ホームレスがトリニティの生徒になる話 (ちゅーぴか)
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出会い



初投稿です。

ブルアカが良すぎて止まれなくなってしまいました。

駄文&新人先生ゆえガバありです。温かい目で見ていただけると幸いです。


 君の話はそうではなかったかもしれないね。

 

 不快で、不愉快で、忌まわしく、眉を顰めるような……

 

 相手を疑い、前提を疑い、思い込みを疑い、真実を疑うような……

 

 悲しくて、苦しくて、憂鬱になるような……それでいて、ただただ後味だけが悪い……そんな話だ。

 

 けれど……私たちはもう知っているでしょう?

 

 どれだけ惨めでも、どれだけ虚しくても、抵抗し続けることを止めるべきじゃない。

 

 失敗したとしても、何度でも。道が続いている限り、チャンスは何回だって生み出せる。

 

 君がなりたい存在は、君自身が決めていいんだよ、『イト』。

 

 君も、幸せにならなくちゃね。

 

 

 

 ***

 

 

 

「おらっ、どけ!」

 

 学園都市キヴォトス。数多くの学園が並び立ち、そこに星の数の生徒たちが通う。晴天の下、爆音と銃声が轟くキラキラな青春の舞台。

 青春の舞台で、爆音と銃声?と思うかもしれない。しかし心配はいらない。「ヘイロー」と呼ばれる輪っかを頭の上に浮かべる生徒たちは、ちょっとばかしの銃弾を喰らったところで「痛っ」で済むのだ。

 

「ぐえっ」

 

 それに、「生徒」と一口に言ってもその姿はざまざまだ。天使のような羽を持つ者、悪魔のような角を生やした者、他にも獣耳やとんがった耳など、多種多様の姿をしている。かく言う私もそうだ。頭のてっぺんに二つの大きな耳を生やし、お尻にはもふもふの尻尾を生やし、口にはギザギザの歯を生やしている。

 一部の住民なんか、明らかにイヌやネコの見た目をしていたり、生き物なのかもわからない機械の見た目をしていたりするのだ。

 

 しかし、この青春入り乱れるキヴォトスにはおよそ似つかわしくない場所がある。悪意と思惑が入り乱れる、ドロドロな暴力の舞台。

 

 名をブラックマーケット。金、暴力、権力、酒、煙草、賭博、地位、名声、力。犯罪行為など日常茶飯事。「青春」に似つかわしくない、まさしく「闇」の舞台である。辺りには、パチンコ店、風俗店、闇銀行に謎のオフィス……と、このように間違ってもキラキラの生徒たちが立ち入る場所ではない。

 

 私「糸巻(いとまき)イト」は、そのブラックマーケットの一角でホームレスをしていた。いや、誤解をしないでほしい。別に学園を退学になるほどの何かをやらかしたわけではない。実を言うと、そもそも「生徒」であったことすらないのだ。

 

「アタシら今からトリニティのお嬢様を拉致ってやるんだ」

「身代金をたんまりぶん取ってやるぜ!」

「協力するってんなら、分け前をやらんこともないぜ?」

 

 目の前にいるのは、三人のスケバン。黒髪が長い人と短い人、あとは金髪が短い人。全員黒マスクに白で×を書いている。

 

「ごめんなさい、無理です……。私、今動けなくて……」

 

 あろうことか私はこのスケバン達にご飯の恵みを乞うたのだ。如何せん金がない。ご飯など、三日前に食べた廃棄弁当が最後である。既に動く元気もなく、正直に言って死にかけだ。まあ、私の努力も虚しく突き飛ばされてしまったが。ひどい、そんなことしなくてもいいじゃん。血も涙もない奴らめ。

 

「チッ、しかたねぇな……」

 

 そう言って、スケバンの一人がバッグをガサゴソと漁った。

 

「……これやるよ」

 

「み、水と食パン……!いいんですか……?」

 

「……後で死なれると、寝心地わりーんだ」

 

「……お優しいんですね」

 

「やさしくねーよ!!」

 

 前言撤回。血と涙しかない奴らだった。めちゃめちゃいい奴らである。ん?でもトリニティの生徒を拉致ろうとか言ってたか?本当は悪いやつらなのかもしれない。

 

「じゃあな、アタシらはいそがしーんだ」

 

「あっ、待ってください……!」

 

「あ?」

 

 スケバンたちが一斉に振り向く。こうしてみると中々の威圧感である。そんな視線を受け止め、私は頭を下げた。

 

「ありがとうございます……!」

 

「……ケッ」

 

 スケバン達は足早に去っていった。ブラックマーケットの人情も捨てたものではない。三日ぶりにありついた食料への感謝を噛み締める。

 

 

 なぜ私がこんな場所にいるかというと、何か複雑な理由があるわけではない。単にここで生まれ落ちたから、ここで育ったというだけだ。親の顔は知らない。自分の誕生日も知らない。自分の戸籍などない。だからまともな仕事に就いたこともない。およそ15年間を一人で細々と生きてきたのである。

 つまりホームレス暦=年齢である。ああ、私のことは哀れな目で見てくれるな。キヴォトスに通う同年代の子たちの中では、間違いなく私が一番のプロホームレスだという自信がある。誇り高きホームレスなのだ。

 それに、ここブラックマーケットも捨てたものではない。治安は悪いが、ここには手を取り合う力に長けている人が多い。根っからの悪人というものはここに住まずに外から利用してくるものなのだろう。さっきみたいに、話せばわかることは多々ある。

 

 それにしても……

 

「トリニティか……」

 

 

 

 ***

 

 

 

「はぁ……はぁ……やっとついた……」

 

