ホグワーツへたどり着く。

 早速組み分けの儀を見ることになり、今年は面白そうな一年生が入ってくるかなという期待や、先輩になって誇らしげな新二年生。監督生になった生徒たちの責任を背負う横顔などが見られる機会だ。

 ふとハッフルパフ寮のテーブルを見てみると、監督生バッジを付けたセドリックと目があう。微笑んで軽く手を振ったところ、笑顔で返された。どこぞの自称ハンサムとは違ってしつこくない、爽やかなハンサムスマイルだった。

 

「また、一年が始まる!」

 

 ダンブルドアのお話が始まる。

 組み分けが終わったのだから、手短に話を終わらせてさっさと飯を食え! という主義のダンブルドアのことだ、どうせ今年もくだらないジョークを飛ばして終わりにするのだろう。

 毎年恒例の諸注意について述べるのを聞き流しながら、ハリーがそう思って欠伸をしたところ、その予想は裏切られることになった。

 

「そして、今年はちと特別な年でな。……まず、今年度のクィディッチは中止とする」

「ハリー! だめ、杖を仕舞って!」

 

 そこかしこでクィディッチ狂たちがダンブルドアを殺しに向かおうとして学友たちに阻止される光景が繰り広げられる中、それをおかしそうに眺めるダンブルドアは微笑んだまま言葉をつづけた。

 

「よい、よい。気持ちはわかる。すまんの。これ、ミスター・ウィーズリーズ。駄目じゃて。杖しまいなさい。……うん、よしよし。さて、それには理由があってな」

 

 毎年生徒たちが楽しみにしているクィディッチを中止にするほどのことなのだ、きっとよほどのことなのだろうと生徒たちが思う中、ダンブルドアはまたしてもその予想を裏切る。

 余程のことどころではない。ブッ飛び過ぎて頭がおかしくなったのではないかというようなことだった。

 

「今年度、長らく開催されていなかった三大魔法学校対抗試合(トライ・ウィザード・トーナメント)を開催する!」

「「御冗談でしょう!?」」

 

 ウィーズリーの双子が叫ぶと同時、生徒たちはざわざわと騒ぎ出した。

 それも当然である。

 三大魔法学校対抗試合とは、かつて行われていた大会であり、魔法の腕を競う刺激的な催し物だったのだ。その手段は単純かつ明快、戦うことそれそのもの。

 マジックバトルという、心躍るものを間近で見られるのだ。それも道理であるし、なにより危険すぎるという面白くない理由で一〇〇年にもわたって開催されていなかった当大会が開かれるのだ。

 やんちゃな少年たちが興奮するのも無理のない話だ。

 

「よし、よし。いい子たち、話の続きをさせておくれ。さてこの大会、危険という理由でヨーロッパ全体の魔法省から禁じられておったものなのじゃが、この度は国際的な親睦を深めるという目的を以って開かれることになってな。よって、様々な協議があったのじゃが……さて、ここでわしがとんでもなく苦労した交渉について小話をひとつ」

「アルバス」

「マクゴナガル先生はお固いのう。ではそれは無しにして、とりあえず今大会では多重の安全防止策が取られておる。一七九二年に開催された対抗試合では、三校の校長が重傷を負ったという記録まであるのでな。今回は様々な方面に協力してもらい、観客に対しては絶対の安全を誇ってよいとされるまでに厳重な対策が取られておる」

 

 それも当然だ。

 ダンブルドアの言う怪我を負った校長の一人、当時のダームストラング魔法専門学校校長はその怪我がもとで後々亡くなっているのだ。

 競技する当人が危険なのは当然であるが、この協議に出るのは立候補制である。自身の命に危険が及ぶことも勘定に入れて、自己責任で自らを推薦するのだ。

 観客に危険が多すぎるという理由で禁じられていたのだから、そこを解決したならばあとは簡単だったのだろう。と、言うわけでもなさそうだがそれはマクゴナガルの一言によって闇に葬られた。

 

「それにより、技術提供や協力関係にある学校も加えてな。今年はなんと、六大魔法学校対抗試合(ヘキサゴン・ウィザード・トーナメント)を開催することになった!」

「「御冗談で――うぇええ嘘ォオ!?」」

 

 またも冗談を飛ばそうとしたウィーズリー兄弟が、本気で驚愕する。

 いつもふざけていた二人が動揺する気持ちも、生徒たちには分かる。六大魔法学校などと、まずもって聞いたことがないからだ。

 他に魔法学校がないわけではないが、名門と称されるのは数少ない。イギリスにホグワーツ。フランスにボーバトン。ドイツにダームストラング。

 そこからさらに三校となれば、一体どこからやってくるのだろうか。

 

「今年も新任の先生が来るのじゃが、遅れておっての。まぁ、ハロウィンの頃には来てくれるじゃろう。他の五校もその時期に来る予定じゃから、楽しみにしておくといい」

 

 それからハロウィンまでの約二ヵ月間、生徒たちが勉強に身を入れられないのは当然のことであった。

 マグル出身の者達にはわからないが、魔法族の親に育てられた子たちは興奮しきりだった。

 祖父母より語り継がれる、エキサイティングなお祭り。寝物語に聞かされたようなそれがいま、自分たちの代で実際に目の前で見られるのだ。

 音に聞こえし危険な競技とはされているが、もちろん負傷や死亡の危険性があることは皆理解している。しかしその競技に選ばれるのは、学内でも最も優秀な者。損な人材を、一時の大会のために学校側が容易に死なせるだろうか。答えは当然、否である。

 つまり「ある程度は危険だが、それでも目の前で誰かが死ぬことは無い。それでも十分以上に危険であるため、スリルを味わえる」という如何にもなエンターテイメントなのだ。

 魔法族の者達の感覚は、マグル出身者からするといささか物騒に過ぎるきらいがある。魔法薬やら治癒魔法でなんとかなるとはいえ、片眼やら片腕やらを失ったり、鼻がもげたりしても「なんだ」の一言で済む。そんな感性を持つ彼らが、このような危険なスポーツで満足しないはずがない。

 

「ウィーズリー。変身術の授業に魔法生物飼育学の教科書を持ってくるとは何事ですか。そんなにハグリッドがお好きならば、あなたをハグリッドに変えてあげましょうか。……よろしい、グリフィンドールは一点減点」

「ウィーズリー。あなたお話を聞いていなかったのですか? 《ヤドミガ毒草》はちゃんと目の前に人形を置かないとツルに絞め殺されると言ったばかりでしょう。縛られてもがいているミス・ポッターを解放してあげなさい。グリフィンドールは一点減点」

「ウィーズリー。我輩の授業が面白くないと見える。では何故《胃腸を綺麗にする薬》を使ったポッターが腹を押さえて倒れているか説明していただけますかな? ……結構、ならば授業に集中したまえ。グリフィンドールは一点減点。あとグレンジャーはポッターを医務室へ連れて行きたまえ」

 

 ハリーとハーマイオニーは完全にマグル出身の感性を持っている。ゆえに、授業に身が入らないロンのために余計な苦労をする羽目になったのだった。

 ぼーっとしているせいで主にハリーに迷惑が掛かっており、最初は笑って許していたものの十月半ばになった頃はロンが何かやらかすたびに懐の杖を握るようになっていたので、ハーマイオニーが慌ててロンにしっかりさせるという事件も起こった。

 先生方も、競技が始まってしまえば生徒たちも本格的に勉強に身が入らないと思っているらしく、今のうちにと一年間を凝縮したような量の宿題をだしてきた。

 当然ロンはこれを面倒がるも、ハリーとハーマイオニーの献身的な手伝い(脅迫含む)の甲斐もあって、見事ハロウィン前にはすべてを片付けることに成功。

 ロンが罰則を喰らって競技の観戦を阻止されるという事態は避けられたのだった。

 

「ハッピー・ハロウィーン!」

 

 ごろごろと天井から雷鳴が聞こえる中、ジャック・オ・ランタンが浮遊する下には全校生徒がそろってテーブルについていた。

 どこか心ここにあらずといった様子なのは、もちろん本日ここに他校の生徒たちがやってくるからである。前日に、空飛ぶ馬車やらお城やら、水中から飛び出してきた船やら豪華客船やらが目撃されていたので、すでに他五校は来ているとみていいだろう。

 ダンブルドアも生徒たちの興奮を察してか、ハロウィンパーティの挨拶も適当に切り上げて「さて」と話を区切る。

 ざわついていた空気が静かになったのを微笑むと、ダンブルドアは口を開いた。

 

「本日、我々は新たな友を迎える。一年間の留学生扱いになる彼らには、英語が母国語ではない者達も多くいる。なにせ五校も来るのじゃからな。諸君らホグワーツの生徒たちは、困っている者に手を差し伸べられる誇り高い心を持っていると、わしは信じておる」

 

 生徒たちから誇らしげな空気が伝わってくる。

 世界最強とも言われる男に信頼を寄せられて、悪い気はしない。

 それに、褒められれば人は自然とその通りに動いてしまうものだ。

 続けてダンブルドアが言葉を紡ぐのを、皆は黙って耳に入れる。

 

「さてさて。《三大魔法学校対抗試合》は三校の対抗試合じゃったが、今年度からは安全も加味しての新規定が考案された。その考案に際して貢献した、新たに三校を加えた《六大魔法学校対抗試合》を今年、開催する。これにあたってはかなりの苦労を味わっていての。というわけで、これの小話を一つ」

「アルバス」

「お堅いのう。おほん。ま、内容はトライ・ウィザード・トーナメントとあまり変わらない。各校から一人ずつ選手を選んで、競技を行うのじゃ。もちろん、競技者が増える以上は試練も増える。それに今回の競技では徹底した安全管理が行われておるからの、観客に怪我はないことを約束しよう」

 

 それを聞いて一安心だ。……とは、言えない。

 それでも危険だからこそ、皆目を輝かせているに違いない。

 いったい魔法族の危機管理はどうなっているのか。

 

「諸君らには、この競技を通じて他国の者達と親睦を深めてほしい。友情は何にも勝る力じゃ。ぜひとも国境の垣根を越えて、光り輝く宝物を築きあげてほしい。わしからのえらっそーな演説は以上じゃ」

 

 冗談めかして話が打ち切られると共に、生徒たちの期待が膨れ上がった。

 待ちに待った瞬間が、ついにやってきたのだ。

 

「では諸君。お待ちかねの時間じゃ」

 

 にっこり笑ったダンブルドアの台詞と同時に、大広間へ至る扉が開かれる。

 そこから現れたのは、薄い生地で作られた水色のローブを着た少女たちだった。

 優雅な音楽が奏でられ、華麗に踊りながらその魅力を見せつけている。

 

「さて、ゲストをお迎えしよう。まずは芸術と美の国、フランスの淑女たちからご紹介しよう。《ボーバトン魔法学校》の生徒たち。そしてフランス魔法生物飼育学の権威、校長マダム・マクシームじゃ」

 

 ハグリッドよりも背の高い女性が現れ、どよめきが起こる。

 マダムは美しさを磨くことを忘れていないようで、その美貌は若者には持ち得ない練磨された美があった。その隣を優雅に歩くのは、これまたとんでもなく美しい少女。

 ハリーは彼女の髪の毛一本一本に魔法式が通っているのを視て、たいそう驚いた。あれは純粋なヒトではない。きっと何かしらの魔法生物の血を引いているのだろう。

 イギリス魔法界ではヒト以外との混血というのは珍しいが、他国では意外とそうでもない。特にアジア圏の魔法界では人型をした妖怪などが多いため、それに比例して異種族の血を引いている者も少なくないのだ。

 

「久しぶーりです、ダブルドー(ダンブルドア)。お元気そうーで何より」

「マダムも、相変わらずお美しい」

 

 ボーバトン校長のマダム・マクシームの手の甲に口づけするのに、ダンブルドアはほとんど腰をかがめる必要がなかった。二メートル近い長身のダンブルドアですらそうなのだ、きっとハリーが横に立てば見る者の遠近感がくるってしまうことだろう。

 

「……色っぺぇ」

 

 ボーバトン生徒たちの尻に見とれていたロンの脇腹をつねって、ハリーはダンブルドアを見る。

 マダム他ボーバトンの生徒たちがレイブンクローのテーブルに着いたのを見届けて、ダンブルドアは続いて来たる学校の紹介を始める。

 

「北からもお越し下さった。厳しい雪と屈強な魂の国、ドイツの《ダームストラング魔法専門学校》の生徒達。校長はイゴール・カルカロフ。闇の魔術に対する防衛術の専門家じゃ」

 

 重厚な音楽とともに、軽い爆発音と靴音を響かせて、ダークブラウンのコートを羽織った青年たちが歩いてくる。

 手に持っている長大な杖は、おそらく魔法界の楽器だろう。床に打ちつけるたびに、見事な火花と重々しい音が奏でられている。不意に杖を消し去った青年たちがアクロバティックなパフォーマンスを初め、その見事な身体能力に歓声があがる。

 魔法式を視る限り、かなり洗練された『身体強化魔法』だ。

 杖を口元に当てて噴き出された火が、雄々しいイーグルの姿に変わる。それは飛んで行った先に居た者に、まるで偉大な主人に平伏すかのように付き従った。

 その青年はコートを揺らして、大勢の生徒が注目する中を威風堂々を歩いて大広間を横切る。その姿を見たロンが大興奮して囁いた。

 

「クラムだ! ビクトール・クラムだよ、本物だ!」

「十八歳だとは知っていたけど、学生だったのか……」

「ねぇハリー。ぼくクラムにサインもらってきてもいいかなあ?」

「あとにしたらどうだい?」

 

 ハリーの腕にすがって落ち着かないロンの背中を撫でて、続きを聞くように促す。

 ダンブルドアの目がにっこり微笑んでいるので、どうもこのサプライズを楽しんでいるようだ。なんともおかしなことの好きな老人だ。

 

「久しいなぁ、アルバス!」

「イゴール。変わらず元気そうじゃな」

 

 クラムの横を歩いていた、ヤギのような縮れた顎髭を生やした男が、ダンブルドアと親しげに抱擁を交わす。

 闇の魔術に精通した人物で、まず敵の技を知らねば身を守ることはかなわないという持論を持ってボーバトンにおいて闇の魔術を積極的に教えている人物だ。

 ヴォルデモートという闇の魔法使いの影響が根強い英国魔法界では不評の方が目立つ人物であるが、それでもドイツ国内では高い評価を得ている教育者だ。ダンブルドアのように分け隔てなく生徒を大事にするという教育方針ではないが、彼が目をかけたダームストラングの生徒は、それだけで大成するとさえ言われている。現にドイツ魔法省では彼の教え子だけで三分の一を占めているほどだ。人間としてはともかく、育成者としては相当に優秀な男といっても過言ではない。

 イゴール・カルカロフがクラムの肩を叩きながらスリザリン席へ座るのを見届け、ダンブルドアは扉の方へ目をやった。

 ホグワーツ、ボーバトン、ダームストラング。この三校は以前までの三大魔法学校として知られていた三校だ。では、これからここにやってくるのは、新たな三校。新たな仲間。

 生徒たちが期待に胸を膨らませる中、ダンブルドアの紹介が大広間に響き笑った。

 

「陽気な国も参戦を表明した。パワフルで陽気な国、姉妹校であるアメリカの《グレー・ギャザリング魔法学校》の生徒たち。クェンティン・ダレル校長は、近代魔法の博士じゃ」

 

 ド派手なギターとラッパがかき鳴らされ、ファンキーにアレンジされたアメリカ国家が演奏される。英国で米国の歌を盛大に鳴らすなどと、ブラックジョークのつもりだろうか。

 同じく踊りながらやってきたのは、私服の上にローブを羽織ったアメリカ魔法学校の生徒たちだ。青年も少女もみな笑顔で踊り、楽しそうに笑っている。

 何故かテンションが跳ね上がったフレッドとジョージが飛び込んでいったものの、それすら受け入れて飛んで跳ねて叫んで笑う。ホグワーツの生徒を幾人か巻き込んで踊り終えた生徒たちは、杖から天井に向けて花火を撃ちだした。

 花火が爆発する中、魔法で創りあげたらしい馬にまたがったカウガールがやってくる。ロデオか何かかと思うほどの暴れ馬を巧みに操るカウガールは、男子がうっとりするほど、女子が驚嘆するほどの見事に均整のとれたスタイルを誇っていた。

 ハリー自身、自らも大きい部類に入ると思ってはいるが、それでも上級生たちほどではない。だのに彼女のもつ果実は、まさしくメロン級だ。一体何を食ったらそんなにデカくなるんだアメリカン。

 そんなビッグウェーブが馬に乗っているのだ。なんというか、目に毒である。

 

「でっけえ」

 

 ロンが思わずつぶやいた言葉が聞こえたのか、ハーマイオニーがキレてロンを張り倒した。

 ハリーも不機嫌そうな顔で倒れ伏したロンに足を置いた。

 馬から派手に飛び降りたカウガールが、ベルトから抜き取った杖で見事な早撃ちを披露する。ハチの巣にされた魔法馬は風船のように膨れ上がり、中からアメリカ国旗のカラーをあしらったド派手なシルクハットと燕尾服を着こんだ立派なカイゼル髭の男が現れ、冗談めかして優雅に一礼した。

 巨大な腹をゆさゆさと揺らしながら、サングラスをかけたカイゼル髭がダンブルドアと熱烈な握手を交わす。

 

「やあやあやあ、アールバース! 三日ぶりだなぁ、会いたかったぜ友よ!」

「クェン、いつも通りファンキーで楽しい男じゃ。よく来てくれた」

 

 どうやら見た目だけではなく中身までファンキーらしいクェンティン・ダレル校長は、アメリカ魔法界を代表する魔法使いだ。

 かつてイギリスの名門純血魔法族とされていたダレル家から、「俺は恋をした! 誰にって、自由にだァァァ!」と叫んでご先祖が出奔。アメリカの建国から今の時代に至るまで、アメリカ魔法界を支え続けてきた功労者なのだ。

 ちなみに彼は、アメリカ魔法省大統領でもある。校長との兼任で忙しいそうだが、彼のユーモア好きと身体の八割がフライドチキンで出来ている彼は疲れを感じさせない、精強な男なのだ。

 早くも仲良くなったのか、ウィーズリーズと肩を組んで大笑いするカウガール含めギャザリングの生徒たちがグリフィンドールのテーブルに座る。

 騒がしくなった生徒たちを咳払いひとつで静かにさせたダンブルドアは、扉が開くと同時に声を発した。

 

「熱き国のご登場じゃ。祭典と情熱の国、イタリアの《ディアブロ魔法学校》の生徒と、校長先生のレリオ・アンドレオーニ。魔法芸術で有名じゃ」

 

 優雅なバイオリンの音楽と共に、ドレスシャツの上に赤いローブを着込んだ男女が歩いてくる。

 青年たちは女子生徒に、少女たちは男子生徒に投げキッスを放ち、まるで貴族のダンスパーティかと思わせるような美しい動きながら情熱的なダンスで皆を魅了してゆく。

 カツン。とひときわ大きく靴の音を響かせたそのとき、薔薇の花が咲き乱れた。その中心には派手なドレスシャツの前を大胆に開いて、逞しい筋肉に胸毛という男性的な魅力を振り撒く青年が現れた。気障ったらしく薔薇を一輪咥え、大広間を横断。そして最後に口元の薔薇を宙に投げれば爆散、舞い落ちる花びらから一人の紳士が姿を現した。

 まるで中世貴族のような恰好をしており、口周りを覆う黒ひげと頬ひげで、頑迷な印象を受ける壮年男性だった。しかめっ面のままダンブルドアに歩み寄り、固い握手を交わした。

 

「何年ぶりだったかな、ダンブルドア。この学校美少女ばかりで羨ましいぞ」

「一週間ぶりじゃよレリオ。堅っ苦しい割にむっつりなのは治らんかったか」

 

 見た目の割にぶっ飛んだ中身をしているらしいアンドレオーニ校長は、ふんと鼻を鳴らすとディアブロ学校の生徒たちを連れてレイブンクローテーブルへとついた。

 ダンブルドアが紹介する前に、なにやら趣のある笛の音が大広間に漂ってきた。

 それに満足げに微笑んだダンブルドアは、もったいぶって口を開く。

 

「極東の侍達が武を見せてくれるようじゃ。流水の如き心と刃の国、日本の《不知火魔法学校》の生徒たちと、魔法の一種たる陰陽術の権威、サチコ・ツチミカド校長じゃ」

 

 瞬間、墨を水に溶いたような風が吹き荒れて、黒衣の少年少女が姿を現した。

 すわ『姿あらわし』かと思ったが、魔法式を視る限り似ているようで内部が全くの別物だった。日本語で書かれたものが大半だったので、あれこそが恐らく日本独自の魔法『縮地』なのだろう。

 独特な形状をした弦楽器と低くも不思議な音を出す縦笛で、エキゾチックな音楽が鳴らされる中、金の刺繍が施された黒い学ランとセーラー服の上に、同色のマントを羽織った集団が各々腰に差していた杖を取り出す。木刀型に、扇子型。これも日本独自の杖だ。

 二列に並んだ生徒たちがそれぞれを交差すると、扉の方から同じく黒い風が渦巻いた。木の葉を散らして現れたのは、背の高い学ランの青年と、小柄なセーラー服の少女。そしてその真ん中に、見事な着物を着こなした老婆だった。

 その姿を見た生徒たちがざわめいた。またも有名人だったからだ。

 

「ユーコ・ツチミカドに、ソウジロー・フジワラだ!」

「おいおい……ここはワールドカップの会場かよ……」

 

 驚きすぎて呆けた顔のハリーを見て、ハーマイオニーが苦笑する。

 あのワールドカップ以降、ハリーはツチミカドのファンなのだ。クラムも確かにすごかったが、自分よりも小さな体躯で巧みに動き回って、世界最高のシーカーに喰らいついた少女。

 憧れるなという方が無理だった。

 相変わらずむすっとした顔のフジワラと、対照的に朗らかな笑顔を浮かべるツチミカドが大広間を横切ってゆく。ハリーの横を通る際、悪戯っぽくウィンクしてきたのでハリーは思わず赤面した。

 

「ねぇロン。ぼくツチミカドにサインもらってきてもいいかなあ?」

「僕が言えることじゃないけどさ。あとにしなよ」 

 

 自分の身長ほどの長さを誇る杖を突いて、老婆がダンブルドアの前でお辞儀した。

 ダンブルドアも微笑みながらお辞儀を返す。ごにょごにょと老婆が何か言ったのをツチミカドが聞いて、ダンブルドアに通訳した。

 

「お招きいただき感謝しますダンブルドアさん。お初にお目にかかります」

「うんうん、コンニチハ、ツチミカドサン。ハジメマシテ」

 

 思いっきり片言ではあったが、ダンブルドアが日本語で返す。

 それに対して嬉しそうにしたツチミカド校長は、またも孫娘に耳打ちした。

 

「えーっと……」

「なんじゃね、ミス・ツチミカド。なんでも言ってごらん」

「……おばあちゃんが、ダンブルドアさんのサインが欲しいそうです」

 

 その答えにとてもうれしそうにしたダンブルドアが、杖を取り出して空中に流麗な文字でサインを描く。それはいつの間にか彼が取り出した扇子の中に入っていき、ばっと開けばそこには見事にサインが書かれていた。

 ダンブルドアのサイン入り扇子を貰ったツチミカド校長は、大きくガッツポーズをとった。なんともファンキーなおばあさんだ。

 日本魔法学校の生徒たちがハッフルパフのテーブルに着いたのを見計らって、ダンブルドアがぱんと柏手を打った。

 

「諸君。きみたちは、この一年間寝食を共にする仲間じゃ。どうか助け合い、友情または愛情、時にはライバル心を育んでほしい。そうして君たちに細くない関係の糸が結ばれるのを、わしは切に願っておる。……以上じゃ。ほれ、イタダキマスじゃよイタダキマス。宴じゃ!」

 

 わっ、と騒がしくなった大広間では、興奮した生徒たちが美味しいご馳走に舌鼓を打ちながら会話を楽しんでいた。

 少し離れたグリフィンドールテーブルでは、フレッド・ジョージとカウガールが騒々しく大騒ぎしている。ダイエットコークはこう飲むんだ。だの、フィッシュ・アンド・チップスに勝る美味いものはない。だの、なんだかあまり関わり合いになりたくない会話だ。

 グリフィンドールテーブルにはグレー・ギャザリング魔法学校の生徒たちが居るからか、アメリカンな料理が多い。ハンバーガーやフライドポテト、フライトドチキンなどなど。

 

「今年も騒がしい一年になりそうね。静かになる年ってあるのかしら?」

 

 ロンの更にマッシュポテトや分厚いベーコンを放り込みながら、ハーマイオニーが言う。食べるのに忙しいロンはうんうん頷くだけだ。

 そんな二人を見て微笑みながら、ハリーは適当な料理を手に取って言う。

 

「命の危険がないだけマシさ」

 

 あまりに笑えないブラックジョークに二人が苦笑いしたのを満足げに眺めたハリーは、とりあえずその手に持ったローストチキンにかぶりついたのだった。

 




【変更点】
・死喰い人ハッスルにハリーが乱入。
・闇祓いとの戦闘。
・みんな思春期。意識するのは仕方ない。
・六大魔法学校対抗試合。2倍大変な思いをしてくれ。

【オリジナルスペル】
「ラミナノワークラ、刃よ」(初出・38話)
・魔力刃呪文。杖に魔力で編んだ刃を付与して、近接戦闘力をあげる。
 ハリーが考案してシリウスが構築した呪文だが、アジア魔法の劣化版になった。

「プロテゴ・アペオ、逸らせ亀の甲」(初出・38話)
・盾の呪文の派生。亀の甲羅のように傾斜のついた盾で相手の呪文を逸らす。
 元々魔法界にある呪文。少ない魔力消費で攻撃を回避する目的で開発された。

【オリジナルキャラクター】
『レリオ・アンドレオーニ』
 本物語オリジナル。ディアブロ魔法学校校長。
 イタリア人。寡黙な髭面だがむっつりスケベ。十三歳から六〇歳までが守備範囲。

『クェンティン・ダレル』
 本物語オリジナル。グレー・ギャザリング魔法学校校長。
 アメリカ人。生徒の自主性を重んじることで子供は成長するとする主義。超肥満。

『サチコ・ツチミカド』
 本物語オリジナル。不知火魔法学校校長。土御門サチ子。
 日本人。魔法の一種である陰陽術や忍術に優れた日本魔法の天才。最近ボケ気味。

四人で戦うのは寂しいでしょうから、七人で争ってください。
六大魔法学校対抗試合です。単純に競争相手が原作の倍。日本を出したのはここで一年間登場するためだったりします。今年一年は戦闘尽くしになることでしょう。
競技も増えます。恐らく賢者の石編と同じくらいにはなるのではないかと……うーん、大変だ。だがそれがいい!

※とんでもない間違いを訂正。
※ダームストラングについて訂正。


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4.七人の代表選手

 

 

 ハリーはぐったりしていた。

 グリフィンドール女子寮には今、五人の人間がいる。

 一人はハリー。一人はハーマイオニー。そして二人はラベンダーとパーバティ。

 最後の一人は、グレー・ギャザリング魔法魔術学校のカウガールその人だった。

 アメリカの生徒たちは豪華客船に乗ってきたので、寝泊りもそこでするはずだ。

 なのに彼女がなぜハリーたちの寝室に居るのかというと、単純に彼女がハリーに興味を持ったからだ。

 

「あたしローズマリー・イェイツ! おまえがハリー・ポッターだな!」

「う、うん。ハリエット・ポッターだ。ハリエットって呼ん――」

「うわあ可愛い! ちっちゃいのにふかふかで柔らかいぜ! 可愛い!」

「もぎゃー! 胸に窒息死させられるーっ!」

 

 抱きしめられて頬擦りされるハリーを見捨てた三人は、友情を代償にローズマリーについてスキンシップが激しいために無意識に女の自尊心を傷つける女という認識を得た。

 デカいのだ。

 そして腰が細いのだ。

 いったい何を食ったらそんなメリハリのついた素晴らしいスタイルになるのか、ハーマイオニーたちには全く分からなかった。やはりアメリカのように広大な大地で育つとああなるのだろうか。人体の神秘である。

 そんなローズマリーは大変人懐っこい少女で、あちこちの寮に出向いては遊んで帰ってくるを繰り返しているのだ。げっそりした様子のセドリックや、苛々した様子のドラコなどを見る限り、男子寮にまで突撃しているらしい。何とも行動力溢れるものだ。

 

「ところで、ローズマリーは代表選手に立候補するの?」

「もちろん。あたし先月十七歳になったから、《年齢線》は問題なく越えられるんだぜ」

 

 年齢線。

 今回生徒たちから称賛されっぱなしだったダンブルドアが、唯一非難を浴びた制度だ。

 十七歳未満、つまり未成年の魔法使い魔女は競技への参加を禁じるとのことだ。

 競技への応募方法は至極簡単で、《炎のゴブレット》と呼ばれる選定器に自らの名前を書いた羊皮紙を入れるだけ。受理されればゴブレットが、競技に至るにふさわしいかどうかを魔法的に判断する。そういった選定の道具があるにもかかわらず、さらに《年齢線》という予防線を張ったのだ。

 安全面を考えた策といわれればそれまでだが、それでも参加したがった者達からは大いなる不満が爆発した。しかし今回この大会を開催するにあたって一番許可が出やすかった理由としてはこれにある。

 未成年は大人が守るべきもの。成人は自己責任。それは魔法界であろうとなかろうと変わらぬ不文律だ。ゆえに、英国魔法界における成人基準の十七歳未満は参加資格がないというわけだ。

 

「アメリカ魔法界だと成人は十八からなもんで、国に戻ったら子ども扱いだけどな!」

「ってことはお酒も飲めるわけか。いいなあ」

 

 パーバティよ、君は十四歳なのになぜその味を知っているんだ。

 ハーマイオニーがジト目で見つめれば、気まずそうに目を逸らされる。

 あっけらかんとしたローズマリーの性格は話していて打ち解けやすく、コミュニケーション能力も高いので実に気持ちのいい少女だった。

 ハリーたちは授業へ出るのでローズマリーと別れると、廊下で怪物のような風貌の人物に出会ってハーマイオニーが短い悲鳴をあげた。

 人間の顔という者を知らない彫刻家が、昼食に浸かったスプーンを用いてそこら辺に置いてあった木材を削って作ったような歪な顔。更にそれは傷だらけで、しかも右目が異常に大きく人間には有り得ない真っ青な眼球である。それがぎょろ、ぎょろと忙しなく動いているのだ。

 ハーマイオニーの悲鳴に対してその怪人はフンと短く鼻を鳴らして、足を引きずりながら教室へ入ってゆく。

 入った先の教室は、《闇の魔術に対する防衛術》。

 つまり、今の恐ろしい人物が新任の教授ということになる。

 

「マッドアイ・ムーディだ」

 

 ロンが呟く。

 それに対して、ハーマイオニーが言った。

 

「マッドアイ? ってことはあの人が英国最強の闇祓い、アラスター・ムーディなの?」

「英国最強なの? ……いや待てよ、どこかで聞いたことがあるぞ。どこだったかな、いや、思い出した。あの人、トンクスやハワードのお師匠さんだ!」

 

 うへえ、と声が漏れる。

 ハーマイオニーとロンは知らないだろうが、トンクスもハワードも、その人物の名前を出すだけで嫌そうな顔をするのだ。あんなにも美人な二人にあそこまで嫌がられるのだから、きっと女性に対しても一切容赦のない性格に違いない。

 ハリーのその予想はまったく間違っておらず、その性別以外にも国境ですら彼には関係ないことまでわかってしまうのだった。

 

「こっちこっち」

 

 教室の後ろの方にたまっていた生徒たちがムーディに一喝され散り散りになってゆく中、その中心にいた人物がこちらへ手招きしていた。

 黒いセーラー服を着たツチミカドだ。

 ハリーは嬉しそうな笑顔を浮かべて、その隣へと急いで座る。

 

「お久しぶり、ポッターさん」

「久しぶりミス・ツチミカド。選手だったんだね」

「実はそうなんだよね。あとユーコでいいよ」

「じゃあ僕もハリーで。ハリエットでもいいよ」

「? どっちが名前?」

「あー……ハリーが愛称。ハリエットがフルネーム」

「じゃあ、ハリーで」

「うん、よろしくユーコ」

「そこ! 授業が始まるぞ! くっちゃべっとる暇があるんだったら、さっさと杖を出せいチビども! それともわしをぶち殺すための密談か!? 呪うぞ!」

 

 怒鳴り声に身を縮こまらせたツチミカド――ユーコとハリーを見て、ムーディはフンと鼻を鳴らした。

 黒板に汚い字で殴り書きされた《闇の魔術》の文字が、ぽつんと残っている。

 

「アラスター・ムーディ。わしの名だ! 教えるのは闇の魔術に対する防衛術! え!? 汚らしい輩の使う魔法だ! 貴様らはそれに対応し、跳ね除け、そして時には反撃せねばならん! そうだろうが、ええ!? なにせ悪党どもが杖を向けてきとるのに、教科書を取り出して呪文を思い出す暇があると思うか? 覚えられることは覚えておくことに越したこたぁない! ()()()()!」

 

 とんでもない声量で怒鳴るような授業が始まった。

 時折英語を聞き取れず困っている不知火の生徒がいたが、ユーコやハーマイオニーが翻訳している。たしかにスラング混じりの不確かな発音では難しいだろう。

 

「そこ! なにをこそこそ話しておる! わしを暗殺する計画でも立てとるのか!? させんぞ、『エクスペリアームス』!」

「『プロテゴ』! 発音が悪いので翻訳しているんです、先生」

 

 唐突に武装解除呪文を放ったムーディの攻撃を、ハリーが事もなげに防いだ挙句に反論した。教師に対するあまりにも無礼な物言いに、生徒がどよめく。

 ハリーもハリーで、ハーマイオニーに向かって唐突に攻撃されたことに対して相当にご立腹なのだ。魔法式を視るに強めの静電気を受けた程度の衝撃しか受けなかっただろうが、それでも腹が立つものは腹が立つ。

 しかしムーディの方はにっこりと微笑んで(凄まれているのと大して変わらないほど怖い顔だった)叫ぶ。

 

「見事な『盾の呪文』だったぞポッター! きさまに免じて許す! 続きだ!」

 

 何ともぶっ飛んだ人がやってきたものだ。

 嘆息するホグワーツ生たちと度肝を抜かれて目を丸くする不知火生を放って、ムーディは話の続きを叫び始めた。喉が掠れているので、はっきり言って耳にやさしくない。

 

「闇の魔術には膨大な種類がある。その理由がわかるか? え? シェーマス!」

「えっと、闇の魔術の原動力には欲望が含まれているので、『人の欲望尽きることなし、然らば闇の魔導もまた潰えず』、だった、と、思います……」

「正解だ! もっと自信を持て! そいつは古代中国における闇の魔女ソ・ダッキが残した言葉だな! 教科書の内容そのまんまだが覚えていればそれでよい!」

 

 答えを述べて褒められたシェーマスは少し照れくさそうだ。

 不知火の生徒たちは、こういうことを教えているのかと興味津々である。

 

「では続きだ。英国魔法界の法律において許されざる呪文というものが五つある! 答えて見ろ! ほれ、誰かいないのか! よしお前だ、グレンジャー!」

 

 天高く舞い上がるハーマイオニーの美しき挙手が、ムーディの目に留まったらしい。

 むしろあの青い目に留まらないものなどないだろう。

 毎度毎度自信満々に手をあげるものだから、教師人からは困った時のグレンジャーとまで呼ばれているのをハリーは知っている。なにせあまり勉強熱心とは言えないグリフィンドール生の中で、いつでも答えを言ってくれるのだから授業進行にはもってこいなのだ。

 小声でユーコにそのことを教えると、どこの国にも委員長キャラっているのねと呟いていたので日本にもハーマイオニーのような子はいるのだろう。

 指名されたハーマイオニーは、その努力に裏付けされた膨大な知識の書庫から、該当する答えを引っ張り出してその唇から零れ落とした。

 

「『磔の呪文』です。主に拷問の用途で使用される射出型呪文で、濃い赤紫色の魔力反応光に触れた生命体にとって苦痛である記憶を呼び覚まし、それを脳に追体験させることによって現実に起きていることだと錯覚させる原理が用いられています。脳自身が発しているため、苦痛に耐えることや無視することが極めて難しく、そしてその拷問による苦痛では決して死に至らないという魔法式が組み込まれているため、対となっている『服従の呪文』を確実に成功させるために開発されたとされています。開発者は《腐ったハーポ》とも言われていますが、現段階では判別していません」

「完璧だ。グリフィンドールに一〇点をやろう」

 

 久々にハーマイオニーの演説を聞いたハリーは、ムーディに投げられたチョークが命中した額を抑えながらホーと感心しきりだった。

 今回の解説の何がすごいかといわれると、発音を正確にしていたという要素がもっとも大きい。日本人である不知火の生徒たちにも聞き取りやすいように配慮していたのだ。

 隣に座るユーコからも日本語で「なるほどねー」と呟いているのが聞こえた。

 友人が国の価値観をも超えて評価されるというのは存外にうれしい。ハリーはまるで自分が褒められたかのように幸せな気分になった。

 

「ならば、実際に見せてやろう」

 

 しかしその幸せな気分も、ムーディのとんでもない言葉で萎んでしまう。

 いま、なんて言った? 実際に見せるだと?

 

「せっ、先生!? それは使用すら許されていない呪文では」

「じゃあ何か! きさまらは初見の魔法を防げるとでも!? そいつぁすごい! ぜひとも闇祓い局に欲しいもんだな! ええ!?」

「……」

「いいか、これはヒトに対して使用するだけでアズカバン送りになる程のものだ。今からわしが使うのはただの蜘蛛にだが、ヒトに向けるようなクズにだけはなるな」

 

 重々しく言い放つムーディの言葉に、誰もが言葉を失う。

 小瓶の中から蜘蛛を取出し、肥大呪文で見やすくしたムーディは杖を振るった。

 

「『クルーシオ』、苦しめ!」

 

 途端。蜘蛛の痛々しい悲鳴がとどろいた。

 魔法界産とはいえ所詮虫けらであるはずなのに、教室全体に届くような声量が出ている。いや、声なのか? 蜘蛛に声帯はあったか? この声を聴けば、それほどまでに苦痛を感じていることがよくわかる。

 一番前の席でネビルがぶるぶると震えているのが見えるが……あれは恐怖から震えているのか? それにしてはちょっと様子がおかしいような気がする。

 

「先生! ネビルが怖がっています! もうやめてください!」

 

 誰か女子生徒の悲痛な声でハッとしたムーディが、ネビルに目を向ける。

 なにかを思案したような間をおいて、足を引きずってムーディはネビルの目の前まで歩いてきた。そして低い声で言う。

 

「ロングボトム。怖いか?」

「……はい」

「それでいい! 怖くて正しい、恐怖は臆病者の証ではない。一歩前に進む勇気を生み出すための原動力だ」

「………………」

「よしよし、悪かったな。あれはもうおわりだ!」

 

 なにやらネビルと話したムーディは、息も絶え絶えになっていた蜘蛛に向き合い、杖を指して唱える。

 

「『インペリオ』、服従せよ!」

 

 形容しがたい色の魔力反応光は、抵抗もできない蜘蛛に命中する。

 すると蜘蛛がすっくと起き上がり、まるで透明なシルクハットを取るような動きをして優雅に一礼した。あまりにも不自然だったが、しかしなんだか滑稽だ。

 そのままそこでタップダンスを踊ったり、何度も宙返りしたりして教室中を笑わせてくれた。蜘蛛が哀れだったが、それでもネビルに気を使ったのだろう。

 だがそんなことは無かった。

 

「ははは! 面白いだろう! これでこの蜘蛛は、なんであろうとわしの言いなりだ! どうだ、次はどうする! 体力が尽きて死ぬまで躍らせるか? 身投げさせるか? 入水させるか?」

 

 実際に目の前でやったりはしないものの、この言葉で全員がはっとなった。

 つまり、なんでも言うことを聞かせることができるということは。

 他人のために生きて他人のために死ぬ便利な人材が手に入るということだ。

 ネビルの顔色がまたも悪くなった。あげて落とすとは何たる外道か。

 

「この術の危険性がわかったようだな。いいか、この呪文だけは抵抗することができる。『磔の呪文』のように脳に情報を叩きこまれるわけではないからな。きさまらひよっこでも、強い心さえ持っていれば誰だって可能なのだ」

 

 ムーディが感慨深そうに言い、生徒がそれを聞く。

 これほど刺激的な授業であるならば、お喋りする生徒などいないだろう。

 それをよく表した授業風景である。

 

「じゃあ、残り三つだ! 誰か知らんか? どうせ他校との交流授業なのだから、不知火の者どもも言ったらどうなんだ! え!?」

「んじゃ、はい」

 

 ハリーの隣で手があがる。

 日本人は総じてシャイなのだと聞いていたが、彼女はどうやらその枠には当てはまらないらしい。

 

「きさまは……ああ、知っとるぞ。ツチミカドだな! よし答えてみろ、ただし英国魔法法律でだぞ!」

「え? あー。えっと、『簒奪の呪文』です?」

「わしに聞くな! だが正解だ! 不知火に五点……与えても意味がないな。よし、ならテーブルが同じよしみだ、ハッフルパフに五点やろう! そこ、騒ぐな! 『簒奪の呪文』の効果がわかるか、ツチミカド」

「はい。視認した対象物と自身を魔力反応光の糸(レイライン)で結びつけ、対象を奪う魔法です。生物を対象として発動した場合は奪取対象の欠損が生じ、『存在しないが存在する』という状態になり世界認識が誤作動を起こしてしまうため、術者が死亡しない限り現段階では治療手段は存在しません」

「その通りだ! ハッフルパフに五点追加。英語の発音もうまいもんだな」

 

 褒められたユーコが少し照れくさそうに頬を掻きながら座ると、生徒たちから拍手が贈られる。はっきり言ってホグワーツの平均した生徒よりも知識量は上だ。

 一応ハリーらより一つ年上ではあるが、日本魔法学校で習う授業内容と英国魔法学校で習う授業内容はかなり差がある。日本の魔法学校は陰陽術や忍術などといった日本独自の魔法技術も学ぶ必要があることから、英国魔法学校のようにラテン語を用いた汎用魔法はあまり多くを学ばない。

 具体的にその多種多様さを表せば、国によって許されざる呪文まで違うのだ。英国では五つだが、日本では軽く二桁はあるとのこと。歴史的に見て、より戦闘に長けた魔法が多いのだから仕方ないかもしれないが、日本の魔法学生は覚えることが多くて大変そうだ。

 

「『簒奪の呪文』とはまぁ、要するにそういうことだ。見せてやろう、『ディキペイル』、寄越せ!」

 

 途端、ドス黒い魔力反応光が蜘蛛とムーディの間に立ち込める。

 その光は一人と一匹を繋ぐと、水を送り出すホースのように蜘蛛からムーディへと瘤が移動していった。同じくムーディの身体全体も、淡く光っているように見えた。瘤が移動を終えると同時、ムーディの身体からも同色の光が消える。

 さっとムーディが顔をあげれば、教室から悲鳴が上がった。

 ムーディの目玉が増えていたからだ。

 ぎょろぎょろとあちこちを見る目玉はさながら妖怪のようだったが、あまりにひどいインパクトで何も言葉が出てこない。まるで蜘蛛のそれだ。

 

()()のだ。こうして、何もかもをな。もちろん、この奪った目ん玉たちは破棄することもできる。だがそれは相手とレイラインを繋いでからではないと、普通にその場に捨てることになるからな。当然奪った術者がそのまま死ねば同じだ。目玉や腕くらいなら生やすことができるが、心臓やら脳みそやら取られたらその時点でおっ死んでしまうからな。無論、この呪文で相手の部品を奪うような輩が、わざわざ返してくれるとは思うな。そんなお優しい奴ならまずそもそもこの呪文を使ってはこないからな! 油断大敵! 気を付けよ!」

 

 煙と化して余分な目玉が消えゆけば、ムーディの顔は人間らしいそれを取り戻した。ただでさえ威圧感のある恐ろしい顔なのに、あんなに目があれば道端ですれ違っただけで子供が大号泣して、目が合えばショック死してしまうだろう。

 ぐるりと教室を見渡したムーディは、またも怒ったように叫ぶ。

 

「残り二つ! 誰かわからんか? さあさあ、答えろ!」

 

 ムーディの目がす、とハリーを捉える。

 びくりと肩が動いてしまったが、そこから更に横へそれて一人の男子生徒に目が留まる。

 フジワラだ。

 

「さあ答えてみろフジワラ。英語はできるな?」

「『死の呪文』」

 

 さらりと答えたその言葉に、教室内のどこかから押し殺したような悲鳴が聞こえた。

 『死の呪文』。それはひとえに、まさしく死を与える呪文だ。

 健康体であろうと死に体だろうと、心臓が動いていようと目が開いていようと、生まれたばかりであろうと老体であろうと、ヒトであろうとそうでなかろうと、

 死ぬ。

 

「そう、最低最悪の呪文だ。――『アバダケダブラ』!」

 

 ムーディが蜘蛛に緑色の魔力反応光を当てると、蜘蛛は何の動きも見せずその場で死んだ。

 苦しみもせず、ひっくり返ることもなく、そのまま糸が切れた人形のように死んだ。

 これは、比喩表現ではなく、本当に()()()()()魔法なのだ。

 ゆえにマグルの検死官がその死体の調査をすると、『死んでいること以外は至って健康』という頭の悪いジョークのような状態になってしまう。

 斬殺、刺殺、銃殺、爆殺、毒殺、轢殺、撲殺、殴殺、蹴殺、塵殺、捻殺、潰殺、圧殺、貫殺、絞殺、焼殺、凍殺、埋殺、落殺、壊殺、自殺。あらゆる殺しの前につく《前提》がなにもない状態で、何の原因もなくただただ()()

 そういう、どうしようもなく危険で圧倒的なまでに恐ろしい呪文だ。

 避ける方法は「魔力反応光に当たらない」。この一点に尽きる。

 『盾の呪文』で防ぐのもいいだろう。盾によって散らされた魔力反応光に数ミリでも触れたその瞬間、訪れる死を迎える覚悟があるのならば。

 

「これをヒトに対して使えば、当然アズカバンだ。内容によってはもちろん、終身刑もありうる。というよりはそれ以外になる方が珍しい」

 

 蜘蛛が死んだ瞬間に悲鳴をあげていた生徒たちも、すっかり黙り込んでムーディの話を聞く。

 恐ろしい。

 あの緑色の閃光は、人間が動物として持っている当たり前の本能をちくちく刺激する。

 怖い。あの緑色が恐ろしい。

 

「この魔法に当たって今も生き延びている人間は、恐らく人類の歴史上ただの一人もおらん。そう、ただの一人も。歴史上、ハリー・ポッターという一人の人物を除いてな」

 

 注目が集まったのをハリーは感じた。

 みなの視線が、ハリーの額に注がれている。一応お化粧で誤魔化してはいるが、あまりにも有名なことだ。ハリー・ポッターは例のあの人の魔手から、額の傷一つで逃れている。それはあまりにも知られていること。

 なんだか顔が熱くなってきたのを感じて、ハリーは居心地が悪かった。

 

「……さて、では最後のひとつだ。これを答えられる者、居るか」

 

 ハーマイオニーの手があがるが、いつも通りのそびえ立つ自信が見られない。

 珍しいことだと思っていると、ムーディが彼女を指名した。

 

「『冒涜の呪文』です。……ですが、情報は開示されていません。スペルすら、残されていません」

「そうだ、グレンジャー! グリフィンドールに五点。この魔法は極めて危険であり、一部の者にしかその詳細を知ることは許されていない!」

 

 冒涜の呪文。

 名前だけが知られており、その内容はあまり知らされていない魔法だ。

 大人たちは誰もが知っているが、新世代を担う子供たちには教えたくもない邪悪な魔法であることは確かだ。視界の隅でドラコがスコーピウス相手に肩を竦めているのが見えるが、きっとルシウス・マルフォイも教えようとはしなかったのだろう。

 名前からして最低最悪なのはわかるが……。

 

「おぞましい! ありえんほどにおぞましい呪文だ! だがきさまらは知らねばならない。闇の帝王が御自ら創りあげた、闇の秘術を」

 

 ムーディが杖を振り上げれば、異常なまでに複雑な魔法式が展開された。

 式だけで通常の魔法の十倍以上は内容量がある。これに魔力を注ぐには相当な貯蔵量が必要になるだろう。現にムーディの魔力は見る見るうちに消費されている。

 こめかみから一筋の滴を流すムーディは、エコーがかった魔力の編まれた声で唱えた。

 

「『カダヴェイル』、尽くせ」

 

 杖先から闇そのものが零れ落ちる。

 込められた魔力量から、大砲のような魔力反応光が射出されるのではないかと想像したが、実際の光景はまったく迫力がない。しかし、杖先からタールのように粘っこい闇がどろりとあふれ出した瞬間、ハリーは猛烈な吐き気に襲われた。

 魂の奥が縛り付けられたような息苦しさと、食道を直接鷲掴みにされたような嘔吐感。胃の内容物を戻すまいとこらえるハリーの前で、粘着質の闇は蜘蛛の死体に垂れた。

 途端、びくりと蜘蛛の足が動く。

 生徒たちからどよめきが広がると同時、確実に死んだはずの蜘蛛が起き上がってムーディの手の甲に乗り、大人しくその場で座した。

 まさか。

 死者蘇生の秘術だとでもいうのか?

 そんなものは魔法式を構築するのさえ、神代の魔法使いが何百人居ても無理なはずだ。

 歴史上すべての魔法族が生涯生産し得る魔力をかき集めたところで、足りないはずだ。

 心の奥底が冷え込むような感覚を味わいながらも、ハリーは未だに触角をひくひくと動かす蜘蛛を注目した。

 

「『冒涜の呪文』は、死者を生き返らせる呪文ではない!」

 

 ムーディの怒鳴り声がよく心に響いてくる。

 あの外法が死者蘇生の魔法でないとすれば、いったい何なのか。今目の前で生き返った蜘蛛のことは、何と説明したらよいのか。

 

「これは死者に偽りの命を吹き込み、操り人形と化す邪法だ」

 

 そこでハリーはようやく、なるほどと合点がいった。

 ようするにあの蜘蛛は亡者(ゾンビ)だ。

 生き返ったわけではないから生命活動は行っておらず、ただただ術者の書き込んだ命令のままに動き続けるロボット。主人に逆らうことのない都合のいい肉人形。

 死してなお好き勝手に動かされるなど、これ以上ないほどの《冒涜》だった。

 

「ダンブルドアはこの呪文を教えることだけは渋っていたが、わしはこれこそを教えるべきだと判断した。闇の輩は、こうして殺した相手を玩ぶ。だからこそ、殺されてはならん! 身を守るにはこうして相手が何をしてくるかを知る必要がある! 油断大敵だぞ、きさまら。いいな! 肝に銘じておけよ、()()()()!」

 

 闇の魔術に対する防衛術の授業が終わると、生徒たちは足早に教室から出て行った。興奮しきりで先ほどまでの授業の話をする者、気分が悪くなって飲み物を求める者、イギリスって未来に生きてるなと感心する者、などなど。

 そのうちハリーとネビルは気分が悪くなった者であり、ひとつの瓶に入った清涼飲料水を交代で飲みまわしていた。ネビルは『磔の呪文』を見た時から、ハリーは『冒涜の呪文』を見た時から胸の奥がむかむかするのだ。

 

「大丈夫かい、ハリー、ネビル」

「もうちょっとお水いるかしら。持ってくるけども」

 

 ロンとハーマイオニーが心配そうに覗き込んでくるものの、ネビルは弱々しく微笑むだけだった。ハリーに関してはそんな気力もないらしく、ただぼーっとしている。

 そんな中、何かを引きずるような音が聞こえてきた。なんだろうと思って振り返れば、そこにはムーディがこちらへ向かって長杖を突いているではないか。

 なんだなんだ、と周囲の生徒が注目する中、ムーディは授業中は見せなかった柔らかい表情を見せる。無論のこと、微笑んだのだと気付かなければ今からネビルとハリーを殺そうとしているようにしか見えなかった。

 

「だいじょうぶか、え? 気分が悪くなったのか」

 

 ムーディは怖がらせた詫びにとお茶に誘ってくれた。

 ハリーは遠慮したが、ネビルはついてゆくようだ。手を振って別れを告げる。

 

「……イギリスってすごいんだね」

「いや、あんなのばっかりってわけじゃないからね」

 

 ユーコがしみじみと呟く言葉は否定しておかないとイギリスが誤解される。

 冗談で言っていたらしく、にこりと満足そうな笑みを返されてしまったので、肩を竦めて返すしかない。

 

「じゃあ、私たち次は五年生の魔法薬を受けるよ。ハリーたちは四年生でしょう?」

「うん。じゃあここでお別れだね。またね、ユーコ。と、えーっと……」

 

 上級生の授業を受けるということは、今回はここでお別れだ。

 ハーマイオニーと握手したりして仲良くなったようで何より。別れの挨拶を済ませようとしたものの、フジワラについては何と呼べばいいのかわからないことにはたと気づく。

 無口なようなので、なんだか呼び捨てにしたら怒られそうそうな気がする。

 ゆえに悩んだのだが、その意図に気付いたユーコがにやにやと笑いだした。

 

「ホラ、宗二郎。ハリーが何て呼べばいいのか困ってルヨ。教えてあげナイノ?」

「……イヤ、優子。こう可愛いと、なんだ。恥ずかしイ」

「相変わらずの照れ屋ダネ。ホレ、勇気を出しナヨ」

 

 なにやら日本語で相談し始めたようで、ハーマイオニーとロンは気長に待つことに決めたようだ。どうせ次の授業は《呪文学》で、すぐ近くの教室なのだ。

 どうやらソウジロー・フジワラは極度の照れ屋だったようで、ハリーと話すのに対して気後れしていたらしい。想像通りのテンプレートにシャイな日本人だ。

 しかし、困ったことがある。

 ユーコはわかってやっているようだが、これではフジワラが不憫だ。

 

「ぼく、日本語分かるんダヨネ」

「なッ」

「大丈夫だからサ。あまり、ソノ、緊張しないでネ。ソウジロー君」

「……あ、ハイ……」

 

 日本語だから聞こえないと思って、堂々と本人の目の前で可愛いなどと。

 顔には出ていないようだが、唸っているあたり相当羞恥に苦しんでいるようだ。ユーコがにやにやと嬉しそうにしているのを見ればよくわかる。

 後に「好きに呼べ」と片言の英語でぶっきらぼうに言い放ち、ソウジローはさっさと立ち去ってしまった。居た堪れなかったのかもしれない。

 追いかけたユーコが並んで何かを言い、怒ったソウジローに無視されているのが遠目に見えた。さて、お二人さんは放っておいて授業に出なければ。

 ハリーはイギリス人にあるまじき感情ではあるが、なんだかコーヒーが飲みたい気分になっていたのだった。

 

 魔法史の授業。

 ビンズ先生が《英国魔法史の盛衰》について述べている中、ハリーはハンサムな青年に手を握られていた。

 大胆に開かれたドレスシャツから覗く胸毛がチャーミングな、ソウジローと同じか一つ上くらいの青年。確かディアブロの校長先生を魔法で出現させた生徒だったか。

 

「ああっ。なんて可愛らしいんだ、ハリエット・ポッター! キュートだよ!」

「え、あ、ありがとう?」

「おおっと僕としたことが、これは失礼。僕の名はバルドヴィーノ・ブレオ。ディアブロ魔法魔術学校最高学年にして主席! 今後ともシクヨロ」

「よ、よろしく」

「ああ、本当に可愛いなハリエット・ポッター! 抱きしめたいぞぅ! 髪は溶いた墨のようにしなやかで黒く美しい、瞳はまるでエメラルドのように僕を映している!」

「そ、そっすか」

「でもそんな君でもまだ足りないピースがある! 欠けているのさ! そう、君の素晴らしいスタイルには感服するばかりだ。鍛えられているのがわかるしなやかな脚、それを包むスパッツに、どうやら穿きなれていないゆえに恥じらいの残るスカート! 長くしたかったけど学友に短いスカートの方が可愛いと断言されたんだろうね、んぅう~~、グゥレイトォ! ブラーヴォ! そして見事にくびれた腰! いやぁ、これは太過ぎず細すぎない健康的な細さだね、運動してる結果がよく出てるようだ! 撫でまわしたくなるラインを描いているぞぅ、これは魅力的だぞい! 更にさらに、その大きく実った果実なんてむしゃぶりつきたくなるくらいの両手にピッタリサイズ! でももう少し注意した方がいいかな不注意なばかりに揺れるのがよく見えるから男の目には気を付けよう! さぁハリエットちゅわん! 僕のたくましい胸に君のその小柄な体を預けておくれ! そう、君に足りないのは僕さ! 僕の観察眼によるとまず間違いなく確定で君は清らかだろう! それは問題ない。今夜、僕という男を知れぶぁ」

「『エクスペリアームス』、武器(バカ)よ去れ!」

 

 セクハラ発言をかましたブレオは、ハリーの発した呪文によって錐もみ回転しながら吹き飛び、教室を横切って窓ガラスを突き破りホグワーツ上空へ躍り出た。「魔法を放つ姿も素敵だぁぁぁ……」という断末魔を残し、何かにぶち当たる音を残して消える。

 事の顛末を見て居たディアブロ生たちがやんやと歓声と野次を飛ばしてきたので、きっとあの青年は毎回こんなことばかりしているのかもしれない。どうやらナンパ失敗を祝っているようだ。その感覚がわからないながらも、ブレオの視線がずっと胸を向いていたためハリーは両腕で隠していた胸を開放し、たいそう不機嫌な顔をしていた。

 長いため息をついて、ハリーはどっかと乱暴に席に座る。

 と、ロンからの視線に気付く。なんだろうと思うも、先のブレオの言葉を思い出した。

 勢いよく座ったら、どうなるか?

 

「…………スケベ」

「んなっ!? そりゃ心外だ! そんな、僕は見てないよハリー!」

「それはそれでなんかムカツクな」

「どうしろと」

 

 両腕で胸を隠しながら、ハリーはジト目でロンを見る。

 一瞬だけぽかんとしたロンも、意図を察したのか顔を真っ赤にして否定した。しかしその言葉は逆効果である。乙女心とは如何なる魔法よりも複雑怪奇なのだ。

 隣のハーマイオニーが不機嫌そうな顔でこちらを見ているが、まぁこれくらいは許してほしいものである。このくらい、このくらいはね。

 しかし、こんな騒ぎの中でも動じず歴史について語り続けるビンズ先生は、さすがとしか言いようがない。

 アメリカと日本と違い、イタリアとはなんだかあまり接したくないような気がする。

 このままだとすれ違いざまに胸や尻を撫でてくることもしてきそうだったので、ハリーはディアブロの制服が視界に入ったら最大限に警戒することに決めた。

 ビンズ先生が終礼のチャイムと共に授業の終わりを告げる。この騒ぎの中ずっとつらつら授業内容を語っていたのだから、恐るべき男だ。すれ違いざまロンの尻を撫でて行ったガタイのいいディアブロ生を唖然として見送りながら、ハーマイオニーは溜め息を吐く。

 やっぱり、今年は苦労の絶えない年だ。

 

「ハリーは適当にあしらってたけど、あたしはやっぱりブレオの男らしさが好みだわね。ハリー、あなたイタリア男はだめなの?」

「だめっていうか……単純に好みじゃないかな」

「ワァオ。辛辣なコメントね。ハーマイオニー、あなたは? やっぱりロン?」

「ばっ、な、なにがロンよ! うーん、興味ないわよそういうのは」

「そういうのはなしって言ったじゃないの。ほら、ハリー。貴方だって好みの男の子がいたでしょう。やっぱりあなたもロン?」

「ロンは確かに好きだけど、うーんどうだろ。ぼくの好みだけで言うとソウジローだなあ。髪綺麗だし、クールって感じで結構好み」

「へえ。へえへえへえ! ハリーにもついに春が!? 恋ね、恋なのね!?」

「お、落ち着けってパーバティ! ソウジローにはユーコがいるし、それに別に恋心ってわけじゃない! 単純に見た目がいいってだけだよ! それにシャイボーイは趣味じゃない」

「ハリーあなたやっぱり辛辣よね。そっかぁ、やっぱりあんたらはロン一強かぁ」

「「違う!」」

 

 夜のグリフィンドール女子寮にて、少女たちはきゃいきゃいとお菓子を摘まみながらおしゃべりに興じていた。前までハリーはこの集まりに意義を見いだせなかったのだが、参加してみればこれはこれで面白い。

 不知火の女子生徒からもらった《抹茶ポッギー》なるお菓子をぽりぽり食べながら、ハリーは横を見る。そこには極彩色のグミやポテトチップスをばりぼり口に放り込むローズマリーの姿がある。やっぱりカロリーなのか? あの胸には食べ物が詰まってるのか? ラクダなのか?

 ハリーの視線に気付いたのか、もぐもぐしながら「あんだよ?」と聞かれたので、ハリーはなんとなく彼女にも話を振ってみた。

 

「ローズは誰か、好みの男の子とかいないの?」

「あー。今まで付き合ってきた男どもがみんな情けなかったからなぁ。今は興味ねえや」

「お、おお……大人……」

 

 たった三つしか年齢が違わないのに、何たるオトナな発言。

 思春期真っ盛りで好奇心旺盛な十四歳女子であるハリーたちは、彼女の話が気になって気になってしょうがなかった。

 今まで付き合ってきた男の子は何がダメだったのかと問えば、

 

「奴らあたしのおっぱいかケツしか見てねえんだ。ほら、なんだ。視線でわかるだろ?」

 

 ハリーとパーバティが頷いた。

 ラベンダーとハーマイオニーが苦虫を噛み潰したような顔をする。

 

「ええ、じゃあローズさんって……その、経験豊富なの?」

「あらやだハーマイオニーったらムッツリだわね!」

「んなぁあっ!? ち、違うわよラベンダー! そ、そういうんじゃなくて。そう! 学術的な興味を持った知的な問いなのよ!」

「落ち着けハーマイオニー。コイバナほど知的から遠い話題はないぞ」

 

 顔を真っ赤にしてラベンダーとハリーに食って掛かるハーマイオニーを見て、ローズマリーはけらけらと笑う。

 それでそれで、と話をせかすパーバティに、ローズマリーはにやりと笑った。

 

「わりぃけど、あんな男どもにあたしの美乳を揉ませてやる価値はないな」

「こいつ言い切ったぞ」

「無理矢理にでも組み敷こうとする野郎が居なかったわけじゃないぜ。まあ、そういう輩には自前のスニッチと泣き別れしてもらったり、ケツに魔法ブチ込んだりしたんだがよ」

「男子が聞いたら泣きそうな話だわね」

 

 どうやら性格に違わず、ローズマリーは結構プライドが高いようだ。

 綺麗なはちみつ色のポニーテールを揺らして、ローズマリーはまるで悪党のような笑みを浮かべる。とてもではないが、恋愛話をする表情ではない。

 

「あたしのファーストキスとバージンをくれてやれるのは、あたしがあたしより強い男に惚れた時なんだろうなってハッキリ確信できるぜ」

「うわあ、すっごい発言」

「ハリーだってその時が来りゃあ分かるさ。ま、あたしだってまだ知らねぇけど!」

 

 けたけた笑うローズを見ながら、ハリーは思う。

 自分がそういうコトを誰かとする? ぼくが? このハリエット・ポッターが?

 想像してみれば、なんだか妙な気分になってしまう。これは、……ないかな。

 てかどうして相手がロンなんだ。しかも言ってることは昼間のブレオの台詞。

 妄想世界のロンが窓ガラスをぶち破ってクィディッチゴールに突き刺さったあたりで、ハリーは現実へと帰還した。どうやらローズマリーがおねむなようで、ハリーを抱き枕に眠り始めたのだ。

 壁掛け時計を見てみれば、もう夜中の零時半だ。

 明日は朝一番にイベントがあることを思い出したハリーたちは、大慌てでお菓子を片付けてベッドに飛び込むのだった。

 

 ローズマリーが談話室で大笑いしている声で目が覚めた。

 簡単にスカートとブラウスに着替えてから、何事かと見に行ってみればパジャマ姿のままカーペットに寝転がって笑い転げているアメリカ美女の姿があった。

 パジャマがめくれておへそがばっちり見えてあられもない姿になっているので、ハリーは彼女の服装を直しながら、おそらく彼女が嗤っている原因だろう人たちに目を向ける。

 

「フレッドにジョージ……なのか? なんだ、その……えーっと、立派な髭は?」

 

 ハリーが目を向けた人物は、確かにウィーズリーズの面影がある。

 しかしどこからどうみても九〇か、下手したら百歳はいってそうなお爺さんだ。

 

「ふぉっふぉっふぉ。お久しぶりじゃのう、ハリーさんや」

「ほっほっほ。ハリーさんや、晩飯はまだかの」

 

 二重の意味でボケている。 

 どうせまた何かやらかしたのだろうと思っていると、笑いすぎて泣き始めたローズマリーが目元をぬぐいながら事情を説明してくれた。

 

「くくっ、うっひひひひひ。こ、こいつらバッカでー! 《老け薬》飲んで《年齢線》越えようとしたんだってよ! そうしたらダンブルドアの書いた魔法式がこいつらに侵入してご覧の通りだ! うひゃひゃひゃひゃ」

「笑うとはなんと失礼なおなごじゃ!」

「喰らうがよい、ヒゲくすぐりじゃ!」

「ひゃひゃはははははは! あーっ! やめろやめろくすぐったい! あはっははははコラコラやめろセクハラだぞ! きゃーっ! ひゃーっ!」

 

 朝っぱらから何をやっているんだと思わなくもないが、髪を整えるためにハリーはその場から無言で立ち去る。ローズマリーが涙目で笑いながら助けを求めていたが無視した。

 身だしなみを整えて、学校指定のローブを羽織る。

 談話室で死にかけていたローズマリーを魔法で着替えさせて(もちろん野郎どもは追い払った)、担いで歩く。カウガールのようにおへそを出した派手な格好に、グレー・ギャザリング指定のローブを羽織っている。

 廊下で会った生徒たちも、みなきちんとローブを着ていた。

 大広間でユーコとソウジローにも出会ったが、彼女らもセーラー服と学ランの上にマントを羽織っている。遠目に見つけた限りでは、クラムやブレオも同じように学校指定の制服をきっちりと着ている。

 今日は六大魔法学校対抗試合、その選手発表の日。

 十七歳以上の生徒が自らの名前を書いた羊皮紙を《炎のゴブレット》に入れて、ゴブレットが選手にふさわしい者を選定するのだ。

 その発表の日なのだから、みんな気にならないわけがない。

 

「さて、諸君」

 

 教員テーブルの前に立ったダンブルドアが言葉を開けば、生徒たちが全員静かになる。

 ハッフルパフテーブルからもらったオソバを四苦八苦して食べていたハリーも、ダンブルドアを見た。

 

「お待ちかねの時間じゃ。最後にもう一度だけ言っておこう。《炎のゴブレット》に選ばれた者は、魔法的な制約がかかる。選ばれれば競技を続けなければならないのじゃ。その覚悟があって、諸君らは己の名をゴブレットに入れたことと思う」

 

 向かいの席で、ローズマリーがニヤリと笑って頷いたのが見えた。

 ハリーとてこのお祭りに参加したくなかったわけではない。下手な十七歳の生徒よりはよっぽど力を持っている自負もあるし、ヌンドゥと戦ってねなんて言われない限りは大丈夫だとも確信していた。

 しかしハリーは今回、参加を見送った。ハリー自身がまだ十四歳ということもあるが、なによりここまでの三年間は大変な目に遭ってきたからだ。だから今年くらいはいいだろう、と丸くなったのを自覚しながらそう思ったのである。

 一年間、ポップコーンでも食べながら選ばれるであろうローズマリーやらホグワーツの選手を応援していればいい。きっと熱狂できることだろう。

 

「ゴブレットに火が灯った。ここから吐き出される羊皮紙に書いてある名前が、各校の代表選手じゃ。……よしよし、まず一人目のようじゃな」

 

 炎のゴブレットとはその名に違わぬようで、本来ワインなどが注がれるべき個所から青白い炎が噴き出した。

 それは天井を舐めるように大きく育つと、一枚の羊皮紙が炎の中からその身を躍らせた。

 ダンブルドアはそれをキャッチして、名前を眺め、言う。

 

「ボーバトン魔法学校の代表選手は、フラー・デラクール!」

 

 レイブンクローのテーブルから歓声があがった。

 立ち上がりダンブルドアのもとへ向かうのは水色のローブに身を包んだ、銀髪の美女。

 ローズマリーのように派手なスタイルではないが、均等の取れたギリシャ彫刻のような美しさを持った少女だ。ビーナスに腕があれば、きっとあのように美しいのだろう。

 ハリーがハーマイオニーと共に調べたところ、彼女は《ヴィーラ》という魔法生物の血を引いていることが分かった。ヴィーラとは鳥獣人系の魔法生物で、平時は絶世の美女であるが怒りに燃えあがると恐ろしい鳥人にその身を変化させることで知られている。

 そして、魔法的なフェロモンを持つ女の敵でもある。汗などからの空気感染が主であり、もし感染せしめれば男性の交感神経を極端に刺激し、ヴィーラに対して絶対的な価値観を持ってしまう。要するに熱烈な恋をして夢中になってしまうのだ。

 歴史上、ヴィーラと結婚して子を成した魔法使いがいることはよく知られている。そういった意味では記録に残る範囲では人間と共に生きていくことに成功した魔法生物といえなくもないのだ。

 ヴィーラに恋人を取られた女性の話には枚挙に暇がない。ゆえに女の敵でもあるのだ。

 現にいますぐ隣でロンがぼーっとしている。

 

「痛った!? え、なにするんだよ!」

 

 ハリーとハーマイオニーが同時にロンの足を踏みつけ、ロンが短い悲鳴をあげた。

 にこにこして三人を観ていたローズマリーが、次の炎が燃え上がったのを見て指差す。

 それに気づいたハリーも、ゴブレットを見た。羊皮紙が出る。

 

「二校目……グレー・ギャザリング魔法学校代表、ローズマリー・イェイツ!」

「ぃよっしゃあ――っ!」

 

 グリフィンドールテーブルから盛大な拍手が響いた。

 他寮からも結構な拍手が響いていることから、もうすでに彼女はこの学校の中でもかなりの有名人になってしまったらしい。なんだか嬉しいことだ。

 周囲に投げキッスを振り撒きながら、ローズマリーはダンブルドアのもとへ歩いてゆく。

 ダンブルドアと握手を交わし、グレー・ギャザリング校長のダレルに親指を立てた拳を突き出してから、ローズマリーは奥の部屋へと消えて行った。

 

「早くも三校目が決まったようじゃ」

 

 炎のゴブレットが吐き出した羊皮紙の切れ端をダンブルドアが受け取り、未だにぷすぷす音を立てていた端っこの火を振り払う。

 名を眺めれば、ほうと声が漏れた。

 どうやらホグワーツのようだ。

 

「三校目。ホグワーツ魔法学校、代表選手。セドリック・ディゴリー!」

 

 ハッフルパフのテーブルから、爆発したかのような声援が上がる。

 照れ臭そうに立ち上がったセドリックと目が合う。おめでとう、という意味を込めて微笑みながら拍手を送ると、とても嬉しそうに笑顔を輝かせてガッツポーズを決めてくれた。

 この三年間、ハッフルパフが目立ったことはあまりなかった。しかしこの度、聖人と言ってもいいくらい善人で責任感溢れる正義感のセドリックが選ばれたことで、今年の主役はハッフルパフが持って行ったのだ。

 感動のあまり泣き出した七年生もいるほどで、その不遇っぷりが分かろうものだ。

 これでもう、あの寮を落ちこぼれの寮などと言う者は出ない事だろう。

 ダンブルドアと握手を交わして、セドリックも先の二人と同じく奥の部屋へと消えて行った。

 炎が巻き起こり、四枚目の紙を吐き出す。

 

「おっとっと。ふむ。四校目を発表する。ディアブロ魔法学校の代表選手に決まったのは、バルドヴィーノ・ブレオ!」

 

 サッとスリザリン席から立ち上がったのは、件のセクハラ青年だ。

 ハリーがウゲーという顔をしたのをロンとハーマイオニーが笑いながら、拍手を送る。大仰に礼をしたり、投げキッスをしたりしてなかなかダンブルドアの前に行かないものだから、隣に座っていたドラコがブレオの向う脛を蹴り飛ばした。

 頭を掻きながらダンブルドアの前にやってきたブレオは、二、三言葉を交わしてから握手を済ませ、奥の部屋へとスキップして消えて行った。

 その際に手が怪しい動きをしていたので、たぶん数分後にはローズマリーの撃墜数が増えていることだろう。

 

「五校目が決まった。ダームストラング魔法専門学校、代表選手はビクトール・クラム!」

 

 スリザリン席から立ち上がったクラムは、大広間中から飛び交う大歓声を一身に受けた。彼に至ってはもはや寮の垣根など存在しない。何故ならヨーロッパのヒーローが主役に選ばれるなど、当然のことだからだ。

 若干猫背気味の姿勢でダンブルドアに歩み寄り、握手をしてからまたゆっくりと扉の向こうへ消えてゆく。その際に、ダームストラングに向かって拳を振り上げたので、また爆発的な歓声を受けた。

 ゴブレットから青炎が燃え上がり、最後の羊皮紙をダンブルドアの手の中へ運ぶ。

 すすをふっと息で払って、ダンブルドアは高らかに宣言した。

 

「そして六校目が決まった。不知火魔法学校の代表は、ソウジロー・フジワラ!」

 

 ハッフルパフから大きな拍手と静かな歓声が起こった。

 物静かなのは日本人の生態だから仕方ないとはいえ、いまいち盛り上がりに欠ける。

 ソウジローはすっくと立ち上がり、つかつかとダンブルドアのもとへ歩いていく。しかし後ろでマントを引っ張られたのか、一瞬動きが止まった。見れば、ユーコが掴んでいたようだ。

 口元に手を添えて手招きしているので、なにか囁こうとしているらしい。

 ソウジローがユーコの口元に耳を近づけた時、ユーコが意地悪そうにニヤリと笑った。そしておもむろに抱き寄せると、その頬にキスをする。

 大広間は大盛り上がりだ。先ほどよりも大きな歓声やら口笛やらが響き渡り、ソウジローがダンブルドアの前に出た時は無表情のまま耳が真っ赤になっていた。

 微笑んだダンブルドアはソウジローとお辞儀しながら握手をして、最後の代表選手を奥の部屋へ通した。

 六人の戦士が選ばれたのち、ダンブルドアは大広間の生徒たちを見渡した。

 

「よし、よし。若者の愛とは何にも勝る素晴らしい魔法じゃ! 素敵なイベントも見れた事じゃて、続いては観戦者のほうにルール説明をせねばならんの」

 

 ほくほく顔のダンブルドアが生徒たちに向き直り、杖を取り出してなにやら宙に図を描く。

 どうやら今後の日程のようで、最初の試合はいつ行うのかを説明しようとしたのだろう。

 光のアルファベットが綴られている最中に、生徒たちがどよめかなければ。

 

「……、これは」

 

 炎のゴブレットが燃えている。

 赤く煌々と揺らめかせて、新たな代表選手の選定を始めていた。

 しかしこれはおかしい。六校という参加校のすべてが代表選手を選び終えている。

 ホグワーツ魔法学校の、セドリック・ディゴリー。

 ボーバトン魔法学校の、フラー・デラクール。

 ダームストラング魔法専門学校の、ビクトール・クラム。

 グレー・ギャザリング魔法学校の、ローズマリー・イェイツ。

 ディアブロ魔法学校の、バルドヴィーノ・ブレオ。

 不知火魔法学校の、ソウジロー・フジワラ。

 天を舐めるように放り出された羊皮紙から、焦げた破片が散ってゆく。

 宙にひらひらと浮くそれを手に取ったダンブルドアは、そこに書かれた文字を見て一瞬だけ硬直したように見えた。

 ハリーは直感した。

 なんだか面倒な予感がするぞと。

 

「ハリエット・ポッター」

 

 今度はハリーの身体が硬直する番だった。

 ホグワーツ魔法学校の、ハリエット・ポッター。

 本来ならば選ばれないはずであるホグワーツの代表選手、その二人目。

 

「……ポッター! ハリー・ポッター! ここへ来なさい!」

 

 ダンブルドアの声がハリーの耳に届く。

 手に持っていたジンジャーエールの入ったグラスを机において、ハリーは眼を閉じた。

 誰だ、今年が平和であるなどと言った奴は。

 

「ハリー。行かなくちゃ」

 

 ハーマイオニーの囁き声に、ハリーは立ちあがる。

 全校生徒が見つめる中をまっすぐダンブルドアに向かって歩いてゆくハリーは、自分の境遇がまるで処刑台へと向かう囚人に思えて仕方がなかった。

 困惑しながらもダンブルドアの元へ歩み寄ったハリーは、代表選手たちのいる部屋で待つようにと伝えられる。

 それに無言で頷いて返したものの、ハリーがダンブルドアの顔を見たときは内心でひどく動揺していた。

 あんなにも厳しい顔をしたダンブルドアを見たのは、初めてだったからだ。

 まるで……そう。まるで、あれは、

 敵を見るような眼だった。

 




【変更点】
・新三校との交流。
・ムーディの授業にて禁呪の実演。
・思春期の男の子だから、仕方ないのです。
・代表選手は七人。

【オリジナルスペル】
「カダヴェイル、尽くせ」(初出・14話)
・《冒涜の呪文》。死体に魂魄情報を書き込み、操り人形の亡者として使役する呪文。
 1982年《許されざる呪文》に登録。暗黒時代、ヴォルデモート卿が開発。

【オリジナルキャラクター】
『ローズマリー・イェイツ』
 本物語オリジナル。グレー・ギャザリングの代表選手。
 アメリカ人。金髪碧眼の陽気なナイスバディ美女。射撃魔法を得意とする。

『バルドヴィーノ・ブレオ』
 本物語オリジナル。ディアブロの代表選手。
 イタリア人。黒髪青目の長身痩躯なスケベ。精密な魔法操作を得意とする。

『ソウジロー・フジワラ』
 本物語オリジナル。不知火の代表選手。
 日本人。黒髪黒眼のポニテサムライ。近接戦闘系の魔法全般を得意とする。

七人の魔法使いが集まり優勝杯をうんたら。
この度紹介されました『冒涜の呪文』。これは原作でたびたび出てきた《亡者》に勝手に設定づけたものです。この呪文の登場によって暗黒時代では、殺された家族や仲間が襲ってくることが稀によくありました。ヤバい呪文だってばよ。
さて、例年のハリーイジメが始まりました。
六人の年上たちと優勝をめぐって争い合う、バッチリ戦闘描写たっぷりな一年間が始まります。ちょっと今年はハードすぎるので、代わりにお友達が増えたよやったねハリー。
代表選手たちとの交流や、性別による意識、そしてドギツイ運命が渦巻く四年目。頑張ってもらいたいものです。

※ダームストラングについて訂正。


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5.心の鎧

 

 

 

 ハリーはひどく困惑していた。

 《炎のゴブレット》がハリーの名前が書かれた羊皮紙を吐き出したことで、いるはずのない七人目の代表選手に選ばれてしまった。

 もちろんハリーは応募などしていない。何故なら他の参加したかったホグワーツ生たちと同じく年齢線を破る方法を見つけられなかったからだ。さらに言うと、ハリーはおばあちゃんになっていない。

 とりあえず代表選手たちが待機している部屋に行きなさいと指示されたハリーは、代表選手たちが険悪な雰囲気でいる中、胃がきりきり痛み始めたことを自覚しながら椅子に座っていた。

 ハリーを責めているのは、フランス魔法学校《ボーバトン》の代表選手、フラー・デラクール。多少間延びした発音ではあるがそれでも綺麗な英語で、ホグワーツから二人も代表が出るのはおかしい、不正だと騒ぎ立てているのだ。

 一方それに対して反論するのは、同じイギリス魔法学校《ホグワーツ》の代表選手、セドリック・ディゴリー。彼とハリーはプライベートでも仲が良く、スポーツマンとしてライバルとして、互いに信頼をおいている。ハリーが不正をして喜ぶような少女ではないことを良く知っているのだ。

 もう一人ハリーを庇ってくれているのは、アメリカ魔法学校《グレー・ギャザリング》の代表選手、ローズマリー・イェイツだ。彼女は単純にハリーと仲が良いために責め立てられる様を見ていられなかったといった具合である。

 ふたりともハリーの身内と言ってもいい関係にあることから公平性に欠けるため、この場での発言力はあまり高くない。壁に寄りかかっている日本魔法学校《不知火》代表選手のソウジロー・フジワラも同じことだ。彼の場合はシャイなのか、それともハリーを擁護する発言が無駄であることを知っているためか、無言を貫いている。

 

「ですーが、それでも名前を入れない限り《ゴブレット》が指定するなど、ありえませーん! それに懸念材料となっている《年齢線》を越えるだけなら方法はいくらでもありまーす! それこそ、上級生をたぶらかして名前を入れてもらうとかありまーす!」

「下ネタで耳真っ赤にするようなハリーがそんなことできるわけねぇだろ!」

「その無駄に大きーな、それでどうにーか、できるんじゃないですかー?」

「乳のねーやつが僻んでんじゃねーぞ!」

「んなっ! 牛女がなにーを!」

 

 フラーとローズマリーの口論が脱線してゆくのを、セドリックは止めることができない。もはや隠すことなくバストサイズの話題でギャーギャー言う女性相手に、口をはさめるほどセドリックは非紳士的ではないのだ。

 せめてもの証としてハリーの肩をぽんぽんと叩いてくれているが、手つきからしてちょっと意識しているのが分かる。居心地が悪いのだから仕方ないだろうとハリーは判断した。よもや今の会話でハリーの胸のことを考えているなど、セドリックに限ってはないのだから。

 イタリア魔法学校《ディアブロ》代表選手の、バルドヴィーノ・ブレオの言葉は女性を持ち上げているだけなので、全く無意味と言ってもいい。矢面に立たされているハリーは当然として、ローズマリーにもフラーにも君の意見は素晴らしいくらいのことしか言わないため、いまは相手にされていない状態だ。

 そこで声をかけてきたのは、今までソウジローと共に壁際に居たドイツ魔法専門学校《ダームストラング》の代表選手、ビクトール・クラムだ。

 きつく閉じていた目を見開き、よく通る低い声で発言する。

 

「ヴぉく達が議論すべきは、そこじゃないはずだ」

 

 ドイツ語訛りの強い英語で、静かに言う。 

 六人の視線が彼に集まるものの、世界中の注目に晒される経験のある彼は身じろぎすらしない。堂々と意見を放った。

 

「問題ヴぁ、これからヴぉく達がどうすヴぇきなのか。《炎のゴヴレット》でもう一度選定をやり直すのかどうか。しかし、なによりも……」

 

 ここでクラムがちらりと視線をソウジローに向ける。

 それに対してソウジローは少し目を開けて、小さく頷くとクラムの言葉を引き継いだ。

 

「……別に。一人増えようが、問題ない」

「問題大ありでーす! なぜそんなこーとを言えるので――」

「誰が相手だろうと、勝つのは俺だからだ」

 

 にべもなく返された言葉に、フラーは絶句した。

 満足のいく答えだったのか、クラムは口角を持ち上げて笑った。

 クラムが鼻を鳴らしながら「訂正すべきは、勝つのがヴぉくだということだ」と付け加えてきても笑っていられるあたり、二人の自信のほどが窺える。

 普段ならばハリーも喜んでこの二人の輪に加わろうとしただろう。

 クィディッチと魔法戦闘という違いはあるものの、世界に覇を唱えんとする男二人と手合せできるのだ。これ以上ない経験を積めるに違いない。

 しかしこの状況はハリーが望んだものではない。

 はやくハーマイオニーとロンを抱きしめて、くだらない話をして笑いあってから暖かいベッドでぐっすり眠りたい。こんな胃に穴の空いてしまいそうな気分は味わいたくない。

 

「ハリー! ハリー・ポッター!」

 

 扉が開いてつかつかと歩み寄ってきたのは、ダンブルドアその人だ。

 強い語気でハリーの名を呼び、怒っているかのように髭も髪も膨らんでいる。

 ハリーの華奢な肩を掴むと、老人とは思えない力で揺さぶりながら詰問してきた。

 

「ゴブレットに名を入れたか! 或いは上級生に頼んで入れてもらったか!」

「い、いえ……どちらもしていません、先生」

「うそだ!」

 

 ハリーの声を否定したのは、ヤギ髭の男、イゴール・カルカロフだった。

 怒りに燃えた目でハリーのことを睨みつけている。

 

「その小娘は嘘をついている! ホグワーツから二人も……! そんなの、規律違反。そう、ルール違反だ! 不正が行われているぞ、ダンブルドア!」

「その通りでーす。一校から二人の代表選手が選ばれるといーうのなら、我がボーバトンかーらも、二人選ばせていただーきます」

 

 マダム・マクシームも同じくご立腹のようで、その巨体をさらに膨らませている。

 その二人をまぁまぁと諌めているのはレリオ・アンドレオーニだ。どうやらアンドレオーニは中立的のようで、何らかの不具合によるもならば善し、ハリーが不正をしているのならば悪し、と考えているようだった。

 サチコ・ツチミカドは小さな体で杖を突きながら、ソウジローになにやら囁いている。表情を変えずに頷いているあたり、あちらも中立らしい。

 ローズマリーの耳元で囁いていたクェンティン・ダレルは、サングラスの奥で表情が隠されている。ローズマリーの表情が渋いあたり、あちらはハリーを擁護する気はないようだ。何やら強い口調でローズマリーが言い返したが、ダレルは首を振るばかりだ。

 

「ハリー、もう一度確認じゃ。君は、何もしておらなんだな?」

「そうです」

 

 ハリーの言葉も強くなった。

 

「ぼくは――なにも――して――いません。自分から死の危険に突っ込む訳ないでしょう」

「嘘を吐くなといったはずだぞポッター!」

 

 激昂したカルカロフがハリーの胸倉を掴みあげようと手を伸ばしてきたとき、ハリーの耳を掠めて後ろから杖がさっと突きつけられた。

 何事かと振り向けば、そこには恐ろしい形相のマッドアイ・ムーディが居た。

 怒っているのか、嗤っているのか判別がつかない。

 

「ハリー・ポッターに手を出そうとはずいぶんと気が大きくなったようだな、カルカロフ。ええ?」

「マ、マッドアイ・ムーディ……!? な、なぜここに……」

「闇の輩に手を出させんために決まっている! いいか、カルカロフ。ちょっとでも手を出してみろ……あのころの地獄を味あわせてやるぞ!」

「アラスター!」

 

 ムーディに怯えるカルカロフは、ダンブルドアの声で大人しくなった彼を見て心底ほっとしたようだ。二人の間に、いったいなにがあったのだろう。

 しかしそんな邪推をしている暇はない。

 どうしたものかとハリーが混乱しているところ、よく通る低い声が皆の議論を遮った。

 

「《炎のゴブレット》は、たったいま鎮火した」

 

 見てみれば、やってきたのはバーティ・クラウチだった。

 マグルの銀行員と言っても違和感がないほどきっちりとしたスーツを着込んでいるのは相変わらずか。しかしその眼は昏い色に染まっており、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。

 

「ルールは、ルールだ。ゴブレットが選定した以上、ハリー・ポッターは代表選手の一人として戦わなければならない」

「しかーし! そんなこと、許されませーん!」

「ああ、許されない。これは何らかの手による不正。それは明らかだ。しかし、《炎のゴブレット》による選定は魔法契約。これを破ることはかなわないことは、ご存じのはず」

「む……」

 

 カルカロフが唸った。

 わざわざあんな大仰な魔法具を使ったのは、なにも見栄えのためだけではない。

 ああやって選手を選ぶことで、途中のリタイヤを認めないためだ。

 自ら立候補して危険に臨むのだから、それは道理である。しかし今回のように巻き込まれてしまった場合は、そのシステムが裏目に出るのだ。《炎のゴブレット》自体、大昔の魔法使いか魔女が造り上げた魔法具であることから、破った場合なにが起こるかわからないというのもまた、恐ろしさの理由の一つである。

 ハリーの安全のためには、危険な競技に出さなければならない。

 矛盾した状態と不正を合法と認めなくてはならない状況。

 これがクラウチに不快感をもたらしているのだろう。

 

「ともあれ、どうしてこうなったのかは兎も角として……」

「兎も角!? クラウチ、これは重要なことだぞ!」

 

 とりあえずで話を切り上げようとしたクラウチに、ムーディが叫んだ。

 至極楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。

 

「《炎のゴブレット》のように強力な魔法具を騙すには、高度な『錯乱の呪文』が必要だ! 大方、参加していないはずの七校目の選手としてポッターの名を入れたのだろう! 相すれば七校目からはポッター一人しか応募していないわけだから、選ばれるのは道理だ! そうだろうが、ええ!?」

「マッド……失礼、アラスター・ムーディ。しかしそれは暴論ですぞ。そんな強力な『錯乱の呪文』をかけるような人間は、それこそ犯罪者かそこらの輩しかいない」

「わかっているじゃないか」

 

 ムーディの言葉に、この部屋にいる大多数の人間がはっとした。

 視線はムーディから、ハリーの額へと注がれている。

 それによってハリーも、ムーディが何を言いたいのかが分かった。

 

「ハリー・ポッターを殺したいと思っているどこかの誰かが、やったに違いない!」

 

 荒唐無稽な話かもしれない。だが可能性としてはゼロではなく、むしろ高い。

 ハリーの死を願う人間は、きっと少なくない。闇の帝王然り、それを信奉していた死喰い人然り、大多数の闇の魔法使い然り。

 ヴォルデモートによって作られた暗黒時代は、実に外道どもが生きやすい時代だった。

 力を求める強き者と、力を求めるには弱すぎる者によって作られた世界。

 強者が弱者を貪り喰らい、力なき善良な女子供は家で死を待ち怯えて震え、力なき善良な者は嬲られ殺され、力ある善良な者は操られた自分が愛する者達へ危害を加えてしまうことを恐れて姿を消した。

 そうなれば残るは、蛆虫にも劣る悪党どもだけである。

 法は意味をなさず、秩序は乱れる。

 人々は怯え、彼らを食い物にして笑う心無き者がはびこる。

 犯罪者による犯罪者のための犯罪者の楽園。それが十年前までのヨーロッパ魔法界だったのだ。日本やアメリカは、当時のヨーロッパに介入することを恐れた。ヴォルデモートの非道を許せずに幾度か助けを寄越したものの、それらが無事に帰ってきた試しがないからだ。

 悪が悪を呼び悪を育て、悪を成す時代を跋扈した魍魎ども。

 最悪の人的災害(ヴォルデモート)によって甘い汁を吸っていた者達にとって、その闇を一撃のもとに屠り去ったハリー・ポッターは憎んでも憎み切れない眩い光だろう。

 だから侵したい。ゆえに犯したい。

 何も知らず正義の旗印を突き立てられた少女を穢し、闇よ再びと願う輩のなんと多いことか。そして闇の恩恵を受けていた者の、なんと醜いことか。それだけの数を誇る悪の視線が、ハリーの肢体を舐め回しているのだ。

 疾く、ただひたすらに疾く死ねと。

 

「ハリー・ポッターを狙った犯行だと……」

「その通りだ。それ以外に考えられまい?」

 

 絶句して呟いたクラウチの言葉に、ムーディが断言する。

 当然ながら、ハリーとて殺されるのは御免だ。

 そうなればハリーは、競技を受けるしか選択肢はない。幸いと言っていいのかはわからないが、この三年間揉まれに揉まれたことで災害級の試練が出されない限りは生還できる自信がある。

 余程のことがなければ、対抗試合の内容で死ぬということは無いだろう。

 それでも、今年も大変な年になることは確かだ。ハリーはそう思うと溜め息を吐いてしまうことを止められなかった。

 

 

 グリフィンドールの談話室。

 気落ちしたハリーがセドリックとローズに慰められ、二人と別れて談話室へ帰ってきたところ、大勢から肩を叩かれたり口笛を吹き鳴らされたりした。

 どうやら全員が、ハリーが年齢線を出し抜いて応募に成功したと思っているらしい。

 訂正するのもばからしい。

 ハリーは奥のソファに座って待っていたハーマイオニーに抱きつくと、彼女の胸に顔をうずめて甘えた。

 

「うーうー」

「はいはい。災難だったわね」

 

 ハーマイオニーが苦笑いしながら背中を優しく撫でてくれる。

 隣に座っているロンの喉から生唾を呑み込んだ音が聞こえたが、努めて無視した。

 二人はハリーが何もしていないことをわかっているようで、何も言わないでくれる。

 心の底から安堵したハリーを見てか、フレッドとジョージが騒ぐ生徒たちに何やら指示を飛ばして各々がばらばらに去って行った。何を言ったのかはわからないが、あの双子はハリーが年齢線を突破できたと思っているはずがない。

 今はもうすっかり髭がなくなっているが、試行錯誤を繰り返してなお失敗してしまった二人は、年齢線が強固なセキュリティを誇っていることを良く知っているのだ。

 

「しかしハリーも大変だね。こうも厄介事ばかりだと嫉妬も起きないというか……」

「……何に嫉妬するんだいロン」

「だって、大活躍のヒーローじゃないか。君が男の子だったら僕はかなり嫉妬していたと思……わないな、あれだけ大変な目に遭いたくはない。ハリー、今年も僕は君の隣でばっちり支えてあげるよ」

 

 ロンの冗談に少し頬を赤くしたハリーは、ハーマイオニーの胸に顔を隠した。

 呆れた様子のハーマイオニーが何を想っているのか聞こえてくるようだったが、許してほしい。あんなのはだめだ。仕方ないじゃないか。

 兎にも角にも、グリフィンドール寮生たちからはテスト免除ということには羨ましいと素直に感想を述べられた。じゃあ代わってみるかいと言えば黙り込むのは分かっているのでたいしたことはない。

 問題は、他の寮生だ。

 特にハッフルパフからの敵愾心が半端ではない。

 あまり目立ったことのないあの寮は、今回の出来事に対して活躍を掻っ攫われるかもしれない酷い妨害だと思ったようだ。セドリックを露骨に褒め称え、ハリーを卑怯者と囃し立てて遊ぶスリザリン生の言動に対して眉をひそめるどころか全くもってその通りだと思っている節がある。

 ハリーとてグリフィンドールが何十年も活躍できなかった状態で、やっと来たチャンスを不意にされたらいい気分にはならないだろう。

 だから仕方のないことだ。

 それに、一年生の時の最悪な気分に比べればずっとマシだ。

 いまは隣に、ハーマイオニーもロンもいる。

 たとえ全校生徒が敵に回ったとしても、この二人さえいればハリーには耐えられる自信がある。肉体だけではなく、心の方も成長しているはずなのだ。

 

O.W.L.(ふくろう)! あなた方には来年、O.W.L.試験が待っています。試験内容についてはこの歴史あるホグワーツ、しっかり把握しておりますのでこの一年間であなた方のつるつるした脳みそに叩き込んで差し上げましょう」

「せ、先生! フクロウ試験は来年のはずです!」

「そうです、たったの一年しかないのです! この教室の中で無機物を有機物に《変身》させることのできる生徒が、いったい何人いますか? 少なくともグリフィンドール四年生でそれができるのは、ミス・グレンジャーとミス・ポッターだけです!」

 

 ハリーとハーマイオニーは、互いの耳が赤くなっているのを確認した。

 勉学に秀でたハーマイオニーが出来るのはいつものこととして、ハリーがこうして褒められることはそこまで経験にない。闇の魔術に対する防衛術ならともかく、割と体を動かして物事を解決したがる性質のハリーにとって、座学は好きではないのだ。だが知識が武器に直結するこの魔法界で、勉強しない手立てはない。それ故のお褒めの言葉だったため、なんだか邪な動機で習得したような気がして恥ずかしかったのだ。

 一緒に授業を受けているユーコが苦々しい笑みを浮かべる。ハリーたちの一つ上ということはつまり、彼女がイギリス人ならば今年がフクロウ試験対象者なのだ。日本の魔法学生がフクロウ試験を受けるとは聞いたことがないが、日本とて必須の試験くらいあるだろう。それを思い出しているのかもしれない。

 《変身術》のみならず《呪文学》も、《魔法薬学》に《薬草学》など、様々な授業にて大量の宿題が出された。これは競技が始まる前に、生徒たちの頭へ知識を叩きこもうという算段だろうか。

 ちなみに競技者はこの宿題をも免除されているのだ。目の前でスネイプが苦虫を口いっぱいに頬張って噛み潰したかのような物凄い顔をしていたのを思い出す。宿題地獄でハリーをいじめることができなかったからだ。

 

「まいったな」

 

 ハリーの目の前には今、スコーピウス・マルフォイがにやにやした顔で立っている。

 地下牢の入り口をふさいでいるので、授業が終わっても出れない状態だ。

 後ろから通れずに不満の声が上がるが、それはスコーピウスに言ってもらいたい。

 

「どうだいポッター、よく似合うだろう」

 

 スコーピウスが自分の胸に取り付けたバッジを見せつけてくる。

 いったい何のバッジかと思って見遣れば、《ホグワーツの真の王者、セドリック・ディゴリーを応援しよう》と書いてあった。

 セドリックの顔写真が、本人が絶対にしないような気障ったらしいスマイルを浮かべている。やはり写真映えする男だ。

 

「カッコいいね」

 

 ハリーの皮肉に気づいているのかいないのか、スコーピウスは鼻を鳴らした。

 そして嬉しそうにそれだけじゃないぞと言うと、バッジをこつんと押す。

 するとどうだろう、ハッフルパフカラーの黄色と黒だったバッジがマーブル模様を描きながら緑色に変わり、ハリーの顔写真に取って代わった。

 今度の文字は随分とストレートで、《きたないぞ、ポッター》の一言。

 文字に押しつぶされてハリーの顔写真が醜く歪んだ。

 

「どうだい、ポッター。卑怯者の、小汚い、嘘吐きポッター」

「えーっと……」

 

 相変わらず出口をふさいでにたにた笑うスコーピウスに、ハリーは困惑した顔で唸る。

 こういったことを仕出かしてくるのは、まぁ別にいい。ハリーとて気持ちはわかる。

 だがわざわざこれを作ったと思うと、何というか……。

 

「それの製作時間をフクロウ試験への勉強に充てたらいいのに」

「だまれ、グレンジャー」

 

 いや本当に。

 ハリーを貶すためだけにこんなたいそうなものを作るのは、少しばかり人生の無駄遣いだと思うわけだ。グリフィンドール生たちがうんうんと頷くのが聞こえる。

 そしてハリー自身、ちょっと気になることがある。

 

「それで、スコーピウス」

「なんだポッター!」

「ぼくのその写真、どこで撮った? 覚えがないんだけど」

「え? ……あー……」

 

 顔を逸らされた。

 ……え? なに? つまり……これは……。

 ハリーは全身に寒気が走り、自分自身を抱きしめて震えた。

 判決を下す。

 

「ぎ、ぎるてぃ」

「おい君ら手伝え! マルフォイをとっ捕まえろ!」

 

 ハリーの震え声を聞いたロンが大声で指示を飛ばす。

 抵抗空しく、スコーピウスはグリフィンドール生に抑えられてしまった。

 弟が襲われたためにドラコが助けようとしたものの、ハリーがぽつりと事情を零すと呆れた顔になり、そして憤怒をにじませ、足音高く去って行ってしまう。

 スコーピウスがその後ろ姿を絶望的な顔で見つめていたのが、ハリーの溜飲を少しだけ下げさせた。

 

 さて。

 どうしたものかとハリーは悩む。

 ローズが心配してくれるものの、彼女も条件は同じだ。

 それを言うと彼女も一緒になって頭を抱えてしまったので、頼りにならない。

 第一の課題。

 いったい何を突きつけられるかわかったもんじゃないからだ。

 ハーマイオニーが調べてくれた結果、今までの三大魔法学校対抗試合では、初戦は強力な魔法生物と戦って生き残るという課題が多かったそうだ。今回は六校あるために一概にそうとは言えないだろうが、それでも何もわからないよりはよっぽどマシだ。

 ヌンドゥが出てきたらどうしよう。周囲への被害を抑えながら戦うなど、ハリーには不可能だ。二年前の個体は年老いて片目が盲いていてなお僅かな勝機しかなかったので、今度こそ殺せる自信などない。というか、普通に即死する可能性が濃厚だ。

 バジリスクという可能性もある。だが蛇語で話は通じても、ハリーの友人であるバジリスクと違って友好的ではないかもしれない。というか、普通そうだろう。彼女の魔眼はハリーに効かなかったものの、別の個体の放つ死の視線にも耐性があるかは分からない。

 アクロマンチュラなんてどうだろう? ハグリッドの愛するペット、アラゴグと同じ魔法生物種だ。たしかに毒液やらハサミやらと危険なものはいっぱいくっついているが、今のハリーならば殺せないこともないと思う。ただし、自分の命と引き換えに。

 キマイラやらグリフォンといった存在も十分に有り得る。

 じゃあレシフォールドか? これならば助かる。なぜならハリーは『守護霊』の魔法が使えるからだ。しかしローズマリー含め、これに関しては使えない選手もいるはずだから可能性としてはないだろう。

 そういえばハグリッドが新種の魔法生物を創りあげたという話を聞いたな。アレか? あれなのか? 意味の分からない造形をした気持ち悪いアレなのだろうか。皮をむいた海老のような……なんといえばいいのか、感想に困る外見だったのは覚えている。

 他にも色々と思いつくことは思いつく。フラッフィーズと同じ種類のケルベルスなども出てくるかもしれない。というか、ケルベルスは確か神話上の存在ではなかっただろうか。ということは、魔法界にはマグルの物語に出てくるような魔法生物が実在するかもしれない。ハリーもハーマイオニーも、勉強熱心とはいえ所詮学生の域を出ることはない。二人が知らないような突飛な魔法生物が居てもおかしくはないのだ。

 うんうん唸って頭を働かせていると、開きっぱなしの窓からヘドウィグが舞い降りてきた。ソファに俯せになって倒れていたローズマリーの尻に着地し、ホーと低く甘えるような声を出す。

 ハリーはヘドウィグから手紙を受け取ると、そこらへんにあったクランベリー入りのビスケットを与える。嬉しそうにハリーの指を甘噛みしたヘドウィグは、窓からその身を躍らせてどこかへと飛んで行った。

 

「……英国魔法界っていまだにフクロウ使ってるんだよね」

「え? アメリカ魔法界じゃなに使ってるの?」

「え、電話」

 

 普通の答えが返ってきた。

 冗談だろうとハリーはそれを流して、手紙を開いた。

 ハグリッドからだった。

 どうやら今日、お日様が沈んでから小屋に来てほしい、とのこと。

 時間から考えて、夕食後に尋ねればそのくらいだろう。

 ハリーはローズマリーを助け起こしてから、大広間に向かうのだった。

 

 

 バター揚げは気がくるっている。

 アメリカ料理ということで食べてみたが、ハリーは後悔した。

 思えばローズマリーもその料理には手を付けていなかった。ハメられた。

 未だにむかむかする胃を抑えながら、ハリーは校庭を歩く。

 外出禁止時間はとうに過ぎているので、当然ながら透明マントで姿を隠したままだ。小屋の扉をノックすると、なにやら緊張した様子のハグリッドが扉の隙間から顔を出してくる。一体何をそこまで警戒しているのか。

 

「……ハリーか?」

「ぼくだよ」

 

 姿を消したままだったので、顔だけをマントから出して正体を明かす。

 ほっとしたハグリッドは、小声で「こっちゃついて来い」と指示してくる。

 いったい何の用事で呼ばれたのかさっぱりわからないハリーは、そのまま無言でハグリッドの後ろを歩く。すると、どうだろう。森の中へと入っていくではないか。

 それに、なんだろう。へんな臭いがする。

 

「ハグリッド……?」

「ええから。悪いことなんかありゃーせん」

「いや、この臭いはなに?」

「うん? ああ、オー・デ・コロンか? つけてみた。似合うか?」

「あー……」

 

 答えに詰まったハリーの呻き声を肯定ととらえたようで、ハグリッドは見るからに上機嫌になった。ハリーはハリーで、鏡の前で香水を吟味するハグリッドを想像してしまい笑いをこらえるのに必死だった。

 ハグリッドの毛皮で作られた上着に大きなコガネムシが張り付いていたので一言断ってから杖を振るって遠くへ弾き飛ばし、ハリーはハグリッドについて歩く。

 なぜ、いきなり香水なんてものを付けようと思ったのだろう。

 その疑問はすぐに氷解することになる。

 

「アグリーッド」

「オーッ、オリンペ。よく来とくれた。さぁさ、こっちじゃ」

 

 ハグリッドに負けず劣らず長身の女性、マダム・マクシーム。

 シェーマスとディーンが、彼女には間違いなく巨人の血が入っていると噂していたが、あながち間違いではないのかもしれない。ハグリッドもそうだが、さすがに少し大きすぎる。

 魔法族の肉体は、非魔法族とさして変わりない。同じ人類なのだ。魔法的観点から見れば違うが、生物学上は構成物質にも遺伝子にも差異はなく、ただ血中にエーテルが存在するかどうかという一点だけで魔法族になるか、非魔法族になるかが決まるのだ。

 ゆえになんらかの病気を除けば、一般的な人間と大きく違う魔法族には何か異種族の血が混じっていると考えて間違いはない。

 例えばフリットウィックは血族のうちにレプラコーンがいるため、あれほど小柄なのだ。まだ確証は得られていないが、ボーバトン魔法学校のフラー・デラクールにはヴィーラの血が入っている。

 多少の無茶はあっても、巨人と人の間に子がなされてもおかしい話ではないのだ。

 まあ、たとえハグリッドに巨人の血が入っていようが、友達なのだから問題はない。あるとすれば、彼の危険な生物が好きという性癖だけだ。

 ともかく。

 彼とマダムの子が生まれたら、いったいどれほど骨太なのだろう。

 そう考えてしまうのは仕方ないほどに、ハグリッドはマダム・マクシームに対して好意を抱いているのが丸わかりだった。

 

「ほーら。どうじゃ、美しかろう」

「まぁ……マニフィーク(すばらしい)……!」

 

 ハグリッドのそんな言葉と共に目の前に広がった光景に、ハリーは絶句した。

 七つの大きな檻が見える。

 その中に居るのは、なんとまぁ、ハグリッド愛しのドラゴンではないか。

 マダム・マクシームもフランス語で何やら呟いたが、恍惚とした表情からするに彼女もハグリッドの同類だろう。ハリーからするとデカいトカゲが怒り狂って火を噴いているようにしか見えないが、二人には流麗な美の化身がキラキラ輝く夢と希望でも振り撒いているように見えるのだろう。

 しかし、そうか。

 

「なんだ、ドラゴンか」

 

 ハリーのホッとしたような呟きに、ハグリッドは少しぎょっとした。

 普通はドラゴンを相手に戦うなど、十四歳の魔女からしたら絶望以外の何物でもないだろう。

 だがハリー・ポッターという女は違う。

 相変わらず死の危険が付きまとうことに違いはないが、殺す方法がわかっているだけ余程マシなのだ。

 ヌンドゥと違って、息をしてもいい。吸魂鬼と違って、戦う前に戦闘不能にまで追い込まれない。死喰い人と違って、狡猾な手を使ってくるわけではない。

 さらに言えばドラゴンには眼球という弱点がある。鱗で覆われた分厚い皮膚に呪文は通用しないが、『結膜炎の呪い』などで眼球を狙ったりするという戦闘マニュアルが組まれているのだ。

 危険だ。危険だが、殺せないほどではない。

 

「ハグリッド、第一の試練はあれと戦って殺すの?」

「殺すだなんてとんでもねえ。ハリー、ヒトはドラゴンに勝てねんだぞ」

「そんなことないと思うけど」

 

 ドラゴンの素早い動きは『身体強化呪文』で何とかなるだろう。

 目を潰してからは自由だ。首を落とすか、頭を砕くか。眠らせるか、失神させるか。

 ブレスや爪、尾などといった一撃喰らっただけで即死するような攻撃をしてくるのだから、持続力よりも強度を優先した『盾の呪文』を習得するべきかもしれない。

 ハリーはハグリッドに城へ戻る旨を伝えようとしたが、ドラゴンが暴れ回り竜使い(テイマー)達があげる悲鳴と怒号をBGMにしていい雰囲気になっていた。

 二人の一風変わった逢瀬を邪魔しないよう、ハリーはその場からそっと立ち去った。

 

「うぇええ!? ドラゴン!?」

「ロン、声デカい」

 

 グリフィンドールの談話室で、先ほど見たことをハリーは話していた。

 試練の前に内容を把握するなど思いっきり不正であるが、魔法学校対抗試合においてカンニングは伝統のようなものである。特に気にしないことにした。

 その答えを聞いて、渋い顔をしたのはなにもロンとハーマイオニーだけではない。

 ソファでフレッド・ジョージとおしゃべりしていたローズマリーも絶句していた。

 

「ちょ、ちょっと待てハリー」

「なぁにローズ」

 

 あっけらかんと返答したハリーに、またもローズマリーは目を見開く。

 ポニーテールを解いているのでさらさらした金髪を揺らして、ローズマリーは言う。

 

「あたしはグレー・ギャザリングの代表選手だぞ? なんで目の前で言った?」

「え? だめ?」

「駄目だとかそういうんじゃねえだろ。なに敵に情報バラしてんだって言ってんの」

 

 そこでハリーはようやく納得がいった。

 ローズマリーが談話室に来たときにシェーマスやロンなどが苦い顔をしていた、その理由もわかった。そしてその顔を見て、どこか苦々しげなローズマリーの表情も。

 要するに、ローズマリーはスパイ行為を働いていたのだろう。

 せっかく仲良くなったのだから一緒に居ても不自然ではないし、ぽろっと情報を漏らしてくれれば御の字といったところか。

 だが、ハリーにはそんなもの関係ない。

 

「別にいいじゃないか、敵っていうか友達なんだし」

「だーかーらー! あたしはお前のスパイやってたんだぞ! 何をわざわざ教えてんだって聞いてんだよ!」

「いや、だって」

 

 ハリーの知らぬことだが、このスパイ行為はローズマリーの意思ではない。

 クェンティン・ダレルが勝利のため、ローズマリーに指示したのだ。当然ながらアメリカは初めてこの大会に参加する。いい成績を残す必要があるのだ。

 そのため、ダレル自身乗り気ではなかったがこうして少しでも勝率を上げる必要がある。代表として選ばれた以上ローズマリーも仕方なくその案に乗った。

 だというのに、ハリー・ポッターは普通に情報を与えてきた。

 いったいどういうつもりなのか。

 

「だって、なんだよ。騎士道精神のつもりか?」

「ううん。だって教えたところで、勝つのはぼくだからさ」

 

 いつかのクラムとソウジローのように、ハリーは不敵に笑って見せた。

 ハリーの自信満々な言葉に、ローズマリーは唖然とする。その言葉で、緊張してやり取りを見守っていたグリフィンドール生たちがやんやと騒ぎだした。

 よく言った。言ったからには勝て。などなど、総じて好意的な反応であったため、ハーマイオニーは心底安堵した。ハリーが利敵行為と呼ばれることをしたのは確かなのだ。

 もしかしたらグリフィンドール生はそこまで気づいていないのかもしれないが、それでも、ともすれば勝つ気がないだの裏切りだのといった意見が出たところでなにもおかしくはない。

 ハリーの言葉を聞いてから口をあけっぱなしだったローズマリーも、次第にくすくすと笑ってしまう。そしてハリーのもとに歩み寄ると、彼女の身体を強く抱きしめた。

 

「うわっ?」

「ハリー! お前ほんっといい奴だなぁ! あーもう、大好きだぜこんちくしょう!」

 

 フレッドとジョージも囃したて、基本的にノリの軽い連中を焚きつける。

 ハーマイオニーは微笑みながら、あたりを見渡した。一歩間違えれば険悪な雰囲気となっていたというのに、いまやハリーとローズマリーが一緒になって笑いあっている。

 もはやあの頃の、誰も信じることができず独り怯えていた子供はどこにもいない。

 力を貪欲に吸収しながらも人を信じることのできる、大人になりつつある少女。

 それが今のハリーだった。

 そしてハーマイオニーは、それがとても誇らしい。

 愛する親友の成長が、とてつもなく嬉しかった。

 

 

 ハリーはローズマリーと共に、ホグワーツの廊下を歩いていた。

 その後ろにはセドリックとソウジローがついてくる。対抗試合関連の呼び出しをロンからの伝言で受けたので、ハッフルパフ寮までセドリックを呼びに行ったところ、ちょうどソウジローも見つけたのだ。

 廊下を歩きながら、ハリーは振り返って言う。

 

「あ、そうそう二人とも。最初の試練はドラゴンと戦うんだってさ」

「えっ? ど、どういうことだいハリー?」

 

 案の定混乱したセドリックに、ローズマリーは笑って説明する。

 セドリックは流石グリフォンドール生、と笑って納得したようだ。

 一方、反応を返さなかったソウジローは感心したような目でハリーを見ている。

 二人とも正々堂々とした勝負が好きなタイプの男だ。ハリーの言葉に共感こそすれ、反感を覚えるような性格はしていない。

 

「このこと、クラムやブレオ達は知ってるのかな?」

「知ってると思うぜ。ダームストラングやボーバトンの校長はダンブルドアにはかなり対抗心を燃やしてるし、ディアブロのアンドレオーニ校長はそいつ自身が学校の創設者だ。強かに情報を手に入れてることだろうぜ」

「へえ……。というか、ディアブロって若い学校なんだね」

「創設されたのは二〇年ほど前だって聞いたな」

 

 ローズマリーとセドリックの言葉に、なるほどとハリーは頷く。

 お喋りして気が抜けていたのか、ハリーは柱の影から出てきた人物の顔を見て短い悲鳴を呑み込んだ。危うく情けない姿を見せるところだった。

 こっちだ。と短く言ったムーディは、脚を引きずりながらクィディッチピッチの方へと歩いてゆく。どうやら案内してくれるようだ。

 五人が到着したころには、すでにクラムとブレオ、デラクールは到着していたようだ。なにやら新聞記者らしき魔女に話を聞かれている。

 

「んーまっ! あなたがハリー・ポッター? 素敵ざんすわ」

 

 取材していた途中だろうに、魔女はハリーの姿を認めるや否や駆け寄ってきた。

 随分と化粧の濃い人だ。綺麗な口紅とびっしり濃い睫毛は驚嘆に値するが、かなりエラが張っているためハリーの美醜感覚で考えるとあまり高い評価はできない。

 なにより、何かに飢えているぎらぎらした目つきが怖いのだ。

 

「日刊預言者新聞の記者、リータ・スキーターざんす。まず写真を撮らせてもらいますわ」

 

 集合写真を撮る。

 ハリーとローズマリー、そしてデラクールは椅子に座らされた。何故かハリーが真ん中であるため、美女二人に挟まれてなんとなく居心地が悪い。

 ブレオがハリーの後ろに陣取りたがったが、そこはハリーの助けを求める目に気付いたセドリックが譲らなかった。ブレオは不満そうにローズマリーの後ろに着いたが、彼女に杖を向けられたのできっと何かやらかしているのだろう。結局彼は女性の後ろには立てなかった。女性組は左からローズマリー、ハリー、デラクール。男性組は椅子の後ろに立ち、左からソウジロー、セドリック、クラム、ブレオといった並びで何枚か写真を撮った。きっと明日の《日刊預言者新聞》ではこの記事が一面を飾るのだろう。そう考えるとなんだか恥ずかしい。

 

「んー、まっ! 素敵ざんすわ、素敵ざんす。あなた方の特集は売れるわよぉ」

 

 上機嫌なリータ・スキーターが腰を振りながら歩み寄ってきて、デラクールの頬を撫でた。

 デラクールは表面上は微笑んでいるものの、膝の上に置かれた手が強く握り締められたのを見てハリーは悟る。この人、かなりプライドが高いかもしれない。

 

「この美しい魅力にはいったいどんな醜い秘密が隠されているんざましょ」

 

 しかもこの言葉と来た。

 デラクールの口元が引きつっているのがわかる。

 次はブレオが標的のようだ。

 

「その種馬のようなイチモツでいったい何人の女性を泣かせてきたんざましょ」

「いやぁ、数えきれないかな!」

「即答とかキショイざんす」

「……」

 

 ブレオの笑顔が凍る。

 若い女性陣からの視線も冷たくなった。

 そんな空気も無視して、リータ・スキーターはクラムを見る。

 

「この逞しい体にはいったいどんな怪しい秘密が……? んんう、素敵ざんす」

 

 クラムは全くの無反応だ。

 流石はプロ選手といったところか。メンタルが強い。

 セドリックに視線が向けば、ハリーは後ろのハンサムが硬直したのがわかった。

 

「この甘いハンサムフェイスの下に隠されたド汚い本性……気になるザンスね」

 

 お次はねっとりとした視線がソウジローに向く。

 こちらもクラムと同じく無反応だ。プロのクィディッチ選手ともなれば多少の誹謗中傷くらい、ものともしないのかもしれない。

 

「東洋の神秘! なんのことかしらね、白いお薬でも出てくるかしら。おほほのほ」

 

 何故かクライルが思い浮かぶが、あのデカブツは関係ない。

 にやにや笑顔を浮かべたリータ・スキーターの視線は、ローズマリー……の、胸に行く。

 

「手術跡が見つかるのが楽しみざんす」

「殺す」

「どうどう、落ち着けローズ」

 

 杖を抜いて飛び掛かろうとしたローズマリーを、ハリーは必至で押さえつける。

 この女、無礼などというレベルではない。

 胸小さいからって僻んでるんじゃないだろうな。

 

「そしてハリー・ポッター! この競技中にいろんな醜態を晒してくれることを期待しておりますわ。パンチラでもしてくれれば好事家に高く売れるざんす」

「殺す」

「どうどう、落ち着けハリー」

 

 今度はローズマリーがハリーを抑える番だ。

 満足げな笑顔を浮かべたリータ・スキーターは、続けて取材をしたいと言い出したが、そこへやってきたオリバンダー老人に止められる。

 なぜこんなところにオリバンダーが? と思ったが、どうやら協議をするにあたって《杖調べの儀》というものを行うらしい。

 要するに協議中に不備がないよう、点検するのだ。

 オリバンダーは異国の杖を見れるからか、老いてしょぼくれた目が随分と輝いていた。

 

「さて、さて。ではでデラクールさんの杖から拝借いたしましょうかな」

「これーです」

 

 デラクールが差し出したのは、面白い装飾の杖だった。

 持ち手の部分にくるりとカールした装飾があるので、いざとなれば指でひっかけて取るなどといったこともできそうだ。ただその分強度は落ちているものと見える。そこは宿命だ。

 慣れた手つきで杖をくるくる回したり、乾いた清潔な布で拭いて火花を飛ばしたりと、ハリーには何をしているのかさっぱりわからないが、セドリックやソウジローが感心の声を漏らしているあたりかなり凄いことをしているらしい。

 オリバンダー老人は片眉を持ちあげて、口を開いた。

 

「紫檀材。芯には……おや、珍しい。ヴィーラの髪の毛じゃないか。しかも血縁だね?」

「オーウ……その通りです。祖母のです。わたーしの祖母は、ヴィーラなのです」

「なるほど。それではちょいと失礼をば。『ルーモス』、光よ」

 

 ぽふ、という軽い音とともに杖先に優しい灯りがともった。

 杖灯りの呪文はいくらでも見たことはあるが、ここまで綺麗に澄んだ光は初めて見た。

 満足げに微笑んだオリバンダーは、繊細な手つきで杖をフラー・デラクールに返した。

 

「お次はクラムさんですな。どうぞ、お借りできますかな」

 

 無言で差し出された杖には、ハゲタカだろうか、鳥の頭のような意匠があった。

 クラムのイメージであるがっしりした杖かと思いきや、随分とひょろっとしている。

 

「材質はクマシデ。芯はドラゴンの心臓の琴線。種類は……中国火の玉種(チャイニーズ・ファイヤーボール)ですな。グレゴロビッチの作と見た」

「すべてその通りだ」

「あの者の杖か……うむ、いや悪いわけではない。だが独特だ。非常に、独特だ。『エイビス』、鳥よ!」

 

 羽ばたく音とともに、雄々しい鳥が杖先から飛び出して大空へと飛び去っていった。

 フラーの時と言い、杖にはどうも特徴が出るらしい。

 なかなか面白いものだと思うが、仕組みはさっぱりだ。

 杖は意思を持って魔法使いを選ぶというが……さて。

 

「ほい、お次はディゴリーさん。おおう、ありがとう。ではそこに置いてください」

 

 オリバンダーの体を気遣い、彼が座ったままで大丈夫なように杖を手渡しに行くセドリック。流石は紳士である。

 

「おおう、覚えておりますとも。あなたがこの杖を買いに来たことは、昨日のように覚えている。木材はトネリコ。オスの一角獣の尻尾の毛が使っておるから、絶対に事を成したい時には必ず応えてくれる。丈夫で、持ち主に似て素直」

 

 やはり自分で作った杖だからだろうか、オリバンダーは慈しむような目で杖を眺める。

 セドリックは唐突に自分のことまで褒められて、少しはにかんでいた。

 

「ふむ。手入れも完璧ですな。『ポイント・ミー』、方角示せ」

 

 するりと杖がオリバンダーの手を離れ、空中をくるくる回ってから一か所をぴしりと指した。

 ハリーが魔法式を見てみると、あれは北を示す呪文らしい。

 便利そうだから魔法式を暗記しておこう。

 

「次は……ああ、ブレオさん。どうぞこちらへ杖を」

 

 呼ばれたブレオが、ハリーにウィンクしてからオリバンダーのもとへ歩み寄る。

 何故ウィンクする必要があるとげんなりしながらも、ハリーはオリバンダーの嬉しそうな声を聴いていた。

 

「ほほう……これは、面白い。デイジーの木、芯にマーメイドの髪。長さは……三十五センチ。振りやすく、太くてデカくて硬い」

 

 なぜかブレオが自慢げにこちらを見てくる。

 何故だろうか、無性に潰してやりたくなってきた。

 まるで日本で造られている工芸品のような形状で、なんだかムカつく。

 ローズマリーの舌打ちが聞こえてきたので、いったい何の意味があるのかと小声で聞いたところ脇腹を小突かれるだけで答えてもらえなかった。

 

「ちょいと失礼して。『ドケオー・メガネ』、わしの眼鏡を持ってきとくれ」

 

 ブレオの杖から飛び出した光は、するすると部屋中を嗅ぎまわるとオリバンダーのバッグへ一直線に飛んで行った。そうして強く発光すると、消える。オリバンダーがのそのそとバッグを開けてみれば、果たしてそこにはきちんと眼鏡があった。

 満足げに頷いたオリバンダー老人は、次にローズマリーの杖を見せるようにと言う。

 オリバンダーのもとへ歩み寄ったローズマリーは、腰のベルトからぶら下げている専用のホルスターから杖を抜き取って手渡した。

 

「ほっほーう! 面白い……実に面白い」

 

 ローズマリーの杖は、まるでフリントロック銃のような形状をしている。

 彼女の名に似合ったバラの刻印もまた、美しい拳銃のように見える。

 ハロウィンパーティの時に見せた早撃ちも、きっとあの形があってこそなのだろう。

 

「素材はバラの木、芯はケルベロスの牙。二十六センチ、頑丈で重め。これはアメリカの杖作りが手掛けたものですな?」

「おう。じゃなかった、はい。アメリカナンバーワンの杖作り、スミス兄弟の作だぜ……ですよ」

「ほうほう。おっほーう……これは面白い……。『フリペンド』!」

 

 オリバンダー老人がローズマリーの杖から放った光弾は、ひゅんと風を切って空へと吸い込まれていった。 

 その様子を見て満足げに笑ったオリバンダーは、杖をローズマリーに返す。次に呼ばれたのはソウジローだった。

 するりと腰から抜いたのは、美しく反った長い杖だ。

 というか、木刀である。

 

「日本の杖は実に興味深い。桜の木の中には、……天狗の羽根か。一〇七センチ、鋭く頑丈。まるで芸術品のそれじゃな。これはひょっとしてアヤスギ・ガッサンの作かね?」

「そうです」

「呪文を使うときの振り方も、こちらの杖とはずいぶん違うようじゃな。どれどれ……『ディフィンド』、裂けよ」

 

 ひゅんと風を切るように振られた木刀は、三日月状の風を射出してオリバンダーの近くにあった木から一本の枝を奪い去った。ぱさりと落ちたそれを見て、老人は面白そうに笑う。

 最後はハリーだ。

 なんだか無駄に緊張してしまっているが、ただ杖を渡すだけだ。

 手入れを怠ったことはない。笑われることはないはずだろう。

 

「おお。おお……よーく覚えておりますとも。柊の木、芯は不死鳥の尾羽根。二十八センチ、良質でしなやか。うむ、しっかり手入れもされておりますな。『オーキデウス』、花よ!」

 

 オリバンダー老人の発声と共に、杖先から色とりどりの花が咲き乱れた。

 満面の笑みを浮かべたオリバンダーは、恭しくハリーの杖を返す。

 七人分の杖の情報をさらさらと羊皮紙に書き込むと、杖調べの儀は終わりとなる。

 たいそうな名前だったが、やっぱりただの点検作業だった。一安心したハリーは、とりあえずローズマリーを誘って次の授業へ出ることにした。

 次の授業は、闇の魔術に対する防衛術だ。

 ムーディがいったいどんな授業をするのか、とても楽しみだ。

 

「今日はお前らに許されざる呪文をかけようと思っとる!」

 

 ムーディが気の狂った授業をしやがるので、とても帰りたい。

 

「せ、先生! いくらなんでもそれはあんまりです! ってかヤバいです!」

「『インペリオ』、服従せよ!」

「先生! 私は大賛成です! もっとやっちまいましょう!」

「ハーマイオニーッ!?」

 

 いきなり『服従の呪文』をぶっかけてきたムーディに、ロンが驚いて声を上げた。

 こうなると黙っていないのはハリーだ。いきなり親友を操られて黙っていられるほど、ハリーの心は広くはない。

 

「『エクスペリアームス』!」

「『プロテゴ』! どうしたポッター!」

「『ステューピファイ』! 親友を攻撃されて黙っていられるか!」

「『プロテゴ』。その意気やよし! だが、まだまだヒヨッコだな」

「『エクスペリアームス』!」

 

 ハリーの背中に衝撃が走る。

 なにかと思えば、彼女の手から杖が弾かれ踊るようにムーディの手へ収まった。

 いったい何をされたのか分からなかった。

 普通に魔法の撃ち合いをしていたというのに、背後から魔力反応光を喰らった。

 振り向けば、ハリーに杖を向けているハーマイオニーが居た。

 彼女の目を視れば、脳にまで魔力が影響していることがわかる。

 要するに彼女を操って、ハリーに武装解除の魔法を放たせたというわけだ。

 

「このように、『服従の呪文』は恐ろしい魔法だ! たとえ親友だろうと、家族だろうと、こうして杖を向けさせることができる! ええ!? いいか、考えてもみろ。いつか自分自身が知らないうちに愛する者を襲ってしまうような日常を! 敵を倒すために磨いた魔法が仲間を襲う悲劇を! ほんの十数年前まではそのような国だったのだ、この英国はな!」

 

 ムーディは怒鳴りながらも呆然としたハリーにやさしく杖を手渡し、背中をぽんぽんと叩いて座るように促す。

 言われるがままに席に着いたハリーの隣に、ハーマイオニーが着席した。その目は既に正気に戻っており、「何が起こったのかわからない」という顔をしている。

 

「だがこの魔法は、『服従の呪文』は精神力のみで破ることができる! つまり心さえ強く持てば杖などなくとも解呪は可能だ! なにをしとるか! 立て! 立って並べ! 順番に呪いをかけてやるぞ!」

 

 ムーディに言われた通りに並ぶと、最初の被害に遭ったネビルが奇声をあげた。

 ネビルは怪鳥のような声を出し終えたかと思えば、一年生時よりは幾分かスリムになったものの、たぷたぷした彼のお腹ではとてもできそうにないアクロバティックな体操をやってのけたのだ。

 もし抗えなければ、教室中の人間が『服従の呪文』で奇行を取る羽目になるのだ。明日は我が身ならぬ、数分後は我が身である。

 呪文に抵抗できずジングル・ベルを歌い終えたローズマリーが真っ赤になってそばを通り過ぎるのを見送って、ハリーは前に出る。ああ、出番が来てしまった。

 ムーディの青い目がぎょろりとハリーを見据える。

 今まで呪いをかけられた生徒たちを視て、魔法式に関してはよくわかった。

 だが実際に抵抗できるかどうかはわからない。

 

「ではいくぞポッター! 『インペリオ』、服従せよ!」

 

 ムーディの杖から飛んでくる魔力反応光を防御したくなるが、それをやってしまっては授業にならない。ハリーの胸に着弾した魔力反応光は、その光を霧散させると奇妙な暖かさだけをジワリと体内にしみ込ませていった。

 恐ろしいほどの幸福感。

 それが『服従の呪文』の正体だった。

 呪文を避けなくて正解だったかもしれない。これほど恍惚とした気分に浸れるのは、僥倖以外の何物でもないだろう。今なら何をやっても許される気さえする。

 

『お辞儀……いや、逆立ちするのだ……』

 

 ムーディの声が聞こえる。

 まるで親兄弟のように暖かい声だ。

 彼の言うことならば、何も間違っていないと信じられる気さえしてくる。

 

『逆立ちするのだポッター……』

 

 逆立ち。

 なんて甘美な響きだろう。

 この言葉の考案者にキスしたい。

 でも逆立ちしたらスカートがめくれるぞ。

 しかしムーディがああ言っているのだ、従った方が得策だ。

 それに、ほら、なんだ。スカートの下にはスパッツを穿いているじゃないか。

 恥ずかしいことなど、何もない。

 

『さぁ。いまが逆立ちする時だ、ポッター!』

 

 ほら、ハーマイオニーが心配そうに見ている。

 何も怖がることは無い。ただ逆立ちをするだけなんだ。

 ああ、ロンが不安そうにこちらを見ている。

 スカートだから心配なのだろうか。やっぱりめくれてしまうのかな。

 ……ちょっと待て。

 スパッツだぞ。別に恥ずかしいものじゃないだろう。

 でも、なんだ?

 ロンに見られると思うと、途端に顔が熱くなるぞ。

 …………いやいやいや、ちょっ、と。ちょっと待て。待て待て。

 相手はロンだぞ? 背の高いノッポで、気が利かない男の子で、そばかすだらけのヘタレで、肝心な時には勇気に溢れて助けてくれて、いつも助けてくれた、ぼくの親友。

 そう、親友なんだ。

 

『どうした。逆立ちするのだ、ポッター!』

「いやだ!」

 

 腹の底から、心の中心から湧き出た叫びを発するとともに、ふわふわしていた頭が元に戻る。幸福感がさっと消え去り、代わりにまともな感覚が戻ってきた。

 気付けば自分の体は机に両手をついている状態で、危うく逆立ちしそうになっていたのが分かる。

 ハリーが大声で叫んだために教室中が一瞬だけ静まり返り、そして湧き立った。

 ムーディが興奮した様子でハリーの肩をばしばし叩く。

 

「よくやった! よくやったぞポッター! 見事わしの呪文に打ち勝った! グリフィンドールに一〇点! いやもう五点与える! 見事だ、見事だぞポッター! 見たかおまえたち、これだ、これを目指すのだ!」

 

 ハリーは肩が痛いやら照れ臭いやらで、鼻の頭を掻きながらグリフィンドールの輪に戻る。ディーンとシェーマスが凄い凄いと繰り返し、パーバティやラベンダーが素直に褒めてくれる。ローズマリーがハリーの頭をくしゃくしゃに撫でまわし、やるじゃねえかと悔しそうに笑った。ハーマイオニーがハリーの頬を撫で凄いわハリー、と労ってくれる。ロンがどうやったのさ、と聞いてきて、ハリーは少し耳を赤くしながら「内緒」と囁く。

 ゆっくりと深呼吸したハリーは、それからようやく笑うことができた。

 

 十四歳とは、大人と子供の間を行ったり来たりする年齢である。

 特に身体だけで言えば、ハリーはもう女性として完成に近づいている。

 そして心は、度重なる苦労によって強固な鎧をまとうことができるようになったのだ。

 だから押し殺す。

 気づいてはならないことに、気づきかけてしまった。

 ハリーはどこか寂しい気持ちを感じながら、それでも本心を隠すために笑った。

 だが我慢は体に毒とも言うように、心にとっても致命の猛毒足り得ることだ。

 気付いていないだけで、ハリーの鎧にはすでに亀裂が走っていた。

 鎧を通り越して心の核にまで至る、致命的な亀裂。

 それに気づかないまま、ハリーは柔らかく微笑んだ。

 




【変更点】
・ロンと仲違いしない。彼も成長してるのです。
・ロンと喧嘩しないため、彼は今回も味方。汚いぞ、ポッター!
・カンニングは伝統なのでバラしても仕方ない。
・ハリーもやっぱり女の子。

ほぼ説明回。
ロンと喧嘩しないだけでハリーの心労が物凄い軽くなる。
必要な子なんです、ロンは。そう、必要なのだ。人気キャラなんだぞ! だがモゲロン。
第一の試練は特に変更なくドラゴンです。なんだ、と言ってしまえるあたりハリーもかなり常軌を逸しています。
そして心のお話。十四歳は一番多感な時期と言えます。そのせいで人間関係にも影響が出てくる時期でもあります。思春期を迎えた中学二年の頃にかかってしまうと言われる、恐ろしくも愛すべき時期で、形成されていく自意識と夢見がちな幼児性が混ざり合って、おかしな行動を取ってしまうという……アレだ。
次回はバトル回! 魔法族ファイト! レディー、ゴー!

※ハブられていたセドリックを追加&間違いを訂正。


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6.第一の試練

 

 

 

 ハリーは大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。

 選手が待機するために設営されたテントの中、ハリーは組み立て式の椅子に腰かけて気を落ち着けていた。

 第一の試練がドラゴンであることは、代表選手の間では周知の事実だ。

 フラー・デラクールは『魅了呪文』がうまく目に当たりますようにとぶつぶつ祈っており、クラムは『結膜炎の呪い』を確認しているのか、ときおり杖の周りに魔法式が構築されている。

 ソウジローはカーペットの上で正座して目を閉じ、瞑想しているようだ。ローズマリーは鼻歌を歌いながら、杖をガンアクションのようにくるくると回している。ふたりとも、気持ちが完全に水平になっているらしい。恐ろしい集中力だ。

 ブレオは椅子に座って机に脚を投げ出しながら、目を瞑って鼻歌を歌っている。セドリックは自身の杖を最後に点検しているようで、無言のままだ。

 常軌を逸して危険な魔法生物ではなかったことが救いだが、それでもドラゴンは十分に脅威である。そうでなければ、実在の魔法生物がマグルにまで知られているわけがない

 過去、魔法族が隠蔽しきれずマグルにすら被害が出ているということ。魔法族の手におえない危険な生物であることの何よりの証拠だ。

 

「ハリー、いる?」

「大丈夫かい?」

「ハーマイオニー? ロン?」

 

 テントの隙間から、ハーマイオニーとロンの呼び声が聞こえる。

 心配して来てくれたのだろうか。

 隙間を開いて見てみれば、やはり心配そうな顔を浮かべた二人が佇んでいた。

 

「ハリーなら大丈夫だと思うけど、でもドラゴンだろ? やっぱり心配でさ」

「危なくなったら棄権しても恥じゃないのよ」

 

 二人が来てくれたことで、ハリーは胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じた。

 にっこり微笑んだハリーは、心の奥から湧き出てくる優しい気持ちを込めて、力強い握り拳を二人に向かって突き出した。

 

「大丈夫。ぼくが負けるはずないだろ」

「もうっ!」

 

 ハーマイオニーがハリーを強く抱きしめ、その頬にキスをした。

 ロンも笑って、ハリーの頭をくしゃくしゃと撫でる。そんなロンを抱き寄せ、ハリーは愛しい二人を強く抱きしめた。勝機が見えているとは言っても、不安がないはずはないのだ。

 もし運悪く失敗したら、もし不運にも手違いがあったら。

 この暖かさを二度と得られなくなると思うと怖いが、それでも勇気が湧いてくる。

 

「若き恋人たち……。素敵ざんすわ」

 

 だからハリーは、その気分に水を差してきた新聞記者を殺してやろうかと思った。

 見るからに殺気を飛ばすハリーに怯んだのか、リータ・スキーターは息を呑んだ。

 しかし彼女も、悪意を浴びることにかけてはプロフェッショナル。なにせ殺意を抱かれるなど彼女にとっては日常茶飯事なのだから。

 

「若き少年少女の恋模様! 男の子一人に女の子二人……どろどろね! これはイイわぁ、記事が飛ぶように売れるザマス! んあ、もし競技が悲劇に終われば今の写真がトップを飾るわね」

「おい、女」

 

 どこか興奮した様子のリータ・スキーターに対して、クラムから低い声がかけられる。

 がっしりした体つきの男が睨みつけてドスを利かせた声で話しかけてくるのだ。

 さぞ恐ろしい事だろう。

 

「ここヴぁ選手関係者以外、立ち入り禁止のはずだ。友達は例外だがな。出ていけ」

「あらん……でも別にいいざんしょ、誰もが知りたいことを広めること。それこそがあたくしの使命ザマス」

「ダンブルドアを呼ぼうか」

 

 クラムの厳しい言葉に、適当な言を返したリータ・スキーターの顔が凍る。

 恐らくダンブルドアにバレるとまずいのだろう。あの老人ならば、子供の心を護るためという理由で一切の取材を認めず出入り禁止を言い渡すことくらいやりそうだ。

 苦々しげな顔をしたリータ・スキーターは、カメラマンらしき男を従えてさっさとテントから出て行ってしまった。

 それと入れ違いにやってきたのは、ダンブルドアとクラウチだ。

 

「選手諸君。競技内容を発表する」

 

 ダンブルドアが朗々と宣言する。

 その際にハリーの隣にいるハーマイオニーとロンをちらと見たが、黙認するようだ。

 ダンブルドアが何も言わないのでクラウチも何も言わない、といったところか。

 

「選手諸君らには、まずこの袋の中にあるミニチュア模型を手に取ってもらう。それが君たちの戦う相手じゃ」

 

 ダンブルドアの言葉と共に、クラウチが持っている袋がフラー・デラクールの前に差し出される。

 

「レディファーストだ」

 

 開けられた袋の口からは、なにやら小さな声でキシャーと鳴き声が聞こえ、何やら細い煙がゆらゆらとあがった。明らかに危険物が入っている。

 少し笑顔を引きつらせながらも、余裕の美貌を示しながらフラー・デラクールは袋にその手を滑り入れると、小さなドラゴンをその手の平に乗せていた。

 緑色の鱗を持つ、スタンダードな姿をした竜。

 

「ウェールズ・グリーン普通種だ。臆病な種だが、今回もそうとは限らんぞ」

 

 クラウチが脅し文句のような言葉を残す。

 屋敷しもべ妖精を解雇したことから堅物の役人だと思っていたが、イベントを楽しむくらいの気持ちはあるらしい。ハーマイオニーは苦々しげな顔でクラウチを見ていたので、彼女にとってあの件は随分とショックだったのだろう。

 そんな視線に気づかないまま、クラウチは次にローズマリーへ袋を差し出した。

 

「どうぞ、御嬢さん」

「ありがとうございますわ、ってか」

 

 適当なことを言いながら、ローズマリーは乱暴に袋へ手を突っ込んだ。

 なにやら袋の中で暴れる音と声が聞こえ、「痛ッて」と呟いたローズマリーの台詞から模型のミニチュアドラゴンは攻撃してくることが判明した。

 尻尾を握りしめながら取り出されたのは、メタルグレイの鱗を持った、随分と大きなドラゴンだった。

 

「ウクライナ・アイアンベリー種だ。世界最大のドラゴン種とされているぞ」

 

 ローズマリーが満足そうに笑う。

 血の気の多そうな子だとは思っていたが、世界最大だと言われて嬉しそうにするとは思わなかった。彼女はテンガロンハットを目深にかぶって、握り拳大のミニチュア竜の尻尾を掴んでプラプラ揺らしながら元の居場所へ下がる。

 さて、次はぼくか。

 そう思ってハリーが前に出ようとしたところ、クラウチは袋を持ってブレオの方へと歩いて行ってしまった。

 ……ひょっとしてまだ男の子にでも見えるのだろうか?

 もうショートヘアとは言えないくらいに髪だって伸ばしてる。服の上からでもハッキリ分かるほどに胸もちゃんとあるし、腰だってくびれているはずだ。むに、と自分の胸を持ち上げてみれば、それなりに重量を感じる。流石に見間違えるということはないはずだ。……では何故だ?

 ふとハリーが気づけば、ロンが頬を赤くして目を逸らし、ハーマイオニーから軽い殺気が漂っていた。セドリックが咳払いをしたことでハリーはそれをやめたが、よくよく考えれば破廉恥以外の何物でもない。ハリーは顔を赤くした。

 ブレオが口笛を吹きながら、袋からミニチュアを取り出す。

 

「おおう。ペルー・バイパーツース種だ。猛毒の牙に気を付けるんだぞ」

 

 今度はローズマリーのとは違い、銅色が光るなめらかな鱗の、ずいぶんと小さなドラゴンだった。確かあれは全ドラゴン中で最速だったはずだ。

 引きつった顔のブレオを置いて、クラウチは次にセドリックに袋を差し出す。

 ハンサムな笑顔が少し崩れているが、それでも堂々と袋に手を突っ込み、ミニチュアドラゴンを引っ張り出した。シルバーブルーの鱗だ。

 

「スウェーデン・ショート‐スナウト種。美しい炎に見とれていると焼かれるぞ」

 

 しゅー、とミニチュアが小さく吐いた炎は、確かに青く美しかった。

 嬉しいはずはないので、微妙な顔をしたセドリックがなんだか可愛かった。

 クラウチは次に、クラムのもとへ近づいて袋を差し出した。

 

「うぅぅーっ。チャイニーズ・ファイヤボール種だ。まさに東洋の神秘だな」

 

 奇妙な形をした深紅の鱗を持つドラゴンが、クラムの手の平の上でとぐろを巻いていた。まるで蛇のようだが、長い胴体のところどころに生えた手足と黄金に輝く角が竜種であることを主張していた。

 短く鼻を鳴らしたクラムは、黙って自分の元居た場所へ戻る。

 勝つのは自分だと心の底から信じている絶対の自信だ。

 その表情を満足げに眺めたクラウチは、ソウジローのもとへ歩み寄っていく。

 袋を開けられ、ソウジローは無言でその中に手を差し入れた。

 

「おおっ。ハンガリー・ホーンテール種だ。一番凶暴だぞ」

 

 黒い鱗を持った、刺々しいドラゴンがソウジローの手の平の上で吼えていた。

 ミニチュアなのにかなり怖い。これで本物と相対したら漏らしそうだ。

 しかし、最後になってしまった。

 クラウチが袋を持ってこちらへやってきたが、どうせ残っているのは一種類だけだ。

 

「……ん? なんだこれ?」

 

 手探りで袋の中に手を突っ込んだが、なんだか違和感がすごい。

 残り一匹しかいないはずなのに、複数のミニチュアに触っているようにしか思えない。

 とりあえず迷ったところで出すしかないのだからとハリーが袋から引き出した時。

 ハリーは困惑した。

 ダークパープルの鱗に、黄金の目玉。蛇のような造形だが、胴体に生えたがっしりした脚や太く逞しい尻尾などからドラゴンであることはわかる。だが、何といえばいいのだろう。

 

「それはヒドラ・ヘレネス種だ。半年前に発見されたばかりの新種だぞ」

 

 このドラゴン、()()()()()()()

 三頭犬だのクィレルだの、頭が複数ある者とは何度か相対してきた。

 だが一つの身体に頭が九つというのは初だ。むやみに記録を更新しないでほしい。

 それにハリーは知っている。

 たしかヒドラ……ヒュドラというのは、ギリシャ神話における怪物の名だったはずだ。

 しかも、不老不死の怪物。

 ……いやいやいや、ちょっと待て。

 無理だろ。

 

「競技内容はこうじゃ! 各々その手の中にいるドラゴンが守る《金の卵》を手に入れること! 無論、彼奴らとてタマゴを奪われそうになれば抵抗くらいする。それを潜り抜けて出し抜いて、どれほど鮮やかに金の卵を手中にできるかが問われる競技なのじゃ!」

 

 絶望的な顔をしていたハリーが、ようやく顔を上げる。

 なんだ、別に殺さなくてもいいのか。

 もしドラゴンの討伐を競うような競技だった場合、ハリーには始める前から敗北が確定してしまうところだった。

 しかし、そうか。卵を奪い取るのか。

 これは厳しいかもそれない。

 タマゴと言う名の何か人工物である場合なら、まだマシだ。ある程度乱暴に扱ってもいい。問題はそのタマゴが、本物だった場合だ。砕かぬように奪い去るのは至難の業だろう。

 

「諸君らの無事と健闘を祈る。大砲が鳴ったら呼ばれた者から行っ」

 

 ズドン、と。

 ダンブルドアの話を遮るかのように大砲が鳴った。

 大音量と共に観客となった生徒たちの歓声があがる。

 肩を竦めたダンブルドアは、「最初はフラー・デラクール嬢からじゃ」と言った。

 フラー・デラクールの顔色が青い。大丈夫なのだろうかと不安になるが、彼女は何度かロケットの中の写真に祈ると、意を決した顔でテントから出て行った。

 見事な銀髪を躍らせ、稀代の美少女フラー・デラクールが戦場へと舞い降りる。

 

 

 アンジェラ・ハワードは渋い顔をしていた。

 万が一があったときのための待機として、闇祓いが呼ばれたのはわかる。

 彼女がホグワーツを卒業して魔法省に入省、そして初任務から毎年ホグワーツに関わる仕事をしているので、まるで学生時代に戻ったかのような心境だった。

 だがそれによって上司から学生気分が抜けてないのでは、と嫌味を言われたのは心外だった。彼女自身は大真面目に仕事をしているつもりだ。動物まがい(フェイカー)の能力と狙撃魔法の腕を買われ、エリート中のエリートである闇祓いにもなれたのだ。

 そしてこの任務では、憧れの先輩であるアーロン・ウィンバリーとパートナーを組んだものである。なんでも彼からのご使命だそうだ。現闇祓いでも最強の男に指名されるなど、光栄の極みだ。

 何より異性としても憧れの先輩である。在学中は痺れるような恋はしたことなかったのに、卒業して就職してからこんなことになるとは思わなかった。トンクスには「一回りくらい年上なんだから考え直したら」と言われたが、彼女も同じく年上趣味なのにそんなこと言われたくはない。

 さて。

 今目の前で繰り広げられているのは、かの魔法学校対抗試合(ウィザード・トーナメント)の第一回戦である。

 ボーバトン代表選手のフラー・デラクールが杖に魔力を集めて、何かをしようとしている。

 桃色の魔力反応光が射出された。

 その速度を見て、ハワードは遅いと感じてしまう。

 しかし相手のウェールズ・グリーン種は総じて臆病な種なので、怯んだ隙にばっちり直撃してしまう。すると見るからに瞳がとろんとして、催眠にかかったのが見て取れた。

 

『おーっと! デラクール選手が放った魔力反応光が、タマゴを守護するドラゴンに命中! するとどうしたことか、ドラゴンがフラー選手に向かって尻尾を振っています。解説のスネイプ先生、あれは何の魔法なんですか?』

『どうして我輩がこんなことを……? まあ、うむ、あれは『魅了の呪も』

『おああーっと! フラー選手が勝利を確信して笑顔で手を振っております! お美しいーっ! おい見ろよなんだありゃ可愛いぜ! あ。解説ありがとうございました先生!』

『……うむ』

 

 リー・ジョーダンによる怒涛の実況に、解説の存在意義が危ぶまれている。

 スネイプには特に悪い思い出がないハワードにとって、あれはちょっとかわいそうだった。だがこうして明るい場に出ていれば、あの教師もいつかは根暗が治るかもしれない。

 こんなものかと思って目を逸らせば、隣に座っていたウィンバリーがとてつもなく悪い顔をしていた。この男がこんな表情をするのは、たいていろくでもないことが起きる時だ。

 

「アーロン?」

「見ろよハワード、面白れぇことが起きるぞ」

 

 言葉通りに見てみれば、ドラゴンが何やら激しく首を振っていた。

 魅了の呪文が解けたのだ。あまりにも早すぎる。

 観客席から誰かが悲鳴のように「危ない!」と叫ぶ。その声に慌てて振り向いたフラー・デラクールが見たのは、ウェールズ・グリーンのドラゴンが尾を振り回して自分を襲う姿だった。

 咄嗟に無言呪文で盾を張ったのだろうが、先ほど見たような技量では竜種の物理攻撃を完全に防げる盾など作れるはずがない。衝撃をダイレクトに喰らったフラー・デラクールの細い体は大きく吹き飛ばされていった。

 

『うわーっ!? きゅ、救急班急いでくれ!』

 

 実況の少年が大慌てで競技の中断を叫ぶ。

 それもそうだ、ドラゴンの尾の一撃をまともに受けてしまった人間が、無事で済むはずがない。

 

『いや、必要ないだろう』

 

 解説のスネイプがぼそりと呟く。

 その言葉を証明するかのように、宙高く放り投げられた少女の身体が、あわや岩山に叩きつけられるとなって観客席から悲鳴が上がった瞬間。

 彼女の腕が大きく膨張して、彼女の袖を引き裂いた。

 現れたのは、巨大な鍵爪。その鱗に覆われた手首から肩にかけて、鮮やかなシルバーの羽根が生えていた。まるで伝説上の怪物、ハーピィのそれである。

 フラー・デラクールはその翼を羽ばたかせ、宙にふわりと浮く。岩山に叩きつけられることはなく、彼女はそのまま甲高い裂帛の叫びをあげるとドラゴン目掛けて突進していった。

 彼女の美貌に溢れた顔は今や所々が鱗に覆われており、目は爛々と野生の輝きが宿っている。

 

動物まがい(フェイカー)!?」

「お前と同じだな。あのガキの親類もヴィーラだっつーじゃねえか、ならあれにも納得だぜ」

 

 ハワードはなるほどと納得した。

 動物まがい(フェイカー)動物もどき(アニメーガス)と違って、先天的な才能がかなり重要になる。それは血だ。

 ヴィーラという美しい女の姿と、鳥人の姿を持つ魔法生物の血が入っていれば、鳥類の動物まがいに目覚める素質を持っている。ハワード自身も、祖先の誰かがヴィーラである。それゆえの銀髪、それゆえの美貌。

 彼ら動物まがいは次世代の人類である。と評する魔法学者もいるくらいだ。

 だがこのイギリス魔法界において、純ヒト以外の肩身は狭い。

 半人半魔と呼び蔑む人間が多いのは、周知の事実だ。

 人は他者を貶すことで自尊心を満たし、快感を得ることのできる生き物である。ゆえに自分よりも弱い立場の人間を見つけると、まるで地に落ちたガムに群がるアリのようになる。

 

 ハワードにも、幼少期の酷い記憶がある。

 ヴィーラは激昂すると、鳥人状態へと変化してしまう特徴がある。その血を引いて動物まがい(フェイカー)になった人間にも、その特徴は当てはまる。

 幼い頃、ハワードはマグルの交通事故に遭った。瀕死となった彼女に合う血液が見つからず、やっと見つけた血液は混血(ヴィーラ・ハーフ)の物。しかし命には代えられないとして、ハワードの両親は泣く泣くその血液を娘に入れるのだった。

 そんな彼女は、自分を庇って脚が不自由になってしまった兄を馬鹿にされて、キレたことがある。自分の感情を制御する術を知らないほどに幼い少女だというのに、鳥人状態という恐ろしい形相になったハワードは、周囲から恐れられるようになった。

 化け物、半人半魔の人外、非ヒト族、まがいもの。

 数々の罵倒を受け、差別を受け、ハワードは魔法界の醜い部分を思い知った。アンジェラという名前が《天使》という意味であり、それがヴィーラに関係すると知って、嫌いになったのもこの頃だ。

 この差別は、ハワードが魔法省に入省した今でも続いている。彼女が闇祓いになる試験にトップの成績で合格した際、待ったを申し入れた役人が居たのだ。魔法省は人間の、純血魔法族がいるべき場所なのだからヒトモドキを合格させるべきではありませんわ、と。

 カエルのような顔の役人は、ハワードのように立場の弱い者をいじめる快感で醜く歪んでいた。その悪夢のような顔は、今でも鮮明に思い出すことができる。

 

 ハワードは少女を見る。

 ボーバトン魔法学校は、共学ではあるが女子生徒の方が比率は多い。

 女社会とは恐ろしいものだ。異物だと判明した者は、陰湿で過激なやり口で即座に排除される。女性は男性に比べると精神的な攻撃が得意であるといういい加減なうわさを聞いたことがあるが、ハワードはそれを疑っていない。

 そんな女社会の中で、彼女はいまでも応援を受けている。

 フラー・デラクールの正体に驚きどよめくホグワーツ生やディアブロ生が居る中、ボーバトンの少女たちは声を張り上げて母校の代表選手を応援している。

 奇声をあげながら、ドラゴンの顔に張り付いて執拗に眼球を攻撃しているフラー・デラクールの姿が見える。怪獣大決戦のような様相を呈する光景だが、あれは実に効果的な戦術だ。近接戦闘主体の魔法戦士が、ドラゴン相手によく用いるものだ。

 さぞ苦労したことだろう。

 ヴィーラという美の血を引いているために、嫉妬も受けたことだろう。

 

『おおおーっ! やりました! フラー選手、ドラゴンの目を潰して金の卵を掠め取りましたーっ! 競技終了ーっ! お見事! ヒューッ!』

『初手は失敗したものの、概ね悪くない戦いだった。高評価が期待でき』

『はい救護班はやく! 竜使いの人たちはあの暴れん坊を抑えてくださいね! ところで先生なんか言いました?』

『グリフィンドール一点減点』

『マジかよ』

 

 どうやら試合を終えたらしい。未だに羽根と鱗の残る顔で、フラー・デラクールは優雅に微笑んで金の卵を持った右腕を高らかに突き上げた。観客席の女子生徒たちから黄色い悲鳴があがり、男子生徒から野太い歓声があがる。

 スタイリッシュでスリリングなショーは、観客の心を鷲掴みにする。

 彼女はその逞しい鍵爪で、見事に彼らの心を掴み取ったのだ。差別心という薄汚い感情を乗り越えて、彼らを興奮と感動の渦に突き落とした。

 すごい、とハワードは思う。

 汗を流しながらも美貌を振り撒いて、輝く笑顔を浮かべる彼女がすごいと思う。

 

「カッコいい子ですねぇ……」

「そうかぁ?」

「ええ。すごいですよぅ」

 

 ハワードは隣で変な顔をしているウィンバリーの腕を取り、その胸に抱きしめた。

 にべもなく振り払われてしまったが、今はなんだかそうしたかったのだ。

 にへら、と笑顔を浮かべたハワードは、選手控え室に戻るフラーを優しく見送った。

 

 

 歓声があがる。

 下品に腰を振りながら、ハンサムな顔を出したのはバルドヴィーノ・ブレオだ。

 イタリア魔法学校《ディアブロ》の代表選手。

 この一ヵ月にも満たない期間で、すでにホグワーツの女性陣からナンパな男扱いされている恋多き青年である。

 にこにこと笑顔を振りまき、余裕綽々の態度でドラゴンの前に仁王立ちする。

 ドラコ・マルフォイは彼を見下していなかった。

 スリザリン生には節操のない下品な男と思われながらも、それでも生粋の純血であるブレオ家の出身であるためにいい顔をされている。

 だがドラコにとって、彼を評価するのはそこだけではなかった。

 恐らくこの勝負は一瞬で決まるだろう。

 

「『グンミフーニス』、縄よ!」

 

 鎖につながれているとは思えないほど、競技場内を素早く飛び回るペルー・バイパーツース種に縄魔法をかけるブレオ。

 目まぐるしく飛んでいるというのに、一撃でその小柄な体を拘束することに成功した。空中でがんじがらめにされた哀れなバイパーツースは、その身を地に叩きつけられる。

 よく見てみれば、わざわざ卑猥な縛り方をしているあたりブレオの高い技量がうかがえる。

 怒り狂ったバイパーツースが悠々とタマゴに歩み寄るブレオに対して、猛毒の牙を剥いて噛みつこうと首を伸ばす。しかしそれすら予測していたらしきブレオは、優雅に宙返りするとドラゴンの頭の上に着地した。

 杖を股間のあたりで持ち、下品に腰を振って魔法式を構築するというおふざけまで見せてきた。あまりにアホすぎるこの行動に、男の子たちからは大歓声、女の子たちからは大ブーイングである。

 しかし結果はアホという一言で片づけることはできない。

 馬鹿そのもののやり方にも拘らず、ブレオの放った催眠呪文は見事にバイパーツースの銅色の瞳に吸い込まれていった。

 二度と目覚めないのではと思わされるほどにぐっすりと眠りこけるドラゴンの目の前を歩いて通り過ぎ、金の卵を足の甲に乗せて蹴り上げ、キャッチ。

 歓声と爆笑と共に、ブレオはその競技を終わらせた。文句なしの最短記録である。

 その不敵な笑みは、ドラコにはまるで退屈しているかのように見えた。

 

 

 歓声が聞こえてくる。

 マクゴナガルから名を呼ばれたので、次は自分だ。

 セドリック・ディゴリーは、大きく深呼吸してから自身の頬を張った。

 自分の相手はスウェーデン・ショート‐スナウト種だ。細長い炎を吐いてくるので回避は比較的容易かもしれないが、しかしブレスを使えるというだけで脅威だ。

 怖くないと言ったらうそになる。だが代表に選ばれた以上、優勝する義務がある。

 大砲の音が鳴り響いた。

 もう行かなければ。

 

「セドリック」

 

 椅子から立ちあがり、さぁ行こうとしたところで鈴の鳴るような声がかけられる。

 ハリー・ポッターだ。

 関係者以外が追い出され、ロンとハーマイオニーが隣にいないながらも気丈に振る舞っている。緊張しているのは見て取れるが、それでも程よく自然体なのがわかる。

 まるでこれからクィディッチを行うかのような、適度な緊張感を見事にコントロールしているその姿には、素直に舌を巻く思いだ。自分より二つ年下の少女は、精神面においてかなり堅牢な鎧をまとっているらしい。

 

「なんだい、ハリー」

「気を付けてね」

 

 彼女はそう言って、右手を上げる。

 おそらく、全くその気はないのだろう。

 だけれどセドリックは自分の心が、一気に軽くなったのを感じた。

 ぱしんと手の平を打ちつけて、力強く、しかし優しくその手を握る。

 暖かく、そして柔らかい少女の手の平。

 自分の好きな女の子の手。

 

「ああ。行ってくるよ」

 

 好きな子に応援されて元気が出るなど、現金なものである。

 セドリック・ディゴリーはそんな単純な男だっただろうか。

 だが、ああ。

 悪い気分じゃない。

 今ならドラゴン程度、何をしてこようが全く怖くはない。

 

『さぁぁぁ来ました! 我らがヒーロー、ハッフルパフのハンサムガイ! セドリィィィ――ック・ディゴリィィィ――――ッ!』

 

 わっ、と歓声が巻き起こる。

 ちらほらと《セドリックを応援しようバッジ》を振り回している生徒が見えるのが、少し珠に瑕だが、歓声を背負うこの気分は悪くない。

 セドリックは杖を構えて、堂々とドラゴンの前に姿を現した。

 シルバーブルーの鱗がきらきらと陽光を反射して美しい光を放っている。

 だが彼の欲しいものは竜ではなく、それが守るタマゴである。

 魔力を充填させて、セドリックは自らの杖を真っ直ぐ突きだした。

 

「『エイビス』、鳥よ! 『エンゴージオ』、肥大せよ! 『モビリジェミニオ』、増えよ人形!」

 

 総勢十羽の鳥が、セドリックの杖先から飛び出して羽ばたいた。

 肥大呪文により、小鳥のようなサイズだったそれが一気にイーグルのような大きさに膨らむ。

 更に疑似生命増殖呪文をかけ続けることにより、倍々に鳥が増えてゆく。十羽から二〇羽、二〇羽から四〇羽、八〇羽、一六〇羽と、いまやとんでもない数になっていた。

 魔法で創造したまがい物の鳥ではあるが、大きさもそこそこ。さらにはこのような大群にもなれば、ドラゴンの気を惹くどころか食い尽くすことすら可能となる。

 さしものドラゴンも、まるで一つの巨大生物のような鳥の群れにどこか怯えたような目を見せている。

 だがセドリックは容赦しない。

 以前ならば手心を加えていたかもしれないが、ハリーとの交流の中で容赦は敗北に直結することを痛いほどよくわかっているからだ。

 

「『オパグノマキシマ』、襲い尽くせ!」

 

 総勢三桁もの鳥が、一斉にドラゴンへと襲い掛かった。

 スウェーデン・ショート‐スナウト種特有の細長い、青い炎が吐き出された。

 魔法製の鳥であるため、通常の鳥よりはある程度の耐久性があるはずだった。

 しかし一直線に消し去られていく様子を見て、セドリックは流石にドラゴンの強力さを思い知る。しかし自身の周囲に配置した鳥たちを無言呪文で増やし、そして増やした傍から突撃させてゆくために、ドラゴンから見ればほぼ無尽蔵に襲い掛かる群れを相手にしているようなものである。

 これはたまらない、とドラゴンが怯んだその隙を狙い、セドリックは複数の鳥を金の卵の方へと射出した。

 卵を食われると思ったのだろう、怯んだはずのドラゴンは自信が傷つくのも厭わず激昂に任せて青い炎を吐き出してきた。それによって複数の鳥が消滅し、金の卵も真っ赤に熱されてしまう。

 あのままでは持つことができないだろう。持ったとしても大火傷、下手をすれば手の平の皮膚が溶けてくっついてしまうかもしれない。これは仕方ないとはいえ、運の悪い事である。

 

「くっ! 『アグアメンティ』、水よ!」

 

 タマゴに向かって駆け寄りながら、セドリックは水を噴射して冷やそうとする。

 その隙を逃すドラゴンではない。

 全身に鳥をまとわりつかせながらも、彼に向かって突撃しに来た。

 これでは卵を手に取ったとしてもその直後にやられてしまう。

 覚悟を決めたセドリックは、ここで決めにかかる。

 

「『エクスパルソ』!」

 

 ひゅる、と複雑な軌道を描いた杖で鳥たちに指示を飛ばす。

 瞬間、ドラゴンの目の前にいた鳥たちが急激に膨れ上がって炎と共に爆発した。

 眼前で起きた破裂音と熱、そして鳥の破片が直撃してドラゴンが悲鳴をあげる。通常ならばあの程度の爆発はたいしたことはないのだが、一羽や二羽の爆発ではなく、一〇〇はくだらない数の爆発だ。さらに顔面付近で爆ぜたことにより、目を焼く結果にもつながる。

 痛々しい悲鳴をあげるドラゴンをよそに、セドリックは冷やしきった卵を手に取り、高く掲げた。

 

「は、ははっ! やったぞ!」

 

 歓声。

 セドリックが歓喜の声をあげ、竜使いがドラゴンを抑えるなか彼は悠々とテントに戻る。

 この感動と興奮を、一番にあの子に伝えてあげたい。

 テントの中でも歓声が届いていたのだろう、ハリーは笑顔でセドリックのことを待っていた。友人が無事生き残ったことと、評価されていることに喜んでいるのが丸わかりだ。

 やはり自分は単純な男だ、と自嘲しながらも、セドリックはハリーとのハイタッチで幸せな気分になったのだった。

 

 

 ロンとハーマイオニーは、観客席でハラハラしていた。

 フラー・デラクールもセドリック・ディゴリーも、高い技量を持ちながらも危ない場面が幾度かあった。二人がハリーが、優秀な魔女であることはわかっている。よく知っている。あれだけ命の危機を乗り越えてきたのだ、優秀でないはずがない。

 次の出番は、アメリカ魔法学校《グレー・ギャザリング》の代表、ローズマリー・イェイツだ。スタイル抜群で明るく元気、男勝りの気さくな美少女。そしてグリフィンドールの談話室に入り浸っているため、獅子寮生には彼女と親しいものも多い。

 ゆえに心配なのだ。

 いま目の前で獲物を今か今かと待っているドラゴンは、ウクライナ・アイアンベリー種という竜種の中でも最大のドラゴンである。

 尻尾が当たっただけでもその重量で消し飛んでしまいそうなほどの巨体である。ハリー曰く、重くて速いだけで脅威なのだとか。実体験に基づく事実だと言っていたが、なんのことやら。

 とにかく。

 おへそと胸の谷間を惜しげもなく露出させ、カウガールの格好をしたローズマリーが楽しそうにテントから飛び出してきた。

 健康的な色気もそうだが、彼女の人懐っこさによってホグワーツのみならず他の五校でも友達が出来たのだろう。親しげな歓声が大多数を占めていた。

 アイアンベリーが得物を見定め、いきなり飛び掛かっていった。生徒たちが悲鳴をあげる中、ローズマリーは全く動じていない。

 にい、と真っ白な歯を見せるようにして笑みを浮かべると、ガンベルトに吊るしてあった杖を素早く抜き取ると同時、二筋の魔力反応光を射出するという西部劇さながらの早撃ちを決めた。

 一瞬で目を潰されたアイアンベリーは、悲痛な声を長々と漏らして墜落する。約六トンもの巨体が落ちたのだ、会場全体をひどく揺らして、岩山には大きなクレーターと亀裂を作りだした。

 暗赤色の目が血で真っ赤に染まり、低く呻いて痛みに耐えているアイアンベリーに対して、ローズマリーは容赦をしない。

 

「『フリペンド・サウザンド』ォ!」

 

 ローズマリーが呪文を叫ぶと同時、彼女の杖の周囲に魔力で編まれた光の棒のようなものが複数現れた。棒はそれぞれが光のリングで繋がれており、ハーマイオニーからするとまるでマグルが戦争で使うガトリングガンのような見た目をしている。

 そしてその感想は、間違いではなかった。ぎゅいいい、という異様な音を立てながらリングと棒が回転すると、先ほど『射撃呪文(フリペンド)』で射出したような赤い魔力反応光が乱射されてゆくではないか。 

 それも普通の数ではない。大量に、それこそ一つの巨大な線のように見えるほど大量に。

 ドラゴンの皮膚には魔法が通じないようになっているが、衝撃まで無効化するわけではない。しかもこれだけ大量の射撃呪文によるシャワーを浴びせられたならば、相応の殺傷力はある。そうなればもはや、いくらドラゴンであろうと決して軽視できるようなダメージではないのだ。

 

「ヒャーッハハハハハハ! 踊れ踊れェ! 無様に尻尾振って逃げろよファッキントカゲちゃんよぉ! あははははは、ドラゴン狩りたぁ面白いなぁオイ!」

 

 ローズマリーのテンションも上がり続ける一方だ。このまま彼女の猛攻を受け続ければ皮膚が抉られるようになってゆくのは、いくらドラゴンでも簡単にわかることだ。

 野生というのは、力の上下関係の敏感である。

 自身より強いものにはへりくだり、プライドを切り売りして媚を売りつけ、自身の命を懸命に救おうとする。彼らにとって、生きていればこその命である。

 アイアンベリーは文字通り尻尾を巻いて逃げようとし、しかし鎖に繋がれているため試合会場の隅で尻を向けてうずくまってしまった。

 それを見たローズマリーはつまらなそうに唾を吐き捨てると、乱暴な足取りで黄金の卵に歩み寄り、大きな歓声と共に勝利の証を悠々と持ち帰ったのだった。

 

 

 ユーコ・ツチミカドは呆れたような目で会場を見下ろしていた。

 アメリカ魔法学校代表のローズマリー・イェイツ。なんともブッ飛んだ魔法を使うようだ。流石アメリカというべきか、何というべきか。

 彼女が獰猛な笑みを引っ込めて、さわやかな笑顔で選手用テントに去ってゆくローズマリー・イェイツの後姿を眺めながら考える。

 あれは敵か否かと。

 不知火魔法学校は毎年、日本警察や自衛隊に優秀な魔法使い魔女を輩出している。ヨーロッパの魔法界はどうやら《魔女狩り》といった歴史的背景から非魔法族(マグル)とかなり確執があるようだが、日本ではそうも言っていられない。

 日本魔法界において、マグルという言葉は差別用語である(日本はそういった方面には大変うるさい)。それに、そもそも日本には魔法界という明確な区切りがあるわけではない。都内に敷地を持つ普通に受験もできる高等学校が、実は竜脈の上にある非魔法族避け結界の張られた異能関係の学校でした。なんてこともあるのだが、ユーコにはあまり関係ないので割愛する。

 数ある日本の異能教育機関において、ラテン系の魔法を学んでいるのは不知火のみだ。ハリーたちの使うラテン語を用いた魔法だけではなく、陰陽道、忍術など、様々な異能を学べる学校は日本国内には不知火にしかない。

 ゆえに、今回の六大魔法学校対抗試合はいい機会だった。

 日本はまだラテン魔法において歴史が浅い。なにせ明治時代の文明開化まではそれを一切受け入れなかったのが原因である。だがこの一〇〇年余りで日本は異常なまでに魔法文化を吸収し進化し続けている。

 ユーコの実家、土御門家は元々は陰陽道の名家としてその名を日本全国に知らしめていた異能に対するエリート中のエリートだ。そしてユーコの祖母、サチコ・ツチミカドは革新的な思想を持つ人物であり、あらゆる異能をひっくるめて教える学校である《不知火》の二代目校長を務めている。明治時代にこの学校を創りあげたサチコの父親はとんでもない人物だと思うが、まあ今は関係あるまい。

 問題は、ヴォルデモートだ。

 ユーコの幼馴染にして婚約者であるソウジローが幼い頃、テレビでは悲惨な内容が報じられていたという。イギリスで次々と人が行方不明になったり変死体で見つかったり、当時の英国首相が悲痛な面持ちでその内容を読み上げていたりする外国のニュースだ。

 その頃彼は二歳か三歳くらいの幼子であったというのに、今でもうっすらと思い出すことができるくらいには、ひどくショッキングなことだったのだろう。

 ソウジローからその話を聞いた時は怖いこともあるものだとぼんやり考えていたが、ユーコも十五歳となって藤原家へ嫁入りするための教育を受けている今では、それがどういうことなのかよくわかる。

 ヴォルデモート卿という、英国史上最大の犯罪者。英国では優秀な魔法使いが生まれる傾向が多くあるが、中でもヴォルデモートという男は恐ろしいまでに凶悪なのだという。

 かつて、ゲラート・グリンデルバルトという闇の魔法使いが居た。

 英国最悪の犯罪者。彼の活動がダンブルドアによって早いうちに阻止されたのが大きいため、ヴォルデモート程の恐怖は抱かれていないが彼も十分以上に危険人物であった。

 ヨーロッパ魔法界において、非魔法族への差別は根強い。

 魔法族も人間である以上、遺伝上の問題は普通に起こり得る。それがスクイブ(当然日本では差別用語である)と呼ばれる、魔法族なのに魔法を扱えない人々のことだ。

 確かに、日本とて異能一族の中で異能が扱えない人間が出れば相応に厳しい人生を歩む者もいるだろう。跡取りが生まれたのに、異能を任せられないのでは落胆もされよう。

 だからといって殺すなどということはありえない。

 現に、ユーコの伯父はスクイブである。しかし叔父は現在、立花重工という会社の社長を務めて日本魔法省首相の夫として多忙な妻をしっかり支えている。なにも魔法が使えないだけで生きている価値がないなどと、そんなバカな話があるか。ユーコは恐らく日本の未成年異能者の中では、異能の扱いが一番うまいだろう。だがユーコにとってはそんなもの、自慢にもなりはしない。模擬戦などにおいてソウジローに勝ったことは一度もないし、策謀においても父親や伯父にしてやられてばかりだ。竪琴や舞など、そういった分野において母を驚かせたこともない。年の離れた兄達は勉強において幼稚舎の頃から常に一番を取り続けて今や二〇代にして政治家であるというのに、ユーコは今でも二番止まりだ。

 ゆえに魔法の才能など、血筋など、ちっぽけな問題にすぎないのだ。隣でさすがはイェイツ家の娘などという戯言を垂れ流している英国政治家どもの言葉など、どうでもいいのだ。

 

 話が、いや思考が逸れた。これは自分の悪い癖だと、ユーコは何度目になるか分からない自嘲をする。

 問題は、いま目の前で圧倒的な戦力を見せつけている代表選手たちの力量についてだ。

 ツチミカド家は、ダンブルドアに対して全面的に協力するつもりである。不知火における魔法関係の教科書に正確な内容が書けているのは、彼から援助してもらったからという理由が大きい。イギリスのみならず世界中の魔法文化発展にも尽力する彼は、英国魔法史だけでなく世界魔法史においても本当に偉人なのだろうと思わされる。

 祖母たるサチコも妖怪と言われるほどにとんでもない魔力と知識を持っているが、それでもダンブルドアにはかなわないだろうと確信できるほどに、彼は世界で最も素晴らしい魔法使いなのだ。

 ゆえに昨年、彼から相談事を受けた時は何事かと思った。

 父から正装してくるようにと言われ、土御門の家紋が入った立派な着物をお手伝いさんたちに着付けられて、一番上等な客間へ行ってみればそこに居たのは祖母の憧れアルバス・ダンブルドアだった。

 何故か藤原家次男のソウジローもその場に居たのも驚いた。慌てて彼の隣に正座して話を聞いてみれば、彼はかの暗黒時代、とあるレジスタンスを組織していたらしい。その組織に、協力してはくれないかとのことだった。

 そう、レジスタンス。暗黒時代においてはもはや悪こそが法であり、光がそれをひっくり返さねばならないと奮闘していたほどに厳しい時代だったのだ。それを、ダンブルドアは見事に成し遂げた。ヴォルデモートという巨悪を打ちのめし、束の間とはいえ平和を取り戻し法の光をヨーロッパにもたらした。

 それに貢献したのは、ハリー・ポッターという一人の赤ん坊。

 たった一人の赤ん坊によって闇の帝王はそのみなぎる力を失い失墜してしまったわけだが、それでもヴォルデモートは死んだわけではない。近いうちに哀れな少女ハリエットを必ず狙ってくるだろうと、ダンブルドアは確信していた。

 そしてダンブルドアが頼んできたのは、六大魔法学校対抗試合におけるハリーの護衛。

 彼は語る。ヴォルデモートが復活するのは、恐らく今年中なのだと。再び英国が、いや世界が闇の輩に呑み込まれる可能性は、今年こそが一番高いのだと。

 不知火魔法学校において一番戦闘力が高いのは、きっとソウジローだ。炎のゴブレットも、ほぼ確実に彼を選ぶことだろう。ゆえに、護衛役には彼が選ばれた。ユーコはそのサポートだ。口下手なところのあるソウジローを支え、またハリーの友達になってあげてほしいと。

 外国人の友達ができるのもわくわくしたし、何よりソウジローならば守りきれるだろう。好きな男の子にナイト役をしてもらえるという美味しい役目を関係ない女の子に取られてしまうのは癪だが、そこは仕事だ。仕方ない。

 

 そこで問題になるのが、ローズマリーが敵かどうかという話だ。

 ユーコは、おそらくもうこのホグワーツにはヴォルデモートの手の者がもぐりこんでいるだろうということを前提で考えている。ネガティブに過ぎる思考かもしれない。しかしダンブルドアは、この考えに賛同してくれた。

 考えられる可能性としては、三つ。

 まず一つ。六大魔法学校のうちホグワーツ以外の教師、もしくは生徒に紛れている。これが一番濃厚だ。ヴォルデモートがダンブルドアの目の前に送り込もう考えるほどの人材ならば、代表選手に選ばれるほどの実力を有しているのは当たり前だろう。その点で考えると、元死喰い人とはいえ下っ端もいいところだったイゴール・カルカロフは除外していいかもしれないが、疑って損はないだろう。しかし闇の帝王のことだ、他人を信頼するなど有り得ない。ならば優秀な人間を選ばない理由はない。つまり、代表選手か校長か。そのうちの誰かが死喰い人だ。

 次に考えられるのは、ホグワーツの誰かが死喰い人であるということ。教師陣にも怪しい人物はいる。セブルス・スネイプだ。彼はあまりにも闇の魔術に詳しすぎる。だが、彼は白である、誇り高き潔白であるとダンブルドアが断言した。ならば残るは誰か。当然、アラスター・ムーディが該当する。新任の教師だ、怪しさ満点である。元闇祓いだろうが、知ったことではない。人間、堕ちるときは堕ちるのだ。ゆえに、ホグワーツの誰かが死喰い人であるならばユーコはアラスター・ムーディがそうなのではないかと考える。

 最後に三つ目。これは一番考えたくない最悪の可能性だ。護衛として配置されている闇祓いや、ドラゴンの扱いのため呼ばれている竜使い(テイマー)たち、そして今後の試練に関係して呼ばれるだろう外部の人間だ。彼らがそうであるとするならば、特定など不可能に近い。だから可能性からは除外しておく。考えたところで無駄、後手になるのはわかっているからだ。

 つまり、ユーコが疑っている人物は十二人。

 ボーバトンのフラー・デラクールとマダム・マクシーム。ダームストラングのビクトール・クラムとイゴール・カルカロフ。アメリカのクェンティン・ダレルとローズマリー・イェイツ。イタリアのバルドヴィーノ・ブレオとレリオ・アンドレオーニ。ホグワーツのセドリック・ディゴリーとアラスター・ムーディ。そして、日本のソウジロー・フジワラとサチコ・ツチミカド。

 もっとも、ソウジローと祖母についてはあまり疑ってはいない。何より自分の最も信頼する祖母と、最も愛する青年だ。家族である(ソウジローは将来的にという意味で)から許されることだが、無礼にあたる事を承知で『服従の呪文』をかけられていないかどうか、毎朝調べさせてもらっている。ゆえに、今はシロだ。

 しかしそれでも十人。容疑者が多すぎる。

 自分(ユーコ)と接する機会の多かったセドリック・ディゴリーとローズマリー・イェイツは除外してもいいかもしれないと考えている。闇に通じた者特有の、ドス黒い目をしていないのだ。不知火の生徒として来ている生徒会役員(し の び)たちには徹底的に彼らの情報を洗ってもらったが、そのうえでシロだと判断してもいい。

 その点だけで言えばハリエット・ポッターが一番邪悪な目つきをしているし、最初に会った時は確実に邪道に堕ちた人間だと確信していたものだが、彼女に関してはダンブルドアから理由を聞かされている。到底信じがたいことだったが、彼が言うならば間違いはない……とは言い切れないが、害はないのだろう。

 

『お次のヒーローは、日本の不知火魔法学校代表選手、ソウジロー・フジワラァーッ! ニンジャ! サムラーイ! ニンポが見れるぞニンポ! みんな一瞬たりとも目を離すなよぉ!』

 

 と、思考の海から意識が引き上げられる。どうやらソウジローの出番らしい。

 竜使いたちが苦労して会場に運び込んだのはハンガリー・ホーンテール種。ソウジローの相手はどうやら、一番凶暴とされる種類のドラゴンらしい。

 だがユーコは、あまり興味がなかった。そんな様子のユーコを見て、隣の席に座っていたハーマイオニー・グレンジャーが心配そうに声をかける。

 

「ねぇユーコ、見なくていいの? せっかく旦那さんが戦うってのに」

「ま、まだ旦那じゃないよ。それに、いいの。どうせ一瞬で終わるもの」

 

 それはソウジローに寄せる絶対の信頼である。

 現にユーコは、この大会で優勝するのはソウジローだと疑っていない。

 不知火魔法学校は、それほどまでに戦闘技術に重点を置いた教育をしているのだから。

 

『フジワラ選手が入ってきました! タマゴの前で仁王立ちするホーンテールは彼のことを、卵を狙いに来た不届き者だと思って怒り狂っております! さーてどのような対処をするのか!』

 

 ソウジローの黒い瞳が、鋭い眼光を放ってホーンテールを見据える。

 その眼を見てしまったユーコは、これはヤバいと直感した。

 慌ててカバンの中から折り畳み傘を取出し、ワンタッチでバッと広げる。

 マグル製品に驚いたハーマイオニーの声を聴きながら、ユーコは親切心から呟く。

 

「嫌な思いをしたくないなら、傘に入った方がいいよ」

 

 ユーコの忠告に一瞬呆けたハーマイオニーは、嫌な予感がしてその言葉に従った。

 見れば、不知火の生徒が多くいるハッフルパフの席では他にも傘をさしている者がいる。

 ハーマイオニーがソウジローの方へ目を向ければ、そこでは彼に炎を吐こうと大口を開けているホーンテールと、低い姿勢で荒々しい光を纏った杖を握っているソウジローの姿があった。

 瞬間、ソウジローの右腕がブレる。

 杖から光が消えると同時、その刀身からは血が滴っているのが見て取れた。くぐもった声がホーンテールの方から聞こえてきたかと思えば、そこでは首なし死体が出来上がっていた。

 ごろりと地面に首が落ちると同時、その傷口から悪趣味なシャワーが噴き出る。

 阿鼻叫喚の地獄が出来上がった。

 ハーマイオニーは恐怖で顔をひきつらせながらも、成程と納得する。グリフィンドールの応援席はあのドラゴンと近い位置にあった。傘がなければ血まみれだったわけだ。

 血に濡れた黄金の卵を掲げたソウジローを見て、実況が引きつった声で彼の勝利を宣言する。

 試合会場からは未だに悲鳴が聞こえ続ける中、彼は涼しい顔で選手用のテントへと戻っていった。彼に血が付いた様子はなく、ユーコは満足げに彼の背中を見送るのだった。

 

 

 ルード・バグマンは興奮していた。

 三大魔法学校対抗試合だけでもエキサイティングだというのに、今年は六大魔法学校だ。それに、先ほどの日本人の少年がやらかした光景。実にクールでクレイジーだった。

 ウイムボーン・ワスプスというチームでビーターを務め、そしていまは魔法省で魔法ゲーム執行部に勤めている身としては、この大会を後押しした甲斐があったというものだ。

 賭けの勢いもよくなるというものだ。うしし。

 そう、ルード・バグマン。彼は大のギャンブル好きだった。それこそ身を滅ぼしてしまいかねないほどのギャンブル狂っぷりに、彼を知る者はみんな呆れ顔になる。

 クィディッチ世界大会での賭けは大失敗だった。絶対に勝てると思った掛けすら失敗し、いまは賭けに負けたことでウィーズリーのところの小倅たちに借金している状態なのだ。ガキだと思って舐めていたが、あんな大金をかけたギャンブルを成功させるとは。あの双子は末恐ろしいものがある。商才があるのかもしれない。

 だが、今回は優秀なブレインがついている。この度の駆けは負ける気がしない。何を隠そう、不知火の生徒会長、ユーコ・ツチミカドが味方してくれているのだ。

 いったい何が目的なのかは知らないが、選手たちの情報を渡すだけで彼女の優秀な頭脳の助けを得ることができるのだから乗らない手はなかった。きっと彼氏のためにライバルたちの弱点を集めようとしているのだろう。健気で可愛らしいことだ、まったくおアツいね!

 さてさて。

 今回までの賭けで、ルード・バグマンは全勝とまではいかないものの総合で大儲けしていた。特に、ソウジロー・フジワラの試合結果。あれは寸分の狂いもなくユーコちゃんが予想した通りの展開になった。さすがは彼氏彼女だ。いや違ったっけ?

 フラー・デラクールとバルドヴィーノ・ブレオの競技は、わざと外すことにした。確実でないならばイカサマを疑われないためにもハズした方がいいとのことだ。これを聞いた時、あまりの素人戦法に辟易したものだが、結果は従って正解だった。日本では女性が着物をはだけて「ハンカチョーカ!」と叫んでゴブレットを振り回す賭け事があるらしい。多分そのおかげで彼女も詳しいのだろう。

 セドリック・ディゴリーとローズマリー・イェイツは無難な儲けだった。ゴブリン相手の賭け事は、イチャモンをつけられやすい。それを聞いたユーコからの助言で程々にしておくようにとのことだったが、確かにその通りだった。審査員の点数まで当てられるか、ばかばかしい。

 

「さーてさってさて、クラムちゃーん。プロの先輩に美味しい汁を吸わせておくれよう」

 

 バグマンは揉み手をしながら、クラムがテントから出てくるのを眺める。

 子供を賭けの対象にして一喜一憂するなど、我ながら薄汚い最低の大人だと思う。だが、大人なんてそんなものだ。楽しいのだ。このスリルはやめられない。 

 相変わらず地上では猫背で歩きづらそうな男だ。だが、彼がひとたび箒に飛び乗れば現役時代の自分よりも華麗に素早く飛べることをバグマンは知っている。

 彼が箒を取り出して呪文を叫んだ時、バグマンは歓喜の叫びをあげた。

 

「『アクシオ』、ファイアボルト!」

 

 やった、ユーコの言った通りだ! これで五万ガリオンは俺のものだ!

 クラムがスペルを叫んだ瞬間、まるで空間を突き破るようにして深紅の箒、炎の雷(ファイアボルト)が現れた。魔法に優れた者の『呼び寄せ呪文』にタイムラグはないと聞いたが、ああして出てくるのかと感心させられる。

 観客の歓声と共に箒にまたがって空へと飛びあがったクラムは、まさに水を得た魚のそれである。

 若い頃の、全盛期の自分にだってできなかっただろう曲芸飛行をこなし、チャイニーズ・ファイヤーボールの注意をひきつける。クラムの飛び方は、美しいとまで言える。芸術的なプレーを見せつけられた観客の心は、引き寄せられて当然だ。

 バグマンは、知らずして自分の目から涙がこぼれたのを自覚する。

 ウイムボーン・ワスプスは楽しいチームだった。観客と選手がブンブン叫びながら相手選手をチクチク刺し回るいやらしくもスリリングなクィディッチ・プレー。会場のすべてと一緒になったかのような一体感は、いまでも思い出すことができる。

 危険なプレーによってケガをし、選手生命を断たれたことに後悔はない。そんなことで後悔をしていては、《危険な蜂野郎》などという名誉なあだ名は貰っちゃいない。

 後悔はしていない。だが、未練はある。

 今でこそギャンブルに狂ってしまっているが、後進のスポーツマンたちがのびのびとプレーできるようにと願いを込めて魔法省に入った時代もあった。

 そのことを思い出してしまう。

 本当にこのままでいいのだろうか。いつか大損をやらかして、全てを失ってしまうのではないか。

 

「……見事だよ、アーティスト・クラム」

 

 まるでブラッジャーのようにクラムを追いかけ回すファイヤーボールを出し抜いて、見事に金のタマゴを手中に収めていた。

 輝く汗を飛び散らせて、朗らかな笑顔で金のタマゴを掲げるクラムは、十代の少年らしい若さに満ち溢れていた。

 

「……よし。今回でギャンブルはやめにしよう。決めた、決めたぞ。バグマンおじさんは健全なおっちゃんになるぞ!」

 

 あのように眩しいものを見せられては、仕方ないじゃないか。

 姪っ子にうまいもんでも喰わしてやるのもいいかもしれない。たまには妹夫婦にサービスしたってバチは当たらんだろう。

 そうと決まれば、ゴブリンたちから五万ガリオンを貰って、さっさと次の試合をゆったり見ようじゃないか。次の試合は最後なのだから、ハリー・ポッターの出番だ。

 あの可愛らしいお嬢さんがどう頑張るのか。気になって仕方がない。

 そう思ったバグマンは、そこらで売っていたポップコーンを二クヌートで買って口に放り込んだ。ハンカチを探してポケットをまさぐれば、出てきたのはすっかり忘れていたメモ書きだ。

 

「なになに? 『次の対抗試合の内容は、私の予想では……お、おおお?」

 

 これはつまり、今回の助言をしてくれた手紙の二枚目か。

 ユーコからの助言は、どうやらまだ終わりではなかったらしい。 

 ……。……も、もう一回くらいならギャンブルしてもいいんじゃないかな?

 バグマンは鼻歌交じりに、誰へしているのかわからない言い訳を呟いて、席に腰を深く沈めるのだった。

 

 

 ハリー・ポッターは死にそうだった。

 ローズマリーやセドリックが背や頭を撫でて落ち着けてくれるものの、吐き気が止まらないのだ。なんだろうこれ、何が起こったのだろう。

 あまりに顔色がひどいのか、ブレオですら下心のない顔で心配そうに水差しを手渡してくる。ありがたく頂戴したそれを飲んでも、具合はよくならない。ソウジローからのタオルは遠慮しておいた。ちょっと血生臭い。

 ハッキリと具合が悪くなったのは、ソウジローの試合が終わった頃だ。血の匂いでクィレルを殺したときを思い出したのは確かだが、だが体調がひどくなるほどのトラウマではなかったはずだ。

 しかも嫌なことにこの感覚、月一のアレと似たような倦怠感を感じるのだ。だがあれはまだ二週間は来ないはずだ。下着も汚れていないと思う。まったくもって不可解なことだ。

 だが時間がない。出番が来てしまった。

 

「お、おいハリー大丈夫か? ちょっと待ってもらった方がいいんじゃねえの?」

「そうだよハリー。体調が悪いならちょっと待ってもらった方がいい」

 

 ローズマリーとセドリックが親切心から言ってくれるものの、ハリーにも意地がある。

 たかだか体調不良なんかでドラゴン程度から逃げ出したと思われるのは、業腹だ。

 こうなったらさっさと叩きのめすしかない。

 

「いってくる」

「き、気を付けろよ」

「ハリー、意識をしっかり持って臨むんだ」

「あいよー……」

 

 ふらふらとした足取りでハリーはテントから出ていく。

 彼女が姿を見せた途端、わっと観客が湧いた。

 ネームバリューだけならば、ハリーはクラムすら霞むほどの有名人だ。

 それもその評判は、「闇の帝王を倒したハリー・ポッター」である。ハリーが生まれて間もない頃のことだと知っているだろうが、それでも皆は期待してしまうだろう。

 もしかするとハリー・ポッターは、とんでもなく強力な魔法使いなのではと。

 しかし、現実のハリーはそんな立派なものではない。

 そこそこめりはりのある体つきに、スパッツの上でスカートがひらりと揺れる。

 どう見たって女の子そのものであり、今までハリーを男の子だと思っていた人々が一気にざわつく。他五校の生徒たちも、未だに信じきれないような目でハリーを見ているのがわかる。

 どうして《生き残った男の子》などという間違った情報が広まったのか、ハリーは知らない。知らないが、こういった目で見られるのはいささかいい気持ちではない。

 だったら今ここで知らしめてやるのも悪くはないんじゃないかな。と思ってしまうあたり、ハリーも緊張しているのだ。

 

「で、デカい……」

 

 テントから出てすぐ見えたのは、ヒドラ・ヘレネスの顔。

 今まで代表選手たちが相手にしてきたドラゴンたちと比べると、まるで深海魚のような造形をしているそれは酷く不気味だ。

 ぎょろぎょろとハリーを捉える飛び出した目玉に、口中に収まり切らないほど長く鋭い乱杭歯。乾いた皮膚は張り付き骨ばっており、頭蓋骨の形をはっきりと見せているのもまた気味の悪さを引き立てている。まるで効率的に不快感を与えるために創られたかのような醜さである。

 どうやら首は一本しかないらしい。

 プラナリアとかスライムみたいに斬れば増えるのだろうか?

 とにかくアレに対して不必要に刺激を与える必要はない。

 

「『アニムス』、我に力を」

 

 ぼう、とハリーの全身が淡い青の光に包まれる。

 いっそあのヒドラ・ヘレネスを無視して、全速力でタマゴを狙ってみるか。

 そう考えたハリーは、自身に身体強化を施してから高速で動き始めた。

 実況がなにやら驚いたようなことを言っているが、いまのハリーにはあまり聞こえない。

 相手がドラゴンだからと言って軽んじているつもりはない。

 一撃貰えば死につながるのは、この時もそれ以外の時でも同じだ。油断などする余裕はどこにもない。出来る限り身を低く、地を這う蛇のようにするりと駆け抜けるハリーを、しかしヒドラ・ヘレネスは見逃さない。

 だがハリーもヒドラの殺気を察知して、咄嗟にその場から飛び退く。果たしてそれは正解であった。今までハリーのいた位置には、どろりとした粘着質な液体が飛び散っており、それは会場に設置された岩山を、嫌なにおいを振り撒きながら溶解させているのだ。

 ぞっとする。だが、まぁ当たらなければどうということはない。

 

「『フリペンド・ランケア』!」 

 

 ひゅる。と杖を振るえば魔力が練り上げられ、三本の紅い槍がハリーの周囲に出現する。

 それらは彼女の号令と共にヒドラのもとへ投擲され、その骨ばった尾を地面へと縫い付けた。けたたましい悲鳴が聞こえるが、ハリーはそれを無視してタマゴへと一直線に向かってゆく。

 しかし。

 

「っく、うわ……!」

 

 ヒドラが掬い上げるように噛みつこうと迫ってきたので、高く跳んで避けるしかなかった。その時にハリーは見た。尾から槍を引き抜こうと噛みついている頭と、いま噛みついてきた頭。

 奴は、なぜか頭が既に二本生えている。

 一体どういうことかと思ったところで原理は分からないだろう。

 ならばあと、最大で七本は増えることを覚悟しながら戦わなければならないというわけだ。それは精神的な疲労に訴えかけてくるいばらの道かもしれないが、そんな道はいつものことである。

 森を通り抜けるには、棘だらけで傷ついてしまうような道を通る必要があるのなら。

 いっそ森を消し飛ばしてしまえばいいのだ。

 

「『アグアメンティ』、水よ!」

 

 ハリーの杖先から、鉄砲水のような濁流がヒドラ目掛けて飛び出してゆく。

 ただの魔力反応光ならばともかく、面制圧の水流に避ける術はない。

 しかもハリーは『水魔法』の魔法式を『書き換え』て、出現させる水の種類を変えた。

 いまごろ観客席にはつんとした嫌な臭いが届いていることだろう。

 マグル出身の者達からすると、実に馴染み深い臭いだろう。なにせ、

 

「『インセンディオ』!」

 

 ヒドラにかけたのはガソリンだからだ。

 ハリーの火焔呪文が着弾し、ヒドラの身体が赤く燃え上がる。

 長々とした悲鳴がとどろいて、観戦している生徒たちがうわぁと声を漏らす。

 操られたり眠らされたり鳥に襲われたり首を刎ねられたり、挙句の果てには火達磨にされたりと、まさに厄日。ドラゴンたちにとって本日は厄日である。

 苦しそうに長々と悲鳴をあげるヒドラを見て、ハリーは呟く。

 

「要は生かさず殺さずで、動きを封じればいいんじゃないかな」

 

 事実その通りであった。

 不死身の怪物を相手にするならば、その不死性を解除するか、もしくは身動きできない状態になるように封じてしまうか。今回ハリーがとったのは後者だ。それに、ヒドラ・ヘルメスがマグルの伝説と同じく本当に不死なのかも判然としていない。

 ゆえにこの方法を取ったハリーの判断は、間違っていなかった。

 問題があるとすれば、ヒドラ・ヘルメスの頑健さとその執念深さである。

 

「――――ッ!」

 

 ハリーは嫌な予感がうなじを舐めた感覚に反応し、咄嗟にその場を飛びのいた。

 身体強化が続いているので、軽く跳んだだけでも十メートルほどの距離を取ることができた。

 観客を保護するために会場を覆っている柵に掴まり、ぶら下がって眺める。

 先ほどまでハリーのいた位置は、奇妙な形に大きく抉れていた。直感に従っていなければ、言うまでもなく天に召されていたことだろう。

 ヒドラ・ヘルメスを見てみれば、ついに首が九本に増えていた。そのうちの五本くらいが大口を開けて、瓦礫の山を呑み込んでいるのが見える。こんなものを用意するとは運営側もえげつないことをするものだ、とハリーは楽しそうに笑った。

 ハリーが捕まっていたのはどうやらレイブンクロー応援席の近くだったらしい。そのうち一人の女子生徒――確かレイブンクロークィディッチ・チームのシーカー、チョウ・チャンだ――が心配そうにハリーへ声をかけてきた。

 

「だめよ、ハリー。棄権しないと。あんなの、規格外よ。勝てっこないわ」

 

 心底心配そうな声をかけてくれる彼女に、ハリーは嬉しくなって微笑み返した。

 彼女はクィディッチをするたびに、ハリーのことをずいぶんと敵視していたものだ。その理由としては、もしかすると彼女の意中の人物セドリックにあるのかもしれない。

 ハリーとセドリックは、親戚の兄妹のように仲がいい。セドリックも勤勉であるため根っこのところでは真面目なハリーと気が合い、二人とも向上心の塊でありクィディッチに恋をしてスニッチの尻ばかり追いかけている。さらに魔法への探究心を持て余していることも共通している。

 彼が何のために魔法を学んでいるのかは知らないが、ハリーは将来ヴォルデモートと戦うときのために無理矢理にでも知識を詰め込んでいる。最近は根を詰め過ぎてもいけないということで、今しか味わえない青春を楽しんでいるものの、それでも魔導を吸収することへの欲望を忘れたことはない。

 要するに、チョウはハリーとセドリックが男女の仲にあるのではないかと勘ぐって、嫉妬してしまったのだ。勘違いかもしれない、しかし本当だったら耐えられない。中国系イギリス人の彼女は、大変スレンダーな体つきをしている。年下のハリーに肉付きで負けているのもまた黒い炎に注がれる油になっているのだろう。

 恋する乙女の妄想、もとい想像力は絶大である。

 そんな彼女が、純粋にハリーを心配し、応援してくれている。

 セドリックという想い人も同じ競技に出ているにも拘らず、だ。

 

「ううん、平気だよチョウ。君にぼくの力を見せてあげる」

 

 微笑んで、ハリーは鉄柵を蹴ってヒドラ・ヘルメスへと一直線に飛んだ。

 ハリーの蹴り飛ばした柵が捻じ曲がっているのを見て、チョウは目を見開く。甲高い悲鳴が聞こえるとともに視線を向ければ、そこでは杖から伸びた白刃でヒドラ・ヘルメスの首を刎ねたハリーの姿があった。

 ヒドラ・ヘルメスの首が一本切り取られたかと思えば、青白い軌跡がヒドラの巨体を這うように高速移動している。あれはハリーだ。彼女の身体から漏れ出る魔力反応光が、まるで流れ星のように尾を引いているのだ。

 

「二本目ェ!」

 

 ぶつ、という鈍い音と共に、ヒドラ・ヘルメスの首がまた一本切り取られる。

 悲鳴と共に地に投げ捨てられた首が土煙を上げるころ、三本目が落ちてきた。

 畜生ながらこれ以上はまずいとでも考えたのか、ヒドラ・ヘルメスは脚に刺さった槍を無視して、力づくで体を揺すってでもハリーを振り落そうとする。長い首と赤い血を振り乱して暴れるその姿は、まさに手負いの獣そのもの。

 そんなものをハリーが逃がすわけがない。

 勢いのあまり放り投げられたハリーの身体目掛けて、複数の頭が下品な音と共に口から胃液を飛ばしてくる。つまりこれが先ほどの溶解液の正体だ。

 

「『グンミフーニス』!」

 

 ハリーは地面に縫い付けられて動けないヒドラ・ヘルメスの足に魔力で編んだロープを突き刺し、遠心力を利用して円を描く奇妙な動きで空中を移動する。

 液体はハリーと関係ない明後日の方へ飛んでゆく。ハリーはその間にヒドラ・ヘルメスの胴体に着地すると同時、その勢いのまま杖から伸びる白刃をヒドラの胴に突き刺した。

 ぎい、と悲鳴があがると同時、ハリーが叫ぶ。

 

「『インセンディオ』!」

 

 途端、ヒドラが狂ったように絶叫した。

 体内に荒れ狂う灼熱の炎。さぞ苦しい事だろう。

 無茶苦茶な動きでハリーを振り払ったヒドラ・ヘレネスは、その勢いのまま地面に倒れ伏す。砕けた瓦礫が自分の体に当たらないよう杖で払いながら、ハリーは嘆息した。

 

「しつこいな……」

 

 あれだけ痛めつけたにもかかわらず、この多頭ドラゴンは弱った足腰に鞭打つようにゆっくり起き上がってハリーに向かって殺意を迸らせているではないか。

 怒り狂ったヒドラ・ヘルメスはハリーに向かってその大口を開いて迫る。

 しかし五本ある首のうち真ん中だけが爛々とした眼でハリーを睨みつけたかと思うと、切り取られたはずの首が、粘液に塗れてゆっくりとその鎌首をもたげた。

 傷口のあった場所を境目に、少し細くなった首が新たに生えている。ここまでの回復力を持っているとは予想外だった。

 だがあれはマグルにおける神話上のヒュドラとは違って、不死身ではないと思う。ならばいくらでもやりようはあるのだ。

 

「『ラミナマグヌス』、大刀よ!」

 

 ハリーの杖の周囲に、白い魔力反応光が収束する。

 それは一つの刃を作りだした。ソウジローが先ほど似たような魔法を用いたが、アレには及ばないまでも、強固な身体を持つ生物を切り刻む程度には十分な威力を持っている。

 地面にひびを入れる勢いで跳びあがったハリーは、一直線に突き進むとヒドラ・ヘレネスの脳天に着地、同時に刃を深く突き刺した。

 金属をひっかくような不愉快な悲鳴をあげる頭を蹴り飛ばし、ハリーは青い尾を引きながら次の頭へと飛び乗った。

 すでに死体と化した頭を放っておいて、残りの首がチャンスとばかりにハリーを丸呑みにしようと襲い掛かってくる。空中に居る間は身動きが取れない。ならば、それを改善してしまえばいいのだ。

 ハリーは杖先から魔力を放出し、適当な強風に変換する。

 ヒドラの口が、ばくんと空を噛んだ。ハリーは自分を強風で吹き飛ばすことで空中に居ながらにして位置を変え、目的地へと到達したのだ。もいっちょ、とばかりに五本目の頭に刃を突き入れた。

 

「っ!」

 

 ハリーがヒドラ・ヘレネスの頭に攻撃すると同時、残った頭が一斉にハリー目掛けて溶解液を吐き出してきた。

 考える暇もなく、大急ぎでその場から飛び退く。どろりと融解してしまった頭を尻目に飛び降りて、ヒドラの胴体を足蹴にして着地。

 いい加減にとどめを刺さなければと思ったところで、首を狙う必要はないのではないだろうかと考えつく。首の一本一本を落としたところで再生されてしまうのならば、胴体に攻撃するしかない。

 だが、少々魔力を消費しすぎる。

 やりすぎるのではないかと心配になるが、たかがドラゴンされどドラゴン。油断していると殺されてしまうことはわかり切っているので、ハリーは一切の遠慮をやめることにした。

 杖から伸びる白刃を、ハリーがいまのっている足場(せなか)へ突き刺し、叫ぶ。

 

「『ランケア』、突き刺せ!」

 

 白刃が膨らんで紅い槍(ランス)へと変じると、傷口が広げられて血液が噴き出した。

 当然である。小さな傷口に大きな異物をぶち込んだのと同じことをしているのだから。

 そして、これによって狙っていた状況は完成された。

 あとは最後に仕上げを加えるのみ。

 ハリーはその白く可愛らしい頬に飛び散った返り血を舐めとり、獰猛に笑んだ。

 

「体の中から掻き回されちゃえ」

 

 ハリーの声と共に、紅槍が高速回転する。

 肉を削ぎ千切る水っぽい音と、おびただしい液体音、そしてヒドラの五つの首から発せられる悲鳴。歓声が全く聞こえない中、ハリーは口角を吊り上げておりまるで悪魔のような笑みを浮かべる。

 内臓のいたるところをぐちゃぐちゃに切り裂かれ、ついに耐えきれなくなったヒドラが長々と哀しげな悲鳴をあげて、その巨体をどさりと地に横たえた。

 先ほどはここから復活されたのだ、二度も同じことをする気はない。

 

「『エクスパルソ』!」

 

 ハリーはトドメだと言わんばかりに、体内に突っ込んで放置していた槍に向かって『爆破呪文』をかける。魔力で編まれた槍が体の中で膨張し、くぐもった音を立てて爆発した。

 残った頭の口から、どす黒い血液がごぼりと吐き出される。今度こそ体内をぐちゃぐちゃにされたのだ、無事であるはずがない。ぐるり、と白目をむいたかと思えば、ヒドラ・ヘレネスは今度こそその肉体を地に横たえたのだった。

 足場(ヒドラ)が地へ崩れ落ちる前に飛び降りたハリーは、黄金のタマゴの目の前に着地する。まるで大きなスニッチのように輝くそれを蹴り上げて、その小さな手の平でそれをキャッチ。

 事ここに至ってようやくハリーが競技をクリアしたことを理解したのか、小さい歓声から徐々に大きな歓声へと変わってゆく。

 猫がネズミを甚振るように、圧倒的な強者が弱者を屠る分かりやすい図。

 今まさにハリーが行ったことは、それに等しかった。

 どこか畏怖の声も混じっている声援に、ハリーはタマゴを掲げて応えてやった。

 

 

 ソウジローは、会場の中心でタマゴを掲げているハリーを見遣る。

 幼馴染のユーコより一つ年下の、黒髪の少女。エメラルドグリーンの瞳が汚泥のように濁っているのが特徴だ。顔の造形はかなり整っており、さらには年齢の割に成長が著しいというのに線が細く華奢であるため、同年代の男の子には目の毒だろう。

 とてもではないが、凄惨な過去と過酷な運命を背負った少女とは思えない。

 仮にも藤原家の次男であるソウジローは、類い稀な陰陽道の才能を持っている。既に亡くなっている兄には劣るものの、次期当主として十分すぎるほどの力を持っているのだ。ゆえに、光と闇を見分けることができる。

 基本的に、ここにいる者達は光り輝くきれいな心を有している。

 多少の乱れやくすみは見受けられるものの、ダンブルドアやマクゴナガルといった眩いほどに真っ白な教師達の影響を受けて、綺麗な光の心を持っている。

 しかし、目の前に見えるモノはなんだ?

 忍びたちに調べさせたおかげで、ハリー・ポッターの生い立ちは全て知っている。

 確かにあのような過去を持っているのならば、目が死んでいるのもおかしくはない。

 

「……おまえは」

 

 おびただしいほどにドス黒い、ヘドロのような心というわけでもない。

 かといって白く降り積もった雪のように美しい心というわけでもない。

 

「お前は何者なんだ、ハリー・ポッター」

 

 まるで、悪そのもの。

 ハリー・ポッターという少女の心は、異常なまでに悪に染まっている。

 それだというのに、彼女の心からは陽の光が漏れている。

 意味が分からないのだ。

 ソウジローも十七年間生きてきて、こんな人間は初めて見た。

 例えるなら、泥水が滴る闇の太陽。

 おぞましいモノであるはずなのに眺めていると安心感を得てしまう、摩訶不思議な存在。

 一体彼女は何者なのか。

 友を疑うことはしたくないが、ソウジローの中ではハリー・ポッターはいま最も危険な人物として数えられている。目を離してはだめだ。

 ハリー・ポッターという一人の少女が恐ろしい。

 自分の大事な人を奪っていきそうなこの少女が、ひどく恐ろしかった。

 




【変更点】
・ハリーの相手はヒュドラ。目指せワンダーボーイ。
・フラーが《動物まがい》化。ライバル強化月間。
・セドリックがお好きなのは年下の女の子。きたないぞポッター。
・原作ハリーの活躍はクラムにお任せ。
・ヒュドラさえ敵ではない。インフレの影響がこんなところにまで。
・ダーク☆ハリエット。

【オリジナルスペル】
『モビリジェミニオ、増えよ人形』(初出・41話)
・対象物を分裂させる呪文。双子の呪いとは似て非なる別物。
 元々魔法界にある呪文。魂のあるモノはどうしても増やせない。

「フリペンド・サウザンド、撃ち砕け」(初出・41話)
・射撃呪文の亜種。砲身を形成し、魔力弾をばらまく攻撃的な魔法。
 元々魔法界にある呪文。アメリカで生まれた若い呪文。

第一の試練は原作と変わらず、ドラゴンからタマゴを掠め取るだけの簡単なお仕事です。そして長い。最大文字数を更新した気がします。
今回は色々なキャラクターの視点でやってみました。色々な視点でみることで、ハリー以外の人の心境もきっとわかってもらえるはず。多分、きっと、メイビー。
第二からはオリジナル試練が入り始めます。頑張れハリー、ラストが一番大変なんだら今から躓いているとお辞儀する羽目になるぞ!


