消え去りたい (庭鳥)
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消え去りたい

 

 

 消え去りたい、そのように僕が思い始めたのは果たして何歳のころであったろうか。人生に難儀し始めた学生の時分であったようにも思う。ともかく私の心を貫く希死念慮というやつは常に私の心を重く、暗く押しつぶしていた。さらに、そうでない時は心の臓を下に敷いた薪に火をつけてポカポカ燃やし尽くすのだ。一時も心が休まるときもなく、ただ世界に擦り潰され続けた。そうであれば、いずれただの塵となるは道理だろう。

 

「おお、○○。今日もお早う!昨日の雑誌買ったか、あれは~……。」

 

 このように僕を気遣ってくれる友も数少ないがいた。だが彼らは僕の求めるような人間ではなく、そして僕も求められる人間でもなかった。僕が二、三言要領を得ない……彼らの求めない返答をすると、決まって困ったような顔に変わった。寸刻の後、彼らは仲間に誘われほっとしたような顔になり、決まってそちらに歩んでいった。そして二度と僕の方を見向きもしなくなるのだ。数年もすれば、僕の元から友人と呼べるような存在は一人もいなくなった。

 

「ねえ、○○くん……。私もねぇ、辛いことがあるんだ。君と一緒に頑張れたらなぁってさ、そんな風に思ってるんだけど……。迷惑かな?」

 

 迷惑、という感情は抱かなかった。僕はその女に二、三言程、僕の中の哲学に従い懸命にアドバイスを返してやった。多分、その時はまだ僕の中にも異性や他の人間に好かれたいという感情が残っていたのだろう。迷惑に思ったのはどうやら女の方であるらしかった。僕のアドバイスを聞き終わる前に、あからさまに怒気を隠せぬ顔になり、話し終わるころには無言で立ち去った。

 

 女の豹変に僕は閉口しながらも、実のところあまり驚いてはいなかった。僕が人間と友好など築けるわけもなかった。そのような予感、僕の中に潜んだ常識……昔の賢い人は常識を十八になるまでに集めた偏見だと表現したそうだが……まさしく僕の中の偏見はそう思っていた。またこの偏見、という表現を使ったことにも、ある種の希望を見出そうとしているかのような気持ち悪さを感じ、一層縮こまるしかなかった。

 

「……○○。学校、楽しんでる?今日ね、先生から連絡があったわ。貴方が学校で孤立しているんじゃないかって……。」

 

 母がそのように語り掛けてきたのも覚えている。母は努めて平静な様子を装い、その奥で僕を心配しているようであった。しかし、どうにも僕はその奥の軽蔑を感じざるを得なかった。その二重の偽装の裏には、彼女自身が心の奥底に押し込んで、見ないふりをした自身の息子への落胆と軽蔑、そして少しの嘲りがあるのではないかと僕は常々思っていた。そして多分、それは正しいのだろう。

 

 全ての親は子供の幸せを願っている。そのように彼ら自身は嘯くが、実のところ全くの逆だ。全ての親は子供の破滅を願っている。それは全ての人間が普遍的に抱きうる、この世で最も醜い感情だ。即ち、老人が抱く若さへの嫉妬である。自身の満たされない人生とその先細った未来を見て、おぞましいまでの嫉妬から、ただの可能性でしかない子供を潰さずにはいられないのだ。それは殆ど無意識、いやわざと人間たちが見ないふりをしている感情なのである。なぜなら未来で自分も同じ感情を抱かずにはいられないのだから。一部の親が子供の幸せを願い、同じ頭で全ての親が子供の破滅を願っている。正しくはこうだ。

 

「ねえ、兄さん。たまには一緒にゲームでもやらないかい?ほら、流行りのゲームを手に入れたんだよ……。どうだい?」

 

 弟がそのように言って来た時もある。彼だけは……彼だけは僕の純粋な味方であったように思える。彼の目、そこには純粋な心配の色が浮かんでおり、世捨て人じみた僕の生活を……いやむしろ驚くべきことに僕を心配してくれていたのだろう。彼の事を考える時だけ、僕はこの世が救われたような気分がする。仏の教えが根付かず、不浄なる金銭に支配された世の中に一種の光明が差し込んだように思える。

 

 だが、僕の心は全く動かなかった。別に家族としての贔屓目を認識したからではない。どういうわけか僕はその純粋な心配にさえ怒りを覚えた。彼は善意からその発言をしたはずだ。それを認識してすら怒っていた。結局のところ、僕は世間に見捨てられたから、こうなったのではないのだろう。僕は生まれてからそのまま、運命に導かれてこうなったのだ。……そうであるなら僕が芽吹いてから死ぬまでに苦しんだのに何の意味があるのだろう?