 太陽が沈みかける時間帯、私はようやく目的地、トリニティへと到着した。食料を買う金もない私に移動費など払えるはずもなく、私はキヴォトスの広さに絶望することとなった。なにせ三日ぶりの食糧が、さっきのスケバンからのお情け、食パンと水なのだ。まじで死ぬかと思った。燃費の良いこの身体に感謝しなければ。

 

「ここが……トリニティ……!」

 

 トリニティについて早々、私はその壮大さに絶句することになる。

 まず敷地がデカい。校門に立ってみても、敷地全体のほんの少ししか見渡すことができなかった。さらに建物がデカい。見渡す限りに宮殿かと思ってしまう建物がいくつもある。非常にきれいにされているが、歴史を深々と思わせる荘厳さがそこにはあった。中には売店やカフェなんかもあるようだ。いつかは行ってみたいものである。

 下校時間に差し掛かっているのだろうか。友人と談笑しながら歩く生徒がちらほら見える。さすがはお嬢様学校というところだろう。誰もが身なりに気を使い、気品を心掛けているように見えた。心なしかいい匂いもする。ろくにお風呂にも入っていない私とは大違いだった。

 

 いや、私はわざわざトリニティまで観光に来たのではない。目的を果たさなくては。なぜ私が死にかける思いをしながらもここまで来たのか。それはひとえに、お嬢様生徒を拉致するため……ではなく、

 

「……あの、すみません!」

 

「は、はい?どうされました?」

 

「私、その……見ての通り、一文無しでして。おなかが減って死にそうなんです。何か食べるものをいただけませんか……?」

 

 そう、物乞いをするためである。

 お嬢様学校ということは、生活に余裕のある生徒も多いはず。少なくともブラックマーケットにいるよりは食べ物をもらえる可能性があるのではと考えたのだ。

 

 しかし……

 

「……ごめんなさい、他をあたってください」

 

 ものすごく嫌な顔をさせてしまった。まあ、考えてみれば当然だろう。突然見ず知らずの人が話しかけてくるのだ。しかもあからさまに貧層な身なりで、見返りもなくただ食べ物をよこせと言ってくる輩。控えめに言って不審者である。

 

「……怖い思いさせちゃったかな」

 

 話しかけられた生徒は足早に離れて行ってしまった。

 

 いや、よく見れば話しかけられた生徒だけではない。瞬く間に、辺り一面は「やべーやつがいる」という空気に包まれた。下校中の生徒も多くなってきたというのに、私の周りには見事に空白が開いている。

 

「えっ誰……?」「こわっ」「あれやばくない?」「近寄らない方がいいよ」「なんか変な匂いする」「どこの生徒?」「誰か正実呼んでー!」

 

 ……まずい。これは非常にまずい。正実とは、トリニティが誇る治安維持組織「正義実現委員会」のことだろう。そんな組織に捕まったが最後。こちらの過去を徹底的に調べ上げられて煮られて焼かれて食べられるのがオチで―――

 

 

 

 

 バン

 

 

 

 

 ……え?

 

 

 

「うぐっ」

 

 

 

「正義実現委員会など待つ必要はありません」

 

 こめかみに鈍い痛みが走る。予想外の衝撃に姿勢を保てず、銃弾の勢いに身を任せるまま倒れこんでしまう。

 

「私が直接手を下して差し上げます。不審者に情けはありません」

 

 こちらに銃を向けながらそう言い放つのは、純白の制服と帽子に身を包み、背中からも同じく純白の翼を生やした生徒。何かの本で見た覚えがある。あれはお嬢様学校の中でも特にお嬢様である「ティーパーティー」所属の生徒にのみ着用を許されるものだ。

 

「ご、ごめんなさ―――」

 

 

 

 

 ドガガガガガガガガガ

 

 

 

 

「い、いたっ、痛いっ、やめ……」

 

 

 

 

 ドガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ

 

 

 

 

 銃弾の雨が降り注ぐ。激しい痛みが全身を駆け抜ける。そこに慈悲など一つもなかった。

 

 その生徒は倒れ伏す私の髪を掴み、乱雑に持ち上げて顔面を近づける。

 

「……ふふ」

 

「あぁ……うぅ……」

 

 私には、痛みに呻き声を上げるほかなかった。目の前にある整った顔が愉悦に歪むのが見える。

 

「分かったら、二度とトリニティに近づかないでくださいね?」

 

 そう言って私の髪を離した。一通り弾を撃ち尽くしたのだろう。空のマガジンを投げつけながら、その生徒は同じティーパーティー所属の友人達と談笑しながら去っていった。

 

 

 

 

 やばい……。これ、意識が……とぶ……。

 いたい……。いっぱい……うたれて……それで……えっと……そうだ……

 

 

 

 

「ごはん……ください……」

 

 

 

 

 ……だれも……くれないの?

 

 

 

 

「しにたく……ない……」

 

 

 

 

 ……私の人生……しょぼ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫ですか!?」

 

 

 

 

 

 ……誰だろう……?

 

 すごく、やわらかい……。

 

 

 

 

「……だれ……?」

 

「私は浦和ハナコといいます!あなたを助けに来ました!」

 

 そう言ったスク水の天使に抱えられ、私の意識は途絶えた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「……知らない天井だ」

 

 目の前に広がるのは真っ白の天井。背中にはふかふかのマットレス。低反発なやつである。

 

「あら♡目が覚めましたか?」

 

 突如、別の部屋から現れた人の声に肩がピクリと跳ねる。それは、整った顔にピンク色の髪を腰まで伸ばし、サイドを三つ編みで束ねた、非常にスタイルの良い少女だった。そしてその姿に私は見覚えがある。

 

「あなたは、助けてくれた……」

 

「ふふ♡浦和ハナコといいます。あなたの名前は?」

 

「……糸巻イトです。あの、助けてくれてありがとうございます……」

 

「いえいえ♡イトちゃんですね?ごめんなさい、本当は救護騎士団に診てもらうのが一番なんですが、私の部屋で……」

 

 ここは彼女の部屋らしい。簡素な作りだが、日頃の掃除が行き届いているのがよくわかる、とても綺麗な部屋だった。

 ……っていうか、いつの間にか私の服装が布きれ一枚からまともなルームウェアになっている!それに髪の毛がしっとりしていて、お風呂にも入れてくれたのが分かる。何てこった、ハナコさんめちゃめちゃ良い人!

