【オルフェーヴル編】とある武術家ウマ娘がトレセン学園に転入する話 −流れ星の転校生−【リメイク版】 (カンヌシ)
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第1章
1話 辿り着けないゴール



 オリジナル設定、シリアス展開多めですが明るい話も散りばめてます。じっくり展開なストーリーですがよろしくお願いします。


 

 

 

 

 

 

 夢を見ていた

 

 それはあるウマ娘の旅路

 

 『そこ』は多くの悲しい思いで溢れ返っていた

 

 

 

『勝てないレースの……取れもしないポジションのダンス練習なんてして、意味あるんですか!?』

 

 

 誰かが悲痛な声で叫んでいた

 

 

 

『約束したのにッ……一緒に……日本一の……ッ』

 

 

 誰かが悲しみに泣き崩れていた

 

 

 

『夢を見ることが……こんなに辛いって……思いたくなかった……!!! 思いたく……なかったのに……!!!』

 

 

 誰かが絶望に打ちひしがれていた

 

 

 

『そうだ……私の……願いは……』

 

 

 『私』はただ、走ることしか出来なかった

 

 それだけしか、報いる方法がなかったから……

 

 

 

 

 

=================================

 

 

 

 

 

 

 

「ハッ、ハッ、ハッ……」

 

 

 

 長閑な田園風景が広がる山間の集落、その畦道を、ランニングウェア姿のウマ娘が肩に大きな道着袋を抱えながら1人駆けて行く。

 

 陽は燦々と照りつけ、彼女が一歩踏み出すごとにその肌で汗が弾け、つたり落ちていく。

 

 

 彼女は何故、こんな片田舎の畦道を走っているのか? 

 

 理由は単純、彼女は遠く離れた都市で開催される格闘技大会の会場へ『徒歩で』向かっているのだ。

 

 

 彼女の自宅のある山を出発して早2日、日はまだそこまで高くない。今朝起きて地図とコンパスで確認したところ、目的地まで後100km程度、明日の午前中には何とか間に合いそうだと、彼女は経験から推察した。

 

 

 

(そういえば、昨夜は何か夢を見ていたような……うまく思い出せない。でも、夢ってそんなものか)

 

 

 

 彼女は思い出せない夢のことよりも、現実のことに思考を割くことにした。実際問題、飲み水が心許無くなってきたので、どこかで補充する必要があった。

 

 

 

「ハッ、ハッ、ハッ……」

 

 

 

 リズム良く、そのウマ娘は弾む様に走る。レースの様な走りではなく、超長距離を移動する為の走り。マラソンや駅伝の走りに近い。ただ、彼女はフルマラソン数回分の距離を『ちょっくら行ってきます』のノリで走る。夜は野宿して、朝陽が昇るとともに再び走り出す。

 

 彼女はとある格闘ウマ娘の統括団体に所属しており、その待遇で新幹線やその他の移動手段、宿泊施設を無料で利用できるはずだが、それらを一度も使った事がない。幼き日に師であり育ての親でもある老人にこんな話を聞かされたからだ。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

『お前、飛脚って聞いたことあるか?』

 

 老人が幼いウマ娘に尋ねる。彼女がううん、と首を振ると彼はそのまま話を続けた。

 

『江戸時代にな、荷物や手紙を届ける為に、野を越え山を越え走ったヒトの男たちの事だ。リレーみたいに荷物を受け渡して走り続けるんだが、それでも1日1人で100km近くは走るんだ。ウマ娘の半分も速く走れねぇヒトの男がだぞ。凄えだろ。それを考えればお前、ウマ娘が高々300kmを移動するのに新幹線を使うってのは情けねぇと思わねえか? 俺が武者修行してた若い頃は、ウマ娘たちはもっと野生味が溢れる獣の様な奴ばかりだったが、最近のウマ娘は根性が足りねぇ。今時こんな事言ったら、口うるさいジジイがって思われるんだろうけどよ』

 

 師である老人を尊敬していた幼いウマ娘は憧れに目を輝かせた。

 

 『おじいちゃん! あたしもヒキャクになる!!!』と叫ぶと、制止する老人の声には耳もくれず一目散に走り出した。そしてその翌日、無事5つ離れた町の交番で保護されたのだった……しかし、飛脚への憧れは彼女の中から今も消えてはいなかった。

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「ハッ、ハッ、ハッ……ん?」

 

 

 畦道の先、そのウマ娘の視界に不自然に傾いた軽トラが見えた。どうやら溝にタイヤが嵌まってしまっている様子だった。横で老夫婦らしき2人が困った様に立ち尽くしている。彼女は軽トラまで近付くと、老夫婦に声をかける。タッタッタと軽快な足音に気付いた老夫婦も近付いてくるウマ娘をじっと見つめていた。

 

 

「どうしたんですか? ああ、後輪が……それでトラック、動けなくなったんですね。私、多分お力になれますよ」

 

 

 お爺さんが手を合わせて近付いてきた。

 

 

「おお、渡りに船とはこの事じゃ、ありがてぇ……! べっぴんなウマ娘さんや、どうかワシらを助けて下さらんかね」

 

「えっと……横から持ち上げますので、少し離れていて下さい」

 

 

 ウマ娘は溝にのある方に回り込むと、車体を下から持ち上げる様に踏ん張った。少しずつそれを移動させると、ドスンという音とともに下ろす。そこにお婆さんが近寄ってきた。

 

 

「まあ〜ありがとねぇ、ウマ娘のお姉ちゃん。本当に助かったよ。こんな細いのに、ウマ娘ちゃんは凄いねえ。何かお礼が出来れば良いのだけど」

 

「いえ、それには及びませんが……もし出来るなら……」

 

 

 ウマ娘はお婆さんが腰に付けている竹筒をチラリと見ると、お婆さんはその視線に気付いた。

 

 

「こいつかい? 水筒代わりに使ってるものだけど、アンタ水が欲しいのかい? ちょっと待っとれよ、トラックにも何本か乗せてたからね。おーい、爺さんやー」

 

 

 お婆さんはエンジンのチェックをしていたお爺さんのところへ行くと、竹筒を何本か入れた袋を手に戻ってきてウマ娘に渡した。

 

 

「すみません、飲み水が切れかかっていたので助かりました。ありがとうございます」

 

 

 お婆さんはにっこりと笑った。

 

 

「ええんよ、ええんよ。助けられたのはこっち。まだお礼したりないくらいさ。ところでウマ娘ちゃん、こんな辺鄙なとこを通るなんて、よっぽどの物好きだね。それ道着袋だろ? 武術家かいね、どこへ行くんだい?」

 

「この先の山の向こうの町です。『ちょっとした武術大会』がありまして、それに出場するんです」

 

「ええ、山の向こうって、走って山を越えるつもりかい? ウマ娘ちゃん1人で危ないよお」

 

 

 お婆さんは驚き慌てるように言うが、ウマ娘は「ここまで同じようにして来たので大丈夫です」とはにかむ。すると、プップーと軽トラックに乗ってお爺さんがやってきた。2人の側で停車させると、彼は運転席から降りる。

 

 

「おうい、婆さんや。そのべっぴんなウマ娘さんならきっと大丈夫だ。ワシの若い頃、この辺はよく旅するウマ娘たちが通ったもんよ。ワシは何人も見てきたから分かる。そのウマ娘さんは『慣れている』奴だ。今時珍しいこった。しかし、ほんとありがとうなぁ。山向こうへ行くんなら、急いでるじゃろ? 引き止めて悪かったなぁ」

 

「いえ、お力になれて良かったです。お水、ありがとうございます。それでは!」

 

 

 ウマ娘は頭を下げて礼をすると、再び走り出す。道着袋の膨らみが少し大きくなっていた。

 

 

「ああー! お待ちんしゃいウマ娘ちゃん、名前を聞かせておくれ! あんた、名前はーっ!?」

 

 

 お婆さんの声にウマ娘は走りながら振り返った。

 

 

 

「『マリンアウトサイダ』! 私は『マリンアウトサイダ』と言います!」

 

 

 

 彼女の左耳の短冊を2枚重ねたような髪飾りがフワリと揺れた。

 

 畦道の上を、軽快に走り出したウマ娘の姿が次第に遠ざかって行った。

 

 

 

 その後日、新聞を見た老夫婦は「ちょっとした武術大会じゃねぇぞ! こりゃたまげた! あのべっぴんウマ娘さん、こんな腕の立つ格闘ウマ娘だったのかぁ!?」と驚愕したのだった。

 

 彼女が制したのは『石楠花杯』という、年に1度開かれるジュニア・シニア混合の武術大会だった。レースで言うところの宝塚記念、つまりは世代最強の格闘ウマ娘を決める大会だった。

 

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある大会終了から3日後、マリンアウトサイダは地元の町に『徒歩』で戻り、日が沈み月が出てきた頃にやっと帰宅したのだった。東京郊外のとある山の奥、古びた道場の裏手の母屋が彼女の家だった。

 

 今回の遠征は過去最長距離だったので、スタミナに自信がある彼女も流石に疲労困憊の様子だ。

 

 

「ハァ……ハァ……やっと、着いた」

 

 

 彼女はガララッと玄関の引戸を開け中に入ると、ドスンと道着袋を置き、ボロボロになった靴を脱ぐ。

 

 

(うわっ……耐久性重視で選んだのに、1回の遠征で履き潰したの初めてだ……どうしよう)

 

 

 捨てるべきか、それとも洗えばあと1回くらいは使えるかと彼女が思案していると、奥から微かな足音とともに甚平を着た小柄な老人が現れる。

 

 

「おう、帰ってきたか『ミドリ』。今回はだいぶ遅かったな。兎にも角にも、お前まず風呂に入りな。泥まみれの雑巾みてぇだぞ」

 

 

 年頃の娘を雑巾呼ばわりするのはいかがなものか、だがこの老人は平生こんな調子なのでマリンは気にしていない。

 

 

「ただいま、おじいちゃん。今日は流石にクタクタだから、風呂に入ったらすぐに寝るよ。ところで大会の結果は知ってる? 新聞は見た?」

 

「新聞は見てねぇ。だが勝っただろう? 俺の弟子なんだ、その辺のウマ娘がお前に勝てるワケねぇからな」

 

 

 ぶっきらぼうだが、その言葉の裏には固く温かい信頼があった。マリンもそれを感じ取り、にこりと笑みを浮かべる。

 

 

「うん、最年少チャンピオンだってさ、私。正直あんまり実感ないけどね……ねぇ、おじいちゃん。そろそろ『マリンアウトサイダ』っで呼んでくれても良いんじゃない? やっぱり、いつまで経っても『ミドリ』って変だよ」

 

 

 マリンの言葉に老人は鼻を鳴らして腕を組む。

 

 

「ふん、まだまだ半人前以下のお前なんざ幼名で十分だ。チャンピオンだってんなら、俺から一本でも取ってみやがれ。風呂は沸かしてあるから勝手に入りな、俺はもう寝るぞ」

 

 

 ふあぁと欠伸をして老人は奥へ歩いて行く。高齢なはずだが、その背筋はびしっと伸びていて、体幹が安定しているのが一目で分かる。それはマリンアウトサイダが憧れ追い続けている『武術家』の背中だった。

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 カポー……ン

 

 

「はぁ……生き返る……」

 

 

 マリンアウトサイダは身を清めた後、湯船にゆったりと浸かっていた。しっとりと濡れた肌に湯の雫が滴り落ちる。

 

 

 走り通した後の湯船はまさに天国だろう。天国にいるのに生き返るという言葉は矛盾している気がするが、その心地よさの前には瑣末な事だと、彼女は思考を放棄する。

 

 

「……半人前以下、か。そりゃ、おじいちゃんには逆立ちしても勝てないけど……少し期待してたんだけどな、名前を呼んでくれるの」

 

 

 マリンは揺れる水面を見つめながら、祖父の背中を思い出す。

 

 

 彼女の師であり、育て親でもある老人。彼の名は『角間源六郎』。ある筋ではその名を知らぬ者はいないと言われる程の武術家らしいが、彼女は詳しくは知らなかった。

 

 彼は過去について多くを語る性質ではないので、彼女が源六郎について知っているのは「若い頃は武者修行で日本全国を渡り歩いた事」「ウマ娘の嫁がいたがずっと昔に亡くなっている事」「死ぬほど強い事」くらいだった。

 

 

 

「ふぅーーー……」

 

 

 

 マリンはぱちゃぱちゃと波を立てて足を動かす。疲労がお湯に溶けていくようのを感じた。

 

 彼女は己の手を見つめる。修行で手の甲は皮膚が所々硬くなっていた。乙女の手とは少し言い難い。しかし、彼女はあまり恋愛に興味が無いので、それを気にしていなかった。

 

 

 

「……本当の孫だったら、名前で呼んでくれるのかな……」

 

 

 

 加えてもう一つ、彼女が祖父について知っているのは『彼がこの山で赤ん坊のマリンアウトサイダを拾った事』だ。

 

 

 角間源六郎とマリンアウトサイダに血の繋がりは無い。

 

 ある雨の日に緑色のパーカーに包まれたウマ娘の赤ん坊を源六郎は山中の木の側で見つけた。警察にその事を届け出ても両親は見つからず、結局そのまま彼が赤ん坊を引き取った。緑色のパーカーが赤ん坊の唯一の持ち物だったので、彼は安直にその子を『ミドリ』と名付け育てた。マリンアウトサイダがその真名を思い出すのはもっと後のことだが、未だに源六郎は頑なに彼女を『ミドリ』と呼び続けている。

 

 

 

「ふぁああ……ああ、このまま眠ってしまいそう……そろそろ、上がるか」

 

 

 大きなあくびをして、マリンアウトサイダは湯船から立ち上がる。パチャパチャと浴室に水音が反響し、水滴が彼女の身体からしたたり落ちる。

 

 彼女の身体は細身だが武術家らしく所々に筋肉は付いているが、女性らしく丸みを帯びていて、まるでルネサンス期の彫刻の様に艶やかで美しかった。黒毛の耳と尻尾がコントラストとなり、その肌の美しさを一層際立たせた。

 

 出る所は出ている体型のウマ娘は多いが、マリンアウトサイダの体型は控えめと言って差し支えないだろう。むしろ武術家としては丁度いいくらいだと本人は思っている。大きく膨らんだ胸はきっと邪魔だろうなと町中で見かけるウマ娘を見て考える事さえあった。

 

 ザバァ……と湯を掻き分けて、彼女は浴槽から出る。その後、身体を丁寧に拭き、寝巻きに着替えてドライヤーで髪を乾かし、1つだけ取っておいた竹筒に水を入れると、水分補給をしながら寝室に戻った。とにかく早く眠りたそうな様子だった。

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 マリンは部屋に戻ると、真っ直ぐに押入れに向かい布団を取り出す。畳に敷く為に運びながらチラリと横を見ると、そこには彼女は物心つく前から肌身離さず持ち歩いている『緑色のパーカー』がラックにかけてあった。

 

 それを見つめていると、何故だか安心感で胸がいっぱいになり、眠気が加速していく。

 

 

 

(学校には、明日まで休むと伝えてあったよね……ねむ……)

 

 

 

 マリンは布団を敷くと、目覚まし時計をセットせずにそのまま横になった。眠い、彼女の頭にはその単語しか浮かんでいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 ワァーーー

 ウォーーーー

 走れーーー!

 いいぞ、そのまま行けーーー!

 

 

 

『彼女』は夢を見ていた

 

 

 

 たくさんの人の声が聞こえる……

 あれ……私は、何をしてるんだろう?

 ここは……どこ? レース……場?

 一度も行ったことないのに……どうして?

 

 

『彼女』は自分の脚が大地を蹴っているのを感じた

他に大勢が一緒に走っているのも分かった

でも不思議なことに、その姿は見えなかった

自分は今、誰と走っているのだろうと『彼女』はぼんやりした意識で考える

 

 

 

『最終コーナーを曲がって最後の直線に入る! ……の直線は短いぞ! ……は間に合うのか!』

 

 

 

どこからか実況の声が聞こえた気がした

 

 

 

 私は……こんな台詞を知っていたっけ……?

 誰も見えない、自分の姿すら

 ただ、自分が走っていることだけは分かる

 コーナーを曲がるとあとは直線だ

 その先にはゴールが……きっと、ゴールが

 

 

 

「え?」

 

 

 

『彼女』はゴールの先に、本来ならあり得ないものを見た

 

『緑色のパーカーを着た誰か』が立っていた

 

 

 

 

 

「誰……?」

 

 

 

 ドクンと自分の心臓が鳴る

 ドクン、ドクン、ドクンとうるさいくらい

 

 

 

「あ……」

 

 

 

『会いたい』 それ以外の言葉が彼女の中から消え去った

 

 

 

「あ…あ…」

 

 

 

彼女の胸の中を様々な感情が去来する

 

 

懐かしい……悲しい……寂しい……嬉しい……寒い……温かい……『会いたい』……『会いたい』……『会いたい』……

 

 

 

 

「あ、ああ……!!」

 

 

 

 走る ただただ走る

 

 

 

「はぁ……はぁっ……っ!!」

 

 

 

 走る 走る 

 

 でも、何故かゴールに届かない

 

 

 

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!!!」

 

 

 心臓が潰れてしまいそうなほど苦しい

 いっそ潰れてしまってもいい

 それでも行きたい

 ゴールのその先……『あの人』のところへ

 

 

 

『彼女』は手を伸ばす

 

まるで星を掴もうとする少年のように

 

しかし、激流のような思いが先走るだけだった

 

どれだけ走っても、『彼女』はゴールに辿り着けなかった……

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「はぁっ!! はぁ……あっ!! はぁ……あ……あ」

 

 

 マリンアウトサイダは飛び起きて、辺りを見回した。暗闇の中に差し込む月明かりで、彼女は自分の部屋に居ることに気付く。夜明けはまだまだ先のようだ。

 

 

 

「はぁ、はぁ……はぁ……水……」

 

 

 

 彼女は呼吸が荒く、とても喉が渇いているようで、すぐに枕元に置いた竹筒に口をつけた。ぬるい水が白い喉を滑り落ちる。彼女の身体は水を欲していた。

 

 

 

「ん、んぐ、はぁ……はぁ……」

 

 

 

 残った水を一気に飲み干して、ようやく落ち着いたようだ。

 

 

 

(あれは、何だったのだろう? ただの夢にしてはあまりにリアルだった。あまりに、感情が揺さぶられて……)

 

 

「あ、れ?」

 

 

 

 いつの間にか彼女の頬が濡れていた。薄暗い闇の中で気付きづらかったが、視界も黒くぼやけていた。

 

 

 

「私、なんで、泣いて……?」

 

 

 

 途端に、彼女の胸がギュウと苦しくなる。喪失感で骨も内臓も、身体の中身が全部消えてしまったかのように。

 

 

 

「なんで……どうして、こんなに、胸が……」

 

 

 

 せっかく飲んだ水が全部流れ出てしまう。そんな事を考えながら、マリンアウトサイダは再び横になった。眠っているのか、起きているのかも分からない状態で、彼女は朝を待ち続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次回 

2話 『私が君に走りを教えよう』


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2話 『私が君に走りを教えよう』

 

 

 

幕間 ある競走馬の生涯Ⅰ

 

 

 これは『ウマ娘』の存在しない別の世界の話。とある零細牧場が経営難により繁殖馬の大半を手放すことになった。セリや庭先取引で多くは他所へ売られたが、買い手の付かない馬もいた。

 

 残されてしまった馬は大抵、悲しい運命をたどる。高齢で食肉用に向かないならば殺処分、調教前の仔馬ならばサラブレッドでも食肉用として売られる場合もあった。

 

 その牧場も手塩にかけて育てた馬たちへ心無い決断を下さざるを得なかった。残されたのは数頭の繁殖牝馬と仔馬たち。

 

 その牧場の伝統で、厩務員たちは仔馬に『色』関連の幼名を付けていた。1番年上の栗毛の仔馬は『マロン』、その下に仔馬には珍しい葦毛の双子『ベニ』『アオ』

 

 そして、その中でひときわ小さく、1番後に産まれた『ミドリ』という名で呼ばれる黒毛の仔馬がいた……

 

 

 

–−−−−

 

 

 

 

ー武術大会から数ヶ月後ー

 

 

 

コンコン

 

 

 トレセン学園の制服を着たマリンアウトサイダが生徒会室の扉をノックする。今日が彼女の初登校日だった。彼女は学園の事務員に学園内の簡単な説明を受けた後、生徒会室へ行くよう指示された。生徒会長がお話をしたい、とのことだった。

 

 

「どうぞ」

 

 

 返答を聞き、マリンアウトサイダは扉を開けて入室する。中は「流石はトレセン学園」と言ったところ、日本一のレースウマ娘養成学校の名に恥じぬ厳かな造りだった。

 

 奥にある厳然たる佇まいの意匠を凝らしたデスク、その横で『皇帝』シンボリルドルフは軽く腕を組んで立っていた。そのその静かながらも雄々しい姿を見て、マリンは一瞬息を呑んだ。

 

 

「……失礼します。本日よりこの学園に通わせて頂くこととなりました。マリンアウトサイダと申します」

 

 

 マリンは目を閉じて会釈する。その洗練された佇まいにルドルフは思わず「ほぅ……」と声を漏らした。

 

 

「突然呼び立ててすまない。ここまでの道程は少し分かりづらかっただろう。初登校の生徒ならば、本来私自ら赴き、案内をすべきだったのだが……生徒会長の責務を担ってる故、外せない用事も多くてね」

 

「いえ、お気になさらず。この学園の地図は確認しましたので、学区内の建築物や道筋は全て把握しております。獣道しかない山中と比べたら、迷う事の方が難しいです」

 

 

 マリンは淡々と答える。

 

 

「……そうか、そういえば君は遠征先まで徒歩で、しかも野宿もして自らの脚で向かうのだとか。その噂は真実だったか。立ち話もなんだ、こちらのソファーで話そう」

 

 

 2人は応接用のソファーに腰掛け、向かい合う。そこに至るまでのマリンの所作も、非の打ち所がなかった。

 

 

「さて、改めて挨拶をさせていただこう。私は『シンボリルドルフ』。トレセン学園の生徒会長を務めている。どうか、よろしく頼む」

 

「はい、こちらこそ。よろしくお願い致します」

 

 

 座った姿勢でマリンは再び会釈する。小柄な体躯と相まって、その姿勢はジュブナイル期最強の格闘ウマ娘とは連想できないくらいに美しかった。

 ルドルフは思わずじっと眼前のウマ娘を見つめていた。

 

 

「……シンボリルドルフ会長、どうかなされましたか?」

 

 

 マリンが少しキョトンとした表情で尋ねた。整った顔立ちのウマ娘など、この学園で見慣れすぎているはずなのに、ルドルフは思わずマリンの顔に見入ってしまっていた。

 

 

「……いや失礼、私としたことが。少し面を喰らってしまった。目の前のウマ娘の姿があの『石楠花杯』を制した世代最強の格闘ウマ娘のイメージとは結びつかなくてね。驚心動魄といったところだ。気を悪くさせたのならすまない。大会映像も拝見させて頂いた。空手と合気道の武技を巧みに使い分け、相手を翻弄する様は実に見事だった。ご優勝にお祝い申し上げる」

 

「いえ、その……ありがとうございます。元々私は山育ちでして、粗野な振る舞いしか出来なかったのですが、以前の学校にて礼節作法をご教授賜った結果です」

 

「……ふむ。そうか……そういえば、その学校は都内大学への進学率も非常に高い進学校として有名だが、君はなぜそこに通っていたんだ? 格闘ウマ娘が通う学校とはイメージがかけ離れているが」

 

「私の住む山から最も近い学校だから……ですね」

 

 

 今度はシンボリルドルフがキョトンとした表情になる。

 

 

「近い……からと?」

 

「はい、後は成績上位者は学費が免除されますし、私が遠征で1週間ほど欠席しても特に何も言われませんでしたし、私立校だからか色々と融通が効いたのです」

 

「そう……か。確かに、君の調査書を拝見したが、学業成績は申し分ないというか……それ以上だな。何より、転入試験の学科考査が『満点』とは、恐れ入ったよ」

 

 

 マリンは勉強ができた。なぜか彼女の実家である道場裏の母屋には様々な種類の本が置いてあったのだ。幼い頃は武術の修行の後は、野を駆け回り、帰れば読書をしていた。学校に通える年齢になったら、山で他にすることと言えば勉強くらいだった。元々利発な子供だったので、そのお陰か成績はいつも優秀だった。地元の町に空手道場と寺子屋を混ぜたような場所があったが、そこで子供たちに勉強を教えるよう頼まれる事も多かった。

 

 

「私はトレセン学園は『スポーツ校』と認識しておりますが……だから学科考査もそこまでレベルは高くはなかったのかな、と」

 

 

 ルドルフが困ったようにはにかむ。

 

 

「そういう訳でもないのだがな……と、雑談はこのくらいにして、そろそろ本題に入ろうか」

 

 

 

キィィンッ……

 

 

 

 と、シンボリルドルフの雰囲気が一変する。先程の和やかな雰囲気は一瞬で消え去り、部屋の気温が突然氷点下まで落ちたかと錯覚するほど空気が重くなった。

 

 

「マリンアウトサイダ……」

 

 

 『皇帝』は問う。

 

 猛禽類が如き眼差しが黒髪のウマ娘を射抜く。

 

 

「何故君は、このトレセン学園へ転入して来た?」

 

 

 マリンはその威圧感、刺し殺さんばかりの視線を一身に受けたが、武術家にとってそれは挨拶と同じだった。彼女は落ち着いたまま、先と変わらぬ態度で『皇帝』を見つめ返した。

 

 

「面接官様にも申しましたが、自分の新たな可能性に挑戦したい……それだけです」

 

「ああ、もちろん面接試験の資料は見させてもらった。だが、それはあまりに『模範的な解答』だ。君の本心は別にある。違うかな?」

 

 

 『皇帝』の視線が一層鋭くなる。マリンの一挙手一投足も見逃さず、その真意を探ろうとしていた。

 

 

「このトレセン学園に転入するにあたり、君はUMADを脱退した。現状の制度ではURAとUMAD、両方に籍を置くことは不可能だからな」

 

「……はい、その通りです」

 

 

 

 UMAD《ユーマッド》とは、Umamusume Martial Arts Dojo(ウマ娘・マーシャルアーツ・道場)の略称であり、日本で開催されるほぼ全てのウマ娘格闘大会を取り仕切る、いわば格闘技版URAである。規模こそURAに劣るが、近年はレースに代わるウマ娘エンターテインメントの新たなブームの牽引役として注目されている。ちなみにURAとは基本的にウマが合わないようで、度々イベントの開催地やテレビの放映権を巡って諍いが発生していた。いわゆるバッチバチな関係である。

 

 

 

 ルドルフはマリンの眼を見つめる。そこには一切の動揺も迷いもない様子だった。それが尚更、皇帝を怪訝にさせた。

 

 

「……君の本当の目的は何だ? それ程の実力を持つ武術家である君が、何故UMADを脱退してまでレースに挑戦する? 武に生きる格闘ウマ娘ならば、どう考えてもデメリットの方が大きいはずだ。私はこの学園の生徒たちを導く者として、君の事を知る義務がある」

 

 

「………………」 

 

 

 マリンアウトサイダは口をつぐむ。

 

 

「……今、世間の君への風当たりが厳しいのは知っているだろう。君の突然の転向に驚かぬ者などいない。現に学園内は君の話題で持ちきりだ。この学園にも武術家のウマ娘はいるが、君はレースウマ娘にとってはいわば……」

 

「ならず者、と言った感じでしょうか」

 

 

 その言葉にシンボリルドルフは言葉を止めた。

 

 

「私の名でもあります。『アウトサイダー』……ならず者、部外者、余所者、その様な意味があります」

 

「……個人の名について、どうこう言われるべきでは絶対にない。不快に思われたのなら謝罪する。ただ、君は君が思っている以上に影響力がある。君は名誉や名声に興味はなさそうだが、格闘ウマ娘に携わる者やファンは君に大きな期待をしていた。実はつい先日、UMADの副理事長がこの学園にお忍びで来訪してきた。率直に言えば、君の転入を学園側から拒否するよう要求された」

 

「!? 姉さんが………そうですか、あの方ならそうするでしょう。私のせいでご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」

 

「いや、謝罪には及ばない。それも学園側の仕事だ。それに『助け舟』もあった。その事については万事解決した、といって差し支えない。あくまで今のところは、だが」

 

「『助け舟』?」

 

 

 マリンは聞き返した。

 

 

「……こちらの話だ。今は気にしないでもらいたい。私は君から直接転入の理由を聞きたかったんだ。教えてくれるか? マリンアウトサイダ」

 

「………………」

 

 

 マリンは俯いて黙っている。たっぷり10秒ほどの間をおいて、彼女はゆっくりとルドルフの方へ顔を上げ、語り始めた。

 

 

 

「夢を……見たのです」

 

 

 

 ルドルフはその言葉に一瞬目を見開いて驚いたが、黙って話を聞く事にした。

 

 

「私はレースに出たことはありません。レース場も、写真で見た事があるくらいです。でも、私はそこで走っていました」

 

「……………」

 

 

 シンボリルドルフは静かに耳を傾けている。

 

 

「コーナーを曲がった先に、ゴールが見えました。そして、その先に『誰か』が立っていました」

 

「ゴールの先に、人が立っていた……?」

 

 

 皇帝は思わず呟き返した。

 

 

「はい、普通ならそんな事があり得ないのはレースに疎い私でも分かります。でもあくまで夢ですから……私はその『誰か』を目指して走っていました」

 

 

 マリンが一呼吸入れる。

 

 

「ですが私は……ゴールに辿り着けませんでした。走っても、走っても、ゴールは遠ざかるばかりで。そしたら胸がとても苦しくなって、そこで目が覚めました」

 

「…………」

 

「夢なのは分かっています。でも、私にとっては……あまりにも、強烈な出来事だったのです。まるで現実の様な。夢の中で走っている時、ゴールの先へ行く為になら、全ても失っても構わないと、そう思っていた気がします。今でも、その夢が頭から離れないのです……」

 

「……夢……か」

 

 

 シンボリルドルフは呟く。

 

 

「このトレセン学園は日本一のレースウマ娘養成機関です。ここに来れば、少しでもあの夢の意味が分かるのではないかと考えたのです」

 

 

 マリンはじっと皇帝の眼を見つめる。

 

 

「愚かだ、と嘲られても仕方ありません。たった一度見た夢のために、私は武術家としての多くのチャンスを捨てたのです」

 

 

 皇帝もマリンを見つめ返す。両者の間に緊迫した空気が流れる。が、先に「ふぅ……」と表情を和らげたのはルドルフだった。

 

 

「…………いや、嘲りなどしないさ。むしろ、君の口から直接聞くと、不思議と納得した。あまりに予想外の返答だったのは確かだが」

 

 

 ルドルフは微笑んで言った。 

 

 

「荒唐無稽とも思える理由だが、今の君にとってはそれが『走る意味』なのだろう。それがどの様な理由であろうとも、トレセン学園の門は走りたいと願う全てのウマ娘の為に開かれる。ようこそ、マリンアウトサイダ。君の今後に、私は期待しているよ」

 

 

 ルドルフが手を伸ばして握手を求めると「ありがとうございます」とマリンは固く握り返した。

 

 部屋の雰囲気が元通りになり、シンボリルドルフはソファーに腰をかけ直した。

 

 

「……さて、話し込んでしまったな。君は明日から授業に参加するのだろう? 本日の予定は寮の部屋の確認までだ。今は午前中でそれまで時間もある。マリンアウトサイダ、少し私に付き合ってくれないか?」

 

 

 マリンは目をパチクリとさせる。

 

 

「ええ、構いませんが。どちらまで?」

 

「ついてこれば分かる。あと、これを渡しておこう」

 

 

 ルドルフは立ち上がるとソファーの陰から紙袋を取り出して、マリンに手渡した。

 

 

「発注させた君の体操着が今朝届いてね。ついでと思って私が預かっていたんだ。では、行こうか」

 

 

 2人は生徒会室を出ると、そのまま建物の外まで出た。マリンは一体どこに行くのかと思いながら、黙って会長の後ろをついていった。

 

 

 

 

−−−−−

 

 

 

 

 マリンとルドルフは練習グラウンドから少し離れた場所に位置する、小さなアパートのような建物にやってきていた。ルドルフは扉の施錠を外し、マリンを中は案内する。

 

 

「ここは……」

 

「私の所属するチームのロッカールームだ。さあ、その体操着に着替えてくれ」

 

「ええ!? 今……ですか」

 

「私も着替える。さあ、早く。午前の授業が終わってしまったら他のウマ娘たちもやってきてしまうからな」

 

 

 マリンアウトサイダとシンボリルドルフは手早く着替えを済ませると、練習グラウンドまで移動した。

 

 

 

 

−−−−−

 

 

 

 

 

「ここが我がトレセン学園の誇る練習グラウンドの1つだ。毎日専門の整備士たちによって懇切丁寧に管理されている。ここで数多のウマ娘たちがそれぞれの夢を叶えるべく、万里一空と日々努力している」

 

「ここが……」

 

 

 マリンは広大なグラウンドを見渡すと目を閉じて、鼻からゆっくりと空気を吸い込んだ。

 

 

「どうかな?」

 

「山の中とは、違う草の匂いがします……ここは、本当にウマ娘たちが『走る』ための場所なのですね……」

 

 

 マリンは再びグラウンドを一望する。

 

 

(思っていた以上に、ずっと広い……レース場は、また違った匂いがするのかな)

 

「さて、ここまで来たのなら、これから何をするか分かるだろう。そして君に1つ伝える事がある」

 

 

 ザザァーと秋の風が吹いてくる。これから訪れる寒さを予告するような、しかし心地よい風だった。その風に『皇帝』シンボリルドルフの髪が舞い揺れる。その堂々たる姿は、体操着にかの緑色の勝負服が重なって見える気さえ起こさせた。

 

 

 

「マリンアウトサイダ、私が君に走りを教えよう」

 

 

 

 黒髪のウマ娘は、その『皇帝』の姿から目を離せなかった。

 

 

「もちろん、私が時間を作れた場合に限るがね。この時期のトレーナーたちは皆忙しい。君がどこかのチームに所属するか、あるいは専属のトレーナーが付くまでの僅かな期間だが、その間に走りの基礎くらいは身に付けさせてみせよう」

 

 

 私にとっても良い経験となるだろうしね、とシンボリルドルフは付け加えた。

 

 

「それは、本当に光栄なのですが……よろしいのですか?」

 

「フフッ、気にするな。時間も惜しい、早速だが始めよう。まずはストレッチからだ。格闘ウマ娘の君に今更ストレッチなどと思うかもしれないが、走る前に重点的にほぐしておくべき箇所があって……」

 

 

 こうして、マリンアウトサイダのトレセン学園での生活が始まった。秋の風は、まだ吹き続けていた。

 

 

 





次回

3話 転校生とBNWとトプアヤ


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3話 転校生とBNWとトプアヤ

 

 

 

幕間 ある競走馬の生涯Ⅱ

 

 

 ある日、その零細牧場に大型の輸送車がやって来た。それは処分が決まった繁殖牝馬と仔馬たちを移送するためのものだった。業者が移送準備を始める中、その様子を眺める1人の男がいた。

 

 その男はとある出版社の社長で、そこの牧場主とは古くからの友人であった。彼は気まぐれで休暇に牧場を訪ねると、処分が決まってしまった馬を移送する場面に出くわしたのだった。

 

 社長が馬たちを眺めていると、その中に真っ黒い毛並みの艶やかな仔馬がいた。社長が牧場主に尋ねると、その仔馬は牝馬で他と比べると小柄だったので売れ残ってしまったらしい。競馬に関して素人だった社長は、水溜りでぱちゃぱちゃと遊ぶその仔馬のどこが悪いのか検討がつかなかった。

 

 

「なあ……あの黒い仔馬、今から俺が買うことは出来るか?」

 

 

 お前阿呆なのか?馬を買うのがどういう事か分かってるのか?と牧場主は返した。しかし、聞かん坊の社長は牧場主に頼み倒す。ダメ元で牧場主が取引先と連絡を取ると渋られながらも了承を頂き、その仔馬は社長が飼育費用なども諸々を支援する形で買い取る事となった。

 

 だが一方で、動物である当の仔馬にはそのような事情など理解できるはずもなかった。自分の母親の牝馬、仲の良い仔馬たちが連れ去られて行くのを柵の内側から悲しそうに鳴きながら見つめるしかなかった。その光景は黒毛の小さな仔馬の、魂にまで深く植えつけられる傷となった……

 

 

 

 

 

–––––

 

 

 

 

 シーンとしたある教室の中

 

 

 編入したクラスの教壇に立って、マリンアウトサイダはその場のウマ娘たち全員の視線を一身に受ける。彼女はトレセン学園の制服の上から、腰に緑のパーカーの袖を結んで巻いていた。

 

 すぅ……と一呼吸置いた後、彼女は澄んだ声で自己紹介を始めた。

 

 

「マリンアウトサイダと申します。このような時期に転入する事となりました。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、私は格闘ウマ娘として活動していた故、走りに関しては素人の域を出ません。皆さんの後輩となった気持ちで励んで参りますので、お力添えいただければ幸いです。どうか、よろしくお願いします」

 

 

 マリンアウトサイダは深々と礼をして挨拶を締め括った。所々でざわつきはまだ収まらなかった。

 

 

「綺麗……」

 

「あの人が噂の……」

 

「街中で喧嘩して何度も補導されたことあるらしいよ……」

 

「ええ、そうなの? なんでトレセンに来たんだろう……」

 

「なんで腰にパーカー巻いてるの……?」

 

 

 時季外れの転入生にクラスのウマ娘たちのささやきが止まぬまま、マリンアウトサイダは担任に指定された席についた。彼女は奇異の目で見られるのは覚悟していたので特に気にすることもなかった。

 

 

 マリンが街中で喧嘩をして何度も補導されたのは事実である。彼女は有名になるにつれ、何かと因縁をつけられて喧嘩を売られる事が多くなった。しかし、彼女はそれを面倒とも思わず全て受けた。そして真正面から叩き潰してきた。

 

 彼女は落ち着いてるように見えるがその実、中身はかなりの戦闘狂である。喧嘩は時と場所を選ばないものだと思っており、『常在戦場』の心構えを忘れる事はなかった。そのせいか、近寄りがたい雰囲気があるので友達は少なかった。しかし本人は特に気にしていない。基本的には頭の中は武術の事でいっぱいなのだ。

 

 

「はーい、みんな静かに! 転入生のことが気になるのは分かりますが、もう授業が始まりますよ! テキストの準備をしてください!」

 

 

 担任の声で皆が準備を始める。マリンもカバンからテキストを取り出した。そうやって、特に目立つような出来事もなく彼女のトレセン学園生としての生活が始まった。

 

 

 

 

 しかし運命とは不思議なもので、そのクラスには色んな意味で曲者たちが集まっていた。その出会いがマリンに後々大きな影響を与えることなど、今の彼女には知る由もなかった……

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

 

 最初の授業後の休み時間、マリンの席に1人のウマ娘が近付いてきた。ピシッと前髪が綺麗に真ん中分けの、元気で真面目な雰囲気のウマ娘だった。マリンに話しかけるのを何よりも楽しみにしていたと言わんばかりのニッコニコの笑顔で、彼女はマリンに話しかけた。

 

 

「こんにちは、マリンアウトサイダさん! 私、ナリタトップロードと言います! このクラスの委員長をしているので、分からない事があったら何でも聞いてくださいね!」

 

 

 マリンはその溢れんばかりのオーラに圧倒される。何だか悪霊も飛んで逃げていきそうな爽やかさだ、と彼女が内心感じるほどだった。

 

 

「は……はい、よろしくお願いします。ナリタトップロードさん」

 

 

 マリンが握手をしようと手を差し出すと、ナリタトップロードはギュッと両手でその手を包み込むように握った。

 

 

「こんな時期に転校してきて、きっと不安な事も多いでしょう。私、マリンアウトサイダさんのお力になれるのなら『何でも』しますので、遠慮なく頼ってくださいね!」

 

 

 ニコッと更に念を押すようにナリタトップロードは続けたのだった。

 

 

(『何でも』って簡単に言っちゃダメなような……けど、彼女の言葉に嘘は一欠片もないんだろうな。邪気とは無縁というか、どこまでも澄み渡った青空みたいな娘だ……眼も本当に澄み切って綺麗で……)

 

 

 マリンはナリタトップロードの瞳に見惚れていた。それに自分で気付いて何だか気恥ずかしくなり、目を逸らした。

 

 

「ほら、アヤベさんも挨拶しましょう! せっかく隣の席なんだから!」

 

 

 トップロードはマリンの手を離すと、マリンの右隣の席で本を読んでいたアドマイヤベガに言った。彼女は少し面倒くさそうな澄ました顔で、マリンの方を向いた。

 

 

「アドマイヤベガよ、よろしく」

 

 

 その雰囲気通りのサラッとした挨拶、しかしマリンにはむしろ好感が持てた。

 

 

「はい、よろしくお願いします。アドマイヤベガさん」

 

「ちょっとアヤベさん! 彼女は転校生なんですよ! 誰だって転入初日は不安なんですから、もっと明るく愛想良く振る舞ってあげないとダメじゃないですか」

 

「マリンアウトサイダさんは小さな子供じゃないでしょう。それに愛想良くなんて、私には無理よ」

 

 

 「それでもですよー!」とナリタトップロードはちょっぴり頬を膨らませてアドマイヤベガに言い聞かせる。

 

 この2人はとても仲が良いのだろう……浅からぬ縁がありそうだな、とマリンが思っていると反対の側の机からトップロード以上に元気な声が聞こえてきた。

 

 

「ねえねえ、マリンアウトサイダさん!」

 

 

 マリンは今度は左隣の方を向く。そこにはナリタトップロードに負けないくらいキラキラした瞳をした黒髪でショートヘアのウマ娘が座っていた。

 

 

「アタシはウイニングチケットって言うんだ! アタシも隣の席だからよろしくね! チケットかチケゾーって呼ばれてるから、好きな方で呼んでね!」

 

「あ……はい、よろしくお願いします。ウイニングチケットさん。ではチケットさんで。私のことはマリンと呼んでください」

 

 

「分かったー、マリンさん! これからよろしくね!」

 

 

 と返す彼女を見て、まるで元気の塊みたいな人だな、とマリンは思った。

 

 

「ねえねえ、マリンさん! キミ、格闘技がすっごく強いって噂で聞いたよ! カッコいいなー! アタシもスポーツは結構やるんだけど、格闘技はあんまりやった事ないんだよね!」

 

「ありがとうございます。未だ修行中の身ですが」

 

「こら、チケット。すっごく強いなんてものじゃないぞ。ジュニア・シニア含めた世代最強の格闘ウマ娘と言われている方だ」

 

 

 マリンがチケットと会話していると、いつの間にか背の高い眼鏡をかけた芦毛のウマ娘がチケットの側に立っていた。

 

 

「会話に混ぜてもらっても構わないだろうか? 私はビワハヤヒデという。ハヤヒデで構わない。よろしく頼む」

 

「はい……ハヤヒデさん、よろしくお願いします。私もマリンで構いません」

 

 

 何だか頭がフワワっとしてて大きい方だなぁ、触ったら気持ち良さそう……とマリンが考えているとズイッとハヤヒデの顔が彼女に寄ってきた。もしかして、何か失礼な事を考えてしまったのがバレたのか?などと思っていると

 

 

「時にマリン殿、折り入って君に相談したい事があるのだが……」

 

 

 ゴゴゴゴゴ……とハヤヒデはただならぬ覚悟を決めたような雰囲気だった。メガネが白く光って目が伺えない。何でメガネキャラってメガネが光るんだろう?とマリンは思った。

 

 そして、ハヤヒデはシュバっと色紙を取り出して、頭を下げてマリンに突き出した。

 

 

「ファンだ!!! どうかサインをお願いしたい!!!」

 

「………へ?」

 

 

 予想外の言葉にマリンはポカンとした。彼女は今までサインをねだられた事は一度も無かったのだ。大会の後は直ぐに徒歩で帰宅するし、空いた時間は山で修行しかしないのでファンと会う機会は皆無だった。

 だが、いつまでもハヤヒデをその姿勢のままにする訳にもいかず、色紙を取り、ネームペンでキュキュッとサインをした。

 

 

(あ……ちょっと歪んでしまった)

 

「えっと、これで良いでしょうか? 私サインって書いた事なくて、普通に名前を書いただけですが……」

 

「そうなのか!? 確かに格闘ウマ娘はファンと交流する機会が少ないからな、ではこれが最初の1枚目だと言うことか! ありがとう! これは家宝にするぞ!」

 

 

 キラキラと顔を輝かせて礼を言うハヤヒデ。彼女の知らない側面に周囲のクラスメイトは困惑していた。

 

 

「あはは! そういえばハヤヒデは格闘技が好きって前に言ってたもんね! トレーニング前は好きな格闘漫画の影響で炭酸抜きコーラとか飲んでるし! あ、そうだー! アタシたち2人の紹介をしたなら……」

 

 

 チケットは突然教室の中をビュンッ!と高速で駆け出した。器用に机の隙間を縫ってあるウマ娘の席まで一瞬でたどり着く。他に生徒たちはチケットの進行ルートからササっと飛び退いていた。よくある事なのか、謎の連携プレーにマリンは再びポカンとしていた。

 

 

「ターーイーーシーーンーー!!!!」

 

 

 チケットはスマホをイジってる小柄なウマ娘をウサギを持つように突然ヒョイっと担ぎ上げた。

 

 

「なっ!? ちょ、いいとこだったのに! やめ、うわぁああ!!」

 

「タイシンタイシンタイシンタイシンタイシン!!!!!」

 

 

 ビュビュンッ!とチケットはそのウマ娘を担ぎ上げたまま、再び高速で移動してマリンの席の所まで戻ってきた。

 

 

「タイシン急行とうちゃーーーーく!!!!!」

 

「ちょ、マジふざけんなぁ!!!」

 

 

 ドンッ!とチケットがタイシンを担いできた樽みたいに床に下ろすと、それと同時にずっと回ってたハヤヒデも止まった。

 

 

(……私はもしかしてトンデモないクラスに来ちゃったのかな? いつもこんなに騒がしいのだろうか)

 

 

「こ、こほん、取り乱してすまない。この趣味を共有できる者があまりいなくてな……と、マリン殿、こちらはナリタタイシンだ。私たちは3人はよくレースで対決していて、メディアではBNWと呼ばれているんだ」

 

「BNW……聞いたことあります。ナリタタイシンさん、よろしくお願いします」

 

「ああもうっ! 〜〜っ……まぁ、よろしく。ネットニュースで見たよ。相当強いんだってのはそれで知ってる」

 

 

 初対面のウマ娘の前だからか、タイシンはすぐに落ち着いてツンとした態度で挨拶をした。口はちょっと乱暴そうだけど、根は優しいんだろうなとマリンは感じた。

 

 

「ところで、マリン殿。君は試合場まで必ず走って自ら赴くと聞いたのだが、その噂は本当だろうか? サバイバルキャンプのような事もするのだとか」

 

「!……サバイバルキャンプ……」

 

 

 タイシンの耳がピクンと反応する。

 

 

「ええ、この間の『石楠花杯』の時は移動に片道3日かかりました」

 

「えーー! 3日って、たった1人で走って野宿しながら行ったの!? マリンさんって見た目よりワイルドだーー!」

 

「……ねぇ、そのサバイバルする技術ってどうやって身につけるの?」

 

 

 ナリタタイシンが興味ありげにマリンに尋ねる。

 

 

「私が住んでいる山で師でもあり、育て親でもあるおじいちゃんに教わりました。裸一貫で山で生き抜く術を身につければ、どこでも生きて行けるから、と。私はみなしごで両親がいないので、自分が生きている内にって……」

 

「え、みなしごって……」

 

 

 チケットが不安そうな顔でマリンを見つめる。

 

 

「私は、赤ん坊の頃にその山で拾われたそうなのです。このパーカーに包まれて、雨の当たらない木の根の下に、恐らく捨てられていたのでしょう。だから、物心ついた時にはおじいちゃんと2人で過ごしていました」

 

 

 マリンは腰の緑のパーカーを触りながら言った。

 

 

「「「「「…………」」」」」

 

 

 思ってもなかった情報が出て、場の空気が重くなる。マリンはあれ?という感じだった。友達が少ない故、彼女は会話に慣れていない。

 

 

「……ご、ごめん。変なこと聞いた……」

 

 

 タイシンはやってしまったか、と言う顔だ。

 

 

「あ、その、気にしないで下さい! 私が余計な事を言ってしまっただけです! 全然気にしてません! 私はおじいちゃんと暮らせて幸せですし、山は修行場でもありますが、そこで過ごすと心が落ち着きますし、夜に見上げる星空はいつ見ても綺麗ですし、皆さんにも見せてあげたいくらいなのです」

 

 

 星空という言葉に、アドマイヤベガの耳がピクッと反応する。

 

 

「ほう、マリンアウトサイダの修行場……それは非常に興味深いな。あの強さと技は如何にして身につけられたのか。データとして価値がありそうだ。レースにも役立つかもしれない」

 

「アタシもアタシも! マリンさんが修行してる山に行けばカンフーの達人になれるかなー! アチョオーーって!」

 

「何でカンフー限定なのよ。でもいいな……アタシ、最近キャンプの動画とかたまに観てて、ちょっとだけそういうのに憧れてて……」

 

 

 そしてマリンは何となく提案した。

 

 

「もし良ければ、私のウチに来ますか? ただの山ですが……キャンプみたいな事も出来ると思います。多少のことは教えられますので」

 

 

 キラン!とハヤヒデの眼鏡が光った。

 

 

「ほう……! それは格闘技ファンとして願ってもない機会だな」

 

「いいのー!? 行ってみたい行ってみたい!!」

 

「……! ア、アタシも! 色々教われるなら、行ってみたい!」

 

 

 BNWが盛り上がってるのを見て、ナリタトップロードもキラキラ目を輝かせた。

 

 

「それ、私も参加しても良いですか! あとアヤベさんも一緒に!」

 

 

 ええ、良いですよとマリンが答えると、アドマイヤベガが慌てた様子で言う。

 

 

「ちょっと、何で私まで!?」

 

「良いじゃないですか、アヤベさん! 新しいクラスメイトとの交流は大事ですよ! アヤベさん、星を見るの好きじゃないですか。きっと楽しいですよ!」

 

「私が星って言えば釣られると思わないで! ……まあ、興味はあるけど。はぁ……でも何故かしら。この流れ、この場にいないあの2人の顔も浮かんでくるのだけど……嫌な予感しかしないわ……」

 

 

 アドマイヤベガの脳裏に「ハァーッハッハッハッ!」と高笑いするウマ娘と、「あわわわわーっ!」と慌てふためくウマ娘の顔が浮かんだ。

 

 

 かくして、どこかの連休で皆(後から2名加わる)でマリンアウトサイダの住む山を訪れることとなった。

 

 ウマ娘、山、修行場、サバイバル、何も起こらないはずがなく……

 

 その話はまた別の機会に語られるだろう。

 

 

 

 





次回

4話 転校生とマンハッタンカフェと『お友だち』


ー追記ー
山編、更新されています。
リメイクにあたり最も書きたかった『ナリタトップロードとディクタストライカ』のエピソードを追加してます。
山編は独立した話なので、興味のある方はどうぞ。


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4話 転校生とマンハッタンカフェと『お友だち』

 

 

 

 

 

 

 ある晴れた日の午後、練習グラウンドで教官指導トレーニングが行われていた。専属トレーナーがいないウマ娘や療養中でチームトレーニングへの参加が難しいウマ娘たちが集まり、合同でトレーニングをしていた。

 

 マリンアウトサイダもそれに参加している。彼女は走りの基礎を学ぶ為に、今年度の残りの期間は教官の指導とシンボリルドルフの個人レッスンを受ける事に決めていた。

 

 

 

 そんな彼女を遠くから、腰まで届く長い黒髪を携えたの1人のウマ娘がジッと見つめていた。その娘の名はマンハッタンカフェ。オカルトチックでミステリアスな雰囲気なちょっと変わったウマ娘である。

 

 そして、そんな彼女の後ろから歩いて来るのはアグネスタキオン。ウマ娘の可能性を追究する為に(主に彼女のトレーナーが犠牲になりつつ)日々怪しい実験に励む研究者のようなウマ娘である。

 

 同じチームに所属する2人はトレーニングが早めに終わった為、寮に戻る途中だった。

 

 

 

 

「……………」

 

「おやぁカフェ、もしかして君もあの転入生が気になるのかい? 奇遇だねぇ、実は私もなんだよ」

 

「いえ、タキオンさん……彼女の姿がたまたま目に入っただけです」

 

「そうだろうそうだろう、気になるだろう! 彼女は世代最強の格闘ウマ娘と謳われていたのにレースウマ娘へ転向したそうだ。それも驚きだが、彼女の格闘の強さの秘密は何なのかが分かれば、私の研究に役立つかも知れない! という訳でカフェ、彼女をラボに連れてきてくれ。私では警戒されてしまうかも知れないからね。武術家というものは警戒心が強いのだそうだ」

 

「話を聞いてください……というか、一応自分が警戒の対象になる自覚はあったのですね。そちらの方が私にとっては驚きなのですが」

 

 

 カフェとタキオン、そんな2人が仲良しなのか不仲なのか分からないやり取りをしていると、マンハッタンカフェにしか聞こえない『声』が彼女に囁きかけた。

 

 

『…………………………………………………』

 

「……え? それはどういう……うん、わかった」

 

「おや、どうしたんだいカフェ? もしかして君の『見えないお友だち』が何か伝えてきたのかな?」

 

「……ええ、タキオンさんは先に戻っててください。あの転入生に用ができました。そろそろ教官指導トレーニングも終わる頃です。私はそれまでここで待ちます」

 

 

 それを聞いてタキオンは目を怪しく光らせてニヤリとする。

 

 

「いいや、何やら興味深いことが起こりそうな予感がするしねえ。私も側で観察させてもらうよ、いいだろう? 邪魔はしないさ。君の用とやらが全て終わった後に実験に勧誘するとしよう」

 

 

 カフェはジトッと目つきでタキオンを見る。タキオンが素直に帰るはずがないのは分かりきってはいたが……という顔だ。

 

 

「……まあ、いいでしょう。でも、そんなに面白い話では、ないと思いますが……」

 

(あの子が直接誰かにメッセージを送りたいなんて……こんなことは今まで無かった。あの転入生は一体……?)

 

 

 カフェは再びマリンに視線を移した。『お友だち』はいつも多くは語ってくれない。彼女はとにかく時が過ぎるのを待つことにした。

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

「よおし! 今回はここまでだ。後は各自でしっかりとトレーニング後のストレッチを行うように。では、解散!」

 

 

 教官に言われた通り、マリンは芝の上でストレッチを始めた。そのレパートリーはルドルフに教わっていた。その全てしっかりと終わらせて、共同ロッカールームへ戻ろうとした時、歩道から2人のウマ娘が彼女に近付いてきた。

 

 どうやらマリンに用がありそうな様子だが、彼女には覚えのない2人組だった。

 

 

「……すみません、お邪魔……しましたか?」

 

 

 マリンに話しかけてきたのは、なんだか不思議な雰囲気なウマ娘のマンハッタンカフェ。マリンは今まであったことのないタイプのウマ娘に目を僅かに細めた。もう1人の怪しい目をしたウマ娘のアグネスタキオンは一歩下がってこちらを見ている。

 

 

「いえ、ちょうどストレッチが終わったところです。私に何か……ご用でしょうか?」

 

「……私はマンハッタンカフェと、いいます。後ろにいるのはアグネスタキオン……彼女は私の話が終わった後に怪しい実験に勧誘してくると思いますが……無視して帰ってください」

 

「え? はぁ……分かりました。私はマリンアウトサイダと申します。この学園に来てまだ日は浅いですが、よろしくお願いします」

 

(この2人、一緒に歩いてきたからてっきり友人同士だと思ってたけど、違うのかな?)

 

 

 マリンは不思議そうに2人を見つめる。

 

 

「……マリンアウトサイダさん……転入生のあなたには奇妙に思われるかもしれませんが……私には他の人には見えない『お友だち』がいます」

 

 

 カフェはじっとマリンを見つめている。暗い深海へと吸い込まれいってしまう、そんな想像をしてしまうような目だった。

 

 

「その『お友だち』が……あなたに伝えたいことがあるそうです」

 

 

 マリンもじっとカフェを見つめ返す。そして……

 

 

「そうですか……その『お友だち』は私に何と言っているのですか?」

 

 

 疑いのない透き通った眼でそう返事をするマリンに、カフェはキョトンとしてしまう。

 

 

「……不思議な方ですね。私がいうのもなんですが……『お友だち』のことを伝えると、大抵の人は奇異の眼差しを向けてきます。しかし、あなたにはそれを全く感じない……なぜか聞いてもいいですか?」

 

 

 そう、マリンが訝しんだのはカフェとタキオンの関係性だけで、見えない『お友だち』について聞いても驚く様子も動揺もまるでなかった。カフェはそれを不思議に思ったのだった。

 

 そして「え? えっと……」とマリンはしばし考えて、口を開いた。

 

 

「そうですね……私は幼い頃から山の中で生活してきました。長い間山で生きていれば、不思議なことの3つや4つは経験します。その中には科学では説明出来ない出来事もありましたし、幽霊の様な見えない存在が居ても不思議とは思わないですね。後は私、あまり細かい事は気にしないタチでして……」

 

 

 カフェはじっとマリンを見つめて、ふと表情を和らげる。

 

 

「そうですか……あなたはとても純朴なのですね。大自然に守られて育った雰囲気を感じます。好感が……持てますね」

 

 

 そして、マンハッタンカフェは真剣な表情になる。

 

 

「では、私の『お友だち』の言葉を……そのまま伝えます」

 

 スゥーと息を吸い、彼女は言った。

 

 

 

「お前の『願い』はこの世界では決して叶うことはない」

 

 

 

「!!……っ」

 

 

 マリンは息を飲んだ。

 

 

 

「耐え難い喪失を味わいたくなければ、レースから身を引くことだ」

 

 

 

「……………………………」

 

 

 

 マリンの脳裏にはあの夜に見た夢の光景がよぎった。ゴールの先に『誰か』が立っていた、あの光景が。

 

 

 

「それでも走りたいと願うなら『夢』を探せ。お前の『願い』に替わる、お前の『夢』を……………以上です」

 

 

 

(……『願い』に替わる『夢』……?)

 

 

 マリンにはなんのことを言っているのか、分からなかった。

 

 

「……これが何を意味しているのか、私には分かりません。『お友だち』はあまり多くを語りませんので……確かに伝えました。機会があれば、また会うこともあるでしょう」

 

 

 では……と言ってマンハッタンカフェは去って行った。

 

 

 

「……………………」

 

 

 

 1人残されたマリンの心中はざわついていた。そして、ルドルフが個人レッスンの時に言っていたことを思い出していた。

 

 

 

『マリンアウトサイダ……私には夢があるんだ。全てのウマ娘が幸福に過ごせる、理想の世界を作る……という夢が。子供の戯言のように聞こえるだろう? だが、私は本気なんだ。私と同じ視座で夢を見てくれるトレーナー君と共に、それを叶えたいんだ……』

 

 

 

「夢……」

 

 

 マリンは呟いた。

 

 

「私の夢って……何だろう……」

 

 

 秋風が吹きつけ、斜陽がマリンの影をターフ落としている。その影も自分に同じ事を問いかけている……マリンはふとそんな気がしたのだった。

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

「あ、やっと終わったかい? それじゃ、早速彼女を勧誘しに……」

 

「行かせませんよ」

 

 

 カフェに制服の襟を掴まれてタキオンは「あう!」と声を上げる。そしてそのままズルズルと引きずられていく。

 

 

「カフェ、ちょ、離してくれないか? ちょこっとあの格闘ウマ娘に実験に協力してもらうだけじゃないか〜」

 

「きっと彼女は善意で協力してくれます。だからこそ駄目です。あの様な素朴さを持ったウマ娘にはそのままで居て欲しい……」

 

 

 そう言って2人は寮へと去っていく。マンハッタンカフェは彼女の『願い』とは何だろうかと、暫く気にし続けるのだった。

 

 

 

 

−–−−−

 

 

 

 

「うーーーん、これは………」

 

 

 トレセン学園の教官室で、1人の教官が頭を掻きながら、あるウマ娘のデータが書かれた資料を見ていた。

 

 指導したウマ娘たちのデータを管理するのも教官の業務の1つである。後々それらは専属トレーナーに引き継がれることになる為、指導教官という職は非常に重要な役割を担っているのだ。

 

 

「マリンアウトサイダ……か」

 

 

 彼が見ていたのはかの転入生のデータだった、その内容に彼は驚きを隠せなかった。

 

 

「特に突出している要素は無し……全体的に平均には達しているが、それだけだな……」

 

 

 マリンアウトサイダ、世代最強の格闘ウマ娘、いずれウマ娘格闘界の皇帝となるのではないかとも噂された神童。

 

 しかし、目の前のデータにはそれらを読み取れる要素は皆無だった。反射神経と跳躍力には目を見張るものがあるが、レースウマ娘の中では抜きん出て目立つほどではない。

 

 

「ガタイの良いウマ娘ってわけでもないしな。格闘大会の映像で見せるあの強さは、純粋な武術の技量による強さってことか」

 

 

 これは……難しいな、と教官は呟く。彼は椅子に座ったまま背伸びをして、背もたれに寄りかかる。

 

 

(潜在能力や走りのセンスがあるかも分からないが、高等部で今からレースを1から学ぶとなると……)

 

 

「このウマ娘を指導できるトレーナーは相当に限られてくるぞ……」

 

 

 誰がいる……?と教官は呟いて、思案を巡らせる。

 

 

(シンボリルドルフのトレーナー? 確かに超一流だが、あんな多忙な身の人に頼むわけにはいかない)

 

(ヤエノムテキのトレーナー? 武術家繋がりだからと言って相性がいいとは限らない。安直に決めるのはリスクが大きい)

 

(とにかくデータ的には平凡だが……『普通ではない』ウマ娘なのは確かだ。いい意味でも悪い意味でも。そんなウマ娘をこの時期から任せられるトレーナーは……)

 

 

 

 

 

「あっ」

 

 

 1人……たった1人だけ、彼の頭に思い浮かんだ。

 

 

「『シリウス』のトレーナー……あいつになら任せられるか?」

 

 

 チーム『シリウス』……レース界では名の知れわたる、今や名門と評されても良いチームだ。だが、最初はそうではなかった。

 

 一癖も二癖もある超個性的なウマ娘たちを束ね上げたトレーナーの苦労は、涙なしでは語れないエピソードばかりだ。

 

 

「せめて仮メンバーという形でも、あいつのチームに入れば何か道が開けるかもしれないな……」

 

 

 この教官と『シリウス』のトレーナーは旧知の仲だった。今度の飲みの席でそれとなく話を振ろう、と教官は心に決める。

 

 

「立場上、本当は1人のウマ娘に肩入れしちゃいけないんだが……なんだかあの娘、俺が見てる他のどのウマ娘よりも『迷子』になっている感じがするんだよな。見過ごせないというか……思い過ごしならいいんだが」

 

 

 教官はその不安を缶コーヒーと共に、喉の奥に流し込んだ。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 幕間 ある競走馬の生涯Ⅲ

 

 

 その黒毛の仔馬は一頭だけ取り残されてしまった。

 

 昨日までいたはずの母馬や仲の良い仔馬たちは皆、業者に連れて行かれてしまった。そのストレスからか、仔馬はその後、食欲不振や夜鳴きが酷くなり、その事を聞いた買い取り主の社長も心を痛めた。

 

 だが、そんな仔馬を根気よく懸命に世話をしたある若い厩務員がいた。彼は生まれつき身体が弱く、心臓に少し問題を抱えていたが、親に連れられたホースセラピーをきっかけに厩務員を志した青年だった。

 

 『ミドリ』ちゃんと呼ばれていたその牝の仔馬の心の傷が癒えるまで、彼は業務をこなしながらも、他のほとんどの時間を彼女の為に使った。次第に『ミドリ』は彼に心を開いていった。

 

 青年は愛用の『緑色のパーカー』を着て、非番でも牧場を訪れてミドリのことを気にかけていた。その1人と1頭の様子に、青年は他の厩務員から「まるでお父さんだな」と微笑ましくからかわれたのだった。

 

 そんな彼や他の厩務員の愛情を受けて育ったミドリは見違えるほど成長した。そして彼女が社長の縁で競走馬としてデビューするのは、そこから少し先の話である……

 

 

 

 

 

 





次回

5話 チーム『シリウス』


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第2章
5話 チーム『シリウス』


 

 

 

「トレーナーさん、紅茶をご用意致しましたわ。どうぞ」

 

 

 カチャ……と優雅な動きで、メジロ家の至宝『メジロマックイーン』は自身のトレーナーのデスクにティーカップとソーサーを置く。

 

 

「ああ、ありがとうマックイーン。すまないな、メジロ家の令嬢に召使いみたいなことをさせてしまって」

 

「もう、またそんなことをおっしゃって。私たち、出会ってからどのくらい経つとお思いですの? お茶の用意くらい、なんてことありませんわ。いつも申してますでしょう。トレセン学園では私はあくまで、いちレースウマ娘に過ぎません。チームの為に身を粉にして働くトレーナーさんを支えるのも、チームのエースとしての役目だと自負しておりますわ」

 

「ははは、そうだったな。僕がチーム『シリウス』を引き継いでそれなりの年月が経ったし、マックイーンも……成長したんだなぁ」

 

「ふふ……じじ臭いですわよ、トレーナーさん。まだお若いでしょう、貴方は」

 

 

 トレーナーは座ったまま、そばに立つマックイーンに顔を向けた。マックイーンもトレーナーの目線に気付いて微笑んだ。

 

 メジロ家の至宝、ターフの名優と呼ばれる彼女は初めてトレーナーと出会った時より少し背も伸び、大人びた雰囲気を纏っている。女優だと誰かが言っても信じてしまいそうなほど、彼女は美しく成長していた。

 

 

「では、私はチームの皆さんの分の用意をしておきますわ」

 

 

 マックイーンはそう言って給湯スペースへと戻ってゆく。その背中にはチームの柱として皆を支える立派なリーダーの風格が漂っていた。

 

 

「本当……成長したな」

 

 

 とトレーナーが呟くと、コンコンとトレーナー室のドアがノックされた。そのままガチャリと音がして1人のウマ娘が入ってくる。

 

 

「こんにちは。トレーナーさんからチームメンバーに招集がかかったとメールがありましたけど……」

 

 

 その鈴のような美しい声は、異次元の逃亡者『サイレンススズカ』のものだった。

 

 

「やあ、スズカ。皆まだ来てないから座って待っといて」

 

「こんにちは、スズカさん。今、お茶をご用意致しますわ。お茶請けのお菓子もございますのよ」

 

「ありがとう、マックイーン。頂くわ」 

 

 

 マックイーンは2人分のお茶を注ぐと、スズカの正面のソファに腰掛ける。

 

 

「トレーナーさんも、いつまでパソコンと睨めっこしていますの? スズカさんもいらっしゃったのですし、こちらで一緒にお茶に致しませんこと?」

 

「うーん、ごめん。ほらウチのチームのあの娘たち、これから重賞レースに挑戦するだろ? その資料を早めにまとめておきたくて」

 

 

 あの娘たちとは、シリウスに所属する前髪ぱっつんのウマ娘、タレ目のウマ娘、黒髪ボブのウマ娘の3人である。

 彼女たちは他の主要メンバーと比べると活躍の機会は少ないが、地道な努力を重ねて、ついに重賞にまで手が届きそうなほど成長していた。

 

 

「まぁ、そうでしたの。相変わらず、チームのこととなると仕事に没頭してしまいますのね。それにしても感慨深いですわ……私もあの娘たちの先輩として、精一杯応援しなくては」

 

 

 マックイーンは優しく微笑んだ。

 

 スズカはお茶菓子を食べながら「これ、スペちゃんが好きそうだわ」とか考えている。

 

 

「それはそれとして、私たちを呼び出した理由もお聞きしたいですわ。次のファン感謝祭についてですの?」

 

「いや……」

 

 

 ガララっとトレーナーはホイールチェアを引いて、マックイーンたちの方を向いた。

 

 

「みんなが集まってから言おうと思ってたけど、君たち2人には先に伝えておこうかな。もしかしたら……このチームに新しいメンバーが加わるかもしれない」

 

「えっ!」「!」

 

 

 と2人のウマ娘は驚いた。

 

 

「この様な時期に? 一体どなたが……」

 

「あ、もしかしてですけど……あの転入生でしょうか?」

 

「そう、スズカの言う通り。マリンアウトサイダだ。ただ、まだ決まった訳じゃない。むしろ、それを決める為にみんなで集まって話し合おうと思ったんだ。僕たちと彼女は、お互いをほとんど知らないからね」

 

 

 マックイーンが手に持ったお茶碗を見つめる。

 

 

「マリンアウトサイダさん……格闘ウマ娘から、突然レースウマ娘へと転向した噂の方ですわね。私はまだお会いしたことはありませんが……確か今は、基礎づくりのために教官指導トレーニングを受けていると聞いた覚えがあります」

 

「ああ、まさにその教官から話を持ちかけられたんだ。実は彼は僕の昔馴染みでね。それでもし可能なら、彼女の面倒を見てやれないかって頼まれたんだ」

 

 

 そして、トレーナーは腕を組んで俯いた。

 

 

「教官いわく、そのウマ娘は『迷子』のように見える……って。その言葉がどうしても気になってね」

 

 

 トレーナーの真剣な眼差しにマックイーンはドキリとした。そして、それを誤魔化すように紅茶を口にした。

 

 

(はぁ……この人は、そんなウマ娘を放っておける性格ではありませんものね。そこが良いところでもあるのですが……)

 

 

「それで先にここに来ていたライスシャワーとスペシャルウィークに、マリンアウトサイダを連れてくるようにお願いしたんだ」

 

「あら、そうでしたの。てっきり私が1番乗りだと思っていましたが」

 

 

 マックイーンはお茶に口をつける。その仕草にも令嬢然とした気品があった。

 

 

「うん、たまたまその2人は近くにいたらしくてね。すぐにここに来たから頼んだんだ。ああ、でも……」

 

 

 トレーナーの表情が曇る。

 

 

「例によって、何故かゴルシがタンスの中から飛び出してきてなぁ。『ゴルシちゃんに任せろー! オラァ行くぞ、スペシャルライス!』って言って2人を引っ張って行ったんだ。何も起こらなければ良いんだが……」

 

 

 ブッフォッ!っとマックイーンがお茶を吹き出した。

 

 

「そ、それは、危険しかありませんわ! トレセン学園とUMAD間に大戦争が引き起こされても不思議ではありません!」

 

「そうかな?」

 

 

 コンコン!

 

 

 と、トレーナーがのんきな返事をしたところで再びノック音がした。しかし、誰も入ってくる様子がない。

 

 

「おや、誰だろう? 入ってこないならチームメンバーではないのかも。僕が出るよ」

 

 席を立ち、入り口に向かったトレーナーがドアをガチャリと開けると……

 

 

 そこには真っ黒なサングラスを掛けたライスシャワーが立っていた。

 

 プルプルと震えていて、見えなくてもサングラスの下が涙目になっているのが分かる。

 

 

「お……お兄さまぁ〜〜〜!!! うわぁ〜〜〜ん!!!」

 

 

 ライスシャワーは泣きながらトレーナーに抱き付いた。

 

 

「なっ……ライスさん!? どうされたのですか!?」

 

 

 と、マックイーンは口をパクパクさせる。

 スズカも驚いた様子だ。

 

 

「ライス! 一体どうしたんだ?」

 

 

 と、トレーナーがライスシャワーの肩を掴んで引き離すと

 

 

「失礼します」

 

 

 と言う声と共に、入り口から黒毛のウマ娘がツカツカと入ってきた。左右の肩にダランと脱力したゴールドシップとスペシャルウィークを担ぎながら。

 

 

「ゴールドシップさん!?」

「スペちゃん!?」 

 

 

 と、2人のウマ娘が驚いているのも気にせず 

 

 

「ここが『超・秘密結社シリウス☆ザ☆パクパク』日本支部の拠点ですか?」

 

 

 マリンアウトサイダは鋭い目つきで言った。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 遡ること、十数分前……

 

 

「よーし、スペシャルライス! 覚悟はいいか!? アタシたちはこれより例の外宇宙から飛来した未確認宇宙生物の捕獲作戦を決行する! ほれ、このグラサン掛けろ。宇宙生物と戦う時にはグラサンだってワイマール憲法にも書いてあるんだ」

 

 

 ゴールドシップがポン・ポンとスペシャルウィークとライスシャワーの手にグラサンを乗せる。

 

 

「あのーゴールドシップさん、私たちは転入生のウマ娘を連れてきてって頼まれただけで……」

 

「そ、そうだよ、ゴルシさん……それに転入生さんを宇宙生物って呼ぶのはちょっと失礼だし……ワイマール憲法にそんなの絶対書いてないし……ライスたちの名前合体してるし……」

 

 

 2人は案の定困り顔だ。

 

 

「じゃあかしいわい、シャワーウィーク! お前たちはトレーナーの、あの言葉の裏の意味に気付けなかったのかよ!」

 

 

 ゴルシは涙を目に溜めて熱弁する。

 

 

「あれは助けを求めていたんだ! 既に真実を口にしたら頭の生え際が無限に前進する改造を施されてしまっていたんだ! アタシたちはトレーナーを救わなきゃならない! その為にあの宇宙生物を生捕りにするぞぉ!」

 

「生え際が前進するんですか!? それは……怖いですね」

 

「ライス……もう、嫌な予感しかしないよぉ……」

 

 

 バサッとゴルシがどこからか謎のズタ袋を3枚取り出し、1人1枚ずつ配る。

 

 

「これが捕獲装置だ。扱いには注意しな!」

 

「あ、あれ……何故でしょうか? この袋見てると何かを思い出しそうな……」

 

「ライスも……なんでかな?」

 

 

 もしかしたら、2人は別世界では同じ袋によって拉致されていたのかも知れない。今回は拉致する側だが。

 

 

「おぉ! 噂をすれば……ヤツだ! こっそり近付くぞ。バレないように気をつけろ」

 

 

 そして、ゴルシは歩道を歩いてるマリンアウトサイダを発見する。

 

 彼女は授業が終わり、自主トレーニングの用意をするため寮に戻る途中だった。

 

 スペとライスは、もう半分諦めてゴルシに従っていた。3人はグラサンを掛け、木やベンチの陰に隠れながらマリンの後を尾行する。

 

 

「……そこのお方々、私に何かご用ですか?」

 

 

 まあ、バレないわけがないのだが。

 

 

「とぉう!!!」

 

 

 ゴルシは颯爽と飛び出して、マリンの前に立ちはだかった。

 

 

「我々は『超・秘密結社シリウス☆ザ☆パクパク』日本支部の者だ! トレーナーの毛髪を守る為! マリンアウトサイダ、貴様の身柄を拘束する! スペ、ライス! フォーメーション・Gだ!」

 

「え、ええ!? 何ですかそれ!? ああもう、何とかなれぇー!!」

 

 

 スペシャルウィークはズタ袋を構えて、ゴルシと共に突撃した。

 

 

「えっ! スペさん!? こんな悪い人みたいなこと、ダメだよぉー!」

 

 

 流石はライス、良い子だった。

 

 そして……

 

 

 チーン………という感じで、ゴルシとスペは地面に転がっていた。

 マリンは2人の連携を事も無げに躱して、首を後ろからトントンとやったのだった。

 

 

「……喧嘩を売られたかと思いましたが……これは何かが違う様な……」

 

 

 ライスシャワーはガクガク震えるばかりだった。

 

 

「そこのあなた」

 

「ひ、ひゃい!」

 

 

 ライスはピーンと背筋と耳と尻尾を伸ばした。

 

 

「その『超・秘密結社シリウス☆ザ☆パクパク』とやらの拠点へ案内してください。リーダーは別に居ますよね? もしもこれが本気の喧嘩ならば、場合によっては……」

 

 

 マリンが闘気を出して威嚇する。

 

 

「ひ、ひぇ〜〜ん!」

 

 

 ライスは涙目で、マリンをトレーナー室まで案内したのだった。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

「と、気絶させた2人をその場に放置するのも忍びないので、ここまで担いで来たのですが……」

 

 

 と、マリンが事の経緯を説明する。

 

 『シリウス』のトレーナー室のテーブルを挟んだ2つのソファで、片方はトレーナーとマックイーン、もう片方はマリンアウトサイダが向かい合って座っている。

 

 

「「うちのゴールドシップが本当にすみませんでした」」

 

 

 トレーナーとマックイーンが綺麗にシンクロして頭を下げた。

 

 

「……なんだか、子供が悪さをした夫婦みたいですね」

 

「えっ、まあ、夫婦みたいだなんて……」

 

「ははは、そうだよ。マックイーンはまだ学生だし、お母さんってよりも手のかかる子供みたいなものだ痛たたたたたた!!!!」

 

 

 マックイーンはテーブルの下でトレーナーの足を踏んだ。

 

 

 気絶した2人はというと、床にゴザを敷いて寝かせている。サイレンススズカはスペシャルウィークを膝枕していて時々「可愛い…」と呟いてる。 

 

 ライスシャワーはソファの側で落ち着かない様子で立っていた。

 

 すると、「こんにちはー!!!」と元気な声でウイニングチケットが入ってきた。続いて後ろから3人のウマ娘も入ってくる。

 

 

「あれっ? マリンさんだー!!! どうしてここに? もしかしてウチのチームに入るのー!?」

 

「チケットさん……チケットさんも、もしかして『超・秘密結社シリウス☆ザ☆パクパク』のメンバーだったのですか?」

 

「え、何それ? というか、トレーナーさんは何で足抱えて悶絶してるの? あと、スペちゃんとゴルシは、何で寝てるの?」

 

 

 ピョコンピョコンと耳を動かしながら、チケットは不思議そうな顔をする。そして、トレーナーは座り直して言った。

 

 

「あー……とりあえず、状況を整理しようか。みんな、適当に座ってくれ」

 

 

 そう言って、トレーナーは皆に事情を説明するのだった。

 

 

 

……

………

 

 

 

 

「……という訳で、どうかな? マリンアウトサイダ。もちろん、即決する必要はないよ。まずは仮メンバーとして、少しの間一緒にトレーニングをしたり、他のメンバーと交流してから決めて貰いたい」

 

 

 チーム『シリウス』のトレーナーはとても爽やかな人柄で、マリンは好感が持てた。

 

 彼は数々の経験を経て、ベテラントレーナーへと成長していた。

 

 マリンは考えていた。走りについて色々と学べそうだし……もしかしたら、自分の『夢』についてヒントを得られるかもしれない、と。

 

 レースへの出場もゆくゆくはチームを通しての事となるので、間違いなくメリットの方が大きいのは確かだと彼女は思った。

 

 

「……それは、私のようなレース未経験者には願ってもないことです。ご迷惑でなければ、是非お願いしたいです」

 

 

 それを聞いてトレーナーは微笑んだ。

 

 

「うん、分かった。さっきも言ったけど、まずは仮メンバーとしてやっていこう。よろしく、マリンアウトサイダ」

 

「はい、こちらこそ。よろしくお願いします。トレーナーさん」

 

「うおおおおおおおお!!! やったあああああ!!!! マリンさんが仲間になったあああああ!!!! 嬉しいよおおおおおお!!!」

 

 

 チケットがマリンの後ろから抱き付いた。

 

 スキンシップに慣れていないマリンは困り顔だが、嬉しそうだ。

 

 

「チケットはマリンアウトサイダとはクラスメイトだったよな? 他のみんなも自己紹介しようか」

 

 

 そうして、皆が(寝ている2人はしばらく後で)自己紹介を終えると、少しの間マリンは『シリウス』メンバーとの談笑を楽しんだ。ナリタブライアンはどこかで昼寝しているのだろうから、顔合わせは後日とのことだった。

 

 レースにあまり詳しくないマリンでも、話を聞くと、とにかくここのチームは凄いという事は理解できた。メンバーは皆レースで輝かしい成績を収めている。

 

 メジロマックイーン、ウイニングチケット、ライスシャワー、ナリタブライアン、サイレンススズカ、スペシャルウィーク、ゴールドシップ

 

 聞くだけでもどのくらいのレースを制したのか想像がつかない。

 

 前髪ぱっつんのウマ娘、タレ目のウマ娘、黒髪ボブのウマ娘の3人もOPリーグを合わせて何勝かしており、これから重賞にも挑戦すると言っていた。

 

 詳しい事はまた、後日するとして、マリンはチーム『シリウス』のトレーニング室を後にするのだった……

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

「トレーナーさん、彼女の印象はいかがですか? とても真面目で実直そうな方だと私は感じましたが。ストイックな武術家のイメージそのままで」

 

 

 マリンが去った後、マックイーンがトレーナーに尋ねた。

 

 

「うーん、僕もほとんど同じ印象だなぁ。まだ初対面だから、そこまで分からなかったけど、あの教官の勘は結構鋭いからね。とにかく僕は全力でサポートするさ」

 

「そう……ですか、私もお力になれることがあれば、何でもおっしゃって下さい。あなたが認めるならば、あの娘はもう、私たちの大切なメンバーなのですから」

 

 

 マックイーンはトレーナーに微笑みかける。同時に、レースウマ娘の苦しみも悲しみも知り、そして見てきた彼女だからこそ、マリンの今後の幸せを願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 チーム『シリウス』のトレーナー室からの帰り道。

 

 マリンアウトサイダは歩きながら学園の広場にある『切り株』の方をなんとなく見ていた。

 

 

(そう言えば、クラスメイトに聞いた話だと、レースに負けた悔しさをあのウロの中に叫ぶと気分がスッキリするらしい。利用するウマ娘はかなり多いのだとか。でも……あんな切り株に悔しさをぶつけて、意味があるのだろうか……?)

 

 

 マリンには、あのウロに向かって叫ぶ自分の姿を想像できなかった。そんなことしてる暇があるなら修行をした方が良いのでは?と鍛錬積む武術家としては思ってしまうようだ。その時……

 

 ピリリリン!とスマホの着信音が鳴った。

 

 画面を確認するとルドルフから「本日は個人レッスンが可能」とメッセージが表示されていた。

 

 

「あ、そういえば……会長の個人レッスン、私がどこかのチームに所属するまでの間って言ってたな……」

 

 

 マリンは名残惜しいと思った。だが、生徒会長という多忙な身でレース未経験者な自分の面倒を見てくれていたのならば、もう十分に尽力してくれたと考えても良いだろう……と納得した。

 

 

「『シリウス』のことを伝えて、今回で最後にしないと……」

 

 

 マリンは俯いて、スマホをポケットに仕舞った。

 

 

 

 

−−−−−

 

 

 

 

 マリンはルドルフと合流し、チーム加入について彼女に伝えた。

 

 

「そうか、『シリウス』に……! おめでとう、マリンアウトサイダ。これで君もレースウマ娘として本格的なスタートを切ることが出来るな」

 

「はい、会長のお陰でレースに必要なことの多く学べました。本当に、今までお世話になりました。ありがとうございます」

 

 

 マリンは深く深く頭を下げた。どれほど感謝してもし足りない気持ちだった。

 

 

「しかし、君がチーム『シリウス』に入るとはな。あのチームは学園でもっとも賑やかなチームと評判だ。その賑やかさ故に問題を起こす事も多々あるが……それと比例して実績も多い」

 

 

 ルドルフが困ったような笑顔になる。

 

 

「そうですね、私も初対面の時はズタ袋で誘拐されそうになりました。その後で、チームのトレーナーとメンバーたちと語らう機会があったのですが、とても賑やかな人たちでした」

 

「ふふっ、そうだろう…………え、今、誘拐と言ったか?」

 

「ゴールドシップさんの発案だったそうです。とても面白い方ですね」

 

「ああ……そうか、ゴールドシップか……彼女の対応には生徒会も風紀委員会も手を焼いていてな……君も、気を付けてくれ」

 

 

 ルドルフが遠い目をしている。あのヘッドギアのウマ娘は他に何をやらかしたのだろう?とマリンは興味を持った。

 

 

「さて、時間も限られている。最後の個人レッスンを始めようか」

 

「はい! よろしくお願いします!」

 

 

 マリンはビシッと姿勢を正して礼をしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 





次回

6話 『なぜレースの後に歌って踊るのですか?』


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6話 『なぜレースの後に歌って踊るのですか?』

 

 

 

 

 日が沈み人影もまばらになった頃、ルドルフの最後の個人レッスンは終わりを迎えた。

 

 

「……ふぅ、ここまで……だな。名残惜しいが、これが最後だ。このレッスンは私にとっても非常に実りのあるものだった。お疲れ様、マリンアウトサイダ」

 

 

 トレーナー君と同じ視座に立つ貴重な体験が出来たよ、と爽やかにルドルフは言う。

 

 

「はい……! お疲れ……様です。私も……名残惜しいです……」

 

 

 マリンは少しションボリしていた。新たな技術を学べるこの時間が彼女は好きだった。

 

 彼女の中で、シンボリルドルフはとても大きな存在へと変わっていた。

 

 学べば学ぶほど、『皇帝』がどれほど化け物じみた実力者なのかを、肌で理解した。今の自分では足元にすら及ばない。

 

 

「ふふっ、そんな寂しそうな顔をするな。またいつでも会える。たまに生徒会室へ顔を出してくれ」

 

 

 2人の間を冷たい秋の風が吹き抜ける……

 

 

「時にマリンアウトサイダ……」

 

 

 ルドルフが真剣な表情で切り出す。

 

 

「『格闘ウマ娘』である君に、1つ聞きたいことがあるんだ……」

 

 

 ルドルフは伏し目がちに言う。

 

 

 

「君は、『敗北』とは……なんだと思う?」

 

 

 

「……………………」

 

 

 マリンは十数秒間、黙考した。

 

 

「……私は……『敗北』は、勝利への必要条件だと考えています」

 

 

 マリンは語り出す。

 

 

「私は公式戦では初等部での3敗を除いて、全て勝利しています。しかし、どんな格闘ウマ娘でも、その勝負が公式戦のみということは……あり得ません」

 

 

 マリンは昔の事を思い出していた。

 

 

「私は小さい頃から数えきれないほど喧嘩をしました。そして、多くの敗北も経験しました。お爺ちゃんとの本気の手合わせも含めると数えきれません」

 

 

 そして、彼女は息を溜め、言葉を続けた。

 

 

「負けて……負けて……負けて……負け続けて、私は強くなりました。強くなれたのだと思います。格闘ウマ娘は敗北を必ず次へ活かします」

 

 

 ルドルフは目を閉じて、何かを考えている。

 

 

「……君は、レースでの敗北も同じだと思うか?」

 

 

 ルドルフは薄く眼を開ける。

 

 

「…………はい」

 

 

 マリンはゆっくりと答える。

 

 

「……そうか、流石は世代最強の格闘ウマ娘……だな。確かに、負ける事でしか得られないものもある。その点は共通しているだろう。しかし、だ」

 

 

 皇帝の眼差しがマリンの瞳を捉える。

 

 

 

「恐らく君の言う敗北は、レースでの敗北とは……

 

 『違うもの』だ

 

 マリンアウトサイダ」

 

 

 

「っ………………」

 

 マリンは息を飲んだ。

 

 

 威圧感はない、しかし皇帝の言葉は力強かった。

 

 

「君はレースの世界にこれから足を踏み入れ、経験を重ねていくだろう。そうすれば、いずれ……『理解』する時が必ず訪れる」

 

 

 ルドルフは優しく微笑んだ。

 

 

「今はそう重く受け取らないでも良い、だが……私の言葉を、努努忘れないで欲しい。それが、私が君に教えられる最後のレッスンだ」

 

 

 ルドルフはマリンに背を向ける。

 

 

「励め、マリンアウトサイダ。君の旅路が祝福に満ちる事を、私は願っている」

 

 

 そう言い残して、ルドルフは歩き去った。

 

 

「……………………」

 

 

 マリンはじっとその背中を見つめていた。ルドルフの声が、ずっと頭の中で反響していた。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフとの最後の個人レッスンを終えて、マリンアウトサイダは美浦寮へと帰宅した。

 

 道中も、彼女の頭の中にはルドルフの言葉が鳴り響いていた。

 

 

『恐らく君の言う敗北は、レースでの敗北とは……

 

 『違うもの』だ

 

 マリンアウトサイダ』

 

 

(…………どういう意味なんだろう? 私がレースを経験すれば理解できるのかな)

 

 

 だったら今それを考えても仕方ない、と割り切りたいが、どうしてもその言葉は胸に一抹の不安を残した。

 

 

 ガチャリ、とマリンはドアを開ける。

 

 すると、机で勉強をしていた『栗毛のウマ娘』がマリンの方を向いた。

 

 

「お帰りなさい、マリンちゃん! 今日はルドルフ会長とのトレーニングだったのかな?」

 

 

 彼女はマリンと相部屋となった先輩ウマ娘だ。快活で面倒見の良い彼女はマリンの1つ年上だった。

 

 以前は別のウマ娘がこの部屋にいたが、ある事情でこの学園を去ったそうだ。そして1人でいたところにマリンが転入して来て、去ったウマ娘と入れ替わる形で相部屋となったのだった。

 

 その先輩はOP戦も制した事のある、そこそこの実力者らしい。

 

 

「はい、ただいま戻りました、先輩」

 

 

 マリンはバッグを机に置く。

 

 

「ルドルフ会長とのレッスンは今日が最後でした。私、チーム『シリウス』の仮メンバーになると決まりましたから」

 

 

 ガララと先輩ウマ娘が椅子を引いて、マリンに向き直る。

 

 

「えっ、そうなの!? マリンちゃん、『シリウス』に入るんだ、おめでとう! これで『レースウマ娘』の仲間入りだね」

 

「はい、ありがとうございます。先輩に色々と教わっていたお陰です」

 

「私なんか、大した事してないよ。ちょっとアドバイスしたくらいだし。にしても、ルドルフ会長の指導を受けられるなんて、本当にラッキーだったね。私も受けたいくらいだよー」

 

 

 マリンは転入初日からこの先輩ウマ娘に色々と世話になっていた。気さくな性格で、あまり社交的ではないマリンも彼女とすぐに打ち解けたのだった。

 

 マリンは人付き合いが苦手なのにも関わらず、何故だか先輩の事は一目で気に入り、すぐに仲良くなった。まるで『前世』でも友達だったんじゃないか、と先輩ウマ娘は冗談を言って笑い合っていた。

 

 

「実はマリンちゃんを私のチームに誘おうかとも考えてたんだけど、そこはホラ、『運命』って奴に任せた方が良いと思って言わなかったんだ」

 

「そうだったのですか? 『運命』って……先輩って時々ロマンチストみたいなこと言いますよね」

 

「そりゃそうだよー、これでも夢見る乙女なのよ、私」

 

 

 先輩ウマ娘は微笑みながら語る。

 

 

「『夢見る乙女』、ですか。……先輩」

 

「ん?」

 

 

 

「先輩の『夢』って、何ですか?」

 

 

 

 マリンは真っ直ぐ先輩ウマ娘の目を見つめて言った。

 

 

「なになに〜藪から棒に〜。でも、そうだね……月並みだけど『GⅠレースで勝つ事』だよ。応援してくれる家族の為にね」

 

「そう……ですか」

 

 

 少し暗い表情をしたマリンに先輩ウマ娘は優しく尋ねる。

 

 

「『夢』が、どうかしたの?」

 

 

 こんな事を言ってしまうと叱られるかもしれませんが……と、マリンは躊躇いがちに口を開いた。

 

 

「私は……正直に言うと、『夢』というものが良く分かりません。この学園で度々耳にする『ウマ娘は夢を乗せて走る』という言葉……その『夢』とは何なのか、心にしっくりくる答えが見つかっていません……」

 

 

 先輩ウマ娘は真剣な顔で黙って聞いていた。

 

 

「あるウマ娘から、『夢』を見つけなきゃいけないと忠告されて、私には他のウマ娘たちのように走る理由……『夢』がない事に気付かされました」

 

「ふーん、マリンちゃんが格闘ウマ娘から転向したのは『夢』があるからじゃなかったって事?」

 

 

 マリンは俯く。

 

 

「はい……人からするとおかしな事だと受け取られると思いますが、別の理由があります」

 

 

 先輩ウマ娘は腕を組む。

 

 

「そっか……こればかりは、私もアドバイス出来ないかな。『夢』は自分で気付くものだからね」

 

「そう……ですよね……」

 

「だからさ」

 

 

 先輩ウマ娘はニコリと微笑んだ。

 

 

 

「自分の『夢』が見つかるまで、誰かの『夢』を応援すれば良いんじゃないかな?」

 

 

 

「誰かの『夢』を……応援?」

 

「そう、例えば……私を応援してみたら? マリンちゃんが応援してくれるなら、お姉さん頑張れちゃうよ! G1レースも7回は勝てちゃうよ!」

 

 

 ニコッと先輩ウマ娘は笑った。まるで太陽のようだ、とマリンは思った。

 

 『夢』が無いのに、レースに挑戦しようとする自分が恥ずかしくなるくらいに、彼女の事が眩しく見えた。

 

 

「……先輩は、私が転入した理由を聞かないですよね。他の皆はしつこいくらいに聞いてくるのに」

 

「んー、まあ、ウマ娘って何かしら事情を抱えてる子が多いからね。ズケズケと無神経に相手の心に踏み入るのは良くないし。でも、その理由、いつか聞かせてくれると嬉しいな」

 

「……はい、いつか、お話します」

 

 

 マリンはニコリと微笑んだ。少しだけ、心が軽くなった。

 

 

 

 マリンは言葉には出さなかったが、他のウマ娘と生活するのは初めての事だったので、その相手がこの先輩で本当に良かったと、心の底から思っていた。

 

 

 ずっと一緒に頑張っていきたいと、思っていた。

 

 

 

「うん、分かった。楽しみにしてる。じゃ、この話はこれでおしまい! 私はテスト勉強に戻りますよーっと」

 

「あ、先輩。その範囲なら私、教えられますよ。分からない事があれば聞いてください」

 

 

 うぐぐ……と先輩ウマ娘は唸った。

 

 

「せっかく威厳のある先輩としてカッコよく締めれたと思ったのに……でもマリンちゃん、進学校からの転入生で超勉強できるから助かるのは事実なのよね……」

 

「あ、そこミスがありますよ。使う公式が違います」

 

 

 マリンは先輩の手元を覗き込んでいた。

 

 

「あーもう! 助けて、マリン先生〜〜! 実は次のテスト、結構ヤバいの〜〜!」

 

 

 ちょっぴり情けない先輩の声が部屋に響く。クスリとマリンは笑って、先輩の為の特別授業を始めるのだった……

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 翌日から数週間、マリンはチーム『シリウス』の全体トレーニングに参加することとなった。教官指導トレーニングしか知らなかったマリンはここから数ヶ月で多くのことを『シリウス』のトレーナーとチームメイトから学ぶこととなる。

 

 ジョギングの外周でゴルシがマリンに謎のルートを教えたり、プールトレーニングでゴルシがマリンを水上疾走させようとしたり、パワートレーニングでマリンが発勁でサンドバッグを吹っ飛ばしたり、マリンが勉強を教えてあげるとチケゾーやスペシャルウィークや重賞挑戦組に泣きながら感謝されたりと、騒がしい日々を送りながら、少しずつマリンはシリウスに馴染んでいった。

 

 

 

 

 そんなある日、シリウスのトレーナー室でトレーナーがマリンと向き合っていた。今回から始める新しいトレーニングについての打ち合わせをしていた。

 

 

「マリン、君はダンスレッスンはまだ受けてなかったよね。レースのトレーニングと並行して、そろそろ始めても良いと思うのだけど、どうかな?」

 

「……はい、私もシリウスでのトレーニングに慣れてきましたし、異論はありません。ただ……」

 

「ただ?」

 

 

 

「あの、昔から疑問に思っていたのですが、レースウマ娘たちは……なぜレースの後に歌って踊るのですか?」

 

 

 

 マリンは恐る恐る、素朴な疑問を口にした。

 

 その質問にトレーナーはポカンとして、あっけらかんと答える。

 

 

「え? だってレースの後は歌って踊るものじゃないか。なあ、みんな」

 

 

 トレーナーは室内でトランプに興じていたスペシャルウィーク、ゴールドシップ、メジロマックイーン、ライスシャワー、サイレンススズカに話を振った。

 

 

「そうですよ、レースウマ娘が歌って踊るのは当たり前です!」

 

「まあ、そうだな」

 

「ええ、そうですわね」

 

「え、えっと、ライスも……そうだと思う」

 

 

 皆、異口同音に同じようなことを言っていた。

 

 

「はぁ……そういうもの……ですか」

 

 

 この人たちは何か洗脳をされていないか?とマリンが若干疑いかけた時……

 

 

「そんなに難しく考えることじゃないわ」

 

 

 サイレンススズカが静かに口を開いた。

 

 

「応援してくれたファンにお返しをする。そして……『ただいま』と伝える為に歌うの。それだけでいいんじゃないかしら」

 

「『ただいま』と伝える為に……」

 

 

 マリンはスズカの言葉を繰り返した。

 

 

(なんだろう……このとても、とても深い悲しみのような感じ……スズカさんの姿が、どこか儚げに見えるような……)

 

 

「まあ、とにかくだ」

 

 

 シリウスのトレーナーは声にマリンは振り向いた。

 

 

「ダンスに関しては僕が教えても良いと思っていたのだけど……あいにく他のメンバーの指導が忙しくて出来そうにないんだ。ダンス専門の指導教官も居るから、まずはそのレッスンを受けてみたらどうかな?」

 

「おいおい、トレーナーが教えないのかよー! トレーナーの踊るうまぴょい伝説、滅茶苦茶面白いのによぉー!」

 

「ゴールドシップさん! 茶化すんじゃありません!」

 

 

 ガヤガヤ騒ぎ出すゴルシをマックイーンが諌める。

 

 

 マリンはトレーナーに向かってコクンと頷いた。

 

 

「はい、そうします」

 

「うん、じゃあレッスンの申し込みは僕がしておくから、参加できる日取りはメールで確認してね」

 

「分かりました。よろしくお願いします」

 

 

(正直、歌とダンスをする理由はまだよく分からない。だけど、多くのレースウマ娘がそれを夢見て努力している。飛び込んでみれば、何か分かるかもしれない)

 

 

 マリンはそう考えてトレーナー室を後にした。

 

 

 後日のダンスレッスンにて、マリンは桜色の目と髪をした、小柄だけど元気いっぱいなウマ娘が目を輝かせてダンスの練習をする姿を見た。聞いた話によると、彼女はトレセン学園に入学してから1度もレースに勝利した事がないらしい。

 

 マリンは最初は特に彼女に興味を示さずに淡々とダンスのステップを覚えて、歌詞を暗記した。だが後々、その桜色のウマ娘が彼女にとって非常に大きな存在となることを、マリンはまだ知らなかったのだった……

 

 

 マリンはその後、正式にチーム『シリウス』のメンバーとなった。

 

 そして、月日は流れて…………

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 ワアアァァァーーー……!!!

 

 

 そのレース場にはメイクデビューとは思えないほどの人が集まっていた。そして、大観衆の見つめる中、1人のウマ娘がゴールした。

 

 

『今、〇〇〇〇〇がゴールイン!!! 1着は〇〇〇〇〇!!! 鮮烈なデビューを飾りましたーーー!!! 2着には………』

 

 

 会場は熱狂に包まれていた。しかし、小さなどよめきもあった。あーあ、期待し過ぎたか、こんなもんだろ、とあちこちで聞こえてくる。

 

 

 

『注目のマリンアウトサイダは5着! 先行したバ群に追いつけず、デビュー戦は活躍できませんでした! ウマ娘格闘界の麒麟児は初レースでは勝利とはならず!』

 

 

 

 

「ハァッ……ハァッ……」

 

 

 走り終えたマリンは、ゴール板を過ぎたターフの上で、膝に手を当てて呼吸を整えていた。

 

 

 当然、彼女は頭では理解していた。レースでは格闘ウマ娘として培った技術を活かせる機会は少ない。長距離遠征での移動でスタミナはあったが、他のウマ娘と競いながらでは体力の消耗の仕方が全く違う、と。

 

 しかし、いざレースで走ると、それは彼女の想像を何もかも超えて、練習とはまるで次元が違った。

 

 

「ハァ……ハァ……これが……レース……」

 

 

 マリンは着順掲示板を見上げる。自分の番号は1番下にあった。7人の出走でギリギリ掲示板は逃さなかった。しかし、話題となっていた彼女の活躍を期待していた人々にとっては、あまり喜ばれる結果ではなかった。

 

 

 ドクンッ………!!

 

 

「っ!?」

 

 

 心臓が跳ねる音がした。彼女の中に、今までに感じたことのない負の感情が湧き上がる。一瞬、彼女の顔に深く濃い影がかかった。

 

 しかし、敗北は格闘技でも既に経験している。このレースでの経験を次走に活かせは良いだけだ、とマリンは無理矢理気を落ち着かせる。

 

 黒髪のウマ娘はグッと一瞬に目を瞑って顔を上げた。そして、ゆっくりと控室へと向かった。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 マリンのデビュー戦にはトレーナー、メジロマックイーン、ゴールドシップの3人が付き添っていた。他のメンバーはスケジュールを合わせられなかった。

 

 

「負けちまったなー、マリンの奴」

 

 

 ゴールドシップがルービックキューブをいじりながら呟いた。

 

 

「……そうですわね。ですが、今活躍しているウマ娘が全てメイクデビューを制している訳ではありません。一瞬暗い表情をしているように見えましたが、もう顔にその陰りはありません。きっと大丈夫でしょう。私たちは彼女を受け入れるだけですわ」

 

「ふーん、『大丈夫』ねぇ。マックイーンにはそう見えたのかー」

 

 

 ゴルシはクルクルとキューブをバスケットボールのように回転させながら、つまらなそうに言った。

 

 

「?? ゴールドシップさん、それはどういう意味ですの?」

 

「……ゴルシの言う通りかもしれないな。あの教官が言ってた『迷子』って言葉の意味……少しだけ分かったかもしれない」

 

「え……?」

 

 

 マックイーンにはゴルシとトレーナーが何を考えているのか検討もつかなかった。

 

 

「ゴルシもウマ娘の中では……何というか、アウトローな方だから気付けたのかもしれないな」

 

「むぅ……お2人が何をおっしゃってるのか、私には分かりませんわ。キチンとした説明が欲しいです」

 

「マックイーン」

 

 

 トレーナーに優しい目で見つめられてマックイーンは少しドキリとする。

 

 

「今はいいんだ、今は。それはマリン……彼女自身の問題だ。僕たちはマックイーンの言った通り、彼女のことをただ受け入れてあげれば良いんだ。あの娘が自分でそれを気付くまではね……」

 

「……分かりましたわ。未だ釈然としませんが、トレーナーさんがそこまで言うのなら」

 

 

 だけどいつか教えて下さいね、とマックイーンは付け加えた。

 

 

「僕たちも控室に向かおう。彼女の初レースだったんだ。笑顔で迎えてあげないとね」

 

 

 そう言って3人は本バ場への通路へと向かった。

 

 

 行く途中でマリンについての多くの落胆の声が聞こえたが、シリウスのトレーナーは気にしなかった。

 

 

(ライスシャワーの時もそうだった。この声をいつか祝福へと変えてしまえばいい)

 

 

 トレーナーは、ゴールしたマリンの翳りのある表情を思い出して唇を噛む。

 

 

(……大丈夫だ、あの娘ならきっと。彼女のデビューは他と比べると遅すぎるくらいだった。あまりにイレギュラーな経歴だ。今僕がしてやれるのは、彼女を信じて共に歩んであげる事だけだ)

 

 

 シリウスのトレーナーは気合を入れ直して、人混みを掻き分けて進んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

7話 レースウマ娘の涙


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7話 レースウマ娘の涙


※人によっては鬱描写かもしれません。ご注意お願いします。


 

 

 

 

 

 ワアアァァァーーー!!!

 

 

 マリンアウトサイダのデビュー戦を観戦する群衆の中に、ある1人のウマ娘がいた。

 

 芦毛と呼ばれる灰色の髪……そして、何よりも特徴的なのはその瞳だった。右眼は(ベニ)色、左眼は(アオ)色、俗にオッドアイと呼ばれるものだった。ウマ娘の中でもその眼で産まれてくるのは珍しいという。

 

 その2色の瞳で、彼女は5着でフィニッシュしたマリンをじっと睨みつけていた。唇を噛み、怒っているようなその表情はまるで敵を目の前にした復讐者の如き剣幕だった。

 

 そんな彼女の耳に周囲の観客のざわつきが聞こえてきた。

 

 

 

「なんだ、結局5着かよぉ! 少しは期待していたんだけどなぁ」

 

「そうだな、けど仕方ないだろ。マリンアウトサイダがレースに転向したのは半年くらい前だろ? それまで格闘技一筋だったんだ。対して周りはレース一筋で努力してきたウマ娘ばかりだ。三女神はそう簡単に勝たせちゃくれないだろうさ」

 

「そりゃそうだけどさぁ。やっぱ期待しちゃうじゃん? 格闘技もレースも強いウマ娘かもしれないってさ。勝てなきゃ、なんで格闘技を止めたのか分からないじゃんか。調子乗ってたって思われても仕方なくね?」

 

「お前の言ってることも理解できるけどな……彼女はちょっとばかし自分を過信しすぎてたか、格闘技もレースも舐めてたのか……と、思わないでもない」

 

「だろだろ! 世代最強格闘ウマ娘も、やっぱ結局は華やかなレースの世界に目が眩んだのかねぇ?」

 

 

 

(………!!!)

 

 

 灰髪のウマ娘はその会話につい声を上げそうになった。しかし、それをグッと堪えてマリンだけを見つめる。

 

 

「……なんでだよ、マリン……!」

 

 

 彼女の呟きは観衆の喧騒に掻き消される。

 

 

「なんで、レースなんかに……!」

 

 

 そう言って彼女は会場を逃げ出すように去った。

 

 

(やっぱり、納得できない……アイツは何で私たちを……格闘ウマ娘を裏切った!)

 

 

 灰髪のウマ娘は怒りに任せて足を踏み鳴らして歩く。通り過ぎる人々がギョッとしていた。

 

 

 彼女の名はルリイロバショウ。マリンの地元にある空手道場の師範の娘である。そこは寺子屋のようなこともしており、マリンはそこで時折子供たちに勉強を教えていたので、2人は小さい頃から知り合いだった。ルリイロバショウが一方的にマリンをライバル視していた感じだが、腐れ縁みたいなものだった。

 

 ルリイロバショウはマリンのトレセン学園への編入がニュースになった時に、1度マリンの住む山へ突撃した。しかし結局、マリンのレースへの転向の理由は聞けず「うるさい、帰れ」と玄関から投げ飛ばされたのだった。

 

 

(やっぱり、いつか……もう一度直接問いただしてやらないと気が済まない……!)

 

 

 そう考えながら、彼女は駅の方へ去って行った。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 デビュー戦から数週間後……

 

 

 ダッダッダッダッダッ……

 

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ…!」

 

 ピッ!

 

 シリウスのトレーナーがマリンのダッシュタイムを計測している。彼は6本目となるそのタイムを手元のタブレットに入力する。

 

 

(……タイム自体は悪くない。流石、レースと方向性は違っても鍛錬を積み上げてきたウマ娘だ。脚質は追い込みか差しって判断は多分間違っていないはず。だとするとやはり勝てない要因はレース経験の差と、彼女自身の『あの問題』だろう……)

 

 

 トレーナーはマリンの敗因の分析をしていた。デビュー戦の後、マリンは2度未勝利戦のレースに出走していた。しかし、未だに勝てていなかった。順位は4着と再び5着、1度惜しいところまで行ったが、ギリギリでウイニングライブを逃していた。

 

 

(……保健医が言っていた『本格化』についても、考慮しなくちゃいけないな。こんなケースは僕も初めてだし、他のトレーナーで相談できそうな人はいたっけ……)

 

 トレーナーはメイクデビュー前にマリンが保健医の検診を受けた時のことを思い出していた。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

『マリンアウトサイダさん、貴方の本格化は既にピークを過ぎています。貴方の身体は格闘ウマ娘としては申し分ない程に成長しています。しかし言い換えれば、レースウマ娘としての能力が伸びる余地は……恐らく小さいでしょう』

 

 

 保健医は落ち着いた表情でマリンを見つめる。

 

 

『ご存じだと思いますが、トレセン学園の生徒は個人差はありますが、概ね本格化の時期に合わせてレースウマ娘としての本格的なトレーニングを開始します。客観的な意見を申しますと、貴方の挑戦は非常に厳しいものとなるでしょう……』

 

『……はい、それは分かっていました……覚悟の上です』

 

 

 マリンも同じように保健医の目を見つめ返した。

 

 

『……そうですか、分かりました。何かあれば、どうか遠慮なく。どのような相談にも応じます。マリンアウトサイダさん……頑張って下さい。私は貴方を応援していますよ』

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 トレーナーはマリンに水分補給を指示して、彼女のデータを更新する。

 

 

「『本格化は既にピークを過ぎている』……か。なら、今の彼女の身体的な長所を伸ばす方向で、指導プランを練るか……」

 

 

 トレーナーは小さく呟く。

 

 

(格闘ウマ娘だったマリンは体幹を維持するバランス感覚に優れていて、身体の柔軟性と跳躍力には目を見張るものがあるが……それをレースに活かす方法はあるのか……? 後は、不良バ場でもタイムが殆ど落ちていないのは凄いな。本人は山育ちだから泥の中で走るのは慣れていると言っていたが、これは1つの武器になるか……)

 

 

「トレーナーさん、次は何をすれば……?」

 

 

 考え込むトレーナーに、息を整えたマリンが尋ねる。彼女はレースに負け続けて落ち込んでいる様子はなく、着々とトレーニングをこなせているように見える……あくまで表面上は。

 

 

「ああ、すまない。ちょっと今後のトレーニングメニューについて考えていてね」

 

「……申し訳ありません。私の鍛錬不足で、未だ勝利を掴めていません。敗北を次に活かすことが……出来ていません。トレーナーさんがこれ以上ないほどに私に尽力してくれているのは理解しているのですが……」

 

 

 トレーナーはタブレットを下げてマリンと向き合う。

 

 

「気にすることはないよ。元々ハードな挑戦になると分かった上で君も努力しているんだ。僕はそれを支えてあげるだけだよ。今日のトレーニングはここまでだ。ストレッチをしてから着替えておいで」

 

「はい、ありがとうございました」

 

 

 スッとトレーナーに頭を下げお辞儀をして、マリンはストレッチを開始した。

 

 

(敗北を次に活かせていない……か)

 

 

 トレーナーはグネリグネリとバレリーナ並みに身体の柔らかいマリンのストレッチを横目に、また深く考え込むのだった。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

「ふぅ……ちょっと、遅くなっちゃったな」

 

 

 時刻は寮の門限ギリギリ。日はとっくに落ちていて空は真っ暗だった。マリンはガチャリと寮の入り口のドアを開けて、靴箱に靴をしまうとそのまま自室へと向かう。

 

 

 

 なぜ彼女の帰宅がここまで遅くなってしまったかというと、今がちょうどテスト週間だというのが関係している。

 

 マリンがトレーニング後にトレーナー室へ向かうとウイニングチケットとスペシャルウィーク、前髪ぱっつんのウマ娘とお仲間2人が頭から煙を上げながら教科書に噛み付いていた。このウマ娘たちはいつも赤点と戦っていた。

 

 その5人はマリンの姿を見るや否や「三女神様、仏様、マリン様〜!!!どうかお助けを〜!!!」とマリンにテスト勉強を手伝ってくれと懇願してきたのだ。そんな彼女らを放って置けるはずもなく、寺子屋で子供たちに勉強を教えていた経験のあったマリンは慣れた様子でその面倒を見たのだった。

 

 

 

「先輩はもうとっくに帰ってるだろうな……」

 

 

 マリンはコンコンとドアをノックしてから、ただいま戻りました、と言って部屋に入る。

 

 

「……ん?」

 

 

 マリンを違和感が襲った。部屋の様子がおかしかった。左側はまるで誰も使っていないかのように、ベッドも机も本棚もガランとしていた。部屋を間違えたかと思ったが、右側には間違いなくマリンの私物が置かれている。

 

 

「先輩……?」

 

 

 ドクン……と心臓が鳴り、胸が締め付けられるような感覚がマリンを襲った。

 

 聡明な彼女は『何が起こったのか』推測できた。しかし、彼女の頭と心がその結論を出すのを拒んでいた。

 

 

 すると、廊下から足音が聞こえてきた。嫌な予感を振り払うようにマリンが廊下に出ると、そこには褐色で姉御肌なウマ娘が立っていた。美浦寮の寮長、ヒシアマゾンだった。

 

 

「マリン……やっと帰ってきたかい」

 

「寮長……! 先輩は……?」

 

 

 えっと、な……とヒシアマゾンは言い淀む。いつもは毅然とした彼女だが、今はその目には隠しきれない無念さが見て取れた。

 

 

「……あの娘には言うなって止められてたんだ。これから頑張っていくマリンに余計な心配をさせたくないってさ。ちょうど、お前さんと入れ違いで出て行ったよ」

 

「…………!!! 今どこにいるんですか、先輩は!?」

 

「……恐らく正面門から出ていったところだ。今から走れば追い付くハズだよ」

 

「失礼します!」

 

 

 ダダダダッ!とマリンは荷物を放り出して、廊下を全力で駆け抜けて玄関へ向かう。

 

 いつもならそれを注意するヒシアマゾンも、この時ばかりは目をつむった。

 

 

 ヒシアマゾンはゆっくりと、マリンの部屋の入り口の壁に腕を組んで背をもたれかけた。ただじっと、片側だけが殺風景になってしまった部屋を見つめる。それは彼女が寮長となってから幾度となく見てきた光景だった。

 

 

「……辛いよな……去る方も、残される方も……それを見守るしか出来ないのもさ。何度これを経験しても……アタシは慣れる気がしないよ……」

 

 

 彼女のその言葉は誰に聞かれることもなく、廊下の冷たい空気に溶けて消えていった。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ!」

 

 

 マリンは靴も履かずに、裸足で歩道を駆けていた。靴下は邪魔だったので脱ぎ捨てた。

 

 バッサバッサとスカートと腰に巻いた緑色のパーカーがなびく。

 

 タッタッタッタと軽めの足音が響く。

 

 

「先輩っ……どうして!」

 

 

 

 マリンは走りながら、メイクデビューで負けてしまった日の夜の事を思い出していた。シリウスのメンバーとトレーナー室でデビュー記念のお祝いをした後で、かなり帰るのが遅くなってしまったのに、先輩ウマ娘は寝ずに待ってくれていた。そして優しく『おかえりなさい』とマリンに言葉をかけてくれたのだ。

 

 先輩ウマ娘もメイクデビューは勝てなくて、マリンと同じようにデビューをチームに祝って貰ったが、壁の張り紙の恐らく「初勝利」と書かれていた部分が不自然にポッカリと欠けていて、申し訳ない気持ちになったことも語っていた。

 

 

 

「ハァッ…ハァッ!」

 

 

 マリンの視界で正面門が近づいてきた。夜勤の守衛が守衛室にいるが、開けてくれるように頼む余裕は彼女にはなかった。

 

 

「フッ!!!」

 

 

 マリンは勢いのままに門に飛び付き、足をかけて跳ねた。さながらアクション俳優のような動きで門の上部に手をかけると、クルリと門の上空を身体を捻って飛び越えた。レースでは使わない技術をここで活かした。

 

 ガチャチャーーーーン!!!!と大きな音が鳴り、それに驚いた守衛が飛び出してくるもマリンにそれを気にせず、着地してから学園外へと駆けていった。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

「はぁ……」

 

 

 栗毛の先輩ウマ娘は俯いて、手提げ鞄1つでゆっくりと歩いていた。

 

 

「終わっちゃったな……私のレース……」

 

 

 彼女は荷物は既に実家に送ってあるので、後は駅に向かうだけだった。身軽なはずなのにこうも足取りが重くなるのは未練ゆえだろうか……と暗い気持ちが彼女の心を渦巻いていた。

 

 

「マリンちゃん、今頃ビックリしてるかな……」

 

 

 彼女が思い出すのは、半年以上を共に過ごしたルームメイトの顔だった。武術家らしく実直で真面目な雰囲気だけど、どこか幼いような世間ズレしてるような感じが放っておけず、世話を焼いたあの黒髪のウマ娘。

 

 

 彼女がそんなことを考えていると、タッタッタッタと夜道の遠くから聞こえてくる足音耳をピクンとさせる。靴を履いてるにしては軽すぎる、あまり聞いたことが無い音だった。

 

 そう思って彼女が振り返ると、遠くから誰かがこちらに走ってきてるのが見えた。まさかと思って立ち止まると、やはり後輩の黒髪のウマ娘が駆けて来ていた。

 

 

 

「……ハァッ!ハァッ! 先輩っ!」

 

「マリンちゃん……あなた、裸足じゃない! どうしたのよ!?」

 

「それはこっちのセリフです! 先輩、どうして黙ってたんですか!?」

 

「っ…………」

 

 

 先輩ウマ娘は悲しそうな目で黙っている。

 

 マリンは膝に手を当てて呼吸を整える。

 

 

「ハァ……ハァ……まだ、新年度は始まったばかりです。私は、これからまだ先輩と、頑張っていきたいと……思ってたんですっ!」

 

「……ごめんね、マリンちゃん。でもね、もう決めていたんだ。去年の秋冬で重賞を勝てなければ、レースを引退するって。この時期までいたのは……未練があったから」

 

 

 先輩の目に薄らと涙が浮かぶ。

 

 

「……マリンちゃんに『おかえりなさい』って言ってあげたかったんだ……マリンちゃんのデビュー戦までは学園に居たいって、私……親にワガママ言っちゃってさ。結局、その後も暫く残っちゃったけどね。でも、もうおしまい」

 

「っ……!!!」

 

 

 マリンは息を飲んだ。

 

 

「サイレンススズカさんが、ウイニングライブはファンに『ただいま』をいう為にあるって言ってたって、マリンちゃん言ってたよね?」

 

 

 マリンは黙ってうなずく。

 

 

「でもね……その『ただいま』を言えないウマ娘も、たくさんいるの。何度走っても、どれだけ頑張っても、ステージに立てないウマ娘が……たくさんいるの」

 

 

 先輩の目から涙がこぼれ落ちる。

 

 

「私も……そのたくさんの中の1人なの。だからもし、マリンちゃんが勝てなかった時は……私が『おかえりなさい』って、誰よりも誰よりも強く言ってあげないといけないって……思ったの。それが私が最後にやるべきことかなって」

 

 

「……先…輩……」

 

 

 マリンの目が悲痛に歪む。

 

 マリンはあの『おかえりなさい』が何故こんなにも心に残っているのか、その意味をようやく理解できた。

 

 

「私のエゴだよね、気持ち悪いよね……でもね、それが私とG1ウマ娘との差なの。その現実を覆せるだけの脚を……私は持っていないの」

 

「……っ……でも、先輩は努力しています! 負けても、負け……続けても、それを次に活かせれば……きっと……」

 

 

「マリンちゃんには分からないよ!!!!!」

 

 

 ビクンと身体を震わせ、マリンは息を呑む。

 

 

「負けても格闘技の世界に戻れるマリンちゃんには……分からないよ……私にはレースで走る以外の道は……もう、無かったの……」

 

 

 マリンは言葉に詰まる。

 

 

「夢だったの……G1レースで勝つことにずっと憧れてたの……! でも……これだけ走り続けても重賞1つにも届かなかった……トレーナーとやれる事は、やり尽くしたつもりなの……」

 

 

 でも……と先輩ウマ娘は更に涙を流す。

 

 

 

「夢を見ることが……こんなに辛いって……思いたくなかった……!!! 思いたく……なかったのに……!!! もう……どうしようも……なくて…………っ、う、あ……あああ……!!」

 

 

 

 先輩ウマ娘は手提げ鞄を落として、両手で顔を覆う。その指の隙間を伝って、ポタリポタリと滴が落ちていく。

 

 

「先……輩……」

 

 

 マリンにはかける言葉が見つからなかった。

 

 目の前にあるのは、多くという言葉では足りない程の、レースウマ娘の現実のたった1つなのだった。

 

 

「ひっ……ぐっ……ごめん、ごめんなさい。マリンちゃんに、酷い事……言っちゃった……マリンちゃんも……負けて悔しいはずなのに……私が見てきた誰よりも、悔しがってたのに……」

 

「……え……?」

 

 

 マリンはその言葉に戸惑った。確かに彼女は悔しいと思っていたが、それが誰よりも、と表現できるものかは分からなかったからだ。

 

 

「うん、マリンちゃん……多分自覚してなかったよね。きっとレースよりも凄い闘いを経験してきたから……でも、だからこそ、誰よりも負ける事を悔しがっていたよ。私には分かるんだ、先輩だからね」

 

 

 ぐずっ、と鼻を啜って栗毛の先輩ウマ娘が顔を上げる。

 

 

「ねえ、マリンちゃん……」

 

「なん……ですか?」

 

「『夢』は……見つかった?」

 

「……いえ、まだ……見つかっていません」

 

「じゃあ、さ」

 

 

 先輩が涙に濡れた顔で、精一杯の笑顔を作った。

 

 

 

「私の『夢』……マリンちゃんに預けても良いかな?」

 

 

 

 マリンは悲しそうな表情でじっと先輩の顔を見つめる。

 

 

「先輩の『夢』を……?」

 

「うん、私は自分の『夢』に……もう押し潰されそうなの……でも、もしこれが誰かの『夢』だったのなら……この背中に乗せて走っていけたかもしれない……」

 

 

 先輩は笑顔のまま、俯いている。ポタリと、また雫が地面に落ちて溶けていった。

 

 

「昔、マリンちゃんに私の『夢』を応援すれば良いって言ったよね。マリンちゃんの背中に……私の『夢』を乗せてもらっても良いかな? 自分の『夢』が見つかるまでで……良いからさ」

 

「っ……はい! 預かります、先輩の……『夢』を……」

 

「……うん、ありがとね、マリンちゃん……ありがとう。マリンちゃんが転入してきた理由……聞きそびれちゃったけど、私はもうレースウマ娘じゃないから、聞かないでいいかな」

 

 

 先輩ウマ娘はぐしっと顔を拭うと、鞄を拾いなおした。

 

 

「それじゃ、もう行くね。頑張ってね、マリンアウトサイダ……お姉さん、応援してるよ」

 

 

 そう言って彼女はクルリと翻って歩き出した。

 

 

「あ………っ………」

 

 

 行かないで、とマリンは言いそうになった。先輩ウマ娘を呼び止めたい思いが、喉まで出かかった。それで何が変わるわけでもないと、彼女は理解しているはずなのに。

 

 マリンはその背中が見えなくなるまで、ずっと見つめていた。先輩ウマ娘は1度も振り返ることはなかった。

 

 マリンはただただ……己の無力感に打ちひしがれていた。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

「んん? あぁ、やっと戻ってきたか」

 

 

 守衛の年配の男性が校門の前に立っていた。彼は遠くからトボトボと歩いてくるマリンの姿に気付いた。少しして、マリンは校門にたどり着いた。

 

 

「……お前さん、マリンアウトサイダだな。あの出ていったウマ娘は友達かい?」

 

「……はい、とても親切にして貰いました。尊敬する……先輩でした……」

 

「そうか……ここじゃあな、活躍するウマ娘より、その先輩のようなウマ娘の方が多いんだ。こうやって、夜の誰も歩いていない時間にこっそりと出て行くんだ。翌日には他の皆は事情を察して、あまりその娘のことは話題にしない。格闘ウマ娘の世界じゃあ、どうかは知らんがな」

 

「………………………」

 

「まあ、今夜はそのまま寮に帰りな。門を飛び越えたお咎めは無しにしてやる。次からはちゃんと守衛に話を通すんだ。いいな?」

 

「はい……すみませんでした……」

 

 

 そう言ってマリンは校門の横の通用門から学園内に入った。背中の方でガチャンと施錠音が聞こえても、彼女は振り返らず覚束ない足取りでふらふらと歩いていた。

 

 守衛はそんな彼女を少し心配したが、とりあえず守衛室から美浦寮の寮長に報告の電話をかけることにした。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 マリンは歩き続けた。どこに向かっているかも、彼女は分からなかった。ただ、去っていく先輩ウマ娘の背中が瞼の裏に焼き付いて離れなかった。マリンは今からでも彼女を追いかけたかったが、理性がそれは無駄だと諭していた。

 

 去りゆく誰かをただ見つめるしかない、そんな経験はしたこと無いはずなのに、植え付けられたトラウマが蘇ったかのような感覚がマリンを支配していた。

 

 自分が知らないだけで、どこかで同じ経験をしたのだろうか……?と、ぼんやりした頭で考える。

 

 そうなってしまう程に、マリンの感情は揺さぶられて、滅茶苦茶になっていた。

 

 

 

「あ……」

 

 

 クシャ……と彼女の足が芝を踏んだ。

 

 そこは中央の広場の近くだった。気付かぬうちにだいぶ進路がずれていたようだ。

 

 

「あれ……は……」

 

 

 マリンの見つめる先には例の『切り株』があった。先輩ウマ娘も、何度も使っていたと言っていた。

 

 

「………………」

 

 

 クシャ、クシャとマリンは切り株に向かって歩みを進める。彼女はそこにたどり着くと、両手をついてウロの中を覗き込んだ。

 

 そこは伽藍堂で、無限に続いているのではないかと思える闇があった。このウロは今までにどのくらいのウマ娘たちの叫びを呑み込んできたのだろう。彼女の目が暗闇に慣れてきても、底が見えなかった。

 

 

「あ……」

 

 

 雫が一滴、闇に吸い込まれていった。音は聞こえないが、次から次へ、ホロリホロリと滑り落ちていく。

 

 

「あ、うっ……っ……っ……!」

 

 

 マリンの支える手に力が込もる。彼女の胸の中は混乱と無力感と無念と……喪失感でいっぱいだった。

 

 

 

「う……ああああああああああああああ!!!!!」

 

 

 

 マリンはその全てをそこに吐き出すように、声の限りをウロの中に叫んだ。

 

 

 

「私はっ……何も……出来なかった!!!

 

 去っていく先輩に……何も……何も……言えなかった……!!!

 

 ただ……見てる……事しか……うあああああああああああああ!!!」

 

 

 

 肺も喉も潰れてしまいそうなほど、生まれて初めてマリンは叫んだ。

 

 

 

「私は……格闘ウマ娘としての……『敗北』は知っていた……!!!

 

 でも……レースウマ娘の……レースで負ける『悔しさ』を……その『悔しさ』を……知らなかった!!!

 

 分かってなかったんだ!!!

 

 ルドルフ会長が言ってたのは……この事……だったんだ……

 

 こんなに……こんなに…………う、ぐぅ………ひっ………」

 

 

 

 ウマ娘は走るために生まれてきた。そんな言葉が周知となる程に、『走りたい』『勝ちたい』というは本能はウマ娘の魂に根付いている。

 

 レースで負ける事は、そのウマ娘の存在の根源を揺るがす。存在を否定されるかのような衝撃をもたらす。報われるならば幸せだろう、だがそうではないウマ娘の方が圧倒的に多い。

 

 多くのウマ娘は、先輩ウマ娘のように、その悲しみの津波に耐え続けなければならないのだ。

 

 マリンもそれを感じていた。レースで負けるたびに、心にその波が押し寄せてきた。だが、彼女はそれをただの暗い感情だとしか感じ取れなかった。それが多くのウマ娘を襲ってきた悔し涙の津波だと、知らなかったのだ。

 

 

 

「くや、しい…………悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい!!!!!」

 

 

 

(先輩は、ずっとこんなものに耐えていたのか。私はたった3回の敗北で、こんなにも潰れそうなのに……ずっと……ずっと)

 

 

 

「私は………『弱い』………!!!

 

 なんて………『弱い』…………

 

 本当に………よわ……い…………」

 

 

 マリンは膝をついて、使うはずがないと思っていたその切り株に寄りかかった。涙がただただ溢れ出てきて、子供のように泣きじゃくった。

 

 

 

 マリンアウトサイダはその悔しさを無自覚に押し込めていた。油断が大敵となる格闘家としての振る舞いは、他の者には冷静沈着な態度に見えただろう。だがそれはレースウマ娘としては歪な心理状態だった。それに気付いたのはトレーナーとゴールドシップだけだった。

 

 今まで彼女は、レースウマ娘ではなく『格闘ウマ娘』としてレースを走っていた。教官の言っていた『迷子』とはそういう意味だったのだ。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 涙を流して、初めて自覚した悔しさをウロにぶつけるマリンを柱に隠れながら見守る影があった。

 

 

(……ヒシアマゾンから突然連絡が来た時は驚いたけど)

 

 

 それはチーム『シリウス』のトレーナーだった。

 

 彼はマリンが寮に戻ってきていないとヒシアマゾンから連絡を受けたのだった。マリンと仲の良かったルームメイトが学園を去る事になったので、必要ならメンタルケアをお願いしたい、と電話越しにヒシアマゾンに頼まれていた。

 

 

(この様子だと……彼女はもう自覚したみたいだな。彼女自身の問題を。そのきっかけがこんな悲しい現実だったのは……トレーナーとしては、辛いけど……)

 

 

 ふぅ……とトレーナーはため息をつく。恐らく今はそっとしておいた方が彼女の為になるはずだ。睡眠を取らせて、翌日にでも話を聞こう、と彼は柱を背にして腕を組む。

 

 

(僕は運が良かっただけなのかな……もしかしたら、マックイーンたちみんなが、マリンのルームメイトと同じ結末を辿る未来もあり得たのかもしれない……)

 

 

 トレーナーは柱の陰から再び広場を覗く。

 

 

(とにかく、今はマリンを見守ろう。彼女が落ち着いて寮に帰るのを見届けるまで…………)

 

 

 

 

 その日、マリンアウトサイダは『レースウマ娘』になった。

 

 その事を知っているのはシリウスのトレーナーと、切り株のどこまでも続く深く暗いウロだけだった。

 





次回

8話 桜色は不屈の色


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8話 桜色は不屈の色

 

 

 

 

「えっと、買い忘れは無いはず……うん、よし」

 

 

 ある日曜日、マリンアウトサイダはトレーニングに使う諸々の消耗品を買いに出掛けていた。良いスポーツ用品店があると小耳に挟んだので、少し遠出をして来たのだった。

 

 今の彼女は私服姿だ。暑い日でも腰にいつもの緑のパーカーを巻いていた。

 

 彼女はスマホのメモで買い残しがないか最終チェックをした。時間はランチタイムを過ぎた頃、特に予定もないので、この辺りを少し散策してから学園の寮に帰ろうか、と考えていると……

 

 

「あ、ここにもレース場があるんだ……」

 

 

 あえて駅とは逆方向へ進むと府中と比べると小規模だが、立派なレース場があった。

 

 

「………………覗いてみようかな」

 

 

 それは気まぐれてあり、彼女の内面の変化の顕れだった。以前の彼女ならさっさと帰って自主トレをしていたはずである。

 

 マリンは横断歩道を渡ると、その建物の入り口へと向かっていった。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 黒髪のウマ娘はレース予定表を見ていた。今は未勝利戦が行われる時間らしい。マリンは案内図を記憶し、コツコツと足音が鳴る通路を進み、観客席エリアに出た。すると……

 

 

『各ウマ娘、一斉にスタートしました!』

 

 

 ちょうど、ゲートが開いてレースが始まったところだった。応援席にはそこそこの人だかりが出来ていた。

 

 

(このレースは確かダート、マイルだったはず。あっという間に決着がついてしまうな。急がなきゃ……)

 

 

 座席にはなぜか高齢の方々が集団で座っていたが、それを横目にマリンは急いで最前列へと向かう。人混みを抜けて、何とか手すりまで辿り着いた。

 

 すると、レースの観戦に混じり一際大きな声が聞こえた。

 

 

「行きなさい、ウララさ……ハルウララ!!! そうよ、そのペースを保つのよ!!! この私が応援に来てるのよ、今日こそ1着を取れるわ!!!」

 

 

 マリンの隣で、高級そうな帽子と薄手のコート、それにセレブが掛けそうな色の薄いサングラスという何だか怪しい人物が大声で誰かを応援していた。尻尾があるからウマ娘だと言う事は分かるが、しかし応援に来る格好ではないのでは……?とマリンが考えていた。

 

 

(ん? ハルウララってもしかして……)

 

 

『………続いて6番ハルウララは現在先頭から3番手! 今日こそ勝利を掴み取れるか!? しかし後ろから☆☆が前を狙っているぞ!!』

 

 

(やっぱり、ダンスレッスンで一緒だった娘だ。このレースに出ていたんだ……走っている姿は初めて観るな……)

 

 

『トップは依然2番〇〇〇〇!! その後ろを5番◇◇◇が追いかける!! 3位争いが激しいぞ!! ハルウララ粘り切れるか!!?」

 

 

「ああっダメェッ!! 耐えるのよ、ハルウララ!! あと少し、そのままぁ!!! 根性よ、こんじょおおおーーーー!!!」

 

 

 隣のウマ娘が凄く熱くなってるのが気になりつつ、マリンは黙ってレースの行方を見守る。

 

 

『〇〇〇〇が1着でゴーーーーール!!! 続いて◇◇◇!!! 3位争いはまだ続いている!!! ハルウララ、☆☆どっちだーーーーー!!!」

 

 

「行けーーーーーウララさーーーーーーん!!!!!」

 

 

『☆☆だーーーーー!!! ハルウララ、惜しくも4着ーーー!!! ハナ差で差し切られたーーー!!!」

 

 

 ワアアァァァーーー!!!と会場が沸き立ち、上位3人に拍手が起こる。マリンも同じように拍手をした。

 

 隣のウマ娘はあんなにハルウララを応援していたのだからきっと落胆しているだろう、とマリンは予想していたが……

 

 

 

「ハルウララーー!!! ナイスファイトーー!!! 最高の走りだったわーー!!!」

 

「……………!」

 

 

 

 彼女は少し面食らってしまった。予想していたのとは違う反応だった。そして、後方の座席からはお年寄りたちが精一杯の声でハルウララを讃えていた。

 

 

「ウララちゃん〜! 頑張ったわね〜!」

 

「おーー、今日も元気いっぱい貰えたぞーー! ありがとぉー!」

 

「次こそ1着だあぁ! また応援に来るからなあぁ!」

 

 

 その声はしっかりとハルウララに届いていたようで、彼女は応援席のお年寄りの方を向いて、満開の桜のような笑顔で両手をブンブンと振った。

 

 

 

「うん!! 応援ありがとー!! ウララも元気いっぱいもらっちゃったーー!! 次のレースも思っ切り走るからねーー!!」

 

 

 

「……っ…………!」

 

 

 マリンは思わず息を飲んだ。拍手する手も止まっていた。マリンは自分の中の何かが揺さぶられるのを感じた。一つの想いが、彼女の心を支配していた。

 

 

(あのウマ娘はレースに負けたはずだ。4着でライブステージに立てないはずだ。なのに……なのに)

 

 

 

 あんな……見る者全てを幸せにするような笑顔ができるのか

 

 あんな……春の桜のような暖かい笑顔を人に送れるのか

 

 

 

 先輩ウマ娘のことで心を打ちのめされていたマリンは、しばらく手を振るハルウララの笑顔をただただ茫然と見つめていた。

 

 

 そして、唐突に聞こえた声で彼女は我に帰った。

 

 

「はぁ……でも惜しかったわ。あと少しでウララさんのダンスを見れたのに……」

 

 

 隣に立っていたウマ娘が残念そうに呟いた。無意識に、マリンも答えるように呟いてしまう。

 

 

「そう、ですね……ダンスレッスン……あんなに頑張っていたのに……」

 

「え?」

 

 

 くるっと隣のウマ娘がマリンの方を向いた。薄めのサングラスの奥の瞳がジッと黒髪のウマ娘を見つめている。その謎のウマ娘の顔立ちは整っていて、間違いなく美人と呼ばれる類である。

 

 

「あなたは…………ふぅん。ウララさんの事、ご存知なのかしら?」

 

 

 ニコリと笑って、そのウマ娘がマリンに尋ねる。

 

 

「ええ……何度かトレセン学園の教官の合同ダンスレッスンで一緒になりました。彼女はどんなポジションでも、一生懸命で……この間も……」

 

 

 マリンは先日の、自分にとって何度目かのダンスレッスンを思い出して語り始めた。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

「はいっ、そこまで! じゃあ、次は各グループでポジションを変えながらの練習よ」

 

 そのダンスレッスンでは、集まったウマ娘たちは3人ずつにグループ分けされて、ローテーションで1位、2位、3位のポジションのダンスを練習する。これがいつものルーティンだった。

 

 しかし……

 

 

「………っ………」

 

 

 1人のウマ娘がその場を動こうとしなかった。彼女は沈痛な面持ちで立ち尽くしていた。

 

 

「ん? そこ、何をしてるの。早くポジションに着いて……」

 

「……意味……あるんですか……?」

 

「えっ?」

 

 

 震える声と共に、そのウマ娘が教官を睨みつけた。

 

 

 

「勝てないレースの……取れもしないポジションのダンス練習なんてして、意味あるんですか!?」

 

 

 

 そのウマ娘の叫びに、レッスンスタジオがシンと静まり返る。マリンも別のグループにいて、そのウマ娘を少し離れた位置から見ていた。

 

 

「1位のポジションなんて……ほんの一握りのウマ娘しか取れないのに……虚しいんですよ……苦しいんですよ……練習するほどに……自分が惨めに感じるんです……」

 

「……あなた、自己反省なら別の時間にやってちょうだい。ダンスの精度はトレセン学園の評価に直結するの。その平均レベルを上げるのが私の仕事よ。嫌なら個別のダンスレッスンを受ける事をおすすめするわ」

 

 

 教官もその道のプロだ。全体の為に、個人的事情を考慮することは少ない。その冷徹な言葉にそのウマ娘は唇を噛む。

 

 

「っ……! はい……失礼します」

 

 

 そう言ってそのウマ娘は出口に向かって歩き出す。

 

 

「んっ!?」

 

 

 が……別の誰かが、彼女の手首を掴んでいた。ギロリと、そのウマ娘は振り返った。怨嗟のこもった低い声で呟く。

 

 

「……何? 離してよ」

 

「……どうして、帰ろうとするの? レッスン、まだ終わってないよ?」

 

 

 引き止めたのは、小さな桜色のウマ娘、ハルウララだった。

 

 

「……もう嫌になったの、数年かけて1回踊れるか踊れないかのダンスなんて、覚えても無駄でしょ……!」

 

「でも、キミはこの前は踊ってたでしょ? わたし見たよ! キミが全部のポジションをとっても上手に踊ってるところ!」

 

「……!」

 

 

 そのウマ娘はバッとハルウララの手を振り払った。

 

 

「アンタには……関係ないでしょう……アンタだって……1度もレースで勝った事なんて無いクセに!!!!!」

 

 

 スタジオがざわつく。誰もが知っていたのだ。ハルウララが全戦全敗だってことを。でも、皆それを敢えて口にすることはない。

 

 皆がハルウララの反応を気にしていた。

 

 

 

 ハルウララはポリポリと頬を人差し指で頬を掻いて言った。

 

 

「えへへ……そうなの。わたし、ずっとずーーっと負けちゃってて……」

 

 

 相手のウマ娘の顔が険しくなる。何をそんなにヘラヘラ笑っているんだ、と言わんばかりだ。だが……

 

 

 

「でもね、いつか1着を取るのが楽しみなんだ! とっても! と〜〜〜っても!」

 

 

 

 次の瞬間、彼女の目の前には、満開の笑顔(さくら)が咲いていた。

 

 

 

 相手のウマ娘は面食らって、表情から少しだけ険しさが抜けた。

 

 

「わたしね、3着なら取ったことあるんだよ! ういにんぐらいぶを踊ったらね。わたしを応援してくれた人たちがみーーんな喜んでくれたの!」

 

 

 彼女は目を丸くして、ただハルウララの言葉を聞いていた。

 

 

「わたしのお父さんでしょ、お母さんでしょ、商店街のおじさんでしょ、近所のおばあちゃんでしょ、後ね後ね……えっと、とにかくたくさん!」

 

 

 ハルウララがギュッと両手でそのウマ娘の手を握る。真っ直ぐ、桜の花のような瞳がそのウマ娘の姿を映した。

 

 

 

「その人たちがね、

 

 わたしが1着取った時にはどんな顔をするんだろう

 

 どれだけ喜んでくれるんだろうって想像するとね

 

 胸がとってもドキドキワクワクするんだ!」

 

 

 

「っ…………!」

 

 

 

 そのウマ娘の息が詰まる。

 

 

 

「キミにもきっと居るでしょ? そうやって喜んでくれる人たちが。その人たちの喜ぶ顔を想像すると、ダンスの練習もとっても楽しくなるよ!」

 

 

 

 ハルウララの言葉に、そのウマ娘は昔の自分を思い出していた。

 

 

 

 純粋に、走るのを楽しんでいたことを。

 

 ウイニングライブで踊るウマ娘たちに憧れたことを。

 

 見守ってくれる家族や友達の笑顔に励まされたことを。

 

 

 

 ……凍てついてしまっていた彼女の心の中に、優しい春風が吹いた。

 

 

 

 ポタリポタリとそのウマ娘の目から床に涙が落ちていった。

 

 

 

「ぐぅ……ひっ、ぐっ……う、あ……ぁぁ」

 

 

 

 ハルウララは無垢そのものだった。地面に落ちる前の、風に舞う桜の花びらのように一点のけがれもなかった。

 

 そんな彼女の言葉だからこそ、そのウマ娘の、悲しみの津波に何度も何度も打ち負かされて、疲弊しきった心に染み渡った。

 

 

 ウッ…… グスッ……

 

 

 周りにも、同じように目に涙を浮かべるウマ娘たちがいた。

 

 ハルウララは、負け続けて、勝てなくて、心がボロボロになったウマ娘たちにとって、深い雪を溶かす春の太陽のような存在に思えた。

 

 

 

「あれ? どうしたの。もしかして、さっきの練習でどこかケガしたの!?」

 

 

 ハルウララは心配そうにそのウマ娘に尋ねる。彼女は自分が何をしたのかを一切自覚していなかった。

 

 

「ぐずっ……うん……そうなの……ちょっと、足を打っちゃって……それで、イライラしちゃってたの……ごめんね、ハルウララ……」

 

 

 そのウマ娘は涙を拭って、他の皆の方を向いて、頭を下げた。

 

 

「ごめん……みんなの邪魔しちゃって」

 

 

 そして教官の方を向いて、さらに深く頭を下げた。

 

 

「ごめんなさい……教官。レッスンの続きを……受けさせて下さい……」

 

 

 教官は腕を組んだまま、俯いて言った。

 

 

「ええ……もちろんです。それが私の仕事ですから」

 

 

 教官の目元にも、一瞬光るものが見えた気がしたが、そこはプロだ。すぐにいつもの厳しい表情に戻り、レッスンを再開したのだった……

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「…………そんなことが」

 

 

 マリンの隣のウマ娘は呟いた。

 

 

「はい、それ以来ハルウララの参加するダンスレッスンには、多くのウマ娘が集まるようになりました。皆、中々レースで勝てずに苦しんでいる娘ばかりです」

 

「……そう。あの娘……私の知らない所でも、誰かを救っていたのね」

 

 

 そのウマ娘は優しく微笑んだ。

 

 

 マリンはターフでまだ手を振り続けてるハルウララの方を向いて言った。

 

 

「私は今日、ハルウララが走るレースを初めて観ました……」

 

 

 隣のウマ娘がマリンの横顔を見つめる。

 

 

「あら、そうなの? あの娘のレースって意外と人気あるのよ。特にお年寄りたちに。孫を応援してる気分になるのかしらね。でも、いつも今日のように負けちゃうの……ライブに参加できる時もあるのだけど……」

 

 

 そのウマ娘は少し悲しそうな顔で語る。しかし、次に彼女は思いもよらない言葉を聞いた。

 

 

 

「……ハルウララは……『強い』……ですね。

 

 本当に……『強い』……私よりもずっと……」

 

 

 

 それはマリンの本心からの言葉だった。レースウマ娘の暗く冷たい現実を知った今、彼女はハルウララの輝きがどれほど尊いのかを心で理解できた。

 

 隣のウマ娘は驚いた表情をする。自分くらいしかそう考える者は居ないと、思っていたのに目の前のウマ娘が同じことを言ったからだ。

 

 そして、その言葉に偽りがないと感じられた。

 

 

「へぇ……なかなか見る目があるじゃない、マリンアウトサイダさん」

 

 

 そのウマ娘は優雅に帽子とサングラスを外した。ファサッと髪がなびいて帽子の下から緑色の耳カバーが現れる。

 

 その動作すらも気品が漂っていて、美麗に整った顔立ちのウマ娘がこちらを見つめていた。マリンはもし自分が男なら、この瞬間に彼女に惚れていたに違いないと思った。

 

 

 

「キングヘイローよ。私の知らないウララさんを教えてくれたお礼に、私と語り合う権利をあげるわ」

 

 

 

 キングヘイローが右手で握手を求めたので、マリンはその手を握り返した。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

「キングヘイロー……さん、あなたが。スペさんからお話を聞いてます。よろしくお願いします」

 

 

 マリンがそう言うと、2人は手を離す。

 

 

「スペシャルウィークさんから? そっか、同じチームなのよね、あなたたち……えっと……彼女、何て言ってたのかしら。別に気になってる訳ではないのだけど……」

 

 

 キングヘイローは髪の毛先をいじって、マリンに尋ねた。

 

 

「誰よりも、誰よりも、諦めが悪い人だと。どんなに負け続けても絶対に俯かない、黄金世代の中で1番の努力家で、G1レースを勝ち取った凄いウマ娘だと。自分の自慢の『仲間』だと……言ってました。あ、これ、本人には言わないでって言われてたの忘れてました」

 

 

「…………!!!」

 

 

 キングヘイローの瞳が一瞬潤う。

 

 

「お……おーっほっほっほっほ!!! 当然よ、このキングと共に歩んだ功績が一生の自慢にならないはずがないわ!!! まあ、あなたに免じて、今のことは特別に聞かなかったことにしてあげるわ」

 

「……助かります」

 

 

 マリンは何となく、この高飛車なウマ娘が多くの人に慕われていると直感した。

 

 

「……でもね」

 

 

 キングヘイローから先の高飛車な雰囲気は消え去る。

 

 

「私が諦めずにいられたのは……黄金世代の、彼女たちが居たからよ。そして、ウララさんが側に居てくれたから……さっきのあなたのお話の様にね」

 

 

 キングヘイローは思い出を愛しむように言った。

 

 

 と、そんなところでピンポンパンポーン!とアナウンスが流れた。

 

 

『ウイニングライブ観覧希望のお客様は併設のライブステージへご移動お願い致します。詳しい場所は係員に……』

 

 

 いつの間にか、会場から観客の数はすっかり減っていた。残っているのはお年寄りばかりだ。

 

 

「あれ? このレース場はそのままライブするわけじゃないのか……」

 

 

 マリンが意外そうに口にした。

 

 

「そりゃそうよ。府中のような大規模な設備は、そんなに多くはないわよ」

 

 

 はぁ……それもそうですよね、とマリンが言ったところで

 

 

 

「あーーーー!!! キングちゃんだーーー!!! 応援に来てくれてたのーーー!?」

 

 

 

 観客席の入り口から目をウラランランと輝かせて、ハルウララが駆け寄ってきた。

 

 

「マリンちゃんも居たのーーー!? 2人は友達だったの? 知らなかったーーー!」

 

 

 キングヘイローはしまったとばかりに焦り始めた。

 

 

「ウララさん……?! くっ、迂闊だったわ。マリンさんとの語らいに夢中で……ハッ!?」

 

 

 すると、いつの間にゾロゾロと観客席に居たお年寄りたちが周囲に集まってきていた。皆、ハルウララが来るのを待っていたようだ。

 

 

「あれまぁ〜、キングちゃんじゃない。久しぶりだねぇ〜」

 

「おおー、キングちゃん、来てるなら言ってくれれば良いのに」

 

「相変わらず可愛いね〜キングちゃん。ほら、お菓子をあげよう。あたしの手作りお菓子は一流にも負けないよ〜」

 

 

 ご老人たちの歓待に、キングヘイローはたじたじになる。

 

 

「あ、ありがとうございます。お爺さま方、お婆さま方。ご機嫌麗しゅう……」

 

 

 まあ〜可愛い

 雅だこと、見てるだけで心が美しくなるわ〜

 そのお召し物も可愛いわ〜、流石一流のウマ娘ねぇ〜

 

 

 とお年寄りたちは口々にキングヘイローを褒めまくった。当のキングは顔を赤くしてモジモジしている。先程の高飛車な様子はどこかへ飛んでいで行ってしまったようだ。

 

 

「キングちゃんはね、おじいちゃんおばあちゃんたちに褒められると照れちゃうんだって! もっと喜べばいいのにねー!」

 

 

 ハルウララが元気いっぱいに説明した。

 

 

(ああ、なるほど。だからあんな格好で応援していたのか。別にご老人たちを嫌っている訳でもないみたいだし、きっと歳上に素直に褒められることに慣れていないのだろうな……)

 

 

 キングが取り巻きのウマ娘たちから称賛を浴びるのとは、性質が違うのかもしれない。

 

 

「そ、そうだわ! 今日はお友達も一緒なの! ご紹介するわ、こちらマリンアウトサイダさん! 去年トレセン学園に転入してきたの!」

 

 

 キングが汗々と、ご老人たちの注目をマリンに向けた。マリンは後輩としてお力になって差し上げないといけない気がした。

 

 

「マリンアウトサイダと申します。どうか、マリンとお呼び下さい」

 

 

 そう言ってマリンは頭を下げる。以前、生徒会室でルドルフにした時と同じ、非常に綺麗な挨拶だった。

 

 

「あれまぁ〜、こちらのウマ娘ちゃんもお綺麗だこと!」

 

「所作が美しいわね〜、マリンちゃんもご令嬢なのかしら」

 

「姿勢がしっかりしてるわね〜、何か習い事でもしているのかしら?」

 

 

 ご老人たちが次々と反応する。

 

 

「ええ、武術を嗜んでおりましたが、今はレースウマ娘として奮闘しているところです。先日デビューさせて頂いて、未だ白星はありません。とても厳しい世界だと痛感しております」

 

 

 あらあらそうなの〜、とご老人たちは口を揃える。

 

 

「それなら、ウララちゃんと一緒だねえ。2人は良いライバルになるのかもしれないな。大丈夫、いつかきっと勝てますよ」

 

 

 優しそうなおじいさんが柔らかい笑顔で言った。

 

 

「えっ! ライバル!?」

 

 

 と、ウララは目をキラキラさせる。

 

 

「ライバルってずっと憧れてたんだー! マリンちゃん、ウララのライバルになってくれるの!?」

 

 

 マリンアウトサイダは少し驚いていた。しかし、キリッと微笑んでハルウララに答えた。

 

 

「ええ、もちろんです。いつか必ず、レースで競い合いましょう」

 

 

 マリンが手を差し出すと、ウララもガシッと握って握手をした。

 

 

 若いって良いわね〜

 これはまだまだ長生きしないといけないな

 2人とも応援してるぞお

 

 

 周りのご老人たちが、やんややんやと、はしゃいでいる。

 

 キングヘイローも2人を優しい笑顔で見つめていた。

 

 

 

 

 マリンアウトサイダとハルウララ 

 

 この2人の直接対決は、ずっとずっと先だということを、この場の誰も知らない。運命だけが、その行く末を知っていた。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

幕間 とある競走馬と厩務員

 

 

「なぁ、ミドリ……あ、マリンアウトサイダって名前になったんだったな。ハルウララって馬は知ってるか? いや、すまない。お前が知ってるはずないんだけど……そんな競走馬がいたんだ。高知競馬場で活躍してたんだ」

 

 

 それは魂の奥底に眠る、自覚出来ない記憶。

 

 

「活躍と言っても、その実1回も1着になったことがないんだ。113戦0勝。それでも当時は凄い人気があってね、ハルウララの馬券を買えば『当たらない』から交通安全の御守りになるって言われてたくらい勝てない馬だったんだ。でも、負けても負けても、一生懸命に走る姿にみんな勇気をもらっていたんだ。もちろん、俺もな」

 

 

 緑のパーカーを着た私服の厩務員はその牝馬の顔を撫でながら言う。

 

 

「お前もそんな競走馬になれると良いよな……負けて欲しい訳じゃない。誰かに勇気を与えられる馬になって欲しいんだ……俺のちょっとした願いだ」

 

 

 その厩務員はポケットからラミネートされた古い馬券を取り出した。

 

 

「ほら、これがその馬券……親父から譲ってもらったものだ。昔、小学生になる前にたった1度だけハルウララの実際のレースを観に行ったことがあるんだ。俺は心臓が弱いから、御守りとしていつも持ち歩いてる。だから、すまん。マリンアウトサイダ。俺はお前のファンになる前にハルウララのファンだったんだ」

 

 

 牝馬は厩務員の袖に噛み付いた。

 

 

「うお!?」

 

「ハッハッハッ! お前さんよ〜、ソイツの前で他の馬の話なんてすんなよ。嫉妬してるぞ」

 

 

 中年の厩務員が可笑そうに笑いながら言った。

 

 

「ええ、馬ってそう言うの分かるんですか!?」

 

「言葉は分からんと思うが、まあ何か感じててもおかしくないだろ。ソイツはかなり頭が良いからな。ハッハッハッ!」

 

 

 それは別の世界のとある風景、魂に溶け込んで、消え去った断片。今もそれは『彼女』の中で眠り続けている……

 

 

 

 





次回

9話 芦毛の怪物と『誰かの夢』


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第3章
9話 芦毛の怪物と『誰かの夢』


 

 

 

 

 

 ダッダッダッダッタ……!!!

 ダッダッダッダッタ……!!!