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7.最低な日

 

 

 

 ハリーは困っていた。

 第一の競技が終わり、グリフィンドール寮で好き勝手騒いだとき。

 黄金のタマゴに、開閉できるギミックがついていることに気付いたのだ。

 開けてくれと騒ぐグリフィンドール生たちの言葉に従って、開けようとしたまではよかった。

 だが開けた先に待っていたのは、心躍らせるなにかではなく古びた鍵と錠だった。

 いったいなぜ鍵と錠が入っているんだろうと考えても、流石に情報がなくてはさっぱりわからない。この鍵で錠を開けられるのかと思いきやそうでもなし。

 完全に手詰まりだった。

 

「それでねハリー。ねぇハリー、聞いているの?」

「うん聞いてるよ。このヌガー取って欲しいんでしょ」

「聞いてないじゃないのよ。貰うけど」

 

 大広間で夕食を食べているとき、ハリーは隣のハーマイオニーに延々とよくわからない話を聞かされていた。ロンは既にこの場から逃げ出し、ハリーからの恨みがましい視線を振り切っていた。

 話の内容としてはこうだ。

 屋敷しもべ妖精という存在に対しての諸々の文句と、現状への嘆き。

 ハーマイオニー曰く、同じ人の言葉をしゃべってコミュニケーションが取れるというのに、ウィンキーの時のように奴隷のごとく切り捨てられていいはずがない。とのことだった。

 バーティ・クラウチの家に憑いていた屋敷しもべのウィンキー。

 《闇の印》事件を起こした張本人ということで、クラウチ家を(クビ)になったのだ。

 確かにクラウチ氏によるウィンキーへの扱いは辛辣の一言に尽きる。

 選民思想や差別主義などといった考えを持っていないハーマイオニーにとって、それはあまりにもショッキングな光景だったのだろう。

 

「それに、見てこれ。ひどい記事!」

「あー、なになに? 『ミス・グレンジャーの巨大な恋物語』……なんだこりゃ!?」

「ロン、声大きいよ。えーっと? 『彼女のお気に入りはブルガリアヒーローのクラム青年。大穴狙いのビッグチャンス! レズビアンなポッターの心境や如何に』だってさ。なんかさりげなくぼくまで攻撃喰らってんだけど」

「アッタマきた! なんなのこれ、マスメディアは個人のおもちゃじゃないのよ!」

「マス……なんだって? 君いま喉でも詰まらせた?」

「マスメディアだよ、ロン」

 

 リータ・スキーターもとんでもない女である。

 クラムがスリザリンの席で苦い顔をしていた理由がやっとわかった。選手控え室であるテントにおけるやり取り。あれを根に持たれてしまったのだろう。

 憤慨するハーマイオニーを放ってポリッジを口に運んでいると、ミルクの中に白い何かが飛びこんできた。ハリーはうんざりした顔をして、ポリッジの皿を押しやる。

 郵便の時間になると、行儀のなっていないフクロウが時折落し物をしていくのだ。頭にかかったらたまったものではない。

 汚物混ぜ込みポリッジが机の上からさっと消えると、トード・イン・ザ・ホールにオニオングレービーを添えたものが出てきた。たぶんヨーコか誰か、屋敷しもべが気を利かせてくれたのかもしれない。有難く頂戴しておこう。うん、美味い。当然沼入りではない。

 そうして割と好きな料理に舌鼓を打っていると、隣のロンから呻き声が聞こえてきた。なんだと思って見てみれば、何かよくわからない服を眺めている。

 ふりふりのフリルがふんだんにあしらわれた、茶色の上着。形としては燕尾服に似ている気がする。ドレスシャツもついている。蝶ネクタイは微妙な大きさであり、ロンが付けるとまるでコメディアンのようにも見えるだろう。

 ロンはうーんと唸ってから、近場で友達と食事していた妹に話しかけた。

 

「これ、ジニーのじゃないか? 間違って僕のところに来てたぞ」

「違うわよ。それに嫌よそんなの、ダサいじゃない」

 

 あっさりと否定されてしまい、ロンはすごすごと戻ってくる。

 笑ってしまうのは失礼だが、ハリーもハーマイオニーもくすくす笑いが止められなかった。案の定不機嫌そうな顔になってしまったロンの背中をハリーが撫で、謝って許してもらう。

 しかしハーマイオニーはよほど面白かったのか、まだにやにやしていた。

 ハリーとて別に面白くなかったわけではない。必死に表情を固定しているだけだ。

 

「ロン。どうしたのよ、そのドレスローブ」

「ドレスローブ? これが? ママってばまさかカーテンを寄越したんじゃないよね」

 

 いやはや。

 何とも大変なものである。

 ハリーにはモリーおばさんから手紙が来ており、クリスマス前にはドレスを買って送るから、希望のデザインを手紙で送ってほしいとの旨が書かれていた。どうやらハーマイオニーに着た手紙も同様のようで、楽しみにしてそうな顔をしているのが見える。

 ドレスねえ。ドレスかぁ。

 ハリーは冗談みたいな現実に、なんだかおかしくなって笑ってしまった。

 

「クリスマスの日。魔法学校対抗試合の伝統として、ダンスパーティが行われます」

 

 大き目の教室を空っぽにして、その左右の壁際に男女に分かれて座る。

 いまこの教室には、四年生以上のグリフィンドール生が全員集まっているのだ。

 女の子はきゃっきゃうふふと楽しそうにお喋りしているが、男の子たちはなんだかやれやれとやる気がない感じだ。

 

「我がグリフィンドールは千年もの間、この誇り高い心を受け継いできました。ダンスパーティはきっと楽しい一夜となるでしょう。ですが、先達から脈々と保たれてきた誇りをそのたった一晩で叩き潰さないよう、ご注意願いたいものです」

 

 いつも通りのマクゴナガル調である。

 踊ることそのものがどう楽しいのかはわからないが、とりあえず夜更かしして大騒ぎできるというのならば楽しいだろう。ハリーはそう考えているが、どうも周りの女の子たちは違うようだった。

 恋! そのすてきな好奇心がグリフィンドール女子を行動させた! 恋、それは人の心を明るくするもの。たとえ辛い目に遭っても、恋の輝きは心に立ち上がる勇気を与えてくれる。恋とは、人間の持つ素晴らしい感情である。

 要するにロマンチックな雰囲気の中で、気になる男の子にお近づきになれればいいなという単純にして重要な目論見である。

 

「今回の授業で行うのはダンス指導です。ダンスパーティの一夜では、男の子は素敵なジェントルマンとなり女の子は華麗なレディーとなる時のために必要なのです」

「エロイーズ・ミジョンは別かな」

「くくくっ」

 

 ロンとシェーマスがひそひそ話してにやにやしているが、小声なのでこちらまでは聞こえてこない。しかしマクゴナガル先生に目を付けられるには十分目立ったようだ。

 

「ミスター・ウィーズリー。お手本としてこちらへおいでなさい」

「ほォあ!?」

 

 マクゴナガル先生に呼ばれて、奇声をあげて驚くロン。

 先生の顔でこれはジョークでもなんでもなく現実なのだと悟った彼は、渋々立ち上がる。物凄い恥ずかしそうにしている彼の顔を見て、ハリーは笑い死ぬかと思った。

 

「ではダンスのお手本を見せましょう。手を取って、そして腰に手を当ててください」

「なんだって?」

「腰に手を当てるんですよ、ウィーズリー」

 

 こうなればもう、グリフィンドール男子が止まるはずがない。

 フレッドとジョージに囃し立てられ、口笛が鳴らされる。ひどいものだ。

 嫌そうな顔をしながらマクゴナガルを組んで、ダンスのお手本を見せるロン。

 仕方ないとはいえ、下手だ。

 

「さあ、みなさんもペアを見つけて踊ってごらんなさい」

 

 マクゴナガルの宣言と共に、ハリーたちは椅子から立ち上がった。

 一方で男の子たちは、とんでもない無理難題を突き付けられたかのような渋い顔をして唸っている。きっと照れ臭かったり、恥ずかしかったりするのだろう。

 一般的に、男の子よりも女の子の方が精神的な成熟度は早いと言われている。いつもの課外授業においてスネイプ先生にそう聞かされた時、何故かと問えば体のつくりが違うからだと説明された。

 体のつくりが違えば、当然魔法に関しても差異が出てくる。女性は早ければ十歳ほどから初潮を迎え、体形も変わり乳房が膨らんで子を成す為の準備が出来上がる。そうなる以前と以後では、魔力の質が変わることも珍しくはないのだとか。

 まったく表情を変えず淡々と話しているスネイプには失礼だが、ハリーはその話を聞いているときちょっとだけ意識してしまい恥ずかしい気分になった。それを見抜いたのか赤くなった顔を見られたのか、スネイプには「その無駄で無謀で不愉快極まりない感情の動きも、また魔力に影響するのだポッター」などとまで言われてしまう。

 

「麗しきハーマイオニー、その美しいお手をどーうぞ」

「あらジョージ、ありがと」

 

 ジョージとハーマイオニーがダンスの練習をしているのが横目に映る。

 なかなかうまいものである。フレッドはやはりアンジェリーナと踊るようだ。アンジェリーナは前々からフレッドにお熱だったため、他の女の子たちも彼を狙うようなことはない。恋の戦士アンジェリーナ。彼女の恋敵は全て地に伏せているのだ。

 さて、問題は男の子の方である。

 大多数の女の子は成長するにつれて現実的な思考に推移し、そして同年代のあれこれを経験する中で大人な思考になってゆく。一方、男の子は案外そうでもないのだ。確かに男の子も筋肉が発達し体つきが変わり髭が生えるようになり喉仏が出て声が低くなるなど、身体的な特徴はいくらでも挙げられる。

 しかし精神面においては、女の子ほどの成長は見込めないとの説があげられるのだ。好きな男の子をめぐって表面では「私たちずっとお友達だよネ」と笑っていても水面下で「おのれ口惜しや憎き奴め」と罵り合っている親友(?)も珍しくはない。

 セドリックを好いているチョウ・チャンがだいたいそのような感じだったが、彼女自身悪い子ではないということと、ハリーは少々疎いところがあるので真正面から言わないと気持ちが通じないということもあって、今では堂々と貴女からセドリックを寝取って見せるわと若干勘違いした宣戦布告を突きつけている。

 

「はっ、ハリー。ぼ、僕と、僕()()()()()()()()?」

「落ち着けよネビル。ほらもう一回だ」

「う、うん。は、ハリー。僕と、踊ってくれるかい?」

「……ふふ、喜んで」

 

 もっとも、ハリーはセドリックをそんな目では見ていない。

 セドリックにとっては可哀想なことだが、彼からの好意に気づいてすらいないのだ。

 彼女が異性として気になっているのは、仕方ないが、不本意ながら、なぜか分からないが、あのロン・ウィーズリーなのだ。親友として一緒にいるうちに頼れる部分や芯のしっかりした一面を見て惹かれていたのだろうか? 認めたくはないのだが、自分の気持ちくらい気づいている。

 そして、本人は認めたがらないがハーマイオニーもロンに対して悪く思っていないはずだ。だったら自分よりも、ハーマイオニーの方がいいに決まっている。

 そんなモテモテのロニー坊やはマクゴナガル女史とアツいダンスに興じているので、当然のように放置。泣きそうな顔で助けを求めてきたが、その視線は無視された。当分の間は双子によってからかわれることだろう。

 代わりと言っては失礼だが、ハリーは勇気を出して一番乗りに誘ってくれたネビルに手を取ってもらい、ダンスの練習に挑み始めた。

 これが案外難しい。そして意外なことに、ネビルはダンスがものすごく上手だった。

 何を自分相手に緊張しているのか、とネビルを微笑ましい目で見ていたさっきまでの自分が馬鹿だった。まだちょっとお腹がぷにぷにしているものの、ネビルは一年生の頃と比べるとかなり大人びている。ダンスである以上体が密着するのは仕方ないが、ネビルは意外と逞しいのだ。

 普段が普段なのでハリーが彼にドキドキするようなことはない。ないが、それでも感心させられる。本当にダンスが上手いのだ。教えられるハリーも、この練習時間が終わる頃には見違えるように上手なステップを踏むことができるようになっていた。

 そしてヘタレで優しい彼のこと。ハリーがバランスを崩したところを引き寄せて助けてくれるのだが、そのたびに胸や腹がくっついてしまって顔を真っ赤にして謝ってくるのだ。これが可愛いのなんの。その日の夜にグリフィンドール女子寮で行われたお喋り会では、ネビルの株がうなぎ上りであった。

 

「さて、困ったことになったぞ」

 

 ダンスパーティに出るからには、つまりお相手が必要だ。

 四年生から上の学年に該当する生徒のみがパーティに出られるとあって、三年生以下の少年少女はそれはもう必死だった。ウィザーズ・トーナメントが開催されるというこんなエキサイティングな年に、のけ者にされるのは耐え難いのだろう。

 ハリーのもとにも、一年生から三年生の男の子がいくらかやってきた。コリン・クリービーもその一人だ。

 しかしハリーはそのすべてを断っている。何故なら、

 

「どうしてですか、ハリー。なんで僕じゃだめなんですか?」

「あのねぇ、コリン。言いにくいんだけどぼくも――よし殺す」

「待て待て待てハリー待て落ち着け。クリービーお前も写真撮るな煽るなそれで嫌がられてるってのがわからないのかタコスケこら撮るなって言ったろうが」

 

 何故なら、ろくなのがいないのだ。

 この僕が行くためにアクセサリーになってください、と真正面から言ってくる子もいた。話している最中ずっとちらちら胸に視線が向かう子もいた。こんな男の子と一晩中踊って楽しんでいけるだろうか? 答えは当然ノーだ。

 なにもハリーをダンスパートナーにしたがったのは、下級生だけではない。今のところ同級生ではシェーマス・フィネガンや、ハッフルパフのアーニー・マクミランが居た。

 アーニーはむしろ断ってほしそうな雰囲気だったので、断った。「ダンス自体にあまり興味がないから、君に断られたら諦める口実になると思ったのです」とあっけらかんと言われて苦笑してしまった。

 シェーマスに関しては論外である。あのプレイボーイと一晩一緒に居ようものなら、割と冗談抜きで貞操が危ない。ちなみに情報源はジニーだ。キスだけならまだしもボディタッチはないだろうとのことで、女子生徒の間では彼の評判は地に堕ちている。自業自得ではあるが、この情報が女子ネットワークによって他寮にも広まっているあたり女の子は恐ろしいとハリーは思う。多分彼はパーティに行けないだろう。

 上級生では、リー・ジョーダンが誘ってきた。何やら彼らしくもなく緊張しているようだったが、後ろでウィーズリーズがスタンバイしているのを見たハリーは悪乗りしてこっぴどい振り方をした。崩れ落ちたリーのもとへ双子がやってきて寸劇が始まってしまい、それに巻き込まれて悲劇のヒロインとして死亡したのはさすがに予想外だった。

 他寮の上級生では、ハッフルパフの五年生、ボブ・ウィリアムスとジェームズ・ホーガン。友達と一緒じゃないと誘えないようなのはお断りである。レイブンクローは七年生のロジャー・デイビース。女子ネットワークにおいて一晩過ごしたら妊娠確実とまで言われているシェーマスの上位互換のようなハンサムなので、丁重にお断りした。彼は女性の扱いが丁寧なので、たぶん他に見つけるだろう。不知火とグレー・ギャザリングの男子生徒からも、一人ずつお誘いいただいたがこちらは普通に断った。そもそも、親しくない人と一晩中遊んでも面白くないだろうに。

 そして今回の問題点というか嬉しかったことというか、ハリーが顔を真っ赤にしてびっくりしたのは、セドリックからのお誘いだった。

 

「ハリー、一人の男として君に申し込む。どうか僕と踊ってくれないかい」

 

 そんなカッコいいことを、大広間の夕食時にやってのけたのだ。

 女の子からの黄色い声があちこちで聞こえて、男の子からは囃し立てる声や口笛、ウィーズリーの双子からは祝福の歌まで飛んできた。

 これが何を意味するのか、分からないハリーではない。

 ハリーはセドリックの言葉の意味を察した途端にリンゴのような顔色になって、途端にもじもじし始めた。レイブンクローのテーブルでチョウがものすごい顔をしているが、その時のハリーには全く気付けなかった。

 確かに信頼している男性だ。誠実だし、スポーツマンだし、優しいし、紳士的だし。

 セドリックと一緒に過ごすのなら、話も合う人だ、きっと楽しいだろう。さらに言えば、ハリーにとって異性から告白されることなど、生まれて初めてだった。今まで彼のことを異性として見たことがなかったためびっくりしたが、悪い気はしない。

 しかし受けていいのか? これ告白ってことは、パートナーをオーケーしたらつまり、男女の付き合いもオーケーってことになるのか? え、どうしようこれ。

 だが断る理由はない。だって、なにも問題ないのだ。ハリーが誘いたかった男の子は先約済みであるし……うーんうーんと頭を悩ませていると、このやり取りを聞いてやってきたマクゴナガルが申し訳なさそうに言葉を放った。

 

「ミスター・ディゴリー、ミス・ポッター。申し訳ないのですが……あー、代表選手同士でペアを組むのは、その、禁じられています。……ええ、わかっています。私とてこのような無粋なことを言いたくはないのですが……今までは三校だったからそういうことがなかったのに、まったく……バグマンときたら……」

 

 そんなお言葉によって、大広間中からのブーイングと共に承諾できなかったのだ。

 異性へ告白をした経験はないが、とてつもなく勇気が必要な行為だったろうことはハリーでも分かる。

 申し訳なさに平謝りしたのだが、セドリックに頭を下げる必要はないよと言われる。

 ああ、参ったなと少し赤くなった頬を掻きながら照れ臭そうに笑うセドリックは、なんだか前よりもハンサムに見えてしまって恥ずかしかった。

 

「ハリー、貴女の場合これの問題もあるでしょう」

「……うあー」

 

 セドリックが友人たちに肩を叩かれて去り、ハリーも居た堪れなくなって大広間を去った後。ベッドで寝そべってだらけていたところに、ハーマイオニーが一本の鍵と錠を見せてきた。

 第二の課題。

 それはこの鍵と錠が関係しているのだろう。

 ヒントが一切ない。開催日がいつなのかは知らされている。クリスマスの三日後だ。

 一般生徒たちにとっては嬉しいだろう、クリスマスのダンスパーティが終わればエキサイティングな競技が待っているのだから。しかし代表選手たちにとってそれはあまりいいことではない。

 鍵と錠ならば開けて中身を見れるかと思えば、そんなことはなかった。

 どうもこの鍵と錠は、対になっていないようだ。

 女子寮に居たローズマリーに相談してはみようと思ったものの、だがこればっかりは他の代表選手の錠で試してみるわけにもいかない。

 

「だってよハリー。もしこの鍵を最初に開けた奴が一番点数が高い、とかいう競技だったらどうすんだよ」

「ないとも言い切れないわよね。ハーマイオニーが見た限り過去の対抗試合の記録でも、鍵が出てくるような競技はなかった。まったくの未知数だわね」

「うーん。困ったなあ。ってことは前知識なしでのぶっつけ本番になるわけか」

 

 カンニングは対抗試合の伝統とか言ったのは誰だ。

 前準備などなしでの突発的に発揮できる実力を見るつもりなのだろうか。

 そうなると、杖一本でできないような課題ではないと考えられる。もちろん本来ならば十七歳以上の魔法使い・魔女が突破すべき競技内容なのだから、他より年下である分だけハリーは苦労するだろう。そこは努力で何とかするしかない。

 ハリーは自分の手の中で鈍く光る鍵を、くるくるともてあそぶ。よくよく見てみれば、魔法界らしいと言えば失礼かもしれないが古びた鍵である。最近マグルの世界で見られるようになったセキュリティ性の高い形状ではなく、中世の鍵のように棒の先にデコボコがあるだけの鍵だ。風情があって悪くはないが、実用的ではない。

 しかしハーマイオニー曰く、魔法界における鍵はむしろそういうタイプのものじゃないといけないらしい。なにせ一年生で習う基礎呪文の中に『開錠呪文』なるものがあるのだ。普通のマグル観におけるセキュリティ性など赤子同然である。

 むしろ魔法界においての鍵は、そういった反魔法作用をもたらす魔法具になっているケースがほとんどだそうだ。もちろん鍵としては脆弱もいいところなので、ピッキングしようと思えばヘアピン一本で行えるだろう。だがそれでもマグルに不法侵入されないのは、ドアノブに悪戯したマグルたちが警察官にたちの悪い酔っ払いとしてしょっ引かれていることからも理由がわかるだろう。

 

「うあー! わからーん!」

「ぐわぁ」

 

 知恵熱を出したローズマリーが、ベッドで寝そべっていたハリーにダイブしてくる。

 下敷きにされたハリーはそのまま彼女の手足が伸びてきて、拘束されてしまった。

 胸にぐりぐりと頭を押し付けてくるのはやめてください。

 

「あたしは考えるの苦手なんだよ! くそう、なんだこの意味の分からん鍵は、意味わかんねぇぜ」

「ぼくとしてはこうしてローズに押し倒されて一緒に寝るのが何度目か、もうわからんね」

「ローズ、あなたレズビアンじゃないわよね?」

「失礼だなラベンダー、どっちもいけるってだけだ。ハリーはすげぇおいしそうだしな」

「はっ、離せェ! いますぐぼくからは離れろ! うわぁ揉むなぁ!」

「ジョークだジョーク! その反応は傷つくからやめろって!」

「じゃあ胸から手を離せ!」

 

 どたばたと大暴れして、こんな時間になにをしているのですとマクゴナガルに怒られてから五人はようやく眠りについた。

 翌朝。ハリーとローズマリーのパジャマがきわどいところまではだけていたのを見て、ハーマイオニーが真っ赤な顔をして怒っていたのでハリーは困惑した。後ろでパーバティがにやにやしていたのですぐ下手人が分かったハリーは、彼女が朝食時に困るように一時間だけ口内炎に苦しむ呪いの罰を与えた。

 近くで紅茶を飲むにも苦しいと嘆く声を無視して、ハリーは手帳にシャープペンシルでチェックを入れた。ロンには奇妙がられたが、便利なのだから使ったっていいだろう。

 ハリーがいま思い悩む問題は、ダンスパーティのことだ。

 本気で相手が見つからない。困った。同級生の中で探してみたものの、ネビルは既に先約済みだった。やるじゃないかジニー。ディーンはラベンダーと行くらしい。ドラコにそれとなく話を振ってみたこともあったが、鼻で笑われたので危うく殺し合いに発展するところだった。スコーピウスやクライル、下級生は論外。上級生でダンスに誘えるような人はいない。ウッドやパーシーがいれば問題なかったが、彼らは卒業してしまった。すると残る親しい男性は……フレッドとジョージくらいしかいない。

 

「そういう君たちはどうなんだよ!」

「ん? ロニー坊やにはできないテクニックでお誘いを仕掛けるのさ」

 

 ふと意識を引き戻してみれば、まだパートナーに誘われていないロンがフレッドに噛みついているところだった。しかしフレッドの表情を見るに、どうやら策があるらしい。

 これは当てがはずれたかな。

 

「アンジェリーナ!」

「あら、なぁにフレッド」

 

 嬉しそうなアンジェリーナの声で、ハリーは確信した。

 なるほど、これを待っていたのか。恋する乙女のしたたかさと狡猾さにハリーは恐ろしくなった。ここまで考えないと恋愛ってできないのだろうか。

 アンジェリーナはさも興味ありませんという風に振る舞っているように見えるが、内心では狂喜乱舞していることだろう。望みどおりにお誘いを得ることができたのだから。

 

「僕と、ダンスパーティ、行こうぜ」

 

 身振り手振り付きのふざけたお誘い。

 それを見たアンジェリーナは、周囲の女の子たちとくすくす笑ってからはにかんだ。

 投げキッスが返事だ。フレッドの顔が明るく輝く。

 それを目の当たりにしたロンはしかめっ面だ。たしかにここまで格好いい兄を持つと苦労するだろうなあ、と思ってハリーは苦笑する。

 ちなみに、ロンは誘っていない。

 ハリーとてロンに対してようやく自覚したほのかな恋心は持っているが、それも兄や弟に対するものが変化したような感じがするほどに、淡い想いだ。アンジェリーナやチョウを見ていると、燃えるような恋とは何かが違う気がする。

 それに、彼にはハーマイオニーが居る。彼女はなんだかんだ言ってロンのことを愛しているし、絶対の信頼を寄せているだろう。

 

「あ、ジョージ」

「なんだいローズ」

「おまえでいいや、あたしと朝まで踊ろうぜ」

「おっと嬉しいお誘い感謝感激雨あられ!」

 

 あ。余計なことを考えてたら先を越された。

 ローズマリーもきっとパートナー探しに苦労したことだろう。どうせなら他校の人と仲良くなって親睦を深めたいと思うものであり、同じ学校の男の子じゃちょっと見劣りするのも仕方ないだろう。

 さて、かなり困ったぞ。

 朝食を食べ終えたハリーは、変身術の教室に向かって歩を進めた。

 今日はクラムたちダームストラングの生徒がいるようだ。

 

「ポッター、代表選手はまず最初に踊ってもらうという伝統があります」

「はぇ?」

「淑女がお間抜けな声を出すものではありません。いいですねポッター、パートナー登録を提出していない代表選手はもはやあなただけですよ」

 

 授業前にマクゴナガルから下された残酷な宣告がハリーを直撃した。

 最後の一人って!

 ダームストラングの女子生徒がくすくす笑ったのが耳に入り、ハリーの顔が熱くなった。べ、別にモテないわけではないんだ。ほら、セドリックに嬉しいこと言ってもらえたし? く、悔しくはないんだもんね。

 口元を抑えたまま、ハリーは変身術の授業を上の空で聞いていたせいで、グリフィンドールから一点減点されてしまった。

 

「ヤバいよう困ったよう」

「ハリー、あまりくっつかれても困るんだけど……。女の子なんだしさ、ほら」

「あー、ごめんごめん」

 

 放課後。談話室でソファにだらしなく座っていたロンの上にもたれかかり、うねうねと悶えるハリー。胸やら尻やらが気になってしまい、ロンはハリーをべりっと剥がした。相変わらずロンに対してはスキンシップが激しく、まるで甘えん坊な妹のようである。そんな彼女をハーマイオニーは呆れたような、少し羨ましそうな目で見ている。

 いいじゃないか。このくらい。

 今回の件、はっきり言って自業自得である。相手を選り好みするからこうなるのだ。

 しかしまぁ、気持ちはわかる。異性にがつがつした人と一晩過ごすというのは、女性としては少々怖いだろう。ましてや、今は誤解が解けているとはいえハリーにはシリウスというトラウマがあるのだ。下ネタのジョークに一切笑わないというのも、またそれが理由の一端を担っているのだろう。

 

「まあ、僕も人のことは言えないんだよなあ。参った」

「え? ロンってば、まだハーマイオニーとペアになってなかったの?」

 

 意外なことを聞いた。

 ロンがきょとんとした表情を浮かべているのを見て、ハリーは完全に寝耳に水であることを悟った。つまりハーマイオニーが彼に何も言っていないことは事実なのだ。

 ハーマイオニーの方を見てみると、なにやら眉をひそめている。

 ……なんだ? なんだろう、これ。

 

「えっと、ロンはハーマイオニーを誘わなかったの?」

「ええ? 僕がハーマイオニーを? そ、そんなばかなことあるかよ。……いやでも、背に腹は代えられないっていうしなあ」

 

 ハリーは一瞬にして周囲の空気が重くなったことを察知した。

 そして、まずいとも思う。

 ハーマイオニーも、ロンに誘われたら内心でものすごく嬉しいくせに、下手に頭がいいものだからロンが本当に自分のことを異性として見ていないことをわかってしまう。

 だから、ロンの無神経な言葉に本気で怒って喧嘩してしまう。

 

「ハーマイオニー、君たしか女の子だったよね? 僕とダンスしたけりゃしようぜ」

 

 視界の隅で、あちゃーと天を仰ぐ双子が見えた。

 こんな言い方をすれば当然、雷が落ちる。何故ロンはハーマイオニーに対してこんなにも素直になれないのだろうか。思春期だからか? そうなのか?

 しかしそれにしたってひどい。

 見ていて、苛々する。

 

「ああ、そうですか! ロンにとって私はそんなものってわけね!」

「な、なに怒ってるんだよ……」

 

 またか、と周囲の寮生たちが離れてゆく。

 ロンとハーマイオニーの喧嘩はいつものことだからだ。しかし、いつもと違う光景ではある。それは近くに居ながらハリーが仲裁していないということだ。

 

「あなたっていつもそう! デリカシーの欠片もないんだから、そうやってパートナーもできないんじゃないの!?」

「……そッ、そういう君はどうなんだよ!? ガリガリグレンジャーをお誘いする奇特な人間でも現れたのかい!?」

 

 これまた泥沼のような喧嘩になるな、とハリーは思う。

 今度の口を利かない期間は一週間だろうか? それとも一ヵ月?

 実にくだらない。あてつけのつもりだろうか。

 しかしハリーの予想は大きく外れることになる。

 激昂したハーマイオニーが、ロンの心に対して致命傷を与えてしまったからだ。

 

「えぇ、えぇ、いますとも! お誘いを貰ったわ!」

「……、えっ、な……っ!?」

「あなたよりずっと紳士的で、ハンサムで、私の心をわかってくれる人よ!」

 

 ハリーは自分の耳を疑った。

 確かにハーマイオニーは見目も悪くない。生真面目すぎるのと髪がぼさぼさで前歯が少し大きいという特徴を持っているが、それでも女性として魅力的なところもある。

 問題はそこではない。ハーマイオニーにお誘いが来るのは別におかしい事ではないのだ。

 だが、だがしかし。

 今の言い草では、まるで――

 

「うっ、受けたのか? まさか、そんな」

「オーケーしたわ! 私が一緒にパーティーへ行くのはあなたじゃないのよ」

 

 ロンの顔が、悲痛な色に染まる。

 自分の行いを後悔して、胃を直接鷲掴みにされたような気分でいることだろう。

 鳩尾の下あたりにマグマが湧いて、頭の奥がじんわりと熱く白くなる。鼻の奥に何かが集まるような感覚と、熱されたはらわたが煮えくり返るような感覚。

 彼は今、嫌というほど狂おしく哀しいその感情を味わっているはずだ。

 何故なら、それはハリーもよく知っている心の動きだから。

 

「ハリー、行きましょ。もう付き合っていられないわ」

「それは同感だね」

 

 ハリーを連れて寝室へ行こうとしたハーマイオニーが、はたと足を止め、顔色を変える。

 怒りに沸騰した頭が、急激に冷めてゆくようだった。

 慌てて親友の顔を振り向く。

 彼女が見たのは、ボーイッシュな魅力を持った一人の少女。

 ここ二年ほどで、徐々に、それでいて確実に女性らしい体つきになった友達。胸も自分よりずっと大きくなり、お風呂で見る腰もくびれておりかなりスタイルがいい。鍛えているからか、手足もすらっとしているし、何より男の子に近い気性のおかげで異性からの人気をかなり集めている。

 だというのに、ハリーにそういった浮ついた話があるというのは聞いたことがない。

 あるとしても先日のセドリックの件くらいだった。

 なぜなのか。その理由を、ハーマイオニーは彼女の緑の瞳を見たことで悟った。

 彼女も、ひとりの女の子なのだ。

 

「もう付き合っていられるか。気を遣って、取り持って、バカみたいじゃないか」

「は、ハリー?」

 

 吐き捨てるような言葉には、彼女のヘドロのような感情が込められていた。

 ここに至ってようやく、ハーマイオニーは理解する。

 何が親友だろうか。ロンもハーマイオニーも、ハリーに甘え過ぎていたのだ。

 一年生の頃の、人見知りをする狼のような子供はもういない。朗らかに笑えるようになった一人の少女に、過剰に気を遣う必要はない。それが友達というものだ。

 しかし優しく大切に扱う必要がなくなったせいで、いつしか彼女に甘え過ぎていた。

 いったい何回、目の前で喧嘩をして、仲裁してもらったのだろう。

 いったい何度、ハリーのおかげで仲直りができたのだろう。

 

「ロン。我慢しようと思ったけど、やっぱりやめたよ」

「な、なにがだい、ハリー?」

 

 微笑んだハリーが、ロンの方へ振り向く。

 なにか違和感を感じる笑顔だが、それでも照れているのは本物だ。

 ハリーは演技で頬を赤くできるほど、器用な性格ではない。

 ここでハーマイオニーは、己の失敗を悟った。

 同時に、ハリーが隠し続けてきた気持ちを初めて知って愕然とする。

 

「ロン。ぼくとダンスパーティに行ってくれるかな」

 

 グリフィンドール談話室の音が消えた。

 痴話喧嘩を盗み聞きしていた行儀の悪い女子たちも、本当にヤバくなったら止めようと待機していたフレッドとジョージも、友達が険悪になったら心配だからと待っていたシェーマスもディーンもネビルも、結果がどうなろうとも見守っていたパーバティとラベンダーも、全員が喋らない。

 ハーマイオニーはまったく感情がない表情のまま驚きに固まっており、ロンにいたっては驚きと衝撃のあまり、開いた口が閉じ切れていなかった。

 そんな中、ハリーは一人はにかんでいた。

 驚愕したままのロンの手を握って、身長差から上目遣いで言う。

 

「だから、その、えっとだな。……ぼくと、お願い、します」

 

 

 十二月二十五日。

 ダンスパーティの当日、パーバティ・パチルは呆れ果てていた。

 いまの四人部屋には、部屋を代わってもらったハリーが居ない。

 二週間の間、ハリーはハーマイオニーに対して冷たい態度を取り続けていた。

 ハリーの気持ちは、わからないでもない。

 女の子二人と男の子一人の仲良し三人組で恋の問題になった場合、不幸を被るのは恋愛に奥手な女の子の方だ。それが、ハリーだった。男二人と女の子一人なら、まだこうはいかなかっただろう。男同士の仲というのは意外なほどあっさりしていて、喧嘩をしてもすっきり終わるケースが多い。恋愛に関しては違うかもしれないが、それでもマシである。

 だが女同士は何故かそうはいかない。パーバティも経験あることだが、私たち親友ダヨネと本心から言っているのに裏では互いの陰口を叩いているなどということは、まったく珍しくもない。

 まあそれはいい。問題は、ハリーとハーマイオニーの仲が悪くなったしわ寄せがこちらに来ているということだ。まず部屋にハリーがいなくなったので、朝起きて髪を梳いて遊ぶおもちゃがいなくなったというのが一つ。朝早く起きてジョギングするハリーの物音で目を覚ましていたので、寝坊が多くなったのが一つ。ハーマイオニーが常に不機嫌で、こちらにも険悪な態度を取られるというのが一つ。

 最後に、ハリーがロンに対して積極的になってしまったというのが一つ。

 

「ロン、パンクズこぼしてるぞ」

「あ、ごめんハリー。ありがと」

「う。お、おう……」

 

 相変わらずどこか抜けているロンと、甲斐甲斐しく世話を焼くハリー。

 昨日あんな大変なことがあったというのに、ロンは意外と自然体だ。

 気になっていた親友が別の男を選んだと知ってショックを受けて、もうひとりの親友から異性として好きだと告白されて、その親友同士が今までにないほどに険悪な関係になっていて。

 それでもこうして呆けていられるロンを、パーバティは危うく尊敬しそうだった。ひょっとして関係を進展させないよう、わざとやっているのではないだろうか。

 しかしハリーとハーマイオニーが大喧嘩するとは思わなかった。パーバティとしては、今回はハリーに同情している。好いた惚れたの問題で我慢し続けて、その末の爆発。

 こればかりは仕方のないことだと思う。

 恋とは心や子宮の問題なのだ、理屈ではない。

 

「にしても、可愛いわね」

「本当だわさ。子犬か何かみたいだけど」

「それでも魅力に違いはないわよ」

「んまーね」

 

 ぽつりと呟くと、ラベンダーから返事が返ってきた。

 彼女は今シェーマスとお忙しいのかと思ったが、シェーマスも男の子。女の子とイチャつくのも当然好きだろうが、まだ男同士で騒いでバカやってる方が気が楽なタイプだ。だから毎回くっつかないで、時々にしているのよとはラベンダーの談。さすがである。

 しかし本当にかわいい。

 今までハーマイオニーに気を遣って、ロンを異性として見ないように頑張っていた姿を知っているからなおさら可愛い。いつもと違って生き生きとして、恋に生きている感じがする。

 彼女の凄惨な過去は有名だから、濁った沼のような瞳は見慣れたものだ。だが心なしか、少しばかり光が宿っているようにも見える。恋とは偉大だ。

 一年生の頃は触れれば切れる刃のように無愛想な子だったけれど、ここ二年ほどでずいぶんと柔らかくなった。その変化は嬉しいが、恋をすると人は変わる。

 あのハリーが、こうまで可愛らしい女の子になるとは。じゅるり。

 

「パーバティ、あんたまさか」

「別に大丈夫よ。妹以外に手ぇ出したりしないわよ」

「あんたとの付き合い方ちょっと考えるわ……」

「ジョークよ」

 

 一日の授業が終わる。

 生徒たちがいつも以上に勉強に身が入らず、浮ついた空気だったのは仕方あるまい。

 本日の夕方十八時から日の出までが、ダンスパーティの時間なのだ。

 ハリーはこの二週間、思う存分ロンに甘える日々を過ごすことができた。ロンも意外と紳士な奴で、ハリーがいくら身を寄せようとも決して下心を出そうとはしてこない。それが嬉しくもあり、そして悔しくもあった。

 視界の隅で、ハーマイオニーが終始不機嫌だったのを見ている。そんな風になるんだったら、最初からロンを誘えばよかったのだ。意地を張って誘ってもらえるのを待つものだから、そんな目に遭う。あれの朴念仁っぷりを知らないわけじゃないだろう。選り好みもいけないが、受けの姿勢のままでいることもだめらしい。

 もっとも、だからといって無視するようなことはしない。表面上はいつも通りに接しながらも、ロンとのやり取りを見せつけるようにしている。これが君の捨てたものだと、選ばなかった結果だと、突きつける。

 酷い八つ当たりだとわかっている。恐ろしく面白くないことだともわかっている。

 だけど。

 いいじゃないか、ちょっとくらい。

 

 閑話休題。

 ハリーは慣れないメイク道具を手に、頑張ってめかしこんでいた。

 隣にいるのはアンジェラ・ハワードだ。廊下でばったり出会って、今回の対抗試合の中で起きては困る問題のために、仕事で来ていることを知ったのだ。

 ハワードは確か、去年でホグワーツを卒業している。今年で十九歳か二〇歳だったはずだ。ならばお化粧の経験もあるだろうと思って相談に乗ってもらったのだが、これが正解だった。女性として社会に出るにあたって「お化粧とは大鍋である」と教わったのだそうだ。誰だ、そんな意味不明なこと言ったの。

 兎も角、ハワードのおかげでハリーは美少女から超絶美少女へとクラスチェンジすることに成功した。元がかなりいいのだ、それを整えれば絶世の美少女になるのは世の摂理である。

 ハワードとて年頃の女性。例に漏れずお洒落が好きなようで、ウィッグなども提案してきた。ためしに編み込んでみたところ、いつもより髪が長くなって不思議な気分だ。髪型をドレスに合うように整えて、ウィーズリーおばさんから贈られたドレスもまたハリーに似合っている。

 ちなみにロンにはウィンバリーがついている。親戚から(おしつけ)られたお古のドレスローブを大変嫌がったからだ。それなら俺に任せろと、ウィンバリーがロンのドレスローブを現代風に改造することをノリノリで名乗り出たのだ。

 ウィンバリーは意外なことに、裁縫や料理などに活かせる日常魔法が得意なのだという。どうやら学生の頃の親友がよく兄弟と喧嘩する子だったらしく、彼の破れた服を繕っているうちに趣味にまで昇華してしまったのだとか。全く似合わねえ。

 鏡の前で胸がはみ出ないように整えていたところ、ハワードから声がかけられる。

 

「ハーマイオニーと喧嘩したんですかぁ?」

「ん、まあね」

 

 軽い調子で言葉を返す。

 片眉をあげたハワードに対して、ハリーは苦々しげに笑った。

 

「あの子はね、ロンが好きなくせに素直になれないんだよ。今回別の男の子をパートナーに選んだのも、ロンに対する当て付けが含まれてるんだと思いたい」

「あぁー……なるほどぉ。押してダメなら引いてみな戦術ですねぇ」

「そんな感じ。それでロンが不機嫌になったり、怒ったりしてくれれば……」

「少なくとも自分のことを意識してくれている、またはこれから意識してしまうってことになりますねぇ。もしだめでもその男の子が居ますし、上手いやり方です」

 

 ハワードが成程なるほど、と頷く。

 しかし途中でその頭の動きが止まり、ハリーを見つめてきた。

 

「……ねえハリー。でも、それって」

 

 ハリーはそんなハワードの唇に、人差し指を添える。

 ジェスチャーの通り黙り込んだハワードに対して、ハリーは微笑んだ。

 

「いいんだ」

「……本当にいいんですかぁ?」

「うん。いいんだよ」

 

 ハワードと共に廊下を歩く。

 彼女もおめかしして、ドレスを着ている。どうも闇祓いの制服のままだと浮くから何とかしてくれ、とマクゴナガルに言われたようだ。綺麗な銀髪をアップにして、背中と胸元が大胆に開いたドレス。彼女の豊満な肉体が惜しげもなく披露されているのにいやらしくなく、上品さすら感じさせるのは素直にすごいと思う。

 なんだか恥ずかしそうだが、こういう服を着るのは初めてなのだそうだ。しかし彼女も恋する乙女。ウィンバリーと手を繋いでもらうのが今日の目標だそうだ。……ずいぶんとハードルが低いな。

 二人で廊下を歩いていると、すれ違う男の子が目で追っているのが分かる。時折パートナーがいるというのにこちらに夢中になってしまい、ビンタを喰らう情けない男もいるようだ。

 変なところでもあっただろうか、と少し頬が赤くなるも、ハワードはそのままでいいと言ってくれる。どうやらウィンバリーを見つけたようだ。挨拶を交わして、ハリーは彼女と別れる。うまくいきますように、と心の中で祈っておいた。

 

「やあ、ロン。遅くなった」

「あ、来たねハ……、リ……ぃ。……」

 

 どうやらウィンバリーの腕は本物だったようだ。

 女性向けの中世ファッションを、どうしてこうも上手に改造できるのだろうか。

 燃えるような赤毛とブルーの瞳が映えるように、ダークブラウンに近い地味な色をしている。しかしロックハートが着ていても違和感のないくらいにはカッコいいドレスローブになっているようだ。ふりふりのフリルはある程度撤去され、裾も長くなっている。どことなく細身のデザインはロンの背の高さにぴったりだ。

 もっとも、この驚きもハリーを見たロンの衝撃ほどではないだろう。

 

「……すごいね、ハリー。綺麗だ」

「そッ、そうかな? あ、ああ、……ありがと……」

 

 ロンが素直に称賛したように、今のハリーを見て男の子と間違える者はいないだろう。 大胆に肩を出し、胸元や細い肩が白く見事な肌を見せつけるように主張している。髪はいつもより長くのばされており、女性らしさが際立っていた。ほっそりした腰の下には、ふわりと広がったスカート。ここは彼女らしく活発な動きができるように、動きやすくなっているようだ。全面の一部が半透明な素材でできており、彼女の綺麗な脚をうっすらと透かしており自然と目が惹いてしまう。いつもは全くしていないメイクもしているようで、ただでさえ美少女であったというのに、もはやロンはなんて言えばいいのか分からないような美人さんになってしまっていた。これではロンの貧弱な語彙力では「綺麗」としか言えないだろう。

 

「えへ、えへへ……」

「なに笑ってんだハリー」

「い、いやあ。ロンに褒められたのが、思ったよりうれしくって……」

「そ、そうかい」

 

 好意を前面に押してくるハリーに、ロンは少し頬を赤く染めた。

 頬を掻きながらも、彼は反対側の腕をすっと持ち上げる。

 ハリーが驚いている顔を見て、ロンはすこし唇を尖らせながら言った。

 

「女の子にはこうしてやれって、ウィンバリーが。僕をなんだと思ってるんだ」

「ナイスウィンバリー」

「え?」

「なんでもない。じゃ、行こっか」

 

 ロンの腕に、自分の手を絡める。

 こんなのガラじゃない。まるで恋する乙女そのものじゃないか。

 だというのに照れ臭くて嬉しくて、ハリーはだらしなくにやけてしまいそうな顔の筋肉を固めるのに必死だった。

 大広間へと到着すれば、ばったりセドリックと出会う。ここでハリーは、告白されていながらロンに対して申し込んだことの意味に気付き、一瞬だけ心臓が跳ね上がった。しかしまあ、セドリックの隣にいるチョウ・チャンの凄いこと。ハリーに対して勝ち誇った顔をして、ロンを見て、鼻で笑おうとして、ハリーを二度見して、驚きのまま固まる。

 いい子なんだけどなぁ、と内心で苦笑いするハリーの気持ちを察してか、セドリックも小さく笑いながら軽く手を上げるだけの挨拶に留めておいた。隣に女性が居ながら、他の女性に声をかけることをためらったのだろう。どれだけ紳士なんだこいつ。

 ローズマリーがジョージと共にジョークを飛ばして笑いあってる姿が目に入った。二人はやはり色気がない。互いを異性として見ていないというか、やはり友人の延長線上の関係だろう。

 

「嘘だろ……」

 

 ロンの愕然とした声が聞こえる。

 彼の見ている方へ目を向ければ、なるほど。よく知った美女がいた。

 ボサボサの髪の毛は《スリーク・イージーの直毛薬》を使ってストレートに直し、絹のように滑らかに仕上げている。前歯も目立っていないように思える。この二週間でハーマイオニーが医務室に行ったと聞いたことはあるが、それが関係しているのだろうか。

 しっかりとお化粧も施して、ドレスも大胆なデザインを選んで背中がよく見える。元がいいのだから、飾り立てることでまるで別人のような美しさを放った少女がそこにいた。

 ハーマイオニー。

 そんな彼女の視線の先には、隣で呆然としているロンだ。ロンが唖然としている理由は簡単だろう、ハーマイオニーの隣にはビクトール・クラムが居て、ふたりは親しげに腕を組んでいるのだから。

 

「ありゃー。お相手はクラムかぁ」

「な、なんでだ? なんで、ハーマイオニーはどうしてクラムとなんて……」

 

 明らかに動揺したロンの震えが伝わってくる。

 確かにハーマイオニーは綺麗だ。綺麗だけど、なぜあんなにも楽しそうに笑える?

 何かが変な気がする。

 まあそれはともかくとして、ロンの反応はあまり面白くない。

 ハリーはロンの腕をぎゅっと抱き寄せて、自分の胸の中に抱きしめた。

 

「ハリー……?」

「……ロン、お願い。今夜は、ぼくだけを見て」

 

 その言葉ではっとしたのか、ロンは一言小さく謝ってきた。

 謝られても惨めなだけだというのに、なぜだかほっとする。

 今夜は折角のお祭りなのだから、楽しまないと損だ。

 にかっと歯を見せる朗らかな笑みをロンに見せて、ハリーはロンを引っ張った。

 

「ほら見てよロン、バタービールだ」

「シャンパンやワインじゃないんだね。せっかくお酒飲めると思ったのに」

「十四じゃ流石に無理だろ、いろいろと」

「分かってないなあハリーは。大人になる前に呑むからいいんじゃないか!」

 

 グラスに勝手にバタービールを注いで、乾杯もせずに飲む。

 行儀が悪いが、《妖女シスターズ》という魔法界のバンドを呼んでいるのだ。どうせ熱狂的なパーティになることはわかっているので、無礼講というやつだろう。

 普段通りにロンと話せているだろうか? 大丈夫なはずだ。いつも通りの、楽しい関係でいられるはずだ。そう自分に言い聞かせていると、ハリーは背後から胸を鷲掴みにされてバタービールを吹き出した。

 ローズマリーの悪戯だった。けらけらと笑う彼女に仕返ししたり、ロンとジョージが居心地悪そうに笑いあったり、なんだか結局いつも通りになってしまったような気がする。

 

「ああ、ここに居ましたか。ポッター、ミス・イェイツ」

 

 マクゴナガル先生がつかつかと足音高く寄ってくる。

 彼女もめかしこんでいて、老いてなお美しいと言わざるを得ない。

 若い頃はさぞ男たちの視線を独り占めしていたことだろう。年老いたことを隠さず、それすら美の一助とする彼女のお洒落は素晴らしいの一言に尽きる。ハリーもローズマリーも、ほーと感心の溜め息を吐いたのだった。

 

「マクゴナガル先生、すっごいお美しいです」

「すげーな……イギリスの淑女って感じがするぜ。……します」

「おや、ありがとうポッター、ミス・イェイツ。では用件を伝えましょう。代表選手たちはパーティの開始前に皆の前で手本を見せる伝統があります。パートナーを連れて、ステージに上がってください」

 

 マジかよ。

 

「は、ハリーぃ。僕おかしくないかい? 笑われない?」

「お、落ち着けよロン。べべ別に大丈夫だって変じゃないカッコいい大好き」

「ハリーも落ち着け、いろいろ漏れてるぞ」

「ほぅーら、ローズマリーも脚が震えてんぜ」

「人の脚を触んじゃねえジョージ!」

「アイタッ!」

 

 ステージの袖でぎゃーぎゃーと騒いだものだから、マクゴナガルから鋭い睨みが飛んできた。恐ろしいので四人は黙り込み、ソウジローのペアであるユーコに笑われてしまう。

 ハリーペアとローズマリーペアは、四人そろって庶民なので仕方がない。

 しかし代表選手たちを見てみれば、見てみれば物凄いではないか。

 ソウジローとユーコのペアは、見事な着物を着こなしている。踊れるのだろうかと思ったが、一応活動しやすいタイプにはしているらしい。きっと問題ないだろう。二人とも黒髪に黒い着物と地味なカラーリングだが、それでも元が美青年と美少女なのだ、逆にスッとしたスマートさが出ているように見える。

 クラムとハーマイオニーは、互いに立派なドレスローブだ。クラムの方はまるで軍服のような赤いドレスローブであり、肩にかけた毛皮のマントが威厳を見せている。仲睦まじく談笑している姿に、ハリーもロンも複雑な思いだった。

 フラー・デラクールとそのペア、レイブンクローのロジャー・デイビースはちょっとアレだ。フラーの輝く美貌にデイビースのハンサムさが色褪せている。更には、フラーの魅力にデレデレでだらしない顔だ。あれでは添え物程度にしかなるまい。

 ブレオはどうやらレイブンクローの三年生を選んだらしい。ぽやぽやした不思議な女の子で、ブレオの口説きを聞いているが、全く効いていないようだ。それが面白いのか、ブレオはまたも褒め殺しにかかっている。なかなか面白いペアだ。

 ローズマリーとジョージは、互いに活動的なドレスローブを着ている。真っ赤な薔薇を模したミニスカートのようなドレスに、スポーティなデザインのタキシードのようなドレスローブ。いまでも楽しそうに笑っているあたり、恋愛関係は期待できなさそうだ。

 

「さ、出番ですよチャンピオンズ」

 

 マクゴナガル先生の言葉と共に、代表選手たちがステージの上に現れる。

 フリットウィック先生が指揮をするようだ。クラシックな音楽が流れると同時、十人の代表選手とそのパートナーたちがステップを踏む。

 かちんこちんに緊張して出遅れたロンに微笑みかけて、ハリーは彼の手を自分の腰に回させて、手を取った。意地悪な笑みを見せれば、ロンは軽く笑ったようだ。以降は変な緊張などせずに、練習の時と違ってハリーの足を踏むこともなかった。

 一曲分を踊れば、マクゴナガル先生の合図と共に他の生徒たちも踊り始める。

 穏やかで上品なダンスのなにが楽しいのかと思ったが、これがなかなかどうして面白い。身体が密着してロンの照れくさそうな顔が見れたり、ローズマリーとジョージがたまに無茶なダンスをして笑い声が聞こえたり、ついにロジャー・デイビースがフラー・デラクールに求婚して足蹴にされていたりと、徐々にパーティが騒がしくなり皆のテンションが上がってゆくのが分かった。

 

「ロン、楽しい?」

「まあね。ハリーこそどうだい」

「さいっこう」

 

 いまこの一時、ハリーはとても幸せだった。

 好きな男の子とこうしていられるのは、一人の少女として幸福なことだと思う。

 少しばかり諦めていたのだから、なおさらそう思う。

 楽しい時間が過ぎるのは早い。優雅なダンスミュージックが途切れたかと思えば、とんでもない大音量で大広間中にシャウトが響き渡った。

 

「イェエエエエエエイ! お上品なダンスに飽きたら、刺激的なダンスもね!」

 

 それぞれが楽器を振り回しながら現れたのは、妖女シスターズの面々だ。

 指揮をしていたフリットウィック先生が放り投げられ、熱狂的な歓声が響く。

 ギターがかき鳴らされているのを見て、ハリーは不思議に思う。

 もはや大真面目にステップを踏んでいる者はいない。好き勝手に暴れているのみだ。

 

「ロン、あれエレキギターじゃない? 魔法界で機械って使えないんじゃ……」

「エレキギター? ああ、あれマグルの楽器で似てるのがあるのかな。あれの原動力は持ち主の魔力だよ」

「じゃあなに? 魔力を吸いだされながら大声で歌ってるの、あの人たち?」

「おかげでライブ後は魔力枯渇してるんだとさ」

 

 妖女シスターズが自分たちの持ち歌を歌い終えると、一瞬だけステージが暗転する。

 何かと思えば、今度手に持っているのは変わったギターだった。

 いや、あれは確かギターではなく……シャミセン?

 

「ッはぁぁぁあ――――ッ、ええじゃないか! ええじゃないか!」

 

 意味の分からない歌が始まった。

 今まで大人しめに騒いでいた不知火の生徒たちが、急に発狂したかのような クレイジーなダンスを披露し始めた。ステップも滅茶苦茶、規則性があるようにも思えない。

 だがこの自棄になったかのようなダンスがお気に召したのか、他校生も真似して適当なダンスを踊り始めた。

 縦笛や三味線、肩に担ぐ小さな太鼓などエキゾチックな楽器でかき鳴らされるロックな音楽は、たしかに面白いと思う。しかしさっきからお札だのお餅だのが降ってくるのは何なんだ。日本の伝統行事なのか?

 

「なんだこりゃ? 面白いな! わけわかんねえ!」

「分からないなりに上手だよ、ローズマリー!」

 

 よく知らないなりに楽しんで踊っているローズマリーと、正式なのかどうかはわからない踊り方をしているユーコが楽しそうに笑っている。ジョージは真顔で激しいエエジャナイカ・ダンスを踊り狂うソウジローを見て戦慄しているようだ。

 アメリカらしいド派手な音楽に移行すると、もうローズマリーの独壇場だった。ステージに飛び乗ったかと思うと、ボーカルからマイクを奪って激しく歌い始める。それにノったボーカルも、彼女とマイクを奪い奪われでシャウトし続けた。

 あちこちを見ればみんな笑顔で、とても楽しんでいる。

 ハリーは目を細め、大広間を出る。

 廊下に出れば、階段にロンが座っている姿を見つけた。

 ゆっくりと歩み寄る。

 

「やぁ。お疲れ、ロン」

「……ああ。お疲れさま、ハリー」

 

 一緒に踊っていた時は笑顔で楽しんでいたロンも、ふと落ち着けば暗い影が差す。

 何とかしてやりたいと思っても、こればかりは、ハリーには難しい。

 彼の気持ちを宥めるのは、ハリーの役目ではない。

 ハリーではだめなのだ。

 

「……気になる?」

「え……」

「ハーマイオニー」

 

 名前を出せば、びくりと肩が動く。

 分かりやすい奴だ。

 紳士たれとがんばっているものの、気になって仕方ないのだろう。

 そんなもの、顔を見なくても分かる。

 

「……クラムは、別の学校の代表選手だ」

「そうだね」

 

 ぽつりと零したロンの顔は見ていない。

 見たくない。

 

「どうして、ハーマイオニーは……あんな奴を選んだんだろう……」

「……さあね……」

 

 本気で落ち込んだロンの肩をぽんぽんと叩く。

 これはもう、だめかもしれないな。

 

「ロン、まだ踊る気はあるかい?」

「……ごめん、ない」

 

 だろうね。

 ハリーはきらきらした明るい緑の目を細め、そっと閉じる。

 

「ねえ、ロン」

「悪いけどハリー、しばらく放っておいてく――」

「ハーマイオニーのこと、好き?」

「れぇっ!?」

 

 唐突にハリーが仕掛けたことによって、ロンが裏返った声を出す。

 大慌てで動揺しきったその姿はとても可愛くて、ハリーは微笑ましく笑った。

 

「そっ!? べ、別にぃ? そんな、あー。うー……」

「んふ。……好きなんだ?」

「か、からかうなよ……」

 

 しまいには、顔を真っ赤にしてそむけてしまう。

 否定されなかった。やっぱり何だかんだで、自分の気持ちには気づいているらしい。

 目を細めたまま、ハリーは泡喰ったロンを眺める。

 そんなハリーの表情に違和感を覚えたのか、ロンがこちらへ視線を返してきた。

 ハリーは微笑んで言う。

 

「もっと素直になりなよ」

「……でも、さ……」

「まぁ、今回はハーマイオニーもやり過ぎかな。たださ、惚れた弱みってやつだよ。笑って許してやろうぜ」

「……難しいかも」

 

 少しおどける余裕が出てきたようだ。 

 安心した溜め息と共に、ハリーは笑顔で返す。

 

「手伝ってやるよ、ロン。宿題のことといい、いつものことだろ?」

「……ああ、ありがとう。期待してるよ、親友」

 

 ハリーは笑顔で言葉を受けて、鼻を掻いた。

 笑顔で、笑顔のままで、そのままの表情でいようとする。

 そして一瞬だけ目を閉じて、柔らかく微笑んだ。

 

「ロン、先に謝っとくね」

「え、なにが?」

「もらうよ」

 

 短くそう言うと、ハリーはロンの頭を引き寄せた。

 くぐもった、驚く声が耳に入る。

 汗っぽい匂いがする。ロンの匂いだ。

 甘い味がする。さっき飲んだバタービールかな。

 思い切り抱きしめているから、ロンの熱をすぐ近くに感じる。

 いつも近くに居たのに、隣に立つことは終ぞできなかった。

 そして。

 これでもう、絶対に手に入らない。

 

「は、りー……」

 

 呆然としたロンに、ハリーは微笑みかける。

 そうして、離れて。

 小さな声で囁いた。

 

「――好きだったよ、ロン」

 

 ロンが何かを言おうとしたが、ハリーにはそれを聞く余裕はなかった。

 廊下を早足で歩き去り、何人かとすれ違う。

 女の子が数人、階段に座り込んですすり泣いていた。

 きっと男の子にフラれてしまったか、他の女の子に取られてしまったか。

 人のことを笑えないなあ、とハリーは頭では関係ないことを思う。

 いつの間にか外へ出ていたのか、ハリーは湖の傍に突っ立っていた。

 当然ながら誰もいない。

 

「うあー……やっちまった。ファーストキスだぞバカじゃねーの……」

 

 たぶん、ロンも同じだ。

 初めての相手はハーマイオニーではない、このハリーだ。

 痺れもしないし最悪な気分だ。ざまーみろ、ぼく。

 勢いに任せてやっちゃうんじゃなかった。ひどく気まずい。

 恋ってやつは厄介だ。理性的な考えを殺してしまう。

 明日以降、どういう顔をして会えばいいんだろう?

 無かったことにして普通に接する? 一言ごめんで済ませて忘れちゃう?

 顔を真っ赤にしたハリーは、いやんいやんと自分の頬に手を添えて頭を振る。

 すると地面の下から、聞き覚えのある声が届けられた。

 

【どうしたのです、ハリー様】

「え? あ、ああ。ヘンリエッタか」

 

 ハリーの友人、バジリスクのヘンリエッタ。

 校内に配置されたパイプの中で、悠々自適な散歩ライフを楽しむバジリスク。

 本当の名前は千年近く孤独に過ごしたため忘れてしまったらしい。去年の暮れに、ハリーがちょうどいい名前を思いついたと言って名づけたのだ。

 本人(本蛇?)が忘れているためか、《忍びの地図》には頭文字の「H」しか表示されなかった。だからハリーは、Hから始まる女性名で考えてヘンリエッタと名付けたのだ。ヘドウィグと同じく魔法史上の偉人の名前だが、そこは彼女のネーミングセンスの問題である。

 そんな彼女から、気遣わしげな声がかけられた。

 

【泣いておられるのですか?】

【うん? んーん、平気だよ。我慢できるくらい】

【貴女様を泣かせる不届き者は、私の目のヤバいうちは生かしておきませんよ】

【ヘーイスターップ、待つんだヘティちゃーん】

 

 気を遣って笑いを取ってくれたのだろう。

 現にハリーは、少しながら笑みを浮かべることはできるようになっていた。

 しかしそんな彼女に、不躾な声が掛けられる。

 

「おやおや、こんなところで独り言とは寂しい趣味だな、ポッター」

「……ドラコ」

 

 上等な黒のドレスローブを着た、ドラコ・マルフォイが居た。

 せせら笑うような顔は、彼にしては珍しい。雰囲気が違うものの、顔だけ見ればスコーピウスと瓜二つな表情を浮かべる彼は、珍しく一人だった。

 

「……何しに来たの」

「君を笑いに」

 

 あっさりと返されたその言葉に、ハリーは眉をしかめる。

 楽しげなドラコの目は、ハリーの下に向けられた。

 

「蛇とでもお喋りしてたのかい? ウィーズリーの次に蛇とは、いい趣味じゃないな」

「……どっか行ってくれないかな」

 

 スコーピウスならともかく、ドラコがこんな風に言ってくるのは珍しい。

 むしろ気品がないとして敬遠しそうなものだったのだが、何のつもりか。

 なにか思惑があったとしても、今のハリーにそれを容認できるほど余裕はない。渦巻く感情にようやく蓋をして、折り合いをつけて、忘れようとしていたのだ。

 それなのにあの言い方だと、ロンにキスをしたところまで見られていたのかもしれない。

 ハリーは羞恥と怒りに、耳まで赤く染まった。

 

「『家柄のいい魔法族とそうでないのがいる。間違った者とは付き合わない方がいい』。かつて僕が君に教えたことだ、覚えているかい?」

「……いきなり何さ」

「言った通りになったな。『皆と仲良くしたいと思っている』なんて言ってたのは誰かな」

 

 思わずハリーは杖を使うのも忘れ、ドラコに殴りかかっていた。

 一、二年生のころならたいして差がないためいざ知らず、いま十四歳という体が出来上がりはじめた時期に、女の腕力で男に敵うはずもない。

 ハリーの拳はあっさりドラコに受け止められ、軽い音が鳴った。

 身体強化を忘れていた、とハリーが瞠目すると同時、ぐるりと景色が反転する。

 背中に強い衝撃を受けるとともに、ハリーは息が詰まった。

 

「ぐ、げほっ」

「まったく、野蛮人だなポッター。杖くらい使えよ、『セイプサム』、身嗜み」

 

 大きく乱れたドレスや髪が、ドラコの魔法によって整えられた。スネイプもハリーに対して使っていた呪文だ。ドラコも彼から教わったのだろうか。

 まるで大人に注意されたかのような感覚に、ハリーはドラコを睨むように見上げる。

 そのまなじりからは、じわじわと透明なものが溢れはじめていた。

 

「そうだ、それでいい」

「……なにが!」

「感情を抑え込んでいるポッターなど、僕は知らん」

 

 つまらなそうに言うドラコの表情は、先ほどまでと違って苦々しげだ。

 ハリーは自分の耳を疑う。

 こいつ、今なんて言った?

 

「……ひょっとして、励ましたのか?」

「だまれポッター。本意じゃない」

 

 本当だった。

 いや、まさか。

 嘲って挑発して、挙句投げ飛ばして。

 そこまで不器用な男だったのか、このドラコ・マルフォイという男は。

 有り得ないレベルだ。本当に不愉快そうに、不本意そうに吐き捨てるその姿に嘘はない。本意ではないということは、誰かに言われて慰めに来たのか。違うとしても似たようなものだろう。

 だが、それでも実際に来てくれたのは彼だ。

 腰を浮かせていたハリーは、すとんとそのまま地面に座り込む。

 

「……ドラコ」

「なんだ、ポッター」

「ちょっと来て」

 

 眉をひそめたドラコは、ハリーの言うとおり歩み寄ってくる。

 やっぱりこいつ、育ちがいいから結構素直だ。

 ハリーは近くまできたドラコのドレスローブの裾を、弱々しく摘まんだ。

 ドラコが片眉をあげる。

 

「……、……どうすりゃよかったんだろうな」

「なにが」

「ロンとハーマイオニーのこと」

「僕が知るか」

「まあそうなんだけどさあ、聞いてくれよ」

 

 ぽつりぽつり、とハリーはドラコに語る。

 あまり親しくないのも作用したのか、必要ないことまで唇から滑る。

 ロンと初めて会った時のこと。ハーマイオニーと仲良くなれた日のこと。

 賢者の石騒動で、三人の心の内を知って強い絆で結ばれた事。

 秘密の部屋事件で、ロンがすごく頼りになったこと。多分、この時にはもう異性として好意を抱いていたのではないかという想い。

 大量殺人鬼シリウス・ブラックとの騒動は、流石にぼかした。ただ、暴れ柳に近づいた時にロンが身を挺して守ってくれたことや、ハーマイオニーの造詣の深さなどを語る。

 今回、ハリーが七人目の代表選手に選ばれたとき。ロンとハーマイオニーが、チラとも疑わずハリーを信じてくれたこと。そして、ハリーを励まし、支えてくれたこと。

 ハーマイオニーとロンの喧嘩のこと。ハリーが欲しくても手に入らない関係を、いつでも手に入れられる女の子が目の前でその宝物を雑に扱い、嫉妬と怒りに狂ったこと。

 初めて親友と喧嘩したこと。

 初めて恋をして、そして初めて失恋したこと。

 ぽつぽつと、しかしはっきりと、ハリーはドラコに対して独白し続けた。

 

「会ったのは、ぼくが先だったのになあ」

「そうか」

「スタイルだって僕の方がいいんだぜ。贅沢だよ、ロンは」

「そうか」

 

 ドラコは先ほどから、うんざりしたような相槌しか打たない。

 だがそれで十分だった。話を聞いてほしいだけなのだ。

 しかめっ面のまま、だがそれでもハリーの摘まんだ手を振り払わない。

 それだけでも十分以上に有り難いのだ。

 

「ドラコは、さ。人を好きになったことはある?」

「さぁね」

「そっか。ぼくは、今まで人を好きになるなんて、あるはずないと、思ってた」

 

 こればかりはロンにも、そしてハリーにもハーマイオニーにも非はない。

 恋愛というものは単純にして、複雑怪奇だ。

 どんな危険な魔法生物と戦うよりもずっと手強くて、ずっと難攻不落。

 ままならないものだ。

 

「……おまえは本当にウィーズリーが好きだったんだな」

 

 ぽつりと、ドラコが漏らした言葉。

 ただの感想だろう。ハリーが語り始めてから、実に一時間以上は喋り続けていた。

 それだけ聞かされ続ければ、感想の一言も出るというもの。

 単純なその言葉は、不思議とハリーの心の深くまで入り込んだ。

 乾ききったスポンジが水に触れた時のように、深く奥までするりと這入る。

 

「……ああ、……ぼくは。ロンが、好……」

 

 つ、と。

 滴がハリーの頬を伝って落ちた。

 それは一筋だけではとまらず、ぼろぼろとこぼれ落ちてゆく。

 

「……う、あ……好き、だっ。た、んだ……ぁ……」

 

 肩が震えて、足から力が抜ける。

 ドラコのドレスローブから指が離れ、両ひざを抱えて、蹲る。

 こぼれてこぼれて止まらない。

 悲しいのだろうか。悔しいのだろうか。それすらもよくわからない。

 ただただ、涙が流れてしまう。

 嗚咽が漏れる。心がこぼれる。

 恋が、消えてゆく。

 ハリーがただ涙するその横で、ドラコは何をするでもなく立ち続けた。

 ただそれだけ。

 決していなくなったりはしないその姿勢が、今のハリーにはとても有り難かった。

 

 

 しばらく泣き続けたのち、ハリーは魔法で顔を整えると、ドラコに頭を下げてから顔を真っ赤にして走り去っていった。

 ドラコ・マルフォイはその後ろ姿を見送る。

 一年生の頃は、男の子と見間違えるような少女だった。

 いまはそんな見間違いがあってはならないほど、美しく成長している。

 みんなと仲良くなりたい、などとふざけたことを言う女だと、最初は軽蔑していた。

 だが彼女には、何らかの目標がある。それもかなり大きな、魔法界すら動かすほどの巨大な目標。彼女自身の人生を削り取ってまで成し遂げようとする強い意志。

 その泥のような瞳でやるべきことを見据える姿は、本当に美しかった。

 だがここ最近では、見る影もなく堕落していた。

 スリザリンの寮生は育ちがいい者が多いので、生活も規則正しい。朝起きてシャワーと予習を済ませると、たまに校庭をジョギングするポッターの姿を見る者もいた。女子生徒はダイエットのためか、そうやって校内を走る者がいる。

 ドラコが思うに、ポッターはそういったくだらない理由で走っているのではない。ハードな走り方を見るに、戦う力を蓄えるために体力をつけているのだとわかった。

 そんなストイックなやつが、ここ最近ではふわふわと浮ついており、朝のジョギングをしない日もあったと聞く。つまらない女になったものだ、とドラコは嘆息した。

 

「だからだ、君の案に乗ったのは」 

「……ありがとう、マルフォイ」

 

 建物の陰に身を隠していたのは、セドリック・ディゴリーだ。

 ポッターが泣きながら去って行った姿を見て追いかけたはいいものの、自分が慰めるのは卑怯だと感じたらしい。それでちょうどそのとき話していた自分に、役目を頼み込んだというわけだ。

 こちらは夜零時を回ったので、ダンスパートナーを寮に帰している。真夜中まで女性を連れ回すように教育された覚えはない。ディゴリーもまたその帰りだった。

 ディゴリーがポッターに告白紛いのパートナー申し込みをしたのは知っている。弱みに付け込んで、という状況になるのを嫌ったのだろう。だからといって自分に頼む意味が分からないとドラコは内心で溜め息を吐いた。

 

「次からは自分でやれ、ディゴリー」

「ああ……」

 

 悔しそうな顔が目に入る。

 自分で慰めたかっただろうことはわかる。ドラコはまだ恋愛というものを経験したことがない。異性をいいなと思ったこともなく、また結婚も血筋のためのものであるためドラコ自身に決める権利はないからだ。

 父ルシウスもそうだった。マルフォイ家の純血を守るため、ブラック家から母ナルシッサを娶った。ドラコもきっと同じことになるだろう。両親が決めた相手を結婚し、純血の子を残す。

 純血主義という思想を心の底から信奉しているわけではないドラコにとって、それはただの義務であった。それよりも今は、ドラコにはやるべきことがある。

 だというのに、泣き続けるポッターを放っておこうとは思わなかった。これが恋愛感情ではないことは確かだ。

 彼女には強くなってもらわねば困る。

 

「死ぬなよ、ポッター」

 

 走り去った白い背中が見えなくなった、闇の向こうへ薄いグレーの目を向ける。

 そこに広がるのはただ仄暗い闇に包まれたホグワーツ。

 先は見えず、あるのは昏い闇ばかり。

 まるで、ハリエット・ポッターの行く先を暗示しているかのようだった。

 




【変更点】
・ダンパティ役はネビル。特に意味はない。
・ハリーがやっとセドリックの好意に気付く。
・ハーマイオニーとの大喧嘩発生。理屈じゃない。
・恋する乙女がいっぱい。
・ロンへの告白。同時に恋心との決別。
・ドラコ先生のカウンセリングフェイズ。

【オリジナルスペル】
「セイプサム、身嗜み」(初出・42話)
・身なりを整える呪文。対象を汚れのない清潔な状態へ変更できる。
 元々魔法界にある呪文。やんちゃなお子さんを持つ主婦の強い味方。


今回は恋愛回。とりあえずもげろん。
女の子として避けられない問題、それがラヴ! 男一人と女二人の仲良し三人組で恋愛のもつれが発生するというのは最悪の状態です。それが今のハリー達の状態。モテる男は辛いね。
レズビアン疑惑が多すぎやしませんかねえ……。あくまでジョークです。作中には誰とは言いませんがホンモノが居りますが、ええ、恋をするのに性別など些細な問題ですよ。
次回は第二の課題! いったいどんな課題になるのか……。


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8.第二の試練

 

 

 

 ハリーは寮に戻ってドレスを脱ぐと、下着姿でベッドに倒れ込んだ。

 隣には驚いた顔のアリシア・スピネットがいる。だが今は気にする余裕はない。

 失恋してしまった。しかもその後、ドラコ相手に愚痴って泣いた。

 恥ずべき汚点だ! ハリーは枕に顔を埋めて両足をばたばた動かして悶えた。

 

「うおおお死にてえええ」

「女の子出す声じゃないわよそれ」

 

 呆れたジニーの声が聞こえる。

 ここはグリフィンドールの女子寮、五人部屋だ。

 ハリーが三年間を過ごした四人部屋ではない。ジニー・ウィーズリー、アリシア・スピネット、アンジェリーナ・ジョンソン、ケイティ・ベルの部屋だ。残るベッドは何があったのか知らないが、魔法修復が効かないほどに破壊されて部屋の隅に放置されている。

 ハーマイオニーとハリーはいま相当険悪な状態にあるため、周囲の精神的な健康を慮ってジニーと部屋を交換してもらい、ハリーはこの部屋で寝泊まりしているのだ。

 アンジェリーナはまだ帰ってきていない。というか、たぶん今夜は帰ってこない。アリシアとケイティがにやにやしながらも羨ましそうにしていることから、お察しである。

 

「あー、私も彼氏欲しいなあ」

「ハンサムな人がいいなぁ」

「ロンがよかったぁー」

「「未練たらたらじゃないの」」

「ジョークさ」

 

 ドラコの慰めは、あれはあれでハリーにとっていい刺激だったらしい。

 ロンとのことをジョークで笑い飛ばせるくらいには、精神的に回復したのだ。……問題は明日以降、どう接すればいいのかだ。アリシア曰く、疎遠になりたくないならば一言謝って水に流してもらう。ケイティ曰く、アタックし続けてもいいんじゃないとのこと。

 ケイティの意見は論外だ。面白がっているだけである。それにロンはハーマイオニーを好いていると言っているのに、アタックし続けても余計に関係がこじれるだけだ。

 素直にアリシアの案を取るべきか。悪いことはしていないのに謝るのも変なため、そこはちょっと変える必要はある。ハリーとしては勢いとはいえファーストキスを捧げるほどの想いがあったのだ、その気持ちを嘘にしたくはない。

 

「でもさぁ、ハリー。悪意はないってことを前提で聞きたいんだけど」

「なぁにアリシア」

「今回、なんでハーマイオニーに見せつけるようなことをしたの? そんなことしたら下手すると絶交モノだってわかってるでしょう?」

「ああ、それね」

 

 ハーマイオニーは、ああ見えてプライドが高い。

 ロンがダンスパーティに誘ってくれるまで自分からは決して誘わなかったことからも、それが窺える。

 今回のロンとハーマイオニーの喧嘩は、ロンだけに非があるわけではないとハリーは考えている。むしろロンが他人からの好意に鈍感であることを知りながら、期待が外れたということで他の男の誘いに乗るという報復を行ったハーマイオニーの方に非があると感じたのだ。

 

「まぁ、確かに当て付けにしちゃーやりすぎだわね」

「しかもお相手はクラムでしょ? 他のヒッポグリフ(う ま)の骨ならいざ知らず、憧れのエースが相手じゃ、ロンもかわいそうよ」

 

 そう、相手も問題なのだ。

 ビクトール・クラム。プロのクィディッチ選手であり、ロンの憧れる男。

 自分より完全に上に立つ者が恋敵であるというのは、男のみならず女でも絶望を味わうには十分だろう。特にロンはいささかメンタルが脆い。たぶん、今日のことはトラウマになっているはずだ。

 

「あと美味しい役目だし」

「おどけたのか本気なのか判断に苦しむわね」

「でも同時に一番損な役回りじゃないの。ハリー、あなた結局、二人の仲を取り持とうとしたんでしょ?」

 

 その通りである。

 ハーマイオニーがロンに対してしたことと同じことを行い、彼女の嫉妬と焦燥を煽る。

 そうすることでハリーは、ハーマイオニーに伝えたかったのだ

 誰もロンを狙っていないというわけではない。決してお前のものだと決まっているわけではない。ぞんざいに扱っていると知らないうちに取られるぞ、と。

 ハリーは薄々、自分に勝ち目がないことを悟っていたのだ。いつも一緒にいる、異性として好きな男の子。その言動や行動を見て、自分に気があるかどうかくらいはわかる。

 まあ、ロンのファーストキスを貰ったのは、ささやかな報酬ということにしておこう。

 この話を聞いたジニーならば「押し倒してソッチも貰っちゃえばよかったのに」と言ってきそうだが、ハリーは立派に純潔だ。そんなぶっ飛んだことまで出来るはずがない。というか、ジニーが耳年増で早熟すぎるだけだ。

 そんなジニーは、ダンスパートナーにネビルを選んだ。いまごろ楽しく踊っていることだろうが、下手をしたらネビルと共に大人の階段をヒャッホウしているかもしれないのだ。

 もしそんなことになれば、ロンの胃に穴が開くだろう。

 好きな女の子が自分より優れた年上の男と一晩中踊って過ごし、妹のように想っていた親友に告白されファーストキスを奪われ捧げられた翌日に、ルームメイトが一足先に大人の階段をアセンディオ、更には愛する妹が一晩でオトナの女にアニメーガス。血を吐いてブッ倒れてもまったく不思議ではない。

 

「……今回の一番の被害者ってロンじゃないかしら」

「……」

「…………」

 

 何も言えん。

 話を切り替えようとしたのか、ケイティが慌ててハリーのベットに座って口を開いた。

 

「と、ところでハリー。鍵については何か分かった?」

「あー、いいや、全く。競技はもうすぐだってのに、全く分からなかった」

 

 ごろりと仰向けになれば、圧迫されていた胸が解放される。

 ケイティが揺れるそれを見てごくりと喉を鳴らしたが、無視した。そんなお下品なジョークに付き合ってやる義理はない。

 

「じゃあぶっつけ本番ってこと? 結構キツくないかしらそれ」

「割とキツいかな……。でもまあ、何とかなるだろう」

「楽観的ねえ」

 

 毎年死ぬような目に遭う際に、事前準備などほとんどない。

 それを思えばたかだか人が組んだ対抗試合である。

 そう考えないと、やっていけないのだ。

 

 

 選手たちが揃って廊下を歩く。

 ローズマリーがうきうきしながら歩き、その後ろをハリーがついていく。

 彼女の機嫌がいいのはわかるが、隣のセドリックがどうも少し落ち込んでいるのが気になる。よもやロンとのアレを見られたかな? いや、流石にないだろう。

 以前ドラゴンと戦った競技場は綺麗さっぱり片付けられており、まるでローマのコロッセオを彷彿とさせるフィールドへと変わっていた。魔法って便利。

 

「しかし、コロッセオときたか。第二の試練もキツそうだな」

「殺せ? なにを物騒なこと言ってんだハリー」

「コロッセオ。古代マグルの作った施設だよローズ」

「へぇ。知らね」

「おおっとぉ、僕らの古く美しい歴史に美少女達が興味を持ってくれるなんていやあ光栄だなぁどうだい今晩ベッドの上に僕らの熱く激しい歴史を綴ろうじゃないか」

「「『エクスペリアームス』!」」

「ぐわあー」

 

 吹き飛んでいったブレオを横目に、選手たちはそれぞれの控室へと案内される。

 何やら奇妙な待機テントだった。

 奇妙に巨大で、真っ直ぐ細い道を通っていけば、円形になった中央の部屋からそれぞれの控え室に通されるのだ。上から見れば、まるでスライスしたオレンジのようになっているに違いない。

 あまりにも突拍子もないイベントは勘弁してほしいものだ。

 

『さぁ、始まります! 代表選手たちへ降り注ぐ数々の苦難も今回で第二回目! 伝統の三校対抗試合では試練も合わせて三つだったので、今年度はそれじゃあつまらない! 司会の私も全部で何回あるのか、聞かされておりません! まあ、今回が二回目ってことは間違いないんですけどね!』

「マジかよ」

 

 一人控え室に居る中、ハリーは唸った。

 というか競技回数くらいは選手たちに教えてもいいんじゃないかな。

 それを探ることすら優れた魔法使いとしての課題とでもいうつもりだろうか。

 そんなものは情報戦のタツジンであるニンジャや、英国一のスパイであるミスター・ボンドにでも任せておけばいい。

 

「う、ワッ」

 

 リラックスするために適当な思考に身を埋めていたハリーは、突如地面が揺れたことで思わず驚いた。すわ敵襲かと思いきや、そうではないようだ。あまりにも横揺れが大きすぎるし、床や壁を視てみれば随分と大規模な《浮遊呪文》をかけられている。

 このテントの構造に、浮遊呪文。そしてコロッセオ。

 嫌な予感がする。

 

「……着地したか」

 

 酷い揺れと共に、浮遊感が消える。もう少し優しく扱ってほしいものだ。

 ハリーは懐から杖を抜くと、右手に持って構える。

 そろそろそうした方がいいかなと思ったのだが、それはきっと正解だろう。

 

『さあ、第二試練の始まりだ! 選手たちへの説明は一切なし、突発的な状況に対応できるかを見せてもらいます! ではではいっせいにコロッセオまで来てくれよう!』

 

 司会者のテンションが高まるにつれて、会場のボルテージも上がっているようだ。

 余計なことをしないでほしい。魔法生物と戦ったりするとしたら、その歓声で刺激してしまい、ただでさえ凶悪なモノがより狂暴化するのだから、殺し合う側としてはたまったものではない。

 

『テン……ナイン……ええい、まどろっこしい! スリーツーワン! はい始めッ!』

 

 投げやりなカウントダウンが終わると同時、テントの入り口がざあっと開いた。

 杖を構えたまま飛び出したハリーは、テントの出口をくぐる際にひどく蒸し暑い感触を味わって、一瞬だけ肝が冷えた。魔法式を視る余裕がなかったことに舌打ちする。

 そして周囲を見たとき、ハリーはひどく面食らった。

 

「うわっ、なんだこれ?」

 

 ローズマリーの声を聞けば、彼女も困惑しているらしい。

 彼女の格好を見ればよくわかる。青いオーラが彼女の全身から立ち上っていたからだ。例えるなら熱いお風呂に入って、それから寒い脱衣所に出てきたときのような感覚。

 他のみんなも、それぞれ色は違えど似たようなオーラに覆われている。

 赤いオーラを立ち上らせたまま、ハリーは聞こえてきた司会者の声に耳を傾ける。

 

『さぁ第二試練の始まりです。実況は危険な蜂野郎、バグマンのおじさんが行います。実況はこちら、ホグワーツ魔法薬学教授のスネイプ先生』

『なぜ我輩が……』

『はいよろしくお願いしますね先生。さて、今回の競技を説明しましょう!』

 

 ぎしゃー、という鳴き声が聞こえる。

 慌てて出所を確認してみれば、なにやら布で隠された大きな檻がハリーたちの上空に浮かんでいた。なにが入っているのか分からないが、まずろくでもないものだろう。

 今回の競技も血生臭いものになりそうだ、とセドリックが苦笑いした。

 

『何十年も前のウィザーズ・トーナメントで採用されていた競技がただいま復活! 名づけて《チキチキチキンお料理競争》だ!』

「猛レースじゃないのか……」

 

 ソウジローがなにやら呟いていたが無視した。

 

『この競争の内容は至って簡単! 襲い来る魔法生物を多く倒せば倒すほど点数が加算されるというものです! フィールドは見ての通り円形のコロッセオのみ、上空にあがって爆撃とかは禁止です。地に足付けてくださいね』

 

 ウィットを含んだ説明に、観客席から笑いが起きる。

 だがハリーとしては笑えない。

 またか、また魔法生物と戦うのか。

 いや悪くはない。凶暴な魔法生物にも勝てないようでは、ヴォルデモートをぶっ倒すなど夢のまた夢だろう。ならばこそ戦闘経験を積む必要がある。

 だがこのワンパターンっぷりはなんなのか。

 試練や課題というからには、何かしら知的な試練もないものなのだろうか。

 

『それではご紹介しましょう、今回の愛すべきやられ役たち! カモォン、コカトリス!』

 

 上空の檻が突如消え去ったかと思えば、そこには何十匹もの巨大鶏が居た。

 地面へと落下し、その強靭な脚で着地すると地響きのような音が鳴り渡る。

 見た目は真ん丸になるほど太った鶏。だが尾はドラゴンのそれに酷似しており、羽根は羽毛に覆われてはいるもののドラゴンのそれと大した違いはないように見える。そして大きさはなんと二メートルはある。デカい、デカすぎる。

 立派な鶏冠を揺らして、コカトリスたちはハリーらを睨みつけた。

 あれだけ乱暴に叩き落されたのだ、八つ当たりのひとつくらいは許されるだろう。

 

『コカトリスが全滅した時点で競技は終了! では、くれぐれも死なないように!』

 

 バグマンの声がそう打ち切られると同時、コカトリスたちはけたたましく吼えた。

 甲高い不快なそれに耳をふさぎたくなるが、両手を開けるほど愚かな選択はしない。

 コカトリスの一番近くにいたフラー・デラクールが杖を振って盾の呪文を展開するものの、コカトリスの容赦ない蹴りが彼女の華奢な身体を襲った。盾の呪文が破れることはなかったものの、あまりの威力に盾ごと吹き飛ばされたデラクールはコロッセオの石タイルの上を転がり、外周の壁に叩き付けられた。

 どうやら頭を打ったのか、気を失ったらしい。そのまま倒れ込んだ彼女を見て、観客たちが悲鳴をあげた。

 それでも試合中断や救護班が乱入してきたりはしないらしい。

 獲物と見做したのかコカトリスの一匹が、デラクールを啄もうと近寄っていくのを見てハリーは行動を起こした。

 

「「『フリペンド』!」」

 

 それは奇しくもローズマリーと同時。

 異口同音に放たれた射撃呪文は、二人の魔力反応光が一つにまじりあってコカトリスに着弾。

 ハリーが組んだ着弾後に魔力反応光が拡散するプログラムと、ローズが組んだ高火力プログラムが見事に融合。まるで至近距離からショットガンで撃ち抜いたかのように、コカトリスの巨体を真っ赤に染め上げて吹き飛ばす結果となった。

 

「えげつねえ射撃魔法使うんだな、ハリー!」

「ローズこそ。あの魔法式じゃ威力過多だ!」

 

 互いの魔法を褒め称えながら、ハリーとローズはこちらへ向かってくるコカトリスをまた吹き飛ばした。あちらこちらで怒り狂ったコカトリスがコケーと怒声を上げている。

 そしてよく視てみれば、どうやらこのコカトリスたちは魔法で複製しているらしい。その証拠に翼や腹を裂かれても血が舞い、内臓が飛び散るようなことにならない。なにより魔法式が雄弁に物語っている。

 絶命したことを示すように、銃撃されたコカトリスの遺骸は淡い光の粒となって虚空に消えていった。

 一羽一羽は雑魚同然でも、ここまで多いとどうにも手を焼かされる。

 甲高い奇声をあげてこちらに飛び掛かってきたコカトリスをフッ飛ばした直後、ハリーは自分の腹に何かが衝突してきたことに一瞬心臓が口から飛び出しそうになった。

 なにかと思い視線をやれば、なんと、ブレオだ。

 ヒトの着てるシャツの裾から顔を突っ込んで頬擦りしていやがる。

 

「ひぅっ!? んなっ、な、ななな……」

「ああ、僕のハリエット! 君のお腹はどうしてこんなにもすべすべで素敵なんだろう! あっ、お尻も柔らかい! 揉み心地最高ゥ! んー、気持ちいい!」

「ぎゃああああああああ! やめろ変態! 離れろ、離れろォォォオオオオッ!」

 

 容赦なく鳩尾に膝打ちを叩きこんでも、脳天に肘打ちを突き刺しても、ブレオはやめる様子がない。むしろだんだん鼻息が荒くなってゆく。

 コカトリスに魅了系の魔眼でもあったのだろうか?

 ハリーが疑問に思いながら非力な腕でブレオを引き剥がそうとしているとき、スネイプから解説が入った。

 

『スネイプ先生、あれは? コカトリスの魔眼にやられちゃったんでしょうかね?』

『いや、それは迷信ですな。コカトリスには魔眼などありませんな。この競技は選手同士の妨害を禁じられていないからして、ポッターめを潰す作戦に出たものと思われる』

『はー、なるほど。ブレオ選手の貴重な繁殖シーンですか。発情期ですかね』

『……我輩は何も言いませんぞ』

 

 冷静に解説してないでこの変態をどうにかしてくれないと、貞操が危ない。

 貞操どころかコカトリスが二羽もやってきて命が危ない。そのうち一羽が応戦しようとしたローズのユニフォームを咥えたかと思うと、ぽいっと放り投げてしまった。甲高い悲鳴をあげながら遠ざかるローズからの助けは期待できないようだ。

 尻を捏ね繰り回していたブレオの手が、今度はハリーの胸へ伸びたその瞬間。

 彼女はブレオを殺す覚悟を決めた。

 

「『アニムス』ッ!」

「おうわ!? ハリエットたんったら力持ちィ! 小柄な女の子に持ち上げられるのってなんかこれはこれで快感に目覚めそうななんなんなぅぉあああああああ」

 

 何やら変態的な言葉を垂れ流す変態を無視して、ハリーはブレオの両腕を引き剥がして突き飛ばすと、その両足を持って振り回し始めた。

 いわゆるジャイアントスイングである。観客席の男の子たちがロマンあふれる光景に興奮して、野太い雄たけびを上げた。

 わざわざ地面にブレオの頭を擦るように振り回してから、ハリーはこちらへ迫ってきたコカトリス目掛けて彼の身体を投擲した。

 流れ星のように射出されたブレオは、なにやら感極まったかのような悲鳴をあげながらコカトリスの胸に突き刺さった。苦しげな声と胃液を漏らすだけでは済まず、コカトリスがばらばらになって光の粒と消える。

 そこまで強く投げたつもりはなかったが、どうやらブレオは自身に強力な防護魔法をかけていたらしい。変態のくせに技量の高い奴だ。あまりダメージを与えられなかったことにハリーは舌打ちをした。

 なんだか身体を汚された気がしたので『清掃呪文』を自分にかけてから、ハリーはコカトリスへと杖を向け、

 そして咄嗟の判断で地に倒れ伏すように身を屈めた。

 

「あっ!?」

「ぐっ、うう!?」

 

 果たして勘に従った行動は正解だった。

 デラクールとセドリックのくぐもった声が聞こえる。

 ちらと見れば、上下真っ二つになったデラクールと、右腕を失ったセドリックの姿があった。ぎょっとしたハリーは思わず凍りつき、そしてデラクールが光の粒となって消えたことで更に仰天した。

 

「な……ッ!?」

『フラー・デラクール選手、死亡判定によってリタイア! 今やられたのは魔力体のみです、ご本人様は傷一つなくテントに送還されましたのでご安心を!』

 

 ハリーはそれでなるほど、と思った。

 身体全体に、コロッセオ中に散見されるものと似た魔法式が走っている。あまりにも複雑に魔法文字が羅列しているので詳しくは判別できないが、どうやら肉体が「存在しながらも存在していない」状態になっているらしい。ハリーの知識量ではまだ理解できないが、恐らくはコロッセオ内限定で世界を騙す類いの魔法なのだと思う。ゆえにここをいじって何とかするのは難しそうだ。

 そして問題は魔法式の構造などではない。

 デラクールとセドリックを切断せしめた下手人を見遣れば、他とは一線を画す大きさのコカトリスが居た。他の個体と比べて驚くほど大きく立派な鶏冠を有し、取り巻きなのか手下なのか、妙にへーコラした個体を引きつれていることから見てボスとかそのあたりの存在なのだろう。

 肩などないのに、風を切るように肩(?)をいからせて歩む様には風格すらある。

 

「『フリペンド・ランケア』ッ!」

「『ラミナ・オーテンタ』!」

 

 しかしいくらボスとはいえ、修羅の前には無意味である。

 ハリーの放った紅い投槍の穿撃と、ソウジローの放った真っ白い刀の斬撃。

 それらはボスコカトリスの首から上を吹き飛ばし、残った胴体を細切れに変え光粒と消した。残った子分どもはその余波を受けて錐もみ回転しながらコロッセオの壁に叩き付けられ、血の染みと化す前に光になって去る。

 観客席からの歓声を浴びながら、ハリーとソウジローは視線を交わして互いに口角を吊り上げるのみで済ませる。

 ローズマリーが近くで「サムライ……」と呟いたのが聞こえる。ちょっとうれしい。

 余韻に浸る間もなく、続いてコカトリスたちが襲ってきた。ローズマリーが例の乱射魔法を行使して、所構わず魔力反応光をばらまき始める。

 他選手の妨害も兼ねてのことだろう、それは見事に功を奏した。杖腕を失って四苦八苦していたセドリックがまず射線から避けきれず、消滅してリタイア。

 次にコカトリスと殴り合っていたブレオが、コカトリスごと吹き飛ばされる。またしても何らかの防御魔法を用いたのか、派手に吹き飛びこそすれど無傷のようだ。

 ハリーもローズマリーの放った弾丸をまともに受けて、五メートルほど吹き飛ばされてしまう。身体強化していたからこそ「痛い」で済んだが、もし通常状態ならば下半身が吹き飛んでリタイアしていたことだろう。

 

「クヒャハハハハハ! 踊れチキンどもェア! あー楽しい! やっべめっちゃ楽しい! イェェェ――ァァア――ッ! フゥゥウ――ッ、ハッハァ――――ッ!」

 

 テンションが上がってスラング混じりに絶叫するローズマリーは、まさに災害だった。

 このままでは代表選手ごとコカトリスを全部持って行かれてしまう。

 そう判断したハリーは、吹き飛ばされた先で地に伏せたまま、杖をローズマリーに向ける。狙撃は二年生の頃に経験しているが、位置がバレているためローズマリーから反応光の暴風を向けられれば逃げなければならない。こんなことなら、ハワードに狙撃の極意を学んでおくんだった。

 そう思って土煙を杖で払い、ローズマリーを見たとき。

 

「……えっ? ちょ、ハァ!?」

 

 ハリーは思わず驚愕の声を漏らした。

 ソウジローがローズマリーに向かって駆け寄っていくのだ。彼女が乱射する魔力反応光を身を低くして掻い潜り、時には杖で弾き、走る速度を全く緩めずにローズマリーの元へ近づいていくその姿は、悪鬼か何かのようだ。

 ローズマリーも驚いているのか、先ほどまでの笑顔が引きつって汗を流している。

 残り三メートルほどまで近寄ったとき、ソウジローは地を蹴って空中へと躍り出た。チャンスと見たのか、ローズマリーは杖を振るって自身の両脇に球状の魔力反応光を出現させる。赤黒いそれは一瞬で姿を変えると、クィディッチでよく使われるブラッジャーへと変化した。

 まるで大砲のようなブラッジャーは、追尾する魔法式(プログラム)まで再現しているのか空中に居るソウジロー目掛けて突進してゆく。しかしソウジローは驚くべきことに自らに向かってきた片方を蹴って更に加速し、もう片方を切り払ってローズマリーの背後に着地した。

 慌ててローズマリーが振り返ろうとしたところ、杖を逆手に持ち替えたソウジローが、背中越しに彼女の心臓を突き刺した。驚きの表情のままローズマリーの身体が光と化して消えてゆく。

 

「……『まともじゃない』な」

 

 残る代表選手はハリー、クラム、ソウジロー、ブレオ。

 もはや妨害どころか直接的に排除にかかっている者もいる中、現在コカトリスを最も多く狩っていたのはローズマリーだった。だが彼女が脱落した以上、次点で狩っているのはソウジローかハリーのどちらかだろう。

 ゆえにクラムとブレオは狙いを定めたのか、コカトリスを排除しながらも一斉にソウジローに向かって魔力反応光を放つ。

 

「『プロテゴ・イワト』!」

 

 何やら日本語交じりの魔法式を展開したソウジローは、二人が放った魔力反応光を防ぎきる。驚いたクラムの隙を狙ったコカトリスに彼が放り投げられたのを尻目に、ブレオは極端な前傾姿勢のままソウジロー目掛けて駆け出した。

 ハリーも加勢しようとしたが、先ほどのボスには劣るもののそれでも十分に巨躯のコカトリスがハリー目掛けてくちばしを突き出してきたので、まずそちらの排除に動く。

 まるで箒に乗っているかのように舞うブレオに対し、緩急をつけて素早く動くソウジロー。コカトリスなど放っておいて二人で一騎打ちを始めてしまったようだ。

 ブレオが『爆破呪文』と『武装解除』が混じったような魔法式を内包する魔力反応光を放つと同時、ソウジローが『切断』の意を込めた魔力反応光を放つ。二つの魔力反応光がぶつかりあい、ブレオのそれが真っ二つに裂かれたその時。

 ブレオはにやりと笑った。

 

「『バースト』!」

 

 かつてハリーも使った簡易的な呪文。

 ソウジローに割られた魔力反応光が、その場で爆発したように光り輝く。

 散り散りになった魔力反応光があちこちに飛び散り、ソウジローが相変わらずの落ち着いた顔に汗を浮かべながら全速力で飛び退く。しかしいつの間に背後へ回ったのか、ブレオが彼の右のふくらはぎに『爆破呪文』を直撃させて吹き飛ばした。

 結果として前のめりに倒れ込んだソウジローは魔力反応光のシャワーの中に飛び込む羽目になり、その手から杖が弾き飛ばされてしまう。

 それを手に取ったブレオが、満面の笑みで決め台詞を叫ぶ。

 

「僕は美女には滅法弱いが、代わりに男にゃ負けなッハァァアアアン!?」

 

 決め台詞は不発であった。

 理由としては単純なもので、ハリーによる不意打ちだ。

 いわゆる漁夫の利というやつである。

 ブレオの名誉のため、攻撃された瞬間に会場の男性諸君が目を背けて呻いた。

 両手で股座を抑えて尻を天に突き出し、地に顔を突っ伏してびくんびくんと痙攣していたブレオの身体がひときわ大きく震えると、光となって消えていった。ハリーがトドメに『刺突魔法』を刺したのだ。尻に。

 倒れたままそれを見ていたソウジローは、片足がないため立つことも逃げることもできない。

 

「じゃあネ、ソウジロー君」

「……出来れば優しく」

 

 ハリーはソウジローの身体を杖で浮かばせ、コカトリス目掛けて彼の身体を射出する。

 無表情で無言のまま弾丸と化したソウジローはコカトリスの顔面に突き刺さり、両者ともに光となって消えていった。汚い花火である。

 満足げに鼻を鳴らしたハリーが、さてコカトリスの掃除に戻ろうと杖を構えたその時。

 

『コカトリス全滅! 終了です!』

 

 そんなアナウンスと共に、歓声がとどろいた。

 杖を構えた体勢のまま固まったハリーが見たのは、勝ち誇った顔をしたクラムだ。

 そういえば途中から姿が見えなかったから、てっきりコカトリスに吹き飛ばされたときにリタイアしたと思っていた。だが事実は違う。強者たちが潰し合っている最中にも、彼はコカトリスを倒し続けていたのだ。

 この競技の目的は、コカトリスを多く倒したものが勝ちというもの。

 ハリーは一気に汗が噴き出したのを感じる。

 そういえば途中から、ソウジロー達と戦うのに夢中でコカトリスのことを忘れていた。

 

「……ありかよこんなん」

 

 

 総合順位でハリーは四位だった。

 下から順番にデラクール、ブレオ、セドリック、ハリー、ローズマリー、ソウジロー、クラム。あれだけ発奮して挑んだものの、結果はド真ん中と芳しくない。情けない話である。

 特にローズマリーは今回の大量討伐によって順位をひっくり返されてしまった。にやにやしながら肩を組まれたのは実に腹が立った。

 しかし今はローズマリーに関する話題において重要なのは、そこではない。

 ハリーは目元を覆って天を仰いているユーコの隣で、逃げ続けるソウジローと追いかけ回しているローズマリーを眺めていた。

 

「なにあれ」

「ラブコメ」

「……どういうことさ」

「……ああいうことさ」

 

 首を傾げ続けるハリーを見て、ユーコはようやく説明を添えることにした。

 ジンベーなる和服を着て髪をポニーテールにしているユーコは、盛大に溜め息を吐きながら一冊の本を取り出した。

 

「……《俺の魔法学校が可愛い子だらけで股間の杖が暴発間近》? 何だコレ?」

「大衆小説。いわゆるライトノベル」

「時代が乱れてる気がするしそのタイトルはギャグか何かかい?」

「大真面目さ」

 

 ソウジローはモテる。阿呆かってほどモテる。

 不知火魔法学校に在籍する者の四割は男女問わず彼に惚れていると言ってもいい。

 学業面では常に上位五人以内をキープ、運動神経はプロクィディッチ選手であるからして言わずもがな、武道については不知火最強で国内十指に入る程の猛者。

 寡黙で真面目、だが少しむっつりで照れ屋のシャイボーイ。

 受けた恩は返す義理堅い性格で、特に誰かを助ける事柄にはほぼ十割の成功率を誇る。

 不知火のみならず、日本の魔法学校において彼に憧れる少女たちは多いのだという。

 

「彼氏自慢か? ごちそうさま」

「なんかハリー荒んでない? そうじゃないよ、っていうかこの立場も意外に危ういんだよ」

「……どゆこと?」

 

 以前聞いた通り、土御門家と藤原家との間でソウジローとユーコは婚約している。

 そうなると、ユーコがソウジローの本妻になる確率は非常に高いのだ。

 そう、本妻。

 つまり日本魔法界は、一夫多妻制を採用しているということなのだ。

 

「つまり……どういうこと?」

「まあ、あれよ。彼と本気で添い遂げたいと思った子が居て、なおかつソウジローが認めちゃったら二人きりの新婚生活が三人四人と増えてしまうってことよ」

 

 それは、なんというか。

 

「キツいね」

「ちょっとね」

 

 ハーレムで喜ぶのは男だけだ。

 女からしてみれば何を馬鹿なことを、とも思うが、まぁ、うん。

 特異なケースもあることだし、ハリーとしては口を出せない。

 だが少なくともユーコは、あまりいい気はしないようだ。

 

「確かに日本において異能関係における名家の血はもうほとんど居ないから、ソウジローの優秀な血を残すという意味合いでは一夫多妻制も理解できなくはないのよね」

「……いいの? 好きな人の愛情って独り占めしたくない?」

「したいさ。したいけど、……こればかりは仕方ないよ」

 

 片や異性としてすら見られず、片や数居る異性のうちの一人。

 なんともはや、恋愛とは難しいものである。

 しかし意外なのがローズマリーだ。

 まさかまさか、ソウジローにあそこまで惚れ込むとは思わなかった。

 

「勝負しろ勝負! 今度こそあたしが勝ってお前を叩き伏せてやる!」

「勘弁してくれ!」

 

 たぶん、いま彼女はあの感情をライバル心だとか対抗心だとか言い訳をして勘違いしているのだろう。燃えるような恋をしたことはないと言っていたから、きっとそのはずだ。

 その感情の正体に気付いた時が、彼女の歩む乙女ロードの始まりである。

 不知火の男子生徒が呆れたような顔をしてそれを見守っているあたり、もしかしたら不知火魔法学校ではよく見られる光景なのかもしれない。

 

「にしても美少女を二人も捕まえて、男冥利に尽きるんじゃないかなソウジロー君は」

「たぶん、あの子は六人目だから」

「……何かのネタかい?」

「分からないなら無理にツッコまないで、恥ずかしい。幼馴染にして婚約者の私、そしてカウガールのアメリカ人美少女のローズマリー。あと四人、合計六人の女性が本気でソウジローの隣を狙ってるってわけ」

「そしてその席に座ったのがユーコだ、と」

「そゆこと」

「もうあいつが主人公でいいんじゃないかな」

 

 冗談で口にしたものの、彼を主人公にした作品は日本魔法界で既にあるらしい。

 あまりにも酷いソウジローの状況に、ハリーは苦笑いを浮かべることしかできなかった。何かのアイドルだろうかと思うも、クィディッチ選手はこんなものかもしれない。

 いつか日本に行った際には買ってみよう。そして本人の目の前で読んでみよう。

 

「お正月は親戚回りってやつをするんでしょ?」

「そうそう。日本はどっちかというと、クリスマスよりお正月を重視してるからね。未だにちょっと時代錯誤な日本魔法界だと尚更重要。本家に分家の人たちが集まってお酒飲んだりお年玉掻っ攫ったりするのよ」

「おとしだま?」

「一年に一度のお小遣いだよ」

「いいなぁ」

 

 ユーコがなにやら取り出したビー玉を地面に落として満足げな顔を向けてきたが、ちょっと意味が分からないので曖昧に笑っておく。顔を抑えて悶えはじめたユーコを放置して、ハリーはローズマリーにとっ捕まったソウジローを眺める。

 実に平和だ。

 ロンとはまだ話ができていないし、ハーマイオニーとは仲違いしたまま。

 しかし聞いた話では、ハーマイオニーがロンに歩み寄ろうとしたもののクラムに対する嫉妬心からまた口喧嘩をしてしまったようだ。ハリー自身、恩着せがましくとった行動ではないにせよ、こうまで自分の犠牲が無駄になると実に腹立たしい。

 十一歳になるまで男の子みたいに育ってきたものだから、女性の気持ちが分かっていないのだろうか? 好きな人にファーストキスをあげたいとか、恋人にするなら好きな人がいいとか、そういう気持ちはおかしいのだろうか?

 ラッキースケベをやらかしたソウジローが、今度はローズマリーとユーコに追いかけられているのを眺めながらハリーは思う。

 『魔法式を書き換える魔法』やら、『命数禍患の呪い』についての謎、ハリー自身の謎、ヴォルデモートに対する対抗術、考えるべきことはいっぱいある。解決できそうにないものだってある。

 だけど今ハリーが直面している、人と人との問題が一番面倒くさい。

 

「訳が分からん」

 

 はあ、と吐いた溜め息は白い霧となって空に消える。

 雪が降る。

 ハリーの心を覆うように雪が降る。

 黒髪の上についた雪を払う手に気が付き、ハリーは後ろを振り返る。

 今回あまりいいところがなかったハンサムボーイ、セドリックだ。

 

「やあ、ハリー。元気かい」

「よっすセドリック。うーん、あまり元気じゃないかなあ、四位だったし」

「それじゃあ僕はもっと元気じゃないな」

「おっとごめんよ、次はどん底まで叩き落としておく」

「それはこっちの台詞さ」

 

 にっ、と歯を見せて笑うハリーに、柔和に微笑むセドリック。

 やはりハンサムだ。ハリーの適当なジョークにも付き合ってくれるあたり性格も完璧。

 もしハリーが彼の告白を受け入れていれば、きっとかなり幸せだったのだろうと思わされてしまう。もしこれが狙ってやっているとしたら、なんとも恐ろしい男だ。

 

「そういやセドリック、鍵は試してみた?」

「いや、まだだ。結局あの鍵はなんだったんだい?」

「なんだか錠に魔法式が表示されてさ、一定の深さまで情報を開示できるみたい」

「なるほど。第二の試練の成績次第で、得られる情報量が変わるってことか」

 

 だとすると、第三の試練は事前に情報を得ておかないと立ち行かない類いのものかもしれない。それこそ、専用の呪文が必要になるようなフィールドであれば、カンニングしないとそのまま敗北につながる可能性すらあるのだ。

 特に、ハリーは他の代表選手と違ってたったの十四歳。

 戦闘技術こそ並みの魔法使いならば五秒もあれば黙らせることができる程に有しているが、しかし知識面においては、はっきり言って代表選手七人の中で一番劣っていると断言できる。

 彼らは少なくとも十七歳を越えた成人達だ。そのために必要な知識を魔法学校で学び、そのスポンジのような脳みそにたっぷり蓄えている。

 ローズマリーもソウジローも、いいところのお嬢様お坊ちゃまであることは確かだ。しかしどうだろう、現在トップをひた走っているクラムは一般家庭の出だ。世界最速のシーカーであり、クィディッチにおける最高のヒーロー。更には戦闘性能も光るモノを持っている。

 それはひとえに、彼が天才だからという理由だけではない。彼が努力を重ねたからだ。

 才能が無意味などということは決してなく、それは強固な土台としてクラムという塔を支えている。しかしそのままではただの塔に過ぎず、知識や経験といった努力の石材を以ってして組み上げられたのが、ビクトール・クラムという王の城なのだ。

 ハリーにも才能という原石はある。

 そうでなければ、この年齢まで生き残れていないだろう。類い稀なる戦闘センス、魔法に関する応用の発想、咄嗟の機転に正しい状況分析。そして憎悪と憤怒という、冷静さを奪う感情を根底に持ちながらも、冷え切った氷のように冷徹になれる心。

 そういった輝く才能の欠片をその細腕に抱え込んでいるハリーは、しかしそれを磨くための経験がない。圧倒的に不足している。研磨されなければ、いくら美しい宝石だろうがその辺の炉端に転がる石ころと変わりはない。

 故にハリーは、知識という布で己を磨く必要がある。

 

「がんばるしか、ないか」

「ああ。気持ちのいい試合にしよう」

「そうだねえ……」

 

 セドリックの微笑みは朗らかで、柔らかいものだ。

 きっとあれには感情が乗っているからに違いない。ハリーに向けた、感情が。

 そう考えると、彼と隣り合って座っているのはなかなかに恥ずかしい気がしてくる。

 ほんのり赤くなった頬を隠すように、ハリーは空を見上げた。

 どんよりとした曇天は、上空の方は風が強いのか奇妙な形に渦巻いている。

 どうしたものか。

 ロンとの接し方もいまだにわからず、ハーマイオニーとの喧嘩は終わっていない。

 おまけにセドリックに対する返事もしていない。

 やることが山積みで、どれから手を付けたらいいものやら。

 ハリーが吐いた溜め息は、白い霧となって吸い込まれて消えた。

 




【変更点】
・試練数の増加
・とにかくコカトリスをいじめる試練。
・ロンハーと疎遠な代わりに、セドリックとの確執がない。

【オリジナルスペル】
「ラミナ・オーテンタ、白刃よ」(初出・43話)
・刃物限定の召喚魔法。使用者の登録した太刀筋を召喚し、再現する。
日本魔法界にある呪文。威力は本人の刀の腕によって左右される。

「プロテゴ・イワト、闇の扉」(初出・43話)
・盾の呪文の派生形。視界に見えたもの全てを防げる、特殊な盾の呪文。
日本魔法界にある呪文。防御範囲は広いが、強い衝撃に対しては脆い。

大変難産でした。
が、もうラストに向けて走りださねばならない頃合い。
ソウジローは日本男子です、ならハーレムになって当然ですよ。単純な戦闘力ならばハリーは代表選手七人の中でも一、二を争うレベルですが、ルールに従った競技ならばしかたのないこと。
十四歳にもなれば、恋愛事には興味を示してしまうもの。だけどそれがうまくいくとは限らないし、いい思い出になるとも限らない。という感じの年です。
次回は水着回です。喜べ!


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9.第三の試練

 

 

 

 ハリーはお風呂でだらけていた。

 頬を伝い、顎を落ちて胸に当たるしずくさえ心地よい。

 檜の匂いとシャンプーの香り、真っ白な湯気で肌が潤うような気さえする。

 日本のお風呂と英国のお風呂は結構な差があった。まず湯船にタオルなどをつけてはいけないらしい。お湯の上に泡が浮いていたりはせず、澄み切ったお湯が実にフーリューだと感じさせられる。

 不知火魔法学校は、日本風のお城の建物を模した魔法具でホグワーツに来ている。ボーバトンが巨大馬車で来訪し、ダームストラングが巨大帆船で参上したように、彼らは空飛ぶ城というエキゾチック極まるモノでおいでなさったのだ。

 その城の中には日本風の入浴施設があるとのことで、ハリーは今現在お邪魔しているのだった。隣にはユーコとローズマリー。何故だかユーコがハリーとローズマリーの胸を親の仇を見る目で見つめているのが少し気恥ずかしい。胸は見られても減るものではないが、見られると心の方が削られる。

 

「……なんでそんな見つめてくるの?」

「持つ者が憎いからよ」

「でもこれ、動くときは結構邪魔なんだぜ。揺れると痛いし、視線も鬱陶しいし」

「むきーっ!」

「いってぇ!? こらユーコてめぇヒトの乳引っ張ってんじゃねえよ!」

「千切れろ! もげろーっ!」

「ちょっ、ぼくは何も言ってない、関係ないだろやめろ!」

 

 めくるめくピンク色ワールド。

 覗きをする勇敢な男子がいれば垂涎もの、鼻血ものの光景であるが如何せんこの場に居るのは女性のみ。見苦しく不毛な争いが全裸で繰り広げられているだけだった。

 

「やっぱり人種か! 黄色人種はおっぱい小っちゃいのか!?」

「知らんがな」

「白人でも大きくない子だっているし、黄色の子だって大きい子は大きいじゃん」

「やめろ! 私の逃げ道をつぶさに潰していくんじゃない!」

 

 血涙を流して食ってかかるユーコは、よく言えばスレンダーではっきり言えば幼児体形である。胸もスポーツブラや子供下着で十分。身長もハリーより低く、日本人特有の童顔であるため年齢の十五歳よりもさらに幼く見える。

 公共施設に入る際は、「小学生料金で良いんだよお嬢ちゃん」という死の呪文が一番恐ろしいのだそうだ。それを聞けばデート中だろうとソウジローは鉄面皮を歪ませるほどに笑いを我慢し、日本に居る恋敵たちはライバルの不幸を嘲笑うこともできず、憐憫の目を向けてくる。いっそそちらの方が屈辱だ。

 それが、こいつらはなんだ。

 ローズマリー・イェイツ! 十七歳! デカァァァい、説明不要ッ! それでいてウェストは引っ込んでいて、そしてお尻も柔らかそうだ。だというのに機敏で、元気に動き回るその魅力といったら男の子ならたまらないだろう。

 ハリー・ポッター! 十四歳! 年の割に大きいものを持っている。ローズマリーには劣るがそのたわわな果実は、まだ幼い顔つきとボーイッシュな雰囲気からのアンバランスさで知らず知らず男の子のハートを穿っているのだ。

 ヨーコ・ツチミカド! 十五歳! ちっこい。以上。

 

「ちくしょう! 世の中はなんて不公平なんだ! ちっくしょう! おっぱい大きくなりたい! いい加減揉んでくれよソウジロー、大きくなるかもしんないだろ!」

「落ち着けユーコ! 空に響いてる! 声が城まで届く! ソウジローに聞こえる!」

「うわあああああん! 胸だけじゃなく度量もデカいー!」

「やめろォ!」

 

 お風呂で暴れると予想以上に体力を使う。

 英日米の三人娘は疲労困憊のまま、ラフな格好に着替えると休憩室でくつろぐ。

 

「ああああ、うあー肩こりに効くー」

「ちょ、ちょっと待て。なんだそれ? 電気アンマじゃない!?」

「電気アンマじゃなくて魔力アンマだね。ホグワーツじゃ電化製品が使えないって聞いたから、おばあちゃんが用意したんだ。使用者の魔力を電気代わりにマッサージをしてくれるから」

「力が抜けりゅぅ……にゃんかとろけちゃひそぅ……」

「ローズマリーッ!?」

「使いすぎると、あんなふうに疲れを取るどころか生命力が抜けていくんだよ」

「どうしてそんなものを作った!」

 

 不知火の男の子たちは通り過ぎるたびにローズマリーの方を一瞬見て、顔を赤くして足早に過ぎ去ってゆく。確かに見た目はエロティックだ。タンクトップを押し上げる胸はボリュームがあるし、とろけた顔は異性の魅力的な何かを感じさせる。マッサージチェアでこうなったとは思うまい。

 からん、と音がしたので振り返ってみれば、そこには牛乳瓶を四つ持ったソウジローが居た。極力ローズマリーの方を見ないようにしているあたり、ちらちら見ないあたりが紳士である。魔法で首を固定して無理矢理みないように自制している魔法式さえ視えなければ完璧だった。これだから男の子は。

 

「ぼくフルーツ牛乳がいいな!」

「あたしは普通のミルク!」

 

 前面と背面からくっついてまとわりついてきた二人を牛乳瓶で誘導して適当にあしらい、ソウジローは欠食児童どもを適当に畳の上へ追いやった。

 休憩室に設置された座椅子の上にいるユーコに、ソウジローが手に持っていたコーヒー牛乳を渡す。「んー」とおざなりな返事を残したユーコは、そのままコーヒー牛乳を喉に通した。どうやら既に蓋は開けてもらっていたらしい。

 それを見てローズマリーは少し面白くなさそうな、しかしにやついたまま言う。

 

「胸がどうのとか言ってるけど、ああしてちゃんと愛してもらってんじゃんよ。羨ましいねえ」

「……ぼくも開けておいてほしかったかな」

 

 床に飛び散ったフルーツ牛乳をタオルで拭きながら、ハリーはユーコを見る。

 確かに自然体でソウジローの厚意を受け取っていた。あれはよほどの絆がないとできない事だろう。ハリーとて、ロンやハーマイオニー相手ならあれと似たようなことができると信じている。……いや、できたと言った方がいいか。

 今回の確執は深い。

 いままでも言い争い程度はあったものの、こうして仲違いするほどの喧嘩は初めてだ。それも、男女における恋愛絡みでの対立は根深い。根深すぎて、四年間積み立てていた友情の塔も崩れかねないほどだ。

 ユーコとソウジローを見ていると、もしかしたら実現するかもしれなかった未来が重なって見えてしまう。しかしその場合、栗毛の少女とはもう二度と笑いあえなかったかもしれない。もっとも、いまは恋も友情も捨ててしまったのだけれど。

 さみしげに笑顔を浮かべて半分ほどになったフルーツ牛乳を飲み干したハリーの肩に、ローズマリーが手を置いた。

 奇妙なことだが、彼女は失恋していない。ローズマリーが惚れたのは、ソウジローだ。そのソウジローには婚約者であるユーコがいる。だというのに失恋していないとは如何なることかといまでも思う。答えは一夫多妻で、二番三番に納まることが可能だからだそうだ。

 ローズマリー曰く、ユーコのことは割と好きなのだそうだ。腹黒い部分もあれど、それもソウジローのためを想って自身の長所として活かしているらしい。それはやはり、愛のなせる業だろう。愛する人のためなら、自身がどす黒い汚泥に浸かっても構わない。

 きっとソウジローにとっての一番は彼女であって、自分を愛してもらえるとしてもそれは彼女以上の愛情を注いではもらえないだろうという確信。

 寂しげに微笑むハリーの頭を掴んだローズマリーは、彼女の頭を自身の胸に埋めた。

 

「ほらお泣きよハリーちゃん、ママのおっぱいはあったかいぜ」

「うわーんママーさみしいよー」

「んっ!? ばっか、コラ吸うな! ぁう。なにすんだ、このバカ!」

 

 女同士ゆえに遠慮がない。

 どたばたと笑顔で悪ふざけしながら暴れる二人を、ユーコは少し細めた目で見る。

 そして隣を見て、その細められた目が呆れの色に変わった。

 

「宗二郎」

「……なんダ」

「ローズマリーのこト、悪くないと思ってル?」

「……まア、悪い子ではないナ」

「ねえ宗二郎? 鼻血出てるから説得力ナイヨ?」

「…………、…………すまン……」

 

 鼻血が出ちゃう。だって男の子だもん。

 婚約者からの蔑むような視線に耐えきれなかったのか、ソウジローがこそこそと離れていくのを見てユーコは小さく笑う。あんなムッツリスケベでも、やるときはやってくれるのだ。

 ユーコはソウジローの背中を見送ると、いつのまにかじゃれあいから近接格闘に発展していた二人を止めるため歩き出すのだった。

 

 

 ホグワーツの廊下を歩くハリーは、ちょっと胸元が牛乳臭いかなと悩んでいた。 

 ローズマリーの乳にキスマークを付けた際にかかったのだ。おのれ牛女(カウガール)め。あれだけ大きいと大変さのほうを気にしてしまうが、それでもあれは魅力的だ。

 正直なところ、まだ恋をすることができるユーコとローズマリーの事が羨ましくて、あれ以上二人と一緒に居られなかった。ロンと男女の関係になれないと運命づけたのは自分自身なのだ。ファーストキスを捧げ、奪うことを代償に陥った未来。それが今だ。

 このままハーマイオニーとずっと疎遠であった場合、本当にこれっきりの仲だということも十分有り得る。彼女にはなんとかしてロンへの想いを自覚して、ロンも彼女の想いを素直に受け取ってほしいものだ。そうでないと、肩身が狭いというかい辛いというか。男一人と女二人。これほど面倒くさい展開はない。

 

「ハリー!」

「あれ、セドリック」

 

 廊下を歩いていると、後ろからセドリック・ディゴリーに呼び止められた。

 ハリーの前まで来て一瞬硬直したものの、すぐにいつもの甘いスマイルを浮かべる。

 きっとお風呂上りでハリーの髪が濡れていてドキッとしたのだろう。なにせセドリックの気持ちを知っているのだ、それくらいの機微はハリーにもわかるようになった。意識されていると、こちらとしても少し気恥ずかしい。

 二人して少し頬を染めながらも、ハリーはセドリックに話の続きを促した。

 

「ああ、そうだった。ハリー、お風呂だ。風呂に行こう」

 

 セドリックの囁き声に、ハリーの頬にさした朱がさらに濃くなる。

 どうしたものかと思ってセドリックが彼女の顔を覗き込めば、ハリーはさっと顔をそむけてしまう。訝しげな顔をする彼に向かって、ハリーは細々とした声で言う。

 

「か、彼女でもないのにそれは……ちょっと、大胆だぜ。セドリック」

 

 この言葉でセドリックはようやく己の過ちに気付く。

 先ほどの言い方では、聞き手からすると「一緒にお風呂入ろうぜ」と取れなくもないのだ。それを意中の女性に言うというのは、つまりそういうことだ。

 恐ろしいまでのドストレートなお誘いである。

 

「ちッ!? ちっ、ちがっ、違う! 違うよハリー、違うんだ! ノー、違う!」

「お、落ち着けセドリック。クールになれ、分かった。違うんだな、うん、わかったよ」

「本当だぞハリー、こんなこと、言わないから。な」

「分かってるって。紳士だろう君は、わかってる。落ち着け」

 

 思った以上に動揺してしまったセドリックに、悪いことをしてしまったとハリーは反省する。半分は意図を察しながらも、からかう意味を込めて言ったことだ。

 さすがに冗談だったと言ったらあのセドリックも怒るかもしれない。ここは黙っておこう。セクハラされた立場というのを利用してしまうあたり、なんだかずるい気がする。

 まあ、それはいい。

 落ち着いたセドリックが言うには、黄金のタマゴを持ってお風呂に入るべきだという話だ。何故答えに近いヒントを与えるのかと問えば、正々堂々競いたいという気持ちと、第一の試練の時の借りを返すためだときっぱり言い切った。

 惚れた女性にいいところを見せたいからだとか、友達だからだとか、そういった理由が一切込められていない澄みきった目。ハリーはその眼を見つめると、にぃ、と笑った。

 

「うん、ありがとう! もっかいお風呂入ってくる!」

 

 にかっと笑顔を浮かべて今来た道を戻ろうとしたハリーに、セドリックが慌てた風に声をかける。

 

「ああ、ハリー! どうせならいい風呂を使ってみないかい。監督生専用のお風呂だ」

「ほう?」

 

 これでもハリーも年頃の少女。

 凄いお風呂、と聞いてしまえば興味を持たないわけがないのだ。 

 日本には他人が風呂に入っているところへ侵入してくるプロの不届き者が居るとの話だったが、ここは英国ホグワーツ。そのような眼鏡の少年はやってくる心配はないだろう。

 セドリックから監督生用浴場への合言葉を教えてもらい、ハリーは悪戯っぽくウィンクしていう。

 

「覗きに来るなよ?」

「行かないよ!?」

 

 顔を赤くして慌てるさまは、いつもの冷静沈着な紳士と比べて年相応に可愛らしい。うーん、これはヤバいな。きゅんとくるぜ。などと無駄な思考をしながら、ハリーは未だに動揺しっぱなしのセドリックに手を振って別れる。

 バカのバーナバス像近くまで着くと、ハリーは合言葉を囁いた。ホグワーツにはこういった秘密主義な部屋が多すぎる気がする。さらに言うと、一応監督生専用の場所だ。教師の誰かに見つかると面倒であるので、透明マントを着用している。それにしても誰もいないところから女の囁き声がするなど、ぞっとする話だ。

 脱衣所へ滑り込むように入れば、時間も時間であるからして誰もいない。消灯時間はとうに過ぎている。セドリックと会話しているときがすでにギリギリだったのだ。規則破りを進めるとは、彼もなかなかワルだ。

 

「うへえ、広いなあ。不知火のお風呂もすごかったけど、こっちはなんていうか、うん。魔法界らしいっちゃ魔法界らしいかな」

 

 蛇口、蛇口、蛇口。

 まるで蛇口のバーゲンセールである。

 とりあえずセドリックのアドバイス通り、いたるところの蛇口をひねってお湯を出してゆく。赤青黄色、ピンクにグリーンにバイオレット。様々な色の泡がぽんぽん飛び出してきて、こんな小さなものにまで魔法をかけているのかとハリーは改めてホグワーツの無駄に凄い技術に驚いた。

 お湯をためている間に、脱衣所に戻ってシャツとジーンズを脱ぎ捨てる。

 ブラジャーもショーツもさっさと抜いで、適当にカゴへ投げ込んだ。どうせ誰もいないのだ、気を遣う必要などない。それに誰か来たとしても、同一座標上にありながら空間そのものが男女で分かれているため、覗かれる心配もないし下着を盗られることもないという安心設計である。

 すっかり全裸になったハリーは、金のタマゴをさっと手に取って浴室への戸を開けた。

 色とりどりの泡が跳ね回る、広い浴場。ハリーははやる心を抑えながら風呂桶でかけ湯をして、先ほども不知火で洗い落としたはずの埃を洗い流すと、ダッシュで湯船の中へ飛び込んだ。

 

「ぶっは、何コレすっごいな!? わはー! すげー! きゃー!」

 

 一人で騒いでいる様は阿呆のそれであるが、このアミューズメントパークのようなお風呂場では仕方のないことかもしれない。

 ダーズリー家においてハリーがそのような施設に行く機会があっただろうか。そんなものは有り得るはずがない。ハリーを『まとも』に叩き直すため過激な教育を施してきた夫妻も、自身のやってることが余所から見てみれば『まともじゃない』ことくらい自覚していたのだろう。

 ダドリーお得意だった《ハリー狩り》など、どう言い繕ったところでただのイジメ。それをバーノンやペチュニアがやったことはないが、ダドリーにその行いを許している時点で罪は重いだろう。『まともじゃない』人間を『まとも』に矯正するには、『まともじゃない』手段を取るしかなかった。

 要するに彼らはハリーという未知の存在に、恐怖していたのだ。怯えた犬が手当たり次第に噛みつくのと同じこと。そんなダメ飼い主のような扱いをされていたハリーにとって、楽しい機能のある施設というのは、十四歳になっても子供のようにはしゃいでしまう魅力ある場所なのだ。

 

「あはははは! すごいすごい、これなら一日中だって居られ」

『ないと思うわよ』

「んみぎゃあああああ!?」

 

 唐突に背後からかけられた声によって、ハリーはあられもない叫び声をあげる。

 気配も何もなく、前触れも何もない。杖は!? いや、いま全裸だ。あるはずない。

 慌てて振り返って何者なのかを確かめようとし、

 

「ひきゃう!?」

 

 更にあられもない声をあげて飛び退いた。

 飛び退いたことによって湯船から飛び出し、濡れた床の上で猫のように体勢を低くして身構えているものだから、格好まであられもなくなる。

 振り返った瞬間に感じた怖気と冷たさは、覚えがある。

 あれはゴーストの身体を通り抜けたときの感覚だ。

 湯船の方を見てみれば、ハリーを凝視しているゴーストが一人いるのが見える。

 誰だろう、初めて見るゴーストだ。

 女性……いや、年齢としては少女である。ハリーと同じか、少し年下くらいの年齢に見える。もっとも、ゴーストである以上は何百年も年上だろうとおかしくはない。だが、ゴーストの外見は死亡時の状態を維持してしまう特徴があるので、彼女の没年はあんなにも幼い頃だったのだろう。

 眼鏡に、少し目立つニキビ面。美醜の感覚に疎いハリーからしても、あまりきれいな人とは言えなかった。なによりあの眼には覚えがある。

 ダーズリー家に居た頃のハリーの目と同じ。

 すべてを諦めている目だ。

 

『うらやましいわねえ。女として立派なもの持ってるじゃない。やっぱり巨乳になったわねこの野郎』

「……あまり見るなよ」

『いいじゃないの、減るものじゃないんだし』

 

 けたけたと笑いながら、ゴーストは湯船をすり抜けて寄ってくる。

 目線になにやら男の子がハリーの胸を見るときの色と同じものを感じる。

 ……ハリーは胸を腕で隠し、見えないように注意しながら湯船の中に入って身体を隠した。彼女の顔が舌打ちしそうな表情になったので間違いない。こいつヤバい類いだ。

 

「んで。何の用だよ、っていうか誰だよ」

『嘆きのマートル。……前に会ったじゃないの。覚えてないの?』

「知らん」

 

 自己紹介されたものの、とんと聞いたことがない名前だ。

 寮に憑いているゴーストは一通り知っているが、ホグワーツには結構多くのゴーストが住み着いている。ゆえに全員の名前など知りようがないのだ。

 

『……そうよねぇ、私の事なんて覚えてないわよねえ。ブスのマートル! 根暗マートル、泣きべそマートル! オォォォウ、なぁぁんて孤独なの!』

「知らんがな。騒ぐなら独りでやってくれないかい」

『……あなた冷たい人だって言われない?』

「どうだろうね」

 

 敵対者や気に入らない人間にどう思われようが全く気にならない、という面はある。

 なのでそういった輩に対しては、冷酷な対応をしてしまうのもまた事実だ。

 いまハリーの中で、嘆きのマートルへの評価は地に堕ちている。

 なによりゴーストとは、生命体ではない。生前の行動を繰り返す《現象》と定義されている。しかし元は人であったということを知っている以上は人間の情として最低限の礼儀は払いたくなるものだが、理性をも失くしたゴーストならばその限りではない。

 ほとんど首なしニックなどのように親しい者ではなく、怪しげな視線を向けるこの相手には魔力により造られた疑似生命体と同じように、単なるモノとして扱おうとハリーは決めた。

 

『あーらあら、私にそんな冷たくしていいのかしらん?』

「……」

『無視はやめて! ゴーストは寂しいと死んじゃうのよ!』

「色々ツッコミどころはあるけど、ウサギが寂しいと死ぬってのは嘘だよ」

『そうじゃないわよ、私が求めてるのはそうじゃないの』

 

 マートルの声を努めて無視しながら、ハリーは金のタマゴを手に取る。

 魔法空間から鍵を取り出すと、ふと鍵の取っ手にアラビア数字で《四》の字が刻まれていることに気付いた。これは第二の試練での順位だ。やはり予想できるのは、成績によって開示される情報量が違うということだろう。

 鍵穴にいびつな形の鍵を差し込んで捻ってみれば、ある程度までは開けることが出来そうだ。かちり、と小さな音を立てて鍵を開けて、蝶番で開くようになっているタマゴの中身を拝見せんと開帳する。

 

「うわあ!?」

 

 開いたまではいいものの、中から聞こえてきたのは鉄を釘で削ったときのような、またはガラスを爪でひっかいたような酷い音だった。

 思わず取り落としてお湯の中に沈めてしまう。機械ではないのだから水没した程度で壊れたりはしないだろうが、悲しいかなハリーはマグル世界で育った魔女。染みついた感性はなかなか拭えないのである。

 慌ててお湯の中に手を伸ばすも、見事な曲線を描いたタマゴはつるりと滑って湯船の底にごんと音を立てて沈みきる。参ったな、とひとり呟いてハリーはお湯に手を伸ばすも、小柄な彼女では届かなかった。

 仕方なく湯の中に潜ってタマゴを取ろうと手を伸ばして、果たしてそれは正解であった。湯の中に頭を沈めると、なんとも耳触りの良い音楽が聞こえてきたのだ。

 なにかと思い驚くも、お湯の中で揺れるタマゴから他愛ない魔法式が視えたので、単なる録音した音声を再生しているだけだと判断。ハリーは安心してまた湯の中に頭を沈めた。

 

(……歌?)

 

 耳の中へ流れてくるのは美しい歌声。

 ハリーは雑多に詰め込んだ知識の中から、水中でのみまともに聞き取ることのできる言語があることを思い出した。水中人(マーミッシュ)語だったか。原理などといった詳細はあまり覚えていないが、とにかくそういう言語があることは確かだ。

 湯の中に頭を沈めながら、ハリーは歌を聴く。

 

『貴方も我らの仲間となろう、息のできぬ冷たい世界で』

『急げ急げ、時が過ぎれば大切なものはもう戻らない』

 

 ハリーに効きとれるのはこの二つの意味。

 どうやら途中で音楽は途切れているようで、これ以上の情報は得られなかった。

 もしハリーの順位がもっと上であったならば、この歌の続きを聞くこともできたのだろう。美しい歌であるだけに、少し聞いていたかったが仕方ない。外出禁止時間にこうしてお風呂に入っているだけでもアウトなのだ、監督生でもないのに監督生用のお風呂にいるのも結構まずい。

 そろそろ寮へ急いだ方がいいだろう。

 

『すごいわねえ、ハリー。あなたくらいよ、タマゴ相手にそこまで理解するのが早いの』

「……おまえそれ」

『クラムは腕組みして二時間くらい唸っても結局わからなかったみたいで、くしゃみしながらお風呂場を出て行ったわ。ちょっとゴツすぎるけど逞しく引き締まってたわね。ブレオはタマゴの歌を聞いてから朝になるまで悩んでたみたい。彼も筋骨隆々だったけど、色々と濃かったわよ。フジワラは二人と比べると少し貧弱な感じだったわね。でも細身の筋肉質ってのも新たな境地へイケそうだわ。セドリックは見事としか言いようがないわね、無駄な肉はないのに筋肉美を見せつけてくれたわ。ちなみに彼は一時間かかって理解したみたい』

「見るところ違くね? なあ、なんか違わない?」

『デラクールはモデル体形だったわ。流線形っていうの? 胸は大きくないけどプロポーションが人外並みね。ローズマリーはもう爆弾って言った方がいいわ。アレで抱きしめられたら落ちない男の子はいないわよ。ちなみにツチミカドは子供体形の割に大人っぽさがあるから背徳的な綺麗さがあるわね』

「まて女性代表選手も見てるのか? というかなんでユーコが出てくる?」

『そりゃフジワラと一緒にお風呂入ってたからよ。鼻血もんだったわ』

「……そ、そう」

 

 ハリーの中でソウジローの評価が一段階下がった。

 というか、ソウジローとユーコの身長差ではまるで大人と子供だ。

 ユーコの仕草や雰囲気が大人っぽいために酷い誤解は受けていないものの、もしユーコがハリーの服を着てツインテールにでもしようものならば、いまも会場を警備しているはずのウィンバリーやハワードがすっ飛んできてもおかしくないカップルである。

 ハリーと同じか少し小さい身長である彼女は、童顔なのも相まって十代前半くらいに見えてしまうのだ。ハリーは白人であることと胸があるため、年相応に見られるのでまだいい。だがユーコは日本人特有の童顔であり更にはぺったんこだ。これはもう笑うしかない。

 閑話休題(それはいいとして)

 どうやら他の代表選手たちは全員歌の事を分かっていたらしい。ここにきて年齢差による不利が現れてきた。きっと彼らは、あの金切り声を聞いた時点で水中人語であることを看破したに違いない。ハリーはセドリックに教えてもらうまで水場にタマゴを持ち出すという発想自体がなく、さらには偶然水没させてしまったのが功を奏しただけだ。

 運もまた実力のうちとはいう者の、その運を引き寄せるための知識が不足しているというのはかなりの痛手だ。また、先ほどのキーワードからくる『息のできぬ冷たい世界』というのは、ほぼ間違いなく水中で競技を行うということだろう。

 なにか特定のモノを泳いで探すといった競技になることは想像に難くない。つまるところ、空気のない中で活動するための手段を模索しなければならないのだ。

 

「そうとわかればじっとしちゃいられないな」

『あらん、もう行くの?』

「ハーマイオニーに知恵を……って駄目だ、まだ喧嘩中だよ。まずいな、優秀なブレインがいないとハリー・ポッターはただの雑魚だぞ」

『無視はやめてったら!?』

 

 監督生用の風呂場を出て、ハリーはグリフィンドール寮へ戻る。

 太った婦人に合言葉を告げて中へ入ると、フレッドとジョージが何やらジョークを飛ばして数人が笑っていた。その中にロンがいることに気付き、ハリーは少し気まずい思いを味わう。

 ハーマイオニーの栗毛がちらと視界の端に映ったが、どうやら女子寮へと上がっていったようだ。タイミングが良すぎる。きっとハリーの姿を見て、離れていったのだろう。賢く優しい彼女のことだ、きっと今ハリーと顔を合わせれば険悪な雰囲気になってしまうことを理解しているのだろう。

 気遣いは有り難いが、とても哀しい。

 彼女の視線からは負の感情をあまり感じない。つまり、ハリーに対して怒っているわけではない。授業中たまに見られるロンへ視線を向ける姿にも、特に変なものはまじっていない。

 きっと彼女は、ハリーの思惑に気づいている。

 四年目だ、知り合って四年目。ハリーにとっては初めてできた同性の親友。かつて勉強がすべてだと信じていたハーマイオニーから見ても、きっとハリーは初めての親友なのだ。

 そんな二人が、互いの考えていることを察せない道理はない。だが悲しむべきことに、だからこそ二人は今でも復縁できていないのだ。

 片や相手の事を想って、結果として自分の恋心を殺した女。

 片や意地を張って、親友達の心を踏みにじってしまった女。

 ハリーとて、もうすっかり女性である。素敵な男性に好意を寄せられて嬉しいという気持ちが理解できないわけではない。ましてやそれがスーパースターのビクトール・クラムだ。いつまでも自分の心を理解してくれない、子供っぽい彼と比べて揺れ動いてしまうのはわかる。

 分かるが、やってはならないことを彼女はやった。

 それが喧嘩の始まりなのだ。

 そしてそれは、互いの心を深く切り裂いている。

 不毛である。ただひたすらに不毛である。

 

「ハリー」

 

 そんな思いも吹いて飛ばしてしまう声が、彼女の耳に届く。

 小さく驚きながら目を向ければ、件の色男(ロメオ)であるロンが居た。

 視界の隅にはフレッドとジョージ、そしてジニーが居る。きっと何か吹き込まれたか、激励されたかのどちらかだろう。それを察したハリーは、ふっと柔らかく笑んだ。

 

「なあに、ロン」

「うん。ちょっと着いてきて」

 

 そういうとロンは、自身の寝室までハリーを案内した。

 すれ違うとき少し驚いた顔をした双子と妹が見えたので、彼らの想像通りの行動ではなかったようだ。なんだかそれによって急激に不安になる。

 もし突飛で阿呆なことを言い出したら、ハリーは怒らない自信がない。

 ロンがハリーを連れて寝室に入ったことで、中にいたネビルが何かを察した顔でロンの肩を軽く叩いてから出て行った。気遣いのできる男、ロングボトム。流石である。

 恐らくディーンのものであろうベッドに腰掛けたロンは、自身のベッドに座るようハリーに勧める。特別な意味はないだろうが、少し照れてしまうのはもはやしょうがないことだ。

 

「それで、だ。ハリー」

「うん」

 

 いつになく真剣な顔だ。

 ハリーは少し目を細めたまま、ロンが言葉を紡ぐのを待つ。

 事前に考えた言葉などがあっただろうが、彼はいざ土壇場になると計画した内容をド忘れしてしまうタイプだ。双子の兄やしっかり者の妹にいろいろ教えてもらっただろうに、きっと忘れたのだろう。

 だからこそハリーは待つ。

 ここから飛び出してくる言葉は、きっと耳触りのいいものではないだろう。

 

「まず、ごめん。待たせすぎた」

 

 彼の声色で、何が言いたいのかはわかる。

 軽く頷くだけでハリーは言葉を発さずに続きを促した。

 ぎゅっと目を瞑ったロンは、ゆっくり瞼を開いてブルーの瞳をハリーに向ける。

 

「それで、まただけど。ごめん。僕はハリーの好意に応えられない」

 

 分かっていたことだけれど。

 改めて本人の口から聞くと、ずくんと心臓に刃が刺さる思いがする。

 鼻の奥がつんと熱くなってしまうが、今ここであふれ出させるのは卑怯だ。

 ハリーは努めて無表情にならないよう、ロンの瞳を見つめ続ける。

 

「僕にとって君は、なんて言えばいいんだろう。確かに好きなんだ、大好きなんだけれど、でもそれはきっと異性に対するものじゃなくって。……えっと、その。……たぶんだけど、妹のように思ってる。だから大切なんだ」

 

 ああ、わかっているさ。

 君がぼくに向ける目は愛情ではない、親愛のそれだ。

 はじめはハリー自身も頼りない兄のような目線で彼を見ていたことだろう。

 いつしかそれは恋心になり、彼への渇望へと変わった。

 そして、それを自ら捨てた。

 その結果がこれだ。

 

「だからさ。その、……ハリー」

「うん」

「……僕は、君にキスを返せない」

「……うん」

「酷な物言いだけれど、……これからも親友でいてくれないかい」

「……う、ん……」

 

 ぼやける視界を止めることは、ハリーにはできなかった。

 ずるいと分かっていても、こればっかりはどうしようもない。

 もう諦めて、吹っ切れたと思っていても仕方がない。

 恋というものは、理屈ではないのだ。

 

 ロンはハリーの頭を撫でることはしない。

 ハリーも、ロンの胸で泣いたりはしない。

 ただ、隣に座ってくれただけ。でも、それがいい。それがよかった。

 明日からは、親友のハリーとロンに戻るのだろう。気安く笑い合うのだろう。

 それだけのことだ。

 最後に小さく礼と別れをいい、ハリーは自身の寝室へ戻る。

 一時的なルームメイトであるアンジェリーナたちが察して何も言わないでいてくれるのが、ハリーとしてはとても有り難かった。

 

 

 湖畔にて。

 ハリーは手に持ったハードカバーの本を、ぱらぱらとめくっていた。

 視線の向こうでは、ネビルとロンが靴を脱いで水辺でなにやら騒いでいる。

 どうやら珍しいことにネビルが大はしゃぎしているようで、何かの本を片手に興奮しているようだ。ロンはそんな友人の様子を呆れながらも一緒になって騒いでいる。

 隣に座っているパーバティが、ハリーの読んでいる本を覗き込んで言った。

 

「《豪遊のすゝめ》? なにこれ、何の本?」

「今度の試練はどうも水中でドンパチしそうな感じだからね。いまちょっとその方法を模索してる最中」

「著者はユキーチィ・マンイェン? どこの魔法使いよ、聞いたことないわ」

「さぁ? でもこの本はハズレだね。ガリオンのプールで泳ぐ方法とかしか書いてない」

 

 どうにも困ったもので、何も見つからないならともかく水中活動を可能にする方法はいくつかあった。

 ひとつは、『泡頭呪文』という魔法を用いること。ハリーが二年生の時、ヌンドゥ相手に新鮮な空気を確保したあの呪文だ。金魚鉢のような気泡で頭部を保護し、水中での呼吸を可能にする。

 問題点は、激しい動きをすると泡が破裂する可能性があること。そうなった場合はもうアウトだ。さらに体は通常の状態であるため、水中での動きも相応に鈍くなる。それではだめだ。

 次に出た案は、変身術。たとえばイルカに変身して水中での活動を有利にしてしまおうというもの。だが変身術は難易度が高すぎる。失敗した場合は目も当てられないことになってしまうだろう。

 最後に出た案は、『呼び寄せ呪文』で水中で活動する道具を呼び寄せること。たとえば、最寄りのマグルの店からダイバースーツを持ってきてしまうとか。だがそんなことをすれば最後、翌日の日刊預言者新聞は空飛ぶ酸素ボンベによってマヌケなハリー・ポッターが退学になったニュースで盛り上がることだろう。

 つまり、八方ふさがりである。

 一番いい手は、『泡頭呪文』を用いたうえで何らかの魔法を使い水中での移動速度を上げることだ。そのための呪文はいったい何が有用なのだろうか、といま現在調べに調べている最中である。

 

「やべえ。今度こそその場しのぎじゃ無理っぽい」

「むしろ私としてはドラゴンもコカトリスも、特に対応策を練っていなかったことに驚きよ。あなた本当に人間なんでしょうね」

「失礼な」

 

 他愛ない話をしながら、ハリーはふと湖へと視線を向ける。

 すると視線がばっちり噛みあったネビルが、呼ばれたものと思ってこちらへやってきた。

 目の前まで来て別に呼んじゃいない、と言い放つのもなんだか可哀想だ。

 まるで主人に声をかけられた子犬のような印象を放つネビルを無下に扱うことのできる者は少ないのではないだろうか。むしろそのようなことをできる者の存在をハリーは許さない。ゆえにゼロに等しい。よしこれでいい。

 

「随分悩んでるみたいだね、ハリー」

 

 朗らかに笑うネビルは、ふっくらしたほっぺもあって実に愛嬌がある。

 抱きしめたくなるような、保護してあげたくなるようなそんな印象がある。

 隣で母親のように微笑んでいるパーバティも、きっと同じ気持ちに違いない。むしろ自分の顔が見えないからわからないだけで、ハリーも同じような微笑を浮かべているかもしれない。

 ロンでさえ逞しくなりつつあるというのに、彼は成長する方向がおかしいと思う。

 

「まあねぇーん。やっぱりこれ、十四歳の魔女がやるような競技じゃないんだろうね」

「そりゃそうだよ。もともと年齢線を越えて立候補した人が出られる競技なんだから、十七歳までに習うことをぜーんぶマスターしてるのが最低条件なんじゃないかなあ」

「そりゃそうだ。でもぼくだって、普通の魔女よりはよっぽど戦える自信があったんだけどなあ。こういった知識がないとどうしようもならないのはお手上げだぜ」

「うーん……」

 

 ネビルも一緒になって考えてくれる。

 腕組みをして眉を寄せてもまったく知的に見えないのも、また彼の魅力だ。

 

「ところでハリー、何をしたくて悩んでいるんだい?」

「どうも今度の試練で、ハリーは水中でいろいろしなくちゃいけないみたいなの」

「水中で? ってことはずーっと潜ってなきゃいけないんだね」

「そうなんだよー。『泡頭呪文』はできるけど、移動スピードが不安でさあ」

 

 木に背を預けて溜め息を吐く。

 春先とはいえ、恐らくまだ水が冷たいだろうという問題もある。

 無敵の『身体強化呪文』で何とかしてくださいと叫びたくなるが、確か魔法式の中には体温調整の機能はついてない。肉体を直接いじる程に複雑な魔法式(プログラム)に新たな効果を組み込むのは、競技まで残りひと月あったとしてもまず無理だ。

 困った様子のハリーに、ネビルは朗らかに笑って言う。

 結果的に、ハリーにとってネビルという少年は救世主になった。

 

「なら、《鰓昆布》を使えばいいんだよ」

 

 

 試練当日。

 ハリーは更衣室で打ちひしがれていた。

 星条旗カラーのド派手なビキニ水着を着こなしたローズマリーが、ハリーの肩を叩く。

 それだけの衝撃でご立派なものが揺れている。……デカいな。

 

「どうしたんだよハリー、元気ねえな」

「あうー」

「まさか泳げねえとか? アッハッハー! こりゃ優勝は貰ったぜ!」

 

 高笑いしながら去ってゆくその後ろ姿は、実に男らしかった。

 一方壁際で祈るように手を組んでいるフラー・デラクールは、意外なことに機能的な競泳水着を着てきたようだ。銀色の彼女の髪の毛に合わせて、煌めくシルバーなのは彼女らしいと言えるが、どうも元気がないように見える。

 声をかけるべきかとも思ったが、彼女は若干高飛車な態度でホグワーツの女性陣には評判がよくない。ハリーとてそういう人にはあまり近寄りたくはないのだ。

 

「……ネビルぅ」

 

 《鰓昆布》という魔法植物を使う以外に、もはやハリーに手はなかった。

 直前まで『泡頭呪文』と併用する水中で高速移動できる魔法を探していたものの、結局見つけることはできなかった。

 ゆえに他力本願、ネビルに頼るしかなかった。

 彼はホグワーツに必ずある魔法植物だと言っていたが、終ぞ見つけることができなかったのだろうか。

 騒々しい大砲の音が鳴る。ついに時間だ。

 ハリーは羽織っていたパーカーを脱ぎ捨てて、更衣室を出た。

 明るいボーダー模様のビキニ水着に、デニムを模したショートパンツ型の組み合わせ。

 スポーティな感じを目指してパーバティに整えてもらったものの、なんだかビキニの色合いから少しだけ下着のように見えなくもない。こんなに体のラインがはっきり出る格好はあまりしないから、とてつもなく恥ずかしい。

 恥ずかしさから少しだけ頬を染めつつ、ハリーは選手たちの並ぶラインまで歩いて行った。

 男性陣の格好を見て、少しだけ感心してしまう。

 全員見事な肉体美をしている。マートルの言っていたことは正しかったのだ。つまり奴がノゾキを行ったことは確定。ギルティ、有罪である。

 セドリックはスパッツのような競泳水着を穿いている。ちょうどいいバランスの筋肉を包み、更にハンサムフェイスが飾られているため何かの彫刻のように綺麗だ。

 クラムはブーメラン水着というタイプのモノのようだ。ゴツゴツした彼の肉体にマッチしており、坊主頭もあってまるでボディビルダーのような威圧感を放っている。

 ソウジローは赤いフンドシだ。冗談だと思いたいが、本人はいつも通り真顔。彼にアドバイスをしている、ツチミカド校長のチョイスだということにしておこう。

 ブレオはなんと驚くべきことに、スリングショットだ。非常にもっこりしていらっしゃる。胸毛やギャランドゥを惜しげもなく披露しており、もはやバカの一言で感想が済む。

 女性陣は星条旗ビキニとショートパンツ、競泳水着。この差はなんだろう。

 

『さぁー、いよいよ競技が始まります! ほらほら、選手以外の人は下がって下がって!』

 

 いよいよハリーの寒中水泳が始まります。

 第二試合のように生命保護の魔法がかかっているからといって、冷たさまで緩和してくれるとは思えない。

 これが終わったら熱いお風呂の中で沈むんだ、と内心泣き始めたところで、ぱちん、と軽い音がしたので振り向く。

 そこにはハリーの苦手とする屋敷しもべ妖精、ドビーが満面の笑みで立っていた。

 

「や、やあドビー……」

「ハリー・ポッター様! ドビーめは、ドビーめはロングボトム様からのお頼みを達成しました!」

 

 甲高いキーキー声で差し出してきたのは、何やら不気味な形の昆布が入った小瓶だ。

 間に合った!

 息を切らして走ってきたネビルが、肩で息をしながらハリーに言う。

 

「ハリー、それを、食べるんだ。そのまんま、食べる。それで水生生物の、特徴を、得られるはずだ。制限時間は約一時間、気をつけてね。約一時間だ」

 

 汗をかきながらも、にっと笑うネビルの姿が天使に見える。

 ハリーが凍死することを防いでくれたのだ。

 満面の笑みで喜んだハリーは、ネビルを強く抱きしめて額にキスをする。

 

「ありがとうネビル! 君ったらホント最高だぜ!」

「はっ、ハリぃ!? だ、だめだって! 水着、だめ、柔らか、だめだよう……きゅう」

 

 顔を真っ赤にして大慌てするネビルに笑顔を向けてから、ハリーは小瓶のフタを開けた。しかしまあ、生のまま昆布に食らいつく日が来るとは思わなかった。

 噛み切れないぐにゃぐにゃのそれを口に含みながら、離れていったネビルに手を振る。

 近くで様子を見ていたらしいブレオが、ハリーに声をかけてきた。

 

「恋人かいハリエット!? 僕という者がありながら!」

「もぐもぐんぐんぐ」

「……ごめんよ。英語は得意なはずなんだけど、今なんて言った?」

「うるさい」

「……」

 

 ハリーがものを食べるのに夢中だということを察したブレオが、肩を落としてスタートラインまで歩いて去って行った。

 念入りに準備体操をしているソウジローとセドリックが、互いの腕を引っ張って筋肉をほぐしている姿を見て一部の女性陣が黄色い悲鳴をあげている。気持ちは分からなくもないが、本人たちからしたら不本意だろう。これもイケメンたちの宿命だろうか。

 

「なにネビルからもらってんだよハリー、あたしにもくれよ」

「んぐっ、ぷは。まっず!? 何これクソ不味い!」

「やっぱいらね」

 

 ローズマリーと軽口をたたき合ううちに、本当にスタートの時間がやってきたようだ。

 司会のルード・バグマンが『拡声呪文』を使ったのか、きぃんと異音が響く。

 

『さあ時間です! 制限時間は一時間! このホグワーツ校庭にある巨大な湖の中に、選手たちの大切な何かが沈められています! 目的のモノを手に入れ、なおかつ早く戻ってきた者から評価が高くなることでしょう! 制限時間が過ぎればそれは失われてしまうこの酷な試練を見事潜り抜けるのは誰か! 乞うご期待ィ!』

 

 バグマンの人を乗せるのがうまい言葉によって、会場のテンションが天井知らずに上がってゆく。ダンブルドアが前に出てきたので、どうやら挨拶をするらしい。

 

『諸君! この試練ももはや三つ目、選手たちの見事な姿を見ていってほしい! 以上じゃ。大砲が鳴ったら選手たちは湖に飛び込んでよろしい。ではカウントダウンを始めるとしよう! ファイブ、ふぉ』

 

 ずどん、とやかましい音が響くと同時、セドリックやローズマリーたちが飛び込んでいった。

 憮然としたダンブルドアの顔を見ながら、ハリーは首筋に鋭い痛みを感じて蹲る。

 隣では、まだ出発していないソウジローが少し心配げにハリーに声をかけてくれた。

 痛みが収まったハリーは、ソウジローに笑顔を向ける。

 

「大丈夫。それより、のんびりしてたらぼくに負けるよ」

「そうか。なら先に行かせてもらう」

 

 小さく笑ったソウジローは、そのまま湖の上に飛び出した。

 飛び込んでいくものと思えば、まさかの水上歩行である。

 観客たちが歓声を上げる中、ソウジローはばしゃばしゃと水上を高速で走っていき、木刀を振るうと水を割いて中に入っていった。

 それを見ても、ハリーにはまだ余裕がある。

 最後にネビルへ手を振ってから、ハリーは湖の中へと飛び込んでいった。

 水中でどうやって息をしたらいいのかと考えるも、本能で何をしたらいいのか分かってしまう。がぶり、と水を一飲み。もう一度呑み込み、そして胸の中が水でいっぱいになったように感じると、首筋から暖かい水が出てゆくのを感じる。

 これが《鰓昆布》の力か。

 指の間には水かきのようなモノができており、水を蹴るとものすごい距離を進んでゆくのがわかる。人魚っぽければ可愛かったかもしれないが、それは高望みというものだろう。

 しかしもうちょっと何とかならなかったのだろうか。これじゃ半魚人だ。

 自由に水の中を泳げることに喜びを感じながら、ハリーは水中をすいすい進んでゆく。

 時折調子に乗って宙返りしたところで、全くスピードが落ちることはない。魚たちは毎日こんなにも気持ちのいいことをしているのかと思うと、少しだけ羨ましくなるほどだ。

 

「さーて。この湖のどこかに目的のモノがあるんだろうし、探さなくっちゃ」

 

 自然と言葉がついて出てくるが、水中だというのに普通に英語として聞こえてくる。

 《鰓昆布》には水中人語を操れるようになる効果までついているのだろうか? 余計なことを考えながら、ハリーはとにかく周囲を観察する。

 黄金のタマゴから得られた情報はごく僅かだ。もしかしたら上位陣のクラムやソウジローはもっと多くの情報を得ているかもしれない。具体的には、目的の場所とか。

 

「『ドケオー・アンノウン』、探せ大切なもの」

 

 探し物をする呪文を唱えるも、杖先から飛び出した案内人の役割をする光球も少し不安そうだ。通常ならば自信満々に失せモノの方へ飛んでいくはずが、あたりを見渡すような挙動をしたり道を引き返したりと、実に頼りない。

 さてどうしたものか、と嘆息すると同時。

 水中に居ながらにして感じる大きな揺れに、ハリーは警戒心を跳ね上げた。

 決して地震などではない。水の流れを感じるに、これはなにか巨大なものが水中で動いているような感覚だ。様子を見に行くか、さわらぬ神に祟りなしで無視するか。

 しかし光球が震源の方へ向かってゆくので、仕方なくそちらへ向かう。あまりにヤバいモノがいた場合は放っておこう。杖を握ったまま、滑るように泳いだハリーは、一分もかからないうちに今回の原因を見つけた。

 

「巨大イカ? どうしてあいつ暴れてるんだ」

 

 ホグワーツの湖には、巨大なイカが生息している。

 海に居るべきスルメちゃんがどうして湖に居るのかと思いはするものの、今はそんな疑問が吹き飛ぶような光景が目の前で繰り広げられていた。

 鳥人状態のフラー・デラクールと巨大イカが戦っているのだ。

 いや、戦況から見ると蹂躙劇に近い。水中ゆえに翼すら邪魔になってしまうデラクールに対して、巨大イカにとってこの戦場は己の庭に近い。地理条件どころではない、全てがデラクールに対して牙を剥いているのだ。

 確か彼女は『泡頭呪文』を用いて潜っていったはずだ。しかしいま彼女の頭部には、何も魔法の跡が見られない。『泡頭』は強度が脆いのだ、巨大イカとの戦闘の最中に破られたのかもしれない。

 

「まずい!」

 

 巨大イカが鞭のように振るった触手のひとつが彼女の腹に直撃し、デラクールの嘴からごぼりと大量の泡が吐き出される。

 あれは痛い。力を入れればうっすら腹筋の線が見えるくらいには鍛えているハリーだってあんなもの喰らいたくはないのに、綺麗な柔らかいお腹をしている彼女には相当なダメージだろう。

 現に先ほどまでの慎重な動き方ではなく、何が何でも水上を目指すようなもがく動きに変わっている。しかし巨大イカはそれを許さない。鱗に覆われた鳥のようなすらりとした脚に触手を巻きつけると、彼女の身体を勢いよく湖底に叩き付けた。

 水の抵抗を感じさせないその剛腕に、勢いよく水中の流れが変わる。

 ハリーは杖を構えたまま、よくよく狙いを定めて叫んだ。

 

「『ペトリフィカストタルス』、石になれ!」

 

 杖先から飛んだ魔力反応光は、水中ゆえか揺らめきながら巨大イカに当たった。

 その名の通り光と称されているものの、魔力反応光は厳密に言えば光ではない。体内で生成された魔力が、魔法式を組んだ状態で外気に触れた際の魔力反応によって光のように煌めいて見えるだけで、物理的な影響は滅多に受けない。

 それゆえに、ただの光ならば水中で発せば多少は拡散したり歪んだりしてしまうのだろうが、魔力反応光にはそれがない。問題があるとすれば、水中ゆえハリーの全身を包み込むこの激流で、狙いが逸れてしまわないかだ。

 果たして巨大イカの胴に着弾した石化呪文は、効果をもたらした。

 びくんと一瞬痙攣した巨大イカは、石像のように固まったのだ。

 だが安心してはいられない。

 湖底に沈んだままのフラー・デラクールの元へ跳ぶように泳ぐと、まず彼女の意識を確認する。……気絶しているようだ。こうなれば彼女の競技続行は不可能だろうとハリーは判断する。

 

「勝手に降参させちゃうけど、人命救助なんだから許してくれよ」

 

 彼女の杖を手に取って、ハリーは水上目掛けて赤い花火を打ち上げた。これは降参する際の合図として、大会委員会から指示されている呪文だ。この大会のためだけに創りだした呪文だというから、ダンブルドアは恐ろしい男だ。

 水中であったためか、花火ではなく色のついたお湯が噴き出してる気もするが、まあいい。ハリーが合図を出してから数秒後、水上から誰かが飛び込んできたのが分かった。

 顔を見てみれば、なんと、ウィンバリーとハワードだ。

 

「どうしたの二人とも。二人が救助要員なの?」

 

 フラー・デラクールを抱きかかえるハワードに話しかけては邪魔になると思い、巨大イカの方へ杖を向けていたウィンバリーへ問いかける。

 すると露骨に嫌そうな顔をして、彼は杖先を自分の口に寄せるとベースボールに使うボールくらいのサイズの泡を作りだしてハリーに押し付けた。

 ハリーがそれを突いて割ると、中から彼の声が再生される。

 

『話せねぇよブァーカ。俺らは鰓昆布なんざ喰っちゃいねーんだから、テメーみたいに水中でお喋りなんかできねえの』

 

 そういえばそうだった。

 頭に手を当て、舌を出しておどけてみれば彼のこめかみに青筋が浮かんだ。

 慌てて可愛らしい(と思ったのだが不評だった)ポーズをやめれば、ウィンバリーがまたもなにやら泡を作りだす。それをハリーに押しつけてから、デラクールを運ぶ作業を終えたハワードを連れてワインコルクのように勢いよく水上へと上がっていった。

 その際にハワードから投げキッスという激励を貰い、ハリーは勇気が湧く思いを感じる。

 急いで目的のモノを見つけなければならないだろうと判断したハリーは、移動しながらウィンバリーの渡してきた泡を割った。

 

『気を付けろよハリエット。あの巨大イカ、何者かが操ったような形跡がある。テメーも狙われるかもしれねえ、十分用心して殺られんじゃねえぞ』

 

 やはりか、とハリーは足を動かして水を蹴りながら思う。

 あの巨大イカは、ホグワーツでは温厚なことで有名だ。恐らくハリーたちの親の代から、それどころかダンブルドアが在学中の頃からあのイカはあの湖に居たのだという。それだけ長い間、ヒトの近くにいることが許されているならば、安全であることの証明にもなろう。

 特にホグワーツは危険なものが多い。だが、危険ではあるが死に至るものに関してはその限りではない。厳重な封印が施されていたり、凶悪な三つ首の番犬が守っていたりと、ある程度は生徒が近づけないようになっている。

 だからこそ、フラー・デラクールに対するあの態度には不可解なものがあるのだ。

 巨大イカの温厚さは、ハリーもよく知っている。二年生の頃、フレッドとジョージがあの巨大イカの触手の上に乗って盛大に花火を振り回していても楽しげに揺れていたとのことだから、その懐の広さは相当なものである。

 ならば今回、明らかにフラー・デラクールを殺害しようとしていたのはなぜか。

 子を守るなどといった理由ならばまだ分からなくもないが、今回そのような形跡はなかったように思える。ではやはり、ウィンバリーの言うとおり何者かが彼、ないし彼女を操っていたというのならば納得できる話だ。

 

「……きな臭くなってきたな」

 

 一人ごちて、ハリーは先を急ぐ。

 体感ではもう一時間以上経過しているような気がするが、実際には二〇分も経過していないだろう。鰓昆布の制限時間は、一時間と少し余裕があると聞いている。感覚としてはまだまだ水中での活動が可能だが、急ぐに越したことはないだろう。

 

「……いや待て、なんだアレ」

 

 急いで泳いでいたものの、右前方の方向から何か大きな影がこちらへ向かっているのが見える。

 遠見魔法を用いて目を凝らして見てみれば、どうやらブレオとローズマリーがそろってこちらへ泳いできているのが見えた。なにもブレオが発情して、蹴り潰し確定なことをするためにローズマリーを追いかけているのではないらしい。むしろブレオが彼女の手を引いて、全力で泳いでいる形だ。

 ちょうどハリーの近くに来たのを見計らって、彼らに声をかける。

 

「おい二人とも、どうした!?」

 

 二人の『泡頭呪文』は、まだ十分に機能している。

 ローズマリーの背中には、まるで大砲のような魔法具を背負っていたが、どうもひしゃげて壊れているようだ。込められた魔力が徐々に崩れているところを見るに、どうやら魔法で造りだしたはいいが、耐久力を越えるダメージを受けてしまったらしい。

 ローズマリーは背中から、ブレオも右肩から出血しており周囲の水を赤黒く染めてしまっている。ブレオはそうでもないが、ローズマリーの怪我は少々看過できない出血量に見える。

 水中に居ながらにしてハリーの声が聞こえてきたことに驚くローズマリーだったが、ブレオの方は慌てた様子で自分たちが今やってきた方向を指差した。

 するとそちらからは、大きな魚影が迫ってきている。すわ巨大怪魚かと思いきや、どうにも違うようだ。一匹の魚にしては、その揺らめき方がおかしすぎる。

 遠見魔法を使ってメガネのようなレンズ越しに見てようやく、それらが大量の魚類系魔法生物が集まってつくられたものだということがわかった。

 どう解釈してもアレは今からランチを楽しもうとしている様子である。

 無論、まな板の上どころか陸にすら上がっていないが、三つ星料理はハリーたち水着の男女。男の方は少々毛深く、女の方は脂身が多そうだが、まず彼らは気にするまい。

 流石にあれはだめだ。

 

「ふざけんな、ぼくまで殺す気か! なんで連れてきた!?」

「がぼぎぼぐぼげぼごぼ」

「喋れないなら無理しなくていいから!? チクショウこの色男め命の危険にも愛されちゃってますってか!?」

 

 三人そろって全力で泳ぎ続ける。

 いまこの一時、水中に居る限り息が切れる心配のないハリーのみが叫ぶ余裕を持っている。さらにいまハリーの肌は、《鰓昆布》の影響によって水の流れを細かに把握することができている。ゆえに、目を瞑っていようがどこに何がいるのか、どれほどのスピードで近づいてきているのかも把握することができるのだ。

 だからこそ、ローズマリーとブレオに指示を出すのはハリーの役割だ。

 

「次、あの岩陰に身をひそめて!」

「がぼげっぼぐぼん」

「だから無理に返事するなって色男」

 

 するり、と流れるように岩陰に身を隠せば、巨大魚影のような魚群たちは気づかなかったのか、そのまままっすぐ過ぎ去ってしまう。彼らにとってここはホームのはずだ。何故気付かなかったのかなどという疑問は残るものの、無事に脅威が過ぎ去るのだ、それに越したことはない。

 

「はー、助かった。結構時間をロスしたぞ」

 

 ハリーが一息ついた。

 漂うようにふらふらしているローズマリーを抱え直すと、彼女の豊満な身体がハリーに屈辱の感触を与える。自賛ではあるが多少スタイルに自信を持っていた身としては、水着姿でローズマリーの隣に立ちたくはない。

 

「大丈夫かい、ローズ」

「あー、ちょっとヤベェかもな。いまもふらふらして足に力が入らねえ。滅茶苦茶悔しいけど、こりゃリタイアしねーとダメかもなあ」

 

 彼女の泡頭に顔を突っ込んで問いかければ、弱気な言葉が返ってきた。

 少し歪んだ笑顔を作るローズマリー。

 その笑顔の不自然さを指摘する度胸は、ハリーにはなかった。

 

「あたしの大切なモンってなんだったんだろ……」

「心配すんな、ぼくが取ってきてやるぜ。だから何か奢れ」

「あたしの鍛えられた肉体から繰り出す、ピクルスとオニオンたっぷりのハンバーガーをご馳走してやるよ」

 

 確かに頭がふらふらしている彼女は、ここで治療を受けるため離脱した方が賢明だろう。ここで無茶して彼女の綺麗な身体に傷を残すというのも、有り得ない選択だ。

 しかしアメリカンなハンバーガーか。

 ひょっとしてローズマリーのスタイルの良さは、そういうものを食べてきたからだろうかと思い彼女の胸に目をやって、ハリーは心底驚くと同時に頬を染めた。

 

「ローズ! 胸、胸隠して!」

「えっ、うわあッ!? ぎゃああああ!?」

 

 およそ女性としてどうかと思う悲鳴をあげて、ローズマリーは両腕で胸を隠した。

 ビキニ水着がなくなっている。

 羨むほどに形のいいバストが晒されており、ハリーは少しドキドキしながらも彼女の姿を隠すためかばった。この場に居る男性、ブレオの目に触れさせるにはもったいない代物だ。

 というか、この競技は水中の様子を映像として上空に映し出しているはずだ。紳士的な教師であるダンブルドアの事だ、きっとこういったハプニング映像は少女の心を傷つけぬため絶対に映さないようにしていると思うが、それでも心配である。

 せめてローズマリーがパレオでも巻いていればよかったのだが、生憎いまローズマリーはショーツ型の水着一丁。ハリーもビキニ水着にショートパンツ型の水着のみと、彼女の姿を隠せるものが何もないのだ。これには困った。

 ブレオが何やら泡の塊を渡してくる。きっとウィンバリーが使った魔法と同じものだ。

 

『ハリエット、彼女はだいじょうぶかい』

「黙ってろエロ魔人。ローズに近寄るな」

 

 かつて自分の尻を揉みまわした男に、冷たい対応を取るハリー。

 というか当然である。ボディタッチしてきた親しくもない男なのだ、殺していないだけマシだと思っていただきたい。

 しかしプレイボーイ・ブレオとしては、ハリーの反応は納得できないものだったらしい。

 

『あんまりだ! 僕はただ君たちの身を案じているだけなのに!』

 

 何やら真剣に言っているご様子。

 ちょっと悪いことをしたかなと思い、ブレオに謝るため振り向いたハリーは後悔した。

 そこには拳を握りしめて憤慨している彼の姿があった。

 問題があるとすれば、その手に握り締めている星条旗カラーの水着と彼の顔周辺の水を赤く染めている鼻血だろうか。

 

『ローズマリーちゃんのおっぱいは今揉んでおかなければ、絶対に後悔する! 僕が心配するのは当然だよ! むしろ男としてこれが当然だね! なにかおかしいところあるかい?』

「おかしいのは君の脳みそだったようだな!」

 

 乙女たちの手によってボロボロになったブレオごと水上に花火を打ち上げたローズマリーは、ハリーに別れを告げる。

 彼女の第三の試練はここまでだ。

 出血の酷いローズマリーと、全身打撲状態のブレオはここでリタイアするが、特に怪我のないハリーは競技を続行せねばならない。水上から闇祓い二人組ではない、大会運営の魔女たちが降りてくるのを見届けてから、ハリーはその場から去った。

 かなりの時間をロスしてしまった。

 しかしもう七人中三人もリタイアしているほどの競技であると考えれば、まだマシなのかもしれない。ハリーはなるべく危険な感じのしない場所を選んで、全速力で泳いだ。

 

「……ッ、あれか?」

 

 しばらく泳ぎ続けると、海藻によっておおわれた広場のような場所に、何かが縄に繋がれて浮いているのが見て取れた。数は合計で七つ。選手全員分が残っているということは、まだ誰も辿り着いていないということか。

 近くまで泳ぎ切り、繋がれている大切なもの達が何であるかを把握したハリーは、昔の《魔法学校対抗試合》が酷な競技であるとされているその理由を思い知った。

 繋がれていたのは、人間だった。

 ()()()()()とは、つまり()()()()たち。これは、ハリーたち代表選手にとって縁のある人間を取り戻すための競技だったのだ。

 

「……ロン、ハーマイオニー……」

 

 その中には、ハリーの大切な人達の姿もある。

 きっとロンは自分の、そしてハーマイオニーはクラムの《大切なもの》なのだろう。

 見れば、他にもハリーの見知った顔ばかりだ。

 ジョージ・ウィーズリー。これはきっとダンスパーティでパートナーになったローズマリーに用意されたものだろう。彼女が恋しているのはソウジローだが、友人としてよく思っているはずだ。

 ユーコ・ツチミカド。まず間違いなくソウジローにとっての大切な人だ。道理でソウジローの近くに姿が見えないと思ったら、こんなことになっていたとは。

 チョウ・チャン。ハリーから見るとちがうが彼女にとってハリーは恋敵であり、多少目の敵にされていた相手だ。だがこうして助けを待つお姫様になれたのだから本望だろう。

 淡い金髪の少女にも見覚えがある。確かブレオがダンスパーティでお相手していた、レイブンクローの生徒だ。見事な銀髪の少女は、顔に面影があるためきっとデラクールの身内だ。妹だろうか。

 助けを待つお姫様たちの中に赤毛の兄弟が混じっているのも変な感じだ。

 きっと彼らは制限時間を過ぎたとしても、死ぬなんてことはないだろう。ダンブルドアとはそういう男だ。

 だが、それでも、彼らが長時間こんな場所に居て平気かと問われるとそんなことはない。

 そして助けられなかったとしたらどうだろう。

 死にはしないまでも、辛いだろう。

 

「……十分だ。十分だけ待つ」

 

 ハリーはしばらく待ってみることにした。少なくともハリーは三〇分から四〇分ほどかけてここへ来た。このまま十分待って誰も来なかったら、自分がこの全員を連れていくしかない。

 体内時計で十分間計ることにしたハリーは、とりあえずロンとハーマイオニーの近くまで泳いだ。二人とも固く目を瞑って、水中ゆえ髪や衣服がふわふわしている以外はまるで地上にいるかのように眠っている。

 ハリーは、眠ったままのハーマイオニーの手に触れた。暖かい。水中だというのに、まだ体温を保っている。どうなっているのかと思って魔法式を視ようとしたその時、ハリーは嫌な予感に襲われ、咄嗟にその場から飛び退いた。

 

「ッ!」

 

 水中だというのに恐ろしいスピードでやってきたのは、果たして……何だこいつ?

 顔はサメそのものだ。鋭いナイフのような乱杭歯をキシャキシャと鳴らしている。

 しかし胴体は見事な筋肉を纏った、ごつい青年のものだった。ところどころが黒くなっており、左手に至ってはヒレのように変化している。

 ブーメランパンツをはいていることからして、これはたぶんクラムだろう。変身術でサメに変化しようとしたが、失敗したといったところか。全身変化は相当難易度が高いらしいから、見た目は不恰好でもこうして水中活動できているのでまだマシなのかもしれない。

 クラム・シャークはその鋭い牙でハーマイオニーの縄を噛み切ろうとしているが、サイズが大きすぎて四苦八苦している。見かねたハリーが杖を手に叫んだ。

 

「クラム! それじゃハーマイオニーに噛みついちゃうだろ! ぼくにやらせろ!」

 

 杖先から、魔力反応光を凝縮させた刃を出現させる。ソウジローが使っていた日本魔法の再現だ。然程難しくはなかったが、ハリーなりに魔法式へアレンジを加えている。 

 ハーマイオニーの足首に巻き付いていた縄をその刃で斬り、彼女の身体をクラムに渡す。

 クラムは何か迷っていたようだが、しばらくしてハリーに頭を下げると、勢いよく地上目指して泳いで行った。

 半鮫人が来たことで少し狂ったかもしれないが、十分近く経った気がする。

 そろそろ行こうと判断して、ハリーはロンのロープを切り裂いた。

 すると背後からなにやら大慌てで誰かがやってくるのを感知する。水流の動きからして、男性。セドリックかソウジローだろうか。

 見てみれば、どうやら二人とも同時に来たようだ。しかし何か様子がおかしい。

 どうやら二人とも何かと戦っているようで、赤黒い水の中掻き分けてこちらへやってくる。どうやら手を貸した方がよさそうだ。

 

「セドリック、ソウジロー! こっちには皆がいる! そこで食い止めろ!」

 

 ハリーの声に反応し、二人は逃げるのをやめて敵に向かい合った。

 急いで泳ぎ、二人の間に入って見てみれば、どうにも競技用に用意された障害物とは思えない魔法生物が目の前に居た。

 

「……あれはケルピーか?」

 

 セドリックが頷く。

 ケルピーとはさまざまな形に変化する水魔であり、いま目の前にいるケルピーはその中でも最も有名な形状、ガマの穂をたてがみにした馬の形をしている。ただし下半身がウミヘビのそれになっているあたり、異形らしさが増して非常に不気味だ。奴らは肉食性で、人間だろうとなんだろうと食い殺す危険な魔法生物だ。

 その隣には、なんと日本固有の妖怪と呼ばれる水棲魔法生物の、河童だ。河童とは基本的に人喰いの怪物であるが、頭に皿がないタイプは人間に友好的と知られている。だが目の前にいる筋骨隆々な河童の頭には、立派な真っ白い皿が乗っている。目つきも非情に危険で、ハリーたちの事を食糧としか見ていない目だ。

 二対三で数の上ではこちらが有利だ。それにハリーとソウジローはドラゴンを容易に殺害せしめるほどの戦闘力を有している。しかし、問題はこのフィールドだ。

 水中で水棲魔法生物と戦闘することの愚かしさは、昔から歌になっているほど有名だ。かつて《自惚れウィリアムス》なる強大な魔法戦士が、あっさり返り討ちにされたという逸話が残っている。

 マグル育ちのハリーですら知っているのだ、セドリックは当然として、ひょっとしたらソウジローの出身国日本でも似たような逸話があるかもしれない。

 要するに、水中において彼らは、特に河童は厄介な敵となり得るのだ。

 

「『エクスペリアームス』、武器よ去れ!」

 

 ハリーとセドリックが不意打ち気味に放った武装解除の魔力反応光がケルピーに着弾する。

 驚いたように身をくねらせた彼ないし彼女は、ぐにゃりとその姿を捻じれさせた。変化する気か、と思うと、なにやら人型に姿を変えてゆく。

 視界の隅ではソウジローが木刀で河童の爪と斬り合っているのが見えるが、そちらに助太刀するためにもケルピーはさっさと倒さねばならない。

 変化が終わるのを待ってやる義理もないとして、ハリーは切断呪文を肌色の塊としてぐねぐねしているケルピーに放った。真空の刃は見事にケルピーの肉を切り裂き、赤黒い水をばらまかせる。

 にっ、と笑ってとどめを刺そうとしたハリーがケルピーを見た瞬間、その表情が凍った。

 

「ごぼぼぼぼうぼぁ!?」

 

 セドリックが大慌てで泡頭から空気を漏らしている音が聞こえる。

 ケルピーが変化しようとしていたのは、目の前にいたハリー本人の姿だったらしい。

 しかし変化の最中に攻撃したからなのか、それとも衣服を再現する気はなかったのか。下半身がぐねぐねの塊のまま、そこからハリーの上半身が生えている姿が出来上がっていた。

 もちろん、全裸で。

 

「うわあああああああ! 見るなっ、見るなァァァあああああああ!」

 

 とにかくがむしゃらに魔法を繰り出して、ケルピーをぐちゃぐちゃの肉片へと変えてゆく。隣でセドリックが何も言わず、顔を真っ赤にして目を逸らしていることが尚更ダメージを受ける。

 彼は嘘が苦手な人間なのだろう、ばっちり見られたということだ。

 なんて恥ずかしい。こんなのは悪夢だ。

 

「ち、ちくしょう……許さんぞ……」

 

 怒りの矛先は、哀れな河童へと向いて行った。

 しかし助太刀しに行こうと意識を向けると、ちょうど件の河童はソウジローによって真っ二つにされてしまうところだった。ハリーは盛大に舌打ちをする。

 魔法式を視ればある程度仕組みはわかるが、ソウジローは水中に透明な床でもあるかのようにこちらへ歩いてきた。木刀型の杖を腰に差しながらハリーとセドリックに声をかけてくる。

 というよりは、頭に直接声を叩きこまれたような感覚だ。これは日本独特な魔法だろう。

 鼻血を流しながら言っていなければ、とてもカッコよかった。

 ハリーが自身の肩を抱くように胸を隠すと、ソウジローは目を逸らした。

 こいつも見たのか、くそったれめ。

 

『怪我はないか』

「あとでユーコに言いつける」

『勘弁してください』

 

 ソウジローとセドリックが、それぞれユーコとチョウの縄を切って彼女たちを連れて浮上してゆく。ハリーもロンの縄を切って、そこではたと気が付いた。

 そういえば、ローズマリーとデラクール、あとブレオのリタイアを知っている代表選手は自分だけだ。ということは、あの三人は競技が終わるまでずっとこの暗く寂しい湖底にいるということか。

 大切なものが失われるなどという脅し文句は当然ながら信じてはいない。

 その大切な者達が人間である以上、選手以外で人死にが出る可能性などダンブルドアが許すはずはないからだ。あの老人はハリーに対して何か隠し事をしているのはなんとなく察しているが、それでも生徒の安全だけは守る教師であるはずだ。

 ああ、だからといって見捨てる理由にはならない。

 ハリーは自身に『身体強化呪文』をかけると、ジョージ、レイブンクローの生徒、銀髪の少女の縄を次々と切り裂いた。全員を抱きかかえていくなどということはできない。ならば多少不恰好にはなる者の、縄を掴んでいくしかない。

 そうして四人分の縄を、外れないようにしっかりその腕に巻き付けてハリーは水上を見上げる。

 

「……何の用だ」

 

 見上げた先に居るのは、槍を持った複数の水中人(マーピープル)だった。

 顔つきが人間と違いすぎるので感情が読みづらいが、それでも友好的な態度ではないのはわかる。

 

「お若いの。どこへゆく気かね」

 

 厳つい顔の老水中人から、美しい声が出てきた。

 しかしその言葉遣いはやはり、仲良くしてくれそうなものではない気がする。

 だが今のハリーに、そんなものは関係ない。

 

「どこって、地上へだ」

「それは許せぬ。連れて行けるのは自分の《大切なもの》。一人だけというルールだ」

 

 そこでハリーは、なるほどと思った。

 きっと上位陣が得たタマゴの情報は、そこまで伝えるものだったのだろう。

 もしかしたらあの巨大イカや魚群も、得られるはずだった情報で回避できたのだろう。

 情報を得られなかった選手は、ここでルール違反を起こす可能性がある。知らなかったでは済まされない、というやつだろうか。

 ルール違反を起こせば、大量の失点になることは想像に難くない。

 だが今のハリーに、そんなものは知ったことではない。

 

「退いてくれ、ぼくは彼らを地上へ連れて帰る」

「許さぬと言ったはずだが」

「それを阻止するというのなら、悪いけどぼくは全力で逃げ――」

 

 戦って勝つ自信がないわけではない。しかし時間もない中で四人もの非戦闘員を連れて戦うのは賢い選択ではない。ゆえに、いま戦うのは得策ではないとしてハリーは逃走を宣言しようとする。

 だがその思惑は、一瞬で崩れ去った。

 ハリーの台詞が終わらないうちに、若い水中人が激昂したのかわからないが、槍を構えて突っ込んできたのだ。

 

「ッ、づァ……!」

「待て! 何をしている!?」

 

 ハリーと対面していた老水中人がなにやら慌てたように静止の声を上げるが、それは一瞬遅かった。水中人の槍は既にハリーの横っ腹に突き刺さっていた。両手は縄でふさがっているため、杖を振るって盾を出すことも叶わなかった。もっとも、あの素早さでは杖を構えていたとしても間に合ったとは思えない。

 身体強化をしていなければ、貫かれていたかもしれないのだ。これだけで済んで僥倖である。

 しかしそれにしても、速すぎる。水中という彼らのアドバンテージのある場で、彼らと対立することは無謀だっただろうか。だが、ハリーに譲る気はない。

 脇腹から暖かいものが流れ出してゆくのが分かる。鰓昆布の持続時間は、きっと残り十分もないと見た方がいい。更にこの出血。人体構造にはあまり詳しくないから素人の予想になるが、それでも水中に居ながらこの出血状態で長時間の戦闘は、まず無理だろう。

 一瞬で済ませ、そして全力で離脱するしかない。

 

「キェェェエエアアアアアア!」

「『フリペンド・ランケア』!」

 

 ハリーが一瞬縄を放して懐から杖を抜くのと、若い水中人が槍を構えるのはほぼ同時だった。

 向こうは近接武器で、こちらは遠距離も可能な魔法。どちらの穂先が先に届くかは自明の理だ。奇声をあげて突っ込んできた若い水中人の右肩に、一本の紅い槍が突き刺さる。

 それを意に介さず突っ込んできた若い水中人の穂先は、明らかにハリーの胸を狙っている。急所狙いの、確実に死に至るコース。隠しもしない殺意がハリーの身体を包み込んでいるかのようだ。

 老水中人が何か叫んでいるが、この集中状態では聞き取ることができない。

 このまま殺しきることはまず不可能だ。ならば動きを止めるだけで現段階は十二分。ハリーはもう一度杖を振るって、魔力でできた紅槍を爆破した。

 

「ギィィィァァアアア!?」

 

 少量の肉と皮だけでつながった腕を揺らしながら、若い水中人はそれでも己の血で赤く染まった水の奥からぎらついた目を向けてくる。

 これは、明らかに尋常ではない。

 老水中人たちが、周囲の水中人たちになにやら命令を飛ばした。すると仲間たちだろう水中人たちが、懸命に若い水中人を抑え込んでいる。

 それでも彼は暴れに暴れ、ついには右腕が千切れてしまった。

 

「な、何だアレ……」

「お若いの。行きなさい! 早く!」

 

 もはやなりふり構わず、老水中人はハリーに立ち去るよう叫んだ。

 競技の中で決められた出来事ではないことは明白だ。ハリーはそう判断し、急いで地上を目指すことにした。《鰓昆布》の効き目があと何分あるのかはわからない。腹からの出血も、どれほど流してしまったのか把握できていない。

 とにかく急がねばならないことは確かだ。

 

「……ッ、……!」

 

 重い。

 身体強化の効果はまだ切れていないというのに、重い。

 四人分の体重程度、どうってことないはずなのだ。

 しかもそのうち二人は、小柄な女の子。屁でもないはずだ。

 

(……そう、か……)

 

 血だ。

 あまりに血を流し過ぎたのだ。

 魔法の燃料となるエーテルは、魔力が溶け込んだ血液の事を指す。

 魔法使いが血を流し過ぎると、使う魔法にも影響が出てくるのは常識だ。

 それすら失念していたのだろうか。思考能力が落ちている気がする。いや、気がするだけじゃない。本当に落ちているのだろう。視界がぼやけている。

 

(まず、い……!)

 

 更に最悪なことは続けて起こるもので、《鰓昆布》の効果が切れ始めているのを感じた。

 首筋に鰓は残っているようだが、手足の水かきがほとんど消失してしまっている。

 もがくように泳ぎ続けるものの、ついに魔力不足によって『身体強化』の効果が切れてしまった。同時に血液不足によって頭の中に霞があるようにぼんやりしてくる。

 水の冷たさが肌を刺していると実感しているのに、その温度を感じられない。

 ついにハリーの手から、四本の縄がするりと抜けおちた。

 人間四人分を引っ張れるほどの握力が足りなくなったのだ。 

 

(……仕方ない……)

 

 魔力は底をついている気がする。だが、絞り出せばまだ使える。

 一年生の時の経験から、一度や二度くらいならば無理矢理魔力を生成したところで魔力枯渇に陥るということはない。

 ならば、振り絞ってやるしかない。

 ハリーは杖を抜いた。取り落とさないよう両手で握り締めて、そして無言呪文を唱える。

 

(『アセンディオ』、昇れ!)

 

 一気に四人全員に当てようと思ったが、魔力反応光が細い。

 仕方ないので四連発をそれぞれの身体に当てた。

 上昇魔法は問題なく効果を発揮して、四人の身体を勢いよく地上へと押し出してゆく。

 これでいい。

 

(あとは、ぼく自身か……)

 

 杖を逆手に持って自分に向けて構えないと、自分に魔力反応光は当てられない。

 手首を返して自分に当てればいいだけだということに気付かぬまま、ハリーは杖を持ち替えようとする。しかし、不幸は続くものだ。

 水の流れを考えていなかった。それが今回の失敗。

 ハリーは自分が動かした腕によって発生した、ほんの小さな水の流れによって、杖をうまく掴むことができなかった。慌てて手を伸ばすも、水の抵抗が少ない棒状の杖は、するりと湖底目指して落ちてゆく。

 いま肺の中に酸素はない。

 血中エーテル濃度もほとんどない上に、杖がなければ魔法は使えない。

 ごぼり、と口の端から泡が零れ落ちる。

 全身から力が抜け、これはまずいなとおぼろげな意識でそう思ったその直後。

 

(――――、――ッ!)

 

 今までの鉛のように重かったのが嘘のように、右腕が勢いよく動いた。

 土壇場で思いついたその魔法は、自分でもあり得ないと確信できる代物。

 

(『アクシオ』、杖よ来い!)

 

 伸ばしきった右手が、一瞬だけ魔力反応光によって発光する。現在の体内エーテル濃度から考えれば、十分なほどの光量。

 五メートルと離れていないハリーの杖は、はじかれたようにハリーの手の平の中へ納まった。

 そしてほとんど握力がないはずのハリーの手は、杖が握りつぶされるのではないかというほどの力で握り締められる。まだ操作技術が拙いゆえ、仕方のないことだ。

 すぐさま杖先を自分に向け、上昇魔法を無言呪文で行使する。無理矢理に動かしたため折れた右手首を庇いながら、ハリーの身体は水をかき分けて水上目掛けて上昇し、

 

「ッ、がっは! げほっ、ぐ、うああっ!」

 

 勢いよく水面へと投げ出された。

 四人を上にあげた時から待機していたのか、ウィンバリーとハワードがタオル持って水面に立っていたおかげで、即座に水面から引き上げられる。

 ハワードにタオルで体を隠してもらい、抱きしめて頬にキスを貰う。とても暖かくてうれしかった。珍しく厳しい顔をしたウィンバリーに抱えられて、ハリーは水上に設立された競技用の建物の中へと入れられた。

 

「ハリー、大丈夫かいハリー!」

「退きたまえディゴリー! 『エピスキー』、癒えよ!」

 

 セドリックと、スネイプの声が聞こえる。

 腹に空いた穴のあたりから、暖かな何かが流れ込んでくるのが分かる。

 耳にもまだ水が入っているのかよく聞こえないが、きっと治癒魔法だろう。

 

「ハリー、君はなんてバカなんだ! 僕らなんて放っておけばいいのに!」

「ったく、本当にもう! ありがとうよこの大馬鹿!」

「ハリーッ! ハリィーッ!」

 

 ロンとジョージの声、そして、金切り声のような悲鳴が聞こえる。

 スネイプがポッターを興奮させるなと怒鳴っているのが聞こえてきた。まあ、一応結構な怪我人なのだからそれも仕方のない事、というか当然のことだ。

 しかしハリーには、腹の傷に響こうとも、それでも聞きたい声だった。

 

「ハリーッ! ああ、ハリー! どうして、どうしてこんな……!」

 

 栗毛の親友が、ハリーの冷たい手に縋り付いて涙を流している。

 まるで死んでしまったかのように扱われていることに、ハリーは少しだけ笑った。

 親友は、ハーマイオニーはハリーに覆いかぶさるようにして泣き続ける。

 

「治癒中だから揺らすんじゃあない、グレンジャー!」

「うるっさいわね! 黙って治癒してなさいよ泣きミソ!」

「……あとで覚えておきたまえ」

 

 目の前でとんでもないことが起きているのを見なかったことにして、ハリーはハーマイオニーの手を握り返した。

 それだけで、彼女の目から溢れだす涙の量が倍になったかのように思える。

 

「ほんと――ごめんなさい。あなたの、こと――わかってたのに。私ったら、なんて――なんて、意地っ張りだったのかしら――」

「……、…………」

 

 案外プライドの高い彼女が、号泣してこれだけ言ってくれるのだ。

 ハリーとしても何か言ってあげたかったのだが、生憎と凍え過ぎて声が出せない。

 ハーマイオニーもそれをわかっているのか、耳を寄せてくれるものの、どうやら無理をしすぎたせいで体そのものをうまく運用できないことに気付く。仕方なく、笑みを浮かべるだけになりそうだ。

 そう思っていたものの、野次馬たちをかき分けてやってきたソウジローが、ハーマイオニーの肩に手を置いた。そして彼と共にやってきたタオルにくるまったユーコがハリーの肩に手を置くと、不思議と頭の中がクリアになったような感覚を覚える。

 これはなんの魔法と問おうとする前に、ハーマイオニーから明確な感情が伝わってきた。

 暖かなその気持ち。

 水で冷え切った身体に流れ込んでくる、お日様のように暖かい気持ち。

 それは愛情でも、友情でもない。

 きっと言葉として言い表すのならば、姉妹へ抱く親愛の情に近い。

 ロンとの仲を取り持つためにあのような行動を起こせば、下手をすれば二人との友情を失ってしまうかもしれない。言い訳は効かない。なぜなら、ハリーだってロンの事を好きだったから。

 好いた惚れたは理屈じゃない。

 理屈ではないからこそ、やっぱりそれは心の問題なのだ。

 

 今回の大喧嘩は、きっとハリーとハーマイオニーがこれからも友情を育んで生きてゆくためには必要なことだったのかもしれない。

 同じ男の子を好きになってしまった以上、日本魔法界のように特殊な価値観がない限りはどちらかが涙を流す羽目になってしまう。今回その役割を担ったのが、ハリーだったということ。

 そしてその真意は、三人で一緒にいたいという子供染みた現状維持のためだった。

 だが、だから何だというのだろう。

 大好きな人と一緒に居たいと思うのは、何も悪いことではないはずだ。

 ハリーは治療するスネイプに手で合図して、少しだけどいてもらう。

 彼は不機嫌そうな顔をしたが、それでもお願いを聞いてくれるようだった。

 

「女の子の仲直りって難しいんだな……」

「まあ、おまえにゃ分からんだろうぜ。色男のロニー坊や」

「……うるせ」

 

 ロンの言葉と、ジョージの言葉が聞こえる。

 この色男のおかげで、この数ヶ月ハリーとハーマイオニーは苦労したのだ。

 なんとも複雑な思いだが、そんな男に惚れてしまったのだ。

 仕方のないことかもしれない。

 

「ああっ、()リー・ポッター!」

 

 続いてやってきたのは、フラー・デラクールだ。

 なにやら感極まった様子で、ハリーの治療を再開しようとしたスネイプが突き飛ばされて湖に落ちて行った。合掌である。

 そんなデラクールは、ハリーの傍に跪いて彼女の頬へ熱烈なキスをブチかました。

 

「んな……ッ」

「ありがとう、ありがとうアリー! あなたの()()()()じゃなかったのに。ああっ、本当にありがとう! ガブリエルはわたーしの妹なの!」

 

 涙を流しながらハリーに感謝するデラクールは、またハリーにキスの雨を降らせた。

 目を白黒させて驚くハリーと、苦笑いするハーマイオニー。

 そんな二人の様子に気づかないほど感激しているデラクールは、続いてロンの方へと走っていった。

 

「嫌な予感がするぞ」

「奇遇ねハリー、私もよ」

 

 デラクールがまくしたてる内容を聞きとるに、どうやらハリーが打ちあげたあとは意識を取り戻したロンが、ガブリエル・デラクールを助けたらしい。

 何度もお礼を言いながら、デラクールはそのお礼の度にロンの頬へキスをしてゆく。

 妹の意識が戻ったとボーバトン生徒が知らせに来るまで、その熱烈なフランス人はデレデレにゆるんだ顔のイギリス人男子にキスし続けていたのだった。

 しかしハッと振り向いたロンは、ハリーとハーマイオニーの笑顔を見た。

 純粋に美しいとすら思える笑顔なのに、何故か背筋が凍る。

 無理矢理口の端を持ちあげて笑ったロンは、そのままそそくさとその場を去ってゆく。

 

「何なんだろうねえ、あの色男は」

 

 二人は顔を見合わせて、そして堪え切れなかったように笑う。

 もう二度と出来ないと思ったこのやりとりも、またいつでもできるのだ。

 こんな他愛のない時間が、とても愛おしい。

 ハリーは幸せを噛みしめるように、もう一度ほがらかに笑うのだった。

 




【変更点】
・お風呂回。
・楽しいものに弱いハリエット。
・告白の返事をできる程度にはロニー坊やも成長
・水中人ご乱心。

親友が死ぬかもしれないとなれば、意地なんて張ってられません。ということで、ようやく仲直り。原作でロンとハリーの喧嘩は割とすぐ終わりましたが、彼女たちのはそこそこ長かったものと思います。
そして今回の話も長かったものと思います。前話の倍だぜ! しかし仲直りは大事なので。仕方ない。全部ヴォルデモートが悪い。
今回は水中戦。スタイリッシュな戦闘が出来ない代わりに、水着の美少女が泳いでると思えばいいものでしょう。きっと。
炎のゴブレットも残すところあと六話分。お辞儀する日はきっと近い。


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10.悪夢の予兆

 

 

 

 ハリーはベッドの上でうなされていた。

 冷や汗がびっしょりと彼女の体を濡らし、キャミソールがぴたりと張り付いている。

 見る者が見れば官能的にすら映るその光景は、その実全く気分のいいものではなかった。

 眠りの世界でハリーが見ているのは、真っ赤に染まった何処かの部屋。

 生臭い鉄の悪臭と、びちゃびちゃと床を汚す液体音。

 それがひとつの部屋を埋め尽くすように広がる死の象徴は、いまも中心に置かれた()からとめどなく溢れだしていた。つまるところ、あれはこの赤い血を垂れ流す肉塊。

 その傍らに座りこむ赤子は、小さな口を懸命に開いて生命を貪り喰らっている。

 まるで神の視点のように天井から眺めていたハリーは、そこでようやく気付く。

 気付いてはいけない事実に、気付いてしまった。

 

(……ッ、ぐ……!)

 

 夢の中であるため、現実のように胃がないのが幸いした。

 ――あの肉塊は、今でも生きている。

 あんな姿になってまで、死ぬことを許されていない。

 おぞましいという言葉ですら生ぬるい、地獄のような光景。

 その悪趣味な絵画を作りだした芸術家は、天井から見ているはずのハリーに向かって、赤ん坊特有の大きすぎる頭をぐるりと動かしてその双眸を向けてくる。

 だが。顔が、見えない。

 まるで白いインクで塗りつぶされたかのように、顔がはっきりしない。

 だというのに、その黒いまなこでハリーの緑の目を、凝視しているのが分かる。

 見えもしない、黒い闇のような口腔が覗けるほどに、唇が三日月の形に引き裂かれた。

 嗤っている……、そう認識したハリーが恐怖に呑まれたのを見てか。

 赤ん坊は、乱暴に手足を動かすとハリーの方へと這い寄ってきた。

 まるで見えない梯子でもあるかのように、ざかざかと空中を上ってハリーの顔めがけてやってくる。笑みをますます深くして、口を引き裂いて乱杭歯を見せつけて、底なし沼のような瞳でハリーへ視線の剣を突き刺してくる。

 目と鼻の先。キスできる距離まで迫ってきた赤ん坊は、ノイズだらけの声で囁いた。

 

『――もう――すぐ――会える――、』

「うァァァああああああああああッ!」

『――君の――死は――すぐ、――そこ――』

「ぁぁあああぁあああああああああああッ!」

 

 悪夢を振り払うように、悲鳴をあげながらハリーは顔を左右に振る。

 髪が乱れ、キャミソールの肩紐がずり落ちた。

 あまりに長く叫び続けたものだから、隣で眠っていたハーマイオニーが飛び起きてハリーの肩を掴み、揺り動かしてくれなければあのまま夢の中に取り込まれてしまいそうだった。

 

「ハリー! ハリー、大丈夫? 随分うなされていたわ」

「う、ああ……ありがとう、ハーマイオニー……助かったよ……」

 

 ふわふわの栗毛が寝癖でさらに酷い事になっているのが、ハリーの癒しになる。

 情けないと分かっていながらも、ハリーは彼女の胸に顔をうずめた。

 ハーマイオニーもハリーの事を気遣ってくれたのか、何も言わずに抱きしめてくれる。

 

「ごめん、ハーマイオニー……もう少しこうさせてくれ」

「いいわよ。でも、お相手はロンの方がよかったんじゃない?」

 

 えっ、と疑問に思ったハリーがハーマイオニーを見上げる。

 彼女の目は、どうみても慈愛のそれではない。

 ハーマイオニーは怒っている。

 

「ハーマイオニー……?」

「ロンのファーストキス、奪ったんでしょう? 私に譲るようなこと言っておいて」

 

 おかしい。

 ハーマイオニーとは仲直りしたはずだ。

 それに、あの子はこんな嫌らしい顔はしないはずだ。

 ハリーが彼女から離れようとするも、ハーマイオニーの力は常人離れしており離れることができなかった。彼女はするりとハリーのキャミソールを脱がせると、空気に触れた乳房へ手を添えてくる。

 

「綺麗よねえ、ハリーの身体って。こんなに女の子らしく育っちゃって」

「ハー、マイオニ……」

 

 おかしい。

 おかしいなんてものじゃない。

 ハリーは自分の胸を鷲掴みにするハーマイオニーの顔を見て、そしてまた悲鳴をあげた。

 ハーマイオニーの輪郭の中央に、サイズの違うあの赤ん坊の顔が張り付いていたのだ。

 

『ねえハリー、これ、私にちょうだぁあい』

「うあっ、あああああ!? っぁぁああああああ――ッ!」

 

 自分の胸に噛みつかれ、咀嚼される感覚を味わいながら、ハリーは絶叫した。

 そしてハッと気がつけば、知らない場所にいる。

 

「どう、どうなってるんだ……!?」

 

 ハリーの格好は、毛玉だらけのセーターだった。

 履いているのも、だぼだぼの擦り切れたジーンズ。

 下着など、感触から言ってどう考えても男性用のトランクスだ。

 

「これ、は……この、格好は……」

 

 嫌な気配に気づいて、ハリーは振り向く。

 自分の身体が小さく、弱々しく、華奢になっている事に気づいた。

 これは確か、六歳の頃の。

 

『ハリー、ほら木に登ってごらん! 愚図だね、ジャッキーのトイレにしちまうよ!』

『やーいやーい泣き虫ハリー、弱虫ハリー! 僕の靴でもなめるか? ハッハー!』

『まったくまともじゃない。こんなゴミを育ててやってるわしらの身にもなってほしい』

『本当まともじゃないわ。こんな、化物の子供を引き取るなんて、冗談じゃない……』

 

 見知ったダーズリーの三人に、マージおばさん、当時あの場にいたセントバーナード。

 ハリーが追い立てられて木に登り、大泣きしていたあの時の記憶。

 木の上から見下ろすと、三人が三人ともあの赤ん坊の顔を張りつけている。

 そして異口同音に、ハリーに向かって罵倒しているのだ。

 気が変になりそうだった。

 こんな夢、はやく覚めてくれ。

 頭が壊れてしまう。

 心が、死ぬ。

 

 

 シリウス・ブラックを殺してしまった。

 ハリーはその手に着いた血を舐め取って、幾分か冷えた頭で考える。

 いくらなんでも、現在の状況はおかしい。

 家族になどなるものか、と罵倒してきたニセおじさんの死体に腰掛け、ハリーは考える。

 

(確か、今日は四月五日の水曜日だ。六大魔法学校対抗試合、その課題を受けるために、ぼくは競技場まで行ったはず)

 

 そうだ、それは覚えている。

 仲直りしたハーマイオニーと手をつないで、ロンをからかいながら歩いたのを覚えている。

 途中でソウジローとユーコにローズマリーの三人と合流し、そしてユーコに抱きついてきたブレオがソウジローによって血祭りにあげられたのもしっかりと記憶にある。

 控え室で、親しげに話しかけてハグしてきたフラー・デラクールに面食らったこともあった。名前で呼んでもいいかとか、人が変わったように優しく接してくれた。

 微笑ましそうに見てくるクラムやセドリックの視線がくすぐったかったのも、嬉しそうな顔をしたダンブルドアの顔もはっきりと脳に残っている。

 だというのに、今この状況がまったくわからない。

 

(幻術か? いや……幻術じゃない。いや、やっぱり幻術か? 幻術なのか? どうなんだろう、これも試練の一環と考えた方がいいのかな……)

 

 しかし、そこでハリーは待てよと思考を中断する。

 思い浮かぶのは、弾むような笑顔を浮かべたダンブルドアの顔だ。

 

(でも、あんな悪辣でグロテスクな内容をダンブルドアが許すだろうか? これが大会である以上、選手の戦いは中継されているはずだ)

 

 ハリーは一人、死体しかない空間で考えを巡らす。

 今まで起こったことは、過去にハリーが経験した出来事だけではなかった。意味不明な赤ん坊に迫られたり、ハーマイオニーに食い殺されたりといったことは当然ながら経験にない。

 虚言と過去が入り混じった世界には、残念ながら訪れたことも、これから行く予定もない。

 よってこれは、何らかの魔法生物による仕業か、または何者かによる魔法攻撃によってもたらされた状況であるとハリーは判断した。

 しかし判断したところで、脱出方法が分からなければどうしようもない。

 

「……、うーん。『フィニート・インカンターテム』! ……まぁ効かないよな、そりゃ」

 

 すると、呪文による影響ではないということか。

 ハリーの実力による解呪が効かないという可能性は考えたくないので、思考の隅に追いやる。その場合はどうせどうにもならないのだから、考えない方がむしろ建設的だ。

 では、何かしらの魔法生物によるものならばどうだろう?

 こういった悪夢のようなことを仕出かしてくれる魔法生物。

 真っ先に思い浮かぶのは、三年生の時に味わった絶望の権化、吸魂鬼(ディメンター)

 だがアレの手にかかれば今ハリーは意識を保ってはいない。

 どうしたものか。

 

「……、何か来たな」

 

 この状況の把握をしたいところだが、こう殺気を向けられてはどうしようもない。

 杖をしっかりと握り、ハリーはこちらへやってくる何かを待ち受ける。

 突然シリウスが起き上がってもいいように、一応彼の死体に杖を向けたままだ。

 

「……え……」

 

 しかしその心配は杞憂だった。

 それよりももっと心配すべきモノが現れたからである。

 ハリーの全身の毛が逆立った。それほどまでに酷い気配。

 

「な、んだありゃあ……!?」

 

 びちゃびちゃと、いやな液体音が響く。

 いつの間にかシリウスの眼孔や鼻孔から溢れ出ていた血は沼となり、ハリーのふくらはぎまでの深さを沈めている。怖気が走る。ゆっくりとこちらへ近づいてきているのは、あまりにも醜悪なモノだった。

 理性を完全に崩壊させた人間を三人ほど無理にくっつけてから、ぐにゃりとひと手間かけて掻き混ぜたもの。それが目の前にいる異形のひとつ。てんで明後日の方向に生えている手足を器用に動かして、血の沼の上をずるりと歩きづらそうにハリーへ歩み寄りながら、なにやら意味の分からないことを三人それぞれ大声で叫んでいる。

 もうひとつの異形は、明らかな水死体。水を含んで体がパンパンに膨れ上がり、首回りが太くなりすぎて情報を向いたまま固定されている。どう見ても人間のサイズではないのに、ぎょろりと動く目玉はハリーを捉え、肥大化して唇を破って突き出している舌の先がちろちろと獲物を狙う疑似餌のように動いている。

 最後の異形が一番ひどい。一番人型に近く、シルエットはお腹のふくよかな女性のようにも見える。しかしその体は全てが赤ん坊の身体で構成されており、まるでパズルのように人型の枠にはめ込んだかのように、時折パーツの赤ん坊が飛び出して血の池に沈んでゆく。その赤ん坊も、頭が割れて脳が露出しており、右脳と左脳の隙間から目玉と牙がずらりと並んでいる。

 

「う、ぐぶ……っ」

 

 胃の中のモノを戻しそうになり、しかし喉までせりあがってきたそれを無理矢理呑み込む。

 あんな、まだ人間として機能しているようなモノを見せられるくらいならば腐乱したゾンビの方がよっぽどマシだ。

 涙がにじんで視づらい視界で、ハリーは三体からにじみ出る魔法式を視た。そして直後、見なきゃよかったと後悔して、今度こそ崩れ落ち、四つん這いになりながら胃の中のモノをすべて吐いてしまった。

 

「しょ、正気じゃない……!」

 

 両手足を地に染めても尚、それが気にならないほどに極悪で醜悪だ。

 あの異形達は、生きた人間をそのまま使っている。それはわかる、それも異常なまでの外道の所業だが、まだ外見からはわかる。

 だがあれらに使われている人間たちは、()()()()()()()()()()()()()()()

 おかしくなってしまった自分の肉体を恐れ、もう戻れないことを悟って嘆き、まだ普通の身体を保っているハリーのことを見て羨み、自分たちだけが異形と化したことを怒り、そして健康なハリーが妬ましくて憎悪している。

 魔法を使わなくても伝わってくる負の想い。ハリーの心をやすりで削ぎ殺しにかかってくる、ぐちゃぐちゃに煮詰めて腐敗したダイレクトな感情。

 あの肉体に使われているのは、明らかに闇の魔術だ。恐らく、許されざる呪文。見覚えのある魔法式だ、ムーディの授業で取り上げられていた『冒涜の呪文』に違いない。

 ついに来たか、とハリーは立ち上がりながら思う。

 この六大魔法学校対抗試合において、ハリーが参戦することになった最大の理由。何者かがハリーを殺すために、競技に参加させたという説が真実であったことを悟る。

 ハリーは無言で杖を構えた。

 これが幻術にせよ、現実にせよ、どちらにせよ殺してやった方が彼らのためだ。

 

「『フリペンド・ランケア』、紅き槍よ。彼らに慈悲を(Benevolence)尊い命を刺し穿て(Venerable Lance)

 

 自身の創作呪文に、魔法式をいじることで性能を変化させる。

 ハリーの周囲に次々と紅槍が形成されるものの、それはいつもの紅さとは違った。

 どろりと赤黒く、滴る血が禍々しさを印象付ける。その数一〇〇はくだらない。

 ハリーは足元にたっぷりある血液を使って、槍の材料としたのだ。平時のようにハリー自身の魔力で練り固め、形成した紅槍である場合は、数に限りがある。戦闘に支障のない程度の魔力消費を考えた場合、一度に出現させる槍はせいぜいが十本がいいところ。

 だが今回は、自分の足元に大量の材料を提供してくれるものがあるのだ。利用しない手はない。

 

「射出!」

 

 大量の槍が撃ちだされると、三体の怪物は成す術もなく穿たれてゆく。

 やはりアレは精神的なダメージを狙ってのもののようだ。事実、吐くほどのダメージは負っているので何者かの思惑は成功と言ってもいいだろう。だが、あんなにも動きの遅いものを創りあげたところでハリーには触れることもできないだろう。

 血の池から材料を吸い出し、宙に浮かべる手間すら惜しんで直接水面から槍を投擲する。肉片と黒々しい血をばらまきながら、生ける屍たちはその形を崩してゆく。

 五分ほども撃ち続けていると、ついに彼らは未だに直立する脚だけを残してこの世から消え去っていた。ハリーはそれすらも消し飛ばすため、炎魔法を最大威力で放って焼却する。

 後に残ったのは、焦げ臭い吐き気を催す悪臭と、嫌な気分だけだ。

 

「くそっ。趣味が悪すぎるだろ」

 

 悪態を吐いて、ハリーは歩を進める。

 いったい何が起きているのか、未だにわからないままだ。

 ハリーが振り向けば、ぐにゃりと世界が反転する。先ほどから場面が変わるたびにこの感覚を味わっているため、「またか」という感想くらいしか抱けない。

 景色の歪みが元に戻る前に、ハリーは杖を構えて警戒レベルを上げる。

 不意打ちされてはたまらないからだ。

 

「……これは?」

 

 次にハリーの目に映ったのは、高いビルが密集した市街地だ。

 映像で見たことがあるが、これは確かニューヨークの風景だ。

 しかし何故ニューヨークなんかに、と思って風景を眺めていると、突如ビルの一部が爆発した。そこから飛び出してきたのは、墨のように黒い霧の尾を引いて飛び回る闇の魔法使い。

 あれはきっと、ピーター・ペティグリューが使っていた魔法と同じものだ。魔法式を視てみると、多少視づらいものの内容を理解することができる。異常なまでに高度なプログラムが組まれている。創りだした魔法使いは間違いなく天才だろう。

 

「……な、なんだ?」

 

 そんな闇の魔法使いは、どうやら何かから逃げているようだった。

 それが分かるのは、彼を追いかけて空を飛びながら魔力反応光を放っている者がいるからだ。遠目から見るに、赤いマントを羽織っているらしい。

 彼はまるで、というかどう見てもアメリカの誇るヒーローのような格好をしていた。筋骨隆々で、さわやかなハンサムスマイルを振り撒きながら悪党を追いかけている。

 

「パパー! がんばれーっ、やっつけちまえーっ!」

「えっ?」

 

 ハリーのすぐ隣で、小さな女の子の歓声があがった。

 見れば、十歳にも満たない金髪の少女だ。そばかすが愛嬌の、ひまわりのような笑顔を浮かべた幼い女の子。だがハリーは彼女の姿に見覚えがあった。

 馬鹿な、と思いながらも魔法界に常識は通用しないことを思い出し、ハリーはその女の子に声をかけてみることにした。

 

「ねえ。君、ローズマリー?」

 

 ハリーの遠慮がちな問いかけに、女の子は振り向いて笑顔で言う。

 

「そうだよ! パパとママの好きなお花の名前なんだ!」

「……そうかあ、よかったね」

「うん!」

 

 ローズマリー・イェイツ。

 確かにこの子は本人に間違いないのだろう。

 なぜ彼女はここに居るのだろう。それもあるが、なぜ幼児化しているのか。

 

「ローズ、どうしてここに居るの?」

「んっとねー! パパのお仕事見てたいんだ! 悪いおっちゃんをいーっぱいブチのめすのがパパのお仕事なんだぜ!」

 

 ざざ、と。

 幼いローズがそう言い放つと同時、ハリーの視界が砂嵐で歪んだ。

 慌てて目を擦ってみれば、次に目に映ったのは寒々しい部屋の中に佇むローズマリーの姿。

 

「……ローズ?」

 

 ハリーの言葉が聞こえていないわけではないようだ。

 こちらをちらりとみた彼女の姿は、胸も少し膨らんでいるため十代前半のように見える。

 

「ハリー、見てくれよ。あたしのヒーローはここにいるんだぜ」

 

 見てみろというローズマリーの言葉に従って、ハリーは彼女の隣に並び立つ。

 すると目の前の引き出しから見えたのは、先ほどまで空を飛びまわっていた男性だった。

 ローズマリーがパパと呼んでいた男だ。先と同じ筋肉質な肉体を包む上下のスーツは、ところどころが破けて痛々しい傷を残している。

 だが彼はこの傷で死ぬことはない。ここは、遺体安置所だ。

 もう二度と、彼が死ぬことはない。

 

「アメリカ魔法界にはな、ヒーロー制度があるんだ。闇祓い局を手伝うボランティア組織だな。パパはその中でも、一番強いヒーローだった」

 

 魔法の腕はぴか一。格闘の腕も、攻撃魔法も補助魔法もまんべんなく得意だった。

 多くのアメリカ闇祓いの憧れであり、本物のヒーローだったそうだ。

 しかしその末路は酷いものである。

 

「仲間にな、裏切られたんだ」

「……」

「詳しい経緯は教えてもらってねえから知らねえんだけど、パパは相棒に裏切られて殺されちまったらしいんだ。その後、パパの死体は奴に玩ばれたんだ」

「……『冒涜の呪文』か?」

「…………ああ、そうだ。冗談じゃねえよな。それで裏切り者の野郎は、パパの死体で大暴れを始めたんだ。するとどうだ? ヒーローの狂乱、フィリップス・イェイツは大量殺人鬼だったのです、だってよ。ステイツの英雄から一転、狂気の犯罪者扱いさ」

 

 また視界が歪み、ローズマリーの自宅らしきところに場所が変わる。

 彼女の年齢は今現在の十七歳に近くなっており、恐らくハリーと同い年だろうと思われる。

 ローズマリーは自分の身体を抱きしめるようにして、自分の生家を見上げた。

 人が住んでいる様子はない。明らかに空気が死んでいるからだ。

 

「ママは心労でな、グランマの家で療養中さ。あたしはグレー・ギャザリングの寄宿舎に居るからいいんだけど、この家も一昨年売っちまった。被害者遺族から呪われてるしな」

 

 とつとつと語るローズマリーの顔に、憎しみや怒りの色は見当たらない。

 ハリーの見る限り、ローズマリーは父親の死とイェイツ家に降りかかった不幸を受け入れきれてはいないものの、引きずるべきではないと判断しているのだろう。

 

「アメリカ魔法界にイェイツありなんて言われてるけど、まーこんなもんだ」

「ローズ……」

「おっと、変な同情はやめてくれよ。あたしはおまえとはずっとバカやって笑い合っていたいんだ」

 

 いつも通りの、ヒマワリのような笑みを見せるローズマリー。しかしその太陽の光には陰りが見られたが、そこを指摘するほどハリーは愚かではない。見なかったふりをした。

 またも視線にノイズがかかると、今度は十七歳のローズマリーが現れた。競技のときに着る、健康的なカウガールの格好をしている。

 くるくると杖を回しながら、ハリーに向かって努めて明るく聞こえるように彼女は言う。

 

「どうしてお前があたしの夢に出てこれたのかは知らねーけど、あまり長居するもんじゃないぜ。まだ気づいていないようだから言うけど、こいつは《ロードボガート》の仕業だ。気を強く持てよ、ハリー」

 

 ローズマリーがスピンしていた杖を天に向けて、体内で練りに練った魔力をかき集めて叫ぶ。

 

「『リディクラス』、くそったれ!」

 

 途端。ローズマリーの全身にヒビが入り、硬質な音と共に割れて消えていった。

 彼女の言うことが本当ならば、きっと夢から覚めたのだろう。

 

「……《ロードボガート》。名前からしてボガートの上位種か何かかな……ってことは、なんだ? やっぱりこれは全部幻なのか」

 

 ためしにハリーも、魔力を込めて「『リディクラス』、ばかばかしい!」と叫んでみる。魔法は確かに発動したのだが、どうにも効いているような感触はない。

 何か特殊な条件があるのかもしれない。

 

「っと、次はなんだ?」

 

 ローズマリーがこの世界から消えて数分、周囲の景色がゆがんで掻き混ぜられる。

 《ロードボガート》が何かしているのか、それともまったく別の何かか。とにかく次に来るものもろくなものではあるまいとして、ハリーは杖を構えた。

 すると出てきたのは、坊主頭の少年と銀髪の少女。

 先ほどの繰り返しがあるとして、出てくるのは一人ずつだと思っていたハリーは驚いた。

 顔つきからして、あれは間違いなくクラムとフラーだ。

 

「オーウ、アリー。あなーた、どうしてここへ?」

「フラー。いや、ぼくにも何が何だか」

「ヴぉくたちと同じように、混じり合ったんだろうな。平気か、ポッター」

 

 ハリーより三つは年下に見えるクラムとフラーの前には、様々な感情を見せている人々が集っていた。クラムのことを、悪党の息子と罵る男。フラーのことを、非ヒト族と罵る女。ヒーローと称える男子生徒に、女王様と崇める女子生徒。先ほどまで誉めそやしていた老人が急に彼らのことを尊敬したり、たった今まで憧れの目で見ていた子供たちが嘲笑と共に見下してきたり。

 くるりくるりと返される手の平の多さに、ハリーは気分が悪くなってきた。

 当事者どころか本人だろうに、この二人はどうして平気でいられるのだろう?

 

「アリー。ここーは、貴方には善くないとこーろです。行ってくだーさい」

「そうだ、長居すべきじゃない。ヴぉくたちはもう行く。君もがんばれよ」

 

 『リディクラス』。

 そう唱えると、二人はガラスの欠片となって消えていった。

 奇妙な寂寥感を覚えたハリーは、またも歪みとなってどよどよ騒ぐ群衆の中から消えていった。

 

 ふと目を開けると、煌びやかな灯りの数々が目にはいる。

 どうやらお祭りをやっているようで、あちこちから美味しそうなにおいが漂ってくる。

 いったいどこの風景だろうか。ローブを着ている者が大半ということは、魔法使いの町であるように思えるが、イギリス国内で魔法使いがおおっぴらに過ごせるのはホグズミード村だけだ。つまり、ここは英国以外のどこかの国。

 楽器がかき鳴らされ、陽気な店舗で人々が踊りまわって笑い合う。

 楽しげに踊る男性。恋人にキスをして微笑む女性。ハリーの尻に頬擦りするブレオ。

 

「オマエは本当にもう」

「アーッ! アーッ、ちょっと待った! ハリエットちゃんそこは攻撃しちゃダメなとこなの! 男の子のとっても大事なところなの! ちょ待っ、ノーッ! あーん、息子様が死んだ! 美人薄命だ!」

 

 空気の塊で打ちつけられ、ブレオは宝物を押さえて蹲る。

 その様は情けなくもどこか愛嬌を感じなくもない。かもしれない。

 いやゴメンやっぱ無理。

 

「刺し貫かなかっただけありがたいと思え」

「厳しくない!?」

「いや本気で嫌なので近寄らないでください」

「ガチ毛嫌い! やりすぎた!」

 

 四つん這いになって己の罪を悔やんでいるように見えるが、その実とてもイイ笑顔なので手に負えない。彼のセクハラについて追及するのは、これ以上は時間の無駄だと思う。

 改めてハリーはこの風景を眺めて、楽しそうな人々に目を細める。

 そんな彼女に、立ち直ったブレオがニコニコ笑顔のままで声をかけた。

 

「ところでハリエットちゃん、なんでここに? ここは僕の夢だぜ」

「なんかさっきから他人の夢に入り込んじゃってるみたいで。いや原理は知らないし、どうしてこうなったのかも分からないから抜け出したいんだけど」

「まあ、第四の課題って夢の世界だしね。混線したのかもしれないな。ひょっとしたら、自分の夢まで辿り着かないと難しいんじゃないかな」

 

 ほんとうに試練の中だったのか。

 今まで出会ってきた代表選手たちは、みなそれぞれに余裕が見られた。

 つまり、ハリーが知らないだけで彼らは知っている状況であるということだ。

 やはり年齢というネックはここで牙を剥いてきた。きっと上級授業では基本的に習うことなのかもしれない。それに、今まで開催された魔法学校対抗試合では、競技数は全部で三つ。参加校に合わせた数で来るとしたら、これを含めてあと三つの試練があるはずだ。

 しかし《ロードボガート》なんてものがいるとは思わなかった。

 今までの連中はリディクラス呪文で消えていったので、普通の真似妖怪ボガートの上位種なのだろうか。しかしハリーが唱えても何も変化がないことから、何かしらの条件があると思われる。

 

「じゃあハリエット、僕はこの夢をクリアしに行くよ。君も頑張るといい」

「ありがとう次セクハラしたら両腕を切り落とすからな」

「ナチュラルにお礼と共に警告が! くそう、女の子成分がないと調子がでない……」

 

 ハリーに向かって妙に大げさにウィンクしてから、彼はなにやら両手をわきわき動かしながら人ごみの中へ消えていった。

 ガラの悪い連中が大騒ぎしてブレオの肩を叩いているのを見る限り、どうやら彼も彼で苦労をしてきたらしい。人の事情に首を突っ込むのもどうかと思ったハリーは、視界がゆがむままに任せてさっさとその場を去っていった。

 

「って、うわ!?」

 

 次に目の前を通り過ぎたのは、なにやらびっしりと毛におおわれた何かだった。

 慌てて杖を抜いて向けて見れば、どうやら巨大なコウモリらしい。

 その巨大なアギトの先にある獲物は、黒い着物を着た女の子。どうやら一飲みにするつもりらしく、これはまずいと感じたハリーは杖先に魔力を集めて蛇を失神させようと試みる。

 しかしそれよりも早く、コウモリの胴体が輪切りになった。

 何事かと思い周囲を見てみれば、学生服を着た少年が血まみれの刀を放り投げて少女の元へ駆け寄っていくところだった。あの二人には見覚えがある。

 泣きじゃくって少女に謝る少年を、少女は優しくその胸に抱きしめて背を撫でている。

 普通逆じゃないかなとハリーが思っていると、隣まで黒髪の青年が歩み寄ってきた。

 

「あれは、俺のせいで起きたことだ」

「ソウジロー」

「中学生の時の話でな。心配する彼女を放って、俺は修行のため山籠もりしたんだ」

 

 その時点でよくわからないが、日本ではきっと広く行われる一般的な修行なのだろう。

 謝り続ける少年を眺めながら、ソウジローは言う。

 

「俺は日本最強だと自負していてな、何があろうと大事な人間は守り切れるとタカをくくっていたのだ。結果はあのザマ、俺を探しに来た彼女はああして捕えられてしまった」

 

 黒い着物ゆえよく見なければ分からなかったが、どうやらユーコらしき少女は血に塗れている。返り血などではないことから、彼女自身の血だろう。

 

「女吸血鬼だったからか、女性として酷い目には合わなかったようだ。……しかし、俺が出向いた時にはすでに遅かった。彼女は血を吸われていたんだ」

 

 ソウジローが唇を噛んで絞り出すように言う。つ、と赤が顎を伝った。

 ハリーは目を見開いて、ソウジローを見た。

 一年生と二年生の時、ハリーと敵対した男がいた。名をクィリナス・クィレルという。

 彼は吸血鬼に噛まれて吸血鬼になった類いの人外であり、彼らはどこか狼人間と似た原理によって仲間を増やすとのこと。つまり、吸血鬼によって噛まれたということは、ユーコは吸血鬼になってしまったということだろうか?