 

 

 

 

「……どうやら、訳ありのようですから♡」

 

「……」

 

 ……この人はどこまで見通しているのだろうか?

 

 私は目を伏せる。トリニティの、あの空気感。多分、私を撃ったあの生徒が特別というわけではないのだろう。トリニティに仇なす存在には慈悲をかけるな、裏切者は徹底的に打ちのめせ……。もちろん、トリニティ生徒の全員がそうであるとは思わない。しかし、さっきの様子から見るにそれがトリニティという場所の大まかなルールなのだろう。

 

 ……あの場において、ハナコさんの行動は間違いなく異質だっただろう。トリニティ生徒から見て、「敵」である私を助けたハナコさんも……「敵」として認識されてしまうのではないか……?

 

 私はそのことに、強い罪悪感を抱いた。

 

 

 

 

「……ハナコさん、ごめんなさ―――」

 

「ですが!まずはご飯を食べましょう!簡単なものしかありませんが♡」

 

 ハナコさんは私の謝罪をかき消すように手をたたいた。その音にびっくりして顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべるハナコさんがいた。

 

 ……なるほど。この人には敵わないな。

 

 正直言って遠慮できないほどにお腹が空いていたので、私は食い気味に首を縦に振った。

 

 

 

 ***

 

 

 

「う“ま”がっだ!う“ま”がっだよ“お”お“お”お“!!」

 

「お口に合ってよかったです♡」

 

 なるほど、胃袋を掴むとはこういうことか。私はすでにハナコさんになら何をされてもいいと言えるほど、全幅の信頼を置いている。煮られようが焼かれようが食べられようが私はハナコさんの味方だからね。

 

 

 

 

 ……実際問題、私の今の思考が冗談では済まないのが現実の辛いところである。身体を洗ってもらった。衣服を貸してもらった。ご飯を食べさせてもらった。命を救ってもらった……。現時点で私はハナコさんにとてつもない借りを作っている。そしてそれを返す手段を何一つとして持っていない。

 

 ……さらに私は、私の都合でもう一つ、彼女に迷惑をかけなくてはならない。後で何を請求されても文句は言えないだろう。

 

 ……しかし手段は選んでいられない。私とて、死にたくない。

 

「……ハナコさん」

 

「はい?どうされました?」

 

「話したいことがあります」

 

 隣で洗い物をするハナコさんに、意を決して話しかける。

 

 

 

 

「……私はブラックマーケット出身です」

 

 

 

 

 私は自分の事情を話した。生まれてからずっとブラックマーケットに住んでいたこと、学校に通ったこともなく、食料を満足に買うお金もないこと。

 

 

 

 

 ……できるだけ、同情を誘うように。

 

 

 

 

「……あなたを見込んでお願いがあります」

 

 ……私はハナコさんのことをほとんど何も知らない。だが、あのトリニティの空気には似合わないほど優しい心を持つ人だということは知っている。そしてさっきの私の謝罪を遮ったとき。あれはおそらく、私がハナコさんに向けた「彼女をトリニティの「敵」にしてしまったのではないか」という罪悪感に気づき、否定したかったからだろう。私が目を伏せたあの一瞬で私の意図を察する洞察力、コミュニケーション能力。それだけでもハナコさんが文句なしの秀才だということは分かった。これでもブラックマーケットに住んで長い。人を見抜く力はそれなりにあるつもりだ。

 

 しかしハナコさんのそんな姿からは考えられないことがある。おぼろげな記憶だが、ハナコさんが私を助けてくれたあの時、彼女は水着姿だったのだ。それはあのトリニティ、ひいてはキヴォトスにおいて間違いなく異質な、ともすれば周囲から敵意を買いかねない愚かな行為に見えた。

 

 

 

 

 ……これはあくまで推測に過ぎない。しかし私はどこかで確信している。

 

 トリニティを覆うあの空気。常に他者を値踏みするような、あの眼。ましてトリニティの政治を担うトップ層など、とくにその傾向が強いはずだ。ハナコさんほど聡明な才女、放っておくはずがない。

 

「私、何でもします。もうこれっきり、ハナコさんに迷惑はかけないようにします。だから……!」

 

「まあ、何でも……ふふ♡」

 

 加えてハナコさんが住んでいるのは、この決して広いとは言えない部屋だ。恐らくだが、豪勢な生活などいくらでも望めるほどの才能を有していながら。

 

 

 

 

 ……ハナコさんは、「普通」の生活を、青春を送りたかったのではないか?それなのに周囲から期待の眼差しを向けられ、政治の道具とされることに嫌気が差したのではないか?それが嫌で、水着で過ごすなどという奇抜な行動に出たのではないか?

 

 

 

 

「私のトリニティ入学を手伝ってください!」

 

 

 

 

 ここまで考えて、なぜ私がハナコさんにこんなことをお願いするのか。その理由はただ一つ。

 

 ……この人なら、トリニティのトップ層と繋がりがあるのではないか?戸籍を持たない私をトリニティへ入学させるという難題を、果たせられるのではないか?