 

 

 

 僕は歩んで歩んでここに来た。しかし今、この場所に立っていることすら間違いに思えて仕方がない。僕の居場所は暗く湿った土の下にしかないのではないかと思う。あるいは行ってみれば、そんな寂しい場所にすら拒絶され、いずれ目に見えない生き物に食い散らかされる死体のように、何もない場所に招かれるのを望まれているのだろうか。

 

 ふと、目を上げると墓場には一人の小汚い男が腰かけていた。蠅のたかった男はまるで死体のようにも思えるが、風の中では動かず、凪の中では身じろいでいた。その男は美味そうに何かを口に運んでいる。それが僕の家族の墓に供えられた酒だと気づいたので、しょうがなく歩き始めた。ただの仕様のない義務感からの行動であり、実際何かをしたいわけではなかった。思い返してみれば、僕の人生には衝動という奴が常に欠けていた。

 

「おじさん。それは僕の先祖の酒だろう。アンタの物じゃない。」

 

「ふうん。確かにそうだが、お前の先祖も俺の飲みかけなんぞ欲しくはないだろう。」

 

 そう言ってちびちびと酒をなめている。……途端、言いようのしれない高揚が湧き上がってくるのを感じた。僕にはこの正体がわからない。多分、この男はホームレスというやつだ。自身よりも下の立場の人間を見つけてよもや興奮でもしたのだろうか。結局のところ、自身の人生の失敗の原因は、僕が僕のことを分からなかったことにあるのだろう。

 

「なあアンタ。僕はもう死のうと思う。そこの墓の下に入ろうと思う。どう思う。」

 

「どうも思わんなぁ。お前とは会ったばかりだし、首をくくろうが犬に食われようがどうでもいい。だがまた酒が飲めるのは嬉しいかもなぁ。」

 

 僕の薪がボンボンと燃え、鍋にかけられた血液がボコボコと煮立つ。久しく忘れていた清涼なる匂いが心の中に広がるような気がした。世の中に生きる笑っている多くの者たちが心に抱くものだ。ああ、僕が求めていたのはこれなのだな。そのように思えた。

 

 だが僕はこれから死ぬのだ。最早、この心を失い生きながらえるのはたくさんだ。この人に出会えたことを感謝し、死なねばなるまい。僕は家から綺麗な手ぬぐいを持ってきて、墓場の水道で洗った。温い水が手のひらを駆け巡っていく。僕はそれを見ながらワクワクと胸を弾ませていた。

 

 太い木の枝に手拭いを括り付け、そこに首を通した。足元にはバケツを台にしている。ああ、死ぬのか。僕は時々死について恐怖をしていた。だがこうして目前にしてみると、まるで実感のないような気がした。ライフルを目前に突き付けられても僕は同じことを思うのだろうか。そんなとりとめもないことを思う。

 

 ふと、風が吹いて枝が揺れた。その途端、足元のバケツが遠く宙に舞っているのを見た。一瞬がとても長く感じた。優しき重力に手を引かれ、僕は死への橋を渡った。

 

 

 

 ぼうっとしていると意識が明瞭になってきた。目の前の墓では、家族がしくしくと泣いている。生前にあれだけ疎んだくせに、死後に泣くとは卑怯な連中だなぁと思っていた。すると木の陰にあの男、ホームレスが供え物を狙っているのが見えた。その男と目が合い、彼はふんとつまらなそうに鼻を鳴らした。僕はようやく幸せを手に入れた。そうして心の底から笑うことが出来た。

 

 

 





 本作に自殺を賛美、推奨する意図は一切ありません。



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