 

 

 2人のウマ娘の、ターフを蹴る2つ脚音が重なる。

 

 

 それはとある日の午後、本来なら授業時間で使う者が居ないはずのトレーニンググラウンド、そこで『過去』と『現在』を賭けた喧嘩(レース)が行われていた。

 

 

 走者の1人は時期外れの転校生マリンアウトサイダ。そしてもう1人はトレセン学園の生徒でもなければ、レースウマ娘でもなかった。

 

 彼女の名はルリイロバショウ。マリンアウトサイダの幼馴染の『格闘ウマ娘』である。

 

 

 見守るのは『覇王世代』の4人とオグリキャップを含む『伝説の世代』の4人、そして『皇帝』シンボリルドルフ。

 

 

 ある者は心配そうな表情で、ある者は物見遊山の気分で、そしてある者はその転入生の『未来』を見定める為に、500メートルと言う超短距離走を走る2人を見つめていた。

 

 ウマ娘の脚ならば閃光の如く一瞬で決まる勝負。

 

 何故このようなレースが行われているのか。話は20分ほど前、昼休憩の食堂での出来事まで遡る……

 

 

 

 

……………

…………

………

……

 

 

 

 

 

 キングヘイローとの出会いから数日経ったある日のランチタイム、マリンアウトサイダは友人たちとトレセン学園の食堂の席に着いていた。

 

 共にテーブルを囲むのはクラスメイトのナリタトップロードとアドマイヤベガ、そして下の学年のテイエムオペラオーとメイショウドトウの4人。

 

 普段このメンバーで昼食を取ることはないのだが、今回はナリタトップロードが(オペラオーも出席すると聞いて嫌がるアドマイヤベガを笑顔で引っ張ってきて)皆を誘ったのだった。

 

 

 

「それでは、ささやかながら『マリンちゃんの初ウイニングライブ祝賀パーティ』を始めまーす!」

 

「い、いぇ〜い、どんどんぱふぱふぅ〜!」

 

 

 トップロードが音頭をとり、メイショウドトウが(目を(> <)にして)頑張って盛り上げる。

 

 

「あ、ありがとうございます……なんか、ちょっと大事になってる気がしますが、嬉しいです」

 

 とマリンは少し気恥ずかしい様子である。

 

 

 先日の未勝利戦でマリンは3位に入着し、初めてウイニングライブを踊ったのだ。そのお祝いにシリウスのトレーナー室で小さな祝賀会が開かれたのだが、それを聞いたトップロードが自分もお祝いしたいと申し出たのだった。

 

 

「……でも、こんなランチタイムにやる事じゃないでしょう。しかも、何でこのメンバーなのよ?」

 

 

 アドマイヤベガがジト目で言う。

 

 

「昨日の夜のシリウスの祝賀会では、聞けばチケットさんが誘ってBNW、ナリタブライアンさんが誘って生徒会メンバーまで顔を出したと言うではないですか! だったら、私たち『覇王世代』もお祝いしなければと思ったのです!」

 

「その『覇王世代』って呼び方、私は好きじゃないのだけど」

 

 

 気乗りしないアドマイヤベガとは対照的に、歌劇口調でテイエムオペラオーが歌うように言う。

 

 

「何を言うんだいアヤベさん! 『覇王世代』……ああっ、まさにボクたちの友情を言い表した最高の呼称じゃないか!」

 

「私はただの同世代で同類とは思われたくないの、あと何で私の隣に座ってるの?」

 

 

 相変わらずオペラオーには辛辣なアヤベさんだった。そんな彼女にメイショウドトウがおずおずと話しかける。

 

 

「で、でもアヤベさん……初めてのウイニングライブって、やっぱり特別だと思うんですぅ……私は、今でもハッキリと覚えてます。何回も転んじゃいましたけど……だから、お祝いしてあげたいトップロードさんの気持ちも分かりますぅ……アヤベさんは、覚えていませんかぁ?……初めてのライブ……」

 

 

 自信なさげに言うドトウを見て、アドマイヤベガは「はぁ」と観念した様に答える。2人はなんだか、お姉ちゃんと妹って雰囲気があるな、と横で見ながらマリンは思った。

 

 

「……ドトウ……そうね、私も覚えているわ。初めてのウイニングライブの事」

 

 

 アドマイヤベガがマリンの方を向く。

 

 

「おめでとう、マリンさん。次こそ、1着取れると良いわね。応援しているわ」

 

 

 ニコリと微笑んで賛辞を送るアドマイヤベガ。マリンは初めて彼女の微笑みを見た気がした。

 

 

(わぁ……トップロードさんが言ってた通りだ。アヤベさんって……凄い美人だ……)

 

 

 そんな思いを一旦秘めて、マリンは返事をする。

 

 

「ありがとうございます、アヤベさん。とても嬉しいです」

 

 

 マリンがそう返事をした瞬間、オペラオーが椅子の上に立ち上がって高らかな声で謳い始めた。

 

 

「それでは、ボクからもマリンさんへの賛辞を送るとしよう! まずはボクの輝かしい初ウイニングライブの物語から! あれは太陽の囁きに眠れる草花が目醒める頃、ボクは……」

 

「オペラオーの話はその辺の鈴虫が鳴いてるとでも思ってていいから。無視してお昼ご飯を食べましょう」

 

 

 アヤベが間髪入れずにマリンに言う。転入して来てからこの2人がまともな会話をしているのを見た事がないのだけど、不思議と不仲な感じはしないんだよな、とマリンは心の中で呟く。

 

 

「それにしてもマリンちゃんの初ライブ! 初々しくてすごく、すっごく可愛かったですよ! 私も懐かしい気持ちになっちゃいました!」

 

「え……トップロードさん、会場に来ていたのですか?」

 

 

 マリンが気付かなかった、という風に尋ねる。

 

 

「いえ、行ってませんよ。これを見たのです。ほら!」

 

 

 トップロードがスマホを操作して、画面をマリンに見せる。そこには、少したどたどしく『Make debut!』を歌って踊るマリンがアップで映っていた。

 

 

「なっ……な!?」

 

 

 と、マリンは心底驚くと同時に顔が真っ赤になる。初めて客観的に『フリフリのステージ衣装を着て踊る自分』の姿を見たので、ダンスに苦手意識のあるマリンは慌てふためいた。

 

 

「な、何で、これ! え、いつの間に!?」

 

「この映像はファンが撮影してウマスタに投稿したものですよ! 重賞レースのライブは基本撮影禁止ですけど、一部のOP戦や未勝利戦のライブは撮影とインターネットへのアップロードが許可されているんです。これから活躍したいウマ娘たちの絶好のアピールの場ですからね!」

 

「私もマリンさんのダンス、観ましたぁ〜。初めてなのに1回も転ばずに踊り切るなんて、とっても凄いですぅ〜。もう再生回数が2万回を超えそうですよ〜。アヤベさんも、ほら〜」

 

「……コメントも色々書いてあるわね……『武術大会とのギャップパナい』『高等部でここまで初々しいのは良き』『可愛い』……ん?」

 

 

 アドマイヤベガがコメント欄を見てると、中にいくつかマリンに対してかなり強烈な批判をするものがあった。

 

 彼女のレースウマ娘への転向についての否定的な意見は簡単にはなくならないみたいだ。

 

 

「………………」

 

 

 アドマイヤベガは両手で顔を覆ってテーブルに突っ伏しているマリンをチラリと見る。

 

 

「ドトウ、それ、本人も恥ずかしがってるから、消した方が良いわ」

 

「あ……そうですよねぇ、分かりました〜」

 

 

 ドトウがスマホをポケットに仕舞う。そして、マリンが突っ伏したままくぐもった声で呟いた。

 

 

「私、あまりこういう機械とかよく分からなくて……スマホもメモ帳くらいしか使ってないんです……そんな事になっていたなんて……」

 

「見たくないなら見ないでいいのよ。今は気にせずレースに集中する方が賢明だわ。ウイニングライブはオマケだと思いなさい」

 

 

 アドマイヤベガがマリンに言った。その口調は妹を守ろうとする姉のそれだった。

 

 

 「はい、そうします……」というマリンの返事に心なしかホッとした様子だ。するとマリンは顔を上げて……

 

 

 

「アヤベさんって、凄く『お姉ちゃん』って感じがして、話していると安心します……きっと、妹とか居るんじゃないですか?」

 

 

 

「「!!」」

 

 

 

 マリンの純真な言葉にトップロードとドトウは言葉を詰まらせる。2人はアドマイヤベガが過去に妹を亡くしている事を知っていた。

 

 

「……ええ、居るわ。たった1人の妹が」

 

「やっぱり! きっと妹さんは幸せですね……私は姉妹も兄弟も居ないので、とても羨ましいです」

 

「そう……ありがとう、マリンさん」

 

 

 アドマイヤベガはとても朗らかに、暖かに微笑みを浮かべて言った。

 

 彼女は既に『自分と妹の2人の為に奮闘してくれたトレーナー』にその心をほぐされていた。マリンの言葉を悲しみとともに受け取る事はなかった。

 

 それを見て、トップロードもドトウも笑顔で安心していた。マリンがアドマイヤベガの事情を知るのは、もう少し先のことである。

 

 

「はぁ……でも私、これ慣れる気が全くしません……レースウマ娘ってなぜ歌って踊るんですか……?」

 

「そういうものですよ!」

 

「そういうものですぅ〜」

 

「……そういうものよ」

 

 

 ……そういうものかぁ、とマリンは納得するしかなかった。オペラオーの賛辞はまだ序章も終わっていないようだった。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 一方、トレセン学園の本校舎から離れた針葉樹林が生い茂る区画に1人のウマ娘がいた。

 

 

「……入れた……ドウザンさんが言ってたこと、本当だったんだ。ここ、トレセン学園のどの辺だろ?」

 

 

 灰髪で紅碧のオッドアイの瞳をしたそのウマ娘はスマホで現在地を確認する。

 

 彼女の名はルリイロバショウ、UMADに所属する格闘ウマ娘で、マリンアウトサイダの幼馴染である。その為、UMAD副理事長のヤマブキドウザンとも小さい頃から交流があった。マリンに勝てた事はないが、それでもいくつかの大会の優勝経験がある実力者だ。

 

 彼女はトレセン学園に侵入する為に、副理事長の酒癖の悪さを利用して、UMADとトレセン学園が秘密裏の会合を開く時に使われる学園の裏口の位置を聞き出していた。

 

 

(うちの親父の差し入れのお酒飲ませたら、色々と話してくれたな。URAとは因縁があるけど、トレセン学園の理事長一家とは繋がりがあるとかなんとか言ってたけど……気にしないでいいや、入れればこっちのもんだし)

 

 

 彼女はスマホでトレセン学園の案内図を確認していた。

 

 

「入ってきた方向がここだから……とりあえずこっち向に進めば校舎にたどり着けるはず」

 

 

 よし、と彼女は歩き出す。次第にその瞳には黒く暗いの渦が巻き始めた。

 

 

「マリン…………」

 

 

 その声には憎悪と哀惜が入り混じった響きがあった。禍根は、必ず後を追ってくる。逃げる事は出来ても、隠れる事は出来ない。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

「ご馳走様でした! お祝いって良いですよね、いつもの料理が何だか特別な味に感じます!」

 

「ご馳走様でした。トップロードさん、改めてありがとうございました。私、これからもっと頑張れると思います」

 

 

 マリンはぺこりと頭を下げた。

 

 

「いえいえ、まあ結局パーティじゃなくてただの昼食会になってしまいましたが、喜んで貰えて何よりです! まだ次の授業まで時間もありますし、スイーツでも食べながらゆっくりお喋りしましょう!」

 

 

 トップロードは快活に言った。

 

 

「そうね、今回は最後まで付き合ってあげるわ。ん……何かしら?」

 

 

 アドマイヤベガが食堂の異変に気付く。何だか、どよめきが起こっている。

 

 

「おや、あれは誰だろう? 彼女の制服はトレセン学園のものではないね。外部生かな?」

 

 

 オペラオーは言った。

 

 

「あの、ま、マリンさん……入り口の方で、怖い目付きの人がこちらを睨んでいるのですが……お知り合いですかぁ〜……?」

 

「え……?」

 

 

 ドトウの問いかけにマリンが椅子に座ったまま、後ろを振り返って廊下へ続く扉の方を見ると……

 

 

 

 そこには灰髪と紅碧の瞳をしたウマ娘が立っていた。

 

 

 

 マリンは驚きで目を見開いた。

 

 

 ドクン!……と心臓が鼓動した。

 

 

 

「…………ルリ…………?」

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

「お、何や何や? また騒ぎ起こしてる奴おるんか? って誰やアレ、この学園の生徒ちゃうやん」

 

 

 マリンと覇王世代のいる場所から少し離れたテーブルをタマモクロス、イナリワン、オグリキャップ、スーパークリークが囲んでいた。彼女たちは伝説の世代の4強と呼ばれていた。

 

 

「んん〜あの風貌、ただもんじゃねぇなぁ。てか、なんか雑誌で見たことある顔だぞ。ありゃあUMADの格闘ウマ娘じゃないか? 名前は忘れちまったが」

 

 

 イナリワンが咥えた爪楊枝をクイクイ動かす。

 

 

「ほんなら、またあの転入生がらみの事か? URAとUMADが仲悪いのは知っとるけど、因縁っちゅーのはやっかいなモンやな〜」

 

「いやぁ……」

 

 

 イナリワンが目を細くして灰髪のウマ娘をを見つめる。彼女はツカツカとマリンの居るテーブルまで歩いていき、何か話しかけている。遠目から見ても、かなり険悪な雰囲気だと分かる。

 

 

「ありゃ、あの2人の個人的な因縁って感じだねぇ……」

 

 

 それを聞いて、スーパークリークが心配そうな声で言う。

 

 

「大丈夫でしょうかー? 確か、今日はヤエノちゃんも、アケボノちゃんもレースで学園にいませんよねー……」

 

 

 続けてイナリワンは突っ張って言う。

 

 

「だーいじょうぶでぇ! 格闘ウマ娘同士ってのは逆にそう簡単に喧嘩にゃならねぇよ。特にあのレベルの武術家なら尚更だ」

 

「でもこの前、転入生はヤエノに喧嘩売ってたやん」

 

 

 タマモクロスのツッコミにイナリはビタリと固まる。

 

 

「…………ま、何かあったらアタシら総出で何とかするさ、一応年長者だしなぁ」

 

「イナリ……やっぱお前、喧嘩は素人やろ」

 

 

 そんな会話をよそに、オグリキャップは頬を膨らませて大量の食事にがっついていた。

 

 

「……………………」もぐもぐもぐもぐもぐもぐ

 

 

 しかし、彼女は視線だけあの転入生と外部生に向けていた。今回はどうにもあの2人のことが気になっていたのだった。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

「こんにちは、マリン……久しぶりね。アンタの山の家で会って以来だっけ? 半年と少しくらい?」

 

 

 ルリイロバショウはマリンから2メートルほど離れたところに立っている。テーブルに座る他のウマ娘たちは心配そうに成り行きを見つめている。

 

 

「ルリ……何でここに?」

 

「そんなのどうでもいいでしょう」

 

 

 ルリはマリンを射殺さんばかりに睨みつける。宝石の様な眼の奥が憎悪で渦巻いている。

 

 

「私はアンタと話をしに来たの」

 

 

 マリンの顔がわずかに険しくなる。

 

 

「随分楽しそうに踊ってたじゃない。観たわよ、あのウマスタの動画」

 

 

 ルリは腕を組んで言った。

 

 

「可愛いステージ衣装を着てさ、『レースウマ娘ごっこ』……そんなに気に入ったの?」

 

 

 む……とアドマイヤベガが口元を歪める。

 

 

「あなた……何が言いたいのよ?」

 

 

 怒りの籠った声でそう言って、立ちあがろうとしたところを隣のウマ娘が彼女の腕を掴んで止めた。

 

 

「オペラオー?」

 

 

 そこにはアドマイヤベガをジッと見つめるオペラオーがいた。普段の態度からは想像できない、引き締まった表情をしている。

 

 

「駄目だよ、アヤベさん」

 

 

 オペラオーは非常に落ち着いた声で言った。

 

 

「この2人のデュオに、ボクたちは割って入れない。今は沈黙の時だ」

 

「っ…………」

 

 

 そのあまりに真剣な声色に気圧されたアドマイヤベガは黙るしかなかった。ルリイロバショウを睨みながら彼女は渋々と椅子に座った。

 

 

「……歓談の邪魔をした事は謝るわ。でもね、私はどうしてもコイツに聞きたい事があるの」

 

 

 ルリはキッとマリンを睨む。

 

 

「何で……格闘ウマ娘(わたしたち)を裏切ったの……?!」

 

 

 マリンは息を飲み、答える。

 

 

「裏切ったつもりなんて無い……挑戦したかっただけだ、レースに」

 

「挑戦!?」

 

 

 ルリは語気を強める。

 

 

「アンタの実力は私が1番良く知ってる……アンタは『技』で闘うタイプよ、フィジカルは決して恵まれた方じゃない。それが走る為に身体を鍛え上げるレースに『挑戦』したかった!? 舐めてたの!? レースを!? 言ってみなさいよ!! ここに居るレースウマ娘たちに向かって!!」

 

 

 ルリが食堂にいるウマ娘たちを見回して、腕を大きく振る。

 

 その場の誰もが黙って2人に注目していた。

 

 

「っ……違う! 覚悟はしていた! 簡単に勝てるなどと……思ったことは1度もない!」

 

「だったら何でよ!? 今更レースウマ娘になるなんて、バカじゃないの!! せっかくの才能を潰して……世代最強の格闘ウマ娘がなんてザマなの? 現実が見えたでしょう。格闘ウマ娘とレースウマ娘は違う、勝てないと分かってる勝負をいつまで続ける気なのよ……!」

 

 

 マリンは押し黙る。

 

 

「今からでも遅くないわ……UMADに戻りなさい。あなたの才能はレース場ではなく、そこで活かされるべきよ」

 

「……それは出来ない」

 

 

 マリンはルリの言葉を遮って言った。

 

 

「レースを走って、私は知ったんだ。レースウマ娘たちの苦しみも……押し潰されそうな程の悔しさも……格闘技の世界に居た私は、ここに来るまで知らなかった。レースウマ娘たちが『夢』を追う事の辛さを知ることはなかった」

 

 

 マリンは真っ直ぐルリの目を見つめる。

 

 

「私は今……1人のレースウマ娘……だった先輩から『夢』を預かっている。それを叶えるまで、私は格闘ウマ娘には戻れない……!」

 

 

 ルリイロバショウは眉を顰める。

 

 

「何が夢よ……! 私だって……私だってアンタに『夢』を見ていた!!!」

 

 

 

 マリンは目を見開く。

 

 

 

「……世間じゃレースこそがウマ娘の本懐だって言われているのは知ってるでしょう。『走らないウマ娘は無価値』だって、臆面もなく豪語するヤツも居る。格闘ウマ娘なら誰だって一度は悔しい思いをするのよ……」

 

 

 その場の誰もが、息を呑んでいた。

 

 

「その中でもアンタだけは違ったわ。アンタが闘う姿は……格闘ウマ娘に勇気を与えていた……『希望』だったのよ。格闘ウマ娘は『無価値』じゃないんだって、私はそれをアンタと一緒に証明するのが『夢』だった! なのにアンタは突然、レースウマ娘に転向するって言って聞かなくて……!」

 

 

 ルリは唇を噛む。

 

 

「私はアンタのレースは全部観てたわ。アンタは、負ける度にバカにされて、惨めで……格闘ウマ娘の『希望』だったアンタは、もうそこには居なかった……!」

 

 

 ルリは息を溜め、言い放つ。胸の内を吐き出すように。

 

 

 

 

「『私は……もう負けるアンタを見たくないの!!!!!』」

 

 

 

 

 その言葉に、遠くの席の芦毛のウマ娘の耳がピクンと動いた。

 

 

「私はアンタに憧れてたのよ……昔、アンタが初めてうちの道場に来た時から。親父の古い知り合いの孫だって……同い年の格闘ウマ娘が居るって知って、嬉しかった……でも、アンタはとんでもなく強くて……私なんて紙クズみたいに投げ飛ばされて……でも……本当に『憧れた』の……なのに……そんなに、その1人のレースウマ娘の『夢』が大事なの!!?」

 

 

 マリンは、何も言い返せずに口をつぐむ。

 

 

「……それがどんな夢か知らないけど……本格化も終わってる私たちが今更鍛えた所で無意味よ! 勝てるはずがないじゃない!」

 

「っ!!!」

 

 

 ガタンッ!とマリンが椅子から立ち上がり、ルリを睨みつけた。

 

 相対する2人を、周りのウマ娘たちが息を呑んで見つめている。

 

 

 しかし、マリンは黙ったままだった。先輩の夢を無意味と言われた怒りもあった。しかし、ルリの想いをマリン自身が裏切ったのも事実だと分かっていた。

 

 マリンの心は、そんな板挟みな状態だった。そして……

 

 

 

「…………さい」

 

 

 

 マリンはとても……とても苦しそうに呟き、叫んだ。

 

 

「…………うるさい!! それでも私は、ここで走ると決めたんだ!! 今更……お前のそんな『夢』を語られても、私にはどうしようもない!!」

 

 

 マリンは動揺していた。でも同時に、自分がどれだけ非道い事を言ってるかの自覚もあった。

 

 

「っ!!! 私の『夢』も……格闘ウマ娘たちの『希望』も……もう昔のことだって切り捨てるってワケ!!?」

 

 

「……………そうだっ!!!」

 

 

 マリンはやけっぱちに言葉を吐いた。

 

 

 それを聞いて、芦毛のウマ娘が食事の手を止め、椅子から立ち上がる。タマモクロスは肩肘をつきながら、横目でそれを見ていた。

 

 

 

 マリンは眼前のウマ娘を見据えて叫ぶ。

 

 

 

 

「お前の昔の『夢』なんて!!! 私にはもう何の関係も……」

 

 

「マリンアウトサイダ!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 グオオオオオオオオオォッ………!!!

 

 

 食堂全体に、地震がやって来たのではと錯覚するほどの威圧感が走った。ビリビリと皮膚に電気が流れるような錯覚が全てのウマ娘を襲った。

 

 

 

 

「その先は……言うな……ッ!!!!!」

 

 

 

 

 マリンの身体はビクンッ!!!と震えた。恐怖で身体が竦むのはいつぶりだろうか。威圧感には慣れているはずの彼女は、久々のその感覚に混乱する。

 

 

 

 ルリも含め、事の中心の2人以外のウマ娘たちも同じく威圧感と恐怖に身体が竦んだ。

 

 

 平静を保てたのは、オグリキャップと同じ時代を駆け抜けたウマ娘たちと他少数だけ。少し離れたテーブルに座っていたメジロアルダンとサクラチヨノオーは落ち着いて事の成り行きを見守っている。

 

 

 マリンの居るテーブルでは、数多のレースを経験したナリタトップロード、アドマイヤベガ、メイショウドトウさえも、身体も震わせていた。

 

 唯一、テイエムオペラオーだけが動揺することなく腕を組んだまま、チラリとオグリキャップに視線を向けていた。

 

 

 

 食堂内の空気が、固体と液体が入り混じった物質に変化したみたいだった。その威圧感による緊張と沈黙がその場を支配した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……おい」

 

 

 

 その沈黙を破ったのは、同じ芦毛のウマ娘、『白い稲妻』と称されたタマモクロスだった。彼女はテーブルに片手で頬杖をつきながら言う。

 

 

 

「『怪物』が出とるぞ……オグリ。あんま後輩たちをビビらせんな」

 

 

 

 ハッ、とオグリキャップはいつもの雰囲気に戻る。

 

 

「す、すまないみんな、大声を出して驚かせてしまった……」

 

 

 食堂内の空気が正常に戻る。ある者たちは酸素を求めて深呼吸し、ある者たちは心臓の鼓動を抑えよう胸を押さえた。

 

 絶対に大声のせいじゃない……と誰もが思ったが口には出さなかった。

 

 

 

「……マリンアウトサイダ」

 

 

 オグリキャップはその場からマリンに話しかける。マリンは先の威圧感で額に汗をかいていた。

 

 

「……君とそのウマ娘の間に、どんな事があったのか。正直、私には分からない。だが……」

 

 

 オグリキャップは真っ直ぐマリンの目を見つめて言った。

 

 

 

 

「君が『誰かの夢』であったのならば……そのことを否定してはダメだ……他ならない、君自身だけは、決して……それがどれほど自分を苦しめていたとしても……」

 

 

 

 

 そう言うオグリキャップの瞳には、後悔とも無念とも違う……拭い去れない悲しみのような感情がこもっていた。

 

 

 

 

「…………………っ」

 

 

 

 マリンは、アイドルホースの代名詞とも謳われたオグリキャップのその言葉の裏に、どんな過去があるのかは分からなかった。しかし……

 

 他のどのウマ娘よりも多くの夢を背負い、走り続けてきた彼女の言葉は、マリンの胸に『重く深く』響いた。

 

 

 

 ルリもオグリキャップの威圧感に、圧倒されたことに驚きを隠せなかった。

 

(あれが『芦毛の怪物』……本物の化け物じゃない……格闘ウマ娘にだって、私とマリンをビビらせる奴なんてそうは居ないのに……)

 

 

 

 

「君たち……そこまでにしておけ」

 

 唐突に高貴な声が響く。

 

 皆の視線が向く先、食堂の入り口に『皇帝』シンボリルドルフが立っていた。

 

 

 

 

 





次回

10話 それは勝負でも決闘でもない


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10話 それは勝負でも決闘でもない

 

 

 

 

 トレセン学園食堂の入り口に立つシンボリルドルフに、皆の視線が集まる。

 

 ルリもチラリと『皇帝』に目線を向けた。先のオグリキャップの威圧感により一筋の汗が彼女の額に垂れていた。

 

 

「……『芦毛の怪物』オグリキャップの次は、『皇帝』シンボリルドルフ……か。ファンが聞いたら卒倒しそうな面子ね」

 

 

 コツコツとルドルフがマリンたちのテーブルまで歩いてくる。そして振り返ったルリイロバショウの目の前に立った。

 

 

「私を存じて頂けて光栄だ。貴方は『ルリイロバショウ』で相違ないかな?」

 

「!!………レースウマ娘界の『皇帝』がなぜ、私の名を……?」

 

「私は各界隈で活躍するウマ娘は常日頃よりチェックしている。もちろん格闘ウマ娘についても抜かりはない」

 

「……………………」

 

 

 

 ルドルフの威厳ある風格に感心するルリだが、その表情は依然険しいままだ。

 

 

 

「……なるほど、流石『皇帝』と呼ばれるだけあるのね。けど、これは私とマリンの間の問題よ。例え、あのシンボリルドルフでも……あのオグリキャップでも……話の腰を折るのはやめて欲しいわ」

 

 

 ルリの目に殺気が篭る。

 

 

「だが……」

 

 

 と、ルドルフは意に介さず、語気を強めて言う。

 

 

「その問題は、そう簡単に解決するものではあるまい。特に、その様な非常に強い想いのぶつかり合いはな。そこでだ……」

 

 

 ルドルフはルリの目を真っ直ぐに見つめて、微笑を浮かべた。

 

 

「ここはトレセン学園……そして、マリンアウトサイダはここの在籍生だ。学園の生徒たちはお互いの主張がぶつかり合う時は、ここの生徒として相応しい方法で決着をつけるのだが……どうかな?」

 

 

 周囲が少しざわついた。うそでしょ、ええっ、と所々から聞こえてくる。

 

 

 

「……まさか……『走れ』って言うの? 私に」

 

 

 

 ルリはルドルフを睨みつける。しかし、ルドルフは動じずに答える。

 

 

「選ぶのは君だ、ルリイロバショウ。ここで口論を続けるより、幾分か建設的だと私は思うのだが……マリンアウトサイダも、異論はないな?」

 

「……………」

 

 

 コク、とマリンは黙って頷いた。長い沈黙があたりを包んだ。ルリはルドルフとマリンを交互に睨みつけた。そして……

 

 

 

「………………いいわ、乗ってあげる。マリンとレースをしろって事でしょ? 上等よ。格闘ウマ娘だって、ダッシュと走り込みくらいはしているわ」

 

 

 ルリがマリンの方を向く。

 

 

「マリン、アンタは中距離か長距離を走ってたわね。アンタが距離を決めて良いわよ。2000メートルだろうが、3000メートルだろうが、どんな距離だろうと構わないわ」

 

 

 ルリの言葉に、マリンは目を閉じて深呼吸する。そして彼女に向かって告げた。

 

 

 

「……500メートルだ」

 

 

 

 周囲のざわつきが更に大きくなる。テーブルにいる4人のウマ娘も皆、驚きの表情を浮かべる。

 

 

 ルリはそれを聞いて更に苛立った。

 

 芝の短距離走レースでも最短距離が1000メートルなのはルリも知っていた。その半分の距離をマリンは提示したのだ。

 

 

「何……ハンデのつもり?」

 

「違う」

 

 

 マリンは屹然と言い放つ。

 

 

「直線500メートル、これならば私とルリとの間に能力の差は無い……それだけだ」

 

「ふぅん……」

 

 

 ルリは更に一歩近付いて、マリンの目と鼻の先に立つ。

 

 

「いいわよ、それで。でも覚えておいて、アンタは私を『納得』させなきゃならないのよ。それが最優先」

 

 

 ルリが顔を更に近付ける。2人の間には深く暗い溝があった。

 

 

「言っておくけど、負けた時の為の言い訳じゃないから。それは理解してるわよね?」

 

「……ああ、理解している」

 

 

 

 両者の間で決闘の条件が定まったところで、タッタッタッタッ!と廊下から走る音が聞こえてきた。

 

 入り口から入ってきたのは緑の帽子を被った駿川たづなだった。彼女はマリンとルリが相対しているのを見て、厳しい目付きになる。

 

 

「ッ…………これは、何事ですか? ここは『部外者』は立ち入り禁止ですよ。本日は他校からも、UMADからも来訪者の予定は無いはずですが」

 

 

 それを聞いたルリは目を細めた、が……

 

 

「たづなさん」

 

 

 ルドルフがたづなに呼びかけた。

 

 

「彼女……ルリイロバショウは、私がここに呼んだのです。個人的な相談がありましたので」

 

「えっ!? ですが!」

 

「たづなさん……」

 

 

 ルドルフはたづなの目を見つめて言った。数秒経ち、たづなは「はぁ」と観念したように目を閉じてため息をついた。

 

 

「……分かりました。ただし、後で詳しいご説明をお願いしますね」

 

「……ありがとうございます」

 

 

 ツカ、ツカ……とたづなが食堂を出て行った。それを見届けてからルドルフは食堂のコートに向き直り、その場のウマ娘たちに向けて言った。

 

 

「諸君! 私の客人が迷惑を掛けて申し訳なかった。授業開始時刻も近い、各々その準備に戻ってくれ」

 

 

 最後にルドルフが小さく頭を下げた。『皇帝』がその様なことまでしたのなら、それに文句を言える者は誰もいない。皆戸惑いながらも、食堂を出て次の授業の準備へと向かった。

 

 

「……シンボリルドルフ……」

 

 

 ルリがルドルフに口澱んでいると、ルドルフはそれを手で制止した。

 

 

「さっきのことは気にしないで良い。それよりも、今は君たちの事が優先だ。たづなさんは見逃してくれたが、急ぐに越した事はない。さあ、グラウンドへ移動しよう。この時間帯なら使う者はいないはずだ」

 

 

 ルドルフが出口へ向かって歩き出す。マリンとルリは互いに一瞬目線を交わすと、静かに彼女の後をついて行った。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 

 食堂から出て行く3人を、蒼い星模様の耳カバーをしたウマ娘がテーブルから真剣な眼差しで見つめている。

 

 

「…………私も行くわ」

 

 

 ガララ、とアドマイヤベガが立ち上がる。

 

 

「え、行くって……マリンさんたちのところへですか? もう授業が始まっちゃいますよ!?」

 

 

 トップロードが慌てて言った。

 

 

「あんなのを見せられて、今更知らないふりなんて、出来るわけないわ」

 

「わ、私も行きますぅ〜!!!」

 

 

 メイショウドトウも立ち上がる。

 

 

「マリンさんは……もう私たちの大切な友達です……私も、マリンさんの側に居てあげたいですぅ!」

 

「ドトウちゃんまで…………ああもう、分かりました! 学級委員長にあるまじき行動ですが、授業よりあの2人の対決を見守るのを優先します! 後でみんなで仲良く叱られましょう!」

 

 

 ナリタトップロードと、それに続いてテイエムオペラオーも立ち上がった。

 

 

「はーっはっはっはっ! やはりボクら『覇王世代』の心は一つ! さあ、共に行こう! 輝かしきコロッセオへの道を駆け『行くわよ』

 

 

 アドマイヤベガはオペラオーの台詞を遮り、さっさと歩き出した。それに続いて残りのウマ娘たちもグラウンドへ向かって行くのだった。

 

 

 そして、それを離れたテーブル席から眺めていた小柄なウマ娘がニヤリと笑う。

 

 

 

「……ほな、ウチも行ってくるわ」

 

 

 ガララと音を立てて椅子からタマモクロスが立ち上がる。

 

 

「タマ? お前さん喧嘩に興味は無ぇって言ってたクセして、どう言う風の吹き回しでぇ?」

 

「そら殴り合いには興味あらへんで? でも、アイツらがやるのは格闘ウマ娘同士の本気の『駆けっこ』や。こんなオモロいもん、中々見れへんやろ!」

 

「ふふふ、これはもう、みんなで行くしかないですね〜」

 

 スーパークリークもいつの間にか立ち上がっていた。

 

 

「あ〜あ〜、年長者が揃いも揃って授業をサボるってかい? 

 

 そうこなくっちゃなぁ!! こんな喧嘩を見逃したとありゃあトレセン学園一の傾奇者の名が廃らぁ!!!」

 

 ババン!とイナリワンも威勢よく立ち上がる。

 

 

「もちろん、オグリも来るやろ? もう当事者みたいなもんやしな」

 

 

 タマモクロスはオグリキャップに笑いかけた。しかし、タマモクロスの明るい声とは対照的に、オグリキャップは暗い面持ちで俯いている。

 

 

「……ああ、私も行く。みんなは先に行っててくれ……後で追い付く……」

 

「……ああ、待っとるで。ほな、2人とも行こか」

 

 

 タマモクロスがポンとオグリキャップの肩を叩いて食堂の出口へ向かう。

 

 スーパークリークは少し心配そうな顔をしたが、イナリワンと一緒にタマモクロスの後を追いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 3人の去って行く足跡が、賑わいを失った食堂に響く……

 

 

「…………………」

 

 

 食堂にはオグリキャップだけが残された。

 

 さっきのルリイロバショウの声がまだ頭の中に響いている。

 

 

 

『私だって…………私だってアンタに『夢』を見ていた!!!!!』

 

 

 

 オグリキャップは目を閉じる。ルリの姿が記憶の中の、ある芦毛のウマ娘と重なる。

 

 

 

『私の目標は東海ダービーだ』

 

『貴様を倒して、私は頂上へ行く』

 

 

 

 思い浮かぶのは故郷の景色。そして、カサマツトレセン学園で出会った『初めてのライバル』の姿。

 

 

 

『これはなんだ!! 東海ダービーはどうした!?』

 

『私との…約…束…ッ……バカに…しやがって……ッ!』

 

 

 

 私も……『誰かの夢』を裏切った。その時の彼女の顔を、私は一生忘れる事はないだろう……

 

 

 

『お前よりも永く、レース場に立って見せる』

 

 

 

 オグリキャップは目蓋を上げる。

 

 

「カサマツのみんなは……最後は笑顔で送り出してくれた……だから、中央に来たことに後悔なんて絶対にない」

 

 

 

『一緒に東海ダービーで走ろう』

 

 

 

 記憶の中で、自分がそのウマ娘に語りかけている。

 

 

 

「でも……でも……ッ!」

 

 

 

 オグリキャップは拭い去れない悲しみに唇を噛む。後悔も、無念もない……彼女はただ、『そうならなかった』現実を噛み締めるしかない。

 

 

 

「私は1日だって……お前との『約束』を……『夢』を……忘れたことなんて無かったんだ……………………マーチ……………」

 

 

 

 

 オグリキャップは、今は遥か遠くとなってしまった日々に向かって、1人呟いた……

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 グラウンドには3人のウマ娘の影があった。

 

 1人はマリンアウトサイダ、体操着に着替えてストレッチとウォーミングアップをしていた。

 

 もう1人はルリイロバショウ、マリンから体操着を借りて、シリウスのロッカールームの予備のシューズと蹄鉄を使っていた。

 

 シンボリルドルフはそんな2人のレースのスターターを務めることになった。

 

 

 つま先をトントンとターフに打って、ルリはシューズの履き心地を確認する。

 

 

「しっかし、蹄鉄シューズなんて小学校の行事で履いて以来よ。こんな物、また履くことになるなんて……」

 

 ルリは憎たらしいものを見るように、足元に視線を向けていた。そんな彼女を、マリンは軽く屈伸しながら見ていた。

 

 

「……嫌なら、私は裸足で走っても別に構わないけど」

 

「気にしないで、トレセン学園に踏み入ったのは私だもの。郷に入っては郷に従うわ。ただ、シューズのサイズは大丈夫なんだけど……」

 

 

 ルリがグイィ〜〜と背を反って言う。

 

 

「この上着、胸囲が足りなくて少しキツいわね。ま、マリンのなら仕方ないか」

 

 

 ルリが姿勢を直した時にユサッとその膨らみが揺れる。ちなみに彼女の身長はマリンより頭半分高いくらいで、胸は少しとは言えない差があった。その空手の実力はさることながら、ルリはビジュアル面でもかなり人気があった。

 

 そしてトレセン学園の体操着は同じサイズでも胸囲によって複数のタイプに分かれている。マリンの物は『小さい方』である。

 

 

「…………だったら脱いで走れば? 涼しくって良いわよ、きっと」

 

 黒髪のウマ娘はジト目で呟いた。

 

 

 マリンは普段なら体型のことなど気にかけないが、ルリに言われると何だか無性にムカつくのだった。

 

 ルリはそんなマリンを無視するようにグラウンドから歩道の方を見る。何だか騒がしい様子だ。

 

 何人かギャラリーが来ていて、その中で誰かが誰かに抱き締められて窒息しているような……?とルリは思ったが、あれは見てはいけないものな気がしたので目線を戻した。

 

 

 

「コホンッ! 2人とも、そろそろ準備は良いだろうか?」

 

 

 そして、ルドルフが2人に呼びかける。

 

 

「私が立っているこのあたりから、向こうのナリタトップロードが立っている所までが凡そ500メートルだ。直線の一本勝負、それで……決着だ」

 

 

 マリンとルリは再び相対した。互いを睨み合っている。頭のスイッチが切り替わり、格闘技の試合の直前の様な雰囲気になっている。

 

 

「マリン……さっき言ったこと、忘れてないわよね? 私を『納得』させなさい……!」

 

「………………」

 

 

 ルドルフが右手に乗せたコインを2人に見せる。

 

 

「私がトスしたコインが地面に落ちたら、それがスタートの合図だ。2人とも、位置についてくれ」

 

 

 マリンとルリ、ルドルフはゴールの方に向かって、間隔を空けて横一列に並ぶ。

 

 

 真ん中に立つルドルフはスッと右手を突き出して、コインを弾く用意をした。

 

 それを見て、マリンとルリは走る体制を取る。

 

 

 キィンッ……!とコインが回転しながら宙に舞う。

 

 

 そして………………………………芝に落ちた。

 

 

 

 ヴゥオンッ!!!!!!!!!!

 

 

 

 と、2人のウマ娘がスタートダッシュを決めた。その勢いは、ルドルフの予想よりも激しく、彼女は少し目を見開いたのだった。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 数分前……

 

 

「それじゃ私、ゴール役をしてくるので行ってきますね!」

 

 

 タタタタタッ!とナリタトップロードはゴール地点に向かった。

 

 

「……こんな時でも真面目なのね、トップロードさん」

 

 

 アドマイヤベガがため息をついたように言う。

 

 

「でも、トップロードさんらしいですぅ〜」

 

 

 グラウンドから見て、土手の上にあるような歩道のゴール付近にアドマイヤベガ、メイショウドトウ、テイエムオペラオーは並び立っていた。

 

 トップロードは対決する2人のウォーミングアップ中にルドルフに話しかけ、自らゴール役を買って出たのだった。

 

 

「……………………………」

 

 

 常に饒舌で騒がしいと言われるオペラオーは、今は珍しく黙ってスタート地点付近の2人を見つめていた。

 

 

(……オペラオー、いつも喧しいと思っていたけど、静かなら静かで気味が悪いわね……)

 

 

 アドマイヤベガがそんなことを考えていると、後方から複数人の足音が聞こえてきた。振り返ると、そこには偉大すぎると言っても過言ではない伝説の世代のウマ娘たちが並んで歩いてきていた。

 

 

 

「おーっす後輩たち、ウチらも見物に混ぜてもろてもええか?」

 

「……ええ、もちろんです。その、タマモさんたちも、あの2人のレースを観に……?」

 

 

 アドマイヤベガが聞いた。

 

 

「ああ、そやで。レースっちゅうか『駆けっこ』やろ、これは。興味深いもん観れそうやなーと思ってたら、いつの間にか脚が勝手に教室やなくてこっちに進んでたんや」

 

 

 タマモクロスがニヤリと笑った。そして、表情は崩さず、少しだけ真剣な調子で言う。

 

 

「さっきはオグリの奴がすまんかったな。でも、アイツあれ無意識にやっとんねん。許してやってな。ドトウもビビってもうたやろ?」

 

 

 タマモクロスがドトウに話しかける。

 

 

「あ、は、はいぃ〜身体がビクビクして……怖かったですぅ……」

 

 ドトウは俯いてオドオドと答える。しかしその後、タマモクロスの方に力強く向き直った。

 

 

「で、でも、良かったです! オグリさんが……マリンさんを止めてくれて。もし止めてなかったら、マリンさんが、何というか……道を……間違えてしまっていた気がして……だから、オグリさんにはその、むしろ感謝してるというか……」

 

 

「!!………ほ〜……」

 

 

 タマモクロスはドトウをジッと見つめた。ドトウが臆病なのは性格だろう。しかし、その瞳の奥には芯の強い精神があるのをタマモクロスは感じ取った。

 

 

「そかそか、見直したでドトウ、流石『世紀末覇王』と渡り合っただけの事はあるなぁ〜」

 

「え、そ、そんな、私なんて、タマモさんにそんな事言われるようなウマ娘じゃないですぅ〜……ただ、マリンさんの事が心配なだけで……」

 

 

 そう言って、ドトウはストレッチを終えて、何かを話しているマリンとルリを見て、心配そうに呟く。

 

 

「マリンさん、勝てるでしょうかぁ〜……」

 

「その心配は必要ないよ、ドトウ」

 

 

 同じく2人を見つめていたオペラオーが答えた。

 

 

「マリンさんが勝っても、ルリイロバショウさんが勝っても、関係ないんだ」

 

「え、えぇ〜!? オペラオーさん、どういうことですかぁ……」

 

 

 オペラオーがドトウの方を向いた。いつになく真剣な表情にドトウはドキリとする。

 

 

「これは2人の魂、そして過去と現在(いま)の『夢』を全力でぶつけ合うこと、それ自体が目的なのさ。どちらが先にゴールするかなんて関係ない。だからこれは『勝負(レース)』とも、『決闘(デュエル)』とも言えない……こういうのをきっと……『喧嘩』、と言うのだろうね」

 

「『喧嘩』……ですかぁ……」

 

 

 

 それを聞いたタマモクロスがニヤニヤしながらイナリワンを肘で突いた。

 

「イナリ〜、後輩の方が『喧嘩』を分かっとるみたいやぞ。ええんか〜? 江戸っ子なんやろ〜?」

 

「う、うるせーやい! ヒトにはヒトの、ウマ娘にはウマ娘のそれぞれの『喧嘩道』ってものがあんでい! 比べるものじゃねぇ!」

 

 

 そして、そんな2人の後ろでプルプル震えていたスーパークリークが、我慢の限界を迎えてドトウに一瞬で近寄り抱き寄せた。

 

 

「あ〜もう〜! ドトウちゃん、健気過ぎて私、甘やかしたくて我慢出来ません〜! ママって呼んで良いのよ〜! ねぇ、ドトウちゃ〜ん!」

 

「あ、あわわわわわわぁ〜〜! く、クリークさん、い、息が、わぷぅ!! も、もう始まっちゃい、むぐぅ!」

 

 

 その様子をターフにいるルリイロバショウが見ていたが、彼女は目を逸らしたのだった。

 

 

 ダッダッダッダッダッ!

 

 と、騒がしくなって来たところで、オグリキャップが走って来て皆と合流した。

 

 

「お、遅れてしまってすまない! マリンアウトサイダの勝負は始まってしまっただろうか?」

 

 

 タマモクロスが振り返って、オグリキャップに言う。

 

 

「オグリ、危なかったなぁ。ちょうど始まりそうなところや」

 

 

 オグリキャップがターフを見ると、3人が横一列に並んでいるのが見えた。ルドルフが右手でコイントスを行おうとしている。

 

 

 流石にスーパークリークもドトウを解放して、皆で『喧嘩』が始まる瞬間を待つ。

 

 

 

 そして…………………

 

 

 ヴゥオンッ!!!!!!!!!!

 

 

 と、音がこちらまで聞こえてきそうな勢いで、2人はスタートダッシュを決めた。

 

 

 

………

……

 

 

 

 

「!!! 速い……」

 

 

 オグリキャップは呟いた。

 

 

「へぇー、やるやん。スタートダッシュの精度は2人とも中々大したもんやな。片方はしかもレースは素人のはずやのに」

 

「あの2人が格闘ウマ娘だからかもなぁ。格闘技の勝負は一瞬で決まる。だったらアイツらの反射神経と瞬発力はレースウマ娘以上ってのもあり得ない話じゃねえ」

 

 

 タマモクロスとイナリワンが驚きの声を上げた。

 

 

「……でも500メートルなんて、ウマ娘にとってテクニックでどうにかなる距離じゃない。純粋な身体能力だけの闘いになる。マリンさん……遅れてるわ……!」

 

 そう言ってアドマイヤベガは目を細めた。

 

 

 皆がこの闘いの行く末を見守っている。早くもレースは中盤にさしかかっていた。

 

 リードしているのは……ルリイロバショウだった。

 

 

「ま、マリンさ〜〜ん!!! 頑張って下さいぃ〜〜〜!!!」

 

 

 ドトウが精一杯の声でマリンを応援していた。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 ルドルフはコイントスの後に、2人の姿がよく見えるように高台に移動していた。

 

 レースはあっという間に中盤戦に入る。見ると、リードしているのはルリイロバショウだと分かった。

 

 

(マリンアウトサイダ……君は純粋なフィジカル面においては、残念だがルリイロバショウには劣る。この短い距離で、君が勝つ為には……)

 

 

「………………………」

 

 

 ルドルフは腕を組んで、静かに勝負の行方を見守った。

 

 

 

 





次回

11話 レースウマ娘の背中


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11話 レースウマ娘の背中

 

 

 

 

………

……

 

 

 

ダッダッダッダッダッダッダッダッダッダッ!!!

 

ダッダッダッダッダッダッダッダッダッダッ!!!

 

 

 マリンアウトサイダとルリイロバショウ、2人の足音が重なっている。

 

 

 500メートルという超短距離は、ウマ娘なら常に全力疾走しても全く問題無い距離だ。つまりは純粋なスピード勝負だった。

 

 ルリイロバショウもウマ娘だ。『走るための筋肉』は武術の鍛錬を積み重ねる中で自然と鍛えられる。超短距離という限定された条件ならば、レースウマ娘とも十分に張り合える。それが『ウマ娘の肉体』というものだ。

 

 

 スタート地点から目算で中間地点を過ぎた。

 

 ルリは頭一つ分リードしている。体力は消費してないも同じ。フィジカルではマリンより彼女の方が優っている。

 

 

(ハンデでも何でも構わない、マリン……このまま……アンタに……!!!)

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 十数年前……

 

 

 年季の入ったとある道場の稽古場で、灰髪と紅碧の瞳をした道着姿の幼いウマ娘が空手の型を演じていた。歳のわりに芯の通った型を見せ、その実力は見た目以上だと言うことを伺わせる雰囲気があった。

 

 

「ふっ! すぅ……はぁっ!」

 

 

 突き、蹴りを繰り出しながら幼い武道家ウマ娘は、つい先日あった出来事を思い出していた。この道場で一緒に空手を習っていたルリ以外で唯一のウマ娘が、道場を去ってしまったのだ。

 

 

(〜〜〜ッ!! みんなレース、レースって!! ウマ娘はレース以外しちゃダメなの!? レースなんて嫌い……大っ嫌い……!!)

 

 

 ルリは湧き起こる激しい感情を抑えることができなかった。

 彼女は幼いなりに、自分の父親の道場と空手の技に誇りを持っていた。それを全て否定された気がして、どうしても我慢ができなかった。

 

 幼いルリイロバショウは取り残されてしまった。ぶつけどころのない感情が、涙になって溢れ出そうになるのを、がむしゃらに拳に乗せて1人耐えていた。

 

 

「ッ……!! はぁぁあああああ!!」

 

 

 ルリは力任せに飛び蹴りをする。嫌な思い出を頭から振り払おうとする様に。

 

 

「こら、ルリ!!!」

 

 

 そんな彼女に、稽古場に入ってきた壮年の男性が声をかけた。彼はこの道場の師範であり、幼いウマ娘の父親でもあった。

 

 

「そんな魂のこもってない蹴りは達人には決して当たらない。心が乱れているな」

 

「っ……ごめん、お父さん……」

 

 

 ふぅ、とルリの父親は小さくため息をつく。彼は自分の娘がやり場のない怒りに何とか向き合おうとしてるのは理解していた。だが、それがすぐに解決できない事でもあると知っていた。

 

 

「……ルリ、今日はお客さんが来るんだ。稽古はそこまでにして一緒に待とう」

 

「……? お客さんって、だれ?」

 

「父さんの師匠の古い友人でね、とても強い武術家で、父さんも昔お世話になった方だ。それともう1人、一緒に来るそうだ」

 

 

 暫くして道場に小柄な老人が訪れた。父親が彼に頭を下げて挨拶し、何か会話をしていた。幼いルリイロバショウには、その老人がとても強い武術家だなんて思えなかった。

 

 

「ルリ、こっちに来なさい」

 

 

 タタタッとルリは2人の側に駆け寄って、2人を見上げる。

 

 

「娘のルリイロバショウです。ルリ、こちらは角間源六郎さんだ。ご挨拶なさい」

 

「こ、こんにちは……」

 

 

 ペコリとルリは頭を下げる。

 

 

「ああ、こんにちは。実はお前さんが赤ん坊の頃に会ったことがあるんだが、まあ覚えていないわな。ほれ『ミドリ』、お前も隠れてないで挨拶せんか!」

 

 

 よく見ると、老人の陰に隠れて誰かが覗いていた。グイッと老人に首根っこを掴まれて、前に引っ張り出される。

 

 

「……!」

 

 

 ルリは驚いた。隠れていたのは黒髪の小さなウマ娘だった。何故か明らかに大人用の緑色のパーカーを胸に抱き締めて、緊張した様子で上目遣いでルリを見ていた。

 

 しかしルリが興味を引いたのは抱えているパーカーではなく、彼女の服装だった。足元を見れば、それが武術家の着る袴だと言うことが分かった。子供用のサイズのようだ。

 

 

「ねえ! あなたも武道をやってるの!? わたし、ここで空手を修行してるの! お名前は!? わたしはルリイロバショウ! ルリって呼んでいいよ!」

 

「あ、あの…えっ…と…」

 

 

 その黒髪の幼いウマ娘は相当な人見知りらしく、目を逸らして胸のパーカーを更に強く抱き締める。

 

 そんな様子を見て老人は彼女のお尻をパン!と軽く叩いた。「ひゃん!」と声を上げて、彼女は1歩ルリに近付いた。

 

 

「わ、わたし……マリンアウトサイダ……」

 

「? さっき『ミドリ』って呼ばれてなかった?」

 

「それは……あだ名……本当は……『マリンアウトサイダ』……」

 

「ふーん、じゃ『マリンちゃん』って呼ぶね! マリンちゃんは、どんな武道を……あっ……」

 

 

 ルリの顔が突然暗くなる。先日の出来事が頭をよぎったのだ。そして悲しそうな声で、マリンに尋ねる。

 

 

「マリンちゃんも……いつか、武道を止めるつもりなの……? わたしのウマ娘の友達も……みんな、やめてレースに行っちゃった……」

 

 

 その質問に、マリンは一瞬キョトンとして、緊張しながらも答える。

 

 

「レースって……ウマ娘の、かけっこの? わたしは、あんまり興味ない。山の中で走るのは好きだけど……おじいちゃんから空手と合気道を習ってる時の方が……楽しい」

 

 

 それを聞いてルリの顔がパァッと明るくなる。そして父親が彼女に言う。

 

 

「ルリ、マリンさんに道場を案内してあげなさい」

 

「うん!!!」

 

 

 ルリは嬉しそうにマリンに呼びかける。

 

 

「行こう! マリンちゃん!」

 

 

 マリンはチラリと老人を見上げた。目線で「いいの?」と聞いている。

 

 

「ああ、行ってこい」

 

「まずはこっち! ついて来て!」

 

 

 タッタッタッタと2人の幼いウマ娘たちが駆けて行く。父親と老人は微笑ましく彼女たちを見送った。

 

 

 

「あの娘の両親……まだ見つかってないんですか?」

 

 

 真剣な声で父親が尋ねた。

 

 

「ああ、警察からはなーんも連絡は無い、山にアイツを探しに来たヤツも居ない。木の股から産まれて来たって言われた方が自然と思えるくらい、手掛かりが何も無えな。あのパーカーもメーカーの量産品で捜索には役立たなかったらしい。あれを取り上げると泣き喚くからよ、警察から取り返すのに苦労したぜ」

 

 

 警察のお偉いさんの中には元UMAD所属のウマ娘も居て、その繋がりで何とかなったと老人は言った。

 

 

「源六郎さんも、本来ならUMADの理事長クラスになれるでしょうに。基盤となった団体を作ったのあなたでしょう? 僕からしたら勿体無いですよ」

 

「俺じゃねぇよ、俺の嫁がやったんだ。俺は手伝っただけだ……」

 

 

 源六郎は何かを懐かしむように道場を見回した。隅の方で、ルリが壁に掛けてある棒やヌンチャクなどの武具をマリンに見せていた。

 

 

「なあ坊主……頼みがある。ミドリはそろそろ小学校に通う歳だ。ここは寺子屋みてぇなこともやってるだろ? アイツをたまにここへ通わせてやりたい。アイツは山で生活してるからよ。俺以外と話さないもんだから、人見知りになっちまってやがる。同じ年頃のガキと交流させてやりてぇんだ」

 

 

 老人の真剣な声色に、父親は笑顔で答える。

 

 

「もちろんですよ、ルリもきっと喜びます。同い年の格闘ウマ娘が居ないことを寂しがってましたから……」

 

「……友達のウマ娘たちがレースに行った、とか言ってたな。まぁ、世間ではそれが普通だろうよ」

 

 

 

 すると、おーい!とルリが父親に呼びかける声が聞こえた。

 

 

「お父さーん! マリンちゃんとお手合わせしていいー!? ケガしないようにするからー!!」

 

 

 父親が老人を見る。

 

 

「構わんよ。おーい、ミドリ! 手加減するんだぞ!」

 

 

 コクンとマリンは頷いた。父親も注意するんだぞー!と返す。

 

 

「手加減しろだなんて、良いんですか? 言っておきますが、ルリは中々強いですよ。まだ大会に出られる年齢ではないですが、同世代の中でも頭一つ抜けてます」

 

「言葉を返すようだが、ミドリはな……何つーか、『怪物』だぞ」

 

 

 そう2人が目線を交わして会話していると、

 

 

 ドタタターーーンッ!!!! ガンッ!! ガラララララ!!!

 

 

 と、大きな音が道場に響いた。見てみると、マリンがルリを投げ飛ばして、転がったルリが壁に激突して掛けてあった棒が何本か床に落ちていた。

 

 

「バカやろ、ミドリーーー!!! 手加減せいと言っただろうがぁーーー!!!」

 

「えっ、で、でも、おじいちゃんはこのくらいなら……!」

 

 

 マリンがアワアワと戸惑っていた。

 

 

「その子供と俺と一緒にするなぁ!!! いいからその娘んとこに行けぇ!!!」

 

 

 マリンがタタタ!と慌ててルリに駆け寄った。

 

 

「だ、だだ、大丈夫!? ケガ、し、してないっ!?」

 

 

 マリンがルリに尋ねると、ルリは「イタタタ……」と言って、立ち上がる。すると……

 

 

「す…………すごい、すごい、すごーーーーい!! ねえ、今のどうやったの!? わたし、あんな風に投げ飛ばされたの初めて!! フワってしていつの間にか飛んでたの!! マリンちゃんってすっっごく強いんだね!!」

 

 

 ルリは紅色と碧色、両方の目をキラキラさせてマリンに言った。

 

 

「え、あの、えと、今のは合気道の技で……その……」

 

 

 特に問題なく仲良さげに話す2人を、保護者たちがホッとして見つめている。

 

 

「……驚きました。確かに『怪物』ですね。ルリはあんな簡単に投げられるような娘ではないのに」

 

「ああ。ドウザンの奴が、ミドリが小学生になったらUMADに絶対に入れろ!ってうるさくてな」

 

「ヤマブキドウザンですか、UMAD理事長の孫娘の。シニア級のトップ選手に見初められるとは、将来有望ですね」

 

「俺はそんなのどうでも良いんだがな……ミドリがやりてぇなら、そうさせるさ。俺はアイツに、ヒトとウマ娘の身体の壊し方と……山で生きる術しか教えてやれねぇからよ……」

 

「……それでも、あなたは立派な親ですよ」

 

 

 フン、と老人が鼻を鳴らす。

 

 

「……なあ、坊主。もう一つだけ、頼まれちゃくれねぇか? ……もし俺に何かあった時には、ミドリの奴を頼む。お前さんだから、頼みてぇんだ」

 

「……あなたは、殺しても死なない男じゃないですか。『角間源六郎』にそんな事を言われるなんて、思ってもみませんでしたよ」

 

「人生何があるか分かるもんじゃねぇさ。だから頼む……俺も良い歳だからな、でっかくなっていくアイツを見てると、つい考えちまってな」

 

「……ええ、妻にも伝えておきますよ」

 

「すまねぇな、恩に着る」

 

 

 2人は黒髪と灰髪のウマ娘たちを見やる。正に、未来を感じさせる光景がそこにはあった。

 

 

「ねえ、マリンちゃん! 2人でさ、日本一の格闘ウマ娘になろうよ! そうすればさ、レースじゃなくて武道をやってくれるウマ娘たちもたくさん増えると思うんだ!」

 

「え? 日本一って……1だから2人じゃ無理だよ?」

 

「だから、最後は2人で闘うの! わたし、これからマリンちゃんのライバルだから! いつか絶対にマリンちゃんに勝ってやるんだから!」

 

「え、えぇ……ライバルって……わたし、あまりそんなのは……」

 

「いいから! もう決めたの! それがわたしの『夢』! だから約束、絶対2人で日本一の格闘ウマ娘になろうね!」

 

 

 顔を輝かせて言うルリに、マリンは渋々ながらも答える。

 

 

「むぅ……わかった。約束する……」

 

 

 これは過去の一場面、ルリイロバショウという格闘ウマ娘が同い年のマリンアウトサイダに心から見た、遠い日の『夢』だった……

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

「ハァ!! ハァ!! ハァ!!」

 

 

 マリンアウトサイダは死に物狂いで走る。彼女は頭一つ分、ルリイロバショウにリードされていた。

 

 中盤は過ぎた、あと少しで残り200メートルを切るだろう。

 

 マリンは、ルリの方が身体付きも脚力も上なのは分かっていた。でも彼女自身で決めたルールだった。なので文句など無かった。

 

 彼女はただ全力で、同じ土俵で、幼馴染みの格闘ウマ娘と『喧嘩』をしたかったのだ。

 

 

 

 ダッダッダッダッダッ!!

 

 

 

(あぁ……脚がターフを蹴っている。小さい頃は想像もしていなかった。自分がレースに挑戦するなんて……ルリイロバショウと、全力で走ることになるなんて……)

 

 

「ハァッ!! ハァッ!! ハァッ!!」

 

 

 マリンは走れる限界まで、既に脚を酷使している。それはルリも同じだろう。マリンの脳裏に幼き日のルリの顔が浮かんだ。

 

 

『ねえ、マリンちゃん! 2人でさ、日本一の格闘ウマ娘になろうよ! そうすればさ、レースじゃなくて武道をやってくれるウマ娘たちもたくさん増えると思うんだ!』

 

 

(言われてやっと鮮明に思い出すなんて、私は本当に人の気持ちが分かってなかったんだな……)

 

 

 

 それは過去の『夢』……

 

 幼馴染みが自分に見てくれた『夢』……

 

 

 

(私は……それを否定しようとしていたんだ……本当にどうしようもない……)

 

 

『君が「誰かの夢」であったのならば……そのことを否定してはダメだ……他ならない、君自身だけは、決して……それがどれほど自分を苦しめていても……』

 

 

 オグリキャップの言葉がマリンの頭の中に反響する。彼女は今ならば、その意味がほんの少しでも理解できる気がした。

 

 

(けれど……私は知ってしまったんだ。多くの格闘ウマ娘が苦しんでいた……でも、多くのレースウマ娘も苦しんでいたことに)

 

 

 マリンの脳裏に、先輩ウマ娘の笑顔が浮かぶ、そしてそれは別れの時の涙の顔に変わり、最後には去っていく背中しか見えなくなる。

 

 

(……ごめん……ルリ……)

 

 

 マリンはゴールを先を見つめる。

 

 

(私は……現在(いま)の……あの人の『夢』を背負う……そう、決めたんだ……!!!)

 

 

 ダンッ……!!!

 

 

 マリンアウトサイダは、大きく足を踏み込んだ。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

「ッ………!!!」

 

 

 ゾクリと、何かが背中を撫でた気がしてルリは一瞬振り返る。

 

 そこには……自分の知らない『ウマ娘』が居た……

 

 

「ぐう……うあああああああああああああ!!!!!!」

 

 

 マリンの体勢が一瞬、沈み込む。そして、雄叫びと共に、限界を超え『加速』した。

 

 

(!!!……なんだ、コレ!? 限界のスピードで走っていたはずなのに……まだ余力を残していた!? いや、そんな気配は全く無かった!!!)

 

 

 ルリイロバショウにとって産まれて初めての経験だった。彼女の理解の範疇を超える現象に脳が混乱する。

 

 

 ゴールまで200メートルを切った。少しずつ……少しずつ……マリンはルリよりも前進する。

 

 

 

 そしてついに

 

 

 ルリの紅碧の瞳に

 

 

 マリンの背中が映った。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

「そうだ……マリンアウトサイダ」

 

 

 シンボリルドルフは走るマリンの背中を見て呟く。

 

 

「ウマ娘が限界を超えるのは……その背中に『夢』を背負う時だ。それは時に『奇跡』を起こす……誰にも想像できない『奇跡』を……」

 

 

 ルドルフは思い出す。

 

 

 過去の有記念で……怪我に泣き、1年ものブランクに屈せずに、奇跡の勝利を掴み取った『帝王』の姿を。それに心震えて、溢れる涙を止めることが出来なかったことを。

 

 

「行け、マリンアウトサイダ。君なら、きっと……」

 

 

 ルドルフは、マリンの背中から目を離さなかった。

 

 

 

 同じく、歩道のギャラリーにもどよめきが起こった。

 

 イベントの見物気分で来ていたタマモクロスも目を見張った。残り200メートル地点での、マリンの限界を超えた加速……

 

 

(何やこれ……これはまるで……)

 

 

 『芦毛の怪物』みたいだ……と、彼女は思った。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 

「……あああああああああああ!!!!!」

 

 

(どうして……ッ!)

 

 

 マリンが横に並ぶ。

 

 

(何で……ッ!)

 

 

 マリンが先に進む。

 

 

(なん……で…………)

 

 

 

 そして、ルリの瞳に……マリンの『背中』が映った。

 

 

 

(…………ああ…………)

 

 

 その瞬間、ルリは感じた。

 

 

(……そっ……か……)

 

 

 理解してしまった。

 

 

(マリンは……もう……『格闘ウマ娘』じゃ……ないんだ……)

 

 

 

 その眼に映るのは

 

 背中に夢を乗せて走る『レースウマ娘』だということを

 

 

 

(あぁ……綺麗だ………)

 

 

 ルリはただただ思った。

 

 

(きっとマリンは………走る為に、生まれてきたんだ……)

 

 

 そして、2人のウマ娘はゴールに到達した。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

 ナリタトップロードの前を、2人のウマ娘が駆け抜けた。

 

 彼女は右手を上げ、皆に聞こえるよう高らかに宣言した。

 

 

 

「勝者は……2バ身差で……マリンアウトサイダ!!!!!」

 

 

 

 その声はギャラリーにも届いた。

 

 

「や……やりましたぁ〜〜〜〜!!! マリンさ〜〜〜〜ん!!!」

 

 

 メイショウドトウが彼女の性格にしては珍しく飛び跳ねて喜んだ。心優しい彼女は、誰よりもマリンの心配をしていたのだろう。

 

 

「…………はぁぁ………良かった……」

 

 

 アドマイヤベガも深く息を吐いた。彼女は緊張感からやっと解放されたのだった。

 

 

「あぁ……胸が高鳴る……闘いだったね」

 

 

 オペラオーは静かに2人に賛辞を述べ、静かに拍手を送るのだった。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 走り終えた2人は息を整える。マリンは地面に手をついて、ルリは膝に手をついていた。

 

 

「ハァッ………ハァ………ハァ………!」

 

 

(……今までの……どんなレースよりも……疲れた……何だったんだろう……先輩のことを思うと……身体が熱くなって……)

 

 

 マリンも初めての経験で、自分のことなのに、何が起こったのか分からなかった。

 

 肺がやっと楽になってきたので、マリンは立ち上がって、ルリの方を見た。そこには……

 

 

「はぁ……はぁ……ぐすっ、うっ、う、ああ……ひぐっ……」

 

 

 大粒の涙を流す、彼女の幼馴染みが立っていた。

 

 

 彼女はゆっくりとマリンに近付いてくる。そして……

 

 トン…………

 

 とマリンの上着を掴んで、俯いたまま、彼女の胸に額を押し付ける。

 

 

「ひぐっ……う……なん…で…よ……」

 

 

 そのまま、彼女は泣きながら訴える。

 

 

「なんで……レース……なんかに……」

 

 

 マリンは胸元が涙で濡れていくのを感じた。

 

 

「約束したのにッ……一緒に……日本一の……ッ」

 

 

 ルリの言葉が、自分の汗と混じって、溶けていく。

 

 

 

「一緒に……日本一の……格闘ウマ娘、に……マリン……ッ」

 

 

 

 マリンは胸が詰まる思いだった。でも、その『夢』はもう……

 

 

 

「……ごめん……ルリイロバショウ……ごめん……」

 

 

 

 2人は暫く、同じ姿勢で立ち尽くしていた。

 

 自分はルリの泣き声を、この涙を、きっと一生忘れることはないだろう、とマリンは彼女の灰髪を見つめながら思った。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

 涙を出し尽くして、ルリイロバショウはマリンアウトサイダの胸から顔を上げた。

 

 彼女は上着でグシッと顔を拭った。

 

 

「あーー……ムカつく……ムカつくムカつくムカつくムカつく!!!」

 

 

 彼女は泣いて赤くなった目で下を向き、自分の履いているシューズを睨みつける。

 

 

「走って……こんなに気分がスッキリするなんて……ムカつく……!」

 

 

 ルリは消えそうな声で、呟いた。

 

 

「……ルリ……」

 

 

 マリンは彼女に呼びかけた。でも、その先になんて言えば良いのか分からなかった。

 

 

「はぁ……私の負けよ……完敗だわ。『納得』も……した」

 

 

 ルリが腰に手を当てて言った。

 

 

「もう……アンタがどれだけレースを走ろうが……格闘技の世界に戻って来なかろうが……文句は言わない」

 

 

 その言葉に、マリンは一抹の寂しさを覚えた。自分がルリイロバショウのいる世界から離れてしまったのだと、今までで1番強く感じた。

 

 

「でもね!!!」

 

 

 ルリはマリンを再び睨みつける。

 

 

「私の『夢』を切り捨てるなら……それと同じくらいの事をしてみせてよ!!! レースの世界で!!!」

 

 

 ルリは腕を伸ばして、マリンの胸元にそっと拳を当てた。自分がさっきまで泣いていた場所に。

 

 

「G1レースくらい、楽勝で勝ってみなさい!!! 出来なかったら、私がアンタをレース場で、観客の目の前でぶん殴ってやる!!!」

 

「………………ッ!」

 

 

 マリンの胸が熱くなった。

 

 

「それは、死んでも嫌だな……分かった。『約束』だ……G1レースに……楽勝で勝ってみせる」

 

 

 マリンアウトサイダは潤んだ瞳で、笑顔で誓ったのだった。

 

 

 

 その『約束』が果たされる時が来るのかは誰にも分からない。ただ、彼女が手繰り寄せた『小さな奇跡』により、誰もが無謀だと言わざるを得ない挑戦をするのは、ほんの少し先の未来のお話である。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 

「はぁ〜〜〜、思ったよりオモロいもん見れたわ。お釣りで財布の中がパンパンになりそうやわ」

 

 

 タマモクロスが両手で頭の後ろを抱えて言った。

 

 

「なんや、見所あるやん『転入生』……走りは荒削りでまだまだやったけど、最後のあの加速……」

 

 

 『白い稲妻』が横に立つ『芦毛の怪物』を見る。

 

 

「むっちゃ似ていたなぁ〜、『誰かさん』を思い出したわ」

 

 

 それを聞いて、オグリキャップも答える。

 

 

「そうだな。とてもよく……『似ている』……」

 

 

 オグリキャップはゴールの先の2人を、懐かしむような眼差しで見つめていた。

 

 

「………あれ? なんか会話が噛み合ってへん気がするんやけど……おーい、オグリー、おーい……」

 

 

 オグリキャップは空を見上げた。きっとカサマツまで続いている、晴れた青空を……

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 コンコン、とチーム『シリウス』のトレーナー室にノック音が響く。夜は遅く、寮の門限もとっくに過ぎている時間だ。

 

 残業をしていたトレーナーは誰だろうと思って振り向いた。

 

 

「失礼します、トレーナーさん」

 

 

 そう言って入ってきたのはマリンアウトサイダだった。真剣な面持ちでトレーナーの座るデスクまで歩いてくる。

 

 

「マリン……どうしたんだい、こんな夜遅くに。寮の門限は大丈夫なのか?」

 

「はい、ヒシアマゾン寮長から外出の許可を頂いております。トレーナーさんに、どうしても話したい事がありまして……」

 

 

 トレーナーはマリンの目を見つめる。どうやら真剣な話だと、トレーナーは感じ取った。

 

 

「分かった。ソファーに座っててくれ、麦茶を出すよ」

 

 

 自分がやります、と言いかけたのをマリンは飲み込んで、大人しくソファーに座った。

 

 程なくして、トレーナーが2人分の麦茶のコップを用意して、マリンの正面に座った。

 

 

「聞いたよ。昼間、君の友人が食堂に現れて、ちょっとした騒ぎになったみたいだね。そして、何人かのウマ娘が授業をサボってレースをしていたって……」

 

 

 トレーナーが話を切り出した。

 

 

「はい……それで本日のトレーニングを欠席してしまいました。申し訳ございませんでした」

 

 

 マリンは深く頭を下げた。

 

 

「大丈夫だよ。もう既に理事長室でこってり絞られたんだろう? 聞いたところによると『覇王世代』に『伝説の世代』の4強、そしてシンボリルドルフまで正座して説教を食らっていたとか……それ、本当かい?」

 

「えっと……はい、本当です」

 

 

 そしてマリンは事の顛末を語った。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 マリンとルリの500メートル走の後、『覇王世代』と『伝説の世代』&シンボリルドルフで分かれて撤収しようとしていた中、不意にオグリキャップがポツリと言ってしまったのだ。

 

 

「500メートルか……本当に短いな。でも、この中だと多分、私が1番速いだろうな……マイル適正も私が1番高いし」

 

「「「「…………は?」」」」

 

 

 マリンとルリの胸の熱くなる闘いを見た後の空気もあったのか、伝説の世代の3人と『皇帝』がこの言葉を無視できるハズがなかった。

 

 

 そして、この5人の500メートル走のスタートとゴール役にと覇王世代が無理矢理引っ張られた。

 

 先輩たちが5人で勝負して、誰が1番速かったかを揉めていると、ナリタトップロードが………

 

 

『あ、だったら5本走って最も多く勝った方が1番速いというのはどうでしょう!!!』

 

 

 と心からの親切心で余計なことを言ってしまい、更に『覇王世代』もアドマイヤベガがテイエムオペラオーの口車に乗ってしまった事により、結局全員が午後の1時限をまるまる超短距離走に使ってしまった。

 

 ちなみにマリンとルリは芝で並んで体操座りをして、彼女たちのレースを眺めていた。

 

 

 

 そして、気が付くとニコニコとした笑顔なのに背後に巨大な鬼のオーラを出しているたづなさんが現れ、その場の全員が理事長室に連行された。

 

 理事長室には各ウマ娘のトレーナーたちも呼び出されたのだった。そして、理事長が言った。

 

 

「……困惑!!! マリンアウトサイダとルリイロバショウについては、学園の運営者として許す訳にはいかないが……『理解』は出来る! だが、君たちまでもが、その500メートル走とやらを走る必要はなかったのではないか……?」

 

 

 理事長の前にはシンボリルドルフ、伝説の世代の4強、覇王世代の計9人が床に横一列に正座させられて並んでいた。

 

 トレーナーたちは「やれやれ」と言った表情で黙っていたが、タマモクロスのトレーナーだけは腹を抱えて大笑いしていた。

 

 マリンとルリの2人は気まずそうな顔をして、トレーナーたちの横に一緒に並んでいた。

 

 暫く理事長とたづなによる説教が続いていると、コンコンとノック音の後に誰かが部屋に入ってきた。

 

 皆そちらを向くと、そこに居たのは事務員に案内されて来たUMAD副理事長だった。彼女もたづなさんに引けを取らない鬼の形相だった。

 

 

「ル〜〜〜リ〜〜〜!!!!!!!」

 

 

 ルリイロバショウの耳と尻尾がピーンと伸びて固まった。

 

 

「ほんっっっっっとうに、ウチのバカウマ娘がご迷惑をお掛けしましたあああああ!!!!」

 

 ヤマブキドウザンは右手でルリの頭を床に押し付けながら土下座をした。ミシミシと床が嫌な音を立て始めたので、たづなはやめて欲しいと思ったがドウザンのあまりに迫力のある土下座で言うタイミングを失った。

 

 彼女は『全ての責任は自分とこの格闘ウマ娘にあるので、正座しているウマ娘たちのお咎めは無しにしてやって下さい、後でお詫びの品を送ります』と、トレーナーたち全員と名刺交換をしてルリの首根っこを掴んで引きずって出て行った。

 

 そして、理事長は『流石にお咎め無しには出来ない』と、この説教をもって厳重注意とし、夕食時間までの自室謹慎をその場のウマ娘たちに言い渡したのだった……

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 

「……と言う感じだったのです」

 

「そうか……僕もその知らせを受けたんだけど、たづなさんに『マリンさんは1番巻き込まれた立場なので大丈夫です。ただし、当事者なので理事長室に居ます』って言われてね。結局どうなったのか、気になってたんだ」

 

 

 マリンは少しだけ話疲れた喉に麦茶を流し込む。

 

 

「うん、話してくれてありがとう。でも……多分、他に話したい事があるんだよね?」

 

 

 マリンは黙ってコップをテーブルに置いた。

 

 

「はい……私はトレーナーさんに改めて……その、決意を述べたいというか……ご挨拶したいと言うか……」

 

 

 マリンにしては曖昧なことを言っているな、とトレーナーは思ったがまずは彼女の話を最後まで聞く事にした。

 

 

「……私は……『格闘ウマ娘』でした。レースのことなど殆ど分からないのに、この世界に飛び込みました。浅はかにも……私の幼馴染みや……他の格闘ウマ娘たちの気持ちも……考えずに」

 

 

 マリンは俯いたまま話す。

 

 

「ですが私はこのトレセン学園で、レースウマ娘の現実を知りました。勝てないまま……誰にも注目されないまま……人知れず去っていくウマ娘たちがいることも、知りました」

 

 

 そして……彼女は顔を上げる。

 

 

「私の同室の先輩も、その1人でした。私は彼女から……『夢』を預かりました。そして今日、幼馴染みと『約束』を交わしました」

 

 

 彼女はソファーから立ち上がった。その顔には、並々ならぬ覚悟があった。

 

 

「トレーナーさん……私は、その『夢』を叶える為に……『約束』を果たす為に……強くなりたいのです。改めて、『レースウマ娘』のマリンアウトサイダとして、お願いがあります……!」

 

 

 黒髪のウマ娘は、トレーナーに頭を下げる。

 

 

 

「トレーナーさん……私を……

 

チーム『シリウス』に入れて下さい……!! 

 

どうか……私を鍛えて下さい……!!」

 

 

 

 そんなマリンを見て、トレーナーもゆっくり立ち上がった。

 

 

 

「顔を上げて」

 

 

 マリンはゆっくりと姿勢を戻した。

 

 

「……メイクデビューの前に、保健医さんが言っていたこと、覚えてる?」

 

「……はい、本格化のピークは過ぎていて、レースウマ娘としての能力が伸びる余地は小さい……と」

 

「うん、そうだね。けど……」

 

 

 トレーナーはマリンの目を真っ直ぐに見つめて……言った。

 

 

 

「それでも、君は強くなれる。

 

 君はきっと、レースウマ娘たちにも、

 

 格闘ウマ娘たちにも、希望を与えられる。

 

 そんなウマ娘になれると、僕は信じている」

 

 

 

 『シリウス』のトレーナーはマリンに手を差し出した。

 

 

 

「ようこそ、チーム『シリウス』へ。マリンアウトサイダ……一緒に、強くなろう」

 

 

 

 マリンは瞳を潤ませて、トレーナーの手を握った。

 

 

 

「はい……よろしくお願いします……!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

12話 初勝利と小さな奇跡


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12話 初勝利と小さな奇跡

 

 

 

 

 

 

 マリンアウトサイダとルリイロバショウ、2人のウマ娘の『喧嘩』から約1ヶ月後のある日。

 

 府中から離れた小規模なレース場の観客席で、ざわめきが起こっていた。その日は未勝利戦のみが開催される予定なので、余程のマニアでない限りは好んで観戦する者は少ないはずだ。なのに、

 

 そんな場に似つかわしくない程の『トップランナー』たちがそこに集まっていた。

 

 

 

「あれ……チーム『シリウス』だよな。しかも、全員!? マリンアウトサイダが出走するとは言え、これ未勝利戦なのに……!」

 

「嘘だろ!? ライスシャワー、ナリタブライアン、スペシャルウィーク……サイレンススズカまで!? オレ……夢を見てるんじゃないよな」 

 

「あの三冠ウマ娘をこんな所で生で観れるなんて……」

 

「僕はウイニングチケットのダービーを観客席で観てたんだ! ああっ……彼女のサイン貰えないかな! でもこれ多分オフだよなぁ……みんな私服だし」

 

「あの前髪ぱっつんのウマ娘……この前の重賞レース、確か勝ってたよな」

 

「あの3人組、あまり目立ってないけど実は隠れファンは多いらしいぞ」

 

「俺、レースにはあんま興味無くて、マリンアウトサイダのファンだったから彼女を観に来てるんだけどさ。あの『シリウス』ってチーム、そんなに凄いの? 名前は聞いた事あるんだけど」

 

「バッカ、お前、レジェンドの集まりのチームだぞ! レースに興味なくてもサイレンススズカやゴールドシップの伝説くらいは聞いた事あるだろ!?」

 

「あの超出遅れたやつ? バ券が紙クズになったっていう」

 

「いや、ゴルシはそうなんだけど、もっとこう……なぁ!!」

 

 

 

 『シリウス』のメンバー勢揃いの状況に周囲の観客は浮き足立つ。しかし、ある女性ファンの言葉で「ざわめき」は「どよめき」へと変わった。

 

 

 

 

 

「え、嘘でしょ、待って、私の見間違いじゃないわよね……メジロマックイーンの隣に居るのって…………トウカイテイオーじゃないの!?!?」

 

「はぁ? テイオーは『シリウス』じゃないだろ。こんな所にいるワケ……って、うおおおおおお!? マジだ、トウカイテイオーだああああああ!!!!!」

 

 

 「どよめき」は徐々に大きくなり、周りに伝播していった。

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 

 あの『奇跡の帝王』が!?!?

 嘘だろ……何でここに!?!?

 

 

 と、一層騒がしくなったファンの反応に、ポニーテールの小柄なウマ娘は満足そうにニヤリと笑顔を見せる。手摺りに寄りかかり、髪を風になびかせるその姿は、あの奇跡の有記念の頃よりも大人びた雰囲気があった。

 

 

「にっしっしっし! ファンもボクがここに来ることは予想できなかったようだね〜。気持ち良いなぁ、この注目のされ方! 未勝利戦って初めて来たけど、たま〜に来るのもアリかもね〜。そしてボクはレースを観ながら顎に手を当ててこう言うんだ。『ほう……あのウマ娘は……』ってさ! どう、なんかカッコ良くない!?」

 

 

 彼女は雰囲気だけは少し大人びたが、自信家で目立ちたがり屋な性格は相変わらずのようだった。

 

 

「テイオー……貴方、またしょうもない事を考えてますのね」

 

 

 天真爛漫を絵に描いたような昔と変わらぬトウカイテイオーに、メジロマックイーンは呆れ顔で答える。

 

 

「別にいいじゃ〜ん。それにしても、マリンちゃんのレース観にきて良かったよ〜! 楽勝して貰って、も〜っと盛り上げて貰わないとね〜! なんてったって、このテイオー様の『弟子』なんだから! そしてワガハイはめでたくカイチョーから『ご褒美』を頂くのだ〜!」

 

「またそんな欲望丸出しで……少しは大人になりなさいな、テイオー。マリンさんに走行フォームのアドバイスをしたのは確かですが、『弟子』と呼べる様なことはしてないでしょう、貴方は。どちらかと言えば、並走トレーニングにずっと付き合って下さったオグリキャップさんの方が『師匠』らしいと思いますわよ?」

 

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 マリンが『シリウス』のトレーナーに改めて決意を述べた後、彼は様々なトレーナーに意見を求めて回った。彼女の思いに応える為に、彼は出来ることは全てやる意気込みだった。

 

 すると、あるベテラントレーナーから「格闘技やってて関節が尋常じゃなく柔らかいんだろ? なら、似たような体質のウマ娘に走行フォームを見て貰ったらどうだ?」とアドバイスを貰ったのだ。

 

 そこでトレーナーは候補のウマ娘として『オグリキャップ』と『トウカイテイオー』を考えた。オグリキャップのトレーナーを通して彼女にマリンのトレーニングへの協力をお願いすると……

 

 

「もちろんだ。私も、彼女に協力したいと思っていた。他に私に出来ることがあるなら……遠慮せずに言って欲しい」

 

 

 と、快諾してくれた。どうやら先の500メートル走以来、マリンの事を気にかけてくれていたらしい。一方で、トウカイテイオーの方は……

 

 

「え〜、ボク人に教えるのってあんまり好きじゃないんだよね〜。だってみんなボクが言ってること分かってくれないんだもん!」

 

 

 トレーナーはシンボリルドルフに頼み、生徒会室で彼女と会ったのだが、あまり乗り気ではなかった。天才肌な彼女の感覚的で抽象的なアドバイスを理解できるウマ娘は少ないのかもしれないが、トレーナーはそれでもと懇願した。すると、渋るテイオーを見かねてルドルフが助け舟を出した。

 

 

「こういうのはどうだ? テイオー、もしマリンアウトサイダのトレーニングに協力してくれるのなら……今月は1週間に1回なら、時間のある時にカラオケに付き合ってあげても良い」

 

「えっ!? カイチョー本当に!? ウーン、でも待てよ〜。最近カイチョー全っ然ボクに構ってくれないし、もっとご褒美があっても良いと思うんだけどなぁ〜。今日も久々にカイチョーの方から呼んでくれたから、とっっっっても期待しちゃってたのにな〜」

 

 

 テイオーは両手を頭の後ろに回して、チラリとルドルフに目線を向ける。手のかかる子供の世話をする親みたいに「やれやれ」とため息をつくが、満更でもない様子でルドルフは続ける。

 

 

「ならば追加報酬として、もしマリンアウトサイダが次の未勝利戦で1着を勝ち取れたのなら…………前から行きたいと言ってた『遊園地デート』、考えてあげても良いぞ」

 

 

「!!!!!!」

 

 

 テイオーの目がキラキラと輝いた。

 

 

「ホントホントホント〜〜!?!? カイチョー、遊園地デートしてくれるって言ったの〜〜!?!?!? 『シリウス』のトレーナーも聞いてたよね!? ねえねえねえ!!!!」

 

 

 『シリウス』のトレーナーはテイオーのあまりの勢いに気押されながら、何とかルドルフに向かって言う。

 

 

「あ、ああ、そう聞こえたけど……良いのかい、シンボリルドルフ? お願いするのは僕の方なのに、チームメンバーじゃない君にそこまでして貰わなくても……」

 

「構わないさ。マリンアウトサイダの事は私も常々気にかけていた。実際『シリウス』に入る前は、私が彼女に走りの基礎を教えていたんだ。教え子に勝って欲しいという思いは、君ならば誰よりも理解できると思うのだが?」

 

 

 微笑みを浮かべるルドルフの返答に、シリウスのトレーナーは「参った」という表情で答える。

 

 

「そう言われてしまうと、何も言い返せないな……本当にありがとう、恩に着るよ」

 

 

 そして、マリンとトレーナーは次走を1ヶ月後と定めて、オグリキャップとトウカイテイオーの協力を得て猛特訓に打ち込んだ。

 

 トレーナーとテイオーはフォームの改善を、オグリキャップは実戦的な並走トレーニングをそれぞれ担当した。チーム『シリウス』も総出でマリンの特訓に力を貸したのだった。そうやって、あっという間に1ヶ月が過ぎてレース当日を迎えたのだった。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 

「楽しみだな〜! カイチョーとの遊園地デート♪」

 

「まだレースは始まってすらいませんわよ。もうマリンさんが勝った気でいらっしゃるの?」

 

 

 そんな2人の側に立っていた『シリウス』のトレーナーが「ははは」と爽やかに笑って言う。

 

 

「でも、マリンはこの1ヶ月で確実に成長した。テイオーの協力があってこそだったよ。本当にありがとう。きっと今日は、良い結果を残せるはずだ」

 

「フフン、当然だよ!!! ボクを誰だと思ってるのさ。どう? シリウスのトレーナー、ボクに惚れちゃった?」

 

「ああ、惚れた惚れた」

 

「なあっ!?」

 

 

 トレーナーはテイオーのノリが分かってるのでその冗談を軽く流すが、マックイーンが顔を赤くした。

 

 

「ププッ! もう〜冗談だよ、マックイーン。相変わらずオカタイんだから〜」

 

「貴方って人は! 言って良い冗談と悪い冗談が……」

 

 

 と2人が言い争っていると、観客席の『シリウス』メンバーとテイオーが居る位置から離れた反対側で……

 

 

 「どよめき」を超える「叫声」と「黄色い悲鳴」が上がったのだった。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 

「むむ……来るのが遅かったか……最前列が既に取られてしまっているな……」

 

「オグリがここに来る途中で立ち食いばっかしとったからやないか!!! 後、ええ加減電車の乗り方くらい覚えろや!!! 上京して何年経っとんねん!!!」

 

「おおっ、懐かしいねぇ〜この雰囲気! 大井にいた頃にゃ、よく未勝利戦にも足を運んだもんだ。この硬くて安っぽい座席がたまらねぇんだ」

 

「ふふふ、みーんなでお出かけしてレースを観るなんていつぶりでしょうね〜」

 

 

 観客席の入り口から『伝説の世代』の4人が入ってきた。そして更に……

 

 

「すみませんすみませんすみませんすみませんすみません〜〜〜〜〜!!! 私が転んで電車から降りれなくて、皆さんをお待たせしてしまったからですぅ〜〜〜〜〜!!! せっかく先輩たちからお誘い頂いたのに私のドジのせいでぇ〜〜〜〜〜!!!」

 

「大丈夫ですよ、ドトウちゃん! ドトウちゃんのドジも考慮して集合時間を早めしたのが功を奏しました! パドック前に何とかギリギリ間に合いましたよ!」

 

「はーっはっはっは! これこそは新たなる物語の始まりの地! いざ、この覇王が産声を上げる若きウマ娘たちに祝福の讃歌を送らん!」

 

「……………………………」(目立ちたく無いと思っていたけど無理だと判断して諦めた顔)

 

 

 『覇王世代』の4人も負けず劣らず賑やかに入場して来た。

 

 そんな彼女たちを先導するのはシンボリルドルフだった。彼女がこの8人のウマ娘をマリンの出走するレースの観戦に誘ったのだった。

 

 

「君たち、騒ぎたくなる気持ちも分かるが今日は一般客としての観戦なんだ。あまり目立つ行動は避けるようにな」

 

 

 もはや引率の先生と化した『皇帝』だが、彼女の横にあと1人……自由気ままな様子でホットドッグを食べているウマ娘がいた。

 

 

 

「こんな歴戦のウマ娘の大所帯で『目立つな』なんて無理だよ、ルドルフ。それに多分、この中で1番目立ってるのはキミとアタシだよ? もうちょっと自分を客観視しないと」

 

 

 

 むぅ……と、ルドルフにしては珍しく感情を剥き出しにして『そのウマ娘』を横目で睨む。

 

 

「……君とは駅で偶然会っただけで、このレース観戦に誘った訳ではないのだが。何故ついて来てるんだ?」

 

 

 ルドルフが腕を組み、少し苛立たしそうに言った。

 

 

「ん?」

 

 

 そのウマ娘はペロリと指についたケチャップを舐め取って言う。

 

 

「ヒマだったからだよ? 後、何だか面白そうだったし」

 

 

 自由という言葉は彼女の為にあるとすら思わせる、何物にも縛られない天衣無縫のウマ娘、『ターフの偉大なる演出家』、伝説の三冠ウマ娘の1人……

 

 ミスターシービーがそこに居た。

 

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

「え、あれ……って……キャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!! ルドルフ様にシービー様あああああああああああ!?!?」

 

「う、うう、嘘だろ、あそこにいるのって、オ、オグリキャップに、タ、タマモクロスに、伝説の世代の4強が、うわあああああああああああ!!!!!」

 

「ト、トップロード……!!! オペラオーとアドマイヤベガとメイショウドトウ……!!! 『覇王世代』まで来てるのかよおお!!! やべえええええええええ!!!!!」

 

「オイオイオイオイオイ、マジかよ!? これ本当に未勝利戦か!? オレ、G1レースと会場間違えてないよな!?」

 

「え、待てよ!! 向こうにはチーム『シリウス』が全員で来てるんだろ!? てことは……ナリタブライアンも合わせて、伝説の三冠ウマ娘が3人この会場に来てるってことかよおお!!!!!」

 

 

 

 有名なウマ娘がレース観戦に来ること自体は珍しくない。重賞レースでは度々目にする光景で、周りの観客は「そういうものだ」と理解しつつ内心の興奮を必死で抑え込んでるので、大きな騒ぎにはならない。レースファンにはそれを目的に会場に足を運んでいる側面もある。

 

 実際、「『シリウス』の人気ウマ娘を生で見れるかもしれない」という腹積りでマリンアウトサイダのレースを観戦する者も一定数居た。しかし、それでも今回は未勝利戦にしてはあまりにも異常だった。

 

 何せ、超がいくつ付いても足りないようなスターウマ娘が『シリウス』も含めて十数人も会場にやってきたのだ。しかも、その中には歴史上で数えるほどしか居ない『三冠ウマ娘』が3人も居る。ファンなら発狂しない方がおかしい状況である。

 

 あまりに予想外のウマ娘たちの登場に、喧騒は止まるところを知らない。シンプルな表現だが、会場は大パニックだった。

 

 

 

 ウワアアーーー!! キャアアーーー!!

 

 と、悲鳴が上がる様子にメイショウドトウはビクビクと震えた。

 

 

「え、ええ、えええ〜〜!!! なんか、周りが凄く盛り上がっえますぅ〜〜!?」

 

「…………正直、予想はしていたわ。だって、未勝利戦だもの。いつもと状況が違うわよ」

 

 アドマイヤベガが頭に手を当ててため息をついた。

 

 

「ね、言ったでしょう? もう割り切るしかないね、これは」

 

 シービーがルドルフにニッコリと余裕を持った態度で言った。ルドルフはやれやれと目を閉じる。

 

 

 そんな中、最前列の女性客の集団の1人が非常に緊張した様子でシービーとルドルフに声をかけた。

 

 

「あ、あああ、あのっ! ここ、こちら、どうぞっ! 私たち、たまたま早く来ていただけなのでっ! よ、よろしければっ!」

 

 

 その女性客たちは退いてスペースを空けてくれていた。皆、信じられないと言った様子で興奮を隠しきれていない。

 

 

「おやっ、いいのかい? 助かるよ! ありがとう」

 

「……気を遣わせてしまいましたか? ですが、そのご厚意、有り難く受け取らせて頂きます。一言芳恩……貴方たちに感謝を」

 

 

 彼女たちからまた黄色い悲鳴が上がる。2人の三冠バの微笑を向けられて冷静でいられるレースウマ娘ファンはいるだろうか? 女性客の2人がフラフラと崩れ落ちるのを他の人が支える。

 

 

「ムリ……私、もう死ぬ」

 

「死ぬな! 死んだらもうこの空気が吸えないでしょう!」

 

「ハッ!? そうだ……レース場の酸素を消費し尽くすまでは死ねない……!!」

 

 

 ルドルフはトレセン学園の勇者と呼ばれるあるウマ娘を何故か想起した。

 

 

 

「あ、あの! ここ、どうぞ! オレたちは座席で大丈夫ですので!」

 

 

 反対側でも、男性客の集団がナリタトップロードたちに場所を譲ろうとしていた。

 

 

「えっ、いいんですか!? 実は私たちのクラスメイトが出走するので間近で観たかったんです!! ありがとうございます!!!」

 

 と、トップロードが声をかけた男性の手を自ら取ってブンブンと握手をした。後ろの男性客たちにも太陽のような笑顔を向けた。トップロードが『覇王世代』の中でも1番にファン人気があるのは、英雄的な雰囲気があるのと同時に、その親しみやすい明るい性格もあってのことだった。

 

 握手された男性はまるで「その後、彼は一生手を洗うことなく生涯を終えた……」とモノローグが流れて来そうな顔で固まっていた。最後には周囲の仲間が彼を担いで運んで行った。他のウマ娘も各々観客に向かって手を振ったりして、軽いファンサービスをしていた。

 

 

 

「みんなが並べそうなスペースが空いたぞ。あの人たちに悪いことをしてしまったかな……」

 

 

 オグリキャップが少し不安そうな顔をして言った。

 

 

「気にせんでええやろ。重賞レースじゃ観客はみんなお利口さんやから騒がなかっただけや。しっかし、こんな反応もなんか新鮮でええな! 兄ちゃん姉ちゃんたち、おおきにな〜!!!」

 

 更にタマモクロスにまで声をかけられて、その集団客たちは喜びの絶頂に達していた。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

「ええええ!? カイチョーも来る予定だったの!? 何で言ってくれないのさ!? ボク、向こうでカイチョーとレース観る!!」

 

 

 そんな突如として叫声の嵐が吹き荒れた反対側の客席を見て、トウカイテイオーはカイチョー目指して飛び出そうとしたが……

 

 

「やめておけ、騒ぎが大きくなるだけだ」

 

 

 と、ナリタブライアンに後ろ襟を掴まれて「フギャッ!」と止められた。

 

 

「ちょっと、ブライアン! 何で止めるのさ〜!」

 

「今言っただろう。余計に騒がしくして会長に迷惑をかけたいのか?」

 

「う………」

 

 

 そう言われるとテイオーも黙るしかなかった。

 

 

「分かったよぉー……カイチョーに会うのは後でにする。それにしても、向こうにはカイチョーが居るから当たり前だけどさ〜、ボクの時の10倍くらい盛り上がってるの、なんか悔しいなぁ〜〜」

 

 

 そんな拗ねた様子のテイオーにトレーナーは言う。

 

 

「ハッハッハ。それは仕方ないよ。何せ向こうには『シンボリルドルフ』『ミスターシービー』『オグリキャップ』『ナリタトップロード』、ファン人気でなら四天王と言われてもおかしくないウマ娘たちが居るんだからね」

 

 

 トレーナーが双眼鏡で反対側を数秒覗いて下ろした。

 

 

「でも、チーム『シリウス』だって負けていないさ。もちろん君もね、トウカイテイオー」

 

 

 むー、とテイオーはクルリと方向転換して再び手摺りに寄りかかるが、トレーナーの言葉には満更でもない様子だった。そして、それを見るマックイーンは心が少しモヤモヤしていた。

 

 

 

 そして、フォン!と設置されたスピーカーから音がして、ナレーションが流れ始めた。

 

 

『会場の皆様、お待たせしました! これよりパドックにて本日の第1レースの出走ウマ娘たちをご紹介します! 本日実況を務めますのは、わたくし……』

 

 

 「お、始まるみたいだ」とトレーナーが言うと、他のメンバーや観客もパドックの方を向いた。女性実況アナウンサーと解説の紹介が終わり、アナウンスは続いた。

 

 

『本日はなんと、チーム『シリウス』のメンバー全員がマリンアウトサイダ選手の応援に駆けつけているそうです! 会場もきっと大盛り上がりでしょ…………え、ナリタトップロード? オグリキャップ!? シンボリルドルフ!!? ミスターシービー!!!? ええええ、聞いてないんだけど!!!!!』

 

 

 実況席に入る直前まで出走表とカンペの確認だけをしていた女性アナウンサーは、そこから見える光景に思わず素に戻ってしまった。会場中に彼女が驚嘆するリアクションがスピーカーを通して流れたが、隣に座る解説者が彼女を嗜めて、アナウンスは何とか続いた。会場の所々から笑い声と拍手が上がる。ファンは皆ハイテンションになっているようだ。

 

 

『た、大変失礼しました! つい、取り乱してしまいました! ど、どうやら本日はかなり豪華な観客席となったようです! あまりにも豪華すぎて、わたくしも、き、緊張しております! では、本レースの出走ウマ娘の紹介に移らせていただきましゅ! 噛みましたすみません!!!』

 

 

 

 ちなみにこのような未勝利戦では、経験の浅い新人アナウンサーが実況を担当することが多い。この女性アナウンサーも新人で、後にSNSでこの取り乱した件について「あんなの冷静でいられる訳ないじゃない!!!」と呟いてプチバズりしたそうな。

 

 

 

『…………続いて5番、マリンアウトサイダ!  元UMAD所属の格闘ウマ娘が約1ヶ月ぶりの出走です! その間、かなりのトレーニングを積んだとの情報が出ておりました。その為か、本日は1番人気に推されています! チームメイトの皆の期待に応えることが出来るのか!?」

 

 

 パドックにマリンアウトサイダが現れて、トラックジャケットをバサッと脱ぎ捨てる。以前までは恥ずかしがりながら行っていたその動作も、今回は終始真剣な表情でやり遂げていた。その集中している様子に実況アナウンサーも解説も好印象を抱いたようだった。

 

 

 

「へぇ〜、あれが噂の……彼女、本当に4連敗中なの? 全然そうは見えないね」

 

 

 シービーが隣のルドルフに話しかける。

 

 

「そうだな。きっと……先の幼馴染との勝負で得るものがあったのだろう」

 

 

 ルドルフがマリンを見つめて微笑む。

 

 

「あの噂の『500メートル走事件』の? ねぇねぇ、ルドルフ。いい加減もっと詳しく教えてよ。キミ、全然話してくれないじゃない。特に理事長室での話!」

 

「シービー……何度も、私は言いたくないと言っただろう! いつまでその話を蒸し返す気だ君は!」

 

「だって、あんな面白い話他にないんだもん。あーあ、何でアタシその場に居なかったのかなー。今年1番悔しい気持ちになってるよ」

 

 

 シービーはルドルフに会うたびに例の事件について聞きたがった。会場に着いた時からルドルフが彼女に少々きつい態度を取っていたのはこれが理由だったのだ。

 

 

 

 チーム『シリウス』も他のウマ娘たちもパドックの初々しいウマ娘たちを微笑ましい気持ちで見つめる。

 

 

 そして、ついにマリンアウトサイダの5度目のレースが始まった。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 ガコン!!! 

 

 『各ウマ娘、一斉にスタートしました!!!』

 

 

 7人のウマ娘が綺麗なスタートダッシュを決める。皆、観客席のスーパースターたちが観戦してるとあって気合いは十分に入っている。

 

 

『…………5番マリンアウトサイダは最後尾から様子を伺っている! 今回は追い込みの作戦でしょうか!?』

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

「ほぉー、なんや。この前と走り方変わっとるな。全然ええ動きしとるやん。あれ、オグリが教えたんか?」

 

 

 タマモクロスが腕を組んで、楽しそうな声でオグリキャップに話しかける。

 

 

「私も少しだけアドバイスをしたが……あれはトウカイテイオーの走りを追い込み用にアレンジしたものだ。股関節の柔軟性と脚のバネを活かして大きくステップする様に走る。そうしてある程度のスピードを保ちつつ、スタミナの消費を抑える。マリンは元々スタミナはあるし、多少バ場が荒れても問題なく走れるから、後方から展開を見極めて『早め』に仕掛け、残りのスタミナを一気にラストスパートで使い切る。多分、それが今の彼女の持ち味を最も発揮できる走り方だからな」

 

「……………オグリ、お前なんで電車の乗り方、覚えられへんねん」

 

 

 オグリキャップの流暢な説明に、逆に呆れ顔になるタマモクロス。

 

 

「……? 何で電車の話になるんだ、タマ?」

 

 

 

 

 一方で、チーム『シリウス』側もマリンの走りに手応えを感じていた。

 

 

「マリンちゃん、良い調子じゃ〜ん! ボクが教えただけの事はあるね!」

 

 

 そんな調子のテイオーにマックイーンは呆れ顔で言う。

 

 

「貴方のはアレは『教えた』とは言いません! 何ですか、『ズォオオントンッ!ズォオオントンッ!って滑って行けば良いんだよ』って。説明になっていませんわ」

 

「ええー、でもマリンちゃん、次の日にはあのフォームで走れるようになってたじゃん」

 

「それはあの後に、ゴールドシップさんが居残ってマリンさんに丁寧に噛み砕いて説明したからですわ。追い込みの走り方も彼女が教えていましたし……本当、いつもあの調子なら少しは安心できるのですが……聞いていますか? ゴールドシップさん」

 

 

 マックイーンはトレーナーを挟んで立っているゴールドシップに呼びかけた。

 

 

「ん〜? ステーキにはわさび醤油1択だろ、偉い美食家のオッサンも言ってた」

 

 

 ゴルシは手元のルービックキューブをカチャカチャいじりながら、時々マリンの走りをチラッと確認していた。その適当な答え方にマックイーンがまた怒っているが気にしていない。

 

 トレーナーも静かに見守っている。レースは中盤が過ぎたところだった。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

「ハッ……ハッ……ハッ……ハッ……」

 

 

(呼吸のテンポは乱れていない。スタミナも十分に残っている。脚にも余裕がある。レースはそろそろ中盤が過ぎた頃だが、先頭を走るウマ娘も射程内に収まっている。『彼女から教わったアレ』をやる条件は揃っている)

 

 

 マリンはオグリキャップと『シリウス』の皆との並走トレーニングが確実に身になっているのを感じた。

 

 

(ココなら行けるか…………)

 

 

 前方を見据えて、マリンは一歩大きく踏み込む。

 

 

(私は…………走れる…………!!!)

 

 

 その背中に『夢』と『約束』を背負っているのを感じながら。

 

 

「うぉおおおおおッッ!!!!!」

 

 

 ダァンッ……!!!

 

 と『轟音』が鳴り、マリンの後方に土が舞った。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

『マリンアウトサイダがペースを上げたぞ!! その位置から早くも仕掛ける体勢に入った!! 後方から一気に上がって来るが、他のウマ娘たちはペースを崩されないか!?』

 

 

 

「へぇ……! 良い『早仕掛け』だ。アタシもやるならソコだと思ってたよ、ドンピシャだ。他のウマ娘に揺さぶりも掛けられる。彼女には良い『先生』が居たのかな?」

 

 

 ミスターシービーは感心したように言った。

 

 

「そう……だろうな。しかし、これは少々……」

 

 

 時折聞こえてくる『音』と『喊声』に耳を反応させて、ルドルフが苦笑する。

 

 

「誰だぁ〜〜? マリンアウトサイダにあの追い込みを教えた奴は!? ってかまぁ、『アイツ』しか居ねぇか。あの『早仕掛け』と『轟音』と『吶喊』、やり過ぎな気もするが、アタシは嫌いじゃないねぇ!」

 

「あらあら〜、なんだか有記念でのタマちゃんを思い出しますねぇ。背中にピッタリ張り付かれてるって、違うって頭で分かってても思い込んでしまうんですよねぇ……」

 

「ウチはあんなんやらへんで。わざとデカい音立てて、声出して走るなんて体力の無駄や。そんなんやらんでも、気合いで先頭までビビらせたらええだけの話やろ」

 

「……それが出来るの、多分タマだけだぞ」

 

 

 伝説の世代の4人は懐かしむように言い合った。

 

 

 

「…………あの『早仕掛け』は完璧なタイミングだったわ。でも……えげつない事するわね、マリンさん……」

 

 

 アドマイヤベガが少し引き気味に言った。

 

 

「うわぁ〜〜……これ、経験の少ない娘たちだと、ビックリしちゃってペース崩しちゃいますよぉ……」

 

「はーはっはっは! 凱歌のような轟音がここまで響いてくるようじゃないか! ……だけど、未勝利戦でやることではないね!」

 

「あちゃ〜〜……他のウマ娘たち、完全にかかってますよ。マリンちゃんの起こす地鳴り、耳をすませば本当にここまで聞こえてきますもん。これ……『シリウス』のあのウマ娘がたまにやるやつですよね……」

 

 

 観客席のウマ娘たちは皆、あの別の意味での芦毛の怪物を思い浮かべていた。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

「うわーーーーっはっはっはーーーー! おーっし!!! そうだ、ソコだぁーーっ!!! 行っけぇーーーマリン!!! 前の奴らは蹴散らす為に居るんだーーー!!! 作戦通りに突き進めぇーーーーー!!!」

 

「やるじゃん、マリンちゃん!!! 行っけぇーーーー!!!」

 

 

 ゴールドシップがキューブを振り回して叫び、トウカイテイオーもノリノリで応援する。他のチームメイトも声を張り上げて応援していたが、マリンが『作戦』を発動させた後に皆シーンとした。観客席では変わらず声援が続いているが。

 

 

「ゴールドシップさん……あなた、マリンさんに何を吹き込んでるんですか!!?」

 

「何って……一般的な『追い込み』の戦術だが?」

 

「やり過ぎですわ!!! 2人で居残って真面目にトレーニングしてると思ったら、あなたは〜〜〜!!!」

 

 

 ゴルシがマリンに教えた技術。それは雄叫びのような『吶喊』とテンポをずらした『地鳴り』で前方に強引に圧をかけるというものだった。

 

 踏み込む事自体はルール違反でも何でもないからデカい音が鳴っても妨害ではないよな、と言う脳筋なウマ娘たちによってかつて生み出された戦術の1つだとか。

 

 

 あのような地鳴りを起こす走り方は、重賞レースならば追い込みウマ娘が度々使うものだ。相手に『追われている』と誤認を誘う戦術だが、経験豊富なウマ娘には効果は薄いので、あくまで『揺さぶり』が目的となる。しかし、これはどう聞いても『威嚇』レベルであった。

 

 

「あはは……ゴールドシップさん、私と並走トレーニングする時にアレをしてくる事があるんですけど……苦手なんですよね」

 

「先頭を走っていれば気にならないわよ。スペちゃんも今度逃げてみる?」

 

「タイシンもすっっっっごいプレッシャーかけてくるんだよなぁ、アタシもアレ苦手だよ〜」

 

「うう……大丈夫かな、他のウマ娘たち……トラウマにならなければ良いけど……ライス、少し心配……」

 

 

 トレーナーも苦笑いしながらマリンを見つめている。しかし、彼はマリンの走りに確かな『成長』を感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 レースはもう終盤だった。

 

 他のウマ娘たちはペースを乱されてラストスパートでの勢いが弱い。マリンは次々と彼女らをごぼう抜きして順位を上げる。

 

 そして最終直前のゴール200メートル前で、マリンは先頭のウマ娘と並んだ。

 

 

「行けえぇーーー!!! マリンーーー!!!」

 

 

 『シリウス』のトレーナーが叫ぶ。

 

 

「ああもう、ここまで来たら関係ないですわ!!! 行きなさい、マリンさーーん!!!」

 

 

 続けてマックイーンも叫ぶ。

 

 

 次々とウマ娘たちの声が上がる。チーム『シリウス』は一丸となってマリンアウトサイダを応援していた。

 

 

 そして………

 

 

 

 

『…………今、マリンアウトサイダが1着でゴオオオオル!!! 力強い走りで、見事なごぼう抜きを見せてくれました!!! チームの期待に見事に応え、5度目の挑戦で初勝利を上げましたああああ!!!!!』

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

「ハァッ……ハァッ……ハァッ……ハァッ……」

 

 

 マリンは立ち止まって、膝に手をついて呼吸を整える。そして、着順掲示板を見上げた。そこには……

 

 

「っ……………!」

 

 

 自分の番号……『5番』が1番上に表示されているのが見えた。彼女の胸の奥から、腹の底から、熱い何かが込み上げて来る。

 

 メイクデビューの時、初めて感じた悔しさを彼女は今でも忘れていない。しかし、今は新たな感情が芽生えたのを確かに感じていた。

 

 

「やった………やっ………たぁ…………!!!!」

 

 

 それ以上の言葉を出せなかった。マリンはターフに膝をついて、両拳を胸の前で思いっきり握った。その歓喜を噛み締める姿に、会場の皆から暖かい祝福の拍手が送られた。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 マリンアウトサイダが観客の喝采に手を振って応えた。そして、共に走った他のウマ娘、1人1人と握手を交わしていた。その様子を、シンボリルドルフは拍手をしつつ、ただただ嬉しそうに見つめていた。

 

 

「どうする、ルドルフ。このまま控室まで行く?」

 

 

 隣のミスターシービーが聞いた。

 

 

「いや、彼女の初勝利の喜びは……同甘共苦のチームと共に味わって欲しい。私たちは後日、また彼女に会えば良いさ。ウイニングライブが終わったら解散しよう。皆もそれで良いかな?」

 

 

 他のウマ娘たちも皆同意した。やはりチームメイトというのは、特別な存在なのだと皆分かっているのだ。

 

 

「だったらさ、その後みんなで食事しない? 色々とお話を聞かせて欲しいんだ! あの『500メートル走事件』のことも。『覇王世代』の娘たちともあまり話をした事なかったしね。これをキッカケに仲良くなれると良いな!」

 

 

 シービーがルドルフの側から他の皆に声をかける。

 

 

「……ッ、シービー!!!!!」

 

 

 ルドルフの怒声を浴びても、シービーはあっけらかんと笑っていた。そんな自由な彼女だからこそ、ルドルフは素の自分を出せるのかも知れない。それは紛れもなく、彼女を『仲間』だと認めている証だった。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 マリンが控室に戻ると、トレーナーとトウカイテイオー、チーム『シリウス』の1人1人から「おめでとう」と祝いの言葉を貰った。特にゴールドシップからは潰されんばかりの強烈なハグを貰ったが、マリンは嬉しそうだった。トウカイテイオーはその後すぐにルドルフたちの所へ向かった。

 

 そしてトレーナーが「実はマリンにお客さんが来ているんだ」と言うと……

 

 

 コンコン

 

 

 と、ドアのノック音の後に灰髪と紅碧のオッドアイのウマ娘が入ってきた。

 

 マリンと彼女の幼馴染みとの、約1ヶ月ぶりの再会だった。

 

 

 

「…………ルリ…………!」

 

「……………ふんっ」

 

 

 

 ボーイッシュな私服姿のルリイロバショウは、腕を組んでマリンを睨みつけた。だが、その瞳には以前の様な憎悪と哀惜の色は無かった。

 

 

「何よアレ……へたり込んで両手でガッツポーズしちゃってさ。『石楠花杯』を優勝した時でさえ眉ひとつ動かさなかったクセに、レースで勝つのはそんなに嬉しいの?」

 

 

 その棘のある言葉にマリンは「う……」と黙ってしまう。しかし、ルリは続けて……

 

 

「……でも、見ていて気持ち良いレースだった。おめでとう……ってだけ、言っておくわ」

 

 

 彼女は唇を尖らせて、そっぽ向きながらマリンに祝いの言葉を送った。その祝福は、他の誰のよりもマリンの心に響いたのだった。その様子をトレーナーとチームメイトたちは微笑ましく見守っていた。

 

 

「じゃ、次はG1レースね! パパって勝ってきなさいよ。『約束』、忘れてないわよね?」

 

 

 そんな笑顔の彼女に、マリンは呆れ顔で答える。

 

 

「ルリ……G1レースは実績を積み上げないと挑戦できないんだ。私では、まだまだ届かないよ」

 

「え、そうなの? レースの仕組みなんて興味ないから、知らなかったわ。なぁ〜んだ」

 

 

 ルリは目を閉じて、ツーンと言い放つ。だが、次の瞬間にはニヤリと笑ってポケットから何かを取り出した。

 

 

「まあ、良いわ。今はもっと楽しみな事があるの。コレ……な〜んだ?」

 

 

 ピラピラとルリはマリンに小さな紙切れを見せつける。

 

 

「それ……バ券? はっ……ル、ルリ……まさか……」

 

「大正解♪ 感謝してよね、アンタの単勝になけなしのお小遣いをつぎ込んだんだから。しっかし、アンタ何で1番人気取るのよ。ポイントの倍率が低いから余計にお金かかっちゃったじゃない」

 

 

 ワナワナと震えるマリンに、ルリは意地悪そうに満面の笑みを浮かべて言う。

 

 

「でも、アンタが勝ってくれたお陰で……ウイニングライブ、『最前列ど真ん中』確定よ。このライブって撮影OKなんでしょ? 私、こう見えてウマスタのフォロワー結構多いのよねぇ。バッチリ撮影して投稿してあげるから安心しなさい」

 

 

 ルリがズイッとマリンに顔を近付けた。

 

 

「だから可愛く歌って踊ってよね、『レースウマ娘』さんっ♡」

 

 

 そして、ルリはクルリとマリンに背を向けると鼻歌を歌いながら控え室を出て行った。マリンは両手で顔を覆って立ち尽くしている。

 

 

「……ウイニングライブ……辞退してもいいですか……?」

 

「ダメだよ。ファンの応援には応えてあげないと」

 

 

 トレーナーがピシャリと言った。マリンの様にウイニングライブが苦手なウマ娘も実は多い。トレーナーは内心ちょっと可哀想に思えてきたが、この先もレースを走るなら慣れてもらわないと話にならないしな、と苦笑いだった。

 

 

「……レースウマ娘って……何で歌って踊るんですかぁ……」

 

 

 マリンの呟きは控え室の空気に虚しく響いた。その様子すら、チームメイトたちは微笑ましく見守っていた。

 

 

 

 

 

 世代最強の格闘ウマ娘が遂に初勝利を飾ったこのレースは、後に『伝説の未勝利戦』と呼ばれるようになる。主に、観客にG1レースにも引けを取らない超豪華メンバーが揃っていた事と、マリンアウトサイダのウイニングライブの映像がめちゃくちゃバズった事が要因だった。

 

 

 そしてそれは……『小さな奇跡』を起こしていた。

 

 

 その年の『宝塚記念』は……名か迷、どちらが付くか長く議論の的になる、波乱のレースになるのだった……

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

幕間 ある競走馬の生涯Ⅳ

 

 

 度重なる挑戦の末、その牝馬はついに未勝利戦で1着を勝ち取った。

 

 一般の人々からすると、名誉も栄誉も、重賞と比べてしまうと無いに等しいのかも知れない。しかし、それはその牝馬に携わる者たちにとっては最上の喜びだった。

 

 特にその牝馬を仔馬の頃から慈しみ育ててきた若き厩務員の喜びようは、天にも昇らん程だった。

 

 その牝馬には人の言葉は分からない。しかし、彼が誰よりも喜んでいたという、その感情は確かに伝わっていた。それはその牝馬の心に、強く強く残り続けた。馬なので決して言葉になる事は無い。だが、彼女には確かに『走る理由』が出来た。

 

 

 

 しかし、その若き厩務員と牝馬には、哀しい運命が待っていた。彼の心臓の持病が、だんだんと悪化してしまっていた。ついに彼は入院を余儀なくされ、厩務員の職を辞するまでに衰弱した。

 

 病院に見舞いに来た馬主の若き社長に、彼は言った。

 

 

「ミドリは……マリンアウトサイダは、元々は食用馬となってしまう所をあなたに拾われました。親も仲間も、目の前で連れて行かれて……アイツはそんな馬たちの……悲しい運命を、他のどの競走馬よりも知っています……だから、アイツの走りは……きっと『供養』になる……そんな気がするんです」

 

 

 話すのも苦しいはずなのに、彼は無理をして言葉を紡ぐ。社長はそれを絶対に聞かねばならぬと感じていた。

 

 

「お願いします。彼女が……走りたいと願う限り、走らせてやって下さい。少しでも走るのを嫌がれば……その時は、休ませてやって下さい……この先、彼女が勝てなくても……どうか最期まで、面倒を見てあげて……欲しいです。それだけで、俺は…………」

 

 

 社長は涙ながらに、約束は守ると誓った。その後、若き厩務員とその牝馬との再会は、果たされる事は無かった。

 

  

 それから暫くして社長がその牝馬を訪ねると、彼女は柵の内側で誰かを探すような仕草をずっと繰り返していた。放牧の時も、誰かを待つように柵の外を眺め続けていた。社長はそんな彼女の様子に心を痛め、涙を流さずにはいられなかった。

 

 

 社長は以前から自身のSNSアカウントでその牝馬と厩務員の事も呟いていたので、彼の死は多くの人に知られることとなった。そして、その牝馬の牧場も時代の流行に乗ってSNSで馬の様子を発信していた為、その後の彼女の様子は界隈で話題になっていた。それがどのような影響を与えたのか、どのような因果を手繰り寄せたのか、知る由もない。しかし、それは『小さな奇跡』を起こしていた。

 

 

 G1レース『宝塚記念』

 

 

 ファン投票による上位10頭が優先出走権を得るグランプリレース。その10位の枠に……

 

 『マリンアウトサイダ』の名が記載されていた。

 

 

 

 

 

 





次回

13話 勝負服と悪意票


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13話 勝負服と悪意票

 

 

 

 

 

 ある小雨の降る昼下がりのこと。

 

 トレセン学園の遊歩道をピンクの傘を差したナリタトップロードが歩いていた。『Make debut!』を鼻唄で歌いながら、楽しそうに時々スキップをしている。

 

 

「ふふふふーーん、ふんふんふーーん♪」

 

 

 彼女は午後のトレーニング開始まで少し間があったので散歩をしていた。雨天なので周囲には人影も無かった。遊歩道を独り占めしているちょっとした優越感に、彼女の気分は高まっていく。

 

 

「今日は室内トレーニングは〜、プールだと良いな〜♪ おや……!」

 

 

 彼女は立ち止まる。その目線の先には、それはそれは立派な『水たまり』があった。

 

 

「あ、あれは……大きさも、まん丸さも、雨の波紋も……すごく、すごくすっごく良い感じ! 中々お目にかかれない『水たまり』だ……うん、100点満点!」

 

 

 ふわふわ好きのあるウマ娘はファースリッパを内心レビューするらしいが、ナリタトップロードは良い感じの水たまりを見つけると時々点数を付けていた。大体いつも100点なのだが。

 

 

「……………」ウズウズ

 

 

 トップロードは湧き上がる衝動を抑えきれない。彼女は水たまりは基本的には飛び越す、飛び越すのだが……あまりにも形の良い水たまりを見ると、ついやってしまう事があった。

 

 

「えーい!」

 

 

 ばっちゃーーーーん!と両足を揃えて水たまりを踏み付ける。着地点を中心に飛沫が輪になって飛び散る。そして、靴の所に水が戻らない内にピョンと飛び退いた。

 

 

「〜〜〜! ふふっ」

 

 

 トップロードは気持ちよさそうに口元を綻ばせる。

 

 真面目な委員長の彼女が垣間見せた子供のような一面。こうやって小さな欲望を満たしてトップロードは満足気だった。と、そこへ……

 

 

「トップロードさん、何してるんですか?」

 

 

 黒髪で腰に緑のパーカーを巻いたウマ娘が声をかけた。透明な傘を差して、いつの間にか飛沫がかからない位置に立っていた。

 

 ぴょいんとトップロードが跳ねる。

 

 

「ひゃわあぁっ! マ、マリンさん!? あう……もしかして、見てました……?」

 

 

 水たまりに夢中になっていたのと、雨音で足音が聞こえづらくなっていたのか、トップロードは近づいてくるマリンに気付かなかった。

 

 

「はい、トップロードさんの姿が見えたので、声をかけようと思ったら突然立ち止まってブツブツ言い出したので……」

 

「あう……油断してましたぁ〜。私、良い感じの水たまりを見ると……その、気分が高まっちゃって……」

 

 

 そう言ってトップロードが恥ずかしそうに顔を赤らめてクルクルと傘を回す。すると、マリンも突然……

 

 

「えい」

 

 

 パチャン!と、側にあった小さな水たまりに飛び込んだ。トップロードはそれをパチクリとした顔で見ている。マリンはニコリと微笑んで言う。

 

 

「私も好きです、水たまりに飛び込むの。実家の山では、雨が上がった後はそこかしこに大きな水たまりが出来ました。私は小さい頃からそれに飛び込んだり、中を走ったりしてずっと遊んでいたんです」

 

 

 マリンはまた1度、今度は別の小さな水たまりにぱちゃん!と飛び込む。

 

 

「それで泥に慣れちゃってるのか、私、不良バ場でも全く問題なく走れるんです。トレーナーさんは、それは武器になると言ってくれましたが……中々活かすのは難しいですね」

 

 

 それを聞いて、トップロードのパァッと顔が明るくなる。

 

 

「マリンさんも分かってくれますか!? 水たまりの良さを! 子供っぽいと思われるかも知れないですけど、水たまりとの出会いって一期一会なんです! 同じ水たまりには二度と出会えないんですよ! なら遊んであげないと勿体ないと思うんです!」

 

 

 そう言ってトップロードは別の水たまりまで駆けて行ってピョンと飛び込んだ。すると、今度はツルッと滑って体勢を崩してしまう。

 

 

「ひょうわぁ!」

 

「危ない!」

 

 

 と、間一髪で傘を投げ捨てたマリンがトップロードの身体を支える。トップロードの傘の下にマリンも入る。

 

 

「あ、ありがとうございますっ! すみません、水たまりの良さを分かってくれる人が居て嬉しくてつい調子に……」

 

「怪我をしなくて何よりです。その……水たまりに飛び込む時には、転ばないコツがあるんですよ。ほとんど感覚的なものなのですが」

 

「そ、そうなんですか……! 私はまだまだ水たまりを極めてはいなかったのですね……マリンさんは凄いです! 私よりもずっと水たまりへの理解が深い感じがします! 正に『水たまりの鬼』って風格ですね!」

 

「……何ですか、それ?」

 

 

 マリンは後に知る。ナリタトップロードは一部から『良バ場の鬼』と呼ばれていることを。それは彼女が不良バ場のレースでは極端に成績が落ちるのと、彼女が本気で怒った時はまるで鬼の様になるのが理由だとか。

 

 マリンはトップロードが怒るところが全く想像つかないので、周囲に過去に何かあったのか聞いたら、皆一様に目を逸らして口を閉ざしてしまった。どうやら触れてはいけない話題らしい。

 

 ちなみに本人は『鬼』と呼ばれているのは単に強さの比喩表現だと思っている、とのこと。何やらウマ娘たちの間には、真相を本人に悟られてはならないという暗黙の了解があるようだった。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 コンコン

 

 それからしばらく経ち、ここはチーム『シリウス』のトレーナー室。

 

 ノックしてからマリンは「失礼します」と声をかけて入室した。室内には既に他のメンバーが揃っていて、皆口々に挨拶をした。

 

 すると突然、芦毛の大きな先輩がズカズカと肩を揺らしてマリンに近寄って来た。

 

 

「おうおう、マリンさんよお! 集合時間までまだ10分あるとは言えよお! 1番の新米が生意気にも最後にご到着たぁ、偉くなったもんだなぁ、ああん!?」

 

 

 ゴールシップが謎に高いテンションでヤンキー口調でマリンにガンつけて突っかかる。これは戯れの一種だと分かるので、マリンは落ち着いて対応する。

 

 

「すみません、ゴルシさん。ナリタトップロードさんと水たまり品評会をしていたら、盛り上がってしまいまして……」

 

「ん? 水たまり品評会ならしゃーないな、うむ! 許してやるぞ!」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 

 そんな会話をする2人をマックイーンが呆れた顔で見ていた。

 

 

「マリンさんも、もうすっかり学園に馴染んでしまいましたわね。ですが、変わった方々が多いので、変な影響は受けないように気を付けてくださいね?」

 

 

 お前が言うな、とマリン以外のシリウスメンバーは同じことを考えたが誰も口に出さなかった。

 

 

「……? そうですか? 皆、とても優しくて親切な方々ばかりだと思いますが」

 

 

 マリンもあまり細かいことは気にしない性格だった。

 

 

 

「みんな、集まったかな?」

 

 

 『シリウス』のトレーナーがホイールチェアをカララと机から離して立ち上がった。

 

 

「急に集合をかけてすまない。でも、今日はみんなに知らせたいニュースがあるんだ」

 

 

 そう言って、トレーナーはデスクの上に用意していたポスター紙を持って皆の座っているソファーまで歩く。

 

 

「実は、これはまだ関係者にしか伝えられていない情報なんだけど……みんなに見て欲しかったんだ」

 

 

 そしてトレーナーはパサッとそれを広げて皆に見せると、メジロマックイーンが呟く。

 

 

「わざわざ印刷しましたの? これは……宝塚記念のファン投票の順位表……もしかして、後輩たちの誰かが……え?」

 

 

 『宝塚記念』というワードに皆がざわつく。彼女たちの視線がポスター紙の下に向かっていくと、皆一瞬言葉を失っていた。そこに書かれていたのは……

 

 

 『得票数10位:マリンアウトサイダ』

 

 

 

「「「……えええええええ!!!!!?」」」

 

 

 

 ナリタブライアン、サイレンススズカ以外の皆が口を揃えて驚愕の声を上げた。マリンも目を丸くして固まっていた。

 

 

「ま、ままま、マジかよ! マリンはこの前未勝利戦に勝ったばかりだぞ!?」

 

 

 この展開に流石のゴルシも素で驚いていた。そして、トレーナーが皆を宥めて言った。

 

 

「僕も……正直予想外だった。今年の宝塚記念は重賞挑戦組とついでにと思ってマリンも登録はしていたんだ。まさか、選ばれるなんて……マリンの幼馴染みの言葉が現実になったね」

 

 

 トレーナーが一呼吸つく。

 

 

「……マリンは元々12位だったんけど、上位のウマ娘の内、1人は怪我の療養、1人は海外遠征で登録を取り消したんだ。それで、繰り上がりでギリギリ滑り込んだって感じだな」

 

 

 

 ちなみに、宝塚記念で優先出走権があるのは投票で選ばれた10枠、他には海外バの枠が8枠ある。その8枠が埋まらなければレース実績に応じて他のウマ娘が出走する場合もある。最大18人のウマ娘たちで争われるが、今の段階ではまだ確定していない。

 

 

 

 室内が驚愕の空気に包まれる中、ゴールドシップがマリンに、最高に嬉しそうな笑顔で肩を組んだ。

 

 

「やったじゃねーかよ、マリン!!! G1レースだぞ、G1!!! 流石はアタシの後継追込みバだぜえーーーー!!!」

 

「私が…………G1レースに…………?」

 

 

 マリンは未だに驚きを隠せなかった。多くの仲間たちの支えによって、彼女が未勝利戦で白星を挙げたのはつい先日のことだ。武道の世界では個の鍛錬しかしてこなかったマリンにとって、仲間と共に強くなる経験は新鮮だった。そしてそれは彼女の中で、レースの世界そのものへの敬意へと繋がっていった。G1レースの重みを、今の彼女は十分に理解していた。

 

 

「凄いです、マリンさん!」

 

「こんなことってあるのね……」

 

「マリンさんの元々の知名度があってこそですわね。素晴らしいですわ」

 

 

 スペシャルウィークとサイレンススズカ、メジロマックイーンも驚きを隠せない。他のメンバーも各々コメントする。しかし、その中でナリタブライアンは冷静な態度を崩さなかった。

 

 

「だが、仮に出走したとしても……相当に厳しいレースになるだろう。グランプリレースには当然、強豪のウマ娘しか出走しない。特に、この得票数1位の皐月賞ウマ娘。かなりの実力者だ。クラシック期に宝塚記念に出走するくらいにはな……皆もレース映像は観たはずだ」

 

 

 その皐月賞ウマ娘はトレセン学園の生徒ではなかった。レースウマ娘育成機関は中央と地方のトレセン学園だけでなく、その他にも存在していた。その為、彼女についてレース映像以外の情報を集めるのは難しかった。

 

 

 一度、室内がシンと静まり返る。参戦すること自体が名誉だとも言えるグランプリレースだが、その挑戦が無謀だということも皆分かっていた。

 マリンは未勝利戦を1勝したのみ。対して、ポスター紙に並ぶのは重賞レースを幾つも制した名だたるレースウマ娘ばかり。経験も実力も、マリンとは段違いだろう。

 

 

「ブライアンの言う通りだ。そして……」

 

 

 トレーナーは何かを言い淀んでいる様子だった。

 

 

「お兄さま……? どうかしたの?」

 

 

 その様子にソファーの端に座っていたライスシャワーが気付いて心配そうに言った。

 

 

「ああ……これは言うべきかどうか迷っていたんだけど、君たちを信じて、隠さずに伝えよう」

 

 

 トレーナーは真剣だが、同時に残念そうな表情で言う。

 

 

「実は……学園の調査で、このマリンへの投票には悪意票も混じっていることが分かったんだ」

 

「え、アクイヒョー……って何?」

 

 

 ウイニングチケットが首をかしげる。

 

 

「……マリンのレースウマ娘への転向を、未だに心良く思わない人たちも居るって事だ。もちろん、大半の票は応援の気持ちだと思うけど……そうではない、マリンを貶めたくて票を入れた人たちも居るみたいなんだ」

 

 

 トレーナーが険しい表情になった。マックイーンも同じ顔になる。

 

 

「なるほど……つまりその方たちは、マリンさんに屈辱を与える為にG1レースで走らせたい、という事ですか……虫唾が走りますわね。レースを何だと思っているのでしょうか……」

 

 

 珍しくマックイーンは、静かに、そして溢れんばかりの怒気を発して言う。それを感じ取って隣のライスシャワーはビクリとした。

 

 

「へっ、現実を見せつけてマリンの心をへし折ろうってか? 上等じゃねーか、見返してやろうぜ、マリン!!! そんな奴らはチーム『シリウス』の敵だ!!! 逆に後悔させてやるぜ!!!」

 

 

 ゴールドシップが激昂する。他のウマ娘たちも同じ気持ちのようだった。

 

 

「だけど……」

 

 

 と、トレーナーはマリンを見つめて言う。

 

 

「決めるのは君だ、マリンアウトサイダ。今なら出走を取り下げることも出来るけど……どうする?」

 

 

 チームメイト全員の視線がマリンに集まる。マリンは目を閉じて考える。そして、ゆっくりと目を開いた。

 

 

「皆さんのそのお気持ちは、とても嬉しいのですが……客観的に考えて、実力も経験も、G 1レースに挑む為の何もかもが、今の私には足りていません」

 

 

 マリンは目を細め、そのまま言葉を続ける。

 

 

「けれど……私には先輩から預かった『夢』があります。果たさねばならぬ友との『約束』があります。この先、こんなチャンスがいつ訪れるかも分かりません」

 

 

 マリンは迷いの無い目で、トレーナーの目を真っ直ぐ見つめる。

 

 

「ほんの僅かでも『可能性』があるのならば……私は、挑戦したいです……! G1レースを……走りたいです!」

 

 

 トレーナーは口に笑みを浮かべて頷いた。

 

 

「君なら、そう言うと思っていた。分かった。厳しいレースになるだろうけど、出来る限りのことをしよう。みんなも、協力してくれるかい?」

 

 

 シリウスメンバーも口に笑みを浮かべて、トレーナーと同じ表情で頷いた。

 

 

「おっしゃーーーー!!! そうと決まれば、今日から死ぬ気で特訓特訓特訓だあああ!!! こういう勝負の方が燃えるだろう、マリン!!!」

 

「はい、よろしくお願いします。ゴルシさん!」

 

 

 ガシッと2人は握手をする。

 

 

「ゴールドシップさん、またマリンさんに変なことを教えるつもりではないでしょうね!? 今回は私も付きっきりでトレーニングをしますからね、監視の意味も込めて!」

 

 

 マリンの決断に、とっくに彼女の背中を押すと決めていた『シリウス』メンバーたちは盛り上がる。その様子をトレーナーは暖かい目で見守っていた。本当に良いチームになったと、彼は誇らしく感じていた。

 

 

 

 マリンが宝塚記念に出走するというニュースに、世間も学園内も小さからぬ騒ぎとなった。OP戦さえ出走していないウマ娘の無謀な挑戦だと揶揄する者も多かったが、マリンを応援する者もそれ以上に居た。

 

 クラスメイトはもちろん、生徒会や縁の出来た『伝説の世代』の先輩たちも応援の言葉をかけてくれた。

 

 そして何よりもマリンを奮い立たせたのは、ハルウララと一緒に参加しているダンスレッスンのメンバーからの応援だった。レースに中々勝てずに苦しんでいるそのウマ娘たちも、心の底からマリンの挑戦を喜んでくれていた。

 

 マリンは一層、シリウスの仲間たちと共にトレーニングに励んだ。宝塚記念まで、そこまで時間は残されていない。しかし、彼女の心に憂いは無かった。ただ、無我夢中で突き進むのみと決心していた。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 それから少し経ったある日の午後、『シリウス』のトレーナー室にメンバーが全員集合していた。

 

 今日は特別な日だった。なんと言っても初のG1レース、それに伴うのはレースウマ娘たちの憧れの中の憧れである『勝負服』である。そのお披露目をチームメンバーにする予定なのだった。

 

 

 

「うーーーん、マリンとマックイーンのM&Mズはまだかよぉ。待ちきれないぜぇーーーー」

 

 

 ダラーンとゴールドシップがソファーの背もたれに腹を乗せて干された布団のような体勢でうめいていた。マリンは別室で着替えていて、マックイーンはそれに付き添っている。

 

 

「きっともうすぐ来るわよ。トレーナーさんもまだご覧になってないんですよね?」

 

 

 サイレンススズカがクスッと笑った後、トレーナーに問いかけた。

 

 

「うん、勝負服そのものは見たけどね。着ている姿は、これからみんなと一緒に初めて見るよ」

 

 

 他の皆もソワソワしていた。自分の勝負服でなくとも、『初めての勝負服』というのは胸が躍るものだ。

 

 

「いいなぁ〜〜、羨ましい〜〜! まさかこの前入ったばかりの後輩に先を越されるなんて〜〜!」

 

 

 前髪ぱっつんのウマ娘と他の2人も羨ましいと口々に言っていた。3人組は元々嫉妬深い性格というわけではないが、それでも勝負服というのは憧れの最上位である。悔しいと思うのは仕方のないことだろう。

 

 

「アハハ、確かにこの前って感じがするよね〜。でもしょうがないよ〜。マリンさんって格闘技の全国大会で優勝してたし、元々とっても有名だったんだからね。君たちもいつか、勝負服を着られる時が来るよ、絶対!」

 

 

 ウイニングチケットが3人組にエールを送る。負けないように頑張ります!と3人は気合を入れ直していた。この素直さが彼女たちの強さでもあり、隠れた人気の秘密だった。

 

 

 それから数分して、ガチャリとドアの開くとマックイーンがトレーナー室に入ってきた。

 

 

「皆さん、お待たせしましたわ。さぁマリンさん、入ってきて下さい」

 

 

「ぅぅ…………」

 

 

 ぴょこんとマリンが入り口から顔だけを覗かせている。

 

 

「何を恥ずかしがってるのです? 堂々と入ってきなさいな」

 

 

 マックイーンがクスッと微笑んでマリンを急かした。

 

 

「だって……なんか、照れ臭くて……私あんまり人に見せるための衣装を着るのは慣れてなくて……」

 

「今更何をおっしゃいますの? G1レースに挑戦するのに、そのくらいで恥ずかしがってどうするのです!」

 

「それとこれとは別ですぅ……」

 

「い・い・か・ら! お入りなさい!」

 

 

 マックイーンがマリンの手を引っ張って入室させる。そして、ついにマリンの勝負服姿がお披露目された。

 

 

 トレーナー室にいた皆が一様に「おぉ……」と呟いた。

 

 

 そこには、全体的に「和」で統一された衣装のマリンが居た。ベースは道着の『袴』だった。格闘ウマ娘として活躍していたイメージが勝負服にも取り入れられていた。

 

 袴の脚部は藍色をベースに下から燃え上がる紅と蒼の炎の刺繍が施されている。上衣はシンプルに無地の白、その上から舞い散る桜の模様の入った非常に淡い橙色の羽織りを着ている。

 

 

「マリンさん、カッコいいです! 正に『和』ってイメージが似合って、凛々しい感じがします!」

 

 

 スペシャルウィークが両手を握って褒める。

 

 

「ほぅ……似合ってるじゃないか」

 

「うん! なんか時代劇に出てくる女剣士って感じだー! 新撰組みたいな!」

 

 

 ナリタブライアンとウイニングチケットが言う。

 

 他の皆も口々に感想を言った。そして最後にトレーナーが一言。

 

 

「うん、マゴにも衣装とはこのことだ」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 

 照れ臭そうにマリンは言った。

 

 

「どう? 初めて勝負服に袖を通した感想は」

 

 

 サイレンススズカがニコリと言う。

 

 

「……見た目よりも軽いのに驚きました。羽織りも邪魔な感じが全くしなくて、足の可動域も普段着けてる袴よりも広くて、凄く『計算されて』作られているな……と」

 

 

 トレーナーが微笑みながら言う。

 

 

「『勝負服』には、レースで走る為の様々な工夫が施されているからね。雨天で濡れてもあまり重くならないように素材も特殊なものを使っているんだ」

 

 

 しかし、皆が盛り上がるのに反比例する様に、マリンはどこか浮かない顔をしていた。それを察してライスシャワーが声をかける。

 

 

「マリンさん……どうしたの? どこか変な所あったの……?」

 

「いえ、その……少し試したいことがありまして……」

 

 

 マリンは慎重に羽織りを脱いだ。羽織りに上衣の形が浮き出ないようにする為、ノースリーブと言う程ではないが、袖はかなり薄く短くなっていた。それを側に立っていたゴールドシップに渡す。

 

 

「ゴルシさん、すみません! コレちょっと持ってて下さい」

 

 

 そう言ってマリンは足速にトレーナー室を出て行った。それを見てライスが更に心配そうな顔になる。

 

 

「ど、どうしたのかな、マリンさん……?」

 

「さぁ……」

 

 

 マックイーンが答えると、すぐにタタタタと廊下からマリンが戻ってくる足音が聞こえた。そして、入ってきた彼女を見て皆、もう一度驚くのだった。

 

 

 マリンは勝負服の道着袴の上から、いつも彼女が腰に巻いていた緑色のパーカーを着ていた。それは、表現出来ない雰囲気を纏っていた。決して悪い意味ではない、むしろ正反対に、非常に『似合って』いた。

 

 

「…………!」

 

 

 トレーナーは驚いた。彼女がその姿でターフを駆けるイメージが鮮明に見えた。まるで、その緑色のパーカーが初めから彼女が勝負服として着る為にあったかのように、彼は感じた。

 

 

「あれ……すごい……! 何だか、さっきよりもしっくり来るというか……『マリンさん』だって感じがするー!」

 

「和洋折衷な雰囲気で、カッコいいです!」

 

「そうだな……派手さは減ったが、何というか、今の方が自然な感じだな」

 

 

 チケット、スペ、ブライアンが口々に言う。マリンは申し訳なさそうな表情で、おずおずとトレーナーに尋ねる。

 

 

「トレーナーさん、その……この勝負服、製作して頂いた方に本当に申し訳が立たないのですが、このパーカーの方を着て、レースで走る事は可能でしょうか……?」

 

 

 トレーナーは顎に指を当てて考える。

 

 

「……うん、URA本部で検査をして問題ないと判断されたら可能なはずだ。ただ、そのパーカーはレース用の物ではないから、風の抵抗や雨を吸って重くなる度合いが大きいはずだ。私物を使うのはそれなりのリスクがあるけど、それでも……良いのかい?」

 

「はい、お願いします!」

 

 

 マリンは即答した。

 

 

「うん、分かった。後で手続きをしておくよ。それに、僕もその姿のマリンの方が自然な感じがするんだ。ひと目見て、君がその衣装でレースを走るイメージが鮮明に浮かんできたよ」

 

 

 製作者さんには僕から連絡するよ、とトレーナーは続けた。

 

 

「勝負服って私物を使っても大丈夫だったんですねー。私、知らなかったです」

 

「私物のだるまを背負って走ってるウマ娘もいるのよ、スペちゃん」

 

「え、フクキタルさんのアレって私物だったんですか!?」

 

「身に付けている開運グッズの半分以上はね」

 

 

 そんなスペスズの会話に、フンギャロクション!とどこかで福を呼びそうな名前のウマ娘がくしゃみをした。

 

 

「さて、これで準備は整ったね。宝塚記念まであと少しだ。残りの期間、更に気合を入れてトレーニングするぞ、マリン」

 

「はい、改めてよろしくお願いします、トレーナーさん!」

 

 

 マリンはビシッと礼をした。

 

 

 ちなみに、トレーナーが勝負服の製作者に羽織りではなくパーカーを着たマリンの写真を送り謝罪したところ、その人は快くそれを了承してくれた上に、袴をそれに合わせて調整してくれる事となった。

 

 その人もマリンのその姿に何かを感じ取ったらしく、全く気にしないで欲しいと言っていたとのこと。勝負服の製作に情熱を燃やすデザイナーは流石と言ったところだった。

 

 

 そして月日は過ぎて、いよいよマリンは『宝塚記念』当日を迎える。

 

 未勝利を1勝したのみのレースウマ娘が、G2、G3、OPすらもすっ飛ばして最上位のレース挑む。

 

 運命の時が、近づいてきていた……

 

 

 

 





次回

14話 宝塚記念・前編:私は『Make debut!』しか知らない


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14話 宝塚記念・前編:私は『Make debut!』しか知らない

 

 

 

 

 

 

 ポツポツ、ポツポツと雨粒がノックするように人々に降り注ぐ。

 

 

「……やっと雨が収まってきましたわ。けれど、レインコートはまだ脱げませんわね」

 

「もっと早く弱まって欲しかったなぁー、長靴の中まで水が入っちゃったよー」

 

 

 メジロマックイーンは空を、ウイニングチケットは足元を見て呟いた。

 

 

 

 その年の梅雨の名残なのか、『宝塚記念』当日の天気は大雨だった。断続的な雨が阪神レース場に降り注いでいる。

 

 ウマ娘レースは基本的に台風や吹雪の様な極端な悪天候でない限りは通常通り開催される。それを分かっていても、気も滅入る様な荒れ模様だった。

 

 その日、阪神レース場では全12レースが行われる予定で、宝塚記念は第11レースだった。

 

 ダートを除いて宝塚記念の前に行われる芝のレースは4回、その全てが雨の降る中で行われてバ場は荒れに荒れていた。

 更にダメ押しに宝塚記念の直前に叩きつけるような大雨が降り、一時様子見となった後にレース開催のアナウンスか流れた。

 

 チーム『シリウス』のメンバーは既に控室から客席の最前列に移動しており、宝塚記念の出走開始を今か今かと待っていた。

 

 

 

「しっかし、こりゃとんでもない重バ場だななぁ。あたしが皐月賞ん時に走った中山以上だ」

 

 

 カチャカチャと雨天でもブレずにルービックキューブで遊ぶゴールドシップ。ちなみに今回はシールではなくカラープラスチックのキューブを持参していたので、濡れても平気でだった。

 

 

「でも、これはマリンにとってはプラスになるはずだ。彼女の不良バ場適正はチームの中でダントツだからね。ただ、それだけで勝てる程G1レースは甘くはない……無理をせずに無事に走り切ってくれれば良いのだけど……」

 

 

 トレーナーは不安そうな目で、じっとターフを見つめていた。

 

 

「何だよトレーナー、やけに弱気じゃねーか。らしくないぜ」

 

「そう言う君だって、ゴルシ。今日はやけに大人しいじゃないか」

 

「ふっ……いくらあたしでも、後継者たり得るウマ娘の初G1レースで『ウッヒョー、スゲー重バ場だ! マックちゃんの体重みたいだな!』なんて軽口は叩けな『ゴールドシップさん……?(殺意の波動)』

 

「あ、マックちゃん冗談だって痛ダダダダダダダダ!!! やめ、首がガガガがが!!!」

 

「うう……ライス心配だよ……何だか嫌な予感がする……」

 

「きっと大丈夫よ、ライス。マリンさんを信じて待ちましょう」

 

 

 制裁を加えられているゴルシをよそに、何故かいつも以上に不安がるライスシャワーをサイレンススズカが気遣う。

 

 

「うわぁ……第4コーナーの出口付近、もうグチャグチャで水たまりみたいになってます。あんな所で滑ったりしたら……」

 

「まあ……普通に考えてそこを走るのは自殺行為だ。方向転換したら遠心力でスリップする可能性が高い。皆その手前で内ラチを避けて横に広がるだろうな。マリンもトレーナーと事前に確認していた。きっと大丈夫だろう」

 

 

 スペシャルウィークとナリタブライアンもターフの状態を危惧していた。遠目で見ても分かるほどにターフの状態は芳しくなかった。

 

 

 

 宝塚記念は例年重バ場になりやすい傾向にあるが、今年は史上ダントツだった。皆、何よりもマリンが無事に走り終えることを、胸の内で祈っていた。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 

 マリンは控室の鏡台の前で椅子に座り、目を閉じて精神を集中させていた。

 

 

「すぅぅぅ…………ふぅぅぅ…………」

 

 

 彼女は格闘技の試合の前と同じように、静かに呼吸を整えている。しかし、今回はのしかかる重圧がまるで違った。これから走るのは最高峰のG1レース、未知のプレッシャーが彼女の全身を締め付ける。

 

 

(これがG1レース……本来ならば出走することすら叶わないはずの自分が、奇跡的に挑戦する機会を得られた。トレーナーさんには気負わずに走ってこいと言われたけれど……)

 

 

 ふぅーーーー、とマリンは長く深い呼吸をする。それでも、彼女の心は落ち着かなかった。

 

 

(チームの皆とやれることは全てやった。後は、持てるものを全て出し切るだけだ。けど、私の実力はそれでやっと他のレースウマ娘の足元に届くかどうか、というレベル……)

 

 

 不安が込み上げてきそうになるのを、無心となって落ち着かせる。彼女はこんな経験は初めてだった。そうしていると……

 

 

 コンコン

 

 

 と、誰かが控室のドアをノックした。チームの皆は気を利かせてマリンを1人にしていたので、それ以外の誰かだと彼女は推察するが……

 

 

(他に思い当たるのはルリイロバショウか、トレセン学園の生徒か。それでも思い当たらないのだけど、一体誰が……?)

 

 

「どうぞ」

 

 

 と、マリンが一声上げるとガチャリとドアが開いた。入ってきたのは完全に『予想外のウマ娘』だった。小さな菅笠を被った、茶色髪のショートヘアに鈴のような耳飾りを右耳に付けていた。

 

 

「失礼するよ」

 

 

 そこにいたのは、マリンが幾度もチームメイトとビデオ研究でレースを観たウマ娘、宝塚記念優先出走枠の得票数第1位、今日の本番でも1番人気に推されている『皐月賞ウマ娘』だった。

 

 

「……!? あなたは……」

 

 

 彼女はドアを閉めると、その場で挨拶をした。

 

 

「初めまして。その様子じゃ……オレのことは知ってくれてるみたいだな。嬉しいよ」

 

 

 そして、マリンの所まで近付いた。

 

 

 

「アカネダスキだ。よろしくな、世代最強の格闘ウマ娘……マリンアウトサイダさん」

 

 

 

 ニヤリと、だけど爽やかな顔で彼女は名乗りをあげた。その勝負服もマリンと同じような和装調だった。丈の短い枡柄の着物に、袖をその名前と同じ茜襷で捲っていた。スラリと長い脚は太腿まで剥き出しで健康的な印象を与えている。

 イメージは『茶摘み娘』だろう。見ているとあの有名な童謡が聴こえてきそうだ。しかし、その穏やかな服装に反して彼女の雰囲気は『野生的』だった。その風格は、まさに歴戦のレースウマ娘なのだと疑いようが無かった。

 

 

 ゴクリ、とマリンは唾を飲んだ。

 

 

「……はい、よろしくお願いします。私に……何かご用でも?」

 

 

 なぜ彼女はここに来たのだろう、とマリンは訝しんだ。今をときめくクラシック級のG1ウマ娘が、やっと素人を脱却したばかりのレースウマ娘である自分に会いに来るとは一体……

 

 

「そんな顔をしないでくれよ。オレはアンタに会いたかったんだ……」

 

 

 彼女は懐に手を突っ込んで何かを取り出そうとする。一瞬、マリンは警戒した。そしてアカネダスキは勢い良く何かをマリンに突き出した。

 

 

 

「サインをくれ、ファンなんだ!!!!!」

 

 

 

「…………は?」

 

 

 マリンは素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

「いやー実はウチの家族、みんな格闘技が好きなんだ。マリンアウトサイダと一緒のレースで走るって言ったらサイン貰ってこいって両親も兄弟もみんなうるさくてよー」

 

「はぁ……そうでしたか」

 

 

 キュキュっと色紙にサインを書くマリン。書き終わるとペンのキャップを閉めてアカネダスキに渡した。

 

 

「どうぞ、名前を書いただけですが」

 

「おお、マリンアウトサイダのサインだーー!!! 格闘ウマ娘ってファンと交流するようなイベントを殆どやらないからなーー!!! 家宝にするぜ、親父たちも絶対に喜ぶぞーー!!!」

 

 

 サインを掲げてクルクルと回る皐月賞バ。以前教室であのクラスメイトに書いてあげた時と同じようなリアクションだな、とマリンは髪の毛がふんわかした芦毛のウマ娘を思い出した。

 

 

(そういえば、いつか私の実家の山に行きたいって言ってたな、ハヤヒデさん……)

 

 

「いやー、ワザワザありがとな! トレセン学園のレースウマ娘って中々会えないからよ。今しかチャンスがないと思ってたんだ」

 

 

 椅子に腰掛けて、再び爽やかな笑顔を見せるアカネダスキ。

 

 

「いえ、どう致しまして。その……アカネダスキさんはトレセン学園生ではないのですよね。私はレースの世界に身を置いて日は浅いのですが、多分珍しいですよね? 活躍しているレースウマ娘は皆、トレセン学園に所属しているイメージがあるので……」

 

「あー、トレセン学園に通おうかも迷ってたけどよ。オレ、この見た目通り実家がお茶農家でな。しょっちゅう手伝いに帰らなきゃならないから、家に近い方の学校に行く事にしたのさ。まあ、走れればどこでもいいやって思ってたしな! あっはっはっは!」

 

 

 彼女は最初に見せた笑顔の通り、気持ちの良いさっぱりとした性格のウマ娘だった。人気があるのも、何となく頷ける。

 

 

「でも、珍しいと言えばアンタには敵わないさ。まさか全国覇者の格闘ウマ娘がレースウマ娘に転向したなんてなぁ……ウチの家族も大騒ぎだったぜ。特に親父なんか、これからのウマ娘格闘界が面白くなるはずだったのにって落ち込んでたしな」

 

 

 その言葉に、マリンは少しだけ胸が痛んだ。あの幼馴染みの顔が一瞬浮かんだ。

 

 

「オレもレースウマ娘だけど、アンタの試合中継は家族と一緒に観ていたよ。本人を目の前にして言っちまうのもなんだけど、あの鮮やかな闘いをもう観れないのかと思うと、そりゃー残念だったよ」

 

「……そう、でしたか……」

 

 

 マリンの心中を察したのか、アカネダスキは「やってしまった」という風な顔になる。

 

 

「いや、すまねえ! レース前にする話じゃなかったな、アンタにも事情があったはずなのに。オレ思ったことつい口に出しちまうタチで、よくお袋にもトレーナーにも叱られてんだ。オレはそんなこと言いに来たんじゃないんだ!」

 

 

 アカネダスキは椅子から立ち上がった。そして、曇りのない目でマリンの目を真っ直ぐ見つめて言う。

 

 

「あの『伝説の未勝利戦』の映像で観たぜ、ターフを走るアンタを! 良い走りだった、まさに夢を翔けるレースウマ娘だった! 格闘ウマ娘だったなんて信じられねーくらいにさ」

 

 

 突然の言葉に、マリンは目を丸くする。

 

 

「この宝塚記念の投票には色々と噂が立っているが、そんなのは関係ねえ! アンタは選ばれてここに居るんだ、それだけが真実だ! それに、世代最強の格闘ウマ娘とレースで競い合えるんだ、こんなにワクワクする事が他にあるかよ! この巡り合わせに、オレは全力で感謝している!」

 

 

 アカネダスキは握手を求めて手を差し出した。

 

 

「オレはアンタを見くびっていない……1人のレースウマ娘として、アンタと本気で勝負をする! 良いレースをしよう、マリンアウトサイダ!」

 

 

 その全く毒っ気のない言葉に、マリンの不安は何処かへと消え去ってしまった。これから競わねばならない相手の中でも最強のレースウマ娘に勇気づけられるとは、彼女は思ってもみなかった。

 

 

(そうか……これがG1を走る『レースウマ娘』なんだ……凄いな、本当に凄い……『シリウス』の先輩たちも、こうやって……)

 

 

 その気概に感服したマリンは、その手を固く握り返して言う。

 

 

「はい、良いレースをしましょう。私も全力で行かせて頂きます、アカネダスキさん……!」

 

 

 両者は笑みを浮かべて互いを認め合った。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 

 ザワザワ ポツポツ

 

 と、会場はざわめきと雨音でいっぱいだった。観客はレースの開始を今か今かと待ち侘びていた。雨天ということもあり、平常よりも客足は少ないようだった。

 

 

『ご来場の皆様、お待たせ致しました。間もなく、パドックにて本日の第11レース『宝塚記念』の出走ウマ娘をご紹介いたします」

 

 

 アナウンスが流れて、観戦客の視線が一斉にパドックに集まった。

 

 

「あ、始まるみたいですよ、アヤベさん!」

 

 

 ナリタトップロードは隣のアドマイヤベガに呼びかけた。2人ともこの雨天に傘を差している。

 

 

「……そうね。それに雨、もう殆ど止んでるわね、良かった……」

 

 

 今日はメイショウドトウとテイエムオペラオーは外せないトレーニングがあるので、学園に残っている。恐らく寮のテレビで中継を観ているはずだ。

 

 

「アヤベさん、もう少しだけ前に行きませんか? ちょっぴり空いてる所がありますよ!」

 

 

 ピョコピョコと耳を動かしてトップロードが移動する。彼女はこの日をとても楽しみにしていた様だ。しかし、アドマイヤベガはその逆だった。この宝塚記念の投票には嫌な噂があると知っていたのだ。

 

 

(……今更気にしても仕方ないけど。マリンさん、とにかく無事に……)

 

 

 不安が込み上げて来るのを抑えて、トップロードの後ろをついて行く。そこは確かにパドックが見やすい場所だった。

 

 

(ん? あの人は……)

 

 

 アドマイヤベガは近くに立っているウマ娘に注目した。紫色の傘を差して、同じくパドックを見つめているその姿には見覚えがあった。何となく、アドマイヤベガは彼女の側に近寄った。それに気付いたトップロードが「アヤベさん?」と立ち止まる。

 

 

「隣、いいかしら? ルリイロバショウさん」

 

 

 振り返ったそのウマ娘は少し驚いた顔をした。紅碧の瞳に、アドマイヤベガの姿が映る。

 

 

「……! アドマイヤベガ……」

 

 

 トップロードも駆け寄ってきた。

 

 

「あ、マリンちゃんの幼馴染みの方だ! そういえばちゃんと挨拶をしていませんでしたね! 私、ナリタトップロードと言います、よろしくお願いしますね!」

 

 

 雨天を吹き飛ばしそうな明るい笑顔でトップロードが挨拶をした。

 

 

「知ってるわ。あの世間知らずと違って、私はちゃんとニュースは見てるわよ」

 

 

 ルリイロバショウはツンとした態度をとってしまうが、何か考え込んでから2人に向き直った。

 

 

「その……この前のこと……本当に、申し訳なかったわ。あなたたちに、まだ謝れてないの気になってて……」

 

 

 ルリの言葉に、2人とも微笑んで言った。

 

 

「気にしないで下さい! 私たちが勝手について行っただけですから!」

 

「そうね、あの後のことは……ハァ、自業自得だったわ。オペラオーにはいつも調子を狂わされるのよ……あなたたちのレースの熱に当てられてしまったわ。格闘ウマ娘のあなたに言うのもなんだけど、そのくらい良い走りだったわ、2人とも」

 

 

 それを聞いてルリは少し安心した顔をする。そして、続けて真剣な面持ちで2人に尋ねる。

 

 

「あのっ、アイツ、マリンの事なんだけど、あなたたちから見てどうなの? 今日のレース……勝てると思う?」

 

 

 不安の混じった声だった。それに対してアドマイヤベガはキッパリと答える。

 

 

「厳しいわ。普通に考えればね」

 

「ちょっと、アヤベさん!」

 

「ここで安心させるような事を言っても仕方ないでしょう?」

 

 

 ルリは「っ、そう……」と小さな声で呟く。

 

 

「でも、レースは始まるまで分からないモノよ。私たちが出来るのは応援して『祈る』ことだけ。G1レースで勝つって、マリンさんはあなたと約束したんでしょう? 信じてあげなさい、あなたの幼馴染みを」

 

「……!」

 

 

 ルリは頷くと、パドックの方に目を向けた。アドマイヤベガとトップロードも同じ方を向く。今回の宝塚記念は例年より少なめの11人で争われるとアナウンスで言っていた。ちょうど、最初の海外枠のウマ娘が紹介されている所だった。そして、その後に……

 

 

 

『7番、マリンアウトサイダ!!! まさかまさかの参戦に驚愕した人は多いでしょう! 元UMAD所属の格闘ウマ娘、昨年度のウマ娘格闘界の全国覇者がG1レースに異例の出走です! 今回のダークホースとなり得るのか!?』

 

 

 

 ワァーーー!!!と歓声が上がる。パドックに堂々と立つ彼女を見て、3人は安心した。

 

 

「何だか気合いが入ってますね、マリンちゃん! これはイケるんじゃないですか!?」

 

「そうね、G1レースの雰囲気に怖気付いていないのは安心したわ」

 

「………マリン………」

 

 

 他方、『シリウス』のメンバーも大声でマリンの名を呼んでいた。マリンもそれに手を振って応える。

 

 

 その後、出走ウマ娘の紹介が続いてゆき、最後に1番人気のアカネダスキが出てきたところで会場の盛り上がりは最高潮になった。クラシック級のウマ娘がグランプリレースに出走する事は珍しい。だが、アカネダスキは当然というような威風堂々とした立ち姿だった。1番人気に推されるのも納得と言えるだろう。

 

 

 そして、出走ウマ娘たちのゲートインが完了する。いよいよ、運命のレースが始まろうとしていた……

 

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 バンッ!!!

 

 

『各ウマ娘、綺麗なスタートを切りました!』

 

 

 マリンは外から3番目、アカネダスキは内から2番目でスタートした。先行バのアカネダスキはグイグイと縫う様に進んでいく。マリンは後方待機の姿勢だ。

 

 

 マリンはトレーナーの言葉を思い出す。

 

 

『宝塚記念までの期間で新たな戦法を身に付けるのはやめた方が良いだろうね。重賞レースを制してきたウマ娘たちに付け焼き刃の技術は通用しない。だったら、先日のレースの様に早めに仕掛ける『追い込み』の精度を上げるのに専念しよう』

 

 

(まずは様子見……トレーナーさんの作戦通り、第2コーナーを過ぎてから徐々にペースを上げていく)

 

 

 序盤のレース模様をアナウンサーと解説者が実況する。

 

 

『……1番人気のアカネダスキは現在3番手! 落ち着いて前を伺っています! …………そして、マリンアウトサイダは最後尾、前レースと同様に追い込みの作戦のようです!』

 

『良い走りをしています。格闘ウマ娘だった彼女が現役のトップランナーたち相手にどの様なレースをするのか、注目ですね』

 

 

 最初の直線で観客の歓声を浴びて、そのまま第1コーナーを曲がる。順位は特に変動する事なく、レースは進む。そして第2コーナーを過ぎたあたりでマリンは異変に気付いた。

 

 

(ペースが……想定以上に速い……!?)

 

 

 これはG1レース、出走するウマ娘たちは基礎能力からして未勝利戦の他のウマ娘とは天地ほどかけ離れている。マリンも勿論それを想定してトレーニングをしていたが、それでも実際のG1レースは、彼女たちの気迫も相まって全くの別次元だった。

 

 客席から観ていた『シリウス』のトレーナーも目を細める。

 

 

「……この不良バ場で、このハイペースは想定外だな。マリンの長所も活かせて貰えてない」

 

 

 隣のゴルシもルービックキューブを回す手を止めていた。普段は見せない緊張の表情をしている。

 

 

「……『早仕掛け』のタイミングが狂わされる……マズいぞ……」

 

 

 他のシリウスメンバーの顔も曇っている。

 

 

 実況が『集団はやや縦長の展開』と告げる。先頭のウマ娘がちょうど中間距離を通過した。それを目視したマリンの心に焦りが生じる。

 

 

(っ……やるなら、この辺りから……っ!!?)

 

 

 前に出ようとしたマリンアウトサイダを前のウマ娘が牽制する。僅かに緩急をつけた走りで、追い抜くタイミングが掴めない。無理に外側を追い抜けば体力のロスがかなり大きくなる。妨害と判定されないギリギリの位置を取られていた。

 

 

(しかも……この人、私だけじゃなくて前を走るウマ娘にも同時に牽制をかけている……!)

 

 

 このウマ娘だけじゃない、前方にいる全てのウマ娘が前後左右で視線を交わさない睨み合いをしていた。その気迫はレース経験の浅いマリンに取ってはまるで『壁』のように思えた。しかしそれは、トップレベルのレースではあくまで『普通のこと』だった。マリンは、経験と技術の非常に大きな差を思い知らされる。

 

 

(これがG1レース……割り込む隙が見つからない……!)

 

 

 マリンの焦りは募るばかりだった……

 

 

 

 

 その様子をアドマイヤベガは苦い表情で見つめる。

 

 

(マリンさん、このまま前に行けない状況が続いたら……厳しいわね)

 

 

 最終コーナーの終わりから最終直線にかけて、内ラチ側は前レースと大雨の影響で細長い水たまりの様になっていてかなり状態が悪い。スパートへの影響と転倒のリスク、最終直線の中央と外ラチ側は芝の状態が比較的良いことを考えれば、最終コーナー中盤からは外寄りに走るのがベストだろう。

 

 

(今回のコース状態、経験を積んだレースウマ娘ならインコースは絶対に攻めない。つまり、最終直線に入った時の位置が勝敗に大きく影響する。逃げ、先行がどう考えても有利。マリンさんが勝つ為には早めに位置を押し上げないといけないのに……!)