 

 彼女が嫌う、彼女の能力目当ての。自分でも嫌気が差すほど最低で最悪な、悪魔の考えからだった。

 

 

 

 

 ……沈黙が場を支配する。それがひどく痛い。

 

「……イトちゃんは今、何を考えていますか?」

 

 しばらくの後、ハナコさんの声が沈黙を破った。

 

「自分の過去を話して、私の同情を誘った上で、そんなお願いをして」

 

「……」

 

 返す言葉がない。やはり、すべて見抜かれていた。これはこれ以上を望んだ、私の罪だ。

 

 

 

 

 ならばもう、悪魔は悪魔らしく逃げるしかない。

 

 

 

 

「い、いやー、やっぱりばれちゃってましたかー!その通り、私本当は最低な人間なんですよー!えへへ、でもばれちゃったなら仕方ないな!助けてくれた上にご飯までくれて助かったぁ。それではっ、私はこれにて食い逃げさせていただきま———」

 

 私が逃げようとした、その時だった。

 

 ……ハナコさんの大きな身体が、私を抱きしめた。

 

 

 

 

「……イトちゃんは賢いですね。でもだめです、逃がしません♡」

 

 

 

 

 ぐうぅっ、力強いいぃ……!なんだ!?ハナコさんは実はムキムキなのか!?

 

「暴れても無駄です♡よわよわなイトちゃんでは私に勝てません♡」

 

「んーっ!!んんーーーーっ!!!」

 

 私は呼吸を封じられながらもみっともなく暴れる。そんな私を諭すように、ハナコさんの手が私を優しくなでた。

 

 

 

 

「……ブラックマーケットで、一人で戦い続けて、生きるか死ぬかの毎日で……ずーっと寂しかったんですよね?」

 

「……」

 

 私は抵抗をやめて、ハナコさんに寄り掛かった。すごく柔らかかった。

 

「だから……安心してお腹いっぱいご飯食べることが嬉しくて、それを離したくなくなっちゃったんですよね?でも、私の同情を誘おうと必死なイトちゃんの顔、とても辛そうでした。そんなことしなくてもいいのに……」

 

「……」

 

 図星だった。ハナコさんの背中に手を回し、力を込める。

 

「もう大丈夫ですよ。トリニティへの入学も、その後の暮らしも、私が保証します」

 

「……うぅ」

 

「だから、安心してください。私を頼ってください。難しいかもですが、トリニティを頼ってください。そして……もっと自分を大事にしてください」

 

 生まれてから今まで、誰かに寄りかかったことなんてなかった。こんなに安心する人の体温は初めてだった。

 

 ……寂しくない日はなかった。

 

 

 

 

「うわぁぁあああああん!!」

 

 

 

 

 私はそのまま、ハナコさんの胸で涙を流した。

 

 




「泣き止みましたか?」
「もうちょっと……」
「……あらあら♡」



トリカスゆるすまじ。

オリ主こと筆者の趣味ことイトちゃんのプロフィールです。
名前:糸巻イト
年齢:15歳
誕生日:不明
武器種:HG
身長:146 cm
見た目:耳がでかい。顔の長さと同じくらいある。髪の毛は腰くらいまであって、髪色は明るめなホワイトベージュ。尻尾もでかくてもふもふしている。フェネックというキツネの一種をイメージしてます(FOX小隊とは無関係です)。なぜならかわいいから。ヘイローは紫色のチューリップがモチーフです。はやくいじめたいですね。


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ティーパーティー

 初めてその子を見たときは、かわいそうな子だと思った。トリニティという場所を知らないがために迷い込んでしまった子猫。ここで弱者であることは見せしめの獲物になることを知らないのだ。

 

 その子を抱えて家まで運んだ時、その軽さに驚いた。もともと低身長な子ではあるが、それだけでは説明できないほど軽い。それだけでもこの子の闇が垣間見えた。

 

 その子を風呂に入れたとき、その身体に驚いた。良かれと思っての行動だったが、私のこの選択は間違いだったのだろう。この子が最も守りたいであろう秘密を暴いてしまった。

 

 全身に満遍なく刻まれた傷跡。そして何より、女性器周辺にある硬いイボ。

 

 

 

 

 ……間違いなく、梅毒の症状だった。

 

 

 

 

 幸いにも初期段階のため、抗生物質の投与で完治するだろう。しかし心の傷は一生癒えないことだってある。もともと深い闇の事情があるだろうとは思っていたが、これ程とは思わなかった。

 

 

 

 

 この子が目を覚まし、初めて私を認識した時に抱いたのは安堵でも恐怖でもない。私に対する感謝と罪悪感だった。私がトリニティで浮くことを憂いてのことだろうか?人の心を理解などできないが、この子が心の優しい子だということは伝わった。

 

 ……だからこそ、この子を傷つけた大人が許せなかった。

 

 

 

 

 リンチに遭うということがあって苦手意識があるのではと思い渋っていたが、彼女が望むなら私は彼女のトリニティへの入学に協力するつもりだった。「シスターフッド」あたりと交渉すればどうとでもなるだろう。

 

 ご飯を食べ終わった後、「イト」と名乗ったその少女は自分の過去を語った。ブラックマーケットで生まれ育ったこと、そこで貧困に喘いでいること、学校に通ったことがないこと……。この後、私からトリニティ入学の協力を取り付けようとしていることはすぐに分かった。しかし彼女は、「それ」について終ぞ語らなかった。それが私の間違いを裏付けていて、辛かった。

 

 ……ただ、それよりも辛そうなのはイトちゃんの方だった。私は最初、それがなぜかわからなかった。同情を誘うという行為が後ろめたかったのだろうか?それとも……

 

 そしてイトちゃんは私に、トリニティ入学を手伝ってほしいと言ってきた。すぐに了承しても良かったが、浮かんだ一つの疑念を確かめるために、鎌をかけることにした。

 