 

「でも、ユーコは普通に日光の下に出てるよ。吸血鬼なら浄化されて蒸発するはずだ」

「ユーコは元から純粋なヒトではない。彼女の血族には時々、妖怪が混じっているんだ。そのおかげもあってか、吸血種(ブラッド)にはならずに済んだ。それに、クィレルだって日光では溶けてなかっただろう?」

「……どうしてソウジローがクィレルの事を知ってるんだ?」

「ハリー。忘れているかもしれないが、コレは夢だぞ」

 

 ざ、と景色にノイズが走り、場面が変わる。

 そして見えてきた光景を目の当たりにして、ハリーはぼっと赤面した。

 なんと、上半身裸のソウジローに、半裸のユーコが抱きしめられている!

 ユーコの年齢は今とあまり変わりないように見える。見えるが、問題はそこじゃねえ! それより時折ユーコから漏れ聞こえる甘い声と、ソウジローが漏らすくぐもった声が気になって仕方ない!

 今度の彼女が身にまとっているのは白い着物だからか、湯に濡れて透けている。だが向かい合って抱きしめられているため、前は見えない。これがギリギリの美学?

 えっ、嘘だろう? これはつまり、そういうことか。ぼくの年齢じゃ見れないものか。

 ……はっ? いや、いやいや。ちょっと待った、何これ。マジで何これ!?

 

「お、おま、ソウジローおまえ、こんなやらしーもん、ぼくに見せて、なに考えて」

「落ち着けハリー。それに、お前にはこれが性的なモノに見えるか?」

 

 顔を真っ赤にして、両目を両手で隠しつつ、しかし指の隙間からしっかり覗いていたハリーは、ソウジローの言葉にのぼせアガった頭を冷やされる。

 しかしアレは、どう見ても仲睦まじい光景だ。

 日本人にしては白い頬を綺麗な朱色に染めたユーコが、ときおり跳ね上がるような高い声を漏らしながらソウジローと口づけを交わしている。彼女の潤んだ瞳と、ソウジローの鋭い目。そして体格差がかなりあるので、ちょっと倒錯的な光景だ。

 ユーコは薄いながらもしっかり膨らんでいる乳房を、ソウジローの逞しい胸板に押し付けて、控えめながらもその形を変えている。うおっ。こ、腰が動いてる。いや、うん、凄いエロティックな感じだけど、でもソウジローはズボン穿いてるし、でもでもコレ当たってるんだよね? だよね? こ、これはすごい。ものすごい気持ちよさそうだ。自分でシたこともないから感覚はわからないが、アレはすごい。

 ……じゃなかった、見るべきとこはそこじゃない。

 無理矢理頭の中を冷静に切り替えて、ハリーは二人の様子を見た。しかし角度からして、二人が抱き合っていることしか分からない。というかこれ、ひょっとして不知火の浴室じゃないだろうか。つまり、割とごく最近のこと? ニキビ面のゴースト(マ ー ト ル)が言っていたのは真実だったというわけか。

 そこでマートルからの話を思い出していると、ふとハリーはつんと鼻に突く匂いを嗅ぎ取った。まさかと思ったが、パーバティから聞いた臭いとは違う。

 するのは、鉄の匂い。

 

「……まさか」

 

 はぁ、とユーコが艶めかしい吐息を吐きだして、ソウジローから少し離れた。

 彼女の唇からは、糸が引いている。恐らくかなりディープなキスをしていたのだろう。しかしその唾液の色を見て、ハリーは青褪めた。

 赤いのだ。

 ソウジローがくぐもった声を漏らすのと、ユーコが彼の首筋に噛みついたのは同時だった。ぢゅるるるる、と液体音が響く。

 そのたびにユーコは嬉しそうな声をあげ、そして潤んだ瞳からはしずくが流れた。

 血を、血を吸っているのだ。

 

「……ソウジロー、アレは……」

「そうだ。吸血鬼化こそ免れたが、デメリットのいくつかは彼女の身に残留した。その最たるものが吸血衝動だ。吸血鬼と違って血を吸うことによって子を成す(ヴァンパイアにする)事態にはならずに済むが、しかし他者の生命エネルギーを取り込まないと、栄養失調になる」

 

 きっと痛いのだろう。

 ハリーは結局、クィレル相手に吸血されたことはなかった。

 だから血を吸われることの苦痛と感覚は想像するしかないのだが、あまり気持ちのいいものではないだろう。なにせ穴が空くほど噛みつかれ、体液を啜られるのだ。いくら二人が裸の男女で、ああして抱き合っていても、決していい気分ではないだろう。

 そして悲しいだろう。

 愛する少女から、食料として扱われることの虚しさ。愛する少年を傷つけ、あまつさえ生きる糧としていることの罪悪感。あの吸血行為は、どれほど二人を傷つけているのだろうか。

 

「俺がこれを喋ったことは、内緒にしてくれ。誰にも言うな」

「え?」

 

 そう言うとソウジローの身体は、徐々に揺れ動くように消えていく。

 それを見て片眉をあげたソウジローは、ハリーに冷たい目を向けて言った。

 

「ハリー・ポッター。なぜ俺の夢に居たのかはわからないが、気を付けろ。明らかに闇の魔術について詳しい何者かの仕業だろう。お前を狙っている何者かだ」

「えっ? ど、どういうこと?」

「他人の夢に這入り込むなど、普通の魔女にできることではないよ。それじゃあな」

 

 ひび割れたソウジローは、そのまま去ってゆく。

 彼の姿が割れると同時、景色もまた変わった。どうやら夜のホグワーツのようだ。

 考えさせられる内容だった。

 確かに、ユーコからはソウジローに対する若干の依存心が見て取れたが、ああいう理由からだったとは。噛みついたからといって吸血鬼にならないと知っている以上、ユーコはソウジローに甘えに甘えている反動で、普段はああしてクールな姿を創っているのかもしれない。

 転じて、自分はどうだろう?

 ユーコが泣きながらもソウジローの血を吸い、そして彼を愛し、隣にいるのはきっとソウジロー自身がそう望んだからだ。そして、彼女も彼の隣に在りたいと願ったからだ。

 でなければ、あの賢く優しい少女が、自分が生きるために愛する青年を傷つけると知ってなお隣に居続けるとは、なかなかに思いづらい。

 傷つけることを知ってなお、愛する人のために隣にいることができるだろうか?

 今まで異性として好意を向ける相手はロンだったが、彼に血を流させると知ってなお自分は隣にいると判断できたか? 答えはノーだ。ハリーなら、ロンを傷つけてしまうくらいなら自分から離れてゆく。

 愛する人を傷つけてでも、愛する人の隣にいようと決心する勇気はいったい如何ほどか。

 

「ままならないもんだなあ」

「そうだね、ハリー」

 

 ハリーの呟きに応えたのは、いつの間にか隣に座っていたセドリックだ。

 どうもハリーの気付かないうちに、彼女の身体は勝手に城壁沿いのベンチで腰を休めていたようだ。ハリーは隣に座るセドリックを見ながら、淡く笑った。

 

「愛って難しいなーって」

「おや。ハリーもそれをわかるとは」

「どういうこと?」

「ああいうことさ」

 

 セドリックが指差した向こうにある光景を見て、ハリーは心臓が止まる思いだった。

 キスしている。

 ロンとハリーが、キスしている。

 あの時のだ。

 ハリーがロンへの想いを捨てて、ハーマイオニーのために動こうと思い立った。

 その時の、ワンシーン。

 

「……正直。あれを見た瞬間は、心の奥底にある栓が抜けた思いだったよ」

 

 その気持ちはわかる。

 ついこの前、味わったばかりだ。

 

「頭の中から血液がさーっと無くなっていく感覚がして、少し脳の裏側が涼しいんだ。そして頭に残った脳みその搾りかすが、訴える。「そんな、まさか」とね」

 

 全くもってその通りだ。

 つまり、セドリックとハリーは全く同じ感情を共有しているということになる。

 それは、つまり、やっぱりそういうことで。

 

「……ロンのことが好きだったのかい、ハリー」

 

 セドリックの静かな問いに、少し迷ったがハリーは首を縦に振った。

 それを見た彼は、静かに微笑む。

 

「そっかあ、フラれちゃったかな」

「……セドリック」

「ああ、ハリー。別に申し訳ない気持ちにはなってほしくないかな。これから僕が君が振り向くような、魅力的な男になればいいだけの話なんだからね」

 

 そう言って微笑んでくるセドリックは、やっぱりハンサムだった。

 彼のようにやさしく、紳士的で、甘いマスクの持ち主の男性に好意を寄せられるというのは、女性としてはなかなかに幸せなことだろう。

 

「ちなみに僕の夢はこれで終わり」

「え?」

「だって夢は夢だよ、変なところをいちいち気にしちゃいけない。さあ、次は君の番だよ。君の夢だ。君が自分の夢に耐えなければいけない番だ」

 

 そういうとセドリックは、ハリーが気づかないうちに頭に巻いていたターバンをほどいてゆく。その動作を唖然と見ていたハリーは、彼がターバンを外し終えた瞬間にハッと気づいた。

 こいつは、こいつはセドリックではない。

 

「『ステューピファイ』!」

 

 素早く懐から抜き放った杖で、流れるように失神呪文を放つ。

 赤い魔力反応光は狙い違わず、髪の毛をすべて剃り落としてしまったセドリックの心臓に命中した。しかし効いた様子はない。

 バキバキと空間にひびが入り、セドリック以外の全てが崩れ落ちた。

 代わりにそびえ立ってきたのは、砂色の柱に階段。

 円形の床を中心にして、一段ずつせり上がってすり鉢状の空間を形成した。

 中央には巨大な鏡があった。見覚えがある。

 ぱっと後ろを見てみれば、巨大な石像から水が零れ落ちる音が響いていた。

 陰気な空気がこちらまで漂ってくる。かび臭さが鼻について、思わず顔をしかめる。

 

【……ヘンリエッタ?】

 

 しゅう、と唇から音を漏らしても、特に返事は帰ってこない。

 現実でこの部屋にハリーがいて、しかも蛇語を使って語りかけたのならば彼女が出てこないのはおかしい。よってここは夢の世界だと断定することができた。

 それに、なんだこれは。

 かつて《賢者の石》を守った四階の廊下から行ける隠し部屋と、サラザール・スリザリンが造ったという秘密の部屋がごっちゃになっている。

 

「会いたかったぞ……ハァリー・ポッタァァアー……ァア」

 

 さらに目の前に居るのは、かつてハリーと対峙した吸血鬼。

 元ホグワーツ魔法魔術学校、闇の魔術に対する防衛術の教授。

 死喰い人、クィリナス・クィレル。

 

「おまえも、ぼくの夢の中の登場人物なのか」

「YES。お友達の夢を旅した気分はどうだ? 勝手に他人の過去を覗き見た感想は?」

「知った事か。死ね」

 

 クィレルとの言葉もそこそこに、ハリーは自分の体に『身体強化』の魔法をかけて飛び出した。クィレルもその腕を持ってして、ハリーが振るった槍を弾く。

 次々と虚空から紅槍を取り出して振るう少女と、獣の牙のように変化した手で応戦する男。異様な光景を見る者は誰もおらず、ただ殺意を振り撒く少女に男が嗤った。

 

「HAHAHAHA! ポッター! 見よ、その姿を!」

 

 がば、とクィレルが口の端を裂きながら大口を開けると、中には大きな鏡があった。唾液で濡れたそれに映るのは、真っ赤な瞳で射殺さんばかりにクィレルを睨む女の姿がある。

 黒い髪を振り乱し、お世辞にも可憐とは言い難い。

 さながら悪鬼のようだ。

 

「醜い! 醜いぞ、私への殺意で醜く歪んでいるぞ!」

「だから?」

 

 クィレルの脇腹へ穂先を沈める。

 血と共に鏡が吐き出され、クィレルの顔が徐々に変化して、最終的にロンの顔になる。

 ロン・クィレルは本物の彼なら絶対にしないような嘲笑を浮かべ、ハリーに向けて鋭い蹴りを放ってきた。ハリーは魔力槍を纏った杖と紅槍をクロスさせて防ぎ、それに勢いに合わせて後ろに跳んでダメージを軽減する。

 靴の裏で地を削るようにしてふんばり倒れずに済んだハリーは、すぐさま攻撃に転じた。

 

「まさに人外! ハリー、君って僕たちよりクィレルみたいな化け物に近いよね!」

「それで?」

 

 紅槍を投擲するも、彼の頭から飛びつくように巻き付いてきたターバンによってハリーの矮躯が放り投げられる。しかし空中に居ながらにして体勢を整えたハリーは、魔力槍を杖から射出して、ロン・クィレルのうなじから腹までを、ぞぶりと貫いた。

 魔力槍に供給した魔力は、数秒保てばいい程度の量だ。ハリーが着地した瞬間には、ロン・クィレルに突き刺さった槍は空気に霧散して消える。

 同時に、傷口を塞ぐ栓がなくなったため赤い血がばしゃりと飛び散り、銀の血がどろりと垂れ流される。苦しげな声が聞こえたかと思えばいつの間にか赤毛は栗毛に変化して、一人の少女となったクィレルは血みどろの顔でハリーの方へ振り返った。

 

「ひどいわ、ハリー。あなたは親友の姿でも躊躇いなく殺すことができるのね」

「だったらなんだ?」

 

 杖先から白くぎらつく刃を生やして、ハリーは膝が震えるクィレルに歩み寄る。

 ソウジローの使っていた魔法を真似してみたが、まだ魔力式が甘いようだ。今度本人に聞いてみるのもいいかもしれない。しかし、いま目の前にいる男を殺すには十分だ。

 

「ハリー、ハリー、ハリー。ハリエット・ポッター」

 

 ぐにゃりと姿を変えたハーマイオニー・クィレルの髪の毛が、短く黒く変化する。

 首筋を完全に隠すくらいには伸ばした黒い髪。サラサラな髪質なのに、どこかつんと跳ねた活動的な雰囲気を見せる髪型。白い肌は健康的な色を保ち、可愛らしい鼻と潤んだ唇は女性としての魅力を放ち始めている。目はエメラルドグリーン色。

 しかし、泥のように濁った瞳は、改めて見るとひどく違和感を覚える。

 

「ぼくは躊躇なく人殺しができるようになっちゃったねえ」

「そうだね」

「どうしてぼくが、クィレルが君の夢として出てきたか分かるかい? 君が初めて明確に殺した人間だからだよ。吸血鬼だと知ってはいたけど、君はそれでも人だと思ってたのさ」

「そうかな」

「これからも殺していくのかい? 人を殺すという行為は、己が魂を引き裂くことだぞ」

「そうかもね」

 

 魔力刀を振り上げたハリーは、冷たい目でハリー・クィレルを見下ろす。

 見た目的に自分を殺すようで嫌な気分だ。

 

「君のような奴がこれからも出てきて、ぼくたちを脅かすというのなら。ぼくは殺す」

「ふふ。簡単にそう言える時点で、君はもう人間じゃないよ」

 

 手の平に嫌な感触が伝わってきた。

 生温い暖かさが顔に飛び散り、気分を害されたハリーは頬を手の甲で拭う。

 転がるハリーの頭を見ると、ちょうど虚ろな瞳と目が合った。

 『化け物め』。

 ハリー・クィレルの唇がそう動いたことに気付くも、直後に生首は消滅してしまう。

 残された胴体が、どうと地面に倒れ伏したのを目にして、ハリーは呟いた。

 

「『リディクラス』」

 

 

 ハリーが目を覚ますと、目の前にはマダム・ポンフリーが居た。

 なんかおかしい気がする。

 第四の課題の真っ最中ではなかったのか。

 マダムはハリーが意識を取り戻したことに気がつくと、杖を振るって誰かに念話を飛ばしたようだ。数十秒後、医務室の扉を開けて入ってきたのはダンブルドアたちだった。

 マクゴナガルにムーディ、スネイプもいる。

 

「ハリー、ハリー気が付いたかね」

「え? ああ、はい」

 

 随分と急いた様子のダンブルドアに面食らいながらも、ハリーは上半身を起こして答える。しかしマダム・ポンフリーの手によってハリーの頭は枕に押し付けられた。

 面会時間は十分だけですと言い残したマダムが去ると同時に、ダンブルドアは言う。

 

「のうハリー。君は夢の中で誰に会った?」

「え?」

「きみは今まで、第四の課題である《ロードボガート》の作りだす夢の世界におった。そして、競技が始まって十時間後の今、ようやく君が夢から脱出できたのじゃ」

 

 十時間も寝ていたのか。少し寝坊助が過ぎるようだ。

 ハリーが競技の勝敗を心配していると、残念ながら君の第四の課題の成績は最下位じゃと告げられる。ちょっとばかりショックだ。

 しかしダンブルドアにとって重要なのは、ハリーの夢の内容らしい。

 

「えっと、みんなの夢に紛れ込んでました」

「と、言うと……」

「代表選手みんなの夢に混線? してたみたいなんです。ローズマリー、フラー、クラム、ブレオ、ソウジロー、セドリックの順番で彼らの夢に入ってました」

「なるほどの。それで君が起きるのが遅かった理由が分かった」

 

 マクゴナガルが言うには、起きた順番はいまハリーが言った通りだそうだ。

 スネイプ曰く、《ロードボガート》という魔法生物は真似妖怪ボガートの亜種であり、精神的に獲物の脳に接続して悪夢を見せ、それによって揺れ動く感情エネルギーを吸い取るというモノだそうだ。

 だが夢を見た獲物が揺り動かした感情から生まれるエネルギーを吸い取ることが目的のため、獲物を殺すことはないのだという。つまり、夢の中でクィレルに襲われたのはおかしいということだ。

 ならばアレは、どういうことなのだろうか。

 

「闇の輩の仕業に違いない」

 

 ムーディが唸った。

 

「アラスター! なんてことを言うのです!」

「だがそれしかあるまい! ポッターめを殺して喜ぶのは誰か? 薄汚い連中だ!」

 

 マクゴナガルとムーディが言い争っている中、ハリーはダンブルドアの顔を見る。

 なにやら厳しい顔をしていたダンブルドアが、「何かね」と意識を向けてくれた。

 

「てっきり代表選手の夢は放送されてると思ったんですけども」

「ああ、それじゃがの。最初はスクリーンに映されておったよ。ミス・イェイツが全身スーツの悪い魔法使いをやっつけたり、ミスター・クラムがいままで試合してきた強豪選手たちと試合したりの。だが途中から、君が言った順番に映像が映らなくなってしまったのじゃ」

「……ぼくが夢に出たからでしょうか?」

「かもしれんし、そうではないかもしれん。それに、君の画面は最初から映らなかった」

 

 不穏な話だ。

 眉をひそめたハリーの頭を撫でようとしたのか、ダンブルドアは一瞬手を伸ばし、そしてそれを引っ込めた。代わりに微笑んで、ダンブルドアは言う。

 

「今回は不可解な結果に終わってしまったが、話を聞く限りハリー、君も頑張ったのじゃな。よしよし、よく頑張った」

「先生、やっぱりアレは……」

「うむ。おそらくアラスターの言うとおり、何者かが君を狙って仕掛けたものじゃろう」

 

 ついに来たかという気持ちと、本当に来てしまったのか、という気持ちが半々ハリーの心に溢れる。

 元々この競技に参加している理由は、何者かがハリーを陥れようとしたからだ。

 そんな何者かが、ここにきて動き始めたということ。

 それが何を意味するのか、ハリーにはわからない。

 分からないが、危険であることは確かだ。

 

「ダンブルドア先生、もう面会時間を二〇秒も過ぎています! 患者を休ませてあげてくださいな! 彼女には休息が必要なのです!」

「おお、すまんのポピー。ではハリー、今日はゆっくり休みなさい。明日には友達と会うことも許されよう。それまでは、今度こそ安らぎを得る夢の中で楽しむといい」

 

 ダンブルドアが押しのけられ、マダム・ポンフリーが持ってきた飲み薬がハリーの目の前に突き出された。ぼこぼこと泡立っているそれから立ち上る臭いは、はっきり言って酷いものだ。

 しかし良薬口に苦しという言葉が日本にはあるらしい。ならばとそれに倣って口に含んでみたところ、舌をナイフで切り刻まれたような感覚がする。不味い。いや、痛い。

 思わず吹き出すと、ダンブルドアのローブがべったり汚れてしまう。嫌な沈黙が数秒続いたのち、愉快そうにダンブルドアが笑った。

 

「ほっほっほ。苦い薬はわしも嫌いじゃ」

「……ご、ごめんなさい」

 

 面白そうに笑い続けるダンブルドアが退室すると、それに続けてマクゴナガルとスネイプも医務室を出ていく。ハリーはマダムから薬を飲むように催促されて、嫌々ながらそれをゴブレット一杯飲みほした。

 喉の中がイガイガする。そう訴えるも、身体にお薬が効いている証拠ですと取り合ってくれなかった。しかし途端に眠気が押し寄せてくると、ハリーはその濁流に逆らえない。

 ハリーは睡魔の嵐に身をゆだね、瞼を閉じるとそのまま眠りにつくのだった。

 

 

 ハリーはロンとハーマイオニーと共に、ホグズミード村を散歩していた。

 課題の結果は残念だったが、身体に後遺症はなく今ではすっかり回復している。

 現在の順位でハリーは六位に転落してしまったが、ブレオが下にいる。どうやら彼はもはや順位など気にせずセクハラへ及ぶ覚悟を決めたようで、同じく順位を気にしていないディアボロ生たちと一緒になぜか踊りながらホグズミードを楽しんでいた。

 春も終わりごろの四月だが、バタービールはいつ飲んでもおいしい。

 偶然相席になったルード・バグマンは妙に上機嫌で、ハリーの肩をばんばん叩いて熱烈なハグをかますと、ハリーたちのテーブルに会った領収書をかっさらって奢ってから《三本の箒》を後にしていった。ご馳走になったのはありがたいが、いったい何なんだアレは。

 訝しげな顔でバグマンを見送った三人に、聞き覚えのある声がかかる。

 

「きっと臨時収入でもあったんじゃないかな」

「あらユーコ、それにソウジローも」

「デートかよ」

「そうだよロン君。愛しい彼とデートさ」

「あーはいはいご馳走様」

 

 私服姿のユーコとソウジローだ。

 ユーコは清潔感のあるブラウスにゴシック調のネクタイをして、黒いロングスカートという面白い恰好だ。ソウジローはというと、いつも通りのシャツにスラックス。細身でハンサムだからいいものの、センスがおっさんである。

 ハリーはふとあの夢での光景を思い出し、ユーコを見て少しだけ赤面した。

 目ざとくそれを発見したソウジローが、視線だけでハリーを牽制する。「言わないよ」という意味を込めてウィンクしたところ、そこでユーコが笑った。

 

「婚約者を差し置いてアイコンタクトで通じ合うってどうよ?」

「ユーコもできるんじゃないの?」

「まぁ出来ると思うけど、やってみようか」

「……ユーコ、この馬鹿者。公共の場でそんなこと言うんじゃない」

「いまなんて言った? なぁなんて言った!?」

 

 若干二人ののろけに巻き込まれた感はするが、三人は注文したものを平らげると二人に別れを告げた。いつまでもデートの邪魔をするのもアレだったからだ。

 しかし《三本の箒》を出てしばらくして、フレッドとジョージを連れたローズマリーに出会った。どうやら誰かを探しているらしく、焦った顔をしている。双子の方はにやにやと明らかに悪だくみをしている顔だ。

 

「おう、ハリー! 悪ぃんだけど、ソウジローとユーコ見たか!?」

「あー、それなら《三本の箒》に……」

「ハリー、ダメ!」

 

 ハーマイオニーの忠告は、一足遅かった。

 ハリーから聞きたい情報を引き似たローズマリーは、女海賊のように手下二人を引きつれて突撃してゆく。ハーマイオニーの方を振り向いて首を傾げると、「デートに乱入する気なのよ」と答えを貰った。

 なるほど、これは邪魔してしまったかもしれない。いやウィーズリーズがいる以上、確実に邪魔してしまっただろう。あとで謝っておかないとならない。

 

「大変だなあ、みんな……」

 

 ロンの呟きに、まさにぼくらも大変だっただろうがと言いたくなるが我慢。

 楽しい時間にそんなものを持ちこむのは、流石に無粋だ。

 

「さあ、急ぎましょう。包んでもらった料理は崩してないわよね」

 

 ハーマイオニーが言うと、ハリーたちはわざわざ狭い路地裏を通る。

 そして三人が通りに出れば、その姿は誰にも見ることが出来なくなっていた。

 ハリーの持つ《透明マント》を三人で被る。ロンの身体が大きくなってきたので、ひょっとしたら来年にはもう三人一緒に隠れることはできなくなるかもしれない。仲ではなく、サイズの問題だ。

 姿を消したハリーたちがやってきたのは、かつて死闘を繰り広げた《叫びの屋敷》。

 今日はここに待ち人がいるために、わざわざ姿を消してまでやってきたのだ。

 

「おじさん、いる?」

「わふん」

 

 姿の見えない少女の問いに、部屋の隅で寝そべっていた巨大な犬が応えた。

 透明マントから抜けて駆け出したハリーは、その犬に向かって飛びついていく。一方の犬は、一瞬にしてその姿を変えると、一人の男性へと姿を変じた。

 脱獄犯、シリウス・ブラックだ。

 ハリーを抱き留めたシリウスは、ハリーの脇の下に手を差し入れてぐるりと一回転してから彼女を下した。それでもぎゅっとハグしてくるハリーの頭を撫でながら、彼は言う。

 

「すまないね、こんなところまで呼び出してしまって」

「ううん、いいんです。私たちもお話を聞きたかったですし」

 

 ぐりぐりとシリウスの腹筋に頬擦りしている子犬のようなハリーを引き剥がして、ロンはシリウスの前にいくつかの包みを置いた。

 包みを解けば、様々な料理が出てきて食欲を刺激する。

 唐傘模様のこれは、《実封炉庫(ジップロック)風呂敷》なる魔法具だ。適当なことを言ってユーコから借りてきた、信頼と安心の日本製である。

 途端、ハリーは彼の腹から大きな虫の鳴き声を嫌でも耳にした。

 

「シリウス、お腹すいてるの?」

「かれこれ一週間なんも食ってない。悪いが、先に食事してもいいだろうか?」

 

 今は人間の状態なのに、涎が出そうだ。

 チキンを貪り喰らいながらシリウスが言うには、逃げ続けるには犬の格好の方が都合がいいのだとか。シリウスの顔はもはやマグル界でも有名であり、うかつにマグルのショッピングモールでミルクとコーンフレークでも買おうものなら、仕事熱心なポリスマンたちが駆けつけてくるという展開になりかねない。

 ゆえにシリウスは、動物もどき(アニメーガス)という利点を生かして路地裏で残飯を漁ったり、時にはネズミを捕らえてそのままかじりついていたそうだ。

 あまりにあんまりな食生活に同情したのち、何年ぶりだろうかと呟きながらチョコレートバーをかじるシリウスが、あんまりにも哀れでしょうがない。

 ハリーはもぐもぐご飯にかぶりつくシリウスを後ろから抱きしめた。本人は慈愛たっぷりに抱擁しているつもりなのだろうが、ロンとハーマイオニーにはコアラが親に背負われているようにしか見えなかった。無論、二人とも愚かではないので口には出さない。言えば恥ずかしさのあまり烈火の如く怒ることは目に見えているからだ。

 背中にコアラをくっつけたまま、シリウスはバゲットを食い千切りながら言う。

 

「君たちの相談とは、ハリエットを狙う何者かについての推察だったね」

「うん。ねえシリウス、僕としてはやっぱりダームストラングのカルカロフが怪しいと思うんだ」

 

 イゴール・カルカロフ。

 一時期ロンが、恋敵クラムの保護者のような存在であることを知って若干行き過ぎた嫌疑をかけていた人物だ。かつて大ファンであったクラムすら目の仇にしていた事実についてはハリーもハーマイオニーも知らないが、しかし三人の仲が修復されてから、改めて考えてみればみるほど怪しい。

 ダームストラング専門学校という魔法学校は、闇の魔術を実際に教えることで賛否両論を受けている学校だ。校長にして自ら教鞭をとるカルカロフ曰く、『相手の使う魔法を知らずして何が防衛術か。闇の技を熟知することこそ真の防衛である』とのこと。

 ロンなりに偏見を極限まで捨てて考えてみると、なるほど確かにその通りだと考えられる。ハリーからの影響も幾分かあるが、何も知らない相手よりは、よく見知った相手との報が戦いやすいだろう。無論、親しい人間と敵対するとかそういう考え方ではなく、例えばスコーピウス・マルフォイをやっつけるには情報が多ければより手段が増えるという、わかりやすく噛み砕いた結果だ。

 そう考えての発言であったが、意外にもシリウスからの返答は褒め言葉だった。

 

「なるほど、よく考えたなロン。彼の教育方針に目を付けてそう思ったんだな」

「うん、そうなんだ」

「確かに奴は可能性が高い。奴はな、元死喰い人(デスイーター)だ」

 

 いきなり飛び出してきた情報に、ハーマイオニーは驚いて目を見開き、ロンはそれ見たことかと自慢げな顔をする。しかしシリウスはふっと笑って、ロンに向かって言う。

 

「だが残念ながら、彼がハリエットを狙った下手人である可能性は低いだろう」

「えっ、どうして? ハリーを狙って喜ぶ変態どもなんて、『例のあの人』の部下くらいだろう?」

「それはそうなんだが。しかしロン、彼は違うと断言してもいい。なぜなら奴は臆病だからだ。ダンブルドアのいる前で、ハリエットを狙う度胸などない」

 

 そう言われて、ハーマイオニーは思い出す。

 そういえばムーディに話しかけられたときに、妙に怯えた様子を見せていた。

 それを聞いたシリウスは、にやにやと笑いながらそれも当然だという。どうも、死喰い人時代の彼を逮捕したのはアラスター・ムーディその人だったそうなのだ。

 あの恐ろしい顔を怒りの形相に歪ませて、殺してやるとでも叫びながら全速力で追いかけてくる。そんなもの、トラウマにならない方がどうかしている。

 

「うーん、絶対あいつだと思ったんだけどなあ」

「着眼点は悪くないが、あの悪人面で腰抜けとは思わんだろう。仕方ないさ」

「うーん、じゃあシリウス。新三校はどうかしら。アメリカ、イタリア、日本の、新たに魔法学校対抗試合に参戦してきた三校よ」

 

 今度は、ハーマイオニーが意見を出す。

 それを聞いたシリウスは少しだけ渋い顔をしながらも、自身の見解を述べた。

 

「正直言って、私もそこまで詳しいわけじゃない。特にイタリアのディアブロ魔法学校は新興校だ。ついこの前、自主的に出所した私には情報が少なすぎるんだよ」

 

 聞けば大体の疑問に答えてくれるものだから、ロンたちは少し失念していた。

 十年以上アズカバンに閉じ込められていたというのに、この情報量。おそらくダンブルドアともつながっているからなのだろうが、それでも限界はあるのだろう。

 そしてロンは、いい加減シリウスの背中で眠りはじめそうなハリーを引っぺがして隣に座らせた。今までの話を聞いていたかも怪しいほどには安らいだ表情をしていたのは危なかったと思う。まるで親犬に甘える子犬だ。

 

「べ、別に寝てないし」

「はいはい。それで新三校だったね。アメリカのクェンティン・ダレルは、かなりのやり手だ。ただの陽気なおっちゃんに見えて、その実かなり腹黒い。しかし彼はアメリカ人らしく、自由を愛する男だ。そう簡単に闇の勢力にこうべを垂れたりしないだろう」

 

 意外にも高評価。

 あの太ったヒゲ親父がそんな人間だとは思わなかった。

 しかしハリーが思い出す限り、ローズマリーにスパイ行為を提案したりといった黒い部分は見えていたように思える。そう考えると納得の情報だ。

 それをシリウスに伝えると、顎に手を当てて少し考えた後にハリーの頭を撫でた。

 

「うん、裏付けが取れた。ありがとうハリエット。君の話を聞く限り、どうやらイェイツ家の長女も心配する必要はなさそうだ」

 

 友人なのだ、当然である。

 ハリーがそう言いたそうにしていることに気付いたのか、シリウスは苦笑いして乱暴に頭を撫でた。嬉しそうに撫でられる子犬ハリーを放って、ハーマイオニーは話の続きを求めた。

 

「イタリア……ディアブロはさっきも言ったように、少ししか知らない。校長のレリオ・アンドレオーニは魔法芸術の第一人者だ。具体的には彫刻だとか、絵画の方面でよく名前を知られている。私の実家にも彼の絵が飾られていたのを覚えているし、魔法省のロビーにおいてある金の像は彼が贈ったものだと聞いている」

「へー! あの趣味の悪い像、あの人が造ったのか!」

 

 ロンが感心したように言うので詳細を聞いてみれば、黄金で造られた成金趣味の銅像なのだとか。確かにそれはずいぶんな悪趣味だ。

 しかし魔法で創りだして芸術というのは、ちょっと感覚が分からない。

 

「まあ、私やハリーのように戦闘に特化した魔法族からしたらちょっと価値がわからないだろうな。彼は文化的な面で見ればとても影響力のある人間だが、闇の勢力に通じているかというと……微妙だな。魔導を求める闇の帝王が、そんな人間を欲しがるとは思えない」

「そうかな? 『あの人』なら何でも欲しがりそうな気はするけど」

「ロン、それにアンドレオーニは親マグル派だと聞いた。なんでも大昔のマグルの芸術家を一番に尊敬しているのだとか。週刊魔女で読んだことがある」

「確かに、ディアブロではマグル学が必修科目だって聞いたわ。校長がマグル贔屓だったら、学校ごとマグル贔屓なのも納得よね」

 

 言われてみれば確かにそうだ。

 あらゆる魔法を求め、もっと力をと貪欲に吸収することを快楽としていたヴォルデモート。そんな彼からみれば、まるで生き物と勘違いするほどの彫刻を彫ったり、感動を伝えてくれる絵画を描く魔法に意味を見出すだろうか。答えは当然、ノーだ。

 さらにその魔法使いが一番尊敬しているのはマグル。それも昔の、芸術家という戦いには程遠い性質を持った非魔法族だ。あのヴォルデモートが、彼がマグル贔屓であることを知ればどうするだろうか。答えは当然、アバダケダブラだ。

 

「日本のことは……ちょっとよく知らないな。カンフーの国だったかな」

「それチャイニーズだよシリウス」

「そ、そうか」

 

 日本に関しては、どうもシリウスは当てにならないようだ。

 ためしにソウジローが好きだというスモー・レスリングについて話してみれば、大慌てで「ハリエット、君にはそういういかがわしいものを見るのは早い」と言うものだから三人は大笑いしてしまった。

 そうしてしばらく他愛ない話が飛び交い、談笑し、心安らぐ時を過ごした。

 《忍びの地図》の件から、シリウスが意外と悪戯坊主だったことがバレ、ロンと共にくだらないジョークで笑う姿をハーマイオニーが時折宥めたりする。ハリーはその様子を眺めながら、目を細めて微笑んでいた。

 シリウスが最後のヨークシャープティングを食べ終えた(ハグリッドからもらってきたロックケーキは最後までハリー以外手を出さなかった)頃になって、ハリーが最近やってきた試練の話に移る。

 ここ最近で終わった試練はやはり、いつ始まったのか全く気付くことのできなかった第四の課題だろう。あれに関しては、残念ながらハリーの順位は最下位だった。

 

「そうか、そいつは仕方ないな。《ロードボガート》というのは……はい、ミス・グレンジャー。答えてみなさい」

「《まね妖怪ボガート》の上位種で、通常のボガートと同じく不定形魔法生物であり情食性魔法生物です。ボガートと同じくその本当の姿を確認されておらず、しかし肉体というエネルギー効率の悪い物質を通さず夢の中という精神的な繋がりから悪夢を見せ、知的生物の感情エネルギーの起伏を糧として活動します。感情そのものを吸い取らないのは、被食者に気付かれないまま寄生するのが目的だという説が有力です」

「流石だハーマイオニー、文句なしの満点だよ。グリフィンドールに一〇〇点!」

 

 完璧・パーフェクト・ハーミー。

 シリウス曰く、これはどうもN.E.W.T.(イモリ)レベルの問題だそうだ。

 ハリーが知らなくても無理はない。ハリーが上級生の知識を得ているのは、ひとえに自身の戦闘力増強のためだ。戦いに役立つ呪文について調べはするものの、こういった脇道にはいかなかったのだろう。

 ロンは感心しながら、シリウスに質問した。

 

「じゃあ、ハリーが他の人の夢に行ってしまったのもロードボガートのせいか」

「なに?」

 

 ロンの何気ない一言に、シリウスの片眉があがる。

 一気に不穏な空気になった《叫びの屋敷》内に、シリウスが詳しく話してくれという声が響く。

 

「えっと。ぼくが悪夢を見続けてるとどうも内容がおかしいから、これは対抗試合の課題なんだってことに気付いて、そうしたら他の人の夢に混線しちゃったんだ」

「ごめん、線混ってなに?」

「混線だよ、ロン。分かりやすく言えば、ぼくとハーマイオニーが念話魔法を使ってる最中に君がハーマイオニーにつなげようとしたら、ぼくに繋がっちゃったみたいな」

「なるほどマグル用語か。ごめん脱線したね、続けて」

 

 ロンが引っ込んだのを見て、シリウスは夢の内容を教えてくれと言う。

 

「最初はローズマリーの過去だった。お父さんを亡くしたことと、ちょっとそれ関係で辛い目に遭ったこと。ローズはヒーローのお父さんが大好きだったみたい」

「イェイツ家の当主が死んだのか……それは大変だろうな」

「うん。次は、フラーとクラムが一緒に出てきた。ふたりとも、全然知らない人が褒めてきたり、かと思ったら同じ人が罵倒してきたりする嫌なところに居た」

「それは二人の経験から、そういった内容になったと受け取れるな。フラー・デラクールはヴィーラの血を引いているから、恐らく差別的な扱いを多く受けたのだろう。ビクトール・クラムは、プロクィディッチ選手になる前はただの座学が苦手な一学生だ。風当りの強い居場所から一転、華やかな舞台にあがったことへの気持ちから、そういった夢になったと予想できる」

 

 ハリーはシリウスの言葉に感心した。

 何も情報を得ていなかった状態から、口頭だけでこうも夢の内容を暴いているのだから、その凄さは尋常ではない。

 ロンとハーマイオニーが、憧れのアイドルを見るような目でシリウスを見ているハリーに気付いて溜め息を漏らした。本当に犬のようである。

 

「次はブレオ。あいつは……、……あいつなんだったんだろう? お祭りみたいなところで会ったけど、あいつセクハラしていっただけか?」

「ハリエットそこを詳しく。私は再びアズカバン送りになる覚悟がある」

「はーい駄目よシリウスー、ハリーのためを想うなら抑えて抑えて」

「まあ、そこで彼と会話して、これが試練だって気づいたんだよ」

 

 怒り冷めやらぬシリウスはそれを聞いて、そうかと唸る。

 ブレオは確かにド変態で救いようのないエロスマンだが、しかし役には立った。

 

「次はソウジローの夢。ユーコと……あー、……ごめん秘密にしてって言われてる」

「言われてる? 明確に会話したのか」

「う、うん。そうだけど……」

 

 ソウジローとユーコの関係について、勝手に口にするべきではないと思ったのだが思った以上にシリウスが食いついた。

 ハリーの肩を両手で包み込み、真剣な目でハリーの目を見つめる。

 

「ハリエット、君が友情に厚いことはわかっている。だが、話してくれ。君が助かるための糸口が見つかるかもしれないんだ」

「うー……、……ごめんソウジロー。えっとね、昔ユーコが、ソウジローの慢心によって吸血鬼に捕えられてしまったって夢だったんだ」

「吸血鬼」

「うん。それで、ユーコは吸血鬼化しないで済んだんだけど、吸血衝動だけを飢えつけられちゃったから、いまも時々ソウジローから血を貰ってるらしいんだ」

「……、……そうか……」

 

 ハリーの言葉を聞いて、シリウスは深く考え込む。

 ソウジローの話におかしいところがあったのかとハーマイオニーの方を向くと、首を横に振られた。どうやら彼女でも分からないらしい。

 吸血鬼についての知識は極端に少ない。

 現代では対処方法が多数編み出され、対した脅威ではないように扱われているが、そんなことはとんでもない誤解である。

 夜の王(ナイトキング)生命なき貴族(ノスフェラトゥ)完全上位捕食者(アブソリューター)誇り高き一族(ノーブルス)

 数多の名が示す通り、ヨーロッパ魔法史上において吸血鬼とは常に人類の敵として登場してきた。なにせ血を吸う側(かがいしゃ)吸われる側(ひがいしゃ)なのだ、対立せずして何が生命か。

 マグルにすらその存在が知られているほど、かつての吸血鬼はその勢力を大きく広げていたとされる。中世魔法界においては、各国の魔法省に《不死性魔法生物対策部隊(ヴァンパイアハンターズ)》なる部署が大真面目に設立されていたと噂されるほどの被害が出ていたのだ。

 では、吸血鬼において一番恐ろしいのは何か?

 これは、子供が語る「一番決闘が強いヤツは誰か」と同じ程度の考え方でいい。

 圧倒的な力だろうか。否、それなら魔法でどうとでもなる。

 強靭な生命力だろうか。否、死の呪文の前には如何なる不死すら無意味。

 多様な特殊能力だろうか。否、魔法とてその程度の多様さはあって然るべきだ。

 

「では答えは何か。正解は、異常なまでの繁殖力だ」

「は、繁殖力?」

「そうだハリエット。奴らの繁殖力は、生物としてあってはならないレベルだ」

 

 吸血鬼は、厳密に言えば人類とあまり差異はない。

 他者の血を効率よく自身の栄養として分解できる特殊な器官がある程度で、大多数の構造は人間と変わりないのだ。つまり、哺乳類である以上は交尾によって子を成すことができる。

 しかし吸血鬼にはもう一つの繁殖方法がある。

 

「ハリエット、君はそれを知っているはずだ」

「……吸血行為。クィレルがそれで吸血鬼に成ったって言ってた!」

「そう、それだ。吸血鬼にとって相手の血を吸う行為は、つまるところ性行為と同一といってもいい。互いの体液を交換し合うという意味では同じだな」

 

 少しハリーとハーマイオニーが頬を染めたが、いまはそんな乙女チックな反応をしていい場面ではない。それに二人とも生娘ではあるが、もう何も知らない年齢というわけではないのだ。

 ロンが不快そうな顔をしているのを見て、シリウスは口を開く。

 

「そう、ロン。君の反応は正しい」

「……なんでなの、シリウス」

「言葉にするのも憚られるがね。まぁつまり、そういううことだ」

 

 その言葉にハーマイオニーが眉をしかめ、ハリーが隠すことなく舌打ちした。

 女性である以上、その恐怖は想像するだけでも恐ろしいと分かってしまう。

 

「問題は吸血されれば、男だろうと女だろうと感染するということか。つまり彼らは食事のたびに仲間を増やす。血を吸われた者は基本的に思考傾向が変化し、元は人間だったにもかかわらず、元同胞のことを食糧と見做すようになる」

「じゃあネズミ算式に増えるじゃない……」

「そうだ。だからこそ吸血鬼はとことんまで衰退したと言ってもいい。そこまで危険な連中を、人間が生かしておく道理はなかったんだ。人工的に太陽光を放射する『太陽の呪文』が開発されてからは、彼らは全面降伏するしかなかった。もう彼らは一部地域にしか住めない、絶滅寸前の貴族になってしまったんだよ」

 

 さて、とシリウスはそこで話を区切った。

 前置きは終わりということだろう。ハリーは何を言われるのかと緊張し、そして続くシリウスの言葉に驚いた。

 

「だから吸血鬼なんてものが、そうそう簡単に日本へ行って女性を攫うなんて芸当ができるはずがないんだ。ヨーロッパ内ならともかく、アジアにまで被害を広げては、今度こそ一族が滅ぼされてしまうからね」

「でも、でも万が一ってことも……」

「さらに言うと、子を成す目的で血を吸われた人間が、吸血鬼化をまぬがれた例を私は寡聞にして聞いたことがない。」

 

 それは何を意味するのか。

 ハリーはそれを考えたくなくて、思考に蓋をする。

 しかしハリーの耳にシリウスの言葉が突き刺さって、耳も塞ぐべきだったと後悔した。

 

「だからソウジロー・フジワラは、おそらく嘘をついている」

「そんなっ! そんな、こと……!」

 

 ハリーがシリウスの言葉に反論した。

 だがその勢いは、弱い。肯定したくはないが、否定できるだけの材料もないからだ。

 そんな彼女の頭を撫でて、しかしシリウスははっきりと断言する。

 

「だがハリーの見たという状況から考えるに、おかしいことばかりだ。特にブレオから先の展開はあまりに不可解だ。不自然な嘘をついたフジワラに、クィレルに変化したディゴリー。それに最初の夢も変だ、《ロードボガート》は宿主を殺してしまうような夢は決して見せない。明らかに夢の内容が改変されている」

「でも、でもおかしいだろ! 夢をいじったのは、」

「他人の夢をいじるというのは、結構高度な魔法式を構築しなくてはならない。遠隔で仕掛けるならもっと難しい。だから、少なくとも夢を見ているハリーに直接接触できるだけの条件を満たしている人物ということになる」

 

 続けて放たれる言葉に、ハリーの顔が哀しげに歪んでゆく。

 六校魔法学校対抗試合は、各国の交流が主な目的として掲げられていた。ハリーは代表選手たちとある程度は仲良くなり、親交を深めているホグワーツ生の一人だ。

 

「ハリーを狙う何者かの正体が、ぼんやりと見えてきたな」

 

 だからこそ、信じ切ることができない。

 孤独は人を殺すというが、関係が多いと今度は人を縛るものになる。

 いま足を固められて窮地に陥っているのはハリーなのに、その繋がりの縄を切れないでいるのがその証拠だ。築き上げた絆は時に、大きな足かせとなってしまう。

 だからこそハリーは、顔を歪めてしまう。

 

「教師か生徒とかはわからないが……、すでにハリーと面識のある人物には間違いない」

 

 見知った顔の人物を殺さねばならない可能性があるなど、思いたくはないのだ。

 




【変更点】
・グロ中尉。
・オリジナル課題。定番の過去で心を抉るタイプ。
・何者かが明確にハリーを狙っている形跡が見られた回。

過去回でした。相変わらずピンポイントに心を抉ろうとしてくるハードモード。
だんだん不穏な雰囲気になってきましたよという意味でのサブタイだったのですが、しょっぱなから「残酷な描写」タグが大忙しでした。
因みにクィレルが出てきたのは、ハリーの中で彼を殺したことがトラウマになっているからです。これから先もつい殺っちゃう場面が多くなるでしょうが、それでも明確に自分の意思で殺害した人物ですので、きっとこの先何年たっても彼女は当時の事を夢に見るでしょう。


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11.闇の胎動

 

 

 

 ハリーはいま、走っていた。

 いや、正しく言えば卑劣にも妨害しながら走っていた。

 スタート地点では巨大な鳥もちによって地面に張り付けられて、むすっとした顔のクラムと大声でハリーを罵るローズマリーがいる。どちらも観客の視線が釘付けになるほど芸術的にセクシーな捕まり方をしている。

 たった今、全力で走るハリーの横を追い抜いて走り去ったセドリックが、ハリーの仕掛けた落とし穴にひっかかって長々とした悲鳴をあげながら退場した。南無三である。

 それに恐怖したフラーが一瞬動きを止めたのがいけなかった。彼女の腰にブレオが抱きつき、何らかの呪文を唱えたのかフラーはそのまま倒れ込んでしまう。

 姿勢を崩した今がチャンスだ。ハリーはブレオがこちらに気付き杖を向けてくるも、彼の腕に『武装解除呪文』を撃ち込んで杖を弾き飛ばした。

 

「うおおお、お、おおおりゃあああっ! 覚悟しろ変態(ブレオ)ーっ!」

「ひっ、卑怯者ーっ! 僕の天使ハリエットたんがこんな外道を行うわけがないーっ」

「フハハハハフハハフハフハ! 最終的に勝てれば、手段や方法なぞどうでもよかろうなのだーっ! 勝った! 死ねいブレオ!」

「ヤダバー!」

 

 空気の槍を尻に突っ込まれたブレオは、カエルの潰れたような声をあげて崩れ落ちた。横たわる彼の体を乗り越えようとして失敗。彼の腹を踏み付けてでもハリーはゴール目掛けて全力疾走を続けた。

 『身体強化』を存分に使用し、『突風魔法』の魔法式を弄り回して靴の裏からジェット噴射のように風を吐き出して更に加速する。

 五メートルほど前方で似たような魔法を行使して疾走しているソウジローに狙いを定めて、『武装解除』を撃ち込む。しかし後ろに目でもあるかのように刀杖を振るい、ソウジローは魔力反応光を弾き飛ばした。

 

「妨害レースとはよく言ったものだな。もう俺たちしか走ってないぞ」

「黙れソウジローお前はユーコの顔をしばらく見れないほど恥ずかしい目に遭わせてやるから覚悟するがいいお前の命運もここまでだ潔く散ることだなフハハンハン」

「どうしたハリー、なにがあった!?」

「ええい黙れい! ブレオが使おうとしてたのを解析して習得した魔法を喰らえっ! 『ミセルリベロ』、解きほぐせ!」

 

 前傾姿勢で高速移動していたハリーとソウジローの間で、無駄に光り輝くトリコロールカラーの魔力反応光が瞬いた。

 ソウジローがまたも刀杖で魔力反応光を断ち切ろうとするものの、刀身部分に反応光が着弾すると同時、反応光は三色の光にばらけた。三つに枝分かれしたそのうちの一筋がソウジローの胸に直撃すると、ソウジローから奇妙な声が上がる。

 その光景を見たくなかったハリーは、一気に走りづらそうになったソウジローをおいてゴールテープ目掛けて全力疾走する。

 観客席から、男子生徒の爆笑と女子生徒の黄色い悲鳴、あとユーコが日本語で何か叫んでいる声が聞こえてきた。

 ハリーにはその理由が分かっている。何故ならハリーが放った魔法は、名づけるとしたら『脱衣呪文』。縛り付けたものを開放する魔法式が組み込まれているので、ベルトや下着のゴム、はたまた衣服を縫合した糸が消え去ってあられもない姿になっているのだろう。

 高笑いしながらゴールテープを切ったハリーには、賞賛と罵声、そして笑い声が彼女の一位通過を祝ってくれたのだった。

 

 

「最低な課題だったわ」

 

 ハーマイオニーが憮然とした顔で語る。

 第五の課題の内容は、いわゆる障害物競走だった。

 ただし妨害推奨の、とんでもない競争である。

 約二マイルほどのコースに設置された障害物を何とかしながら、ライバル選手を蹴落として、誰よりも早くゴールテープをぶっちぎる。それが今回の競技内容だった。

 ここで一番風変わりなのが、この競技は元々アメリカの魔法学校で広く行われている障害物競走《LOLレース》がもとになっているのだ。この競技で点数が高くなる最大の条件は「おもしろいこと」、ただそれのみ。

 現に審査員席でも、ダンブルドアやクェンティン・ダレルが涙を浮かべてまで大笑いしていた。折角の競技だからと一切遠慮なく妨害に走ったハリーや、通常運転のブレオが高い点数を得たのもここが理由だ。

 おかげでハリーは、第四の課題で最低点を取ってしまったにも拘らず上位陣に食い込むほどの順位を見せて、現在の総合順位は前回から三つ上がって二位だ。

 第六の課題については、どうやら第二の課題と同じくノーヒントのようだ。順位が影響するようなことをダンブルドアが言っていたので、少しだけ有利に働いたかと思うと今回無茶した甲斐があるというものである。

 

「無茶というか無謀だよね」

「普通に風呂とかであたしらに会うのに、よくできるもんだよな」

 

 現在地は風呂場。

 不知火大浴場の女湯で、ユーコとローズマリーに捕まってしまった。

 ユーコはソウジローの、ローズマリーは自身の写真を回収するのに大忙しだったそうだ。突如半裸に剥かれ呆然としたイケメン男子と、白く粘々したもので身動きが取れなくなって顔を赤くする美女。写真を売りさばいて二人にブチ殺されたリー・ジョーダン曰く、高値で売れたそうだ。

 二人がハリーに迫る中、ハーマイオニーはいつの間にかサウナ室へ移動していた。どうもあっさり見捨てられたらしい。

 

「ハリー、何か言い訳はあるかな?」

「ユーコ、甘い。甘いよユーコ。世界にはたった一つ変わらない法則があるんだ」

「何が?」

 

 湯船につかったまま、ハリーは二人を見上げて言う。

 

「敗けた方が悪い!」

 

 数時間後。

 頬やら胸を散々引っ張られてダメージを受け過ぎた上にサウナに閉じ込められたハリーがようやく脱出したころ、脱衣場で待っていたのはユーコだった。

 まさか今度は尻でも狙うつもりかと戦々恐々としていたら、溜め息と共に最後の人が出るまで浴室を閉鎖できないからだと説明された。さもありなんである。

 生徒会長の仕事だから仕方ない、と言うユーコと会話して、のぼせ上った体を魔法で戻すとともに歩き始めた。どうやら彼女はダンブルドアに用事があるようで、一緒にホグワーツの城まで行ってくれることとなった。

 一人で歩くのは寂しいものだから、有り難い話だ。

 

「ところで、ダンブルドアに何の用なの?」

「ん? 悪いけど秘密。不知火とホグワーツの関係のことだからね」

 

 そう言って唇に人差し指を当てるユーコは、同性の目から見ても可愛かった。

 いまは黒いキモノを着ており、その肩には同色のハオリを羽織っている。地味ながらも、彼女の長い黒髪と合わせればまるで墨イラストのように映えるのだから不思議だ。

 しかしその服装は、ハリーに第五の課題で見た夢を思い出させる。

 吸血鬼によって吸血衝動を植え付けられた、妖怪の血が流れる少女。夢の中でソウジローが語った、ユーコの正体。シリウスはその話に信憑性がないとして、ソウジローのことを疑っていたのだ。

 ――なんだか頭の中がもやもやしてきた。

 あの後は口喧嘩になってしまい、ハリーの身を案じて譲らないシリウスと彼の思惑を知っているのに反論してしまうハリーとで、重い雰囲気になってしまったのでその場はそこで解散した。シリウスはしばらくイギリスに滞在するとのことで、また話をする機会もあるだろう。

 しかしハリーは、友人を疑いたくはなかった。

 だから――、――なんだったか。そう、だからハリーはここで問うつもりだ。直接、ユーコを問い詰める。問い詰めて――どうするんだったか。問い詰めて――とにかくその後だ。

 例え疑っていたのかと言われて嫌われてしまおうとも、上っ面で仲良くして裏では敵かもしれないという関係を続けていくのは、耐えきれないのだ。

 そう――、耐え切れないから、問い詰めるのだ。

 

「ユーコ、単刀直入に聞くけど」

「なにハリー」

「君って吸血鬼?」

 

 ハリーが脈絡もなく放った言葉に、ユーコは固まった。

 これが狙いだった。人は唐突にバレたくない秘密を指摘されたとき、なかなか冷静でいることは難しい。それも、己の正体などという決して明るみに出てはいけない秘密であった場合は、彼女のように腹黒さを持っていても例外ではないだろう。

 ユーコは見るからに動揺を残したまま、努めて普段通りにハリーへ返答する。

 

「なに? ハリーには私が君の血を吸うように見える?」

「ソウジローのは吸ってたよね?」

 

 ハリーが間髪入れずにそう返した途端、ユーコはわかりやすく顔を真っ赤にした。

 内心で落胆すると同時に、怒りが湧いてきた。この一年間、ずっと騙されてきたかもしれないのだ。ただ吸血鬼であることを隠したかったのならば、どれだけよかったか。

 

「み、見たの? あれを見たのか!?」

「ユーコ、おまえ……」

 

 ここまで狼狽えるのなら、シリウスの疑いは真実と見ていいのかもしれない。

 でもなんだろう、何か違和感を感じる。

 ――いや、違和感などない。だが――、

 

「ッ!」

 

 しかしその違和感も、ユーコが袂から扇子を取り出したことで霧散した。

 一瞬で考え方を切り替えて、ハリーは懐から杖を抜き放つ。

 ユーコが手に持った扇子をばっと小気味よい音を立てて開くと、ハリーはその扇子の構造を()破った。あれは杖だ。木製の骨一本一本が魔力を有した木で作られており、仰ぐ部分である扇面と、骨を留める要の部分が西洋杖でいう《杖芯》にあたる材質で造られているようだ。

 彼女の小柄な体内から、膨大な魔力が溢れだす。あれだけの量を、一瞬でここまできめ細やかに練り上げることができるのは見事の一言だ。

 とはいえ、ハリーとて早撃ちでは負けてはいない。ローズマリーには及ばないまでも、幾度かの死線を潜り抜けてきたハリーにとって、彼女より素早く魔法を撃ち込むことは不可能ではない。

 もっともそれは、彼女が狙っているのがハリーであればの話。

 

「『インペリオ』、服従せよ!」

『アリエーヌム』、逸らせ(こっちのみずはにがいぞ)!」

 

 いま狙いを定めるべきは、殺気を飛ばしてきた何者かだ。

 一瞬でハリーの背後に現れた男が、禁じられた呪文を放ってきた。

 ユーコはハリー越しにその男へ風のような変形魔力反応光を放った。まるで舞を踊っているかのような、優雅な振り方だ。こちらの杖と違って、放物線を描くように魔力反応光が飛ぶらしい。綺麗にハリーを迂回した魔力反応光は、男の放った魔力反応光を明後日の方向に逸らしながらから男の手から杖を弾き飛ばした。

 それを好機と見て、ハリーも杖先から赤い魔力反応光を射出する。しかしそれは男が無理に体を捻り、常人ではありえない動きを見せたために回避された。

 そのおかしな姿勢から男が取り落とした自身の杖を拾い上げると同時、ハリーはその場を飛びのいた。男の放った紫色の魔力反応光が地面を跳ね、ぐずぐずと土を腐らせていったことから自身の行動が正解だったと悟る。

 

「くっ、なんだこいつ」

「わからない。でもハリー、油断しちゃダメ」

「わかってる!」

 

 男はローブのフードを深くかぶっており、顔が分からない。

 しかし服装を見るに、汚れた紳士用スーツを着ているため男性であることが分かる。体格はあまりいいとは言えない。いっそ格闘戦に持ち込んだほうが有利だろう。 

 

「『インペリオ』!」

『コンキリオ』、寄せろ(あっちのみずはあまいぞ)!」

 

 男が相も変わらず服従の呪文を放つも、ユーコの放った魔法によって魔力反応光が明後日の方向へと曲がり飛んでゆく。魔法式を視てみれば、どうやら魔力反応光そのものに干渉するように組まれているらしい。

 しかし分からないのが、先ほど男の使った地面が腐った魔法だ。

 あれを受けてしまえば、死は免れえない。

 

「『フルクトゥアト・ネク・メルギトゥル』、孤独に逝け」

「『アニムス』、我に力を!」

 

 男が何やら聞いたことのない呪文を叫び、杖先に極彩色の魔力反応光を集めた。それに内包された魔法式を視たハリーは、ぎょっとして杖を振るう。『身体強化』の呪文を叫び、自身の身体に青い燐光をまとった。

 チカチカと目に刺激を与える魔力反応光が杖先から放たれる直前、全身に魔力を行き渡らせたハリーは、ユーコを抱きかかえてその場から跳んだ。身体に起伏があまりないので、滑って抱きづらい。

 

「ハリー、なにを!?」

「いいから黙ってしがみついてろ!」

 

 ユーコの叫び声に適当な返事を返し、ハリーは慌てて城近くまで走る。

 全力で気遣いなく疾走するため、ハリーが踏み抜いた地面にはくっきりとハリーの足跡が刻まれており、一歩一歩着地するごとに酷い土煙が舞う。

 襲撃者の足元、その直系二メートルほどに円状の霧が噴きだす。

 まずい、とハリーは確信した。第五の課題でも行った加速方法を思い出し、靴の裏に空気を集める。出来る限り圧縮した空気を一方向に絞って爆発させ、ハリーを弾丸に見立てた空気銃と同じ要領で、更に素早く駆ける。

 円状の霧が、前触れも音もなく大爆発を起こす。

 まるで術者自身はドームで守られているかのように影響はないが、クィディッチピッチを覆い尽くすほどの範囲の空間が、ドギツい色に包みこまれた。

 抱きかかえられている形のユーコは、つい数瞬前まで自分たちがいた地面がぐずぐずに崩れていく様を目の当たりにした。木々が一瞬にして腐り落ち、重力に従い地面に落ちた枝が乾いたメレンゲのように崩壊した。

 

「な……ッ」

 

 なんて、ろくでもない魔法。

 いったいどのような魔法式を組んだらあんな結果をもたらすのか。

 明らかな闇の魔法の行使に、ユーコは背筋がぞくりと寒くなる。

 

「ユーコ! この隙に奴を潰すぞ!」

「あっ、う、うん! 『セクィトゥル』、追走(うしろのしょうめんだあれ)!」

 

 ハリーの号令に合わせて、ユーコが扇子を振ると花びらを固めたようなデザインの円盤が二枚現れた。それらは自ら高速回転しており、ユーコの穿いているブーツの側面に装着される。『身体強化』状態のハリーが駆け出し、円盤を装備したユーコが滑るように移動する。

 高速で迫る少女二人を相手に、襲撃者は慌てることなく杖を振った。

 

「『プロテゴ・モエニウム』、高き壁よ」

 

 盾の呪文の亜種だ。

 地面が異音と共にせり上がってきたかと思えば、ハリーらと襲撃者の間に五メートルほどの壁を造りだす。それを見て拳を構えたハリーを制して、ユーコが扇子を閉じて魔力を込めはじめる。

 確かにユーコは疑わしい人物になってしまったが、しかし今は彼女を信じなければ切り抜けられそうにない。ハリーは頷くと、そのまま壁に向かって速度を上げた。

 そのままの軌道では確実に正面衝突するコース。あと数歩進めば、もう方向転換も利かなくなる。その距離まで来て、ユーコは呪文の発声と共に扇子を振るう。

 

『グラヴィス』、壁抜け(とおりゃんせ)!」

 

 ユーコが呪文を叫ぶと、ハリーの足元から多数の木がワイヤーのように飛び出して、ハリーの身体を包み込む。まるで木製の籠である。一瞬だけ視界が滑ったかのように反転して、一瞬の後には壁の向こうへと転移していた。

 木の籠がほどかれると同時、ハリーは籠の底面を蹴って飛び出すと、その勢いを利用して襲撃者のうなじに回し蹴りを叩きこんだ。超人的な身体能力を発揮することのできる『身体強化』状態で、急所を狙った本気の一撃。確実に首の骨に多大なダメージを与えた感触をしっかりと確認した。

 別段ここで相手が死のうと、ハリーにとっては知ったことはない。生きていればもうけもの、首から下が麻痺した襲撃者から無理矢理情報を抜きとればいいだけなのだ。

 地面に倒れ伏して身動きしなくなった襲撃者を見下ろしていると、ユーコが姿を現した。着物の裾を抑えて、生脚が見えないようにしている。うーん、エロい。

 

「……殺したの?」

「さあ。死んでもいいつもりでやったけど、少なくとも骨はイったし動けないと思う」

 

 余計な思考を追い払って、ハリーは杖を振るうと俯せに倒れている襲撃者を無理矢理に転がした。直接蹴って転がすと、罠を張っていた場合に対処が送れる。そのために杖を向けたままでいられるこの手法を選んだのだが、結果的にそれは正解だった。

 襲撃者が目深にかぶっていたフードがはずれ、中から出てきた顔を見たハリーは驚きと共に訝しげな声を出す。

 

「バーテミウス・クラウチ……」

「このヒト、イギリス魔法省の役人さんだよね。……どうして、こんな」

 

 バーテミウス・クラウチ。

 魔法省の中でも最も厳格な役人と言われ、第一の課題では選手たちにドラゴンのミニチュア模型を配った魔法使いだ。ハリーも、クィディッチワールドカップの時に仕事の鬼だと評されていたのを覚えている。

 そんな彼が、このような襲撃をするとは何か理由があるのだろうか。

 仮にも一学校の代表選手にしてヨーロッパ魔法界の英雄ハリー・ポッターと、こちらから招いた他国の未成年……それもその学校の生徒会長にして代表選手の身内だ。

 ハッキリ言って、彼が死喰い人である以外に彼女たちを襲う理由がない。

 

「とりあえず拘束して先生方を呼ぶしかないね……。どうしてこんなことをしたのか、」

「いや、なんでぼくたちを襲ってきたのかは分かった」

 

 クラウチの目が濁っている。明らかに正気を失っている目だ。

 ハリーは、自分とユーコを睨みつけるクラウチを見る。ハリーに首の骨にヒビが入ったり折れた経験はないが、相応の激痛が走っているだろうにその様子は全く見せない。

 ぼんやり発光している瞳と、全身に纏わりつくように漂う魔法式を視て言う。

 

「『服従の呪文』と……これは『無痛呪文』かな? この二つだけで痛みを感じない兵隊の出来上がりか、効率的で悪趣味だ」

 

 許されざる魔法、『服従の呪文』において最も重要視されるのは、当然ながらその絶対的な命令権にある。被害者がいくら嫌がろうと、どれほど拒否しようと関係ない。その体は既に術者の思いのままなのだ。

 ただ被魔法者の意思が強ければ強いほど、その解呪は容易になる。単純に強ければいいと言うものではなく、無論のこと闇の魔術に対する相性もある。その意思とは生物がもつ生存本能も含まれるとの研究結果が出ている。

 つまり、操られている最中に意識が飛ぶほどの激痛を受けると正気に戻る可能性があがるというわけだ。もちろん、そのまま死んでしまうケースがほとんどであるため、あまり意味はない。単純に苦痛を与える魔法、『磔の呪文』はその最たるものだ。

 『服従の呪文』と『磔の呪文』は、とてつもなく相性がいい。

 まず『磔の呪文』でありとあらゆる苦痛を与え、対象者の意思をくじく。そうして心が脆くなったところに『服従の呪文』をかけて、甘美な世界へいざない操り人形と変えるのだ。逆に、『服従の呪文』で操られている人間に『磔の呪文』をかけると、肉体が死なないままに苦痛を与えることで洗脳から解放することができる、といった具合にうまくできているのだ。これらを考えた人間は、よほどの外道だったに違いない。

 さて、今回その非道さはあまり問題ではない。

 問題はバーテミウス・クラウチという人物が、洗脳されているということだ。

 さらにもう一つの問題は、ユーコが疑わしいということ。

 

「ユーコ、今すぐ答えて。ユーコ、君は本当に吸血鬼なのか」

「……いやそれ、いま話すことじゃないでしょ」

「だめ。答えて。じゃないと、ぼくがこのあとどうするかが変わる」

 

 場合によっては――、そう、場合によっては殺すべきだ。

 言外にそう言ったことは伝わっているか怪しいが、ハリーの様子が尋常ではないことだけは伝わってようでユーコが冷たい汗を一筋流した。

 ハリーの出したことさらに冷たい声に、なにか合点がいったかのような声をユーコは漏らす出す。そしてアー、だのウー、だのと唸り、

 頬を染めながら言った。

 

「なにを勘違いしてるのか知らないけどね。……この前、お風呂場で私とソウジローが抱き合ってたことを言ってるんでしょう?」

「うん、それ」

 

 ハリーが断言すると、ユーコはなにやら頬を染めた。

 頻繁に落ち着きをなくし、言いづらそうにしている。

 

「えっと、だね。どうしてそれを知ってるのかとか色々言いたいことはあるけど、その、」

「続きを」

「……その、……致そうとしてました」

「…………は?」

 

 てっきり「隠していてごめんなさい」か「どこでそれを知った」くらいのことが聞こえてくるものと思ったが、どうもそんな内容の言葉ではなかったようだ。

 それどころか、この緊張した場では最も相応しくないはずの言葉が聞こえてきた。

 頭が可笑しくなったのかと思い、ハリーは奇妙な顔をする。

 しかしどうも聞き違いではないらしい。

 そして未だに理解しようとしないハリーに対し、ついに怒ったようにユーコが叫んだ。

 

「だからぁ! ソウジローに迫ってただけなの! 私だって十五歳だよ、そういうことに興味あったっていいじゃないか! ローズマリーに取られそうで不安だったんだよ!」

「え、あ、そう?」

「そうだよ! 女性としての魅力じゃ完敗だろうが! どーだよ、コレこの場で言うことか!? 迫って抱きしめた挙句「俺たちにはまだ早い」と真っ向から拒否られた私を笑えよハリー! っていうか首筋を甘噛みした事までどうして知ってるのさ!?」

「え、あー……えっとだな……」

 

 言っていいのか?

 ソウジローは確か、秘密にしてくれと言ったはずだ。

 というか、コレはどうなっている。

 ハリーはユーコが吸血鬼であると確信して、今の問いを投げた。

 それは確かだ。

 しかし吸血されたからと言って、感染しないとも教えられていたはずだ。

 だったら気にすることはない、と考えるのがいつものハリーだったはずだ。

 ユーコとのことは、ちゃんと友人と思っている。それを殺すかどうかで考えるなど……ありえないことだ。だとすれば、何故こんなことを考えていた?

 

「……あれ? どうなってるんだ……?」 

「……じゃあハリー、こっちからの問いにも答えてもらうよ」

「な、なに、ユーコ」

 

 しかし新たな問題が発生した。

 ユーコへの疑いは晴れたかもしれないが、すると今度は彼女からハリーに向けられる目が分からない。恐怖でも軽蔑でも、ましてや親愛でもない。

 あの目つきは覚えがある。

 二年生の時、大多数の生徒から向けられたあの視線。

 疑念だ。

 

「ハリー。君、さっきこの人がかけようとした魔法を、どうやって看破したの?」

「……周囲を腐らせた魔法のこと?」

「そう。全く前触れもなかったはずなのに、どうして?」

「えっ、魔法式を視てどんな魔法かを判断しただけなんだけど……」

 

 何かおかしなところがあっただろうか。

 ハリーにはわからないが、どうやらユーコには分かっているらしい。

 可愛らしい人形のような顔を歪めて、ハリーを睨みつけて言う。

 

「……()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 今度はハリーが顔をしかめる番だ。

 ユーコが言っている意味がよくわからない。

 

「なに言ってるんだユーコ。みんな魔法使うときに、杖の周りとかに出してるだろ」

「私からしたら、君こそ何言ってるのかわからないよ。生身の人間の目で魔法式が視えるわけないじゃない。ハリー、きみ別に魔眼持ちとかじゃないんでしょ」

「……そうだよ、チャームでもパイロでもないよ」

「だったら尚更おかしい。専用の魔法を使っているならともかく、特に何も持っていない人間が、魔法式を視るなんてのは絶対にありえない」

「でも……!」

 

 ユーコの言葉に、ハリーはだんだんと焦りを感じ始めた。

 魔法式など、ハリーが魔法界に関わるようになってから腐るほど視てきた。

 しかしこの四年間、それを視ることがおかしいなどと思ったことは一度もない。しかしハリーが思い出したのは、またしても二年生の時のこと。

 蛇と話せることが特別なことではないと思っていた、あの経験。

 さっと青褪めたハリーに対して、ユーコが口を開いたその時。

 

「おい! おい、二人とも! 大丈夫か!?」

 

 走りながらこちらへ叫んできたのは、クラムだった。その隣にはブレオもいる。

 

「二人とも、怪我はしていないか!」

「え。あ、お、おう。大丈夫……」

「特に問題ないよ。君たちはどうしてここに?」

 

 動揺したままのハリーと、先ほどまでと一転して冷静になったユーコ。

 肩で息をしているブレオが説明しようとするも、流石プロスポーツ選手というべきか、少し汗をかいている程度で全く息が上がっていないクラムが代わりに口を開いた。

 

「ヴぉくたちは城の中で話をしていたんだが、窓から地上で君たちがフードの男に襲われているのを見つけてね。慌ててきたというわけだ」

「そ、そのとーり……お、おんにゃのこを、みすて、る、のは、紳士じゃぬぁい」

「なるほど……ありがとうね、クラムさん。あと君はハアハア言いながら抱きついて来ようとするなぶった切るぞ」

 

 全力疾走してきたのだろう、玉のような汗を流しているブレオは、ユーコに肩を押されただけでその場に座り込んだ。

 クラムは倒れている人物がバーテミウス・クラウチであることに驚き、説明を求めてくる。ユーコが、彼が『服従の呪文』にかかっていたことなどを説明している最中、ハリーはブレオに近づいて問う。

 

「ブレオ」

「な、なんだい、ハリエットちゃん。僕は、ものすごく、疲れて、るんだけど」

「もうちょっと頑張ってくれ」

 

 ブレオが手をわきわき動かしてハリーの胸を掴もうとしてきたが、払いのける。

 揉めれば元気が出たのに、などと笑っているあたりもう問題なさそうだ。

 だったらさっさと喋ってもらおう。

 

「さっきの話だと、君らは上から見てたって事だよね」

「あ、ああ」

「ぼくら三人以外に、誰か見えなかった?」

「君と、ユーコちゃんと、そこの英国紳士だろ? その三人以外には、居なかったけど」

 

 困った。

 術者がハリーを殺すのが目的でクラウチを操ったのなら、ハリーの死を自分の目で確かめるために傍にいると踏んだのだが、どうやら外れたらしい。

 校内で殺人未遂。これは誰か先生に、いや、ダンブルドアに報告するべきだ。

 クラウチは首の骨を折ったにせよヒビを入れたにせよ、重傷には違いない。動かないとは思うが、念のために誰かが見ている必要がある。

 

「ヴぉくがひとっ走りして校長室に行ってくる」

「待て、クラム。ユーコちゃんが、オリガミバードで、連絡した方が、速いんじゃないか」

「折り紙バードって式神だよね? なら駄目だブレオ。あれは魔法式が割と攻撃的だから、きっと防護魔法に防がれて辿り着けない。ならホグワーツ生のハリーに行ってもらった方がいい」

「……わかった!」

 

 会話が終わるや否や、ハリーは自分の体に『身体強化魔法』をかけた。

 青白く発光したまま三人に向かって言う。

 

「三人とも、クラウチを見てて! そいつを操った奴が来るかもしれないから十分に用心して!」

 

 そう言い残し、ハリーは思い切り地面を蹴った。

 深い足跡を残して跳びあがったハリーは城の壁に張り付くと、杖を振るって自分の体を支え、壁を全力で駆け抜ける。その最中に、ハリーは空間の切れ目から《忍びの地図》を探す。

 しかし、いつもならばすぐに取り出せるそれが見つからない。

 ハリーは悪態をついて、壁を蹴って反対側の壁に着地。それと同時にもう一度壁を蹴って、元のいた壁の上部にある窓を蹴破って侵入した。ガラス片が飛び散り、中にいた下級生たちが驚きの悲鳴をあげる。

 構ってやる暇はない。青白い光の帯だけを残して、ハリーは校長室に向かって全力で走る。生徒たちに不気味な印象だけを残して、ハリーは校長室の前に設置されているガーゴイル像まで辿り着いた。

 息を切らして目の前に現れたハリーを見て、ガーゴイルは不愉快そうに言う。

 

『廊下は走るもんじゃないぞ』

「開けてくれ! 『レモン・キャンデー』!」

『いいや、合言葉が違うぞ。入れてやることはできん』

 

 じゃあ――なんだ?

 ダンブルドアは甘いお菓子を合言葉に設定している場合が多い。

 過去には『ドルーブルの風船ガム』やら『百味ビーンズ』も設定していたはずだ。それをどうにかして知ってぼくたちはよく――いや待て、何の話だ。今はそんな思い出話はどうでもいいはずだ、重要なのはダンブルドアを――、……そう、探すことだ!

 ハリーは適当なお菓子の名前を叫び続けたが、それは扉を開けることはかなわず別の人物を呼び出した。

 

「どうしましたポッター、そんなに叫んで! 淑女にあるまじき行いですよ!」

 

 マクゴナガル……、ミネルバ・マクゴナガル先生だ。

 彼女ならば、ダンブルドアの居場所を知っているはず。

 

「マクゴナガル先生!」

「お静かになさいポッター、減点されたいのですか!」

「そういうのいいから! いまダンブルドア先生は部屋の中にいるのか!?」

 

 あんまりなハリーの態度に、マクゴナガルも一瞬鼻白んだようだ。

 彼女の意識はしっかりとハリーの方へ向いている。そしてハリーに向かって首を振った。

 どうやら不在のようだ。それを見て、ハリーは若干八つ当たり気味の怒りを覚える。

 

「くそっ! この絶好のチャンスにどうして奴はいないんだ!」

「何度でも言いましょう、どうしたのですポッター。何がありました?」

 

 悪態を吐いたハリーにマクゴナガルが問うてくる。

 それに対して、ハリーはイラついたように答えた。

 

「バーテミウス・クラウチから襲撃を受けた!」

「落ちつきなさい、ポッター。待ちなさい」

「ああ、彼は危険だ。だから、ぼくをダンブルドアに会わせろ!」

「落ちつけと言ったのですよ、ポッター!」

 

 恐ろしい剣幕で彼女の肩を掴むハリーに対し、マクゴナガルは厳しい顔で彼女を見つめる。じっとハリーの目を見つめたまま、微塵も慌てた様子がない。

 それどころかハリーに対して落ち着くようになどと意味の分からないことを言い、肩を掴んでくるではないか。

 どうしても早くダンブルドアに会わなければならないのに、なぜ彼女は邪魔をするのだろうか。そこでハリーはマクゴナガルにも『服従の呪文』が掛けられていると判断し、肩を掴まれたまま懐から杖を抜こうとする。

 しかしマクゴナガルの動きは、それよりも余程速かった。

 既にハリーの鼻の頭にくっつくほどの距離に杖先を突きつけられ、驚いた顔のハリーにマクゴナガルは静かな声で呪文を唱える。

 

「『ケルタ・コグニーティオ』、正気に戻れ」

 

 ――、瞬間。

 目の前から杖先が離れると、ハリーの目には険しい顔のマクゴナガルが見えてきた。

 一瞬だけ、変身術の授業中になにかやらかしてしまったのかと大いに焦るものの、そもそも今は授業中ではないし、だいいち教室でもない。

 さらに言えば、いま自分は……、

 

「そ、そうだ。クラウチに襲われて……それで……」

「ええ、ポッター。今はあなたにかけられていた呪いについても問いません、先を急ぎますよ」

 

 そう言うが早いが、マクゴナガルはまるでハリーが元来た場所を知っているかのように駆けだした。老女とは思えぬ素早い脚だ。正直言って、魔法で強化していないハリーでも追いつくのがやっとと言ったところである。

 自分が呪いをかけられていた? いつの間に? いや、()()()()だ?

 先ほどまでの妙な気持ちと、今のすっきりしたような気持ち、どちらが自分だったのか。呪いをかけられていたというマクゴナガルの言が真実ならば、先ほどの自分はまさか『服従の呪文』にでもかかっていたのだろうか。いいや、そんなはずはない。ムーディにかけられた時の、あの幸福感などなかったのだから。

 ぐるぐると不可解な思考が頭の中をめぐる中、ハリーはマクゴナガルが鋭く飲んだ息の音で意識を現実に引き戻された。引き戻され、そして声を失った。

 

「……っ、あ……」

 

 血だ。

 クラウチがいた場所を中心として、生臭い鉄の液体が広がっている。

 それだけではなく、周囲にもさまざまな花が咲いている。

 木に背を預けるようにして俯いている者。

 地面に横たわって何かに手を伸ばした者。

 意識を失いながら未だ杖を構えている者。

 すべてハリーの知っている人物が、様々な場所からその赤を流して倒れている。

 

「ユっ……、ユーコ! クラム! ブレオ!」

 

 血まみれの三人のもとへ駆け寄ろうとしたハリーを、マクゴナガルが強い力で押しとどめる。抗議しようとしたハリーの口を塞いだのは彼女の手ではなく、その怒りと憂いがどろどろに入り混じった彼女の表情だった。

 

「『エピスキー・マキシマ』! 癒しの光を!」

 

 淡いオレンジ色の光がマクゴナガルの杖先から飛びだすと、シャワーのように三人に降り注いだ。暖かな魔力反応光は三人の身体から血を洗い流し、真っ青な顔色を徐々に暖かなそれに変えてゆく。

 ハリーが固唾を飲んで見守っていると、後ろからばたばたと急いでやってくる足音が聞こえてくる。マダム・ポンフリーと、ネビルにジニー、あとはハリーの知らない女子ハッフルパフ生が二人ほどだ。

 恐れ入ることに、マクゴナガルが走りながら念話で呼んでいたのだろう。生徒たちはちょうど近くにいたのだろう、マダムから手伝うよう命じられたのかもしれない。

 まず最初に意識を取り戻して激しくせき込み始めたのは、木にもたれかかっていたユーコだった。

 

「げっほ! がはっ、げほ! がふっ!」

「ユーコ! おい、大丈夫か!」

 

 喉に詰まっていたのか、赤黒い血を吐き出して咳き込むユーコの背中をさすりながらハリーは呼びかける。ユーコは一瞬ハリーの目を見たものの、そのまま気を失ってしまった。

 脈に手を当てて、とくんとくんと力強く脈打ってることを確認したハリーは、杖からふわふわの白いクッションを出して、ハッフルパフ生たちに指示を出すとその上にユーコの身体を横たえさせた。

 次に息を吹き返したのはブレオだった。ひゅーひゅーと苦しげで奇妙な息をしており、ハリーが呼びかける前にマクゴナガルの指示によって、マダム・ポンフリーが出した担架にブレオの身体を乗せると、ネビルとジニーがすぐさま医務室へ連れて行くことになった。

 その直後に目覚めたのは、クラムだ。息は荒いようだが、深刻なダメージを負っているというわけではないらしい。ハリーから見ればどう見ても重傷なのだが、マダムほどの腕を持った癒者の下した診断に間違いはない。

 ハリーがクラムに肩を貸して、既に医務室へ駆け去っていったマダム・ポンフリーを追うようにゆっくりと歩き出した。

 

「クラム、何があった。君たちほどの実力者が、なぜ三人もいて……」

「ヤツだ……クラウチだ。あの役人が、ヴぉくたちを襲った……」

「……ばかな。あいつの首の骨をやったのはぼくだ、だから分かる。動けるはずがない」

「それでも動いた。現にこうしてやられてしまったんだ……」

 

 クラムが言うには、あの後ハリーが去ってすぐにクラウチは起き上がったらしい。

 魔法縄で拘束されているというのに不自然な動きで立ち上がると、まずユーコを狙って飛び掛かってきたらしい。クラムはそれを咄嗟に庇うも、予想以上に強い威力の蹴りを貰い悶絶。口の中までせり上がってきた血を吐きだしながら地面で呻いているところをもう一度踏まれ、そのまま意識を失ってしまったというのだ。

 そこから先のことは分からない。分からないが、この惨状から推測はできる。曲りなりにも代表選手であるブレオも、不知火の生徒会長であるユーコも、敵わなかったのだ。

 

「とにかく休んでくれ、クラム。君がいないと最終戦に張り合いがない」

「昼間とんでもないことをした子が、言ってくれる」

 

 軽口をたたき合い、ふたりでニヤリと笑い合う。

 クラムを医務室へ運び込んだところで、ハリーはマクゴナガルから呼ばれた。

 名残惜しいながらも、やはり先ほど自身に呪いがかけられていたという言葉は気になる。クラムと別れたハリーは医務室を出る直前、気を引き締めるために頬をパンと張って廊下で待つマクゴナガルの元へ急いだ。

 

「校長室へ……?」

「ええ、ええ。知らせを受けたダンブルドア先生がお戻りになって、あなたを待っています。さ、行きなさいポッター」

 

 マクゴナガルがガーゴイル像の前で合言葉を唱えると(まさかの『ゴキブリゴソゴソ豆板』だった)、石像のガーゴイルたちに命が拭き込まれて脇に飛び退く。

 それでも相変わらずハリーに対して訝しげな顔を向けてくるあたり、とても腹の立つ石像だ。ぼくの顔がそんなに気に入らないのか?

 

「……、」

 

 ごうん。ごうん。とゆっくり螺旋階段がせりあがってゆくのが分かる。

 ハリーはまるでワインオープナーのように回転しながら登ってゆく階段に飛び乗って、自然とエレベーターのように上階まで行くのを待つ。

 数十秒ほど揺られていると、次第に揺れが小さくなってゆく。着いたのか。

 ぼんやりとした顔で螺旋階段の残り数段をのぼり、ハリーは扉をノックしようと左手をあげる。しかしハリーの手の甲は扉を叩くことはかなわなかった。自然と、向こう側からかちゃりと静かに扉が開いてハリーを招き入れたからだ。

 

「……、ダンブルドア先生?」

 

 ハリーが静かに声をかけると、当のダンブルドアはなにやら杖を使って銀色の光をくるくるといじっていた。何かの魔法実験だろうかと考えるも、ハリーには何がなんだかさっぱりわからない。魔法式を視てみるも、銀色の光はどうやら魔法ではないようで、なにも式は見当たらなかった。

 杖先で絡め取った銀の光を、ダンブルドアはなにかラベルを貼りつけた小瓶に封じて不思議な色合いの棚に仕舞い込んだ。

 そうして、ようやくハリーの方へ顔を向ける。

 

「久しぶりじゃの、ハリー」

「……ええ。お久しぶりです、ダンブルドア先生」

 

 いつもはきらきらしていたブルーの瞳が、今日はなにやら年相応にしょぼくれた老人のように見えた。それも一瞬の事。ハリーが次に瞬いたときには、既にハリーのことを悪戯っぽく見つめる彼の顔があった。

 

「さて、ハリー。まずは君の無事を喜ぼう」

「…………、」

「ああ。あの三人なら大丈夫じゃ。医務室へ運ばれた後は、すやすやと眠っておるよ。明日にはもう飛んだり跳ねたり踊ったり走ったりできることじゃろう」

 

 ハリーはほっと胸をなでおろす。

 ダンブルドアがソファを引いて、座りなさいと言ってくれたのでお言葉に甘えた。

 テーブルの上に暖かいホットチョコレートと、さっぱりしたバタークッキーが現れた。いま完全に魔法で出てきたものだが、食べてもいいのだろうか? 口に入れた途端に魔法式が壊れて魔力に散ってしまったら、空しすぎる。

 しかし彼に勧められるままに口に入れていれば、なんとなく胸が温かくなってきたような気さえする。緊迫しながらもリラックスしているため、適度に身が引き締まった。

 

「さて、ハリー」

「はい」

「君にはいくつか話すべきことがある。過ぎたお話、今のお話、これからのお話。……これを順番に離していこうと思う。まず、もう終わってしまったことから話そう」

 

 相変わらずの言い回しだが、これは自分を気遣ってのことだとハリーは察した。 

 つまり、ストレートに言ってしまうと言葉を叩き付けるような結果をもたらす類いの話題。マクゴナガルの言ったことや、シリウスの言ったこと、さっきの光景、全てハリーにとっていい気分になるようなことではないだろう。

 だが自分のことだ、知らねばなるまい。

 ハリーのそういった考えを見抜いているのか、ダンブルドアはゆっくりと、しかしどこか憂いを含んだ瞳を伏せて話し始めた。

 

「まず、君にかけられていた呪いじゃ。あれは……そうじゃな、『錯乱の呪文』は知っているね」

「はい、呪文集の八〇七ページです」

「ミス・グレンジャーのように素晴らしい正解じゃ。さて、アレの魔法式には精神操作部位に感覚に異常をきたす命令文があることは覚えているかな。その部分を『服従の呪文』に含まれる魔法式(プログラム)に書き変えた魔法……それが、君がかけられていたモノじゃ」

 

 大変ややこしいが、糖衣の錠剤を想像したら分かりやすいだろうか。

 外側は甘い糖の殻で覆われているから、問題ないように見える。

 だが中身は、苦い薬が入っているのだ。更にその薬は、徐々に殺す遅効性の毒薬。

 そうなればコトは簡単だ。

 つまりハリーは、自覚もないままに魔法をかけられ、そして気付かぬままじわじわと自我を侵食されていた状態であったということになる。ぞっとする話だ。

 

「……でもこんな魔法、いつから……?」

「スネイプ先生の解析によれば、およそ一ヶ月間の潜伏期間を想定した魔法のようじゃ。つまり第四の課題……夢の試練の前後に仕掛けられた可能性が高い」

 

 そうすると、やはり可能性はあの夢の世界での中。

 精神世界の内側ならば、心を守る防壁を作るのは難しい。既に作った壁の内側での出来事なのだから、考えてみれば道理だ。

 つまり、やはり代表選手の誰かがハリーに仕掛けた可能性が大きいということか。

 

「これ、ハリー。あまり疑うものではない」

「でもダンブルドア先生」

「ハリーや。わしは君に、人を信じることを知ってほしい」

「……わかりました」

 

 またこれだ。

 彼の善なる心にして、そして悪い癖だ。心の奥底で、ハリーは思う。

 ダンブルドアには悪い癖がある。人を信じるという悪癖が。

 どうしてそう思ってしまうのかは、ハリーとて自分の感情を全て知っているというわけではないので分からないが、しかし今まで常に彼へ信頼を向けてきたわけではないことから、そう思ってしまうのも自然なのかもしれない。

 ハリーとダンブルドアは、あまりにも考えが違う人間だ。

 同じ人間が二人、そのうち片方はもう片方を狙って変身術で姿を変えた殺人者である、というような状況があるとする。ダンブルドアならばあらゆる手法を駆使して殺人者を見破り拿捕するが、ハリーならば気絶すればとりあえず変身は解除されるので両方とも思い切りブン殴るという手法を迷わず取る。

 しかしその本質は『狙われた人物を助けたい』という心優しきもの。同じ目的を違う手段で達成しようとするとき、人は必ず対立する。そして片方のやり方が万人にとっての是ではない場合……つまりハリーとしては、ダンブルドアのやり方が面白くないのだ。

 

「この悪質な呪いについては、既に解呪しておる。犯人にはしかるべき措置を取る必要はあるが、まぁもはや君には関係あるまいて。ハリー、次じゃ。君の今の状況を話そう」

 

 さて、ここだ。ここが重要だ。

 ダンブルドア曰く、やはり今のハリーは狙われているらしい。

 次々と起きる問題の端々に、明らかにハリーへの殺意が込められているとのことだ。

 十分に警戒するように、と締めてダンブルドアはそこで話を終えた。

 

「……それだけ?」

「今知るべきことは、それだけじゃ」

「いやいや、もっとあるでしょう! 誰々が怪しいだとか、何に気を付けるべきなのかとか!」

 

 ソファから立ち上がり、勢い込んで言うハリーに対してダンブルドアは穏やかだ。

 穏やかな顔のまま、なにも言うつもりはないとハッキリ態度で示している。

 どう言っても何をやっても、きっとダンブルドアはハリーに対して余計なことは言わないだろう。それを悟ったハリーは苦い顔をして、そのままソファへと乱暴に尻を乗せた。

 眉を下げて少し申し訳なさそうなダンブルドアの表情も、いまの苛立った気持ちのハリーではわざとそうしているようにしか見えない。頭を冷やすために、ハリーは傍のツボに入れられていたお菓子を鷲掴みにすると、勝手ながら口に放り込んだ。

 

「あ」

「何です。ちょっとくらいくださあぁあああっ!? うわっ、うああ!?」

 

 ダンブルドアの短い言葉を振り払うように、乱暴に返したハリーの言葉が悲鳴に変わる。両手で口元を覆い、痛みに耐えるもぼろぼろと涙がこぼれてくる。

 限界を感じたハリーは、ついに口の中のモノを吐き出した。ハリーの小さな口から飛び出してきたのは、オタマジャクシのような黒いグミ。ハリーが先ほど口に放り込んだのと同じものだ。その凶悪なオタマジャクシにはするどい牙が生えそろっている。ハリーが舌に噛みついた一匹を苦労して剥がしているあたり、盛大に口の中を噛まれたのだろう。

 よもやグミに反乱されることなど夢にも思わなかっただろうハリーは、転がったり壁に手を突いたりと大騒ぎし、慌てて口の中の不届き者をすべて追い出して息を整える。ギッ、と鋭い目でダンブルドアを睨みつけるものの、忘れていた悪戯が成功してしまったような楽しげな顔で笑いをこらえているクソジジイの顔を見ては、もう怒る気にもなれない。

 

「まったく……」

 

 怒りも冷め、気持ちも落ち着いたハリーはとりあえず自分が暴れてしまった後片付けに取りかかった。倒してしまった書類の塔に杖を振ってもとに戻し、吹っ飛んで行ったインク壺や羽ペンをデスクの上に戻す。乱れた服を整え、手を突いたせいで開いてしまった棚の扉をしめようとしたところで、ハリーはふと気づいた。

 銀色の水がたぷたぷと揺れる、不思議な盆が収められていたのだ。そういえばこの棚は、ハリーが入室したときにダンブルドアが小瓶をしまっていた棚だ。

 

「それはの、《憂いの篩(ペンシーブ)》という魔法具じゃ」

「《憂いの篩》……」

「人が持っている頭はとても脆い。だから忘れたい記憶、または忘れてはならない記憶、誰かに見せたい記憶があるとき、これを使うのじゃ」

 

 ハリーが水面を見つめていると、次第に銀に色がついてゆく。

 薄暗い。全体的に茶色と灰色が目立つが、これは木製の手すりと石製の床の色だ。

 真ん中に見えるのは実に悪趣味な檻。虫籠のようにもみえるが、それではあまりに鉄格子の間隔が広すぎる。鉄格子の内側にはびっしりと棘が並べられており、まるで中世に使われた悪名髙き拷問用具の《鉄の処女(アイアンメイデン)》のようである。

 その拷問器具の中に、誰かがいる。悲痛な表情で、死を恐れて酷く怯えている。

 

「……、あれは……イゴール・カルカロフ……?」

 

 檻の中で怯えて震えているのは、まさにカルカロフその人。

 今と比べると随分貧相な印象なのは、げっそりと頬がこけて目が落ち窪んでいるからだろう。栄養状態もよろしいとは思えず、顔色は土気色だ。しかし何よりもあの絶望に満ちた目の様子から、彼がディメンターの脅威にさらされていることがよくわかった。

 

「死喰い人、イゴール・カルカロフ!」

 

 裁判長らしき服装の人間が、威厳ある声で叫んだ。

 よくよく顔を見てみようとハリーが乗り出すと、ふっと足元の感覚が消えてしまう。「ウ、ワ!?」まさかと思い短い悲鳴をあげるも、身体はどんどん下へと落ちていく。重力に引っ張られる間隔のまま、ハリーは杖を懐から取り出そうとするが、それより地面に落ちる方が早い。

 身構えて衝撃に耐えようとするも、尻を襲った衝撃はクッションに腰かけた程度の柔らかいもの。傍聴席のひとつにすとんと座って衝撃でテーブルに置いてあった紅茶のカップが跳ねてハリーの手の中に納まっていざ優雅なティータイム、ミルクの量はお好みで。

 

「何これ?」

「ここは記憶の中じゃよハリー」

「いやそういうことじゃなくて今のはなんだよ今のは」

 

 いつの間にか隣に座っていたダンブルドアに問いかけるも、明確な答えは返ってこなかった。というか微笑んで言っているあたり、わかっていて適当にはぐらかしているのだろう。この老人はいつもそうだ。

 仕方なく手の中に飛び込んできた紅茶を一口飲む。ダージリンだった。

 がんがん、と木槌(ガベル)を叩き付けて傍聴人たちのざわめきを止めた裁判長の顔を見れば、なんと先ほどハリーを襲撃したバーテミウス・クラウチその人だ。

 

「死喰い人、イゴール・カルカロフ。元仲間の情報を売るとのことでここまで来させた。裏切りの準備はよろしいか。こちらには証言が有益であればあるほど、罪を軽くする用意がある」

「ヒ……、は、はい……」

 

 威圧的なクラウチの声に、カルカロフは短い悲鳴と共にか細い同意の声を漏らす。

 これはなんだろう。

 ハリーはあまり詳しくはないが、捜査に協力することで罪を軽くしようという司法取引というやつだろうか。話している内容からして、そこまで間違ってはいないだろう。

 

「ロジエール! エバン・ロジエール」

「奴は死んでいる」

「死ッ……!? ま、待ってくれ! ルックウッドだ! オーガスタス・ルックウッド! やつはスパイなんだ! 魔法省から『例のあの人』に情報を流していたんだ……ッ」

 

 クラウチは隣に座る秘書官らしき魔法使いに、今の言葉を書き写させる。

 丸眼鏡をかけた秘書官は、がりがりと羽ペンを動かすだけで何も言葉を発さなかった。クラウチは表情すら動かさず、冷徹にカルカロフを見下ろすのみ。

 そして冷ややかな声で言った。

 

「神秘部のルックウッドだな。それだけか。ではアズカバンへ戻れ」

「待ッ!? そっ、それじゃない、それだけじゃないぞ! ラムリー! ジャスパー・ラムリーは死喰い人だ! ホラ、知ってるだろう!? 魔法戦士団の副団長だァ!」

「奴は死んだ。ソーフィン・ロウルを捕まえようという作戦中に裏切り、ガブリエル・ハワードを始めとした闇祓い十七人を道連れに戦って死んでいった。よってその証言に力はない」

「しッ、死んだ……? あのラムリーまで……!?」

 

 残酷なやり取りだ、とハリーは思った。

 クラウチからすれば罪人が罪人を引っ張り出してくる美味しい状況で、カルカロフからしてみればかつての仲間を生贄にしてまで命乞いをしている。仲間意識などもはや皆無に等しいだろうが、ヴォルデモートが裏切り者を生かしておくとは思えない。

 このまま闇祓い達がヴォルデモート陣営を打倒できればそれでいい。自分はこの取引によって、多少の監視や不自由はあれど娑婆で暮らせる。一方、裏切り者と蔑み自分を狙う元お仲間達はアズカバンか死刑台によって追ってこれない。こうして捕まってしまった以上、その結果がカルカロフにとっての万々歳である。

 無論、ヴォルデモート達が勝てばカルカロフは当然ながら死よりも辛い目に遭うことは確かだ。ゆえに全力で裏切って、魔法省側に勝利してもらう必要が出てくる。全力で元の仲間を踏みつけなければならない状況を強要させている、この裁判にハリーは反吐が出る思いだった。

 効果的なのは理解できる。できるが……、今のハリーには辛すぎた。

 

「まだいる、まだ居るぞォ! 日刊預言者新聞のアラベラ・ホフマン! ブラック家に連なるアニータ・メルフリア! それにフェビアン・ウィルクスとジョナス・マルシベール!」

「その者らも全て逮捕時に死亡している。よってその証言に力はない」

 

 まるでテープレコーダーのように同じフレーズを繰り返すクラウチ。

 たった数秒のその言葉によって、カルカロフはまるでやすりで魂を削られているように悲痛な顔を深めていく。こんな酷なモノは見ていられないとハリーが思った時、カルカロフの口から恐ろしい言葉が飛び出した。

 

「セブルス・スネイプ! 奴は闇のしもべだ!」

 

 胃を鷲掴みにされたような、奇妙な感覚がハリーを襲う。

 急いで顔をあげて見てみれば、しかしクラウチの反応は冷たい。

 もう一度スネイプの名を、はっきりとした発音で叫ぶカルカロフに対して発言したのはダンブルドアだ。「えっ?」と思い自分の隣を見れば、確かにダンブルドアがいる。淡い紫に濃い同色のラインが走ったデザインのローブ。今立ち上がって裁判長に発言の許可を得たダンブルドアは、何かしら植物の柄を刺繍した臙脂色のローブ。

 なるほど、過去のダンブルドアか。理解したからその面白そうな顔をこっちに向けないでくれ現在(イマ)ブルドア。むかつく。

 

「セブルスは無実じゃ。魔法法律執行部隊の調査によって判明しておる」

「嘘だァァァ――ッ! 奴は闇にどっぷりだ、どう見ても闇の魔術に愛されている! やつは『例のあの人』に忠誠を誓っているはずなんだァァァああああッ!」

 

 きっぱりとしたダンブルドアの否定に絶叫を返すカルカロフ。

 その眼は飛びださんばかりに見開かれて、ぎらぎらと危険な色に血走っている。六校魔法学校対抗試合がはじまる前のこと、久しぶりだと二人が抱擁を交わしているシーンはいったいなんだったのだろうか。こんな目を向けた相手と後々親しくなれるような出来事など、少なくともハリーには想像できない。

 

「では死喰い人イゴール・カルカロフを、独房に戻せ」

 

 クラウチが冷然と言い放つと、あまりのショックにカルカロフは言葉を失くした。

 彼の周囲に闇祓いらしき人物たちが集まり、杖を向ける。魔法式を視る限り、言った通りアズカバンの独房へと転移させる気なのだろう。

 何度か何かを言おうとして、ヒューヒューと声にならない掠れた音が喉からこぼれる。

 そして、転移させる最後の合図をクラウチが送ろうとした時。

 ハリーはカルカロフの口が、三日月に裂けるのを見た。

 

「いや、」

 

 ぞくりとくるような、邪悪な表情を浮かべてカルカロフは笑う。

 その異様な様子に、裁判所に居る人間が皆一様に彼のことを不気味に感じる暇も有らばこそ、カルカロフは嘲るような視線をクラウチに向ける。

 

「いや、いや、いや。まだあるぞ、まだ知っているぞ」

 

 不揃いな髭が生えた顎を撫でさすり、黄ばんだ歯が口の端から覗いた。

 裁判所中の注目を集めたカルカロフは、震えながらも声を絞り出す。

 

「……その者はベラトリックス・レストレンジ以下数名とともに、闇祓いフランク・ロングボトムと、その妻を、恐ろしい、『磔の呪文』で、拷問し! なぶり! 甚振って! そして『服従の呪文』で操り人形と変えて、ダンブルドアを謀った!」

 

 会場がどよめく。

 ダンブルドアが謀られたなどと、恐ろしいことだ。

 当時も世界最強と称されていたかは知らないが、それでも強大には違いない。

 過去のダンブルドアを見てみると、何とも言えない悲しそうな顔をしていた。

 

「やつは『磔の呪文』が上手かった! 何人の闇祓いを廃人にしてなお嘲るように笑っていたのかなんて、俺にもわからない! あんな恐ろしい奴が野放しになっているなんて、ああ、無能な魔法省は何をしているのか!」

「いい加減にしたまえ! 名を言うんだ、名を! 誰なんだ、その悪党は!」

 

 痺れを切らしたクラウチが怒鳴った。

 それを待っていたかのように、粘ついた視線がカルカロフより放たれ、その場に居た闇祓い達を怯ませる。

 手負いの獣こそが恐ろしいとは言うが、追い詰めすぎた弱者は時にこのような怪物にも劣らない形相を取る。それが、今の彼だ。

 そして不用意に追い詰めた代償を、クラウチは手痛い形で支払った。

 

「――バーテミウス・クラウチ」

 

 裁判所に短い悲鳴が上がった。

 その名はおかしなことに、裁判長と同じ名だ。

 一瞬だけ呆けたような顔をしたクラウチの顔が怒りに染まった、その最高のタイミングを見計らって、カルカロフの口からは続けて心を切り刻む刃を口から放たれる。

 

「……その、ジュニアだ」

 

 舐めるような発音が傍聴人たちの耳朶を滑ると同時に、すべての視線がひとところに集まる。裁判長バーテミウス・クラウチの隣、レンズを拭いていた丸眼鏡を取り落した細身の青年。

 臙脂色のシャツに暗赤色のネクタイ、高級そうなスーツは清潔感に溢れている。どうみても普通の青年であるが、一瞬だけその目が煉獄の憎悪に染まってカルカロフを睨みつけたのを、ハリーは見逃さなかった。

 目を見開いて、驚きのまま固まっている彼の元へ闇祓い達が殺到していく。

 抵抗する間もなく魔法で拘束された彼は、目に涙を浮かべて父親である裁判長に訴えた。

 

「おっ、お父さん! 信じてください、お父さんッ!」

 

 どよめく法廷の中、息子の悲痛な声が裂くようにクラウチへ叩き付けられる。

 闇祓い達が次々と杖から紡ぐ魔法縄が雁字搦めにしていく中、唯一味方をしてくれるであろう父親に助けを求める肉親の声。

 父とは、親とは無条件で子を助けてくれるもの。

 恐らくはそんな期待を込めた嘆きだったのだろう。

 呆然としていたクラウチは、泣きそうな息子の顔を見て、言った。

 

「……私に息子などいない」

 

 冷たく吐き捨てられた言葉に、クラウチ・ジュニアは一瞬だけ哀しげに目を見開く。

 やがて次第に沸々と怒りが湧いて出るように顔を歪ませ、唇がめくれあがる。

 そして絶叫した。

 絶望と悲哀、憤怒と憎悪を練り上げて凝縮したような、聞く者の心がささくれ立つような、怨嗟の叫び。それが長々とハリーの耳に這入り込んで、父に見捨てられた子の嘆きを聞きたくなくて、ハリーはぎゅっと目を瞑って耳を塞いだ。

 

「ハリー、ハリーや。もう大丈夫だよ」

 

 そんなダンブルドアの優しい声が聞こえると、ハリーは自然と目を見開いた。

 いつの間にか、校長室の中に戻っている。

 ハリーは知らないうちにソファに座っていたようで、隣の肘掛にはいつだったか見た不死鳥が尾を揺らしてハリーの肩に頭を預けていた。

 彼女が恐怖から解放されたのを見て取ると、小さく歌うように鳴いて止まり木へと飛んでゆく。ダンブルドアの優しい、安堵したような瞳を見てハリーは問いかける。

 

「……あのあと、クラウチ・ジュニアはどうなりましたか」

 

 ダンブルドアはハリーの隣に座ると、杖を振って暖かいレモネードを取り出した。

 それを飲むように勧められ、ハリーはマグカップを手に取ると一口すする。

 

「彼はあの後、アズカバンに収監された。心の弱い若者だったのじゃ、あれはヴォルデモート卿と確かにつながっておった」

「冤罪ではなかったんですね。……彼は、いまも?」

「いや。彼はそのひと月ほど後に獄中死しておる。看守の話では、最後まで父親の名を呼んでいたそうじゃ」

「…………」

 

 やりきれない気持ちになったハリーは、ぐいとレモネードを飲み干した。

 お代わりを注いでくれたダンブルドアに礼を言うと、彼は微笑んで言った。

 

「話の中に、ロングボトム夫妻が出てきたね」

「……じゃあ、やっぱり」

「うむ。君の学友、ネビル・ロングボトムのご両親じゃ」

 

 やはりか、と思う。

 ネビルが自分の両親について話したことはない。

 彼がいつも話すのは、恐ろしく厳格な《ばあちゃん》のことばかり。

 ハリーは彼も両親がいないのだろうか、と考えたことがあったが……、遠からずだったようだ。あのオドオドして可愛い男の子が、このような悲劇を背負っていたなんて。

 

「このことは、誰にも言わないように」

「……ええ」

「彼が、ネビル・ロングボトムが自分から言えるようになるまで、待ってあげるのじゃ。信頼されていないというわけではない。こういうのは、理屈ではないんじゃ。そう、理屈ではないのじゃ……」

 

 空しい響きを湛えたダンブルドアの声を聴きながら、ハリーはまたレモネードを煽る

。君がお酒を飲めるようになったら控えさせねばな、と笑うダンブルドアにハリーも笑みを返した。

 次にホットチョコレートを注いでもらい、甘い匂いにハリーが嬉しそうな顔をする。

 しかしふと、何かが引っ掛かったような顔をしてマグカップをテーブルに置いた。

 眉を寄せ、眉間にしわをつくる。

 はっと気が付いたかのように顔を上げたハリーは、ソファから立ち上がって一度《憂いの篩》を眺めた。その行動に片眉をあげたダンブルドアに、ハリーは言葉を投げかける。

 

「……ダンブルドア先生」

「なんじゃね、ハリー」

「……バーテミウス・クラウチ・ジュニアを、ぼくは見たことがあります」

 

 もう片方の眉も上がった。

 ハリーの言葉は続いてゆく。

 

「夢の中です。黒髪の、健康そうな赤子と……でも普通の赤ん坊じゃない、アレは……アレはヴォルデモートだった。ぼくにはわかる、アレはアイツだった。そいつの前で、ワームテールと、誰か……誰かが親しげに話していました」

「……それで」

「その場に、彼がいました。クラウチ・ジュニアだった。いま思えば、彼だった」

 

 言い終えたハリーを相手に、ダンブルドアはひとつ頷く。

 ハリーの黒髪をくしゃりと撫で、穏やかな顔で静かに口を開いた。

 

「……他にもそのような夢を?」

「いいえ。それっきりです」

 

 彼女のその答えに、ダンブルドアは数秒だけ目を瞑って考えた。

 何を考えているのかわからないが、ハリーがそれについて考える前に彼は口を開く。

 

「ハリーや、君は優しい子に育ってくれた。先のクラウチ・ジュニアの件でも、心を痛めて見ていられないと目を背けることができる子になってくれた」

 

 噛み締めるようなその物言いに、ハリーは首を傾げた。

 まだハリーの知らない何かによってその感情が造られているのだろうが、それをハリーは知る由もない。ただ急にやさしい子だと褒められたことで、少し耳が赤くなっただけだ。

 

「君は人を信じることができるようになった。友を愛することができるようになった。……そんな君を見ていると、この老いぼれも、そろそろ前に踏み出す時なのかもしれんと思うのじゃ。年甲斐もなく、の」

 

 そう言うダンブルドアの目はきらきらと輝いていた。

 いつもの不思議なそれを見て、ハリーもにっと笑う。

 彼のやり方にどうしてか不満を感じるものの、彼自身は決して悪い人間ではないのだ。胡散臭くていまいち信用しきれないところはあれど、ハリーのことを想ってくれているのは確かなのだ。

 ハリーはそんな人間を相手に、冷たい態度で返せるようには育っていない。

 さあ行きなさい、という言葉と共に校長室から送り出されたハリーは、ここに来るときの不安な気持ちが嘘のように霧散していた。

 ソウジローの虚言、ユーコの疑惑、代表選手たちの真偽、今起こっていることの不可解さ。

 それらをすべてひっくるめても、乗り越えれば問題はないのだ。

 ハリーは腕時計の時間が外出禁止時間になりそうなのを確認すると、少し笑顔で、廊下を一気に駈けだしたのだった。

 

「待てポッター」

 

 思いっきり出鼻をくじかれた気分だ。

 何時の間にか隣に立っていたスネイプが、にやりと笑って此方へ寄ってくる。

 ああ、これはぼくをいじめる気だ。

 今年は二、三回ほどしか彼との課外授業はない。だからストレスが溜まっているのかもしれない。だからってやめてほしかった。

 

「トーナメントでよくやっているようだな、ポッター」

「……ありがとうございます」

「褒美としてグリフィンドールに五点をやろう」

 

 ハリーは苦虫をかみつぶしたような顔をした。

 スネイプもそれを分かっていたようで、にやにやとした嫌味な顔を引っ込めもしなかった。

 

「そして夜間外出によってグリフィンドールから十点の減点だ」

「……」

「水中の行動手段に《鰓昆布》を選んだことは見事だ。あの状況で選ぶ薬草の中では、もっとも最適と言える。よく思いついたな、それとも人に頼ったかね。ん?」

 

 ねちねちと嫌味を言い続けるスネイプだったが、その顔には怒りの色が見える。

 彼の怒りを買った覚えのなかったハリーは首をかしげたが、その仕草が癇に障ったようだ。胸倉を掴みかねない勢いで顔を寄せてきた。

 

「我輩としては窃盗の罪として退学にしてやりたいところだ」

「……でも、あの《鰓昆布》は……」

「おまえが取ったのではないのだろう? そのような嘘、我輩に通じるとでも思っているのか」

「嘘じゃないのに……」

 

 ハリーがふてくされたように言うと、スネイプの手が伸びて彼女の頬を掴んでくる。

 タコのような口になったハリーがむぅと唸る前で、スネイプは懐から出した小瓶を目の前で揺らした。

 

「《真実薬(ベリタセラム)》だ。あらゆる秘密を吐きだす秘薬……本来生徒への使用は禁じられているが……、つい、うっかり、ということが……あるかもしれませんな?」

 

 流石です。

 ハリーを責めるチャンスを見つければ見逃さない。

 彼のハリーいびりは年々磨きがかかっているような気がしないでもない。

 

「鰓昆布だけならまだしも……毒ツルヘビの皮にクサカゲロウまで……どうせポリジュース薬でも作っているのだろう。見つかれば、退学では済まんだろうなぁ……」

「だから、ぼくには覚えが」

「見ていろポッター! 尻尾をつかんでやるぞ!」

 

 吐き捨てるようにそう言ったスネイプは、ハリーの鼻すれすれで扉を乱暴に閉める。

 せっかくダンブルドアのおかげで少しだけ元気が出たというのに、これでは台無しだ。

 だがスネイプが文学的なのか、彼の罵倒や嫌味は少々詩的な言い回しが多い。ちょっとでもスネイプポエムを楽しめたことだけでも良しとするか。

 最後にハリーは、捨て台詞をドア越しに呟いた。

 

「あんまり細かいこと考えると禿げるぞ、もう」

「なにか。言ったかね、ポッター」

 

 扉を開けて顔半分だけ覗いたスネイプの手に杖が握られていたのを見て、ハリーは今度こそ全力で廊下を駆けだしたのだった。

 




【変更点】
・《LOLレース》。実在しません。
・クラウチ氏との戦闘発生。原作と違い洗脳が解けてません。
・スネイプの妨害フラグが消滅。クラム含め三名が重傷を負う。

【オリジナルスペル】
「ミセルリベロ、解きほぐせ」(初出・46話)
・解錠魔法の亜種。対象を締めつける拘束具を解き放つのが本来の使い道。
元々魔法界にある呪文。服を脱がすための魔法でもなく、脱衣呪文とも呼ばない。

「アリエーヌム、逸らせ」(初出・46話)
・攻撃型防御魔法。魔力反応光に干渉する魔法で、相手の魔法を弾きつつ武装解除をかける。
日本魔法界にある呪文。ユーコは歌に呪文を乗せることで威力を倍増していた。

「コンキリオ、寄せろ」(初出・46話)
・防御魔法。魔力反応光に干渉する魔法で、相手の魔法を弾きつつ盾の呪文をかける。
日本魔法界にある呪文。ユーコは歌に呪文を乗せることで威力を倍増していた。

「フルクトゥアト・ネク・メルギトゥル、孤独に逝け」(初出・46話)
・闇の魔法。術者を中心に円状の霧を噴き出し、効果範囲の物体を無差別に腐食させる。
今までの魔法界にない呪文。製作者は不明だが、アズカバン行きはまず間違いない魔法。

「セクィトゥル、追走」(初出・46話)
・走行魔法。対象と同じ速度で移動する事ができる。
日本魔法界にある呪文。相手が速ければ速いほど高い効果を得られる。

「プロテゴ・モエニウム、高き壁よ」(初出・46話)
・盾の呪文の亜種。土を高く盛り上げて、物理的な壁を作りだす。
元々魔法界にある呪文。自然の多い場所では通常の盾の呪文よりも高い効果を得られる。

「グラヴィス、壁抜け」(初出・46話)
・空間魔法。カゴAとカゴBを作りだし、Aの中身をBへと転送する魔法。
日本魔法界にある呪文。出現させたカゴBを目として、周囲の様子を見ることも可能。

「ケルタ・コグニーティオ、正気に戻れ」(初出・46話)
・解呪魔法。魔法式を崩す事で、主に精神操作系の呪いを解くことができる。
元々魔法界にある呪文。扱いに失敗すると対象が記憶を失うレベルで難しい魔法。

今回はハリーの取った意味不明な行動と思考の説明回と、呪文のバーゲンセール回。
要するにソウジローの不審な言動やユーコの真偽、代表候補制たちへの疑惑はハリーが錯乱していたということ。まだ完全に明かされていなかったりと非情に分かりづらいですが、私の力不足です。精進いたします。
ハリーの奇妙な点が明かされたり、4巻は説明が多くなると思ったけどここまで難しいだなんて。ちなみにカルカロフが売った死喰い人の中には、原作の死喰い人や原作キャラの親戚も入っています。
次回からは最後の課題が始まり、クライマックスに向けて全力でお辞儀するのだ。


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12.闇の産声

 

 

 

 ハリーは着替え終わった服を、木編みのカゴに投げ入れた。

 ノースリーブの黒いインナーの上に、紅色メインのスポーティなデザインのローブを羽織る。グリフィンドールを象徴した、金色の糸で刺繍された獅子が背中で吼えている様は見事の一言に尽きる。

 黒いブーツの紐をギュッと締めた。つま先と踵に硬いサポーターの入った、頑丈で無骨な、ロンドンで買ったマグル製軍用ブーツだ。魔法がかかっていない限り、魔法界製とマグル製はたいして差がない。ならばより便利な方を選ぶのが道理である。

 下半身は上着と同じく紅いスカートだ。しかし中身は黒のスパッツで隠しており、女性選手としての華やかさを保ちつつも、しっかりガードを固める女としての矜持も忘れない。

 六大魔法学校対抗試合(ヘキサゴン・ウィザード・トーナメント)、その最終戦。

 最後の課題は、巨大迷路。

 クィディッチピッチに植えられた、高さ十五フィートはあろうかという生垣で区切られた迷路の中心に、優勝カップが据え置かれている。

 その道中には様々な障害。魔法生物、罠、仕掛け。

 今回は他選手の妨害を禁じられてこそいないが、推奨されてはいない。何故ならば危険だからだ。空中投影されたモニターで中の様子が把握できるとはいえ、もし万が一があっても救助するまでにある程度の時間がかかるのが理由である。

 派手な大砲が鳴らされた。最初の選手が入場したらしい。順位の高い者から先に迷路へ入ることが許されるため、その分はやく攻略ができて有利なのだ。ハリーは現在二位。次に入れるのは二分後だ。

 ハリーは自分の杖をきちんとベルトに挟んで、更衣室の外で待っていた親友たちへ歩み寄った。ロンと、ハーマイオニー。パーバティやネビルなど、グリフィンドールの面々もいる。

 頑張ってこいよ、期待してるぜ、と肩を叩いたり囃し立てる面々を適当にあしらって笑顔で応えて、ハリーは心配そうに見つめてくるハーマイオニーとロンを抱きしめて、二人の頬へそれぞれキスをした。

 それで十分。

 元気が出てくる。

 

「いってきます」

 

 競技開始の大砲が鳴らされた。

 心配そうに、しかし誇らしそうに見送ってくれるマクゴナガルに礼を言い。

 嬉しそうに、ハリーの勝利を確信しているハグリッドに笑顔で見送られ。

 きらきらと輝くメガネの奥から、試すような目を向けてくるダンブルドアの脇を抜け。

 恐ろしい顔ながら安心させようと、ウィンクしてくれたムーディに笑顔で返し。

 ハリーは迷路の中へ踏み込んだ。

 

 暗い。

 迷路に入ってしばらくは陽気に演奏される音楽が聞こえていたものの、しばらく進むと入口が閉じたのか、さっぱり聞こえなくなってしまった。

 寒い。

 どことなく怖気を感じる。不安からくるものだろうとは思うが、あまり無視していいような気はしない。ちりちりとした感覚を覚えて、なおもハリーは歩く。

 するとどこからか、また陽気な音楽が聞こえてくる。三位の選手が迷路に入ったのだろう。鉢合わせしたときが怖い。

 こういった精神的にも不安定な場所は、容易く人の心を捻じ曲げる。

 ハリーはそれを、経験として知っている。

 いったい何人が歪み、そして消えていったのだろう。

 それでもぼくは、親友たちを、愛する人たちを守らなければならない。

 あの男の手から守らねばならないのだ。

 

「…………?」

 

 ――なんの、話だったか。

 緊張のあまりぼーっとしていたのかもしれない。

 とりあえず思い出せないというのならば、関係はないだろう。

 こうも薄暗く、同じ景色ばかり浮かぶと意識を思考に持って行かれがちだ。

 ハリーはしっかりと地を踏みしめる感触を確かめながら、慎重に、それでいて大胆に突き進まなければ勝てない。折角ある程度のアドバンテージは得ているのだ、ここにきて優勝したくないといえば嘘になる。

 優勝して、ぼくを陥れようとした奴を驚かせてやりたい。

 しかし悪戯っぽい笑みを浮かべたハリーの顔は、目の前に現れたものをみて引きつった。

 

「うわぁーお……」

 

 一言で言い表すのなら、『殻を剥いた五メートル弱のエビ』が適切だろう。

 奇妙にぷりぷりした体をくねらせ、凶悪な棘の生えた尻尾を時折爆発させている奇妙奇天烈な魔法生物。その名も《尻尾爆発スクリュート》という、意味不明さが極まったナマモノ。

 当然ながらハグリッドが造り上げた魔法生物だ。ちなみに独自に新種を創りあげるのは、現行の魔法法律では違法である。我らが大きな友人には、もうこれ以上の罪を重ねないでほしい。

 まあそれを今言っても詮無いことだ。

 ハリーは杖腕に持っていた杖を構えると、尻尾爆発なんちゃらに向かって呪文を唱えた。

 

「『ステューピファイ』、麻痺せよ! ……ってうわぁあ!?」

 

 ハリーが放った深紅の魔力反応光は、スクリュートの装甲に弾かれてハリーの足元に着弾した。いったいあのぶよぶよのどこにそんな硬い部分があるのだろう。納得できない。

 がちゃがちゃと両手のハサミを威嚇するように鳴らしたスクリュートは、そのまま鋭利な刃物をハリーに向かって突き出した。上体を反らして避けるものの、前髪が数本持って行かれた。

 困るほどではない、しかし腹が立つ。

 

「『アニムス』、我に力を!」

 

 すっかり定番となった身体強化呪文で肉体を活性化させると、ハリーは勢いよくその場から飛び出した。青白い軌跡を残してスクリュートの背後に回ると、強烈な後ろ蹴りをお見舞いする。

 ぶに、という生肉を叩いたような異様な感触が返ってくる。どうにもダメージを与えられた気がしない。よもや柔らかい肉で打撃を無効化するなどという、世紀末な防御方法を採用しているとは思わなかった。

 尻尾を振り回してハリーに当てようとしてきたので、姿勢を低くして直撃を避ける。しかしこれは失策だった。獲物を仕留め損ねた尻尾は生垣に当たり、爆発を引き起こす。爆風に煽られたハリーの矮躯はごろごろと転がってしまう。

 結局、小柄な身体と軽い体重は改善できなかった。こればかりは仕方のないことだ。

 

「っ!」

 

 すぐさま体勢を立て直したハリーは、直感でその場から高く跳びあがった。

 その一瞬の後、どすんと背中に何かがぶつかって心臓が縮み上がる。

 何がぶつかったのかを確認しようとあたりを見渡せば、何故か先ほどまで自分がもといた場所だった。背中から地面にぶつかっていた? そんな疑問を覚えるも、スクリュートがこちらへ跳びかかって来ようとするので応戦するしかない。両の足を振り回し、ダンスのように起き上がる。

 ざざ、と円形の跡を残して起き上がったハリーはその勢いのままスクリュートの下に潜り込んだ。節足動物なのかよくわからない不揃いな脚の下を抜け、腹を狙って叫ぶ。

 

「『フェルスウェントゥス』、吹き飛べ!」

 

 『突風魔法』。

 魔力を空気に変換(コンバート)して撃ちだすという、かなり単純な原理の魔法だ。

 しかしこれはO.W.L.試験に出るようなレベルの呪文である。なぜなら、この強力な魔法において重要なのは繊細な魔法式と精密な魔力コントロールだからだ。まるで水が気化するときのように、魔力を別の物質へ変換すると容量がかなり変化する。特に空気への《魔力変換(コンバート)》は、その差が顕著だ。

 つまり『突風魔法』とは、急激に膨れ上がる魔力に指向性を与え、なおかつその膨張を抑えながらも崩さないよう固定して、一定方向へ撃ちだすという手順が必要になる魔法だ。

 要するにゴムホースと同じである。大量の水がなだれ込んでくるため、非力な者ではまともに狙ったところへ放射できない。それどころかそのホースを形成するのは自分なので、気がゆるめは自分も吹き飛んで水浸し。そんな扱いの難しい魔法だ。

 こんな場面でハリーは、そんな危険な魔法を選択した。何故か。しっかり扱えるという自信と確信があったのは確かだが、なにより今は吹き飛ばす力のある、威力の高い魔法が必要だったのだ。

 ハサミをがちゃつかせながら中に浮いたスクリュートの身体を、ハリーは思い切り蹴り上げる。するとスクリュートの巨体は生垣の背を越えるほどにまで吹っ飛び、そして一瞬その姿が消えると上空へ飛んで行った勢いのまま、真っ逆さまに落ちてくる。

 轟音と共に地面に叩き付けられた尻尾爆発スクリュートは、ぴくぴくと痙攣するだけで動けなくなったようだ。あれだけ痛めつけても死なないとは、いっそ恐れ入る。

 

「悪いね」

 

 一言残して、ハリーは仰向けて呆けたままのスクリュートをおいて駆け出した。

 どうやら生垣の上……一定ラインを越えようとすると、地面に叩き付けられるようになっているらしい。恐らく上空に向かって動く物体を、反対方向に向きを変えて転移するような魔法でもかかっているのだろう。

 発生源が見つからないために魔法式も視えないが、まず間違いないと断言できる。

 

「……、」

 

 走り続けること数分。

 ざわざわと異様な雰囲気を醸し出す生垣の織りなす迷路の中を、ハリーは走り続けていた。額にはうっすら汗が浮かび、焦りの心理状態を表しているかのようだ。

 いくら走っても、先ほどから景色が全く変わらない。『焼印呪文』で印をつけているというのに、未だに一つも見つけていない。同じところをぐるぐる回っているわけではないというのに、明らかに同じところを歩いている。

 また何かしらの魔法トラップにかかってしまったのだろうか。

 

「……『ポイント・ミー』、方角示せ」

 

 杖を構えてそう唱えると、自身の手から杖が離れる。

 手の平の上数センチの位置でくるくる回転したかと思えば、一方向を真っ直ぐ指した。

 杖先、つまり北は右を示している。おかしいぞ、さっき調べた時と方角が全く変わっていない。少なくとも何度か曲がり道を進んだために、変わらないというのはおかしい。

 うかつなことはしない方がいいが、動かなければ突破はできない。ハリーはそのまま走るのも体力の浪費と考え、速度を落として歩き続けた。

 

(……ユーコのあの言葉、)

 

 先日、何者かによってハリーは錯乱状態にあった。

 ユーコが吸血鬼であるだとか、マクゴナガルが自身を襲おうとしているだとか。

 随分と被害妄想甚だしいとは思うが、夢の内容を細工して他人に言わせたり、クラウチを洗脳して襲わせたりと、相当手が込んでいる割にはかなり遠回りだ。

 ユーコが実際にソウジローと風呂に入っていたことは事実。しかしその際に吸血していたというストーリーを作る必要性がどこにあるのか。ソウジローが過去を語る展開のどこに必要があったのか。このことから、ただハリーを錯乱させようとしただけではないのだろうとも考えられる。具体的に何かは分からないが、どうにも作為的なモノを感じる。

 しかし考えたところでさっぱり分からない。

 仲間を疑わせて、嘘のストーリーを見せて、呪いをかけた下手人は何がしたいのだろうか。

 荒事には慣れてしまったハリーも、こうした策謀には疎い面がある。歴史に残るほどの犯罪者と戦う決意をしている割には、搦め手に弱いというのは問題かもしれない。騙されても仕方ない、というのが通用するのは子供のうちだけなのだ。

 ハリーも十四歳になった。身体的にも女性として成長し、恋を知って失恋を味わった。もはや子供と呼ぶには、心身ともに少し難しい時期へ入っている。だがそれを敵が考慮してくれるわけがない。

 成長しなければならないのだ。

 

(あとで聞いてみれば、幻聴なんかじゃなかった。確かにユーコは言っていた)

 

 右の壁に違和感を感じる。

 ハリーは注意を凝らしてあたりを視る。魔法式が漂っていることに気付くが、それが何の魔法かまでは分からなかった。だが右の壁には、魔法式がびっしりと貼り付けられていた。恐らくそれこそが、今ハリーが迷っている魔法トラップの核だろう。こんなバレバレのトラップなんて、有り得ない。簡単にバレたくないならば、魔法式を隠す必要があるだろう。何故ならこんなもの、クイズのすぐ隣に答えが書いてあるようなものだ。

 魔法式は人には見えない。ユーコが言っていたことだ。

 あれは結局、どういうことなのだろうか。

 ハリーは杖を振るって魔法式を破壊すると、一瞬で周りの風景が変わる。

 周囲にはハリーが焼き付けたはずの『焼印』がいくつも刻まれていた。きっと幻覚で一か所をぐるぐる歩きながら、周囲の生垣に『焼印』していたのだろう。あまりそのマヌケな光景は想像したくない。

 ともあれ、罠は脱した。何分間引っかかっていたのかはわからないが、先を急ぐしかあるまい。

 

「いや先を急ぎたいんだって」

 

 急いで走って数分後。

 通路を塞ぐように現れたのは、巨大なライオンだった。

 人間の女性の上半身を持ち、どたぷんと揺れるメロンなどという表現では生易しいほどの巨乳のおねえさん。顔もとてつもなく慈愛に満ち溢れた微笑みで満ちている。目の周りに黒いお化粧をしているため、なんとなくエジプトっぽい気がするのはハリーの偏見だろうか。

 アーモンド型の目を細めて、魔法生物《スフィンクス》はハリーに声をかける。

 

「人の子よ、問いかけに答えるならば道を通しましょう。答えぬというのなら無言で去りなさい。謎かけに間違えれば、私は貴女を食べてしまいます」

「ボクタベテモオイシクナイヨ」

「いいえ、とても美味しそうですよ、年若い少女よ。柔らかそうな身体、未成熟ながら大人なお胸、小ぶりなお尻……それに黒髪ショートにくりくりな目。小柄で幼いながらも女性としての魅力を備えた少女の矛盾点……食べてしまいたいほど美しいです」

「これヤバいやつだ」

 

 くねくねと身をくねらせるスフィンクスの姿は、とてもじゃないが見るに堪えないものだった。というかいいのだろうか、なんかアレな意味で変態っぷりに既視感がある。

 ハリーの白けた視線に気付いたのか、スフィンクスはその端正な顔を少し朱に染めて咳ばらいをした。とりあえず中身は阿呆臭いが、言ってることは物騒極まりない。物理的に頂かれるのも性的に喰われるのも御免被る。

 冷酷になれ、ハリー・ポッター。逆に考えるんだ、間違えたら殺してしまえばいいさと。クイズとは最後に立っていた者が勝者だ、解答者がいないなら正解は己のモノだ。

 よし、これで殺ろう。じゃなかった、いこう。

 

「では問題です。じゃじゃん」

「あんた本当に魔法生物か? テレビ見てんじゃないの?」

 

 随分と俗っぽいスフィンクスである。

 ハリーのジト目をものともせず、スフィンクスは鈴の鳴るような声で謎解きを繰り出してきた。

 

「今現在の魔法省大臣の名前は?」

「……それが問題?」

「…………なまえはぁ?」

「……コーネリウス・ファッジ」

「で、す、が! ホグワーツ校長の名前を五人! お答えくださいさぁ走ってスタート!」

 

 てめぇ、と叫びそうになるがそんな余裕はハリーになかった。

 何故なら地面がいきなりスフィンクスの方向へ滑り始め、彼女が口を開けてスタンバイし始めたからだ。全力で走らなければ、ベルトコンベアーのような地面によってお口の中へゴートゥヘルしてしまう。

 全力で足を動かしてスフィンクスのフローラルな香りがする口から逃げながら、ハリーは叫んだ。

 

「アルバス・ダンブルドア! ブライアン・エバラード! ディリス・ダーウェント! アーマンド・ディペット! えーっとえーっと、デクスター・フォーテスキュー!」

「おっ、はやい。お見事です!」

 

 思い出せる限りの校長先生を思い浮かべてハリーは渾身の力を込めて叫ぶ。

 それぞれ現代最強、魔法教育の父、慈愛の癒者、前校長、子供より子供な友達校長として知られている。全て魔法史の授業で習った名前だ。

 そしてスフィンクスが笑顔で正解を唱えると、地面が急に止まり、ハリーはつんのめって顔から転んでしまった。

 恨めし気にスフィンクスを睨みつけると、転んだ時にめくれ上がったスカートの中をじっくり見ていたのでスカートを引っ張って隠す。残念そうな顔をされた。

 

「次の問題です。でっでーん」

「まだあるのか……」

 

 げんなりした顔のハリーを見て、嬉しそうにスフィンクスは言葉をつづる。

 

「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。この生き物は……?」

「問題の続きを」

「チッ!」

 

 二度も同じ手に引っ掛かってたまるものか。

 

「この生き物は人間……で、す、が。誰もが欲しがらないのに皆が買い、買う人間は使わず、使う人間はこれを知らず。これは何か?」

 

 今度は走らなくても済むようで、スフィンクスはにこにこ顔のままハリーを見つめている。

 しかし今回はちょっと分からない。駄洒落系のクイズならまだよかったのに……。

 こういう頭脳労働をだいたいハーマイオニーに任せてきたのが、ついに裏目に出たか。

 数分目を瞑って考えに考え、ハリーは静かに目を見開いた。

 

「棺桶だな。好んで買う奴はいないし、買う人間は生者。そして使う人間は死者だ」

「正解です。……ところでいま何問目!?」

「三問目。はやく通せよ」

「うーん、ギャグが分かっていませんねえ。では最後の問題としましょう」

 

 ため息をつきながらそう言うと、スフィンクスはその場に伏せる。

 そしてそのアーモンド形の瞳を細めて真面目な顔つきになると、ハリーに対して問いかけた。

 

「命の終わりとは何か、答えよ」

 

 冷ややかな目。

 スフィンクスの様子からこれが本当に最後の問いで、そして一番聞きたかったことだというのがわかる。ではどうするべきか。真面目に返すべきだろう。

 ハリーは片眉をあげてスフィンクスを見上げる。

 しかし答えは分かっている、こんな問題は子供騙しだ。ジョークですらある。

 半分笑いながら、ハリーは口を開いた。

 

「……おまえ、それは()()だろ」

 

 そしてその口の端を汚した血を袖で拭いながら、ハリーは言った。

 その言葉を聞いたスフィンクスは、にっこりと嬉しそうに微笑んだ。

 

「正解、お見事です。ハリー・ポッター、よき旅を」

 

 そう言って霧と消えたスフィンクスは、排水溝に吸い込まれる水のようにその姿を消していった。後に残ったのは、次へと続く道。

 最後の最後でくだらない、そしてズルい謎かけをしていったものだ。

 褒美のつもりだろうか。全身から疲れがさっぱり消えてなくなってすっきりしている。ハリーは今までスフィンクスが塞いでいた道を走りだした。

 

「だいぶ時間を取られたな……急がないとマズい気がする」

 

 いくつかの曲がり角を抜けると、少し大きめの広場に出た。

 特に何かあるわけではないが、いきなりこういった開けた場所に出ると不安感を煽られる。早いところここから出てしまおうと脚を動かし始めた、そのとき。

 ハリーが向かおうとした方の道から、二人の影が飛び出してきた。

 

「ローズにブレオ!」

 

 それはハリーが叫んだように、ローズマリー・イェイツとバルドヴィーノ・ブレオの二人だった。どちらも非常に平静を崩した様子であり、汗で髪が濡れている。

 

「ハリー!? やっべぇなんでここに居るんだよ!」

「しまった、巻き込んだかっ。おい、走るんだハリエットちゃん!」

 

 焦った様子の二人は、ハリーとすれ違うその瞬間に腕を組んで持ち上げて走り始めた。小柄で軽いとはいえ、それでも少女一人の体重をこうもたやすく持ち上げるとは驚きだ。魔法を使っているようでもにないのに、えらく力持ちである。

 しかし二人は何から逃げているのかと疑問に思ったハリーは、二人を追いかけてくる何者かを見遣った。

 そして後悔した。

 ハリーたちの身長ほどはある体高を誇るほどに巨大な家庭内害虫が、アゴや肢をわしゃわしゃ動かしながら全力で追いかけてきているからだ。

 

「って、うおおおおおお!? なにあれ!? っていうかまたおまえらか、またおまえらがトラブルをトレインしてきたのか! ぼくを殺す気なんだなそうなんだな!?」

「仕方ねえだろ!? あんなもん来たら逃げるしかねえよ!」

「二人とも落ち着くんだ! おっぱいが揺れて揺れてスゲー眼福でズボンが痛いです!」

「「ぶッ殺すぞ!?」」

 

 三人並んで走りながら、至極どうでもいい話題で盛り上がる。

 一種の現実逃避である。存外に『名前を言ってはいけない例のアレ』が素早く、そして不気味で気持ち悪いというのが大きいのかもしれない。

 アレは家の中のあらゆるものを食す究極の雑食だが、自分たちの身長近く体高があれば余裕で人間も捕食対象だろう。あんなものに食い殺されて人生を終えるなど、最悪にもほどがある。最低だ。

 ブレオが鼻の下を伸ばして胸を凝視してくるが、正直気にしている暇はない。『姿も見たくない例のアレ』を倒してからブチ殺スことにして、いま目下やるべきことはアレの排除だ。

 ハリーは走りながら大きく跳び、空中で体の向きを変えるとそのまま魔法を射出した。

 

「『インペディメンタ』、妨害せよ!」

 

 紫色の魔力反応光は『アレ』の眉間に突き刺さり、ぞわっとくるような悲鳴をあげさせることに成功する。虫特有の外殻が擦れあうような、鳥肌の立つような悲鳴だったためハリーは苦々しい顔つきになる。

 嫌な予感がして着地と同時に方向転換して走りだせば、やはりそれで正解だった。

 

「効いてないぞハリー!」

「二人ともすごいホットだよ! ローズマリーちゃんなんてもう暴れてるよ!? しかもハリエットちゃんこの一年でバスト成長してるよね!? そろそろ可愛い下着がなくなって困るサイズかい!? 嗚呼、ブラーヴォ! ホント英国に来てよかったぁン!」

 

 走り続けながらローズマリーの悲鳴を聞き、ブレオの煩悩塗れの叫びを聞いた。

 さて、全くと言っていいほど『あのアレ』に妨害呪文が効いていなかったが流石にあれはおかしい。魔法的防護の高いドラゴンにすら微量ながら効く呪文だというのに、デカいだけの害虫程度に弾かれるはずはないのだ。明らかにヒトの手が加えられている。

 ついに鼻血を垂らして隠しもせず前屈みになり始めたブレオに『足縛り呪文』をかけて転ばせ囮とし、ハリーとローズマリーは駆け続けた。背後から割とガチな悲鳴が聞こえてきたが、当然聞こえなかったものとする。

 転倒して即座に『足縛り』を解いたのか、相変わらず無駄に高い技量を見せたブレオは汗だくになりながらもハリーたちに追い縋ってきた。どうやら喰われずに済んだらしいが、囮の意味がない。

 

「今のは、マジで、ヤバい」

「いつになく本気のコメントありがとう。もいっちょ囮になってくれない?」

「本当勘弁アレはほんとダメ」

 

 彫りの深い顔立ちをしているため、顔に影がかかって疲労感がよくわかる。

 あれ以上セクハラ発言を繰り返せば本当に餌としてやりたいところだ。

 

「ハリー、どうすんだよアレ!」

「どうするもこうするも、撃退するしかないだろう!?」

「でもでもハリエットちゃんの魔法は効かなかったじゃないか! もう終わりだーっ! たぁすけてぇパードレーッ! マンマーッ!」

 

 嘆く変態は無視して、ハリーはローズマリーとアイコンタクトを取る。

 全力で走りながらなお強く地面を蹴ったローズマリーは一回転するように前方へ跳ぶと、素早く杖を腰から抜いて、地面に向けて魔法を放った。

 

「『フリペンド・ギガント』、ブッ放せッ!」

 

 ローズマリーが構えた杖のすぐ真横に、黒々とした砲身が召喚される。

 同時に黒い弾を射出。それによって穿たれた着弾点が大きく盛り上がったかと思えば、地面が一気に大爆発を起こした。

 土砂が盛り上がって壁のように舞いあがったその瞬間を、ハリーは逃さない。

 既に構えていた杖からは、凝縮されたアイスブルーの魔力反応光が輝いていた。

 

「『グレイシアス』、氷河よ!」

 

 細く輝く魔力反応光が土砂に着弾すると同時、硬質な音を響かせてその土砂すべてが凍りついていた。ちょうど生垣のギリギリ上まで伸びているため、相当な高さに見える。

 氷の壁は土色をしているため向こう側の様子を見ることはできないが、まず間違いなくこちらへやってくることは不可能だろう。

 

「やったね僕のハリエットちゃん! 流石はいギノォゴアァ!?」

「どさくさ紛れにあたしのおっぱい触ろうとしてんじゃねえよ!」

 

 股間を押さえてうずくまったブレオと右脚を振り抜いた体勢で怒鳴るローズマリーを横目で見て、とりあえず危機は去ったと安心するハリー。

 まだ競技中であること、そしてあの凍土の壁がいつまで保つかもわからないことを理由に、三人はそれぞれ別の通路へと歩を進めていった。

 

 しばらく歩き続けると、なにやら金色の靄のようなモノが見えてきた。

 魔法式を視てみれば何のことはない、トラップに引っかかった者に天地が逆さまになる幻覚を与えるだけの魔法だった。そのまま靄の中を突っ切って進むと、ふと上空からスニッチの見た目をした魔法具がこちらへやってきた。

 ハリーの顔の回りをぷんぷん飛び、まるで蜂か何かのようだ。

 よくよく視てみれば、どうやら上空の投影スクリーンに課題の様子を映し出すためのカメラのようなものらしい。言われてみれば、小さいながらもカメラのような意匠をしているような気がしないでもない。ただ言われなければ分からない。

 

「ぴーぃす」

 

 適当に笑顔でピースサインをスニッチ・カメラに向かって行うと、なぜだか空気が震えた気がした。

 万が一野郎どもから歓声があがったとしてもこちらまで届くことはありえないのだが、まあ可愛いは正義ということで。想いのアツさはいつでもどこでも繋がり伝わるのだ。

 観客の男性陣を幾名か大歓喜させてしまったこともつゆ知らず、しばらく歩いていてもスニッチ・カメラはハリーから離れるつもりがないようだ。

 

「……何か来るな」

 

 ハリーが気が付いたのは、正面から向かってくる四足歩行の何かだった。

 どうやらかなり怒り狂っているように見える。うっすらと魔法式が視えるあたり、既にほかの代表選手が手を出してしまったとか、そのあたりかもしれない。

 翼のないドラゴンと言ったら適切だろうか、地上を這うようにしてこちらへ巨大なトカゲが迫ってくる。手足は岩のようにごつごつとしており、全体的に岩がそのままドラゴンと化したような印象がある。

 そのトカゲドラゴンは血走った黄色い目をハリーに向けて、石臼のような歯をずらりと並べて特大の噛みつきをお見舞いしてきた。

 しかしハリーもそのくらいならば避けられないことはない。大きく後ろにステップを踏み、何度もハリーを食い千切ろうとするトカゲドラゴンの噛みつきをひらりひらりと避けていく。焦れたトカゲドラゴンは口を大きく広げてブレスを吐こうとする。

 ブレスのための熱気が高まっていく中、ハリーは即座に杖をトカゲドラゴンの口へ向けて叫んだ。

 

「『ステューピファイ』、麻痺せよ!」

 

 紅色の魔力反応光が口腔へ飛び込んでゆく。

 生物である限り、口の中や目玉、内臓を鍛えることはほぼ不可能に近い。

 どれほど無敵の盾を持っていたとしても、その内側に爆弾が仕掛けられていたらひとたまりもあるまい。盾だけが残り、持ち主は死亡。なんてこともおかしくはないのだ。

 案の定びくんと一瞬だけ痙攣したトカゲドラゴンは、そのまま這いつくばるようにして気を失った。

 それで終わればどれほど楽か。

 失神して倒れ伏すトカゲドラゴンの脇を、巨大な足が踏み付けた。

 

「げっ、マジかよ」

 

 何かと思えば、トロールだ。

 それもかなり性質の悪い、比較的頭のよろしいタイプ。

 動物の皮をなめして作ったらしい鎧を着込み、粗雑な棍棒ではなく分厚い出刃包丁のような刃物を持っている。ヘルムの奥からは、理性を感じさせる目を覗くことができる。

 言語を理解できる程度にはおつむが発達したトロールは、簡素な警備員のような教育を施されて屈強なガード魔ンとして貴重品などの護衛に就くこともある。そういったトロールが、目の前にいるアレだ。

 恐らく目の前に現れた人間を痛めつけろ、とかいう命令でも受けているのだろう。

 実に厄介だ。

 

「『エクスペリアー、うわっ!?」

 

 素早く杖を向けて呪文を唱えるも、どうやら熟練の警備トロールらしい。

 魔法使いが杖を向けてくるということは、すなわち攻撃してくることである、と学んでいるようだ。ハリーが詠唱している間に一跳びで近寄ると、その手に持った鈍刀で斬りかかってきた。

 まだ身体強化をしていないため、あれに当たれば即死だ。無様でも構わないから大慌てでその場から飛び退けば、つい数瞬前までハリーのいた位置には深い亀裂が刻まれていた。

 

「うそぉん」

 

 切れ味の悪いあの鈍刀で、この威力。

 斬り裂くというよりは、ブッ叩いて引き千切ると言った方が正しいか。

 どちらにしろこの威力では、当たれば身体がバラバラになって間違いなく即死だ。今度は横薙ぎに振るうつもりなのか、警備トロールが鈍刀を横向きに寝かせて構えている。

 それを見たハリーは即座に『身体強化』を自身にかけ、トロールに向かって駆け出すと同時にスライディングで潜り抜ける。『身体強化』の恩恵でスピードもバランス感覚も常人を逸している今の状態、スライドした直後に勢いのまま腹に力を入れて体を起こしつつ疾走する体勢に戻ることなど、造作もないのだ。

 いきなり懐に入ってきた小柄な人間を見て、警備トロールが驚いたような顔をする。いま彼の体勢は、重量のある鈍刀を振り切って腕が伸びた体勢。超至近距離にいるハリーを害するには、あまりに姿勢が悪すぎた。

 そしてハリーという少女を相手に、それだけの隙は致命的である。

 

「『フリペンド』、撃て!」

 

 ハリーの撃ちだした魔力反応光は、一直線にトロールの眼球へと向かってゆく。

 魔法使いが攻撃してきたら、まず頭か心臓を守れ。これがこの警備トロールに下されている命令のひとつである。これは一撃で殺されてしまうことを防ぐためのものだ。

 調教師の教えの通り、自らの顔の前で両腕をクロスして魔力反応光から逃れようとした。

 結果は、失敗だった。

 ハリーの放った『射出呪文』は貫通力を大幅にあげられており、防御のため重ねられた腕ごとトロールの被っていたヘルムを吹き飛ばしたのだった。

 

「ブォォオオオオ――ッ!?」

「おまえのような奴でも、悲鳴はあげるんだな」

 

 自身が放った悲鳴のあとに、蔑むような、怒ったような声が聞こえる。

 眼前で光り輝く、美しい何かを目にした警備トロールは思った。

 眩しくて見えない。警備トロールが最後に考えたのは、そんな単純なことだった。

 

「……よし、倒した」

 

 そう言って一息ついて、倒れ伏したトロールの上に立つのはハリーだった。

 終わってみれば、戦闘時間が五分にも満たないだろう短い時間だ。

 眉間を撃ち抜いて邪魔な物(ヘルム)を剥ぎ取ったあと、思い切りどついて意識を奪った。彼に対して行ったことは、要するにそれだけ。コツらしいコツといえば、その攻撃のひとつひとつには膨大な魔力を込めていたというだけだろうか。

 さて、道を急がねば。

 次はいったい何が出てくるのか、少し怖くもあるしちょっぴり楽しみでもある。

 しかしハリーの意識は、突然耳に飛び込んできた悲鳴によって一瞬だけ凍りついた。

 いまの甲高い声は……フラーのものだ。

 

「……何かに襲われたか?」

 

 悲鳴をあげるような要素は、この迷路には大量に存在する。

 先のトロール然り、スフィンクス然り。一手間違えればあっさりとオダブツできるような障害物ばかりだった。それらのどれかに襲われ、悲鳴をあげたのだとしたら納得だ。

 競技のルール上は何ら問題ないことである。

 力不足である方が悪いのだ。

 

「……。……ああ、もう!」

 

 しかし、こんなもの理屈ではない。

 第三の課題以降、事あるごとに自分に纏わりつきながら「アリー、アリー」と笑顔でじゃれついてくるフラーの笑顔を思い出すと、見捨てるという選択肢を選ぶことはできなかった。

 『身体強化魔法』へ再び魔力を供給して活性化させると、フラーの悲鳴が聞こえてきた方へと風のように駆け出した。

 途中で恐らくまね妖怪ボガートであろう吸魂鬼(ディメンター)とすれ違うが、それがこちらへ反応を示す前に駆け抜ける。相手にするだけ時間の無駄だ。姿勢を低く、一歩一歩が三メートルを超えるような歩幅で疾駆して、見つけたのは恐らくフラーが悲鳴をあげたまさにその場所。

 周囲の生垣や地面が大きく抉れており、戦闘の跡が見て取れる。フラー自身の姿は見当たらない。

 いや、待て。生垣の下になにかあると思い視線を向けてみれば、何かのツタ植物に絡みつかれて取り込まれようとしている彼女を見つけたではないか。

 

「『ディフィンド』ォ!」

 

 駆け寄りながら『切断呪文』を放ち、フラーに絡みつくツタを除去してゆく。

 生垣から伸びるツタは次々とフラーに巻き付いてまるで捕食しようとしているかのようで、ハリーはゾッとする。完全に吸い込まれたら、どうなるんだ?

 ハリーはかつてプライマリースクールの図書室で読んだことのある、食虫植物の図鑑を思い出して身震いした。『身体強化』の影響で、フラーの体を締め付けるツタも素手で引き千切ることができる。

 もはや面倒なことはせず、力任せにフラーの身体を引っ張って蔦から解放することにした。彼女を絞め殺すほどに力が強いわけではないので、腕を引っ張って関節が外れるような心配はない。ゆえにハリーは彼女の脇の下から腕を通すとがっちりと手を組み、力任せに引っ張った。

 『身体強化』の効果が切れる頃、まるで大根のように生垣の拘束から抜くことのできたフラーは、明らかに意識がなかった。彼女の首筋と口元に手を当て、生死を確認する。……素人診断ではあるが、気絶しているだけだろう。

 気を失った状態の彼女を放置しておくわけにはいかない。彼女の身体を視てみれば、微かに魔法式の残滓が見受けられた。

 

「……クソッ、マジかよ。『まともじゃない』な……」

 

 そうなるとフラーは、魔法生物による攻撃で倒れたわけではない。

 同じ魔法使いの仕業。

 つまり、代表選手の誰かが彼女をやったということに他ならなかった。

 魔法式はもはや完全に崩れていて、何の呪文でやられたのかをうかがい知ることはできない。しかし『失神魔法』の反対呪文である『蘇生魔法』でも目を覚まさないあたり、尋常な方法ではないようだ。

 

「恨むなよ」

 

 一言だけそう言い残し、ハリーは彼女が握り締めていた手から杖を取ると、上空へ向けて赤い花火を発射した。ぱ、ぱ、と軽い音と共に光が弾ける。これでフラーはリザインを示したことになり、この迷路から脱出できるはずだ。

 危険生物がうようよしているこの迷路で、気を失った女性を一人放置しておくというのはあまりにも愚策。ハリーにはそこまで冷酷になる覚悟はできなかった。

 

「って、うわっ、マジか!?」

 

 ハリーは突然左右から迫ってきた生垣に驚き、思わず駆け出す。左右の壁には一面に転移の魔法式が走っている。恐らくこれで挟んだ人間を、書かれている位置情報の場所まで飛ばすのだろう。

 脱出手段はどんなものなのか聞いていなかったが、まさかこんな乱暴なやり方だとは。

 このままではスタート地点かどこかに跳ばされてしまうと判断したハリーは、全力で生垣の間を駆け抜ける。

 

「っぶは!?」

 

 間一髪。

 咄嗟に地を蹴って飛び出したのと、生垣が完全に閉じたのはほとんど同時だった。無理矢理跳んだために背中から別の生垣に突っ込み、ずるずると頭から地に落ちる。

 スカートが完全にめくれあがってあられもない姿になっているが、スパッツは偉大だ。

 両手を地面について逆立ちすると、そのまま体を捻って立ち上がる。無駄にアクロバティックな起き上がり方をしたのも、身体の調子を確かめるためだ。

 今のままでも、つまり魔法が特になくともこれくらいの動きは可能。『身体強化』が付与されていればなおさらだ。身体の調子に問題はなしとする。

 いまの無茶な動きで痛めたところもないようなので、ハリーはそのまま歩を進めることにした。ただし今度からは、杖は構えたままでの慎重な移動に変える。フラーが誰に襲われたにせよ、襲った人間はいまこの迷路に潜んでいる可能性が非常に高い。

 そこではたと気付く。フラーについていたスニッチ・カメラは、その一部始終を見ていたのではないだろうか?

 すぐそばでホバリングする己のスニッチを見上げるも、なにやら色がくすんで元気もない気がする。魔法式を視たところ何も視えなかったことから、このカメラ単体ではなくこれらを操っている大元に何か妨害があったと考えるべきだろう。今頃選手たちの映像が映らずに大騒ぎだろうか。

 ハリーを除いた代表選手たち残り五人、もしくは上空を箒で飛んでいるだろう審判員。

 疑うべきはこの五名以上。

 一応、ハリー自身は除外しておく。先日かけられた『服従の呪文』を内包した『錯乱の呪文』を懸念して魔法的に精密な検査を受けたからだ。

 かのハリー・ポッターに『服従の呪文』をかける人間などいるはずがない、というのが検査に立ち会った魔法大臣コーネリウス・ファッジの言葉だ。それはどうかと思うが、マダム・ポンフリーによる検査結果でも、今現在ハリーの体内に呪いがかけられている痕跡はないとのことだ。ゆえに候補からは除外していいだろう。

 不意打ちされたとしても対応できるように、気を張りながら走る。

 この先は丁字路だ。左右どちらかで待ち伏せされてもいいように警戒し、生垣に背を付けてちらりと顔を出すと同時、ハリーは息を呑んだ。

 

「――ッ!?」

 

 目の前にクラムの顔が飛び出してきたのだ。

 偶然か故意かはわからないが、ハリーが向こうを覗くと同時にあちらも顔を出してきたのだ。鼻と鼻がくっつきそうなほどの至近距離で、ハリーはクラムの目を見た。

 濁っている。

 こんなにも目の前に居るのに、彼は少しも驚いた様子がない。

 淡い光を漂わせ、明らかにハリーのことを見ていないのがわかった。

 

「く、クラム……?」

 

 縋るような情けない声が出た。

 思わずクラムの頬に手を添えるも、ぴくりとも動いてくれない。

 ――『服従の呪文』だ。

 ついこの前クラウチ氏の目を見たばかりだ、間違えることはない。

 ハッと気づいてクラムに杖を向けるのと、背後から叫び声が聞こえるのは同時だった。

 

「ハリー、伏せるんだ!」

 

 セドリックの声だと判別したのが先か、その指示に従った方がいいと感じたのが先か。ハリーは猫が伏せるように素早くその場に身を屈めると、その頭上を魔力反応光らしき光が通り過ぎてゆくのを視界の端に見つける。

 その魔力反応光が直撃したクラムが吹き飛んでゆくのを見て、ハリーは急いで振り返る。

 杖を構えたセドリックが、こちらへ駆け寄ってくるところだった。

 

「セドリック!?」

「退くんだハリーッ」

 

 上体を起こしたハリーを押しのけ、セドリックはクラムの杖腕を踏みつける。

 尻餅をついたハリーは、憤怒の表情に染まったセドリックを呆然と眺めていた。そして彼がその杖先をクラムの心臓に向けたところで、ハリーは青褪めて叫ぶ。

 

「だめだ! やめるんだ、セドリック!」

 

 ハリーの叫び声にぴくりともしないセドリックの腕に縋り付く。

 彼に杖を向けるわけにはいかないと思ってその行動をとったのだが、激昂したセドリックはハリーを振り払う。『身体強化』の恩恵を受けていない今、男女の腕力差は埋まらない。ハリーは軽々と放り出されてしまい、そのままセドリックが自分の上に跨って仁王立ちすることを許してしまった。

 

「せ、セドリック……」

「ハリーィ! 邪魔をするなら君だって!」

 

 極度の興奮状態で、冷静に判断ができているとは言い難い。

 このままでは、興奮しすぎたセドリックがハリーに対して呪いをかけることも十分に有りえると判断する。いくら親しい友とはいえ、それは困る。

 ハリーは冷酷になる覚悟を決め、右脚を思い切り振り上げた。

 

「ごぁばうじゃばあ!?」

 

 セドリックの暴れ玉(ブラッジャー)がハリーによって鎮圧され、力なく崩れ落ちる。

 股座を抑えて蹲っていたセドリックを助け起こし、ハリーは溜め息を吐いた。

 生まれたての小鹿のように震えるセドリックに向けて、ハリーはつい先日習得したばかりの呪文を唱える。

 

「『ケルタ・コグニーティオ』、正気に戻れ」

 

 かなりの集中が必要だったが、うまく発動出来たようだ。すると表情を憤怒に染めていたセドリックが、急に憑き物が落ちたような顔つきに変わった。

 目を丸く見開き、自分の手に持った杖とクラムを見比べ、そしてハリーの呆れた顔をみてさっと顔を青褪めさせた。興奮のあまり正気を失っていると思い試したのだが、どうやら呪文が効いてくれたようだ。

 

「は、ハリー……僕はなんてことを……」

「大丈夫だよセドリック。よくあることさ、よくあることだ」

 

 きっとクラムに杖を向けたあの時、セドリックは彼を殺害することを考えていたのかもしれない。その気持ちはよくわかる。ハリーもクィレルを殺すと決めた時は、恐ろしく冷たい気分になったことを今でもはっきりと思い出すことができる。

 まるでいつもの自分を引き裂いて、もう一人の残酷なハリー・ポッターを練り上げたような、気持ち悪くも奇妙な感覚。セドリックは先ほど、自分を引き裂く直前だったのだ。

 さぞ気分が悪い事だろう。

 

「すまない、ハリー。すまない……僕はどうかしていた……」

「これだけ閉所で緊迫感のあるところなんだ、人が変わってもおかしくないよ」

「ああ、すまない……」

 

 すっかりしょげてしまったセドリックを見て、ハリーは彼への評価を改める。

 優しく勇敢で、紳士的で完璧な青年だと思っていたが案外脆いところがあるようだ。予想外の展開に弱いというか、どうも自分の主義に反したことを行ってしまったことへのショックが大きいようだ。

 年相応に少年らしいところがあるものだ、とハリーは十四歳のくせに達観した事を考えていた。

 

「とりあえず進もう、セドリック。競技はまだ続いているぞ」

「あ、ああ……」

 

 ぽん、と優しく彼の背中を叩けば、セドリックは小さく頷いた。

 そして通路の向こうへと指を差す。

 

「ハリー。優勝杯は、あの先だ」

 

 瞬間、ハリーは驚いてセドリックの顔を凝視する。

 そんな顔をされて、セドリックは苦々しげに笑っていた。

 

「クラムとは優勝杯へ至る通路でばったり出会ってね、それで争いになったんだ」

「いや、いやちょっと待てよセドリック。どうしてぼくに教えた?」

 

 ハリーが眉を寄せて問いかける。

 その表情は怒りのそれだ。

 セドリックが彼女の感情に気付き、少し眉尻を下げて言う。

 

「僕にはもう優勝する資格がなくなった。他者の命を奪ってまで優勝杯を狙おうとしてしまった僕には、あのカップはふさわしくない。みんなが応援している僕はそうではないはずだ」

「……アー、君はついさっきぼくを助けてくれたじゃないか。振り払ったことならそれでチャラになるんじゃないの?」

「いや。そういう問題じゃないんだ」

 

 ここでハリーは、成程、と合点がいった。

 セドリック・ディゴリーという青年は、高潔な男として知られている。

 ハリーが愛箒の《クリーンスイープ七号》を失った時も自分の箒を貸し出そうとして、優秀で厄介なシーカーであるハリーが潰れるチャンスを不意にしようとしたためチームメイトに止められていたほどだ。

 この件からわかるように彼は、融通の利かない頑固者なのである。

 これにはハリーも困った。

 ハリーとしてはここでセドリックと正々堂々と勝負し、そのうえで彼に打ち勝って気持ちよく優勝杯を掲げたいのだ。このように譲ってもらった優勝など、何の価値もないし腹立たしい限りだ。

 それをセドリックも分かっているのか、いつものハンサムな笑顔も冴えていない。

 

「セドリック。本当は君だって優勝したいと思ってるんだろう」

「……でも、」

「デモもストもない。それに君は紳士的すぎる。もっとワガママになろうよ」

 

 ハリーとしては、セドリックはよきライバルなのだ。

 異性として好意を寄せられていることは知っているが、それでもこの気持ちに嘘はつけない。クィディッチのとき然り、この対抗試合での課題然り。実力が近いせいか、競っていてとても楽しいのだ。

 それはきっと、向こうも同じはずだ。

 デートやキスだってしたいが、それと同じくらい今を楽しんでくれているはず。

 そんな気持ちを、罪悪感という意地で踏みつぶしてほしくないのだ。

 そこでハリーは、ぴ、と人差し指を立てた。

 セドリックが片眉をあげて、こちらを向いたのを確認する。

 ハリーはまさに名案だというように、にっと笑って、

 

「わかったよ。じゃあ――」

 

 提案を言おうとして、それは叶わなかった。

 空気の塊がハリーの背中に叩き付けられ、その軽い身体が吹き飛んだ。

 みしみしと、木の枝を曲げるときのような嫌な音が身体の内側から聞こえてくる。生垣に叩き付けられたところでそこまでダメージはないものの、背中に痛みが走る。感覚としては骨に異常は感じられないが、それでもここに痛みを感じるのはまずい。

 追撃の空気弾がハリーの体を地面に叩き落とすその直前。『身体強化』で超人染みた身体能力を手に入れたハリーは、猫のように両手両足で地面に着地することで衝撃を逃がす。

 

「セドリック!」

 

 この場でハリーが襲撃を受けたということは、彼も襲われたとしておかしくはない。

 警告のために一声叫んだが、どうやら遅かったようだ。

 ゆっくりと地に倒れ伏すセドリックの傍には、杖を持ったまま項垂れる一人の青年がいる。

 警戒のために杖先を向けるも、それに対する反応は見られない。

 ハリーが無言呪文で杖先に明かりを灯して顔にかかる影を取り払えば、そこにいた人物にハリーは息を呑む。すらりとしたスタイルのいい肉体、黒い髪、黒い瞳。結ばれたポニーテールが揺れている。

 木刀型の杖を揺らし、黒く暗い瞳を向けてきたその男は。

 

「……正気か、ソウジロー」

 

 日本魔法学校、不知火の代表選手。

 ソウジロー・フジワラが、こちらをじっと見つめていた。

 ハリーの一挙手一投足を舐め回すように眺め、まるで品定めしているかのように見える。

 手に持ってぶら下げている刀杖からは、僅かになにか水が滴っている。いや、あれは血か。恐らくセドリックの頭でも殴りつけたのだろう。

 『身体強化』の恩恵で底上げされた視力が、彼の身体に異様な配列の魔法式を視る。

 まるでムーディが使った『服従の呪文』と似たような魔法式だが、所々が明らかに違っている。ひょっとするとこれは、ハリーがかけられていた『錯乱の呪文』と同じものかもしれない。

 

「ッお、おいおい……嘘だと言ってくれよ……」

 

 クラムが術にかかっていた以上、他の選手も操られていないとは限らない。それは分かっていたのだが、どうもわかっていたつもりだけだったようだ。

 迷路の中にあって小部屋のようになっているこの場所へ続く通路は、合計で三つある。いまハリーがソウジローの姿を認められる北側。そしてハリーの左右にある西と東。

 右手側からは、ローズマリーとブレオが静かな足取りでこちらへ近づいてくる。

 左手側からは、ハリーが棄権させたはずのフラーが起き上がったクラムと共にいる。

 淡く輝く五対の瞳は、そのすべてがハリーへ突き刺すような視線を送っている。

 そして彼らはおもむろに懐やズボンに手を突っ込むと、中から髑髏をあしらった仮面を取り出してその顔に装着する。髑髏の目出し穴から淡い光が漏れる様は、あまりに不気味すぎる。

 あれは死喰い人の面だ。

 

「……冗談キツいぞ」

 

 ハリーが引き攣った顔で言った言葉に返事はなかった。

 その代わりに、髑髏の面で表情を隠した五人は一瞬でその殺意を膨張させる。

 木刀型の杖を八相の構えに持つソウジロー、猛禽類をあしらった杖を肩より上に構えるクラム、拳銃型の杖をくるくると回すローズマリー、赤いマントをなびかせ半身で杖を突き出すブレオ、半鳥人化して鋭い爪と杖を向けるフラー。

 その全員がハリーに杖先を向け、叫んだ。

 

「「「『エクスペリアームス』!」」」

「ッ!」

 

 咄嗟に横に跳べば、一瞬前までハリーの居た場所が魔力反応光で鮮やかな赤に染まる。

 跳んでいる最中、宙に居ながらにして周囲に視線を向けていたのが幸いした。ハリーの着地時を狙って、一気に距離を詰めてきたフラーとソウジローが、それぞれ爪と刀杖を振るってきたのだ。

 着地と同時に足を曲げ、後頭部が地面に擦れるほど上体を反らす。二つの凶器が空振りしたのを見届け、ハリーは腹筋に力を入れて無理矢理に体を起こした。

 勢いよく起き上がったハリーは、ソウジローとフラーの顔を思い切り掴んで二人の体勢を少し崩すと、地面に向かって叩き付けるように突き飛ばす。

 フラーは上手く倒れ顔面を打ってくれたが、ソウジローは新体操のように両手を地に突き、ハリーに突き飛ばされた勢いすら利用して、逆立ちの要領で足を振り上げてハリーの胸を蹴り上げる。

 息の詰まるような攻撃に対してもハリーは隙を見せない。胸に突き刺すように叩き付けられたソウジローの脚が離れる前に掴み取り、増強されたパワー任せに振り回してこちらに杖を向けているローズマリー目掛けて投げ飛ばした。

 高速で飛来してくる人体という、大きすぎる弾に直撃したローズマリーはもんどりうって倒れてしまう。その隙に呪文をかけてきたのはクラムだ。

 

「『アエテルニタス・ファルサ』、凍てつく闇よ!」

「『プロテゴ』ォ!」

 

 闇のように暗い色をした吹雪が、クラムの杖先から噴き出す。

 ハリーは盾の呪文で形成する盾を傘状にして周囲に散らすことで、その衝撃を逃がす。あの雪粒のひとつひとつに膨大な呪いが込められているのが視てとれた。

 なんと恐ろしい呪文か。ダームストラング専門学校では闇の魔術をすすんで教えているとのことだったが、ここまで凶悪なモノまで教える必要はないだろう。

 

「『フリペンド・ガトリング』ッ!」

「やっべ!?」

 

 魔力で形成した盾がガリガリという音とともに派手に崩れてゆく。

 ローズマリーによる連射魔法。彼女はこの五人において、もっとも火力と制圧力の高い魔女だ。魔力を固めて飛ばすという単純明快にして限りなく戦闘向きに磨かれた『射撃魔法』を得意とし、それを基本としてあらゆる応用魔法を習得している。

 いまハリーの盾を削っているのもその一つだ。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、塵も積もれば山となる。弾丸となる魔力反応光の形状を槍のように貫通力の高いモノに変えた『射撃魔法(フリペンド)』を何度も何度も撃ちこむことで、大抵の物理的・魔法的防御を紙切れ同然のように噛み砕いて吹き飛ばす魔法だ。

 現にハリーも全力で飛びのかなければ、目の前で砕け散った盾と同じ運命を辿ることになっていた。ゴロゴロと転がって衝撃を逃がし、追撃してきたクラムを『突風魔法』で吹き飛ばしながらハリーは思う。

 まず仕留めるべきはローズマリーだ。

 マクゴナガルが使った正気を取り戻す魔法は、戦闘中に使うには集中力が足りなさすぎる。それにあれは消費魔力も膨大だ。いくら戦えるようにと鍛えて先程セドリックで成功しているハリーでも、覚えたばかりの魔法を戦闘中という集中力を失い続ける場面でうまく使うことなどできようはずもない。

 故にローズマリーには、ここでリタイアしてもらう。

 マダム・ポンフリーがいれば生き返るから大丈夫だ……とまでは言わないまでも、腕の二本や三本を吹き飛ばしたとして、無事に元に戻せるだろう。一日で骨を生やせるくらいなのだから、それくらいは余裕だ。

 問題は、友人の腕を吹き飛ばす罪悪感と躊躇い。

 それを捨てて冷酷に徹さねば。

 

「恨むなよローズ! 『フリペンド・ランケア』!」

 

 全力で駆けながら、ハリーは杖を振るって紅い槍を造りだしつつ射出してゆく。

 幾つかはローズマリーの放つ大量の弾丸に粉砕されてしまうが、そのうちの一本が狙い通り彼女の太ももに突き刺さる。

 苦悶の声をあげる様に罪悪感を抱いてしまうが、ハリーを殺した後に正気に戻った彼女がどれほど苦悩するだろうと思えば安いものだ。一生そんな思いを抱かせるくらいならば、ずっと恨まれた方が余程いい。

 槍が刺さった太ももの痛みに膝を折ったローズマリーの元へ、ハリーは身を低くして駆ける。ひとまず斬り落とすは両腕。杖が握れなければ魔法は使えない。

 

「『ラミナ・ノワークラ』、刃よ!」

 

 ハリーの右手に握られた杖の周囲に、白銀の魔力反応光が集束する。

 それはハリーの二の腕ほどの長さまで伸び、平たく鋭く形を整えた。

 まさに短刀である。

 自分の心に、冷たくどろりとした粘着質の何かが流れ込むのを感じる。

 ローズマリーが杖を構えて、マシンガンのように『射撃魔法』を乱射した。

 ハリーの構える短刀は、自動でそれら全てを切り払う。ハリーとシリウスが考案したこの『短刀魔法』には、飛来物を叩き落とす魔法式を組み込んでいる。近接武器としてはソウジローら日本の魔法使いたちが使う『刀魔法』には大分劣るが、防御面ではろくに刀剣の扱いを知らないハリーでもなんとかなるほどのものだと自負できるものだ。

 刃渡りは短く、剣と打ち合えばパワー負けしてしまう、近接格闘用の魔法としてはお粗末な魔法。

 しかし人体を切り裂くだけならば、これで十分。

 視界の隅に、フラーとクラムが杖先に赤い魔力反応光を集めているのが見える。『失神呪文』だ。ローズマリーの腕を切り落としたあと、彼女自身の体を盾にすれば十分防げるタイミングだ。それに

 ハリーの振るった刃は、蛇のように弧を描いてローズマリーの左手首に迫る。

 まるでスローモーションのような時間の流れの中、白銀の刃がまずローズマリーの白い肌に触れる。そして皮を破り、ぷつりと裂く。そうして皮膚を割ると、次に肉へと刃が侵入してゆく。

 そのまま振り抜けばローズマリーは左手を失うだろう、というところでハリーは目の前が真っ赤に染まったことに驚き一瞬だけ肩を震わせた。

 

「ぐッ、お……ッ!?」

 

 腹が痛い。

 気が付くとハリーはブレオの目の前に移動しており、彼の振り抜いた爪先が脇腹に突き刺さっていた。眼前が赤く染まった瞬間から、ノータイムでこの状況。

 何が起きた?

 魔法戦闘において、知識とはつまり手札の数に値する。

 銃創ができたので、銃で撃たれた。切り傷が出来たので、ナイフで切られた。

 マグル流の……つまり魔法を使わない戦闘では、プロセスと結果が繋がっている。ゆえに刃物で斬りかかってくる者には遠距離から撃つといった具合に、即座に解決方法を導き出すことができる。

 しかし魔法を用いた戦闘ではそうもいかない。棒きれを向けられて意味不明な言葉を呟かれると死ぬ。なるほど意味が分からないだろう。

 ゆえに魔法使いたちにとっては、知識はそのまま戦力へとなるのだ。

 だからこそ、今の状況はハリーにとってはかなり危ない。

 ブレオに何をされたのか、全く分からないからだ。

 

「チッ! 『ペトリフィカストタルス』、石になれ!」

「『プロテゴ・アリエヌム』、逸らせ!」

 

 ハリーの放った魔力反応光が、ブレオの直前で逸れて生垣にぶつかる。

 違う、今の魔法ではない。さっき使われたと思わしき魔法とは違う。

 無言呪文を用いたハリーは、自身の両肩あたりに紅槍を出現させる。飛び掛かろうとしていたフラーへの牽制にはなったようで、一瞬だけ彼女の動きが止まった。その隙を見逃す手はない。

 素早く杖先を向けて『武装解除』を放つも、先ほどの盾で防がれてしまう。そうだ、そうするしかないだろう、だがそれも狙い通りだ。ぎりり、と雑巾を絞るように両肩の紅槍を捩じり、貫通力を高める。そしてドリルよろしく高速で回転させて射出した。

 盾を易々と突き破るほどの威力を込めているため、余程のことがなければ、今防いだばかりのあの体勢で直後に飛来する二本の槍を同時に防ぐ術はないだろう。

 

「ふッ!」

 

 しかしブレオが羽織っていた紅いマントを翻すと、まるで砂絵を吹き消したかのように紅槍が消え去ってしまった。まるで闘牛士のような行いである。

 目を見開いて驚く暇も有らばこそ、そのマントの下からは牛の角を模った短刀がギラリと光る刃をこちらへ向けているのをハリーは見た。ぎょっとしてその場から急いで駆け出す。

 柄を取り付けていないナイフの刃、と称するのが一番分りやすいだろうか。刃の雨が空気を切り裂く回転音をなびかせて、一瞬前までハリーがいた場所を次々と串刺しにしてゆく。

 

「くっそ! 無茶苦茶だ!」

 

 明らかに今までと実力が違う。

 ローズマリーの腕は確実に切り落としたと思ったが、あんな程度では紙で切ったほうがまだ傷が深い。舐めていれば治ってしまうようなレベルだろう。

 こいつら全員、最後の課題まで実力を隠していたのか。

 それがこの最後のステージという本気を出しても構わない場面になってようやく、その全力を現した。決して舐めていたつもりではないのだが、それでも慢心があったのは確かだ。おまえらは命懸けで戦ったことがあるのか、というくだらない慢心が。

 それに、奴だ。

 奴だけはこの場でなんとかしないといけない。

 

「『ラミナ・ムネチカ』、縮地斬り」

「『ラミナ・ノワークラ』ッ!」

 

 ソウジローが十メートルほど離れた遠方で、なにか呪文を唱えたのが耳に入ると同時に自動迎撃魔法式が組み込まれた『短刀魔法』を起動する。果たしてその選択は正解であった。

 短刀と化したハリーの杖が急激に動くと同時、ソウジローの刀杖から伸びてきた白い光刃を弾いた。魔法式が視えづらいものの、ただ刃が伸びるだけの式であるようだ。

 つまり、ハリーを狙って刃を振るっているのは、偏にソウジロー自身の技量によってのみ。

 ソウジローが刀杖を振るうと、まるで鞭のように刃が閃く。彼我の距離と同じ十メートル程もの刃が波打ち、クラムやローズマリーに当たらぬよう彼らの隙間をすり抜けてハリーだけを蛇の如く狙ってくる。

 そこでハリーは、魔法を撃つために残しておいた魔力を『身体強化』の方へ流し込む。更に重力から解き放たれた感覚と共に、飛び掛かってきたフラーの肢を掴んで振り回すと、こちらに杖を向けていたローズマリーに投げつけダンゴにして吹き飛ばす。

 空いた二人分の空間で身を低くして駆け抜けると、すぐ頭上をソウジローの刃が通って髪の毛を幾本か引きちぎられた。止まってはただのカカシになる。動きを止めてはいけない。

 思い描くは、最悪の豚(ダドリー)の姿。

 今までハリーの心や手足を何度ともなくへし折ってきた男が、危険すぎるからと父親に諭されてその一度のみしかハリーに仕掛けてこなかった技を思い出す。あの極悪な技を自分がかけられるとなると絶望的な気持ちになるが、それをこれから相手にかけるのだ。どうなるかは体験談としてよくわかっている。

 

「『ラミナ・トンボキ――」

「させるかあッ!」

 

 ハリーが頻繁に使う紅槍の魔法と似たような魔法式が、ソウジローの刀杖にまとわれる。

 と同時、ハリーはソウジローの眼前まで駆け抜けてその首に飛びかかった。

 前転のように縦に回転して飛び掛かれば、当然両脚がソウジローに襲いかかる。咄嗟に刀杖で受け止めようとしたソウジローの動きを『身体強化』によって強化された動体視力によって見抜き、刀杖をすり抜けるようにソウジローの両肩に踵落としを決めた。

 肩の骨や鎖骨が粉砕される音と、ソウジローの呻き声が響く。刀杖を取り落したのを見ても、ハリーに動揺はない。両脚を曲げて自分の脚にソウジローの頭を挟む。

 

「ッ、そぉら!」

 

 彼の頭を太ももで挟んだまま地面に向かって落ちる上半身をコントロールし、うまく両手を地面につく。そして腹筋や脚に力を込めて、『身体強化』をフルに活用して身体が回転する勢いに任せてソウジローの身体を持ち上げると、その脳天を地面に向かって叩き付けた。

 嫌な音が響くも、彼らが攻撃の手を緩めることはない。

 クラムの放ってきた魔力反応光を『麻痺呪文』と判断して、脳震盪を起こしてふらついているソウジローの身体を盾にして受け止める。途端彼の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちたので、呪文内容は合っていたのだろう。

 もっと別の殺傷力の高い呪文だったら殺してしまったかもしれないという考えが浮かばないほど一瞬で判断したため、失神する程度で済んで本当によかった。

 気を失い力の抜けたソウジローの身体を突き飛ばして、襲いかかろうとしていたフラーを吹き飛ばす。そして振り返りざまに『武装解除』を放つ。紅い閃光はこちらに向かって杖を振り上げていたブレオの胸に命中し、威力調節をする暇がなかったため余剰魔力でかなり大きく吹き飛ばされてしまう。

 杖を取り落して地面を何度かバウンドしながら生垣に突っ込んだブレオは、それきりぴくりとも動かなくなる。一瞬、彼らのうちに動揺が走った。それをハリーは好機と見て、そして同時に哀しそうな顔をした。

 

「『ステューピファイ』!」

 

 フラーの爪に頬を浅く裂かれながらも、ゼロ距離で彼女の胸に『麻痺呪文』を叩きこむ。突き飛ばされたようにふらついた彼女は、そのまま白目をむいて崩れ落ちた。

 残りはローズマリーとクラム、再起した場合はブレオもだ。

 

「『ルプス・レギオニス』、飢狼の群れよ!」

 

 クラムが叫ぶと同時、地面が盛り上がって五頭ほどの狼が現れた。

 低く威嚇する唸り声を漏らしながらハリーを睨みつけるその眼光は、まさに野生の光が宿っている。土で造られた体の中から、闇のような光が漏れ出している。

 魔法式が高度すぎてハリーには理解できなかったが、あれで土を動かしているのだろう。

 

「『オパグノ』、襲え!」

「『ラミナ・ノワークラ』、刃よ!」

 

 クラムの襲撃呪文に対して、短刀呪文で迎撃する。

 同時に襲い掛かってきた二頭の狼が振るう爪を身を反らすことで避け、一頭の首筋に刃を突き入れる。そのまま体重を乗せて首を掻き切ると、まるで大量の血液のように闇が溢れだした。それを踊るように避けながら、ハリーを裂けずに着地したもう一頭の狼に飛び掛かる。

 身を反転してこちらに牙を剥くものの、ハリーの突きだした短刀が脳天を差し穿つほうが速かった。奇妙な声を漏らした狼の横をすり抜けるように駆け、頭部を二つに割った。同じく闇がこぼれおちた。

 短刀と化した杖を振り切った体勢のところへ、三匹目以降の三頭が襲い掛かる。それぞれ脚、首、胴体へ視線が向いて狙っているのを見切る。おまけに視界の隅では、クラムがなにか魔力を練り上げ次の呪文の準備をしていたようだ。

 まず一頭を無言呪文で放った紅槍で貫き、地面に縫い付ける。元が闇と土で出来ているため生きていはいないが、脳天を狙ったために即死。行動不能に追いやった。

 その槍に手をかけ、身体強化で跳ね上がった脚力に任せて鉄棒のように回転、そのまま勢いづけた爪先を狼の横っ腹に突き刺す。

 ぎゃいん、と悲しげな声をあげて真っ二つに裂かれた狼の肉片となる土くれを、最後の一匹に直撃させて怯ませる。そしてハリーは自分が軸にしていた槍を引き抜き、そのまま力任せに投擲。大口を開いてハリーに噛みつこうとしていた最後の一匹の口中に投げ入れ、串刺しにして吹き飛ばした。

 

「『アルボス・グラナトゥム・クレスクント』、呑み込め魔の森!」

 

 ハリーが槍を投げ終えて身を低くした体勢でクラムを見れば、ちょうど呪文を唱え終えたあとだった。ち、と小さく舌打ちしてしまう。狼に時間をかけすぎた。

 足元の地面が盛り上がったかと思えば、巨大な木が飛び出してくる。ぎりぎりで避けたものの、すれすれだったために木の肌によって腹の部分のインナーが破かれる。

 追撃しようとするものの、クラムが杖を振るうと直系一メートルはある木の幹から次々と枝が飛び出してくる。枝から更に枝が、そしてその枝から更に枝が突き出してハリーを刺し穿とうと迫ってきた。

 

「く、う……ッ」

 

 そのうちの一本が、左肩を掠めて肉を削っていった。

 熱い痛みを感じながら、ハリーは全力でクラムに向かって駆け出す。

 魔樹の操作に力を注いでいるのか、クラムはこちらへ杖を向けてこない。

 となれば問題はローズマリー。彼女は彼女で魔力を練り上げているため、援護は期待できないだろう。クラムはより杖を力強く振るって、魔樹の側面からさらに大量の枝を喚びだす。

 クラムまであと数メートル、といったところでハリーは叫んだ。

 

「『グラヴィス』、壁抜け!」

 

 ユーコが使った、壁をすり抜ける魔法。

 練習した甲斐があったとニヤリ笑ったハリーは、クラムの目の前で地面から飛び出した木のカゴに包まれてあっという間に消え去る。

 現れたのは、先ほどまでハリーがいた方向に杖を向けていたローズマリーの背後だ。

 ちょうどクラムが魔樹に穿たれるシーンが彼女の肩越しに見えた。直前で威力を減衰したようで、あまりダメージなっているようには見えない。だからハリーは、構えたままの杖から手加減せずに全力の魔力反応光を放った。

 

「『ステューピファイ』ッ!」

 

 馬鹿の一つ覚えのようにトドメはこの魔法だ。

 しかし頻繁に使われる魔法というのは、それだけ優秀であることを示している。

 ハリーの放った『麻痺呪文』はローズマリーの脇を抜け、杖を構えようとしていたクラムの右肩に当たって霧散する。

 驚きの表情のまま、クラムはその意識を奪われたのだった。

 直後、ハリーが身を低くして背後からの魔力反応光を避けると、そこには半分仮面の割れたローズマリーが膨大な魔力を形に成しているのが見える。

 背中から伸びた生物的な二対のアームが、それぞれ大砲やガトリングガンに似た形状の杖をこちらに向けている。魔法式がちらと視えたものの、理解が及ばないほど複雑だ。

 おそらくあれが彼女の切り札。

 

「『フリペンド・クウァエダム・マキシマ』、薙ァぎ払えェェェ――ッ!」

 

 ローズマリーの絶叫と共に、それらすべての杖が火を噴いた。

 アームが構える四門の砲口に、彼女が手に持つ本来の杖。あまり精密さはないようだが、下手な鉄砲数撃ちゃ当たるという言葉もあるほどだ。まるで壁そのものすら見える魔力反応光の銃弾は、暴風のように地面を削って抉り飛ばしながらハリーへと襲い掛かる。

 秒間で何発撃っているのかも分からないほどだ、盾の呪文で防ごうとしようものならたちまちのうちに盾ごと貫かれて挽肉となってしまうだろう。

 だから避けるしかない。

 しかし壁のように迫る銃弾の嵐に対して、逃げる場所は皆無だ。

 盾になるようなモノも人もなく、盾にしたからといって『盾の呪文』以上に防げるとも思えない。

 ならば地面に潜るか。否だ、地面を水のように泳ぐ呪文を知ってはいるものの、まだ成功率は低く十全に扱えない。そんなものを実戦でいきなり成功すると思うほど、ハリーは楽観的ではない。

 では自動迎撃の『短刀呪文』で弾き飛ばすか。いや、だめだ。どこに反応光が飛んでこようとも弾けるだろう。そういう魔法式なのだから。しかしその結果は、ハリーの肩が完膚なきまでに破壊される未来だ。そんな状態ではこの後に控える戦闘を乗り切れるとは思えない。

 となれば、道は一つだ。

 

「ッ!」

 

 強く地面を蹴りつけ、ハリーは高く跳びあがる。

 当然それを追ってローズマリーの銃弾も飛来してくるが、狙いを定められるよりもハリーが動く方が速い。砲弾のように飛び出したハリーの身体は、高く高く舞い上がり、そして不意に消えた。

 

「……!?」

 

 驚きのあまりローズマリーがの砲撃が、一瞬だけ止まる。

 魔法など使っていないのに姿を消したのだ。動揺のひとつくらいするだろう。

 しかしそれで十分。

 ローズマリーの目の前。どん、という重い着地音と共に、ハリー・ポッターがそこに居た。

 何故だ、という思考は働かない。

 生垣の上に出れば、自動的に下へ戻される魔法がかかっているなどという事実を知らないのだ。どうしてこんなことが起きたのかが知らない以上は、知らぬなりに起きた出来事をそのまま受け入れた方が賢い。

 余計なことは考えず、ただ()()から伝わる命令のみを実行する。

 壁のような弾幕を展開しなくともいい、ただ一発の致死の弾丸で十分。

 ゆえに使うのは、速く正確な『射撃魔法』。

 

「『フリペンド』、撃……ッ!?」

 

 しかしこの距離ならば確実に中るはずの銃弾は、ハリーの真横三〇センチほどを通過する。ハリーが突然、あさっての方向へ稲光のように強い『点灯呪文(ルーモス)』を放ったのだ。

 すると一瞬だけ指令が途切れ、数瞬前にハリーがいた位置へと反応光を撃ち込んでしまったのだ。この一瞬が重要な場面において、それはあまりにも致命的なミス。

 眼前にハリーの拳が迫っている。避けるか? いや無理だ、身体能力に差があり過ぎる。防ぐか? 無理だ、間に合わない。それになにより無意味だ。

 だめだ。

 ローズマリーの胸に拳が撃ち込まれるのと、倒れたままのフラーが起き上がって飛び掛かったのは同時だった。既に鳥人形態へと変化している彼女は、怪鳥が如き鋭い叫びと共に背中から自身の身長ほどもある翼を広げる。

 

「物理的にどうなってんだ、それ!」

 

 意識を奪ったローズマリーが倒れ込むのを横目で見ながら軽口をたたく。

 盾に使うつもりはない。あの攻撃を防いだらたぶん、彼女は死んでしまうからだ。

 案の定というべきか、フラーが翼を広げた途端その羽根一枚一枚がこちらを向いた。そして如何なる魔法によってか、そのすべてが硬質化してナイフのように鋭くなった。

 しかし彼女の目がハリーの方を見ているようには思えない。

 明らかに気を失ったまま動いている。いや、動かされている。

 

「……まずい、なぁ」

 

 しかしそこではたと気づく。

 避けるのは容易だ。上も横でも、どこへでもいける。

 その場合は倒れ伏したままのローズマリーに突き刺さるだろう。

 では便利な『短刀魔法』で弾くか?

 いや、だめだ。先ほどのローズマリーが用いた『掃射魔法』ほどではないにしろ、刃の強度からして耐え切れるとは思えない。シリウスと共に創りあげた魔法だが、流石に実戦で使うには構造が甘かったのか。

 フラーから発される殺気が細く鋭くなる。……殺る気だ。

 こうなれば彼女より速く、より速く、杖を持ち上げて狙いを定めて撃ち貫かねばならない。

 まさにローズマリーの行った早撃ちのように。

 

「……、」

 

 出来るだろうか。いや、やるしかないのだ。

 場合によってはここでフラーを殺害するかもしれないと頭の片隅で考えているうちに、徐々にハリーの思考が昏く冷たくなってゆく。

 そしてぴくりとフラーの鍵爪が動くと同時、

 

「『ペトリフィカストタルス』、石になれ!」

 

 フラーの背後から、ハリーの物ではない魔力反応光が彼女の背中に直撃した。

 驚きの表情のまま固まったフラーの顔から、徐々に羽毛が抜けて消え去る。元の美少女の素顔に戻ったフラーはそのまま膝を折ると崩れるようにその場に倒れ込んだ。

 同じく驚いた顔をしたハリーは、反応光の出所を見る。

 そこには地面に倒れ伏しながらも、杖を向けて弱々しく笑っているセドリックの姿があった。

 

「セドリック!」

「やあ、ハリー……おはよう、朝かい」

「冗談もそのくらいにしておけ! いま簡単に手当てする、じっとしてて」

 

 苦しげに仰向けに体制を変えたセドリックを引き寄せ、座り込んだ自身の膝に乗せる。血が出ている部分は……どうやら額にほど近いところだ。ソウジローは正面から刀杖で打ち抜いたのだろう。

 杖を取出し、『治癒呪文』を唱える。

 あまり適性がないのか、治りは遅い。カサブタや薄皮を張るくらいが精いっぱいだろう。

 

「ぼくの膝枕だぞ。大サービスだ、喜べよセドリック」

「……はは、嬉しいね」

 

 ある程度の苦痛を取り除くことができ、薄れていた意識も徐々に回復してきたのか視線がはっきりしてくるのが見て取れた。

 もう大丈夫、と手で制したセドリックに頷いて治療をやめ、いまだ少しふらついた彼を生垣の傍に座らせる。肩を貸すほどの余裕はないし、これから始めることに彼を巻き込んではいられない。

 ハリーはセドリックの周囲、半径一メートルに杖で印を刻む。

 

「……何をする気だい、ハリー?」

「悪いけど見ていてくれ」

 

 訝しげな顔をしたセドリックの問いには答えず、呪文を唱えた。

 

「『プロテゴ・パリエース』、守りの壁よ」

 

 するとハリーが印を刻んだ通りの場所に、ドーム状の半透明な壁が出現する。

 驚いたセドリックが壁を叩くも、波打って衝撃がすべて逃げてしまう。

 これは彼を巻き込まないための措置だ。

 はっきり言ってこれから行うことに対して、彼を気にかけている余裕はないだろう。

 ハリーはセドリックに背を向け、とある生垣に向かって歩を進めた。

 うつ伏せで己の羽毛に埋もれているフラーが、口の端から血を流して蹲っているローズマリーが、腹から血を流して失神しているクラムが、頭から地に突き刺さりボロ屑のようになったソウジローが、それぞれ倒れ伏している。

 全員殺さずには済んだ。しかし、死んでいないだけだ。

 クラムもどれほど出血具合がひどいのかは分からないし、ソウジローも脳にダメージを与えてしまったかもしれない。ローズマリーには女性だというのに、脚に傷をつけてしまった。

 その状況を作りだすことになったのは、全てハリーだ。

 この惨状を直接生み出したのはハリー自身だ。だがそれに至る経緯、彼らが襲ってくる大元の原因を作りだしたのは、ハリーではない。ヤツだ。

 杖はまっすぐ生垣に向けたまま、一切の油断なく近付く。

 そしてハリーは倒れ伏した人物に、今回の元凶に向けて、冷たい声を落とした。

 

「――立てよ。死喰い人、バルドヴィーノ・ブレオ」

 




【変更点】
・迷路の障害物マシマシ。
・スフィンクスのクイズ内容。
・各校代表と戦闘。

【オリジナルスペル】
「フェルスウェントゥス、吹き飛べ」(初出・47話)
・突風魔法。魔力を空気に変換して撃ちだす単純な魔法。
元々魔法界にある呪文。繊細な魔力コントロールを要する。

「フリペンド・ギガント、放て」(初出・47話)
・射撃魔法。大砲を召喚して魔力の砲弾を撃つ魔法。
アメリカ魔法界にある呪文。威力の大きなフリペンド魔法。

「アエテルニタス・ファルサ、凍てつく闇よ」(初出・47話)
・雪魔法。吹雪を発生させ、雪粒ひとつひとつに込めた濃厚な呪いをぶつける魔法。
元々魔法界にある呪文。闇の魔法に属するため、特別な才能が必要。

「プロテゴ・アリエヌム、逸らせ」(初出・47話)
・盾の魔法。任意の方向に逸らす盾を作り出す。
元々魔法界にある呪文。防ぐものが強力すぎると、逸らしきれないこともある。

「ラミナ・ムネチカ、縮地斬り」(初出・47話)
・剣の魔法。ソウジローの最も得意とする魔法のひとつ。
日本魔法界にある呪文。移動の距離調整を間違えると酷い目に遭う。

「ルプス・レギオニス、飢狼の群れよ」(初出・47話)
・召喚魔法。魔力を使って周辺の物体で狼を創りだすことができる。
元々魔法界にある呪文。襲撃呪文とセットで使うのが基本。

「アルボス・グラナトゥム・クレスクント、呑み込め魔の森」(初出・47話)
・召喚魔法。呪われた魔樹を呼びだす闇の魔法。
元々魔法界にある呪文。対象を突き殺すまで成長する殺傷力の高い魔法。

「フリペンド・クウァエダム・マキシマ、薙ぎ払え」(初出・47話)
・射撃魔法。銃口を備えたアームを創りだす。事前に登録した砲門が召喚される。
アメリカ魔法界にある呪文。命中率は低いが、撃ち続ければ相手は死ぬ理論。

「プロテゴ・パリエース、守りの壁よ」(初出・47話)
・盾の魔法。衝撃を逃がすドーム状の盾を作りだす。
元々魔法界にある呪文。その特性から、魔法使い用の拘束に悪用されやすい。


大変遅くなりまして申し訳ないです。
とても便利な『服従の呪文』によって、ハリーは代表たちほぼ全員の本気と戦う羽目に。あくまで半自動的に操っていたことに気付いていたため、ハリーはブレオから視線をさえぎるように移動したりと、随分いやらしい闘い方をしていました。
失敗してしまった物語の修正にかなりかかる模様。余計な設定は入れるものではないね。お辞儀するにはもうちょっとだけかかるんじゃ。


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13.闇の再誕

 

 

 

 ハリーは冷たい声で、倒れ伏しているブレオに声をかけた。

 ドーム状の盾に閉じ込められているセドリックが不安そうにこちらを見ている。

 ブレオからの返答はない。

 先ほどの戦闘中に吹き飛ばされて、意識を失った体勢から全く動いていない。

 赤いマントに潰されるように倒れている彼からの反応は、殺意を込めて呼んでも一切ない。

 しかしハリーはそれを意に介さず、杖を突きだした。

 

「『フリペンド』」

「ッぐぉ!?」

 

 威力の弱い『射撃』がブレオの腹に突き刺さり、苦悶の声が漏れる。

 くそ、とハリーが小さく悔しそうに悪態を吐いたのをセドリックは聞き逃さなかった。

 信じたくなかったという想っているのは、顔に書いてあるようだった。ハリーにとっても信じたくなかったその予想が、的中してしまった。

 咳き込みながら見開かれたブレオの目には、無表情に近いハリーの姿が映っていた。

 杖を向けて、紅く輝く瞳を怒りに染めている。

 

「ハ、ハリエットちゃん……なぜここに、」

「とぼけるのはいいよ、ブレオ。黙って質問に答えろ」

 

 更に杖をぐいと近づければ、ブレオの目が一瞬だけ余所へ移る。

 それを見てハリーは一切容赦をしなかった。

 

「『エクスペリアームス』」

「うッ!?」

 

 ばち、と硬鞭で肌を強く叩いたような音と共に、ブレオが掴んでいた杖が弾き飛ばされる。

 回転して跳んだ杖はハリーの手の中に納まる。

 そしてハリーはそれを両手で持つと、容赦なく真っ二つにへし折ってしまった。

 

「な……ッ!? ハリー、君は何を……ッ」

「セドリック。ちょっと黙ってて」

 

 冷たく睥睨するハリーに対して、ブレオは引きつった笑みを浮かべる。

 へたり込んだ青年と、仁王立ちして杖を向ける少女。

 図としては何とも異様な光景であった。

 

「ひ、ひどいなあ。僕の杖を折っちゃうなんて」

 

 苦笑いを浮かべておどけるブレオに対して、ハリーはあくまでも冷淡な態度を崩さない。

 先ほどこそ残念そうな表情を浮かべていたものの、いまではまるで処刑人のような能面だ。

 

「いつだ」

「……な、なにがだい」

「いつぼくたちに『服従の呪文』をかけた」

 

 その言葉にセドリックは驚く。

 『服従の呪文』といえば、最悪の魔法。許されざる呪文のうちのひとつだからだ。

 だから何かの間違いかと思いたかったのだが、しかしその望みはすぐに潰える。

 ハリーに詰問されて戸惑っていたブレオが途端に落ち着きを取り戻し、三日月のように裂けた笑みを浮かべたからだ。

 

「……ハリエットちゃん、キミ彼らが操られてるって知っててブチのめしたの?」

「そうだよ。だからなに?」

 

 殊更冷たくハリーが言うと、ブレオは弾けるように笑いだした。

 甲高く裏返った笑い声は実に狂気的で、それを聞くセドリックは身の毛もよだつ思いをする。

 こんなことがあってたまるか。

 だというのに、ブレオはその現実逃避すら許さない。

 

「いやァーッ、さあっすが! ご主人様に刃向かうだなんてとんでもない馬鹿だとは思ってたけど、ここまで大馬鹿だなんて! なんて素晴らしいんだ、素敵だよハリエットちゃァん!」

「残念だよブレオ」

「えひひひ、こっちとしても残念だよハリエットちゃん。僕の正体に気付かないまま死んで逝ってほしかったねえ。くひッ」

 

 げたげたと下品に笑うブレオには、今までの陽気さなど欠片も見当たらない。

 これまで猫をかぶっていたのか、それともこちらは演技か。

 いや、とハリーは独り結論付ける。どちらも本来の姿なのかもしれない。陽気でスケベなムードメーカーのブレオも、冷酷で友人たちを死の操り人形にして平然としているブレオも。

 どちらも本物。本当の死喰い人、バルドヴィーノ・ブレオなのだ。

 

「っていうかハリエットちゃんもセドリックも、いったいいつの間に僕の『服従の呪文』を解いたのさ。僕これでも若手の中じゃ一番その呪文が得意だったんだけどなあ」

「質問していいのはこっちだけだ。次余計なことを言ったら一発撃つ」

「おおう、怖い怖い」

 

 おどけるように肩を竦めてハリーの言を受け流すブレオ。

 セドリックが青ざめているのが横目で見えるが、今は彼を気にしている場合ではない。

 それに彼の洗脳が解けたのは、本当の偶然にすぎない。

 

「みんなにはいつ『服従の呪文』をかけたんだ」

「ハリエットちゃんのおっぱいちゅっちゅさせてくれたら、答えてあげるけど」

「『フリペンド』」

 

 いつものようにセクハラ発言をしたブレオに対して、ハリーの返しは非情だった。

 容赦なく『射撃呪文』を用いて、ブレオの右肩を撃ち抜く。

 一瞬呆けたブレオが、次第に白熱した熱さを持つ肩に気付いて呻き声を漏らした。

 

「っぐ……! わかった、話す。話すから。第四の試練のときさ。夢の中で出会った時、そこでまず君だ。ハリエット、キミに呪文をかけた。君は鋭いからなあ。『錯乱の呪文』で疑心暗鬼にさせて、徐々に『服従の呪文』でコントロールを奪うようなタイプのものにしたら、アーラ不思議、ぜーんぜんバレないでやんの」

「そんな遠回りにして何の意味がある」

「決まってンじゃん。何故ならその方が面白いから。見ててすごかったぜ、夢の内容を弄り回してソウジローに僕好みのストーリーを話させたら、すっかり疑っちゃってさ。見てて笑いそうだったよアレ。ハリエットちゃんマジ可愛いね、巨乳バカな低身長ボーイッシュとか需要高すぎだぜキミ」

 

 ハリーがまた杖を向けると、両手を挙げてへらへらと笑う。

 生殺与奪の権利を握られているというのに、一切の緊張を感じられない。

 

「はいはーい、プロフェッサー・ハリエット。質問でぃーっす。いつ僕が死喰い人だって気づいたん? 正直言って君ら馬鹿どもには気づかれないだろって思ってたんだけど」

 

 それどころか先ほど問うなと言われたばかりの質問までする始末だ。

 やはりあの陽気で冗談好きな性格は、もともとそういうものだったからなのかもしれない。

 彼が死喰い人だと気付いたのは、本当に今さっきの瞬間だ。

 ハリーには目がある。

 いまは血のように赤く染まっているが、エメラルドグリーンの魔法式を視通す瞳が。

 

「本当についさっきさ。先の乱戦で、おまえの動きだけがおかしかった。ほとんど誰かの影になってて、常に盾となる人物やモノを用意してた。そこでおかしいと思ったんだ」

「いやいや。それだけじゃ納得できないって。わざわざ『服従の呪文』にかけられている風を装って目まで淡く光らせてたのに。結構自信あったんだぜあの偽装」

 

 肩を竦めるブレオに対して、ハリーは冷たい。

 それもそのはずだ。ハリーに友人たちと殺し合いを演じさせたのだから。

 しかもそれは強制させたものではなく、その状況に陥ったハリーが殺害も止む無しと自分で考えて演じた状況。それゆえに感じる怒りも大きかった。

 

「むしろその偽装でよく分かったよ」

「うん?」

「魔法式がばっちり視えてた。お前だけ『服従』してないんだから、バレるに決まってんだろ」

 

 魔法式とはその名の通り、魔法を動かすために必要な計算式のことだ。

 その魔法のことを知っているなら、魔法式を視ればそれが何の魔法かが即座にわかる。

 たとえ知らない魔法でも、その魔法式に知っている単語や数値が書かれていればどういった魔法なのかという予測を立てられる。

 しかしそれを聞いて、ブレオはまたもやはじけたように笑いだした。

 不愉快そうな顔をしたハリーに向かって、爆笑しながらブレオは言う。

 

「ひっ、ひー。すっげえ。ハリエットちゃんマジでお馬鹿キャラで通すつもり? 魔法式が視えるだなんて、っはっははは! マジすげえ! ハリエットちゃん、お前やっぱ人間じゃねえわ! さすがだ! へっ、ははは!」

 

 ハリーが杖を振るい、見えない衝撃をブレオに叩き付ける。

 ハンマーで横っ面を殴られたように首を曲げたブレオは、ゆっくり顔を持ち上げるとにやにやした目をハリーに向けた。口の端や鼻から血が出ているが、それすらも化粧に見えるほどに凄惨な笑顔を作っている。

 気が狂っている。

 内心でハリーはそう吐き捨てるのを止められなかった。

 

「続きを話せ。ぼくの次は誰だ。クラウチ氏か?」

 

 肩を揺らして笑い続けるブレオに、ハリーは杖を突きつける。

 彼が腕を伸ばしても届かない、絶妙な位置取りだ。

 そもそも反撃しようと思っていないのか、彼はへらりと笑って答える。

 

「クラウチぃ? 知らないな、僕じゃあないね。僕が君に『傀儡魔法』をかけた後にやったのは、そのお役人に襲撃されたあとにクラムとユーコちゃんを『服従』させたことくらいさ」

「……おまえ、ユーコにヘンなことしてないだろうな」

「お人形遊びする趣味はないんでね」

 

 バッサリと言い切られる。

 普段の言動と行動から考えてみればユーコの意思を奪った際に万死に値することでもやりそうなものだが、さすがにそこまで狂ってはいないらしい。

 少しだけホッとしたハリーは、小さく杖を振って続きを促す。

 嫌そうな顔をしたものの、また叩き付けられてはかなわないと思ったのかブレオは素直に続きを口にした。

 

「あとは簡単だったよ。ユーコちゃんの記憶を覗いてみれば、不知火において呪いがかけられているか否かをチェックしていたのは彼女だったからね。毎日チェックする時間に、逆にソウジローへ『服従の呪文』をかけてやったよ」

「……」

「フラーちゃんとローズマリーちゃんには、ついさっきだね。フラーちゃんは迷路への緊張で固まっていたところに背後からドーン。キミと一緒に追いかけられて別れたあと、疲労困憊なローズマリーちゃんに向けてドーン。セドリックにも隙を見て仕掛けたはずなんだけど、もしかしてハリエットちゃんが解いたのかな? うーんマジで化け物だね!」

 

 殴っておいた方が従順に話してくれるかもしれないとは思ったが、しかし余計なことをして何か反撃でもされては困る。

 落ちついて情報を整理しよう。

 まず、バルドヴィーノ・ブレオが死喰い人であることは確定だ。

 『服従の呪文』で操られていた代表選手たちから、ブレオが逐次命令を下している(パス)が視えた。ハリーの眼が魔法式を読みとることができるということを彼が知らなかった以上、ハリーの知らない方法で魔法式を偽装しているという可能性も消える。

 更に言えば、自身が操られていると見せかけるための工作が完全な決定打になった。服従の呪文にかかっておらず、そして偽っている者など下手人以外の何者でもあり得ない。

 死喰い人であるとわかったことについては、ついさっき本人が証明してくれた。

 だいたいこんな大胆な襲い方をしてくる時点で、普通の犯罪者ではありえない。死喰い人やら闇の帝王やら、そんな御大層な連中くらいだろう。そう思って行ってみれば、案の定彼自身が証明してくれたのである。

 なによりも。

 陽気に笑おうとも、呑気にセクハラしていようとも、時折鈍く輝く泥のような瞳が何よりもハリーと同類の最低な人種である何よりの証明だ。

 

「さて、聞きたいことはそれで終わりかな」

「うん、もういいかな」

 

 杖を額に突きつけた姿を見てか、視界の隅でセドリックが驚いたのがわかった。

 ハリーの紅く冷たい目が、ブレオにもう用がないということを告げている。

 躊躇うことなくハリーは魔力を練り上げ、ブレオの心臓めがけて魔法を放つ。

 選んだ手段は『刺突魔法』。

 要するに串刺しにして殺そうというわけだ。

 

「駄目だ、ハリーッ!」

 

 悲鳴のようなセドリックの声。

 ハリーはそれに対して一瞬、びくりと肩を揺らす。

 ブレオがその隙を見逃すはずがなかった。

 

「ッぷ!」

 

 血の混じった唾液。

 ブレオが、それをハリーの眼球めがけて飛ばしてきたのだ。

 

「うあっ!? く、ちくしょうッ!」

 

 その唾が目に直撃し、ハリーは思わず悪態をこぼす。

 ただの唾を吹きつけられたにしては、尋常ではない威力。まるでテニスボールの直撃を受けたように一瞬だけ頭がのけぞると同時、ハリーは己の直感にしたがってその場を跳び退いた。

 目を閉じたまま地面に手をついて数回転して、生垣を背に着地すると同時に唾を袖で拭う。

 開けた視界の向こうでは、左腕を振り抜いたままでいる格好のブレオだった。

 腹にヒリつく熱さを感じる。

 先程代表選手たちとの戦闘でクラムによって引き裂かれたインナーから、腹が露出している。その部分の皮膚が薄く裂け、血が垂れていた。

 

「ブレオ、おまえまさか」

「……その通りだ。悪いけどハリエットちゃん、君には僕のディナーになってもらおう」

 

 びきびきと音を立てて、ブレオの腕が見る見るうちに硬質化してゆく。

 その様子にハリーは見覚えがあった。

 今年度の始め、そして去年の終わり。

 奴が死喰い人だというのなら、それこそ繋がりがあったところでおかしくはない。

 人狼、フェンリール・グレイバック。

 その名を呟けば、案の定というべきかブレオから反応があった。

 

「ああ、我が父上様のことかい。ハリエットちゃん、あの人の鼻を裂いたのはやり過ぎだねえ。あの人からポッターだけは絶対にブチ殺すようにって、厳命されちゃってるんだよね」

「父上? おまえあいつの息子なのか」

「血縁はないけどね。まァ、そんなもんさ。奴に噛まれて、僕は人狼に(こう)成った」

 

 ハリーの目に一瞬なにかを感じ取ったのか、ブレオがここにきて初めて悪意を込めて嗤った。余計な感情を持つな、と。君が知ったことではないのだ、と。

 

「同情かい? やめてくれよ。反吐が出る」

「……そんなつもりは、」

「あるんだろう、ハリエットちゃん。辛辣な面を強調しているようだけれど、君は結局のところ、ただのお優しい女の子だ」

 

 口角を吊り上げて嗤う彼の口元には牙が見える。

 噛んだ人間の体細胞を変質させ、魔法的側面から生物としての概念そのものを異形のそれへと変え尽くすウィルスを注入するための牙。あれに噛まれてしまえばたとえハリーといえど、いや、ただの人間であるハリー程度など、例外なく人狼に成る。

 要するに人狼という種族にとっての生殖行為だ。性暴力となんら変わらない。

 

「手荒な真似をするような男じゃないと思ってたんだけどね」

「人の心臓をブチ抜こうとした子が言うこっちゃないと思うな。もっとも、君の魅力に僕のハートは既に射抜かれてるけど、ねェッ!」

 

 蹴り抜いた地面を爆発させたかのように、ブレオが砲弾のようにハリーの目の前まで跳んでくる。身体強化によって動体視力に判断力も向上させているハリーは、それを見てから横へ跳んだ。

 生垣に突っ込んで行くかと思ったブレオだが、直前で地面に右腕を突き刺し、まるでコマのように無理矢理方向転換してハリーに追いすがってきた。

 向こうの方が早いと判断したハリーは、杖を振るって『盾の呪文』を繰りだす。

 ブレオの左手による刺突が、容易に盾をブチ抜いた。

 相変わらず人狼の攻撃力は頭がおかしいとしか思えない。

 

「ヒャぁほォう! 流石だよハリエットちゃん!」

「そりゃーどうも! 『ステューピファイ』!」

 

 ハリーが苦し紛れに放った『失神呪文』を、ブレオは首を振ることで避ける。

 そして彼が放った蹴りがハリーの胸、その中心に向かってブチこまれた。

 両腕でガードしたものの、折れてしまうかと思うほどの衝撃が全身を襲う。

 

「っぐ、う……!」

 

 数バウンドして地面を転がされ、ハリーの小柄な体は生垣に突っ込む。

 そこへ追撃のタックル。

 それを視認したハリーは多少無茶をして杖を振るい、『突風魔法』を放つ。

 ブレオへ放っても無駄だろう、ゆえにハリーは地面に向かって撃ち、自身の身体を少しの間だけ宙へと浮かばせる。そのすぐ下を滑るようにブレオが通り過ぎて行った。

 一瞬だけ目があった。特に憎悪の色も、憤怒の色も、敵意すら感じ取れない。

 いままでハリーが殺し合ってきた者の中でも特に異色。ブレオにはハリーに対する憤りも憎しみも、敵とすら思っていないのだ。この一年ともにすごしてきた享楽家のまま、ハリーと殺し合うことすら楽しいことと思っているのだろう。

 とてもではないが、理解できなかった。

 

「きみ、頭おかしいぜ」

「承知の上さ。世の中狂ってないと面白くないだろう?」

 

 更に杖を振るったブレオの周囲が、ぐにゃりと歪む。

 ハリーの知覚した限り、魔力反応光が発生した様子はなかった。つまり魔法戦闘においてもっとも厄介だとすら言える、反応光の発生しない、至極避けづらい魔法。

 ハッと気づけば既に、ハリーはブレオの術中にはまっていた。

 狭い生垣に囲まれた迷路の一角だった風景が、一瞬にして都会の雑踏に変わる。

 ざわめきと騒々しさ、機械の音と排気ガスのニオイ。

 そして突然現れたハリーとブレオを見て、戸惑う人々の囁き声。

 そんなまさか、と一瞬だけ呆然とする。

 ブレオが幻覚系の魔法を得意とすることは、既に知っている事だ。

 そうでなければ夢に干渉するなどという高度な魔法を操れるはずがない。

 ああ、そうなのだ。これは幻覚であるはずなのだ。

 

「……ッ、……」

 

 だが、あまりにもリアルすぎる。

 実際のハリーの肉体は、恐らくブレオと共に現実世界の迷路で棒立ちになっているのだろう。自身の身体を魔法式が構成しているのが視える。

 セドリックが困惑している姿を想像するが、いまはそれよりも大事なことがある。

 これだけ現実感に溢れた幻覚ならば、ここで殺されれば実際の肉体もそのまま死んでしまうだろうことは想像に難くない。

 そんな馬鹿なと言いたくなるが、それが魔法というものだ。

 物理現象に依らず相手を殺すことを可能とする外法。マグル世界で育ち、銃やナイフで殺害されたというニュースをダーズリー家のテレビから頻繁に聞いてきたハリーからすると、そのような認識さえできるトンデモ技術こそが魔法だ。

 それこそ『死の呪文』こそ顕著に、というかまんまそれではないか。

 魔力反応光が視えない攻撃だったために回避が難しかったとはいえ、身体強化中のハリーの肉体であればブレオの初動を見てから後の先で杖を破壊、または意識を奪う魔法をブチ込めばよかったのだろう。それができなかったのは、偏に油断のせいだ。

 おちゃらけたふざけたキャラクターが演技による虚構ではなく真実であったことから、ハリーはきっとブレオのことを心のどこかで舐めていたのだ。

 術中にはまってしまった現在そのような後悔は時すでに遅し出は有るが、ここから生き延びれば決して無駄というわけではない。

 つまりブレオをブチのめせばいいことには、変わりないということ。

 結局のところ、話は単純なものだ。

 

「『エクスペリアームス』!」

「おっと! 躊躇いがないね、ハリエットちゃん!」

 

 即座に杖を振り、ブレオに向かって真紅の光を放つ。

 彼はそれに反応し、隣を歩いていた老紳士の襟首を掴んで突き飛ばした。

 身代わりとなってハリーの放った『武装解除』を浴びた紳士が、甲高い悲鳴と共に吹き飛んでゆく。ボーリングのピンように、他の一般人たちを巻き込んでドミノ倒しになってしまった。

 騒然として悲鳴と怒号が巻き起こる中、ハリーは努めてそれらを無視した。

 これは幻覚である、と自身に言い聞かせながら再度武装解除を放つ。

 今度は杖で近くにいた小学生らしき少女を引き寄せて、彼女を盾にしたブレオの目の前から少女の矮躯が吹っ飛んでいく。恐らく母親だろう女性が悲鳴をあげて我が子の名を叫んだ。

 聴きたくない声だった。

 びくん、とハリーの肩が震える。母親の叫び声、というモノに反応してしまった。

 無論ブレオがそれを見逃すはずもなく、アスファルトが砕けるほどに地面を蹴って素早くハリーへと接近して爪を振るう。無様でも構わないとばかりにそれを転がって避けるも、次点で突きつけられた杖から放たれた魔法は避ける事が出来なかった。

 

「『フリペンド』!」

「ごッ、あ!」

 

 射撃呪文をまともに腹へ受け、ハリーは大きく吹き飛ばされた。

 どうやらブレオはこの手の呪文はあまり熟練していないことがわかった。射撃呪文のエキスパートであるローズマリーが放ったのなら、今頃ハリーの腹には風穴が空いていただろうに、ブレオによる射撃では貫通はできないらしい。

 それでも車に衝突されたかのような衝撃と共に、ハリーは怯えて遠巻きに見ていた野次馬たちに突っ込んでしまう。幾人かを薙ぎ倒し、悲鳴をあげさせながらもハリーは急いでその場から離れる。

 その選択は正解だった。ブレオが放った黄色い魔力反応光が直前までハリーがいた位置に着弾。轟音と共にアスファルトが大きく爆ぜた。

 

「う……ッ」

 

 更に大きな悲鳴と、助けを求める悲痛な声。

 そちらへ視線を向けたくない。びちゃびちゃと聞こえてくる液体音と、泣き叫ぶ青年の声からして何が起きているかは想像がつく。

 

「『エクス、ペリアームス』っ! 『フリペンド・ランケア』ぁッ!」

「『プロテゴ・トタラム』、万全の守り! 動揺してるのがバレバレだよぉ、お姫様!」

 

 ブレオの張った障壁により、ハリーの攻撃が悉く防がれてしまう。

 続けて放たれる空気の槌も、螺旋の槍も、ハリー得意の紅い投槍までも弾かれる。

 まずい、とハリーは単純に思う。

 地力が違う。

 ここにきてブレオの戦闘力が、ハリーより上であることが発覚したのだ。

 正確に言うならば、ただ単なる魔法戦であればハリーの勝利は揺るがない。繊細な魔力操作とそれを前提として扱う異常なまでにリアルな幻魔法にサポート系統の魔法を得意とするバルドヴィーノ・ブレオに対して、ハリエット・ポッターはその膨大な魔力と殺意漲る自由な発想力に頼った火力の高い魔法ばかりを得手とする戦闘に特化した魔女である。

 しかしここで行われている魔法戦とはなにも、お辞儀から始まりお辞儀に終わる貴族間での決闘(スポーツ)ではない。死合いそのもの、何でもありの殺し合いである。

 ブレオは殺し合いならではの狡猾さと、周囲の状況を利用する強かさに置いてハリーをはるかに凌駕している結果、この戦闘に置いて彼が一歩も二歩もハリーに先んじているのだ。

 ハリー達の行う『まともじゃない』魔法戦を目にして怯え、恐怖し逃げ惑う通行人を容赦なく盾にし、時には突き飛ばして壁や弾の代わりとしてハリーに押しつけてくる戦術は実に有効的であった。

 

「そォら、次行くよ次ィ! 簡単に死なれたら困るんだよねえッ!」

「くっ、くそ……!」

 

 ハリーにはまだ、殺人に対する抵抗がある。

 クィリナス・クィレルなど、殺害同然の行為を行った相手もいるにはいる。

 だが明確に魔法とは関係ないマグルを相手に、それも戦いのFの字も知らないような人間を殺害できるかと問われれば、迷うことなくNOと言える。

 そこまでの覚悟は持っていないし、度胸もない。

 

「がぅ、あ……」

「……ッ!」

 

 いま眼前で、小柄な老人が『射撃魔法』にその胸を貫かれて死んだ。

 あれは幻だ。魔法式で身体が構成されているし、リアルではあるがそれだってハリーが意識を向けていないところでは輪郭がぼんやりしているのが分かる。恐らく全てを精密に再現していては、ブレオの魔法力が持たないのだろう。

 ブレオが作り上げた箱庭同然の精神世界だからこその創意工夫。ハリーには出来ない芸当だ。だが今は感心している場合でもないし、肉塊と化した死体から目を逸らして人込みを走りまわるブレオに向かって失神呪文を放つのが精いっぱいだ。

 その紅い魔力反応光は、ブレオが近くにいた女性の髪を引っ張って盾にしたことで防がれる。女性は白目をむいてその場に崩れ落ちた。

 ぎり、と思わず歯ぎしりをしてしまう。

 幻であって、現実の人間ではない。頭で理解してはいるものの、心が納得していないのが分かる。これは辛い。なんてむごい仕打ちなのだろうか。

 

「これは現実じゃない、現実じゃないんだ」

 

 これだけ大々的にマグルの目の前で魔法を使って、更には数人を殺害しておいて魔法省が何もアクションを起こさないというのはまずあり得ない。

 シリウスの話では忘却術士が記憶を消してくれることを理由に、マグルの目の前だろうと構わず即座に『姿現し』を行い、下手人を捕縛すべく動きだすのだそうだ。十数年前のシリウスがまさにその状況だったとのことで、信憑性は非常に高い。

 では今この状況で魔法省の手の者がやってこないのは、ひとえにここが魔法省の感知しえない場所だから。つまりブレオの造りだした幻覚世界であるからだ。

 根拠はゼロではないが、しかし過分にハリーの願望が強い結論ではある。

 もし彼が魔法省の未成年魔法使用探知術式を欺く術を知っていたら? もし彼が何らかの術を以ってして、本当にハリーをロンドンの街角に転移させていたら?