 

 

 同じ追い込みバとして、彼女はマリンの感じる歯痒さが我が事のように伝わってきていた。トップロードもマリンの走りを固唾を飲んで見守っている。ルリはそんな2人の雰囲気を感じ取って、ギュッと拳を握りしめた。

 

 

「……っ、マリン……!」

 

 

 ルリは『祈る』しかないというアドマイヤベガの言葉を思い返していた。

 

 

 

 

 

 第3コーナーを過ぎて、縦長だったバ群は少し縮まっていた。内を走っていた先頭集団が外に広がる為にスピードを僅かに落としていた。マリンは前方を見据えて先頭集団を確認する。

 

 

(勝つ為には、せめてこの辺りから位置を上げないといけない。私はゴルシさんの様な規格外の末脚は持っていない……直線一気で抜き去るなんて芸当は無理だ)

 

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ」

 

 

 呼吸は落ち着いている。前方のウマ娘が僅かに外に寄り始めた気配がする。そうなると追い抜くのは更に厳しくなってくる。

 

 

(スタミナは十分に残っている。だけど技術が足りない、前に進む為の技術が……)

 

 

 

 マリンはそれでも機会を得るべく、前方に食らいつく。その最中に彼女は思い出す。宝塚記念への出走を応援してくれた人たちの顔を。その中でも、あのダンスレッスンを共に受けたウマ娘たちのことを。ハルウララは飛び跳ねて喜んでくれた。そして、他のウマ娘たちも……

 

 

 

『おめでとうございます! G1レースに出られるなんて、本当にすごいです! 私、マリンさんのこと、心の底から応援してます!』

 

『本当、夢みたいですね! 私は応援することしか出来ないけど、せめてマリンさんと一緒にダンスの練習を一生懸命頑張ります!』

 

『アタシもアタシも! アタシたちのダンス……マリンさんが代わりに届けて下さい! 『Special Record!』 ……いつかアタシもライブで歌ってみたいなぁ! 全部のポジション、バッチリと踊れるように協力しますからね!』

 

 

 

 あの娘たちの声が聞こえて来る気がした。マリンは前方を走るバ群を見て、ふと思う。

 

 

(当然だけど……このレースウマ娘たちは私よりも沢山のレースを走ってきて……色んな曲をウイニングライブで歌って、踊ってきたんだろうな……)

 

 

 

『私……いつかG1レースの舞台で、ウイニングライブを踊るのが夢なんです。ハルウララのお陰で思い出したんです。走るのも踊るのも格好良いレースウマ娘に憧れてた最初の気持ちを。私の中にもまだ『憧れ』という感情が残っていたのを』

 

 

 そのウマ娘は目を潤ませて言った。

 

 

『お願いします、マリンさん、私の『思い』も、ここに居るみんなの『思い』も、あなたに託します。どうか、頑張って下さい……!』

 

 

 

 それは、いつかハルウララに救われたあのウマ娘の言葉だった。このレース前の最後のダンスレッスンを、彼女はマリンにそう言って送り出したのだ。マリンはほんの一瞬だけ目を細める。

 

 

(私は『Make debute!』しか知らない……それしか本番で歌って、踊ったことがない。あのレッスンの娘たちの殆どがそうだ……そして、それを踊ったことのない娘も沢山いる……)

 

 

 華々しいレースの世界、その影で多くのウマ娘たちが悔し涙に心が押しつぶされている。マリンはトレセン学園で、そんなウマ娘たちと多くの時を過ごした。

 

 

 

 響けファンファーレ 届けゴールまで

 

 輝く未来を 君と見たいから

 

 駆け抜けてゆこう 君だけの道を

 

 

 

 マリンの耳に歌が聞こえた気がした、あのウマ娘たちと共にレッスンスタジオで習った『初めての曲』が。誰にも見て貰えないかもしれない不安を抱えながら、皆いつかそれを踊れる未来を信じて、懸命に練習していた。走りながら、誰にも聞こえない声で、マリンは呟く。

 

 

 

「………駆け抜けて、ゆこう………」

 

 

 

 彼女の背中には、そんなウマ娘たちの『思い』も乗っている。彼女は今それを、ハッキリと感じている。

 

 

 ドクン!とマリンの心臓が鼓動した。

 

 

 黒髪のウマ娘は前を向く。その目には、かつて無いほどの闘志が宿っていた。

 

 

 

「私だけの………『道』を………!!!」

 

 

 

 そこには、『覚悟』を決めたレースウマ娘の顔があった。

 

 

 ダンッ!!!とマリンは大きく踏み込んだ。他のレースウマ娘たちが避けて広がったインコースへ向かって、彼女は加速する。

 

 『宝塚記念』という最高位のレースで、未勝利戦1勝のみのウマ娘は、全てを賭けて勝負を仕掛けた。

 

 

 

 

 

 

 





次回

15話 宝塚記念・後編:史上最大のフロック


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15話 宝塚記念・後編:史上最大のフロック

 

 

 

……

………

 

 

 

『悪路を避けて先頭集団が最終コーナーへと差し掛かる! 後続も外側に膨らんでいく! 1番人気のアカネダスキが上がってきたぞ! このまま……え?』

 

 

 実況アナウンサーの声が一瞬止まる。観客も皆、その光景に騒然とした。

 

 

『マ、マリンアウトサイダが……後続が避けたインコースにスピードを上げて突っ込んでいく! こ、これは……』

 

 

 

 普通のウマ娘なら、そこを走ることを絶対に選ばない。どんな無鉄砲なレースウマ娘でも、引退に追い込まれる可能性のある危険な賭けだけは絶対にしないものだ。だからこそ、誰にとってもマリンのその選択は予想外だった。

 

 

 

「ッ!!! マリンッ!!?」

 

 

 『シリウス』のトレーナーが叫ぶ。事前にコースの確認はしていたのに何故!?と動揺する。最悪の事態が彼の脳裏をよぎった。他のメンバーも驚愕の表情を浮かべる。

 

 

 少し遅れてマックイーンがゴルシの胸ぐらを締め上げた。「ぐえっ!」とゴルシが嗚咽を上げる。

 

 

「ゴールドシップさんッ!! あなた、今度はマリンさんに何を吹き込んだんですの!?」

 

 

 マックイーンに首を絞められてガクガク頭を揺さぶられながらゴルシは言った。

 

 

「ぢ……ち、違うって、マックイーン!! 何も吹き込んでなんてねーよ……!! 流石のアタシもあんなヤベェートコ走れって言わねーって!!」

 

 

 他のシリウスのメンバーが皆、身を乗り出してマリンを見つめる。皆、レースウマ娘として最悪の事態が起こってしまわないか気が気でなかった。

 

 

 

 

 他方で、アドマイヤベガたちも驚愕の表情を浮かべている。会場は一瞬にして、液体窒素がばら撒かれたような冷たい緊張感に包まれていた。

 

 

「あの娘、何やってるの!!!?」

 

 

 血の気の引いた顔でアドマイヤベガが叫ぶ。その目には誰よりも色濃く恐怖が浮かんでいた。本当の『最悪の事態』が彼女の脳裏をよぎった。

 

 どんなスポーツでも、不慮の事故は起こってしまうものだ。ウマ娘レースでも過去に『最悪の事態』が起こってしまった例は存在する。アドマイヤベガはその恐怖を誰よりも強く感受してしまっていた。

 

 

 我を失い駆け出そうとしたアドマイヤベガの腕をトップロードが慌てて掴んで止める。

 

 

「落ち着いて下さい、アヤベさん!! マリンさんのことを信じなさいと言ったのはあなたでしょう、いつものアヤベさんらしくないですよ!!」

 

「でもっ……!!!」

 

 

 トップロードはアドマイヤベガの肩を掴んで向き合った。2人の瞳に互いの姿が映る。

 

 

「大丈夫ですよ、マリンさんって頭良いじゃないですか。無策で無茶なことはきっとしません。ね、アヤベさんも知ってるでしょう?」

 

 

 トップロードの青空のような純真で真っ直ぐな瞳を見て、アドマイヤベガの気分が落ち着いていく。トップロードには、そんな何処までもこの人の事を信じたくなるような不思議な魅力があった。

 

 ルリイロバショウもアドマイヤベガに話しかける。

 

 

「っ……私も、気弱になってた……アイツがそんな簡単にやられるヤツじゃないって誰よりも知ってるハズなのに……うん、アイツならきっとやってくれる。一緒に信じよう、アドマイヤベガ」

 

 

 アドマイヤベガはルリの顔を見て……間を置いてコクンと頷く。

 

 

「そうですよ、きっと大丈夫です! 何てったってマリンさんは『水たまりの鬼』ですから!」

 

 

「「………何それ?」」

 

 

 アドマイヤベガとルリイロバショウはポカンとした。

 

 

 2人はトップロードの言ってることは分からなかったが、会場から更に大きなどよめきが起こったので皆ターフへと視線を戻した。マリンは迷いなく、一番危険な道に突っ込もうとしていた。

 

 

 

 バ群は最終コーナー手前に差し掛かり、少しダンゴ状態で外に広がっている。マリン1人だけが内側を走っている。

 

 そしてコーナーの先に、ターフの最も荒れている部分があった。スペシャルウィークとナリタブライアンが言及していた、殆ど『水たまり』の様になっている所。あのスピードで転倒すれば、決して無事では済まない。

 

 

 運命の分かれ道が近付いてきていた。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

(来た……)

 

 

 マリンは前方の水たまりの様な悪路を睨む。外側へ逸れたウマ娘たちを追い越して、現在の順位は8位前後。外寄りに走るウマ娘たちが横目で驚愕の表情を浮かべている。正気か!?と心の声が聞こえてきそうだ。

 

 

(私に足りてないのは技術じゃない……G1レースを走るウマ娘たち相手に、そこで勝負すること自体が間違っている。本当に足りないものは……『覚悟』だ……!!!)

 

 

 徐々に、その悪路が近付いてきた。

 

 

 

(3歩だ……3歩であの『水たまり』を越えれば……!)

 

 

 

 最小限の歩数で危険地帯を走破するために、最初の1歩目は水たまりの端ギリギリに足を置かねばならない。その為に、マリンは目測で距離を確認して歩幅(ストライド)を調整する。

 

 段々とソレが近付いてくる。ドクンドクンとマリンは自分の心臓が脈打つのを感じた。

 

 

「ハァッ! ハァッ!」

 

 

(1歩目は左足……芝が残っている水際……!)

 

 

 マリンは外側に少し寄って走る。流石に最内ではコーナーを曲がることは出来ない。その為に内ラチから間隔を取った。この1歩目で方向を定める、最終直線まで辿り着けさえすれば良い。そのギリギリの角度。

 

 

(ここ……ッ!!!)

 

 

 マリンの左のつま先が僅かに水たまりに触れる。その踏み込みで大きく右の脚を伸ばす。跳んではいけない、着地した時に確実にスリップする。身体の重心の位置は上下させずに、横にスライドするように『水たまり』を超えていく。

 

 

 股関節を最大限に縦に開く。0.5秒にも満たない滞空時間、マリンは一瞬だけ目線を下げて地面を確認する。格闘ウマ娘として培ってきた瞬間の把握力をフルに活用する。彼女は浅い田んぼのようなターフの中の着地点を直感で探す。

 

 

(2歩目……ここでミスったら終わる……ここだけは……!!!)

 

 

 この右足は確実に水たまりに突っ込むことになる。間違いなく1番危険な賭けだ。方向転換だけはしてはダメだ。絶対にスリップする。慣性に逆らわずに、右足を地面に添えるように、しかし根を張る様に踏み込まないといけない。マリンは全ての意識を一瞬だけ右足に集中させる。

 

 

 マリンは勘で踏むべき地点に目星をつけた。山暮らしで、小さい頃から人よりも多くの泥水に触れてきた自分の感覚を信じた。

 

 

 ピチャン

 

 

 マリンの右足が水の層に触れる。その一瞬が彼女にはスローモーションのように感じられた。泥に蹄鉄が食い込む。泥に対して垂直に踏み込む。足先と足裏の筋肉を繊細に操作する。ズラさぬように、その一点を軸にして身体を運ぶ。

 

 

(行……けぇ……ッ!!!)

 

 

 パチャァアン!!!と水飛沫が上がる。マリンの身体は慣性に逆らわず、勢いのままの方向に進む。彼女は一瞬だけ安堵する。しかし、賭けはまだ終わっていなかった。踏ん張りが効かないならば、当然重力によって身体の重心は下に落ちていた。

 

 

 そして3歩目は……目標としていた『水たまり』の端に、僅かに届きそうになかった。

 

 

 今の体勢では、芝の緑が全く見えない部分で方向転換し、更に重心が下がった姿勢を正さなくてはならない。どう考えても、走り抜けるよりスリップする可能性の方が高い。距離のロスになるが、この3歩目まではベクトルを変えない方が良い。そのことをマリンは思考を介さずに直感した。

 

 

 走りながらの1歩すら危険なのに、再び『水たまり』に2歩目を下ろさなくてはならない。あまりにリスクは大きいが、やるしかない。

 

 

 マリンはすでに覚悟は決めていた。股関節を最大限に縦に伸ばして、今度は左脚を前方に出す。せめて水際に近い位置を踏めば、滑らないかもしれない。

 

 

 ピチャン

 

 

 左足の蹄鉄が2度目の水面に触れる。飛沫を上げながら沈む。思ったよりも固い地面の感触がした。「行ける……!」と感じてマリンは右脚を前に持ってこようとした。が、その瞬間……

 

 

 

 ズルンッ!!

 

 

(ッッ!!?)

 

 

 

 と、左足が横に滑った。完全な油断だった。マリンは最初に芝でやろうとしていた方向転換をつい無意識にやってしまったのだ。僅かに左足に回転が加わったことで、蹄鉄は地面の泥を抉りながら滑り、そのまま宙に放り出される。

 

 その浮遊感に、マリンの頭から血の気が引く。

 

 

 それはシリウスのメンバーや他の観客たちも同じだった。時が止まったように、皆マリンの左足が横にスライドしてしまったのを見ていた。ライスシャワーは両手で目を覆って顔を背けた。実況アナウンサーの短い悲鳴がマイクに入った。

 

 

 皆、最悪の事態を予感した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーー……っ!!!

 

 

 

 だが、マリンは諦めていなかった。転倒する直前の、宙に浮いたかのような状態。それは格闘ウマ娘、特にマリンのような投げ技主体の武術を修める者なら、日常のように経験してきたものだった。

 

 

 受け身の訓練はどの武術でも最初に行うものだ。もちろんマリンも、師との鍛錬の中で何百回と投げられてきた。空中でのあらゆる姿勢から、最低限のダメージで受け身を取れるよう鍛えられてきた。

 

 

 転倒する最中でもマリンの頭は驚くほど冷静で、さっき以上にその一瞬をスローモーションの様に感じていた。

 

 

 『右足をとにかく前に』

 

 

 その一瞬にマリンは言葉にならない思考をする。

 

 

 左足が地面に一瞬着いて、右足を出そうとする途中だったのが幸いした。空中で蹴りを出すように、右足を前方に死ぬ気で押し出す。

 

 

 同時に少しでも重心が下がるのを抑える為に、背中を反って胸を張る。スノーボード等の様な姿勢が急に変化するスポーツでは、選手が自分の膝で自分の胸を打撲する場合がある。それを防ぐ意味もあった。マリンはそれを本能レベルで行なっていた。

 

 

 そして……

 

 

 トン

 

 

 と、右足がターフに着いた。マリンは限界まで脚を広げていて、更にその一点に全体重がかかる。普通のレースウマ娘だったらここで股関節がイカれてもおかしくない。

 

 

 しかし、彼女は武闘家だ。あまり注目されないが、武闘家は一般人が想像するより遥かに関節が柔らかいのである。むしろそうでないと、武術を会得する事は不可能だと言える。マリンもそれこそバレリーナと比肩するほど関節の可動域は広い。そうなるように鍛錬を積んできているので、彼女の身体は現状は無事だった。

 

 その瞬間のマリンは、正面から見るとまるでスピードスケートの選手の様な姿勢だった。

 

 辛うじて着いた右足で、絶妙な姿勢制御により重心を前に移動させる。更に宙に浮いた左足をただ、気合いで前に進める。絶対に勢いを殺してはいけない。それこそ頭からターフに突っ込んで終わりだ。

 

 

 そして、スリップした左足は、今度こそ緑のターフに到達した。

 

 

「ーーーぅあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

 

 

 雄叫びを上げて身体に喝を入れる。

 

 

 今度は左足に全体重をかけて、そのバネで身体を跳ね上げる。格闘ウマ娘として鍛え抜かれた脚は、その無茶苦茶な運動に耐え抜いた。

 

 

 マリンは立て直した。最悪の結末を回避できた。きっと殆どのレースウマ娘には不可能だっただろう。

 

 

 

 マリンはその悪路を

 

 『レースウマ娘』として3歩走り

 

 『格闘ウマ娘』として最後の1歩をプラスした。

 

 

 そうやって、彼女だけが走れる『道』を踏破した。

 

 

 決別したと思っていた世界が、彼女を救ったのだった。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

『…………マ、マリンアウトサイダ、転倒していません!!! 転倒していません!!! 先頭集団と並ん……いや、トップです!!! 最内を通って、トップはマリンアウトサイダ!!! 約3バ身リードで最終直線に入りましたぁ!!!』

 

 

 一瞬静まり返った会場が、次の瞬間には驚愕と熱狂の渦に包まれていた。シリウスのメンバー、覇王世代の2人と、灰髪の格闘ウマ娘はそれよりもマリンの無事に安堵する。

 

 

 

 

 

 誰よりも驚愕したのは、かの皐月賞ウマ娘、アカネダスキだった。会場が異様などよめきに包まれた後に、後方から聞こえた激しい水音に、彼女は耳を疑った。

 

 そして、気が付いたら袴の上から緑のパーカーを着たウマ娘が、泥まみれの姿で自分をインコースから追い抜いていた。

 

 それは彼女が予想もしてなかった光景だった。何故なら、どんなレースウマ娘でもあの悪路は走らない。そんなウマ娘は、型破りというより常識外れだ。

 

 だが、これは現実だった。その悪路を踏み越えて、インとアウトでの走行距離の差で、その格闘ウマ娘はトップに躍り出た。

 

 

 

 アカネダスキは確かに驚愕した。しかし、それを遥かに超える『歓喜』が彼女の内で湧き上がっていた。

 

 彼女の脳裏に自身が制した『皐月賞』、その中でも多くの人々の記憶に残る伝説レースの事が浮かんでいた。

 

 

 奇しくも、それはマリンアウトサイダの所属するチーム『シリウス』のメンバー

 

 『黄金の不沈艦』の異名を持つウマ娘が魅せた……まるでワープしたかのような異次元の走りで1着を勝ち取った、あの皐月賞だ。

 

 

 アカネダスキは幾度となく夢想した。もしも自分のクラシック期があの皐月賞の年だったら……もしあのゴールドシップと戦っていたら、果たして勝てたのだろうか、と。

 

 しかし、クラシック期は文字通り一期一会。その巡り合わせは天が決める。夢想はあくまで夢想のはずだった。しかし……

 

 マリンの走りはアカネダスキにとって、まさにあの伝説の皐月賞の再演だった。本人でもなければレース場も違う。しかし、夢想だったはずの戦いが、極々一部でも現実と化したのだ。それをやってくれたのが世代最強の格闘ウマ娘ならば、相手にとって不足などあるはずもなかった。

 

 アカネダスキはゾクゾクと興奮で身体中の神経に電気が流れるのを感じる。『歓喜』に口が歪む。彼女は込み上げてくる感情を吐き出さずにはいられなかった。

 

 

 

「ッ……最高だぜアンタ、最高だッッッ!!!!」

 

 

 

 アカネダスキはギアを上げる。

 

 

 

(出し惜しみはしない……!! ここで全力を出さずにいつ出す……!? こんなウマ娘と戦える機会は二度とは来ない!!!)

 

 

 

 

 マリンもその気配を感じて一瞬後方に目線を送る。彼女は過去最強の敵が、自分を標的に定めているのを見た。

 

 マリンは初めて、追われる側になった。悪天候に恵まれ、悪路を踏み超えて、格闘ウマ娘として培った全てを使って、ようやくG1ウマ娘の足元に届いた。ここから先が彼女に取っての正念場……いや、決闘の舞台だった。

 

 

 

「『勝負』だあぁッ!!!!! マリンアウトサイダ!!!!!」

 

 

 

 アカネダスキの言葉と同時に、2人はスパートをかける。

 

 ゴールまで300メートル、一瞬でも気を抜いた方が負ける。まさに死闘が始まろうとしていた。

 

 

 

『先頭の2人がスパートをかけたああああ!!! 後続もアウトコースから猛追する!!! こんな展開を誰が予想出来たでしょうか!? クラシック期最強の皐月賞ウマ娘と、未勝利戦1勝のみの格闘ウマ娘の一騎討ちだあああ!!!』

 

 

 

 マリンは疾走する。彼女は悪路でのスリップで気力と体力を消耗したが、インコースを攻めてきたので脚は残っていた。後は全身全霊で最終直線を駆け抜けるだけ。しかし、後ろから迫っているのはG1ウマ娘だ。彼女にとってマリンとの3バ身差など有って無い様なものだろう。

 

 

(でも……負けるわけにはいかない!!! G1レースに出走するチャンスなんて、簡単に来るわけがない!!! こんなレース素人だった私を応援してくれた人たちの為にも……絶対に!!!)

 

 

「だああああああああああああッ!!!」

 

 

 マリンは死に物狂いで大地を蹴り進む。内ラチの荒れ具合は彼女にとっては良バ場と大差なかった。トップスピードに乗るのにそれ程時間はかからなかった。ゴールまで200メートルを切る、だが……彼女の背後から強大な気配が迫り寄ってきていた。

 

 

『マリンアウトサイダが依然先頭!!! しかし、大外からアカネダスキが追い上げる!!! 段々と差が縮まってきているぞ!!! マリンアウトサイダを差し返せるか!?』

 

 

「ウゥオオオオオオオオオオッ!!!」

 

 

 

 全身全霊でスパートをかけているのはアカネダスキも同じだった。フィジカルもテクニックも経験もマリンとは天地の差だ。この状況でも十分に追い付ける確信が彼女にはあった。緑のパーカーをなびかせて駆けるマリンの背中を楽しそうな目で睨む。

 

 

 

(こんなに胸の踊るレースは久々だッ!! アンタには感謝しかない……だけど、勝利まで譲る気はない!! このままゴール手前で、差す!!!)

 

 

 

 驚愕のレース展開に、観客たちは喉が張り裂けんばかりの歓声を上げる。ラストのデッドヒート、瞬きをするのも勿体無い。先のスリップの時のどよめきも何処へやら。会場の熱狂の高ぶりは止まるところを知らなかった。ゴールまで残り100メートルを切った。

 

 

『マリンアウトサイダ苦しいか!? アカネダスキが1バ身差で迫っている!!! これが皐月賞ウマ娘のプライドか、勝ちは譲らないと言わんばかりの末脚だあああああ!!!』

 

 

 一際大きな歓声が上がる。1番人気なのだから当然だ。会場の殆どはアカネダスキを応援していた。

 

 

 マリンは走る。肺が潰れてしまいそうなくらい苦しい。両脚も悲鳴を上げている。ゴールは目の前だ。あと少しでG1レースの勝利に届くのに、やはり皐月賞ウマ娘、アカネダスキは強すぎる。何もかもが自分を圧倒しているとマリンはその肌で感じた。

 

 

(これが……G1ウマ娘……!!)

 

 

 過去最強の相手が追い付こうとしている。インコースを走ったリードなどハンデにもならなかった。マリンが限界まで脚を酷使しても、差が縮まってくる。

 

 

(あと……少しなのに……!!!)

 

 

 ほんの少し、マリンの脳裏に敗北のビジョンが見えた。

 

 

(ここまで……ここまで来て……)

 

 

 心臓が破裂しそうなくらい苦しい。ドクンドクンと喧しく警告を発している。しかし……その鼓動に混じって、マリンに声が聞こえてきた。背中に乗せた、様々なものの声が。

 

 

 

 

『勝てないレースの……取れもしないポジションのダンス練習なんてして、意味あるんですか!?』

 

『私の「思い」も、ここに居るみんなの「思い」も、あなたに託します。どうか、頑張って下さい……!』

 

 

 かつて心が枯れかけていた、あのウマ娘の顔が浮かぶ。ダンスレッスンで共に練習した他のウマ娘たちの顔も。

 

 

『一緒に……日本一の……格闘ウマ娘、に……マリン……ッ』

 

『私の「夢」を切り捨てるなら……それと同じくらいの事をしてみせてよ!!! レースの世界で!!!』

 

 

 泣き腫らした幼馴染の顔が浮かぶ。一生忘れる事がないだろう、その泣いた声も。

 

 

『夢を見ることが……こんなに辛いって……思いたくなかった……!!! 思いたく……なかったのに……!!!』

 

『頑張ってね、マリンアウトサイダ……お姉さん、応援してるよ』

 

 

 そして……先輩が涙を流しながら浮かべた笑顔と、去っていく背中が見えた。

 

 

 

 

「……………ッッ!!!!!」

 

 

 マリンの目に闘志が戻る。彼女は敗北のビジョンを、意志の力で振り払った。

 

 

(そうだ、私は……勝たなくちゃいけない!!! この背中には、負け続けたウマ娘たちの『思い』も!!! 私が裏切ってしまった幼馴染との『約束』も!!! 先輩の『夢』も……乗っかってるんだ!!!)

 

 

 

「負け……られるかああああああッ!!!!!」

 

 

 

 心臓も肺も両脚も悲鳴を上げる。だがそんなのは構わない。この勝負に勝つ為に、マリンの身体は『限界』を超えた。姿勢がより低くなり、加速した。

 

 

 

「ぐう……ああああああああ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!」

 

 

 

『アカネダスキ追い付……いや、マリンアウトサイダが粘っている!!! 追い付けない、追い付けない!!! マリンアウトサイダが先頭をキープ!!! しかし半バ身差もない!!! どっちが勝つかまだ分からない!!!』

 

 

 アカネダスキは今度こそ驚愕一色になる。マリンアウトサイダはあの段階から、しかも自分が走る所より遥かに荒れたバ場で加速をした。彼女の脚はとっくに限界を迎えているはずなのに。

 

 

「でも……アタシだって……負けられねえんだああああああ!!!!!」

 

 

 アカネダスキも持てるもの全てを限界まで絞り出した。再び差が縮まってくる。しかし、ゴールは目と鼻の先だ。もう相手の位置を確認する余裕もない。ただただ、2人のウマ娘は駆け抜けるだけだった。

 

 

「「ああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!」」

 

 

 彼女たちの雄叫びが重なる。

 

 

『殆ど並んでいる、並んでいるぞ!!! アカネダスキか!!! マリンアウトサイダか!!! どっちだ!!! どっちだああああああ!!!!!』

 

 

 実況アナウンサーが絶叫する。文字通り、手に汗握る大接戦だ。会場のアカネダスキを応援していたファンも、今や先頭の2人を両方応援していた。

 

 そして遂に…………

 

 

 

『ゴオオオオォオオオオオオオル!!!!! 2人のウマ娘が、内と外でほぼ同時にゴールイーーーン!!!!! 勝者はまだ分からない、分からないぞ!!!!! 3番アカネダスキか、7番マリンアウトサイダか!!!!! どっちだ、判定はどっちだあああ!!!?」

 

 

 会場が一瞬静まり返る。その場の全ての人が着順掲示板に注目する。緊張がその数秒間を支配する。そして、着順1位の欄には…………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

確定 1 『7』 ハナ 

 

 

 

 

 

 ワアアアアアアァァァーーー!!!!!

 

 今までの全てを超える大歓声が沸き起こった。

 

 

『マリンアウトサイダだああああああ!!!!! 何という事でしょう!? 誰もが予想しなかった走りで、ウマ娘格闘界の麒麟児が、グランプリレースを制したあああああ!!!!! 戦績は未勝利戦1勝、そこにG1レースの1勝が刻まれたああ!!!』

 

 

 

「「「「「や……やったあああああああ!!!!!」」」」」

 

 

 チーム『シリウス』のメンバーが叫んだ。同じ頃に、アドマイヤベガとナリタトップロードとルリイロバショウが3人抱き合って歓喜に跳ね上がっていた。3人の仲など関係なく、マリンの勝利と無事の喜びを共有していた。

 

 

 

 

「ハァッ!……ハァッ……ケホッ!……ハァッ……」

 

 

 ゴールを通過してからずっと、マリンはターフに両手をついて苦しそうに呼吸をしていた。限界を更に超える走りで身体がいう事を聞かなかった。やがて落ち着いてくると、マリンは顔を上げた。

 

 観客席を見ると、溢れんばかりの拍手の嵐で、祝福の声がマリンに送られていた。

 

 マリンは横を向いて着順掲示板を見た。1着に『7』の数字が見えて、ようやく自分が勝ったのだと理解した。

 

 

「ハァッ……ハァッ……わた……し……勝った……やった……んだ……」

 

 

 マリンの目に涙が浮かんだ。

 

 先輩の『夢』、幼馴染との『約束』、勝てないウマ娘たちの『思い』

 

 ようやく、支えてくれた全ての人たちに報いる事ができた。それが、彼女にとって何よりも嬉しかった。

 

 

 マリンが喜びに浸っていると、ザッザッと足音が鳴る。マリンがその方を向くと、アカネダスキが近付いてきてた。爽やかな笑顔で、彼女はマリンに話しかける。

 

 

「よお、大丈夫かい? アンタ、かなり無理して走ってただろ。今は立たなくて良いぜ」

 

「ハァ……ハァ……はい、少し……息を、整えてから……」

 

 

 そう言ってマリンは目元を拭って深呼吸をする。それを聞いてアカネダスキはニヤリと笑い、片膝をついてかがみ込んだ。会話したくてウズウズしている様子だ。

 

 

「それにしても……アンタ、本っっっっ当に凄えな!!! あんな荒れたコースを走るなんざ、普通のレースウマ娘ならあり得ねえぜ! そんで伝説の『ゴルシワープ』みたいに、いつの間にかアンタに追い越されてたしよ! オレあの皐月賞の映像を見るたびに『ゴールドシップとやり合ってた他のウマ娘はどんな気分だったんだ?』って考えてたけどさ、あんな感じだったんだな!!! 凄え経験をさせて貰ったぜ、ありがとよ!!!」

 

 

 アカネダスキはマリンに手を差し出す。

 

 

「オレはアンタを見くびってなんかいなかった! だけどしてやられたよ! アンタの勝ちだ、マリンアウトサイダ! 最高のレースだった!!!」

 

 

 白い歯を見せた熱血的な笑顔で、アカネダスキは言った。

 

 マリンも微笑み返すと、彼女の手を取った。アカネダスキがグイッとマリンを引き上げて、そのまま2人は固く握手をする。

 

 

「私こそ……あなたと戦えて本当に良かったです、アカネダスキさん。あなたが相手だったからこそ、私は全力で走れました。あなたは、私にレースウマ娘の強さを教えてくれました。本当に最高のレースでした。ありがとうございます……!」

 

 

 そして、アカネダスキはニヤリと笑うと、握手していた右手を離して、今度は左手でマリンの右腕を掴んで高々と掲げた。そのまま観客席に向かって、マリンを紹介する様な仕草で勝者への敬意を示した。格闘技の試合で、負けた選手が勝った選手を讃える時に行うパフォーマンス。それを見た観客たちは一層盛り上がり、更に多くの拍手が巻き起こった。

 

 

 その様子を見て満足気なアカネダスキがマリンに囁いた。

 

 

「実はオレ、コレ1回やってみたかったんだよな! レースで普通こんな事はしないけどよ、格闘ウマ娘のアンタになら誰も文句は言わねえだろ」

 

「……あなたも、本当に凄い人ですね」

 

 

 マリンはクスリと笑い、アカネダスキと共に観客席に向かって手を振った。あんな激闘の後でもまだまだ余裕のある皐月賞ウマ娘に色んな意味で驚き、そして感謝したのだった……

 

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

「やっっったああああああ!!!!! マリンさんが勝ったあああああ!!!!! 良かったああああああ!!!!! 本当に頑張ってたもん、うおおおおおおおおおおおん!!!!!」

 

「マリンさん、凄いです!!! あんな場所を走り抜けるなんて、本当に凄いですっ!!!」

 

 ウイニングチケットとスペシャルウィークのテンションは最高潮だった。ライスシャワーや前髪ぱっつんウマ娘たち、他のメンバーも笑顔で拍手を送る。しかし、メジロマックイーンやサイレンススズカ、ナリタブライアン、そしてゴールドシップは落ち着いた様子だった。この後に行われる事の予想がついていたからだ。

 

 

「やりましたわね、トレーナーさん」

 

「ああ……そうだな、マックイーン」

 

 

 メジロマックイーンが隣で手摺りに寄りかかって項垂れているトレーナーに声をかける。彼も内心でマリンのレース結果に喜んでいたが、それよりも……安堵の方が勝っていた。

 

 

「はぁぁぁ、良かった……心臓が止まるかと思った……」

 

 

 『シリウス』のトレーナーは姿勢を戻して、観客に手を振っているマリンの姿を見る。

 

 

「マリンのことは誰よりも祝福してあげたいけれど……僕は彼女の『トレーナー』だからね」

 

 

 そう言って、彼は少しだけ険しい顔付きになる。その意味をマックイーンも分かっていた。

 

 

「ええ、そうですわね……」

 

 

 そして、『シリウス』メンバーはトレーナーと共に本バ場への通路へ向かった。ウイニングチケットやスペシャルウィーク、重賞挑戦組は、チームメイトの勝利に喜びはしゃいでいる。

 

 

 通路を皆が歩いていると、本バ場への出口から小さくマリンの姿が見えた。チケットとスペたちがそれを見て駆け出そうとしたところを、マックイーンが呼び止める。

 

 

「あなたたち、お待ちなさい! まずはトレーナーさんからマリンさんにお話をします。私たちはその後ですわ」

 

 

 そしてマリンが通路を歩いてると、先頭を歩く『シリウス』のトレーナーを見て駆け寄ってくる。しかし、トレーナーの様子から何かを察した様に俯いた。

 

 

「お疲れ様、マリン。とりあえず、控室に行こう。ウイニングライブまで、少しは時間があるからね。シャワー室で服の泥を落として、すぐに来てくれ」

 

「……はい」

 

 

 その様子を他の出走ウマ娘たちも見ていた。皆、その勝利とはかけ離れた雰囲気に色々と察した。アカネダスキも「ありゃりゃ……」といった様子で、衣裳室へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 

 控室にはマリンとトレーナーだけが入り、他のメンバーは廊下で待つことになった。チケットやスペたちも流石に察したようだった。

 

 

 室内でマリンとトレーナーが向かい合っている。

 

 

「マリン……僕が言いたいこと、分かるね?」

 

「……はい」

 

 

 マリンの耳がシュンと垂れている。

 

 トレーナーがスゥと息を溜めると……

 

 

 

 

 

 

 

 

「バカヤロウ!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 と、廊下のはるか先まで届く怒声が控室から響いた。ビクンと待機しているライスとスペが震えた。

 

 

「あの最終コーナー、何故インコースを攻めたんだ!? そこを走るリスクは事前に確認していたはずだ! 結果として無事だったけども、現に君はスリップした! それを見ていた僕やチームメイトが、その瞬間どんな気持ちだったか分かるか!?」

 

「…………ッ」

 

 

 マリンは俯いている。幼馴染にも同じようなことを言われたのを思い出していた。またやってしまったのだと、胸が締め付けられた。

 

 

「もしあのまま転倒していたら、決して無事では済まなかった。最悪の場合だが、生きて帰ってこれないかも知れなかった。それだけじゃない……あの状況で他のウマ娘たちが離れていたから良かったものの、君の転倒に巻き込まれて取り返しのつかない大事故になる可能性もあった。分かるか? 君の走りは自分の命だけでなく、他のウマ娘の命をも危険に晒すものだったんだ!!! 危険走行と判断されて失格になる可能性だって十分にあった!!!」

 

 

 マリンは俯いて、トレーナーの顔を見れなかった。

 

 

「……僕は君の、チーム『シリウス』のトレーナーだ。僕の仕事はチームメンバーをレースで勝たせる事じゃない。君たちを思いっきり走らせて、君たちを無事に帰ってこさせる事だ。君たちの『物語』を悲しみで終わらせない為に。だから……絶対にあんな走りをしないでくれ。これから、二度と……」

 

「ッ…………!」

 

 

 その言葉は、『シリウス』のトレーナーの心の全てを語っていた。マリンは心の奥底で、自分の行いを真に反省した。

 

 マリンが顔を上げようとすると、気付いたら彼女の顔がトレーナーの胸に当たっていた。暖かく、優しく、力強く、彼の腕で抱きしめられていた。

 

 

 

「本当に……無事で良かった……『おかえり』、マリンアウトサイダ……」

 

 

 

 マリンは申し訳なさで心がいっぱいになり、目を固くつむった。トレーナーが他のウマ娘たちに信頼されている理由を心で理解した。

 

 

 

「はい……『ただいま』……です、トレーナーさん……ごめんなさい……ごめん、なさい……」

 

 

 

 マリンも、ギュッと弱々しくトレーナーを抱き返した。

 

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

 その後、トレーナー室に頃合いを図って他のメンバーが入ってきた。マリンがチームメイトからの労いを一身に受けていると、コンコンというノックと共にルリイロバショウが入ってきた。以前の未勝利戦の時と同じような状況だった。

 

 

「……ルリ」

 

 

 マリンはスッとルリの前に立つ。ルリは少し不機嫌そうな顔をしていた。

 

 

「……約束と違うじゃない。私は余裕で勝ちなさいって言ったのよ。何よアレ、ハナ差だったじゃない。負けていてもおかしくなかったわ」

 

 

 ツンとした態度で腕を組むルリに、マリンは困ったような顔をする。

 

 

「……まっ、いいわ。今回はまけてあげる。おめでとう、マリン……格好良かったわ」

 

「……ありがとう、ルリ」

 

 

 マリンはそんな幼馴染に微笑んで応える。そして、ルリはニヤリと笑ってポケットから小さな紙切れを取り出した。

 

 

「ふふん! 今回もセンターど真ん中のバ券、ゲットしたわよ。撮影出来ないのは残念だけどね。でも、これ全国放送されるんでしょ? 頑張りなさいよ」

 

 

 意地の悪い笑顔のルリに、マリンは落ち着いた様子で言う。

 

 

「ああ、しっかり見ててくれ。ダンスレッスンも……応援してくれたウマ娘たちと頑張ったんだ。バッチリと踊ってみせる」

 

「……ちぇ、なーんだ。すっかり『レースウマ娘』になっちゃって」

 

 

 ルリは横を向いてつまらなそうに呟く。だが、不意打ちにマリンはルリに抱き付いた。突然の事に目をパチクリさせるルリに、マリンは囁いた。

 

 

「違うよ、ルリ。私は……今でも『格闘ウマ娘』なんだ。ルリと一緒に武の道を歩んでいたから、私はこのレースに勝てた。『レースウマ娘』なだけじゃ、あの道は越えられなかった……」

 

 

 ルリは驚いた顔をして、マリンの言葉を黙って聞いていた。そして、同じようにマリンを強く抱き返した。

 

 

「ッ……そう……そうなの……」

 

 

 繋がりを確認し合う2人を、周りは黙って見守っていた。グスリ、とチケットを始め、何人かのメンバーが涙を目に溜めていた。

 

 

「……『おかえり』……マリン」

 

「うん……『ただいま』……ルリ」

 

 

 ウイニングライブが始まるまで、時間が許す限り、2人は抱き合う。ルリの目元から一筋の涙が溢れ落ちていた。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 マリンはその後、ウイニングライブの準備の為に衣裳室へと向かった。道すがら頭の中でライブで歌う曲の歌詞とステップを確認する。

 

 

(うん、大丈夫だ。しっかりと覚えている。リラックスしろ、私)

 

 

 と、深呼吸をすると……

 

 

 ドドクンッ!!!

 

 

「ッ!!!」

 

 

 一瞬、胸に違和感を覚えた。しかし、それは何事もなかったかのようにすぐに消え去った。

 

 

(気のせい……かな? レースで少し無理をしてしまったし……でも今は特に変な感じはしないし……うん、大丈夫そう)

 

 

 今はウイニングライブの事が先だ、とマリンは通路を足速に進む。

 

 

(先輩も……きっと見てくれてるよね)

 

 

 微笑みを浮かべて、彼女はライブ会場へと向かった。彼女が歌い踊った『Special Record!』のタイトル通り、そのレースはマリンにとっても、マリンを支えた多くのウマ娘たちにとっても、特別な記録となった。

 

 

 

 

 マリンアウトサイダは、その背中に多くのものを背負い、G1レースを奇跡的に勝利した。そのレースは後に『史上最大のフロック』と呼ばれた。悪天候など様々な条件が重なり、経験が浅い故の無謀さで、実力の劣るウマ娘がたまたま勝てただけだと言う声も少なくなかった。

 

 しかし少なくとも、マリンとその幼馴染と、チーム『シリウス』の皆は知っていた。そのフロックの下支えになったのは、マリンの『格闘ウマ娘』としての人生そのものであったことを。

 

 

 だがそれは……彼女の過酷の道の、未だ半ばの事に過ぎなかった。

 

 『運命』だけが、その道の続く先を知っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

番外編1:前編 トレセン学園の推定最高戦力、邂逅


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番外編1:前編 トレセン学園の推定最高戦力、邂逅



過去に書いたものを加筆修正してあります。バチバチに戦闘描写ありますので苦手な方はスキップお願いします。




 

 

 

 

 これはマリンアウトサイダがトレセン学園へ転入して少し経った頃のお話。当時の彼女はレースへの挑戦に向けて、教官による全体指導やルドルフの個人レッスンを受けて基礎を養う段階だった。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 BNWと覇王世代の2人のお陰で、マリンが徐々にクラスにも馴染んできた頃、ランチタイムの食堂で蕎麦を啜る彼女を見つめる、目つきの鋭い、凛々しい風格のウマ娘がいた。

 

 

「………………」

 

「ヤエノさん、どうしたんですか? 何だか難しい顔をしていますよ」

 

 

 子犬のような雰囲気のウマ娘の耳がぴょこんと跳ねる。

 

 

「むっ……私としたことが、友との語らいの最中うつつを抜かすとは、申し訳ありません」

 

「ヤエノさんはあちらの噂の転入生の方が気になっているのでしょう?」

 

 

 硝子のような美少女ウマ娘が微笑みながら尋ねた。

 

 

 マリンから少し離れたテーブル席。そこにはヤエノムテキ、サクラチヨノオー、メジロアルダンの3人が座っていた。

 

 

「……はい、アルダンさんのおっしゃる通りです。実は彼女のことが気になっていまして」

 

「噂の転入生って、下の学年に来た武術家のウマ娘のことですか? 名前は確かマリンアウトサイダさん……でしたか。ヤエノさんは彼女のこと、ご存じなのです?」

 

 

 サクラチヨノオーの問いかけに、ヤエノムテキは静かに頷く。

 

 

「私は初等部の頃に、UMADが主催する武術大会に何度か出場したことがあります。そして中等部に上がる手前でレースの道を進む決断をして、以後はあまりそのような大会には参加しませんでした。その後からです。マリンアウトサイダという神童が現れた、という噂を耳にするようになったのは」

 

 

 そして彼女は目を閉じて続けた。

 

 

「……もしも、私が武術家としての道を選択していたのなら、彼女とは必ずどこかで拳を交えていたでしょう。そしてレースを志した後もそれを夢見る時がありました。『世代最強の格闘ウマ娘』……武に生きる者として、挑みたくないと言えば、嘘になります」

 

 

 ヤエノムテキはチラリとマリンを見た。彼女はちょうどこちら側に背を向けてどんぶりを掲げて出し汁を飲んでいるところだった。

 

 

「しかし、彼女も今は『レースウマ娘』……しかも転入して日が浅い。いたずらに勝負を挑むのは無礼ではないのかと逡巡していたのです」

 

「そうだったのですねぇ……う〜ん」

 

 

 チヨノオーが頭を傾けて何かを考えている。そしてピコーンとその頭上に電球が浮かんだ。

 

 

「そうだ! でしたらまず、マリンアウトサイダさんとお友達になれば良いのでは?」

 

「お友達……ですか?」

 

 

 ヤエノムテキはキョトンとした顔で聞き返した。

 

 

「はい! まずはお友達になって、色んな事を話して仲良くなって、それから『私と勝負して下さい』って頼めば良いと思います!」

 

「なるほど……その発想はありませんでした。私は武術家として彼女と相対する事しか考えていなかった。流石はチヨノオーさんです。感服しました」

 

「えっへん!」

 

 

 ブンブン、とウマ娘ではなく犬の尻尾が振られているのが見える。

 

 

「それは妙案でございますね。『善は急げ』と申しますし、早速お声をかけてみてはいかがですか?」

 

 

 アルダンがにっこりと微笑むと、ヤエノムテキもつられて微笑む。

 

 

「はい、そうしようと思います。では、行って参ります」

 

「頑張って下さい! チヨノー、オーです!」

 

「はい、吉報をお待ちしております」

 

 

 ガラ……とヤエノムテキは席を立ち、かの格闘ウマ娘のもとへ意気揚々と向かうのだった。

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 マリンにはトレセン学園に来てから1つ驚いたことがあった。食堂の料理の美味しさがハンパないのである。

 

 

「……美味……!」

 

 

 この蕎麦1つ取っても、都内で普通に店を構えても良いのでは?と思える美味しさである。UMAD本部道場の食堂でもここまでのレベルではない、と彼女は昔を思い出す。流石は中央トレセン学園と言ったところだ。

 

 ゴクッとマリンアウトサイダはどんぶりを掲げて出し汁を最後の一滴まで飲み干す。彼女が蕎麦を完食して一息ついた頃、コツコツと誰かが近づいてくる気配があった。

 

 

(ああ、先程から……いや、転入したばかりの頃から熱い視線を送っていたあの方か……)

 

 

 マリンの中で、何かが熱を帯び燻り始める。

 

 

「もし、食事中のところ、大変失礼致します。少しお話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 

 

 凛々しい、澄んだ声でヤエノムテキは黒髪のウマ娘に話しかけた。そしてゆっくりと、彼女は振り返る。

 

 

「……ええ、ちょうど食べ終えたところですので構いませんよ、『ヤエノムテキ』さん」

 

 

 !!!……とヤエノムテキは自分の名を呼ばれたことに驚きを隠せない。

 

 

「私を……知っているのですか?」

 

「知らない方がおかしいです」

 

 

 マリンは目を細めて言う。

 

 

「金剛八重垣流……その流派は武を志す者ならば、知らない者はいません。UMADに所属していた頃も、度々『ヤエノムテキ』の名は耳にしていました。レースで走るあなたの映像を本部道場で見たこともあります。皆、口々に言ってましたよ。『ヤエノムテキ』と闘ってみたい、と」

 

 

 ゾゾ……とヤエノムテキは寒気を感じた。目の前のウマ娘の雰囲気が突然変わった。目の前に獲物を狙う肉食獣が突然出現したと錯覚しそうだった。

 

 

「そして、私もその1人です」

 

 

 その威圧感に、ヤエノムテキは息を呑んだ。

 

 

「そう……でしたか、私は未だ道半ばの未熟者。そのように言われているとは、思ってもみませんでした」

 

 

 呼吸を整え、ヤエノムテキは落ち着いて答える。

 

 

「思惑からズレてしまいましたが、今ならば言っても良いでしょう。マリンアウトサイダさん、同じ『武を志すウマ娘』として、私とお手合わせ願えませんか?」

 

「………………」

 

 

 マリンは黙ったまま、静かな表情でヤエノムテキの目を見つめる。

 

 

「そして、あなたとお友達になりたいとも思っています。いつかお時間のある折に……」

 

「私は、1つ勝手な思い込みをしておりました」

 

 

 ヤエノムテキの言葉を遮って、マリンがスッと席を立つ。

 

 

 

 

「あなたは『格闘ウマ娘』ではなく、『レースウマ娘』でしたね」

 

 

 

 

 ヴォォッッッ!!!!!

 

 

 

 

 突如、マリンの左脚の足刀蹴りがヤエノムテキを襲う。マリンのスカートと腰に巻いた緑のパーカーがバサッとはためいた。

 

 

「ッッ!!!?」

 

 

 ヤエノムテキは即座に反応して、一歩引いてそれを避ける。

 

 遠くで見ていたチヨノオーは「えええ!?」と目を丸くして、アルダンは「まぁ」と口を手に当てた。

 

 

 マリンは左脚をピンと蹴り出した姿勢のまま言う。

 

 

「武技を競い合うのならば……どのような形であれ、それは即ち『喧嘩』である、と私は考えています。『喧嘩』は場所も時も選びません」

 

 

 スッとマリンは脚を下ろした。

 

 

「食事の時も、睡眠時も、入浴時も、怪我をしていても無関係です。武術家として、他の武術家と相対したのならば、拳を交える以外に何の選択肢がございましょう」

 

 

 渦を巻くような、好戦的な瞳がヤエノムテキを捉える。決して逃すつもりは無いという獣の眼だった。

 

 

「ぬ……!!」

 

 

 ヤエノムテキは理解した。自分が彼女に話しかけた時点で、虎の尾を踏んでしまっていたのだと。

 

 

「本気ですか……ここはトレセン学園です。格闘ウマ娘の試合会場ではありませんよ」

 

「『ヤエノムテキ』という強きウマ娘が目の前のに、手の届く場所に居るのです……喧嘩をしてみたいという胸の昂りを抑える術を、私は知りません」

 

 

 マリンは、完全にスイッチが入ってしまっていた。

 

 対するヤエノムテキも、マリンの圧倒的な雰囲気に「致し方なし」と構えをとる。食堂に居る他のウマ娘たちもその異常事態に気づき始めていた。

 

 

 

「………………」

「ーーーーーーーーーー」

 

 

 

 2人のウマ娘は瞬きもせず、互いに睨み合う。そして……

 

 

 

「…………フッ!!」

 

 

 

 先に動いたのは、転校生・マリンアウトサイダの方だった。

 

 

「っ……!!」

 

 

 ヤエノムテキは神経を尖らせ攻撃に備える。相手は世代最強の格闘ウマ娘と呼ばれる猛者である。決して油断はできない。

 

 

 ヒュッッ! ヒュオッッ!

 

 

 マリンが繰り出した2連の突きを、ヤエノムテキは揺れ動くススキの様にしなやかに躱す。

 

 

(速い……! だが、見切る事は出来る……今は兎に角、何とかこの場を収めなくては)

 

 

 ヤエノムテキはその後の連撃も躱しきり、再びマリンと睨み合う。

 

 

「……どうされたのですか? 逃げ躱す事に徹するとは、話に聞く金剛八重垣流とは違いますね。それとも、あなたが特別に臆病なだけでしょうか」

 

「……無益な闘いは避けるべきです。どうか拳を収めてはくれませんか?」

 

 

 マリンの好戦的な眼は、未だ渦巻いている。

 

 

「無益……ですか、やはりあなたはレースに主眼を置いておられるのですね。武から離れ、レースで競い合う生活をしていたのなら当然でしょうか。格闘ウマ娘にとっては武技を競い合う事そのものが益です。無益な闘いなど、この世には存在しませんよ」

 

「っ……それは戦闘狂の価値観です。私にも格闘ウマ娘の友は多く居ますが、そう考えているのは極一部の喧嘩狂いだけです!」

 

「問答は無用のはずです。語るならその身で鍛えた武技でお願いします」

 

 

 マリンは再び拳を構えた。それを見て、ヤエノムテキは唇を噛む。

 

 

(マリンアウトサイダ、なんたる狂戦士ぶりだ……理知的で物腰は穏やかなのに、喧嘩の事となるとまるで話が通じない! これが世代最強と言われる格闘ウマ娘……!)

 

 

 タッ! ビュオッッ!

 

 

 マリンは一瞬で間合いを詰めると、先の攻撃を遥かに超える速さで突きを繰り出す。

 

 ビッ!とその拳がヤエノムテキの頬を掠める。

 

 

(っ、更に速く……!? 彼女を相手に、攻撃を躱し続けるのは無理か……致し方なし)

 

 

 ヤエノムテキがその突きを避けると、マリンは即座に2撃目を追い撃つ。それは腹を狙った右手による下段掌底突きだった。マリンの手がヤエノムテキを襲うその瞬間……

 

 

(そこッ……!)

 

 

 ヤエノムテキはその2撃目を完全に見切り、カウンターを狙い踏み込んだ。

 

 格闘技全般に通じる知識として、どんな格闘家でも攻撃の瞬間が最も無防備になると言われている。ボクシングでもカウンターで頭部にパンチが決まれば、相手はほぼ確実にリングに沈む。

 

 ヤエノムテキは反撃の機会を直感で察して、マリンの「右手側」からカウンターを打ち込もうと踏み込んだ。タイミングは完璧だった。これならマリンがガードする前に確実に拳が届く。

 

 そして、ヤエノムテキが脇に構えた拳を繰り出そうとした瞬間……

 

 

 

(ッッッッ!?!?)

 

 

 

 ゾクリと、ヤエノムテキの背筋に緊張が走る。マズイ、攻撃してはいけない、と彼女は本能で理解した。ビタっと、ヤエノムテキは攻撃の手を止める。

 

 仄暗い洞穴の中で毒蛇が牙を剥いているイメージが、彼女の脳裏に浮かんだ。

 

 

(これは……受けるしか……!)

 

 

 このタイミングでは回避への移行は不可能である。ヤエノムテキは辛うじて両腕を交差してマリンの掌底を受け止める決断をした。そして来たる衝撃に備えるが……

 

 

 

 ズドンッッッ!!!!!

 

 

 

「ぐッ……うぅぁ!!!」

 

 

 ズザザァァァ!とヤエノムテキが防御体勢のまま後方へ滑る。想定の数倍重い衝撃に、彼女の喉から呻き声が漏れる。腕を貫通して腹にまで衝撃が通った。

 

 ここが食堂じゃなければ後方に飛び退いて衝撃を軽減する事も出来ただろうが、周りのウマ娘に被害が出ないよう、彼女は気合いで踏ん張るしかなかった。

 

 

(私と殆ど変わらぬ体躯で、なんて重い掌打を放つんだ……!? マリンアウトサイダはフィジカルは中程度で『技』で闘うタイプだと聞いた事があるが、とんでもない! 間違いなく一般的な格闘ウマ娘を遥かに凌いでいる。UMADのトップ選手とはこれ程までに……!)

 

 

 掌底を受け切ったヤエノムテキに、マリンは冷静な視線を向ける。

 

 

「……勘は鋭いようですね。あなたが反撃していたら、あの時点で決着がついてました」

 

 

 ヤエノムテキも同じ視線をマリンへ投げ返す。

 

 

「そうですね……思い出しました。マリンアウトサイダの格闘スタイルは空手と合気道、打撃の中に巧妙に相手を絡め取る蜘蛛の巣を張り、攻防一体となった攻め手で相手を翻弄する戦術を得意とする……と。実際に目の当たりにすると、恐ろしいものがありますね」

 

 

 合気道は独特の動作で最高効率で相手の攻撃を捌き、相手の身体・呼吸を支配する武術である。合気道家に掴まる事は、全身を支配されるのに等しい。空手による打撃の応酬の中で、相手の反撃を絡め取り拘束するのがマリンの制圧手段なのである。

 

 

「私の闘い方をご存知でしたか。まぁ別に隠している訳ではありません、その情報を相手が知った上での戦略ですので」

 

 

 マリンは左手の手刀を突き出し、右拳を脇の下に固め、再び構えを取る。冷徹な雰囲気で、次は無いとでも言わんばかりに闘気を発している。

 

 

「どうされますか? このまま私の攻撃を受け続けても構いませんよ、『終わらせる事』は可能です。かの金剛八重垣流の使い手と出会えたのに、その相手が『なまくら』だったのは残念ですが」

 

「……………」

 

 

 マリンの挑発を無視して、ヤエノムテキも黙して構えを取る。

 

 

(マリンアウトサイダの攻防一体の戦術……理論上は隙が無いが、実戦においてそんな事はあり得ない。打ち合いの最中に隙とは必ず生まれるもの。しかし……)

 

 

 ヤエノムテキは悔しさに唇を噛む。

 

 

(マリンアウトサイダの水準に、私自身が達していない。私の祖父ほどの達人ならば、その僅かな隙を的確に突く事が出来るだろうが、今の私では無理だ。流石はウマ娘格闘界のトップに登り詰めた格闘ウマ娘……レースを走る私とは、積み上げた鍛錬の質と量が違う。ならば、今の私に出来る事は……)

 

 

「……来なさい。聞かん坊な後輩の面倒を見るのも、先輩の務めです」

 

 

(祖父から受け継いだ、己の技を信じる事のみ……!!!)

 

 

 マリンはヤエノムテキの雰囲気が変わったのを感じ取った。

 

 

「良き『眼』になりましたね。やっと喧嘩らしくなってきました。金剛八重垣流の武技、いか程のものか見せて貰います……フッッ!」

 

 

 マリンは一瞬でヤエノムテキに詰め寄ると、脇に固めた右拳で正拳突きを放つ。それは余りに見え透いた『罠』だった。大振りでいかにもカウンターを誘っている。まるでヤエノムテキ試しているかの様な正拳突きだった。反撃すれば、今度こそ合気に絡め取られ、決着がつくだろう。

 

 そんな攻撃に対してヤエノムテキは……

 

 

「……はぁあああッッ!!!」

 

 

 

 実直に、正直に、彼女の性格を表しているかの如く真っ直ぐに、

 

 

 『カウンター』を狙い反撃した。

 

 

 虎の口に自ら飛び入ったのだ。

 

 

 

「っ……!?」

 

 

 マリンの瞳に驚愕の色が映る。彼女はヤエノムテキがこの初手は回避すると予想していたが、まさかバカ正直に反撃をするとは思っても見なかったのだ。

 

 

(だが……私のやる事は変わらない!)

 

 

 マリンは勢い良く振り込まれた反撃の右腕を、片手で受け流し絡め取る。手首を掴んだのなら、ほぼ勝利は確定したと言っても良い。そうして合気の技でヤエノムテキの呼吸と筋肉の反射を支配しようとすると……

 

 

 フワン…………

 

 

「なっ……!?」

 

 

 マリンは更に驚愕する。合気の技がかからない。掴み取ったはずのヤエノムテキの腕が、まるで実体のない水や火に変化した錯覚に襲われたのだ。その掴んだ腕とヤエノムテキの繋がりが絶たれているかの様だった。対して……

 

 

「コオォォ……」

 

 

 ヤエノムテキは密着しそうな程に、マリンの懐に深く踏み込んだ。まるで全てを侵蝕する火の如く、まるで岩溝に流れ込む水の如く。そして……

 

 

「ハァアアアッッッッ!!!」

 

 

 ドグォンッッ!!!

 

 

 ヤエノムテキはゼロ距離で肩と背中を打ち込み、マリンアウトサイダを後方へ打ち飛ばした。中国武術の鉄山靠と呼ばれる技に似た動き。

 

 

 ガシャアアッッッン!!!

 

 

 マリンは完全に虚を突かれ、防ぐ事が出来なかった。さっきまで自分が座っていた椅子とテーブルの場所まで吹っ飛ばされ、大きな音が鳴り響く。

 

 周囲で息を呑み、見守っていたウマ娘たちから驚嘆の声が上げる。ジュブナイル期・若手最強と謳われる格闘ウマ娘に、ヤエノムテキが見事に大きな一撃を入れたのだ。それを行った当人は……

 

 

 

「くっ……ぅぅ……ぁっ!!」

 

 

 

 観衆の注目が集まる中、痛みに顔を歪めていた。周囲の驚嘆の声の中に、心配の声が混じり始める。

 

 

「ぐぅっ……慣れない事はするものではないですね。元より脱臼癖は有りましたが、闘いの最中で行うのは負担が大き過ぎる……!」

 

 

 ヤエノムテキは左手で右肩を押さえる。彼女の右腕はプラーンと垂れ下がっていた。

 

 そう、先のマリンアウトサイダとの戦闘でヤエノムテキが腕を掴まれる寸前、彼女はわざと肩関節を外したのだった。脱臼する事は、言い換えれば骨格が一時的に変化する事。それによりマリンアウトサイダの合気の効力を途絶させたのだ。マリンにとっては自切したトカゲの尻尾を掴まされた様なものである。

 

 ウマ娘の中には脱臼癖を持つ者が存外多い。ヤエノムテキはそれを利用して世代最強の格闘ウマ娘に一矢報いたのだ。

 

 

 

「スゥゥゥ、ハァァァ」

 

 

 ヤエノムテキは呼吸を整え、左手をテーブルに、右手を床に置いた。そして……

 

 

「フッ!!!」

 

 

 ゴキャッ!!!

 

 

 と、生々しい音を立てて外れた肩関節を自分で嵌め直す、肩の調子を確かめて、ヤエノムテキはゆっくりと立ち上がった。

 

 

「……『火水合一、則ち護成る』。金剛八重垣流は守護に重きをおく流派。守る為の技を、連綿の繋がりの中で幾百年も磨いてきた古流武術です。搦手を狙う武術との闘いの地点は、我々はとうの昔に通過しています」

 

 

 ヤエノムテキは祖父より受け継いだ技への誇りを胸に、マリンアウトサイダに向けて言い放った。

 

 

 

 

 

 





次回

番外編1:後編 トレセン学園の推定最高戦力、邂逅


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番外編1:後編 トレセン学園の推定最高戦力、邂逅

 

 

 

 

 ヤエノムテキの攻撃に吹き飛ばされたマリンアウトサイダは、乱雑に倒れた椅子の側に仰向けに横たわっている。

 

 ぶつかったテーブルの縁で、先程彼女が食していた蕎麦のどんぶりがグラグラと揺れていた。そのバランスが崩れ、床に向かって一直線に落ちていく所を……

 

 

 パシッ

 

 

 と彼女は目視せずにどんぶりを片手でキャッチした。

 

 

「……ああ、ツユも全部飲んでて良かった。溢れてたら制服が汚れていたかもしれないな」

 

 

 ガガッ、ズズズ……とマリンは倒れていた椅子を除けて立ち上がると、コトッとどんぶりをテーブルに戻した。

 

 

「……………」

 

 

 ヤエノムテキは静かにマリンを睨み付ける。見た感じではダメージを受けた様子は全く無い。そのタフさは流石はUMADのトップ選手と言ったところである。

 

 マリンもゆっくりとヤエノムテキに向き直り、おもむろに言葉を紡いだ。

 

 

「『火水合一』……金剛八重垣流の極意であると、風の噂で聞いた事があります。なるほど、私の師匠が2つの武術を極めて漸く至った領域を、金剛八重垣流は既に通過していたと……」

 

 

 マリンはジッとヤエノムテキを見つめる。

 

 

「先の一撃、見事でした。ヤエノムテキさん、あなたなら今からUMADに移籍しても間違いなく上位層に食い込めるでしょう。そして……」

 

 

 スッ……と、マリンはヤエノムテキに頭を下げる。周囲の観衆も静かにそれを見守っていた。

 

 

「先の私の数々物言い、大変無礼でした……謝罪いたします。私は、あなたが『武から離れ、レースで競い合う生活をしていた』と口にしましたが、そうではなかったと、この身を以て理解しました。あなたはレースを走りながらも、武人で在り続けていた……」

 

 

 マリンはゆっくりと顔を上げ、ヤエノムテキへと向き直る。その瞳には……

 

 

 先よりも濃く、煮えたぎる岩漿の様な闘志が渦巻いていた。ゾワリと、その闘志とは反対にマリンを中心に空気が凍ついてゆく。

 

 

 

「ッ…………!!」

 

 

 

 ヤエノムテキは無意識に身構える。マリンアウトサイダの異様な闘気に当てられ、周囲のウマ娘の中からも「ヒィッ……!」と小さな悲鳴が口々に上がった。

 

 黒髪の武術家ウマ娘は、言葉を続ける。

 

 

「あなた程の武術家に、始めから全身全霊で挑まなかったのは完全に礼を失していました。ヤエノムテキさん……同じ『武を志すウマ娘』として、お手合わせ願います」

 

 

 一切の侮りを捨てたマリンを目の当たりにして、ヤエノムテキの額に一筋の汗が垂れてゆく。

 

 

(っ……分かっていた。神童と謳われたあの『マリンアウトサイダ』があの程度で倒れるはずがない。この事態を引き起こしたのは私だ。『覚悟』を決めるより他は無い……!)

 

 

 カツ……カツ……とマリンは歩みを進める。

 

 ヤエノムテキは歩み寄る『怪物』をただ迎え撃つのみだった……

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 戦闘を再開しようとする2人を見ていたチヨノオーが手を振って慌てふためく。

 

 

「まだ終わってないんですかぁ!? あわわわわわわわわわ!! アルダンさん、私の提案が大変なことを引き起こしてしまってますーーーー!! 助けてマルゼンさーーーん!!」

 

「あらあら、これは予想外の展開ですね。どう致しましょう。ん? あのお方は……」

 

 

 アルダンの視界に『あるウマ娘』の姿が映る。するとアルダンはニコリと微笑み、落ち着いて優雅に目の前のティーカップを口につけた。その洗練された動作はまさに令嬢の鑑であった。

 

 

「アルダンさん! 紅茶を飲んでる場合じゃないですよ!? なな、何とかしないとー!!」

 

「チヨノオーさん、落ち着いて下さい。きっと大丈夫ですよ」

 

 

 年長者の余裕か、アルダンは優しい視線で事の顛末を見届けるのだった。

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「ボーノ!!!」

 

「ッ……!?」

 

 

 ヤエノムテキへ向かって行くマリンアウトサイダを、突如何者かが背後から抱きつき、拘束した。

 

 マリンは油断をしたつもりは無かった。しかし、背後にはいつのまにか『巨大』としか形容できないウマ娘が立っていた。

 

 

「……何者……ですか?」

 

「あたしはね、ヒシアケボノっていうの! キミ、あの転入生のマリンアウトサイダちゃんだよねっ? あたし、ずっとキミとお友達になりたかったんだっ☆」 

 

 

 ヒシアケボノ、身長178cmの巨躯のウマ娘。マリンには聞き覚えのない名だった。しかし、足音も無く接近し、背後を取るその動きは武芸者としか思えなかった。マリンはがっちりと腕ごと胴を締め付けられている。振り解けそうな気配は全くしない。

 

 

「……すみませんが、離していただけませんか。私はヤエノムテキさんに用があるので」

 

 

 ん〜〜、とヒシアケボノは思案顔だ。

 

 

「ここはね〜、みんながハッピーな気持ちで、お腹い〜っぱい食べて、元気モリモリになるための場所なのっ♪ だから、マリンアウトサイダちゃんにも、ハッピーな気持ちでヤエノちゃんとお食事して欲しいな☆」

 

「……そうですか」

 

 

 マリンはグッと足を踏ん張る。 

 

 

「ですが私はもう、食事は済ませたので……!」

 

 

 ズンッ……!!!!!!

 

 

「えっ?」

 

 

 ヒシアケボノは驚いた。抱き止めていたはずのマリンの身体が突然『重く』なったのだ。 

 

 まるで、自分の身長を遥かに超える巨大な岩石がマリンの体積まで縮み、しかもその足元に穴が開いて下に引き摺り込もうとしているかのように感じた。

 

 マリンは合気の技をかけていた。彼女の筋力ではヒシアケボノの拘束を振りほどけない、ならば『ヒシアケボノ自ら腕を離させれば良い』と考えたのだ。

 

 

「ふぅッ……んん〜〜〜ッッ!!!!」 

 

 

 ヒシアケボノの額に汗が浮かぶ。初めて体験する『合気』、マリンに抱き付くことはむしろ技をかけて下さいとお願いしてるのと一緒である。あまりの重さにマリンを拘束する腕を解きそうになるが、ヒシアケボノは気合いと筋力で踏ん張っていた。もしマリンを離せば、再び拘束する事は不可能だろう。

 

 マリンにとって、自分よりも大きな相手と闘うのは日常だった。全く同じ状況に陥ったことも何度もあった。彼女は今回も同じく『合気』で乗り越えられる、そう思っていた。

 

 しかし……

 

 

「ボォォーー……ノォォーーッ!!!」

 

「な、にっ……!!?」

 

 

 僅かだが、マリンの足裏が床から離れそうになる。どんな怪力だ!?とマリンは驚愕する。

 

 柔よく剛を制す、という言葉は有名だが、その後は『剛よく柔を制す』と続く。合気道は相手の力を全て利用してしまうことで知られるが、その利用できる力にも許容量がある。

 

 合気道の天敵は、純粋に強大な力である。自分が制する事のできない圧倒的な怪力の前には、敗北を喫する他ない。

 

 マリンはそんな怪力を持つ者は噂に聞く『ばんえいウマ娘』くらいのものだろうとたかを括っていた。しかし、現実は違った。

 

 トレセン学園には常識を超えた強者が存在していた。

 

 

(このような怪力のウマ娘が……なぜトレセン学園に……!! 武の素養もある……何故、私は彼女を知らなかったんだ……!?)

 

 

 グ…グググ……!と徐々に均衡が崩れてゆく。

 

 

 ヤエノムテキは武術家としても有名だからマリンも知っていたが、ヒシアケボノはあくまで相撲好きとしか知られていない。彼女の格闘ウマ娘としてのポテンシャルを評価しているのは、常に才覚あるウマ娘を探し回っているUMAD副理事長くらいだった。

 

 

「ふぅっ……ぐっ、ぬぅっ……!!!」

 

 

 マリンアウトサイダの表情が曇る。一方、ヒシアケボノは汗こそかいているが笑顔は崩していなかった。

 

 

 その時点で、勝敗は決していたのだ。

 

 

 

 今……その均衡は崩れた。

 

 

 

「ボォォーーー……ノォォーーーーッッッッ!!!!☆」

 

 

 ズァァァァァァァ!!!と、ついにマリンの身体は持ち上げられ、ヒシアケボノに抱っこされた状態となった。

 

 初手から組みつかれていたという条件はあったが、持ち上げられたマリンは、己が絶対の信頼を置いていた『合気』が押し負けた事実に驚きを隠せない。

 

 マリンは己の技があれば、どの様な状況からでも少なくとも脱出する事は可能だと自負していた。

 

 しかし、この様な怪力の持ち主に相手に、拘束されたまま頭突きや踵蹴りをしても無意味であるとマリンは分かっていた。それが意味する所は、彼女の守護たる合気の完全敗北である。

 

 

「な、何という剛力……!! アケボノさんが、これ程とは……!!」

 

 

 『技』と『力』の純然たる真っ向勝負を眼前で見ていたヤエノムテキは、胸を熱くし目を輝かせていた。

 

 その勝負結果は、ヒシアケボノの勝利だった。

 

 

「ボーノ☆」

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

「マリンアウトサイダちゃんっ! アタシとお友達になってくれる〜? もちろん、ヤエノちゃんともだよっ☆」

 

「っ……はい、分かりました。お友達に、なりましょう……」

 

 

 マリンは俯いて、完敗だという表情。逆らえる気力など残っていなかったので、脱力してされるがままになっている。

 

 

「それじゃ〜、3人でこの食堂名物の限定メニュー『超巨大山盛りウマぴょいパフェ』を食べよっか♪ ほっぺがトロトロ〜って落ちそうなくらい美味しいんだよっ☆」

 

「あの、ヒシアケボノさん……分かりましたから、降ろして貰えませんか? 流石に恥ずかしいです……」

 

「ダ〜メ〜♪ マリンアウトサイダちゃん、何だか抱っこしやすいんだもんっ☆ このまま注文しに行こう〜!」

 

 

 ぶらんぶらーんとヒシアケボノがマリンを揺らしながら歩いていく。その後ろをヤエノムテキは笑顔でついて行く。

 

 そしてその後、3人は仲良く巨大なパフェを囲んで食べた。

 

 後日マリンが言うには「味は本当に美味だった」とのこと。

 

 それを見ていた周囲のウマ娘たちは「もしかしたら殴り合いという意味では、あのテーブルにはトレセン学園の最高戦力が集まっていたのではないか?」と密かに噂するのだった。

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

「ほら、チヨノオーさん。貴方の作戦が見事に大成功しましたよ。皆さま、お友達になりましたね」

 

 

 ニッコリとメジロアルダンは微笑む。

 

 

「こ、これは作戦成功……で良いのかなぁ……あはははは」

 

 

 チヨノオーはポリポリと頬を掻いて、ひとまずホッとしたのだった。

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 チヨノオーたちのテーブルから更に離れたテーブルで、4人のウマ娘たちが一連の騒動を見物していた。

 

 

「かぁーーーーっ! 良いね、良いねぇ、良いものが見れた! 『火事と喧嘩は江戸の華』ってなぁ! 今日はここで昼飯を食って正解だったなぁ! そう思わないか、タマ?」

 

「まぁ、最初はド突き合ってたみたいやけど、結局ヒシアケボノが来て転入生抱っこして終わったやんか。ウチもぎょうさん喧嘩は見てきたけど、大阪の夜店の酔っ払いの方がオモロい喧嘩しとんで。派手さが足りへん」

 

「かーーーっ! 分かってねぇなぁ、タマ! あれが武道家同士の立ち会いってヤツだぜ、渋いじゃねえか! ほら、背景で龍と虎がお互いを食い合ってるみたいな感じさ! そんな熱い駆け引きがあったに違いねぇ!」

 

「漫画の読みすぎや、イナリ」

 

 

 タマモクロスがつまらなそうな顔で言い返す。対してイナリワンはむかっ腹を立てた。

 

 

「なんでぃ! この面白さが分からないたぁ素人だねぇ、タマ。大体、抱っこされてるのはお前さんの方じゃないか」

 

「喧嘩が素人なのはお前も同じやろ、イナリ。てか、クリーク……そろそろ降りてもええか? もう十分やろ」

 

「ダメですよぉ、タマちゃん。今日はい〜っぱい抱っこするって決めたんですからぁ♡」

 

「はぁぁぁ……たまにこうやってガス抜きさせないと、溜まった後でエラい事になるもんなぁ」

 

 

 タマモクロスはランチタイム中ずっと、クリークの膝に乗っかってる状態だった。クリークはここぞとばかりにそれを堪能している。

 

 

「しっかし、あの転入生……格闘ウマ娘の中じゃあ世代でてっぺんくらいの実力者らしいじゃねぇか。それがなんだってトレセン学園に入ったんだ? 格闘技続けてりゃもっと大物になったかも知れねぇのによ」

 

 

 イナリワンが肩肘ついて、遠くでパフェを突いているマリンを見やる。

 

 

「知らん。興味ないわ、そんなん。誰だって勝手にレースやったり、格闘技やったり、好きにすればええねん。まあ、オグリだったら今すぐ『ウマ娘フードファイター』に転向してもええと思うけどな?」

 

 

 モグモグモグモグモグモグとハムスターみたいに頬に食べ物が詰めこんでいるのは『芦毛の怪物』オグリキャップ。ゴクン、とそれを飲み込む。

 

 

「タマ……突然褒めるのはやめてくれ。照れてしまうだろう……」

 

「褒めてへんわ!!!」

 

 

 顔を赤らめるオグリキャップに、タマモクロスが鋭くツッコむ。

 

 

「まったく、オグリは相変わらずやなぁ。しかし……」

 

 

 とタマモクロスが一呼吸入れる。

 

 

「あの転入生……実際んとこどうなんや? イナリはなんか知ってへん? 末脚が凄いー、とか何でもええ」

 

「うーん、トレーニング中にたまたま近くのグラウンドで教官の指導受けてるのは、見たことあるんだがねぇ」

 

 

 イナリワンは数秒、言葉を選んだ。

 

 

「ハッキリスッパリ言っちまうと、『あたしらの敵じゃねぇ』……だな」

 

 

 それを聞いてタマモクロスは腕を組んだ。

 

 

「ふーん……『天は二物を与えず』ってことか……」

 

「まぁ、あくまで今のところはって話だな。結局のところ、どうなるかは御天道様しか知らねぇよ。もしかしたらトンデモなく化けるかも分かんねぇモンだぜ」

 

 

 イナリは咥えた爪楊枝をクイクイ動かす。

 

 

「なぁタマ……『天かす煮物を和えず』ってどういう意味なんだ?」

 

「うっさいわ!! お前はさっさと食い終わらんかい、どんだけ待たせるつもりやねん!!」

 

 

 ツッコマれたオグリキャップはモグモグモグと食事を再開する。何故か分からないが、ほんの少し、あの武術家の転入生のことが気にかかるのだった。

 

 自身がマリンアウトサイダが成し遂げる奇跡に深く関わる事になるのを、この時の彼女はまだ知らなかった……

 

 

 

 

 





次回

16話 ミドリ色のパーカーに包まれた赤ん坊


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第4章
16話 ミドリ色のパーカーに包まれた赤ん坊


 

 

 

 

 幕間 とある競走馬の生涯・終

 

 

 ここでマリンアウトサイダと名付けられた競争馬の、その最期までを語るとしよう。

 

 

 その年の宝塚記念を奇跡的に勝ち抜いた牝馬を、関係者はみな歓喜の中で祝福した。しかし、当の牝馬はかの厩務員が居ない事に不満そうで、寂しそうな様子だったと言う。

 

 そしてG1レースでの勝利に調子をつけたのか。その後、マリンアウトサイダは2つのOPレースに出走して圧倒的な勝利を収め、その人気も高まってきた所で再び重賞レースに挑んだ。

 

 

 しかし、数奇な……そして残酷な運命が、彼女を待ち受けていた。その重賞レースの中盤、騎手がその牝馬の異様な挙動を感じ取り、嫌な予感を拭い去れずにやむなく競争を中止した。

 その予感は的中し、後の検査で彼女の心臓に異常が見つかった。それは先天的な要因の可能性が高く、精密検査をして初めて分かる程度の小奇形だった。それがレースにどのように影響するかは獣医にも分からなかった。

 

 心臓に最も負担がかかると言っても過言ではないレースで万が一のことがあればと考えると、関係者には現役を続行すべきかどうかの判断がつかなかった。

 

 牧場の厩務員たちも「あの青年とまるで親子みたいだと言ったけど、心臓まで……」と不安と悲しみを隠せなかった。

 

 レース自体は続行出来そうな雰囲気はあったが、馬主の社長を含む陣営は、マリンアウトサイダの休養を決定した。様子を見て、調教も再開をする事にした。しかし、当の牝馬自身は、むしろすぐに調教に出たがっている様子だった。その賢さ故に、そうすればレースに出られて、またあの厩務員が褒めてくれると思っているようだった。

 

 月日が流れて休養が明けて、マリンアウトサイダは再びレースに挑戦した。しかし、彼女はかつてのパフォーマンスを発揮できず、結果は惨敗だった。心臓への負担を考え、陣営は内内に彼女の引退を決めざるを得なかった。

 

 

 しかしそこで……驚きのニュースが飛び込んできた。順調に増えていたファンの後押しもあり、その年の有馬記念にマリンアウトサイダが出走する事が可能となった。

 

 若き社長は迷いに迷った。既に内部では引退は決定事項だった。だが、そこであの若き厩務員の言葉を思い出した。

 

 

『お願いします。彼女が……走りたいと願う限り、走らせてやって下さい』

 

 

 社長は再び牝馬の様子を見に行くと、彼女は今すぐにでも駆け出したいと言わんばかりに闘志に溢れた目をしていたと感じた。

 

 

 レースで勝てば、再びあの厩務員が会いにきてくれると未だに固く信じているようだった。

 

 

 それを見て、若き社長は彼女を走らせてやらねばならないと強く思った。彼の陣営への説得により、その年の有馬記念がマリンアウトサイダの引退レースとなる事が改めて決定された。

 

 

 

 そして…………そのレースでマリンアウトサイダは、生涯最後の、最高の輝きを見せた。まるで流れ星のように、その命を燃やし尽くして走り抜いた。

 

 そして……その牝馬が、その年を越す事はなかった……

 

 

 

 有馬記念からしばらく経った頃、馬主の社長はある事を思い立った。そして、あの牝馬を愛したかの厩務員の家族に『ある物』をどうか譲ってはくれないかと懇願した。家族は社長の話を聞き、その願いを心良く承諾してくれた。

 

 

 

 ある晩、マリンアウトサイダの育った牧場から少し離れた草原で彼女と関わりの深い人々が大きな焚き火を囲んで集まっていた。

 

 その場で、社長は追悼の言葉を述べた後に、厩務員が着ていた『緑のパーカー』をマリンアウトサイダのたてがみと共に火の中にくべて焚き上げた。もくもくと上がる煙を皆がじっと見つめていた。

 

 その場にいた誰しもが、その煙があの牝馬を若き厩務員の元へ導いてくれるよう祈った。あの牝馬が、彼女を誰よりも愛してくれた彼と再会できるのを信じて、天高く巻き上がる煙を、皆いつまでも眺めていた……

 

 

 

 

 これはウマ娘の存在しない、ある世界での出来事。その運命の導く先は、まだ誰にも分からなかった……

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 この物語の始まりより十数年前、とある山中……

 

 

 どんよりとした天気で小雨の降る中を、編笠を頭に被った老人が、周囲を綺麗に掃除された墓石の前に立っていた。

 

 墓前には山の中で採れた花を集めた花束が置いてある。そこに眠る者が生前好きだった花々だ。

 

 老人は目を閉じ、手を合わせて黙祷していた。彼の名は角間源六郎。彼は月命日に必ず、亡くなった伴侶への墓参りをしていた。今日のように天気の悪い日には、手作りの編笠を被って行った。それは昔彼が、武者修行で旅をしていた頃からの癖みたいなものだった。

 

 

「……最近、よく昔のことを思い出す。お前が生きていた頃の、俺たちの道場が騒がしかった昔をよ。今じゃあの時のバカ弟子どもも、一丁前に道場を構えるだの、警察官になるだのしてよ。あの頃は想像もつかなかった」

 

 

 雨音と老人の声だけが、その場に響く。

 

 

「お前の姉貴が引き継いだUMADも、最近はそこそこデカい大会を開けるようになったらしい。理事長になれだの何だの言われたが、断って正解だったな。俺の性に合わねえし、手に余るわな」

 

 

 老人は墓石に向かって語りかける。いつもながら返事はない。けれど、老人にはそこに眠る彼女が笑顔で聞いているような気がしていた。

 

 

「……俺も歳を取っちまったんだな。柄になく辛気臭いことを考えちまう。ドウザンの奴も、この間から何度かお前の姉貴の命令でこの山に来やがるしよ。なーにが『生存確認』だ、頼んでもねぇのに迷惑千万ってもんだぜ、全くよ」

 

 

 墓石を見つめる老人の目には、憂いが浮かび、その背中には哀愁が漂っていた。その墓には、若き頃より強さのみを追い求め、武の道を孤高に歩んでいた男が、唯一その道を逸れ、共に歩んだ女性が眠っている。彼女はもう数十年も前に亡くなってしまった。

 

 元々、彼女は身体が病弱で長生きは出来ないと言われていたウマ娘だった。しかし、その内に秘めた思いは誰よりも強く、篝火の如く燃えていた。その輝きに当てられたのか、男はいつの間にかそのウマ娘の為に奔走し、気が付いたら夫婦の仲となっていた。

 

 生前の彼女の言葉を、老人は白昼夢のように思い出す。

 

 

 

『人生は旅と同じだ……と多くのヒトが語ります。でも、私は「寄り道」こそが人生の本質だと思うのです。大切な物は、きっとそんな所で見つかるんじゃないかって、寝床で本を一冊読み終わるたびに、そう強く思うのです。でも……このいつ消えてもおかしくない命では、私は寄り道をする暇もありませんでした……』

 

 

 ある寒い冬の晩、彼女は男の胸に抱かれながら呟いた。

 

 

『叶うのならば、そうですね……モンゴルの大草原を思いっきり走ってみたいです。そこで生きたウマ娘は、生涯その青空と草原を忘れる事は無いと聞きます。この脆弱な身体でも、もし叶うのならば……』

 

 

 彼女は男の目を覗き込む。男も黙って彼女の目を見つめ返した。

 

 

『私は貴方が武の道を歩むのを邪魔してしまいました。でも、私はそれを悪いとは思っていませんよ? むしろ、私の長くはない生涯の中で、きっと唯一の自慢になります』

 

 

 彼女は揶揄うような、楽しそうな調子で言葉を続けた。男は「そうかよ……」と呟く。それが2人の日常の交流だった。そして、彼女は儚げに、寂しげに、男に尋ねるのだった。

 

 

『源六郎さん……私は、貴方の人生の「寄り道」になれましたか……?』

 

 

 

 

 

 ゴロゴロゴロ、と雷鳴が低く轟いた。雨も強くなってきている。

 

 老人はあの時、自分がどう答えたかなんて覚えていなかった。しかし、今の自分の答えなら、彼女に伝えられる。

 

 

「……何言ってんだ。お前が有無も言わさずに、俺をその『寄り道』に引っ張り込んだんだろうが。あんまりにも長くその道に居たんでよ。戻り時を失っちまった。まあ、その程度で俺の腕は錆びる事はなかったけどな」

 

 

 ぶっきらぼうにそう呟いて、老人は編笠を深く被り直す。

 

 

「……『ツキ』……また来る」

 

 

 彼女の愛称で呼びかけて、老人は帰路についた。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 雨脚が段々と強くなる。しかし、老人は変わらぬ様子で歩き続けた。この程度の雨はなんて事はなかった。ただ、彼は何故かこの時は無性に雨の音を聴いていたかったのだ。すると、不意に

 

 

 

 

 ……………ァァ…………ァァァ………………

 

 

 

 

 雨音に混じって、普段は聞こえない『音』も彼の耳に聞こえてきた。それはまるで……

 

 

「……赤ん坊の泣き声? どういうこった、一体……」

 

 

 空耳かと一瞬疑ったが、老人は確信した。間違いなく赤子の泣き声だった。彼は声のする方へ駆け出した。長年この山で生きてきて初めての事態に一抹の不安を覚えていた。いち早く確認する為に声の主を探さねば、と真剣な顔つきになる。

 

 

 ザッザッザッザッ

 

 

 雨音に混じって足音が鈍く響く。赤子の声も近付いてきた。老人は目線の先にある木の根元から音がすることに気付き、更に足を速めた。

 

 

「…………なんてこった、こいつぁ…………」

 

 

 

 その木の根元、ちょうど窪んだウロのように空いた隙間に……

 

 

 緑色の衣に包まれた赤ん坊が居た。顔をくしゃくしゃにして泣き、時折ピクピクと黒毛の耳が動いていた。

 

 

「ウマ娘……じゃねえか。何でこんな所に?」

 

 

 老人は木の根元に屈み込むと、優しく赤子のウマ娘を抱き上げた。周囲を確認しても彼ら以外に人の気配は無かった。

 

 

「捨て子か……? こんな時代に」

 

 

 老人は書き置きのような物でもないかと辺りを見回すが、赤子以外には何も置かれていないようだった。緑の布を見ても、名前は書いてない。アアアア!と赤子のウマ娘は泣き続けている。

 

 

「……ここは冷えていかん。ひとまず道場に戻るか」

 

 

 老人は赤子を見てふと考えた。自分たち夫婦には子供は居なかった。いや、作れなかったと言うのが正しい。彼の伴侶は、とても出産の負荷に耐えられる身体ではなかったのだ。医者にも彼女が長く生きたいのであれば、と止められていた。

 

 

「……なぁ、ツキ……これも『寄り道』なのか?」

 

 

 老人は天に向かってそう呟くと、赤子が濡れないようしっかりと抱きかかえて歩き出した。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 老人が赤ん坊を拾ってから約1週間後、山道を1人のウマ娘が駆けていた。茶髪で右耳に髑髏の飾りを付けた学生服の少女だった。趣味が悪い耳飾りは止めろ、と祖母に叱られたが反抗期の彼女は聞く耳を持たなかった。

 

 彼女の名はヤマブキドウザン。この春に中等部に上がったばかりの格闘ウマ娘だ。彼女の祖母が取り仕切るUMADというウマ娘格闘界の総括団体に所属していて、既にシニア級に匹敵する実力を持つ期待の新星だと言われていた。

 

 

 ダッダッダッダッダッ!と足音が響く。その姿はレースウマ娘と比肩するくらい様になっていた。

 

 長い間走ってきたのだろう。彼女は汗を振り撒きながら疾走していた。

 

 

「ああああ、アチいいいい!!! 虫も多い!!! 何でアタシがこんなトコに来なくちゃならねーんだあああああああ!!! チクショオオオオオオ!!!」

 

 

 走りながら少女は叫ぶ。彼女は、数ヶ月前に祖母に言われた事を思い出す。何度思い返してもそれは理不尽で、ムカムカとした気分を抑えられなくなる。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

『ドウザン、角間の爺さんの住んでる山は知ってるだろう? これから月に1度は奴がくたばってないか確認してきておくれ。電車は使うんじゃないよ。格闘ウマ娘だからって走らねえのは駄目だ。あっしの若かった頃はねぇ、強い奴が居ると聞きゃ、武者修行のウマ娘は何処までも走って勝負を挑みに行ったものさ。断ったら今月から小遣いは無しだからね。後、何だいその趣味の悪い耳飾りは? とっとと捨てちまいな』

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「時代がちげぇんだよ、クソババアアアアア!!!!! 小遣いを盾に面倒クセーこと押し付けやがって、趣味が悪いのはどっちだあああああああ!!!!!」

 

 

 ドウザンの大声に木々の鳥が驚き飛び立った。山中で聞いてるのは鳥や虫くらいだ。なのでドウザンも思いきり不満を叫ぶ。

 

 文句を言いながらも、言いつけをしっかり守ってるあたり彼女は体育会系の気質が強い。将来はもしかしたら、気性の荒いウマ娘の多いUMADを取り纏める良きリーダーとなれるかも知れない。

 

 

 

 そうやってドウザンが暫く走っていると、ようやく木々の間に件の道場が見えた。彼女は小さい頃から幾度かここに修行に来ていた。昔は門下生がたまに来ていたがそれもなくなり、今は老人以外にそこに住む者は居なかった。

 

 ドウザンは老人が大体いつも道場の鍛錬場に居ると知っていた。居なければ裏手に向かえば良い。そう考えながらガララと道場の戸を引いて、彼女は叫んだ。

 

 

「オラァーーーー!!! ジジイ、また生存確認に来てやったぞ、感謝しろ!!! そんで手合わせしろ!!! 今日こそはテメェに一発入れて憂さ晴らししてやらあ!!!」

 

 

 若き格闘ウマ娘は非常に口汚く挨拶をした。が、その場に老人は居なかった。

 

 

「んだよ、アテが外れたか。出鼻くじかれちまっ……ん?」

 

 

 視界の中で、広い鍛錬場の床に何やら動くものがあった。ドウザンが目を凝らすと、彼女は驚きの声を上げた。

 

 

「………ハァ!? おいおいおい、何でこんな所に赤ん坊がいるんだ? しかもウマ娘じゃねえか!」

 

 

 アーー、ウーーと声を発しながら赤ん坊は床をコロコロと転がっていた。だが、少し移動するとすぐに床に敷いてある緑のパーカーの所に戻るのだった。

 

 ドウザンは訝しみながら、靴を脱いで鍛錬場に上がった。ゆっくりと赤ん坊に近付くと、その小さなウマ娘はクリクリした無邪気な目でドウザンを見上げていた。

 

 

「っ…………か、可愛いぃ…………」

 

 

 ドウザンは床に正座をすると、ゆっくりと赤ん坊を抱き上げた。嫌がる様子もなく胸にしがみつくその様子に、荒っぽい性格の彼女も母性本能が抑えきれなかった。

 

 

「どうしたんだ、お前〜。母ちゃんは何処にいるんだ? お、なんだ。耳が珍しいのか? お前にも立派な耳があるじゃねえか〜」

 

 

 赤ん坊のウマ娘はドウザンの耳を触ろうと手を伸ばしていた。それをドウザンは自分の耳をピコンピコンと動かして赤ん坊をあやしている。先の文句を叫んでいた時とは全く違う、穏やかで優しい笑みを浮かべていた。

 

 

 すると、道場の外から足音が聞こえてきた。ドウザンが振り向くと、入り口に道場主の老人が立っていた。

 

 

「さっきの喧しい声はやっぱりお前か、ドウザン。頼んでもねえのにまた来やがって、ご苦労なこったな」

 

「うっせー! アタシだって小遣いを人質に取られてなきゃこんな山奥に来ねえっての! それよりもジジイ、この子、誰の赤ん坊だよ? また昔の門下生の誰かに子供が産まれたのか? 名前は何てんだー?」

 

 

 うりうり、とドウザンは耳を動かすと、赤ん坊はアーアー言いながらそれを掴もうとする。その微笑ましい2人の様子に老人は口元を一瞬綻ばせたが、すぐにムスッとした表情に戻る。

 

 

「そいつは『ミドリ』って名付けた。そこの緑色の上着に包まれてたんでな。覚えやすくて良いだろ」

 

「ふーん、ミドリちゃんかー。確かに覚えやす…………ん?」

 

 

 

 ドウザンは姿勢を変えずに顔だけを老人に向ける。

 

 

 

「……角間の爺ちゃん、名付けたって聞こえた気がしたけど、アタシの聞き間違いだよな?」

 

「んん? いや、俺が名付けたぞ。1週間ぐれぇ前か、そいつがここから少し離れたトコの木の根元に置き去りにされててな。ほっとくのも気が引けるしよ、面倒見てんだ。まあ、捨て子なんて昔は珍しいもんじゃなかったからな」

 

 

 

 ドウザンがあんぐりと口を開けて固まった。その隙に赤ん坊はドウザンの耳を捕まえて、はむはむと甘噛みしていた。

 

 次第に、ドウザンがプルプルと震え出し……

 

 

 

「じ…………時代がちげぇんだよ、ジジイイイイイ!!!!! 誘拐犯にされてたらどうすんだ!? まずは警察に行けえええ!!!!! これだから年寄りってヤツはあああああ!!!!!」

 

 

 

 

 かくして、ドウザンと老人と赤ん坊は下山して警察署に向かうことになった。

 

 警察によると、その赤ん坊に捜索届は出されておらず、その後も両親が名乗り出てくる事はなかった。山に捜査も入ったが、両親に繋がる手がかりは見つからなかった。

 

 赤ん坊は老人から離れると不安になって大泣きするので、結局当初のように彼が預かる事となった。その後しばらくドウザンは毎日のように山に通った。しかし、それを彼女は一切苦にしなかったという。相当に『ミドリ』と呼ばれる赤ん坊に惚れ込んだようだった。

 

 

 

 その赤ん坊の真名が判明し、更にその後、ウマ娘格闘界に名を轟かせるようになるのは、まだまだ先の事だった。

 

 

 

 これが『この世界』の彼女(マリンアウトサイダ)の、始まりの物語である。

 

 

 

 

 





次回

番外編2 UMAD副理事長、トレセン学園に来訪す


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番外編2 UMAD副理事長、トレセン学園に来訪す


【注意】この先、不快と感じる可能性がある表現があります。肌に合わないと感じた場合スキップ推奨です。主人公の知らない裏の出来事なので一応、飛ばしてもストーリーの把握に問題はありません。

17話 『カワイイ』強者は爪を隠す ↓
https://syosetu.org/novel/315782/21.html

この作品の構想は2期アニメ終了時のものです。ウマ娘世界の武術関連の情報が少なかったので、現在の開示されている設定と齟齬があると思います。あくまで二次創作だとして読んで頂けると幸いです。


 

 

 

 

 

 マリンアウトサイダの初登校日より約1ヶ月前……

 

 

 トレセン学園の地下会議室に5人の人影があった。緊張感の漂う空間で、皆『とある人物』の到着を待っていた。

 

 その場に居るのは計5人、トレセン学園理事長である秋川やよい、生徒会長シンボリルドルフ、副会長エアグルーヴ、そしてURAの重役であるM氏とその部下のK氏。

 

 細長い会議卓を数脚並べて四角形を作り、入り口から見て上座にURA職員の2人、左手に学園側の3人が座っていた。

 

 M氏は小太りな中年で、仕切りにハンカチで首や額の汗を拭っていた。対してK氏は気弱そうな細身の血色の悪い男性である。落ち着かない様子で常にM氏の顔色を窺っている。

 

 

「ちょっと〜〜ここめちゃくちゃ暑いんだけど〜〜!? わざわざURA役員のこのボクが出向いてあげたのに、トレセン学園は気遣いってものが分かってないんじゃないの〜〜? ねえ、K君〜〜」

 

「はいー、全くもっておっしゃる通りだと存じますー! ほら、生徒会のウマ娘たち! 誰でも良いからエアコンの温度を下げて差し上げなさい!」

 

「……っ」

 

 

 ぞんざいに命令されたエアグルーヴがK氏を軽く睨むと「ひぃ」と彼は声を上げた。すると、シンボリルドルフはパタパタと手で自分の顔を扇ぎだした。

 

 

「ふぅ、確かに少し暑いな。エアグルーヴ、すまないがエアコンの調節をお願い出来るか?」

 

「っ! 会長……分かりました。少々お待ちを」

 

「も〜〜早くしてよね〜〜!」

 

 

 M氏の声に不快感を抱きつつ、エアグルーヴは壁の操作パネルで温度を下げる。

 戻ってきた彼女は小声でシンボリルドルフに話しかけた。

 

 

「(会長、いつまでこのような不快な連中と同じ部屋に居なくてはならないのですか!?)」

 

 

 同じく小声でシンボリルドルフは返す。

 

 

「(そういうな、エアグルーヴ。理事長いわく、我々トレセン学園とUMADとの会合にURAの正規職員を立ち合わせないのはマズいらしい。今暫くの辛抱だ)」

 

 

 URAとUMAD(ユーマッド)は互いに険悪な関係ゆえ、その会合には基本的に誰も参加したがらない。しかし、両者の立ち合いの無く何かが決定された場合、それが諍いの火種となる可能性がある。

 そこで、このM氏というURA側からしても厄介な人物にお鉢が回ったのだ。K氏は彼の金魚のフンである。

 

 

「UMADの連中との会合なんて、心の広〜いボクだから引き受けてあげたのにさ〜、なんでこんな地下で隠れるように会議しなきゃいけないの〜!? もっと堂々としたらいいじゃない? まるでボクらが悪者みたいじゃないか」

 

 

 その問いに秋川理事長が扇子をバッと開きながら答える。

 

 

「恐縮!!! 今、世間は件のウマ娘について騒ぎ立っている! トレーニングに励む生徒たちを刺激するのは得策ではないと判断した故! ご不便をお掛けする中でも協力して頂いたM氏とK氏には感謝の念しかない! 後程、心ばかりのお礼を致すのでしばしお待ちを!」「ニャー」

 

 

 理事長の言葉にM氏はすっかり気を良くする。

 

 

「そ、そういう事なら仕方ないな〜。まあ、仕事だし? 初めからボクはやる気満々だったけどね〜! 別にお礼なんていらないんだけどぉ〜!」

 

「流石ですM様! その気位、天晴れでございますー!」

 

「クッ……!!!」

 

(ブライアンはまだ来ないのか! さてはまた何処かで昼寝してるな!)

 

「(抑えろ、エアグルーヴ)」

 

 

 青筋を立てる女帝を皇帝が宥める。すると、

 

 

 コンコン

 

 

 会議室のドアがノックされる。ガチャリとドアが開いて、理事長秘書の駿川たづなが入ってきた。

 

 

「失礼致します。UMAD副理事長とその秘書がお越しになられました」

 

「や〜〜っとか! さっさと……」

 

 

 ダン!!! 

 

 

 と、突然の衝撃音にM氏がビクッとする。

 

 

 わざとらしく大きな音を踏み立てて、茶髪のウマ娘が入ってきた。若く見えるが恐らく20代後半、鋭い目つきで右耳に髑髏の髪飾りをしている。背丈はたづなと同じくらいで、暗色の柄物のカーゴシャツにドレープパンツというワイルドな装いである。

 彼女の後には黒スーツにサングラスをかけた金髪のウマ娘が付き従う。背丈はかなり高く、秘書というよりボディガードのような印象だ。

 

 

「邪魔するぜ、UMAD副理事長のヤマブキドウザンだ。こっちは秘書のジョンクルゥシー」

 

 

 ペコリとサングラスのウマ娘が頭を下げる。ヤマブキドウザンは極道者のような雰囲気だが、背筋はピンと伸びており、歴戦の格闘ウマ娘の風格があった。

 ちなみにUMAD理事長は高齢の為、実務はヤマブキドウザンに一任されている。

 

 学園側の3人も挨拶のために起立していた。URAの2人はポケーっと座ったままだ。

 

 秋川理事長がたづなの方を向く。

 

 

「たづな、『あの方』は来てるのか?」

 

「すみません、連絡手段がなくて。今、どこにいるのかも検討がつかず……」

 

「そうか……」

 

 

 秋川理事長が扇子を開く。

 

 

「歓迎! ご足労、感謝する! 我々は……」

 

「あー、いいっていいって! そんな格式ばった挨拶は。秋川理事長、シンボリルドルフ生徒会長、エアグルーヴ副会長、あれ? ナリタブライアン副会長はいないのか、残念。今日こそUMADへの移籍を考えて貰いたかったのにねぇ。とりあえず、こんにちは……っと。3人は何度か顔を合わせた事あるだろ。要件だけ、さっさ済ませようぜ」

 

 

 UMADの2人が右手の会議卓に移動してヤマブキドウザンだけが座る。秘書は後方に控えて立っている。

 

 

「ちょっと! ちょっとちょっと! URAのボクたちへの挨拶がないのはどういうこと〜〜!?」

 

 

 居ないものかの様に無視されたM氏はご立腹の様子だ。

 

 

「あれぇ、すみませぇん! 会議室の中のゾウならぬブタとサルだったので言い出しづらくて! まさか天下のURAの役員様方であらせられたとは〜ご機嫌麗しゅう!」

 

「ドウザン様、お口が過ぎます」

 

 

 明らかにおちょくってる様子のドウザンを秘書のジョンが諌める。

 

 対面の2人のウマ娘は噴き出しそうになるのを必死に堪えていた。

 

 

「ッ!! プフゥ!!」

 

「クッ…フッ…(堪えろ……! エアグルーヴ……!)」

 

 

[部屋の中のゾウとは、英語のことわざで明らかなはずなのに誰も言い出せない事の意]

 

 

「な、なんだ!? どういう意味だ、K君!!」

 

「え、えっとM様に恐れ多くて挨拶できなかった、という意味ではないかと!」

 

 

 幸いにもこのバカ2人には通じてなかった。

 

 

「と、とにかく〜! ボクたちはあくまで立ち会い人だからね! URAに不利益が出なければ何でもいいから、さっさと会合を終わらせてよね〜! こう見えても忙しいんだから」

 

「そうですかそうですか、では可及的速やかに終わらせますので暫しお黙りあそばせ下さいませ〜」

 

 

 なんか失礼な奴だな、これだからUMADは、というM氏を無視してドウザンは話を切り出す。

 

 

「さて、さっそくだが……UMADからトレセン学園への要求はただ1つ。アンタら、マリンアウトサイダの転入を拒否してくれ。理由は何でもいい。そうすればアイツをUMADに復帰させる口上になる」

 

 

 やはり来たか、とたづなも含む4人は思った。それに対して、秋川理事長が応答する。

 

 

「……拒否!!! それはトレセン学園の理念に反する! トレセン学園の門は走ることを望む全てのウマ娘に開かれている! マリンアウトサイダには転入審査を受ける権利があり、公正なる審査によって不可と判断されない限りはその要求は飲めない!」

 

 

 ドウザンは鋭い目つきで秋川理事長を睨む。

 

 

「……どーしても無理ってか?」

 

「無論だ!!!」 

 

 

 秋川理事長の力強い声が会議室に響く。ドウザンの威圧感に屈することがない彼女の精神力は感嘆すべきものだった。流石はトレセン学園理事長を務めるだけのことはある。

 

 

「……くっ、あっはっはっはっは!! そりゃーそうだよなぁ!!」

 

 

 ドウザンは爽やかに笑っている。エアグルーヴは気構えた分、少し拍子抜けた。

 

 

「婆ちゃんはさー、あっ理事長のことね。こっちでマリンアウトサイダの奴を引き止めろって言うけどさー。UMAD選手の特権とかかざしても、アイツ試合会場まで徒歩で行くし、野宿するし、名声とか興味ないって感じだし、繋ぎ止めるものが何もないってのが正直なところでね。後はトレセン学園側でハネてもらう以外、手段がなかったのよ」

 

 

 ドウザンはお手上げのポーズをして、「昔っからそうなんだ、あの聞かん坊め……」と誰にも聞こえない小声で呟いた。

 

 一部の人物を除いて、ドウザンとマリンの関係は伏せられていた。それはマリンを余計な事に巻き込まないようにする為の配慮だった。

 

 

「あ、それかそっちと人材を交換するのも手だねぇ。アタシらは格闘技の素質のあるウマ娘はちゃーんとチェックしてるぜ、例えば『ヤエノムテキ』。金剛八重垣流のウマ娘。武術家としての力量も申し分ない。初等部の時に何度かウチが主催した大会に出場もしていた。熱心に勧誘したんだが、結局レースの道を選んじまったなぁ……今でも悔しいよ全く」

 

 

 ドウザンは冗談めかして話を続けた。

 

 

「後は……『ヒシアケボノ』も外せねぇな、相撲マニアなのは有名だが、あれは本物の逸材だ。見れば分かる、あの筋肉と体幹はレースをさせるにはもったいない程だ。レスリングをさせれば間違いなく世界を狙える」

 

 

 ドウザンがチラリとトレセン学園側を見る。態度こそおちゃらけているが、その目は獲物を狙う肉食獣の目だった。本気でトレセン学園の生徒を狙っている。

 

 

「……我が学園の生徒を褒めて頂けるのは恐悦至極ですが、その2人はどちらもレースで輝かしい実績を収めています。本人の意思確認なしにトレードなど、出来るはずもありません」

 

 

 シンボリルドルフが落ち着いた口調で返す。

 

 

「まぁそう言うよな、おたくらは。でもよ、こっちも簡単には引き下がれねぇんだ。さてと、雑談はここまでだな」

 

 

 

 ドウザンの顔付きと雰囲気が鋭くなる。彼女は姿勢を正し、手を組んで卓上に置いて、良く通る声で力強く話し始める。

 

 

 

「まず言っておくが……アタシはお世辞抜きにURAは素晴らしい団体だと思っている。近年までのウマ娘の地位向上も彼らなしにはあり得なかっただろう。人々もウマ娘たちも『レース』に夢を見る時代を作り上げた。それは紛れもない事実であり、功績だ」

 

 

 ほ〜分かってるじゃないか、とM氏の声。

 

 

「だが……」とドウザンは一拍を置く。

 

 

「それは多かれ少なかれ、『レースウマ娘至上主義』を助長することにもなった。多くのレースウマ娘が栄光を手にする一方で、そうではないウマ娘たちは己に向けられる価値観の差に苦しんだ。それもまた、紛れもない事実であり……禍根だ」

 

 

 シン……と空気が更に張り詰める。

 

 

「……時代の流れか、今の世の中は多様性を認めるという風潮が強くなっている。だが『レースウマ娘至上主義』の風潮は未だに根強い」

 

 

 ドウザンが目を見開き、鋭い眼光でトレセン学園、URA側を一度に睨みつける。

 

 

「そして『レースウマ娘至上主義』は、無関係なウマ娘のみならずレースウマ娘自身までもを苦しめている。そうだろう?」

 

 

 ピクン、とシンボリルドルフの耳が反応する。

 

 

「勝者がいれば必ず敗者がいる。それは当然だ。格闘技の世界でも、他のスポーツでも同じ事が言える。だが、事実としてウマ娘の人口比率は少ない。その中で舞台に立てるのなら良いだろうが……多くのウマ娘たちを待っているのは更に過酷な現実だ」

 

 

 ドウザンの瞳の奥に一瞬、やるせなさそうな無念の色が見えた。

 

 

「目標があるのは良い、だがレースで活躍する以外の道を知らないウマ娘が多く産まれているのも事実だ。人々がレースこそがウマ娘にとっての最上の価値だという認識を改めない限りは、それは止まらない。URAはレースの盛況に甘んじて、取り返しのつかない危険を孕んだ現状を看過している」

 

 

 ドウザンは鋭く、真っ直ぐで、剛気な瞳を携えて言い放つ。

 

 

「だからこそ、アタシたちが居る。

 

『レースで勝つ』ことだけがウマ娘の価値ではないはずだ。

 

 それを証明することが、アタシたちUMADの役割の1つだ」

 

 

 その凄みに、UMADの2人以外全員が息を呑んだ。特にシンボリルドルフの組んだ腕に力がこもる。ドウザンは更に続ける。

 

 

「断言する。今のURAではウマ娘たちの、その苦しみを断つことは決して出来ない。それをする為には、新たな価値観が必要だ。『レースだけが走る道ではない』のだという価値観が」

 

 

 ドウザンの言葉の勢いが増す。

 

 

「マリンアウトサイダはそんな新しい価値観、新しい時代の先駆者になれるウマ娘だ。彼女は無垢であり、清純だ。その上で『強さ』を純粋に追い求めている。その美しさに、多くの人が、ウマ娘が惹かれたんだ。今……レースの世界に行かせる訳にはいかねぇんだ」

 

 

 ドウザンは問う。 

 

 

「アイツはUMADに必要なウマ娘だ。トレセン学園、お前たちに作れるのか? 新たな価値観を。救えるのか? ウマ娘たちをその苦しみから。出来ねぇなら、マリンアウトサイダの転入を拒否しろ。お前らに成し遂げられない事を、アイツはいつか成し遂げる。お前らにゃ『勿体ない』ウマ娘なんだ……!!!」

 

 

 この主張はトレセン学園側の誰にも予想出来なかった。秋川理事長もシンボリルドルフも口をつぐんだ。

 

 

「会長…………」

 

 

 エアグルーヴがルドルフを心配している。彼女は知っているのだ。皇帝の夢を。

 

 ヤマブキドウザンは真っ向勝負で、その夢に問いをぶつけて来たのだ。簡単に答えられるはずがないのは、明白だった。

 

 

 しかし、そんな空気を粉微塵にぶち壊す男がいた。

 

 

 





次回

番外編3 地下会議室の闘乱


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番外編3 地下会議室の闘乱


【注意】格闘描写があります。苦手な方はご注意下さい。主人公の知らない出来事なので、飛ばして次の話に進んでも一応、ストーリーの把握には問題ないです。


 

 

 

 

「さっきから聞いてたら下らないことばかり言ってるな〜!! 『新しい価値観』? 『新しい時代』? そんなものは必要ない! テレビを見ても、新聞を見ても、街中を見ても、みんなレースウマ娘に夢中じゃないか、それでいいじゃないか!! ウマ娘のレース以上のエンターテイメントは存在しない証拠だ〜!!」

 

「M様ー! 私たちは立ち会い人で、あまり意見するのは……」

 

「うるさ〜〜い!! ボクに逆らうのか、K君のくせに!! 大体、走らないウマ娘に何の価値があるんだ!! 走るからこそ、多くの人を感動させるレースの名勝負が生まれるんだ!! 負けたからってなんだ、その名勝負の一部になったのなら十分に価値があるじゃないか!! 走らないウマ娘なんかより、レースウマ娘の方が価値があるのは当たり前だ!! それでURAを悪者にされたのなら、たまったもんじゃないよ!!」

 

「なっ………!!」

 

 

 エアグルーヴは絶句した。否、その場にいるM氏とK氏以外の全員が絶句していた。あり得ないものを見た気分だった。こんな奴がURAにいるのが信じられない、と。

 

 

「そのマリンアウトサイダだっけぇ? 格闘ウマ娘なんて野蛮な奴らに興味は無いけど、レースに出たいってのは頭の良い判断じゃないか! 格闘技なんかより、レースに出た方が名誉も、人気も手に入るんだからさ〜! 格闘ウマ娘なんか、レースに出られなかった落ちこぼれの集まりだろ〜!? ちょっぴり人気が出たところをURAに取られて、僻んでるだけじゃないの〜!?」

 

「貴様ッ! 自分が何を言ってるのか……」

 

 

 と、エアグルーヴが激昂すると

 

 

 

 ボゴン!!!! メキメキッ……べギン!!!

 

 

 

 と爆発のような破壊音が室内に響いた。

 

 皆が振り向くと、ヤマブキドウザンが会議卓に踵を振り下ろして破壊していた。木版は真っ二つに折れ、鉄部分はひしゃげている。

 

 

「テメェ……今、なんつった……」

 

 

 そこには『鬼』としか表現できないウマ娘がいた。

 

 

「テメェ……アタシの『家族』をバカにしたな……UMADのウマ娘たちはよぉ……皆アタシの家族なんだ……」

 

 

 ドウザンが破壊された卓を踏み越えてM氏に近づこうとする。彼女を止めようと、秘書がその肩をガシッと掴む。

 

 

「いけません、ドウザン様! ここでURAと諍いを起こしては」

 

「離せ、ジョン」

 

 

 

 ドン!!! ガシャアアアアアアン!!!

 

 

 

 ジョンが身体が吹っ飛ばされて、M氏と反対側の卓にぶつかり、その卓もひっくり返った。たづなが「キャア!!」と叫んで身を縮ませる。

 

 

「アタシはこのブタをヤると決めたんだ……」

 

 

 ジョンは後方に蹴り飛ばされていた。トモを触られたウマ娘が反射で行うのと同じ動作で。しかし鍛錬を積んだ格闘ウマ娘のそれは比較にならない破壊力を持つ。

 

 

「グゥ、ハッ……!」

 

 

 しかし、受ける側もプロだ。ジョンはダメージを受けただけで気絶はしていない。

 

 コツ、コツ、とドウザンはM氏に向かって歩き出す。

 

 

「お、お前、ボクに何かあったらURAがタダじゃおかないぞ! や、やっぱり格闘ウマ娘は野蛮だな! 聞いてるぞ! UMADは元々、反社会団体だったって! そんな奴らがリーダーだから野蛮なんだ!」

 

 

 ドウザンが立ち止まる。

 

 

「へぇ……ブタにしては良く勉強してるじゃないか。その通りだ、昔の話だがUMADは元々は違法格闘賭博場を生業としていた組織が基になって出来た。その元締めがアタシの一族『ヤマブキ家』だよ。極道一家ってヤツさ」

 

 

 ドウザンがカツンと一歩踏み出す。

 

 

「だがな……その賭博場は、URAのレース興行の裏で落ちぶれていったウマ娘の最後の拠り所だった。そんなウマ娘たちを食わせていく為には違法賭博という商売に手を染めるしかなかったのさ。分かるか? アタシの一族はURAの尻拭いをして来たんだ!! てめぇのケツも拭けねぇ、ウマ娘を使い捨てるゲスな連中のケツをな!!」

 

 

 カツンとまた一歩踏み出す。ヒィィとM氏とK氏が震える。

 

 

「お前のようなブタは早いうちに処分しちまった方が良いよな……まずは歯ぁ全部ぶち抜いて、離乳食しか食えないようにするか……」

 

 

 バッ! タン!

 

 

 会議卓を飛び越えて、ルドルフがドウザンの前に着地し、行く手を阻んだ。

 

 

「ヤマブキドウザン氏、どうか冷静に。ここでその拳を振るっても、何の益もありません」

 

「益があるかないかは無関係だ、シンボリルドルフ。アタシはそのブタをヤる。そう『決めた』んだ」

 

「……いけません。ここはトレセン学園です。どうか、我々の指示に従って……ッ!?!?」

 

 

 バシィン!! 

 

 

 ドウザンの突きをルドルフは辛うじて受け止めた。ビリビリと痛みが彼女の手を伝わる。

 

 

「会長!!」

 

 

 エアグルーヴが叫ぶ。

 

 

「大丈夫だ……エアグルーヴ。心配するな」

 

 

 ルドルフはエアグルーヴに向かって微笑む。その額には汗が一筋垂れていた。

 

 

「邪魔をするな、シンボリルドルフ。お前はそこのブタを庇うのか?」

 

 

 ギリ、ギリと両者の手は震える。

 

 

「ね、ねぇ! K君、アイツ殴ったよね! しっかり見たよね!」

 

「は、はいー! もちろんです! ヤマブキドウザンが暴力を振るう瞬間を確かにー!」

 

 

 M氏とK氏が子供みたいにドウザンを指差す。

 

 

「ああ……ウザってぇなッ!!!!!!!」

 

 

 ドウザンはそんな2人を心底苛ついた大声とともに睨みつけた。アヒィ!と叫んでK氏は気絶し、アワワワァ!とM氏は腰を抜かして動けなくなった。そして、彼女はルドルフと向き直る。

 

 

「フン……流石はシンボリ家のウマ娘だな。護身術くらいは身に付けていて当然……かっ!!」

 

 

 ドウザンは拳を引くと、今度は突きの連撃をルドルフに容赦なく打ち込む。

 

 

 ビュ、ビュ、ヒュン!!!

 

 

「ぐっ、くぅ、あぁ!」

 

 

 それをルドルフは苦しい表情で防ぐ。プロと変わりない拳の射線を辛うじて捉えている。

 しかし、予期していた部分に突きは来ず、空いていた腹に一撃を食らってしまう。

 

 

 ドズン!!!

 

 

「ぐぅぁッ!? か、は……!!」

 

 

 ルドルフは腹を押さえ、身体が崩れ落ちそうになるのをギリギリで踏ん張った。だが、髪の毛をガッと掴まれて顔をドウザンの方に向かされる。

 

 

「会長ーーーー!!!!!」

 

 

 エアグルーヴが叫ぶ

 

 

「くぅ、たづな! 急げ!」

 

「は、はい!」

 

 

 秋川理事長がたづなに何かを指示して、たづなが部屋を出てどこかへ駆け出したが、この場にそれを気にする者はいなかった。

 

 

「ヤマブキドウザン!!! 会長を離せぇーーー!!!」

 

「動くな、女帝。こいつの髪の毛が引きちぎれてもいいのか? しかし、簡単なフェイントに引っかかるあたり素人に毛が生えたくらいか。もう少し楽しませてくれると期待していたんだがな」

 

「ハァ…クッ、ハァ!!」

 

「会長……会長ぉ……」

 

 

 ルドルフが苦しそうに息をする。そんなルドルフを見て、エアグルーヴの目に涙が溜まる。

 

 

「もう一度聞くぞ、シンボリルドルフ。お前はそこのブタを庇うのか? このブタみたいな連中が多くのウマ娘を苦しめているんだぞ」

 

 

 ルドルフは呼吸を整える。

 

 

「ハァ……ウッ……URAには……素晴らしい方々も大勢いる……そこのお方のような者ばかりでは……ない」

 

「そうだろうな。だが、こんな奴が存在していること自体が問題だ……シンボリルドルフ、三冠ウマ娘のお前なら知っているだろう? その栄光の裏にどれほどの数のウマ娘の悲しみがあったのかを。全国でドロップアウトしたレースウマ娘のその後の進学率、非行率、そして……自◯率も知らないワケではないよな? URAがその原因だぞ。守る価値など……あるのか!?」

 

 

 ドウザンはグイと髪を引っ張り、ルドルフを更に立たせる。

 

 

「ぐっ……!」

 

「前から聞きたかったことがあるんだ。お前が生徒会長をしているのは、贖罪のためか? 七冠という最上の栄誉の裏に隠れたウマ娘たちへの償いをしているのか? 答えろ、シンボリルドルフ」

 

 

 グッ……と顔を上げ、ルドルフはドウザンの目を見る。

 

 

「違う……! 私は、私の旅路に誇りを持っている。それは私のトレーナーと共に歩んだ道だ。悔悟などない……そこには一点の翳りも存在しない!!!」

 

「……では、何故だ?」

 

「私の夢を叶える為だ……!」

 

「夢?」

 

 

 ドウザンは目を細める。

 

 

「私は、あらゆるウマ娘が幸福に過ごせる、理想の世界を作る……!」

 

「……なんだ、その現実を知らねぇ甘っちょろいガキみたいな夢は? お前は本当にあの『皇帝』か?」

 

 

 ルドルフは笑みを浮かべる。それは誇らしさから来る笑みだった。

 

 

「笑いたければ……笑え。だが、私は本気だ。共に、同じ視座で夢を見てくれるパートナーもいる」

 

「アタシの話を聞いていたか? 今のURAでは、その夢を叶えることは出来ねぇ。そんな夢になんの意味がある?」

 

「それは……先程あなた自身が言っていたはずだ」

 

「なに?」

 

 

『皇帝』の眼がヤマブキドウザンの瞳を射抜く。

 

 

 

「意味があるかないかは無関係だ、ヤマブキドウザン。私はここで為すべきを為す。そう『決めた』のだ」

 

 

 

「!!! …………そう、か」

 

 

 ドウザンはルドルフの瞳に『覚悟』を感じた。彼女も全てを知った上でレースを走っているのだと……自らと同じ志を持つ者であると気付いたのだ。

 

 たが、ドウザンはUMADとヤマブキ家の歴史と矜持を背負ってきた。それ故に、引き下がる事は己が許さなかった。だから試す事にした。髪を掴んでいるその左手を緩めて、皇帝に言う。

 

 

「その覚悟に免じて、一度だけチャンスをやる。今から、アタシは反撃をしない。アタシの『ヤマブキ』の名に誓ってだ。ボディを狙ってもいい、目潰しをしても構わない。お前がアタシを止めなかったら、アタシはそこのブタをヤる。どうする? URAに、『レースウマ娘至上主義』に賛同するなら、アタシを止めてみせろ」

 

「ハァ……ハァ……」

 

 

 ルドルフは力強い眼でドウザンを見つめ返す。

 

 

「会…長っ…………」

 

 

 エアグルーヴの頬を涙が伝う。

 

 ルドルフの眼は燃えたように力強いままだ。

 

 

「……若ぇのに肝が据わっている。その潔さは買ってやる。だが、振るう拳の見つけられないガキは……寝てろ」

 

 

 ドウザンは右手を握って、トドメの一撃を構えた。

 

 

 

 

 

–––––

 

 

 

 

 

「うーむ、このトレセン学園、ちと広すぎやせんか?」

 

 

 スーツ姿の小柄な老人、角間源六郎がトレセン学園の中庭付近を歩いていた。守衛に名前を伝えたらすんなり入れたが、いかんせん道が全く分からない。

 

 

「それにしてもスーツは慣れないのぉ」

 

 

 パタパタと暑そうに源六郎は襟を動かす。

 

 

「理事長のとこまで案内して貰うにも、生徒たちがいないな……今は授業中か?」

 

 

 あてもなく彷徨ってると、とある校舎の木に『誰か』がいるのを感じた。

 

 

「ふむ、やはりいつの時代にも授業をサボって昼寝する奴はいるものだな。こやつに聞くとしよう」

 

 

 源六郎は木に近づくと上に向かって呼びかける。そこからウマ娘の姿は一切見えないが、そこにいる確信はあった。彼の武の達人としての勘が告げていた。

 

 

「おーい、そこのあんたー、ちょいと道を尋ねたいのだがー?」

 

 

 反応が無い。

 

 

「しょーがないのぉ」

 

 

 源六郎はその木の幹に近づくと、右手を当てて、腰を落とした。

 

 

「フゥッッ……!!!」

 

 

 ドズゥン!!

 

 

 老いた武術家は中国拳法の発勁のような技で、木に衝撃を撃ち込み全体を鳴らした。

 

 すると、上方から「な!?うわあぁ!!」と声が聞こえて、枝に引っかかりながら1人のウマ娘が落ちてきた。最後の木の枝に何とか掴まってブラーンと引っかかったタオルのようにぶら下がった。

 

 

「気持ちよく寝てるところすまなかったのぉ。だが他に生徒が見あたらなくてな。この学園の理事長と面談する予定での、案内してくれんか?」

 

「……っ、危なかった……! なんだ、アンタ何者だ。あの枝の上は絶対に周りからは見えない場所だったはず。どうやって私がそこに居ると分かった?」

 

 

 ブラーンとしたまま、鼻にテープを貼り、口に草を咥えたウマ娘が尋ねる。彼女はトレセン学園生徒会副会長のもう1人の三冠ウマ娘、ナリタブライアンだった。

 

 

「ただの勘じゃよ。で、お願いできるかの? お前さん、授業をサボっていたんだろ。客人を案内していたってのは良い口実になると思うがの?」

 

 

 ブライアンはジッと老人を見つめ、ニヤリと笑みを浮かべた。

 

 

「ふっ、面白い爺さんだ」

 

 

 そう言って彼女は枝を離してスタッと着地する。そして源六郎の側まで歩み寄ると、彼の小柄な体躯に驚く。到底あの樹木を揺らせるとは思えなかったのだ。

 

 

「しかし爺さん、アンタ私をクワガタか何かだと思ってないか? さっきのはどうやったんだ? ウマ娘が本気の蹴りでもしない限り、あんなに揺れることはないと思うが……アンタ、武術家か何かか?」

 

「まあ、そんなところだな。挨拶が遅れたな。俺ぁ角間源六郎と言う。お前さんは? 名前を聞かせてくれんかの?」

 

「……ナリタブライアンだ。一応、この学園の生徒会副会長をしている」

 

「ほう……! 三冠ウマ娘の、あのナリタブライアンだったのか! 流石はトレセン学園、有名なウマ娘に会えたもんだ」

 

 

 ふっ……とナリタブライアンが微笑む。

 

 

「ところで爺さん、理事長は今は会合の最中のはずだが、アンタもそれに参加するのか?」

 

「会合? いや、俺は理事長室で面談としか聞いていないが」

 

 

 そうか、とナリタブライアンは考え込む。

 

 

(UMAD副理事長はお忍びで来ると言ってたな。この爺さんがそれを知らないのは当たり前か……まて、武術家……?)

 

 

「なあ、爺さん、アンタもしかして『マリンアウトサイダ』と何か関係があるのか?」

 

「んん?」

 

 

 源六郎は少し目を細める。

 

 

「ああ、ソイツは俺の孫だ。弟子でもある。近々この学園の転入試験を受ける予定でな。恐らく、その事についての面談だと思うんだが……」

 

「そうか」

 

(ならば、恐らく秋川理事長はあの会合にこの爺さんを出席させるつもりだったのだろう。でないと同じ日に呼び出すはずがない。地下会議室まで連れて行くべきか……)

 

 

 あのUMAD副理事長、会うたびに勧誘してくるから面倒なのに、とブライアンが考えていると、誰かを探す必死な女性の声が聞こえてきた。

 

 

「角間さーーん!!! 角間源六郎さんはいらっしゃいますかーー!!!」

 

 

 ん? と源六郎とブライアンはその方向を見る。すると、2人に気付いたたづながこちらに疾走してきた。その速さに源六郎は驚く。

 

 

「はぁっ! 角間さん! ナリタブライアンさんも! お願いです、地下会議室に! はぁっ! はぁっ!」

 

「……どうやって行けばいい?」

 

 

 源六郎はその様子でただならぬ事態になっていると察し、余計なことは聞かなかった。

 

 

「おい、爺さん」

 

 

 ナリタブライアンが低く屈んだ姿勢で源六郎に声をかける。

 

 

「乗れ、場所は私が分かる」

 

 

 源六郎は迷わずブライアンの背におぶさった。

 

 

「たづなさん、緊急事態なんだろう? 走っていいよな?」

 

 

 たづなは息を整えて、大きく頷いた。

 

 

「はい、全力で走って下さい!!! 私が許可します!!!」

 

「爺さん、しっかり掴まってろ……!」

 

 

 ナリタブライアンは疾風の如く駆けて行き、その姿はすぐに豆粒ほどに小さくなった。たづなは祈るように、両手を胸に当てていた。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

「爺さん、飛ぶぞ! 少し堪えろ!」

 

 

 ナリタブライアンが地下へ続く階段を飛び降りた。2階から1階へ飛び降りたようなものだが、源六郎は特に動じなかった。

 

 軽やかに着地したブライアンはスピードを落とすことなく走り続ける。彼女は振り向かずに、源六郎に声をかけた。

 

 

「慣れてるんだな、爺さん!」

 

「ああ、修行でアイツにもおぶらせて山を駆け回ったからな」

 

 

 そのまま2人は地下道を駆け抜ける。目的の会議室付近まで来ると、その扉が開きっぱなしになっていた。

 

 

「あそこだ、爺さん! あと少し!」

 

 

 ブライアンが減速しようとすると

 

 

「このまま走れ、ナリタブライアン。ここで良い」

 

「えっ!?」

 

 

 源六郎が一瞬でブライアンの肩を踏み場にして前方に飛んだ。

 ブライアンは信じられないものを見て驚いたが、辛うじて理性で判断し、右に進路をずらした。このままだとその老人に衝突する可能性があったからだ。

 

 そして更に驚く事に、源六郎は着地と同時に肩から地面でクルリと1回転して勢いを殺し、会議室の入り口で片膝をついて止まった。その動きはもはや老人のそれではなかった。

 

 

「なっ!!!?」

 

 

 ブライアンは源六郎の後方から会議室の中を見て驚愕する。シンボリルドルフが髪を掴まれ立たされいた。相手はUMAD副理事長のヤマブキドウザン。一体何が起こったのか分からなかった。

 

 対して源六郎はコンマ0.1秒で状況を把握する。左手に長机と制服を来たウマ娘、その傍に頭に猫を乗せた少女、中央で制服のウマ娘が茶髪のウマ娘に髪を掴まれている、更に奥に腰を抜かした小太りの男性と気絶して横たわる細身の男性、入口の視界から得られる情報はこれが全てだった。

 

 そして武術家の老人は最小限の動作で、室内に跳ね入った。

 

 

 

 

 

–––––

 

 

 

 

 

「……その潔さは買ってやる。だが、振るう拳の見つけられないガキは……寝てろ」

 

 

 ドウザンは右拳を握り、トドメの一撃を構えた。

 

 が、その手首を誰かに掴まれた。そしてドウザンにとって懐かしい声を聞いた。

 

 

 

「ドウザン、お前。年下の子供相手に何やっとるんだ」

 

 

 

「な……ッ!!!」

 

 

 と驚く間も無く、ドウザンの右腕、右肩にまるで重石を乗せられた感覚が伝わる。

 

 彼女は反射でルドルフから左手を離し、振り返ろうとすると、腰の右後ろ側からドン!と体当たりされて重心をズラされた。

 

 老人は流れるような動作で、手のひらでドウザンの顎を下から上へ掲げるように突き上げた。

 

 その場でフワリと宙に放り出される感覚にドウザンは混乱する。自由な左手は宙を掻くしかない。

 

 彼女はこの感覚を知っている。合気道の技だ、受け身を取らねば、なぜこの男がここに、と様々な事が脳裏をよぎるが、次の瞬間には後頭部を会議卓に打ちつけられ、意識が混濁した。

 

 

 

ベキィ!!! 

 

ドガシャアアアン!!!

 

 

 

 と、秋川理事長の目の前でドウザンが叩きつけられる。ひょわぁーーー!?ニャー!?という叫びを卓の破壊音が打ち消す。木製部分が砕けて割れ散った。

 

 

「少し、頭を冷やせい」

 

 

 老人は、イタズラをした子供を嗜めるように呟いた。

 

 

 解放されたルドルフは覚束ない足取りで壁際まで歩き、寄りかかるように地面にへたり込む。

 

 

「会長!!!!」

 

 

 エアグルーヴがルドルフに駆け寄り、肩を抱いて支える。

 

 

「ごめんなさい、会長……私、何も、何も出来なくて……!!!」

 

 

 ボロボロとエアグルーヴは涙を流す。そのような女帝の顔を見るのはルドルフも初めてだった。

 

 

「いいんだ……大丈夫だ……エアグルーヴ。そんなに泣かないでくれ。せっかくの化粧が崩れてしまうぞ……」

 

「会長っ………会長………ぁあ、あああああ!!」

 

 

 秋川理事長が2人に駆け寄り声をかける。ナリタブライアンも遅れて駆けつけた。ドウザンはピクピクと痙攣しながらまだ卓に乗りかかっていた。

 

 

 すると、ズサリと反対側から音がした。ドウザンの秘書、ジョンクルゥシーが立ち上がっていた。

 

 

「……っ、ドウザン様!!! 貴様っ、何者だぁ!!!」

 

 

 ジョンが声を上げて源六郎に突っ込んでくる。ルドルフと周囲の3人はその気迫にビクリと震えた。

 

 

「んん、まだ他にもいたのか?」

 

 

 武術の達人らしく、老人は特に驚く様子もなく彼女を迎え撃つ。

 

 

「うおおおおおおおお!!!!」

 

 

 ジョンが全力の右突きを源六郎に放つ。彼は事も無げに数ミリで見切りそれを避けると、その腕を掴もうとした。

 

 !!!とジョンは本能で危険を察知し、腕をバッと引いた。

 

 

「ほぅ……」

 

 

 と、源六郎は感心の声を漏らした。

 

 ジョンは本能で理解した。この老人は『危険な存在だ』と。

 

 

(先のドウザン様を投げた技は柔道、もしくは合気道、なら掴まれる事だけは避けなければならない……!)

 

 

 ジョンはボクシングのように拳を構えると、腕のバネを使ってジャブのような瞬間的なパンチを連続で繰り出した。腕が伸び切った瞬間に引き戻す。そうする事で掴まれるリスクを最小限に抑えた。ジョンの手のリーチならば、そこから即座に反撃されても判断する余裕がある。

 

 

「シッ!!! シッ!!!」

 

 

 それでも源六郎を捕らえきれない、ギリギリで避けながら、当たりそうなジャブはパシンと叩き落とした。彼は「良い判断だな」と笑顔さえ浮かべて余裕な様子だ。しかし……

 

 

「シィッッ!!」

 

 

 ジョンは源六郎をM氏がいた会議卓まで追い込んで突きを放つ、源六郎も背後は把握してるので横に飛び退いた。

 

 

(今だ!!!)

 

 

 それはジョンの作戦の一部だった。彼女は突きと同時に床に落ちた砕けた卓の木片を更に踏み砕いて、足首の動きだけで蹴り上げた。

 

 

「ぬぅ!?」

 

 

 源六郎は思わず顔を両腕で守った。飛び退いた姿勢のまま腕は木片を防ぐ、そのため一瞬だがボディに隙が出来る。

 そして、ジョンの足のリーチならばその位置から蹴りを入れる事が十分可能だった。

 

 

(そこッ……!!!)

 

 

 

 ジョンはすかさず蹴りを入れようとして、

 

 入れようとして、

 

 

(え?)

 

 

 と、ジョンは自身の思考に驚いた。

 

 

(私は……この老人を……蹴ろうとしている?)

 

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 格闘ウマ娘がまず最初に教わること、それは『どんなことがあってもヒトを蹴ってはいけない』ということだ。『ウマ娘』の身体能力はヒトの5倍から10倍はあると言われている。その脚力で全力で蹴られることは、普通の人間にとっては死を意味する。格闘ウマ娘たちにとって、ヒトを蹴ることは最大の禁忌なのである。それはウマ娘がヒトと共に生きる為に生み出された規律だった。

 

 例えば、警察や護衛業のウマ娘ならヒトを傷つけたとあっては信用を失くす。だから格闘ウマ娘たちはまず、蹴りを使わずに相手を無力化する術を学ぶ。ウマ娘同士の闘いならば蹴ることもあるが、暴漢などヒトに対しては冷静な判断力が求められる。思わずヒトを蹴ってしまわないように、ヒトかウマ娘かを瞬時に判断する訓練も行われる。鍛錬を積んだ格闘ウマ娘ほど、本能を理性で制御でき、その判断は迅速である。ジョンもプロなので、その鍛錬に抜かりなかった。

 

 だからこそ、この老人を蹴ろうとしている自分に驚愕していたのであった。

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「迷ったな、お前さん」

 

 

「ッ……!!!」

 

 

 ジョンが気付いた時には、源六郎は視界から消えていた。彼は飛び退いた時に背の会議卓の脚部を蹴って方向を変え、ジョンの足元へ地を這うように移動していたのだった。地面が縮んだと錯覚するほどのスピードだ。

 

 

(マズい、距離を……!)

 

 

 と、ジョンは思考する間も与えられなかった。

 

 

 カクン……!

 

 

 ジョンの姿勢は崩された。源六郎は地面ギリギリを寝そべったような姿勢で移動して、肩と背中を使いジョンの足を払う。合気道の『すかし』という技。ジョンは文字通りに足を掬われた。

 

 この技は相手を転倒させる為の技ではない。よろけさせたらそれで決まりだ。相手のバランスを崩し、重心を不安定にさせる。合気道家にとってはそれで十分。ウマ娘といえど、重心が定まっていなければその膂力を発揮できない。人間との差はなくなる。

 

 蛇が巻きつくように、源六郎の右腕がジョンの脇下から顎に伸びる。腰を押され、知らぬ間に下半身が浮いていた。

 

 『立っているその場で宙に放り出される感覚』をジョンは生まれて初めて味わう。

 

 

「経験不足だな、若えウマ娘さん。そこは、本能に従うところだぜ」

 

 

 ズガン!!!!!

 

 

 と、鈍い音とともにジョンの後頭部が床に叩きつけられる。脳がシェイクされ、彼女は平衡感覚も全て狂わされて動けなくなった。

 

 

 これがトレセン学園地下会議室にて行われた『武術の達人の男vsプロの格闘ウマ娘』の決着だった。

 

 

 

 

 

–––––

 

 

 

 

 

(……!!! こんな男が……この世に居たのか……)

 

 

 ナリタブライアンは驚愕していた。あの老人、只者ではないと分かっていたが、ウマ娘とのタイマンで勝てるとは全く予想していなかった。

 

 

 あの戦闘の後も、老人はいたって涼しそうな雰囲気だ。どれほどの場数を踏めば、ヒトの男がこの境地まで達せるのか、ブライアンには想像もつかなかった。

 

 

「……あの金髪のウマ娘は中々、見どころのある奴だったな。今でもヤマブキの家には良いウマ娘が揃ってるようだ。少し安心したわい」

 

「爺さん、凄いなアンタ。本当に何者なんだ?」

 

「ただの喧嘩バカって奴だ。そこの嬢ちゃんは無事か?」

 

 

 源六郎がルドルフたちのところへ近づくと、ルドルフはゆっくりと顔を上げた。

 

 

「……あなたが、角間源六郎……マリンアウトサイダの祖父ですか。この場を収めてくれて、感謝します。私たちでは……どうにも出来なかった」

 

「いいってことよ。それより大丈夫かい。見たところ顔は殴られてねぇな、腹ぁやられたか。一応、医者に診てもらった方が良い」

 

 

 少し遅れてたづなもやってきた。ひとまず会議室から出て上の階へ向かおうと話がまとまったところで、後ろでガラリと音がした。皆が音のした方を見ると、ヤマブキドウザンが頭を片手で押さえて立ち上がっていた。

 

 

「あぁ……痛え、あの浮かされる感覚、何度体験しても慣れねぇ。おい、なぜお前がここにいる、『角間源六郎』!! UMADにお前の籍は無ぇはずだぞ!!」

 

 

 源六郎は立ち上がり、ドウザンに向き直る。

 

 

「何を言っとるんだ、ドウザン。俺はアイツの保護者だ。よもや俺を『部外者』などと言うまいな?」

 

 

 数秒、2人は睨み合った。先に目を逸らしたのはドウザンの方だった。

 

 

「……ハァ、あんたの事だ。どうせ、マリンアウトサイダの好きにさせてるんだろ? 今まではそれでも良かったが、今回ばかりは話が違う。アイツはアタシの妹分だ、赤ん坊の頃から知ってるんだ……レースの世界へなんざ、行かせたくねぇ……勝ったとしても、負けたとしても、あそこには悲しみが多すぎる……」

 

 

 ドウザンにさっきまでの威勢はなかった。叱られた子供みたいに俯いて、小声になる。

 

 シンボリルドルフはその時初めて、ヤマブキドウザンの真意を理解した。UMADの先導役として、誰よりもウマ娘たちの悲しみに触れてきた彼女は、その愛情ゆえにマリンアウトサイダをレースウマ娘にしたくなかったのだ。

 

 はぁ……と源六郎はため息をつく。

 

 

「ドウザン、お前さんが情が深いのは知っている。お前さんがキレたって事は、そこに寝そべってる男どもが余程の事を言っちまったんだろ? 今回は痛み分けって事で手を打ちな。それに、俺が断言してやる。『ミドリ』に関しては、心配いらねぇよ。アイツはヤワじゃねぇ。この俺が鍛えたんだからよ」

 

「……………………」

 

 

 ドウザンは目を閉じた。緑のパーカーに包まっていた赤ん坊のウマ娘、幼い頃のマリンアウトサイダの笑顔が瞼の裏に浮かんでくる。納得はしていない、だが気持ちの整理は付けなければならない。

 

 

「……ああ、分かったよ。角間の爺ちゃん、アンタがそういうなら、今はその言葉で納得しておいてやる」

 

 

 ドウザンは腰に手を当てて、首をポキポキと鳴らした。

 

 

「…………迷惑をかけたな、トレセン学園。だが忘れるな。アタシはあの問いへの答えをまだ貰っていない。マリンアウトサイダは……今はお前らに預けておいてやる。その間に考えとけ」

 

 

 ドウザンを腕を組み、ルドルフたちの方を見る。そして、部屋の隅でうずくまってる小太りの中年と、いつ間にか目を覚ました細身の男を一瞥する。

 

 

「おい……そこのブタ、アタシはあんたを許しはしない。だが、今回だけは大目に見てやる。次からは口に気をつけな」

 

 

 これで全て決着はついた……かと思いきや、バカはやはりバカだった。これが温情だと言うことも理解しない。

 

 

 

「ふ、ふ、ふざけるな〜〜〜〜!!!」

 

 

 

 M氏は突然カン高い声で叫ぶ。

 

 

「やっぱり格闘ウマ娘は野蛮だ〜!! ボクらにこんなことしてタダで済むと思うなよ〜!! お前がシンボリルドルフに暴力を振るったのはこの目で見たぞ!! URAに報告してやる!! そうすればUMADは終わりだ〜!! だーっはっはっは!!」

 

「そ、そーだ、そーだ! 報告してやるー!」

 

「M氏、K氏……」

 

 

 シンボリルドルフがゆっくり立ち上がり、2人の前に腕を組んで立つ。

 

 

「私は、何もされていない」

 

「「はぁ?」」

 

「もう一度言う。私はヤマブキドウザン氏に何もされていない」

 

「な、何言ってるんだ〜〜!? 確かにこの目で」「そ、そーだぞ!」

 

 

「……黙れ、痴れ者ども……!!!」

 

 

 ルドルフの威圧感で空気が痺れる。URAの2人はヒィ!と声を上げガクガクと震え出した。

 

 

「M氏、貴様のウマ娘を侮辱する数々の発言は到底許し難いものだ。挙句の果てにヤマブキドウザン氏の温情をも無下にした。URAには私自らが報告させてもらう。そして然るべき処分を受けてもらおう」

 

「な、ひぃ……!」

 

「たづな!」

 

 

 秋川理事長が横目でたづなに確認する。

 

 

「はい、あなた方の発言は全てレコーダーで記録してあります。特にM氏、あなたはレースウマ娘ではないウマ娘を差別し、そして敗北したレースウマ娘をも軽視しました。URA職員にあるまじき発言の数々。あなたには、レースを語る資格はありません……!!!」

 

 

 たづなの気迫も相当なものだった。彼女もウマ娘たちを心の底から愛し、応援し、支えたいと願う者だ。M氏のような人間を許せるはずがない。

 

 カツンとルドルフが一歩踏み出し、子供のように怯える2人を見下ろす。

 

 

「今後、トレセン学園に、レースウマ娘に二度と関わるな。もし関わったならば一生をかけて後悔する事になる。シンボリ家を無礼るなよ……!!!!」

 

 

 ア、アア……ばたり

 

 

 と、2人は気絶した。おっかねぇな、と言う源六郎。ルドルフはドウザンに振り返り、深々と頭を下げた。

 

 

「ヤマブキドウザン氏、この場で起こった事は全てレースに携わるこちら側の失態でした。大変ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません。トレセン学園を代表して、この生徒会長シンボリルドルフが謝罪いたします」

 

 

 ……ふん、とドウザンな鼻を鳴らすが、その顔は先と比べれば穏やかだった。

 

 

「ああ、その謝罪を受け入れよう。そして、悪かったな。殴っちまってよ。治療費はこちらに請求してくれ。話はついたな、帰らせてもらう」

 

 

 そう言って、ドウザンはジョンの所まで歩くと、彼女をヒョイと肩に抱えて会議室の出口に向かう。そして出て行く前に、彼女は振り返った。

 

 

「……シンボリルドルフ、お前の甘っちょろい夢は今のURAじゃ叶わねぇ。だが、もしお前がURAを変えられるのなら……その時は、手ぇ貸してやる」

 

「……ああ、楽しみにしていてくれ。ヤマブキドウザン」

 

 

 ふっ、と笑うと今度こそドウザンとジョンは出て行った。

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

「……決着!!! あぁ……辛うじてだが、丸く収まってくれたな。角間氏、後程改めてお礼を言わせてもらいたい。だが、まずはルドルフ会長を医務室へ連れて行こう」

 

 

 秋川理事長は毅然とした態度を崩していない。老人は「若ぇのに大したモンだ」と感心していた。

 

 

「会長、肩を……」

 

「ああ、すまないな、エアグルーヴ……」

 

「私も手伝わせろ……会長、すまなかった。私が側にいれば、こんな怪我はさせずに済んだかもしれないのに……」

 

「いやブライアン、それは違う。ヤマブキドウザンは相当な実力者だ。君でもきっと無傷ではすまなかった。君は角間源六郎を連れてきてくれた、それが最善の手だった。秋川理事長の慧眼には恐れ入ったよ」

 

 

 URAの2人は後回しにして、皆会議室を後にした。これで今度こそ、全て決着がついたのだった……

 

 

 

 

–––––

 

 

 

 

 ドウザンはジョンを肩に担いだまま地下通路を進む。少しずつジョンの意識がはっきりしてきたようだ。

 

 

「ドウザン様……もう、大丈夫です。降ろしてください。自分で歩けます……」

 

「無理すんな。あの技食らったの初めてだろ? まだ頭の中が揺れてるはずだ」

 

「っ……お手を煩わせて、申し訳ありません……」

 

 

 気にすんな、とドウザンは軽く返す。

 

 

「…………ドウザン様、あの男は何者なのですか? 『ヒトはウマ娘には力で敵わない』……その常識を軽く超えていました」

 

「……これは親父が言ってたんだけどよ。男なら一生に一度は地上最強を夢見るそうだ。だがそのほとんどがウマ娘という存在を目の当たりにして、現実を知り諦める」

 

 

 客観的に見て……そうだろう、とジョンは考える。

 

 

「だが……」

 

 

 とドウザンは続ける。

 

 

「世の中にはそれでもなお、ウマ娘をも超えて地上最強を本気で目指すバカな男たちがいるんだとよ。角間源六郎はそのバカな男たちのうちの1人だ。アタシも他に数人知ってるよ。でもそいつらはほとんどが裏の人間なのさ」

 

「……もう一つ質問が……ドウザン様はあの男とどういう関係なのですか?」

 

「……現UMAD理事長、アタシの婆ちゃんには昔、妹がいたらしい。病弱で長く生きられなかったらしいが……角間源六郎はその妹の旦那だ。アタシは婆ちゃんの妹を写真でしか見たことがないがな。角間の爺ちゃんが赤ん坊のマリンアウトサイダを拾った後、アタシはよく面倒を見に行ってたんだよ。アタシがまだ学生だった時の話だ」

 

「!……そう、だったのですか」

 

 

 2人は暫く黙ったままだった。そして不意に、ジョンが呟く。

 

 

「マリンアウトサイダは……レースで活躍できるのでしょうか?」

 

「……そればっかりは、分からねぇ。ただ、アイツは技で闘うタイプで、身体能力は実は並くらいなんだ。客観的に見たら……厳しいだろうな」

 

 

 すぅー、とドウザンは深く息を吸った。

 

 

「マリンアウトサイダに転向の理由を直接問いただしても、『更なる修行のためです』の一点張りでな。昔から頭の良い子で素直な性格なんだが、いざって時には絶対に言うことを聞かねぇんだ」

 

 

 全く、なんでレースをしたいんだか、とドウザンは困り顔になる。それは妹の心配をする姉の顔だった。

 

 

「まあ、辛いことも多いだろうが、少なくともUMADにはいつでも帰ってこれるようにしておきてぇ。アイツもアタシの『家族』だからな」

 

 

 そう言ってドウザンは優しく、寂しそうに微笑んだ。

 

 

 

 

 





次回

17話 『カワイイ』強者は爪を隠す


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17話 『カワイイ』強者は爪を隠す


 カレンチャンの合気道有段者関連の情報が少な過ぎるので、色々と独自に補完してます。


 

 

 

「……ハァ……」

 

 

 トレセン学園、栗東寮の一室で寝巻き姿のアドマイヤベガはため息をついた。椅子に座ったまま彼女は手元のスケジュール帳を確認する。そこには今度の連休の予定が書かれていた。マリンアウトサイダがクラスメイトと交わしたある口約束、それがついに実行に移されることとなった。

 

 

「アヤベさ〜ん、どうしたんですか? スケジュール帳を見つめてため息なんてついて。あ、もしかして……トレーナーさんとデートですか?」ニコッ

 

「違うわよ……だったらため息なんてつかないわ。せっかくの連休を静かに過ごせないことが確定しただけ」

 

「そうなんですか〜」

 

(暗にトレーナーとのデートなら嬉しいのに……って言ってるの気付いてないのかな)

 

 

 そんなブルーなアドマイヤベガと会話するのは、彼女のルームメイトのカレンチャン。300万人以上ものフォロワーを有するトレセン学園一『カワイイ』インフルエンサーである。彼女は自身のトレーナーをお兄ちゃんと呼ぶ生粋の妹キャラである。生粋のお姉ちゃんであるアドマイヤベガと同室になったのは必然と言えるのかもしれない。彼女も非常に可愛らしいパジャマ姿である。

 

 

「何をする予定なのか、聞いても良いですか〜?」

 

 

 ニッコニコな笑顔で尋ねるカレンチャン、対してアドマイヤベガはいつもながら仏頂面で答える。

 

 

「……そんな大した事じゃ……いや、未知数だから断言はできないわね」

 

 

 アドマイヤベガは片手で頭を押さえて言う。元来の面倒見の良さから、彼女は面倒事を抱え込む事が多い。

 しかし、それは人付き合いをこなしてる証拠でもある。だからカレンチャンはむしろそれを喜ばしく思っていた。

 

 

(アヤベさん、昔と比べて色んな表情をするようになったなぁ。本当にたまーにだけど、笑顔も見せてくれる……昔はそんな事も、なかったもんね)

 

 

 カレンチャンはかつてのアドマイヤベガを思い出していた。己を罰するように行き過ぎたトレーニングをする彼女を。仏頂面をしていても、その時と比べれば彼女は本当に明るくなった。だからカレンチャンはニコニコの笑顔で彼女の話を聞いていた。

 

 

 だが、ここから先、カレンチャンは『彼女にとって』思いもよらぬ事を聞いてしまう。

 

 

「マリンアウトサイダさん、知ってるでしょう? 彼女の実家、ここから離れた山奥にあるそうなの。そこにクラスのBNW3人とトップロードさん……それと、オペラオーとドトウも一緒に行くことになったのよ。キャンプだか修行だか、話がゴチャゴチャしててよく分からないのだけど、放っておいたら大変なことになりそうだし、行かざるを得なくなったというか…………今から頭が痛いわ」

 

 

 ピタリ、とカレンチャンの動きが止まった。

 

 

 

 

「え……マリンアウトサイダの実家って……『角間源六郎』の道場に……?」

 

 

 

 

 それを聞いたアドマイヤベガは思い起こすように宙を向いた。

 

 

「そう言えばマリンさんのお祖父さん、そんな名前だって言ってたかしら……カレンさん、知ってるの?」

 

 

 意外だ、という表情でアドマイヤベガはクルッとカレンチャンの方を向いた。するとカレンチャンは少し焦ったように手をブンブンと振った。

 

 

「い、いえいえ! そんな大したことではなくて、パパの知り合いにUMADの関係者がいて、それで何とな〜く聞いたのを思い出しただけです! マリンアウトサイダさんって、格闘ウマ娘界ではすっごく有名人ですし!」

 

 

 アドマイヤベガは相変わらずのジトっとした目でカレンを見つめる。

 

 

「ふぅん……そうだったの。まるで知り合いのように言ってたから、少し驚いたわ」

 

「ははは……そんなわけないじゃないですか〜、接点なんて有りませんし〜、会った事もないですよ〜」

 

 

 そう、彼女自身にマリンの(便宜上の)祖父との面識はない。しかし、彼女の『師匠』は違う。カレンチャンには人に知られざる秘密があった。それは彼女が『合気道の有段者』である事。彼女の師であるウマ娘は角間源六郎の直弟子なのである。

 

 

(……直接会ったことは無いけど、師匠の話を聞けば聞くほどに、師匠のお師匠さんは化け物だって印象しかないのよね。師匠が『今でも』本気で倒そうとしても軽くあしらわれるって……想像がつかないんだけど)

 

 

 この世界にはウマ娘をも超えて世界最強を目指すバカな男たちが居る……世間一般から一皮剥けた裏の世界でまことしやかに囁かれている噂だが、カレンチャンはその1人が角間源六郎という男で、マリンアウトサイダが彼の弟子である事は知っていた。

 

 ゆえに、マリンがトレセン学園に転入すると世間で騒がれていた時、学園内で最も驚き動揺していたのは実はカレンチャンだった。

 

 カレンチャンは「カワイイ」を追求するウマ娘である。その言動やイメージからかけ離れてるが、実は彼女は完璧主義者で自らに対して非常にストイックである。その精神性は「カワイイ」というよりも、スポ根熱血な世界のキャラクターに近い。ある意味武術家らしいと言えるかもしれない。

 

 能ある鷹は爪を隠す、という風に、彼女は自身が武術家である事を隠している。それも一重に「カワイイ」の追求の為であった。

 

 

(……マリンアウトサイダほどの実力者には、ちょっとした事でも勘付かれてしまうかもしれない。だから、彼女となるべく会わないように避けて来たけど……)

 

 

「あ……そう言えば、マリンさんこれからこの部屋に来るわよ。今日のお昼に小説本を貸す約束をしたのよ」

 

「……えっ!?」

 

 

 カレンチャンは予想外の事に驚く、アドマイヤベガが部屋に友人を呼ぶなど、今までの付き合いの中で一度もなかったからだ。

 

 

「ア、アヤベさんが人を部屋に呼んだ……!?」

 

「……なによ、その驚き方。別にいいでしょう」

 

「あ、いえ、別に深い意味はありませんよ! そ、そうだ! カレン、マヤノちゃんに次のウマスタの投稿について相談したい事があったんでした! ちょっと行ってきますね!」

 

 

 そう言って急いで出て行こうとするカレンチャンをアドマイヤベガは不思議そうに見ていた。

 

 そして、カレンチャンがドアを開けたらそこには……

 

 

 

「あっ、すみません……アヤベさんに用事があって来たのですが……」

 

 

 

 ちょうどノックをする寸前だったという姿勢で、マリンアウトサイダが立っていた。

 

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

「あら、もう来たのね。ごめんなさい、あの小説本は今から探すところだったの。少しだけ待っててもらえるかしら?」

 

 

 アドマイヤベガがカレンチャン越しに、入り口のマリンに声をかけた。

 

 

「あ、アヤベさん、どうもすみません。全然構いませんよ、ここで待ちますので」

 

 

 マリンはそう言うと、目の前でポカンとしている可愛らしいウマ娘と視線が交わった。そして、何かを思案する表情の後に言う。

 

 

「あなたは確か……カレンチャンさん……ですよね? ウマスタグラムやウマトックで凄く人気な方だとアヤベさんとトップロードさんから聞きました。私、最近クラスメイトからスマホでウマトックを見る方法を教わったので、少しだけ拝見したことがあります」

 

「……そ、そうなんですか! カレンの事知ってて貰えてすっごく嬉しいです〜! あなたはマリンさんですよねっ? 私もアヤベさんから時々お話を聞いてました、よろしくお願いします!」

 

 

 カレンチャンはニッコリと笑って挨拶をした。その持ち前のコミュニケーション能力により、今は特に不審には思われていないようだ。そして、マリンも笑顔で会釈した。

 

 

「はい、こちらこそ、よろしくお願いします。レースウマ娘としては私の方が後輩ですが」

 

 

 そして、マリンが握手を求めるように手を差し出した。カレンチャンはそれを見て、ほんの一瞬だけ躊躇うが、すぐに笑顔で握り返した。

 

 2人は笑顔で初対面の挨拶を交わす。

 

 

(うん、そうだよね。普通にしていれば多分バレないよね)

 

 

 と、カレンチャンが心の中で考えていると……

 

 

 

 

 

 

 ズシィッッッ!!!!!

 

 

 

 

 

 

「ッ!!!?」

 

 

 カレンチャンを突然、巨大な岩をポンと放り渡されたような『重さ』が襲った。それは、普通のレースウマ娘ならば絶対に知らない感覚……しかし、カレンチャンには馴染みのある感覚だった。

 

 

 『合気』……マリンは握手した右手を介してカレンチャンに『技』をかけていた。

 

 

「っ……!!!」

 

 

 それに対して、カレンチャンは反射的に『技』をかけ返す。抵抗しなければ、次の瞬間には地面に膝をついていただろう。それは同じ武術家としての防衛反応だった。しかし、流石は『カワイイ』の探求者、一瞬崩れた笑顔を彼女はすぐに取り繕った。

 

 

 

 

 ズシィィ……!!!!