 結果は当たりだった。イトちゃんは自らを「最低な人間」と言った。この自虐は、恐らく我儘を言ったことに対してだけじゃない。

 

 

 

 

 ……私がそれを嫌うと知っていながら、私を利用しようとしたことに対する自罰。

 

 

 

 

 ……イトちゃんが持っていた情報は、トリニティの雰囲気と、私の人柄、それと私がスクール水着で徘徊していることくらいだ。

 

 私は素直に感心してしまった。こんな僅かな情報で、この短時間で、ティーパーティーの現ホストでさえ到達できなかった真相にたどり着いた。

 

 

 

 

 ……守らねばなるまい、あの毒蛇の巣窟から。この子を私のようにさせないために。

 

 

 

 

 私は、私の胸の中で眠ってしまったイトちゃんを抱きしめながらそう誓った。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ええ、ですから……」

 

「イトちゃんには、ティーパーティー傘下に入ってほしいの☆」

 

「そういうことだ」

 

「あうぅ……」

 

 月日は流れ、桜のつぼみが花開き、温かい日差しが降りそそぐ始まりの季節。私は、ハナコ先輩の協力で晴れてトリニティへの入学を果たした。あれから入学までの間の衣食住や勉強はすべてハナコ先輩が請け負ってくれた。

 ちなみに制服はハナコ先輩のおさがりなのでぶかぶかである。私だって、ちゃんと食べて栄養を取っていればあれくらいなダイナマイトボディに育っていたのだが、環境のせいでこんな小さな身体に収まってしまった。発育とは残酷なものである。ハナコ先輩に力負けするたびにこの人は結構鍛えているのかと思ったが、実際は私が弱いだけだった。今は口径の小さいハンドガンを持っているが、これは単にそれ以上の反動の銃を扱えなかったためだ。

 

 受験勉強に余裕ができてからは、ハナコ先輩に言いくるめられた、「古書館の魔術師」こと古関ウイ先輩の協力で、トリニティひいてはキヴォトスの仕組みや歴史に詳しくなった。あそこの蔵書はすごい。読んでいるだけでまるで過去の人々と会話しているような、そんな気分になる。

 

 そうして入学試験を終え、最初に待ち受けたのは入学式。これは滞りなく終わった。強いて言うならば、隣の席になった伊落マリーちゃんと仲良くなったことくらいだろうか。初対面で私が「大きな耳だね!」などと失礼な発言をかましても聖母のような微笑みで「はい、お揃いです!」と返してくれた。そうかそうか、マリーちゃんは私のことが好きなんだな。運命の出会いを果たしたようだ。

 

 しかしその放課後、事件は起こった。「ティーパーティーがあなたに話があるそうですよ」と話しかけてきたのは、純白の制服に身を包んだ生徒だった。あの時の苦い記憶が蘇ったが、どうやら私を撃った生徒とは別人なようで一安心した。

 

 ちなみに私はあの時撃たれたことに関して、自己責任だと考えている。あれは私がトリニティという場所を理解していなかったが故の事故だ。責任の一切は情報を持たなかった私にある。このことをハナコ先輩に話したときは微妙な顔をされてしまったが。

 

 そして、話は現在に至る。トリニティを見渡す巨大なバルコニーに置かれた大きな机を、私含め四人で囲んでいる。はっきり言ってクソ緊張するのである。

 

「えっと…なぜ私なのでしょうか?」

 

「それは、君が最も理解しているのではないか?」

 

 ティーパーティーの「サンクトゥス分派」代表、百合園セイア様が口を開いた。大きな耳に、黄金の髪や小柄な体を持つ。この方に「大きな耳だね!」と言って「ああ、お揃いだな」などと返してくれるかは怪しいところである。

 

「糸巻イトさん、あなたの入学試験「主席」合格、それも全科目満点という素晴らしい能力を、是非トリニティの、ひいてはキヴォトスのために役立てていただきたく、ティーパーティー傘下へ勧誘させていただきました」

 

 そう話したのは同じく「フィリウス分派」代表、そして現ホストの桐藤ナギサ様。ブロンドの髪を腰まで伸ばしたそのお方は今も片手にティーカップを持っている。「ナギサ様は紅茶中毒だ」などといううわさ話を小耳にはさんだことがあるが、あながち間違いではないのかもしれない。

 

 しかし……やはりか。さすがはトリニティの生徒会、ティーパーティーである。行動が早い。

 

「うわー、セイアちゃんもナギちゃんもかたーい☆本当は他の組織に取られたくないだけでしょー?イトちゃんもこんなのに巻き込まれて災難だね」

 

 そう言って笑うのは「パテル分派」代表、聖園ミカ様。桃色の髪をサイドでお団子にまとめた、笑顔の似合うお嬢様といった感じである。なぜか「ミカ様はゴリラである」といううわさ話が流れていたがとんでもない。めちゃめちゃ華奢で、かわいい人である。

 

「ミカさん……」

 

「ミカ……全く、君という奴は……」

 

「え?でも本当のことでしょ?」

 

 ミカ様の傍若無人な立ち振る舞いに、ナギサ様とセイア様が頭を抱えた。なるほど、ハナコ先輩の言っていた「ミカさんは政治に向かない」というのは本当のようだ。同じトリニティ生相手であるとはいえ、そのトップとあろうものが他者に礼節を欠いた立ち振る舞いを見せるべきではない。だが私としてはこれくらい砕けた対応をされる方が親しみやすい。

 

「……否定はしません」

 

 額に青筋を浮かべたナギサ様が、しかし冷静な声色でそう言った。

 

「……イトさん、あなたに隠し事をしても無駄でしょう。見抜かれてしまうでしょうから。ここからは本音で語らせていただきます」

 

 

 

 

 …………本音……ね。

 

 

 

 