 心のどこかでそう思ってしまうと、ハリーは途端に委縮してしまう。

 一般のマグルを戦闘の巻き添えにできるほど、ハリーの心は狂ってはいないのだ。

 

「『フェルスウェントゥス』!」

「ぐ、ぁああ!」

 

 ブレオの放った『突風魔法』によって、ハリーの身体が大きく吹き飛ばされる。

 幾人かのマグルを薙ぎ倒し、ハリーの身体がアスファルトを無様に転がった。

 即座に起きあがって、突風が射出されてきた方向へと杖を向けて魔力を練り上げる。しかしその行動はあまりの驚きによって魔力が霧散し、無駄と化してしまう。

 今のいままでロンドンにいたというのに、プリベット通りへと周囲が変化しているのだ。

 困惑は加速するが、現在の状況は幻覚で確定した。少しの安堵と、未だ未知の状況に不安と少しの恐怖がハリーの心に染み出してくる。無視しなければ。

 

「おい、ハリー! どうした、豚らしく鳴いてみろよ! ほぅら、おぃんくおぃんく!」

 

 嘲る声にばっと振り向けば、いやらしい顔をしたダドリーがこちらへでっぷり突き出した腹を揺らして歩いてくる。

 杖を突きつけようとするも自身の手にそれはない。

 むしろ手の平のサイズがいつもよりも小さく、若干骨ばっている。

 まさかと思って自身の身体を見降ろせば、最近は女性らしく膨らんでいたバストもまな板状態になり、地面も幾分か近い。服装だって、毛玉だらけの象皮めいた小汚いセーターだ。

 そんな、とハリーは思わず呟く。

 自分の体を幻覚で変えられた? どうやったのかが分からない。魔法式を視ようと思えば視えるだろうが、理解することはできないだろう。

 眼前まで迫ってきたダドリーが、ハリーに向かって拳を振り上げる。

 覚えている、いまだにハッキリと覚えているぞ。

 これはバーノンおじさん考案の画期的なスポーツ、《ハリー狩り》だ。その記念すべき一回目にして、二度と行われることのなかった競技。このあとダドリーはハリーの鼻の骨を叩き折り、病院送りにするのだ。

 ずくん、と心臓が縮みあがるような恐怖を覚える。

 気付いていなかったが、トラウマにでもなっているのだろうか。

 

「くっ、来るな!」

 

 思わずうわずった声で、ハリーは叫ぶ。

 それを聞いたダドリーは、不愉快そうに顔を歪めて拳を放った。

 こんなバカげたスピードと威力、年齢一桁の男の子の放っていいパンチではない。

 今までの経験を生かして飛び退こうとしたハリーは、自分の足が地面に縫い付けられている事に気がついた。はっとしてダドリーの後ろを見てみれば、バーノンおじさんと共ににやにやと笑っているブレオが杖をくるくると回している姿が目に入る。

 ハリーが顔面に拳を受け、鼻血と共に宙を舞い、芝生の上に叩きつけられる様をブレオは両手を叩いて大笑いしていた。

 やられた、と言うほかない。

 ここまでしてやられたのは久しぶりだ。いままで闘ってきた相手のほとんどが格上ばかりだったが、ここまで圧倒的なのは本当に久しぶりだ。二年生のとき闘ったトム・リドルくらいのどうしようもなさを感じてしまう。

 だが、だがしかし。

 目の前にいる青年は、ヴォルデモートではない。トム・リドルでもない。

 ただの死喰い人、ただの未成年犯罪者。油断しなければ負ける相手ではない。

 戦闘力も魔法力も、十分こちらが上のはずだ。

 過剰に恐れる必要はないはずだ。

 ないはずなのに。

 

「がぶ、ぅあ……っ、あ、ああっ……!」

 

 ダドリーの拳によって、まるで顔面をブラッジャーで殴られたかのような衝撃が走る。

 鼻がつぶれてしまったあの感覚をまた感じている。痛いを通り越して、熱い。

 ぼたぼたと叩き折られた鼻を抑える手の平の隙間からこぼれる赤を眺めながら、ハリーは目の奥がつんと熱くなるのを感じた。ぼろぼろと意思とは関係なく涙が澎湃とこぼれてゆく。

 恐ろしい。

 ここ最近のダドリー・ダーズリーは、ボクシングの英国チャンピオンとなったために心の余裕ができたからか、それとも強者としての責任感が芽生えたのか、はたまたハリーが見た目からしても完全に女性として成長したために性差の隔壁を感じたのか、以前のように直接的な暴力を振るってくることはなくなった。せいぜいが不機嫌なときに、暴言や嫌味を飛ばしてくる程度だ。

 従兄がそのような乱暴者であると知っているハーマイオニーやパーバティが危惧していた、風呂場の覗きや寝室への乱入と言った性的な暴力を受けた覚えもない。彼の部屋のポスターを見てみれば、孫の顔が見れないダーズリー夫妻への同情はあれどそこらへんの心配がないことだけはたしかだ。

 だからなのか。

 十四歳になったハリーにとって、今のダドリーはかつて恐ろしかった悪ガキくらいの認識になっている。直接的な暴力をふるわれなくなったというのも大きいが、理性的に会話が通じるくらいの親交が発生するようになったのが、この心境の最も大きな要因である。

 厳しくし続けて唐突に優しくして、洗脳のように調教するというのはよく聞く話だ。ハリーの心理状態は、まさにこの状態なのだろう。いじめっこが時折見せる友人としての態度があるから完全に嫌うことのできないいじめられっ子。一番タチの悪いパターンである。

 だからだろう。

 今この時ハリーが味わっているのは絶望だった。かつての恐怖がありありと掘り起こされ、胸の奥でトラウマの荒縄に縛られている心が乱暴に締めつけられている。

 擦過傷で心から滲む血が、ハリーの目玉から溢れるようにぼろぼろと涙がこぼれているようにさえ感じてしまう。続けてダドリーが蹴りを繰り出し、四つん這いで苦しむハリーの身体をサッカーボールのように吹っ飛ばしていった。

 

「う、ぐ……!」

 

 ペチュニアおばさんが徹底的に整えた芝生に叩きつけられるかと思いきや、ハリーが背を打ったのは柔らかいベッドの上だった。

 はっとして起きあがれば、周囲ではハーマイオニーにパーバティ、ラベンダーがすやすやと寝息を立てて眠っている。ここはグリフィンドールの女子寮、しかも自室だ。

 当然夢落ちではないことくらいわかる。だが、この光景を幻覚として作り上げるのならば彼にその知識がなければできない。女子寮の詳細を、男性である彼が知っているはずがないのだ。

 つまりこの幻覚は、ハリーの記憶を元に作りだされている。

 頭の中を、覗きこまれている。

 

「ちくしょう、ちッくしょう!」

 

 いつのまにか治っている鼻から手を離し、ハリーはそう毒づく。

 自身の身体を見降ろせば、いまよりも胸が幾分か小さい。しかし膨らみ始めているころから、恐らくこれは去年。つい去年の出来事を再現した幻だと見当がついた。

 ブレオの奴は、ハリーのトラウマを抉ろうとしているのか。

 当の本人の姿は見当たらない。余程ハリーと直接相対したくないと見える。

 

「ハリエット」

「――ッ」

 

 低く、耳触りのいい声がハリーの中へと飛び込んできた。

 見上げれば、そこにはヒゲもじゃで小汚い様相の男がいた。

 シリウス・ブラック。逃亡中の凶悪殺人犯だと思っていた頃の彼。

 そして、何故かこの時の彼はハリーを殺害しようとしていた。

 

「ハリエットぉ!」

「ぐッ、う……!」

 

 がばっと覆いかぶさってきたシリウスに対し、ハリーは全力での抵抗を試みる。

 しかし気付けばその右手の中に杖はなく、身体強化の効果がまだ残っているはずの肉体も思うように動かない。確かこの時、実際の時間ではハリーは恐怖のあまり硬直していたはずだ。

 そう、ちょうど――

 

「ハぁリエットぉお!」

「……あ、」

 

 シリウスの手によって貞操の危機に陥ったかと、思ったからだ。

 その黒い瞳を憎悪に染めて、興奮しすぎた幻影のシリウスは口の端から泡を飛ばしながら、ハリーの着ていたパジャマを引き裂いた。

 下着が露わになるも、それも続けて剥ぎ取られてしまう。

 成長途中の、年齢の割には大きめな乳房が空気に触れてしまう。

 パジャマのズボンも、同じく引き裂かれてゆく。いつのまにシリウスの腕が四本にまで増えていたのか、ハリーの両手首を一本目の右手で握りしめて抑え込み、対となる左手がハリーの口元を押さえている。そして残る二本目の両腕が、次々とハリーの着る衣服を引っぺがしていくのだ。

 赤熱するほどの羞恥がハリーを襲う。

 幻覚の尻数は、乱暴な手でむき出しになった腹に触れてくる。ざわり、と撫でられる。ぞろり、と露わになった鎖骨を舐められる。こんなもの、気持ち悪いとしか言いようがない。

 確かに、シリウスとの思い出の中にはこうしたトラウマがあったに違いない。殺されかけたことが、今でも夢に見るトラウマになっていることは否定しようがない。

 だがこの、この状況。性的暴行をシリウスが仕掛けようとしてきたことは、結局ハリーの勘違いであったし、彼がそのような卑劣な行為を仕出かす男であるとは信じられない。いや、信じない。

 ここにきてハリーの心から湧いてくるのは、恐怖でも絶望でもない。

 好き勝手にぼくの大切な人を編集して、都合のいい悪人に仕立てあげるな。

 彼は、シリウスおじさんは、決してこのようなことをしない。

 

「ふざけるな、ブレオォォォアアア―――ッ!」

 

 憤怒。

 怒りのままに絶叫したハリーは、自身を押さえつけるシリウスの左手に全力で噛みついた。

 口の中でゴリゴリという骨を削る感触が感じられる。

 手の脆い部分、つまり関節を狙って全力で噛みつくと、自身に覆いかぶさるシリウスがびくんと痙攣したように思える。緩んだ左手から全力で顔を振って離すと、すぐ近くに迫っていたシリウスの首めがけてハリーはもう一度噛みつく。

 狙うは頸動脈。

 女性、しかもまだ十四の少女であるハリーの咬合力はそこまで強いわけではない。

 だが人間の柔らかい部分に噛みつけば、致命傷の一つは与えられる。

 うめき声をあげて、シリウスモドキは一瞬右手の拘束を緩めてしまう。それを見逃すハリーではない。両腕が自由になった途端、勢いよく起きあがってシリウスモドキの額めがけて強烈な頭突きを放った。

 ばきん、という木の板を割るような音と共に、シリウスの身体が大きく吹っ飛んでゆく。ベッドを巻き込み、シーツをかき混ぜ、最終的にはガラスのように寝室の景色を粉々に割り砕いてどこかへと消え去ってしまう。

 

「ブレオ、ブレオ、ブレオォッ! おまえぇぇえええッ! 人の思い出に、土足で踏み込んできやがってェ! 出て来い、出て来ォいっ! このぼくが直々にぶっ殺してやる!」

 

 少女にあるまじき荒々しい言動で、ハリーは叫ぶ。

 泥のように濁ったエメラルドグリーンの瞳は既に爛々とルビーレッドに輝いており、蛇のように残忍な色を灯している。

 瞬間。

 周囲の景色がゆらりとざわめき、一瞬にして砂色の風景へと移り変わる。

 見覚えのある風景であると認識するよりも先に杖が閃き、ハリーの全身が淡く青白い光に包まれて跳び出した。眼前に出現したのは、ほどかれて風になびく紫のターバンを両腕の代わりにした怪人。

 半壊しながらも強くぎらつくその双眸は、ハリーと同じくルビーレッド。しかしその色は同じでも中身に満ちる感情は欲望そのもの。未成熟ながらも大人の女性の魅力も備えた少女の姿を見て、荒々しく咆哮した。

 かなりの魔力が込められている。

 ブレオもまた、ハリーを本気で殺しにかかってきているようだ。

 

「しッ!」

 

 短く呼気を吐きだし、ハリーは地を舐めるような低姿勢で疾駆する。

 漆黒の髪を幾本か、紫のターバンが薙いでゆくのがわかる。あと一瞬でも先程の格好のままでいれば、胴と腰が泣き別れしていたはずだ。

 稲妻のように不規則な動きで刃のようなターバンを避け続けるハリーに、吸血鬼は吠える。

 かぁ、と激しい叫びと共にクィレルの抉れた眼窩から、赤と銀の入り混じった血液が跳び出した。さながら細く強靭な鉄線のような二筋のそれを、驚くべきことにハリーは更に前進する事によって回避するルートを選んだ。

 左半身を逸らし、両腕を胸に抱き込むように折りたたんだ奇妙な体制のまま、残る両脚で強く地面を蹴って跳ぶ。砲弾のようなタックルをまともに喰らい、吸血鬼の痩せ細った身体が吹き飛ばされた。

 無様に地面を転がり衝撃を逃がした吸血鬼は、反動を利用して即座に起きあがると同時、地面を蹴ってクレーターを作りながらも壁に着地。暴風のようにターバンを振り回して少女の肉体を寸断せんと荒れ狂う。

 

「『フリペンド・ランケア』ッ!」

 

 どす、と鈍い音と共に鮮血が撒き散らされる。

 吸血鬼がひどく驚いた声と共に、壁から地面へと落ちて倒れ伏した。

 ハリーの杖先から伸びる紅槍が吸血鬼の心臓を貫いていた。彼女の立つ位置は、彼の立っていた壁のすぐ近く、しっかりと天井に立って杖を掲げていたのだ。

 真正面から不意打ちされた疑問と、吸血鬼としての弱点を貫かれた苦痛とに苦しんだ吸血鬼は一瞬びくりと全身を震わせるとその身を永遠に横たえた。

 紅の槍がばらばらと崩れ落ちる。槍を構成している魔力を消費して、吸血鬼の体内に突き刺さっている穂先から更に刃を生み出し、そしてそれを爆砕したのだ。まるでトマトのような様相を呈しているだろう彼の体内は、誰もが目をそむけるようなモノと化しているだろう。

 それを行ったハリーは、恐ろしく冷たい目をしたまま天井から降り、着地を決める。

 

「ブレオ……」

 

 次に現れたのは、毒の吐息を持つ老豹と毒の牙と致死の目を持つ巨蛇。

 しかしその姿には既に無数のヒビが入っており、幻影としてもあまりに不出来なことがよくわかる。

 

「もうやめろ」

 

 次に現れたのは、先程ハリーと死闘を繰り広げた代表選手たち。

 顔が真っ黒に塗りつぶされているダームストラング代表選手、手足が足りずまともに相対する事も出来ないボーバトン代表選手、ぼんやりと霞のように身体を維持できていない不知火代表選手。グレー・ギャザリング代表選手にホグワーツ代表選手に至っては、出現しようとして消えてを繰り返す体たらく。

 魔力枯渇か? ハリーの知る限りではまさにそのような現象が起きており、ハリーを殺すための幻覚を造りだそうとして失敗しているようにしか見えない。

 

「お前の負けだ、ブレオ」

 

 ひゅんと風を切って杖を振る。

 老豹も巨蛇も、選手たちも根こそぎガラスのように割れて消えてゆく。

 残るは口の端から血を流しながらも、未だに杖を此方に向けているブレオ。

 周囲の風景がなにもない、真っ白なだけの空間である以上まだ幻覚世界の中に閉じ込められているのだろう。内臓を潰すような想いをしてまで魔力を絞り出しているその姿は、流石としか言いようがない。

 

「……だめだ、ハリエットちゃん。ここから出すわけにはいかない」

「だが君にはもう、ぼくを殺すことはできない。君の魔力が切れるのは時間の問題だ」

 

 見れば、鼻血も垂れ流している。

 脳細胞が傷付いているのか、それとも単純にハリーが幻の敵達にブチ込んだ魔法に含まれる魔力が、幻覚を通じて術者へ逆流したのかはわからない。

 だがどう見ても、どう視ても、ブレオはもはや戦闘を続けられるような体調であるとは思えなかった。別に、彼のことを心配して言っているのではない。

 これ以上、無駄に体力と魔力を消費したくなかっただけだ。

 

「うるさいな……ッ。君を殺すまで、僕はいくらでも戦える」

 

 ハリーの言葉に、ブレオは言葉を荒げて駆け寄ってくる。

 何時の間にか彼の右手には、短剣が握られていた。恐らくあれも幻覚だろう。輪郭が多少なりともブレているため、たとえ心臓に刺さったとしても致命傷にすらならない。

 だが許さない。

 

「……ぁ」

 

 ハリーは杖を振るうと、その杖の周囲に白刃を纏う。

 無言呪文による、短刀魔法だ。

 半自動的に攻撃をはじく、防御志向の魔法ではあるが、刃物は刃物。

 もはや足元も定かではないブレオの両手首を切り落とすには、それで充分だった。

 

「ぁあ、あああああ……っ!?」

 

 更に踊るように回転し、彼の背後に回ると姿勢を低くしたまま右腕を振るう。

 ブレオの両足、その踵部分から驚くほど大きな音が響き渡った。

 ばつん、とゴムが千切れるような音と共に、ブレオの身体が崩れ落ちる。

 声なき悲鳴をあげる彼の首筋に、ハリーは杖先を向けた。

 

「待ッ、待ってよ! ハリエットちゃん、それは」

「待たない。『ランケア』、突き刺せ」

 

 円錐状の魔力反応光が杖から飛び出す。

 『刺突魔法』によってブレオの顎から上が、ぐずりと貫かれた。

 ばしゃりと、グロテスクな赤とピンクの何かが周囲に飛び散ったのを確認。

 そして次の瞬間。周囲の真っ白な空間が粉々に砕け散る。重ねられた風景のその奥からは、鬱蒼とした生垣が見えてきた。最後の課題における会場、クィディッチピッチに作られた迷路の中だ。

 まず目の前には杖を構えた体勢のまま白目をむいて泡を吹いているブレオ。がくがくと全身が震えており、やがて杖を取り落としたあたりもはや戦闘続行が可能であるとは思えない。

 次に、消滅しかかったドーム状の『盾の呪文』の中にいるセドリック。ハリーが幻覚世界に引き込まれて意識を失っていた以上、魔力供給がされていない『盾』は、数秒保つことができればいいようなもの。

 つまり、幻覚世界にいながらにして現実世界では数秒も経っていないということになるのだろう。つくづく厄介な呪文である。

 

「ハリー……」

 

 セドリックの声が聞こえる。

 幻覚世界で何をやったかまでは流石に分からないだろうが、しゃんと立っているハリーと今にも崩れ落ちそうなブレオを見れば、十分に察することもできるだろう。

 がくがくと震えるブレオは、かふっとのどに詰まった唾液を吐きだし血走った眼でハリーを睨みつけてくる。いったい彼のどこからそんな戦意が湧いて出てくるのか疑問だ。

 何が彼をそんなに駆り立てているのか、ハリーには分からないし知りたいとも思わない。

 ただ殺しに来るというのなら、それ相応の態度を取るべきである。

 

「ハァアアリエットォ・ポッッターァァァアアア―――ッ!」

 

 ブレオの瞳が、金色のそれへと変化する。

 魔法式が全身に行き渡り、びきびきと四肢の末端が硬質化。筋肉は膨張してローブを引き裂き、赤いマントを残して毛深くも逞しい筋肉を露わになった。口が耳まで裂け、ギラリと光る牙を並べた口吻へと変化する。

 漏れる唸り声は、殺意を込めた獣のそれ。ハリーを殺すと決めた、道化者の決意。

 

「ブレオ」

 

 ハリーは杖を逆手に構え、魔力反応光を溢れさせる。

 杖腕である右手を伝って右の肩までを赤黒い螺旋の光が埋め尽くした。『身体強化』の青白い灯りと、杖を起点に右腕を侵食する剣のような赤黒い輝き。相反する二つの光を纏って、ハリーはブレオめがけて跳びだした。

 それに呼応するかのようにブレオの身体もまた砲弾のように射出される。

 セドリックの鋭い叫びが響いた。ハリーを心配するが故の絶叫だ。

 それを背に、ハリーは金の瞳から涙を流しながら右腕を振り上げるブレオめがけて、

 

「君はいつもセクハラばっかりで、腹の立つ奴だったけど」

 

 杖剣を振り払い、彼の両腕を切り裂いた。

 

「でも、嫌いじゃなかったよ」

 

 牙の立ち並ぶ人狼の口から小さな悲鳴がこぼれる。

 生々しい音を立てて、生垣の迷路に青年の腕がふたつ赤を撒き散らして転がってゆく。

 バランスを崩したブレオが、片膝を突く。しかしそれでも諦めていないようで、人狼最大の武器である牙を剥き出しにして頭を突き出してきた。

 身体強化の影響下にある今のハリーには、その動きがよく見える。

 わざわざ両腕を切り落としたのは、ブレオに対する最終通告。戦闘力を奪ったのだからもう来るなというメッセージが伝わっていないのか、それとも受け取った上でなお襲いかかってきたのか。

 ハリーにはもう知る術はなく、知るつもりもなかった。

 警告はした。だから、もう容赦することはない。

 

「さようなら、ブレオ」

 

 首を振ってブレオの噛みつきを避けると、その反動を利用してその場でアクロバティックに一回転。着地と同時、足りない膂力を補う遠心力を利用した手刀が、ブレオの頸動脈を軽い音と共に掻っ捌いた。

 ばしゅう、と冗談のように吹き出る血液が、ハリーの右腕を真っ赤に濡らす。

 勢い余って喉笛も切り裂いてしまったのか意味のない言葉がブレオの唇から洩れる。徐々に人間の姿に戻りつつある彼の顔は、恐怖と絶望に染まっていた。

 ハリーを見る目が、完全に怪物を見るそれであることに彼女はすぐに気付く。 

 

「いや、だ。……ハ、リー……」

 

 ブレオが最期に呟いたのは、今まで彼が呼ばなかったハリエットの愛称。

 だがその目はハリーの事を見ていなかった。いまのは、どこか別の誰かの名だ。

 血塗れになって地べたに這いつくばり、ぼろぼろと透明な涙を流して茶色の髪を頬に張り付けて泣き逝く彼の姿は、惨めで、そして実に人間らしい。そんな最期だった。

 ぐったりとその身を地面に横たえ、その瞳に何も映さずにびくんびくんと痙攣するブレオは、もう間もなく死ぬだろう。地面を真っ赤に染める出血量が、もはや手遅れの域である。

 初めてだ。

 クィレルの時は、直接的なトドメは刺していなかった。

 しかもブレオは人狼とはいえ、理性を持った人間だった。そんな青年を、ハリーはその手にかけたのだ。正当防衛などという言い訳をするつもりはない。

 いつのまにかハリーの張ったドーム状の盾が解けたのか、セドリックが哀しげな顔をしてこちらへ歩み寄ってきている。倒れ伏して冷たくなってゆくブレオを見て、更に哀しそうな顔をする。

 彼は優しく、そして正義感にあふれた人間だ。

 ハリーの殺人を責めるだろう。

 

「ハリー。いや、ハリエット」

 

 しかし暖かい手が、ハリーの頬に添えられる。

 彼の哀しげな瞳は事切れたブレオにだけではない。ハリーにも向けられていた。

 憐れむのか。人殺しをしたぼくを、いや、殺してしまうことになったぼくのことを。

 彼の内心が分かるほど、ハリーは『開心術』に詳しくもないし、そもそも使えない。

 だがハリーの頭を優しく撫でて、自身の胸にそっと寄せる彼の優しさだけはありがたい。

 同族殺しの罪は、いくらでも受けよう。予想するまでもなく、ハリーが時折見てしまう悪夢の中にはクィレルだけでなくブレオも現れることは間違いないと思える。死喰い人であった彼を害した罪は、きっと魔法法律では裁かれない。だから、ハリーは自分を責める。

 まるで魂の表面が剥がれおちた、そんな音が聞こえた気がした。

 

「ありがとう、セドリック」

「……だいじょうぶかい」

「うん。もう大丈夫」

 

 これ以上、セドリックに甘え続けるわけにもいかない。

 それにまだ競技の途中だ。死喰い人という乱入者がいたことを、速く競技を終えてダンブルドアに伝えなければならない。ブレオが所属していた以上、ディアボロ魔法学校も怪しいものだ。

 ハリーのそんな考えを見抜いていたのか、セドリックが朗らかに笑う。

 

「さあハリー、優勝杯はきみのものだ。僕にはもう、受け取る資格はない」

「でもセドリック。他者の命を奪おうとしたのは、ぼくも同じだ。いや、実際に奪ったぼくのほうがより悪質だと思う。だから資格云々なんて、考えない方がいい」

 

 暗い空気を払拭しようと、つとめて明るく言うセドリックにハリーは反論する。

 先程と変わらず、お互いに一歩も譲らない。

 変なところで頑固なのはシーカーゆえなのか、それとも二人の性根が似ているからか。

 苦笑いをこぼしたセドリックは、やがてひとつの答えをはじきだす。

 

「じゃあ、勝負と行こう」

「それが一番だ」

「この通路の先がゴール。優勝杯まで辿り着いて、先に掴んだ方の勝ちだ」

「異存なし」

 

 セドリックは姿勢を低くして、両手を地に着く。

 ハリーはだらりと両手を下げ、猫のように身をかがめる。

 目指すは一直線、向こうに見える輝く優勝杯。

 いち、に、さんでスタートだというハリーに対し、セドリックはにやりと笑う。

 

「あと、勝った方は負けた方に何でも一つお願いをできることにしよう」

「えっ!?」

「ほーら行くぞ! いち、にの、さん!」

 

 ハリーが素っ頓狂な声をあげると同時、セドリックは笑いながら叫ぶ。

 不意打ち気味に始まった短いレースは、狭い通路の中を押し合い圧し合いながら進んでゆく。まるで競争とは思えぬ光景に、ハリーは一瞬だけブレオの死という重圧から解放された気分になってしまう。

 いけないことだと分かっていても、彼と競うのは本当に楽しい。

 身を投げ出すようにして小部屋に辿り着くものの、どちらが先に着いたかなどということは二人とも確認するのを忘れていた。

 優勝杯の置かれた台座の根元で、ふたりは転がったまま微笑む。

 立ちあがったセドリックが差し出してきた手を取って、ハリーは立ちあがる。そして目の前には優勝杯が勝者をたたえるように輝いていた。

 だがこの場合、二人も勝者がいるのはどうしたことか。

 

「せっかくだ。二人で同時に取ろう」

「いいのかい、ハリー」

「ああ。ホグワーツの優勝には変わりないんだ、別にいいだろう」

 

 すっきりとした顔で溜め息を漏らしながら言うハリーの瞳は、幾分か濁りが澄んでいる。

 そんな彼女の瞳を見て、セドリックは微笑んで呟いた。

 

「初めての共同作業ってね」

「……なにか言ったかな、セドリック」

「おっと。聞こえなかったことにしてくれ」

 

 ハロウィン前の大広間での出来事が一瞬、ハリーの脳裏をよぎる。

 少しだけ耳を赤くしたハリーは、照れを振り払うようにセドリックに言った。

 

「いいから、取るぞ! さっさと帰って色々と済ませなきゃ」

「そうだね。まだまだ僕たちには、やることがたくさんある」

 

 セドリックはハリーの肩を抱き、優勝杯の乗った台座まで連れてゆく。

 あまりに密着し過ぎているが、まあ、うん。悪い気はしないので放っておこう。

 輝く取っ手は、都合よくふたつある。

 それぞれ右と左に手を伸ばして、ふたりは囁くように言った。

 

「三つ数えて、だ。いいね」

「ああ。いち――に――さん――」

 

 青年と少女が、同時に優勝杯をその手に取る。

 瞬間。

 二人は自分のへその裏側をぐいと引っ張られた感覚に襲われた。

 驚愕に見開いた目で、ハリーはセドリックの目を見る。

 彼もハリーのエメラルドグリーンの瞳を見ており、互いの姿がぐにゃりと歪んだ。

 優勝杯は二人を連れて、景色ごと渦巻いて消えてゆく。

 向かう先は、骨肉、そして血。

 絶望渦巻く夜の墓場へと。

 

 

 ハリーは、地面にたたきつけられた。

 傍にはセドリックも一緒だ。彼は着地に成功したようで、ハリーの事を支えて立ちあがらせている。

 彼はすでに杖を握っており、周囲を警戒して『警告呪文』らしき魔力反応光を飛ばしていた。二人の周りを旋回するように飛び回る反応光は、カナリアの形をしていた。

 守護霊魔法のようにもみえるが、これは魔法式を見る限り危険を察知する類の物らしい。

 遅まきながらハリーも杖を取り出し、自身に『身体強化魔法』をかけた。これをセドリックにかけることもできれば幾分か助けになったろうが、ハリーはセドリックではない。よって体構造が違い過ぎる彼に魔法をかけることはできなかった。

 間違いない。

 誰かに見られている。

 

「セドリック」

「ああ……誰かがこっちに来る」

 

 墓場だ。

 手入れのされていない、さびれた墓場に二人は投げ出されている。

 明らかに課題の続きではないだろうと思わせられる、この陰鬱な雰囲気に二人の警戒心は、最大にまで高まっていた。これは間違いなく不慮の事態だ。

 さて、どうするべきか。

 墓場の向こうから歩み寄ってくる何者かは、フードを被っているようで何者かは分からない。だがシルエットからして、小太り気味のようだ。男だろうか。

 何かを抱えている。なんだ? 産着に包まれた赤ん坊、に見えなくもない。

 まさか。墓場に、赤ん坊を抱えたフードの不審者だと? ハロウィンの仮装と言われた方がまだマシなくらいに悪質なジョークだった。

 人影が何か囁いたようだ。

 ハリーの心臓が、狂ったように暴れ出す。

 なにかとてつもなく見てはいけないモノを見てしまったような、まるで、バーノンおじさんとペチュニアおばさんが夜に仲睦まじく歩いていた姿を見てしまった幼いときのような、そんな危険な気分になってしまう。

 なんとなくハリーは、自身の額に刻まれた稲妻状の傷を左手で抑えた。

 その、次の瞬間。

 

『余計な奴は殺せ』

「『アバダケダブラ』!」

 

 おぞましい声と共に、身の毛もよだつような緑の魔力反応光が瞬いた。

 アレが何なのかを看破する前に、ハリーは半ば本能的にセドリックを抱きかかえてその場から飛び退く。着弾した墓石が、風化するように塵となって風穴をあけられていた。

 死んでいる。

 あの墓石に使われている石材が、いま死んだ。

 あまりに膨大な魔法情報によって視神経が痛む感覚を味わいながら、ハリーは緑色の魔力反応光がなんなのかを解析しようとして視た。

 だがわからなかった。

 なんなのだ。いまの極悪な感触のする魔法は。

 

「ちょこまかと。『ステューピファイ』!」

 

 フードの男が、再度杖を振り回して魔法を放ってくる。

 その動作は遅かった。代表選手たちという速度の怪物たちを相手にしてきたハリーが、それに反応できないわけがない。セドリックもまた同じだ。ふたりはホグワーツを代表する、代表選手なのだ。

 二人で同時に張った『盾の呪文』は、男の放った赤い魔力反応光の進路上に現れる。

 盾がその魔法を防ぐと同時、ハリーは身体強化した脚で不審者に跳びかかるつもりだった。

 しかし。

 

「がァ、う……ッ」

「――セドリック!?」

 

 隣の青年が、くぐもった声と共にその全身から力を溶かして崩れ落ちてしまう。

 魔力反応光が、不自然に曲がった。

 折れ曲がった赤い反応光は構えられた盾をすり抜けて、セドリックの膝へと命中したのだ。

 一瞬で意識を手放したセドリックに驚きながらも、ハリーは不審者に向けて『投槍呪文』を放つ。不審者は杖を一振りすると、その紅槍をドルーブルの風船ガムへと変身させてしまった。

 恐るべき変身術だ。

 セドリックを庇う形で立つハリーを見て、男は抱えている包みに耳を傾ける。

 そして頷いた彼は、フードを一気に取り払う。

 その姿を見たハリーは、憎々しげにつぶやいた。

 

「ワームテール……!」

「お久しぶりです、お姫様」

 

 嫌味な物言いと共に、皮肉げな言葉を飛ばしてきた小男。

 その目は憎々しげな色に染まっており、ハリーではなくその面影を残すジェームズへと向けられているのがわかった。

 

【ナギニ】

 

 しゅーしゅー、という奇妙な声。

 それが何者かの名を呼んだ声だということに気付いたその時には、すでに遅かった。

 ハリーの左のふくらはぎにに、何やら熱いモノが差しこまれている。

 瞠目して見れば、巨大な蛇がハリーの脚に甘噛みしていた。本気で噛んでいれば、おそらくハリーの柔らかい肉など噛み千切れただろう、丸太のような蛇。

 恐るべき大きさだ。ハリーは脚からなにか熱いモノが一瞬にして全身に広がったのを感じると同時、その腰を地面へと落としてしまう。

 麻痺毒を注入されたのか?

 なんにせよ、この状況下でこの状態は非常にまずい。

 どうぞ殺して下さいと言っているようなものだ。

 

『いそげ、待ち遠しい』

 

 また奇妙な声がした。

 ワームテールは『縄魔法』を唱えると、身動きの取れないハリーの身体を墓石に縛りつけた。その際に舐めるような視線で胸や露出した腹を見られたことに、強い不快感を覚える。

 ハリーのポケットからはみ出していたハンカチが引き抜かれ、それを口の中に乱暴に突っ込まれる。舌で押し出そうとするも、苦しくなって咳き込むだけで終わってしまった。

 この不可解な声は、やはりピーターのもっている包みから聞こえてくるようだ。

 一体何が入っているんだ。まさか本当に赤ん坊なのか。

 ハリーは意識を失って横たわっているセドリックを心配そうに見つめてから、ワームテールが杖を振って取り出した大鍋を見た。

 デカい。あまりにもデカすぎる。それも石製の、おどろおどろしい見目をしている。

 大鍋の底から、ぼこぼこと沸騰する液体が次から次へと湧いて出てくる。

 まるでその液体自体が燃えているかのように火の粉を漏らしている。魔力式も散見されるが、一体何を意味しているのかすらわからなかった。理解が及ばない。

 

「準備ができました、ご主人様」

『さあ、さあ、さあ』

 

 ピーターの冷たい声が響いた。

 それを待ちわびたかのように、奇妙で冷たい声が催促をする。

 包みがピーターの手によって解かれて、その中身が露出した時ハリーは眉をしかめた。

 やはり赤ん坊だった。

 黒髪の健康そうな赤ん坊が、その小さな手足をふにゃりと動かしている。

 だが幼子特有の、母性本能を刺激する可愛らしさなど欠片もない。あれはもっと、邪悪な何かだ。少なくとも、見た目通りの赤ん坊であるはずがなかった。

 その赤ん坊を持ちあげたピーターは、躊躇することなくその矮躯を鍋の中へ放り込む。

 どぷんと乱暴に落ちた赤ん坊は、ひと声あげて熱湯の中へ沈んでいった。

 湯の色が急激に真紅へと染まる。

 まるで血の色そのものだ。

 

「『父親の骨、知らぬ間に与えられん。父親は息子を蘇らせん』!」

 

 ピーターの囁き声に、とてつもない量の魔力が込められている。

 夜の闇に向かって唱えられた邪悪な呪文は、魔力反応光がまったく見られなかった。

 ばかんと重々しい音と共に、ハリーの足元に亀裂が入った。

 そこから飛び出してきたのは、一本の骨。

 ぐずぐずに腐った肉が少量こびりついた、恐らく人間の大腿骨らしきモノだ。

 鍋の上へと浮遊して言った骨から、塵埃のように肉や汚れが風に乗って消え去ってゆく。そしてまるで輪切りにしたかのように割れた骨は、さらに粉となるまで細かく割れ続けた結果、重力に従ってまた鍋の中へと沈んでいった。

 湯の色が奇妙な、群青色とシルバーをかき混ぜたような色に変化する。

 

「う、ぶ……」

 

 ハリーはこの光景を見て、ひどく吐き気を催していた。

 まるで生物として知ってはならないことを突きつけられているかのような、自分の存在意義すら揺るがすかのような光景が広がっている。

 恐ろしい。単純にあの行いが恐ろしすぎる。

 

「『しもべの肉、喜んで差し出されん。――しもべは、ご主人様を蘇らせん』」

 

 ピーターの氷のような声が、一瞬だけ震えたように見える。

 指が欠けた右腕を鍋の上に差し出した彼の引きつった表情を見て、ハリーは目を逸らすべきだったと後悔する。にちゃりという液体音とともに、ワームテールの肘から先の肉が腐って鍋の底へと消えてゆく。。

 くぐもった悲鳴を漏らすピーターの白骨だけになった右腕が、先程の骨と同じく輪切りになって順々に湯の中へと投入されていく。『まともじゃない』……こんな行動、きっと『まともじゃない』んだ……。

 

「ぐ、うう……。『敵の血、……力づくで奪われん。汝は、……敵を、蘇らせん』」

 

 苦痛にあえぐピーターが、何時の間にか目の前に寄って来ていた。

 ハッとする間もなく、彼の残った左手が閃いてハリーの露出した脇腹を突く。

 今度はハリーが激痛に呻く番だった。

 口に突っ込まれたハンカチによって外には出なかったものの、涙がぼろぼろとこぼれて痛みを主張している。ピーターはその様子を見て、幾分か溜飲を下げたようだ。にい、といやらしい笑みを浮かべている。

 ピーターの指先に付着したハリーの血液は、風に乗って鍋の中の液体へと注がれてゆく。 

 途端、沸騰が収まった大鍋の湯は銀色に光り輝きはじめた。

 その光を見た途端、ハリーは一瞬だけダンブルドアのヒゲをおもいだした。

 

「……『過去から居たりし、ご主人様は、うつつの己を救うべし。己は己を蘇らせん』」

 

 ワームテールが次に懐から取り出したのは、なにやら古びた小瓶の中に入った黒い粘液。

 ハリーはそれに見覚えがあった。

 あれは、インクだ。

 紛うことなき、ハリーが二年生の時に死闘を繰り広げた過去の記憶、その者を構成していた黒いインクに間違いない。つまり、あれは。あれは……。

 どぷんと小瓶ごと投入されたそれが鍋の底へ辿り着いた、こつりという小さな音が墓場に響く。その音はすなわち、絶望への序曲であった。

 

『ああ』

 

 再び狂ったように煮立ち始めた大鍋の湯は、もはや液体とは呼べない状態だ。

 まるで金剛石のような眩い輝きを放ち、漆黒の墨が夜闇から流れ降りてくる。

 歓喜に震えた、冷たい声が聞こえる。

 ハリーの心臓が、魂が、恐怖に震えていた。

 大鍋が中の液体ごと、ぐにと歪んでかき混ぜられる。

 石製とは思えない変化を見せた大鍋は、次第にまばゆい光を閉じ込めるかのように闇で覆われていった。水に墨を流したかのような霧が、称えるようにグロテスクな液体の中へ吸い込まれてゆく。

 漆黒の液体がぐにゃりと動くと、中から白い腕が飛び出してきた。

 

「――――――、」

 

 ハリーが絶望の声をあげる。

 それに喜び、哄笑するかのように残りの手足が液体から突き出された。

 徐々に液体の表面に肉が張られてゆく。それはまるで、大人の手足を持った胎児だ。

 そこからの変化は速かった。

 骨がみしりみしりと形成され、成長して、それに追随するかのように内臓や皮が出来あがってゆく。手の指の間に合った水かきは退化して、毛のない尾は次第に尻の奥へと引っ込んでゆく。

 首のあるべき位置からぐにゃりと盛りあがった塊は、大口を開ける能面。

 ひび割れた置くから真っ赤な蛇めいた舌が、白く美しい牙が覗く。

 高い鼻が現れ、鼻の穴が空いて空気を盛大に吸い求めた。

 くぼんだ眼窩が膨らみ、切れ目が入る。

 周囲を漂う闇が、出来あがった人間の体にまとわりついて漆黒のローブと化す。

 それは両手の感覚を確かめるかのように動かし、己の額に右手を当てる。

 ずあっ、とかきあげられた髪は、ハリーと同じくらいの長さの艶やかな黒髪だ。

 それが中分けになって左右に流れ、静かに見開かれた紅い瞳は美しい。

 

『久々に吸う空気の、実に美味いことよ……」

 

 冷たい声は、徐々に肉声のようになって空気を震わせる。

 だいたい二十代後半から、三十代半ばの程だろう、黒髪の男がそこに立っていた。

 そして男は、今頃ハリーに気付いたかのように彼女へ視線を向けて、そのハンサムな顔を冷酷な微笑みを乗せて歪ませる。

 

「そう思うだろう、ハリエット」

 

 人当たりのよい、誰もが信頼を寄せるような優しげな顔に、冷たい蛇のような瞳。

 ヴォルデモート卿は復活した。

 




【変更点】
・他校代表選手の一人が死亡。
・ハリー・ポッターが殺人をおかす。
・セドリックの出オチ即死から、出オチ失神に。
・ヴォルデモート完全復活。

復ッ活ッ! ヴォル復活ッ! 闇の帝王、復ッ活ッッ!
してェ……お辞儀してェェ~~~~……。
今回は、中ボスのブレオ戦と、お辞儀復活回。ハリーが一線を越えて人を殺すのと、完全復活パーフェクトお辞儀様だぜのお話でした。散々フラグを立てたセドリックは失神、お辞儀は全盛期状態で復活。
次回は今までの伏線回収とお辞儀シーン。お辞儀するのだ!


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14.Harry Must Die

 

 

 

 ハリーは恐怖していた。

 目の前で造られた人間、その名もヴォルデモート。

 英国魔法界を絶望と死の連鎖に叩き込み、悪を跳梁跋扈させた諸悪の根源たる者。

 ジェームズとリリーを害し、ハリーがダーズリー家へ行く直接の原因となった男。

 そして、ハリーがいつか必ず復讐してやると憎悪をこめて誓った、闇の魔法使い。 

 それがヴォルデモート。

 目の前にいる、黒髪の男がまさにその人だ。

 

「久しいな、ハリエット」

「……ヴォルデモート」

 

 艶やかな黒髪を揺らして、青白い肌の男はせせら笑うようにハリーに顔を向ける。

 胃がむかむかする。誰が何も言わずとも、目の前の男とは気が合わないと自分の心にはっきりと告げられているような感じだ。

 自身の身体を愛おしげに撫でるヴォルデモートの気持ちは分からないでもない。なにせ十三年間、自分の身体がなかったのだ。それはさぞ嬉しいことだろう。その身体を破壊してやりたいと思うくらいには、その気持ちは理解できる。

 自らの肉体の調子を確かめるかのように、指を一本一本折ってみたり。唇をもごもごさせて口内の様子を舌でなぞってみたり。ローブのポケットから出した杖をくるくると回して、その辺にあった墓石へ無造作に杖先を向けて破壊したりと、歓喜の極みにある様子だ。

 そこでやっと気付いたかのように、ヴォルデモートはピーターへと目を向ける。

 にぃ、と嫌らしい笑みを浮かべた。

 

「ワームテールよ」

「ご主人様……」

 

 自ら切り落とした腕を押さえながら、ピーターは呻く。

 腕を伸ばせ、というヴォルデモートの声に従ったピーターは、跪いて未だ健在である方の腕を差し出した。少し目を見開いたヴォルデモートは、しかし満足げに杖先を彼の腕に伸ばす。

 ハリーにはその様子がよく見える。暗闇だというのに、まるで蛇の目のようによく見える。

 髑髏だ。刺青のようにうごめく闇の印がそこにある。

 

「印が戻っておる。全員が、これに気付いているはずだ。これをみて戻る忠義者が何人いるか……離れようとする愚か者がどれほどいるか……わかるかね、ワームテール。俺様は少しばかり不安だ」

 

 ピーターはその声に応えない。

 しかし気を害した様子もなく、ヴォルデモートはその杖先を闇の印へと押し当てた。

 一瞬だけピーターが苦痛に声を漏らしたが、ぐっと我慢するかのように俯く。

 じゅうじゅうと肉の焼けるかのような音が墓場に響き、ピーターの闇の印が真っ黒に光り輝く。ヴォルデモートの恍惚とした顔が良闇に浮かびあがるかのようだった。

 ちらと魔法式を視る。英語、日本語らしき異なる言語の字が視えた。文字の配分はバラバラで、ハリーには何が書いてあるのかすら理解できない。魔法文字らしきものも見えるし、ルーン文字や梵字もまた散りばめられている。あれをヴォルデモートが造りだしたというのならば、あれは間違いなくハリーの理解の外にいる存在だ。

 困惑と警戒を心に秘めるハリーに向かって、ヴォルデモートは微笑んで言った。

 

「ハリエットよ。おまえがいま、どこにいるか分かるかな? そう、俺様の父の墓だ。つまり。俺様の偉大なるお優しい父上さまの、その遺骸の上に立っているのだよ、おまえは」

 

 蛇のような残忍な笑顔でヴォルデモートは語る。

 なつかしむような、いつくしむような顔だ。

 

「丘の上にある豪邸が見えるか? お前の足の下で死んでいる愚か者は、そこに住んでいたのだ。そして俺様の母とまぐわい、子を生んだ。それが俺様だ」

 

 随分と感傷的になっているようだ。

 ハリーがそう感じたのは間違いではないだろう、ヴォルデモートの瞳はハリーを見ているが、その実ハリーを見てはいない。何処か遠くの空の、六〇年以上昔のことを考えているのだろう。

 

「しかし父は、母が魔女であることを知らなかった。それを知った時、父はどうしたと思う? 愛したか。許したか。いいや、棄てたのだ。父は、母を捨てた。やつは魔法を嫌っていたのだ……いや、違うかな。魔法を、未知なる存在を恐れていたのだ。愚かなことよ。じつに、じつに愚か……」

 

 ピーターの腕から杖が離されると同時に、彼は地面に崩れ落ちた。

 痛みに呻いており、それを満足げに眺めたヴォルデモートは静々とこちらへ歩み寄ってくる。彼はハリーの縛りつけられた、帝王の父の墓のそばに立っていた誰とも知らぬ墓の上に腰かけた。

 そして頬肘をついて、ハリーに向かって微笑みかける。

 

「父は母を捨ててマグルの村、ここだ。このリトル・ハングルトンに戻った。そして母は俺様を産むと同時に死んだらしい。残された俺様は、マグルの孤児院で育った。なんと、驚くべきことに、おまえと俺様は似た境遇にあるらしい。共に両親がいないから、マグルに育てられたのだ。驚きだな、不思議な偶然もあるものだ」

 

 白々しいことを。

 ポッター夫妻を殺したのはお前だろうが。

 ハンカチを口から吐き出し、ハリーは彼めがけて唾を吐きかける。ヴォルデモートの数センチ手前で血混じりの唾は消滅した。杖を振った様子もない。何をしたのかすらわからなかった。

 彼が杖を振るうと、地面に落ちようとしていたハンカチが勢いよくハリーの口に突っ込んでくる。思わず咳き込むハリーの姿を見て、ヴォルデモートは笑った。

 唾を吐きかけられるという暴挙を見てもヴォルデモートは眉すら動かさず、優しげに微笑むだけだった。その余裕の態度が気に入らない。

 

「その後も似たようなものだ。ダンブルドアに拾われ、ホグワーツを自分の家だと思うようになった。幸せだったさ。学友を得て、知識を得て、力を得て。とても幸せで、そして同時に周囲の人間の低レベルさに辟易していた」

 

 しかしハリーも気付いている。

 ヴォルデモートも、それを察していて話を続けているのだろう。

 

「お前もそうだろう、ハリエット? 学業だけに秀でていても、真に優秀な人間とは言えない。逆もしかりだ。全てにおいて突出した人間こそが、頂点を目指すに値する魔法使いだと。お前もそうなのだろう、ハリエット。あそこで無様に倒れておるハンサムボーイを見る目が、まさにそれだったのだからな」

 

 その通りだ。

 まさに、その通りだ。

 ヴォルデモートの言うことはすべて真実だ。

 ハリーは一年生の最後、クィレルと闇の帝王の残滓から生き残った後に真の友を得た。

 その二人が例外であるだけで、ハリーは基本的に他人を評価する目が厳しい。

 自分へ異性としての好意を持ってくれているセドリックすら、ハリーから見るとあまりに拙かった。心構えがハリーに近い者を強いて挙げるならば、ドラコくらいだ。獣として、魔法という他人と戦って殺す術を学んでいる者として、他の人間はあまりに拙いと思ってしまうのだ。

 この墓場に来て、セドリックが杖を出していたのは嬉しかった。それすらしていなかったら、本当に失望してしまっていたと確信できるからだ。

 だがハリーは、それに、その気持ちに気付きたくはなかった。

 その気持ちはあまりにも傲慢にすぎる。

 自分より優れた人間はいくらでもいることくらい、ハリーは知っている。けれども、ヴォルデモートがまだ学生だった頃、そんな者はいなかったのだろう。

 出来の違いと、同じ考え方。あんなものと同じだったという同族嫌悪に加えて、認めたくない心を見抜かれているという不安がハリーを苦しめているのだ。

 

「なんとまあ。俺様が自分の家族の歴史を物語るとはな……なんとも感傷的になったものよ。俺様もトシかな? いや、今はもう二〇代後半の肉体か。擬似的な若返りも果たしてしまったというのは、流石の俺様も自分自身の才能が恐ろしくなってしまうよ」

 

 まるで親戚の娘にでも話しかけるように朗らかに笑うヴォルデモートの目は、一切笑っていない……などということはない。親愛を込めた、実に優しげな目だ。見ているだけで安心してしまう不可解な魅力さえ感じる。

 だがハリーはこの男が、自分にそのような感情を向けるはずがないことを知っている。ハリーには分かる。顔ではにこやかだが、この男はまったく笑っていない。

 蛇のような冷たさを感じるというのに、この親しみやすさは異常だ。

 魔眼を使っている様子は感じられない。これはつまり、この男の元々の特徴。彼が元来もっていたカリスマと言うべきか、その魅力というものだろう。

 彼がヴォルデモート卿として英国魔法界を絶望に叩き込む前の、数々の魔法使いの若者たちから支持を得たカリスマとしての顔。それがいま、ハリーに見せているヴォルデモートの姿だった。

 

「ほぅら、来たぞハリエット。彼らこそが、俺様の真の家族だ」

 

 ヴォルデモートが言うと同時。

 周囲の空間から、空気を押し出す独特な音とともに複数の魔法使いが『姿現し』して出現した。その全ての魔法使いが夜の闇に同化するような黒いフードを目深に被り、その下には真っ白な髑髏の仮面で顔を隠している。

 あれはヴォルデモートのしもべたる《死喰い人》だ。

 その数は十や二〇ではきかない。ざっと一〇〇人近くいるのではないかというほどの死喰い人たちが、一斉にやってきてこの墓場を埋め尽くしているのだ。その全ての視線が、ヴォルデモートとハリーに向いている。髑髏仮面の奥から光る眼光がぎらぎらと粘つくようで、吐き出したい気分を抑えるのにかなりの労力を要した。

 死喰い人たちがハリーらを輪に囲むように集まり、次々と頭を垂れてゆく。

 それらの姿を、ヴォルデモートは蔑むように眺めていた。

 

「懐かしの友たちよ。ああ、よもや十三年ぶりだというのにこれほど集まってくれるとは。俺様はとてもうれしいぞ、友よ」

 

 ヴォルデモートが静かに紡ぐ言葉に、死喰い人たちがどこか安堵したような息を漏らす。

 しかしその直後、ことさら冷たく言い放たれた言葉に全員が硬直した。

 

「そして同時に失望している。これほどの人数が俺様を見捨てていたとはな。ええ? そこらへんどう思うかね、お前たち?」

 

 わざとコミカルに話すヴォルデモートの顔は、造り物の笑顔すら浮かべていない。

 恐怖のあまり震える死喰い人たちから、一人が輪を飛び出してヴォルデモートの前に身を投げ出して彼の着るローブの裾にキスをした。その顔を蹴り飛ばし、ヴォルデモートは杖を振るとその者を立ちあがらせる。

 

「エイブリーよ。それは何のつもりだ? まさか許しを請うているのではあるまいな。だめだ、だめだ。俺様は忘れぬよ、俺様は許さぬよ。おまえたちは十三年間も俺様のことを見捨て、忘れ去ろうとしていた。考えたことはあるかね? 十三年ってのは結構長いものでな」

 

 ヴォルデモートは踊るように腰かけていた墓石から身をひるがえすと、ハリーの元へやってくる。そしてハリーの肩になれなれしく手を置いた。

 

「これこの通り。赤ん坊が少女にまで成長するほどには、時が経っているのだよ」

 

 最後にぺちんとハリーの頬をいやらしくはたくと、ハリーが睨みつける前に薄笑いを浮かべて離れる。そしてヴォルデモートは、近場に居た死喰い人の前まで歩み寄って左手をかざす。

 まるで皮膚をはがすかのような勢いで、ヴォルデモートが左手を振り払うと死喰い人の仮面が霧となって剥がれおちる。その面の下から現れた顔は、苦痛にゆがんでいた。

 

「ノット。お前にはたしか子がいたな? その子の成長を見て、年月の重さがよくわかったろう?」

「ああ、我が君、我が君……」

「そうだ。その子が死ねば、ちょっとでも俺様の気持ち分かってくれるかな?」

 

 ノットの顔が凍りついた。

 がばと顔をあげてヴォルデモートの目を見れば、にんまりと笑んでいるのがわかる。ハリーの位置からは彼の顔は見えないが、しかし嗤っていることだけは彼女にもわかる

 周囲の死喰い人が動揺する気配が伝わってきた。まさか本気で殺す気なのだろうかと思っているが、声に出す事が出来ない。そんなところだろう。

 がたがたと震えるノットと無理矢理肩を組んで、ヴォルデモートは囁く。

 

「死なせたくないか? 愛する子供を、殺されたくはない?」

「……は、はい……我が君。どうか、どうかお許しを……」

「なら代わりにお前が死んどけ」

「…………、は……」

 

 ひゅんと風を切って、ヴォルデモートはノットと呼ばれた死喰い人の眼前に杖を向ける。

 今度こそ死喰い人たちから驚きの声が上がった。

 恐怖によって顔面を蒼白にするノットに対し、ヴォルデモートは笑顔で告げる。

 

「んじゃ死ね」

「わっ、我が君……ッ!?」

「『アバダケダ……、やっぱ『クルーシオ』、苦しめ!」

 

 瞬間、ばぢと甲高い音と共にノットの身体が痙攣した。

 ヴォルデモートの杖先から飛び出したのは、死を孕む緑の魔力反応光ではなく、グロテスクなまでに赤い魔力反応光。それを心臓に受けたノットは、この世の物とは思えない絶叫を放った。

 死喰い人たちがどよめく中、地面に倒れ伏してのたうちまわるノットに対してヴォルデモートは大声で笑う。彼は死喰い人たちを友と呼んだが、真実そう思っているわけではないのだろう。友達には上下関係などない。いまあの空間に在るのは、ペットとそれを甚振る暴君だ。

 時間にして五秒ほど。ヴォルデモートが『磔の呪文』をかけていたのはその程度だったが、失禁してびくびくと痙攣するノットにとっては何時間にも感じていたことだろう。

 そんな卑小な友人に向けて、ヴォルデモートはとてもいい笑顔で言う。

 

「殺されるかと思った? ねえ殺されるかと思った? なーに、そんなことはせんよ。ノットや、おまえは大事な俺様の友、俺様の愛する家族さ。安心しろよ、俺様の元に居る限り安全は約束される。そうだろう、うん?」

 

 倒れ伏し震えるノットの方を、ヴォルデモートは優しくたたいて猫なで声をかけた。

 びくりと大きく揺れたノットの姿を満足げに眺めながら、言葉は続けられる。

 

「我が。き、み……あり、がとう……ご、ざい……ます……」

「そうそう、素直なのが一番よろしい。ほうら、お前たち。見よ、この姿を。十三年分の裏切りを、彼は数秒で贖ってみせた。お前たちには期待しているぞ。今度こそ、そう、今度こそ。俺様への忠誠が揺るがぬよう……」

 

 ヴォルデモートが厳かに放った言葉に、死喰い人たちが次々と頭を下げてゆく。

 不運なノットは見せしめにされたのだ。

 もしかすると、殺されなかっただけ有難いのかもしれない。

 これが死喰い人。これがヴォルデモートの率いる集団のありよう。

 狂っている。いや、これが正常なのか。だとすれば、なんと哀れなのか。

 

「おっと。面白い奴が居たぞ」

 

 次々と輪に並ぶ死喰い人たちの仮面をはがしていたヴォルデモートが、半ばで立ち止まる。

 仮面の奥に隠れていた顔は、ハリーもよく知っている者だった。

 その者は少しだけ息を呑んで驚くハリーの方を見たが、すぐに主人たるヴォルデモートへと視線を移す。

 

「お久し振りでございます、我が君。首尾よく肉体を取り戻せたようで何よりでございます」

「ぬけぬけと。ルシウスよ、白々しくも抜け目のない友よ」

 

 ヴォルデモートの白い指が、ルシウス・マルフォイの顎を撫でる。

 しかし動揺することなく、彼は自らの主人に対して優雅に目礼した。

 それを見て、面白そうに肩を揺らすヴォルデモートは言葉を続ける。

 

「相も変わらずマグルいじめを楽しんでいるようだな? その労力をもう少しでいいから俺様に向けて欲しかったというのは、俺様の傲慢さからくる我儘かね」

「我が君。そんなことはございません。ちらとでも情報が耳に入れば、即座に馳せ参じるおつもりにございました」

「俺様に嘘をつくな。ならばなぜ、夏に『闇の印』が打ち上げられた時におまえは逃げ出した?」

 

 ルシウスの動きが一瞬、固まった。

 次にはヴォルデモートがせせら笑い、歩を進めてゆく。

 

「まあいい。失望させられたぞルシウス。これから失った信用を取り戻せ」

「寛大なご慈悲に感謝いたします、我が君……」

 

 深々と首を垂れるルシウスを無視して、ヴォルデモートは歩き出す。

 ふとハリーが気がつけば、最前列の死喰い人たちがつくる輪には切れ目があった。まるで誰かを待っているかのような切れ目だ。

 その空間を寂しげに眺めたヴォルデモートは、軽く溜め息を吐いて言う。

 

「ここにはレストレンジ達が来るはずだった。彼らはどうも、俺様を見捨てなかったばかりにアズカバン送りとなってしまったらしい。なんと涙ぐましい忠誠心よ。頭の下がる思いだ。アズカバンを解放した暁には、俺様は彼らをこそ最高の栄誉を与えよう」

 

 にっこり笑んだヴォルデモートは、またもハリーの近くへと歩み寄って墓石に腰掛ける。

 

「そしてあともう少しの死喰い人がここに来るはずだった。三人は既に死んでいる。俺様の任務を果たしたのだ、素敵な事だ。一人は臆病風に吹かれたようだな。死んでもらうとしよう。一人は未来永劫、決して戻らない。顔を見たら殺してしまうこと請け合いだ。そしてあと二人。もっとも忠実なるしもべたちは、既に任務についている」

 

 その言葉に、死喰い人のみならずハリーまでも動揺した。

 二人。死喰い人が二人もいるとのことだ。

 だれだ? ブレオがそのうちの一人だとして、もう一人いるというのか。

 

「その忠実なる者たちはホグワーツにいる。その者はとても素敵な招待状を若きレディーに手渡すことに成功したようだ。ご覧よ、お前たち。ここに御座すのが、今夜の俺様復活パーティにご参加くださったちっぽけなご友人、ハリエットだ」

 

 死喰い人全員の視線が、縛りつけられたハリーの全身にまとわりつく。

 うちひとつに殺意が混じっていることに気付いたハリーは、その方向へ目を向ければなるほど、そこにはフェンリール・グレイバックがいた。ヴォルデモートによって仮面を剥ぎ取られた彼は、鼻の一部が欠けている。ハリーが夏にやった傷跡だ。

 ヴォルデモートもその様子には気付いているようで、にやにやとこちらを眺めていたがハリーは努めて彼を無視する。面白そうに肩を揺らしたヴォルデモートは、囁くように言った。

 

「すまないなハリエット。ドレスもなければ、ケーキもない。だが約束しよう、今夜はおまえの人生のって最高の、決して忘れられぬ夜になることを」

 

 寒気のすることだ。

 反抗的な目を向けるハリーに慈しむようで嘲っている目を向けたヴォルデモートは、小さく笑い声を漏らすと死喰い人たちへ向き直る。

 それを待っていたかのように、ルシウス・マルフォイが前に出た。

 

「我が君。我等は気になって仕方がありません。どうか、どうかお教えください。いったい、どのようにして、そのように復活を成し遂げられたのでしょう。我々が再びあなたにお仕え出来る喜びを味わえた、その理由を。どうか……」

 

 ヴォルデモートはその言葉を受けて、嬉しそうな顔になる。

 待ってましたと言わんばかりの笑顔に、死喰い人たちがまたも動揺する。

 事実ヴォルデモートが次に紡いだ言葉は、すこしばかり弾んでいた。

 

「やっと聞いてくれたな。長い話だ」

 

 杖を右手でくるくると弄びながら、ヴォルデモートは言う。

 

「その始まりは、そして終わりは――我らが友人、ハリー・ポッターだ。おまえたちも知っての通り、俺様が凋落したのは我ら闇の勢力にちょっかいをかけ続けた、忌々しきポッター家をこらしめるために俺様が赴いた……その出来事が原因だったな」

 

 ハリーは冷や汗が止まらなかった。

 この話を聞いてはいけないと本能がそう囁いている。

 

「むッ、むぅうーッ!」

「おやおや。可愛らしいハリエットや、おむつでも汚したのかい?」

 

 せせら笑うヴォルデモートに向かって、ハリーが射殺すような目を向ける。

 しかしそれをまったく意に介さず彼は話を紡ぎ続けた。

 

「まず、話すとしたらここからだろうな」

 

 長い脚を優雅に組み換え、ヴォルデモートは遠くを見つめながら語り始める。

 主人の紡ぐ物語を、死喰い人は一言一句漏らさず刻みつけようとでもしているかのように聞き言っているのが分かった。ハリーはそれでも呻き続ける。聞いてはいけない。絶対にこの話を聞いてはいけないのだ。

 

「俺様がパワーと肉体を失ったあの夜。十三年前のあの日。七月三十一日。俺様はハリー・ポッターを殺そうとした。なに、気まぐれだった。ほんの些細な気まぐれた、魔導の髄を極めたつもりでいたこの俺様を打ち負かしたのだ」

 

 するりと振るわれた杖から、銀の靄が流れ出す。

 あれにはハリーも見覚えがあった。ダンブルドアが見せてくれた、憂いの篩に流れていた彼の記憶だ。つまるところ、あれはヴォルデモート自身の記憶なのだろう。死喰い人たちが「おぉ」と感嘆を漏らした。

 彼らの様子を見たヴォルデモートは、満足げに微笑んで話を続けた。

 

「ハリーの母親……リリー・ポッターは驚くべき魔法を使っていた。恐らく本人も使ったつもりはなかったのだろうな、俺様が知らぬ魔法を、そこらへんの木っ端魔女が知っておるとも思えん。認めよう、あれは俺様の負けだった。どうせだからと幼子にまで手を出したのは、俺様の傲慢による過ちであった。俺様の放った『死の呪文』は確かにハリー坊やに届き……そして、跳ね返って我が肉体を破壊し尽くした」

 

 死喰い人たちが息を呑む。

 ルシウスが物言いたげな様子を見せたが、それはヴォルデモートが手をあげることで制した。

 

「おう、おう。ルシウスよ。そう急くな。さて、俺様の肉体は完璧なまでに破壊し尽くされた。魂は砕け散り、霊魂にも満たぬゴーストにすら劣る、ゴミのような何かにまで身を落とした。あれをなんと呼ぶのか……俺様とて分からぬ。だが俺様が不死への憧れを抱いていたのは皆も知っていよう。そして皆の前にいるこのヴォルデモートは過つことなく本物だ。まあ要するに、存在するだけでも必死にならねばならない奇妙な何かになりはしたが、俺様は生き残ったのだ」

 

 だめだ。あれ以上は奴に口を開かせるな。

 杖は、ヴォルデモートの蛇に噛まれた際に取り落としてしまった。

 ならば杖など必要ない。体内に巡る毒も、だいたい分解し終えている。殺るなら今だ。

 ハリーの瞳が真紅に輝いた次の瞬間、ばりという鈍い音と共にハリーの右腕が縄を引き千切った。動揺しながらも杖を向けてくる死喰い人たちの前で、獣のような唸り声をあげるハリーは、ついに両手両足の拘束を力づくで解き放つ。

 ルシウスが無言で放った『全身金縛り呪文』を身を低くして避け、地面を舐めるように疾駆するとヴォルデモートの眼前にまで移動する。にやにやと笑む彼の顔面めがけて、ハリーは槍のように引き絞った手刀を突き出した。

 その一撃には、確実に魔力が宿っていた。

 杖を使わぬ魔法行使。そんな人外技がまかり通るはずもない。だが現にハリーは、それをやってのけていた。主人に当たることを恐れ、死の呪文を放てない死喰い人たちが悲鳴をあげる中。

 

「ぐ、うっ……!」

「残念。惜しいぞハリエット」

 

 彼女の一撃は、ヴォルデモートの数センチ手前で防がれていた。

 何のことはない。

 ヴォルデモートもまた、杖を使わないまま『盾の呪文』を行使していただけだ。

 楽しそうに口笛を吹いたヴォルデモートは、まるでオーケストラの指揮をとるように大げさに左手を振り回すと、その指先から飛び出した魔力反応光がハリーに向かって飛んでくる。

 自身でも分からぬうちに強化していた身体能力を用いて、ハリーは後方にむかって回転跳びする。地面に手を突きながら素早く回転してヴォルデモートから離れるも、彼の放った魔力反応光が着弾した地面から、豪奢な椅子がせりあがってきた。

 一瞬何をするつもりなのか計りかねたハリーが見せた疑問が、最大の隙。

 魔力反応光なしでハリーの両手足に闇が湧き出たかと思えば、ベースボールを投げるかのような勢いでハリーの身体は椅子の上に投げ出された。

 自分の意思に反してしっかりと座らされたハリーは、がァと吼える。

 それを微笑んで見つめるヴォルデモートは、言った。

 

「見事だ、ハリエット。杖を使わずに魔力を操ることができるようになったか」

 

 死喰い人たちが動揺する。

 ここにいる全ての魔法使いはかつて学生だったのだから、遥か古代の魔法使いたちが杖なしでの魔法行使を行っていたということは、魔法史の授業にて習っているだろう。

 だがその古代とは、それこそ神代のレベルだ。

 神と英雄が主役を張っていた時代、そして魔法という技術がまだ公になっておりマグルと魔法族の歴史が始まる以前の話。

 ヴォルデモート卿やアルバス・ダンブルドアといった、過去未来を見ても飛び抜けて才能を持っているとされるような、それこそ突然変異種といっても過言ではないほどの腕をもつ魔法使いならば、その手法を確立させていたとしてもおかしくはない。

 しかしハリエット・ポッターは、たかだか十四年の年月を経ただけの人間の魔女だ。

 そんな高等技術を扱えるはずもないのである。

 

「諸君。この小娘の異常極まる魔法における才能についても、タネはある。そして俺様が、それをご教授差し上げよう。ついでに聞くといいハリエット。おまえのお話でもある」

 

 銀の靄が広がり、宙空に映像を映し出す。

 どこかの廃墟の中、黒いフードを被った何者かがその場に一人立っていた。

 

「もちろん、霞のような何かに成り下がった俺様に、何かができたわけではない。ポッター家を打ち滅ぼす際、念のため連れて行った死喰い人に手伝わせたのだ。あれほど忠実な部下を選んでおいてよかったと思ったことはないな。だが俺様は考えた。まさか肉体が破壊されてしまうとはよもや思いもせなんだが、しかしこれは考えようによっては最大のチャンスでもあるのだと」

 

 ふとヴォルデモートは、足元をわざとらしく見降ろす。

 そこには蹲ったまま痛みに耐えるピーター・ペティグリューがいた。

 

「おっと、忘れていた。ワームテールや、死んでいたら返事はしなくてもいいぞ」

「……生きて、おります。……ご、主人様……」

「なんだ、つまらん。まあよい、ヴォルデモート卿を助けたお前には、褒美を取らす」

 

 くるくると杖で空気を掻きまわし、銀色の義手を作りだしたヴォルデモートは、それを痛みに蹲るピーターの失われた右腕へと嵌める。

 途端、痛みを感じなくなったかのようにピーターはぴたりと動きを止めて、その場から立ち上がった。自身へ感謝の礼を述べ、死喰い人たちの輪の中へと入りゆくピーターを眺めながらヴォルデモートは言った。

 

「これこの通り。俺様は部下たちに助けられて、この復活劇へとこぎつけたのだ。ヴォルデモート卿は、味方には優しいのだ。さて、まず必要だったのは儀式の準備だ。復活の儀式……名前すらわからぬ古代の魔導儀式だが、それには復活者の《父親の骨》、《しもべの肉》。そして《敵の血》が必要だったのだ。だがそれだけでは、単純に元の肉体で復活するだけにとどまってしまう」

 

 くるりと杖を動かし、映像の中身を書き換える。

 トム・リドル・シニア(ち ち お や)の骨。ピーター・ペティグリュー(し も べ)の肉。ハリエット(てき)の血液。ぐるぐると渦巻くそれらの中に、新たな影が浮かび上がった。

 

「俺様は妥協しなかった」

 

 そして、黒いインクの入った小瓶。

 映像に四つ目の品が映し出されると、ルシウスに動揺が走った。

 それを見てヴォルデモートはニコニコと笑う。

 

「ルシウスや。マグルいじめに俺様の学用品を使っていることくらい、俺様はお見通しだったのだよ」

「我が君、それは……」

「いや、いや、いや。責めておるわけではない。お前の発想力と狡賢さには感嘆すら覚える。俺様もお前の悪戯を楽しんで見ていたのだから、気にすることはない。さてさて、皆の者にも説明してやろう。ルシウスがお遊びでバラ撒いた俺様の学用品のいくつかには、呪いが込められていたりする。そのうちの一つには、俺様の学生時代の記憶が封じられていた品があった」

 

 ヴォルデモートが、ちらりと椅子に座るハリーに視線を向ける。

 知っている。当然知っている。

 ハリーが二年生のとき、死に追いやられる寸前にまで戦ったあの出来事。

 トム・マールヴォロ・リドル。かつてヴォルデモートが名乗っていた彼の本名であり、そして彼が日記帳の中に閉じ込めた当時の記憶。邪悪な彼の、青年時代の記憶体を封じた日記だ。

 闇の帝王は、ルシウスがそうすると見越したうえでその学用品を預けていたのだろう。

 なんとも狡猾で、そして恐ろしく人の行動を読んでいる不気味さがある。

 

「記憶体の俺様は、どうも新たに肉体を得ようとしたようだな。それが成功していれば、この世には技の俺様と力の俺様で、ダブル闇の帝王が誕生したわけだ。んー、いかにも浪漫溢れる計画だな。もしそうなっていれば、ダンブルドアとて下せたかもしれん」

 

 学校内の生徒たちの生気やジニー・ウィーズリーの生命力、復活を遂げたクィリナス・クィレルの命を奪い取って、この世に受肉したホグワーツ五年生のヴォルデモート。現実に干渉できる肉体を得て、ハリーを殺そうとした青年だ。

 だが奴は結局、ハリーが日記にヘンリエッタ(バジリスク)の牙を打ち込んだことによって滅びたはずだ。

 

「ハリエットよ。自分は確かに俺様の記憶体を破壊したはずだと、そう考えている顔だな?」

「―――、」

「そう。記憶体の俺様の野望は、この娘によって打ち破れた。秘密の部屋に眠るバジリスクと老ヌンドゥを打倒し、そして俺様にも打ち勝ったのだ」

 

 バジリスクとヌンドゥを倒したという話を聞いて、死喰い人のうち数人から畏怖の視線が飛んでくる。たしかにあの二匹との戦いは、いつ死んでもおかしいものではなかった。

 トム・リドルはそこで敗北。受肉した肉体ごと爆散して死んだはずである。

 にい、と口角を吊り上げたヴォルデモートは、死喰い人の輪の中へ視線を向ける。

 

「そこで登場するのが我らが愛する小動物、ワームテール殿だ」

 

 ハリーがはっとした目でピーターを見る。

 薄い色ながらも昏い光を放つ瞳を、フードの奥から覗き見ることができる。

 この男は、ロンのペットとしてホグワーツに居た。シリウス曰く「ご主人様のために動くほどの度胸がなかった」そうだが……、彼の憎悪に気付かなかったシリウスの言うことだ。申し訳ないが、いま思えば彼の人物評も定かではなかった。

 ロンのもとにいるときから、ヴォルデモートのために動いていたということなのだろうか。

 

「もちろん俺様が直接指示を出せるわけがない。俺様のもっとも忠実な部下……左腕と言ってもいいだろうな。その一人に、指示を出させたのだ。伝言ゲームはうまくいったようでな、ワームテールから受け取った小瓶を受け取った俺様の左腕が現れたとき、俺様は思わず狂喜乱舞したよ」

 

 なにせ材料がすべてそろったも同然だったのだから、と。

 朗らかな笑みを浮かべるヴォルデモートの顔は、邪悪そのものとしか言いようがなかった。

 ハリーが呻くのを眺めながら、ヴォルデモートは彼女の座る椅子の肘かけに腰掛ける。

 

「さて。まず最初に俺様が求めたものは手に入った。次に必要なのは敵の血。これに関しては心配なかった。俺様が凋落したあの日、その日には既に手を打っておいたからだ。一〇年以上かけた計画も、失敗する恐れはなかった」

 

 ヴォルデモートは、愛おしげにハリエットの頬を撫でる。

 背筋が凍るような気持ち悪さに吐きそうだったが、それは叶わない。

 ハリーには、硬直したかのように帝王の話を耳に入れるしかなかった。

 

「ああ、愛おしきハリエット。おまえは本当に役に立ってくれたよ」

 

 頬肉を引き裂かんばかりの酷薄な笑み。

 ハリーは耳をふさぎたかった。何も聞きたくなかった。

 ヴォルデモートの醜悪な笑みを見て、死喰い人たちからもどよめきが聞こえる。

 それすら心地よいBGMとして、帝王は語り続けた。

 

「まず俺様の復活にあたって、より強力な存在となって蘇る必要性があった。魔法防護に引っ掛かり己の呪文に撃ち貫かれるなど、二度とあってはならないのだ。ゆえに俺様が欲したのは、あの老人。アルバス・ダンブルドアの血だ」

 

 靄の中に、ハリーもよく知る一人の老魔法使いの姿が映る。

 ヴォルデモート自身の記憶だからだろうか、とてつもなく恐ろしい顔をしている。

 ハリーに対していつもなにか遠慮しているかのような、どこか違和感を感じる優しい老人。その校長先生が怒りに歪んだ姿を、ハリーは初めて見た。

 魔力の奔流をぶつけ合うその映像は、恐らくヴォルデモートとダンブルドアが戦っているシーンだ。魔法として出さず、魔力のまま扱うのにどれほど精密な動作が必要なのか。いまのハリーならば、あの二人が怪物級の魔法使いであることが理解できる。

 

「さてどうするか。俺様は考えた。あの老人の目の前にノコノコと現れて、献血をお願いするか? ナンセンスだ。消滅させられるのがオチだ。そこで俺様が思い付いたのは、あの老人の性格を利用することだった。こればかりは、我ながら絶賛できるナイスアイディアだった」

 

 ヴォルデモートが杖をハリーの首筋に突き立てる。

 ウッと息が詰まり、何かを引き抜かれる感覚がハリーを襲った。

 横目で見遣れば、ヴォルデモートがハリーの血管から少量の血液を抜いていたようだ。

 いつでも殺す事ができるのに甚振っている。最低な人種だ。

 ハリーの嫌悪感を感じ取っているのか、ヴォルデモートはせせら笑う。

 

「簡単な事だ。ダンブルドアに近づける人物を用意すればいい」

 

 彼が杖を振ると、杖先でくるくると渦巻いていたハリーの血液がヴォルデモートの記憶の靄へと吸いこまれてゆく。ほんのり淡い赤に染まった銀色の靄は、次第にダンブルドアではない別の人間を映しだした。

 あれは。あれはパパとママだ。

 

「ご覧の通り、こちらのお三方がいまは亡きポッターご家族だ。この度ご不幸がありまして、見事一家全滅と相成りました」

 

 皮肉げなヴォルデモートの物言いに対して、ハリーは憎悪をこめて舌打ちする。

 奴を視線で殺せたのなら、この話も終わるというのに。

 映像の中にデフォルメされたヴォルデモートが現れて杖を振ると、ギャーとコミカルな悲鳴をあげて両親が死体となった。ぎりと歯ぎしりするハリーをよそに、コミックヴォルデモートは次に赤ん坊に向けて緑色の光を放つ。

 しかしその緑の光は赤ん坊に当たると反射され、ヴォルデモートに直撃する。そして画面に映るのは、もう泣き叫ぶことのない赤ん坊を含めてすべて死体となってしまった。

 

「こうして俺様も滅んだ」

 

 肩をすくめてのたまうヴォルデモートを、ハリーはただ睨みつける。

 ざまあみろとハリーは内心で嘲笑し、小さな笑い声が口から洩れた。

 ふと気がつけば、自分の口内に押し込められていたハンカチが消えているではないか。

 にやにや笑うヴォルデモートを見れば、彼がやったのだと分かった。

 

「ほうら、ハリエットや。なにか言いたいことがありそうだな」

「……もう一度死ねクソ野郎」

 

 幾人かの死喰い人が怒りの声をあげるが、ヴォルデモートがそれを制止する。

 にたりと笑むと、拘束されたままのハリーの顎を指であげて問いかけてきた。

 

「おやおやお口の悪い事だ。レディは淑やかにと、だいすきなパパとママから教えてもらわなかったのかい」

「ッ、おまえが殺したんだろうが……ッ! おまえが、ぼくの、パパと……ママを……ッ」

 

 途端、弾けるように笑ったヴォルデモートはハリーの頭をばしばしと叩き始める。

 噛みついてやりたかったが、生憎と頭すら動かすこともできない。

 殺してやるという憤怒と憎悪をこめて彼を睨みつけるも、返ってきた視線には愉悦と嘲笑、そしてわずかばかりの傲慢な憐憫が混じっていた。

 

「ああー、ハリエット。愚かで哀れなハリエットや。お前は何も知らない」

 

 冷たく嗤うヴォルデモートは、ハリーの真正面でしゃがみこむ。

 椅子に縛りつけられたハリーに視線を合わせ、満面の笑みで語りかける。

 ハリーの心に亀裂を入れる、その言葉を。

 躊躇なく投げつけた。

 

「――お前のその心も、肉体も、未来までも! この俺が造ったモノだというのに」

 

 何を言われたのか、一瞬理解が追いつかなかった。

 ようやくその言葉を呑み込んだハリーは、しわがれた声を絞りだす。

 

「な……、に、を……」

「理解が及ばないか? ならば、話を続けるとしよう」

 

 ヴォルデモートが杖を振ると、やがて画面端からやってきたのは黒いフードを被った死喰い人。霊魂のような煙となったヴォルデモートを探して、ポッター家の死体を無視しておろおろしている。

 

「続きだ。先ほど俺様が言ったように、さらなる完全な復活を遂げるためにはダンブルドアの血が必要となる。それを手に入れることのできる人材を用意する考えに至るのは、自然なことだった。だがそれには杖が必要だ。だが俺様は霊魂以下のゴミ状態。だからまず、この場に現れた左腕に、俺様の意思を伝えねばならん」

 

 そこでどうしたか、と続けるヴォルデモートは、映像を指し示す。

 そこには、煙のようなヴォルデモートが赤ん坊の口から這入り込む様子が映っていた。

 

「そこで俺様は、ハリー・ポッターの肉体に取り憑いた」

 

 ゾッとする冷たい感覚がハリーを襲う。

 取り憑いた? ヴォルデモートが?

 想像するのは、一年生時のこと。クィリナス・クィレルの後頭部にくっついていたヘビの皮のような、不気味極まりないヴォルデモートの姿だ。

 だがハリーの身体に、そのような痕はない。

 どういうことなのか。

 

「肉体を得た俺様は、赤ん坊の身体というごくわずかな魔力を絞り切って念話を用いて、左腕殿にこう伝えたわけだ」

 

 瞬間、ハリーの思考が止まった。

 嫌な予感がする。

 まさか。

 

「『復活の儀式、その準備をしろ』とな」

 

 凍る感覚がする。

 心が荒縄で締めつけられている。

 息が乱れ、心臓が大暴れを始め、胸が熱を持つ。

 

「まず俺様の肉塊をベースに使うことにした。生きて俺様の元へ参上するには、ある程度の強度と魔法の才が必要だったからだ。反射した死の呪文により死に至ったとはいえ、俺様の肉体は魔人のそれだ。魔法で構成されておるならば、魔力の塊も同然である」

 

 冗談だろ。  

 その言い草では、まるで……。

 

「そして俺様は、――()()()()()()()()()()()()()()

 

 ……、―――。

 

「《父親の骨》にはそのままジェームズ・ポッターの死体を切り裂いて骨を抜き出した。贅沢に新鮮な脊髄を一本丸ごとな」

 

 ハリーが何も反応を示さない中、死喰い人たちの幾人からか悲鳴があがる。

 己の主人の所業に、恐れ、恐怖し、怖がっていた。

 

「《しもべの肉》は少し捻ってな。生後一ヶ月の赤ん坊にそんなモノがいるわけがない。だが甲斐甲斐しく世話をする母親というのは、条件にぴったりだった。妻は夫のことを主人と呼ぶところにもかけて、条件は満たされた。すぐそばで転がっていたリリー・ポッターの死体をミンチにして、儀式に使用させてもらった」

 

 つまり。

 ようするに。

 

「《敵の血》はすなわち俺様の血だ。幸いにして、そこらへんに飛び散っていたからな。霊魂以下の何かになり果てた俺様には不要のモノだったからして、ちょうどよかった」

 

 ヴォルデモートは、ゼロから()()()()()()()()()()()()()()()()()()と言うのだ。

 有り得ない、という言葉は封殺される。

 現にいま目の前で朗々と語るヴォルデモート自身の肉体も、今この場で造られたモノだ。

 恐らく自分で行うときの実験としての意味合いもあったのだろう。

 それならば、何ら不自然なことではない。

 だが、それを躊躇なくやろうという、その異常極まる精神構造が『まともじゃない』。

 

「出来あがったヒトモドキの赤ん坊には、無論のこと魂がなかった。ベースに使うべき本人の魂がないのだからな。だから俺様は、乗っ取ったハリー・ポッターの肉体の奥底消えかけていた、《ハリー・ポッター本人の魂》を使うことにしたよ。ハリー・ポッターとして造りだした肉人形なのだから、調整するまでもなく相性はぴったりだったな」

 

 上擦った囁き声が聞こえる。

 死喰い人たちが、心の底から主を恐れている悲鳴だ。

 生命という不思議を、誕生という幸福を、魔導の力で自在に捩じ繰り回す。

 粘土細工で人形を造るのとはワケが違うのだ。

 人が人をつくる。

 それは父と母が交わり、愛と幸せのなかで生命の神秘を感じながら行われるもの。

 祝福が必要なめでたい出来事であり、その子の誕生によって小さいながらも巨大な幸福をもたらしてくれる、そういう、すばらしいことのはずだ。

 それを。

 それをこの男は冒涜した。

 もはや冒涜という言葉だけでは飽き足らないほどの侮辱。

 だれもが本能的に恐怖していた。

 闇の帝王、ヴォルデモート卿。彼こそが紛うことなき邪悪の化身である。

 

「そうして出来あがったのが、おまえだ。ハリエット。ポッターでありながらポッターではない、俺様の自信作。魂をもったお人形のハリエットだ」

 

 墓場にある全ての目玉が、一人の少女を撃ち貫く。

 今までにない濁りようを見せるエメラルドグリーンの瞳を見開いて、口を閉じるのも忘れたまま、恐怖と絶望、そして信じまいとする意思に震えている。

 

「な、ん……」

「名前も俺様がつけてやったのだぞ。まあ、ホグワーツの秘密の部屋でとぐろを巻く毒蛇から流用しただけだがな。蛇のように無神経なハリエット。人であることを知らず演じる道化者には、ぴったりだと思ってな」

 

 嬉しそうに言うヴォルデモートの表情に、怒りすら湧いてこない。

 ただただ感じるのは困惑と、拒否。

 震える声で、ハリーは言葉を絞り出した。

 

「…………、……うそだ」

「いやいや本当だともハリエット。惜しむらくはお前に盗聴呪文といったダンブルドアの動向を探る呪いをかける余裕が、あの時なかったことだな。言うなれば、おまえは俺様の娘のようなものだ。この俺様手ずから造った、紛い物のお人形だ」

 

 かろうじて反論した一言も、さらりと流される。

 だれか嘘だと言ってくれ。

 死喰い人たちへ視線を向けると、畏怖と怯えの顔を逸らされる。

 嘲笑する者も幾人かいるが、それよりも恐ろしさを感じている者の方が大半だ。

 誰も否定してくれない。だれも、だれも。

 

「……、いや。でも、そんな……ッ! そ、そうだ! おまえが闇の魔法で造った人間なんて、ダンブルドアが生かしておくわけがない! そうだろう!? ならば何故、ぼくは生きている! ほら、嘘じゃないか! 嘘だっ、嘘だと言ってくれ!」

 

 これが真実だと言わんばかりにハリーは叫ぶ。

 しかしそれを見て心底愉快げな顔で、ヴォルデモートは言った。

 

「おおーぅ、ハリエットや。よくできました、グリフィンドールに一〇点あげよう」

「ばッ、バカにするな!」

「いや、いや。正解だよ、ハリエット。これは苦労したのだ、聞いてくれて嬉しいぞ」

 

 わしゃわしゃとハリーの頭を撫でるその姿に、彼女を褒める感情など見当たらない。

 からかって、いじめて、愉しんでいる。

 ただそれだけのために子を褒める教師のような真似事をしているのだ。

 振り払おうと首を振りたくとも動かせないイライラに、ハリーの顔がゆがむ。

 

「あのそれも当然だな。あの男ならば、お前を一目見て造られた人形だと看破できるはずだ。その制作者が俺様だということも、罠を仕込んであるということもな。……だが狸爺は、おまえを生かすか殺すか……随分迷ったようだ。そして、あの男は誰であろうとやり直すチャンスを与えたがるという、悪いクセがある」

 

 ハリーもそれは知っている。

 自身も同じく、それを悪いクセと評したこともあるがゆえに不快感を感じる。

 どこまでも、この男は自身と似た価値観を持っている。

 

「すると、なんと、やはりあの男はおまえを生かした。一人の少女として、もう一人のハリー・ポッターとして成長してくれることを願ったのだ! 紛い物(ハリエット)であることを周囲に隠させてまで、な! ああ、なんと美しい! 俺様は、奴がそうすることを見抜いていた。愚かにも、あの老人はその通りに動いてくれた」

 

 まさかとは思う。

 だがダンブルドアならば、やりかねない。

 思えば初めて魔法と触れたときも、周囲のちょっとズレた反応も、それを前提とするならば分からないでもない。

 会う人会う人が自分のことを男の子だと信じて疑っていなかったことも、ハリー・ポッターが男の子として生まれ、そして一歳を境に女の子のハリエットとすり替わっていたのだから。

 ポッター家は、そこそこ有名な家だ。

 闇の陣営と戦うその一角でもあり、そして学生時代にも広い交流を持っていたためから、そのことも分かる。そんな家に生まれた一人息子のことくらい、ある程度知られていてもおかしくはないのだ。

 だからこそ、ポッター家と親しい者たちには、ダンブルドアが事実を隠すよう命じた。

 だからこそ、ポッター家とそこまで親密でない者たちは男の子だと聞いていたが、なんだボーイッシュな女の子だったのか、という反応で終わってしまう。

 そうなるとハリーがボーイッシュな性格をしているのもまた、作為的なモノを感じる。

 下手をすればダンブルドアが、ダーズリー家の面々に細工をしたという可能性すらある。そう考えると、魔法と関わりだした途端にペチュニアおばさんの態度が軟化したのも、ちょっとだけ理解できる。

 納得はできるが、納得はできない。

 混乱と焦燥が過ぎるあまり、一転して冷静に物事を考えてしまう。

 ハリエットは、なぜそんなことをしたのか、何故ハリエットをハリーとして育てようとしたのかと、ダンブルドアへ軽い怒りを覚える。しかしそれを見抜いたかのように、ヴォルデモートは言葉をつづけた。

 

「どうだ、ハリー・ポッター(ハリエット)。この話を聞いて、俺よりも先にあの老人への怒りが湧いただろう」

「……、」

「図星だろうな。なにせお前と俺様は、同一存在に近い。なにせそういう造り方をしたからな」

 

 恐らく、自分自身を造りだした儀式の事を言っているのだろう。

 ヴォルデモートを造りだしたときと違うのは、単に強化しているかどうか。

 帝王は以前の自分よりも強大になって復活するために、かつての自分自身(トム・リドルのインク)を求めた。ハリエットに施したのは、余計な手間を加えない純粋に復活させるだけの儀式。

 もっとも、復活とはいえないかもしれない。なにせ、ハリエットという人間は元々存在しなかったからだ。ゼロから造りだした人形。ヴォルデモートの造り上げた、オリジナルキャラクター。

 それが、ハリエットだ。

 

「ハリエット。ハリエット・ポッターではない、ただのハリエット。両親の肉体を儀式に使ったため、同じ血は流れているが、血は繋がっていない。……そうなると、おまえは父親(ジェームズ)でもあり、母親(リリー)でもあり、仇敵(ヴォルデモート)でもあるということになるな。三重もの別々の人物が織り交ぜられた肉人形、それがハリエットという人間だ」

 

 言われれば言われるほどに、理解が及んでしまう。

 シリウスが最初、自分を殺そうとした理由もわかってしまった。彼はジェームズ・ポッター、リリー・ポッターの両名と親しかった大の親友同士だ。ならばヴォルデモートが両名の死体を弄んで造りだした偽物など、あってはならないと考えるのが普通だろう。結局はハリエットもハリエットとして生きているのだと思ったのかは、本人のみぞ知ることだ。ハリエットの予想では、所詮予想にすぎない。

 死喰い人のうち幾人かがハリエットの事を「人形」や「お姫様」と呼んだのも、コレを知ってのことだったのだろう。知らない者がほとんどだっただろうが、それでもヴォルデモートが真に重用した者ならば知っていてもおかしくはない。

 ダンブルドアをはじめとして、四年前にハリエットを迎えに来たハグリッドにマクゴナガルをはじめとした教師陣は全員知っていると見ていい。

 ロンやハーマイオニーといった子供たちは流石に知らないだろうが、知ればどういう反応をするかもわからない。いくら信じあった友達とはいえ、ヴォルデモートが造りだした彼の物だと知られればどのような扱いを受けるのか、考える打に恐ろしい。

 

「信じない……信じないぞ……ッ」

「嘘をつくなハリエット」

 

 もうこの話を信じ、そして納得してしまったのだろう? と。

 そう語るヴォルデモートの言葉に、一瞬だけ言葉が詰まってしまう。

 違うと反論しようとするその瞬間を狙ってか、ヴォルデモートはからかうように言葉を放つ。

 

「父親はな、娘の嘘くらい分かってしまうのだよ」

「……黙れェェェええええええ――――――ッ!」

 

 激昂。

 ハリエットの琴線をこれでもかと触れてゆくヴォルデモートの言葉に、彼女は激怒する。

 よりにもよって父親面をするとは、なにごとか。

 人の両親を奪っておいて……、いや、待て。両親などいなかったではないか。

 何もない。人間の死体から造りだされたハリエットには何もない。

 では、ハリエットがいまキレている理由はなんだ。

 ぼくはいったい、どういう反応をしたらいいんだ。

 どういった思考を経て絶望に至っているのかを手に取るように感じているのか、恍惚とした表情を浮かべるヴォルデモートの顔を見たハリエットは、頭の中が熱く煮えたぎる。一瞬で瞳を紅に染めたハリエットは、腹の底から叫んだ。

 

「おまえじゃッ、おまえなんかじゃなァァァああああああい! おまえは父親じゃない! ぼくの、ぼくのパパはッ、ジェームズ・ポッターただ一人だァァァあああ――――――ッッ!」

「くははははあははははは! 哀れ、哀れだよハリエット! ここまで踊ってくれるなんて俺様はまったく思ってなかった! ああ見事だ、闇の帝王の予想を上回る愉快さとは! こんな喜劇ってあるだろうか!? いいや、ない! ないなぁ、あはァはははははははははは! あーっはははァははははははッ!」

 

 絶叫するハリエットと、哄笑するヴォルデモート。

 魔法拘束を力尽くで破ろうとするハリエットに、ヴォルデモートは杖を振ってハリーの座る椅子を溶かしてしまう。

 放り出されたハリエットはしかし、尻もちを突くことなく獣じみた動きで地に伏せた。

 だらりと下げた手の中に、取り落とした杖が独りでに飛び込んでくる。死喰い人たちが動揺しつつも杖を向けてくるも、ヴォルデモートはそれを手で制した。

 心底愉快そうな笑顔を浮かべて、黒髪を振り乱してヴォルデモートは言う。

 

「ここで死なせてやるのが親の情というものではないか!? かはははは、父親としての愛を受け取るがいい。そーら、初めてのプレゼントだ、ハリエット!」

「殺す、殺す、殺す。殺すッ! 殺してやる、殺してやるぞヴォルデモートォア!」

「おやおやいけませんねぇ、女の子が口汚い言葉を使っちゃだめでちゅよぅ」

「うるッせェぞクソ蛇がァ! 死ね、死ねェェェえええええええええええええッ!」

 

 ハリーが杖を持ちあげるのと、ヴォルデモートが杖を振るうのは完全に同時。

 奇しくも使う呪文は同じ物。

 両者ともケダモノのように口角を吊り上げて、闇の帝王と紛い物の少女、ふたり共に興奮のあまり凄惨な笑顔になっての殺し合いを、この場で開始した。

 

「「『クルーシオ』、苦しめ!」」

 

 血色の魔力反応光。

 両者の放った極太のそれはしかし、空中で斬り結ぶと混じり合い、魔力の双極反発によってバラバラになって周囲に散った。

 不運な死喰い人がうちのその破片に当たり、絶叫と共に崩れ落ちる。ヴォルデモートが呪文に乗せた愉悦と嗜虐心も、ハリエットが呪文に乗せた憤怒と絶望も。その汚泥のような感情の渦すべてを一身に受けた名もなき死喰い人は、誰にも注目されないまま衝撃のあまり、その心臓を永遠に止めた。

 二人ともその程度の断末魔を気にするような魔法使いではない。

 『死の呪文』、『武装解除』、『失神呪文』、『切断呪文』。

 互いの放つ致死の魔法を避け、弾き、いなす壮絶な戦闘が、突発的に始まった。その流れ弾のような光によって、被害を受けるのは周囲の死喰い人たちだ。『盾の呪文』を張れるものは張り、実力のない死喰い人は被害を受けてその命を落とす。

 周囲の者たちは、この光景を見てようやく理解した。

 中心で戦っている主人と人形は、本質的なところで同じモノなのだと。

 語られた経緯を拒否して信じようとしないハリエットは、皮肉にも自身の行動を以ってして、その真実を是として体現しているのだった。

 

「『フリペンド・ランケア』、突き殺せェ!」

「面白い呪文だな、ハリエット。こうかね? 『フリペンド・ランケア』!」

 

 ハリエット渾身の呪文を放つも、彼も彼女と同じ《魔法式を解析する目》を持っているのか即座に視て真似をし、そのまま同威力またはそれ以上の出来を誇る呪文をぶつけてくる。

 六対もの紅槍が空中でぶつかり合い、そして破砕。

 その鋭い破片を撒き散らして、不運な観客たちにも地獄を強いる。

 

 

「そうらハリエット、そんなのでは死んでしまうぞ! 『ステューピファイ』、麻痺せよ!」

「黙れ黙れ黙れェ! 『アクシオ』、死喰い人!」

 

 ヴォルデモートが放った失神呪文を、呼び寄せた死喰い人を盾にして防ぐ。

 既に身体強化をした脚で気を失った死喰い人をヴォルデモートの方へ蹴り飛ばし、即座に魔力を練り上げる。ぞん、という鈍い音と共に、不運な死喰い人の上下が寸断された。咄嗟に飛び退いたハリエットの足元を、鋭い風が削ってゆく。すぐ後ろに居た死喰い人の腕が飛んだ。その噴き出す悲鳴と血を避けるように、ハリエットは地面を蹴ってヴォルデモートの元へと疾駆する。

 

「『レダクト』、粉々!」

 

 ハリエットが地面に向けて魔力反応光を放ち、土砂を巻き上げる。

 死喰い人たちがくぐもった悲鳴を上げるも、いまさらそれを気にするような神経は持ち合わせていない。彼女はつづけて杖を振るう。鋭角に印を刻む独特な振り方に、込める魔力は圧縮したそれ。

 短く気合いの込められた呼気と共に、彼女は呪文を放った。

 

「『フリペンド・インペトゥス』!」

 

 魔法式の構成でどのような魔法が飛んでくるかを察知したヴォルデモートは、その場で大きく一回転して『姿くらまし』した。

 次の瞬間、ハリエットが巻きあげた土砂のひとつひとつが弾丸のように射出される。ハリエットのかけた魔法は、自身の魔力を火薬代わりの推力として現実物質である土砂を射出するという単純なものだ。ただ、その砂粒一つ一つすら弾丸として機能しているため魔力操作には針の穴に糸を通すような精密さが必要となる。

 ヴォルデモートが既に射線上に居ないことに気付いたハリエットは、流れ弾に全身を撃ち貫かれて血霧と化し逝く死喰い人には目もくれずにその場を跳んだ。

 勘に従った結果は正解であり、ヴォルデモートの放った緑色の魔力反応光が地面を抉る。

 

「俺様の才能もしっかりと受け継いでいるようだな。感心感心」

「だまれ!」

 

 杖を振って風の刃を撃ちだせば、ヴォルデモートも同じ魔法で応戦して打ち消してくる。わざわざ同じ威力、同じ数の刃を放ってきたあたり完全に遊ばれている。

 紅槍を放つも、既にその場に彼はいない。

 空気を押し出す独特な音を聞いたハリエットは回避を試みるも、ヴォルデモートの長い脚が彼女の背を蹴り飛ばした。

 

「……ッ」

 

 詰まる息。吐き出された空気を求めて肺が悲鳴を上げるも、しかし状況判断を済ませる方が優先度は高い。ぎゅぱ、と異音を鳴らして目の前に現れたヴォルデモートは、つんのめるハリエットの胸を蹴りあげる。

 更にまた『姿くらまし』して、ハリエットの吹き飛んだ先へ『姿現し』してまた蹴撃。それを合計五度。少女の矮躯をリズムよく蹴り続けたヴォルデモートは、笑みをこぼしながら最後に大きく蹴り飛ばした。

 地面を転がって衝撃を逃がしながら、ハリエットはヴォルデモートから距離を取って勢いのまま起きあがり、そして転がされる最中に練り終えた魔力を展開した魔法式に注いで遠心力でも利用するかのごとく、杖先から流れるように呪文を放つ。

 

「『グレイシアス』、凍てつけェ!」

「『インセンディオ』。まだまだ組成が甘いな」

 

 反対呪文による打ち消し。

 即座に対応して、同じパワーで魔法が完全相殺(ファンブル)するように威力を調整するその戦闘センス。認めたくはないが、この男は完全に自分よりはるか上を行く魔法使いだ。

 だが、だからといって、殺せない道理はないはずである。

 魔法の知識、戦闘センス、状況判断速度、身体能力、性別による力の差、年齢差によるパワーの違い。戦闘者として勝利に要する条件のほとんどを、奴が上回っている。小柄な身体と、それに伴う体重の軽さと身のこなしによって相手の魔力反応光を避けられているだけで、その他一切においては不利でしかない。

 奴の言うことが真実ならば、ハリエットとヴォルデモートは重複存在。十三年前のヴォルデモートのステータスは、全てハリエットも引き継いでいると見ていい。ゆえに魔力量、魔法威力、魔法式構築速度、エーテル展開速度、反応光射出速、魔法的素養も十二分にあると考えていいだろう。

 それに恐らく、この目。

 魔法を視認する事によって内包する魔法式を看破する、既存の魔眼に属さない魔眼。これと同じものをヴォルデモートが、いや、ヴォルデモートが持っているモノをハリエットも持っているということだろう。

 こんな常識はずれもいいところの、常軌を逸した魔眼など生まれつき持っていたのではありえない。奴も生まれたその瞬間はただの人間である以上、生物的な側面からは逃れられないはずだ。つまり純正のヒトであることから、すなわち後天的に魔眼を体得したことになる。

 いったいどれほどの外法を行えばこの魔眼を手に入れられるのか、少し考えたくはない。胸糞悪いことであるという想像は恐らく間違ってはいるまい。その恩恵をあずかっている身としては逃げてはならない問題だが、まずいま取り組むべきは眼前の魔人だ。

 魔人。それは魔法を極めた魔法族が、人間という枠を脱ぎ捨ててエーテル体の塊となった怪物の名称である。ヴォルデモートが魔法を使うたび全身に魔法式が走っているのは、きっとそのためだ。奴は既に魔人の領域に至っている。しかし自分が魔法を使っても、腕を式が走ったりはしない。いくら奴でも、慢心が見え隠れする帝王でも、流石にハリエットを魔人として造りあげることはしなかったらしい。

 魔人とただの人、その違い。その差。

 

「『エクスペリアームス』」

「ッが、ぁ!」

 

 まるで胸の中央を蹴り飛ばされたかのような感覚と共に、ハリエットの身体が吹き飛ぶ。

 墓石の一つに背中から叩きつけられ、半壊した墓石を振り払いながらも立ち上がる。杖は目の前に転がっている。手を伸ばし、無言で『呼び寄せ呪文』を唱えると彼女に忠誠を誓った杖が主の手の中へと飛び込んできた。

 にやにやと眺めるヴォルデモートは余裕綽々に、肩で息をするハリエット。

 差は明らかである。

 死屍累々と血と肉を撒き散らした死喰い人たちは、円の中央に近い者たち――恐らく幹部クラスの死喰い人なのだろう――を除いて、二人を遠巻きに見守っている。

 地面に転がる死喰い人の腕を蹴って退かし、ヴォルデモートが微笑みかけてきた。

 

「おお、おお。女の子がそんなはしたない格好でいてはいけないよハリエット」

「黙れ」

「決闘の礼儀もなくおっぱじめてしまうとは。俺様はそんなあばずれに育てたつもりはなかったんだがなあ。育て方を間違えたかなあ? 造ってすぐ放任主義は不味かったかもなあ」

「黙れ……!」

「まったく。魔法使いの作法も知らぬとは、親の顔が見てみたいもんだ」

「黙れぇっ!」

 

 ハリエットが杖を向けようとするものの、ヴォルデモートの方が素早かった。

 頭上から巨大な手で押しつけられたように、ハリエットの腰が曲がる。

 あたかもヴォルデモートに対して頭を下げているかのようだ。

 

「お辞儀するのだ、ハリエット! 決闘前にはお辞儀せねばならぬ」

「黙れ……! 黙れ黙れ黙れ……ッ!」

「女の子がそんな風に唸るもんじゃあないぞ。決闘前にはお辞儀をして、相手に敬意を払いつつ、そして殺すのだ。そーれ、やってみようかハリエット。どれ、お父様が直々に教育してあげよう」

「黙れェェェえええええ――――ッ!」

 

 相変わらずにやにやと笑みを向けるヴォルデモートの嫌味にも皮肉にもとれる嘲笑に、ハリエットは叫んだ。

 感覚として彼の言うことが事実であることは、もうなんとなく悟っている。

 恐らく自分は、ハリー・ポッターでありながらハリー・ポッターではない。

 同じ魂(ハリー)同じ材料(りょうしん)同じ異物(ヴォルデモート)を持っていたとしても、その過程が違い過ぎる。ポッター夫妻のもとで愛を受けて育ったであろう男の子(ハリー)と、両親などなくそもそも尋常な人間ですらなかった女の子(ハリエット)では、もはや別人も同然。

 だが認めてなるものか。

 認めてなんか、やるものか。

 ハリエットは、ポッター夫妻の子でありたい。

 写真の中から優しく微笑みかけていた、あの二人の娘でいたい。

 いつまでも、死ぬそのときまで、ハリー・ポッターと名乗っていたかった。

 

「黙れ、黙れぇっ! おまえじゃなァァァい! おまえは父親じゃない! ぼくの、ぼくのパパは、ジェームズ・ポッターただ一人だァァァ――――――ッ!」

「くははははアハハははは! 哀れ、哀れだよハリエット! おまえも本当は分かっているだろうに! 分かっているのに、それでも自分を保つため反論せざるを得ないのだなァ!? アはァはははアハハアハアハ!」

 

 そう。

 たとえ、たとえ。 

 

「ポッター家が、あのお偉い誇り高きジェームズとリリーが! 俺様という闇の血を受け継いだ、薄汚い女を! 娘として迎えることなど、ないと! ありえないと! 分かっているのになァ!? おまえはハリエット! 毒蛇から貰った名前のハリエット! ただのハリエットだ!」

 

 たとえ、彼らに嫌悪感を抱かれるだろうという恐怖を持っていたとしても。

 ハリエットは、いやハリーは。

 真実会ったことも、触れたことさえない二人の、両親の娘でいたい。

 だから目の前の男が造物主(ちち)であっても。

 ハリーの父親(パパ)として認めることだけは。

 なにがあっても、許容できないのだ。

 

「ひー、ひーっ! あーおかしい! 面白すぎるぜハリエット! さてさて、こんな絶望を味あわせるなんて心苦しいなぁ。ここで死なせてやるのが、親の情というものではないかな!?」

「おまえなんて、父親じゃない! ただのショボくてセコい、醜悪な犯罪者だ!」

「おーやおや、パパに向かってなんて言い草だ! 悪い子、悪い子。ハリエットは悪い子! かはははは、父親としての愛を受け取るがいい。悪い子には、しつけをしなくてはな! そーら。初めてのプレゼントをくれてやるぞ、ハリエット!」

「やれるものならやってみろ、ヴォルデモート! 返り討ちにしてやる!」

 

 互いに向かって杖を向けたのは同時。

 魔力反応光の残滓がヴォルデモートの腕の軌道を表している。

 魔人である自身と同じ速度で杖を構えたことに、ヴォルデモートがわずかに目を見開いた。

 彼が驚いたその時間は、およそコンマ一秒にすら満たない。

 だが十分だった。

 実力差という強烈なハンデを抱えるハリーが、目の前に居ながらにして遥か高みでふんぞり返る男と、同じスタートラインに並ぶまでに要する時間には、十分すぎた。

 艶やかな黒髪を揺らし、杖先に膨大な魔力を収束させ。

 片や喜悦に染めた紅い目で、片や憤怒を孕んだ紅い目で。

 

「「『アバダケダブラ』ッ!」」

 

 互いに互いへ向けて、死の呪文を放った。

 エメラルドグリーンの死とダークグリーンの死が、互いの主を仕留めんと迫る。

 緑色の奔流が中空でぶつかり合い、極太の綱を造り上げた。

 まるで水と水がぶつかり合うかのように、結合点から緑色の死片が周囲に飛び散ってゆく。運悪くそれを浴びた死喰い人が、糸の切れた人形のように倒れてしまう。流石の幹部死喰い人たちも、魔法を放ち合う二人から離れた。

 ヴォルデモートが愉しんでいることに手を出すことは、すなわち死を意味する。

 ゆえに死喰い人たちは、己の主人が引きつった顔をしているのを気付いても何もする事が出来なかった。

 

「これは……、これは……」

 

 嘲笑を浮かべていた顔から徐々に焦燥が表れ、やがて驚愕に染まっていった。

 ハリーとヴォルデモートの持つ杖と杖を結ぶ緑色の綱は、やがて神々しい光の絆へと変じてゆく。まるで噴水のように光を撒き散らし、周囲に死を振りまいてゆく。

 例えるならば、全く同じ威力、同じコース、同じ場所に向かって対面で向かい合ったホースから水を噴射している、そんな状態。その勢いよく飛び出した水の柱が空中でぶつかり合って、互いに行き場をなくして暴れている、そんな状態。

 その(ホース)を持っている者。ハリーとヴォルデモートは戦慄していた。

 恐怖に震える身体を無理矢理押さえつけ、ともすれば手の平から吹っ飛んでしまいそうな杖を握りしめることに全力を尽くす。

 恐ろしい。

 こんなにも恐ろしい気分になったのは、はじめてだ。

 クィレルと戦った時も、トム・リドルに殺されかけた時も、吸魂鬼(ディメンター)に襲われた時も、代表選手たちと殺し合った時も。

 ここまで恐ろしい気分にはならなかった。

 明確な理由を理解しているわけではない。なのに、ここまで恐怖に怯えてしまう。

 ヴォルデモートもきっと、同じ気持ちでいるはずだ。わけのわからない恐怖と、焦燥に心が震えているはずである。その理由も、きっとすぐわかると悟っている。

 

「これ、は……ァア……ッ!?」

 

 ごぱ、と。

 恐怖に声を漏らしたヴォルデモートの杖先から、血色の滝が溢れだした。

 滝はどばどばと際限を知らないかのように帝王の足元を汚し、おぞましさにハリーが吐き気を覚える。血の滝の中には、いくつか白いものが混じっていた。髑髏の面である。その数はおよそ八。おそらくこれは、ハリーとヴォルデモートの戦闘の巻き添えを喰らって死んでいった死喰い人が着用していたものだろう。

 

「……ッ!?」

 

 何が、起きている?

 血の滝がまるで燃料切れしたかのように途切れたかと思えば、次に飛び出した来たのは、光の河。

 さらにその中から生まれ出でるように花咲いたのは、まるでゴーストと見紛うような半透明の老人。肌や服の色や分かるあたり、ただのゴーストでもないのは確かだ。

 足の悪い者が使う歩行補助杖を持った老いた男が、その禿げ頭をつるりと撫でながら驚いた目で浮遊している。あれは、なんだ? あれはまさか、ゴーストではないだろう。でなければ彼が光の河から飛び出したときに、おぞましい内容の魔法式がバラけてゆく様を視れるはずがない。

 断片だけだったこともあって魔法式の内容をハリーは理解する事が出来なかったが、それにはあらゆる死が宿っていた。つまるところ、あれは恐らく『死の呪文』の魔法式。それから解放されることが何を意味するのか。

 つまり、あの老人は。

 ヴォルデモートが殺害した者だということか?

 

『……こいつは驚いた。やっこさん達は、本物の魔法使いだったのか』

 

 まさか、喋った。

 多少響くような音声になっているものの、肉声と変わりない声が放たれる。

 その言葉からするに、彼はきっとマグルなのだろう。不運にもヴォルデモートに出会い、そして殺されてしまった。同情はするが、彼が本当に殺された人間だというのならば。

 

『あいつはおれを殺した。やっつけちまえ、お嬢ちゃん、がんばれ!』

 

 そう言うと名も知らぬ老人は、ハリーの傍へとやってきてヴォルデモートをにらみつけた。

 緑の光線が、ぐいっとエメラルドの光が拮抗を崩した。

 それを目の当たりにして、ようやく、ヴォルデモートの余裕が消え去る。

 その気持ちは、予想がつく。

 己が殺した人物が現れるというのは、つまり己の罪を突きつけられているのだ。

 死人に口なしどころではない、糾弾さえしてくる。

 他者を害し己の欲望に忠実に生きた男に対して、これほど恐怖を伴う出来事はないだろう。

 

「まさか。これは……ッ、『直前呪文』! なぜ、どうして俺様の杖から? なぜ!」

 

 うろたえるヴォルデモートの杖から、また別の人物が飛び出してきた。

 今度は女性のようだ。半透明で分かりづらいものの派手な蛍光色のローブを揺らしながら、自動速記羽根ペンQQQを用いてメモ書きをしている。

 誰かもわからない女性に応援されながら、ハリーは杖をしっかり握りしめた。

 そうするとエメラルドとダークグリーンの光が、まるで風に吹かれる灰のような迅速さで神々しい金色へと変化していった。

 ヴォルデモートの目に、はっきりとした恐怖が浮かんだ。

 それと同じくして、ハリーの瞳も揺れる。

 死者がふたり、ハリーの傍に寄り添って力を貸してくれている。

 面識などあるはずもなく、名前だって知らない。だが闇の帝王という共通の巨悪に立ち向かうための勇気を、彼らは分けてくれている。ちっぽけな少女のために、微笑みかけてくれている。

 それのどんなにありがたいことか!

 正直に告白させてもらえば、ハリーの心はすでにほとんど折れかけていた。

 ヴォルデモートと戦うことへの高揚感と、奴をこの手で殺せるかもしれないというほの暗い歓喜。そして、この状況へのとてつもない恐怖で彼女の心は摩耗している。

 そしてその恐怖は。

 自分が何に怯えているのかもわからない恐怖は、ヴォルデモートの杖が証明してくれた。

 

「……ッ、」

「―――ッ」

 

 ヴォルデモートとハリーが、同時に声にならない悲鳴をあげた。

 帝王の杖先からこぼれ落ちた死者が、ふわりと宙に転がってゆく。

 赤ん坊、だった。

 好き勝手に飛び跳ねてクシャクシャの黒髪。

 ぷくぷくと柔らかい腕が、誰かを求めて宙を泳いでいる。

 アーモンド形の目。そこにはっきりと見える瞳は、澄んだエメラルドグリーン。

 ハリーは自分の吐息がうるさかった。まるで呼吸困難の病人のように喘いだ。

 あれは、あれはぼくだ。

 あれがぼく(ハリー)だ。本物のぼくだ。

 本来ここにいるべきハリー・ポッターで、ぼくの不自然さを証明する真実そのものだった。

 意図せずして涙があふれる。

 本当ならばあの子が、あの男の子が、生きていた。ぼくの人生を歩んでいた。

 ハリエット・ポッターなどという偽物が造られることもなく。

 ロン・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャーとともに泣き、怒り、笑い。

 真にジェームズとリリーの愛を受ける資格を持っていたはずの赤ん坊。

 幸せをその一身に受けるべきだった、ポッターの一人息子。

 生き残れなかった男の子。

 

『あぅ』

 

 ハリー・ポッターが。

 ほんもののハリーが。

 ハリエットに手を伸ばして、微笑んだ。

 鍋をひっくり返したかのようにあふれる涙が、彼女の顎を伝って落ちる。

 微笑みかける(ハリー)の伸ばした手が、泣き続ける彼女(ハリー)の黒髪に触れる。

 父親と同じ色の、母親と同じ柔らかさの、仇敵と同じ血に濡れた髪を、くいと引く。

 赤ん坊の柔らかい手で、弱々しい儚い力で、ハリーの髪の毛をくいくい引っ張っている。

 

『んぃ。だぁう』

 

 純粋で、無垢な、男の子の。

 エメラルドグリーンの瞳で微笑まれて。

 災禍で、偽物な、女の子の。

 クリムゾンレッドの瞳が、エメラルドに戻ってゆく。

 憎悪に歪んだ眉がやわらかくほどかれて、恐怖に開かれた唇が弧を描く。

 赤ん坊というのは、人類の宝である。

 正常な人間ならば赤ん坊の笑顔を見て、目の当たりにして、微笑まない道理はない。

 そしてハリーは。

 ハリエット・ポッターは。

 ハリー・ポッターを抱え上げて、その腕に抱く、細く白い手を見た。

 

「……、……あ……」

 

 紛い物が。

 家族を殺し尽くした外道が造りだした人形が。

 今まで、いまのいままでハリー・ポッターを名乗っていたこと。

 それを知られてしまうことが、いま彼女が感じている恐怖の最たる源泉だった。

 

『――会いたかった』

 

 しかし。

 再び色が揺らめく彼女の瞳を覗きこんできた、アーモンド形の、エメラルドグリーンの瞳。

 たっぷりとして、深みのある紅い髪の毛。そのさらさらとした美しい髪質は、自分と同じ。

 その優しい色の瞳を見た途端、そんな恐怖はどこかへと消えてしまった。

 にっこりと笑った、美しい女性は。

 リリー・ポッターは。

 

『はじめまして、わたしの娘(ハリエット)

 

 ハリーに、娘に向かって、そう笑いかけたのだ。

 これ以上ないくらい溢れていた涙の量が、さらに倍になってしまう。

 声を我慢して泣きはらすハリーの頭に、大きくて暖かい手が置かれる。

 その手の平はごつごつしていて、ちょっとだけ乱暴な、でも優しい力加減。

 

『ぼくに娘ができたのか、なんだか感慨深いなあ』

 

 ゆっくりと振り向いて、見上げる。

 クシャクシャの黒髪をした、メガネの男性。

 にかっと歯を見せて笑う、快活な男性は。

 ジェームズ・ポッターは。

 

『うれしいぜ、ぼくの娘(ハリエット)

 

 ハリーに、娘に対して、嬉しそうに笑った。

 ついに声を漏らして泣き始めるハリエットに笑いかけて、リリーが抱きしめてくる。

 母に抱かれる娘を、愛する妻ごとジェームズは抱きしめる。

 ひっく、えぐ、と涙を流し続けるハリエットの頬を、ハリーの小さな手が触れた。

 

「……ぼく、は、……」

『ねえハリー。あなたの妹、ハリエットよ。あなたお兄ちゃんになったのよ』

『こんなに可愛らしい妹を持ちやがって。羨ましいぞハリー、こんにゃろう』

 

 ぼくは。

 

「ぁ……ぼくは、ぁぅ。ぼくはぁ……」

『まったく。ほらハリエット。そんなに泣いたら可愛い顔が台無しよ』

『そうだぜハリエット。そんなくちゃくちゃにしたら、お嫁さんに……、行ってほしくないなあ。ともかく。泣き顔さえも愛おしいけど、ぼくらは君の笑顔が見たいんだぜ、ハリエット』

 

 リリーのやわらかくてあたたかな胸が、ハリエットを包んでくれている。

 ジェームズのたくましくて優しい腕が、ハリエットを抱きしめてくれる。

 ハリーのか弱くてまっしろな手の平が、ハリエットを癒してくれている。

 

「ぼくが、ぼくなんかが、……ひぅ、あ……。ほんと、う、に……」

 

 しゃくりあげる娘に向かって、ジェームズは笑いかける。

 丸いメガネをくいっとひょうきんにあげて、悪戯好きな少年のように笑う。

 

『おいおい、ハリエット。あいつのおかげってのは少し気に入らんが、それでも君はぼくたちの娘であることに違いはないのさ』

『そうよ、ハリエット。あなたは、わたしたちの娘なの。誇らしい娘。愛しい、女の子』

『残念だね、生きているうちにいっぱい触れ合いたかった。風呂も一緒に入りたかったかな』

『わたしはお買いものとか、お洒落もしたかったかなあ。うーん、もったいないわ』

 

 ぼくは、とハリーが泣く。

 ああ、と声を漏らして咽び泣く。

 しっかりと持った杖が手の平からこぼれ落ちそうになるけれど、ジェームズとリリーがしっかりと手を握ってくれている。ハリーが笑ってくれている。

 だから心配はいらない。

 ゆえに落とさない。落とすはずがないのだ。

 

「ああ、ああ……! ぅあ、ぁああ……っ!」

 

 心配するだけバカだった。

 アルバムの中で抱いていた赤ん坊ハリーに向けた優しい笑顔。

 シリウスやルーピンに向けた無遠慮でほがらかな笑顔。

 夫婦で揃って笑いかける、いとおしい笑顔。

 ぜんぶぜんぶ、本物だ。そこに嘘はない。本物なのだ。

 たとえ会ったことがなくとも、面識さえなくても、存在すら知らないはずでも。

 アルバム越しにハリエットへ笑いかけてくれた彼らの笑顔に、嘘なんてなかった。

 息子(ハリー)の人生を奪い取ったくせに、のうのうと生きる少女への憎悪などなかった。

 そこにハリエットの姿はないけれど、確かに愛がある。

 愛があるのだ。

 

「――パパ、ママぁ……!」

 

 心の底から会いたかった。

 受け入れてくれたことに、全霊を以ってして幸福を感じている。

 ぼくの。いや、ハリーとハリエットの。

 ぼくたちの、パパとママ。

 焦がれていた、憧れていた、だいすきな家族たち。

 

「パパ、ママ、ハリー。ぱぱ、ままぁ。はりー。みんなぁ……!」

『おう。きみのパパだぜ』

『あなたのお母さんよ』

『ぁう!』

 

 しあわせだ。

 こんなに幸せでいいのだろうか。

 だけど、いいのだろう。きっと、いいんだ。

 父親が撫でてくれて、母親に抱きしめられて、兄が笑いかけてくる。

 こんな、ありえない(どこにでもある)幸せが。

 なによりも力を、勇気を与えてくれる。

 

『さぁ、行きなさい。大急ぎで優勝杯(ポートキー)をつかみとるのよ。繋がりが切れると、わたしたちはあまり長くは居られないの』

『ま、あのハンサムボーイを忘れないくらいの時間は稼げるさ。ホグワーツへ、きみの家へ帰るんだ。いいね、かわいいハリエット』

「うん。わかったよ、ママ、パパ」

 

 なんて心強いのだろう。

 胸の奥が、あったかくて、きらきらと輝いている。

 いまならあの男も、薄汚い蛇だって怖くなんてない。

 ハリーは両手を強く握りしめて、つよくヴォルデモートへ視線を送った。

 殺意を込めた睨みでもない。敵意を込めた凝視でもない。

 ただ、見た。直視しただけの視線、しかしヴォルデモートはそれに大きく動揺した。

 

『わたしたちのかわいいハリエット。パパみたいな素敵な人に恋したとしても、安心なさい。あなたはわたしの娘だもの、きっと美人になるわ。あなたの笑顔は、最高よ』

『そうさ、君はぼくたちの自慢の娘だ。なら何だってできるはずさ、君はハリエット・ポッターだ。できないことなんてない。なんたって、ぼくたちの娘なんだからね!』

 

 袖で涙を拭いたハリーは、ハリエットは。

 両隣で彼女をはげましてくれるパパとママに、そして可愛らしい兄の頬にキスをした。

 愛情をいっぱいこめた、一度きりの、だけど最高のキス。

 リリーは朗らかに微笑んで、ジェームズはてれたように笑い、ハリーが破顔する。

 

『さようなら。元気でね、ハリエット!』

『がんばれ、ぼくたちの可愛い娘!』

『あう!』

 

 父と、母と、兄の、優しい声に押されて。

 ハリーは金の光を噴出させる糸を断ち切るため、杖を捩じるように振り上げた。

 

「――いってきます!」

 

 大好きな家族に向けて、元気よく叫んで。

 糸が切れたハリーとヴォルデモートの繋がりが切れると同時、ハリーは駆けだした。

 おそらくヴォルデモートに向かっていったジェームズやリリー、見知らぬ犠牲者たちの姿は見ない。振り向かない。彼らがもぎ取ってくれる貴重な時間を、一秒だって無駄になんてするものか。

 死喰い人たちが一斉に杖を振り上げ、ハリーに向かってさまざまな呪文を唱えてくる。

 その中でも失神呪文が一番多い。ハリーを捕らえ、帝王に差し出したいのだろう。

 だがその程度では甘すぎる。

 元気たっぷりで、幸せいっぱいな。いまのハリーに、ハリエット・ポッターに。

 その程度の悪意など、あまりにもちっぽけだった。

 

「『アニムス』、我に力を!」

 

 地を蹴り、跳ぶ。

 反回転で後ろを一瞬見て、どのコースをどのような魔法が飛んできているのかを確認。

 そのまま空中で身を捻って、魔力反応光を避ける。

 確認した限りでは失神呪文が二つに武装解除が一つ、あと二つがハリーも知らない魔法だった。だが魔力反応光が直線型で出るタイプである以上、当たらなければどうということはない。

 着地と同時に杖を振るい、地面を吹き飛ばす。

 壁となってくれる土砂を背に、ハリーは更にスピードをあげて駆けだした。

 

「……ッ」

 

 ぎゅぱ、と空気を押し出す異音と共に、ハリーの進行方向に四人の死喰い人が『姿現し』をした。この短距離で正確な場所に転移系呪文を行えるという時点で、かなりの実力者であることがわかる。

 現に目の前に現れた四人は、ハリーにも見覚えのある人物ばかりだった。輪の中心に居た者たちである。

 そのうちの一人、プラチナブロンドの長髪を優雅に揺らして杖を構える男、ルシウス・マルフォイから無言呪文による『武装解除』が飛んでくる。その数、およそ三〇はあるだろう。まるで壁のようだ。

 無言呪文とは、文字通り発音を必要としない魔法である。ゆえに呪文を唱える必要がない以上は理論上、即座に次の魔法を発動させる、いわゆる連射も可能になる。

 魔法を使えるものならば誰もがわかるだろうが、魔法を放つときは気合いを入れて大声で叫ぶような感覚がある。ゆえに、大声で叫び続ける事が人間として可能だとしても、それを続けるだけの声量と体力があるかどうか、という問題にぶち当たるわけだ。

 つまり、ルシウス・マルフォイはその限界を突破した魔法使いと言える。視た限り魔人化してはいないようだが、ハリーに魔人か人間かを見分ける知識がない以上はその判断も怪しいものではある。しかし現時点でハリーよりも実力が上であることは間違ってはいるまい。

 問題は彼我の実力差ではない。この場面を切り抜けて逃げ切ればハリーの勝ちなのだから、無理に彼に勝つ必要もないのだ。眼前に迫る武装解除の壁から逃げる場所はない。ならばどうすればよいのか。

 答えは至極単純だ。避ける場所がないのなら、避ける必要はないのだ。

 

「『アクシオ』、死喰い人!」

 

 ハリーが杖を振るうと、集団の中に居た死喰い人のうち、太った女性死喰い人がハリーの魔力によって磁石のように引き寄せられる。そして何のためらいもなく、ルシウスの放った武装解除の壁に叩きつけられた。

 余剰魔力によって彼女の仮面や骨が砕け散っただろう音を聞くも、ハリーは彼女を解放するつもりはない。便利な肉の盾なのだ、解放してやる道理もない。

 

「ウィリアムズゥ! この足手まといがァ!」

 

 四人のうち二人目。痩せぎすな死喰い人が、下半身を黒い霧と化しながらハリーに向かって飛んでくる。

 ハリーは肉の盾として扱っているミス・ウィリアムズに魔力を込めてコーティングする。彼女の両側の空気を固めて『道』を造り、彼女の巨体を挟んで杖を構えて杖先に暴風を発生させる。

 そして空からこちらに向かって急降下してくる痩せぎすな死喰い人に向けて、ハリーは彼女の肉体を強烈に射出した。

 要するに空気を銃身とし、ミス・ウィリアムズを弾丸、ハリーの暴風を火薬として大砲のように発射したのだ。全身の骨が悲鳴をあげかねない勢いのまま、彼女の肉体は空中に居た痩せぎすな死喰い人を撃ち貫いた。空中で赤や白い何かが飛び散り、地面に向かって落下する。身体が欠けた様子はないため、死んではいないだろう。その後どうなるかまでは、知ったことではない。

 赤白の汚物が降り注ぐ頃には、ハリーはその場から既に移動していた。そして前の前に居るのは四人の死喰い人のうち、三人目。彼の名をハリーは知っている。

 ワルデン・マクネア。魔法省の危険動物処理委員会に所属する、死刑執行人。役職上、おそらくハグリッドのペットだったバックビークを殺害せしめた張本人だろう。ハワードから、クレイジーな職員がいるとのことで聞いたことがあるのだ。

 彼は処刑人として相応しく、巨大な斧をかついでハリーの進路上に立ち塞がっていた。

 

「人間を処刑するのは久方ぶりだよ、お姫様」

「そうか、じゃあ死ね」

 

 簡単なやり取りを済ませたハリーは、マクネアに向かって『失神呪文』を放つ。

 ぶんと軽々斧を振り回した彼は、刃を盾にして魔力反応光を防いだ。その陰から飛び出してきたのは、四人目の色黒の巨漢。ハリーはその男を視界に入れた瞬間、全身の毛がぞわりとさざめいた気がした。

 自身の直感に従って、ハリーはその場から思い切り飛び退く。

 直後、さきほどまでハリーの居た場所が炸裂して砂利や土が飛び散った。

 直感を無視していれば、飛び散っていたのは自分の脚だっただろう。

 

「勘のいい餓鬼めが」

 

 低く良く通る声で、巨漢の死喰い人が呟く。

 続けて彼が杖を振ると、地面に魔法陣が刻まれる。異音と共に現れたのは、三人の死喰い人。吼え、牙を剥いて爪を振りかざしていることから狼男と思われる。グレイバックの眷属だろうか。

 巨漢の死喰い人が、ブロンドの短髪を揺らして指示を出すと、三人の死喰い人が一斉に飛び出す。まるで風のように三方から襲いかかる男たちを相手に、ハリーは一瞬思考を巡らせて即座に行動に移した。

 まず左側。一番小柄な狼男に向かって、あえて飛び出して距離を詰める。驚いた小柄な狼男の隙を突き、ハリーは杖から槍を出現させて男の鎖骨を貫き、内臓にまでダメージを与える。

 悲鳴を上げる男から槍を抜きとると、強化された足で右に向かって思い切り回し蹴りを叩き込んだ。わざわざ頭を蹴り飛ばしたために、彼は回転しながら飛んでゆくこととなる。鮮血を撒き散らして残り二人の視界を塞ぐという重要な役目だ。

 

「ドゥーベが!?」

「よくも!」

 

 残りの二人が叫んだ声によって、位置はバレバレである。

 素早く失神呪文を叩き込んで、一瞬で三人の戦闘力を奪い去る。しかしこの三人は最初から当てにされていなかったらしい。自身の肩を押さえて呻くドゥーべと呼ばれた狼男の肉体が一瞬、風船のように膨らんだかと思えばカエルのような悲鳴と共に爆散した。

 血や内臓が飛び散り、ハリーが苦虫をかみつぶしたような顔をする。同じ手を使われた。彼らは囮どころか、目くらましのための煙幕程度にしか使われていなかったのだ。

 

「『アバダケダブラ』ァ!」

「『エクスペクト・パトローナム』! ぼくを護って!」

 

 ずぎゃぎゃぎゃ、と凄まじい金属音と共に、緑色の魔力反応光が大量にばら撒かれた。

 ハリーの眼前に現れた蛇の尾を持つ雌雄同体の大鹿がその身を盾にして守ってくれなければ、いまごろは物言わぬ死体となっていたことは間違いない。この守護霊に造形も改めて見れば思うところはあるが、今は何も言うまい。

 まるで悪夢のような光景だ。一瞬触れただけで命を失う悪魔の魔法を自分に向かって連射されているなど、冗談ではない。なによりあの魔法は、どう考えても異常なほどに消費魔力が多いはずだ。それを連射するなど、もはや狂気の沙汰である。

 恐らく単純な戦闘力で言えば、ヴォルデモートに次ぐ実力を持っているだろう。

 まったくもって冗談ではない。

 

「『アニムス・トニトルス』! もっと速く!」

 

 ごっそりと魔力を持っていかれる感覚。

 それと引き換えに、まるで背中からジェット噴射でもしているかのような感覚で走ることが可能となった。一般の死喰い人からは、もはや青白い光としか見えていないだろうハリーは地面を蹴って爆散させると同時、その場から消えた。

 次々と撃ち込まれる緑の閃光、その隙間を体操選手のように縫って走り、一瞬で巨漢死喰い人の眼前へと迫る。ここまでのスピードを得たならば魔力を練って魔法を放つよりも、直接殴りつけた方が速いと判断。

 すこし目を見開いた巨漢死喰い人の顔面に向けて、ハリーは右脚を蹴りあげる。

 それは避ける事の叶わない超高速の一撃。そうなればやはり、ハリーの目論見通りに、彼の頭部が砕け散った。

 

「―――ッ!」

 

 改めてその破片をよく見てみれば、黒い霧と化しているではないか。

 動揺が走ると同時、焦燥が膨らんだ。

 まさかと思う間もなく、ハリーは急いでその場から離れる。目指すはセドリックのもと。彼は失神しているだけだ、連れていかなければならない。

 脱兎の如くハリーは駆ける。

 青白い軌跡を残して疾駆するハリーはしかし、右脚から感じた激痛を感じた。それを無視して駆け続けようとしたものの、右足を踏み外して倒れ込んでしまう。

 無様に地面へ転がって泥まみれになったハリーは、向かっていたセドリックの身体にぶつかってその勢いを止める。

 何が起きたのかと驚いて、ぐるぐる渦巻く視界の中で自身の右脚を見下ろす。

 

「……ッ、ぁ……ぐ――」

 

 なかった。

 右脚が、なかった。

 それに気づけばあとはもう、激痛に支配されるのみだった。

 くぐもった悲鳴を漏らしてしまう。痛い。熱い。足が斬り落とされた程度で走れなくなるとは思わなかった。人体の反応を舐めていた。

 だが遥か後方に転がる膝から下の右脚があれば、一時的にくっつけることもできただろう。

 その考えに至ったハリーは、杖を振り上げて自身の右脚に向けて、

 

「『アクシオ』! ぼくの右脚よ――」

「『コンフリンゴ』」

 

 魔力を練るその前に。自分の右脚が爆散したのを見た。

 巨漢の死喰い人が、にやりと笑んでいる。奴がやったのだ。

 セドリックの元へ辿り着くことはできた。できたが――あんまりではないか。

 

「『エクスペリアームス』」

 

 巨漢が放った武装解除呪文は、ハリーの左胸に直撃する。電気が流れたようにびくんと揺れたハリーの手から、杖が後方に飛ばされた。

 これでもう、優勝杯を呼び寄せることもできない。

 先程ヴォルデモートとの戦闘で杖なしの魔法を行使するための理論はなんとなく理解したものの、しかし今の精神状態で意識して『呼び寄せ呪文』を扱えるほど熟達したわけではない。

 下手に希望を掴みかけたために、ハリーの目尻から一筋の雫が流れる。

 両親に認めてもらったのに。

 兄と初めて会えたというのに。

 こんなところで死ぬなど、耐えられない。

 

「だがここで死ぬのだ。残念だったな、人形」

 

 巨漢の死喰い人が、嘲って言う。

 そのやり取りの間に、ハリー達の周囲には死喰い人が集まって来ていた。

 ぼろぼろと涙を流すハリーに向かって、巨漢は杖を向ける。

 これで終わりなのか。

 こんなところで。

 

「死んで、たまるか……!」

「哀れだな。『ステュー、」

 

 しかし。

 死喰い人が失神呪文を放つよりも早く。

 ハリーのすぐ後ろから、よく通るはっきりとした声が響いた。

 

「『エクスペリアームス』!」

「ッ、が……ァ!?」

 

 紅い閃光をその腹に受けた巨漢が、有象無象の死喰い人たちを薙ぎ倒しながら大きく吹き飛ばされてしまう。

 その呪文を放ったのは、ハリーを後ろから抱き寄せる青年。

 ハリーが倒れ込んだ、セドリック・ディゴリーその人だ。

 

「僕のハリーに、手荒な真似は許せないな!」

「セドリック!」

「ごめんよハリー、遅くなった!」

 

 険しい顔をしたセドリックは、上体を起した体勢のまま杖を振る。

 すると二人を中心にして、突風が巻き起こった。

 ハリーを囲むようにして集まっていた死喰い人たちが大きく姿勢を崩される中、何人かの死喰い人が怒って様々な呪文を放ってくる。

 そのうちの一つが近くの地面に着弾したために飛び散る砂利から守るため、セドリックは更にハリーを抱き寄せ、自身が上に覆いかぶさってその盾になった。

 とても驚いていると同時に、なんとも嬉しい感覚がハリーの心を覆う。

 柔らかく笑ったハリーは、セドリックに向かって叫んだ。

 

「セドリック! 優勝杯が移動キーなんだ! あれを『呼び寄せ』してくれ!」

「……! なるほど!」

 

 ハリーの叫びに応じて、数メートル先に転がる優勝杯に向けてセドリックが杖を向ける。

 あれはハリーの杖だ。武装解除された杖を、彼が拾い上げたのだろう。

 吹き飛ばされた巨漢の怒りの声や、ルシウスの叫び声。マクネアや狼男たちの吼える声が響く中、ハリーは自身を包み込むように覆いかぶさる青年の声を聞いて安堵した。

 

「『アクシオ』、優勝杯!」

 

 これで、帰れるのだ。

 セドリックの手に跳んできた優勝杯を彼が掴むと同時、ハリーは自分のへその裏側を引っ張られる感覚を得る。移動キーが作動したのだ。

 周囲の景色がぐるぐると回転し始め、ルシウスが苦し紛れに放った失神呪文が、ハリーの腹を貫通して地面に着弾した。もう物理的にも、魔法的にもハリー達に干渉する術はない。

 ハリーは自分の額に、セドリックの唇を感じた。

 このときばかりは、許してやろう。とても気分がいい。

 帰れる。

 ホグワーツへ、帰れる。

 ぼくらは、ぼくらの大切な家へ帰れるのだ!

 

「ハリエット」

 

 しかし。 

 能面のように平坦な声が、それを遮る。

 ハリーとセドリックの目と鼻の先に突き出されたのは、ヴォルデモートの顔。

 驚愕と恐怖によって固まる二人に、彼はただ呟く。

 先程までのハイテンションな様子と違い、まったく感情を見せない彼の凪いだ感情が、恐ろしかった。ただひたすらに怖かった。

 

「ハリエット……」

 

 無表情のまま、ぐるぐる回る景色の中、空間を転移する二人の前で。

 

「ざまあみろ」

 

 なんの感情も見せないまま、ヴォルデモートはそう言い放った。

 ぐるりと反転した景色と共にその青白い顔も消えてゆく。

 消えてゆく。墓場も、死喰い人も、闇の帝王も。

 みんなみんな、消えていった。

 

 

 ハリーとセドリックの身体が、地面にたたきつけられた。

 移動キーによって空間転移している間、ハリーは目をきつく閉じていた。

 右脚の痛みもある。しかしそれ以上に、ヴォルデモートへの恐怖が全身を支配していた。

 自分の体の上に覆いかぶさるセドリックの体温がなければ、怖さのあまり叫んでいただろう。

 

「―――、……!」

 

 だが帰ってきたのだ。

 ホグワーツに。ぼくたちの、家に。

 

「……、リー! ハリー!」

 

 どうやら耳がおかしくなってしまったらしい。

 周囲からなにやら叫んでいる声がしているというのに、その内容が聞き取れない。

 移動キーの原理を知らない以上、こういうこともあるのだろう。おそらく車酔いと似たものかもしれない。

 

「ハリー! ハリーッ!」

 

 間近でハリーの名を叫び、肩に手を置いてくるのはきっとダンブルドアだ。

 そうだ、ヴォルデモートだ。

 奴のことを報告しなければならない。

 ハリーはセドリックの身体に腕を回し、どいてもらうことにした。

 セドリックをどかしたハリーは、うまく見えない目を開いて口を開く。

 

「先生。ダンブルドア先生。ヴォルデモートが、……やつが、復、……」

 

 闇の帝王が復活した。

 それを言いたかっただけなのに。

 ハリーは自分の左の視界が真っ赤に染まって、ろくに顔も見えない事に気がついた。

 血でも入っただろうかと思ったハリーは、左手で左目を擦ろうとする。

 しかしその手は既に真っ赤だった。

 

「、……」

 

 おかしい。

 自分の右脚は確かに失われており、いまも出血しているのが分かる。

 だが、いま真っ赤な血に濡れているものは、なんだ?

 左手だ。

 

「――、」

 

 そもそもハリーは非力だ。

 待て、一般的な十四歳の少女よりも腕力のないハリーに。

 そんな非力なハリーに。

 十六歳の青年の体重を、動かすことなどできるのか。

 

「――――、ぁ」

 

 気付きたくない。

 気付きたくなかった。

 

「――うそ、だ……。そんなのって……」

 

 ではなんだ?

 この血は、なんだ?

 この血は一体、この血は、この……、―――。

 

「うそだ……ッ! だめ、だめだ……! 嘘だ、だめ、だめだよ……いや、いやだ……」

 

 この、()()()()()()()()()()()()()()というのだ。

 

「い、イヤ……いや……! 信じない、そんなの、いや、いやぁ……!」

「落ちつくのじゃ、落ちつくのじゃ、ハリー! 気を確かに持つんじゃ!」

 

 ダンブルドアの声も耳に入らない。

 ハリーは。

 自分の血まみれの手の先。

 

「イヤァァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――ッッッ!」

 

 微笑んだまま事切れたセドリックの顔を前に、絶叫した。

 

 




【変更点】
・死喰い人増量。
・お辞儀を強化蘇生。原作と違って妥協なし。
・主人公はハリー・ポッターではなくハリエット・ポッター。

【オリジナルスペル】
「アニムス・トニトルス、雷速の脚を」(初出・49話)
・身体強化呪文。脚力に集中させ、速度特化の肉体強化を施す魔法。
既存の魔法を元に、ハリエット・ポッターが発展させた魔法。魔力消費が激しい。


さて、この話はいままでの伏線を拾いに拾って煮詰めたような話です。ハリーの正体がハリエット人形であるというのは、一番最初の段階から考えていたことでした。赤ん坊ハリーの魂を流用されているということで、一応ハリー・ポッターではあるというだけでした。
この話を公開するのはいささか不安もありますが、悔いも後悔もないです。この物語はHarry Must Die、ハードモードなのです。これからもハリエットちゃんの頑張りを見守っていただければ幸いです。
次でゴブレット編はラスト。おじいちゃんによる様々な説明回。

そして今日7月31日は、ハリー・ポッターの誕生日です。ハリエットちゃんが生まれた日でもあるよ。
お誕生日おめでとうハリー!

※だいぶ間違いがあったので訂正。


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15.始まり

 

 

 

 ハリーは呟いた。

 あまりにも自分の状況を理解できなかったからだ。

 

「……うそだ」

 

 ハリーは嘆いた。

 じわじわと理解し始めた自分の環境を、受け入れがたかったからだ。

 

「……こんなのって、信じられない。そうだな、有り得ないよな……」

 

 ハリーは拒否した。

 ゆえに彼女は認めなかった。

 自分の気に入らない現実を捨ておこうとする赤子のように、思春期の少女のように彼女は否定した。目の前に転がる肉の塊なんて、ハリーは知らない。もう戻らないかもしれない左目の紅色など、見えようはずもない。

 ハリーは両手を握りしめて地面へ叩きつけようとするものの、手に力が入らない。

 指がふるふると震え、うまく曲げる事が出来なかった。

 

「……夢だったら、はやく覚めないかな……」

 

 目の前でダンブルドアが周囲の人間へ何かを叫んでいるが、ハリーにとってそれはどうでもいいことだった。

 事実ハリーにとって、セドリックの死体を見て騒いでいる有象無象の雑魚どもなど至極興味のない虫けらだった。ハッフルパフの生徒たちが泣いている。セドリックの死に涙しているのだ。だけどお前ら、本当に悲しいのか? 自分たちのアイドルが消えてしまったとでも思ってるんじゃないのか。愛する青年の亡骸を目の当たりにして、チョウ・チャンが泣き叫んでいる姿が目に入る。かわいそうにね。だがおまえにはわかるのか? 好意を持ってもいいかもしれないと心を許した瞬間、その青年が目の前で死んだ、そんな笑えない喜劇を演じた気持ちが。

 ハリーが光を失った目で周囲を見渡していると、誰かが自分を突き飛ばしてきた。

 周囲が騒ぎ、うごめいている中を掻きわけてやってきたのだ。ハリーの身体も小柄で、軽い。意図してのことではないだろう。地面に寝転がりながら、ハリーはぼーっとその男を眺める。そしてその顔を見て、ああと納得した。

 彼にはもう、セドリックのことしか見えていないのだ。

 

「私の息子だ」

 

 エイモス・ディゴリー。

 彼はセドリックの父親であり、少々親バカなきらいのあった陽気な中年男性だ。

 眼鏡をかけていた彼は焦りのあまりそれを取り落とし、青ざめた顔をしている。

 そんな彼は、随分と軽くなってしまった自分の愛する息子を抱き上げて、ぽつりと漏らす。

 どろりと涙がこぼれれば、あとはもう止める術がない。

 息子を抱きしめて、自分の額を息子の額に当て、その手を真っ赤に濡らし、呟く。

 

「私の、息子なんだ……」

 

 彼の顔が、セドリックから離れてゆく。

 その表情はとてもではないが、何かに例えられるようなものではなかった。

 感情で歪んでいる。人間の顔に見えない。見ることが出来ない、見るに堪えない。

 そこには心の全てを悲しみ一色に染め、顔を歪ませた、独りの父親がいた。

 そして絶叫する。

 

「息子だ。わたしの、愛する、私の大切な、あ、息子なんだ。わ、わ、わたしの子だ、わたしの! わたしのッ! 息子なんだ! わた、わたしのォォォああああああぁ、私の息子がァァァああああああああッ!」

 

 しどろもどろに叫び、嗚咽を漏らし、絶叫を垂れ流す。

 一人息子が生まれ、どれほど喜んだのだろう。どれほど愛情を注いだのだろう。

 彼の息子は誰が見ても誰にとっても好青年で、彼にとって自慢の息子だった。

 好きな子がいるんだ。ということは、決勝戦が始まる前に聞いていた。それがハリー・ポッターだということも知っていた。だから息子が、彼女と一緒にこの場所へ転移してきたときは、思わず笑みを浮かべたものだ。

 そうか、おまえも、私と同じように好きな女の子をゲットしたのだな、と。

 愛する人に、自分の切ない気持ちを、伝えることができたのだな、と。

 孫の顔を見るのも、そう遠くはないのかもしれないな、と。

 エイモスはそう思ったのだ。思ってしまったのだ。

 だが、これはなんだ?

 目の前で死んでいるのは、自分の息子なのか?

 いや、そうだ。間違いない。間違えることなど、ありえない。抜けかけているとはいえ、このぬくもり、この甘いハンサムな顔。若い頃の自分にそっくりな、小さい頃からずっと見守ってきた、愛する、自分の大事な、息子なのだ。

 大事な、愛する、息子の。死体だ。

 

「私の! 大、事な、息く、くぁ、むすこ、息子がァァァアアアアアアアアア! セド、セド! セドォォォオオオオ! ぅぁあああああああああああああああッ! セド! 私の可愛いセドォ! ぅあ、ぁぁああ! うそだ! 悪夢だ、信じない! うそだァあ――――ッ!」

「エイモス、エイモス! 気を確かに持つのです! エイモス!」

「ワ、私はしっかりしているぞ大丈夫だぞ。ほら、大丈夫だ! セド! そうだ、ダンブルドア! この子の治療を! はやく、いまなら間に合う! 間に合うんだあ! 早くしてくれえ!」

 

 マクゴナガルにしがみつき、ダンブルドアのローブをひったくるように掴んで引きよせるエイモス・ディゴリーの目は血走っていた。

 ハリーにはわからないが、きっと愛する家族を失った者というのは、すべからくこうなってしまうのだろう。将来ハリーに息子が生まれて、その子が殺されでもしたらこうなるのだろうか? ……くだらないことを想像した。今はそんな場合じゃない。

 ふらりと立ち上がり、ハリーはマダム・ポンフリーの姿を探した。

 彼女の医療技術ならば、たぶん死んだ人間でも生き返らせてくれるだろう。だってマダム・ポンフリーなのだから。だから多分大丈夫だ。きっと。うん。

 一歩前へ踏み出そうとして、ハリーははたと気づく。

 そういや右足がなかったんだった。

 どうやって立ったんだっけ、と思いながら足を踏み外したハリーは地面に崩れ落ちる。

 しかしその小さな体を、受け止めてくれる者がいた。

 

「ポッター!」

 

 だれだっけ、と思いながらハリーはその人物を見る。

 青い目がぎょろぎょろと動き、ハリーの全身をくまなく観察していた。

 何だっけこの人、よく知ってる気がしたんだけど何だっけ。

 

「泣くな、医務室へ向かうぞ! その脚は放っておいていいものではない!」

 

 確かなんか闇祓い的なサムシングだったような気がしないでもないけれど、まぁマダム・ポンフリーの元へ連れて行ってくれるなら何だっていいか。

 不確かな意識の中、ハリーはその人物に連れられてホグワーツ城の中へと入っていった。

 横抱きにされたまま、がつがつと硬質な足音を立てて冷たい廊下を急ぎ足で駆けゆく彼も、確か片足がないために義足だったはずだ。思い出した。アラスター・ムーディだ、この人。

 

「座れ!」

 

 適当な丸椅子の上に放り投げられ、ハリーはそのまま床に倒れ込んだ。

 医務室ではない。どこだよ、ここ。

 不思議な部屋に連れ込まれ、ハリーはぼーっとした顔で当たりを見渡す。

 ムーディが適当な荒縄で自分の右脚をぎゅっと縛る様を、ただなんとなく見つめ続けていた。魔導の力が溢れるように流れ出していたのが、蛇口を絞ったように穏やかになったのがわかる。魔力は血に、つまりエーテルに混在している。その流出が収まっただけでも、ありがたいことだ。

 どこか興奮した面持ちのムーディは、ハリーの体面に座った。

 なんだか、らしくないな。と思う。この人物が落ちつかないのは、何か変だ。

 

「それで、だ。ポッター。闇の帝王はどうやって復活なされたのだ」

「……、……。なにが?」

「闇の帝王だ! あの方が復活されたその様子を、教えてくれ。さぁ、さぁ、さぁ」

 

 なんだこいつ。

 奇妙に興奮したムーディを相手に、ハリーは自分の頭の中が冷めていくのを感じた。

 セドリックが死んだのは、もう仕方がない。あの状態で自分に何か出来たかと自問すれば、無茶言うな馬鹿野郎と自答する事が出来る。

 精神状態に関しては平常通りとは口が裂けても言えないものの、くだらない思考にリソースを割くことで発狂するような無様を晒さないようにしていることから、だいたい自分の精神状態が回復へ向かっていることくらいはわかる。

 のっぴきならない状態だからこそジョークを忘れないのさ、というウィーズリーの双子の言葉を思い出した。セドリックの死によって現実逃避しようとした先程の状態を思い出す限り、全く以ってその通りである。

 さて。

 状況を整理しよう。

 様子のおかしいムーディは、自分にヴォルデモート復活の詳細を問おうとしている。

 闇祓いだというのならそれもむべなるかな、とは思うが、この四年間を生と死の間を行ったり来たりしているハリーにとって、人を疑うということは息を吸うことより容易い。

 偽者という可能性はどうだろう? ヴォルデモートももう一人死喰い人を潜入させていると言っていたこともある。だが却下だ。恐らく透明マントすら見破る術を持っているダンブルドアが見抜けぬはずがない。

 次に、マッド・アイというあだ名が示す通り本当に気が狂っている可能性。……否定しきれないが、恐らくそれもないだろう。右脚から余計な血が流れ出ないようにした応急手当ては完璧だ。正気でない者が出来る事とも思えない。

 

「ポッター。早く教えるんだ。さぁ、帝王はなにかおっしゃっていたのか。早く」

 

 いや待て。

 ダンブルドアを信用し過ぎるのも如何なものか。

 ヴォルデモートの話を真実と仮定して考えるならば、彼はハリーを生かすことによって結果的にヴォルデモートの復活に手を貸すという大失態を犯している。曰く、彼の悪癖によって。

 今回もその悪い癖が出たとしたら、どうだろう。

 なにもチャンスを与えることだけではなく、身内には甘いあの男の性格を鑑みれば。

 ムーディとダンブルドアは随分と親しげな様子だった。恐らくなにか、闇祓いと魔法学校校長として以上の付き合いがあると見るべきだ。そうすると、どうだろ? チェックが甘くなっていたりしないだろうか? 例えば、変身術の達人がムーディに化けていたりとか。例えば、細胞ひとつ違わない変身を成しているとか。

 そう、例えばポリジュース薬、とか。

 

「……ヴォルデモートは、」

「ああ。帝王は?」

「……ぼくにお辞儀を……うっ、頭が」

「待ってろポッター今すぐ頭痛薬を持ってくるだから話すんだ」

 

 時間稼ぎをした方がいい。

 いつの間にかハリーの杖は、ムーディのデスクの上に置いてあった。本当にいったいどのタイミングで抜き取られたのか。まったく気付かなかった。ひょっとしたらハリーの精神状態は、思っているよりも弱っているのかもしれない。

 それもそうだ、ようやく認めることのできた青年を目の前で殺されたのだ。

 ヴォルデモートのもとで手にした、杖を使わない魔力の運用法。あれも今使えるとは思えない。あの時は咄嗟に『呼び寄せ呪文』を行使する事が出来たが、いまやれるかと問われればまず間違いなく無理だ。あの技術はもっと、それこそ年単位で練習を積む必要がある。

 だから今はきっと、時間稼ぎをするのが正解であるはずだ。

 ダンブルドアにマクゴナガルといった教師陣、それに、ロンやハーマイオニーがハリーの不在に気付かぬはずがない。あの衆人環視の中だ、ムーディがハリーを連れていく姿を誰も見ていないなどということは有り得ないだろう。

 

「これで痛くなくなったはずだ。さぁ、話せポッター」

 

 頭痛薬はダイレクトに頭へぶっかけるものではないはずだが、このムーディは正気には見えない。血走った眼は、明らかに狂人のそれである。

 下手に刺激しない方がいいだろう。

 

「やつは、復活した。それは、間違いない。目の前で話し、触れ、戦った」

「……そうか、そうなのか。それで、その方法はどのようなものだった。わしは正確に知っておきたいのだ」

 

 ムーディが蒼白な顔をしている。

 興奮のあまり、両手がわなわなと震えているのすら見てとれる。

 ハリーはその様子をちらと見て確認しながらも、言葉を紡ぐことを選んだ。

 

「失われた古代の魔術、そんな風に言ってた。父親の墓から、骨と。ワームテールから、肉を。そしてぼくから、血を抜きとった」

「……他には」

「インクを。奴の、記憶。それによって奴は、完全復活を果たした」

 

 パーフェクト・ヴォルデモート。

 奴自身、復活が嬉しすぎてハイテンションになってはしゃいでいたことから、余程計画が上手くいったらしい。腹の立つことだが、二桁の年単位で進行する計画を予定通りに組み上げて達成したとなれば、小躍りしたところで不思議はないだろう。

 それを聞いたムーディは、感慨深そうに頷いていた。

 こいつは隠す気があるのだろうか。まだ真偽がわからないため一応の警戒として偽者として考えているが、だとすればあまりにも迂闊すぎる。

 

「それで。死喰い人どもは戻ったのか」

「……うん、戻った。それも大勢、三桁はいたと思う」

 

 ムーディがその傷だらけの顔をゆがませる。

 怒りか、それとも他の何かか。

 

「それで? あのお方は奴らを許したか? アズカバンを逃れたカスどもを。裏切りの不忠者どもを、許したのだな?」

 

 興奮のあまり、もはや完全に自身の正体を隠す事を忘れている。

 間違いない。黒だ。

 そもそもの話、闇祓いとして数多くの死喰い人たちを薙ぎ払ってきたアラスター・ムーディがヴォルデモートを「あのお方」などと呼ぶはずがないのだ。中身が何者かはわからないが、こいつこそが死喰い人(デスイーター)だ。

 

「痛い目に遭わせただろう? ご主人様は、裏切り者を許しはしない。助ける者には褒美を与える。そうだ、そうだと言ってくれハリエット。俺に、俺こそが最高の忠義者だったと言ってくれていたのだろう?」

 

 ハリーは答えなかった。

 彼の顔が歪んでいる。ムーディの顔は元々傷だらけで歪んでいるようなものだったが、いまの彼はそのような歪み方ではない。別人のそれが、上書きされようとしているかのような……いや、元に戻りかけているのだ。

 やはりポリジュース薬か。

 それを奴も気付いているのか、一瞬だけ自分の頬に手を当てたものの、狂気的な目をまたハリーに向けてきた。歓喜と期待に満ちた目だ。おそらく、もうバレてもいいのだろう。彼の役目はなんだ? なぜヴォルデモートは彼を送りこんだ?

 

「……」

「沈黙は肯定と受け取る。ああ、そうか。そうかぁ……嬉しいなァ……。俺はようやく報われたんだなァ。思えば俺と帝王には、共通点が多かった。分かるか、ハリエット? わからんだろうな。俺も彼も、父親の名をつけられるという屈辱を味わった。俺も彼も、失望しきっていた己の父親を殺した。俺も彼も、闇の力に愛されている! そう、俺と彼は、闇の帝王こそが俺の真の家族なのだ! わかるか、ハリエット! 人形め! この歓喜が、この幸福がァ!」

 

 狂っている。

 分かってたまるか。

 だが、ハリーは間違ってもそのようなことは言わない。

 これ以上刺激すれば、真実十四歳の少女であるハリーに抵抗する術はない。

 杖もなく、魔力も底を尽きて、精神的にも肉体的にもずたぼろの、ただの女の子。

 ヴォルデモート戦の時に使ったように、杖がないまま魔力を運用する方法をいつでも使えるように訓練しなければならない。その為には、この場を切り抜ける必要がある。

 考えるのだ、ハリエット・ポッター。

 

「実はな、お前の名を炎のゴブレットに入れたのは俺だ。苦労はしなかったな、俺は『錯乱の呪文』が得意だったんだ。ゴブレットを錯乱させ、お前を七校目の生徒として誤認させた。七校目から一人しか応募がなければ、自動的におまえが選ばれる。そのあとは簡単だったな。俺が手を貸したのは水中競技くらいだ。ロングボトムに《鰓昆布》が載っている本をくれてやったのは、俺だ。それ以外はほぼ何もしていない。おまえは大した魔女だ。やはり天才か。イヤ、当然だな。あの人の傑作なのだから。全ての試練を当然のようにクリアしてゆくその様は、あのお方の素晴らしさを証明してくれるようで、俺としては実に観戦し甲斐があったぞ」

 

 聞いてもいないことをべらべらと。

 彼の眼窩から、青い《魔法の眼》がこぼれ落ちた。顔の傷も徐々に綺麗にふさがっていき、髪の毛も白髪交じりのそれから、艶のある薄茶色に変化してゆく。木製の義足が落ちた。そこからにょきにょきと正常な足が生えてくる。鼻もまともな状態に戻った。見れば、肌の色すら違うではないか。

 ハリーの目の前で得意げに語る男性は、間違いなくムーディではありえなかった。

 この男をハリーは知っている。 

 バーテミウス・クラウチ・ジュニア。

 記憶の世界でハリーが見た、逮捕されてしまったクラウチ氏の息子だ。

 獄中死したとの話だったがどうやら生き残っていたらしい。どのような手段を使ったにせよ、いまこの場では考えるべきではないことだ。考えるべきは、この男をどう乗り切るか。

 兄ハリーがハリエットの立場に居れば、きっと考えないだろうことも一応考えておく。

 すなわち、この男をどう殺すか。敵をどう無力化するか。

 

「最後の試練ではどうも他の死喰い人(バルドヴィーノ・ブレオ)による妨害工作があったようだが、まあお前なら切り抜けられると思っていたよ。クズめ、あの場で殺してしまっては帝王の意思に背くことになるだろうに。何度俺が殺してやろうと思ったことか。死んで当然だ、よくぞやってくれたハリエット」

「……褒めてもらったところで、嬉しくもなんともないね」

 

 ブレオを直接手にかけたのは、ハリーだ。

 最後の瞬間、ハリエットではない誰かの名を囁いて逝ったブレオ。

 彼も彼で何かがあったのだろうが、ハリーとしては自分の意思で殺した人間をバカにされるのは何故か無性に腹が立つことだった。

 彼を殺して自分が生き残ると決意した、その想いまで穢されたような気になるのだ。

 

「ああ、そうかい。だがまあ、うん。奴にもいいところはあったよ、結果的におまえがご主人様の元へ行く手伝いをしてくれたのだから。そして彼が盗んだ君の便利な地図によって、俺はかなり行動が楽になった」

「……便利な地図。って、おまえそれ……」

「おっと、俺は悪くないぞ。盗み出したブレオからちょっとだけお借りしたのだからな」

 

 腹の立つ奴だ。ブレオがいつの間に盗んだのかも知らないが、彼は頻繁にハリーへボディタッチを行っていたから、盗み出すことは可能なのかもしれない。魔法空間にしまっていたから、魔法的な盗みだとは思うが、さてどうだろう。彼の繊細な魔力運用なら可能かもしれないとは思う。

 しかし忍びの地図は、父たちの思い出の品だ。この薄汚い男に触れられたなど、業腹もいいところである。

 それに、ブレオの事を、欠片も何とも思ってはいない。

 仮にも同じ死喰い人だろうに。

 

「ハリエット、どうやら俺の言葉が気に入らないみたいだな? 当然だ、新興の死喰い人など、あの人への忠誠心があるとは思えない。それに、今まで帝王に仕えていた死喰い人たちはいったいどこへ行っていたのだ? 俺がアズカバンで苦しんでいた中で、奴らは? どこでのうのうと愉しんでいたのだ? 奴らが帝王に仕える資格はない。奴らが生きる資格もない。奴らが空気を吸う資格など、ありはしない! 決してだ!」

 

 ここにきてハリーは、目の前の男の感情を計り間違えていたことに気付く。

 ダンブルドアすら騙し切ってこんなところまで入り込んだ男なのだ。

 だから冷静沈着で、全てを計算し切って行動する慎重派なのだとばかり思っていた。

 しかしこの男、思ったより自分に酔うタイプだったらしい。

 ハリーへ説明しながら、彼は興奮して立ちあがった。バーティ・ジュニアの座っていた木製の椅子が蹴倒され、彼の両手がハリーの肩へ強く添えられる。

 その手が興奮のあまり震えていることから、首へと伸びるのは時間の問題だろう。

 目の前の男、バーティ・ジュニアを無力化するには。殺すにはどうすればいいか。

 手段は分かっている。だがタイミングがまだなのだ。

 

「さあ、ハリエット。ここで死ぬがいい。お前が死ねば、あの方はどれだけ俺を褒めてくれるだろう!? あの方はきっと俺を重用してくれるに違いない! 俺を、俺を愛してくれる! まるで息子の如く……いや、それ以上に!」

「それはどうかな」

 

 ハリーの言葉に、熱に浮かされたようなバーティ・ジュニアの動きが止まる。

 油の切れた機械のようにハリーを見下ろした彼に向って、ハリーは言葉を続けた。

 

「彼は、ヴォルデモートは他人を愛することはしない。断言しよう、彼は誰も信じていない。他人はもちろん、自分さえも。もちろん、おまえなんてただの駒だろうさ」

「……だまれっ」

「口から出まかせを言っているとでも思ってるのかい? それは有り得ないね。ヴォルデモートのことを世界で一番わかっているのは、このぼくだ。人形だからこそ造り手の気持ちはよくわかる、ということさ。胸糞悪いことにね」

「だまれ、だまれ、だまれ!」

「はっきり言ってやるぜ、バーテミウス・クラウチ・ジュニア。クソみたいな帝王に代わって、その分身みたいなぼくが断言してやる。おまえはただの捨て駒だよ、お人形」

「だァァァまれェェェえええええ――――――ッ!」

 

 ついにバーティ・ジュニアはハリーの首を絞めつけてきた。

 不必要なまでの挑発に顔を真っ赤にし、彼女の命を断とうと本気で殺意をぶつけてくる。

 杖もなく、足もないハリーにそれを回避する術はない。

 しかし彼を倒す手段は既に用意されている。

 術がなかろうが、なにも問題ない。

 なにせ、避ける必要すらないのだから。

 

「『ステューピファイ』! 麻痺せよ!」

 

 真っ赤な魔力反応光が、木製のドアをブチ破って飛んできた。

 反応光はバーティ・ジュニアの眉間に直撃し、彼を大きく縦回転させながら吹き飛ばして壁へと叩きつける。古い石製の壁はその一撃によって亀裂が入り、細かい石飛礫が部屋中に散らばってゆく。

 そのままずるりと床に落ちた彼は、魔法の効果もあって失神してしまったようだ。

 あの魔法は物理的な障害があればそれに阻まれて不発に終わるはずだが、いったいどれだけ人間離れしているのか。扉の向こうに仁王立ちしているアルバス・ダンブルドアの姿を見ながら、ハリーはそう思う。

 アラスター・ムーディの部屋には防犯グッズである《隠れん防止器(スニースコープ)》や自分に敵対する者の接近を知らせる《敵鏡》などが用意されており、いかにも神経質なムーディらしい……いや、ムーディを演じるのに必要な道具である。これらをムーディから奪い取り、設置してまで本人を演じたバーティ・ジュニアの演技力には舌を巻かされる。

 だが興奮と緊張のあまり、彼の背後にあった、そしてハリーの視線の先にあった《敵鏡》に目をやらなかったのは失敗だ。そこにはずっと、この部屋へ向かっているダンブルドアたちが映っていた。それが避ける必要すらなかった理由だ。

 結末の分かっているゲームほどつまらないものはない。ハリーは部屋に飛び込んできたスネイプが何やら床に座り込む彼の口に薬品をブチ込んでいる姿を眺める。

 あの小瓶は確か、ハリーに飲ませるぞと脅していた真実薬(ベリタセラム)だったはずだ。拷問でも始める気だろうか。

 

「セブルス、どうじゃ」

「彼奴めはしっかり飲み込みましたな」

「よろしい。これで彼は無力じゃ、放っておいても害はない」

 

 ダンブルドアの言葉に、スネイプは満足そうに応える。

 マクゴナガルに抱き起こされながら、ハリーは徐々に首を持ちあげるバーティ・ジュニアを見た。その目はうつろで、しかし随分とはっきり意識を保っているように見える。

 丁寧な手付きでハリーの背をさするマクゴナガルは、ハリーに優しく言う。

 

「さぁポッター、医務室へ行きましょう。その傷は決して浅くは有りません。足を失っていることを忘れているわけではありませんね?」

「嫌だ」

 

 しかしハリーは、それを切って捨てた。

 しかも尊敬するマクゴナガル相手に、乱暴な口調で吐き捨てた。絶句したマクゴナガルを放って、ハリーはダンブルドアへ鋭い視線を向ける。瞳は、血に染まり未だに赤いまま。

 彼女の意思をくみ取ったダンブルドアは、マクゴナガルに視線を向けた。それで意思を察したマクゴナガルは、まったくと小さく呟くとハリーの好きにさせるように決めたようだ。

 

「ミネルバや、そこのマジック・トランクを開けてやってくれ。わしの読みが正しければ、そこに本物のムーディがいるはずじゃ」

「……そうしましょうとも」

 

 不機嫌な言葉をぴしゃりと叩きつけ、彼女は足音高く去ってゆく。

 恐らくあのトランクには仕掛けがしてあって、中に牢獄でも入っているのだろう。知識がない以上構造も仕組みも分からないが、言葉通りに捉えるならばそうなる。

 マクゴナガルがトランクを開け放ち、中に入っていた本物のムーディへと声をかける。予想よりかなり衰弱していたため、いっそトランクごと医務室へ運ぶことにしたようだ。マダム・ポンフリーへ念話を飛ばしながら、マクゴナガルは同時に魔法をかけてトランクを医務室へと飛ばしてしまう。

 この状況に関しては、ダンブルドアがほぼ正しいであろう予測を語った。ほぼ間違いなくムーディが捉えられていた理由は、ポリジュース薬の材料のためだろう。ポリジュース薬は、禁術とされているだけあってダンブルドアの眼すら欺くことができる、数少ない変装手段のひとつ。

 それに要する材料の一つに、変身する人間の細胞が必要になってくる。恐らく髪でも切り取るために生かしておいたのだろう。殺され、死体から適当な肉が取られてしまうということになっていなかっただけまだマシだろう。

 

「その男のことはどうでもいい」

 

 ダンブルドアの話もそこそこに、ハリーが噛みつくように言った。

 スネイプが不機嫌そうにハリーに声をかけようとするものの、それすら無視してハリーはダンブルドアへその睨みをぶつけてゆく。彼女が何を言いたいかを分かっているのか、ダンブルドアは粉みじんとなった扉の外へと声をかける。

 そこで待機していたフリットウィックに頼み、夢現となったバーティ・ジュニアを連行してゆく。恐らく昨年シリウスが閉じ込められた牢にでもブチ込んでおくのだろう。

 

「ぼくの質問に答えろ、ダンブルドア」

「ポッター! なんです、その物言いは!」

「黙っててください、マクゴナガル先生」

 

 怒鳴りつけたマクゴナガルに対して冷ややかに流しながら、ハリーはダンブルドアを睨みつける。老人はどこか、老けこんだように疲れた顔をしている。

 なにをそんなに被害者面しているのだろうか。何様のつもりか。小声でそう吐き捨てたハリーの言葉を拾ったスネイプは、目を見開いて驚いてしまう。

 今までにない反抗的な態度に、マクゴナガルは本気で困惑してしまう。確かに苛烈な性格をした少女ではあるが、自分やセブルスなどといった尊敬する大人に対しては結構素直な子だったはずだ。

 

「まず答えてほしい。()()()()ことは、予測してた?」

 

 ほんの少しだけ、ダンブルドアの肩が揺れた。

 最早それが回答に等しい。直接言葉で語られなかった分、怒りがより膨らんでしまう。

 カッとなった感情を止める術を、ハリーは知らない。

 残った左足で思い切り立ち上がり、全力でダンブルドアの鼻を殴りつけた。非力な少女とはいえ全体重を乗せた拳は、老人には強烈だったようだ。バランスの取れないハリーと共に床にたたきつけられ、くぐもった声が出る。

 マクゴナガルの慌てた声と、スネイプの鋭い声。そしてダンブルドアの小さな謝罪の声を聞きながら、ハリーは一気に気が遠くなっていくのを感じた。

 何故だろう。怒りのあまり気絶など、聞いたこともない。

 ふと気がついて自分の右脚があったあたりを見てみれば、椅子の下が血で真っ赤に染まっていた。当然である。いくら縄で縛って止血してあるとはいえ、片脚を失って平気でいられるほど人間とは頑丈な生き物ではないのだ。

 何のことはない、出血多量による失神であった。

 

 

 四日ほどで意識が戻った。

 もう知らない天井などとは言えない。慣れ親しんだ友のような、医務室の天井だった。

 目を開けた瞬間、傍に居たハーマイオニーによって抱きしめられてわんわんと泣かれてしまう。ハリーはそれをあやすように栗色の髪の毛を梳いて、抱きしめ返した。その後ろでは、泣きそうな顔をして笑って安堵しているロンの姿がある。

 数人の代表選手たちがたいそう心配していた、と告げられてハリーは少しだけ罪悪感にかられる。そのうちの何人かを、ハリーは本気で殺そうとしていたのだ。

 ふと他のベッドを見てみれば、いくつか埋まっているものが散見される。ロンに目を向ければ、少し気まずそうな顔をされた。恐らくまだ目覚めていない代表選手がいるのだろう。『服従の呪文』と、ハリーによる攻撃の後遺症が残らないといいのだが。

 しかしそれより何より、ハリーにはやるべきことがあった。

 

「ダンブルドアは」

 

 ハリーが静かにそう言うと、カーテンの向こうから老人が現れる。

 不穏な空気を感じ取ったのか、ハリーを抱きしめたままハーマイオニーが不安そうな目で二人を見つめる。ロンは少女二人を庇うように、ダンブルドアの前に出た。

 しかしハリーは親友二人を無言で制する。

 小さく、二人にしてほしいと頼めば、親友たちは渋々ながらハリーの望み通りにしてくれるようだった。何度も心配そうに振り返りながら、カーテンの向こうへと姿を消していった。

 

 ハリーは部屋の中で、ダンブルドアの顔を眺める。

 疲れ切った老人の顔に覇気はない。むしろ今すぐに老衰死してしまうのではないかと思わせられるほどに老け込んでいる。二人きりになって既に数分は経っている。ハリーは彼から話し始めるまで、口を開く気はなかった。

 やがて彼女の視線に耐えかねたように、ダンブルドアは口を開く。

 

「……ハリーや」

「ええ、なんでしょうダンブルドア先生」

 

 殊更に冷たい声が出る。

 もはやこれは仕方のないことであり、自重することもできない。

 ヴォルデモートの影響で彼へ悪感情が出やすいのかも知れないが、しかしそうだとしてもハリーはダンブルドアへいい感情を抱いてはいない。

 なにせ、十四年間騙し続けてきた大詐欺師なのだから。

 

「……まず話すのは、ヴォルデモートのことじゃ。次に君のことを、そして最後に今後のことを話そう」

「そうですか」

 

 ヴォルデモートのこと。

 これからどちらかが死ぬまで殺しあうことになるだろう人物の情報だ。

 些細な情報でも知っておいたほうがいい。

 

「まず、君の話を聞いて確信した。彼は完全復活を果たしたのじゃな」

「ええ。三〇代前後の肉体年齢で復活しました。彼自身の父親の骨、しもべたるワームテールの肉、ぼくの血、そしてトム・リドルの記憶を宿したインクで」

「……なるほどの。まずそこから説明しようか」

 

 ダンブルドアはそう言うと、杖を一振りしてホットチョコレートの入ったマグカップを出現させた。ほかほかの湯気が揺れている割に、実に飲みやすそうに見える。

 魔的干渉における物理歪曲の原則を完全に無視している。いったいどうやったのか、魔法式を視てもわからないというのは少々どころじゃなく異常だ。やはり世界で一番優れた魔法使いという触れ込みは真実なのだろう。

 彼が飲むよう勧めてくるも、ハリーは断った。別に意地悪な気持ちからではない。いまは何を摂取しようとも、気持ち悪くて吐き出す自信があるからだ。

 

「まず、ヴォルデモートが使用したのは君の血ではない。わしの血じゃ」

「……? ぼくの体から抜き取っていましたが」

 

 そう言ったハリーに対して、ダンブルドアは杖を羽ペン代わりにして空中に魔法式を描く。

 人体構造に関する公式や、闇の魔術に関する文言が混じっている。まず尋常な魔法に使われる魔法式ではないだろう。

 直感で察した。これは、この魔法式は……。

 

「……ぼく、か?」

「その通りじゃ。これは君の、当時ゼロ歳の君の身体情報をすべて解明した結果じゃ」

 

 様々なパラメータが書いてある。魔力値や、魔力生成量。身長体重はもちろんのこと、内臓の稼働数値までもが詳細に書かれている。ハリーからすれば何が何だかさっぱり分からないほどに難しい内容ではあるが、魔法的側面から科学的側面にかけて当時ゼロ歳の『ハリエット人形』の情報の全てが記載されていることはわかった。

 ところで何故スリーサイズまであるのか。最近のデータだったら殺してやるところである。

 

「ヴォルデモートが言ったかもしれんが、わしはジェームズとリリーが殺害されたそのあと、ゴドリックの谷へ『ハリー・ポッター』を迎えにいった。しかしそこにあったのは血と肉の惨劇じゃった。そして残されていたのは、造られた人間である『ハリエット・ポッター』しかいなかった。つまり、君じゃ」

「……随分とあっさり言うんですね」

「前にも言ったかもしれんが、君に対して隠し事は無駄だと分かっているからじゃ。それになにより、このことに関してだけは、わしは絶対に、君に隠し事をするべきではなかった。決して嘘をつくべきではなかったのじゃ」

「……、そうかい。じゃあ続きを」

 

 ダンブルドアがハリーに対して、この事実をひた隠しにしてきた理由は、ハリーとて十分に理解しているつもりである。十四歳になった今でさえ、自分が自分ではなく、誰かの代替品として造られた存在であることを突きつけられてしまい、自我やら精神やらが崩壊しそうな状態になっているのだ。そんな恐ろしい真実を子供に突きつけることができる度胸は、ダンブルドアにはなかった。

 精神と生命を結ぶ糸がかろうじて繋がっているのは、父ジェームズと母リリー、そして兄ハリーの霊魂が家族として受け入れてくれたからだ。恐らくあの出来事がなければ、ハリーの心はバラバラに砕かれていたことだろう。

 そうだ、仕方のないことだ。

 仕方のないことではあるが、許すかどうかはまた別の問題である。

 とにかくこの老人には、喉を嗄らしてでも全てを説明してもらわねばなるまい。 

 

「わしは迷った。悩んだ。ヴォルデモートが造り上げた人造人間である君を殺すなどという選択肢を、取れるような勇気がわしにはなかった。だから、君が生きていける環境を用意するしかなかったのじゃ」

 

 曰く、『ダンブルドアには悪い癖がある』。

 ヴォルデモートの言ったとおりであり、ハリーの評価通りである。

 誰にでもやりなおさせるチャンスを与えたがる優しさ。それがダンブルドアの偉大な魅力であり、そして同時に最大の弱点でもあるのだ。

 甘さとはすなわち死と同義である。それも、他者にまで及ぶ猛毒を孕んだ死の雨を周囲にばら撒くことになる。彼ほどの魔法の腕がある偉人ならば、その被害を抑えることは十分に可能であろう。だが完全に防ぐことは、無理だ。できるはずもない。

 

「まず、君に仕掛けられたであろう呪いを調べ尽くすしかなかった。幸いにして、見つかった呪いはひとつきりじゃった」

「おいおい、呪いが仕込まれていたのに生かしたのか? ……ですか?」

「……そういう言い方をするでない。そうじゃ、それでもわしは君に生きて欲しかった」

 

 恐らくはジェームズとリリー、そしてハリー少年を護れなかった後悔。純粋にハリエットへの想い。または罪滅ぼしのようなものも含んでのことだろう。ダンブルドアへ苛立ちと怒りを抱いている今でも、そこを突き刺すようなことはしない。ハリーは別に、目の前の老人をいじめたいわけでも、ましてや心を殺したいわけでもないのだ。

 無言で話の続きを求めると、ダンブルドアは哀しげに口を開いた。

 

「君に仕掛けられていた呪文は、実に複雑怪奇なものであった。健康に何ら影響なく、しかし感情のみをコントロールしてある一点の目的だけを遂げさせる、心理誘導のような魔法じゃ」

「それが『命数禍患の呪い』ですね?」

「さっき嘘をつくべきではないと言ったばかりじゃが……すまん、そりゃウソなんじゃ」

「こんのクソじじい!」

 

 思わず叫んでしまうのも仕方のないことだと思う。

 この四年間、ハリーがその呪いについてどれだけ調べたのか。

 それの真実をさらりと暴露するあたり、この老人は本当に喰えないクソジジイである。

 柔らかく微笑むダンブルドアの意図は分かる。二人の間にある空気は、あまりに張り詰め過ぎていた。一色即発のそれとは言えないものの、円滑に話を運べる類のものではない。

 ゆえにジョークを混ぜて和ませた、ということに気付きながらもそれを言葉にするほど、ハリーは愚かでも意地悪でもない。言ってやりたい苛立ちはあるけれども。

 話を続けろと無言で睨むと、相変わらずの微笑みを浮かべたまま彼は話を続けた。

 その笑顔に無理があると感じるも、その言葉も唇の奥に秘めておく。

 

「実際には『運勢を左右する』ような呪いではなく、君に自身の正体を隠すための方便、つまり嘘じゃが……あながち全くの虚偽でもない。この魔法に名をつけるとすれば、まさにその『命数禍患』じゃろう。君にかけられていた呪いは、わしに対する悪感情の増加(ヘイトブースト)じゃ」

「……仲違いさせて、信頼関係を築かせないつもりだった?」

「いいや、ことはそう単純ではない」

 

 ダンブルドアが見舞いの品の中にあったフルーツバスケットから、小型の果物ナイフを取り出す。するりと鞘から刃を取りだすと、己の人差し指をちょんと突いた。

 刃によって血管から雫が押し出され、ダンブルドアの指の腹に小さな赤い玉が現れる。

 それを見つめながら、ダンブルドアは言う。

 

「復活の儀式に必要なものは父親の骨、しもべの肉、敵の血じゃ。そのうち父親の骨は、彼の実父であるトム・リドル・シニアの遺骸がある。しもべは恐らく、哀れなピーターあたりを使ったのじゃろう。そして敵の血。彼は君から血を抜き取って、儀式に使用したのじゃな?」

「リトル・ハングルトン村……だっけ。そこで実際に、この目で見た。間違いない。ぼくの身体から血を抜き取って、儀式に使用した」

 

 召喚されたヴォルデモートの容姿が二〇代後半から三〇代前半のいけすかないハンサムであったことを伝えると、やはりかとダンブルドアは小さく呟く。

 彼が強化されて帰ってくることも、この老人はお見通しだったようだ。

 しかし見通していながら何故、どうして防ぐことができなかったのだろうか。

 

「まず君は、わしへの怒りや憎しみといった感情が増幅するようになっておる。恐らく君の中でのわしの評価は、『力はあるが信用ならない耄碌ジジイ』あたりじゃろう」

「……、」

 

 図星である。

 

「ちとショックじゃな。まあ、よい。そして君は、ことあるごとにわしに殴りかかっておった。魔法を習得し、より攻撃的な呪文を覚えた今でも、おそらく『直接殴ってやりたい』と思うことじゃろう」

「……つまり、ぼくにアンタを殴らせることが目的だったのか?」

「そうとも言える。そしてなにより重要なのは、出血させることじゃ。わしの血を出させ、君の皮膚に付着させること」

 

 ダンブルドアの指先に乗っている雫がハリーの手の平に押しつけられると、彼が指を動かしたことでするりと線を引く。しかしその赤い液体は、見る見るうちにハリーの皮膚へと吸い込まれてしまった。

 魔法式などは見当たらない。つまり見えない部分、臓器かまたは精神か、そのあたりに刻まれているのだろう。または、そもそもハリエットという人形がそういう機能を有しているのかもしれない。男ならば胤を造る機能、女ならば子を産む機能。ハリエットならば血を取り込む機能。だいたい、そういった具合だろう。

 

「なるほど。……要するに人形ハリエットは、仇敵アルバス・ダンブルドアの血を手に入れるための採血装置として造られていたのか」

「……残酷なことじゃが」

 

 セドリックの死によって心が麻痺しているだけかもしれないが、然程ショックではない。むしろヴォルデモートならそのくらいやってのけるか、という納得がある。

 自分の感情までも奴の利用するところに合ったのかと思うと、苛立ちが募る。ならいっそダンブルドアを愛してみるか? いや、くだらない。冗談にしてもつまらなかった。

 鼻で溜め息を漏らし、ハリーはそれで、と言葉を紡ぐ。

 

「ぼくの現状に関しては、それだけ? 『命数禍患の呪い』がぼくへの不幸増幅ではなく、ダンブルドアに対するヘイト感情増幅と血液吸収で、それを利用してあんたの血を採取するための呪いであったと」

「……うむ、その通りじゃ。額の傷として残されたそれ以外に呪いはない。問題があるとすれば、君という人間を製造するにあたってジェームズにリリー、ヴォルデモートの生体情報が使われているため、時折彼らの思考を君がトレースしてしまうことがあるということかの」

 

 覚えはあるか、と問われれば、かなりある。

 ダンブルドアへ感じる苛立ちなどは、きっとヴォルデモートの感情をトレースしたものだろう。クィディッチワールドカップの時、死喰い人の姿を見てカッとなったのは恐らくジェームズ。生前にも闇の陣営と死闘を繰り広げていたのだろう。

 

「いや、あとひとつだけ懸念がある……」

「懸念?」

 

 自分がこれから言うことは不可解なものであるとでも言いたそうな顔をしたダンブルドアは、続きを促されて少し躊躇う様子を見せた。

 ダンブルドアもハリーが問いを取り下げるつもりはないだろうことを理解しており、彼は渋々とヒゲの奥から自身の考えを述べる。

 

「わし自身、不愉快な考えではあるのじゃが、彼奴の行動に不可解な点があるのじゃ」

「頭の中身が一番不可解だと思うけど」

「そこ以外でじゃ。まず、採血を行う人員として『ハリー・ポッター』の複製、つまり『ハリエット』、君じゃ。君を造りあげる際の判断も、イマイチわからぬ」

「……そういえば、なんでぼくは女なんだ? ただ複製を造るだけなら、性別を変更する必要はないはずだ」

「そこじゃよ」

 

 基本的に人間というのは、母親の体内にて卵子が精子を受精し、その受精卵が十ヶ月ほどをかけて細胞分裂を繰り返し、ヒトの形となって世に生まれ出てくる。

 性別の決定方法としては、男性の精液に含まれる精子が関係していると言われているが、二〇世紀となった今でも確かなことは判明していない。最初は全て女性でありそこから枝分かれするなどという説まで発表されており、専門的な教育を受けたわけではないハリーにはダンブルドアの話は難しすぎた。

 ただ、魔法的側面から見てヒトは基本的に女性体であり、男性的機能はこの世に生まれ出るまでの間に付与されていくのだという。

 一から造られたというハリーには、三人の人間が材料に使われている。すなわち、ジェームズ・ポッター、リリー・ポッター、そしてヴォルデモート卿である。

 医学的に説明できるかは怪しいものであるが、要するに簡単に人間を作れるとしたら女性の方が容易なのだ。そう言った面から見れば、なるほど『ハリエット・ポッター』が女性であることも納得できる。

 しかしヴォルデモート、トム・リドルは完璧主義者だ。

 ハリーの身代わりなのだからしっかり男性として造っておこう、というのが彼の通常の思考回路であるとダンブルドアは語る。つまりハリーが女性として造られたのはおかしいのだ。何かわけがあるに違いないと判断するくらいには。

 

「さらにじゃ。失礼を承知の上で言うが、ハリー、君は月経が来ておるかね」

「ぶっ殺されたいのかセクハラジジイ」

 

 ヴォルデモートの呪い関係なく殴ってもいいと思う。

 セクハラ発言に反して、ダンブルドアの顔は至極まともなものであるため行動に移せないのが実に惜しい。これがロックハートやブレオならば、遠慮なく蹴りあげることができたものを。

 

「真面目な話じゃて」

「……まあ、アー、うん。そりゃあ、十四歳だし。来てるさ、悪いか」

「そうか、やはり来ておるか。ハリー、月経というのは女性が子を産むための能力のひとつであることは、当然知っておるね?」

「そりゃあ、知ってるさ。少なくともそこらへんの男の子よりはね」

 

 月経とは。

 別名を生理と呼ばれる、哺乳類のメスが持つ子宮から起こる出血のことである。

 大雑把に説明すれば、子宮内でほぼ一カ月周期でつくられる卵子は、受精しなければ排出される運命にある。それが子宮内の膜ごと剥がれおち、血と共に膣から排出される。それすなわち月経である、といった具合だ。

 つまり月経がある以上、ハリエット・ポッターには子が産める可能性があることになる。

 何故だろうか。偽装にしては手が込み過ぎている。

 ただ単なる採血装置として造りだすだけならば、十七歳程度の年齢で活動を停止する(こわれる)人形くらいがちょうどいいはずである。もしそうであれば、子を産む機能など必要ない。しかも彼の言によればハリエット人形を製作する際に、わざわざ霊魂以下の存在になった状態でこのような処置を施したことになる。

 ダンブルドア含め、ゴドリックの谷にあったポッター家跡地からハリエットを回収した者たちは考えた。吐き気を催す邪悪を平然とやってのける巨悪であるヴォルデモートが、自身の造った人形にダンブルドアへの悪感情増幅以外に、なにも特別な魔法を施さないまま、そのような能力をつけるだろうかと。

 よもやハリエットに生殖機能をつけることによって、何かおぞましい闇の秘術を実行するのではないかと。想像することさえ罪となり得ることを、やらかす気なのではないかと。

 

「……」

 

 ぞっとする。

 ハリーは自分の下腹を、無意識に撫でた。

 いままで己が通常の人間として生きてきたことに疑問を持たなかったが、ただの女の子の日がおぞましいものに思えてきた。あの男は、いったい何を思っていたのだろうか。

 何を思って、ハリーに子を産む機能をつけたのか。

 何の目的で、ハリーを女性として造ったのだろう。

 

「確証はない。悪戯に君を不安にさせただけかもしれぬ。しかしあ奴は、ヴォルデモートは我々の想像を超える男じゃ。出来得る限り、知っておいてほしかったのじゃよ」

「……言わんとしてることは分かるけどね」

「さらに先ほど言った通り、寿命の心配もある。こればかりは魔法的検査を以ってしてもわからないことじゃ。マグルの現代医学でも、魔法族の現代()()でも、人間の残り寿命など計りしれることではない。だから、君には残酷な真実でも、留意しておいてほしいのじゃ」

「そう、ですね。……心の片隅には、とどめておく」

 

 思ったよりハリーの現状には未来がない。

 ヴォルデモートを倒さねば、とりあえずお先真っ暗が確定。

 倒したとしても、もし彼がハリーに寿命を設定していればタイムリミットで死亡。

 ハリー自身にもまだまだ謎が残されており、その謎に関しても不安要素だらけである。これがコンピュータゲームのシナリオならば、ハリーはコントローラーを窓から投げ捨てているところだ。とんでもないクソゲー仕様な人生である。

 

「次は、ヴォルデモートに関する話じゃな。実を言うと、わしはこの話を決勝戦当日に話したかった。一時的に眠り、君の心と身体は休息を得たことじゃろう。しかしこうして間をおいてしまえば、事実という刃が君の心に刻む傷は、より深くなると……わしはそう思うのじゃ」

「……心配はいらない。いまのところ、麻痺したままみたいだから。麻酔が効いてる間にさっさと言ってくれ。……ください」

 

 その言葉に頷いたダンブルドアが、さっと手をあげる。

 するとカーテンの向こうから大きな――ハリーが直立していれば腰ほどはある――生き物が入ってきた。何だと思って見てみれば、なんと、犬だ。

 しかもハリーには、その犬に見覚えがあった。

 思わずベッドから身体を起こし、愛しい彼を抱きしめる。

 

「シリウス。ああ、シリウス……」

「……わふん」

 

 ぺろ、と頬を舐めてくれた。

 しばらく彼の首筋に顔をうずめ、その温もりをたっぷりと味わう。心の氷が解けてしまいそうになるが、必死でそれを我慢する。これから辛いであろう話をするというのに、気を緩めてはいけない。麻酔が切れてしまう。

 ハリーが腕を離して彼を解放すると、犬はするりと人間に変化せしめた。ヒゲを丁寧にカットし、服装も上下黒のシャツとスラックス。以前と比べれば、見違えるほどに清潔感のある格好をしたシリウス・ブラックがそこにいた。

 

「久しぶりだ、ハリエット」

「うん、久しぶり。元気だった? ちゃんと食べてる? 無茶してない?」

「君は私の母親かね? ま、ほどほどにね。ハーマイオニーに言われた通り、野菜もきっちり摂っているよ」

 

 これだけの他愛ない会話を、ダンブルドアは許してはくれなかった。

 シリウスへ視線を送った彼の意図としては、先程ハリーが自分を戒めた理由と同様だろう。ついうっかり和もうとしてしまったハリーは、自分の意思の弱さに呆れてしまう。

 我ながらシリウスに懐き過ぎである。

 

「おほん。まず。ヴォルデモートは現在、最盛期の肉体と精神を得ていることじゃろう。暗黒時代の蛇のような顔ではなく、魅力的で、男女問わず惹きつける怪しい色気を持った男性として復活したはずじゃ」

「うん、それで間違いない。……蛇のような顔?」

 

 ハリーの疑問には、シリウスが無言で答えてくれた。

 ポケットから取り出した手帳の中に、よれよれになった一枚の写真がある。新聞の切り抜きのように見えるその中には、なんというか、ハリーの見たヴォルデモートとは似ても似つかない男が写っていた。

 いまよりも青白く人とは思えぬ血色をした肌に、剥き出しの歯茎と鋭い牙を持った歯。鼻はノミで削いだかのように消え失せており、蛇そっくりな鼻孔が切れ目としてあるだけだ。そんな彼に「お辞儀をするのだ」と言われれば笑ってしまいそうな、まったくもって現実感のない滑稽な容姿をしている。しかし実際に目の前で会ってしまえば、恐怖で震えるだろうおぞましい容姿である。現実に存在する人間に許される容姿ではない。

 ダンブルドアに目を向ければ、これがシリウスによる場を和ますためのジョークではないことが分かった。あの男がハンサムでよかったかもしれない。少なくとも目には悪くないことは確かだ。

 

「これによって、あの男は実に恐ろしいパワーを手に入れたと言ってもいい。ハッキリ言ってしまえば、いまの若いあ奴には、老体になり衰えてきた今のわしでは勝てるかどうか怪しいかもしれぬ」

 

 ハンサムじゃない方がよかった。

 

「彼奴めは、わしの血を取り込み、そして同時に過去の自分の(インク)を取り込んだ。ハリーや、秘密の部屋での出来事を覚えているね?」

「……そりゃあ、まあ」

「では、クィリナス・クィレルが何かもわかっているね」

 

 その名が出た瞬間、ハリーの脳裏に嫌な予感が駆け巡った。

 ご冗談でしょうと目を向ければ、ダンブルドアはやはり笑っていなかった。

 シリウスが疑問を向けてきたので、説明する必要がある。

 

「シリウス。簡単に言えば、クィレルってのは元ホグワーツ教師で、ヴォルデモートを宿していた吸血鬼だ。一年と二年生のときの二回戦って、ぼくに敗れた後リドルに喰われて消滅した死喰い人だよ」

「……ハリエット、よくぞ無事でいてくれた」

 

 抱きしめられた。

 確かに言葉にしてみれば、とんでもない奴と戦ったものである。

 今であれば『身体強化呪文』や『投槍呪文』といった強力な魔法を得意としているが、初戦の時はそのような魔法などない。まったく、よく五体満足で生きているものである。

 五体満足と言えば、自分の足の事を思い出す。いつの間にか斬りおとされており、そして目覚めた今では何時の間にか生えてきている。全くもって魔法界の()()技術はわけのわからない領域に達しているようだ。

 

「その血を得て受肉したトム・リドルの魂情報をたっぷりと含んだインクを、自身の構成に使った。すなわちヴォルデモートは、吸血鬼の特性をも得ている可能性がある」

「……では、ダンブルドア。奴に弱点が増えたと考えても?」

 

 シリウスの期待するような言葉に、彼は首を振った。

 わかっていたことではあるだろうが、一瞬だけ見えた光明に縋りたかったのだ。

 

「いいや。まず間違いなく、彼は吸血鬼の情報を取り込む際に取捨選択をしているはずじゃ。圧倒的なパワーとスピード、無尽蔵とも言える体力、吸血能力。それらメリットのみを引き出して、紫外線への極端な弱さや流水への強い恐怖といったデメリットは、まず間違いなく捨てておる」

「なんだ、それは。……ふざけている。まったくもって、ふざけている……」

 

 ズルい。生物としてあってはならないズルさである。

 しかしそれが彼の目的なのだろう。恐らくヴォルデモートはこの世に存在する全ての生物、その頂点に立つつもりなのだろう。実際にそうなれば彼の野望を阻むことなど、出来ようはずもない。未来永劫、世界は彼のおもちゃと化す。

 そしてその一端を担ったのは、誰あろうこのハリエットだ。

 ハリーは嫌な顔をして、青白い肌に黒い真ん中分けの髪型をしたハンサムを思い出す。爽やかで人好きのする笑顔を浮かべながら、それでいて一切の温かみを感じられない酷薄な男。

 その男が吸血鬼の能力を持つのか。あまりにも似合いすぎていて笑えない。

 

「じゃあまとめると、ヴォルデモートの奴は全盛期の力を取り戻した上に、吸血鬼としてのメリットを手に入れ、魔導の極地に至る『魔人化』を果たしているため魔力もほぼ無尽蔵に使用することができる。……こういうことだな、ダンブルドア」

「うむ。付け加えるならば、『死の呪文』を喰らっても生き延びる何らかの方法を確保していることも忘れてはならぬのう」

「……つくづく化物だな、あいつ」

 

 果たして勝つ方法は有るのだろうか。

 もし彼がただの人間だとしても勝利する確率は低いというのに、状況は絶望的である。

 更に彼ひとりが相手ではない。彼を信奉する死喰い人どもにもまた、彼に及ばずとも凶悪かつ強力な魔法使いや魔女がいるはずである。それらを乗り越え、ボスたる彼を殺害せしめねば、英国魔法界に未来はない。いや、彼の荒唐無稽なまでの残虐さを鑑みれば人類の存続さえ怪しいものである。

 ではいかにして彼を死に至らしめるか。

 それについては全く考えが及んでいない。これからあと何年か以内にその方法を見つけ出し、なおかつそれを実行可能な実力を手に入れ、そして奴を殺さなければ。

 どうしようもなくお先真っ暗である。

 

 あの夜、何があったのか。

 ハリーを心配しながらもシリウスが聞きたがったので、彼女はその詳細を口にした。まずは情報の整理も必要である。話すことで心の整理にも、なるだろう。

 六大魔法学校対抗試合、その決勝。

 巨大迷路の中でハリーは、セドリックを除いた代表選手たち全員に襲われることになった。ビクトール・クラム、フラー・デラクール、ソウジロー・フジワラ、ローズマリー・イェイツ、バルドヴィーノ・ブレオ。特に戦闘に長けた能力を持ち、かつダームストラングと不知火という出身校からして実戦経験もあるだろうクラムとフジワラが面倒だった。

 そしてそれらを脅威的な魔力と精密操作技術で『服従』させていたのが、ディアブロ魔法学校のバルドヴィーノ・ブレオ。

 彼が死喰い人であったことを話すとシリウスが驚き真偽を問うてきたものの、試合が終わって一週間も経っていれば調査もしてあるだろう。恐らくその結果を知っているダンブルドアによって首肯、その情報は肯定された。

 

「信じられん……。ブレオは、まだ十七歳だろう? 暗黒時代にはまだ幼児であったはずだ……。両親が死喰い人だったとでもいうのか?」

「いいや、彼に両親はおらん。ブレオ家はイタリア魔法界における純血の一家であり、英国でいう闇祓いに近い仕事をしていたようじゃ。両親は暗黒時代『事故に遭って』亡くなっておる。そんな両親を持った彼が死喰い人というのは……皮肉なものじゃ」

 

 そういえば彼は最後の最期に「ハリー」と、同じ名の誰かを呼んでいた。

 きっと何か事情があったのだろう。殺してしまった今となっては、知ることはできないのだが。そのあたりの事情も加えて話したところ、ダンブルドアは哀しそうな顔をして、シリウスは無言でハリーの頭を抱きしめた。

 確かに初めて人を殺してしまったが、あの状況では仕方なかったと思う。

 軽いトラウマにはなってしまうかもしれない。だがそこまで悲観する事でもないとは思うのだ。これからハリーは死喰い人たちと戦う以上、何人を害するのか分かったものではない。

 それにリトル・ハングルトンの墓場で何人の死喰い人を巻き添えで殺ったのか、わかったものではない。敵対した以上は殺すことに躊躇しない。いまは、それでいいのだ。

 ブレオを殺害した後、ハリーとセドリックはともに優勝するため、同時に優勝杯を握った。それがポート・キーとなっていたため、リトル・ハングルトンの村にある寂れた墓場に転移してしまったのだと。

 そこで行われたのは、ヴォルデモート復活の儀式。

 先述の材料を用いての儀式召喚により、全盛期のパワーと肉体、そして吸血鬼のメリットを兼ね備えた完全体のヴォルデモート卿が降臨したのだ。

 

「ワームテール……」

 

 シリウスが憤った、それでいて寂しそうな声を漏らす。

 かつて友情を共にした友人であり、しかしその実向こうはそんなことを露ほども思ってくれてはおらず、それどころか憎悪までしていた男。裏切りの張本人であり殺人の罪を着せてきた、複雑な思いを向けてしまうには十分な理由を抱える魔法使い。

 ここに至って再びハリーを傷つけ、あまつさえヴォルデモート復活の儀式を行った当人とあらば、やはり思うところがあるのだろう。しかしそれに触れてやるには、今のハリーにはどうすればいいのかわからなかった。

 

「あとは、知っての通りだよ。セドリックと共に逃げようとポート・キーとして設定されてた優勝杯を握って、空間を転移する、最中に、ヴォルデモートに割り込まれて、そして……、」

「もういい、ハリエット。そこまでだ。それ以上は話さなくていい……」

 

 優しく抱きしめてくれる彼の体温がありがたい。

 やはり平気だの気にしていないだの言っておきながら、ハリーの中においてセドリックの死はかなりのトラウマになっているらしい。ハリーはシリウスの背中に腕を回し、非力ながらも力いっぱい抱きしめ返す。

 一緒に優勝杯を掴もうと提案したのはハリーであり、つまり彼を死に導いた遠因はハリー自身なのだ。それに気づいたときは心臓がきゅっと縮みあがって、一瞬だけ自分を正当化する情報を探してしまったほどには、最悪な気分だった。

 しかし聞かなくてはならないことが、あと一つ残っている。

 ハリーはダンブルドアへ目を向けた。

 

「ダンブルドア先生。……ディゴリー夫妻は?」

「……ミスター・ディゴリーは仕事へ戻った。何かをしていなければ、気が休まらないのじゃろう。……、ミセス・ディゴリーは現在、聖マンゴへ入院中じゃ。最愛の息子の無残な姿を見てしまったのじゃ、無理もない……」

「……」

 

 それも、そうだろう。

 家族ではないハリーでさえこの調子なのだ。

 生まれた時から、いや、生まれる前からセドリックを愛しているディゴリー夫妻ならば、気が変になってしまっても不思議はない。後を追っていないだけ立派である。

 ここ最近ダンブルドアが妙に老けこんで見えることが多かったが、いまの彼は今すぐにでも老衰で亡くなってしまいそうな顔をしている。まず間違いなく心労だろう。世界最強の魔法使いと謳われながら腹黒い面を持つダンブルドアでも、本質はそこらへんにいるただの優しい爺さんだ。子供たちの手本たる教師であろうとし、そして他者が傷付くことを哀しむ男だ。

 教え子の一人が殺され、そしてその両親が嘆き悲しんでいる様をずっと見ていたのだ。その気持ちは察するに余りある。しかしその真の気持ちは、ダンブルドアにしか分からない。ゆえにハリーは、そこに挟む言葉を持たなかった。

 

「告白しよう、ハリー」

 

 ダンブルドアがぽつりと漏らした。

 罪悪感に溢れた、ひとりの老人の顔である。

 

「わしは怖かったのじゃ」

 

 老人の過ちであると彼は言う。

 滴る涙が銀のヒゲを濡らし、より一層彼の顔に刻まれた皺を際立たせていた。

 そこに居るのは世界最強の魔法使いでも、魔法魔術学校の校長でもない。

 ただ小さな子供に罪を告げる、ただの男がいた。

 

「きみのエメラルドグリーンの瞳が感情の高ぶりによってワインレッドに変わるたびに、君の瞳の奥にあやつを見た。怖かったのじゃ。君を殺さず、生かしたことで、君を通してあやつがわしを嘲笑っているような気がした。だからわしは、わしが出るべき場面で人任せにばかりしてきた」

 

 ハリーの紅い瞳が、ダンブルドアを見据える。

 心の中に怒りはない。だというのに、老人のブルーの瞳に映る自分の瞳は紅いままだった。

 

「君に出会って以来、君を避けていたのはこれが理由じゃ。老いぼれの失態を、許さなくてもよい。ただ、君に知っておいてほしかったのじゃ」

 

 彼女に老人へ返す言葉は、やはり持っていない。

 ただただ黙って、彼の言葉を耳に入れるしかないのだ。

 無力なのは、誰もが同じことだった。

 

「わしは、老いぼれじゃ。もう君達のような若さはない。だが君には、友がおる。大切な、心を許すことの出来る、かけがえのない友達が。君はひとりではない。ひとりではないのじゃ……」

 

 また一年が終わる。

 大広間へ向かえば、そこでは学期末パーティを行っているはずだ。

 そんな中でハリーは一人、ホグワーツの中庭に佇んでいた。泥のように濁った目を空に向ける。白い雲が流れるよい天気が見える。そこに何も感ずるところはない。ただただ、ひたすらに綺麗な光景が広がっているだけである。

 よくよく見てみれば、上空を白フクロウが飛んでいる。自分がヘドウィグを見間違えるわけもない。視線を向けたことで気付いたのか、彼女もハリーのもとへと舞い降りる。

 左腕に乗せ、喉をくすぐってやれば嬉しそうにホーと鳴いてくれた。それがなんだか嬉しくて、ハリーは静かに目を細める。薄く開かれた瞼の奥からは、真っ赤な瞳が覗いていた。

 ダンブルドア曰く、ヴォルデモートへの憤怒と憎悪が消え去らぬ限り彼女の瞳は戻らないだろうとのことだ。なんともはた迷惑な男であったが、よもやハリーが自信を持っていた数少ない外見的な自慢まで奪ってゆくとは、真に女の敵である。妄想でいくら殺しても殺したりない。やはりいつかは実際にこの手で殺らねばなるまい。

 暗い笑みを浮かべて陰気にフフフと笑っていると、ヘドウィグが何かに驚いたかのように飛び立った。その様子に片眉をあげて見上げれば、黒い和服を着た少女が目の前に立っていた。

 

「……」

 

 ハリーの目をじっと見て、そして何も言わずに隣に腰を下ろしてくる。

 それに対して何も言わないまま、ハリーは目を閉じて嘆息した。一人になりたかったのに、これではその目的も達せられない。いっそこの場から去るべきかと腰をあげたところ、ふいに肩へ置かれた手に体重を乗せられたせいで持ちあげた尻がまたベンチにつく。

 今度こそ何事かと思って見上げれば、豪奢な金髪をポニーテールにした少女が珍しく真面目な顔でハリーの瞳を見つめていた。笑えば快活な彼女も、真顔でいれば美人である。

 

「……、」

 

 それに対しても何の言葉も返さないハリーは肩の上の手を振り払うと、無理矢理立ち上がろうとして、またもや失敗した。今度は後ろから伸びてきた細い手に抱きしめられ、力尽くでベンチに座らされたのだ。

 憤懣やるかたなしといった具合に首を曲げて見上げれば、銀髪の美しい少女がにこにこ顔でハリーの顔を覗きこんでいた。眉間にしわが寄るものの、意地でも反応を返さない。

 

「…………」

 

 彼女からの親愛と信頼を感じる笑顔に、ハリーは直視する事が出来ずに目を逸らす。

 すると向こうには黒髪をポニーテールにした青年と、坊主頭のがっしりした青年が壁に背を預けてこちらへ視線を投げていた。そしてその二人の間からこちらへ歩み寄ってくるのはのっぽな赤毛の少年と、ふわふわな栗色の髪の少女。

 彼らから向けられる目は、何も言葉を発さずとも、ハリーからの言葉を待っていることが分かった。この一年間でもっとも接した時間が長いであろう者たちである。

 きっと学年末の、最後のパーティに行くために呼びに来たのだろう。しかしその集まりが楽しいパーティになるかは怪しいものだ。

 なぜなら、ここに居るべき人間があと二人ほど、足りないからだ。

 一人は目の前で亡くしてしまった。一人はこの手で奪ってしまった。

 左右に座る黒髪と金髪にがっちりと腕を組まれ、背後の銀髪に抱きしめられている状態では身動きしたくとも微動だにできない。いい加減鬱陶しさより怒りが湧いてきたハリーは、袖の中に仕込んだ杖を握って無言で身体強化を発動。魔力によってブーストを得た膂力をもちいて両側の二人を振りほどき、背の少女を無視して立ち上がる。

 その際に痛みを感じたのか、小さな呻き声が聞こえてきた。それを耳にしたハリーは一瞬だけ肩を震わせるも、無視して前に歩を進める。だが、またもやハリーの行動は妨害される。目と鼻の先にまで近づいてきた栗色が、ハーマイオニーがハリーを抱きしめたのだ。

 身長差で彼女の首に顔を埋める形になるも、今はひたすらに鬱陶しいだけである。

 いい加減いらつきが頂点に達したハリーは、ハーマイオニーに文句を言うため彼女の目を直視する。怒っているわけでもないのに紅く染まったままの瞳を見て、彼女が哀しげな顔をした。

 それですら鬱陶しく、ハリーの神経を逆なでする。

 

「……ひとりで行くよ」

「だめよ、一緒に行きましょう」

 

 ことさら冷たく言ったものの、彼女らが離れてゆく様子はない。

 ハリーの知っている友人たちがこの程度で諦めるような人間ではないことくらい、彼女は知っている。だから彼らを退かすならば、力ずくでやるしかないのだ。

 だがそれが出来るのかと問われれば、無理だと即答するしかない。

 自分自身の出自がヒトではなかったというのは、軽く受け止めるにはあまりにも酷な事実だ。気にしていない、と言えばそれまでだろう。しかしハリーとしては、そんなことは口が裂けても言うことはできない。

 人間ではないことだけは、もう変えようのない事実なのだ。

 そんなハリエット人形を受け入れてくれる者が、この中にどれだけいるのか。

 

「行きましょう、ハリー」

 

 そして恐らく、彼らのうち何人かはそのことを知っている。

 問題は、信用できるかどうか。

 ロンとハーマイオニーは大丈夫だろう、そう信じることができるくらいの信頼はある。

 残りの代表選手たちは、……どうだろうか。

 ハーマイオニーに腕を組まれながら、代表選手たちも含めた全員で大広間への道を歩んだ。

 大広間の席に着く頃には、もう誰もが黙りこんでいた。

 ハリーの座った場所には誰もおらず、結果的に代表選手全員とロンにハーマイオニーとユーコがそこに座ることになる。

 ダンブルドアは彼女たちの到着を待っていたようで、壇上からこちらを哀しげに見下ろしていた。

 それに視線を返すと、ダンブルドアは口を開く。

 

「悲しい、……知らせを告げよう」

 

 重苦しい声が大広間に響く。

 ダンブルドアの話となると鼻で笑うスリザリンの生徒も、今ばかりは静かだ。下品なヤジを飛ばす者など、誰ひとりとしていない。

 

「セドリック・ディゴリーは我等の友だった。優しくて勤勉で、誠実。誰へも公平に接する事のできる、正義感の強い青年じゃった」

 

 ところどころから、啜り泣く声が聞こえてきた。

 例年ならば寮対抗によって優勝した寮旗が飾られている天井からは黒い垂れ幕が存在し、その下で少年少女たちが涙している。

 

「彼が如何にして死を迎えたのか、わしは包み隠すつもりはない。魔法省はわしに口止めをしたいようじゃが、これを隠すことは彼への冒涜であるとわしは考えておる。だからわしは、わしと同じ悲しみと喪失感を抱く君達に、真実を伝えることにする」

 

 彼は本当に慕われていたようだ。同級生たちは当然として、上級生たちも、そして彼の世話になった下級生たちも悲しんでいる。ホグワーツ生だけではない、ボーバトンや不知火の者たちすら彼の死を悼んでいる。特にハッフルパフの者たちはその全員が彼と交流をもっていたようで、全員がさめざめと泣いていた。

 何も映していないような瞳で、ハリーはその光景を眺める。

 まるで心に穴が開けられたようだ。

 

「彼は殺されたのじゃ。ヴォルデモート卿によって、セドリックは害された。我々は友に同じ痛み、同じ悲しみを感じておる。例え国や言葉が違えども、我らの気持ちはひとつであるとわしは信じておる」

 

 ついに泣き崩れた女生徒がいた。

 チョウ・チャンだ。彼女の彼に対する愛情は本物だったのだ。

 友人たちが彼女の落ちつかせるために背を撫で、抱きしめる。愛する人を失った喪失感とはどのようなものなのだろうか。ハリーもいつか、それを味わう日が来るのだろうか。

 涙は出ない。

 嗚咽も漏らさない。

 代わりにハリーは、光を宿さぬ濁りきった瞳で、虚空を見つめていた。

 

「決して、彼の死を無駄にしてはならん。いま一度、彼をたたえよう。彼の誠実さと、優しさ。勇敢な彼の心を、君たちも受け継ぐように。素晴らしい生徒であった彼の事を、いま一度心に想おう」

 

 ダンブルドアの隣で燃えていたろうそくから、灯火が消える。

 それを合図にしたかのように、生徒たちから嗚咽が漏れ始めた。

 亡き友の名を呼ぶ者。よくしてくれた他国の友を想う声。各々がそれぞれのやり方で、彼の死という痛みを乗り越えようとしていた。

 

「セドリック・ディゴリーに祈りを」

 

 最後に放たれたダンブルドアの言葉が、妙に耳の奥に残った。

 

 

 中庭に集まった生徒たちが、思い思いに言葉を交わしていた。

 その多くは再会を誓い合う言葉だったり、愛のささやきだったりと、様々だ。

 ふとハリーは、何時の間にか隣に居たユーコとローズマリーに視線を向ける。今年はハーマイオニーと大喧嘩するという、これからの人生であるかどうかもわからない一大イベントがあったため、女三人でこの面子でいる時間が多かった気がする。

 幾分かハリーの目から険が取れているのか、ふたりの態度も柔らかい。

 ハリーからの視線に気づいたユーコが首をかしげ、ローズマリーがどうしたと声をかけてくる。さて、なんと言ったものか。

 

「……ディアブロのみんなは、大丈夫なのだろうか」

 

 ハリーのこぼした言葉に、ローズマリーが眉をしかめた。

 この中庭には、各校の生徒たちが大勢揃っている。その中には当然、イタリアのディアブロ魔法魔術学校の者たちもいるのだ。

 彼らの代表選手だったバルドヴィーノ・ブレオは死喰い人だった。ハリーが殺害したその死体を取り調べたところ、右腕にあった髑髏と蛇の刺青、つまり『闇の印』が見受けられたためにその罪が確定したのだ。