 

 

 

 

「……!?」

 

 

 対するマリンも手から伝わる『重さ』に驚く。多少手加減していたとはいえ、ここまで対抗されるとは思っていなかった。しかし彼女の方も、その驚きを表情に出す事はなかった。

 

 

 ギリリ……!と繋いだ手が音を立てた気がした。

 

 

 ハタから見れば、2人のウマ娘が笑顔で握手をしているだけのように見えるだろう。しかし、その裏では非常に高度な武術戦が行われていた。

 

 

 

「……あら? 確かここに並べておいたはずなのに…………ん?」

 

 

 アドマイヤベガはふと入り口の方を向く。そこには無言の笑顔で握手をし続けるルームメイトとクラスメイトがいた。

 

 

「あなたたち……いつまで握手をしているのよ?」

 

 

 その声に2人はパッと手を離す。カレンチャンは汗ばんだ手を隠すように背中に回して振り返る。

 

 

「何でもないですよ〜、アヤベさん。ただ、格闘ウマ娘さんの手って結構柔らかいんだなぁって驚いて夢中で握っちゃってただけですっ!」

 

 

 いつものニコニコな「カワイイ」笑顔で答えるカレンチャンを見て、アドマイヤベガの一瞬怪訝な顔になったが「いつもながらよく分からない子ね」とそれ以上気にする事はなかった。

 

 

「マリンさん、ごめんなさい。あの本、ドトウに貸していたのすっかり忘れていたわ。すぐに取ってくるから、中で待っててもらえるかしら? ここの椅子、座って良いから」

 

 

 そう言いながらアドマイヤベガは足速に部屋を出ていく。彼女と入れ替わるようにマリンは部屋の中に入ったのだった。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 カレンチャンはアドマイヤベガが離れたのを確認するとゆっくりとドアを閉めた。そして、マリンの方へ振り返り、普段の彼女なら誰にも見せないムスッとした不満げな表情を見せる。そしてそのままベッドまで歩いて行き、ポスンと腰掛けた。

 

 

「……普通、初対面のウマ娘に『技』をかける? カレンがただのか弱いウマ娘だったらどうするつもりだったの?」

 

「その……すみません。前々からウマトックで見たり、校内であなたが歩くのを見かけた事があるのですが、どんな時でもあなたの姿勢が見た目に反して『あまりに体幹が整いすぎていた』ので気になっていたのです。そして、さっき手を握った時に『同類』だと確信して、つい……」

 

 

 はぁ……とカレンチャンはため息をついた。

 

 

「……この事、他の誰にも言わないでよね。アヤベさんにも、お兄ちゃんにだって言ってないんだから」

 

「お兄ちゃん……?」

 

「トレーナーにもってこと」

 

「はぁ、そうなのですか……その話し方が素のあなたなのですか? さっきとは大違いですが」

 

「……カレンは年上には敬語を使うよ。でも、突然『技』をかけてくるような失礼な先輩には使わないもん。例え、同じ合気道家でもね」

 

 

 ぷーん、とカレンチャンが頬を膨らませて横を向く。しかし流石は大人気インフルエンサー、その顔すらもカワイイとは恐れ入る。マリンは「そういえば、ライスさんもトレーナーさんをお兄さまって呼んでたな……よくある事なのかな」とぼんやり考えている。

 

 

「……本当に申し訳ありませんでした。私、相手が実力のある武術家だと分かるとつい血が滾ってしまうのです。ヤエノさんにも、初対面の時は失礼な事をしてしまいました……」

 

 

 マリンは恥ずかしそうに目を潜めた。室内に沈黙が訪れる。そして、マリンが意を決したようにカレンに問いかけた。

 

 

「その……お尋ねしたいことがあるのですが、カレンチャンさんは……なぜ、武術家であることを隠しているのですか?」

 

 

 カレンはツンと横に向けていた顔を戻してマリンを見る。

 

 

「カレン、で良いよ。別に大した理由じゃないわ。単にカレンの求める『カワイイ』とイメージが合わないだけ。カレンにはカレンだけの絶対のルールがあるの。ただ、勘違いしないで。別に格闘ウマ娘をどうこう思ってのことじゃないから。カレンは自分の武術には誇りを持っているつもりよ、一応ね」

 

「はぁ……なるほど、です」

 

 

 マリンは声を漏らす。

 

 

「後は、時代がまだ追い付いていないから……ってのもあるかな。最近は少しずつ変わってきてるけど、今でもレースと比べると格闘技全般は倦厭されがちだし、ウマ娘は『走るために生まれてきた』って言葉もあるくらい、レースこそがウマ娘にとっての至上の価値だって考える人は多いの。カレンがトレセン学園に転入したのも、純粋にレースウマ娘に憧れたからだし、その考えは間違ってはないと思ってるわ。個人的な意見としてだけど」

 

 

 転入という言葉にマリンは驚いた。

 

 

「カレンさんも、転入生だったのですか?」

 

「そうよ。でも、流石にあなたほどの騒ぎにはならなかったわよ。カレンはあの時はウマトッカーとしてそこそこくらいの知名度だったけど、全国覇者の格闘ウマ娘と比べれば可愛いものでしょ?」

 

 

 カレンチャンがニコッといつもの笑顔に戻る。

 

 

「でも……あなたのお陰で、格闘ウマ娘のイメージがちょっとずつ変わってきてるみたいよ。色んなSNSで、この前の宝塚記念の事が取り上げられて話題になってるわ。見てない?」

 

「う……私は、自分のことを見るのは……ちょっと苦手で……エゴサって言いましたっけ? 1度もそれをした事がないのです」

 

 

 カレンチャンはため息をついた。

 

 

「カレン的には信じられないけど……まあ、仕方ないか。あなたが山育ちで機械音痴ってのは武術家の間では結構有名な話だし」

 

 

 なんか同じことをどこかで聞いたぞ?とマリンは訝しんだ。カレンチャンはスマホで何かを検索しながら、話を続ける。

 

 

「あった、この呟きはかなり拡散されてるわ。『史上最大のフロック』と呼ばれる今年の宝塚記念、マリンアウトサイダが勝てたのは彼女の格闘ウマ娘としての実力からだ、という意見ね。武術の鍛錬により、レース中の転倒などによる負傷のリスクを軽減出来るのではないか。URAとUMADの関係にも何かしら進展が必要ではないのか……だってさ」

 

「!……そのようなことが……」

 

 

 マリンの脳裏に、ルリイロバショウの顔が浮かんだ。

 

 

「……私の幼馴染みが言ってました。走らないウマ娘は無価値ではないと私と証明したかった、と……でも、華やかなレースの裏で暗く冷たい現実に涙を流すウマ娘も大勢いる……私の走りは、それを少しでも変えられるものだったのでしょうか……?」

 

 

 カレンチャンはマリンの言葉に耳がピクンと動いた。彼女も知っているのだ。格闘ウマ娘とレースウマ娘、双方の現実を。

 

 

「……ま、そんな単純で簡単な話じゃないのは確かね。でも、風向きがほんの少しだけど変わってきてるのは事実よ。だからゴチャゴチャ考えるより、ひたむきに走り続けた方が良いんじゃないの? マリンさんは」

 

 

 ツンとした様子のカレンチャンにマリンは感心したように言う。

 

 

「カレンさんは凄いですね……ウマトックで見るあなたは非常に華やかなのに、その実とても見識が深くて、冷静沈着で、レースでも活躍している……とてもカッコイイです」

 

 

 マリンの言葉にカレンチャンの耳がピクンと反応する。一瞬目を丸くした後、ジトっとマリンを見つめて顔を横に向けた。

 

 

「そこはカレン的には『カワイイ』って言ってくれないと、嬉しくなんかないかな。でも……ありがと……『カッコイイ』なんて、言われたことなかったわ」

 

 

 マリンの純真な賛辞に、カレンチャンは内心でたじろいでいた。それを誤魔化すようにカレンチャンはマリンを問い詰める。

 

 

「それよりも! アヤベさんから、あなたの実家にクラスメイトと行くって聞いたんだけど。あんまり危険なことさせないでよね」

 

 

 突然の話題転換にマリンは目をパチクリとさせる。

 

 

「今度の連休の話ですか。多分、大丈夫ですよ。おじいちゃんは格闘ウマ娘以外には基本的に優しいですから」

 

「……だったら良いけど。もしアヤベさんに何かあったら、許さないから。カレンがあなたをボコボコにするから……本気で」

 

 

 カレンチャンは一瞬、武術家の顔になった。目の奥に冷たい闘志が渦巻いていた。インフルエンサーである彼女が普段決して見せない表情。それだけで彼女がどれだけアドマイヤベガの事を気にかけているのかが分かる。

 

 

「…………」ゴクリ

 

 

「そこで嬉しそうな顔しないで! 全く、格闘ウマ娘たちって好戦的過ぎると思うわ! カレンが合気道有段者って言ったら、絶対に喧嘩売られるに決まってるもん……それもカレンがこの事を黙ってる理由の1つなんだから」

 

 

 カレンチャンは自分が角間源六郎の孫弟子にあたることは、とりあえず今は伏せることにした。余計なことを言わないのはSNS発信者の基本中の基本なのだ。

 

 

「その……カレンさん。何はともあれ、あなたと知り合えたのは本当に僥倖でした。トレセン学園にも同じ『格闘ウマ娘』が居るのは……何というか、心強いです。良かったらですが、私たち……お友達になれませんか?」

 

 

 ジッと見つめてくるマリンを、カレンチャンは見つめ返す。そして、ピョンとベッドから立ち上がると、マリンの所まで歩いて行く。そして、ゆっくりと手を差し出した。

 

 

「……『技』、かけないでよ。さっきはかなり手加減してたでしょ。格下相手に遊ぶのは武術家の恥よ」

 

「……手加減はしてましたが、あなたが格下とは到底思えません。あの『合気』を真っ向から返せるのは相当な手練れだけです。いつか……本気で闘ってみたいです」

 

 

 2人は笑みを浮かべて、ガシッと今度こそ本当にただの『握手』をする。2人の武術家がお互いを心から認め合った瞬間だった。

 

 

 

 ガチャリ

 

 

 とそこへ、ちょうどアドマイヤベガが帰ってきた。

 

 

「マリンさん、待たせてしまったわね。ドトウが貸した本を取り出す時に、本棚を倒しちゃって……」

 

 

 アドマイヤベガは握手する2人を不思議そうに見つめた。

 

 

「……あなたたち、そんなに握手するのが好きなの……?」

 

 

 そして、ポツリと怪訝そうに呟くのだった。

 

 

 

 

 





次回

18話 山編:BNW & 覇王世代、修行中


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18話 山編:BNW & 覇王世代、修行中

 

 

 

 

 都市部から離れた郊外のとある山中……そこにマリンアウトサイダの実家である古びた道場がある。

 

 本堂横にある草の生えていない乾燥した土の広場。そこはかつて、道場の門下生たちが鍛錬をする場所だった。道場主は既に外部から弟子を取るのをやめていた為、長らくそこはマリンがたった1人で使っていた。

 

 現在は午前中で、太陽はまだ南中していない。しかし、それでも陽は容赦なくその威光を放ち、広場で横一列に並び立つ『ウマ娘たち』をかれこれ15分は照らし続けていた。

 

 彼女たちは皆、あの有名な「酔えば酔うほど強くなる拳法」の映画で主人公が行なっていた修行のポーズで静止していた。両手を突き出し、脚を開いて腰を落としたポーズ。そして頭の上に水の入った茶碗を乗っけている。

 

 正面左端から順番にメイショウドトウ、テイエムオペラオー、アドマイヤベガ、ナリタトップロードの『覇王世代』の4人、マリンアウトサイダを挟んで彼女の隣にビワハヤヒデ、ウイニングチケット、一番右端にナリタタイシンと続いている。

 

 山中は緑木が生い茂っているので涼しかったが、照りつける陽射しもあって皆だくだくと汗を流していた。ちなみにマリンは道着、他は皆体操服である。いったい何故このような状況になっているのか。ひとまず彼女たちの会話に耳を傾けてみよう。

 

 

 

「〜っ……ワッケ分かんない! 何でこんな事してるの、アタシたち……チケットが余計な事言わなければ良かったんだ。何が修行してみたいよ……せっかく山に来たのに」

 

「アハハ! でも凄いよ、タイシンはまだ1回もお茶碗落としてないもんね! アタシも負けないぞぉーーーー!!」

 

 

 そう、こんな状況になってしまったキッカケはウイニングチケットだった。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 マリンは7人のクラスメイトを連れて久々に実家に帰省した。そして皆がマリンの師である角間源六郎と挨拶をするなりいきなりチケットが

 

 

「アタシたち、ここに修行しに来たんです! マリンさんみたいに強くなりたくて!」

 

 

 と、真夏の太陽にも負けないキラキラした目で老人に言ったのだった。タイシンが「ちょっと、キャンプしに来たんでしょ!」と抗議するのもつかの間、ハヤヒデやトップロードも興味があるだの面白そうだのと囃し立てた。それを聞いた老人は好々爺な雰囲気で

 

 

「そうかそうか、こいつぁ久々に活きの良いウマ娘たちに会えたもんだな。良かろう、お前たち全員をこの山で鍛えてやろう。動きやすい格好に着替えて外に来い。まずはお前たちがどれ程のものか試すとしよう」

 

 

 そんな流れで、(一部不満をあらわにするウマ娘もいたが)8人のウマ娘たちは修行をする事となった。

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「なるほどな……マリン殿はこの修行を通してその強さを手に入れたのか! こうやって足腰と体幹を鍛え、更に猛暑に耐えて精神面のトレーニングをする! 流石は世代最強のウマ娘を育て上げた武人の修行だ……最初からこんなに過酷なら、この次は何が待っていると言うんだ!?」

 

 

 ビワハヤヒデが例の姿勢のまま、興奮気味にプルプル震えながら言った。隣のマリンはまだまだ余裕そうに同じポーズで静止している。しかし、彼女はハヤヒデの発言に何故か申し訳なさそうに答える。

 

 

「ハヤヒデさん、その……申し訳ないのですが、私はこんな鍛錬は『初めて』です……おじいちゃんは昔から、時々突拍子もなく変なことをさせるんです。その方が不測の事態に対応できるようになるとか、脳への刺激になって良いとか言うんですけど……多分、本人は面白がってるだけです」

 

「な、何だとッ……!? あ」

 

 

 ハヤヒデがガーン!と衝撃を受けた表情でマリンの方を向くと、その拍子に頭に乗せた茶碗がぐらりと揺れて地面に落ちてしまった。パシャン!と水がハヤヒデの足元に広がる。

 

 

「これこれ、集中せんといかんぞ。水をこぼすのはいいが、茶碗を落としたならその場で腕立て20回だ。始めなさい」

 

 

 建物の影で腰掛けに座る老人がパタパタと団扇を扇ぎながら言った。

 

 

「くっ……私としたことが! しかし、これも角間氏の鍛錬であるには違いない! やり遂げてみせるぞ、私は!」

 

 

 うおおおおおおおおお!とハヤヒデは腕立て伏せを全力でこなして、元のポーズに復帰する。すると、源六郎が彼女の頭に茶碗を乗せて水を注ぎ直した。

 

 

「ミドリ……お前、何かゴチャゴチャ言ってたな? そうかそうか、友人たちの前で格好をつけたがってんだな。良かろう」

 

 

 老人はポンポンポンポンと、マリンの両肩と両太ももに追加で茶碗を乗せて水を注いだ。しかも表面張力でこぼれないギリギリまで。これでマリンだけ茶碗の数が5つになった。

 

 

「お前は水を1滴でもこぼしたら腕立て100回だ」

 

「くぅっ……!!!」

 

 

 彼の直弟子なだけあって他と比べるとマリンには理不尽な条件が課された。彼女が以前カレンチャンに言った、おじいちゃんは格闘ウマ娘以外には基本的に優しいと言う言葉は本当のようだ。

 

 

「マリンさん、大丈夫ですか? そんなにお茶碗のせて……この姿勢で頭に1個乗せてるだけでも結構厳しいのに」

 

 

 隣のナリタトップロードがマリンを心配している。

 

 

「大丈夫……です……! でも……声出せません……!」

 

 

 流石のマリンもかなり集中しないと厳しそうだ。震えることすらも許されないので、小声でそのことをトップロードに伝えた。

 

 

「そうですよね、応援してます! 一緒に頑張りましょう! アヤベさんは大丈夫ですか?」

 

 

 そして、トップロードは自分の右隣のアドマイヤベガに声をかけた。この様な時でも気を配ることを忘れない彼女は学級委員の鑑だった。

 

 

「……大丈夫よ。こんなもの、なんてことないわ」

 

 

 アドマイヤベガは余裕のある様子で言った。彼女は相当に身体を鍛えているので、この程度なら難なくこなせている。彼女もタイシンと同じく修行に巻き込まれてしまった側だが、それでも真面目に鍛錬していた。それはなぜかと言うと……

 

 

「ハァーッハッハッハッ! やるじゃないか、流石はアヤベさんだ!」

 

 

 隣のオペラオーが汗を浮かべながらも余裕な様子だからである。弱音を吐いたらオペラオーに負けたように感じるからアドマイヤベガも意地になっている。

 

 

「……あなただって結構余裕そうね、オペラオー」

 

「ああ、そうともさ! 華やかなパフォーマンスだけが歌劇ではないからね、この様にサイレントに静止する技術ならば、ボクはとっくに習得済みなのさ!」

 

 

 そして、そんなオペラオーの右隣からは断続的に涙声が聞こえてくる。

 

 

「ああっ、またぁ!? ダメェ! スズメさんたち、それ水浴びする為のものじゃないのぉ! お茶碗に入ろうとしないでぇ〜〜! え、また飛んできた! これ以上増えたら、もう、あっ、あぁっ……ふぇぇぇぇぇぇん!」

 

 

 パチャアアン!と水を頭から被りびしょ濡れになるドトウ。そんな彼女の頭の上を3羽のスズメが跳ね回っている。

 

 何故かメイショウドドウだけが飛んできた小鳥に襲われて?いた。続けて飛んできた鳥たちも他のウマ娘たちには目もくれずドトウに集まってくる。彼女には動物に好かれる才能でもあるのだろうか。

 

 

「あぅぅぅぅ〜〜、もうこれで5回目ですぅぅぅぅぅ〜〜(泣)」

 

 

 と、涙目になりながらもしっかりと全ての腕立て伏せをこなすあたり、ドトウもかなりのフィジカルの持ち主である。

 

 

 そんな彼女たちを見て、老人も楽しそうに笑う。

 

 

「かっかっかっ、流石はトレセン学園のレースウマ娘たちだな。知名度相応に、いやそれ以上に鍛えられておる。お前たちのトレーナーの手腕も見事と言わざるを得ない。では、そろそろ次の修行に移るとするかの」

 

 

 全員、茶碗を地面に置くとグッタリとしていた。まだ、こんなのが続くの?とタイシンは文句を言ったが、チケットはまだまだ元気いっぱいと言うふうに楽しそうだった。

 

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

 場面変わって、そこは道場から20分ほど歩いたところにある大きな川。ザアザアと周囲に響く水流の音が耳に心地よい。その河原に8人のウマ娘たちが並んでいた。ちなみにマリンも体操服に着替えていた。

 

 真っ先に川辺に駆け寄ったナリタトップロードは目をキラキラさせてアドマイヤベガに言う。

 

 

「わぁ……綺麗! 凄く綺麗です! アヤベさん、川ですよ、川! 大きな川です!」

 

「見ればわかるわよ。はぁ……次は一体何をさせられるのかしら」

 

 

 口調は興味無さげなアドマイヤベガも、尻尾がわずかに揺れていた。眺めているだけでも涼しくなりそうな川辺の風景に、先の鍛錬での疲れが癒されていく。他のウマ娘たちも日頃とは違う自然の環境に気分が高揚してきていた。マリンも友人たちの反応にどこか嬉しそうだ。そんな彼女たちに、老人が腕を組んで言う。

 

 

「何だ、川がそんなに珍しいのか、都会っ子だのぉ。しかし、だからこそ良いってもんだ。違う環境に身を置くのは脳味噌に良い刺激を与えるからな。お前たち、一旦ここへ並べい!」

 

 

 老人の一声でウマ娘たちは一列に並んだ。彼が並々ならぬ実力者であると本能が感じ取っているのか、皆キビキビと体が動いてしまうのだった。

 

 

「まず、言っておかねばならん事がある。俺はトレーナーじゃねぇから走りの事はよく知らん。かと言って、お前たちに武術を教えるのも筋違いだろう。時間も限られている事だしの。だが、俺も伊達に年を食ってきたわけではない。お前たちに教えられる事は他にもある」

 

 

 老人の目つきが鋭くなる。その雰囲気に(マリン以外は)ゴクリと唾を飲む。

 

 

「良いか、よく聞け。ウマ娘もヒトも、身体を動かして行う全てのことは『生きること』の延長線上にある。見る、歩く、話す、それらの行動は全て厳しい自然の中を生き抜く為に有った。もちろん、『走ること』もじゃ」

 

 

 ふむ、とハヤヒデは頷く。他は数人、ほぉ〜という顔で老人の話に聞き入っていた。

 

 

「ゆえに、この山でワシはお前たちに『生きること』の一端を教えてやろう。それは必ず、お前たちレースウマ娘の走りにも、地下水脈のように繋がっている。それを学ぶのに最も大事なのは『野性』じゃ」

 

 

 野性……?とドトウが聞き返す。

 

 

「そう。『野性』は、お前たちウマ娘の一番の『強さ』だと俺は考えている。それはヒトにも無いとは言えんが、ウマ娘のソレはずば抜けておる。こと闘争において、ウマ娘ほど勝利に貪欲な奴らはいない。それはレースでも武術でも同じこと。お前たちなら知っているはずだ。内から炎のように猛り狂う、勝利への渇望をな」

 

 

 「………!」と皆の表情が引き締まる。老人はその見た目と釣り合わないほどの覇気を持って言った。

 

 

「今一度言うが、ワシはレースのことなんざ何も知らん。だが……お前たちの内に潜む『野性』を呼び覚ましてやろう」

 

 

 その老人の覇気に、トレセン学園からやって来たウマ娘たちはようやく実感した。この老人こそが本当に、世代最強の格闘ウマ娘の師であり、自分たちが束になって掛かかっても決して敵わない武の達人である事を……

 

 

「『野性』を目覚めさせる修行として、お前さんらは……」

 

 

 ゴクリ、とウマ娘たちが唾を飲む。

 

 

「そこの川で魚を取ってこい。そろそろ昼時だしの。この川の魚は大抵食えるから安心しな」

 

 

 ウマ娘たちはポカーンとした表情になった。マリンだけがハァとため息をついた。

 

 

「ええ、修行って魚釣りするの? アタシ結構得意だけど、釣竿は持ってきてないよ〜」

 

 

 チケットがそう言うと、老人はにこやかに答えた。

 

 

「何を言っとる? 素手だ、素手で捕まえてこい」

 

「え?」

 

 

 皆がシーンとなる。

 

 

「聞こえんかったか? そこの川に入って魚を素手で捕まえてこい、それが今日の昼メシだ。そうさな、1人頭2匹なら……16にオマケして20匹にするか。全員で協力して20匹獲るまでは川から上がらせないからの」

 

 

 腕を組んでニコニコ顔の自分の師にマリンは辟易して言う。

 

 

「おじいちゃん、それは流石に……ッ!!?」

 

 

 マリンがそう呟いた瞬間、皆の視界で老人が一瞬ブレたかと思うと、次の瞬間にはマリンに組み付いていた。

 

 マリンが必死に応戦するが、彼の実力は桁違いだった。抵抗虚しく彼女の身体は宙に放り投げられて、そのまま川にバシャアアアアン!と着水した。

 

 他のウマ娘たちはその攻防を見て固まるしかなかった。少なくとも、マリンが本気だったのは感じ取れた。だが、目の前の老人はそんな『世代最強の格闘ウマ娘』を事も無げに投げ飛ばしたのだった。

 

 

「ほれ、お前たちも行かんか。投げて欲しいのなら別だがの」

 

「あ、はいはーい! アタシ投げられた『バカッ! さっさと行くよ!』

 

 

 え〜、と残念そうな声を上げるチケットの手をタイシンが引っ張っていく。

 

 

「くぅ〜〜〜、燃えて来ました! 私たちなら、絶対に何とかなります! 力を合わせて頑張りましょう!」

 

「今のどこに燃える要素があったのよ……」

 

 

 おでこも目もキランと輝くトップロードにアドマイヤベガがつっこむ。8人のウマ娘による漁が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 

「ふぅ……素手で魚を捕まえろって、アタシたちは熊じゃないっての。でも、さっきよりかは幾分かマシかな、水も冷たくて気持ち良いし」

 

 

 太ももまで水につかる少し深い場所で、パチャパチャとタイシンは水面に手をひたす。その冷たく心地よい感覚に思わず笑みが浮かぶ。日差しの暑さもいっとき忘れる事ができた。しかし、そんな夢心地な彼女の背後から喧しいくらいに元気な声が近づいて来た。

 

 

「タイシンタイシンタイシーーーーーーン!!! そこ動かないで、おっきな魚がタイシンのとこに逃げていった!!!」

 

「えっ、うそっ、どこっ!? きゃっ!!」

 

 

 タイシンは足元に予想外に大きな黒い魚影が泳いでいるのを見て、いつもらしからぬ女の子な悲鳴をあげた。

 

 

「アタシに任せて、タイシン! うおりゃあああああああああああ!」

 

「ちょ、待って、チケット、うわぁっ!」

 

 

 ザッパーーーーーン!!! とチケットがタイシンの足元に飛び込み、大きな水しぶきが上がる。他の皆も何事かと視線を向けるのだった。

 

 

「よっしゃーーー!!! 獲ったどーーーーーーー!!!!」

 

 

 チケットが獲物を両手で掴んで、元気いっぱいに叫んだ。しかし、それを見ていた他の皆の顔は引きつっていた。

 

 

「……チケット、君の掴んだものをよく見てみろ。と言うか早く放してやれ」

 

「ん?」

 

 

 と、冷静なハヤヒデの言葉にチケットが自分が魚だと思って掴んだものに目を向けると……

 

 

 

 

 

「(ガボボボボボボッ、ガボボボ!!!)」

 

 

 

 

 

 片足を持ち上げられて、宙吊りで頭を川に沈められたタイシンがいた。

 

 

「ア……アハハ、間違えちゃった」

 

 

 チケットがパッと手を離すと、バシャン!とタイシンの身体は川へ落ちた。体操服ごと全身がびしょ濡れになったタイシンが鬼の形相で立ち上がる。

 

 

「チィィィィィィケェェェェェットォォォォォ!!!!!」

 

「ウワァァァァ!!! タイシン、ごめ〜〜〜〜〜ん!!!!! わざとじゃないんだよ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」

 

 

 待てコラァァァァ!!!とタイシンが目に青い炎を灯して逃げるチケットを追いかける。山奥に来ても彼女たちの騒がしさは相変わらずだった。そんな2人を見てBNW唯一の知能派、ビワハヤヒデはため息をつく。

 

 

 

「全く、あの2人は。これが修行だと言う事をわかっているのか? しかし、これでマリン殿の強さの秘密が分かったぞ。山での生活では食材もこのように自ら調達して来たのだな! 川の流れにに逆らいヒグマのごとく魚を獲れば、自ずと腕力も集中力も鍛えられると言うわけだ!」

 

 

 キラーンと彼女のメガネが光る。しかし、マリンはまた申し訳なさそうに返事をする。

 

 

「すみません、ハヤヒデさん……山の生活でも、魚は普通釣ったり、罠を仕掛けて調達します。素手で捕まえるなんて、時間と体力の無駄ですから……これも多分おじいちゃんの思い付きです」

 

「な、何だとッ……!?」  

 

 

 ガーンという効果音が聞こえそうな顔でハヤヒデは固まるのだった。

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

 BNWとマリンがいるところから少し離れた川下、覇王世代のウマ娘たちも何とか魚を捕まえようと悪戦苦闘していた。

 

 アドマイヤベガが額の汗を拭う。すでに全身が濡れていて、水も滴る良いウマ娘という感じである。

 

 

「ふぅ……それにしても、川に入ってるとはいえ暑いものは暑いわね。あのマリンさんでさえまだ1匹も捕まえられてないし、20匹なんてどうやって捕まえればいいのかしら……」

 

「う〜〜〜ん、何か作戦を立てる必要がありそうですね」

 

 

 近くにいたナリタトップロードがムムムと考え込む。キランと光るおデコがなんだか可愛らしい。

 

 

「魚の心配もあるけど……ドトウとオペラオーは大丈夫かしら? あの2人は放っておくとロクな事にならないから」

 

 

 そう言ってアドマイヤベガがオペラオーとドトウがいる方へ視線を向けると……

 

 

「ふえええええええええええん!!! 助けてえええええええええええ!!!」

 

 

 案の定、ドトウの身に何か起こったみたいだった。彼女の可哀想な泣き声が山中に響く。

 

 

「ドトウちゃんに何かあったみたいですよ! アヤベさん、行きましょう!」

 

「全く、あの娘は……」

 

 

 アドマイヤベガとトップロードは飛沫をあげながら離れた距離にいる2人の元へと急いだ。そこで見たものとは……

 

 

 

 

「いやああああああ!!! そんなにパクパクしないでえええええ!!! 私は餌じゃないですうううううう!!! なんで私のところにだけこんなにお魚さんが集まってくるのおおおおおおお!?(泣)」

 

 

 

 

 大量の魚の群れに囲まれて恐怖に震えているドトウの姿だった。彼女を中心に大量の魚が円を描くようにグルグルと回り、エサを求めるように口を水面から突き出していた。

 

 

「ハァーッハッハッハッ! 流石はドトウ、ヤギや鳥たちだけでなく魚までをも惹きつけてしまうとは! このボクも恐れ入ったよ、君こそが野生の王だ! ハァーッハッハッハッ!」

 

「オペラオーさああああん、助けて下さあああああい(泣)!!!!」

 

「残念ながらそれは無理だよ、ドトウ! なぜならボクは、魚には触れないからさ! ヌメヌメしててなんか気持ち悪いからね! ハァーッハッハッハッ!」

 

「そ、そんな〜〜〜〜〜〜!」

 

 

 ドトウの悲痛な声が響き渡る。そんな彼女に遠くからアドマイヤベガが声をかける。

 

 

「ドトウ、ちょっと待ってなさい! なんとかそこから引っ張り出してあげるから!」

 

「ふえええええええ、アヤベさ〜〜〜〜ん!」

 

 

 姉力を発揮してアドマイヤベガは魚群に近づこうとする。しかし……

 

 

「うっ……」

 

 

 ドトウの足元で黒い魚群が渦巻く中、時折無数の魚が水面からパクパクと口を出している。その光景に流石のアドマイヤベガも近づくのを躊躇った。なにせ、だいぶホラーチックな光景である。

 

 だが、お姉ちゃんな彼女は泣き顔のドトウを放って置くことなど出来るはずもない。彼女が意を決して踏み込もうとした時……

 

 

「うわぁナニコレ、お魚がいっぱいだあああ!」

 

 

 ウイニングチケットが目を輝かせて近づいて来ていた。どうやら彼女はタイシンからは逃げ切れたらしい。そして近づいた勢いそのままに魚群に突っ込んだ。

 

 

「今度こそ捕まえるぞおおおお!!! おりゃおりゃおりゃおりゃあああ!!!!!」

 

 

 ポポポポーーーンとチケットが魚を捕まえては投げを繰り返す。魚たちは放物線を描いて河原へと飛ばされる。そして河原には息を合わせたようにビワハヤヒデと彼女に捕まったナリタタイシン、そしてマリンが魚が跳ねて逃げないようにキャッチして集めていた。ハヤヒデがドトウを含めたその状況を観察して、チケットの行動を見越して待機するよう2人に指示していたようだ。知能派な彼女の面目躍如である。

 

 

「よし、チケット! そこまでで良いぞ、ノルマは達成した!」

 

 

 ハヤヒデが川岸からチケットに呼びかける。するとチケットは物足りなさそうに声を上げる。魚たちもチケットに恐れをなしたのか、いつの間にか水流の中へと逃げ去っていった。

 

 

「え〜〜〜、もうちょっと捕まえたかったのにな〜〜〜って、うわっ、ドトウちゃん!?」

 

「うわあああああああああん!!! チケットさん、ありがとうございますうううううう!!!」

 

「あはは、ヨシヨシ。怖かったね。でもドトウのおかげでたくさん魚を捕まえられたよ!」

 

 

 抱きついたドトウの頭をチケットが撫でる。ずぶ濡れになった2人はなぜだか神々しく見えた。アドマイヤベガもホッとしている。そんな2人を見て老人は声を上げて笑った。

 

 

「かっかっかっかっ、ウイニングチケットにメイショウドトウ、2人は生命力に溢れているのぉ! もしかしたら、お前たちの中で一番に長生きするのはこの2人かもしれんな」

 

 

 本当にそうかもしれないな、とマリンは妙に納得して心の中で独り言ちた。

 

 

 結果として、ウイニングチケットとメイショウドトウの大活躍?により、皆2つ目の修行を完遂できた。その後は獲った魚を枝に刺して焼き、皆で仲良く食べるのだった。

 

 

 しかし、老人を含めた全員がまだ知らなかった。ウマ娘たちの本当の試練はここからであったことを……

 

 

 

 

 

 





次回

19話 山編:ゾンビ鬼と覇王&ドトウ誘拐事件


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19話 山編:ゾンビ鬼と覇王&ドトウ誘拐事件

 

 

 

 

 山中を2つの影が疾走する。今そこでは追う者と追われる者の緊迫した駆け引きが行われていた。

 

 

 

 ダッダッダッダッダッ!!!

 

 ザザザザザザ!!!!

 

 

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ!」

 

 

 『敵』に追われ、先を駆けているのはナリタタイシンだ。参加したくもなかった修行だが、簡単に捕まるのは彼女のプライドが許さなかった。

 

 そして彼女を追うのは、同じBNWと呼ばれる仲間の内の1人、ビワハヤヒデだった。普段なら仲間には優しい眼差しを向ける彼女も、今は獲物を追う狩人を顔でタイシンを追う。山中という環境に彼女の中の『野性』を刺激されたのだろうか。

 

 

 この様な状況になった理由はお察しだろうが、これがマリンの祖父による3番目の修行なのだった。有体に言えば子供の遊びでよくある『ゾンビ鬼』。最初に鬼を決め、捕まった者も鬼となって他の者を追う。

 

 最初はマリン1人が鬼となって他7人を追う予定だったが、アドマイヤベガが山に慣れてないウマ娘もいるからあまり時間をかけると危険だと意見した結果、鬼役はマリンとアドマイヤベガの2人で開始する事になった。

 

 BNWをマリンが追い、他の覇王世代をアドマイヤベガが追った。こと走る事に関してはウマ娘は手加減は出来ない。特に普段はレースで競い合う仲である彼女たちは森の中で白熱のレースを繰り広げていた。

 

 

 修行開始から数刻、現時点でマリンはチケットとハヤヒデを捕まえていた。後は残すタイシンを3人で追い詰めれば良いだけなのだが、彼女の秘めた才能が開花したのか、山中を逃げるタイシンは3人がかりでも簡単に捕まらなかった。

 

 タイシンは3人を翻弄し、一度振り切った後に再びハヤヒデと出くわしたという状況だった。

 

 

 

 

 ダッダッダッダッダッ!!!

 

 ザザザザザザ!!!!

 

 

 

 

「流石はタイシンだな! 障害物の多い林の中で体躯を活かした走りはお手のものか!」

 

「挑発のつもり? 残念だけど、そんな安い手には乗らないよ。ふっ!!」

 

 

 ダンッ!とタイシンが軽やかに倒木を飛び越える。木々を縫うように走るその姿はどこかの世界のレース中に見た気もするが、気のせいだろう。猟犬のように後を追ってハヤヒデも倒木を飛び越える。

 

 

「なに、君の気を一瞬でも逸らせれは十分さ。今だ、チケット!!!」

 

「っ!!!?」

 

 

 ハヤヒデの掛け声と共に、タイシンの目の前に木陰からウイニングチケットが飛び出した。タイシンを通せんぼするように、彼女は身体を大きく開いて待ち構える。

 

 

「凄い、ハヤヒデの作戦通りだ! タイシン覚悟ーー!!!」

 

 

 タイシンの走るルートは左右の木に邪魔されて横方向には逃げ場がない。後方からはハヤヒデが迫っている。となると、タイシンが取れるルートはただ1つ。それを彼女は天性の勘で判断する。ある意味で彼女はBNWの中で最も野性的である。

 

 

「ふっ!!!」

 

 

 タイシンはチケットが飛び出すのを見た瞬間からノータイムで『加速』した。彼女の加速力は全ウマ娘の中でもトップと言っても過言ではない。日光が遮られた森の中で、チケットの視界で眼前を迫ってきた彼女が、まるで影のように消えてしまった。

 

 

 ズシャァアアッッ!!!

 

 

「えっ!?」

 

 

 と、チケットが困惑の声を上げた時にはタイシンは既に彼女の『後方』を走っていた。

 

 タイシンは加速しトップスピードに乗った瞬間にスライディングし、サッカーボールのようにチケットの下を『股抜け』したのだった。

 

 彼女はその速度を維持したまま姿勢を戻して駆けていった。通せんぼしようとチケットが足を広げていたのが仇となった。

 

 

「チケット、後ろに逃げたぞ! 彼女を追うんだ!」

 

「ええええええ!? 捕まえられると思ったのに!」

 

 

 ダッダッダッダッダッ!

 

 

 と、タイシンの足音が遠ざかる。チケットが振り向いて走り出した時には既に8メートルは差が開いてた。タイシンが逃げおおせたかと思われたその時……

 

 

「策は二重に張るのが基本ですよ、タイシンさん!」

 

 

 ハヤヒデが想定していた別のルートで待機していたマリンアウトサイダが飛び出して来て、タイシンと並走するように並んだ。あと少しでタイシンは触れられる距離に詰め寄られた。しかし、彼女は動じていなかった。

 

 

「それも想定済み! ハヤヒデがチケットだけに大役を任せるはずないじゃん!」

 

 

 ええーー、ひどい!と後方でチケットが叫ぶがそんなのはどこ吹く風でタイシンは姿勢を低く構えて、瞬間的にマリンとは逆の方へカーブした。マリンはそれに反応出来ず、ワンテンポ遅れて方向転換した。

 

 

(癪だけど、アタシは身体が小さい分逃走ルートの選択肢は他のウマ娘より多い。このまま撒いてしまえば……!)

 

 

 再び追手からリードを得たタイシンは茂みの隙間を潜るように駆け抜けた。この局面は自分の勝利だ、と彼女は確信した。

 

 が、次の瞬間……彼女の視界は反転した。

 

 

 

 グインッ!!!

 

 

 

「えっ!? うわああああああああ!!!」

 

 

 

 タイシンの左足首に何か蔦のような物が巻き付いて、彼女の身体を宙にグイィィン!と引っ張り上げた。そのままタイシンはブランブランと宙吊りになる。彼女は訳も分からずに足の蔦を外そうともがくが、輪のような構造で締め付けられていてどうする事も出来なかった。

 

 

「ウソ!? 何よコレ、トラップ!? こんなのアリ!?」

 

 

 宙吊りのタイシンの下にマリンが駆けて来てズザザッ!と足を止めた。そのまま彼女はタイシンに向かって話しかける。

 

 

「すみません、タイシンさん。さっきのは嘘です。策は三重に張るものですよ。卑怯と思われるでしょうが、山では使える物は全て使わなければ生き残れません。タイシンさんがあまりに手強かったので、私も本気を出さざるを得ませんでした」

 

 

 タイシンはこれ以上足掻くのは無駄だと悟り、大人しくそのままにぶら下がった。

 

 

「はぁ……分かった。降参する。とにかくさっさと降ろしてくれない? 川でも森でもこんな風に宙ぶらりんになるなんて、サイアクの日だ……」

 

 

 タイシンは先の川での修行でチケットに逆さ吊りにされて死にかけたのを思い出していた。

 

 マリンがタイシンをゆっくりと地面に降ろしたタイミングで、チケットとハヤヒデも駆け付けてきた。ひとまずこれでBNWは全員捕まったのだった。

 

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

「それにしても、タイシン凄かったなぁ! 目の前から消えたと思ったらいつの間にか後ろにいたし、魔法を使ったのかと思っちゃった!」

 

「ああ、私も見ていたが見事だったな。まさか君を捕まえるのにここまで苦戦するとは思っていなかったよ。みくびっていた事を謝罪しよう」

 

 

 チケットとハヤヒデがタイシンの逃走劇を賞賛した。対するタイシンは肩で息をしながら地面に座っていた。

 

 

「……別に大した事ない……ただアンタたちには簡単に捕まりたくなかっただけだし。結局は罠にかかって格好つかないし。」

 

 

 タイシンはぶっきらぼうに言った。

 

 

「そんな事ありませんよ。ハヤヒデさんとチケットさんと協力して罠を張った場所まで追い込まないと、あなたを捕まえられませんでした。山に住み慣れた者でもあそこまで走るには長い年月がかかるのに……本当に凄いですよ、タイシンさんは」

 

 

 マリンは感心したように笑みを浮かべて言った。

 

 

「……ふぅん。まあ、そう言うならそうだって事にしておく。これ以上走るのも疲れるし、ちょうど良かった」

 

 

 タイシンは立ち上がってお尻についた木の葉をパッパッと払う。3人の言葉を聞いて尻尾がかすかに揺れている。

 

 

「で、後は覇王世代たちを捕まえれば良いんでしょ? さっさと終わらせてキャンプしたいんだけど。本来の目的はそれだったでしょ」

 

 

 照れを隠す様にそっぽ向いてタイシンは言った。それにマリンが答える。

 

 

「最後に別れた時、アヤベさんは確かトップロードさんを捕まえてました。だから後はオペラオーさんとドトウさんですね。もう捕まっているかもしれませんが」

 

「ふむ、ならばアヤベ君と合流するのが先決だな。日が暮れては危険だし、急ぐとしようか」

 

 

 そうして、マリンがおおよその当たりをつけて皆を先導した。草を踏み、落ち枝の折れる4人の足音が森の中に響く。

 

 

「ふふん、ふんふ〜〜ん♪」

 

「……何、チケット? 鼻歌なんて歌って」

 

 

 鼻歌を歌うチケットに、タイシンは振り向いて目を細めて言う。

 

 

「だってアタシ今とっても楽しいんだもん! タイシンやハヤヒデとこんな風に遊ぶなんてとっても新鮮だし!」

 

「そうだな。確かに私たちはトレセン学園で知り合ったからな。だが、こうやって童心に帰って共に野山を駆け回るのも、良い思い出になる。私もチケットと同じ気持ちだよ」

 

「……まぁ、楽しいのは否定しないけどさ。ほんの少しだけ……だけど」

 

 

 そんな3人の会話をマリンは先導しながら黙って聞いていた。

 

 

(そう言えば、ルリとは修行と称した取っ組み合いばかりをしていてたけど、今日みたいに山を駆け遊び回ったこともあったな……でも今はもう、私はルリとは違う道を進んでしまっている……)

 

 

 マリンは昔を思い出して、懐かしい気持ちになると同時に一抹の寂しさも覚えた。すると、後方から元気いっぱいな声が聞こえてきた。

 

 

「もちろん、マリンさんともだよっ! ねえねえ、そう思わない? アタシやっぱりこの山に遊びに来て良かった! ありがとう、マリンさん!」

 

 

 ガバッとチケットがマリンに背中から飛んで抱きついてきた。彼女は『シリウス』の皆と初めて会った日もこの様にされたのを思い出した。背中に感じるチケットの体温が、そのまま彼女の元気さと優しさの現れなのだと感じた。

 

 

「そうだな、私からもお礼を言わせて欲しい。ありがとう、マリン殿。君と出会え、友人となれた事を私は喜ばしく、そして運命的だと思っているよ」

 

「何、突然2人とも。こんな時によくそんな恥ずかしい事を言えるね。でも……まぁ、マリンと友達になれたのは……良かった……とは思ってるよ」

 

 

 いつの間にかハヤヒデとタイシンも並んで歩いていた。性格も何もかもが全く違うBNWの3人だが、何となく彼女たち根底にある優しさは共通しているんだ、とマリンはふと思うのだった。

 

 

「私の方こそ、とても嬉し…………ああっ!!!」

 

 

 マリンは返事をしかけた時に、とある事を失念していたのに気付いて声を上げてしまう。チケットがその声に驚いてを目を丸くする。

 

 

「えっ、えっ! マリンさん、どうしたの?」

 

「さっき仕掛けたタイシンさん捕獲用の他のトラップを回収するのを忘れていました! ここに他所の人が入ってくる事は殆どないのですが、万が一のことがあってはいけないので回収しに戻らないと……」

 

 

 その話にタイシンの耳がピクンと動いた。

 

 

「え、ちょっと待って、アタシを捕まえる為にどれくらい罠を仕掛けたの?」

 

「8ヶ所ですね。タイシンさんの通りそうなルートを予測して、後はそのエリアにチケットさんとハヤヒデさんと追い込む作戦でしたので」

 

「ゲッ……そんなにガチだったの……?」

 

「設置場所は私にしか分からないと思うので、私が回収しておきます! 皆さん先に行ってアヤベさんたちと合流して下さい」

 

 

 マリンはチケットの腕を優しく外そうとするが、逆にチケットはギュッと更に強く抱きしめるのだった。

 

 

「チケットさん……?」

 

「もう、マリンさん。もうちょっとアタシたちを頼ってもいいのに」

 

「そうだぞ、マリン殿。武術家の気質なのか何でも1人で行動しがちなのは良くないぞ。どこかの誰かさんみたいにな」

 

「ちょっとハヤヒデ、何でアタシを見てんの。もう、1人でやるよりみんなで終わらせた方が効率的って事でしょ。場所さえ教えてくれればアタシたちも手伝えるから、さっさと戻るわよ」

 

 

 タイシンがくるっと翻って来た道を戻り始めた。彼女を追って他のウマ娘もUターンする。交流に疎いマリンは、何だか心がポカポカするのだった。トレセン学園へ転入して、今のクラスに入ったのは本当の意味で幸運だったんだな、としみじみと感じ入る。

 

 

「ねぇ、マリン。トラップ仕掛けるのって、この山ではよくやるの?」

 

 

 タイシンが振り向いて尋ねた。

 

 

「そうですね。あまり頻繁にはやりませんが、定期的に張っている感じです。イノシシが畑を荒らす事もあるので。もしかしたら、過去に設置して回収し忘れたものもあるかもしれませんけど……ウマ娘ならさっきのタイシンさんの様にとっさの状況だったり、余所見しながら歌ってたりしない限りは引っかからないと思います。あくまで対野生動物のものですから」

 

「へぇ〜歌いながらか〜、なんかオペラオーは引っかかりそうな気がするね!」

 

「こらチケット、確かにオペラオー君なら引っかかった後も歌っていそうだがそんな言い方は良くないぞ」

 

「ハヤヒデ、それフォローになってないから」

 

「オペラオーさんは、ああ見えて洞察力と観察力には目を見張るものがあります、恐らく私たちの中で最も。きっと罠に掛かったりはしません。それらを発揮さえしていれば、ですが」

 

 

 それを聞いてハヤヒデはふむ……と顎に指を当てた。

 

 

「マリン殿は随分とオペラオー君を買っているんだな」

 

「ええ、そう……ですね。オペラオーさんは本質を見抜く力がずば抜けてます。歌劇の様に豪快で喋々しい振舞いが目立ちますが、その実誰よりも良く周りを観察しています」

 

 

 そう、マリンは覇王世代と数ヶ月過ごして、オペラオーの洞察力の異常さに気付いていた。何かしらトラブルが起こった時に、彼女は未来を読んでいたかの如く解決策を導き出すのだ。

 

 

(私が転入する前の正月に行われた『カルタ大会』では、参加を表明していなかったアヤベさんを勝手に登録していたお陰で難を逃れたとか……そして、彼女は相手を身体面・精神面において把握する能力もある。正直、恐怖を覚えるほどに)

 

「もし『最も敵に回したくない相手』は誰かと問われれば……私はオペラオーさんを挙げると思います。彼女は格闘ウマ娘としても活躍できるかもしれません……まぁ、殆ど勘のようなものですが」

 

 

 マリンとBNWがそんな会話をしているちょうどその頃、2人のウマ娘がフラグを回収したかのように、トラブルに巻き込まれていた……

 

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

「ハァーッハッハッハッ! 見たまえ、ドトウ! 森の中で草木と戯れる喜びを謳っていたら身体が天へと舞い上がったぞ! でもせめて向きは逆が良かったな。気分が……しかし、今だからこそこれを歌に昇華せねばなるまい、待っていてくれ森の精霊たちよ!」

 

「オ、オオ、オオオ、オペラオーさああああん!!! 舞い上がったと言うよりは吊し上げられてますうううう!!! ど、どどど、どうすればばばばば!?」

 

 

 ぶらんぶらーんと地上2メートルくらいの高さで揺れるテイエムオペラオーの下で、メイショウドトウが混乱していた。

 

 

「とと、とにかくオペラオーさんを降ろしてあげないと、えっとえっと、どこかの木にロープとか繋がっているはずですうううう! さっきお猿さんも見かけましたし、いたずらされる前に何とかしないとおおお!」

 

 

 ドトウが周囲の木を見渡していると、彼女の背後の茂みからガサガサと音が聞こえた。その気配に彼女はビクッと身体を震わせた。

 

 

「ひぃえっ! だ、誰ですかあぁぁ!?」

 

 

 ドトウが振り返って後ずさると、茂みから出てきたのは……

 

 

 

「プキー、プキー、プキー」

 

 

 

 小さな小さなうり坊だった。目がくりくりとしていて丸っこい体つきの猪の赤ちゃんである。

 

 

「か…………可愛いですううううぅ」

 

 

 その小さな来訪者にドドウは思わず声を漏らした。小さなうり坊はトテトテと草を踏みながらドトウに近づいてきた。

 

 

「どぉしたんですか〜、うり坊さん? お母さんとはぐれちゃったんですかぁ〜?」

 

 

 うり坊に顔を近づけてドトウはバターが溶けたかのような笑顔になる。目が離せないくらい愛くるしいその生き物に夢中になり、彼女は周囲の変化に気付くのか遅れた。

 

 

「ド、ドトウ……ボクたちはもしかしたら、カタストロフな状況に身を投げてしまってはいないかい? ゆっくりと周囲を見てくれ、ゆっくりだよ……」

 

「え? オペラオーさん、今何と言いましたか?」

 

 

 と、ドトウがうり坊を抱えてオペラオーの方を向くと

 

 

「…………え?」

 

 

「ブモモモモモモ……!」

 

 

 巨大な猪がのっしのっしとドトウへ向かって近づいていた。ぷきー!とうり坊はドトウの腕の中から跳ね出てその巨大猪の元へ駆けていく。どうやら親子猪だったようだ。

 

 

「ひぃやああああああっ!!!」

 

 

 ドトウが尻餅をついて後ずさる。だが、そしたらまた背後に何か巨大な気配を感じた。彼女が冷や汗を流しながらゆっくりと後ろを振り向くと……

 

 

「ウウウウウウゥゥ……!」

 

 

 唸り声を上げる、巨大猪よりも遥かに巨大な熊がやってきていた。獰猛な目つきでドトウを睨みつける。森のクマさんなんてメルヘンさはカケラもない、純然たる野生の存在であった。

 

 

「ひゃわあああああああああああああああ

!!!!!」

 

 

 可哀想なドトウ。彼女の悲鳴が森中に響き渡った……

 

 

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 

 

「!? 今のは、もしかしてドトウの声……」

 

 

 ピクピクと青い耳カバーを付けた耳が動く。山中のとある地点、鬼役のアドマイヤベガはナリタトップロードと共にドトウとオペラオーを探している。

 

 

(あの娘たちは放っておくと絶対にトラブルに巻き込まれる。何かが起こる前に捕まえたかったのに……!)

 

 

「アヤベさん! 今の声……もしかしたら大変なことが起こっているかもしれません。声が聞こえた方へ行きましょう! きっとマリンさんたちにも聞こえたはずです! そこに向かえば合流できるかもしれません!」

 

 

 トップロードも真剣な顔付きになる。彼女もドトウとオペラオーの事はよく理解していた。とにかく、今は急いでドトウたちを助けに行かなくてはならないのだと、2人は目線で確認し合った。向きを変えて、颯爽と走り出す。

 

 

 ダッダッダッダッダッ!

 

 ダッダッダッダッダッ!

 

 

 駆けていく2人の足音が綺麗に重なっていた。せめて杞憂であれば良いのだが、オペドトは経験上またしても予想外の事に巻き込まれていそうな気がしてならない。そんな思いを胸に、2人は木々の間を走り抜けていった。

 

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

「あ、アヤベさん! トップロードさんも!」

 

 

 アドマイヤベガとナリタトップロードが声のした方へ走ると、マリンとBNWの姿があった。

 

 

「マリンさん!? そっちは4人とも居るのね……良かった。さっきの悲鳴、聞こえていたでしょ? ドトウは……オペラオーはどこに居るの!?」

 

「分かりません……私たちもつい先程ここに来たばかりです。ここにドトウさんとオペラオーさんが居たのは確かですが、今はどこに居るのか……」

 

 

 悲鳴が聞こえた方向にある開けた場所に、ドトウとオペラオーを除いた6人のウマ娘が集まっていた。マリンは生えている木の1本に近づいて言う。

 

 

「この木を軸にして獲物を吊り上げる罠が作動した形跡があります。恐らく過去に回収されなかったものです。どちらが罠に掛かってしまったのか分かりませんが、不可解なこと……残された獣臭が強い。大型の動物が複数匹集まっていないとここまでは匂いません」

 

 

 それを聞いてアドマイヤベガの顔が青ざめる。

 

 

「まさか……2人がここで……襲われて……!」

 

「いや、その可能性は低い」

 

 

 ビワハヤヒデが眼鏡の位置ををクイっと直して言った。

 

 

「襲われたにしては血痕などが残っていないし、この場所が荒れている様子も見受けられない。2人が動物に誘拐された……と言われた方が現状納得がいく」

 

「えええ!? で、でも誘拐って、この山の動物ってそんな事するんですか、マリンさん?」

 

 

 ハヤヒデの推測を聞いて、トップロードがマリンに尋ねた。

 

 

「……普通はあり得ないですが、山で長年生活していれば、不思議な事の7つや8つは経験します。可能性はゼロだ、とは断言出来ません」

 

「ねえ、誘拐かどうかは分からないけどさ。時間が経てば経つほどマズいって事には違いないでしょ? とにかく直ぐにあの2人を探した方が良いと思うんだけど」

 

 

 タイシンがそう言った瞬間、少し離れた場所でチケットが声を上げた。

 

 

「おーーーい、みんな! こっち来て!」

 

 

 どうやらチケットが何かを発見したらしい。皆でそこまで駆けていくと、チケットは手に紙切れの様な物を持っていた。

 

 

「みんな、ここにこんな物が落ちてたんだ! 何か手掛かりにならないかな!?」

 

「これは……」

 

 

 マリンがチケットからその紙切れを受け取る。そこには……優雅にポーズを決めるテイエムオペラオーの姿と彼女の直筆サインが記してあった。

 

 

「これ、オペラオーのブロマイドだわ……こんな山奥にまで持ってきてるなんて、動物にでも渡すつもりだったのかしら」

 

 

 マリンの手元を覗き込んでアドマイヤベガが呆れた様に言った。

 

 

「あ、皆さん! あそこの茂みの方にも!」

 

 

 トップロードは走り出して、茂みの根元から同じブロマイドを拾い上げた。他のウマ娘もトップロードの周囲に集まる。そして、マリンは他の痕跡にも気づいてしゃがみ込んだ。

 

 

「……これは……獣の毛と、微かですが足跡もあります。これらとオペラオーさんのブロマイドを辿っていけば、誘拐された2人の居場所に辿り着けるかもしれません」

 

「そっかあ! オペラオーはブロマイドを落としてアタシたちにメッセージを送ったんだね!」

 

「まるでヘンゼルとグレーテルだな。パン屑ではなくブロマイドというのがオペラオー君らしい」

 

 

 チケットとハヤヒデに顔に笑みが浮かぶ。ドトウとオペラオーが無事だという希望が見えてきた。

 

 

「ハァ……オペラオーの変な目立ちたがり精神が役に立つ事もあるのね。流石、鋼鉄のメンタルの持ち主ね。でも、ドトウはきっと怯えているわ。急いで追いましょう。時間が惜しいわ」

 

 

 アドマイヤベガもいつもの調子を取り戻したようだ。そのキリッとした顔にマリンは頼もしさを感じた。流石はお姉ちゃんと言ったところだ。

 

 

「はい、本来なら救助を要請するところですが、アヤベさんの言う通り時間が惜しいです。ウマ娘6人ならば多少の事態には対応できるはずです。万が一、戦闘となった場合は私が前へ出ます。急ぎましょう!」

 

 

  マリンの言葉に他のウマ娘たちは顔を見合わせてコクンと頷いた。いざ、囚われたドトウとオペラオーを救うべく、6人のウマ娘の救助隊は動き出したのだった。

 

 

 

 

 

 

……

………

 

 

 

 

 

 

「……もしかしたら、2人はあの中に連れ去られたのかもしれません」

 

「あの中って、あの大きな洞窟のこと!? いかにも何かがいそうで怖いよおおお……」

 

「マリン殿はここへ来たことはあるのだろうか?」

 

「いえ、初めてです。小さい頃から1人で移動して良い範囲は厳しく教え込まれていたので……まさか、こんな奥まで来なければならないとは思いませんでした」

 

 

 マリンとチケット、ハヤヒデが見つめる先には、入る者をことごとく飲み込まんとするかの様な大きな洞窟があった。皆も、まさかこの様な場所に導かれるとは思ってもいなかった。6人のウマ娘の間に緊張が走る。

 

 

「あっ! あれ、オペラオーちゃんのブロマイドですよ! と言う事は、ここで間違いありません。2人はこの奥に居ます!」

 

 

 トップロードが入り口付近に落ちていたブロマイドを拾い上げた。ゴゴゴゴゴと奥から音が響いてきそうな雰囲気がその洞窟にはあった。

 

 

「……行くわよ」

 

 

 アドマイヤベガが先陣を切って歩き出した。そんな彼女をビワハヤヒデが呼び止める。

 

 

「待つんだ、アヤベ君。ここは慎重に進むべきだ。何が潜んでいるかも分からないのだぞ」

 

「でも手遅れになったらどうするの! まずは2人の無事をこの目で確かめるのが先よ!」

 

「ちょっと、口論しても仕方ないでしょ! ここはこの中で1番山について詳しい奴に従った方が良いと思うんだけど」

 

 

 タイシンの声で皆がマリンの方を向いた。マリンは指を顎に当てて考えていた。

 

 

「……まず2人の無事を確認しなければ、その後の作戦の立てようがありません。洞窟の中を行きましょう。獣の棲家なら、少なくとも有毒ガスのような脅威は無いはずです。一列に並んで、安全を確認しながら進みましょう。私が先頭になります」

 

 

 マリンを先頭に、アドマイヤベガ、ナリタトップロード、ビワハヤヒデ、ウイニングチケット、殿はナリタタイシンという布陣となった。6人は覚悟を決めて、洞窟に足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

………

……

 

 

 

 

 

 皆、緊張から無言で洞窟内を進む。独特の冷んやりした空気が肌をくすぐる。入り口からの光で中は見やすかったが、奥の方は闇が続いていた。

 

 

「ううう、何だか不気味……あの2人は本当に大丈夫かなぁ?」

 

 

 チケットが不安そうな声を上げると、先頭のマリンが立ち止まった。連鎖して後ろのウマ娘も次々と立ち止まる。

 

 

「マリン殿、どうかしたのか?」

 

「……この先から空気の流れを感じます。もしかしたら、どこか広い場所へと繋がっているかもしれません」

 

 

 そして、マリンは再び進み出した。後続も彼女に続く。段々と入り口の光が小さくなってくる。しかし逆に、更に進むと奥の方に微かに光が見えた。

 

 マリンが進むスピードを上げると、他の皆も足元に注意しながら慎重に駆け出した。段々と目の前の光が強くなってくる。一同が光の漏れ出る出口を抜けると、だだっ広い空間が彼女たちを出迎えたのだった。

 

 

 

「わぁ……凄い、凄く綺麗な場所だ。洞窟の奥なのに光が差し込んでる……」

 

 

 トップロードがつい感動の声を漏らす。他のウマ娘たちも天井から差し込む光を見てため息を漏らした。

 

 

「天然の吹き抜け構造になってるのね……って、見惚れてる場合じゃないわよ、みんな。ここにドトウたちが居るかもしれないんだから」

 

 

 マリンは周囲に目を凝らすが、そこがかなり広いという事しか分からなかった。差し込む光は3段だけの大きな階段のように盛り上がっている場所に当たっており、その周囲はぼんやりとしか見えなかった。

 

 

「後少しすれば目が慣れてくるはずです。警戒しつつ進みましょう」

 

 

 マリンがそう言った後に「ハァーッハッハッハッ!」と高笑いが聞こえてきた。その場の全員の耳に馴染みのあるその声の主を皆が探す。

 

 

「オペラオー、どこに居るの!? ドトウも一緒なの!?」

 

 

 アドマイヤベガが叫ぶ。

 

 

「ここさ! 天井に舞う天使が如きボクの姿が見えるかい?」

 

 

 皆、警戒しながら空洞の中央に向かって進む。段々と目が慣れてきて、天井に何かが吊るされているのが見えた。

 

 それはミノムシの様に木の蔓でぐるぐる巻きにされ、逆さ吊りになっているテイエムオペラオーだった。

 

 

「オペラオーさん、大丈夫ですか!? 今降ろします、待っていて下さい!」

 

 

 マリンが駆け出そうとすると、背中にゾワリとした感覚が走る。

 

 

(ッ!! 見られている。しかも、かなり多い……)

 

「お、おい……これは……なんだ!?」

 

 

 ビワハヤヒデが恐怖の混じった声で呟いた。周囲の暗がりの中から無数の動物たちが姿を現したのだ。

 

 

「目が慣れてきたと思ったら、動物園に来てたのかな、アタシたち……!」

 

「たくさんの猪たちに、猿たちに……お、大きな熊もいますね……この山の動物たちはこんな群れで行動するんですね……」

 

 

 タイシンとトップロードが呟くと、ビワハヤヒデの眼鏡がキラーンと光った。

 

 

「なるほどな、マリン殿はこの様な野生動物の棲息する山で暮らしてきたから、心身共に格闘ウマ娘として鍛え上げられてきたのだな。確かに、こんな危険な動物たちが群れを成すならば、生半可な覚悟ではこの山では生きていけないだろう」

 

「すみません、ハヤヒデさん。こんな動物の群れは知りません……何ですかコレ、怖……」

 

 

 マリンは真顔で答えた。

 

 

 動物たちは6人のウマ娘を睨みつけるだけで近づいてこない。マリンはいつ襲われても皆を逃す時間だけは稼がねば、と考え身構えた。すると……

 

 

 

 

 カツーン……カツーン……

 

 

 

 

 と足音が響いた。それは空洞の中央から聞こえてきて、皆の視線がそこに集まる。そして、そこに立っているウマ娘を見て絶句した。そのウマ娘は台座の中央に立ち、マリンたちを見下ろしている。空洞内に彼女の厳かな声が響き渡った。

 

 

 

 

 

「ヨソ者ハ……帰レ……!!!」

 

 

 

 

 

 そこに立っていたのは……メイショウドトウだった。

 

 

 

 

 

「…………………何でよ!!!」

 

 

 アドマイヤベガは訳が分からないという風にツッコむのだった。

 

 

 

 

 

 





次回

20話 山編:トップロードとシニア期の回想


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20話 山編:トップロードとシニア期の回想

 

 

 

 

 

「…………………何でよ!!!」

 

 

 アドマイヤベガは訳が分からないという風にツッコんだ。

 

 他の皆もアドマイヤベガと全く同じ気持ちで呆然としていた。なぜ連れ去られたはずのドトウが、まるで動物たちのボスであるかのような風格で中央に立っているのだろうか?

 

 

「オ、オペラオーちゃん! ドトウちゃんに何があったんですか!?」

 

 

 ナリタトップロードが逆さ吊りにされたテイエムオペラオーに問う。

 

 

「はーっはっはっは! ボクにもさっぱり分からない! ボクが森の中で宙に舞い上がって(罠に掛かって)いると、突然動物たちが現れて、ボクらをここまで運んできたんだ! 途中でドトウが気絶したのだが、彼女が目を覚ましたらまるで別人のようになっていたのさ!」

 

 

 ええ……と皆の額に汗が垂れる。さしものオペラオーも、この状況ではどうしようもなかったようだ。

 

 

「ドトウちゃん! こんな所で何をしてるんですか!? みんなとっても……とってもとっても心配したんですよ!」

 

 

 トップロードがドトウに向かって叫ぶ。しかし、ドトウの表情は冷たいままだ。いつものあの朗らかな雰囲気は一切無かった。彼女はまるで何かに取り憑かれたかのようだった。

 

 

「私ハコノ森ノ動物ヲ統ベル王……余所者ハ……去レ……!!!」

 

 

 突然の謎のカミングアウトに、彼女の救助に来たウマ娘たちはたじろいだ。

 

 

「余所者って……ドトウだって今朝初めてこの山に来たばかりじゃん!」

 

「何と言うことだ……まさか、この極限の状況下でドトウの中の『野性』が暴走し、彼女はそれに支配されたとでも言うのか!?」

 

「『野性』が暴走するって何!? ああ、頭痛くなってきた……マリン、あれって何とか出来ないの!?」

 

「分かりません……ただ、動物たちはドトウさんに従っているみたいです。下手にドトウさんを刺激すると、あの動物の大群に襲われてしまうかもしれません。彼女は本当に『野性の王』と化した様です」

 

 

 BNWとマリンは緊迫した様子で会話する。そんな中、アドマイヤベガが険しい顔付きで一歩踏み出し、見下ろすドトウと対峙する。

 

 

「ドトウ……いい加減にしなさい!!! みんながどれだけ心配したと思ってるの!? そんな所に居ないで、私たちと帰りましょう……オペラオーも一緒に」

 

 

 『オペラオー』という単語に、ドトウの耳がピクンと揺れた。

 

 

「オペラオー……オペラオーサンハ……オペラオーサンハ、私ダケノ『ライバル』デスウウウウウウ!!!!!!」

 

 

 ブモオオオオオオオオオ!

 グァガアアアアアアアア!

 ウキー!ウキー!ウキー!

 

 

 ドトウの叫びに、周囲の動物たちも呼応したかのように騒ぎ出す。マリンたちはビクンと身構えた。

 

 

「オペラオーサンハ、私以外ニ負ケチャ駄目デス……オペラオーサンヲ倒スノハ私ダケデス……オペラオーサンハ……ココデ私ト永遠ニ一緒デス……! ソウスレバ、ソウスレバ……オペラオーサンハ私ダケヲ見テクレル!!! ズットズット、最強ノオペラオーサンノママデ!!!」

 

 

 ゴゴゴゴゴ!!!とドトウのオーラが膨れ上がる。『野性』が暴走したことにより、オペラオーへのライバル心が歪んだ独占欲へと変貌してしまっていた。動物たちも更に騒ぎ立っている。

 

 

「ちょっと、これマズくない?」

 

 

 周囲を見渡してタイシンが言った。マリンは警戒を強めた。

 

 

「今のドトウさんに私たちの声は届きません……ですが、オペラオーさんならあるいは」

 

「っ! そうよ、オペラオー! あなたからドトウに一緒に帰ると言いなさい! オペラオー!」

 

 

 アドマイヤベガが天井のオペラオーに呼びかける。だが……

 

 

「ウッ……ずっと逆さまで気分が……もう、駄目だ……きゅうぅ」

 

 

 オペラオーは目が渦巻きになって気絶してしまった。

 

 

「もうっ! 肝心な時に!」

 

 

 そう叫ぶアドマイヤベガをドトウが見つめ、バッと手を突き出して言う。

 

 

「誰デアロウト……私ノ邪魔ハサセマセン! 行ケ、我ガ僕タチヨオオオオオ!!!」

 

 

 !!!とアドマイヤベガが洞窟の暗がりを見つめる。何やら沢山の動物の足音が聞こえてくる。

 

 

「っ! まだ他にいるの!?」

 

 

 アドマイヤベガと皆が警戒する中、現れたのは……

 

 

 

 

 

 

 メェ〜メェ〜メェ〜

   メェ〜メェ〜メェ〜

      メェ〜メェ〜メェ〜メェ〜

 

 

 

 

 

 ふわふわもこもこした羊の群れだった。

 

 

「何で山奥の洞窟の中に羊がいるの!!?」

 

 

 タイシンがツッコむ。

 

 

「……………………山では不思議なことの8つや9つは起こります!」

 

 

 マリンは聡明だからこそ、考えるのをやめた。

 

 

「ちょっと、マリン! アンタ考えること放棄したでしょ! やめてよ、ただでさえツッコミの数が少ないんだから! アンタもこっち側のキャラでしょ! ハヤヒデとかイクノとか、なんのバグだかうちの学園の知的キャラはみんなボケ寄りなんだから!」

 

 

 タイシンとマリンがそんなやり取りをしているうちに、いつの間にかアドマイヤベガが羊の群れに囲まれてしまった。

 

 

「しまった、油断していたわ! ふわふわの羊たちを眺めてたらつい……!」

 

 

 もこもこもこもこもこ

      メェ〜メェ〜メェ〜メェ〜

 

 

「ああっ、ダメッ、そんな擦り寄らないでっ……! ふわふわに、逆らえな……ああぁぁぁぁぁぁぁ……♡」

 

 

 アドマイヤベガがふわふわもこもこの海に沈んで行った。羊たちは彼女を乗せて洞窟の隅に移動する。まさに動く羊毛ベッドだった。アドマイヤベガは幸せそうに目を閉じていた。

 

 

「ア、アヤベ君ーーー!!! なんと言うことだ……『野性』が暴走していても、ドトウ君はアヤベ君の弱点を理解している! 完全に正気を失っているわけではないのか!」

 

「どどど、どうしよう! アヤベも捕まっちゃったよ!」

 

 

 ハヤヒデはキランと眼鏡を光らせ、チケットは涙目になっている。マリンはこの状況の打開策を探していた。

 

 

「……この状況、私たちだけでは手に余ります。ひとまず、ドトウさんの身は安全でしょう。ここの動物たちが彼女に危害を加えるとは思えません。問題はオペラオーさんとアヤベさんです。あの2人を連れてここから脱出しなければ……その後なら救助を呼べます。私が囮になりますので、4人はオペラオーさんとアヤベさんの確保をお願いします」

 

「……うむ、それしかないか。マリン殿、君なら大丈夫だと思うが無茶はしないでくれ。ではBNWでオペラオーを、トップロード君はアヤベ君を頼む」

 

 

 無茶かもしれないが、それしかないと皆ハッキリ分かっていた。皆頷いて、それぞれ違う走り出した。マリンはドトウへ牽制を、BNWはオペラオーの方、トップロードはアドマイヤベガの方へ。

 

 

 

「無駄デスウウウ……私タチノ邪魔ヲスル者ニハアアアア……チカラヅクデ大人シクシテ貰イマスウウウウ!!!!」

 

 

 シュルンッ!と何かがBNWに音もなく近づいていた。次の瞬間……

 

 

「うわぁ!?」「何だと!?」「きゃッ!!」

 

 

 BNW3人がひとまとめに拘束されていた。彼女たちに巻き付いていたのは、丸太程の太さもありそうな巨大な蛇だった。

 

 

「蛇サン……ソノ3人ヲ捕マエトイテ下サイ。食ベテハイケマケンヨ」

 

 

 シャーーー!と大蛇が返事をするように鳴いた。

 

 

「蛇さんってレベル超えてるでしょ! アナコンダじゃん! 何で日本の山奥にアナコンダが居るのよ! おかしいでしょ! 誰かツッコンでよ!」

 

「くっ! これもドトウ君の『野性』の力なのか!」

 

「うあああ! う、動けない……!」

 

 

 命に別状はなさそうだが、BNWの3人は完全に拘束されてしまった。

 

 

「ハヤヒデさん! チケットさん! タイシンさん! っ……せめてアヤベさんだけでも!」

 

 

 トップロードは焦る。しかし、彼女の横から凄い速度で巨大な影が近づいていた。それはドトウを連れ去った巨大な熊だった。

 

 

「トップロードさん、危ないッ!!!」

 

 

 そのことに気付いたマリンは巨大な熊の前脚による一撃から、トップロードを庇う。

 

 

「グオオオオオ!!!!」

 

「ぐあああああッ!!!」

 

「きゃああっ!!!」

 

 

 熊の一撃を食らったマリンはゴロゴロと転がり、洞窟の壁面にぶつかる。しかし、そこは世代最強の格闘ウマ娘、すぐに立ち上がり熊の方へ駆けていく。

 

 だが……彼女は途中でふらついて膝をついた。トップロードを庇った為か、衝撃を受け流しきれていなかった。ジャージの袖はビリビリに破けて血が滲んでいた。

 

 

「マリン……ちゃん……?」

 

 

 そんなマリンの姿を見たトップロードは目を見開いて青ざめている。

 

 

「このくらいなら軽傷です……! トップロードさんは早くアヤベさんを……! そこの熊公……私が相手だ……こっちを見ろおおお!!!」

 

「ウウウガアアアア!!!」

 

 

 熊がマリンの方へ向かい突進する。熊1匹『だけ』ならば、マリンなら勝てるだろう。だが問題はその他の動物の数が圧倒的に多い事だ。

 

 

(今はまだ殆どの動物が動いていない。この均衡が崩れる前に脱出しないと……! 正直、かなりキツい状況だ。でも、まともに闘えるのは私しかいない……!)

 

 

 マリンは熊を迎え撃つために構え、その間に思考を巡らせる。

 

 だが、1歩踏み出すと彼女の視界がグラリと揺れた。壁にぶつかった時に頭を打ったダメージが回復していなかった。

 

 

「ぐッ……! まず……い……!」

 

 

 マリンに熊が迫る。しかし覚悟を決める以外に、彼女に選択肢はなかった。まさに、絶体絶命の危機だった。

 

 

 だが……ここで、マリンは予想外の光景を見た。

 

 

 トップロードが、今度は逆にマリンを庇う様に、巨大な熊に立ち塞がっていた。

 

 

「ッ!? トップロードさん!!!」

 

 

 マリンは叫んだ。なぜ彼女がこの様な事を、と驚愕する。

 

 そして当のトップロードも自分の行動に驚愕していた。襲われるマリンを見て、身体が勝手に動いてしまっていた。

 

 トップロードの目は恐怖に震えていた。しかし、もう逃げる事も出来ない。

 彼女の眼前の熊が、攻撃の為に右前脚を高く構える。それが振り下ろされれば、いくら頑丈なウマ娘でもただでは済まないだろう。

 

 

「ぁ………」

 

 

 死の直前には、走マ灯が見えると言う。己が生きた人生の記憶が圧縮された映画の様に頭の中を駆け巡るのだとか。

 

 しかし、トップロードに見えたのはそれではなかった。

 

 彼女に見えたのは、とある日の記憶。

 

 クラシック三冠をテイエムオペラオー、アドマイヤベガと分け合った『その翌年』の、ある秋の日の思い出だった。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

「ほら、見えてきました! 急ぎましょう、きっとあのグラウンドで『先輩』が待ってますよ!」

 

 

 トレセン学園から少し離れた市街地、その郊外のとある地域を2人のウマ娘が歩いている。

 

 元気な声で、ナリタトップロードは後方をトボトボ歩くあるウマ娘を急かすと、そのウマ娘は心底面倒臭そうな顔で答えた。

 

 

「うぅ〜〜〜、なんでわたし、せっかくの休日にサッカーの助っ人なんて引き受けたんだろ……平日はレースのトレーニングしてるのに、休日はスポーツするのって『休み』じゃないよね? あぁ……今すぐ家具屋さんに行きたいなぁ。家具屋さんのウォーターベッドで横になりたい……気持ち良いんだけど、絶妙に要らないかなって思っちゃうよね、あれ」

 

 

 トップロードと共に行動しているのは、普通という字がある意味誰よりも似合うウマ娘……『ヒシミラクル』だった。

 

 

「もう、そんな事言って。ミラ子ちゃんを誘うって連絡してあるんですから、人数が足りなくなったら『先輩』、ガッカリしちゃいますよ?」

 

 

 先輩という単語に、ヒシミラクルの耳がピクンと動く。

 

 

「うぅ……それを言われると……よく困った時に助けて貰ってるしなぁ……可愛がってくれし、あのワイルドさ、憧れるなぁ」

 

「ほら、行きますよ。急げばそれだけ試合前に練習出来ますから!」

 

 

 トップロードがヒシミラクルの手を掴んで、彼女を引っ張るように走り出した。

 

 

「わっ、わわ! トップロードちゃん、分かったよ、分かったから離してぇ〜!」

 

 

 そうして、2人のウマ娘は目的地に向かって駆けていった。

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ! トップロードちゃん、もちょっと、ペース落として!」

 

 

 結局、トップロードはヒシミラクルの手を一度も離さなかった。

 

 

「あっ、あそこに居るの先輩ですよ! おーい、せんぱーーい! 『ディクタ』せんぱーーい! おはようございまーーす!」

 

 

 トップロードの声に、グラウンドのフェンスの側でリフティングをしていたウマ娘が振り返る。トン、と器用に首の後ろにサッカーボールを乗っけてニヤリと笑った。

 

 

「おう、来たか。トップロード、ミラ子」

 

 

 

 跳ねた短髪に吊り目、ギザギザの歯をした、まさにワイルドと言った雰囲気のウマ娘。

 

 彼女の名は『ディクタストライカ』

 

 群雄割拠の『伝説の世代』の1人として、オグリキャップたちと競い合った名レースウマ娘である。

 

 そして、ナリタトップロードとヒシミラクルが最も尊敬する先輩の1人だった。

 

 

 

 彼女の側に、トップロードとヒシミラクルは駆け寄る。

 

 

「おはようございます、ディクタ先輩! 本日はよろしくお願いします!」

 

 

 ナリタトップロードが満面の笑みで挨拶する。

 

 

「それはこっちの台詞だっつーの。頼んだのはオレの方なんだからな。ミラ子もあんがとな、せっかくの休みだってのに」

 

「いやぁ、まあ、ディクタ先輩に頼まれたのなら仕方ないというか、なんというか……」

 

 

 ディクタストライカはボールを地面に置くと、ヒシミラクルに近付いて彼女の頭をワシャワシャと撫でかき回す。

 

 

「ひゃ、わ、せんぱっ!」

 

 

 突然のことにヒシミラクルは慌てた様子だが、それを見てディクタストライカは鋭くも優しい目付きで言う。

 

 

「お前はサッカーが上手いからなぁ、ミラ子。来てくれて助かるぜ。またあのスゲェドリブルテクニック、見せてくれよな。期待してるぜ」

 

 

 ピクピクン!とヒシミラクルの耳が動く。ディクタストライカに褒められ、期待していると言われてにへらと口元が緩んでいた。

 

 

「そ、そんな事ないですよぉ。ディクタ先輩やトップロードちゃんと比べたら全然だしぃ……でも、来たからには……やりますよ! やります、わたし! 3点くらい取って見せます! あ、ごめんなさい、3点は言い過ぎでした……せめて1点アシストくらいします」

 

 

 そんなヒシミラクルの様子にディクタストライカは「ハッハッハッハ!」と大声で笑う。

 

 

「ああ! お前はそれで良い。トップロードも、頼んだぜ」

 

「はい! 任せて下さい! ディクタ先輩のご期待に応えてみせます!」

 

 

 トップロードもふんす!と言った様子で気合が入っていた。ディクタストライカを前に、普段より耳と尻尾が揺れている。

 

 

「お前も相変わらずだなァ……っと。それにしてもお前ら、随分と早く来たじゃねェか。集合時間はまだまだ先なのによ」

 

「ディクタ先輩が場所取りをしておくって言っていたので、少しでも練習する為に早めに学園を出発したんです!」

 

「わたしはホントはギリギリまで寝てたかったのになぁ……トップロードちゃんが部屋のドア、ガンガン叩くから……まだちょっぴり眠いよぉ」

 

 

 ディクタストライカは2人の後輩を見て、また微笑む。何故だかこの2人をディクタストライカは非常に気に入っていた。性格はハッキリ言えば真逆なのに、何故だか運命的な繋がりがあるように感じていたのだ。

 

 

「そうか……よし、なら少しウォーミングアップしとくか! ほら、ミラ子! 動きゃ目も覚めンだろ。行くぞ!」

 

「ええ〜〜、先輩〜〜、わたしたち今着いたばかりですよぉ! せめて5分、いや10分は休ませて下さい!」

 

「そしたらミラ子ちゃん、試合開始まで眠っちゃうでしょう! ディクタ先輩の言う通り、ウォーミングアップすれば目も覚めますから! さぁさぁさぁ!」

 

 

 と、トップロードはヒシミラクルの背中を押して無理矢理グラウンドに入場させる。秋空の下、3人の声と足音がグラウンドに響き渡った。

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 その日の夕方、空が薄暗くなった頃、グラウンドの近くの公園でナリタトップロードとヒシミラクルがベンチに腰掛けていた。

 

 2人はとてもションボリとした様子で、耳を垂らして俯いている。

 

 そんな彼女たちに、手に3本の缶ジュースを持ったディクタストライカが近寄る。

 

 

「トップロード、ミラ子。ほらよ、お疲れさん」

 

 

 ディクタストライカが2本の缶をそれぞれに放ると、2人は慌ててそれをキャッチした。

 

 ありがとうございます、と2人の弱々しい声が重なる。

 

 

「おいお前ら、ンな落ち込むなよ。たかが野良試合だぜ? それに3-4は中々健闘した方だ。大差で負けたワケじゃねェんだ」

 

「それはそう……ですけど」

 

 

 トップロードは手元のにんじんジュースを見つめ、呟く。

 

 

「ディクタ先輩のお力になれなかったのが残念で……せっかく頼って貰えたのに……」

 

 

 はぁ……とディクタストライカは小さくため息を吐く。

 

 

「何言ってンだ。人数合わせにこんな隣町まで来てくれただけで十分力になってくれたぞ、お前は。ミラ子だってそうだ」

 

「うぅ……悔しい……あの負け方は悔しいっ。あの時わたしが決めきれていれば……もぉ!」

 

 

 ヒシミラクルもぷるぷると震えていた。そして彼女はグビッと勢いよくにんじんジュースを喉に流し込んだ。いざ試合が始まると、1番熱中していたのは彼女だったかもしれない。

 

 

 対してナリタトップロードの方は、かなり消沈していた。ジュースも飲まずに、彼女は缶のプルタブを無言で見つめ続けていた。そんな彼女をディクタストライカはジュースを飲みつつ横目で流し見る。

 

 

「………………」グビッ

 

 

 ディクタストライカには、トップロードが落ち込む理由が先のサッカーの試合の事だけではないのが分かっていた。

 

 

「……どうした? 元気ねーじゃねェか、トップロード。いつものお前らしかねェぞ」

 

 

 そう言ってディクタストライカはトップロードの隣にドカッと腰掛ける。トップロードはピクンと身体を震わせた。

 

 

「えっ、その、いえ……さっきの試合の事を思い出してて……もっと上手く立ち回れたんじゃないかって……」

 

「ふぅん……」

 

 

 ディクタストライカはベンチの背もたれに腕を回して、再びジュースに口をつける。

 

 

「反省するのは良いけどよ、思い詰めてもどうにもなんねェぞ。ほら隣、見てみろよ」

 

「え……?」

 

 

 ディクタストライカがジュースを持った手で、トップロード越しにヒシミラクルの方を指差した。ヒシミラクルは何やらブツブツと呟いていた。

 

 

 

 

「うぅ〜〜、わたしは……何であそこでパスを出したんだ……! あそこをドリブルで突破していればチャンスがあったかもしれないのに……わたしにもっと力があれば……はっ!!?」

 

 

 頭を抱えていたヒシミラクルは突然顔を上げ、神妙な面持ちで言い放った。

 

 

 

 

 

「そうだ……『エゴイスト』になるんだ……わたし!」

 

 

 

 

「……へ?」

 

「クフッ……!」

 

 

 トップロードはポカンとして、ディクタストライカは口元を手で押さえた。

 

 

「そうだ……サッカーで勝つ為に、わたしは『エゴイスト』になる! まずはサッカーへの理解を深める為に、あの漫画を最初っから全巻読み直して……あっ、動きも知るならアニメの方も全話観た方が良いよね。Umazon Primeで配信してたっけ。今から帰って徹夜すれば、イケるはず……! 明日早朝トレーニングするってトレーナーさんと約束してた気もするけど、そんなもんに構ってられない!」

 

 

 ダン!とヒシミラクルは勢い良く立ち上がる。

 

 

「わたしは……日本一のストライカーを目指す!!!」

 

 

 トップロードは変わらずポカンとしたままで、ディクタストライカはずっと笑いを堪えている。

 

 

「わたし、やる事ができました! 今日はお疲れ様でした! ディクタ先輩、トップロードちゃん、また明日!」

 

 

 タッタッタッタッタとヒシミラクルは意気込んで去っていく。

 

 ちなみに彼女は明日、陽が東から登るのが当然が如く、早朝トレーニングをすっぽかしてトレーナーにこってりと絞られる事になる。罰として3日間スマホを没収されて泣きじゃくるのだった……

 

 

 

 

「クックッ……アッハッハッハッ! あー、ミラ子の奴を見てたら悩んでる事がバカらしくなるよなァ! オレはアイツのそういう所が気に入ってンだ。そう思わねぇか、トップロード」

 

「ふふっ、そうですね。ミラ子ちゃんと一緒にいると、安心するんですよね。当たり前に過ごせる事が、1番の特別なんだって思わせてくれる、すごく不思議な娘で……それなのにまるで奇跡みたいにレースを勝つ事もあって……本当にすごいです……」

 

 

 ナリタトップロードは笑顔で言った。しかし、ディクタストライカには彼女が笑顔には見えなかった。彼女が腹の中で泣いているのが、手に取るように分かったのだ。

 

 

 シニア期に入ってからのナリタトップロードの戦績は……白星はゼロだった。テイエムオペラオーが無敗の快進撃を続ける中、秋になっても、彼女は1度もレースを勝てていなかった。

 

 いくらナリタトップロードがクラシック期で成長し、気丈に振舞えたとしても、彼女の精神は少しずつ擦り減っていたのだ。

 

 

 トップロードの言葉を、ディクタストライカは黙って聞いていた。殆ど夜空と言っても良い夕焼け空を眺めながら、彼女はジュースを最後まで飲み切る。

 

 

(……『エゴイスト』か……)

 

 

 ディクタストライカは、ヒシミラクルが言った言葉を思い出していた。

 

 

(お前から、最もかけ離れた言葉だよなァ……だからお前は……)

 

 

 彼女はナリタトップロードが勝てない最大の理由を知っていた。

 

 

(お前は……『領域(ゾーン)』に入れない)

 

 

 

 『領域』とは、時代を作るウマ娘が到達する『限界の先の先』

 

 普段とは比べ物にならないパフォーマンスを発揮できる超集中状態

 

 そして……他の全てを捨て去り、置き去りにする……『1人の世界』

 

 ある種の『エゴイスト』のみが踏み入るのを許される聖域である

 

 

 

(トップロード、お前は『優し過ぎる』ンだ……

 

 お前はどこまで行っても

 

 『誰かの為に』走っちまう

 

 お前のレースに『1人の世界』は決して存在しない

 

 だからこそ、あの覇王の様な先の領域を走るウマ娘に……勝てねぇんだ……)

 

 

 ディクタストライカはトップロードを横目で見つめる。

 

 

(お前はオグリと同じファン人気が爆高いウマ娘だ。だが、オグリとは決定的に違う。アイツは最後は『己の為』に走れる奴だ。お前は最後の最後まで、応援してくれる誰かの為に走る。そんなウマ娘だからなァ……)

 

 

 

「…………勝ちたかったなぁ」

 

 

 不意にポツリと、トップロードは呟いた。ディクタストライカは息を呑んで顔を彼女の方に向けた。

 

 

「ディクタ先輩のチームで……勝ちたかったです。私をサッカーに初めて誘ってくれたのも先輩でしたし、いつも助けて貰ってるのに、私は何もお返し出来てません……」

 

「…………! ったく……」

 

 

 ディクタストライカは……まるで息子を見守る父親の様な……普段の彼女からは想像も出来ない様な優しい笑みを浮かべた。

 

 彼女は右腕をトップロードの肩に回して抱き寄せる。今までなかった先輩ウマ娘の行動に、トップロードは目をパチクリとさせた。

 

 

「ディクタ先輩……?」

 

「……優しいなァ、お前は。バカが付くくらい、本当に優し過ぎンだよ……」

 

 

 普段とは違うディクタストライカの声色に、トップロードは驚く。しかし、その声はじんわりと彼女の胸の中に染み渡っていく。

 

 

「別にそんな事は……私はただ自分がしたいようにしてたら、そう見えるだけです……」

 

 

 そう言ってトップロードは暫く沈黙する。そして、彼女はディクタストライカにほんの少しだけ甘える事にした。誰にも言ってない弱音を吐く事にした。

 

 

「…………ディクタ先輩、私には何が足りないのでしょう。どれだけ走っても……追いつけないんです。まるで私だけがオペラオーちゃんや他のみんなとは違う場所を走ってる様な……そんな風に感じる時があって……」

 

 

 トップロードの手が、キュッと缶を握る。

 

 

「……レース映像を見返しても、私の走りにはオペラオーちゃんやディクタ先輩みたいな、鬼気迫る勢いというか……火山の噴火のような『怒り』というか……そんな激情が無いように見えるんです。先輩は私を優しいと言ってくれましたが……だからこそ追い付けないんじゃないかって……」

 

 

 ディクタストライカはトップロードの分析力に驚く。

 

 

(そうだ。コイツは元々センスの塊みたいな奴だった。能力が劣っているワケじゃ決してねぇ。本当に、負ける理由はその一点だけなんだ……)

 

 

 ディクタストライカは空を見上げて、目を閉じる。

 

 

(でも、そんなお前だからこそ……)

 

 

 彼女は目を開けると、トップロードの肩から腕を戻して、ベンチに背をもたれた。

 

 

「なぁトップロード、オレは今からガラじゃねェ事言うかもしれねェけど、引かずに聞いてくれ」

 

 

 トップロードが息を呑むのが聞こえた。

 

 

「これだけは覚えておけ。トップロード、お前に『足りないもの』なんてねェよ。その怒りのような激情ってヤツも、お前の中に間違いなくある」

 

「え……」

 

 

 予想もしてなかった言葉に、トップロードは驚きを隠せない。ディクタストライカは続ける。

 

 

「表裏一体って言葉あるだろ。知ってるよな?」

 

「えっと、はい……全く正反対な2つの事柄も、元を辿れば1つだという意味ですよね」

 

「おう、流石は優等生だな」

 

 

 ククッとディクタストライカは笑う。

 

 

「憎しみは愛情の裏返しってよく聞くだろ? あれはな……『誰かを本気で憎む事が出来ない奴は、誰かを本気で愛する事も出来ない』って意味だ。優しさと怒りも同じだよ。心から人に優しい奴じゃないと、心から人に怒れねェ。逆も然りだ」

 

 

 トップロードはジッとディクタストライカを見つめていた。

 

 

「お前は誰よりも優しい。オレが知ってるウマ娘の中でも、間違いなく1番にな。だからこそ、お前の中にその激情が無いはずが無いんだよ」

 

 

 ディクタストライカも、トップロードの顔を見て、懐かしむような眼差しで言った。

 

 

「オレがお前の歳ん時は、周りにゃバケモンしか居なかった。オグリキャップ、タマモクロス、イナリワン、スーパークリーク……海外からも怪物みてぇな奴らが押し寄せて来てた。他のレースウマ娘はそいつらに蹂躙されてたって言っても、あながち間違いじゃねぇのさ」

 

 

 彼女の眼が、鋭く光る。

 

 

「だからその中で、オレは『最強(オレ)』を証明する為に走った。バケモン共を相手に、足掻いて喰らい付いて、そうやって勝利をもぎ取れた事もあった。でもよ……」

 

 

 彼女の眼が、優しく細まる。

 

 

「……お前の走りは、本当にオレとは真逆なんだ。お前はずっとずっと、応援してくれる誰かの為に走っていた。自分の為に走っていたオレとは正反対にな」

 

 

 ディクタストライカは囁く。

 

 

「オレはな、トップロード……お前の走りに、少しだけ……『憧れて』たんだ」

 

「…………えっ…………」

 

 

 トップロードは目を見開く。

 

 

「真逆なハズなのによぉ……お前の走りに、オレは不思議と親近感が湧いてたンだ。まるで1枚の紙の裏表みてぇに、同じだって思った。お前がターフを駆ける姿を見ると、オレの半身が走っている様な気がした」

 

 

 何言ってんだと思うだろ?とディクタストライカは笑う。

 

 

「なぁトップロード……お前のそのバカみてぇに真っ直ぐな走りが、小細工なんて考えねぇで前だけを見る眼が、ひたむきに応援に報いようとする姿が、オレは好きなんだ。お前は、オレにはやりたくても出来ない走りをしてくれてんだ」

 

 

 トップロードの目が潤む。

 

 

 

 

「お前がその走りで菊花賞を勝った時、オレがどれ程嬉しかったか……お前には想像も付かねぇだろ。誰かの勝利が自分のことの様に嬉しいなんてよ、オレには生まれて初めての経験だった」

 

 

 

 

 トップロードの頬を涙がつたり落ちる。

 

 

 

「……っ……そんな風に……思ってて……くれたんですか……先輩……」

 

「ああ」

 

「っ! ……ひぅ……っ……う、ぁぁ……」

 

 

 トップロードは両手で顔を覆う。その指の隙間から、涙がこぼれ落ちてくる。

 

 ディクタストライカは、両腕でトップロードの肩を抱く。力強く、彼女の震える身体を抱き締める。

 

 

 

「お前に『足りないもの』なんてねェよ。お前は今までずっとそうやって走ってきたじゃねェか。負けたとしても、何も間違ってなんかないんだ。胸を張って走れ、お前は『ナリタトップロード』だろ?」

 

「ッ……! あ、ぁぁ……うぁ……ああああああぁ……あああああ!!!」

 

 

 

 トップロードは、ディクタストライカの背中に腕を回して抱き付いた。その胸に、顔を埋めて大声で泣いた。

 

 

「……辛えよな……悔しいよな……ホント、お前はオレに似てんなぁ……」

 

 

 同期が華々しく活躍する中を、勝てずに埋もれていく苦しさを、ディクタストライカは誰よりも知っていた。

 

 クラシック期の菊花賞が終わってから1年間近く。勝利からずっと遠のいているナリタトップロードの気持ちを、誰よりも深く理解していた。

 

 トップロードがその悔しさを吐き出し切るまで、ディクタストライカはずっと彼女を胸に抱き続けた。

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「……落ち着いたか?」

 

「っ……ずびっ……はい……すみません。上着、汚しちゃって……」

 

「んなこと気にしてんじゃねェよ、ったく。世話の焼ける後輩だな……」

 

 

 目を赤くしたトップロードを見て、ディクタストライカは微笑む。

 

 

「寮の門限までギリギリだろ? さっさと帰んな」

 

「……はい、先輩も一緒に……あ、そう言えば今は一人暮らしでしたね……」

 

「おう、だからこっちの心配はいらねぇよ。ほら、帰った帰った」

 

「はい……あ! ジュースせっかく貰ったのに。今急いで飲んじゃいますから!」

 

 

 トップロードはプルタブを開けると、ゴクゴクとジュースを一気飲みする。その様子をディクタストライカは「相変わらずだなァ」と微笑ましく見守っていた。

 

 

(走れ、トップロード……オレは頂点に立つお前も見たいけどよ。頂点を目指して走り続けるお前を、何よりも見たいんだ……)

 

 

 トップロードはジュースを飲み切ると、タタタッとゴミカゴまで走って缶を捨てて、ディクタストライカの方を振り向いた。

 

 

「ディクタ先輩! 今日は……ありがとうございました! 私、明日からまたいっぱい頑張れます! それでは!」

 

「おう、気を付けて帰れよ」

 

 

 トップロードはペコリと頭を下げると、学園の方へ向かって走り出した。

 

 

「……さてと、オレも帰っか」

 

 

 ディクタストライカも立ち上がり、缶を蹴り飛ばした。それは放物線を描いてカゴに吸い込まれる。それを見届けて、ディクタストライカは自宅に向かって歩き出す。すると……

 

 

「ディクタせんぱーーーーい!!!」

 

 

 名前を呼ばれ、彼女は振り返る。ナリタトップロードが彼女に向かって手をブンブンと振っていた。

 

 

 

「私は……『頂点に立つ私の姿』を! またディクタ先輩に見せます! いつか、必ず!!!」

 

 

 

「っ………!!!」

 

 

 ディクタストライカは驚いた。まるでトップロードに心を読まれたのではないかと思った。そしてニカっと笑みを浮かべて、トップロードに返答する。

 

 

「ああ……!! 期待してるぞ、ナリタトップロード!!!」

 

 

 トップロードも同じくニカっと笑顔を見せると、振り返って今度こそ帰って行った。

 

 

 ディクタストライカは、トップロードの姿が見えなくなるまで、彼女を見送った。

 

 

「……〜〜♪」

 

 

 街灯の灯りで照らされた小さな公園で、ディクタストライカは鼻歌を歌いながらリフティングを始めた。

 

 彼女のサッカーボールも、心なしか嬉しそうに弾んで見えたのだった……

 

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 

 ナリタトップロードの時間は止まったままだった。

 

 

(あれ……何で私……あの日の事を……)

 

 

 眼前の熊が、今まさに前脚を振り下ろそうとしている。そんな中で、ナリタトップロードの頭の中に……『誰よりも尊敬する先輩』の声が響いた。

 

 

 

『これだけは覚えておけ。トップロード、お前に「足りないもの」なんてねェよ。その怒りのような激情ってヤツも、お前の中に間違いなくある』

 

 

 

(あぁ……ディクタ先輩に会いたいな……また一緒にサッカー……したいなぁ。そうだ、このキャンプが終わったら、今度はみんなでサッカーをしよう。ディクタ先輩も誘って、きっと楽しいだろうなぁ……)

 

 

 トップロードは目の前の獰猛な野生を見つめる。

 

 

(それを……この熊が邪魔してるんだ……嫌だな……あぁ……嫌だな……私は、帰りたいのに……ッ!!!)

 

 

 

 

 ナリタトップロードの中で

 

 『何か』が弾けた

 

 

 

 

 

「ガァッッッッ!?!?!?」

 

 

 ビタリ!と巨大な熊の動きが止まった。その熊は、目の前に自身よりも遥かに巨大な猛獣が出現したと錯覚した。なのに、目の前にいるのは栗毛のウマ娘である。巨大な熊は、現実と認識との齟齬に混乱していた。

 

 

 

「…………しないでよ…………」

 

 

 そのウマ娘が、小さく呟いた。そして……

 

 

 

 

 

 

 

「邪魔……しないでよ!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 トップロードは、右脚で眼前の巨大な熊を横に蹴り飛ばした。

 

 

 

 

「グガァアアアアアアア!?!?」

 

 

 ドゴォオオオオオオオオオン!!!!!

 

 

 と、巨大な熊はまるで『サッカーボール』の様にゴロゴロと転がると、洞窟の壁面に激突した。パラパラと、周囲を埃が舞い散った。

 

 

「っ………トップロード……さん……?」

 

 

 マリンは喉から声を絞り出した。その洞窟内の全ての生物が恐怖に固まっていた。

 

 

「ふぅ…………ふぅ…………」

 

 

 ナリタトップロードの息遣いだけが聞こえていた。

 

 彼女の顔は『領域』に入ったディクタストライカの顔と、そっくりだった。

 

 

「マリンちゃん……大丈夫ですか?」

 

 

 トップロードはマリンに向かって振り向いた。マリンは彼女の両眼に……

 

 

 

 蒼い炎が燃えている幻が見えた。

 

 

 

 

 

 





次回

21話 山編:まるで星を掴もうとする少年のよう



参考:1999年菊花賞、杉本アナの実況



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21話 山編:まるで星を掴もうとする少年のよう

 

 

 

 

 

 

「っ…………!」

 

 

 マリンは緊張で唾を飲んだ。目の前に立つウマ娘が、自分の知るあのナリタトップロードとは思えなかったのだ。

 

 

(……でも、間違いなくトップロードさんだ。何が起こったのか分からないけど……)

 

 

「は、はい。私は大丈夫です。この程度、怪我のうちにも入りません……」

 

 

「………………そうですか。でも、後でちゃんと治療しないとダメですよ」

 

 

 トップロードは静かに振り返る。そして高台に立つドトウを見つめ、言った。

 

 

 

「ドトウちゃん…………やり過ぎだよ?」

 

 

 

 

 ゾアァァッ!とマリンの全身に鳥肌が立った。その声には恐ろしいほど冷徹な怒りが込められていた。その声が自分に向けられていなくて良かったと、心の底から安堵した。それは恐らく、捕まっているBNWの3人も同じだろう。

 

 野性に支配されたドトウも虚な目を見開いて恐怖に硬直していた。

 

 一瞬にして洞窟内が絶対零度にまで達したかのように、その場の全ての生き物が静止した。

 

 その声は、静かな洞窟内に鈴の音のように響いた。騒いでいた動物たちは既に沈黙し、その空間は静寂に包まれていた。

 

 

 

 カツーン……コツーン……

 

 

 

 トップロードは歩き出す。彼女の足音だけが洞窟内に響き渡る。

 

 

 

 

 巨大な熊に攻撃される正にその瞬間、トップロードは初めて、『自分の為』に願った。純粋な生命の危機により、彼女の生存本能が刺激された結果だった。

 

 しかし……ナリタトップロードは、やはりどこまで行っても『ナリタトップロード』だった。

 

 

 

 ディクタストライカに会いたい

 

 そして、みんなでサッカーがしたい

 

 それが彼女の『自分の為だけ』の

 

 精一杯の欲望だった

 

 

 

 しかし、彼女が『領域』に入るにはそれで充分だった。

 

 その内に秘めた激情が身体を迸り、彼女の肉体は怒りによってリミッターが外れている状態だった。この瞬間、『ナリタトップロード』は間違いなくこの山で最強の生物だった。

 

 

 

 BNWの3人もトップロードの変貌ぶりに驚き、同時に思い出していた。トレセン学園内でのみ囁かれる、ある噂についてだ。曰く、『ナリタを怒らせてはいけない』というものだ。

 

 

 トレセン学園で特に有名なナリタは3人居る。1人は三冠ウマ娘のナリタブライアン、1人はBNWのナリタタイシン、この2人は目付きも鋭く、一匹狼気質で近寄り難い雰囲気がある為、怒らせてはいけないと聞くと誰もが彼女たちを真っ先に思い浮かべるだろう。

 

 逆に、最後の1人のナリタトップロードは怒りとは無縁な雰囲気さえある。明るく朗らかで真面目な性格で、ファン人気は学園屈指のものなのだから。

 

 しかし、知る人は知っているのだ。  

 

 

 本当に怒らせてはいけないナリタは……

 

 『ナリタトップロード』である事を。

 

 

 これが彼女が良バ場の『鬼』と呼ばれる所以、キレたトップロードはその許せない対象を地の果てまで追い詰めて、その者が恐怖で心より反省するまで、決して逃す事は無い……

 

 彼女の激情がほんの片鱗を見せただけでも、その様な事態を引き起こすのだ。

 

 

 

 

「ア……アア……」

 

 

 コツーン、と足音が止まる。ついにドトウの元にトップロードがたどり着いた。

 

 ドトウは眼前に恐怖そのものを見ていた、トップロードの『鬼』の形相を。冷徹で魂を芯まで凍てつかせるような『鬼』の眼差しを。

 

 トップロードは、今や蒼い炎をオーラの様に全身に纏っていた。彼女の真のポテンシャルを示すかの様に。

 

 マリンと捕まっているBNWの位置からは、彼女の後頭部しか見えなかった。今の彼女の顔を見ろと言われても、絶対に見たくはないと皆思っていた。

 

 

「ドトウちゃん…………」

 

 

 再び鈴の音のような声が響く。綺麗な声なのに、皆聞いているだけで背筋が凍りつくような錯覚を起こした。

 

 

「『ごめんなさい』……は?」

 

 

 トップロードは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

 

「誠心誠意謝れば、みんな許してくれますよ……そして仲直りの印にサッカーをしましょう……ディクタ先輩も呼んで……ね?」

 

 

 しかし、暴走した野性の王者ドトウも、今やトップロードへの恐怖に支配されていた。涙を流してカタカタと震えるばかりだった。

 

 

 

 それを見てスゥ、とトップロードは右足を上げた。そして……

 

 

 

 

 ズドオオオオオン!!!

 

 

      ビキビキビキッ…………

 

 

 

 

 とドトウの目の前の地面を踏みつけた。地響きがマリンやBNWの場所まで伝わった。ドトウの目の前には、ボロボロにひび割れた地面があった。

 

 

 

 

 

 

「『ごめんなさい』……は?」

 

 

 

 

 

 

 ガタガタと震えるドトウは、涙目で叫ぶように言った。

 

 

「ゴ、ゴメンナサイイイイイ!!!! きゅう…………」

 

 

 ドサリ、とドトウは倒れ込むように気絶する。それをトップロードは優しく抱き上げた。

 

 

「はい、それで良いんですよドトウちゃん! 心から謝れば、どんな人にも誠意はきっと伝わります! ですよね、皆さん! ドトウちゃんが謝ったのなら一件落着です、もう蒸し返すのもナシですよ!」

 

 

 クルッとトップロードはマリンとBNWへと振り返る。その笑顔はいつもの太陽の様にニッコニコなトップロードのものに戻っていたが、なんだかそれが逆に怖い。コクコクコク、と4人のウマ娘は無言で頷く。

 

 

「お猿さんたちも、オペラオーちゃんを降ろしてくれますか? 怪我をしないように、優しくお願いしますね」

 

 

 トップロードのお願いに猿たちは快く応じた。逆らえば殺されると本気で思っているからである。

 

 気絶したオペラオーが地面に降ろされると、トップロードはドトウとオペラオーの2人を両肩に担いでスタスタとマリンとBNWの元へ向かって歩き出した。大蛇はいつの間にか捕まえていたタイシンたちを解放し、どこかへ去っていた。

 

 

「では、日が暮れる前に帰りましょう! すみませんけど、ハヤヒデさんはアヤベさんを背負って貰えますか? タイシンさんとチケットさんはマリンちゃんを支えてあげて下さい。彼女、怪我をしているので」

 

「あ、ああ分かった……任せてくれ」

 

 

 ハヤヒデはすぐに駆け出すと、アドマイヤベガを背負って戻ってきた。タイシンとチケットは言われた通りマリンに肩を貸した。そうやって、8人のウマ娘は無事に洞窟から脱出した。

 

 本当に嵐のような時間だったと、マリンとBNW3人は心の中で思った。

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

 その後、マリンとクラスメイトたちは当初の予定通りキャンプを楽しんだ。

 

 結局ドトウは何も覚えておらず、動物に運ばれた後の記憶はすっぽりと抜け落ちていた。それが山の気に当てられて野性が暴走したせいなのか、トップロードの恐怖への防衛反応のせいなのかは定かではない。

 

 気絶していたアドマイヤベガとテイエムオペラオーには、その後何とか隙を見て脱出できたのだと端的に伝えた。トップロードはドトウを『叱った』ことは口に出さなかったので、マリンとBNWの間には余計なことは言うまいと暗黙の了解が出来ていた。

 

 皆がキャンプを満喫していると、いつの間にか陽が落ちて辺りはすぐに真っ暗になった。昼間の壮絶な体験で皆疲れ切っていたのか、マリンとアドマイヤベガ以外のウマ娘たちはテントの中で力尽きたように眠ってしまったのだった。

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 アドマイヤベガは、自前のキャンピングチェアに座って天の星々を見つめていた。ようやく、彼女は本当の目的である『星空観察』が出来た。満点の星空を見て、彼女は満足そうに微笑んだ。

 

 

(綺麗……ここで暮らして、毎晩この星空を眺めていたなんて羨ましいわ……マリンさん)

 

 

 アドマイヤベガはキャンプマグに入れたコーヒーをちびりと飲む。すると、足音が彼女に近づいてきた。

 

 

「隣、良いですか? アヤベさん」

 

 

 アドマイヤベガが振り返ると、そこには脇に何かを抱えたマリンが立っていた。

 

 

「ええ、もちろん」

 

「ありがとうございます。うちの倉庫に似たような椅子があったので持ってきちゃいました。多分、まだ使えます」

 

 

 そう言うと、マリンは古ぼけたキャンピングチェアをアドマイヤベガの隣のスペースに設置する。見た感じはまだまだ使えそうである。マリンはゆっくりとそれに腰を下ろした。

 

 

「うん、大丈夫そう。何だか普通の椅子と違って、ちょっぴり変な感じがします」

 

「ふふ、そう。でもすぐ慣れるわ。コーヒー、飲む?」

 

 

 頂きます、とマリンが言うと、アドマイヤベガは小さな紙コップにコーヒーを注いで渡した。2人は暫く、ゆったりと無言で星空を眺めていた。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 15分ほど経った頃、2人はポツポツと会話を始めた。何気ない会話も満点の星空の下だと特別な事のようにマリンには思えた。

 

 彼女にとって、この星空は小さい頃からずっと見てきたものだが、友達とそれを眺めながら会話するのは初めての経験だったのだ。新鮮で、心落ち着く、とても楽しい時間だと彼女は思った。

 

 

 そして不意に、アドマイヤベガはかねてよりの疑問をマリンに問いかけた。それは、ほんの気まぐれだった。

 

 

「……ねぇ、マリンさん。1つ、ずっと聞きたいと思ってた事があるの」

 

「? ええ、何でしょうか」

 

 

 アドマイヤベガは手元のマグを見つめて、呟くように言った。

 

 

「マリンさんは……どうしてレースの世界に来たの?」

 

 

 その問いに、マリンは息を呑んだ。

 

 

「ごめんなさい、答えたくないならいいの。でも、この山で生活して、武術の修行をしていたあなたは……とても純朴で、レースとは違う魅力のある世界に生きているウマ娘だったと、私は感じたの。だから、気になってしまって……」

 

「……いえ、答えたくない訳ではありません。ただ、今思えば我ながら呆れるような理由なのです。今までルドルフ会長にしか話した事がないのですが……笑わずに、聞いてくれますか?」

 

 

 アドマイヤベガはコクンと頷いた。マリンはそれを見て、陽の落ちた山中の涼しい空気を肺に吸い込む。それをゆっくりと吐いて星空を見上げた。

 

 

 

「……夢を……見たのです」

 

 

 

 その言葉に、アドマイヤベガは不思議そうな顔をする。

 

 

「夢……?」

 

「はい、夢です。とても不思議な……まるで現実のような夢を見たのです」

 

 

 マリンは語った。行った事も無いはずのレース場で自分が走っていた事、自分の姿も周りの姿も何故か見えなかった事、そして……

 

 

 ゴールの先に、自分と同じ緑色のパーカーを着た『誰か』が立っていた事。

 

 

 走っても、走っても、ゴールの先に辿り着けなかった事を。

 

 

 

「……夜中に目覚めると、気付かないうちに涙で顔が濡れていました。喪失感で身体が空っぽになった気がしました。今でも、あの夢を思い出すと……胸がとても苦しくなるのです」

 

「…………………」

 

 

 アドマイヤベガはじっとマリンの話に聞き入っていた。

 

 

「トレセン学園に入れば、その夢の意味が分かるんじゃないかって、そんな短絡的な思考で私は転入したのです」

 

 

 マリンはアドマイヤベガの方を向いて、恥ずかしそうに苦笑いをする。

 

 

「おかしい……ですよね。顔も名前も知らない、声すら聞いた事のない『誰か』の為に、私は……」

 

「おかしくなんかないわ」

 

 

 アドマイヤベガが真剣な顔でマリンの目を見つめていた。マリンも同じく見つめ返してしまう。

 

 

「アヤベさん……?」

 

「おかしくなんか、ないわ。私も……同じだもの」

 

 

 え?とマリンが呟く。アドマイヤベガは、じっと手元のマグカップを見つめ、語り出した。

 

 

「マリンさんには、話してなかったわね。私と……私の『妹』のことを」

 

 

 その余りにも真剣な声色に、マリンは口をつぐんだ。

 

 

「マリンさん、私は……私の『妹』に、会った事がないの。彼女は、私が産まれる時に……一緒に産まれるはずだったのに、亡くなってしまったの。双子だったの、彼女と私は」

 

「………!?」

 

 

 マリンは驚きに目を見開いた。そして、申し訳なさそうな顔をして言う。

 

 

「そう……だったのですか。すみません、私、そうとも知らずに……」

 

「そんな顔しないで。あなたが気にすると、私まで緊張しちゃうわ。それに、私はもう……『大丈夫』なの。私のトレーナーが私とあの子の為に、見ていて心配になるくらい頑張ってくれたから。本当、お節介な人なのよ」

 

 

 クスリ、とアドマイヤベガは微笑む。その笑顔は、星空の淡い光のように柔らかく、優しかった。

 

 

「あなたの初ウイニングライブのお祝いにお昼を一緒にした時、マリンさんは私の事を『お姉ちゃん』って感じがするって言ったわよね。とても……嬉しかったわ。妹の存在を感じてくれる人が、他にも居るんだって思えて」

 

「……アヤベさん……」

 

「だからあなたのその理由は、何もおかしくなんてないわ。会ったこともない誰かの為に走る……まるで星を掴もうとする少年のよう……とてもとても純粋な『願い』……恥ずかしがる必要はないわ。少なくとも、私は笑わない。絶対に」

 

 

 アドマイヤベガがコーヒーに口をつける。マリンはその横顔をじっと見つめていた。

 

 

「……ありがとうございます、アヤベさん。この事を話せたのがアヤベさんで、本当に良かったです。私は……友達に恵まれていますね……」

 

「……そうね、きっと私も……騒がしい娘たちが多いけど」

 

 

 そう言って、彼女たちは再び星空を見上げた。眠たくなるまで、静かに星々の煌めきを眺めていた。

 

 

 流れ星が1つ、夜空を横切った……

 

 

 

 

 





次回

22話 卒業とその先の未来〈PGリーグ〉


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最終章
22話 卒業とその先の未来〈PGリーグ〉


 オリジナル設定あります。アニメ3期で出た情報と違い、この物語世界ではドリームトロフィーリーグはトゥインクルシリーズよりハイレベルな上位リーグの位置付けとなります。


 

 

 

 

 

幕間 とあるウマ娘の真名

 

 

 この物語の始まりより十数年前、ある老人がウマ娘の赤ん坊を拾ってから数年経ったある日の正午過ぎ。

 

 その日は天気の崩れた薄暗い1日だった。風が強くて、ギシギシと家が軋んでいた。

 

 道場の裏手の母屋、そこの囲炉裏のある和室で『ミドリ』と呼ばれる小さなウマ娘と老人が昼食を取っていた。ミドリは黙々とご飯と焼き魚、味噌汁と山菜の漬物を食べていたが、すでにおかわりを2回して老人の3倍は食べていた。小さくともやはり彼女はウマ娘だった。

 

 ミドリは口数は少ないが、とても利発な子供だった。会話の受け答えも達者で、箸の使い方も老人が教えるとすぐに身に付けた。何よりも、小さいながらも目を見張るほどの武術の素養があった。

 

 そのウマ娘が果たして何者なのか、謎の多い子供だが老人は露も気にせず、淡々と彼の持てる技術を教え込むだけだった。彼女が誰なのかはお天道様が知っている、ならば自分が知らないところで問題はない、そのような事など気にしても仕方がないと彼は考えていた。

 

 ただ間違いないのは、老人はぶっきらぼうながらも愛情を持ってそのウマ娘に接していた事だ。孤児である彼女がいつか己だけの力で生きていけるようになるまでは、老人はその子を守ると決めていた。亡くなった彼の伴侶もきっとそれを望んでいるはずと考えて……

 

 

「ミドリ、今日はもう外へ出てはならんぞ。嵐がやってくるらしい。俺は風の備えを確認しに畑へ行ってくるから、昼飯食い終わったら本でも読んどきな」

 

「うん、分かった」

 

 

 ミドリは短く返事をする。子供らしい一面をあまり見せないのは、流石に老人も少し心配をしていた。小学校へ上がる頃には、知り合いの経営する町の道場にでも通わせようか、などと彼が考えていると……

 

 

 カラランッ!

 

 と箸が床に落ちる音が居間に響いた。

 

 

「むっ、気を付けなさい」

 

 

 老人は幼いウマ娘を注意する。最近は箸を落とすことなどなかったのだが、偶にはそんな事もあるだろうと、彼はこの時は気に留めていなかった。

 

 しかし、ミドリの様子が何やらおかしい。彼女は箸を落としたまま微動だにしなかった。目の焦点があっておらず、虚空を見つめていた。

 

 

「…………行かなきゃ」

 

 

 すると、彼女は次に持っていたお茶碗を床に落とした。そのまま立ち上がると、突然玄関に向かって走り出した。

 

 普段ならあり得ないミドリの行動に老人は面食らってしまった。

 

 

「ミドリッ!!? 待て!!!」

 

 

 制止の声も聞かずに、ミドリは幼子とは思えない速さで外へと飛び出した。老人が玄関から外へ出た時には、彼女の姿はどこにもなかった。

 

 空には黒い雲が渦巻いていて、パラパラと小雨を降り始めていた。山の天候は平地よりも変化が早い。

 

 

「あいつ、裸足で飛び出しやがって! しかも雨まで降ってきやがる。どこに行った……こんな事、今まで一度だってなかったのによ……」

 

 

 ミドリは基本的に子供用の簡易道着を着て過ごしている。薄手なので雨に濡れると身体は冷える。老人は急いで下駄を履くと、彼女を探すため母屋を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

「ミドリ!! どこにいる!?」

 

 

 老人は修行場や近場の林を探すが、小さなウマ娘の姿は見えない。雨も強くなり、視界も徐々に悪くなっていた。

 

 

「マズいな……他にアイツが行きそうな場所は……川原か、まさかツキの墓じゃあねえよな……ん?」

 

 

 老人は、墓と呟いてからある事を思い出す。

 

 

「まさか……」

 

 

 老人の脳裏に、ウマ娘の赤ん坊が木のウロに収まっていたかつての光景が浮かんだ。

 

 彼は全力で駆け出した。老いを感じさせない走りでミドリと初めて出会った場所へと向かった。

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「……ミドリ!!」

 

 

 老人は幼いウマ娘をようやく見つけた。彼が思った通り、ミドリは自身が置き去りにされていた木の前に佇んでいた。

 

 昼間だというのに周囲は薄暗く、雨の激しさが増してきている。それなのにミドリはただ立ち尽くしたまま、目の前の木を見つめるばかりだった。

 

 

「ミドリ……一体どうしたってんだ。ウチへ戻るぞ。濡れたままじゃあ風邪をひいちまう」

 

 

 老人の声に、幼いウマ娘の耳がピクンと反応する。

 

 

「……ミドリじゃない……」

 

「……?」

 

 

 老人はその声に眉を潜める。明らかにいつものミドリの雰囲気ではなかった。

 

 

「……マリン……」

 

 

 幼いウマ娘は、ゆっくりと老人へ振り返る。その顔はあまりに寂しげで、その目には深い悲しみが宿っていた。

 

 

 

 

 

「……『マリンアウトサイダ』……それが……わたしの名前……」

 

 

 

 

 

 ポタリポタリと、彼女の髪から雨粒が滴り落ちる。道着も雨でびしょ濡れだった。

 

 まるでこの空も、彼女と一緒に泣いているかのようだった。

 

 

「……どこ……?」

 

 

 ふらりと幼いウマ娘は力無く歩き出した。老人は慌てて彼女の元へ駆け寄り、背中から抱き止める。

 

 

「どこ……どこなの……?」

 

「っ、待て、どうしたんだ! お前は、誰を探している……?」

 

 

 ピタリ、と彼女の動きが止まる。

 

 

「……分かんない……分かんないよぉ……どこ……どこなのっ……!」

 

 

 老人の腕の中で彼女は暴れ出す。小さくてもウマ娘の腕力はかなりのものだ。老人は本気で彼女を拘束する。

 

 

「離してぇ……!! どこ……どこにいるの? なんで……なんで来ないの……ずっと……わたし、ずっと……!」

 

「ミドリ! 落ち着くんだ、ミドリッ!」

 

「どこ……どこぉっ!? わたし……ぁ……」

 

 

 突然、糸が切れたように幼いウマ娘はグッタリと動かなくなる。老人は慌てて、彼女の様子を確かめた。

 

 

「ミドリっ……っ!? ひどい熱だ……こりゃいかん!」

 

 

 老人が彼女の額に手を当てると、信じられないくらいに熱を帯びていた。明らかに異常なことが彼女の身に起こっていた。

 

 老人は迷わず、彼女を背負って駆け出した。自分の手には負えないと判断して、山を降りて病院へと向かったのだった。

 

 

 

 その後、幼いウマ娘の高熱は治まらず、彼女は5日間もずっと昏睡したままだった。しかし彼女がようやく目を覚ますと、まるで何事もなかったかのようにケロリと体調が回復した。

 

 彼女は雨の中を飛び出した事や、誰かを探して彷徨っていた事を全く憶えていなかった。

 

 ただ1つ、自分の名前が『マリンアウトサイダ』だという事だけは認識しているようだった。

 

 

 

 老人が医師に聞いたところによると、ウマ娘の名前は基本的には母親が初めに『知る』のだと言う。母親が産まれた赤子のウマ娘を見た時に、原理は不明だがそのウマ娘の名前が頭に浮かんでくるそうだ。なのでウマ娘にとって名前とは名付けるものではなく、『天から授かるもの』なのだ。

 

 しかし、何らかの要因で母親がその子の名前を知る前に、もしくは他の誰かに伝える前に居なくなる場合もある。その時はそのウマ娘本人が物心がついた後で、個人差はあるがどこかのタイミングで自身の真名を『自覚する』。

 

 幼いウマ娘の不可解な行動はその事に何らかの関係があるかもしれないが、ウマ娘には謎が多く、ハッキリとした原因は分からないと最後に医師は言った。

 

 

 老人は退院した後もすぐに修行をしたいと元気に言う、無邪気な幼いウマ娘を見て考えた。

 

 

(あの時のコイツの目……とても数年しか生きていない幼いウマ娘のものじゃあなかった。あのまま、その『誰か』を探し続けるのなら、コイツはきっと……『迷子』になっちまう……)

 

 

 そんな予感がどうしても老人の脳裏にこびりついて拭い去れなかった。

 

 

 

 だから老人は決めた。

 

 このウマ娘を幼名の『ミドリ』と呼び続けよう、と。

 

 彼女が真に己の進むべき道を見つけるまでは……

 

 彼女がその迷いを、己の力のみで振り払えるくらい成長するまでは……

 

 決して真名では呼ぶまい。

 

 

 

 そう、彼は固く心に誓った。それが武に生きる不器用な男の、言葉には決して出さない、マリンへの愛情だった。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 時は飛んで現在……チーム『シリウス』のトレーナー室。

 

 マリンアウトサイダとウイニングチケットと、(どこかで昼寝をしているだろう)ナリタブライアンを除くチームメンバーがその場に集まっていた。この日の授業は午前中のみで、午後の時間をトレーニングに費やす予定だった。トレーニング開始まで若干時間の余裕があったので、皆のんびりとソファーに座り談笑していた。

 

 そんな中、2つある内の片方のソファーを1人で占領して寝そべっているゴールドシップが声を上げる。

 

 

「なぁ〜〜マックイーン〜〜お茶はまだかよぉ〜〜アタシもう待ちきれねぇよぉ〜〜」

 

「静かにお待ちなさい。急かしてばかりいないで、たまには貴方自ら用意して下さっても良いのではありませんこと?」

 

「それは嫌だ。だってマックイーンの入れるお茶が1番美味ぇんだもん。それ以外飲みたくない」

 

 

 そのゴルシの言葉にマックイーンの耳がピクンと反応する。そして、尻尾も微かに嬉しそうに揺れていた。

 

 

「はぁ……全く貴方は……せっかちなゴールドシップさんには1番先にお出ししてあげますから、もう少しだけお待ち下さいまし」

 

 

 と言いつつ、メジロマックイーンは皆の為に紅茶とお菓子の用意をしていた。それは一重に「自分で美味しいお茶を用意すれば、更に甘味を美味しく楽しめる」という思いで彼女が腕を磨いた結果、皆マックイーンのお茶しか飲まなくなったからである。因みに彼女の入れる紅茶も緑茶も今やプロレベルの美味しさなのである。

 

 マックイーン本人も「良い練習になりますから」と満更でもない様子でテキパキと支度を進めている。相変わらずお嬢様のイメージから逸脱するのが得意なお嬢様である。

 

 そうしていると、ガチャっとドアが開いて同時に元気いっぱいのウイニングチケットが飛び込んでくる。

 

 

「こんにちはーー!!! みんなもう来てるーー??? って、あれ? ねえねえ、マリンさん居ないみたいだけど、どこにいるの? 教室には来てたのに。ブライアンはまたどこかでお昼寝してるのかな」

 

 

 ウイニングチケットがキョロキョロと辺りを見回して、他の皆に尋ねた。その問いかけにはサイレンススズの隣に座るカスペシャルウィークが答えた。

 

 

「あ、マリンさんならオグリキャップさんと一足先にグラウンドで並走トレーニングをしてますよ! 来週G3レースが控えてるから、少しでも多くトレーニングをしたいって」

 

「あ、そうだったんだ! この間のOP2連戦も勝って、夏の合宿前の宝塚記念と合わせたら3連勝中だもんね! 気合い入ってるなぁ、アタシも頑張るぞお!」

 

 

 そう、マリンアウトサイダは現在絶好調なのであった。G1レース『宝塚記念』を勝利した彼女には他の重賞レースにも出走する資格が十分にあったのだが、彼女はOP戦から地道に挑戦する道を選んだ。

 

 それは一重に、『史上最大のフロック』と呼ばれた宝塚記念のイメージの払拭の為、そして尊敬する先輩ウマ娘がOP戦を勝利していた事も関係してた。何よりも地道に経験を積み上げて、ファン投票ではなく堂々と実力でG1レースに出走したいという彼女の思いもあったのだった。

 

 

「あっ、そうだ! それとね、コレをハヤヒデから貰ったんだけど……」

 

 

 そう言ってチケットはカバンから折り畳まれたスポーツ紙を取り出す。皆の注目が集まる中、彼女がバッとそれを広げると、その表の一面には高貴なオーラを纏ったあるウマ娘のレース写真が掲載されていた。

 

 その見出しには

 

 

 

『メジロラモーヌ、プロフェッショナル・グレードリーグ4度目の挑戦にして遂に初勝利!!!!!』

 

 

 

 と、大きくド派手な文字で書かれていた。

 

 

「マックイーン、おめでとう!! メジロラモーヌさんのレース感動したよおおおお!!」

 

 

 その声にマックイーンが振り向いて微笑む。

 

 

「ありがとうございます、チケットさん。同じメジロ家のレースウマ娘として、私もラモーヌさんの事を誇りに思いますわ」

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 ここで少し、この世界のレースについて補足しよう。ウマ娘レースには大きく分けて3つの階層がある。

 

 1つ目は『トゥインクルシリーズ』

 シリウスのウマ娘たちや他の多くのウマ娘たちが挑戦しているのは、言わずもがなこちらである。競技人口も最も多い。

 

 2つ目は『ドリームトロフィーリーグ』

 こちらはトゥインクルシリーズで輝かしい戦績を収め、いわゆる「殿堂入り」したウマ娘たちが挑戦出来る上位リーグである。シンボリルドルフ、ミスターシービー、オグリキャップ、タマモクロス等が走っている。

 

 そして3つ目、伝説級のウマ娘しか走ることを許されない、日本国内のウマ娘レースの最高峰……

 

 

『プロフェッショナル・グレードリーグ』

 

 

 通称PGリーグ、メジロラモーヌ、そしてマルゼンスキーはトレセン学園卒業後はそこで走っており、他の現役の選手たちも群雄割拠なんて4文字では表現できない程の傑物が集まっている。上記の2人も初勝利まで1年以上かかったと聞けば、そこがどれ程の魔境か想像に難くないだろう。

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「ラモーヌさんがPGリーグに挑戦して1年と少し……これでも彼女の勝利は『早い方』だと言われてますわ。きっと、私たちの想像を絶する過酷な世界なのでしょう」

 

 

 コポポポ……とポットにお湯を注ぎながら真剣な顔付きでマックイーンは言った。実際、トレセン学園の卒業生からPGリーグに挑戦出来るのは極々一握りの選ばれたレースウマ娘だけである。挑戦するだけでも史上の栄誉とされるのに、そこでの勝利となると未来永劫の歴史に名を刻んだと言っても過言ではなくなるのだ。

 

 

「私も……いつか、その頂を目指しますわ。『メジロ家の至宝』として……」

 

 

 ふ〜〜ん、とゴルシは興味なさげにゴロンとソファーで転がると、マックイーンの方を向いた。

 

 

「でもよー、マックちゃん。PGリーグのトレーナー資格ってよ、トレセン学園の資格とは別物で兼任は無理なんだろ? 良いのかー、トレーナーと離れる事になっちまうぞ」

 

 

 コト……と、マックイーンはゴルシの前にティーカップを置くと、呆れた様子で言う。

 

 

「全く……私はトレーナーさんについて来て欲しいだなんて、子供みたいな我儘は言いませんわよ。トレーナーさんにはチーム『シリウス』の、私たちのまだ見ぬ後輩たちを指導する素晴らしい役目がございます。私がPGリーグに挑戦するのはまだまだ先の話、その時の事は自分で何とかするつもりですわ」

 

 

 マックイーンは人数分のティーカップをサービスワゴンに乗せて、皆に紅茶を配っていく。美味しいですぅ!とスペシャルウィークが声を上げて、何かを思い描くように天井を見つめた。

 

 

「凄いなぁ、マックイーンさんはもうそんな先の事まで考えてるんだ。私はまだトレセン学園での事しか考えられないのに……スズカさんは、確か海外のレースに挑戦するんでしたよね?」

 

 

 同じく紅茶を楽しんでいたサイレンススズカも、スペシャルウィークの方を向く。

 

 

「ええ、私は色んな景色を見てみたいから……その為には海外を走るのが1番かなと思って」

 

 

 皆紅茶を飲みながら、口々に将来の展望を語り始める。マックイーンは最後に1人分のティーカップとソーサーを持って、練習開始ギリギリまでデスクワークをこなそうとしているトレーナーの元へ向かう。

 

 

「トレーナーさんも一息入れてはいかがですか? 午前中もずっと働き詰めでしたでしょう。午後のトレーニングでトレーナーさんが体調を崩しては元も子もございませんわよ」

 

「ああ、すまない。ありがとう。お茶そこに置いてて。後少しだけだから……あっ!」

 

 

 トレーナーは忙しそうにファイルをまとめると、肘で資料の山を崩してしまった。ドタタッと床に何冊か本が落ちる。

 

 

「もう、相変わらず仕事熱心なのは良いですけど、もう少し自分を労っても……って、あら? これは……」

 

 

 マックイーンが床に落ちた本の一冊を手に取ると、そのタイトルに目を見開く。それは、PGリーグのトレーナー資格試験の参考書だった。

 

 

「トレーナーさん、これって……!」

 

「ん? あっ、昨日徹夜で読んで仕舞い忘れて……まだ見せるつもりはなかったんだけどなぁ……」

 

 

 トレーナーはマックイーンの手から参考書を受け取る。

 

 

 マックイーンは緊張した様子でトレーナーと向き合う。

 

 

「トレーナーさん……はっ!? もしかして、貴方にPGリーグからお誘いがあったのですか!? トレーナーさん程の実績のある方なら、確かに納得出来ます。度々トレセン学園のトレーナーにスカウトが来ると聞いた事がありますし。もしかして、トレーナーさんは……『シリウス』のトレーナーを辞退なさるおつもりで……?」

 

 

 えっ!?と、一瞬でトレーナー室がざわついた。他の皆がトレーナーの方を心配そうに見つめる。

 

 

「待て、みんな落ち着いてくれ! PGリーグからスカウトがあったとか、そう言う訳じゃないんだ! このチームのトレーナーを辞める訳でもない!」

 

 

 ホッと、皆が安堵の息を漏らす。だが、マックイーンの顔にはまだ不安の色が残っていた。

 

 

「ですがトレーナーさん、それなら何故……?」

 

 

 トレーナーはポリポリと頭を掻くと、覚悟を決めたような真剣な顔になる。他のメンバーも皆聞き耳を立てていた。

 

 

「……話すのはもう少し先にしようと思っていたけど、僕はPGリーグのプロトレーナーライセンスの取得を目指して、仕事の合間に勉強していたんだ。この参考書はその為のものだ」

 

 

 マックイーンが息を呑む。

 

 

「マックイーン……君は例え厳しい挑戦となっても、いずれはPGリーグへの道を進みたいと、以前から言っていたね」

 

「はい……そう、ですが……」

 

 

 そして、トレーナーはマックイーンの目を真っ直ぐに見つめて言う。

 

 

 

 

「もし君が本気でその挑戦を望むのなら……

 

 僕が、君を支えたい。

 

 『メジロマックイーン』のトレーナーとして……

 

 そして一心同体のパートナーとして……

 

 君と共にレースの最高峰、その頂点を目指したいんだ」

 

 

 

 

 トレーナー室に居る他のウマ娘たちは皆、息を呑んでトレーナーとマックイーンを見つめていた。

 

 PGリーグには『チーム』の概念はなく、トレーナーとウマ娘のコンビで争われる。その過酷さ故、2人の関係は正に一蓮托生、一部ではそれはもはや『結婚』と同義なのではないかと囁かれる事もしばしば。もちろん事実そんなことはないのだが、実際にトレーナーとウマ娘の夫婦でPGリーグを走る例も少なからずある。

 

 それを知る者にとって、今のトレーナーの発言は『プロポーズ』にも聞こえたのだ。ライスシャワーは顔を薄く紅潮させて驚き、仲良し3人組はキャアアと小声で叫んで抱き合っていた。多感な時期の女子学生なので、このくらいは許されるべきであろう。

 

 スペシャルウィークだけが「凄いです!マックイーンならきっとやれます!」と曇りのない眼をキラキラと輝かせている。その純朴さをいつまでも失わないで欲しいとスズカは胸の内で願ったのだった。

 

 

 

「どうかな、マックイーン……もし君が嫌なら、断っても良い……」

 

「そんな訳ありませんわ!!!」

 

 

 マックイーンはトレーナーの言葉を遮って叫んだ。両手を握り、胸に当てて、瞳を潤ませてトレーナーと向き合う。

 

 

「そんな訳……あるはずがありませんわ……! 私は『貴方』と一緒なら、どこへでも、天にだって駆けて行けます……! とても、嬉しい……ですわ」

 

「そうか、そう言ってくれて嬉しいよ。僕はね、少なくとも今のチームメンバー全員が卒業するのは見届けるって決めてるんだ。これから後任のサブトレーナーも探さなくちゃいけないな。僕も本当は前任者の恩師のように、歳を取るまでこのチームの面倒を見ないといけないと思ってたけど……どやされるかなぁ……」

 

 

 その様子を見て、ゴールドシップはフッ……と微笑する。

 

 

「へっ! こんな甘ったるい空間になんか居られるか! アタシはグラウンドの川の様子を見てくる! おら、行くぞお前らー!!!」

 

「えっ!? ゴルシさん、私まだお菓子食べ終わってないです!」モグモグモグモグ

 

「スペちゃん、そんなに口に入れたら喉に詰まるわよ」

 

 

 と、ゴールドシップの掛け声とスズカのお姉さんムーブを皮切りに皆ゾロゾロとトレーナー室の出口に向かった。

 

 

「ちょっと、皆さん! まだ練習開始時刻ではございませんわよ! トレーナーさんだって用意が……」

 

「うるせーー! オラオラ、お邪魔虫はみんな退室だーー! さっさと行くぞぉーー!」

 

 

 マックイーンは不思議そうな顔をしたが、その言葉の意味に気付いて顔が赤くなる。

 

 

「ち、違いますわ!! あれはそう言う意味ではなくて!! 私はただ、その、アスリートとトレーナーのパートナーとして……!! もうっ、ゴールドシップさんッ!!」

 

 

 マックイーンがしどろもどろに答える間に、皆トレーナー室を出て行ってしまった。残されたのはあわわとするマックイーンとポカンと呆けるトレーナーだけだった。

 

 

「うーん、やっぱり言うタイミングがまずかったのかな……ところでマックイーン、そう言う意味って何だ?」

 

 

 ちなみに先ほどの話はあくまでウマ娘たちの間で囁かれているものなので、『シリウス』のトレーナーはその事を全く知らなかった。

 

 

「全く……トレーナーさんはどうかお気になさらないで下さい。いつものお巫山戯みたいなものですわ」

 

 

 マックイーンはコホンと咳払いをして、改めてトレーナーと向き合った。

 

 

「トレーナーさん……私は、貴方の決断に心より感謝致しますわ。メジロ家の誇りにかけ、貴顕の使命を果たすべく、私は日本のウマ娘レースの頂上を目指します。それはきっと、今より遥かに厳しい道のりとなるでしょう……なので、今一度お尋ねします。私と共に、その道を歩む覚悟は……お有りですか?」

 

 

 トレーナーも立ち上がり、真っ直ぐにマックイーンを見つめ返した。その眼には迷いの一欠片も無かった。

 

 

「もちろんだ、マックイーン。僕も、ずっと……このチーム『シリウス』で君に支えられてきた。だからこそ、君をこの先も支えたいと思ったんだ。『一心同体』の覚悟は、今でも揺らいでいないよ」

 

 

 トレーナーの言葉に、マックイーンは誇り高く笑みを浮かべた。そして、2人は硬く握手を交わした。

 

 

「よろしくお願いします、トレーナーさん。そのお言葉……ゆめゆめ、お忘れなきよう」

 

「ああ……勿論だ。こちらこそ、よろしくな。マックイーン」

 

 

 

 チーム『シリウス』の柱である2人の物語は、この先もきっと続いてゆくだろう。それはここでは記されない、また別の物語である……

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ!」

 

「うん、今の走りは中々良かったぞ。この調子なら、きっと来週のレースも上手くいくと思う。マリン、もう1本行けるか?」

 

「はいっ! お願いします!」

 

 

 複数あるトレーニンググラウンドの1つで、マリンはオグリキャップから1対1で指導を受けていた。彼女は実力を付けてきたとは言え、当然だがまだまだオグリキャップの足元にも及ばなかった。

 

 『芦毛の怪物』は文字通りの怪物なのだと、トレーニングをする毎にマリンは思い知らされた。だが、それが強者の存在に燃える武術家の彼女には良い刺激となっていた。

 

 

(つくづく出会いには恵まれているな……私は。それに今朝も……)

 

 

「ふふっ、楽しそうだなマリン。何か良い事でもあったのか?」

 

「えっ、あっ、すみません! せっかくトレーニングして頂いてるのに、気が緩んでしまって」

 

「気にしないでくれ。私も楽しんでいるからな。トレーナーにも誰かに物を教える経験を積んでこい、と言われている。この先の未来の戦いに備えてな」

 

「そうだったのですか……その、今朝貰ったファンレターの中に、私の先輩からの手紙が入っていたので、それがとても嬉しくて……彼女はもうトレセン学園には居ないのですが、私を応援していると」

 

 

 マリンは嬉しそうに、しかし少しだけ寂しそうに笑う。

 

 

「……そうか。マリンは好きなんだな、その先輩の事が」

 

「はい! とても、とても尊敬しています。先輩のお陰で私は今もここで走れているのです。宝塚記念に勝てたのも、先輩が背中を押してくれたからです。だからこの先のレースも全力で走ります。先輩の為に、私の背中を押してくれた全ての人たちの為に」

 

「そうか……うん、私も応援しているぞ、マリン」

 

 

 マリンの笑顔を見て、オグリキャップも微笑んだ。

 

 

「あの……ところでオグリさん」

 

「ん、何だ?」

 

 

 マリンはおずおずと、先のオグリキャップの発言で気になるワードがあったので尋ねる。

 

 

「さっき『この先の戦い』……と言ってましたけど、オグリさんもやはりPGリーグに挑むのですか? 今はドリームトロフィーリーグで走っているのは知ってるのですが……」

 

「ああ、トレーナーと決めたんだ。私はPGリーグの頂上を目指す。きっと、タマたちもそこを目指しているからな。それに……戦いたい相手が居るんだ」

 

「オグリさんが戦いたい相手……きっと、とてつもなく……強く、速いのでしょうね」

 

 

 オグリキャップはスゥーと息を吸い込み、空の高みを見つめた。

 

 

 

「ああ……

 

 彼女は今、PGリーグの頂にいる1人だ

 

 

 

 『ハイセイコー』

 

 

 

 それが彼女の名だ」

 

 

 

 マリンはピクンと耳を動かす。

 

 

「『ハイセイコー』……レースに疎い私でも、UMADに所属していた頃からその名は知っています。その方が、オグリさんの目標なのですか?」

 

「ああ、だが……彼女は私よりかなり年上だ。私がPGリーグに加入出来たとしても、挑む前に彼女が引退する可能性が高い。だから、目標というより『願い』……だな」

 

「『願い』……ですか」

 

 

 マリンはかつてキャンプでアドマイヤベガが言っていたのを思い出した。まるで星を掴もうとする少年のよう……と。

 

 

 

(……願い……私もオグリさんも……叶わぬ願いを抱いているのだろうか)

 

 

 

「ん? あれは……『シリウス』のメンバーか。みんなここへ向かってきているぞ」

 

「え?」

 

 

 クルッとマリンが振り返ると、手をブンブン振っているゴールドシップを先頭にチームメイトの皆がここに向かっていた。マックイーンが居ないのは気になるが、多分後に合流するのだろう。

 

 

 

 

 そうして、マックイーンを除いたシリウスのメンバーが合流して、皆で並走トレーニングをする事となり、皆ヘトヘトになるまで走り込んだ。

 

 マリンはとても充実した日々を過ごしていた。この日も、支え合える仲間と共にレースウマ娘として着実に前に進んでいた。

 

 

 

 

 しかし、この時は誰も予想もしていなかった。次にマリンが走る重賞レース。そこが彼女の『運命』の分かれ道となる事を……

 

 『運命』が追いかけてきている事を。

 

 

 

 

 

 





次回

23話 Outsider


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23話 Outsider

 

 

 

 トレセン学園・美浦寮のある一室で、黒髪のウマ娘が身支度を整えている。制服の上から緑のパーカーを羽織った彼女は姿見の前に立ち、髪を背で軽く束ねて結う。

 

 

「……よし」

 

 

 その部屋は、かつてマリンアウトサイダと栗毛の先輩ウマ娘が相部屋で使っていた。しかし、その先輩が居なくなった後はマリンが1人で使っていた。何故だか幾ら学園生の入寮や入れ替わりがあっても、ちょうどマリンが1人になってしまうのだった。まるで彼女のルームメイトはあの栗毛のウマ娘しか居ない、と運命が定まっているかのようだった。

 

 なのでマリンの寝具や机の向かい側は、今でもガランとしていた。

 

 

「…………」

 

 

 マリンは無言でそのスペースを見つめた後、自分の引き出しから1枚の封筒を取り出す。宝物扱うように丁寧に便箋を取り出すと、それをゆっくりと広げて読んだ。

 

 それは、去ってしまった先輩ウマ娘からの手紙だった。マリンはもう何度も何度もその手紙を読み返していた。1文字目から最後の句点まで目を通すと、彼女はそれを大切そうに胸に抱いてから封筒にしまった。

 

 

「……行って来ます、先輩」

 

 

 マリンはその手紙にまだ返事を書いていない。彼女はそうするよりも、己の走りで応えたかった。その為の特別な一戦が、今日開催されるのだ。

 

 マリンは勝負服の袴と財布などの小道具を入れた鞄を手に取り、颯爽と部屋を後にした。

 

 その顔には、いつも以上の覚悟と希望が見えていた。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 

 秋の風が肌に冷たい季節がやって来た。

 

 それはウマ娘たちの激しい戦いの幕開けの季節でもあった。

 

 バ群の起こす地鳴りが観客席まで聞こえて来る。今回のG3レースにはマリンアウトサイダが出走すると言う事で、開催前からかなりの話題となり、そのレース場は平常時の倍近くの来場者数を記録していた。

 

 あの宝塚記念以来、レースウマ娘としてのマリンアウトサイダの人気はジワジワと高まっていった。『史上最大のフロック』と揶揄された事が逆に注目を集め、実際のレースを見て胸を打たれた人々が次々と彼女のファンとなっていったのだ。

 

 そして、マリンはひと月前のOP戦を2週連続で走り、2連勝を収めた。それは彼女の状態を見極めてゴーサインを出した『シリウス』のトレーナーの英断だった。

 

 『宝塚記念』の出来事があった今だからこそ、勝利に驕らず、地道な努力を重ねるレースウマ娘でありながらも武道家ウマ娘である彼女の姿は、更に多くの注目を集める事となったのだった。

 

 今、観客席の目の前をバ群が通過した。また彼女たちがここを通る時は、手に汗握るデッドヒートが繰り広げられる。その期待に観客たちは胸を膨らませていた。

 

 

「行っけーーーー、マリーーーーン!!!」

 

「頑張れえええ、マリンさーーーん!!!」

 

「良い調子ですわよ、落ち着いてゴーですわ!!!」

 

「そうだ! 落ち着いて行け!」

 

 

 ゴールドシップ、ウイニングチケット、メジロマックイーン、そしてオグリキャップが観客席の最前列から声援を送る。このメンバーが本日のマリンの応援団だ。他のシリウスメンバーは次週以降のレースの為に学園でトレーニングをしていた。

 

 

「ありがとう、オグリキャップ。マリンの応援に来てくれて。彼女も喜んでいたし、きっと調子も上がったはずだ。でも、本当に良かったのかい? ただでさえマリンのトレーニングに時間を割いてくれているのに」

 

 

 トレーナーが隣に立つオグリキャップに言った。

 

 

「私なら問題ない。むしろ教える事で分かる事も増えてきたんだ。レースとは本当に奥が深いな。マリンは凄く頭から良いから、並走トレーニングだけのつもりが、ついつい色々と教えたくなってしまう。だからマリンが出るレースは絶対に見たかったんだ。トレーナーというのは、いつもこんな気持ちなのだろうか」

 

 

 そう言ってオグリキャップは優しい眼差しでマリンを見つめる。もしかしたら、いつかオグリキャップがトレーナーとなる未来もあるのかもしれないと、『シリウス』のトレーナーはぼんやりと考えるのだった。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

 ダッダッダッダッダッ!!

 

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ!」

 

 

 マリンは最後尾から前方のバ群を観察する。彼女は気合い十分、頭もクリア、いわゆる絶好調という状態だった。

 

 彼女は今朝、この会場へと出発する前に先輩から貰った手紙を読み返した。その手紙にはマリンへの祝福と、夢を叶えてくれたお礼と、自分も新たな夢に向かって奮闘していると丁寧な文字で記されていた。そして、その手紙の最後の一文がマリンにとって何よりも励みになった。

 

 

 

“あなたと過ごした日々が、あなたの走りが、私に明日への勇気を与えてくれます。ありがとう、マリンちゃん。お姉さん、ずっと応援してるよ”

 

 

 

「ハァッ、ハァッ!」

 

 

 先頭集団が第2コーナーを過ぎ、レースは中盤に差し掛かる。この直線で早めに仕掛けてバ群に発破をかけよう、とマリンはタイミングを図る。

 

 

(良かった。レースの世界に来て……色んな人と出会えて、本当に……)

 

 

 マリンは前方を睨みつける。脚をためてターフを蹴り出す体勢を整える。

 

 

(私は、その人たちの為に……どこまでも走れる!!!)

 

 

 さあ、ここからが本当の勝負だ。この重賞レースを皮切りに、新たな挑戦を始めるんだ、支えてくれた皆の為に……

 

 その想いを胸に、黒髪のウマ娘は気力を奮い、前に進もうと脚先に力を込める。

 

 

 

「ハァアアアアア!!!!!」

 

 

 

 マリンは土を蹴り上げ、大地を踏み鳴らし加速する。その瞳は、希望に輝いていた。

 

 

 どこまでも、どこまでも、駆け抜けてゆく

 

 そんな未来を見せるような走りだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……しかし、その瞬間……

 

 

 

 

 

 

 ドドクンッ!!!

 

 

 

 

 

 

予想外の何かがマリンに襲いかかった。

 

 

 

 

 

 

「ッッ…………!?」

 

 

 

 

 

 ドドクンッ!!!

 

 

 

 

 

(何だ……何が起こっている?)

 

 

 

 

 ドドクンッ、ドドクンッ、ドドクンッ!!!

 

 

 

 

 突如、マリンの心臓がこれまでにないくらい激しく鼓動した。まるで、何かの危険を知らせる警報のように。

 

 

「ハッ…………!?」

 

 

 そして、マリンアウトサイダは目の前の光景に驚愕する。

 

 

 

 そこには轟々と猛り狂う炎がどこまでも燃え広がっていた。ターフの全てが、紅い業火へと変貌していた。

 

 

 

(これは……幻だ。私に、警告している。『この先に進んではならない』と……)

 

 

 

 

 合気道と呼ばれる日本発祥の武術、その真髄は『護身』にあると言われている。究極の護身とは、危険と『出会わない』こと。その先に危険の待つ道をそもそも歩まないことこそが、最高最大の防衛である。

 

 マリンは師である角間源六郎から聞いた事があった。時折、目の前の道が溶岩に、崖に、海原に、針地獄に、そして闇に変貌する……と。護身を極めれば極めるほどに、長年の鍛錬と経験で勘が研ぎ澄まされて行くほどに、ハッキリと未来の危険を予感できるようになるのだと。

 

 

 

 

(これが……そうなのか? 私のような道半ばの武術家が……)

 

 

 しかし、何故『今』なのか。それは誰にも分からない。武の神様の気まぐれなのかもしれない。だが、1つだけハッキリしている事がある。

 

 

 

 眼前のその道は……『過酷』そのものだという事だ。

 

 

 

「ハァッ、ハァッ、ぐっ……ああぁ!!!」

 

 

 脚を一歩踏み出す毎に、全身が炎で焼かれる錯覚がマリンを襲う。ジュウゥゥゥと聞こえるはずのない、身体の肉が焼け焦げる音も聞こえていた。

 

 

(何で……!! これからなのに!! このレースが私の『実力』で挑戦する、初めての重賞なのに……っ!!!)

 

 

 マリンは若かった。世代最強の格闘ウマ娘と呼ばれても、武術家の基準で十数年など赤子に等しい。だから彼女は無理矢理進もうとした。その業火の道の先に、勝利を掴もうと手を伸ばす。だが……

 

 

「ハァッ……ァ……ぁああ!!!」

 

 

 

 ドドクンッ、ドドクンッ!!!

 

 

 

 鼓動が耳をつんざく。それが心臓の異常なのか、恐怖による動悸なのか、マリンには判断がつかなかった。

 

 燃え盛る業火の先、そこには光など無かった。あるのは完全な『闇』……何も無いはずなのに、人はそれに恐怖を覚える。

 

 

 

「ハァッ……ハァッ……ぁ、ヒッ……!?」

 

 

 

 マリンは眼前の『闇』を見て感じた。嫌でも理解させられた。この先を走り続ければ、待つものは……

 

 

 

 

 

 

 『死』であると。

 

 

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

『さあ、レースも中盤を過ぎた! バ群はやや縦長の展開! 今レースで注目のマリンアウトサイダはどこで仕掛けて来るの……か……えっ?』

 

 

 実況アナウンサーが言葉に詰まる。いつもならここで早仕掛けをするのがマリンの『追い込み』のセオリーだった。徐々にペースを上げてくるだろうと予想していたのに、アナウンサーの目に映ったのは……

 

 

 

 

 

 

 減速し、ついには立ち止まり、苦しそうに胸を押さえるマリンの姿だった。

 

 

 

 

 

 

『マ……マリンアウトサイダに故障発生!!! マリンアウトサイダが走行を中断しました!!! 胸を押さえています、何らかのトラブルが発生した模様!!! マリンアウトサイダが走行を中断!!!』

 

 

 観客席は騒然とした。『シリウス』のトレーナーが何かを叫び、救護班の元へ全力で駆け出した。マックイーンは両手で口を押さえている。ゴールドシップは身を乗り出してマリンの名を叫ぶ。他の2人のウマ娘もとても平静でなどいられない様子だった。

 

 

 第2コーナーを過ぎた直線、その途中でマリンは立ち止まり、内ラチに寄りかかった。呼吸は乱れ、苦しそうに胸を押さえ道着が深い皺を作っていた。

 

 

 その表情は恐怖に染まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 レースから3日後……

 

 

 ガチャリ

 

 

 と、『シリウス』のトレーナー室のドアが開きトレーナーが入る。チームメンバーはソファーに座ったり、室内をウロウロしたりと落ち着かない様子だったが、トレーナーの姿が見えた途端、皆一斉に彼の元へと駆け寄った。

 

 

「みんな、今は授業時間のはずだろう。ずっと待っていたのかい?」

 

 

 レースの後、マリンは病院に搬送され、検査の為に2日間入院する事となった。その間チームメイトはお見舞いに行く許可が降りず、本日ようやくトレーナーと保護者である角間氏が医者から詳しい説明を受けた。皆、トレーナーが病院から戻ってくるのを待っていたのだ。

 

 

「んな事どうでもいいだろ、トレーナー! マリンは……マリンは大丈夫なのかよ!」

 

「そうです! マリンさんはどうしちゃったんですか? 教えて下さい、トレーナーさん!」

 

 

 ゴールドシップとスペシャルウィークがトレーナーに詰め寄ると、彼は哀しそうに目を伏せた。

 

 

「もちろん、話してあげるよ。だから落ち着いて。みんな、座って聞いてくれ」

 

 

 トレーナーはホイールチェアにゆっくりと腰を下ろし、キュルルと回転させて皆の方へ身体を向けた。チームのウマ娘たちは固唾を飲んでトレーナーの言葉を待っている。沈黙が部屋を支配し、皆不安で息が詰まりそうだった。

 

 

「とりあえず、彼女は無事だ。命に別状はないと医者は言っていたよ」

 

 

 その言葉に皆は胸を撫で下ろした。だが、その続きがあることは皆分かっていた。あのレース場に居なかった者も、中継の映像は観ていた。マリンの身に何か異常な事が起こったのは明白だったからだ。

 

 

「精密検査の結果だけど……マリンは、心臓に生まれつきの異常がある事が分かったんだ。それは軽度の小奇形で、日常生活やある程度の運動をするくらいなら支障は無い、異常があることにすら気付かない程度のものだそうだ」

 

 

 心臓の異常、と聞いて皆息を呑んだ。嫌な予感が皆の脳裏をよぎる。

 

 

「マリンは去年までは格闘ウマ娘として活躍していた。格闘技ならば、心臓に長期的な負担はかからない。だから、特に問題はなかった。だけど……レースは違う。数あるウマ娘の競技の中で、レースは最も心臓を酷使するものの1つと言っても過言ではない。この間のレースの負担で、ついにマリンの心臓は悲鳴を上げた……簡単に言うと、こんな感じだ」

 

 

 皆が驚きと落胆を隠せなかった。それはまるで……

 

 

「何だよそれ……まるでマリンが……アイツが……レースの世界に……!」

 

 

 ゴールドシップはその先の言葉を飲み込んだ。それはレースウマ娘にとっては、あまりに残酷な言葉だった。

 

 トレーナーも悔しそうに目を瞑った。

 

 

「トレーナー……マリンは、また走れるようになるのか?」

 

 

 ナリタブライアンが尋ねた。

 

 

「……もちろん、僕はマリンがまた走れるようになると信じている。だけど彼女の心臓は、骨折とは違って治療できるものではないんだ。手術をしたとしても、それこそ心臓への負担を高める要因になってしまう可能性もある。前例の無い、未知数な部分が多い」

 

 

 皆一様に暗い表情で俯いていた。それはあまりにも残酷な現実だった。レースウマ娘にとって、走れなくなるかもしれないと言う恐怖は耐え難いものだからだ。

 

 

「念の為、マリンは今週末までは検査の為に入院することになっている。明日、僕を含めて4人までならお見舞いに行っても良いそうだ。みんなで誰が行くか話し合ってくれ」

 

 

 そう言ってトレーナーはパソコンを立ち上げる。彼はこれから心臓に持病を抱えたアスリートの情報を集めるつもりだった。どれだけ参考になるか分からないが、何もしないで待つのは彼も耐えられなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 コンコン、と看護師が病院の個室をノックしてトレーナーと3人のウマ娘を室内へ案内する。

 

 昨日の話し合いの結果、トレーナーと一緒にお見舞いに行くウマ娘はメジロマックイーン、スペシャルウィーク、サイレンスズカの3人となった。

 

 彼らがその個室に入りまず目にしたのは、窓の側に立ち、空を眺めている病衣姿の黒髪のウマ娘だった。外はずっと雨が降り続いていた。

 

 

「あ……トレーナーさん……それにマックイーンさん、スペさんにスズカさん……」

 

 

 彼女は振り返った。一瞬彼女は涙を流しているように見えたが、それは錯覚だった。

 

 看護師が部屋を出ていくと、マリンはお見舞いに来た4人に椅子をすすめ、自分はゆっくりとベッドに座った。

 

 そこからしばし、無言の時間が流れた。最初に口を開いたのは『シリウス』のトレーナーだった。

 

 

「マリン、もう体調は大丈夫なのかい?」

 

「……ええ、特に問題はありません。今は落ち着いています」

 

 

 あのレースの日、トレーナーは1人マリンに付き添って病院へ行った。その時はマリンの顔色はかなり悪かったのだが、今の彼女は落ち着いているように見える。

 

 

 マリンは他の3人のウマ娘に視線を向ける。皆、何を言えば良いのか分からず困っている様子だった。

 

 

「皆さん、もう私の……心臓のことはご存知みたいですね。心配をおかけして、本当に申し訳ありません……」

 

「……謝る必要なんて無いですわ。あなたが無事で、本当に良かった……あのレースの日、私は生きた心地がしませんでしたもの」

 

「ええ、本当にそう。私も寮のテレビで観ていたわ」

 

 

 メジロマックイーンとサイレンススズカが優しい表情でマリンに語りかける。しかし、会話は続かなかった。重苦しい空気は消えない。

 

 

「……あの日からずっと雨ですね」

 

 

 ポツリ、とマリンは呟いた。彼女はぼんやりと窓の外を眺めていた。

 

 

「昔から悲しい事があると、必ず雨が降っていました。まるで空が私と一緒に泣いているみたいで、心の中にまで雨が染み込んでくる気がして……不思議と心が落ち着きました」

 

 

 4人は黙って聞いていた。

 

 

「でも……今は、この事ばかりは、流石にショックが大きくて、昨日も一昨日も、寝ても覚めても、心を雨雲が覆っていて……私は自分の名前の通りに、レースの世界に来てはならないウマ娘だったんじゃないかと……『アウトサイダー』、元から私は部外者だったのではないかと、そんな風に思ってしまって……」

 

「ッ!! 違いますっ!!!」

 

 

 それを聞いたスペシャルウィークが突然ベッドに座るマリンに飛びかかるように抱きついた。マリンは驚いた顔で彼女を受け止めた。

 

 

「スペちゃん!?」

 

「こら、スペ! マリンはまだ」

 

 

 入院してるんだ、というトレーナーの言葉を打ち消すようにスペシャルウィークは叫ぶ。

 

 

「違いますッ!!! 絶対に、絶対にそんなことないです!!! マリンさんは、私たちの、『シリウス』の仲間です!!! 来ちゃいけなかったなんて、絶対に言っちゃダメですッ!!! ダメなんだからあああ!!!」

 

 

 次第に涙声になっていく彼女の声を聞いて、マリンは微笑む。そしてマリンの胸に顔を埋める彼女を、子供抱くように柔らかく抱きしめた。

 

 

「ごめんなさい、スペさん。弱音を吐いてしまいました。不安にさせてしまいましたね。許してください……」

 

「グズッ、許しません……そんな事、言ったら絶対にダメです……許してあげません……」

 

 

 マリンはギュッと一度強くスペシャルウィークを抱きしめて、離した。スペシャルウィークの目は涙に濡れていた。

 

 

「スペさん、私の言葉には続きがあります。私はチーム『シリウス』のレースウマ娘です。自信と誇りを持ってそう言えます。そして、同時に格闘ウマ娘でもあるのです」

 

 

 ズビッとスペシャルウィークは鼻を啜ってマリンを見つめる。

 

 

「スペさん……万が一身体の一部が使えなくなったり、動かなくなった時、武術家はどうすると思いますか?」

 

 

 スペシャルウィークは分からない、と言うように首を小さく振る。

 

 

「一から、修行し直すのです。最初の最初の初めから、生まれ変わった身体だと思って、身も心も初心に帰して、基礎鍛錬からやり直すのです。心臓に枷がかかっても同じです。私はまた一から……いやゼロからやり直せます」

 

 

 マリンはトレーナーの方を向く。トレーナーも真っ直ぐにマリンの瞳を見つめていた。

 

 

「トレーナーさん、『あの時』みたいに……また私を受け入れてくれますか? 例え心臓が足りないウマ娘の私でも……再びチーム『シリウス』に入れてくれませんか……?」

 

 

 トレーナーはマリンの瞳の中を覗き込む。そこには、まだ闘志が燃えていた。走りたいと願うウマ娘がそこに居た。

 

 

「もちろん、私は現実を見据えているつもりです。もし上手くいかなかったら、その時は……覚悟しています。トレーナーさんと医師の言うことには、絶対に従います。だから……」

 

「うん、勿論だ」

 

 

 『シリウス』のトレーナーは立ち上がり、マリンの元まで歩み寄る。

 

 

「君はずっと『シリウス』のレースウマ娘だ。医者もレースに復帰出来る可能性はまだあるとおっしゃっていたんだ。暫く休養して、様子を見てからトレーニングを始めよう。頑張ろう、マリンアウトサイダ。また、ゼロから」

 

 

 トレーナーの言葉は力強く、マリンに再び活力を与えた。

 

 

「ううう……マ゛リ゛ン゛ざぁん!!!」

 

 

 トレーナーの言葉に、スペシャルウィークは涙を目に溜めて再びマリンに抱きついた。マリンも彼女を優しく抱きとめる。

 

 

(……まだ希望は残っている。今はそれを信じて先に進むしかない。元々、私はレースの世界とは殆ど無縁なウマ娘だった。心臓までもがレースの世界へ行く事を否定しようとしても、まだ走れる。走る為の両脚は残っている……)

 

 

 

 道はきっと続いている。彼女は今は、そう信じるしかなかった。

 

 

 

 

 

 





次回

24話 武芸者とツキミソウ


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24話 武芸者とツキミソウ

 

 

 

 

 この物語の始まりより数十年前、とある違法格闘賭博場……その奥にある胴元の関係者のみが入る事を許される畳張りの一室。その床の間には日本刀が飾ってあり、まさに極道と言った雰囲気の部屋だった。

 

 その上座に、金髪で目付きの鋭いウマ娘が胡座をかいて座っていた。煙管を蒸して、煙を弄ぶその姿はどう見てもカタギ……いわゆる一般のウマ娘ではなかった。

 

 黒を基調とした和装で右耳には金ピカな髑髏の耳飾りをしている。表情は苛ついてるようで、それでいてどこか新しい玩具を買ってもらえた幼子のような楽しげな雰囲気があった。そのギラついて好戦的な眼と体幹の整い方は、見る者が見れば一発で彼女が『喧嘩師』である事に気付く。

 

 その日の賭け試合に『乱入者』が現れたと子分のウマ娘から報告があり、彼女は子分たちがその人物を連れてくるのを待っていた。

 

 それは若いヒトの男だったらしい。話を聞くと、突如その男は2人の格闘ウマ娘の賭け試合に飛び込むと、その2人を挑発したとか。当然試合は中断され、このイカれた男に軽く灸を据えてやろうと格闘ウマ娘たちは掴みかかった。

 

 

 観客たちは盛り上がった。

 

「こんなバカは久々に見た」と。

 

「ウマ娘に、しかも賭け試合に出る喧嘩屋に突っかかるなど命知らずにも程がある」と。

 

 

 しかも、その男の体躯はお世辞にも大きいとは言えなかった。せいぜいが中の小が良いところだ。そんな男がウマ娘2人に羽虫のように潰されるのを見てやろう、と周りはこの乱入者を囃し立てた。

 

 賭け試合の邪魔をされ、本来なら止めるべき子分たちもこの見せ物には興味を持ち、様子を見ることにした。どうせすぐにその乱入者はのされる、その後にとっ捕まえれば良いと考えた。

 

 

 だが、その先の景色は誰も想像だにしないものだった。

 

 その袴姿の男は『両方のウマ娘』を事も無げに投げ倒した。そして最小限の動作で的確に急所を踏み抜き、2人を戦闘不能にした。

 

 

 シンと試合場は静まり返った。

 

 

 そして男は声高に言った。

 

 

 「ヤマブキのウマ娘はこんなものかぁ!? 噂に聞いた程じゃねぇや。遠出してきたのにガッカリだぜ!」と。

 

 流石に子分たちは、『姉御』の一家の名前を出されてバカにされたとあっては黙っていられない。その喧嘩は死んでも買わねばならない。

 

 そこから先は、まさに大乱闘だった。その中心にいるのは小柄なヒトの男、ウマ娘にヒトは力で敵わないのは当然であるはずだ。それなのに5人6人とその場のウマ娘たちが襲い掛かるも次々と返り討ちにされた。

 

 その男は合気の『技』で戦っていた。相手の力を利用して、膂力で勝るはずのウマ娘を投げ、床に叩きつけ、時には別のウマ娘の方に押し付け、多勢に上手く立ち回る。まさしく域に達した武人の技術だった。

 

 観客はそれを見て更に大盛り上がりだった。流石は根性の逞しい裏社会の住人たちだ、新たにその『乱入者』がどこまで持つかの賭けも始まっていた。

 

 

 だがしかし、いくら武の達人でも1人のヒトだ。喧嘩は数だとよく言われる通り、最後には多勢に無勢で押し負けてしまった。彼はウマ娘5人がかりで両手足と胴を押さえつけられ、最後には縄でキツく縛り上げられて拘束された。

 

 そして、事態を把握した『姉御』から彼を奥に連れて来いとの命令があり、そのままオモチャの引き車のように引き摺られていった。

 

 観客たちも、こりゃ殺されるなと同情のカケラもなくその様子を笑って見送っていた。

 

 

 

 そんな一部始終を高見の観覧席の陰から見ていた1人のウマ娘が居た。

 

 

 

 彼女の肌と髪はまるで雪のように白く、目はほんのりと赤みがかっていた。上物の薄手の青い着物を着て佇むその様子は、とても裏社会の住民とは思えない。

 

 

 一言で言えば『薄弱』

 

 

 そんな儚げな雰囲気を持つウマ娘だった。彼女は引き摺られていく男をじっと見つめていた。興奮と喜びに声を漏らし、胸に手を当てる。

 

 彼女はその男に『希望』を見た。彼こそが自分が求めていた人物に違いないと確信した。雪のような白髪のウマ娘は、その男に会う為にゆっくりと階下へと向かった。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

「ハナミの姉御、連れて来やした! コイツがその男でさぁ!」

 

 

 畳部屋の上座に向かって、短髪のウマ娘が縛り上げられた男を投げるように突き出した。

 

 

「痛ってえ!もちっと丁寧に運びやがれ!」

 

 

 と悪態をつく男を、煙管を吸いフゥと煙を吐きながら上座にあぐらをかくウマ娘は興味深そうに眺めた。

 

 

「はっはっは! アンタかい、ウチの若い衆相手に大立ち回りした男ってのは。もしかして噂の道場破りと同じ奴なのかい? アタイの耳にも入ってるよ、数日前にこの近辺に腕の立つ武芸者の男が流れてきたってよ。まさか此処まで来るとは思ってなかったけどなぁ! 正気かいアンタ、ヒトの武術家ならまだしも、ウマ娘にまで喧嘩を売るとはなぁ! こんなバカは初めて見たよ! 若いねえ、見た感じ二十歳かそこらか、アンタ」

 

 

 はっはっはっはっ!も更に笑い声を上げるウマ娘を、床に転がる男は睨みつけるように見上げた。

 

 

「ああ、まだ名乗ってなかったね。アタイは『ヤマブキハナミザケ』ってんだ。ここではハナミの姐御って呼ばれてる。よろしくなぁ、角間源六郎」

 

(……『ヤマブキ』って事は、コイツがここの頭か、しかし……)

 

 

 彼女に名を呼ばれ、源六郎は驚いた顔をする。その顔を見てハナミザケは可笑そうに口を歪めて、煙をフゥゥと吐く。

 

 

「何でアタイがアンタの名を知ってるのか? って言いたいのかい。町で暴れてる奴の情報なんていくらでも入ってくるもんさ。まさかこのウマ娘の格闘賭博場にまで乗り込む程の命知らずだってのは、流石に知らなかったケドねぇ。アンタ、ウマ娘に恨みでもあるのかい?」

 

 

 へっ!と男はニヤついて声を上げた。

 

 

「何言ってんだ、恨みじゃねえ。俺はウマ娘が気に入ってるからこそ喧嘩を売ってんだ。ヒトと姿形が耳と尾っぽ以外は変わんねえのに、その力はヒトの10倍近くある。修行するのにそれ以上相応しい相手は居ねえだろが!」

 

「あ〜あ〜、ホントに喧嘩バカだねえ。アンタみたいな連中、たまに居るんだよねえ。そこまでして強くなりたいのかい?」

 

「あん? 金ピカのしゃれこうべなんて趣味の悪い耳飾りしてる奴に言われたかねぇなぁ!」

 

 

 武芸者はハナミザケを見上げながら睨みつける。

 

 

「覚えとけ、男ってのはな……産まれて1度は『世界最強』を夢見るもんだ。俺は感謝しているんだ、この世界にウマ娘という産まれついての『強者』が居る事をよぉ!」

 

 

 ゾクリ、とハナミザケの背筋に冷たいものが走った。この男はもはや狂人だ。放っておくと碌なことにならないだろう。

 

 

「……はん! まあ、アンタにそう豪口叩くだけの技量があるのは確かだ。ウチの武術家ウマ娘を6人ほどやったそうだな。大したもんだ。並の男に出来る事じゃねえ」

 

 

 ハナミザケはゆっくりと立ち上がると、源六郎の側まで歩み寄る。

 

 

「アンタの腕に免じて、ウチのウマ娘たちの事と、アタイの耳飾りをバカにした事は水に流してやるよ。強い奴は、アタイも好きだからねぇ……正直、アンタとやり合いたくてウズウズしてんだ」

 

 

 ギンッ!とハナミザケの眼が肉食獣が如き眼光を放つ。源六郎には分かった。間違いなく、この賭博場で最も強いのはこの『ヤマブキハナミザケ』だと。最も強いものがトップに立つのは、野性味の溢れる武術家ウマ娘らしくて良い、と心の中で笑っていた。

 

 しかし、その眼光は一瞬で消え失せた。冷徹な目でハナミザケは言う。

 

 

「だが、それとアンタがウチの商売の邪魔をした事とは話が別だ。落とし前はつけてもらうぜ……そして、この耳飾りの良さを理解できねえ奴に温情は無え」

 

「おい、それ水に流してねえじゃねーか!」

 

 

 ゴゴゴゴゴと、凄みを発してハナミザケは源六郎を見下ろす。どうやらあの髑髏の耳飾りはお気に入りだったらしい。そしていつの間にか他の幹部のウマ娘たちも畳部屋に集まって来ていた。

 

 

 こりゃ流石にまずいな、と源六郎が何とかやり込めないものかと思案していると……

 

 

 

「姉さん……」

 

 

 

 突然、夜の雪原に響く鈴の音のような声が室内に響いた。畳部屋の前の廊下に、白髪のウマ娘がしゃなりと立っている。

 

 

「そのお方とお話がしたいのですが……駄目ですか?」

 

 

 ハナミザケが目を細める。源六郎からは他の子分のウマ娘たちが邪魔で声の主の姿は見えなかった。

 

 

「『ツキ』……何でここに居る? 今日はあまり体調が良くなかっただろう。おい……」

 

 

 ハナミザケが目配せをすると、子分の1人が『ツキ』と呼ばれたウマ娘へと駆け寄った。

 

 

「おツキさん、今ハナミの姐御は気が立ってるんすよ。ささ、お身体に障るといけません。取り敢えず今はこちらへ」

 

「あ、待って下さい……まだ」

 

 

 そう言って、白髪のウマ娘はどこかへ連れて行かれた。源六郎は一体何だったんだ?と怪訝そうな顔をした。

 

 

「……妹かい、ヤマブキハナミザケさんよ」

 

 

 ギロリとハナミザケは源六郎を睨む。

 

 

「……さっき、ウマ娘は産まれついての『強者』だとか抜かしたな。そうじゃねえ奴もいる。走ることすらも難しいウマ娘だっているんだ……まぁ、喧嘩狂いのアンタにゃ一生関わりの無い事だよ。今は自分の身の心配でもするんだな」

 

 

 ハナミザケは更に冷たい声で言った。源六郎の周囲にいかにも極道の者だと言うウマ娘たちが集まる。こりゃあ命運尽きたか、と源六郎は覚悟を決めた。

 

 

 ピシャリ!と畳部屋の障子が閉じられた。

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 その違法賭博場は町外れの山麓に位置していた。その裏手に、ハナミザケの子分のウマ娘がボロ雑巾のようになった袴姿の男を担いでやって来た。

 

 彼女はそのまま、ドサリと彼を地面に投げ捨てると「これに懲りたらもう来るんじゃあねえぞ」とセリフを残して去っていった。

 

 

「ぐっ、あああ……クソッ。ウマ娘どもが男1人を囲んでなぶってんじゃねえよ……! 流石に向こう見ずだったか、今度から人数確認して喧嘩売らなきゃ死ぬな……! う、おおお」

 

 

 グググ……と男はフラフラになりながらも立ち上がった。手足の骨までは折られなかったのは温情だと思っていいのか。流石に今日はこれまでだと、彼は寝床を探しに去ろうしたが……

 

 

「ハァッ、ハァッ……お待ち下さい! 角間源六郎様!」

 

 

 ついさっき聞いた声が、また聞こえてきた。源六郎はゆっくりと振り返る。陽はとっくに落ち、月の光が周囲に降り注いでいた。

 

 木陰に隠れていたのか、月明かりに照らされて、白い髪と肌が更に白く輝いて、そのウマ娘はゆっくりと源六郎に向かって歩いてきた。

 

 

 まるで月の精霊か、それともウサギか。ともかく彼女には、風に吹かれれば消えてしまいそうな儚い印象があった。喧嘩狂いのその男が求める『強者』であるウマ娘とは真逆の存在だ。なのに、何故か源六郎はこのウマ娘の事がどうしても気にかかった。

 

 

 

 

「お初にお目にかかります。私は『ヤマブキツキミソウ』と申します。長いので『ツキ』とお呼び下さい。皆その様に呼びます故。どうか、お見知り置きを」

 

 

 

 

 彼女は一瞬頭を下げると、すぐに顔を起こし源六郎の眼をジッと、力強く見つめた。

 

 

 (そうか……眼だ)

 

 

 源六郎は納得した。このウマ娘の赤みがかった眼。その奥に賭博場のどのウマ娘たちにも、あのヤマブキハナミザケにさえも負けない灯火のような強い意志が確かにあると彼は感じた。

 

 『薄弱』なんて言葉も、その眼にだけは似つかわしくないだろう。

 

 

 これが角間源六郎と彼の生涯の伴侶となるウマ娘との出会い。武の道を進む彼の『寄り道』……その始まりだった。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

「痛ててて! キツく縛り過ぎだ! そこまでしなくても良い!」

 

「ウチのウマ娘たちはこのくらいで文句は言いませんよ。はい、これで応急処置は出来ました」

 

 

 月明かりが草原に座る2人を照らしている。ツキミソウは嫌がる源六郎に有無も言わせず傷の手当てをしていた。流石に手酷くやられていたので、源六郎は黙って治療を受けていた。

 

 

「すまねえな……取り敢えずツキさんよ、礼は言っておく。だが、アンタあのヤマブキハナミザケの妹だろ。俺に何の用があるってんだ?」

 

 

 ヤマブキツキミソウは更に源六郎に近付く。決して逃しはしない、と言わんばかりの気迫を感じた。だが源六郎にはその理由がとんと思い当たらなかった。仮にも彼女は極道の娘のはず。その彼女が一体何故、自分のような流れ者の武術家に興味を示す?