「すでにご存じでしょうが、ここトリニティは、その成り立ちと同じように、大小様々な組織を有しています」

 

 ナギサ様はティーカップを持ち上げ、中の紅茶を口に含む。

 

「代表的な例でいえば……シスターフッド、救護騎士団、正義実現委員会、そして……ティーパーティー」

 

「あ、ナギちゃん、そのマカロンいらないの?食べていい?」

 

 ミカ様がナギサ様の返事を聞かずに、ナギサ様のマカロンを頬張る。ナギサ様の顔の影がより深まった気がした。

 

「…………これらの組織は互いに協力し合い、トリニティの自治を務めています。ですが同時に互いに監視し、牽制し合って組織の暴走を抑える役割も果たしています」

 

「イトちゃんもお菓子食べる?セイアちゃんの分ならいくらでも取っていいから!あ、もしかして甘いもの苦手?」

 

「……はぁ、ミカ……」

 

 セイア様はすべてを諦めたようにため息をついた。耳を倒している。ちょっとかわいい。

 

「………………しかし、実際にトリニティ自治区の管理、つまり「生徒会」の役割を担っているのはティーパーティー。その権威は確実なものでなくては———」

 

「ナギちゃんケーキ食べる?はい、あーん」

 

 ミカ様がナギサ様のほっぺたにケーキのホイップクリームを付けようとしていたその時だった。

 

 

 

 

「ああもう五月蠅いですね!?」

 

 

 

 

「ひぇっ……」

 

 

 

 

「今、私が説明をしているんですよ!?」

 

 

 

 

「それなのにさっきからずっと!」

 

 

 

 

「横でぶつぶつぶつぶつと……!」

 

 

 

 

「どうしても黙れないのでしたら、その小さな口に……」

 

 

 

 

「ロールケーキをぶち込みますよっ!?」

 

 

 

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「…………あー、すまない、イト。ミカはともかく、ナギサに悪気はないんだ」

 

「……あら。……私ったら、何という言葉遣いを……失礼しました」

 

「いやー、怖い怖い……」

 

 ……めっちゃこわい。ナギサ様こわいよ……。

 

「……見ろ、ミカ。君のせいでイトが震えてしまっているじゃないか!」

 

「ええっ!?これって私のせいなの!?」

 

「ナギサのせいでないのは確かだ」

 

 ミカ様はこっちを向き、何か釈然としない様子で言葉をつづけた。

 

「あのー、なんかごめんね?」

 

「私からも、ごめんなさい。あなたを怖がらせようとしたわけではなくて……」

 

「私からも……その、すまない」

 

 なぜか私が謝られてしまった。

 

「い、いえ!お気になさらず!セイア様なんて特に何も悪くないですし……」

 

 他の二人はともかく、セイア様に関してはマジの無罪である。それにちょっとびっくりしただけで、別に震えてなんかないのだ。

 

 

 

 

「……ともかく、話を戻します。つまりティーパーティーの権威の維持のため、あなたほど優秀な方を他の組織に奪われるわけにはいかない……というのが本音です」

 

 ナギサ様は姿勢を正し、厳格な声色で口を開いた。弛んでいた空気が一瞬で元に戻る。

 

 

 

 

 ……なるほどな。……ティーパーティー。まさにイメージ通りの組織だ。

 

 ナギサ様は「本音」などと言っているがとんでもない、ここまでが建前だろう。

 

 私の入学に際し、履歴書の捏造に協力してくれたのはシスターフッドである。この組織は徹底的な秘密主義であり、その全貌はティーパーティーにすら把握しきれていないのだと聞いた。

 

 ……しかし、私の経歴は異質すぎる。どれだけうまく偽造しても、違和感は残る。ティーパーティーはその違和感を見落とさなかったのだろう。さすが、といったところである。

 

 さっきナギサ様が自ら言ったように、シスターフッドとティーパーティーは牽制し合う間柄である。そして、そんなシスターフッドが入学させた生徒が主席入学、入試全科目満点と来た。探りを入れたくなる気持ちは痛いほどわかる。

 

 

 

 

 ……しかしここまで強引とは思わなかったな。

 

 ただ勧誘したいだけならば一通の手紙で済む。わざわざホストが勢ぞろいで私を出迎える必要などない。ならばそうする意味は……。

 

 

 

 

 これはある種の警告なのだろう。ティーパーティーが言いたいことはつまり、「ここで断ればお前の経歴を徹底的に調べ上げるがいいか?」ということである。私からすれば、恩のあるシスターフッドを、ひいてはハナコ先輩を人質に取られているようなものだ。

 

 それに、私は救護騎士団にて……その……「ブラックマーケットの後遺症」とでも言うべき「それ」の治療をしてもらった記録がある。そこからティーパーティーが私の過去にたどり着く可能性は十分にある。そこでの犯罪行為を知られれば、せっかくの学園生活が退学になる可能性すらあった。

 

 

 

 

「……わかりました」

 

 

 

 

 ……こうなることは予想できていた。この時の決断を私はすでに決めている。ハナコ先輩には最後まで反対されてしまったが。

 

「……私の力がお役に立てるのでしたら、光栄です。是非、ティーパーティーの下で働かせてください」

 

「……ありがとうございます、イトさん。あなたのご活躍を楽しみにしております」

 

 ナギサ様はずっと手に持っていたティーカップを机に置いた。

 

「……さて、話はこれで以上になります。イトさん、本日は突然お呼び立てして申し訳ありませんでした」

 

「いいえ、お気になさらず。それでは、失礼いたします」

 

 私は席を立ち、扉へ向かって歩いた。

 

「ありがとう、イト。君とはまた話がしたい」

 

 後ろからかかったセイア様の声に振り向き、私は微笑み返す。

 

「はい、是非」

 

 