 よってディアブロの人気者だったブレオの存在は、彼らにとって悲しいモノへとなってしまった。だというのに、彼らはブレオの死を悲しみ、悼んでいる。反撃の末にハリーが彼を殺害したことはさすがに伏せられているようだが、人の口に戸は立てられぬもの。どこかれ漏れだしたのか、ハリーへ突き刺さる憎悪の視線も時折感じられた。

 だが大半は、純粋に哀しみ、その死を乗り越えようとしているようだった。

 

「どうだろうな。だけどハリー、おまえが責任を負う必要はないんじゃねえか」

「それは違う、ローズ」

 

 気遣うように言った彼女の言葉に、ハリーはぴしゃりと返す。

 その強い言葉に、ローズマリーは目を見開いた。

 

「ぼくは覚悟を持って、彼を害した。彼に関係する人間から受ける憎しみも怒りも、全部背負う覚悟をしたんだ。アイツとは違う」

「ハリー……あなた強いのね」

「強かったら、殺さずに済んだと思うんだよ」

 

 ユーコの言葉に冷たく返すハリーを、ローズマリーが抱き寄せた。

 周囲から見れば、仲の良い少女たちが抱き合って別れを惜しんでいるようにしか見えないだろう。不必要な諍いまで呼ぶ必要はない。

 ハリーの額にキスをして、ローズマリーは言った。

 

「これ、あたしのアドレスと、フクロウ便用の住所だ。何かあったら絶対連絡してくれ。ハリー、遠慮とかそういうのはナシだからな。あたしはお前に頼られたいんだよ」

「こっちは私の住所。フクロウ便だと日本まで届かないかもしれないから、電話番号も書いておくよ。シーズンオフだからクィディッチ選手は暇なのよ。だから連絡してよ」

 

 ぎゅっと手を握ると同時に、それぞれアドレスの書かれたメモ用紙を握らせてくる。

 いい友達だ。ハリーの事を慮ってくれているのが分かる。

 ダンブルドアによる国の垣根を越えて友情をはぐくみ、絆を造ってほしいという彼の願いはここに達成されているのだ。この様子を彼が眺めていたとするならば、きっととても嬉しげに微笑んでいたことだろう。

 時間だ、と言うようにソウジローがユーコの肩に手を置く。

 黒い詰襟の制服にマントを羽織った彼は、ハリーを一瞥して不知火の生徒たちが集まる方へと歩みを進めてゆく。その際に気障ったらしくハンドサインをして去っていったのは、彼なりのジョークだろう。

 

「またね、ハリー。きっと会おう、きっとだからね」

「……うん。またね、ユーコ」

 

 最後に力強く抱きしめてきたユーコと別れを告げると、セーラー服のスカートを揺らして走り去っていった。ローズマリーと一緒に彼女の後姿を眺めていると、ふいに真横から抱きしめられる。

 驚いて横を見てみれば、フラー・デラクールがにこにこと微笑みながら腕を回して熱烈なキスの嵐を降らせに来ていた。その向こうでは頬を抑えたロンがぼけっとした顔で突っ立っており、不機嫌そうなハーマイオニーが隣で睨みつけていた。こいつやりやがった。

 鬱陶しそうにフラーの肩を押して離れさせるも、それでもフラーは笑顔でハリーの手を取る。

 

「アリー。わたーし、またイギリスに来ます。英語が上手になりたーいので、絶対、ぜったーい、来ます。アリー、待っててくださーいね」

 

 美しい笑顔で熱烈にそう言う彼女は、本当に来年にはまたイギリスに来ていそうな勢いである。その目論見の先に何がいるのかは、ハリーは当然知っている。 

 どこかハリーに対して気遣わしげな様子も見られるので、それを和らげるためにもハリーは冗談めかしてこう言った。

 

「それは本当にぼくのためかい? ほら、牙のピアスをしたハンサムとかが目当てなのかなってさ」

「……もう! もう! アリー、あなーた意地悪です!」

 

 頬を朱色に染めて、ボーバトンの馬車の方へと走ってゆくフラーを見送る。

 太陽の光を受けてきらめくシルバーブロンドの髪を揺らし、振り返りながら彼女はこちらへ千切れんばかりに手を振った。とても美しい、そしてほがらかな笑顔で。

 

「アリー、さようなら。わたーし、あなたに会えて、本当によかった!」

 

 馬車の中に消えゆくフラーを見送っていると、クェンティン・ダレル校長がローズマリーの名を呼ぶ。グレー・ギャザリングの生徒たちも帰ってしまうらしい。

 それを受けて、隣のローズマリーがハリーに振り返る。そしておもむろにハリーの頭を引きよせて、自分の胸の中へと抱きしめた。ぎゅうっと強く力を込めるそれを、ハリーは振りほどかない。

 

「ハリー。おまえ無茶するんじゃねえぞ。大事な奴がいなくなるってのは、もう嫌だからな。親父んときみてぇな想いをさせてくれるなよ。絶対だぞ」

「……ローズ、心配し過ぎだよ」

 

 最後にハリーの胸に軽く拳をぶつけて、あっさりと身をひるがえして去ってゆく。

 その思い切りのよさは、実にローズマリーらしい。

 結局彼女は最後まで振り返ることなくアメリカ魔法学校の生徒たちの中へと消えていった。

 ふとハリーは、隣に背の高い偉丈夫が隣に立っていることに気付く。

 見上げてみれば、坊主頭の青年がこちらを見下ろしていた。クラムだ。

 ロンが彼を不機嫌そうに睨みつけ、ハーマイオニーが少し気まずそうに照れているあたり意中の彼女への別れの言葉は告げ終えているらしい。

 

「良い友を持っているな、ポッター」

「……そうだね。ぼくには勿体ないくらいだよ」

 

 にやっと笑ったクラムは、無言でハリーに右手を差し出してくる。

 ぎゅっと握るその力は、女性に対するものとしては強すぎるくらいだ。ただの少女ではなく、ライバルの一人として見てくれているのだ。ハリーもにやりと笑って、その手を強く握り返す。

 その後は彼がダームストラング魔法専門学校の生徒たちを率いて船で帰ってゆくらしい。聞けば、校長のカルカロフは姿をくらませてしまったのだそうだ。きっと彼が死喰い人であったことに関係しているのだろう。招集の時に姿が見えなかったことから、大方逃亡生活を送っているに違いない。

 最後に不敵に笑うと、世界最高のシーカーはそれ以上言葉を重ねず黙して去っていった。

 

「忙しい人たちですこと」

「ほんとだよな」

 

 ハーマイオニーとロンの二人がハリーの隣へやってくる。

 彼女らの言うことに間違いはない。あっという間に去って行ってしまった。

 ダンブルドアの望み通りに、彼らとの絆はしっかりと育まれている。

 ヴォルデモートとハリーには、強い因縁がある。彼が造りだした人造生命であるため、寿命の心配もある。一年生の頃ならいざ知らず、いまのハリーには十七歳かそこらで死ぬつもりなどさらさらない。とにかく、機能停止時期(タイムリミット)が分からない以上はこの数年のうちが勝負だ。少なくとも在学中にヴォルデモートから情報を聞き出し、そしてそれを解決するしかハリーに生き延びる方法はない。妊娠能力についての懸念もある。彼が何を思ってハリーが妊娠できるようにしているのかも解明しなければ、おぞましい未来が待っている可能性すらあるのだ。

 負けるわけにはいかない。来年には今年のように大量のイベントや、見知らぬ新たな友人たちもいない。ドラゴンだってコカトリスだっていないだろう。だが退屈することなど有り得ない。

 ホグワーツとは、魔法界とはもとより刺激的なことでいっぱいなのだ。

 

「ハーマイオニー、ロン」

「なに、ハリー」

「何だいハリー」

 

 空を飛んでゆく馬車に和風の城、潜水艦のように徐々に沈んでゆく巨大帆船に豪華客船、何機もの木製ヘリコプターといったそれぞれの学校の生徒たちを乗せた魔法具がホグワーツを去ってゆく。

 船達は沈み切り、その姿を水中へと消す。馬車と城は優雅に飛び去り、雲の中へとその姿を消した。ヘリコプター群は最後まで派手な騒音を撒き散らして、色とりどりのカラフルなスモークだけを残していった。

 新たな友人たちが去ってゆくのを見て寂寥感を感じながら、それらを眺めつつハリーは言う。

 

「来年はやることがいっぱいだ。悪いけど君らにも、手伝ってもらうぞ」

「なにをいまさら。もちろんよ、ハリー」

「君が嫌だと言っても手伝うぜ」

 

 ハリーの言葉に、頼れる親友二人はにっこりと笑って答える。

 彼女らがそう言うことを分かっていたように、ハリーも振り返って微笑んだ。

 うなじを隠すくらいに伸ばされた黒髪に、小柄ながらも女性的に発育した身体。スパッツの上にはスカートを穿いて、上は少し袖の余ったカーディガンに包まれている。長いまつげの奥には赤々と光る、ワインレッドの瞳があった。その瞳の理由をハーマイオニーらは知らないが、この後の帰りの汽車で教えてくれるに違いない。

 彼女たち三人の間に刻まれている友情は、そう信じられるほどには強固なものだからだ。

 

 キングズ・クロス駅へと向かう汽車の中で、三人は好き勝手にお喋りを楽しんでいた。

 こうしていると、不思議とあの時のことを思い出すのも苦ではない。事情を知らない二人にも知っておいてほしくて、ハリーはあの日あったことの全てを話すことにした。優しい二人のことだ、苦痛を感じるだろう。それを知らないままでいてほしいという気持ちもあったが、きっと黙っているほうが彼女らにとっては辛いに違いない。

 そう判断し、ハリーは二人に全てを話した。代表選手たちとの死闘、ブレオの殺害、ヴォルデモートの復活、死喰い人たちの集結、セドリックの死。そして、ハリーの正体。

 思った通りにロンは怒り狂い、ハーマイオニーはハリーの代わりのように嘆き悲しんだ。

 ヘドウィグの羽根を撫でながら、ハリーは話す。これからどうするべきなのか、ということを。とにかく最優先は、ハリーの生命に関することだ。

 ハーマイオニーは出来る限りの書物を読み漁って調べると言ってくれたし、ロンは両親の伝手を使って情報を引き寄せてみると言ってくれた。

 これほど頼れる友人たちはいない。ハリーは微笑んで、ふたりに心からの礼を言った。

 

「ところでハーマイオニー」

「なにかしら、ロン」

「ずっと気になってたんだけど、その趣味の悪い小瓶はなに?」

 

 ロンが指差したのは、コンパートメントに備え付けられた棚の上に置かれたガラス瓶だ。

 その中には一匹のコガネムシが入っており、暴れることもなくがっくりとうなだれているように見える。なんだか人間的な反応をしているようにも見えるが、虫けらごときにそんな高尚な感情があるとは思えない。

 問いを受けたハーマイオニーは、彼女らしからぬいやらしい笑顔を浮かべる。

 

「それは日刊預言者新聞を読めばわかるわ」

「くだらない新聞がどうかしたの?」

「ああロン、もうむやみにハリーを貶すような記事は書かれていないわ。というか、不自然なくらい何も書かれていないわ」

 

 自分を貶す記事が書いてあったことなど、まったく知らなかった。

 知らないところで自分の評判が下がっていたことに、ハリーは微妙な顔をする。もうちょっと新聞を読むようにした方がいいかもしれない。

 

「まあ、あなたの知らないところでもうひとつの戦いを私が繰り広げていたってことよ。ちなみに、勝者はこのハーマイオニー・グレンジャーよ」

 

 勝ち誇った顔のハーマイオニーに抗議するように、小瓶の中のコガネムシがぶんぶんと暴れた。それを冷たい目で見下ろしたハーマイオニーは、無言で瓶を手に取ると乱暴に振り回す。当然のこと、中で暴れていたコガネムシは大ダメージを負ってしおれてしまった。

 哀れに思ったが、ハーマイオニーの嗜虐的な笑みを見ていると何も言えなくなってしまう。ロンに至っては少し怯えているようにも見える。目で問いかけてみれば、あとで話すといった具合のアイコンタクトを向けられた。いったいどんな戦いを繰り広げたのだろうか。

 ハリーの分からない話題がひっこめられようとしたとき、コンパートメントの扉が乱暴に開かれた。その向こうに居たのは、スリザリンの生徒。スコーピウスとクライルだった。

 

「ほーう、やるもんだねグレンジャー。それじゃまたグリフィンドールの英雄様はヒーローになったわけだ。いや、悲劇のヒロイン様気取りの、って、ちょっと待て閉めるな! 僕がまだ話してるだろうウィーズリー! 無礼なやつだな!」

 

 閉じられかけたドアをクライルが抉じ開けて、スコーピウスが憤慨する。

 ドアを閉めようと踏ん張っていたロンが吹っ飛んでゆく様子を目の当たりにしながら、ハリーはスコーピウスの姿を見る。どうにも余裕のない姿だ。いつものオールバックも多少なりとも乱れているというのに、それを気にしている余裕もないらしい。

 並びの良い白い歯をむき出しにして、スコーピウスはハリーの眼前まで顔を近づけて言う。

 

「あの始まりの日に、入学式の夜にドラコが言ったはずだ。友達は選んだ方がいいってね! そういういうのと付き合っていると、いつか身を滅ぼすと! そう言ったはずだ!」

 

 必死な彼の言葉は、どこか上滑りしていて虚しく響く。

 髪を振り乱して、何かに対して怯えた顔でハリーに向かって叫んだ。

 

「こいつら! 穢れた血と、血を裏切る者! そんな奴らは、闇の帝王が戻ってきたからにはすぐさまやられる! 犠牲になるんだよっ! ドラコじゃない、僕たちじゃあない、そういうやつらが殺されるんだ! ほぅら、お優しいディゴリーがそれを証明してい――」

 

 室内で花火が暴発したかのような爆音が、コンパートメントに響いた。

 真っ白になった視界の中でハリーはあらゆる魔法式が散乱している様を目にした。

 思わず杖を抜き放ち呪文を撃っていたのは、ハリーとハーマイオニーとロンの三人だけではなかった。他のコンパートメントから話を聞いていた者たちもまた、杖を向けて呪いを放っていたのだ。

 しかし光で眩んだ視界が晴れてまず見えたのは、倒れ伏したスコーピウスとクライルではなかった。杖を振るって魔力反応光の残滓を消し去るドラコ・マルフォイの姿だった。

 周囲で怒りと驚きの声があがるものの、ハリーはそれら一切を無視して目を見開いた。

 

「ポッター」

 

 ドラコがぽつりと声を出す。

 その薄いグレーの瞳は、まっすぐ彼女を見据えていた。

 

「物言いに問題はあれど、愚弟の言ったことに間違いはない」

「そ、そうさ! 言ってやれドラコ!」

 

 調子に乗って兄の威を借るスコーピウスが、ドラコに睨みつけられて黙りこんだ。

 恐らくこれ以上調子に乗れば、次は護ってくれないからだろう。

 ハリーはドラコからの視線を真正面から受けながら、彼の言葉の続きを聞く。

 

「帝王が復活した。そうなったからにはグレンジャーのようなマグル出身の魔法使いや魔女にとっては暗黒の時代になるだろう。それはお前も分かっているな、ポッター」

「……それがどうした」

 

 ぶっきらぼうにハリーが返せば、ドラコはそれを鼻で嗤う。

 それに腹を立ていきり立ったシェーマスが杖を向けるものの、ドラコの杖が閃いてシェーマスの杖が吹き飛んでいった。無言呪文の行使による武装解除だ。注視していなければ見逃していただろう。

 目を白黒させるシェーマスやディーンを放置して、ドラコは再びハリーに話しかけた。

 

「なに、分かっているのならいいのさ。君の力で、君の周囲の人間を、どれほど取りこぼさずに済むか……、じっくりと観戦させてもらうぞポッター」

「……それは、忠告のつもりか?」

「好きに受け取るといいよ。それじゃあなポッター、新学期に会おう。生きて会えたらね」

 

 言いたいことだけを言うと、ドラコはさっと身を翻してコンパートメントから出ていく。

 それに置いていかれそうになったスコーピウスが情けない声を出しながら、クライルを引きつれて兄の後を追う。去り際に、ハリーに向けてまるで親の敵のような目で睨みつけてきたスコーピウスの瞳が、随分と印象に残った。

 ドラコ・マルフォイの、挑発しに来たのか警告しに来たのか、わけのわからない言動に首をかしげながら周囲の面々は渋々といった具合にそれぞれの席へと戻っていった。セドリックを侮辱しようとしたスコーピウスに制裁を与えてやれなかったことが、みな不満なのだ。

 そんな中で席に残ったウィーズリーの双子達が、弟を押しのけてハリー達のコンパートメントに居座る。いったい何事かと思いきや、悪戯商品についての相談だったようだ。

 

「なあハーマイオニー、我らが秀才、可愛い子猫のハーミーちゃん」

「なによ気持ち悪いわね」

「辛辣だな! 僕たちは君の豊富な知識を頼りにしに来たっていうのに!」

 

 あからさまにハーマイオニーをおだて始めた二人の思惑は、なんとなく察せられる。

 悪戯商品の開発に難航しており、その材料などに心当たりのありそうなハーマイオニーを頼りにしに来たのだろう。しかし上手いものである。ハーマイオニーの自尊心を的確にくすぐる言葉選びを繰り出し、彼女の真面目で厳格な規則守りの精神を打ち崩しているのだ。

 モリーおばさんが彼らの将来のために阻止すべきは、悪戯専門店の開業ではなくナンパ師になることかもしれない。彼ら二人のためにも、世の女性のためにも。

 

「それで? ヒトの精神を麻痺させる植物だなんて、いったい何に使うおつもりかしら」

「「適度な発熱湿疹を誘発する『ずる休みスナックボックス』さ!」」

「正直でよろしい。では教えてあげるわ、……なんてこと! 言うと! 思ったかしら! あなた達が後輩たちを使って実験してるのは知ってるんだからね! もし来年私が監督生になったら、あなた達の悪行を阻止して見せるわ!」

「「おおっと、怖い怖い! んで、植物の名前は?」」

「教えるもんですか!」

 

 三人のやり取りに、悪戯グッズに興味のあるロンが加わって大騒ぎする。

 先程までの殺気だった空気が、まるで嘘のようだ。ロンが加わったことによって、一気にハーマイオニーの形成が不利になる。惚れた者の負けだ、いいところを見せたくなるのは仕方のないことだろう。何だかんだ言っていつもロンに宿題を見せてしまうところから、彼女の陥落は時間の問題とみた。

 後輩の犠牲者を増やすまいとして必死に抵抗するハーマイオニーが、助けを求める顔でハリーを見る。しかしハリーは、それに対してウィンクして知らんぷりを決め込んだ。

 親友に裏切られたハーマイオニーは、言葉巧みに聞き出そうとしてくる双子と、下手な話術を使ってくるロンの相手に戻らざるを得なかった。

 ぎゃーぎゃーと大騒ぎする彼らの様子を、ハリーは楽しげに眺める。

 いま必要なのはきっと、こういう光景だ。ドラコの言う力でもなく、笑顔にさせてくれるもの。帝王の復活によって心が荒む時代になると言うのならば、なによりもそれが必要ではないか。

 きっとそうに違いない。こんな時代だからこそ、楽しく笑うべきなのだ。

 ハリーは再びこちらに向けられた助けを求める視線を受けて、仕方ないなと笑って助勢に入るのだった。

 




【変更点】
・ハリーの大人たちへの信頼度がた落ち。
・ダンブルドアの秘密主義が少し緩和される。
・ハリーの謎と、タイムリミットが追加。悩め若人。
・ハリーの瞳の色が変化。
・ドラコの忠告(意味深)。

大変遅くなりました。
まず、前話において致命的なミスを行っていました謝罪をば。赤ん坊ハリー少年は、お辞儀様の死の呪文を受けた時点で死亡しております。だから魂が抜けていたのですね。それを「泣き叫んでいた赤ん坊が残った」と書いたせいで、何故生き残っていたのかということになりました。死んでいれば、愛の守護は切れているのでお辞儀憑依も出来たということです。誤解を招いてすみません。
さて、今回で炎のゴブレット編は終わりです。多くの仲間を得て、貴重な仲間を失ったハリエット。次回からは不死鳥の騎士団……原作でもハードモードになっていく巻です。
頑張れハリエット、幸せを掴み取るのだ。


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不死鳥の騎士団
1.襲いかかるダドリー


 

 

 ハリーはだらけていた。

 夏休みが始まって二週間が経っている。いたってハリーは健康的かつ不健康な夏休みを謳歌していた。朝起きてジョギングをして体力を養い、ダーズリー家含む全員分の朝食を作る。午前中の涼しいうちに机に向かって宿題を片付け、ときおりヘドウィグと戯れて遊ぶ。ペチュニアの作ったお昼ご飯を食べ終えると、暑い日差しを避けて屋内で過ごす。バーノンの目が気になってだらしない真似ができない場合は、木陰などで時間を潰すのだ。そしてつけっぱなしのテレビから流れてくるニュースを聞き、目当ての情報がなければ大人しく家に戻って寝るまで適当に過ごす。それがこの夏休みにおける彼女の一日である。

 ニュースばかりを聴いている目的は、無論のことヴォルデモートに関するニュースが流れてこないかを確かめているのだ。シリウスがアズカバンから脱走しただけで、マグルに情報を開示したのだ。ヴォルデモートが復活した以上、殺人が日常的に起こる可能性があることくらい魔法界の人間ならば子供でもわかる。ゆえに、今回もまた情報開示による報道があるだろうと考えていたのだ。

 しかし収穫は、ものの見事にゼロである。

 

『ごらんください! セキセイインコのバンジーくんが、この度水上スキーを覚えました! 夏の涼しさを克服するために編み出した高みへ至るための技術! これぞ黄金の精神……ってあれ、これ前にも放送しませんでした? あれ? セキセイインコって水の上を歩く生き物だっけ? アレ? なんだこれ?』

 

 どうでもいいニュースしか流れてこない。なんだその阿呆丸出しのニュースは。もっと重要なことがあるだろう……、鳥畜生の避暑なんぞ知ったところで一ポンドの足しにもならない。

 そんなことを知りたいわけではないのに。自分の寿命について、ヴォルデモートの動向について、知るべきことは山のようにあるというのに、こんなプリベット通りなんかにいたところで有益な情報を得られるとは微塵も思えない。

 ひとつ溜め息を漏らして、ハリーは立ち上がる。やることもなく、庭に寝そべっていたのだ。さてどうするべきか、とハリーはポケットに捻じ込んでいた手紙を開く。

 

【――親愛なるハリエット

 君の命について、調べるだけ調べてみた。申し訳ないが、前例はないようで詳しいことは分からなかった。だがこれだけは言える。いまは落ちついて、大人しくしているべきときだ。ただ、あと数日もしないうちに君にいいことが起きると予言しよう。それが何かは、その時まで内緒だ。楽しみにしているといい。 君のための騎士、スナッフル】

 

 随分と気障ったらしい文句で締めくくられた手紙だ。

 偽名を使ってはいるものの、これは愛しのシリウスからの手紙である。あまり長い手紙ではないが、ハリーはこれを何度も読み返していた。内容もないに等しいが、この手紙が言いたいことは恐らく「詳しいことは書けない」であろう。シリウスからだけではない、ハーマイオニーやロンからも似たような内容の手紙が来ている。ダンブルドアか、そのあたりが口止めしてる情報があるのかもしれない。ヴォルデモートが復活した以上、もはやフクロウ便とて安全な連絡ツールとは言えないのだ。

 個人的にはもうちょっとハッキリした内容の手紙が欲しかったが、もしそれが闇の勢力にでも奪われたりすれば致命的だ。ゆえにきちんとした手紙が来ないというのは理解できるのだが……、それでも魔法界から切り離されたかのような寂寥感は拭えない。胸の奥がじくじくと締め付けられるような感覚を覚えてしまう。

 寂しげな気持ちを押さえつけるように家へ入ろうとした、そのとき。

 バシッ、という鞭を打ちつけるような大きな音が響いた。

 それは本来そこにあるはずのないものが、空気を押し出して急速に現出するときに鳴る独特な音。すなわち物理法則にしたがったままでは有り得ない音。

 『姿現わし』の魔法だ。

 

「……ッ!」

 

 腰のベルトに差していた杖を抜き放ち、バーノン邸の壁を背にして周囲へ向ける。

 油断なく四方八方へ目を向け、魔法使いの存在を捜し回る。感覚を最大限まで鋭くして、ワインレッドの瞳をぎらぎらと輝かせる。

 この太陽も登りきった昼日中、襲撃をかけてくるとは考えにくい。しかし死喰い人がマグルなんかに配慮するだろうか。そう考えれば、目撃者はすべて消しにかかってくると考えた方が自然だ。

 ふとハリーは、自分の直ぐ真後ろから太い腕が伸ばされて自分の後頭部を鷲掴みにしたことを自覚し、心臓が縮みあがった。全く気付くことができなかった! 魔力の反応が一切ないというのに、壁から手が伸びて来たのだ。これではいくら感覚を鋭敏にしたところで、感知することなどできようはずもない。

 

「ハリーィ! その妙ちきりんなモノを仕舞えッ! 仕舞えったら仕舞えぇ!」

 

 それもそのはず、魔力を使用することのできないマグルたるバーノンの仕業なのだからむべなるかな、ハリーに気付けるはずもなかった。

 というかアンタは何を自分の家の壁をブチ抜いてまで魔法行使を阻止しているのか。『まともじゃない』ことを毛嫌いしている癖に、とんだクレイジー野郎だ。

 プリベット通りのご近所さんたちもまた驚いた顔をして此方を見ている。その視線を感じたのか、壁の向こうからバーノンが絶叫した。

 

「お気になさらずぅ! いましがたわたくしめの車がバックファイアをやらかしまして! 妻も私も姪っ子もびっくり仰天で! おぉーうオッドロキー! ははは! はは! は!」

 

 恐らくバーノンは、壁の向こうでニンマリと気が変になったかのような笑顔を浮かべていることだろう。どうかしている。そしてそんな言い訳で納得して去ってゆくプリベット通りの住人たちもどうかしている。ハリーとしては魔法界の連中と似たり寄ったりで、彼らも『まともじゃない』と思うのだ。

 すっかり周囲を警戒するなどという雰囲気ではなくなってしまったハリーは、それでも一応ぐるりと視線を一周させてから杖をベルトに仕舞う。

 ぎゃーぎゃーと騒いでハリーに文句を言うバーノンを無視してハリーは考える。

 今の音を聞き間違えるはずもない。

 突如出現した物体が元々そこにあった空気を押し出すという、自然には発生しえないはずの音。気配も、魔力の残滓もない。だがあの音は間違いなく『姿現わし』で発生する独特な音だった。

 魔力が空気に触れると魔力反応を起こして発光し、その名の通り魔力反応光となって魔法族の目に映る。それと同じく『姿現わし』をした際には必ず鳴る音が、先ほどの異音だ。何もないところに新たな物体をいきなりねじ込むのだから、物理的な反応があったところで不思議ではない、というのがマクゴナガル先生の談である。

 バーノンによって家の中へ引きずり込まれたハリーは、どうしたものかと思案する。

 ヴォルデモートが復活した以上は新しいニュースが、と思ったもののそれもない。いまのハリーには魔法界の情報が全く入ってこない状況なのだ。日刊預言者新聞でも取っておけばよかったかなと思うも、昨年の惨状を思い出して考えを改める。あの新聞は偏向報道も甚だしいため、情報源としては適切ではない。

 

「まいったな」

 

 感想としては、この一言に尽きる。

 いまハリーには何もできることがない。何もしていないのが耐えられなかったのと少しでも魔法界との繋がりを感じていたかったことが理由で、宿題は全て終えてしまっている。

 本も手持ちのものは読みつくしている。成長するにつれてハリーへちょっかいをかけなくなってきたダドリーが貸してくれたビデオテープを観るしかないくらいには暇だった。布教のつもりなのだろう、彼の思惑にハマっている気がしないでもない。

 

「頭部を破壊されたら負けかぁ。魔法に応用しようにも、人間だって頭壊しゃ死ぬわな」

 

 ジャパニーズアニメーションを観ていても、どうしても魔法のことが頭をよぎる。

 たかだか一ヶ月弱ほど魔法界から隔絶されているくらいで、ここまで弱気になってしまうものだろうか。ビデオの中のロボットが敵をブッ飛ばしたのを最後に、テレビの電源を落とす。

 ハリーは思っていたより自分が精神的に参っていることに気付き、嘆息するのだった。

 

 

 メッシーマーズ自然公園にて、ハリーはブランコを楽しんでいた。

 遠目に眺めてくる幼い少年少女の眼が不審者を見るそれであることについては、気付かないふりをした。夏休みとはいえ真昼間から公園で一人ブランコを一心不乱に漕ぐ、もうすぐ十五歳になるイイ歳した女。完全にアブナイ人である。

 彼女は静かに思う。ひょっとしたらこれは神様かダンブルドアサマがくれた、休息時間ではないかと。魔法とは完全に離れて、心穏やかに休めておきなさいということなのではないだろうか。

 そう考えついたハリーは、無理やり自分の心を落ち着かせるためにちょっと遠い場所にある公園へと足を運んだのだ。夢中になって子供のころの遊びを行ってブランコをこぐ気分は、悪いものではない。恥ずかしい女であることに目を瞑れば。

 ハリーが砂場に作り上げた砂製ホグワーツ城でお人形遊びをする子供たちを眺めながら、こういう夏休みも悪いものではないかもしれないなと自己暗示をかけて無理矢理ほっこりする。

 子供たちの微笑ましさに、ハリーも思わず頬が緩む。

 

「ふふ、世界が美しいなぁ」

「あのおねえちゃん何言ってんだろ。バカなのかな」

「放っておいたほうがいいわ、きっと失恋したのよ」

 

 クソガキどもの生意気さに、ハリーも思わず殺気立つ。

 蜘蛛の子を散らすように逃げ出した子供たちを追いかけるかどうか本気で悩み始めたハリーの頭に、急に影が差した。別に雲が日光を遮ったとは思えない。何かと思って見上げてみれば、そこには愛しのデカい豚がいた。

 ダドリー・ダーズリー。若干十五歳にてボクシング全英チャンピオンの座を守り続けている傑物である。本当にどうしてこうなったのか。そしてその周りには三人の取り巻き少年たち。兼、彼の恋人たち。……本当にどうしてこうなってしまったのか。

 

「どうしたポッター。ひとり寂しくブランコなんか漕いじゃって、お友達いないのか?」

 

 本当にどうしてこうなったのか。

 以前まではこうやってハリーに絡んでくるのはダドリーの役目であったはずなのに、今では彼の取り巻きの方がハリーへちょっかいをかけるようになっていた。

 ダドリーはというと、その様子を眺めているだけだ。何がしたいんだアイツは。

 

「ハリー・ボッチーと孤独な石ーっ。一人は寂しいポッティーちゅわぁん」

「ハリー・ボッチーと内緒の秘め事ーっ。右手が恋人かいポッターちゃん」

 

 子供のような煽りを言われたところで、特に気にもならない。

 彼らの言葉を聞き流しながらも、しかしこのままここにいては本物の子供たちの邪魔になるだろうと思い、ハリーはブランコから降りて取り巻きたちを無視して歩き出した。

 そんな態度を気に入るはずもなく、取り巻きたちがいきり立ってハリーの前に躍り出る。

 どれもこれもダドリーのいるボクシングジムの後輩たち、または彼の同級生だ。ピアーズ・ポルキスといったかつてハリーとクラスメイトだった男の子もいるが、ファイティングポーズも様になっていない。ボクシングの素人であるハリーにさえ経験不足や練習をサボった不真面目さが窺える。

 そもそも十五歳の少女を相手に、ボクサー未満のチンピラたちが構えるというのもおかしな話だ。つい彼らを鼻で笑うと、案の定ブチキレさせてしまった。

 ひょっとしなくても自分はかなり好戦的なのかもしれない。

 ロンとハーマイオニーが聞いたら呆れそうなことを思いながら、ハリーは殴りかかってきたポルキス少年に足をかけて転ばせる。肉体的にはただの少女に過ぎないハリーは殴られれば頬骨の骨折もあり得るが、彼らの動きは数々の魔法使いたちに比べればあまりに遅く、目で見て回避余裕なのだ。わざわざ当たってやる義理もない。

 無様に転がった彼の首めがけて踵を振り下ろし、彼の意識を綺麗に刈り取った。

 

「え、えげつねえ……」

「やりやがったな、女ごときが!」

 

 非力なはずの少女に仲間がやられたことで、残りの取り巻きが一斉にハリーへ飛び掛かる。

 死喰い人たちよりも遥かに鈍重なその動きを見て、ハリーは内心で舌打ちをする。これでは格闘の練習にもなりはしない。

 男の象徴たる魔法の杖へ靴底を叩き込むことで瞬く間に二人を沈めたハリーを、眺めていたダドリーは鷹揚に拍手をする。

 

「やるじゃん、ハリー」

「うるさいよ」

 

 ぎろりと赤い目を向けてくる従妹に、それでもダドリーはせせら笑う。

 彼の取り巻き程度は物の数ではなかったが、それでも彼女の動きは英国チャンプからしたら拙いものだろう。魔法もなにも使っていない今のハリーは、戦闘経験が豊富な年相応の少女でしかない。

 英国一というしがらみがダドリーをハリー狩りに走らせていないだけ、といっても過言ではないのだ。そうでなければ取り巻きに任せず彼自身が殴りかかってもおかしくはない。

 もっとも、それはハリーが魔女でなければの話だ。

 

「俺の可愛い舎弟たちなんだから、その辺にしておいてやれ」

「恋人たちの間違いじゃないのか」

「うん。まあ、間違っちゃいないね」

「……ペチュニアおばさんには同情するよ」

 

 争いごとの直後で気が立っているハリーに刺々しい返事をされるものの、それでもダドリーは怒るどころか眉を顰めすらしなかった。

 まるで大人のような余裕の姿を見たハリーは、自分の短気さを鏡で見せられているような気がして少しだけ恥ずかしくなる。英国一という称号を得てからの彼はさらに傲慢にもなって態度がデカくなったが、なんだか人間的にもデカくなった気がする。最強であるという余裕と驕り、そして責任感が彼を変えたのだろう。

 いいことのはずなのに、なんだか惜しい気がしてきた。どうもキャラが違う。

 

「そうだ、ハリー。セドリックとやらがお前のボーイフレンドかは知らないけど、夜は声を潜めなきゃ聞かれるぞ。俺の部屋は隣なんだからさ」

 

 手を出さない代わりに口を出してきた。

 その言葉に、ハリーは一瞬だけ動きを止める。にやにやと笑うダドリーが何を言ったか、一瞬だけ理解できなかった。

 

「……、……なんだって?」

「ん、違うのか? 夜な夜なセドリック、セドリックって呼んでるじゃないか。お若いねえ、ひとり寂しくシてたんじゃないのか?」

 

 ヒュパッ、と風を切ってハリーは杖を向けた。

 赤い瞳を爛々とぎらつかせて、ダドリーの眉間に杖先を突きつける。魔法の恐ろしさは彼も知っている。一瞬で余裕の態度が崩れ、その額に脂汗を流し始めた。ハリーにとってダドリーという少年はある種のトラウマであるが、しかしダドリーにとってもハリーという少女はトラウマなのだ。主に魔法の杖という存在が、彼女をそうさせている。

 

「悪かった、俺が悪かったよ。確かにそういう声を聞かれるのはいやだよな、うん」

「……そんなのシたことない。たぶん寝言だ、忘れろ」

「わ、わかった。忘れる。ピアーズたちにも言っておく」

 

 なぜピアーズたちも知っているのか。そういえばまともに聞いていなかったが、うっすらと先ほどの煽りでもそのようなことを言っていた気がする。

 彼らは夜にベッドで一体何を……と、そこまで想像してハリーは思考を打ち切った。自ら気持ち悪くなるようなことを想像する必要はないだろう。若干手遅れだったが、もう深くは考えまい。

 しかし自分はうなされていたのか、とハリーは内心でセドリックへ思いを馳せる。

 自分に好意を寄せてくれていた青年。自分に、忘れられない記憶を刻んだ青年。

 もし彼が生きていて、もし彼と付き合っていたら、きっとダドリーが言っていたような切ない思いもしたことだろう。だがそれは叶わない。未来永劫、ありえない。

 ハリーはその赤い瞳を閉じて、眉をしかめた。

 冷めていく心を自覚していると、ふと物理的に寒くなっていることに気がつく。

 いまは七月の半ば、夏真っ盛りだ。ハリーもノースリーブシャツに短パンという格好で、ダドリーに至ってはたくましい腕をさらすタンクトップである。寒くなることなど、ましてや今ハリーが見ている前でブランコの鎖が凍りついていくなど有り得るはずがない。

 

「ハッ、ハリーぃ! 悪かったよ、俺が……僕が悪かった。謝るから、それをやめてくれ! さ、寒いよ! まるで冬みたいに寒い……ッ」

「ち、違う。ぼくじゃない。ぼくは魔法なんて使ってないぞ……!?」

 

 急激に冷え込んだ周囲の状況は、まさに異常である。

 周囲に倒れて身悶えていた取り巻きたちも、恐怖に怯えて身を寄せ合い蹲っている。

 こんな現象は通常ではありえない。明らかに魔的な干渉が行われているに違いない。

 急激に霜が降りたり、寒くなったり……そして、この気分。もう二度と幸せにはなれないんじゃないかと思ってしまうような、この最低な気分。

 まさか、と思うもそれ以外に考えられない。

 ハリーは杖を振るって絶叫した。

 

「ダドリーッ、伏せろォーッ!」

 

 彼女の言うことに従ったダドリーが伏せたその瞬間、その頭上を黒いローブで全身をすっぽり隠した魔法生物が通り過ぎて行くのをハリーは目撃した。

 吸魂鬼(ディメンター)

 アズカバンにしかいないはずの闇の生物が、いまこのプリベット通りに存在している。

 由々しき事態に、ハリーは一瞬で全身の魔力を練り上げて魔法式を構築する。一瞬だけ未成年の魔法秘匿に関する法律が頭をよぎるものの、しかしその法律には身の危険がある場合には魔法を使用してよいとの一文があったことを思い出す。身の危険、それはまさに今のような状況だ。

 杖先から純白の光を溢れ出させ、ハリーは生き延びたセドリックと笑いあう光景を想像しながら叫んだ。

 

「『エクスペクト・パトローナム』ッ! 守護霊よ来たれ!」

 

 杖先から白い濁流が放たれ、ダドリーへ掴み掛ろうとしていた二匹のうち片方の吸魂鬼をバラバラにして吹き飛ばす。仲間を消し飛ばされて怒ったのか、標的をハリーへと変更したもう一体がこちらへ滑るようにして飛んでくる。

 それに対してハリーは慌てず、身を低くしてかさぶただらけの腕から逃れる。思い通りにいかなかった吸魂鬼が悔恨の呻き声を上げるも、それは間もなくして悲鳴へと変わった。蛇の尾を持つ雌雄同体の大鹿へと姿を変えた守護霊が、その立派な角を以ってして吸魂鬼を刺し貫いたからだ。

 奇声と共に霧散して消滅してゆく吸魂鬼を前に、ハリーは肩で息をしていた。

 あまりにも唐突すぎた。

 プリベット通りに吸魂鬼などと、悪い冗談にもほどがある。

 幸いにしてダドリーもあまり吸魂鬼のダメージを受けなかったようで、怯えているためかその丸太のような足を小鹿のようにぷるぷるさせながら立ち上がった。

 

「は、ハリー……いまのは? なにか、な、なにかいたのか?」

「……吸魂鬼っていう化け物がいた。今日の事は忘れた方が幸せだ」

 

 ダドリーの股座がぐっしょりと濡れていることに気付くも、そこは優しさで黙っておく。自分も同じ立場ならば、人のことを言えなかったからだ。

 努めて無視して、ハリーはポケットから出したカエルチョコを箱から出してひとかじりする。食べかけではあるが、残りはダドリーの口に押し込んだ。吸魂鬼から受けた急性幸福欠乏症の応急処置である。

 

「だいじょうぶか、ダドリー。今まで考えてたことは忘れるんだ、どうせひどい記憶だろう」

「おまえの生着替えを見てしまった悍ましい思い出なんて、二度と思い出したくないね……」

「今ここで全ての記憶を失うまで呪ってやろうか? あ?」

 

 軽口を叩けるならもう大丈夫だろう。

 腕を取って支えると、相当な体重がこちらに押し寄せてくる。胸やら腰やらがだいぶ彼に接触しているものの、まったく反応されていない。ダーズリー家最大の修羅場を見る日も近いかもしれない。遺伝子が残せないのは不毛だと思うが、本人が幸せならそれでいいのだろう。甥っ子や姪っ子の顔は見られないのかなあ、しょうがないにゃあ、とハリーは現実逃避した。

 ふとハリーは、ダドリーだけを連れて取り巻きたちを放置することに疑問を感じた。このまま彼らを残して、吸魂鬼に遭遇したら取り返しのつかないことになるだろう。おこぼれを狙って三匹目、四匹目がふらっとやってこないとも限らない。

 

「あー。きみ、子供たちから襲われてるって通報を受けたんだけど」

 

 そうしてまごついていると、いつの間に近寄ってきたのか警察官に声を掛けられた。

 いつの間にかいなくなっていた子供たちが、ハリエットお姉さんを心配して通報してくれたのだろう。有り難い話だが、いまは余計なことでしかなかった。

 別に悪いことをしているわけではないが、これはまずいかもしれないとハリーは考える。吸魂鬼によって幸福感を吸い取られたんです、なんてどこの世界の警官が信じるのだろう。

 従兄が急に倒れてしまいましてと説明しようと口を開いたハリーは、ぞくりとうなじのあたりに悪寒を感じた。直感に従ってダドリーを蹴り飛ばし、その反動でその場から大きく飛び退く。

 

「にぎゃっ!?」

「ッ、……!」

 

 ハリーは地面に転がりながらも、警察官の胸に魔力反応光が直撃した瞬間を見た。

 自分が避けたことで警官が犠牲になったことに罪悪感を感じないでもないが、それはあとにしよう。起き上がると同時、杖先を反応源へと向ける。ハリーたちを攻撃した魔法使いがいるはずだからだ。

 

「『ステューピファイ』ッ!」

「ッ、『プロテゴ』ォ!」

 

 赤い魔力反応光が空中を疾駆して、ハリーの出現させた盾に阻まれる。

 防御に成功した直後、全力でその場を飛びのくと一瞬前までいた場所に二筋の魔力反応光が突き刺さった。色はシアンとグリーン。前者は視たのが一瞬だったため何の魔法か解析までには至らなかったものの、後者は分かりやすい。『死の呪文』だ。

 杖を持っていない左手を地について、残る右手を振って『身体強化呪文』を発動する。瞬間、地を蹴って死の呪文が放たれた方向へと駆け出す。

 

「チィ!」

 

 ハリーの進行方向から舌打ちと共に再び死の呪文が放たれた。

 姿が見えない以上なんらかの手段を用いて透明化しているらしいが、魔法発動の瞬間を見せたり声を出したりと、あまり隠れる気はないらしい。決して軌道が一直線にならないよう不規則に駆けながら、ハリーは標的の元まで距離を詰める。

 動揺と焦燥が伝わってくるも、容赦をすればやられるのはこちらだ。

 

「『ラミナマグヌス』、大刀よ」

 

 尊敬するライバル、ソウジロー・フジワラ。

 剣の達人である彼の動きを真似、ハリーは風すら断ち切る刀と化した杖を振るう。ひと振りに二度の剣戟が閃く。その剣閃は死喰い人の右足と、彼の持つ杖を右手ごとスライスした。

 

「ぎゃ、あ――」

「まだこれだけか」

 

 いまのは本来ならばあともう一回斬ることができた技だ。

 しかも本来は身体強化魔法など必要としないものである。己の未熟さに舌打ちして、ハリーは片足片手を失ってバランスを崩した死喰い人を蹴り飛ばして遠くへ追いやる。

 その反動を利用してもう片方の死喰い人へと詰め寄れば、彼は慌ててズボンのポケットから杖を取り出しながら、何かを口走った。呪文ではないし、英語でも日本語でもない。ハリーは詳しくないが、おそらくイタリア語あたりだろう。

 様子を見るに、彼はおそらく最初の一人でハリーがやられると思っていたに違いない。だから杖も出さず、あれだけ泡を食っているのだ。どうにも不注意な男である。

 しかしこちらには関係ないので、彼を袈裟にバッサリ斬り捨てた。

 

「アァァアアアイッ!? マンナァーッジャァア! アイッ、アィウート!」

「何言ってるんだかわからないな」

 

 返す刀でトドメを刺す。

 殺してはいないが、両手首から先を断ち切ったので魔法使いとしてはもう再起不能だろう。

 二人目を処理し終えた直後。視界の隅で魔力反応光が閃いたのを視認し、ハリーは咄嗟に地に落ちた自分の両手に向けてなにやら叫んでいる二人目の影に隠れると、イタリア男の胴体に緑色の閃光が直撃した。

 ごとりと顔面からアスファルトに崩れ落ちた男は、どうやら死んでしまったらしい。

 かわいそうに、と見向きもせずハリーはその男の影から飛び出し、身体強化の魔力配分を重点的に脚へと流し込む。一瞬前よりも格段に素早くなったハリーは、移動先を予想して放たれた死の魔力反応光を置き去りにして術者へと詰め寄る。

 どうやら女性らしい眼前の死喰い人からすると、いきなりハリーが目の前にワープしてきたように見えたことだろう。驚きの声をあげた彼女の顎に、靴底をプレゼントした。

 白い歯と鼻血が飛び散り、彼女の舌らしきものが宙を舞う。身をひねって回し蹴りを彼女の脇腹へ叩き込めば、面白いように吹き飛んで電柱へとその身を叩き付けた。ずるりとゴミのように地面へ落ちた彼女からは、もう意識が消えていることは間違いない。

 

「……さすがに、帝王の作った人形なだけはある」

 

 バリトンボイスで落ち着いた褒め言葉が聞こえたので、ハリーはそれに言葉を返す代わりに武装解除の呪文を飛ばした。その反応光を避けるためにバリトン男はその場から素早く飛びのく。

 強化された足を酷使して彼が着地するであろう地点へ先回りし、彼の腹に向けて靴底を放つ。しかしそれは彼の展開した盾の呪文によって妨害されたので、魔力盾を足場代わりにして今度はハリーが飛びのく番だった。

 

「……」

「やれやれ、とんだお転婆姫だ。落ち着いて話もできやしない」

 

 改めて見てみれば、黒いローブに同色のフードを目深にかぶった男が、バリトンの彼を含めて二人いる。

 バリトン男はブロンドを短く刈り込んだ、軍人のようながっしりした体格の男性。もう一人はかなりの細身で、背の高いひょろっとした男。こちらはフードを目深にかぶっているため、顔はよくわからない。しかしフードから除く割れた顎を見る限り、こちらは若い男性のようだった。

 わざわざプリベット通りまでやってきて、ハリーを殺しに訪れた死喰い人は合計五人。仲間を三人倒されてなお隠れている理由はないだろうから、ハワードのような狙撃魔法の使い手(スナイパー)はいないだろう。だが警戒するに越したことはない。

 ハリーは十分に気を配りながら、バリトン男へと声をかけた。

 

「死喰い人がマグルの街に何の用だ? ゲームソフトでも買いに来たか」

「低俗なマグル用品など買うわけがなかろう。だが、貴女を殺すためでもない。我々はただ会いに来たのだ、ハリエット・ポッター」

 

 名を呼ぶときにわずかな嘲りの色が見えたのは、ハリーが人形であることを知っているからだろう。見ず知らずの人間にバカにされたところで悔しくもなんともない。

 ハリーは無反応を貫くことで、彼へ話の続きを促した。

 

「……ふん、まあいい。要件としては単純なものだ、繰り返すが我々は君を殺しに来たわけではない」

「それはそれは」

 

 死の呪文を撃つような奴を連れてきておいて、いけしゃあしゃあと。

 しかし相手が話し始めたのはこちらにとっても都合がいい。プリベット通りに死喰い人が出没するなど、恐ろしいことだ。あってはならないことが、起きている。

 だが、どうやって? ダンブルドアから聞いた話では、血縁の家に住まわせることで死喰い人たちからは手を出せないような守りの呪文がハリーにかけられているとのことだった。

 それがダーズリー家の中だけなのか、それともマグル界という広い範囲での話なのか……。そこまではわからないが、ハリーが夏休み中などダーズリー家で寝泊まりしている以上は手出しできないはずだった。

 彼らはそれを破ってここにいる。その意味をよく考えなければならない。

 

「貴女は人形だ。闇の帝王に作られた肉人形に過ぎない」

「うん、それで?」

「しかし考えようによっては、貴女は帝王の娘であるともいえるのだ」

「そうかい、『ステューピファイ』」

「つまり我々は――って、かなりのお転婆ですな!」

 

 話の途中でハリーは杖を振るい、四人目の眉間へ魔力反応光を射出する。

 バリトンボイスの死喰い人が驚異的な反射神経でそれを避けたことに、ハリーは舌打ちした。わざわざ戦闘中に話を持ち掛けてきたというのに要件をズバッと言わないので、このまま話を続けさせるのは不利益であると判断したのだ。

 すでに何らかの手段で仲間を呼び寄せていて、その時間稼ぎとも限らない。

 それに聞きたいことは何も彼が喋ってくれるのを待たなくてもよい。

 ウィンバリーあたりに連絡を取って、体に聞いてもらえばいいのだ。

 どちらにしろ死喰い人の死体も出来上がっている以上、闇祓いたちへ連絡を取らねばなるまい。さらにハリーは未成年でありながら魔法を使っている以上、魔法省がそのことに気づかないなど有り得ない。

 

「無駄だ、その女に人の道理は通じない」

 

 もう一人の若い死喰い人が、落ち着いた声でバリトンの死喰い人へ声をかける。

 まるでハリーのことをよく知っているかのような物言いに、彼女は眉をひそめた。

 

「そいつは戦いに快楽を見出しているタイプだ。力によって叩き潰してからでないと、話を聞くはずもない狂人だよ」

「闇の帝王なんて名乗ってる子供みたいな犯罪者に狂ってる人たちが、よくもまぁそんな風に言えるもんだね」

 

 カチンときたハリーが言い返すと、若い死喰い人はそれを鼻で笑った。

 忠実な死喰い人ならば激怒する文言であるそれはしかし、彼らの感情を揺らすには至らなかった。ヴォルデモートも随分と人望がないものだと呆れるが、どうやら彼らの事情は違うらしい。

 

「僕は彼の力を目当てに死喰い人になったんだ。目的を果たすためには、どうあれ力が必要だからね」

「そのために金魚の糞か。ご苦労なことだね」

 

 今度は挑発の意味ではなく、思ったことが口に出た。

 バリトンボイスの方はイラッときたようだが、若い方はどこ吹く風である。

 彼の感情から唯一察することができるのは、終始ハリーの事を嘲っていることだけだ。

 

「そうさ。僕は君のために力を必要とし、そして得た」

 

 そう言うと、彼は懐から一本の杖を取り出した。

 三〇センチ近い長さで、随分と太い杖だ。ハリーはその杖をどこかで見た気がしたが、杖を取り出されたことで身構える方が優先であった。拳銃と同じでほとんどの場合は杖先を向けなければ魔力反応光を射出できないが、ハリーは知らないが例外となる魔法もあるかもしれない。殺し合いの最中なのだ、警戒するに越したことはない。

 

「おまえと会うこの時を、どれほど待ち望んだことか」

 

 彼はそう呟くと、禍々しい魔法式を織り込んだ魔力を一瞬で練り上げた。

 予想に反して彼はその杖を優雅に、しかし複雑怪奇に振るうと、そこから漆黒の闇が溢れ出した。闇は徐々に白銀の輝きを織り交ぜ、彼が掲げた左手に集まって形を成す。

 そこに織り成されたのは、髑髏であった。

 死喰い人たち共通の仮面である髑髏ではない、何かの動物を模った仮面だ。ハリーは動物に詳しくないため何の動物かまではわからないが、イヌ科の何かに見える。

 

「この仮面は死の形だ。仮面とは元来、動物を模った顔を被ることでその力を得ようとした古代マグルが生み出した文化らしいな。それと同じこと」

 

 つまり、力を得たい対象を模した仮面を被れば、その力を得ることが出来る。

 口を動かしながら、若い死喰い人はもう一度杖を振るうと自分の着込んでいた漆黒のローブを闇へと霧散させた。全身のあちこちにポケットのついた、まるでマグルの軍人のような服装をしている。編み上げブーツで足回りを自由にし、走りやすくしていることからハリーと同じく前衛型の魔法使いと見た方がいい。

 仮面を顔の前に構えて隠しているので、フードが消え去った今も彼の顔を覗き見ることはできない。しかしその癖の強い黒髪を、ハリーは間違いなく見たことがあった。

 

「僕は復讐のために舞い戻った。ハリー・ポッター、僕の名を刻んで、そして死ね」

 

 彼が頭を上げてその顔を街灯の下に照らしたとき、ハリーは思わず杖を取り落しそうになった。

 好き勝手にあちこち飛び跳ねた黒い癖毛、彫りの深い顔立ち。すっと通った鼻は彫刻を思わせる綺麗さだった。目の色は美しいエメラルドグリーンだが、それは泥のように濁っている。

 見覚えのある顔だった。忘れるはずもない。

 あの目は、毎日鏡で見ていた目だった。忘れられるはずがない。

 忘れてはいけない。

 彼をああいう人間にしたのは、このハリエットだからだ。

 

「僕の名前はハロルド・ブレオ。兄バルドヴィーノの仇としてお前を殺す」

 

 因果が、追いついてきた。

 巡り巡ってハリーのもとへとやってきた、殺意の連鎖。

 かつてハリーが生き残るために殺した男の呼び声が、いままさに聞いているかのように蘇った。彼は「ハリー」と呼んだ。ハロルド。その愛称はハル、またはハリー。彼は死に際に、遺して逝く弟の名前を囁いたのだ。

 瞬間、ハリーの頭に上った血が全て引いていった。

 

「復讐だ。正当なる復讐だ。家族を奪った女へ、家族を奪われた僕が復讐する。同じことをしてやりたいけど、お前には兄や家族どころか血族なんて存在しない。だからってお前の友達を殺すのは正当じゃあない。フェアじゃない。だから僕は、お前を殺す。女として、人としてお前を殺すには、どうしたらいいか。ずっと考えていたんだ。指の骨を一本一本へし折って、手足を焼き潰して、犯して、髪の毛を全部抜いて目と鼻と耳と舌を潰してからもう一度犯して、はらわたを引きずり出して殺してから死体をオークに犯させて、ぐちゃぐちゃの肉塊をホグワーツ城のど真ん中に投げ捨ててやる」

 

 憎悪と狂気。愛する兄を失った青年が紡ぐ言葉のすべてに殺意が籠っていた。

 ブレオを殺したのはハリエットだ。ハロルドをあんな鬼へ変えたのもハリエットだ。

 

「僕はお前を殺す権利がある。殺す、殺してやるぞポッター」

 

 仲間の死喰い人が慌てて止めようとするのも振り切って、ハロルドはハリーへと歩を進める。

 その昏く濁った瞳を隠すように仮面をつける。そこでようやく分かった。

 あの仮面は狼だ。人狼を模った仮面なのだ。

 

「『モース・ウォラトゥス』、死の飛翔」

 

 ハロルドが呪文を呟くと、彼から感じられる魔力の質がガラッと変質する。

 まるで安らぎの揺りかごのような、それでいて凍りつくような悪意の闇と同じものに。この魔力には覚えがある。あの日、あの時の、ヴォルデモートの魔力だ。

 

「『アバダマヌグス』、死の剣」

 

 ハロルドが呟くと同時、彼の杖からは緑色の閃光が伸びて一メートルほどで収束した。

 まるでSF映画に出てくるビームソードのようなそれは、おそらく本当にそれと同じものなのだろう。死の呪文を使い、その魔力反応光を手元で留め、棒状に収束させた魔法。

 剣と同じように振るうために編み出された、近接魔法戦闘における最強呪文。

 掠っただけで死を意味する死の呪文を、目の前で振り回すのだ。

 それはまさしく死の権化である。

 

「死ね、ポッターァ!」

 

 おそらくあれがハリーの想像通り収束した魔力反応光であるならば、実体剣で防ぐのは厳しいだろう。あの光剣は例えるならばホースから噴き出た水だ。水を切ったところで二つに断てるわけがないように、あれも同様の感覚で防御は不可能であると考えられる。

 眼前まで迫ったそれを上体を逸らすことで躱し、ハリーはカウンターで武装解除呪文を叩き込む。しかしハロルドも漲る殺意を以ってしてその魔力反応光を躱し切る。ぎらついた瞳はハリーへの憎しみを雄弁に物語っていた。

 

「確かに、君にはぼくを殺す権利がある」

 

 そうつぶやきながら、ハリーは武装解除を放つ。

 光剣でそれを切り払いながら、ハロルドは激高して叫んだ。

 

「なら死ね! ここで死ね! 僕に殺されろ!」

「断る」

 

 冷たく言い放ったハリーの言葉に、彼は獣のような咆哮を上げる。

 ブレオを殺したことを、ハリーは今でも思い出す。彼が今わの際に囁いた言葉は、愛する弟の名前。バルドヴィーノ・ブレオがなぜ死喰い人になったのかを、ハリーは知らされていない。きっと知ることで不都合があると判断されたのだろう。

 そう、例えば弟を人質にしてハリーを殺すよう命じられていたとか。

 もしそうだったならば、ハリーの心は罪悪感で押しつぶされるだろう。いまもその可能性を想像するだけで胸糞悪くなってくる。悪ではない人間を殺してしまったのだ。そして家族を殺された憎悪をはらんで、次は弟が殺しにやってくる。

 当たらずといえども遠からずといったところだろう、ヴォルデモートの考えそうなことだ。

 

「君はぼくを殺す権利がある。君のお兄さんを殺したのはぼくだ、なら君には敵討ちという大義名分がある」

「ならば死ね! 疾く疾く死にさらせ! なぜ断る!?」

「だって死にたくないからさ!」

 

 大真面目な顔でそう答えるハリーに、ハロルドは光剣を振り回して飛び掛かる。

 その動きは怒りのあまり直線的で、身体強化によって動体視力までもが強化されているハリーにとってその回避は容易である。すり抜けるように一撃を避けたハリーは、逆手に持った杖を遠心力を利用してハロルドの脇腹に突き刺す。

 苦痛の叫びを漏らすハロルドに構わず、ハリーはそのまま無言呪文で『武装解除』を放った。体内にぶち込まれた魔力反応光は彼の身体を大きく吹き飛ばし、電柱を一本なぎ倒して芝生の上を転がった。

 深いわだちを作り出した向こうで、盛り上がった土を枕に倒れ伏すハロルドへハリーはなおも杖を向ける。

 

「『ステューピファイ』ッ!」

「チッ。『プロテゴ』、防げ」

 

 トドメを刺そうとしたハリーに向かって、横合いから失神呪文が放たれた。

 直前でそれに気付いた彼女は盾の呪文を行使して、深紅の魔力反応光を防ぎ切る。

 敵対する意思がないなどと話しかけてきた死喰い人からの魔法だ。

 

「ここは退くぞ、ハロルド」

「ふざけるなよジョン! 僕はあの女を――」

 

 ジョンと呼ばれたバリトンボイスの死喰い人は、左手でハロルドを制する。

 静かな動作であるそれはしかし、相応の威圧感を伴っていた。そこにきてハリーは、目の前の男の実力を測り違えていたことに気づく。ジョンはハロルド以上の力を有しているのだろう。

 相も変わらず余裕を見せつけるような動作で、ハリーに向き直る。

 

「若輩が失礼を致した。彼と貴女は因縁深き相手のご様子だが、我々は今回本当に会いに来ただけなのだよ」

「それを信じろと?」

「貴女がいま生きていられる時点で、真実であると判断していただきたい」

 

 ずいぶんむっとする物言いである。

 傲慢であると評されても仕方あるまいが、ハリーは己をある程度の力を有する女だと自覚している。それは眼前の死喰い人ふたりを相手にしてなおかつ勝利を疑わないほどには、パワーと魔力を蓄えてきたつもりだ。

 しかし彼の実力を先ほどまではまったく見抜けなかった。

 生かしておく必要はなく、むしろこの場で帰す方が危険だろう。

 

「『エクスペリ――」

「やれやれ、やはりお転婆姫のようだ」

 

 ハリーが杖を振り上げ、西部劇の早撃ちのような体制で呪文を叫ぼうとしたその瞬間。ジョンの手のひらへ、光を反射する黒い何かが飛んでゆくのが視界に入った。

 テレキネシスのように手の平へ収まったそれは、拳銃である。思えばそれが飛んできた方向は、最初に気絶させられた警察官の倒れている方角だ。

 まさかここにきて拳銃とは! 盾の呪文でなんの神秘も孕んでいない弾丸など容易に防げることは百も承知だろうに、しかしジョンはその拳銃を発砲した。

 倒れ伏すダドリーへ向かって。

 

「――ッ! 『プロテゴ』ォ!」

 

 慌てて盾の呪文を張り巡らせて、三発の銃弾を空中で制止させる。

 防げたのはまったくもって幸運である。身体強化の魔法によって動体視力や杖を振る速度が大幅に強化されていたことと、すでに盾の呪文を使うために魔力を練り終えていたこと。

 このどちらかでも欠けていればダドリーの姿は、見るも無残な今後二度とミートパイを食べられないであろう姿になっていたに違いない。いくら身体強化の魔法で反応速度が上がっているとはいえ、銃弾の速度は脅威であることに違いはないのだ。

 追撃を恐れて二人組へ杖を向ければ、すでに半分消えかかっていた。人体が物理法則を無視して消え去ったため、空いた空間へ空気が吸い込まれる独特な音。『姿くらまし』をする二人組の姿は、瞬きするよりも早く消え去ってしまったのだった。

 

「……さて、どうしようか。これ」

 

 倒れ伏したダドリーと、その恋人……もとい取り巻きたち。

 取り巻きは放置でいいだろう。問題はダドリーだ。このまま彼を放っておいたら、バカ親……、もとい馬鹿な親……失敬、親馬鹿であるダーズリー夫妻の怒りが目に見えている。

 たとえどのような言い訳をしたところで聞く耳持つまい。

 なんというか、もうこれ帰りたくない。

 

 

 バーノン・ダーズリーは激怒した。

 必ず、かの邪知暴虐の魔のつくアレを操る姪っ子を除かねばならぬと決意した。

 バーノンには魔法はわからぬ。バーノンは、穴あけドリル製造会社の社長である。ハンバーガーをおやつと称して食べ無能な部下を叱り飛ばして暮らしてきた。

 

「だっ、だっ、だっ、だっ、だっ、だっ、ダッダーぁぁぁあああああ!? 何があった!? 英国チャンプたるおまえにいったいぬぁぁぁぬぃぐぁあっとぅぁぁあああああああああ!?」

「お、おじさん。早く彼に、甘いものを……チョコをあげて。治療薬になる」

「チョコレート欠乏症で全身がズタボロになるかァ!? そんなチョコバナナ! いやちがった、そんな馬鹿な! ばぬぁーぬぁぁぁ!?」

 

 けれども魔のつくアレに関しては、人一倍敏感であった。きょう未明、子を愛する親馬鹿の気持ちを以ってダドリーを迎えるためバケツサイズのヴァニラ・アイスクリームを抱えて玄関を開けたところ、息も絶え絶えの息子と姪が立っていたのだ。

 二人とも疲労困憊しており、どちらがどちらを支えているのかもわからなかったが、少なくともひ弱で脆弱で異常で華奢で非力な姪っ子が、我が息子の屈強な肉体を支えきれるとは思えない。

 迷わず姪っ子を突き飛ばして、廊下を転がって行った彼女を努めて無視して愛息子をリビングへと誘導する。穏やかな心を持ちながら脂肪を蓄えた企業戦士たるバーノンとて、息子の巨体を支える腕力はないのだ。

 ペチュニアが金切声をあげて、ダドリーへ突進して抱きしめる。バーノンはその衝撃で弾き飛ばされ、廊下を転がって行った。

 

「やぁおじさん」

「うるさい」

 

 玄関ドアの下で団子になっていた姪っ子と仲良く並んだ大黒柱を放置して、ペチュニアはダドリー坊やの検分を始めた。特に欠けたりパーになったりはしていない。多少目がイッちゃってる気もするが、凛々しいお顔もいつも通りだ。

 よって原因は何かと『まともじゃない』ことが起きればそこにいる、この少女に違いない。バーノンは勢いよく起き上がると、いまだに転がったままのハリーの首根っこを掴んで持ち上げる。片手で十分なほど軽いが、しかし思っていたより重みがある。彼女も成長しているということだろうか、育てる側としてはちょっとだけ感慨深いものである。

 おっと、情に流されるところであった。バーノンは気を引き締めて凛々しい顔をさらに大真面目にしかめ(ハリーが噴き出した)、彼女のタンクトップが伸びきるのも構わずに猫のようにリビングへと持って行った。

 

「やめっ、こら! おじさん、下着見えちゃうって! セクハラだよこれ!」

「うるさい! おまえなんぞのブラジャー見たところで屁でもないわ!」

「バーノン、年頃の女の子ですよ。もっと紳士的に」

「……面白いやつだ。掴むのは髪の毛にしてやる」

「バーノンッ!」

「……あれは嘘だ」

 

 のわぁぁと短い悲鳴を上げてリビングの床に放り出されたハリーは、すっかり伸びきってしまった自分の服を見てため息をつく。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。

 死喰い人が強襲してくる可能性があったとはいえ、このプリベット通りには近寄れないはずなのだ。死喰い人の身に着けている《闇の印》とはそういうものだ。ハリーの身体に刻まれている愛情の魔法は、あれを否定して拒絶する。

 では闇の印を刻んでいなかったのだろうか。ハリーはそう考えるも、その可能性を即座に否定する。それはないだろう。ヴォルデモートへの忠誠の証であるアレを、彼自身が刻ませないというのは考えられない。

 それにあの男が、印を身に着けることを拒否する者を配下に選ぶはずがないのだ。双子の片割れのように彼の気持ちが理解できるハリーゆえの考えである。

 さらに言えば、吸魂鬼(ディメンター)が襲ってきたのは完全に予想外だった。あれは闇の生物とはいえ、魔法省の管理下に置かれている子飼いのペットのはずである。だというのに、マグル世界にまで飛翔してきて待ち焦がれた恋人へするようなキスをハリーへ贈ろうとしてきた。

 魔法省よりもヴォルデモート側についたと見るべきなのか? しかし一人では判断する材料がなさすぎる。あんなモノがヴォルデモートの手に渡れば、由々しき事態という言葉すら生ぬるい。

 唯一の対抗策である『守護霊呪文』は、恐ろしく難易度の高い呪文だ。

 これは何としても、ダンブルドアへの報告が必要だ。ハリーひとりでは、ダーズリー家の面々を護り切ることなど不可能である。

 

(……あ? ……、え? あれ?)

 

 そこまで考えて、ハリーはふと己の思考に疑問を持つ。

 いまぼくは、なんと考えたのだろう。自然とダーズリー家を護ると考えなかったか。

 あんな仕打ちを受けてきたというのに、護るだと? なにをばかなことを。それを、あんなにも自然に護るなどと……、どうかしている。『まともじゃない』。

 自身の考えに囚われ、ぐるぐると巡らせていたハリーは目の前に来ていたものに気付かなかった。なにか生暖かいものを顔にばさりと吹っかけられたことで短い悲鳴をあげるほどに驚き、慌てて杖へ手を伸ばしながら前を見てみれば、そこには一羽のふくろうが飛んでいた。

 きっちり手入れのされた羽根を自慢げに広げるモリフクロウは、その足に括り付けている手紙をハリーに取ってほしくて仕方がないようだった。恐る恐るそれを手に取ったハリーは、それが手紙であることをようやく理解した。

 

『あー、あー、おほん。ハリエット・リリー・ポッターさま宛てですわ』

 

 手紙がペーパークラフトのように変形すると、口紅を引いた女性の顔のような形状に変化して喋りはじめる。それにびっくり仰天したのはバーノンだ。ぷぎーと悲鳴を上げて、愛息子を隠そうと四苦八苦し始めた。

 ペチュニアもとうに夫の巨体に隠れており、ぽかんと口を開けて見守っているのはダドリーとハリーだけだ。そんな一家の大慌ても意に介さず、手紙は自身に書かれた内容を読み上げ続ける。中年女性であろう落ち着いた声だ。

 

『このたび魔法省が観測したところによりますと、貴女は本日午後六時二十三分、貴女様はマグルの面前で守護霊呪文を行使したことが把握されております。これは未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令の重大な違反であり、そしてこれは以前の国際魔法戦士連盟機密保持砲の第十三条を違反しているため、二度目の警告でございますわ。よって、あなたをホグワーツから退校処分とさせていただきます。詳細は追って連絡を。ご健勝をお祈りいたしますわ。魔法省、魔法不適正使用取締局、局次長マファルダ・ホップカーク』

 

 一通り読み上げると、手紙は自らを引き裂いて紙屑へと化した。

 ご丁寧にもリビング中に響き渡らせてくれたので、バーノンの引きつった顔がにやにやとしたいやらしい笑みに変化しているのがよくわかる。「自業自得だ」と彼は得意げになって言い放つ。

 ホグワーツを退学だって? 冗談じゃない。あそこはぼくの家だ。

 ハリーはパニックになりそうな頭を、無理やり冷やす。よく考えろハリー。

 言い方は悪くなるが、ホグワーツがハリー・ポッターを退学にしたらいったいどういうことになるのか。実際にはただの肉人形だったが、世間体としては生き残った男の子なのだ(いまだにハリーと初めて顔を合わせる者は、少女であることに驚く。ダンブルドアの情報操作は完璧だったようだ)。それを退学にするなど、各方面から色々と手紙が飛んでくるだろう。

 

「だいたいなんだってダドリーがこんなことに!?」

「吸魂鬼に襲われたんだ。奴らはマグル……つまり魔法使いじゃない人には視えないけれど、その幸福感を吸い取る怪物だ」

「無理だ、信じられん。そんな『まともじゃない』モノが存在するなど、有り得ん」

 

 バーノンの言うことにも応えてやらねばなるまいと思い、ハリーは分からないだろうと考えながらも彼の問いに答えた。

 案の定、吸魂鬼の存在すら信じなかったが、それはそれで構わない。息子がなにかに襲われて憔悴しているというのならば、父親の彼が心配して当然なのだ。

 

「ぼくだって遭遇するまでは信じられなかった。でも、奴らは実在する。ぼくにはダドリーの心を当てることができるよ、幸福欠乏症のせいで『この先二度と幸せにはなれない』と思っているだろうね」

 

 ハリーの言葉に、バーノンが息子の顔を見る。

 弱弱しく頷いた彼の顔を見て、その赤ら顔が青く染まる。

 彼を守るために魔法を使用したが、そこまで言う必要はないだろう。未成年魔法保護法の違反ではあるが、そこに関してハリーはあまり心配していなかった。

 

「決めたぞ。出て行ってもらう」

 

 今回の魔法使用は、ダドリーというマグルの目の前とはいえ彼を護るため、そして自身の命を危険から救うため行使したに過ぎない。未成年魔法保護法には、未成年魔法使いに対する妥当な制限に関する一八七五年法などがある。これの七条には、生命を脅かされる場合といった例外的な状況に限って、魔法の使用が容認されていることも明記されている。

 つまり今回のハリーの状況は、この七条が適用されるはずなのだ。よって、この退学通知は取り消されるに違いない。というか取り消してくれないと困――、

 思考が一旦停止する。バーノンが言った言葉を理解するのに、時間がかかった。

 

「……なんだって?」

「聞いてなかったのか? 出て行ってもらうと言ったんだ」

 

 勝ち誇ったバーノンの声を右から左へすり抜けさせていたところ、聞き逃せない内容であったことにハリーは驚く。口髭を引っ張りながら、バーノンは言った。

 

「ダドリーはパーになってしまう。ふくろうは飛んでくる。我が家の休日はめちゃくちゃになる! おまけにお前が、魔ほ……名前を言ってはいけない魔のつくあのアレで、ダドリーをパーにしたことは、今目の前で頭のおかしいコンコンチキ魔なんとか省の手紙が言っていたじゃないか。つまりわしらにとって、お前を家に置くことは害悪でしかないということだ」

「ぼくはダドリーを救ったんだけど」

「だまらっしゃい! 見ろ、パーになっているじゃないか! 我が家の可愛いダッダーが、パーだぞ!? 英国ボクシング界にとってもパー! 大きな損失パー!」

「そりゃそんな巨体なら、巨大な損失だろうさ」

 

 実の息子に向かってパーパー騒ぐのもどうかと思うが、今はそれを置いておいてもいい。

 ダーズリー家にいられないのは困る。愛の魔法はハリーが家だと思うところにいる限り有効だとされているのだ。つまり、ハリーはなんだかんだ言ってダーズリー家を帰るべき場所だと思っている。そうである以上は、この家にいなくては魔法の恩恵を受けることができないのだ。

 いまは、出ていくべきではない。

 

「でも、悪いけれど。出ていくのは無理かな。もう少しいさせて」

「ならん! 出ていけ! 出ていけ! 退学になった以上は穀潰しだ! そんな怠け者をうちにはいさせられない! 出ていけ! 出ていけ! 出てい、ふくろうだ!?」

 

 いつの間にやら家へ侵入していたのか、バーノンの頭にとまったモリフクロウは左足を差し出してぜいぜいと息を吐き出している。

 どうやら先ほどのモリフクロウとは別のフクロウのようだが、ずいぶん急がされたようだ。バーノンの頭を止まり木扱いして、存分に休んでいる。それを追い払おうと躍起になるバーノンなぞどこ吹く風といった様子で、ハリーは少しすっとした。

 

『さっきの退学処分は取り消し。今度裁判します。……アー、日付やら何やらは詳細は追って連絡。魔法省、魔法事故隠蔽部掌返し課課長、ポー・スミシー』

 

 どうやら声を直接吹き込んだようで、背後のがやがやした声の混じった白紙の手紙が再生される。言うだけ言った手紙はまたもや自ら引き裂かれ、ダーズリー家の床の上にごみを増やしていった。

 これを聞いてハリーとバーノンの反応は全くの別物だった。ハリーは自分の予想が正しかったことに少しどや顔を決めて、バーノンは追放の大義名分を半分失って怒りに震えている。しかし今回ばかりは彼の激怒も根深いようで、頭の上からフクロウが飛び立った瞬間にまた叫びだす。

 

「もうたくさんだ! 出ていけ小娘! 出ていけ! 出て、またふくろうだ!?」

 

 バーノンの怒鳴り声を中断したのは、窓をかち割って飛び込んできたフクロウだった。

 よぼよぼの老フクロウ、ウィーズリー家の過労死担当エロールである。その肢に括り付けられている手紙もまた、羊皮紙を千切って作ったかのハリーのような粗雑なものであり、喋る際に色々と足りないのか舌足らずな声になってしまっている。

 フクロウからしてやはりではあるが、これはウィーズリーおじさんの声だ。

 

『いいね、ハリー。いまは動くんじゃない。待っていてくれ』

 

 名前も言わないほどの慌てようと見える。

 言われずとも動く気はない。明らかに何かハリーの知らないところで、厄介なことが起きているに違いないからだ。こういう時は、まず何よりも情報を得るに限る。襲われている時は別だが。

 手紙の内容を聞き取ったバーノンが、怒りのあまり口髭を引き抜きながら噴火した。

 

「ハリーぃ! 力尽くで叩きだしてや、むぁーたふくろうだあ! もうやだあ!」

 

 残る窓をわざわざ叩き割って入ってきた次なるフクロウは、顔面をフライパンで叩き潰したかのような実に巨大なカラフトフクロウであった。

 ハリーが両手を広げた姿と同じくらいかもしれない。そのデカフクロウはハリーの近くにあるソファーへ爪痕を残しながらとまると、そのくちばしに加えていた手紙をぺっと吐き出す。

 この気障ったらしい文字はとても見覚えがある。

 

『ダーズリーの連中に何かされたら言いたまえ、私が連中を醜いゲテモノへ変えてやるから。何に変えるかはお好みにより要相談。君の騎士より愛情を込めて』

 

 優しくも低い声が、ハリーの耳をくすぐる。次に愛おしいおじさんに逢えたら、彼に熱烈なキスをしようと決めた。こんな非常事態だというのにこういったジョークを飛ばす余裕があるあたりは、さすが初代悪戯仕掛人である。震え上がるダーズリー一家を見ながら、ハリーはバーノンの目に情けないながらも光が宿っていることに気付く。

 どうやらペチュニアへ助けを求めるようだ。マジか。ハリーは我が伯父に呆れながらも、しかしそれが効果的な手段であることを知っていた。何が原因かは知らないが、ペチュニアはある日を境にある程度ハリーへの態度を軟化させている。彼女の言葉なら、ハリーは割と素直に言うことを聞くことをバーノンも理解しているのだ。

 しかし起死回生のそれは遮られた。

 しゅーっと低空飛行してきた巨大すぎるシマフクロウが、一通の手紙をリビングに落としていったからだ。それを見て、ハリーは目を見開く。

 

「もーうたくさんだ! ふくろう、ふくろう、ふくろう! 我が家でふくろうなんて見たくなーいっ! おまえなんか、こうしてやる! ざまあみろ、ハッハー!」

 

 癇癪を起こしたバーノンが、手紙を拾い上げてシュレッダーへと突っ込む。

 がりがりと音を立てながら細断されていくも、ハリーはあの手紙がその程度で大人しくなるとは全く思っていない。あの赤い手紙は、『吼えメール』だ。

 直後、シュレッダーが爆発してしまったためブヒィと悲鳴を上げたバーノンが仰け反って尻餅をつく。飛び散ったプラスチックの破片や紙屑が一瞬で集まると形をなし、一つの人面を作り出した。それはどことなく、ハリーの知っている狡猾でお茶目な老人の顔に似ているではないか。

 

『私の最後のアレを思い出せ、ペチュニア』

 

 そう囁いて、プラスチック片はただのゴミに戻り床の上へ散乱する。

 あの日とはなんなのか。やはりペチュニアは、ダンブルドアと関わりがあったのか。

 激しく疑問に思い、ハリーは叔母へと目を向ける。しかし彼女は蒼白だった顔を土気色に変え、バーノンに向かって厳しく言葉を放っていた。

 

「バーノン……。この子は、この家に置いておかなくてはなりません」

 

 その言葉を聞いて驚いたのはバーノンだ。

 ハリーも少なからず驚いてはいたが、しかし彼は妻が自分の敵に回るとは夢にも思っていなかったらしい。

 

「し、しかしペチュニアや……」

「第一、いなくなった理由をご近所にどう説明するおつもりです。それに女の子を一人放り出して、もしもなにかあってごらんなさい。まわりからなんて言われるか……」

「ペチュニアぁん」

 

 情けない声を出して、バーノンが項垂れる。どうやら諦めたらしい。

 話は終わったとみたハリーがペチュニアへ詰め寄ろうとしたものの、彼女から鋭い視線を向けられた。質問は許さない、という意味だろう。バーノンへの口添えをしてもらった手前、それに逆らうことはできない。

 ハリーは心の中にもやもやを残しながらも、二階にある自分の部屋へと戻ってゆく。

 届いた手紙のうち、ウィーズリーおじさんとシリウスおじさんの手紙には自壊魔法がかけられていなかったため、今も手元にある。もう喋らないもののそれらを読み返して、ハリーは気持ちを静めることにした。

 

「……まいったなぁ」

 

 死喰い人ハロルド・ブレオの存在。魔法省からの退学処分、そして慌ただしい親しい人たち。

 魔法界の情報が今日にいたるまでまったく来なかったというのもまた、精神的なダメージを加速させている。このままでは心労がマッハで禿げてしまう。ウィーズリーおじさんには申し訳ないが、乙女として禿げるのはNGだ。いくらなんでもそれだけはあかん。

 思い悩むこと数時間、夕方を過ぎてすっかり夜になってしまった。晩ごはんも食べ忘れてしまい、仕方なくハリーは服を脱いでパジャマに着替え、シャワーは明日でいいやとそのままベッドへもぐりこんだ。

 夢にはハロルドの憎しみに染まった顔が出てきたものの、翌朝にはよく覚えていなかった。一晩眠ればだいぶすっきりする。髪の毛が多少脂っぽく、ぼさぼさにはねているのを姿見で眺めたハリーは、昨年出会った父のジェームズそっくりだと思い少しうれしくなってしまう。

 ハロルドとかいうわけのわからん復讐鬼の事も忘れ、ハリーはある程度手櫛で髪の毛を整えたあとにリビングへ降りた。この時間なら、ペチュニアが朝食を作っている頃である。昨晩のこともあるため、手伝った方がよかろう。

 

「おはようございます、ペチュニアおばさん」

「おはよう。起きるのが遅いわ」

 

 スクランブルエッグを作ろうか、と聞こうとした瞬間、ペチュニアはハリーの手を引っ張ってリビングへと連れて行った。どうも怯えているような気がするが、いったい何があったのだろう。ダドリーが痩せたかな。

 我ながら面白い冗談だと考えながら、ハリーはペチュニアに連れられてリビングへと来てしまう。ソファではバーノンがなにやら牛乳のような顔色で客人に応対していたのが見えた。ぱりっとしたスーツ姿の黒人男性が対面のソファに座って、流暢なクイーンイングリッシュで談笑している。

 黒人男性の後頭部までしか見えないものの、身元のしっかりしてそうな紳士のようだ。

 見た目からして『まともじゃない』人間ではないのに、あの反応は随分と変だ。別にバーノンおじさんは人種差別主義者ではなかったはずだ。色々と『まともじゃない』人ではあるが、仮にも大企業の頭を張るだけあってそういったところでは公平なはず。部下の人種貴賤問わず公平に怒鳴り散らす男である。

 不思議に思っていると、バーノンがハリーへ縋り付くような視線を向ける。それに気づいたのか、黒人男性がこちらへ振り返って微笑んできた。彼の顔を見てハリーは、ようやく合点がいった。

 

「やあハリー。会うのは久しいね」

「……びっくりした。久しぶりだねキングズリー」

 

 キングズリー・シャックルボルト。

 魔法省の闇払い局でグリフィン隊の隊長を務める男であり、生粋の魔法使いだ。

 魔法族の人たちはマグルの服装文化を愉快に大いに誤解している者が大多数ではあるが、彼はその例外に位置する人間だったようだ。パリッと糊の効いたスーツはおそらくイタリア製の高価なもので、怯えながらもペチュニアが感心しているのが見て取れる。詳しくはないものの、革靴もまた高そうな感じがする。あれもブランドものだろう。

 ここまでやられては、彼はどこに出しても恥ずかしくないマグルの格好である。いつものバイオレット色のローブなど着て来ようはずもない。しかしあれらはどうやって手に入れたのだろう。魔法界において共通通貨として使用されているガリオン金貨やシックル銀貨は、ポンドやドルに換えてしまうと大分少なくなってしまう。貨幣価値に疑問を覚えるが、しかしハリーは専門家ではないので口は出せない。出るのは不満だけである。恐ろしいことにガリオン金貨は純金製と純銀製ではあるものの、それをそのまま売ることは当然ながら法で禁じられている。魔法界の貨幣はすべてゴブリンやドワーフ達といった錬金に優れた種族が魔法で造っているからだ。

 要するにバーノンは困っているのだ。魔のつくアレを使う『まともじゃない』同類が家にやってきたかと思えば、その人物は実に清々しくまともなのだ。そりゃバーノンもバグる。

 何をしに来たかはわからないが、昨晩のふくろう便爆撃は無関係ではあるまい。

 

「それでキングズリー。要件は昨日の?」

「そうだ、ハリー。君をご招待するための取り付けをね。保護者に通さないとまずいだろう」

 

 どうやらダーズリー家の面々を説得するために来たらしい。ウィーズリー家の『隠れ穴』へ行くのだろうか。以前のように拉致同然に連れ出すよりは、真正面から許可を取りに来た方がいいと判断したらしい。果たしてそれは正解だ。バーノンはまともな人物には内面でどう思おうが、表面上はまともに応対する。そしてキングズリーが『まともじゃない』ことを言っていない以上、受け入れる他ないのだ。

 口いっぱいに苦虫のフルコースをぶち込まれたかのような顔をしたバーノンは、渋々ながら首を縦に振った。外泊許可をもらえたらしい。今すぐ出ていけといわんばかりの顔をしたバーノンの意志をいじめるかのように、出発は夕方にするとのこと。おそらく何らかの魔法的手段を用いての移動になるのだろうが、そんなことは一切言わなかった。まるでフライトチケットがその時間しか取れなかったのだとでも言うような論調に、バーノンも何も突っ込めなかった。

 ここまで来ると、いっそ清々しい可愛そうさである。

 

 バーノンは意地でもキングズリーを昼食に誘わないであろうと予想したため、ハリーは彼を連れてリトルウィンジングを抜けて隣のウェイヴァリーへと足を運んだ。サリー州のディストリクトであるため面白い飲食店が多く、年頃の少女であるハリーとしては一度行ってみたかったのだ。

 夏休み中であるため遊びに来た少年少女でごった返している中、キングズリーは興味深そうにまわりを眺めていた。ゲームセンターなどは基本的に電化製品が珍しい魔法界ではなかなか見られないものであるため、二人してやってみることにした。

 一流の闇祓いとUFOキャッチャーで競い合い、若さを武器に勝利して小さなふくろうのぬいぐるみを手に入れたハリーは、昼食をキングズリーに御馳走になった。久しぶりに食べるストロベリーパフェはとてもおいしかったが、キングズリーが魔法も使わず造られたガラスの精巧さに目を見張って興味深そうに唸っていたのが印象的だった。

 二人はそろそろ日も暮れかけたころになって、プリベット通りへ戻る。その際に「トンクスやハワードには内緒にしてくれ」と頼まれたので、ハリーは快く承諾した。時間が空いたからそれを潰していただけであり、別にこの黒人のおっさんは遊ぶためにやってきたわけではないのだ。それでも年若い女性闇祓いの二人は羨ましがるだろう。割とめちゃくちゃなビジネス感覚を持つ魔法使いの警察のような存在である闇祓いは、無駄に多忙なのだ。

 任務にかこつけて年頃の少女と遊びに出かけたという不名誉な評価を与えない為にも、ハリーは彼の提案を受け入れるしかないのである。

 

「問題だよなァ、これ。年の差いくらよ? 片やオッサン、片やグラマー体型になりつつあるくせ未だにチビっちぇガキときたもんだ。おまえこれ許されねえぞ。あ? コラ?」

「ずるいですよぅ、キングズリー。わたしも遊びたかったですよぅ。わたし達はファッジの無茶に応えてて大変だったんですけどぉ? なのに何ですかそれぇ? あ? コラ?」

 

 任務にかこつけて年頃の少女と遊びに出かけたという不名誉な評価を与えられて廊下の隅で落ち込んでいるキングズリーの背中に、ハワードとウィンバリーが罵詈雑言を浴びせている。

 ダーズリー家に戻ってきたハリーが見たのは、闇祓いたちの姿だった。バーノンは土気色を通り越してマーブル模様の顔色をしている。穏やかな心を持ち激しい怒りによって目覚めそうな彼を、同じく口元を引きつらせたペチュニアがブランデーを駆使してなだめている。

 そういえばダドリーはどうしたんだろうと思って廊下に出たその瞬間に、愛しの従兄がハリーの胸に飛び込んできた。身長と体重差から耐え切れず、押し倒されてしまう。すわセクハラかと思ったが彼の頭の中にハリーのような生き物はいない。そもそも、ここまで怯えていてはそんなこともできまい。

 

「どうした、ダドリー坊や。落ち着け」

「はッ、はッ、ハリーぃ……」

 

 ぐじゅぐじゅに泣き腫らすダドリーの姿をバーノンやペチュニアに見られるのはまずいと思い、赤子をあやすように抱き寄せて背中をさすってやる。これがロンとかセドリックだったならだいぶ恥ずかしい恰好だったろうが、豚を相手に人間様が恥ずかしがるのも如何なものかという問題である。

 ダドリーのやってきた方向を見れば、なるほど納得した。杖を突く義足の男がそこにいる。

 

「直接会うのは初めてだなポッター。え?」

「アー……はじめまして、ムーディ先生」

「先生とはいっても、わし自身はお前に教えちゃおらんがな。まったく、あの忌々しい小僧め」

 

 アラスター・ムーディ。またの名をマッド‐アイ・ムーディ。

 右目にはめ込まれた魔法の義眼は、対となる生の瞳とは色も大きさも違う青い瞳がぎょろぎょろとあらぬ方向を好き勝手に動き回るものだ。透視や遠視も可能なこれは、当然自分の頭すら透過して視ることも可能である。視神経のついていない完全な独立器官であるゆえ、自由自在に動くのだ。魔法族から見ても不気味極まりないのに、魔法に対してトラウマを刻まれているダドリーからすれば半狂乱モノであろう。

 さすがにかわいそうな従兄を無碍にするのもアレなので、しばらくあやしてやるとぐずりながらも自分の部屋へ戻って行った。何度だって言わせてもらうがあれがチャンプで本当に大丈夫なのか、英国ボクシング界。

 

「それでは、我々が責任を持ってハリーを預からせていただきます」

「いいからさっさと出て行ってくれ……」

 

 バーノンが応対しているのはトンクスだ。

 キングズリー、ハワード、ウィンバリー、ムーディ、トンクス。闇祓いグリフィン隊のメンバーがほとんどそろっているではないか。おそらく残りの二人、ボーンズ兄弟は連れてこない方がいいと判断したのだろう。どこか愛嬌のあるハグリッドにすら恐怖して散弾銃をぶっ放す連中である。鬼もかくやという顔をしたボーンズ兄弟なんて見たら、ショック死しかねない。

 けんもほろろに突き放すような愛情の感じられない物言いに、トンクスはだいぶお冠のようであった。ダーズリーたちの目の前で髪の毛が赤く染まり、顔も文字通り赤く染まるとさらに怯えられてしまったようだ。確かに目の前で年若い美女が比喩ではなく赤く変色すれば恐怖もするだろう。

 ダーズリー一家からすれば忌々しい魔のつくアレを自在に操る人間が六人も家の中にいるのだ。ハリー一人だけでも手に負えないのに、勘弁してほしい気持ちでいっぱいなのは察するに余りある。

 

「それじゃハリー、行こうか」

「あっ、話は終わってないですよぅキングズリーっ」

 

 そそくさとハリーの手を引いて歩くキングズリーにまとわりつくようにハワードとウィンバリーがついてゆく。荷造りは午前中のうちに終わらせているため、トランク一つ持てば十分だ。下着を含む服やら学用品に趣味の本など、だいぶ物が増えはしたが基本的にハリーの持ち物は今も昔も少ないのだ。これとニンバス二〇〇〇の入った競技用箒ケースを持てば、準備完了である。

 ムーディと顔を合わせたくないためか、ハリーを厄介払いできたパーティの準備でもするのか、恐怖で漏らしたのか、いかなる理由にせよ彼らは誰一人見送りには来なかった。それもまたトンクスは気に入らなかったようだ。ハリーのトランクを魔法で亜空間に仕舞い込みながらも、ぷりぷりと怒っていた。

 自分の為に怒ってくれるのは嬉しいが、彼女の笑顔は魅力的だ。ハリーがなだめていると、ムーディがよく通る声で叫ぶ。

 

「隠密任務だッ! 静かに行動せいよ!」

「アラスター。君の声が一番大きい」

「誰かが殺されようとも隊列を乱すな! いいな! 油断大敵ッ!」

「だから声が大きい」

 

 先ほどと違って冷静なキングズリーが、全員に一枚のカードを手渡している。

 ハリーには手渡されなかったが、ハワードに手渡されたものを見せてもらうとどう見ても日本語の書かれた和紙、つまりお札だった。それをラミネート加工して丈夫にしているらしい。なんというか、ひどく不格好でシュールな代物だ。

 いまだに羊皮紙が流通している英国魔法界において、ラミネート加工などできるわけがない。明らかにマグルの技術を使っているのに、お札というオカルト溢れる魔法界の物品。

 安心と信頼の奇抜な日本魔法界製に違いない。

 

「おいでコメット二六〇」

「オークシャフト七九」

 

 闇祓いたちそれぞれが名前を呼びながらカードを軽く前方へ投げると、それは魔力反応光とともに箒へと姿を変えた。いや、今の魔法式は召喚術式だ。つまりカードに封じ込めた箒を召喚したにすぎない。

 基本的に魔法で開く亜空間へ入れられるのは、手で持てるサイズのものだけだ。少なくともハリーが開けられる限界はその程度であり、入る物品もベッドの上に乗る量くらいの感覚である。しかしあの召喚札なら、どれほど大きなものであっても携帯して持ち運ぶことが出来るだろう。

 便利なものだと思いながら、しかしハリーは目を丸くしていた。

 まさか、箒で飛んでいくつもりか?

 

「どうしたポッター、ヒッポグリフが失神術喰らったような顔をして」

「いや、ちょっと待ってよ。箒で行くの? というか、どこに?」

 

 いくら日が暮れて空も濃い藍色になってきたとはいえ、エジソンの発明によって睡眠を削り始めたマグルによって、夜という時間は基本的に活動時間にあてている生き物だ。

 人っ子一人いないわけでもあるまい。リトルウィンジングは閑静な住宅街ではあるが、それでもド田舎というほどではない。ウェイヴァリーほどではないにしろ、夜でも起きている人は大勢いるのだ。というか、今はまだ夕食時だ。寝ている人の方が少ない。

 

「敵の追撃を避けるためだ。本来なら昨日の夜のうちに行きたかったが、ダンブルドアが許してくれんでな。さぁ行くぞ! 行先は秘密だ! おまえが本物のポッターでなかった場合、情報が漏れるからな!」

「ねぇムーディ。そのハリーが偽者だったら、連れて行く意味がないとおもいますよぅ」

 

 昨年出会ったのは偽物だったが、バーティ・ジュニアはとことん本人の再現にこだわっていたらしい。相変わらずの油断大敵論を語るムーディはハリーの知る彼そのものだった。

 ハワードから頭のてっぺんに杖先を置かれると、生暖かい液体が頭頂部からつま先にかけてをどろりと流れ落ちるような感覚を覚える。見れば、自分の体が透明になっていた。

 便利なものである。闇払いたちは各々自分にも同様の魔法をかけており、これを使ってマグルの目から隠れるつもりのようだ。

 

「さて、出発するぞ。行先は決まってるが、念のためにフェイクを混ぜた飛行をする」

「また死喰い人が襲って来ないとも限らないもんね」

 

 ハリーがさらりと言うと、全員にぎょっとされた。

 いったい何事かと思って驚くも、強い力で両肩をがっしりと掴まれてそれ以上に驚かされる。

 ウィンバリーがあわててハリーに掴み掛ってきたのだ。

 

「ちょっと待て! またァ? またってなんだ!? もう襲撃されたってェのか!」

「え? あ、うん。え、あれ、言ってなかったっけ? てっきり知ってるものかと」

「言ってねェよクソボケ! いったいどこの馬鹿野郎だ!」

 

 ただでさえ悪人面だというのに、怒りに叫ぶウィンバリーは鬼のような顔をしていた。

 ただちに杖を取り出し、ハリーの記憶を読み取ろうとした。手っ取り早く『開心術』で情報を得るつもりなのだろう。男性に記憶を読まれるなどごめんなのでハリーは抵抗したものの、それもむなしく防壁を突き破られた。

 

「ハリエット、なにか体に異常はねェか? いやいい、脳に直接聞く」

「ないって。さすがにあれば気付くし、みんなに言ってる」

 

 小娘の心理防壁など紙のように引き裂けるなど、さすがは闇祓い随一の実力を持つ者である。だが後で覚えていろ、絶対に報復してやる。乙女の秘密は金より重いのだ。

 などという考えは、続く冷たい声によって氷漬けにされてしまった。

 

「ハリー? 今の今まで襲われたことを忘れてたような子が言えるこっちゃないよね?」

「うっ」

「ちょーっと危機感が足りねぇんじゃねーですかねぇ。どのクチが偉そうにナマ言ってんですかねぇ。殺されてたかもしれねぇんだぞオイ! ぁあ!?」

「うう……」

 

 トンクスとハワードの厳しい声で、ハリーはようやく自分が怒られていることに気付いた。

 同性で更に年も近いということもあって、二人は友人のようなものだ。ハワードに至っては同じ十代であるため、もっと近しい関係であると思ったがこの怒り様はたぶん、いや間違いなく心配してくれてのことである。

 激怒して言葉遣いまで変わっているハワードに怯えながら、淡々と小さな子供をあやすように言い聞かせるトンクスに恐怖しながら、ハリーは涙目でお説教を聞いていた。

 

「ふざけてんじゃねぇですよ。ハリー、わたしたち本当に怒ってますからねぇ」

「はひ」

「シリウスやモリーからも言ってもらうからね。その方が君には効くでしょ?」

「ぅぁう」

 

 確かに、命のやり取りをしたというのに軽く考えすぎである。

 唐突に出会ったばかりだというのならまだしも、ハリーは今日一日をキングズリーと過ごしている。相談する暇ならいくらでもあったはずだ。

 女性陣が烈火のごとき怒りを見せていたため、叱り飛ばそうと考えていたムーディがどこか同情的な目をしていた。もう十分である。ムーディまで叱ったら、申し訳なさのあまり声をあげて泣くだろう。

 戦闘力があろうとまだまだ子供だなと思いながら、ムーディはハリーの黒髪に手を置く。「油断大敵だと言っておったろうが」と、なるべく優しく声をかけておくのも忘れない。弟子二人から甘やかすなという鋭い視線が飛んできたものの、あれ以上はやりすぎだ。

 いまのハリーの精神状態では、ほぼ間違いなく飛行に支障が出ることは間違いない。よってムーディは声もなく泣き腫らすハリーに付き添って飛ぶことにした。キングズリーは予定ルートの変更と警戒度を上げるためにイラついており、ウィンバリーはハリーから抽出した記憶から死喰い人の特定に忙しい。

 軽率というか、無防備すぎた。戦い殺し合うことを軽視しすぎているなど、お怒りのお説教は、キングズリーが時間がないからあとにしろと言うまで十分ほど続いて中断された。中断である。目的地に着いた後はまた怒られるのだろうが、決してうっとうしいなどとは思ってはならない。自分の為を思って言ってくれているのだから、ハリーには聞く義務があるのだ。

 ハリーにはあれだけ恋しかったシリウスやモリーと会うのが、なんだか怖くなってしまったのだった。

 




【変更点】
・ダドリーが若干大人に。
・死喰い人増量キャンペーン。
・ハリー増長キャンペーンへし折り。

【オリジナルキャラ】
『ハロルド・ブレオ』
本物語オリジナル。バルドヴィーノ・ブレオの異母弟。
イタリア系イギリス人。黒髪青目の長身痩躯。精密な魔法操作を得意とする。


大変遅くなりまして申し訳ありません。が、ようやく始まりました。
ここから終わりに向かって転がり落ちていくようになります。
どうぞ最後までお付き合いいただければ幸いです。

そして私たちの愛する故アラン・リックマンに尊敬と追悼を。
彼の演じる素晴らしいセブルスを私は忘れません。


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2.魔法省

 

 

 

 ハリーはさめざめと泣いていた。

 ハーマイオニーの胸の中でぐずぐずと、子供のように涙を流していた。

 闇祓いたちに連れられてやってきたのは、グリモールドプレイスという場所である。ムーディに付き添われながら箒で数時間空を飛び、明け方になってようやく到着した。箒で飛べばそう遠くはない場所ではあったが、死喰い人からの襲撃を警戒して二転三転した挙句行ったり来たりを繰り返したためにここまで遅くなったのだ。

 このグリモールドプレイス十二番地には、魔法がかけられている。『秘密の守り人』という魔法で普段は十一番地と十三番地の間には何もないのだが、十二番地の存在を知る魔法族の前ではその姿を現す。物理的に一体どうなっているのか疑問ではあるが、それを容易く覆すのが魔法の最たる利点である。無理を通して道理を粉砕するのが魔法なのだ。

 ともあれ、ハリーはこの隠れ家のような場所についたとき、モリーの抱擁を受けて涙が出てしまった。ソファに座っていたシリウスが嬉しそうに立ち上がり、ハリーにハグをして額にキスを落としてくれる。守護霊が飛び出しそうなくらい幸せであった。

 怒り心頭のトンクスとハワードが、事情を話すまでは。

 吸魂鬼(ディメンター)に襲われて魔法を使い撃退したことまではみな知っていたものの、そのあと死喰い人に襲撃を受けて交戦したことまでは知らなかった。それを、懇切丁寧に説明してくれたのだ。ハリーが命のやり取りに対してあまりに不注意であることも含めて。

 シリウスはジェイムズそっくりの勇敢さと、無謀な間抜けさを受け継いでしまったようだなと嬉しそうに呆れられてしまった。その後しっかりと相手が悪党であろうと、命のやり取りをしたことを軽んじるものではないと諭されてしまう。怒鳴られるよりよほどキツい。

 モリーからはまずビンタをもらった。その後絞め殺されるかと思うほど強く抱きしめられて、あなたが死んでしまったら私はどうすればいいのと泣かれてしまう。

 これには参った。

 どこか自分の命を軽んじていることは自覚していたつもりだが、それが引き起こす結果まではまったく考えてはいなかったのだ。モリーが泣き止むまで、ハリーは申し訳なさと後悔でいっぱいの気持ちになりながら、謝り続けるのだった。

 

「……ありがとうハーマイオニー。もういい」

「だいじょうぶ?」

「うん」

 

 散々怒られて涙をぼろぼろ零すハリーの頭をなでながらシリウスが教えてくれたことには、どうやらグリモールドプレイス十二番地はシリウスの生家であるらしく、つまりブラック家の由緒正しき家なのである。

 シリウスがダンブルドアに家を提供したことによっていまは別の集会に使われているらしいのだが、それが何なのかまでは教えてくれなかった。個人的には君も誘うつもりであったが、いまの君に教えるのは危険すぎる。とのことである。

 問題は、この家が長年放置されていたことにある。

 ブラック家は由緒正しい純血の一族であり、ガチガチの純血主義に染まっている。ジェームズやルーピンと仲の良かったシリウスは実家のそのような思想を嫌い、出奔。永久的な家出をしたことによってブラック家の家系図からは削除される……つまり勘当されてしまったらしい。

 純血主義を否定する息子など息子ではない、とする母親はシリウスの知らないうちに亡くなり、以降は亡き主人のために家を掃除する老いた屋敷しもべ妖精だけがこのブラック家に棲みついていたのだとか。

 

「ま、いい薬だったと思うよハリー。怒ってもらえるだけマシさ」

「ちょっとロン」

「いいやハーマイオニー。こればかりはトンクスやママたちに賛成だね。僕たちはハリーの親友なんだ。この子の身を案じなきゃ、そりゃウソってもんだぜ」

 

 案じてないわけではないわ、と唇をとがらせていうハーマイオニーもまた、今回のハリーの行動はあまり賢くなかったと考えている。

 そしてその理由も、二人は知っているのだ。

 ハリエット・ポッターは人ではない。生物学上は人間だろうが、その在り方は人と呼ぶことすら冒涜であると言える。

 両親の死体を捏ね上げて造られた肉体に、快楽殺人鬼の情報を練り込まれた精神、そして本来のハリー・ポッターから奪って突っ込まれた魂をもつ、肉人形。それがハリエット。

 遺伝子や健康面から見れば間違いなく人間だろう。しかし彼女は人間の女性から生まれてはいない。試験官ベイビーのように受精すらしていないのだ。幼児の状態で唐突にこの世界に出現した異物。それがハリエット。

 昨年復活したヴォルデモート卿との戦いの中で出会った、魂の残滓のような両親と兄。彼らはハリエットのことを家族と呼び、認めてくれた。それがあるからこそ、今のハリーは正気を保つことが出来ている。

 だが正気を保っていることと平静であることはイコールではない。

 自分が人間ではないと自覚してしまったハリーは、自分に価値を見いだせなくなっていた。ゆえに殺し合いをしたことを一瞬でも忘れてしまっていたのだろう。殺した男の弟と出会ったというのに、それすら忘れかけていた。そのこともまた、ハリーの心を蝕んでいる。

 どうしてキングズリーと出会ったときに言わなかったのか。いや、ふくろう便を出して言うこともできたはずだ。

 

「まぁ、ハリー。いまは再会できたことを喜びましょう」

「……うん」

 

 あまり元気のないハリーがいつもの快活さを取り戻すまでは、丸一日がかかった。

 トドメは見かねたシリウスがハリーを自分の膝の上に乗せてやったことである。その日以降、ハリーは無駄に落ち込むことがなくなっていたので彼の判断は正しかったのだろう。たぶん。

 元気を取り戻したハリーは、宿題をすることにした。

 自分の宿題はすでに終わっている。ロンのだ。ロンは驚くべきことに、この夏休みの宿題へまったく手を付けていなかったのだ。まだ夏休みは一ヶ月もあるんだぞという彼の意見を封殺して、ハリーとハーマイオニーはだらしのない親友のために一肌脱ぐことを決めたのだ。

 仕事を抜け出したウィンバリーとハワードがブラック家にやってきたのは、ロンが魔法史の宿題レポート羊皮紙四巻分を終えた頃だった。

 

「ハリエット、ちょっくらリビングまで来いや。話がある」

「お、おいウィンバリー。僕たちは? なんでダメなんだよ!」

「おっとロン、テメェの名前はハリエット・ポッターだったか? そう名乗りたいなら、まずは股間の粗末な杖を切り取ってから出直して来い」

 

 ハリーだけがリビングへと呼ばれ、不満そうなロンやフレッド・ジョージを尻目に彼女はウィンバリーについて階段をおりてゆく。

 話を聞くと、どうやらコーネリウス・ファッジ魔法大臣の頭がマーリンの髭してしまったらしい。彼は頑なにヴォルデモートの復活を認めようとせず、頑としてダンブルドアの意見を無視しているのだ。かつてはダンブルドアの方が魔法大臣にふさわしかったとぼやくような気の弱い役人だった彼も、権力の沼に溺れてしまったのだ。

 確かに恐怖の象徴たる『名前を言ってはいけない例のあの人』の復活を宣言してしまえば、彼の支持率は地に落ちることは間違いない。それが真であれ偽であれ、不安に駆られた国民とはそういうものだ。いまさらになって権力を失うことを恐れた彼は、ヴォルデモートなどいなかったという驚きの判断を下すことになる。

 愚かな選択をしたものだ。対抗手段を練り上げる準備する時間も覚悟も投げ捨て、ただ殺されるのを待つだけの豚と成り下がってしまったのだから。

 

「そこで我々は、ヴォルデモートが暗躍していた闇の時代のときに、反闇の陣営派の人間によって抵抗活動を……つまりレジスタンス活動をしていた」

 

 ウィーズリーおじさん、つまりアーサーが語るにはひとつの犯罪組織と戦っているにも関わらずレジスタンスと呼ばねばならないほどに、戦力差は絶望的だったのだという。何よりも厄介だったのは『服従の呪文』によって誰が信頼できる人間なのかが判別できなかったことであるらしい。

 何を急にそんな話をするのかと思えば、シリウスがその考えを見抜いたかのように口を開く。

 

「ここがそのレジスタンス活動の拠点、《不死鳥の騎士団》本部だ」

「おじさんの家が?」

「ああ、どうせだれも住んでいないボロ屋だから提供させてもらった。そしてここにいるのは全員が騎士団の団員で、その活動を支援しているのさ」

 

 なるほどとハリーは頷いた。

 狂おしいほどに知りたかった自分の現状と、魔法界の情勢。

 それがここで走ることが出来るのだ。逸る気持ちを抑えながら、ハリーは努めて冷静にシリウスへ問いかける。

 

「それで、ぼくは質問をしてもいいのかな」

「構わないさ。なんだって聞くと……」

「私は今でも反対ですけれどもね!」

 

 最悪、子供の君が知る必要はないなどと言われてしまうことも覚悟していただけにこれは拍子抜けであった。モリーは怒り心頭といった風に口を挟んできたが、何故だか得意げな顔をしたシリウスがそれに反応する。

 

「おや? どうしたねモリー。ダンブルドアは教えるべきだと言ったのだよ」

「それでもわざわざこの子を危険にさらす必要はないはずだわ!」

 

 にやにやと笑うシリウスにモリーが噛みつくも、アーサーがそれをなだめる。

 ちょっと目のやり場に困る光景ではあったが、ハリーはぷりぷり怒るモリーを沈めてくれたアーサーに感謝した。それを見て嵐は去ったと言わんばかりの顔をしたシリウスがハリーの肩に手を回す。

 されるがままに彼の胸へ抱き寄せられたハリーは、少し頬を染めながら問うた。

 

「いいの、ぼくに教えても」

「ああ。君の境遇について知っているのは一握りだが、ダンブルドアがごり押しした。あの子には何が何でも聞かせるべきじゃのうとかなんとか言ってモリーを説得してくれたのさ」

 

 シリウスが小声でささやく。

 自分が純粋なヒトでないことを知られている。

 それを聞いて一瞬だけ身を固くするも、シリウスの体温がそれを和らげてくれた。そういう反応をするだろうとわかっていて抱き寄せてくれているなら、彼は若いころ本当にすごいプレイボーイだったのかもしれない。

 彼の低い安心する声が耳元でささやかれたというのもあるだろう。その声ズルいです。

 

「えっと、じゃあ。聞かせてもらおうかな」

「うん、何でも聞いてくれ。……っと、その前に失礼」

 

 ハリーの上目使いにシリウスがだらしなく頬を緩めながらも、懐から杖を抜く。

 軽い調子で杖を振ったシリウスは、床に転がっている何かに向かって魔力反応光を放った。

 

「『インペディメンタ』、盗み聞きはよくないな」

 

 ぱちん、と軽い音と共に床を跳ねたのは、なんと耳だった。

 耳だけオキョーを書き忘れたせいで妖怪に耳を引き千切られたという、ミミナシ・ホーイチの話をユーコから聞いたことがある。もっとも、引き千切られた耳からはホースのような管は伸びていないはずだ。シリウスが『妨害呪文』をかけたのは、糸電話の紙コップが耳に変わったような何かの魔法具であった。

 床に転がった耳を不思議そうに眺めているハリーに、モリーが言葉をかける。

 

「あのおバカな双子の作ったおもちゃよ。盗み聞きをするためだけにこんな魔法を開発するだなんて……O.W.L.試験の結果はなんだったのかしら」

「でもモリー。繊細なピーピング・スペルを開発できただけでもすごいと思うよ」

「その凄さをもっと勉強に向けてほしかったわ」

 

 モリーへ気遣う言葉をかけた人物が、キッチンからホットミルクを持って出てくる。

 その人物の顔を見て、ハリーは嬉しそうに駆け寄りその貧弱な体を抱きしめた。

 

「ルーピン先生!」

「おっと、危ない危ない。久しぶりだね、ハリー」

 

 ミルクがこぼれないよう器用にバランスを取り、ルーピンはハリーの頭を撫でた。

 リーマス・ルーピン。三年生の時に闇の魔術に対する防衛術の教鞭をとり、ハリーたちにとってかけがえのない時間をくれた元教師である。スネイプとのいざこざが長じて狼人間であることが暴露されてしまったため、自ら学校を去ったのだ。

 恩師ともいえる彼と再会できた喜びから、ハリーは満面の笑みを贈る。彼も騎士団団員なのだ。見た目は不健康な痩せぎすの中年男性ではあるが、彼の魔法への知識と戦闘力はハリーもよく知っている。きっと頼りになることだろう。

 

「ほらムーニー、いつまでも小さなレディを抱えているものではない」

「嫉妬かねパッドフット。可愛い教え子とのスキンシップじゃないか」

 

 ハリーの頭上で父性を爆発させた二人の火花が飛び散る。

 このまま喧嘩になったりしては聞きたいことも聞けなくなりそうなので、ハリーはルーピンから離れることで原因を取り除いた。

 モリーもシリウスも、どこかぴりぴりしている。

 空気の流れを変えるためにも、ハリーは質問を投げかけることにした。

 

「じゃあ、改めて質問を」

「なんなりと、レディ」

「う、うん。このレジスタンスだけど、戦力的にはどのくらいなの? 見る限りウィンバリーとか闇祓いもいるみたいだけれど」

 

 レジスタンスというからには、やはり相応に苦しい状況にあるのだろう。ならばみなが刺々しくなるのもわかる気がする。しかし犯罪組織相手にレジスタンスと名乗らなくてはならないほどに戦力差があるというのは、なかなかに絶望的である。それもまた苛々の種になっているに違いない。

 それを証明するかのように、シリウスは片眉をあげて説明する。

 

「まずダンブルドアの旗のもと、彼を支持する魔法族およびマグルで構成されている」

「ダンブルドアなら大半の魔法族が味方に付くのはわかるけど、マグルも?」

「ごくごく一部のな。まったく、あの老人の顔の広さはレシフィールド顔負けだよ」

 

 聞けば、警察機関や国軍に所属する一部の人間がダンブルドアと懇意なのだという。表だって協力することはできないだろうが、マグル世界で何らかの問題を起こしても魔法省の手を借りずに隠蔽工作を行うことができるらしい。

 警察はまだしも、軍と来たか。できればお世話になりたくないものである。

 

「ところで、なんで魔法省の手を借りずに処理したいの? 魔法事故処理部とかの仕事だと思うんだけど」

「ん? ……あー、なるほど。すまないハリー、私たちの配慮が足りなかった」

 

 せっかく専門の機関があるのなら、それを利用した方がいいのではというハリーの問いかけにシリウスは苦い顔を浮かべた。

 どうやって説明したものかと逡巡している間に、ウィンバリーが新聞をハリーへと手渡す。シリウスは彼へ咎めるような顔をするも、仕方なしとあきらめたようだ。どうせすぐ目に入る。

 

「読んでみろや。英雄サマのお顔が映ってるぜェ」

「英雄様って……、うわぁなんだこれ」

 

 ハリーが新聞を広げると、一面を飾っているのはファッジとハリーの顔だった。

 紳士然とした格好のファッジと比べて、写真の中のハリーが着ているのは中世ヨーロッパ魔法界で好まれていた古臭いデザインの魔女服。つまり、嘘つきの証だ。あまりにもわかりやすい情報操作に、苦笑いが漏れ出てしまう。

 記事を読んでみれば、かの有名なハリー・ポッターは『名前を言ってはいけない例のあの人』が復活したと吹聴している頭がパーになった精神異常者で、自分が有名でなければ気が済まない病にかかってしまったため、ダンブルドアと共謀して魔法省大臣の座を狙っているのだと書かれていた。

 とうとうファッジはイカれてしまったのだろうか?

 

「やっこさん、根は小心者だったんだけどね。恐怖で心が歪んでしまい、正常な判断ができなくなった。ヴォルデモートが復活したと知る者を、それを信じる者を、扱き下ろすことで安心を得ようとしているんだよ」

「うわ、ダンブルドアのことを頭のおかしい耄碌ジジイとか書いてる。大丈夫なのこれ?」

 

 大丈夫ではない、とルーピンが首を横に振った。

 ダンブルドアは敵ではないというのに、ファッジには自分の平穏を乱すものはすべて頭のおかしい狂人だと決めつけてしまっている。ヴォルデモートは死喰い人たちと一致団結して欲望を満たそうとしているのに対して、魔法省とダンブルドアがいがみ合っていては勝てるものも勝てない。これでは自分の杖を折って差し出しながらどうぞ私どもを殺してくださいと言っているようなものである。

 要するに、自殺行為だ。

 

「さらに言えば、権力の味を占めたんだろうね。ヴォルデモートが復活してしまったことを喧伝すれば、自分が職を失うと思ったんだろう。自分の欲と他者の危険を天秤にかけた結果、自身をとったのさ」

「あー、たしか魔導心理の天秤でしたっけ」

「お、よく覚えていたね。グリフィンドールに一〇点」

 

 魔導心理の天秤とは、闇の魔術に対する防衛術で習う思考術の一種である。

 小難しい名前がついてはいるが、要するに自分にとって有益な手段を他者の事情も鑑みてなおその手段をとるべきかどうかという考え方だ。

 守護霊呪文の訓練の際にルーピンからこの思考術を問われたハリーは、迷うことなく「他者など関係なく自分のためならば使うべき」と即答したことがある。その後彼が付け足した「その行動によって他者が死に瀕することがあってもかい」という問いかけには、言葉が詰まった。

 素早くその場に適した魔法を選ぶ思考回路を鍛えるものであり、ハーマイオニーはこの考え方を絶賛していたことをおもいだす。なにも魔法に限らず、人生において魔導心理の天秤を使うことは多々ある。つまり、魔法使いとしての訓練のみならず人間として優秀になるための一助になる考え方だわ、とのことだ。

 つまるところ、単純に言ってファッジはその天秤を正しい方向へ傾けることができなかったのだ。英国魔法大臣という責任ある立場にして、影響力のある人間がやらかしてよい失敗ではない。

 

「……ていうかウィンバリーにハワード、君たちは大丈夫なの? ファッジがヴォルデモートを認めないっていうんなら、当然このレジスタンス活動も内緒でしょう? 闇祓いって言ったら魔法省でもだいぶ大臣に近いところだと思うけど」

「あぁ? 大丈夫なわけねェだろ。秘密だよ秘密。仕事の合間を縫ってここに来てんだよ。見回り業務の寄り道になるから、数十分いるのが限界だな」

「そうなんですよぅ。今日だってだいぶ苦しい言い訳でこっちに来てるんですからねぇ。違法魔法具販売業者のタレこみは今月に入って七件目でぇす」

 

 実に大変そうだ。

 今日は非番らしいトンクスが煽ってハワードに青筋を浮かばせている。実にやめてほしい。

 ハリーをグリモールド・プレイスへ送り届けてからまだ一時間も経っていないというのに、その足でもう魔法省へ戻らなければならないらしい。モリーが急いで作り上げたサンドイッチを持たせ、二人は『姿くらまし』で消えていった。

 

「以前ヴォルデモートは、我々の愛する人たちを滅ぼそうとした。それの復活など、彼は耐え切れないんだよ」

「彼は自分の軍勢を再構築しようとしている。これが我々に無関係な話だったならば、目を覆うか逸らしたくなるくらいの絶望的な状況だ。以前の時のように、魔法犯罪者のみならず闇の生物を集め始めているんだ」

 

 暗黒時代については、膨大な資料が残されている。

 魔法史の教科書を開けば、いやでも目に入る身の毛のよだつ生き物たちが、かつては英国魔法界を我が物顔でのさばっていたのだ。ヴォルデモートは人類に忌避される吸血鬼どもをはじめとして、巨人やら鬼婆といった人間社会には適応できない《ヒトたる存在》に権利を与えることで懐柔して戦力を獲得した。

 ハリーも知っているように、狼人間もそのひとつだ。一人いれば噛みつくだけでどんどん手ごまを増やせる狼人間は、おそらく今回のヴォルデモートも主力として据えることだろう。狼人間になれば、表側の人間社会で過ごしていくのは難しい。よって犯罪跋扈する裏社会へ引きずり込むための手段として、狼人間化させているのだ。

 さらに最悪の手駒が吸魂鬼(ディメンター)である。現在では魔法省が徹底的に管理下に置いているものの、かつては自由に幸福や魂のバイキングを開催してくれるヴォルデモートの元についていた。厳格な飼い主と自由をくれる悪党とでは、あの嫌悪すべき怪物どもがどちらにつくか考えるまでもない。

 

「それだけではない。奴は前回と違って、ある物を、武器のようなものを求めている」

「シリウス」

「……む」

 

 ムーディが咎めるように、シリウスの言葉に口を挟んだ。言うなということらしい。

 頭にこぶを作ったトンクスをしり目に、モリーはハリーにもサンドイッチを手渡してきた。それを一口頬張れば、ハリーは自分がとてつもなく疲れていることを自覚した。吸魂鬼を撃退して死喰い人たちと殺し合ったのが昨日、そして今日はお説教と長時間の箒移動。体力には自信のあるハリーだったが、しかしもはや限界であったのだ。

 うとうとしながらもサンドイッチをミルクで胃袋へ流し込むと、シリウスが優しく抱き上げてくれる。まるで小さな女の子への扱いだ。あと一週間足らずで十五歳になるのだけれど、しかしこのハンサムなおじさんには関係ないらしい。

 二階へと運んでくれるシリウスの胸の中で、ハリーは小さな寝息を立てるのだった。

 

 

「裁判の日程が決まったらしいね」

 

 アーサーの言葉に、ハリーはかじっていたトーストからベーコンエッグを滑らせた。

 裁判。そういえばそういうものもあった。すっかり忘れていた。思い出したくなかった。

 モリーが溜め息と共に杖を振ってハリーの胸に乗った元ベーコンエッグの現生ごみを綺麗さっぱり片づけてパジャマを清潔にすると、ハリーの思考能力はようやく再起動する。

 隣から送られてくるハーマイオニーの恨めし気な視線を務めて無視して、ハリーはアーサーへ疑問の視線を向ける。それを受け取ったアーサーは、彼宛てに届いたらしい手紙を取り出して読み上げる。

 

「なぜか昨日の真夜中に着払いで届いた手紙だ。気配に敏感なシリウスが起きてくれたから受け取ってもらうことができたが、何を考えているのやら。とりあえず未成年保護法違反の件だね。君が吸魂鬼や死喰い人と交戦した際に使った『守護霊の呪文』が、マグルの面前での使用であるための咎という……ことになっているはずだった」

「はずだった?」

 

 少なくともハリーはその時以外に魔法を使っていないはずだ。

 逆に言えば、その時は盛大に使ったのだが。

 

「この手紙によると、君が目立つためにパフォーマンスとして守護霊の呪文をひけらかした、ということになっている。いくらなんでもあんまりだ」

「あー……それは、うん。なんだそりゃ?」

「つまりそれだけいまの魔法省が狂っているってことさ。昨夜も言ったろう、ファッジも余裕がないんだ」

 

 アーサーとの会話に、寝間着姿のシリウスが階段を降りながら茶々を入れてきた。

 タンクトップにジーンズという、ずいぶんセクシーな姿である。ジニーとハーマイオニー、ついでにハリーもくすくす笑いが抑えきれなかった。年頃の女の子の前でなんて恰好です、着替えてきなさい! とカッカするモリーへぞんざいに手を振って、シリウスは隣の部屋へ消えてゆく。

 ソーセージとスクランブルエッグのおかずを頬張って、ハリーは問いかける。

 

「それで、ウィーズリーおじさん。裁判の日程と場所は?」

「ああ、場所は当然ながら魔法省だろう。地下にいくらでも裁判所がある……ま、子供の違反なんだし、せいぜい惨事部でお説教だろうがね」

 

 二枚目の手紙を便箋から引っ張り出すと、アーサーはそれを声に出して読む。

 

「ああ、やっぱり。場所は魔法省地下三階の魔法事故惨事部の事務室でやるそうだ。この様子だと、裁判とは名ばかりの口頭注意くらいだろうね。なにせハリー、君に非はないんだから」

「……だといいなぁ」

 

 捻くれているハリーは、それで済むだろうとは思っていなかった。

 それはシリウスも同意のようで、清潔なジーンズとワイシャツ姿に着替えた彼はアーサーに忠言する。

 

「そう、彼女の言うとおりだ。ファッジならば狡い手を使ってくるに違いない。それで、裁判はいつやるんだ?」

「まだ三枚目を読んではいないが……いくらなんでも魔法大臣がそんなことをするとは……」

「今日だ!? 今日が裁判の日だ!?」

 

 ハリーが三枚目に目を通し、日程を読んだ瞬間に悲鳴をあげた。ハリーの皿の上からはついにあらゆる食材が吹っ飛んでゆく。

 モリーがハリーに向けて杖を振るうとパジャマが光って消滅、パリッと糊のきいたブラウスとスカート姿に変わる。髪も丁寧に梳いてあり、いつのまにかポニーテールになっている。まるでジャパニメーションの変身シーンだなと現実逃避しながら、ハリーは手紙を折りたたんでポケットにしまう。

 大慌てで用意を進めるアーサーとモリー、おろおろして何もできていないシリウスを尻目に、ルーピンはハリーの肩を優しくたたく。

 

「いいね、ハリー。君は無実なんだ。特に何も心配することはない」

「それより英国魔法界の将来が心配です、先生」

「その意気だ」

 

 自らを鼓舞する意味も込めてジョークを飛ばせば、ルーピンはにへらと笑ってくれる。

 いくら自分に非はないと知っていても、裁判など十四歳の少女には大きすぎるイベントだ。これが終われば無罪祝いも兼ねて盛大に誕生日パーティをしよう、君のためにね。とシリウスが微笑んで言ってくれた。

 シリウスにハグをして頬にキスを落として礼を言い、そしてシリウスにああ言うよう助言してくれたであろうハーマイオニーとジニーにもハグとキスを贈った。アドバイスされたのがあっさりバレたことで赤面したシリウスをからかうロンにも一応くれてやることにする。あとでシリウスに睨まれるといい。

 甘えることで平常心を取り戻したハリーは、慌てて用意を整えたアーサーに手を引かれて暖炉の中へ飛び込む。「魔法省!」とアーサーが叫ぶと同時に、緑の炎が燃え上がった。へその裏側をぐいっと引っ張られるような感覚と共にハリーの目に見える景色が渦巻き、まばたきの間に厳格な風景へと変わった。

 移動キーと同じ感覚。あまりいい気分にはならない。

 

「おお、相変わらず便利」

「言ってないで急ぐよハリー」

 

 感心したような声を出すハリーを引っ張って、アーサーは人ごみをかき分けエレベーターへ乗り込んだ。中にはすでにぎゅうぎゅう詰め状態ではあったが、そこはアーサーの仁徳ゆえか彼がひどく焦っていることを知ると幾人かの魔法使いや魔女が順番を譲ってくれた。

 彼らに礼を言いながら、アーサーは噴き出す汗を杖で拭い去る。

 

「地下三階だ、地下三階。ハリー、いいね。落ち着いて、真実だけを述べるんだ」

「う、うん」

 

 アーサーの緊張が伝染し、ハリーの声がどもる。

 ひゅんひゅんと音を立てて飛来してくる紙飛行機を何事かと眺めていると、気を紛らわすためかアーサーが説明してくれた。いわゆるふくろうの代わりだそうだ。室内でふくろうを飛ばせばフンの始末や羽根やらの掃除が大変で、ひどく苦情が殺到してきたのだとか。

 それを解決したのが、当時イエスマン政治家であったファッジだ。今でこそ部下の為を想って労いの為に新魔法を開発したと言っているものの、真実は苦情を言われるのが怖くてダンブルドアに相談した結果、紙飛行機というアイディアをもらったのだ。ほんとにしょうもない男である。

 エレベーターが地下三階を指し、燃える紙箱を持った髭の魔法使いが出ていくのを見てハリーとアーサーも出なければと大急ぎでエレベーターから足を出す。

 

「戻れ。アーサー、戻れ」

 

 しかしその足は、エレベーターの中へ飛び込んできたキングズリーによって遮られる。

 再びエレベーターの住人となったハリーらは、キングズリーに胡乱な視線を向けた。冗談をやっているような余裕はないのに、キングズリーは何を考えているのか。

 彼がアーサーと耳打ちし合っている姿を見てイラつくハリーは、アーサーが滝のような汗を流しながら言った言葉に青ざめた。

 

「裁判の場所と時間が変わった」

「は?」

 

 ハリーは悲鳴をあげそうになった。

 それを素っ頓狂な声だけで済ませることができたのは、ひとえに死喰い人や魔法生物どもと死闘を繰り広げた経験と育まれた図太い精神力のおかげに違いない。

 

「場所は地下十一階のウィゼンガモット大法廷。普通こんなとこで裁判しないぞ何を考えているんだファッジめついにいかれてしまったか」

 

 ウィゼンガモット大法廷。

 名前は魔法史の授業で聞いたことがある。確か暗黒時代に積極的に使用された、大罪人を裁くための法廷だったような……。未成年の魔法使用はそこまで重大な犯罪だったろうか。

 ハリーは不安になって、アーサーのシャツをつまみながら彼の顔を見上げる。

 

「それで、おじさん。……いつから?」

「……一〇分前からだ」

 

 ハリーは今度こそ悲鳴をあげた。

 

 

 被告人席に座るハリーは、胃の中に鉛を流し込まれ捩じり曲がったような気分だった。

 まるで中世時代のような赤いローブをまとった中年から壮年の魔法使い魔女が、ずらりと並んでいる。裁判長らしき位置にある席に座るのは、豪奢な衣装を身にまとったファッジだ。

 さながら王の前に坐する罪人の気分である。しかしどうやら、英国魔法界は立法行政司法が一緒くたにされているらしい。そりゃあ腐敗もするわとハリーもあきれた。

 

「被告人、ハリー・ジェームズ・ポッターで相違ないな」

「いや、ハリエット・リリー・ポッターですけど」

「裁判官は私、コーネリウス・オズワルド・ファッジが務める。では裁判を始めよう。ハリー・ジェームズ・ポッター被告、貴殿は有罪とする。以上、裁判おわり」

 

 ハリーがふざけるなと叫んで立ち上がったところ、椅子の肘掛から古臭い鎖が飛び出してハリーの全身を縛り上げる。拘束されるいわれはないとしてハリーが杖に手を掛けようとしたところ、鎖の締め付けが強くなる。

 ファッジを睨みあげれば、ねっとりとした悪辣な笑顔を浮かべていた。

 こいつ、最初から裁判なんてする気がなかったのか。

 

「被告人はマグルの面前で目立ちたがり屋であるために『守護霊呪文』を見せびらかして、未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令を踏みにじった疑いである」

「だから、それは……」

「さらに! 殺人の余罪がある。現場であるリトル・ウィンジングには『死の呪文』使用痕が認められ、おびただしい血痕もある。しかし対象となる死体は消えていた。許されざる呪文使用の罪と隠蔽工作による捜査妨害、死体遺棄も追加だな」

 

 それは死喰い人の仕業だ。そう言おうとしたものの、鎖が伸びてハリーの口の中に突っ込まれる。結果として彼女の唇から零れ落ちたのは抗議の言葉ではなく苦悶の声であった。

 その姿を見て、ファッジの唇がめくれ上がる。

 散々無能だの愚物だの言われていたこの男にも、悪鬼のような一面が眠っていた。

 侮っていたつもりはないが、まるで不意打ちのようなこの仕打ち。以前までは割とハリーのことを厚遇していたため、彼女自身も彼の事を有能ではないだろうが人当たりのいい人物であると思っていただけに、多少なりともショックである。

 ハリーは射殺すような目でファッジを睨みあげた。

 

「ま、アズカバンは免れないだろう。英雄様もおしまいだ」

「きさま……」

「ハリー・ジェームズ・ポッターは投獄するまで拘束。これにて閉廷とする」

 

 ハリーが漏らす怨嗟の声を無視して、ファッジは木槌を叩きつける。

 それはかんと乾いた音を鳴り響かせるはずであるが、不思議と聞こえてくる音はない。

 何かと思って見上げれば、ファッジが苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。見れば木槌の先が、ふわふわのコットンキャンディーに変わっているではないか。

 さらに気づけば、ハリーの口の中に甘ったるい味が広がる。見れば、ハリーの口に突っ込まれていた鎖がフィフィフィズビーのフーセンガムになっている。ついでに言えばハリーの全身に巻き付く鎖も、かわいらしい蛇に変身させられていた。

 こんな無駄に高度で間抜けな魔法を扱える人物など、ハリーの知る限りでは一人しかいない。

 

「被告側弁護人、アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア」

「先生!」

 

 朗々とした声が、法廷に響き渡った。

 特に魔法など使ってはいないようだが、普通に考えて御年三桁を超えてる老人の出せる声量ではない。魔法などを抜きにしても、この人物はやはり規格外であった。

 それはファッジにとっても当然そうであり、彼が現れたことによって目を白黒させている。

 

「……あー、ダンブルドア。時間と場所の変更をお聞きになったので?」

「おう、おう。わしもついにボケてきたかのう、三時間も早く着いてしまったよ」

 

 とぼけた台詞に、ファッジは人目もはばからず舌打ちした。

 おそらく、直前の変更通達をダンブルドアには送っていなかったのだろう。もしくは、変更直後に送ったために通知の手紙を持ったふくろうはまだ空の上なのかもしれない。

 なんにせよ、これで形勢は逆転した。

 老獪さと狡賢さでダンブルドアに勝てる魔法使いは、おそらく英国にはいないだろう。

 

「さてコーネリウスや。ハリーに罪などないぞ」

「なにをばかな。彼女には未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令違反と殺人罪、死体遺棄、および捜査妨害、さらには魔法省反逆罪が適用されているのだぞ」

 

 魔法省反逆罪ってなんだ。

 ハリーが困惑している中、それでもダンブルドアは落ち着いて微笑んでいた。

 ファッジが長々と罪状を述べている間、彼は杖を一振りしてふわふわのソファーを作り出してハリーの隣に座り込む。ついでとばかりにハリーの座る拷問椅子も、真っ白な毛におおわれたふわふわなそれに変じてしまった。

 

「いやはや、ハリーは未成年じゃ。ゆえに命の危険性がある場合には魔法の使用が許されておる。さらに殺人や死体遺棄じゃと? コーネリウスや、その年でボケるには早かろう」

「ばかなことを。死の呪文の使用痕や血痕といった確固たる証拠があるのだ! そこの子供がそれを使って人殺しをしたのは明白である!」

「それは濡れ衣であると主張しよう」

「ならば、証人を呼ぶとしよう」

 

 そう言って言葉を切ったダンブルドアが、杖を振るう。

 ハエを払うかのように何気ない仕草で振るわれた杖先から離れた魔法式を視て、ハリーは瞠目した。内容があまりにも複雑怪奇すぎる。しかしそれでいて単純明快でもある。

 ダンブルドアが使ったのは、ハリーも愛用する亜空間への扉を開く魔法だ。魔法使いにとっては上級者レベルの魔法ではあるが、その実あまり難しいものではない。大事なのは空間把握能力と、この魔法への適正だ。聞けば歴代ホグワーツ校長ほどの魔法使いでも、適性に乏しく使えなかった者がいるほどだ。魔法には、単純に知識だけではどうにもならない類のものが多々ある。これもまたそのひとつだ。

 だからこそ、ダンブルドアの用いた魔法式は単純明快なものであった。ハリーが使っているものと大して変りないのだから。しかしその難解さといったらなかった。まるで世界中の言語を用いてAというアルファベットを描くような、意味の分からなさである。

 そういったわけのわからない魔法を行使して亜空間から放り出されたのは、一人の魔女であった。ハリーはそれに見覚えがあった。

 

「あ、死喰い人(デスイーター)の女だ」

「そうじゃよハリー。君への襲撃犯の一人じゃ」

 

 ハリーが歯を砕いて蹴り飛ばした魔女だ。

 全身を雁字搦めに拘束され、いたるところに日本魔法界製らしきお札が貼り付けてある。魔眼を用いて視てみれば、彼女に一切の魔力が感じられなかった。お札か何かの効果で、マグルと同じかそれ以下の状態にされている。あれでは自力での脱出はまず不可能であろう。

 意識はあるようで、怯えた顔をしてファッジやダンブルドアを見上げていた。

 

「で、死喰い(デスイー)――」

「そう、死喰い人じゃ。彼女の右腕を見てみれば、その証拠がくっきりと浮かび上がっておるはずじゃが」

 

 そう言ってダンブルドアは、杖を振って拡大映像を法廷のど真ん中に映し出す。

 彼女の右腕に刻まれた闇の印が、髑髏から蛇を吐き出して蠢いていた。それを目の当たりにした法廷中の人間が息をのんだり短い悲鳴をあげたりする。

 ファッジは驚愕と恐怖がない交ぜになった表情を浮かべたまま、叫んだ。

 

「そんなもの、証拠になりはしない! 捏造かもしれないではないか!」

「彼女の杖を調べるがいい。死の呪文を撃った形跡が見られ、そしてその魔力紋はプリベット通りに残っていたそれと合致するはずじゃ。コーネリウス、敵対すべき相手を間違えるでない」

 

 静かに通告するダンブルドアの言葉に、ファッジは息が詰まったような声を出した。

 裁判員たちもざわめいており、事の真偽を図りかねているようにも思える。

 そのような中、一人の魔女がダンブルドアへ発言した。

 

「しかしミスター・ダンブルドア。彼女が『守護霊の魔法』を使ったことについては事実のはず。彼女の杖からも、プリベット通りの現場からもその痕跡が認められますが」

「そ、そうだ! よく言ったホップカーク!」

 

 厳格そうな魔女の声を聴いて、ハリーは思い当たる。ハリーへ退学通知の手紙を送ってきた魔女だ。眼鏡をくいっと上げる彼女は、五十代後半のデキる女といった風貌である。

 彼女の言葉にダンブルドアは微笑みを深くして、頷いた。

 

「そうじゃのう。ハリーは間違いなく守護霊の呪文を行使しておる」

「ほーら見ろ! ざまーみろ!」

吸魂鬼(ディメンター)に襲われた際に最も役立つ呪文じゃ。彼女はそれを実践してのけた。命の危険がある際には例外とする――未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令の項目に明記してあるのう」

 

 まるで子供のような癇癪を起すファッジを冷めた目で見ていると、ホップカーク女史が疑問の声を上げる。プリベット通りに吸魂鬼が出現するはずがない。彼らには海を渡るほどの長時間飛行は不可能であり、そして英国内に存在する吸魂鬼はすべて魔法省が管理していると。

 その言葉を待ってましたと言わんばかりのダンブルドアは、すかさず口をはさむ。

 

「そうじゃのう。不思議じゃ、実に不思議じゃ。なぜ、リトル・ウィンジングなぞに吸魂鬼が現れたのか。よくよく考えるべきじゃ」

 

 その言葉の意味に気付いた法廷の魔法使いたちがざわめく。その驚きを受けて言葉の意味をよくよく考えてみると、ハリーにも含まれた意味が理解できた。

 つまり、ダンブルドアは魔法省に対して疑念を投げかけているのだ。

 本当に君たちは一枚岩なのだろうか、と。

 死喰い人の嫌疑がかけられていた魔法貴族たちや吸魂鬼という暗黒時代の産物を未だ頼りにしているだけに、彼らには耳が痛かろう。

 

「ンッン~」

 

 頭の痛くなる声が響き渡った。

 わざとらしい咳払いを放ったのは、ホップカーク女史の前に座っているずんぐりした中年太りをした魔女だ。彼女が顔を上げた瞬間に、ハリーは悲鳴を上げなかった自分を内心で褒めちぎってもいいと確信した。

 人間大の人面ガマガエル。これに尽きる。

 ピンクのふわふわしたカーディガンを中に着込んで、くるっとカールした髪にはよく手入れが施されている。大きく裂けた唇は、なぜハエを捕まえるための舌が飛び出してこないのかが不思議なくらいだ。

 そして一番印象的なのは、台所の三角コーナーにひと月放置した果実のような腐臭が漂ってきそうな目つき。スリザリンの意地悪さなど路傍の土くれにすら劣るであろう、大鍋で煮詰めたかのようなどろりとしたいやらしい目をしていた。

 そのくせこの少女めいた声! 実際怖い。ハリーは小さなころダーズリー家に連れて行ってもらってデパートで見た大道芸の腹話術を思い出した。外見の醜悪さと声の甲高さがあまりにもちぐはぐで、なんだか馬鹿にされている気分にすらなってくる。

 要するにありゃ怪物である。

 

「ダンブルドアせーんせっ。あたくし、聞き違いをしたかもしれませんわん」

 

 怪物がしゃべった!

 

「それではまるで、魔法省がポッターちゅわんに吸魂鬼をけしかけたように聞こえましたわ? あたくしの、聞き違いで、勘違いでしたら、よいのですけどぉん?」

 

 ハリーは蛇語で呟き、鎖が変じた蛇君に耳をふさいでもらった。

 ガマガエルの発した甘ったるい鳴き声――もとい猫撫で声を聞いていると、耳が腐り落ちそうだったからだ。見れば、ファッジも少しげんなりしているように見えなくもない。

 しかし、いやはや。魔法生物が就職できるとは魔法省も懐が広いものである。

 

「もしそれが真実であれば、由々しき事態じゃ。早急に原因を究明せねばな」

 

 ダンブルドアが話を打ち切った。

 おそらく、不毛な話になると読んだのだろう。あのガマガエルの眼は、明らかに真実を追求しようとするものではない。かのアルバス・ダンブルドアを相手に子供をあやすような厭味ったらしい物言いをしているのもそのためだろう。あの女(?)は、相手を怒らせて話をこじれさせようとする天才だ。

 話が途切れたのを見て、ファッジがすかさず声を挟む。ハリーを相手にしていた時のような余裕がない。上ずった声で、ダンブルドアに食って掛かった。

 

「我が魔法省が、そんなことをする理由がない!」

「そうじゃろうな。あの悍ましい怪物どもが魔法省に組していれば、の話じゃ」

「何が言いたい! 吸魂鬼どもが我々魔法省以外の、誰に従うというのだ!」

 

 我が意を得たり。

 ダンブルドアのブルーの瞳が光ると、にっこりと笑みを浮かべて言い放った。

 

「そうさの。たとえば、復活したヴォルデモート卿とか」

「断じて――復活など――して――おらん!」

 

 怒りに声を震わせてファッジが怒鳴りつけたところで、暖簾に腕押し糠に釘、スクイブに杖である。涼しい顔のダンブルドアに業を煮やしたファッジが、続けて叫んだ。

 

「ポッターの有罪は変わらん! あなたがいくら優秀な魔法使いであろうと、殺人や死体遺棄などという罪を消し去ることはできないのだ!」

「その件については、そこに転がしておる死喰い人にでも尋問してみたらどうかの。きっと彼女の濡れ衣は拭い去られるはずじゃ」

 

 死喰い人の女性がびくりと肩を震わせた。

 まぁ、こんなところに放り込まれたらアズカバン行きは避けられないだろう。仕方のない反応だ。しかしファッジはそれでも納得できず、口角泡を飛ばし続ける。

 

「だ、だが吸魂鬼が居たなどという証拠はない! 目撃者もいないのだろう!? ならばすべてはポッターの狂言だ! そうに決まっている!」

「コーネリウスよ、それもリトル・ウィンジングの現場を調べればわかることじゃろう」

「……だとしても! マグルの面前で守護霊呪文を行使した罪は変わらん! そうだろう!?」

「そうじゃの。しかしコーネリウスよ、どうやら自分自身で口にした言葉をお忘れのようじゃ」

 

 ダンブルドアが杖を振ると、法廷の空中に映し出されていた死喰い人の腕の映像が消え去り、おそらく過去の映像であろうものが映し出される。

 風景から見るに、漏れ鍋の一室だろう。キングズリーやハワードに自分が映っていることから、ハリーはそれを三年前の光景だとあたりをつけた。

 こうしてみると自分もなかなか成長しているものだ。体型ももちろんながら、ハワードの肩くらいだった背も彼女の目線くらいにまでは伸びている。成長を実感できるのは嬉しいが、はて、この時なにか重要なことを言っていただろうか。

 

「コーネリウスや。このとき言っておったのう。ハリーが自分の叔母を風船ガムみたいに膨らませたときに、自己防衛が適用されているために未成年の魔法保護法にはなんら抵触していないと」

「……記憶にありませんな」

「目の前に証拠があるじゃろうが」

 

 マグルの政治家と似たようなことを言いながら、ファッジが目を逸らす。

 今回彼は小心者ゆえに非道へ走ったが、根はそこまで悪人ではないのだろう。素人目ではあるがハリーの見立てでは、彼は政治家であるにもかかわらず嘘をつくことに慣れていない。そしてそれは間違ってはいないはずだ。

 

「彼女の仕業でない以上、ハリーに罪はない。そうじゃな?」

「……法律は、変えられる!」

「そのようじゃな。未成年の起こしたささいな問題に、よもや闇の魔法使いたちを裁いてきた刑事事件の大法廷を用いるとは!」

 

 ダンブルドアの視線に、ファッジは顔色を悪くして居辛そうに座り直す。

 同じく赤いローブをまとった魔法使いたちも、恥ずかしそうに顔を伏せた。

 容赦をせず、髭の老人はたたみかける。

 

「今回も自己防衛が適用されるのは疑いようもないことじゃ。だがもし、万が一、わしがチョコレート嫌いであることと同じくらいの確率なのじゃが、今回の件が有罪だとしよう」

「ようやく罪を認めたな!? ハッハー! これでポッターは――」

「しかし、はて。未成年が魔法を使ってオイタをした場合、一回目は警告だけじゃったように思えるのじゃが……なんじゃったかのー? 最近わしゃー耳が遠くてのぉ。もいっちょ言っとくれんかの? んん?」

 

 ついにファッジは黙り込んでしまう。

 満足げに微笑んだダンブルドアは、続けて言葉を口にした。

 

「わしの知る限り、いまの英国魔法省における法律において未成年の魔法使用について、刑事事件として扱うような法律はない。どうじゃね、コーネリウス」

「…………これでポッターは無罪とする。閉廷、おわり」

 

 もふん、と間抜けな音を立てて元木槌の現ふわふわの何かを机に叩きつけて、ファッジは裁判の終了を告げる。ハリーが呆然としていると、同じく裁判員の幾人かも呆然としたままのようだった。全員が全員、ファッジと似たような魔法使いではないらしい。

 ああ、しかし。これで、無罪だ。

 投票のVの字も見当たらなかったが、それでも無罪を勝ち取った。

 知らずして緊張していたらしいハリーは、ほうと長い溜息を吐き出した。肩の荷が大量に降りて行ったような気分だ。

 

「コーネリウスや。今こそ団結すべき時。忘れるでないぞ」

「黙れ――私の地位を狙う――ハゲタカめ――」

 

 ダンブルドアの静かな忠告に、ファッジが絞り出すように声を出した。

 裁判員たちやファッジがせかせかと法廷を退出し、ハリーはその背中を見守る。すっきりとした清々しい、歌でもひとつ歌いたいようなイイ気分だ。

 しかし明らかに激怒しているファッジの背中に、ダンブルドアが悲しげな目を向けている姿を見れば、その気持ちも幾分か沈んでしまう。だが今は礼を言うべき時である。

 

「助かりました先生、ありがとうございます」

「……、…………」

 

 だが彼からの応答はない。

 ちらとハリーを一瞥すると、おちゃめにウィンクを飛ばしただけだ。

 その際に半月の眼鏡がきらりと光り、ブルーの瞳に何かが込められていたことにハリーは気付く。返事をしてくれないことには不満が残るが、しかしウィンクと彼の表情で何か意味があるのだと察する。

 無言で小さく頷くと、満足そうに微笑んでくれた。

 元拘束椅子のふわふわソファから立ち上がると、ハリーは法廷を後にする。もはやここに用はない。あるとしても将来ハリーが魔法省に就職したときくらいであろう。つまり限りなく可能性は低いという意味である。少なくともファッジ政権である間は、まず無理な話だ。

 

「ハリー、おめでとう!」

 

 法廷の出口ではアーサーが待っていた。

 満面の笑みを浮かべて、ハリーの無罪を喜んでくれている。彼にぎゅっと抱擁して、ハリーはその喜びを分かち合った。頭をくしゃくしゃと撫でるそれは、息子たちへやる仕草と同じなのだろう。髪形が乱れるくらいに強いそれは、ハリーにとってはとてもうれしいご褒美だ。

 ぼさぼさになった頭を手櫛で整えながら微笑むハリーに、アーサーは後ろ手に持っていた金貨袋をハリーに手渡した。非力なハリーでは両手で持つのがやっとなほどの重量である。百万ガリオンは余裕で超えているだろう。そのあまりにもあんまりな金額に、ハリーは眼を白黒させる。

 

「……こ、これは?」

「ルード・バグマンを脅しつけてやっともらうことが出来た」

 

 ただでさえ重い金貨袋を取り落しそうになった。

 それに気づいたおじさんが杖を振って亜空間へ金貨袋をしまう姿を見ながら、ハリーはおろおろとした声で問いかける。

 

「お、おじさん……ウィーズリー家は誇り高き清貧生活だって……」

「違うからね? 別に強請ったわけじゃないからね? あと好きで清貧してるわけじゃないからね? 将来きみも子供が出来ればわかるからね? ……んんっ。まあ、そのお金は正当に君のモノだよ」

 

 ハリーのボケを必死にスルーして、アーサーは言う。

 これは六大魔法学校対抗試合にて、ハリーが優勝となったために得た賞金一〇〇〇万ガリオン……の、一部だ。さすがに一〇〇〇万枚の金塊などという重みをハリーの細腕で持つことはできない。というか、専用の魔法でもなければ、トラックにでも積み込まなければならない。よって、いま袋に入っているのは一〇〇ガリオンぽっちとなる。

 つまるところ、残りの金額は現在グリンゴッツ銀行に存在するハリーの口座に振り込まれるのだという。両親の遺産はホグワーツ卒業までを無事に過ごすくらいには遺されてはいたが、余裕があるほどではない。これは大助かりだ。

 一〇〇ガリオンぽっちとは言ったものの、それでも大金に変わりはない。それだけのお金があれば、ダイアゴン横丁なら箒以外はほとんど揃えられるだろう。

 そこでハリーはアーサーに相談し、無罪祝いのための御馳走を買い揃えることに決めた。今日は豪勢にパーティである。自分が無罪になることは確信していたものの、知らず知らずのうちに緊張していたらしい。

 

「さ、帰ろうかハリー」

「はい、ウィーズリーおじさん」

 

 その日のパーティは、ハリーの誕生日祝いも兼ねての盛大なものとなった。

 裁判というバッドイベントによって自分の誕生日というビッグイベントをすっかり頭から溶け流していたハリーは、ブラック邸のリビングへ入った途端鳴らされたクラッカーに仰天した。そして魔法で輝く垂れ幕にハッピーバースデイの文字が躍っている様を見て、ようやく思い出したのだ。

 料理も、アーサーと買った材料より明らかに量が多い。サプライズとして祝いたかったのだろう、ハリーが少しお金を出してしまったこともこのどんちゃん騒ぎにおいては笑い話となった。

 

「はいよ、ハリー。お待ちかねのプレゼントタイムだ」

 

 ロンがそう言って手渡してきたのは、『マッドなマグル、マーチン・ミグズと賢者の石斧』という本だ。随分と泥臭い戦い方をするマグルのコミックスである。ひょっとしたらこういうの好きかなと思って、と笑うロンの目から、同じ趣味の仲間を増やす魂胆を読み取った。どうやらこのコミック、ウィーズリー家では不評らしい。

 ハーマイオニーからは恒例の本だった。『マグル学読本 魔法史との関連性』という、ハリーの顔程は厚みのある巨大な本だった。マグル学教授のチャリティ・バーベッジ女史が手がけた学術書で、魔法界特有の滅茶苦茶なマグル文化解釈ではなく、しっかりとした観点で魔法界との歴史や文化の関連を書き纏めた、マグル出身者からすると物凄く有用な本であった。アーサーが物欲しそうな顔をしていたが、読ませてあげるくらいはいいかもしれない。

 ジニーからはヘドウィグのような白い羽根を模した髪留め。最近髪を切っていなかったため、そこそこ髪の長くなったハリーは読書をするときに前髪が邪魔になったりするのだ。ジニーのセンスはハリーなど足元にも及ばないものであったため、ありがたく頂戴した。

 フレッド&ジョージからはなんと、悪戯グッズ詰め合わせである。二年生のときハリーの命を救った気配消失薬はもちろん、糞爆弾やBOMB‐BOMB(ブー・ブー)クッション。中でも驚いたのは、双子が手作りした『伸び耳』や『おもちゃ杖』である。よもや自分たちで作るほど悪戯が好きとは、いやはや。

 大人組はそれぞれ役に立つものをくれた。防犯グッズの『プロ仕様隠れん防止器(スニースコープ)』を贈ったムーディや、変装マスク『貴方も私も七変化(フー・アム・アイ)』をくれたトンクス、『実践的な闇の魔術に対する防衛術一〇〇選』を用意したキングズリーなど。ブラックすぎて苦笑いしたのは、不在ゆえふくろう便で郵送されたハワードとウィンバリー名義の『書きづらい羽ペン(ハワードから引き抜いた羽根使用)セット』である。彼が報復を受けていないことを祈る。

 プレゼントの山をどうやってしまったものかと緩んだ顔で眺めるハリーの頭に、厚く大きな手が優しく置かれた。ふわりと髪を乱さない慣れた様子で頭をなでるプレイボーイが誰なのか、ハリーはよく知っている。

 

「やぁ。ハリエット、ハッピーバースデイ」

「ありがとうシリウス」

「さて、お待ちかねの私からのプレゼントだ。君なら喜ぶと思って探し出してきた」

 

 そう言って彼が取り出したのは、どうやら鏡のようだった。

 さすがに女性らしく身だしなみを気にしろという意味ではないだろう。シリウスはそういったことは遠まわしではなく直接いうタイプだ。ではこれは一体何なのだろう。

 

「これは『両面鏡』という。いわゆるマグルの通神鬼(トランスシヴァ)みたいなことができる、二対で一つ魔法具だな」

通信機(トランシーバー)ね」

「そう、それ。私の持つ鏡と対になっていて、呼びかけることで顔を合わせて話をすることが出来る。ああ、そうだ。君の想像通り、罰則を受けて別々に閉じ込められたときにジェームズと連絡を取り合って脱獄するのに使ったものだ」

 

 思いがけず素敵なものをもらってしまった。

 しかしこれを渡すというのは、なんだか別の意味も感じられる。両親や兄との繋がりを求めるハリーにとって、彼らが使っていた学用品といったものをプレゼントされるのはとても嬉しい。嬉しいのだが、なんともはや。彼も素直な男である。

 

「……シリウス、やっぱり寂しい?」

 

 ハリーがそういうと、見抜かれたことに驚いた様子を見せる。

 もしもハリーがハリエットでなく、ハリー少年であれば気付かなかったか、気付いても気遣って無視していただろう。しかしハリーはハリーであり、ひとりの少女だ。愛する家族同然のシリウスが寂しがっているのに、男の意地とやらを守ってやるつもりはなかった。

 動揺している彼を抱き寄せて、その背をぽんぽんと叩いてやる。

 

「シリウス、ぼくはあなたを愛している」

「……私もだ、ハリエット」

 

 優しく抱擁を返す彼に、ハリーは耳元でささやく。

 

「ぼくの出自を知っているのは、たぶん騎士団でも一部だけでしょう?」

「そう、だな。私とリーマス、ムーディにダンブルドアくらいだろう。君が自分から言う気になるその日まで、待ってやってほしいとのことだ」

 

 ハリーはダンブルドアに感謝をささげた。

 ウィーズリー家のみんなや、闇祓いの連中を信じていないわけではない。現にロンとハーマイオニーの二人にはこっそりと打ち明けている。だけれども、少しだけ、もう少しだけ、勇気が欲しかったのだ。

 そういった面をくみ取ってくれるダンブルドアはやはり、偉大な教師である。

 

「だからそういった相談をできる相手がいるだけでも、ぼくにとってはすごく助かるんだ」

「……ああ、存分に話しかけてきてくれ。この家で引きこもってには、独りでは少し広すぎる」

 

 シリウスは残念ながら、いまでもお尋ね者状態である。よって、この家から出ることは危険を意味するのだ。さらにグリモールドプレイスにおけるブラック邸の『秘密の守り人』でもあることから、この家から彼が出ない限り情報が洩れることはほとんどないと言っていいだろう。

 やんちゃな彼にとって、家から出ることが出来ず誰とも会えないというのは拷問に等しいことだろう。ハリーはせめて定期的に連絡しようと、固く決めたのだった。

 

「家族愛を確かめるのは結構ですけれどもね。今はお食事中ですよ二人とも」

 

 せめて人前で抱き合うべきではなかった。

 モリーの注意を受け、ハリーは敬愛するおじからぱっと離れる。残念そうにしたシリウスの口元は少し笑っていた。周囲の視線に気づいていなかったのは彼女だけらしい。

 ハリーはからかってくる双子のウィーズリーを睨み付けながら、赤面したのだった。

 




【変更点】
・甘い声を出す起こりん坊ハリーはいない
・ダンブルドアは有言実行でハリーに隠し事はしないことに
・フィッグおばさん死亡のため、強引な裁判へ
・すでにハリーの中にお辞儀が在ることは話し合っているため、ダン無視ドアは無し
・賞金は獲ってきた
・両面鏡が日の目を見るかもしれない

ェヘン、ェヘン。登場できて光栄ですわ。読者の皆様方。ンフフッ。
さて、不死鳥の騎士団編では本作の主人公がハリー・ポッターではなくハリエットであるため、いろいろと些細なところが変わっていくでしょう。
原作でもこの巻からハードになっているといわれておりますが、ファッジやアンブリッジといった大人の汚い面を真っ正面から突きつけてくるようになったからではないでしょうか。
本作ではすでにロックハートが大人とは成長した子供であるとの事をハリー達に(身をもって)教えています。この結果がどうなることやら。
ということはつまりロックハートは偉大な教師だった可能性が微レ存……?


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3.アンブリッジ・ショック

 

 

 

 ハリーは流れる景色を汽車の窓から眺めていた。

 ホグワーツ特急のコンパートメント一室を仲間内で占領し、カートでお菓子を売り歩く魔女からいつもの分を買い取ってのんべんだらりと過ごしている。

 ロンが口元を汚したままでいるので、見かねたハーマイオニーがハンカチでそれを拭う。恥ずかしがって嫌がるロンを、ジニーが笑った。三人の姿を見ながら、ハリーは手元の写真へ目を落とす。

 十数人の人間が集まって記念写真を撮った際のモノのようだ。見覚えのある魔法使いに魔女、そして見知らぬ魔法使いと魔女も多い。写真の中から若かりし頃のシリウスがハンサムな笑みを向けてきて、その隣にいる眼鏡の男性がからかっている姿を見て、ハリーははにかんだ。

 眼鏡の青年の隣には、赤い髪の毛の女性が微笑んで立っている。ジェームズとリリー・ポッターだ。まだハリー・ポッターが生まれる前の写真で、当然ながらハリエットは毛ほども存在しなかった時代のものである。

 モリーの兄弟や闇払いたち、他にも何人かがこの写真を取った数日後や数週間後には亡くなっている。レジスタンス組織である不死鳥の騎士団団員は、その多くが闇の陣営との戦いの中で命を散らしていったのだ。

 その中で二人、見覚えはあるも知らない男女が肩を抱き合って騒ぐジェームズとシリウスを微笑ましそうに見ている。あったことはないが、その二人にはハリーの良く知る友人の特徴がところどころに散見された。

 

「久しぶりハリー。元気にしてた?」

「やあネビル。見ての通りだよ」

 

 ネビル・ロングボトム。ハリーの知る限りもっとも優しく穏やかなグリフィンドール生だ。

 この写真をもらった時、シリウスから説明を受けた。ロングボトム夫妻は、闇の魔法使いから拷問を受けて精神が崩壊してしまったのだと。いまも聖マンゴ病院で治療を受けているものの、心に関する魔法はこの二〇世紀においてもまだ未発達で回復の目途が立っていない。

 彼はよくおばあちゃんとの思い出を語ってくれるが、さもありなん、両親との新しい思い出が作れないのだ。ネビルのことをネビルと認識してもらえず、見舞いに行っても無碍にされてしまう。

 それを知った時、ハリーは胸が張り裂けそうな気分になった。自分の愛する両親から、自分の事を認めてもらえなくなったら、いったいどんな気持ちなのだろう。ハリーには知ることが出来ないし、想像することさえできなかった。

 ほがらかな笑顔を浮かべるネビルを見ていると、そんな過酷な体験があったことなど伺えない。ハリーは、彼が自ら話してくれるまでロングボトム夫妻の事は問わないことにした。自分とて、いまだに明かせない秘密を持っているのだから。

 

「ん? ……あー、ネビル? その奇妙なサボテンは……いったい?」

「ああ、これかい? これはね、ミンビュラス・ミンブルトニアっていうとても珍しい魔法植物なんだ! 叔父さんから誕生日プレゼントにもらってね、アッシリアのあたりに生えてるんだよ!」

「へー、そう……」

 

 灰色のサボテンは時々身じろぎするように動いており、ハッキリ言って不気味である。

 サボテンは葉を針のようにしていることで有名だが、これは針の代わりにおできのようなものがあちこちにできている。彼は大事そうに抱きかかえているが、ハリーとしては正直近寄りたくない代物だ。

 何かろくでもないことが起きそうな、なんというか嫌な予感がする(I have a bad feeling about this)

 

「それでね、このおできから出てくる膿が」

 

 瞬間、ハリーはコンパートメントから飛び出す。

 数々の闇の魔法使いや魔法生物たちと殺し合った経験がハリーを助けてくれた。身体の運び方、脚の動かし方、どのように床を蹴れば最速であるか。くだらないことにハリーは全力を尽くし、そして結果として彼女は危機を脱した。

 タイミングが良かったのか、はたまた悪かったのか。ネビルがミンビュなんとかのおできに触れた瞬間、ホースから水をまき散らすように勢いよく膿が飛び出して車内をたっぷり異臭まみれに包み込んだのだ。

 ドアの向こうで悲鳴と惨劇が起きているのを見ながら、ハリーは己の判断が正しかったことを確信する。親友たちは迷わず見捨てた。友情とは時に非常である。

 

「ハァイ、ハリー」

「……ん、ああ。久しぶり、チョウ」

 

 ジニーから裏切りへの恨みの言葉が吐かれているのを耳にしながらどうやって謝ろうかと考えていると、別のコンパートメントからやってきた女生徒にあいさつをされる。

 レイブンクローの六年生、チョウ・チャンだ。

 ハリーとしては、正直言ってあまり会いたくない少女である。セドリック・ディゴリーを好いていた女生徒のひとりで、おそらく最も彼の近くにいたであろう存在。別にハリーとしてはセドリックの事を異性として意識していたわけではないのでライバルというわけではないのだが、向こうはそうではなかった。そして彼が逝ってから、こうして会うのは初めてだった。

 なんとなくわかる。どこか無理をしている。

 セドリックが死んだ直後は、チョウに対して内心毒づいたりはしたものの、彼女にとって彼への愛は本物だったということなのだろう。よくわからない問題だ。

 

「えーっと、……その、休暇はどうだった?」

「ぼくがマグルの一家に世話になってるのは知ってるだろう? ご想像の通りさ」

「あー……そ、そう……」

 

 何か本題を切り出そうとしているものの、しかし言い出せない。そういった印象を受け取った。しかし彼女が何を聞きたいのかは、ハリーにはわからない。

 微妙な空気が流れ始めたその時、救世主として降臨したのは金髪の少年であった。

 

「ポッター! 頭のおかしいポッターがまた嘘をついているぞ!」

 

 通常運転のスコーピウスが、取り巻きのトロール……もといゴラップだったかクライルだったか、そんな感じの合体事故生物を連れて現れた。

 ぶーぶー唸るクライルを従えて、スコーピウスは歌うように言う。

 

「勘弁してくれよ、なんでホグワーツに来てるんだ? 復活した帝王に怯えてマグルの家に引きこもっていればいいのに! ままー、れいのあのひとがくるよー!」

「やぁスコーピウス。いい休暇を過ごせたようだね。元気みたいでよかった」

「……? きゅ、吸魂鬼に襲われて裁判を受けたんだって? よく口が回るものだよねえ」

「ぼくは思ったより有意義な夏休みを過ごすことが出来たよ。魔法史もなかなか面白い」

「んん? ……あれ。ポッター、僕の話聞いてるかい?」

 

 わざとスコーピウスの話と食い違う返事を繰り返していると、ついに混乱したスコーピウスが嫌味な顔を引っ込めて心配そうな表情を浮かべた。面白いなコイツ。

 普段なら子供っぽいなと思いスルーできるのに、どうにもイラッとしてしまって思わず大人げない態度を取ってしまった。スコーピウスたちが入ってきたコンパートメントの連結部につながるドアの前で、ドラコが苦笑いしているのが目に入る。

 クライルと顔を見合わせて首を傾げているスコーピウスの頭に手を置いて、歩み寄ってきたドラコが話しかけてきた。

 

「やぁポッター。また随分と騒がしい休暇だったようだね」

「おかげさまでね。大臣は素晴らしい人だったよ」

「だろうね。それもあと数年……いや、数ヶ月の心配かな」

 

 どうやらドラコの見立てでは、年内にはファッジが職を失うだろうとのことだった。

 何を根拠に断定したのかは定かではないが、まぁあの様子を見るに魔法省にまともな人間がいればリコール運動くらい起きるだろう。魔法大臣は独裁者ではないのだから、権力の椅子に座り続けたくとも英国魔法族が許さなければそれまでだ。

 やはりドラコはハリーと似通ったものの見方をしている。嬉しくなってにっこり笑いかければ、不機嫌そうな顔が返ってきた。可愛いものである。

 

「さてポッター、今年は忙しくなるぞ」

「……O.W.L.(ふくろう)試験だもんなぁ」

「それもあるけど……、まぁ、君も嫌でも知ることになるだろうからね」

 

 そう言って言葉を切ると、いまだに頭をひねっていたスコーピウスと知恵熱を出していたトロールを連れてドラコは去って行った。

 随分と含みのある物言いだったが、いったい何の話だったのだろう。

 彼らの父親、ルシウス・マルフォイは死喰い人であった。それに関することで、何か情報を得ているのかもしれないが……、ハリーがドラコから情報を得ることは極めて難しいだろう。闇の魔術に対する防衛術の様子を見るに、戦闘面ではまだまだ負ける気はしないがこういった口八丁手八丁が必要となる問題では、ハリーは大幅に後れを取っている。

 もしドラコが口論の結果おまえを好きにすると言い出したら、ハリーには成す術がないだろう。そんなことは言い出さないだろうが、ハリーは自分もおつむの方を鍛えるべきかと悩んでしまう。

 そう、今年ハリーは五年生になる。ホグワーツにおける五年生は、普通魔法使いレベル試験、通称O.W.L.試験を受ける年。

 この試験の結果如何によって、これからの人生が左右されるくらい規模の大きな試験なのだ。毎年勉強のし過ぎでノイローゼになりマダム・ポンフリーの世話になる生徒が現れるほどである。心配にならないはずがない。

 隣でマルフォイ兄弟とのやり取りを心配そうに眺めていたチョウが、あなたならきっと大丈夫だわと励ましてくれるのが何よりもありがたかった。

 

 ホグワーツに到着すれば、不気味な馬らしき何かが引く馬車がハリーたちを待っていた。

 周囲の反応を見てみれば……やはりロンにもハーマイオニーにも見えていない。どうしたものかと思っていると、ロンが早く乗ろうと急かしてきた。どうやらハリーたちが最後発組らしい。

 残る馬車に乗りこめば、そこには既に先客が一人座っていた。

 透き通るような色素の薄い金髪に、同じく白い肌。どこかエキゾチックな雰囲気の少女である。……いや、エキゾチックに感じた理由は判明した。イヤリングが本物のカブなのだ。何考えてんだコイツ。

 

「あんたにも見えてるんだ」

「えっ」

 

 変なものを見る目で見るのは悪いかと目を逸らして馬車に乗りこめば、その瞬間見計らったかのように彼女から話しかけられてドキッとする。

 見遣れば、不思議な光を放つ目がこちらに向いていた。

 

「その骨みたいな馬。見えてるんでしょ?」

「……きみも、見えるの?」

「見えなきゃこんなこと言わないもン」

「あー……まあ、そうだね」

 

 言われてみればそうだ。

 しかし話せば話すほど不思議な子である。なんというか、つかみどころがなくて会話を続けにくい。戸惑うハリーを見かねたのか、彼女の隣に座ったジニーが紹介を始めた。

 

「その子はルーナっていうの。ルーナ・ラブグッド。私と同学年のレイブンクロー生よ」

「英知は宝なり!」

「まあ、うん。見ての通りちょっと変わった子ね。もちろん、悪い子ではないわよ」

 

 ジニーが何とも言いづらそうにしているあたり、校内でもそのような評価なのかもしれない。苦笑いするべきか大真面目に頷いておくべきか、ハリーは少し迷っているとルーナからの視線を感じる。

 何かと思えば、優しい笑みを浮かべていた。

 

「あんたはまともだよ、あれが見えてるんだもン」

「……そうかい?」

 

 いったい何が見えているんだと不気味そうな顔をするロンの脇腹を小突いておいた。

 面と向かっているだけマシだが、あそういうことをするのは失礼である。

 

「うん。ぼくだけにしか見えない存在かと思ってた」

「だいじょうぶ。あたしと同じくらいまともだよ。あたしが保障する」

「……おう、ありがとうよ」

 

 花の咲くような笑顔を浮かべて、大変ありがたくないことをルーナは言った。

 ハリーは苦笑いするべきだと判断し、頑張って自分の頬を持ち上げる。

 しかしそれは失敗して、引きつった顔になるだけだった。

 

「また諸君らの顔を見ることが出来て、わしゃ嬉しい」

 

 時は過ぎ、大広間の新学期パーティの前に恒例であるダンブルドアの挨拶が始まった。

 組み分けの儀式は終わり、特に何も問題なく終わったことにハリーは逆に違和感を感じてしまう。もっとも、組み分けの際に大騒ぎが起きたのはハリーの組み分けくらいだ。

 例年通り許可なく禁じられた森へ立ち入ることの禁止や、フィルチによる廊下での魔法使用を禁じる四六二回目の通告や、悪戯グッズ使用の禁止事項通達(ウィーズリーの双子がいる限り、無理な話だ)など、新一年生向けに大雑把な一年間の予定などを伝える。

 

「そしてすでにお気づきの方もおるじゃろうが、魔法生物飼育学のハグリッドはちと休職じゃ。数ヶ月の間、彼はホグワーツから出張しておる」

 

 一部の生徒が、特にスリザリン寮から多くの歓声があがった。

 意地悪からくるものもあるだろうが、その喜びの声は多分に彼の授業が不評だからということもある。なにせ、そう。危険なのだ。ハグリッドはいい人なのだが、彼の趣味が悪いのだ。

 

「その代わりに彼が戻ってくるまで、魔法生物飼育学はウィルヘルミーナ・グラブリー=プランク先生が担当してくれる。皆の者、彼女の言うことをよく聞くように」

 

 いつもならばハグリッドが座っている席に、一人の老魔女が居て静かに礼をしていた。

 確かあれは、ハリーたちが魔法生物飼育学を受講できるようになる前の教授である。ハグリッドには悪いが、O.W.L.試験が待ち構えている今年にまともな授業が出来るのはありがたいことだった。

 面と向かって言うつもりはないが、友達に対してあまりに失礼な気持ちを抱いたことに心中で謝罪する。でも本当のことなんだもの。

 

「そして今年も闇の魔術に対する防衛術の新しい先生を呼ぶことが出来た。ドローレス・アンブリッジ先生じゃ」

 

 毎年新任の教師がやってきて教授陣も大変だろうなと思いながら長テーブルを見てみれば、ピンク色が毒々しいカーディガンを着込んだ中年魔女が立ち上がった。

 そのあまりのセンスのなさに失笑する生徒が幾人かいる中で、ハリーは彼女の顔を見て呆然とする。あのいやらしい底意地の悪い目には、見覚えがある。

 

「ェヘン、ェヘン。ご紹介に預かり光栄ですわぁん、ダンブルドアせんせっ」

 

 ざわついていた生徒たちが、しんと静かになる。

 たしかにあのガマガエルのような見た目からこんな少女めいた声が飛び出して来れば、自身に幻覚魔法でもかけられているのかと不安になるだろう。気持ちはわかる、すごくわかる。

 ハリーはあの女が嫌いだった。細かい仕草、ばかばかしい声、似合わないくせに着込んでいるピンクのカーディガン、ガマガエルを侮辱している顔面など、何もかもが嫌悪の対象だった。

 アンブリッジは大広間中の人間が静かになったことで満足そうに微笑む。

 

「みなさんの可愛いお顔を拝見することができて、わたくしとっても嬉しく思いますわん。わたくしが新しい闇の魔術に対する防衛術の先生になる、ドローレス・アンブリッジですわ、よろしくお願いしますね。んふっふ」

 

 多くの生徒が困惑しただろう。

 小さな子供に言い聞かせるような口調なのだから、いったいこいつは何を考えているんだと思う者が大多数で、苛立ちを覚える者も少なからずいる。

 まるでアンブリッジは狙って怒らせようとしているかのような口調で、言葉をつづけた。

 

「魔法省は未成年の魔法使い及び魔女の教育については非常に重要な案件であると、以前からそう考えておりました。可愛らしいみなさんが持つべくして持って生まれた類稀なる才能は、慎重に教え、正しく導き、公正な手で磨かなければいけません。英国魔法界古来の神秘をあなたたちの子孫へと間違わない形で伝えていかなければならないと考える次第です。それら魔法という神秘なる知識は教育という気高い形によってこれからの時代を担う子供たちへと伝える必要があります。この学校に就任する歴代校長は各々革新的な制度を導入してきました。それはそう、実にそうあるべきでしょう。進歩がなければ停滞と衰退あるのみ。しかし進歩による進歩のための進歩はあってはなりません。それらは伝統に反することであり、我ら神秘を操る一族たる魔法族にとって不要であることに他なりません。暴力的な変化よりも平和で恒久的な保守を大事にすべきなのです。一方伝統ばかりを大事にしてばかりでは昨今の教育現場における腐敗と陳腐化を許すばかりであり、よって古き良き慣習のいくつかは維持したまま悪しき風習は捨て去り放棄しようではありませんか。保持すべきものは保持し、悪しきものはなんであれ切り捨て、スマートかつ身軽に、そして効率的な教育を。足並みそろえて前進しようではありませんか、伝統と法に約束された光り輝くあなたたちの未来へ」

 

 先ほどのふざけた口調が嘘だったかのように、しっかりした言葉でアンブリッジはスピーチを締めくくる。腐っても政治家ということか、演説には力があった。

 長い台詞を一息で吐き終えたアンブリッジは、軽く咳払いしてから「ご静聴ありがと。ふふっ」と静かに告げて自分の席に戻って行った。ダンブルドアが拍手をすると、大広間からもまばらに拍手が鳴り響く。

 ほとんどの生徒がまともに聞いていなかったのだろう。ハリーとてあのいじわるそうな女が何を言いたいのか分かっておいたほうがいいと思っていたが、ついぞそれはかなわなかった。厳しい顔をしながらも一生懸命聞いていたハーマイオニーにあとで聞くしかあるまい。

 困惑したままのロンが、目の前に御馳走が湧いて出たにもかかわらずハーマイオニーに問うた。

 

「あー……、つまり今の、いまの……アングリー先生? は、何が言いたかったんだ?」

「つまり、魔法省がホグワーツに干渉してくるってこと……だと思う」

 

 ハリーとしてもよくわからなかった。アンブリッジはまるで政治家のような……いや、真実政治家だったはずだ。そのような、意味のない言葉を美辞麗句で膨らませてあたかも立派な意見を言っているかのように見せかける工夫が凝らされていた。

 骨の髄まで役人といった風のアンブリッジは、よもや考えてきた原稿をカンニングペーパーなしで読み上げたのだろうか。それだけでも驚嘆に値するが、魔法省の用意した公式見解を余すところなく覚えてすらすらと口にできるその忠誠心は、恐ろしいものがある。

 同じことを思っているのか、ハーマイオニーは眉をしかめながら、ポークチョップにかぶりついたのだった。

 

 

O.W.L.(ふくろう)! みなさん、五年生はO.W.L.試験の年です! これの結果によって将来あなた方がなれる職業の幅が広まったり狭まったりします。よって私たち教師陣は、あなた方に大量の宿題を出すでしょう。すべてはふくろうの為に」

 

 マクゴナガル先生が授業開始直後に叫んだ。

 変身術の授業は昨年と比べても密度が濃く、そしてそれは他の授業でも例外ではなかった。呪文学に薬草学は当然として、魔法薬学ではネビルが死んでしまうのでないかというほどの宿題が放出されている。魔法史ですら大量の宿題がビンズ先生の口から飛び出し、授業中を睡眠時間にあてていた生徒たちから絶望の声があがった。

 放課後には談話室のあちこちで宿題をこなす羽ペンのカリカリという声がやかましく飛び交う中、それに混じって羽ペンの持ち主である人間どもの悲鳴もいっしょに飛んでいた。

 ハリーが下級生のころは確かに五年生や七年生が死にそうな顔をしていたためどんな気持ちなのだろうと思っていたが、なるほどこんな気持ちなのかと理解してしまう。したくなかった。ロンも当時パーシーが血眼になって関わりたくなかったと言っていたが、彼もパーシーの気持ちを理解したようだ。

 

「でも僕はパーシーを許すことはない」

「……ロン」

 

 ロンの言うとおり、ウィーズリー家にはいま亀裂が入っていた。

 原因は言わずもがな、ファッジだ。魔法省に務めているアーサーはダンブルドアやハリーと親しい関係であるため、立場が非常に厳しいものになっている。ファッジによって情報が統制され、まともに仕事もままならない状況なのだという話を聞かされている。

 キングズリーやウィンバリーといった闇祓い連中は中立を貫くスタンスを見せているため、今でもファッジに重用されている。無論の事、彼らが優秀な戦闘力を持ち合わせているのもその理由の一つだろう。ヴォルデモートが復活したことは信じてはいないものの、恐怖心をあおられているためいつ暗殺の魔の手が伸びるかといった疑心暗鬼に陥っているのだとか。

 もはやいまのファッジは、一国のトップに据えるには危険人物であると言っても過言ではないのかもしれない。一番発言力のある人間が疑心暗鬼のまま国の舵を取るなど、笑えないジョーク以外の何物でもない。

 そのような状況下で、昨年までバーテミウス・クラウチ・シニアの部下として魔法省に務めていたパーシー・ウィーズリーは、今年いきなり昇進した。魔法大臣付き秘書としてだ。

 国際魔法協力部の一部員からひとっ飛びして魔法大臣の付き人になるなど、有り得ない躍進である。明らかにファッジの思惑が働いており、ウィーズリー家の内情を、ひいてはダンブルドアの思惑をスパイさせようという意思が垣間見えた。

 パーシーもまた生真面目すぎる性格から、己の父親がダンブルドアと交流を持っていることに不満を持っているらしい。ロンは言いづらそうにしていたものの、ハリーとの親交も切るようにと助言されたようだ。昨年までの彼と変わりすぎて、別人がポリジュース薬で化けているのではと思うほどの変わり様である。

 夏休みのある日、ダイアゴン横丁でパーシーと出会ったアーサーに対して「父さんは間違っている」と言って口論に発展。しまいには親子で殴り合いの大喧嘩をしてしまった。ダンブルドアに組する愚か者と、話を聞かぬ馬鹿息子の魔法使いらしからぬ格闘は、モリーが悲しみのあまり泣き崩れたことで終幕を迎えた。

 気まずそうに割れた眼鏡を直すパーシーは、ウィーズリー家の面々に向かって「ダンブルドアとは縁を切った方がいい」と忠告して去っていく。これに激怒したのはフレッドとジョージだ。ロンとジニーは困惑のあまりおろおろして怒るどころではなかったが、双子の怒りは苛烈なもので、後日糞爆弾やらさまざまなものを詰め込んだ手紙をパーシーが一人暮らしするアパートへ送りつけたのだとか。それはもはやテロである。

 ともあれ、ファッジの思惑はうまくいったと言えよう。ウィーズリー家はがたがたであり、身内の問題を解決するのに精いっぱいで騎士団の活動に専念できてはいない。

 ダンブルドアにある程度の打撃を与えているのだ。

 

「まあ、うん。とにかく宿題しよう。な、監督生どの」

「……パーシーみたいに扱うのはやめてくれ」

 

 五年生になると、各寮から男女一人ずつの監督生が選ばれる。

 夏休み明け間際になって学校から二羽のふくろうがやってきて、ロンとハーマイオニーがそれを受け取った。そう、つまりグリフィンドールの監督生はこの二人なのだ。

 ハーマイオニーが監督生になることは誰もがすでに知っていたことであり、歓び祝福こそすれ誰も驚きはしなかった。しかしロンが監督生になろうとは、本人も含めてあまりにも意外であった。モリーなどは大泣きするほど狂喜して、その日の晩御飯はとんでもなく豪勢なものになったのだった。

 フレッドとジョージは監督生など全く縁のない称号であったが、それゆえか弟がそれに選ばれたというのはあまり面白くなかったようだ。しきりに「ロンは僕らと同じ側の人間だと思っていたよ。そう、つまり罰則を受ける方さ」と失望の声を隠しもしなかったからだ。しかし愛する弟の吉報なのだ、口ではそう言っていても目が嬉しそうに笑んでいる。なんだかんだいって、二人はいいお兄ちゃんなのだ。ハリーが温かい目で双子を見つめると、照れくさそうにどこかへ逃げていったのをよく覚えている。

 談話室でいつものように勉強していると、シェーマスとディーンが連れ立ってやってきた。二人はサッカーについて議論を交わしていたが、ハリーの姿を見るとシェーマスが不機嫌そうに黙り込んでしまう。

 何かと思い、ハリーはソファから立ち上がって二人の元へ歩み寄った。

 

「どうした二人とも、ぼくの顔に何かついているのか」

「あ、ハリー。……いや、まあ、うん。可愛らしい目と鼻と口がついてる」

 

 ディーンが気を利かせて冗談をこぼすものの、ハリーはそれを求めていない。

 少しだけ微笑んで、邪魔をしないでくれと目で伝える。やはりいまはふざけるべき時ではないと思っていたのか、気まずそうな顔をしてディーンは一歩引いた。

 シェーマスへ顔を向ければ、彼もまたあまり愉快そうな様子ではない。

 

「ママに、また学校から戻れって手紙が来た」

「えっ。何かあったのか、シェーマス」

 

 ホグワーツは全寮制だが、当然ながら身内の不幸などがあった場合は自宅へ戻ることが許されている。ペットの不幸でもそれが許されているあたり、ひょっとしたらシェーマスに悲しい出来事があったのかもしれない。

 心配になったハリーはシェーマスの肩に手を置いたが、彼はそれを忌々し気に跳ねのけた。

 

「……じつは、ハリー。きみのせいなんだ」

「はあ? つまり、どういうことさ?」

「……日刊予言者新聞だよ。ママがそれを読んで、……そう、君だけじゃなくて、あー、ダンブルドアも……そう。うん、そうだろう?」

 

 歯切れ悪く言葉を紡ぐシェーマスに、ハリーは不愉快そうな表情を浮かべる。

 つまり彼の母親は、あのでたらめなことばかり書く新聞を信じているというわけだ。

 あまり相手にしないほうがいいとハリーは思っているが、しかしこうやって親しかった友人からも言われるというのは少々こたえる。羊皮紙に羽ペンを走らせていたロンやハーマイオニーが、手を止めてこちらを見ていることに気づいた。

 荒立てるつもりはないと親友たちへアイコンタクトを送り、ハリーはシェーマスへ向き合う。

 

「まぁ、あの新聞を信じるのはやめたほうがいいとだけ忠告しておくよ」

「……な、なあ。あの日、あの夜、いったい何があったんだ? セドリック・ディゴリーのこととか……君の瞳の色だってあの件から変わっている。ダンブルドアも教師陣も、もちろんきみも、詳細に話してくれないじゃないか……」

 

 好奇心と恐怖心がない交ぜになった顔で、シェーマスは問いかける。

 なぜか、不思議とイライラしてくる。まるでハリーの心とは別の心が、本心を上塗りしているかのような感覚を覚える。つとめて冷静であろうとハリーは意識して、シェーマスへ答えた。

 

「あの日語ったことが真実だ。ヴォルデモートが復活し、彼の手にかかった。それだけだ」

「それじゃ足りないんだよ。僕もママも、みんなだって納得しない」

 

 ハリーは自分のこめかみが引きつったのを自覚した。

 これはまずいとロンが立ち上がり、こちらへ仲裁しようとしてきたが、もう遅い。

 

「聞きたいのか、シェーマス・フィネガン。人を人とも思わないやつらの手で、ぼく自身の足と、友達の命を奪われた時の話を。ぼくの上に乗るセドリックの身体が、徐々に軽くなっていく様を」

「あー……、いや。えっと……」

「ハリー、そこまでだ。行こう。シェーマス、デリバリーが……じゃなかった。デリカシーが足りないぞ。監督生の権限を乱用してやろうか?」

 

 ロンの言葉に、シェーマスは不満そうな顔をしつつも踵を返して男子寮のほうへと立ち去った。ずっとおろおろしていたディーンは、フォローしておくという意味の目配せをハリーとロンに送ってから、シェーマスの後を追っていった。

 友人が離れてしまうというのは、思ったより堪えることだ。裁判の時の様子から、ファッジはもうハリーに対して手心を加えるような慈悲は持ち合わせていないだろう。日刊予言者新聞という英国魔法族にとっての最大の情報ソースがファッジの意のままになっているのだから、ハリーとダンブルドアは彼の暴走が続く限り、頭のおかしいガキとボケジジイのままであることはまず間違いない。

 暖炉の前のソファに連れられて、ハリーはハーマイオニーの胸へ顔をうずめた。温かい紅茶を入れなおしてくれるネビルに礼を言いながら、ハリーは思う。

 いったいあとこのやりとりを、何人と、何回繰り返せばいいのだろう。

 

 次の日、談話室でハリーは不機嫌そうな顔を隠さずにロンを待っていた。

 昨晩は寝室でラベンダーが熱心に話しかけてきたのだ。シェーマスと同じやり取りを繰り返し、そして同じ答えを返した。今度はハーマイオニーが助け船を出してくれたものの、あまり効果があったようには思えない。ラベンダーは割と知りたがりだ。一年生のころからの同部屋なのだから、よく知っている。よく知っているだけに、つらい。

 掲示板で双子のウィーズリー兄弟が貼りだしたらしき掲示物を眺める。

 

『お小遣い稼ぎにぴったり! 危険なことをしたい? ならばお任せ、ウィーズリーの双子へ連絡を。短時間労働でバイト賃たんまり。骨折りはなし、たぶんね』

 

 胡乱な目でそれを眺めていると、同じくそれを隣で読んでいたハーマイオニーが躊躇なく掲示板から引っぺがした。芸の細かいことに、掲示物の文字は『表現の自由を侵害する、分からず屋の頭でっかちに天罰あれ!』に変化している。それは獅子寮監督生の手によって燃やされ灰と消えた。

 ハーマイオニーは険しい顔をして、ウィーズリーの双子に何か言ってやらねばならないと息巻く。それをハリーは否定もせず、肯定もしなかった。

 遅れてロンがやってきたのを見て、ハリーはおはようと言いかけ、そして口を閉じる。

 気まずそうにハリーを見たシェーマスが、急ぎ足ですれ違ったからだ。ロンと彼は同室であるため、毎朝こうして顔を合わせる。なかなか辛いものがある。

 さて、こうしてもいられない。

 なにせ今日は、あの曲者という言葉に失礼とさえ思えるほどに一癖も二癖もある教師、ドローレス・アンブリッジが行う闇の魔術に対する防衛術の授業があるのだ。

 気を引き締めて挑まねばなるまい。

 

「んふふっ、みなさんの可愛らしい顔がずらりと並んで、せんせ嬉しいですわん。んふふっ」

 

 気を……引き締めて……。

 

「それじゃ、杖なんてしまって。教科書を開いて、みんなで大きな声を出して読んでみましょう。んふふっ。A、B、Cの発音をしっかりとね。んふふっ、んふふっ」

 

 気が遠くなりそうだ。

 アンブリッジが教科書に指定したのは《防衛術の理論》という本で、予習として夏休みに軽く読んだときはめまいがした。この本は、十歳児以下の魔法族の子供が読む絵本のレベルである。

 ハーマイオニーが困惑していたのを覚えている。仮にもハリーたち五年生はO.W.L.試験を受ける年だというのに、こればかりは看過できない。

 ロックハートが闇の魔術に対する防衛術の授業を受け持っていた時の五年生、七年生はとてつもなくかわいそうだと当時思ったものだが、しかし今年も負けず劣らずひどいものかもしれない。

 

「えっ。どうして、杖をしまうんですか?」

「んっふ。質問は手を挙げてからですよ、ミスター・フィネガン」

 

 甘ったるい声で窘められ、シェーマスは不愉快そうな顔を隠しもせず挙手をする。

 アンブリッジはもったいつけて、教室中へなめまわすような視線を送る。他に手を挙げている生徒がいるかいないかのチェックをしています、と全身を使って表現しているかのようだった。まるでハリーたちを幼児扱いである。

 そうしてようやくアンブリッジに指名されたシェーマスは、嫌味を込めて一字一句同じ言葉で質問を繰り返した。それを聞いたアンブリッジはガマガエルそっくりな顔を醜悪に歪ませて(たぶん笑顔のつもりなのだろう)、答える。

 

「必要ないからです」

 

 ハリーは困惑した。

 

「必要ないって……練習しないと実際に使うときに困るんじゃないですか?」

「質問は手を挙げて、ミスター・ウィーズリー。んふふっふ」

 

 ふと気づけば自分の手に蜘蛛が這っていたかのような表情を浮かべて、ロンが手を挙げてから質問を繰り返す。それに対しても、アンブリッジはにっこりと微笑むだけだ。

 

「必要ないからです。あなた方が実際に闇の魔術に対する防衛術で習う魔法を使う必要など、ありません。なぜなら、この英国は魔法省の手によって恒久的な平和が約束されているからですわん」

「……いや、えっ? そりゃないでしょう。犯罪者に襲われたらどうするんだよ?」

「質問は手を挙げてからッ、ミスター・ウィーズリーっ。そうですね、その時は魔法省が迅速に事件を解決するでしょう。安心して襲われてくださいね、んふふふふっ」

 

 まったくお話にならない。

 闇の魔術が横行して人死にが日常であった時代をたった十数年前に経験しながら、この国の政府はまだそんな悠長なことを言っていられるのかと、驚きを通り過ぎて感心してくる。

 ロンやハーマイオニーのほかにも手が上がった。ハリーはアンブリッジの弛んだ目が、うんざりした色を浮かべたのを見逃さなかった。教師の取る態度ではない。自分は教師ではないと宣言したロックハートだって、教鞭をとっているときは挙手された生徒を鬱陶しそうに見たことなどなかった。

 

「んっんー、あなたは……あー? ミスター?」

「ディーン・トーマス」

「それで、ミスター・トーマス? あなたは何が聞きたいのかしらん?」

「あー、ロンの言う通りじゃないんですか? もし僕たちが犯罪者に襲われるとして、それは安全な方法ではないはずです」

 

 ディーンの言葉に、アンブリッジはにっこりと笑みを浮かべた。

 多分笑みだ。顔全体がくしゃっと醜く歪んだことを笑顔というのならば。

 

「あなたがこの授業中に襲われることなどありません。そうでしょう?」

「いや、ここじゃなくて外にいる時とか」

「手が挙がっていませんよ! ミスター・トーマス!」

 

 唖然としたディーンが黙り込んだのを見て微笑んだアンブリッジは、パーバティが手を挙げているのを見て、発言を許可する。

 パーバティはすかさず声を発した。

 

「パーバティ・パチルです。実際に魔法を使わないというのなら、《闇の魔術に対する防衛術》におけるO.W.L.試験では実技試験がないのですか? こう、実際に試験官がかける呪いを反対呪文で弾くとか」

「理論を十分に理解していれば、魔法が使えないなどという異常事態は起こりえません。それこそスクイブとかでない限りね。例えばそう、あなた方が教わった半獣などはまともではなかったでしょう?」

「ルーピン先生はいい教師でした! 私の苦手だった『妨害呪文』を的確に教えてくれて」

「手が挙がっていませんよ、ミス・パチル」

 

 ぴしゃりと叩き付けた言葉に、パーバティは困惑したまま黙り込んだ。

 こんなもの、もはや授業ではない。受けるだけ時間の無駄である。

 即座に立ち上がって教室を去りたい気持ちを抑えて、ハリーは頭の中で魔法式の計算に勤しむことにした。学生を経験した者ならばほとんどがやったことがあるだろう、不真面目な学生御用達のいわゆる『内職』である。

 ハロルド・ブレオが使っていた、魔力反応光を射出せずに手元に固めて剣として使っていたあの術式。あれは是非ともモノにしたい。ハロルドとはまた必ず命の奪い合いを繰り広げることになることが解っていることから、その対抗手段を編み出さなければ命に関わる。

 

「指をとんとんするのはやめましょうね、ミスター・マルフォイ? わたくしの授業が面白くないのかしらん?」

「はい先生」

 

 アンブリッジの若干苛立った声に見れば、ドラコが非常に憮然とした顔で人差し指を机にとんとん叩きつけて不満を示していた。

 向上心の塊のような彼からしてみれば、このような時間を浪費するだけの時間は腹立たしいのだろう。若干喰い気味にアンブリッジへ返答したドラコは、しかしそれをやめようとはしない。

 マルフォイ家が魔法省に大量の寄付をしているためか、アンブリッジはそれ以上ドラコの行動に対しては言及しなかった。

 

「……、」

 

 スカッとした気持ちでドラコを見ていると、視線に気付いたドラコがこちらを振り向く。

 目と目が合い、互いに小さく頷いた。通じ合った意見は、この授業に受ける価値なし。

 早いところ魔法式の計算をしたほうが有意義だと思ったハリーは、そのまま脳内で計算式を書き換えたりやり直したりといった作業へ戻ろうとする。しかし知らずして、ハリーは油断していた。アンブリッジが意地悪そうな顔で、ハリーの目の前までやってきたのだ。

 

「罰則ですミス・ポッター」

「……は?」

 

 唐突に言われた言葉に、ハリーは目を丸くする。

 確かに頭の中では魔法式を紐解いていたものの、表面上は熱心に教科書を読んでいただけのはずだ。アンブリッジが開心術士で、そしてハリーに気付かれないほどの腕前だというのならば話は別であるが……。

 

「……理由を聞いても?」

「質問は、お手手を、あげて、くださいね、ミス・ポッター? んっふ!」

 

 こいつ殺したろか。

 

「罰則理由は不純異性交遊です」

「……ん? え、あ? は?」

「ミスター・マルフォイに色目を使う視線を送りましたね? 更にその汚らしい髪の毛を揺らすことで寝室へのお誘いをかけましたね? それは風紀を乱す、ふしだらで破廉恥な、ろくでもない行為です。違反です。異端です。なので罰則です」

 

 あんまりな言いがかりの暴言に、グリフィンドール席からどよめきが起きる。スリザリン席からは冷笑も漏れ出た。ハリーは自分の頭の中で、何かが煮えたぎっていくのを理解する。

 ヴォルデモートへの憎悪でエメラルドグリーンからワインレッドへ変色してしまった瞳が、血のようなどす黒い色へ濁っていく感覚をはっきりと感じた。しかしここで怒鳴り散らしては、この女の思うがままだ。

 視界の隅で、ドラコが苦い顔をしているのが目に入った。いじめのだしにされたのだから、プライドの高い彼の事だから非常に不愉快なのだろう。

 無理矢理に感情を抑えたハリーは、無言のまま反応しないことでささやかな仕返しとする。

 満足そうにそれを眺めたアンブリッジは、妙に長い舌で自分の唇をなめあげると、若干上気した声でハリーへと通達する。

 

「罰則は週末の金曜日、わたくしの部屋で行いますわ。内容はその時のお楽しみということに……しておきますわ、ミス・ポッター? んふ。んふふっ、デュフ! フォカヌポゥ!」

 

 寮の談話室に戻ったハリーは、怒りのあまり何もできなかった。

 いま宿題などしようものなら、羊皮紙には魔法式の代わりにアンブリッジへの怨嗟が書かれていたかもしれない。ハーマイオニーがなんとか優しい言葉をかけてなだめてくれるものの、ハリーは恥ずかしいやら悔しいやらでついにはぼろぼろと涙がこぼれてしまう。

 

「なんだよ! 何なんだよあのガマガエルはッ!」

「耐えてくれてありがとうハリー。えらいわ、よく頑張ったわ」

 

 ハーマイオニーの白くやわらかい手が、ハリーの黒髪をさらさらと撫でる。

 不満のある教師などという生易しいレベルではない。あれは本気で生徒を生徒などとは思っていない、出荷される商品でも見るような冷たい目だった。かわいそうだけど明日の朝には卒業していなくなっちゃうのねって感じの!

 ハリーが談話室で散々アンブリッジへの悪態を吐き出していると、その両肩に大きな手が置かれる。振り返れば苦い顔で笑っているウィーズリーの双子であった。

 

「やぁハリー、君のあまーい声が廊下にまで届いていたぜ」

「よぅハリー、ちなみに僕らも君と同類さ。金曜に罰則だ」

 

 へらへらと笑う双子のことを、ハリーはありがたく思った。

 真実がどうか知らないが、この二人ならハリーを慰めるためにわざと罰則を受けることも辞さない性格でる。感謝の気持ちをこめてハグすれば、大げさに有り難がって抱擁を返してくれる。

 ハーマイオニーから借りたハンカチで涙を拭いて、ハリーは思案する。

 あの調子では、まともな授業が出来まい。O.W.L.試験の年にあんなゲテモノを派遣するなど、ファッジもやってくれたものだ。ダンブルドアやハリーへの嫌がらせの為に、同年代すべての魔法使い魔女の人生を台無しにするとは。

 許しがたい愚行である。

 

「ほらハリー、元気出せよ。甘いもんやるよ」

「ああハリー、いつもの笑顔になってくれよ」

 

 そう言ってジョージからもらった飴玉を、礼を言って受け取る。

 包み紙を引っぺがして、期待した目でこちら見るフレッドの口の中へとぶち込んだ。

 

「グワーッ! まるで血液が沸騰してグツグツのシチューになったように暑いィッ!」

「フレッドォォォ! ちくしょうどうして気付いたんだ! ハリーめ、なんて女だ!」

「バーカ! 君たちから受け取った食べ物を素直に食べるもんか! バーカバーカ!」

 

 もだえ苦しむフレッドの顔がどんどん赤く変色していく様を見て、ハリーは自分の直感が正しかったことを確信する。顔から水蒸気を巻き上げてごろごろ転がるフレッドへ罵倒を繰り返すハリーらの姿を見て、談話室の獅子寮生たちが笑い転げる。

 ここまで計算していたかはわからないが、だいぶ気は楽になった。

 ハリーはすっきりとした顔で、フレッドとジョージへ礼を言った。

 

「ありがとう、二人のおかげですっきりしたよ!」

「そう思うなら水をくれ! 水を! フレッドの顔がマーブル模様になっちまった!」

 

 マクゴナガルと出会ったのは、その次の日であった。

 廊下でばったり出会い、紅茶でもどうかとお茶に誘われたのだ。彼女とお茶をするのは一年生の時以来であり、ハリーは喜んでマクゴナガル先生の部屋まで一緒に移動した。

 変身術についての議論を交わして、昨今の魔導理論についての講釈をもらい、何でもない世間話に花を咲かせる。マクゴナガルは厳格な魔女であるが、しかし勉強熱心な生徒にはついつい甘い顔をする性格をしている。それが己の監督するグリフィンドール寮の生徒であればなおさらだ。一番のいい例はハーマイオニーに《逆転時計(タイムターナー)》を貸与した件だろうか。

 ここ最近の話題になった時、マクゴナガルが戸棚からスコーンを取り出しながらハリーに言った。

 

「ポッター。さっそく罰則を受けるそうですね」

「うっ」

 

 おおらかでどんな悪戯でも許すスプラウト先生や、面白い悪戯なら見逃したりもするフリットウィック先生、スリザリン贔屓で他寮からばかり減点するスネイプと違い、マクゴナガル先生はたとえ自寮の生徒であれ容赦なく減点する、厳格で公正な魔女だ。

 いくらアンブリッジが奇妙奇天烈な地獄のガマガエル怪人であろうと、罰則を受けるようなことをしたハリーが悪いとお説教するのかもしれない。お茶を一緒にするくらい仲がよかろうが、先生と生徒という立場に違いはないのだ。

 

「気にしない事です」

「……へっ?」

「ですから、罰則など気にすることでもありません。気楽になさい」

 

 ぽかんとした口を開けて呆けるハリーを、マクゴナガルははしたないと言って注意する。

 見事なナツメグの絵が描かれた皿の上にスコーンが並べられ、彼女が杖を振ると色とりどりのジャムが添えられる。どうぞ、と勧められるままにハリーはスコーンを手に取り、少し迷ってイチジクジャムに付けて口へ入れる。

 どうして罰則を気にするななどという、彼女らしからぬことを言われたのか。いまだに困惑した様子のハリーを見て、紅茶カップとソーサーをテーブルへ静かに置きながら、マクゴナガル入った。

 

「ドローレス・アンブリッジの評判は聞いています。すでに三〇余の生徒へ罰則を言い渡しているようですね」

「そんなに」

「そのうちの一人が貴女です、ポッター。難しいかもしれませんが、あなたは彼女へ罰則を与える口実を作ってはなりません。彼女が何者で、誰に報告しているのか分からない貴女ではないでしょう?」

 

 ハリーは頷いた。

 ファッジへどのような情報を授けているのか、わかったものではないのだ。

 罰則を与えさせる格好の理由を作ってなるものか。

 

「そしてどのような罰則であれ、理不尽と感じる内容であればきちんと報告してください。ないとは思いたいのですが……、体罰といったことをされればの話です」

 

 マクゴナガルが真剣な顔をしてそんなことを言えば、下手な脅しより怖い。

 つまりドローレス・アンブリッジという魔女は見た目に違わず意地悪な性格をしているということになる。教授の裁量によってほとんど自由に生徒へ罰則を与えられるため、彼女の性格を考えれば、たとえ体罰であろうとためらうとは思えない。

 金曜日が恐ろしいなと考えているハリーは、さらにそれよりも胃の痛くなるイベントが木曜日に待っていることを、この時は全く知らなかった。

 

「閉心術」

 

 ねっとりとした声が、ハリーの耳をくすぐる。

 ひと気のない教室でハリーは椅子に座って、げんなりしていた。

 彼女の周りをねっとりじっくり歩くのは、脂っこい髪を撫でつけた鷲鼻の中年男性。

 最近ますます嫌味っぷりに拍車がかかったセブルス・スネイプその人だ。闇の魔術に対する防衛術の教鞭を希望して何年無視されているのだろう、こうなるとダンブルドアはわざとスネイプに対して嫌がらせをしているのではあるまいな。

 ハリーがうんざりしている顔を楽しそうに眺めながら、スネイプは言葉を紡ぐ。

 

「読んで字の如く、心を閉ざす術である。拒絶、無視、虚構、孤高、それらを強固なる鎧として心にまとい、降りかかる災厄といった艱難辛苦を耐え切り人生をより屈強なものへと変ずる……そういった運用がこの魔法の設計思想になっておる」

 

 相変わらず詩人も腹がよじれるような言い回しである。

 ハリーとしては嫌いではないが、多少わかりづらいのは仕方ないかもしれない。

 だって彼はセブルス・スネイプ。それが彼の持ち味なのだ。

 

「不愉快な思考にグリフィンドール一点減点」

「……それが開心術?」

「『先生』を付けたまえポッター、グリフィンドール一点減点」

「開心術で、す、か? 先生」

「グリフィンドール一点減点」

 

 減点すればスネイプらしいというわけではないが、もう理不尽さを通り越して感心さえする。これぞスネイプ節である。ウィーズリー兄弟や他のいたずら小僧と比べるとまだ対応に温情を感じるが、まぁこんなものだろう。

 スネイプとの課外授業はほとんど二年ぶりになる。去年はそのようなことをしている暇はなく、一昨年はルーピンがいたためその頻度はかなり少なかった。懐かしい気分になりながら、ハリーはスネイプの講釈を大人しくメモ帳に書き留める。

 

「他者を受け入れたい、理解してもらいたい、といった依存心。まぁいいだろう、こんなものだろう、という堕落した心。これらを持つ魔法族が閉心術を身に着けるのは……そう、目隠しをして魔法薬を作るようなものだ」

「……つまり、何が起きるかわからない?」

「その通りだポッター」

 

 閉心術とは、もとは魔導心理の天秤と同じく思考術のひとつであったという。

 四世紀半ばごろにローマの魔法戦士が編み出した考え方が原型で、他者へ心を許さないことで動揺を減らし心の平坦さを保つ方法。感情を参照する魔法においては極端に起伏が多いと失敗につながることが多いため、心を平坦に、凪いだ海のような静けさを手に入れる必要がある。そうして編み出されたのが閉心術だ。

 これを会得した術士は精神系の魔法攻撃への強力な耐性を得るため、戦場において相手に思考を気取らせない強力な魔法使いとして恐れられたのだという。

 しかしこの魔法も例にもれず時代の推移と共に意味が変化し、閉心術の対となる開心術が開発されてからはそれの反対呪文という見方が強くなった。むしろ元は思考術であったことを知らない者の方がほとんどだ。

 開心術は文字通り閉心術とは真逆の呪文であり、相手の心をこじ開けて記憶や感情を読み取るという最上級のピーピング魔法である。これを掛けられた場合、現代では閉心術を習得していない者では防ぐのが非常に困難である。

 

「校長はこれを会得するのが吉とお考えのようだ。闇の帝王と貴様の繋がりは、我輩もよく知っている。造られた存在であるおまえの心には、いまだ未知数の部分が多々ある。よって、帝王の仕込んだ何かがポッターめの精神を支配することがないよう……、と。そうお考えなのであろう」

「……ひょっとして、奴に肉体を乗っ取られることもあるってことですか?」

「それをさせない為の、我輩の課外授業だ」

 

 スネイプは懐から出した杖を左手でそっとなでる。

 ぱちぱちと紫の火花がはじけ、それをうっとりと眺めるスネイプは無気味であった。

 

「閉心術の体得には、実践するのが一番早い。ゆえに我輩は仕方なく、本当に仕方なく開心術をポッターめにかけることになる。なに、怪我はするまい。心をこじ開け古傷を抉り、ほんの少しの塩をすり込むだけだ」

「ちくしょうダンブルドアの野郎、覚えてろよ」

 

 そらスネイプも嬉々として教えるわ。

 にんまりと微笑む彼を見て、ハリーはこの場から走って逃げるかどうかを検討する。

 しかしその思考を見抜いたのか、スネイプは杖を振ると唯一の出入り口である木製の扉を吹き飛ばし、壁と壁の材質を手繰り寄せて新たな壁を捏ね上げた。これで完全な密室の出来上がりである。

 あらゆる意味で身の危険を感じる。

 

「では早速開始する。心配はいらん。何を見たところで、言いふらしたりはしない」

「あー、ちょっと待ってくださいスネイプ先生。これでもぼくだって乙女であるからして、見ちゃいけない記憶だって多々あると思うんですけど、そこら辺どうお考えで?」

「『レジリメンス』、開心!」

 

 スネイプが杖を構えて呪文を叫ぶ。

 質問など聞こえなかったかのようだ。ダンブルドア、ここらへんどうお考えですか。

 魔力反応光が着弾する前に防いでやろうと目を見開いて注視したものの、しかし『開心術』は魔力反応光の出ない特殊な部類に入る魔法であり、結果としてハリーはいつ自分がその魔法にかかったのかも自覚しないまま開心術を無防備に受けてしまった。

 無理矢理網膜に投影されるかのように、ハリーの記憶が脳裏を駆け巡る。

 幼いダドリーがハリーの離乳食を奪い取り、ついでとばかりに頬を引っぱたいた記憶。

 ダドリーのお下がりを着せられた上に髪を剃られて坊主頭の恥ずかしさに泣いた記憶。

 ハリー狩りに興じるダドリー軍団のせいで胃の中身を戻し、すべてをあきらめた記憶。

 バーノンやペチュニアによるジェームズとリリーの悪評を信じ、両親を憎悪した記憶。

 世界の何もかもがどうでもよくて、いつか唐突に全て滅んでしまえと願っていた記憶。

 そしてある誕生日に初めて友好的な話をして、野生へと帰って行った蛇の友達の記憶。

 氷のように冷えた心にほんの少しの温かみが戻った瞬間、ハリーは過ぎ行く記憶の中からスネイプの顔が生えてきた光景を目にする。気が付けば、風景はすでに空き教室の中へと戻っていた。

 

「っくぁあ! ……はぁっ、はぁっ、はぁ……」

「……ふん、ポッター。心を開きすぎだ」

 

 そう言って杖をくるくるもてあそぶスネイプの顔は、意外と晴れやかではなかった。

 まあ自分も吐き気がするような記憶であるため、それを覗き見たスネイプとていい気はしないだろうと結論付けてハリーは袖で額の汗をぬぐう。

 そろそろ冬になるというのに、あまりにも暑すぎる。ハリーはネクタイを緩め、ブラウスのボタンをいくつか外すことで服の中の換気を行う。あまりにも気持ち悪い。

 

「闇の帝王はハリー・ポッターの代替品(ハリエット)としてお前を造り上げる際に、自らの精神性を植え付けた。つまるところポッター、貴様の魔法的資質は当時の帝王と同等なのだ。ゆえに閉心術と開心術を得意中の得意としていたかの王のように、おまえもまた息を吸うがごとく心を閉ざす適性を持っているはずなのだ」

「でも、やったことがないんだから……、感覚は分からないですよ」

「だからそれを体験しようというのだ。『レジリメンス』!」

 

 ほとんど不意打ちである。

 今度はハリーも盾の呪文で防ごうとしたものの、それを予想していたのか事前に無言呪文で唱え終えていたスネイプによる妨害に逢い、盾の生成に失敗した。つまり、開心術の直撃である。

 アンブリッジの裁判における甲高い笑い声とダンブルドアへの嘲笑による不快感。

 アンブリッジの日常生活における奇妙奇天烈な言動と行動の奇異さによる不気味感。

 アンブリッジの生態と好んで狩りをする獲物の種類と貴重な産卵シーンのダイジェスト。

 アンブリッジの授業で罰則を言い渡す嬉々とした笑顔のハエトリグサ咲き乱れるドアップ。

 アンブリッジアンブリッジアンブリッジアンブリッジアンブリッジフィーバーだぜワァオ!