 

 

「賭博場での貴方の喧嘩を、見ておりました。貴方が舞台に飛び入る所から、縄で引き摺られて行く所まで」

 

 

 ツキミソウは源六郎を見つめて言った。彼はバツが悪そうに目を逸らしたが、彼女はその横顔を見つめ続けた。

 

 

「貴方のその強さを見込んで、伏してお願い申し上げます。どうか……私と共に、この格闘賭博場に代わる武術家ウマ娘の為の『組織』を作る事に、お力添え頂けませんか……?」

 

 

 源六郎は怪訝な顔をする。

 

 

「賭博場に代わる『組織』だと? ツキさん、アンタ自分の姉さんの立場を奪いたいのか?」

 

「違います」

 

 

 そう言って、ツキミソウは悔しそうに目を伏せる。

 

 

「違います……私は姉さんを、私たちの『家族』を守りたいのです」

 

 

 

 ツキミソウは語る。ヒトよりも圧倒的に数の少ないウマ娘は、時代とともに向けられる価値感が変化していった。過去の戦乱の時代や、近年の戦中はその身体能力により兵士として価値を見出された。

 

 しかし、戦後は兵士としての強さはむしろ疎まれる対象となった。そして現在、経済発展とマスメディアの発達により、その価値観は『レース』へと移り変わっていた。

 

 

 

「ウマ娘は良い意味でも、悪い意味でも純粋です。純粋ゆえにレースで駆ける事に順応するウマ娘の一族もいます」

 

 

 ですが……とツキミソウは続ける。

 

 

「純粋ゆえに、かつての時代の闘争心を一族から引き継いで産まれるウマ娘も居ます。ヤマブキ家は……元々はその様な家系なのです。そして、他にもその様なウマ娘が大勢居るのです。ヤマブキ家はそれ故に居場所を失ったウマ娘たちの拠り所を作ってきました。それが世間に認められない形でも……姉さんは亡くなった両親の家督を継いで、今も家族を守っているのです」

 

 

 源六郎はツキミソウの話を黙って聞いていた。やり切れない思いが彼女の言葉の節々から感じ取れた。

 

 

「ですが、時代は変わり続けます。今の様な違法賭博場の形のままだと、いずれその軋轢に呑まれて立ち行かなくなる時が来るでしょう。それまでに、武術家のウマ娘たちが活躍出来る場所を……その為の『組織』を作らねばなりません。日本の全ての格闘ウマ娘を救いたい訳ではありません。せめて、家族の皆が笑顔でいられる未来を作りたいのです」

 

 

 ツキミソウは姉とその子分たちの未来を憂いていた。だが、源六郎はまだ彼女の真意が分からなかった。

 

 

「つまりは世間様に顔向け出来るようになりてえと? 気持ちは分からんでもないが、俺に頼む必要はねえだろ。腕っ節の立つウマ娘が多いなら自分たちでやりゃ良い」

 

「それだけでは駄目なのです!」

 

 

 ツキミソウはズイッと源六郎に顔を近付ける。その勢いに源六郎は驚く。

 

 

「このような現状になったのは、格闘ウマ娘にも落ち度はあります。ヒトよりも優れた身体能力を持つことを鼻にかけ、ヒトを心から信用しない者も多いのです。ですが、ウマ娘はヒトと共に歩まねばなりません! ヒトとの絆に重きを置かぬ組織は、いずれ禍根を生みます。それでは……駄目なのです……!」

 

 

 それは真実だと、源六郎も感じた。世間では『ウマ娘の武術』と『ヒトの武術』は二分されている印象がある。ヒトの身でウマ娘武術界に乗り込むのは彼のような極々一部の喧嘩バカだけである。

 

 

「なので、ヒトの主導で格闘ウマ娘の為の組織を作らねばなりせん。時代が進めば自然とその様な事が起こるかもしれませんが……私は『ヤマブキ』のウマ娘として家族を救いたいのです。時間を掛けてなどいられません。この身も……いつまで持つか分からないのです」

 

「……ヤマブキハナミザケの口ぶりから察してはいたが、ツキさん……アンタ病気なのかい?」

 

 

 ツキミソウはギュッと胸の前で両手を握る。

 

 

「普通のウマ娘より、ヒトより……生まれつき病弱なのです。普通の方の半分の寿命を生きられるかも……分かりません」

 

「…………………」

 

 

 源六郎は黙って立ち上がる。

 

 

「角間様……?」

 

「すまねえが、他を当たってくんな」

 

 

 源六郎はツキミソウに背を向けて、足速に歩き出した。

 

 

「角間様!? どうか、お待ち下さい!!」

 

「俺は武者修行の身だ。治療してくれた事は感謝する。その熱意も買ってやるが、俺は慈善家じゃねぇんだ。すまねぇな」

 

 

 ザッザッザッと足音が遠ざかる。ツキミソウは慌てて立ち上がる。

 

 

「角間様……お願い致します!!! どうか、お待ちを……!!!」

 

 

 源六郎は彼女が簡単に諦めるはずがないと分かっていた。彼はいつ追いかけられ、掴み掛かられても手加減して対応するつもりだった。その可能性も考慮して歩きながら身構えていた。

 

 

 しかし、背後から聞こえて来る足音は弱々しく、源六郎は自分が遠ざかっている事にむしろ違和感を覚え、つい振り返った。

 

 

「ハァ……ッ……ハァッ……!」

 

 

 白髪のウマ娘は、たった数メートル駆けたところで苦しそうに胸を押さえていた。

 

 

 源六郎は悟った。彼女は辛い身体に鞭を打ってこの場に来ていたのだと。慌てて立ち上がって、数メートル走るだけで顔を苦痛に歪める。彼女はそんな状態で源六郎の治療をしていたのだ、と。

 

 

「私は……」

 

 

 ツキミソウは掠れた声で源六郎に言う。

 

 

「私は……この様に、歩き去るヒトにさえ追い付く事が出来ない……そんな欠陥品のようなウマ娘です。闘えず、走る事も出来ない。私にはこの世間の基準で言えば……価値など有りません」

 

 

 その苦しそうな様子に、流石の源六郎も心配が勝った。

 

 

「おい、あんまり無理に喋るな!」

 

「それは事実です、とっくに受け入れています! でも……それでも……『走らないウマ娘は無価値』だと、私の家族がその様な誹りを受ける事だけは我慢がならないのです! 私の家族には皆……私には無い未来があるはずなのです!」

 

 

 ヤマブキツキミソウは涙ながらに訴える。ついには地に膝をついて大きく咳き込んでしまう。しかしすぐに顔を上げ源六郎を見つめた。その眼には、その胸の内には篝火の如く燃える『思い』があった。

 

 

「角間様……私の命は長くありません。ほんの僅かな時間で良いのです。一時の『寄り道』をどうか……どうか……!」

 

 ツキミソウは伏すように頭を下げる。2人は押し黙り、辺りには虫の声と風の音だけが鳴っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 源六郎はフゥとため息をついて、足を翻してツキミソウの元へ歩み寄る。

 

 

「おい、手を貸しな。いつまでもうずくまってんじゃねえ」

 

 

 ツキミソウは源六郎を見上げる。まだ呼吸は整っていない様子だった。

 

 

「……ったく、そこまで聞いて断ったら目覚めが悪くなっちまうだろ。少しだけだ、少しだけなら手伝ってやるよ。それから修行の旅に戻る。それでいいか、ヤマブキツキミソウさんよ?」

 

 

 ツキミソウは涙を再び浮かべて源六郎の手を取る。

 

 

「はい……! 恩に着ます、私の全てをかけて、このご恩に報いると誓います。『ヤマブキ』のウマ娘として……!」

 

 

 ふらりと立ち上がるツキミソウを源六郎が支える。彼女は本当に簡単に折れてしまいそうな程に華奢な身体だった。こんなウマ娘も居るのか、と源六郎は驚く。

 

 

「で、具体的には何をするんだ? 俺は喧嘩しか能のない男だ。大した事は出来ねえぞ」

 

「ケホッ……ええ、何をするにしても下準備が必要です。この先、自由に動く為に必要な事があります。その為にまず……」

 

 

 ツキミソウは支えてくれた源六郎の手を取った。彼女はギュッと弱々しく、精一杯に彼の手を握って言った。

 

 

 

「角間様……私と婚姻を結んで下さい」

 

「………………は?」

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃、ヤマブキの違法賭博場ではツキミソウが姿を消したと大騒ぎになっていた。しかし、暫くすると彼女は無事帰宅したのだった。

 

 賭博場のウマ娘達にとって異常な事はただ一つ、ツキミソウには先程焼きを入れられた袴姿の男が付き添っていた。

 

 すぐ畳部屋に連れて行かれたツキミソウと源六郎は、再びハナミザケと対面した。彼女は最高に苛立っていたがそれも当然である。大切な妹が何処のウマの骨とも知らぬ喧嘩バカと一緒に居たのだから。

 

 源六郎の背後には、警戒のため強面のウマ娘たちがズラリと並び、彼を睨みつけていた。

 

 

「……で? ツキ、どう言うことか説明しろ。何でこの男がここに居る。お前もソイツが何をやらかしたのか知ってるだろうが」

 

「姉さん、彼はすでに落とし前をつけたのでしょう? ならば、今は私の連れてきた『ただの客人』です」

 

 

 ギロリとハナミザケは妹を睨みつける。大の大人でも失禁して逃げ出すような視線をツキミソウは平然と受け止め、真っ直ぐに見つめ返していた。彼女の肝の座り方は、さすが普通ではないようだ。

 

 

「……なに言ってんだ、ツキ。ソイツはウチの子分を6人怪我をさせた。しかもアタイの耳飾りを趣味が悪いと抜かしやがったんだぞ! 客人と呼べるわけねえだろうが!!!」

 

 

 殺気の篭った眼でハナミザケは源六郎を睨む。源六郎はバツが悪そうに目を逸らすだけだった。

 

 

「ああ、そうですね。姉さんの言う通りでした。彼は客人ではありませんね」

 

「……あ? ツキ、お前さっきから何言って……」

 

 

 

 ツキミソウは、吐きたくなるような緊張感が支配する和室の中で、まるで小唄を口ずさむように朗らかに言う。

 

 

 

「彼は私の婚約者です。先程、夫婦となる契りを交わしました」

 

 

「……………………………………………」

 

 

 

 ハナミザケは、時を止められたみたいに静止していた。漫画でいうと、2ページずっと同じ静止画のコマが続いていた感じである。

 

 源六郎の背後のウマ娘たちも、あんぐりと口を開けて絶句している。

 

 

 そして、ハナミザケの時が動き出した。彼女は無言のまま、流れる様な動作で床の間まで歩いていくと、飾ってあった日本刀に手をかけた。当然、それはガチモンのポン刀である。

 

 シャァァァン……と音が鳴り、抜き身の刃が鈍い銀光を放った。

 

 

 

「死ぃに晒せぇえええええええええッッッッ!!!!!!!」

 

 

 

 うおおおおっ!?と叫び声とともに、源六郎とその後ろに立っていた子分ウマ娘たちは飛び退いた。源六郎が座っていた空間をハナミザケの一閃が通過する。回避していなければ、間違いなく袈裟斬りにされ、首が胴とおさらばしていただろう。

 

 

 

「姉さん、駄目ですよ! 源六郎さんは私の夫なのです!」

 

「退けぇ、ツキミソウ!!! ソイツを殺せねえ!!!」

 

「ハナミの姉御!!! 流石にヤベエからそれ置いて下せえ!!!」

 

「くそっ、ツキさんに黙ってろって言われたがやっぱりこうなるよな!? なっ、待て、うおおおおおおおッ!?」

 

 

 そこから先は切った張ったの大立ち回り……と言うのは大仰か。とにかく、角間源六郎にとっての本日2度目の命の危機だった。

 

 

 

 彼はのちに回想した……後にも先にも、あの夜以上に命の危険を感じた日はなかった、と。

 

 

 

 

 

 

 





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25話 『寄り道』の果てに旅路は繋がる


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25話 『寄り道』の果てに旅路は繋がる

 

 

 

 

 

 とある山中の道場、母屋の縁側に1人、老人が座り茶を啜っていた。

 

 彼の名は角間源六郎、その道場の主である。彼は今しがた彼の伴侶の月命日の墓参りを済ませ、帰宅したところだった。

 

 その日は何故だか妙に昔のことが思い出される日で……彼の伴侶であるヤマブキツキミソウと初めて出会った日とその後の事が鮮明に脳裏に蘇っていた。

 

 

 今や老人となった源六郎は、その温かで騒がしかった日々を、哀愁の風に吹かれながら懐かしむ。

 

 

「……ツキの奴、何をやるかと思ったらまずは結婚しろだの言いやがったな。あの日は本当に死ぬかと思った。しかも、ほんの僅かな時間で良いって言った割にはこんなトコで道場主をさせんだからなぁ。見た目に反して、思っていたより神経の図太い女だった……流石は極道のウマ娘だ」

 

 

 そう独りごちて、ズズゥ……と老人は茶を啜る。

 

 そう、彼がこの山で道場主をしているのは彼の伴侶の計らいだったのだ。

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

 数十年前、角間源六郎とヤマブキツキミソウが婚約を交わしてから数ヶ月後。とある山中にあった古びた武道場の改装工事が完了した。ツキミソウがあらゆるツテを使い、借金をしてこれを建て直したのだった。土地も安く、空気も良く、自給自足できる環境が整っているという理由で、彼女はこの場所を選んだらしい。

 

 ちなみに2人が夫婦となったのはあくまで表面上の仮の関係である。そのような事をハナミザケが許すはずもなかったが、生来のとんでもない頑固さを発揮したツキミソウに姉が渋々折れた……と言う具合だった。ハナミザケは妹の『思い』を聞き、やれるだけやってみると良いと(源六郎を視線で射殺さんばかりに睨み付けながら)山で道場を開く事を許したのだった。

 

 

「……そんでよ、こんな辺鄙なとこに道場を構えてどうすんだ? 門下生を募集しても人っ子一人来ないだろう、ここじゃあ」

 

 

 源六郎はツキミソウに押されて道場主になる事まで引き受けてしまった。彼は弟子を取るような年齢でもないので気が乗らなかったが、彼女がどのようにその『思い』を実現するのか興味があったのも事実だった。詳しく聞こうとしても、ツキミソウは後で説明しますの一点張りだったので、源六郎はこれからどうするのか見当もつかなかった。

 

 

「はい、源六郎さん。貴方には町中、いや日本中を回ってウマ娘のヤンキーやゴロツキども、はぐれた武術家ウマ娘と喧嘩をしてもらいます」

 

 

 ツキミソウは穏やかな笑顔と朗らかな声色で言った。

 

 

「……は?」

 

「は?とは何ですか。こんな辺鄙なとこで待ってるだけでは門下生が来ないのは当たり前ですよ」

 

 

 そんな事も分からないんですか、と呆れた様子で白兎のようなウマ娘は言う。

 

 

「ですから、貴方がウマ娘たちを実力でねじ伏せ、屈服させてここに連れてきて下さい。この道場で貴方が武術を、私が勉強を、そして大自然が生き抜く術を教えます。ある程度は自給自足するのですから、お金は最低限あれば良いのです」

 

 

 源六郎はツキミソウの瞳の奥に、篝火が変わらず灯っているのが見えた。

 

 

「…………ツキさんよ、アンタやっぱり極道の娘だな。そんな大層な夢を語っておいて、俺に力ずくでウマ娘たちをねじ伏せてこいなんて言うかね、普通」

 

 

 ふふっ、とツキミソウは笑った。太陽の光に照らされて汗ばみながらも、その髪と肌は白く美しく輝いていた。

 

 

「力ずくでも、初めの一歩を踏み出さねば意味はありません。地道に進めば良いのです。ここからヒトと武術家ウマ娘の輪を少しずつ広げます。そうすれば、いずれ必ず……道は繋がります」

 

 

 ツキミソウと源六郎は共に空を見上げる。燦々と輝く太陽だけが、2人の物語の始まりを見守っていた。

 

 

 

 

 そこからの2人の日々は慌ただしく、騒がしく、時には苦しくも、しかし心穏やかに過ぎていった。

 

 町を牛耳るヤンキーウマ娘の総長や、レース興行の裏で落ちぶれた元レースウマ娘、家出少女のウマ娘など、あらゆるはみ出しっ子が道場に集まった。世の中を憎んだ眼をした彼女たちも、次第に源六郎とツキミソウに心を開き、年月をかけて『生き抜く術』を身につけ、巣立って行った。

 

 その中にはヒトの門下生たちも居て、対ウマ娘の戦術を源六郎が叩き込んだ。彼らが道場を出る頃には並のウマ娘なら歯が立たない程の実力者になっていた。

 

 そのような事を繰り返している内に、門下生の中には小さな事業主になる者や、同じく武術道場の師範代となる者たちも出てきた。

 

 ヤマブキツキミソウはその者たちと手を結び、小さな武術大会の運営会社を設立した。そして、全国各地を源六郎と共に周りながら大会を開き、時には現地のゴロツキとも喧嘩をして更に門下生を増やしていった。気性の荒い格闘ウマ娘たちには拳で語る方が手っ取り早かったのだ。そうやって少しずつ、ヒトと武術家ウマ娘の輪を着実に広げて行った。

 

 

 そんな生活を続ける内に、初めは仮初めの夫婦関係を演じていた2人も、いつの間にか共に生きる真の夫婦となっていた。ハナミザケも2人の仲を渋々ながらも認め、ひっそりと祝福していたと言う。

 

 違法賭博場でのシノギは徐々に規模を縮小させ、そこにいた武術家ウマ娘たちはツキミソウの事業に協力するようになっていた。

 

 

 少しずつ地道な努力が実り、多くの協賛を得られて、ついにツキミソウは念願だった格闘ウマ娘の為の組織『UMAD』を設立した。その理事長にはヤマブキハナミザケが就任した。ツキミソウは体調の事もあって辞退していた。

 

 

 そうやって、闘えず走れもしない1人のウマ娘が、彼女が愛し、彼女を愛してくれた男と共にその『思い』を成し遂げた。男と出会った日から20余年、彼女は彼女だけの道を駆け抜けたのだった。

 

 彼女の病弱な身体は、そこまでは保ってくれた。だが既に限界に達していた。彼女は亡くなるまでの最期の数日を、山奥で愛する伴侶と2人きりで過ごした。それは2人にとってとても安らかで、最も幸福に満ちた日々だった。

 

 

 

「人生は旅と同じだ……と多くのヒトが語ります。でも、私は『寄り道』こそが人生の本質だと思うのです。大切な物は、きっとそんな所で見つかるんじゃないかって、寝床で本を一冊読み終わるたびに、そう強く思うのです。でも……このいつ消えてもおかしくない命では、私は寄り道をする暇もありませんでした……」

 

 

 その日々の中の、ある寒い冬の晩、彼女は源六郎の胸に抱かれながら呟いた。

 

 

「叶うのならば、そうですね……モンゴルの大草原を思いっきり走ってみたいです。そこで生きたウマ娘は、生涯その青空と草原を忘れる事は無いと聞きます。この脆弱な身体でも、もし叶うのならば……」

 

 

 ツキミソウは源六郎の目を覗き込む。源六郎も黙ってツキミソウの目を見つめ返した。

 

 

「私は貴方が武の道を歩むのを邪魔してしまいました。でも、私はそれを悪いとは思っていませんよ? むしろ、私の長くはない生涯の中で、きっと唯一の自慢になります」

 

 

 彼女は揶揄うような、楽しそうな調子で言葉を続けた。源六郎は「そうかよ……」と呟く。それが2人の日常の交流だった。そして、彼女は儚げに、寂しげに、彼に尋ねるのだった。

 

 

「源六郎さん……私は、貴方の人生の『寄り道』になれましたか……?」

 

 

 それが、とある武芸者とその伴侶の、最後の会話だった……

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 老人は茶碗を仰いて、冷めた緑茶の最後の一滴まで飲んだ。

 

 外は雨が降っている。あの赤ん坊を拾った時と似たような天気だと、彼はふと思った。

 

 

 すると、老人の背後から足音が聞こえた。足音の主はゆっくりと老人の横に来ると、縁側から外を向いたままそこに正座した。

 

 

「……おじいちゃん、ただいま」

 

「……おう、ミドリ。何だ、普段は連絡すら寄越さないような奴が、どう言う風の吹き回しだ?」

 

 

 老人は急須から茶碗に再び茶を注ぐと、ちびりと口をつけた。黒髪のウマ娘は黙ったままだった。しかし、老人はじっと彼女が語るを待っていた。

 

 縁側には雨音と老人が茶を啜る音だけが響いていた。

 

 

 

「……おじいちゃん、私……負けたんだ。心臓に負担をなるべくかけないトレーニングを、トレーナーさんが一生懸命考えてくれて、チームのみんなも協力してくれたんだけど……駄目だったみたい。やっぱり、思いっきり走る事が出来なくなってて……OP特別のレースで6人中6着、最下位だったんだ」

 

 

 

 マリンアウトサイダは淡々と語った。きっとこの台詞は事前に用意していたのだろう、きっと前の晩は1人で泣き腫らしたのだろうと、老人は直感した。だが、老人はただ黙って彼女の言葉に耳を傾けた。

 

 

「だから私……レースをやめる事にしたんだ。トレーナーさんとも昨日話し合った。本当はね、『有記念』に出られる事になってたの。こんな私にも、応援してくれるファンが沢山できたんだ。でも、今の私の走りでは夢を……明日への勇気をあげられないと思うと、申し訳なくて……どうしようもなくて」

 

 

 マリンの声は段々と小さくなっていく。

 

 しかし、彼女は急に、空元気に、早口に喋り始めた。

 

 

「きっと、私が格闘ウマ娘として武の道から逸れちゃったのを、神様が許さなかったのかもしれない。レースの世界に入ったのも……『寄り道』みたいなものだったんじゃないかって。でも友達も沢山できたし、会えなくなる訳じゃないしさ。また武術の鍛錬をして、もっと強くなれば別の目標も見つかるだろうし。だからおじいちゃん、またここで稽古をつけて貰いたんだ。今日はそれをお願いしたくてここに……」

 

「ミドリッ!!!」

 

 

 老人がピシャリとマリンの言葉を遮る。ビクンと彼女は驚いて固まった。

 

 

「……もちっと落ち着いて話せ。老いぼれの耳にゃ、若者の早口は障る」

 

「っ……ごめんなさい……おじいちゃん」

 

 

 マリンはこれまでにないくらいに不安定になっていた。老人も察していた。彼女の何もかもを。

 

 再び沈黙が2人を包んだ。ズズゥ……と老人は茶碗を空にしてから、不意に口を開いた。

 

 

 

「人生は旅のようなもんだ……だが、『寄り道』こそが人生の本質だ。本当に大切なものは、そんな所で見つかる……」

 

 

「え……?」

 

 

 マリンは突然の言葉に驚く。

 

 

「俺の嫁の言葉だ。アイツは確かいつか、こんな事を言っていた……ずぅっと昔の話だけどな」

 

 

 マリンは再び外の雨を眺める。

 

 

「そう、なんだ……おばあちゃん……ヤマブキツキミソウさんが」

 

 

 んん?と老人はマリンの呟きに反応した。

 

 

「ミドリ、お前……『ツキ』の事をおばあちゃんって呼んでたのか?」

 

 

 マリンは慌てて、恥ずかしそうに俯いて言う。

 

 

「あっ、いやそのっ……おじいちゃんのお嫁さんだから『おばあちゃん』なのかなって……おじいちゃん、昔の話は全然しないから私の心の中でそう呼んでて……ずっと会ってみたいなって思ってたの。ダメ……だった?」

 

 

 心配そうにマリンは老人の様子を伺う。

 

 だがそれを聞いて「はっはっはっは!!」と老人は笑い出した。

 

 

「ツキは長生き出来なかったからよ、死んだ時は婆さんなんて歳じゃなかったが、そうか……ミドリの中じゃあアイツは『おばあちゃん』になってたんだな! はっはっはっはっはっは!」

 

「……むぅ、そんなに可笑しいかな……」

 

 

 老人はひとしきり愉快そうに笑うと、突然片手でクシャクシャとマリンの頭を撫で回した。髪の毛が乱れていくが、マリンは文句を言いながらもされるがままになっていた。

 

 

「も、もうっ! おじいちゃん、何するの」

 

「なぁ、ミドリ……」

 

 

 老人は撫で回す手を止めて、マリンが今まで聞いた事のないくらい優しい声色で言う。

 

 

「レースは、楽しかったか?」

 

 

 マリンは突然の質問に答えに詰まった。続けて、老人は尋ねた。

 

 

 

「お前がトレセン学園に通った事は、まあ寄り道だろうさ。けどよ、『寄り道こそが人生の本質だ、本当に大切なものはそんな所で見つかる』……このばあちゃんの言葉、今ならどう思う?」

 

 

 

「………………っ。それ……は」

 

 

 マリンは思い出した。トレセン学園に転入してから起こった様々な事が、思い出として甦る。

 

 

 ルドルフ会長が受け入れてくれた事。

 

 自分を大切に思ってくれる先輩と出会った事。

 

 チーム『シリウス』と出会えた事。

 

 最高のトレーナーさんと出会えた事。

 

 ハルウララという優しい春風のようなウマ娘とライバルになった事。

 

 騒がしいクラスメイトと友達になれてキャンプまでした事。

 

 ルリイロバショウと喧嘩したけど、最後には分かり合えた事。

 

 宝塚記念で最高のレースが出来た事。

 

 

 そして最後に……先輩ウマ娘から貰った手紙の1文がマリンの頭に浮かんだ。

 

 

 

 

 

“あなたと過ごした日々が、あなたの走りが、私に明日への勇気を与えてくれます。ありがとう、マリンちゃん。お姉さん、ずっと応援してるよ”

 

 

 

 

 

 ポタリ

 

 

 と、マリンの膝に涙の雫が落ちる。

 

 

 

 

「……うぅっ……ひっ……ぁ……ぐすっ……」

 

 

 老人は優しく、マリンの頭に手を置いていた。

 

 

「うんっ……うん……あったよ。色んなものが……大切なものが。トレセン学園に行かなければ、みんなに会えなかった、先輩にも、ルドルフ会長にも、『シリウス』のみんなにも、トレーナーさん……にも。ルリとも……トレセン学園で走ってぶつかり合ったから、分かり合えたんだ」

 

 

 マリンが両手で目を押さえても、溢れる涙は止まらなかった。

 

 

「悲しい事もあった……けど、おばあちゃんの言う通りだ……『寄り道』の先に、大切なものがあった。武の道を歩むだけじゃ……絶対に見つからなかった……!」

 

 

 老人はマリンから手を離し、再び茶を啜った。

 

 

「ミドリ、お前がレースをやめる事に俺は反対しない。だが、お前さんは物を考えられる状態じゃなかっただろう? 『引き際』はしっかりと見極めな。少なくとも俺には、それが今には見えんがな」

 

 

 コト……と茶碗を置いて、角間源六郎はマリンと向き合う。マリンも、泣いて赤くなった目を彼に向けた。

 

 

「お前だけの道を進め、ミドリ。大丈夫だ、お前は俺が鍛えたんだ。お前はヤワじゃない、お前は走れる、思いっきりな」

 

 

 その言葉にマリンは大きく頷く。そして袖で涙を拭うと勢いよく立ち上がった。

 

 

「私、トレーナーさんの所に、トレセン学園に戻らなきゃ! ありがとう、おじいちゃん! また来るね!」

 

 

 ドタタタ!と慌ただしくマリンは去って行った。老人は再び腰を落ち着けて、縁側から空を見上げた。

 

 いつの間にか雨は上がっており、雲の隙間から光が差していた。

 

 

 

「ツキ……お前の駆け抜けた道は繋がっているぞ……

 

 俺の『寄り道』にも……

 

 俺たちの孫の『寄り道』にも……

 

 お前が残してくれたものも、全部な」

 

 

 

 源六郎はツキが側で微笑んでいるのを、確かに感じた。彼女の笑顔が、ハッキリと見えた気がした。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 同日、トレセン学園。

 

 チーム『シリウス』のトレーナー室で、トレーナーはパソコンの前に座り、その画面を難しい顔で眺めていた。

 

 そこには『有記念』……今年最後のG1レース、その出走登録画面が映っていた。トレーナーは逡巡していた。出走取り消しの手続きをしようとすると手が止まってしまった。昨日、マリンアウトサイダとはレースを引退すると話はついていた。トレーナーとして言うなら、それは妥当な判断だった。

 

 

(そう……彼女が本来の走りを取り戻すのは難しい。無理をさせると、次こそ命に関わる可能性もある。彼女は走らせるべきではない、それに彼女には武術がある。走らなくても、間違いなく格闘技の世界で活躍できる……はず、だが……)

 

 

 悔しい……ただただ悔しい、と彼は思った。彼女がここでレースを引退する事を。格闘ウマ娘だった彼女への批判を、彼女はその脚で跳ね除けた。彼女の活躍で、世間の格闘ウマ娘への評価も少しずつ変わってきていた。これからのはずだった。その先の未来を……見たかった。

 

 

(出走取り消しは……ギリギリまでしないでおこう。まだマリンの引退は世間には公表していない。今は……)

 

 

 すると、トレーナー室の外の廊下から微かに足音が聞こえてきた。その音はすぐに大きくなり、その勢いのままトレーナー室のドアが開かれた。飛び込んできたのは、マリンアウトサイダだった。

 

 

「トレーナーさんっ!! 私、トレーナーさんに話したい事が……!!」

 

「無茶をするな! 君は……」

 

 

 トレーナーはマリンの様子を見て焦った。彼女はここまで全力で走ってきたのは明白だった。だが、マリンはそれを気に留めず、思いの丈を叫ぶ。

 

 

「私は、走りたいです!! 『有記念』を!! この脚が動く限り、私は走りたいッッ!!」

 

「っ……!!」

 

 

 トレーナーは確かに見た。彼女の瞳の奥に。

 

 彼女の闘志が、走りたいという意志が

 

 篝火の様に燃えているのを。

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は望んだ。最後だとしても、その脚で走る事を。

 

 トレーナーは望んだ。叶うのならば、彼女のその先の未来を。

 

 『運命』はただ、静かに見守っていた。

 

 

 

 

 

 

 





次回

26話 涙の有マ記念




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26話 涙の有マ記念

 

 

 

 

 

 

 

 その日は年の瀬の大一番、一年最後のグランプリレース、G1『有記念』……その開催日だった。

 

 中山レース場には入りきらない程の人が押し寄せ、会場は軽く混乱状態だった。

 

 パドックまでには少し時間がある中、観客席の最前列にはチーム『シリウス』のトレーナーとウマ娘たちが並び立っていた。彼らはチームに最後に入ってきた後輩、マリンアウトサイダの晴れ舞台の応援に来ていた。だが、皆口数は少なく、大食漢のスペシャルウィークも何も口につけていない。

 

 そんな『シリウス』のメンバーを少し離れた座席から眺める集団がいた……

 

 

 

 

「……『シリウス』の皆さん、何だか暗い雰囲気ですぅ……」

 

 

 そう呟いたのはメイショウドトウ。アドマイヤベガとテイエムオペラオーに挟まれて膝に手を置いて気品良く座っている。アドマイヤベガの隣にはナリタトップロードも座っていた。

 

 そして彼女の言葉に、後ろの席に座っている芦毛で眼鏡を掛けたウマ娘が応える。

 

 

「……仕方あるまい。今日のレースはマリン殿にとって2度目のG1レースだが、それと同時に……彼女の『引退レース』でもある。友人である我々も心悲しいが、彼女たちは同じチームの同胞なんだ。その心中は、察するに余りある……」

 

「……チケットはいいの? あっちに行かなくて。アンタも『シリウス』でしょ」

 

 

 覇王世代の4人が並ぶ列のちょうど真後ろに、BNWの3人がその頭文字と同じ順番で座っていた。ナリタタイシンは隣に座るウイニングチケットに、珍しく気遣う声色で話しかけた。

 

 

「……うん。アタシはここで良い。だって、このメンバーでマリンさんのおじいちゃんの山にキャンプに行ったんだもん。アタシにとっての、マリンさんとの1番の思い出はそれだからさ」

 

 

 チケットは悲しそうに笑う。普段は元気の塊のような彼女がそんな顔をするのをタイシンは初めて見た。それだけ辛いのだろう、マリンがレースを引退する事が。

 

 アドマイヤベガは更に暗い様子だった。席に座ってから、彼女は1度も口を開いていない。そんな彼女をナリタトップロードが心配そうに横目で見つめている。すると不意に……

 

 

夜想曲(ノクターン)が聞こえてくるかのようじゃないか、まだ夜の帳は降りていないのに。そう思わないかい、アヤベさん?」

 

 

 オペラオーが歌うようにアドマイヤベガに問いかけた。

 

 

「……何を言ってるの? って言いたいけど、何となく意味が分かってしまうわね。悔しいけど」

 

「……確かにボクらの友が、1つの旅を終わらせようとしている。だからこそ、そんな顔をしてはいけないよ。なぜなら其れは決して彼女の物語の終幕ではないからさ! はーっはっはっは!!!!!」

 

 

 突然オペラオーが立ち上がり、周囲がギョッとするほどの大声で高笑いをした。

 

 

「さあ、讃えよう! 喝采を送ろう! 祝福しよう! 万感の想いと共に高らかに! 其れがどの様なレースになろうとも、ボクらが彼女の友として出来る事はそのくらいのものさ! そうだろう、アヤベさん?」

 

 

 オペラオーはアドマイヤベガを流し見る。その姿はまさに、威風堂々の覇王然としていた。アドマイヤベガの表情は微かに明るさを取り戻した。

 

 

(……悔しいわね。まさかオペラオーに励まされるなんてね)

 

 

 そして、オペラオーに続けてトップロードもアドマイヤベガに語りかける。

 

 

「そうですよ、アヤベさん! マリンさんのレースが終わってしまっても、私たちが友達なのは変わらないじゃないですか! きっと学園の外でも会えますし、またキャンプにだって、行け……行ける……はずで……ぐすっ……」

 

「……もう、そこで泣かないで。トップロードさんらしくないわよ」

 

「ううう……だってぇ……ぐずっ……」

 

 

 アドマイヤベガは空を見上げた。どんよりとした天気で今にも雨が降りそうだ。今年の有記念はかなり珍しく雨天での開催となると予報で言っていた。今年は数年に1度の暖冬だった影響なのか。一応、皆雨に備えてカッパを用意していた。

 

 今夜は多分、星は見えない。だが、アドマイヤベガは願わずにはいられなかった。

 

 

(……どうか、マリンさんが無事にレースを終えられますように。そして、彼女の『願い』も……叶うのならば……)

 

 

 アドマイヤベガは、夏のキャンプでマリンと星空の下で交わした会話を思い出して、天に願うのだった。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

「…………………」もぐもぐもぐもぐ

 

「……オグリ、お前ニンジン焼き5本で足りるんか?」

 

 

 観客席の『シリウス』とは離れたの最前列に、オグリキャップ、タマモクロス、スーパークリーク、イナリワンの4人のウマ娘が並んでいる。

 

 オグリキャップは見るからに元気が無く、いつもなら腹を膨らませているはずだが、中山に来てからは(いつもと比べれば)ゼロに等しいくらいの量しか食べ物を買っていなかった。その事をスーパークリークは心配している様子だった。

 

 

「オグリちゃん、やっぱり落ち込んでるのかしら……」

 

「仕方ねえだろうよ、オグリはあの転校生をだいぶ気に入っていたからなぁ。ほんと残酷なもんだ、運命って奴はよ……」

 

 

 イナリワンは中山レース場のターフを見渡して感慨に耽る。ここに有るのは伝説の世代の4人とは切っても切り離せないドラマばかりだ。それだけ特別な場所だった。

 

 

「せやな……引退レースが『有記念』っちゅーんは、何か感じ入るもんがあるな……胸の奥がジクジクするわ。天気も悪なって来たし、一年の締めくくりやのに気分が晴れんわホンマ」

 

「そういえば、今年の有記念はイナリちゃんが勝った時以来の雨天開催らしいですよぉ。懐かしいですねぇ」

 

「ああ、そう言えばそうか。あれから随分と経っちまったが、あの雨は珍しい事だったんだなぁ」

 

「う……その話を聞くとにんじんが喉に……」

 

「なんや、オグリ。ここでぶっ倒れたら洒落にならんで。ほら、ウチの水飲め」

 

 

 ゴクゴクとオグリキャップはタマモクロスからペットボトルを受け取って飲むと、プハッと全て飲み終えて空っぽのボトルだけを返した。ちなみにイナリワンが1着を勝ち取った有記念で、オグリキャップは5着だったのだ。

 

 

「アホー、全部飲むな! ウチの分無くなってもうたやん!」

 

「あ……すまない、タマ。つい」

 

 

 オグリキャップはバツの悪そうな顔をして、手元のニンジン焼きを見つめる。その目には、かつて見た事がないほどの悔しさが浮かんていた。

 

 

「……初めての経験だったんだ、走りを誰かに教えるのは。どんどん強くなっていくマリンを見ていると、私も力が湧いて来たんだ。だから……とても悔しい。担当ウマ娘が引退するのを見るトレーナーは、こんな気持ちなのかと考えてしまう」

 

「……オグリちゃん……」

 

 

 スーパークリークが悲しげに呟いた。タマモクロスも目を細めて腕を組む。

 

 

「きっと、ルドルフも私と同じ気持ちだと思う。マリンが転校してから、初めて走りを教えたのは彼女だそうだ。きっと……私よりも辛いだろうな……」

 

 

 そう言って、オグリキャップはVIPルームの方を見上げる。光の反射で中の様子は窺えないが、シンボリルドルフも同じようにターフを眺めていると、オグリキャップは確信していた。

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 

「会長、ずっと立っていては気も休まりませんよ。紅茶でも入れましょうか? 今日のお茶請けもとても美味しそうですが、いかがです?」

 

「……今は、何も口にしたくないんだ。すまない、エアグルーヴ。気を遣わせてしまって……」

 

 

 VIPルームから、シンボリルドルフはターフを見渡す。何を見ている訳でもないが、彼女はこれからそこを走るウマ娘たちにただ思いを馳せる。特にその中の1人、トレセン学園への時期外れの転校生だった黒髪のウマ娘の顔が鮮明に思い浮かんでいた。

 

 エアグルーヴもルドルフの心情を察していた。彼女はルドルフの隣まで歩み寄ると、一緒にターフを眺める。無言の時が暫くVIPルームを流れた。

 

 しかし、その無言を打ち破る天衣無縫な声が、バンと開いたドアから響く。

 

 

「ヤッホー、ルドルフ! マルゼンは少し遅れて来るってさ! ところで何かお菓子はない? 小腹がすいちゃったんだよね」

 

「! シービーさん、いらしたのですね」

 

「エアグルーヴも居たんだ、ヤッホー! あ、これ貰うね。美味しそう!」

 

「あ、それは会長に用意してた……」

 

 

 というエアグルーヴの言葉を無視して『ターフの偉大なる演出家』ミスターシービーはテーブルに置かれたシュークリームを手に取って、モグモグと食みながらルドルフの隣に並んだ。

 

 

「何を眺めてるのさ、ルドルフ。そんな辛気臭い顔してさ」

 

「………………」

 

 

 ルドルフは目を細め、俯いて答えない。だが、シービーは初めから察していた。

 

 

「やっぱり、『あの娘』のこと? 気に入ってたもんね、ルドルフは」

 

「……彼女に、マリンアウトサイダに最初に走りを教えたのは私だ。思い入れも、勿論深い」

 

 

 ポツリポツリと、いつもの彼女らしからぬ気落ちした声でルドルフは語り出した。他の2人は静かに耳を傾ける。

 

 

「トレーナーの真似事をして、彼女を指導したんだ。その経験が私の糧になるかもしれないという打算もあった。だが、彼女は私が思った以上に私の視野を広げてくれる存在になっていた」

 

 

 ルドルフは組んだ腕の拳をギュッと握り締める。

 

 

「……先日、マリンが私を訪ねて来たんだ。私にこの有記念をラストランとする事を伝える為に、そして私に……謝罪の言葉を伝える為に」

 

 

 エアグルーヴとシービーを少し目を見開いた。ルドルフは訪ねて来たマリンの言葉を2人に語った。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

『私は密かに、ルドルフ会長の夢の一端を叶えようと努力していました。格闘ウマ娘である自分の走りに、どれほどの意味を持たせられるか分かりませんでしたが、少しでも多くの人々とウマ娘に勇気を与えたかったのです』

 

 

 ルドルフが聞く彼女の声に、本当に微かな震えがあった。

 

 

『ですが、ごめんなさい……ルドルフ会長。私のレースはここまでです。会長のお陰で私は走り出せました。何も知らなかった私をここまで導いて頂いて、感謝の念に堪えません。会長から教わった走りが出来なくなるのが……私には何よりも悔しいです。ですが私は、この先走らなかったとしても、会長の夢をずっとずっと……応援しています』

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「……私は彼女の、あんなに悲しそうな顔を……見たくなかった」

 

「ルドルフ……」

 

 

 ルドルフの言葉に、シービーも悲しげに呟いた。

 

 

「私は知らなかった。トレーナーとは、こんなに辛いものだったのだな。真似事だったとしても、ほんの一時だったとしても、自分が指導したウマ娘が去り行くのを眺めるしか出来ないのは……こんな……こんなに……ッ!」

 

 

「シンボリルドルフ会長!!!!!」

 

 

 ビクッとルドルフは俯いた顔を上げると、いつの間にか目の前に『女帝』が立っていてた。普段は絶対にルドルフには向けないはずの鋭い眼光で、ルドルフの瞳の奥を射抜く。

 

 

「しっかりなさって下さい! 貴方は誰ですか!? 『皇帝』シンボリルドルフでしょう!! その心中はお察し致しますが、それでも貴方は胸を張って彼女を見送らねばなりません! レースウマ娘の頂点に立つ貴方が……格闘ウマ娘でありながら、レースウマ娘であろうとした彼女の『最後の走り』に泥を塗るおつもりですか!!!?」

 

 

「っ……!!!」

 

 

 ルドルフは息を飲んだ。そして恥じた、『皇帝』としての在り方を忘れかけていた己を。感謝した、それを思い出させて喝を入れてくれた『女帝』を。

 

 

「……相変わらず厳しいな、エアグルーヴ」

 

「……出過ぎた真似を、してしまいました。頭を冷やしてきます」

 

 

 エアグルーヴは足速にドアへと向かい、VIPルームを出て行った。

 

 

「叱られちゃったね、ルドルフ」

 

 

 シービーは片手を腰に手を当てて、変わらない調子で言った。

 

 

「ああ、そうだな。私は彼女に甘えてばかりだ」

 

「へぇ〜、信頼してるんだ。なるほどなるほど」

 

 

 シービーはペロリと指に付いたクリームを舐め取ると、ガラス越しにレース場を見る。懐かしそうに、昔のレースを思い出している様子だった。

 

 

「見届けよう。マリンアウトサイダの最後の走りを……『皇帝』としてな」

 

 

 ルドルフは再び腕を組んで、ターフを見る。そこにかつての自分が走っている姿が見えた気がした。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 中山レース場の入り口近くの広場で、1人のウマ娘が空を見上げていた。

 

 金髪の中に青色が入り混じった不思議な髪色の、トロンとした垂れ目の不思議な雰囲気を纏ったウマ娘だった。

 

 彼女は何語かよく分からない単語を呟きながら、視線をレース場に移す。

 

 そしてジーーーーーっと微動だにしないままその場を動かなかった。

 

 

 すると、もう1人眼鏡をかけた小柄なウマ娘が慌てた様子でやって来た。彼女はどうやらその不思議な雰囲気のウマ娘を探していた様だ。

 

 

「良かったぁ! 探したんですよ、ユニさん!」

 

 

 はぁはぁと息を整えて、ゼンノロブロイはネオユニヴァースに声を掛けた。

 

 

「ゼンノロブロイ……”WORR”……ネオユニヴァースは、心配……掛けた?」

 

「そうですよ! 一緒に有馬記念を観ようって来たのに、いつの間にかユニさんが居なくなってて」

 

 

 ネオユニヴァースはシュンと耳を垂らして、ロブロイと向き合う。

 

 

「ネオユニヴァースは……”LOST”……だったんだね。ゼンノロブロイに……”ごめんなさい”をするよ……」

 

「そ、そこまでションボリしなくても……とにかく、無事に見つかって良かったです! 急ぎましょう、良い席が取られちゃう前に!」

 

 

 ゼンノロブロイはネオユニヴァースの手を取ると、入り口に向かって一緒に歩き出した。

 

 ネオユニヴァースは歩きながら、今回のレースで引退を表明した武術家のウマ娘の事を考えていた。

 

 

(マリンアウトサイダ……ネオユニヴァースは、彼女と”接触する(エンゲージ)”が……出来なかった……彼女は……他の”宇宙(ユニヴァース)”と……”接続(コネクト)”が強固だった)

 

 

 ネオユニヴァースはマリンが転校して来た時から、彼女を観察していた。しかし、どうやらネオユニヴァースのみが理解できる事情で、彼女と接触はしていないようだった。

 

 

(『有馬記念』と『有記念』……マリンアウトサイダにとっての”GATE”……『私』は見届けないといけない……”WISH”……彼女がボイドを超えられますように)

 

 

 そうして、ネオユニヴァースは人知れずひっそりと、星に祈りを捧げるのだった。

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 場面変わって……

 

 チーム『シリウス』からも、覇王世代とBNWからも、伝説の世代の4強からも離れた隅の方の座席に2人のウマ娘が座っていた。

 

 1人は怪しい目付きをした濃い栗毛のウマ娘、もう1人は掴み所のない雰囲気の黒毛のウマ娘だった。

 

 黒毛のウマ娘は静かにターフを見つめている。それに対して栗毛のウマ娘は退屈そうに足をバタバタとさせていた。

 

 

「なぁ、カフェ〜〜。レースの研究をするにしても、こんな隅っこじゃあウマ娘たちを良く観察出来ないじゃないか〜〜。もっと見やすい所に移動した方が良いんじゃないのかい?」

 

「嫌です。人混みは苦手なので。タキオンさん1人で行って来れば良いじゃないですか」

 

「ええ〜〜、そんなの。私が人酔いを起こしたら誰が介抱してくれるのさ。カフェが側に居なきゃイ〜ヤ〜だ〜!」

 

「何歳児ですか、あなたは? それなら、ここに居る方が利害が一致しているはずです。私はここから動きませんよ」

 

 

 ぶーぶー言うタキオンを無視して、マンハッタンカフェはチラリと『お友だち』を見た。彼女はジッと動かずに、ターフを見ていた。何が彼女の目的なのかは、カフェにも分かっていない。このレースでの引退を発表したあの武術家のウマ娘に関係がありそうだとは予想していた。

 

 

「それにしても、カフェ〜〜。人混みが苦手な君がグランプリレースの観戦に来たいだなんて、どういう風の吹き回しだい? ついつい興味をそそられてついて来てしまったじゃないか、責任を取り給えよ、責任を〜〜」

 

「何の責任ですか。私は『お友だち』がどうしてもここに来たがっていたから、仕方なく来ただけです」

 

 

 カフェは再びチラリとお友だちを見た。

 

 

『………………………………』

 

 

 依然変わらず、彼女はターフをジッと見続けていた。カフェは思い返す。

 

 かつてお友だちが自分を通して、マリンアウトサイダに伝えた言葉を。

 

 

 

 

『お前の「願い」はこの世界では決して叶うことはない』

 

『耐え難い喪失を味わいたくなければ、レースをやめることだ』

 

『それでも走りたいと願うなら「夢」を探せ。お前の「願い」に代わる、お前の「夢」を……』

 

 

 

 

(『願い』……彼女の、マリンアウトサイダの『願い』とは、一体何なのだろう……?)

 

 

 マンハッタンカフェは空を見上げる。段々と黒い雨雲が渦巻いて来て、ポツポツと雨を降らせ始めた。

 

 

「うわあああ、雨が降って来たじゃないか! いくら暖冬でもこの季節に濡れたら風邪を引いてしまうよ! カフェ〜〜なんとかしておくれよ〜〜!!!」

 

「私は『自分用』の雨合羽を持って来ているので、ご心配なく」

 

 

 カフェは持ってきた手提げカバンからいそいそと雨合羽を取り出して羽織った。それを見てタキオンがカフェに縋り付く。

 

 

「カフェ〜〜、それ2人で着れないかい!? ほら、身をピッタリと寄せ合えば雨を凌ぐ事くらい可能なはずさ!」

 

「っ……出来る訳ないじゃないですか、そんな事」

 

 

 はぁ……とカフェはため息を吐いて。また鞄の中を探り始めた。

 

 

「本当に仕方のない人ですね、貴方は。これ……『自分用』の予備の雨合羽です。使っても良いですが、貸し1つですよ」

 

「なぁんだ、流石はカフェ! 用意周到じゃないか〜〜! ありがたく使わせて貰うよ! ああ寒い寒い」

 

 

 そう言ってタキオンも雨合羽を羽織った。カフェはどうせズボラなタキオンの事だから雨合羽も傘も持ってこないだろうと予測していたので、あくまで『自分用』と言う名目でもう1着用意していたのだ。彼女はこれを口が裂けても言うつもりは無いが。

 

 

 カフェは再び空を見上げた。今は雨脚はまだ弱いが、レースが始まる頃には大降りになりそうな雰囲気があった。濡れた状態で走るのは心臓に負担がかかるのではないか、とマリンの事が心配になる。

 

 

(それにしても……この雨はまるで……)

 

 

 涙のようだ、とカフェは思った。

 

 会場の熱気とは裏腹に、まるで空が泣いているようだ、と何故だかそう思えて仕方がなかった。

 

 

 

 

 

 レース開始まであと僅か。

 

 多くの人々の思いが交錯する中、『運命』の時が刻一刻と近づいて来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

27話 キミだけの旅路




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27話 キミだけの旅路



 時間があれば第1話を読み返すのも良いかもしれません。伏線の確認の意味で。


 

 

 

 

 

「すぅぅ……ふぅぅ……」

 

 

 『有記念』の出走ウマ娘控室で、マリンアウトサイダは精神統一の為に鏡台の前で深呼吸をしていた。

 

 彼女はすっと目を開く。目の前の鏡に映るのは特別製の袴の上から緑色のパーカーを羽織った自分の姿。

 

 

(懐かしいな……トレーナー室でみんなにお披露目したのが、昨日の事のよう……)

 

 

 鏡の中の彼女が悲しそうに微笑んだ。

 

 

(多分……このレースを走り切ったらもう、私はこの袴を着ける事は無いだろうな。眩しい思い出が邪魔をして、着る事を躊躇いそうだ)

 

 

 マリンは再び深呼吸する。いつまで経っても、彼女の胸の中の重しは消えなかった。

 

 

(パドックの時間までまだ少しある。あと少しで、私の最後のレースが……)

 

 

 

 コンコン

 

 

 

 と、控室のドアがノックされる。以前の『宝塚記念』と似たようなシチュエーション。あの時入って来たのは今年の皐月賞ウマ娘アカネダスキだった。しかし、今回は違うだろう。誰が入ってくるか、マリンには予想がついていた。

 

 

 ガチャリ、とドアが開く。入って来たのは灰髪に紅碧の瞳を携えたウマ娘。

 

 マリンの幼馴染みのルリイロバショウだった。

 

 

「……邪魔するね、マリン」

 

 

 ルリイロバショウは足元を確かめるかのように、ゆっくりとマリンに近付いた。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

「ルリ……来てくれてたんだ」

 

 

 マリンは立ち上がって、ルリと向かい合う。ルリは沈痛な面持ちでマリンを見つめていた。

 

 

「……体調、大丈夫なの? これから雨も降るって予報で言ってたし……身体冷やしたらさ、もしかしたら……」

 

「ウォーミングアップをしっかりやれば大丈夫だよ。何にも調子が悪い所は無いし、絶好調って感じ」

 

「っ…………」

 

 

 ルリは目を細めて、絞り出すように言う。

 

 

「ねえマリン……今からでも、このレース走るのを止めない?」

 

「………………」

 

 

 マリンは、ルリがそう言うだろうと思っていた。マリンの心臓の支障が公表されてから、誰よりもマリンを心配していたのは、他ならぬ彼女だったのだから。

 

 

「マリンはさ、私との約束は果たしたじゃん……マリンが言ってた先輩の『夢』も叶えたじゃん……マリンはG1レースを勝ったんだよ!? レースウマ娘の中の強者しか集まらないグランプリレースで、1着を取ったんだよ!? これ以上、走る必要なんて……!」

 

 

 ルリの目には既に涙が溜まっていた。マリンは静かに彼女を見つめている。

 

 

「心臓、どうなるか分かんないんでしょ!? もう……もう十分だよ! 私は……命を賭けてまで、マリンに走って欲しくなんかない!!!」

 

「っ…………」

 

 

 思いの丈を叫ぶルリを、マリンはそっと抱きしめた。

 

 

「ごめんね、心配かけさせて。私はいつもこうだな。いつもルリに甘えてしまってる」

 

「嫌だよマリン、私マリンに何かあったら……嫌だよ……! 何で走るのよ……」

 

 

 暖かかった。ルリの体温が、気持ちが、何よりも暖かいと、マリンは感じた。

 

 

「ルリ、聞いて欲しいんだ。私ね、『夢』が見つかったんだ。いや……本当はもう自分の背中に乗っかってたのに、気付いてなかっただけ……」

 

 

 ルリは啜り泣きながら、マリンの言葉を聞いていた。

 

 

「『思い』を乗せて走ること……それそのものが私の『夢』だったんだ。影で涙に濡れるウマ娘たちの、先輩の、そしてルリの『思い』を乗せて走る時、私は1番強くなれた。私はもっと、もっと多くのウマ娘たちの『思い』を背中に乗せて走りたいんだ。何となく感じるんだ、そんな忘れ去られていく悲しい思いが、たくさん……何処かにあるのを」

 

 

 マリンは更に強くルリを抱き締める。

 

 

「私はその為に走りたいんだ、それが私の『夢』なの。ルリが気付かせてくれたんだよ。あの時、トレセン学園に突然やってきて、初めてルリと想いをぶつけ合って『喧嘩』した。あれがなかったら、私はここまで走れなかったかもしれない。ううん、絶対に無理だった」

 

「でもっ! そのせいでマリンは……心臓を……!」

 

 

 マリンは優しい声で続けた。

 

 

「ルリ、それは違うよ……私は誰よりも誰よりも、ルリに感謝してるんだ。ルリのお陰で私は走る意味を見つけられたんだ。心臓が悪かったのは生まれつきだよ、ルリは何も悪くなんかない。罪悪感なんて、絶対に抱かないで」

 

 

 マリンは抱いていたルリの身体を離して、正面から向き合う。彼女に『思い』を伝える為に。

 

 マリンの目尻にも、涙の粒が浮かび、溢れ落ちた。

 

 

 「ルリ……」とマリンは優しく呟く。

 

 

 

「ありがとう、私に『夢』を見てくれて……

 

 ありがとう、私の『夢』になってくれて……

 

 この有記念が最後のレースだとしても

 

 ルリのお陰で、みんなのお陰で

 

 私は今……『夢』を翔けているんだ」

 

 

 

 ルリイロバショウは、子供のように泣きじゃくる。それでもずっと、マリンの瞳を見つめていた。

 

 

「この有記念はね、ルドルフ会長も、オグリさんも、スペさんも、ゴルシさんも、他にも私が尊敬するたくさんのレースウマ娘たちが『夢』を乗せて走ったんだ。だから私も走りたい。例え、実力も何もかもが……心臓さえもが足りない……不完全なレースウマ娘だもしても」

 

 

 マリンはニコリと笑う。その笑顔はとても儚げだった。

 

 

「だからね、ルリ。このレースが終わったら私はレースウマ娘じゃなくなる。そしたら、あの時の『夢』を一緒に叶えよう。2人で、日本一の格闘ウマ娘に……」

 

 

「いいの!!! そんなのは、もういいの!!!」

 

 

 ルリイロバショウはマリンに抱き付く。マリンはそれを驚いた表情で受け止めた。

 

 

「お願い……無事に……無事に帰ってきて! それだけでいいの……私の『願い』は、それだけで……マリン!」

 

「っ…………うん。分かった、約束だ。私は無事に帰ってくる……約束する」

 

 

 時間の許す限り、控室で2人は抱き合う。ルリの啜り泣く声だけが、控え室に響いていた。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 マリンアウトサイダとルリイロバショウが控室で会ってから暫く後、中山レース場のパドックでは出走ウマ娘たちが紹介されていた。

 

 観客席ではこの一年の締め括りという事もあり、1人紹介される度に熱狂が沸き起こっていた。16人のウマ娘で争われる有記念、そろそろマリンの紹介が始まる頃だった。

 

 

 

「次だね、マリンの紹介は。みんな、気合を入れて応援するぞ!」

 

 

 『シリウス』のトレーナーがチームのウマ娘たちに檄を入れる。しかし、皆一様に暗い雰囲気のままだった。あのゴールドシップさえも、ルービックキューブを持つばかりで回してさえいない。

 

 

「ちょっとー、『シリウス』のみんな暗いよー! こんなんじゃマリンちゃんだって絶不調になっちゃうよ、しっかりしてよー!」

 

 

 そう声をかける小柄なウマ娘は『シリウス』のメンバーではなかった。彼女の名はトウカイテイオー、以前からの縁で今日はマリンの応援に来ていたのだった。テイオーの声に、メジロマックイーンがしょんぼりと答える。

 

 

「そうですわね、私たちが暗い顔をしていては駄目ですわよね……でもどうしても、顔と心が笑ってくれませんの。マリンさんの努力を思い出せば出すほど、胸が苦しくなってしまって……」

 

 

 他の皆も同じ気持ちだった。マリンの心臓の事が発覚した後も、皆時間の許す限り必死にトレーナーと共に策を練り、案を捻り出し、マリンのレース続行の為に奮闘していた。それが、仕方がないとはいえこの『有記念』がラストランとなってしまうのだ。消沈してしまうのも無理はない。

 

 

 だが、トレーナーだけは違った。彼は知っていた。マリンがトレーナー室で見せた、彼女の瞳の奥に灯火のように耀く『思い』を。だから彼は、誰よりもマリンを信じていた。

 

 

「テイオーの言う通りだぞ。みんな目に焼き付けるんだ、マリンの姿を。きっと……大丈夫だ」

 

 

 

 前のウマ娘の紹介の後、ついにパドックにマリンが現れる。トラックジャケットを肩に掛け、悠然とした足取りで中央に歩み、観衆の前に立つ。そして……

 

 

 バサァァァ……!!!とマリンがジャケットを放る。

 

 

 過酷の道を征く武術家のイメージの体現である下から燃える赤と青の炎の刺繍を施した袴と、ミスマッチのように見えてこれ以上ない程彼女にフィットしている緑色のパーカー。

 

 

 もう1つのグランプリレース『宝塚記念』で劇的な勝利を収めた、レースウマ娘でもあり、格闘ウマ娘でもあるマリンアウトサイダの威風堂々とした姿がそこに在った。

 

 

 その眼差しには、一切の迷いも、憂いも無かった。

 

 

 観衆は息を呑んだ。『シリウス』のメンバーも、覇王世代とBNWも、伝説の世代の4強も、VIPルームのシンボリルドルフたちも、ネオユニヴァースもゼンノロブロイも、マンハッタンカフェやアグネスタキオンも、トウカイテイオーまでもが一瞬我を忘れて魅入っていた。

 

 彼女がこれからラストランを走るウマ娘だと言うことが、皆の頭から消えた。

 

 その雰囲気と風格は、これから何処までも……この先をずっと何時までも駆けていくかの様なイメージを、彼女を見た全ての者の脳内に植え付ける程に雄々しい。

 

 

 

「ほら、見てごらん」

 

 

 『シリウス』のトレーナーが呟く。

 

 

「あのウマ娘が、チーム『シリウス』のマリンアウトサイダだ」

 

 

 

 ワァアアアアァァァーー!!!!!

 

 ウオオオオオオオオーー!!!!!

 

 

 

 会場に、嵐のような声援と拍手が沸き起こった。

 

 

 

『7番、マリンアウトサイダ!!! 今年の『宝塚記念』で劇的な勝利を果たしたグランプリウマ娘が、『有記念』にも姿を見せた!!! 彼女はこのレースがラストランとなると発表されています……ですが、その様な事を微塵も感じさせないくらい雄々しい姿です!!!』

 

 

 マリンが手を振ると、更に観衆たちは盛り上がる。それを見て、メジロマックイーンがため息と共に微笑んだ。

 

 

「情けないですわね、応援する側の私たちが励まされてしまいましたわ……皆さん、他の観客たちに負けていられませんわよ! 精一杯マリンさんを応援するのです!」

 

「へっ……そうだな、頑張れええええマリーーーーーーン!!!! 他の奴らなんか蹴散らして行けええええええ!!!!」

 

「マリンさーーーーん!!! ライスたちが1番応援してるからねーーーーー!!!」

 

「うああああああああああん!!! マ゛リ゛ンざぁあああん!!! 思いっぎり頑張って下ざいいいいい!!!」

 

「スペちゃん、泣くのと応援するのは同時にしない方が良いと思うわ……」

 

「行け!!! お前の真の力を見せてやれ!!! 姉貴と山で修行したんだろ、お前ならやれる!!!」

 

「「「マリンさーーーん!!! 頑張れぇーーー!!!」」」

 

 

 『シリウス』のメンバーは誰よりも大声でマリンを応援した。他のマリンを応援に来ていたウマ娘たちも、精一杯の声を送った。

 

 VIPルームのルドルフも、驚きの表情から、安堵した笑顔に変わる。

 

 

「ああ……私が思い悩む事など、何も無かったのだな。彼女は立派な、誇り高い『レースウマ娘』だ」

 

 

 

 

 これから出走ウマ娘たちはゲート前に移動する。レース開始時刻まで、あと僅かだった。

 

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 ゲート前のターフに16人のウマ娘たちが集合する。天気は薄暗く、ポツポツと小雨が降ってきていた。勝負服を着ていてもこの季節だと、濡れるとかなり寒い。だが、その場のウマ娘たちは闘志で身体から熱気を放っていた。

 

 そんな中、1人のウマ娘がマリンに近付いた。マリンは一度しか彼女と会った事がないはずなのに、馴染み深く感じた。それだけレースで競い合った相手は特別な存在なのだろう。

 

 

「よお、マリンアウトサイダ。久しぶりだな」

 

 

 そうマリンに気さくに話しかけたのは、今年の皐月賞ウマ娘、アカネダスキだった。マリンと宝塚記念で鎬を削った最大の強敵だった。彼女ももちろん、このグランプリレースに出走していた。

 

 

「ご無沙汰してます、アカネダスキさん。あなたの出走するレースは全て拝見していました。非常に胸の熱くなる走り……参考にさせて頂いてます」

 

「堅っ苦しいねぇアンタは。でもそうかい、ありがとよ。俺も三冠を目指してたんだが、厳しいもんだねぇ。今年は本当に強え奴らが勢揃いだったからなぁ」

 

 

 アカネダスキは皐月賞の一冠を得た後は、日本ダービーと菊花賞は1着は勝ち取れていなかった。やはり三冠は非常に厳しい道のりである。本当に選ばれしウマ娘でないとなれない。厳しい現実だった。

 

 

「そうですね、今年のクラシック級は群雄割拠だったとトレーナーさんもおっしゃってました。ですが、その中で皐月賞を勝ったのは誇るべきことですよ。私はクラシック期はそもそも参加していませんが……」

 

「なーに言ってんだ、マリンアウトサイダ。俺が言ったのはクラシック級だけの事じゃねえよ」

 

 

 トン、とアカネダスキはマリンの肩に拳を当てる。「え?」とマリンが声を上げるのを見て、彼女は爽やかに笑った。

 

 

「アンタもその本当に強え奴らの内の1人だよ。今年の俺のレースは全部苦しい戦いだったけどよ。1番胸が高鳴ったレースは、アンタと走った『宝塚記念』だった」

 

「……そう、でしたか。私にとっても『宝塚記念』が、最高のレースでした」

 

 

 マリンも笑顔で答えた。それを聞いてアカネダスキは満足そうに頷く。そして、ほんの少し下へ俯いて残念そうな声で言う。

 

 

「……これがラストランだってな」

 

「……ええ、そうなります」

 

 

 アカネダスキはキリッと前を向く。そしてマリンの瞳を覗き込むように見つめた。

 

 

「アンタの心臓の事は聞いている。けどよ、俺は堅苦しい事を言うのは苦手なんだ。だったら最後にアンタにこれだけは言っておきてえ」

 

 

 アカネダスキは握手を求めて手を差し出した。マリンは同じ光景をかつて見た事があった。

 

 

「オレはアンタを見くびっていない……1人のレースウマ娘として、アンタと本気で勝負をする! 良いレースをしよう、マリンアウトサイダ!」

 

「………!!」

 

 

 そう、それはかつて阪神レース場の控室でアカネダスキがマリンに言った言葉。マリンがレースウマ娘の強さを知った、あの言葉だった。

 

 マリンの胸に熱いものが込み上げてくる。アカネダスキはマリンの心臓の事を知ってなお、あの時と変わらず本気で立ち向かって来てくれる。マリンは涙が出て来そうなくらい、嬉しかった。

 

 

 ガシッとマリンはその手を掴む。力強く、2人は握手を交わした。

 

 

「はい、良いレースをしましょう。私も全力で行かせて頂きます、アカネダスキさん……!」

 

 

 それを聞いて、アカネダスキも歯を剥いた笑顔になる。野性味の溢れる眼で、マリンを睨み付けた。

 

 

「リベンジだ! 今度は負けねえぞ、マリンアウトサイダ!」

 

「こちらこそ、私の持てる全てであなたに勝ちます……!」

 

 

 

 マリンは幸せを感じた。このような強者が自分のような不完全なレースウマ娘と、本気で戦ってくれる事に。叶うのなら、もっと力を付けてから……アカネダスキと本気で勝負をしたいと、胸の内で思った。

 

 

 

 そして、16人のウマ娘のゲートインが完了する。

 

 緊張の数秒間が過ぎてから……

 

 

 バンッッ!!!

 

 

 と、一斉にゲートが開かれた。

 

 

 今年最後のG1レースがついに幕を開けた。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 全てのウマ娘の出だしは好調だった。

 

 16人という大人数でのレースはマリンも初めてのはずだ。バ群の後方につくかと思われたマリンアウトサイダは、なんと中段の方につけていた。マリンを応援していた者たちの間でざわめきが起こる。

 

 しかし、『シリウス』のメンバーは知っていた。皆、この有記念をマリンのただの引退記念レースにするつもりはなかった。

 

 短いトレーニング期間に皆で知恵を絞り、今のマリンが勝つ可能性の最も高い作戦を立てていたのだ。

 

 

「何とか遅れずに中段につけましたわね。後はとにかく落ち着いて走れれば上出来です。無茶にペースを上げたりしたければ……可能性はありますものね」

 

 

 マックイーンが声には心配の色が混ざっている。それはトレーナーも同じだった。

 

 

「うん、後は周りに流されずに一定のペースを維持できれば身体への負担は少なくなる筈だ。無茶さえしなければ……」

 

 

 トレーナーとチームメンバーがマリンの為に考えた作戦は、『先行寄りの差し』だった。トウカイテイオーのように先行策を使えれば良いが、マリンはそれに慣れてない上に中山2500メートルは先行が有利なのでその数も増える。そこで揉まれて負担になるよりも、差しで行くのが現状ギリギリ出来る作戦変更だった。

 

 

「それでもかなり無茶な作戦変更だと思うケドねー。まあ、ボクが教えられる事は教えたし、後はマリンちゃん次第だね。ホント……奇跡でも何でもいいから、勝って欲しいな……」

 

 

 テイオーも、マリンの引退に無念を感じていた。彼女もかつて1度は、同じように引退を決意したウマ娘だったのだから。

 

 そして、今回もまたトレーナーはトウカイテイオーに助っ人を頼んだのだった。天才的なセンスを持つ彼女に、マリンの身体への負担を限りなく減らす走りの研究を手伝って貰っていた。トレーナーの調査と併せて、何とか本番までに最低限の形には出来たが、不安はどうしても残ってしまう。

 

 

「神様、仏様、シラオキ様……どうかマリンさんをお助けください……!」

 

 

 スペシャルウィークが祈りながらマリンを応援する。他の皆も同じ気持ちだった。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

 レースはその後、特に順位が変動する事なく中盤を過ぎた。先頭が第3コーナーの手前に差し掛かる。そろそろレースが動いてくる頃だ。

 

 ここまでマリンの走りに特に支障はなかった。その事に彼女を応援する皆が胸を撫で下ろしていた。

 

 しかし、油断はまだ出来ない。マリンの心臓がどこまで耐えられるのか、それは誰にも分からないのだ。

 

 

 

 ダッダッダッダッダッ!!

 

   ダッダッダッダッダッ!!!

 

     ダッダッダッダッダッ!!!!

 

 

 

 足音が幾重にも重なって響いていた。マリンはここまで自分がバ群について行けてる事に安堵する。しかし、裏を返せばついていくのがやっと、と言う事だ。ここから先、仕掛ける事が出来なければ後は置いて行かれるだけなのだ。

 

 

 バ場は荒れているが、マリンにとっては何も問題にならなかった。

 

 

 ウマ娘たちがお互いの出方を探っていた。マリンよりずっと前方にいるアカネダスキも逃げウマ娘にプレッシャーをかけ続けて、抜け出す機会を窺っていた。

 

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ……クッ……ハァッ!!」

 

 

(少し苦しい……でも、行ける!)

 

 

 脚はまだ十分に残っているとマリンは感じた。トウカイテイオーと練習した走りが効果を発揮しているようだ。これから第3コーナーを通過する。バ群はやや前方が団子状態。マリンの位置は恐らく前から10番目くらいだ。

 

 

(ここから位置を上げないと勝てない、だけどそれは他のウマ娘たちも同じ。きっとぶつかり合う様な勝負になる……)

 

 

 マリンはあの宝塚記念の時のように、再び『覚悟』を決める。

 

 

(トレーナーさん……チームのみんな……クラスの友達……先輩たち……ダンスレッスンのみんな……おじいちゃん……ルリ……!)

 

 

 マリンの脳裏に、支えてくれた全ての人の笑顔が浮かんだ。勝ちたかった。その人たちの為に、この夢を背中に乗せて、勝ちたかった。

 

 マリンは控室でトレーナーと別れる前に言われた言葉を思い出した。

 

 

『マリン……何かあったらすぐに競争を中断して良いんだ。無茶はしないでくれ、無事に……帰ってきてくれ』

 

 

(ルリにも、同じことを言われた……でも、ごめんなさい。少しだけ、本当に少しだけ無茶をします。私は……勝ちたい……!)

 

 

 マリンの胸に、彼女の祖父が縁側でかけてくれた言葉が蘇る。慣れ親しんだ景色とお茶の香りとともに。

 

 

『お前だけの道を進め、ミドリ。大丈夫だ、お前は俺が鍛えたんだ。お前はヤワじゃない、お前は走れる、思いっきりな』

 

 

 スゥゥとマリンは息を吸い込む。

 

 

(大丈夫だ。私は……走れる……ッ!!!)

 

 

 第3コーナーの終盤、マリンは勝負を仕掛ける。トレセン学園で過ごした、輝く日々に応える為に。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

『先頭はダンゴ状態のまま第3コーナーを過ぎる! まだお互い様子見か、ここから仕掛けてくるウマ娘はいるのか!』

 

 

 そして、実況アナウンサーの目に1人のウマ娘が映る。アナウンサーの声に期待と喜びの色が混じる。

 

 

『マリンアウトサイダだ!!! マリンアウトサイダが後方から先んじて仕掛けてきたぞ!!! 後続も上がってくる、これは大混戦になりそうだ!!!』

 

 

 マリンの仕掛けるタイミングは完璧だった。宝塚記念での勝利という経験を積んだ彼女の戦略眼は、このレースでも十分に通じるレベルに達していた。

 

 その大奮闘に観客たちも盛り上がる。もしかすると、と期待が抑えられない。マリンの応援に来たウマ娘たちも声を張り上げる。

 

 前方のウマ娘たちも後方の空気が変わったのを感じたようだ。皆徐々にスパートに入る体勢を整えていた。

 

 

(あと少し……あと少しだけ保って……! ここから、ここからなんだ……!)

 

 

「うぁああああああ!!!」

 

 

 

 バ群の中をマリンが更に前へ進もうともがく。彼女はあと少しで先頭集団に追いつけそうだった。

 

 

 マリン自身も、観客たちも……『夢』を見た。

 

 

 レースウマ娘であり、格闘ウマ娘でもある彼女の走りに……その先の未来に……

 

 

 

 

 

 

 

 だが、運命は容赦なくその刻限を告げる。

 

 マリンの心臓は、ついに限界に達してしまった。

 

 

 

 

 ドドクンッ!!!

 

 

 

 

「ッ!!! ぐぅッ……!!!」

 

 

 

 ドドクンッ!!! ドドクンッ!!!

 

 

 

「クッ………ソオオオオオオオ!!!!」

 

 

 

 

 実況席、観客席から見えるマリンの姿が、目に見えて失速した。

 

 

 

『マリンアウトサイダ、苦しいか!? そこから先が伸びない!!』

 

 

 

 マリンは足掻いた。胸の苦しさと込み上がる恐怖を必死に抑えつけて、無理矢理脚を前に出し続けた。

 

 だが、彼女の身体は走ることを拒否し始めていた。トレーナーや他のウマ娘たちも、応援よりも心配の表情になる。ルリイロバショウは涙を流して、俯いていた。

 

 

 

 彼女の視界に映るターフが、段々と闇に変貌していく。

 

 周りの景色を侵食するように、黒色の暗幕が広がっていく。

 

 

 

『もう……もう十分だよ! 私は……命を賭けてまで、マリンに走って欲しくなんかない!!!』

 

 

 

 マリンの耳に、控室でルリが言っていた言葉が反響する。

 

 彼女の呼吸が乱れ、詰まったような声が混じり始めた。何もかもが、限界に達していた。

 

 

 

 

「ハァッ! ハァッ! カハァッ……! ハァッ!」

 

 

 

 段々と、マリンの手足の感覚がなくなっていく。彼女の気力も……尽きかけていた……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (もう……十分なのかな?)

 

 

 

 

 マリンの脚が緩やかに減速していく。

 

 

 

 

 (私は……走れたよね?)

 

  

 

 

 マリンの腕が上がらなくなっていく。

 

 

 

 

 (先輩から預かった『夢』を叶えた…

 

 ルリと交わした『約束』を果たした…

 

 ダンスレッスンのウマ娘たちの『思い』を抱いて踊った…

 

 私は全部に……報いる事ができたよね……?)

 

 

 

 

 もうマリンの目の前には、闇しかなかった。

 

 

 

 

(もう、十分だよね……私の『夢』は……果たせたよね? 私の旅は……『寄り道』はここで……)

 

 

 

 

 ここが終着だ……とマリンは悟った。

 

 

 

 

 しかし……

 

 

 

 

 ポゥ……

 

 

 

 

(………………えっ?)

 

 

 

 

 彼女は闇の先に、『光』を見た。

 

 それはゴールだった。

 

 第4コーナーを抜けたずっと先。

 

 全てが闇に染まっているのに何故かそこだけが明るく、鮮明に見えた。

 

 

 

 

(っ……ああ……)

 

 

 

 

 何故、忘れていたのだろう?

 

 マリンは曖昧になった意識で考える。

 

 

 それは『レースウマ娘』としてのマリンアウトサイダの原風景。

 

 トレセン学園に転入するきっかけとなった景色。

 

 

 

 

(……そうだ……)

 

 

 

 

 

 ゴールの先に、緑色のパーカーを着た『誰か』が立っていた。

 

 

 

 

 

(私の……『願い』は……)

 

 

 

 

 

 マリンは光に向かって、手を伸ばした。

 

 

 

 まるで、星を掴もうとする少年のように。

 

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

 

『バ群を抜けて最初に駆けてきたのはアカネダスキだああああ!!!』

 

 

 レースは終盤に入っていた。アカネダスキは先行策の有利を活かしきり、2番手から3バ身話して直線に入った。観客席から嵐のような声援が飛び交う。

 

 

『最終コーナーを曲がって最後の直線に入る! 中山の直線は短いぞ! 後ろのウマ娘たちは間に合うのか! ……え?』

 

 

 実況アナウンサーは目を疑った。アカネダスキの後方から、バ群の隙間を縫うように駆け抜ける影があった。そのウマ娘は失速して争いからは外れたはずだった。誰の目から見ても、彼女は限界のはずだった。

 

 

 なのに……そのウマ娘は先頭集団に追い付いていた。それどころか、並ぶ事さえなく追い抜いて行く。緑色のパーカーを靡かせて、黒髪のウマ娘は全てを置き去りにするが如く疾駆していた。

 

 

 そのあり得ない光景に、観客たちは幻覚を見てるのかとさえ思った。マリンの応援に来ていた者たちも、呼吸の仕方を忘れて、その様子を眺めていた。

 

 

 

『マ……マリンアウトサイダだあああ!!! マリンアウトサイダがバ群を掻き分け2番手で直線に入ったあああ!!! 先頭との差は凡そ3バ身、宝塚記念とは逆にアカネダスキを追う形だあああ!!!』

 

 

 

 ゾクリと、アカネダスキの背に冷たいものが走った。その気配には覚えがあった。間違いなくマリンアウトサイダだが、彼女はここまで禍々しい威圧的を放ってはいなかった。

 

 

(だけど、んな事どうでもいい……大事なのは、本気で楽しめるかどうかだ! アンタはやっぱり飽きさせてくれねえ……!)

 

 

 アカネダスキは口角を上げて犬歯を剥き出しにする。

 

 

「いいぜぇ……! やっぱり最高だよ、アンタ! 勝負だ、マリンアウトサイダ……今度こそ勝つのは俺だあああ!!!」

 

 

『アカネダスキがスパートをかける!!! マリンアウトサイダは既にギアを上げ切っているようだ!!! まだどうなるか分からない、分からないぞ!!!』

 

 

 トレーナーも『シリウス』のメンバーも、覇王世代もBNWも、伝説の世代の4強も、シンボリルドルフたちも、ルリイロバショウも皆、冷や汗をかいていた。

 

 何故なら、どう見てもマリンの走りは身体の限界を超えて、入ってはならない『領域』に踏み込んでいたからだ。

 

 

 だけど皆、目が離せなかった。マリンの走りには異質だが、美しく、そして……悲しい雰囲気があった。

 

 

「何だコレは……まるで鎮魂歌(レクイエム)……だ……」

 

 

 テイエムオペラオーの目には、彼女が多くの悲しみを浄化しながら走っているように見えた。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 ネオユニヴァースは謎の頭痛に見舞われていた。

 

 それはちょうどマリンが『ゴールの先』の景色を見た時からだった。

 

 両手で頭を押さえる彼女に、ゼンノロブロイが心配そうに寄り添う。

 

 

「ユニさん……お加減が悪いなら、帰って休まれた方が……!」

 

「……ネガティブ……ネオユニヴァースは”見届ける”をするよ……」

 

 

 ネオユニヴァースは首を横に振ると、顔上げて苦しそうな表情で激走するウマ娘たちを見た。その中に、全てを置き去りにするが如く疾駆する黒髪のウマ娘が見えた。

 

 

「……”交錯(コリジョン)”が……発生している……観測は困難……”彼女(マリンアウトサイダ)”は今……『何処』を走っている……?」

 

 

 一瞬、ネオユニヴァースの瞳にレース場ではない何処かの景色が映った。

 

 青空と草原らしき風景が見えたが、それはすぐにブレて見えなくなった……

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

「……ッ、マリン……!」

 

 

 ルリイロバショウは叫びたかった、「もう走らないで!」とマリンを無理にでも引き留めたかった。

 

 それ以上走ったら、彼女が帰って来ない予感がしていた。

 

 だが、同時にルリはトレセン学園で『喧嘩』をした時に見たマリンを想起していた。

 

 マリンアウトサイダというレースウマ娘の背中を『綺麗』だと思った、あの時の感情が蘇っていた。

 

 

 「走れ……」

 

 

 ルリは思わず呟いていた。

 

 

「走れえええええ!!! そのまま行けええええ!!! マリーーーーーン!!!」

 

 

 涙で滲む視界の中、ルリは確かに見た。

 

 

 そこには、『夢を翔ける』ウマ娘の姿があった。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 アカネダスキは全身全霊で疾走している。だが、背後の気配は更に詰め寄って来ていた。彼女は理解できなかった、限界を超えた先の『領域』を走るマリンを。

 

 

(これが本当に、あのマリンアウトサイダなのか!? 何故、どこにこんな力が!?)

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 ウマ娘の存在しないとある世界……そこには、かつてマリンアウトサイダという競走馬が居た。有馬記念を駆け抜けたその牝馬について、ある人物が語っていた。

 

 曰く『頭の良い競走馬はその全力を10とすると、6か7程度の力だけを発揮して勝つ。その賢さゆえ、手の抜き方を知っているからだ。だが、あの有馬記念でマリンアウトサイダは……11を出した。その命を燃やして、限界を超えて走っていた』……と

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

『まるで流星だ、黒い流れ星だ!!! マリンアウトサイダがアカネダスキを捉えたあああ!!! 並ばない、並ばない!!! こんな展開、誰が予想できたでしょう!? マリンアウトサイダが、ついに先頭に躍り出たあああ!!!」

 

 

 

 中山レース場のスタンドが熱狂に沸き上がる。

 

 その中にスーツ姿の老人、角間源六郎は静かに佇んでいた。

 

 観覧席への通路の出口近くで、陰からひっそりと、このグランプリレースを見守っていた。

 

 

 己の孫の走りを見届ける為に。

 

 

 源六郎はレースを走るマリンの姿を初めて直接見た。今までのレースは映像だけで見ていたが、このレースだけはこの目で見なければならないと、マリンに隠してレース場に足を運んでいた。

 

 

 そして……ターフを駆け抜ける彼女の姿を見て、満足そうに呟く。

 

 

 

「そうだ……それで良い。

 

 行け、『マリンアウトサイダ』

 

 そこが……お前だけの旅路(みち)だ」

 

 

 

 源六郎は、初めて彼女の真名を呼んだ。

 

 その声は観衆の声援にかき消されたが、確かに彼女に届いていた………

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 黒髪のウマ娘が、緑パーカーを靡かせ駈ける。

 

 その姿は、まるで白い炎を纏っているかのようだった。

 

 それは燃え尽きる流星が魅せる……刹那の耀きだった。

 

 

 

「ああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」

 

 

 

 マリンは走った。

 

 限界を超えて、極限を超えて、

 

 ゴールの先に誰よりも早く辿り着く為に。

 

 

 その命を燃やし尽くして、駆け抜けたのだ。

 

 

 

 彼女だけの……旅路(みち)を。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

『今、マリンアウトサイダが1着でゴールイーーーーーーン!!! レコードです!!! この雨天の中、レコードタイムを0.4秒更新して、格闘ウマ娘であり、レースウマ娘でもあるマリンアウトサイダが『有記念』を制したあああ!!! 『宝塚記念』に続いて、グランプリレースを2連覇、これをフロックと呼ぶ者はいないでしょう!!! 今年最後のG1レースの覇者は、マリンアウトサイダだああああああ!!!』

 

 

 

 観衆が過去に例を見ないくらいに、大声と絶叫でマリンアウトサイダを讃えていた。観客は総立ちだった。彼女のあまりの凄まじい走りに、皆座ってなどいられなかった。

 

 そんな中で、アグネスタキオンは信じられないものを見たという表情で立ち尽くしていた。

 

 

「……なんてものを目撃したのだ、私は。あれは、本当にウマ娘の走りなのか……?」

 

 

 タキオン自身も自分の言葉が理解できなかった。それほどまでに、マリンの走りは異質だった。

 

 

「ん……カフェ、どうしたんだい?」

 

 

 マンハッタンカフェも同じ様に立ち尽くしていた。しかし、彼女はレース場ではなく空を見上げていた。その目には涙が溢れていた。

 

 

 

「『お友だち』が……泣いています」

 

 

 

 マンハッタンカフェの前に浮かぶ『お友だち』の目から雫がこぼれ落ちていた。そしてカフェは、レース場から無数の光の球が舞い上がっていくのを見た。悲しい輝きを発していたそれらは一際輝いたあと、次々と空へと昇って行く。

 

 彼女にはそれが何なのか全く分からなかった。まるでこの世界の光景ではないような気がしていた。ただ、その光景に胸を打たれ、涙が溢れるのを止められなかった。

 

 

「まるで……『供養』……マリンアウトサイダ、あなたは一体……っ!?」

 

 

 突然、カフェは客席の最前列へ向かって走り出した。それを見たアグネスタキオンも慌てて彼女を追いかけた。

 

 

「すみません……! 通してください!」

 

「カフェ!? 一体どうしたんだ!? カフェ!!」

 

 

 マンハッタンカフェは最前列の柵から身を乗り出して、レースを終えて立ち尽くすマリンを見た。

 

 

「ッ!!! あ…………っ」

 

 

 そして、悲痛な表情を浮かべた後に目を逸らし、俯いた。

 

 

「カフェ、一体どうしたんだい? あのウマ娘……マリンアウトサイダに、何かあったのか」

 

「彼女は……」

 

 

 マンハッタンカフェは震える声で答えた。

 

 

「彼女は……もう……”此処”……には……っ」

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 

 ザァァァーーー……

 

 

 

 雨が降っている。

 

 レース開始から降り始めていた雨は、レースが終わった後もなお、勢いを増していた。

 

 まるで祝福するかのように、まるで泣いているかのように。

 

 

 

 

 

 

「……会い……った」

 

 

 

 マリンは虚空に向かって、手を伸ばす。

 

 

 

「ずっと……て……た」

 

 

 

 力無く、1歩を踏み出す。

 

 

 

「ど……にも……なかっ……た」

 

 

 

 何かを掴もうとした彼女の手は

 

 そのまま……空を切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おと……さ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドシャリ、と糸が切れた人形のように、マリンは地に膝を着いた。

 

 彼女の身体は、左肩からゆっくりと濡れたターフに倒れ込んだ。

 

 『シリウス』のメンバーも、覇王世代も、BNWも、シンボリルドルフも、皆何かを叫んでいる。

 

 

 

 

 雨は、冷たく降り続いていた。

 

 

 

 

 

 





次回

28話 懐かしい場所、懐かしい温もり



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28話 懐かしい場所、懐かしい温もり

 

 

 

 

 都内のとある病院の待合室で、シンボリルドルフが長椅子に腰掛けている。

 

 その様子にいつもの英姿颯爽な雰囲気は無く、俯いて悔恨に両手を握り締めていた。

 

 陽はとっくに落ち、病院の面会時刻もそろそろ終わる頃だった。他のウマ娘たちが寮の門限で帰った後も、ルドルフはそこに残り続けた。

 

 胸の中の重石が、彼女をその場から動かしてくれないのだ。

 

 

 コツ、コツ、とリノリウムの床に足音が響く。ルドルフがその音のする方に視線を向けると、マリンアウトサイダの保護者である老人が歩いてきていた。

 

 彼女はすぐに立ち上がり、老人に頭を下げる。

 

 

「お久しぶりです、角間氏」

 

「久しいな、シンボリルドルフ。ドウザンがバカやらかしたあの時以来か?」

 

「光陰如箭……ええ、あれからもう2年経ちます。その節は大変お世話になりました」

 

 

 シンボリルドルフは老人と向き合うと、目を瞑り再び頭を深く深く下げた。それは挨拶ではなく、謝罪をする為だった。

 

 

「この度は、お孫様のマリンアウトサイダに起きました事を、心からお見舞い申し上げます。そして……申し訳ございませんでした。この事態は、予見できたはずでした。私が生徒会長の権限を使ってでも止めるべきだったかもしれません。ですが、私には出来なかった。レースを走る彼女の姿を見たかったばかりに……」

 

 

 老人はふむ、と頷く。

 

 

「座りなされ、シンボリルドルフ。『皇帝』が簡単に頭を下げちゃあいけねえよ」

 

 

 老人が長椅子に腰掛ける。遅れてルドルフも躊躇いがちに腰掛けた。

 

 

「……失礼します」

 

 

 ギギ……と金具が音を立てる。暫く2人は無言のままだった。ルドルフは、レース場での事を思い返していた。

 

 

 マリンアウトサイダがターフに倒れた後、彼女は待機していた救急車によって直ぐに都内の病院へと搬送された。事前に彼女の心臓については知らされていたので、救助隊がいつもに増して迅速に対応できるよう配備されていたのが幸いしたのだ。

 

 危険な状態だったが、彼女は辛うじて一命を取り止め、現在も集中治療室にて治療を受けている。予断は許さない状況であると医師からは告げられた。

 

 

 

「そう難しい顔をすんじゃねぇ、アイツは大丈夫だ」

 

 

 老人がルドルフに言った。

 

 

「……っ、しかし」

 

「アイツの背中を押したのは俺だ。そして走る事を選んだのはアイツだ。お前さんに責任はミジンコ程も無えよ」

 

 

 老人はルドルフの眼を覗き込む。同じようにルドルフも老人の目を見つめ返した。その老人の眼差しには、不安の色は一切無かった。明鏡止水、まさにその境地に達した武人の眼だった。

 

 ルドルフはいつの間にか、安堵している自分に気が付いた。彼は自分の孫娘が危険な状態であると言うのに、何故こんな眼をしていられるのだろうかと、不思議に思った。

 

 

 そんな事を思っていると、不意にルドルフの頭に、老人がポンと手を置いた。そのまま彼は優しく労わるように、ルドルフの頭を撫でた。

 

 その手は幾千もの修羅場を超えて生き抜いた武人の手だった。そして、多くの苦しみも悲しみも知っている手だった。撫でられる毎にルドルフの心から緊張と罪悪感が消えていった。

 

 

「お前さんは気負い過ぎだ。『皇帝』と呼ばれていようが、俺からしちゃあまだまだ子供だ。手が届かなかったからと言って要らん罪悪感は抱かんで良い。自分の手の届く『間合い』を把握しな。武術と同じだよ」

 

「……はい」

 

 

 老人はルドルフの頭から手を離して、続ける。

 

 

「ミドリなら大丈夫だ。俺が鍛えたんだ。アイツはそんなヤワじゃあねえ」

 

「……すみません、本来なら私の方が、彼女の家族である貴方を励まさなければならないはずなのに、私の方が元気づけられてしまいました」

 

「『老成持重』ってやつだ。年季が違う」

 

 

 老人の言葉で、ルドルフは表情を和らげた。マリンの容態への不安は拭えないが、ここで項垂れていては『皇帝』として彼女に顔向けできないと、少し自信を取り戻した。

 

 

「お前さんはそろそろ帰りな。門限はとっくに過ぎてんだろ」

 

「……後少しだけ……ここに居ても、良いでしょうか?」

 

 

 老人はチラリとルドルフを見て、腕を組んで背もたれに寄りかかる。

 

 

「好きにすると良い……」

 

 

 再び、待合室に沈黙が訪れる。ルドルフも老人も、ここに居ない者たちも皆、ただひたすらにマリンの為に祈っていた。

 

 

 彼女が帰ってくる事を信じて、待つ事しか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……………

…………

………

……

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

……

………

…………

……………

 

 

 

 

 

 

 

「…………………んぅ」

 

 

 

 陽の眩しさに黒髪のウマ娘、マリンは目を覚ます。彼女はゆっくりと身体を起こして眼を擦った。

 

 そよ風が草と土の匂いを運んで来て、遠くから鳥の鳴き声も聞こえてきた。

 

 

 

「……あれ、何で私……?」

 

 

 

 マリンはぼんやりとした意識で周囲を見渡すと、自分が屋外に居る事に気付いた。服装は普段着として実家で着ている薄手の袴だった。

 

 彼女は外で無防備に寝るなど、いつもならあり得ないのはずなのに、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 

 

 

「んん……んっ!? あれ、パーカーは!? どこ、どこに行った!?」

 

 

 

 マリンは外出するなら必ずあのパーカーを身に付けていた。自分の周囲をキョロキョロと探すが緑色のパーカーは見当たらなかった。

 

 

 

「どこ!? どこかに置いて来たのかな、探さなきゃ……! って、ここは……」

 

 

 

 マリンが遠くまで見渡そうとして立ち上がると、そこは自分の知らない場所だった。草原が広がっていて、遠くの方には雑木林がある。少し先に車が通った轍の残る畦道が丘を越えて続いていた。

 

 

 

「……ここは、何処だろう? 知らない場所のはずなのに……なんだか『懐かしい』……草の匂いも、鳥の声も、花の色も……何で……」

 

 

 

 マリンはゆっくりと歩き出す。パーカーはこの辺りには見当たらない上、じっとしている理由も無い。とりあえず、遠くに続く畦道に沿って先に進む事にした。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 それはマリンにとって不思議な感覚だった。知らない場所のハズなのに、この先の『目的地』に向かって彼女の脚は勝手に進んでいた。

 

 この道の先に何があるのか分からないのに、そこを目指さなければならないと何かが彼女を急かしていた。

 

 そして暫く歩いていると、道の先に何やら横に大きく広がった建物と、柵に囲まれた広場のような場所が見えた。

 

 

 

「あれは何だろう、牧場かな……? でも、牛も羊も飼われていないみたいだ……誰か居ないのかな」

 

 

 

 マリンはその牧場らしき場所を目指すことにした。人が居ないか確かめようと、広場の柵に沿って歩き続けた。

 

 

 

(ここは……やっぱり何か動物を放牧する施設なのだろうか。バケツや綱、飼料箱とかが置いてある。何に使うのか分からない物も沢山あるけど……)

 

 

 

 マリンは興味深げにそれらを少し眺めると、建物のドアを開けて中を覗き込んでみたりもした。しかし、誰も居ないようだった。勝手に入るのはマズいと思い、外の方を探索する事にした。そうやって、更に奥まで進むと……

 

 

 

「あれ、ここって……坂路?」

 

 

 

 柵の突き当たりまでたどり着くと、広場の横に何やら整地された一本道が遠くまで続いていた。そこはまるで、トレセン学園の坂路トレーニングコースの様な印象があった。

 

 

 

(でも、ここはウマ娘がトレーニングする場所にしては作りが大雑把過ぎる……もっと何か『大きな動物』が走っていく為に作られてるような……でも……)

 

 

 

 マリンは胸を押さえる。自分の中の何かが、その場所に強く反応していた。

 

 

 

「……この感じは、何だろう……? 自分がそこで走った事があるような……何で……」

 

 

 マリンは突然湧き上がってきた感情に戸惑っていた。しかし、いつまでもじっとしている訳にはいかない。仕切りのように何層か柵が張ってある場所を、マリンはそれらを飛び越えて、更に奥に進んだ。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

「わぁ……ここ、は……」

 

 

 牧場の外れには、草原が広がっていた。雄大な大地の上に、緑がどこまでも続いている。

 

 

「綺麗だ……でもやっぱり知らない場所なのに……何で、『懐かしい』って感じるんだろう……」

 

 

 

 マリンが草原を眺めていると、背後から2人の男性の話し声が聞こえた。マリンは耳をピクッと動かした。声はゆっくりと近づいて来ているみたいだった。

 

 マリンが振り向くと、いつの間にかすぐ側に2人の男性が立っていた。マリンは驚いてビクンと身体を震わせるが、その2人はマリンを見るとホッと安堵した表情になった。

 

 1人は古ぼけたジャンパーを着ている初老の男性、もう1人はスポーツジャケットにジーンズを着た若い男性だった。2人はマリンの事は認識しているようだが、マリンには話しかけずに2人で会話を始めた。

 

 

 

「やぁっと見つけたよ。コイツ、隙を見せたらすぐに脱柵するんだ。地頭が良いのに気性も荒いしな。調教師泣かせな馬だよ、全く」

 

 

(ウマ……調教師……? 何のことを言っているんだろう)

 

 

「ははは……まあでも、頭が良い分コースも直ぐに覚えてくれるのはありがたいですよ。■■■■君と会えば、暫くは大人しくしてくれるでしょう。彼、確かここに来てるんですよね?」

 

 

「えっ…………」

 

 

 

 ドクンとマリンの心臓が鳴った。よく聞き取れなかったが、彼女はその人物を知っている気がした。

 

 

 

「すみません! 今、誰とおっしゃいましたか!? もう一度……もう一度お聞きしても……!」

 

 

 

 マリンが話しかけても、2人は聞こえていないかのように会話を続けていた。するとスポーツジャケットの若い男性が、額に手で日除けを作り、草原の方を見つめ出した。

 

 

 

「ああ、居ましたね彼。ほら……向こうの方に」

 

 

「え……?」

 

 

 

 ピューーーイ!

 

 

 

 と、指笛の音が聞こえた。その瞬間、またマリンの心臓がドクンと鳴った。彼女はその音を知っていた。『あの人が来たんだ』……何故だかそう強く強く思った。

 

 マリンは音のする方をゆっくりと向いた。その視線の先には……

 

 

 

 

 

 緑色のパーカーを着た『あの人』が立っていた。

 

 

 

 

 

「あ……ああ……っ」

 

 

 

 マリンは震え出した。心臓が飛び跳ね、呼吸が上手く出来なくなる。目の裏が熱くなってくる。

 

 

 

「あっ……あぁ…………」

 

 

 

 歩き方すらも忘れてしまったかのように、マリンの脚は動かなかった。

 

 

 

「ほら……」

 

 

 

 マリンの横で、初老の男性が初めて彼女に言葉をかけた。

 

 

 

「行ってこい、『マリンアウトサイダ』」

 

 

 

 

 

 ダッ……

 

 

 ダッ……

 

 

 ダッダッ……

 

 

 ダッダッダッダッダッ……!

 

 

 

 

 マリンは『あの人』へ向かって駆け出した。最初はもつれるようだった走りも、次第にしっかりとした走りに変わっていく。

 

 だがそれは、レースの為の走りではなかった。娘が父親に向かって駆けていくような、心のままにただ前に進む為の走りだった。

 

 

 

 

 マリンは思い出した。

 

 

 

 

「はぁっ、はあっ……んくっ……はぁっ!」

 

 

 

 

 走りながら、その目から涙が溢れていく。彼女はただがむしゃらに脚を前に進めている。

 

 

 

 

「はあっ、はあっ……! 会いたかった……!」

 

 

 

 

 草原に立つ『あの人』の顔が見えた。それは決して幻ではなかった。

 

 

 

 

「ずっと……探してた……!」

 

 

 

 

 視界がぼやけても、マリンは構わずに走った。

 

 

 

 

「どこにも……居なかった……!」

 

 

 

 

 彼は両腕を広げて待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おとうさんっ……!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マリンアウトサイダは、その腕の中に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おとうさんっ……おとうさん、おとうさん、おとうさん……!」

 

 

 

 涙声を上げて、マリンは彼の胸に顔をすり寄せる。それは競走馬だった彼女がいつも彼にしていた仕草だった。

 

 

 

「会いたかった……ずっと探してた……! ずっと待ってた……おとうさん……おとうさんっ……!」

 

 

 

 そう父を呼び続けるマリンを、彼は力強く腕の中に抱き締める。マリンは彼の匂いに、包まれていた。ずっと求めていた彼に、やっと会えた。その懐かしい温もりを全身で感じていた。

 

 

 

「……ごめんな、マリン。会いに行けなくて、本当にごめん。でもずっと見ていたよ。マリンの走る姿をずっとずっと、な」

 

 

 

 マリンを包む彼の腕に力が篭もる。マリンは子供のように声を震わせて泣いた。

 

 

 

「おとうさん、おとうさん……おとうさん!!! うあああああああああ!!! ああぁ……ああああああああぁぁぁ……!!!」」

 

 

 

 世界を超えて抱き続けた願いが、その思いが、涙となって溢れ出す。『彼』は静かに、マリンをその胸に優しく抱き続ける。

 

 

 

「おとうさん……私、走ったよ。たくさん勝てば、おとうさんが来てくれると思って……でも、走れなくなっちゃった……走ると胸が苦しくなって……それでも会いたかったから……会いに来て……欲しかったから……!」

 

 

 

 彼はマリンの頭を宝物に触れるように、優しくゆっくりと撫でる。

 

 

 

「ああ、分かっていた。お前は才能に溢れる馬じゃなかったのにな……頑張ったな、マリン。お前は他のどの馬よりも頑張った……頑張っていた」

 

「おとうさん……おとうさん……!」

 

 

 

 マリンはより深く、彼の胸に顔をうずめる。彼女はこの温もりをずっと求めていた。ずっと感じていたかった。

 

 

 

「お前の走りは、届いていたよ……悲しい結末を迎えるしかなかった馬たちにも……無念に沈んだ馬たちにも……ほら、見てごらん」

 

 

 

 彼は優しくマリンの肩に手を置いて彼女を離す。マリンは名残惜しそうに彼の胸から顔を上げる。そして、周囲の景色がいつの間にか変わっている事に気付いた。

 

 

 

「これは……この光は……」

 

 

 

 マリンと彼は真っ暗な空間に無数の光が漂う不思議な場所にいた。まるで宇宙の中を浮いて立っているみたいだった。ずっと遠くまでその光は続いていた。

 

 マリンがその光を見つめていると、彼女の周囲に幾つかの光が集まって来た。その中の一際大きな1つの光がマリンを労わるように、愛しむように擦り寄った。それに続くように、小さな光たちが彼女の周りをくるくると回った。マリンは知っていた。その光の温もりを……

 

 

 

「おかあ……さん? みんな……あ、あああ……う、ぁああ……っ!!!」

 

 

 

 マリンはその光を抱き締める。二度と会えないと思っていた母の温もりを感じた。共に牧場で育った子供たちとも、また一緒になれた。

 

 

 

「ごめんなさい……!!! 私だけが……私だけが!!!」

 

 

 

 それを聞いて、彼が再びマリンの頭を撫でて抱き寄せる。

 

 

 

「違う、謝らないで良いんだ……お前のせいじゃない、マリン。仕方のない事なんだ。あの世界では、心無い決断を下さなきゃならない時もあるんだ。どうしようもなかったんだ」

 

 

 

 彼はマリンの頬に手を当てる。

 

 

 

「だけどお前は、そんな暗く狭い世界を走り抜いた。この子たちの分まで、立派に走ってくれた。それだけで良いんだ。お前の走りは、多くの悲しい馬たちの供養になれた。謝る必要なんてどこにも無いんだ、マリンアウトサイダ……俺の愛馬」

 

 

「ぐすっ……うぁ……ぁあああ……!」

 

 

 

 マリンはその光の1つ1つと触れ合う。光たちはマリンに触れる度に一際強く輝いた。再会を喜ぶように、彼女に感謝しているように。そしてマリンは彼と向き合い、再び抱きついた。

 

 

 

「おとうさん……今度はずっと一緒だよね? もう、離れないで……置いて行かないで……!」

 

 

 

 彼は少し寂しそうな顔をして、子供を諭すようにマリンに語りかけた。

 

 

 

「マリン、よく聞いてくれ。俺は……今はお前と一緒には居られない」

 

 

「っ!? どうして、やっと会えたのに! やっと、やっと……」

 

 

 

 すると、彼女の後方から声が聞こえた。それは段々と数を増していき、ついには合唱のようにマリンを呼ぶ声の束となった。

 

 マリンは振り返る。すると、立っている場所よりもずっと下の方、そこにオレンジ色に眩しく輝く光の渦があった。

 

 それはまるでトンネルのようだった。その奥から、自分を育ててくれた老人や幼馴染み、トレーナーやトレセン学園で出会った仲間たちの声が聞こえてきた。

 

 

 

「あれは……『みんな』の声……」

 

 

「マリン……その世界で、その人たちはずっとお前を心配している。お前の為に祈っている。帰って安心させなきゃ駄目だ」

 

 

「っ! でも……でもっ! 私はおとうさんと一緒に居たい! ずっと、ずっとそれを願ってた……!」

 

 

 

 彼は真っ直ぐにマリンの瞳を見つめると、少しだけ厳しい顔つきになって言う。

 

 

 

「マリン……お前は、あのハルウララとライバルになったんだろう。そして、いつか勝負をすると約束しただろう。喧嘩の約束をすっぽかしてここに来てるんじゃない、バカ娘」

 

「おとう……さん……」

 

 

 

 マリンが涙をいっぱいに溜めて彼を見つめると、彼はフッと優しい笑顔に戻った。

 

 

 

「俺はそのレースが見たいんだ。お前がハルウララと走るレースを……叶うのなら、見てみたいんだ。なぁ……『ミドリ』」

 

 

 

 彼は再びマリンを強く強く抱き締めた。

 

 

 

「……俺は『ウマ娘』のお前には、走るだけじゃない、色んな生き方を知って欲しいんだ。『自由』に生きて欲しい。それが俺の願いなんだ。その世界には、お前にそれを教えてくれる先達が沢山居るだろう。生きてくれ……俺の分まで、もっと自由に」

 

 

「おとう……さん……」

 

 

「ああ、ただ……これは置いていけ。俺も同じようなモノを持ってるんだ。1つも2つも変わらないからな、俺が……預かってやる」

 

 

 

 そう言って、彼はマリンの胸に手をかざした。「あ……」と言う彼女の胸から青黒い光が抜け出てきた。マリンは胸から一切の苦しさが消えた。彼がそれを引き受けてくれたのだと、理解した。

 

 

 

「もう時間だな……マリン、どうか生きてくれ。お前はまだ、思いっきり走って良いんだ」

 

 

 

 マリンの目から涙が溢れる。すると、彼女の身体はフワリと浮かび上がった。オレンジ色の光の渦に、ゆっくりと落ちる様に吸い寄せられていく。

 

 

 

「待って……待って、おとうさん! まだ、もっと、一緒に居たい……!」

 

 

「マリン……聞こえてくる声に耳を澄ませるんだ。みんな、お前を待っている。大切にするんだ、お前がその道で得たものを全てな……」

 

 

 

 マリンの耳に、『みんな』の声が聞こえてくる。トレセン学園での輝かしい日々が、その思い出が胸の中に蘇る。

 

 

「っ………みんな………!」

 

 

 みんなの所に戻りたい、彼女のその思いも確かに本物だった。

 

 

 だから、マリンは叫んだ。誰よりも彼女を愛してくれた若き厩務員に向かって。

 

 

 

「おとうさんっ!! 私の旅路は、きっと貴方に……おとうさんに繋がっているから! だから、いつか……いつかまた……」

 

 

 

 その言葉に、彼は微笑んで答える。

 

 

 

「ああ、いつか……な。だけど今は『寄り道』をしろ。お前にとって大切なものが、そこにあるはずだ。そう教わっただろう? マリンアウトサイダ……」

 

 

 

 マリンの身体が光の渦に落ちていく。眩しさで、彼の顔が見えなくなっていく。

 

 

 

「おとうさん……! おとう……さん……」

 

 

 

 マリンの意識は光の中に溶けて消えていった。マリンが最後に見たのは、寂しそうだが、同時に満足そうな顔で微笑む『父』の姿だった……

 

 

 

 

 

 

 





次回

29話 いつの間にか、春が来ていた



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29話 いつの間にか、春は来ていた

 

 

 

 

 

 

 コンコン……

 

 病室のドアがノックされる。その引き戸がガララを音を立てて開くと、1人のウマ娘が入ってきた。

 

 

「失礼するわね、マリンさん」

 

 

 トレセン学園の制服を身に付ける、ウェーブのかかった美しい栗毛色の髪、両耳に青色のカバーをして右耳に緑のリボンを付けた『一流』な風格を放つウマ娘……キングヘイローはゆっくりと病室内のベッドへと近付いた。

 

 

「感謝しなさい。今日はこのキングヘイローがお見舞いに来てあげたのよ。感涙に咽び泣く権利をあげるわ」

 

 

 キングヘイローはいつもの高飛車な様子ではなく、静かに語りかけるような口調だった。彼女の視線の先には……目を閉じて眠る黒髪のウマ娘がいた。

 

 彼女を見つめるキングヘイローの目が一瞬潤んだ。心配そうに口をつぐむ。しかし、彼女は気合を入れて直ぐに凛々しい表情に戻る。

 

 

「さあ、マリンさん。日課のストレッチをやっていくわよ。このキングが『一流』に施してあげるわ!」

 

 

 そう言って、キングヘイローはマリンの脚をマッサージした後に、慎重に膝を持ち上げたり、股関節を伸ばしたりと、整体師から教わったストレッチを彼女に施していく。

 これはマリンの身体の筋肉の衰えを少しでも遅める為の施術だった。希望したウマ娘たちが交代交代で毎日お見舞いに来て、眠り続けるマリンの面倒を見ていた。本日その役目を務めるのはキングヘイローだった。

 

 

 キングヘイローはマッサージとストレッチの最中、ずっとマリンに話しかけていた。学園の様子や、自身のレースの事、そして皆がマリンの回復を待ち侘びている事などを絶え間なく話し続けた……

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 一通りの施術が終わり、キングヘイローは花瓶の花に水をやると窓の外の景色を眺めた。青空が広がり、街並みの所々に深緑色の木々が顔を覗かせていた。

 

 あの有記念から、既に約3ヶ月の月日が流れていた。冬を越して、季節は春へと移り変わっていく時分。トレセン学園には新年度の新鮮な空気が満ちていて、新たな希望を胸にその門を潜るであろう新入生たちを迎え入れる準備が進んでいた。

 

 

 キングヘイローはゆっくりと振り返り、窓枠に手を置いて寄り掛かかる。

 

 そして、マリンに聞こえるように、ポツポツと語り始めた。

 

 

「……マリンさん。外の景色は見たくないかしら? そろそろ河川敷の桜並木に花が咲き始めるわ。きっとウララさんの瞳みたいな、綺麗な桜の花が……」

 

 

 キングヘイローは目を細める。その表情には悲しみと憂いの色が滲んでいる。

 

 

「ウララさんが去年、この病室に来た事は覚えているかしら?」 

 

 

 キングヘイローは思い出していた。ハルウララと共にこの病室へマリンに会いに来た時の事を。ハルウララは眠り続けるマリンをじっと見つめて、笑顔で振り返ってキングヘイローに言った。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

『キングちゃん、アタシね、これからトレーニングもっと頑張るよ。マリンちゃんといつか勝負するって約束したからね! いっぱいいっぱいトレーニングして、マリンちゃんに勝ちたいんだ!』

 

 

 キングヘイローはその笑顔に息が詰まった。

 

 

『だからアタシ、もうここには来ない。有記念を勝ったマリンちゃんに勝つには、もっともっと、今よりももっとたくさんトレーニングしなきゃ! 宝塚記念の時みたいに、マリンちゃんは絶対……約束を守ってくれる娘だって、知ってるから』

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 グズッと病室に啜り泣く声が響く。キングヘイローはその目に涙を浮かべていた。昏睡状態が3ヶ月も続くと、覚悟を決めなければならないと医師は言っていた。

 

 

「あの娘……あれからずっと、トレーニングしてるのよ。今までにないくらい一生懸命に頑張ってるの。必ずマリンさんと勝負をするんだって、早起きが苦手なあの娘が目覚まし時計を沢山買ってきて早朝トレーニングをしてるのよ? フフッ、お陰で毎朝うるさくて仕方ないわ」

 

 

 涙を拭うと、キングヘイローは窓際から移動して、椅子をベッドの側に寄せて座った。マリンの顔を覗き込んで、彼女の手を両手で優しく包み込んだ。

 

 

「みんな、貴方が帰ってくるのを待ってるのよ。『シリウス』のトレーナーとチームメイトたちも、貴方のお友達も、ウララさんだってずっと……目を覚ましてよ、マリンさん……っ! お願い……お願いだから……」

 

 

 ポタリとキングヘイローの涙がマリンの手にこぼれ落ちた。

 

 すると、マリンの手が微かに握り返した気がした。キングヘイローは気のせいだと思った、しかし……

 

 

 ピクン、ピクンとマリンの指が動いた。キングヘイローは目を見開いて、マリンの顔を今一度覗き込んだ。

 

 

「っ……!!」

 

 

 キングは驚きに息が詰まった。

 

 マリンが瞼を揺らして、微かに目を開けていたのだ。微睡む様にまぶたを動かしている。

 

 

「嘘……マリンさん……マリンさん? 私の事が分かる!? キングヘイローよ!! 大変っ……とにかく、か、看護師さん!! それとお医者様!!」

 

 

 誰かー!マリンさんが!マリンさんが!とキングヘイローは病室を出て大声で助けを呼んだのだった……

 

 

 窓の外の鳥たちは変わらぬ調子で、陽気の中を飛び交い、春の訪れを喜び唄っていた。

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

 コンコン

 

 ノック音がして、病室のドアが開かれる。ドアが開く前から騒がしい様子だったが、開けるとなお騒がしくなった。

 

 

「マリンさーーん!! お見舞いに来ましたよ!! 今日はなんと、『シリウス』のみんなで来ちゃいました!! あ、でもトレーナーさんはどうしても外せない会議があるそうなので、チームメイトだけです!!」

 

「スペちゃん、ここ病院だからもう少し静かに……」

 

 

 そんな元気いっぱいな声で入って来たのは『日本総大将』スペシャルウィークだった。その後ろにゾロゾロと他のウマ娘たちも続いて入ってきた。

 

 マリンが奇跡的に目を覚まして2週間と少し過ぎた。その間も『シリウス』のメンバーは毎日誰かが必ずお見舞いに来ていた。

 

 

「おーーっし、マリン! 今日はこの前よりももっと凄えボドゲを持って来たぞ! ナント最大40人で遊べちまうんだ! アタシが39役を演じるから、マリンは1人な! 39人居れば誰か1人はマリンに勝てるだろ! 今日こそはその連勝記録をストップさせてやるぜえ…………ってアレ? マリンの奴どこだ?」

 

「あら、確か看護師の方はこちらに居るとおっしゃってましたが……まだリハビリから戻っていないのでしょうか?」

 

 

 ゴールドシップとメジロマックイーンがピコピコとシンクロして耳を動かす。血が繋がっているのかと疑うくらいに彼女たちの仕草は似ていた。

 

 

「ええー、マリンさんどーしたのかな? ハヤヒデから授業ノート預かってきたのに」

 

「お手洗いに行ってる……かも?」

 

「待っていればそのうち来るだろう。その間に林檎でも食ってるか」

 

「ブライアンさーん、それお見舞いの品物だからマリンさんが来てからですー!」

 

 

 病室は一瞬にしていつもの『シリウス』のトレーナー室と化した。マリンはこの雰囲気にいつも心を和ませていたが、本人は今ここには居ない。皆が首を傾げていると、外からパタパタと誰かが部屋の前に来て、ドアを開けた。この病院の看護師だった。

 

 

「すみません! マリンアウトサイダさんはもう戻っておられますか!?」

 

「い、いえ……私たちも先程来たばかりで」

 

 

 マックイーンが答えると、ハァ〜とため息をついて看護師は疲れた顔をして言う。

 

 

「マリンアウトサイダさん、また病院から脱走したみたいです……今週の入ってから2度目ですよぉ。もう塀を飛び越えられるくらいに回復したのは喜ばしい事ですが、大人しくしていて欲しいのに……(泣)」

 

 

「「「「「え……えええええ!?」」」」」

 

 

 シリウスのウマ娘たち(の数名)が驚嘆の声を上げた。ブライアンはボリボリと林檎を丸齧りしていた。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 ほぼ同時刻、トレセン学園の正面門から1人のウマ娘が外周トレーニングを開始しようとしていた。頭に濃いピンク色の鉢巻をして、トレーニングウェアを着た小柄なウマ娘だった。

 

 目に桜模様が浮かぶ彼女の名は『ハルウララ』。まさにこの季節の名を身に体現したウマ娘だった。

 

 

「よぉ〜し! 今日は河川敷の方まで走っちゃおう! 桜が満開に咲いてるかもしれないしね! うーん、鉢巻うまく結べてるかな? 髪を結ぶリボンも切れちゃったし、いつもキングちゃんに結んで貰ってたからなぁ」

 

 

 ハルウララにはいつもと違う所が一点だけあった。彼女はポニーテールではなく、髪を下ろした状態で鉢巻を巻いていた。その鉢巻も上手く巻けていなかった。何度キュッと締め直しても、どうしても少し緩んでしまうのだった。

 

 

「まっ、きっと大丈夫だよね! しゅっぱーつ!」

 

 

 と、ハルウララは元気に駆け出した。河川敷へ向けて、タッタッタッタッと、彼女の軽快な足音が段々と遠ざかっていった。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 それより少し後の時刻、太陽が南中するまではまだかかりそうな時間帯。

 

 青空が澄み渡る長閑な風景の中を、黒髪のウマ娘が散歩していた。彼女は病院から少し離れた河川敷の歩道を歩いていた。

 

 

 彼女の名は『マリンアウトサイダ』、トレセン学園の制服の上から緑色のパーカーを着て、病院から脱走してきた身なので顔を隠す為に頭にパーカーのフードを被っていた。ヒト用のパーカーなので耳は軽く押さえつけられている。

 

 制服はチームメンバーに病室に持ってきて貰ったものだった。その他にも色んな雑貨を(主にゴルシが)持ってくるので、病室はまるでテーマパークみたいになっていた。それも楽しいのだが、流石にずっと閉じこもっているのは性に合わなかったので、マリンはこうして病院を抜け出してきたのだった。

 

 それは、彼女がある一流のウマ娘から聞いた話が、どうしても忘れられなかったからだった。

 

 

「わぁ……凄い……! 本当に、綺麗だ。キングさんが言ってた通りだ」

 

 

 フードを外したマリンの目には、満開の桜並木が映っていた。お見舞いに来ていたキングヘイローからこの話を聞き、彼女は無性にこの桜を見たくなったのだった。病院にはまだ暫く入院しなければならないと言われていたが、今これを見る機会を逃してはいけないと思ったのだ。

 

 

 ビョオオオ……と風が吹き、数枚の桜の花びら運ばれてきた。マリンはフワフワと飛んできた1枚を右手で捕まえる。

 

 手を開いて見ると、綺麗な薄桃色の花びらが手のひらを転がっていた。病室では感じられなかった『春』がそこに在った。

 

 また風が吹き、手のひらの花びらもフワリと風に乗り、その仲間たちと一緒になって飛んで行った。マリンはその光景をどこかで見たような気がしていた。

 

 

「そっか……いつの間にか、春が来てたんだ……」

 

 

 マリンはまた少し歩いて、一本の桜の木の下に設置されたベンチに腰掛ける。背もたれに寄り掛かると脚が楽になり、深く息を吐いた。彼女が思っていたよりも、この散歩は身体に負荷がかかっていたらしい。ウマ娘の肉体とは言え、3ヶ月以上も動かなかったとなると体力は大分衰えていた。これでも脅威的な早さで回復していると医者は言っていたのだが。

 

 

「ふぅぅ……武術の修行も、レースのトレーニングも、一からやり直しだなぁ……」

 

 

 マリンはベンチで暫く休息を取ってから病院に戻る事にした。目を閉じて、耳を澄ませると、まるで自分が周囲の環境と一体になったかのように感じた。

 

 

 風の音、鳥の鳴き声、川のせせらぎ、車のエンジン音、自分の呼吸音……

 

 

 遠くで女の子が「待ってぇ〜〜!」と叫ぶ声……段々とそれが近付いてきた。

 

 

 

「……ん?」

 

 

 マリンはまぶたを上げる。声のする方を見ると、濃いピンク色の帯のような物がヒラヒラと風に舞って彼女の方へ飛んできてきた。

 

 マリンは無意識に手を伸ばしてそれを掴んだ。それにはどこか見覚えがある気がした。

 

 

「おーーーい、捕まえてくれてありがとーー! それアタシのなんだーー!」

 

 

 タッタッタッタと軽快な足音が近付いてきた。マリンはその声を知っていた。仲の良いウマ娘たちの中で、マリンは目覚めてから唯一そのウマ娘には会っていなかった。ダンスレッスンの仲間たちがお見舞いに来た時も、彼女だけは来なかった。

 

 そのウマ娘がベンチの横で立ち止まる。マリンは座ったまま、彼女の方を向いた。

 

 そこにはトレーニングウェア姿の……マリンのライバルが立っていた。

 

 髪を下ろしていて、鉢巻もしていない彼女は、マリンには一瞬見知らぬウマ娘に見えた。しかし、その桜のような瞳は決して見間違える事はなかった。

 

 

 

「……ハルウララ……」

 

「……マリンちゃん……?」

 

 

 

 プルプルとハルウララは震え出した。そして……

 

 

 

「マリンちゃんだーーーー!!!!!」

 

 

 

 マリンの耳が少し痛くなるくらい、嬉しさが爆発したような元気溌溂な大声で、ハルウララはマリンの名を呼んだ。

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「そっか〜、不思議だねぇ〜。心臓の悪い所、もう全部無くなっちゃったの?」

 

「無くなった、と言うのは間違っているかもしれません……形が正常に近いものに変化していたみたいです。お医者様も不思議がっていました。魔法か奇跡としか思えない……と。ウマ娘の謎は深まるばかりだと、おっしゃってました」

 

「ふ〜〜ん、でもよく分かんないけど良かった! マリンちゃんはまたレースに出られるんだよね? アタシね、マリンちゃんと本気で大勝負がしたくて毎日いっぱいトレーニングしてるんだ!」

 

 

 ピコピコと耳を動かして、キラキラした目でハルウララは言った。その変わらない笑顔を見て、マリンも微笑んだ。

 

 ハルウララはマリンから鉢巻を受け取ったが、まだそれを巻いていなかった。

 

 

「ええ……キングさんから聞いていました。でもすみません。私の復帰はまだまだ先になりそうです。体力も戻っていませんし、筋肉も大分落ちてしまいましたから……」

 

 

 それを聞いて、ハルウララは心配そうな目でマリンを見つめた。

 

 

「でも安心して下さい。すぐに元気になってみせます。調子を取り戻したら、真っ先にウララさんと勝負をします。約束……でしたからね」

 

 

 ハルウララは再び春のお日様のような笑顔に戻る。見る者に勇気と元気を与える、天真爛漫な笑顔に。

 

 

 

 

 その後も2人は会話を楽しんだ。マリンはハルウララの視点から見た学園の話を、時々笑いながら聞いていた。そんな穏やかな時間がゆっくりと過ぎて行った。

 

 そして、今度はマリンが語る番になった。

 

 

「キングさん以外だと……私が目を覚まして、真っ先に駆けつけてきたのはルリイロバショウでした。病室に入ってきて、私を見るやいなや泣き出して、私に抱きついてきて……私が想像できないくらい、心配をさせてしまってたみたいで……申し訳なく思いました。他の皆さんにもとても心配をかけてしまったと思うと……」

 

「ううん、そうじゃないと思うよ! マリンちゃんが目を覚ましたのがとっても嬉しかったんだよ。だって、マリンちゃんの小さい頃からのお友達なんでしょ? きっと誰よりも嬉しかったんだよ! だからマリンちゃんもみんなと一緒に『嬉しいぃ〜〜!』って喜べばいいんだよ」

 

「そ、そうですか……一緒に『嬉しい』……と。そうですよね……」

 

 

 初めは暗い表情だったマリンも、ハルウララにつられて明るくなっていた。彼女は続けてフワリとした優しい笑顔で語る。

 

 

「その後に来たドウザン姉さんも、泣いて私を抱きしめてくれました。姉さんが泣いてるのを見たのは初めてだったので驚いたのを覚えています。続けてトレーナーさんと『シリウス』のみんなも来て、騒がしくて看護師さんに怒られてました。クラスメイトのBNW3人とアヤベさんとトップロードさんも授業を抜け出して来てくれて……そこにオペラオーさんとドトウさんまでやって来て、火に油を注いだような大騒ぎになって、その日は結局みんなお医者様に追い出されてしまって……ふふっ」

 

 

 笑顔で語るマリンの話に、ハルウララもニコニコと耳を傾けていた。

 

 

「そう言えば、ついこの前にアカネダスキさんもお見舞いに来てくれました。『良かったなぁ!』って泣きながら言ってくれて……『嬉しい』……そうですね。とっても『嬉しい』です……私」

 

 

 マリンは両手を胸に抱きしめて、その喜びを噛みしめるように言った。

 

 そしてハルウララはアカネダスキの名前を聞いて何かを思い出したように耳をピコーンと立てた。

 

 

「そう言えばマリンちゃん! アタシ、マリンちゃんが有記念に勝ったお祝いを言ってなかったね! おめでとう!」

 

「ありがとうございます。でも……私、あの時の事はよく覚えてないんです。有記念に勝った事も、その後に倒れてしまった事も……気が付いたらベッドの上で……その間の記憶も何も無くて、まるでタイムスリップしたかのような感じだったのです」

 

 

 マリンは俯く。チームのメンバーにも、他のウマ娘たちにも同じ事を言われたが、その度に申し訳なく思っていた。

 

 

「あ……そうだったんだ。ごめんね、アタシ変なこと聞いちゃった」

 

「いえ、気にしないで下さい。お医者様も言っていました。昏睡する前の記憶は曖昧になることが多いそうです。私もあのレースの事を完全に忘れてしまった訳ではありません。僅かにですが、覚えています。第3コーナーを過ぎて、仕掛けようとしたら胸が苦しくなって……それで……それ、で……」

 

 

 

 ビョオオォォ……と再び風が吹いた。無数の桜の花びらが舞い上がって彼方へと運ばれてゆく。

 

 その光景は、どこかで見たものと重なった気がした。

 

 マリンの中に、ほんの微かな記憶が蘇っていた。

 

 心臓の拍動を感じた、あの後の記憶が。

 

 

 

「それで……ゴールが見えて……ただその先に行きたくなって……それだけを思っていて……」

 

 

「……マリンちゃん?」

 

 

 

 

 ポタリ、ポタリとマリンの手に『雨粒』が落ちた。

 

 

 

 

「あ、れ?」

 

 

 

 いつの間にか彼女の頬が濡れていた。視界が水に飛び込んだように、ぼやけていた。

 

 

 

「私、なんで、泣いて……」

 

 

 

 途端に、胸がギュウと苦しくなった。喪失感で骨も内臓も、身体の中身が全部消えてしまったみたいだった。

 

 

 

「なんで……どうして、こんなに、胸が……」

 

 

 

 どこまでも落ちていきそうな、耐え難いほどの喪失感がマリンを襲った。

 

 

 

 

「…………えっ…………?」

 

 

 

 

 だがマリンは気がつくと、その顔はふんわりとした温かなものに包まれていた。

 

 ハルウララが、マリンの頭を胸に抱き寄せていた。

 

 優しく、まるで宝物を扱うような手つきで、マリンの頭を慈しむように撫でていた。

 

 

 

 

「……頑張ったね。他の誰よりも、ずっとずっと……頑張ったんだね」

 

 

 

 

 ハルウララの髪が春風に吹かれてふわりと揺れる。その顔はまるで聖母のように微笑んでいた。

 

 彼女の温もりが、春の木漏れ日のようにマリンを優しく包み込む。

 

 

 

「あ……っ……」

 

 

 

 マリンの感情はぐちゃぐちゃで、涙が溢れてきて、止まらなかった。闇のような喪失感の中に、確かに温かく光るものが在った。けれど、それが何なのかマリンには分からなかった。言葉に表せない切なさで、胸がはち切れそうだった……

 

 

 

「うっ……あぁ……あああああぁぁぁっ……!」

 

 

 

 マリンは泣いた。子供のように、ハルウララの温もりに包まれて、彼女の胸の中で声を上げて泣き続けた。

 

 

 

「頑張ったね……」

 

       「………ひぅっ……うん……」

 

 

 

「また、走れるよ。思いっきり……みんなと一緒に」

 

        「っ…………うんっ…………」

 

 

 

 ハルウララは、一層強くマリンを抱き締めた。

 

 

 

 

 

「『おかえりなさい』……マリンアウトサイダ」

 

 

 

 

 

 優しい春風が花びらを舞い上げた。

 

 2人を包むように、桜の雨が降っていた。

 

 

 

 

 

 





次回

30話 『ようこそ、君のネオ・ユニヴァースへ』


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30話 『ようこそ、君のネオ・ユニヴァースへ』

 

 

 

 

 

 晩夏も過ぎ去り、涼しい風が吹き始める時節となった。

 

 秋シーズンのレースがいよいよ開幕されるという事で、世間は浮き足立ち、トレセン学園のウマ娘たちは一層気合を入れてトレーニングに励んでいた。

 

 

 

 そんなとある日の朝。

 

 マリンアウトサイダは正面門から少し入った所に設置された掲示板前に鞄を片手に立っていた。

 彼女は校舎へ向かうウマ娘たちの流れを眺めながら、時折誰かを探すように視線を移動させる。

 

 彼女の『目的の者』はまだ現れていないようだった。マリンは正門の前で生徒たちに挨拶を交わすたづなさんの方をぼんやりと眺める。

 

 

 すると……

 

 

「……”RELF”……もう、大丈夫……だね……」

 

「えっ!?」

 

 

 不意に聞こえた声にマリンは振り返る。彼女の隣に、いつの間にか金碧織り交ざる不思議な髪色をしたウマ娘の少女が佇んでいた。

 

 

(っ……私は校門に一番乗りで来て、ずっと見張っていた。こんな特徴的なウマ娘を見逃すはずがないのに……彼女はいつ校門を通ったんだ?)

 

 

 トレセン学園の制服を着たそのウマ娘は、ボンヤリとした眼差しをマリンに向けると、ニコリと微笑んだ。

 

 

「君は……”UNST”……まだ不安定だった……でも、今は良好……だね」

 

 

 マリンはその不思議な雰囲気に飲まれそうになる。彼女はどうやらマリンには好意的な様子だが……

 

 

「あの、あなたは……?」

 

「……スフィーラ……」

 

 

 彼女はマリンの問いかけには答えなかった。トレセン学園にはコミュニケーションが取りづらい方々も多いが、ここまでのレベルのウマ娘はいないんじゃないか、とマリンは思った。が……

 

 

 

「『君』は……愛されているね……”GATE”は……既に、越境した……」

 

「っ……」

 

 

 

 マリンは、その不思議なウマ娘の言葉に息を呑んだ。

 

 

 

「……”切除(リムーバル)”……持って行ってくれたんだね……”DSTN”……だからその先に、到達出来た……」

 

 

 

 マリンには彼女が何を言ってるのか分からなかった。しかし、彼女の言葉には不思議と聞き入ってしまう謎の引力があった。

 

 

 

「あなたが……覚えていなくても……

 

 『(キミ)』が……忘れなければ……

 

 きっと、大丈夫……

 

 うん、とっても……スフィーラ……だね……」

 

 

 

 フワリと、そのウマ娘は一層の笑顔を見せた。

 

 マリンの右手を、彼女は両手で包むように握る。そしてジッとマリンの眼を見つめ出した。

 

 マリンは彼女の瞳の中に、まるで宇宙が広がっているかのような景色を見た気がした。

 

 

 

 

「ようこそ……キミの……”新たな旅路(ネオ・ユニヴァース)”へ……」

 

 

 

 

 スッ……と、彼女はマリンの手を離した。マリンは茫然と彼女の言葉を聞いていた。胸の奥で、何かが震えるのを感じながら。

 

 そうしていると、今度は校門の方からマリンを呼ぶ声が聞こえた。

 

 マリンが振り返ると、チーム『シリウス』の先輩であるスペシャルウィークが小走りで駆け寄って来るのが見えた。そしてその後ろを必死の形相でもう1人ウマ娘が続いている。

 

 

「マリンさーーーん! おはようございまーーーす!」

 

 

 明るく元気に挨拶をしながら、スペシャルウィークはマリンの側で立ち止まる。もう1人のウマ娘もワンテンポ遅れてやって来る。

 

 

「ゼェェーー……ゼェェーー……スペちゃん……突然……走らないでよぉ! 朝は血圧も低くて……カラダがびっくりしちゃうからぁ……ゼェェーー」

 

 

 そのウマ娘はフラフラで肩で息をしていた。スペシャルウィークはその娘の肩を支えて「ゴメンね!」と謝る。

 

 

「スペさん、おはようございます。それに……ツヨシさん。おはようございます、お久しぶりです。その、大丈夫ですか? ツヨシさん、凄くお疲れな様子ですが」

 

 

 マリンの挨拶に、前髪にルドルフ会長と少し似通った流星を持つウマ娘『ツルマルツヨシ』はバッ!と顔を上げる。

 

 

「マリンさん……私の事、覚えててくれたの?」

 

「? ええ、もちろんです。ツルマルツヨシさん、ですよね」

 

 

 ブワァッ!とツヨシの目から涙が溢れる。何やら感動している様子だが……

 

 

「うう……うわああああん! 私……体調崩したり入院したりで、全然後輩たちとの交流がなくて、影がめちゃくちゃ薄いのに……マリンさんは覚えててくれたんだああああ!(泣) 去年会ったっきりだったのにいいいい!(泣)」

 

 

 そう、昨年マリンとツルマルツヨシはスペシャルウィークを通じて一度会っていたのだが、両名の入院時期がちょうどズレたり色んな偶然が重なってしまって、これが約一年ぶりの再会となってしまっていたのである。

 

 そんな先輩の姿に若干苦笑いしながらも、マリンは敬意のこもった眼差しをツヨシに向ける。

 

 

「私は『黄金世代』の先輩たちを皆尊敬しています。確かにツヨシさんとは、今年に入って会うのは初めてですけど……入院している間はずっと皆さんのレース映像を観てイメージトレーニングをしていましたから。忘れるはずがありません」

 

 

 と、言ったところでマリンは思い出したように耳をピコンと動かした。

 

 

「そうでした。スペさんにツヨシさん、こちらに……あれ?」

 

 

 マリンは隣にいた不思議なウマ娘を2人に紹介しようと振り返ると、彼女の姿は影も形もなく消えてしまっていた。キョロキョロするマリンにスペシャルウィークが問いかける。

 

 

「どうしました、マリンさん?」

 

「いえ、さっきまで……何だか不思議な雰囲気の方と話をしていたのですが、どこに行ってしまったのでしょう?」

 

「グスッ……ウウ……え? 私たちが来た時はマリンさん1人だけだったよ?」

 

 

 ツヨシの言葉におかしいな、とマリンは首をかしげる。

 

 

「そう言えばマリンさんは、ここでずっと立ってたんですか? 誰かと待ち合わせしていたとか」

 

「…………大体そんなところです。待ち合わせではないですが、『待ち人』がおります」

 

 

 マリンは、妙な間をあけてスペシャルウィークに返事をする。そして彼女は再び正面門の方に目を向けると、微かに目を細めた。

 

 

「来ました……」

 

 

 マリンがそう呟くと、黄金世代の2人も彼女の目線を追う。その先には、キングヘイローとハルウララの姿があった。

 

 

「ほらウララさん、もっとシャキッとなさい! そんなフラフラと歩いてたら誰かとぶつかるわよ」

 

「う〜ん、まだ眠いよ〜。えへへ〜、でもキングちゃんが手を繋いでくれてるから大丈夫だよ〜安心したら……また眠くなっちゃったぁ」

 

 

 もう、ウララさん!と言いつつキングヘイローはしっかりとハルウララの手を引いて誘導する。

 

 どうやらマリンが退院してからと言うもの、ハルウララの早朝トレーニングの頻度が少し下がって平常運転に戻ってきているようだった。

 

 2人がたづなさんに挨拶をして正面門を通過すると、キングヘイローは掲示板前に集まっている3人に気付いた。

 

 

「あら? あれは……スペシャルウィークさんとツルマルツヨシさんに……マリンさん? 珍しい組み合わせね」

 

「えっっっ!? マリンちゃん!?」

 

「あ、ちょっとウララさん!」

 

 

 マリンの名を聞いて、ハルウララの眠気は吹き飛んだようだ。目をキラキラと輝かせて今度は彼女がキングヘイローの手を引っ張って3人のところへ駆けていく。

 

 

「おっはよー! スペちゃん、ツヨシちゃん、マリンちゃん!」

 

「もう……ウララさんたら。ご機嫌よう、3人とも。何だか珍しい組み合わせね。何かお話していたのかしら?」

 

 

 ハルウララの天真爛漫な挨拶と、キングヘイローの優雅な挨拶に、3人も挨拶を返す。「ええ、そんなところです」とマリンは言った。

 

 

「そう言えば聞いたわ、マリンさん。貴方、復帰戦が2週間後に決まったらしいわね。おめでとう! 本当……長かったわね……」

 

「……ありがとうございます、キングさん。本当に、皆さんのお陰です……私は、友に恵まれていますね……」

 

 

 キングヘイローは優しく微笑んで、マリンの復帰を喜んでくれた。

 

 

「そうなんだよ、キングちゃん! チームのみんなもトレーナーさんから発表があった時に凄く盛り上がったんだよ! 私も何度でも言っちゃいます! マリンさん、おめでとうございます!」

 

「そうだったんだ……マリンさん! 私、マリンさんの復帰後の初陣、絶対に観に行くよ! 体調悪くても、血ヘドを吐こうが地面を這いずってでもレース場に向かうからね!」

 

「わぁ……ホントォ!!? 良かったね、マリンちゃんっ!!!」

 

 

 スペシャルウィークとツルマルツヨシ、ハルウララも全力でマリンの復帰を祝ってくれた。マリンは再び笑顔でお礼を言った後に……真剣な顔付きになる。

 

 

「ありがとうございます。ですが……そのレースは恐らく初陣にはなりません」

 

 

 え?とマリン以外の4人のウマ娘はキョトンとした。

 

 そして……マリンは、一歩踏み出してハルウララの前に立つ。

 

 

「……ようやく、約束を果たせます。私は、ずっと此処で『あなた』が来るのを待っていました」

 

 

 ピリリ、と黄金世代の3人は空気が変わるのを感じた。先とは打って変わって、肌に刺さるような緊張感が場を支配する。

 その中心にはマリンアウトサイダ、しかしそれを向けられたハルウララはキョトンとしていた。行き交うウマ娘たちからも何事かと注目が集まっていた。

 

 

「ハルウララ……

 

 私はあなたに1対1のレースを、

 

 サシでの喧嘩(タイマン)を申し込みます。

 

 あなたのライバルとして」

 

 

 ピタリ、とスペシャルウィークとツルマルツヨシの時間が止まる。どうやら2人には予想外の事だったようだ。そして、

 

 

「「え……えええええ!?」」

 

 

 と、驚愕の声を上がった。一方でキングヘイローは一瞬だけ驚いた表情になるが、すぐに落ち着いて事の成り行きを見守っていた。彼女はかつての、マリンと初めて出会った日の事を思い出していた。

 

 

ーーーーー

 

『ライバルってずっと憧れてたんだー! マリンちゃん、ウララのライバルになってくれるの!?』

 

 

『ええ、もちろんです。いつか必ず、レースで競い合いましょう』

 

ーーーーー

 

 

 ハルウララは武者震いなのか、プルプルと震えていた。そして満開の桜のような笑顔で、両手をギュッと握り締めてマリンに答える。

 

 

「〜〜〜っ、うん!! 約束だったもんね!! やろう!! 2人だけのレース!!」

 

 

 ザワザワと周囲のウマ娘たちが僅かに騒がしくなる。マリンはもちろんの事、ハルウララも学園内ではかなり名の知られるレースウマ娘である。つまり、皆2人の適正が全く噛み合っていない事も知っていたのである。

 

 果たしてどの様なレースをするのか、周囲のウマ娘たちも気になるようで、皆聞き耳を立てていた。そして、マリンはレースの条件を述べる。

 

 

「日時は1週間後の夕方、場所は学園の練習グラウンドを借りましょう」

 

 

 そして続く言葉に、黄金世代の3人も、周囲のウマ娘たちも驚愕するのだった。

 

 

 

「条件は……『芝』『2500m』『右回り』……1番気合の入る服装を着て来て下さい」

 

 

 

 ざわつきは更に大きくなった。「え、本気?」「嘘でしょ」「だってハルウララは……」と周囲に戸惑いの声が小さく飛び交う。

 

 

「えっ……そ、それって……」

 

 

 ツルマルツヨシも驚きを隠せない様子で呟いた。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

「有記念……」

 

 

 その日の昼食時間、食堂の円テーブルにて大和撫子な栗毛のウマ娘、グラスワンダーがスペシャルウィークの話を聞いて耳をピクンとさせて呟いた。

 

 

「そうなの、グラスちゃん! マリンさん、突然ウララちゃんにその条件で模擬レースを申し込んだの! ウララちゃんもやる気満々でそれを受けるし、私びっくりしちゃった!」

 

 

 スペシャルウィークは山盛りのランチを頬張りながら大声で言った。『黄金世代』の仲間であるエルコンドルパサー、セイウンスカイ、そしてキングヘイローとツルマルツヨシも共にテーブルを囲んでいる。

 

 

「私もビックリしたよ! マリンさん、突然雰囲気変わっちゃって。何かオーラみたいなもの出てたし……冗談で言ってる感じじゃなかったよ」

 

 

 ツルマルツヨシもパスタを食べながら神妙な顔付きになる。

 

 

「ふーん、去年のグランプリウマ娘がウララちゃんに『決闘』を申し込んだって事ぉ? いやー、熱い青春ですなぁ」

 

 

 青空の浮浪雲のような自由人であるセイウンスカイが背もたれに寄り掛かり、うーんっ……と背筋を伸ばす。

 

 

「でも有記念と同じ条件なのが、エルには分からないデース! マリンアウトサイダは休養明けとは言え、有記念の現レコード保持者デス。適正外のウララさんでは勝負にならないのは目に見えていマスヨ」

 

 

 マスクを被った快活で情熱的で時々お調子者なウマ娘、エルコンドルパサーは腕を組んで頭を捻っている。

 

 

「キングちゃんは何か知ってるの? 朝、マリンさんがウララちゃんに勝負を申し込んだ時も、落ち着いてる感じだったし」

 

 

 スペシャルウィークはキングヘイローに尋ねた。

 

 キングヘイローは皆より一足先に昼食を済ませ、食後の紅茶を楽しんでいた。優雅な手付きでカップを置くと、落ち着いた雰囲気で言葉を紡ぐ。

 

 

「……もう1年以上も前の話よ。マリンさんがデビューして少し経った頃に、あの2人はいつかライバルとしてレースで競い合おうって約束していたのよ。私はそれを目の前で見ていたわ。だから、いつかこんな日が来るのは知っていたのよ」

 

「へぇ、そうだったんだ」

 

 

 ツルマルツヨシはもぐもぐと口を動かしながら、キングの話に耳を傾ける。

 

 

「なぜ有記念なのかは、私にも分からないわ。でもそれを気にしても仕方がないでしょ。マリンさんがその条件で挑み、ウララさんがそれを受けた。2人がその条件で了承したのなら、それが全て。外野の私たちがとやかく言う権利は無いわ」

 

 

 キングヘイローは再び紅茶に口をつけた。

 

 

「へぇ〜意外。キングがウララちゃんの事を心配するそぶりも見せないなんてね。客観的に見てもアンフェアな条件だし、そういう卑怯な感じの事はキングは許さないかと思ったのに」

 

 

 セイウンスカイの揺さぶりにもキングヘイローは動じなかった。カップから口を離して、真剣な表情で返答する。

 

 

「あの2人はその条件をアンフェアとも卑怯とも思っていないわよ、きっと」

 

 

「ケ? それはどう言うコトデスか? エルには分かりまセーン」

 

 

 すると、グラスワンダーがエルコンドルパサーを宥めるように言う。

 

 

「……私は少し分かる気がします。私もマリンさんには及びませんが、武道を修める身です。真に強者と認めたライバルが居るのなら、自らの全力をぶつけて闘いたい気持ちは……痛いほど理解出来ます。きっとマリンさんは……『本気』なのでしょう。それだけウララちゃんをライバルとして認めている。だからこそ有記念の条件で挑んだ。そう言うことですよね? キングちゃん」

 

 

 そう言いながら、グラスワンダーはチラリとスペシャルウィークに目線を送る。我らが日本総大将はモリモリと食事に夢中でその視線に気付いていなかった。

 

 

「そうね。それに……」

 

 

 キングヘイローは力強く宣言する。

 

 

「ウララさんは絶対に『下を向かない』わ。だから、大丈夫よ」

 

 

 ずっと話を聞いていたスペシャルウィークはムムムと力を溜めると、決意したように皆に言う。

 

 

「私、来週のマリンさんとウララちゃんの勝負、見届けなくちゃ! 何でか分からないけど、そう思うんだ。キングちゃんもだよね?」

 

「ええ、もちろんよ」

 

「私も! 私の事を慕ってくれる後輩って殆ど居ないから、マリンちゃんは大事!」

 

「ふふ……では、私も観戦させて頂きますね」

 

「ムム……エルはまだ納得はしてませんが……仕方ありません、この目で判断する事にしマァス! もしマリンアウトサイダが卑怯な事をするのならば、ルチャリブレと異種格闘技戦をする事になりマース!」

 

「あ、セイちゃんそれちょっと興味あるかも〜。みんなが行くならセイちゃんも行こうかなぁ」

 

 

 そんなこんなで、結局『黄金世代』の皆でマリンとハルウララの勝負を見届ける運びとなったのだった。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 一方その頃、BNWの3人が遊歩道を歩いてた。ハヤヒデがブライアンを探していると言うので、チケットは(タイシンを無理矢理巻き込んで)喜んで捜索に協力していた。

 

 

「ねぇねぇ、ハヤヒデ! 次はどこを探すの?」

 

「そうだな……昼寝が出来るくらい高く大きな木の生えている場所を探そう。ブライアンは高い所で眠るのが好きだからな」

 

「そんな猫探すみたいに言われても……それに大きな木なんて学園内に幾らでもあるし……はぁ、なんでアタシまで……」

 

 

 と、タイシンは文句を言いながらも木を見上げてキョロキョロと探す。なんだかんだヤッパリ仲良しな3人組である。

 

 

「2人の協力には感謝しているよ、後で何かを奢って…………ん?」

 

 

 ハヤヒデは何かに気づいた様子で立ち止まる。彼女の視線の先には、大木とまではいかないが中々に立派な木々が数本生えていた。

 

 

「ハヤヒデー、どうしたの?」

 

 

 チケットがそう言うや否や、ハヤヒデはそのうちの一本に向かって歩き出した。チケットとタイシンは顔を見合わせると、とりあえず彼女後について行く事にした。

 

 

「…………ここだ」

 

 

 ハヤヒデはある一本の樹の前で立ち止まった。他の2人もやってきて3人でそれを見上げるが、枝も梢も折り重なっていて上の方まで見えない。

 

 

「うーん、上の方はよく見えないよ〜!」

 

「ねえ、ハヤヒデ……まさか登って確かめる気? 一本一本そんな事してたら昼休みが終わっちゃうよ」

 

 

 チケットとタイシンがそう言う中、ハヤヒデはそっと幹に手を当てて、呟く。

 

 

「マリン殿のおじい様の山で修行をしたのを覚えているだろう? あの時の経験から学んだんだ。自身が無意識に収集したデータに基づく経験的推論……つまり『野性の勘』も侮れぬとな。どれほど綿密に練り上げたプランも、実行する時間がなければ無意味だ」

 

 

 ハヤヒデは両手を口の横に揃えて、樹の上方に向かって呼び掛ける。

 

 

「おーい!!! ブライアン、居るなら返事をしてくれ!!! お前に用があるんだ!!!」

 

 

 シーーーーーーン………

 

 

「やっぱり居ないのかなー?」

 

「居たとしても返事なんてしないでしょ、ブライアンなら」

 

「…………ふむ、致し方あるまい」

 

 

 ハヤヒデはその樹から数歩離れて、力を溜めるように構える。そして……

 

 

「でええええええええいッッ!!!」

 

 

 ドグォオオオオーーンッ!!!