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五つ目の古則

 

 窓から太陽の光が差し込む早朝。ハナコ先輩の家改め私と私の女の家で、純白の制服に袖を通すのは、ホームレス改めティーパーティー所属の糸巻イトである。先輩のおさがり制服をティーパーティー用に改造してもらった。なお、ハナコ先輩の強い希望で制服の丈はそのまま、ぶかぶかである。

 

「……よく、似合っていますよ」

 

 ……最近のハナコ先輩は、なんだかずっと落ち込んでいるような気がする。

 

 ハナコ先輩は基本的に私の意見を尊重してくれる。だから私は、そこに付け込んでティーパーティーへの所属を強行した。実を言えば、ハナコ先輩はティーパーティーをも黙らせる切り札をいくつも持っているので、たとえ彼女らが私の過去を調べ上げようとも対して問題にはならなかったのだ。

 

 ではなぜ私はティーパーティーに入ったのか。

 

 

 

 

 ……ハナコ先輩が、政治に関わらないでほしいと思ったから。トリニティ所属を手伝えと言っておきながらどの面下げてって感じだが、私がティーパーティーに所属して済むならそれでいいと思ったのだ。何がハナコ先輩にとって最善かはわからないけれど。

 

「えへへ。ありがとうございます」

 

「……」

 

 ……うーん、ハナコ先輩の顔が晴れない。ずっと眉が八の字を書いている。そんな先輩も非常にびっぐらぶなのだが、やっぱりハナコ先輩には笑顔が似合うかな。

 

 

 

 

「……っ!イトちゃん……?」

 

 だから私は、私が今までにされて一番嬉しかったことをする。

 

 

 

 

 ……すなわち、ハグである。

 

「……充電です。今日一日がんばるための」

 

「……っ」

 

 ハナコ先輩は黙ったまま動かない。我が意を得たりと、私は先輩の胸に耳を当てた。

 

 

 

 

「…………ドクンドクンってしてる……えへへ、心臓の鼓動、結構速めなんですね?」

 

 私は先輩を煽るようにジト目で見上げた。いまだに先輩は動かない。ふっ、照れていらっしゃるのですか?お可愛いこと……。

 

 ……うん、もう充電はばっちりかな。私は先輩から手を放す。

 

 ……その場に沈黙が流れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………今更だけどなんか恥ずかしくなってきたな……。思わずじっとりとした汗をかいてしまう。

 

 ……あれ、ハナコ先輩なんでそんな、無言でこっち来て……。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……イトちゃん?どうしてイトちゃんが赤くなっているんですか♡」

 

「えっ、あっ」

 

 私は自分の頬を慌てて触る。

 

「……私のこと煽るだけ煽って、自分だけ逃げるなんて許されませんよ♡」

 

「ご、ごめんなさ———」

 

「ふふ……♡急に抱き着くなんて……イトちゃん、それって———」

 

 

 

 

 

 

 

 

「———私に何をされてもいいということですよね……♡」

 

「……ぁ」

 

 壁に追い詰められた私は、耳元にかかる先輩の吐息に腰を抜かし、その場にへたり込んだ。

 

 

 

 

「………………やさしくお願いします」

 

 

 

 

 そう言うと、頭上のハナコ先輩がニッコリと笑った。

 

「ふふふ……♡そうしたいのは山々なのですが……そろそろ時間が迫っているのでは?」

 

「……えっ、あっ……あっ!!」

 

 まずい、呆けている場合じゃない。急いで鞄を持ち、靴を履き、ドアノブに手をかけた。

 

「それじゃ、行ってきます!」

 

「はい、お仕事、頑張ってくださいね♡」

 

 私は体の熱をそのままに、トリニティへと向かった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 さて、記念すべきティーパーティー初仕事。私は気合を込めて仕事場へと向かった。まあ、ティーパーティーの仕事といっても下っ端のやることなんて書類作業くらいなもので、別に難しいことはない。むしろ暇な生徒たちは集まって談笑しているくらいだ。

 

 

 

 

 ……そう、暇な生徒たちは。

 

 

 

 

「えーっと、糸巻さん、でしたっけ?こちら、追加の書類です。よろしくお願いしますね?」

 

「また……ですか……」

 

「……何か?」

 

「…………いいえ」

 

 ……まぁ、こういうことである。このお嬢様方、私が来る前はどうしていたのかと思うほど、全く仕事をしないのだ。私の机にはどっさりと積みあがった書類の山。他の机には飲みかけのティーカップとお菓子の山。この仕事は本来五人でやるものなんだけどなぁ?おかしいなぁ?

 

 でも断ればよくね?と思うかもしれない。しかしこのお嬢様方、私が歯向かうとなんと銃を向けてくるのだ。誇張なしにヤクザである。ヘイローを持っていて、銃弾程度では死なないのにそんなのにびびってしまう私も私なのだが、このお嬢様方の頭バイオレンス加減には度肝を抜かれる。

 

 まあ、単調な作業でストレスを溜めたお嬢様の前にちょうど良い弱者を置いたら、捌け口にしたくなるのが人間の性なのだろう。……そんな人間はこれまでに何人も見てきた。

 

「……ふぅ」

 

 しかし、ハナコ先輩の反対を押し切ってまでティーパーティーに入ったのだ。これくらいでへこたれるわけにはいかないだろう。イトちゃん、ちょっと本気出しちゃうぞ。

 

 

 

 

「……では、私は先に上がらせていただきますね」

 

 私は席を立ち、楽しそうに話すお嬢様方に声をかけた。

 

「はぁ?仕事を放棄するおつもりですか!?」

 

 彼女らの内の一人が声を張り上げる。ずいぶんと自分を棚に上げるじゃないか。お菓子とお紅茶を嗜みながら雑談とか、まさしく「ティーパーティー」しやがって。

 

「仕事なら既に終えています。それでは」

 

 しかし本気を出した私にかかれば、本来の五倍の仕事量であろうとも余裕なのだ。

 

「なっ……!そんなはずは……」

 

「ふっ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 お顔真っ赤でくそわろたですわー!あなた方の嫌がらせなど、このハイスペイトちゃんにかかれば無害なんだ!わかったかばーーーーか!!!!