 

「待てポッター」

「はァッ! っはあ、はあ……な、なんです……?」

 

 不愉快で吐き気のする記憶の羅列が終わると、スネイプが顔中の穴という穴に苦虫を突っ込んでじっくりと歯ですりつぶしたような顔をして立っていた。

 いったい何なのか……、ぐるぐると気持ち悪い頭を押さえながら、ハリーは息を整えつつスネイプを見上げる。心底不安そうな声でこう言われ、本日の課外授業は終了した。

 

「医務室で頭を診てもらえ」

 

 

「ンフフッ! ドゥフッ! ぐふふ……」

 

 ハリーは教授の部屋に入るか入るまいか、数秒間を使って頭をフル回転させていた。

 闇の魔術に対する防衛術の教授たちは、教室の奥にある螺旋階段を上った先に個人の部屋を持つことが許されている。リーマス・ルーピン先生の時はよくお茶などのお世話になったし、昨年のムーディもといバーティ・ジュニア先生の際には恐ろしい目にもあった。そして今年、ドローレス・アンブリッジ先生の番になると、なんかドアの先からキモい鳴き声が聞こえてくるのだ。

 昨日のスネイプの言葉に従って本当に医務室へ行った方がよかったかもしれない。

 もうこれ帰っていいんじゃないかな。

 

「お入りなさい、ミス・ポッター。ンフッ」

 

 奇妙な鳴き声と共に、魔法でドアが開かれる。

 そして自動でドアが開かれた先には、ピンクの怪物が鎮座していた。

 賢者の石の試練や六校対抗試合の試練をもう一度受けた方がマシだとさえ思える状況に、ハリーは生唾を呑み込む。意を決して部屋に入れば、壁一面に猫の写真がプリントされたお皿が飾り付けられていた。魔法界製であるため当然のように動き、にゃあにゃあと鳴き声さえ発している。

 気が狂いそうだ……。

 

「さぁてミス・ポッター。罰則の、お・じ・か・ん、ですわよん。ぬっふ! じゅるり!」

 

 どこかで人生の選択肢をファンブルしてしまったかもしれない。

 がりがりと心のどこかが削られていくのを感じながら、ハリーは後ろでドアが閉まった音を聞いて絶望感に苛まれる。この部屋に呼ばれたことだけで、もう罰則としては十分であると言えよう。

 げんなりしながら、ハリーはアンブリッジに勧められるまま椅子に座った。

 

「さ、お紅茶をお飲みになって」

「は?」

「罰則だけするなんてのも、いささかつまらないでしょう? 女の子同士、お茶でもしながらJOSHIKAIしましょうっ。ぬふっふ、んひゅふふ」

 

 そう言ってアンブリッジは、既に用意しておいたらしきティーポットからカップへ紅茶を注ぐ。いいにおいがする。顔に似合わず、茶葉はかなり良いものを使っているらしい。

 しかしこう、なんといえばいいのか。あまりにも怪しすぎる。

 無理矢理な言いがかりで罰則を与え、かおかつ茶を出して和めとは是如何に。そしてアンブリッジはまずファッジの命令でホグワーツへ来ており、ファッジの欲しいものとはすなわちダンブルドアの不利になる情報である。そしてこのお茶会(ごうもん)と来たものだ。

 紅茶に何が混入されているかは、もう言わずともわかろうものだ。

 

「んじゃこちらを頂きます」

「だめよ、あなたのはこっち」

 

 わざとアンブリッジ側に置かれたティーカップへ手を伸ばしたものの、アンブリッジがハエを仕留めるカエルを思わせる動きで手前側のカップを押し付けてきた。

 はいオクスリ確定です。

 こういった展開の場合、植木鉢の中に紅茶を投げ捨てるのがお約束なのだが、アンブリッジはにやにや笑いを浮かべたままこちらを凝視して視線を外さない。

 

「だめよドローレス。だめよ……まだ笑うな……し、しかし……」

 

 何やらぶつぶつ言いながら熱心にハリーを見つめてくるガマガエルがいる以上、紅茶を捨て去ることはできない。ならばどうすればいいのか。

 ハリーは悩んだ。自白剤ならまだしも、下手したら《真実薬(ベリタセラム)》などを使ってきたところでおかしくない。形だけの裁判を執り行って法律を好き勝手にいじるまでに堕ちた男の使いだ、なにをやったところで不思議ではないと思った方がいいだろう。

 アンブリッジが業を煮やしたように、苛立った声をかけてくる。

 

「あらん、どうしたのかしらミス・ポッター。よもや私の入れたお紅茶が飲めないと?」

「……別に、そういうわけでは」

「じゃあ堅苦しいことはなしですわ。お茶でも飲んで……話でもしようや……」

 

 んねっとりとした笑みを浮かべたアンブリッジに悪寒を覚えながら、ハリーは天啓を得る。

 心の中で神に感謝を述べながらハリーは左手の袖口に仕込んだ杖をローブの下で握り、無言呪文を唱える。紅茶自体に細工するのはきっと、無駄だろう。アンブリッジは奇妙奇天烈な女……たぶん女だろう……奇妙奇天烈な生物でも、魔法省の役人だ。ハリーたちがいま苦労しているO.W.L.(ふくろう)試験はもちろん、N.E.W.T.(いもり)試験においても優秀な成績を修めているはずだ。

 現に魔眼を用いて視てみれば、紅茶には何らかの呪文が走っている。こちらからの干渉を受け付けない予感がするのは、間違ってはいないだろう。

 だから取るべき手段は、これで合っているはず。

 意を決してグイイーッと紅茶を煽ったハリーは、空になった紅茶をソーサーに戻す。

 

「飲んだッ! 第五巻完!」

 

 その姿を見た瞬間、アンブリッジは満面の笑みで叫ぶ。

 はやる気持ちを抑えきれなくなった彼女は、息せき切ってハリーに問いを投げた。

 

「ダンブルドアの弱点はなんですのッ!? 彼の弱みは! 答えなさい!」

「……、」

 

 案の定だ。自白剤か、真実薬か。何にせよ生徒に使うようなものではない。

 ハリーは辟易しながら、唾をまき散らして情報を得ようとするアンブリッジを見る。

 不愉快な奴である。ハリーは気持ち悪いものを見る表情を隠しもせず、適当なことを言った。

 

「早くお答えなさい! ダンブルドアの、ファッジの敵たる者のウィークポイントは!」

「ダンブルドアは饅頭が怖い。甘いモノ全般を心底恐ろしいと思っている」

 

 アンブリッジはがりがりと羽ペンを動かし、ハリーの言ったことをメモしている。

 笑いをこらえながら、ハリーは続けて叫ばれた疑問にも答えてやることにした。

 

「具体的にッ! 彼が食べたら失神して粗相しそうなくらい嫌いな甘味はなに!」

「レモンキャンデーを見ると引きつけを起こす。あとは、そう、チョコレート系のお菓子には怯えてひっくり返ると聞いたことがある。糖尿病だからね」

 

 甲高い笑い声を漏らしながら、アンブリッジは血走った目で羊皮紙へお菓子の名前を書き連ねた。大真面目にこんなことをしているのだから、このガマガエルは救いようがない。

 たとえ紅茶に混ぜ物をしていたとしても無駄だ。

 ハリーは変身術を用いて、自分の歯をクラゲに変えたのだ。なぜそんな発想が出来たかはわからないが、同じ生物から生物への《変身》であるため、そこまで大がかりな魔法を必要としいなかったのが幸いだ。水分を吸い取ることのできるクラゲならば、紅茶を吸い出すには適役だろう。

 トロールの首を取ったような顔をしたアンブリッジを見ていると、これらの甘味を突きつけられた時のダンブルドアの顔を想像するともう笑いが止まらない。笑ってはいけないぞハリー、今はまだ駄目だ。我慢するのだ。

 そうして最後にアンブリッジは、デスクの中から一本の羽ペンを取り出してハリーへ手渡した。にんまりとした笑みで、彼女はのたまう。

 

「この隅っこにあなたのサインをちょうだい。あなたが、ダンブルドアの弱みを吐き出したと、そういう証拠にする為ですわん」

「はい先生」

 

 どうしようもないなと思いながら、ハリーはインク壺を探す。

 文明の利器たるボールペンなどと違って、羽ペンはインクを吸い出してから書く筆記用具だ。どうしたものかとアンブリッジの顔を見上げれば、彼女は悪鬼のような笑みを崩さずに言う。

 

「その羽ペンはね、インクはいらないの」

 

 まあ魔法界製ならそういうのもあるか、と思ったハリーは疑問を持たず羊皮紙へ自分の名前をサインする。赤いインクが出てきた。ハリエット・リリー・ポッター。そう綴り終えた途端、ハリーは胸に鋭い痛みを感じた。

 驚いて羽ペンを取り落すハリーを無視して、アンブリッジは大笑いしながら出かける準備をしはじめた。ゴスロリ調のローブを着込んだ彼女は、ほほえみを浮かべて言う。

 

「今日はこれで帰ってよろしいですわ、ミス・ポッター。んふふっ、にゅふ! もう悪いことをしては、いけませんよ。純血の男子へ色目を使うなど、分不相応なことです」

 

 異様な痛みだ。

 なにか精神的なものではない。物理的に痛みが走っている。

 ハリーが苦しんでいるのを見てか、アンブリッジはその昏い笑みを深く闇に染めて嗤う。

 

「その痛みを思い出すたび態度を改め……次の罰則がないことを、祈っておりますわん」

 

 そう締めくくり、アンブリッジはハリーを部屋から追い出した。

 螺旋階段を降りながら、ハリーは杖を振ってクラゲと化した自分の歯を元に戻す。紅茶を吸い込んでしまったために若干茶色くなっただろうが、そこは後でどうにでも治せる。

 ハリーは緩めたままの自分のブラウスを見て、痛みの正体に気付く。

 毎日洗濯されて清潔な白だったブラウスが、少しだけ赤く染まっている。

 

「これは……」

 

 ブラウスのボタンをはずして、肌を見てみる。

 右胸に、薄らと文字が浮かんでいた。《ハリエット・リリー・ポッター》。自分の名前だ。ハリーはこの文字に見覚えがあった。当然ながら、つい数分前に羊皮紙へ署名した……自分の書いた文字だ。

 よもやあの羽ペンは、使用者の血を吸い出して書くものだったのか。

 これはなんというかやりすぎだ。

 見る見るうちに傷が癒え、胸に刻まれた文字は跡形もなく消え去る。しかしこの拷問をこれから一年間、何度も受け続ければきっと治りも遅くなり、痕が残ることだろう。自分のスタイルにはあまり関心を持ったことはないが、乳房に自分の名前を刻んでいるような阿呆にはなりたくないし、そんな一生を送るのはごめんだ。

 

「……くそったれめ」

 

 胸を押さえ、悪態を漏らす。

 ドローレス・アンブリッジ。見た目以上に邪悪な魔法生物かもしれない。

 ハリーはガマガエルの部屋を睨み付け、苛立たしげにグリフィンドール寮への道を歩く。

 早急に何らかの対策を考える必要がある。やはりホグワーツにいる限り、厄介ごとからは逃れられそうにない。痛む胸を押さえながら、ハリーは苦々しい表情を浮かべるのだった。

 




【変更点】
・女子監督生がハーマイオニーなのは当然のこと。嫉妬はなし。
・アンブリッジの理不尽さレベルアップ。
・『閉心術』を学ぶ時期の変更。ダンブルドアの手が早い。
・罰則で刻まれる場所の変更。より屈辱的で嫌らしい場所に。

みんな大好きアンブリッジの授業です。
やる意味を感じられない授業ほど苦痛を感じるものはない……。大人になればあの時間も意味のあることだと分かるものですが、子供であるハリー達にはわからないことでしょう。しかも真実意味のない授業ですので、彼女らの不満も鰻登りである。
嗚呼、アンブリッジの挿絵を描く気力がわきませんね……。


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4.暴れ回るガマガエル

 

 

 

 ハリーは困惑していた。

 ファッジによる情報操作は見事に成功しており、ホグワーツにおけるハリーへの評判は「頭のおかしいあばずれ女」である。可愛らしい新一年生の男の子が迷っていたので親切心を起こして案内しようと声をかけたところ、「お助けぇ」と叫んで逃げ去ったことさえある。隣にハーマイオニーが居なければ泣いていたかもしれない。

 そんなハリーはいま、とてつもなく困惑していた。

 マクゴナガルの言葉に従い、アンブリッジからの罰則をすべて話した。騎士団団員でもあるマクゴナガルは情報の漏洩を心配したものの、ハリーが歯をクラゲに変身させて乗り切ったことを話すと誇らしげに頷いて、一言だけほめてくれた。彼女からの褒め言葉だ、それで十分である。

 その帰り道に、ハリーは図書館で《闇の魔術に対する防衛術とそれを取り扱う愚かな魔法使いたち~トロールは杖を振るか~》を借りるために立ち寄った。

 そこで出会ったのは、誰あろうドラコ・マルフォイ。

 彼女が困惑したのはこの後だ。スリザリン寮の友達と一緒になにやら本を探していた様子なので声を掛けない方がいいだろうと思ったのだが、ドラコが友人たちを帰らせてハリーを呼び止めたのだ。

 

「ポッター、ちょっとこっちに来い」

「……?」

 

 いぶかしげに思うも、ハリーには拒む理由がない。

 ひと気のないテーブルを見つけて、ドラコはハリーへ座るように促した。

 まさか彼と一対一で話すような機会があるとは思わなんだ。ドラコとスコーピウスの父親は、死喰い人のルシウス・マルフォイだ。プライドの高いドラコの事だから騙し討ちはしないだろうが、一滴の警戒心を抱いておいたほうがいいかもしれない。

 

「なに、君も何か聞きたいのかい」

「そうだ、ポッター。君はこの一ヶ月、ほぼ毎日あの日の事を聞かれているな」

 

 あの日。セドリックが死んだあの日のこと。

 よもやドラコがそれを聞いてくるとは思わず、ハリーは思い切り顔をしかめた。

 それを気にした風でもなく、ドラコは言葉をつづける。

 

「ひとつ答えろポッター」

「内容によるね」

「彼は、セドリックは君を守ったか」

 

 ドラコの言葉に、ハリーは少しだけ目を見開く。

 思い起こされるのは、最後の瞬間。ヴォルデモートによる犠牲者たちの精神体が、奴を食い止めている間にセドリックを連れてホグワーツへ帰ろうとした時。

 走って走って、ついには片足を斬り飛ばされて地面を転がって。

 頼みの綱の杖も武装解除されて、大柄な死喰い人に殺されかけたあの瞬間。飛ばされた杖を拾っていたセドリックが、間一髪で助けてくれたあの場面。あの時の彼のハンサムな笑顔は、おそらく一生涯忘れることはないだろう。

 なぜか心を乱すことなく思い出すことが出来たハリーは、暖かい気持ちになりながら頷いた。セドリックは確かに、自分を守ってくれたのだ。

 

「……そうか」

 

 ハリーの頷いた姿を見て、ドラコは彼女の眼を見つめる。

 酷く濁ったエメラルドグリーンだった彼女の瞳はいまや、憤怒のワインレッドに染まってしまっている。ヴォルデモートの影響だろうと皆が口々に噂しているが、真偽のほどはわからない。

 しかしハリーは今の言葉に頷いた。

 ドラコは一言だけを言うと、興味を失ったかのように席を立つ。

 止める気はないが、ハリーはそれに対して一言だけ投げかけてみた。

 

「なあ、ドラコ。どうして急にそんなことを聞いたんだ」

 

 その言葉は無視されるかと思ったが、意外にもドラコは足を止めて振り返った。

 苦々しげな顔を隠すこそもせず、ぶっきらぼうに言う。

 

「ディゴリーに、『次は自分でやれ』と言ったからだ」

「……何のこと?」

「わからないなら、それでいい。彼は自分の務めを果たした、それで十分」

 

 どこか満足したようなドラコは、まともに答えることはせずに立ち去って行った。

 いったい何がしたかったのか分からないハリーは困惑する。ただ、ドラコとセドリックの間で何かがあったのだろうことだけは確かだ。同じシーカー同士、何かしらあったのかもしれない。セドリックの生前はドラコと何かを話していた姿を見かけることもあったから、彼なりの親交もあったのだろう。

 それを想うと、セドリックを亡くしたことは本当に痛手だった。

 あのときハリーにもっと力があれば。ヴォルデモートを打倒するほどの力があれば、彼を死なせずに済んだのかもしれない。そう思うと、ハリーは現状がとてつもなく歯痒かった。O.W.L.試験への勉強に苦しんでいるいまが、ひどく奇妙なものに思えてしまうのだ。

 

『《防衛術の理論》だって? なんだってそんな燃えるゴミを読んでるんだ?』

 

 夜になって、同部屋の皆が寝静まったころにハリーは《両面鏡》を取り出して話しかけた。

 すぐ隣にはハーマイオニーもいて、同じベッドの中で毛布にくるまって鏡を使用している。冬も近くなっているため、暑さについては心配いらない。同部屋のパーバティとラベンダーにこの内緒話が聞かれないかを心配すればいいが、そこはハーマイオニーが『音漏れ防止呪文』で何とかしてくれた。

 現状を相談したところ、鏡の向こうでシリウスが心配そうな顔を浮かべている。

 アンブリッジが指定した教科書の《防衛術の理論》は、ハッキリ言って身のない内容である。一足す一は二になりますということを、一〇ページかけて美辞麗句を駆使して説明しているようなものなのだ。水で薄めた魔法薬でもここまで役立たずなものはあるまい。

 

「ねぇシリウス。あのガーゴイル女(アンブリッジ)は何を考えていると思うかしら」

 

 ハーマイオニーが問いかけると、シリウスは頷いて言う。

 

『アンブリッジは性格の捻じれ曲がった魔女だ。ハッキリ言ってまともな思考回路をしていると思わない方がいい。いまに純血以外の者は吊るし首にすべきだと言い出すぞ』

「だろうね。胸の痛みは忘れたことはない」

『その件に関しては私が対策出来るモノを持っている。キングズリーにたのんで、ホグワーツまでふくろう便で運んでもらうからもう少しの辛抱だ』

 

 アンブリッジによる罰則の内容を、ハリーは意地を張ることなく親友二人に相談していた。ロンもハーマイオニーもそれに対して憤怒しており、ロンはアンブリッジへ呪いをかけようとまでしていたほどだ。

 シリウスもこの件に関しては大変お怒りのようだったが、似たような罰を経験したことがあるのだとか。その際に対策として作った魔法具が今も亜空間のどこかにあったはずなので探してくれているという、ありがたい言葉をくれた。

 さて、アンブリッジという魔女の事をシリウスはよく知っているのだという。

 

『何を隠そう、私をアズカバン送りにしてくれた張本人だからね』

「はいはいどうどう、ハリー落ち着きなさいな」

「どいてハーマイオニーあいつ殺せない」

 

 ベッドの上でしばらくどたばたしたのち、シリウスの咳払いで二人は正気に戻る。

 苦笑いを浮かべるハリーと呆れたハーマイオニーに向かって、シリウスはあくまで憶測に過ぎないがと前置きしてからアンブリッジの考えを語ってくれた。

 いわく、ファッジはダンブルドアが武力を持つことを恐れているのだという。

 

「ばかじゃないの」

『ああ、ばかになってしまった。だから手におえないんだ』

 

 ファッジは権力にしがみつくあまり、ダンブルドアが魔法大臣の座を狙っている自論をより強固なものへとしてしまう。そして現在の魔法省は彼の意のままに動いている(と思っている)ため、それを突き崩す手段となればやはり暴力以外にはありえない。

 ウィゼンガモットの除名や魔法戦士団から退団させたり、勲一等マーリン勲章を剥奪したりと、ダンブルドアへの数々の嫌がらせを行ってきたファッジでも、ダンブルドアが英国最強の魔法使いである事実くらいは見逃さなかったらしい。

 つまり魔法省を襲撃し、腕尽くで魔法大臣の座を奪いに来ると思い込んで戦々恐々としているのだとか。この情報をシリウスへもたらしたのはキングズリーだが、その彼がファッジの護衛として四六時中の任務に就かされていることから情報への信頼性はばっちりだ。哀れなキングズリーは現在三ヶ月の連勤記録を更新中である。

 そうしてダンブルドアが武力に訴えかけると妄想しているファッジは、彼が軍団を構築すると思ったようだ。ホグワーツの学生を集結した魔法使いの武力集団。それこそがファッジの最も恐れているものであり、そしてその在りもしない計画を阻止するために送り込んだエージェントこそがアンブリッジなのだ。正直言って人選ミスとしか言えない。

 

『ファッジも悪人ではなかったんだがなぁ』

「あれで?」

『そうだとも、ハリエット。彼の若い頃、大臣になる前の小役人時代は英国魔法界をよくしようと使命感に燃える、無害な男だったのだ。……恐怖は容易く人を変える。ヴォルデモートは人間関係に不和を呼び込み、自滅させることを最も得意としているんだ』

「……身をもって知ったよ。厄介極まりないね」

 

 こういった場合、ハリーは鍛錬をしていると自分を安心させることが出来る。毎朝のジョギングや、夕食後のお風呂へ入る前の筋トレ。実践的な魔法の勉強などをしていると、自分に戦闘力がついていると自覚出来て心がすっきりするのだ。

 だが今年度に入ってそれもなかなかできない。朝走ろうと思って城を出るとアンブリッジが居て、淑女がはしたないことをすべきではないから寮へお戻りなさいと優しく言ってくるのだ。夕食後の筋トレ等も、グリフィンドール寮以外でやるとアンブリッジが飛んできてじっくり観察してくるのだ。《忍びの地図》でも持ってるんじゃないかと思うくらいの遭遇率である。

 しかしダンブルドアが軍団を設立するにあたって、そのメンバーにハリーが入るであろうことはファッジも想定していたのだろう。自分の脳みそや肉体をいじめて鍛えていないと落ち着かないのに、いい迷惑だ。

 そういえば一年生の寂しい時期に、筋力を鍛えたいと思ってもトレーニングルームがないことに嘆いていたハリーは偶然、最新の筋トレグッズであふれた不思議な部屋を見つけたことがある。以降は二度と見つからずに、あれはホグワーツにある不思議の一つなのだろうと納得していたが……。自由に鍛錬できない今、行けるならばまたあの部屋に行きたい。

 

「……シリウス、私たち闇の魔術に対する防衛術を自分たちで勉強しようと思ってるの」

『ほう? 続けてハーマイオニー』

「初耳なんだけど」

「いま言ったもの」

 

 あっさり巻き込んでくるあたり流石である。

 文句の言葉も適当に返されて不満そうな顔をするハリーを尻目に、ハーマイオニーは言葉をつづける。わざわざシリウスに相談するからには、ただ勉強するだけではないのだろう。

 

「アンブリッジがまともに授業をしないなら、私たちで勝手に授業をしてしまえばいいのよ。実践的な闇の魔術に対する防衛術をね」

『なるほど。闇のやつばらに対する勉強会というわけだ。それで、我らが獅子寮の才媛殿。具体的にどうするのかは決めているのかね?』

「からかわないで。だいたいのプランは決めてるけど、実際にどんな呪文が実戦で有効なのかを聞きたかったの。この中で実際に闇の魔法使いと多く戦ってるのは、ハリーだけど……それでも実際に暗黒時代を戦い抜いたあなたの意見を聞きたいのよ、シリウス」

 

 うまいものだ。

 今のシリウスはブラック家の屋敷に閉じ込められて、かなりの寂しがり屋になっている。毎晩ハリーと両面鏡でお喋りするのが一日における唯一にして最大の楽しみだと、物凄い哀愁漂う声で言われたときはまなじりから愛おしさ(なみだ)が溢れてしまった。

 犬だって散歩させなければふて腐れるのだ。悪戯仕掛人パッドフットならば尚更だろう。

 ハリー自身もシリウスに近い気性であり、年単位で一ヶ所にじっとしていろなどと言われたらどうなるか想像できない。想像はできないが、おそらくこうなるだろう姿が鏡の向こう側にいる。

 つまりハーマイオニーは、そこを突いたわけだ。あなたを頼りにしているというポーズを見せて自尊心をくすぐりつつ、最大限の情報を引き出す。シリウスとてハーマイオニーの思惑には気付いているはずだが、あの嬉しそうな顔と言ったら。今なら過去の女性遍歴を聞いたところで口を滑らすに違いない。

 

『まあ、そこまで言うなら仕方あるまい。うん。一週間……いや三日だけ待ってくれ。私が思いつく限りの闇の魔術に対抗できる魔法を羊皮紙に書き上げよう』

「ついでにシリウス自身が五年生のころ使っていた教科書と羊皮紙も欲しいわ」

『私は授業中にメモなんてばかばかしいものは書かない主義だったんだ。しかし教科書は確かまだ自室にあったはずだ。母上殿が捨てていなければね。一応探しておこう』

 

 ハーマイオニーとシリウスが着々と意見を交わす中、ハリーは二人の声を聴いてうとうとしていた。ベッドサイドに置いた腕時計を見てみれば、もう夜中の一時だ。

 ハリーはもう二人を放っておいて眠ることにした。幸いにしてハーマイオニーの匂いと体温で、最高の安心感と朝までぐっすり快眠は約束されている。彼女を抱き枕にしてもいいかもしれない。

 意識が落ちる前にハーマイオニーから何かを問われた気がしたが、適応にYESと言っておいたハリーはニンバス二〇〇〇にまたがって、夢の世界へと旅立った。

 

 

 なんだか、甘い夢を見ている。

 頬が紅潮し、体が熱くなる。目の前の彼を殺して、自分だけで独占したい。

 彼を自分だけのものにしたい。押し倒して、そのすべてを奪ってしまおう。

 何か、甘い夢を見た気がする。

 

 

「生徒に体罰を施すなど、許されることではありませんッ」

 

 翌日、呪文学の授業が終わって教室から外へ出ると、震わせた大声が廊下中に響き渡った。

 マクゴナガル先生の声だ。何事かと思ってグリフィンドール五年生が駆けつけると、階段の上でマクゴナガルが何やらアンブリッジに詰め寄っている姿があった。彼女の表情と先の叫び声によって、おそらくハリー以外にもアンブリッジの罰則を受けた人物が次々とマクゴナガルへ訴えたのだろう。

 問題は詰め寄られているアンブリッジである。

 ホグワーツでは他のマグルでの格式ある寄宿舎学校と同じように、教師によって罰則を与えることが可能であるのは有名な話だ。これは罰を与えることで自覚を促し、ついでに年長者への敬意を育てるという目的がある。かつては痛みを与える罰則もあったが、現代のホグワーツにおいてそれは御法度だ。ダンブルドアが絶対に許さない。

 アンブリッジはそれを破ったことがバレたというのに、あの余裕の態度。

 まるで意味が分からない。

 

「おや……フフッ、聞き違えでしょうか。教師間でのやりとりにおいては互いに批判できる規律はなかったように思えますが。それでも貴女は、よもやわたくしの権限に口を出されるのですか、ミネルバ?」

「生徒たちへ罰則を与えるのでしたら、規定にのっとって施すべきと言ったのですよ、ドローレス。問題はあなたの罰則があまりに残酷であることです!」

 

 憤慨しているマクゴナガルの前で、アンブリッジはあくまで涼しい顔を保っている。

 それを見てハリーは、嫌な予感がしていた。

 あの女は自分の勝利を疑っていない。なにか、何かをやらかす気がするぞ。

 

「わたくしのやり方に異議を唱えるのは、魔法省ひいてはコーネリウス大臣、そしてこの英国へ反旗を翻すことと同義ですわよ」

「なん……、どういうことです」

「心が広く美しく寛大で優しいわたくしでも、我慢のならないものがひとつあります。それは忠誠心のなさです、ミネルバ・マクゴナガル」

 

 もったいぶって言った言葉に、マクゴナガルが頬を引きつらせる。そして、呆れたようにも見える仕草で、アンブリッジの言葉を繰り返した。

 

「忠誠心のなさ」

 

 この現代で使うような表現ではない。少なくとも、教師が使う言葉でないことは確かだ。

 どよめく生徒たちに囲まれる中、アンブリッジは醜悪な顔をさらにぐちゃぐちゃにひん曲げて微笑んだ。優越感と嗜虐心にあふれた、邪悪な心が透けるようだ。

 

「そのとおり。魔法省はじきにホグワーツへ杖を入れるでしょう。学習意欲のなさ、成績の低下、そして魔法省への忠誠不足。この学校のお子様たちは、あまりにもなっていません。ぐふっ」

 

 閉口したマクゴナガルを見て、舌戦に勝ったと思ったアンブリッジは得意げに笑う。

 あの顔が浮かべられた以上、絶対に、間違いなくろくなことにならないだろう。

 最後にあの女が漏らした笑い声は、ホグワーツの将来を示すようだった。

 

「うわぁーお……」

 

 翌日。朝食の席で届いた日刊預言者新聞を開いて、ハーマイオニーが呻いた。

 何故そんなロクデナ新聞(ロン命名)を読んでるのかとハリーが問えば、敵の主張は知っておきたいとのこと。政府を相手に敵宣言とは、これまた彼女らしいと言えば彼女らしいのだろうか。

 どれどれと思ってドーナツをかじったままのロンが目を通してみれば、一面にアンブリッジの写真が踊っていたため彼は思い切りむせた。

 ハーマイオニーの様子からそれを予想していたハリーは口に食べ物を入れておらず、手に持っていたミートパイを取り落すだけで済んだ。

 新聞によれば食虫植物の咲き乱れるようなほほえみを見せつけるアンブリッジが《ホグワーツ高等訊問官》なるものに任命されたのだという。建前上の理由としてはホグワーツの独裁的な教育指針は目に余るモノであり学力低下の改善と学生の意識向上を図るために魔法省の基準に満たすための査察を行うのだという。

 これの真実はファッジによるホグワーツへの積極的介入と情報収集(いやがらせ)といったところだろう。何よりもアンブリッジを選んでしまった時点で、まともな政策であるとは言い難い。あれほどまでに性根の捻じれ曲がった人物を起用すると、どのような取り組みであろうともくろみ通りにはいかないだろう。

 ハリーは今日の授業から大変な目にあうだろう予感をひしひしと感じていた。

 

「変身術において最も重要なのは変身させる先の知識です。マグルにトロールを描けといって正しい絵が描けないのと同じく、知らないものには変身させることが出来ません。魔法とはあいまいな部分の多い学問ですが、しかし変身術の場合は知恵を持つ者に限って微笑みます。今日は実際にあなたたちに目の前の品物を、飲み物が冷めにくいタンプラーへ変身させてもらいましょう。では教科書の四八九ページを開い」

「ェヘン、ェヘン。マクゴナガルせんせっ。ちょーっと質問よろしいかしらん?」

 

 マクゴナガルの言葉に従って羽根ペンを動かしていた生徒たちが、突如教室へ響き渡った甘ったるい声に辟易する。後ろを振り返れば、ピンク色のビジネススーツに身を包んだアンブリッジが立っていた。

 吐き気を催す邪悪な格好をしているが、やはり政治家なのか趣味の悪さはともかくとして様になっている。カツカツとわざとらしくハイヒールの音を立てて、ハリーが見たことないほど唇を真一文字に結んだマクゴナガルの元へとガマガエルがやってくる。

 

「マクゴナガルせーんせ。貴女は確か魔法教育資格特A級を持っていらしたわねん」

「……ええ、そうです」

「であれば五年生には上級変身術概論前編の第五〇六章までしか教えるべきであるという魔法省の教育指針をご存知でしょう? 貴女の今おっしゃった変身術は五年生には不必要なものですわ」

「不必要な知識などありません。O.W.L.試験において意地の悪い質問にも答えられるよう生徒たちへ最善を尽くすのが我々教師の仕事ではありませんか」

「いいぇえん。貴女方教師の仕事は、魔法省の定める教育カリキュラムに従うことですわん。のちほど最新の教育カリキュラムを書き記したお手紙を送らせて頂きますので、熟読してしっかりと従ってくださいね。んふふっ」

「……そぉうですか!」

「そうなァんですのぉ」

 

 ネコとカエルが繰り広げる怪獣大決戦は、生徒たちの羽根ペンを動かす気力を奪い去っていた。満足そうに笑みを浮かべて下手なスキップで帰っていくアンブリッジの背中を教室中の全員が眺め、マクゴナガルから八つ当たり気味の鋭い視線がキッと飛んでくると同時に生徒たちは板書作業へと急いで戻って行った。

 地獄は終わらない。まるでハリーを尾行しているかのように、アンブリッジがついてきた先は二限目の魔法薬学だ。スネイプがいつも通りスリザリンを贔屓してグリフィンドールを扱き下ろし、ネビルが怯えた声を漏らしているところへ響いたカエルの鳴き声。

 スネイプがその動きを止めた。いつの間に湧いて出たのか、アンブリッジはひょっこりとスネイプの後ろからかくれんぼをする童女のような動きでスネイプへ質問を繰り出す。

 

「スネイポせんせっ。わたくし少し質問があるのですけれども、お時間よろしいですわね?」

「……我輩はスネイプだ」

「んではスネイポせんせ。闇の魔術に対する防衛術の教職を志望していたというのは本当?」

「…………………………左様」

「でも叶わなかった。窃盗犯やアイドルモドキやヒトモドキに負けている自覚はおありで?」

「………………………………ご覧の通り」

「ひょっとして才能がおありなのかしら。望むものすべてに背かれるという稀有な才能が!」

「……………………………………そのようで」

 

 この日グリフィンドールとスリザリンは一致団結して、目立たず静かに時間を過ごそうと決意した。スネイプがあれほどまでに不機嫌になった姿を、この中の誰も見たことがなかったからだ。

 黙々と薬を調合し続け、ネビルが失敗しそうになればすかさずハーマイオニーとパーキンソンが助けに近寄り、スコーピウスがそれをからかおうとすればハリーとドラコが愚かな弟へ無言で手刀を打ち込み黙らせた。

 アンブリッジがさんざんやりたい放題やったあとに、スネイプが八つ当たりしようとネビルの大鍋を見つめ、非の打ち所がない平凡な出来であることに気づいて舌打ちする。

 するとスネイプはやおらハリーをじっと見つめ、言った。

 

「その不愉快な顔にグリフィンドール一点減点。ポッターは罰則」

 

 ハリーがテーブルに突っ伏したことで魔法薬学は平和に終えることが出来た。

 恨めし気に友人たちを見てみれば、ロンやハーマイオニーの目が光っていた。おそらくミンビュラス・ミンブルトニアの件を根に持たれていたのだろう。しかしこの悪戯には納得がいかん。

 尊い犠牲を払って平和を保った獅子と蛇の生徒たちが目にしたのは、すでに次の教室でスタンバイしているアンブリッジの姿だった。

 げんなりする生徒たちの前で、アンブリッジは次々と教師たちの神経を逆撫でして彼ら彼女らの逆鱗へと執拗にデコピンを繰り返していった。フリットウィック先生の身長を自動メジャーで測って鼻で笑うのは序の口で、スプラウト先生の泥だらけの格好を見て露骨に鼻をつまみながら話しかけたり、ビンズ先生が頑なに教科書を読み上げる声が聞こえないほどの声量であれこれ質問を繰り出したり、シニストラ先生の目の前で巨大な灯り呪文(ルーモス)を放って星々を覆い隠したりと、鬱陶しい暴虐の限りを尽くした。

 教師たちも我慢の限界なのだろうが、しかし法律を盾に取られては彼らも何もできない。彼らの仕事は生徒たちを教え導くことであって、政府へ盾突いてつまらぬことで職を失い教鞭をとる機会をなくすことではないからだ。

 

「限界だわ! あの姑息で意地悪な変態クソババァ! あれで同じ人間だなんて恥ずかしい、同族などと認めてやるもんですか! あんなの×××だわ! ××××してやる、×××の×××××女ァ――――ッ!」

「落ち着けハーマイオニー、君がそんな口汚い言葉を使っちゃいけない。ロンが泣きそうになってる。だめだ、彼が抱く女の子への幻想を潰してやるな」

 

 震えるロンを抱き寄せて頭を撫でてやれば、若干幼児退行した様子で怯えていた。

 ここまで彼女が頭に来た理由としては、おそらく今日アンブリッジがやらかしたことにある。占い学の授業にて、ついにアンブリッジが教師に対して懲戒免職を突きつけたのだ。

 ハリーもハーマイオニーも占い学を受けていないが、かつて受講していたハーマイオニーによればメンタルの脆そうな女性教師だという。トレローニーという名を聞いて、ハリーはいつぞやの恐ろしい声の教師かと思いだす。

 授業を終えて教室をでたハリー達が見たのは、城の真正面に位置する噴水広場にて、喜々として手伝うフィルチを従えたアンブリッジがトレローニーを学校から追い出そうとしている姿だった。

 あまりの暴挙に不平不満を口にする生徒たちを、アンブリッジは教育令の第何条かを諳んじる。それは特別尋問官に対する暴言を吐いた生徒を停学とする、法とも言えない暴力的な何かだった。しかし実際に教師である以上、停学する権限を彼女は持っている。生徒たちは皆一様に押し黙るしかない。

 マクゴナガルに縋りついて大粒の涙を流すトレローニーを見て、アンブリッジは快感をかみしめているかのように蕩けた顔で早く出ていくようにと、赤子をあやす様な物言いで突きつけて楽しんでいた。

 それを救ったのは当然、ダンブルドアだ。

 微笑みながらトレローニーに自分の部屋へ戻るように言いつけて、涙を流して感謝する彼女をマクゴナガルに任せると、アンブリッジに対して「女史は教師を解雇する権限はお持ちじゃが、誰を城に残すかを選ぶのはまだ校長の権限だったはずじゃ」と言いきった。

 苦虫を噛み潰した顔をしたアンブリッジを見て、溜飲を下げた生徒はどれほどいただろう。悔しそうに「それも今日までのお話です」と言い放ったアンブリッジに痛い目に逢わされた者は大勢いるのだ。

 

「もしもあのタイミングでダンブルドア先生がいらっしゃらなかったら、トレローニー先生は本当に追い出されていたわ!」

「彼は本当に偉大な先生ですねミス・ハーマイオニー」

「落ち着けってロン。君の親友はいきなり噛み付いたりするような生物じゃないだろう」

 

 いまだにがたがたと震えるロンを放置するか迷って、そのままハリーはハーマイオニーも一緒に抱き寄せて落ち着かせるために頭をなでる。

 自分より小さな女の子に慰められているという状況にハッとしたのか、はたまた自分と彼女の身体でロンをサンドするように抱き寄せたからか。おそらく後者だろう理由でハーマイオニーは正気に戻った。ロンも同じく、ハーマイオニーの感触で気が付いたのだろう。二人とも顔を真っ赤にしていて、うん、自分でやったこととはいえちょっとばかり不愉快である。

 

「それで、ハーマイオニー。君はいったい何がしたいの?」

「決まってるわ。勉強よ」

 

 ロンが頭のおかしい人間を見る目で彼女を見ようとしたため、ハリーは茶化すべき時ではないと彼の頭をひっぱたいてやめさせた。

 幸いそれに気づいたものの言及する気のないハーマイオニーは、そのまま言葉を続けることにしたようだ。いまひとつの命が救われたのだ。

 

「アンブリッジがまともに授業をしない以上、私たちで学ぶ必要があるわ」

「でもO.W.L.の勉強があるのに、自主的に勉強する暇なんてないよ! ハーマイオニー、他の人たちは君と違って勉強に苦痛を感じるんだ!」

「あら。お言葉ですけどねロン、どちらにしろあのカエルババァの授業が継続する以上は、闇の魔術に対する防衛術の自習をする必要はあるわ。それにみんな勉強が苦痛だなんて有り得ない、現にハリーは喜んで勉強してるわよ」

「悪いけどハーマイオニー、ぼくは必要だから学んでるだけで勉強好きってわけじゃない」

 

 ハリーの意見をサラッと無視したハーマイオニーは演説を続けた。

 曰く、実践的な魔法を習わせる気がさらさらないアンブリッジに従ったままでは、闇の魔法使いに襲撃された場合にまともに対応できるとは思えないということ。

 曰く、自分の身を護るのは自分でしかない以上、対抗策を講じるしかない。その策として自ら戦闘にも使える魔法を学び、経験者からの指導による実力を養うべきであること。

 曰く、これを秘密の組織として結成し特定の生徒のみを対象に勉強し合うこと。付随して離反や及び密告と言った裏切り行為への対策を講じる必要もあり、さらにはアンブリッジにバレずにことをなすための隠密性の高い場所が必要であること。

 

「そしてその講師役には、ハリーが適任だと思ってるわ」

「ちょっと待った。ぼくは人にものを教えるなんてこと、したことない。それに君やドラコの方が物知りだろう、ハーマイオニー」

 

 この言葉にロンが片眉をあげた。マルフォイ家とウィーズリー家の確執は根深く、その名を聞くだけでも不愉快なのだろう。

 しかしハーマイオニーもまた、ハリーの言葉に対して難色を示した。

 

「あなたくらいしか実際に死喰い人と戦った人はいないからこその人選よ。それと、ハリー。あなたマルフォイと仲良くするのはもうやめなさい」

「……色々と言いたいことはあるけど、理由を聞いてもいいかな」

 

 一瞬で不機嫌になったハリーの顔を見て、ハーマイオニーはため息をつく。

 ロンが頭を乱暴に掻きながら言った。

 

「ハリー、マルフォイはスリザリンだ」

「だから?」

「父親が死喰い人なんだよ、わかるだろう?」

「それで?」

「信用できるところがないって言ってるんだ! 確かにあいつは優秀さ、悔しいけどそうだ。弟のスコなんとかよりずっと人間もできてる。だからこそ気に入らない。全部が全部、作り物な気がしてならない」

 

 ロンの言葉に、ハリーは眉を寄せた。

 友達を悪く言われたからだろうか。いや、友と言えるほど親交があるわけじゃない。

 では仲間か。グリフィンドールとスリザリンである以上、それはないだろう。

 ならばなんだろう。同じく向上心の塊であることからの同族意識……きっとそれが近い。

 それに彼の態度がどこか作っているものだということは、ハリーもまた感じていた。特に今年はそれが顕著だ。あれはなにかを隠していて、なおかつその秘密の重圧に心が軋んでいる者の態度である。

 彼はいったい何を知っているのか。

 父ルシウス・マルフォイが死喰い人である以上、ヴォルデモートに関連したことかもしれない。ルシウスは帝王の側近ともいえる立場にいる死喰い人であるからして、そういったことを知っていてもおかしくはないのだ。

 それこそ、シリウスがぽろっとこぼした『武器』に関することとか。

 

「ハリー。物言いはともかくとして、私もロンに賛成。マルフォイはどうにも信用ならないわ。スリザリンはアンブリッジに優遇されてるから、彼女への忌避感もないし」

「でもドラコはアンブリッジを面と向かってバカにしたけど」

「はっきり言っておくわよハリー。彼をこの勉強会に参加させる気はない。彼を引き込んだら、彼と親しくしている純血主義の皆々様が怪しむでしょうね。そうなれば秘匿性もくそもないわ、私はあくまでこの勉強会を内密のうちに進めたいの」

 

 ハリーは不満を心の内に溜め込んでいたが、渋々頷いた。

 彼女の言葉が正論であり反論する部分が見つからなかったからだ。

 しかし自分は、どうしてこうもドラコを推すのか。同族であるからか? 彼と競い合えば自分がもっと成長できると確信しているから? はたまた、彼を異性として好いているのか?

 同族である以上、彼を否定されるのはハリーをも否定することになる。こじつけの暴論だろうが、ハリーの心はイエスと叫んでいる。あまり否定されたくはない。だからこうしてムキになってドラコを勉強会に呼ぼうとしているのか?

 成長の糧となることは、確かだ。しかしドラコだけがハリーの心を刺激するわけではない。ロンだってハーマイオニーだって、ほかのみなだってハリーより優れて見習うべきところはたくさんある。自分が一番などと自惚れたつもりはない。

 ドラコを好きなどと、馬鹿を言っちゃいけない。彼だけは違うと断言できる。彼を異性として意識したことなど今まで一度もなかった。去年のあの日、ダンスパーティのあとにドラコの言葉をもらってもなおこう言い切れるのだ。間違いないだろう。

 では何故なのだろうか。

 ベッドの中で悶々としながらも、ハリーはその疑問を解くことはできなかった。

 

 

 甘い夢を見る。

 長い長い廊下を滑るように進んでいる。

 その先で待っているものは自分のことを心待ちにしているに違いない。

 早く抱擁して、キスして、愛を囁きたい。この身の純潔をささげて愛し愛されたい。

 そうすれば世界のすべてが自分のものになるのだ。早く手に入れたい。

 なんと心地よい、なんと甘美な未来か。

 甘い夢を見た。 

 

 

 結局昨日はドラコの件に関して口論したため、ハリーが講師になることについて反論することを忘れていた。

 しかし死喰い人と殺し合った経験を伝えるというのは、おそらく必要なことなのだろう。この年代の子供たちは、闇の陣営と直接会ったことはない。むしろ普通は犯罪者と対峙した経験すらないはずだ。

 ハリーの持つ心構えを教えて実践させるだけでも、実際に危険な場面に遭遇して死ぬ危険性を減らすことはできる。そう説得したハーマイオニーに折れて、少人数ならとハリーは講師役を承諾したのだった。

 

「それでハーマイオニー。なんで僕らはホグズミード村に来てるのさ」

「まず集会で活動方針を知らしめる必要があるわ。そのためにひと気のない場所を選んだの」

 

 それを聞いてハリーはハーマイオニーへ振り返った。

 確か何かの本で、木を隠すには森の中という言葉を見た気がする。

 

「ハーマイオニー、むしろ人の多い場所のほうがいいんじゃないの? ひと気がないと誰かに聞かれた場合よく声が通ると思うんだけど」

「だからこそじゃないの。私たち以外に誰かいるのなら、それこそ警戒すればいいのよ」

 

 そういうもんかな、とハリーは納得することにした。より良い解決策を提示することが出来ない以上、信頼するハーマイオニーに従った方がいいだろう。

 

「それで、何人くらい来るの? ぼくは何も聞いてないんだけど」

「ほんの数人よ。少なくとも、貴女が声をかけて教えられるくらいの人数」

 

 ざくざくと雪に足跡をつけながら、ハリーはホグズミードへの許可証を眺める。シリウス・ブラックと堂々とキザッたらしい書体で書かれており、よくマクゴナガルもこんなもので許可したものだと思う。自分のために労力を割いてくれたことに感謝の気持ちと愛おしさがあふれてくるが、まあお茶目な彼らしい所業だ。

 それをにやにやと見ていたハーマイオニーとロンから目を逸らして、ハリーは急ぎ足で《ホッグズ・ヘッド・バー》へと近寄る。

 そして扉を開けて、ハリーは顎が外れた。

 

「やっと来たなハリー」

「全く、遅いぞハリー」

 

 まず出迎えたのは双子のウィーズリーだ。

 彼らに肩を組まれ、ハリーはひとつ置かれた古ぼけた椅子に座らされる。

 遅れて店内へ入ってきたロンとハーマイオニーが肩の雪を払いながら、ハリーの後ろに立った。フレッドとジョージがふざけて恭しくハリーから離れれば、目の前には少なくとも二〇人以上の生徒たちが見えたのだった。

 フレッドとジョージの間にはリーが座っている。その右隣にはジニー。ネビル、ディーン、ラベンダー。パチル姉妹が可愛がっているのはルーナだ。獅子寮クィディッチ・チームのチームメイト、ケイティにアリシアとアンジェリーナ。穴熊寮のアーニーにジャスティン、ハンナ。知らない男女の生徒もいる。鷲寮からはチョウ・チャン、ハリーの知らない女生徒も。それに男子生徒が三人ほど。ロンが彼らはアンソニー・ゴールドスタインとマイケル・コーナー、テリー・ブートだという。クリービー兄弟がカメラを構えているが、リーがそれを奪って窓から放り捨てていた。

 数人? これが数人か。

 ハーマイオニーへ目を向ければ、ばっと勢いよく逸らされた。

 

「へぇ、数人ね?」

「どうやら私たちに賛同する人が多かったようね」

 

 目を合わせず、しれっと言い放つハーマイオニーにはもうため息しか漏れない。

 「注文は」と聞いてきたおじいさんを相手にロンは目も合わせず「バタービール」と言い放つ。それに対して持ち出されてきたのは、埃をかぶった汚らしい瓶だった。

 ハーマイオニーはそれに目をやって、杖を軽く振る。清掃呪文によって二十五本すべての瓶が新品同様の美しさを取り戻した。ざわめく生徒たちに、それぞれのバタービールが配られる。

 何かを話すことを期待しているようで、バタービールを飲む音以外には何も聞こえてこない。まさかハリーが何かを話すと思っているのだろうか。演説など、何も考えてきていない。話すことなどない。

 焦りのあまり変な汗をかき始めたハリーを想って、ハーマイオニーが代わりに口を開いた。

 

「アー……。私たちには先生が必要です。昨今の闇の魔術に対する防衛術での授業を受けているみなさんには、それがわかると思います。実際に闇の魔術と戦ったことのある人が必要だと」

 

 そうだ。と誰かが合いの手を入れる。

 それに勇気をもらったのかハーマイオニーの表情が少しだけ力強くなる。それにほっとしたのか、ロンが胸を撫でおろしていた。

 

「このままではいけないわ。私達自らが、自分たちを守る術を身に着けないといけないの」

「なんで?」

 

 ハーマイオニーがそこまで言ったとき、レイブンクローの男子生徒がその声を遮る。

 彼女がむっとした様子を見るに、この会合の趣旨は話しているのだろうと思われる。

 このタイミングでハーマイオニーの機嫌を悪くするのはよくないと思ったハリーはロンに目配せし、その意図を把握したロンが男子生徒に向かって言った。

 

「なんでって、『例のあの人』が戻ってきたからだろう。君は成す術なく殺されたいのか?」

「でもそれはポッターが勝手に言ってることじゃないか。しかも『あの人』から生き残って見てきた、だなんて。なあ、セドリックが死んだ時のことちゃんと話してよ」

 

 ロンの言葉に答えたのは、別のハッフルパフ生だ。小生意気そうな顔をしており、ハリーの全身をなめまわすように見ている。見た目はただの華奢な女子なのだ、信用ならないのも頷ける。

 不躾な物言いに腹を立てたロンが脚の壊れかけた椅子を蹴倒して立ち上がるも、ハリーはそれを手で制する。ハリーは黒髪の男子生徒に目を向け、ゆっくりと口を開いた。

 

「きみ、名前は?」

「ザカリアス・スミス」

「うん。オーケイ、ザカリアス。きみ帰っていいよ」

「えっ?」

「この集まりは、闇の連中に対抗するための技術を得る勉強会だ。演説が聞きたいなら、アンブリッジのところへ行くといい。ヴォルデモートがどんなふうに人を殺すのか聞きたいなら、それもカエルに聞きな。身をもって知れるだろうよ」

 

 ことさら冷たくハリーが言い放つと、ザカリアスは押し黙ってしまう。

 さらにヴォルデモートを名指しで言ったことも大きかった。ザカリアスのみならずチョウの友達らしき女生徒やパチル姉妹は身を寄せ合って震える。

 彼女の言葉に場が静まり返って、気まずい雰囲気が流れてしまう。やってしまったかと思ったがネビルはこの沈黙を好機と見て、ハリーの活躍を話し始めた。

 

「ハリーはね、すごいんだよ。一年生の時はクィレルの野望を阻止したし、二年生の時はバジリスクに勝っちゃったんだ!」

「そういえば疑問でした。ミス・ポッターはどうやってバジリスクを倒したんですか? あれは遭遇した瞬間に即死が確定するような怪物なのに」

 

 ネビルの言葉に首をかしげて問いかけたのは、ハッフルパフのスーザン・ボーンズだ。

 彼女の顔つきに魔法省で顔を見た魔女の面影を見る。名前も同じことからおそらく血族だろう。心配そうにハーマイオニーが顔を向けてきたが、別に話すことは構わない。

 

ヘンリエッタ(バジリスク)より、ヌンドゥやクィレルの方が厄介だったし……」

「ハリー、声が小さくて聞こえないよ」

「アー、なんでもない。無我夢中だったからよく覚えてないんだよ……あの戦いは幸運に助けられた部分が大きかった。いつだってそうだ、ぼくの殺し合いは幸運と偶然に支えられている」

 

 実際その通りだった。

 一年生の時は、ハリーの身体に母の愛の魔法が残留していなければクィレルによって殺されていた。ヴォルデモートによって造られた肉体でありながら愛の護りが適用されていたというのは、少なくともハリーの知識では魔法学上ありえないくらいの奇跡である。

 二年生の時だって、リドルに敗北した後はおそらくヴォルデモートがプログラムした動きに従ってリドルを滅ぼしたのだろう。様々な偶然が、他者の意図が巡り巡ってハリーを生かしている。

 肩をすくめて言えば、納得していないながらもスーザンは身を引いた。ハリーが続けて言葉を紡ぐことに気が付いたからだ。

 自分が生き残ってきたのは運が良かったからだと断じるハリーは、しかし同時にそれを否定もする。ハリーは慢心が即座に死へつながることを、実体験を以ってしてよく知っている。

 

「でもその幸運は、ぼくが生きてるから舞い込んだものだ。さっさと死んでしまえば、運もクソもない。だからこの勉強会では、君たちがほんの少しでも生き延びることができるようになる術を教えるつもりだ」

「そうね……あなたならできるわ。去年の六校対抗試合での活躍を見ていれば、彼女がどれほど優れた魔女なのかはみんなよく知っているはずよ」

 

 ハリーに同調したのは、チョウだった。

 ありがとうと目でお礼を言うとにっこりと微笑んでくれる。恋だのなんだのがなければ、驚くほど魅力的な人だ。彼女の援護に有り難く思いながら、ハリーは続ける。

 

「幸いにしてぼくは色々と、うん。殺し合うことに関して役立つ呪文を多く覚えている。それを教えることで君たちが自分の身を護ることができるなら、アー、うん。幸いだ」

「でもポッター、さっきは幸運に助けられたとか何とか言ってたじゃないか」

 

 ザカリアスがまたも口を挟む。

 ロンがカチンときた様子で椅子から立ち上がる(哀れな椅子は今度こそ破壊された)も、彼は言い訳するように顔を赤くしながら言った。

 

「だって、僕たちはポッターに防衛術を教えてもらうために集まったのに。彼女がそんなことを言うのなら、その実力にだって疑問を覚えちゃうよ。そうだろう?」

「へいへいザカリアス、そのおクチを閉じられないっていうんなら僕たちが縫ってやろうか」

「ちょうどゾンコの店でいいものを買ったんだ。僕たちの実験台一号になってくれるのかい」

 

 フレッドとジョージが何やら紙袋の中から見るからに危険そうな何かを取り出したのを見て、ハーマイオニーが慌てて口を挟む。これ以上ごちゃごちゃいうなら直接体に教え込んでもいいんじゃないかとハリーが思い始めていたため、それは実に英断であった。

 

「先に進めるわよ! それじゃみんな、ハリーから習いたいってことでオーケーね? ……うん、よし。少なくとも一週間に一回、みんなで集まって勉強会をするわよ。ああ、アンジェリーナ。クィディッチの練習とはかち合わない日程にするから……チョウも。ああもう! クィディッチ選手はあとでスケジュール教えて。皆に都合のいい日を探し出すから」

 

 ハーマイオニーの有能さをこれほど感謝したことはない。彼女の両親は本当にいい子を育ててくれたものだ。おそらく彼女がいなければ、この会合を終えるのにあと半日は要しただろう。

 参加者の意志を再度問うたあと、ハーマイオニーはカバンから羊皮紙を取り出してこれにサインするようにと全員に言う。アーニーが若干渋ったが、しかしこれ以上に大事なことはないと思っている彼は迷っていた割にはさらりと自身の名を綴った。

 ハリーは自分のワインレッドの瞳が、羊皮紙に何かの呪いがかけられていることに気付く。ロンが名前を書き、ハリーに羽ペンが手渡されたときになってハーマイオニーの顔を見つめる。

 彼女は親友が自分の羊皮紙に仕掛けられた呪いに気付いたことを悟ったのか、人差し指を唇に当ててシーッとお茶目な仕草をした。彼女もすっかり大胆で悪い女になってしまった。いったい誰の悪影響を受けたのか、そいつの顔を見てみたいものだ。

 最後にハーマイオニー自身の名を書いて、彼女はそれをくるくるとまとめてしまい込んだ。

 彼女の浮かべた満足げな顔が、妙に印象的だった。

 

『ハリエット。今夜九時、前と同じ場所でだ』

 

 ハニーデュークスで美味しいお菓子をいっぱい買い込んで、グリフィンドールの談話室へ戻ったハリーは、胸元の両面鏡が熱くなっていることに気づいてそれを取り出す。

 にっこり笑顔のシリウスが、手短にメッセージを告げてきた。

 

「今じゃダメなの?」

『ああ、話があるのは君にだけじゃないからね。もちろんロンやハーマイオニーも呼んできなさい、今回の集会のことについても話があるから』

 

 ハリーは仰天した。

 秘密は必ず暴かれるものではあるが、よもやその日のうちにバレるとは。

 引き攣ったハリーの顔を見たシリウスは、悪戯小僧特有のにやりとした笑みを見せる。

 

『よりにもよってホッグズ・ヘッドとはね。もう少し場所を選んだ方がいい』

「……誰かを忍び込ませていた?」

『ああ。マンダンガスという団員だ。魔女に変装していたんだが、気づかなかったかい?』

 

 これっぽっちも気づかなかった。むしろハリー達以外の客がいたことにすら気づいていなかった。これは何というか、不注意すぎたかもしれない。

 

『君たちは危険を冒している。そういう場合は、気を配りすぎるなんてことはないんだ。もちろん、実体験だよ。気を付けてさえいれば、マクゴナガルでさえやり過ごせる』

「……気を付けるよ」

『耳に痛い忠告ほどよく聞き入れるべきだ。私の若い頃は聞かん坊のロクデナシだったからね。先達の言葉はよく聞いておいた方がいい』

 

 君もまだまだ若いなとあきれたような、しかし面白がる笑顔を浮かべたシリウスは「では九時に」と気障ったらしいウィンクと共に消えていった。

 ハーマイオニーの愕然とした顔が思い浮かぶようだ、とハリーは思いながら女子寮へと歩みを進める。午後九時になってシリウスが暖炉へ現れたときは、案の定軽いお説教が待っており自分の考えが甘かったことを思い知らされるハーマイオニーの機嫌が急降下するだろうから、足取りはとても重くなるだろう。

 

 ネビルがハーマイオニーから喝采を貰って照れている。

 嬉しさのあまり抱きしめられて、目を白黒するネビルをハリーは微笑ましく見つめていた。彼は『必要の部屋』と呼ばれるホグワーツの不思議な部屋を見つけたのだ。

 偶然の発見ではあったが、彼の功績に違いはない。別名を『あったりなかったり部屋』と呼ばれる、真に必要とする者の前に現れる摩訶不思議な部屋である。

 『以後、学生による組織はすべて解散とする。違反した生徒は問答無用で退学処分とする』というアンブリッジからの教育令が発布されたことによって、この勉強会は違法な組織となってしまっている。クィディッチチームもまた解散させられたことで、ロンはもはやこの勉強会にしか学校に面白みを感じられなくなってしまうと言っていたほどの制限っぷり。

 彼の発見によってアンブリッジの目を逃れられる練習場所を得られたことは、実に僥倖であった。ハーマイオニーから解放されて顔を真っ赤にして恥ずかしがるネビルをハリーもまた力いっぱい抱きしめて、その感謝を伝える。ついにネビルは鼻血を出してしまった。

 

ダンブルドア軍団(Dumbledore's Army)

 

 必要の部屋に集まった勉強会の面々に向かって、ハーマイオニーが宣言する。

 ハリー達いつもの三人組と、そのほかが向かい合っている形だ。今日は実際にどんな魔法訓練をするかの説明と、その導入部分(チュートリアル)をやる予定だ。

 

「この勉強会の名前よ」

「なんでそんな物騒な名前にするんだ?」

 

 ザカリアスが噛み付いた。

 ここまで反骨心旺盛だとさすがである。しかしその疑問は誰もが抱いていたようで、ウィーズリー兄弟が悪戯グッズを取り出して脅かす以外には文句をいう人物はいなかった。

 ハリーもまた疑問に思いハーマイオニーへ視線を向ければ、大量の目玉に気圧されながらも彼女はにやりと悪い笑みを浮かべて説明する。

 

「これはアンブリッジが最も恐れているものよ。いっそのこと、あのガマガエルの誇大妄想を実現させてあげようじゃない。私たちは別に軍隊ではないけれど、戦うための力を得るための場所という意味では間違っていないわ」

「幸いにして、この『必要の部屋』はこのダンブルドア軍団団員……長ったらしいな、略してDAメンバーのみがその存在を知れるようになっている。もちろん、君たちのだれかがアンブリッジに尻尾を振れば話は別だろうね。魔法保護はそこまで万能じゃない」

 

 一応ハリーが補足しておく。

 アンブリッジにバレることを恐れているのは何もハリーだけではない。ザカリアスもそうだろうが、魔法省に努める人間を親に持つ者も多い。アンブリッジは人間として(純粋に人間かどうかは怪しいものだが)ぶっ飛んではいるが、社会的には魔法省において高い地位にいる人物だ。彼女の反感を買えば自分たちの親がどうなるか、心配する生徒は多い。

 現にハリーの説明に胸をなでおろしたメンバーが何人もいた。

 不安を取り除いたことで、ハーマイオニーはぱんと手を打ち鳴らす。

 

「それじゃさっそく、教えてもらいましょう。講師はもちろん彼女、ハリエット・ポッターよ。ハリー、お願い」

「アー、うん。まあ、……そうだな。よし、やるか」

 

 二〇以上の人間から一斉に注目を集めると、さすがのハリーもひるむ。

 しかしこれから戦う術を教えていくのだからいちいち緊張していたらやっていけないだろう。ハリーはそれを割り切り、深呼吸して全員を見渡した。

 

「今回教えるのは『武装解除術』だ。呪文は『エクスペリアームス』、武器よ去れ。魔法戦闘においては一番ポピュラーで、かつ使い勝手のいい魔法だね」

 

 杖の振り方も実演して見せてみる。

 魔方式を書き出すための黒板も欲しいなと思えば、床がせりあがって黒板が現れた。チョークも用意されており、ハリーは杖を振ってチョークに魔法式を書かせる。これはO.W.L.においても出題頻度の高い代物であるため、五年生はみんな知っているだろう。

 そしてやはりというべきかなんというべきか、ザカリアスが声を上げた。

 

「そんなの、三年生で習う呪文じゃないか。今更教えてもらわなくてもできるよ」

「ザカリアス、君ちょっと黙ろうか。僕たちの悪戯グッズが見えない?」

「でも、だってそうだろう。もっと別の、すごい呪文を教えてもらえると思ったのに」

 

 ザカリアスの言葉に、ハリーは片眉を上げた。

 フレッドが悪戯グッズを使ってザカリアスへ制裁を加えようとしているのを手で制して、ハリーはハッフルパフの反骨少年の前へ出る。

 三メートルほどの距離がある中、ワインレッドの瞳を向けてハリーは言った。

 

「ザカリアス、君は武装解除が使える?」

「使えるから言ってるんだよ」

「じゃあ、ぼくに向かってかけて。ぼくが教える呪文がどういう術か、教えてあげる」

 

 にっと微笑んで見せれば、ザカリアスは怪訝な顔をした。

 ハリーは腕を組んだまま微笑みを維持して彼を見つめている。杖を構える様子は見られない。ネビルが心配そうな目を向けてくるが、大丈夫だと目で伝える。

 しかし彼も不満がたまってるのか、躊躇することなく杖を引き抜いた。周囲にいた生徒が驚いて身を引くと、彼は眉を寄せて叫んだ。

 

「『エクスペリアームス』、武器よ去れ!」

 

 彼の細長い杖先から、赤い魔力反応光が飛び出す。

 真っすぐハリーの胸に向かって飛来してくるそれをハリーは目視して、そして腕を解くと素早く袖口から杖を取り出して無言のまま武装解除を飛ばした。

 ハリーの放った魔力反応光は、ザカリアスの放った閃光を真正面から引き裂いてそのまま彼の胸へと直撃する。その魔力圧(パワー)魔力速度(スピード)も別物であり、まるで放り投げたボールと銃弾ほどには違いがあっただろう。

 目を見開いて吹き飛ばされたザカリアスは、驚きの声をあげる間もなく反対側の壁へと水平に飛んでいった。見物していた生徒たちが悲鳴をあげるなか、ザカリアスは壁に打ち付けられることなく済んだ。

 回り込んだハリーが受け止めたからである。目を白黒させて呆然とするザカリアスを担ぎ上げたまま、奪取した彼の杖をくるくると指で遊ぶハリーは言う。

 

「いまのは『武装解除』の魔方式を少しいじって、突破力を持たせたものだ。魔力反応光も螺旋状に回転させて、相手の反応光や障害物とかち合ったときに散らしたり貫通させたりする効果も持たせてる。あとは込める魔力の量も違うかな、ザカリアスのは教科書通りの量しか込めていなかったし、魔法式もいじってなかった」

 

 ひょいっと放り投げれば、ザカリアスは慌てて尻から着地する。その腹の上へ杖も置く。

 目を見張ってハリーを見る彼らが何を不思議がっているのかわからないハリーは、ハーマイオニーへ助けを求める目を向けた。相変わらず桁外れの実力を持っていると呆れながらも、その中身はただの十五歳の女の子であることを知る彼女は、ハリーの意図を読み取って代わりに説明した。

 

「そのあとハリーが使ったのは『身体強化』の魔法よ。肉体を魔力で活性化させて超人的な運動神経を付与させて、同時にヒトの限界を超えたパフォーマンスをこなす負担から保護する魔法。それで吹き飛んだザカリアスより早く駆け寄って、受け止めたのよ」

「『身体強化』って、それO.W.L.レベル……いえ、N.E.W.T.レベルですよ」

 

 スーザン・ボーンズが呆けながらもらした言葉に、ハリーは頬を掻く。

 確かにこの呪文はそのくらいの難易度がある。しかし幸いにしてハリーは、この呪文を一年とちょっとかけて習得することができた。余程適性があったのだろうが、ジェームズとリリー、そしてヴォルデモートの肉体を素材に造りだされた人造人間である。シリウスから聞いた話ではジェームズも身体強化を使えたらしく、ヴォルデモートはその才能ゆえ軽くこなすだろう。要するにハリーの肉体は魔法戦闘における才能の塊なのだ。

 この場にハリーの実力を疑う者は、ザカリアスを含めてもうひとりもいなかった。

 

「さっきの武装解除は、魔法式をこういじった。覚えてね」

 

 杖を振って魔方式を書き換えると、皆は羊皮紙を取り出してそれをメモする。

 しばらく待って皆がそれをメモし終えたことを確認すると、ハリーはみんなに羽ペンや羊皮紙をしまうように言う。皆は色めきたって杖を取り出すものの、ハリーはそれを手で制した。

 

「自由に二人組になって。互いに武装解除をかけ合うんだ。タイミングを確かめるために合図するのはなしだよ、実際に死喰い人とか犯罪者が優しく教えてくれるわけないんだから」

「そういうことよ。とりあえず砂時計が空になるまでやりましょうか。はじめ!」

 

 ハーマイオニーの言葉にみんなが振り向けば、巨大な砂時計が天井からぶら下がっていた。さらさらと砂が落ちている様子から見るに、たぶん三〇分ほどで砂は落ち切るだろう。

 ハリーの離れ業を見て興奮していたDAメンバーたちは、喜び勇んで杖を引き抜くのだった。

 

「手加減するよハーマイオニー」

「あらどうも」

 

 皆が各々ペアを見つけて武装解除をかけあう中で、ハリーはネビルに頼まれて彼と組むことにした。早々にふっとばされて自分の杖を探し回るネビルを待つ中、ハリーは親友二人がペアを組んでいる姿を見つける。

 どうやらこれから武装解除を掛け合うらしい。ロンが男としての余裕を見せているが、ハーマイオニーは含み笑いをするのみだ。お互いにいいところを見せたいのだろう。面白い組み合わせもあったものだ。

 

「ロンの勝ちに一シックル。どうだ?」

「乗った。僕は弟の無様な敗北にだな」

 

 ペアを組んだはずのフレッドとジョージがその光景を目ざとく見つけて、賭けを始めた。ハリーも見物しようと思い、杖を持って駆け寄ってきたネビルを呼んで共に眺める。

 どうやら他のDAメンバーも気付いたようで、ほとんど全員での見物と相成った。

 向かい合った二人を見ていると、ロンが素早くズボンの尻ポケットから杖を引き抜く。

 思ったより素早い。しかしハーマイオニーはそれ以上に早かった。レッグホルスターに差し込んでいたらしい杖を引き抜くと同時、ロンが呪文を唱え終える前にハーマイオニーが放った無言呪文での武装解除がロンの左肩に命中。ウィーズリーの末弟はごろごろと床を転がされる羽目になった。

 

「へへっ、儲け」

「くそっ。持ってけ」

 

 ジョージが銀貨を受け取っている姿を尻目に、ハリーはネビルに顔を向ける。

 ハーマイオニーを尊敬の視線で眺めていたネビルは振り返り、彼女から問いを受けた。

 

「ネビル、どうしてロンが負けたのかわかるかい」

「えっ? ハーマイオニーの方が強かったからじゃないの?」

「質問が悪かった。どうしてハーマイオニーの方が速かったか、わかるかな」

「アー……、なんだろう。杖をしまってた場所の違いかな?」

「それじゃちょっと足りないな」

 

 ハーマイオニーとロンは、それぞれレッグホルスターと尻ポケットに杖を入れていた。ホグワーツの指定スカートには、男子用ズボンのように便利なポケットはついていない。杖をポケットに入れている場合、激しい運動をすると滑り落ちてしまうこともあるのだ。それ故に杖はカバンに入れたり、ハーマイオニーのようにレッグホルスターに入れる女子生徒もいる。まぁハリーのように袖口に仕込む生徒はほとんどいないだろう。

 しまった場所から引き抜く動作の無駄のなさが、要因の一つ。

 ハリーが見ていたのは、ハーマイオニーが行った杖の振り方だ。ホルスターから抜杖する際、その動作が武装解除の杖の振りと重なっている。結果、引き抜いてから杖を振ったロンとは一工程も二工程も差がついたのだ。

 さらに無言呪文であることも大きい。無言呪文は正確さに欠けるものの、言葉を発さずに魔法を行使することが可能なので発声呪文と比べるとそのスピードに一日の長を置く技術だ。それを使えば、こと早撃ちに関して負ける方が難しい。

 ついでに言うとロンは油断していた上に観客に気を取られて、集中力を乱していたように思える。それでは勝てるものも勝てないというものだ。

 これらの技術と状況をフル活用して、ハーマイオニーは勝利を収めた。惜しむらくは速く撃ちぬくことに気を取られて精密性を犠牲にしている面と、無言呪文によって威力が低くなっことでロンが大して吹っ飛んでおらず、杖も明後日の方向へ飛んでしまったことだ。それ以外は満点に近い。流石はグリフィンドールの誇る才媛である。

 

「さすがだハーマイオニー」

「……あ、ありがとうハリー」

 

 女子生徒が集まってロンに対するくすくす笑いの発作を引き起こしている中で照れくさそうにするハーマイオニーを褒めれば、更に照れたようで顔を隠してしまう。

 仰向けになったまま憮然とするロンがフレッドにお前のせいで損したと理不尽な罵声を浴びている中、ハリーは彼に近寄っていく。

 

「ほら。立つんだロン」

「アー。ありがと、ハリー」

 

 ハリーが言うと、ロンが手を伸ばしてくる。

 引き起こしてくれると思っているようだが、残念ながら今日のハリーは甘くない。

 講師役としてノリにノっている今のハリーはさながら鬼教官なのだ。手を差し伸べる代わりに杖を向け、ロンの両足を『足縛り呪文』で固定する。げっと言う顔をして青くなるロンに、ハリーは極力優しげに微笑んで言い渡した。

 

「油断と慢心は死に繋がる。ロン、腹筋二〇回」

「そんな!」

「魔法戦闘でも走り回ったり飛んだり跳ねたりすることだってある。それにより素早く魔力を練るにも、魔法を放ち続けるためにも体力は必要だ。だから油断して負けたら腹筋と腕立て伏せ二〇回ずつすることにしようか。普通に負けたら必要の部屋内を全速力で一〇週すること」

 

 ハリーの言葉にDAメンバーが青ざめる。

 クィディッチ選手は練習の際にランニングをしたりするものの、そこまで積極的に運動している生徒がこの中にどれだけいるか。案の定文句を言おうとしたザカリアスが口を開く前に『突風呪文』で吹き飛ばし、敗北を与えてから全力ダッシュを言い渡す。

 哀れなザカリアスが生贄になったため、みな負けないようにと必死になって武装解除をかけあう。マグルのような訓練に不満そうな者もいたが、そんな彼らも敗北して走り回る羽目になったメンバーと一緒になって走りながらも汗ひとつかかないハリーを見て戦慄する。

 彼女の言い渡す訓練に意味はあるのだ、と思ったメンバーは素直にハリーブートキャンプをこなすことに専念する。汗だくになって多少におうようになれば必要の部屋が空気清浄を行って新鮮でさわやかな空気を作り出してくれるため、快適にヘトヘトになることができるのだった。

 

「はーい、疲れた人はこれ食べていいよー」

「……な、なにこれ。げほっ。レモンの、輪切り?」

「を、はちみつに漬けたもの。マグルの従兄がスポーツ選手でね、試合後はこれを大量に食べるんだ。どうも必要な栄養分を全部摂取できるらしいよ」

 

 必要以上を摂取しているためにダドリーが豚ちゃんなのは言わないでおく。

 仮にも美少女の手作りということで喜んだ野郎どもはともかく、女子生徒たちもありがたく甘酸っぱいレモンをいただいた。ハリーは男女分け隔てなく容赦なかったのだ。全員が肉体をいじめ抜かれたため、糖分と栄養を欲していた。

 加えて最初に敗北した大親友のロンをも容赦なくブートキャンプ送りにしたため、彼女が友情によって対応に差を出す女ではないこともDAメンバーはよくお分かりになったであろう。

 ヘトヘトに疲れて倒れ伏した面々の中で、最後まで負けずに残っていたハーマイオニーにはハリーが直々に模擬選を申し込むことで一人残らず叩き潰す。全員を走らせる気満々の所業に全員が獅子寮が才媛の無事を祈って十字を切るのだった。

 

「さて、今日はみんなよく運動したと思う。出来ない人もいた中、今日中に全員が武装解除を修得するなんて、実を言うと思ってなかった。ぼくは嬉しいよ」

「そりゃ死にたくないから必死にもなるさ」

「ザカリアス、今回は君に同意する」

 

 ここにいる全員より走り回り、かつ魔法も多く使っているというのにハリーには疲労の色があまり見られない。ルーナが「エウィプルング・フールの魔法薬を使ってるんだよ。パパが言ってたもン」と言う不思議な意見以外に、彼女の怪物的な体力の説明ができる人はいなかった。

 ロンとハーマイオニーは彼女の戦歴を知っているため、これくらいなければ生き抜けなかったのだろうと妙な納得をしてしまう。四年生のとき六校対抗試合で五人の英傑たちと渡り合った女の実力は、まだまだこんなもんじゃないのだ。

 朝六時から城の外をランニングしているから、体力作りしたい人は一緒に走ろうかとハリーは言い残す。その瞳はワインレッドではあるものの、きらきらと輝いていた。自分の培ってきた訓練が皆の役に立つことを実感できたのが、よほど嬉しいらしい。対するDAメンバーの眼は死んでいた。まだ走るんかい。

 汗だくで寮に戻れば不審がられるかもしれないと誰かが思ったのか、秘密の部屋の天井から程よい熱風が吹きつけてくる。汗を乾かした皆は、早くシャワーを浴びてベッドにもぐりこみたかったのだろう。次回のDAの際はちゃんと連絡手段を考えておくわとハーマイオニーが言ったのを皮切りに、たどたどしい足取りで解散してゆく。

 フレッドとジョージに調合してもらった『気配消失薬』を全員に飲ませて(フレッドが悪戯グッズをザカリアスに飲ませようとしたため阻止した)から、誰にも見つからないようにと細心の注意を払わせる。疲れ切っていようと、アンブリッジに見つかることを考えれば必要な措置であった。

 

「次は何を教えようかな。『失神呪文』とかいいと思うんだけど、どうだろう」

「ハリーあなた……だいぶ楽しんでるでしょう」

 

 出現した椅子に座って疲れを癒すハーマイオニーが、ハリーへ問いかける。

 それに振り返ったハリーは頬に手を当て、はにかんで言った。

 

「最高だね!」

 

 親友が元気になるのはいい。不満だらけの年だろうから、こうして解消してくれたのもいいことだ。可愛い親友が笑顔になるのはもっといい。

 だけどこれは正直どうなのだろう。

 彼女が今までこなしてきた過酷な訓練と、それを平然とこなす体力おばけっぷりを思い出す。ハーマイオニーは親友の将来を案じて、盛大な溜め息を吐いたのだった。

 




【変更点】
・ドラコの出番増量キャンペーン
・特に意地を張らずマクゴナガルへ罰則内容を伝えている
・占い学の授業を受けてる主要人物がいなかった
・原作ハリーと比べてドラコへの悪感情が極端に少ない


左様。私、映画不死鳥の騎士団における最高のシーンはスネイプ先生への査察シーンだと思うのです。ご覧の通り。ダンブルドア軍団の勉強会シーンもまた、小説も映画もすばらしいものだとおもいます。その楽しさを今作でも楽しんでいただければと。
そして五巻における最大のヒロインはアンブリッジであることをお忘れなく。んふふっ。


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5.ダンブルドア軍団

 

 

 

 ハリーはきらっきら輝く笑顔を浮かべていた。

 そしてその笑顔を真正面から浴びているロンは引きつった顔をして、直後、その顔のまま意識を失ってその場に崩れ落ちる。ハリーの放った『失神呪文』が命中したのだ。

 

「見ての通り、『失神呪文(ステューピファイ)』は気を失わせる呪文だ。魔法式は割と簡単。けど相手を失神させる原理としては魔力で打ちこんだ無意味なゴミ情報を相手の脳へ送り込んで処理能力をパンクさせるものだから、思ったより魔力を消費する。ここらへんは四年生以上なら知ってると思うね」

「先月習ったよ。相手が気絶するほど大量の情報を送るからだもンね」

「ありがとうルーナ、その通りだ。さて、今日はこれを完璧に使えるようにしよう。一応威力が弱くても気絶させるという結果は得られるけど、込める魔力量によってはこんなこともできる」

 

 四年生のコリン・クリービーが喜んで的になるというので、ハリーは遠慮なく多目に魔力を注いだ『失神呪文』を撃ちこんだ。

 コリンの腹に魔力反応光が直撃すると、彼は大きく吹き飛ばされて床を転がされる。ぴくりとも動かないのは別に死んでいるからではない。失神しているのだ。そのはずである。

 弟のデニス・クリービーがどこか幸せそうに白目をむいているであろう兄を回収しに走る姿を放置して、ハリーは解説する。

 

「この通り、対象を物理的に吹っ飛ばすこともできる。これは余剰魔力で物理的に押されてるからだね。攻撃的な魔法の多くは、こうして魔力を込めることで相手を吹っ飛ばすこともできるものが多い。相手と距離を取りたい時、攻撃力を高めたい時とかはこうしてみるといい」

「今日は見ての通り、『必要の部屋』中にクッションが敷いてあるわ。遠慮せず失神したり吹っ飛ばしたりしてちょうだい。『エネルベート』、活きよ。これは失神呪文に対する反対呪文ね。この呪文をかけることで無理やり起こすことができるわ」

 

 失神から目覚めたロンが首を振って、ハリーを恨めし気に見つめる。

 そんなハリーは現在、伊達メガネをくいっと上げてカッコつけているところだった。形から入るタイプらしい。ハーマイオニーが必死で止めた鬼教官スタイルの軍人コスプレよりはよほどマシだったので、大目に見ようとロンは決意した。

 

「ほら、ペアになって呪文をかけあって! ネビル、今日は違う人と組んでくれ。今回はぼくが見て回るからさ」

 

 寂しそうにしているネビルをジニーが誘ったのを見てから、ハリーは部屋の周囲を歩きはじめる。杖の振り方が雑なために失敗していたディーンに正しい振り方を教えたり、チョウが友人のマリエッタ・エッジコムに失敗した変な呪文をかけてしまったのを解呪したり、ふざけてザカリアスを失神させては覚醒させてを繰り返していたウィーズリーズを同じ目に合わせて注意したり、訓練そっちのけで写真を撮っていたクリービー兄弟に防衛術がどれほど大事かを懇々と説明(物理)したり、思っていた以上にやることはたくさんあった。

 手早くマスターしたハーマイオニーに手伝ってもらわないと、全然終わらない。

 失神呪文で一番手間取ったのはネビルとチョウだ。チョウは意外と呪文を行使するのが苦手らしく、今まで人間ほど大きな生き物を失神させることができた経験はなかったという。ネビルはやはり今までと同じくアガってしまったのが大きい。落ち着かせて集中させれば、見事にジニーを失神させることができた。

 前回練習した『盾の呪文』においてはハーマイオニーに次いで二番目に習得したほどであることからも、きっとこの面子でも上位に入れる実力は持っているはずなのだ。あとはもう少しリラックスする術を覚えた方がいいかもしれない。

 喜ぶネビルを労って、ハリーは一同へ顔を向ける。

 負けて部屋を走っていた連中も全員が集まってきたので、ハリーは口を開いた。

 

「うん、みんなだいたい『失神の呪文』は使えるようになったと思う。『武装解除』と『失神の呪文』、あとこの前覚えた『盾の呪文』は魔法戦闘で必須になるものだから、みんな個人でも練習しておいてね」

「個々人で練習する場合でもアンブリッジに見つからないようにしてね。読書……のフリをして、防衛術の本を読むのがベストよ。たとえばこう、読みたい本と《防衛術の理論》を重ねて、表紙を『ディフィンド』(こう)して『レパロ』(こう)。これで表紙だけアンブリッジの好きな本が出来上がりってわけ」

 

 このホグワーツではあまり見られないが、日本の魔法学校ではよく見られるやり口らしい。

 ユーコと手紙でやり取りしている際に彼女が、不知火魔法学校でもよくやったものだと言っていたのを思い出す。日本人がニンジャ・アンミツを得意としているのは、こうした学生時代からのシュギョームジョーのタマモノなのだろうなとハリーは思っている。

 彼女にも何かいい案はないかと普段文通している中で話題に出してはいるが、最近返事が遅い。日本クィディチは現在シーズンオフであるため、手紙を書く余裕はあるはずだ。若干の心配を感じるも、彼女は学生生活およびソウジローのハートを射止める作業に精を出しているはずなのだから、籠絡に忙しいのだろう。たぶん。

 それはさておき、次に皆に教える呪文を決めあぐねているのが現状だ。

 

「ねえハリー、『身体強化』は教えられないの?」

 

 ハリーの様子を見て察したのか、ジニーが次に身体教科呪文を教えてほしいと言う。

 それを聞いて賛成したのはこのDAメンバーのほとんどだ。ロンでさえ教えてほしそうにこちらを見ているが、ハーマイオニーやチョウなど一部のレイブンクロー生は何も言わない。

 

「悪いけど、『身体強化』は適性がないと習得しても無駄になる。適性があれば箒に乗ったみたいに動けるけど、適性に乏しい魔法使いがあれを使うとフロバーワームをファイアボルトに乗せて飛ばすようなもんだ。良くて死ぬ」

「良くて?」

「悪けりゃ自分のスピードで背骨を折って一生寝たきり」

 

 『身体強化』はそれほどまでに繊細な魔法である。なにせ自分の肉体を弄繰り回すような代物なのだから、適正のない人間にやらせるわけにはいかない。

 実をいうとハリーは自分の適性を調べずにこの呪文を習得した。もし適性がなければ、今頃は聖マンゴ病院の住人と化していたことだろう。無学であるゆえの罪であり、愚かしさだった。

 ファンタジーゲームにも頻繁に登場する『治癒呪文』だって現実であるこの魔法界では適性を要する。ハーマイオニーはこれが得意で散々世話になったが、ハリーが全力で治癒呪文を行使しても治癒度合いは彼女の半分にも及ばない。

 ではどうするかと思ったとき、ネビルが手を挙げた。

 

「はい、ミスター・ロングボトム」

「う、うん。……ハリー。僕、『守護霊の呪文』を覚えたい」

 

 ネビルの言葉に、ハリーはなるほどと考える。

 あれは便利だ。吸魂鬼に対する唯一といってもいい防衛手段になるし、ハリーにもまだ難しいことだが上達した術者ならば守護霊に伝言を持たせることすら可能になる。

 よしとつぶやいて、ハリーはネビルに微笑みかけてから言った。

 

「そうだな。なら、次は『守護霊術』を学ぶとしよう」

「「そうこなくっちゃ!」」

 

 ウィーズリーズが歓声を上げると同時、DAメンバーが沸き立つ。

 自分の守護霊がどんな形をしているのか。それはこの魔法の存在を知った魔法族の少年少女が、誰しも一度は空想する事柄だ。無論、ハリーとて例外ではない。バジリスク(ヘンリエッタ)の形をした守護霊だといいなぁなんて想っていたのはルーピンにすら言っていない、ハリーの小さな秘密だ。

 必要の部屋のすぐそばにもパイプが通っていると思われるため、ここで蛇語を用いればきっと彼女はやってくるだろう。今度お喋りするのもいいかもしれない。

 

「呪文も教えるついでに、実際にやってみせたほうがいいわね」

「オッケー、ハーマイオニー。『エクスペクトパトローナム』、守護霊よ来たれ!」

 

 ハリーはシリウスと一緒にご飯を食べて、転寝して、翌朝起きてくる寝坊助なおじさんへおはようと声をかけるといった幸せな日常を思い浮かべながら、杖に魔力を流し込んだ。

 すると杖先から白銀の靄が吹き出し、それは一瞬で収束して一頭の雌鹿に変化する。雌鹿でありながら牡鹿の立派な角を有し、尾の代わりに大蛇が蠢く合成獣(キメラ)のような守護霊。それは自身の出生を雄弁に物語った出で立ちであり、帝王復活の夜以来この守護霊を見ると、ハリーは少し複雑な気分になる。

 美しい守護霊の出現に、DAメンバーは歓声を上げた。早く自分たちも守護霊を出したくて仕方ないように杖を取り出す者がほとんどだ。

 O.W.L.レベルの魔法であるからして、習得難易度は相当に高い。ハリーには運よく高い適性があったため半年も経たずに習得することが出来た。この中のいったい何人が、このDA開催期間中に習得できるのか。

 ハリーはマクゴナガルたち教師の楽しみを、少しだけわかった気がした。

 

「じゃあやってみようか。自分が幸福だと思える記憶を魔法式に乗せるんだ。理屈じゃなくて感覚で、極限まで集中して。あとは、出来るという確信に疑問を持たないこと。HBの鉛筆をべきっとへし折るように、できて当然だと思うこと。さあ、はじめ!」

 

 各々が杖を振って、呪文を叫ぶ。

 一度目で出来た者は、当然ながらいなかった。

 若干落ち込んだ空気になってしまい、慌ててハーマイオニーがフォローする。曰く、過去より連綿と語り継がれる偉大な魔法使いだって最初は失敗ばかりの時もあった。貴方たちはその第一歩を歩んでいるときである、というもの。

 その言葉にハリーは感心した。

 確かに強力な魔法使いでも、所詮は人間なのだ。現代最強とされるダンブルドアとて、ヴォルデモートの作り出した人形であるハリーへある種の恐怖を抱いてあまり接触しないようにしていた。他にも闇祓いのウィンバリーが守護霊呪文を苦手としているし、トンクスは生活向きの呪文が壊滅的だ。身近な例ではシリウスがいる。魔法戦士としては優秀だろうが、ひとりの男性としては若干だらしなさすぎる。 

 みんな、素晴らしい一面もあればダメダメな一面だってあるのだ。

 ちなみにハリーにも苦手なものはある。戦闘魔法においては出自からして才能の塊であるが、トンクスと同じく生活用呪文は苦手だし、三年生から学んでいる古代ルーン文字学におけるルーン魔術の習得だって未だにできていない。

 

「ハリーだって守護霊の創造に一ヶ月は要したわ。それも無形。じゃあ私たちは彼女を超えるつもりで、さっさと成功させちゃいましょう!」

 

 ハーマイオニーの言葉に、スーザン・ボーンズやアーニーが腰を抜かしそうな声を出した。闇祓いの若手最優秀と言われるトンクスでさえ習得に半年は要した魔法を、ひと月。それ以上の速度で習得してしまおうというのだ。

 数年かけて守護霊を会得したらしいハワードが聞いたら泣きそうな気がする。

 その後も時間ぎりぎりになるまで練習し、驚くべきことにハーマイオニーが杖先から蛇口から漏れる水滴のような微々たる量ではあるが、無形守護霊を成功させた。ハリーは泣きそうだった。

 よもや練習し始めて一日目でその才能の片鱗を見せるなどとは思わず、ハーマイオニーの嬉しそうな悲鳴に驚いたメンバーは心から彼女の偉業を祝福し、そして同時に嫉妬と対抗心を燃やしてより練習に励むことになる。

 練習を終えて体をクールダウンする時間になってもハリーにコツを聞きにくる者が多かったので、ハリーは早くシリウスから防衛術に役立つ本が欲しかった。もちろん原本は自分が使うが、『双子の呪文』で増やしてDAメンバーにも読んでもらうつもりだったのだ。

 解散間際になって、ハーマイオニーが持ってきた麻袋からガリオン金貨を取り出す。

 何をする気なのかと思って見ていると、なんとそれをメンバー全員に配り始めたではないか。随分と気前のいいことだ。もしくは賄賂のつもりなのだろうか。大喜びする男子勢と訝しげにハーマイオニーを見つめる女子勢を前に、彼女は口を開いた。

 

「その金貨は偽物よ。お店で使えば金銭偽造の騒ぎでとっつかまるわ」

「ハーマイオニー……規則破りが楽しいからって、ついにそこまで手を」

「ンンッ! いまは真面目なお話なの。黙っていてくださるかしら、ミスター?」

「あ、はい」

 

 ハーマイオニーにキツく睨み付けられてロンが委縮する。

 引っ込んだ彼を見て満足そうに頷いたハーマイオニーは、一枚の金貨を麻袋から取り出す。見れば、それ一枚だけ模様が随分と違った。というか硬化に刻まれているのはダンブルドアの横顔だ。

 杖で指し示し、ハーマイオニーは言う。

 

「みんな、各々手に持った偽金貨の製造年月日を見てちょうだい」

「あら? これ今日の日付になってるわ」

 

 パーバティの言葉を聞いて、ハリーも確かめてみる。確かに一九九五年の一〇月五日になっているではないか。ハーマイオニーが杖でダンブルドア金貨を叩くと、自動的にハリーたちの金貨も日付が変更される。今度は一週間後の十二日だ。

 これが何という魔法か、ハリーは知らない。しかし魔法式を視てみれば恐ろしく複雑で、見ているだけで頭の痛くなりそうなこんがらがったプログラミングがされていた。おそらくこの中でもハーマイオニーしか扱えないだろう。

 別にこの中でハリーが最優秀の魔女というわけではない。知識量ならハーマイオニーがはるかに上だし、戦略眼ではロンが断トツだ。発想力ではフレッドジョージリーの三人組であるし、洞察力で言えばジニーが一番であり、この中で飛びぬけて優しいのはネビルだ。

 たまたまハリーが一番戦闘経験が豊富で、咄嗟の機転が利く女だったというだけ。そして製造時点で、ジェームズやヴォルデモートの才能が遺伝(ただしくは遺伝とは言えないけれども)して、戦闘に最適な素質があっただけ。

 だからハリーは彼女が恐るべき上級魔法を操ることに驚きはすれど不思議には思わず、そして親友の素晴らしさを皆が知ることを心の底から喜べるのだ。

 

「すっごいですねこの魔法……O.W.L.あなた将来、魔法省に入る気ありません?」

いけ好かないガーゴイル女(アンブリッジ)がいるうちは無理ね」

「……アー、そうでしたね」

 

 スーザンとハーマイオニーが談笑している中、DAメンバーたちがざわざわと騒ぎだした。

 特にザカリアスなんかはお約束のように文句をこぼし、ハリーよりハーマイオニーを講師にしたほうがいいのではと言う始末だ。それを聞きとがめたフレッドがザカリアスに絡み、ここにいるハッフルパフ生の全員が一斉にハリーへ襲いかかったとして指一本触れることさえできないだろうなどと言い出す。

 それに怒って反論したザカリアスはハッフルパフの五年生たちへ声をかけるも、アーニーもジャスティンもハンナもスーザンも、誰もが反応しなかった。仲間が一人もいないことに焦ったザカリアスがハリーの方をバッと振り返れば、その視線に気づいたハリーがにっこりと微笑んだ。

 顔を青くして身を縮こまらせるザカリアスを見て、フレッドはハリーへ賞賛のウィンクを送る。合図が送られてきたからといって、悪乗りしすぎたかもしれない。あとでザカリアスには何かしておいてやろう。

 本日は解散。

 DAメンバーも皆、この勉強会を楽しんでくれているようでハリーとしては嬉しかった。

 なんとなくではあるが、自分が必要とされているような気がして肩の荷が軽くなり、気持ちがとても楽になる。アンブリッジなんかに負けないぞという強い気持ちが、心まで晴れやかにしてくれるようだった。

 

「クィディッチ! ハリー、クィディッチだ! クィディッチだぞ!」

 

 真紅のクィディッチローブを着込んだアンジェリーナが息巻いて言う。

 なんだかんだで忘れかけていたが、今年からオリバー・ウッドがいないのだ。彼は一昨年を最後にホグワーツを卒業してしまった。去年もいたような気がするが、たぶん気のせいだろう。それほど彼のキャラは強かった。

 問題は彼が去ったことによるキーパーの不足だ。最初の試合は経験者である四年生のビガースタッフに助っ人として出てもらって騙し騙しやりすごしたものの、ハリーがさっさとスニッチを捕まえていなかったら大差で負けていただろうほどにはザル防御であった。やはりウッドとビガースタッフでは、同じ役者(キーパー)でも実力が違いすぎたのだ。

 三週間後の第二試合までには、早急に新キーパーが必要だった。

 

「というわけでクィディッチ選手の選抜試験をやることになった! クィディッチ希望者は今日の放課後までにクィディッチで私のところへ来な! クィディッチ!」

 

 アンジェリーナが朝早くの獅子寮談話室でそう叫び、足音高く去ったのはグリフィンドール寮のみならず他寮の生徒ですら知っていることだ。まるでウッドの生霊が憑りついたかのような勢いに、ハリーはうんざりした。

 興奮しすぎたウッドによって命と貞操の危機を感じたことは一度ではない。本物は今頃プロチームでクィディッチクィディッチ叫んでいるはずなので、あそこでクィディッチクィディッチ叫んでいる女性はアンジェリーナで間違いない。

 キーパーの希望者は全部で四人。

 前回の試合で九〇失点というお見事な活躍をしてチームから白い目で見られたビガースタッフ。僕にキーパーをやらせれば上下左右に出る者はいないと豪語するチョ・イヤーク。既に自分が選ばれたものと思っているのか苦笑いするハリーへキーパーの講釈を垂れているマクラーゲン。

 そして最後に、覆面を被って顔を隠したひょろっとした背の高い赤毛の男子生徒。

 

「というかロンだろう。きみ何やってんだ」

「アイタッ! ハリーなんで脛蹴った!?」

 

 髪の毛ごと覆面を掴んで顔を寄せる。

 びくびくする彼はなんというか、いつもと違って妙に貧相に見えてしまう。緊張のあまり手の平の汗が尋常じゃないことになっており、頻繁にローブで汗をぬぐっている。

 ぼく本当にこんな男の子が好きだったんだっけとハリーが思ってしまうほど、情けない顔をしているロンがそこにいた。

 

「もし君が照れくさいから顔を隠しているんだったら、やめたほうがいい」

「やめてくれハリー!」

「正体がバレバレでむしろ恥ずかしいことこの上ないし、それにビーター二人組が気付かないふりをしてブラッジャーを君へブチ当てる相談をしている」

「ありがとうハリー!」

 

 覆面をはぎ取ったロンの姿を見て、アンジェリーナも納得したらしい。

 箒はどうしたのかと思って聞いてみれば、なんと監督生となったご褒美にモリーが奮発してくれたらしい。若干お安めではあるが、コメットシリーズはイイ箒だ。決して悪い選択ではないし、キーパーをするなら小回りの利くコメットはむしろナイスな判断だったと言えるだろう。

 ハリーはこのクィディッチチームが一度解散して、そしてアンジェリーナの奮闘によって再結成したその一部始終には関わっていない。実は解散していたという事実を知らされて驚いたほどなのだ。

 アンブリッジが生徒によるあらゆる組織を禁じて彼女の認めた集団以外は許可しないという教育令を発令したのは、記憶に新しい。その中にはDAはもちろん、クィディッチチームまで含まれていたのである。

 それをアンジェリーナがクィディッチクィディッチ叫び続けたおかげで、意地悪する快感とまとわりつかれる鬱陶しさを天秤にかけたアンブリッジから許可をもぎ取ったのだ。あの女の上を行く鬱陶しさとはいったい如何様なものだったのか。いったいどれほどウザかったのか、ハリーの興味は尽きない。

 閑話休題。ともあれクィディッチができるようになったハリーたちは、キーパーの選別が急務であった。そのテストをすることになったのだが、これがまた曲者揃い。

 自分の方がふさわしいと互いの自慢争いを始めたイヤークとマクラーゲンに、別映画の収録があるからと意味不明な言い訳をして去って行ったビガースタッフ。おろおろするばかりで何もできないロン。ハッキリ言って今日中にキーパーの選抜をするのは無理な話である。

 本日は練習をするのみで、キーパー候補生たちはその見学ということになる。マクラーゲンがここはこうすべきだと野次を飛ばして集中できなかったこともあって散々な練習になった。

 チェイサー三人娘と一緒に練習終わりのシャワー室で汗を流しながら話し合う。あの中で期待できる男はいるのかどうか、だ。

 満場一致でウッドを呼び戻す方が早いのではないだろうかという結論に至った。親友としての贔屓目でロンを推してやりたいところだが、如何せん彼の意外なアガリ症が判明してしまったことで選手としてはどうかという考えになってしまったのだ。無論、人格面ではあの中では一番マシである。しかし、スポーツとは人柄だけで勝てるほど優しくも甘くもない世界なのだ。

 杖先から熱風を吐き出してアリシアに頭を乾かしてもらいながら、ハリーは嘆息する。

 何事もうまくいくとは限らないものだ。

 

「ハリー、いいものを見つけたの」

「いいもの?」

「防衛術についての手記よ。ハリー、今からDAを始めるわ」

 

 練習を終えて談話室へ戻れば、興奮した様子のハーマイオニーが話しかけてくる。

 ハーマイオニーがダンブルドア金貨を杖で叩くと、刻印された日付がかちゃりと変わった。同時にハリーの持つ偽金貨が、じんわりと解る程度に熱を持つ。これで次回のDA開催日時が決められたことを知らせるのだろう。

 相変わらず物凄い魔女だとハリーは親友を感心半分、呆れ半分で見つめた。

 必要の部屋へ集まったDAメンバーは、ハーマイオニーを前に全員がそろっている。必要だと思われた黒板が天井からロープでぶらぶらとつりさげられる。ハーマイオニーが杖を振れば、チョークが勝手に動き出して文字を綴る。

 書き記されたのは『光の魔術』の文字だった。

 

「……光の魔術?」

「そうよ。私さっきまで禁書の棚でDAに使えそうな本がないか見繕ってたんだけど」

「いまさらりと校則違反がバラされたな」

「流石だぜ、我らが才媛ハーマイオニー」

「うるさいわよフレッド、ジョージ。この手記は禁書の棚に紛れ込んでいた一冊なの。ホグワーツの貸し出し図書の全てにかけられてる保護魔法がかかっていない以上、これは二〇年くらい前の生徒が書いて勝手に棚へ突っ込んだものに違いないわ」

 

 光の魔術カッコいいポーズ! と叫びながら空中へ跳び上がって奇天烈な決めポーズするフレッドとジョージを放っておいて、ハーマイオニーはチョークを動かす。

 どうやら手記に書かれている呪文を書き連ねているようだ。その中にはハリーの知っている呪文もいくつかそろっている。『武装解除術』に『治癒魔法』、『盾の呪文』や『守護霊魔法』、ハリーお得意の『身体強化呪文』まで書かれている。

 一番最後に『固有魔法』と書いて、ハーマイオニーはチョークを休ませた。

 およそ十の呪文が書かれており、DAでも教えたことのある呪文がその大半を占めている。

 

「この手記の著者である《純血王》によると、」

「なんだそのエラソーでアホそーな名前は」

「うるさいわねロン。筆者の純血王とやらが言うには、闇の魔術の対になるモノとして挙げられる魔法が、これら光の魔術になるそうよ。もちろん鵜呑みにせずに私自身でも調べてみたわ」

 

 ハーマイオニーが杖を一振りすると、純血王の手記が浮かび上がってばらばらとページが開かれた。目当てのページが開かれると、必要の部屋の機能が働いたのかそのページが大きくズームされたかのように巨大化して見える。

 書かれているのは複数の魔法式だ。ハリーにも見覚えのある代物が書かれているが、おそらくこの場の誰もが知らないであろう呪文の魔法式。なぜこんなものが書かれているのか。

 

「えーっと、ハーマイオニー? それは何の魔法式ですか?」

「『死の呪文』だ」

 

 アーニーからの問いに答えたのはハリーだ。

 その唇からこぼれた言葉に、DAメンバーがぎょっとして振り返る。『死の呪文』とは言わずもがな、許されざる呪文のひとつだ。闇の魔術の筆頭としてよく知られており、暗黒時代にはこの呪文によって数多くの魔法族たちが苦しめられた。

 一体なぜそのような唾棄すべき魔法の魔法式を書いているのかという不審そうな顔が向けられるも、ハーマイオニーはそれを気にせずその下へさらに魔法式を書く。今度は『武装解除術』である。

 

「ほら見て、エーテルから魔力を吸い上げる機構が同じなの」

「本当だ。式に同じ部分がある」

 

 魔法式とは、魔法を使う際の詳細を示した設計図のようなものだ。

 誰もが知っての通り、魔力は体内を流れる血液の中に潜んでいる。魔力の詰まった血液、つまりエーテルだ。魔法を使う際には、そのエーテルから魔力のみを抜き出して体内を巡らせる必要がある。そして術者の集中力や想像力といったイメージの力で練りあげ、形のないエネルギーに方向性を持たせる。そして杖を通して魔法式で固定した魔力を放出し、その魔力が空気に触れて魔法反応を示しすと発光、魔力反応光として目に映ることとなる。その反応光が着弾した対象へ使用者の魔力が浸透し、そして目当ての魔法効果を及ぼす。

 魔法とは当然ながら理論や理屈を駆使して人が扱う()()である以上、どこか中身が似通った代物が出来上がるのは自明の理である。よってこういった、魔法式の一部が同じ魔法というのはいくらか見つけることができるのだ。

 

「ちょ、ちょっと待って。じゃあなんで光の魔術なんだ? 『武装解除術』と『死の呪文』の魔法式の一部が同じなら、それは闇の魔術ってことじゃないのか?」

「決してそういうわけじゃないわ、ロン。同じ根を張る生き物ってカテゴリーでは植物全般が同じ扱いをされるけど、でもかぼちゃとマンドレイクじゃ根本的に別物でしょ。そういうイメージで捉えてくれればいいわ。源流を同じくしても、呪文に至るまでの過程が全くの別物なのよ」

 

 そして何より、とハーマイオニーは杖を振るう。

 両者の魔法式において同じ部分に赤い丸が描かれる。そこはイメージの力で練り上げる、魔力鍛造部分の式だった。他の部分は似ていても、似ても似つかない。

 ヴォルデモートの扱った『死の呪文』は彼独自の術式が組み込まれており、アルファベットのみならずヒラガナやらカンジといった他国の言語が入り乱れた意味不明極まる代物であったが、本来の『死の呪文』は大分簡素極まるものだ。

 しかしこのDAメンバーにおいて『死の呪文』を撃てる者は、おそらくハリーのみ。『守護霊呪文』や『身体強化呪文』も高い水準での術者の適性を要するが、『死の呪文』が要求してくる素質はそれ以上。他者を苦しめ、死に至らしめたいと心底から願うクズのような悪党のみが、この魔の技に愛されるといってもいいだろう。

 そこで両者の最たる違いは、魔法へ込める感情。魔法は理論的な技術でありながら、しかし術者のイメージや感情といったものでだいぶ左右される。『死の呪文』は相手の死と苦悩を願う漆黒の意志が必要だが、武装解除にはそれらは必要ない。込める感情によって、効果も多少変動する。

 相手を傷つけずにただ武装を解きたいという気持ちを込めて放てば、杖だけが吹き飛ばされる。相手をねじ伏せやっつけてやりたいと願えば、余剰魔力で体ごと吹き飛ぶ。もし純粋な慈愛の心を籠めて放てば、ひょっとすると敵愾心や対抗心といった心を静めておだやかにするだけで済んでしまうかもしれない。

 これら『光の魔術』は、そういった込める心によってさまざまな顔を見せる無色の魔法ばかりである。ハーマイオニーはそう言った。

 

「話を戻すわ。この光の呪文たちは、闇の魔術に対する防衛術の名を関するにふさわしい魔法の数々なの。悪を憎み、平和を願い、愛を謳うような魔法使いが扱う『光の魔術』こそ、闇の魔法使いに対する最大の対抗策になると思うの」

「要するに、奴らに対する有効な武器になるってことでいいんだね、ハーマイオニー」

「……身も蓋もないけど、まぁそういうことよ」

 

 ハリーの締めくくった物騒な言葉によって、ハーマイオニーは不満そうな顔になるも肯定した。こうなると他の魔法を覚えるより先に、この光の魔法を会得した方が速いかもしれない。

 彼女たちにとって助かるのは、この『光の魔術』には基本的なモノが多いことだ。

 『治癒魔法』と『身体強化魔法』は素質が必要だから会得できる人だけ学べばいい。そうなるとやはり『守護霊魔法』を重点的に教えた方がいいかもしれない。ある程度の素質は要すれど、才能がないと習得できない類の魔法ではないからだ。

 そう思ってメモ用紙にその旨を書いている途中で、ハリーはふと疑問に思ってハーマイオニーへ問いを投げた。

 

「ところでハーマイオニー。最後の『固有魔法』ってのは何?」

「ああ、それ? 手記には『術者の持つ個々の魂が放つ魔法』って書いてあるのよ。魔法式も途中までしか書いてないけど、これは使う魔法使いによって効果が変わるタイプの魔法ね。正直、会得する意義は薄いと思うわ」

 

 聞けば聞くほど胡散臭い。

 しかし純血王とやら『光の魔法』として羅列した以上は、闇の輩に対する有効な手段であることは間違いない。目配せすると、やれやれといった様子ながらハーマイオニーは頷いてくれた。彼女の知識ならば詳細まで調べることも不可能ではあるまい。

 ハリーもシリウスや闇祓い達に聞いて調べてみよう。

 そう決めれば、あとはDAの続きだ。今日は何人が成功の兆しを見せることやら。

 

「さて、今日は守護霊の続きだ。驚くべきことにフレッドとジョージが『まね妖怪』をトロフィー室のクローゼットごと拉致して連れてきた。変身したボガートを敵に見立ててやってみようか」

「えっ」

「不満かいアーニー。実戦に勝る効率のいい経験値の積み方はないと思うね、ぼくの実体験からして。さぁみんな並んで! ちゃっちゃと習得して、強くなってしまおう!」

 

 

 全身が蕩けてしまいそうに甘い夢だ。

 自分が自分でないような気さえする。

 熱い吐息を漏らしてぐったりと眠る。

 体の力が抜けるほどに甘い夢だった。

 

 

「罰則ですミス・ポッター」

「……今度は何が理由ですか? アンブリッジ先生」

「質問は手を挙げてから、ミス・ポッター。ンフッ」

 

 ハリーが素早く手を挙げるも、アンブリッジは目にゴミが入ったようで何も見ていなかった。聞こえよがしに舌打ちしてやりたくなるものの、首を振るハーマイオニーの姿を見て我慢する。

 いまならヴォルデモートも賞賛するような『磔の呪文』を使える自信がある。ぼく不機嫌ですと言外に物語る雰囲気を漂わせながら、ハリーはフロバーワームの糞にも劣る闇の魔術の防衛術をやり過ごすのだった。

 

『なに? また罰則か。今度の理由は何だ? 空が青いからか?』

「カエルの考えることはわからん」

『その意気だ、我が娘よ。罰則はいつだ?』

「今週末の金曜の夜」

『なら、この前あげた私の贈り物を身に着けているといい。きっと君は喜ぶだろう。私からの愛する家族へのプレゼントだと思ってくれ』

「ありがとう、シリウス。大事にするよ」

 

 『両面鏡』を使ってベッドの中でシリウスとの会話を楽しむ。

 笑顔の彼は、とてもハンサムで魅力的だ。若い頃の彼もいいが、いまのひげを蓄えた彼もハリーの好みである。まるで恋する乙女のようだと自分の考えに苦笑いしながら、ハリーは家族との会話に夢中になった。

 声が大きかったのだろう、隣のベッドからハーマイオニーが小声で注意してくるまでお喋りに夢中になってしまう。反省するべきだ。最近、彼女に注意されることが多い気がする。

 

 

 舌が溶けてしまいそうに甘い夢だ。

 嬉しそうな声を漏らしてハリーは唇を舐めた。

 はしたないとはわかっているが、この衝動を抑えることはできない。

 お腹の奥底が熱くなって、狂おしく求めているのが自分でも分かる。

 こんな気分になるのは生まれて初めてだろうと思う程に気持ちいい。

 自分の手が熱く燃え上がるような場所に触れ、大きな声が跳ね上がった。

 思わず羞恥に頬を染めるも、――――はハリーの頬を優しく撫でる。

 その手は氷の如く冷えており、目を細めるほどたまらなく心地よい。

 冷たい手は次第にハリーの肉体を伝い、優しくも乱暴に求めてくる。

 高揚した気分が肌を赤く染め、吐息を漏らす。

 脳がほぐれてしまうほど甘い夢だ。

 

 

 アンブリッジが嬉々としてハリーに羽根ペンを持たせてくる。

 哀しいことに、金曜日はグリフィンドールチームのキーパーを決める大事な試験があった。あれから参加人数はまた三人増えて、ロンの合格はだいぶ怪しくなっているらしい。

 緊張のあまり吐き出しそうなロン坊やの背中を撫でさすり、景気付けに頬へキスをくれてやる。悪ノリしたフレッドとジョージからも熱いベーゼをちょうだいしたロンは、緊張などどこ吹く風のようにぷりぷり怒ってクィディッチピッチへと去って行った。

 あれならきっと大丈夫だろうと苦笑いしながら後をついて行ったハーマイオニーに任せて、ハリーは憂鬱な罰則を受けることになる。

 羽根ペンでカリカリと書けば、自分の胸に文字が刻まれる。これセクハラじゃないのか?

 

「もっと深く、しっかりと覚えるほどに書きなさいね。ミス・ポッター。ぐげげっ」

 

 ブラウスにじわりと血がにじむ。

 痛みに顔をしかめて胸元を抑えると、こつりと指に固いものが当たった。

 そういえば胸ポケットには大事にしている『両面鏡』が入れてあったはず。そこでハリーは、シリウスからもらった魔法具の存在を思い出した。確か右ポケットに入れておいたはずだ。

 アンブリッジが紅茶をすすって(不思議なことに舌は伸びていなかった)いる隙を見計らって、ローブの右ポケットに入れておいたはずのそれを手に取ってみる。出てきたのは犬の肉球を模ったシールだった。パッドフットの洒落だろう、思わずハリーの頬が緩む。

 ちらっと刻まれた魔法式を視てみれば、どうやら自分の肌に貼り付けて使うものらしい。カエルの眼を盗んで、ハリーはそのシールをスカートの内側で隠れるよう太腿に貼り付けた。

 途端、頭の中でわふんとシリウスの鳴き声が聞こえてきたのは間違いなくジョークだろう。ハリーは笑いをこらえるのに必死で、アンブリッジに見つからないように肩を震わせる。

 

「どうしました、ミス・ポッター。どこか痛むの? ん? んんん?」

「……いえ、なんでもありません。アンブリッジ先生」

「よろしいですわぁん。ふほっ、ノォホホホ」

 

 自らの髪をかきあげ、優雅なつもりでただ下品なだけの醜態をさらすアンブリッジの声のおかげでハリーは冷静さを取り戻した。楽しい気分を一瞬で萎ませる才能は吸魂鬼にも劣らないだろう。

 忸怩たる思いを隠しつつ、ハリーは再び羊皮紙に『私は嘘をついてはいけない』と書いた。するとハリーの胸を、羽ペンでくすぐるような感触が走る。

 何かと思いブラウスを引っ張って見てみれば、その膨らみには何の傷もついていなかった。

 たまにはこういうこともあるのだろうと思ってもう一度書いてみると、またもふわふわした羽根のような触感を胸に感じる。

 

「ゲコォ」

「……は?」

 

 不意に踏みつぶしたカエルのような声が聞こえてきたものだから驚いて顔を上げれば、アンブリッジが自分の顔を覆っているところだった。ようやく自分の醜さに気付いたかと内心で嘲笑して、ふとそれが違うことに気付いた。

 どうやらアンブリッジは苦しんでいるらしい。何かの持病かもしれない。ハリーはそれが不治の病でなおかつ三日以内で死に至る類のものであることに期待を寄せた。気にするだけ精神力の無駄遣いであると断じたハリーは再度カリカリと羽根ペンを走らせたところ、ついにカエルが絶叫の悲鳴をあげる。

 さすがに仰天したハリーが顔をあげれば、そこには血だらけの顔を抑えたアンブリッジがこちらを困惑と恐怖に歪んだ目で凝視している。その顔には横一文字に、『私は嘘をついてはいけない(I must not tell lies.)』と刻まれているではないか。

 先ほどハリーの胸に刻まれた文字と、一寸違わず同じ。より正確に言えば、いまハリーが羊皮紙に書いた文章と同じ筆跡であった。ハリーがつい「t」の字を長く書くいつもの癖もしっかり再現されている。

 よもやこれがシリウスの贈ってきたプレゼントの効果なのだろうか。

 ばっちりアンブリッジと目が合い、ハリーは首を傾げる。ガマガエルの目が困惑に揺れた。

 

「わたしは――嘘を――ついては――いけない」

 

 ハリーが一言一言区切りながら、つい力を入れて反省文を書き連ねる。

 それに連動して、より深く、じっくりと、アンブリッジの顔面が素敵に執刀されていく。

 たぶん先ほどよりはよっぽど人間らしくなったのではなかろうか。

 アンブリッジはまたも奇声を発して顔を抑え、自分の真っ赤に染まった手を見て再度悲鳴を上げる。杖を振って亜空間から手鏡を取り出すと、自分の醜い顔に驚いたのかはわからないがまたも悲鳴を上げた。

 

「い、痛い……? な、な、な、……これは、いったい……痛い……?」

「私は嘘をついてはいけない」

「あぎゃあ! い、痛い!? なぜわたくしにこの傷が刻ま」

「私は嘘をついてはいけない、あーマジ私は嘘をついてはいけない」

「れているのォーッ!? な、なにが起きているんですの!? こ、これはァーッ!?」

 

 だくだくと血を流すアンブリッジを見て、ハリーはシリウスの魔法具がどのような効果を持つかを理解した。ごくごく簡単に言ってしまえば単純に呪い返しの魔法がかかっているのだ。

 特筆すべきはその効力がひどく強力であるということか。

 日本魔法における概念として、悪意を以ってかけた呪いを破られると呪詛を放った術者に返ってくるというものがある。ハリー達が扱う西洋魔術とだいぶ異なる思想を基礎とする魔法ではあるが、この魔法式はおそらくそれを西洋式にアレンジした上で踏襲しているのだろう。

 手を止めてと言われたハリーは、アンブリッジを見上げる。さも「ぼく何が起きているのかさっぱりわからないよぅ」と言わんばかりに可愛い子ぶって首を傾げておいた。

 

「きょ、今日はもういいでしょう。帰ってよろしい。はよ帰れ」

「……あ、窓の外にヴォルデモートが」

「いあ?」

「しまった、嘘をついてはいけないんだった。ヴォルたんマジ復活。おっと、もう一回」

「アギャーッ! み、ミス・ポッ痛ァい! 何が起きているの!? あぁああ――ッ!」

 

 ハリーはシリウスに感謝を捧げた。

 どうやら体調をおかしくしたらしいアンブリッジが保健室へ行くとのことで、罰則は終わりだ。まったくもって心配である。ハリーはお大事に、と言うことにした。

 あの嫌味な魔法生物に一矢報いたことで上機嫌になって寮へ戻るハリーは、はたと気付く。

 こんなことをして大丈夫なんだろうか……。

 何が起きているかわからない様子だったことを思い返し、あのガマガエルがハリーの仕業であることに気づかないようにと何処かにおわす神へ祈りをささげたのだった。

 

 

 狂おしいほどに甘い夢を見ている。

 口の中いっぱいに広がる、苦くも濃厚な味がたまらない。

 ひとたび吸い付けば、芳醇で生臭い匂いが喉へと落ちる。

 

【ああ……。もう、もうだめ。だめだよ……】

 

 いまほど自分の欲望を自覚したことはない。こんな感覚は初めてだ。

 自分のお腹が火傷しそうなほどの熱をもって、全身が火照ってしまう。

 甘い吐息をこぼし、鼻にかかった声が漏れる。とろんとした目が彼を映す。

 幻影の彼ではなく、本物が欲しくて欲しくてたまらない。はしたなくも甘美な想い。

 全ての体裁や貞淑を振り払ってでも、彼の胸の中へ飛び込んでキスしたい。

 ああ、お腹が減った。お腹にいっぱい欲しい。これでは耐え切れない。

 熱くもどかしい感情を止める術なんて知らない。止める気さえない。

 

【もう、もう我慢なんてできないよぉ……っ】

 

 この快楽を忘れることなど、まず自分では不可能だろう。

 自分が自分でないような、甲高い声が喉の奥から漏れた。

 気がふれそうな甘い夢を見ていた。

 

 

 

 ハリーは上機嫌で廊下を歩いていた。

 これでDAも何度目だろうか。アンブリッジを出し抜いてこうして継続できているというのは、実に幸運なことだ。とてもスカッとする。

 ニコニコ笑顔で必要の部屋の前を通り過ぎ、他の生徒の姿がないことを確認してから杖を振って微弱な魔力をソナー目的で放つ。跳ね返ってきた魔力波に、他魔力の反応はない。少なくとも魔法族、または魔法のかかった代物が近くにないことを確認した。

 そうして用心に用心を重ねて必要の部屋へ入ったハリーは、そこでとんでもないモノを視た。

 

「うわっ!? なんだこれ!?」

「あ、ハリー。来てくれたのね」

 

 素っ頓狂な声を聴いて振り向いたのはチョウだった。

 ハリーの眼の先にあるのは、全身が墨で塗りつぶされたかのように黒く染まったナニカ。人型をして癖のある長い髪がゆらゆらと揺れているあたり、人間の女子生徒だろうことはわかる。

 だが分かるのはそこまでだ。両目にあたる部分が真っ赤に光り輝いている以外は、何ものかもわからない。魔眼を用いて視てみれば、その全身がひとつの魔法式でぐるぐる巻きにされているように視えた。ダドリーがプレイしていたテレビゲームを思い出す。まるで魔法式で構成したポリゴンのようだ。

 困惑しつつも、あれが魔法生物ではなく人間であることを確信する。

 周囲に害を及ぼす闇の代物ではなさそうだが……まるで意味が分からない。

 

『あらハリー』

「うおっ、喋った」

『私よ、ハリー。ハーマイオニーよ』

 

 酷くエコーのかかった声で語りかけてきたそれは、自身をハーマイオニーだと言う。

 ハッキリ言ってまったく信じられない。しかし周囲の人間は特に反応を示さない上に、この真っ黒な何かが嘘をつく必要もない。目を凝らしてしっかり視てみれば、確かにハーマイオニーっぽいといえばハーマイオニーっぽい。しかしなまじ魔眼なんかを持っているため、うっかりするとダークマイオニーが英数字だらけに視えてしまうのだ。だいぶ眼によろしくない。

 水滴を振り払う犬のように首を振ると、ふわふわの栗毛が色を取り戻す。すると墨色一色だった彼女の身体から、溶け落ちるように黒が引いて色が戻った。これでようやくハーマイオニーの姿が見えてきた。

 たぶん、変身術ではないはずだ。そういった魔法式ではなかったはず。しかし変身以外で身体全体が変質する魔法など、少なくともハリーは知らない。

 

「ハリー、これは『固有魔法』よ」

「……これが?」

「そう。あなたを待つついでに、暇つぶしのつもりでやってみたんだけれど。でもやって正解ね、これは思ったより面白い魔法かもしれないわ」

 

 全身が真っ黒になる魔法の何が面白いのか、ハリーには理解できなかった。

 視てとった魔法式からも、これがどういった魔法なのかを読み取ることはできなかった。ハーマイオニーが説明してくれるのを待っているが、しかし彼女は杖を持って言う。

 

「これはきっと、文字通りに固有の魔法を得る魔法なのよ。だから使う術者によって効果が様変わりする。攻撃的な魔法かもしれないし、役に立たない魔法かもしれない」

「……えっと、なるほど? それでハーマイオニーの場合は何だったんだ?」

「たぶん、話すより実際に試した方が早いわ」

 

 そう言ったハーマイオニーは、ハリーに杖を構えるよう促す。模擬戦の形で教えてくれるらしい。どうやら彼女の固有魔法は戦闘向きであったようで、ハリーは少しうれしくなった。

 普通に考えれば、彼女の魔法を見るのがこの模擬戦の目的であるため、まずは彼女が動くまで待つしかないだろう。だが知ったことではない。それは発動する前にやられる方が悪いのだ。

 杖を顔の前で構えて、お辞儀。互いに数メートル離れてから向かい合った。

 ハリーは左手を前に掲げて狙いを定め、頭上に掲げた杖腕でスナップが利くよう優しく杖を持つ構えを取る。一方ハーマイオニーはフェンシング選手のように杖を握った杖腕を突き出して、左腕はバランスを取る舵のように肩のあたりまで上げる構えだ。

 両者ともに互いに杖を向け、合図などなくとも同時に声を張り上げた。

 

「『エクスペリアームス』、武器よ去れ!」

「『カレス・エイス・ケルサス』、神秘よ!」

 

 呪文の発動や射出は、当然のようにハリーが先だった。

 しかしハーマイオニーが呪文を唱え終えた直後、彼女を構成する全身の色が一瞬で黒く染まる。全身の色がまるで卵の殻のように弾け飛んだハーマイオニーは、もはや赤い双眸を輝かせる怪物にしか見えない。

 彼女の杖から魔力反応光は出ていない。ハリーの放った魔力反応光は限界まで軽量化してあるため、一度ハーマイオニーの体勢を崩してから二度目の本命を放つつもりなのだ。

 着弾。次弾に用いる魔力はすでに練り終えている。これで仕留めてやろう。

 そう思って杖を振るおうとしたハリーは、しかし目の前に迫る赤い閃光を目視してぎょっとする。その場へ無様に転がって回避することを選択。おそらく正体は武装解除術だ。

 自分の直感を信じて手のひらを床へ押し付け、勢いと筋力を以ってしてその場から飛び跳ねる。嫌な予感通りに、直前までハリーがいた地点へ反応光が着弾した。

 無言で網目状に編んだ『盾の呪文』を唱え、その盾には『停止呪文』の魔方式を組み込む。ロックハート大先生の独自な盾の呪文を参考にした代物である。形状を円形に整えて高速回転させることで、接触面積を増やして射出系の魔法に対する絶対的な防御壁を形成。

 これで射出系の魔法を散らし、いったん体勢を整える必要がある。

 

「え?」

 

 しかしハリーは本日最大の驚愕を味わう。

 まるで指揮者のように杖を振るうハーマイオニーの全身から、大量の魔力反応光が飛び出してきたからだ。紅い閃光の『武装解除術』である。その数は両手の指では足りない、ざっと見て二〇数本ほどだろうか。杖先からではなく、その黒い肉体から射出されているのが視えた。

 即座に高速回転する網目状の停止盾をドーナツ状に変形させ、一方向だけでなく三六〇度に対応させる。ぎゅるぎゅると空気を切り裂いて自身の周囲を回転する停止盾は、ハーマイオニーの放った無数の魔力反応光のすべてを引き裂く。

 

「ちょっ、……え、ぇえ?」

 

 数々の死闘を経て鍛えられた動体視力を以ってしてハリーが視たのは、散らされた魔力反応光が床に飛び散った際、魔法式が再構成されて別の呪文へと変化した瞬間だった。

 ハリーが散らした魔力が着弾した床からは、闇色をしたハーマイオニーの細い杖腕が生えていた。その数は先の『武装解除術』の約半数。恐らく『双子の呪文』と『寄生呪文』を混ぜてひとつにしたような代物だろう。先の固有呪文も杖先以外から魔法を放っていたことから、お手々たちが杖を持っておらずとも関係あるまい。

 確かに構成式は似通っているが……。よもやそんな離れ業を、模擬戦とはいえ実際の戦いの中でやってのけるとは。驚いたどころではなく、ハリーは戦闘中であるにも関わらず呆けるほどに驚愕していた。

 そんな隙をハーマイオニーが逃すわけもない。

 床から生えたハーマイオニーズのうち三本ほどが鎖に変じた『拘束呪文』を唱え、ハリーの周囲で回転し続ける格子状停止盾の回転を力尽くで鈍らせる。その動きが止まった盾に腕の一本が停止呪文を叩き込み、ハリーの防御を剥がす。それに気づいた時には、すでにチェックメイトが打たれていた。

 自分の肉体を影に『変身』させて高速で床を這ってきたハーマイオニーが、ハリーの股を抜けて背後で実体化し、いつでも射出できるほどに練り切った魔力をまとわせた杖先を、うなじに向けて押し付けていたのだ。

 引き攣った笑みを浮かべたままのハリーは、降参の意味を込めて手に持った杖を床におろしたのだった。

 

「なんだ今の」

「さっぱりわからん」

 

 フレッドとジョージが囁いた声は、この必要の部屋においてハーマイオニー以外の全員が思っていることだろう。実際に対峙したハリーでさえ、よくわかっていない。

 固有呪文を終えて色を取り戻したハーマイオニーは、すっかりあがってしまった息を整えながら、シャワーを浴びた直後にすら見える滝のような汗を袖で拭きながら言った。

 

「これが、私の……固有魔法よ、ハリー」

「……アー……、うん。まさかとは思うけど、もしかして君の固有性は……」

 

 あきれたような感心したような声を出すハリーに、ハーマイオニーは頷く。

 自分の考えが正しかったことを本人から証明されたハリーは、天を仰いだ。自分の数年の死闘と訓練の結果を、ハーマイオニーはあっさりとひっくり返してしまった。

 おそらくDA中最高峰だと思われていたハリーがあっさり敗北したことに、ほかのDAメンバーたちがざわめく。

 そりゃまぁ、あんなの見たら騒ぐわな。

 

「ね、ねえハリー」

「ああ、君は今のを見てわからなかったんだね。説明するよロン」

「ありがとうハリー。なんかすごい馬鹿にされた気がするよ」

 

 ロンの不満そうな顔を放っておいて、ハリーは杖を振るう。

 分かりやすくイラストを使って、今さっきのやり取りを黒板に書いてゆく。

 妙に可愛らしい絵であることにパーバティやチョウがくすくす笑いの発作を起こしたが、そんな病人どもにハリーは構わない。可愛いと思うんだけど。不満を呑み込んで、ハリーは説明を開始した。

 

「まぁまず最初にハーマイオニーがとった構えだね」

「杖の構え方なんて関係あるのか?」

 

 ハリーが黒板を杖で叩くと、イラストマイオニーが杖を構えた。それに対して不満そうな態度を隠しもしない

 ここ最近になって気付いたが、ザカリアスがいちいち噛みついてくれると授業が進めやすい。皆が疑問に思っても口に出さないようなことをわざわざ言ってくれるのだ。

 ひょっとすると憎まれ役を買って出ている? いや、単に目立ちたいだけか?

 ともあれありがたいのは確かなので、その疑問に答えることにする。

 

「大違いだザカリアス。神代はともかく、古代や中世初期の魔法族は大きな杖を使っていたことは魔法史で習ってるね?」

「それ二年生で習うことだろ。ばかにするなよ。近代から現代の魔法族が使う杖は、驚くほど小型化している。かつて身の丈ほど大きな杖を使ってた魔法族は、魔法式を全部唱えることで魔法を発動していたんだ。いまは杖を振る動きでそれらを表現して省略する技術が完成しているから、そんな古臭い魔法を使ってる人は見たことがないね」

「そうだ、ザカリアス。ハッフルパフに五点あげたい」

「……ねえ本当にばかにしてない?」

 

 馬鹿になどしていない。

 ただでさえぞんざいに扱われる魔法史の中でも、最も興味を持たれない部分だ。魔法界の人々からすると既に使われていないやり方だからだろうが、マグル世界で育ったハリーとしては実に興味深い内容である。

 それに神代や古代の魔法使いは、魔法式を唱えているくせに現代人よりも詠唱が速かった大魔導士や賢者と呼ばれる怪物たちがいる。知っているだけで損ではないのだ。

 ついでに言うと、マッド‐アイ・ムーディの杖サイズは彼の身長と同程度。だというのに最高峰の闇祓いとされている……。これが何を指し示すか。それは弟子たるトンクスやハワードに加え、ハリーも身を以って知っていることだった。

 

「次にハーマイオニーが使ったのは、魔力反応光がないタイプの魔法だ」

「そんな魔法があるの?」

「あるとも。初日にぼくが使った『身体強化魔法』もそれさ」

 

 デニス・クリービーの質問に答えてやる。

 二年生ではまだ知らなくても仕方ないかもしれないが、これは闇の魔術に対する防衛術においてO.W.L.範囲の頻出問題だ。そこで首を傾げているロンやディーンはヤバいのではなかろうか。 

 魔力反応光が出ない魔法は、ほとんどの場合が自分自身へ効果を及ぼす魔法である。

 その魔法が作用しているか否かを見分ける場合は、だいたいは魔法が作用している生物の眼球に表れるのでそこを見れば一目瞭然だ。先のまっくろくろいおにーも、目だけが爛々と光り輝いていた。

 例外はハリーもあまり知らず、知っていてもブレオが使った幻惑魔法くらいだ。

 魔法をかける対象が離れた場所にいる相手ではなくゼロ距離にいる自分では、早撃ち対決で勝のは当然のことである。

 

「そしてハーマイオニーが発動した魔法が、」

「『固有魔法』よ」

 

 ハリーの言葉を引き継いで、今度はハーマイオニーが説明する。

 ひゅんと軽く杖を振れば黒板に魔法式が羅列した。ハリーも含め、DAメンバーがそろってメモを取っていく。異様に短い。最低限の内容にプラス一文しただけのように見える。

 その一文にしても、特別な意味は入っていない。『神のようだ(caelestis celsus)』という仰々しい一言だけだ。手記の著者である純血王とやらが創作した呪文ならば、なるほどその名の通り痛々しい傲慢さが垣間見える。

 だがその力は侮れない。身を以って知るハリーは、ハーマイオニーが続ける話へ耳を傾けた。

 

「この『固有魔法』は、なんていうかすごい変な魔法なの。術者の魂魄情報を読み取って、そこからひとつの魔法を編み出すみたいなのよ」

「なんだそりゃ。イメージの参照じゃなくて、魂の方を閲覧するの? そんなんだったら融通が利かないんじゃないの? あーっと、ほら。頑健な岩石のガガーリンっていたじゃん。そのナントカ理論」

「そこまで覚えてたのはご立派ですけど、頑固な学者のガーフィールドよ、ロン。それにナントカ理論じゃなくて、(soul)精神(spirt)と肉体(shell)のスリーエス理論。これって去年のO.W.L.にも出たのに、そんなんじゃまずいわよ」

 

 小さなトゲを刺されたロンが呻く姿を無視して、ハーマイオニーは解説を続ける。

 要するに魂を参照するとその魂魄情報が魔法式の空白部分に代入されるのだ。そうして完成した式は、なるほど独自の魔法になるだろう。同じ魂魄を持つ人間が生まれることなど、自然にはありえないのだから。

 

「でもロンの言うとおり。さっきの模擬戦を見ての通り、私の魂魄情報を参照しただけあって凄く私にぴったりな魔法だったわ。でも、それだけ融通が利かないのよ。変身術の物質変質理論を思い出してもらえればわかるかしら。あれと似たようなものよ」

「……もっと具体的な例を出してほしかったかな」

「んー、あれよ。ロンドンまで行くのに車で行くか飛行機で行くかの問題……じゃあ分からないわよね。ここから漏れ鍋まで行くのに、『姿現し』を使えば一瞬で到着するけど、箒で飛べばちょっと遅いけど寄り道もできるでしょ? 固有魔法は前者で他の魔法は後者。そういうことよ」

 

 求める結果のみを出すため、自由度が皆無といってもいいのだろう。シンプルすぎる式であるため、手を加える余地が全くないのだ。魂魄情報をいじることができれば話は別だが、廃人になりたくなければお勧めはしない。

 ハーマイオニーのもたらした情報に、ハリーは自らが廃人化する未来を回避することに決めた。魂魄情報っていじっちゃいけないものだったのか。

 

「ところでハーマイオニー、その魂魄情報っていじったらどうなるんだ?」

「自分を構成している設計図を書き換えるようなものね。いじったあと人間でいられる方が珍しいんじゃないかしら」

 

 いたずらの発想にならないかと興味を持って質問したジョージを、ハーマイオニーは冷たくあしらう。ジョージのにやにや笑顔が引きつった。ハリーの顔も同様である。

 そんなに重要なものをそうそう簡単にいじりまわせるものなのか、というハンナ・アボットからの質問にはノーが返された。自分の魂など普通の未成年魔法使いには認識することすら難しい領域だが、こと『固有呪文』に限っては別らしい。なにせ魔法式として扱うのだから、知らないまま使うことは不可能なのだ。

 

「話がそれたわね。私が使った『固有魔法』は、私の精神を分割する効果が出るの」

「は?」

「間抜けな声出さないでロン。魔法的人格を精製して、思考領域を分け与える……要するに二重人格みたいな状態を疑似的につくるのね。さっきハリーと対峙した時は二十五重人格ほどだったかしら」

 

 頭がおかしくなりそうな感覚の話である。

 彼女曰く、魔法制御のみを考える人格を二十ほど作り出し、ハーマイオニーともう一つの人格はそれらの思考の司令塔の役割を果たし、残る三つの人格をサポートに配当した。とのこと。

 もはや呆れ返るしかない。彼女の魂魄がそんな魔法を作り出したことも、そして複数の事を考えてそれらを制御できる彼女の頭の中身にも、なんていえばいいのか分からない。

 ただ一言だけ確かなことは、彼女が優秀すぎるということか。

 

「なるほどね。だからハリーに向かって複数の魔法を撃ちだして、しかもそれを全部制御できてたンだね」

「そうよ、ルーナ。だって私達は一人ひとつの呪文しか制御していないんだもの。だったらあとは簡単でしょ?」

 

 複数の魔法を操ったハーマイオニーは、動き回るハリーに対して最適な呪文がどれかを冷静な人格が決め、配下マイオニーたちへ指令を下した。その結果が、あれである。

 そう言って微笑むハーマイオニーに、ハリーは空恐ろしさを感じてしまう。

 ついでに言うと負けたのがとても悔しかった。この守護霊呪文の練習が終わり次第、固有魔法の練習に着手しようと決めるくらいには悔しかった。

 しかしハーマイオニーに、自分の適性を知ることがまず先決だということ。そして全員が間違いなく習得できるような魔法ではないので、練習するなら個人的にということを言われてしまう。

 新しい魔法の習得はいつもわくわくする。

 今後の楽しみが出来たな、とハリーは満足そうに笑うのだった。

 

 

 甘すぎる夢だ。

 唾液があふれて口の端から垂れ下がる。

 高く上ずった声が自分の喉から漏れ出てしまう。

 こんなにはしたない声を出したことなど、今までなかった。

 こうして夜になるたびに体が火照って、快感を得るなんてこと。

 恥ずかしさと気持ち良さが入り混じって、ハリーは思わず微笑んだ。

 これが大人になるってことなのかなと想い、くすくすと笑ってしまう。

 柔らかく、暖かい。指が浅く沈み込むのが心地よい。いつまでも触って――

 

「ハリー? ハリー、どうしたの?」

 

 

「……ねぇ、ちょっと。どうしたのハリー。その、アー……やめてくれない?」

 

 耳元で声をかけられ、ハリーはぱっと目を開いた。

 ふっと見上げてみれば、複雑そうな顔をしたハーマイオニーが頬を染めている姿が見える。

 なんで彼女がと思って見渡してみれば、そこは果たしていつもの寝室の中だった。ただし、正確に言うならばハリーのではなくハーマイオニーのベッドの中。十一月も終わりに近づいて随分と冷え込んできたから、彼女と一緒に寝ることにしたはずだ。

 ハーマイオニーが「ん」と顎で示した先を見れば、なるほど彼女の言葉に納得がいった。

 ハリーは彼女の胸を鷲掴みにしていたのだ。揉めばふにふにと弾力を返してくる、ささやかに膨らんだ適度に柔らかい果実。うん、実に魅力的だと思うよ。同性でもそう思うんだ、間違いない。自信を持っていい。

 

「ありがとう、ハリー。そう思うなら手を離してくれるかしら。私そっちのケはないの」

「ぼくにだって、そんなものあるもんか」

 

 パジャマ同士で寝ているため、互いの体温がよくわかる。

 暗くともハーマイオニーの顔が真っ赤であることもよくわかるくらい近いのだ。

 

「……信じてもいいのね、ハリー?」

「なんだよ。そりゃ寝ぼけておっぱい揉んだのは悪かったけどさ」

「でもあなた、すごい……その、えーっと……あの、うん。すごい声出してたわよ」

 

 そう言われて、今度はハリーの顔も赤く染まる。

 自分はどんな夢を見ていた? あまり覚えていないものの、ピンクな感じだったことは覚えている。いくら思春期とはいえ、まさか自分があんな夢を見ることになるとは。

 叫びだしそうになる衝動を抑え込み、ハリーは両手で自分の顔を覆った。

 様々な死闘を経験してきたが、生憎と恥ずかしすぎて死にそうになったのは初めてである。

 

「……その、なんだ」

「……なにかしら」

「…………忘れてくれハーマイオニー」

「…………そうするわ」

 

 気まずい思いを押し殺して、ハリーは自分のベッドへ戻る……ことはやめておいた。この寒い空気に身をさらすことはしたくない。

 ハーマイオニーが怪訝な顔をしたものの、布団をはがそうとしたらその理由を悟ったらしい。もう変ないたずらをしないことを約束し、再び二人は眠りの世界へと入り込むことにした。

 

 

 ――触っていられるような果実を食べてしまいたい衝動に駆られる。

 胸焼けするほどに甘ったるい匂いが鼻を突きぬけ、脳みそを焼き焦がした。

 体の奥から、下腹の奥から、脳の奥から、熱い血液が溢れ出すような感覚を味わう。

 これが快楽なのだろうと確信したハリーは、遠慮なく気持ちよさに身を投げ出した。

 妄想の中の彼が優しい手でハリーを撫でる。敏感な部分も無遠慮に撫でられて、ハリーは嬉しさのあまりにくすくすと笑ってしまった。きっと彼ならこうしてくれる。何も説明せずとも、ハリーも彼も解っている。判っているからこそ互いをむさぼり合いたいはずなのだ。その時がとてつもなく待ち遠しい。胸がどきどきと揺れて、ふわふわと夢心地なのだ。

 

【駄目だなぁ】

 

 頭の奥まで熱されていた気分が一気に沈み込む。

 綺麗などこかにいたはずが、ハリーは冷たい廊下を這っている。

 快楽と愉悦の世界に浸っていたというのに、とんだ邪魔が入った。

 ハリーは怯えたようにこちらを見る男に向かって、素早くとびかかりその首筋を捉えた。

 彼と違って苦くどろりとした液体がハリーの口に広がり、頭には不快感しか湧いてこない。

 まったく心地よくもおいしくもないそれを吐き捨てて、ハリーは倒れ伏した男を見下す。

 甘くもなんともない、泥みたいな夢だった。

 

【邪魔するなよ、ウィーズリー】

「ハリー? ハリー、どうしたの!?」

 

 

 耳元で聞かされるハーマイオニーの絶叫で、ハリーはまた目が覚めた。

 いや、違う。自分の喉からも似たような声は出ていたらしい。

 痛む喉を抑えながら、ハリーはハーマイオニーに縋り付いた。胃の中のモノを吐き戻してしまいそうだ。鉄臭い味が、いまでも口いっぱいに広がっている。とてつもなく気持ち悪い。

 捩じ切れそうな胸を押さえ、喉を焼く不快感をかきむしるように、ハリーは喘ぐ。

 

「は、マイ、オニー……」

「なに。どうしたのハリー。何かあったの」

「襲われた。夢なんかじゃない、あれは、あれは現実だ。視ていたんだ、目を通して」

「何に? 誰が襲われたの? それはだれ?」

 

 落ち着けせるように優しい声で、区切ってわかりやすく発音してくれるハーマイオニーの気遣いが有り難い。熱い吐息を漏らして、ハリーは夢の内容が目の前に再生されたような気分になる。

 球のような汗を流しながら、ハリーは思い返す。

 夢の中でハリーは、だれか素敵な人の愛を受けていたはずだ。そこへ急に現れた男が、激しく気に入らなかった。逢瀬を邪魔されれば、誰だって怒るだろう。

 ()()()()()()()()()()()ハリーは、歓迎されない乱入者へ裁きを下すことにした。すなわち死だ。

 目の前で赤い血を流して倒れ伏し、こちらを恐怖の目で見つめてくる禿頭の男。

 お茶目で、頼りになる、息子たちそっくりな赤毛が、さらにドス黒い赤に染まっていく。

 相手が誰であろうと、激しい怒りに襲われたハリーには関係なかった。

 

「ウィーズリーおじさんが、襲われた」

 

 たとえそれが、大切な知り合いであろうとも。

 ハリーは殺意を以ってして、親友の父親に襲いかかってしまったのだ。

 




【変更点】
・楽しいDA授業
・ほんの少しロンにもハード試験
・『光の魔術』とやらの存在
・シリウスの悪戯グッズでカエルを撃退
・ハーマイオニー強化フラグおっ立ち

楽しいDAとカエルに焦点を当てていくスタイル。
ラストに向けての準備期間的な意味合いが強い気がする五巻。やはり今作でも魔法省とのあれこれを何とかしたり、DAでハリー以外の友達も強化していく必要があります。いつまでたっても最終決戦でハリーを手伝えないマー髭な仲間たちのままでは、無理ゲーなので。
特に五巻のラストが! ああ、ああ! 窓に! お辞儀が!


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6.閉心術

 

 

 ハリーは走っていた。

 パジャマ姿のまま、ガウンを羽織ったハーマイオニーと共に廊下を走る。

 もしあの夢の内容が事実であれば一刻を争う事態だというのに、妙に時間が空いてしまったような気がする。具体的には数ヶ月くらい。ならば尚のこと急がなければならない。

 途中でほとんど首なしニックに見つかって苦言を呈されそうになったが、急ぎで校長の元へ行かなければならないと言えば素直に引き下がってくれた。夜道の護衛としてついてきたニックに別れを告げながら、ハリーたちは校長室の前で立ち止まる。

 しかしはたと気づけば、合言葉を知らない。どうせまたお菓子系だろうと思って適当な名前を叫ぶことにした。

 

「ゴキブリごそごそ豆板!」

『いきなりのチョイスがそれはどうかと思うぜ、リトルレディ』

 

 校長室の門番替わりをしているガーゴイル像に突っ込みを入れられ、ハリーは鬱陶しそうな顔をする。門番としての仕事を果たしているだけのガーゴイルは、そんなハリーたちの姿を見て、ため息を漏らす。

 息を切らすパジャマ姿の年頃の少女たち。就寝時ということもあって髪もぼさぼさだ。

 

『なんと、はしたない。寝間着とはいえ、せめて下着くらいはつけたらどうかね』

「だまれよ石ころ! はやくダンブルドアに会わないといけないんだ!」

「わしに逢うのはよいが、彼の言う通りじゃな。ハリーや、慎みを持つべきじゃ」

 

 苦言を呈したガーゴイル像へ噛みついたところ、背後からふわふわした上着がかけられる。

 声を聞けばだれだってわかる。ハリーは上着を抱きしめて胸を隠しながら、振り返って老人の目を見つめた。

 きらきらと輝くブルーの瞳は、ハリーの考えを見透かしているかのように校長室へ至る螺旋階段を出現させる。おいで、と無言で示した彼に、ハリーもハーマイオニーも倣って何もしゃべらずについて行くことにする。

 

「ハリーが夢を見ました」

「夢かの、ミス・グレンジャー」

「ええ。ロンのお父様……えっと、アーサー・ウィーズリー氏が襲われる夢を」

 

 ハーマイオニーの肩に抱かれるハリーは、普段の強気な態度は鳴りを潜めて青い顔をしている。ダンブルドアはその様子から、彼女に何が起きたかをだいたい察した。

 ハリーに向けて優しくおいでと声をかけ、その頭を優しく撫でる。されるがままのハリーは、ぽつぽつと話し始めた。

 

「最初から、変だったんだ」

「……続けて」

「最初は、変な夢を見ていた。なんていうか、ヘンな夢。でも、えっと、そっちじゃなくて。でもその変な夢にも何か混じってて。それで、別の夢を見た。それを見て、わかったんだ。ぼくは蛇だった」

 

 性的な内容を含む夢……淫夢を見ることくらい、思春期の男女ならば当然のことである。しかしハリーは、そのような夢を毎晩見せられていたという。明晰夢のように、これは夢だと突きつけられながら見た夢。そしてその中で自分が全く違う何かになっていたと。それが蛇だという。

 魔法学的側面から見ても、夢は未来を暗示する重要なものという説が重要視されている。占い学然り、魔法史然り、夢を題材にした授業は各授業でも聞いたことがある。それゆえマグル社会にて生まれ育ったハリーとハーマイオニーですら、魔力を多く有する魔法族が具体的な不吉な夢を見たことを危険視しているのだ。

 そしてそれは学者としても高名なダンブルドアにとっても、言わずもがなである。

 

「つまり、君は神の視点から夢を眺めていたのではなく、蛇の中に入っていたと」

「……そうなります」

「由々しき事態じゃ」

 

 ハリーの言葉を聞いたダンブルドアは、眉をしかめる。

 そして校長室の天井近くの壁にかけてある歴代校長の肖像画たちに向けて何らかの目配せをすると、幾人かの過去の校長たちがさっとその姿を消した。

 おそらくアーサーの助けを呼びに行ったのだろう。

 

「ともあれ、アーサーが襲われたことが事実ならば、事は一刻を争う」

「でもウィーズリーおじさんの場所がわからないです。それにおじさまのことなら、ロンたちウィーズリー兄妹を呼びに行かないと」

「ミス・グレンジャー。大丈夫、こちらがわかっておる。それにミスター・ウィーズリー達については心配無用じゃ」

 

 その一言で、おそらくアーサーが騎士団の任務についていたであろうことが察せられる。つまり襲われたところで文句の言えない場所にいたのかもしれない。そうなると敵はヴォルデモート一派以外にも考えられるが、しかし蛇を用いて殺害するなど彼以外には考えられない残忍さだ。他の可能性は考えなくてもいいだろう。

 気ばかりはやるハリーたちは、ばたばたという足音を聞いて振り返る。果たして螺旋階段を駆け上ってきたのは、燃えるような赤毛を有する兄弟たちだった。みながパジャマ姿であり、夢の中から飛び出してきた様相を呈している。ジニーに至ってはずいぶんと刺激的なネグリジェ姿のままだ。ぎょっとしたハーマイオニーが即座に上着を取り出し、彼女へと与える。

 

「ハリー、何があったの。先生はパパが襲われたって……」

「お父上は騎士団の任務中に怪我をされたのじゃ、ミス・ウィーズリー」

 

 泡を食ってハリーに問いかけるジニーの問いは、ダンブルドアが落ち着いた声で答えた。

 そしてまだ何か聞きたそうにするジニーが口を閉じたのは、彼らを連れてきたマクゴナガルが厳しい顔をしてダンブルドアへと何事かをささやきはじめたからだ。それを聞いて渋い顔をした彼は、そのまま机の上に置いてあるヤカンへと足を進めた。

 杖を取り出し何事かを呟くと、こつりとヤカンを小突く。魔法式はよくわからなかったが、複雑でありなおかつ空間関係のものが見れたため、おそらく移動キーの作成呪文だろう。

 

「今現在、煙突飛行粉(フルー・パウダー)は使うことが出来ん」

「なぜです、先生」

「『煙突網』に監視が入っておるからじゃ。移動キーに乗っておいき」

 

 どうやらウィーズリー氏は入院したようで、その搬入先へひとっ飛びさせるつもりではあったようだが、マクゴナガルの知らせは間違いなく監視のことだったのだろう。

 襲撃があったと知らせた直後にもう入院しているというのは、いかにも奇妙に過ぎる話ではある。しかしここは魔法界であるがゆえ、ハリーの知る常識は通用しないのだ。ダンブルドアの肩で唐突に炎が燃え盛り、金色の尾羽がひらりと舞い落ちる。それを見たダンブルドアは、ハリー達を急かすようにヤカンの前へ来るよう勧める。

 

「さあ、急いで。君たちがベッドを抜け出したことを、アンブリッジ先生が気づいたようじゃ。驚異的な速度でこちらへ這い寄っておる」

 

 銀のひげの奥から台詞が飛び出すと、フレッドとジョージが真っ先にヤカンへ飛びついた。

 早く行くようにと促されたハリーたちは、ウィーズリーズに続いてヤカンを掴む。全員がヤカンを掴んだ瞬間に周囲の景色が歪み始めた。ぐるぐるとへその裏をつかまれて振り回される感覚は、いつも胃の中のものを戻したくなるほどにひどい。昨年も味わった、空間移動の感覚。特にこの状況下において、ハリーは倒れこみそうなほどの吐き気を感じていた。

 ダンブルドアの青い瞳を見ているうちにぐるぐるとそれが視界いっぱいに広がり、さっと消え去ったかと思えば見覚えのある暗い色の壁紙が目に映る。グリモールドプレイスの、シリウスの家だ。

 まず最初に入ったのは醜い顔。以前この家に来た時にその存在を耳にしていた、老いたしもべ妖精だ。その暗い目でハリー達を見つめながら何事かをぶつぶつと呟いている。

 

「血を裏切る者共が戻ってきた……クリーチャーの仕事が増える。ああ、いやだいやだ……」

 

 しもべ妖精といえば、あの過激派ドビーの印象が強い。グリフィンドール女子寮の掃除を担当するヨーコとはよく会話をするが、よもや屋敷しもべにこのような暴言を吐かれるとは思わなかった。

 ハリーが困惑した顔をしている横で、今にも睨み殺さんばかりをしているロンの顔を見たクリーチャーという名らしきしもべ妖精は、嫌そうな顔をしてゆっくりと去ってゆく。しもべ妖精が扉を閉じて姿を消したのと、どたどたと階段を駆け下りてきたシリウスが別の扉から飛び込んできたのは、ほぼ同時だった。

 

「何があった。アーサーが怪我をしたと、フィニアス・ナイジェラスから聞いたが……おいジニー、ハーマイオニー。大丈夫か。ほら立ちなさい」

 

 やはり寝ていたらしいシリウスが、寝間着姿のままこちらへ駆け寄ってくる。

 ジーンズにタンクトップという刺激的な姿ではあるが、いまは照れるよりもやるべきことがある。倒れこんだジニーとハーマイオニーを助け起こしながら、ハリーは言う。

 

「夢を見た。幻みたいな、たぶん現実に起きたことを夢として見た」

 

 眉を寄せながらハリーの話を聞いているのは、シリウスだけではない。ウィーズリー兄妹もまたハリーの話に聞き入っていた。蛇の中からアーサーを噛んでしまったことについては、奇妙な罪悪感にかられながらもそのまま話す。性的な夢を見た部分については流石に省いたが、そのほかはすべて真実を伝える。

 噛みたいと、傷つけたいと思ってしまったのは事実だ。それで嫌われたり、妙な目で見られてしまってもそれは自分の自業自得である。話し終えたとき、ロンでさえもハリーを見つめてその視線を離さなかった。

 そんなはずはないのに、まるで非難されているかのような気がする。それでもハリーは顔を背けたりはしなかった。これは女の意地なのだ。

 

「すぐにでも行かなきゃ」

「聖マンゴ病院だろ? 着替えは僕たちが空間に入れてる」

「いや、待ってくれ」

 

 ジニーとジョージが言う言葉に、シリウスがストップをかける。

 鬱陶しそうな態度を隠しもしない兄妹たちに、シリウスは毅然とした態度で声をかける。

 

「まだ行くことはできない。君たちは、アーサーが襲われたことを知らないはずだ」

「どうして!? 僕たちの父親が死にかけているかもしれないのに!」

「遠く離れた場所の出来事を、直後に知っているのはそれを襲った者だけだ。まあアーサーが救助されている現在、いまは病院の者たちも知っているが」

「だったらなぜ!?」

「だからこそ、私たちが知っているはずがないということだ。まず真っ先に情報が来るのはモリーのはずなんだ、君たちのお母さんにして、アーサーの妻であるモリーのもとに……」

 

 逸るフレッド達を抑えようと声を荒げ始めたシリウスの元に、一通の手紙が出現した。炎と共に金の尾羽根も届いたことから、フォークスの仕業だろう。

 猫のように素早い動きでその手紙をシリウスからひったくったジニーが、乱暴にその封を開ける。フレッドとジョージ、ロンが駆け寄ってその手紙を覗き込んだ。全員が顔を強張らせたまま、その内容を吟味するかのように見つめ続ける。

 ジニーがその手紙を裏返した。何か追加の文章がないかと求めているようだったが、ハリーが見る限りそちらは白紙のままである。手紙の内容がこちらにも見えた。モリーの字で、お母さんが聖マンゴへ行くから連絡を待つようにと短い走り書きがあるだけだ。

 何かをシリウスに向かって言おうとしたのか、双子が詰め寄る。しかしそれはロンが手を前に出して制した。泣きそうな顔をしているくせに、強く首を振って二人の兄をたしなめている。

 それを見て、フレッドとジョージは無言で椅子へ座った。乱暴に腰を下ろすあまり、ぎしりと危険な音を立てる。ジニーは壁に背を預け、丸まって蹲ってしまう。ハリーもハーマイオニーも、ロンに声をかけることが出来なかった。ロン自身も二人へちらと視線を向けるだけで、力なく椅子に座って頭を抱えるのみだ。

 シリウスが食糧庫へ杖を振ってバタービールらしき瓶を七本呼び寄せて、それぞれの近くへ置いていく。やることが欲しかったハリーとハーマイオニーは、台所へ急いで全員分のコップを持ってきた。

 長い夜が、とろとろと流れてゆく。

 余所者である三人は一塊になって時を過ごした。途中で心配したシリウスが声をかけにいこうとしたが、それはハーマイオニーが止めた。どちらも嫌な思いをするだけだ。ウィーズリー兄妹たちも、時折時間を確認する程度の言葉しか交えない。

 時間の感覚が分からないままもう何日も経ったかのように思えた頃、白み始めた空を確認するかのようにハーマイオニーが見上げたそのとき、厨房の扉がパッと開く。

 

「確認してきた」

 

 いつになく強張った言葉でそう告げたのは、目つきの悪い茶髪の男。

 アーロン・ウィンバリーだ。目元に隈を作った彼は、椅子にどっかと座ると近くにあったロンの飲みかけのバタービールをひったくって一気に煽った。無精ひげについた泡を袖で拭いながら、全員が注目する中で言葉を続ける。

 

「いまアーサーは寝てる。いまはモリーが一緒にいる。無事だ、少なくとも命に別状はねえ」

 

 その言葉を聞いて、フレッドが両手で顔を覆った。ジョージがその肩を抱き、腰を浮かしていたロンがへにゃりと笑みを浮かべて座り込んだ。ジニーがウィンバリーへ飛びつき、その首へ抱き着いて鬱陶しそうに振り払われている様を見て、ハリーは心底安堵した溜息を吐き出した。

 彼らの様子を見たシリウスが、ぱっと笑顔に変わって叫ぶ。

 

「そうと決まれば朝ごはんだ! クリーチャー! 朝食を作れ! ああ、今すぐだ!」

 

 どたばたと走り回る皆を見て、ハリーは椅子に座ったまま様子を見守る。

 隣に座ったハーマイオニーがよかったわねと声をかけてくれるものの、それにあいまいな返事をすることしかできなかった。

 

「ハリエット。マーマレードとイチジクジャム。どっちがいい」

「シリウス」

 

 二つの小瓶を持ってハリーへ話しかけてきたシリウスへ、ハリーがひしと抱き着いた。

 勢い良く抱きしめられたシリウスは手に持ったそれをぶつけないように高く上げたが、小さく震えるハリーの様子に気づいて小瓶を棚の上に置いて、彼女の小さな体に腕を回す。

 饒舌に会話をするウィーズリー兄妹に気づかれないように、シリウスはハリーを食糧庫へと連れて行った。ハーマイオニーは心配そうに視線を送っていたものの、シリウスからのアイコンタクトで朝食の手伝いに戻ったようだ。クリーチャーの毒づく声が聞こえてくる。

 

「どうした、ハリエット」

「……性的な夢を見たんだ」

 

 先ほどの説明で言わなかったことを告白すると、一瞬だけシリウスが身じろぎした。しかしその動揺からはすぐに回復し、ハリーの頭を撫でる。無言で続きを促す彼に従い、ハリーは言葉を紡いだ。

 

「変な感じだったんだ。ぼくは夢の中で、まるで蛇になってて、それで発情期になったみたいな、そんな、奇妙な夢。欲望まみれで、はしたなくって、なんだろう、なんていうか、ぼくが、ぼくじゃないみたいな……」

「落ち着いて、ハリー」

 

 シリウスの低く心地よい声に包まれ、ハリーはその言葉を止める。

 ダンブルドアに話したかと問われてイエスを返せば、ならば心配することはないといわれてしまう。確かにダンブルドアならば何かしらの対応を見つけてくれるだろう。しかしそうではない、そういうことではないのだ。

 

「さあ、朝食を食べたら眠ろう。みんな一睡もしていない、アーサーを迎えに行くのはお昼ご飯を食べてからだな」

「……シリウス」

「ん。どうした、ハリエット?」

「……ううん、行こう」

 

 リビングに戻れば、クリーチャーが調理した立派な朝食が並んでいた。ハーマイオニーが不満そうな顔をしているあたり、結局手伝わせてはもらえなかったらしい。既に舌鼓を打っている彼らに交じって、シリウスは新たに椅子を呼び寄せるとハリーにそれを勧めた。

 ありがたく座らせてもらったハリーは、目の前の小皿にスライスしてトーストされたライ麦パンと、その上にベーコンエッグが滑り込まされる。悪戯心を起こしたフレッドが塩胡椒をたっぷり振りかけたそれを、ハリーは無言で口に入れた。

 それはとてもしょっぱく、とても辛かった。

 

 色々と考えすぎて眠れなかったハリーを除いた皆が昼過ぎに起きだした頃、ドアをぱっと開いて誰かが入ってくるのをハリーは横目で確認する。

 寝ぼけ眼でうとうとするハーマイオニーとジニーをくすくす笑っているのは、トンクスとハワードだった。女子三人は同じ部屋の同じベッドで横になっていたものの、結局ハリーは眠ることが出来なかった。それでいて全く眠くないため、闇祓い女子ふたりにおはようと声をかけて、寝間着から私服へと着替える。

 トンクスはいつものパンクなファッションに、ハワードはマキシスカートにふわふわした服装だった。ハリー自身も厚手のタイツをはくとショートパンツを身に着け、白いロゴマーク付きのノースリーブシャツを着て、その上にネイビーのコートを羽織った。

 

「ハリーは予言者の素質でもあるのかな」

「でもぉ、現在進行形の様子を見るなら遠見だと思いますよぅ」

 

 トンクスとハワードがお喋りしているその間に身だしなみを整えたハーマイオニーを連れ、リビングへと向かう。すでに全員が用意を終えているようだった。

 本来はトンクスとムーディの二人で来る予定だったそうだが、ロンドンの街中を歩く任務に対してマッド-アイ・ムーディは適任ではないとして、代わりにハワードをよこしたらしい。ムーディは闇祓いでも最強とされているが、この二人はその弟子であり年若くも優秀だ。トンクスは七変化による隠密のエキスパートであるし、ハワードに至っては半年もかけずに闇祓いの訓練課程を修了したという容姿に似合わぬ猛者である。

 マグル界の紙幣すら知らないウィーズリー兄妹を御することが、この年若く美しいふたりの女性の仕事だった。美人が凄めば、それだけ恐ろしいものだ。ふざけて駅員へ悪戯を仕掛けようとしたフレッドが大人しく座席に座っている姿を見れば、その威容は想像できよう。

 電車を降りれば、そこはロンドンの中心部である。まさかこんな、マグルの町のド真ん中に病院を建てたのかとハリーが内心で驚いていると、その様子に気づいたハワードが補足する。

 

「病院に向いた場所を探すのは苦労したらしいですよぅ。だって、魔法省みたいに地下にはできないでしょ?」

「……不健康的だから?」

「そう。太陽の光ってやっぱり重要なんですよねぇ。そこで、マグルの倒産した企業から格安で買い取ったこの廃ビルを改装して、使うことにしたみたいですぅ」

 

 辿りついたのは赤レンガの廃ビル。「改装のため閉店中」という張り紙が張られているが、数十年は放置されているであろうマネキンが寂し気にたたずんでいるあたり営業しているようには見えない。トンクスがマネキンに対して面会を求める旨を告げると、マネキンが頷いて手首から先が欠けた腕を振るうとガラスを歪ませる。周囲のマグルが気づいた様子がないのは、いつも通りだ。

 とぷんと溶け込むようにガラスの中へ飛び込めば、その向こうは白を基調とした清潔感のある空間が広がっていた。病院内が人でごった返しているのは、どうやら魔法界でも変わらないらしい。

 ハワードが急かすように歩き受付の方へと向かう。忙しそうにした受付では、どうやら取れてしまったらしい頭を抱えた魔法使いに対して案内魔女が説明に苦労していた。

 

「これどうしたらいいんでしょう……妻と喧嘩して、彼女の魔法が暴発してしまって……」

「アー、それは『呪文性損傷』になりますねー。ですので、五階に上がってから、右の通路を行って、奥の壁をー、くすぐった先にある部屋へ、行ってください」

 

 受付の魔女が気だるそうに返事をして、自分の頭を落とさぬよう注意深く歩く魔法使いが立ち去ってゆく。早く受付を済ませたいのだが、次はまた別の魔法使いだ。だいぶお年寄りのようで、ぷるぷると震えながら、しわがれすぎて英語かどうかすら怪しい唸り声で受け付け魔女へ問いかけている。

 

「ふごふご。だぁーびぁ。だぃー、せぎ。えーかーろびーぃーんごごごごご」

「アー、ちょっと待ってくださいね。『ウォークス』、透き通れ。ハイどうぞ」

「私はブロデリック・ボードへ面会をしに参った。お嬢さん、案内願いたい」

「んー、ァー。四十九号室ですー。まあ、会っても、無駄でしょーけどー」

 

 ぞんざいな対応を受けた老魔法使いは、文句も言わず震えながら同じ姿勢のままスライドして病室へと移動してゆく。奇妙な人ばかりだと思いながらも、ハーマイオニーが小突いてきたことでようやく自分たちの番が回ってきたことに気づいた。

 ウィーズリー兄弟に代わってハーマイオニーが受付へと応対する。面倒くさそうに顔を上げた魔女の姿を見て、ハーマイオニーの顔が一瞬だけ不愉快な色に染まったのをハリーは見逃さなかった。彼女の両親は歯医者であり、そして彼女は人の健康を守るその仕事に従事する両親を誇りに思っている。

 つまり、医療関係者であるにもかかわらず仕事にやる気がないことが許せないのだろう。

 しかしここで噛み付けば、それだけウィーズリー氏へ会う時間が遅くなる。怒りと文句をぐっと飲み込んで目当ての病室を問いかける彼女は、眼前の受付魔女よりよほど大人であった。

 

「アーサー・ウィーズリー氏の見舞いに来ました。番号を教えてください」

「アー、サー、ウィーズ、ルィー。……、……ああ。あったあった。二階、ダイ・ルウェリン病棟の、アー、五〇九八号室。……アー、そうだ。ゲストカードを持っていって下さいね」

 

 魔女へ怒りの視線を向ける時間も惜しく、ウィーズリー兄弟たちは一糸乱れぬ動きで受付カウンターに置かれていたカードを奪い取ると、足早に西側の階段へと歩みを進める。

 ハリーとハーマイオニーもまたゲストカードを手に取ると、彼らの後をついていった。ゲストカードは何かの魔法がかけられているのか、その内容がぼんやりとうごめいて『ハリエット、見舞い客』と文字を創り出した。ご丁寧に顔写真も掲載されているのは芸が細かい。

 部屋の前に到着すると、どうやら六人部屋らしい。名札にはO・ペッパー、B・ボード、A・アンダーソン、C・マコーマックと続き、そして空白の名札をはさんで、A・ウィーズリーとある。

 間違いない、ここがウィーズリー氏の入院している病室だ。

 

「「ああ、パパ!」」

「大丈夫なの!? ねえパパ大丈夫!?」

「私たちを置いていっちゃだめよパパ!」

 

 ウィーズリー兄妹の全員が病室へ飛び込み、同時に心配の叫びを上げる。

 凶悪な魔法生物に襲われたなど、どれほど手練れの魔法使いであろうとひとたまりもないことだからだ。特に魔法界で生まれ育ったウィーズリーズの四人は、幾度もそういう話を聞いているはず。命に別状はないとはいえ、最悪の結末すら予想していたことだろう。

 入院患者のうち誰かだろう、ヴィジュアル系な容姿の青年がハリーたちを見て目を丸くしている。しかしウィーズリー兄弟の赤毛を見て、同室であるウィーズリー氏の関係者だと気づいたのだろう。含み笑いをしながら顎でベッドを指し示した。

 

「青年へ礼を言う間もなく、僕たち兄妹は風よりも早くそのベッドへ駆け寄った。僕らの大切な父上よどうか無事でいてくれと願って」

「しかし、ベッドのカーテンを引きちぎるように開けたところ、僕たちが見たのはパパとママのディープキスシーンだったではないか」

「よもや末っ子の私より下が生まれることになるとは、このとき誰も思わなかったのである。私これトラウマになるんじゃないかしら」

 

 真顔でジョークを飛ばすフレッド、ジョージ、ジニーの三人が懇切丁寧に説明口調で解説してくれた通り、カーテンの向こうではウィーズリー夫妻が互いの愛を確かめている衝撃シーンであった。ベッドの上でなかったことが救いだろうか。

 顔を真っ赤にしてその場から離れたハリーとハーマイオニーは、息子たちに愛する旦那様とのキスシーンを見られたモリーの怒鳴り声を遠巻きに聞く。いつもおアツい夫婦だが、まぁ死んだかもしれないと聞かされた夫が無事だったならキスのひとつでもしたくなるだろう。仕方のないことなのだ。たぶん、きっと、めいびー。

 息子たちにからかわれたモリーは照れ隠しに怒鳴り、彼らを追い払う。同じく照れくさそうに笑うアーサーの様子を見るに、命に別状はなさそうだった。夫婦の愛を見せ付けられはしたものの、しかし彼の無事を知れたことには心底ほっとした。

 薄汚い考えかもしれないが、ハリーはたとえ夢の中で蛇になっていたとはいえ、親友たちの父親を襲ってしまったのだ。大体の予想はつく。ハリーの精神とヴォルデモートの精神が同一の源流を用いている以上、無理やり混線させることも(たとえ現代魔法学上は絶対に不可能であろうとも)ヴォルデモートならば可能だろう。それによって、ヴォルデモートがナギニと呼んでいた大蛇に意識を憑依した状態でハリーに『夢』として見せていたのだろう。

 だからハリーには、親友の父親を殺さずに済んだという仄暗い安堵を覚え、自分自身に嫌悪を抱いている。ハーマイオニーもそれを察しているのか、何もいわずハリーの肩をやさしく叩くだけだった。

 

「にしてもホントに心配かけやがって、おアツいハゲ親父め」

「まったくだぜあのハゲ親父。ママとお楽しみの最中とはね」

「二人とも髪の話はやめよう。息子の僕らも遺伝的に危ない」

「「あー、ハイやめ、やめやめ」」

「また髪の話してる……諦めなさいよウチの家系の男連中は」

 

 安堵したウィーズリーズが冗談を飛ばしあう声を聞きながら、ハリーは考える。

 ハリーは今回、大蛇の視点で一連の出来事を見ていた。それが何を意味するのか。

 もうこの際、夢なのに現実とリンクしていて、なおかつその光景をハリーが夢見で閲覧していたという不可思議な現象は、そういうこともあるのだろうとして片付けておく。だってよく知らないんだもの。ハリーは占い学を履修しておらず、そもそも『夢見る魔法学とその解釈』はホグワーツに通う年齢の魔法族が学ぶような学問ではない。あれはスネイプやマクゴナガルのように、一般的な魔法学を完璧に修めてなお難しいとされるレベルの分野だ。ハリーはもちろん、我らが才媛ハーマイオニーであろうと専門書を読むことすら無理じゃないかと思われる。

 ともあれ、今回のことは尋常でない出来事なのは間違いない。

 ハリーに必要なのは、スネイプの課外授業。つまるところ、『閉心術』の習得だ。

 

「……おんやぁ? こんなところに美少女が二人も!」

 

 陽気な声がかけられたせいで思考の海に腰まで浸かっていたハリーの精神が、急激に現実世界へと引き上げられる。ハーマイオニーが驚く声を聞きながら声の主へと目を向けて、ハリーは心底驚愕した。

 

「ろッ、ロックハート先生!」

「チッチッチ。YES、I、AM!」

 

 奇妙なポーズをとって格好つけるそのナイスガイは誰あろう、ハリーたちが二年生のときに闇の魔術に対する防衛術の教鞭をとっていたギルデロイ・ロックハートであった。

 自分の実力を理解せずあらゆる場面へでしゃばる目立ちたがり屋で、保身のために子供の記憶を消す手段を迷いなく選択できるくらいには薄汚れた心の持ち主。そして、かつて親友から受けた裏切りによって心を歪ませ、自らも親友と同じ道を歩んできた悲劇のハンサムである。

 現場にはいなかったものの、ハーマイオニーも彼の顛末とその仕業は聞いている。ハリー自身が忘却術をかけたせいで、彼の脳みそは純粋無垢な少年同然の状態になっていたはずだ。

 しかし足腰はしっかりとしており、目にも自分への自信にあふれた様子が見て取れる。聖マンゴへ入院するだろうなとは思っていたが、よもやまだ治療中とは。

 

「君たちも私のファンになったのかな?」

「いきなり何言ってんですかアンタ」

「ティンクルウィンクル、ギルデロイ。君の隣にギルデロイ。私のサインがご所望かい? それゆけ、ほれゆけ、くれてやる、私のサインをくれてやろう! ゥウルィッピィート・アァフターァン、ミーィイ? どうぞ!」

「ハーマイオニー、早急にナースコールしてくれ」

「ハリー、魔法族の病院にそんなものはないわ」

 

 奇妙なリズムで歌い始めたロックハートを前に、二人の少女はげんなりとする。

 どうも正気を取り戻した様子はなさそうだが、しかし普段からこんな感じだった気がしないでもない。ドルーブルの風船ガムの包み紙にさらさらとインクに浸していない羽ペンでサインを書き上げ、それをハリーへと手渡した。しっかりと彼女の手を包み込むように持っているあたり、以前のハンサムらしさが見え隠れ手しているようにも思う。

 ハリーは手をズボンで拭きながら、微妙な顔をした。

 確かに彼はハリーへ忘却術をかけようとした小悪党だったが、しかしこの記憶を失った状態に陥った原因の一端はハリーが担っているといってもいいようなものだ。仕方なかった状況とはいえ、こんなモノを生み出してしまった自分の業の深さに少し戸惑いの感情を抱いてしまう。

 

「ほらほらギルデロイ、病室を抜け出しちゃだめでしょう」

「えっ。私のサインがほしいって?」

 

 哀れなナマモノを眺めていると、中年の女性看護士がロックハートの両肩に手を置く。かけられた言葉に対して見当はずれな返事を返すも、看護士はにっこり笑って「そうねぇ」と適当に答えた。

 ハリーたちへ笑顔を向けると、彼女は心底うれしそうに言う。

 

「ありがとうねえ、お嬢ちゃんたち。この子、お見舞いに来てくれる人がいないのよ」

「…………そう、ですか」

 

 それはきっと、彼が己の書く小説のために人々の記憶を消して回っていたからかもしれない。もちろん実話と偽った冒険譚が作り話で、ロックハート自身が魔法戦士どころかスクイブ手前の落ちこぼれであったことがバレて、ファンが遠のいたということもあるだろう。しかし、親類縁者まで来ないとなれば、つまりはそういうことなのだろう。

 彼はいったい、何の妄執に取り憑かれてここまでして名誉を追い求めたのか。

 かける言葉が見つからない、哀れな男である。

 

「それじゃあねお嬢ちゃんたち。ほらギルデロイ、ご挨拶は?」

「私のサインは決してペンを止めず、跳ね払いを大げさに書くのがポイントだよ」

 

 そう言って離れていくロックハートを直視できず、ハーマイオニーは目をそらす。

 ハリーは空しい心を押し殺しながら、なんとなく声をかけておくことにした。

 

「……先生の『おいでおいで妖精と思い出傭兵』。ぼくは割と好きだよ」

 

 ロックハートが、おそらく実話を基に書いたであろう著書。

 おそらく彼なりの、親友への懺悔の気持ちだったのかもしれない。ハリーの言葉に対してロックハートはにっこりと微笑むだけで、何も言葉を返すことはなかった。

 彼は看護師に連れられてすぐ目の前に位置する同じく記憶を失った患者たちが寝泊りする病室へ入り、頭に大きな傷のある筋骨隆々な男と談笑し始める。会話内容が支離滅裂であるため、おそらく彼も記憶を失っているのだろう。記憶を失った人の病室なのかもしれない。

 今日はよく自分の罪を見せ付けられる日だ。ハーマイオニーが気にしないようにと肩に手を置いてくれたことに笑みを返しておいて、無地の人間たちを置いてハリーは病室を後にした。

 

 

 アーサーの退院はもう少し先になるということで、ハリー達はグリモールドプレイスでクリスマスを過ごしてから、ホグワーツに戻ることにした。

 いよいよ帰る段階になって寂しがったシリウスが不機嫌になってしまったが、そこはハリーがハグをして頬にキスをひとつ落とせばたちまち上機嫌になって送り出してくれるようになる。なんかチョロいぞ。シリウスの姿が見えなくなってからそう呟けば、ハーマイオニーにため息を吐かれた上にジニーに大笑いされてしまった。

 ホグワーツに戻れば、まずスネイプに頼み込んで『閉心術』の課外授業を再開する。

 嬉々としてハリーの心を抉ろうとしてくるスネイプもハリーのまじめな顔つきに何かを感じたのか、必要以上に煽ることはせず(それでも口癖のように嫌味は言われた)に時間が許す限りハリーへ開心術をかけることにしたようだ。

 スネイプが杖を構えて魔力を練り上げる。盾の呪文で防ごうと思えば防げる。しかしそれでは訓練の意味がないのだ。そこでハリーは杖をスネイプに預けて、自ら彼の魔法へ身をさらすことにした。渋面を作った彼の心境は知らないが、杖を携帯していないからといって手加減はしないだろう。スネイプはそういう男である。

 

「『レジリメンス』、開心せよ」

「――っぐ!」

 

 顔の正中線から本になってしまったかのように、自分の記憶が読み取られている感覚がする。今回見られているのは、クィディッチの記憶だ。箒をどのように動かせば効率よく動けるか、箒から振り落とされないための筋トレを皆で頑張って笑いあったこと、ウッドのしごきがキツくてチェイサー三人娘とシャワーを浴びながらでぺちゃくちゃ文句を言いあったり、ウィーズリーの双子がしかけた悪戯に引っかかり毛むくじゃらの脚が生えてわさわさ動くスニッチに気づいてあわてて投げ捨てたり、胸の成長に合わせて下着を新調する際にマダム・マルキンから「またかい?」と言われて恥ずかしかったこと。

 様々な記憶を覗かれる中、ハリーの精神は羞恥心に焦がされた。よもやバストのサイズまで事細かに覗くのではあるまいなと考えたのがいけなかった。スネイプは紳士……とはいえないかもしれないが、それでも立派な男性である。それに胸のサイズを知られるのは、いくら教師とはいえ思春期女子としては黒に近いダークネスブラックだ。

 否定、拒絶、嫌悪。それの感情をひとまとめにして、鉄檻で覆われたハートに鍵をかけ、赤い槍が格子状に突き刺さり、ハリーの心を閉じきった。これによって、ハリーの心はスネイプの干渉を断絶する。

 ばちん、と弾ける音とともに、スネイプの手から杖が天井へと舞い上がった。片方の眉をあげて感心したような不愉快そうな表情を浮かべたスネイプは、落ちてきた自分の杖をキャッチすると、息を切らして額の汗を拭うハリーへぶすっとした顔で声をかける。

 

「成功だ」

 

 それはよかったと言う余裕はハリーにない。

 心という、鍛えようにもその手段がわからない場所のトレーニングをしているのだ。こうして負荷をかけることが成長へつながるのだろうということすら、確信を持っているわけではない。

 

「っもう、もう一度、お願いします……」

「……、……そうか」

 

 続けて今の成功を完璧にものにするため、もう一度開心術をかけてもらうことにする。

 いやな顔をしたスネイプは「我輩とてポッター殿の記憶など、見たくて見ているわけではないのだが」といやみを言いつつも、杖を構えて魔力を練っている。ヴォルデモートの思うようにさせてたまるものか。その一心で、ハリーはスネイプの杖から放たれた魔力反応工を胸の中央で受け止めた。

 

「否定せよ、拒絶せよ……。我輩への、心を閉じるのだ……」

 

 ゆったりと呪文を唱えるように繰り返すスネイプの声を聞きながら、ハリーは己の心の中を暴かれる。心中の奥底へしまいこんだ秘密を覗かれる。

 ホグワーツ城を初めて見た感動。一年生の頃の、自分から人を遠ざけておきながら寂しいと感じてしまった空ろな気持ち。賢者の石の試練に打ち勝ち、ロンとハーマイオニーというかけがえのない親友を手に入れた幸福感。吸血鬼クィレルの哀れさと命がけの戦い。そして自分の運命を知ったこと。

 学校中の生徒に頭のおかしい殺人鬼だと疑われて、自分の心が思ったより堅牢ではないと思い知らされた二年生。大人も全員が立派な偉人などではなく、自分たちの延長線上の存在であることを刻み込んだハンサムガイ。秘密の部屋へ至る死闘、老いたヌンドゥやバジリスクとの戦い、そして復活したクィレルとの殺し合いと、復活を果たした若きヴォルデモート(トム・リドル)とジニーの命をめぐった争い。

 誤解ではあったがシリウスとのいざこざと身体的な成長で、自分が女性として成長してきたことを自覚した三年生の頃。闇祓いたちの戦いを見て、もっと上へと向上心を持ったこと。ワームテールという、許せない存在がいたこと。シリウスが自分の愛する家族になってくれたという幸せな思い出。

 様々な国からやってきた、新たな友人と鎬を削った四年生の六大魔法学校対抗試合。様々な試練と、それを乗り越える愉しみ。初めて本気でハーマイオニーと喧嘩したこと。そしてダンスパーティでロンと踊り、楽しい時間を過ごした。そしてロンと、そしてぼくは――

 

「――ッ、『プロテゴ』!」

「むっ」

 

 そこから先は、見せてやるわけにはいかない。自覚するわけにはいかないのだ。

 大声で盾の呪文を唱えたハリーは、自分の心へ干渉していたスネイプの力が弾け飛んだことを自覚する。いくらハリー相手でも彼は教師であり、こめる魔力には加減をしていたのだろう。よってファンブルした際に本気で弾いたハリーの魔力が逆流現象を起こし、スネイプの術式を通して彼の中へと流れ込んでしまう。

 要するに日本魔法風に言えば、呪い返しに似た状況へ陥ったのだ。

 

「……これ、は……」

 

 ハリーの頭の中に、見覚えのない光景が見えてくる。

 景色自体はよく見ている。いつだったかロンを武装解除で池へ突き落とした、ホグワーツの中庭だ。脂ぎった前髪を垂らして顔を隠すように、猫背の青年がひょこひょこと歩いている。

 鉤鼻に髪質、そして陰鬱な表情。間違いない、若かりし頃のセブルス・スネイプだ。

 そこでハリーは自分が、逆流現象によってスネイプを『開心』していることに気づいた。せっかくなのでこのまま流れに身を任せて見れるだけ見てしまおう。別に日頃の恨みとか、八つ当たり気味のストレス解消とか、スネイプの若い頃に興味があるとか言う浮ついた理由では断じてない。ありえない。清廉潔白である。

 いやしかし、まさかこんなレアモノが見れるとは思わなかった。目元のしわなどなく、青白いながらも肌にはつやと張りがある。目つきもスレ始めているものの、しかし若者特有の光が宿っていた。はっきり言って今とは別人と言ってもいい。……うむ。決してハンサムではないが、悪くない。思ったより悪くない。

 思春期の少女目線で勝手に品定めを終えると、スネイプの隣に彼と同じスリザリン生とレイブンクロー生が一人ずつやってきた。幼さから見て、おそらく後輩なのだろう。

 二人ともびっしりとメモの書き込まれた魔法薬学の教科書を開いており、スネイプに意見を求めているようだ。鬱陶しそうにしながらも、目つきの悪い長髪のレイブンクロー生が発した問いかけに素直に答えてやるあたり、スネイプも満更ではなさそうだ。艶やかな黒髪のスリザリン生が尊敬の目でスネイプを見ていることに気づいたのか、照れ隠しに鼻を鳴らしているあたり、可愛いところもあるじゃないか。

 ――どうしてあんな大人になってしまったのか。実にもったいない。

 

『よぅスニベルス、ボーイフレンドかい?』

 

 素直じゃないながらも楽しんでいるであろう彼にかけられた、嘲るような声。

 その声を聞いてスネイプと後輩二人の顔が曇った。特にレイブンクローの後輩は噛み付くような怖い顔をしている。その視線の先にいるのは、二人の青年だった。その顔を見て、ハリーは心臓を鷲掴みにされたような気分になる。

 艶やかな黒髪を流して、切れ長の瞳を愉しそうに細めるハンサムな青年。その隣には、つんつんと好き勝手に跳ねる黒髪と、丸眼鏡をかけたハシバミ色の瞳の青年。間違いない。ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックだ。

 にやにやと嫌な印象を受ける笑みを浮かべるジェームズの隣で、似たような笑みを浮かべるシリウス。生きた時代の彼らを見ることができるうれしさはあるものの、しかし何だか嫌な予感がする。

 

『黙れよポッター、ちょっかいかけてくるな』

『おいおい先輩に対してなんて態度だよ。お前に用はない』

 

 不愉快そうに食って掛かった茶髪のレイブンクロー生へ杖を向けると、ジェームズは躊躇なく武装解除の呪文を飛ばした。対抗してすばやく杖を抜き放ち盾の魔法を唱えたレイブンクロー生は、しかし魔法の展開速度を優先させたことで盾の強度が足りず、盾を魔力反応光に突き破られて直撃してしまう。きりもみ回転して吹っ飛んでいったレイブンクロー生を見送ったハリーは、父親の行ったことに対して愕然とした。

 なんだこいつ、なにやってんだ。

 友人が池へ突き落とされた光景を目の当たりにして、スリザリン後輩の少年が慌てて駆け寄ろうとする。しかしそれは若かりしシリウスが立ちふさがることで妨害した。よく見てみれば、この二人はかなり似ている。シリウスのほうがいくらかハンサムではあるが、少年の方も悪くはない。どちらかといえば可愛らしい顔立ちだ。

 その切れ長の瞳が、まったく同じ色に染まっている。憎しみと、嫌悪。そして妬みだ。

 

『おっと、どこ行くんだよ』

『っどけ……! 邪魔だよ、親不孝者……!』

『……へぇ、そういうこと言っちゃう』

 

 少年の言葉がシリウスの怒りに触れたのか、迷わず杖を取り出した彼は少年へ何がしかの呪いをかける。スリザリンの少年は反応すらできずに腹へ魔力反応光を受けてしまう。彼は苦悶の呻き声とともに膝を突くと、ゲーゲーとなめくじを吐き出し始めた。

 その姿を見て大笑いする周囲の生徒たち。若きシリウスが喝采を受けて嘲笑する顔がよく見える。しかし、彼の目だけが笑っていない。スリザリンの少年を本気で軽蔑しているようだ。

 それにしても、とハリーは周囲をつまらなそうに見遣る。

 まったくもって下らない光景である。ハリーは自分の父親のことを愛しているが、しかしこれはやりすぎだ。なるほど、スネイプが父親を超えて娘である自分までも嫌う気持ちもわかる気がする。

 スネイプも後輩二人にひどいことをされたからなのか、血色の悪い顔色を更にひどい色へ変えて、怒りの声を上げながら魔力を練る。その魔法式を視て、ハリーはギョッとした。『結膜炎の呪い』だ。いくら敵対していようが、同じ学校の生徒へ向けるような呪いではない。

 しかしその呪文は不発に終わった。ジェームズがすばやく杖を振るい、『武装解除』でスネイプを吹っ飛ばしたからだ。無様にごろごろと転がり、情けない悲鳴を上げるスネイプの姿はあまりにも惨めであった。

 

「……なんだよこれ」

 

 ハリーが呟く中、スネイプが空中でもがく。

 武装解除されて杖がその手にない以上、彼が何かをすることはできない。これではもはやただのイジメだ。先ほど軽率に記憶を見続けようと思った自分を恥じた。どちらにしろ、開心術とは気持ちのいいものではないらしい。

 ジェームズがスネイプのズボンをずり下ろして晒し者にしようとしたとき、女子生徒の甲高い声が中庭に響き渡った。

 

『やめなさいよ! 『フィニート』!』

 

 停止呪文によってスネイプの浮遊が終わり、彼が尻から地面へと落とされた。痛みに呻いた若きスネイプの向こう、杖を振り回しながらツカツカと歩み寄ってくる女子生徒が怒りの声をあげている。

 その顔を見て、ハリーはハッとした。セミロングに伸ばした緋色のさらさらした髪の毛、形のよい眉毛。鼻の形も毎朝鏡で見ている。そしてアーモンド形の目には、かつてのハリーと同じくエメラルドグリーンの瞳。

 髪色とヘアスタイル、そして瞳の色さえ隠してしまえば体型や制服の着方までを含めて、ハリーとそっくりな外見の少女がそこにいた。ハリーはうるさい自分の胸を押さえて少女を見遣る。

 

『リ、リリー……』

『ポッター! また貴方なのね。ホントろくでもないことしかしないんだからっ』

『いや、これはだねリリー。スニベルスが、アー、えっとだなぁ』

 

 ばつの悪そうな顔で彼女に言い訳をするジェームズは、ちらちらと気になっている様子が垣間見える。そこでハリーは彼がリリーに気があることに気がついた。無論のこと若きシリウスもそのことを知っているようで、ニヤニヤといやらしい笑みを隠しもしない。

 リリーの後ろからやってきた男子生徒が、ずぶぬれのレイブンクロー生に肩を貸して歩み寄ってくる。すでに傷だらけの疲れきったような顔は、ハリーに一瞬で誰かを知らしめた。

 

『おいムーニー! 君が連れてきたのか!』

『僕としては、君たちの喧嘩がエスカレートした結果、またマダム・ポンフリーの世話になるんじゃないかと思ってね。彼女はシリウス以外で君を止められる人材だろう?』

『だからって君は、』

『ちょっとポッター黙ってなさい!』

『い、イエスマム』

 

 騒がしい中、ハリーは嫌な顔をしていた。

 ハリーは自分が純真無垢な少女だとは思っていない。しかし、たとえ本当の両親でなくとも自分の母親になる少女が、若き父へ嫌悪と侮蔑の目を向けているというのは耐えられるようなものではない。

 ここから本当に彼らが結婚して、ハリー・ポッターという男の子が生まれるのだろうか?

 とてもではないが、ハリーにはそういう未来を幻視することはできなかった。

 

『くっ、この……!』

『セブルス、大丈夫? ほら、しっかり立って』

 

 腰を抑える若いスネイプに、リリーが手を貸す。彼女の様子から、スネイプには一定の信頼感があるようだ。しかし助け起こしてもらったスネイプは、恥ずかしそうに顔を背けて礼を言わない。この頃から既にひねくれていたのだろうか。

 一方でその様子を見ていたジェームズの顔が険しくなり、ハリーはそこでこの三人の関係性に気づいてしまった。そしてジェームズがスネイプに食って掛かる理由も自ずと悟る。

 ――親の三角関係なんて、知りたくなかった!

 愕然としていると、若いスネイプがリリーの手を振り払う姿が見える。ショックを受けたような顔をしたリリーに向かって、少年が口を開いた。

 

『よ、余計なことをするなッ。この――』

『おわァァアアーっ!?』

『うぐぉ!?』

『きゃあ!?』

 

 リリーに向かって何かを言おうとした途端、吹っ飛んできたレイブンクローの後輩がスネイプにぶつかって、それにリリーをも巻き込んで三人は団子になって転がってしまう。

 レイブンクロー生が吹っ飛んできた方を見れば、杖を振りぬいた姿勢のまま顔を青くして硬直しているジェームズの姿があった。その高い鼻が折れて血がでているところから、多分ではあるがスネイプとリリーのやり取りに憎悪を向けることに夢中になっている隙を突かれてレイブンクローの少年に殴られ、反撃したといったところか。

 レイブンクロー生が悪態をつき、慌てたスネイプがリリーを気遣う。リリーはリリーで頭を抑えて悶絶していた。

 

『むぎゅぅえええ……! 後頭部はあかん、あかんて……!』

『リリー、しっかりしろ! 女子としてその呻きはいかんし、妙な訛りが出てる』

 

 場が混沌を増し、収拾がつかなくなってきた。

 リリーを慰めるスネイプはズボンが下ろされてグレーのパンツが丸見えになったままだし、やらかしてしまったジェームズは今にも倒れそうな顔色としてシリウスに心配されている。仕返しに呪いをかけようと杖を振り回すレイブンクローの後輩を若きリーマスがなだめ、スリザリンの後輩が一人寂しくなめくじを吐き戻す。

 見ているだけで居た堪れなくなる光景だ。

 

「……これどうすればいいんだ」

「我輩と共に現実へ帰るというのは、いかがかね」

 

 思わず吐いた独り言へ返事が返ってくる。

 ジェームズと同じような顔色へさっと変色し、ハリーはその顔を振り向かせる。

 そこには天使のような笑みを浮かべたスネイプが仁王立ちしていた。若くて可愛い少年の方ではない、育ちすぎた蝙蝠みたいな中年男性になった方のスネイプだ。にっこりと笑んでいるが、目だけが太陽から遠く離れた銀河のように冷たく笑っていない。

 人間怒りすぎるとこんな表情になるのかと思ったハリーは、少年スネイプと中年スネイプを見比べる。そこでは自棄になったジェームズがスネイプへ杖を向け、パンツをずり下ろしたところだった。

 

「見んでいい」

「ぐっ!?」

 

 ばちんと平手打ちを食らったかと思うほど勢いよくハリーの視界がふさがれた。

 教授の名誉を思って、感想は言わないでおく。後輩やリリーが絶叫する声もまた聞き流すことにした。ついには取っ組み合いの殴り合いを始めたヤングジェームズとヤングスネイプを視界の隅に収めているうちに、ハリーはスネイプに連れられて肉体が消滅していくことに気づいた。喧嘩する子供たちの姿が消えゆき、ついには揺らぐ幻のように記憶の世界から消え去った。

 

「――――、」

「……あ、あの? 先生?」

 

 開心術の世界から帰還すると、ハリーは自分のブラウスが大量の汗で湿っていることに気づいた。リリーの介入によってただの子供同士の喧嘩と成り果てたが、それ以前の光景を思い出すとどうしてもうこうなってしまう。

 誇り高き自分の父親、ジェームズ・ポッターの晒したあの醜態はなんだ。

 

「傲慢な男だったろう」

「ぐっ!」

 

 ぼそりと囁くスネイプの言葉を否定する材料がない。

 愛する父親を侮辱されたというのに反論できないストレスがハリーへ襲い掛かった。

 

「鼻持ちならない、目立ちたがり屋の、いけすかない、お調子者」

「う、ぐ……ぐぐぐ……」

「挙句、意地を張ってリリーへ怪我をさせた愚か者」

「ぐぬぬ……」

 

 悔しいが、まったく持ってその通りである。

 おそらくあれは、ハリーと同年代の頃だろう。気に入らない奴にちょっかいをかけて、後先考えない手段で攻撃し、誰かに阻止され、それを何とかしようとしてまた立場を悪くする。……あれではやってることがスコーピウス・マルフォイと同じではないか! ハリーは自分の父親がスコーピウスと似てるとか絶対に嫌である。小物なんてレベルじゃない。

 ねちねちといじめてくるスネイプの言葉を聴きながら、ハリーは唸るしかなかった。

 

「本日の課外授業はここまで。寮へ帰りたまえ」

「えっ」

「不愉快で素っ頓狂な声にグリフィンドール一点減点」

 

 突然の減点に、ハリーは慌てて帰り支度をする。スネイプが怒りの表情を浮かべているため、これ以上彼の前に居ては何をされるかわかったものではないからだ。

 だからだろうか。ハリーはスネイプの瞳の奥に、懐かしさを感じる色があることを見逃してしまっていた。

 

 また別の日、ハリーはハーマイオニーとロンを連れて聖マンゴ病院へと訪れていた。

 ウィーズリー氏への見舞いを済ませ(お土産にマグル製のホッチキスを持っていったところ、飛び上がらんばかりに大喜びして傷口が開いたため担当癒者に激怒された)、ハリー達は廊下を歩いてゆく。

 着いた場所は特殊魔法癒療病棟と呼ばれるフロア。ひと気がなく、物寂しい雰囲気が病院特有の不気味さを増している。ロンが見せている情けない顔をハーマイオニーと二人でくすくす笑いながら、目的の待合室へとたどり着いた。

 そこには赤みがかった色合いのタータンチェックのシャツを着て、ベージュのスラックスを履き、ヌンドゥが飛び跳ねたイラストがプリントされたパチモンくさい帽子をかぶった老人が座っていた。

 

「おお、よく来たのうハリー。それにミスター・ウィーズリーにミス・グレンジャーも」

「こんにちは、ダンブルドア先生」

 

 誰あろう、アルバス・ダンブルドアその人だ。

 ハリー達は彼の姿を見てずいぶんと似合わない格好をしていると思ったが、それを顔に出す真似はしなかった。仮にも校長先生である。礼を失するわけにはいかないのだ。

 

「それじゃあ、早速じゃがはじめるとしようかの」

「……あの、校長先生。大丈夫なんでしょうか?」

 

 ハリーに手を差し伸べたダンブルドアに、ハーマイオニーが恐る恐る声をかける。

 ちょうど扉を開けて出てきた癒者へ挨拶をしてから、ダンブルドアはハーマイオニーへ向き直った。きらきら輝くブルーの瞳を細めて、微笑んで問いに答える。

 

「何も心配することはない。あっちをこちょこちょ、こっちをチョコチョコするだけじゃて。優秀な癒者がそろっておる、三〇分もかからんじゃろう」

 

 この返しに、それでも安心できないのかハーマイオニーの表情は晴れない。それに対してハリーが彼女の肩をたたき、笑顔を見せて言う

 

「なに、別に手術しにいくわけじゃないんだ。ただの検査だよ、検査」

「それでも心配だよ」

 

 ロンがそう言うと、確かにハリーも心配になる。

 今回聖マンゴへ来たのは、なにもウィーズリー氏のお見舞いに限った話ではない。

 昨年から彼女自身の持つ身体についての疑問を解決するための魔法的な精密検査があるのだ。寿命に関することは現代癒学でも

 ハリー・ポッターが――『ハリエット』がヴォルデモートの作り上げた人造生命体である事実は、ここにいる人間以外では手の指で数える程の人数しか知らないことだ。

 最強の闇祓いアラスター・ムーディは防衛上知っておく必要があった。解呪の模索には日本魔法における呪いの専門家ソウジロー・フジワラにユーコ・ツチミカドが協力している。そして身内といってもいい二人には当然教えてある。恩師リーマス・ルーピンに、愛しの家族シリウス・ブラック。

 これにダンブルドアとハーマイオニー、ロンを加えた程度が、ハリーの正体を知る人物だ。

 中年の女性癒者に連れられ更衣室へ入ったハリーはローブを脱ぎ、ブラウスのボタンをはずしてゆく。スカートのジッパーを下ろしてすとんと床に落としながら、彼女は思う。

 以前の自分なら、自身の正体など誰にも言えなかっただろう。それは間違いない。

 ルーピンにシリウスは、もともと彼女の正体を知っていた節がある。ポッター夫妻と親友であるならば、生まれた子供が男の子であることを重々承知していたからだ。ハリー少年ではなく無傷のハリエットが残されており、その上で夫妻の遺体の惨状を知ったならば、賢い二人はヴォルデモートがポッター家に何をしたか自ずと気づくだろう。

 ダンブルドアからムーディに知れるのも理解できる。ほとんどの闇祓いに対して親交があり信頼の厚い彼が知ってさえいれば、ハリエットに関係する闇の出来事に関して適切な行動が取れるだろうからだ。

 ただし、ハーマイオニーにロン、そして解呪のためとはいえソウジローとユーコに対して知らせるかどうかは別問題だ。この四人にだけは、ハリーが自分の口で打ち明けた。無論、ウィーズリー夫妻やローズマリー・イェイツといった他の親しい人たちへ知らせることも考えてはいたが、むやみに広めるものでもない。それに彼らは『ハリエット』が作り物だと知ったところで態度を変えるような人間たちではないことも、ハリーはよく知っている。

 

「ずいぶんと、変わったもんだ」

 

 検査用の患者衣に着替え終えたハリーは一人呟く。悪い気はしないのが不思議だ。

 日本のジンベイみたいな患者衣は、少しでも動けばふとももがぎりぎりのところまで丸見えになるくらい丈が短い。ユカタみたいな構造であるため、胸元も開放的で傍から見るとばかみたいな格好だ。この下は何も付けていないのだから、ちょっと……いやだいぶ恥ずかしい。少し照れているハリーを見て、たっぷりした腹を揺らして笑う中年女癒に連れられて検査室へ向かった。

 まずは採血。よぼよぼの爺さん癒者がぴかぴかに磨かれた清潔な杖をハリーの二の腕に押し当てる。すると赤みがかったシャボン玉がふくらみ、その中にハリーの血液が注がれていった。

 注射器代わりだろうかと興味を持つも、そのシャボン玉はふわふわとどこかへ運ばれてゆく。血染めのシャボンが五つほど作られたあと、ハリーは看護師のおばさまから何かのジャーキーを手渡された。食べてみたところ、ずいぶんとコショウが利いておりかなり辛かったが、何とかそれを喉の奥へと送り込む。すると体の心から熱いなにかが全身へ広がっていく感覚を覚えた。看護師さん曰く、血液を増やす効果を持つ魔法生物の肉だそうだ。……何の魔法生物かは聞かないでおいた。調べて見た目を知りたくない。

 次に舌を出してくれというのでべーっと出したところ、杖先で首筋をさすられる。すると蛇口をひねったかのようにトロトロと唾液が出始めた。気色悪いと思いつつも、看護師のおば様がクリスタル製と思わしきフラスコでハリーの唾液を溜めていく。その後に渡された魔法薬の味は、自分の唾液と同じだった。 

 

「ふごふご……むにゃ……」

「先生は患者衣を脱いで横になってくれと言っておりますわ、ポッターさん」

 

 本当にこの爺さん大丈夫かなと思いながらも、ハリーは薄布を取っ払う。

 生まれたままの姿ではあるが、御歳三桁を越えているらしいジジイ相手に恥じらいも何もあったもんではない。一応の礼儀として胸を隠しながら、ハリーは寝台へ横になった。

 

「ふがふが」

「痛かったら教えてくれとのことですわ」

 

 爺さん癒者が杖を持ち、ハリーの身体のあちこちを指し示してゆく。

 くすぐったくはあるが痛くはない。そしてこの場にいる癒療関係者が全員ハリーの身体を注視しているので、だいぶ恥ずかしくなってきた。思わず要所を手で隠したところ、痩せぎすの若い女癒に「隠さないで下さい」と言われてしまった。

 特に気になるところはなかったようで、満足そうに頷いた爺さん癒者はモゴモゴ意味のなさそうな事を呟きながら、検査室を去っていった。もう患者衣を着ていいのだろうか。とりあえず衣を羽織りながら身体を隠していると、恰幅のいい老魔女が検査室へ入ってきた。

 その助手らしき年若い魔女が分娩台のようなものを押してきたのを見て、ハリーは今後一切の恥じらいを捨てる覚悟が必要であることを悟った。幸いにしてこの部屋にいる癒療関係者も女性ばかりだ。

 やるしかないのだ。

 

「……ハリー、なんか魂が抜けてるわよ」

「女に生まれなきゃよかったぜ」

「何いってるんだハリー……」

 

 あらゆるところを見られた。

 なんていうか思春期の十五歳にはキツい体験であった。

 いまのハリーは、患者衣のままローブを羽織った服装である。若干露出の激しい状態ではあるが、この待合室にはダンブルドアの計らいで誰も来れないようになっている。そのため、ロンが恥ずかしい思いをするくらいなのでたいした問題ではない。

 この後は皮膚に少々残っている傷跡を消してくれるらしい。あまり気にしたことはなかったが、内臓関係を調べる際にガタイのいい中年男性の癒者が「レディならお肌を美しくしなきゃいけないワ」とくねくねしながら忠言してくれたため、せっかくならということで治療を決めたのである。特に昨年切断された足の傷を治すための準備に時間があるらしく、こうして暇な時間ができてしまったのだ。

 

「そういえば、さっき癒者から話を聞いてたダンブルドアが悩んでたぜ」

「あの人が?」

 

 ハリーがハーマイオニーとぺちゃくちゃとお喋りをしていたところ、ふと思い出したようにロンが口を挟む。それに対してハリーは、あの老人が案外老いた人間らしいところがあることを思い出し、思わず問いかけた。

 

「え、なに。悪い話?」

「いや、そうじゃないみたいだぜ。癒者の話が聞こえてきたんだけどさ。ハリー、君ったらまったくの健康体みたいだぜ」

「なにそれ? ものすごーくいい話じゃない!」

 

 ロンの言葉に、ハーマイオニーがうれしそうな声をあげる。

 なんの異常もないことはいいことなのだ。しかしその表情を曇らせたのはハリーだ。どうしたのかと二人が聞けば、ハリーは苦虫を噛み潰したかのような顔で言う。

 

「今回は、ぼくの寿命がどれくらいあるかの検査だったよね」

「そうだね。でも健康だったなら、普通の状態って事だろ?」

「まさにその通りだ。でも、ぼくがヴォルデモートなら、人形にそこまでの寿命は与えない。長くて二〇年……ホグワーツ卒業程度の間生きていれば、役目は果たせるからだ」

 

 あくまで自分を無機物であるかのような物言いにハーマイオニーとロンは眉をひそめたが、ここで噛み付いては話が進まない。ハリーも二人の気持ちがわかっているのか目で謝りながらも話を続ける。

 自分のために怒ってくれる友人を無碍にするほど、もうハリーも子供ではないのだ。

 

「じゃが、結果としてハリー。君は健康そのもの。少なくとも十七や二〇で寿命を迎えるような肉体の損耗はしておらん。医学的にも、癒学的にもの」

「……ええ」

「本来ならば喜ばしいことじゃ。しかし、……じゃが、しかし……そうであるならば、あやつが。ヴォルデモートの思惑が読めないのじゃ」

 

 ダンブルドア含め、ハリーたちを不安がらせるのはまさにそこである。

 元々二〇世紀現代の魔法界における魔法学レベルでは、人間の寿命や魂、脳についての理解はほとんど進んでいない。一六〇四年にマンゴ・ボナム医師が書いた『魔法族の脳と魂における関連性』という著書が、現代における最新の学術書だ。

 十八世紀終盤に、ボナムの設立した聖マンゴ魔法疾患障害病院に勤めるアンティノウス・ブラック医師が提唱した『純血魔法族の魂とそれがもたらす崇高な魔法』がでっち上げだった以上、現代から四〇〇年近くの時代を遡る必要があるほど研究が進んでいない分野でもある。

 しかし恐らく、ヴォルデモートが闇をもたらし悪が跋扈した暗黒時代。ほんの十数年前の数年間のことであるが、その期間で驚くほど癒学的研究は進んでいる。特に午後からハリーが受けるように、傷を治すことに関する分野は数世紀ほどの技術革新があったと言われているのだ。

 であれば、研究者としても優秀なヴォルデモートのことだ。何かしら掴んでいるのかもしれない。

 哀れなマグルやマグル出身の魔法族、または混血の魔法族を用いた人体実験によって、ある程度の脳や魂における研究を進めているのかもしれない。あまりにもおぞましい悪の所業は、癒療的見地から見れば一種の教科書になってしまうのは魔法史が明らかにしている。

 だからこそ恐ろしい。

 癒学の研究は、一度技術革新があれば一気にレベルが飛躍するのだ。もしヴォルデモートがその知識を手にしていて、なおかつその未知の技術をハリエットへと流用していればこちらとしてはお手上げである。棍棒を握ってぶーぶー唸るサルが、重火器に身を固めた特殊部隊に勝てるかと問うようなものだ。

 ハリーやダンブルドアが恐れているのはそこである。『あの外道が超技術をハリエットに仕込んでいるのかどうかもわからない』のだ。むしろ、肉体の残り稼動年数(じゅみょう)が少ないとわかったほうが対処方法を探せるだけマシなのである。

 

「悲しいことに、ヴォルデモートの発想力は我々を大きく上回る。こと、悪辣で邪悪なアイディアにいたってはわしでも想像がつかん」

「自分が狡賢いってことはわかってるんですね」

「だめよハリー」

 

 思わずハリーの口をついて出た言葉に、ハーマイオニーが注意を飛ばす。

 ダンブルドアへの負の感情を増幅させる呪いは健在なのだ。『ハリエット』と言うシステムのひとつとして組み込まれているため、思わず彼へのキツい物言いが飛び出すことが多い。

 眉を上げて、ダンブルドアへ頭を垂れるとくすくす笑われた。

 

「よいよい、まぁ事実じゃからの。さておいて、ハリーや」

「はい」

 

 ブルーの瞳をきらきらさせたまま、ダンブルドアは厳かに言う。

 

「何かあれば、すぐわしへ連絡せよ。君の愛する家族、シリウスでもよいの。よいな、ハリー。些細なことであっても、必要と感じなくとも、不思議なことであればなんでも言ってほしい」

「……ええ」

「迷惑などとは思わんし、わしらは君に頼ってほしいのじゃ。君のことが大好きだからこそ、君の力になりたい。それは君の親友たちも同じじゃろうて」

 

 ダンブルドアの言葉に、ハリーは微笑んで頷いた。

 二人の親友もまた首肯し、笑みを浮かべてくれる。子ども扱いしないでくれと怒る気持ちはわいてこない。ハーマイオニーとロンは当然として、これでもダンブルドアは真摯にハリーのことを心配しているのだ。それがうれしくないはずはない。

 それに、子供扱いされて怒るのが真の子供であると彼女は知っているのだ。

 

「よいなハリー、用心せよ。なにせ、」

「どれほど警戒しても、しすぎるということはない」

 

 ダンブルドアの言葉を引き継ぐように言えば、彼は半月型の眼鏡の奥で、その瞳を細めた。

 変な意地は張るまい。いまはヴォルデモートのことをどうにかするのが、一番早く解決すべき問題だからだ。

 

「まったくもってその通りじゃ、ハリーや」

 

 満足そうに頷いたダンブルドアは、白く長いヒゲの奥でにっこりと微笑んだのだった。

 




【変更点】
・ハーマイオニーも聖マンゴへ
・ブラック家への到着タイミングと、迎えに来る騎士の変更
・さらっと原作より重傷だったアーサー。退院できず
・クリスマス休暇中にロングボトム家と会わず
・スニべルスにも友達くらいいたさ
・ハリエット健康体

【オリジナルスペル】
「ウォークス、透き通れ」(初出・56話)
・声に関する魔法。酷い訛りも美しいクイーンイングリッシュに翻訳する。
元々魔法界にある呪文。ホグワーツでは訛りのある子へ悪戯に使われることもある。


お久しぶりでございます。
私事が片付いたため私は自由だ。そちらは活動報告で。
今回は聖マンゴへのお見舞いとスネイプの過去、そして健康診断です。アンブリッジがいなくてもロックハートがいる。五巻の登場人物はほんとテンション高いぜフゥハハァ。子供たちには言っておりませんでしたが、アーサーの傷はだいぶ深かったので原作より見舞いのタイミングなどがズレた結果、聖マンゴでネビルと会っていません。……何ヶ月も血まみれのアーサーを放置したからね、重傷なのもシカタナイネ。
次回はDAメンバーの仕上げと餅カエル大暴れ。ハリーズブートキャンプは善良なホグワーツ生をバトルジャンキーへと魔改造できたのでしょうか。
ところで活動報告の方には出していますが、ハリーの誕生日絵も描いていたりしました。お納めください。
【挿絵表示】


※間違いを修正。原作の思い出が強すぎて改変部分を忘れる体たらく。


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7.うそをつくことはできない

 

 

 

 ハリーはいま、苦痛に耐えていた。

 我らが巨大なお友達、ハグリッドがホグワーツへ帰ってきたのだ。あの存在感のある彼の姿を見なかったことで、まるで一年は会っていなかったような気がする。ハーマイオニーに彼の帰還を告げられ、喜んで彼の住む小屋へと向かったまではよかったのだが、そこにはすでに先客がいたのだ。ご存知ホグワーツの誇るアイドル、アンブリッジ女史である。

 即座に亜空間より引き寄せた透明マントを羽織ることで、三人は身を隠す。ハリーとハーマイオニーはあまり身長が伸びていないので問題ないが、ロンの身長はひょろひょろと高くなってしまっているので頭からマントを被れば足首まで隠し切れないのだが、そこは伸び放題の芝に隠されることだろう。ハグリッドの不精に感謝である。

 半開きの窓から聞こえる甘ったるい声は、かなりいらだっているようで、普段の、人を小ばかにした蔑みの色が見られない。それでいて人を不快にさせる色は健在なのだから、もう恐れ入るしかあるまい。苦痛に耐える必要がある会話をあやつることのできる人間がいることを、ハリーは齢十五にして思い知った。

 

「ダンブルドアはアナタに、何を命じたんですの? さっさと答えなさい」

「ああ、ダンブルドア先生さまは、俺に休暇をくだすった。そうだな、しっかり休めと命じなさったんだ。ほれ、この通り。ドラゴンの居住区に滞在する許可をもらったもんで、傷だらけだわい」

「……ッ、そうではなく! ダンブルドアはアナタに、何かを探すよう命じたはずなのです! それが何かを、正直に答えなさい! わたくしはドローレス・ジェーン・アンブリッジ魔法大臣上級次官ですわよ!」

「んん? 上質なニンジンがなんだって? まー、ああ、そうさな。俺は休むのが下手だから、うまい休み方を見つけるようにはおっしゃっておったような気がするなぁ」

「この……ッ、……! 野蛮な原人……半巨人めが……。貴方のような非ヒトに文明的な会話を期待した、わたくしがおバカさんでしたわ!」

「自分の間違いを認められるっちゅーのは、ええこった。偉いぞ」

「…………かッ、……帰りますわ!」

 

 あなたはこのホグワーツに不要です、と捨て台詞を残したアンブリッジは、足音高くハグリッドの小屋を後にする。その背中には隠し切れない見下しと怒りが同居していた。

 アンブリッジの問いに対して、ハグリッドがうまいことごまかしたようにも聞こえるが、実際は本当に何を言われているか理解していなかったのだろう。彼は人の悪意に疎いところがある。流石にピンクのカワイイガーゴイル女のことを、機嫌が悪かっただけの人のいいオンナノコとまでは思ってはいないだろうが、ハグリッドにとってアンブリッジは、性格の悪い魔法生物と同じであり、きっとそれに近い扱いをしていたのではないかと、ハリーはひそかににらんでいる。

 

「おかえり、ハグリッド。さみしかったよ」

「オーッ、ハリーでねえか! ロン、それにハーマイオニーも、よく来なすった」

 

 アンブリッジが姿を消して戻ってこないことを確認してから、ハリー達は透明マントを脱ぎ払ってハグリッドの小屋へとなだれ込んだ。やれやれとかぶりを振っていた彼は、三人の姿を認めるや否や、コガネムシのような小さく黒々とした瞳を輝かせ、嬉しそうにうなった。

 ハグリッドはほがらかに笑いながら、高山地帯にあるマグルの村へ行ったときに賭けで貰ったという、摩訶不思議アンブリッジャーな紅茶を、お土産としてごちそうしてくれた。一口飲むたびに、脳みそへハチャメチャな感覚が大挙して押し寄せてくる珍しい味だ。

 高山病の対策として飲まれているお茶だとハグリッドは説明していたが、そうでなくとも毎日飲みたくなる味をしている。ハリーはお代わりを申し出ようとしたが、突如としてロンが巨大すぎるくしゃみをしてテーブルごとポットやティーカップをひっくり返してしまったため、それは叶わなかった。

 食べ物を粗末にしたロンがハグリッドに呆れて注意されながら、彼がハーマイオニーから賛辞の視線を受けていたことがハリーには不思議であった。

 

「久しぶりだねハグリッド。あのガマガエルを混乱させるなんて、大したもんだぜ!」

「それにしても、長い留守だったわね。いったいどうしたの?」

「アー、それはだな。……まあ、おまえさん達なら、別に言っても構わんじゃろ」

 

 その言葉に、ロンがいたずらっぽく笑った。

 

「他言無用ってわけだね」

「そのとおり。実はな、ダンブルドア先生の指示で、巨人の棲み処へ行っちょった」

「きょ・じ・ん!?」

 

 その言葉に、ロンが飛び上がるほど驚いた。

 

「どうして巨人のいるところへ?」

「かつて闇の輩と対峙した際に、例のあの人は吸血鬼や巨人、狼人間と言ったヒトとして認められていない存在を味方につけておった。ヒトと同じ権利を与えるだの、適当な言葉をエサにしてな」

 

 確かに、かつて英国国内で起きた闇の勢力との戦いは、戦力の差がおかしいとは思ってはいた。あの時、ハリーがヴォルデモート復活の際に見た死喰い人達の総数は、およそ一〇〇人かその程度だった。

 あれから十年以上が経っているとはいえ、たったそれだけの人数で英国魔法界の全てを敵に回して、なお敵対していたダンブルドアたちがレジスタンスと呼ばれるほどに戦力差があったのは、ひとえにヴォルデモートが非ヒト族たちを味方に引き入れたからだ。

 

「ダンブルドア先生は、例のあの人が、再び『ヒトたる存在とは認められない者たち』を味方につけることを懸念しておられる」

「えっ、じゃあ巨人と話したの?」

「いんや」

 

 ロンの驚いたような声は、ハグリッドの気落ちした声によって否定される。

 どういうことかとハリーが目で問うと、彼は言っていいものか迷う様子を見せた。不死鳥の騎士団に関する任務であるため隠した方がいいのだろうが、この三人は騎士団の存在を知っている。ゆえに構わないだろうと結論付けたらしく、肩をすくめながら言った。

 

「みーんなして、息絶えておった」

「息絶えて……? 死ん、……えッ!?」

「そうじゃて、死んどった。確認できる遺骸だけで、三〇くらいだな。巨人たちは凶暴だからな、お互いに殺し合ったのかと思ったが、殴る蹴るで肉体が吹き飛んだりはせんだろう」

「それって、魔法でやられたってこと?」

「そうだろうな。俺たちよりも先に来た連中がやった、っちゅうこった」

 

 話を聞いたハリーは困惑していた。

 おそらく、その先客とは死喰い人に他ならないだろう。巨人を皆殺しにする連中など、彼ら以外に居るなど考えたくもないということもあるが、この英国においてそこまで派手な犯罪活動を行えるのは、ヴォルデモートの一派くらいしかハリーには思い当たらない。

 そう思って聞いてみたところ、ハグリッドも巨人たちを殺されてすごすごと帰ったわけではないらしい。巨人たちの棲み処の近くに点在する村の住人に話を聞いて、白いどくろの面をかぶった黒いフード姿の者を数人、見たという目撃証言を手に入れている。そこまで分かりやすい恰好をする変態集団など、死喰い人に相違あるまい。むしろ、他にそんな奴らがいたら困る。お世辞にもあの格好は、クールとは言えないのだから。

 

「ダンブルドア先生はな。おっと、こいつは内密にな。先生さまは、巨人たちが味方に付いてくれればと思っちょった。第一次魔法戦争の時は、巨人や吸血鬼、狼人間といった亜人種が闇の勢力について痛い目を見たからな。俺たちも、闇の奴さんらもだ」

「ああ、御しきれなかったのね。でも、巨人を味方に? でもそれって、アー、えっと、」

「ああ。ええ、ええ。気にせんでええ。奴らが凶暴で、ちーっとばかし理性の足らん連中だっちゅーことは俺もよーく知っとる。じゃが、奴さんらも例のあの人が自分たちをまともに扱わん連中だってことは、レタス喰い虫みたいな脳みそでもよっく覚えちょることは、俺たちにも分かってた。だからこそ、味方にと思ったんだがな」

 

 しかし結果としては、巨人は死滅していた。

 ハグリッドは長期休暇を利用して、ボーバトン魔法学校校長のマダム・マクシームと共に(ここでロンが口笛を吹いたせいでハグリッドが砂糖入れを床に落としたので、ハーマイオニーに足を踏まれていた)巨人たちの棲むとされる山奥へ向かった。ダンブルドアの使いとして、巨人と交友関係を結ぶためにだ。なにも、ヴォルデモート一派と戦ってもらわなくとも、彼らの味方につかなければ、それだけでこちらとしては御の字。諸手を挙げて小躍りするくらいには、ありがたいのだ。

 ハリー達の両親がレジスタンスとして闇の勢力と戦っていた第一次魔法戦争のころは、巨人たちはヴォルデモート側に着いた。現政権を打倒した暁には、巨人たちに自由を与えるという甘言に踊らされたからだ。その結果、レジスタンス側は甚大な被害を受けた。その強靭な皮膚によって魔法はろくに効かず、腕の一振りで人間の脆弱な肉体などひとたまりもないからだ。一方で、巨人たちも甚大な被害を受けた。レジスタンスの抵抗もあるが、何よりもヴォルデモートは巨人を使い捨ての駒としてしか見ていなかったからである。

 ガーグと呼称される巨人たちの頭、カーカスという巨人はそれをよく覚えていた。ヴォルデモートはもちろんのこと、魔法使いにかかわるのは巨人にとって損しかないのだと、重々理解していたのである。

 

「しかし結果はこれだ。みーんな、おっ死んでしまった。これで、この国にいる純血の巨人は、もう誰っこ一人いやしねえ」

「そんな……」

 

 ハーマイオニーの声が、静かな小屋に響く。

 よもやダンブルドアも巨人が敵対するどころか、死喰い人によって全滅させられたなどとは思うまい。この報告を聞いたかの老人の顔は、苦虫を噛み潰したようであったという。

 親愛なる友人がホグワーツへ帰ってきてくれたのは、素直に嬉しい。しかし死喰い人達の行動の意味が分からない。以前のように巨人たちを味方につけて、英国魔法界の転覆に従事させるというならば話は分かる。しかし、結果としては巨人たちの皆殺しだ。いくらヴォルデモートが生命を奪うことに快楽を見出している変態だとしても、彼は天才的と言っていい頭脳の持ち主だ。多少イカれたりした程度では、巨人をいたずらに失うことは損失でしかないと理解できるだろう。だというのに、結果はこれだ。

 わからないことがまたひとつ、増えてしまった。ハリーは右手で目尻を揉みながら、吐き出された深い溜め息は、ハグリッドの小屋の天井へぶつかって霧散した。

 

 

 ハリーは再び、苦痛に耐えていた。

 授業中にアンブリッジと目が合った結果、どうやら彼女を誘惑してしまったらしく罰則を受けているのだ。もしくはその罰則を言い渡された際、ぼくにも相手を選ぶ権利があると顔に書いてあったのがバレたのが原因だったかもしれない。

 ともあれ、ハリーはアンブリッジの部屋で罰則を受けてその帰り道なのだ。いまだに苦痛が離れてくれない。羽根ペンで『うそをついてはいけない』と書き続ける罰則は、ハリーには理由はさっぱりまったく露ほどもわからないが、アンブリッジが行わなくなってしまったので違う罰則である。それはずばり……アンブリッジの身の回りの世話だ。

 女性の下着というものはもっと、高尚で夢のあるものだと思っていた。ローズマリーくらいのサイズになると可愛いのが少なくなってくるが、ハリーのサイズであればまだ可愛い下着が多い。一方アンブリッジの下着(両生類とて下着くらいつけるだろう)ときたら、まだマートルの住む便器を舐めた方がマシだった。詳しくは思い出したくない。閉心術の課外授業でこの記憶を見るであろうスネイプが、床に昼食のミートパイをぶちまけることをハリーは確信していた。

 さておいて、精神的な苦痛に耐えながらハリーは同じ廊下を行ったり来たりしている。すると何もない壁からにょきにょきと扉が生えてきて、彼女を歓迎するかのようにやさしく開いた。

 

「ごめんね、ちょっと遅れた」

「ハリー!」

 

 今日はDA活動の日だったのだ。

 ハリーが部屋に入ると、ちょうどネビルが盾の呪文を成功させたところだった。

 この面子の中で、最初に盾の呪文を習得したのはネビルだ。ハーマイオニーすら差し置いて、息をするように会得したのはさすがと言うべきか、今彼が展開している『盾』は円錐状に加工して回転するタイプのものだった。『盾』の形状を変化させるコツはハリーが教えたものだが、これに関しては既にネビルのほうが上手くなった。誇らしい限りである。

 他にも『治癒魔法』や、『平常心を保つ魔法』といったやさしい魔法はすべてネビルが一番に習得している。このDAメンバーの中で、もはや彼を落ちこぼれと蔑む者はいないだろう。ハリーが来たことで慌てて去っていったが、ネビルに『盾』の教えを乞うていたのがプライドの高いザカリアスであったこともその証左だ。

 

「はいみんな、ハリーが来たわよ。集まって!」

 

 ハーマイオニーがぱんぱんと手をたたくと、部屋内のあちこちで魔法の練習をしていた連中が集まってくる。呪文によって失神していた数人をハーマイオニーが『蘇生』させると、ようやく全員が集合した。

 それらを見回して、ハリーは頷き言う。

 

「この数ヶ月、DAで学ぶことでみんなはだいぶ強くなったと思う」

 

 その言葉に皆が歓声を上げた。

 教師としてのハリーは褒めるときは優しい母のように接し、厳しく指導するときは腹パンで泣き言を飲み込ませて代わりに血反吐を吐かせる。そういう女が、手放しに褒めたのだ。達成感に叫び、女子生徒の中には感極まって泣き出す子まで居るではないか。