 

 

 と、ハヤヒデの渾身の回し蹴りによる衝撃が樹全体を打ち鳴らす。知的キャラが発してはいけない声と音が周囲に鳴り響いた。遠くから何事かと視線が集まっていた。

 

 すると、上方から「な!?うわあぁ!!」と声が聞こえて、枝に引っかかりながら1人のウマ娘が落ちてきた。最後の木の枝に何とか掴まってブラーンと引っかかったタオルのようにぶら下がった。

 

 

「気持ちよく寝ているところをすまなかったな、ブライアン」

 

 

 ハヤヒデの眼鏡がキランと光る。

 

 

「……っ、危なかった……! 私をクワガタかなんかだと思ってないか? あの枝の上は絶対に周りからは見えない場所だったはず。なぜ私がそこに居ると分かった? って、なんか昔同じような会話をした気がするな……」

 

 

 ちなみに、ハヤヒデが蹴ったその樹は、奇しくもかつてマリンの祖父が発勁で揺らしたものと同じである。山での修行を経て最も成長したのはもしかしたらハヤヒデなのかもしれない。

 

 

「すごーーーーい! ホントにブライアンが居た!」

 

「……マジ?」

 

 

 チケットとタイシンは驚嘆の声を上げる。

 

 

「マリンの山での修行ってのはそんなに凄かったのか?……姉貴は頭が良いのに勘まで鋭くなってしまったら、誰も手がつけられなくなるだろう……」

 

 

 そう言ってブライアンはスタッと着地した。「ヤッホー、ブライアン!」「……よっ」とチケットとタイシンが挨拶して、ブライアンも「どうも」と返した。

 

 

「それで何の用なんだ、姉貴? BNW揃って私を探していたのか」

 

「まぁ、そんなところだ。チケットとタイシンは捜索の手伝いを申し出てくれてな」

 

「アタシはチケットに無理矢理引っ張られてきただけなんだけど」

 

 

 えー!と言うチケットにタイシンは食ってかかる。それをハヤヒデは「まぁまぁ」と宥める。そんな3人の様子にブライアンは「ふっ」と笑みを浮かべる。

 

 

「相変わらず仲が良いんだな、姉貴たちは。で、用ってのは何だ? 昼休憩が終わる前に頼む。もう一眠りしたいんだ」

 

「そうだな、手早く済ませよう。ブライアン、マリン殿の噂は聞いているか?」

 

 

 ピクンとブライアンは耳を動かした。

 

 

「あの噂の事か、マリンがハルウララとタイマンをする……と、小耳には挟んだが」

 

 

 仏頂面で答えるブライアンに、今度はチケットが話しかけた。

 

 

「アタシたちは観に行く予定なんだけど、ブライアンもどうかなって!」

 

 

 ブライアンは俯いて、数秒間考える仕草をした。

 

 

「……マリンがまた走れるのはチームメンバーとして嬉しいが、結果の分かりきってるレースを見るほど私は物好きじゃない。先輩方のせっかくの誘いだが……」

 

 

「いいや」

 

 

 ブライアンが言い切る前に、ハヤヒデは言葉を被せる。

 

 

「ブライアン、お前も来るんだ。一緒にマリン殿とハルウララの勝負を見届けよう」

 

「……むぅ、姉貴……?」

 

 

 珍しく有無を言わせない勢いのハヤヒデに、ブライアンは驚く。姉がこれほどに強硬な姿勢を見せるのは幼少期以来ではないか、と内心に思っていた。

 

 

「ブライアン」

 

 

 ビワハヤヒデは平生より増して真剣な声でブライアンに言う。常に冷静で知的であるハヤヒデがこの様に言う時は、大抵何かしらの深い思惑がある時だとブライアンは知っていた。

 

 

「その勝負できっとお前は、かつて望んでいた景色が見られるはずだ。絶対に損はしない。姉として、マリン殿の友として……断言しよう」

 

「っ…………」

 

 

 それは、姉としてブライアンの事を深く理解しているからこその、重く力強い言葉だった。そしてそれを無視できる程ブライアンは頑なではない。

 

 

「……はぁ、分かった。観に行けば良いんだろう。暇潰しくらいにはなるんだろうな」

 

「ああ、約束しよう」

 

 

 

 

 秋の日差しを遮る木陰で、最強の姉妹は約束を交わした。

 

 この先に何を見るのか、ブライアンはまだ知らなかった。

 

 

 

 

 





次回

最終話 私は『あなた』に憧れていたんだ


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最終話 私は『あなた』に憧れていたんだ

 

 

 

 

 BNWの3人がナリタブライアンを捜索していたのと同じ頃

 

 トレセン学園の生徒会室にて……

 

 

 

「ふむ、これならば問題ないだろう。では、この書類はこちらから事務の方に回しておこう」

 

「ありがとうございます、ルドルフ会長。すみません、お手を煩わせてしまって」

 

「気にするな、これも生徒会の仕事だ。どうか良きレースを……健闘を祈っているよ、マリンアウトサイダ」

 

「はい……ありがとうございます」

 

 

 黒髪のウマ娘はルドルフに会釈をすると、生徒会室の出口へと向かう。

 

 

「失礼しました」

 

 

 マリンはそう言ってドアノブに手をかけ、扉を開けた。するとちょうど入ってきた1人のウマ娘と鉢合わせになった。褐色の肌に長く美しい髪、好戦的な鋭い目付きの彼女は、マリンが所属する栗東寮の寮長ヒシアマゾンだった

 

 

「おや、マリンじゃないか! 奇遇だねぇ、生徒会に用事でもあったのかい? そう言えば聞いたよ。復帰戦が決まったそうじゃないか! 頑張りなよ!」

 

「こんにちは、ヒシアマさん。ありがとうございます。精一杯、頑張らせて頂きます。こちらにはトレーニングコースの貸切使用の申請の仕方を教わりに来ておりました」

 

「ほぉー、もしかして復帰戦に向けて模擬レースでもするつもりかい……タイマンかい?」

 

 

 ヒシアマゾンはニヤリと笑う。タイマンとは彼女がよく口にする言葉で、ある種彼女の代名詞でもあった。そんな変わらぬヒシアマゾンに安心感を抱きつつマリンも彼女に微笑み返す。

 

 

 

 

「ええ……『タイマン』です」

 

 

 

 

 その静かな迫力に、ヒシアマゾンの背筋がヒヤリとする。彼女はマリンが『本気』なのを感じ取った。

 

 

「では、失礼いたします。応援ありがとうございました、ヒシアマさん。また寮で」

 

「お、おう……またね、マリン」

 

 

 マリンと入れ違いにヒシアマゾンは生徒会室に入った。マリンの事を気にするように、彼女は扉が閉まった後もその方向を見つめていた。

 

 

「やあ、ヒシアマゾン。君も生徒会に何か御用かな?」

 

 

 ルドルフに声にヒシアマゾンは振り返る。彼女はぽりぽりと頭をかいてルドルフの座るデスクへと歩みを進めた。

 

 

「ああ……ルドルフ、寮の備品点検の時期についてちょいと相談が……って、うああ〜〜〜〜!!! マリンの『タイマン』の事が気になって仕方ねえ!!! ルドルフ、一体誰なんだい、マリンとレースするのは!? マリンがあそこまで対抗心を燃やすなんて珍しいじゃないか」

 

「ふふっ、そうだな。彼女は来週、ライバルと1対1の勝負をするのだそうだ」

 

 

 ルドルフは何か含みのある笑みを浮かべる。ヒシアマゾンをそれを見て、熱い勝負が繰り広げられる予感がした。

 

 

「へぇ……! 何だか胸が踊る予感がするねぇ、マリンは誰と勝負するんだい?」

 

「ハルウララだ」

 

「なるほど、そいつは熱い……………って、え?」

 

 

 ヒシアマゾンが目をパチクリさせて数秒間停止した。

 

 

「ルドルフ……アタシの聞き間違いじゃあなければ、アンタの口から『ハルウララ』って聞こえたと思うんだが」

 

「聞き間違いではないよ、ヒシアマゾン。マリンアウトサイダは来週、ハルウララとレースをする」

 

「……あ〜、何というか、ルドルフ。あの2人は距離適性もバ場適性も、何もかもが噛み合わないじゃないか。いくらマリンが療養明けとは言え、勝負になるのかい?」

 

 

 ルドルフはデスクの上に両手を組む、その含みのある笑みは崩れていなかった。

 

 

「どうやら、彼女たちにとって適性の違いは関係ないらしい。『ライバル』として本気で勝負をする事、それ自体を重要視していると私は感じたよ。格闘ウマ娘風に言うならば、彼女たちがやるのはレースではなく……『喧嘩』だろうね。君ならば理解できるのではないか? ヒシアマゾン」

 

「んぅ……まあ、分からなくはないけどさ。それにしても、ハルウララとねぇ……一体どんな条件で勝負するつもりなんだい、その2人は?」

 

「『芝』『2500m』『右回り』だ。我々にも馴染みが深いだろう?」

 

 

 「え……!」と、ヒシアマゾンは再び固まった。彼女は自身のライバルである三冠ウマ娘『ナリタブライアン』に3バ身差で敗れたあのレースを思い出した。

 

 

「おいおい……その条件は……」

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 

 噂が広まってから、1週間後の夕方。

 

 紅く染まる空の下、ある1つのトレーニングコースで、集まったウマ娘たちの長い影が落ち始める。

 

 そこはマリンアウトサイダとハルウララによって決戦の場として貸切られたコースであり……

 

 何の運命なのか、シンボリルドルフがマリンアウトサイダを案内した初めてのコースでもあった。

 

 

 

 コースの隅の芝で、小柄なウマ娘がストレッチをしていた。その表情にはやる気と元気が満ち満ちていて、この日を楽しみにしていたんだと言わんばかりに一生懸命身体をほぐしている。

 

 その桜色のウマ娘、ハルウララは体操服の上からジャージを羽織っていた。所々に絆創膏が貼ってあるのは、この日に備えてのトレーニング中に出来た傷だった。

 

 彼女の側では『黄金世代』の1人キングヘイローが見守っていた。そして、コース全体を見渡せる高台の歩道には他の『黄金世代』の4人が観戦の為に並び立っている。

 

 

「ケ? そーいえばツヨシちゃんはどこにいるんデスカ?」

 

 

 エルコンドルパサーはキョロキョロと辺りを見渡して言う。

 

 

「えっと……ツヨシちゃんは……」

 

 

 そして、スペシャルウィークは寂しそうに事情を語り出した。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

「はぁ……うっ……スペちゃん……私、もうダメみたい……」

 

「そんなこと言わないでよ、ツヨシちゃん! マリンさんとウララちゃんのレースを観に行くって約束したでしょ!」

 

 

 教室でスペシャルウィークが涙を流しながら、倒れ込んだツルマルツヨシを抱えている。さながらドラマのワンシーンの様であった。

 

 

「スペちゃん……お願い……私の分まで、マリンさんとウララちゃんを……応援してあげて……頼んだ……よ……ガクッ(自分で言った)」

 

 

 ツルマルツヨシは息絶え絶えに、スペシャルウィークに遺言(らしき言葉)を伝え、それっきり動かなくなる。

 

 

「ツヨシちゃん……? ねえ、目を開けてよ……ツヨシちゃん……ツヨシちゃーーーーーーん!!!!!」

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「ツヨシちゃん、貧血で倒れちゃって安静にしてないとダメなんだって」

 

「ああ、そういえばあの時エルは教室にいなかったもんね〜。いつもの事だから伝えそびれちゃってたね〜」

 

「なーんだ、そうだったんデスカ」

 

 

 スペシャルウィーク、セイウンスカイ、エルコンドルパサーは慣れたことの様に会話をしていた。

 

 

「もうっ……皆さん、いくらいつもの事だからって、少しはツヨシちゃんのこと心配してあげないと可哀想で……おや?」

 

 

 とグラスワンダーが学園校舎の方に視線を移すと、遠くから小走りで黒髪のウマ娘がやって来るのが見えた。

 

 

「どうやら来たみたいですね……って、あら? あれは……」

 

「グラス、どうしたんデスカ……って、ケ!?」

 

 

 マリンの姿を見た4人は驚きの表情になる。その中でスペシャルウィークだけが

 

 

 

「マ……マ゛リ゛ンさぁん……!」

 

 

 

 と、涙ぐんだのだった。

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

「お待たせしました、ウララさん。キングさんも、スターターを引き受けて下さってありがとうございます」

 

「え、ええ、それは構わないわ。でもマリンさん、貴方……その格好は……」

 

 

 キングヘイローもマリンの姿を見て驚く。

 

 紅蒼の炎の刺繍が施された袴、純白の上衣、その上に緑色のパーカーを羽織っている。それは彼女の『勝負服』だった。マリンがそれを着るのは、あの有記念以来、実に半年以上ぶりだった。

 

 『黄金世代』だけでなく、遠くの観戦スタンドに集まっているギャラリーの間にもどよめきが起こっていた。

 

 

「ライバルとの勝負ですから。『本気』を出せる服を着るのは当然です。勝負服に袖を通すのは久しぶりなのですが」

 

 

 そこにストレッチを終えたハルウララが駆けてきた。彼女は目を輝かせてマリンを見つめる。

 

 

「わぁ……マリンちゃん、勝負服を着てきたんだ!!! 凄い凄い、何だか本当のレースみたいだね! 向こうのほうにたくさん人も集まってきてるし!」

 

 

 ハルウララは歩道や観戦スタンドに集まったトレーナーやウマ娘たちを見てニッコリと笑う。

 

 だが、マリンはそんなハルウララの視線を遮るように、彼女の正面に立った。

 

 

「ウララさん……」

 

 

 それは果たし合いを望む武術家の表情だった。それを見て、ハルウララもキリッとした顔でマリンと向かい合う。

 

 

「やっと約束を果たせます。私はライバルとして、あなたに勝負を挑みます。私は全力であなたを……『叩き潰します』」

 

 

 ゾクリと、その冷徹な響きを持ったキングヘイローは鳥肌立つ。マリンは殺気にも近い威圧感を放っていた。あのハルウララを相手にである。

 

 キングヘイローは認識を改めた。マリンアウトサイダは本当に『本気』だった。それほどまでにハルウララというウマ娘を、彼女は認めていたのだ。

 

 一方、ハルウララはその空気も凍りつかんばかりの威圧感を、ケロリとツユも気にせずに受け止め笑っている。鈍感なのか、大人物なのか、それとも両方なのか、それは誰にも分からない。

 

 

「アタシだって負けないよ! 今日の為にたっくさんトレーニングしてきたんだ! 気分も絶好調だよ!」

 

 

 その百点満点の笑顔に、マリンは毒気を抜かれたようにふっと微笑んだ。彼女は手を差し出して、ハルウララに握手を求めた。

 

 

「私はあなたを見くびってはいません……1人のレースウマ娘として、あなたと本気で勝負をします。良いレースをしましょう、ハルウララ……!」

 

「っ………!」

 

 

 その言葉を聞いて、ハルウララの胸に熱いものが込み上げてきた。彼女自身は意識してないだろう、だが彼女の魂が理解していた。マリンアウトサイダは『G1レース』に挑む覚悟でハルウララと勝負をするつもりなのだ、と。

 

 ハルウララはプルプルと震える。かつてない程に、彼女の心身ともに昂っていた。そして、力強くマリンの手を握り返した。

 

 

「うん! 私も……本気だよ、マリンちゃん! 良いレースをしようね!」

 

 

 その2人の見て、キングヘイローも胸を熱くする。

 

 

(っ……凄いわね、マリンさん……私でも多分、ウララさん相手にそんな気迫で勝負を挑めないわ。それなのに、貴方は……)

 

 

 

 キングヘイローは嬉しかった。ハルウララを本気で『ライバル』と認めるウマ娘が居てくれた事が。握手を交わす2人を、彼女は誇らしい気持ちで見つめていた。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 

 コースは『芝』『2500m』『右回り』、スタート地点はキングヘイローが立つ第2コーナーを過ぎた辺り、ゴールは観覧スタンド前のヒシアマゾンの看板。コースをぐるっと一周して再び看板の前を通過した瞬間がゴールとなる。

 

 観戦スタンドからはスタート地点に移動するのマリンアウトサイダとハルウララ、キングヘイローの姿が見えた。レース開始までの時間は迫ってきていた。

 

 噂を聞いて集まった人だかりには、マリンと縁の深い者たちの姿も多く見られた。もちろん、彼女のトレーナーとチームメイトたちは彼女のレースを観戦に来ていた。

 

 

「……本当に良かったのですか、トレーナーさん? マリンさんは来週に復帰戦を控えているのに、今『あんなにまで』仕上げてしまって」

 

 

 メジロマックイーンは遠くを歩くマリンを見ながら、トレーナーに尋ねた。

 

 

「僕もマリンに頭を下げてお願いされた時は驚いたよ。でも、彼女にとってはこれが本当の『復帰戦』みたいだったからね。思いっきり走って欲しかったんだ。トレーナーとしては失格かもしれないけどね」

 

「んなこと関係ねーよ」

 

 

 トレーナーの隣でいつもの如くルービックキューブをいじるゴルシが言った。

 

 

「マリンの奴、ハルウララが『ライバル』だって言ってたからな。ライバルとの勝負に本気を出させないトレーナーだったら、アタシは『シリウス』に居ねぇよ」

 

「お、珍しいな。ゴルシが僕を褒めてくれるなんて」

 

「気のせいだろ」

 

 

 そんな2人の気の置けない仲な会話をよそに、ライスシャワーは少しだけ寂しそうな様子だった。

 

 

「でも……これがマリンさんの復帰戦なら、チームのみんなと一緒に見たかったな」

 

「仕方ないわ、ライス。私も同じ気持ち。でも、離れてるけど一応『シリウス』のみんなは来ているわよ? スペちゃんはほら、向こうの歩道でグラスさんたちと一緒だし、ブライアンは向こうでBNWの3人と一緒に居るわ」

 

「そうだよ、ライスちゃん! ここは私たちも負けないように一生懸命応援しようよ!」

 

「うんうん、そうだね〜」

 

「久しぶりにマリンさんのレース見れるし、アタシ……それだけで涙が……」

 

 

 サイレンススズカと仲良し3人組がライスを励ます。皆、心からマリンの回復を喜んでいた。

 

 

 一方、観戦スタンドの別のエリアには『覇王世代』の4人も集まっていた。更に、遅れてシンボリルドルフとエアグルーヴ、ヒシアマゾンもやってきて観覧席が騒めき立ち、別の側の歩道の上には『伝説の世代』の4強も並び立っていた。

 

 皆、このトレセン学園内でしか決して実現しない、ある種のドリームレースを見届けに来ていた。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 観戦スタンドとは反対側のスタート地点で、黒髪のウマ娘はグラウンドを見渡していた。そこは最早、彼女にとっては見慣れた場所となったはずなのに、猛烈な懐かしさが彼女の胸に込み上げてきていた。

 

 

『マリンアウトサイダ、私が君に走りを教えよう』

 

 

 トレセン学園への転入初日に、シンボリルドルフが彼女に掛けた言葉が、どこからか聞こえた気がした。

 

 

(ああ、本当に帰って来れたんだ……)

 

 

 マリンは目を閉じて、鼻からゆっくりと空気を吸い込んだ。

 

 

(山の中とは全く違う草の匂い……レースウマ娘が『走る』為の場所の匂いだ……)

 

 

 マリンは目を開けて、横を向いて『ライバル』の姿を見る。彼女はスタンドに向かってぶんぶんと両手を振っていた。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「俺はそのレースが見たいんだ。お前がハルウララと走るレースを……叶うのなら、見てみたいんだ。なぁ……『ミドリ』」

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

(っ……目が覚めて以来、胸の奥底から何かが響くような感覚がある。ただ、ハルウララと戦いたいって衝動が湧いてくる……)

 

 

 マリンアウトサイダは声なき声を聞いていた。魂の奥底から何かが彼女を突き動かしいていたのだ。そして……

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「だから、すまん。マリンアウトサイダ。俺はお前のファンになる前にハルウララのファンだったんだ」

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

「……………………」ムカッ

 

 

(そして何故だろう……時々無性にムカついて何かに噛み付きたくなる……私はどうしてしまったんだろう……)

 

 

 マリンアウトサイダがハルウララと勝負したい理由には、ほんの少しの嫉妬、言うなれば微かな『ジェラシー』があったのは本人すらも気付いていない事だった。

 

 

「マリンちゃん!」

 

 

 ふと気がつくと、ハルウララはマリンの側にやって来ていた。桜の様な不思議な眼をランランと輝かせて、マリンと対峙している。

 

 

「私、マリンちゃんとレースが出来るのがすっっごく嬉しいんだ! 頑張ろうね!」

 

「…………っ!」

 

 

 だが、今この瞬間はその様な衝動や感情は無意味だった。マリンは、1人のレースウマ娘としてハルウララに挑む。その目の前の現実だけに集中した。

 

 

「はい……! 私もです、ウララさん。全力で……戦いましょう」

 

「2人とも、準備は良いかしらー?」

 

 

 少し離れた所から、キングヘイローは2人に声をかけた。マリンアウトサイダとハルウララはアイコンタクトの後に、位置に着く。

 

 

 ビョォォォォ……

 

 と、涼風がターフの上を吹き抜ける。

 

 

 初秋の夕陽に照らされる中、スタート地点でキングヘイローが手を挙げた。2人のウマ娘がスタートの体勢に入る。

 

 

 そして……その手が振り下ろされる。

 

 

 最強 対 最弱

 

 

 2人きりの有記念の幕が、切って落とされた。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 ダッダッダッダッダッ!!

 

   ダッダッダッダッダッ!!!

 

 

 

 

 マリンアウトサイダとハルウララ、2人は綺麗なスタートダッシュを決めた。最初の数秒間は並走状態だった、だが次の瞬間、皆が見たのは……

 

 

「はあああああああああっ!!!」

 

 

 ズヒュンッッッ!!!

 

 

 と、まるで『大逃げ』を仕掛けるかのように急加速し、全力で疾駆するマリンの姿だった。見る間にハルウララとの差がぐんぐんと開いていく。

 

 

「オイオイ、何だあれ!? 初っ端からスパートかけてんじゃんか、マリンの奴『大逃げ』でもする気か?」

 

「トレーナーさん、あれはどういう事ですの?」

 

 

 ゴールドシップとメジロマックイーンは驚きを隠せない様子だった。その横で『シリウス』のトレーナーは腕を組み、マリンとハルウララを観察しながら答える。

 

 

「……僕はこのレースに関しては、コンディション調整以外はマリンに任せていたんだ。一応、レース前に作戦はどうするのか聞いたら彼女は……」

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

「ウララさんとのレースの作戦ですか? そうですね……『全身全霊』……でしょうか」

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「って言ってたよ」

 

「それって作戦じゃありませんわよね?」

 

「サクラバクシンオーがやってそうなやつだな……」

 

 

 マックイーンとゴルシはやや不安な表情になった。マリンの方はというと今はスタートダッシュの驀進は抑えているが、それでもハイペースで走り続けている。

 彼女はすでに1週目の第3コーナーを過ぎており、ハルウララはやっと第2コーナーに入ったところだ。10バ身は離れているだろう。

 

 その実、観衆の誰もがハルウララが終始置いていかれる展開になるのは分かっていた。だが、序盤でマリンがここまでブッちぎるのは予想外だった。

 その鬼気迫る迫力に、誰もがゾクリとしたものを感じた。先ほどキングヘイローだけが感じていた、まるで容赦無く、情け無用でハルウララの全てを否定しようとするかのような『本気さ』を皆が感じ取っていた。

 

 2人の差は更に広がっている。マリンはハイペースを維持したまま第4コーナーを通過し、スタンド前の直線に入った。

 

 

「突っ走れーーーーー!!! マリーーーーーーン!!! 」

 

「うおおおおおおん!!! マリンさんが勝負服着て走ってるよおおおおおお!!!(泣)」

 

「良い気合ですっ!!! 頑張れ2人ともーーーー!!!」

 

 

 スタンドからはパチパチとまばらな拍手と声援が飛んでいた。特にゴールドシップ、ウイニングチケット、ナリタトップロードの声はダントツで大きくその他を圧倒していた。

 

 マリンは観衆をチラリとも見ずにその直線を走り抜ける。彼女は全力で走ることに集中していた。その様子をシンボリルドルフやオグリキャップたちも声を発さず、真剣な表情で見つめていた。

 

 ナリタブライアンもその1人だった。彼女は全力で駆け抜けるマリンと、彼女の後を必死に追うハルウララを交互に見比べていた。

 

 

(……やはりこうなるか。いや、誰しもがこの展開を予想していただろう。姉貴はなぜ私にこれを見せたかったんだ……?)

 

 

 ブライアンは隣でチケットと共に大声でマリンを応援しているハヤヒデを横目でチラッと見る。彼女の表情は真剣そのもので、外のレース場で応援するのと変わらない雰囲気だった。

 

 

(なぜそんな顔で応援できる? 姉貴も分かっていたハズだ。ハルウララの実力ではマリンとは勝負にならない。恐らく圧倒的な大差でマリンが勝つ。元々、ハルウララはダートマイル路線のレースウマ娘だ。勝てるはずがない、それに……)

 

 

 ブライアンは後方の観覧に来ているウマ娘たちの会話に聞き耳を立てる。

 

 

「ねぇ……ちょっと応援しづらくない? ハルウララ、もうあんなに離されているのにまだ1500メートルは走るんだよ?」

 

「あたし、ルドルフ会長やオグリキャップさんの前であんな風に走れないよぉ……」

 

 

 観衆の中には、ただ興味本位でレールを見に来ている者たちも居た。その者たちはこの勝負そのものに戸惑っていた。応援して良いのか迷うほどに、マリンアウトサイダとハルウララの実力の差は開いている。それは事実なので仕方がないのだが……

 

 

(……普段なら耳障りな会話も、今は少し納得できてしまう。今マリンは第2コーナーへ向かっている。ハルウララはやっとスタンド前を通過するところだ。まだ気力は残っている様子だが……)

 

 

 ブライアンはスタンド前を走るハルウララの顔を見る。その表情は真剣で、まだまだ諦めていなかった。

 

 

 そして、ブライアンは追想した。本格的にレースの道を志した駆け出しのレースウマ娘だった頃を。彼女はその頃から『怪物』だった。彼女の周囲のレースウマ娘たちは、その圧倒的な力の差に恐れおののいて、彼女とまともにレースをしようとすらしなくなった。 

 

 その化け物じみた実力ゆえに、ナリタブライアンは孤独だった。彼女に食らいつき、挑戦しようとするものが同世代では居なくなってしまったのだ。そして彼女自身も『強者』以外に興味を示さなくなった。

 

 

(皆、私とレースをすると勝負の昂りを感じるより先に、まず恐怖した。戦意を失いターフを去る者もいた。私はただ、胸を焼き焦がす様なレースを求めていただけだったのに……)

 

 

 ブライアンはずっとハルウララを見ていた。彼女も今、思い知らされたはずだ。圧倒的な実力差の前にはなす術もないことを。前方を走る強敵と比べると、己がいかに非力であるのかを。ブライアンから離れていった者たちのように。この2500メートルという長距離の道中を嫌になるほどずっと……ずっと……

 

 

「…………っ?」

 

 

(なぜだ……?)

 

 

 ブライアンは訝しんだ。自分の無意識の行動を。

 

 

(なぜ私は……ハルウララだけを見ているんだ……? 強者であるマリンではなく、ハルウララだけを……いつの間に)

 

 

「で……でも!」

 

 

 先の戸惑いの声に混じって、別のウマ娘の声が聞こえた。

 

 

 

「でも、あの2人……凄いよ! 

 

 だって、2人とも……全く違うフィールドで走るウマ娘なのに、

 

 距離もこんなに離れてるのに、

 

 決着なんてもうついてる様なものなのに、

 

 今も本気で勝負をしている……本気で戦ってるよ!」

 

 

 

(っ……そうだ……)

 

 

 そのウマ娘の言う通りだった。マリンの走りには、リードを取った余裕など一切無かった。

 まるで背後にピッタリとハルウララが付いて来ているかの様に、全力で疾走している。

 

 一方のハルウララも、全力でマリンに喰らい付いていた。勝利を諦めた様子など、微塵も無かった。

 

 

 ブライアンは気付いた。

 

 

(そうだ……眼だ。ハルウララの眼から闘志が消えていない。あれ程圧倒的な実力差を見てもなお、彼女は……『下を向いていない』)

 

 

 

 すると、遠くの方から『黄金世代』のウマ娘たちの声が聞こえた。ターフを超えてスタンドまで届くほどの大声援だった。キングヘイローもスターターの役目を終えて、彼女たちに合流していた。

 

 

 

「頑張れええええ!!!!! ウララさーーーん!!!!! まだ決着には早いわよ!!!!!」

 

「けっぱれーーーー、ウララちゃーーーーん!!!!! ツヨシちゃんも応援してるってーーーー!!!!!」

 

「勝負は最後の最後までわかりませんよーーーー!!!!!」

 

「気合いデェーーース!!!!! プロレスも最後は気合いの大きい方が勝つんデェーーース!!!!!」

 

「アハハ、頑張れ〜〜〜。かかってる魚は大きいぞ〜〜〜」

 

 

 

 約1名、気合いの入ってない声援があったが、声援は声援である。そして、それにつられるようにスタンドの声援も徐々に大きくなっていく。ハルウララから目が離せなかったのはブライアンだけではなかったのだ。

 

 

 

「頑張れーー!! ハルウララーー!!」

 

「メッチャ頑張ってるじゃん!! 行けーー、まだチャンスはあるぞーー!!」

 

「マリンアウトサイダも頑張れーー!! てかもう2人とも全力で駆け抜けろーーーー!!」

 

 

 

 スタンドの空気が変わりつつあった。先ほどは応援することを躊躇っていたウマ娘たちも、大声で声援を送っていた。

 

 

 

「いっけええええええええ、マリーーーーン!!! 気合いで負けるんじゃねーーぞ!!!」

 

「そうですわよーーー!!! 最後まで気を抜いてはいけませんわーーー!!!」

 

「ウララちゃーーーん!!! ライスはウララちゃんを応援してるよーーー!!! あ、えと、マリンさんも!!!」

 

「「「ガンバレーーーー!!! マリンアウトサイダ ーー!!! ハルウララーー!!!」」」

 

 

 最前列のチーム『シリウス』のメンバーも声の限りに応援する。トレーナーも彼女たちを誇らしい気持ちで眺め、自身も声を張り上げた。

 

 

「そうだーーーマリン!!! 思いっきり走れぇーーー!!! お前は『夢を翔けるウマ娘』だぁーーー!!!」

 

 

 

 それらの声援は2人に届いていた。ハルウララは駆ける。慣れないターフで未経験の距離を走り、彼女の身体はヘトヘトだった。だが、その眼はキラキラと輝いていた。

 

 ハルウララの心には、一点の恐怖もなかった。彼女はただただ、春の陽気に舞う小鳥のように純粋にレースを楽しんでいた。

 

 

(すごい! まるでみんなが走ってるG1レースみたいだ! 楽しい、楽しい、楽しい! レースってこんなに楽しいんだ!!!)

 

 

「よぉーーーーし! ハルウララ、頑っ、張る、ぞおーーーーーー!!!!!」

 

 

 ハルウララは一等賞の笑顔で、声援を身体に吸収したかのように気力を回復させる。第2コーナー後の直線で彼女は加速した。開いていたマリンとの差が、ほんの僅かずつ縮んでいく。

 

 

 ナリタブライアンは更に驚愕した。今の時点で、マリンとの距離差は決して覆らないのは確定している。それなのにハルウララはまだマリンに食らいついていた。

 

 満開の桜のようなあの笑顔で、彼女は心からレースを楽しんでいた。

 

 『桜色は不屈の色』である証左を携えて、彼女は……彼女だけの道を駆け抜けていた。

 

 

 

(そうか……)

 

 

 ナリタブライアンはその時、初めて理解した。『ハルウララ』というウマ娘を。

 

 

(ハルウララ……お前は決して『強者』ではない。だが……)

 

 

「お前はきっと……私と勝負をしたとしても、決して俯かず、全力で食らいついて来るんだろうな……」

 

 

 ナリタブライアンの顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。隣に立つビワハヤヒデも妹の様子を見て、同じく笑みを浮かべていた。

 

 

 

 観衆は、今や一体となっていた。その場の誰もがマリンアウトサイダとハルウララを応援していた。そんな中をテイエムオペラオーが、いつもより幾分か落ち着いた厳かな声色で唄うように言う。

 

 

「嗚呼、麗しきかな……!見えるかい? このレースは、この景色は、今ここ……このトレセン学園でしか見られないものだ! この感動を表すのには……言葉は要らないのかもしれないね」

 

 

 ナリタトップロード、アドマイヤベガ、メイショウドトウは衝撃を受けた。しかし、同時に納得もした。あのテイエムオペラオーに言葉は要らないと言わしめるほどの『力』が、このレースには確かに有った。

 

 

 

 

 

 

 その光景をシンボリルドルフ、エアグルーヴ、ヒシアマゾンも目を離さずに見つめていた。

 

 

「へぇ、こりゃ凄いな。こんな『タイマン』初めて見たよ」

 

「ええ……そうですね。この2人でないと、この様なレースには成り得ないかもしれませんね。皆がこのレースには、実力も適正も何も関係がない事を知っている。皆、一体となって2人を応援している……」

 

 

 夕陽に目を細めながら、ヒシアマゾンとエアグルーヴは言った。

 

 

 シンボリルドルフは、走るマリンとハルウララの姿を眼に焼き付け、無言で微笑む。

 

 

(そうか……これが私の『夢の一端』か、マリンアウトサイダ。このレースを、この光景を、もし本物のレース場で見せられるのなら、私は……)

 

 

 この瞬間、シンボリルドルフは人知れず一つの決断を下した。他の者がその内容を知るのは、もう少しだけ先の話であった。

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 ダッダッダッダッタッダッダッダッ!!!

 

 

 黒髪のウマ娘は、ターフを踏み鳴らし往く感覚に喜びを隠せない。しかし、それよりも大きな感情が彼女の中に溢れていた。

 

 

(ああ……凄いな。ハルウララは、やっぱり本当に……凄い)

 

 

 マリンには分かっていた。それがどれだけ不利な条件であろうと、どれ程の実力差があろうと、ハルウララは一生懸命に、前を向いて笑顔で走り続けることを。彼女の走りは必ず皆に勇気を与えることを。

 

 自分がどれだけ『本気』で彼女を叩き潰そうと走っても、野に咲くタンポポのように、彼女は決して下を向いたりしない、と。

 

 

 

 

 マリンは走りながら思い出していた。

 

 初めてハルウララのレースを見たときの自分の心情を……

 

 あの……見るもの全てを幸せにする、春の桜のような暖かい笑顔を……

 

 

 

(ああ、ハルウララ……私はあの時からずっと……『あなた』に憧れていたんだ)

 

 

 

 最終コーナーを駆け抜け、マリンは最後の直線に入る。声援が自分とハルウララの両方に送られていることが分かった。皆がハルウララの『強さ』を認めていることも。

 

 

(ハルウララ……あなたは強い、私よりもずっと……だから挑みたかった。夢を乗せて走るウマ娘が集う、有記念の条件で)

 

 

 

 

 ポゥ……

 

 

 

 と、マリンの目に不思議なものが映る。彼女のすぐ隣に、小さな光が集まってくる。それは段々と大きくなっていき、ついには小柄なウマ娘の白い影になった。

 

 それはマリンの中のイメージだった。レースの強さではなく『魂』の強さのイメージ。

 

 マリンの中のハルウララの『強さ』のイメージ。それが形を成して、マリンの隣を白い影となって走っていた。

 

 彼女はやはり諦めてなどいない、今でも『本気』でマリンと勝負をしている。その事実に血が騒ぎ、マリンの口が笑みを結ぶ。

 

 

 

 スタンド前の最後の直線、ハルウララの形を成す白い影はマリンと並んでいた。その速さは、マリンと拮抗していた。

 

 

 その白い影のハルウララは、ひたすら真っ直ぐにゴールだけを見ていた。マリンの事など見向きもしていなかった。

 

 そのことが何故だか、マリンには誇らしかった。だからこそ、マリンは彼女に向かって言う。己の持てる持てる全てを賭けて、『思いっきり』走る為に。

 

 

 

 

「勝負だ……ハルウララ……!!!」

 

 

 

 

 ダァンッ……!!!

 

 マリンは姿勢を低くして地面を抉るように蹴り出し、前方へ加速した。白い影も同じくスパートをかける。

 

 

 最強VS最弱のタイマン

 

 

 その最終局面が今……始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 ダァンッ……!!!

 

 

 という轟音に、スタンドの観衆は驚愕した。最終直線でマリンアウトサイダは更に加速し、全力のスパートかけていた。

 

 その走りは、まるですぐ隣で誰かと競り合っているかの様だった。

 

 見えない対戦相手がそこに見えると錯覚しそうな程の気迫だった。

 

 

「おっしゃ行けええええええマリーーーーーーン!!! 流石は『シリウス』の流星だあああああ!!!

お前の全力を見せてやれえええええええ!!!」

 

 

 ゴールドシップの声に呼応するように、皆もマリンに声援を送った。

 

 マリンは『全身全霊』でターフを駆ける。脚も肺も限界まで酷使している。

 

 彼女の隣を、ハルウララの白い影も疾走する。両者のスピードが拮抗する、熾烈なデッドヒートが繰り広げられていた。

 

 

 

「うおおおおおおおおおおおッ!!!!!」

 

 

 

 マリンは叫ぶ。

 

 観衆は皆、マリンのゴールを見届けようとしている。

 

 目印の看板にマリンと……マリンにしか見えない白い影が迫っていく。

 

 

 

(ハルウララ……私はあなたと出会うために、この学園に来たのかもしれない。生まれる前から、あなたの名を知っていた気がする。あなたとライバルになれて……本当に……良かった……)

 

 

 

「『うあああああああ゛あ゛あ゛!!!』」

 

 

 ゴールは目前だった。

 

 『2人』の雄叫びが重なり合った。

 

 

 そして、2人がゴールする刹那……

 

 マリンアウトサイダは確かに見た。

 

 ハルウララの形を成した白い影が

 

 

 

 

 『1歩分』……自分より先んじていたのを。

 

 

 

 

 それを見たマリンの口元には

 

 笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

「あ、あれ……?」

 

 

 スペシャルウィークが目をこする。不思議そうに目をパチクリとさせて、歓声の上がるゴールの方を見ていた。

 

 

「スペちゃん、どうかしたのですか?」

 

 

 グラスワンダーがスペシャルウィークに声をかける。

 

 

「えっと……さっきマリンちゃんがゴールする直前に、ウララちゃんが先にゴールしていたのが見えた気がして……」

 

「何を言ってるんデスか、スペちゃん? もしかしてお腹が空いて幻覚でも見ていたんじゃないデスか〜?」

 

 

 エルコンドルパサーの言葉に、スペシャルウィークは恥ずかしそうに頬を掻く。

 

 

「えへへ、そうだよね……見間違いだよね」

 

 

「見間違いじゃないわ! 見間違いじゃ……ない……ッ!」

 

 

 キングヘイローがゴールの方を見つめて涙声で言った。彼女の目から、ボロボロと大粒の涙が滴り落ちていた。

 

 

「……キング、泣いてるの?」

 

「泣いてないわよっ! グズッ……こっち見ないで!」

 

 

 心配そうに顔を覗き込んだセイウンスカイから、キングヘイローは顔を背ける。

 

 

 キングヘイローには見えていたのだ。ハルウララの『強さ』のイメージが。マリンがその影と戦っていた事も。

 

 

「ぐすっ……妬けちゃうわね……貴方たち、最高のライバル同士じゃない」

 

 

 夕焼け空の下、キングヘイローは誰にも聞こえない小さな声で、そっと呟くのだった。

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

「良い喧嘩だったなぁ。こんなレースが出来るヤツらが居るんなら、アタシらも安心して学園を卒業出来るってもんだ」

 

「もう自分の卒業の話をしてるんですか、イナリさん? 私達の前に、ルドルフさんやシービーさん、カツラギエースさんの卒業が控えているのに」

 

 

 イナリワンとスーパークリークが、夕陽に照らされるターフを見て呟くように言った。

 

 タマモクロスは不思議そうに目を擦っていた。

 

 

「んんっ……何やったんや、今のは? なんか、白い影みたいなんがマリンと走ってたような……オグリは見てへんか?」

 

 

 タマモクロスは隣に立つオグリキャップに尋ねた。しかし、彼女はブルブルと震えるだけで返事をしなかった。

 

 

「あん? オグリ、どないしたん……って、うわぁああっっ!?」

 

 

 オグリキャップは急にタマモクロスの両肩に手を置いて彼女を拘束した。そして、真っ直ぐに彼女の眼を見つめて、かつてないくらい真剣な顔で、眼を輝かせて言う。

 

 

「タマ……私と走ろう! 今すぐに! 私は、君と走りたいんだ!!!」

 

「えっ!? えっ!?」

 

 

 突然のオグリの行動に、タマモクロスは混乱する。その己を射抜く眼差しに、何故か目を合わせられなかった。

 

 

「ま、待て! オグリ、一旦落ち着いて……」

 

「タマ! 走るんだ! 私は今すぐに君とレースがしたい!!! この胸の高鳴りが抑えられないんだ!!!」

 

 

 マリンアウトサイダとハルウララのレースを見て、オグリキャップは完全に『当てられ』ていた。

 

 タマモクロスは、ただただ頷く事しか出来なかった。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 マリンがゴールしてから数秒後に、ハルウララも看板の前を通過した。

 

 スタンドからは空が割れんばかりの拍手の嵐が巻き起こっていた。皆が2人のウマ娘を祝福していた。

 

 

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」

 

 

 マリンは力を出し尽くして、立っていられなかったのでターフに腰を下ろしていた。そこに、同じく肩で息をするハルウララが近付いてくる。マリンは顔を上げて彼女に声をかけた。

 

 

「はぁっ……はぁっ……私は……本当に、全力を出し切りました。良いレースでした、ウララさん……ウララさん?」

 

 

 マリンが話しかけても、ハルウララは俯いたままだった。そして突然、プルプルと震え出したかと思うと……

 

 

「〜〜〜〜っすっっっごく楽しかったあーーーーー!!!!!」

 

 

 満開の笑顔(さくら)が、そこに咲いていた。

 

 

「アタシ、こんなに楽しいレース初めて!!! 芝がクシャクシャで走りづらいし、距離もとっっっっっても長くて疲れたけど、マリンちゃんの背中を見てると勇気が湧いてきて、みんなの声が聞こえると元気が出てきて、気が付いたら夢中で走っちゃってた!!! すごいね、G1レースってこんな感じなのかな!?」

 

 

 ハルウララの勢いと元気さにマリンは圧倒されていた。彼女は息も絶え絶えで、相槌を打つのがやっとだった。

 

 

「ねぇねぇマリンちゃん、もう一回走ろうよ! 今度はさ、キングちゃんとかライスちゃんも呼んでさ! みんなで走ればもっともっと楽しいかもしれないよ!」

 

 

 眼を輝かせて急かしてくるハルウララを前に、マリンは深く息をして天を仰いだ。

 

 

「……ふぅぅぅ……うっ、すみません、ウララさん。私は……無理……です……」

 

 

 ドサァッと、マリンは背中を芝につけて大の字に寝転んだ。

 

 

「今日はもう……指一本動かせません……また今度走りましょう……」

 

 

 それを聞いたハルウララは残念そうな顔になる。

 

 

「え〜〜、そっかぁ……うん、分かった! 明日からも一緒にいっぱい走れるもんね! アタシ、みんなの所に行くね! またね、マリンちゃん!」

 

「はい……またね、です」

 

 

 タッタッタッ!と、ハルウララはスタンドの方へ走り去って行く。マリンは大の字に寝たまま、駆けて行く彼女の背中を見送った。

 

 

 

 

「……強いなぁ……本当に、強い……」

 

 

 

 

 ハルウララの『魂』に勝つべく全てを振り絞ったマリンは、文字通り指一本動かせなかった。

 

 けれど、今の彼女の心の中は『この世界』に産まれ、生きてきた中で、最も晴れやかで澄み切っていた。

 

 

 

 

「はぁぁ……私の、負けだ……」

 

 

 

 

 山の中とは違う、ウマ娘が駆ける為の芝と土の匂いに包まれながら

 

 マリンアウトサイダは満足そうに微笑んで、紅に染まる空を見上げた……

 

 

 

 

 





次回

後日談 空は繋がっているから


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後日談 空は繋がっているから

 

 

 

 

 

 

「ごっはん〜ごっはん〜おひるごは〜ん♪」

 

 

 桜色のウマ娘がウキウキとした声で歌っている。

 

 マリンアウトサイダとハルウララの対決から一夜明けた日の昼食時間。学園の食堂の一角でハルウララと『黄金世代』の6人が円テーブルを囲んでいた。

 

 ハルウララは昨日のレース後の疲労は全く無い様子で、むしろ逆に元気になっているみたいだった。

 

 

 

「ウララちゃん、ご機嫌だね〜」

 

「昨日のマリンさんとのレースの後からずっと元気だもんね。慣れないレースを走ったのに凄いなぁ」

 

 

 セイウンスカイとスペシャルウィークがハルウララの溌溂な様子を見て和んでいる。

 

 

「ふふ、そうですね〜。2人とも本気でぶつかり合って……少し羨まく感じました。エルはどうでしたか?」

 

「ウ〜〜ン……あれも1つの勝負の形かもしれませんネ……パパが言ってました。『ボコボコにされて地に倒れながら勝つ喧嘩も有れば、打ち倒した相手を見下ろして負ける喧嘩もある』って。昨日のレースで胸が熱くならなかったと言えば嘘になりマス」

 

 

 エルコンドルパサーの言葉を聞いたツルマルツヨシは、少しションボリした様子で言う。

 

 

「そうなんだ……ああああ〜〜観に行きたかったよぉおおお! 保健室の先生が絶対安静って言って行かせてくれなかったんだよぉおおお……ガックシ……後でマリンさんに謝りに行こうかな。約束してたのにごめんなさいって」

 

「そんな事しなくても大丈夫よ、マリンさんなら気にしないと思うわ。って……あら、あれは……」

 

 

 キングヘイローの声に、皆彼女の視線を追った。

 

 

 カツカツと足音を立てて、誰かが団欒に近付いてきていた。皆がその方を見ると、威圧感を放つ目付きの鋭いウマ娘、ナリタブライアンと彼女の姉のビワハヤヒデがトレーを持ってやって来た。

 

 

「あれ……ブライアンさんにハヤヒデさんまで、どうしたんですか? あ、もしかしてチームメンバーに招集がかかってました!? 私、連絡見逃してた!?」

 

 

 スペシャルウィークが慌ててスマホを取り出す。

 

 

「違う、『シリウス』は関係ない。用があるのは……」

 

 

 ナリタブライアンがギロリとハルウララを睨み付ける。

 

 

「??」

 

 

 ハルウララはモグモグとオムライスを頬張りながらキョトンとした。テーブルの彼女以外の6人に緊張が走る。

 

 ブライアンは背後にゴゴゴゴゴと文字が見えそうな威圧感を放っている。しかし、ハルウララはそれを意に介さず平気な様子でブライアンを見つめ返していた。そして……

 

 

 

「軟弱な物を食べるな。肉を食え。肉を食えば、お前は強くデカくなれる」

 

 

 

 そう言って、ゴトッ……とブライアンはハルウララの前に厚切りのステーキを置いた。

 

 

「ええっ、貰って良いの!? ありがとうブライアンさんっ!!」

 

 

 すると、ハヤヒデも横からハルウララに近付き、声をかける。

 

 

「ウララ君、私からはこちらを差し上げよう。デザートに食べると良い」

 

 

 そう言って、彼女はバナナを一房置いた。

 

 

「身体を大きくするなら栄養バランスも考慮し、効率良く摂取するのが肝要だ。肉などのタンパク質だけでなく、食物繊維も……」

 

「姉貴、私は頭だけでっかちになって欲しい訳じゃないぞ。ハルウララ、肉を食って走れ、それで良い。邪魔したな」

 

 

 そう言い残すとブライアンは去って行く。

 

 

「なっ! 待て、ブライアン! 頭でっかちとはどう言う事だ!? ちょっと、待つんだブライアン!」

 

 

 そうしてハヤヒデも去って行った。まるで台風一過したかのようだった。黄金世代のウマ娘たちもポカンと最強の姉妹が去って行くのを見届ける。しかし、続けて更なる大人物が来客する。

 

 

「ハルウララ……ここのコロッケは絶品なんだ。食べてくれ」

 

 

 今度はオグリキャップが超山盛りのコロッケ定食をトレーに乗せてやって来た。彼女の後ろにはなぜか疲れ気味な様子のタマモクロスも付いて来ている。

 

 

「えっ、ホント!? アタシ、コロッケ大好きなんだ! ありがとう、オグリさん!」

 

 

 オグリキャップがハルウララのオムライスの皿にコロッケを5つ乗せると、周囲からは「オグリキャップが食べ物を分けた……!?」とどよめきが起こる。スペシャルウィークも信じられない、と言う表情だった。

 

 オグリキャップはグゥゥゥと腹の虫を鳴らすと、「それじゃ、私もコロッケを食べなくちゃいけないから」と去っていった。

 

 

「みみみみみ、みんな見た!? オグリさんが食べ物を人にあげるなんて……! ここ、こんな事天地がひっくり返ってもあり得ないよっ! おかしいよっ!」

 

「それ、自分のこと鑑みて言ってますか、スペちゃん?」

 

「スペちゃんはちょっと食い意地張りすぎだと思いマース。この前クリスエスさんにやった事、流石のエルも擁護できないデース」※うまゆる参照

 

 

 動揺するスペシャルウィークにグラスワンダーとエルコンドルパサーが冷静に突っ込む。すると、オグリキャップの後ろにいたタマモクロスがテーブルに近づいて来た。

 

 

「ああ、スペシャルウィークの言う通りやで。オグリの奴、なーーーんか昨日からおかしいんや。マリンとウララんレースの後に、ウチも散ッッッ々模擬レースに付き合わされてなぁ。えらい目にあったわ」

 

「あ〜、だからタマモ先輩そんなに疲れてるんですねぇ〜」

 

 

 セイウンスカイが背もたれに寄りかかりながら言った。

 

 

「ま、いつもの事やけどな。ほな、ウチも行くわ……って思ったけど。オグリがメシあげて、ウチがなんもあげないってのは先輩としての沽券に関わるな。ほい、アメちゃんあげるわ。後でみんなで舐めるとええで」

 

 

 そう言ってタマモクロスはポケットから飴玉を10個ほど取り出してテーブルに置く。

 

 

「ああ、せや……ハルウララ。昨日のレース、むっちゃ良かったで」

 

 

 タマモクロスはハルウララを見て、気持ちの良い笑顔を見せた。

 

 

「ほな、またな。頑張りや、後輩たち〜」

 

 

 プラプラと手を振りながら、タマモクロスは去って行った。

 

 

「あ……あれは、大阪で見られると言う『なぜか子供にあげる飴玉を常備しているオッチャン』!?」

 

「ツヨシさん、先輩をオッチャン呼ばわりするのは失礼ですよー」

 

 

 グラスワンダーに窘められるツルマルツヨシであった。

 

 しかし、来訪者はまだ途絶えない。コツコツとまた別の足音が近づいて来る。最後にやって来たのは……『皇帝』シンボリルドルフだった。

 

 

「やぁ、諸君。食事中に失礼」

 

 

 いつもながら凛々しい生徒会長の挨拶に、ツルマルツヨシが眼を輝かせて興奮した。

 

 

「ルドルフ会長〜〜!!!」

 

「ふふっ……元気そうで何よりだ、ツルマルツヨシ。貧血で体調不良を起こしていた聞いていたが、その様子ではもう心配はなさそうだな」

 

 

 ルドルフは目を閉じると、今度はハルウララの方へ向き直った。

 

 

「実は君に用があったんだ、ハルウララ。ブライアンとオグリキャップに続いて恐縮だが、これを受け取って欲しい」

 

 

 そう言うと、ルドルフは自身のトレーに乗せていた緑色の野菜ジュースらしきものをハルウララの手元に置く。

 

 

「私が時々食堂で作って貰っている特製レシピのグリーンスムージーだ。口に合うと良いのだが」

 

「わぁぁ……ありがとう、会長さんっ!!」

 

 

 ハルウララの満面の笑みに、ルドルフも口元を綻ばす。

 

 

「ハルウララ……昨日のレースは、本当に素晴らしいものだった。あんな新鮮な気持ちでレースを観戦したのは久しぶりだったよ。そして、君の走りは……私の背中を押してくれた」

 

 

 ルドルフの言葉に、ハルウララはキョトンとした。その純粋無垢なウマ娘の姿に、ルドルフは「フッ」と笑みをこぼす。

 

 

「これからも意気軒昂に励んでくれ。では」

 

 

 そう言って、ルドルフも去って行った。ハルウララも黄金世代の6人も不思議そうにその背中を見つめていた。

 

 

「……? あれは、どう言う意味だったのでしょう? 背中を押してくれたって」

 

「さぁ、エルにはさっぱりデース」

 

 

 そんな中で、突然ツルマルツヨシがプルプルと震えだした。そして、ズギュンッ!と物凄い勢いでハルウララの所へやって来て彼女の手を握る。

 

 

「ウララちゃん……いや、ウララ師匠ッ!!! 教えて下さいっ!! どんな走りをしたら、あんなにルドルフ会長に褒められるの!? あんな会長、私見たことないよっ!! ねえねえ、誰か昨日のレース映像撮ってたりしてない!? 保健室脱走しても観に行けば良かったあああああああ!!!」

 

 

 ツルマルツヨシはトウカイテイオーと似て、シンボリルドルフの事となるとちょっぴりおかしくなるのだった。

 

 

「はいっ、ツルちゃんにも分けてあげる! 一緒に食べよー!」

 

 

 ハルウララは興奮するツルマルツヨシの口にズボッとコロッケを突っ込んだ。

 

 

「むがっ!……ムグムグムグムグ……ごくん。美味しい……」

 

 

 ツルマルツヨシも少し落ち着いたようだった。どんな事があっても決して動じないので、こう言う時のハルウララは強いのである。

 

 

「でも、なんでかな? 今日は先輩たちがとっても優しい日だなぁ……あっ、もしかして私、今日誕生日だったのかな!?」

 

 

 嵐のような出来事が過ぎたが、ハルウララは満面の笑みで喜んでいた。それを見て、キングヘイローは穏やかな笑みを浮かべ、誇らしそうに、誰にも聞こえない声で呟く。

 

 

「みんな……認めているのよ。貴方の『強さ』を……」

 

 

 

 そうして、彼女たちは食事を再開した。ツルマルツヨシは終始レースを見に行けなかった事を後悔するのだった……

 

 

 

 

 

 そう言えば……とスペシャルウィークが思い出したように言った。

 

 

「マリンさんは今日、午前中に病院の検診を受けたら、そのまま実家に帰るってトレーナーさんから聞いたよ。マリンさん、おじいさんに長い間心配かけちゃったから、今は月に一度は顔を見せに行ってるんだって」

 

「ふーーん、そっかぁ……」

 

(私もおじいちゃんに暫く会ってないな……今度の連休に帰ろうかな)

 

 

 セイウンスカイは自分の祖父の事を思い出した。あのマリンアウトサイダもおじいちゃんには甘えたりしているのだろうか?と、ふと考えるのだった……

 

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドダダダダッ……バダンッ!!!

 

 

 古びた道場の床を黒髪のウマ娘が転がり、壁に激突する。何とか受身を取って衝撃を和らげたようが、それでも痛いものは痛いようで、彼女は顔をしかめて立ち上がる。

 

 

「っ痛〜〜〜……! 帰ってきた孫を言葉交わす前にぶん投げるおじいちゃんって他に居ないよ……?」

 

「バカタレが。気が弛んでいるようだったから気合いを入れてやってるだけだ」

 

 

 老人は腕を組み、ほんの僅かに声のトーンを落として言う。

 

 

「……ミドリ、病院に行ってきたんだろう。医者は何と言っていた?」

 

「それ、投げ飛ばした後に聞く事じゃないよね? 一応、特に問題は無いってさ。レースに出ても良いって」

 

「……そうか、なら良い」

 

 

 老人は安心したように息をついた。そんな彼にマリンは問いかける。

 

 

「ねぇ、おじいちゃん。いつか私のこと、『マリンアウトサイダ』って呼んでなかった? さっきはミドリって言ってたけど、そろそろ真名で呼んでくれても良いんじゃない?」

 

「……ふんっ、半人前が調子に乗るんじゃねぇ。お前なんざ『ミドリ』で十分だ。それ以外で呼んだことなんか無ぇよ」

 

「むぅ……どこかで呼んでた気がしたんだけどな……」

 

「気が弛んで夢でも見ていたか? 良かろう、今日は久々にしごいてやる。覚悟をしろ……『ミドリ』」

 

 

 ええっ……!と叫ぶ間もなく、マリンは再びぶん投げられる。武術家としてのマリンの道のりは、まだまだ果てしなく続いているようだ。

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

「よし、忘れ物は……多分無いかな」

 

 

 明くる日の早朝、マリンアウトサイダは制服姿で母屋の玄関でスニーカーを履いていた。腰には、いつもの緑色のパーカーを巻いている。

 

 

「もう出るのか、ミドリ。随分と早えじゃねえか」

 

 

 甚平を着た源六郎がマリンの後ろから声をかけた。

 

 

「うん、トレセン学園まで走って行こうと思って。『飛脚』みたいに……ね」

 

 

 マリンは屈んで靴紐を結んでいる。その背中に、老人は彼女の確かな成長を感じていた。武術家ウマ娘であり、レースウマ娘でもある孫の姿を見たら彼の伴侶は何を思うだろうかと、ふと考えたのだった。

 

 

 そして、老人は彼女に尋ねる。

 

 

 

「ミドリ……楽しいか、トレセン学園は?」

 

 

「……うん、とっても!」

 

 

 

 マリンは老人に、春の桜のような笑顔で返した。

 

 

「行ってきます、おじいちゃん! また来るね!」

 

「ああ、行って来な。夜中に雨が降ったみてえだからな。気をつけな」

 

 

 マリンは玄関を出て駆け出した。あっという間にその姿が小さくなる。老人も外に出て、その背中が見えなくなるまで見送った。

 

 

 

「行って来な……『マリンアウトサイダ』」

 

 

 

 そう、老人は小声で呟いた。

 

 

 彼は母屋に戻って、茶で一服しようと玄関から上がった。

 

 すると、外からダッダッダッと足音が聞こえて来て、ガララと引き戸が開いた。何事かと思い、振り返ると……

 

 

「あ、あはは……おじいちゃん。走ってる途中に子狸を見かけて、『ドトウさんに似てるなぁ』って余所見してたら……水たまりで転んじゃった……」

 

 

 玄関には泥まみれになったマリンが立っていた。『水たまりの鬼』とナリタトップロードに呼ばれた姿はどこへやら。

 

 源六郎は大きなため息をついた。

 

 

「締まらねえ奴だな、おい。やはり当分、お前は『ミドリ』だな……」

 

 

 老人は呆れ顔だったが、同時に穏やかな優しい目をしていた。

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 

 トレセン学園の寮から少し離れた一般道の脇に、5人のウマ娘が立っていた。マリンのクラスメイトのナリタトップロードとアドマイヤベガ、そしてBNWの3人だった。待ち合わせをしている様な雰囲気にも見えるが……

 

 

「ねえねえ、ハヤヒデ。本当にマリンさんはここを通るの?」

 

「ああ、彼女の実家の山からのルートを考えると、必ずここを通るはずだ。待っていれば、きっとその内来るだろう」

 

「ったく……普通に教室で待ってりゃ良いじゃん。そろそろ向かわないと私たちも遅刻するよ。良いの、トプロ委員長?」

 

「あと少し! あと少しだけ待ちましょう、タイシンさん! マリンさんをびっくりさせたいんです! ねっ、アヤベさんも!」

 

「私もタイシンさんと同意見なんだけど。はぁ……あと少しだけよ」

 

 

 皆で道の先を見つめる、しかし、黒髪のウマ娘が来る気配はなかった。

 

 待ってる間、何か世間話でもしようかとビワハヤヒデが言ったところで、ウイニングチケットが何かを思い出したように大声を上げた。

 

 

「そうだ、トップロードにアヤベも聞いて聞いて!!! 私もね、『ドリームトロフィーリーグ』への進出が決まったよおおおお!!! 今日の朝ね、トレーナーから電話がかかってきてさ! 私、寮の部屋でジョーダンと一緒に大泣きしちゃったんだ!」

 

「本当ですか!? おめでとうございます、チケットさんっ!!」

 

「そう……おめでとう、チケットさん。あなたなら選ばれると思っていたわよ」

 

 

 「あ゛り゛がどう゛ううう!!!」とチケットが号泣していると、ハヤヒデは困ったように笑った。

 

 

「私とタイシンには今朝方チケットから電話がかかってきてね。その時は教室で皆に伝えるつもりだと言っていたが、もう喜びを抑えられなかったようだな」

 

「ほんっっっと、突然朝っぱらから鬼電してくるから何かと思って出た瞬間に……耳の鼓膜が破れるかと思った」

 

 

 タイシンは呆れたように今朝のことを思い返していた。

 

 

「と言うことは……ここにいる5人全員が、来年から『ドリームトロフィーリーグ』で競い合うライバルということですねっ!!」

 

 

 トップロードがワクワクを抑えきれない様子で言った。

 

 そう、チケット以外の4人は実は既に『ドリームトロフィーリーグ』に挑戦する事が内定していた。その選定条件は秘匿されているため、チケットは不安な気持ちを抱えていたが、ついに最高の仲間たちと次のステージに進める事が決まったのだった。

 

 

「ううううーーーー、嬉しいよおおおお! 嬉しいけど、ちょっぴり残念なこともあって……」

 

 

 グスッと、チケットは涙を拭う。

 

 

「マリンさんと、1度はトゥインクルシリーズでレースをしてみたかったなぁ……ドリームトロフィーリーグに行くと、もう一緒のレースでは走れないし……内定が来たら、重賞レースには出走制限がかかるんだよね?」

 

「ああ……まだ選考途中のウマ娘たちも居るだろうし、彼女たちの活躍の機会を奪ってしまわないよう配慮したルールなのだろう」

 

 

 そう、『ドリームトロフィーリーグ』への内定が決まったウマ娘は、基本的には残りのシーズンのレースには出走せず、次年度へ向けてトレーニングを積み上げるのが通例なのである。

 

 残念そうに落ち込むチケットに、アドマイヤベガが話しかける。

 

 

「……そうね、チケットさん。私もマリンさんと走ってみたかったわ。でも仕方のないことよ。マリンさんは高等部の途中で転校して来たのだし、1年近くも休養していたんだもの」

 

 

 うう〜〜、とチケットは涙目でアドマイヤベガを見つめる。

 

 

「……それにマリンさん、もう進路は決めていると言ってたわ。詳しくは聞いていないけど、少なくともレースで長く走ることはないんじゃないかって」

 

 

 ほう……と、ハヤヒデはアドマイヤベガの話を興味深そうに聞いていた。そして、不意に皆に尋ねる。

 

 

「ところで……君たちは『ドリームトロフィーリーグ』のその先……トレセン学園の卒業後について、何かプランはあるのだろうか?」

 

 

 皆、一斉にハヤヒデに視線を向けた。そんな中で、タイシンが面倒くさそうに呟く。

 

 

「……何? これからもっとバケモノみたいな先輩たちと戦わなきゃいけないのに、もう卒業してからのこと考えるの?」

 

「ふと気になっただけさ。未来へのビジョンを組み立てるのも、悪くないものだぞ」

 

 

 と、そこへチケットが興奮した様子で2人の間に割り込む。

 

 

「アタシはねアタシはね! 色ーーーんな資格取って、色ーーーんなスポーツに挑戦したいんだ!! もちろんレースも大好きだけど、空を飛んだり、海に潜ったり、山を越えたり、世の中にはまだまだアタシの知らないスポーツがたくさんあるからさ、世界中を周って色んなことにチャレンジするんだ!! 最近色んな事に興味が湧いてるんだー、へへへ」

 

 

 タイシンは面食らっていた。まさかチケットがそんな先の事まで考えているとは思わなかったのだ。

 

 

「……へぇ、そうだったんだ……アタシはまだ何も決めてないけどさ。実家の花屋の手伝いでもしてるのかな。そういうハヤヒデはどうなの?」

 

 

 タイシンの問いかけに、ハヤヒデはクイッと眼鏡を上げる。

 

 

「私も既にプランは立てているよ。『プロフェッショナル・グレードリーグ』……狭き門だが、そこに挑むつもりだ」

 

「…………! マジ?」

 

 

 タイシンも、他の3人も同様に驚いた表情になる。

 

 

「ブライアンも間違いなく、そこを目指している。だったら姉として、『背中』を見せてやらないとな」

 

 

 ハヤヒデの言葉に、ナリタトップロードが震え出した。

 

 

「私もです」

 

 

 皆の視線が、今度はナリタトップロードに集まる。

 

 

「私も『プロフェッショナル・グレードリーグ』を目指しますっ! レース界の頂点に立つまで走り続けるって、ディクタ先輩と約束したんです! 私は『ナリタトップロード』ですから!」

 

 

 皆、ナリタトップロードの堂々とした表情に眼を奪われ、そして自然と笑みが浮かんでいた。

 

 

「アヤベさんはどうなんですか? 卒業した後は。星がお好きですし、その関係のお仕事に就くとかですか?」

 

 

 トップロードに突然話題を振られ、アドマイヤベガはタジタジになる。何かを隠している様子だが……

 

 

「わ、私は…………まだ何も、決まってないわ。とにかく、『ドリームトロフィーリーグ』に集中するつもり」

 

「そうなんですか。あれ、アヤベさん。なんか顔が赤くなってますよ?」

 

「っ……!? 何でもないわ。ちょっと暑くなって喉が乾いて来ただけよ……!」

 

 

 そう言ってアドマイヤベガはバッグから飲料水を取り出してゴクゴク飲み始めた。

 

 トップロードは「そうだったんですねぇ」と気に留めなかったが、ハヤヒデとタイシンは何かに勘付いたようだった。

 

 

 

 そうこうしてると、遠くからタッタッタッタッと足音が聞こえて来た。彼女たちがその方向をじっと見つめていると、道の先から黒髪のウマ娘が走って来ているのが見えた。

 

 

「あっ! 来ましたよ、みなさん! おーーーい、マリンさーーーん!!」

 

 

 ナリタトップロードが両手をブンブンと振ってマリンの名を呼んだ。それに気付いたマリンは皆の所へ駆け寄って来た。

 

 

「ハァッ、ハァッ……トップロードさん、アヤベさん、それにハヤヒデさんたちまで……おはようございます……! もしかしてずっと待っていたのですか?」

 

 

 息が上がっていたマリンは、呼吸を整えながら尋ねる。

 

 

「はいっ、おはようございます! マリンさんをビックリさせたくて!」

 

 

 トップロードは太陽のような笑顔で言った。BNWの3人も次々とマリンと挨拶を交わす。

 

 

「おはよう、マリンさん。あなた、本当にあの山から走って来たのね。これから授業なのに汗だくじゃない、替えの制服は持っているの……って、あら?」

 

 

 アドマイヤベガはマリンの格好に違和感を覚えた。いつもなら見慣れているはずの物を彼女は身につけていなかった。

 

 

「マリンさん……あの緑色のパーカーはどうしたの? 制服の腰に巻いてない姿なんて、初めて見たわ」

 

「あっ、本当だ! どうしたの!?」

 

 

 チケットも他の皆も驚いた様子だ。マリンは「えっと……」と呟き、少し恥ずかしそうに説明した。

 

 

「実は……山の水たまりで転んじゃって、泥まみれになっちゃったのです。制服は必要なので、水で洗って袋に詰めて持って来たのですが、パーカーはそのまま庭に干してあります。また今度戻った時に取ってくるつもりです」

 

 

 え!?と皆が声を上げる。そして、トップロードが言う。

 

 

「マリンさん、確か転入したばかりの時、食堂で間違って誰かにパーカー汚されてから、その日1日は授業に出てませんでしたよね? パーカーが乾くまで絶対に側を離れませんでしたし」

 

「ああ、そんな事もあったね。アタシとハヤヒデとチケットで探しに行ったっけ。あの時は確かマリン、屋上で物干し竿を木の棒で作ってパーカーを乾かしてたよね」

 

 

 ニヤリとタイシンが笑う。

 

 

「うっ……あ、あの時は、あの時ですっ! 私も成長したのです、もうそんな子供みたいな事はしません!」

 

 

 珍しく赤くなったマリンに、アドマイヤベガが心配そうに尋ねる。

 

 

「マリンさん……大丈夫なの?」

 

 

 マリンは彼女の顔を見つめると、穏やかな笑顔で答えた。

 

 

「はい。私は『大丈夫』ですよ、アヤベさん」

 

 

 その顔を見て、アドマイヤベガは安心したように微笑む。マリンの『願い』を知る彼女は少しだけ心配していたのだ。だが、それは杞憂だったようだ。

 

 

「……そう、なら良かったわ。急ぎましょう。みんな揃って遅刻しちゃうわよ」

 

「そうだな、今からなら十分に間に合うだろう」

 

「はぁ……やっとだよ」

 

「でも楽しかったでしょー、タイシン! あ、そうだマリンさん! 教室に着いたら伝えたいニュースがあるんだ!」

 

「そうですね! 行きましょう! 今日も1日、『全身全霊』です!」

 

 

 そうして6人のウマ娘たちは歩き出した。ナリタトップロードとアドマイヤベガが前を行き、次にBNWが続いて、その後ろをマリンが歩く。

 

 前方から「待っていて良かったでしょ、アヤベさん!」「……そうね」という会話がマリンの耳に聞こえた。

 

 

 

 

 マリンはふと立ち止まって、空を見上げた。

 

 どこまでも落ちていきそうな、青く澄み渡る空は、まるで自分たちを見守っているかのように思えた。

 

 出会いが有れば、別れも有る。誰にだって二度と会えない人は必ず居る。

 

 マリンは空を見て、一抹の寂しさを覚えた。だけど、同時に心が穏やかになる。

 

 

 何故なら空は繋がっているから。どれだけその色を変えても、いつか……別れた誰かと、また会えるはずだから。

 

 そんな思いが、マリンの胸の中に溢れていた。

 

 

(私は走れる……思いっきり自由に、駆け抜けて行こう……私だけの旅路を)

 

 

 

「マリンさーーーん! どうしたんですかーーー? 置いて行っちゃいますよーー!」

 

 

 トップロードがマリンを呼ぶ。クラスメイトの仲間たちが、立ち止まって彼女を待っていた。

 

 

「……はい! 今行きます!」

 

 

 マリンは駆けて行く。仲間たちと共に。

 

 

 この先も、ずっと……彼女は走り続けるだろう。

 

 

 またいつか、『ゴールの先のあの人』に会える日まで……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある山奥の古びた道場、その側の物干し竿に、1枚だけ洗濯物が掛けられていた

 

 

 どこまでも落ちていきそうな、青く澄み渡る空の下で

 

 

 緑色のパーカーが、風に吹かれて穏やかに揺れていた……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『とある武術家ウマ娘がトレセン学園に転入する話 -流れ星の転校生- 』

 

Fin.

 

 

 

 

 

 

 






 ここまでお読み頂きありがとうございます。

 この物語が少しでも皆様の励みになったのならば、この上ない幸いです。
 
 


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After Story:~ The Outsider on the Green ~
prologue: 記念館




 本作主人公の時系列的には最後の物語です。よろしくお願いします。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

After Story

アフターストーリー

 

The Outsider on the Green

アウトサイダー・オン・ザ・グリーン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

ーーーーーー

 

ーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこは図書館ほど静かではなく、デパートの中ほどの喧騒もない場所だった。

 

 そこに集う人々は過去の名バのレースに想いを馳せ、懐旧の念を胸に当時の思い出を語り合う。

 

 

『近代ウマ娘レース史記念展示館』

 

 

 トレセン学園より8キロほど離れた地区に建設された都営の公共施設であり、そこには毎日多くの人々が訪れている。

 

 過去のトゥインクルシリーズ、ドリームトロフィーリーグ、そしてプロフェッショナル・グレードリーグで活躍したウマ娘たちの資料や写真・映像などが展示されており、寄贈される例は少ないが、引退したレースウマ娘の勝負服も飾られている。

 偉大な功績を残したレースウマ娘なら個別の展示ブースが用意される事もあるのだが、今回注目するのはそれではない。

 

 

 記念館内の一角には『Seasonal Legends』と表記された展示コーナーがある。一年を通しての季節ごとの主要なレースと、それを走った歴代のウマ娘の記録が展示されている。

 

 訪れる人々は、長い廊下の壁に沿って、春夏秋冬と季節の変化に合わせて展示物を眺めていく。進む先の1番奥、冬のコーナーには1着の勝負服がショーケースの中に飾られていた。

 

 

 それはレース用の衣装と言うにはあまりに不釣り合いだった。燃え上がる紅碧の炎の刺繍が施された袴と純白の上衣、どう見ても武術家の道着であるが、それを見たファンは皆『あるウマ娘』がターフを駆ける姿が目に浮かぶという。

 

 

 この物語の主人公である黒髪のウマ娘が有記念を走ってから、実に十余年の月日が流れていた。レース写真や優勝レイに混ざり、歴代のレコード記録が額縁に記載されて飾られていた。

 

 その1番上、現最速レコードタイムの欄には……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『マリンアウトサイダ』の名は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

「ねぇねぇ、おとうさんっ! あれだよね? おとうさんが1番応援していたウマ娘の勝負服って!」

 

 

 ビューーン!と幼いウマ娘が走り出すと、その後を彼女の父親が追いかける。

 

 

「ちゃんと周りを見て走るんだぞー! ぶつからないようになー!」

 

 

 分かってるー!と幼いウマ娘が返事をするが、それでも心配だと父親も必死に彼女の後を追った。そのエリアにはこの親子の他にもまばらに見物客の姿が見られたからだ。

 

 

「はぁっ……ふぅっ……最近運動不足かな。ちょっと走っただけで疲れてしまうなぁ」

 

 

 父親が娘に追いつくと、彼女は目をキラキラと輝かせてショーケースの中を覗いていた。

 

 

「わぁっ……すごいすごい! 本当にこれを着てレースを走ってたんだよね!? あっ、写真もたくさんある! 他にもあるけど漢字がいっぱいで読めない! すごーーーい!!」

 

 

 耳と尻尾を激しく動かして喜んでいる娘の様子を見て、父親も口元を緩める。興奮しすぎて疲れないだろうか、と彼は少し心配になった。

 

 

「あれ〜? ねえ、おとうさん、これ間違ってるよ!」

 

「え、何だって?」

 

 

 父親は娘の側に来て、彼女の指差す方を見た。そこには、有記念の歴代レコード記録保持者の一覧があった。

 

 

「わたし、カタカナ読めるもん! 『レコード』って一番速く走ったってイミだよね? マリンアウトサイダがてっぺんにいないよ。おとうさん、ありまきねんはマリンアウトサイダが一番速いって言ってたじゃない!」

 

 

 小学校に上がる前のその幼いウマ娘は、プンプンと頬を膨らませる。

 

 父親はそんな娘を見て困ったような笑みを浮かべると、マリンアウトサイダの勝負服とレース写真、レコード記録を見て懐かしそうに目を細める。

 

 

「はは……そうだったね。ごめんね、マリンアウトサイダの記録はもうずっと前に破られちゃったんだ」

 

「えええーー!? じゃあ、おとうさんウソついてたの!?」

 

「ううん、そうじゃないんだ。お父さんは本当に今でも……マリンアウトサイダが一番速いって思ってるんだ」

 

 

 父親は当時を思い出す。社会人になりたての頃に観戦に行った年の瀬の中山レース場の事を。そこで見た、ラストランだとされていた、マリンアウトサイダの流星の如き走りを。

 

 当時の有記念レコードを更新した彼女の記録は、その数年後に別のレースウマ娘によって塗り替えられた。しかし、その記録は絶好の良バ場で、逃げ脚質が多い状況での記録更新だったので、ファンの間では「あの不良バ場で、後方から追い込みでバ群を抜け出したマリンアウトサイダの方が実質的に速いんじゃないか」という意見もしばしば聞かれたのだった。

 

 父親はその事をかいつまんで娘に説明した。しかし……

 

 

「ふ〜〜ん、よくわかんない」

 

 

 と、父親はバッサリ一刀両断されてしまった。幼い子供の興味は引けなかったらしく、その娘は「あっ、あれってテンノーショーだよね!」と他の展示に興味が移ったようでまた駆けて行ってしまった。

 

 

 父親はふぅ……とため息をつくと、再びレコード記録とその横のレース写真に目を移した。

 

 

「あの有記念を超えるレースに、僕はまだ出会っていないんだ……レースに『たられば』は無いのは頭では分かってるけど、やっぱりマリンアウトサイダの方が速いんじゃないかって、そう感じてしまうんだよなぁ……」

 

 

 彼はショーケースの中の袴を見ながら呟いた。

 

 すると……

 

 

 

 

 

「それは違いますよ」

 

 

 

 

 

 突然聞こえた女性の声に、彼はビクンと身体を震わせた。彼が横を見ると、いつの間にか隣に誰かが立っていた。

 

 

 リブタンクトップにジーンズという服装、手に大きな革製のトランクケースを持つその人物は、見るからにヒッチハイカーの様な出で立ちである。

 

 頭にはスポーツキャップを目深に被っていて目元が窺えず、黒い長髪はゴムで束ねられていた。しかし、帽子から突き出る耳と腰の尻尾を見れば、彼女がウマ娘だということは分かる。

 

 背はそこまで高くはないが、その姿勢は美しく、体幹は整っており、肌は少し日に焼けていた。ジーンズやトランクケースの傷、そして彼女自身の露出した肩と腕にある生傷が、彼女が平穏ではない旅路を歩んできたことを物語っている。

 

 

 彼女はジッとレコード記録の額縁を見つめたまま、父親に語りかける。

 

 

「レースウマ娘は、開催されるレースに己の全てを……運命を賭けて挑みます。その日のバ場状態など無関係です。ゲートが開き、全力でゴール板の前を駆け抜けたのなら、その日その時の結果が全て。最も速かったのはマリンアウトサイダではなく、トップに記録された『彼女』……それが事実です」

 

 

 そのウマ娘は淡々と語った。まごうことなき正論である。それを聞いて父親は恥ずかしそうに頭を掻いた。

 

 

「ははは……そうですね、全くその通りです。厄介な中年マニアみたいな事を言ってしまいました、お許しください。思い出補正というか、今になってもあの時の感動を忘れられなくて」

 

「ですが……」

 

 

 そのウマ娘は目深に被っていたキャップを少し上げて、父親の方を向いて笑みを浮かべた。

 

 

 

「そのようにおっしゃって頂けるのは、とても……『嬉しい』です。観て下さっていたのですね。あのレースを、中山レース場で……」

 

 

 

 そのウマ娘の顔を見て、驚きに父親の呼吸が止まる。

 

 帽子の下に見えるその眼差しは、彼の思い出の中のものと寸分も違わなかった。ラストランと叫ばれる中、あのレース場のパドックで見せた彼女の瞳を、彼は忘れるはずがなかった。

 

 

 運命を乗り越えてなお、彼女だけの道を走り続け、成長した『黒髪のウマ娘』の姿がそこに在った。

 

 

 想像だにしなかった邂逅に、父親は口を上手く動かせなかった。

 

 

「あっ、まっ、マ……ッ!?」

 

「シィーーー……」

 

 

 そのウマ娘は唇に指を当て、騒がぬよう彼に伝える。

 

 

「ここに居る方々は皆レースファンなので、あまりうるさくなると色々な方にご迷惑がかかるかもしれません。私、今回の帰国はお忍びなのです。明後日の早朝には再び日本を発つので、友人にも誰にも伝えてなくって」

 

 

 ふわり、とマリンアウトサイダは微笑みながら小声で言った。彼女の背は当時より少し伸びて、その整った顔立ちは年相応に美しく成長していたが、レースウマ娘としてターフを走っていた頃の面影は今も残っていた。

 

 

「は……はいっ……」

 

 

 父親は辛うじてそう声を絞り出すので精一杯だった。

 

 

「あれー? おとうさん、どうしたの?」

 

 

 タタタッと幼いウマ娘が父親の側に戻っていた。そして、目の前に立つ大人のウマ娘を見上げる。彼女はレースで走るマリンを映像では知っていたが、どうやらその当人が目の前に居ることには気付かなかったようだ。

 

 

「こんにちはっ! おねーさんもレース好きなの? ここっていろーんなモノがあるからすっごく楽しいよね!」

 

 

 ニコッと幼いウマ娘は人懐っこい笑みを浮かべるので、マリンも微笑み返す。マリンはトランクケースを床に置いてかがみ込み、目線をその子に合わせた。

 

 

「うん、お姉さんもレースが大好きなんだ。君はもしかして、大きくなったらレースウマ娘になりたいのかな?」

 

「う〜〜〜ん」

 

 

 そう言われると、幼いウマ娘は考え込んでしまった。

 

 

「まだ分かんない。走るのも大好きなんだけど、バレーボールも好きだし、絵を描くのも好きだし、あと動物が大好き! あ、でもダンスも好きだからやっぱりレースした方が良いのかな? ウイニングライブってダンス踊るでしょ!」

 

 

 マリンは「ふふっ」と微笑むと、その子の頭を優しく撫でる。幼いウマ娘は大きな目を爛々とさせて彼女を見つめていた。

 

 

「好きな事がたくさんあるのはね、とっても良いことなんだよ。1つだけやるんじゃなくて、たくさん『寄り道』をしてね。きっと、色んな楽しいことが見つかるから……」

 

 

 彼女はトランクケースを持って立ち上がる。

 

 

 

「頑張ってね。君がどんな旅路を進んでも……お姉さん、応援してるよ」

 

 

 

 そう幼いウマ娘を激励する彼女の瞳には、余人には想像も及ばない深い思いが込められているように父親は感じた。

 

 

「それでは、またどこかで会えると良いですね」

 

 

 そう言って父親に会釈して、黒髪のウマ娘は去って行く。トランクケースを手に颯爽と歩むその姿は、まさに何にも縛られない自由な旅人の理想像であった。

 

 

「んー? ねえねえ、おとうさん。どーしたの? ねえってばー!」

 

「……お父さん……夢を見てるみたいなんだ……」

 

 

 その父親はただただ呆然と、その背中が見えなくなるまでジッと、彼女を見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

「う〜〜〜んっ! 偶々近くを通りかかったから入ってみたけど、まさかあの時のレースを観に来てくれたファンに会えるなんて……この巡り合わせに、全力で感謝だ……」

 

 

 記念館を出た所にあるちょっとしたスペースで、マリンアウトサイダは背伸びをする。空港に降り立った彼女は、直通のバス便を使わずに散策しながら自らの足でホテルに向かっていた。久々の日本の空気を思いっきり味わいたかったのだ。

 

 

「やっぱり、飛行機に長時間乗るのは疲れるな。ビジネスクラスでもキツいものはキツいよ。EUだったら走って国境を越えられるのに……さてと」

 

 

 マリンは腕時計で時刻を確認する。

 

 

(まだ午前10時半過ぎ……ホテルにチェックインして、早めのお昼ご飯にしよう。せっかく日本に帰ってきたんだから、美味しいもの食べないとね)

 

 

 よしっ、と気合を入れてマリンはトランクケースを右手に持ち、背負うように背中に回した。

 

 

「フフフフーン、フンフンフーン……♪」

 

 

 懐かしい思い出に触れて、彼女はトレセン学園で習った『初めての曲』のメロディーを口ずさむ。

 

 

 もしかしたら他にも誰かと出会えるかもしれない、という淡い期待を胸に

 

 少し日焼けした黒髪のウマ娘は、故郷の道を一歩踏み出した。

 

 

 

 

 

 





次回

episode 1:思い出は遠い日に


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episode 1:思い出は遠い日に

 

 

 

 

 

 都内の車道をURAの公用車の黒いセダンが走っている。その運転手の女性はバックミラーで後部座席に座る、自分の上司にあたるウマ娘をチラリと見た。

 

 ダークブルーのレディーススーツを着こなす彼女は、完全無欠、十全十美なビジネスウーマンという風格が漂っている。

 

 仕事用の眼鏡を掛けたそのウマ娘は、タブレットPCで何やら資料を確認している様子だった。運転手の部下は心配そうに彼女に声をかけた。

 

 

「専務、何してらっしゃるんですかー?」

 

 

 そのウマ娘は非常に集中した様子で、スッスッと指をスライドさせて画面を速読していた。部下の声は彼女の耳に届いていないようだ。

 

 

「専務ー、シンボリルドルフ専務ー! 今日はもう大した業務は残ってないんですから、移動中くらい休まれてはどうですかー?」

 

 

 先ほどよりも大きな声で運転手が呼びかけると、ようやくシンボリルドルフは顔を上げた。

 

 

「ん? ああ、すまない。到着までまだ多少の(いとま)があるのだろう? その間に宣伝部各所の報告に目を通しておこうと……」

 

「だーかーらー! 暇があるから少しでも休んでて下さいって言ってるんです! 専務、一昨日から働き詰めじゃないですか。昨日だって3時間しか寝てないでしょう」

 

「私は元来ショートスリーパーだから心配は無用だよ。レース走者だった時は筋肉の発達と体内器官の休養に長時間睡眠は不可欠だったが、現役を退いている今はその必要も無くなったからな」

 

「私が言ってるのはそういう事じゃありませんよ! いつか無理が祟るんじゃないかって見てるこっちの心労が半端ないんですから! 専務はレース走者だった時もトレセン学園で生徒会長をしていたんでしょう。働き過ぎて周りに心配かけていたんじゃないですか?」

 

 

 ピクンとルドルフの耳が微かに動いた。彼女の脳裏に『女帝』エアグルーヴが制服姿でため息をつく姿が蘇る。あの輝かしい日々も、今や遠い日の思い出となってしまった。

 

 

「はは……返す言葉もないな」

 

「せめて今だけでも、ゆっくりと景色を眺めて下さい。案外その方が有益な事があるかも分かりませんよ」

 

「……そうだな、お言葉に甘えて外の景色でも眺めていよう」

 

「そうして下さい。今日の挨拶回りだって私1人でも良かったのに、ルドルフ専務が無理に着いてくるって言うから……」

 

 

 部下の小言に「すまないな」と申し訳なさそうな笑顔で返して、ルドルフは背もたれに寄りかかり、窓から流れて行く都会の喧騒を眺める。

 

 ビルの垂れ幕や巨大スクリーンにはちらほらとウマ娘レースに関連する広告が流れている。その中にはルドルフ自身が運営に携わるものもあった。

 

 いつもの彼女ならそこで仕事のことに思考を割くのだが、今は別のことを考えていた。先の脳裏に浮かんだエアグルーヴの姿から次々と連鎖して、かつてのトレセン学園での日々が思い出されたのだった。

 

 

(……私も、皆も、それぞれの道を進んで行った。最近はあの頃が懐かしくて仕方がない。多忙な中でも何とかかつての友たちと交流する暇を作ってはいるが、それでも中々会える機会のない者たちもいるからな……)

 

 

 交差点の手前で赤信号となり、黒のセダンは停止する。ルドルフが広告を見る為に上方を向けていた視線を下すと……

 

 

 

(……え……!?)

 

 

 

 スポーツキャップを目深に被った『黒髪のウマ娘』がちょうどセダンの向かう先と反対方向に歩いて行くのが見えた。

 

 

(あのウマ娘は……)

 

 

 ルドルフは窓に顔を近付けて、そのウマ娘を目で追う。何とか視界にその背中を捉えるが、すぐに人波に紛れて見えなくなってしまった。

 

 

(一瞬しか見えなかったが、あれは……!)

 

 

 ガチャッ!とドアを開けて、ルドルフは車外へ急ぎ飛び出る。

 

 

「すまない、所用が出来た! 残りの業務は君に任せる!」

 

 

 そして部下に一言残して駆け去って行った。

 

 

「えっ!? ちょ、ルドルフ専務!? 突然なんで、専務ーーーー!?」

 

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

 カッカッカッカッ!

 

 

 パンプスでアスファルトの上を走る独特の音が響く。

 

 人混みの中を駆けるのは危険なので、ルドルフは車道脇のウマ娘専用レーンを小走りして先のキャップを被ったウマ娘を探す。

 

 超絶美人のキャリアウーマンなウマ娘が走っているので、当然通行人がギョッとしているが、彼女は今はなりふり構っていられなかった。

 

 

(……居た!)

 

 

 ルドルフは目的の彼女を発見し、歩道柵の手すりに手をかけ飛び越えた。

 

 現役を引退しても、体力維持とストレス発散の為にルドルフは週に数回のレーストレーニングを欠かしていない。その身のこなしはレースウマ娘だった当時から陰りを感じさせないくらいに鮮やかだった。

 

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ〜、美味しかった……半年ぶりの日本なのに、選ばれたのは立ち食い蕎麦屋でした……っと。でもなんだかんだ言ってやっぱり、これが1番なんだよねぇ」

 

 

 久々の日本の蕎麦で腹を満たしたマリンアウトサイダは、満足そうな顔で食後の散歩を楽しんでいた。

 

 彼女は記念館での思わぬ出来事をきっかけに、かつてトレセン学園で好んで食べていた食堂の蕎麦を思い出したので、目に入った立ち食い蕎麦屋に吸い寄せられるように足を運んだのだった。革製のトランクケースはホテルの部屋に置いてきていた。

 

 マリンは歩きながらチラリとバス停に設置された時計を流し見る。

 

 

(……どうしようかな、『あそこ』に行くにはまだ早いけど)

 

 

 記念館と蕎麦と、懐かしいものに触れた彼女は、当初の予定には無かったある場所へ向かおうかと思案しているところだったが……

 

 

 

 カッカッカッカッ!

 

 

 雑踏に混じって、後方からアスファルトを駆けるウマ娘の足音が聞こえてくる。それ自体は何も珍しくないのだが、マリンは直感でその音の主が自分を目指しているのを感じ取った。武術家としても成長しているマリンは、相手の気配や意図を察知する感覚も鍛え抜かれていた。

 

 マリンが振り返ると、ちょうどキャリアウーマンなウマ娘が歩道の手すりを乗り越えて来るのが見えた。彼女はまっすぐマリンの元へ向かってきた。

 

 

「マリン……! マリンアウトサイダ!」

 

 

 最初、マリンは彼女が誰だか分からなかった。しかし、その声と前髪の流星で、彼女が『自分が最も尊敬するウマ娘』であると気付いた。

 

 

「会長……ルドルフ会長……!?」

 

 

 マリンはつい、かつての学園生時代の様に彼女に呼びかけたのだった……

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 シックで何やら高級な雰囲気の漂う薄暗い通路を、シンボリルドルフとマリンアウトサイダは歩き進んでいた。ウェイターらしき男性が先頭を行き、幾つかある扉のうちの一つを開き、彼女たちを中へ案内する。シンボリルドルフは慣れた様子で扉を潜ると、マリンは物珍しそうに中を見渡して後に続いた。

 

 室内は中央に木製のテーブルとそれを挟むように革製のソファーが備え付けられており、天井の小洒落たデザインのステンドライトが淡く室内を照らしていた。そこにある全ての物が間違いなく高級品であると、素人目にも分かる小部屋だった。

 

 

「お飲物は、如何なさいますか?」

 

 

 ウェイターが物腰丁寧に2人に尋ねる。

 

 

「私はペリエを」

 

「私も、同じものを」

 

 

 ルドルフに続いてマリンも注文する。ちなみにペリエとはフランス産の炭酸入りミネラルウォーターの名称である。

 

 

「かしこまりました」

 

 

 ウェイターは軽く頭を下げ、退出した。

 

 

「ふぅ……ようやく落ち着けるな。どうぞ、掛けてくれ」

 

「はい、失礼します」

 

 

 そうして2人は向かい合う様にソファーに腰掛けた。マリンは穴に通すために耳を抑えながらチャップを脱いだ。ファサッと彼女の前髪が額に垂れる。

 

 マリンアウトサイダとシンボリルドルフ、名バと名高い2人のウマ娘はしばし無言で見つめ合った。

 

 

「………………ふふっ」

 

「………………っ、ふふ」

 

 

 2人は同時に堪え切れないという風に笑い出す。2人の笑い声が狭い室内に響き、静かな雰囲気が一気に和やかな空気へと変わった。

 

 

「なんだ、今のは? まるでかつてのトレセン学園の生徒会室じゃないか、先ほども君は私を『会長』と呼んでいたしな。そんなに畏まらないで良いだろう。我々は今や立場的には、そこまで差は無いはずだが?」

 

「ふふっ、すみません。ルドルフさんを前にすると、どうしてもあの頃に戻ってしまって。今はURA直属の企画運営会社で専務を務めてらっしゃいましたよね」

 

「ああ、URA役員も兼任しながらだがね。聞こえは良いかもしれないが、体のいい雑用係みたいなものだよ。君はUMADの交渉官を務めながら、副理事長にまで昇進していたな」

 

「それこそ聞こえが良いだけですよ。うちの組織構造はURAほど整然としていませんし、立派じゃありません。交渉官と副理事長を兼任できる時点でお察しってヤツです。『最終的にトップが全部決めれば問題ない』って脳筋思考で、理事長のドウザン姉さんが殆どの事を取り仕切っていますし。少数の有能な管理職の皆さんのお陰で何とか運営出来てる感じなのです」

 

 

 2人の近状の会話に花が咲く。ちなみにこの場所はURA役員御用達の会員制サロンである。ここのオーナーは古くからシンボリ家と親交があり、ルドルフも懇意にして貰っているとマリンは聞いていた。ここでの会話は決して外には漏れないし、邪魔もされないのだという。

 

 マリンは最初に入り口で止められたが、ルドルフの提言とマリンがUMAD副理事長であるということから特別に通して貰っていた。これはかつてのURAとUMADの間柄なら、決して有り得ないことだったのだが、時代は変わっていたのだ。

 

 

 

 コンコン

 

 お飲み物をお持ち致しました

 

 

 と、ドアがノックされ、ウェイターの声が聞こえた。

 

 

「どうぞ」

 

 

 ルドルフの返事で、ウェイターが扉を開け入ってくる。2人の前に細長のグラスを置き、2本のボトルからそれぞれに炭酸水をプロの動作で注ぎ、ストローをさす。そして軽くお辞儀をして出て行った。

 

 

 2人のウマ娘はグラスを手に取り、軽く掲げる。

 

 キィン……と、2つのグラスが清涼な音色を奏でた。

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

episode 2:皇帝の決断


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episode 2:皇帝の決断

 

 

 

 

 

 

 秘密の小部屋の中で、2人のウマ娘は炭酸水で喉を潤す。季節は秋の初めだが、残暑で火照った身体に冷たい水が心地良く染み渡った。

 

 

「それにしてもマリンアウトサイダ、帰国するなら何故連絡してくれなかったんだ。トレセン学園卒業生の中でも、君は特に会える機会が少ないんだ。他の者たちが君が日本にいると知ったら、きっと同じ事を言うに違いないぞ」

 

 

 シンボリルドルフはそう言うと、再びストローに口をつける。

 

 

「今回の帰国は2日間だけの予定でして……明後日の早朝には再び日本を発ちます。平日で皆さんにもお仕事があるでしょうし、慌てさせるのも忍びないので黙って帰国したのです」

 

 

 マリンも同じく、ストローで炭酸水を飲んだ。

 

 

「そうか、たった2日……確かに短いな。そんな折に君と邂逅できたのは、本当に幸運だった」

 

「それは私も同じです。実は密かに誰かと偶然再会しないかな、と期待していたのですが……ふふ、まさか会える可能性が1番低いと思っていたルドルフさんと街中でばったりだなんて……望外の喜びですね」

 

 

 マリンは垢抜けた笑顔を見せる。多くの出会いによって、彼女の生来の性格の硬さもほぐれていたのだった。

 

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 ここで、彼女の……マリンアウトサイダという名のウマ娘が歩んだ道のりを軽く述べておく事にしよう。

 

 

 あの有記念後の昏睡状態から奇跡的に復帰したマリンは、その後トレセン学園卒業までトゥインクルシリーズで走り続けた。

 

 ブランクの有った彼女はドリームトロフィーリーグへの進出は出来ず、卒業までにG1レースでの勝利は叶わなかったが、その間に3つの重賞レースを勝利した。

 

 クラスメイトの仲の良いウマ娘たちがドリームトロフィーリーグで奮闘する中、マリンは他学科であるサポート科でも単位の取得に励んだ。オグリキャップの紹介で、ベルノライトという非常に優秀な先輩の助力を得てレースに関する幅広い教養を身に付けた。

 

 卒業後は都内の大学へ進学し、ウマ娘レースへの更なる知見を深めると、卒業後にUMADに交渉官として就職した。

 

 

 そして、彼女の最も大きな業績……UMADとURA、そしてトレセン学園の初となる育成業務提携の一環として、トレセン学園内に新学科『ウマ娘総合スポーツビジネス科』の設立を主導した。そこは幅広い視野で総合的にウマ娘の可能性を探求する事を理念とした学科である。その中には他競技でのスキルをレースへと応用する事への研究が行われる授業もあった。

 ちなみに、アグネスタキオンはある企業で研究者として働きながら、外来講師としてその学科でも教鞭を振るっている。

 

 トレセン学園がレースウマ娘育成機関であるという趣旨を崩さない為に、その学科の授業はレース科とサポート科どちらからも並行して受講可能という形となっていた。

 

 こうして、格闘ウマ娘でもありレースウマ娘でもあったマリンアウトサイダは、2つの世界を繋ぐ架け橋となった。その後、彼女はUMADの海外特務派遣員(という名目で)海外へと飛び出した。実は一仕事終えたら世界を巡る旅に出る許可をくれるようヤマブキドウザンと約束していたのだ。

 

 彼女は武者修行をしながらUMADのコネクションを海外に広げていった。旅の途中で幾度も危険に見舞われながらも、持ち前の武術の腕と根性でそれらを乗り越えてきた。そうして、彼女は彼女だけの旅路を謳歌していたのだった。

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 シンボリルドルフは懐かしむように目を細める。

 

 

「君には随分と助けられたよ。君はトレセン学園に新たな風を呼び込んだからな。『ウマ娘総合スポーツビジネス科』で、レース以外で新たに才能を開花させる者も多いと聞く。私の夢の一端を、君は叶えてくれた」

 

「……それこそ、殆どルドルフさん自身のお力で達成したようなものじゃないですか。当時のURAにとってUMADに戻った私は『部外者』も同然だったのに、私の意見を汲んでURA上層部に働きかけてくれたのは貴方です。それがなければ新学科の設立は到底実現など出来ませんでした」

 

 

 マリンは、駆け出しの社会人のクセして無茶をしていた数年前の自分を思い出していた。そして、『URAの内部から』自分に助力してくれた頼もし過ぎる皇帝と呼ばれた彼女の事も……

 

 

「今思えば、ルドルフさんが卒業直前に『あんなこと』を言ったのも、先の先を見据えていたからだったのですね」

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 ここで話は『皇帝』シンボリルドルフのトレセン学園卒業前まで遡る。

 

 彼女は学園生としての最後のレースである年度末の『ウィンタードリームトロフィー』を勝利し、皇帝の名に相応しい有終の美を飾った。当時の熱狂は凄まじいもので、レース場の観客動員数は過去最高を記録したほどだった。

 

 皆が彼女に夢を見ていた。

 

 史上初の無敗の三冠ウマ娘であるシンボリルドルフが『次のステージ』へと進む事を誰もが疑っていなかった。

 

 しかし、そのレース後の記者会見で、彼女は誰1人として想像だにしなかった衝撃の発表をした。彼女はトレーナーや関係者への謝辞を述べたのちに言い放ったのだ。

 

 このレースをもって競技活動から引退し、『プロフェッショナル・グレードリーグ』には挑戦せずURAに就職する、という事を……

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 

「あれは最早事件でしたね。私や私の友人たちは勿論、世間も大騒ぎでした」

 

 

 マリンは当時の大混乱を思い出す。マスコミは連日ルドルフの引退表明を報道し、トレセン学園もその対応に追われていた。PGリーグの現役プロランナーたちからも驚愕の声が上がり、ルドルフの現役続行を希望する嘆願書にも万を超えるファンの署名が集まっていた。しかし、皇帝は引退を撤回する事はなく、宣言通りにURAへと就職したのだった。

 

 

「……君たちには迷惑をかけてしまったな。だが後悔はないよ。あの決断には価値があったと、今ならば胸を張って言えるからな」

 

 

 ルドルフは指を組んで微笑んだ。

 

 

「……そうですね。UMADとURAの仲介を助けて頂いたことよりも、『あのレース』を実現させたことの方が、ルドルフさんの最大の功績だと私も思います」

 

 

 

 シンボリルドルフがURAに就職してからの最初の数年間、彼女はその頭脳とトップレースウマ娘としての経験を遺憾なく発揮し、実績を積み上げ、異例の速さで出世して行った。そして、史上最年少でURA取締役の1人を務めるに至った。

 

 その性急過ぎる出世を白い目で見られることもしばしば有ったが、彼女はそれを実力で振り切った。それは一重に彼女のかつての『無念』を繰り返さない為であった。

 

 マリンが口にした『あのレース』には……『芦毛の怪物』オグリキャップが関わっていた。

 

 

 

 ルドルフは今でも拭い去れない悔しさを胸に秘めていた。それを呑み込むように、再び炭酸水に口をつける。

 

 

「そうか……ありがとう。そう言って貰えると、胸が軽くなるよ。あの頃はただ我武者羅に進むしかなかったんだ。ここだけの話だが……法律に触れるスレスレの事にも手を出したし、シンボリ家の後ろ盾を利用する為にお祖父様に頭も下げた。私が忌み嫌うやり方で、ひたすらに権力を求めた。そうまでしても私には、為さねばならぬ事があったんだ……」

 

 

 ルドルフは居直って、ゆっくりと語り始める。

 

 

「滅多にない機会だしな……マリンアウトサイダ、君には話しておこう。君も知っているだろう、地方出身のオグリキャップはクラシックレースに出走していない。いや、出来なかった……かつての登録制度が、それを阻んだ」

 

 

 マリンは緊張した面持ちで聞いていた。

 

 

「当時の日本ダービーの時期の物情騒然ぶりは、私の引退表明の時とは比べものにならなかったよ。まあ、ある記者の男が思惑を持って世間を焚きつけていたからでもあるが……事実、多くの人々が夢を見ていたんだ。オグリキャップという芦毛のシンデレラにね」

 

 

 マリンの脳裏に、ターフを駆けるオグリキャップの姿が蘇る。

 

 

「彼女のクラシック出走を求める嘆願書には私も署名をした。当然、背徳行為も同然の行いに、私はURA本部に呼び出されてしまったよ……その時にある役員の女性からお叱りを受けたが、今では私が彼女と同じ立場になった」

 

 

 当時を思い出し、懐かしそうに、そして悔しそうに目を閉じてルドルフは語る。

 

 

「だが知っての通り、現実は甘くなかった。私は己の無力さを痛感させられたよ……『皇帝』などと呼ばれていても、私はただのいちレースウマ娘で、一介の学生に過ぎなかったのだからな」

 

 

 ルドルフは左胸に付けたURAの記章バッジに右手で触れる。

 

 

「だから私は己に誓ったんだ。再び同じような事態に直面する時には、己の選手生命を賭けてでも抗うと。多くの人々が夢見るレースが、始まる前に終わってしまう悲劇を、二度と繰り返しはしないと……」

 

 

 マリンは初めて聞く『皇帝』の決意に息を飲む。

 

 

「君はオグリキャップにも走りを教わっていたな。ならば聞いていたのではないか? 彼女の願いを……あの『ハイセイコー』とレースをしてみたいという望みを。それは多くの人々の望みでもあったんだ」

 

 

 ルドルフは目を開き、マリンの顔を見た。

 

 

 

 ここで少しプロフェッショナル・グレードリーグについて説明が必要だろう。

 

 PGリーグはウマ娘個人が階級制のリーグ方式で争うシステムとなっている。階級は最上位のAから順にEまでの5段階あり、初加入時は以前のシリーズを通しての成績は関係なくEからのスタートとなる。そこから距離適性やバ場適正、更には障害レース適正などで細かく区分けされていくのだが、今回は説明を省こう。

 

 レース開催は時期により定まっているが、一つの絶対的ルールとして、争われるのはDE間・CD間・BC間、そしてAB間の階級のみである。つまり、階級を飛び越して上位のレースウマ娘と競うのは制度上不可能なのである。これはPGリーグへの進出が叶った選ばれしウマ娘たちの、国内最高峰のトップアスリートとしての格を守るための仕組みだった。ちなみにEランクで走っていたとしても十分に尊敬の対象となるし、とてつもなく人気の高いプロランナーもいる。

 

 

 

「オグリキャップのPGリーグ加入時に、ハイセイコー殿の階級はCランクだった。そしてその年の半ばにハイセイコー殿は引退すると宣言していた。半年に一度の階級変動をもっても、2人が対戦するのはほぼ不可能だった……だから私は作ったのだ、階級の縛りを超えてPGリーグウマ娘が競い合える『プレミアムレース』を……そして、ギリギリで間に合った」

 

 

 

 シンボリルドルフはその事を見越して、権力を手に入れるために無心に出世を目指していたのだ。そして彼女の主導により、URAは海外の有力選手も招待する国内初となるPGリーグ版グランプリレースとも言える『TOKYO:premium』を創設した。

 

 

 

「私に出来たのはレースの創設までだった。当然上位の階級ほど出走枠は優遇され、Eランクからの出走枠はごく僅か、しかも最終的には抽選になる。夢の対決が実現する可能性はなおも低かった……だが、流石はオグリキャップだ……彼女は実力と運でその枠を掴み取った。本当に、報われた思いだったよ」

 

 

 ルドルフは誇らしそうに微笑んだ。マリンもつられて笑顔になる。ルドルフの奮闘を、彼女も見ていたのだ。その喜びに自然と共感していた。

 

 

「……あのレースの感動は筆舌にし難いものでした。今でも昨日のことの様に覚えています」

 

 

 マリンの脳裏に、当時の光景が蘇る。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 その日の東京レース場は、異様なほどの熱気に包まれていた。

 

 階級を超えてプロランナーたちがぶつかり合う史上初のレースに、観客たちの興奮は初めから最高潮だった。しかし、その中でも最も注目が集まっていたのは実質のトップ層であるA・Bランクのウマ娘たちではなく……芦毛の怪物と称されたあるウマ娘と、永遠の挑戦者であり英雄と称されたある鹿毛のウマ娘だった。

 

 主催者側もファンの気持ちは理解していたので、粋な計らいで、その2人のパドック紹介は最後に回されていた。他の出走ウマ娘の紹介が終わると、自然と歓声が落ち着き、レース場は段々と静かになった。

 

 そんな中、その年からPGリーグという魔境へ足を踏み入れたばかりの、しかし威風堂々とした芦毛のウマ娘がパドックへと姿を現した。アナウンサーの興奮した声が場内に響き渡る。

 

 

『……ついに登場です!! ファン投票ではA・Bランクのウマ娘を抑えなんと得票数1位!! しかし、彼女がそれだけの期待を背負うに相応しいウマ娘である事に疑う余地などありません!! このプレミアムレースの出走枠を勝ち取ったのは最早運命!! 我々は今も彼女の物語の只中にいることの証拠です!! 芦毛の怪物……オグリキャップゥゥーー!!!!!』

 

 

 観客席から嵐の様な拍手と歓声が沸き起こる。そして、もう1人……ゆっくりとした足取りで鹿毛のウマ娘がオグリキャップとは反対側からパドックに登場した。

 

 

『そして皆様……お待たせ致しました!! ついにこの日がやってきました……往年のレースファンも、若きレースファンも、誰もが一度は想像した事でしょう……!! 時代を超えた両雄の夢の対決を!! 叶うはずがないと誰もが思っていたレースがついに現実となったぁ!!』

 

 

 アナウンサーのテンションも振り切れる。それだけの夢の光景が目の前に広がっていたのだ。

 

 

『オグリキャップが二度目の嵐を巻き起こした稀代のアイドルウマ娘なら、彼女はその礎を築いた創世のアイドルウマ娘だ!! 長年夢を見せてくれた彼女は、今回のレースで引退を表明しています、しかし……最後の最後でも……「今」でもッ!! 彼女は私たちに挑戦する「夢」を見せ続けてくれているッ!! 永遠の挑戦者、そして永遠の英雄……ハイセイコォォォーーーーー!!!!!』

 

 

 オグリキャップとハイセイコー……時代を創った2人のウマ娘が、パドック中央で握手を交わす。観客席も、生中継を見ているすべての人々が感動に胸が昂ぶっていた。誰もがその夢のような光景を、瞼に焼き付けていた……

 

 

 

 このレースの結果だけを言ってしまえば、味気ないものかもしれない。A・Bランクの頂点の猛者たちを相手にオグリキャップとハイセイコーは勝てなかった。トップ争いはA・Bランクの3人、4着争いでオグリキャップとハイセイコーは鎬を削った。そして半バ身差で芦毛の怪物は、英雄に先着した。オグリキャップはEランクでありながら他の高ランクのプロランナー相手にも先着したので、彼女の実力が大々的に証明される結果となった。

 

 1着を勝ち取ったウマ娘は勝利者インタビューで「後続の方が目立ってるって、おかしくない? まぁ、別にいいんだけどさ」と語っていた。

 

 ハイセイコーも「ラストランに相応しい相手と最高のレースが出来た。心残りは何もないさ、いつの時代もヒーローは必ず生まれるのだからね。次の世代にバトンを託せられて、嬉しい限りだよ」と言い残し、クールにターフを去って行った。

 

 そうして、この対決はここ10年以内で最も熱狂したレースの一つとして、歴史の1ページとなったのだった……

 

 

 

ーーーーーーーーー

 

 

 

「ハイセイコー殿も、私とオグリキャップの望みを聞き及んでいてな。彼女と戦うために引退の時期をギリギリまで延ばしてくれていたんだ。本当に、偉大な先達である彼女には、感謝と畏怖の念に堪えないよ……」

 

 

 そう語るシンボリルドルフの表情は、どこか誇らしげだった。

 

 

「……ルドルフさんも、叶うのならばレースで走りたいんじゃないですか? 見れば分かりますよ、今でも相当走り込んでいるのが。最低でも週に二、三度はトレーニングしていますね。PGリーグにルドルフさんに近しい方々もいますし、シービーさんとか。マルゼンさんは既に結婚を理由に引退してしまいましたが」

 

 

 マリンの問いかけに、ルドルフは炭酸水を飲みながら一瞬キョトンとした。そして、困った様に微笑んだ。

 

 

「君には隠せないな……レースに全く未練が無い、と言えば嘘になるよ。ターフを駆ける彼女たちを見ると、今でも脚が疼く」

 

「相手の身体状態や技量を見抜くのも、武術家に必須の技術ですから」

 

 

 マリンはボトルから自分のグラスに炭酸水を注ぐ。

 

 そして子供のように興味深げに、ちょっぴり好戦的に目を輝かせる。

 

 彼女はズイッと身を乗り出して、更にルドルフに尋ねる。

 

 

「それと……実はルドルフさんに会ったら絶対聞こうと思っていたことがあるんです! ルドルフさん、2ヶ月くらい前に今年からPGリーグに進出した『あのウマ娘』に喧嘩を売られたそうじゃないですか。私はその時は海外にいたので伝え聞いただけなのですが、どんな感じだったのですか? 直接ルドルフさんの口から聞きたいです」

 

 

 ルドルフは、ピタリと固まった。

 

 

「………………『あのウマ娘』とは、一体誰のことだろうか? 職業柄、林林総総のウマ娘たちと関わりを持っているが」

 

「貴方ともあろう者がとぼけないで下さい。PGリーグ史上初の、不可能だろうと言われていた初戦制覇と最速でのDランク昇格を成し遂げた……日本の『近代ウマ娘レース史の結晶』と謳われる、あのウマ娘のことですよ」

 

 

 マリンは『ワクワク』と文字が浮かんで見えそうな笑顔をルドルフに見せるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

episode 3:『近代ウマ娘レース史の結晶』


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episode 3:『近代ウマ娘レース史の結晶』


 この辺りから他のウマ娘たちの話がぼちぼち出てきます。よろしくお願いします。


 

 

 

 

 ルドルフは珍しく、思い出したくないという風にテーブルに肘をつき、指を組んだまま目を伏せる。こんな態度はよっぽど親しい相手にしか見せない。

 

 

「……ああ」

 

 

 皇帝は低く呟き、そしてその名を口にする。

 

 

 

「『ディープインパクト』

 

 ……彼女のことだろう?」

 

 

 

 彼女はやれやれとため息をついてマリンと向き直った。

 

 

「君が目を輝かせるような話でもないだろうに。あと、別に喧嘩を売られたわけでもないぞ」

 

「これでも私はレースウマ娘ですから。今は『元』が付いちゃいますけど。話してくださいよ、ルドルフさん。だいぶ一触即発(バッチバチ)だったらしいじゃないですか」

 

 

 ワクワクとした表情で容赦無くマリンはルドルフを急かす。マリンが格闘ウマ娘らしく喧嘩騒ぎが大好物なのは昔から変わっていないようだった。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

 

 

 マリンとクラスメイトの仲間たちが卒業した数年後、トゥインクルシリーズを【衝撃】が駆け抜けた。

 

 全てのレースウマ娘が一度は夢見る最上の栄誉、クラシック期に一生に一度しか挑戦できない『クラシック三冠制覇』を達成したウマ娘を人々は敬意と畏怖を込めて『三冠ウマ娘』と呼んだ。

 

 その中でも無敗でその偉業を成したのはそれまでの歴史上ただ1人、『皇帝』シンボリルドルフだけだった。

 

 トレーニングやレース走法の技術が日々進化し、ウマ娘レース界全体のレベルが上がってゆく中で、無敗の三冠ウマ娘は今後現れる事はないだろうとも囁かれていた。

 

 

 だが……歴史は『特異点』を生んだ。

 

 その年、史上2人目の『無敗の三冠ウマ娘』が誕生したのだ。

 

 

 

 その名は『ディープインパクト』

 

 

 

 異質としか表現出来ない強さで、彼女はトゥインクルシリーズとドリームトロフィーリーグを走り抜き、トレセン学園卒業後は当然のようにPGリーグへと進出した。

 そして格上のDランク選手も多く出走する春の初戦を、彼女は当然のように勝利した。不可能だと言われていたPGリーグ初戦制覇を、彼女はいとも簡単に成し遂げてしまったのだ。

 

 今年度の上半期で圧倒的な戦績を修め、彼女はPGリーグ発足以来史上最速でのDランク昇格を果たした。

 

 マリンが聞きたがっているのは、URAが半年に一度催すPGリーグランクポイント決算報告会にて行われた表彰式での一幕についてである。

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 PGリーグ加入初年度にて歴史的な偉業を達成したディープインパクトは、その功績を称えられ上半期のベストランナーとして表彰されることになった。関係者たちが見つめる中、彼女はURA理事長から表彰状を授与される。

 

 レースウマ娘として史上初の快挙に、会場からは拍手の嵐が沸き起こっていた。しかし、表彰状を受け取った彼女の顔には歓喜の色など微塵も無かった。元々寡黙で感情を余り表に出さない性格の彼女は、ファンからもクールビューティーな完璧主義者というイメージを持たれていた。

 

 だが、その日の彼女の様子がいつもと違うことに、彼女のトレーナーと他少数のウマ娘たちが気付いていた。その瞳の奥に微かに……怒りのような感情が淡く揺れ動いていた。

 

 

 ディープインパクトは壇上のマイクスタンドへ向かって歩みを進める。彼女は表彰に当たっての挨拶をと、司会者に促されていた。

 

 腰まで伸びた深く茶色がかった美しく艶やかな鹿毛髪、耳飾りのリボンと同じ深藍色のドレスを着た彼女は神秘的な雰囲気を纏っている。

 

 見るものに畏怖を抱かせるその瞳は、彼女が絶対王者として生まれついたのだと人々に確信させる。

 

 彼女がステージに立つ。ただそれだけで、まるでそこだけが外界から切り離された別世界の様に見えた。

 

 そして彼女は……おもむろに言葉を紡いだ。

 

 

 

「…………果たして、意味などあるのでしょうか」

 

 

 

 会場に響くその声は、まるでヴァイオリンの音色のようだった。恐ろしいほどに美しく、しかし聴く者を心の芯まで凍てつかせた。ざわめきすらも起こらない。

 

 

 

「…………人々は口にします。

 

『きっと皇帝も同じことを成し遂げただろう』

 

『かつて皇帝が見せたかもしれない光景が見られた』

 

『第二の皇帝がPGリーグへと挑む』

 

 皇帝、皇帝、皇帝…………まるで枕詞のよう」

 

 

 

 あまりの緊張感に、会場は静寂に包まれていた。

 

 

 

「…………そうなるのも理解は可能です。他ならぬ私自身が、かの『皇帝』の背を追い続けてきたのですから。しかし、私がここにたどり着いても…………『皇帝』の姿は無かった。そんなPGリーグでベストランナーなど…………私にとっては無位無冠も同じ」

 

 

 

 ゾワリと、会場の人々が鳥肌立つ。まるで空間が固体と液体が入り混じった物質に変化したと錯覚させるような威圧感を、ディープインパクトは加減することなく放っている。彼女は言葉と視線だけで人を圧死させられると言っても信じてしまいそうな程である。

 

 そして、その眼光はただ1人、役員席に座るシンボリルドルフに向けられていた。

 

 

 

 

「……なぜ貴方はターフの上に居ないのですか?

 

 ……『皇帝』シンボリルドルフ……!!!」

 

 

 

 

 怨嗟、哀惜、憂戚、敢えて言葉で表現するのならそのようなものだろう。しかし、彼女の慟哭はそのどれでもあって、どれとも違った。ただただ彼女の身体の奥底から深く響いてくる剥き出しの激情そのものだった。

 

 

「……………………………」

 

 

 常人ならば間違いなく気絶するであろう圧を、ルドルフは泰然自若な様子で表情を崩さずに受け止めている。彼女は粛々と立ち上がり、ステージに向かって歩み出した。彼女は自分以外にこの場を収められる者は居ないだろうと判断した。コツ……コツ……と厳粛に足音が響く。

 

 

 そしてステージ上にて、2人の『無敗の三冠ウマ娘』が合間見えた。

 

 

 シンボリルドルフの凛と大人びた態度に対して、ディープインパクトのそれはある種の若々しさがあった。つい数ヶ月前まで、彼女はトレセン学園の学生だったのだから当然ではあるが。

 

 その若々しく荒々しい剥き出しの闘志に、ルドルフは懐かしさを覚えた。レースから退いて幾年も経つというのに、斯様に敵愾心を燃やされるとは思ってもみなかったのだ。しかし、彼女も今や責任ある立場を任された社会人である。ここは、大人の対応を取る他ない。

 

 

「……そうだな。いつか、このような叱責を受ける日が来るとは思っていた。だが、ディープインパクト……君は……」

 

 

 と、ルドルフが『歴史の結晶』と称される彼女に語りかけたその時……

 

 

 

 

「ちょーーーーーっと待ったーーーーーー!!!」

 

 

 

 

 天真爛漫な声と共に、1人のウマ娘が彼女たちの間に割って飛び入った。

 

 スタッ!と彼女は華麗な着地を決めると、翻りそうになるドレスの裾を押さえた。艶やかな髪に皇帝と少し似通った流星を持つそのウマ娘は、まるで熱血アニメの主人公のように腕を組んで仁王立ちになる。

 

 そして不敵な笑みを浮かべて、ディープインパクトと相対する。

 

 

 

 

「後輩だと思って黙っていたけど、ボクを差し置いてカイチョーに食ってかかるなど笑止千万っ! カイチョーに挑みたくば、まずはこのトウカイテイオーを倒してからにするのだーーーー!!!」

 

 

 

 

 ババン!と効果音が聞こえそうな勢いで、『奇跡の帝王』ことトウカイテイオーは啖呵を切った。

 

 

「ちょっ……テイオー! ここはルドルフさんに任せておけば良いですのに、貴方という方は!」

 

 

 そう言ってステージ下でテイオーを叱咤するのは『ターフの名優』メジロマックイーン、トウカイテイオーと共に現在PGリーグBランクで活躍するプロアスリートである。そんな彼女にテイオーは芝居掛かった鷹揚な口調で言葉を返す。

 

 

「止めるなマックイーン……! カイチョーがターフを去った後も、ボクとカイチョーは変わらない絆で結ばれているんだ……カイチョーに喧嘩を売ると言うことは、ボクに喧嘩を売るも同じっ! さぁ、ディープインパクト! お望みならボクが存分にお相手致すっ! ただボクはBランクで君はDランクだから公式レースでは勝負できないし……あっ、そうだ! ダンスで勝負なんてどう? ボク踊るの好きだから学園卒業した後も趣味でダンスは続けているんだ! 今ここでダンスしてカイチョーにどっちの方が上手いか判断…………グェッ!?」

 

 

 と、突然トウカイテイオーが青いパーティドレスの首根っこを捕まれ引っ張られる。彼女の背後に、また別のウマ娘が立っていた。

 

 

「何が変わらない絆だ。お前は変わらなさすぎだ……少しは自分の年齢を考えたらどうだ?」

 

 

 低くクールな声がステージに響く。大胆に背中を見せるデザインの紫色のドレスを着たウマ娘がテイオーを捕まえている。かつて、ルドルフが生徒会長を務めていた頃によく見られた光景が再現されていた。

 

 

 テイオーを捕まえたのは、三冠ウマ娘ナリタブライアンだった。

 

 

「ちょっと、ブライアンやめてよ〜! ドレス伸びちゃうじゃんか〜! それに20代はまだまだ若者なんだぞ〜!」

 

「そんな調子だから身長が伸びないんじゃないか? もっと肉を食って身体を作れ」

 

「あーー! 言ったな、ボクが気にしてる事を! 見てろ〜〜、ウマ娘は30になるまでは身長が伸びるんだぞ!」

 

 

 じゃれつく2人に、ディープインパクトは眉を顰め、冷徹な声で語りかける。

 

 

「…………トウカイテイオー、ナリタブライアン…………偉大な先達方と言えども、他人の会話に割り込むのは無作法なのではないですか? 私はシンボリルドルフと対話をしていたのですが…………」

 

 

 ディープインパクトは凄みを込めて言い放つ。その気迫はトップ層のウマ娘に比肩するほどだった。

 

 

「ふっ……豪胆だな。流石は無敗の三冠ウマ娘だ。私やテイオーなど眼中には無いと言うことか?」

 

 

 ブライアンも同じくディープインパクトを微笑みながら睨み返す。『シャドーロールの怪物』と呼ばれた彼女はなおも健在、トレセン学園時代の全盛期を超える実力を身につけていた。現在の彼女は姉と並び、Aランクのトップウマ娘の1人である。

 

 テイオーの介入によって一時和らいだ雰囲気が、再び最悪の荒れ模様となった。

 

 

「嫌いじゃないぞ、そう言うのは。お前とは胸を焼き焦がすような熱い戦いが出来そうだ。今すぐにでも模擬レースと洒落込みたいところだが……我々はプロだ。トゥインクルシリーズやドリームトロフィーリーグにいた頃とは立場が違う」

 

 

 ナリタブライアンは不意に悟すような口調でディープインパクトに語りかける。

 

 

「お前の『渇望』は理解できる、私もかつてはそうだったからな……だがお前も現代のレースウマ娘なら、シンボリルドルフがレース界に与えた影響と功績をその身で実感しているはずだ。彼女は生半可な覚悟でターフを去ったわけではない。お前はそれを理解した上で、なおも皇帝を叱責するのか?」

 

 

 ナリタブライアンとディープインパクトはなお睨み合う。2人の見えないオーラがバチバチとぶつかり合っているかの様だ。

 

 

「おお〜、ブライアンが凄くオトナっぽい事言ってる〜。トレセン学園時代は生徒会の仕事サボって昼寝ばっかりしてたのに、後輩にはカッコイイとこ見せたかったのかな〜〜グゥエッ!!!」

 

「煩いぞテイオー、静かにしていろ」

 

 

 茶化すテイオーをブライアンは黙らせる。『歴史の結晶』ディープインパクトは氷のような視線を彼女たちに向けたままだった。

 

 

「…………URA職員としてのシンボリルドルフの功績の数々は確かに大きいでしょう。ですが、私はそれらを認めた事など、一度たりともありません」

 

 

 ディープインパクトの目に、深く重い感情が渦巻く。

 

 

 

「何故なら皇帝がターフから去った事、その事実こそが、近代ウマ娘レース史における最大の『損失』だからです。願わくば…………」

 

 

 

 それは、あまりに純粋な切望だった。

 

 

 

「私の脚で『皇帝の時代』を終わらせたかった…………」

 

 

 

 その異様なまでの皇帝への執着に、ブライアンとテイオーは息を呑む。その場の全ての人々が冷や汗を流した。

 

 

 会場を再び沈黙が支配する。

 

 

 司会者もマイクを持ったまま固まっている。生ける伝説たちの睨み合いに口を挟むなど、南極海に生身で飛び込むも同じである。

 

 

 こんな状況を打破できるのは……

 

 

 

 

 

 

 

「………〜〜〜っ、流石ディープちゃん!!! よく言ったわ!!! そうよね、洛陽が地平線に没するのを只眺めるだけなのは耐えられないわよね。沈めるならば自らの脚で……ああ……素敵だわ」

 

 

 

 

 

 

 

 どこかネジが外れている強者くらいである。

 

 

 不撓不屈の桜花……『サクラローレル』がいつの間にか舞台の上で、ディープインパクトの手を握っていた。

 

 

 

 

 

 

 





次回

episode 4:新しい時代


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episode 4:新しい時代

 

 

 

 

 

 

 満開の桜が咲いているかの様な不思議な瞳で、サクラローレルはディープインパクトを見つめている。ディープインパクトはそのギュッと力強く握ってくる手を振りほどく事なく、落ち着いてローレルの顔を見つめ返していた。

 

 

「…………ご無沙汰しております、ローレルさん。手、離してもらえますか? 痛いので…………」

 

「あっ、ごめんなさいね! 私ったらつい……ふふ。でも、ディープちゃんが立派に成長して、私とても嬉しいのよ!」

 

 

 『サクラローレル』、トウカイテイオーと並びトゥインクルシリーズで奇跡の復活劇を遂げたウマ娘として群を抜いた知名度を誇る『不撓不屈の桜花』。怪我や故障と戦い続け、壮絶な苦難を乗り越えて来た彼女は、現在もPGリーグで走り続けていた。

 

 ローレルはPGリーグ走者でありながら応急手当普及員の資格も取得しているので、度々特別講師としてトレセン学園に招かれていた。ディープインパクトもその指導を受けていたので、彼女たちは顔なじみだったのだ。

 

 

 

「ディープちゃんの気持ち、とてもよく分かるわ……自分の運命をかけて挑むのは、その相手が最も獰猛でギラついた時代でないと意味がない……舞台の幕引きを見て満足する観客じゃいられない、魂を焦がす闘いが出来るのなら、シャンデリアを堕とす怪人にだってなれる……そう、その者が最期に見る光は『自分』でないといけないの……ふふふ……ディープちゃんって、健気なのね」

 

 

 

 『サクラ』の名を冠するウマ娘は只者じゃない事が多いとよく言われるが、サクラローレルはその中でも特に『異質』だった。さしもの『歴史の結晶』も、大先輩のその雰囲気におどろおどろしいものを感じ取り、脚がこわばった。

 ディープインパクトは、サクラローレルの瞳の奥が深淵へと繋がっていそうだと錯覚した。端的に言えば、彼女の目が滅茶苦茶怖い。

 

 

 

「っ…………あの、ローレルさん…………」

 

「私もね、ブライアンとレースをする事にとっっっっっっても恋い焦がれていた時代があったの。ううん、今でもそう……以前の両脚の大怪我の事もあって私はPGリーグへの加入が遅れてしまったけど、前回のリーグ変動でCランクに到達できたの。それなのにひどいのよ、ディープちゃん! ブライアンったら同じタイミングでAランクに行っちゃうんだから! やっと一緒のレースで走れると思ったのに! ああ、でもAランクはその先がないから、大丈夫よね。サスペンスドラマでよくある海に切り立った断崖みたいなものかしら……私、ああいう場所って好きなの。まさに命の瀬戸際って感じで、生を実感できるから……ブライアンとそこに行けるって考えると、なんだか素敵よね……ふふふふ……」

 

 

 そのなんだかドロリとした雰囲気のまま、サクラローレルはプンプンと怒って、そしてウットリとしている。『あの』ディープインパクトが若干引いてる様子に、皆珍しいものを見たと内心思っていた。

 

 同じ舞台上に居たトウカイテイオーは「ローレルは相変わらずだなぁ」とゆるキャラみたいな笑顔で、ナリタブライアンは心底嫌そうに顔を背けていた。

 

 すると……

 

 

 

「……コホン!」

 

 

 

 と、シンボリルドルフが咳払いをした。

 

 

「君たち、私とディープインパクトに気を遣って貰えるのは有難いが、そろそろ彼女との対話を再開しても良いだろうか?」

 

 

 そう言いながら彼女はディープインパクトに向かって歩みを進める。トウカイテイオーとナリタブライアン、サクラローレルが皇帝に道を譲る。

 

 今、ディープインパクトの目の前に史上初の無敗の三冠ウマ娘が立っていた。

 

 

「すまないな、ディープインパクト。さて、どこまで話したかな……そう、君は『皇帝の時代』を自らの脚で終わらせたいと言っていたね」

 

「………………」

 

 

 

 ディープインパクトの鉄をも穿つ眼差しは変わらずに『皇帝』へと注がれている。

 

 『歴史の結晶』を眼前にしても、シンボリルドルフはなお涼しい顔を崩していない。

 

 

 

「その意志はまさに勇猛無比だ。唯一に同じ頂に到った者として誇らしく思っている。レースから退いた我が身の内から、魂が君の挑戦に受けて立ちたいと叫んでいるよ。しかし遺憾ながら……今の私の実力は全盛期の半分にも満たない。時間というのは、かくも恐ろしいものだな」

 

 

 舞台脇でテイオーが「半分近くもあったら十分デショー」って呟くのをブライアンが拳で諌めた。

 

 

「だが……ディープインパクト、君の望みは果たされる。見るがいい」

 

 

 ルドルフはそう呟くと、ディープインパクトの視線を促すように自らの後方を振り向いた。その先には、3人のウマ娘が居る。

 

 

「トウカイテイオー……ナリタブライアン……サクラローレル……皆、全盛期の私でも勝てるか分からない強者どもだ」

 

 

 舞台上でライトを浴びる3人が清爽な笑みを浮かべる。先達として胸を貸してやろう、とでも言いだしそうな泰然自若とした大人の余裕が見受けられる。それぞれがトレセン学園時代とは比べ物にならないほどに、己を強く鍛え上げてきた証左である。

 

 

「この場に出席している中でも……もう1人の三冠ウマ娘は、また抜け出して何処かで散歩でもしているのだろう。そこに居るメジロマックイーンも言わずもがな傑物だ。長距離のみで量るなら、その実力は間違いなくAランクトップ級……次回のランク変動が楽しみだ」

 

 

 テーブル席に座るマックイーンは、突然ルドルフに名を挙げられて目をパチクリとさせる。

 

 

「そして、向こうのテーブルにはオグリキャップ、タマモクロスに……スペシャルウィークも居るな」

 

 

 舞台から少し離れた位置のテーブル席に視線が集まる。

 

 そこにはテーブルに片肘つき足を組んで座るタマモクロスと、山盛りの豪華料理をガツガツもぐもぐと美味しそうに味わっているオグリキャップとスペシャルウィークが居た。3人ともパーティ用の正装だが、健啖家の2人のドレスの腹部がはち切れないのは仕様なのかは謎である。

 

 

「お前ら……こんな時くらい食事の手ぇ止めーや! 学生の時からそこんとこだけはホンマ変わらへんな、全く」

 

 

 タマモクロスは呆れたように横目でオグリキャップとスペシャルウィークを見て言った。スペシャルウィークはハムスターのように頬を膨らませて、よく聞こえない声で何かを言っている。

 

 

「モガモガモガモガ!(だってやっとシーズンが終わってトレーナーさんから今日は食事制限無しって言ってくれたし、ここの料理ってものすごく美味しいんですよ)」

 

「もぐもぐもぐもぐ」コクコクコクコク

 

 

 オグリキャップも全力で同意だと食べながら頷いている。この2人はディープインパクトが舞台で挨拶を始めた時からずっと変わらずに料理を食べ続けていた。ちなみにオグリキャップとタマモクロスはAランクのプロランナーである。スペシャルウィークはDランクだったが、今期の活躍でCランクへと昇格したのだった。

 

 

「っ……………………」

 

 

 ディープインパクトは眉をしかめる。その視線はスペシャルウィークに向けられていた。そんな事は意に介さず、『日本総大将』はもぐもぐと幸せそうに料理を胃に送り続ける。

 

 PGリーグ上半期のレースで、ディープインパクトはほぼ全てのレースで1着を勝ち取り、最速でDランクへと昇格したのだが、そんな彼女に唯一土をつけたのは何を隠そう、このスペシャルウィークなのであった。

 

 培った実力もさることながら、運命力も主人公級である『日本総大将』は、先輩としての威厳をターフの上でディープインパクトに見せ付けた。それ以来、ディープインパクトは少しだけスペシャルウィークを目の敵にしていたが、当の本人は何も気にしていないようである。

 

 

 

「ディープインパクト」

 

 

 皇帝は『歴史の結晶』に呼びかける。

 

 

 

「トレセン学園での、私のレース走者としての人生の全ては、彼女たちと今この場には居ない多くのウマ娘たちによって築かれている」

 

 

 

 皇帝は誇りを胸に言い放った。

 

 

 

「彼女たちこそが紛れもなく『皇帝の時代』であり、

 

 君がこれから挑む高き壁だ。

 

 彼女たちに挑む事は、即ち私に挑む事だ。

 

 彼女たちは『強い』ぞ……

 

 なにせ、私と共に走ってきたウマ娘たちだからな」

 

 

 

 ディープインパクトは無言で偉大な先達を一望する。そして、静かに目を閉じた。

 

 

「…………多少屁理屈に思われますが、良いでしょう。『理解』は可能です」

 

 

 深い紺色のドレスを着たウマ娘は、ゆっくりと目を開ける。

 

 

「私にとっては、彼女たちは皇帝の時代の残滓です。私の脚でPGリーグの頂点に立った時が、皇帝の時代の真の終幕となりましょう…………」

 

 

 彼女の若々しい剥き出しの闘争心が、トレセン学園の先輩たちに向けられる。彼女たちも溢れ出る野性を隠しきれないという風に微笑み返した。

 

 

「でもさ〜〜」

 

 

 と、場の空気感を真っ向から裂くようにトウカイテイオーが声を上げる。

 

 

「ディープちゃんって、カイチョーの事が大好きなだけだよね? ローレルがブライアンの事好きなみたいにさ。ボクもそうだったから何とな〜く分かるんだよねぇ。絶対カイチョーのグッズとか沢山持ってるでしょ〜」

 

 

 そんなテイオーの言葉にギロリとディープインパクトは目を剥く。

 

 

「…………別に、シンボリルドルフの事が好きという訳ではありません。私の知る中で最強のレースウマ娘なのですから、関連するデータや資料を全て収集するのは当然の事です。出走レースのBDはもちろん、テレビで放映されるものを全てチェックして録画していますし、皇帝のインタビューが載る雑誌も全て購入してます。一縷の情報も逃さぬよう、パカぷちやプライズグッズ等も全て抜かりなく入手しますし、皇帝が言及した書籍や映像作品、歌劇や音楽も抜かりなく鑑賞していて、皇帝が訪れた東西諸国も時間の許すときに歴訪していますが、全てはレースで勝利するための布石でしかありません」

 

 

 クールビューティーな彼女は表情を崩さずに、淡々と述べた。舞台上でローレルは「まぁ、素敵」と両手を合わせて感心していたが、テイオーとブライアンは「うわぁ……」と引きつった顔をしていた。

 

 

「そうか……私も現役時代はレース資料の収集分析は人一倍していたつもりだが、君ほど周到熱心ではなかったな。恐れ入るよ。流石は現代の『無敗の三冠ウマ娘』だ」

 

 

 いや、そういう事じゃないから……と皆ルドルフの言葉に心の中でツッコムが口に出さなかった。

 

 

「そしてだ、ディープインパクト。君は世界を知らない……私の背を追うのも良いだろうが、世界には君の想像を超えるレースウマ娘も存在している」

 

 

 ディープインパクトは眉を顰める。

 

 

「これはまだ一般には公開されていない情報だが、TOKYO:premiumの海外枠募集条件を広げることがURA理事会により決定された。その性質上、リーグポイントの変動がないことを受けて更にウマ娘レース界の発展を目指してな。次回の海外枠には『海外を拠点に活動している日本出身のウマ娘』も出走可能となる。URAは秘密裏に何人かのレースウマ娘と交渉を重ねていた」

 

 

 会場のトレーナーや関係者がざわつく。

 

 

「そして先日、1人のウマ娘との交渉が完了した……『サイレンススズカ』……彼女は次回のプレミアムレースへの出走が確定している」

 

 

 ざわつきが更に大きくなる。ディープインパクトもその名には一瞬目の色を変えた。そんな中、とびきり大声をあげたのは……

 

 

「スズカさんと走れるんですかっっ!? ホントに本当ですかっっ!?」

 

 

 目をキラキラと輝かせるスペシャルウィークだった。喜びのオーラが身体中から溢れ出ていた。

 

 

「本当だとも、スペシャルウィーク。サイレンススズカの実力は間違いなくPGリーグAランク級だ。出走する資格は十分にある。どうだ、ディープインパクト……世界には彼女のようなレースウマ娘がまだまだ居る。それを知っているのなら、本来息つく暇もないはずだが?」

 

 

 ディープインパクトはその鋭い眼光を未だに皇帝に向けたままだった。だが、その威圧感は幾分か収まっていた。

 

 

「…………良いでしょう。サイレンススズカがPGリーグに籍を置いていないことも、長年疑問に思っていましたから。かつての『皇帝』ほどではないでしょうが、彼女も十二分に脅威となり得るウマ娘です」

 

 

 ふぅ……と、シンボリルドルフはひとまず場を収められたと安心する。

 

 

「ディープインパクト、今の私は君の真の望みを叶えることは出来ない。だが……並走トレーニングくらいなら、付き合えないこともないぞ。もし君が望むのであればな」

 

 

 その言葉にディープインパクトの目がキランと光る。

 

 

「…………その言葉、本当ですね? 私は鮮明に記憶しました。後で取り消すのは決して許しません。『皇帝』との並走トレーニングは確定事象となります。後ほどスケジュールについて打ち合わせを。トッププライオリティーとして処理しますゆえ、よろしくお願いします」

 

 

 何事にも動じず、感情を表に出さないと有名なディープインパクトの尻尾が揺れる。それを見たナリタブライアンが頭痛がするみたいに手を頭に当てた。

 

 

「ルドルフ……こういう奴には、そんな餌は与えないほうが身の為だぞ」

 

「??? 餌とはどう言う意味だ、ブライアン」

 

「……いや、お前が気にしていないならいい……」

 

 

 そう言ってブライアンは遠い目をして、切っても切れない縁で結ばれてしまった、あの『サクラ』のウマ娘と競い合ったトレセン学園時代を思い出すのだった……

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 ちう……と、マリンアウトサイダは一瞬ストローで炭酸水を吸うと、ルドルフに向かって言い放つ。

 

 

「やっぱり喧嘩売られてるじゃないですか、ルドルフさん」

 

「……喧嘩を売られているとは思わないが、なんと言うか……ブライアンの言葉の意味が少しわかった気がするよ。ディープインパクトと約束通り並走トレーニングをしたのだが、年甲斐もなく興が乗ってしまい、本番さながらの競り合いを繰り返してしまってね……以来、彼女はなおのこと輪にかけて私に『貴方は今からでもPGリーグに加入するべきです』と恐ろしい眼圧で詰め寄って来るんだ。この前も勤務先で私を待ち構えていてな……社員たちは彼女の来訪に喜んでいたがね」

 

「嫌われていないだけ良しとすればいいんじゃないですか。むしろ、滅茶苦茶に好かれているし。私もターフを走るルドルフさんの姿をもう一度見たいですよ」

 

「ふっ……君も茶化すんじゃない」

 

 と言ったところで、ルドルフのスマホの着信音が鳴り響いた。失礼、と言って彼女はポケットからそれを取り出して画面を確認する。

 

 

「……ああ、私の部下からだ。事情を説明せずに仕事を任せっきりにしていたから、随分と心配させてしまったようだ。名残惜しいが、語らいの時間はここまでとしよう」

 

「そうですか……日本でルドルフさんと会えて本当に良かったです。またいつか、こんな風に話せると良いですね」

 

 

 そう言って2人は席を立つ。マリンがスポーツキャップを被り直すのを見て、ルドルフは尋ねる。

 

 

「マリン、君はこれからどうするんだ? あまり長く日本に滞在しないのなら、行ける所は限られているだろう」

 

「……実は、寄りたい場所がありまして」

 

「そうか、どこに行くんだ?」

 

 

 マリンは爽やかな笑顔で、ルドルフに言う。

 

 

 

 

「私たちの母校へ……『新しい時代』を生きるウマ娘たちを一目見ておきたいのです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

episode 5:学び舎の庭にて


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episode 5:学び舎の庭にて

 

 

 

 

 

 

 

 初秋の陽光が優しく降り注ぐ昼下がり。

 

 トレセン学園本校舎から離れた針葉樹林帯の近く、開けた原っぱにピクニックシートを広げてランチタイムを過ごす4人のウマ娘の姿があった。

 

 

 青鹿毛の正統派美少女な雰囲気のウマ娘は、上品に正座してサンドイッチを小さなお口で「はむっ」と食べている。

 

 彼女を挟むように座る2人のウマ娘は左右の位置違いに耳カバーを着けた『双子』だった。

 

 そして残る1人の年上のウマ娘は学園の制服ではなく、教員用のジャージを着ていた。灰髮に紅碧のオッドアイの瞳を携えた彼女は、親戚の子供の面倒を任されたお姉ちゃんの様に呆れ顔で双子の片割れの話に耳を傾けていた。

 

 

 

「それでね、聞いてよルリ姉ぇ! トレーナーさんってばヒドいんだよ! 私だってもう立派なレディーなのにさぁ……」

 

「なぁにがレディーよ。アンタ、年齢的にはまだ初等部なんだからガキ扱いされるのは至極当然じゃない。それと学園では『コーチ』と呼びなさい! アンタの親とはそこそこ付き合いも長いし、アンタらを産まれた時から知ってはいるけど、教師と学生の関係なんだからメリハリはつけなきゃ駄目なのよ」

 

 

 辟易した様子で「全く……」と言いながら、マリンアウトサイダの一番の親友『ルリイロバショウ』は缶コーヒーをグイッとあおる。

 

 彼女は現在、UMADからの派遣教員としてトレセン学園の『ウマ娘総合スポーツビジネス科』にて日本古流武術部門の主任コーチを務めている。マリンの学科創設時に「ルリはトレセン学園関係者に知り合い多いから」という理由で無理矢理引っ張ってこられて以来、ずっとレースウマ娘たちに空手を中心とした武術と応急手当てなどの技術を指導していた。

 本人は最初こそマリンに反発していたが、仕事を任されているうちに学園のレースウマ娘たちに懐かれて『姐御』や『ルリ姉ぇ』と呼ばれるほど親しくなったり、武術家視点でのウマ娘の肉体に関する深い知識を持っていたり、ベテラントレーナー並にウマ娘たちの怪我や体調不良を見抜いてトレーナーたちからも一目置かれる存在となったりで、すっかり学園に馴染んでしまっていた。

 

 ちなみに、ルリイロバショウはその壮麗に整った容姿と竹を割ったような清々しい性格に加えて、滅茶苦茶に腕っ節が強く頼もしいこともあり、相当な数の学園生からモテモテだった。彼女と会うのを目的にスポーツビジネス科のトレーニングを受講するウマ娘も多く、それがむしろレースにて良い結果に繋がることも少なくないそうだ。

 

 ルリは今の仕事にやりがいを感じて元気に励んでいるが、マリンにそのことを言うのは気恥ずかしいので会うたびに『アンタの義理で仕方なくやってるだけだからね。貸しにしてあげるからいつか返しなさいよ』と言うのだった。

 

 

 コーヒーを飲み干して、ルリは再び双子の片割れのウマ娘を見やる。その子はプンスカと頬を膨らませて耳をピコピコと動かしている。続けて双子のもう片方を見ると、その子は落ち着き払った様子で静かに文庫本を読んでいた。双子姉妹で真反対の性格である。騒がしい方のウマ娘は左耳に、静かな方は右耳に、どこかで見たことのある青色に星の模様が刺繍された耳カバーを着けていた。ルリはその2人を、どこか懐かしそうに見つめている。

 

 

「……それにしても、アンタたち双子はほんっとアヤベさんそっくりね。制服まで着てたら生き写しだわ。なのに何で性格はこんな両極端に分かれたのかしら……2人を足して2で割ったらちょうどアヤベさんになりそうなのに」

 

 

 

 そう、この双子はアドマイヤベガの愛娘たちだった。マリンと親しかった仲間たちがそれぞれの道を進む中で、アドマイヤベガはドリームトロフィーリーグを走り終え、トレセン学園卒業後にすぐに結婚した。お相手はもちろん、彼女をずっと支えていた担当トレーナーの男性である。卒業式から1ヶ月後には婚姻届を提出し共に暮らし始め、1年後には双子のウマ娘を授かった。このスピード展開には友人たちも驚いていたが、出産後に涙を流して愛おしそうに双子の赤ん坊を胸に抱くアドマイヤベガの姿に、お見舞いに駆けつけた皆がもらい泣きをしていたという……

 

 

 

「ふふんっ、でしょでしょ! お父さんも『お母さんの若い頃そっくりだね』っていつも言ってるんだよ! この前実家に帰った時に制服着てお母さんのマネして声のトーン落として『トレーナー』って呼んだら、お父さんすっごくビックリしてたの! その後、お母さんに叱られちゃったけどネ……てへっ」

 

 

 てへぺろ顔で元気なワンパクな方の子が頭を掻く。もう1人の方も姿勢と表情は変わっていないが、どこか嬉しそうに耳と尻尾を揺らしていた。この2人にとって、アドマイヤベガは母でもあり、非常に大きな憧れの存在でもあるようだ。

 ちなみに、この2人はアドマイヤベガと彼女のトレーナー(本人たちはあまり意識していなかったが)による英才教育を受けて育った、双子でトレセン学園に飛び級入学した史上初のウマ娘たちだった。かつてのニシノフラワーというレースウマ娘と同じような感じである。

 

 左耳にカバーを着けた元気が溢れ出て止まらない方の娘は『リラ』と呼ばれ、右耳にカバーを着けた静かでどんな時もマイペースな方の娘は『トレミー』と呼ばれている。

 

 

「あーあ、本当にお父さんが私のトレーナーだったら良かったのになぁ。そしたら100パーセント絶対にお母さんみたいな『ダービーウマ娘』になれるのに」

 

 

 リラは心底残念そうな声で空を見上げながら呟いた。双子の父親である元トレーナーは現在トレセン学園ではなく、都内のトレーナー養成学校で指導員を務めている。脚に支障をきたしやすかったアドマイヤベガをダービーウマ娘に育て上げ、ドリームトロフィーリーグで好成績を修めさせた実績を買われてのことだった。

 

 リラの言葉を聞き、トレミーはピクンと耳を動かす。そして、パタと文庫本を閉じる。

 

 

「……誰がトレーナーかなんて関係ないよ……」

 

 

 彼女はリラの方を向いて、小さくもハッキリと聞こえる声でその意志を示す。

 

 

「……お母さんと同じ『ダービーウマ娘』になるのは、私……リラには負けない……」

 

 

 ゴゴゴ……とトレミーは擬態語が背後に浮かんでいそうな威圧感を、澄ました表情のまま放つ。それをニヤリと不敵な笑みを浮かべてリラは受け止める。

 

 

「ふっ……やはり我々は同じ顔、同じ遺伝子と言えども決して相入れない運命にあるようだな……姉として妹を屠ることになるとは、私は悲しいよ」

 

「……巫山戯ないで、私が『姉』よ。リラが妹として、私に葬られるのよ……」

 

 

 ムム、と双子は互いに睨み合うと2人の間にバチバチと火花が散る。

 

 

「私の方が先にお母さんのお腹から出てきたもん! お姉ちゃんは私!」

 

「……後から産まれた方が姉だという説も存在するわ。それにリラと違って、私は家事料理全般こなせるもの。私の方がお姉ちゃんよ」

 

「そんなの屁理屈だよ! 産声を先に上げたのは私という事実には及ばない!」

 

「……リラが食べているサンドイッチは誰が用意したの? 全て私が朝早起きして作ったものよ。リラはその時ベッドでイビキかいて寝ていたでしょう。どちらが姉と呼ばれるにふさわしいかは明白よね? あなたが姉だというなら、そのサンドイッチを食べる資格はないわ」

 

「なっ!? 食べ物を盾にするのは卑怯だぞー! 私だって少しは料理できるもん! ゆで卵とか、袋ラーメンだってお鍋で作れるし!」

 

「……姉より優れた妹など存在しないことを自ら証明するとは、愚かね……リラ」

 

「なーんーだーとーっ!!!」

 

 

 と、2人が仲睦まじい姉妹喧嘩を繰り広げる様子を、ルリともう1人の少女は「またかー」と言った風に観戦している。この双子の『どっちが姉か論争』はもはや恒例行事なのである。

 

 

「まったく、姉とか妹とかどうでも良いじゃない。今年入学してまだデビューすらしてないってのにもうダービーの話?」

 

 

 ルリは2本目の缶コーヒーをカシュッと開ける。

 

 

「あはは……リラちゃんとトレミーちゃん、教室でもいつもこんな感じですから」

 

 

 もう1人のウマ娘が困ったように笑う。双子の姉妹はなおも睨み合いを続けている。

 

 

「こうなったら……」

 

「……そうね」

 

 

 リラとトレミーが言葉を溜める。

 

 

「「500メートル走で決着をつける!!!」」

 

 

 それを聞いて「ブフォッ!?」とルリはコーヒーを吹き出した。

 

 

「負けて吠え面をかいても知らないからね、トレミー」

 

「……そのサンドイッチを手向けにターフに沈めてあげるわ、リラ」

 

 

 まさに竜虎相搏つと言った状況の中……

 

 

「ア〜ン〜タ〜ら〜……私の前で『その言葉』を使うんじゃない……ッ!!!」

 

 

 巨大な鬼が両手で双子の顔にアイアンクローをかます。ミシミシと音を立て、喧嘩両成敗と相成った。

 

 

「いだだだだだだだだだだ!! 小顔になっちゃう、元からプリティーな私が更に小顔になっちゃう!!」

 

「……う〜……痛い〜……」

 

 

 双子はルリに掴まれたまま持ち上げられ、てるてる坊主みたいに宙ぶらりんになる。もう1人のウマ娘はアワアワと戸惑っている。

 

 

「何が『500メートル走』よ!! というか私がその言葉嫌いなの知ってるでしょうが!!」

 

 

 ミシミシミシミシィ……!

 

 ルリは鬼の形相で双子にアイアンクローを続けている。

 

 

「で、でもでも! 決着つけるのに一番手取り早いからって、学園のウマ娘みんなやってるし! ルリ姉ぇたちが最初に始めたって有名じゃん!」

 

「……お母さんも言ってた……その時初めてルリコーチと会ったんだって……めちゃくちゃ睨まれたって……」

 

「私にとっては黒歴史なのよ!!! ああもう、何でいつの間にかこの学校の風習みたいになってるのよ『アレ』が!!! これだからレースウマ娘ってやつはーー!!!」

 

 

 そう、あの『500メートル走事件』はその後も永きに渡ってトレセン学園内で語り草となっており、十余年経った現在でも諍い事の決着に使われるくらいには風習として定着してしまっていたのだ。

 

 よその学校に無断で侵入して、大勢の生徒の前で幼馴染を罵倒し怒り狂ったあの出来事は、ルリイロバショウにとっては若気の至りでやってしまった恥ずべき記憶なのだった。

 

 

「このままアンタたちの脳内からその言葉を消去するわ……二度と思い出さないように……!!!」

 

 

 メキメキメキメキ……!×2

 

「ウアアアアアァァ……!」×2

 

 

 双子が悲鳴を上げ、もう1人のウマ娘が慌てて止めに入ろうとする。

 

 

「コ……コーチ、そのくらいで許してあげて下さい〜! 2人とも悪気があった訳じゃないですよ〜!」

 

 

 そのウマ娘がルリにすがりつくが、ルリは聞く耳を持たなかった。すると…………

 

 

 

 

 

「へぇ……ルリにとっては、アレは黒歴史だったんだ。私にとっては大事な思い出なのになぁ」

 

 

 

 

 

 突然、さっきまで居なかった何者かの声が聞こえてきた。その声にルリのアイアンクローは一時中断する。そして彼女はもう1人のウマ娘と一緒にゆっくりと振り返る。

 

 

「コホン…………『随分楽しそうに踊ってたじゃない。観たわよ、あのウマスタの動画』」

 

 

 スポーツキャップを被ったそのウマ娘は腕を組んで言った。

 

 

「『可愛いステージ衣装を着てさ、レースウマ娘ごっこ……そんなに気に入ったの?』」

 

 

 当時のルリの真似をして、マリンアウトサイダは意地の悪い笑みを浮かべるのだった。それを見て、ルリイロバショウは呆けたように呟く。

 

 

「………え? マリン………?」

 

 

 どさり、と双子のウマ娘が解放される。イタタ……を2人は自分の顔を撫でていると、新たにその場にやって来た人物の存在に気が付いた。

 

 

「「…………っ!! マリンさんっ!!!」」

 

 

 双子のウマ娘たちは無邪気な満面の笑みを浮かべて、靴下が汚れるのも構わずにシートを飛び出して芝の上に立つマリンに飛んで抱き付いた。

 

 

「うおおっ……と!? 大きくなったね、リラもトレミーも。半年と少しぶりなのに、成長期って凄いな」

 

 

 飛んできた2人をやっとこさ抱き止めて、マリンは優しい笑みを浮かべて2人の頭を宝物を扱うように撫でる。

 

 

「ビックリしたぁ!!! 学園で会えるなんて思わなかったぁ!!!」

 

「……私も……しばらく海外で仕事するから帰って来れないって聞いてたから……」

 

 

 マリンが抱擁を解くと、2人はちょっぴり離れてマリンの顔を見上げる。

 

 

「ふふっ……驚かせようと思ってね。前にルリからよくここでお昼食べてるって聞いてたから、タイミングが合って良かったよ」

 

 

 マリンは目を細めて、懐かしむように親友の愛娘たちの成長した姿を眺める。

 

 

「やっと君たちの制服姿をこの目で見れた……うん、2人ともよく似合ってる。とっても綺麗だよ。アヤベさんそっくりだ」

 

 

 えへへ……とリラは笑い、トレミーも嬉しそうにふんわりと微笑んだ。すると、ピクニックシートの方からルリが3人に呼びかけたので、双子がマリンの手を引っ張ってシートまで連れて行った。

 

 

「……全く、帰ってくるなら連絡くらい寄越しなさいよ。ただでさえアンタと直接会う機会なんて珍しいんだから」

 

「あはは……ごめんね、ルリ。元気そうで良かった。もうすっかり学園の先生だね。そのジャージ姿を見てると、昔私がお世話になった指導教官の方を思い出すよ」

 

「はぁ……アンタにこの学園で無理矢理働かされてから、もう毎日がテンテコ舞いよ。レースウマ娘たちの相手をするのって疲れるわ。まだUMADの荒くれ者たちと殴り合ってた方がマシだったわ」

 

 

 ルリは両手を広げ上げて、やれやれとポーズを取る。そこにすかさず、マリンの腕に抱きついているリラがニヤニヤ顔でおちゃらかす。

 

 

「そんなこと言ってさ〜、ルリ姉ぇってよく色んな生徒の相談に乗って、時々並走トレーニングにまで付き合ってあげてるんだよ。他学科の先生だからそんな事する必要無いのにね〜」

 

 

 同じく抱きついていたトレミーも追い打ちをかける。

 

 

「……自分用の蹄鉄シューズまで買って、大事に管理しているの……この前も新しいシューズを隣町のスポーツショップで物色してた……」

 

 

 それを聞いてルリはカァッと赤くなる。

 

 

「なっっっっ……アンタたち、その事はマリンには絶対言うなって約束したでしょう!! それに何で隣町まで行った事知ってるのよ!!」

 

 

 マリンもそれを聞いてニヤリと楽しそうに笑みを浮かべる。

 

 

「へぇ〜、あのルリがねぇ。蹄鉄シューズなんて忌々しいって言ってたあのルリがねぇ……」

 

 

 ルリは悔しそうに顔を赤らめる。

 

 

「くぅっ……やはり双子の記憶をデリートするしかなかったか……!」

 

 

 そんな4人のやり取りを、もう1人の少女は驚き顔で眺めていた。特にその視線は、学園の卒業生である黒髪のウマ娘に向けられている。

 

 

「わぁ……あのマリンアウトサイダさんだ……本物だ……リラちゃんとトレミーちゃん、本当に知り合いなんだ……凄い」

 

 

 熱い視線を感じて、マリンはその少女の方を向いた。それを見てビクンと彼女の耳と尻尾が逆立つ。

 

 

「おや……初めて見る顔だね。この双子たちのお友達かな?」

 

 

 突然話しかけられて、その少女は緊張で「ひゃうっ!」と声を上げ強張ってしまう。

 

 

「あっ、そうそう! もう、真っ先に挨拶しなきゃダメじゃない! マリンさんこの娘ね、チーム『シリウス』のメンバーなんだよ!」

 

「……そう、私とリラは違うチームだけど……彼女にとってマリンさんは大先輩……」

 

 

 双子が左右からマリンに説明する。

 

 

「そうだったんだ。へぇ、今の『シリウス』の……」

 

 

 そう言ってマリンはカチコチに固まった彼女の元へ歩みを進める。ピクニックシートの端に立って近くから見ると、その娘がもの凄い美少女だとマリンは気付いた。

 

 

「こんにちは、初めましてだね。私はマリンアウトサイダ、マリンって呼んでね。私も昔チーム『シリウス』で走っていたんだ。君の名前、教えてもらえると嬉しいな」

 

 

 ニコリとマリンが微笑みかけると、その少女はガバッと立ち上がって背筋をピンと伸ばした。

 

 

「は、初めましてっ! おおお、お会いできて光栄ですぅ! 私、僭越ながらチーム『シリウス』に籍を置かせて頂いておりましゅっ! デ、デデッ……デデデッ……」

 

「……デデデ……ぞい……?」

 

「そう、この娘『デデデ』ちゃんって言うの! 趣味は環境破壊(レース的な意味で)なんだって!」

 

 

 ガチガチでカミカミに答える彼女を、双子のウマ娘がからかう。

 

 

「ち、違うっ! 違うんです! その、すみません! 私、あがり症で……レースでもいつも緊張しちゃってて! あの、えっと! あ、改めまして……」

 

 

 慌てふためく姿も絵になるとは、流石は美少女だなぁ……本当に可愛い……とマリンは微笑ましく彼女を見つめていた。

 

 

 

 

 

「私……『デアリングタクト』と申します! よろしくお願いします!」

 

 

 

 

 挨拶を終えたデアリングタクトは頬を染めて恥ずかしそうに俯く。

 

 彼女の髪に結ばれた白と水色のリボンが、秋の風に吹かれふわりと揺れた……

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

episode 6:未来の『無敗のトリプルティアラ』


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episode 6:未来の『無敗のトリプルティアラ』

 

 

 

 

 

 

「デアリングタクト……良い名前だね。『大胆不敵な戦術』ってところかな」

 

「あ、ありがとうございます……でも私、そんな格好良くなんてないです……いつも周りに助けられてばっかりで」

 

 

 マリンは爽やかな笑顔で、頬を染める美少女デアリングタクトに向かって言った。彼女はまだ緊張が抜けないようで、ぎこちなく頭を下げる。

 

 

「でもでも、タクトちゃんの走りってとっても綺麗なんだよ! まるで華の妖精がターフを駆けるみたいで、見ているとウットリしちゃうの! チーム『シリウス』の期待の新人って言われているし!」

 

 

 いつの間にかデアリングタクトの隣に移動していたリラが笑顔で誇らしげに言い放つ。

 

 

「へぇ……リラが言うなら本当にそうなんだろうな。トゥインクルシリーズでタクトちゃんのレースを見るのが今から楽しみだ」

 

 

 マリンの言葉に華の美少女はまたちょっぴり赤くなるが、嬉しそうにはにかんで「ありがとうございます、頑張ります……!」と返事をした。

 

 

「あと、タクトちゃんはどうしてチーム『シリウス』に入ったのかな?」

 

「えっ? えっと、それは……」

 

 

 デアリングタクトは一瞬言い淀むが、力強くマリンの瞳を見つめて答える。

 

 

「私……スペシャルウィークさんにずっと憧れていて、トレセン学園に合格したら絶対にチーム『シリウス』に入るって決めていたんです!」

 

 

 キラキラと耀く彼女の目に、マリンは先輩である『日本総大将』の面影を見た気がした。

 

 

「タクトちゃん、他の強豪チームにも誘われていたけど全力で断って『シリウス』に入ったもんね。さっすが筋金入りのスペシャルウィークファンだよね〜」

 

「……でも、スペシャルウィークさんの真似して食事まであんなに沢山食べなくてもいいのに……さっきまで山の様にあった重箱のお弁当を全部食べた後も、私の作ったサンドイッチ食べてたし……」

 

「あ、あれは別に真似してるわけじゃないからぁ! 私が育った所は風が強い地域で、おじいちゃんとおばあちゃんが『どんな風にも負けないくらい大きくなってね』って小さい頃から沢山ご飯作ってくれてて、それが私にとって普通の食事だったからで……」

 

 

 どうやらデアリングタクトもスペシャルウィークに負けず劣らず健啖家のようだ。若葉のように瑞々しい3人の語らいを見て、マリンは懐かしさで胸がいっぱいになり目を細める。

 

 

「そっか、スペさんに…………」

 

 

 そう言ってマリンはピクニックシートによっこいしょと腰を下ろした。

 

 

「うん、せっかく可愛い後輩たちに会えたんだ。先輩として昔話の一つでもしてあげよう。タクトちゃんの為に、私が居た頃のチーム『シリウス』のスペさんの思い出とかね」

 

 

 マリンの言葉に、デアリングタクトはキララン!と目を輝かせる。

 

 

「聞きたいです聞きたいです聞きたいですぅ!!!」

 

 

 尻尾と耳を激しく揺らしながらデアリングタクトはマリンの方へズズイと寄っていった。

 

 

「あははっ! タクトちゃん何だか犬みたいだよ! でも私も昔のトレセン学園がどんな感じだったか気になる!」

 

「…………………………」ワクワク

 

 

 リラとトレミーも興味津々な様子でマリンを見つめている。ルリイロバショウはその光景を微笑ましそうに眺めている。

 

 マリンは一息つくと、かつての思い出を語り始めるのだった。

 

 

「そうだな……じゃあ私にとって初めての夏の合宿、その時の事を話そうかな」

 

「合宿! いいな〜憧れるな〜!」

 

「リラ、静かにして」

 

 

 はしゃぐリラをトレミーが宥める。

 

 

「その合宿でゴールドシップさんが『くそっ……じれってーな。ちょっとマックイーンとトレーナーをいやらしい雰囲気にしよーぜ!』って突然言い出したんだ。夏の暑さに浮かれていたのか、みんなそれに乗っちゃってね。その2人を合宿最終日の夏祭りで2人っきりにして、影から見守りつつちょっかいを出して行こうって作戦を立てたんだ」

 

「なんか今時は漫画でもやらなさそうな作戦ね。ま、そう言うのが一番楽しいのは分かるけど」

 

「ゴールドシップさんって、今でも『シリウス』の中で伝説の先輩なんですよね……」

 

 

 ルリイロバショウとデアリングタクトが呟いた。

 

 

「ふふっ……それでね、ゴルシさん、チケットさん、ライスさん、そしてスペさんが特攻服着て2人に因縁つけて脅すヤンキー役を演じたんだ」

 

「スペシャルウィークさんがヤンキーに!?」

 

 

 目を丸くして驚くデアリングタクトも可愛らしいな、とマリンは口元を綻ばせる。

 

 

「結構似合ってたのが面白かったよ。でも結局、私たちがちょっかい出すまでもなくトレーナーさんとマックイーンさんの親密度は既に振り切れてたんだよね。2人にとってはそれが当たり前過ぎて自然に見えてただけだったんだ……」

 

 

 

 マリンの語りに、3人のうら若きウマ娘たちは夢中になっていた。そうやって穏やかに、時は流れ行くのだった……

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 マリンの語りの内容は思い出話から、かつてのシリウスメンバーの現在へと移っていた。3人のウマ娘たちも楽しそうに耳を傾けて、時にはマリンに質問を投げかけていた。

 

 

 

「…………トレーナーさんは宣言通り、スペさんが卒業すると同時にトレセン学園のトレーナーを引退して、マックイーンさんの専属トレーナーになったんだ。当時のシリウスメンバーから最終的にPGリーグへと進んだのはマックイーンさん、ブライアンさん、スペさんの3人で、これはかなり凄い記録なんだって後から知ったなぁ」

 

「そりゃそうよ。私もここで講師勤めてそこそこ経つから分かるけど、1人のトレーナーの担当チームからPGリーグに進むウマ娘は1人居るだけで凄い事なのよ。それを3人、しかもPGリーグに進んでないだけで海外で活躍しているウマ娘も担当していたなんて、アンタのトレーナーは化け物だって言われてるのよ」

 

「あはは……今のシリウスの、私のトレーナーさんも『先輩がヤバ過ぎて、それに比べて自分はダメだ〜!』って時々言ってます。私はそんな事ないと思うんですけど……」

 

 

 マリン、ルリ、タクトがそれぞれ言うと双子たちも話に加わる。

 

 

「でも『シリウス』って昔から変わり者のウマ娘たちが集まるチームだってもっぱら有名だよ! 今のメンバーも面白い先輩たちが沢山居るもん。ほら、オルフェーヴル先輩とか!」

 

「……そうね、あの人は凄いわ。必ずレースで大珍事引き起こすもの……」

 

「オルフェ先輩は確かにレースの時は豹変しちゃいますけど……普段はとっても優しい方なんですよ。私の事をいつも気にかけてくれるんです!」

 

 

 ピコピコとタクトは耳を揺らして言った。

 

 

「変わり者が集まるチームか……私は『シリウス』に入ってる時は全くそんな事思わなかったけどなぁ。皆んな優しい方ばかりだったし」

 

「特大級の異物が何言ってんのよ。格闘大会優勝者でレース未経験の高等部のウマ娘に一からレースを教えて下さいって言われて、首を縦に振るトレーナーってまず居ないわよ。どう考えてもリスクしかないもの。アンタ、自分のトレーナーにちゃんと感謝しなさいよ」

 

「むぅ……言われなくても感謝してますよぉ」

 

 

 マリンとルリが気の置けない仲らしい会話をしていると、タクトがおずおずとマリンに質問する。

 

 

「あの……マリンさん! マリンさんの世代のPGリーグに進まなかった他の方たちは今何をしてらっしゃるのでしょうか? もし教えて頂けるなら……」

 

「ん、他のみんな? そうだね……みんなそれぞれの道を進んでいるよ。スズカさんは海外レースを中心に走っているし、チケットさんも方向性は違うけど色んな事に挑戦してる。直近だとアイアンマンレースっていう過酷な超長距離レースに出走していたね」

 

「アイアンマンレースって……あの200kmくらいを丸一日かけて走る世界一過酷なトライアスロンの!?」

 

 

 リラが驚愕の声を上げる。

 

 

「それはヒトの参加者の場合だね。ウマ娘なら350kmだよ」

 

「うへぇ〜、チケゾーさんってそんなレースに出てたんだ。私には絶対に無理だぁ〜」

 

 

 足を投げ出して広げて座るリラに「はしたないわよ」とトレミーが注意する。

 

 

「ゴルシさんは……あの人らしいと言うか、やっぱり謎なんだよね。海外で何故かよくバッタリと遭遇するんだけど、その度に全く違う国で全く違う仕事をしてて……最後に会った時はインドで注ぎ口が沢山ある謎の装置を背負ってお茶を売っていたよ。時々日本に帰ってきてマックイーンさんの自宅でお世話になってるみたいだけど」

 

「……本当に謎ね……でも会ってみたい……」

 

 

 トレミーはゴルシに興味がある様子だ。

 

 

「3人組の先輩たちは卒業後もずっと仲良しで、今は一緒にブティックを経営しているよ。結構繁盛してるみたい。勝負服に使う小物の制作を請け負ったりもしてるんだって。後はライスさんだけど…………うーん」

 

「? どうされたのですか、マリンさん」

 

 

 デアリングタクトはなにか言い淀むマリンを不思議に思った。

 

 

「……君たち、秘密は絶対に守れる?」

 

「守れる守れる守れる!!!」

 

 

 リラがワクワク顔でコクコクと頷く。秘密の話というのはいつの時代でも若者の興味を引くようだ。他の若者2人もコクコクと追従する。

 

 

「うむ、君たちを信用して教えてあげよう。ライスさんはね、作家をしているんだ。絵本作家から始まったんだけど、今は小説とか舞台の脚本を書いたりもしているんだって」

 

「……え、そうだったの? ライスシャワーさんが本を書いてるって聞いた事ないわ……」

 

 

 トレミーは目をパチクリとさせて言った。読書家の彼女にとって意外な情報だったようだ。

 

 

「ペンネーム教えてあげる。みんな、こっちに寄って」

 

 

 マリンがそう言うと3人の学生は彼女に顔を近付ける。そしてマリンがこっそりと作家ライスシャワーのペンネームを囁くと……

 

 

「「「えええええええええっ!?」」」

 

 

 3人は驚愕の表情を浮かべた。

 

 

「その人の絵本、私たち小さかった頃に読んでたよ! 今も多分実家に置いてあるっ!」

 

「……嘘……驚愕過ぎだわ……」

 

「わわ……私たち、そんな事知っちゃって良かったのかな。だ、誰かに監視されたりしない……?」

 

 

 若きウマ娘たちは三者三様に動揺する。ライスシャワーは若者なら知らぬ者は居ないと言える程の著名作家となっていたのだ。

 

 

「ライスさんは、学園卒業前から出版社と契約を交わしていたんだ。ライスシャワーって名前を隠して本を出したかったんだって。だから今聞いたことは他言無用だからね。もし誰かに話したりしたら私が直々にお灸据えてあげるから。いいね?」

 

 

 マリンはちょっぴり威圧感を出して警告すると、3人のウマ娘たちはブンブンと首を縦に振る。

 

 

「良いの、マリン? こいつらにそのこと言っちゃって」

 

 

 片膝立てて座るルリがマリンに向かって言った。マリンは「あはは、まぁきっと大丈夫だよ」とにこやかに微笑む。

 

 

「……ルリコーチは知ってたの……?」

 

「まぁね。マリンを通してあの時代のシリウスのレースウマ娘たちとも仲良くさせて貰ってたし」

 

 

 トレミーの問いかけに、ルリは缶コーヒーを飲みながら答える。その正面に座るマリンもトレミーに分けて貰った水筒のお茶を飲んで一息ついていた。

 

 

「……さて、私だけ喋るのもなんだから、そろそろ君たちの事も聞かせて貰おうかな。例えば……レースウマ娘としての目標とかね」

 

 

 マリンがそう尋ねると、真っ先にリラがビシッと手を上げて元気一杯の声で叫ぶ。

 

 

「はいっ! 私は日本ダービー! ダービーダービーダービーダービーッ!!!」

 

 

 話に聞いていた昔のチケットさんみたいだな、とマリンはクスッと笑う。

 

 

「……リラ、うるさい……でも私も同じ。お母さんと同じダービーウマ娘になるのが、私の目標……」

 

 

 トレミーもマリンの眼を見つめてハッキリと宣言する。

 

 

「わ、私は……『トリプルティアラ』……です」

 

 

 デアリングタクトは小声で呟くように言うと、リラもトレミーも驚いた表情になった。どうやらこの双子たちも初めて聞いた事のようだ。

 

 

「ええーー!? タクトちゃん、トリプルティアラ路線に行くの!? 何で!? 絶対にクラシック三冠の方がカッコいいよ! それにスペシャルウィークさんもダービー勝ってるんだよ! 一緒にダービー走ろうよー!!」

 

「こら、カッコいいとかそんな問題じゃないでしょ」

 

 

 ゴネるリラを、ルリが諌める。そしてデアリングタクトはおずおずと言葉を続ける。

 

 

「その……スペシャルウィークさんみたいなダービーウマ娘になれたら……って思わない訳じゃないんです。でも、私は長距離の適正はあまりないみたいで……」

 

 

 どこか歯切れの悪いデアリングタクトの言葉の裏に何かがある、とマリンは直感した。

 

 

「何か事情がありそうだね。良かったら聞かせてくれないかな、タクトちゃん」

 

 

 デアリングタクトはマリンの顔を見つめると、おもむろに語り始めた。

 

 

「……私は今でこそ『シリウス』に所属していますけど、実は……最初はトレーナーさんにチームへの加入を断られたんです」

 

 

 ブルーシートの上の、デアリングタクト以外のウマ娘たちの間に衝撃が走った。

 

 

「ええええ!? 私、初めて聞いたよ!!」

 

 

 リラがびっくり仰天な様子である。トレミーやルリまでもが目を見開いていた。

 

 

「うん、実はそうだったの。中々言い出せなかったんだ……あんまり明るい話じゃないし、最終的には『シリウス』に入れたから話さないで大丈夫かなって思って」

 

「……タクトは選抜レースでも1着だった。私たちの世代の有望株で、どのチームにも引っ張りだこだったのに、それでも断られたの……?」

 

 

 トレミーの質問に、デアリングタクトは俯く。そしてマリンは話の続きを促した。

 

 

「ふぅん……タクトちゃんはそんな期待されるウマ娘だったのに、あのサブトレーナーさんは断ったんだね」

 

「……だからこそ、だったと思います。トレーナーさんって、チームの利益なんて関係なくウマ娘たち一人一人の最善を考える人なんです。私がチームに入りたいって伝えたら、『君は素晴らしい才能を持っている。けれど、その芽を育てるにはシリウスじゃ力不足だ。君が本当に輝けるチームは他にある』と言って、全く取り合ってくれなくて」

 

 

 皆、真剣にデアリングタクトの話に聞き入っていた。

 

 

「それでも私、諦めきれなくて何度もトレーナーさんに『シリウス』への加入を頼み込んだんです。けど、その度に断られていました。ついにはトレーナーさん、私が『シリウス』よりも入るべきチームを熱心に紹介しだして……ふふっ、可笑しいですよね。断れば良いだけなのに、プロジェクターとか資料とか沢山用意して他のチームのプレゼンまでしたんですよ」

 

 

 デアリングタクトは困ったよう顔を綻ばせる。その表情には、彼女のトレーナーへの深い信頼が見て取れる。

 

 

「でも、だからこそ……惹かれたんです。このトレーナーさんの元で、このチーム『シリウス』で走りたいって思ったんです。この人は本当に本気で私の事を考えて心配してくれているのが伝わってきたから。それで食い下がっていると、オルフェ先輩が助け舟を出してくれて、トレーナーさんは渋々私の加入を了承してくれました」

 

 

 デアリングタクトの話を聞いて、ルリが神妙な顔付きになる。

 

 

「まぁ……シリウスのトレーナーがそう言うのも不思議じゃないのよ。マリンには悪いけど、今の『シリウス』はお世辞にも良い成績を残してるとは言えないものね……むしろマリンが居た頃の『シリウス』がおかしかったのよ。癖者揃いと言え、実力も化け物級なウマ娘たちが集まっていたんだもの」

 

「……トレーナーさんも陰で色々と言われて、落ち込んでいるみたいです。今の『シリウス』に残っているのは名前だけだ、トレーナーの代替わりで落ちぶれたって臆面もなく言う人たちも居て……『シリウス』の名を背負うのは重いと言って他所のチームに移籍するウマ娘も居たらしいです。だから今は最低限の人数しかチームに居ないんです」

 

 

 マリンはデアリングタクトをじっと見つめて言う。

 

 

「……それでも、タクトちゃんは『シリウス』を選んだんだね。あのサブトレーナーさんは私が卒業する直前にシリウスにやって来たから、私はあまり深く付き合った事はないんだ。けど、私のトレーナーさんが言ってたよ。あのサブトレーナーは能力はトレセン学園の中でも下から数えた方が早い、けど誰よりもウマ娘に真摯に向き合える奴なんだ……って」

 

 

 マリンの言葉にデアリングタクトは目を輝かせる。

 

 

「そうなんです! 凄く一生懸命で、見てるこっちが心配になるくらいなんです! トレーナーさんはどんなウマ娘でも絶対に受け入れて、真っ直ぐに向き合ってくれます。あのトレーナーさんだからこそ、オルフェ先輩や他の方々が『シリウス』に集まっているんです。偉そうな事は言えないけど、スペシャルウィークさんを育てたかつてのシリウスのトレーナーさんが、あの人を後任に選んだ理由が分かった気がしたんです……」

 

 

 デアリングタクトの瞳の奥には、固い決意の炎が燃えていた。

 

 

「オルフェ先輩が言ってました。自分の様な厄介者を受け入れてくれたのはあの人だけだ。だから、自分の脚でやれる事は全てやるつもりだって……だから私も、今の自分が1番活躍できる可能性が高い路線に進むと決めたんです!」

 

 

 デアリングタクトはマリンの瞳を真っ直ぐに見つめる。そこには、自信無さげな少女の姿はどこにもなかった。

 

 

 

「私は、チーム『シリウス』が大好きです!! 