 憮然とした顔になるハリーをハーマイオニーがなだめ、数回ほど手を打ってメンバーを静かにさせてハリーの機嫌を直させると、続きを促し言葉を紡がせる。この一連の動きによってメンバーたちは、DAにおける真のボスがハーマイオニーであることを再確認した。いくら戦闘力が高かろうが、所詮ハリーは脳筋ガールなのだ。前線で戦う英雄より、後ろで指示を出す女王のほうが偉いのはわかりきったことである。

 

「守りの呪文ではネビルやチョウにジョージが、幻術ではルーナとリー、補助系統では味方の能力を高めるタイプにディーンやアーニーにジャスティン、妨害系ではマイケルやアンソニーにクリービー兄弟、攻撃呪文では獅子寮チーム三人娘やジニーとフレッドにラベンダー、探査系統だとスーザンやハンナにザカリアス、後方支援専門の体力回復系はパチル姉妹にテリーやマリエッタに、変則的な魔法でいえばロン、万能型にハーマイオニーがいる。この面子だけでもかなりの戦力だと思うよ」

 

 一息で言い切ったハリーは、それぞれのメンバーを見る。

 居心地悪そうにしてる者や、誇らしげに頷いている者など反応は様々だ。ハリーの言ったことは決してお世辞でも何でもない本音であり、今の彼らならば贔屓目なしで見ても、下手な魔法犯罪者くらいならば片手間くらいの労力で撃退できるだろう。

 ハリーとしては、それくらいの実力をつけさせたつもりである。

 そしてだからこそ、ハリーは今日のDA集会を重要視しているのだ。今回の勉強会こそが、仕上げに入るその一歩目だ。

 

「だからこそ。もし万が一、死喰い人とかそういう、本当にヤバい相手と遭遇した場合は、倒そうなんて考えずに逃げてほしい」

 

 そう言い放たれた言葉に、メンバーがどよめく。

 ハーマイオニーとロンはその意味を察して悔しそうな顔をしていたが、他の面子はそうもいかない。どういうことだと声を荒げる男子もいるくらいであった。

 

「あいつらは敵対者が半端者だろうと、ある程度の実力を持っていれば容赦なく本気で殺しにかかってくる。逆に取るに足らない未熟な魔法族なら、いたぶって遊んでから殺すだろうね」「俺たちが、取るに足らないやつだって言いたいのか」

「いや。ぼくの見立てでは、君たちは未熟とは言い難い実力はあると思う」

「だったら、戦えるんじゃないのか?」

「いや。だからこそ、奴らは本気で来る。そうなれば、きっと勝ち目はない」

「「そうなったら僕たちじゃ勝てないって言うのかい?」」

「悪いけれど、答えはイエスだ」

 

 ウィーズリーズの憮然とした声に、ハリーは迷うことなく肯定する。

 不愉快そうな顔を隠しもせずざわつくDAメンバーたちに、杖先からパチンと花火を飛ばして静かにさせる。そしてハリーは、できるだけ可愛らしくなるよう黒髪を揺らしながら、にっこりと微笑んで宣言した。

 

「なので今から、全員ぼくがブチのめす」

「は? なに言ってんの?」

 

 ザカリアスのあげた素っ頓狂な声は、この場にいる全員の代弁でもあった。

 ハリーのにこにこ笑顔を見ながら彼女が本気で言っていると察した数人が、ハーマイオニーとロンの顔色をちらりと伺う。達観したような微笑を浮かべているあたりハリーの発言が真実だと悟り、彼らは状況の理解を諦めることにした。

 

「『テングになった新人どもの鼻柱を叩き折ってやり、常に上には上がいると思うことで慢心をなくす……油断大敵!』だそうだよ」

「テングってなんだ……?」

「日本人の一般的なペットよ。ゾウみたいに鼻が長いから、調子に乗ってるって意味で使われるの」

 

 アラスター・ムーディの言葉を借りて言ってみれば、確かに説得力のある言葉だと実感する。上からモノを言うときには便利かもしれない。実感のこもった言葉は他と比べて重みが違う。

 それにムーディからこの言葉を聞いていなくとも、ハリーはこの『獲物の気分を味わい慢心をなくそうキャンペーン』を実行するつもりだった。彼女自身が、守護霊呪文を学ぶ際に闇祓いのグリフィン隊連中にされたことだ。次々と新たな魔法を習得し、戦闘力が上がっていくことを実感していた当時のハリーは気づかぬながらも若干天狗になっていたのだろう。守護礼呪文の習得もさらっとできるもんだと思っていた彼女は、うまくいかない呪文習得に半泣きになりながらもグリフィン隊連中に散々しごかれたことで思い知ったのだ。

 慢心すると、人間の成長は止まる。

 自らの限界を定めてしまうのだろうか、そこらへんの精神的な学問は門外漢であるためさっぱりわからないが、とにかくハリーは『飽くなき向上心こそが人を強くする』という持論を抱いている。

 

「ここで無残に負けておけば、いざというとき慎重になれる。慎重さは生きる力だ。ぼくは実戦でこれを知った。たまたま運よく生き残れたけど、君たちも同じ状況に陥って、運よく生き残れるとは限らない」

「……死ねば、そこで終わりだからですか?」

「その通りだスーザン。だから、ぼくは本気で殺る気を出すよ」

「ハリー。ねぇハリー、いま発音おかしくなかった?」

「少しでも隙を見せたら返り討ちに遭うからね。そんな無様は見せられないよ」

「ねぇハリー。答えてくれないかな、ねえったら」

 

 だからこそ彼女は、DAメンバーにもその精神を強要する。

 アンブリッジへの対抗心から生まれたこの組織ではあるが、習っていることは社会へ出るに必要な勉強であると同時に戦う力なのだ。魔法界において学んで知識を会得するとは、大なり小なりそういうことである。

 多少……いや結構……だいぶ、かなり、凄くめちゃくちゃなことを言っている自覚はある。だがヴォルデモートが復活した以上、九割の確率で暗黒時代は再びやってくる。魔法界が闇に覆われたとき、果たして今持っている良心を保ち続けられる人間は多いだろうか。そういった心の弱い輩に出会ったとき、DAメンバーを生き延びさせるにはどうしたらいいか。

 そう考えると、ハリーが味わったように上には上が居ることを思い知らせ、向上心を腐らせないようにするのが一番だったのだ。

 

「ぼくが仮想の敵役だ。ホグワーツ内に侵入した死喰い人と遭遇して、襲われているという設定でやるよ」

「なんでまたそんなピンポイントな設定に?」

「きっと理由はこれだわよ、ロン」

 

 ハリーの舞台設定に疑問を呈したロンに対して、ハーマイオニーが数日前の日刊予言者新聞を投げてよこす。新聞など生まれて初めて見たという顔をしたロンは、その一面記事を見て驚きの声を上げた。

 その反応に興味を示したDAメンバーたちの意をくみ取った必要の部屋が、新聞記事を大きく拡大して空中に投影する。数十枚の顔写真がずらりと並び、写真下にはその顔の持ち主の名前と罪状が書き並べられている。

 一面の見出しはこうだ。『アズカバンから集団脱獄。ブラックの手引きによる凶悪事件』である。またシリウスの知らない罪が増えたなと怒りの炎を静めながら、ハリーは感情を伺わせない瞳でその写真を眺めた。

 

「死喰い人が……、だっ、脱獄? あのアズカバンを?」

「シリウス・ブラックめ! 脱獄マニュアルを仲間へ教えていたに違いない」

「たしか三年生の時、ポッターを襲ったんですよね。ろくでもない男だな……」

「リアルプリズン・ブレイクだわさ。見て、アズカバンの頑丈な壁が破壊されているわ……」

 

 ヴォルデモート復活を認められないファッジによって更に恐ろしい凶悪犯罪者になったシリウスへ同情を抱くものの、DAメンバーの危機感を煽れるならとハリーは我慢することにした。この際、彼の名誉は犠牲になってもらう。どうせ後になって無実だと証明されるのだ。

 ずらりと並ぶ死喰い人たちの顔写真の中から、ハリーに向かって挑発的な嘲笑を浮かべる女へ目を向ける。どこかシリウスと似通った顔をした黒髪の女だ。元は絶世の美女だっただろうに、長いアズカバン生活で幽鬼のように怨念のこもった顔つきになっている。

 

「まぁ、この記事にはいろいろと抜けているところがあるから、私のほうで何かしようと考えてはいるけれど……それはまた今度の話にしましょう」

 

 ハリーがイラついていることを見抜いたハーマイオニーは、無理やり話を進めることにした。賢明な判断である。役とはいえハリーは容赦しないだろう。彼女をイラつかせることでその脅威レベルをむやみに上げることはない。

 

「見ての通りよ。だからリアルな設定で訓練するってこと」

「……ああ、それで必要の部屋がここまで広くなっているんですね?」

「そういうこと。必要の部屋の仕様上、ホグワーツの一階部分しか再現できてないけど、そこは仕方ないよね。だったら……そうだな。上の階へ行くと震えて動けない一年生たちが殺されるから、一階で侵入者を倒さなければいけないって設定にしておこう」

 

 最初は『ダイアゴン横丁で買い物中に出くわす市街戦』にしようと思ってそれくらいの大きさへ部屋を広げていたが、ハーマイオニーからそれだと一時間じゃ終わらないとの助言を受けての決定だ。ホグワーツ城の一室がワンフロア分の大きさにまで膨らんでいるという、物理的にいったいどうなっているのか不可解極まりなく不思議でしょうがない状態だが、魔法に関しては物理的な常識を求めてはいけない。

 さて、と言葉を置いてからハリーは亜空間から狐のお面を取り出す。ユーコから貰った呪術的な意味のある代物だが、今回はまったく関係ない。死喰い人のかぶっている趣味の悪いドクロ面を模しているだけだ。

 いきなり模擬戦をすることに不満を抱いている者や、ハリーが一人で全員倒せるような物言いに不愉快な顔を隠しもしない者が居る中、脱獄囚たちの写真を見てから思いつめたような顔をしたネビルが、ハリーへと問いを投げる。

 

「ハリー。勝敗の決まり事や、禁止事項とかのルールを教えてほしいんだけれど」

「答えはこうさ。『アニムス』、我に力を」

「えっ」

 

 ネビルがかけた問いかけの答えは、ハリーの靴底だった。

 『身体強化魔法』を使用して淡い光に包まれたハリーが床を蹴り、ネビルに向けて飛び蹴りを放ったのだ。目を丸くして驚き硬直しているネビルに、それを避ける術はない。

 しかしその蹴りはネビルの目の前で停止した。別にハリーが手心を加えて空中静止したわけではなく、透明な障壁がネビルの眼前に展開されたため、物理的に止まっただけだ。

 

「なっ、んなっ、な……っ」

「言ったでしょうネビル、死喰い人に襲われた状況でやるって。ハリーがそう言った以上、『情け容赦もルールもない』ってことよ。当然、開始の合図もないでしょうね」

 

 『盾の呪文』を展開したのはハーマイオニーだ。

 ハーマイオニーならば最初の奇襲くらい難なく防ぐだろう。それを予想していたハリーは、障壁を足場にして強化された脚力で飛び出した。空中で杖を振り回し、魔力を練り上げる。杖先の向かう先は、万能型のハーマイオニー。

 

「『ランケア・ディフィンド』、刺し貫け!」

「『プロテゴ』!」

 

 ハリーが杖を一閃してアイスブルーの魔力反応光を放つと、その光からいくつもの槍の穂先が召喚される。魔力によって生まれ出でた複数の槍刃はハーマイオニーへと殺到するも、とっさに盾を展開したハーマイオニーはそれで自分に当たるすべての槍を防ぎきった。

 彼女の防御を見て、ハリーは内心でほくそ笑む。真の狙いは彼女ではないのだ。

 

「ッぐぅ!」

「っ、しまっ……ッ!?」

 

 背後から響いた呻き声に、ハーマイオニーが思わずといった風に振り向く。

 そこでは槍刃に左のふくらはぎを裂かれ、尻餅をついたロンの姿があった。情け容赦ないというハーマイオニーの言を証明するかのように、真っ先に親友を傷つけたハリーの所業にDA生たちが青ざめる。十数年前の暗黒時代が原因で魔法薬の技術が発展したため重傷者でもパッと治せる時代になったとはいえ、いくらなんでも容赦がない。

 しかし杖を握っていたロンは文句も言わずそれを地面に突きつけると、痛みに耐え歯を食いしばりながら練り終えた魔力を放出した。

 

「『カレス・エイス・ケルサス』、神秘よ!」

 

 ロンが発動したのは『固有魔法』だ。

 まさか習得していたのかとハリーが驚くと同時、ロンの眼前に石製の巨大な人形が出現する。チェスのルークを模した人形兵だ。空気が押し出される独特な音は、一瞬前まで存在しなかった物体が突然出現したことによって鳴る音である。無から巨大な物体を召喚しやがった、とハリーが瞠目した先にある人形兵は、まるで生き物であるかのように腕を軋ませて手に持った石剣をぶんと振りぬいた。

 日本刀のように断ち斬るものでもなく、西洋剣のように叩き斬るものでもない、どちらかと言えば鈍器に近い様相の石剣は、単純にデカくて重い。ただそれだけで純粋に脅威だ。現にハリーが狙い済まして射出したはずの槍刃を、そのひと薙ぎですべて粉砕したのだから。

 

「……マジかい」

「ハリーはいま死喰い人役だ! いったん距離をとるぞ!」

 

 ロンがそう叫ぶと、ルーク人形はその身を床に沈めて自らを分解する。再構築された身体は城壁となってハリーの眼前に展開し、DAメンバーとハリーとを分断した。その手際のよさに、ハリーは思わず口笛を吹く。これは複数の死喰い人や魔法犯罪者に襲われた場合、どうするべきかとロンと暇つぶしで語り合った際に彼から提案された策だ。無駄だろうと思いつつも、杖を振って城壁を『爆破』する。するとやはり、すでにDAメンバーの誰一人として壁の向こうには居なかった。

 ここでロンを倒せなかったのは痛いとハリーは歯噛みする。戦闘力においてはハリーとハーマイオニーに劣るロンではあるが、彼の戦術眼は厄介の一言に尽きる。万能型のハーマイオニーよりも優先して行動不能にしないと、ハリーの不利は避けられないのだ。

 

「『ドケオー・DAメンバー』、探し出せ」

 

 探査呪文を唱えると、ハリーの杖先から仄暗い光が飛び出す。

 それはきょろきょろと辺りを見回し、目当てのものを見つけたのか左方向に向かって移動する。最も近くに居るDAメンバーを見つけ出させようとしたのだ。

 しかしその目論見はいきなり失敗する。

 

「さっそくか!」

 

 ハリーの魔眼が、探査呪文の魔力反応光に不純物が混じったことを視認する。その内容を視てとったハリーは、考えるより先に強化されたその脚で全力の回避を試みた。

 ビー玉サイズの魔力反応光が一瞬でスイカ並みの大きさに膨れ上がると、ハリーのエーテルから注がれた魔力が乱反射を起こしてバーストし、魔法式の殻を破ったことで爆発を起こした。

 不自然な体勢で跳んだために爆風にあおられごろごろと転がったハリーは、複数の敵意を感じ取る。起き上がるよりも先に床がへこむほど強く蹴り、天井へと跳んだ。それと同時に今までハリーの居た地点へ複数の赤い魔力反応光が着弾する。

 ちらとあたりへ視線を飛ばせば、ジニー・ウィーズリーとチョウ・チャンの姿が確認できた。無言呪文で『失神の呪文』を放ったのだろう。天井に着地したハリーは、落下予想地点へ再び失神呪文が飛んでくることを察知して、天井へと靴底を貼り付ける。

 天井で仁王立ちすることで再び呪文を回避したハリーの姿に驚いたチョウに隙を見出した。よって彼女を刈り取るために一振りで複数の『武装解除』を放つ。しかしそれは、若干タイミングが早いながらも、堅牢に組まれた魔法式によって出現した『盾』に阻まれた。

 

「……マリエッタだな」

 

 いつもチョウと一緒に行動している女子生徒のマリエッタ・エッジコムが張った防御壁が、ハリーの武装解除を弾き飛ばし、込められた魔力をすべて消費して消滅してゆく。

 魔力の供給元を魔眼で看破したハリーは、そちらへ向かって天井を蹴って一直線に跳んだ。魔法式を視る魔眼を持つ死喰い人が存在するかまでは分からないが、少なくともヴォルデモートは持っている。この眼を造るのに、いったいどれだけのおぞましい闇の魔術が必要になるのかは考えたくはないが、彼でなくとも会得している死喰い人がいたところでおかしくはない。そのため、ハリーはこの模擬戦でも遠慮なく使うことにしている。

 慌ててハリーを止めようとジニーが放った『武装解除』をあえて避けずに、ハリーはその反応光を肩に着弾させる。余剰魔力でハリーの身体と杖が別方向へ弾き飛ばされ、宙に舞った。牽制のつもりで放ったそれが当たったことに、チョウが喜びの声を上げる。それを聞いてマリエッタが安堵のため息をこぼす。

 これで、十分すぎるほどの隙ができた。

 

「油断大敵って言ったでしょう」

「……ぁ、は?」

 

 空中で身をひねって、弾き飛ばされた先の壁を蹴ってマリエッタの眼前へ躍り出たハリーは、彼女の鳩尾へと拳の一撃を食らわせる。呼吸を断たれたマリエッタが苦痛に身をよじって床へ膝をついたので、ハリーは振り返ることなくその首筋へ手刀を振り下ろした。

 ジャパニーズニンジャのようなアテミは見事に決まり、マリエッタの意識を刈り取る。かつて死喰い人相手に使ったときはただの打撃だったが、膨大な練習の甲斐もあったというものだ。コリン・クリービーには感謝せねばなるまい。

 そのまま床に崩れ落ちたマリエッタを心配してチョウが叫ぶも、その叫びは直後に悲鳴へと切り替わった。地を舐めるような姿勢で疾駆するハリーが、獣のような速度で接近してきたからだ。

 慌てて攻撃呪文を乱射するチョウも彼女を咎めるジニーも、焦りから照準が甘い。わざわざ防ぐ必要もないなと判断したハリーは、そのまま飛来する魔力反応光を潜り抜けてチョウの懐へもぐりこむと、その場で回転して彼女の脇腹を蹴りぬいた。軽い破砕音とくぐもった呻き声を残して吹き飛んだチョウの身体は、すぐそばに居たジニーを巻き込んでもんどりうって転がってゆく。

 団子になって壁にぶつかった二人を追いかけるハリーは、肋骨を折られた痛みで悶絶するチョウの身体をなんとか退かそうともがくジニーの目の前に立つ。ヤバいと焦って杖を探す彼女は、自分の杖をハリーが持っている姿を見て、諦めたように笑った。

 

「いやぁ……強すぎでしょ、ハリー」

「悪いけど、このくらいは序の口だよ」

 

 そういうと、ハリーはジニーの顎を掠めるように脚を振りぬく。

 脳を揺らされて意識を落としたジニーへ彼女の杖を放ってよこすと、ハリーは武装解除されて落ちてきた自分の杖をキャッチした。「うそっ」と呟く声と走り去る音を聞き、ハリーが目を向ければ背中を見せて全力で逃げるスーザン・ボーンズの姿が見えた。彼女は直接的な戦闘向きの呪文は苦手だったはずだが、スピードスケートのように高速で滑走しているため逃走手段くらいは用意していたのだろう。おそらくジニー達が、探知役として連れてきたのだ。

 無言呪文で『風圧呪文』を放ち、彼女の背中に命中させると大きく吹き飛ばす。天井に頭をぶつけた彼女は、そのまま意識を失ったのでハリーが彼女の落下地点にクッションを用意して、余計なダメージを防いでおいた。

 

「あと二十四人。……じゃないな、二十二人だ」

 

 ひゅん、と風切音を鳴らして杖を振るい、『逆さ魔法』で靴底を天井に張り付かせていたクリービー兄弟を撃ち落とした。奇襲を仕掛けようと狙撃魔法のために魔力を練っていた上に、狙撃コースを見やすくするための魔法(レーザーポインター)を使用していたのでバレバレだった。第一襲撃を撃退した直後の気が緩みそうなタイミングを狙ったことは評価できるが、それ以外は落第だ。

 魔法式を視る目があるだけでこんなにも奇襲を防ぎやすいのだから、死喰い人が持っている場合を想定させるのは正解だったかもしれない。ハリーは一言もDAメンバーに通達していないが、自分の考え方を熟知しているロンやハーマイオニーがきっと広めていることだろう。

 スーザンと同じくクッションへ落としたクリービー兄弟を魔法で引き寄せ、先に倒したジニーとチョウ、マリエッタと含めて全員を同じところへ寝かせておく。必要の部屋が全員分のベッドを創り出したおかげで寝かせることはできたが、女性用のベッドが無駄にフリルで飾り付けられているのはどうかと思った。

 さて、とハリーは杖を指先でくるくるもてあそぶ。

 DAメンバーはいくつかのチームになって行動しているらしい。実に効果的だ。死喰い人は基本的に集団で動き、その物量と闇の力でこちらを圧倒してくる。夏休み中の襲撃がいい例だ。よって個々が得意分野を担当し、チームワークによって相手を追い詰める。おそらくこれを考えたのはロンだろう。更に言えば、メンバーが彼の提案に従っているところも評価点だ。特にマリエッタなんかはロンの言うことをあまり聞きたがらないだろう、気の強い性格をしている。スーザンにいたっては、その明晰な頭脳によって作戦に綻びがあれば反発するだろう。だというのに、先の女子チーム四人はハリーに罠を仕掛けて先制攻撃するまでに至っているのだ。

 実に頼もしい限りだが、この実戦形式の勉強会においては厄介だ。なぜなら、今のハリーは闇の大悪党役なのだから。逆を言えば実際に闇の輩とかち合う羽目になった場合には有効な手段ということだ。そう考えると皆の成長がかなり嬉しいが……うん、今は厄介でしかない。

 再び探知魔法を行使したハリーは、今度は罠にはまらずまともに機能していることに内心ほっとする。魔力反応光に案内されるがまま動いていけば、廊下の向こうからひそひそ声が届いてきた。おそらく作戦会議をしているのだろうが、そういうのは行動前にしてほしいものだ。

 強化された脚力で一気にロングジャンプをして声のする方向へ跳ぶ。そして天井へ着地したとき、ハリーはおのれのうかつさを呪い、失敗を悟った。

 

「「やぁハリー」」

「来ると思ったぜ」

「始めましょうか」

 

 天井への着地音を聞いてぐるりと天井へ顔を向けたのは、双子のウィーズリーとリーにアンジェリーナ。彼らの周囲にはハリーと同じく探知魔法の魔力反応光がふよふよと浮いており、ハリーの接近を予知していたらしい。

 問題はアンジェリーナが二人と、フレッドとジョージがそれぞれ五人ほど居ることだった。

 ひとりしかいないリーがにやにやと笑みを浮かべているあたり、幻術魔法に適性の高い彼が彼らを増やしたのだろう。一瞬視ただけでは、どれが偽物かを見抜くことが出来ない。魔法式が走っていれば偽物だと看破できるが、本物も何かしらの幻術でまとうことでそれを防いでいる。間違いなくハーマイオニーの入れ知恵だった。

 全員が此方を向いてにやにやしている衝撃映像に驚いた隙を狙い、攻撃魔法に秀でた二人のアンジェリーナが一斉に杖を向けて無言呪文で魔力反応光を放ってくる。

 

「ッ、っと……!」

 

 天井に着地したままのハリーはそのまま天に靴底を張り付けて駆け出し、二人のアンジェリーナが交互に撃ち出す魔法を避け続ける。紅色の魔力反応光から判断するに武装解除術だ。

 当たらずともよいので牽制で射撃魔法(フリペンド)を放つ。ローズマリーのように特別な設定をしていないそれは、おそらくジョージであろう五人のウィーズリーが放った盾の呪文で全てが相殺されてゆく。ニヤニヤ顔のフレッドが杖を振るい、アンジェリーナに加勢して攻撃呪文を放ってきた。こちらは『足縛り』や『クラゲ足呪い』に『金縛り』といった、フレッドらしい動きを封じる魔法をメインとしていた。

 徹底してこちらに集中させない作戦のようだ。杖を振る暇も与えなければ、確かに反撃はできない。それは作戦としては間違ってはいないが、いかんせんハリーとは相性が悪い作戦だ。

 ハリーの全身を包む青白い魔力反応光が一気に両足へと集まると、彼女の移動速度が目に見えて速くなってゆく。その狙いを見抜いたらしきリーがまずいと鋭く叫び、笑みを消して素早く杖を振るった。

 その魔法効果によってリーが複数人に増殖し、一斉に散り散りになって逃げだす。

 しかし、

 

「油断したね、リー」

「うっお……!?」

 

 対応が遅すぎた。弾丸のような素早さで接近したハリーが、集中強化された脚で逃げ惑うリーを全員薙ぎ払う。リーの身体がハリーの攻撃によって霧散してしまったことから、この場にいるリー全員が幻影であることには感心したが、しかしこれでもう幻影の追加はできない。

 フレッドとアンジェリーナが驚いて杖を振るうものの、素早くでたらめに移動するハリーをとらえることが出来ない。床を蹴って高く飛び上がったハリーは、杖先から大量の水を放出して幻影を含めて三人をびしょ濡れにする。

 あんまりな嫌がらせにジョージが抗議の声をあげるが、ハリーはそれに取り合わず杖を複雑に振って魔法式を完成させる。走り回っている間に練り終えた魔力を込めて、ハリーは声に出してその呪文を唱えた。

 

「『グレイシアス』、氷河となれ」

「ちょ……ッ、ハリーその魔法は――」

 

 ハリーの杖先から噴き出した白銀の魔力反応光がスプレー状に広がると、周囲の気温が急激に低下した。トスッと軽い音と共に着地したハリーは、三人の惨状を眺める。

 ずぶ濡れになった彼らの体感温度を想像したくないくらいには、ひどいことになっているだろう。ガタガタと震えるフレッドが杖を取り落とし、耳を傷めたらしいジョージはうずくまったまま動かない。女性であるため比較的寒さに強かったアンジェリーナが杖を向けてくるものの、軽く杖を振って武装解除を放つとあっけなくその杖を弾かれてしまった。

 次々と幻影が消滅していく中、ハリーは戦闘不能になったジョージに『失神呪文』を放つ。壁の隅にクッションを出現させ、震え続けるアンジェリーナも失神させて一緒に放り込む。杖を拾おうとまごつくフレッドに近づくと、ハリーは言った。

 

「ちなみにこの戦術は君のおかげで思いついたんだよ、フレッド」

「……ず、ずる、ズル休み、アイスキャン、キャ、キャンディか……?」

「そう、それ。おかげで勝てたよ、ありがとねフレッド」

「か、可愛くねえ……」

 

 微笑んで杖を振るったハリーは、しかし魔力反応光を放つ直前でそれを無理矢理キャンセルする。無茶なアボートによって負荷がかかり、左胸を抑えながらハリーは飛びのく。

 それと同時にフレッドの周囲に粘度の高い影が出現し、檻のように彼を囲んだ。

 もしあのまま魔法を放っていれば、あれに呑み込まれていただろう。

 

「でも。可愛くねえから助かった」

 

 鳥かご状に彼を包み込んだ影は、そのままフレッドごと床の中へとどぷんと沈んでゆく。空間移動かと思ったが、必要の部屋もホグワーツの敷地内である以上『姿あらわし』はできない。床下あたりを移動しているのだろう。

 眉をしかめたハリーがフレッドの杖が落ちた場所へ目を向ければ、フレッドを掻っ攫った犯人も判明した。そこには全身を魔力反応光に包まれて黒ずくめになったハーマイオニーの上半身が生えており、彼の杖をしっかりと握りしめていたのだ。

 

『ハリー、ちょっと油断しすぎじゃないかしら』

 

 彼女の『固有魔法』だ。八つ当たり気味に射撃魔法を放てば、床の中へ沈みこんで回避される。そのまま気配が遠ざかっていったことから、もう追いかけても無駄だろう。

 思わず舌を打つものの、能力の種明かしをするというジャパニーズコミックに出てくる雑魚敵みたいなことをしたのはハリー自身だ。恥ずかしいやら悔しいやらで、言葉もない。アンジェリーナとジョージは撃破された扱いとして放置されていったため、暖かい毛布を取り出してかぶせておく。

 さて、と次の撃破目標を考える。

 攻撃呪文に秀でたフレッドを取り逃したのは大きいが、探査魔法のエキスパートと言ってもいいスーザン・ボーンズを撃破した成果は大きい。探査魔法は失せ物探し(ドケオー)など誰でも使える簡単な呪文ではあるが、細かい状況すら知ることのできる精度の探査魔法は、素質のある魔法使いにしかできない。同じ魔法を使っても、適性のあるなしで大きな差が出るのだ。例えるならば、きれいなガラスのフラスコとやすりで磨いたフラスコ、それぞれに同じ魔法薬を入れたとしても、その視認性に大きく差があるようなものだ。

 その点でいえばハリーは、茶色いガラスで作ったフラスコのような精度だ。魔法薬が入っているのは分かっても、色も匂いもわからない。先ほど使った失せ物探しでも、方角を示す程度しか役に立たない。恐らくスーザンであれば、壁を隔てて遠方にいたハリーの視線の向きすらも把握できていただろう。

 

「だからこうして、続けざまでもそっちから来てくれるのはありがたいんだよね」

「そうかい? じゃあ、そのありがたみを抱いたまま負けてもらうよ、ハリー」

 

 そう言ってこちらへ歩み寄ってくるのは、ロン・ウィーズリーだ。

 恐らく彼が司令塔であるがゆえに直接出向いてくるという愚を犯すまいと考えていたのだが、どうやらハリーの予想は外れたらしい。魔眼で視ても、彼が偽物であるとは思えなかった。序盤にハリーが仕掛けた脚の怪我は治癒されているらしい。おそらくハーマイオニーかアーニーあたりが治したのだろう。

 彼の隣には同じく落ち着いた歩みでこちらへ近寄るネビル・ロングボトムがいる。いつものようにおどおどした様子はなく、多少の緊張はしているようだが、それでも毅然とした態度で訓練へ臨んでいるようだ。

 まさか二人だけではあるまいと思ったが、先ほど逃したフレッドが弟の後ろでにやにやと笑っている。策もバッチリというわけだ。

 

「『アニムス・トルトニス』、もっと速く」

 

 身体強化の配分を脚に集中させたハリーは、目にもとまらぬ速度でネビルへと一直線に駆ける。一切の手加減なく彼の肋骨を蹴り砕く勢いで、ハリーは足刀を放った。

 びくりと僅かにたじろいだネビルはしかし、吹き飛んでいくことはない。それどころか微動だにせず、ハリーの足の甲を受けても二本の足で立ち続けていた。視れば、足の甲の先には蜘蛛の巣状にひびの入った『盾』が見える。

 まさか防がれたかと思ったハリーは、その『盾』ごと食い破らんがために強化された速度を存分に生かして蹴りの連撃を放つ。風切り音と衝撃波が荒れ狂い、確実な手ごたえからハリーは盾を蹴り砕いたことを確信する。

 しかしネビルにはその一切が届かない。本気の驚愕に見開いた目が見たのは、砕けた盾の下に張られている更なる『盾』。二層構造にして、彼女の追撃を誘っていたのだ。その目的は防御だけではなく、きっと時間稼ぎも兼ねてのこと。

 まんまと罠にはまったことをハリーが悟ると同時、ネビルはぽっちゃりした頬を引き締め、ハリーの攻撃を防いだ時間を利用して練った魔力を装填し、杖を振り上げると優しい形をした眉をきりりと吊り上げて叫んだ。

 

「『プロテゴ・コンキリオ』! 吹っ飛んじゃえ、ハリー!」

 

 彼の叫んだ呪文に覚えのあったハリーは、直ちにその場を離れるため無理矢理蹴りを中断して残る軸足で床を蹴る。しかしまともな姿勢でもない回避行動では間に合わず、ネビルの全身から放たれた衝撃波が彼女の身体を飲み込んだ。

 衝撃や魔法といった攻撃を吸収する盾で相手の攻撃を防ぎ、その盾を爆破することでそのまま相手に返す魔法。それが『プロテゴ・コンキリオ』だ。恐るべきは諸刃の剣であるその魔法を使ったネビルが無傷であること。

 全身に痛みを感じながら床を転がるハリーは、ローブに誇り一つないネビルの様子を見てうれしさと同時に厄介さを感じる。彼は自分の全身を覆うような盾を展開し、それを爆破、そしてその爆風が自分に届く前に再度盾を張りなおしたのだ。つまり彼が使っていた盾の呪文は実に三重構え。単純な盾ならまだしも、複雑な盾を三つも同時展開するなどハリーには難しい繊細な技である。

 恐るべき点はその狡猾さだ。ハリーの足刀が一枚目の盾を砕いたのは、油断を誘ってに追い打ちをかけさせるため。わざと防御を破らせて安心させたところへ、さらに堅牢な防御を用意しておく。さらにその堅牢な盾は守る対象である主ごと破裂するという代償を支払い、襲撃者たるハリーを負傷させた。だというのに、その奥で張り巡らせた三枚目の盾のおかげでネビルは無傷である。

 

「油断大敵! ってね」

「うっぐ……!」

 

 ふざけた口調のフレッドが杖を振るうと、彼の杖先から好き勝手に暴れる派手な魔力反応光が飛び出す。まるでドクター・フィリバスターの火なしで火がつくヒヤヒヤ花火を模しているような反応光は、起き上がろうとしていたハリーの背を撃ち抜く。

 再び床に叩き付けれたハリーが自分の肺から空気が吐き出されたことでカエルのような呻きをもらし、それでも気力を振り絞って両足を床にたたきつけた衝撃によってその場から跳んで離れた。

 ずん、と重い音と共に一瞬前までハリーのいた位置へ石の穂先が叩き付けられる。ロンが『固有呪文』で造り出したナイトの駒が突撃槍で突いたのだ。宙へ身を躍らせたハリーは、天井へ着地してそのまま上下逆さまのまま駆け出した。

 これは難敵である、ゆえに逃げようと判断したのだ。見事な逃走っぷりである。

 ただし、

 

「うッ!? 痛ったぁ!? なんだこれ!」

 

 透明な壁におでこをぶつけて、行く手を阻まれていなければの話だ。

 はっとして視れば、限りなく透明な『盾』が目の前に展開されていた事に気づく。間違いなくネビルの仕業である。一面を覆う盾の強度は高く、破ろうと思えばできないこともないが、容易には突破できない強度。無論、足止めが目的なのだから破壊へ集中してしまえば敵の思うつぼだ。優しい彼にしては、ずいぶんといやらしい魔法式である。

 逃げ道をふさがれたと歯噛みする中、足を止めてしまったとハリーの心が己の失態に叫ぶ。

 その叫びもむなしく、スーパーボールのような不規則さで天井や壁に床を飛び跳ねてきた赤い魔力反応光がハリーの左腿に直撃する。ばちんと大きな音を立てて吹き飛ばされた自分の杖を目の端で追い、しかしすぐ横にまで迫ったロンのチェス・ナイトへと対処する。

 杖は失ったが、まだ脚への身体強化は健在だ。振るわれた突撃槍を蹴り砕き、ネビルの盾を足場に着地して追撃の跳び蹴りを加える。頭部を吹き飛ばされたナイトが崩れ落ちるものの、しかしハリーはここで己の失策を悟った。

 砕け散ったナイトの中心部には、黒々とした闇が渦巻いていたからだ。

 ずるりと這い出てきたのは、『固有魔法』によって魔力反応光の塊となったハーマイオニー。これは完全にやられた。空中にいてはとっさの対応ができない。杖でもあれば別だが、その武器はいま手元にない。

 

「チェックメイトだ、ハリー」

 

 ロンの言葉と共に、ハーマイオニーの杖から放たれた『全身金縛り呪文』がハリーの胸に直撃する。空中で両手足がばちんとくっついたハリーは、さらにフレッドとネビルが放った縄呪文によって全身を拘束される。

 身動き取れないがゆえに背中から床に落ちたハリーは、動かない口でうめいた。金縛りを解呪される可能性を見越しての二重の拘束は見事としか言いようがない。ハリーの杖も堅牢な盾をまとったネビルが持っており、魔法の力なしに取り返すのは不可能だろう。

 ならばハリー自身は動かなければいいのだ。

 

「わっ、あ、きゃああ!?」

「は、ハーマイオニー!」

 

 あられもない悲鳴を上げたハーマイオニーへと視線をやれば、そこには大量の蛇に全身を締め付けられて『固有魔法』を解除されている姿があった。それもただの蛇ではない。純白に輝く、牡鹿と雌鹿と大蛇の合成獣だ。つまり、ハリーの守護霊である。

 事前に待機してあったのか、と驚愕したロンが新たに指示を飛ばす前に、ハリーの守護霊は尾の大蛇で絞め落としたハーマイオニーを彼に向かって投げつけた。あまりにもあんまりな攻撃に絶句したロンは、彼女の身体を受け止めたことで隙を作り出してしまう。さっと素早く近寄った守護霊がロンの鳩尾を蹴り飛ばした。

 絶句して壁に叩き付けられたロンが気を失ったことを確認すると、ハリーは限界まで目を見開いて床に転がる自分の杖を凝視する。若干おぼつかないコントロールでハリーに向かって飛んできた杖先が彼女の額にこつんとぶつかり、その瞬間を待って練り上げていた魔力を注ぎ込み、事前に組んでいた式を完成させて『停止呪文(フィニート)』を発動させる。身体に自由が戻り、拘束されているため動かしづらい手で額から落ちてきた杖をなんとか握ると、ハリーの胸から白銀の刃が生える。その刃は彼女の全身を舐めるように駆け巡り、縛りあげていたロープを切り裂いて床にばらまいてしまう。

 魔縄での拘束プラス全身金縛り状態から復活されるとは思っていなかったのか、驚きのあまり反応が遅れたハーマイオニーに向かって停止呪文の魔法式を内部に詰め込んだ紅槍を投擲。避ける間もなく左の太ももを貫かれた彼女は、体内に食い込んだ槍から浸透した停止呪文を叩き込まれ、全身から固有魔法の闇を霧散させてその場に倒れこんだ。

 普通に重傷である。

 

「な……ッ、ぁ……!?」

「あちゃあ、やり過ぎたかな」

 

 あまりの容赦なさに驚き固まっていたフレッド目がけて、ハリーの守護霊がその立派な角を突き出して襲い掛かる。しかしそれは咄嗟にネビルが張った盾によって妨害され、フレッドが無事を拾った。

 さすがに親友にやることじゃないかなと反省しながら、ハリーはネビルに向かってかなり大量の魔力を込めた武装解除を放つ。咄嗟に盾で防ぐことに成功はしたものの、余剰魔力によって大きく吹き飛ばされたネビルはそのまま壁に突っ込み、激突する。それでもダメージはないあたり、全身を覆う膜のような盾も展開していたに違いない。

 ならば拘束してしまえばいいのだとハリーが壁を変形させてネビルを飲み込ませようとして杖を振るい、魔法式を脳内で展開する。しかしその瞬間、強化された動体視力がネビルのすぐ後ろの壁の異変に気付く。ずるりと生えてきた上半身は先ほど脱落したはずの、マリエッタ・エッジコムのものだった。リタイアしたはずの彼女が何故ここにいるのか。それは今、どうでもいい。彼女がこちらを攻撃する気ならば、容赦するわけにはいかないからだ。

 ネビルを拘束させるために唱えていた呪文を強制的にキャンセルさせ、その反動による頭痛に耐えながらハリーはネビルごとマリエッタを吹き飛ばすために杖へと魔力を込める。ばちばちと紫電が飛び跳ね、ハリーがこれから放とうとする魔法の威力を物語っていた。

 

「『エクスペリアームス』、武器よ――」

「待って、ダメ! ここから逃げて!」

 

 ハリーが武装解除を放とうとしたその瞬間、マリエッタが切羽詰まった顔で叫ぶ。油断を誘うためのハッタリかとも思ったが、それは違うと断ずる。マリエッタはチョウの意見に流されやすい性格をしているが、そういう無意味なことをする女性ではない。

 何が起きたかわからないまま再び呪文をキャンセルしたその瞬間、ハリーは背中に氷を滑り込まされたかのような感覚を味わった。圧倒的に禍々しく、おぞましく、この世にあってはならない漆黒の波動が肌を、鼓膜を、まつ毛を震わせる。

 何が起きたのかを把握してしまった。理解したくなかった。わかりたくなかった。

 だが、すべてはもう遅い。

 絶望のあまりハリーが顔色を蒼白にし、ネビルがその原因に気づいて悲鳴を上げた。

 

「ンッフ、ぬぁーにをしているのかぁーしらぁぁああん……? ンッフフ! ぐふっ!」

 

 アンブリッジだ。

 ネビルのすぐ真横。マリエッタとは反対側の壁から、吐き気を催す邪悪な顔が突き出ていた。その声を聴いてフレッドも絹を裂くような悲鳴を上げ、痛みに苦しんでいたハーマイオニーが絶句する。何らかの魔法によるものか、全身に粘液をまとっているためにゅるんと毒々しい音を立てて穴から垂れ流されたガマガエルは、恐るべきことにセクシーダイナマイトなスリングショット水着を着ていた。

 眼球が汚染されたァァァと顔を抑えて床の上で悶え苦しむ男性陣をにんまりと眺めながら彼女が杖を振る。すると咄嗟に盾を展開できたハリー以外のこの場にいる全員の全身が、雁字搦めに縛り上げられた。一瞬だけ目にした魔法式によれば、体外に自身の魔力を出すとそれを吸収してより拘束が強くなる悪辣な式が採用されている。縛り方もなんとなく卑猥だ。

 魔法を使うなとDAメンバー達に警告すると、アンブリッジに続いて次々とスリザリン生が壁を裂いて部屋の中へと入ってきた。まさか、どうやってこの『必要の部屋』へ入ってきているんだ。

 

「おや、おや、おや。まあ、まあ、まあ。秘密の戦闘訓練とは……やはりハリー・ポッター、あなたは危険極まりない犯罪者ですわねェン。この処遇は……そうですねぇ、ホグワーツの新校長であるこの、あてくしが、あたぁしが、このドローレス・アンブリッジが、決めてあげますよン。うふふのふ」

 

 いつの間にハリー達がこうして訓練を積んでいる情報を掴み、いつの間に『必要の部屋』の存在を嗅ぎ当て、そして『部屋』への侵入手段を整え、この大々的な訓練に潜り込んで不意を打ってきたのか。

 まったく気付くことが出来なかった。仲間たちを縛られ、こちらの命運を敵に握られてしまった。悔しさのあまり唇を強く噛むハリーは、ゆっくりと歩み寄ってきた目の前の人物へ目を向けて、驚きに声を上げた。

 

「まったく。情けない有様だな、ポッター」

「……ドラコ」

 

 ドラコ・マルフォイ。

 初対面にして、自分と同じような飢えを抱いていると感じた少年。

 スコーピウスと同じ顔を持ち、しかしオールバックでしっかりキメる弟と違って下ろしたプラチナブロンドの髪を揺らして、冷たい目でこちらを見据えている少年の様子は、平時と何ら変わりはなかった。変わりないからこそ、ハリーには信じ難かった。

 この男はアンブリッジなどという、下らぬカエルにこうべを垂れるような男ではない。

 

「どうして、君が……。君は権力になびくような男じゃないはずだ」

「それはどうだろう。買い被りかもしれないぞ」

「何をばかなことを」

 

 ハリーの狼狽を、ほかのスリザリン生がドラコに同調するようにせせら笑う。しかし目が全く笑っていない。喜悦の感情が全く感じられない笑声に、ハリーは不気味さを感じた。DAメンバーもそれを感じ取ったようで、怪訝な表情を浮かべている。

 それを楽しそうに眺めているのはアンブリッジだけだ。アンブリッジだけがこの場の異様な空気に気付かず、己の勝利に酔っている。

 

「僕はアンブリッジ高等尋問官親衛隊隊長とかいう名誉な立場を頂いてね」

「ガマガエルの飼育係がなんだって?」

「下賜された高貴なる崇高で気高い任務は、君たちの捕縛だそうだ。喜びたまえポッター、君はガマ……もとい、アンブリッジ高等尋問官のお気に入りだそうだ。特に厳しい罰をおあたえになると、君の写真を嘗め回しながらおっしゃっていたぞ」

「……それは、ぼくがハエだってことかな」

 

 皮肉をこめて言ってみれば、アンブリッジには通じなかったようで満足げに頷いている。言葉の通りに受け取ったらしいが、彼女は本当に魔法省の高官になれるほどの頭脳を持っているのだろうか。それとも肥大化した自尊心というものは、頭脳の良さとは別に判断力をおおいに低下させるものだとでもいうのだろうか。

 若干の混乱を見せつつあるハリーにむけて、ドラコは自身の杖をくるくると弄びながら、嘲弄の色を混ぜた言葉を告げる。

 

「杖を構えろポッター」

「なぜ? 抵抗しろとでも?」

「その通りさ。我らが高等尋問官は、自分が抵抗しても無意味だと知らしめた上で罰則を与えたいらしい」

 

 悪趣味極まれりだ。

 おそらく抵抗してドラコに勝ったとしても、それを理由に罰則を課すに違いない。

 どちらにしろこの状況ではアンブリッジの望み通りに踊ってやるしかないのだ。であればお望み通り、踊ってやるほかに選択肢はないだろう。

 ドラコが流れるように杖を顔の前に掲げ、お辞儀をする。貴族らしい優雅な所作だ。

 ハリーも彼に倣ってお辞儀をする。鋭いそれは貴族ではなく戦士のそれである。

 拘束されたDAメンバーたちも、スリザリン生たちも、二人の様子を固唾を呑んで見守っている。一触即発の空気の中、そんな空気を読まずアンブリッジが巨大なゲップをかました。嫌な合図もあったものであるが、それをきっかけに二人は同時に呪文を叫ぶ。

 

「『エクスペリアームス』、武器よ去れ!」

「『ステューピファイ』、失神せよ!」

 

 色合いの違ったふた筋の紅い魔力反応光が、二人の間でぶつかり合う。

 慢心も油断もしていたつもりはないが、ハリーはわずかに眉根を寄せて驚く。一歩、いや一瞬でも判断が変わっていれば命を落としていたような修羅場をくぐりぬけたハリエットという女は、自惚れでも何でもなく相応の実力者である。だというのに、ドラコの放った魔法は自分のそれと拮抗している。

 いったいどこでどうやって、どのような戦闘訓練を受けているのか。彼が杖を振るう所作にも不慣れさはなく、まるで肉体の延長線上のように操っているのだ。

 ここでドラコに勝ったとしても、逃れられることはまずあり得ない。魔法省がどのような手段を使っているにせよ、アンブリッジはいまホグワーツの教職員なのだ。それも、尋常ではない権力を有した教職員である。それこそ、おそらくはダンブルドア以上の。そんな彼女(?)が定めた法をこちらが破っている現場を発見されてしまった以上、何が何でも罰を与えたがるだろう。ゆえに、ここで勝とうと見逃されることは天地がひっくり返ろうともあり得ない。

 だからこの状況は、ドラコが言ったように彼女が自己満足のために演出するショーであり、それ以上でも以下でもない。なるほど、くだらない茶番である。

 

「チッ……」

 

 いまいちやる気が出ない。そういった感想を抱いてしまうのは仕方のないことだろう、意味のない戦いほどむなしいものはないとはよく言ったものである。

 ちらとドラコの表情を見れば、欠片も楽しそうではない。DAメンバーは当然としても、意外なことにスリザリン生たちもあまり楽しそうではなく、ただハリーとドラコが魔法を撃ち合う様を眺めているだけ。ワクワクしているのはアンブリッジだけだ。

 

「『インカーセラス』、縛り上げろ」

「『アレスト・モメンタム』、停止せよ!」

 

 ハリーとドラコが、ほぼ同時に魔法を放つ。

 ドラコの杖から射出された極太の魔縄はハリーを縛り上げようと鞭のように素早く飛びかかるも、彼女の杖から飛び出した魔力反応光がその縄の動きを完全に停止させる。

 さて次はどうするとハリーが思考を動かした途端、胸の中心に衝撃を感じた。

 その瞬間、自分に魔力反応光が直撃したことを思い知る。色は紅、魔法式はほんの一瞬目にしただけでわかるほどによく見てきた構成。『武装解除』だ。ドラコは縄縛り呪文の影に隠して、魔縄と同じ軌道で無言呪文を用いて撃ち込んだのだ。

 魔力反応光が発生するタイプの攻撃魔法は、直接対象に作用する魔法と比べると格段に避けられやすい(無論、一定以上の実力を持った魔法使いに限っての話だ)。ゆえに遠距離型魔法使いの決闘は、己の放った魔法をどれだけ相手にぶつけることができるのかという一点に終始する。確かにこのやり方ならば、位置関係を考えるとハリーからは見えない。観戦している周囲からはよくわかったのだろう、アンブリッジが満面の笑みを浮かべていた。

 確かに、去年あの墓地でハリーを襲った一人であるルシウス・マルフォイは無言呪文の達人だった。目に入れても痛くないほど可愛がっている自分の息子に、その極意を教えていたとして何ら不思議はない。

 

「――ほッ!」

「なん……ッ!?」

 

 しかしハリーは、アンブリッジに笑みを与え続けるほど奇特な女ではない。

 同じく無言呪文を用いて、ハリーのできる限りの最速を以てして杖腕だけを『身体強化』する。杖なしの魔法は未だに完全に習得したとはいえず、魔力もごっそり持って行かれる上に効果も中途半端だが、この一瞬だけを要するため特に問題はなかった。

 ハリーは『武装解除』の効果によって自分の手から弾かれ明後日の方向へ飛んでいこうとする杖を、その場で掴み取った。そのあまりにも人間離れした力技に、ドラコはその薄い瞳を見開いて驚いた。それこそが、致命的な隙である。

 杖を手にしたその体勢で、床に倒れる僅かな時間で杖先を彼の胸元へ向ける。その状態のまま無言呪文で『武装解除』を放てば、さしものドラコとて避けることは叶わない。それでも避けようと身をよじった彼の右肩に魔力反応光が直撃し、ばちっと紫電をはじくような音と共に、サンザシの杖が手から弾かれて床を転がった。

 

「……、まさか」

「おまえの負けだ、ドラコ」

「いいえ貴女の負けですわ、ポッター。あン、『エクスペリアームズ』!」

 

 信じられないものを見る目で杖のない己の手を見つめるドラコに、ハリーはつまらなさそうに声を掛ける。そしてそのハリーに対して上ずった声で楽しげに『武装解除』を投げつけたアンブリッジは、杖を弾き飛ばされて抵抗もなく床に叩きつけられるハリー・ポッターの姿を見て、そのみにくい唇をゆがめた。

 アンブリッジが、最初からドラコとハリーの戦いから漁夫の利を得て、優越感に浸るつもりだったのだと気付いたのは、己の視界が暗く染まりぼんやりとしてからであった。

 ハリーがもうろうとする意識の中で連れてこられたのは、あまり見覚えのない部屋の中であった。知らぬうちに意識が途切れていたようで、どうも床に転がされた経緯を覚えていない。清潔に掃除されたカーペットの上に横たえる自身の体の節々に痛みが走る。胸や腹、背中から鈍痛を感じるあたり、意識のないときを狙って蹴られたのかもしれない。おまけに手足が魔縄によって縛られており、見動くも取れない。

 ぼんやりとした頭で天井を眺めてみれば、猫のグッズでいっぱいのピンクで満たされた部屋であった。ああ、ここはアンブリッジの住む魔窟か。そう思うと人は現金なもので、床が汚染物質で満たされた汚らしいものに見えてしまった。

 

「これで、ダンブルドアは終わりですわね。んほほ」

「そうでしょうね、アンブリッジ高等尋問官。なにせ武装団体を組織していたのですから!」

 

 アンブリッジが漏らす半笑いの嬉しそうな声と、おそらくスコーピウス・マルフォイのものと思われる声が聞こえてくる。

 せせら笑う少年たちの声が聞こえるあたり、おそらくスリザリン生で構成された『愛しきアンブリッジ親衛隊』(冗談のような組織名だが、残念ながら冗談ではない)だろう。スコーピウスがここにいるのも、その親衛隊に加入しているからだろう。

 するとなんだ、ドラコもそのカエルの飼育係に参加しているとでもいうのか。あの、ハリーには知りえない何かの目的のために、着々と力をつけているような男が。カエル飼育係に。そういった思考を巡らせるハリーは、しかし自分の耳に飛び込んできた声に、彼女は自身の頭が『錯乱呪文』を受けていないかを疑うことになった。

 

「そォォォうですわよねェン!? ドゥァアア~ンブルドゥウウウアァアアアアアア!?」

「そうじゃのう、これはまずいのう、まいったのう、やられちゃったのう」

 

 ダンブルドア。

 ハリーは動けない身体ながらも、もやのかかってはっきりしない頭を振って、むりやりに脳みそだけを覚醒させた。自分たちの興した組織の名は、DA。実際にはありもしない、魔法省転覆を目的とするダンブルドアの私設軍隊を恐れているアンブリッジを皮肉って命名した、ダンブルドア・アーミーである。

 その活動を見破られ、あまつさえ現行犯でとらえられてしまった以上、彼女の恐れた幻影は現実のものとなった。しかしダンブルドアの私設軍隊などあるはずもなく、いまこのアンブリッジの部屋に呼びつけられたダンブルドアにとって、寝耳に魔法薬であったはずである。

 なんてことをしてしまったのだろう、と一瞬だけ考えるも、まぁダンブルドアなら何とかするだろう、ていうか助けろジジイ。という思考が脳裏をよぎる。だんだんと意識がはっきりし始めたハリーは、その思いを視線に乗せて我らが校長先生へと送り付けた。ヒゲがぴくりと動いたので、おそらく通じただろう。おじいちゃん助けて、と媚びた視線を送るよりはいいはずだ。

 

「まずい? いま、まずいとおっしゃいましたわね! それはつまり、ご自身の犯行をお認めるになるということ! ダンブルドアッ! アナタッ! 私設軍隊を組織していたことを認めるんですわねェン!?」

「ふはははは、まさにそのとおり。わしは魔法省転覆を狙ってああだこうだ、あれをこうして、ここをこうした結果、ダンブルドア軍団を作り上げた的なアレなのじゃあ」

 

 だいぶ適当な調子でのたまうダンブルドアの様子にも気づかず、アンブリッジは恍惚とした表情を浮かべてよだれを垂らしている。

 ダンブルドアが自分たちを庇ってありもしない罪を被るつもりであると気づいたハーマイオニーが口を挟もうとするも、状態はハリーと比べて床に転がされているか否かの違いでしかないため、動こうとしてパンジー・パーキンソンに足をかけられて床に倒れこんだ。

 

「やはり、そうであったか! やはり私の地位を狙って! やはり国家転覆を!」

「それはないのう。魔法大臣になったところで、しょうもないじゃろ」

「うそつきめッ! だまされないぞ!」

 

 ふと聞こえてきた激昂する声におどろいて見遣れば、そこには顔を真っ赤にしてダンブルドアに食ってかかるコーネリウス・ファッジ魔法大臣の姿があった。

 

「ドーリッシュ! シャックルボルト! ダンブルドアを拘束せよ! アズカバンへ送るのだ。かの偉大なる魔法使いも国家反逆者になれば、こんなものだ! ははッ、はははは! かッ、勝った! 私が、この私があのダンブルドアに勝ったあ!」

 

 うわずった声でわめくファッジに、護衛として控えていた二人の闇祓いが前に出る。ベージュのトレンチコートを着込んだジョン・ドーリッシュという中年の魔法使いと、ハリーもよく信頼するグリフィン隊隊長の魔法使い、キングズリー・シャックルボルトだ。

 ドーリッシュは相手が二〇世紀最強の男であることを理由に緊張して、杖を持つ手が震えているも果敢にその杖先をダンブルドアへと向けていた。キングズリーはどこかしら呆れたような眼をしながらも、一応は杖先を向けている。彼もまた不死鳥の騎士団がメンバーではあるが、ここでファッジに逆らって魔法省の中枢にいられる立場を失うよりは、逮捕の意志を見せるポーズを取った方がいいと判断したのだった。

 

「おや、コーネリウス。きみは少々、勘違いをしておられるようじゃな」

「かん、ちが、いぃイ?」

「そのとおり。何といったかの、神妙にお縄に着く、じゃったか。わしが大人しく、そうなるとでも思っていたのかね、コーネリウスや」

「……えっ? えッ。い、いや。しかし、あなたは、いま……」

 

 にまっといたずらっ子のような笑みを浮かべたダンブルドアに、ファッジが困惑した様子を見せる。その顔は今までの悪人面まるだしのそれではなく、教師に間違いを指摘された教え子の顔そのものであった。彼もホグワーツ出身であったからには、ダンブルドアの変身術の授業を受けていたに違いあるまい。その時もおそらく、このような顔をしていたことだろう。

 ファッジという男は平時では人当たりのいい、善良な小物だったのだ。こうして調子に乗っているところで壁に当たれば、くじけて本性が見えてくるものである。

 そういった頼りない上司を補佐するのが魔法大臣上級次官であり、この女の本領であった。

 

「闇祓いッ! 彼を『失神』させなさい! いま、すぐに!」

 

 ダンブルドアの煙に巻く物言いを一切シャットアウトして、鋭い命令を下す。

 とっさに反応できたのはキングズリーだけであったが、彼はダンブルドアに魔法を放つことがどういう結果を生むのかよく知っている賢い男であったため、一瞬だけ躊躇したものの『失神呪文』を放った。それは奇しくも、アンブリッジの声におどろいてひるんだドーリッシュが『失神呪文』を放つタイミングと完璧に重なった。

 放たれた二筋の魔力反応光がダンブルドアへ迫る光景を見て、ハーマイオニーをはじめとしたDAメンバーは悲鳴と慟哭を、闇祓い二人は緊張に染まってこわばった顔を、ファッジは罪悪感と勝利のふたつが混じり合った奇妙な顔を、アンブリッジは愉悦と残酷な快感を浮かべる微笑を、親衛隊はただ呆けた顔を、ハリーとドラコは鋭い目でダンブルドアを見つめていた。

 ハリーは『失神呪文』の赤い閃光がダンブルドアに着弾する寸前、彼の周囲に魔法式が走ったのを確かに目にした。見たことのない式ではあったが、構築が『盾の魔法』に似ていることから防御呪文の類であると見抜く。

 二筋の光はダンブルドアに中らず、彼の周囲をぐるぐると旋回しはじめる。当然、ふたりの闇祓いはただの『失神呪文』にそのような効果を込めているはずもなく、唖然としてその様子を見守るしか術はない。ファッジとアンブリッジもまた同様で、それはホグワーツの学生に過ぎない子供達もまた同様であった。ハリーはその魔眼を見開いて、少しでも魔法式を盗み見ようと努力するものの、かなわなかった。あまりにも脳みその構造が違いすぎる。届かない領域を人の目で見たところで、見えようはずもなかったのだ。

 老人が優雅に両手の平を天井へ向けると、その手中へと魔力反応光が飛び込む。それはもはや赤の色をしておらずカラフルなマーブル模様となっており、両手の上で球体になっておとなしくダンブルドアに従っていた。あまりの出来事に周囲の人間が動きを止める中、ダンブルドアは一言だけ言葉を残した。

 

「さらばじゃ」

 

 両手をぱんと合わせると、ふたつの魔力光球が合わさって爆発を起こす。それは闇祓いふたりの身体を大きく吹き飛ばし、アンブリッジの部屋に飾られている皿や家具などへ叩きつけた。ファッジとアンブリッジもまた床を転がされて壁に背を打ち付けており、影響を受けていないのはハリーらホグワーツの生徒だけであった。おまけにDAメンバーたちは、その全身を拘束していた魔縄がほどけているではないか。

 そのあとには、ダンブルドアの姿は影も形もなかった。ホグワーツにおいて『姿あらわし』は、いにしえの結界の効果によって行うことができない。この場にいる全員が、校長がどうやって消えたのかを見抜くことは不可能であった。

 ダンブルドアが無事に逃げおおせたのは、非常によいことであった。問題はそのあとだ。

 驚きから憤慨に移行し、親衛隊のひとりを八つ当たりに張り倒したアンブリッジは、ファッジを連れて部屋から出て行ってしまった。どうすればいいか分からず困惑するスリザリン生たちは、ドラコへと視線を集める。彼はダンブルドアが消えた場所を凝視していたはずだが、いまは床に座り込んで縛られていた足首をさすっているハリーのことを見つめていた。スコーピウスがドラコの肩を叩くと、うっとうしそうに弟へ目を向け、そして追従するようにと手を振って、親衛隊たちを引き連れて部屋を出て行った。

 あとに残ったのは、捕縛されたはずが放置されてしまったDAメンバーたちだ。

 

「……ごめんなさい、私が悪いの」

 

 そう呟いたのは、頬を赤く腫らしたマリエッタ・エッジコムだった。

 全員の視線が向く中、彼女は嗚咽を漏らしながら告白する。言い訳をするわけではないけれど、と前置きをして、彼女はアンブリッジに『必要の部屋』での会合のことを喋ってしまったと言った。それに対してほとんどのDAメンバーが無言で怒りの目を向けたが、彼女を庇おうとしたチョウを手で制し、ハーマイオニーが口を開いた。

 

「それはないわね、マリエッタ。あなたは裏切り者ではないわ」

 

 曰く、彼女はDAメンバー全員にある種の呪いをかけていたのだという。ぎょっとして全員がハーマイオニーを見つめると、DAの集まりのことを所属している人間以外へと漏らすと同時に体のどこかへ『密告者』の刻印が、癒えることのない出来物として浮かび上がると言ったことで全員が彼女へ非難の視線を向ける。肩をすくめてそれを受け流した彼女は、マリエッタの顔にそれがない以上、彼女が自分の意志で密告した事実はないと断言した。

 申し訳なさそうな顔をしていたマリエッタが少々非難の色を目に込めてハーマイオニーを見つめていたものの、しかしついに白状した。ハリーにも使われたように、アンブリッジとの面談において紅茶に『真実薬』を盛られたのかと思いきや、彼女はそれを回避したのだという。しかし変身術に長けていない彼女は歯をクラゲに変えて紅茶を吸い取り切ったハリーと違い、真正面から飲むことを拒否したのだという。その結果が、『服従の呪文』をかけられたとのことだ。

 あまりの驚きとアンブリッジの残忍さに怒りの声が上がったが、いまマリエッタが操られている様子はない。原理は知らずとも、ハリーが魔法の作用を見抜く特別な目を持っていることはDAメンバー全員が承知の上であるため、全員がハリーを見る。彼女がマリエッタを見つめて首を振ったため、マリエッタは正気だ。ではなぜか、などと疑問に思う者はここにはいない。秘密を吐かせられてしまうという致命的な隙は見せてしまったものの、彼女は自力で『服従の呪文』を打ち破ったのだ。おそらく術を解いたそのタイミングは、模擬戦でハリーに打倒されたときだろう。だからこそ、アンブリッジとその親衛隊が押しかけてくる直前に警告を送ることができたのだ。

 

「だから、DAメンバーに裏切り者はいないわ」

「そいつはいいニュースだよ、ハーマイオニー」

 

 ハーマイオニーのきっぱりとした声に、ロンが適当な返事をする。

 不幸中の幸いとでもいえばいいのか、DAメンバーから秘密が漏れたことに変わりはないが、裏切りがあったわけではないというのは朗報だ。そう思わねば、この沈んだ気分を変えることはできまい。

 泣きじゃくるマリエッタの肩をチョウが抱き寄せる中、血相を変えたマクゴナガルがアンブリッジの部屋へと駆け込んでくる。どうやらDAメンバーが捕縛されたニュースを聞きつけてきたらしい。

 これからどうなるのかは、ハリーにも、この場の全員にも分からなかった。

 

 

 





【変更点】
・ハグリッドの帰還時期が原作と比べ、たいへん遅い。
・巨人全滅。義弟のグロウプを連れ帰ることはできなかった。
・DAメンバーの戦闘力アップ。一般的な大人なら相手にならないレベル。
・ドラコ戦。危なげなく勝利する女、ハリエット。
・マリエッタが密告していない。裏切りはなかったッ
 そのため、チョウとハリーの仲違いもない。元々恋人ではなかったけれど。
・ダンブルドアとんずらタイミングも、原作と比べてだいぶ遅い。

【オリジナルスペル】
「プロテゴ・コンキリオ、弾ける盾よ」(初出・57話)
・攻撃的な盾の魔法。衝撃や魔法を吸収して、盾を爆破することで攻撃する。
元々魔法界にある呪文。『盾の呪文』系列の中では桁違いに扱いが難しい。

「アレスト・モメンタム、停止せよ」(初出・映画『アズカバンの囚人』)
・移動する物体を停止、または速度を落とす魔法。範囲が広いため咄嗟の行使に向く。
元々魔法界にある呪文。映画にて、ダンブルドアが箒から落ちるハリーを助けた。


お久しぶりでございます、徐々に感覚を取り戻していこうと思います。詳細は活動報告にて。
DA活動の崩壊とアンブリッジ絶頂期をお送りいたしました。原作よりもごりごり難易度の上がる本作では、DAメンバーの実力も上がることは予定していましたが、ここまでするつもりはありませんでした。キャラが勝手に動いたのです、私は悪くない。
次回のハリーマストダイは、『盛者必衰、アンブリッジ転落物語』と『ウィーズリー大暴れ』、『不死鳥の騎士団の終わりに向けて』の三本でお送りします。じゃん、けん、アバダケダブラ! ウフフフフ。


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8.半人間の末路

 

 

 

 ハリーは吐き気を催していた。

 DAという集会を行った罰則として、アンブリッジの下着を洗濯しているからだった。ほかのメンバーは、例の闇の魔道具としか思えない羽根ペンを用いた書き取り罰則であることを考えると、申し訳ない気持ちにもなり、酸っぱい匂いのするブラジャーをつまんでいることもあって、胃の中のすべてを戻してしまいそうだった。

 アンブリッジが新しいホグワーツ校長として就任したニュースは、学校中を駆け巡った。信じたくないと感じた人間が大多数を占めていたのは、当然のことだろう。同時に、ホグワーツ校舎から新校長とは認められず、校長室へ入れずにアンブリッジが床に転がって両手足をバタバタと動かして癇癪を起していた姿も学校中に広まっている。

 教育令なる決まり事も、次々とホグワーツに敷かれた。不純異性交遊を防ぐため男女はお互い三〇センチ以上近づいてはならない教育令、魔法省の定めるカリキュラム以外の勉強を禁ずる教育令、教師が自身の教える科目に関する内容以外の情報を生徒に与えることを禁ずる教育令、アンブリッジへの悪口雑言を禁ずる教育令、アンブリッジに会う際は逃げずに微笑んで可愛らしく挨拶することを義務とする教育令、数えればきりがない、下らぬ意味のない命令がホグワーツのすべてに敷かれていた。

 こうなってはもはや、ホグワーツは教育機関として破綻している。ホグワーツ教育令第二十三号によると、アンブリッジは魔法省の定める基準に満たない教師を解雇する権限を有するらしい。魔法省の定める基準とは、すなわちアンブリッジの気分だ。ハリーにとってあまり面識はないものの、占い学のトレローニー教授がかつて使用していた私室には、いまハリーが洗ったばかりのアンブリッジの私服が所狭しと干されている。ハリーにはさっぱりわからない趣味だが、アンブリッジは部屋干しした衣服の隅々までフローリスのホワイトローズを吹き付けることを好むらしい。マグル製品だというのに愛用するとは、相当なこだわりがあるようだ。上品な香りも、ボトル四本ほどを使い切って部屋に充満させると悪臭になることをハリーは思い知った。

 

「こんな調子で、ぼくはOWL試験を受けられるんだろうか?」

「おかえり、ハリー。でも不思議と、授業は受けられるのよね。不気味だわ」

「ああ、ただいま。それはね、ハーマイオニー。アンブリッジ曰く、授業を受けるのは学徒の権利であり、それを奪う権限はわたくしにはありませんわ。まあ、戦闘訓練などというたわけたことをしない限り、わたくしは学業を阻みませんわよ。……だってさ」

「思いっきり阻んでるじゃないのよ、あの××××女。××してやりたいわ、××××」

「ごめん聞き取れなかった。ああ、結構。いや、いい。言い直さないで、聞きたくない」

 

 アンブリッジの不思議なところは、こういう点だ。ヴォルデモートへの恐怖から自制心という良心のブレーキが吹っ飛んでしまったファッジによって、彼女には過剰なまでの権限が与えられている。

 生徒への体罰が許される時代は、はるかな過去に置いてきたはずである。中世のような価値観が途絶えていない魔法界においても、子供への暴力といった悪徳は許されない時代になっているのだ。だというのに、アンブリッジはそれを正当で子供の教育に必要なものだと、大真面目に考えている。おそらく彼女の家庭環境に問題があったのだろうが、被害をもたらされる側としては知ったこっちゃない。その辛かった出来事を他者にも強要するのは、あまりにもナンセンスだ。

 

「やあハリー、ハーマイオニー。今しがた一〇〇点の減点を喰らったところさ」

「やあボス、そして真のボス。ガマガエルと目が合っちまったのが運の尽きさ」

 

 同じ声が違うセリフを吐き出しながら、獅子寮の談話室へとやってくる。フレッドとジョージの手には包帯が巻かれており、その白が徐々に赤く染まってゆく様に気づいたハリーとハーマイオニーは、あわててふたりを暖炉前のソファへと座らせた。

 平気だからと突っぱねる双子を杖で脅して、二人は彼らの手の甲の治療を開始する。ただでさえDAメンバーの一員ということで目を付けられているのに、反抗的な態度を隠しもしないために双子のウィーズリーは、アンブリッジにとってすっかりお気に入りになってしまった。あの血を吸ってインク代わりにする羽根ペンは、どうやら何度も使用していると傷が残るようになっているらしい。こんなものをマクゴナガルが発見した日には、ホグワーツの一角が怒りで爆発してしまうかもしれない。

 

「それとハリー、君は終生クィディッチ禁止らしいぜ。無論、僕たちもだけどね」

 

 今すぐにハリーの怒りがホグワーツの一角を爆破してしまいそうな様子を見て、ハーマイオニーが慌ててハリーを抱き寄せる。炊きつけるなと双子をにらみつけると、ふたり同時にへらりと笑った。

 憤りを隠しもしないフレッドと比べると、ジョージは幾分か落ち着いていたが、それでも怒りに燃えていることは隠しようもなかったようだ。ハーマイオニーが魔法薬の材料箱から持ち出してきたマートラップの触手からエキスを抽出し、ジョージの手の甲へと優しく塗り付ける。彼はその際の痛みに顔をしかめるものの、どうやら具合がよくなってきたようで、脂汗は引いたようだ。

 

「グリフィンドール生には、クィディッチという危険なスポーツを許すわけにはいかないんだってさ! あんのクソババァ、ついに越えちゃいけない一線を越えやがったな」

「クィディッチが危険だったら、なにをしたって危険でしかないさ。あんな刺激的なスポーツ、ほかにないね。あのババァの頭にブラッジャーをふたつとも叩き込みたいよ」

 

 どうしてハリーまでクィディッチ禁止にされてしまったのかはわからないが、こうなっては黙っていられない。すぐにでもアンブリッジを叩きのめして、学校から追い出さねばハリーにとっての平和な日々は消え去ってしまう。クィディッチのできない人生、それは想像だにできない地獄だろう。考えるだけでも恐ろしい。

 しかしジョージがどうやってアンブリッジをとっちめるのかと問うてくれば、その答えをハリーは持ち合わせていなかった。

 

「DA活動がバレた時点で、もう詰みだったんだろうか」

「おやおや、我らが偉大なるボスのハリー様らしくもない発言だね」

「まあまあ、無理を通して道理を叩き壊すのが君ってやつだろう?」

「かよわい乙女に向かって、どういう言い草だよ」

「「ゴリラがなんだって?」」

「ハリー杖をしまって、ふたりは怪我人よ」

 

 次の日の朝、ハリーは眠気を押し殺しながら鏡の前で髪を梳く。

 アンブリッジによってほとんどの私物を没収されてしまったが、身嗜みを整えることに口うるさい彼女は、ハリーから化粧品や鏡を取り上げるような暴挙は行わなかった。いま使っている手鏡は、シリウスのくれた《両面鏡》だ。アンブリッジが血眼になって探している人物からの贈り物にして連絡手段を、彼女が見抜けなかったというのはハリーにとって痛快なことであった。昨日の夜も彼とお喋りしていたことをアンブリッジが知れば、どれほど悔しがることだろう。

 《マダム・ダイヤモンドのシャープな櫛》を私物入れに戻し、ハリーは思案する。フレッドとジョージが何か悪だくみをしているということは察することができたが、ハリーとハーマイオニーでは二人を止められそうにもない。ロンでは止めるどころか、一緒になって悪だくみに参加することだろう。こういう時こそパーシーがいればと何度も思うのだが、彼はホグワーツを卒業してしまった。しかも魔法大臣付き秘書であるため、助けは期待できないだろう。

 ハリーはハーマイオニーと別れ、亜空間から透明マントを引っ張り出してかぶると、急ぎ足で廊下を歩いて変身術の教室を目指す。その途中でアンブリッジ親衛隊の皆々様とすれ違ったが、だれひとりとしてハリーの存在に気がつく者はいなかった。グレセント・クライルがぶーぶー唸る姿をスコーピウスが笑っている様に舌を突き出して見送ると、その後ろを歩いていたドラコがこちらを振り向く。声を出していただろうかと思ったが、そんな阿呆な真似はしていない。だというのに、ばっちり目が合っている。

 アンブリッジの部屋にて戦った際に、彼もまた油断ならない男であることを再認識していたというのに、うっかりしていた。まさか、視線を感じて振り向くとは!

 

「どうした、ドラコ?」

「誰かに見られていた」

 

 やっぱり視線を感じていやがる。

 つかつかと高級な靴を鳴らして歩み寄ってくるドラコを前に、ハリーは走って逃げるかどうかを迷った。その逡巡があだとなり、もう彼は目の前にまで迫ってきた。

 極力気配を殺して壁に張り付くようにして避けるも、まさに目と鼻の先にドラコの顔がある。これ以上近寄られると、胸が当たる。そんなマヌケで恥ずかしい発見はされたくないので、暴れまわる心臓の音を押しつぶすように胸を押さえて、じっと息をひそめる。

 ……やけに顔が近い。ルシウス・マルフォイの若いころと瓜二つなのだろう、薄い灰色の瞳がよく見える。ちくしょう、よく見ればかなり整った顔立ちをしている。スリザリン女子の人気をほぼすべて一人でかっさらっている理由は、決して家柄と金だけではない。どことなく顔のパーツがシリウスに似ているのは、ブラック家の血も流れているからだろう。正直言って、清潔にしているシリウスはハリーの好みのド真ん中にいる顔立ちだ。つまりドラコも、好みの顔をしている。だが相手は、ドラコである。彼だけは違う。彼を異性として見るなど、ばかばかしい。ありえない。笑ってしまいそうだ。いや笑ったらバレる、我慢するんだハリエット。

 ハンサムボーイを前にした思春期の少女特有のサガであると言ってしまえば全世界の女性から失笑を買うかもしれないが、ハリーにとってかなり苦しい時間が終わりを告げたのは、彼女の背後に飾られていた絵画から、わめき声が飛び出したからだった。

 

『じっくり私を見つめて、何か用かね! よもや敵か! このカドガン卿にお任せあれ!』

「……絵画なんかに用はない、失せろ」

 

 絵画のカドガン卿が騒ぎ出すと、うっとうしく思ったのかドラコは吐き捨てて踵を返した。不思議そうな顔をするスコーピウスと、お菓子をむさぼるクライルを連れ立ってドラコは去っていく。

 助かった。バクバクとやかましい心臓を抑えながら、ハリーはその背を見送った。

 目の前にいる手柄を逃す大間抜けめ、二度と来るなバーカ。そう内心で罵倒すると、勘の鋭い彼はまたもこちらを振り向く。どれだけ感覚が鋭いのか、とあきれたハリーは、今度こそこの場から立ち去ることを選んだ。本当に愛おしきアイドル・アンブリッジ親衛隊の隊員たちに見つかれば、日が暮れるまで面倒なことに付き合わされるだろう。

 変身術の教室前にたどり着いたハリーは、ドアをノックする。「どうぞ」とマクゴナガルの声が聞こえれば、するりと扉を開けて教室の中へと入りこんだ。それからようやく透明マントを脱げば、誰もいないはずなのに扉が開いた不自然な光景に目を丸くしていたマクゴナガルが呆れたように溜息をつく姿が目に入る。

 広い変身術の教室には、マクゴナガルとハリーの二人しかいない。五年生にもなれば、もう卒業は間近だ。今年度も残すところ、あと三ヵ月だ。それはつまり、ハリーは残り二年しかホグワーツにいられないということだ。

 そう、この月曜日は進路指導のお時間なのだ。

 

「おかけなさい、ポッター」

「はい先生」

 

 てっきり変身術の教室内で行うものだと思ったが、その教室のさらに奥に設置されている扉をくぐって、マクゴナガルの私室まで通される。シックな調度品でまとめられている、じつに大人の女性の部屋である。アンティーク趣味ではなく、かといって地味でもない。落ち着いた色合いの部屋は、ハリーにとって安心できるものであった。

 椅子に座ると紅茶を用意され、勧められるまま一口だけいただく。ダージリンのよい香りが鼻を通り、さらに心をゆったりリラックスさせる。ハリーはレモンを入れず、ストレートで飲むタイプだ。マクゴナガルが綺麗な琥珀色にレモンをほんの少し垂らす姿を見ていると、ふいに彼女の口が開かれる。

 

「O.W.L.試験まで、あと一ヵ月ほどです。どうですか、ポッター。勉学の方は、はかどっていますか?」

「まあ、いまこうしてノイローゼになっていないことを見ていただければ」

 

 冗談めかして言うと、視線だけをこちらへ向けられる。

 変身術の教室ではなく彼女の私室へ通されたのだから、くだけた物言いでも構わないだろうと思ったのだが、どうもそうではなかったらしい。相変わらず、身内びいきをしない教師だ。

 

「よろしい。あなたは多少、いえ結構……だいぶ落ち着きのない女性ですけれども、しかし優秀な魔女であることは確かです。ですので、六年生および七年生へ進級するにあたって、ほとんどの科目は自由に継続することができます」

「ほとんど?」

「ポッター、あなた古代ルーン文字学は習得できたのですか?」

「うぐッ」

 

 実はそうなのである。

 ハリーはほとんどの科目を優秀な成績「E・期待以上」で納めており、それは同じ科目で考えれば、勉学における学年上位一〇位以内の常連である監督生たち(ただしロンは除く)と並び立つほどの成績なのだ。

 そして三年生からの選択科目である、古代ルーン文字学。これはゲルマン人の魔法族が使用していた、文字通り古代の文字体系である。日本魔法では武術における体の動きを呪文として扱い、魔法を発動させる技術がある。それと似たようなもので、古代ゲルマン魔法族は文字ひとつを刻むだけで魔法の呪文として用いていたのだ。ただし、ハリーはこれをまったくといっていいほど習得できていない。現在の成績を計算してみると、おそらく「P・不可」だろう。

 情けない限りである。もちろん、勉強していないわけではないのだ。ルーン文字は刻むだけで効果を発揮することのできる魔法学問であるため、現代魔法において物体に魔法効果を封じ込めるという手間を省くことができる。たとえば地面に『Isa(イーサ)』のルーン文字を刻んでおけば、踏んだ者を氷の槍で串刺しにする即席トラップを造ることさえできるのだ。

 しかし残念ながら、ハリーはルーン文字を刻んでも上手に発動できたためしがない。バブリング教授はハリーの刻むルーン文字を見ても間違ってはいないし魔力の込め方も変ではないと言っていたので、こうなればもう単純にハリエットという少女にルーン文字との相性が悪すぎるのであろう。筆記だけならば「A・まあまあ」であるため、実技でダメになってしまっているというわけである。

 

「ええ、ポッターがルーン文字学を継続することは難しいとバスシバも言っていました。他に力を入れた方が、賢明でしょう」

「……残念です」

「こればかりは仕方ありません。そしてポッター、あなたが将来なりたい職業によって、受ける授業を決める必要が出てきます」

「うーん……将来、ですか」

 

 マクゴナガルの言葉に、ハリーは渋った声を出す。

 それを訝しく思ったマクゴナガルは彼女にじろりと目を向ける。

 

「ポッター、あなたは大人になった自分を想像したことがありますか?」

「正直に言うと、ないです。大人に成長できるまで、生きられるか分からなかったから」

 

 すべてはヴォルデモートに帰結する。

 マクゴナガルは、ハリーが《ハリエット・ポッター》ではなく、ただの《ハリエット》であり、闇の帝王が手ずから作り上げた人形であることを伝えていない。しかし不死鳥の騎士団団員であり、ジェームズ及びリリーと知り合いであったことから、生まれた時点でハリー・ポッターが男の子であったことを知っていても、おかしくはない。それが少女として生きているのだから、彼女は事情を察していると考えても不自然ではない。

 そして、厳しくも親身になって接してくれた人でもある。ある程度、ハリーが自分に未来がないかもしれないと考えていることを、察していてもおかしくはないだろう。

 

「それは今までの話です。ダンブルドア校長から、寿命に関しては心配ないとお聞きしましたよ。それから考えたことは、ありますか?」

「ないです。将来就く職業より、ヴォルデモートをいかにして滅ぼすかが、ぼくにとっては重要です」

 

 きっぱりと言い切ったハリーに対して、マクゴナガルは深々と溜息をもらす。

 結構な決意と共に意思表明したというのに、この反応はいかがなものだろうか。そう考えていると、マクゴナガルはハリーをじろりと見つめて言葉をこぼした。

 

「あなたが闇の帝王を倒したあとを想像してごらんなさい」

「だから、ぼくは――」

OWL(ふくろう)試験やNEWT(いもり)試験を受けていないことで、望む職業に就けず。あなたの勝気な性格では客商売も難しいでしょうから、ダイアゴン横丁で自営業を営むこともできないでしょう。するとあなたに就ける職業の幅は、この時期から準備している同期たちと比べると大きく狭まってしまいます」

 

 ハリーは、大人になった自分が丈の合わないボロの服を着て、ハグリッドに森番を手伝わせてほしいと懇願する未来を想像した。そしてハグリッドに叱咤されながら、切り倒した木材を汗水流して魔法生物たちのもとへ運ぶのだ。

 あわてて想像の世界を打ち消した。ハグリッドの仕事をばかにするわけでは決してないが、勘弁願いたい世界である。

 

「……で、ですけど。ほら、ぼくの戦闘能力なら闇祓いに」

「闇祓いに就職するには最優秀の成績が必要になります。最低でも五科目で『E・期待以上』が求められ、実際の戦闘力はもちろんのこと、厳正なる性格適正テストもあり、人格的に問題ない者しか採用されないのです。実際、我が校の卒業生で最後に採用されたのはアンジェラ・ハワードだけです」

「……」

 

 ぐうの音も出なかった。

 

「ポッター。勉強は好きですか?」

 

 ハリーはこれに対して、首を傾げた。

 別にハーマイオニーと違って、ハリーは勉強が好きだから真面目に学んでいるわけではない。ヴォルデモートを打ち滅ぼすためには、多くの知識が必要だから脳みそへ詰め込んでいるにすぎないのだ。

 魔法族にとって、知識はすなわち戦闘力に直結する。知らない魔法を撃つことはできない。学べば学ぶほど、知識を得れば得るほど、強くなれるのが魔法使いという生き物なのだ。

 

「まあ、好きと言える学生は稀でしょうね。ですがポッター、将来の仕事における選択肢というのは、あなた自身の行動によって増えたり減ったりします。それは分かりますね?」

「……なんとなく」

「なんとなくでも、わかっていればよろしい。就職への選択肢は、少ないよりは多い方が、はるかに得なのです。職業蔑視をするわけではありませんが。ところで、私は魔法省が認める資格である、魔法教育資格特A級を取得しています」

 

 突然なにを言い出すのかと思えば、ホグワーツに教師として就職するには、この資格におけるB級以上を取得する必要があるとのことだった。

 ボーバトンではC級以上、ダームストラングでは資格がなくとも就職できるとのこと。つまり、教師になれるならどこだっていいやと考えて資格を取らなければ、いざというときホグワーツに就職したいと考えても、資格がないため選ぶことさえできないということなのだ。

 

「ちなみに、この魔法教育資格を取得するには、魔法省の定める一定以上の成績が必要になります」

「つまり、学生時代に勉強をしてなかった人は、その時点で教育資格は取れない。だから、卒業してから教師を志しても、ホグワーツの教師になることもできない」

「その通りです」

 

 ひどく難しい話だが、ハリーはここでしっかり覚えておかねばならないと確信した。

 いまだにヴォルデモートを倒すことが第一目標であることは変わりないが、しかし倒した後のことは考えたこともなかった。流石に無職は嫌である。

 頭の中がオーバーヒートしそうなハリーは、マクゴナガルに助けを求める目を向けた。すると彼女はすでにこちらを見つめており、こうなるであろうことを予期していたかのようだった。

 

「しばらく、考える時間を与えましょう。進路指導は、また今度もう一度やります」

 

 マクゴナガルにそう通達されて、ハイそうですかと大人しく将来を考えるほどハリーは殊勝な女ではない。

 そもそも将来のことを考えるよりも二週間先にある大問題の方がハリーにとっては考えるべき題材であった。OWL試験である。ハーマイオニーはノイローゼになりつつあるし、午前中にはハッフルパフのサマンサ・マグワイアが追い詰められるあまり発狂して医務室へ運ばれていった。

 ハリーとて余裕があるわけではない。マクゴナガルには強気に言ったものの、やはり勉強しなければ知識は詰め込まれない。どうせなら一瞬見たものを即座に記憶できる優秀な頭脳で造れよヴォルデモートのクソ野郎。と呟いたことで、ロンから冗談でもそんなことを言うべきではないと本気で怒られてしまったくらいには、余裕がない。

 一番の問題は魔法史だ。とりたてて歴史に刺激や興奮を覚えないハリーは、ビンズ教授の授業を真面目に受けているわけではない。魔法薬学や変身術は、まだまだ頭に詰め込まないといけない。寸分のミスも許されない遊びの少ない学問だからだ。薬草学や天文学については、特に問題ない。「E・期待以上」は間違いないだろう。もう少し詰め込めばそれ以上さえ狙える。かといって、闇の魔術に対する防衛術や呪文学には、何の心配もないかといえば、けっしてそんなことはない。この二科目については、「O・大いによろしい」を取りたいのだ。徹底的に点数を稼ぐ必要がある。

 勉強だ。いま必要なのは勉強である。

 

「ごめんシリウス、いまマジでヤバいんだ。追い込み。来週なんだよOWL試験は。ロンの勉強も見てやらないと」

『そうか。だがハリエット、そんなに忙しいのなら、毎晩連絡せずともいいんだぞ』

「いいんだ、シリウスとお喋りできるのが今の最大の楽しみ。それだけは奪わないで」

『愛らしいレディに、そう言っていただけるのは光栄の極みだがね。ところで、なぜロンの勉強まで見てやるんだ? 彼が勉強してないのは、彼の責任だろう。君が睡眠時間を削る必要はない』

「ああ、うん。正確に言い直そう。ロンの勉強を見てるハーマイオニーが癇癪を起こしてロンを殺さないように見張るのが、ぼくの使命だ」

『オーケー、がんばれハリエット。次の夏休みには、うまいケーキ屋に連れて行ってやろう』

「愛してるぜシリウス」

『私もだ』

 

 ハリーは《両面鏡》を枕の下に隠すと、階段を降りて談話室へと戻った。夜一〇時だというのに、ソファは五年生と七年生が占領していた。居心地悪そうに寮へ引っ込んで行く下級生を無視して、ハリーは暖炉前に陣取っているハーマイオニーとロンの元へ小走りで歩み寄る。

 乱暴にソファへ尻を乗せると、ハーマイオニーから物理的に影響が出そうな睨みをいただいた。しかし反応してやる余裕もないので、放置して魔法史の教科書を開く。目当ては一六八九年に制定された国際機密保持法だ。これは非常に覚えることが多い。そして面倒くさい。一六九二年には国際魔法使い機密保持法の制定だ。最高にややこしい。覚えれば覚えるほど、当時の政治家がろくに何も考えていないことがよく分かる。

 そしてその考えなしの煽りを喰らうのは、現代の学生たちだ。肉体も魂もすべて滅んでしまえ。もしくは惨たらしくお亡くなりになれ。三〇〇年前の人間だからもういないのだが、ハリーは呪いの言葉を吐かずにはいられなかった。

 

「ハリー、ここのパセリ文書の記述どうなってんのか、詳しく教えてくれない? ジョセフィーナ・フリントが頭をつついてどうなるんだ?」

「ロン。自分でやれ。しかもジョセフィーナは一九世紀の魔法大臣で、パセリ文書が発行された一七世紀には、そもそも魔法大臣なんて役職はない」

「難しすぎるだろう!? フリントなんてスリザリンのクソ野郎だけで十分だ。なあハリー、親友だろ。ここ代わりに覚えてくれよ」

「君はぼくの頭をつつきたいのか? いいか。ロン。黙って、書いて、覚えろ」

「それができたら苦労しないよ! 親友なら助け、おーっとごめんよ。イライラして当たってたことを謝るよ、杖をしまってくれハリー。ほらハリー、ぼくの可愛いスニッチガール」

「ロン。次喋ったらハリーじゃなくて私が杖を抜くわよ」

「……」

 

 杖を持ち出すほどにイライラしているのは、なにもハリーやハーマイオニーだけではない。談話室の隅っこで『全身金縛り』を受けて転がっているコリン・クリービー少年は、勉強の苦悩で眉間にしわを寄せるハリーの姿を美しいと評してカメラを接写乱舞していたために、やかましいと怒鳴ったパーバティに呪われたのだ。姿の見えない弟デニスの方は、インク壺をひっくり返されたディーンの手によって獅子寮から放り出された。決して悪人ではないのだが、空気を読むことができない彼らは、いま試験に向けて勉学に励む少年少女たちにとっては、寝入りばなに鼻の穴に舌を突っ込んでくるパフスケインと大差ない。

 勉強は勉強を呼び、勉強すればするほど勉強が必要になる。

 ハーマイオニーは必要な勉強を全て済ませているらしいが、彼女が目指しているのは「O・大いによろしい」ではない。それ以上の、一〇〇点満点で一二〇点を叩きだすような成績を求めているのだ。ハリーとしてはそこまでこだわる必要はないが、しかし勉強しなければ脳みそは知識を蓄えることはできないので、勉強するのだ。

 談話室の壁に欠けられている振り子時計が深夜零時を告げると、いい加減休むかとほとんどの生徒が寝室へと引き上げていく。帰りたそうにロンがちらちらとこちらを見て鬱陶しいのでにらみつけて黙らせ、ハリーは再び羊皮紙へと羽根ペンを走らせた。

 

 試験まで残り三日である。

 ハリーは自信を持つために必要な勉強をすべて終えていた。ロンには最低限のやるべきことだけを指示して、あとは放置することに決めた。ハーマイオニーは根気よく教え続けているが、これ以上自分の勉強時間を削りたくはないし、彼の頭に詰め込むだけでは彼のためにならない。彼が自分から覚えようとしなければ、知識は結局身につかないのだ。

 なぜ考えをひるがえして指示を出したのかというと、この時期のホグワーツ恒例、OWL詐欺にロンが引っかかったからだ。レイブンクローのカーマイケルが脳を活性化する秘薬を売りさばいているところを、監督生であるハーマイオニーが発見して摘発した。呆れるハリーに借金を迫ってまでそれを買い占めようとしたロンは、我らが獅子寮の才女によって脳活性薬の正体が、湿気ったサンドマンの砂であることを知った。人体には無害だが、睡眠誘発の効果があるため扱いを間違えると危険である。ハーマイオニーの手によって哀れなレイブンクロー六年生から一〇点が減点されていく様子を眺めると共に、ウィーズリーの末弟は勉学の重要性を思い知ったようだった。

 ロンの目の間にあるティーカップには、毛むくじゃらの脚が八本生えている。そのたくさんの脚をせわしなく動かしながら、中身のアップルティーをこぼさずテーブルを行ったり来たりしている様はなかなか感心させられるものと言える。

 

「どうして、僕が、蜘蛛なんかの、まねごとを、しなきゃいけないんだ。くそっ、気持ち悪い。自分の魔法だぞ、信じられない。マーリンの髭……いや鼻毛だこんなもの」

「あなたにとって、一番安定する歩行のイメージが蜘蛛なんでしょう。試験に受かりたいなら、このまま進めたほうがいいんじゃないかしら。二本足はもっと難しいわよ」

「でも僕が世界で一番嫌いなモノが蜘蛛なのは、君なら知ってるだろ。『モートゥルードゥス』、踊りまわれ」

 

 ロンの杖先からシアンブルーの魔力反応光が飛び出してカップを包み込む。すると強靭な二本の脚が生え、陸上選手のように全速力でテーブルの上を駆けて逃げていった。慌てて手を伸ばすが、アップルティーは見事にラベンダー・ブラウンの顔へと飛び込んで彼女が金切り声をあげることになる。杖を抜いてロンのもとへ駆け寄ってきたラベンダーから、ロンが悲鳴を上げて逃げ去る後ろ姿をハリーは黙って見送っていた。

 昼食を終えてロンにかけられたくらげ足の呪いを解呪してから変身術の教室へ入ると、マクゴナガルが親の仇を見るような眼でキッとにらみつけてきたので、何も言わず大人しく席へと座る。隣にはドラコが羽根ペンをがりがりと動かしており、ハリーは先日のことを思い出してどきりとする。しかし彼は隣にハリーが座ったことに気づかず、一心不乱に羊皮紙へインクを走らせている。そっとしておくべきだろう。

 授業が始まれば、そこにはグリフィンドールもスリザリンもなかった。もはや教授たちも余計なことを言うつもりはないようで、魔法省が定める試験範囲から毎年どのような問題が出題されるかを事細かに解説している。ハリーはつい昨晩まとめた部分が紹介されていることに少しほっとして、ちらとドラコの方を盗み見た。くそっ、ぼくよりまつげが長い。いやそうではない、見るべきは顔ではなく羊皮紙だ。彼が懸命に書き連ねているのは、やはり変身術の内容である。しかしその中身はマクゴナガルが言っているものよりも、はるかに難易度の高いものであった。呆れるべきか尊敬すべきか、迷うところだ。きっとハーマイオニーしか彼の行動を理解することはできないとハリーは確信した。

 

「OWLは二週間にわたって行われます。午前中は筆記試験、午後は実技となります。愚か者がいないと信じて言っておきますが、あらゆるカンニングは無駄だと警告しておきましょう。《思い出し玉》や《カンニング御用達の自動解答インク》などの持ち込みは当然禁止です。不正が見つかれば、その場で試験会場を退出することを命じられます。これの意味が分からない者はいませんね」

 

 ネビルが手を上げて言葉の意味を問おうとしたが、それは隣のロンが完璧に妨害した。

 これだけ教授陣が口を酸っぱくして警告しても、毎年少なくとも一人か二人は、魔法試験局の目をかいくぐれると思う愚者がいるらしい。その生徒がどうなったのかをハリーは知りたくもないし、ネビルが質問をすることでマクゴナガルがどれほど鬼の形相をするのかも知りたくはない。

 神経質にOWL試験について説明するのは、なにもマクゴナガルだけではなかった。呪文学ではフリットウィック先生が、毎年必ずといっていいほど出題されている問題を《基本呪文集・五年生用》の中から、こっそり教えてくれたことで尊敬の視線を集めていた。スプラウト先生は実技において緊張のあまり失敗する生徒が多かったことから、授業中にも関わらず心が安定するイフユー葉を煎じた紅茶をふるまってくれた。不思議な味の紅茶を飲むと胸の奥があたたかくなり、実技の最中にはさみを汁で滑らせない握り方のコツを完璧に覚えることができた。

 

「結果は七月中にふくろう便で通達される。いまはベストを尽くすことだけを、考えるがよい。吾輩は「O・大いによろしい」を取った生徒のみ、受講の継続をゆるしている。諸君らにそれが取れるとまでは期待しておらんが、来年はこの中の……どれほどの顔が……残っているか。じつに、楽しみだ」

 

 スネイプのねっとりした視線と明らかに個人を狙った言葉を聞き流して、ハリーは魔法薬学の教室を出た。魔法薬学については「O・大いによろしい」を何とかしてもぎ取る自信があったが、この耳に残る声を聴いてしまえば、たちどころに自信の城は崩れ去ってしまった。

 泣いても笑っても、今日から六月になる。陽の光がやさしく城の庭を照らし、ハグリッドが木々の手入れをしている姿をよく見せている。湖の大イカが楽しそうに触手を揺らしている様が見れるようになると、ホグワーツ五年生にとってこれが指し示すことは、ただひとつ。

 普通魔法レベル試験、OWL試験が始まる。

 

「おい見ろよハリー、見物だぜ。アンブリッジのババァがぺこぺこしてやがる」

 

 試験前日。夕食の席で放たれたその言葉に、ハリーのみならずフレッドの声が聞こえた生徒全員が食事を中断して(教師の幾人かも顔を動かさずに目を向けたことだろう)、素早く大広間の扉を振り返った。生徒たちの無数の目が見たのは、大広間に繋がる扉の向こうで馬面の魔法使いや腰の曲がった老魔女がアンブリッジと話し込んでいる姿だった。

 ネビルが小声で「マーチバンクスだ」と言ったことで、彼らが魔法省の定める魔法試験局から派遣されてきた試験官であることに確信が持てた。アンブリッジがこびへつらうようにして話しかけているのは、マーチバンクスという老魔女だろう。

 

「ダンブルドアからの連絡がない! あれでマメな男だ、便りを欠かしたことはないんだよ! 私ゃ、あれが今ここにやってきて百味ビーンズを勧めてきたところで、驚きゃしないね」

 

 随分と声のデカい老魔女のようで、ジョージが差し出してきた《伸び耳》はその役目を果たせるか疑問だったが、アンブリッジがごにょごにょと何かを言った言葉がこちらへ届かなかったことで、ハリーは《伸び耳》へ懸命に自前の耳を寄せる。獅子寮のテーブルについていた生徒たちが、こぞってハリーの顔に耳を寄せることになった。

 

『そうなれば、必ずや捕らえますわ。ええ、必ずですとも』

「そいつはどうかね! あの子のNEWT試験で試験官をやったのは、この私なんだからね! あれほどの杖捌きを見せる坊主は、他に見たことがない! あんたじゃ無理だね、無理!」

『お、おほ。おほほ……』

 

 ハリーはマーチバンクス女史の寿命について深淵な考えを胸に抱いたが、それについて考えだすと魔法界の常識外れっぷりを再び味わうことになりそうだったので、頭の中から追い出すことに決めた。

 伸び耳から聞こえるアンブリッジの声色から察するに、いかに傍若無人なアンブリッジとはいえマーチバンクスには頭が上がらないのだろう。

 

『長旅でお疲れですわよね、お茶でも淹れさせますわ。職員室へご案内しましょう』

「私は平気だよ! 年寄り扱いするんじゃないよ、ちびっこドローレス!」

『そ、それは言わないお約束ですわ。おっほほ、オホホホホ。ホホ……』

 

 ロンが恐ろしい愛称を聞いてしまったことで耳の穴を小指でほじり始めたことをきっかけに、《伸び耳》へ耳を傾けていた生徒たちはそれぞれの耳へ杖を突っ込んで『洗浄』した。アンブリッジの学生時代の話など、聞きたくない。ちびっこって何さ? なにかの呪詛だろうか。

 マーチバンクス女史が元気な足取りで去ったあと、アンブリッジはぎろりと馬面の魔法使いをにらみつける。どうやらこちらの男性には、強く出れるようだった。

 

『わかってますわね。必ず、ポッターを落第させなさい』

 

 いますぐアンブリッジを禁じられた森へブチ込むべきか、ハリーは判断に迷った。

 同じく《伸び耳》で状況を盗み聞きしていたハーマイオニーが憤怒の声を漏らし、それに驚いて興味を持った学生たちが、それぞれ《伸び耳》で盗み聞きしている生徒へと耳を寄せる。フレッドとジョージが作り出した《伸び耳》はずいぶんな売れ行きのようで、大広間にいる生徒の結構な人数が耳を伸ばして、彼女らの会話を聞いている。そしてアンブリッジによる堂々とした不正の命令を聞いて、皆が同じく怒りを覚えていた。このOWL試験は、将来にかかわる大事な試験である。それを一人の大人の都合で台無しにするなど、あってはならないことなのだ。

 

『ふむん。ハリー・ポッターの採点を厳しくせよと?』

『そうですわ。彼女は、学び舎にいるには不適切な不良です。これは命令です。わたくしの命令は、ファッジ魔法大臣からの言葉に等しいのですわよ』

 

 滅茶苦茶なことを言っている。フレッドとジョージが怒りに立ち上がろうとしたところで、ハリーはちょっと待ったと声をかける。

 馬面の魔法使いが、アンブリッジの顔をじろじろと眺めている姿が見える。もし試験官側が不正をするのであれば、これはもうマクゴナガルへ報告して何とかしてもらうしかない。そう考えて話を聞き続けたハリーは、続く言葉にほっと胸をなでおろすことになった。

 

『お断りします』

『……あら、よく聞こえませんでしたわ』

 

 馬面の魔法使いがきっぱりと言った言葉に、ハリーもアンブリッジも己の耳を疑った。

 魔法省側の人間である馬面の魔法使いは、その面長の顔をいっぱいに活用して、アンブリッジに向けて嫌悪の色を示している。それを不快に思ったらしいアンブリッジは、今度は猫なで声を引っ込めて、唇を引き締めて強い口調で命令を下した。

 

『命令です、ポッターを落第させなさい』

『嫌だね。と申し上げたのです、アンブリッジ魔法大臣上級次官殿。私は三〇年以上を魔法試験局に勤め、公明正大な試験官として、学生たちを見守ってきた誇りがあります』

『…………その誇りと職を失うことになりますわよ、フォウリー』

『あらゆる不正は、許されません。それは学生だけではなく、我々大人たちもです。クソ喰らえだ、俺の前から失せろ』

 

 大広間から歓声とフォウリー氏を讃える声が爆発したことで、話を聞かれていたと気づいたアンブリッジが顔を真っ赤にしてその場から立ち去る。馬面の魔法使いは、沸き立つ学生たちを一瞥すると山高帽を軽く持ち上げ、何事もなかったかのように歩み去っていった。

 どっと嫌な汗をかいたハリーは、喜びの声を上げて背中をばんばん叩いてくるフレッドとジョージに手を上げて応え、笑顔で喜んでくれるハーマイオニーとロンに笑顔を返す。

 あの馬面の魔法使いが誇りある対応をしてくれたおかげで、アンブリッジの邪悪な企みは阻止された。もしファッジのように自身の保身ばかりを考えているような人間であった場合など、考えたくもない。

 こうなれば、もう意地でも素晴らしい成績を叩きだしてやるしかない。

 

『ランドルフ・フォウリーか。あの馬そっくりな爺さんだろう。よく覚えてるよ』

「知り合いなの?」

『いや、そういうわけじゃない。私のNEWT試験では、彼が試験官だったのさ。得意の『身体強化』を披露したら、眉一つ動かさずに「次」って言われたのをよく覚えているよ』

 

 その日の夜に、ハリーは心を落ち着けるためにシリウスとおしゃべりしていた。この《両面鏡》は本当に素晴らしい道具だ。これをくれたシリウスにはいくら感謝してもしたりない。

 寝室の誰もが緊張で眠れていないことを理解していたので、ハリーは人のいない談話室でこっそり鏡を持っているのだ。現在時刻は夜の一〇時。そろそろベッドに入ったほうがいいだろう。

 

「シリウスの時は、OWL試験楽しかった?」

『試験自体は楽しいものではなかったかな。だが、私はプロングズやムーニー、そしてワームテールと過ごす毎日は、テスト期間だろうと何だろうと楽しかった。君も、ハーマイオニーやロンといれば幸せだろう?』

「そうだね。そう、その通りだ」

『そう、それでいい。友は素晴らしい宝だ。もう寝なさいハリエット、明日は暴れてやれ』

 

 おやすみ、シリウス。そう言って、ハリーは鏡を懐にしまう。

 談話室から寝室への階段を上がって、自分のベッドへと静かに入り込む。隣のベッドでハーマイオニーがまだ起きている気配を感じたので、小さな声でおやすみと声をかけるが反応はなかった。まあ、聞こえてはいるだろうから別に構わない。

 ハーマイオニーもパーバティもラベンダーも、今だなかなか眠れていないだろう中で、ハリーはただひとり深い夢の中へと旅立った。夢の内容はおぼろげではあるが、フォウリー氏にニンジンをささげていたことだけは覚えている。

 

 試験当日。

 朝食の時間になっても、五年生は余計なおしゃべりをしなかった。呪文をぶつぶつと練習して小瓶を動かしているパーバティや、《呪文学問題集》を読みながらトーストを食べるもターンオーバーエッグをパンの上からテーブルに滑り落しても気づかないハーマイオニー、三つ目のマーマレードの瓶を落として割ってしまうネビル、ベイクドビーンズを乗せたスプーンを口に運ぶ途中でそれを皿に戻して《薬草全集》を鞄から引っ張りだし目的のページを見つけて安心しきった顔で何も乗っていないスプーンを口に運ぶ動作を繰り返すシェーマスなど、誰もかれもが奇妙な行動をとっていた。

 ハリーは普段より少なめではあるが、しっかりと朝食を取った。まず起き抜けの紅茶を一杯。小さめのエッグベネディクトを頬張り、ブラックプディングをトマト・ソテーと共に口にする。最後にマッシュルームのソテーを口へ放り込んで、それをミルクで流し込む。

 周囲のグリフィンドール五年生になんだあいつはという目で見られながらも気にせず、試験中にトイレへ行きたくならない程度の量にしておきながらも満足したハリーは、さっさと荷物をまとめて廊下に出た。朝食を食べ終えて教室へ向かう他学年の生徒を尻目に、寄ってきたミセス・ノリスとじゃれあって遊ぶことにした。

 教室へ向かう下級生から奇妙なものを見る目で見られているうちに、ハーマイオニーがハリーのもとへやってきた。ミセス・ノリスはさっとハリーの手から抜けて逃げて行ってしまったが、彼女の肉球の感触は充分にハリーをリラックスさせてくれた。猫はカワイイ、間違いない。

 

「よく余裕があるわね」

「今から詰め込んだって本番で忘れるだけだと思ったからね」

 

 全ての五年生と七年生が玄関ホールでうろうろする頃になると、時計が九時半を指し示した。寮ごとに大広間へと戻ると、朝食の際に寮ごとに四つに分かれる長大なテーブルはその姿を消し、代わりに小さな机が大量に設置されていた。一番奥にはマクゴナガルが唇をぎゅっと引き締めて立っており、生徒全員の着席を待っている。

 全員が席に座って羽根ペンを出すと、マクゴナガルは全員を一瞥した。幸いにして、不正なことをする愚か者はいなかったようだ。

 

「始めなさい」

 

 彼女の声が大広間に響くとともに、ハリー達の机の上に試験用紙が出現した。

 最初の問題は『浮遊呪文』に関するものだった。ハリーの隣に座っているアーニーがガッツポーズを取った姿がちらと見えた。彼はDA活動でこの呪文を得意としていたからだ。

 『元気の出る呪文』、『あぶく頭呪文』の強度を上げるためには魔法式のどこをいじればいいのか、『しゃっくりを止める反対呪文』を可能な限り書き連ねること、『離れた物を握る魔法』、『移動呪文』において対象が生物か無生物かの違いなど。

 DA活動で学んだり、教えたりした魔法がところどころに散見されてハリーは懐かしい気分になりながら、羽根ペンを軽やかに動かした。

 

「まあ、うん。思ってたより簡単だったわ。でもアレよ、『封鎖魔法』の魔法式って確かピュシス方式で間違いなかったはずよね?」

「正気かハーマイオニー! もう終わったことを言うな!」

「ピュシス方式で合ってるよハーマイオニー。フラウィウス・ユリアヌスが提唱したってことも書き加えれば完璧。君ならやってるとは思うけどさ」

「正気かハリー! 君あの訳わかんない問題書けたの!?」

「よかった! 私ったら書きすぎたのかと思っちゃった。記述で出たってことは実技でもやると思うけれど、杖の振り方はこう、ヒューン、パッパッでいいはずよね」

「間違いないね、それで正しい。っていうか、三年生の時には使えてただろうに。いまさら覚えなおす必要あるの?」

「ダメだ。この二人は僕には理解の及ばない生物に違いない」

 

 二時間をかけて筆記試験を終えると、また大広間へ戻る。するといつもの光景である四つの寮テーブルが元に戻っており、そこで昼食をとる。なかなか胃に食物を入れることができない者が多い中、ハリーはよろこんでタラのフライにモルトビネガーをどばどばかけて頬張っていた。ハーマイオニーとハリーがテストの手ごたえを確信している中、チップスをつまみながらロンは親友二人の言葉を理解することをあきらめている。

 シェパーズパイの最後の一切れを口にすると、昼食の時間も終わりを告げる。午後からは実技が待っているのだ。

 

「パーキンソン・パンジー、パドマ・パチル、パチル・パーバティ、ポッター・ハリエット」

「呼ばれた」

「がんばれよ、ハリー」

 

 マクゴナガルの声に呼ばれ、生徒たちの待機する小部屋から大広間へと歩み出る。ロンの激励がありがたかった。ウィンクを返して、ハリーは勇ましく試験会場という戦場へと歩みを進めた。

 扉のすぐそばに立っていたフリットウィック先生がトフティ教授のところへ行くようにと声をかけてくれたので、そちらへと目を向ける。馬面のフォウリー氏は、ハリーの担当ではなかったようだ。いまは隣でワイングラスを浮遊させているスコーピウスの実技テストを見ているようで、少し残念である。

 年老いて禿げた魔法使いが、しわがれた声でハリーの顔を覗き込む。

 

「ポッター。あの有名人かね? 可愛らしいお嬢さんだ。本当に女の子だったのだね」

 

 スコーピウスがからかうように嘲ってきたが、ハリーはそれに気づかなかった。ガラスが割れる音とスコーピウスの短い悲鳴が隣から聞こえてきたが、特に気にならない。

 ハリーがまったく緊張していないことを見て取ったトフティ教授は、よしよしと破顔した。

 

「さあ、ゆで卵立てを回転させてもらえるかの。君の好きなように、好きな魔法でな」

 

 にっこりとほほ笑むトフティ教授に頷くと、ハリーは杖を振るった。テーブルの上に転がっていたゆで卵立ては慌てたように直立すると、指揮者のように杖を振るハリーにしたがってくるくるとブレイクダンスを踊り始めた。

 大喜びで手を叩いてリズムを取るトフティ教授に合わせて、ハリーはこの呪文学の実技試験をとことん楽しむことに決めたのだった。

 

「ごちそうさま。ハリー、私談話室で待ってるわね」

「わかった、ぼくもこれ食べたら行くよ」

「な、なあ。ハリー。僕、どうして大皿を大キノコに変身させちゃったのかわからないんだ。『変色呪文』って、別に変身術の要素はないよな?」

「誓ってないよ。たぶんそれ、魔法式の構成が似てる『成長呪文』と間違えてるんじゃないかな。しかも、それも式を間違えて『取り換え呪文』が混じってる」

「しまった、それか!」

「マクゴナガル先生が昨年も『取り換え』る課題をやったって言ってたのを、間違って覚えてたんじゃない? ぼくもごちそうさま」

 

 呪文学の実技試験は、会心の出来だった。ワイングラスを『浮遊』させてジャグリングをしたり、ネズミの毛皮をオレンジ色に『変色』させたあとは、『変色』させ続けることでその毛皮に簡単なアニメーションを見せたことでトフティ教授は大喜びした。

 実技を終え、夕食をとったハリーは食後の紅茶を飲み干して、大広間からグリフィンドールの談話室へと戻る。談話室ではハーマイオニーがすでに教科書を読んでぶつぶつと鬼気迫る様子で下級生をおびえさせていたので、さっさと彼女との勉強の仕上げに入った。『取り換え呪文』の定義を単語ごとに交互に言い合ったり、百味ビーンズを『消失』させたり『出現』させあったりして、思う存分不安のもとをつぶしていくのだった。

 翌日、火曜日。ハリーは変身術の筆記試験を、多少は躓いたものの、間違ったところはないだろうという自信で乗り切ることができた。試験用紙を回収したマクゴナガルが満足そうに頷いたことで、ハリーは自分が変身術で「O・大いによろしい」を取ったことを確信する。

 昼食のミルクポリッジを腹に入れると、今度は実技試験だ。イグアナを『消失』させたり『出現』させたりしてトフティ教授を笑顔で頷かせることに安堵したハリーは、隣のハンナ・アボットが悲鳴を上げたことで試験が中断された。どうやらケナガイタチを『消失』させるどころか、フラミンゴに『変身』させた上に大広間中に『増殖』させてしまったらしい。

 マクゴナガルへ視線を向けると、頷いてくれたのでハリーは自分で対処することにした。フラミンゴの一羽を巨大な鳥かごに『変身』させると、杖を振って次々と哀れなフラミンゴたちを籠のなかへと叩き込む。最後の一羽が放り込まれると同時、ハリーは杖を振るって鳥かごごと、ピンクの毛玉たちを『消失』させた。これにはマクゴナガルもにっこりで、トフティ教授やほかの試験官たちからも拍手を送られたことで、ハリーははにかんでお辞儀をした。

 

「思ったより簡単だったわね?」

「正気かハーマイオニー!? あれが? あれが簡単!?」

「そうだね。『診断魔法』の魔法式が難しかったけど、最後はラシード式でいいんだっけ」

「正気かハリー!? そこ書けたのかい!?」

「合ってるわよハリー。それじゃ、談話室で待ってるわね」

「正気なのか……? もしや、間違うって言葉を知らない……?」

 

 翌日、水曜日。薬草学の筆記試験は、間違ったところはないとまで断言はできなかったが、答えに詰まったりはしない、まあまあの出来だったのではないかとハリーは考えている。 

 実技試験では《悪魔の罠》が登場し、これを無傷ですり抜けることが課題となっていた。ハリー達にとって、それは一年生の時にはすでに通った道である。実技に関しては、担当したマーチバンクス教授がにやりと笑ってくれたことでパーフェクトパーシーを獲得したと確信した。

「思ってたより簡単だったね」

「正気かハリー」

「そうね。懸念してた《ハグしたがりサボテン》も、難なく対処できたわ」

「正気かハーマイオニー」

「ネビルが落ち着いて抜け出したのを見て、スプラウト先生が満面の笑みだったよ」

「本当? やっぱり優しめの問題だったのかしらね」

「君ら正気じゃないよ」

 

 翌日、木曜日。闇の魔術に対する防衛術の筆記試験を楽に終えたハリーは、満点を取ったことを確信していた。アンブリッジが嘗め回すような眼でこちらを見ていたが、ハリーはこの試験中は努めてあのガマガエルを無視することに決めている。

 ふたたびトフティ教授がハリーの担当になり、杖捌きを披露することになった。『逆呪い』を完璧にこなして見せ、トフティ教授が放ってくる軽い妨害呪文を『盾の呪文』ですべて防ぎ切った。教授が要求するすべての呪文に問題なく答えていくハリーは、教授が物は試しにとOWLレベルをはるかに超えた、NEWTレベルの魔法を見せてくれと言ったことに気づかなかったくらい、絶好調だったのだ。

 

「見事、見事。ところでポッター。わしの親友、ティベリウス・オグデンが言うには、君は守護霊を作り出すことができるのだとか」

「はい、有体守護霊を」

「ほほう。三年生の時に君の実技を受け持ったフォウリーくんは、無形守護霊だったと言っていたが……どれ、見せてごらん?」

 

 ハリーは頷いて、集中する必要もなく杖を振るった。アンブリッジが禁じられた森に迷い込んで、ケンタウロスたちに拉致されて消えていったらどれだけ幸福だろう。

 

「『エクスペクト・パトローナム』、守護霊よ来たれ!」

 

 杖先から銀色の魔力が噴き出し、それは蛇の尾を持つ雌雄同体の大鹿に姿を変えると大広間の中を駆け回った。試験官全員が振り返り、その銀色の姿を目で追う。大鹿がハリーのそばまで駆けて止まり、トフティ教授に念話で「ありがとうございました」と一礼をしてから霞と化して消え去ってゆく。熟達した守護霊使いは、おのれの守護霊に伝言を持たせることができる。それを知っていたハリーは、わざわざこの場でそれを披露したのだ。

 トフティ教授が大喜びで拍手し、「すばらしい!」と満面の笑みを浮かべた。ハリーは自分が闇の魔術に対する防衛術のOWL試験を、「O・大いによろしい」を取ったことを確信した。

 

「思ってたより簡単だったね」

「そうね、もっと命の危険がある魔法生物を対処するものかとばかり」

「そりゃあ、ハーマイオニーの戦闘力なら楽勝だからじゃないかな」

「あら。それを言うならハリーだって、対人戦闘ならよかったとか言ってなかったかしら」

「ひょっとして正気じゃないのは、僕の方なのか……?」

 

 試験が終わって大広間で夕食を食べている間中、ハリーはトフティ教授が手放しでほめてくれたことで有頂天であった。その隣でロンが不機嫌にしているのは、ゴブレットをカピバラに『変身』させるはずが、毛むくじゃらのゴブレットを作り上げてしまったからである。

 思わず嫌味で「ハリーはうまくできたんだな」と言えば、満面の笑顔で「うん!」と帰ってきたので、ロンは八つ当たりするのもばかばかしいと感じたのか一言謝ってから、目の前のローストビーフにかじりついたのだった。

 

 翌日、金曜日。古代ルーン文字学の筆記試験において、ハリーはOWL試験において初の壁にぶち当たっていた。難しい。難しすぎる。ルーン文字学を履修していないロンが、朝食の席で「僕は一日優雅に休むよ!」と言っていた顔が憎たらしい。

 長枝と短枝の見分けは流石につくものの、ハリーはヘルシンゲルーンを書くのがとても苦手だった。AとTを書き間違えそうになり、ハリーは己を落ち着けるために、昨晩おしゃべりしたシリウスの笑顔と言葉を思い浮かべた。

 

『ハリー。試験なんて、何とかなるもんだ。授業を聞いてれば楽に満点取れるだろ』

 

 幻想のシリウスの顔にインク壺を叩きつけてから、ハリーはいにしえの歌謡集の名前がハヴァマールであることを思い出し、試験用紙にがりがりと書き殴った。

 昼食の間、ハリーは他の五年生たちと同じように必死になって《ルーン文字におけるク・ホリンの流儀》を片手に持って読みながら、キューカンバーサンドイッチを食いちぎった。ハーマイオニーも余裕がないようで、ハリーとの間に会話はなく、ぶつぶつと何かを呟いている。

 午後になって、実技試験が始まった。マクゴナガルに言われたように、ハリーはルーン文字を使用するルーン魔術が大変ニガテである。ルーン魔術だけを用いて火を起こしたり、氷の柱を作り出すといった初歩的なことなら、ハリーも簡単にできる。しかしルーン文字だけでおもちゃの船を動かして水上を移動させたりといった、応用面においては非常に難しかった。

 

「思ってた通りに難しかったわ! エーフワズは協同とか協力って意味で、防衛なんかじゃないのに! アイフワズと間違えたのよ!」

「それならまだ配点低いから、いいじゃないか。モルモットにやる気を与えるためにケンのルーンを刻んだのに、無駄に健康的になった上に不屈の精神でぼくに立ち向かってきた。あれはウルの効果だ」

「それもまだマシよ。ああ、どうしようかしら……こんなこと……」

「……君たち二人も人間なんだなって、今月初めて思ったよ」

 

 土日はすべての時間を勉強に宛てた。

 新しい知識を得ることは苦ではないが、こうして勉強として頭の中に無理やり詰め込むことは好きではない。ロンがぶつくさ文句を言うが、彼が後輩になるなんて耐えられないので、なんとか勉強に付き合わせることに成功した。

 月曜日は魔法薬学だ。筆記試験ではポリジュース薬の必要な材料について少し迷ったものの、おそらく正確に記述できたのではないかと思われる(ハーマイオニーたちがこの薬を調合した際に、その場にいることができたなら結果は違っただろう)。なによりも、この場にスネイプがいないことはハリーにとってかなりの朗報であった。筆記試験だろうと実技試験だろうと、すぐ背後からのぞき込んで鼻で笑うあの腹の立つことさえしてこなければ、誰だって落ち着いて問題へ挑めるのだ。

 午後の実技試験ではネビルが過去最高の出来であると顔に書いてある姿を見送ってから、ハリーが挑んだ。《安らぎの水薬》の調合だ。不安な気持ちを静め、落ち着きと心の安らぎを与える魔法薬だ。適切な材料と正確な量を、正しい順序で大鍋に入れて煎じなければ完成しない、五年生にふさわしい難易度の魔法薬である。月長石の粉を注意深く計量し、バイアン草を絞ってエキスを取り出す。正しい順番を思い出しながら大鍋へ静かに入れてゆく。月長石の粉を静かに入れてから右回りにかき混ぜ、七分に調整した砂時計をひっくり返した。七分後に、右回転した分と同じだけ左回りにかき混ぜるのだ。その後にバイアン・エキスを二滴だけ入れるのだが、ハリーはエキスを垂らした直後に、砂時計が六分のモノに入れ替わっていることに気づいて悲鳴を上げそうになり、さらにその際に強く手が震えたせいでエキスが半滴ほど余計に入ってしまった。ヤバい! ロンみたいな感想を抱いたハリーは、しかし素知らぬ顔で大鍋をあぶる火の勢いを一定に保つことに必死になった。

 終わってみれば、理想的に完成した魔法薬からは軽い銀色の湯気が出るはずだが、ハリーの作り上げた魔法薬は、この世のモノとは思えないほどに美しい鏡面のような銀色の液体が完成していた。……確かに綺麗だけど、これ大丈夫なんだろうか。大鍋からフラスコに魔法薬を移しながらそう考えるハリーの不安をよそに、マーチバンクス教授が試験終了を告げたので仕方なく提出することにした。

 地下牢教室から出る際に魔法薬をスネイプに預けるのだが、きっとねっとり笑われるだろう。憂鬱な気持ちでハリーがフラスコをスネイプに渡すと、どのように嫌味を言ってやろうかと舌なめずりしていたスネイプが驚きに目を見開いた。嘘だろそんなにひどいのか、とビビったハリーがスネイプの顔を見上げると、さっさと行けと顎で示されてしまう。願ってもない申し出に、ハリーはフラスコを預けるとそそくさとその場を立ち去った。

 

「思ってた通り難しかったけど、まあ予想通りよね」

「ミスったかもしれない。いや確実にミスった。作る側が安らげない薬じゃないか」

「ハリーでもそんなこと言うんだなあ! ははは! そうだね、難しかったよね! はは!」

「う、うるさい。だまれよロン」

「ごめんよ! ははは! はは! は!」

 

 火曜日は自由選択科目のふたつめ、つまり魔法生物飼育学。ハグリッドの教師生活のためにも、悪い点数は取れない。筆記試験においては、アイルランドに多く分布する天馬の栗毛種をイーソナンというのだが、綴りを間違えたような気がする。しかしアクロマンチュラの記述においては満点以上の追加点さえ期待できる出来だったので、きっと帳消しになるだろう。

 午後の実技試験では、まず最初にハリネズミの中にまぎれているナールを見分けて捕獲するというものだった。ナールは見た目はハリネズミそっくりだが、桁違いに賢い魔法生物だ。野生のナールは、人間からの施しを決して信用しない。ミルクを差し出せば毒を仕込んでいると疑って襲い掛かってくるレベルだ。なのでハリーは、たくさんいるハリネズミどもに向かって今から貴様らを食べてやると言い放った結果、試験場にいる全てのナールがハリーに襲い掛かってきた。それをさっさと捕獲すると、ぽっちゃりしたメアリー・ラドフォード試験官が目を丸くしたあと大笑いした。

 次にボウトラックルの正しい扱い方(彼らの木を不用意に傷つけると目玉をほじくられる)、ファイア・クラブにエサやりと正しい清掃方法の実技(刺激しすぎると尻から火炎放射を噴かれる)、一角獣に正しいエサを与える実技(清らかな少女が相手だと露骨に甘えるというフザケた性質を持っている)が行われた。そのどれに対しても、ハリーは対処を間違えたつもりはない。ないので大丈夫だと思う。だから試験会場をちらちらと心配そうに覗くハグリッドは落ち着いてほしい。

 ラドフォード試験官が微笑んでもう行ってよろしいと言ってくれたことで、ハリーはほっとしてハグリッドにウィンクした。

 

「思ってたより簡単だったな……」

「ロンからそんな言葉が聞けるだなんてね。明日は雨かしら」

「うるさいハーマイオニー。でも、やっぱり、ユニコーンのいやらしさは我慢ならん。ハリーやハーマイオニーの手をべろべろ舐めやがって! なんだあれ!」

「まあ、馬だし」

「馬だからだよ」

「ロン、あなた黙ってなさい」

 

 水曜日は天文学であり、筆記試験は十分に書ききったつもりである。昨晩ハーマイオニーがしつこく木星の衛星に関する質問合戦を挑んできたため、綴りさえ完璧にできたつもりである。天文学の実技は夜中に行うため、午後は休みだ。

 ロンは選択科目の占い学があるので、ぶつくさ言う彼を笑顔で送り出して、ハーマイオニーが数占いの試験に挑む後ろ姿を厳かに見送った。

 ハリーはラベンダーやパーバティと優雅に紅茶を飲みながら、必死に実技試験で出そうな星座の予想を行った。星座図を見直すことに必死になっていたハリーたちは、占い学の試験を終えて不機嫌になっているロンが帰ってきたことで、ようやく時間の経過に気付く。その数分後に満足そうな顔のハーマイオニーがやってきたことで、両者のテストの出来が察せようというものである。

 眠くならないよう夕食は控えめにとり、ハリー達は天文台へとのぼった。生徒たちが望遠鏡を準備し終えるのを待ったトフティ教授は、今日は雲一つない静寂の夜なので頑張りなさいと激励をくれる。マーチバンクス教授がはじめと大きな声で叫ぶと同時に、ハリー達は必死になって望遠鏡を覗き込んだ。

 ただしい星座図になるよう、虫食いに空欄のある試験用紙へ書き加える試験だ。ふたりの老教授が生徒たちのまわりをゆっくりと歩いて回る中、ハリーは集中して星座図を整えてゆく。ハリーはあまり絵心のないタイプだが、星座図くらいならば満足いく出来で描ける。金星はうまく描けたので、オリオン座を美しく描いてやろう。

 一時間ほどが経過して、トフティ教授がしわがれた声でそれを宣告する。ハリーは満足いく出来になるように書けたので、あとは仕上げとして細かい部分を手入れするのみである。周りはまだ必死になってがりがりと羽根ペンを動かしている気配が伝わってくるので、中々の出来だと自画自賛できるくらいには、心に余裕ができた。

 だからだろうか、城の扉の一部が開いて、明かりが漏れたことに気づいたのは。迷惑な奴がいるものだと思いながら星座を見上げていると、ハリーはなんとなく、ぞわりと寒気を覚えた。背筋に嫌な感覚が走っている。悪意や、嫌悪。そういった負の感情を発する人間がいる時に、よく覚える感覚だ。

 

「……?」

 

 生徒たちの息遣いや、羽根ペンが羊皮紙をひっかく音、教授たちの歩く靴の音くらいしか聞こえてこない静寂の夜に、無粋なノックの音が響く。

 マーチバンクス教授が苛立たしげに息を吐いた様子が伝わった。ハリーはこの、イライラとした感じにノックする音が、どこの扉をたたいているのかを察してしまった。この聞き覚えのあるノックの音は、間違いなくハグリッドの小屋の扉をたたいた際に鳴る音だ。こんな時間にハグリッドを尋ねるのは誰だろうと思い、老教授たちの目を盗んでハグリッドの小屋へと視線を投げる。十人ほどの黒い影が、小屋から出てきたハグリッドに相対していた。小屋の明かりが、ハグリッドに話しかけている人物をよく照らしている。距離の関係上、顔までは見えないが、あの趣味の悪いショッキングピンクのカーディガンを着る人物など一人しかいない。アンブリッジだ。

 

「みなさん、テストは続いておりますぞ。残り二〇分」

 

 トフティ教授の言葉に、ハリーは最後の仕上げを済ませていないことに気づいてあわてて試験用紙にがりがりとペン先を叩きつけた。五分ほど急いで書き連ねると、満足して息を吐く。それと同時に、ハリーは敵意と殺意を感じ取った。

 試験中であることも忘れて、ハリーはハグリッドの小屋を見る。アンブリッジが自分の杖から、ハグリッドに向けて赤い魔力反応光を放った破裂音が響いたのは、それとほぼ同時であった。バーンという大音響とともに、ハグリッドに当たって跳ね返った失神呪文と思しき魔法が、黒い影のうち一人を吹き飛ばす。

 

「うそでしょう!?」

 

 ハーマイオニーが叫んだ声が聞こえた。トフティ教授が彼女を咎めようと近寄ったところ、今度は校庭が赤く照らされるほどの『失神呪文』が放たれる炸裂音が、連続して響き渡った。もはやこの場の誰もが、テストのことを忘れてハグリッドのことを心配していた。トフティ教授があわてて試験のことを思い出させようとしたが、しかし彼が不思議に思って校庭へ視線を移したところ、その光景に仰天してしまった。

 主人を守ろうとアンブリッジにとびかかったファングは、しかしアンブリッジが素早く振るった杖によって大きく吹き飛ばされる。それを見たハグリッドが怒りの咆哮を叫ぶが、アンブリッジの部下らしき人影たちがファングへ三本もの『失神呪文』を放ち、哀れな犬を気絶させてしまう。

 何故ハグリッドが攻撃されている? そんな疑問を抱く暇があればこそ、ハリーは天文台から身を乗り出して、飛び降りる姿勢に入っていた。自身に『身体強化』をかけようと懐の杖に手を伸ばしたが、ロンが抱きしめるように静止したことで、それはかなわなかった。

 

「なにするんだ、ロン! 助けないと!」

「だめだハリー! 君がアンブリッジの前に出たら、今度こそ退学にされる!」

「知ったことかよ! 友達を助けるほうが重要だ!」

「待って、マクゴナガル先生よ! 助けてくれるんだわ!」

 

 そう叫んだハリーのもとに、パーバティの叫び声が届いた。赤く照らされる校庭には、怒りに叫ぶマクゴナガルの姿があった。

 ハグリッドはファングを攻撃されたことで、本気で激怒しているようだった。ハリーは、魔法とかかわった頃から友達だった彼の、燃えるような怒りの姿を初めて見た。ファングへ魔法を放った人影たちへ素早く駆け寄ると、そのうちの一人の脚をわしづかみにして、乱暴に振り回す。彼の鈍器と化した人影は、仲間を三人ほどなぎ倒すと一緒になって放り投げられ、それ以降身じろぎすることはなかった。

 仲間をやられたことで怒りの声をあげる男たちに、ハグリッドがそれ以上の怒りをもって吠え掛かる。そこへ割り込んできたのは、マクゴナガルだ。ハグリッドを落ち着かせるように鋭く叫び、そしてアンブリッジへと顔を向ける。

 

「なにをするのです!? おやめなさい、ドローレス! 何の理由があって、彼を――『プロテゴ』!」

 

 生徒たちから、悲鳴が上がった。

 アンブリッジを静止するマクゴナガルに向かって、幾本もの『失神呪文』が放たれたのだ。それを杖のひと振りで防ぎ切ったマクゴナガルは、しかし二の句が継げぬように連続して色とりどりの魔力反応光を放たれてしまう。

 それらを見事な『盾の呪文』でしのぐマクゴナガルは、続くアンブリッジの叫び声に驚いたように身じろぎした。

 

「杖を取り出しましたわね!? 反逆者です!」

 

 あんまりにもひどすぎる言葉に、さすがのマクゴナガルも仰天したのだろう。そのすきを突かれて、六本もの『失神呪文』が彼女に突き刺さった。トフティ教授が「卑怯者!」と叫び、マーチバンクス教授が子供に聞かせられない口汚さで罵った。

 

「とんでもねえことを! きさまら、ただですむと思うなッ!」

 

 ハグリッドが絶叫した声は、びりびりと空気を震わせた。あまりの怒声に城内の者も気づき始めたのか、あちこちから乱暴に窓を開く音が聞こえてくる。

 人語を失ったかのように吼えるハグリッドに向けて、いまだに『失神』の光が突き刺さるものの、それをものともせず彼は拳を振るった。直撃した襲撃犯のひとりが、十メートルは吹き飛ばされ、仲間を幾人も巻き込んで倒れこむ。地面を砕いて突進したハグリッドは、アンブリッジの率いてきた男たちを次々と殴り飛ばす。

 アンブリッジが放つ魔法を次々と身に受けながらも、ハグリッドはファングを抱えて跳躍し、禁じられた森の中へとその姿を消してしまった。ただ一人だけ残ったアンブリッジは、なにやら英語になっていない声を漏らしている様子だった。

 

「……お、っと……試験は終わりですぞ。用紙をこちらへ」

 

 トフティ教授が試験の時間切れを告げるが、それを気にしている者は少なかった。

 ハリー達はあわてて試験用紙をトフティ教授とマーチバンクス教授に預け、望遠鏡を乱暴にしまい込むとなだれ込むように天文台の螺旋階段を駆け下りた。誰も寮には戻らず、校庭へと至る廊下を駆け抜ける。先頭を走るハリーが見たのは、フリットウィック先生に『移動』させられている失神したマクゴナガル先生と、マダム・ポンフリーの姿だった。

 

「マダム・ポンフリー! マクゴナガル先生は、」

「うるさいですよポッターァ! 怪我人がいるのです、お静かにッ!」

 

 ハリーの叫び声より、マダム・ポンフリーの怒声の方がはるかに大きかった。尻すぼみになったハリーの言葉は呑み込まれ、ふんと鼻を鳴らしたマダム・ポンフリーは、フリットウィック先生と共に医務室へと全速力で飛ぶように駆けていった。

 生徒たちが呆然とその後姿を見送っていると、ぎぃと扉が開いた音で皆が振り返る。そこには、息も絶え絶えの男たちの姿があった。アンブリッジの連れてきた下手人だろう。その証拠に、目がらんらんと輝いているアンブリッジが男たちに囲まれている。

 廊下に集っている生徒たちにぎょっとしたのか、一瞬だけ身じろぎをしたものの、アンブリッジはハリーを数秒だけ見つめてから、苦々しげな色を浮かべて部下を引き連れて立ち去っていった。生徒たちが杖を抜いて彼女に呪いをかけなかったのは、真っ先に襲いかかりそうなハリーが我慢していたからだ。

 ワインレッドの瞳を限界まで見開いてアンブリッジの後ろ姿を見送ったハリーは、その手に持っている望遠鏡を床にたたきつけて破壊した。

 

「…………かならず、報いを、受けさせて、やる。絶対に、絶対にだ……」

 

 怒りに震えた声でつぶやくハリーを連れて、ロンが獅子寮への道を先導した。怒りと不安に満ちながらも、生徒たちはぞろぞろと各自の寮へと帰ってゆく。

 感情が振り切れてぼろぼろと涙をこぼすハリーを気遣って、フレッドとジョージが彼女の肩を優しくたたく。アーニーが杖を振ってバラバラになった望遠鏡を『治し』たあと、ハーマイオニーにそれを手渡す。心配そうにハリーへ目を向けて、おやすみと一言だけ言い残して去ってゆく。

 シェーマスとディーンが先に談話室へ帰って、皆に先ほどの出来事を伝えていたのだろう。口々になぜハグリッドが襲撃されたのか、どうしてアンブリッジはこのタイミングで彼を逮捕しようとしたのだろうと疑問を交わしている。

 ハリーはそれらに興味を持たせることができず、ひとりさっさとベッドにもぐりこんでしまう。しかし談話室のざわめきが彼女を夢の中へ旅立たせることを許さず、ようやく眠れるころには騒ぎも落ち着いて同室のハーマイオニーたちが部屋へ戻ってくる頃であった。

 翌日、木曜日には魔法史が待ち構えている。最後の試験は午後からであるため、ハリーの苦手な教科であることに加えて、いまだに意識の戻らないマクゴナガル先生や、森へと姿を消したハグリッドのことが心配でならなかった。

 アンブリッジをいったい、どのような目に合わせてから惨殺するのが適切なのかを考えているうちに、ハリーはいつの間にか朝食を食べ終えていた。大広間の朝食の席に、平然と姿を現して大広間中から殺意と敵意の視線を受けながらも、優雅に紅茶を飲んで大きなげっぷをかますアンブリッジの精神は、驚嘆すべきものかもしれない。

 午後になり、ハリーは魔法史の問題と格闘していた。午前中のうちに、やれることはすべてやった。あとはこの苦手な教科をやっつけるだけだ。

 さあ行くぞ魔法普通レベル試験! ぼくたちの戦いはこれからだ!

 

「……思ってた以上に簡単だったね?」

「そうね、かなり手ごたえがあったような気がするわ」

「もはや何も言うまい」

 

 夕食を食べながら、ハリーはすっきりとした気持ちでハーマイオニーとお喋りをしていた。

 ヨークシャープディングを口にし、オニオンピクルスと共にスコッチエッグを丸々ひとつを一気に頬張る。もきゅもきゅと噛み潰して呑み込み、グレープフルーツジュースをごくごくと飲んだ。

 

「いやあ、すっきりした。試験が終わったと思うと気分が楽でいい」

「ねえハリー、ご飯食べ終わったら今日の魔法史の部分の復習をしない? 私、ボストン茶会事件で海に放り込まれたゴブリンたちの名前をちゃんと書けたか不安で仕方なくって」

「試験は終わったんだぜハーマイオニー、君は正気か?」

 

 デザートのアップルパイをミルクで流し込んで、満足したハリーは壇上にあがったフリットウィック先生が、マクゴナガル先生が聖マンゴ病院で意識を取り戻したことを発表する。偉大なる教師の無事を聞いて生徒たちが喝采を叫ぶ(一部はアンブリッジへの罵倒を行った)。

 ふくろうたちが家族からの手紙を運び、それぞれが受け取って嬉しそうな声をあげる。スコーピウスが父上がねぎらってくださったと喜ぶ声を聴きながら、ハリーはウィーズリーおばさんが書いてくれた手紙を読んで嬉しくなっていた。もう一通はシリウスからの手紙だったので、寝室に帰ってからじっくり読もうと思う。試験が終わった安心感もあってか、夕食の席を終えるとそれぞれの寮に向かって解散した。

 グリフィンドール談話室へ至る廊下を歩いている途中、ハリーは早いところ《両面鏡》でシリウスとおしゃべりしたくて仕方がなかった。それを分かっているのか、ハーマイオニーも微笑んでハリーとおしゃべりしていた、その時。

 

『ハリー!』

 

 すっきりとした晴れやかな気分でいたハリーはしかし、鞄から聞こえてきた叫び声に心臓がひっくり返ったような気持を味わった。思わず鞄を抑えたものの、鋭く低い男の声は周囲の生徒たちに聞こえてしまったらしい。いまのは誰の声だと訝しむ声が聞こえる中、ハリーは慌てて近場にあった女子トイレへと駆け込んだ。

 

「うそだろ、このタイミングで? なんで?」

 

 個室へ入って鍵をかける直前、ハーマイオニーが飛び込んできたのでハリーは彼女を受け入れ、そしてがちゃりと鍵をかける。ロンはきっと、女子トイレの前で待ってくれていることだろう。

 便器のふたを開けずその上に座り、ハリーは押さえつけていた鞄から手を離す。すると、やはり男の声が聞こえてきた。

 

『逃げろ、逃げるんだハリー……』

「シリウスからの手紙か?」

 

 あわてて鞄から、先ほど学校のメンフクロウが届けた手紙を取り出す。すると先ほど届いた封筒が空中に浮かびあがり、言葉を発した。薄い緑色の封筒は、いまやペーパークラフトのように人の顔に似せて動いて喋っている。このハンサム顔には見覚えがある。シリウスだ。

 次に聞こえてきた台詞を聞いて、ハーマイオニーは小さくシリウスの名を呟いた。

 

『ヴォルデモートに隠れ家が見つかった! 今すぐそこから逃げるんだ……! マクゴナガルだ、彼女に助けを求めるんだ』

「これ、シリウスからの手紙なのね……!」

『いいか、ハリー。死喰い人どもがそちらへ向かっている……! 暖炉を封鎖するか、逃げるんだ。いいな、ハリー。いいな……』

 

 そう囁いた手紙は、ぱたりとハリーの膝の上に落ちた。

 封を破いて中身を見てみれば、特に何も書かれてはいない。魔法で音声を封じ込めたものなのだろう。過去にドビーがダーズリー家でやらかした際に、ウィーズリーおじさんから似たような手紙をもらったことがある。きっとそれと同じ魔法だ。

 

「ハリー、これって……!?」

「わからない……。なんだこれ、シリウスが……? ヴォルデモートに……!?」

 

 ハーマイオニーが心配そうにハリーへ言葉をかけるが、しかしハリーは混乱の極みにあった。なぜこんな、唐突にこのようなことが起きたのか。シリウスのいるグリモールドプレイス十二番地は、さまざまな守護魔法によって守られている。いくらシリウスの血縁者が純血主義であったとはいえ、ヴォルデモートと親しくしていたわけではなかろう。それに、シリウスの血縁者はもはや誰一人として生き残ってはいない。

 さらに言えば、この手紙が本当に本物なのかもハリーには判断できないのだ。いくらなんでも、怪しすぎる。ふくろう便の時間にちょうど届いたということもそうだが、ここまでの一大事を、わざわざハリーに報告するだろうか。もしシリウスが本当にヴォルデモートに襲われたのだとしたら、考えるまでもなく不死鳥の騎士団案件である。未成年のハリーよりも、マクゴナガルなどの騎士団員に連絡した方が、より確実だ。

 ハリーの知る団員は、マクゴナガルとスネイプくらいだ。スネイプに伝えるしかあるまい。もし本当のことであれば、彼ならば動いてくれるだろう。

 しかし、ハリーはトイレの個室から出ようとした瞬間に、電撃のようにひらめいた。

 

「あっ、そうだ! ハーマイオニー! 《両面鏡》!」

「《両面鏡》って、確かシリウスがプレゼントしてくれたっていう?」

「そう、それ!」

 

 不確かな情報のまま行動することは、こと命のやり取りにおいては死へと直結する。

 ハリーは急いで、しかし丁寧に杖を振って空間を裂くと、そこにしまっている《両面鏡》を亜空間から取り出した。よく磨かれており、ハリーがこの魔法道具を大切にしていることをハーマイオニーは悟った。

 

「でも何でわざわざ確認を!? 本当だったら急がなくちゃ!」

「シリウスは、ぼくをハリエットって呼ぶんだ! ハリーとは呼ばない!」

 

 恋人じゃないんだから、とハーマイオニーは心底呆れた。

 

「シリウス! 聞こえる!? ねえ、シリウス!」

 

 女子トイレの中に、ハリーの切迫した声が響く。

 ハーマイオニーに言い返した手紙のシリウス偽物説の理由は、とっさに出てきたものだが、しかし後から考えてみれば判断材料として相応しい。シリウスはハリーが、本物のハリー・ポッターではないことを知っている。三年生の時、ヴォルデモートの作り出した紛い物であるという理由で、ハリーのことを殺害するかどうか葛藤していたのだ。

 今ではハリーのことを娘のように愛してくれているが、彼にとって、ハリー・ポッターは二人いる。亡くなってしまった男の子と、自分に懐いている女の子。軽々しく、何の理由もなくハリーとは呼ばないだろう。

 

『うおッ、なんだ!? ハリエットか!』

「シリウスッ! ねぇ無事なの!?」

『なんだ、何の話だ? そこまで声が大きいと聞かれるぞ、抑えるんだハリエット』

 

 鏡の向こうから、寝起きと思われるぼさぼさの頭で、タンクトップ姿のシリウスが顔をのぞかせた。間が抜けながらもハンサムなその姿に、ハリーは心の底から安堵する。

 安堵するのはいいが、しかしそうなると、この手紙はいったい何なのだろうか。

 そんなものは考えるまでもない。ここまで邪悪な詐欺を考えられる人間など、二種類しかいないだろう。アンブリッジか、死喰い人か。その二者択一だ。アンブリッジが考えたならば、なるほどこの悪辣でいやらしい手口は実に彼女らしい。しかしアンブリッジは、シリウスがヴォルデモートの忠実な配下であると信じ込んでいるので、この手紙の内容を考え着くことはあり得ない。闇の帝王に見つかっただの、そういう言葉が出るのは、シリウスが闇の勢力と敵対していることを知っているがゆえだ。そうなると、つまりこれは、死喰い人側の者が悪意を以って仕込んだ何か。ハリーをハメるための、罠だ。

 

「というわけでね、シリウス。君からヴォルデモートに捕まったっていう手紙が来たものだから、あわてて連絡したんだよ」

『……なるほどな。確かに、私ならば真っ先にマクゴナガルなどの騎士団員に連絡する。よく正しい判断をしてくれた、ハリエット』

 

 シリウスのねぎらいの声に、ハリーは心がじんわりと暖かくなる感覚を覚えた。しかし、考えようによっては、この手紙は恐ろしいものである。それと同じ考えに至ったらしいシリウスは、唸った。

 

『とりあえずその手紙は、マクゴナガルに見せなさい』

「いいぇえん。その必要は、ありませんわァン」

 

 落ち着いたシリウスの低い声にかぶせるように、ねっとりとした甲高い声が女子トイレに響く。その声の主を、ハリーはいやというほど知っていたし、この瞬間ほど頭の中が真っ白になったことはないと断言できる。即断したハリーは、その手に持っていた《両面鏡》から手を離してトイレの床へ落とす。それは床にぶつかって割れることなく、無言呪文で開かれた魔法空間の中へ滑り落ちた。声をかけられて、そのセリフを言い終えられるまでの短い間。その一瞬でこれを成し遂げたハリーは、心の中で喝采を叫んだ。

 トイレのドアが溶けるように消滅すると、女子トイレの個室前で、ショッキングピンクのローブを羽織った中年太りの女性が、仁王立ちしてにたにたと笑っていた。

 

「現行犯、ですわね。ポッター」

「あ、アンブリッジ……ッ」

「無礼者ッ! 校長先生、を付けなさいッ!」

 

 思わず名を呟いたハーマイオニーの頬に向かって、アンブリッジは張り手を繰り出す。それを彼女の手首を握りしめることで止めたハリーを見て、にたにたした笑顔を一瞬で真顔に戻したアンブリッジは、それを振りほどき、今度はハリーの頬を張った。

 トイレの床に倒れこんだハリーの腹に蹴りを入れ(動きはのろいので、腕で防ぐことは容易だった)、アンブリッジは恍惚とした表情でつぶやく。

 

「ついにこの時が来たわ。この、わたくしが……あの寂しくつまらない、わたくしは、もういない……ッ! いまここにいるのは、シリウス・ブラックを、逮捕する! 輝かしい、わたくしィ……ッ!」

「はい、アンブリッジ上級次官殿」

「よくやりましたわ、ドミニク! ポッターがトイレへ駈け込む姿を目撃したその功績は大きいですわよ! 次期闇祓い局の局長はアナタですわッ!」

「はい、アンブリッジ上級次官殿」

 

 アンブリッジの後ろに控えていた闇祓いドーリッシュと、ハリーの知らないツーブロックヘアーの黒人の闇祓いドミニクが、それぞれハリーとハーマイオニーの腕を締め上げる。

 懐を探られるのが嫌だったので、袖から杖を落として抵抗の意思がないことをアピールするも、黒人の闇祓いは用心深い男だったようで、弱めの『武装解除』をハリーとハーマイオニーにかけてきた。ハリーが落とした杖とハーマイオニーの鞄から彼女の杖が飛び出し、黒人の闇祓いの手におさまった。

 ここで抵抗するのは悪手でしかないだろう。アンブリッジ率いる二人の後ろでは、うつろな目で天井を見つめているチョウ・チャンの姿が見えるからだ。

 チョウ・チャンは明らかに正気だとは思えない。ハリーがその魔眼で見抜くと、アンブリッジと(パス)がつながっている。冗談だろうと目を疑うも、しかしその魔力式には見覚えがあった。死喰い人の青年、バルドヴィーノ・ブレオが使っていた、許されざる魔法。

 

「アンブリッジ! おまえ、チョウに『服従の呪文』をかけたな……!?」

「校長先生を付けなさいと、言ったはずですわよポッター!」

 

 ハリーのことを突き飛ばしたせいで、彼女を拘束していたドーリッシュも一緒に倒れこんでしまう。下敷きになった彼に小さくごめんとつぶやき、ハリーはアンブリッジをにらみつけた。

 

「答えろ! チョウのその様子は、明らかにおかしいぞ!」

「あらァ~ん? 『服従の呪文』んん~? そのような魔法をかけた覚えは、まーったく、これっぽっちも、これっぽっちも、ありませんわねぇ~」

 

 にやにやと笑いながら、チョウをその場に跪かせてソファ代わりにしたアンブリッジは、彼女の上にどかっと尻を乗せる。

 その様子を見て、尻餅をついていたドーリッシュが叫んだ。

 

「アンブリッジ上級次官!? そ、それはまことですか!」

「あら、ドーリッシュ。だとしたら、どうなんですの? アナタは魔法省の職員。でしたらわたくしの命令に従うのが、道理というものですわよね?」

「冗談じゃない! いいか。私が忠誠を誓ったのは、英国魔法省だ! 子供に許されざる呪文をかけるような犯罪者ではない! 『エクスペ――」

「『ステューピファイ』!」

 

 激昂したドーリッシュが杖を抜いて叫ぶも、それよりもハーマイオニーの杖を手に持っていた黒人の闇祓いの方が速かった。容赦なく同僚へ『失神呪文』を射出した彼は、胸の中心に赤い魔力反応光を直撃させてトイレの壁へと叩きつける。

 ドーリッシュの体がぶつかったことで便器が破壊され、ハーマイオニーが甲高い悲鳴を上げる間も水がばしゃばしゃと飛び出す。かつて一年生の時も、女子トイレでこのような光景を見たなと若干現実逃避しつつ、ハリーは苦いものを感じていた。

 アンブリッジが校長室へ入れなかったので、闇の魔術に対する防衛術の教務員用私室が、臨時的に校長室となっている。そこへ連れ込まれたハリーとハーマイオニーは、昨日ハグリッドを襲撃したのだろう身体のあちこちに包帯を巻いて怪我をしている闇祓いらしき男が三人と、椅子に座らされて息も絶え絶えのマリエッタ・エッジコムの姿を発見して、ハーマイオニーがその名を叫んだ。

 

「マリエッタ……!?」

「ぁ……ハリーね……ごめんなさい。『服従の呪文』には、勝てたんだけど……」

「いい、つらいだろう。それ以上しゃべるな」

「ごめんなさい……チョウを守れなかった……ごめんなさい……」

 

 全身に傷は見られない。物理的な外傷はなく、ここまで生命力を消耗させる術などハリーにはひとつしか思い当たらない。アンブリッジの奴は、『服従の呪文』のみならず『磔の呪文』まで使ったのだろうか。他に苦痛を与えるだけの魔法ならば、『磔』の原型となったという説がある『苦悶魔法』があるが、あれは『盾の呪文』で容易に防げる。マリエッタも『盾の呪文』についてはDA活動で散々練習したので、どのように咄嗟の状況であろうと張れるはずである。鬼教官ハリーが、活動中に何度も不意打ちテストを行ったので、間違いないだろう。

 『磔の呪文』で精神を疲弊させて『服従の呪文』で従わせる。第一次魔法戦争の頃に、闇の陣営が好んで使っていた手だ。拷問と支配の両方が行えるのだ。嗜虐心の強い魔法犯罪者たちには、うってつけだっただろう。つまり、同じく性根の腐ったアンブリッジにもぴったりの手段だったというわけだ。

 

「クソッ」

「ハぁリー・ポッターァァアア? アナタには、ファッジ大臣に対して、シリウス・ブラックとの内通容疑について洗いざらい説明してもらいますわん」

 

 アンブリッジの言葉に、ハリーは訝しそうに眉をひそめた。

 この学校には、いまや外部との通信手段はないはずである。他ならぬアンブリッジがそう取り決めて、教育令の第三十二号でそう取り決めているはずである。ホグワーツにあるすべての暖炉には《煙突飛行粉》の使用禁止のため、『転移不可』の魔法がかけられているはずである。これをかけることも解除することも、魔法省の許可が必要になるという、なかなかに特殊な魔法だ。

 ハリーが何を言いたいのか察したアンブリッジは、にたりと笑って言う。

 

「わたくしの部屋の暖炉だけは、禁じておりません」

「……教育令に違反してるな」

「おやおやおや、そーんなことはありませんわァん。教育令第三十二号、ホグワーツで教鞭をとる者及びホグワーツの生徒は《煙突飛行粉》の使用を禁じる。わたくしは校長先生ですから教鞭を取っておりませんのォ」

 

 ノォホホホホエヘラエヘラと爆発したように笑うアンブリッジを、ハリーは半目でにらみつける。詭弁もいいところだ。この女は自分で決めたことさえ、守る気はないのだ。

 アンブリッジが自分のデスクから麻布の袋を取り出す。ラベルには《煙突飛行粉》と書かれていた。黒人の闇祓いに袋を手渡し、アンブリッジはハリーの髪の毛を掴んで、強く床に押し付ける。膝を折って跪いたハリーは、髪を掴まれたまま暖炉へと向き直される。

 

「さーぁ、ドミニクぅ」

「ええ、アンブリッジ上級次官」

 

 黒人の闇祓いドミニクが《煙突飛行粉》を暖炉の中に投げ込むと、火の気のなかった薪がエメラルドグリーンの炎が巻き起こった。激しく燃え盛る火柱は暖炉の天井を舐め、行先を告げる声を今か今かと待ち望んでいる。

 ハリーに絶望しなさいと囁いて、アンブリッジは感極まったように裏返った声で命じた。

 

「ファッジ大臣の部屋へ、お繋ぎなさい」

「ええ、そうしましょうとも。――ノクターン横丁!」

 

 黒人の闇祓いが叫んだことで、エメラルドグリーンの炎がさらに激しく燃焼する。

 ハリーは己の耳を疑った。ノクターン横丁とは、あまり治安のよくない地域である。そんなところにファッジ魔法大臣がいるとは思えないが、闇祓いが叫んだ以上はそうなのだろう。

 そう考えたハリーは、しかし至近距離で聞こえてきたアンブリッジの言葉に身を凍らせる。

 

「えっ? ……は?」

 

 間の抜けた声を出すアンブリッジの反応で、ハリーはこれが不測の事態であることを悟った。一気に警戒心が跳ね上がる中、黒人の闇祓いは白い歯を見せつけて嗤った。

 そしてローブのフードを被ると、暖炉に向かってその場に跪いて言う。

 

「お待ちしておりました」

 

 エメラルドグリーンの炎の向こうから、同じ漆黒のローブにフードを被った男が現れる。

 暖炉の淵に手をかけ、粗暴な動きで出てきたその男は、フードをかきあげてその素顔を晒す。その顔を見たハリーは、苦い顔をした。知っている顔どころではない。喜んでハリーを殺したがる、彼女に恨みを持つ男だ。

 

「グレイバック様」

「ご苦労(ふおう)ドミニク(どみいう)。さすがは、(おえ)の息子だ」

 

 フェンリール・グレイバック。

 狼人間の中でもっとも残忍とされる男で、好き好んで人間を咬むことで狼人間へと変えようとする異常者だ。ルーピンを咬んだことで狼人間に変え、特に子供を咬むことを自分の使命であると思い込んでいる。

 彼はヴォルデモートの作る悪の世界の方がやりやすいので、彼に協力しているような根っからの魔法犯罪者である。そして死喰い人のローブを着ることを許されている、協力者だ。そんな危険人物を、アンブリッジが呼ぶはずがない。その証拠に、アンブリッジはわなわなと震えて後ずさっている。髪を掴んだままなので、ハリーは引きずられた。

 

「よォう久しぶりだなァ、メスガキィ。会いたかったぜぇ、ハァリィー・()ッターァア。お(あえ)に会うためだけに、随分(ういぶん)苦労(ふおう)したもんだァ……今度(こんお)こそ、お(あえ)を食ってやる。両方の意味(いい)でな」

 

 ハリーが斬ったせいで鼻の一部が欠けたまま、おかしくなった発音で語りかけてくる。

 ハーマイオニーが驚きのあまり目を見開き、拘束していたドミニクが手を離したので、動けないマリエッタとぼーっとしているチョウを背中に庇う。グレイバックが笑いかけたことでアンブリッジが短い悲鳴を上げると、驚きに固まっていた闇祓いたちが正気に戻り、慌てて杖を懐から抜いて、グレイバックへと向けた。

 

「なッ、何なんだ貴様!?」

「上級次官殿に近づくんじゃ――」

 

 鷲鼻の闇祓いがそう叫んだその瞬間、アンブリッジの誇る臨時校長室は血に塗れた。

 闇祓いに扮していたドミニクが、その腕を振るって鷲鼻の闇祓いの隣にいた禿頭の闇祓いの腹を貫いた。顔が毛むくじゃらに変貌し、右腕と右肩も共に狼のソレになっている。グレイバックほどではなくとも、彼も狼人間としての力を使いこなしているらしい。

 同僚がやられたことで動揺する鷲鼻の闇祓いが見たものは、臙脂色のローブを引き裂いて上半身を狼に変貌させたもう一人の同僚。あっと驚く間もなく、その刃物のような爪を振るわれて逆袈裟に切り払われる。ぐらりとよろけて膝をついた鷲鼻の闇祓いは、それでも杖を振るおうとするも、グレイバックが背中を蹴り飛ばしたことでついに倒れ伏す。

 ドミニクが貫いた腹から腕を引き抜き、禿頭の闇祓いがびくりと反射的に震える。そのままうつ伏せに床へ倒れ伏し、血と臓物を噴き出している腹の穴を、必死になって両手で抑えて呻く。暖炉で燃え盛るエメラルドグリーンの炎が沈下する時と、その惨状が出来上がったのは、ほとんど同時。それ以降、彼らが身じろぎすることはなく、か細い息遣いが部屋に響くのみであった。

 

「な……ッ、んなななな……ッ!? ドミニク!? ドミニク・ホジキンソン!? あなた何を……ッ、いえッ、あなた、狼人間!? そ、それにグレイバック! なぜあなたのような半人間がッ!? ど、どどどどど、どういうことなの!?」

「ニブいババァだな。まぁ、てめぇには用()ねえんだ、失せろよ」

 

 驚きのあまり訳の分からない言葉を口走るアンブリッジを、グレイバックは心底どうでも良さそうに振り払う。その一撃は特に攻撃的な意思を乗せておらずとも、アンブリッジの肥満体を吹き飛ばすには十分であった。

 誤算なのは、それでもアンブリッジがハリーの髪の毛を手放さなかったこと。幾本かをちぎられながらも、一緒に吹き飛ばされたハリーは、アンブリッジのクッションとなって臨時校長室の壁に叩きつけられる。灰の中の空気が一気に吐き出され、ハリーは床にはいつくばってせき込んだ。

 

「くひ。んっんー、いい眺め(ながえ)だ。ショーツは(くお)か。(おえ)は白が好みだな。もしくは穿くんじゃ(でぁ)あねーぜ」

「かはッ! げほっ、……気安く、見てるんじゃない、……クソ野郎」

「威勢もいい。そうでなくっちゃあなァ」

 

 大仰にローブを脱いだグレイバックは、汚らしいズボンだけを身にまとった、はちきれんばかりに胸毛の逞しい裸体を晒す。動物のように手入れのされていない髭面に、灰色の脂っこい髪が揺れている。

 ぶちぶちと異音を立てて首から上だけを狼に変えたグレイバックは、闇祓いとして潜り込んでいた狼人間の息子ふたりを従えて、下品に笑った。

 

「ヴォルデモートの野郎(やおう)には、すぐ連れて来いなんて言われたがな。(おえ)にはてめぇに、この(はが)の恨みがある」

「男前になったじゃないか。吐き気がする顔を見せるな」

 

 挑発的な軽口をたたくハリーに、アンブリッジが短い悲鳴を上げた。ゆっくりと歩み寄るグレイバックに恐慌をきたしているようだった。

 

「ハァリーちゃんよォ。てめぇを(おえ)の娘にしてやるよ」

 

 その言葉に、ドミニクと臙脂色ローブの狼人間がぴくりと反応する。

 この二人もグレイバックから息子と呼ばれていた以上、おそらくグレイバックに咬まれて狼人間と化し、親という彼に従っているのだろう。つまりグレイバックは、身動きのできないハリーを咬んで狼人間に変えるというのだ。

 

「その(あお)、ちーっとだけ味見させてもらうのも、悪かねぇかな。女を同族化させるのは初めてだが、犯して発散する楽しみまであるってェんだからなァ! もっとやってりゃあよかったかな!? ギャハハハハハ!」

「……下種野郎!」

「なんとでも言えや。てめぇに千切られたこの(はが)、その恨みを晴らすまで何度(あんご)でもブチ犯して、何度(あんご)でもブチまけてやる」

 

 舌なめずりをして女性の人権を無視する発言をしたグレイバックに怒りと殺意が沸くものの、アンブリッジが頑なにハリーの髪の毛を手放さないため身動きが取れなかった。

 せめて抱き枕のように身を寄せてくる、汗だくのアンブリッジさえいなければ!

 

「ひいいいい!? わッ、わたくしを守りなさいチョウ・チャン!」

「はい、アンブリッジ校長先生」

 

 恐怖をあおるため、ゆっくりと歩み寄るグレイバックにアンブリッジが発狂したかのように、チョウ・チャンへ命令を下す。いまだに『服従の呪文』を持続させているその実力は流石としか言いようがないが、今この状況では明らかにまずい。

 ハーマイオニーとマリエッタが悲鳴を上げ、チョウ・チャンを正気に戻そうとするが、ぼーっとしたまま彼女はアンブリッジとハリーの前へ躍り出た。グレイバックはそれを不快に思ったのか、舌を出してよだれを垂らす。

 噛みつく気だ! そう直感したハリーの起こした行動は早かった。

 グレイバックが顎を開いて頭を振りかぶる姿をスローモーションのように見ながら、ハリーは出来る限り姿勢を低くして脚を伸ばし、チョウ・チャンの両足を蹴り払った。重力に従って床に叩きつけられるチョウ・チャンと、アンブリッジが必死にしがみついたままなのでブチブチと千切られる、ハリーの髪の毛。

 そしてハーマイオニーとマリエッタが目にしたのは、支えにしていたハリーが身をかがめたことで、姿勢を崩してグレイバックの前に投げ出される、アンブリッジの体だった。

 

「ROAAARッ!」

「あぎゃッ!?」

 

 ハリーは頭を締め付けるような短い手が離れたことを知り、急いでチョウ・チャンの体を抱えてその場から飛びのく。そして恐怖に互いを抱きしめるハーマイオニーとマリエッタの元に来たハリーは、グレイバックの牙がアンブリッジの肩を貫いている光景を見てしまう。

 変なものを食べたような顔をしたグレイバックは、首の動きだけで八〇キロ以上はあるアンブリッジの体を放り投げた。ごろごろと転がされ、短い悲鳴をあげ続けるアンブリッジは、壁にどんと背中を打ち付けてなお、己の身に起きたことが信じられない様子で上ずった声を出していた。

 

「はぇ……!? あ、あぁあ……!? いまッ、いま、わたくし……?」

クソ(くほ)ったれが。クソ(くほ)まずいもん食わせやがっ――」

「いまッ!? わたくしをッ!? 咬ん、咬んだァあ!? うそよ、そんなことあってはならないわ!? うそよ、気のせいなんだわ!?」

 

 発狂したように口の端から涎をまき散らし、だらだらと脂汗を流してアンブリッジは叫び続ける。グレイバックが何かを言おうとするたび、聞きたくないとばかりに声量を大きくするその姿は、あまりにも哀れを誘うものであった。

 狼人間に咬まれた人間は、魔法族もマグルも問わず、ウィルスを体内に送り込まれて変質し、人間という生物の枠から追い出される。それは、「反人狼法」という狼人間は魔法界において職場で起用してはならないという法律を作ったアンブリッジ自身がよく知っているはずだ。

 

「こうなりゃあハリーちゃんよ、お友達(とおだい)もみんなまとめて、ブチおか――」

「ひあッ、ああああ!? ぐぶゥ、ぐッ、グレイバック! 命令よ! わたくしを咬んでいないと言いなさい! 早くッ! はッ、やくゥ! わたくしを純粋な人間だと言ってェェエエエエエ!?」

「うるっせェなクソ(くほ)ババァ!? そんなに叫びてぇならこうしてやるよ!」

 

 アンブリッジの喚き声に我慢ならなかったのか、グレイバックは彼女の腕を引っ張り寄せるとその贅肉にあふれた腕に、分かりやすく三度咬みついた。激痛にさらなる悲鳴を上げるアンブリッジを蹴り転がして、グレイバックは高らかに笑う。

 だらだらと血の流れる己の右腕と左肩を交互に見て、グレイバックたちを凝視し、ハーマイオニーとマリエッタ、チョウ・チャンを見つめる。電池の切れたおもちゃのように不可解な動きで小刻みに震えていたアンブリッジは、自分が狼人間になってしまったことをようやく認識したのか、うつろな声でつぶやいた。

 

「あたしが……、狼人間に……? 嘘よ、だって、そんなの。ひどいわ。あたし、スリザリンに入れたのに……ジェイミーやアラベラに虐められても、我慢したのに……マグルのパパに、殴られても……我慢して、頑張って勉強して、魔法省に入って、頑張ったのに、その結果が、狼人間……? 非ヒトってどういうこと……? えっ、待って。待って待って待って、そんなのって……ひどいわ。う、ひぐッ。そんッ、なのッ、てッ、――あッ、ああッ?」

 

 ぶつぶつと呟いたアンブリッジは、滂沱の涙を流し、嗚咽を漏らしながら、発狂したかのように、自室の扉に向かって突進した。ドアノブに手をかけることを忘れて衝突し、蝶番が壊れて轟音と共にドアごと倒れこむ。

 ぼさぼさになった髪を振り乱して強烈なアンモニア臭をまき散らし、起き上がったアンブリッジは狂乱して絶叫した。おぼつかない足取りで、闇の魔術に対する防衛術の教室を走り回った後、ホグワーツの廊下へと駆け抜けていった。

 

「あがッ、がァアぁあびゃああああああ!? わたァァァしィイイイがァァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!? うあぁぁぁぁん! うえぇえええええッ! うそッ、嘘よォォォおおおおお! 夢だわ!? これは悪夢なの! ひぐッ、えぐッ、認めないッ! 認めなァァァァァァいィイイイイイイ!? ぶびゃ、あびゃあああああああッ!?」

 

 廊下から聞こえてくる大音量の絶叫は、一人の人間の人格が崩壊したことを告げていた。狼人間になってしまったからには、もはやこれまでのような人生を送ることはできないだろう。しかしあの様子では、心が完全に壊れてしまったために、一生を聖マンゴ病院で過ごすことになることは、ほぼ間違いなかった。

 やかましいババァだと零したグレイバックは、お楽しみに戻ろうと意識をハリー・ポッターへと戻す。先ほどアンブリッジからアジア系の女子生徒を蹴って転ばせたところまでは確認していたので、さて、と顔を向けたその瞬間、グレイバックは野生の直観に従ってその場から飛びのいた。

 

「ち……ッ! 気づいたか」

「お、ぼ……!?」

 

 暖炉の近くまで飛びのいたグレイバックは、まともに英語を発することができなかった。ハリーはいつの間に手に入れたのか、杖を振り抜いた格好でこちらを睨みつけている。

 さっと目を向ければ、ドミニクは血まみれになって顔を抑えてうずくまっている。どうやら杖を奪われた上に両目を斬られたらしく、痛々しそうに声もなく苦しんでいた。もう一人の狼人間は首を斬られたようで、大量に血を流しつつも必死にその流れを押しとどめようとしている。喉ごと斬られたために、声も出ないようだった。

 そして、グレイバック自身。だらりと血の流れる感覚がある。額が割れている。上唇も斬られ、口を開くたびに激痛が走る。そして何よりも、また、鼻を斬られた。今度は縦に裂かれたようで、流れる鼻血が口へ喉へと流れ込んで、ごぼごぼとした水音ばかりが喉から飛び出す。

 

「でめぇェァア! ボッダーァアアア! よぐも、まだじでも、(おえ)(はが)をォ!」

「油断して、よそ見してたお前が悪い」

 

 杖から伸びている、魔力刃を逆手から順手に構えなおし、ハリーはグレイバックへ狙いを定める。怒りに沸騰したグレイバックは、狼人間としての身体能力を十全に活かして少女へと飛びかかった。

 負けじと『身体強化』を肉体にかけたハリーは、床を蹴って空中でグレイバックの爪を切り結ぶ。魔力刃をぶつかっても斬られずに鍔迫り合いを演じることのできる、狼人間の爪が異常なのか、ハリーは苦い思いを飲み込んだ。

 互いの体を蹴り飛ばして距離を取った二人の戦況は、空中に居ながらにして『射撃呪文』を撃ち込んできたハリーに有利であった。類まれなバランス感覚で、宙に浮いたままグレイバックは息子の一人である死喰い人を掴み取り、盾として掲げる。ハリーの放った『射撃』は、哀れな死喰い人の胸と右足を撃ち貫いてしまう。

 絶叫する死喰い人を仲間としてさえ思っていないのか、それを砲弾としてハリーに向かって投げつけてくる。狼人間の強靭な膂力で投擲された死喰い人は、ハリーが避けたことでアンブリッジの自室の壁に激突し、幾本もの骨が折れる音と共に血をまき散らして、二度と物言わぬ肉塊と化した。

 

「ぼ……ご、ァッ」

「グレイバァァァックッ!」

 

 避けられると思っていなかったグレイバックは、自身の名を叫んで突っ込んでくるハリーに向けて、思わず爪を振るう。しかしそれは『盾の呪文』に阻まれて、彼女の肉に届くことはなかった。

 杖を振るったハリーは、グレイバックの首を落とすつもりで魔力刃を生成する。『身体強化』の効果で風よりも早く振るわれた刃はしかし、超人染みたバランス感覚を以って回避されてしまう。

 完全に杖を振り切った状態で背を晒しているハリーに向かって、グレイバックが罵声と共に笑みを浮かべようとしたが、しかしその表情は一瞬にして凍った。ハリーのすぐ後ろ、グレイバックの直線上で。杖をこちらに向けている、チョウ・チャンの姿があった。

 

「『エクスペリアームス』、武器よ去れ!」

「あがッ! がッ、ぼごォアアアア!」

 

 アンブリッジが発狂したため『服従の呪文』が解けたチョウは、正気に戻ってまず真っ先に、ハリーが死喰い人と思しき狼人間と戦闘している姿を目の当たりにした。そしてDAで訓練した内容を思い出しながら、渾身の力を込めて『武装解除』を放ったのだ。

 『武装解除』の赤い魔力反応光を胸に直撃されたグレイバックは、懐にしまい込んでいた杖がはじけ飛び、そして爪が硬質な音を立てて砕け散ったことでくぐもった悲鳴をもらす。

 頭が真っ白になりそうな怒りを爆発させてチョウへ飛びかかろうと目をやるも、それは彼の人生を大きく左右する大失態であった。ハリーから、目を離したのだ。返す刀でグレイバックへと魔力刃を振るったハリーによって、グレイバックは自身に迫る刃を避けることが不可能だと悟った。

 悟ったその瞬間、すこしでもダメージを減らそうと無理やりその体を床に倒れこませる。

 

「ぐッ、がァァあああああああああああああ!?」

 

 グレイバックは己の首を小娘の凶刃から守ることに成功したが、その代償は高かった。痛みに左肩を抑え、床を転がって少しでもハリー・ポッターから離れるグレイバック。

 少女の足元に転がっているのは、いままで多くの人間たちを引き裂いてきた自慢の左腕であった。激痛と喪失感に絶叫するグレイバックは、怒りに燃える目で少女たちを睨み殺さんばかりに睥睨した。

 

(おえ)のッ、腕ぇええええ!? 腕ェェがァあああああッ! ぐぞッ、でめぇ! グゾガキがァァ……ッ! 許せね(ゆぐでね)ぇ……! 許ざね(ゆぐざね)えええええッ!」

 

 ばしゃりと血をこぼしながら、グレイバックは完全に吹き飛んだ理性で懐に手を突っ込む。取り出したのは、狼を模した髑髏の仮面であった。

 乱暴にそれを装着したグレイバックは、咆哮を吐き出しながらも失った左腕をハリーへと向ける。その意図がわからなかったハリーは、次に起きた出来事に驚いて正しい対処を行うことができなかった。

 

「GAAAAHHHHH! ァァアアアアアアアッ、ボッダァァァアアアアア!」

「ん、な……ッ!?」

 

 失ったグレイバックの左腕、その断面がぼこぼこと泡立って盛り上がると、その次の瞬間にはむき出しの筋肉と血管で構成された新たな腕が飛び出してきた。その腕はタコの脚のようにぐちゃぐちゃな形になっており、咄嗟に『盾の呪文』を張って直撃を防ぐことが限界だった。

 先ほどまでとは段違いの衝撃によって、踏ん張り切れずに吹き飛ばされたハリーは、床を転がされて壁に叩きつけられる。肺から逃げ出した空気を求めて喘ぐも、そこへ吹き飛んできた鷲鼻の闇祓いの体が衝突する。身体の中心からごきん、という異音が響くとともに、ごぽりと口から赤い液体を吐いてしまったことで、ハリーは内臓を傷つけてしまったと悟る。

 しかし、その痛みを忘れるほどの甲高い悲鳴に、ハリーは肝を冷やした。

 

「きゃあああああああああ!?」

「ダメッ、マリエッタァ――ッ!」

「ぐッ、ハーマイオニー!? マリエッタ、チョウ!?」

 

 決して広いとは言えないアンブリッジの私室に、グレイバックの異形の左腕が広がり、彼女たちにも危害を加えたのだ。慌てて杖を振るって魔力刃でグレイバックの異形腕を切り裂くも、しかし大してダメージを与えられていない。

 女子三人の甲高い悲鳴はしかし、うち一人のそれがくぐもった悲鳴に変わると同時に、ハリーを覆い隠すように広がっていた異形腕がグレイバックの元へと縮んで戻ってゆく。

 仮面の下で荒い息を吐きだすグレイバックは、口の端から血をまき散らしながらハリーに向かって叫んだ。

 

「でめぇ、バリー・ボッダーァア……! これは、でめぇの責任(ぜぎいん)だ。でめぇが引き起こした、でめぇのぜいだァ!」

 

 痛む胸を抑えながら、ハリーはグレイバックに目を向けて驚きと怒りに眼を見開く。

 今まで喉を抑えて倒れ伏していたドミニクが、死力を振り絞って床に落ちていた麻袋から《煙突飛行粉》を掴み取り、暖炉へと放り投げる。瞬間、エメラルドグリーンの炎が燃え盛り暖炉を埋め尽くし、アンブリッジの自室を緑色に染め上げた。

 緑の炎を背負ったグレイバックは、妙な迫力をまき散らして、異形の左腕で締め上げたチョウ・チャンの姿を見せつけるように掲げる。気を失ってはいないが、異形腕の一本で口をふさがれているためくぐもった声しか聞こえてこない。

 

「ぐ、ごぼ……『神、……秘部』……」

 

 ドミニクが裂けた喉で、なんとか正しい発音で行先を告げると、グレイバックは迷わずエメラルドグリーンの炎の中へと飛び込んでゆく。その左腕に、チョウ・チャンを拘束したまま。

 

「来い、ボッダ―。『神秘部(じんびぶ)』だ……! 魔法省まで、このメスガギの死体(じだい)を、引ぎ()りに来いィ! 必ずお(ばえ)がッ、来い! がはッ、がァははは! ばばははははァァァアッ!」

「ちょッ、チョウ! ダメだ、待て! やめろグレイバック! グレイバァァァ――ック!」

 

 ハリーの絶叫に、留飲を下げたのか笑みを浮かべたグレイバックは、その身を回転させて消し去ってしまう。チョウ・チャンも共に消え去り、後に残ったのは喉から水音を響かせるドミニクと、絶命した狼人間の死喰い人。そして倒れ伏した二人の闇祓いに、呆然とするハーマイオニーとハリー、そして泣きじゃくるマリエッタだけだった。

 アンブリッジが絶叫して部屋から出ていったことで、騒ぎになったのだろう。生徒たちが押し寄せて部屋に駆け込んでくる騒ぎが聞こえる中、ハリーは沈下してしまった暖炉を見つめて、声にならない呻き声を漏らし続ける。

 油断していたつもりは一切なく、完全に殺害する気でグレイバックを相手取っていた。しかし、ここにきて、こんな手段に走られるとは、ハリーもまったく想定していなかった。悪意への想像力のなさが招いた、ハリーの失態。

 チョウ・チャンを、拉致されてしまった。

 

 





【変更点】
・アンブリッジが校長になるタイミングが、ほとんど年度終わり。
・フレッジョによる悪戯大暴れイベントが起きなかった。
・寿命の関係もあって、ハリーがまだ《闇祓い》を目指していない。
・《両面鏡》で愛しい家族とお喋り。最高のストレス解消。
・原作ハリーより、はるかに成績がいい。ちゃんと勉強してるからネ!
・ハリーが魔法史の試験で居眠りしない。死喰い人の罠が変更される。
・学校内でグレイバック襲撃。アンブリッジが自ら招いたようなもの。
・半人間アンブリッジの末路。一生を狼人間として生きることになります。
・チョウの拉致。神秘部へ助けに行かねば。

【オリジナルスペル】
「モートゥルードゥス、踊りまわれ」(初出・58話)
・移動の魔法。特定の対象を躍らせるという、面白い魔法。
元々魔法界にある呪文。ホグワーツ卒業生は全員、この呪文でパイナップルを躍らせている。


実は今回の話、プロットではグレイバック襲撃から始まっています。OWL試験が楽しくて楽しくて……、子供の頃、私はハーマイオニーに一番共感していました。絶対に勉強が楽しかっただろうなあ、と。ハリー・ポッターの愛読者の一部は、きっと同じことを考えていたことでしょう。私なら十二ふくろう取れるぞ、とね。
守りの結界があるはずのホグワーツへグレイバックが侵入できた理由は、内部の人間が招き入れたから。闇祓いに扮していた死喰い人に騙されていたとはいえ、アンブリッジの罪は重い。罪には報いを。彼女にとっては、ケンタウロスに拉致されるよりよほど絶望の終わりでしょう。
次回は、いざ神秘部へ。チョウ・チャンを助けられるのは、ハリーしかいないのだ。


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9.神秘部の戦い

 

 

 

 ハリーはぐらぐらと痛む頭を、懸命に我慢していた。

 開いた扉からロンとフレッド、ジョージのウィーズリー兄弟の三人が血相を変えて駆け込んできた姿を見たハリーは、そこで思考を元に戻して咄嗟にハーマイオニーの名を叫ぶ。彼らが来たという事は、ほかにも生徒たちが来ているということだろう。先んじて到着できたのは、ひとえに双子がホグワーツの抜け道に関する知識に優れていたからにすぎない。この光景を、ほかの生徒に見せるのはまずい。

 彼女の意志を察したハーマイオニーは、小さく呪文を唱えて杖を振るった。すると闇の魔術に対する防衛術の教室の扉が音を立てて閉まり、境目が接着されて物理的に壁とつながってしまう。それとほぼ同時に、騒ぎを聞きつけてきた生徒たちが騒ぐ声が扉の向こうから響いてきた。ネビルとジニーが叫んでいる声が聞こえてきたので、生徒たちが扉を破らないようにしてくれとハーマイオニーが叫び返した。しかしどうやらアンブリッジ親衛隊の皆さまもいらっしゃるようで、口論の叫び声と共に扉が叩き続けられる音が響いていた

 血みどろのアンブリッジの部屋において、騒ぎを聞きつけて集まってきた生徒たちには、この凄惨な光景を(作り出したのが、ほとんどハリー・ポッターであるという事実も含めて)見せない方がいいだろうという判断だ。この部屋には重症の闇祓いが二人と、人狼状態のまま絶命している死喰い人の肉塊、そして虫の息の死喰い人が一人いるのだ。

 

「おい、ドミニク……とか言ったな」

「うぐ……」

 

 ハリーは部屋の中で、唯一グレイバックに繋がる情報を持っている死喰い人に対して声をかける。ハリー自身が『白刃』の魔法で彼の両目を斬ったので、ぐったりしてうつ伏せのままでいるのは彼女のせいなのだが、死喰い人に対して一切の容赦はしない。

 あまり得意ではないが、ハリーは裂けた喉に『治癒』の魔法をかけてやる。それでも呻くだけで返事をしないドミニクの腹を蹴り飛ばし、無理やりに仰向けにさせた。短い悲鳴を漏らす男に杖を向けながら、彼の腕が届かないよう気を付けつつ会話を強要する。

 

「答えろ、グレイバックは何が望みだ。なぜ生徒を誘拐してまで、ぼくを神秘部……魔法省か。そこに来ることを望んでいる?」

「……く、クソ喰らえだ。帝王の人形め」

「もう一度だけ聞くぞ。グレイバックは、なにを、望んでいる?」

 

 ハリーが語気を強めて再度同じ質問を投げつけるも、ドミニクは見えないながらもハリーのいる方向へ向かって唾を吐いてきた。彼の唾液は当たらず、ただアンブリッジの私室の床を汚すだけにとどまる。

 溜息を吐いたハリーは、杖に魔力を集中させる。そしてそのまま躊躇なく、無言呪文でドミニクに魔力反応光を撃ち込んだ。衝撃を受けたドミニクは、自身の首筋に鋭い痛みと熱を感じる。そしてその直後、熱い液体が血管から勢いよく噴き出すような感覚をおぼえた。

 これに驚いたドミニクは、大きな悲鳴を上げた。目が見えないながらも、首筋を伝って服の胸元を濡らし続ける勢いは、致命傷だと確信することができる。眼から手を離して抑えても、まったく収まる気配がない。

 

「ひッ……こ、殺すのか!? 私を殺すのか、ハリー・ポッター!?」

「質問に答えないなら、君は必要ない。生かしておいても扱いに困るだけだしね。死体になったらただの肉の塊だし、『消失』させておくよ」

 

 冷たい少女の声に、ドミニクはただでさえ少ない血の気が、一気に引いていく思いだった。実際に体感温度が低くなってきたことを自覚した彼は、ハリーの声がする方へと顔を向けようと立ち上がり、しかしバランスを崩して膝をつく。

 

「ほッ、本気か!? 他人を殺すというのは、己の魂を引き裂くということだぞ!? おま、おまえ、まだ十五歳だろう。そんな、ためらいもなく……ッ」

「別に。殺されるより殺す方がマシだ」

 

 怯えを含ませながらも、脅しのように放った言葉は興味なさそうな声色で返される。ここで遅まきながらドミニクは、ハリー・ポッターが本気で自分を殺すつもりなのだと理解した。

 床にはいつくばって、ドミニクは裏返りそうな声を必死で抑えながら懇願する。

 

「い、いやだ。死にたくない。たのむ、頼むハリー・ポッター。たすけて……なんでも話す、話すから……」

「……」

「グレイバック様は、闇の帝王に、厳命されたんだ。あ、あんたを連れて来いって。魔法省に。小娘に仕事をやらせる、って言ってたらしいんだ。そ、それ以上は俺も知らない。ほ、本当だッ。知らされてないんだ……たす、助けてくれ……お願い、助けてぇ……」

 

 嗚咽を漏らして泣きじゃくるドミニクは、本気で死の恐怖に怯えていた。ハリーのやり方に屈服したのだ。これ以上の情報を喋らずに泣き続けるのは、本当に知らないのだろう。

 そう判断したハリーは、ドミニクに杖先を向けて呪文を唱えた。

 

「『フィニート・インカンターテム』、呪文よ終われ」

「えぁ……?」

 

 『終了呪文』によって、ドミニクの首に変身術の魔法で作られていた蛇口の穴が消え去り、同時にそこから流れていたお湯も蒸発して、彼の身体を濡らす感覚もなくなってゆく。流していたはずの血はなく、ドミニクは目が見えない自分は少女に騙されていたのだと気づく。目を斬り潰されていたならば、首に痛みを感じた直後から熱い液体が流れ出せば、それを血だと勘違いする。マグルの母親が子供の頃、そういう拷問があったことを脅し文句にして自分を寝かしつけていたことを思い出したドミニクは、騙されていたことよりも、拷問と同じ手法を躊躇いなく使ったハリー・ポッターという少女に恐怖した。

 死ななくて済む安心感とハリーへの恐怖から、ふらりと頭を揺らしたドミニクは、そのまま床に倒れこむ。じわじわとアンモニア臭のする液体を漏らしているあたり、失神したのだろう。汚物を見る目でそれを見やり、ハリーは接着した扉の向こうで騒いでいる声から、新たに増えたひとつの声を聞き取った。

 

「ポッター、開けろポッター! なにがあった!」

 

 スネイプだ。

 不死鳥の騎士団メンバーでもある、ホグワーツの教師である。おそらく発狂したアンブリッジが見つかり、ハリーが関わっていると確信したのだろう。そして来てみれば、扉が『接着』されている。

 彼だけには事情を伝えねばなるまいと思ったハリーは扉へと向かおうと脚を動かすが、胸の奥から激痛が走ってその場に膝をつく。目を見開いて自身の体に驚くハリーにハーマイオニーが駆け寄って、彼女が顔から床に倒れこむことを防ぐ。思い出したように、吐き気と痛みが濁流のように流れ込んでくる。ハーマイオニーの胸に抱えられ、ハリーは深く息を吸って痛む内臓がどれか確認する。確認したところで、肋骨の内側が痛いとしか分からなかった。

 しかしハーマイオニーはそこにある臓器が何かを理解したのか、杖を取り出して魔力を練り、ハリーの胃があるあたりを狙って魔法をかけた。

 

「『エピスキー・ヴィスラ』、癒えよ!」

 

 淡いオレンジ色の魔力反応光がハリーの腹に着弾し、腹の痛みを徐々に分解してゆく。

 小さな爆発のような音とともに、『接着』した扉がこじ開けられようとしている音が響いた。見遣れば、おそらくスネイプのものであろう杖が、火花を散らして扉を切り開こうとしているのが見える。この光景を、他の生徒に見せてはいけない。そう考えはハリーは、眩暈が消えると同時に杖へ力を入れて、無事にチョウを助け出せた未来を夢想して『守護霊』の呪文を唱えた。

 現れた蛇の尾を持つ雌雄同体の鹿は、物理的な法則を無視して、扉を通過することでスネイプの前へ踊りでる。伝言を持たせようにも、伝える暇がなかった。変わりに、ハリーの声を守護霊を通じてスネイプへ届けることにする。急いでいるために、出来る限り簡潔に。そして必要なことを伝えるのだ。

 

「暖炉から侵入したグレイバックに、チョウ・チャンが拉致された。彼女がグレイバックの手で殺されないうちに、ぼくは魔法省の神秘部へ向かいます。ヴォルデモートの望みは、きっとぼくだ」

 

 扉の向こうにいるスネイプは、当然それに反対するだろう。伝言は彼にだけ聞こえるよう調整したので、生徒たちがチョウ・チャンの拉致に気づくことはない。スネイプも、扉を開けず守護霊で伝言したことの意味は必ず察する。むやみに混乱と騒ぎを広めるようなことはしないはずだ。

 反対されるならば、その前に行動してしまえばいい。

 ハリーは杖で空間を裂いて、魔法空間から《両面鏡》を取り出した。シリウスには、アンブリッジに捕まった直後から連絡していない。せめて事情を伝えなければならないという気持ちでいたのだが、鏡の向こう側には、すでにハンサムな顔が神妙な顔つきで待ち構えていた。

 

「シリウス」

『全部聞いていたよハリエット。きみが通信を切り忘れたおかげだ。魔法空間の様子なんて見るもんじゃないな、目がちかちかする』

「じゃあ、都合がいい。そういうわけだから、ぼくは行く。まさか止めないよね」

 

 鳩尾のあたりをさすりながら、ハリーは愛する名付け親へと断定的な声色で告げる。

 娘のように大切に思っている少女の言葉に、シリウスは制止するどころか、嬉しそうな色を乗せた声を弾ませて、笑って返した。

 

『もちろんだ、行くといい。ジェームズはよく無茶をした馬鹿野郎だったが、君はそれ以上の愚か者だ。友人のために勇気を抱くことのできる君を、私は誇りに思うよ、ハリエット』

「ありがとう、愛してる」

『私もだ。騎士団も直に魔法省へ急ぐ。死ぬんじゃないぞ』

「シリウスが来るなら負ける要素がないね」

 

 念のために通信を切らずに、《両面鏡》を再び魔法空間へとしまい込む。これで闇の陣営と出くわした際に、向こうがうっかり重要な情報を漏らしでもすれば、それはシリウスへと筒抜けになるだろう。あまり可能性は高くないが、万が一そうなれば、それはかなりの宝となる。情報は闘争におけるもっとも重要な武器だからだ。

 聞いての通りだ。と前置きしてから、ハリーはロンとハーマイオニー、そしてフレッドとジョージの四人へと目を向ける。

 

「ぼくは、魔法省に行く。みんなはここで待機を」

「するわけないでしょうハリー。私たちも行くわ」

「いまの戦いで怪我したんだろ。僕らを頼りなよ」

「「かよわい一人の少女より五人の方が強いぜ」」

 

 ハリーの言葉に、ハーマイオニー、ロン、フレッドとジョージが即答した。

 四人とも、DA活動でも特に優秀だった魔法使いたちだ。二年生の時、秘密の部屋へ戦いに向かう際にロンに向かって足手まといだと遠回しに言ったことがある。その時と比べると、見違えるような力を彼は得ている。ロンだけではない、扱える魔法の種類ならハーマイオニーが圧倒的で、双子はハリーさえ想像もつかないアイディアで戦える。実に頼りになる戦力だ。

 チョウを助けに魔法省へ行くのは確定だ。だからと言って、そのために友達を危険に巻き込んでいいのだろうかという葛藤がハリーの中に生じる。しかしどれほど考えたところで、きっと彼らは無理やりにでもついてくるだろう。移動は《煙突飛行粉》を使って魔法省へと行く。本来ならばアンブリッジが見張っていて使うことはできなかっただろうが、彼女はいま正気を失っている。いまこそがチャンスなのだ。

 

「……いいか、ぼくから離れるなよ」

「離れたくっても無理だね。僕は《煙突飛行粉》の仕組みさえ知らないんだから」

 

 忠告のようなハリーの言葉に、ロンが冗談めかして即答する。その頼もしさに少しだけ笑顔を取り戻して、ハリーはドミニクのそばに転がっていた麻袋を手に取った。無造作に中身の粉を手に取って暖炉へと投げつけると、エメラルドグリーンの炎が燃え上がる。

 《煙突飛行粉》は一八二五年にオッタリン・ギャンボルという魔法使いが発明した代物である。英国内にある暖炉を魔法省がネットワークに登録し、登録された暖炉間限定での『姿あらわし』ができるという魔法的大発明は、ドクター・ギャンボルをのちの魔法省大臣にまで押し上げる功績であった。魔法学界においては、『姿あらわし』は高速移動術であるという考えがあり、《煙突飛行粉》はそれを利用した魔道具なのだ。

 『姿あらわし』とは、出発地から目的地の距離を目にもとまらぬ速さで移動する魔法を指す。出発地から『姿くらまし』することで、肉体を魔法空間(ハリーにはさっぱり理解できない不思議なスペース)に転移させる。術者はその空間内を光のような速さで移動し、目的地で『姿あらわし』することで現実世界に出現する。しっかり出口を設定していなかったり、目的地に現れる自分を完璧にイメージできていなかった場合に体が()()()()のは、勢いよく床に叩きつけたピーナッツが破裂するのと同じ理由だ。正確な知識を持っていれば、床に優しく置いてやればピーナッツは爆発せずに済むものだと知識が教えてくれる。

 なので、移動時間を限りなくゼロに近づけることのできる《煙突飛行粉》で魔法省まで行けるのは非常にありがたかった。とにかく今は、時間がない。

 

「あら。仕組みなら教えてもいいけど、かなり長いわよ」

「じゃあいらない」

 

 ハーマイオニーの言葉に、ロンが《煙突飛行粉》への興味をなくしてしまう。

 その間、ハリーはフレッドとジョージに直接『神秘部』へは跳ばないほうがいいとアドバイスを受けていた。二人が死喰い人ならば、出口に罠を仕掛けておくというのだ。移動できる暖炉は決められている以上、どこに来るかがわかっていれば、ハリーだって罠を仕掛ける。のこのこと後を追ってきたマヌケな女を、ヴォルデモートは鼻歌を歌いながら好き勝手にいじめるのだ。跳ぶなら魔法省の共通玄関である暖炉がいいと言う、賢い悪戯小僧に礼を言って、ハリーはエメラルドグリーンの炎の中へと踏み込んだ。

 

「すぐについてきてくれ。『魔法省』!」

 

 緑炎がハリーの全身を舐めるように燃え上がり、彼女は自分のへその裏側を掴まれたような気分を味わう。《移動鍵》でワールドカップに跳んだことを思い出す感覚だ。このくらいの感覚ならば、『姿あらわし』を覚えた際に失敗することはないだろうと確信する。

 ぐるぐると世界が回転し始めたことを確認したハリーは、静かに目を閉じる。ピカピカのナイフになるよう殺意を研ぎ澄まし、右袖の中へと隠していた杖を滑らせて右手の中に握りこむ。

 再び地面に足の裏がくっついたことを確認したハリーは、眼を開いて眼前へと杖を向けた。どうやら誰もいないと見える。気配もなし。英国魔法省の巨大な吹き抜けホールに、合計で一〇基設置されている暖炉のうちひとつに到着したらしい。

 杖を構えながら暖炉から出ると、続いてロンがエメラルドグリーンの炎に包まれて姿を現した。慣れた様子で出てきた彼は、ハリーが臨戦態勢に入っている姿を見て、慌てて杖を懐から引き抜いて構える。

 ハーマイオニーがよろけながら暖炉から出てきたあとは、フレッドとジョージが珍しく黙ったまま暖炉から登場する。五人はそれぞれ別の方向へ杖を向けながら、急いで神秘部を目指して速足で歩き出した。

 

「誰もいない。今のうちにエレベーターに乗るんだ」

「地下の九階だ。パパにせがんで行ったことがある」

「「さぁ行こうハリー」」

 

 フレッドとジョージが交互に話し、それを黙って頷いたハリーはエレベーターの方へと向かう。マグルの作り出した科学の英知であるエレベーターを、なぜ魔法界にあるのかという疑問はこの際置いておく。どうせホグワーツ特急のように、マグルの骨董品を手に入れて魔法で改修したのだろう。

 守衛室の隣を通る際に、ハリーはそこに誰もいないことが気にかかった。ロンが言うには、魔法省という政府の中枢にあたる建物にガード魔ンがいないことは、通常ありえない。事務職員などは午後五時で帰宅するが、ガード魔ンや闇祓いなどといった安全を確保する職務に従事する職員は、交代勤務で常に誰かしら魔法省に居るようにしているのだ。つまり、明らかなる異常事態であった。

 死喰い人の一人や二人とは戦闘すると思いきや、何の障害もなくエレベーターまでたどり着く。すでにハリー達のいる一階にとまっているエレベーターは、下へ続くボタンを押すと金の格子扉を開いて、ハリー達を迎え入れる準備を完了させる。

 

「……ねぇハーマイオニー。エレベーターに、罠とかあると思うかな?」

「『インスペクティオー』、暴き出せ」

 

 ロンの不安がる声に対するハーマイオニーの返答は、『調査呪文』の詠唱であった。

 ハーマイオニーの杖先から軽い調子で飛び出した、淡い白の魔力反応光は球体になると、エレベーターの中へと飛び込んでその身を一瞬で膨張させる。エレベーターの中を白の光が埋め尽くすと、ハーマイオニーの脳内にその中身の情報が飛び込んできた。

 目を丸くするロンと口笛を吹いて才女を称賛する双子を放っておいて、ハリーがハーマイオニーに目を向けると、小さく首を横に振られた。

 

「何もないらしい。行こう」

 

 来いと手で示し、全員がエレベーターに乗る。

 ジョージが九階のボタンを押すと、格子扉がガチャガチャとやかましい音を立てて閉まり、ゆっくりと下降する。ロンがそわそわして落ち着かない様子なのは知っているが、構ってやる余裕はない。

 ハリーにとって、友人を救うために敵へ立ち向かうというのは、初めての経験だ。もちろん、ハーマイオニーやロンにフレッドとジョージもそのような経験はない。こんなことならば、ハワードやトンクスといった闇祓いとして働いている友人に救出任務の際にどうしていたかといった話を聞いておけば良かった。

 がりがりと黒髪を掻いて、ハリーはランプが点灯する階数表示をにらみつける。地下四階……地下五階……、あまりにも遅いエレベーターの動きに、ハリーは時代遅れのアンティークめと毒づいた。

 

「きゃあ!?」

 

 するとエレベーターは、まるでハリーの罵倒に抗議するかのように室内の電気を消してしまう。驚いたハーマイオニーが短い悲鳴を漏らすものの、ロンのぶざまな狼狽えようにはかなわなかった。さらに、がこんと危なっかしい音を響かせて、エレベーターがその動きを停止する。

 フレッドとジョージが明かりの消えた天井を見つめ、ハリーもまた同じところを見る。

 

「……フレッド、ジョージ。このあと、どうなると思う?」

 

 ハリーが双子に視線を向けると、すでに天井に向かって杖先を向けている双子に、笑って返される。

 

「僕達なら、エレベーターとかトイレとか、逃げ場のない場所で襲うね」

「そうそう。相手の嫌がることを喜んでやっていくのが、喧嘩の鉄則さ」

 

 双子が同時に『断割呪文』を飛ばすと、天井の一部が硬質な金属音と共に割れる。

 ロンとハーマイオニーが驚いて悲鳴を漏らすも、ハリーは『身体強化』を使用して、開いた穴からジャンプして飛び出す。エレベーターのかごの屋根には初めて乗ったが、薄暗くて埃臭い閉所であるため、あまりいい気分はしなかった。

 それよりも問題は、エレベーターのロープが変色しているということだ。別に本来の色は知らないが、少なくともハリーの目に映るように、薄桃色に発光しているなんてことはあるまい。

 明らかに、なにかしらの魔法をかけられている。具体的には、きっとこのままエレベーターに乗っていれば死んでしまう類の、悪意ある魔法が。

 

「跳べ!」

「なんだって!?」

 

 ハリーの切羽詰まった声にただ事ではないと思ったのか、ロンが上ずった声で返してくる。

 それに対して懇切丁寧に説明してやる時間など、当然あるはずもなく、ハリーは猫のようにしなやかな動きでエレベーターのかごの中へ着地すると、ハーマイオニーの体を横抱きにしながら叫ぶ。

 

「いますぐエレベーターから脱出するぞ!」

「でも、どうやって!? まだ地下五階だし、扉が開いていない!」

「「こうするのさ、ロニー坊や」」

 

 ロンの必死な叫びに、半笑いのままフレッドとジョージがエレベーターの格子扉に向けて魔法を放つ。それは格子を派手に溶かし、密室状態のエレベーターを解放する。

 どうやら地下四階と地下五階の間で停止したらしく、腹ばいになれば、ようやく人が通れるほどの隙間が見えてきた。もちろん、通り抜けている最中にエレベーターが動き出せば……その先はあまり想像しない方がいいだろう。

 

「と、通れるわけないだろ。こんな危ない隙間」

「だったら通してやろう」

「お礼は要らないぜロン」

 

 ジョージがロンの脚に自分の足を引っかけて、優しくその場に転ばせる。人間を一人蹴り倒したというのに驚くほど少ない衝撃であったが、しかしエレベーターは不穏な音と共にがくりと数センチほどその高度を下げる。

 双子の兄が何をする気なのかを察したロンは、甲高い悲鳴を上げた。それに構わず、フレッドは杖を振ってロンの体を地下五階の出口に向かって吹き飛ばしてしまう。

 ずさぁと音を立てて滑り出て行ったロンは、何かに当たって止まったらしく衝突音と痛そうな呻き声が聞こえてきた。続いてジョージがエレベーターから滑り出て、フレッドもそのあとに続く。

 しかし、その瞬間。エレベーターの天井にあるロープが、連続したぶちぶちという音を立てて、しまいには大きくばつんという音を響かせて千切れてしまう。一瞬の浮遊感に気持ち悪さを感じる暇もなく、エレベーターが重力の鎖に引きずり降ろされてゆく。ハリーは心臓が止まる思いがした。

 

「フレッ――!?」

 

 ぢりっという音が、ハリーの耳朶を打つ。

 体重が軽すぎるために浮き上がりそうになりながらも、考える間もなくフレッドのいた床へ目を向ければ、そこには赤毛がほんの少しだけ残されていた。ギロチンのように千切られた首が残されているわけではない。多少の髪の毛で済んだことは、幸運であった。

 

「ハーマイオニー! ハリーッ!」

「ロンと双子はそこにいてッ! 呼ぶまで来るんじゃない!」

 

 ロンの絶叫が聞こえるたので返事を叫ぶも、ドップラー効果を伴って遠ざかってゆく。魔法省がいったい地下何階まであるのかは知らないが、もう確実に地下九階は通り過ぎている。

 ハリーは絹を裂くような悲鳴を上げるハーマイオニーを抱きしめなおし、その両足に魔力の流れを集める。エレベーターのかごの床を破壊する勢いで蹴り飛ばし、ハリーは青白い光をまとって天井の穴から勢いよく飛び出していった。

 ハーマイオニーを落とさないよう強く抱きしめ、轟音を立てて落ちてゆくかごを尻目に、ハリーは壁を蹴り続けることで徐々に落下してゆく。

 

「きゃああああああああああ!?」

「強く抱きしめて! ぜったいに離すなよ!」

 

 地下何階まで落ちてしまったかはわからないが、とにかく上を目指すしかあるまい。

 三角飛びの要領で次々と壁を蹴りながら、ハリーは上を目指してゆく。ぎゃりぎゃりと金属の擦れる耳障りな音を立ててエレベーターのかごが落下してゆくことを考えるに、もうしばらく経てばあれは一番下まで落下しきる。そうなれば爆発とか、爆発とか、爆発とか、きっとそのあたりの事態に発展するだろう。ハリーはエレベーターの構造に詳しいわけではないが、ろくでもない未来になることだけは分かる。

 何階でもいいので、とにかく閉まっている格子扉を蹴り破って入らなければなるまい。それもどこでもいいわけではない。なるべくエレベーターのかごが落下することによって発生する衝撃を回避できるよう、一階でも高い階のドアから逃げるべきだろう。そう思って頭上を見上げ、そしてハリーは手近な扉が殴りつけるような音と共にひしゃげて開かれ、黒いローブを被った人物が飛び込んできた姿を目にする。

 その数は三人。その全員が、顔面を狼のそれに変化させている。間違いなくフェンリール・グレイバック配下の狼人間たちだ。

 

「いたぞッ! どっちだ!?」

「黒髪のチビがハリー・ポッターだ!」

「生きてさえいれば、四肢を千切って構わん! 違う方のガキは殺せ!」

 

 彼らもまた、ハリーと同じようにエレベーターの狭い空間において壁を蹴りつつこちらへと落下するように向かってくる。その全員が、杖を使わず自前の爪で襲い掛かってくるようだ。

 舐められたものである。

 

「ハーマイオニー、戦闘に入る! 舌を噛むなよ!」

「き、気を付けてッ!」

 

 大声で叫んだハリーの声を聴いたハーマイオニーの激励を受けて、ハリーは口角を釣り上げて加速する。さらに脚へ回す魔力を増量し、よりパワーを増したのだ。それについてこれなかった死喰い人のひとりが、着地点をハリーと同じくしてしまう。慌ててその場から離れようとするものの、ハリーの動きの方が速い。逃げる間もなく、哀れな死喰い人はハリーの踏み台とされてしまう。

 肺から空気のみならず胃の中の物さえも吐き出しつつ呻く彼は、ハリーとハーマイオニーという女子とはいえ人間二人分の体重を、車のように加速した状態で背中に受けたのだ。気色悪い骨の折れる感触をハリーの足の裏に伝え、彼は力なくそのまま暗い口を開く昇降路を落ちていった。

 仲間の一人がやられたことで憤怒の声を叫ぶ死喰い人のひとりが、ハリーとハーマイオニーめがけて突っ込んでくる。上昇するためにそれを回避したハリーは、もう一人が避けた先の着地地点へと突っ込んでくる姿を強化した動体視力で見逃さなかった。杖を抜き放ち、『魔縄』を壁に撃ち込んで巻き取ることで、無理やりに三角飛びの軌道を変える。

 それによって二人の死喰い人を回避したハリーは、迷うことなく次々と壁を蹴って上を目指してゆく。

 

「逃がすな! ここで仕留めるんだ!」

「わっ、分かってるッ!」

 

 切羽詰まった叫び声が下方から聞こえると同時、先ほどまでとは段違いのスピードで二人の死喰い人が追いすがってくる。ちらと下の方へ目を向ければ、どうやら足で壁を蹴るだけでなくその強靭な手を壁に突き刺して、まさに狼のように四肢を使って壁を駆けあがっているのだ。

 このままでは追い付かれる。それに先ほど一人を倒せたのは、不意打ちによるものが大きい。流石のハリーでも、ハーマイオニーを抱えて両手を封じられ、杖も使えぬ上に彼女を気遣う必要がある状態であれば、まともな戦闘に入ることはできない。

 それならばとハリーは決断し、ハーマイオニーを抱える手を緩める。

 

「ちょっとごめんよ」

「へッ?」

 

 要するに、彼女を手放したのだ。

 間の抜けた声を漏らして、ハーマイオニーの体は落下してゆく。よもやハリー・ポッターが友人を落とすとは思っていなかった死喰い人達は、甲高い悲鳴を上げながらすぐそばを落ちてゆく彼女に驚きながらも、無視して二人同時にハリーへとその爪を振るう。

 袖から飛び出した杖を振るって魔力刃を創り出し杖にまとわせると、狼人間ふたりの爪を受ける。その膂力は人間の比ではなく、ハリーの華奢な体は大きく吹き飛ばされた。

 攻撃が当たったことで口汚く叫ぶ死喰い人だったが、ハリーが距離を取るためにあえて受けたのだと気づく機会は、もう彼らには残されていなかった。

 くるりと手首のスナップだけで杖を振るったハリーは、その魔力反応光を死喰い人の片割れに向かって放つ。空中に居ながらにして姿勢を崩すことで反応光を避けた死喰い人は勝利への笑みを浮かべるものの、自身の背中を強く殴られる衝撃に一瞬だけ意識を飛ばしてしまう。昇降路の壁を大蛇へ『変身』させて彼の両手足を縛らせた後に『変身』を解除する。これで鉄の塊に巻き付かれた、かわいそうな死喰い人の完成だ。

 手足を動かすこともできず、野太い悲鳴を上げて落下してゆく仲間を見て最後の死喰い人が吠える。壁を蹴って最後の死喰い人へと一直線に向かうハリーへ、彼は爪を振るって迎撃する。

 刃と爪が火花を散らし、ふたりは落下しながら切り結ぶ。時折壁を蹴って威力を増した攻撃を仕掛けるものの、死喰い人もハリーも互いに攻撃を通すことができない。

 イラついた死喰い人がしびれを切らし、その狼人間の顎を用いて咬みついてくる。ハリーが狙ったのはその瞬間であった。ばちんという信じられないような音を立てて閉じられた口をめがけて、ハリーは強化された拳を打ち込む。顎を殴り抜かれた死喰い人は、己の視界が白く明滅する感覚を覚えた。

 脳を揺らされて前後不覚になった敵を前にして容赦するような心は、この少女はすでに持ち合わせていない。死喰い人よりも下に位置していた彼女は、壁を蹴って威力を増した蹴りを死喰い人の胸へと叩き込んだ。 

 『身体強化』の影響もあって、死喰い人は肋骨を折られながら胃の中の物を空中にばらまいて呻き声を漏らす。確認はしていないが、間違いなく意識は奪ったであろう。一方で死喰い人を足場に加速したハリーは、まっすぐエレベーターの昇降路内を落下してゆく。杖から魔力を放出してミサイルのような速度を出すハリーは、未だ悲鳴を上げて落下する拘束された死喰い人を追い越し、同じく絹を裂くような悲鳴を漏らして落下しているハーマイオニーを抱きとめる。

 そしてすぐさま壁を蹴り、格子扉へと背中から体当たりしてぶち破る。その先は驚くことにロンとフレッド・ジョージの三人が待っていた。それを一瞬の動体視力で見つけながらも、ハリーとハーマイオニーは落下の勢いを殺しきれずに床を転がる。だが、そうのんびりもしていられない。しかしハリーの思惑を読んでいたのか、床を滑りながらもすぐに起き上がったハリーが目にしたのは、ジョージが杖を構えて叫んでいる光景であった。

 

「『フェネストラ・パリエース』、塞げ!」

 

 ジョージが『閉塞呪文』を叫んで、杖先から魔力反応光を射出する。それは砕け散った格子扉を再構成して、新たな壁に変えてしまった。これで、彼らはハリー達と同じ場所へ逃げ込むことは不可能になった。

 絶望の色を含んだ長い悲鳴が二つ、壁の向こうを通り過ぎて下方へと落ちていった。運が良ければ、死なずに済むだろう。致命傷とまではいかないが、重傷を負わせたのだ。それでなくとも、あの昇降路内を一番下まで落下すれば命はないように思える。ここは、彼らの生命力に勝手に期待させていただこう。ハリーは自らすすんで人殺しにはなりたくないが、敵を心配する必要など、どこにもないと考えているのだ。

 

「クソ野郎どもめ、エレベーターを落とすか普通。だいじょうぶ、二人とも?」

「熱烈な歓迎だったよ。ハーマイオニー、怪我はない?」

「はあッ、はあッ……。だ、大丈夫。オーケイよ。でも後で覚えてなさいねハリー」

「覚えていたらね。ちょうど地下九階に逃げ込めてよかった。よし、行こう」

 

 ロンとハリー、ハーマイオニーの会話に、フレッドとジョージは苦笑いする。

 エレベーターを落とされ、そこから脱出する際に死喰い人に襲われたというのに平常心で会話をできるくらいには、後輩の三人組は修羅場を潜り抜けてきているのだ。その中に甘えん坊ロニー坊やがいるという事実もまた、双子の表情に苦みを加えている。二代目悪戯仕掛け人として、弟などに負けてはいられない。兄よりすぐれた弟なぞ存在しねえのだ。

 これから先の道でも、死喰い人から不意打ちで襲撃を受ける可能性がある。それ懸念したハーマイオニーは、慎重に進んでいこうと提案する。しかしハリーはそれを一蹴した。チョウ・チャンが拉致されてしまった以上、彼女が無事でいる保証はないのだ。ゆえにハリーは、チョウ・チャンのもとまで一直線に駆け抜けることだけを考えていた。

 

「遅かったら置いていくぞ!」

「『身体強化』したあなたに追い付けるわけないでしょう!」

「ああ、もう! 『カレス・エイス・ケルサス』、神秘よ!」

 

 駆けだしたハリーは、ある程度は速度を抑えてはいるものの、人間が走って追い付けるような速さではない。焦ってそのことに気づいていないのか、青白い軌跡を残してハーマイオニーたちを置き去りにしてゆく。

 ロンが『固有魔法』を発動して、魔法省の床を素材にチェス・ゴーレムに変えてしまう。ナイトを模した騎兵人形を選んだのは、ハーマイオニーと双子も一緒に乗せて移動するためだろう。

 チョウ・チャンを拉致した相手は、よりにもよってグレイバックなのだ。彼女の命が心配なのはもちろん、見目麗しい女性である以上、犯罪者集団に取り囲まれていては、女性として死より辛い目に遭うことも考えられる。さらに狼人間であるグレイバックが戯れに咬みつけば、それだけで彼女の人生は大きく変えられてしまう。ルーピンの事情を知っている以上、彼女が順風満帆な人生を送れなくなることだけは確かだと断言できる。

 神秘部は双子が言っていたように地下九階に位置している。その廊下は一直線に続いており、不気味なデザインの廊下がまっすぐ伸びた向こうには大きな扉が待ち構えている。その向こうに、神秘部と呼ばれる部屋があるのだろう。

 そしておそらく、敵も待ち構えている。そう考えたハリーは躊躇なく杖を振るうと、扉を吹き飛ばしながら部屋へと駆け込んだ。すると部屋は円形になっており、そのすべての壁面にドアが設置されている。

 ハリーが困惑すると同時、部屋が高速で回転し始めた。しかしハリーの立つ床には何も変化がないので、おそらくこれは壁だけが回転しているか、またはそう見えるよう幻術が仕掛けられているのだろう。きっと、侵入者への対策としてどこのドアから入ってきたか分からないようにするための魔法だとハリーはあたりを付ける。回転が収まった直後に、ハリーは背後を見た。吹き飛ばされて開きっぱなしのドア(だったもの)が見える。こうなっては、魔法省の対策も無意味だろう。

 

「ハリー、どこに入るんだ?」

 

 大理石の騎兵に乗ったロンたちがハリーに追い付いて、そう尋ねてくる。

 数々の扉は、ひとつひとつ開けて調べていれば日が暮れてしまうだろう数が見られる。だからといって適当な勘で探り当てるのも、また確実性がない。ハリーは試しに『探査呪文』を唱えてみるも、淡い水色の魔力反応光はしばらく杖先でもたもたしたのち、風に吹かれるろうそくの火のように消えてしまった。

 さてどうしたものかと焦る頭で考えるも、名案が思い付くわけではない。

 ハリーらが顎に指をあてて考えるうちに、たくさんある扉のうちハリー達から見て右側にあるひとつがパッと開く光景を目にした。明らかに魔法を感じさせる開き方に、ハリーはこの場に死喰い人が飛び込んでくることを考えたが、しかしそういう事態には陥らなかった。

 扉の向こうに、ルシウス・マルフォイが立ってこちらを眺めてるだけだ。

 

「……明らかに誘われてるけど」

「行くか? マルフォイのパパだぞ?」

「……明らかに罠としか思えん」

「行くよ。結局ヒントは彼しかいない」

 

 幾分か逡巡したのち、ハリー達はルシウス・マルフォイのもとへと歩みを進める。

 ほかに死喰い人の姿は見えない。『身体強化』の魔法をずっと発動し続けているハリーは、鋭敏にした感覚で伏兵がいないことに気づいていた。本当に、この場にいる死喰い人はルシウスのみ、彼だけなのだ。自信があるというべきか、なんというべきか。

 

「お久しぶりですな、ハリエット・ポッター」

「久しぶり、ドラコとスコーピウスのパパ。それで、何をしにここへ?」

「おっと、杖は向けないで欲しい。敵対しに来たわけじゃない」

 

 いけしゃあしゃあとのたまうルシウスは、余裕を保ったままハリー達へ背を向けて歩き出す。ロンはこの隙に『武装解除』してしまえばいいと小声でハリーにアドバイスするものの、それは無視することに決めた。まだその機ではない。

 

「ハリエット嬢、フェンリール・グレイバックに傷を負わせたそうだな」

「仲間をやられて怒り心頭ってか、マルフォイ」

「答えはノーだ、ウィーズリーの末弟よ。あれは私も嫌いな男だ、スカッとしたよ」

 

 すまし顔でそう答えるルシウスに、ロンが訝しげに呻く。

 ハリーは四年生のヴォルデモート大復活祭のとき、彼と対峙したことをよく覚えている。彼の魔法の腕を。彼の見せた、自分以上の戦闘力を。

 通常の魔法戦闘においては、無駄話などする方が難しいとされている。なにせ呪文を叫ばなくてはならないのだから、余計なことをしゃべる暇があれば『武装解除』のひとつでも叫んだ方がいいのだ。

 一方でルシウスは、呪文を発声せずに魔法を発動する『無言呪文』の達人である。一度の対峙で、三十発の『武装解除』を浴びせられたことは鮮明に記憶にこびりついている。ドラコにも教えているようで、彼もまた『無言呪文』を得意としている。さらに二年生のとき、ハグリッドが秘密の部屋の怪物を再び解き放ったという無実の罪でアズカバンへ送られる際に見せた、ジュージュツにもにた体術。魔法を貴ぶ純血主義者のくせに、魔法を使わぬ格闘の術を会得しているのが、目の前にいる英国魔法貴族マルフォイ家当主のルシウスという男なのだ。

 こうして油断して背を向けて、杖をステッキの中に仕込んだままの状態でいる隙だらけの状態というのに、ここで不意討つことは悪手であるとハリーは直感している。

 

「グレイバックが拉致してきた女生徒。魔法運輸部のヴァネッサ・チャンの娘だが、あれは生きている。私が個人的に保護しておいた」

「……どういうつもりだ?」

「今この時点で、ホグワーツの生徒に無用な犠牲を出すわけにはいかん。それは私の考えでもあり、帝王の意向でもある。あれは完全にグレイバック個人の暴走だ。まず間違いなく、怒りを買うことだろう」

 

 ルシウスの言葉をすべて信じることはできないが、しかしそれが事実ならば、ハリー達は彼に借りを作ってしまったことになる。命の借りは重い。彼の発言が事実かを確かめるまで、ハリーらは行動を制限されてしまったことになる。それに気づいたハリーは苦い顔をして、ハリーが気づいたことを察したルシウスはくつくつと含み笑いを漏らした。

 長い廊下を歩き、脳みそがぷかぷかと浮かぶ水槽が並べられた不気味極まりない部屋を通過する。そして辿り着いたのは、《逆転時計》がたくさん棚に納められた部屋だった。出口の扉が二つあり、片方は明らかに魔法で作製された即席の扉だった。ここは神秘部の最奥、これを抜ければもう部屋もないだろうという場所までやってきたのだ。

 

「では、要求を伝える」

「聞けるわけないだろう!」

「チャンの娘は、右の扉の向こうにいる。グレイバックが連れてくる際に殴ったようで意識を失っているが、命に別状はなかろう」

 

 こちらとしては都合のいいことだが、まさに至れり尽くせりで、本当に彼が何を企んでいるのか理解できない。死喰い人の、しかもリーダー的存在である彼がハリー・ポッターの助けになるという事は考えづらい。

 フレッドが警戒しながらも扉を開けると、確かにそこにはチョウ・チャンが縛られた状態で事務机に付随している豪華なソファに座らされていた。慌ててロンとジョージが駆け寄って彼女に呼びかけるも、気を失っているというのは本当のようだ。

 ルシウスはいったい何がしたいんだと考えながらフレッドとハーマイオニーに続いて部屋へ駈け込もうとすると、ルシウスはふと思い出したかのようにハリーを呼び止めた。

 

「待ちたまえ、ハリエット・ポッター。君にはお願いがあるのだ」

「なに?」

 

 警戒心をむき出しにして、ハリーはその足を止める。

 ルシウスはステッキの頭に取り付けられた銀色の蛇の装飾を指先で撫でながら、ハリーの姿を眺める。父親譲りの真っ黒な髪に、母親譲りの顔つき。アーモンド形の目つきも母親にそっくりなのだろう。瞳の色は、ポッター夫婦のどちらとも違い、ワインレッドに染まってしまっている。二年生の最後、ドビーの件で謝罪したときはリリー・ポッターと同じエメラルドグリーンであったため、憤怒と憎悪が彼女の色を変えてしまったのだろう。いまはルシウスに対して、訝し気な表情を隠しもせず向けている。体つきは実に女性らしく成長しており、謝罪した時のように少年と見間違えるようなことはないだろう。

 二人の息子からの評価は、それを見る視点が兄のものか弟のものかによって、一変して違う。弟スコーピウスからは、高慢で嫌な性格のマヌケ女と評される。挑発してもとぼけた返答でうやむやにされることが多いといら立っていたが、それはおそらく愚息をからかって遊んでいるいるだけなのであろう。兄ドラコからは、力を求める愚かな女と言われる。闇の帝王に抵抗するための力を身に着け、事実彼女は六大魔法学校対抗試合において十分な力を見せつけた。ドラコの事情を考えれば、嫌そうな顔をしながらもそう評価するのは納得だろう。

 そしてルシウスからの評価は、一言で表せば未熟な闇祓いのようだと言える。闇祓いの卵のように周囲を警戒し、敵地にいるという認識ができているため周囲に気を配り、なおかつ会話しているルシウスに対する警戒も怠っていない。そして、会話をするという選択をした時点で未熟である。

 

「君にはしてもらいたいことがある」

「内容によるかな」

「ヴァネッサ・チャンの娘を助けた借りがあるはずだが?」

「ヴォルデモートを倒す一助になるなら、踏み倒す恥知らずにだってなれるさ」

 

 帝王の名を間近で口にされてぎくりとするも、ルシウスは平静を装って話をつづける。

 その動揺をハリーは見逃さなかったが、プライドの高いであろう彼を無意味に刺激するのは賢い選択ではないと分かっているので、それを指摘することはなかった。

 

「予言を封じ込めた水晶玉というものがあってだね。それは予言された本人しか干渉できないとかいう、奇異な魔法がかかっているのだ。無論、触れられぬ上に魔法も効かない」

「それがこの魔法省に保管されているとでも?」

「その通り。もう察しているとは思うが、」

「それを、ぼくに取ってこいと」

「左様」

 

 ルシウスがステッキを向けると、チョウがいる部屋とは別の扉が音もなくぱっと開いた。

 その向こうにはハリーの見たこともないほど背の高い棚が並んでおり、よく目を凝らして見てみれば、そこには水晶玉らしきものが収められている。それが何百、何千と飾られているのだ。いっそ不気味な光景でさえある。

 ハリーは不思議そうな顔でルシウスを見上げると、彼はつまらなそうな顔で言う。

 

「我が君が、予言をご所望だそうだ」

 

 やはりヴォルデモートが欲しがっているのだろう。

 そうと決まれば、もうその水晶玉はルシウスの目の前で叩き割ってやるほかあるまい。

 

「ハリーを一人で行かせるとでも思ったか、マルフォイ?」

「いや、思わんが。しかしウィーズリーの末弟よ、チャン家の娘はどうするのだ」

 

 いつの間にか話を聞いていたらしいロンは、咬みつくようにルシウスへ言葉を投げつけたが、そう指摘されてアッと息をのんだ。

 呆れた顔をするルシウスに何でもいいから文句を言おうとしたのか、口をパクパクと動かすものの何も言えずじまいとなってしまう。そうしているうちに、彼女を抱えたフレッドとジョージがこちらへ戻ってきた。

 その表情に悲痛なものはないあたり、チョウ・チャンには本当になんの傷もないらしい。下手をすれば生きてはいてもグレイバックに咬まれているかもしれないと考えていたハリーにとって、それは朗報でもあった。しかしそうなると、ルシウスの指摘した通りに彼女をどうするのかといった問題が浮上してくる。意識を失った少女を抱えたまま死喰い人と戦闘できると思うほど、ハリーは愚かではない。

 

「僕たちが連れて帰るよ」

「こればかりは仕方ない」

「君の助けになればと思ってついてきたけど、まさかこんな早く離脱するとはね」

「まあこれも助けになることには間違いないし、ついてきた甲斐はあったかもな」

「フレッド、ジョージ……」

 

 双子が申し出てくれば、ハリーにとって否やはない。

 正直言って、この中で戦闘力で劣るのはこの双子だ。トリッキーな手段を用いて翻弄することは得意かもしれないが、なにせDAの戦闘訓練を始めたのは今年からであり、彼らには地力が足りない恐れがある。ロンとハーマイオニーは修羅場を経験してきたという強みがあり、ハリーには扱えない『固有魔法』による独特な戦術がある。足手まといにはならないのだ。

 それじゃ、頼む。と言いづらそうにしながらも頼めば、双子は快活に笑って引き受けた。華奢な少女であろうとも、意識がない状態では驚くほど重くなる。フレッドはチョウの両手を持ち、ジョージは彼女の両足首を持って飛ぶように近場の暖炉に向かって走っていた。およそ思春期の少女に対する仕打ちではないが、死喰い人と遭遇する危険性を考えれば移動速度がはやいに越したことはない。

 双子があっという間に姿を消してしまうと、ルシウスがかつかつと高級そうな靴の音を立てて水晶玉の部屋へ歩いて行ってしまう。それについていくと、天井が見えないほどに高く広い部屋へ入ってしまった。水晶玉がずらりと並ぶさまは壮観でもあり、やはり不気味でもあった。

 

「あれだ。あれが帝王の欲するらしき予言の水晶玉だ」

「『一九八一年十一月一日 闇の帝王とハリエット S.P.T.』? 何だこれ?」

「帝王と君に関する予言だ。手に取って、私に渡してくれたまえ」

 

 ハリーは水晶玉を乗せている小さな台座に張られているラベルに目を付けて読み上げるも、特に興味なさそうに言うルシウスに従って予言の水晶玉を手に取る。

 そして息をする間もなく、即座に全力で床へたたきつけた。

 

「これで可愛い帝王ちゃんの目論見はご破算だよね」

「いや、そうでもない」

 

 ふふんとしたり顔でルシウスに言い放てば、相変わらず落ち着いた声で返答がされる。目の前でヴォルデモートの望むものを破壊したのだから、てっきり大慌てするものかと思えば、いやに落ち着いている。

 不思議に思ってルシウスをよく見てみれば、その手には先ほどハリーが床で叩き割ったはずの水晶玉がおさめられていた。キャッチしたのか? いや、そんなことはできようはずもない。あらかじめ床に何かの魔法を仕掛けておいたとしか思えない。例えば、ハリーが女子トイレでシリウスの『両面鏡』にそうしたように、水晶玉が割れぬよう床に魔法空間を開いておいたとか。

 

「……」

「考えていることが見え見えだ。今後はもう少し、ポーカーフェイスを保つといい」

「…………ご忠告どうも」

 

 水晶玉を魔法空間へしまいながら余裕たっぷりに言うルシウスに向かって、袖口から飛び出させた杖を振るって向けるものの、しかし魔力を練り上げる前に、その杖が手の中から引き抜かれてしまった。

 たしかに距離は近かったが、まさか自身の手から魔法も使わず杖を抜き取られるとは。完全に不意打ちで魔法を放つつもりが、逆に不意打ちのようにやり返されてしまった。まさか、バカな。とハリーは息をのむ。ハリーの肉体に張り巡らされた『身体強化』の効果は切らしていないし、そもそも、この呪文を得意としているウィンバリーのように途切れさせず常に発動し続けることさえ可能になったのだ。彼は、その反応速度を上回ったとでも言うつもりか。

 伸ばしたままの右腕へ蛇のようにルシウスの左手が這いより、円状にハリーを振り回したかと思えば思いっきり吹き飛ばされてしまった。それに驚いたのはロンとハーマイオニーであり、自分たちへ向かって飛んできた親友の体を咄嗟に受け止めたことで団子になって倒れこんでしまう。

 珍しく呆然としたハリーを見下ろしながら、ルシウスは言った。

 

「落ち着きたまえ」

 

 口汚くクソッと漏らして、自分を支えるハーマイオニーの手を振り払ってハリーは立ち上がる。勢いよく手の平をルシウスへと向ければ、彼の手に握られていたハリーの杖は主のもとへと飛んで戻ってくる。

 そして再びルシウスへ呪いをかけようとするものの、ステッキをひょいと振るうことで数えるのも面倒になる本数の『武装解除』の魔力反応光が飛んでくる。近距離にいたハリーはそれを避けきることができず、ばちんと肌を鞭でたたかれる音と共に、再び杖を奪われることになってしまった。

 

「ハリエット・ポッター。今後とも息子たちと仲良くしてやってくれ」

「……このタイミングで、いきなり何を言い出すんだ」

「私はもう家に帰るからさ。ほら、とうに定時を過ぎている」

 

 のんきに懐から銀の懐中時計を取り出し、午後七時をすぎている針を示す。

 ハリーに杖を投げ返しながら言った小粋な冗談のつもりだろうが、ハリーにとって今は笑うべき状況ではなかった。それを気にせず、かかとでくるりと一回転したルシウスは『姿くらまし』しつつ、口角を持ちあげて最後に台詞を残していく。

 それは周囲でいくつも鳴り響く空気の押し出される音と、ほとばしる魔法式が視えたことで、会戦の合図であることを知らせていた。

 

「もっとも、君が無事に帰れたならばの話だがね」

 

 ルシウスが姿を消すタイミングと、白い髑髏の面をつけて黒いローブを纏った者たちが姿を現すタイミングは完全に同時。彼らの手には杖が握られており、すでに魔力を練り終えて発動する寸前である。

 咄嗟に伏せろと叫んだハリーは、ロンとハーマイオニーがともに床へ伏せて赤い魔力反応光を避けたことを確認すると、一番手近にいる死喰い人へ青白い軌跡を残して襲い掛かった。

 

「ぐッ、ご!?」

 

 隙だらけの顎を殴りつけて、黄ばんだ白い欠片と赤い飛沫を飛ばすことで意識を奪い、その身体を砲弾代わりに蹴り飛ばす。すると狙い通りに杖を向けてきていた魔女に直撃し、もんどりうって倒れこむ。

 振り返りながら魔力を練り、背後から『死の呪文』を撃ち込もうと叫んでいた死喰い人へ無言呪文で『武装解除』を放つ。断定には早すぎるかもしれないが、この場にいる死喰い人は全員呪文を発動する際に叫んでいるので無言呪文を習得している者はいないのだろう。随分とお粗末な刺客を差し向けてきたものだ。

 ハリーは続けて何らかの呪文を撃ち込もうとしていた男女の死喰い人の間を風のように通り抜け、奥にいた大柄な死喰い人がその顔を狼人間のそれに変えようとしている隙をついて、駆けながら突き刺すように『失神呪文』を撃ち込む。

 狼人間特有の耐性によって一瞬息の詰まった大柄な死喰い人は、『失神』の効果に耐えたようで変身を完了させたが、その時にはすでにハリーが背後で飛び上がっていた。それに気づいて振り返れば、その顔面に彼女の杖が叩き込まれる。杖には赤い『失神呪文』の魔力反応光がまるでハンマーのようにまとわれており、大柄な死喰い人の顔を打ち抜いて、今度こそ彼の意識を『失神』させて闇へ沈めた。

 着地して振り返れば、ハリーが追い抜いた男女の死喰い人がその膝をついて、倒れこむところであった。二人が床に倒れ伏したその先には、起き上がって杖を構えているハーマイオニーとロンの姿がある。二人ならば、ハリーがわざと見逃した死喰い人をきちんと仕留めると確信していたからこそ、任せたのだ。

 襲撃してきた死喰い人たちを一分もかからず片付けたハリー達は、迷わず魔法省から脱出する選択をした。チョウを助けた以上、もうここにいる必要はない。呼び出したグレイバックが怒り狂うだろが、そんなことは知ったことではないのだ。勝手に怒って、勝手に狂っていればいい。

 

「――、ちっ」

 

 しかし物事は、そううまくは運ばない。

 ハリーたち三人が目にしたのは、通ってきた扉の向こうから幾人もの死喰い人がこちらへ駆けてくる姿だった。同じルートを逆走して戻ることはできまい。それに何より、先ほど想像した通りの男が先頭を()()()で駆けてくるではないか。

 いや、想像通りとはいかない。想像以上に()()()いる。おそらく人質として拉致したチョウ・チャンをルシウスに横取りされた怒りもハリーにぶつける気なのだろう。英語になっていない叫び声を上げながら、彼は一瞬でハリーのもとへと接近してきた。

 

()ッターァァァアアアアアアアアアアアアッ! 殺す(ごおう)ッ! 殺す(ごおう)ゥウウ!」

「くそっ! 『ラミナ・ノワークラ』、刃よ!」

 

 杖に白刃の魔力反応光をまとい、ハリーはグレイバックの爪撃を受け流す。

 火花が飛び散り、ハリーの華奢な体は大きく吹き飛ばされた。空中で姿勢を直そうとあがくも、グレイバックは先ほどハリーが『失神』させた大柄な死喰い人を投げ飛ばしたことでそれを砲弾代わりとして空中を泳ぐハリーへ命中させる。

 それによってさらに大きく吹き飛ばされたハリーは、姿勢を直す暇もなく回転しながら予言水晶の大広間を飛ばされ、いくつかの棚にぶつかって床へと転がされる。自分を斬りつけないように、白刃を消すのが精いっぱいだ。

 ハリーの体がぶつかったことによって水晶玉がいくつか床に落下し、叩きつけられ割れてゆく。ぶつぶつと何かを呟く霞のような幻影が現れるも、それは連撃を目論んで駆け寄ってきたグレイバックが踏みつぶしてしまった。

 

「この(はが)と、左腕ェェ。お(あえ)だ。お(あえ)が、奪ったんだァ、()ッターァァア……」

「殺し合う以上は甘ったれてんなよ、バカかオマエ」

「……………………殺す(ごおう)

 

 ハリーの挑発によって理性を飛ばしたのか、低い声でつぶやいた彼は、右腕を尻ポケットへと突っ込む。そこから出てきたのは、例の狼をかたどった仮面だ。

 あれを装備させるのはまずい。そう思ってハリーは杖を振るうものの、『武装解除』の魔力反応光は、なんと彼が顔を突き出し、その歯で噛み砕いてしまった。あまりの離れ業に、目を丸くしてしまった隙をグレイバックは逃さなかった。仮面を顔にかぶせ、その魔力の質をガラッと変化させる。荒々しく品の欠片も感じない魔力は、冷たいベッドのように包み込む悪意をイメージさせる魔力に変貌する。

 

「『モース・ウォラトゥス』……。死の、飛翔ォオ……ッ!」

 

 忘れもしない今年度のはじめ、ハリーが殺害したバルドヴィーノの弟、ハロルド・ブレオのもちいた魔法。いまやグレイバックから感じられる魔力は、ヴォルデモートのそれと同一としか思えなかった。

 この魔法式は、視たところで理解ができない。しかしハロルド・ブレオは明らかにその能力が上昇していたことから、ヴォルデモートのコピーでもしているのだろうか。当てずっぽうの推測でしかないが、グレイバックから感じる魔力の質が別物と言っていいほど変質したことから、当たらずとも遠からずといったところだろう。

 

殺す(ごおう)ッ! 殺す(ごおう)ッ! (ごお)じでやるゥゥウ(ごォお)じでやるぞォオアアアアアアア――――ッ! 『アバダメンブルム』、死の爪ェ――ッ!」

 

 グレイバックが杖先を自らの胸に当てて奇妙な呪文を叫ぶと、彼ののっぺりした指揮棒のような杖は、その毛むくじゃらな胸へと埋め込まれてゆく。ぎょっとしたハリーは、続けてグレイバックが叫びながら右腕を広げて、その五指の先に緑色の爪が噴き出したのを見た。

 ハロルド・ブレオがやったことと、視える魔法式から察しはつく。あの一本一本が、『アバダケダブラ』と同じ効果を持つに違いあるまい。左腕を奪っておいて本当に良かった。あれの手数が倍になると考えただけで、ぞっとする。

 ハリーは小回りよりも間合いを意識して、再び杖にまとわせた白刃は短刀サイズではなく大刀サイズにした。ちょっとでも掠ったら死んでしまうような攻撃など、少しでも遠ざけておきたいのは当然の心理だ。乙女としてもあんな気色悪い爪に近づくなど、ご免被る。

 もはや軽口をたたく暇など、ありはしない。

 大刀を振り回し、次々と振るわれてくるグレイバックの爪を受け流してゆく。日本の魔法学校、不知火のソウジロー・フジワラから基礎の基礎だけでも教わっておいて本当に良かったと思う瞬間である。

 大振りに右手を振り上げたグレイバックの隙を見て、ハリーは素早く大刀を振り抜く。それは狼人間の胸元をすぱっと切り裂いて鮮血をまき散らすも、その手ごたえは堅かった。硬すぎると言ってもいい。致命傷どころか、かすり傷程度にしか考えられないだろう。グレイバックはその右手を思い切り床に叩きつけることで、神秘部の床を砕く。足元がグラついてバランスを崩したハリエットは、たまらず空中へと飛び上がった。

 

「そォごだァッ!」

 

 空中で姿勢制御のできないハリエットに向かって、グレイバックは床に手をついたままの状態で素早く逆立ちすると、その右足を鋭く伸ばしてハリエットに強い蹴りをお見舞いした。

 しかしそれを読んでいたハリエットは、彼の靴の裏に自分の靴の裏を合わせて、グレイバックの蹴りを踏み台のようにして、さらに遠くへ跳んでゆく。周囲の予言の水晶玉が落ちて割れてゆくことも気にせず、二人は神秘部の中を高速で移動しながら刃と爪をぶつけ続ける。

 狼人間は皮膚一枚を斬らせるほどにギリギリで斬撃を躱し、少女は死爪を触れさせないよう大降りに杖を振るう。互いに死線を越え合う近接戦闘は、しかしその実かなりの差が生まれ始めていた。いくらハリーが優秀な『身体強化』使いとはいえ、狼人間の身体能力に、人間が追い付けるわけがないのだ。

 

「ごォラァア!」

「――ッ!?」

 

 グレイバックの雄叫びは、ハリーが咄嗟に杖を振るうのに十分な理由であった。

 死の爪どころか腕のないグレイバックの左腕の切断面が、ぼこぼこと泡立つ。それは闇の魔術に対する防衛術の教師私室で見せた、あの異形腕の出現を予感させる前兆。あの濁流のごとき肉塊に押し流されれば、捕まるのは間違いない。その後、甚振られて死を与えられるというのは簡単に予想できる。

 彼女は『浮遊呪文』を用いて、両者の足場でもあった周囲の棚から無数の水晶玉を吹き飛ばす。それはグレイバックの身体に次々と当たるものの、気にも留めない彼は左腕の切断面から肉塊を噴き出し始めた。自分の集中力を高めることで、クィディッチの試合中にも感じた灰色の世界に入り込んだハリーは、スローモーションのようにその様子を見る。同様に、宙を舞う水晶玉の数々も彼女の視界に飛び込んできた。今までは棚と棚を蹴って空中戦を行っていたが、それではもはや肉塊から逃れるには遅すぎる。

 

「く、ぅ……ッ! 『アニムス・トリスメギストス』、接骨木の力よッ!」

 

 全身から魔力が杖に吸い取られる感覚を覚えながら、ハリーはその全身を青白く輝かせる。宙を舞う水晶玉のひとつに足を乗せ、それが沈む前に次の水晶玉へと飛び移る。それを高速で繰り返すハリーは、光の残像を残してグレイバックから一気に距離を取った。

 その次の瞬間、肉塊の濁流が押し寄せてくる。しかしハリーの身体は、もはや、その津波を置いてけぼりにするほどの速度を叩きだしている。確実に仕留めたと思っていたグレイバックが思わず驚きの声を口にすると同時、その背中へ『武装解除』の魔力反応光が着弾する。

 さらに驚愕の表情を浮かべたグレイバックは、自らの胸から自身の杖がはじけ飛び、加えて右手から『死の光』が解除される感覚を覚えつつも、余剰魔力によってハリーの逃げていった方角へと吹き飛ばされる。きりもみ回転する身体を何とか制御しようとするも、追撃の『射撃呪文』が連続で全身を打ち据えた。

 

「ぐッ、うごォぁぁあああああ!?」

 

 まるでマグルの用いるマシンガンのような魔力反応光を撃ちだしているのは、床に倒れ伏した死喰い人の上で杖を振るう、全身を真っ黒に染めたハーマイオニーだ。

 純血王とやらが残した手記から体得した『固有魔法』によって、彼女は全身を魔力反応光と化している。それによって杖先のみならず全身から『射撃呪文』を繰り出すことができているのだ。

 そんなことはまったく知りえないグレイバックは、小娘にいいように吹き飛ばされている現状と自身に胸が張り裂けそうな怒りを覚えながらも、しかしどうすることもできない。

 加えて、自分が吹き飛んでいく先にはハリー・ポッターがいる。

 不自由な空中にいながらもなんとか姿勢を制御して左腕の肉塊を振るうも、驚くべきことにハリー・ポッターは魔力反応光よりも速く振るったはずの肉塊に着地して、不安定なその上を駆け寄ってきた。流動する肉塊の上を足場にできるという異常事態もさることながら、己の身体を踏みつけられているという事実にグレイバックは、一瞬だけ呆けてしまう。

 そして、それが命とりだった。

 

「は、リィー……ポッターァァアアアアアッ!?」

「終わりッ、だッ! グレイバッァァ――クッ!」

 

 左拳を振りかぶったハリーは、青白く発光するそれを何度もグレイバックに振り下ろす。華奢な少女であるハリーの拳程度、狼人間のグレイバックには何ら問題ないであろうが、それは本来の話だ。

 『身体強化』を超えた『身体昇華』、その呪文は巨人のような威力をハリーの肉体に与えていた。

 

「ぐぶォぁぁぁあああッ!? あァアアッが、ばがァアアアアアアア――――ッ!」

 

 『身体昇華呪文』で人間の限界を超えて強化されたハリーの拳は、一撃一撃がグレイバックの骨をラムネ菓子のように粉砕してゆく。一秒にも満たない時間で何十発も殴られたグレイバックは、文字通りボロ雑巾のようになって衝撃と共に吹き飛ばされる。予言の水晶玉を乗せた棚を二つほど砕きながら、彼の肉体は巨大な鉄の扉に叩きつけられた。

 八〇キロほどの重量物が突き刺さってひび割れた鉄扉には、大鍋の中身をぶちまけたように真っ赤に染まり、千切れ飛んだ左腕の肉塊と、白目をむいて痙攣しているグレイバックが張り付いている。

 

「……ハリー。倒したの?」

「ハァッ、はあッ、……さ、さすがにね。……あー。殺す気で殴ったけど、どうだろう?」

 

 『固有魔法』を解いて通常の色合いになったハーマイオニーの問いに答えるハリーは、息を切らしながら床に着地した。それと同時に、彼女はその全身から青白い光を霧散させる。『身体昇華』の効果が切れたのだ。

 『身体強化呪文』はハリーの得意とする魔法だが、《純血王》の書いた手記にはその神髄まで書かれていた。王自身は実現できるほど適性がなかったようだが、おそらく成功すれば『身体強化』した魔法使いが子供に思えるほどのパワーとスピードを手に入れられるだろうと手記に記してあったが、まさにその通りであった。『身体強化』した状態のハリーより素早く力強いグレイバックを、ああも徹底的に撃破できたのだから。

 ハリーは『身体強化』を会得するにも何年もかけて安定した運用を手に入れたが、『身体昇華』に要する魔力と運用の繊細さは、前者の比ではない。

 

「……ハリー。あれ見て」

 

 ロンの引きつった言葉にハリーが目を向ければ、蝶番が使われているのかまでは分からないが、ハリー達三人は剥がれ落ちたグレイバックとともに、鉄の扉が崩れ去ってゆく様を目にする。

 轟音を立てて埃の煙を巻き上げる扉は、床に倒れ伏したグレイバックの上に降り注いでいった。その鉄塊に潰されながらも、うわごとでハリーの名を呟くグレイバックの頑丈さには、呆れ果てるほかない。しかし今は、それよりも気にするべきことがある。

 

「あーらま。グレイバックがやられちまったよォ」

 

 鉄の扉の向こう側、奇妙な石造りらしきアーチだけが設置された大部屋には、数人の人影があったのだ。その全員が黒い衣装を身にまとっている。先ほどの死喰い人たちのように黒ローブに髑髏の仮面という、統一した装いではないことから、ある程度ヴォルデモートに近い連中であることがわかった。

 それでも死喰い人に他ならない姿に、三人は杖を手に警戒心を跳ね上げる。

 

「ポッターを殺すなんて息巻いていたが、返り討ちに遭うとは情けない奴よ」

「わんこちゃんが負ァーけた! 無様に負ァけた! ぎゃははは!」

「……笑える!」

 

 黒いドレスローブを着た、豊かな黒髪に厚ぼったいまぶたをした酷薄な印象をぬぐえない女性。黒いスーツを着て紳士的な態度をとる口髭の男と、同じ服装をしていながらがっちりした肉体をした顎髭の男。

 それぞれベラトリックス、ロドルファスのレストレンジ夫妻と、その弟のラバスタン・レストレンジに間違いない。ハリーが読んだ日刊予言者新聞に載っていた、記憶の中にある脱獄犯たちの顔と一致する。その背後で一言だけつぶやいた口髭を細く整えた男は、ハグリッドのヒッポグリフを処刑した執行人、ワルデン・マクネアであろう。

 一斉にこちらへ視線を向けた闇の魔法使いたちに、一瞬でもひるんだのが間違いであった。ハリーがそう気づいたのは、すぐ背後から密やかな含み笑いが聞こえてきたからだ。

 

「がッ、ぁ……!」

 

 衝撃にハリーがもんどりうって正面から倒れると、背後へ視線をやることができる。青白いあばた面の男が、ハリーの背中に何らかの魔法を撃ち込んでいた。

 霧散してゆく魔力式の残滓を読み取るに、どうやら『失神呪文』だったらしい。だというのにハリーを失神させていない。やけに威力が低すぎるが、おそらく意識が飛ばぬように調整していたのだろう。

 ハリーは知らなかったが目の前の死喰い人、アントニン・ドロホフは魔法戦闘の天才である。中でも彼は、『姿あらわし』を得意としている。この魔法はかなりの集中力が必要とされる代物であるため、普通なら短時間に何度も使うなど狂気の沙汰であるが、ドロホフはそれを研鑽して超近距離での連続『姿あらわし』を可能にしている、魔法戦闘の鬼才なのである。

 親友が不意打ちで倒れこんだ姿を目にしたハーマイオニーとロンは、慌ててドロホフに杖先を向けるものの、二人の背後へ『姿あらわし』したドロホフに杖を取り上げられてしまう。その際にハーマイオニーは腹へ拳を受けて胃の中の物を戻しながら崩れ落ち、ロンは肘で顔を殴られたために歯や鼻が折れ、血が吹きだす顔を抑えながらうずくまってしまう。

 黒い詰襟に羽織ったローブをひるがえして、不精髭で覆われた口をにぃと歪ませたドロホフは痛みに悶えるハリーから杖を抜きとり、彼女の身体を軽々と抱え上げた。

 

「はな、せ……!」

「ん? 分かった。離そう」

 

 ドロホフの肩の上で弱々しく暴れるハリーが苦し紛れに漏らした言葉に、ドロホフが素直に応じる。ただし乱暴な動作であったため、ハリーは大部屋の中央に放り投げられたことで、石の床に背中を打ち付けてしまう。

 咄嗟に杖を抜いてドロホフへと向けようとするものの、袖の中に自分の杖は見当たらなかった。ドロホフをにらみつければ、彼の手の中でくるくるともてあそばれているではないか。

 痛みと悔しさうめいたハリーは、甲高い笑い声をあげるベラトリック・レストレンジが腹を蹴り飛ばしたことでさらに痛みに声を漏らす。仰向けにさせられて荒い息を吐きだすハリーの髪をロドルファス・レストレンジが掴み、乱暴に助け起こすと無理やりに歩かされる。

 咳をしながら空気を求めて喘ぐハリーは、なぜ歩かされているのかが理解できない。

 ぱちんと鞭で打つような音と共にドロホフが、石のアーチの目の前へと『姿あらわし』する。そこには、先ほどまでなかったはずの真っ白なテーブルとイスが設置されている。あまりにも場違いなそれの片方へハリーは座らされ、その身を『魔縄』で拘束されてしまう。ベラトリックスが『魔罠』を放ったため、痛いほどにキツい縛り方をされてしまった。

 

「人様の、扱いが、なってないぞ……。ベラトリックス・レストレンジ」

「あァら、ポッターちゃん。これが死喰い人流の、最高のおもてなしでちゅよォ」

 

 人を舐め腐った言い回しで、わざわざハリーの顔すれすれまで自分の顔を近づけてベラトリックスはハリーの憎まれ口を嘲笑う。

 唾を吐きかけてやろうかと思ったが、やれば最後、たぶん殺されるだろう。

 なのでハリーは遠慮なくベラトリックスの目をめがけて唾を吐き捨てた。左目へ直撃したそれは、彼女に短い悲鳴をあげさせることに成功する。ふんっと鼻で笑えば、ドロホフが口笛を吹いた。ベラトリックスは気性の荒い女だ。まさか挑発するとはだれも思っていなかったのだろう。

 

「……死にたいらしいね」

 

 ベラトリックスはオペラグローブに包まれた手で唾をぬぐうと、その手でハリーの頬を張った。ぱぁんと乾いた音を立てて平手をお見舞いしたものの、それでは気が済まなかったらしく自分のドレスローブから杖を引き抜く。

 そして杖先を彼女に向け、ベラトリックスは鬼のような形相で『死の呪文』を叫ぼうとした。しかし口が開いたその次の瞬間に、彼女は杖をしまってその場に平伏してしまう。

 目を丸くしたハリーが他へと目を向ければ、ドロホフやロドルファスといった死喰い人が全員その場に膝をついて恭しく頭を下げていた。

 

「お転婆は相変わらずといったところか」

 

 ごく至近距離から聞こえてきたその声に、ハリーはドロホフに向けていた視線を対面へと向ける。テーブルの上にはいつの間にかティーセットが現れていた。ティースタンドには色とりどりのケーキが乗せられており、ハリーの前には芳醇な香りを放つ紅茶の入ったカップが置かれている。

 そして目の前で優雅にカップを傾けている男は、闇のように黒いローブを身にまとい、美しい黒髪を揺らして夜の紅茶を楽しんでいる。

 

「……ヴォルデモート」

 

 カップをソーサーに戻し、他人が安心するような柔和な笑みを浮かべた男へ、ハリーは憎々し気にその名を呟く。

 彼が復活した際に見たときよりも、かなり老け込んでいるような印象を受けた。以前に見た際は二〇代後半から三〇代前半と言ったところだが、いまや五〇代と言っても差し支えないだろう。口元に深いしわが刻まれ、ハリーを愛おしそうに眺めて細める目元にもシワが見られる。

 しかしその美貌は、失われてはいない。

 トム・リドルとして数々の魔法使いを惑わし、だまし続けてきた優等生の仮面は彼を依然として覆い隠したままであった。その仮面のまま、彼はにっこりと微笑んで暖かい言葉をハリーへと投げかける。それは背中を這いまわる蛇のように、悍ましい言葉だった。

 

「久しぶりだな、ハリエット。お父様とお話をしようじゃないか」

「死ね」

 

 思わず端的な言葉で返答をしたところ、ヴォルデモートは冷たい声で嬉しそうに笑った。大部屋に響き渡るその声を聴きながら、ハリーは寒々しい思いを味わう。

 シリウス、早く来て助けてくれ。いまのハリーにはそう願うことだけが、現状できる精いっぱいのことであった。

 

 




【変更点】
・神秘部へ向かう人数の減少。チョウを一刻も早く助けなければ。
・魔法省への侵入経路。セストラルはエサでも食ってます。
・ルシウスの行動。子供の浅知恵などお見通しである。
・ロンとハー子なら、クソ雑魚ナメ喰い人など相手になりません。
・グレイバック撃破。まだ死んでません。まだ。
・早くもお辞儀しろ。

【オリジナルスペル】
「インスペクティオー、暴き出せ」(初出・59話)
 探査呪文。作中で使ったように、術者の周囲にある物を確認する。
 元々魔法界にある呪文。『ドケオー』の上位呪文にあたる。

「モース・ウォラトゥス、死の飛翔」(初出・51話)
 死喰呪文。詳細不明。
 1990年代にヴォルデモートが復活後、開発したと予想される。

「アバダメンブルム、死の爪」(初出・59話)
 死爪呪文。狼髑髏の仮面を装備したフェンリール・グレイバックが使用した。
 1995年、ヴォルデモートが開発。『死の呪文』の実験で生まれた副産物。

「アニムス・トリスメギストス、接骨木の力よ」(初出・59話)
 身体昇華呪文。身体強化より数段上の能力を得られる変身術。
 1996年、ハリエット・ポッターが開発。《純血王》の考察にヒントを得た。


グレイバック撃破。前回の強そうな様子は何だったのか。
DAで鍛えて立派な戦力となったロンとハーマイオニー、そして悪鬼修羅女ハリエットの三対一だったので、何が悪かったかといえば運が悪かった。フレッジョは早々にチョウを連れて離脱しましたが、力になれなかったことで内心では忸怩たる思いでしょう。
そして優雅にお辞儀登場。かなりご機嫌のハイテンションで、老けてやつれています。
次回は、不死鳥の騎士団編のラスト。シリウスはよ来いや。


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10.代償

 

 

 

 ハリーはヴォルデモートとお茶をしていた。

 不本意ではあるが、死喰い人に囲まれており一切の抵抗を許されない状況では、仕方ないというものである。艶やかな黒髪を揺らしたヴォルデモートが杖を振ると、ハリーを縛り上げていたベラトリックスの『魔縄』が消滅する。このまま殴りかかってもいいが、闇の帝王はそれを許しはしないだろう。

 薄いヴェールをかぶった石造りのアーチからそよそよと微風が流れてくる中、ティーテーブルを囲むさまはいっそのことシュールと言える光景であった。アーチの向こう側からなにやら囁き声が聞こえてくるものの、それが何かはハリーにはわからない。ただ、それがひどく気分をざわつかせていることは確かだ。こんな意味不明なオブジェの前でお茶をすると決めた、ヴォルデモートの神経が分からない。

 飲めと無言で示された紅茶を見やれば、特に何らかの魔法式が視えるわけでもない。『真実薬』などが盛られている可能性はゼロではないが、こうして自身の抵抗を許さない状態に追いやっている以上、ヴォルデモートという男はきっとそういうことはしないとハリーは考える。

 なので、ハリーは遠慮なく紅茶のカップに手を伸ばし、それを口に含んだ。フルーツのように芳醇な香りが鼻いっぱいに広がり、甘くまろやかな味が舌を刺激する。悪くない、むしろ美味しい。腹の立つことに、ヴォルデモートはそれをにこやかに眺めるだけであった。

 

「それで。何の用だ、ヴォルデモート」

「せっかくの親子団欒だろう。もう少し楽しんだらどうだ、ハリエットや」

「だまれ」

 

 優雅にカップを傾ける男に対して辛辣な言葉を投げかければ、周囲で傅いている死喰い人達がやおら殺気立つ。微動だにせず器用にハリー個人に向けて殺気を向けてくる黒ローブたちに、ハリーは鼻で笑ってやる。

 胃の中の物をすべて戻してしまったらしいハーマイオニーが、折られた歯と鼻血が止まらないために自身の胸元を真っ赤に汚しているロンが、ロドルファス・レストレンジに睨まれながらも両者とも口元を抑えつつ心配そうな顔でこちらを見てくるので、ハリーはにっこりと優しい微笑みを返しておいた。

 だが、そのすべては虚勢である。

 ドロホフに杖も取り上げられ、周りを死喰い人で囲まれ、ヴォルデモートが愛おしそうにこちらを眺めており、ロドルファス・レストレンジがハーマイオニーとロンを見張っていつでも殺せるようにスタンバイしている。この状況下で一発逆転の目を出せるほど、ハリーに実力はない。ハリエットという女は今や英国魔法界の中でもとびきり強者と呼べる部類ではあるが、この場にいるヴォルデモートやベラトリックス・レストレンジ、アントニン・ドロホフはそれこそハリー達とは比べ物にならない魔法戦闘の天才である。ハリーの知る限り、彼らに対抗できるのはそれこそダンブルドアか、シリウスといった同じく魔法戦闘の天才たち。ヴォルデモートによって才能を編み込まれて造られた存在であるハリーは、怪物級ではあっても神代級ほどではないのだ。

 それでもハリーは諦めたりはしない。機を見計らい、僅かほどの隙でもいいから見つけ出そうとしている。無論、ヴォルデモートはそれを承知のうえでこうして楽しんでいるのだが。

 

「さて、さて、さて。俺様は何を話そうとしていたんだっけ……」

「自分はクズですハリー様いますぐ自害しますって話じゃなかったっけ?」

「ジョークのセンスはないようだな、ハリエット」

 

 そう言って笑ったヴォルデモートは、テーブルの上を見て眉を持ち上げた。

 そうしてベラトリックスに向けて問いかける。

 

「ベラ、アプリコットジャムがないぞ。支度をしたのはゴイルだったか?」

「申し訳ございません、我が君。しかし我が君。ゴイルは以前、御身がその手で……」

「……あー、そうだった。記憶違い……ではクラッブもか。まあ、よい。我慢しよう」

 

 何気ない会話を交わしながら、ヴォルデモートはスプーンですくったクランベリージャムを舌に乗せ、紅茶を含んだ。濃い琥珀色の液体を飲み干した彼は、音もなくカップをソーサーに置いて微笑む。死喰い人らしき者の名をあげ、それを手にかけたとでも解釈できる今の会話の直後に、よく紅茶を味わえるものである。

 あまりに余裕なその姿にハリーは腹を立てるが、ヴォルデモートは彼女の様子に気づいていないかのように語りかけた。

 

「ハリエット、学校は楽しいか?」

「最高だね。お前みたいな危険人物がいなければ、言うことなしだ」

「なるほど、なるほど。彼氏でもできたかね? ん?」

 

 なんだこいつ。

 

「どうだろうね。色恋沙汰よりも今はお前を殺したくてウズウズしているよ」

「おやおや、想われているとは俺様も嬉しい限りだ。だが、おまえも十五歳だ。いや、十四だったか? ともあれ、年頃というやつだ。どうだろう、ルシウスの息子なんかは純血だし、おまえのよい婿になると思うのだが?」

 

 なんだこいつ!?

 

「……話の意図が読めない」

「意図など。そのままの意味だとも、ハリエット。俺様は自分の孫が楽しみでな」

 

 ハリーは困惑に満ちた顔でヴォルデモートの赤い瞳を見つめる。その困惑は彼女一人のものではなく、この場にいる全員が共通して感じていることだった。

 ベラトリックスは憎々し気にハリーを見つめ、マクネアやレストレンジ兄弟は笑ったものの主君の言葉が冗談ではないことに気づいて唇を一文字に引き締めた。ドロホフの口笛が神秘部の広間に響く中、ハーマイオニーとロンがこの中において誰よりも呆気にとられていた。

 大量殺人鬼の闇の帝王が、自分たちの親友に対して結婚の勧めをしている。

 その異常な状況が、どれだけ彼らに衝撃をもたらしただろうか。ハリーは二人ではないためそのインパクトは計り知れないが、驚きと不快さについては分かるつもりだった。ハリーの両親を殺した男が、彼女を創り出したというだけで父親面をしている。ハリーは自身の耐えきれる不快さの許容を超えたのか、癇癪を起こした子供のようにテーブルの上のティーセットを薙ぎ払った。

 

「ふざけるなよ! どういうつもりだ!?」

「どういうつもりも何も、言った通りだぞハリエット。俺様はお前が胎に胤を宿し、子を産むのを待っているのだ。その相手にドラコをあてがおうと、そう言ったまでよ」

 

 そう言い放つと、ヴォルデモートは指を鳴らしてティーセットを元通りに復元する。そしてそのまま、懐から綺麗な色合いをした水晶玉を取り出した。

 ルシウス・マルフォイがハリーから得た『予言』だ。ごとりとテーブルに置かれたそれは、ぶつぶつと何かを呟いている。怪訝に思ったハリーが眉を顰めると、よく聞こえないことに不満を持ったと思ったらしいヴォルデモートが軽く指を鳴らす。すると水晶玉から人影が浮かび上がり、ゆらゆらと揺れながらそのボリュームを上げる。

 

『帝王の産みだした太陽と月交わりし時、新たな時は刻まれるゥウ……心せよ……純血の姫と御子交わりし時、織り成す子は次代の王とならん……心せよォオ……』

 

 人影がゆらゆらと揺らめきながら言い放った言葉に、ハリーは動揺を隠せなかった。

 その様子を満足げに眺めるヴォルデモートは、未だにぶつぶつ呟く水晶玉を、用済みとばかりに後ろ手に放り投げて割ってしまう。欠片から漏れ出した予言が霞となって消えたそれへ目も向けないで、彼は夢見る少年のように語る。

 

「俺様の造った姫君は、むろんお前だハリエット。そら、帝王の娘なら姫だろう? そしてゼロから作られた魔法族ならば、真の意味で純血中の純血だな。同じくマルフォイ家は聖二十八一族に数えられる純血の名家。その家に生まれる子ならば、おまえの番いにふさわしい」

「……次代の王って、」

「そこよ。重要なのはそこだ」

 

 出来のいい生徒を見るような眼で、ヴォルデモートは笑いながら言う。

 

「俺様こそが闇の帝王だ。後にも先にも、他の帝王なぞ必要ない。この英国魔法界へ君臨し、未来永劫、魔法族たちを支配し続けるのは俺様のみで充分よ」

「自分がとんでもなくバカみたいなこと言ってるって分かってる?」

「ふふ、傲慢と言って欲しいな。だがそれも、俺様ならば許される。ハリー・ポッターが帝王を斃す子と予言されたように、新たな帝王の資格を持つ者が生まれるのならば、生まれる前に殺せばよいだけのこと」

 

 ハリー・ポッターが帝王を斃す? 実現すれば嬉しいが、なんだそれは。この男は自らそんなことを言うようなタイプではないはずだ。ハリーが思わず漏らした言葉が聞こえなかったかのように、ヴォルデモートは熱に浮かされたかのような顔つきで言葉をつづける。

 

「ではこれは誰を指した予言なのか。俺様は考えた。次代の帝王などという危険な者の誕生など、俺様が阻止しないはずはない」

「ハリー・ポッターの時のように失敗するとは思わないのか?」

「ん? ハリエットや、お前はもしや、俺様が失敗したとでも思っているのか?」

 

 ハリーの挑発が予想外だとでも言うように、ヴォルデモートは首を傾げた。長い黒髪が揺れてきらめくも、ハリーは彼の反応こそが予想外だった。

 彼は赤子のハリー・ポッターを殺害せしめようとして死の呪文が跳ね返され、肉体を滅ぼされた。その結果が失敗でなければ、何だというのだ。ハリーがその疑問を投げかけようとしても、ヴォルデモートはそれに気づかず言葉を紡ぐ。

 

「まあ、いい。ともあれ、俺様は結論を出した。次代の帝王とは、すなわち俺様自身のことなのだと。見よ、我が肉体を。若く、美しい」

 

 切れ長の目を細め、赤く輝く瞳をもってハリーを見つめる男の容姿は、たしかに古代ギリシャ人が見れば彫刻として残そうとするほどに美しい。しかしハリーにとって目の前の男は腐肉と悪意で構成された悪魔であり、醜いことこの上ない。

 ハリーの嫌悪の視線さえ楽し気に受け止めて、帝王は言った。

 

「だが、老いる」

 

 短い言葉に込められた感情は、どれだけのものか。

 ハリーは眉をしかめながら、言葉の続きを待つ。周囲を侍る死喰い人はもちろん、ハーマイオニーとロンもまた、帝王の言葉の続きを待った。正直言って聞きたいような内容ではないだろうし、聞くだけでがりがりと精神を削るような考えを披露するのだろう。だが、聞いておかねばなるまい。敵が何を考えているかを知ることこそ、勝利への第一歩なのだから。

 

「老いれば、人は死ぬ。いくら俺様が魔導のひとつを極め、魔人として変性し、魔力枯渇の心配がなくなったとはいえ、カテゴリーとしては人類に相違あるまい。クィレルの特性さえモノにし、吸血鬼以上のパワーを手に入れたところで、生物である以上、俺様はいつか死んでしまう」

 

 死の飛翔と名乗る男は、そのくせ、この上なく死を恐れている。

 それを隠しもしないヴォルデモートは、しかし唇が耳まで裂けるような酷薄な笑みを浮かべていた。死喰い人たちが主の姿に笑みを浮かべ、ハリー達が戦慄する中、彼は言う。

 

「ならば生まれ直せばよい。そのために俺様は、ひとつの実験をした」

 

 実験などと。どうせろくでもないものだろう。

 

「俺様は見ての通り、造った肉体で現世を謳歌している。この肉体も悪くはないが、しかし老いると性能も低下する。ならばより高性能で、若い肉体を創り、再び俺様が生まれればよいのだ」

「……クィレルにやったように、憑依でもするつもりか」

「そんなことはしない。あれは俺様の魂がクズのような代物に成り下がったがゆえに行った、不出来な魔法だ。もっと素晴らしい魔法を俺様は作り上げた。『命数禍患の儀式』と名付けたのだが……転生と言えばわかりやすいかね?」

 

 ハリーはその魔法の名を聞いて、動揺を表に見せないようにするのに必死だった。

 『命数禍患の呪い』とは、かつてハリーが自身にかけられていたと思い込んでいた偽りの魔法の名だ。そして憎悪を増幅するという、ハリーにかけられていた些細な魔法。ダンブルドアは感情を操るその魔法を、まさしく『命数禍患の呪い』という名に相応しいとし言っていたが、ヴォルデモートがそれを知るはずがない。

 彼自ら名付けた『命数禍患の儀式』とは、如何なる魔法か。それは彼が端的に言い表した、『転生』という言葉が正しい。

 

「俺様の肉体を、赤子に食わせる。すると赤子は俺様となる。その精神を塗りつぶし、俺様は再び赤子としてこの世に生を受ける。そうなれば後は、それを繰り返すのみよ。ヴォルデモート卿は永遠に生き続け、永遠に魔法界を支配する」

 

 いかにも悍ましい話である。

 そうなれば、ディストピアと称するのも生易しい地獄が繰り広げられるだろう。マグルはもちろん、魔法族にとっても明日をも知れぬ生活を強いることになるのは間違いあるまい。

 

「そこで試しに俺様の肉体として適合できる赤子を作ってみようと思い立ってな、ベラトリックスを孕ませてみた」

「は?」

 

 ショッピングモールで気軽にチョコバーを買ったかのように話され、ハリーは素っ頓狂な声をあげる。数秒置いてヴォルデモートの言葉を理解したハリーは、自身の背後で跪いているベラトリックス・レストレンジへ視線を向けた。顔を伏せたままであり、その表情はうかがい知れない。

 

「ベラの胎内に子が出来始めたころから、魔法を用いて手を加えてな。とりあえず優秀な魔法族としての才能を持ち、サラザール・スリザリンの血が流れる純血の子供を創ることには成功した」

 

 ハリーの目に嫌悪が宿るも、ヴォルデモートは気づかない。顔を伏したままのベラトリックスを見つめながら、彼は話をつづけた。

 

「だが、失敗だった。ははは、恥ずかしい話、受精してから色々といじくり回すのでは遅すぎたのだ。ベラの胎児は、俺様が宿るにふさわしい強度と耐性を持たなかったのだ。それに赤子は女性だった。俺様は完璧主義者だ、造るならば俺様の完全複製がいい」

 

 ヴォルデモート曰く、人間の性別というものは女性の卵子に精子が到達、つまり受精したその瞬間には決まるとのことだ。染色体というものが性別には影響するのだが、もともと卵子はX染色体だけを有している。受精する精子がX染色体を持っていれば、できあがる受精卵の染色体はXXとなり女性として生まれる。無論、精子がY染色体を持っていればXYとなり男性として生まれるのである。

 科学というものを軽視する傾向にある魔法界では未だ判明していないこの関係性を、しかし魔法という不可思議な技術は破壊することができる。そう、できるのだが、もうすでに男女が決定された人間の性別を変更する労力は、そうでない場合の比ではない。そうとなれば、新たに子を創った方が安上がりで効率的だからだ。

 マグル界ではもう少々待たなければエコー検査などで調べることはできないのだが、魔法族には便利でステキな魔法がある。せっかちな魔法使いのために、妊娠九週目から十一週目ほどにははっきりと赤子の性別が区別できるようになる魔法が存在するのだ。しかしヴォルデモートは、ベラトリックスの胎内を視てがっかりしたに違いない。

 

「無論、俺様はベラに失敗作を堕胎するよう命じた」

「……」

 

 最低最悪の所業である。

 ベラトリックスにそうであろうと確認したヴォルデモートに対して、ベラトリックスは感情を揺らさず顔を上げた。しかしその返答が遅く、ヴォルデモートが首を傾げたその瞬間。ハリーとヴォルデモートは、部屋の隅へと視線をやった。

 ただでさえ崩れて積み重なっていた鉄の扉がバラバラに粉砕され、その中から雄叫びを上げたフェンリール・グレイバックが飛び出してきたのだ。あれだけボコボコに殴り、全身を複雑骨折させたはずなのに、呆れた回復力だ。腕が千切れ飛んだ左肩から血をまき散らし、かろうじて筋線維で繋がっている右腕をぶら下げながら、彼は唸り声をあげる。

 死喰い人やハーマイオニーにロンが彼へ警戒心を集める中、完全に血走った眼をしたグレイバックは、周囲の状況を把握する暇もなく、真っ先にハリーを見つけると一足飛びに駆け寄ってくる。それに対して手の平をかざして止めたのは、ヴォルデモートだ。

 

「落ち着け、グレイバック」

「ROOOOOOOAAAAAAARRRRRRッ!」

 

 帝王の静止も空しくハリーに牙を突き立て譎る俣縺ッ蟾サ縺肴綾繧

 帝王の静止も空しくハリーに牙を突き立てようとするグレイバックは、見えない警備員たちに羽交い締めにされているかのように、その場にとどまり暴れまわっている。

 その様子に溜息を吐き出したヴォルデモートは、椅子から立ち上がってグレイバックへと歩み寄る。涎と血を垂れ流す彼の頬へ右手を触れさせ、いかにも悲しそうに帝王は語る。

 

「ヴォ()()ートォ! (ごお)させろッ! そのクソガキは、俺が殺す(ごおう)! 殺す(ごおう)ゥ!」

「なあ、グレイバックよ。お前は俺様の部下ではない。だが、死喰い人のローブを着ることを俺様は許した。つまりベラたちと志を同じくした友だ。そうだろう?」

()ッターを(ごお)させろ……!」

「しかしなあ、友よ。俺様はハリエットを殺せと命じたか? ん? あの時点でホグワーツの生徒に危害を加えると余計な注目を集めるから手を出すなと言ったはずだが? んん?」

 

 親指で頬骨に当てながら、四本の長い指でグレイバックの髭面をなでる。その様はまるで蠱惑的なようでいて、まったく笑っていない彼の目が冷たさを物語っていた。

 荒い息を吐くグレイバックも、ヴォルデモートの不興を買ったことを悟っているのか、ここにきてようやくその口を閉じる。しかし目以外はニコニコ笑顔のヴォルデモートは、グレイバックの肩に手を置いて静かに語りかける。

 

「ヴォ()()ート……頼む(たのう)ぜ。(おえ)は、()ッターを……」

「おお、グレイバックや。我が友よ。俺様の言うことは聞けるね?」

 

 ヴォルデモートの様子にようやく危機感を覚えたのか、しかしそれでもハリーの殺害許可を貰いたい彼はヴォルデモートに声をかけるも、それは冷たい声によって遮られる。それに対してグレイバックは笑みを返すことができない。嗜虐的な笑みを浮かべたヴォルデモートが、今まで何をやってきたか、彼はよく知っているからだ。

 

「おすわりだ、犬」

「ぐぉ、ご」

 

 冷たい声と共に命令が下されると、グレイバックがどちゃりとその場に膝をつく。周囲の者は、なぜグレイバックが言うことを聞いたのか分からなかっただろう。しかしその近場に居たハリーとベラトリックス、ドロホフはなぜグレイバックが素直にヴォルデモートの屈辱的な命令を聞いたのかを理解していた。

 グレイバックの膝から下が腐り落ち、その場でぐずぐずとした液体となってしまったからだ。そのせいで膝をついた、もとい、膝で着地したグレイバックは、奇妙な呻き声を漏らした。痛みを感じていないのか、自身の脚を失った彼はヴォルデモートを見上げるしかない。

 

「ま、待てよ。ヴォ()()ート。じょ、冗談()しちゃやりすぎ……」

「犬がワン以外の言葉をしゃべるのか? グレイバック」

 

 かろうじて彼の二の腕に繋がっていた右腕を、ヴォルデモートが茶菓子でも手に取るように引きちぎる。これで彼は両手足を失ってしまった。地面から次々と生えてくる複数の腕が、哀れな姿となったグレイバックをバケツリレーのように持ち運ぶ。

 その腕たちが持ち運ぶのは、ハリーが座るティーテーブルのそばだ。彼女の足元を通り過ぎる際、グレイバックの目とハリーの目が合う。怒りとも取れないその目つきは、ただただ怯える老犬のようにしか見えなかった。

 そして彼を運ぶ腕によってグレイバックの上半身が持ち上げられ、自身の運ばれる先を彼に見せつける。ヴェールの揺れる、石造りのアーチだ。

 

「や、やめろ(えお)

 

 グレイバックの横をともに歩くヴォルデモートに対して、彼は帝王に懇願する。

 自身がどうなるかを悟ったのだ。ここにきてハリーもまた、人狼の王がどうなるのかを悟った。ハーマイオニーとロンの位置からはこの様子が見づらいのは幸いだ。ヴォルデモートの嗜虐心をふんだんに盛り込んだショーを、彼女らに見せたくはない。

 

「や()てく()ッ! ヴォ()()ートッ。やめろ(えお)ォ!」

「きちんとした発音じゃないと、聞き取れないぞ? グレイ、バーック」

「やめろ(えお)! やめ、()ッ! やめろ(あえお)ォーッ! ああああああッ、ぢぐじょう! 待て待て待て待て、やめろ(えお)! やめろ(えお)ォオオオ」

 

 つぶれた鼻と割れた顎で、必死に正しい発音の英語を紡ぎだそうとするグレイバックを、慈しむような眼でヴォルデモートは見つめる。グレイバックの身体が石のアーチの目の前まで来た時、グレイバックの唇は主人を助けんと輝石を起こすことに成功する。

 

「やめろ(えお)! やめろ! や、めろッ! やめろォッ! ……ほ、ほ()! 言えたッ! 言えました! だから、だから助けてッ! 助けてく()ェッ!」

「ああ、言えたな。おめでとう。言えたら助けるとは言っていないがね」

 

 必死に頼み込むグレイバックの様子を、嬉しそうにヴォルデモートは切り捨てた。

 帝王の言い草に一瞬だけ呆けたグレイバックは、しかしそれでも己の生をあきらめることはできなかった。助けてくれ、やめろと叫び続ける彼の身体は、わざとゆっくり石のアーチへ近づけられる。もはや子供を襲い人狼を増やす大悪党の姿はそこにはなく、死におびえる小さな男の泣き叫ぶさまだけがあった。

 

「い、いやだ。しにたくない……! (おえ)は、俺はまだ噛みたりない。(こお)したりない! ()()ッター、お(あえ)のせいだ! お(あえ)の……嫌だ。まだまだ、やりたいこといっぱいあって、(おえ)(おえ)……嫌だァ、やだァあ……! 助け、た()()……」

「さようなら、グレイバック。なかなか楽しめたぞ」

「ヤダ、いやだ、(おえ)、死にたく」

 

 ふわりと腕がグレイバックの身体を投げ出すと、彼の身体はヴェールに包まれて浮かび上がる。ぱくぱくと口を動かすグレイバックは、再びハリーと目が合う。そしてその一瞬後、眠気に誘われるように口を半開きにしたまま、だらしない顔を晒してグレイバックは石のアーチの向こう側へと去っていった。

 向こう側に部屋などないはずなのに、グレイバックの身体はアーチの向こう側から出てくることはなく、そのまま出てくることはない。あれだけ騒いでいた男が消え去ったことで、神秘部の大広間は再び静寂に包まれる。

 ハリーが嫌悪を丸出しにしてヴォルデモートを見てみれば、彼は恍惚とした表情のままであった。人の死を存分に堪能し、楽しみ切った顔だ。下劣すぎてみるに堪えない。

 ふぅと息を吐いて高揚を落ち着かせたヴォルデモートは、ロドルファス・レストレンジに命じて自身とハリーのティーカップへ紅茶をお代わりさせながら、椅子に座り込んだ。

 クィディッチ観戦でスーパープレイを観たかのように満足そうな顔で同意を求めてくるヴォルデモートの目を無視すると、彼はそれでも楽しそうに笑っていた。

 

「さて、さて。犬めに邪魔されたもので、どこまで話したか忘れてしまったな……。うん、ベラの子が失敗作だったところまでだったか。どうせ実験だったのだ、本命のプランは別にあった俺様は、特にベラを罰しなかった。所詮実験だからな」

 

 ティーカップを傾けて笑い疲れた喉を癒しながら、ヴォルデモートは語る。

 

「本命はお前だよ、ハリエット。俺様はお前を造った際に、完璧を追い求めた。不出来な人形など、俺様の作品としては我慢ならん。魔法使いとして優秀な才能は備えさせたし、俺様の血が流れているため純血だ。俺様の血が流れているということは、つまりスリザリン気質であるということだ。それ、おまえはいざという時の暴力に躊躇を覚えないはずだ。そうだろう?」

 

 不愉快なことだが、ハリーはそれを否定できなかった。

 殺されるくらいならば殺す、というスタンスを実行できる性格をしていることくらいは自覚している。それがヴォルデモートの血が流れているからだという理由から来るものであれば不愉快極まりないが、しかし事実だ。目の前で人一人を殺して平然としているような奴と同じとは思いたくないが、ハリーもすでにバルドヴィーノ・ブレオという男を殺害している。一人もたくさんも、似たようなものである。

 そしてハリーは、ヴォルデモートが言いたいことを徐々に理解し始めていた。ダンブルドアとも話したことがある。ハリーはなぜ、女性として造られたのか。なぜ、妊娠できる可能性を持っているのか。なぜ、短い寿命で造られていないのか。

 

「それに人間としての機能はすべて完璧にそろえている。ゆえ、子も産める」

 

 ハリーは返事をしなかった。

 

「先ほどのお前の疑問に答えよう、ハリエット。俺様はハリー・ポッターを殺す際に失敗したか、という話だ」

 

 ハリーは反応をしなかった。

 

「答えはノーだ。すべては計算ずく、すべては俺様の計画通り。俺様の肉体が滅ぶことも、俺様が自身の血と敵の骨と肉で新たなハリー・ポッター(ハリエット)を造ることも、俺様が十数年も表舞台から消えることも、すべてすべて俺様の考えたままに世界は動かせた」

 

 ハリーは息をのんでしまった。

 ヴォルデモートは、ハリー・ポッターを殺す際に『死の呪文』を用いた。それがリリー・ポッターの用いた愛の魔法によって、跳ね返ることは彼は知らなかったはずなのだ。それを知っていれば、『死の呪文』など使わずナイフでも何でも使えばよかった。そうすれば、彼は滅ぶことがなかったのだから。

 しかし自分が滅ぶことも知っていてなお、『死の呪文』を放った? それはどういうことなのだろうか。ハリーが思い悩むその反応に満足げな顔を見せたヴォルデモートは、ブルーベリージャムをスプーンですくい、長く蠱惑的な舌で舐めとった。そのスプーンをぴんと立て、微笑む。

 

「俺様は自分が滅ぶ際に、支度をしなかったわけではない。もちろん、次の、つまり今の、計画のために、下準備は済ませておいた。造るべきモノは造っておいたし、用意すべきモノは用意しておいた」

 

 スプーンの()()がぐにゃりと変形し、精密な人の顔を作り上げる。似顔絵のように表現されたその顔を、ハリーはよく知っていた。

 

「ドラコ・マルフォイ。あれは新たな俺様の父親として、俺様が造った」

 

 ハリーと同じように何かの目的に向かって、ひたすら己を鍛えている少年。

 スリザリン生として嫌味や皮肉を言ってきても、ハリーには彼のことが心底から嫌いになれなかった。同族だと直感していたからだ。そのストイックさ、自身を鍛えることへの妥協のなさ、力への貪欲さ。すべて自分と同じであり、相手も自分と同じだと分かり合っていた相手。だからこそ、相容れなかった相手。

 

「元々ルシウスとナルシッサの子供は、いまはスコーピウスと名付けられた息子ひとりのみであった。それを俺様が、ナルシッサの胎内にいるうちに手を加え、近いうちに造る予定の少女の番いとして調整した」

 

 双子として造る気はなかったが、なぜか双子として生まれてきたことには驚いたがな。これこそ生命の神秘よ。と、ヴォルデモートはせせら笑った。何度でも言うが、おぞましい話だ。いまスコーピウス・マルフォイとして生きている彼は、ひょっとしたらドラコ・マルフォイであったのかもしれない。生まれるはずのなかった男の子にドラコという名がつけられたために、彼は人生の席取りゲームに戦わずして敗北してしまったのだ。

 ルシウスとナルシッサ・マルフォイから生まれるよう造られたドラコ・マルフォイに、ジェームズとリリー・ポッターに加えてヴォルデモートから造られたハリエット。そして、生まれることもできず堕胎を命じられたというベラトリックス・レストレンジの娘。三人もの人間を作り上げておいて、ヴォルデモートはその全員を自分の作品としてしか見ていない。

 くつくつと喉の奥から鳴らすように笑うヴォルデモートは、そのワインレッドの瞳でハリーを見つめた。

 

「ドラコを魅力的だとは思わないか? いや、聞かなくてもわかる、想っているはずだ。肉体、魂、精神。そのすべての相性がいい異性を、人間という動物の本能として気にならないわけがない。おまえは、お前たちは、互いを異性として愛欲の目で見ているはずだ」

 

 ハリーは怒りのあまり、手に持っていたティーカップをヴォルデモートに向けて投げつけた。それは素早く杖を抜き放ったドロホフによって防がれ、帝王には紅茶の一滴も届かない。

 そんなことも気にならないくらいに、ハリーはキレていた。ハリーはドラコのことを特別視している。それは確かだ。だが、それは決して、恋愛感情などではないと思っている。目的に向けて力に飢えて向上心を持つ者同士、ハリーはドラコ・マルフォイのことを尊敬している。それを、くだらぬ性欲だの、見当はずれの恋だなどと言われて、我慢できるほどハリーは心の広い女ではない。

 続けて杖を抜き放とうとするも、しかし杖は奪われていたことを思い出して唾をぶつけようとする。しかしそれは、ヴォルデモートが軽く指を振ったことで口を閉じられ、吐き出すことさえかなわなかった。

 

「おや、おや、おや。その態度では、気があると言っているようなものだぞ」

「だまれ……!」

 

 テーブルに両手を叩きつけて立ち上がったハリーは、ヴォルデモートに向けて激昂する。死喰い人達がハリーの行動を注目している中、彼女は怒りを帝王にぶつけた。

 

「おまえが、おまえのような奴が語るな! 他者を踏みにじってきた、おまえのようなやつが! ぼくたちの気持ちを、勝手に決めつけるなよ! 愛情が何かも知らないくせに!」

「よう言った、ハリーや」

 

 吐き出しきったその直後、ハリーは聞き覚えのある声が背後からかけられたことに気づく。がばっと振り向けば、そこには銀色の髭と髪の毛をのばした、青いローブの老人の姿があった。

 その姿を見て、驚いたのは何もハリーだけではない。この場の全員が驚き、ある者は杖を向けて叫び、ある者はヴォルデモートの前に飛び出して盾になり、ある者は助かったことに歓喜の声をあげる。

 ヴォルデモートでさえ片眉を持ち上げて、半月メガネの奥できらきらと光るブルーの瞳を見つめている。ここに来たことが予想外だったとでも言いたそうな顔だ。その顔を見れただけでも、ハリーは少しだけ溜飲が下がる思いだった。

 

「ほう、ダンブルドア。御自らここへ来るとは思っていなかったぞ」

「トムや。わしは、わしの味方をする者を助ける。これは必ずじゃ」

「果たしてそうだろうか? 俺様には、とてもそうは思えないがね」

 

 表面上は穏やかに見える会話も、互いに袖の中の杖を握っていることから臨戦状態にあることがうかがえる。ハリーは彼がいったいどうやってここに来たかは分からないが、この時こそが大きなチャンスだと考えた。

 なぜならば、彼が来たという事は不死鳥の騎士団もまたこのすぐ直後には現れるということ。虚を突いて行動するには、一番のタイミングだ。

 ヴォルデモートの横で警戒しているドロホフへ素早く駆け寄ると、彼に向かって飛びかかる。まさかこのタイミングで来るとは思っていなかったのか、ドロホフは一瞬だけ動揺したものの、しかし自身の杖先をハリーに向けてくる。それは大いなる過ちであった。彼はもう少し、周囲に気を配るべきであったのだ。

 

「グルァアウ!」

「むっ!? ッぐぅ……!」

 

 獣の唸り声と共に、ドロホフの右腕が鋭い牙に咬みちぎられる。

 ――シリウスだ。『動物もどき』によって黒い犬となった彼が、背後からドロホフに飛びかかったのである。一切の容赦なく咬まれたことで、どちゃりと耳をふさぎたくなる音と共に男の右手が床に落ちた。

 それを合図に、ダンブルドアとヴォルデモートが同時にその姿を消す。何をしたのかは分からないが、戦場を移したことだけは察せられる。それよりも、ハリーにとってはこちらに集中しなければならなかった。

 痛みに呻くドロホフは、床でぴくりともしない自らの右手よりも、それが握ったままの己の杖に気を取られていた。左手をかざしてそれを無言呪文で引き寄せようとするものの、しかし魔力を運用し魔法を発動させるよりも、ハリーの方が速かった。その柔らかい身体を活かし、ドロホフの鼻に靴底を叩き込んだのだ。

 

「ぐ、ぶ……! 小娘ェッ!」

「私の娘に手を出すな、下種めガァアアウ!」

 

 よろけたドロホフに向かって更にシリウスが飛びかかるものの、彼は咄嗟に左腕を己の前に構えたことで、首に咬みつかれる事態を避けた。突然の戦闘開始に、ロドルファス・レストレンジが杖を向けてくるものの、彼は背後から飛んできた魔力反応光によって大きく宙を舞う。青い義眼をぎょろぎょろと動かしたまま、巨大な杖で強力な『失神呪文』を放ったのは、アラスター・ムーディその人であった。

 

「ぎゃはははは! 《不死鳥の騎士団》か!」

「……笑える!」

 

 ラバスタン・レストレンジとドロホフが歓喜の声をあげ、『身体強化』によって青白い尾を引いて神秘部の大広間に飛び込んでくる魔法使いたちへと飛びかかってゆく。彼らの獲物はそれぞれ、キングズリー・シャックルボルトとリーマス・ルーピンだ。

 『死の呪文』と『武装解除』の緑と赤の閃光を交わし始める彼らを尻目に、ハリーはシリウスに抵抗し続けているドロホフのポケットに手を突っ込む。そこには三本の杖がおさめられており、それを抜き取ったハリーは自分の杖でドロホフに『失神呪文』を叩き込もうとするも、腕に咬みついたシリウスを振り回すことでハリーの矮躯を大きく弾き飛ばした。

 床を転がされたハリーに向かってベラトリックスが『死の呪文』を放とうとするも、彼女の膝裏をニンファドーラ・トンクスが蹴り飛ばす。態勢を崩したベラトリックスは、怒りの叫びをあげながらトンクスへ杖を向けるも、それは彼方より飛来してきた魔力反応光を弾き飛ばすために振るわれた。おそらくこの大広間のどこかに潜むアンジェラ・ハワードが狙撃したのだろう。追撃しようとするトンクスに向けて、ベラトリックスが両手の平を突き出して裂帛の叫びをあげる。すると巨大な手の平で突き飛ばされたのように、トンクスの身体が転がされていった。

 ロドルファス・レストレンジの目が離れたため、ハリーはハーマイオニーとロンにそれぞれの杖を投げ渡す。増援に来たらしきほかの死喰い人達へ『失神呪文』や『武装解除』を叩き込む。ドロホフなどと比べると、あまりにもお粗末な犯罪者たちは避けることもできず魔力反応光を叩き込まれて倒れていくも、人数が多すぎる。疲れ切った三人には、少々面倒な相手であった。

 ハーマイオニーと背中合わせで戦っていたロンが、ふと二人の死喰い人を同時に蹴り飛ばして意識を刈り取っていたハリーを見て、そして叫んだ。

 

「ハリーッ! 上だ!」

 

 その声に反応して、ハリーは咄嗟に前へと身を投げ出す。果たしてその反応は正解であった。つい一瞬前までハリーのいたその位置へ降ってきた死喰い人の拳が、深々と突き刺さっていたのだ。

 杖を振るって自身に『身体強化』をかけ、相手を注視する。果たして、それは見覚えのある顔をした人物であった。

 

「ハリー・ポッター……ッ! 兄の仇だ!」

「ハロルド・ブレオか」

 

 かつてハリーが殺害したバルドヴィーノ・ブレオの弟。人狼を模した面をすでに被っており、その左腕は人狼のそれに変化している。コンクリートの床から抜き去った腕を振るってかけらを落としながら、彼は仮面の奥から殺意にあふれた視線を送ってくる。

 

「『ランケア』、突き刺せ!」

「『アバダマグヌス』、死の剣!」

 

 ハリーの杖から赤い魔力反応光が伸びて槍が形成され、ハロルドの右手に握った杖から棒状に形成された魔力反応光が伸びる。

 ハーマイオニーとロンの心配する視線を背負いながら、ハリーは飛びかかってくるハロルドの『死の剣』を『魔槍』で受け流した。実体を持つ武器では受けきれないだろうが、同じ魔力反応光で構成された得物ならば話は別だ。彼女はしっかりと腰を落とし、連続で突きを繰り出す。ハロルドもまた死の呪文が含まれていないハリーの穂先をギリギリで避け、ローブを裂かれながらも反撃を繰り返す。

 槍の本質は刺突であり、そのリーチの長さによってマグル界では銃が発明されるまで数多の戦場を支配してきた。魔法界でもそれは変わらない。かつて英国と米国の独立戦争の際に、英国魔法界もまた二分されている。その際の戦場において、白兵戦で最も使われたのは『フリペンド』等の射撃呪文ではなく『ランケア』等の刺突呪文だった。『武装解除』で杖を吹き飛ばせば勝てる現代の決闘とは違い、当時の米国魔法使いは拳銃も所持していたために、殺害しなければ戦闘は終わらなかった。その最も手っ取り早い手段は、『失神』させるか『槍』で心臓を貫くかである。ハリーは苦手な魔法史から学んだその知識を戦闘に活かし、今この場で『魔槍』を選択したのだ。

 果たしてその判断は正解であった。『死の剣』という魔法は、ハリーの予想とたがわず『アバダケダブラ』を棒状に固めた物であり、先ほどのフェンリール・グレイバックが使用した『死の爪』と似たような効果を持っていることは疑いようもない。つまり、掠っただけでも死は免れない。

 

「死ねッ、死ね……! よくも兄を! 兄さんをォ! 死ねェエエエエ!」

「ぼくには帰る場所がある。だから死ぬつもりはない」

「いけしゃあしゃあと!」

 

 兄の仇として正当なる復讐を遂げようとするハロルド・ブレオは、目の前の憎き女に斬りかかる。彼の兄を殺害した身としては、彼の復讐心に理解は示せる。だがそれを受け入れるかは別だ。ハリーは生き残るために、心身を削られながらもバルドヴィーノ・ブレオを返り討ちにして殺した。

 そこに後悔も罪悪感もあれど、間違っていると思っていながらも、ハリーは己のしたことを認めている。自分は人面獣心の怪物であり、人殺しだ。ハロルドが殺しにくるのもわかる。だが、死にたくない。だから殺しに来る者は、すべからく返り討ちにするし、必要ならばさらに手を汚す。

 殺意でも憎しみでもない覚悟を秘めて濁り切った彼女のワインレッドの瞳は、怒りと憎悪に染まる意思を秘めて濁り切った彼のエメラルドグリーンの瞳と、視線を交差させた。

 そうして必殺の意志を込めて突き出された『死の剣』はしかし、ハリーの『魔槍』が回転を始めたことで逸らされる。それどころか、二度目三度目の回転によってさらに大きく弾き飛ばされる。

 槍の本質は刺突ではあるが、武器としての運用法には振り回すという手法がある。槍は長柄武器であり、それを振り回した際の遠心力で生み出されるパワーは剣の比ではない。完全に右腕を天に向けられたハロルド・ブレオはしかし、残る人狼の左腕でハリーの肉を裂こうと試みる。

 しかし遠心力を加えた突きを繰り出してきたハリーによって、左腕は手の平から手の甲まで貫通され、親指だけを残して千切り飛ばされる。そして槍のリーチは、彼から左手を奪うだけには留まらない。前腕部から飛び出した穂先は、さらに上腕部を貫通して半身になっていたハロルドの左わき腹を突き刺した。

 どうやら肘をまげて槍の盾として、なんとか心臓にまでは届かなかないようにしたようだ。かなりの出血ではあるが、仕留めきれてはいないだろう。

 

「終わりだッ、『フリペンド・ランケア』!」

「あッ! がァ……、ッ!?」

 

 ハリーの呪文と共に、ハロルドを突き刺した『魔槍』は彼ごとその穂先を射出された。大きく吹き飛ばされたハロルドの身体は、神秘部の壁に叩きつけられて赤い液体をまき散らす。

 しばらくの間うめいてもがいていた彼は、しかし増援に来た死喰い人の一人に抱えられて大広間から出てゆく。撤退することも視野に入れて雑魚どもを呼び寄せたのなら、死喰い人達は思いのほか冷静なのかもしれない。

 しかしそのような分析をしている暇はない。ハリーは悪寒を感じ谿コ縺吶↑繧医?繝ゥ繝医Μ繝?け繧ケしかしそのような分析をしている暇はない。ハリーは悪寒を感じて咄嗟に上体をそらすと、極彩色の魔力反応光が彼女の胸の上を通過してゆく。それはハリーに襲い掛かろうとしていた哀れな死喰い人に直撃し、その者の全身を切り刻んでその場でバラバラにしてしまった。

 

「くッぅ……!」

「あハ、ぎゃっはッ! ポッ、ティー、ちゃぁぁああん!」

 

 ベラトリックス・レストレンジだ。

 いつの間にシリウスの手から逃れたのか、黒髪を振り乱して杖を振るう彼女は次々と色とりどりの魔力反応光を放ってくる。今まで戦っていたハロルド・ブレオが近接型の魔法使いならば、彼女は典型的な後衛型魔法使いだ。『身体強化』や『魔槍』などの武器で戦うのではなく、魔法使いの代表たる魔法を撃ちこんで戦うタイプ。

 ハリーは不安定な姿勢ながらも無言呪文で『武装解除』を彼女に放つ。しかしそれはベラトリックスが一瞬だけ展開した『盾の呪文』によって弾かれ、返す杖で新たな呪文が飛んでくる。ハリーも同じく瞬間のみ『盾』で防ぐと、二人の女は互いに呪文の応酬を繰り返した。

 

「やめろベラトリックス! きさまの相手は私だ!」

「おおおおおおぅううう! シィーリウゥース! 我が愛しの従兄弟よォ、殺してやる!」

「それは私の台詞だ! 『ステューピファイ』!」

「『アバダケダブラ』ァ!」

 

 互いに呪文を撃ち合っている最中、ハリーとベラトリックスの間にシリウスが割り込んでくる。その額から血を流しているものの、ドロホフとの戦闘を切り抜けた彼は、急いでハリーのもとへ駆けつけてくれたのだ。

 その気持ちが嬉しくて、ハリーは腹の底から勇気が沸き出てくる思いだった。シリウスと二人並び立ち、ベラトリックスと対峙して魔力反応光を撃ち続ける。その図は奇しくも、かつての魔法戦争時代に彼女の父であるジェームズ・ポッターとシリウスが頻繁にとっていた戦闘スタイルと同じものであった。

 

「そこだッ、ハリエット!」

「ああ、シリウス! 『ステューピファイ』ッ!」

「ぐ……ッ、おのれ小娘! おのれシリウス!」

「はっはァー! いいぞハリエット! さすがはジェームズの娘だ!」

 

 シリウスとの連携によっていくつかベラトリックスの脚などに『失神呪文』が当たるものの、彼女は殴られたように大きく姿勢を崩す程度で失神する様子が見受けられない。何らかの防護魔法を用いているのか、マジックアイテムを装備しているのかもしれない。彼女を失神させるにはおそらく、非常によく練りこんだ魔力を込めた強力な『失神呪文』を撃ち込まなければならず、ベラトリックスほどの実力者が悠長に魔力を練る暇を与えてくれるはずがない。彼女はそのねじ曲がった心に似合わぬ実力者である。現に二人がかりでも仕留めきれないのだ。つまるところ、この勝負はベラトリックスの杖を奪ってから『失神』させるのが先か、彼女がこちらに『死の呪文』を当てるのが先か、といったことになる。

 三人とも余裕がなくなるにつれて無言呪文で撃ち合いはじめ、その射出スピードは三者とも大して変わらない。ハリーが幾分か遅れているものの、それはシリウスと二人がかりで相手をしているゆえに生じる隙は彼が補ってくれている。その結果、ベラトリックス・レストレンジとは互角以上の戦いを演じることができていた。

 

「おのれおのれおのれッ! ブラック家の裏切り者めがァ!」

「裏切り? ちがうね、私は一度としてあの家を味方だと思ったことはない!」

「恥晒し! 血を裏切る者め! お前を殺せると思うと、わたしゃ嬉しいよォ!」

「奇遇だな、私もだ! お前のような奴は生かしておく価値などない!」

 

 ベラトリックスが押されるにつれて、彼女は攻撃に蛻・縺ョ蝣エ謇?縺ァ譎る俣縺梧綾縺」縺ベラトリックスが押されるにつれて、彼女は攻撃に罵詈雑言も加えてきた。

 その内容は彼らの確執がありありと溢れ出ており、ハリーとしては聞くに堪えないものである。だが今は戦闘に集中するべきであり、それに関して彼女が言及することはなかった。

 ハリーとシリウスの撃つ『武装解除』や『失神呪文』を何とか『盾』で防ぎ続けるベラトリックスは、次第に先ほどまでハリーとヴォルデモートがお茶をしていたティーテーブルのあった中央まで追い詰められる。

 杖を持っていない左手を振るってティーセットをテレキネシスのようにハリーに向かって吹き飛ばすも、それはハリーの展開した『突風』魔法によって明後日の方向へ逸らされる。目くらましを狙ったその攻撃も、ハリーの援護を得たシリウスにとっては大きな隙であった。

 

「『エクスペリアームス』ッ!」

「『アレストモメン――、うがッ!?」

 

 シリウスがフェンシングのように杖を突きだして魔力反応光を射出すると、それはベラトリックスの腹に命中した。腹に向かって呪文が飛んできたことで、彼女はひどく慌ててそれを防ごうとするも、咄嗟に身体を丸めるという原始的な防御手段を取ってしまったため失敗する。彼女は『停滞呪文』を放つ最中であったが失敗(ファンブル)し、ベラトリックスの手から杖がばちんと鞭のような音と共に弾かれる。

 杖を奪った以上、彼女の戦闘力は大幅に削がれた。それでも彼女は杖なしで魔法を扱う事のできる実力者だ。油断せず続けて杖を振るったシリウスが強く魔力を込めた『失神呪文』を放つ。それは身体を丸めたままのベラトリックスの肩に直撃し、彼女の身体を大きく吹き飛ばして、ティーテーブルに叩きつける。その衝撃で真っ二つに割れたティーテーブルが四散し、スコーンやジャムの瓶といった品物が飛び散る。『停滞呪文』が不発になった影響か、彼女の周囲ではモノがゆっくりと飛び散り、ゆるやかに落ちてゆく。彼女自身の身体も、スローモーションのようにのんびりと床へ倒れこんだ。

 彼女にはシリウスが全力を込めた強力な『失神呪文』が命中している。それでも狡猾なこの魔女のことだ、やられた振りをしているかもしれないと恐れて顔を覗き込むと、白目をむいて口の端から涎を垂らし、確実に『失神』している姿をハリーとシリウスは確認した。

 死喰い人随一の実力者であるベラトリックスの敗北。これには周囲で戦っている死喰い人たちに焦燥と絶望を与え、騎士団側の者たちに希望と勇気を与えた。それはハリーも同じくであり、シリウスを顔を見合わせて互いの健闘を褒めたたえた。

 だからだろうか。

 ハリーはこの一瞬、あまりにも小さく、そして大きすぎる敵を見逃していた。

 

「ハァイ、パッドフットォ」

 

 飛び散るジャムや、ティーカップに混じって、声がする。

 それに反応したのは、ハリーが先だった。咄嗟に杖を振るって、宙を舞うティーカップの一つを叩き割る。しかし、ハリーが本当に叩き割りたかったのは、カップなどではない。

 

「ワーム、テ――」

 

 驚いた顔のシリウスが、目の前に迫る者の名を呼びかける。

 割れたティーカップの中から飛び出してきたのは、ネズミだ。親指の欠けたネズミが、一瞬でその姿を小太りの男の姿に変じる。それはシリウスの目の前にあった小動物が、いきなり人間サイズに膨らんだことを意味していた。

 小さなネズミのスキャバーズが、死喰い人のピーター・ペティグリュー(ワームテール)に変身する。ベラトリックスのポケットの中か、もしくはヴォルデモートの用意したティーセットの中で、ずっと機会をうかがっていたのだろう。シリウスがこちらへ来るその瞬間を。この混乱した戦場の中で、かつての悪戯仕掛け人にして、自身をどこか下に見ていた男への殺意を遂げるために。

 完全に虚をつかれたシリウスに、彼の攻撃を避ける術はなく、呆然と受け入れてしまう。

 ペティグリューの銀色の拳が、シリウスの鼻を殴り飛ばす。強く力の込められた一撃。

 彼の鼻が折れ、そして衝撃によってシリウスの身体が宙に浮いた。

 それは、シリウスが突き飛ばされる結果を生み出す。

 彼が倒れこんでゆく先は、石造りのアーチ。

 先ほど人狼が死んだ謎の建造物だ。

 

「――、シ」

 

 ハリーは声を出せなかった。咄嗟に『身体強化』によって思考力を高速化させる。本来ならばそのような使い方は出来ないはずであり、脳がショートしそうなほどに痛む。頭蓋骨が弾けそうな頭痛を無視して、彼女は必死に考えを巡らせる。

 シリウスはベラトリックスが残した『停滞呪文』の影響で、空気中を倒れこむ速度は通常よりも遅い。これならば手を伸ばして、届くはずだ。

 

「リウ、」

 

 ハリーは手を伸ばす。『身体強化』の魔力を腕にも行きわたらせる。これで届く。この距離、この速度ならば。あのアーチをくぐらせてはいけない。あれはダメだ。あれだけは触れてはいけない代物だ。

 小柄な少女の手が伸び、吹き飛んでいる最中のシリウスの足を掴む。

 靴が、脱げた。

 

「……、ぁ……」

 

 ハリーの手の中に、彼の革靴が残る。

 もう一度手を伸ばそうにも、ハリーの左半身が急に動かなくなった。ワームテールがしがみついているのだ。邪魔をするなと金切り声で叫ぶも、シリウスの足がヴェールに触れる。シリウスの膝がアーチをくぐり抜ける。シリウスの腰が向こう側へ消え繝?繝ウ繝悶Ν繝峨い縺ッ謇句シキ縺??よ凾髢薙r謌サ縺玲?蜍「繧堤ォ九※逶エ縺吶?

 

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 驚きながらも状況を確認したシリウスだが、杖を振るおうとするも間に合わない。

 ペティグリューの銀色の拳が、シリウスの鼻を殴り飛ばす。強く力の込められた一撃。

 彼の鼻が折れ、そして衝撃によってシリウスの身体が宙に浮いた。

 それは、シリウスが突き飛ばされる結果を生み出す。

 彼が倒れこんでゆく先は、石造りのアーチ。

 先ほど人狼が死んだ謎の建造物だ。

 

「――、シ」

 

 ハリーは声を出せなかった。咄嗟に『身体強化』によって思考力を高速化させる。本来ならばそのような使い方は出来ないはずだが、まるで以前に練習したかのように成功した。クリアでスマートになった思考の中で、彼女は必死に考えを巡らせる。

 シリウスはベラトリックスが残した『停滞呪文』の影響で、空気中を倒れこむ速度は通常よりも遅い。これならば手を伸ばして、届くはずだ。

 

「リウ、」

 

 いや待てそれではダメだ。何故だ? 直感としか言いようがない。いまハリーが考えた手段では、何かの失敗によって彼が向こう側へと行ってしまう。逝ってしまう。それはダメだ、それだけはダメだ。万が一にでも彼を失うわけにはいかない。

 ハリーは『身体強化』に回していた魔力をすべて手の平に集中させる。欲しいのはシリウスだ。愛する家族。彼を失うわけにはいかない。彼は絶対に手に入れる。ハリーの左半身が急に動かなくなった。ワームテールがしがみついているのだ。邪魔をするなと叫ぶ暇さえ惜しい。シリウスの目が見開かれる。ハリーが手の平を握りしめた。シリウスの靴がヴェールに触れる。彼のすべてを掴まえた。シリウスの脚が、

 ――このハリエット・ポッターに、不可能は、ない。

 

「ス、ゥウウウあああああああああああ――ッ!」

 

 ハリーは全力で叫び、その手の平を強く握りながら自身に引き寄せた。ワームテールが自分の左腕を引っ張る勢いさえ利用して、全力で魔力を巡らせる。

 シリウスの全身に、ハリーの魔力が作用した。それは彼の身体を掴み、半ばまで脚がヴェールに触れていた彼の肉体を全力で引き寄せることに成功した。成功したのだ。ワームテールごと倒れこんだハリーは、ベラトリックスが横たわるその隣にシリウスもまた倒れこんだ姿を目にする。

 ワームテールが邪魔だ。頭突きをして彼の腕を離させると、ベラトリックスがティーセットへやっていたように両手の平を彼に突き出して、余計な脂肪のついた彼の身体を大きく吹き飛ばす。壁際へ転がっていく彼を無視して、自由を得たハリーは、転げ落ちるようにしてシリウスのもとへと駆け寄った。

 

「ッ、ぁ……シリウスッ! シリウスぅうッ!」

 

 彼の肩を掴み、強く揺さぶる。

 死んでいない。死んではいないはずだ。ヴェールはくぐっていない。意識を失っているようだが、大丈夫だ、彼は生きている。絶対に死んでなどいない。間違いなく大丈夫なはずだ。

 ハリーが叫ぶ声を聴いたのか、騎士団員が複数駆け寄ってくる。それと戦っていた死喰い人たちも寄ってくるが、ハワードの狙撃によってその動きは制限され、ハリーとシリウスを守るようにキングズリーとムーディが立ち回っている。

 急にシリウスへと手が伸びてきたのを、ハリーは跳ねのける。しかしそれは、青ざめた顔をしたルーピンであった。ハリーに向かって彼は絶叫にも近しい大声で語りかける。

 

「シリウスは倒れた! 彼の想いを無駄にするなッ、君はこの場から逃げろ! 早くッ!」

「でも、先生ッ! リーマスッ! でも、シリウスはアーチをくぐっていないッ!」

「……ッ、いや、しかし……!? ダメだ、ハリエットッ!」

 

 混乱の中、ハリーとルーピンが言い争う。共に家族とも言えるほど親しい男を失ったかもしれないのだ、その心中はかき乱されて当然である。

 だがここは戦場であり、その行動は決してしてはならないものであった。ルーピンは彼女の名を叫ぶと同時に、その身体を突き飛ばす。驚いたハリーは、ルーピンの頭が見えない脚で蹴り上げられたように後方へ倒れこみ、もんどりうって転がっていく様を目にする。

 まさかキングズリーとムーディの包囲網を抜けてきたのかと思いきや、ハリーはシリウスの隣で横たわっていたはずのベラトリックスが目を覚ましている様を目にした。咄嗟の行動で左手の平を突き出し、ベラトリックスを吹き飛ばそうとする。しかしその判断は彼女も同じだったようで、ハリーとベラトリックスは互いの手の平を向け合い、互いの魔力が二人の間で暴風のように渦を巻く。それがいったいどういう風に作用したのか、彼女たちは同時に床から弾き飛ばされ、空中へと吹き飛ばされた。

 

「ぎゃはッ! あぁ――っははははははは!」

「ベェラトリックスゥゥ――ッ!」

 

 空中で体を泳がせながら、甲高い声で笑い転げるベラトリックスに、ハリーは怒りを込めて彼女の名を呼ぶ。ベラトリックスは杖を武装解除されておりシリウスのポケットに納められている。ハリーもまたルーピンに突き飛ばされた際に、手の中から杖がすっぽ抜けている。丸腰のハリーとベラトリックスは、まったく同時に床に向かって右手を伸ばして魔法を発動する。

 両者の手の平に向かって床で転がっていたハリーの杖とシリウスのポケットに刺さっていたベラトリックスの杖が飛び込み、またも同時にキャッチすると、互いに向けて『失神呪文』を放つ。それは空中でぶつかり合い、二人の身体を再び巻き上げて天井近くの壁まで叩きつけた。ハリーは尻から壁に激突、それと同時にベラトリックスもまた背中から壁にぶつかる。そして同時に、互いを攻撃するために叫んだ。

 

「『アニムス』ッ、我に力をォ!」

「『モース・ウォラトゥス』、死の飛翔ォッ!」

 

 ハリーの全身が青白い光に包まれ肉体を強化し、ベラトリックスの全身を闇の光が包み込み肉体を強化する。それぞれ壁を蹴った彼女たちは、空中で拳と靴をぶつけ合った。

 墨のような尾を引いて自在に空中を飛翔するベラトリックスを、壁を蹴って跳びながらハリーは追いかける。互いに『武装解除』と『死の呪文』を撃ち合い、激情のまま叫び合う。

 

「死ぃーんだ死んだ、シーリウース・ブラァーック! ぎゃははははは!」

「死んでいないッ! シリウスは死んでなんかいないッ!」

 

 援護として天井近くの隙間に隠れていたハワードから『武装解除』が飛んでくるも、空中を飛行するベラトリックスはそれを軽々と避けた。それどころか魔力反応光の光からハワードの隠れ場所を看破し、そこへ『爆破呪文』を撃ち込む。

 ハワードはそれを避け切ることができない。『盾の呪文』で直撃は防いだものの、隠れ場所ごと爆発させられた。悲鳴をあげて瓦礫の中を大広間に向かって落下する彼女を、ハリーは気遣うことが出来ない。

 それよりもハワードが作った隙を利用するべきだ。天井を駆けてベラトリックスへ素早く駆け寄ったハリーは、彼女の背中を蹴り飛ばす。胃液と血を吐き出しながらも背中から壁に激突することに成功した彼女は、ハリーに向かって杖先を向けて叫んだ。

 

「やるじゃァないのォ、ポッティーちゃぁん!? 『コンフリンゴ・ドゥオデキム』!」

「うるさいッ! 『プロテゴ・ウェルテクス』、受け流せ!」

 

 流動型に動く『盾』を出現させたハリーは、ベラトリックスの放つ『連爆』呪文を受け流してゆく。魔力消費の多いこの魔法を選んだ理由としては、まともな『盾』で受けては、すべての爆発を受けきる前にハリーの杖が手の中から弾き飛ばされるからだ。一ダースほどの連続した爆発を受け流しきったハリーは、しかしベラトリックスが両腕を振りかぶって発動した『掌握』魔法には対応しきれなかった。

 見えない巨大な手の平で握られた感覚を覚えたハリーは、『身体昇華(トリスメギストス)』呪文によってより強大なパワーを得て逃れようとするも、発動することができなかった。ここまで戦い続けたゆえに、体にガタが来始めたのである。咄嗟に『身体強化』に費やしていた魔力をすべて肉体の頑丈さを強化する方向に回した。いま必要なのは速く走るスピードや強く殴るパワーではなく、これから来たる衝撃に耐えきる防御力だからだ。

 

「あっはァ――ッ! 吹っ飛んじまいなァ!」

「がッ、ぐうぉああああああッ!」

 

 ベラトリックスが大きく両腕を振り上げれば、ハリーの身体は天井に向けて高速で投げ出される。そのパワーと速度はハリーの予想以上であり、『身体強化』を防御に回していようがそのままであれば天井のシミとなってハリーはその命を散らすところであったが、ハリーの反応速度はベラトリックスの予想を上回ることができた。

 きりもみ回転しながらもなんとか杖を振り回したハリーは、かつての記憶を思い起こしながら叫ぶ。

 

「『アペィリオ』、抉じ開けろォ!」

 

 かつてトム・リドルがハリーに用いた魔法を、ハリー自身が使う。本来であれば扉やまぶたといった閉じているものを無理やり開く呪文であるが、ハリーはそれを天井に向けて使った。

 魔力反応光がうまく作用し、ハリーがぶつかる直前に天井は無理やりその口を開いてハリーを迎え入れた。それでもハリーの身体には様々な瓦礫や破片がぶつかり続け、着実にダメージを与える。ベラトリックスが放った魔法の勢いは止まらない。そのままガラスの天井へとハリーの身体を叩きつけ、胃の中の何かがごぽりと唇から漏れ出てしまった。

 階下より騎士団の誰かがハリーの名を叫ぶ声が聞こえたが、それにこたえる余裕はない。

 

「『クルーシオ』ォ!」

「く……ッ!」

 

 天井を蹴ってその場から逃げたハリーは、つい一瞬前まで張り付いていた天井へ『磔の呪文』が突き刺さる様を見た。闇の尾を引いて飛んできたベラトリックスが追撃したのだ。

 

「ポッター、ポッチリ、ポッティーちゃぁん。んぅーふふふふふ!」

 

 ハリーは着地しながら、上機嫌に笑うベラトリックスを見る。積年の憎しみを晴らすことのできたベラトリックスは、シリウスの死を喜んでいる。一方でハリーはシリウスの死を認めていない。助かったことを確信しているのだ。

 ふと屋内であるはずなのに風が吹いていることに気付いたハリーは、ベラトリックスからは決して意識をそらさずに視界の端で周囲の状況を確認する。大きなアトリウムだ。神秘部が地下九階であったからには、ここは地下八階。何の施設があるのかは知らないが、ハリーの隣には黄金製らしき銅像が立っていることが見受けられる。

 

「ほほう、ここまでやってきたか。ハリエット」

 

 耳の奥まで届く蠱惑的な声が聞こえた瞬間、ハリーの身体は見えない手で引き寄せられるかのようにその場を移動させられた。

 この声はヴォルデモート。まさか奴の手によってと考えたまではよかったが、床を滑って壁に背をつけたハリーが目にしたのは、自分の前に立ちはだかるダンブルドア。仁王立ちになり、彼の向こうに見えるヴォルデモートと対峙していた。

 ベラトリックスが主人のもとへ馳せ参じる姿から眼をそらさずに、ハリーはダンブルドアに声をかける。

 

「先生、状況は……」

「ちーっともよろしくないのう。じゃが無事でよかったよ、ハリーや」

 

 ダンブルドアの余裕を持った声に、ハリーの心に安堵が広がる。

 しかしダンブルドアはその柔らかな口調に反して、ヴォルデモートから視線をそらさない。それを見てようやく、ハリーはダンブルドアから感じる魔力がずいぶんと目減りしていることに気づいた。ヴォルデモートもまた、整えられていた黒髪をまばらにして肩で息をしている。両者ともに怪我はないようだが、かなりの消耗が見て取れた。

 ご主人様の様子にベラトリックスが加勢を申し出るものの、余計なことをするなと叱責され小さくなって控える。ダンブルドアに加勢を申し出ようとしたハリーもまた、彼の視線で制止されて杖を握るだけにとどまる。

 緊張が高まり、ハリーは自分が背中に妙な汗をかいていることに気づいた。

 それと同時に、ダンブルドアとヴォルデモートがハリーの名を呼ぶ。

 

「ハリーや」

「ハリエット」

 

 ヴォルデモートが優雅に杖を自身の顔の前で構え、ダンブルドアもまたそれに倣って決闘の礼を取る。両者とも同時にお辞儀をすると、ひゅんと風を切って杖を振り下ろし、それぞれが構えを取る。ヴォルデモートは優雅な貴族のように、ダンブルドアは鋭い戦士のように。それは奇しくも、必要の部屋でハリーとドラコが取った決闘の構えと酷似していた。

 両者の杖先から魔力反応光が出るその直前、異口同音にささやいた。

 

「よく見ておきなさい」

「よく見ておくのだ」

 

 ヴォルデモートの杖先から射出された緑の閃光が、数えるのもバカらしいほどに空中で分裂する。視界全てが緑に染まるほどの『死の閃光』に、ハリーはその思考が停止させられた。その一筋一筋が自在に操られ、ダンブルドアを全方位から狙う。それに対するダンブルドアは、ゆるりと杖を振る。ダンブルドアを中心に発生した薄いドーム状の魔力反応光は、呆気なく『死の呪文』に貫通される。しかしハリー達のもとへ届くのは魔力反応光ではなく、あたたかなそよ風であった。散見される魔力式から想像するに、『死の呪文』を無害な微風に変換したのだろう。

 ドームは際限なく膨らみ続け、ヴォルデモートの直前まで到達する。しかし帝王が杖を振るうと、彼の前方にあるドームが切り裂かれてヴォルデモートの身体には届かなかった。

 ヴォルデモートが防御のために振った杖は攻撃の動作に繋がっており、オーケストラを指揮するかのように優雅に振られた杖先から、二〇メートルはくだらない巨蛇が飛び出す。それは高速でダンブルドアをばくんと飲み込み、自らの全身を業火に包み込んだ。ベラトリックスが歓喜の声を挙げ、ハリーが不安を覚えるも、その蛇は一瞬で風船のように膨らんで色とりどりの紙吹雪と共に破裂した。

 

「『レガトゥス・ラエトゥス・ファクシミレ』、わしらを守っておくれ」

 

 ダンブルドアが発動した複雑怪奇極まる魔法式によって、ハリーは自分の横にいた黄金の像がうごめくさまを目にした。《魔法界の同胞の泉》と題された黄金の彫刻は、魔法使いと魔女と屋敷しもべ妖精、ケンタウルスに小鬼をモデルにしている。ケンタウルスがその手に持つ弓を引き絞り、幾本もの矢を同時に放つ。ヴォルデモートはその矢すべてを片手でつかみ取り、どろどろに溶かして床へ捨てた。彼が一連の動作を終えた直後、小鬼と屋敷しもべの像が小さなその身体で弾かれたように殴りかかる。それを杖を振って粉々に吹き飛ばしたヴォルデモートは、アクロバティックに蹴りを放ってきた魔女の像の脚の上に飛び乗って彼女の頭部を掴むと、宙返りをするようにダンブルドアに向かって投げ飛ばした。ダンブルドアの前に躍り出た魔法使いの像が魔女の像を受け止めると、魔女の像はハリーのそばにやってきて護衛のためにたたずむ。

 魔法使いの像を従えながら、ダンブルドアは杖を振った。ヴォルデモートもまた、それに続く。魔法の発動はヴォルデモートの方が速かった。ハリーはアトリウムのみならず、世界中が一気に縮んでいく感覚を覚える。薄皮一枚だけはがれた世界すべてがダンブルドアに向かって迫り、ハリーは押し殺した悲鳴をあげた。生クリームの絞り袋が潰れる様を内側から見れば、きっとこうなるのだろうという光景が、ダンブルドアごと世界を捻り潰す。これはダメだ、ダンブルドアが負ける。そう感じたハリーはしかし、己の常識がいかにもろいものかを思い知る。

 ぱん、と軽く拍手するような音が聞こえたかと思えば、ダンブルドアを中心にして大爆発が起きたかのように世界が膨らんだ。それは黄金の魔法使い像に守られていなければハリーごと吹き飛ばしたであろう衝撃であり、ベラトリックスが悲鳴をあげて転がり、腹を抑えて体を丸めたままアトリウム端の暖炉に叩きつけられる。ヴォルデモートの身体もまた、己の部下と同様に床を転がされた。しかし転がる勢いを利用して起き上がったヴォルデモートは、杖を掲げて両腕を頭上で組み、裂帛の叫びをあげる。その顔に笑みはなく、ワインレッドの瞳を見開いてダンブルドアただ一人を見据えていた。

 

「『フォルトゥス・フォルトゥーナ・アドウァート』ッ! 彼奴めを殺せッ」

 

 ヴォルデモートの声によってアトリウム中の空気が振動し、甲高い音を響かせる。慌てて自身の両耳をふさいだハリーが見たのは、アトリウムに存在するほとんどの物体が粉々に壊れる光景であった。天井を構成するガラス、煙突飛行用に設置された数々の暖炉、照明器具、職員の残した筆記用具や棚に納められていた本などが全てバラバラの欠片に粉砕されて捻じ曲げられ、鋭い螺旋を描いた短槍となって全てがダンブルドアに襲いかかった。

 魔法大臣ファッジを描いたタペストリーは槍に変えられず無事だったのだが、その短槍の穂先によって見るも無残なぼろきれに変えられてしまう。ハリーごと狙った槍の投擲は、明らかにダンブルドアに彼女を守らせる意図で行われたものであった。足手まといになることを嫌ったハリーが『盾の呪文』を自身の前へ幾層にも張り巡らすも、それは徒労に終わる。ダンブルドアのローブから飛び出した不死鳥フォークスが躍り出て、その身を業火と化して膨らんで弾ける。紅蓮の炎はダンブルドアやハリーは燃やさずに、彼らへ迫る凶器のみをすべて真っ白な灰へと変えた。

 両の手を打って堅牢な『盾』を張ったヴォルデモートに、業火は届かない。しかしダンブルドアはフォークスに守られている間、すでに次の手を打っていた。《魔法界の同胞の泉》が破壊されてあふれ出していた水が全て形を以ってヴォルデモートへ襲いかかり、卵のように形を整えるとミキサーにでもかけたかのような凶悪な回転を加え始める。『盾』を張っていたヴォルデモートはその流れに揉まれ、水球の中に閉じ込められている。

 

「『ウイタエ・アエテルナエ』。永久に眠れ、トムや」

 

 ダンブルドアが続けて複雑に杖を振ると、黄金の鎖が水球の周囲を包囲し始めた。それに対してヴォルデモートが水球の中でぐちゃぐちゃにされながらも杖を振るが、黄金の鎖は水球の中にも侵入してヴォルデモートの全身を打ち据える。その鎖は水の中で融け、混ざり合い、空間ごと固めるかのような美しい黄金の球体を造り上げた。ハリーが魔眼で視たところ、これは術者以外の魔力を通さぬ封印魔法であるらしい。つまりこれは、ダンブルドアの勝利を意味して縺薙s縺ェ豎コ逹?縺ッ縺、縺セ繧峨↑縺??よ凾繧呈綾縺昴≧縲

 

「繧ヲ繧、繧ソ繧ィ繝サ繧「繧ィ繝?Ν繝翫お縲よーク荵?↓逵?繧後?√ヨ繝?繧」

 

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 両の手を打って堅牢な『盾』を張ったヴォルデモートに、業火は届かない。ダンブルドアはその様子を見て、杖を下ろした。唐突に戦闘をやめたダンブルドアの姿を見て、ハリーは疑問に思う。いま、何が起こった? 何かがおかしい。

 即座に復活したフォークスがダンブルドアの肩に留まり、《魔法界の同胞の泉》が破壊されてあふれ出していた水が床を水浸しにしている。『盾』を消し去ったヴォルデモートが玉のような汗を流しながらも笑みを浮かべ、ダンブルドアを見据える。それに対して外傷も疲れも見られないはずのダンブルドアは、打ちひしがれたかのような表情を浮かべていた。

 

「トム……。おぬし、まさか……」

「はっはァー……、さすがに何度も使いすぎたかな。答えは是、その通りよダンブルドア。俺様はもう何にも縛られぬ。時計の針は俺様が支配しているのだ」

「それは人の身に余る所業だと気づいておるのか、トムや」

「人々が俺様に祈る日も遠くはなかろうな」

 

 ハリーはその会話を聞いて、信じられない思いであった。

 時計の針を支配する? それが意味することは、ただひとつ。魔法とは高度なものになればなるほど、数ある本などの資料にその学び方が載らなくなる。未熟な魔法使いが高度で危険な魔法をうかつに使わないようにするためである。この間もなく二〇世紀も終わろうという時代に、口伝などによる秘術がいまだ多いのもその理由だ。よって資料に残されるのは、あまりにも遠回しな比喩表現であったり、暗号であったりする。

 そのような中で、『時計の針を支配する』という比喩表現はあまりにも簡単な部類に入る。それは別に未熟者に知られたところでどうにもできないという事を意味する。伝説や幻の域に入る魔法であり、現代魔法族がそれを実現するには世界中の魔法族の魔力をかき集めたところで全く足りぬからだ。

 時間操作。

 神の御業の部類に属する大魔法中の大魔法。ハリーはいま感じた違和感を、この魔法省に来てから何度か味わっていたことを自覚する。つまり何度か時間を操られている? ヴォルデモートが時間を操れば、それは必然的にハリーの時間も操られることを意味する。ハリーは戦慄した。時間というものは常に過去から未来へ流れる不変の代物であり、それをせき止めることや流れを戻すことは不可能なものなのだ。不可能であるハズだったのだ。

 

「じゃが、トムや。どうやら長い時間を巻き戻すこともできず、止めることもできないようじゃのう。もしそれができるのならば、わしはすで地獄へ落されておるはずじゃ」

「クク……お前は教師だろう? 疑問を投げかけるのは、お前の仕事ではない」

 

 気分よくお喋りするヴォルデモートも、さすがに詳細までは教えてくれない。

 ダンブルドアのよく知るヴォルデモートは、死を恐れ、外道を為し、それでいて子供のように命をもてあそぶ男である。目の前のヴォルデモートは、かつて魔法戦争時代に跋扈した蛇のように醜い顔ではなく、かつての美貌を取り戻しており、四〇代から五〇代ほどの美しい男だったはずだ。だがハリーとお茶をしていた時と比べ、明らかに肉体年齢が進んでいるように見える。艶やかな黒髪には白髪が混じり、笑みを浮かべる顔にもシワが多く見える。歳を取ったのだろうか。しかしそうなると、なぜそんなことになるのか。

 ハリーが絶えることのない疑問に苛まれていると、ベラトリックスがうずくまる暖炉のすぐそばで緑色の炎が燃えあがる。煙突飛行の炎だ。そこから鼻歌交じりで歩きだしてきたのは、おそらく魔法省の職員らしき赤いローブの魔法使いである。ポニーテールの青年は今日の予定を確かめているのか、手帳を覗き込んでいる。しかしふと隣から視線を感じて目を向けてみれば、そこには床に座り込んだベラトリックス・レストレンジがいた。青年は声にならない悲鳴をあげて、腰を抜かしてその場に座り込んで後ずさりをする。彼の視線がダンブルドアを見つけて驚きに見開かれ、ハリーを見つけて疑問に首を傾げ、そして次に上機嫌で笑みを浮かべるヴォルデモートの顔を見て、ついに甲高い悲鳴をあげて失禁した。

 彼の悲鳴を合図としたかのように無事だった暖炉から連続して緑色の炎が燃え上がり、色とりどりのローブを着た魔法省職員たちが暖炉から出勤し、かつてはきらびやかで誇りを感じたであろうアトリウムの惨状に気づいて唖然とする。そして誰もがダンブルドアとハリーに気づいて驚き、誰もがベラトリックスとヴォルデモートの姿を見て続々と失禁し次々と腰を抜かした。

 ハリーとダンブルドア、ヴォルデモート以外の全員が床に座り込み、ベラトリックス以外は股間を濡らしている中でヴォルデモートは冷たい笑い声を漏らす。魔法省がヴォルデモートの復活を認めていないことは、英国魔法界にて周知の事実だ。当然ヴォルデモートもそれを知っている。失禁して座り込む職員体の中から目ざとく目当ての人物を見つけたヴォルデモートは、にこやかな笑みを浮かべて挨拶をした。

 

「やあ。おはよう、ファッジ」

「ヒィーッ」

 

 掠れた悲鳴と股間の湖の増量で帝王の挨拶に応じたファッジは、ひっくり返って少しでもヴォルデモートから遠ざかろうと這って後ずさる。その様に大笑いしたヴォルデモートの笑声は、幾人もの魔法省職員を恐怖で失神させた。

 気分よく笑い終えたヴォルデモートはダンブルドアへ視線を向けて嘲笑すると、次にハリーへ目を向けて優しく微笑んだ。ハリーは帝王のその表情に、自分など敵とさえ見なされていないことに気づき、泣きたくなるほどの怒りと力不足を痛感する。

 

「それではな、ハリエット」

 

 そう一言だけ残し、ヴォルデモートはローブをひるがえすと、排水溝に吸い込まれる水のように渦巻いてその場から消え去る。ベラトリックスもそれに合わせていつの間にかその姿を消しており、大広間は恐怖ですすり泣く職員の声と、できれば正体を知りたくない水音で支配される。

 床に転がるファッジの隣で、ポニーテールの青年職員がしゃくりあげながら声を漏らした。

 

「れ、『例のあの人』だ。ぼ、僕、見ちゃった。だ、大臣。あ、『あの人』です……」

「み、み、みみみ、見た。ウィリアムソン、わ、わわわ、私もみみみ見たたたた……」

 

 かろうじてウィリアムソンという職員の声にこたえたファッジは、呆然としてアトリウムの惨状を見上げる。現職魔法大臣が描かれる巨大なタペストリーが――今代の魔法大臣は彼だ――見るも無残なぼろきれとなっているのをみて、情けない声を漏らす。ついでに股間からも追加で漏らした。

 ダンブルドアが杖を一振りすると、アトリウムを支配していたアンモニア臭がさわやかな石鹸の香りに変わって彼らを清潔にする。ひどい臭いに顔をしかめていたハリーも、ようやく綺麗な空気を吸うことができた。そして同時に、もうヴォルデモートはいないのだと実感し、ハリーもまた緊張の糸が切れてどっと汗をかき、貪欲に空気を求めて呼吸をする。

 

「ハリーや、よう生きていてくれた」

「ダンブルドア先生。……アー、すみません、勝手な行動を」

「よい、よいのじゃ。友を救うための行動を、どうして責められようか」

 

 思い出したように謝罪をするハリーに対して、ダンブルドアは優しく微笑んで彼女の頭をなでた。いくらフェンリール・グレイバックにいつ咬まれるともわからないチョウ・チャンを一刻も早く救うためとはいえ、生徒四人を引き連れて死喰い人うごめく魔法省まで乗り込んだのだ。それは決して褒められる判断ではなかったはずだが、ダンブルドアは行動がもたらしたかもしれない悲劇よりも、その行動理由に目を向けていた。

 その場に座り込んだハリーを見つけたファッジが、何が起きたのかを問いかけようと近寄ってくる。しかしダンブルドアが彼女の前に出てきたことで、彼はたじろいでその場でまごついた。

 

「ハリーや、とにかく君は休みなさい。いますぐホグワーツへ戻りなさい」

「先生。シリウスは……」

「そのことも含めて、君にはきちんと話す。君の友達もすぐに連れていくからの。わしの部屋でバーティボッツの百味ビーンズでも食べて、待っていてくれると嬉しい」

 

 ハリーの問いかけを遮るように、ダンブルドアは会話を続ける。うっかりしていた、魔法省職員が勢ぞろいしている中でシリウスの話題を出すのは賢明ではない。彼はイカれた大量殺人犯であり、ハリーの命を狙っているのだ。魔法省によれば、死喰い人の大量脱獄も隣人がうるさいのも英国料理がひどいのも、全てシリウス・ブラックの仕業なのである。

 ダンブルドアが杖を一振りして、ハリーの隣に立つ黄金の魔法使い像を『移動キー』に変えてしまう。それを見たファッジが法律違反だと咎めるも、しかしこの一年間ヴォルデモートの復活を拒否していた手前、ダンブルドアに大きなことは言えないことに気づいたらしく、徐々に声は小さくなっていき、しまいにはごにょごにょと唇を動かすだけになってしまう。

 ここでこれ以上何かを話そうにも、魔法省職員の耳が邪魔になってしまう。ハーマイオニーとロンも、ダンブルドアが連れ帰るというのならば、ほかに言うことはない。ハリーは一刻も早く、シリウスの無事について知りたいのだ。

 隣で手を差し出して待っている黄金像の手に自信の手を乗せると、ハリーはへその裏側を引っ張られたような感覚を味わう。ファッジやダンブルドアがぐにゃりとひん曲がって消え去ると、くしゃくしゃにした紙を広げたようにホグワーツ校長室の風景が目の前の広がった。

 黄金の魔法使いがハリーの隣で床に跪いて、元のポーズをとる。他の銅像から離れて一人だけで誇らしげに折れた杖を掲げる姿は、あまりにも滑稽であった。

 

『おや、ハリー・ポッター。ここには校長以外は入れぬはずだが?』

 

 頭上から聞こえてきた声に目を向ければ、フィニアス・ナイジェラスの肖像画が欠伸を噛み殺しながら話しかけてきていた。何と答えた物か迷うものだが、ハリーの目下の心配は肖像画の歓心を買うことではなくシリウスの無事である。

 ダンブルドアに送ってもらったことを示すため『移動キー』としての役目を終えた黄金像を指させば、不満げではあるもののフィニアスは納得したらしく大人しく黙り込んだ。ハリーは校長室のソファへ乱暴に座り込み、背中に鋭い痛みを感じてうめいた。どうやら神秘部の天井を突き破った際にどこかを痛めたらしく、姿勢が悪ければずきずきと痛み続けるらしい。

 マダム・ポンフリーの世話になるだろうことを考えながらも、ハリーはひたすらにダンブルドアのことを待ち続けた。ハリーとフィニアスの会話から赤鼻の魔法使いを描いた肖像画がダンブルドアが帰ってくることに気づいたようで、喜びの声をあげていた。

 

『ダンブルドアは君のことを孫娘のように可愛がっていた。やれハリーは優秀な魔女だ、やれハリーは友達と仲良くやっているようだ、なんてね。きっと誇りに思っているに違いない』

 

 照れくさい感情を持ちながらも、ハリーは暖炉を見つめ続ける。ハリーはダンブルドアのことを苦手としているが、同時に偉大な魔法使いとしての尊敬と信頼は持っている。その傑物に、そういう風に思われているなどと。ちょっと、いや、かなり嬉しい。ハリーはこの場にダンブルドアがいなくて、心底よかったと思えた。

 しかしハリーは、学年末にはいつも困難な問題が降ってわいてきて、そのどれもが自分の生き死にに関わるものだったことを思い出す。それによって学年末はマダム・ポンフリーと共に保健室で過ごしてダンブルドアと色々お話をするのが毎年のイベントだったはずだが、こうして別の場所にいるのは初めてな気がしてきた。そんな余計なことを考える時間が生まれてくる頃になって、校長室の暖炉からエメラルドグリーンの炎が燃え上がる。ハリーが百味ビーンズの箱から手を離し、その奥からブルーのローブを着た老人が姿を現したのを見て歩み寄る。

 

「ダンブルドア先生」

「ハリーや、待たせたの」

 

 微笑んだダンブルドアが暖炉から出てくれば、肖像画の歴代校長たちが一斉に彼の帰りを歓迎する。アンブリッジによって校長職を追われて以降、帰ってくるのは久しぶりなのだろう。手をあげて彼らの声にこたえながら、ダンブルドアは自分の椅子に座ると、まるで老人のように一息ついた。もちろん彼は老人なのだが、それを感じさせない元気とお茶目さを有している。その彼がまるでただのジジイのように深く息を吐いたのだから、彼があの場に残って行った魔法省とのお話は、よほど疲れる類のものだったのだろう。

 

「さて、ハリー」

 

 ハリーがソファに座ったまま顔を上げれば、ダンブルドアは笑みを崩さず言う。

 

「ミス・グレンジャー、ミスター・ウィーズリー、それと双子のミスター・ウィーズリーたち、ミス・チャンも含めて、全員無事じゃ。ミス・チャンについては念のため、マダム・ポンフリーのもとで治療を受けておるが、何も後遺症などはない。騎士団ではトンクスとハワードが聖マンゴへ入院したが、意識もはっきりしておる。すぐ退院するじゃろう」

「……無事でよかったです」

「うむ。特にミス・チャンが無事でいたのは、君の判断のおかげじゃ。君が即座に助けに行ったからこそ、彼女はフェンリール・グレイバックに咬まれずに済んだと言ってもよい。君は無謀だったと自分を責めるかもしれないが、あれは英断じゃよ、ハリーや」

 

 ダンブルドアの言葉を聞いて、ハリーはソファへ深く座りなおす。元々はチョウ・チャンを助けに魔法省へ向かったのだ。彼女が無事であったことは、間違いなく朗報である。神秘部の大広間に置いてきてしまったハーマイオニーとロンも、何事もなかったらしい。ドロホフに殴られた傷はあるが、マダム・ポンフリーの手にかかれば擦り傷のようなものだ。

 彼がローブを広げれば、中から成鳥のフォークスが飛び出して止まり木に留まる。そうして眠そうにその場で目をつむると、全身を炎で包み込んで死んでしまった。それから間もなく、止まり木に設置された灰皿から、ぴぃと小さな声で鳴いて生まれ変わったフォークスの雛が顔を出す。ヴォルデモートとの戦いで彼も疲弊していたのだろう。それを見守ったダンブルドアは、ハリーに顔を向ける。それに対して彼女も真剣な顔で向き合った。

 

「シリウスのことじゃ。彼は意識不明であり、聖マンゴへ入院しておる」

「……生きてるんですね?」

「そうじゃ、彼は生きておる。……そう言っていいじゃろう」

 

 ダンブルドアの含みを持たせた物言いに、ハリーは片眉を上げる。

 ハリーはシリウスが生きていることに疑問を持っていない。助けることができたと確信しているからだ。記憶の中の映像が妙に乱れてはいるものの、それは目の前の老人に問うとしても、間違いなく彼は石造りのアーチをくぐっていないのだ。だから彼は死んではいないはずである。鼻を殴り折られた程度で死ぬような男ではないのだ。

 あの石造りのアーチが何なのかは、ハリーにはよくわからない。だがフェンリール・グレイバックという例があった。あのアーチを超えれば、まず間違いなく生物は死ぬ。その原理はよくわからないが、あのアーチは危険な代物だった。死そのものを鋳つぶして固めたようなモノなのだろうとハリーは予測している。そしてそれは、きっと間違ってはいないだろう。

 

「詳細は未だ検査中じゃ。……しかしおそらく、シリウスは下半身不随になるじゃろう」

「は? えっ、いや、……はぁ?」

 

 下半身不随。それは、近接型の魔法使いとしての彼が再起不能であることを示している。

 フィニアス・ナイジェラスが、その言葉を聞いて片眉をあげる。彼にとってシリウス・ブラックは曾々孫であり、自身の末裔である。それが半身不随となれば、黙ってはいられないのだろう。

 一体どういうことなのか。ワームテールのパンチが彼の脳を変な風に揺らしたとでもいうのだろうか。ハリーは医学はもちろん癒学にも明るくないため、彼の身に何が起きたのかはよく分からない。下半身不随くらい、マダム・ポンフリーなら即座に治せそうなものなのだが。

 

「いや、ダンブルドア先生。ぼくは、シリウスをあのアーチへ通しはしなかったはずです」

「そうじゃ、それは確かじゃ。しかしハリーや、おそらくシリウスの下半身……腰まではアーチの向こうへくぐっていたはずなのじゃ。あらゆる治癒魔法が通じない。癒者曰く、まるで死人に魔法をかけているかのような手応えとのことじゃ」

「でもッ、ぼくは見ました! シリウスは、間違いなく、アーチを越えてはいない!」

 

 ハリーの甲高い叫びに、ダンブルドアは重々しく頷く。

 シリウスの靴くらいはヴェールに触れたかもしれないが、しかしアーチは越えてはいないはずなのだ。足首ひとつ、越えていない。それはハリーの強化された目で、間違いなく見ているのだ。あのアーチを越えさせてはならないと、ハリー自身まるで強迫観念のように必死に思っていたのだから、見間違えたなどということはない。

 

「しかしハリーや、わしはシリウスの現状を推測した。そしてきっとそれは、間違ってはいないはずじゃ」

「推測……」

「さよう」

 

 ハリーの言葉に、ダンブルドアは短く返す。そうして語るのは、ハリーの常識では考えられない言葉であった。

 

「ヴォルデモートが時間を戻す術を持っていることは、君もわかっておろう。わしとの戦いの中で、あやつはおそらく、三度ほど。短い時間ではあるが、確実に巻き戻しておるはずじゃ」

「……倒したと確信した直後に、前の状況に戻っていたとかですか?」

「君の言う通りじゃ。あやつがどれほど巻き戻せるのか調べる必要はあるが……、まあそれは今はよい。つまりじゃ、ハリー。少なくとも、戻される前の時間で、シリウスの身体が石造りのアーチを通った可能性がある」

 

 ふざけた理屈だ。

 ヴォルデモートがいったいどういう原理で時を巻き戻しているのかは知らないし、そもそも本当に時間を巻き戻しているのかどうかさえ分からない。しかし本当に時間が巻き戻っているのならば、巻き戻る前に起きた出来事は、巻き戻った後の世界ではすべてなかったことになるはずだ。非常にややこしいが、その理屈はおかしくはないだろう。

 だというのに、時間を巻き戻す前の時間軸での出来事が、今でも影響する? わけがわからなかった。

 

「人の死は、やりなおせん。これは絶対じゃ」

「シリウスは死んでない」

 

 ダンブルドアの断言するような言葉に対して、ハリーは反射的に言い返す。しかしハリーの怒りさえ込められた言葉に帰ってきたのは、悲しそうな彼の瞳だった。

 

「いいや。石造りのアーチを越えてしもうた部分は、間違いなく死んでおる。いまは最新の癒術で状態の進行を止めておるだけで、きっと放っておけば彼の下半身は死後硬直を起こし、そして腐敗してしまうじゃろう」

「そんな、バカなことが……」

「荒唐無稽じゃろう、しかし事実なのじゃ。もちろん、下半身がそういうことになれば上半身も無事ではいられん。……わしらは、シリウスという頼れる戦士を失ってしまったのじゃ」

 

 ハリーはいつの間にか流していた汗が、頬を伝って顎から滴り落ちたことに気づかなかった。シリウスが再起不能になった。それはつまり、ハリーでは彼を助けることができていなかったということだ。

 悔しさのあまりハリーは強く歯ぎしりをして、ぎちりと音を立てる。砕かんばかりに食いしばって、そして、力が抜けてソファへ深く座り込んだ。その様子を見守っていたダンブルドアが彼が目を覚ませば見舞いに連れて行くと約束してくれたので、ハリーはなんとかそれに対して頷いた。

 彼は死んでいない。それだけは良いことだ。だが、下半身不随というのは、いくら何でも致命的である。いくら魔法界が治療方面に置いてとんでもない技術力を持っているとはいえ、下半身を動かせない人間を戦闘できる状態にまで持って行けるかという問いには、迷わずノーをつきつけられる。

 あれだけあっさりと、彼が戦闘不能になるとは思ってもみなかった。シリウスをそういう現状に追いやったピーター・ペティグリューへの殺意があふれ出るが、しかしその気持ちは、いまはしまっておいた方がいい。忘れるわけではない、本人を前にして解放すればいいだけだ。それまでは心の奥底でただただ煮詰めるのみ。より濃くしておけばいいのだ。

 

「……夏休み、いつでもシリウスに会えるよう漏れ鍋で過ごしても?」

「申し訳ないがハリー、それは許可できん」

 

 なんとか怒りと憎悪を抑え込んで激情を飼いならしたハリーは、ダンブルドアの言葉で再び小屋の中で暴れ始めた激情犬を必死になでつける。

 

「いつだったか雑談の中で話したのう。君の母君が、君にかけた守りの魔法がその理由じゃ。あれは血縁者の近くに一定時間いなければ、その護りは効果が薄れてしまうのじゃ」

「……そういえば、そんな話もしたような気が」

 

 だからと言ってダーズリー家に喜んで戻りたいかといえば、答えは当然ノーだ。

 ペチュニアとは最近仲がよく、普通の叔母と姪の関係でいるはずである。ボクシングの英国チャンピオンになって精神的に大人になったダドリーとも、比較的良好な従兄妹関係を維持できているはず。バーノンは知らん。……いや待て、思ったより関係性が悪くないぞ。それに気づいたハリーは、ダンブルドアに気づかれぬよう愕然とした。あれほど虐待同然の扱いを受けておいて、それほど悪く思っていないなど、ありえぬ。そんなのは『まともじゃない』。

 

「そういえば死喰い人たちが襲撃して来た時のことですけど、バーノンおじさんがぼくを追い出そうとして、ダンブルドア先生はそれに対して吠えメールを送りましたね」

「そうじゃな。きみを引き取る際に、わしはペチュニア夫人と約束をした。それを思い出させる必要があったんじゃよ」

 

 確かに、あのとき吠えメールの言葉を聞いたペチュニアがバーノンを抑えなければ、バーノンは確実にハリーを追い出していた。それくらいはやる男だ、あのバーノン・ダーズリーという男は。

 またあの家に帰らなければならないのかと落胆すると同時に、ハリーはダンブルドアからの視線を感じた。どうやら、まだ聞くべきことは多くあるようだった。体は疲れ果てて睡眠を欲していたが、ハリーはそれを意思の力でねじ伏せる。

 いま必要なのは、睡眠ではなく情報だ。

 

「ダンブルドア先生、予言のことなんですけれども」

「うむ、聞いてくれるじゃろうと思っておった。ヴォルデモートが君に取らせた予言じゃな」

「はい……あの男が自分の手で砕いてしまったんですけど」

「……ほう?」

 

 ハリーは、ダンブルドアのブルーの瞳がきらりと光ったのを見た。この老人がこういう目をしたときは、決まって彼の頭の中で自分には思いもよらない考えがめぐらされている時だという事を、ハリーは知っていた。

 ダンブルドアの促しに従い、ハリーは魔法省へ赴いてからヴォルデモートと会話をするまでの状況を説明する。ルシウスの卑劣で狡猾で巧妙なる罠によってハリーが予言の玉を奪われた段階になると、微笑まれながらルシウスと同じことを注意されてしまう。もう少し表情を操る練習をした方がいいのかもしれない。

 ヴォルデモートが予言の玉を取り出し、ハリーとドラコの関係性について朗々と語った段階までダンブルドアに話すと、彼はうなった。

 

「やはり。ミスター・マルフォイもまた、あやつが造りあげた……いや、調整した生命だったか。もしやとは思っておったが……」

「思ってたんですか」

「正直言って、確証はなかった。君のように、元となった人物がいるわけではないからの。……もちろん、ドラコ・マルフォイの元となったのがスコーピウス・マルフォイであることは理解した。無論、ヴォルデモートが真実を語っていればの話じゃがの」

 

 なかなかにややこしい話だが、本来ルシウスとナルシッサ・マルフォイ夫妻との間に生まれる子供は長男ただ一人であり、ドラコと名付けられる予定の男の子であった。そこにヴォルデモートが手を加え、ナルシッサの胎内で眠る胎児を『調整』、帝王の望む能力を持った子供を誕生させた。その際になぜか双子となり、二人の男の子が生まれる。そして長男にドラコ、次男にスコーピウスと名付けた。

 双子になった理由は、ヴォルデモートでさえ分からない。彼はさして問題視してはいないようだが、ここはダンブルドアも彼に同意した。そもそも人間を生まれる前から『調整』する魔法など存在しえず、ヴォルデモートが開発した代物であるため、彼が分からなければ誰もわからないのだ。

 予言の内容について、ダンブルドアはもうひとつの予言があると言って自身のこめかみに杖先を押し付けた。『憂いの篩』にその銀色が投入されると、篩の中からもやもやした人影がその姿を現す。ハリーはその人影に見覚えがあった。ヴォルデモートが見せた予言の玉から出てきた人物と同じだ。こうして落ち着いて見てみれば、占い学のシビル・トレローニー教授であることが分かる。

 

『オォ……闇の帝王を打ち破る者が生まれる。七つ目の月が死ぬとき、帝王に三度抗った者共の間に生まれ落ちるだろうォウ……。しかして帝王は死せず……深淵たる魔の術は、純血の姫を創りあげる……心せよ、心せよ……姫君は闇の太陽に成り得る……ォオオ、太陽は帝王を照らすか、帝王を焼き尽くすか……全ては姫君の御心のままに……』

 

 片眉をあげて予言を聞くハリーは、その姫君とやらが自分のことを指していることに気づいていた。ルシウスはきっと、この予言を知っていたのかもしれない。だからこそ初対面から紳士的に対応してきたのだろう、抜け目のない男であるからして、ヴォルデモートが復活した場合も復活しなかった場合も、どうとでも動けるようにハリーに対して接していたのだと思う。

 ダンブルドアに視線を向けてみれば、彼は頷く。

 

「悲しいことに、ハリーや。君はどうにも他者の思惑によって心を左右される傾向にあるらしい。難しいことやもしれぬが、しっかりと自分の意志を持つことじゃ」

 

 予言ではハリーはヴォルデモートの利になるか、ヴォルデモートの敵になるかといった事が言われていた。しかしハリーはすでに、ヴォルデモートへの復讐心を持っている。自分を過酷な運命へ導いた男。自分の大切な友達を殺した男。自分を造り上げ、すべてを捻じ曲げた男。

 

「言われなくとも。ぼくは、ぼくです」

「その意気じゃ」

 

 おそらく、と前置きを付けることにはなるが。

 ハリーはたぶん、『生き残るはずだった方のハリー・ポッター』に関しても何かがあったのだと思っている。ヴォルデモートが予言について話していた時に言った、「ハリー・ポッターはヴォルデモートを斃す子」という言葉からくる、ただの想像だ。それが具体的にどういったものなのかまでは分からない。実際にハリー・ポッターは生き残れず、ハリエットが造りだされている。リトル・ハングルトン村での戦いで、ヴォルデモートの杖から直前呪文で逆流してきた死者の中に、赤子の彼がいたのだから死んでしまっていることは間違いないのだ。

 しかしそれは、限りなく実現してほしい言葉だ。ハリーは、何が何でもヴォルデモートを斃す。やっつける、ブチのめす。予言の確実性などハリーは全く信用していないが、それだけは絶対に実現させる。

 ブルーの瞳をきらめかせるダンブルドアに向かって、ハリーは心の中でそう宣言した。

 

 

 また一年が終わる。

 ハリーは医務室から退院したハーマイオニーとロンとともに、大広間へ向かっていた。彼らは大きな怪我こそなかったものの、それでもドロホフに殴られたことでロンは鼻の骨が折れていたし、ハーマイオニーに至ってはドロホフに腹を殴られた際に肋骨がいくつも折れていたようで、マダム・ポンフリーの治療を必要としたのだ。

 

「朗報よ、ハリー」

 

 日刊予言者新聞を広げながら歩く彼女は、その内容をハリーへ見せつけてくる。

 ヴォルデモートの復活を主張するハリーやダンブルドアのことを、ありもしない妄想を騒ぎ立てる頭のおかしいやつら扱いをして誹謗中傷ばかり書いていたので読まなくなってしまったのだが、ファッジ自身がついに帝王復活を目撃してしまったので、認めざるを得なくなったのだろう。実際、保健室でハーマイオニーらと話をしていた時にファッジ本人がホグワーツへやってきて、涙ながらに頭を下げて絶叫するかのような謝罪を述べにきた。あまりのやかましさにマダム・ポンフリーが追い出してしまったが、根が善人寄りで小心者な彼のことだ、権力に固執してハリーやダンブルドアを攻撃していたことを後悔したのだろう(特に後者が理由だろう。彼は大臣就任直後はダンブルドアへ崇拝に近い尊敬を抱いていたとのことだ)。ハリーが保健室から出てくるまで、扉の前でずっとDOGEZAを行っていた。

 正直に言って、その情けない姿を見てしまえばファッジへの怒りもしぼんでしまう。それにこれから先、ずっと罪悪感にかられてハリーへ謝り続けるファッジに付き合うのも面倒くさかったので、彼女はファッジからの謝罪を受け入れた。そうすると、それはそれで、何と優しい子なんだと泣き崩れてしまった。その様子を遠巻きに見守っていたダンブルドアも、ハリーが許したことで満足そうに微笑んでいた。クソ面倒くさい。

 

「朗報って?」

「アンブリッジが逮捕されたわ。聖マンゴの隔離病棟に入院しているけれど、最終的には彼女もアズカバン行きよ。はっはァー、ざまぁみろっつーんだわ!」

 

 そりゃそうだろう、とロンが頷く。

 生徒への許されざる呪文の行使、生徒への理不尽な体罰、生徒へのあらゆる犯罪行為。おまけに知らなかったとはいえ死喰い人をホグワーツへ迎え入れて、生徒の拉致事件の発端となったのだ。ウィゼンガモット大法廷では満場一致で彼女に有罪判決を下したらしい。

 ハーマイオニーの言葉を聞いた二年生のナタリー・マクドナルドが嬉しそうな声をあげて大広間へ駆けだし、ハーマイオニーの言葉を大声で叫んだのが聞こえる。そうすると大広間からは爆発したかのような歓声が飛び交った。アンブリッジの不幸を喜んでいる声だろう。今からあそこへ行くのは遠慮願いたい気分だ。

 新聞にはアメリア・スーザン・ボーンズへのインタビュー記事で、ありとあらゆる罵詈雑言が書かれていた。魔法省内でも評判がよろしくなかったようで、日刊予言者新聞はアンブリッジ批判記事ばかり載せている。ハリーが読む限り哀れなガマガエルについて新たに知ることができた情報は、アンブリッジが高級紅茶でうがいをしているいけ好かない女ということだけだった。

 

「……」

 

 ハリー達が大広間へ入ると、歓喜にむせび泣く生徒たちが大勢いた。よっぽどアンブリッジの不幸が嬉しいらしい。ハリーは目を背けた。

 そして目を背けた先で、こちらを物凄い形相でにらみつけているスコーピウスの姿を見つけてしまう。死喰い人が大勢逮捕されたことで、ハリーが気に入らないのだろう。新聞でも神秘部での出来事が書かれており、一部のポッターファンはハリーを英雄視している。ルシウスは逮捕されなかったようだが……あの場にいたことは、ハリー達が証言している。時間の問題かもしれないが、彼は口達者な男であるからして、おそらくまた罪に問われないような気がする。

 それよりもハリーは、スコーピウスの隣でグレセント・クライルを話をしているドラコの方へ目が向いた。ヴォルデモートの言葉を信じるならば、彼もハリーの同類である。そして帝王が婚姻させようとしている、という少女漫画もびっくりの運命を持つ少年だ。

 自分へ向けられている視線に気づいたドラコがこちらを振り向く前に、ハリーは急いで目をそらした。彼を尊敬すべき向上心の塊として見ているハリーとしては、彼を恋愛対象に見ることはできない。けれども、いまは彼と話したくはなかった。

 ダンブルドアが一年の挨拶をする。魔法省での話をするだろうかと思っていたが、案外彼は沈黙を守った。ハリーがそれに安心した瞬間、夕食がテーブルクロスから湧いて出る。今学期ホグワーツで食べる最後の食事だ。ダーズリー家で食事に期待することはできないので、ハリーは喜んでローストチキンを皿に盛りつけ、溢れ出る肉汁ごと頬張った。

 

 ホグワーツ特急でハリーは、ジニーやネビルと共にコンパートメントを占領しようとして失敗した。フレッドとジョージ、リーがなだれ込んできたのだ。

 つい先ほどまでチョウ・チャンとマリエッタ・エッジコムが、数時間も涙ながらにハリーへ感謝とキスとハグの雨を降らせてようやくコンパートメントを去っていった後なので、ちょうどよかった。三人を歓迎すると、双子が嬉しそうに口を開く。

 

「ハリー、俺たちダイアゴン横丁に店を開くんだ」

「悪戯用品専門店さ。その名も『ウィーズリー・ウィザード・ウィーズ』! 僕たち三人で開業するから、ぜひとも来てくれよな」

 

 前々から二人が語っていた、悪戯アイテムを販売する店だろう。

 夏休みの予定はシリウスへの見舞いくらいなので、ハリーは快くオーケーする。彼女は商売について詳しいわけではないのでよくわからないが、確か店を開くにあたってはお金が必要なはずだ。常識外れの魔法界にあっても、それは変わるまい。資金源について聞いてみると、双子はにやにや笑いながら言った。

 

「ルード・バクマンさ」

「あれ、バグマンって二人と賭けをしていたんだよね」

「そう! それで僕たちが勝ったのさ。でもあんのオヤジ、支払いを渋ってやがった。だぁーがしかし、今回の件で心を入れ替えたファッジが一喝したんだよ! 子供と賭けをするとは何事かーっ、なんてね。見直したぜ」

「それでやっこさん、俺たちに支払ったのさ。本来払うべき金額よりもかなり上乗せしてね! これもファッジだよ、一年以上待たせたのだから相応に上乗せすべきだってね」

 

 なんともまぁ、裁判でハリーを貶めようとしていたファッジはどこへ消えてしまったのだろう。ホグワーツから去る前に読んだ日刊予言者新聞では、ファッジは近いうちに職を辞すとのことだった。いくらなんでも今回の彼の行動は許されるようなものではなく、魔法省に居られるだけ御の字と言ったところである。彼が大臣でなくなる前に、自分がやったことへの片づけを済ませるつもりなのだろう。この前プライベートで送ってきたふくろう便の手紙には、そんなことが書いてあった。

 それでもやはり彼らにはお金が足らないため、いろいろな友人からお金を投資してもらっているそうだ。その言葉を聞いて、ハリーも乗った。幸いにしてハリーには、六大魔法学校対抗試合で得た莫大な優勝賞金がある。ヴォルデモートが復活した以上、かつての魔法対戦次代のように暗い事件ばかりが起きるようになるだろう。なればこそ、『ウィーズリー()ウィザード()ウィーズ()』はこの英国魔法界に必要な存在となることは目に見えている。あれだけのお金は使いきれないため、ポッター家の金庫で死蔵するより、よほど有効活用できるだろう。

 

 九と四分の三番線に降りたハリーは、ネビルとリーに別れを告げて、ジニーとフレッド・ジョージと共に監督生用のコンパートメントにいたハーマイオニーやロンと合流する。

 六人で魔法障壁を通り抜けると、そこには予想通りウィーズリー家のみんなとグレンジャー夫妻が待っていた。それに加えて驚いたのは、闇払いのグリフィン隊に加えてムーディまでが勢ぞろいしていたことだ。

 我が子を抱きしめたモリーは、続けてハリーにも熱烈なハグをお見舞いする。無事に聖マンゴから退院したトンクスとハワードも、ハリーにハグとキスをプレゼントしてきた。

 

「びっくりした。どうしたのみんな?」

「んふふー。ハリーぃ、ちょーっとダーズリー家に釘を刺しておこうと思ってですねぇ」

「そうそう! あいつらめちゃくちゃじゃない? だから、ちょこーっと。ね?」

 

 キングズリーに頭をなでられながら、ハリーが問えばハワードとトンクスが上機嫌に返事をする。前回の夏休みでハリーに対する仕打ちが、どうにも彼らにとって腹に据えかねたらしい。

 ビデオテープについてグレンジャー夫妻へ深淵な質問を終えたアーサーがムーディと頷き合い、ホームの端っこで戦々恐々としているダーズリーたちへ歩み寄る。バーノンは一気に青ざめ、ペチュニアは早くも現実逃避して地面にこびりついたガムへ興味深そうに視線を落とした。ダドリーはアーサーやトンクスたちはビビりながらも恐れることはなかったようだが、ムーディの顔を見て限界を迎えたようで、その青い魔法の目から逃れようと必死になっていた。

 

「こんにちは、ミスター」

「……覚えているぞ。ハリーを迎えに来て我が家をぶち壊した、ふざけた男だ」

 

 ハリーはバーノンの啖呵に感心した。

 アーサーがダーズリー家の暖炉を魔法で吹き飛ばした光景を覚えているだろうに、よくもまぁそこまで言えるものである。ひょっとしたらハリーと同じように学校の外では魔法を使えないと思っているのかもしれないが、もちろんそんなことはない。そもそもアーサーは目の前で魔法を使っていたというのに、都合よく忘れたようである。

 バーノンの言葉を気に入ったのは、大人たちの中ではムーディだけだったようだ。

 

「威勢のいい豚だ」

「ぶ……失礼ですぞ!」

「おうとも、失礼しておる。貴様がハリーに対して礼を失している限り、我々も一切あんたらを尊重する気はない」

 

 さらりと告げたムーディに対してバーノンが反論しようとにらみつけるものの、ぎょろぎょろとうごめく魔法の眼球と目が合って、バーノンは見る見るうちにしぼんでいった。

 熱心にガムを見つめ続けるペチュニアに対して、ハワードが言う。

 

「もしハリーが虐待を受けているとわかればぁ、まあ、その時はどうなるかおわかりですよねぇ。ムカデでもハエでも、好きなモノへ変えてあげまぁす。豚には……もうすでになっているようですがねぇ」

「まて、小娘! きさま、脅迫する気か!」

「ウス」

「ウッス」

 

 バーノンの鋭い叫び声に、マグルの通行人がぎょっとして目を向ける。ボーンズ兄弟がしれっと肯定したことで、さらにバーノンは怒りの奇声を上げた。近寄ってくるマグルたちの中に警官が混じっていることに気づいたハリーは、バーノンの強かさに再び感心した。しかしそれに対してウィンバリーが軽く杖を振るえば、途端に彼らは興味を失って歩き出してしまった。その様子を見て、バーノンは仰天して狼狽える。ハリーはバーノンの情けなさに感心した。

 彼の様子を見てにっこりと微笑んだハワードはおどろくほど美人ではあるが、目が全く笑っていない。小柄ながらバーノンの顔すれすれまで近づき、囁くように言う。

 

「その通りですよぉ。手足もがれねぇだけ有難く思えや」

 

 ハワードの甘い声が急にどすの利いたものに変化したことでバーノンが奇妙な悲鳴をあげて後ずさり、ダドリーにつまずいてすっころぶ。ペチュニアがようやく顔を上げたその目の前には、しかめっ面をしたムーディがいた。ひぃーという悲鳴が彼女の唇から漏れる。

 

「ハリーからの連絡が三日以上途絶えれば、我々がお宅へお伺いします。そうですね、箒に乗って。派手に音楽でもかき鳴らしながら参上いたしましょう」

 

 アーサーがにこやかにそう言えば、その時の光景を想像したらしいペチュニアが涙を流す。ご近所に見られれば、彼女のもっとも気にする『まともなダーズリー家』という評判は終わりを告げるだろう。

 ハリーをイジメ抜いてきた一家が散々な目に遭っている姿を見て、フレッド・ジョージが大笑いする。ハーマイオニーがそれを咎めるものの、どうも本気ではないらしい。友人たちが自分を思ってくれることに、ハリーは少しだけ心があたたかくなった。

 次々とダーズリー家を脅しつける彼らを尻目に、ルーピンがハリーの黒髪を撫でる。

 

「きっとシリウスは回復する。そうだろう、ハリー」

「……そうだね」

「夏休みに、聖マンゴへ見舞いに行こう。連絡を待っていてくれ」

「……必ずだよ」

 

 そう優しく微笑む彼の顔は、いつにもまして疲れているように見える。

 それもそのはずだ。親友がもう二度と歩けないかもしれないのだ。生きているだけ儲けものとは言うだろうが、しかし活発なシリウスのことをよく知る彼にとって、それがシリウスにとってどれほどつらいものなのかはよく分かっているはずだ。

 

「必ず、シリウスへ会いに行く」

 

 そう言うと、ハリーは踵を返す。

 去ってゆくハリーに向けて、ハーマイオニーとロンが、夏に会おうと言ってくれたので後ろ手に手を振って返事をした。バーノンが慌てて自分の車に乗り込み、ハリーはダドリーと一緒に意識がもうろうとしているペチュニアの手を引いて車に向かって歩みを進める。

 やるべきことは多く、そして待ち受けるものも同じく多い。来年もきっと、大変だろう。

 それでもハリーの心の中には、シリウスの無事を願う気持ちでいっぱいだった。

 他のことは、今は何も考えたくない。

 

 




【変更点】
・お辞儀、永遠の生を得る方法を見つける
・グレイバック死亡
・お辞儀「計画通り!」
・ドラコ・マルフォイは人造生命?
・ワームテール大活躍
・お辞儀「ようこそお辞儀の世界へ」
・ルシウス逮捕ならず
・シリウス生存? 聖マンゴへ入院。


【オリジナルスペル】
「コンフリンゴ・ドゥオデキム、粉微塵になれ」(初出・60話)
 連爆呪文。爆破呪文『コンフリンゴ』の上位魔法にあたる。
 ベラトリックスの改造呪文。連続して強力な爆発を繰り出す戦闘用魔法。

「プロテゴ・ウェルテクス、受け流せ」(初出・60話)
 盾の呪文。流れるように動き続ける盾。衝撃をそらす目的で使われる。
 元々魔法界にある呪文。習得難易度はかなり高く、ハリーは苦労して覚えた。

「レガトゥス・ラエトゥス・ファクシミレ、安らかに」(初出・原作『不死鳥の騎士団』)
 無機物護衛化呪文。生命を持たない物へ疑似生命を与え、護衛になってもらう魔法。
 1945年、ダンブルドアが開発。グリンデルバルドとの戦いの中で編み出した。

「フォルトゥス・フォルトゥーナ・アドウァート、殺せ」(初出・映画『不死鳥の騎士団』)
 空間制御刺突呪文。効果範囲内の無機物を刃物状に変身させ、対象を貫く魔法。
 1975年、ヴォルデモートが開発。数多くの闇払いを葬った甚振るための呪文。

「ウイタエ・アエテルナエ、永久に眠れ」(初出・60話)
 封印金鎖呪文。内部と外部を遮断する魔法。自力での脱出は不可能なはずだった。
 1897年、ダンブルドアが開発。学生時代の思い付きで造った魔法を研鑽させ実用的にした。


シリウス生存! ……かな?
彼の今後についてはかなり悩んだ結果、死亡は避けました。今後の彼にご期待。
コメント欄に何人か予言者の方がいらっしゃいましたが、その通り、ドラコ・マルフォイもまたハリエットと同じくお辞儀が造りあげた(調整した)人間です。これも彼の初登場時から決めておりました。だから双子だったんですね。予言者の方々には死喰い人を送り込んでおきます。
今回の『不死鳥の騎士団』で、原作とは明確なズレを見せてきました。次回からは、ハリポタ二次でもっとも難しい(と個人的に思っている)章である『謎のプリンス』がはじまります。ハリエットにはどんどん大変な目に遭ってもらいますので、頑張ってくださいネ。



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謎のプリンス
1.影に這寄る闇


 

 

 

 ハリーは現実逃避したかった。

 どうしてこんなことになったのだろうと思わずにはいられない。夏休みのダーズリー家は、ここ数年でだいぶ生活環境が改善されてきた。それはいい、それはいいのだ、大いによろしい。

 ペチュニアからの扱いは、子供の頃とは比べるべくもなく改善されている。炊事洗濯などを任されるのは以前と変わりないが、彼女の技術を教えてくれるようになってからは苦ではなくなっている。まるで本当の娘のような扱いはくすぐったくもあるが、まぁ、悪くはない。

 ダドリーからの扱いも、本当によくなった。仲がいいとは言えないかもしれないが、理由もなくハリーに殴りかかる非常に文化的なスポーツをおっぱじめることもなくなり、互いの趣味(他者をぶっ潰すためのトレーニング)が合致することもあって、おすすめのプロテインだったりハリーの体躯に効果的な筋トレだったりを相談することも多くなっている。

 バーノンは知らん。どうでもいい。

 そんな楽しくはないが苦痛でもなくなったダーズリー家での生活において、ハリーは久々に生クリームをたっぷり塗りたくったような、重々しく濃厚な苦痛を味わっていた。

 

「ビッグ・D……ッ! なぜここが分かった!?」

「お前らのチンケな隠蔽なんてものはな、この町の警察にとっちゃ紙屑同然なんだよ」

 

 ド派手な色をしたシャツの上に、これまた派手な色のスーツを着た男が何人も目の前で狼狽えている。その手には拳銃やらナイフやら、いろいろと物騒なものを携えていた。彼らの後ろには赤いスーツを着た大柄な禿男が、高級デスクで頬杖をついてこちらを眺めている。

 どうみてもマフィアの方々です。本当にありがとうございました。

 

「よくも俺の住む街を汚してくれたな。覚悟しろ、悪党」

「ぬかせ、チャンピオン……!」

 

 カッコよく啖呵を切ったダドリーに、警察官たちから歓喜の声が漏れた。ハリーとダドリーの後ろには警察官たちが大勢そろっており、銃を構えもせずボクシングチャンピオンであるダドリーの活躍を心待ちにしていた。ハリーは英国へ税金を払うことの無駄さ加減を思い知った。

 事の始まりは、地元マフィアの横暴(ハリーは寡聞にして自分の住む閑静な住宅地にマフィアがいることさえ知らなかった。ダドリーの交友関係が心配である)にキレたダドリーが警察署に殴り込みに行って「俺の活躍が見たい奴はついてこい!」と怒鳴ったことだった。何を言っているのかわからねーと思うが、ハリーにもよくわからなかった。頭がどうにかなりそうだった。常識外れだとか『まともじゃない』とかそんなチャチじゃもんじゃあ断じてない、もっと意味不明なものの片鱗を味わっていた。

 警察官たちがそれに歓声をあげてついてきたのもよくわからないし、バーノンがダドリーにお供しなさいと命令されたのもよくわからない。ダドリーが危機に陥った場合、『名前を言ってはいけない魔のつくアレ』で助けてくれるとでも思っているのだろうか。

 それに苛立った禿頭の男、たぶんドン・マロニーだかアルパカマンだか、そのあたりの名前だろう彼が、机から大きな拳銃を取り出してダドリーに銃口を向けようとする。

 いくら訳の分からない状況とは言っても、従兄を殺されでもしたらバーノンが何と言うか分かったものではない。ハリーは手近にいたマフィアの男の膝を蹴り飛ばして、ダドリーの盾としてドンと彼の射線上に置いた。

 

「んな……ッ」

「隙がデカいぜ、ベイビー」

 

 ダドリーがハリーへセクシーウィンクを決める(オエッ)と、その拳を振りかぶって盾にされた男を殴り飛ばす。一九〇センチはあろう大男を吹き飛ばしたダドリーは、砲弾代わりにされたマフィアの彼は、数メートルをすっ飛んでドン・ナンチャラを巻き込んで倒れこんだ。

 それにいきり立った男たちが拳銃を構えるものの、懐に飛び込んで顎を殴り抜くダドリーによって次々と昏倒させられてゆく。同士討ちを恐れて発砲できない彼らを思うまま殴り続けるダドリー。おお我らがチャンプ、ビッグ・D! 英国一の拳を持つ男は、数十人いたマフィアたちを数分もかからず全員拳ひとつでブチのめしてしまった。

 パンチ一発でゴツめの成人男性が数メートル以上は吹っ飛ばされていく光景を見て、ハリーは魔法っていったいなんだったんだろうと感慨深くなる。ハリーが『身体強化呪文』を使って可能とする現象を、ダドリーは鍛錬と体重と超カロリーで可能にしているのだ。マグルだからといって侮っているヴォルデモート卿がタコ殴りにされる日も近いかもしれない。

 女とみて侮り、人質にしようとした構成員もいたものの、ハリーを羽交い締めにしようとして金的に蹴りを喰らって悶絶する。その構成員の髪の毛を掴んで無理やり跪かせて顔面を靴の裏で蹴り飛ばすと、妙に嬉しそうな声を挙げて彼は失神していった。

 

「くそったれ! 不甲斐ねぇ奴らだ! どけ、てめえら! 俺が出る!」

「ぼ、ボス!」

 

 禿頭の大男が怒りに任せてデスクへ拳を叩きつけると、おそらくマホガニー製であろう高級デスクが真っ二つに割れて粉砕される。恐れをなした構成員たちが場所を開けると、机を蹴り飛ばしてボスがずんずんと歩み寄ってくる。

 彼が懐から取り出したのは銃ではなく、ひとつの針なし注射器だった。何をする気かとハリーが訝し気に眺めていると、彼は注射器を自分の首筋に押し付けて、パシュッという軽い音と共に中身の薬品を自身に注入してしまった。するとどうだろう、野太い雄たけびをあげながら、ボスの肉体が見る見るうちにスーツを引き裂いて上半身裸のムキムキマッチョマンへ変貌し、肌の色が漆黒の闇色に染まって身長も三メートルほどの怪物になってしまった。

 人語かどうかも怪しい雄たけびを叫びながら、ボスはダドリーに向かって殴りかかる。それをダドリーは真っ向から迎え撃って、拳と拳が激突したことで衝撃波が発生し、マフィア事務所のガラスと言うガラスが割れて飛散する。連続で放たれる拳によって宙を舞うガラスがさらに細かく粉砕され、きらきらと空中を舞う。その中で殴り合い続ける二人は、まるで神話の英雄の絵図であった。

 

「なんだこれ」

 

 一体全体、ハリーの知るマグル界はどこへいってしまったのだろうか。

 少なくとも、こんなアメコミみたいな世界観ではなかったはずだ。周りの警察官やマフィア構成員たちがお互いのヒーローを少年のように応援しているのもまた、ハリーの困惑に拍車をかける。男の子のロマンとか言われても、ハリーは女の子なのでよくわかりません。

 次第に殴り合っていたダドリーとマフィアのボスも笑顔になり、笑いながらさわやかに殴り合っている。それを冷めた目で眺めていると、マフィアのボスが顎を殴り抜かれて床に倒れこんだ。スタンディングポーズを取るダドリーに、もはや警察もマフィアも関係なく歓声が贈られる。

 

「ビッグ・D! ビッグ・D! ビッグ・D!」

「ドン・マロン! ドン・マロン! ドン・マロン!」

 

 ビッグ・Dと呼ばれるダドリーと、すっかり元の人間っぽい見た目に戻った(アイツ本当に魔法族じゃないんだろうな?)ドン・マロンと呼ばれるマフィアのボスは、称賛の嵐を浴びながら互いの健闘を讃え合い、がっちりと握手して硬く抱き合う。

 その男気溢れる光景に、男たちは歓声をあげた。ハリーは困惑した。

 

「やっぱりビッグ・Dは俺たちのヒーローだ! ですよね、ハリー姐さん!」

「やかましい」

「ビッグ・Dの身内だったなんて、ハリー姐さんの腕っぷしも納得だぜぇ!」

「うるせぇ」

 

 若いマフィアと警察官がそれぞれハリーの肩に手を置いて、興奮気味にまくしたてるのをハリーは手を振り払って冷たく答えた。それにマフィアの方はハリーが股間を蹴り上げた彼だ。ハリーを見る目が若干怪しいし、振り払われたことで嬉しそうにしているのは、実に奇妙だ。

 ハリーは胴上げされているダドリーとドン・マカロニマンを眺めながら、どうしてこうなったんだと自問する。次第に興奮してきた野郎どもによって、ハリーもまた胴上げされてしまう。もはや抵抗するのさえ面倒くさくなってきた。宙を舞いながら、ハリーはダドリーがこちらに向かってウィンクしてきたのを目撃する。

 

(どうだい、ハリー。俺はこんなにビッグになったんだぜ?)

 

 ナチュラルにテレパシーを送ってきたダドリーに、ハリーは宙を飛ばされながらマグルと魔法族の違いという深淵な問題について思考を深めるのだった。

 案の定、答えは出なかったのでダドリーに気品あふれる返事をすることにした。

 

(だまれ)

 

 その次の週、朝っぱらからバーノンの機嫌が悪い。

 愛しの愛息子ダドリーが地元マフィアをその拳で叩きのめしてボランティア集団に更生させたことで『まとも』であることを披露し、プリベット通りに、いやサリー州リトルウィンジングに、いやいや英国中にダーズリー家の『まとも』っぷりを知らしめたことで上機嫌だった彼のご機嫌は、見る影もなくウロンスキーフェイントのごとく急降下して地面を掘り進んでいた。

 その理由は、ハリーの格好にあった。ペチュニアが用意した彼女の新しい洋服にいったい何ポンドかけたのだとか、ぴかぴかの靴は何シリングかけたのだとか、あの忌々しい黒髪を梳くのに何ペンスかけたのだとか、心配でならない。その分ダドリーにかけるべきお金を、あの魔のつくなんちゃらを操る訳の分からん小娘にかける金銭なぞ、一ペリカたりともかけたくなかった。

 腹立たしいのは、その姿が様になっているということだ。肩にフリルをあしらったグレーのハイネックニットと、黒のワイドガウチョパンツ。靴はカジュアルになりすぎず、しかし気品のあるデザインをペチュニアが選んでいる。ハイネックニットは体にフィットするタイプで、ハリーのスタイルの良さがよくみて取れる。背中まで伸ばしている黒髪はうなじのあたりでまとめて邪魔にならないようにしていた。派手過ぎず、しかし地味ではない髪形である。

 そして彼女は、バーノンにとって悔しいことだが、来週の誕生日で十六歳になる現在、かなり美人と言える範囲にある。若いころのペチュニアに似ている。彼女の妹のリリーの娘なのだからむべなるかな、認めたくないがハリーの顔は整っている、のかもしれない。整っている、のだろう。整っているとは思いたくない。整っているんだよなちくしょう。ああして『まとも』な格好をしていれば、どこに出しても恥ずかしくない娘なのだ。その正体が『名前を言ってはいけない例の魔のアレ』使いなのだと思うと、外面がいいだけにバレたときが恐ろしい。

 隣で従妹の姿を見て満足そうに頷きながらプロテインをバケツ一杯飲み干しているダドリーの顔もまた、バーノンの不満を増大させるものであった。あれだけ頭のおかしい『まともじゃない』姪っ子を、ああして妻と息子が可愛がるような未来が来るとは思わなかった。幼少期は手の付けられない獣のような娘だったにもかかわらず、ああして照れてはにかんでいれば悪くはない……いや何を言っているんだ悪いところだらけじゃないか、ばかばかしい。

 姿見の前で一回転して全身を確認しているハリーを見て、ペチュニアは涙を流して喜んでいる。まるでリリーの若い頃のようだと言って泣く彼女に、ハリーは彼女を労わって椅子に座らせ、ダドリーと一緒にリリーの思い出話を拝聴している。ハリーは食い入るように話を聞いているが、ダドリーは若干飽きているようだ。それでも我慢して話を聞いているあたり、ボクシングチャンピオンになった彼は男が上がったということなのだろう。妻が自らすすんで妹の話をするなど『まともじゃない』と言ってもいい事態だが、仮にも血のつながった妹なのだ、簡単に片付けることのできない複雑な想いもあったのだろう。バーノンは愛する妻が満足するならばと、そこに触れてやることはしなかった。

 バーノンの怒りの原因は、ハリーがおしゃれをする動機にある。色気付いて、どうせ男とデートでもするのだろう。ふしだらではしたない『まともじゃない』理由なので怒鳴りつけてやりたいところだが、それはペチュニアに止められている。女の子のデートは邪魔するものじゃありません、と言うのだ。妻もハイスクールの頃はそういう経験があったのだろうかとも思ったが、あまり聞きたくないのでその話はそこで打ち切った。

 

「お見舞いに行くのでしょう? お相手の名前をうかがっていなかったわね」

「ああ、うん。そういえばそうだったね」

 

 耳を巨大化させて盗み聞きしていたバーノンは、姪のお出かけする理由がデートではなく見舞いだったことに気をよくした。自分たちは医者ではないため入院している者に会ったところで何をどうすることができるわけでもなく、バーノンは見舞いという行為自体にあまり意味はないと感じているのだが、しかし世の中には見舞いに行かないことを『まともじゃない』と思う人間もいる。そう思われてしまうのは嫌だ。そのため、バーノンも己の会社の社員が入院した際には、たとえ下っ端の小汚い労働者であろうとも必ず見舞いに行っている。

 会社という閉じられた世界の中において、風聞とは、案外ばかにできないものだ。現在バーノンの経営するダーズリー穴あけドリル株式会社は、フランスのメイソンドリル会社と日本の立花重工という『まとも』な会社と取引を始めてから、業績も右肩上がりで左団扇なウハウハのヒャッホー状態なのだ。これもすべて『まとも』な人間とだけ関わってきたおかげといえるだろう(バーノンが立花重工社長の妻が日本魔法界の首相と知れば、発狂することは間違いないのでハリーは黙っている)。見舞いという行為、転じて人間関係へ心がける気遣いと言うものは、それだけ重要なのだ。

 ハリーもようやく『まとも』な感覚を身に着けてきたかと感心していると、ハリーと話していたペチュニアが途端にか細い悲鳴をもらしてピカピカに磨かれたキッチンの床へ崩れ落ちた。へらへらと力なく笑っているあたり、『魔のつく例のなんちゃら』アレルギーだろう。驚いて彼女を抱き起しているハリーを手伝うダドリーもまた引きつった顔を浮かべているあたり、まず間違いない。

 

「ハリーッ! きさま、ペチュニアに何を言ったァ!」

「えっ。いや、あの……お見舞いする相手の名前なんだけど……」

 

 怒鳴りつけたバーノンは、戸惑うハリーの返答にブチキレそうになった。たかが名前を聞いたくらいで、人は卒倒するものではない。やはり『まともじゃない』思考は残っていたか。魔のつくアレ的なサムシングはやはり、この世にあってはならない邪悪である。バーノンは確信した。どうせハリーが口にしたのは人の名前ではなく呪文的なアレであろう。間違いない、名前を聞いただけで卒倒するなど、『まとも』に考えて有り得ない。最近手に入れたバーノン自慢の日本酒《華郷印の魂》を賭けてもいい。

 名前を聞いただけで人が卒倒するなど、絶対にありえないのだ。

 

「いったい誰なんだ、その見舞う輩というのは!」

「えっと、あー……シリウス・ブラック」

 

 バーノンは倒れた。

 それを見たダドリーがもうどうにでもなーれと言う顔でペチュニアをソファに寝かせて、父親を放って冷蔵庫へプロテインのお代わりをしに行った。

 シリウスへの見舞いは、ふくろう便でダンブルドアから許可された。意識を取り戻したと聞いてハリーは思わず泣いてしまったが、心の底から安堵したものだ。今すぐにでも『両面鏡』でシリウスと話をしたかったが、彼の意識は取り戻したり深い眠りに落ちたりと安定していないらしい。それに、病院ではああいった強めの魔道具の使用は禁じられている。仮にも入院患者なので、仕方のないことだった。

 今現在の時刻は、午後六時だ。七時頃にウィーズリーおじさんが迎えに来るという話だったので、シリウスに見せるために精一杯おしゃれをしているのだが、突如として暖炉を模した電気ストーブが緑色の炎を巻き上げたので、ダドリーが仰天してプロテインのシェイカーを取り落し、それを踏んづけて床に尻餅をつきながら絶叫した。

 もちろん電気ストーブなので火が出るような作りにはなっておらず、そもそもそんなことになれば消防車のお世話になることは間違いない。格子をバラバラに吹き飛ばしてなお天井を舐めるほどの勢いを放つ炎を見て、ハリーはそれが煙突飛行の炎であることを分かっていた。ウィーズリーおじさんには必ず、絶対に、煙突飛行でのお迎えはやめてくれと懇願してある。せっかくペチュニアやダドリーの態度が軟化したというのに、むやみに魔法を見せつけてハリーへの待遇を悪化させる必要はない。それに待ち合わせの時間には早すぎる。いったい、誰がこんなことをしたのかとハリーは訝しんで、即座にポケットから杖を引き抜いて杖先を暖炉へ向けた。

 魔法の杖を目撃したダドリーが恐怖のあまり漏らしそうになったが、仮にも英国チャンピオンが情けない姿を見せてはならないと思ったらしく、股間を両手で抑えてもじもじしながらハリーの隣へやってくる。正直言ってめちゃくちゃ不気味なのでやめてほしい。

 

「誰だ」

「杖を向けるのはやめてくれないかね。ミス・ポッター」

「そう思うのなら、せめてアポイントメントは取るべきだね」

 

 ハリーによる誰何の声に、落ち着いた声色の返答が戻ってきた。

 耳の奥底に残るようなハスキーボイスの持ち主は、いかめしい顔つきをした魔法使いだった。その豊かな髪の毛と傷だらけの顔は、まるで老ライオンのような印象を受ける。かつてこの家を訪れた魔法使いの中には、アーサー・ウィーズリーのように魔法使いであることを隠しもしない奇抜な服装であったり、キングズリー・シャックルボルトのように立派な背広に身を包みどこからどう見てもマグルにしか見えない気遣いのできる人物がいた。暖炉からのっそりと出てきた人物は、どうやら前者のようだ。

 現れた人物は傷だらけの顔に、まるでライオンのように膨らんだ髪形をした老年の魔法使いだった。床とソファで倒れこんでいるダーズリー夫妻に片眉をあげたものの、それ以外には何も反応を示さない。ハリーから視線をそらさず、はやく杖をしまえと命じているようだった。

 渋々と杖を下げるハリーは、しかしそれをポケットへしまうことはしない。まるで酔っ払いが拳銃を持っているような危険人物を見る目でダドリーがこちらを見ているが、それを気にすることはなかった。

 

「私の名はルーファス・スクリムジョール。新しい英国魔法大臣、だ」

「闇祓いのボスじゃなかった?」

「それは、前職、だ。ファッジに代わり昇進したのだよ」

 

 知っている。あえて問いかけた質問に、スクリムジョールはよどみなく答えた。

 ルーファス・スクリムジョール。彼は元々、魔法省の魔法法執行部闇祓い局の局長を務めていた男だ。強硬的な姿勢を持つ過激な男で、世の中が不安定な時に選ばれるリーダーの見本のような性格をしている。闇祓いとしての腕前は優秀であり、若手の闇祓いでは最強とされるアーロン・ウィンバリーには劣るものの、キングズリー並みではあるらしい。デスクワークがメインとなる局長でありながらその実力とは、恐れ入る。

 以上の情報は、昨年度末から手紙のやり取りをしているファッジからのものだ。小物なあの男は、いまではハリーのご機嫌とりに忙しい。マグル側の英国首相に大臣交代の挨拶に行ったことも、ホグワーツの警備体制についてダンブルドアと密なやり取りをしていることも、孫娘のフェリシティがハリーの大ファンであることなどなど、あらゆることを手紙で教えてくれているため、ハリーはかつての確執は水に流して都合のいい情報源としている。

 

「それで、大臣。何故ぼくの家に? さっきも言ったけど、アポイントメントなしってのは、だいぶ不躾なんじゃないかな。ただでさえ物騒な世の中なのにさ」

「それについては、謝罪、しよう」

「……ハリー、こいつ絶対なにも悪いと思っちゃいないぜ」

 

 スクリムジョールが礼儀正しく頭を下げたが、ダドリーがハリーに向かって小声でささやいた言葉には、首肯するしかなかった。言葉の節々を妙に強調するしゃべり方のせいか、彼がハリーを侮っていることは嫌と言うほど伝わってくる。それが分かっているからこそ、ハリーは敬意を見せていない。口調も目上の者に対するものではなく、ぶっきらぼうなままだ。

 彼はダドリーの言葉が耳に入らなかったかのように振る舞い、杖を振るうと空間を裂いて、テーブルの上にバタービールの瓶をごとりと乗せる。ハリーは詳しくはないが、おそらく上物だろう。

 

「お近づきのしるしに、だ」

「……なんだって?」

「かつての魔法省は、君に対して大変な失礼を働いた。どうか、仲直り……を、検討してもらいたいと。思って、ね。それでは、今日のところは、これにて。失礼させていただくよ」

 

 いまの魔法省は君と懇意にしたいのだ、と暗に示す言葉を残して、スクリムジョールは暖炉へと歩みを進める。言いたいことだけを言ってさっさと去ろうとする姿には、傲慢さと意志の強さが垣間見えた。

 ハリーはそれを見送らず、バタービールの瓶が置かれたテーブルの近くにあるソファへどかっと乱暴に座ると、ビール瓶へ手を伸ばす。そしておもむろに、それを手に取るとラベルを手荒に引っぺがした。

 ダドリーが驚いて目を見張るのを無視して、スクリムジョールが眉を寄せる顔を確認した。ラベルの裏側に書かれている魔法式は、魔眼で視る限り発信機のような役目をはたしている。飲んだ者の位置を術者へ伝えるようなものだろう。ハリーがそれを破り捨てると、込められた魔力が暴発したのか、ラベルは燃えてしまった。

 床へごろりとバタービールの瓶を放り投げて転がしたハリーは、スクリムジョールをにらみつける。片眉を動かした新しい魔法大臣は、ソファへ深々と座ったままのハリーへ尊大に言い放った。

 

「おやおや、これは異なこと。こんな商品だったとは、三本の箒に苦情を出さねばな」

 

 仕掛けた罠を看破されたことに慌てれば可愛げもあったものの、そういう物言いをされてはハリーも黙ってはいられない。ソファへ座ったままのハリーは、相手が年上だとか社会的地位のある人物だとか、そういった事情をすべて無視して言い放った。

 

「失せろ」

「……君はなにもわかっていないのだ。ダンブルドアも、君も、なにも……分かっちゃあいない……。いずれ、理解するときが来るだろう。……いずれ、な……」

「二度目は言わない。ぼくは、自分を盗聴盗撮しようって輩とは仲良くできない」

 

 女性の、しかも十五、六歳というお年頃のプライバシーを覗き見ようとする輩を信用できないのは、まあ当たり前である。スクリムジョールはハリーの言葉を全く理解できないというそぶりを見せて、くるくると回転しながら煙突飛行で去っていった。

 緑色の炎が残滓としてちろちろ電気ストーブを焦がすさまを見つめながら、ハリーはため息を漏らす。嵐のような男だった。自分の意志を貫き通す硬さ以外のものは感じ取れず、他者を気遣うといったことができるのか甚だ疑問である。

 

「やっこさん、誰も信じてませんって顔した奴だったな」

「……なんで平然としてるんだい、ダドリー」

「ははっ、流石に慣れたかな。はははッ。ははッ。はーッ!」

 

 スクリムジョールと会話している間、怯えながらも割といつも通りの態度を出せていたダドリーに疑問を持って聞いてみれば、遠い目をして平坦な声で回答が返ってきた。笑い声がうわずっていたことには触れないでおいてやろう。実の父母がぶっ倒れている中での魔法族の訪問は、彼にとってかなりのストレスだったに違いない。

 父親をひょいと抱き上げてペチュニアの横たわるソファの下に転がして、ダドリーは彼氏に会いに行くと言って家を出ていった。癒されに行ったのだろう。もう彼の趣味嗜好について、ハリーは口を出さない。ダーズリー夫妻には内緒にすることは約束しているのだ、いつか彼自身が覚悟を決めたときに、自分で打ち明けるだろう。

 

「それで、ダンブルドア先生。入ってきたらどうなんです?」

「おや。では、そうするとしよう。お招きいただきありがとう」

「こんばんは、先生」

「やあ。こんばんは、ハリー」

 

 ダドリーが玄関を開けて去っていく様を見送っていたハリーは、ずっと玄関先に立っていながらにしてダドリーが気づかなかった人物を見逃すはずはなかった。

 白いヒゲに、同じ色の長い髪の毛。きらきらと輝くブルーの瞳のきらめきを増すかのように、その折れ曲がった鼻には半月メガネがかけられている。魔法使いであることを隠しもしないブルーのローブは、ラメ入りなのか瞳と同じように光を反射していた。

 図々しいことを平然とのたまい、ダンブルドアはダーズリー家へと上がり込む。もちろん、ハリーがダーズリー家の人間でないことなど百も承知だろう。勝手に来客を許したとバーノンが知れば、怒り心頭になるかもしれない。

 

「それで先生、どうしてこの家に? ぼくはてっきり、ウィーズリーおじさんが迎えに来るものだとばかり思ってましたよ」

「ちょいと代わってもらったのじゃ。きみ個人にも用事があったからの」

 

 ダンブルドア直々にダーズリー家へ訪問してきただけでも驚きだというのに、ハリーへ個人的に用事があるなどと、いやな予感しかしない。いぶかしんでいることに気づいたのか、ダンブルドアはいつも通りの微笑みをハリーに向けるだけだった。

 さっそくシリウスへの見舞いへ行こうと言うハリーだったが、しかしダンブルドアは待ったをかけた。リビングに転がっているバタービールの瓶に気づいたのだろう。

 面白がった彼は、キッチンの椅子に座りながら杖を振るうと埃っぽいコップを二つ出現させ、そのバタービールをコップへと注いでハリーへ差し出した。盗聴魔法は仕掛けられていたが、その魔法はすでに取り除いている。飲み物に罪はないのだから、まあ飲んでも構うまい。

 

「ところでハリー、このバタービールはどうしたのかね?」

「ああ、これですか。スクリムジョール大臣が、さっきダーズリー家へやってきましてね」

「ほほう、彼が」

「乙女の私生活を覗き見するのがお望みだったようなので、丁重にお帰り願いました」

 

 コップの中身を一気に飲み干してお代わりを乱暴に注ぐハリーが明らかに怒りを覚えている様子を見て、ダンブルドアはくすくすと笑った。そういう老人だと分かっているハリーはそれを咎めなかったものの、常識的に考えて、贈り物に盗聴器と監視カメラを一気に仕掛けるような人物が自分の教え子の家に押し掛けたと知れば、教育者として怒るべきところではある。そこはダンブルドアがハリーの実力を信頼していると思っておくことにしよう。現に盗聴魔法を仕掛けたことを看破し排除しているのだから。

 ダンブルドアがスクリムジョールに関して批判的なことを言わないのは、きっと彼が有能な男だからなのかもしれない。ファッジと比べると明らかに行動派の人物であり、日刊予言者新聞によれば、ヴォルデモートの復活を信じており、それの対策を行っている。

 同じく新聞記事には、ダンブルドアとはあまり仲が良くないという事も書かれてはいたが、彼がその話を持ち出すことはなかった。無駄に追及することもなかったので、新たなる魔法大臣についての話はそこで打ち切ることになる。

 

「ハリーや、きみは来年度で十七歳……魔法界において成人扱いとなる」

「ですね。……ところで僕は本来ひとつ年下なんですけど、そこらへん大丈夫なんです?」

「うむ、問題ない。君はこの世に生まれ落ちた時点で一歳児の肉体じゃったからの」

「なるほど。それじゃ、来週で十六歳になれるわけですね」

「さよう。きみの誕生日には、友人たちから素晴らしいプレゼントが届くことじゃろう。それでのう、ハリーや。きみは幼いころからこのダーズリー家に預けられ、きみを危険から遠ざける守護魔法の効果を持続させるため、この家を生活の拠点として維持し続けてきた」

 

 妙に説明的な物言いだが、ハリーは黙って頷いた。

 ハリー(ハリエット)の母、リリー・ポッターがハリー・ポッターにかけた愛の守護魔法は、ヴォルデモートがハリー(ハリエット)を造り上げる際に幼子のハリー・ポッターを素材にしたことによって、彼女にも流れている。

 それとは別に、死喰い人といった特定の邪悪から彼女の発見を妨げるといった魔法は、ダンブルドアがこのダーズリー家にかけたものだ。ハリーやダンブルドアは、ヴォルデモートが次代の自分を産ませるためにハリーを製造したことが判っているが、他の死喰い人達がそれを知っているとは思えない。ヴォルデモートはおそらくハリーが子を産むまで殺すことはないだろうが、危険であることに変わりはないのだ。ポッター夫妻の娘となる少女を危険から守るために、守護魔法をかけるのは道理である。

 その守護魔法は、《ハリーが未成年の間、血族の家を自分の帰るべき場所だと思う限り持続する》という代物。ハリーはヴォルデモートによって造られた人間ではあるが、その素材にはジェームズとリリー・ポッター、ヴォルデモートの三人が用いられている。つまりハリーの身体に流れている血は、ポッター家、エバンズ家、リドル家の三家。ジェームズとヴォルデモートの親族がことごとく亡くなっている以上、彼女にとっての血族は、いまや伯母のペチュニアと従兄のダドリーしか残っていない。つまりこの魔法を適用するために必要な家は、ダーズリー家のほかにないというわけだ。

 こんな複雑で強力な大魔法を十五年間(先ほど彼女自身も口にしたが、その特殊な生まれから、ハリーは同年代の友人たちより本来ひとつ年下である)も保ち続けるというダンブルドアの偉大さはすさまじいが、それでも未成年の間という制約がついてしまった。

 そのことは、ハリーもダンブルドアに説明されて重々承知している。その守護魔法が、来年の誕生日を迎えると解けてしまうこともだ。

 

「だからこそ、あともう一年間。彼女をこの家に迎え入れてほしいのじゃ」

「……?」

 

 ダンブルドアの物言いに、ハリーは首を傾げた。まるでハリー以外の人物へ話しかけているようだった。彼の視線の先には、床にぶっ倒れたままのバーノンと、ソファで眠っているペチュニアしかいない。よもやどちらかが起きて話を聞いているのかと思ったが、どちらも身動きしないのでわからなかった。

 先ほどの言葉を述べることで満足したらしいダンブルドアは、ハリーを見舞いにつれて行くのでお預かりするとその場で宣言した。ダーズリー夫妻のどちらかが、すでに意識を取り戻して狸寝入りしていることを確信しているようだ。

 去年より中身が詰まったトランクを持って自分の部屋から出てくると、ウンともスンとも言わないダーズリー夫妻を置いて、ハリーはダンブルドアと共にダーズリー家をあとにしてプリベット通りを歩く。『姿現わし』で即座に移動する方が早いのにそうしないのは、きっと歩きながら話したいことがあるのだろう。ダンブルドアが口を開くのを待っていると、彼はハリーの気遣いへにこりと微笑んでから話しかけてきた。

 

「ハリーや、きみは『姿現わし』の資格を持っておらんのう」

「ええ、まあ。まだ十七歳じゃありませんから」

「理論は知っておろう? なにせ昨年度、秘密の特訓で会得しておるようじゃからの」

「……、…………はい」

 

 ダンブルドアは本当に何でもお見通しだった。

 昨年度、ハリー達は闇の魔術に対する防衛術の教授になった『名前を言いたくもない例のアレな人』からの反抗心、もとい勉強の必要性を感じて、《ダンブルドア・アーミー》という名の秘密の私塾を開いた。そこでハリーは、『姿現わし』の練習をしている。失敗して体の一部がバラけた経験はもちろん、成功した経験をも味わっている。彼はきっと、その時のことを指して言っているのだろう。

 私塾の名前は、現実にはありもしないダンブルドアの私設軍隊を恐れる『アレな人』への当てつけだ。しかしその名前が原因で、ダンブルドアに不利益を与えたことがある。ゆえにハリーにとっては、そのことを話に出されると少々気まずいのだった。

 

「ほっほ。別に責めはすまい。きみの勤勉さには本当に驚かされるし、感心なことじゃ」

「……ありがとうございます。ところで、なぜ今そんなことを?」

「シリウスへの見舞いの後、わしと共に行ってもらいたいところがあるのじゃ」

「よっぽど危険なところでなければ、よろこんで行きますよ」

「少なくともプリベット通りよりは安全なはずじゃ」

 

 それならば、きっとこの世の天国だろう。

 ハリーと約束を得たダンブルドアは、左腕を彼女へと差し出す。『付き添い姿現し』の合図だ。それに従ったハリーはダンブルドアの腕に手を乗せると、それと同時にへその裏側がぎゅっと掴まれてひっくり返されるような奇妙な感覚を味わった。

 ぎゅぱっ、と今まで存在しなかった物体が空気を押し出す音を聞きながら、ハリーは目の前の建物に目を向ける。以前もアーサー・ウィーズリーの見舞いに行ったときに目にした、聖マンゴ病院だ。

 最初に『移動キー』でワープを経験した時は無様にひっくり返ってしまったものの、今ではそのような事もない。しっかりとした足取りで病院内へ入ると、あちこちから視線を感じた。日刊予言者新聞ではハリーの顔写真と共に『例のあの人』の復活を告げているし、隣には今世紀最強の魔法使いダンブルドアもいる。これで注目されない方が不思議と言うものだ。

 サインをねだる受付嬢を適当にあしらって、見舞客のバッジをもらったハリーとダンブルドアは、特別病棟へとまっすぐ向かう。駆け足になりそうな気持を抑えながら、ハリーは病室へ急ぐ。ダンブルドアもまた、焦りを隠せないハリーを咎めることはしなかった。

 

「シリウス!」

「お、ハリエット。よく来たな」

 

 大慌てで病室へ飛び込んだハリーを待っていたのは、ベッドの上で蛙チョコレートをかじっているシリウスだった。

 普通に起きとる。というかノンキにチョコなんか食ってる。

 

「シリウス?」

「なんだ、ハリエット。蛙チョコ食べたいのか?」

 

 もぐもぐと蛙チョコを食べきったシリウスは、ふたつめを麻袋から取り出してひらひらと振って見せる。ハリーは蛙チョコを無視して、シリウスの首にかじりつくようにして彼の身体を抱きしめた。

 

「シリウスーッ!」

「おおっと、ハリエット。どうしたんだ、情熱的だな」

 

 ハリーの体重を支え切れなかったのか、ベッドにぼふんと沈んだシリウスの胸に顔をうずめて、ハリーは泣きじゃくるように彼の身体を抱きしめて、その名を呼び続けた。シリウスはそんな彼女の黒髪を優しくなで続け、ダンブルドアに視線を向ける。微笑ましそうに頷かれるのみで、どうやら止める気はないらしい。

 ぐりぐりと頭を押し付けてくるハリーを撫でながら、シリウスはダンブルドアと会話する。

 

「それでダンブルドア、どうです?」

「うむ、ハリーは了承してくれたよ。これから彼のところへ行くつもりじゃ」

「ああ、この子が行くならあの爺さんも喜んでオーケーしてくれるでしょうよハリエットちょっと痛いあと熱い摩擦で熱いもうちょっと抑えて」

 

 シリウスがハリーをべりっと引っぺがして、ダンブルドアと近況を語る。

 ハリーはシリウスに甘えることに夢中でよく聞いていなかったが、どうやら自分はこのあとどこかへ連れて行かれるらしい。先ほど言っていたことだろうか。いまは愛する家族の匂いに包まれていたいので、ダンブルドアの微笑ましいものを見る視線とかはどうでもいいのだ。

 思っていたよりずっと平気で健康そうなシリウスの様子に、ハリーは歓喜を覚えるが、しかしハリーが抱き着いて押し倒してから、彼が起き上がる様子がない。それを疑問に思ってみれば、シリウスのもとへ屋敷しもべ妖精が歩み寄ってくる。

 

「シリウスお坊ちゃま、おトイレのお時間ですよ」

「……クリーチャー」

 

 車椅子を押している屋敷しもべは、驚くべきことにブラック家に憑いているクリーチャーであった。初めて会ってから最後に顔を合わせたときに至るまで、彼はブラック家の純血思想に背くシリウスやその仲間であるハリー達へ毒づいて悪態をついて溜息をついて、とにかく憎悪したり嫌悪したりしていたはずだった。

 それだというのに、なんだろうね目の前の彼の態度は。まるで小さい子供に対するような声色で、それでいて嫌味なく嬉々としてシリウスの世話をしようとしている。しかも下の世話を。

 

「その呼び方はやめろって……」

「ですがお坊ちゃま、クリーチャーめはブラック家のしもべです。なればこそ、あなた様のお世話をしてきた身としては、再びお坊ちゃまのお世話をできて感無量なのでございます」

「いや、だからその呼び方……」

「さぁ、ちっちーとうんちのお時間ですよ。ふふふ、まさか再びクリーチャーめが()()()を変える役目を仰せつかるとは。あなたの可愛さを忘れていたクリーチャーめが愚かでした」

「いや、ほんとその呼び方……」

 

 話を聞く限り、まるで聞き分けのない子供をあやすベビーシッターのような印象を受ける。おそらくいまのクリーチャーにとって、シリウスは三〇代の成人男性なのではなく十にも満たない子供に見えているのだろう。

 シリウスはブラック家の純血主義に染まり切っていたクリーチャーを毛嫌いして、クリーチャーはブラック家の長男に生まれながら血を裏切るシリウスを侮蔑していた。互いに憎しみ合っていたというのに、不思議なものである。

 それというのも、シリウスが下半身不随となったことで、彼に四六時中ともに世話をする存在が必要になった。いまは専門の魔法によって壊死しないようになっているが、下半身の自由が利かない。それはつまり、ひとりでは起き上がることはもちろん、トイレも自由にできないということだ。小も大も我慢するための命令が脳から下半身へ伝わらないためである。それゆえ、四六時中シリウスについていることが容易な屋敷しもべ妖精であるクリーチャーに彼の世話をする役目が回ってくるのは、必然だったといえるだろう。

 ハリーはクリーチャーのことを、よく思っていない。それどころか、殺せるチャンスがあれば闇へ葬ってやりたいとさえ思っている。何故かと言えば、彼は裏切り者になる可能性があったからだ。

 ダンブルドアの調べによれば、昨年の神秘部での戦いにおいて、ハリーを魔法省へおびき寄せる役目をクリーチャーは請け負っていたというのだ。ベラトリックス・レストレンジは、ブラック家の出身である。そのため、シリウスに仕えるのが嫌になったクリーチャーは彼女へ会いにゆき、ハリー・ポッターをおびき寄せる手伝いをする代わりにシリウスからの解放を約束させる契約を交わしたのだという。具体的な手段としては、『両面鏡』を隠すことでハリーとシリウスが連絡を取れないようにするというもの。それによって偽の手紙による詐欺を完璧に仕上げるためだったのだ。しかし結果はご存知大失敗。ハリーは毎晩シリウスとおしゃべりをしていたため、いつ愛する娘から連絡が来てもいいように肌身離さず『鏡』を持っていたことで見事に計画は頓挫した、というわけである。

 情報ソースは、シリウスへ忠実になったクリーチャー本人から。シリウスが不自由な体になったのでやむを得ずクリーチャーを頼ったことで、シリウスのことを世話すべき子供であると認識して母性(?)に目覚めた彼は、実にペチャクチャと様々なことをしゃべってくれた。計画が失敗して本当に良かった。ハリーはその話を聞いた瞬間からこれ以上の裏切りをする前にクリーチャーを殺すべきだと主張したが、それはダンブルドアがやんわりとハリーを諭すことによって退けられた。シリウスの屋敷しもべの扱いにも問題があったし、何より今はもう裏切る可能性はなかろうということだ。

 結果、こうして介護妖精クリーチャーが爆誕。優秀なその介護によってシリウスの下半身の尊厳は護られ、赤ん坊扱いされることで彼は今までのしもべ妖精への扱いを反省する。ハリーは愛する後見人のそんな様子を見て、げんなりしてしまう。ダンブルドアは屋敷しもべへ少しだけ優しくなれたシリウスとハリーを見て微笑んで、ブラック家の務めを果たせるクリーチャーは狂喜乱舞していた。

 

「必ず手紙は送ってくれよ。かならずだぞ、ハリエット」

「もちろんだよシリウス。絶対に忘れない」

 

 別れ際に、手紙でのやり取りを忘れないようにとシリウスからの懇願を受ける。病院内では『両面鏡』のような特殊な魔力を発する魔法具の仕様はできるだけ控えるよう言われており、そのためシリウスが退院するまでは手紙でしかハリーとの連絡は取れない。それゆえの懇願だろう。未だに嫌いなクリーチャーからの献身的な愛を受け取るには、シリウスはまだ大人になり切れないのだ。

 精一杯の強がりと、持ち前の明るさで二度と運動できないことを嘆くことなくハリーに笑って見せたシリウスの姿に、たしかにハリーは励まされた。本来お見舞いに行く側が励ますべきだというのに、こうまでされてしまっては自分が子供だったことを認めるしかないとハリーは内心で嘆息した。その心境を見抜いているダンブルドアは、彼女に余計なことをいう真似をせず、黙って聖マンゴ病院のロビーへと歩みを進める。

 煙突飛行用の暖炉が並んでいるエリアへと進むと、ダンブルドアはハリーへ自身の手を取るようにと言う。彼の目的とする人物へ訪問するには、どうやら『姿現わし』で行くつもりのようだ。

 

「煙突飛行で向かうのでは?」

「それではたぶん、逃げられるでの」

 

 ずいぶんと物騒なことを言ってくれちゃうじゃないの。

 ハリーはそう思いながらも、決して口には出さなかった。口にせずとも伝わるからだ。辛辣な感想にダンブルドアは可愛らしい悪戯を受けたかのように微笑んで、紳士ぶってその手を掲げる。ハリーもまた淑女ぶって、その手に自分の白い手を乗せた。ふざけたやり取りに互いに微笑んでから、二人の姿はぎゅぱっと螺旋を描いて空気を巻き込み消えたのだった。

 

 

 ひとりの影が、空気を押しのける音を伴って姿を現した。

 目深にフードを被った影は、シルエットから女性であると判断できる。そして即座にふたたび、その場から『姿くらまし』して消えてしまう。後を追ってきたのか、もう一人の影がその場に『姿現わし』してくる。こちらも同じくフードを被っており、その正体が女性であること以外に判別できない。

 どうやら前者の女性を見失ったらしいフードの女は、癇癪を起してゴミ箱をあさっていた動物へ緑色の閃光を放つ。やせ細ったキツネが、哀れにもケンと悲鳴を上げてこの世を去った。

 フードの女を撒いた女性は、スピナーズ・エンドという袋小路にその姿を現し、急いて歩みを進める。高級なヒールが削れるのも構わず、通りの一番奥にある家へその細い手を伸ばし、数回のノックを叩きつける。工場地帯のよどみきった空気に眉をひそめる女性は、家主が出てくるまで執拗にノックをつづけた。

 数分の間そうしていた彼女は、ドアの向こうへ苛立った足音がやってくるのを耳にしてドアから手を離す。わずかに開かれたドアの隙間から黒い闇に染まった長髪がのぞく。陰気な土気色の顔と、胡乱な目つきの男の名はセブルス・スネイプ。決してハンサムとは言えないその顔を見て安堵した女性がフードを脱げば、薄い金髪が流れ落ちる。年相応にしわの刻まれた、しかし美しさを損なわない顔の持ち主は、名をナルシッサ・マルフォイという。

 

「これは、これは、これは。お久しぶりですな、ナルシッサ」

「……急ぎの用ですの。お話できますか?」

「無論ですとも。お入りなさい」

 

 ナルシッサがスネイプの部屋に入れば、壁はすべて本の背表紙で埋め尽くされていた。シックで落ち着いた色合いの調度品でまとめられているが、ランプひとつが照明具として活躍している薄暗さは、持ち主に似て陰気な印象を彼女に与えた。

 スネイプがナルシッサへソファをすすめると、彼女は恐る恐る古ぼけたソファへ座り込んだ。ローブからのぞく白い手は、寒さか恐怖か、いずれにせよ細かく震えてひとところに落ち着かない。

 

「飲むといい」

 

 綺麗に片づけられたテーブルには、ワイングラスがふたつ置かれていた。まるでナルシッサの来訪を予知していたかのような光景に、彼女はいちじるしい恐怖を覚えた。スネイプによって注がれたワインを飲もうと、震える手でグラスを持ちあげるも、あまりにも激しく震えているため水面は荒ぶる海のように暴れまわり、よく磨かれたテーブルをよごしていた。

 スネイプが対面に座り、静かにワインを口に含む。じゅうぶんに味を楽しんだ彼は、静かに口を開いた。

 

「それで、ナルシッサ。なぜ我輩のもとへ?」

「……ここに私が来てはいけないことは、重々承知しています」

「では、なおさら何故来たのかね。ルシウスはこのことをご存じで?」

「いいえ、いいえ。……主人は私がここへ来ることを知りませんわ」

 

 震える声のナルシッサへ落ち着くようスネイプが言うも、彼女は恐怖によって震えるばかりで効果が見られない。ワインをもうひとくち飲むよう強く進めると、彼女は怯えながらもちびちびと飲んでゆく。ひとくち飲むごとに、彼女の震えが収まってゆく。グラスひとつを空にするころには、彼女の唇から漏れる英語は、もとの正しい発音へと戻っていた。

 

「……セブルス、お尋ねして申し訳ありませんわ。ですが私には、もう、あなたしか助けてくれる人が思い当たらないのです」

「ルシウスに頼めばよい。あなたの夫ですぞ」

「ですが、主人は『例のあの人』のしもべです。あのお方の意に背く真似はできません」

 

 ここにきて、はじめてスネイプが片眉を上げた。闇の帝王が彼女にやるなと言ったことを、ナルシッサは破ろうとしているのだ。それは明確な帝王への叛逆に他ならない。帝王が白と言えば黒も白くなり、やれと言ってやらねば死罪となる。

 だが彼女にとって、闇の陣営への忠誠よりも優先すべきことがあった。

 

「息子たちのことです」

「ドラコと、スコーピウス。実に優秀な魔法使いたちだ」

「ええ、ええ。私の可愛い息子たち。彼らを助けてやれるのは、あなただけです。セブルス」

 

 ふたたび震えが始まった彼女に対して、スネイプは二杯目のワインをすすめた。ゆっくりとグラスをあおるナルシッサは、たどたどしく言葉を紡ぐ。

 

「主人は、神秘部の戦いに参加しませんでした。帝王がそれをお望みになったからです。ですがそのために、義兄のロドルファスや他の者のように、アズカバンへ行くことはありませんでした。それに腹を立てた者がいるのです」

「ふむ」

「あの方は、……あ、あのお方は、スコーピウスへ、し、仕事を命じました」

 

 しゃくりあげるようになったナルシッサへ三杯目のワインをすすめるものの、今度こそ拒否されてしまう。スネイプは眉をひそめながら、ヒステリーを起こしかけているナルシッサの言葉を待つ。美しい金の髪の毛をかきむしりながら、ナルシッサは半ば叫ぶように言う。

 

「できるわけがない! あの子は、まだほんの子供です! 成人さえしていない、子供なのに! それなのに、あのお方は命じなさった。ご自身さえ不可能なことを……」

「なるほど」

 

 スネイプは、ナルシッサが決して言葉にしようとしないその内容を察した。闇の帝王にできないことがあるなどと口にするくらいには、彼女も追いつめられている。若いころの美貌を未だに損なわず魅力的なままの女性は、しかし見るからに痩せてしまったためにその美しさを保てるのもわずかと言ったところであろう。人間の心は、肉体に影響をもたらす。

 ふたたび激しく怯え始めた彼女は、ついに絶望の声を漏らしてソファから崩れ落ちた。

 

「殺されてしまいますッ! わたッ、私の可愛い息子が……ッ! ああ、……ああ……! お願いセブルス、助けて……! あの子たちを、たすけて……」

「無論ですとも、出来る限り助けましょう。口約束しかできませんがね」

 

 ナルシッサはスネイプの言葉に満足しなかったらしい。

 だんだん面倒になってきたスネイプは、多少ぞんざいに彼女を慰めるものの、悲嘆にくれるナルシッサが気づく様子はない。長くなりそうだと悟ったスネイプは杖を振って、ワインのお代わりをキッチンから『呼び寄せ』、ふたたび静かにワイングラスへ注いだ。

 

 

 空気を押しのけて物体が現れる、『姿現わし』独特な音を響かせて、老人と少女はさびれた村の小さな広場に出現した。年齢としては孫娘と散歩に洒落こむ姿に見えなくはないが、問題は老人の格好が奇妙奇天烈なままであることだった。

 ハリーはさび付いた公園の遊具を眺めながら、ダンブルドアに問いかける。

 

「どうして目的の人物の家へ、直接『姿現わし』しないんですか?」

「おう、おう。ハリーや。それはさすがに非常識な魔法族の間としても、常識的ではない。例えるならば、スネイプ先生へ魔法薬の質問をするために彼の入っているトイレの扉を吹き飛ばして挨拶しに行くようなものじゃ」

 

 彼の話を要約すれば、魔法族の間では訪問を拒む機会を与えるべきであるというのが常識らしい。そもそもホグワーツと同じように、魔法族の建てる家には外部からの悪意ある『姿現わし』を禁じる魔法がかけられている場合がほとんどである。

 そういった魔法をかけてある家では自室からキッチンまでの短い距離を『姿現わし』する愚か者はいないため、大して不便に感じる者はいないだろう。だが近年のウィーズリー家では双子が日常茶飯事として行っているため、ハリーにとってはあまり想像できない話だった。

 要するに、他人の家へ訪れるのにわざわざ窓を割って転がり込むのは、いくらなんでも失礼であるということだ。

 

「ああ、あの家じゃ」

 

 ダンブルドアが指さした先の古ぼけてはいるが綺麗に掃除された一軒家を見て、そしてハリーは石造りの家から二度見するかのようにダンブルドアの腕へを目を向けた。

 驚いて声が漏れる。ダンブルドアはそれに気が付いて、ローブの中に腕を引っ込めたが、彼女はもうすでにばっちりと目に納めてしまっていた。しなしなに萎びて、真っ黒に焦げていたのだ。一瞬見間違いかと思ったが、ローブの中へ隠れていった彼の腕は間違いなく人間の肌がしていて大丈夫な色をしていなかった。

 

「ダンブルドア先生、その手はどうしたんです?」

「それについては追々語ろう。非常にドラマチックで刺激的な話題じゃからして、もっとふさわしい場で語りたいのでのう」

「……必ずですよ」

 

 有耶無耶にして説明義務を怠ろうとする様子が見えたので、ハリーはくぎを刺しておく。あっさり見破られたことに対して、ダンブルドアは驚くでもなく優しく微笑むだけだった。

 校長の腕のことは放っておいて、目的の家へ歩みを進めるうちにダンブルドアとハリーはほぼ同時におのれの杖を取り出した。目的とする一軒家の玄関ドアが、ひとつだけの蝶番にぶらさがって揺れている。どうやら、ドアを蹴破った無礼な先客がいたようだ。そしてその無礼者は、決してハリー達を迎え入れるために紅茶を淹れてくれるほど好意的な人物ではあるまい。髑髏の仮面をかぶった連中が暴れまわっている昨今、いやな想像をするにはじゅうぶんな光景であった。

 ハリーは袖の中に仕込んでいた杖を右手の中に滑り込ませて構え、ダンブルドアへ視線を向ける。彼が頷いたことで、魔法使用の許可は得られた。ハリーはまだ十五歳であるため、未成年である。魔法省の未成年魔法使用の『におい』探知に引っかかるのだが、そばにダンブルドアがいれば問題ないのだが、命のやり取りをするかもしれない状況下でそれを気にするのも阿呆だろう。

 

「……」

「…………」

 

 壁にべったりとこびりついた赤い絵の具を見て、ハリーはこの家の持ち主の運命を悲観した。こうなると捜索すべきは人ではなく、モノなのかもしれない。

 『探査呪文』を家にかけるかと目で問えば、ダンブルドアは首を横に振った。『探査呪文』は探し物には便利だが、探される側からすると自分を追いかけている者がいるとバカ丁寧に教えているようなものである。こうした状況では好ましくない魔法だった。

 杖を持って、ハリーは滑るように玄関をすり抜けてキッチンへと向かう。ゆっくりと歩を進めるダンブルドアは杖を構えてさえいないが、そのブルーの目は油断なく部屋の隅々へ張り巡らされている。

 

「誰もいません」

「こちらもじゃ」

 

 キッチンを眺めるハリーは、そこかしこに魔法の痕跡を見つける。これでマグルの空き巣が荒らしまわったという線は消え去った。ますます警戒心を高めたハリーは、リビングのすべての家具を注視して回る。いつ隙間からフェンリール・グレイバックみたいな外道が飛び出してきてもいいように、つねに魔力を練り上げて『武装解除』を放つ用意をしてある。

 寝室を見終えたダンブルドアが首を横に振ると、残るはリビングのみになる。ダンブルドアが扉を静かに開いて道をつくると、ハリーは静かにリビングへ滑り込んだ。姿勢を低くして、ソファや脚の折れて倒れたテーブルの影を静かに移動する。

 このリビングも、ほかの部屋に負けず劣らずひどいありさまだ。柱時計が時を刻むことなく、床へ倒れこんでいる。床に叩きつけられ四散した皿の上には、まだ暖かい湯気を揺らめかせるチキンが転がっていた。グラスを真っ二つにされて絨毯へシミを広げるワインを見れば、つい一瞬前までそこにいた下手人の気配を感じさせる。

 ハリーは面倒になって、家具の陰に隠れているであろう犯人を部屋ごとシビれさせるつもりで、部屋全体へ電撃を走らせることを考え着いた。実行しようと魔力を練れば、ふとダンブルドアが自身の肩に手を置いたことで魔法式が途切れてしまう。

 何をするのかと目で問えば、彼は呆れたように微笑んでいた。その表情が解せなかったハリーは、怪訝な顔のまま校長先生の行動を見守る。

 ストライプの趣味の悪いガラをしたソファの前で立ち止まったダンブルドアは、おもむろにソファを杖先で突っついた。割と力が込められたそれは、ソファが悲鳴を上げたことで引っ込められる。

 

「アイタッ! 悪かった、私の負けだ!」

「いたずらもここまでやれば立派なもんじゃのう、ホラス」

 

 面食らったハリーは、ソファから手足が生えて顔が浮かび上がったことで、変身術を用いて隠れていた男がいることを悟った。魔法式だらけの部屋で、変身していることに気づかなかった。

 まさか、この反則的な魔眼を持つ身であるのに、魔法を見破れなかったとは。愕然としているハリーの様子に気づいているダンブルドアは、にっこりと微笑んでいる。知らず自信過剰になっていた長い鼻を折られたことを、よい教育だと思っているのだろう。

 

「我が友アルバス、なんでバレた?」

「本当に死喰い人が君を襲ったのならば、家の真上に闇の印が撃ちあげられていたはずじゃ」

 

 ホラスと呼ばれた老年の男があちゃーと己の失態を悔しがるそばで、ハリーは最初から死喰い人の襲撃でなかったことに気づいていたダンブルドアのことをジト目でにらみつけていた。こんにゃろう、という意思はじゅうぶん伝わったらしい。お茶目なウィンクを返されては、もう何も言えなかった。

 片づけを手伝って家具を次々と直していくダンブルドアを見ながら、壁に塗りたくられた赤い液体が床に転がっていた瓶の中に飛び込んでいき、ハリーの目の前を浮いてホラスの懐へと帰ってゆく。そのラベルには《ドラゴンの血》と書かれている。手の込んだいたずらだとあきれていると、ホラスはハリーを見つけて喜色満面に寄ってきた。

 

「ほほう、ほほう。ほっほう! ではこちらの可愛らしいお嬢さんが!」

「そうじゃの。彼女が君のよく知る、ハリエット・ポッターじゃ。ハリーや、彼はわしの古い友人にして元同僚の、ホラス・スラグホーンじゃ」

 

 どうも、と挨拶をすると、スラグホーンは満足そうに笑って挨拶を返した。

 握手を求められたので、ハリーは快く応じる。老人らしい節くれだった堅い皮の手の平だが、弱くはない。骨もしっかりしているため、わりと健康的な生活を送れているらしい。

 どうやらスラグホーンは美人が大好きなようで、それを隠しもせず笑って言い放ち、ハリーは自分の笑みが引きつるのを阻止するのに必死だった。オヤジの無意識なセクハラというやつである。もしハリーが少年であれば、ここまで好意的ではなかったのかもしれない。

 なぜあんな手の込んだいたずらをしていたのかとハリーがあいまいに笑って問えば、死喰い人が会いに来たと思ったのだと笑って種明かしをした。たしかに物騒な世の中だが、あそこまで徹底した偽装工作を行う人物もまれだろう。

 

「それで、ホラスや。今回はわしらだったが、きみの偉大なる才能を求めて、わしは彼奴らめが勧誘に来るものと思っておったが。わしの予見は外れてしまったかのう」

「いいやアルバス、当たっているよ。だが、やつらには誘いをかける機会を与えなかった。ほぼ毎週、私は棲み処を変え続けている。この家の本来の持ち主は、いまは日本の北海道でバカンスを楽しんでいるころだよ」

 

 部屋の持ち主からすれば、ああまで清々しく荒らしてくれれば、にこやかなお礼と共にスラグホーンへ銃弾の一発でもぶち込んでやりたくなるものだろう。

 マグルの家を転々として死喰い人陣営に影も掴ませないやり方に、ダンブルドアは感心した表にひげをなでていた。そうしてひとしきり彼の話を聞いていると、ダンブルドアは静かに話を切り出した。その様子から、これこそが本題だったのだろうとハリーは察する。

 

「ところでホラスや、ホグワーツに戻る気はないかね?」

「ない」

 

 ダンブルドアの勧誘は、若干食い気味に即答された。

 

「あそこはマグルの家よりも安全じゃよ?」

「アンブリッジのうわさは聞いたぞ。私は激務の末に聖マンゴへ入りたくはない」

「あれは、女史がフェンリール・グレイバックを城内へ招き入れたからじゃ」

 

 誘いを断る口実にたいして、ダンブルドアもまたすぐに切り返した。ハリーは今聞いてもはらわたが煮えくり返る思いだった。いまもアンブリッジは聖マンゴで自分の状態を認めることができず、満月の夜になると悲しそうに遠吠えしているとのことだ。ハリーはそれを聞いてもちっともカワイソーとは思わないし、ザマミロ&スカッとサワヤカな笑いが出て止まらない。

 ダンブルドアの言葉に、スラグホーンは口実を失った。いくらなんでもそんな馬鹿なことをした女を言い訳に使いたくはなかったらしい。

 

「しかしなあ。私はもう働かずともよい年齢だと思うのだが」

「わしより若いじゃろうて」

「きみと他の一般人を一緒にしないで欲しいな」

 

 頭は真っ白で、顔にも深いしわが刻まれている。

 たっぷりとしたお腹は別だが、たしかに老年の彼に教鞭を取れと言うのはいささか厳しいのかもしれない。ハリーはダンブルドアの勧誘は失敗に終わりそうだと思って、適当にリビングの飾りつけへ目をやった。

 どうやらスラグホーンはさまざまな私物を持ち込んでいるようで、だんまりを決め込んでいる《隠れん防止器》や、笑顔のスラグホーンと若者たちがおさめられた写真立てなどが暖炉に置かれている。

 その中の一枚に、ハリーは見覚えのある笑顔を見つけたことでソファから立ち上がる。ダンブルドアとスラグホーンの視線を背中に感じながら暖炉へ歩み寄り、写真立てを手に取る。その様子を見て、スラグホーンは満足そうにハリーへ声をかけた。

 

「私のお気に入りの生徒だよ。リリー・エバンズ」

「……母です」

「そう、きみのお母さんだ。非常に魅力的な子だった。魔法薬の天才とは、ああいう子のことを言うのだろうな。我が寮に来るべきだと常々思っていたが……彼女はいつも笑って今の方がいいと言っていたよ。いやはや、ステキな子だった」

 

 続けてスラグホーンは、隣の写真立てに写る人物は、自分のおかげで魔法省に入省できて今でも政治的意見について求めてくれるだとか、ハニーデュークスの店長は私の教え子で、毎年誕生日プレゼントに箱一杯のお菓子を送ってくれるといった自慢を始めた。おそらく彼は、蒐集癖のあるマニアのような男なのだろう。

 ハリーは彼の言動で、もともとスラグホーンが魔法薬を教えていたのだと気づいた。おそらく、スネイプの前任者なのだろう。そう思うと、彼がホグワーツで教鞭をとっていないことは実に惜しかった。彼がそのままでいてくれれば、きっと幾人ものホグワーツ生が蛇のような嫌がらせを受けずに済んだに違いない。

 

「我が寮とは?」

「偉大なるスリザリンさ。私は寮監だったんだよ」

 

 ほー、とハリーは眉を上げた。どうやらスラグホーンの予期していた反応とは違ったらしく、すこし目を開いた彼は、そのまま言葉をつづけた。

 

「この寮の名を出すと、たいていのグリフィンドール生は顔をしかめるのだがね。やれマグル生まれをどうだの、純血だからなんだのと。それに対抗してスリザリン生もまたぎゃーぎゃーと……おっと、もちろん私は違うぞ!」

「ふふ、でしょうね。寮の所属で人間が決まるわけじゃ……ないですから」

 

 慌てて言葉を付けたすスラグホーンのコミカルさに思わず笑いながら言ってしまったが、ハリーはドラコの顔を思い浮かべて、同時にヴォルデモートの言葉も思い出してしまって少し言葉に詰まった。だいじょうぶだ、自分はドラコ・マルフォイを異性として意識しているわけではない。そのはずはない。

 思わず漏れてしまったものだが、言葉の続きを期待して少年のようにドキドキしているらしいスラグホーンの目に逆らえそうにない。ダンブルドアがなにやら微笑んでいるのをつとめて無視して、ハリーは言葉をつづけた。

 

「寮も、血も、人間を決める理由にはなりません」

「ほほう、ではハリー。人が人を決めるのは何が一番の要因だと思うね?」

「ここで勇気だと即答できれば、模範的なグリフィンドール生だったんですけどね」

 

 ハリーの冗談めかした言葉に、スラグホーンは嬉しそうに笑った。

 ここでこうして生徒に対するような問いかけをしてしまうあたり、スラグホーンは教師として長年やっていたのだろうとうかがえる。ダンブルドアの嬉しそうな顔を見て、やってしまったといわんばかりの顔をしているのが、まさにその証拠だ。

 彼の問いかけに、ハリーは少しだけ迷って、なんとなく思い浮かんだ言葉を答える。

 

「ぼくは誰かのために何を為したか、だと思ってます。正義を信じて闇祓いになり犯罪者を掴まえる人生を邁進したり、後進へ間違った人生を歩ませないために教師になったり、人生は楽しいものだと教えるためにクィディッチ選手になったり……」

「他者のために、何かを為せるか。それが君の言う、人を決める要素かね」

「あんまり格好良く言えませんでしたけど」

「いや、いや、いや。その年でそれが分かっているならば十分だとも」

 

 ハリーはいよいよダンブルドアの嬉しそうな顔を無視できず、ついに体ごと背けてしまった。ガラにもなく語ってしまったことで、耳が赤くなっていることに気づかれなければよいのだが。

 スラグホーンは愉快そうに、しかし苦々しい笑みを浮かべていた。耳がいたそうだ。

 

「ほう、ほう。ほっほう。アルバス、私を勧誘するために彼女を連れてきたのは、リリーの娘であるという理由だけではなく、こういう考え方をする子だからなのかね」

「ほっほ、わしはハリーの成長が嬉しい」

「う、うるさいな」

 

 思わず言い返したハリーの生意気な言葉に、スラグホーンはついに腹を揺らして盛大に笑った。何が面白いのかハリーにはわからなかったが、どうやらスラグホーンとダンブルドアにはわかっているらしい。互いに顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。

 ハリーにはよくわからなかったが、どうやらホラス・スラグホーンの勧誘は成功に終わったらしい。あの笑顔を見て、よもや断るなどという言葉が飛び出ることはあるまい。

 

「なるほどね、アルバス。君の企みは見事に成功したというわけだな」

「どうやらそのようじゃ。出来る限りの好待遇を約束しよう、ホラス」

「たっぷりとしたお給料と、広々とした教員私室を用意してほしいね」

 

 よしよし、と満足そうに笑ったスラグホーンが、杖を振ってキッチンのワインセラーから高級そうなワインを『呼び寄せ』る。生徒から贈られたワインの中に、とてもいい逸品があったので記念にそれを飲もうという話だ。

 ダンブルドアがグラスを三つ用意して、ハリーのグラスには先にぶどうジュースを注いでおく。ハリーは自らが語った持論でスラグホーンをホグワーツへ迎え入れることに成功したことになるのだが、どうにも釈然としない気持ちであった。

 

「おや、アルバス。そのワインがどうかしたかな? さすがお目が高い。アンブロシウス・フルームが私の誕生日プレゼントにと送ってよこしてくれた、かなりの高級品だぞぉ」

「……いや。なんでもないよ、ホラス。きっとわしの、気のせいじゃ」

 

 ワインをグラスに注ぎながら、スラグホーンがダンブルドアに問いかけるも、珍しく歯切れの悪い返答がなされた。珍しいこともあるものである。

 スラグホーンが教師になれば、まことに不思議なことに今年も空席になっていた、闇の魔術に対する防衛術の教師が決まる。これで来年のいもり試験に向けた勉強も不安はなくなるだろう。どうやら優秀な人間への執着心があるようだが、それも悪人という印象はなかった。少なくとも、アンブリッジほどひどい授業はするまい。

 どうやら先ほどのダンブルドアのブルーの目は、ワイン瓶に刻印されたマークが気になっているようだった。乾杯を促されて、ハリーら三人はグラスを静かにぶつけ合う。

 

「乾杯! そうだな、うん。平和な世の中に、だ!」

 

 スラグホーンがお腹を揺らしながら笑い、美しい赤紫色の液体が注がれたグラスをくいと煽る。ダンブルドアもまた唇を湿らせ、ハリーはぐいっとぶどうジュースを飲み干した。

 はやくハーマイオニーたちに会いたいなと思いながら、ハリーは赤く湿ったグラス越しに、ワイン瓶を眺める。見覚えのない印だ。純血家系の家紋かもしれないが、ハリーはそこらへんに詳しいわけではない。どうせこのあと、ダンブルドアに連れられて『隠れ穴』へ行くのだからロンやハーマイオニーに聞くのも悪くはないだろう。

 そう思ってハリーの覚えたマークは、三角形の中心に真円が収められ、その円を杖のような棒が貫いている印であった。

 

 




【変更点】
・ダーズリー家のハリーへの好感度。バーノンは知らん
・シリウス生存。クリーチャーやブラック家の相続はなし
・スネイプ家にベラトリックスが来ていない
・スラグホーンがハリーにかなり好意的


謎のプリンス編。いったい誰イプなんだ……。
ハリーの心が強くなっているので、今年もさらにつらいことが押し寄せてくることでしょう。がんばってくださいねハリー、シリウスおじさんは生きているからきっと大丈夫だよ。
不穏オブ不穏。昨年度にグレイバックがホグワーツに侵入しているので、ホグワーツ教師陣としては胃薬が手放せないことでしょう。頑張れスラグホーン先生。
明日、11月23日はファンタスティックビースト上映ですよ! 見ろよ・ケダブラ!


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