 

 スペシャルウィークさんやマリンさんが居た、このチームが……

 

 だからトレーナーさんの為に、『シリウス』を日本一のチームにしたいです!! それが私の夢です!!」

 

 

 

 その華のような笑顔を見て、マリンは心の底から安堵していた。彼女は自分と仲間たちが去った後のチーム『シリウス』の現状を、もちろん知っていたのだ。だが、彼女の思い煩いは既に彼方へ消え去っていた。若き芽は、かくも力強く美しく萌えていたのだから……

 

 

 

「〜〜〜〜〜っ、タクトちゃんっっ!!!」

 

 

 マリンはデアリングタクトに飛び付いて力一杯抱きしめる。華の美少女は突然のことに目をパチクリさせて慌てふためく。

 

 

「あぁ、こんなに健気で可愛い後輩が居たなんて、スペさんもきっと喜ぶよ! ほんっっっとうに可愛いなぁもう、まるで花束を抱きしめてるみたい……良い香りがする……!」

 

「あ、あ、あの、マリンさんっ!? ちょ……ぷっ……く、苦しいですぅ……!」

 

「あははっ! 分かる! タクトちゃんって凄く抱き心地が良いんだよね! 良い匂いもするし!」

 

「……じぃぃ……いいなぁ……タクト……」

 

「ちょっと、マリン。その辺にしておきなさいよ。アンタ、筋力だけならレース現役時代よりも強くなってるんだから。タクトが潰れちゃったらどうする気よ」

 

 

 ジタバタと暴れるデアリングタクトを名残惜しそうに解放すると、マリンは彼女の肩に手を置いた。

 

 

「頑張ってね、タクトちゃん。私、地球の裏側からでも、どこからでもずっと応援しているからね」

 

 

 その優しい声に、デアリングタクトは力強く頷いた。

 

 

「はい、きっと応援に応えてみせます……! と言っても、私のデビューはまだ先なんですけどね……オルフェ先輩も来年からクラシック級ですし、それまでにトレーナーさんとみっちりトレーニングして自分を鍛えますっ!」

 

 

 デアリングタクトは両手を握って気合い十分な様子だった。他のウマ娘たちが笑顔で彼女を見つめる中、リラは腕を組んで難しい顔をしていた。

 

 

「タクトちゃんがそんな思いを秘めていたなんて、私は知らなかったなぁ……でも!」

 

 

 突然声を上げたリラに皆の注目が集まった。

 

 

「タクトちゃん……夢はね、『盛り得』なんだよ! 『シリウス』を日本一のチームにしたいのなら、夢もそれ相応にデッカくなけりゃつまらないよ!」

 

「何言ってんのよリラ……トリプルティアラって、その時点で相当にデッカい目標じゃない」

 

 

 ルリは胡座をかいて、右手で頬杖をつきながら言った。しかしリラは「チッチッチ」と生意気そうに指を振る。

 

 

「ルリ姉ぇは甘いなぁ。トリプルティアラと言えばもう一つの『三冠』だよ? 今年の春に卒業したディープインパクト先輩を見たでしょ。あの風格こそが日本一って感じがしない?」

 

「……リラ……あなたまさか……」

 

 

 トレミーの呟きにキラン!とリラの目が光る。

 

 

「そう! 『シリウス』を日本一のチームにしたいのなら、タクトちゃんの目的はただのトリプルティアラじゃあいけない! 目指すならその更に上……

 

 

『無敗のトリプルティアラ』ッ!!

 

 

 そうでしょ、タクトちゃん!!」

 

 

 『無敗のトリプルティアラ』、リラの言葉にその場の他のウマ娘たちは息を呑んだ。そしてルリは言葉を絞り出すように言う。

 

 

「……『無敗』って……デビューしてからクラシック期まで一度も負けずに走って、そこから更にトリプルティアラの3つのG1レースを勝つってこと? 無敗のクラシック三冠と同レベルの難易度じゃない。マリン、今まで『無敗のトリプルティアラ』を達成したウマ娘って居るの?」

 

「……居ないね。もし達成したら史上初の快挙になる」

 

「わっ……私が、むっ、無敗の三冠を……?」

 

 

 デアリングタクトのさっきまでの堂々とした姿はどこかへなりを潜めてしまった。だが、彼女は自分の手を誰かが握るのを感じ取った。ワナワナと震え出したその手を握ったのはトレミーだった。

 

 

「……別にリラの肩を持つ訳じゃないけど、夢を語るのを怖がってはいけないと思うわ。スペシャルウィークさんだって、きっとそうだったのでしょう……?」

 

 

 ジッと見つめてくるトレミーの瞳に、デアリングタクトはハッとさせられた。彼女の心は落ち着いて、凛々しい表情を取り戻して微笑む。

 

 

「ふふっ……リラちゃんもトレミーちゃんも、本当に凄いなぁ。私の方がお姉ちゃんなのに、いつも助けて貰ってばかり……よしっ!!」

 

 

 パンパン!とデアリングタクトは自らの頬を叩いて気合いを入れ直した。

 

 

「私は……『無敗のトリプルティアラ』を達成して、チーム『シリウス』を日本一のチームにするっ!!! 絶対に、負けないっ!!!」

 

 

 決意を新たにしたデアリングタクトの……未来の『無敗のトリプルティアラ』ウマ娘の姿が、黒髪のウマ娘の瞳に眩しく映る。

 

 マリンの目の前に、メジロマックイーン、ゴールドシップ、ウイニングチケット、ライスシャワー、ナリタブライアン、サイレンススズカ、スペシャルウィーク、そして3人の先輩たち……トレセン学園の制服を来た皆の笑顔が浮かんで見えた。

 

 

(あぁ……みんな、私たちの『道』は繋がっているよ。その先もきっと……)

 

 

 マリンはチーム『シリウス』で過ごした、かつての輝かしい日々を思い出して笑顔を浮かべる。あの頃には決して戻れない、けれど自分たちの後に続くウマ娘たちが確かに居る事を知ったのだ。

 

 

 そんな誇らしい思いに浸っていると……

 

 

 

 

 キーンコーンカーンコーン……

 

 

 

 

 遠くの本校舎の方から鐘の音が聞こえて来た。

 

 

「あらら、もうこんな時間なのね。名残惜しいけど……リラ、トレミー、タクト、片付けてさっさと校舎に戻るわよ」

 

 

 ルリがそう言うと、リラとトレミーは泣きそうな顔で彼女を振り返った。

 

 

「ええーーー!? せっかくマリンさんに会えたんだよ! お願いルリ姉ぇ、もう少しだけ!!」

 

「……っ……」

 

 

 双子のウマ娘たちはウルウルと瞳を潤ませる。先の会話でマリンがすぐに日本を発つ事は伝えてあったのだ。

 

 

「ダメよ。その制服を着ているのなら、私はアンタたちを大人として扱うわ。一時の感情で我儘を言うのは許されないわよ」

 

「ふふっ……ルリは立派に先生をしているね。ルリ、トレミー、私が今度日本に帰って来たら、真っ先に会いに来てあげるから……もちろん、タクトちゃんもね。君たちがレースウマ娘として成長した姿を見るの、楽しみにしているよ」

 

 

 マリンは双子を抱きしめながら、デアリングタクトに話しかける。その温もりを、胸一杯に感じ取る。

 

 

「うぅ……マリンさぁん!」

 

「……ぐすっ……」

 

 

 さっきの立派な振る舞いはどこへやら。飛び級したと言えども、大好きな人との別れの時には、双子たちは年相応の子供に戻ってしまうようだった。ちなみに実は、大人びた雰囲気のトレミーの方がリラよりも寂しがり屋だったりする。

 

 

「タクトちゃん、チームの事、任せたよ。サブトレーナーさん……いや、『シリウス』のトレーナーにもよろしく伝えておいてね」

 

「はい、任せて下さい! きっとマリンさんたちの時代よりも、もっともっと立派なチームにして見せます!」

 

 

 その頼もしい返事を聞いて、マリンは満足そうに微笑み返す。学生たちはピクニックシートをテキパキと片付けていく。その様子を見ながら、ルリはマリンに話しかけた。

 

 

「で、アンタこれからどうするの? 誰にも帰ってきた事伝えてないって言ってたけど」

 

「今日はゆっくり休んで、明日はおじいちゃんの所へ行く予定だよ。久しぶりだから色々とやる事があるしね」

 

「……そう、確かに顔見せなきゃ怒られるわね。いくら日本に居る時間が短いとは言えね」

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 そうしてマリンは、彼女の幼馴染と3人の若きウマ娘たちが校舎へと戻るのを、その姿が見えなくなるまで見送った。途中途中で何度も振り返る可愛い双子たちに、笑顔で手を振り続けたのだった。

 

 

「……ふぅ、本当に来て良かった。『新しい時代』を駆ける彼女たちに、どうか幸あらんことを……」

 

 

 マリンは天に向かって祈りを捧げた。どこまでも澄み渡る青空が、若きウマ娘たちを見守ってくれているような気がした。

 

 

「……ああ、ここまで来ると……やっぱり欲が出ちゃうなぁ」

 

 

 マリンは本来はここで帰るつもりでいた。しかし、彼女の心がとある場所に向かうようにと急かし続けていた。

 

 

「……チラッとだけ覗いて帰ろう。邪魔しちゃ悪いしね。ダンスレッスンのスタジオに居るかもしれないけど、確かどの辺だったかな……」

 

 

 

 ザッザッとマリンは芝を踏んで歩き出す。

 

 

 とあるウマ娘が居るであろう場所を真っ直ぐに目指して……

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

episode 7:桜色の先生


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episode 7:桜色の先生

 

 

 

 

 

 

 かつて友人たちと歩いた廊下を、マリンアウトサイダは忍足で素早く移動する。授業時間中で静まり返っているその道で、彼女は懐かしく賑やかな顔ぶれとすれ違う幻影を見た気がした。

 

 実は彼女はUMADとトレセン学園が秘密裏の会合を開く際に使用される『例の裏口』を通ってきていた。正式な手続きを経ずに学園に侵入したので、他の者に見つかっては都合が悪かったのだ。

 

 

(あそこだ。この時間ならレッスンは開かれているはず……)

 

 

 マリンはスタジオの扉の前に辿り着くと、壁に背をつけて覗き窓からこっそりと中を伺った。すると中では多くのウマ娘が真剣に、そして笑顔で振り付けの練習をしていた。そんな彼女たちの中心には……

 

 

 意気軒昂、一所懸命に、未来を担う若葉を育む

 

 『桜色の先生』の後ろ姿があった

 

 

(ああ……『彼女』だ……)

 

 

 マリンはそのウマ娘を見て目を細める。セミロングの桜色の髪を後ろに束ねた彼女がステップを踏むたびに、トレードマークのハチマキが宙に揺れる。彼女は学生の頃よりずっと背は伸びているが、まだ小柄だと言える体型だった。しかし、その洗練された動きを見れば、誰もが彼女がプロのダンサーである事を疑わないだろう。

 

 マリンアウトサイダのライバル……『ハルウララ』は、現在トレセン学園でダンス指導教官として働いている。彼女のレッスンには連日多くのウマ娘が参加しており、その人気っぷりは学園内でも指折りである。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 ここで、『不屈のアイドルウマ娘』ハルウララの卒業後の進路を記しておこう。

 

 彼女は学園を卒業すると、「大好きなダンスをもっと頑張りたい!」という理由で都内のある有名な劇団に入団した。そこでの下積みを通してダンサーとしての才能を開花させた彼女は、一時期はプロダンスチームの一員として全国を巡って活動していた。だが、四国に立ち寄った際に観た高知レース場でのレースとウイニングライブをきっかけに、トレセン学園の先生になろうと思い立ったのだった。

 

 指導教官となったハルウララの人気は抜群だった。それは元々の知名度とプロダンサーとしての実力があっての事だったかもしれない。しかし、何よりも皆の心を掴んだのは、誰よりもレースでの敗北を知る彼女が尚もひた向きに、そして朗らかであり続けたその『強さ』だった。そんな彼女に、多くのウマ娘が惹かれていたのだ。まるでかつてのマリンアウトサイダのように……

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 溢れんばかりの熱意と満開の桜のような笑顔でダンスを教えるハルウララの姿に、マリンは呼吸も忘れて見入っていた。生徒たちの笑顔が絶えないスタジオで、ハルウララは比喩ではなく本当に輝いて見えたのだった。

 

 

(……うん、満足だ。彼女を一目見れた。今はこれだけで良い……)

 

 

 レッスンの邪魔をしてはいけないからせめて……と、マリンは最後にスタジオの風景を目に焼き付けようと窓に目を凝らした。すると……

 

「入構許可証も申請せずに何をなさってるんですか? マリンアウトサイダさん」

 

「ひゃうわっっ!?」

 

 

 ビクン!とマリンは耳と尻尾を逆立てる。ダンスを指導するハルウララにあまりに夢中になっていたのか、いつの間にか側に立っていた人物に気付けなかったようだ。

 

 

「大声を出したらレッスンスタジオの中に聞こえちゃいますよ?」

 

「た、たづなさん!?」

 

 

 マリンが振り返った先には、昔と変わらぬ緑の服装に身を包んだトレセン学園理事長秘書・駿川たづなが柔らかな物腰で佇んでいた。

 

 

「はい、駿川たづなです。お久しぶりですね、マリンさん。日に焼けていたので、誰だか判断に迷ってしまいました」

 

「お、お久しぶりです、たづなさん……その気配を消す技術、相変わらず見事ですね。やっぱり本当は何か武道を修めているんじゃないですか?」

 

「ふふふ、私はただの秘書ですよ」

 

 

 ニッコリと微笑むたづなの笑顔は十数年前から何も変わっていない。マリンはまるでタイムスリップしたかのような不思議な感覚に陥ってしまう。

 

 

「どうして私がここに居ると分かったんですか?」

 

「秘書の直感です……と言うのは冗談で、貴方が例の裏口を使ったのがモニターで確認できました。この学園も昔よりセキュリティは強化されていますので」

 

「そうだったんですね……あはは」

 

 

 マリンはバツが悪そうに頭を搔く。そんな彼女を尻目にたづなはチラッとスタジオを覗き込んだ。

 

 

「ハルウララ先生のレッスンをご覧になっていたのですね、マリンさんは」

 

 

 たづなは目を細めて優しく微笑んだ。レッスンを受ける若きウマ娘たちの未来に思いを馳せるように。

 

 

「……はい。本当はすぐに帰るつもりだったのですが、どうしても一目見ておきたくて」

 

「彼女のレッスンはとても人気があるんですよ。プロダンサーとして活躍していたからと言うのもありますが、何よりも彼女はレースで活躍できないウマ娘たちの気持ちを誰よりも理解している。落ち込んだ生徒たちを励ますことに関しては、彼女の右に出る者はいませんから……」

 

 

 たづなの言葉に、マリンはかつてハルウララとダンスレッスンを共にしたウマ娘たちを思い出していた。彼女たちも皆、それぞれの道を歩んでいた。中にはハルウララが所属していたプロダンスチームで現在も活躍しているウマ娘たちもいる。

 

 

「そうですか……今でも彼女は、たくさんの誰かを救っているのですね。凄いな、本当に凄い……」

 

 

 マリンがそう言うと、たづなは「ふふっ」と声を出して笑った。マリンがそれを不思議そうに見つめる。

 

 

「いえ、すみません。ただ、貴方たちがお互いに尊敬しあってる事がとても眩しくて……ハルウララさんも、マリンさんに対して全く同じことをおっしゃっていたのを思い出したんです」

 

「え……?」

 

 

 予想外の言葉に、マリンは目を丸くして固まった。たづなはニコリと微笑んで言葉を続ける。

 

 

「ハルウララさんは言ってましたよ。マリンさんが作った新学科のお陰で、学園のウマ娘たちは沢山の道を選べるようになった。『沢山の寄り道をしなさい。もしかしたらそこで大切な物が見つかるかもしれないから』とマリンさんの言葉を迷っているウマ娘たちによく話してあげているそうです」

 

「そ、そうなのですか!? なんか、照れくさいですね……」

 

「そして、こんな事も言ってました。『そんな道を作ったマリンさんは、今でも世界中で沢山の人達を助けてるんだ。レースでダメダメだった私と本気で真剣に勝負してくれた、私の自慢のライバルなんだ。とっても凄いウマ娘なんだ』と……」

 

「っ……!」

 

 

 たづなから聞いたハルウララの思いに、マリンの胸の奥がジンと熱くなる。

 

 

「……確かに、行く先々でトラブルに巻き込まれたりで結果的に人助けをしたりする事もありますが、それでも……ハルウララに救われたのは、他ならぬ私なのです。彼女がいなければ、私はこの道を進む事も、作る事も出来なかった」

 

 

 マリンは再びスタジオを覗き込む。そこには生徒たちと一緒に踊る、成長した最高のライバルの姿が見えた。たづなも少し身を乗り出してマリンと一緒にその『桜色の先生』の背中を眺める。

 

 

「成長しましたね……ハルウララさんもマリンさんも。はぁ……私もオバさんになってしまう訳ですね。最近は若い子たちの輝きが一層眩しく見えてしまいます」

 

 

 たづなはため息をついて頬に手を当てる。なんだか色っぽいなとマリンは思った。

 

 

「いや……たづなさんの若々しさも昔から何にも変わってないじゃないですか。サイ○リヤの間違い探しかってくらい、変わった所が見つからないのですが……」

 

「ふふっ、お世辞でも嬉しいですよ、マリンさん」

 

「ガチでそう思ってるんですけどね……」

 

 

 今度その若さの秘訣を教えてください、と言ってマリンはスタジオの扉に背を向けた。

 

 

「会って行かないのですか? ハルウララさんもきっと喜ぶと思いますよ」

 

「いえ、それはまた今度の機会に。生徒たちがあんな笑顔で楽しそうにレッスンしているのを邪魔するのは気が引けてしまいますから。たづなさんにも会えて嬉しかったです。秋川理事長にもよろしくお伝え下さい。では……」

 

 

 そう言ってマリンは足早に立ち去ろうとする……が、

 

 

「どこへ行こうと言うのですか、マリンさん……?」

 

 

 とっても笑顔なたづなさんがマリンの肩をギリギリと掴んで離さなかった。

 

 

「確かにマリンさんは新学科の創設者でトレセン学園と深い関係にありますが……所属組織が違うと言う点では貴方は『部外者』なのですよ? UMAD副理事長ともあろう者が学園に無断侵入するのは如何なものでございましょう?」

 

「あ、あの……すみません……たづなさん……」

 

 

 マリンは冷や汗を流して振り返る。たづなさんの背後にはかつてと変わらぬ鬼のオーラが浮かんでいた。

 

 

「では、理事長室に向かいましょう。秋川理事長がお待ちです。すこ〜〜〜しばかりお説教が待っていますよ。はぁ、この間もチーム『シリウス』の子たちをお説教したばかりなのに、マリンさんもやっぱり『シリウス』なんですね……」

 

「え、『シリウス』って今でもそんな感じなんですか? おかしいな、タクトちゃんはあんなに良い子なのに……」

 

 

 そんなこんなで、マリンはたづなに引っ張られるように連行されてしまう。理事長室では積もる話もしつつ、たっぷりお説教を食らったそうな……

 

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 

 それから数時間後、場面変わって……

 

 学園から離れた閑静な住宅街、その一角に近所で評判の『お花屋さん』があった。お洒落で可愛いらしい雰囲気のそのお店は、店内で小さなカフェも経営している。

 

 今、そこの店員と思われる小柄なウマ娘が1人のお客さんに花束を包んでいる。慣れた手つきでさっとリボンを結ぶと、新聞紙で包んでお客さんに手渡した。

 

 

「ありがとうございました。またお越しください」

 

 

 エプロン姿の小柄なウマ娘は笑顔でお店の外までお客さんを見送ると、「ん〜っ」と腰に手を当てて背中を伸ばした。

 

 

「フゥ……やっと一段落かな。チビはまだお昼寝してるし、アタシも一息入れようかな」

 

 

 涼しい風にエプロンをパタパタとなびかせて、ナリタタイシンは小さく呟いた。学生の頃よりほんのちょっとだけ背の伸びた彼女は、どこか若奥様な雰囲気が漂っていた。まあ、実際そうなのであるが。

 

 彼女が店の中に戻ろうとすると、カツンカツンと足音が聞こえてきた。せっかく休めると思った所にまたお客さんかな、とタイシンは内心でため息をつくが、そこは社会人スマイルでやってきた人物を出迎えるのだった。

 

 

「いらっしゃいませ〜。何かお探しでしょうか……って、あれ」

 

 

 やって来たのはサングラスをかけた、ふんわりとしたポニーテールの髪型をしたスタイルの良い芦毛のウマ娘だった。彼女はタイシンの前まで来ると、おもむろにサングラスを外す。

 

 

「やあ、タイシン。仕事の邪魔をしてしまっただろうか。久々に時間が取れたから、君に会いに来たのだが……」

 

「ハヤヒデ!? 久しぶりじゃん! 何でアタシがここで働いてるって知ってるのよ。まぁいいや、とにかく中に入って! コーヒー出してあげるから」

 

 

 やって来たのは現役のPGリーグプロランナー『ビワハヤヒデ』だった。妹のナリタブライアンと共にAランク帯で活躍中の、正真正銘の日本のトップランナーの1人である。

 

 その人気っぷりはファンや現役のトレセン学園生ならば会ったら気絶してしまう程なのだが、タイシンは昔馴染みの親友として気さくに彼女に接している。ハヤヒデにはそれが心地良いので、たまに時間を作ってはタイシンに会いに来ているのだ。

 

 

「ああ、ありがとう。では、遠慮なくお邪魔させて貰うよ」

 

 

 タイシンは多くの花々が丁寧に飾ってあるカフェスペースにハヤヒデを案内すると、「ちょっと待ってて」と言ってコーヒーの用意をするのだった。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「お待たせ。最近マンハッタンカフェさんに色々教わってるんだ。少しはコーヒーの腕前が上がったと思うんだけど」

 

「ああ、素晴らしい香りだ」

 

 

 ハヤヒデはゆっくりと香りを楽しむと、カップに口を付ける。その様子をタイシンは「相変わらず大人っぽくてザ・美人!って感じよね、ハヤヒデって」と思いつつ見守っている。

 

 

「っ、凄いな……! 専門店にも引けを取らない味わいだぞ、これは」

 

「へへっ、でしょ! ハヤヒデにそう言ってもらえるなら、新メニューに加えちゃっても良いかもね」

 

 

 そうして2人は気の置けない仲間として、昔に戻ったように他愛の無い会話を楽しんだ。

 

 

「…………そこで偶然、君の旦那さんとバッタリ出くわしてね。君のご両親が腰を痛めたから代理でこの店で働いていると聞いたんだ」

 

「ああ、そうだったの。うん、うちの親が2人とも仲良くギックリ腰よ。暫く動けなさそうだから、ここは今はアタシのお店なの。まあ、チビの世話もしなきゃならないから結構大変だけど、楽しくやらせて貰ってる感じ」

 

 

 タイシンは現在結婚して、一児の親となっていた。旦那は彼女の元トレーナーで、現在もレース関係者として働いている。

 

 

「ふふっ、そうか。楽しくやっているなら何よりだ。君の娘さんも育ち盛りで大変だろうと気になっていたんだ」

 

「そうなのよ、やたら走り回るから気が休まる時がないわ。このお店やってる時は大人しくしてくれるから良いんだけどね」

 

 

 2人は再びコーヒーに口を付ける。静かでリラックスできる時間がゆっくりと流れていた。

 

 

「……せっかくハヤヒデに会えたのに、2人だけってのは寂しいね」

 

「……そうだな。学生の頃は静かな日など思い出せないくらい騒がしかったのにな。チケットとマリン殿は海外が拠点だし、『覇王世代』の皆もそれぞれ忙しい日々を送っているそうだ」

 

 

 ちょっぴりしんみりした空気が漂う中を、カフェスペースから離れた入り口からコンコンとノック音と、カラランと扉の開く音が響いて来た。

 

 

「あっ! しまった……休憩中の札を掛けるの忘れてた。ごめん、ハヤヒデ。ちょっと対応してくるね」

 

「ああ、気にするな。ゆっくりとここの花を眺めているさ」

 

 

 タイシンは席を立つと、入り口の方へ向かった。そこにはスポーツキャップを被った日焼けしたヒッチハイカーの様な出で立ちのウマ娘が立っていた。

 

 

「すみません。ここってナリタタイシンさんのご両親のお店ですよね。私、実は彼女の元クラスメイトで、昔何回かここに来た事が……」

 

 

 そのお客さんの声を聞いて、タイシンは目を見開く。まるで天然記念物の生き物に出会ったかの様な驚愕の表情を浮かべた。

 

 

「うっそ……マリン……!?」

 

「ブフッ! あちちっ! な、なんだって!?」

 

 

 タイシンの声を聞いて、ハヤヒデも思わず熱いコーヒーを吹いてガタン!と立ち上がっていた。2人の視線の先には、確かにあのクラスメイトだった黒髪のウマ娘が立っていた。

 

 

「えっ……タイシンさん!? それにハヤヒデさんまで!? ああ……本当になんて日なんだ、今日は……」

 

 

 マリンも2人と同じく、驚愕の表情を浮かべるのだった……

 

 

 

 

 





次回

episode 8:仲間たち


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episode 8:仲間たち





 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻は夕方に差し掛かるところ。西陽が射す住宅街のとあるお花屋さんの扉は、いつもなら開いているはずなのにその時は閉ざされていた。

 

 店内ではコーヒーの芳醇な香りが3人のウマ娘を包み込んでいた。店のオーナー(代理)であるナリタタイシンは店の入り口に「休憩中」の札を立てたので、この貴重な時間は今は誰にも邪魔される事はないだろう。

 

 

「……それにしても、本当にビックリした。まさかマリンがやって来るなんて誰が予想出来るってのよ」

 

「ああ、驚愕も驚愕だ。海外の仕事が一段落ついたから、日本に立ち寄った……と言った所か。私たちに帰国を伝えなかったと言うことは、今回の滞在はほんの僅かな期間だけになるのだろう。マリン殿の事だからな、皆に迷惑をかけまいと考えたんじゃないか?」

 

「うわ……流石ハヤヒデさんだ。私がまだ何にも話していないのに、説明することが無くなっちゃいました。そうなんです、明後日の早朝には日本を発たなきゃいけなくて。私もまさかタイシンさんとハヤヒデさんに会えるとは思わなかったですよ」

 

 

 

 マリンはタイシンの用意したコーヒーに口をつける。その美味しさに驚いた彼女が賛辞するとタイシンはニカッと笑顔になった。それから3人は簡単に互いの近況を伝え合うと、気の置けない仲間同士で、ゆったりと歓談に興じるのだった。

 

 話題はマリンが今日体験した数々の再開と新たな出会いへと移り変わってゆく。

 

 

 

 それはシンボリルドルフの話だったり……

 

 

 

「何、ルドルフ殿に会ったのか!? しかもバーで小一時間語らっただと……あのお方は常に御多忙な身で、私ですら会えるのは数ヶ月に一度くらいなんだぞ」

 

「へぇ、なんかトレセン学園にいた頃のアタシのシンボリルドルフの印象と変わらないな。生徒会長を辞めた今でもずっと忙しく働いてるんだ」

 

「ええ、再会できたのは本当に幸運でした。ルドルフさんとは色々な事を話しましたが、取り分け面白……コホン! 印象に残ってるのは、ルドルフさん、最近はディープインパクトに懐かれすぎて困ってるみたいです」

 

「え……どゆこと?」

 

 

 

 アドマイヤベガの双子の娘たちの話だったり……

 

 

 

「リラもトレミーも大きくなっていて驚きました。2人の制服姿が本当にアヤベさんそっくりで……とても懐かしい気持ちになりました」

 

「ふふっ、子供の成長って本当に早いよね。うちのチビもついこの間までハイハイしてたのに、いつの間にか大きくなって疲れ知らずに走り回ってるし」

 

「アヤベ君の娘たちか、元気だったのなら何よりだ……暫く会っていないが、懐かしいな。あの双子が小さかった頃はよく髪の毛をイタズラされていたものだ」

 

「そんな事もありましたね。あの双子、しっかりとアヤベさんのフワフワ好きが遺伝しているみたいですし」

 

 

 

 デアリングタクトの話だったり……

 

 

 

「へぇ……今の『シリウス』にそんな子がいるんだ、楽しみだね。デアリングタクト、覚えておこう」

 

「しかし、『無敗のトリプルティアラ』とは大きく出たな。その道はあまりに険しいぞ。それこそクラシック三冠に比肩する程だ」

 

「そうですね。でも……あの子ならそれを成し遂げてしまうって、なんだか確信があるのです」

 

「武術家としての勘ってヤツ? でも、マリンがそう言うなら本当に実現しそうだね」

 

 

 

 たづなさんの話だったり……

 

 

 

「後、学園内でたづなさんにも会えましたよ。昔から何一つ変わっていなくて、本人はオバさんになったって言ってたんですけど俄には信じられません」

 

「え、マジ? ちょっと話聞いてこようかな……結婚してから、少し身体が気になってて……」

 

「タイシンは気にしすぎだ。昔から全然変わってないぞ。なんならレースにも復帰できるんじゃないか?」

 

「ああ、良いですね。いつかBNW全員参加でレースを開催したらファンも大歓喜間違いなしですよ。出来れば私も参加したいです」

 

「バカ言わないでよ。マリンとチケットは今でも身体鍛えてるんだろうけど、アタシが引退して何年経ってると思ってるのよ」

 

 

 

 秋川理事長の話だったり……

 

 

 

「…………そんなこんなで、結局たづなさんに理事長室に連行されてしまいまして。十数年ぶりに秋川理事長に説教を喰らってしまいました……」

 

「それはマリンが悪いでしょ」

 

「うむ、入構許可証を申請するのは常識だろう」

 

「う……2人とも容赦なくバッサリ切ってきますね。その通りなのでぐうの音も出ないのですが」

 

「で、秋川理事長は元気にしてた? アタシは卒業以来ずっと会ってないからなぁ。新聞で見かけるくらいだし」

 

「ええ、相変わらず豪快なお方でしたよ。背もハヤヒデさんと同じくらいに伸びて凄く美人に成長してて、より威厳が増していました。ただ、あの猫ちゃんはお年を召してて、もう理事長の頭には乗れなくなっていたんですね……理事長室に置いてあるバスケットで丸くなってました。まだまだ元気そうではありましたが」

 

 

 

 そして更に話題は、マリンたちと特に仲の良かったウマ娘たちに移ってゆく。まずはメイショウドトウの話になり……

 

 

 

「そうだ。猫と言えば、マリンは知ってる? ドトウのとこの猫の話」

 

「ドトウさんの猫……ええ、少し前からSNSで話題になっていましたよね。確かMETOちゃんでしたっけ? 近々写真集を発売するのだとか」

 

「ドトウ君も中々会えない友人の1人だな。あの娘が北海道で農業に従事しているとは……やはり予測の付かない未来と言うのも有るものだな」

 

「そうだね。でも、今でも時々連絡は取り合ってるし、仲の良い人達には毎年沢山ニンジンを送ってるみたい。ウチにもたまに山のようなニンジンとか牛乳が届くよ。」

 

「そうなのですか……会いたいですね。いつか皆と一緒に北海道に行くのも楽しそうです」

 

 

 

 そして、今この場に居ないウイニングチケットの話になる。

 

 

 

「ところでマリンってチケットに会ったんだよね。元気にしてた? この前アイツから『ハワイで久しぶりにマリンさんに会ったよ〜〜!!!』ってメールと写真が送られて来たけど」

 

「ええ、相変わらず元気の塊と言った感じでしたよ。チケットさんがハワイでアイアンマンレースに参加する時期に私も所用でアメリカに居たので、そのまま飛行機便を予約して飛んで応援に行きました」

 

「私にも沢山写真と動画が送られて来たな。相変わらずフットワークの軽い君たち2人が羨ましいよ。ブライアンにも見せたら『ふっ……元気そうだな』と言って微笑んでいたよ」

 

「チケットさん、完走した後に私を見つけるとそのまま猛ダッシュで私の所へ突撃して飛んで抱き付いて来たんですよ。周りの人たちもビックリしていました。400km近く走った後なのに、とんでもない胆力とスタミナですよね」

 

「チケットは純粋な運動量だけなら、PGリーグ走者をも凌いでいるだろうからな。本当に大したものだよ。私も負けていられないな。今は多少ゆとりが有るが、そろそろ次回のプレミアムレースに向けてトレーニングに本腰を入れるつもりだ」

 

「ああ、ハヤヒデとブライアンは出走がほぼ確定してるもんね。後はニュースで見たけど、サイレンススズカさんも出るんだよね?」

 

「ええ、アメリカでスズカさんとも会ったのですが、彼女も久しぶりの日本のレースに気合が入ってるみたいでした。チーム『シリウス』の皆と走れるのを凄く楽しみにしていると言ってました。後はタイシンさんが出走してくれれば、かつての『シリウス』とBNWの奇跡のコラボレーションの完成ですよ。観客動員数の更新間違いなしです」

 

「ははっ、だから何言ってんの。アタシはとっくに引退して……って、アレ? 何よマリン、その言い方だとまるでチケットも出走するみたいじゃない」

 

「え?……………あ。い、いや、これはその、言葉の綾というか、そうなったら楽しいだろうなぁ〜〜って私の願望というか」

 

 

 タイシンの指摘にマリンはしどろもどろに答える。そしてマリンの隣に座るハヤヒデの眼鏡がキラン!と光った。

 

 

「……ほう、それは確かに夢のある話だなマリン殿。しかし、君の態度には些か疑念を禁じ得ない。先程サイレンススズカとアメリカで会ったとも言っていたし、更に多忙な君が都合良くハワイのアイアンマンレースを観戦しに行く余裕が有ったと……何か隠してはいないか?」

 

「あぁ、確かにそうだね。これは詳しく話を聞かなきゃねぇ」

 

 

 BNWのBとNが目に怪しい光を浮かべてニヤリとマリン迫って行く。

 

 

「いやその……あ、あはは…………うぅ、油断した。久しぶりに2人に会えて、懐かしい雰囲気に安心しきってしまった…………」

 

 

 黒髪のウマ娘は観念したように、ガックリと項垂れたのだった。

 

 

 

 

 

 





次回

episode 9:『春天の3200mも「短距離」だなって』



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episode 9:『春天の3200mも「短距離」だなって』


誰の発言か予想しながら読むと面白い……かも?


 

 

 

 

 

 

 ビワハヤヒデとナリタタイシン、2人のウマ娘に問い詰められてマリンアウトサイダは観念したように俯いた。そしてため息を吐き、ゆっくりと事情を語り出す。

 

 

「はい……御察しの通り、チケットさんは次回のプレミアムレースに出走します。そしてなぜ私がその事を知っているのか、なのですが……お二人とも、この先の話は他言無用でお願いしますね?」

 

 

 マリンの念押しに、ビワハヤヒデは眼鏡を人差し指でクイッと上げて答える。

 

 

「ああ、勿論だとも。まぁ、大方の事情は推測出来るがな。恐らく……」

 

「ハヤヒデ、そう言うのいいから。本人が説明してくれるんだから直接聞こうよ。ほらマリン、続き続き」

 

 

 しゅん……と耳を垂らすハヤヒデを尻目に、タイシンに促されてマリンは説明を再開する。

 

 

「実は私、秘密裏にルドルフさんから依頼を受けていたんです。『海外を拠点に活動するレースウマ娘たちにTOKYO:premiumへの出走を打診して欲しい』と。私の旅のついでに可能なミッションでしたし、何よりルドルフさんには返しきれない程の恩義がありますので、私は二つ返事で了承しました」

 

「へぇ、そうだったんだ。もしかしてサイレンススズカも?」

 

「ええ、スズカさんと交渉したのも私です。URAを通して話を持ちかけるより、元チームメイトのよしみでお願いした方が受けてくれそうだってルドルフさんも言ってましたし、私もスズカさんに会いたかったですしね。UMAD所属の私がレースの参加交渉をするとは誰も思ってないでしょうから、今の所関係者にはバレてはいないですね。ハヤヒデとタイシンさん以外には……」

 

 

 はぁ……と自分の詰めの甘さを恥じて、マリンはコーヒーを一口飲む。

 

 

「しかし、ルドルフ殿も思い切った事をするものだ。マリン殿に交渉役を頼むのもそうだが、まさかチケットをプレミアムレースに招待するとはな……海外のレース団体に所属するスズカ君と違い、チケットはアマチュアのスポーツウーマンだ。過去のダービーウマ娘とは言え、彼女が日本のプロレースの場に登場するとは誰も予想していないだろう」

 

「ルドルフさんは『プレミアムレースは多くの人々の夢を実現させる舞台にしたい』と昔からおっしゃられてました。チケットさんやスズカさんを招待したのも、今でも彼女たちがファンに愛され続けているのを知っているからでしょう。勿論タイシンさんもですよ。今でも全国を巡るとBNW、その中でも熱心なタイシンさんのファンによく出会いますから」

 

 

 突然話を振られて、タイシンは微かに頬を赤らめる。

 

 

「ア、アタシの事なんてどうでもいいからっ! もうそういうのは間に合ってるし……」

 

「おや、タイシン、惚気話かな? 確かに君は、非常に熱心なファン第1号と結婚したんだものな。君の旦那様は今でも職場でよく君のことを周囲の人々に話しているぞ。愛妻家として有名だからな」

 

 

 それを聞いて、今度こそタイシンの顔は真っ赤になった。

 

 

「ハァッ!? ウソッ!? アイツ、アタシにはそんなこと……帰ってきたらとっちめてやる……!」

 

「まあまあ、勘弁してやってくれ。せいぜい君や娘さんの写真を見せびらかす程度だぞ」

 

「そうですよ、タイシンさん。別に悪いことしてるわけじゃないんですから」

 

 

 マリンとハヤヒデが宥めて、暫くしてようやくタイシンは機嫌を直した。

 

 

「ハァ……アイツのあの暑苦しさも少しは落ち着いてくれれば良いのに。そう言えば、ハヤヒデはどうなの? もうトレーナーと付き合って長いことなるじゃない。まだ結婚しないワケ?」

 

 

 タイシンの言葉に、コーヒーに口を付けていたハヤヒデの手がピタリと止まる。

 

 

「むぅ、それはその……中々タイミングを見極めるのが難航していると言うか……私から切り出しても良いものなのか判断がつかないと言うか……」

 

「ハヤヒデさん、そこのところは昔からブライアンさんよりも奥手でしたもんね。ブライアンさんなんてササって結婚してしまいましたし、『ふっ、結婚に関しては私が姉さんに背中を見せてしまったな』って言ってましたし」

 

「うっ…………」

 

 

 グサッとマリンの言葉がハヤヒデに突き刺さった。

 

 

「そ、そう言うマリン殿こそどうなんだ!? 君だって幾度かUMAD関係者やトレセン学園関係者からも交際を申し込まれたと聞いているぞ。まぁ、皆撃沈されたそうだが……」

 

「私は『旅』が恋人ですから。風の吹くまま気の向くまま、フーテンのマリンさんとは私のことです……なんてね」

 

 

 マリンはそう言うと、かつての時代の大人気映画シリーズのテーマ曲を口笛で奏でる。

 

 

「ホンット相変わらず自由気ままだね。チケットもそうやって地球を飛び回ってるし、それがアンタ達らしいと言えばらしいけど」

 

 

 ふふっ、とタイシンは微笑んだ。

 

 

「はぁ……そうだな、先も言ったが時々マリン殿とチケットが羨ましいと感じてしまうよ。プロとして活動していると、自由な時間はどうしても限られてしまうのでな」

 

 

 そんな感傷気味なハヤヒデを尻目に、タイシンはズイっとマリンに顔を寄せる。

 

 

「ねえねえ、話を戻すけど、チケットのやつはいつ日本に戻って来るの? 日本のレースに身体を慣らすトレーニングも必要でしょう。まぁアイツ今でも走ってるし、すぐに勘を取り戻しそうだけど」

 

「それが……まだ予定が立てられないそうです。チケットさん、今はハワイで元海軍の方から射撃訓練と潜水訓練を受けてる最中で、それが終わり次第日本に戻ると言っていたのですが、いつになるのやらサッパリ分からなくて」

 

「何やってんのよ、アイツ……」

 

 

 タイシンは少し呆れたように頬杖をついた。それを見てハヤヒデは目を閉じ、過去に思いを馳せていた。

 

 

「ふふ……学生時代に宣言した通り、色んな事に挑戦しているんだな、チケットは」

 

「ま、そうだね……思えば私たち皆んなあの時に言った通りのことをしてる」

 

 

 ハヤヒデとタイシンは昔を懐かしむように顔を見合わせる。BNWの絆は今も固く結ばれているようだ。

 

 そんな中「あっ」とマリンは何かを思い出したように声をあげた。

 

 

「そう言えば、チケットさんの事なんですけど。ハワイに滞在していた時に、プレミアムレースは恐らく中距離部門、ダービーと同じ『2400m』への出走になるはずだって伝えたら…………」

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

『えっ、2400m!? わぁ、懐かしいっ!! ダービーとおんなじだぁあああ!!!………けど……う〜ん……』

 

 

 ハワイ某所、チケットが滞在しているホテルの一室にて、マリンアウトサイダとウイニングチケットは椅子を寄せ向き合って話し合っていた。

 

 チケットは学生の頃より身長もそこそこ伸びて、全身がシェイプアップされて正にスポーツ選手だという風格を漂わせている。しかし、口を開けばいつものチケットなので往年のファンからは変わらず『チケゾー』と呼ばれ親しまれ、今なお日本でも海外でもファンを増やし続けていた。

 

 

『? どうされたんですか、チケットさん。もしかして他の距離にも出走したいとか? マイル部門や、長距離部門もルドルフさんに掛け合えば出走可能だと思いますが……』

 

『う〜ん、マリンさん。そういうわけじゃないんだけどさ〜』

 

 

 チケットは困ったような笑顔をマリンに向けている。

 

 

『ほら、アタシってここ数年、今回のアイアンマンレースみたいな100km単位のレースばっかり走ってたでしょ? だからさぁ……2400mは2.4kmだから、すっごい『短距離』だなって思っちゃって。そう考えると春天の3200mも『短距離』だなって。頭では違うって分かってるんだけど、混乱しちゃうよ〜!』

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 

「…………と、言ってました」

 

「何よそれ、ワケわかんない。昔のサクラバクシンオーかっての……ぷっ、ふふ……」

 

 

 タイシンはジワジワと効いてきたように口元を押さえて笑っていた。ハヤヒデも困ったように微笑んだ。

 

 

「全く、いつになっても予想を斜め上に超える発言をするものだなチケットは。その理論、バクシンオー君に伝えたらどうなってしまうだろうか。想像するだけで面白いな」

 

「はい、チケットさんはやっぱりチケットさんでしたよ。昔から何にも変わっていなくて、懐かしさよりも先に安心感を覚えました」

 

 

 

 3人のウマ娘は、かつてのトレセン学園の教室でのように、朗らかに笑い、語り合った。いつまで経っても変わらない友情を確かめるように。そうしていると……

 

 

 キーンコーンカーンコーン……

 

 

 遠くのどこかの学校のチャイムの音が、窓越しに外から聞こえてきた。

 

 

 3人のウマ娘はピクンと耳を動かし、共に西日の差し込む窓の外を見つめるのだった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 





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episode 10:それぞれの旅路


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episode 10:それぞれの旅路

 

 

 

 

 

 

「…………もう1日が終わって行くのですね。私にとっては奇跡のような1日だったのに、地球のどこに居ても、あの夕陽はいつも通りに沈んでゆく…………」

 

 

 閑静な住宅街の片隅にある『お花屋さん』の一席で、黒髪のウマ娘は仲間たちと共に、窓の外の洛陽を見つめ呟いた。

 

 

「……そうだな。だが、私は今日この場所でマリン殿と再会できた事を、心の底から喜ばしいと思っているよ。三女神様に感謝の祈りを捧げたいくらいだ。タイシンだってそうだろう?」

 

「……うん、そうだね。名残惜しいったらありゃしない……けど、私も流石に仕事に戻らなきゃいけないな。大人って嫌だね、学生の頃なら怒られる覚悟で門限破ってでも皆んなと一緒に居られたのに」

 

 

 マリンとハヤヒデとタイシンは互いに目線を交わらせる。彼女たちの瞳の中に、トレセン学園の制服を着た若きレースウマ娘だった各々の面影が映っているように見えた。

 

 

「でも……」

 

 

 マリンはおもむろに呟く。

 

 

「大人になって得たものも沢山あります。あの有記念の後……昏睡していた私は、奇跡的に此処に帰ってこれました。私の旅路は途切れる事なく、また皆さんと一緒に走り出せたのです。大人になった今でもこの『新たな旅路』を、皆さんと共に歩めている事そのものに、私は感謝しています……」

 

 

 マリンの言葉に、タイシンは淡く微笑むのだった。

 

 

「……ふふっ、そうだね」

 

 

 夕陽に照らされて、彼女の左手の薬指がキラリと瞬いた。

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 『お花屋さん』の店外の入り口付近で、3人のウマ娘は別れの前の最後の立ち話をする。ハヤヒデとタイシンは度々会う機会があるが、マリンは次にいつ会えるのか分からないので、その分名残惜しさが尾を引いていた。

 

 タイシンは休憩中の立て札を営業中の物へ置き換える。カララッと音を立て、パンパンと手をはたき鳴らして彼女はマリンとハヤヒデの方へ向き直った。

 

 

「よし、営業再開っ! ハヤヒデは一度家に帰るんでしょ? 今夜トレーナーとのデートだって言ってたもんね」

 

「あら、そうだったのですか?」

 

 

 マリンはにこやかにハヤヒデの顔を覗き込む。

 

 

「う、うむ……マリン殿が来る前にタイシンと話していてな」

 

 

 ハヤヒデは腕を組み、目をそらし気味に答える。

 

 

「へぇ〜〜……だったら、今夜にでも話を切り出してみてはどうですか? ハヤヒデさんの結婚式、私絶対に行きますので」

 

「そ、そう……だな。検討……しておこう」

 

「こら、あんまりからかわないの。で、マリンはこれからどうするの? 日本を出るのは明後日って言ってたよね」

 

 

 笑顔でグイグイとハヤヒデに顔を寄せるマリンを、タイシンが諌める。

 

 

「ええ、帰国便でもロクに眠れなかったし、もう移動はしたくないので今夜はホテルでゆっくりするつもりです。明日は実家に帰ります。おじいちゃんに顔を見せないといけないですから」

 

 

 それを聞いてタイシンは一瞬目を細めて、柔らかな笑顔になる。

 

 

「……そう。あ、だったら……ちょっと待ってて!」

 

 

 タイシンが店のドアを開くと、チリリンと鈴の音が鳴った。彼女は急いで店内に戻ると、ササっとものの3分ほどで籠入りのフラワーアレンジメントを製作してマリンに手渡した。まさにプロの早業である。

 

 

「はいコレ、おじいさんに。BNWからって事で。お代はいらないから受け取りなよ」

 

「え、こんなに立派なものをタダでなんて……」

 

「そんなの気にしないで。マリンの実家の山には何度もキャンプに行ったし、おじいさんにはお世話になったからね」

 

 

 申し訳なさそうに籠を抱えるマリンに、ハヤヒデも声をかける。

 

 

「タイシンの言う通りだぞ。その花々はBNW全員からのものだ。マリン殿のおじいさまの修行は、私にとって非常に大きな学びとなった。きっとチケットも同じことを言うだろうさ」

 

 

 敬意と懐かしさを込めた瞳で、ハヤヒデはマリンを見つめて言った。タイシンも同じ瞳でマリンを見つめ微笑んでいる。

 

 

「……そう、ですか。ありがとうございます。皆さんの気持ちと一緒に、必ずおじいちゃんに届けますね」

 

 

 マリンは暖かく、柔らかな笑顔で2人に答えた。

 

 

 そうして3人のウマ娘は再会を約束すると、マリンとハヤヒデは名残惜しそうに手を振りそれぞれ反対の方向に去って行く。タイシンは2人の背中が見えなくなるまで、『お花屋さん』の前に立ち見送ったのだった。

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 夕暮れの街をマリンアウトサイダは歩き進む、心地よい風が残暑を少しずつ吹き去るのを感じながら。

 

 

(ああ……今日は良い日だった。本当に良い日だったなぁ)

 

 

 胸の中にジンと痺れるような温もりを感じながら、黒髪のウマ娘は今日の奇跡のような再会と新たな出会いを思い返していた。

 

 住宅街を抜け、繁華街を通りホテルへと向かう道すがら、マリンはビルの壁面の大型スクリーンを横目で流し見る。

 

 

 

「あっ……!」

 

 

 

 マリンは立ち止まり、スクリーンを見上げた。そこに映し出されていたのは、あるレースのワンシーンだった。

 

 数日前に開催されたPGリーグレースの一戦。先頭を3人のウマ娘がデッドヒートを繰り広げる中、1人のウマ娘が抜け出し、そのまま追いつかれる事なくゴールした。

 

 朝焼けの紫の彩りを放つ勝負服を着たそのウマ娘は、まるで光の道を駆け抜けたかのように見えた。

 

 大きく左腕を天に突き上げ、観客席に笑顔を見せる。

 

 そこには昔と何も変わらず、ただ真っ直ぐに、応援してくれる人々の為に、頂点を目指しターフを駆け続ける1人のウマ娘がいた。

 

 その姿を見てマリンは、胸の奥で魂が震えるのを感じた。

 

 

 

「……トップロードさん……!!」

 

 

 

 マリンが呟くと同時に場面が切り替わり、アナウンサーとスポーツキャスターがそのレースの感想を感動と共に口々に述べる。

 

 

『先日行われたPGリーグランク別対抗戦・長距離部門第3レース、制したのはなんとナリタトップロードっ!! まさに正道を駆け抜けるその勇姿、わたくし感動に打ち震えてしまいました!! 長距離部門において、彼女は一際の輝きを放っています!!』

 

『そうですね、4レースぶりの勝利。彼女がトゥインクルシリーズ時代に勝ち取った菊花賞を彷彿とさせるレース展開でした。クラシック三冠をテイエムオペラオー、アドマイヤベガと分け合ったあの時代を思い出してしまいますねぇ。あの頃から変わらぬ正道を征く走りは、今でも多くのファンに夢を与え、若きレースウマ娘たちの憧れとなっています』

 

『はい、わたくしもそう思います! しかし、ナリタトップロードと共にクラシック期を駆け抜けた名バたちは殆ど引退してしまい、現役で走っているのは彼女ただ1人だと言われていますよね』

 

『ええ、あの世紀末覇王・テイエムオペラオーも一時期は舞台女優を務めながらPGリーグも走るという前代未聞のキャリアを歩んでおりましたが、足の故障もあり、現在は女優業に専念していますからね。しかし、かつてのライバルたちがターフを去り、覇王世代最後の1人となっても、ナリタトップロードはその世代の強さをファンに示し続けています』

 

『はい、ナリタトップロードの走りにわたくしもいつも勇気を貰っています! では、ここで彼女の勝利者インタビューを振り返ります!』

 

 

 再び場面が切り替わり、汗に額を濡らしたナリタトップロードが現れる。マイクを持ったアナウンサーが彼女に語りかける。

 

 

『ナリタトップロード選手、おめでとうございます! 今回のレースの勝利について、一言お願い致します』

 

 

 マイクを向けられた彼女は、額の汗をぬぐって答える。

 

 

『えっと……はい! その、ありがとうございます! まずは何よりも応援してくれたファンの人たちに、そして支えてくれたトレーナーさんに感謝を伝えたいです!』

 

 

 その後もナリタトップロードはアナウンサーといくつか質問をやり取りする。その姿をマリンは微笑みを浮かべてじっと眺めていた。かつてのクラスメイトの仲間が勝利する姿は何度見ても、身体の芯が震えるくらい感動するものだ。

 

 

『では最後にファンの方々に向けて、これからの意気込みなどをお聞かせください!』

 

 

 ナリタトップロードは「えっと……」と呟いた後、一瞬目を閉じて、顔を上げ前を向く。画面の向こう側から射貫くような真っ直ぐな視線を向けて、言葉を紡ぐ。

 

 

『私はこの群雄割拠なPGリーグ走者の中でも、特別な武器や才能がある方ではありません。今回の勝利も久々でしたし、とても苦しい戦いでした』

 

 

 その落ち着いた声色に、インタビュアーは息を飲んでいた。マリンも静かにスクリーンを見つめている。

 

 

『でも……』

 

 

 次の瞬間には、ナリタトップロードは輝く太陽のような笑顔を見せる。

 

 

『でも……そんな私にも、誰にも負けないものがあります。私はレースウマ娘を目指した小さな頃から、トゥインクルシリーズとドリームトロフィーリーグを走っていた時も、お世話になったトレーナーさんや沢山のファンの皆さんの応援を胸に、「覇王世代」のライバルたちと競い合ってきました。皆さんの応援と、同世代のライバルたちの勇姿が、私にとても大きな力を与えてくれます! 今でも「私たち」は一緒にターフを駆けています!』

 

 

 『光の道』を駆け抜ける勇者は、今でも『覇王世代』の輝きを人々に知らしめる。その旅路は、この先の未来へと続いて行く……

 

 

『いつかウマ娘レース界の頂点に立つ私の姿を、きっと皆さんにお見せします! 私はナリタトップロードですから! これからもずっと……その、ずっとずっと! 応援、よろしくお願いしますっ!!』

 

 

 マリンの他にも、多くの通行人が立ち止まってスクリーンを見上げる中、ナリタトップロードが一礼して、インタビューは幕を閉じた。

 

 

(ああ……多分、私の仲間の中で……誰よりも変わっていないのはトップロードさんだ)

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

「こんにちは、マリンアウトサイダさん! 私、ナリタトップロードと言います! このクラスの委員長をしているので、分からない事があったら何でも聞いてくださいね!」

 

「は……はい、よろしくお願いします。ナリタトップロードさん」

 

 

 マリンが握手をしようと手を差し出すと、ナリタトップロードはギュッと両手でその手を包み込むように握った。

 

 

「こんな時期に転校してきて、きっと不安な事も多いでしょう。私、マリンアウトサイダさんのお力になれるのなら『何でも』しますので、遠慮なく頼ってくださいね!」

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

(初めて会ったあの時からずっと、彼女は私の心を照らしてくれていた……きっと、トップロードさんと出会った他の沢山の人たちもそうだったんだろうな……)

 

 

 マリンはかつて学生だった頃、トレセン学園の教室で初めてナリタトップロードと出会った日の事を思い出した。あの頃から変わらぬ輝きを、今でも彼女は放っていた。

 

 

 そして、番組は次の話題へと移っていた。マリンもスクリーンへ背を向けて、再びホテルへと向かおうとしていたが……

 

 

『続いてのトピックスは、3年ぶりに開催される「グランドライブ」についてです! 十数年前、トレセン学園を中心に復活を果たした新生グランドライブが、さらに規模を拡大して帰ってきます!』

 

 

 ピクン!とマリンは耳を揺らすと、急いで振り返った。

 

 多くのレースウマ娘が戦績に関係なく、様々な楽曲ライブに参加する夢の『グランドライブ』……その規模ゆえ開催は数年に一度とされているそのイベントに、マリンアウトサイダは参加したことがなかった。半端な時期に転入したので、ちょうど彼女の在学期間は開催時期と綺麗にズレてしまっていたのだ。

 

 そんなグランドライブに彼女が反応したのは、それが現在彼女にとって特別な意味を持っているからで……

 

 

『今年のグランドライブはなんと! 中央トレセン学園だけでなく、地方のトレセン学園とも合同で開催される事が発表されています! あのオグリキャップの出身地にあるカサマツトレセン学園のウマ娘たちも中央にやって来るそうですよ! では、ここでグランドライブ企画責任者のライトハローさんにお話を伺いたいと思います! ライトハローさん、よろしくお願いします!』

 

『はい、よろしくお願いします』

 

 

 ライトハローと呼ばれた大人の色香を放ちながらも、どこか子供っぽい若々しさを備えたウマ娘が、スタジオで挨拶をする。マリンはじっと何かを期待するようにスクリーン上のやり取りを見つめている。そして、話し手はライトハローへと変わる。

 

 

『……今回は地方トレセン学園も合同なので、以前と比べて段取りの忙しさも2倍となっています。ですが、このかつてない試みを成功させるべく、全スタッフ気合を入れて頑張っています! 以前は私がプロジェクト全体を統括していたのですが、私1人ではとても手が回らなくなってしまったので、地方との調整は私の頼もしい直属の部下に取り組んで貰っています』

 

 

 ライトハローの言葉と共にVTRが背景で流れる。そこには、現場を指導する栗毛のウマ娘の姿が移っていて……

 

 

「っ………先輩……!!」

 

 

 マリンは思わず声を漏らす。そう、その栗毛のウマ娘は、マリンのかつてのルームメイトの先輩ウマ娘だった。

 

 夢半ばでトレセン学園を去った彼女は、現在とあるイベント企画運営会社でライトハローの部下となっていた。失意に沈むウマ娘に1人でも多く勇気を与えるために、彼女は身を粉にして働いていた。マリンはもちろん、その事を知っていたのだ。

 

 彼女は数秒間しか画面に映らなかったが、マリンはしっかりとその姿を目に焼き付けていた。そこには、自分が心を許し勇気付けられた、あの頃と同じ先輩の姿があった。

 

 マリンの心は再び満たされる。彼女はギュッと手を握り、感謝の祈りを捧げるように胸に当てた。

 

 

(ああ……本当になんて日なんだ、今日は。多くの再会があって、新たな出会いもあって、画面越しでも『先輩』を一目見れた。この巡り合わせに、心から感謝を……)

 

 

 

 マリンは一瞬目を伏せた後、振り返って今度こそホテルに向かって歩き出した。

 

 小さく鼻歌を唄いながら、人波の中を進んで行く。

 

 その背中には、計り知れないほどの喜びが乗っかっているように見えた。

 

 

 

 ビルの隙間の藍色がかった空に、ひときわ輝く一等星が昇っていた。

 

 それは今を生きるウマ娘たちの『それぞれの旅路』を祝福するかのように

 

 キラキラ、キラキラと輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

epilogue:『ミドリ』


次のお話で本当の完結です。頑張って執筆しておりますので、今暫くお待ち下さい。どうぞ最後まで、よろしくお願いします。
m(_ _)m


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epilogue:『ミドリ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 樹々の緑葉が擦れる音

 

 

 鳥の羽ばたきと鳴き声

 

 

 風が山道を吹き抜ける音

 

 

 遠くの川のせせらぎ

 

 

 自分の呼吸音と足音

 

 

 

 

 多くの音に包まれながら、黒髪のウマ娘は故郷の土を踏み締め進んでいた。

 

 彼女は右手には革製の大きなトランクケースを、左手には花畑を掬い入れたかのような手提げ籠を持ちながら、木漏れ日の差し込む山道を登って行く。

 

 額の汗も流れるまま、友が作ってくれたフラワーアレンジメントを崩してしまわないように気を遣いながら、スイスイと足速に移動する。

 

 そのウマ娘は山歩きには慣れている様子だった。その動きは見る者が見れば、相当に体幹を鍛え込んでいるのが分かるだろう。

 

 

 

 彼女の名は『マリンアウトサイダ』

 

 

 

 かつて世代最強の格闘ウマ娘として名を馳せ、その後レースウマ娘へと転身した特異な経歴を持つウマ娘である。

 

 一時期は心臓に問題を抱えながら走った彼女は、ある年の有記念でレコード勝利を飾るも、その負担により約4ヶ月昏睡状態となり生死の境を彷徨った。

 

 そこから奇跡的に復帰した彼女は、多くの仲間たちの支えと伴に、トレセン学園の卒業までレースウマ娘として走り切った。その輝かしい思い出は、今も彼女の胸の内で、彼女を勇気づけ、奮い立たせている。

 

 

 そんな彼女は今、生まれ育った山にある彼女の実家へと向かっていた。

 

 

「ふぅ…………着いた」

 

 

 山道を抜けた先、遮るものがなくなった陽の光に目を細め、マリンは額に手で日除けを作る。

 

 そこは開けた土地となっており、古びた道場とその裏手に母屋があった。

 

 マリンは真っ直ぐ道場へと向かって行く。彼女の育ての親である老人はそこに居る事が多かった。

 

 マリンは入り口で立ち止まり革製のトランクケースを地面に置くと、木製の引き戸に手を掛ける。立て付けが悪いのか、ガガッと音を立てて扉は横にズレていった。

 

 

 彼女は、道場の中へ一歩踏み込み。スゥと息を吸い込み、よく響く大きな声で挨拶をする。

 

 

 

「ただいま、おじいちゃん!!」

 

 

 

 

 鍛錬場の床に、入り口に背を向けて正座をする老人の姿があった。

 

 小柄な老人なのに、マリンの目にはその『背中』がとても大きく写る。それは彼女が今でも憧れ続けている武道家の背中だった。

 

 瞑想をしていたのか、伏せていた顔を上げ、彼はゆっくりとマリンの方を振り返る。

 

 

「……なんだ、騒々しい。しばらく振りに帰ってきたと思ったら、老いぼれに向かってそんなデカい声だすんじゃない。デカくなるのは図体だけで良いってのによ。だからお前はいつまで経っても『ミドリ』なんだ」

 

 

 老人はぶっきらぼうに呟く。

 

 マリンが帰って来ても、老人は歓迎する素振りは一切見せない。

 

 しかし、マリンを見つめるその眼差しには、穏やかな温もりが混じっていた。

 

 ほんの一瞬だけでも、確かに老人は『孫の来訪を喜ぶおじいちゃん』となっていた。

 

 

 そんないつものやり取りが……

 

 

 そんな光景(まぼろし)

 

 

 見えた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………」

 

 

 黒髪のウマ娘は、静かに鍛錬場を見渡す。

 

 シィーン……と静まり返ったその空間には、彼女以外の姿は無い。

 

 床には埃が溜まり、長らく誰もそこを使っていない様子だった。

 

 

「…………ふぅ」

 

 

 マリンアウトサイダは、小さく息を吐いた。

 

 

「さて! まずはここの床の雑巾掛けから始めるか。雑巾はどこに仕舞ってたっけ……」

 

 

 そう言って彼女は、トランクケースを手に取ると、裏手の母屋へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

「…………ふぅ、美味し」

 

 

 

 鍛錬場の床に雑巾を掛け

 

 傷んだ障子紙を貼り替え

 

 崩れた屋根瓦を修理し

 

 建物全般の埃を掃き取り

 

 また雑巾掛けをした。

 

 

 実家の掃除も一通り終わり、彼女は休憩にお茶を一服していた。

 

 母屋の庭に面した軒先、その縁側に座り急須に入れたお茶を啜る。

 

 

「…………」

 

 

 

 

 マリンは静かに外の景色を眺めている。庭の左手の方には、一人暮らしの老人が住む家にしてはかなり長い物干し竿が掛けられている。それは、かつて多くの門下生たちが住み込んでいた時代の名残だった。

 

 遠くの方にはまた雄大な山々が見える。マリンが幼い頃よりずっと見ていた景色だ。

 

 この景色をずっと、育て親の老人の傍で眺めていた。

 

 

 

 

 

「……………」ズズ

 

 

 マリンはお茶を一口啜って、横を見る。マリンから少し離れた隣の位置、そこが老人の定位置だった。今は誰も、そこには座っていない。

 

 

「……うん、そろそろ行こうかな」

 

 

 マリンは茶碗と急須を乗せた盆を持ち、台所へと向かった。

 

 遠くの山々で鳴く鳥の声が、風に乗って軒先に流れ込んでいた。

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 ザッ、ザッと草と土を踏む音が響く。

 

 道場の母屋から暫く歩いて、マリンは目的地へと辿り着く。

 

 片方の手に道中で花を採集して作った彩り鮮やかな花束、もう片方にはフラワーアレンジメントの花籠を持っている。

 

 そこには古びた墓石が建てられている。マリンの会ったことのないおばあちゃん、『ヤマブキツキミソウ』のお墓だった。

 

 マリンは花束をそっと墓前に添える、彼女の祖父がかつてしていたように。

 

 そして花籠を両手に抱え、その隣に建てられた比較的新しい綺麗な黒い墓石の前に立った。

 

 

 

 

「おじいちゃん、ただいま。帰ってきたよ」

 

 

 

 

 マリンは墓石に語りかけるように呟いた。

 

 

 そこには『角間源六郎』、マリンの育て親であり、武術の師である男の名が刻まれていた。

 

 

 マリンはそっと花籠を墓石の前に置くと、数歩下がって、2つの墓石を見られる中間の位置に立ち、両手を合わせ、顔を伏せ、黙祷する。

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

 辺りは風の音、鳥と虫の声、草花が揺れ擦れる気配だけで満たされている。

 

 マリンは自然と一体になったかのように、静かに祖父母への祈りを捧げ続けた。

 

 

 

 幾分か時が過ぎ、マリンは伏せていた顔を上げる。

 

 ゆっくりと源六郎の墓へ近付いて、屈み込む。

 

 そっと手を伸ばし、刻まれた名を指でなぞる。

 

 一瞬、寂しそうに口元を歪めるが、すぐに笑顔を作り目の前の祖父に語りかけた。

 

 

「……ごめんね、帰るのがちょっと遅くなっちゃった。今回の仕事は移動距離が長くてさ、ルドルフさんの頼み事もあって東西南北ぐるぐる飛んで回ってたんだ」

 

 

 マリンは墓石からそっと指を離す。膝を抱え込むような姿勢で、そのまま語り続ける。

 

 

 

「そうそう。昨日はね、本当に奇跡みたいな1日だったんだよ!

 

 飛行機で日本に着いた後、空港から散歩がてらに歩いてホテルに向かってたらあの記念館の前を通りかかってさ。何となく立ち寄ってみたら、私が勝った有記念を実際に見てくれていたファンとその娘さんに会ったんだ。引退してもう随分経つのに、今でも私が一番速いと思ってるんだって言ってくれて……嬉しかったなぁ。

 

 

 で、その後町を歩いてたら突然ルドルフさんに声をかけられたんだ。多忙な方なのに、偶々余裕のある日だったみたいで、バーで色んな事話し込んじゃって……この時点であり得ないくらい幸運なのに、こんな事がまだまだ続くんだよ。

 

 

 ルドルフさんとの話が終わった後は、前から日本に戻ったら寄ろうと思ってたトレセン学園に向かったんだ。そしたらまたラッキーなことに、校庭でお昼を食べていたルリとアヤベさんの双子の娘たちに会えたんだ。ルリはすっかりみんなに頼られる先生になってて、リラもトレミーも大きくなってて……成長を見届けるのはこんなに胸が暖かくなる事なんだね……チーム『シリウス』にもデアリングタクトちゃんって、成長するのがすごく楽しみな子が加入してて、この先の未来を見るのが待ち遠しいんだ。その後、会えなかったけど一目ウララさんを見れて、秋川理事長とたづなさんとも久しぶりに話せて……

 

 

 あ、そう! で、学園を出て気まぐれでタイシンさんの実家のお花屋さんに行ったの。そしたらそこにタイシンさんとハヤヒデさんが居たんだよ! 私もうビックリしちゃって……三女神様のお導きってやつだったのかな。またそこで色んな事を話し込んじゃって……懐かしいなぁ……BNWの3人と覇王世代の4人とはよくこの山でキャンプしたよね。ふふっ……毎回必ず予想外の騒ぎが起こったけど、楽しかったなぁ。タイシンさんとチケットさんは特に熱心におじいちゃんからサバイバルの技術を教わってたよね。チケットさんなんて、今ではもう私が追いつけないくらいのサバイバルのプロになってるし。砂漠地帯とか凍土で生き延びる技術も身に付けてるみたいだし……本当に凄いよ。

 

 

 その帰りに街中の巨大ビジョンでトップロードさんのレースとインタビューも見れたし、チラッとだけどニュースに映った先輩も見れて……ああ、本当に良い1日だった……」

 

 

 

 マリンは満ち足りたように目を細めて、墓の手前にある色鮮やかな花籠に視線を移す。

 

 

 

「このフラワーアレンジメント、タイシンさんが作ってくれたんだよ。BNWの3人からおじいちゃんへの贈り物だってさ。ハヤヒデさんも、おじいちゃんにとっても感謝していたよ」

 

 

 マリンは再び墓石に刻まれた名前を見つめる。心なしか、その瞳は潤んでいて……

 

 

「っ…………今日は、本当はここまで走って来るつもりだったの。おじいちゃんが話してくれた飛脚の話、今でもずっと心に残ってるんだ。海外を旅するときも、走れる限り絶対に自分の脚で移動していたんだよ。でもね……タイシンさんが作ってくれたこのフラワーアレンジメントを崩したくなくてさ……私、初めて麓の町まで電車に乗ってきたんだ……だらしないって…………言われる、かな…………」

 

 

 マリンの声が、微かに震えてくる。

 

 彼女の両の目に、雨の雫が溜まり、溢れそうになる。

 

 

「……っ……ぅ……ダメ、だよね。こんな歳になっても、ベソかいてんじゃねぇって……叱られ、ちゃうよね……っ……」

 

 

 ツゥ……と涙が一筋、マリンの目元から伝り落ちる。また一筋、また一筋と増えてゆき、川の流れの如く合流して、彼女の膝に滴ってゆく。

 

 

「ひっ……う……ぁぁっ……!」

 

 

 黒髪のウマ娘は立ち上がり、墓石にもたれ掛かるように抱きついた。

 

 両腕に、胸に、頬に、墓石の冷たさが伝わる。

 

 しかしその冷たさが、逆にあの老人の温もりを強く思い出させてくれた。

 

 マリンは墓石に額を当てて、すすり泣きながら、涙声で彼に聞こえるように囁きかける。

 

 

 

 

「おじいちゃん、『ミドリ』だよ……

 

 『ミドリ』は、ここに居るよ……」

 

 

 

 

 黒髪のウマ娘は、墓石に頬を摺り寄せる。かつてどこかで、誰かにしていたように。

 

 惜しみない愛情をその涙に込めて、彼女は泣き続けた。

 

 『この世界』で『ウマ娘』のマリンアウトサイダを、誰よりも愛し慈しんでくれたのは、ここに眠る老人だったのだから。

 

 

 

 

 角間源六郎が亡くなったのは、マリンがトレセン学園を卒業したすぐ後だった。彼は孫の晴れ姿を見た後に、徐々に身体が弱っていった。まるで最後の役目を果たしたと、彼の身体が悟ったかのように。

 

 周囲の人々は老人に入院を薦めたが、彼は断固としてそれを聞き入れなかった。死ぬならば亡き妻と過ごした山で、という彼の心をマリンは理解していた。

 

 そうして老人は、愛する孫娘とともに、この山で最期の数日間を過ごし、眠るように息を引き取ったのだった。

 

 彼の葬列には、全国のUMAD関係者と並んでトレセン学園理事長と生徒会、チーム『シリウス』のメンバーとトレーナー、BNWや覇王世代などマリンの友人たちも多く参列したという。

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 どれほど時が経ったのか、マリンアウトサイダは惜しむようにゆっくりと身体を離し、俯いたまま立ち上がる。

 

 右の手と二の腕で顔を拭うと、泣き腫らした顔に陽の光が当たり、眩しさに一瞬目を伏せる。

 

 すぅぅ……ふぅぅ……と深呼吸を一つ。

 

 そうして彼女はいつもの調子を取り戻す。赤くなった目以外は、凛とした雰囲気のレースウマ娘であり、格闘ウマ娘であるマリンアウトサイダになっていた。

 

 

 マリンは祖父の墓標に向き直る。彼女は、生前の彼の言葉を思い出していた。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

『なぁ、ミドリ……武の道は果て無く長ぇもんだ。だが、武を極めるのに人生ってのは短すぎる。俺は武術家として未熟のままで死ぬ。それは別に構わねぇんだ、分かっていた事だからよ。

 

 だけどよ……ツキが、お前のばあちゃんがよ……死ぬほんの少し前に言ってたんだ。あいつは家族と格闘ウマ娘たちの為に、自分の人生を全部使っちまった。そんなあいつが初めて自分の胸ん中に在った望みを、願いを俺に呟いたんだ。

 

 俺はそれを叶えてやれなかった……それだけが、心残りでな……』

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「待たせてごめんね、おじいちゃん」

 

 

 黒髪のウマ娘は、背筋を伸ばして屹然と言い放つ。

 

 

「私はやるべき事を果たしたよ。UMADの規模を少しだけ世界に広げた。トレセン学園にウマ娘の新しい道を切り拓く新学科を作った。それを助けてくれたルドルフさんの恩に報いる為に世界中を飛び回った。それがやっと一段落ついたんだ。

 

 だから今度は…………」

 

 

 マリンは再び源六郎の墓石に近付いて屈み込む。

 

 そこに眠る老人に語りかけるように、おもむろに言葉を紡いだ。

 

 

「……おばあちゃんの『願い』とおじいちゃんの『思い』を、この背中に乗せて走るからね」

 

 

 マリンは清々しく立ち上がる。そこには未来に向けてどこまでも駆けて行く……そんな雰囲気を感じさせる威風堂々としたウマ娘の姿があった。まるでかつての有記念のパドックのように……

 

 

「それじゃ……おじいちゃん、おばあちゃん、また来るね!」

 

 

 そう言ってマリンは颯爽と去って行く。

 

 その背中は、昔よりもずっと大きく成長していた。

 

 それは彼女が憧れ追い続けている『武術家』の背中に、ほんの少しだけ近付いていたはずである。

 

 

 そんな孫娘の姿を、墓標の傍で老人と月の妖精のような白いウマ娘の夫婦が、寄り添いあって見送っていた。

 

 それはきっと幻ではなかっただろう……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………………………

…………………

……………

………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日後、モンゴル国のとある地域……

 

 

 

 

「…………………………っ」

 

 

 マリンアウトサイダは、言葉を失っていた。

 

 それは決して悪い意味ではなく、ただただ目の前の風景に圧倒されていたのだ。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

『叶うのならば、そうですね……モンゴルの大草原を思いっきり走ってみたいです。そこで生きたウマ娘は、生涯その青空と草原を忘れる事は無いと聞きます。この脆弱な身体でも、もし叶うのならば……』

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「……凄い。ここがおばあちゃんが来たかった場所……これがおばあちゃんが見たかった景色……」

 

 

 マリンの目の前には、無限に広がる青空と、果て無く続く草原があった。

 

 どんな絵の具でも再現出来ない、どんな高性能なカメラでも写せない、雄大な自然の本物の『色彩』がどこまでも広がっていた。

 

 ここで生まれ育ったのならば、この光景はきっとその遺伝子にも刻まれるだろう。そう言われても信じてしまうほどの、あまりに美しい風景だった。

 

 

「おじいちゃん、おばあちゃん、見てる……? 来たよ、モンゴルの大草原に」

 

 

 マリンは空に向かって語りかける。

 

 

 マリンは海外の友人のツテでモンゴルに住む遊牧民の一家とコンタクトを取り、ホームステイのような形でこの国に滞在していた。

 

 来た当初は運悪く天候に恵まれなかったが、3日程経ってようやく雲が去り、太陽が顔を覗かせた。

 

 マリンは革袋を一つ肩に掛け、居住地に程近いなだらかな丘を登って行った。見上げた坂を登り切ると、見たことのない世界が広がっていた。

 

 

「……はぁ……ぁぁ……」

 

 

 言葉で言い表せない感動が、マリンの全身を駆け巡る。

 

 火にくべられて弾ける薪のような、ジンと痺れさせる熱がみぞおちで燻っている。

 

 まるで身体の細胞一つ一つが故郷に帰って来たのを喜んでいるかのようだった。

 

 

(そう言えば……一説ではウマ娘の起源はこの大陸の何処かだって聞いた事がある)

 

 

 スゥ……とマリンは鼻からゆっくりと空気を吸い込む。太古から変わらぬ草原の匂いが、肺いっぱいに満たされる。

 

 マリンは青い大地を見下ろし、青い空を見上げた。

 

 

(……私は自分の本当の親を知らない。けれど、もしかしたら全てのウマ娘は、この大地と大空で繋がっているのかも知れない。私の本当の親とも、おばあちゃんとも、日本に居る仲間たちとも、みんなみんな……繋がっているのかな)

 

 

 空を見上げたまま、マリンは物思いに耽る。すると、マリンの背後遠くから元気な声が聞こえてきた。

 

 マリンが振り向くと、小さな影がちょっとずつ大きくなりながら彼女の方へ向かって来ているのが見えた。

 

 耳と尻尾のあるその影は、マリンがお世話になっている家族の小さなウマ娘のものだった。

 

 全力でマリンを追いかけて来たのだろう。彼女はゼーハーと肩で息をしながらヨロヨロと立ち止まる。しかし、次の瞬間には何事もなかったかのように元気に勢いよく耳と尻尾を動かしてマリンを見上げた。

 

 

「『もう! お姉さんズルイよ、1人で先に行っちゃうなんてさ!』」

 

 

 ぷんぷんとほっぺを膨らませ、現地の言葉でその小さく可愛らしいウマ娘はマリンに向かって言った。独特で繊細な意匠が施された日本の着物の様な民族服が風に靡いて波打っている。

 

 マリンも習得した現地語で返事をする。

 

 

「『ごめんね。空がとっても青かったから、脚が走り出すのを止められなかったんだ』」

 

 

 2人のウマ娘は一緒に空を見上げる。しばらくして、小さなウマ娘がにっこりと笑顔でマリンに話しかける。

 

 

「『うん、その気持ち、私もとっても良く分かるよ! 私の3つ上のお姉ちゃんも、5つ上のお姉ちゃんも、みんな天気が良いと外に飛び出して行くの! 一緒に競争をしたりするの! 2人も後で友達を呼んでここに来るんだって!』」

 

 

 マリンも微笑んで、その無邪気でクリクリとした愛らしい目を見つめ返す。この子は3人姉妹の末っ子で、マリンに1番懐いていた。

 

 

 マリンはふと、この小さなウマ娘に問いかけたくなった。この大地で、この青空を見ながら育ったのならば、きっとこの子も自分たちと繋がっているかもしれない。

 

 

「『……ねぇ、君は走るのは好き?』」

 

 

 小さなウマ娘はキョトンとした表情になる。さも当然のことを問いかけられて、逆に呆気に取られたみたいだった。しかし、彼女はすぐに太陽に負けないくらいの笑顔で、元気に答える。

 

 

「『うんっ!!! とっても、とーーーーっても大好き!!! お姉さんもでしょ? 遠い東の日本のウマ娘たちも、きっとそうだと思うなぁ!」

 

 

 そう問い返されて、今度はマリンが一瞬キョトンとする。そして流れ星のような煌めく笑みで、その小さなウマ娘に答える。

 

 

「『……うん! 私たちも、走るのが大好きなんだ!』」

 

 

 2人のウマ娘は互いに笑顔を返し、見つめ合う。

 

 マリンはその小さなウマ娘の笑顔の中に、ルリイロバショウ、チーム『シリウス』のメンバー、覇王世代とBNWの仲間たち、オグリキャップと伝説の世代の3人、シンボリルドルフ、ハルウララ、尊敬する先輩ウマ娘、友人たちみんなの姿を見た気がした。

 

 

 そうしていると、遠くの方から更にたくさんの声が聞こえて来た。

 

 他のモンゴルの子供のウマ娘たちがこちらに向かって走ってくる。

 

 

「『あっ、みんな来た! ねえねえ、私たちも走ろうよ!』」

 

 

 小さなウマ娘がワクワクを抑えきれない様子でマリンを見上げる。

 

 

「『うん、ちょっと待ってね』」

 

 

 マリンは皮袋を開けてガサゴソと中から何かを取り出した。バサっとそれを両手で目の前に広げる。

 

 

 それは、あの『緑色のパーカー』だった。年月が経ってしまったからか、少し色も褪せて、所々にほつれがあるが、それでも綺麗だと言える状態だった。

 

 マリンは勝負服の袴は記念館に寄贈したが、このパーカーだけは手放さなかった。普段は大切に保管しているのだが、今日この日はこれを着て走りたいと強く感じていたのだ。

 

 

 マリンはパーカーに袖を通す。それは現役のレースウマ娘だった頃はピッタリとしたサイズだったものの、今のマリンには少しだけ小さいようだ。だが、それが似合い過ぎる程に似合っているのは昔と変わらなかった。

 

 マリンはいつの間にか、周りを子供たちに囲まれていた。楽しそうな笑い声で「早く走ろうよ!」と跳ね回ってはしゃいでいる。

 

 

「『……うん、みんなで一緒に走ろう! かけっこだ! お姉さん、とっても速いんだぞっ!』」

 

 

 行くぞー、そぉれっ!とマリンが掛け声をするとビュンッ!と風を切る音が聞こえる。

 

 さっきまでそこに居たウマ娘たちは、もう遠くの小さな影になっている。

 

 キャハハ、キャハハ、と子供たちの声が風に乗って広がっていく。

 

 何処でも決して変わることのない、走る事が大好きなウマ娘たちの姿が、モンゴルの大草原の中に描かれていた。

 

 太陽が全てのウマ娘たちを見守っていた。彼女たちのそれぞれの旅路を祝福するかのように……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無限に広がる青空の下

 

果ての無い大地(ミドリ)の上を

 

子供たちの笑い声とともに

 

黒髪のウマ娘は

 

どこまでもどこまでも

 

思いっきり、駆け抜けて行った

 

 

 

 

彼女は生きてゆく

 

走る喜びを

 

胸いっぱいに抱き締めながら

 

彼女が生き抜いた先に見た景色は

 

あのゴールの先で見た景色と

 

同じものだったという……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

After Story

アフターストーリー

 

The Outsider on the Green

アウトサイダー・オン・ザ・グリーン

 

〜Fin〜

 

 

 

 

 

 

 

 






この物語を読んでくれた全ての方々に心からの感謝を。

本当にありがとうございました。


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Side Story:~The Triple Tiaras without Impurities~
Part 1. 秋華賞出走前の一幕



 あと少しだけ続くんじゃ……

 デアリングタクトのCV発表を見て、「自由にデアタクのキャラ妄想を楽しめる期間が減ってくるな」と思ったのでサイドストーリーを始めてみました。よろしければお付き合い下さいませ。

 この話の時系列はアフターストーリーの2年後、主人公はマリンではありません。色んな場面で、色んなウマ娘が主役になります。でも一応メインはトリプルティアラです。よろしくお願いします。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

Side Story

サイドストーリー

 

The Triple Tiaras without Impurities

穢れなきトリプルティアラ

 

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の京都レース場はざわめき立っていた。

 

 

 理由は主に3つある。

 

 

 1つはその日がG1レース『秋華賞』の開催日である事。クラシック三冠と並ぶ、レースウマ娘たちの憧れであり至上の栄誉『トリプルティアラ』の最後の一冠が、これから争われるのだ。

 

 2つ目は、その『トリプルティアラ』のうち二冠は同一のウマ娘が勝ち取っていた事。しかも、そのウマ娘はデビューしてから一度も敗北を喫していない。もしそのウマ娘がこのレースを勝てば、史上初の『無敗のトリプルティアラ』が達成される。レースファンは皆、その歴史的瞬間を目の当たりに出来るのではないかと浮き足立っていた。

 

 そして3つ目、この空前絶後の記録に挑むのは、昨今注目を集めているチーム『シリウス』のウマ娘だという事が関係しているのだが……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………相変わらずレース場は煩いッスねぇ。もう少し静かにして欲しいんスけど」

 

 

 観戦スタンドの最前列、顔にマスクを付けたトレセン学園の制服姿のウマ娘が手すりに寄りかかりコースを見つめて言った。

 その栗色の長髪の毛並みは見事なまでに美しく、目は気怠そうにトロンと垂れている。パッと見れば大人しい印象を抱く、そんなウマ娘だが、近付いてみればきっと誰もが理解するだろう。

 彼女が纏う張り詰めた空気を、そこに猛獣が潜んでいると思わせる息の詰まりそうな緊張感を、そのウマ娘が『決して普通』ではない事を。

 

 

「センパイは逆になんでそんな落ち着いてられるんですかぁ……っ!? アタシ、もう心臓バクバクでっ……去年のセンパイの菊花賞を思い出しちゃうし、このスペースを陣取ってるのジロジロ見られてるし、他のメンバーは恐れ多いって他の場所に行っちゃうしぃ……ねぇセンパイ、アタシもみんなの所に行っても……」

 

「駄目ッスよ、お前はここに居るッス。アタシが喉乾いたら誰が飲み物買いに行くんスか」

 

 

 容赦ないパシリ宣言に、隣に立つ癖っ毛ショートヘアのウマ娘が「ひーん(泣)」と落ち着かない様子で手すりをしがみつく。彼女の言う様に、観覧席のとある区画の最前列十数人分が三角コーンとポールで仕切られ、時々係員が巡回していた。その端っこに2人だけポツンと居るので目立ってしまっている。

 

 

「まあ仕方ないッスよ、チームOGの方々が本来ならVIPルームで観るべきなのをワガママ言って観客席の最前列で観たいって言ったらしいッスからね。寧ろジブンがVIPルーム行きたいッスよ。今からでも何とかならないもんスかね」

 

 

 彼女のため息混じりの呟きは、観衆の声に混ざって消えた。その気怠そうな瞳の奥では本当は何を考えているのか、それはきっと誰にもわからない事だろう。

 

 

 そのマスクのウマ娘の名は『オルフェーヴル』

 

 彼女の走るレースは予測不能だが、観る者の心を掴んで離さない『黄金色の芸術』と例えられた。

 

 

 昨年度のクラシックレース、皐月賞・日本ダービー・菊花賞に勝利した三冠ウマ娘である。現在トゥインクルシリーズで最も注目を集めるレースウマ娘の1人であり、現チーム『シリウス』のエースである。その狂犬が如く獰猛で野生的な走りは、多くのレースファンを恐れさせ、そして抜け出せない程に魅了した。時折起こす珍事件は語り草となるが、それ以上にその圧倒的な実力はあのディープインパクトに並ぶのではないかとも噂されている。

 ちなみに彼女は誰と話す時も「〜ッス」という口調を変えない。話す相手によって喋り方を変えるのが面倒くさいからなのだそうな。

 

 隣にいる癖っ毛ショートヘアのウマ娘もチーム『シリウス』のメンバーでオルフェーヴルと同じ地元出身のウマ娘である。彼女はいわゆる昔ながらの舎弟ポジションで、いつもオルフェーヴルに付き添っている。かつてメンバーの数合わせの為にオルフェーヴルに(無理矢理)引っ張られチームに加入した経緯がある。よくパシリに使われるが、彼女は心の奥ではオルフェーヴルを尊敬していて、2人の間には独特の信頼関係があるのだった。

 

 

 そんな2人に、観客席のどよめきと共に複数の足音が近づいてくる。

 

 

 

「ワガママとは随分な言い草だな、オルフェーヴル」

 

 

 

 カツン、と音を立て先頭を歩いていたウマ娘が立ち止まる。カーキ色のロングコートを着こなすワイルドな雰囲気を漂わせる彼女は、ギラついた目で『自身と同じ』三冠ウマ娘を見つめる。その声に振り向いた癖っ毛ショートヘアのウマ娘は「ひぃっ!」と短い悲鳴をあげた。オルフェーヴルも同じ方向を向くと、変わらず気怠そうに答えるのだった。

 

 

「んん、聞こえてたんスか? 地獄耳ッスねぇ。ちわっす、ブライアン先輩。あ、そうだ。センパイから運営の方に言ってもらえませんかね? センパイたちの代わりにアタシらがVIPルーム使いたいんスけど、って」

 

 

 オルフェーヴルを険しい顔で見つめていたのは、PGリーグのプロランナー、そしてチーム『シリウス』のOGであるナリタブライアンだった。彼女に対するオルフェーヴルの返答を聞いて、癖っ毛ショートヘアのウマ娘は慌ててマスクのウマ娘を諌める。

 

 

「ちょ、ちょ待って下さい! オルフェさん、そんな口の聞き方はヤベェですよ!! あのナリタブライアンですよ!? プロランナーで、三冠ウマ娘っすよ、三冠ウマ娘!? 逆らったらジブンたち人生終わりっすよ!?」

 

「アタシも三冠ウマ娘なんスけど……」

 

 

 そんな後輩たちのやり取りを仏頂面で眺めると、ブライアンは「フゥ……」と呆れ顔でため息をつく。ブライアンはプロランナーとしての活動の中で、度々オルフェーヴルと顔を合わせる機会があった。特に彼女のクラシック三冠達成後には、かつての同じ三冠ウマ娘として一緒にインタビューを受ける数も増えたのだった。オルフェーヴルはそんな中でも一貫して今のような態度を崩す事もなかったので、彼女のトレーナーの胃に穴が空きかけたとか……

 

 ちなみに、オルフェーヴルは入学当初からその狂犬っぷりを遺憾無く発揮して、デビュー後にもトレーナーの交代が相次ぎ、現在のトレーナーが5人目なのである。当時と比べると、今のオルフェーヴルの態度は全く落ち着いている方である。先輩としての余裕も感じさせるその成長ぶりには、彼女が手に負えないと去って行ったトレーナーたちが見れば己の目を疑うだろう。それもひとえに現在の『シリウス』のトレーナーの影響があるのだが、その話は追々語られるだろう。

 

 

「先達に対するその態度、大物の証なのか単に不躾なのか、相変わらず分からん奴だな」

 

 

 そうブライアンが言ったところで彼女の後ろから別の人物が顔を覗かせた。

 

 

「あははっ! ハヤヒデがそれ聞いたらきっと苦い顔するだろうなぁ。学生時代は『ブライアンの素行と態度で生徒会をやっていけるのだろうか』っていつも悩ましそうにしてたんだから」

 

 

 そう笑いかけたのは同じくチーム『シリウス』のOGであり、マルチアスリートのウイニングチケットだった。

 サマーニットにハーフジップのランニングウェア、スキニーパンツを着たスポーティで今すぐにでも走り出せそうな格好である。ちなみにチケットの現在の身長は167cmで、現在のブライアンより3cm高い。背の高さ関係はこの十余年で逆転したようだ。

 

 

「……ウイニングチケットさん……スよね。初めましてッス、オルフェーヴルっす」

 

「うん、よろしくねっ! 君のレース全部観てるよっ! 新しい『シリウス』のレースウマ娘が三冠達成した瞬間は、アタシ感動で涙が止まらなかったよぉおおおお!!!! 感動をありがとおおおおお!!!!!」

 

 

 身体の成長に合わせて声量も大きくなったのか、観客の喧騒を突き抜けてチケットの声が響く。オルフェーヴルも驚いて尻尾をピーンと立てていた。

 

 続けてチケットの背後にいた3人のウマ娘たちが側にその輪に加わる。1人は大人のウマ娘、2人はトレセン学園の制服を着ている。大人のウマ娘はスポーツキャップを被っており、まるでヒッチハイカーのような出で立ちで……

 

 

「チケットさん、そんな大声出しちゃダメですよ。彼女、ビックリしてるじゃないですか」

 

「あはは、ごめーんマリンさん。つい」

 

 

 チケットは頭を掻きながら振り返った。その目線の先にいたのは、UMAD交渉官兼副理事長、同じくチーム『シリウス』のOG、マリンアウトサイダだった。彼女はこの日の為にチケットと共に日本に帰国していた。互いに根無し草のように海外を飛び回る生活をしているからか、マリンとチケットは日本でイベントがある際は一緒に行動する事が多かった。

 

 

「……そこのキャップを被ってるウマ娘は……もしかして、マリンアウトサイダさん……ッスか?」

 

「うん、そうだよ。初めましてだね、オルフェーヴルさん」

 

 

 オルフェーヴルは物珍しそうに、マリンを見つめるのだった。そして、ぺこりと頭を下げる。

 

 

「初めましてッス。なんか、昔のレース映像で観るのと印象がだいぶ違うッスね……チケットさんはプレミアムレースに出走してて見た事があったッスけど」

 

「あはは、そっか。私はあまりメディアには顔出してないからね。まぁ、とにかくよろしくね……って、握手しようにも両腕が塞がってるんだけど」

 

 

 マリンは困り顔ではにかむ。そして彼女の両腕に1人ずつしがみついている『双子のウマ娘』が声を上げる。

 

 

「オルフェ先輩、こんにちはーーー!!!」

 

「……こんにちは……です」

 

 

 双子のウマ娘の片方はチケットに負けないくらい元気いっぱいな挨拶をかまし、もう片方はぺこりと頭を下げた。オルフェーヴルは目線を下ろして2人を見やる。

 

 

「オ〜ッス、アドマイヤの双子じゃないスか。キミらも来てたんスねぇ」

 

「当たり前ですよっ! だってタクトちゃんは大親友ですからねっ!」

 

「……歴史的なレースなので……レースウマ娘なら観戦するのは当然です……」

 

 

 ピョコンピョコンと、耳の動きをシンクロさせて双子のウマ娘は答えた。

 

 彼女たちの名は『アドマイヤリラ』、そして『アドマイヤトレミー』

 

 トレセン学園に飛び級で入学したアドマイヤベガの双子の愛娘たちである。

 

 そんな2人はずっと左右からマリンの腕にギュウっとしがみついていた。マリンなら簡単にその拘束を解けるはずだが、まんざらでもない様子でされるがままになっていた。彼女にとってその双子たちは可愛い妹のようなものだった。

 

 

「あはは、レース場に来てからずっと『両手にダービーウマ娘』状態だよ。アヤベさんに2人のこと頼まれててね。ここで一緒にレースを観戦させたいんだけど、良いかな?」

 

「そりゃあ、センパイ方が決めたんならコッチは文句は無いッスよ。でも……」

 

 

 オフフェーブルはマリンに返答してから、後輩の双子たちに語りかけた。

 

 

「あんまりウチのOGを困らせちゃあ駄目ッスよ。キミらは今年のクラシック級の顔なんスから、ダービーウマ娘『たち』が子供みたいにひっついてないで、そろそろ離れたらどうスか」

 

「やだー! マリンさんすぐ居なくなるんだもん! 今の内にマリンさん成分を補給しとくの!」

 

「……私が目を離すと、リラが暴走するから……監視のためです……」

 

 

 マリンを放そうとする気配が全く無い双子たちを見て、オルフェーヴルも「大変ッスね」とマリンに目配せをするのだった。

 

 

 

 

 

 

 





次回

Part 2. ターフを駆けるジェミニの物語:前編


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Part 2. ターフを駆けるジェミニの物語:前編



デアリングタクトが3期1話に早々に登場したことによって、嬉しい反面「そろそろ喋り出したらどうしよう」と戦々恐々としてます。話し方に特徴があったらアフターストーリーの話を少し修正するかもしれません。

あと今更ですが、ブクマ・感想・評価何でもお待ちしてます。来たら喜んでモチベ上がります。



 

 

 

 

 

 

 

 ここでアドマイヤベガの愛娘たち

 

 『アドマイヤリラ』と『アドマイヤトレミー』

 

 この双子と彼女たちのレースについて、少しだけ語ることにしよう。

 

 

 

 デアリングタクトがトリプルティアラに挑む一方で、アドマイヤベガの娘たちはクラシック三冠に挑んでいた。皐月賞、日本ダービー、菊花賞、その中で双子のレースウマ娘が特に大きな目標にしていたのは言わずもがな、母アドマイヤベガも制した東京優駿『日本ダービー』であった。

 

 リラは脚部不安のため皐月賞は回避し、トレミーは皐月賞に出走したが不利を受け3着に敗れていた。注目の双子のウマ娘『奇跡のジェミニ』の初G1対決は、奇しくも彼女たちの母親が制したレースで実現することとなった。

 

 

 

 

 そして、ついに日本ダービーが始まった。

 

 

 

 

 万巻の観客が見つめる中、出走したレースウマ娘たちは持てる全てを使いしのぎを削る。

 

 先行脚質のトレミーは、ペース配分と位置取りを完璧に管理し、理想的とも言える展開を自ら作っていた。走りのテクニック、理論面に関して超優等生のトレミーは、ナリタトップロードを理想のウマ娘として敬愛しており、度々母親の縁にあやかりトップロード本人に走りを見てもらう事もあった。

 

 一方、リラは完全にレースウマ娘としてのアドマイヤベガに心酔しており、その走りを理想として一心不乱に母の背中を追いかけていた。脚質も追い込みで、末脚のキレも母親から受け継いでいた。天真爛漫で自由奔放な彼女も、レーストレーニングとなると人が変わったように真剣に打ち込んでいた。母と同じダービーウマ娘になる為に、血を分けた双子の妹(自分が姉だと主張している)に勝つ為に。

 

 レース終盤、トレミーは早めにスパートをかけた。あのナリタトップロードと同じ走りで、ロングスパートで他者を突き放す、一世一代の大勝負を仕掛けた。流れは完全にトレミーが握っていた。最終直線で先頭を走る彼女は、勝利の手応えを肌で感じていた。だが、同時に分かっていた。自分の妹が(こちらも姉を主張している)何もせずに終わるウマ娘では決してない事が。

 

 

 ゾクッッッ……!!!

 

 

 最終直線を走る全てのウマ娘の背筋に悪寒が走る。トレミーは見ずとも察していた。リラが、抜き身の日本刀が如き末脚で、鋭く、深く、『切り込んで』きた事を。気迫混じりの蹄音が背後から迫って来る。

 

 

「ハァアアアアアアアアッッッ!!!!!」

 

 

 それは執念だった。アドマイヤリラは末脚のキレを母親から受け継いでいた。しかし同時に、その脚の『脆さ』も受け継いでしまっていた。まるで母親の脚の脆さの幾分かを過去から肩代わりしたかの様に。それ故、彼女はデビュー当初からトレーニングとレースの合間に高頻度で脚の休養を挟んでいた。身体の丈夫なアドマイヤトレミーと違って、クラシック期に入ってもリラの脚の性質が改善することはなかった。そして彼女は一つ、余りにも辛く、苦い決断を下した。

 

 

 レースウマ娘なら誰もが夢見る至上の栄誉『クラシック三冠制覇』

 

 トレミーと一緒に、三冠ウマ娘たちのレースを何度見返したかも分からない 

 

 それに挑む資格を十分に持ちながら、それを達成しうる素質を十分に持ちながら……

 

 アドマイヤリラは、皐月賞への出走を回避した。

 

 

 走っていれば、きっと悪くない結果を残せただろう。レース後の調整に抜かりがなければ、次走の日本ダービーへそのまま挑んでも問題は無かったかもしれない。

 

 だが、リラは僅か数パーセントの懸念から目を背けずに向き合った。万が一、皐月賞で脚が故障したら、その後の人生全てを後悔の海に溺れながら過ごす事になるだろう。彼女はリスクと憧れを天秤に掛け、リスクの方を取った。一生に一度限りの機会を自ら手放したのだ。

 

 皐月賞をスタンドから観戦するリラは、声を張り上げトレミーを応援した。走り出したい脚の疼きを必死に堪えながら、震える手を必死に握りしめながら……

 

 

 アドマイヤトレミーも、血を分けた姉妹のその覚悟を理解していた。2人は産まれてからずっと一緒に育った、ずっと一緒に走ってきたのだ。互いの思っている事は肌感覚で理解できた。アドマイヤリラがどれ程の思いでこの『日本ダービー』を走っているかを知っていた。

 

 

(だからこそ……)

 

 

 アドマイヤトレミーは、真っ直ぐにゴールを見据える。

 

 

(だからこそ私は、勝たなきゃいけない……! 私はリラよりも『先』へ行くんだ!! それが私たちの『キズナ』だから!!!)

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 トレミーは思い出していた。幼い頃から姉妹の性格とは真逆に、実は物静かなトレミーよりも天真爛漫なリラの方が病気がちだった。度々リラは体調を崩し、ちびっ子レースクラブのトレーニングを休む事があった。トレミーはいつもなら1人でもトレーニングに向かうのだが、とある日に突然「行きたくない」とぐずり出した。

 

 

 静まり返ったリビングにはウマ娘の親子の姿があった。

 

 

「……………………」

 

「……どうしたの、トレミー? ダンマリしてたら、お母さん何も分からないわよ?」

 

 

 双子たちの母親、アドマイヤベガはフローリングに膝をついて目線をトレミーに合わせて尋ねた。

 

 

「………………トレーニング、行きたくないの」

 

「……うん、どうして?」

 

 

 アドマイヤベガは優しく聞き返す。トレミーのペースに合わせて、彼女が胸の内を言葉で表現できるまで、穏やかな目でじっと待っていた。

 

 

「…………リラが、トレーニングできないから」

 

「……そう、トレミーはリラと一緒にトレーニングしたいのね。でも、どうしてリラと一緒じゃないとダメなの?」

 

 

 トレミーは俯いたまま口をつぐんでいる。アドマイヤベガはじっとトレミーが答えるまで待っている。利発で生真面目な性格のトレミーがトレーニングを休むと言ったのは、相応に深い理由があるだろうと察していた。

 

 

「…………イヤ……なの」

 

 

 幼いウマ娘は、ポツリと呟いた。

 

 

「リラが……走るのが大好きなリラが、いつもわたしより楽しそうにトレーニングしてて……お休みする時、リラはすごく寂しそうなのに……私だけ走るのが、イヤなのっ……!」

 

 

 トレミーは目に涙をためて、母の顔を見つめる。

 

 

「どうしてリラだけが、そんな目にあうの……!? 双子なのに、わたしはお休みしなくても大丈夫なカラダなのに……リラだけがっ……イヤだ、イヤだよぉ!」

 

 

 ポロポロと、トレミーの目から涙の雫がこぼれ落ちる。

 

 

「きっとわたしがリラの元気とっちゃったの……お母さんのお腹の中で、わたしが……! わたしのせいなの! わたしのせいで……リラが置いてけぼりになっちゃう……!」

 

「っ……」

 

 

 アドマイヤベガは一瞬息を飲む。涙ながらに訴える我が子の姿が、かつての自分と重なって見えたのだ。トレミーが抱いているのは『罪悪感』だと、アドマイヤベガは瞬時に理解した。

 

 アドマイヤベガはトレミーをそっと抱き寄せる。泣きじゃくる我が子を胸に抱いて、その頭をウマ耳と一緒に優しく撫でる。

 

 

「トレミー」

 

 

 母は、胸に顔を押し付けて泣いている愛娘に囁きかける。

 

 

「優しい子……なんて、優しい子……イヤだったよね、苦しかったよね、ずっとそう感じていたのね」

 

「うぁあああああぁぁぁ……ああああぁぁ!!」

 

 

 アドマイヤベガは、トレミーが落ち着くまで彼女を抱きしめた。何度も何度も、その小さな頭と耳を撫で続けた。そしてトレミーの鳴き声が途切れ途切れになった頃、アドマイヤベガはトレミーをそっと胸から離し、その涙を手で拭ってあげながら語りかけた。

 

 

「トレミー……お母さん、今からとっても大事なお話をするから、落ち着いて聞いてくれる?」

 

 

 真っ赤に泣き腫らした目で、トレミーは母の顔を見つめると、コクンと頷いた。アドマイヤベガはそれを見て、再びトレミーを抱き寄せる。その顔を見つめられるくらいの距離に適度に離して。

 

 

「トレミー……よく聞きなさい。リラが病気がちなのは、お母さんのお腹の中でトレミーがリラの元気を取ったかもしれないって言ってたけど……それは、間違っているわ」

 

「えっ……」

 

 

 トレミーの瞳が揺らぐ。アドマイヤベガはトレミーに丁寧に穏やかに言い聞かせる。

 

 

「いい? 双子のウマ娘の片方が病弱だったり、成長が遅くなったりするのはよくある事なの。お母さんのお腹の中にウマ娘が2人いると、殆どの場合成長に必要な栄養が十分に行き渡らないからと言われているわ。だからリラが病気がちなのは、トレミーのせいじゃないのよ」

 

「……そう、なの?」

 

 

 トレミーはアドマイヤベガの顔を見上げながら言った。

 

 トレミーは年齢の割にはませていて、とても賢い子供だった。なので婉曲な表現で言い聞かせるよりも事実を淡々と教える方がトレミーは納得すると、母であるアドマイヤベガは知っていた。

 

 

「そうよ。だから双子のウマ娘はね、1人が病気がちになったり、両方の身体が少し弱かったり、一番悲しい時はね…………1人が産まれてこない事もあるの」

 

「えっ……!?」

 

 

 ギュッとすがりついたトレミーを、アドマイヤベガは強く抱きしめる。彼女はまだ娘たちに、自分の妹の事は話していない。いつか、彼女たちがもっと成長してから話すつもりである。

 

 

「……だから、あなたたち2人が無事に産まれて来てくれた時……お母さん、本当に嬉しかったのよ。そのまま天に昇っていってしまいそうなくらい……とても、とっても嬉しかった」

 

 

 アドマイヤベガは抱きしめた我が子の温もりを確かめるように目を閉じて、愛おしさに溢れた表情でその頭に頬をすり寄せる。トレミーも静かに母の柔らかな胸に抱かれている。

 

 

「……お医者様には、どちらかの子は虚弱体質になる可能性があると言われたわ。トレミーの方が病気がちになってたかもしれない。それは誰にもわからない事だったの……」

 

「っ……うぅ……」

 

 

 物分かりの良いトレミーは、母の言葉の全てを理解していた。言葉にできない悔しさに、母が着るセーターの裾を固く握りしめる。

 

 アドマイヤベガは娘の頭を、彼女を慰めるように撫で続けた。しばらく無言の時間が流れた……

 

 

 そして、アドマイヤベガはトレミーが落ち着いたのを見計らって囁きかける。

 

 

「でもトレミー、大丈夫よ……リラは元気に、思いっきり走れるようになるわ。お母さんが約束してあげる」

 

「え……?」

 

 

 トレミーは母の胸から顔を上げる。

 

 

「ちょっと前に、家族みんなでお出かけしたの覚えてる? とっても広い公園で、お母さんとトレミーとリラ、3人で一緒に原っぱを走ったでしょう」

 

「うん……覚えてる。お母さんとっても速くて、わたしもリラも全然追いつけなかった」

 

「ふふっ、お母さんも大人気なかったわね。久しぶりに走ったから、楽しくって。ねぇ、トレミー……その時のお母さんを見て、どう思った?」

 

「…………お母さん、とっても速くて、カッコ良かった。一生懸命走っても、全然追いつけなくて、悔しくて……でも追いつきたくて……もっともっと走りたくなった。たぶん、リラも同じ気持ちだった……」

 

 

 アドマイヤベガはトレミーの瞳を見つめる。キラキラとしたそれは、まるで二つの宝石のようだった。

 

 

「そう……その気持ち、忘れちゃだめよ。トレミー……いつかあなたは、お母さんよりも走るのが速くなるわ。そして、いつかお母さんよりずっと『先』を走るようになる……」

 

 

 アドマイヤベガはトレミーの頬に右手を添える。

 

 

「その時が来たら、トレミーがお母さんの代わりになるのよ。トレミーの走りを、リラに見せてあげて……そしたらリラはもっと走りたいって思って、もっともっと元気になって、いつか必ずトレミーに追いつくわ」

 

「っ……ぐすっ……」

 

 

 鼻をすすって、トレミーは母を見つめ返す。

 

 

「想像してみて。あの公園でトレミーが見たお母さんが、もしもリラだったら……トレミーも同じ気持ちになるでしょう? 追いつきたいって、胸の奥がポカポカ熱くなるでしょう?」

 

「……うん」

 

「だから、リラが置いてけぼりになる事は絶対にないわ。トレミー、あなたが走れば走るほど、リラは元気になるわ。だって、あなたたちはどんな時でも繋がっているもの。例え、地上から星空の向こうまで離れていたとしても……それが姉妹の『絆』なのよ」

 

「……『キズナ』……」

 

 

 トレミーはそっと呟いた。アドマイヤベガは、トレミーのサラサラの髪をひと撫でする。

 

 

「トレミーは、リラのこと大好き?」

 

「……うん、大好き……リラに言うのは、恥ずかしいけど……」

 

「そう……だったら大丈夫よ。トレミーは、思いっきり走って良いのよ。それがリラの元気に繋がるから」

 

「っ…………」

 

 

 トレミーが腕に力を込めたので、アドマイヤベガはそっと彼女を離した。トレミーは立ち上がって顔をグシっと擦って、力強い眼差しで母の顔を見つめた。さっきまでグズって泣いていた幼いウマ娘は、もうそこには居なかった。

 

 

「……お母さん、わたし、今からトレーニング行ってくる!」

 

「ええ、行ってらっしゃい」

 

 

 トレミーは玄関に向かって駆け出した。アドマイヤベガはその背中を優しい眼差しで見送るのだった。

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 トレミーが出かけたの確認して、アドマイヤベガは立ち上がり寝込んでいるリラの様子を見に行こうとすると……

 

 

「……あら? リラ……そこに居たの?」

 

 

 リビングの扉、その陰に隠れるように幼いウマ娘が立っていた。彼女はアドマイヤベガの顔を見上げると、目に大粒の涙を浮かべた。

 

 

「うぁ……ああああああああん!!」

 

 

 リラは突然大声で泣き出して、アドマイヤベガの腰に抱きついた。それを抱きとめてアドマイヤベガの身体が少し揺れる。

 

 

「……聞いていたのね、さっきの話」

 

「ひっ……グズッ……おがあざぁん……!」

 

 

 リラは母を見上げて、涙ながらに言う。

 

 

「あだしっ……もっと走れるようになるからっ……! もっとジョーブなカラダになるから……食べ物の好ききらいしないから……ピーマンもなるべく、がんばって食べるからぁ……!」

 

 

 アドマイヤベガは微笑んで、リラを抱っこする。小さなウマ娘は母の首に腕を回して、顔をその首元にうずめる。

 

 

「うん……大丈夫よ、リラ。あなたも絶対に、私より速く走れるようになるわ。だってあなたは、私とお父さんの子なんだもの。トレミーのたった1人の姉妹なんだもの。私の可愛い、2つの一等星……」

 

 

 アドマイヤベガは、その温もりを確かめるようにリラを抱きしめると、彼女を寝室まで運んでゆくのだった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

Part 3. ターフを駆けるジェミニの物語:後編




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Part 3. ターフを駆けるジェミニの物語:後編

 

 

 

 

 

 

「ハァアアアアアアアアッッッ!!!!!」

 

 

 

 東京優駿『日本ダービー』

 

 全てのレースウマ娘の憧れの舞台

 

 それに臨むは『奇跡のジェミニ』と呼ばれる双子のウマ娘

 

 『孤高の一等星』アドマイヤベガの愛娘たち

 

 曇り空の東京レース場、芝コースの最終直線にて

 

 偉大な母の背中を追い続けた姉妹の、決して負けられぬ戦い(レース)が幕を開けた。

 

 

『アドマイヤリラ、凄まじい末脚だぁっ!!! 後方から一気に先頭を目指し駆け登って行くっ!!!』

 

 

 バ群の後方から1つの影が、抜き身の日本刀が如き末脚で斬り込む。

 

 双子姉妹の片割れ『アドマイヤリラ』が、己の全てを賭してスパートを掛けた。

 

 質量を持っているかの様な恐ろしい気迫で、先頭を走る『アドマイヤトレミー』までの集団全員を震え上がらせる。

 

 その鬼気迫る追い込みは、かつての時代の名レースウマ娘『タマモクロス』を彷彿とさせた。

 

 

 アドマイヤトレミーは一瞬振り向きそうになる視線を気合いで正面に固定する。

 

 自分のたった1人の姉妹であり、最大のライバルであるアドマイヤリラが仕掛けてくるのは分かりきっていたことだ。

 

 リラはこの日本ダービーに己の全てを賭けている。虚弱体質という運命を受け入れ、向き合い、乗り越えてきた彼女の覚悟は、間違いなく自分よりも遥かに固く、強大なものだろう。

 

 

(だからこそ……)

 

 

 アドマイヤトレミーは、真っ直ぐにゴールを見据える。

 

 

(だからこそ私は、勝たなきゃいけない! 私はリラよりも『先』へ行くんだ!! それが私たちの『キズナ』だから!!!)

 

 

 その背中を、アドマイヤリラに見せ続ける為に。それが彼女の母との約束なのだから……

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

(ずっと、お母さんの背中を追いかけていた)

 

 

 これはアドマイヤリラの回想。

 

 家族みんなで遠くの自然公園まで出かけたとある日の記憶。

 

 そこの広大な草原で、双子姉妹と母親がかけっこをする事になった。

 

 当然、大人のウマ娘であるアドマイヤベガに幼い姉妹は追いつけない。

 

 だけど、姉妹は何度も何度も母に勝負をせがんだ。母も包容力のある笑顔でその挑戦を受けた。

 

 かけっこの回数がノンストップで二桁に達すると、流石に元トレーナーの父が彼女たちを止めた。

 

 

(走るお母さんは、すっごくカッコ良かった。憧れのお母さんの走りが目の前で見れるのが、何よりも嬉しかった)

 

 

 結局、その後も休憩を挟みつつかけっこは続けられた。

 

 その翌日、リラは疲れがたたり、体調を崩して二日間寝込んでしまった。

 

 

(寝込んでる時は、とっても落ち込んでた。私の身体が弱いから、無理させちゃダメだから、もう一緒に走らないってお母さんに言われるんじゃないかって不安だった。だけどお母さんは『元気になったら、また走ろうね』って言ってくれて、すごく安心して、すごく嬉しかった……)

 

 

 病気がちだったリラは、その後も度々寝込んでしまう。ベッドの中で、熱で身体は苦しいくらい熱いのに、他の同い年のウマ娘たちが元気に駆け回るのを想像して、寂しさと悔しさと……劣等感で、胸の中が冷たくなった。

 

 

(ずっと僻んでいたと思う、『なんで自分だけが』って。トレミーの事も、多分……妬んでいたと思う)

 

 

 だけどある時、聞いてしまった。母が部屋にいなかったから、水をもらおうとベッドから抜け出してキッチンへと向かう途中で

 

 

『リラが……走るのが大好きなリラが、いつもわたしより楽しそうにトレーニングしてて……お休みする時、リラはすごく寂しそうなのに……私だけ走るのが、イヤなのっ……!』

 

 

 トレミーの声に、リラはピタッと立ち止まる。

 

 

『どうしてリラだけが、そんな目にあうの……!? 双子なのに、わたしはお休みしなくても大丈夫なカラダなのに……リラだけがっ……イヤだ、イヤだよぉ!』

 

 

 リラはドアの陰から、リビングを覗き込んだ。

 

 

『きっとわたしがリラの元気とっちゃったの……お母さんのお腹の中で、わたしが……! わたしのせいなの! わたしのせいで……リラが置いてけぼりになっちゃう……!』

 

 

 ポロポロと、トレミーの目から涙の雫がこぼれ落ちるのが見えた。リラは見てはいけないものを見た気がして、顔を引っ込めて隠れる。初めて知るトレミーの本心に、幼いリラは衝撃を受けた。どうしたらいいのか分からなくなって、ただただパジャマの裾をギュッと握り締めるだけだった。

 

 そして、リビングから母の優しい声と、普段あまり聞く事のないトレミーの泣き声が聞こえてくる。 

 

 

「優しい子……なんて、優しい子……イヤだったよね、苦しかったよね、ずっとそう感じていたのね」

 

「うぁあああああぁぁぁ……ああああぁぁ!!」

 

 

 その後のトレミーと母の会話を、リラは息を潜めて聞いていた。

 

 双子のウマ娘の辛い宿命を、そして母の思いを……

 

 

「でもトレミー、大丈夫よ……リラは元気に、思いっきり走れるようになるわ。お母さんが約束してあげる」

 

「その時が来たら、トレミーがお母さんの代わりになるのよ。トレミーの走りを、リラに見せてあげて……そしたらリラはもっと走りたいって思って、もっともっと元気になって、いつか必ずトレミーに追いつくわ」

 

「……リラが置いてけぼりになる事は絶対にないわ。トレミー、あなたが走れば走るほど、リラは元気になるわ。だって、あなたたちはどんな時でも繋がっているもの。例え、地上から星空の向こうまで離れていたとしても……それが姉妹の『絆』なのよ」

 

 

 聞こえてくる母の言葉に、リラの胸の中の冷たさが弱まっていく。代わりに目の奥がカァーっと熱くなって、だんだんと胸がポカポカしてきて、寂しさも悔しさも劣等感も……何処かへ消え去っていった。

 

 

「トレミーは、リラのこと大好き?」

 

「……うん、大好き……リラに言うのは、恥ずかしいけど……」

 

「そう……だったら大丈夫よ。トレミーは、思いっきり走って良いのよ。それがリラの元気に繋がるから」

 

 

 リラは、声を上げまいと口元を押さえる。胸の奥から込み上げるものが、口から火山のように噴き出しそうだった。

 

 

「……お母さん、わたし、今からトレーニング行ってくる!」

 

「ええ、行ってらっしゃい」

 

 

 母の声と、玄関へと駆けて行くトレミーの足音がドア越しに聞こえた。そこから母が近付いてくる気配がしたが、リラは一歩も動けなかった。

 

 

「……あら? リラ……そこに居たの?」

 

 

 リラの姿に気付いたアドマイヤベガは、少し驚いた表情だ。リラは母の顔を見上げると、目に大粒の涙を浮かべた。

 

 

「うぁ……ああああああああっ!!」

 

 

 リラは大声で泣き出して、アドマイヤベガの腰に抱きついた。それを抱きとめてアドマイヤベガの身体が少し揺れる。

 

 

「……聞いていたのね、さっきの話」

 

「ひっ……グズッ……おがあざぁん……!」

 

 

 リラは母を見上げて、溢れる思いを涙ながらに伝える。

 

 

「あだしっ……もっと走れるようになるからっ……! もっとジョーブなカラダになるから……食べ物の好ききらいしないから……ピーマンもなるべく、がんばって食べるからぁ……!」

 

 

 アドマイヤベガは微笑んで、娘を抱っこする。リラは母の首に腕を回して、顔をその首元にうずめた。

 

 

「うん……大丈夫よ、リラ。あなたも絶対に、私より速く走れるようになるわ。だってあなたは、私とお父さんの子なんだもの。トレミーのたった1人の姉妹なんだもの。私の可愛い、2つの一等星……」

 

 

 アドマイヤベガは、その温もりを確かめるようにリラを抱きしめる。元々体調不良で疲れていたリラは、母の温もりに包まれたまま、その腕の中で眠りに落ちるのだった。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 

『残り200メートルッ!! 抜け出したのは「アドマイヤトレミー」ッッ!! しかし「アドマイヤリラ」がジリジリと差を詰めるッッ!! 後続を突き放し、先頭争いはアドマイヤの双子姉妹だあああああッッッ!!!!』

 

 

 

 ダッダッダッダッダッダッッッ!!!

 

 

 

 後方から猛烈な勢いでターフを蹴り進む蹄音が響く。

 

 アドマイヤリラは必死の形相でアドマイヤトレミーを追走していた、母譲りの鋭い末脚を十全に発揮しながら。

 

 リラとトレミーは同時期にデビューしたが、初期の頃はリラの成績はあまり振るわなかった。2人が良い勝負ができるようになったのはジュニア期の後半からだった。

 

 リラは脚部不安は残るものの、両親の丁寧な指導による下積みが活きたのか、身体が本格化してからは短期間で凄まじい成長を遂げた。一方でトレミーは初等部の頃から優秀なレース成績を修めており、現在に至るまで掲示板をほとんど外す事のない超堅実な実力者となっていた。

 

 トレミーは脚質通りに追い込んでくるリラの気配を感じて、闘争心が沸き立つ。そして同時に歓喜していた。幼い頃からの姉妹の『キズナ』が、この夢の舞台で実を結んだと確信したからだ。

 

 

 ほんの一瞬、トレミーの口が笑みを結ぶ。

 

 

(ああ……お母さんの言ってた通りだった。私は今、リラと勝負している。この日本ダービーで、全力で、一緒に走っている。嬉しい、本当に楽しい……! 私は今この瞬間きっと、この宇宙の星々の中で、一番レースを楽しんでいる!)

 

 

 トレミーは真っ直ぐにゴールを見つめる。その目は、まるで揺らめく焔をまとっているかのようだった。

 

 

勝負(かけっこ)しましょう、リラ。『先』にゴールした方が、お母さんと同じダービーウマ娘だから……!!!」

 

 

 ダァンッッ!!と踏み込み、トレミーは加速する。渾身の中の渾身で、勝利を掴み取りに行く……

 

 

 

 

 

=============

 

 

 

 

 

「ッッ!?」

 

 

 リラの表情が一瞬陰る。追いつこうとしていたトレミーの背中がまた遠くなった。

 

 残りおよそ170メートル、このペースではトレミーに追いつけない。

 

 

(ああ……すごいなぁ、トレミーは。私なんかよりもずっと速くて、ずっと頭も良くて、いつもずっと……『先』を走ってる)

 

 

 リラはトレミーの背中を見つめる。レースの最中だというのに、自分も周りも全てがスローモーションに見えた。

 

 

(ずっと、お母さんの背中を追いかけていた。だけど……)

 

 

 前を走るトレミーの姿が、公園で走ったあの日の母に重なった。

 

 

(いつからだろう? 私はいつのまにかトレミーを追いかけていた。私が憧れる『背中』は、トレミーの背中に変わっていた) 

 

 

 幼い頃はその背中がとても遠く見えた。トレミーはいつだって自分よりも遥かに先に行っていた。

 

 

(だけど……その背中が遠くに消えてしまう事はなかった。トレミーは必ず待ってくれた、私を絶対に1人にしないでいてくれた。トレミーはいつだって私の道しるべだった)

 

 

 幻が見えた。レース中に絶対あり得ない事なのに、トレミーが自分の方を振り返った気がした。

 

 

『かけっこしよう、リラ!』

 

 

 そう言っている笑顔のトレミーが見えた気がした。

 

 

(……トレミー、私ね……悔しいし、恥ずかしいから絶対に面と向かって言わないけど……)

 

 

 それは、アドマイヤリラの秘密

 

 

(何回かだけ……心の中で、トレミーを『お姉ちゃん』って、呼んだことあるんだよ)

 

 

 リラにとって、トレミーは非常に大きな存在になっていた。トゥインクルシリーズの舞台で、彼女たちは姉妹の関係を超えて、レースウマ娘同士としての『本当のライバル』になっていた。

 

 

(勝ちたい……!)

 

 

 リラはトレミーの背中のその『先』、自分が目指すべきゴールを見据える。その目は、まるで揺らめく焔をまとっているかのようだった。

 

 

「私は……トレミーに勝ちたいッッ!!!」

 

 

 ダァンッッ!!と踏み込み、リラは加速する。憧れた背中を追い越し、勝利を掴む為に……

 

 

 

 

 

 

=============

 

 

 

 

 

 

『アドマイヤリラが再び差を詰めるッッ!!! だがアドマイヤトレミーも先頭を譲らないッッ!!! 先頭は2人の完全な一騎打ちとなったぁぁ!!!』

 

 

 ゴールまで残りおよそ150メートル。先頭を争うのはたった2人の双子姉妹。

 

 己の産まれた意味を、己の生きた軌跡をターフに刻み付けるように

 

 『奇跡のジェミニ』は疾走する。

 

 

 

 そんな2人のレースを、観戦スタンドから彼女たちの母と父が息を呑んで見守っていた。

 

 

「っ……リラ……トレミー……!!」

 

 

 アドマイヤベガは、愛娘たちの名を呼んだ。

 

 クラシックレースは一生に一度限りのレース。どちらかの夢が叶うと同時に、どちらかの夢が潰える。

 

 あまりにも残酷だが、リラとトレミーのどちらが勝っても、アドマイヤベガはその現実から逃れることは出来ない。

 

 

「アヤベ……」

 

 

 アドマイヤベガの肩を、力強く、優しく、頼もしい腕が抱き寄せる。彼女の夫である元トレーナーが、アドマイヤベガを見つめている。そして、その手を彼女の手に重ねた。

 

 アドマイヤベガは彼を見つめ返すと、その手を握り返した。

 

 そして双子の一等星の父と母は、祈るようにターフを見つめる。親として、娘たちの描く軌跡を見届ける為に……

 

 

 

 

 

 

=============

 

 

 

 

 

 

「「ハァアアアアアアアアアッッッ!!!!」」

 

 

『アドマイヤリラ追いついた!! 並んだッッ!! 並んだッッ!! しかし、アドマイヤトレミーも足色が衰えないッッ!! 「奇跡のジェミニ」が互いに一歩も譲らないッッッ!!』

 

 

 

 2つの一等星には、風を裂く音しか聞こえなかった。

 

 2人のトップスピードは完全に互角だった。

 

 残り10メートルの数瞬のレース。

 

 流れ星が夜空を横切るように。

 

 『奇跡のジェミニ』はゴールラインを駆け抜けた。

 

 

 

『今、奇跡のジェミニがもつれ合うようにゴールイーーーーーン!!!!!』

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「はぁっ! はぁ、はぁっ!」

 

「あぁッ! はぁ! はぁ……」

 

 

 リラとトレミーは立ち止まり、膝に両手に置いて呼吸を整える。一息吸うたびに、ボタボタと大量の汗が滴り落ちる。肺が酸素を求めて、喉が勝手に喘いでいる。

 

 レースを終えた双子たちは互いに視線を交わす。そしてバッと同時に着順掲示板を振り返った。

 

 そこには……『写真』判定の文字が光っていた。

 

 

『今年のダービーは写真判定! アドマイヤトレミーとアドマイヤリラ、どちらに軍配が上がるかまだ分かりません!』

 

 

 そのアナウンスを聞いて、リラとトレミーは再び視線を交わす。2人はただ肩で息をしながら、無言でお互いを見つめ合うばかりだった……

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 アドマイヤトレミーは本バ場入場通路の出口付近で、壁に背をもたれて腕を組み立っていた。緊張のせいか、時折耳がぴくぴくと震えている。

 

 掲示板に『写真』の文字が浮かんでから、かれこれ10分が経過していた。判定に相当な時間がかかっているらしく、出走したウマ娘たちには控え室で待機するよう指示が出ていた。

 

 1着争いの当人のトレミーは結果をいち早く知るべく、本バ場の近くで待機していた。

 

 すると、カッカッカッカッ!と軽快な足音と共に、泥まみれのウマ娘がトレミーに近付いた。

 

 

「はいっ、トレミー! たい焼き買ってきたよ! 一緒に食べよー!」

 

 

 天真爛漫な笑顔で、アドマイヤリラはトレミーにたい焼きの袋を差し出した。

 

 

「リラ……あなた、そんな泥まみれの格好で行ったの……? お財布はどうしたの」

 

「へへん! 泥は追い込みバの華化粧だもんっ! お金持ってないから後で払うってたい焼き屋のオッチャンに言ったら、俺のおごりだってタダで貰っちゃったんだ! とっても良い人だった!」

 

 

 トレミーは呆れたようにため息をついた。

 

 

「……だったら『買ってきたよ!』じゃないでしょ。そんな簡単にご好意に甘えちゃダメ。後で一緒に代金払いに行くからね……」

 

「ええー! 良いじゃ〜ん、くれるって言ってたんだし〜」

 

「ダ・メ!……お金に関してはズボラなのは許されないよ……顔まで泥まみれで……全くもう……」

 

 

 そう言ってトレミーが持っているハンカチでリラの顔を拭うと、リラも「ん〜〜」と喉を鳴らしされるがままになっている。側から見れば面倒見の良いお姉ちゃんと手のかかる妹そのものだった。

 

 2人がたい焼きを食べ終わった頃、本バ場から聞こえる騒めきが大きくなった。ピクンと姉妹の耳がシンクロして揺れた。

 

 

「あ、写真判定の結果が出たのかな」

 

「……そうかもね。行きましょう」

 

 

 カツン、カツン、カツン……

   カツン、カツン、カツン……

 

 

 2つの足音が重なり、2人はレースコースへと歩みを進める。いつもなら軽口を叩きそうなリラも無言のままだ。2人の幼い頃からの夢、それを掴んだのは果たして姉妹のどちらなのかが、これで決まってしまうのだから。

 

 

 リラとトレミーが本バ場に現れると、観客の騒めきが更に大きくなった。客席前のコースに数人のURA職員が立っており、その中の1人がマイクを持って客席に向かって一歩進み出た。どうやら、その方が判定の結果を発表するようだ。いつものレースと違う様子に、姉妹にも観客たちにも緊張が走る。

 

 そしてマイクの電源が入り、その職員が一瞬「あ、あ」と短くマイクチェックをする。

 

 

『えー、ご来場の皆様、大変お待たせ致しました。本日の第3レース、東京優駿「日本ダービー」の写真判定の結果をお伝え致します』

 

 

 ごく、と双子たちは唾を飲んだ。

 

 

『複数人の決勝審判による厳正な審議を重ねた結果、アドマイヤリラ、アドマイヤトレミー、両名がどちらかに対し先着した確証を得るのは困難であると判断されました。よって……』

 

 

 その職員は呼吸を溜めて、宣言した。

 

 

 

 

『今回のレース結果は、アドマイヤリラ・アドマイヤトレミーの「1着同着」となります』

 

 

 

 

「えっ……」

 

「へっ……」

 

 

 姉妹の口から声が漏れる。

 

 東京レース場も静まり返る。そして、次の瞬間

 

 

 ウオオオオオオオオ!!!

     ワアアアアアアアア!!!

 

 

 観客たちの喝采と、嵐のような拍手が巻き起こった。

 

 姉妹は互いの顔を見つめていると、次第にリラはプルプルと震え出して、喜びを抑えきれない満面の笑みでトレミーに抱き付いた。

 

 

「〜〜〜っっっ、トレミーーーー!!!!!」

 

「あっ……ちょ、リラ」

 

 

 リラはトレミーを力強く抱き締めたままピョンピョンと飛び跳ねる。リラの勝負服の泥がトレミーに擦り付けられて僅かに移る。

 

 

「私たち、ダービーウマ娘になったんだよ!! お母さんとおんなじダービーウマ娘にっ!! リラも一緒に……一緒にぃ……うわああああん!!」

 

「っ……」

 

 

 トレミーもリラを力一杯抱き締め返す。

 

 

「うんっ……なれたね……ダービーウマ娘に……! 一緒に……なれ、たね……!」

 

 

 トレミーの目元に涙が浮かんでくる。

 

 レース場の観衆は『奇跡のジェミニ』に惜しみない拍手と称賛の声を送り続けた……

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「……もう、リラのせいで私まで泥まみれじゃない……」

 

「どうせライブ衣装に着替えるんだから良いじゃん! ああ、早くお母さんとお父さんに報告したいなぁ! とりあえず、ウイニングライブが終わってからだね! トレーナーさん、きっと控え室で待ってるよね、どんな顔してるんだろ!」

 

 

 そんな会話をしながら双子たちは控え室に早歩きで向かっている。ちなみに2人は同じチームに所属している。

 

「ライバルなら別々のチームで良いんじゃない?」とトレミーが言ったら、リラがギャン泣きして「イヤだー!!同じチームになるのー!!」と騒いだので結局同チームに加入したのだ。

 

 控え室の扉が見えたので、リラは更に歩きを速める。トレミーも彼女を追いかけ、2人はほぼ同時に扉の前にたどり着いた。

 

 リラはガチャッ!と勢い良く扉を開けると、満面の笑みで大声を出した。

 

 

「トレーナーさんっ!! やったよ!! 私たち、ダービーウマ娘……に……」

 

 

 リラの声が急に小さくなった。トレミーは怪訝そうな顔をして、リラに遅れて控え室に入る。そして、リラがそうなってしまった理由を理解した。

 

 控え室で双子たちが見たのは……

 

 

「っ……リラ、トレミー……!」

 

 

 瞳を潤ませた彼女たちの母親『アドマイヤベガ』と、彼女を支えるように寄り添う父親の姿だった。

 これは双子たちのトレーナーとチームメイトのちょっとしたサプライズだった。彼らは気を利かせて別の場所へと移動していたのだ。

 

 

「……おかあ……さん……」

 

 

 トレミーがポツリと呟く。それを皮切りに、双子たちの目に涙が溜まっていく。母のアドマイヤベガも感極まった表情で、愛娘たちを見つめていた。

 

 

「トレミー……リラ……」

 

 

 アドマイヤベガは一歩踏み出して、両腕を双子たちに向かって伸ばした。トレミーとリラも、同じように母に手を伸ばした。

 

 

「お母さん……お母さんっ!!」

 

「うぁ……お母さん!!」

 

 

 飛びついてきた双子たちを、アドマイヤベガは両腕に抱き締める。双子たちは「お母さん」と口々に叫び、アドマイヤベガも娘たちの名前を何度も何度も呼び返した。

 

 愛おしそうに2人に頬を擦り寄せると、アドマイヤベガは大粒の涙を流しながら呟いた。

 

 

「ああ……なんて……なんて事なの。こんな幸福を……私が受け取っても良いの? 私の可愛い娘たちが……2人ともダービーウマ娘になるなんて……どっちの夢も潰えずに……こんな幸せを、私が……受け取っても……っ」

 

 

 抱き合う母と娘たちの側に、父親であるアドマイヤベガの元トレーナーが歩み寄る。そして、アドマイヤベガと娘たち皆んなの頭を撫で、まとめて抱き締めて、優しく囁く。

 

 

「良いんだよ、アヤベ。僕らの子供たちが、その脚で起こした奇跡なんだ。君が駆け抜けてきた道の先で得られた神様からの贈り物なんだ。君が受け取ってはダメなんて……言われるはずがないだろう?」

 

 

 双子たちは顔を上げて父の顔を見つめる。2人ともボロボロと涙を流してて顔がくしゃくしゃだった。

 

 

「お父さぁん……」

「お父さん……っ」

 

 

 父はもう一度双子たちの頭を撫でる。

 

 

「頑張ったな……アドマイヤリラ、アドマイヤトレミー。流石はお母さんの子だ。お母さんに負けないくらい、綺麗で力強い、良い走りだったよ」

 

 

 父の言葉に、双子たちはまた声を上げて泣き出した。少しの間、4人の親子は、その幸せを噛み締めるように抱き合っていた……

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

「……さて、名残惜しいけど……リラ、トレミー、2人ともそろそろウイニングライブに向かわなきゃいけないだろう?」

 

 

 父親は母と娘たちを離すと、そっと呟くのだった。

 

 

「あっ……そっか、ウイニングライブ……」

 

「……ぐすっ……」

 

「ふふっ、もう2人とも目を真っ赤にして……大丈夫かしら? ちゃんと踊れる?」

 

 

 アドマイヤベガは涙を拭いながら微笑んだ。リラもトレミーも顔を拭って、母に微笑み返す。

 

 

「うんっ! ダンスレッスンも人一倍やってきたから大丈夫だよっ!」

 

「……私も、踊れるよ……大丈夫だよ、お母さん」

 

 

 ほら着替えてらっしゃい、とアドマイヤベガが2人に言ったところで、父親が「はて」と首を傾げた。

 

 

「そう言えば2人とも……どっちがセンターを踊るのか、もう決めたのかい?」

 

 

 ピクピクン、と姉妹の耳が震える。そしてバッと父親の方を振り返り、同時に声を上げた。

 

 

「そりゃーもちろん! 私がセンターだよ……え?」

「それはもちろん、私がセンターだよ……え?」

 

 

 双子たちは目をパチクリさせて互いを見つめる。母のアドマイヤベガはそれを見て、幸せそうに小さくため息をつくのだった。

 

 

「むぅ……!」

「ん……!」

 

 

 双子の睨み合いが暫く続いた。そして……

 

 

 

 

「…………ねえ、お姉ちゃんっ!(にぱー!)」

 

 

 

 

 アドマイヤリラは、渾身の『妹スマイル』で先制攻撃を仕掛けた。

 

 

「ずっと思ってたんだけど、やっぱりトレミーの方がお姉ちゃんらしいよねっ! 私、今から妹になるね! だからお姉ちゃんのトレミーは、可愛い妹にセンターを譲ってね! お姉ちゃんってそういうものでしょ?(にぱー!)」

 

 

 対してトレミーはヒクヒクと口元を歪ませる。「こいつ、センターの為にいとも簡単に姉ポジションを捨てやがった!」と心の中でツッコんだ。

 

 

「……いいえ、私も思っていたのだけど……やっぱり先にお母さんのお腹から出てきた方がお姉ちゃんよね。先に産声を上げた事実は強固だもの。だからリラ、センターは本当の妹である私に譲ってよ。お姉ちゃんってそういうものでしょ……?」

 

 

 ピタっとリラは停止して、彼女の表情から妹スマイルが消えた。そしてプクーと頬を膨らませて言う。

 

 

「いつもと言ってる事が違うじゃん! せっかく『お姉ちゃん』を譲ってあげようと思ったのにー!」

 

「それはこっちのセリフ! センターを譲りなさい! 私が『妹』よ!」

 

 

 むむむむむむむ!と双子たちは一層強く睨み合う。するとふいに、

 

 

「「ふぅーーーー……」」

 

 

 2人はくるりを互いに背を向けて3歩程歩いて離れた。

 

 リラは背伸びをしてポキポキと指を鳴らす。

 

 トレミーは深呼吸して何やらブツブツと呟いた。

 

 

 

「「……………………」」

 

 

 

 沈黙の時間が流れる。そして、

 

 

 

 

「「最初はグーッ!!! ジャンケンッ……」」

 

 

 

 

 振り向きざまに、2人の手が振り下ろされる。

 

 その結果はどうなったのかは、読者の皆の想像に委ねるとしよう……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………………

……………

…………

………

……

 

 

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……

………

…………

……………

………………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『両手にダービーウマ娘』ッスか……こりゃ豪華なサンドイッチッスねぇ」

 

 

 時は戻って、現在の京都レース場。

 

 オルフェーヴルはマリンアウトサイダの両腕から離れようとしない双子姉妹のウマ娘を見て呆れたように呟いた。それを見てたウイニングチケットが

 

 

「あっ、だったらホラ! オルフェーヴルもこっち来なよ! アタシがブライアンの左腕に抱き付いて、オルフェーヴルが右腕に抱き付けば、『ダービーウマ娘でダービーウマ娘を挟んだ究極のダービーウマ娘サンド』の完成だよ!」

 

 

 と、大きくなった身体で変わらぬ天真爛漫さを発揮していた。そして彼女は言葉通りにブライアンの左腕に抱き付くのだった。

 

 

「……んぅ、チケットさん。あんまり私で遊ばないでくれ。それにそんな『肉で肉を挟んだ肉肉バーガー』みたいな……まぁ、アレは私の好物だが。期間限定なのが惜しいところだ」

 

 

 そんな先輩たちの様子を見て、オルフェーヴルはマスクの下で一瞬だけ笑みを浮かべる。

 

 

「仲良いッスねぇ、先輩方は……ん?」

 

 

 オルフェーヴルの耳がピクピクと震えた。どうやら彼女だけが何かを聞き取ったようだ。

 

 

「……やっと来たようッスね」

 

 

 そう言ってオルフェーヴルは振り向いた。他の皆も彼女の向いた先を見るが、特に誰の姿も見えなかった。

 

 

「……? オルフェーヴルさん、誰か来たの? 私には誰も見えないけど」

 

「オルフェで良いッスよ。ジブンもマリンさんって呼ぶんで。まあ、見てれば分かるッス」

 

 

 すると暫くして、マリンたちにも見覚えのある人物が近付いて来るのが皆に見えた。

 

 『彼』はオルフェーヴルの方までやって来て、彼女に話しかける。

 

 

 

「うっぷ……おぇ……緊張で胃が……オルフェ、酔い止めか何か持ってないか……? 今朝慌ててたから、うっかり薬を家に忘れちゃって……はぁ……うっ……」 

 

 

 

 真っ青な顔で今にも倒れそうな男性。

 

 彼はかつてチーム『シリウス』のサブトレーナーを務めていた男だった。

 

 チーム『シリウス』の現トレーナーの登場である。

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

Part 4. オルフェーヴルの物語①


ちなみに

双子たちのダービーウイニングライブではアンコールの後、センターの位置を交代して再びダンスが行われました。なので、アドマイヤベガと父親は娘たち両方がセンターで踊る姿を見ることが出来たそうな。


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Part 4. オルフェーヴルの物語①


 ここで描かれるオルフェーヴルのキャラクター像やストーリーは全て作者の妄想です。実装前の今しか楽しめないと思うのでやりたい放題してます。中盤からオルフェの過去ストーリーです。


 

 

 

 

 

 

 突如として現れた顔面蒼白な男性。スーツを着こなし胸にトレーナーバッジを付けているので、見る人が見れば彼がトレセン学園のトレーナーだとすぐに気付くだろう。

 

 そして、彼はチーム『シリウス』のOGらにも多少馴染みのある顔だった。

 

 

「あっ、サブトレーナーさんだ!! 久しぶりでーす!!」

 

「お久しぶりです、サブトレーナーさん。お元気……ではないですね」

 

 

 と、ウイニングチケットとマリンアウトサイダは明るく挨拶をする。顔色の悪いトレーナーは辛うじて口元に笑みを浮かべて答えるが、すぐに苦しそうな声を漏らす。

 

 

「あぁ、ウイニングチケットにマリンアウトサイダ……久しぶりだね……確か、卒業式以来かな……うっ、イタタタ……」

 

 

 そんな彼を、ナリタブライアンは呆れ顔で見つめる。

 

 

「おい、サブトレーナー。キャリア的にはそこそこ長くトレセンで働いてるくせに、まだ緊張で胃を痛めるのか?」

 

「う……面目ない……どうしても大勝負の前の緊張感に慣れなくて……」

 

 

 サブトレーナー、もとい現シリウスのトレーナーはマリンとチケットが卒業する1ヶ月前にチームの補佐として着任した。なのでサブトレーナーの指導を正式に受けたのはブライアンとスペシャルウィークだけだった。

 

 そんな彼を横目に、オルフェーヴルは腕を組んでため息をつく。

 

 

「はぁ……そうなんスよ。トレーナー、アタシがシリウスに加入してからもずっとこんな調子ッス。いつまで経っても頼りないったらありゃしないッスよ」

 

「うっ、返す言葉もない……」

 

「どうせ控え室でタクトに『そんな今にも死にそうな顔のトレーナーさんがいると集中できないから外の空気でも吸ってて下さい』とか言われてここに来たんじゃないスか?」

 

「えっ! 何で分かったんだ、エスパーか!?」

 

「んなワケないでしょう。アンタ、アタシの菊花賞の時もそうだったでしょうが。何でいつもトレーナーの方が出走するウマ娘に気ィ遣われてるんスか? 情けないと思わないんスか?」

 

「うぐっ……(グサッ)」

 

 

 オルフェーヴルは容赦なく彼女のトレーナーをグサグサと言葉で突き刺す。トレーナーは顔面蒼白なのも相まって満身創痍の様子だが、側で見ていたマリンにはその2人に険悪な雰囲気を全く感じ取れなかった。

 

 

(これは……オルフェさん、思った以上にサブトレさんに心を許してるのかな? 『暴君』って二つ名でも呼ばれてるらしいけど、何というか、彼女のぶっきらぼうでキツい態度の裏に信頼感が見え隠れしてるような……)

 

 

 マリンはそう受け取ったし、実際にそうなのだが、当のトレーナーはガックリと俯いて意気消沈していた。

 

 

「うぅ……そうだよなぁ……俺、トレーナーらしくないよなぁ……未だにサブトレの域を脱していないよなぁ……」

 

 

 ズーン……と落ち込んだ現トレーナー。三冠ウマ娘を担当してるトレーナーとは思えない覇気の無さである。

 

 

「オルフェが三冠を達成したのも、オルフェ自身の実力が凄いからだし、タクトや他の娘たちがここまでやって来れたのも皆才能に溢れてるからで、本来俺の助けなんて必要ないんだ……いや、きっと俺なんかよりもっとベテランのトレーナーなら更に彼女たちを羽ばたかせられたはずで……」

 

 

 と、ネガティブオーラを放出するトレーナーに向かって、マスクのウマ娘はカツカツと足音を立てて近付く。そして……

 

 

「うわっ!?」

 

 

 オルフェーヴルはグイッと彼のネクタイを掴み乱暴に引き寄せた。彼女より背の高いトレーナーはバランスを崩して彼女に倒れ掛かりそうなのを必死に堪える。2人は数センチと離れず顔を向き合わせた。

 

 

「……トレーナー、アタシ言ったっスよね? 泣き言喚くのは構わないスけど、それはアタシと2人きりの時だけにしろって。カラ元気でも見栄張って外面シャキッとしてなきゃあ他の奴らにナメられるんスよ。忘れたンスか?」

 

 

 ギロリとトレーナーを睨みつけて、オルフェーヴルはトレーナーの胸をドンと押す。トレーナーは「うおっ」と声を漏らしつつも姿勢を正した。

 

 

「うっ……すまん、オルフェ」

 

「まったく……チームの士気にも関わるんスから、もうちょっと頼り甲斐のあるトコ見せて欲しいッスよ」

 

 

 オルフェーヴルは呆れたように横を向いてため息をつく。彼女のトレーナーはパンパンと自ら頬を叩き己に喝を入れていた。

 

 そんな2人の様子を見て、ブライアンは「フッ」と笑みを浮かべた。

 

 

「トレーナーを尻に敷くのが随分と様になってるじゃないか、オルフェーヴル。あの『暴君』と言われたお前がそこまで人の世話を焼くとはな」

 

 

 オルフェーヴルはジト目でブライアンを見つめる。

 

 

「……何が言いたいのか分からないッス」

 

 

 プイッとオルフェーヴルは顔を逸らす。彼女は相変わらずマスクの下で何を考えてるのか分からない。すると突然、シリウスの現トレーナーが目を剥いて「ああっ!!」と大声を上げた。オルフェーヴルはビクッとして尻尾を逆立てる。

 

 

「なっ、なんスか!? 急に大声出さないで欲しいッス!!」

 

「む、向こうから先輩がやって来てる! あわわわわ! お、俺、挨拶してくるからオルフェはここで待っててくれ!!」

 

 

 ズピューン!と現トレーナーは駆けていく。その先には確かに、マリンたちのトレーナー、現在はPGリーグでメジロマックイーンの専属トレーナーを務めている『彼』が歩いて来ていた。

 

 

「あっ! トレーナーさんも来た! おーい、トレーナーさーーーんっ!!!」

 

 

 チケットがブンブンと両手を振ると、トレーナーも軽く手を振って答えた。ちょうどそのタイミングで現トレーナーが彼の前に到着して、ペコペコと何度も頭を下げて彼に挨拶をしていた。現トレーナーにとって、シリウスの元トレーナーは恩師のような存在なので、彼は過剰なくらいにかつてのシリウスのトレーナーを尊敬していたのだ。

 

 ブライアンは2人のトレーナーを見つめた後、オルフェーヴルに視線を移した。

 

 

「全く、待っていればトレーナーの方からここへやって来るだろうに。サブトレの奴は今でもあんな感じなのか、オルフェーヴル?」

 

 

 オルフェーヴルも2人のトレーナーを見つめていた。現トレーナーは子供のような笑顔で、元トレーナーと挨拶を交わしていた。

 

 

「そッスね。慌ただしくて不器用で暑苦しい、アタシが初めて会った時から何も変わってないッス。頼り甲斐の無い男ッスよ」

 

 

 オルフェーヴルはそんな彼を見つめて、一瞬目を細めた。口ではめちゃくちゃにトレーナーをディスってるのに、その眼差しはむしろ正反対で、信頼に満ちた穏やかなものだった。

 

 ナリタブライアンは驚いた。あの『暴君』がそんな眼をするなど思ってもみなかったのだ。

 

 

「……ふっ、そうか。だが、それでもアイツは私のトレーナーが後任に選んだ男だ。確かに頼り甲斐のないヤツだったが、お前は今その男が率いるチーム『シリウス』に居る。それだけの価値を、お前はあの男に見出せたと言う事だろう?」

 

 

 オルフェーヴルは再びジト目でブライアンを睨み付ける。ブライアンは不敵な笑みでその視線を真っ向から受け止めた。

 

 

「……アタシに取ってトレーナーなんて誰でも良いんスけどね。でもまぁ、否定はしないでおくッス」

 

 

 オルフェーヴルは秋晴れの空を見上げた。その空の色は、彼女が初めて『シリウス』のトレーナーと出会った、トレセン学園の屋上で見たものと同じ色をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ヒトに指図されるのが嫌いだった)

 

 

 

 これはオルフェーヴルの回想。

 

 彼女のレースウマ娘としての道のり、その記憶の断片。

 

 

 

(自分で言うのもなんだけど、アタシは走りに関しては天才だったと思う。小さい頃からレースに出ると、身体は自然と最適解のフォームで走って、ペース配分も仕掛けどころも直感で全部理解していた)

 

 

 

 それは彼女の幼い頃の記憶。

 

 

 

(だから、学校の授業でも、ちびっ子レースクラブでも、大人からアレコレと指示されるのが煩わしかった。自分の事は自分が1番分かってる、いちいち言われる必要はない、そう言って大人に反発していたら当然『問題児』として扱われた)

 

 

 

 初等部のウマ娘でもレースに出るためにはクラブに所属する必要がある。彼女にとってクラブに入って指導を受けるのは、より速く強いウマ娘たちとレースする為の手段に過ぎなかった。

 

 

(そんな調子だったから、根性を叩き直すって意味で、アタシは両親に武術道場に無理矢理入門させられた。走る時間が少なくなるからレース以外の事はしたくないって反発したけど、『道場に通わなかったらレースクラブも辞めさせる』って言われて渋々従った)

 

 

 

 だが、町外れにひっそり佇むその道場に通った事で、彼女は結果的に良い方向へ導かれる事となる。

 

 

 

(そこは合気道の道場で、父親からは『そこでは師範ともう1人、レースを引退したG1ウマ娘も時々稽古をつけてくれるらしい』と聞かされていた。クラブでもG1ウマ娘と会える機会なんて殆ど無かった。だからほんの少しだけ期待していた)

 

 

 

 そうしてオルフェーヴルが出会ったのは……

 

 

 

「君がオルフェーヴル? うんうん、すっごく生意気……コホンッ! ワンパクそうな子だね! 私『カレンチャン』って言うの。よろしくね♡」

 

 

 

 とっても『カワイイ』元レースウマ娘だったという。勿論、オルフェーヴルは彼女の事は知っていた。だが、合気道の道場に彼女が居るのは予想外だった。

 

 カレンチャンはずっと昔からその道場に通っており、現在は師範代として門下生の稽古を任せられる程の実力者となっていたのだ。

 

 

 

(うん、今思い返しても道場は『地獄』だった。少しでも反抗的な態度を取ったり、不満そうな目付きをしたり、口答えしようものなら、カレンチャン……もといカレンさんにはすり潰されたリンゴみたいになるまで扱かれた。そりゃあもう徹底的に……)

 

 

 

「うぉおおあああああーーーッ!!!」

 

 

 ダッダッダッダッダッ!!

(オルフェの全力ダッシュ)

 

 

 

(鍛錬が嫌で、何度逃げ出したか分からない。だけど、カレンさんはどこまでも追いかけて来てアタシを捕まえた)

 

 

 

 ダダダダダダダダダダダッッ!!!

(カレンチャンの余裕のスプリントダッシュ)

 

 

 ガシィッッ!!

 

 

「ヒィッ……!」

 

「オルフェ〜、カレンから走って逃げられると思ってたのかな〜? ふふふ、まだ分かっていないみたいだね。ほら、道場に戻るよ。先輩に逆らったらどうなるのか、その身体が本能で理解するまで徹底的に稽古をつけてあげる♪」

 

 

 

(流石はG1を勝った元レースウマ娘、カレンさんはとんでもなく足が速くて、ガキだったアタシは逃げられるハズもなかった。首根っこを掴まれて道場まで引きずられて、何度も何度も投げ飛ばされた。だけどそんなことを繰り返す内に、アタシはカレンさんの『愛ある指導』で心身ともに鍛え上げられた)

 

 

 

「ゼハァァァ……コヒュゥゥゥ……」

 

 

 汗だくで倒れている幼いオルフェーヴルを、涼しい顔をしたカレンチャンが見下ろしている。

 

 

「うん、今日はここまでにしようか。段々と根を上げるまでの時間が伸びて来てるね。オルフェが成長しててカレンも嬉しいよ♪」

 

 

 

 オルフェーヴルは当時「なんでこの人はこの道場で合気道を教えてるんだろう」と不思議に思ってた。後で彼女が聞いたところによると、どうやらオルフェーヴルの入門初日にカレンチャンが道場に居たのは本当に偶然だったらしい。

 

 カレンチャンはタレント兼インフルエンサーとして様々な仕事をしていたが、幼い頃から武道家としての鍛錬を怠らず月に一度はその道場で稽古をしていたと言う。だが、オルフェーヴルと出会った時に『運命的な何か』を感じて、仕事の半分をキャンセルして彼女に稽古をつけると決めたのだ。『このウマ娘は今で徹底的にシゴかなければならない』と、カレンチャンの中の何かが彼女を強く突き動かしたのだそうな。

 

 

 

(カレンさんの『稽古』はとんでもなくハードで、レースのトレーニングよりも遥かに集中力が必要だった。武術なんてクソ喰らえって思いながらもアタシが合気道を続けられたのは、カレンさんが稽古の後にたまに『ご褒美』をくれたからだ)

 

 

 

「オルフェ、立ちなさい。今日の鍛錬メニューは終わらせたし、時間も少しだけ余裕があるから……『並走トレーニング』、付き合ってあげるわ」

 

 

 道着姿で仰向けに倒れているオルフェーヴルの耳がピクンと反応する。

 

 元G1ウマ娘との『並走トレーニング』、それはオルフェーヴルにとって、これ以上にないくらい貴重で希少で、何よりも心踊る体験だった。

 

 

 

「ホントッスか、カレン先輩!! 今すぐ行きましょうッス、今すぐ!!」

 

 

 さっきまでの疲労困憊な様子はどこへやら、オルフェーヴルはピョイン!と元気よく跳ね起きた。

 

 

「はいはい、そんな慌てなくても君と違ってカレンは逃げないよ。そんなに目をキラキラさせて……本当に走るのが好きなんだね、オルフェは」

 

 

 カレンチャンは腕を組んでオルフェーヴルに向かって微笑む。その姿は手のかかる妹の世話をするお姉ちゃんと言った感じだった。

 

 だが、周りの門下生たちは「鍛錬の後で更に並走トレーニングするとか、どんな体力オバケだよ……」と2人に対して若干引き気味だったと言う。無限の体力を持つ子供のオルフェーヴルはともかく、後日門下生たちがカレンチャンにその事を尋ねたところ「カワイイの維持は体力勝負なんだよ」と彼女は爽やかな笑顔を返したのだとか。

 

 

 

「でもカレン先輩、なんで道着で走るんスか? めちゃくちゃ走りにくいんスけど」

 

「これも訓練。それに、カレンのお友達にも道着袴でレースを走ってたウマ娘がいるんだよ。彼女、とっても強かったんだから」

 

 

 

 ちなみにオルフェーヴルが合気道を習い始めて1ヶ月もすると、彼女は年上や目上の人物には敬語を使うという最低限の礼儀は叩き込まれ身に付けていた。当初はレーストレーニングの時間が減るとゴネていたオルフェーヴルだったが、武術の鍛錬をする内にレースの方でもメキメキと成績を上げていったので(カレンチャンや師範、両親に対しては)文句も口答えも一切言わなくなった。それでも周囲に対して傍若無人な振る舞いをする事は多々あったが……

 

 兎にも角にも、オルフェーヴルが合気道を教わった事で「根性を叩き直す」と言う両親の目的は達成されて、それ以上の成果が得られた結果となったのだった。

 

 

 そうして月日は流れて、オルフェーヴルはトレセン学園の制服に袖を通し、その門を潜った。

 

 彼女のレースウマ娘としての真の物語は、そこから始まるのだった……

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

Part 5. オルフェーヴルの物語②


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Part 5. オルフェーヴルの物語②

 

 

 

 

 

(ヒトに指図されるのが嫌いだった……まあ、合気道の鍛錬を始めてから我ながらだいぶ丸くなったと思うけど、それでも自分のその根幹が変わることはなかった)

 

 

 

 トレセン学園の入学式で、オルフェーヴルは周囲のウマ娘たちを見渡していた。皆希望に目を輝かせ、新芽のような初々しさ全面に押し出していた。

 

 

 

(周りのウマ娘たちは「トレセン学園でトレーナーと運命的な出会いをして、レースで活躍して、もしかすると甘酸っぱい恋とかも〜」みたいな下らない事に憧れてる奴らばかりだった。トレーナーに左右されてしまう程度の下積みしかこなしてないのなら、トレセン学園に入学するのも無駄でしかない。少なくとも、ジブンはそんなウマ娘ではないと自信を持って言える)

 

 

 

 オルフェーヴルはそのマスクと気怠そうな目付きの下に、余人には想像もつかない程、レースに対して情熱を燃やしていた。

 

 

 

(……トレーナーって本当に必要なんだろうか? 最近はAI技術も発達して、映像から自分の走りのデータを分析する事も可能だし、他競技ではそれらの技術を駆使してセルフコーチングで自己管理をしているアスリートも少なくない。レースウマ娘は必ずトレーナーの指導を受けなければならないってのは、前時代的じゃなかろうか……)

 

 

 

 こんな事を考えているウマ娘は自分くらいだろうな、とオルフェーヴルは物思いに耽る。だが、事実彼女はカレンチャンとの並走トレーニング以外は、レースウマ娘としては指導らしい指導を受けずに勝利を掴み取って来た。

 

 オルフェーヴルはその素行と態度に似合わず滅茶苦茶に勉強が出来た。頭の回転も早かったので周囲の大人は彼女の扱いに非常に手を焼いていた。そして、トレセン学園の入学考査も上位5名に入る成績を修めていた。

 

 彼女は自身の走りの研究を1日だって怠った事はなく、映像記録からの分析や食事の栄養調整を自らこなし、果てはトレーナー向けのウマ娘育成理論の専門書も読み込んでいた。己の身体の状態、走りの特徴、脚質やクセも完璧に把握して余念がない。元G1ウマ娘『カレンチャン』との深い関わりもあり、周囲のウマ娘たちより濃密な経験値を積んでいたので、『地元じゃ負け知らず』を地で突き進んでいた。

 

 

 

「ヒッ……あの娘、もしかして噂のオルフェーヴル? 怖っ……」

 

「あのマスク……間違いない。ちょー強いらしいよ。でも怖っ……」

 

「なんか、近寄りがたいっていうか……『近付くなオーラ』全開って感じね、怖っ……」

 

 

 

 入学当初のオルフェーヴルの評価は概ねこのようなもので、彼女と友達になるウマ娘など1人もいなかった。彼女自身も自分と気の合うウマ娘など居るはずもないと割り切っていたので、特に気にせず彼女にとっては簡単すぎる授業と教官指導トレーニングを受けて大人しく過ごしていた。

 

 そして、新入生に訪れる初めてで最大のイベント……『選抜レース』の開催時期がやって来たのだった。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「ちょっとアンタ」

 

「んん……?」

 

 

 選抜レースの出走数分前、オルフェーヴルはゲート前で声をかけられた。だるそうに振り返ると、同じレースに出走する目つきの鋭いウマ娘がオルフェーヴルを睨みつけていた。

 

 

「レース、始まるんだけど」

 

「……知ってるッスよ?」

 

 

 オルフェーヴルは「なぜそんな当然のことを?」と首を傾げる。その様子に、目つきの鋭いウマ娘は我慢ならないとばかりに激昂する。

 

 

「ーーーッ、だから! レースが始まるんだから、そのマスクを外しなさいって言ってんの! アンタがマスク着けたままトレーニングしてるのは知ってるけど、まさか選抜レース本番でも外さないつもりなの!?」

 

 

 そのウマ娘の怒号がターフに響く。他の出走ウマ娘たちの視線が彼女とオルフェーヴルに集まる。

 

 

「……そのつもりッスけど、何か問題あるんスか?」

 

 

 オルフェーヴルのその言葉に、目つきの鋭いウマ娘の堪忍袋の緒が切れた。

 

 

「ーーッ、どう言うつもりなの!? これは『選抜レース』なのよ! 私達はみんな真剣なのっ! それとも何、私達にはマスクのままでも勝てるって言いたいワケ!?」

 

 

 ゲート前のターフに険悪なムードが漂う。だが、他のウマ娘たちも苦い表情で視線をオルフェーヴルに向けていた。皆、オルフェーヴルの出方を伺っていた。

 

 

「……このマスクは、アタシにとって意識を切り替えるスイッチみたいなものッス。アスリートがよく使ってる手法ッスよ。知らないんスか?」

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 オルフェーヴルは初等部の頃からあらゆるトレーニングを自分で調べ、自身で行い、手応えを確かめていた。それは一重に大人に指図されるのが嫌で、自分の力だけでトレーニング出来るよう知識と経験を時間の許す限り詰め込んでいたからだ。生まれ持っての天才的なセンスと地頭の良さがそれを可能にしていた。

 

 ある時、彼女は長距離マラソン選手が行う高地トレーニングに目を付けた。気圧が低く酸素濃度の薄い高地に身体を適応させる事で、平地でのパフォーマンスを向上させる事を目的としたトレーニングである。

 

 彼女はそのトレーニングに俄然興味が湧いた。だが、自分にとって現実的でない事も分かっていた。地元周辺に高地トレーニングに適した山もないし、クラブでの練習と道場の鍛錬もあるので時間的余裕もない、よしんば高地に行けたとしても命の危険も伴うトレーニングを監督者なしでは行えないだろう。

 

 

「だったら……まぁ、モノは試しッスね」

 

 

 と、短絡的だと言う自覚はあったが、彼女は取り敢えずマスクを着けて息苦しい状態でのトレーニングを試すことにした。まずは10日間、自主練をマスク状態でこなしてその後の変化を計測しようと計画を立てた。

 

 結果として、多少パフォーマンスは向上したものの、高地トレーニングと同じ効果があったとは言えない結果となった。しかし、彼女は別の収穫を得た。それは精神面に関してのものだった。

 

 マスクを『縛り』としてより苦しい状況に自身を追い込むと、レースで走る時に気力が満ちて充実感が増大した。これは『スイッチ』になる。兎にも角にも、マスクを着けている事は自分にとってマイナスではなく、むしろこれ以上ないほどフィットした状態であると彼女は気付いたのだ。

 

 そこから彼女は、自主練の時だけ着けていたマスクを日常生活でも常用するようになった。両親や周りの同級生からは奇異の眼差しを向けられたが、一切気にしなかった。

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

「〜〜ッ、だったら外しなさいよ。それで本気が出せるって事でしょ?」

 

 

 元々オルフェーヴルは周囲に溶け込もうとせず、むしろ距離をとっている節があった。合同トレーニングでもマスクを外さないので、他のウマ娘たちにはそれが自分たちを見下している風に受け止められていた。

 

 オルフェーヴルは相変わらずトロンとした目で、目の前のウマ娘を見つめている。そして……

 

 

「いや、外さないッスよ。特に外す理由も無いし。このまま走るんで皆さんヨロシクっス」

 

 

 なんて事ない、普通に会話する調子でオルフェーヴルは言い放った。その瞬間、黙っていた周囲のウマ娘たちの怒りの気迫が立ち込める。

 

 

「ふざけないでッッ!!! アンタが強いって噂は聞いてるけど、私達だって地元じゃトップ層のレースウマ娘だったのよ! どれだけナメてんのよ! 私達も、レースそのものも侮辱するつもり!?」

 

「そんなつもりは無いッスよ。このマスク、一応1番通気性の良い高価なヤツですし、慣れてるから走るのに特に支障は無いッス。それにマスクは絆創膏とかと同じ医療機器に当たるから、着用は規則に抵触しないッスよ」

 

「そう言う問題じゃない!! 規則違反じゃないとか、支障が無いとかって……その態度が侮辱してるって言ってんの!!」

 

 

 周りのウマ娘たちの視線が更に鋭くなる。今やこのレースはオルフェーヴルvs他全員と言った雰囲気だ。しかし、オルフェーヴルはその状況に微塵も動じていなかった。ただただ心底面倒くさそうに、言葉を紡ぐだけだった。

 

 

「はぁー……どうでも良い事なのに、レース前に余計な体力使う余裕があるんスね、アンタ。ルール上競走に支障のある要素はないし、ゲートが開けば後はゴールラインまで走り抜くだけ。やる事はそれだけッスよ? ウマ娘なら幼稚園児でも分かる事ッス。それに……」

 

 

 オルフェーヴルは周りのウマ娘一人一人を見渡した。「ヒッ!」「っ!」と彼女たちは息を呑む。その気怠そうな目付きの奥に、凶暴な肉食獣が潜んでいるような錯覚を起こした。

 

 

「見れば分かるッス。アンタらの実力なら、『アタシがマスクを着けてても外してても結果にはなんの影響も無い』ッスよ。だからさっさと始めましょうよ。時間は有限ッスよ?」

 

 

 その言葉で、オルフェーヴルは完全に周囲を敵に回した。いや、本人は敵対したという意識すらも無いのかもしれないが。

 

 

「……なんなの? 言わせておけば勝手な事ばかり!」

「その娘の言った通りよ! ワタシたちをナメてるのよ!」

「自信家を通り越して傲慢だわ」

「喧嘩売ってんの!?」

 

 

 他のウマ娘たちも口々に怒りを露わにする。観戦スタンドのトレーナーやウマ娘たちの間でもざわつきが起こり始めた。

 

 オルフェーヴルはポケットに手を突っ込んだまま、やれやれと言ったふうに肩を落とす。

 

 

「喧嘩って、こんなのは喧嘩にすら……まぁ良いッス。分かりました。じゃあこう言うのはどうッスか? アンタらの内誰か1人でもアタシに先着出来たなら、アタシは何でもアンタらの言う事を聞くッス。『退学しろ』って言われたら大人しく学園を去るッスよ」

 

 

 その発言に、場の空気が一瞬固まった。負けたら『退学』も辞さないとオルフェーヴルは言い放ったのだ。選抜レースなのに、正気か?と周囲のウマ娘たちはたじろぐ。最初にオルフェーヴルに突っかかったウマ娘も、間を開けて彼女を睨みながら言う。

 

 

「……ふん、そこまで言うならそうして貰おうじゃない。アンタが言った事だからね、守りなさいよ」

 

「二言は無いッスよ。さっさと始めましょう。係員も困ってるみたいッスから」

 

 

 そうして、選抜レースに出走するウマ娘たちのゲートインが完了した。初めての選抜レースというのは緊張と期待が入り混じった初々しい雰囲気なる事が殆どだが、このレースはとてつもなくヒリついた空気となっていた。

 

 観戦スタンドの群衆も彼女たちを固唾を飲んで見守る。言い争いの内容までは聞こえてこなかったものの、その中心にいたのが噂高いあの『オルフェーヴル』だと言うのは皆が理解していた。緊張の数秒が過ぎて……

 

 

 バンッッ!!

 

 

 と、ゲートは開かれた。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 レースの結果は……

 

 いや、それをレースと呼んでも良いのか。

 

 レースとして成立していたかも疑わしい。

 

 オルフェーヴルの走りはそれ程に

 

 『恐ろしかった』

 

 

 

 

『オルフェーヴル、圧勝でゴールイーーーン!!! 2着との差はおよそ8バ身!!! しかし、未だ余力を残したままの様子だ!!! デビュー前とは思えない完成された走りを見せつけました!!! 2着は……」

 

 

 

「はぁっ……はぁっ……うっ」

「ウソ……なんなのよ……」

「レースしてたの……私たち……同じレースを走ってたの……?」

 

 

 他のウマ娘たちも続々とゴールラインを過ぎた。彼女たちの胸にあるのは「困惑」や「恐怖」と言った負の感情と、そして……

 

 

「ッッ、嘘よ……! 違う、そんなハズない! 私は……あのウマ娘を……!」

 

 

 オルフェーヴルを叱責していた目付きの鋭いウマ娘は、顔を歪め体操服の胸部分を力一杯握りしめている。

 

 彼女は2着だった。先頭を駆けるオルフェーヴルの姿を鮮明に見ていた。

 

 

「私は……走るオルフェーヴルを……『綺麗』だなんて……思って……ッ!!」

 

 

 

 彼女は、己の胸の内に湧き上がって来た思いを認めたくなかった。オルフェーヴルの走りは圧倒的で、鮮烈で、『美しかった』……

 

 

 言うならば、まさに芝上の『黄金色の芸術』

 

 

 この目付きの鋭いウマ娘は、先頭を走るオルフェーヴルの姿を見て、暫し彼女と『競い合っている事を忘れてしまった』

 

 彼女の走りに『心を奪われていた』

 

 

「違う……! 私は……私はっ……!!」

 

 

 かつてレース場や、テレビの映像で観た憧れのレースウマ娘たち。彼女たちの走りを見て胸をときめかせていた幼い頃の感情を、レースを走りながら感じてしまった。

 

 彼女は認めざるを得なかった。

 

 この選抜レース、彼女は『敗北すらさせて貰えなかった』のだ。

 

 オルフェーヴルを打ち負かすつもりで走ったのに、その姿に『憧れて』しまった。魂が、それを認めてしまっていたのだ……

 

 

 

 圧勝なんて言葉では片付けられないレースに、観戦スタンドの騒めきも収まる時を知らない。特に、スカウト目的で来ていたトレーナーたちは口々にオルフェーヴルの走りを賞賛していた。

 

 

「これは……とんでもないウマ娘が現れたぞ」

「本当にデビュー前なのか!? どんな指導を受けたらあの歳であんな走りが出来る!?」

「なんて美しい……陽光に煌めく栗毛が俺を魅了する……」

「ディープインパクトの再来……いや、それ以上になる可能性もある! 誰が彼女の担当トレーナーになるのか、激しい競争になるぞ……!」

 

 

 その言葉通り、レースを終えたオルフェーヴルのもとにスカウトを申し出るトレーナーが殺到した。入学したてのウマ娘が一度は夢見る状況なのに、彼女は冷めた様子で眼前の人混みを眺めていた。

 

 トレーナーたちはオルフェーヴルに思いの丈を伝える。自分が担当するメリットや、チームの実績を声高にアピールする。

 

 そんな中、オルフェーヴルは興味のなさそうな様子で……

 

 

「そこの人、アンタで良いッス」

 

 

 1人の若い男性トレーナーを指差した。

 

 

「えっ……ぼ、僕!?」

 

 

 目をパチクリとさせて彼は驚きの声を上げる。彼はチームを担当していない新人トレーナーで、ウマ娘を指導した経験はほとんどない。アピール出来る様な実績は何も無いが、万に一つのチャンスがあればと、この人混みの中を泳ぐ様に分け入ってきたのだ。

 

 

「そう、アンタッスよ。と言うわけで、これから契約手続きに行くんで、ここに居ても時間の無駄ッスよ。解散して下さいッス」

 

 

 オルフェーヴルは歩き去る。そして、その後ろをさきの若い男性トレーナーが小走りでついて行く。

 

 

(こ、これって夢じゃないよな? まさか僕が……これが『運命の出会い』ってやつなのかな。彼女はあんな沢山のトレーナーから僕を選んでくれたんだ! が、頑張るぞ!)

 

 

 そのトレーナーは心の中で決意を新たに気合を入れていた。

 

 トレーナーとウマ娘との出会い、それは『運命』のようなものだと言うのはよく聞く話だ。選ばれなかったトレーナーたちは不満そうな顔で立ち去るしかなかった。

 

 

 しかし、誰も気が付いていなかった。

 

 オルフェーヴルはその若いトレーナーを選んだのではない。

 

 オルフェーヴルが適当に指を差した先に、『たまたま』そのトレーナーが居ただけなのだ。

 

 オルフェーヴルにとっては、誰がトレーナーでも関係がなかった。

 

 

 

 

 彼女は『運命の出会い』など、ほんの砂粒ほども信じていなかった。

 

 

 

 

 

 





次回

Part 6. オルフェーヴルの物語③


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Part 6. オルフェーヴルの物語③

 

 

 

 

 

 

 

 かくして、オルフェーヴルはレースウマ娘としての新たな一歩を踏み出した。

 

 しかし、ここで予告しておかなければならない事がある。

 

 この先、オルフェーヴルは『4回』担当トレーナーを変える事になる。彼女は最終的には5人目となる現シリウスのトレーナーの元に落ち着くのだが、そこに至るまでに紆余曲折がありにありまくったのだ。

 

 理由は前回の話を読んでいればお察しだろう。まともなトレーナーであればあるほど、彼女と反りが合わなくなるのは明白だった。トレセン学園史上、オルフェーヴルほど扱いの難しいウマ娘は存在しなかった。

 

 可哀想なのはトレーナーの方だ。とにかく、まずはオルフェーヴルと、彼女の『1人目』となる若い男性トレーナーの様子を見ていこう。

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「オルフェーヴル、これ……昨日のトレーニングでの走行タイムを元にトレーニングメニューを組んだんだ。見てもらえるかな?」

 

 

 選抜レースから二日後、練習グラウンドの隅でオルフェーヴルと彼女の初めてのトレーナーが向かい合う。差し出されたA4用紙をオルフェーヴルは無言で受け取った。昨日、彼女はトレーナーとの初トレーニングを行い、とりあえずタイムの測定からと距離毎のラップタイムと走行タイムを計ったのだった。

 

 トレーニングメニューに視線を落とすマスクのウマ娘を、トレーナーは緊張した面持ちで見つめる。この2人は一昨日の担当契約以来まともに会話していなかった。タイム測定の時もオルフェーヴルはマスクの下から返事以外の声を発さなかったので、トレーナーはオルフェーヴルは無口な性格なのだろうと推し量り、とりあえずは納得していた。

 

 

「…………………………」

 

 

 メニューを手にしても、オルフェーヴルは依然黙したままだった。確認を終えたのか、彼女は視線を上げてトレーナーを見る。そうして彼女が発した言葉は……

 

 

 

「この程度なんスか、トレーナーの仕事って」

 

 

 

 酷く冷淡で、突き放すような響きを持っていた。

 

 

「…………え」

 

 

 トレーナーは目を丸くする。オルフェーヴルの言葉も態度も、彼が思い描いていたトレーナーとウマ娘の会話とはかけ離れたものだったからだ。

 

 

「昨日の初トレーニング、何をやらされるかと思ったら『タイム測定』だったし……あんな無駄な事に時間を費やされて、呆れてものも言えなかったッス」

 

 

 トレーナーはうろたえる。自分を見つめるオルフェーヴルの眼差しには信頼感など微塵もなく、それは木枯らしのように乾いて冷え切っていた。

 

 

「それでも一応初めてのトレーニングだし、アンタが何をするつもりなのか把握しようと思って黙ってたんスけど……それこそ無駄だったみたいッスね」

 

「っ……それは、君には無駄に感じたかもしれないけど……必要な事で……」

 

 

 トレーナーはなんとか言葉を絞り出す。信頼関係とは無から築くものだ、初めから好感度MAXなゲームみたいな状況を望んだつもりはもちろんない。だが、トレーニングメニューを見せただけでここまで拒絶されるなど、いったい誰が思うだろうか。

 

 

「必要……?」

 

 

 ギロリ、と美しい栗毛の前髪の隙間から2つの目がトレーナーを捉える。

 

 オルフェーヴルの言葉は更に温度が下がったように、トレーナーは感じた。ゾクリと、彼はスーツの下で鳥肌立つ。その威圧感は、とても年若いウマ娘が発して良いものではなかった。

 

 

「トレーナー……アンタ、アタシが受けた合同トレーニングの教官から距離毎の走行タイムデータ諸々を受け取ってるはずッスよね? 違うんスか?」

 

 

 オルフェーヴルは攻め立てるように語気を強める。

 

 

「い、いや……もちろん受け取ったけど……」

 

「そのデータには先週までのタイムが記録されてるはずッス。数日程度で変化する数字じゃないんスから、それを参照しようとは考えなかったんスか?」

 

「それも……確かにそうだけど、やっぱり目の前で確認した方が指導方針を決めるのに役立つし……」

 

 

 トレーナーの返答に、オルフェーヴルの言葉は怒りを孕み始める。

 

 

 

「アンタ……選抜レースで何を見てたんスか?」

 

 

 

 トレーナーは言葉に詰まる。

 

 

「選抜レースに出走するウマ娘は、その時点での能力全てを見せつける為に走るッス。アピールするのに必死なんスよ。もちろん、アタシも例外じゃない。周りがそこまでのレベルじゃなかったから多少加減はしたけど、『見せつける為の走り』は十分にこなしたつもりッスよ。十分に……」

 

 

 オルフェーヴルの威圧感は収まらない。遠くのウマ娘にもピリッとした気配が感じられるほどだった。現に少しずつ周囲から視線が集まってきていた。

 

 

「一般の観客ならともかく、アンタは資格試験を合格したトレーナーッスよね? たかだか7、8人のレースで出走ウマ娘全員を観察できないわけがない。自分で言うことじゃないッスけど、アタシはその中で抜きん出て目立っていたはずッス。データも揃ってて、選抜レースも見ていた。それなのに『目の前で確認した方が』って言うんスか?」

 

 

 新人トレーナーは、ただ黙っているしかできなかった。情けなくても、それしかできなかった。

 

 

「大方、トレーナーとウマ娘の初トレーニングはタイム測定からって固定観念かなんかが有ったんじゃないスか? そうやって先ずはコミュニケーションをどうとかって、実際ここでもよく見かけるッスよね。色んな漫画やドラマで飽きるほど使われてきたシチュエーションだし。でも……」

 

 

 オルフェーヴルの視線が、今一度トレーナーを射抜く、容赦無く。彼女は本当に視線だけで人を絶命させられそうだ。

 

 

「アタシはレースの世界で頂点を目指す。その覚悟と積み重ねてきた研鑽を選抜レースで示したつもりッス。事前に推測して、思考する余地はいくらでも有った。なのにアンタはくだらないコミュニケーションの為に『アタシの1日』を無駄に使った。選抜レースの走りを見て、アンタはアタシがそんな悠長で考えなしのウマ娘だと判断したって事ッスよね……?」

 

 

 ぐうの音も出ない正論に、トレーナーはオルフェーヴルの目を直視できなかった。力無く握られたこぶしに手汗がにじんでいく。

 

 

「その結果がこのトレーニングメニューッスか。呆れてものも言えないと思ったら、今度は酷過ぎて目も当てられないッス」

 

 

 そう言うとオルフェーヴルはスマホを取り出してポチポチと操作をする。すると、ピロン!と通知音が鳴りトレーナーのタブレットにデータが送信された。

 

 

「それ、今日のアタシの『自主練用のトレーニングメニュー』ッス。せめてこの程度のものは作ってくれないと話にならないッスよ」

 

 

 トレーナーは恐る恐るテキストファイルを開いて確認した。

 

 

「っ……これ、は……」

 

 

 一言で言えば、書かれていたのは非の打ち所の無い内容だった。データに基づいたトレーニング種目、短期目標と期待効果、秒単位でのインターバルのタイミング、意識する身体の動き、それが行えない場合の予備プラン等々、それらが一目で分かりやすくまとめられている。プロトレーナーが作成するメニューと遜色ないレベルのものだった。

 

 

「トレーナー」

 

 

 オルフェーヴルの呼びかけに、新人の男性トレーナーはゆっくりと彼女の方を向いた。

 

 

「アンタは一昨日の選抜レースと昨日のタイム測定でしかアタシの走りを見た事がないッスよね」

 

 

 それはそうだ、とトレーナーは頷く。

 

 

「でもアタシは十数年ずっと、誰よりも『オルフェーヴル』を見てきた。絶え間なく研鑽を重ねて、強くなる為の探究を続けてきた。トレーナー教本だって読み込んだ。自分の事は自分が1番理解してるッス」

 

 

 オルフェーヴルの視線は、以前として冷ややかなままだった。

 

 

「数回アタシの走りを見た程度でアタシに指示するなら、相応の技量を見せて欲しいッスよ。まあ、もうアンタにはそんな事は期待してないッスけど」

 

 

 そう言うと、オルフェーヴルは記録用のカメラをトレーナーに手渡した。

 

 

「映像の記録くらいは出来るッスよね? 後でAI分析にかけるから、なるべくアタシだけを写すように気を付けて欲しいッス」

 

 

 マスクのウマ娘は、美しい栗毛の髪と尻尾を靡かせて練習グラウンドへと向かった。

 

 若いトレーナーは、ただただ黙って彼女に言われた通りにその走る姿をカメラに収める。

 

 冷や水を浴びせられたように身体がかじかんでいたが、それでもやはり、走るオルフェーヴルの姿を美しいと感じていた。

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 それからオルフェーヴルに本格化が訪れるまでの1年間は混迷を極めた。彼女の『1人目』のトレーナーはその後

 

 

「……オルフェーヴル……君には僕は必要ないんだろう……君は僕を選んでくれたワケではなかったって……ようやく気付いたんだ……」

 

 

 と目を伏せながら言い、トレーナー契約の解消を申し出た。

 

 その後、『2人目』のトレーナーのもとでオルフェーヴルはデビューする事となった。レースウマ娘のスタートライン、輝かしいメイクデビュー、そんなレースでオルフェーヴルはマスク着用で走った。

 

 

「他の出走ウマ娘は事前に調査したッスよ。トレセン学園で走る様子も直接確認したッスけど、マスクを外すまでもないと判断したんで」

 

 

 と言って、マスクを外してくれと懇願するトレーナーを無視して出走。結果、見事勝利しメイクデビューでは白星を飾ったのだった。

 

 しかし、オルフェーヴルのマスクは物議を呼び、トレーナーの監督責任まで弾糾され精神的に疲れ果てたトレーナーは一時休職。そしてオルフェーヴルの担当は『3人目』へと引き継がれた。

 

 メイクデビュー後すぐに担当を変えるウマ娘など前代未聞で、次のトレーナーは半ばその場しのぎに近い形でオルフェーヴルを担当する事になってしまった。

 

 その後のレースでオルフェーヴルはいくつかの勝利と僅差での敗北を重ねるが、そんなトレーナーとオルフェーヴルが上手くいくはずもなく、自分では力不足だと『3人目』のトレーナーも身を引いた。そして続く『4人目』で、ある中年のベテラントレーナーにお鉢が回ったのだった。

 

 

 

「君がオルフェーヴル君だね? 噂はかねがね聞いているよ。だが、私のもとへ来たのなら安心して欲しい。君の以前のトレーナーたちは若さだけが取り柄の未熟者ばかりだったんだ。こう、ウマ娘を扱う加減というのが理解できていなかったのだろうね。勿体無いね、君ほどの逸材はそうは居ないというのに」

 

 

 いやはや、と大仰に顔を横に振って彼は言った。その小芝居がかった様子が鼻についたが、オルフェーヴルは黙ったままだった。

 

 

「君のトレーニング方法も聞き及んでいるよ。放任するのもトレーナーの技量というヤツだからね。もし追加で利用したい施設などがあったら遠慮せずに言ってくれ。私は顔が広いからね、多少の融通が効くんだよ」

 

 

 笑顔のベテラントレーナーのねっとりとした視線が、オルフェーヴルを捉える。その嵌め込まれた様な眼は彼女自身を見ておらず、彼女が未来でもたらすであろう『功績』だけを見ているのだとオルフェーヴルは勘付いていた。

 

 

(この中年トレーナー、穏やかそうな雰囲気で隠しているつもりでしょうが『人一倍プライドが高くて欲深い奴』ッスね。コイツにとってアタシは、さしずめ棚から転がり落ちてきたぼた餅ってところか……)

 

 

 オルフェーヴルはマスクの下でため息をついた。ハッキリ言えば、このベテラントレーナーは彼女が気に入らない類いの人物だった。多くのウマ娘を勝利に導いてきたが、反面その陰で多くのウマ娘を出世のための道具として利用して来たのだろう。

 

 

(でも……まぁ、いいか……)

 

 

 ここでも、トレーナーに対するオルフェーヴルの心は冷め切っていた。

 

 

(ベテランと言われるだけあって指導力はマシな方だろうし、制度上レースに出走する為には担当トレーナーが居なきゃ話にならないスからね。アタシにとって、トレーナーなんて『誰でもいい』ッスから……)

 

 

 お互いがお互いを利用するだけの関係でも構わないと、オルフェーヴルは割り切っていた。

 

 

(誰でもいい……アタシはトレーナーなんかに左右されないッスから……)

 

 

 オルフェーヴルは、心の片隅に雪が積もってゆくような錯覚を覚えたが、気のせいだと思い振り払うのだった……

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

 それから数日後、オルフェーヴルは自主トレで外周ランニングをしていた。秋の夕陽がビルの隙間に隠れようとする時間帯、少しずつ空気が涼しくなっていくのを感じていた。

 

 折り返し地点を過ぎ、学園までの復路を走っていると、彼女の視界の隅に見覚えのある影が映った。

 

 

(ん……あれは……)

 

 

 癖っ毛でショートヘアの年下のウマ娘が、何やら必死の様子で駆けていた。

 

 

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ!」

 

 

 彼女はオルフェーヴルには気付かずに、そのまま町外れの公園の中へと駆けて行く。

 

 

(あのウマ娘は……確かちびっ子レースクラブに居た頃の後輩だったッスよね)

 

 

 オルフェーヴルは昔を思い出した。コーチに反発して問題児として扱われていた幼年期を。周囲の幼いウマ娘たちはオルフェーヴルを怖がっていたが、その中で1人だけやたらと懐いてくるウマ娘が居た。

 

 そのウマ娘はお世辞にも走るのが速いとは言えず、いつもビリッケツだった。それを見かねて、オルフェーヴルは一度だけその子に特訓をつけた事があった。幼いウマ娘同士だからこそ気付ける事もあり、オルフェーヴルの的確な指導でそのウマ娘は徐々に着順を上げていった。

 

 

「すごいです! 天才です、オルフェーヴルさんは! これからオルフェ先輩って呼んで良いですか!? いやアネゴと呼ばせてください!」

 

「ウザいからアネゴはやめるッス」

 

 

 それ以来、そのウマ娘はオルフェーヴルにずっとついて回った。オルフェーヴルはうざったいと感じていたが、常に尊敬の眼差しを向けてくる彼女を無下にはできず、不本意ながら舎弟のように扱っていた。

 

 そのウマ娘はオルフェーヴルより一つ年下なので、オルフェーヴルがトレセン学園の中等部に上がる時には顔をくしゃくしゃにして

 

 

「アタシ、ぜったいオルフェ先輩と同じトレセン学園に行きますからね! 待ってて下さい! うええええええん!(泣)」

 

 

 と、泣き喚きながらオルフェーヴルを見送った。オルフェーヴルはそんな彼女がギリギリの成績でトレセン学園に滑り込み合格したと風の噂で聞いていたが、不思議な事に今まで学園内で彼女と出会った事はなかった。

 

 

(まあ、中等部に上がると友人関係はリセットされるものだし、特に気にしなかったッスが……)

 

 

 オルフェーヴルは彼女が走って行った公園が気になっていた。確かそこはヤンキーウマ娘の溜まり場になっていて、イカサマ野良レースで金品を巻き上げるタチの悪い連中もたむろしていると聞いた事があったからだ。

 

 

(……さっきのアイツの走り方、単なるランニングの走りではなかった。むしろ、レースをしているかの様な雰囲気だった……)

 

 

 オルフェーヴルは嫌な予感がした。

 

 

(〜〜〜〜っ、いや……もうアイツとアタシに関わりはないッス。学園に来てからアイツの方から話しかけてきた事もないし、気にせずに寮に戻れば良い)

 

 

 オルフェーヴルはブンブンと頭を振って、いつものランニングコースを走り去ろうとする。しかし……

 

 

「〜〜〜ああああ、もうっ!」

 

 

 彼女は踵を返して、後輩ウマ娘の後を追い公園へと入って行く。

 

 何をやっているんだと、内心自分に呆れ果てながら、足速に公園の遊歩道を駆けていく。陽はそろそろ、完全に地平の下へ沈んで行きそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

Part 7. オルフェーヴルの物語④


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Part 7. オルフェーヴルの物語④

 

 

 

 

 

 それは夕方から夜へと移行する黄昏時と呼ばれる時間帯。

 

 陽は沈み、残照でまだ幾分か空が赤く光っている。

 

 そんな空の下、とある公園の人のあまり寄り付かない隅の区画に、6人の全員が同じパーカーとジャージを着ている見るからに不穏なウマ娘の集団があった。

 

 彼女たちは1人の癖っ毛ショートヘアのウマ娘を囲む様に立っていて、何やら揉め事が起こっている様子だった。

 

 

「返せ!! それはアタシの財布だ!! 返せ!!」

 

 

 癖っ毛ショートヘアのウマ娘が叫ぶ。しかし、彼女の目の前のフードを被ったウマ娘はニヤニヤと笑って手に持った財布を弄ぶだけだった。

 

 

「おいおい、負けたら賭けたものを差し出すってルールだっただろぉ? トレセン学園に入ったんならルールに従いなさいってお勉強くらいしてんだろぉ。アンタは負けたんだよ。だから、これはオレの財布だ」

 

 

 「へへへ」「ククク」と他のお仲間のウマ娘も意地の悪い笑みを浮かべる。癖っ毛のウマ娘が睨みつけてもヘラヘラと笑っていた。

 

 

「正々堂々と勝負して負けたならアタシも文句はない! だけどお前、途中から他のヤツと入れ替わって走ってただろ! 誰が見てもペースがおかしかった!」

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 オルフェーブルは物陰から遠巻きに彼女たちの様子を伺っていた。

 

 

(……どうやらジブンの勘が当たったようッスね。チーム全員で似たような格好をしてレース中に入れ替わる……あの手の連中が使う常套手段だ。あいつ、まんまとしてやられたって事ッスね)

 

 

 あんな連中と勝負しようとする事自体が間違いだ。可哀想だが後輩のウマ娘にも良い教訓になっただろう、とこの時点ではオルフェーブルは何も手を出さないつもりだった。彼女は再び後輩と不良ウマ娘たちの会話に耳をすませる。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

「おいおいおいおい、負けたからってイチャモンつけんのやめてくれる? オレずぅっと1人で走ってたよなぁ、なあお前ら?」

 

「きゃはは、そうよそうよ。ゲンジツを受け止められないの〜? お子ちゃまだ〜」

 

「トレセンのレースウマ娘だからって調子乗ってたんでしょー。舐めんなって感じぃー」

 

「そんなに疑ってんならショーコ出せよ、ショーコをよぉ〜」

 

 

 不良連中が後輩ウマ娘を囃し立てる。後輩ウマ娘はプルプルと怒りに震えるが、その姿を見て連中は更に盛り上がってしまう。

 

 

「ふざけるなっ!! そんな卑怯なやり方でレースを勝って楽しいのか!! 正々堂々と勝負しろっ!!!」

 

 

 後輩ウマ娘の怒りの声が響き渡る。すると、財布を弄んでいたリーダー格らしいウマ娘が彼女に詰め寄って行く。

 

 

「チッ、うるせーなぁ。騒ぎを起こしたって通報されたらどーすんだよ? そしたら、困るのはお前の方だぜぇ」

 

「な……」

 

 

 後輩ウマ娘が言葉に詰まると、取り巻きの1人が楽しそうに笑いながら言う。

 

 

「きゃははっ! アンタ、私たちが知らないと思ってるの〜? トレセン学園生って、野良レースをするの禁止されてんだよ〜。しかも、財布ごとお金賭けてるし、言い逃れ出来ないよねぇ〜」

 

「なっ!? それはお前たちがそうしないとレースしないって言ったから!」

 

「でもでも〜やっちゃったのは事実だよねぇ〜。あ〜あ〜、これが学園に知られたらアンタ大変だよ〜? 賭けレースをしたウマ娘にトレーナーなんて就くわけないよね〜。そしたらデビューも出来ないね〜、かわいそ〜!」

 

「ッ……!?」

 

 

 後輩ウマ娘の顔が恐怖で翳る。不良ウマ娘たちはそれを見逃すような清廉な奴らではなかった。

 

 

「そいつの言う通りだぜぇ。実際、そーやってトレセン学園を退学したウマ娘もいるんだぁ。クックックッ! だからさぁ〜」

 

 

 リーダー格のウマ娘は底意地の悪い笑みを浮かべ、手にした財布の中身を確認する。

 

 

「この財布の中身、これっぽっちじゃあウッカリ学園に漏らしちまうかもなぁ。お前がちょーーっと誠意ってヤツを見せてくれたら、オレたちの口も固くなるってもんだよなぁ」

 

「ッッ……金を持ってこいって言ってるのか……?」

 

「いやいや〜、誠意の形ってウマ娘それぞれだけど〜、平たく言えばそーゆーことじゃん。さすがはトレセン学園生、理解が早くて助かるぅ〜!」

 

 

 ギャハハハと周りの不良ウマ娘たちが笑う。後輩ウマ娘はリーダー格を睨みつけてはいるが、その顔は少し青ざめていた。

 

 

「そんなこと、出来るワケがないだろ! 脅して金を強請るなんて、犯罪だぞ!」

 

「あっそー、じゃトレセン学園に連絡しちゃおー。おい」

 

 

 パシャパシャパシャ!!

 

 

「ッ!?」

 

 

 突然焚かれたフラッシュに、後輩ウマ娘は目をしかめる。取り巻きの1人がスマホでカメラ撮影をしたようだ。

 

 

「はいっ! ショーコ写真ゲットだぜ〜! もう言い逃れ出来ないなぁ〜!」

 

 

 スマホを手に不良ウマ娘ゲラゲラ笑ってピースをした。

 

 

「お前っ! よくもそんな……」

 

「おおっとぉ、暴力まで振るっちゃう? そしたら学園どころかケーサツにまでお世話になっちゃうよぉ?」

 

「くっ……!」

 

 

 後輩ウマ娘は悔しさに両手を握りしめて、地面を見つめる。もう、どうする事も出来ない状況になってしまった。

 

 

「ッッ……ウチは金持ちじゃないんだ……仕送りだって殆ど無い。センパイと同じトレセン学園に行きたいって親に無理言って入学したんだ……今、学園をやめるわけには……」

 

 

 後輩ウマ娘は掠れ声で呟く。

 

 

「はぁ? こっちはお前の事情なんて知ったこっちゃねーよ!」

 

「そーそー、イチャモンつけられたのはこっちだし!」

 

「それにさー、トレセン学園ってお金持ち多いんでしょ? アンタが金無いならさー、お嬢様たちから頑張ってチョロまかしちゃえば良いんじゃね? ヤバっ、ウチって天才!」

 

 

 再びギャハハハと爆笑が起こる。リーダー格のウマ娘もひとしきり笑うと、後輩ウマ娘の肩にポンと手を置いた。ビクッと震えた彼女の耳元で呟く。

 

 

「まあ、オレたちが野良レースするのは日常だし? お前がオレたちと仲良くレースしてたって学園に言ってもなーんも問題ないんだよなぁ……で、どーすんの?」

 

 

 後輩ウマ娘の肩が、怒りと後悔で震える。その眼が絶望で翳り始めた時……

 

  

 

 

「おい」

 

 

 

 

 後輩ウマ娘の背後から誰かの声がした。彼女にとって胸が震えるほど懐かしく、頼もしい声が……

 

 

 

 

「アタシの後輩に何やってんスか、アンタら……」

 

 

 

 

 後輩ウマ娘は振り返る。そこにはマスクを着けた、憧れの栗毛のウマ娘が立っていて……

 

 

 

「ッッ……センパイ……オルフェ先輩ぃ……!」

 

 

 

 癖っ毛ショートヘアのウマ娘は、目に涙を浮かべて彼女の名を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

……………

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

「ああん!? 誰だオメェ!?」

 

「そのジャージ……同じトレセン学園のウマ娘だな。待て、そのマスク……見覚えあんぞ」

 

「今『オルフェ先輩』って言ったぁ? あ〜、思い出したぁ。リーダー、コイツ『オルフェーヴル』だよ。ほら、マスク着けたままレースで走ってるヤバいって噂のウマ娘の」

 

 

 スタスタとオルフェーヴルは歩みを進める。取り囲んでいる連中を無視して、中央の後輩ウマ娘と、その肩を掴んでいるリーダー格のウマ娘の目の前までやってきた。

 

 

「へっ! なんだぁ、ヒーロー気取りかよ? 可愛い後輩を助けに来たってかぁ、オルフェーヴルさんよぉ?」

 

 

 リーダー格のウマ娘はオルフェーヴルを睨み付けながら言った。しかし、オルフェーヴルは微塵も動揺する事なくいつもと同じ調子でそのウマ娘を見つめ返した。

 

 

「別に、ソイツを可愛いなんて思った事は一度も無いッスよ」

 

「センパイ!?」

 

 

 ガーン!と後輩ウマ娘はショックを受ける。

 

 

「ただ、顔馴染みなんでこのまま帰ったら後味悪いと思っただけッス。なぁ……アンタら……」

 

 

 ゾクゥ……ッッ!!!

 

 

「ヒィッ!」「アッ……」「ングッ!?」

 

 

 その場の不良ウマ娘たちは鳥肌立った。

 

 オルフェーヴルは、肉食獣の様な凄みの籠った眼で周囲のウマ娘を見渡し、再びリーダー格の不良を睨みつけた。

 

 

「見たところ、全員アタシとタメか年上ッスよね……恥ずかしくないんスか……? 年下のウマ娘を取り囲んで金を強請るとか、ダサすぎて目も当てられないッスよ」

 

 

 マスク姿のウマ娘の威圧感に、リーダー格のウマ娘は一瞬たじろいだ。

 

 

「うえっ」グイッ!

 

 

 その隙にオルフェーヴルは後輩ウマ娘の肩を掴んで、グイッと引っ張り自分の背後に立たたせた。

 

 

「あっ……せ、センパイ……」

 

「お前も、何でこんな連中と野良レースなんてバカな事したんスか?」

 

「う……」

 

 

 横目で見つめるオルフェーヴル。

 

 後輩ウマ娘の、癖っ毛の中に生えたウマ耳がショボンと垂れる。

 

 

「それは……アタシ、トレセン学園に入学はできたけど、成績はボロボロで……このままじゃオルフェ先輩の横に立つのに相応しくないって思って……でもアタシなんかのレベルで並走トレーニングに付き合ってくれるウマ娘が居なくて……少しでも経験積みたくて……」

 

 

 オルフェーヴルは黙って後輩ウマ娘の話を聞いていた。彼女はオルフェーヴルに少しでも近づきたい一心で野良レースに手を出したらしい。

 

 その事を理解して、オルフェーヴルは一瞬目を細め、マスクの下でため息をついた。

 

 

「……まったく、お前はホントにバカッスね。こんな連中と走ったところで得られる物なんかあるワケないでしょうが」

 

 

 オルフェーヴルは再び正面を向くと、リーダー格のウマ娘がゴクリと唾を飲んだ。だが、不良なりに根性もあるので、態度だけはデカいままで崩していなかった。

 

 

「……はっ、けどよオルフェーヴル。お前の後輩ちゃんはオレに負けたんだよ。ルールはルールだ。コイツは戦利品として頂いたんだ。どーしても返して欲しかったら、アンタも『脚』で勝負するんだなぁ」

 

 

 他の取り巻きも調子を取り戻した様で、オルフェーヴルを5メートル程離れて囲んだまま笑っている。

 

 オルフェーヴルはポケットに手を突っ込んだまま、つまらなそうに周囲をチラッと見渡した。

 

 

「…………良いッスよ、別に。『脚』で勝負しても」

 

「ちょ、センパイ! 駄目ですよ! コイツらそうやって野良レースに巻き込むのが目的で!」

 

「そうしないと財布を返して貰えないんスよね? なら仕方ないッス」

 

 

 リーダー格のウマ娘はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。間違いなく良からぬ事を企んでいて、普通のレースをするつもりなどないって表情だ。

 

 

「クックックックックッ! 物分かりが良いじゃないかぁ! 後悔すんなよぉ? オレが勝ったらオメーから……ヘブォォッッ!?!?」

 

 

 

 

 ドガァアアアンッ!!!

 

 

「!?」「!?」「!?」「!?」「!?」

 

 

 

 

 と、リーダー格のウマ娘がオルフェから見て横方向に凄い勢いでぶっ飛び、転がっていった。取り巻きのウマ娘たちも突然のことに固まってしまう。

 

 オルフェーヴルは、目にも止まらぬ速さでリーダー格のウマ娘を顔面から蹴り飛ばしたのだ。そのついでに、奪われた財布も取り返して手に持っていた。

 

 シュゥゥゥ……とオルフェーヴルの靴から煙が上がっているかの様な錯覚が見えた。後輩ウマ娘もその横で唖然と口を開けている。

 

 

「ほら、『脚』で勝負したッス。思ってたのと違ったッスか? 言葉足らずなのが悪いんスよ。バカはもっと勉強して語彙力を身に付けた方が良いッス」

 

「てっ……テメェエエ!! おれたちのリーダーに何しやがんだあああ!!!」

 

 

 不良ウマ娘たちが襲い掛かろうとする中、オルフェーヴルは取り返した財布を後輩ウマにポンと投げ渡す。

 

 

「全力で寮に戻れ、足手纏いッス」

 

「ッ……!!」

 

 

 ダッダッダッダッダッダッ!

 

 

 後輩ウマ娘はオルフェーヴルの言葉の意図を察し、全力で包囲を突破して逃げ出した。

 

 

「あっ! こら、待ちやがれぇ!!」

 

 

 取り巻きの1番外側に居た1人が後輩ウマ娘を追いかける。体力を消耗している後輩に対して、先の野良レースを走ってない不良ウマ娘は体力的に十分余裕があった。これならば後輩をすぐに捕まえられるだろう。

 

 

(あのオルフェーヴルって奴がどんだけ強いか知らねーけど、この後輩を人質に取れば大人しくなるはず……………は?)

 

 

 ダダダダダダッ!!!

 

 

 

 次の瞬間、その不良ウマ娘の視界に……仲間に取り囲まれていたはずのオルフェーヴルの姿が写った。

 

 

 

(は? コイツ、さっきまであの輪の中心にいたよな……!? 速すぎ……)

 

「えっ!? ンガッッ!! ぐあああぁぁ!!」

 

 

 ドタンッ! ゴロゴロゴロゴロ……!

 

 

 オルフェーヴルは後輩ウマ娘を捕まえようとしてた不良に一瞬で追い付き、足払いをして、腕を掴んで捻り、走っていた勢いでそのまま彼女を転がすように投げ飛ばした。不良ウマ娘は地面に倒れたまま、目を回して呻いている。

 

 

「ふぅ……ま、これでアイツも逃げられたッスかね」

 

 

 オルフェーヴルは後輩ウマ娘が去って行った方向を見て安堵する。一旦これで彼女の心配はしなくて良いだろう。

 

 そして、オルフェーヴルを追って複数の足音がやってくる。不良ウマ娘たちは投げ飛ばされた仲間を見てギョッとしていた。

 

 

「なっ!? おい、オメーよくも……!!」

 

「マ、マジか……何だよあのダッシュ……姿が消えたと思ったら、いつの間にか……」

 

 

 取巻きのウマ娘たちがゾロゾロとやってきた。オルフェーヴルは深いため息を吐く。

 

 

「ふぅ……こういうのは趣味じゃないんスけどね。何やってんだろ、アタシは」

 

 

 ギロリ……!

 

 

 と、栗毛の前髪の隙間からオルフェーヴルは不良ウマ娘たちを睨み付けると、「ヒッ!」「うっ……」と声を上げて彼女たちはたじろいだ。

 

 

 

 陽も沈み暗くなった公園で、『暴君』の異名を持つウマ娘の両眼が、獣の様に鈍く光っていた。

 

 

 

 

 

 

 





次回

Part 8. オルフェーヴルの物語⑤


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Part 8. オルフェーヴルの物語⑤

 

 

 

 

 

 

 空がだんだんと暗くなる中、とある公園の一角でオルフェーヴルと4人の不良ウマ娘が睨み合う。張り詰めた空気が周囲に立ちこめ、双方は暫し微動だにしなかった。

 

 少し離れたところに目を回して呻いている者が1人転がっていた。それを見て不良ウマ娘の1人がボソリと呟く。

 

 

「ど、どーするよ……」

 

「どーすったって……リーダー蹴っ飛ばされたし、一旦バラバラに散って誰かが奴の後輩捕まえた方が……」

 

 

 不良ウマ娘のその言葉に、オルフェーヴルの耳がピクンと反応した。もともと鋭い目が更に細く鋭利になる。

 

 

「別にいいッスよ、散らばって逃げても」

 

 

 『暴君』の獣が如き眼光が不良ウマ娘たちを射抜く。

 

 

 

「アンタら程度の鈍足集団なら、四方に散らばって逃げたとしても……3分あれば全員追い詰めてブチのめせるッスから」

 

 

 

「……ッッ!?」

 

 

 不良ウマ娘たちは息を呑み、直感で理解した。オルフェーヴルは間違いなくそれを実現出来てしまうと。

 

 目の前に居るのは本当に自分と同じウマ娘なのか疑ってしまう程に、オルフェーヴルの威圧感は凄まじいものだった。

 

 場を再び沈黙と、吐きたくなる様な緊張感が支配した。不良ウマ娘たちが声すら発せずにいると……

 

 

「クッソォ……テメェ良くもオレの顔をォォ……蹴りやがったなぁ!!!」

 

 

 ヤンキー集団の後方からもう一つ影が現れた。先程、オルフェーヴルに蹴り飛ばされたリーダー格のウマ娘である。

 

 流石は腐ってもウマ娘、そのタフさは大したものである。

 

 

「テメェらぁ!! 1人相手にビビってんじゃねぇ!! オメーもいつまで寝っ転がってんだぁ!? とっとと起きやがれぇ!!」

 

 

 リーダー格のウマ娘の怒号で、オルフェーヴルにのされた1人がフラフラと立ち上がる。流石に投げ飛ばされただけでは不良ウマ娘も倒れない。

 

 

 ザッ、ザッ……

    ザッ、ザッ……

 

 

 集団で狩りをするコヨーテのように、不良ウマ娘たちは再びオルフェーヴルを取り囲む。先とは違って完全に警戒している様子だった。それでも、オルフェーヴルは何の興味も抱いていないとばかりにポッケに手を突っ込んだままである。

 

 

「オレたちにこんなコトしてよぉ……タダで済むと思うなよぉ!!! ナメくさってんじゃねぇぞッ!!!」

 

 

 リーダー格のウマ娘が怒号を飛ばすと同時に、オルフェーヴルの背後に立っていた1人が彼女に向かって殴りかかる。

 

 それはこの連中がよく使う手段だった。大声で気を引いて背後から奇襲する。あまりに卑怯でかつ原始的な方法だが、これが意外と機能するのだ。ほとんどの場合、喧嘩慣れしてる者でも反応が遅れ、攻撃を食らってしまう。

 

 

 

 ただ……今回はその「ほとんどの場合」には当てはまらなった。

 

 それだけオルフェーヴルは『規格外』だった。

 

 

 

 カクンッ……!!

 

 

「へ…………??」

 

 

 

 殴りかかった不良ウマ娘が素っ頓狂な声を上げる。

 

 彼女の視界からオルフェーヴルが突如として消えた。

 

 それに戸惑う暇も無く、気付いた時には文字通り『足を掬われて』いた。

 

 誰しもが経験のある走って転ぶ時と同じような浮遊感に襲われて、肩を誰かに掴まれたと思ったら

 

 

 グルゥンッ……!!

 

 

(あ……れ……?)

 

 

 次の瞬間、そのウマ娘の世界が回転っていた。訳もわからないまま、彼女は背中から地面に落とされる。鈍い衝突音が他の不良たちの耳に届く。

 

 

「グハァッ!?!? うっ……ゲホッ!?!?」

 

 

 オルフェーヴルはそのウマ娘に追撃で鳩尾を踏み付ける。ヒトと共通する身体の急所である。しばらくは立ち上をがれないだろう。

 

 その一瞬の出来事に、不良ウマ娘たちは唖然と立ち尽くす。周囲に立っていた彼女たちには、何が起こったのかよく見えていたのだ。

 

 そのウマ娘が攻撃の為に駆け出すとほぼ同時に、オルフェーヴルは振り向きもせず一瞬で身を屈め、脚を開き両手を地について、地面を縫う様に移動した。

 

 そのまま向かってきたウマ娘の脚に自らの肩をぶつけ、掬い上げるように立ち上がった。そしてバランスを崩したウマ娘の肩を掴み、腰を押しグルンと回転させ地面に投げ落とした。

 

 合気道の「すかし」という技、そこから流れるように、オルフェーヴルは相手を一瞬で無力化したのだ。

 

 

「師範とカレンさんには無闇に『技』を使うなって言われてたッスけど、護身の為なら許されるッスよね」

 

 

 オルフェーヴルがダルそうに呟くと、不良ウマ娘たちの間にどよめきが起こる。

 

 

「リーダー……アイツ、何かの武術やってるよ!」

 

「ッッ……!」ギリッ

 

 

 リーダー格のウマ娘は歯軋りをする。だが、もう迷っている時間は無かった。不良集団は勢いを失ったら終わりだ。仲間たちが動揺する前に、オルフェーヴルを仕留めなければならない。

 

 

「ビビってんじゃねぇッ!!! 相手は1人だッッ!! 全員でかかりゃあ勝てるに決まってンだろぉッッ!!」

 

 

 うおおおおおおお!!!という雄叫びとともに、残った不良ウマ娘全員がオルフェーヴルに襲い掛かる。

 

 彼女らの拳が眼前に迫っていても……

 

 

 オルフェーヴルの瞳は、何の興味も示していないかの様に静かなままだった。

 

 

 

 

 

……………

…………

………

……

 

 

 

 

 タン、タン、スーッ、タン、トン

 

 

 オルフェーヴルの指がスマホの画面を滑る。それは先程後輩ウマ娘の写真を撮っていた不良ウマ娘のスマホだった。

 

 

「よし、完全に削除……と。ひとまずこれで良いか」

 

 

 オルフェーヴルはポイっとスマホを投げ捨てる。それは地面に倒れている1人の不良ウマ娘の頭に当たった。イタァッ!!と短い悲鳴が上がる。

 

 

 陽も完全に落ち、暗い公園内を街灯だけが照らしていた。

 

 周囲は惨憺たる有様だった。ボコボコに打ち倒された不良ウマ娘たちの中心に、マスクとジャージ姿のウマ娘が立っていた。喧嘩の結果は、オルフェーヴルの完勝だった。

 

 

 オルフェーヴルが修める武術『合気道』、その系譜はかつてトレセン学園の生徒だったとある武術家ウマ娘の師匠から連なるものだった。オルフェーヴルが居た道場の師範代であるカレンチャン、その師匠の師匠が角間源六郎という人物なのだが、ここで説明する必要はないだろう。(本編17話参照)

 

 角間源六郎はウマ娘複数人を相手取り戦える武術の達人だった。その系譜の者は生半可な鍛え方をされていないのだ。オルフェーヴルは相手の攻撃をいなし、時には相手を他方に押し付け、洗練された舞踊の如き武技で不良ウマ娘たちを終始翻弄し隙を突き、1人また1人と戦闘不能にしていった。

 

 

 しかし、多勢を相手に流石に無傷では済まなかった様で、ジャージの所々が土で汚れ、その生地の下は打ち身で腫れていた。

 

 

「痛ッ……あぁ……カレンさんだったらこの程度のヤツら、無傷でいなしてたんだろうな……でも、あの地獄の様なシゴキも無駄じゃなかったって事スね……」

 

 

 オルフェーヴルは街灯の灯りの下、片腕を押さえて立ち尽くす。地面を転がっている不良ウマ娘たちは「ごめんなざい……すびばぜん……」と口々に震えながら呟いていた。

 

 

 ほんの数分前までは、辺りは怒号の飛び交う切った張ったの大騒ぎだった。その騒ぎは公園中に響き渡っていた。そして間違いなく他の人々にも聞こえていただろう。その証拠に

 

 

 

 ウウウウウウウーーーーッッ!!!!!

 

 

 

 と、パトカーのサイレン音が近付いてきていた。通行人が通報したのだろう。ピクンとオルフェーヴルの耳が揺れ、そしてほんの少しだけ何かを諦めたように下向きに垂れた。

 

 

(これは……逃げられないッスね……)

 

 

 ザッ、ザッ……と足音を立てて、オルフェーヴルはリーダー格のウマ娘の前に移動する。そして倒れた彼女の胸ぐらを掴み上げると、他の不良ウマ娘にも聞こえるように、しかし通行人に聞かれない程度に声を張る。

 

 

「よく聞け。これから警察がここに来るッス。恐らくアタシたちは全員補導されるッスけどアンタら、野良レースは『オルフェーヴル』とやったと言え。アタシの後輩の事は1ミリも漏らすな。もしほんの少しでも後輩の事を言ったら、アタシは必ずアンタらを見つけ出して地獄に叩き落とす。年明けを車椅子で過ごす事になるッスよ……全員、聞こえたッスね?」

 

 

 オルフェーヴルの声は低く、これまでにない程の威圧感がこもっていた。

 

 

「わ、分かった……分かりましたぁ! 調子乗ってすみませんっしたぁ……!」

 

 

 リーダー格のウマ娘は怯えた表情でガタガタと震えていた。

 

 

 「言う通りにします」「ごめんなさい」と不良ウマ娘たちは震えながら精一杯の声で誓った。

 

 ドシャっとオルフェーヴルがリーダー格のウマ娘を放したタイミングで、公園内に乗り込んできたパトカーから2人のウマ娘の婦警が降りて駆け寄ってくる。

 

 

「あなた達、何してるの!? 全員動かないで!!」

 

 

 オルフェーヴルはやって来た婦警を見つめながら、抵抗の意思はないと俯いて両手を軽く上げた。深いため息がその口からこぼれる。

 

 

(ああ……その通りッスね。本当に……何やってんだろう、アタシは……)

 

 

 また遠くから増援に来たのだろう、複数のパトカーのサイレンが聞こえて来た。

 

 

 その非日常的な音に耳を澄ませながら、オルフェーヴルはそっと眼を閉じたのだった。

 

 

 

 

 





次回

Part 9. オルフェーヴルの物語⑥


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Part 9. オルフェーヴルの物語⑥

 

 

 

 

 

 

 

 

 コツ、コツ、コツ……

 

 

 あの公園での乱闘騒ぎから3日後、オルフェーヴルは担当トレーナーに会いにトレーナー室へと向かっていた。どんな状況でも基本的に心を乱される事のない彼女だが、今回は足取りが重そうに見える。

 

 

「……はぁ……」

 

 

 オルフェーヴルは歩きながらため息をつく。彼女は自分のやった事に一切の後悔は無かった。しかし、想像以上に周りが騒ぎ立つと、どうしても精神的に引きずるものがあるのは仕方のない事だろう。

 

 

『あの「暴君」オルフェーヴルが賭けレースで揉めて他校生と乱闘、URAより8週間のレース出走禁止処分を下される!!!!!』

 

 

 と新聞やゴシップ記事が世間に出回り、学園内は秋のレース以外ではその話題で持ちきりなのだから。

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

 あの夜、公園でオルフェーヴルと不良ウマ娘たちは皆ウマ娘婦警により一時取り押さえられ、補導された。その夜に事情聴取が行われ、後に理事長秘書の駿川たづなが身元引受人となり学園寮へ帰宅、丸一日の自室謹慎後に理事長室にて秋川理事長と駿川たづなと面談をした。

 

 理事長室での面談は、オルフェーヴルが想定していたより穏やかに終わった。もっと厳しく叱責され、物凄い剣幕で罵倒される覚悟だったのだが、秋川理事長とたづなさんは終始真剣な表情で冷静に事実確認を行うのみだった。

 

 その最中、たづなさんは不意にオルフェーヴルにある事を尋ねた。

 

 

『……おおよその事情は分かりました。警察の方から報告を受けた通りですね。ところで、オルフェーヴルさん。1つ、お尋ねしたい事があります」

 

 

 たづなさんはオルフェーヴルに顔を寄せる。何やらこれから重大な質問をする雰囲気で、オルフェーヴルを見つめる秋川理事長の眼も更に真剣味を帯びた。

 

 

『あの事件の夜、1人の生徒が門限を破って寮に帰宅したそうです。調べたところその生徒は、初等部の時に貴方と同じレースクラブに所属していた事が分かりました』

 

『……!』

 

 

 オルフェーヴルは出来る限り平静を装う。この時ほどマスクをしていて良かったと思ったことはない。

 

 

『……オルフェーヴルさん、貴方が他校生と行ったと「される」野良レースと、彼女は何か関係は有りませんか?』

 

『……なんも関係ないッスよ。多分、下の学年のウマ娘の事を言ってると思うッスけど、ソイツとは入学してから一度も話した事無いッスから』

 

 

 たづなさんと秋川理事長の視線が鋭くなった。しかし不思議な事に、その視線は罪人を非難し追求する為ではなく、まるで覚悟を試しているかの様な雰囲気があるとオルフェーヴルは感じた。

 

 

 

『……それは確かか? オルフェーヴル』

 

 

 

 凛とした声が響く。

 

 その声の主はトレセン学園理事長・秋川やよいだった。

 

 閉じた扇子を片手に腕を組み、屹然とした態度で、彼女はオルフェーヴルの向かいに佇んでいた。

 

 シンボリルドルフが生徒会長を務めていた時代から理事長職を務めていた彼女は、少女から大人の女性へと成長していた。しかし、彼女の服装は多少の装飾が増えただけで昔と殆ど同じデザインだった。卒業生たちが遠目からでも一目で理事長と分かるように、との思いがあるそうだ。ちなみに彼女の愛猫も歳を取り、今は部屋の隅のバスケットで丸くなっている。

 

 秋川やよいの身長は既にたづなさんより高く、その立ち姿は威風堂々と頼もしく貫禄があり、敵も味方も慄くほどの『リーダー』としての風格を纏っている。

 

 

『……オルフェーヴル、君の評判については私たちも聞いている。しかし、それを跳ね除けるのに十分な努力を君が重ねている事も私たちは知っている。先日、この学園の卒業生の「カレンチャン」からも連絡があった。私たちは皆、君が理由もなく賭けレースに身を投じるウマ娘ではないと知っている』

 

 

 秋川やよいは美しく力強い瞳で、オルフェーヴルの瞳の奥を見つめる。その真意を推し量ろうという強い意志を持って、オルフェーヴルと向き合っている。

 

 

『もう一度聞くぞ。騒動の夜に門限を破って帰宅したウマ娘と、君の校外での賭けレースは何も関係が無いのだな?』

 

 

 隣でたづなさんも静かにオルフェーヴルを見つめている。数秒の沈黙の後、マスクを着けたウマ娘は、秋川やよいと真っ直ぐ向かい合って答える。

 

 

『ええ、何も関係無いッスよ』

 

『……………………………………』

 

 

 暫し、理事長室に沈黙の時が流れる。秋川やよいはその間ずっとオルフェーヴルの眼を見ていた。そして……

 

 

 

『…………承知ッ!!!』

 

 ババン!!!

 

 

 

 と、秋川やよいは扇子をバッと開いた。そこには『忍耐』の二文字が記されていた。

 

 

『本件の調査はこれにて終了とするッ! オルフェーヴル、君の処遇については追って正式に通知が届くだろう。それまでは授業時間以外は自室謹慎するように』

 

 

 ピシャン!と理事長は扇子を閉じる。オルフェーヴルはしばらく圧倒的されたように黙っていたが、ペコリと頭を下げて理事長室の出口へ向かう。

 

 

 

『オルフェーヴル』

 

 

 

 オルフェーヴルがドアノブに手をかけたと同時に、秋川やよいは彼女の名を呼んだ。

 

 

『……我々も、可能な限り君の処罰の軽減に努める。だが、URAは賭けレースについては非常に厳しい目を向けている。君が初犯である事を加味しても「8週間のレース出走停止」、これ以下には出来ないというのが我々の見立てだ……すまない』

 

 

 オルフェーヴルはドアノブを握ったまま振り返る。

 

 

『……理事長が謝る必要は無いッスよ。全部、ジブンの責任ッスから』

 

 

 ギィ……と扉を開き、オルフェーヴルは理事長室を後にした。その扉が閉まる前に、秋川やよいは

 

 

『それでも……すまない』

 

 

 と呟いた。オルフェーヴルは、それが聞こえなかったフリをした。

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

 コツ、コツ、コツ……

 

 

 誰も居ない廊下に、オルフェーヴルの足音だけが響く。彼女は理事長室で面談した秋川やよいと駿川たづなの事を思い出していた。

 

 

(……秋川理事長もたづなさんも、間違いなく『分かっている』ッスね。アタシの気持ちを汲んだ上で、URAに処罰の軽減を申し立ててくれた……けど感謝を伝えようにも、お礼すら言えないのはやるせ無いッスね……)

 

 

 オルフェーヴルは基本的に大人嫌いだが、秋川理事長とたづなさんには信頼を寄せていた。このトレセン学園が発展してきたのは、彼女たちの様な真にウマ娘とレースを愛する者たちが支えとなってきたからだろう、と歩きながらボンヤリ考えていた。

 

 

 コツ、コツ、コツ……コツン

 

 

 そうしてる内に、オルフェーヴルは、トレーナー室に辿り着いた。扉の前で立ち止まる。彼女は騒動以来トレーナーとは会っていなかった。それどころか、トレーナーから連絡は一度も来なかった。警察署に来た身元引受人も本来ならトレーナーが引き受けるものだが、なぜか駿川たづながわざわざやって来てくれたのだ。

 

 

「………………はぁ」

 

 

 オルフェーヴルは一瞬嫌そうに目元を顰めた後、ガチャリと目の前の扉を開けた。

 

 数歩進んで中に入ると、部屋の奥の大型のデスクとセットの豪奢な椅子に中年の男性トレーナーが座っていた。

 

 

「オルフェーヴル…………」

 

 

 彼はオルフェーヴルを見るや否や、プルプルと震え出し、右拳を握りし締め……

 

 

 ダァンッ!!!

 

 

 と、デスクを殴りつけた。

 

 

「……〜〜ッッ、貴様はぁ!! よくも私の顔に泥を塗ってくれたなッ!! 私の輝かしい経歴に傷が付いてしまったではないかぁッ!! どうしてくれるんだぁッ!!! この手に負えんジャジャウマ娘がぁ!!!」

 

 

 中年トレーナーは茹蛸の様に顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながらオルフェーヴルを罵倒した。「ブサイクな面だなぁ」とオルフェーヴルは思ったが、もちろん口には出さなかった。

 

 

(……騒動が起こった後に、少なくとも秋川理事長とたづなさんは、最初にアタシの身体と精神面を気遣って声をかけてくれた。それなのにこの男は開口一番「貴様」呼ばわりッスか……まあ、予想通りだけど)

 

 

「……申し訳ありませんッス。以後この様な事態を引き起こさないよう、心を入れ替えて頑張っていくつもりッス」

 

 

 それでも対外的には100%オルフェーヴルに非がある事になってるので、彼女は心にもない謝意を述べた。当然、そんな言葉で中年トレーナーの怒りは収まるはずもなく、彼は醜く顔を歪めたままオルフェーヴルへの罵倒を続ける。

 

 

「行き場の無かったお前を快く迎え入れてやったのに、なんだこの仕打ちは! 飼い犬に手を噛まれるとはこの事だぞッ! お前の才能を活かしてやれるのは、この学園でも私くらいのものだッ! それなのにお前は賭けレースをした挙句、乱闘騒ぎを起こしただと!? 私の監督責任を問われたらどうすんだ!! お前のせいで私の積み上げてきた信用が崩れるかもしれないんだぞ!! ええ!?」

 

 

 どこまで行っても、このトレーナーは自分の事しか考えていない。オルフェーヴルがこのトレーナーと初めて会った時に抱いた印象は完璧に当たっていたようだ。

 

 

(しかも、アタシが目の前に居るのに報道を鵜呑みにして、直接事情を聞こうとする素振りも見せない。理事長とたづなさんとは、比べる事すら彼女たちに失礼ッスね……)

 

 

 オルフェーヴルはこの中年トレーナーに心底嫌気が刺していた。だが、後輩のあのウマ娘の為に、真実は決して明かさないつもりだった。とにかく今は余計な事を言うべき時ではない、黙って耐え忍ぼう。そう、思っていたのだが……

 

 

 

「大体、野良レースは担当もつかなければ実力も無い、箸にもかからないような無能なウマ娘どもがするものだろうが!! 私はお前の才能を買ってやったのに、そんなカス共と同じ事をして自らの価値を下げる愚か者がどこに居る!?」

 

 

 

 ピクン……

 

 オルフェーヴルの耳が微かに揺れた。

 

 

 

「全く、お前にはクラシック三冠を狙える才能があるんだ! 他の有象無象と一線を画す素質がある! 私ならばそれを完全に活かしてやれる! これに懲りたら、大人しく私のチームに貢献して……」

 

 

 

 

「……うるせぇッス」

 

 

 

 

 ドズン……!とトレーナー室の空気が重くなった。トレーナーは声を出せなくなる。まるで彼の中に眠る野生の本能が、近くに捕食者がいると察知したかのように。

 

 

「確かにアタシは心を入れ替えて頑張っていくと言ったッス。けど、一言も『アンタのチーム』でとは言っていない」

 

 

 オルフェーヴルはトレーナーを睨み付ける。不良ウマ娘たちと対峙した時ですら静かで冷たかったその眼には、かつて無いほどの『怒り』が込められていた。

 

 

「ウマ娘を出世の道具としか考えてないアンタと、担当トレーナーがつかず不安を抱えながら努力しているウマ娘たち、どっちの方がカスなんスか」

 

 

 オルフェーヴルには友人はほぼ居ない。彼女の反抗的でストイックな態度は自分以外のウマ娘全てを見下していると思われがちだが、彼女はひたむきに努力を続けている者には敬意を払っている。それが他のウマ娘に知られる機会が殆ど無いだけなのだ。

 

 

「同じ空気を吸うだけでも反吐が出る。アンタんとこで走るくらいなら、レースを辞めた方がマシッス。金輪際、アタシと関わるな」

 

 

 オルフェーヴルは踵を返してトレーナー室の出口へ向かう。中年トレーナーは何とか、その喉から声を絞り出す。

 

 

「き、貴様……私をバカにしているのか! 私のチーム以外に、お前のようなウマ娘を受け入れてくれる所なんかある訳がない! 私ほど他の強豪チームとコネクションを持っているトレーナーは居ない! 他のチームに移籍出来ると思うなよ! 賭けレースをしたお前なんかの担当を引き受けるトレーナーはこの学園には居ないぞ!」

 

 

 オルフェーヴルはそんな言葉は聴こえていない風に、スタスタとトレーナー室を出て行った。残されたのは悔しさに顔を歪めた中年トレーナーだけだ。

 

 

「……取り逃がした、クソッ!! オルフェーヴルはここ数年で最高の逸材だった!! アイツの脚ならクラシック三冠トレーナーになるのも夢ではないというのに!! ライバルチームに渡してなどたまるものか……絶対に加入を阻止してやる!! 私のチームで走らないのならば、トゥインクルシリーズで走らせてはならん!!」

 

 

 中年トレーナーはトレセン学園のチーム名簿を乱暴に引っ張り出すと、イラついた様子でめくっていく。

 

 

「『アタナシア』『ヴィーナス』『エリス』……ここいらのトレーナーは皆、私に貸しがある。『アルケス』は強豪だが、サクラ軍団にオルフェーヴルが入るとは考えにくいか。だが何か手を打って……ん?」

 

 

 名簿の端にある1つのチームが、中年トレーナーの目に止まった。

 

 

「チッ……『シリウス』か、忌々しい名だ」

 

 

 中年トレーナーは低い声で呟いた。

 

 

「あのかつての『シリウス』のトレーナー、ナリタブライアンで三冠を達成して、他にもメジロマックイーンやスペシャルウィークのようなトップランナーを運良く獲得していたな。何度煮湯を飲まされた事か、若造のクセしてずっと目の上のたんこぶだった。チッ、オルフェーヴルはそいつらに引けを取らない良い駒になりそうだったのだが」

 

 

 中年トレーナーは昔を思い出して嫌な気分になった。しかし、それもすぐに消え去り逆に口元が歪み、笑みが溢れ出した。

 

 

「だが……あのムカつく若造も今はトレセン学園には居ない。PGリーグでメジロマックイーンの専属トレーナーをしていたな。『シリウス』に残されたのは錆びついた看板だけだ。現在のチームトレーナーは……あの三流のヘボトレーナーだったな。あの若造も、何故あんな能力のないサブトレーナーを後任にしたんだ? 私のようなベテランには理解しがたいが、今はその判断に感謝だな。弱小チームとなった『シリウス』にオルフェーヴルが加入しても無意味だろう! むしろ加入すればお笑いものだ、そうなって欲しいものだな!! ハッハッハッハ!!」

 

 

 トレーナー室に悪役然とした笑い声が響く。しかし『口は災いの元』とよく言うように、その言葉が実現して自分の首が絞められる未来がやって来る事を、この時の彼は知る由もなかったのだった……

 

 

 

 

 

……………

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 トレーナー室を後にしたオルフェーヴルは最高にイラついた気分のまま校庭の遊歩道を歩いていた。

 

 道行くウマ娘たちは皆、オルフェーヴルを見るとギョッとして道を譲った。遠目のウマ娘たちはヒソヒソと陰口を囁いていた。

 

 

「あっ……あれが噂の……」

 

「関わり合いにならない方が身の為ね……」

 

「他校の不良ウマ娘50人を1人で倒したんだって……」

 

「え、それ普通に凄くない?」

 

 

 なんか噂によく分からない脚色がされていたが、オルフェーヴルはそれらの声も無視して寮の自室を目指して歩き続けた。すると……

 

 

 

「オ……オルフェ先輩!!」

 

 

 突然オルフェーヴルの目の前に誰かが飛び出した。見てみると、それはオルフェーヴルの後輩のウマ娘だった。

 

 

「オルフェ先輩ッ……あの、えっと、話が……あ、あ、ありましてっ!」

 

「お前は、もうちょっと考えてから行動して欲しいッスよ。ここじゃ人目につくから……5分後に第4校舎の裏手で待ち合わせるッス。怪しまれないように、このままアタシと反対方向に向かうッス」

 

 

 そんなこんなで、5分後に2人は人目につかない校舎の陰で再会した。オルフェーヴルは警戒して辺りを確かめる。

 

 

「……周囲に他の気配は無いッスね。で、何の話ッスか?」

 

 

 後輩ウマ娘は息を呑んで、オルフェーヴルの目を見つめた。その潤んだ瞳には、後悔の色が滲んでいた。

 

 

「ッ……聞きました。オルフェ先輩、8週間のレース出走禁止って……あの事が原因ですよね!? 何で、センパイが!!」

 

 

 オルフェーヴルは泣きそうな顔の後輩を、目を細めて見つめる。

 

 

「……お前の所に、あの後誰か来たッスか?」

 

「え? い、いいえ! 不良ウマ娘も、警察とかも、誰も来てないです……」

 

「…………そッスか」

 

 

 オルフェーヴルはマスクの下で薄く微笑む。一瞬だけだったので、後輩ウマ娘はその事に気付かなかった。

 

 

「だったらこの話はお終いッス。あの夜の事は忘れて真面目にトレーニングするんスよ。トレセン学園でレースを続けたいなら。じゃ……」

 

 

 オルフェーヴルはくるっと後方を向くと、そのまま歩き去ろうとした。しかし、後輩ウマ娘はそれで納得できるはずもなく、オルフェーヴルの袖を掴んで止めた。

 

 

「ま、待って下さい!! オルフェ先輩……アタシのせいで……アタシの……せいなのに……センパイはデビューしてて、秋のレースは大事な時期なのに!! アタシ……どうすれば……う、うああぁぁ……」

 

 

 ポロポロ……ポロポロ……と大粒の涙を流す後輩を見て、オルフェーヴルは頭を掻いてため息をつく。そして深呼吸して、空を見上げながらこう言った。

 

 

「はぁ〜〜……ああもう、うるさいッスねぇ。分かったッス、ホラ!」

 

 

 オルフェーヴルはサイフの中からお札を1枚取り出すと、ドンと後輩ウマ娘に押し付けるように渡した。

 

 

「え……センパイ?」

 

「これからアタシが卒業するまで、お前はアタシの『パシリ』ッス。アタシが呼んだらどんな時でも飛んで来て、命令には絶対服従するッスよ。だから、まずはそれで惣菜パンと飲み物買えるだけ買ってアタシの寮の部屋に持って来い。さっさと行け!」

 

「は、はい! 行ってきまーーす!!!」

 

 

 ピューン!と後輩ウマ娘は跳ねるように駆けて行った。残されたオルフェーヴルは「やれやれ」とポッケに手を突っ込む。

 

 

(……アイツはパシリに使ってやった方が、無駄な罪悪感を抱かずに済む……相変わらず、手のかかる後輩ッスね)

 

 

 オルフェーヴルはマスクの下で再び微笑んだ。しかし、この先のレースウマ娘としての身の振り方を考えなければならないと思うと、暗鬱な雲が彼女の心を覆うのだった。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 数日後……

 

 

 コツ、コツ、コツ……

 

 誰も居ない廊下を、オルフェーヴルは歩いている。それもそのはず、今は授業時間中で専門職のトレーナー以外は皆教室に居る時間帯なのだ。

 

 

「………………」

 

 

 オルフェーヴルは黙って進み続ける。彼女が向かった先には屋上へと続く階段があった。上方をチラッと見て、オルフェーヴルはそのまま階段に足をかけた。

 

 

 タン、タン、タン……

 

 

 オルフェーヴルは一歩ずつ丁寧に階段を登る。そうする必要はないのだが、今の彼女は憂鬱な気分に飲まれていたので、脚が勝手に動くみたいに、ダルそうに階上を目指していた。

 

 

『先生、体調が優れないので保健室に行って良いッスか?』

 

 

 オルフェーヴルはそう言って教室を抜け出した。もちろん、真っ赤な嘘である。とにかく彼女は、今は1人になりたかったのだ。

 

 

(……あの後、ダメ元で幾つかのチームに加入の打診をしたら、ものの見事に断られた。トレーナーどものアタシへのあの目付き、間違いなくあのクソトレーナーが裏で糸を引いている)

 

 

 もちろん、オルフェーヴルは望み薄なのは承知の上だった。しかし、あの中年トレーナーに邪魔されていると思うと滅茶苦茶に鬱憤が溜まるのも仕方がない。

 

 

(……このトレーナーとの契約制度、忌々しいッスね。あんなクソトレーナーでも必要としなきゃいけないのは、レースウマ娘にとって不幸以外の何物でもないってのに)

 

 

 オルフェーヴルは大きなため息をつく。彼女はちょうど階段の踊り場に出たところだった。

 

 

「…………なんか、つまんないッスね」

 

 

 オルフェーヴルはボソリと呟いた。

 

 

(レースに出られないのもあるけど……トレーニングに気が乗らない事なんて、今までなかったのに)

 

 

 タン、タン、タン……

 

 

 薄暗い空間に、1人分の脚音だけが響く。オルフェーヴルは、何故か昔カレンチャンに合気道の稽古をつけて貰ったある日のことを思い出していた。

 

 

『オルフェ、あなたの格闘ウマ娘としての素質はかなりのものよ。多分、UMAD(ユーマッド)に入っても活躍出来ると思うわ。ふふっ、懐かしいなぁ。実はカレンのお友達にすっっごく強いUMADの格闘ウマ娘が居てね……』

 

 

「……UMAD、か。確か、あの時にマリンアウトサイダの話を聞いたんだっけ」

 

 

 タン、タンと乾いた音が響く。階段も残り三分の一くらいに差し掛かっていた。

 

 

(UMADからURAに移籍した初のウマ娘……彼女の走った『宝塚記念』は今でも語り草になっている。史上最大のフロック、ゴルシワープの再来とか言われてたっけ……)

 

 

 オルフェーヴルは映像で観たあの『宝塚記念』を思い出す。その時に受けた衝撃を、彼女は今でも忘れていない。

 

 

(最終コーナー、誰もが無理だと判断した最悪に荒れた内ラチを、マリンアウトサイダは単身突っ込んで走り切った。あの走りは彼女が格闘ウマ娘として長年鍛えていたからこそ出来るものだった……もしアタシが同じ事をしたら、間違いなく脚をぶっ壊して引退ッスね)

 

 

 タン……とオルフェーヴルは階段を登り切り、屋上へ出る扉のノブに手をかけた。

 

 

(確か……マリンアウトサイダが所属していたチームは……)

 

 

 ガチャ、とオルフェーヴルは扉を押し開ける。澄み渡った青空が見え、まとわりついた淀んだ空気を吹き飛ばすように秋風が肌を優しく撫でた。

 

 そうして、屋上の開けた広場へと一歩踏み出すと……

 

 

 

 

 

 

 

「うわああああああああああああああああ!!!

 

 もうおしまいだあああああああああああ!!!

 

 やっぱり俺にチーム『シリウス』を背負うなんて無理だったんだあああああああ!!!(泣)」

 

 

 

 

 

 

 この世に生まれてから一度も見たことのない光景に、オルフェーヴルは文字通り『絶句』した。

 

 

 スーツを着た大人の男性が、情けなく泣きながら絶叫していたのだ。

 

 しかも、その男性は屋上を囲むフェンスの『外側』におり、そこに身を縮めて、内側に向かって金網を掴んでいた。

 

 手を離して後ろにコロンと転がれば、地上に向かって真っ逆様な位置である。

 

 

「…………………………」

 

 

 マスクを着けたウマ娘は、一歩踏み出した姿勢のまま固まっていた。聡明なオルフェーヴルでも、視界から入ってきた情報を脳が処理するのに数秒かかった。

 

 

 

 

「うわああああああああ!!!(泣) ……へ?」

 

 

「……………………………うわっ」

 

 

 

 

 目が合った。

 

 これで縁が結ばれてしまった。

 

 

 

 

 これが『暴君』オルフェーヴルと現チーム『シリウス』のトレーナーとの、ファーストコンタクトだった。

 

 

 後にオルフェーヴルが語るには、この時の彼女の頭の中は

 

 

 

(……ああ、真面目に授業を受けてれば良かった……)

 

 

 

 という後悔でいっぱいだったそうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

Part 10. オルフェーヴルの物語⑦




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Part 10. オルフェーヴルの物語⑦


お待たせしました。色々と忙殺されていました……
次回もなるべく早くだせるよう頑張りますので……
いつも応援ありがとうございます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……何でアタシは屋上に来てしまったんだろう……)

 

 

 

 オルフェーヴルは、今すぐ目の前の現実から『大逃げ』を打ちたかった。

 

 目を閉じ身体を翻して、その豪脚でこの場からおさらば出来たらどれ程清々しいだろうか。

 

 だが彼女にそれは出来なかった。

 

 目を離した隙に、視線の先の男がひっくり返って屋上から落っこちないとも限らないからだ。もしそうなってしまったら後味が悪過ぎる。オルフェーヴルはそんな状況を放り出せるほど薄情でも自己中心的でもなかった。

 

 視線の先の男性はジッとマスクのウマ娘を見つめ返す。たっぷり10秒ほど経ってから、彼はおもむろに口を開いた。

 

 

「………………君は、オルフェーヴルだよね?」

 

 

 フェンス越しの問いかけに、オルフェーヴルがピクンと反応した。とりあえず、少しずつその男性の元へと近づいた。

 

 コツン、コツンと足音が2人だけの屋上に響く。

 

 

「……そうッスけど……」

 

「今は授業時間中のはずだぞ。ダメじゃないか、こんな所に居たら」

 

 

(いや、アンタが居る所の方がダメでしょうがッ!)

 

 

 オルフェーヴルは喉元まで出かかったツッコミを辛うじて飲み込んだ。もし彼を驚かしてその手がフェンスから離れて落っこちでもしたら、大変な事になってしまう。

 

 

(何で、アタシがこんなのに気を遣わないといけないんスかねぇ……)

 

 

 オルフェーヴル、ちょっとイラついてきた。だが、鋼の意志で冷静さを保つ。レースで走っている最中と同じように、目の前の現実に集中する。

 

 

「あの……つかぬ事を尋ねるッスけど、そんな所で何してんスか。アンタ、この学園のトレーナーッスよね? アタシで良かったら話聞くッスよ」

 

 

 オルフェーヴルの問いかけに、フェンスにしがみついた男性は陰気なオーラを濃くさせて俯いた。

 

 

「あぁ……もうおしまいなんだ……メンバーが足りなくて継続申請が出来ないんだ。このままじゃチームは解散だぁ……! うああああああぁぁぁ(泣)」

 

 

 チームの解散、それはトレセン学園では度々起こる事で特段珍しくはない。そうやって過去から幾度も新チームの誕生と消滅が繰り返されてきた。新チームを発足する時に過去のチームから名を拝命する事もある。

 

 

「俺はチーム『シリウス』のトレーナーなんだけどさ……先輩からチームを頼むって任されてしまって、サブトレーナーから正式にトレーナーになったんだ……俺なんかじゃ無理ですって断ったのに、いつの間にか引継ぎ手続きが済ませてあって、引くに引けなくなって……」

 

「えっ……『シリウス』……」

 

 

 そのチーム名を聞いて、オルフェーヴルの耳がピクンと揺れる。

 

 

(そうだ。マリンアウトサイダが所属していたのはチーム『シリウス』だった。まさかこんな所でそのトレーナーに出くわすなんて……)

 

 

 偶然にも、オルフェーヴルが屋上への扉を開ける直前に考えていた事が現実にリンクした。

 

 

 チーム『シリウス』

 

 

 日本国内では知らぬ者は居ないと言える名のあるチームだ。10年ほど前の黄金時代には現PGリーグプロランナーの『メジロマックイーン』『ナリタブライアン』『スペシャルウィーク』と、その他にも名レースウマ娘たちが所属していた。功績も人気も日本一と言っても過言ではない栄華を極めていたが……

 

 

(それも「かつて」の話ッスね。このところ目立った活躍はしていない。トレーナーが代替わりしたのが原因って風の噂で聞いてはいたッスけど……)

 

 

 オルフェーブルが怪訝な視線を向ける中、現『シリウス』のトレーナーはポツリポツリと言葉を続ける。

 

 

「それで何とか頑張ってきたつもりだけど、チームとしての結果がなかなか出なくて……前の春に2人のウマ娘が卒業して……その後から誰も加入してなくて……メンバーが足りないとチームは存続させられないって学園から通達が来て……うわああああああああああ!!(泣)」

 

 

 男性は再び号泣する。これがあの栄光まばゆいチーム『シリウス』のトレーナーなのか……とオルフェーヴルは若干引いていた。

 

 

(うん……なんか、実績上げられないのも当たり前だって思っちゃうッスね。申し訳ないけど)

 

 

 オルフェーヴルは心の中で大きなため息をついて、『シリウス』のトレーナーを見やる。若者だが大人の男性が泣きべそかいてフェンスにしがみ付いてる姿には憐れみしか感じられない。「アンタよくトレセン学園のトレーナーになれたな」と口に出かかった言葉を飲み込んだ。

 

 

「あの……話は大体分かったッスけど、何でそんなトコに居るんスか? 危ないッスよ」

 

 

 『シリウス』のトレーナーは右手で体を支えながら、左のシャツ袖で顔を拭った。見てる側のオルフェとしてはハラハラするからやめて欲しかった。

 

 

「ぐずっ……状況も身も心もギリギリだから、物理的にギリギリの所に居れば少しは落ち着くかなって……」

 

「アンタよくトレセン学園のトレーナーになれたな」

 

 

 あ、言っちゃった。

 

 

「うぐふっ!(グサッ)……そうなんだよなぁ。トレーナー試験に合格したのも奇跡みたいなもんだって同僚たちにも言われるし、トレーナーの才能なんて俺には無いんだ……だからチームも解散の危機で……」

 

 

 オルフェの言葉にダメージを食らったトレーナーは物理的に落ちることは無かったが、メンタルは更にズーンと落ち込んだ。本当にトレセン学園のトレーナーになれたのが不思議である。彼女はとにかくまずはこのトレーナーの話を聞いて励ます糸口を探そうと考えた。そしてどこかのタイミングでフェンスから彼を引っ張り上げれば良い。

 

 

「えっと……勧誘とかしてないんスか? 『シリウス』なら入りたいってウマ娘が居てもおかしくないと思うッスけど」

 

「……………勧誘は、しようとするんだけど……………」

 

 

 フェンスの外でしゃがみ込むトレーナーはオルフェの顔を見上げる。イケメンという部類ではないが、その顔立ちは整っており幼さの中に愛嬌があった。年下好きの女性にはモテそうだと、なんとなく感じさせる顔だ。

 

 

 

「俺……いつも気が付いたら、勧誘しようとしてたウマ娘に他のチームを薦めちゃうんだ」

 

「………………は?」

 

 

 

 何を言ってるんだろう、こいつは?とオルフェーヴルは眉を顰める。この男は勧誘という言葉の意味を分かっているのだろうか。そんな彼女の疑問をよそにトレーナーは語った。

 

 彼は昔から時間を忘れてレース観戦に没頭する癖があって、『シリウス』のサブトレの頃はそれでよくうっかり仕事をサボってトレーナーに怒られていたらしい。彼はあまりにレースが好き過ぎて、トゥインクルシリーズ・ドリームトロフィーリーグ・プロフェッショナルグレードリーグのレースは未勝利戦や条件戦も含めて必ず『全部』観ており、トレセン校内の模擬レースも『全て』チェックを欠かしたことはなく、果ては地方レースのストリーミング配信も必ず視聴しているのだとか。

 

 

 オルフェーヴルは半ば唖然としながら彼の話を聞いていた。一体彼女はこの男に後何回驚けば良いのだろうか。

 

 

(……このトレーナー、今『全部』って言ったッスか? あの膨大な数のレースに加えて、地方レースに校内の模擬戦まで? ハッキリ言って正気の沙汰じゃ無い。情報収集の為でもアタシはそこまではしない。やっぱりこいつちょっとヤバイ奴なんじゃ……)

 

 

 自分のチームのウマ娘が出走するならともかく、OPクラス未満のレースならば多忙なトレーナーは大抵は注目されたレースや結果だけをチェックするのが普通だ。スカウトの下見を兼ねて模擬戦に足を運ぶトレーナーもいるが、開催される全レースを隈なく観る者などほぼ居ない。トレセン学園のトレーナーと言えど、そこまでするのはよっぽどの暇人かレースジャンキーくらいだ。もはや苦行と言っても差し支えないレベルである。

 

 だが、『シリウス』のトレーナーの表情は熱意に満ちていて、その事を何の苦にもしていない様子だった。その言葉は彼の本心であると感じられた。そのレースへの情熱は、ある種オルフェーヴル以上なのかもしれない。

 

 

「みんな本当に必死で、宝石のように輝いてて、一人一人を頑張れって応援したくなるんだ。全員に1着をとって欲しい、命を燃やして走る彼女たちを支えてあげたい、そう思って出来の悪い頭で必死に勉強してギリギリ滑り込みでトレーナーになれたけど……」

 

 

 フェンスを握るトレーナーの手に力がこもる。彼は本気で悔しがっていた。自分ではなく、ウマ娘のために。

 

 

「このトレセン学園の現実は甘くなかった。陰で必死に努力しているのに、担当もつかず、チームにも入れない……そんなウマ娘が沢山いる。だけど俺はせめて、そんな子たちでも全員に『持てる力を出し切って、悔い無く、全力で』走って欲しいんだ。もちろん全員が華々しい活躍を出来るわけじゃないのは分かってる。だけど、そんな頑張っている子たちを見ていると、何とかその子が成長できる可能性が1%でも高い選択肢はないのかって考えてしまうんだ。」

 

 

 『シリウス』のトレーナーの表情は真剣そのものだ。ウマ娘を語る今の彼には、先の情けない様子は微塵も見受けられない。

 

 

「だから、今まで見たその子の走りと、他のチームに所属するウマ娘たちの脚質やトレーナーの特徴と照らし合わせてその子が1番輝ける可能性のあるチームを推測して、その子が気兼ねなくそのチームを尋ねられるように軽くプレゼンしたりして……今までも何人かそうやって加入したチームで活躍できたウマ娘たちもいるんだ。まぁ、この学園全体のウマ娘たちの数を考えるとちっぽけなものだけど」

 

「……はぁ……そッスか。なんか、昔この学園の生徒会長だったあの『皇帝』みたいな事を言うんスね、アンタ」

 

 

 オルフェーブルはほんの少しだけ気圧されていた。目の前の情けないがしかし情熱を秘めたこの男、チーム『シリウス』の現トレーナーは色んな意味で普通のトレーナーではないことを、彼女は理解した。かと言って、この状況が良くなったわけではないのだが。

 

 

「というか、その志は良いとしても、そんなんじゃチームメンバー集められないでしょう。チームを担当するトレーナーとしてどうなんスか? とりあえず自分のチームに加入して貰えば良いのに」

 

 

 オルフェーヴルの問いかけに、トレーナーはクワッ!と顔の陰影を濃くして答える。

 

 

「嫌だッッッ!!! 俺はウマ娘たちの全力を引き出せる可能性が0.1%でも高い環境でトレーニングして欲しいんだ!!! その子達が思いっきり走れるのなら、俺のチームにいなくても良い!!! 俺のトレーナー試験の成績は学園内じゃビリッケツだからな!!! ダメだろう、そんな奴のチームじゃあッ!!!」

 

「清々しいほどに自己肯定感ゼロッスね。チーム解散の危機なのに、どーするんスか?」

 

 

 ピタリ、とトレーナーの動きが止まる。次第にそのキリッとした表情は形を保てなくなり、再び目に涙が溜まり始める。

 

 

「うわああああああああ!!! そうだったああああああ!!! 先輩から引き継いだ『シリウス』が俺の代で終わってしまううううう!!!(泣)」

 

「どんだけ情緒不安定なんスか」

 

 

 オルフェーヴルは腰に手を当ててため息をつく。なんだか段々と助ける気が無くなってきてるようだった。

 

 

「はぁ……でも……」

 

 

 オルフェーヴルは自分を担当していたあのベテラントレーナーの言葉と、目の前の『シリウス』のトレーナーの言葉を思い返す。

 

 

〜〜〜

 

 

『大体、野良レースは担当もつかなければ実力も無い、箸にもかからないような無能なウマ娘どもがするものだろうが!! 私はお前の才能を買ってやったのに、そんなカス共と同じ事をして自らの価値を下げる愚か者がどこに居る!?』

 

 

『陰で必死に努力しているのに、担当もつかず、チームにも入れない……そんなウマ娘が沢山いる。だけど俺はせめて、そんな子たちでも全員に「持てる力を出し切って、悔い無く、全力で」走って欲しいんだ』

 

 

〜〜〜

 

 

「アタシの後輩も、アンタと出会っていれば……あんなバカな真似はせずに済んだかも知れないッスね……」

 

 

 そうオルフェーヴルが呟くと、フェンス越しのトレーナーが顔を上げた。

 

 

「えっ……後輩?」

 

 

 しまった、と言う風にオルフェーヴルはマスクのポジションを直す。

 

 

「なんでもないッス。ただの独り言ッスよ。忘れて欲しいッス」

 

「へぇ、オルフェーヴルの後輩かぁ〜。なんて名前なんだ?」

 

「話聞けや」

 

 

 そんなオルフェーヴルのツッコミも無視してトレーナーはしつこく聞いてくるので、彼女は渋々後輩の名前を伝えた。

 

 

「聞いても分からないと思うッスけど……………って名前ッス」

 

「……………かぁ、ん〜〜〜………」

 

 

 トレーナーは眼を閉じると、数秒置いてピーンと眼を開ける。

 

 

「ああ、あの髪が短くて癖っ毛のウマ娘だな! そっか、君の後輩だったんだなぁ」

 

「え…………」

 

 

 オルフェーヴルは驚いて一瞬固まる。

 

 

「知ってるんスか、アイツを?」

 

「うん、模擬レースで走ってるのを見たよ」

 

「でもアイツは新入生だし、そんなに目立つような奴じゃないハズッスけど……」

 

「関係ないよ。特に一生懸命走っていたからね、よく覚えているよ。まだまだフォームも何もかもが荒削りだったけど、憧れを持って走っているのを感じたよ。言われてみればそうか、君の走りを参考にしていたんだな。それだけ彼女にとって君は大きな存在なんだなぁ、きっと」

 

 

 トレーナーの顔はさっきと打って変わって穏やかな笑みを浮かべている。本当にウマ娘のレースが好きなことがヒシヒシと伝わってくる。そんな笑みだった。それを見て、オルフェーヴルの心も少しだけ和らいだ。しかし、後輩のことを知ってくれるトレーナーが居た事を嬉しいと感じる反面、このトレーナーにそれを悟られるのも気恥ずかしいので、誤魔化すように彼女は首を振る。

 

 

「しかし………アンタのその言い方だと、まるでこの学園の全校生徒を覚えてるみたいに聞こえるッスね」

 

「もちろん新入生も含めて全員覚えてるよ」

 

「まあ、流石にそんな事はないでしょうけど…………………待つッス、今なんと?」

 

 

 オルフェーブルはマスクの下からくぐもった声を出す。

 

 

「いや、だからこの学園にいるウマ娘なら、全員の顔と名前を覚えているよ。どこのチームに所属しているか、無所属なのか、大まかな脚質とかもね。毎年新入生の模擬戦シーズンが始まるのが待ち遠しいんだよなぁ」

 

 

 『シリウス』のトレーナーはあっけらかんと答える。普通は関わりのない生徒なんて教師でも把握してないものだが……

 

 

「いやいや……新入生含めて全員のって、しかも所属と脚質もって……流石に話盛ってないスか?」

 

「何を言ってるんだ!! そうじゃなきゃウマ娘たちが加入すべきチームを紹介できないじゃないか!! あ、もちろん俺のところはダメだぞ。可能性が下がってしまうからな。今所属している子達はみんな自由人すぎて、他のチームに行けって言っても『めんどい』の一言で返されてしまうんだよなぁ……なんでだろう」

 

「…………………………うわぁ」

 

 

 

 オルフェーヴルは珍妙な生物を見る目付きで『シリウス』の現トレーナーを見つめていた。フェンスがまるで動物を入れる檻に見えてしまったのはきっと錯覚だろう。

 

 もはやこの哀れな男性を助けようという当初の目的すら、オルフェーヴルの頭の中から吹っ飛んでしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

Part 11. オルフェーヴルの物語⑧


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Part 11. オルフェーヴルの物語⑧

 

 

 

 

 

 

 

 

(一体何なのだろう、この男は……)

 

 

 オルフェーヴルは困惑していた。かつて栄華を誇ったあのチーム『シリウス』のトレーナーが、自分の理解の範疇を遥かに超えた人物だったのだ。しかも良い意味と悪い意味の両方で。

 

 

(正直、この男はバカとしか思えない。だけど……常人には真似できない事をやってのけている。それも事実)

 

 

 オルフェーヴルはさっきは聞き流してしまっていたが、彼は確かに『他のチームに所属するウマ娘たちの脚質やトレーナーの特徴と照らし合わせて』と言っていた。それをなんの資料も見ずに行っていたとしたら、相当な事である。

 

 

「……アンタ、脳の容量の使い方間違えてないッスか? トレーナーとして損しかしていないじゃないッスか。どっかの人事部に行った方がマシッスよ」

 

 

 オルフェーヴルの言葉に、『シリウス』のトレーナーは自信がなさそうな笑顔で答える。

 

 

「ハハハ……同僚の皆んなにもよく言われるよ。トレーナーとしてもっと他に考えるべきことがあるだろって。でも先任の『シリウス』のトレーナー、先輩だけは俺のことを褒めてくれたんだよなぁ。お世辞みたいなものだったんだろうけど、先輩のおかげで俺は何とかやってこれたんだ。先輩は本当に凄かった……メンバーとの信頼関係ももちろんだけど、どんなウマ娘にも理想の環境を構築するセンスがあって……」

 

 

 男性トレーナーは懐かしそうに微笑む。彼は先代の『シリウス』のトレーナーのことをよっぽど尊敬しているようだった。

 

 

(……聞けば『シリウス』の以前のトレーナーも相当な変人だったって話だし、お世辞で褒めていたんならコイツに大事なチームを任せたりはしないでしょう。まぁ、アタシからすればどう考えても人選ミスだけど……)

 

 

 オルフェーヴルは、何度目か分からないため息をついて空を見上げた。

 

 

(ダメだ……脳が疲れる)

 

 

 これは天罰なのだろうか。もしそうなのだとしたら、こんな珍妙な罰を下す神様は脳が沸騰したコメディアンに違いない。

 

 なにせ……トレーナー嫌いのオルフェーヴルが、ウマ娘と彼女たちのレースが好き過ぎるあまりに自らのチームを解散の危機に陥れた奇妙奇天烈なトレーナーと縁が出来てしまったのだから。

 

 基本は科学的かつロジカルに物事を考える彼女も、この時ばかりは天罰の存在を信じそうになっていた。

 

 屋上から見上げる空は澄み渡って綺麗なのに、オルフェーヴルの後悔はますます深くなっていく。

 

 彼女は大抵のことなら理解できるつもりでいた。しかし、それが単なる思い上がりである事を思い知らされた。

 

 フェンスの向こうに居る『シリウス』のトレーナーの言動は、問題を最短ルートで解決すべきと考えるオルフェーヴルには理解不能だったのだ。

 

 彼女は軽く目眩がした。しかし、フラリと崩れ落ちそうになる身体を何とか気合いで持ち堪える。ここで彼に翻弄されるのは、何だか『負けた』感じがするので彼女のプライドが許さなかった。

 

 兎にも角にも、このトレーナーをフェンスの向こうからこちら側に引っ張り戻せば状況は解決する。元々屋上のフェンスは老朽化が進んでおり、近づいてはいけないと学園側から御触れが出ていた事もある。

 

 

(と言うか……マジで何で生徒のアタシが、仮にも学園運営側のトレーナーを助けなきゃいけなんスか? 普通逆でしょうがっ……!)

 

 

 もう怒った。これから『シリウス』のトレーナーが何を言おうとも、有無を言わせずこちら側に連れ戻してやる、と意気込みながらオルフェーヴルは一歩フェンスへと近づいた。

 

 『シリウス』のトレーナーは、今もなおブツブツと何かを呟いていたが、彼女は無視して言い聞かせるように声をかける。

 

 

「話は分かったッスよ。でも、このフェンス老朽化が進んでて危ないから、ひとまずこっちに……」

 

 

 オルフェーヴルはそう言いながら歩みを進める。しかし、次のトレーナーの言葉に、彼女は立ち止まらざるを得なくなる。

 

 

 

 

「……でも、その点ならオルフェーヴル、君は理想的な環境にいるね。あのベテラントレーナーのチームなら、君も実力を十分に発揮できるだろう」

 

 

 

 

 ピタッ……と、オルフェーヴルは足も手も、言葉も呼吸さえも一瞬止めた。彼女はどんなことを言われようと軽くあしらってトレーナーを引っ張り戻すつもりだった。

 しかし、彼のその言葉は今のオルフェーヴルには到底聞き流せるものではなかった。この男は一体幾度、彼女を揺さぶれば気が済むのだろうか?

 

 

「ッ……………なんだ、知らなかったんスね。確かに、他の誰かに言う必要なかったッスからね。知ってるとしたらアタシが加入を打診したチームのトレーナーくらいか。アタシ、あのチーム抜けたんスよ」

 

 

 あの中年のベテラントレーナーの顔が思い出されて、ムカムカする腹を無理やり押さえ込みながら、オルフェーブルは努めて平静に応える。

 

 だがそんな彼女とは反対に、『シリウス』のトレーナーの方が非常に驚き慌てて立ち上がった。彼の手でガチャン!とフェンスが音を立てて揺れる。

 

 

「なっ………なんだって!? 本当なのか、どうして!?」

 

 

 立ち上がったトレーナーは頭一つ分オルフェーヴルよりも身長が高かったので、今度は彼女の方が彼を見上げる形になった。マスクのウマ娘は苛立たしげに答える。

 

 

「別に……単にあのトレーナーとはソリが合わなかっただけッス」

 

 

 あのクソ野郎のことを話すことになるなんて、何のために授業をサボったんだか……と、オルフェーヴルは俯いてマスクの下でため息をつく。

 

 

「だから今はアタシも、アンタの言う無所属のウマ娘ッスよ。まぁ、あのトレーナーには未練は無いし、むしろ縁が切れて清々してるッス。今はどうせレースにも出走できないし、これから適当に入れそうなチームを探すつもりッス。なんなら、アンタのチームに入るのもアリかもしれ……」

 

 

 

「駄目だ」

 

 

 

 突如、オルフェーヴルの身体全体にゾワリと緊張が走る。彼女が視線を上げると……

 

 

 そこには、先と打って変わって真剣な表情の男性トレーナーが立って居た。

 

 

 底の知れない意志を持った深い眼差しが、鋭く、真っ直ぐにオルフェーヴルを突き刺す。

 

 

 

「ッッ……!?」

 

 

 

 オルフェーヴルは思わず身を竦める。こんな風になるのは道場でカレンチャンにしごかれていた時以来だ。さっきまでの情けないトレーナーは消え失せ、まるで別人の誰かが金網越しに現れたみたいだった。

 

 だが、オルフェーヴルも負けじと睨み返す。

 

 

 

「ッ………なんスか、突然……」

 

「オルフェーヴル」

 

 

 

 彼女の言葉を遮って、彼は言う。射抜くような視線で彼女を見つめながら。

 

 

 

「君は、あのベテラントレーナーの元へ戻るんだ。戻らなくちゃいけない」

 

 

「ッッッ!?」

 

 

 

 オルフェーヴルの目つきが睨みつけるように鋭くなる。美しいウマ耳も尻尾も毛並みが逆立ち、その姿はまるで警戒心の跳ね上がった猛犬のようだった。

 

 

「……ワケ分かんねえッス……アタシはあのトレーナー とはソリが合わないって言ったッスよね。あんなヤツの所にいても、何もかもが無駄になるだけッス」

 

「それは違うだろう」

 

 

 『シリウス』のトレーナーは屹然とオルフェーヴルに向かって言い放つ。

 

 

「俺は君の出走したレースは全て観ていた。君は殆どのレースでベストコンディションを維持していて、非常に安定した戦績を残している。それはひとえに君がそのチームでトレーニングしたことで得られた結果じゃないのか?」

 

「それは………」

 

 

 オルフェーヴルは言い淀む。

 

 

「あのベテラントレーナーの実力はトレセン学園内でも指折りだよ。経験も豊富で、ウマ娘を見る目は確かだ。彼は君のために最高のトレーニングメニューと設備を用意していただろう。あのチームはプロランナーも訪れる都内のトレーニング施設も利用しているのは有名な話だからな」

 

 

 トレーナーが言ってることは事実で、オルフェーヴルも学園の名家のウマ娘くらいしか使えないような施設でトレーニングをすることもあった。それはあのベテラントレーナーのチームの実績とコネクションによるものであった。

 

 

「彼と君の間に何があったのかは分からない。だけど少なくとも、彼は君に間違った指導をしたことは一度も無かったはずだ。君の走りを見れば分かるよ」

 

「っ……………」

 

 

 オルフェーヴルは反論できなかった。なぜならそれらは純然たる事実だったからだ。

 

 あのベテラントレーナーは確かにオルフェーヴルが反吐を吐くほど嫌いな類の人間だったが、トレーナーとして実力者だったのは間違いない。実際、オルフェーヴルには破格の対応をし、度々トレーニングメニューにアドバイスを加えることもあったがそれも彼女にとって有益になるものばかりだった。野心の塊のような人物だが、ベテランの名は伊達ではなかった。

 

 

「…………それは、確かにアンタの言う通りッス。けど、そんなのはどうでもいいんスよ…………ッッッ」

 

 

 オルフェーヴルは一瞬俯いた後、再びトレーナーと睨み合う。トレーナーもその視線を真っ向から受け止めた。

 

 

「アタシがチームを辞めたのは、あのベテラントレーナーが嫌いだからだ!! アイツはウマ娘を出世の道具としか見ていない……『三冠トレーナー』の名誉欲しさにアタシを受け入れただけだ!! アタシがその可能性が一番高いウマ娘だから!! アイツは自分の名誉の役に立たないウマ娘を見下している……アタシはそんな奴に利用される為に走ってるんじゃないッッ!!!」

 

 

 オルフェーヴルは、今まで口にしたことのなかった思いの丈を怒涛の勢いでトレーナーにぶつける。今までにそんなことのできる相手は一人もいなかった。だが…………

 

 

 

 

「確かに、オルフェーヴル……君の気持ちも分かる。ソリの合わないトレーナーに従うのは君には耐え難いだろう。しかし…………だとしても、君は彼のチームに戻るべきだと、僕は思う」

 

 

 

 

 帰ってきたのは、オルフェーヴルが予想もしていなかった言葉だった。

 

 

 

「なっ………」

 

 

 オルフェーヴルは今度こそ、動揺した。裏切られた……と言うほどの信頼関係は築いていないが、それでも彼なら自分の言葉を受け止めてくれると彼女は思っていた。

 

 

 ギリッッ……と、オルフェーヴルはマスクの下で牙を剝く。やはりトレーナーという人種は信じてはいけなかったのだと、敵意のこもった眼で、今度こそ本気で目の前の男を睨みつける。

 

 

「何でアンタに……」

 

 

 オルフェーヴルは肩を揺らしてフェンスに近づく。そして、ガチャン!!と大きな音を立てて威嚇するように金網に左手をかける。不快な金属音が響き、その金網が左手に握り潰され変形する。ウマ娘の握力なら、この程度は造作もないことだった。

 

 薄い金網を隔てて、ほんの十数センチの距離で男性トレーナーとウマ娘は向き合っていた。常人なら気絶してもおかしくない獣の如き威圧感と殺気を、オルフェーヴルは加減せずに放つ。だが、トレーナーはそれすらも真っ直ぐに受け止めていた。

 

 

「何でアンタなんかに……そんなことを言われなきゃならないんだッッ!!!!!」

 

 

 憎しみすらこもった声で、オルフェーヴルは吼える。

 

 だが……『シリウス』のトレーナーは臆することなく吼え返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君が『美しい』からだっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………へ?」

 

 

 

 

 ピクピクン、とオルフェーヴルの耳が揺れる。その水晶のような眼も揺れる。

 

 彼女の感覚と感情は、不可解なショート現象を起こしたみたいに混乱していた。

 

 

 

「ぁ………」

 

 

 

 

 彼女はその耳で、眼で、肌で、トレーナーの言葉とともにその想いを丸ごと感じ取ってしまった。

 

 それは嘘も偽りもない、混じりっ気なしのあまりに純粋な『情熱』だった。

 

 そんな熱のこもった声で、熱のこもった眼で、ただただ真っ直ぐ自分の目の奥を見つめられて……

 

 『美しい』と言われてしまった。

 

 

 

 初めての経験にオルフェーヴルは思考停止した。彼の言葉が理解できなかった。だが、続く彼の言葉によって我に帰った。

 

 

 

「オルフェーヴル……君の走る姿は美しい。俺の人生で見た中で一番と言っても、決して過言ではない」

 

 

 オルフェーヴルは、トレーナーを見つめ、静かにその言葉を聞いている。

 

 

「君の模擬レースも、選抜レースも、メイクデビューも、その後のレースも全て見ていた。そして感じたんだ。君の走りは伝説になると……いや、伝説なんて言葉も生ぬるいかもしれない。そんな言葉では言い表せないほどに、君の走りは多くの人を魅了するだろう。そうなると、確信している」

 

 

 彼の言葉も、目も、ただひたすらに真っ直ぐだった。

 

 

「君は名誉の為に利用されるのが嫌だと言っていたね。だけど、そんなのはどうでもいいんだ。『三冠トレーナー』の名誉なんて、そんなもので喜ぶならフリスビーみたいに幾らでも投げつけてやればいい」

 

 

 ポワワンと、オルフェーヴルの脳内であのベテラントレーナーが喜んでフリスビーに飛びつく姿が浮かんだ。

 

 

「一時の感情で本質を見失っちゃダメだ。思い出すんだ、オルフェーヴル」

 

 

 『大人』として、彼はオルフェーヴルに伝える。

 

 

「かつてのレースウマ娘たちを見た時に、君が心を震わせたのは三冠やトリプルティアラの『名誉』や『記録』にだったか? 違うだろうっ!! 彼女たちが走る姿そのものに、君の胸が打ち震えたはずだ!!!」

 

 

 

 そうだ、その通りだ。

 

 オルフェーヴルは昔を思い出す。競技場で生でレースを観た感動を……数多のウマ娘が走り抜ける姿に、本能で憧れ興奮を抑えられなかった事を。偉大な記録も結果も、後からやって来るものだという事を。

 

 

 

「利用されるのが嫌なら、利用し返すくらいの気概を持つんだ!!!

 

 名誉なんてものはくれてやれ!!!

 

 君の走りには間違いなくそれ以上の価値がある!!!

 

 君の走りは芸術そのものだ!!!

 

 それはレース場でしか見ることの出来ない……『本物の黄金』なんだ」

 

 

 

 ドクン、とオルフェーヴルの心臓が高鳴った。彼女は、自分を真っ直ぐに見つめてくるトレーナーから、目が離せなかった。

 

 

 

「その『黄金色の芸術』を、ここで途絶えさせてはいけない。だからオルフェーヴル、君は戻るんだ。その脚はターフを駆ける為に有る……こんなところで、立ち止まってちゃいけない」

 

「っ…………」

 

 

 

 オルフェーヴルはやっと理解した。このトレーナーの根幹を。

 

 

 

 彼女は金網を握りしめたまま俯いた。耳も尻尾もしんなりと垂れ下がっている。獣は既に、どこかへ消え去っていた。

 

 自分は浅はかだった、と彼女は思った。この男、『シリウス』のトレーナーはバカがつくくらいレースが好きなだけの男じゃなかった。

 

 彼はウマ娘を『愛していた』んだ。多分、ターフを駆けるウマ娘たちと同じか、もしかしたら彼女たち以上に、レースを愛していた。ただそれだけで突き進む男だったのだ。

 

 オルフェーヴルには、もう反論も口答えもする気力が残っていなかった。彼の言葉を受け止めるだけで、体力を使い果たしてしまったみたいだった。

 

 それも無理はない、彼の言葉は理屈では縛ることの出来ない『情熱』そのものだったのだから。

 

 だが、オルフェーヴルにも譲れないものがあった。ゆっくりと、消えそうな声でトレーナーに呟く。

 

 そんな父親にすら出したことないしおらしい声で、彼女は目の前の男性に囁くように言う。

 

 

「それでも……アタシは戻れない。裏切りたくないヤツが居るんだ……アタシは……アイツの為に……」

 

 

 オルフェーヴルの目蓋の裏に、唯一自分も慕ってくれた後輩の笑顔が浮かぶ。それを知ったか知らないのか、『シリウス』のトレーナーは頷いて、力強い声で応える。

 

 

「だったら俺のせいにして良い。君は自分の意志で戻るんじゃない。俺が君を無理やり戻らせるんだ」

 

 

 ガチャガチャン!と音を立てて、トレーナーは金網をよじ登り始める。オルフェーヴルはそれに驚いて、フェンスから手を離した。

 

 

「今から一緒にあのベテラントレーナーのところに行くぞ! 俺が頼み込んでやる!! 君をチームに戻せるなら、土下座だってなんだってしてやる!!」

 

 

 ガチャガチャ、ギギィィ!!と、フェンスが嫌な音を立て始める。オルフェーヴルは慌ててトレーナーに呼びかけた。

 

 

「なっっ……アンタにそんなことして貰う必要は無いッス!! それに、そんな慌ててよじ登っちゃあ……」

 

 

 

 そうマスクのウマ娘が言ったところで

 

 ベギンッッッッ!!!

 

 と、大きな音が屋上に鳴り渡った。

 

 お約束……と言ってしまってよいものか。

 

 

 

 

 

 

 トレーナーの身体ごと、フェンスが折れて外側にねじれ曲がっていく。

 

 

 

 

 

 

「えっ…………な、うわあああああああああっっっ!?!?」

 

 

 

 柔らかい金網では、もちろん成人男性を支えることはできない。トレーナー絶体絶命の危機である。

 

 

 

「な…………うおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!」

 

 

 

 

 『暴君』オルフェーヴルは、落ちゆく『シリウス』のトレーナーに向かって、必死の形相で腕を伸ばすのだった。

 

 

 

 

 

 

 

………………

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 

「ゼハーーーー……ゼハーーーーー……」

 

「ハァッ……ハァッ……うぅ……ハァッ……」

 

 

 

 トレセン学園の屋上に、一人のウマ娘と、一人の男性が仰向けに倒れている。

 

 アクション映画のワンシーンさながらの生存劇をスタント無し・命綱無し、カメラ無しでやり抜き、二人は疲労困憊だった。

 

 

「マジで……いい加減にしろッス……アンタ、どれだけアタシの寿命を縮めたいんスか……?」

 

 

 オルフェーヴルは仰向けのまま、空に向かって言葉を放つ。それを聞いて、トレーナーはゴロンと寝返りを打って、よろよろと四つん這いになる。

 

 

「あ…………ありがどおおおおおおおオルフェーヴルうううううう!!!! 君は命の恩人だああああああああああ!!!!!!」

 

 

 トレーナーは顔をグシャグシャにしてむせび泣く。さっきまでのあの屹然とした様子は何処へやら。もうオルフェーヴルが最初に屋上にやってきた時とおんなじ状態に戻ってしまっていた。

 

 

「何でもするううううううう!!! 俺、君の言うことは何でも聞くよおおおおおお!!! うわあああああああああああああ!!! 」

 

 

 オルフェーヴルは呆れたように、でも少しだけ可笑しそうに笑って言った。

 

 

「ふふっ……何なんスか。ギャップあり過ぎでしょ……マジで訳分かんない男ッスね、アンタ……はははっ……はぁぁ」

 

 

 オルフェーヴルは仰向けのまま空を見上げる。陽光の差す中、どこまでも落ちていきそうな深い青色の空が無限に広がっている。

 

 

(あれ……声を出して笑ったのっていつぶりだっけ……? それに、空ってこんなに青かったっけ……?)

 

 

 オルフェーヴルはすっきりしたようで、同時に満たされたような不思議な感覚を味わっていた。例えるなら、この空と一体になってしまったような感じだった。

 

 

 

 

(…………アタシにとって、トレーナーなんて誰でもいい。でも、誰でもいいのなら…………)

 

 

 

 

 オルフェーヴルはムクリと上体を起こして、そのまま立ち上がる。パンパンと制服の裾を払って、ポケットに両手を突っ込んだ。

 

 

「決めたッス」

 

 

 彼女は、四つん這いの男性トレーナーを見下ろして言った。

 

 

 

 

「アタシはチーム『シリウス』に……アンタのチームに入るッス」

 

 

 

 

 ヒュウゥゥ……と爽やかな秋風が吹き、オルフェーヴルの美しい栗毛髪と尻尾を揺らす。トレーナーは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、オルフェーヴルを見上げていた。

 

 

「……………え? な、だ、ダメだダメだ!! 何を言ってるんだ!? さっき伝えたじゃないか!! 君はあのベテラントレーナーのチームに戻るべきだ!!」

 

「アタシは、アンタの命の恩人ッスよ」

 

 

 ズイッと、オルフェーヴルはトレーナーに顔を寄せる。

 

 

「さっき言ったッスよね? 何でも言うこと聞くって。だからアンタはアタシを『シリウス』に加入させなきゃならない。まさか命の恩人に対して、吐いた言葉を捻じ曲げるんスか? 男に二言は無いッスよねぇ?」

 

「あ…………あ…………」

 

 

 プルプルと、『シリウス』のトレーナーは子犬のように震えだす。シリウスはおおいぬ座のはずなのに、彼は今プロキオンだった。

 

 

「うわああああああああああ!!! 何でもするって言わなければ良かったああああああ!!! 」

 

「あ、そうだ。アタシの後輩も一緒に加入するッスよ。良かったッスね、これでチームも解散せずに済む。WIN–WINじゃないッスか」

 

「なぜだああああああああああ!!! 」

 

 

 トレーナーは頭を抱えて悶え転がる。その反応もムカつくではあるが、この男に対して普通の感覚で接してはダメだ、とオルフェーヴルは無視することに決めた。

 

 確かに名誉なんてものは後付けのものでしかないのかもしれない。けれど……

 

 

 

(アタシがアンタのチーム『シリウス』で三冠を達成したら……アンタはどんな顔をするんスかね……?)

 

 

 

 オルフェーヴルはマスクの下で薄く微笑んだ。彼女にのこの先の未来に、ちょっとした楽しみができた。

 

 彼女はクルリと身を翻すと、屋上の出入口、階段へ向かって歩き出す。 

 

 

「じゃ、アタシは授業に戻るッス。アンタが最初に言った通り、こんな所に居ちゃダメッスからね。これからよろしくっス、『トレーナー』」

 

 

 オルフェーヴルは階段を駆け下りる。その足取りは今までにないくらい、非常に軽やかだった。

 

 

 

(アタシにとって、トレーナーなんて誰でもいい。でも、誰でもいいのなら……)

 

 

 

 タン!とスカートをひらめかせて、彼女は目的の階に降り立った。

 

 

 

「……アイツで良いッスよね」

 

 

 

 オルフェーヴルはマスクの下で、ふわりと微笑んだ。

 

 彼女は『運命の出会い』など、ほんの砂粒ほども信じていなかった。

 

 でも、こんな『奇妙な偶然』程度なら、信じても良いのかもしれない……と、そう心の片隅に思ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 




次回、超大型新人がシリウスに襲来……!?


次回

Part 12. オルフェーヴルの物語⑨


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Part 12. オルフェーヴルの物語⑨

 

 

 

 

 

 

 

 

 紆余曲折が有りに有りまくったが、オルフェーヴルは最終的にチーム『シリウス』へと加入した。

 同時に彼女の後輩も加入したので、チームは辛うじて解散を免れたのだった。

 

 オルフェーヴルは自身がチームに溶け込めるかどうかを全く気にしていなかった。そもそも、そんな思考など彼女には存在しないのだが、彼女は後輩ウマ娘の事を少しだけ気にかけていた。

 なにせ、いくらパシリとは言え自分が無理やりに引っ張って加入させたのだ。これで事が上手く運ばなかった場合、自分にも多少の責任があると考えていた。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 さて、ここでひとまず現『シリウス』のメンバーを紹介しておこう。オルフェーヴルとその後輩の加入前に、3人のウマ娘が在籍していた。

 

 

 まずは通称『ベレー帽先輩』について。彼女は現在のシリウスの最年長のウマ娘で、いつも何かしら絵を描いており、レースよりも絵に命を賭けている画家志望の高等部生である。スポーツマンな両親に説得されてトレセン学園に入学したが、画家になる夢を抱いており、レースと絵を両立させるべく努力している。ちなみにトレーナー室の一角は彼女の画材道具で占領されている。

 チーム『シリウス』に加入している理由は「トレーナーは、私がレースそっちのけで絵描いてても怒らないから」とのこと。ちなみに一応重賞レースでの勝ち星もある隠れた実力者。

 

 

 続いて、必要不可欠なムードメーカーな『元気っ子ウマ娘』。髪型は無造作なセミロング。彼女はレースの成績は目立たないが、とにかく爆逃げで先頭を直走るのが大好きだ。初めての模擬戦で爆逃げしてスタミナ切れで惨敗した時、周りのトレーナーらが「今時大逃げなんて流行らないよ」と口々に言う中、『シリウス』のトレーナーだけが彼女に真っ先に駆け寄って「最高の走りだったよ!」と褒めた。彼女はそれを忘れられずに持てる元気で押して押して押しまくって、半ば無理やり『シリウス』に加入した。

 トレーナーについては「え?トレーナーさん?見てて面白いから好き!」とのこと。

 

 

 最後に、美しい葦毛のロングヘアーが特徴の『おっとり細目なウマ娘』。レース戦績はOPレースで勝利経験有り。彼女は実家が貿易商のお嬢様で、父親がメジロ家を懇意にしており、メジロマックイーンとも交友があったのでその縁で「シリウス」に在籍している。見た目や雰囲気もすべてがおっとりしており、非常にマイペースな自由人。彼女は御髪に並々ならぬこだわりを持っており、手入れに余念が無い。というか御髪が普通に床に着くレベルで長いので、普段は丁寧に上で結っており頭がこんもりしている。時々ベレー帽先輩の絵のモデルになる事もあり、マイペース過ぎて3時間微動だにしなくても平気である。ちなみに元気っ子ウマ娘も「モデルやってみたい!」と挑戦したが3秒で断念した。小さなウマ娘を見ると興奮する癖を持っている。危険人物ではないのだが、ちょっぴりヤバい雰囲気を漂わせる事もしばしば。

 トレーナーについては「わたくし、昔まわりの方々から〜……その髪はレースには向いていないから多少は短くしなさいと言われたのですが〜……トレーナー様はわたくしの御髪を『そのままで良いよ、それが君だ。君は君だけの走りが出来るから』とおっしゃって下さって〜……ふふふ、嬉しかったです〜」とのこと。

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 そんな個性的なチームメンバーと顔合わせしたのが、つい昨日の事だった。後輩ウマ娘はガッチガチに緊張してて誰とも話していなかった。

 

 トレーナー室へと続く廊下を、オルフェーヴルはポケットに手を突っ込んだままゆらりと進む。

 

 

(でもまぁ……アイツも赤ちゃんじゃないし、なるように任せるしかないか。問題は……)

 

 

 彼女は廊下の窓から空を見る。秋の空模様は気まぐれだが、ここ最近はずっと続いている快晴の青空。『シリウス』のトレーナーと出会った時と同じ空だ。快い天気のはずなのに、一抹の不安が彼女の心に暗い影を落としていた。

 

 

(問題は……アタシのトレーナーッスね。あの男はハッキリ言って危うい。トレーナーとして必要不可欠な要素が致命的に欠けている)

 

 

 オルフェーヴルが、彼の底知れぬウマ娘レースへの熱意に惹かれたのは事実だ。しかし、それ故に自身とそのチームを犠牲にしてしまうのはあまりに行き過ぎている。現に、もし彼がオルフェーヴルと出会っていなかったら、そのままチーム『シリウス』は解散していただろう。

 

 

(あのトレーナーには『野心』が無さ過ぎる。ウマ娘レースへの想いが強すぎる故に、自らのチームをも危機に陥れるのはトレーナーとしての能力以前の問題だ。この先、彼自身が変わらなければ、アタシの戦績に関わらず、チームが崩壊する可能性が高い。それはアタシにとっても……後輩にとっても困る)

 

 

 オルフェーヴルはふと立ち止まり、窓ガラスに映る自分の姿を見る。彼女は感情に任せて行動するのは止めた。そして、今の環境で出来る最善手に思考を巡らす。

 

 

(それを防ぐには……アタシがトレーナーにとっての『特別』になるのが1番手っ取り早いか。「こいつだけは手放したくない」「自分以外のトレーナーには担当させたくない」と思えるような……『特別な存在』に……)

 

 

 あの自己肯定感ゼロのトレーナーにそう思わせるのは至難の業だと思える。

 

 だが、オルフェーヴルは「ハッ!?」と我に返ったような驚きの表情をして、バン!とガラスが割れない程度に窓を手で押さえる。

 

 

(いや、待て待て待て!!! 何を考えてるんだアタシは!? そんな柄じゃないだろうッッ!!)

 

 

 彼女はゆっくりと深呼吸する。

 

 

「はぁーーーー……なんか、アイツと出会ってから振り回されてばかりッスね」

 

 

 何にせよ、チームに所属できたのは良いがオルフェーヴルはしばらくレースに出走できない。ならば尚更トレーニングには尽力せねばならない、と気合を入れ直す。足早に歩みを進め、ついに目的地にたどり着く。そしてガチャっとドアを開けると……

 

 

「…………………ん?」

 

 

 オルフェーヴルの眼前に、真っ黒な壁が現れた。進入を拒むように、目の前に暗幕がかかっていた。どうやら中でプロジェクターか何かで放映会が行われているようだ。

 

 

(そう言えば、たまにトレーナー室で映画の鑑賞をするってベレー帽の先輩が言っていたな。呑気なチームッスね……)

 

 

 と、オルフェーヴルは暗幕はその為だろうと予想して、潜るようにトレーナー室へ入ると……

 

 

 

 

 

 

 

「うおおおおおっっ! 凄い、凄く凄いぞ! オルフェーヴルの初等部の頃のレース映像なんて普通拝めるものじゃないぞ!! この歳からこんなレベルの高い走法を……!!」

 

「でしょでしょ!! オルフェ先輩は昔っから天才だったんですから!! アタシ、オルフェ先輩のレースは出会った時から全部録画してあるんですよ! 次は地区大会のジュニア部門で年上のウマ娘たちをぶっちぎったレースを……」

 

「あっはっはっは! 良いねー! あの『暴君』と呼ばれてる問題児にもこんな可愛い時期があったんだねぇ。絵に描きたいくらいの溌剌さだな!」

 

「うわーーーすっげーーー! ボクがこの歳の頃なんて何も考えずにガムシャラに大逃げで突っ走るだけだったのにーーー! ……アレ、今とあんまり変わんない? まぁいっか!」

 

「ええ、本当に『食べてしまいたいくらい』可愛らしいですわ〜〜……やっぱりウマ娘はこの時期が一番可愛らしいですわね〜〜……じゅるり〜〜……」

 

 

 

 

 

 

 なんか、トレーナーとチムメンたちが勝手に自分の過去のレース映像を肴に盛り上がっていた。暗室にしたトレーナー室の壁に、プロジェクターでデカデカと幼い頃の自分が走っている。約1名不穏なことを言ってるメンバーがいたが、きっと気のせいだろう。

 

 

「……………………………………」

 

 

 1ミリも予想してなかった光景に、オルフェーヴルはただただ絶句していた。

 

「あっ、オルフェ先輩! やっと来ましたね! 今、チームの先輩たちにオルフェ先輩の勇姿を見てもらってたんです。ほら一緒に見ましょうよ、懐かしいですよ!」

 

 

 悪意なんて1ミリもない笑顔で後輩ウマ娘はオルフェーヴルに席を促す。

 

 ここで少し問いかけたい。あなたは自分の幼い頃のアルバムか何かを他人に見られた経験はあるだろうか? 10年来の親友ならともかく、まだそれほど親しくない相手に見られるのはなかなか強烈にむず痒かったりするのだ。

 

 プライドの高いオルフェーヴルにとって、未熟だった自分の走りを見られるのはもはや恥辱に近いものがあったのは想像に難くないだろう。

 

 

「君の後輩が映像をスマホで見せてくれたから、こんな素晴らしいレースはみんなで観た方が良いと思ってプロジェクターを用意したんだ! 君は小さな頃から美しかったんだな! この頃のトレーニングについて色々と聞きたいことがあるんだが……」

 

 

 トレーナーも無邪気にオルフェーヴルに言う。それがむしろ彼女の羞恥心を煽っているとも知らずに。

 

 

「二人とも、こっちに来るッス」

 

 

 オルフェーヴルは冷たい声で言った。

 

 

「「??」」

 

 

 後輩ウマ娘とトレーナーはキョトンとして、言われるままに彼女に近づく。

 

 

「そのまま、回れ右するッス」

 

 

 二人は言われるままにオルフェーヴルに背を向ける。

 

 

 

「なに勝手に人の過去映像を晒してんだゴラァッッ!!!!!」

 

 

 

 ズパーンッ!!!×2とオルフェーヴルは二人の臀部にタイキックをかます。

 

 

「「ぎゃああああああああ!!! ケツが2つに割れるううううう!!!」」

 

 

 二人はケツを押さえて床をのたうち回った。

 

 

「あっはっはっは!! まあ、こうなるよな!! だから2本目くらいで止めとけって言ったのに。クラスの連中とかに昔の映像見られたら、私だったら一週間は学校休むわ」

 

「ボクも自分の昔のホームビデオとか見られたら、ちょっぴり恥ずかしいかも!!」

 

「昔の自分なんて可愛くもなんとも感じませんもんね〜〜……見るなら他の青い果実のようなウマ娘ちゃんじゃないと〜〜……じゅるり〜〜……」

 

 

 再び約1名不穏な気配を漂わせている者がいるが、オルフェーヴルは気にするのをやめた。

 

 

「先輩方も……そんな風に思ってたんならコイツらを止めて欲しかったッスよ」

 

「「「だって面白そうだったし」」」

 

 

 にっこりと悪びれもせずに3人はハモる。トレーナーが言ってたように、この3人は規格外の自由人らしい。そうでないとこの床に転がっているトレーナーのチームになど居れないのだろう。

 

 オルフェーヴルは大きなため息をつくのだった。こんなチームでやっていけるのか?と……

 

 

 

 

 

……………

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 と、まあ……ここまでが今回の話の前座である。本題はこれから。

 

 

 その後、オルフェーヴルと後輩ウマ娘はなんだかんだチーム『シリウス』と上手くやっていた。

 

 オルフェーヴルは偶にベレー帽先輩が校舎の壁面にストリートアートを描いたり、元気っ子ウマ娘が勢い余って売店の屋台をドンガラガッシャーン!したり、おっとり細目のウマ娘が下の学年のウマ娘を物陰からずっと眺めていたりしたりして生徒会と風紀委員会にお世話になるのを連れ戻したり、トレーナーがメンタルやられて屋上から落ちそうになるのを連れ戻したり、後輩ウマ娘がチームに染まっていくのをケツを蹴って諌めたりと、すっかりチームの保護者ポジションとなってしまっていたが、それなりに充実した日々を送っていた。

 

 

(マジで、アタシが来なかったらこのチーム終わってたッスよ……てかもう半分終わってるッス……)

 

 

 と、彼女が気苦労の絶えない環境にも適応してきて、彼女の出走解禁まで2週間を切った頃……

 

 チーム『シリウス』に嵐がやってきた。

 

 嵐と言っても、オルフェーヴルのように荒々しい暴風ではなく、桜吹雪のような可愛らしい花嵐だが。

 

 

 

 

「お願いします!!! 私を……チーム『シリウス』に入れて下さい!!!」

 

 

 

 

 トレーナー室の一角で、姿勢良くピシッと立ち、行儀よく手を揃え、頭を腰のラインより下げて、青鹿毛のウマ娘が健気に必死に頼み込んでいる。フワリと、髪に結われた青と白の縞模様のリボンを揺らしながら。

 

 そのウマ娘は一言で言えば『正統派美少女』だった。ウマ娘は容姿の整った者が多いが、その中でも美少女として産まれ、美少女として育つことが約束されて誕生したとしか思えないウマ娘だった。

 

 そんな美少女に担当になって欲しいと必死に懇願されれば、どんなトレーナーでも一撃でコロっと落ちること間違いなしだろう。ごく一部の例外を除いては。

 

 

 

「ダメだダメだ! ウチは君のようなウマ娘は必要としてないんだ! 何度頼んだって同じだよ!」

 

 

 

 そんな美少女ウマ娘を『シリウス』のトレーナーは悪人顔であしらう。だが、強い意志を秘めた面持ちで彼女は食い下がる。傍から見れば『分不相応な申し出をするウマ娘』と『それを認めない有能トレーナー』の構図だが……

 

 

 

「君のような………

 

 模擬レースでは負け無し!

 

 合同トレーニングのラップタイムは中等部初年度トップ!

 

 選抜レースでも余裕の1着!

 

 強豪チームから加入申し出が後を絶たない!

 

 引く手数多の超有望株は!

 

 チーム『シリウス』じゃあ役不足なんだよッッ!」

 

 ※役不足・・・本人の力量に比べて、役目の方が不相応に軽いこと。また、そのさま。よく「力不足」と誤用される。

 

 

 

「そ、そんなぁ……」

 

 

 美少女ウマ娘は涙目である。しかし、その涙の雫すら真珠に見えてしまうくらい美しく様になっている。美少女ってずるい。

 

 

 

「そんな世代の期待の星で優等生な君が、うちのチームに入るなど言語道断! 

 

 何度言えば分かってくれるんだ……

 

 『デアリングタクト』!!!」

 

 

 

 ドドーン!と背景に文字が見えるかのような勢いでトレーナーは凄んだ。オルフェーヴルは呆れた様子で壁を背ににもたれ掛かり、他のメンバーも各々好きなことをやりながらトレーナーと美少女ウマ娘のやり取りを見ていた。

 

 

 そう、突如やってきた花嵐の正体、花の妖精が如き美少女ウマ娘の名は『デアリングタクト』

 

 新入生の中でもひときわの輝きを見せる、期待の超新星である。

 

 

 オルフェーヴルはもちろん、デアリングタクトの事は知っていた。まさかチーム『シリウス』のトレーナー室にやってくるなどとは夢にも思わなかったが。

 

 

「で……でもっ!」

 

 

 デアリングタクトは右手を胸に当てて叫ぶ。まるで自身の身の潔白を証明しようとするかのように。(実際は逆なのだが)

 

 

「私にだってダメなところは沢山ありますっ!!!

 

 朝起きるのが苦手で、テストの時でも平気で寝坊して遅刻しちゃうし!

 

 おっちょこちょいで、よくトレーナーの方たちとぶつかっちゃうし!

 

 た……食べる量だってクラスメイトよりも多くて、よくリラちゃんとトレミーちゃんのお弁当を分けて貰っちゃうし!

 

 あがり症で、オドオドしちゃって人前で喋るのだって苦手なんですっ!」

 

 

 そんなデアリングタクトの一世一代の逆アピールを、『シリウス』のトレーナーは鼻で笑って一蹴する。

 

 

 

「はんっ! それが『ダメなところ』だと本気で言ってるのか?

 

 お前は全く分かっていない!!!

 

 いいか? その綺麗な青鹿毛の耳をこっちに向けてよく聞け!

 

 まず朝起きるのが苦手なのは大半のウマ娘がそうだ! 俺だって苦手だ! 

 だが直そうと思えば手段などいくらでもあるし、テストを平気で寝坊できるのはむしろ大物の証だ!

 

 『おっちょこちょいで、よくトレーナーの方たちとぶつかっちゃう』だとぉ?

 そんなの男性トレーナーだろうが、女性トレーナーだろうが、美少女とぶつかるのはご褒美に決まってるだろうが!!!

 

 食べる量が多いのも、身体作りが大切なレースウマ娘にとってプラスでしかない!!

 

 あがり症で人前で喋るのが苦手?

 美少女がいくらオドオドしてようが……ただひたすらに可愛いだけじゃねぁかッッッ!!!」

 

 

 

「アタシは一体何を見せられてるんスか?」

 

 オルフェーヴル、思わずツッコむ。

 

 

 ガーン!!とデアリングタクトはトレーナーの逆ディスりに衝撃を受けていた。

 

 

「ほら! お前たちも言ってやれ!」

 

 

 トレーナーがそう言うと『シリウス』メンバーらはデアリングタクトへ追い打ちをかける。

 

 

「やーい、絵にも描けぬ美少女やーい」(ベレー帽先輩、興味なさそうに油絵を描きながら)

 

「優等生がボクらのチームに入れると思うなよー! わっはっはー!」(元気っ子ウマ娘、ちょっぴりノッてる)

 

「貴方は少し成熟しすぎていますね、紅くなりかけた林檎に興味はありません。チームに入りたいならもう3歳ほど若返ってから出直しなさい。そしてクラスメイトの双子ちゃんも連れて来て下さい」(おっとり細目のウマ娘、ガチトーン)

 

 

 3人のウマ娘は三者三様に美少女ウマ娘を罵倒?する。

 

 

「え、えっと……お前は〜……うう……うわあああああああ! オルフェ先輩ーー! ディスるように褒める方法が分がりまぜんーー!!!」

 

「んなもん一生分かんなくて良い」

 

 

 後輩ウマ娘が涙目でオルフェーヴルにすがりつく。

 

 

「うぅ……エステに行けば、3歳くらい若返ることが出来るかな……?」

 

 

「よりによってそこに活路を見出すな!」

 

 

 オルフェーヴル、ついにデアリングタクトにもツッコむ。

 

 

「ふっふっふ……これで自分がいかにこのチームに相応しくないか理解できただろう」

 

 

 トレーナーはデアリングタクトへ謎の笑みを送る。オルフェーヴルは疲れてツッコむ気力も湧かない。

 

 

「うう……それでも……」

 

 

 キッとデアリングタクトはトレーナーを見つめ返す。

 

 

「それでも私は……『シリウス』に入りたいですっ!! 絶対絶対に入りたいんですーー!!!」

 

 

 デアリングタクトは頑として譲らなかった。こんなヘンテコな奴らと相対して根性あるな、とオルフェーヴルは内心感心する。

 

 

「ふんっ、ここまで説明してやってもまだ分からないか。良かろう、かくなる上は……お前たちッ!」

 

 

 パチン!とトレーナーが指を鳴らす。すると、オルフェーヴル以外のチームメンバーがササっと立ち上がり何かの準備を始める。プロジェクターがセッティングされ、椅子とテーブルが用意され、デアリングタクトは紙束を渡され席に座らされる。

 

 後輩ウマ娘も指示されることなくテキパキと窓のカーテンを閉め暗室化させる。お前いつの間にチームにそんなに馴染んでたんだよ、とオルフェーヴルは心の中でツッコむ。

 

 そしてトレーナーがスクリーンの横に立ち、ピンマイクをシャツに付ける。

 

 

「かくなる上は……より詳しく説明するほかないなッ!! では、お手元の資料の3ページをご覧ください」

 

 

 なんか始まった。トレーナーが指を鳴らして1分と経っていない間の出来事である。

 

 

「まず、デアリングタクトが加入すべきチームの筆頭はチーム『アルデバラン』! このチームには現役のPGリーグプロランナー、ビワハヤヒデもかつて所属しており……」

 

 

 こうして、この先たっぷり30分ほど『シリウス』トレーナーによる他チームのプレゼンが行われた。デアリングタクトは意外にも熱心そうにトレーナーの話に聞き入っている。オルフェーヴルはとりあえず黙ってその様子を見守るのだった……

 

 

 

 

 

……

………

…………

……………

 

 

 

 

 

『…………とまあ、大体こんなもんだな。分かったかな、デアリングタクト? 君の才能をより開花させられるチームがこの学園には沢山ある。チーム『シリウス』にこだわる必要なんてないんだぞ』

 

 

 トレーナによる非常に濃厚なプレゼンが終わった。あまりに詳細で的確な分析の数々に、オルフェーヴルも途中からつい聞き入ってしまっていた。もう少しその才能をプレゼンじゃなくてトレーニングに活かせよ、と思いながら。

 

 当のデアリングタクトはポーーッとした表情でトレーナーを見つめていた。

 

 

「……はい、よく分かりました」

 

 

 そして彼女は、今までで一番の、とびっきりの笑顔を見せる。

 

 

「私……やっぱり『シリウス』に入りたいです!! ますますその気持ちが強くなりました!!!」

 

 

 今度は『シリウス』のトレーナーがガーン!とショックを受ける。

 

 

「な……そんな、どうして……」

 

「だって、トレーナーさんから他の人たちから感じたことない……何というか、『情熱』を感じたんです!」

 

 

 オルフェーヴルの耳がピクンと反応する。

 

 

「この資料だって、自分でも気付けていない私の走りの特徴や癖、適性予想まで事細かに書いてあります。しかもそれは、私を勧誘するためじゃない。むしろ私を拒む為に……こんなの普通のトレーナーには絶対できません」

 

 

 まあ、このトレーナーはその点に関しては凄まじいものがあるからな……とチームメンバー全員が思っていた。

 

 

「他のトレーナーさんたちは、きっと色んな理由で私を勧誘して下さったと思うんです。それは私の走りを好きになってくれたからだったり、チームの為だったりするかもしれません。でも、『シリウス』のトレーナーさん……あなたほど純粋に『私にとっての最善』を想ってくれた人は他に誰もいませんでした」

 

 

 キラキラと、美少女は目を輝かせる。

 

 

「そんな一生懸命で、私を誰よりも良く見てくれたトレーナーさんとなら、私はきっと……憧れのスペシャルウィークさんに追い付くことができる気がするんです! 他の人から今の『シリウス』はダメだって話を聞くたびに、私すごく暗い気持ちになってました。だけどやっぱり『シリウス』に憧れて良かったって、今とてもとても激しく感じています!! 私はトレーナーさんの、あなたの『シリウス』で走りたいです!!!」

 

 

 デアリングタクトの輝きに、トレーナーは言葉を詰まらせる。彼の葛藤を察しながら、オルフェーヴルはフッとマスクの下で笑って二人に近付いた。

 

 

「これはトレーナーの負けッスね」

 

 

 マスクのウマ娘の言葉に、トレーナーはキョトンとする。

 

 

「な、オルフェ……?」

 

「実際問題、今アタシらのチームには規定人数ギリギリの5人しかメンバーはいないッス。普通チームと言うのは、怪我や何らかの事情で誰かが登録抹消される可能性を考慮して、最低でも6人で活動するものッスよ。だから入れちゃいましょう、このチームにデアリングタクトを。戦力としては破格ッスからね」

 

 

 それを聞いてデアリングタクトがパァっと笑顔になる。

 

 

「あ……ありがとうございます、オルフェーヴル先輩!! 私、一生懸命頑張ります!! 皆さん、よろしくお願いします!!」

 

「ちょ、オルフェ! そんな勝手に……」

 

「何スか? なんか文句あるんスか、命の恩人の言葉に……」

 

「うぐっ!! それは…………うおおおおお何故だあああああ!!! オルフェーヴルに続いてまた有望株がウチのチームにいいいいいい!!!」

 

 

 トレーナーは膝をついて絶望の声をあげた。デアリングタクトは驚いていたが、他のメンバーはいつもの事だと気にせずに彼女に挨拶をする。

 

 

「話はまとまったね。よろしくね、デアリングタクト! ところで新人は必ず私の絵のモデルにならなきゃいけないってルール(大嘘)があるんだけど、今度どう?」

 

「わーい、遊び相手が増えたー! よろしくねー!」

 

「デアリングタクトさん、よろしくお願い致します〜〜……ところで、あなたはあの天使のような双子ちゃんとお友達ですよね〜〜? ちょ〜〜っとご紹介して頂きたいのですが〜〜……」

 

 

 

 と……そんな感じでデアリングタクトが新たな仲間としてチーム『シリウス』に加わったのだった。彼女のこの先の活躍を予想出来た者はいなかった。

 

 ちなみにおっとり細目なウマ娘はについては事前にオルフェーヴルが釘を刺した為、アドマイヤベガの娘たちである『奇跡のジェミニ』に害が及ぶことはなかったと言う……

 

 

 

 

 

 

 





次回

Part 13. オルフェーヴルの物語⑩


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Part 13. オルフェーヴルの物語⑩


ついに本家のオルフェーヴルが発表されちゃいましたね。あのマスクの方のデザインじゃないのかーと少ししんみりしてました。こちらの小説の方ではプロトタイプのオルフェーヴルを描いていくので、同好の方に楽しんで貰えると嬉しいです。あの旧デザインの勝負服、めちゃくちゃ好きだったんですよね……


 

 

 

 

 

 

 

 京都レース場の控え室の一室で、鮮やかな栗毛のウマ娘が勝負服を着込み、出走前の最終チェックを済ませる。

 

 グレーを基調としたジャケットにワインレッドのインナー、ジャケットと同色の短めのスカートからすらりと伸びた脚にはショッキングパープルのブーツ。ヘッドギアから伸びる装飾品のベルトは、彼女を縛れるものなど存在しないと主張しているかのようだった。

 

 その日は、間違いなく歴史的な1日となる。日本中の全てのレースファンが、そう確信していた。もちろん、オルフェーヴル自身も……

 

 

(……勝負服は特に異常なし。体調は好調寄り、後は……走るだけ)

 

 

 オルフェーヴルは鏡に映る自分の姿を見つめる。彼女自身の姿を通して、ここに至るまでの道程が思い出される。

 

 その年のクラシック級G1レース『菊花賞』、オルフェーヴルはその最後の冠を勝ち獲る為にここに立っていた。

 

 

(思い返せば色々あったッスねぇ)

 

 

 オルフェーヴルがチーム『シリウス』に加入してからおよそ一年半が過ぎた。相変わらずチームメンバーもトレーナーもフリーダムなので、オルフェーヴルはすっかりチームのまとめ役のリーダー兼アネゴとなっていた。

 

 このクラシック三冠の最後の頂、菊花賞に至るまでに様々な事件があった。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 オルフェーヴルにとっては毎日が事件みたいなものだったが、取り分け本当に事件だと言えるのはオルフェーヴルのかつてのトレーナー、あのベテラントレーナーによるチーム『シリウス』への妨害工作だろう。

 

 ある時期からトレーニング施設の予約が勝手に取り消されていたり、夏合宿で『シリウス』だけとんでもない僻地へ飛ばされたり、根も葉もない悪評が流されたりと悪質な嫌がらせが発生し始めた。

 しかし、もともと施設ではシリウスメンバーが好き勝手に行動するのでまともなトレーニングにならないし、どんな僻地でもシリウスメンバーは全力でエンジョイしたし、悪評もシリウスが変人集団であるのは周知の事実だったので特にダメージにならなかったりと、ベテラントレーナーの目論見はことごとく不発に終わったのだった。

 

 この一連の出来事があのベテラントレーナーの画策である事に気付いていたのはオルフェーヴルと勘の鋭いベレー帽先輩くらいで、他のメンバーはシリウストレーナー含めて誰も特に気にする事なく「そんな事もあるよね!」くらいのテンションだった。ベレー帽先輩いわく、「うちらはこの程度で動じる面子じゃないよ。けど、何かしら対策を考えなきゃいけないかもね。ひとまずは『見』でいこう」と、状況を様子見する事となった。

 

 オルフェーヴルはそんな自由奔放なメンバーたちに呆れながらも、その逞しさと底抜けの明るさに知らず知らずのうちに支えられてクラシック級のレースでは連勝を重ねていた。期待の超新星のデアリングタクトの活躍も相待って、むしろチーム『シリウス』はかつての人気と盛り上がりを少しずつ取り戻しつつあった。

 

 だが、ある時期からベテラントレーナーによる嫌がらせが一線を越えそうな雰囲気を見せた。デアリングタクトと後輩ウマ娘が怪しい影にストーキングされるようになった。明らかに真っ当ではない良からぬ連中に付け狙われていた。

 

 ある日のチームの備品買い出しでは、2人が買い物中にチンピラウマ娘に因縁をつけられ襲われそうになっていたのを陰から見守っていたオルフェーヴルが返り討ちにしてボゴボコに打ち倒した。そのチンピラに誰の差し金か問い詰めたが「知らない奴から金貰ったからやっただけです……ずみまぜん……」と首謀者の情報は得られなかったが、オルフェーヴルはあのベテラントレーナーが裏で糸を引いていると確信していた。

 

 デアリングタクトと後輩ウマ娘を不安にさせない為に、オルフェーヴルは2人に「酒に酔ってただけだったみたいッス」と誤魔化したが、もはやチームメンバーに直接危害が及ぶならば、無視できる段階ではないと危ぶんでいた……

 

 

 

 しかし、拍子が抜けたと言うべきだろうか。その少し後からパッタリと嫌がらせは起こらなくなり、嘘のように何事もない平穏な日々が過ぎていった。それどころか、なんとあのベテラントレーナーが行方不明になってしまったと学園内で噂が立っていた。平穏が戻った事をまずは喜ぶべきか、嵐の前触れだと受け取るべきか、オルフェーヴルとベレー帽先輩は眉を顰めながらも警戒を怠らなかった。

 

 だが、あのベテラントレーナーの手掛かりは思わぬところから出て来ることになる。

 

 ある平日のお昼時間、チーム『シリウス』のトレーナー室にメンバー全員と、アドマイヤベガの愛娘である『奇跡のジェミニ』アドマイヤリラとアドマイヤトレミーが遊びに来てテーブルを囲んでいた。双子はデアリングタクトの親友で、以前『シリウス』のおっとり細目のウマ娘が「双子ちゃんを連れてきて下さい」とお願いしたのをタクトは律儀に守ったのだった(完全に悪気なし)。

 オルフェーヴルは細目の先輩が何かやらかさないか目を光らせていたが、アドマイヤリラが細目の先輩ウマ娘の前にやってくるなり

 

 

「こんにちはー!! わぁ〜、噂通りにホンットに綺麗な髪だ〜! 尻尾の毛並みもすっごいツヤツヤだ〜! どーやって手入れしてるんですか!? 私も先輩みたいになりたいので今度教えてください!(にぱー)」

 

「くはぅっ……」バタン!

 

 

 と天真爛漫な尊みの爆弾を食らって気絶してしまった。今は敷かれたゴザに横にさせられ、元気っ子ウマ娘が看病を引き受けている。

 

 

 と、そんなこんなで皆でお昼のお弁当を食べている最中、デアリングタクトが思い出したように話し始める。8つ目となるサンドイッチをハムハムと食べながら。

 

 

「そういえば私、ちょっと前にチームOGのマリンアウトサイダさんと電話でお話ししたんですよ〜(もぐもぐ)」

 

 

 デアリングタクトがチームOGのマリンアウトサイダと知り合いになった事は皆が知っていた。なんでも、以前たまたまマリンアウトサイダがトレセン学園に立ち寄った時に、アドマイヤの双子たちと一緒に出くわしたのだとか(アフターストーリー:episode5参照)

 

 

「へぇ〜、どんな話をしたんだ? 俺は彼女とは卒業式以来会ってないんだよなぁ。UMADの特務員として世界を股にかけて仕事している多忙な身らしいし(もぐもぐ)」

 

 

 『シリウス』のトレーナーが自分で作ってきたお弁当を食べながら言った。ちなみにいつもチームメンバーにおかずをたかられるので彼は必ず多めに弁当を作るようにしている。

 

 そして、デアリングタクトが語った内容は……

 

 

「そうですねー、とりとめのない世間話と……あ、ちょっとアレ?って思ったことがあったんです。最近私たちのチームの運が悪いのか、変な出来事がしょっちゅう周りで起こってるってお話したら、マリンさん『もっと詳しく聞かせて』っておっしゃって……」

 

 

〜〜〜

 

『ふぅん、そっか……うん、なんとなく分かったよ。タクトちゃん、安心して。少ししたら何にも起こらなくなるから』

 

〜〜〜

 

 

「どういう事ですか?って聞いてもマリンさん教えてくれなかったんですよね。でも、マリンさんのおっしゃった通り最近は変な出来事も起きてないし、不思議ですよね〜(もぐもぐ)」

 

 

 デアリングタクトは「はて?」という顔で9つ目のサンドイッチにパクつく。が、彼女の話を聞いてオルフェーヴルとベレー帽先輩はピタッと止まり、顔を見合わせ視線を交わした。

 

 

「……………………」

「……………………」

 

 

 どうやら考えている事は同じなようだ。デアリングタクトの話した内容に「まさか……」と思い当たる事があった。

 

 かつてチーム『シリウス』に所属していた、格闘ウマ娘からレースウマ娘へ転向した稀有な経歴を持つウマ娘『マリンアウトサイダ』。彼女は現在、格闘ウマ娘総括団体UMADの副理事長の立場にある。そして、UMADのトップである理事長を務めているのは『ヤマブキドウザン』という名のウマ娘である。

 

 詳細は端折るが、UMADは過去の時代にウマ娘による違法格闘賭博場を生業としていた、所謂極道一家の『ヤマブキ家』によって設立された組織なのだ。これは少し調べれば誰でも入手できる情報なので、社会面に聡い者ならば普通に知っている事実である。もちろん、現代は反社会団体としての側面は鳴りを潜めたが、それでも極道一家である事は変わりない。

 

 UMAD副理事長であるマリンアウトサイダがヤマブキ家と繋がりが無いワケがないので、あのベテラントレーナーが行方不明となったのはデアリングタクトと彼女の通話がキッカケなのでは……?とオルフェーヴルとベレー帽先輩は考えたのだ。

 

 

(……まさかあのベテラントレーナー、今頃東京湾に沈んでいるとか……?)

 

 

 もしくは山の中か?とオルフェーヴルとベレー帽先輩が考えていると、噂をすれば影というように、不意に……

 

 

 バダンッッ!!

 

 

 と『シリウス』のトレーナー室のドアが乱暴に開けられて何者かが侵入してきた。

 

 

「ひぃっ……ひぃっ……!!」

 

 

 入ってきたのはあのベテラントレーナーだった。服もボロボロ、身体中が泥だらけで、さっきまで山で遭難していたみたいな恰好だった。

 

 突然の出来事に、オルフェーヴルも含めた全員が驚愕の表情になる。だが、当のベテラントレーナーはそれよりも必死な形相で入ってくるなり土下座をかまし、

 

 

「す、すまなかったあああ!!! 私が悪かったあああ!!! もう何もしない、この通り謝る!!! だから許してくれえええ!!! ひ、ひぃぃ!!!」

 

 

 ベテラントレーナーは地面に額を擦り付けながら叫ぶと、這々の体で逃げ転がるように『シリウス』のトレーナー室を去った。

 

 オルフェーヴルとベレー帽先輩以外の全員が訳が分からずポカーンとした表情でこの一部始終を眺めていた。

 

 

「……今の人、行方不明って噂のベテラントレーナーだよね……」

 

「うんうん、絶対そうだよ! どーしたんだろ? まるでヤクザに山で監禁されて拷問を受けたみたいな雰囲気だったね」

 

 

 そう話すのは双子のトレミーとリラだった。てか、リラの指摘が的を得すぎていないか?とオルフェは思ったが黙っていた。

 

 そして続いて『シリウス』のトレーナーも口を開く。

 

 

「ベテラントレーナーさん、ストレス溜まってたのかな。分かるよ、トレーナー業って大変だからなぁ……(もぐもぐもぐ)」

 

 

 続いて、デアリングタクトが心の底から心配そうな表情で、10個目のサンドイッチにパクつきながら言う。

 

 

「まぁ、そうなのですね。あのトレーナーさん、元気になれると良いのですねぇ……(もぐもぐもぐもぐ)」

 

 

 いや、あんな風になったキッカケは多分お前だぞ……というツッコミは流石にオルフェーヴルも口には出さなかった。

 

 と、そんな感じでオルフェーヴルとあのベテラントレーナーの因縁は、華の妖精の如き美少女ウマ娘のまさかの活躍?によって決着したのだった。

 

 

(……あのベテラントレーナーとはいずれケリを付けなきゃいけないとは思っていたけど、つくづくこのチームはアタシの予想を超えて行くッスね……本当に、悩んでいたのがバカらしく思えてくるくらいに。まぁ、ヤツは藪を突いてヤマタノオロチを出したみたいなもの、自業自得ッスね。これで手打ちって事にしておくか)

 

 

 オルフェーヴルは「ふっ」とマスクの下で淡く微笑む。彼女の心に積もっていた雪は、『シリウス』の仲間たちと過ごすうちに、いつの間にか溶け去っていた。ベレー帽先輩を見ると、彼女は「まあ、こんなもんさ」というような顔で惣菜パンにかぶりつくのだった。

 

 

 

 

 

 

 





次回

Part 14. オルフェーヴルの物語⑪

多分、次回で一旦過去編は終わります。


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