 

 ……なーんて言いたくなってしまうな。

 

「ぐぬぬ……」

 

 下唇を噛むお嬢様方を勝ち誇った笑顔で見下す。実際には身長のせいで見下せていないのだが、そんなの関係ない。要は心の持ちよう。気持ちいいものは気持ちいいのだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 お嬢様方との激闘を終え、私は満面の笑みでトリニティを闊歩する。いいや最高の気分だね。お嬢様負かすのはね……。まああの人たちは結局仕事をしてないわけだから私の一人負けかもしれないが、そんなのはいいのだ。今日は仕事を頑張ったしな。達成感が何よりものご褒美である。

 

 いや、にやにやを抑えないと。こんな顔でいたら単純にやばいやつだし、何よりこのままであのお方に会うわけにはいかない。

 

「よし」

 

 私はほっぺたを叩き、気合を入れて目の前の大きな扉をノックする。

 

 

 

 

「……セイア様、糸巻です」

 

「入ってくれ」

 

 扉の向こうから落ち着いた声が聞こえた。私は息を吐き、扉を開ける。

 

「失礼いたします」

 

「ああ。急に呼び出してすまない、イト。掛けてくれ」

 

 私が呼び出されたのは、ハナコ先輩を介して知ったセイア様の秘密の部屋である。広い部屋、高級な家具、全体的に高貴な印象な部屋。そしてそれに見合わない、扉や窓にかかる鉄格子。そして椅子にちょこんと座るセイア様。かわいい。

 

 私が書類仕事ごときに全力でかかった理由。それはこの予定が入っていたためだ。というのも……ティーパーティーのホスト、サンクトゥス分派代表、百合園セイア様。このお方との対談である。

 

「さて、早速だが」

 

 セイア様が鋭い目つきで私を見抜く。本当に早速である。アイスブレイクがほしい。かなり緊張しているからもうちょっとほぐれてからにしたいよセイア様……。

 

 

 

 

「……キヴォトスの、「七つの古則」、その五つ目。君は識っているか?」

 

「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか……?」

 

「ああ。今日来てもらったのは君の意見を聞きたかったからだ」

 

 

 

 

 私の……?なぜ……?

 

 

 

 

「君は……この問いに、どう答える?」

 

 

 

 

 ……第五の古則。それは「楽園の存在証明に対するパラドックス」。まず「楽園」を「真の悦楽を得られる場所」と定義する。そこに辿り着いた者は、そこが「楽園」である故に楽園の外で観測することはできない。もし観測できたとするならば、そこは「楽園」ではなかったということになる。つまり、この古則自体は「不可解な問い」なのだ。

 

 ……しかし、わざわざ呼び出してまで私にそんなことを聞くとは。こういうのはハナコ先輩の得意分野なのに、私なんかに聞くなんて。私のことを過大評価しているのか?猫の手も借りたいのか?切羽詰まっているのか?

 

 ……ん?切羽詰まっている……?

 

 

 

 

 私はその時、ふと浮かんだ仮説に息を飲んだ。

 

 

 

 

 もし、本当に切羽詰まっているのだとしたら……。そんなタイミングで、よりにもよって「楽園」に関する古則……。

 

 

 

 

 ……連邦生徒会長の失踪により実際に執り行われることが叶わなかった……「エデン条約」が動き出すのか……?

 

 

 

 

 そして、今のセイア様から感じる、楽園の証明に対する諦観。もしそれが、セイア様の「未来視」から来るものなのだとしたら……。もしかして、楽園を名に冠するその条約は……。

 

 

 

 

 エデン条約は……崩壊するのか……?

 

 

 

 

「私には……わかりません……」

 

 声が震える。もしもエデン条約が崩壊するのであれば、その結果トリニティと同等の規模を持つゲヘナの間に埋まることのない溝ができてしまうのであれば、それはキヴォトス崩壊の種とすらなり得る。それほどまでに重大な問題。

 

 ……つまり、セイア様が聞いているのは……

 

 

 

 

 君なら「エデン条約」を、どのように為す?

 

 

 

 

「そ、そんなの……私には、無理です……」

 

 私は細く、震えた声を出す。セイア様ですら、ひいては「未来視」持ちですら解決できない問題を、ハナコ先輩でもない私が分かるはずもない。

 

 

 

 

「……君は本当に聡いな。だが、どの様な物でも構わない。君の意見を聞かせてほしいのだよ、イト」

 

「私は……」

 

 セイア様は、どれだけ荒唐無稽でも、どれだけ脈絡のない乱雑な思考でもいいと言ってくれた。ならば私は、自分の意見を思うままに話すことにする。

 

 

 

 

「……私、楽園はすでに誰もが知っているものなんじゃないかと思うんです」

 

 

 

 

 ……ただ、虚しい。そんな理想論を。

 

 

 

 

「……ほう」

 

「本当に大事なのは楽園の存在を証明することじゃなくて、楽園があることに気付けるかってことなんじゃないかなって……」

 

 

 

 

「……なるほど。それが君の考えか……」

 

 そして、セイア様は冷たく言い放つ。

 

 

 

 

「では、この世にそもそも楽園が存在しないとしたら? この世の悉くが虚しいものだとしたら? 君も聞いたことはあるだろう? vanitas vanitatum, et omnia vanitas……」

 

 古代の言葉、全ては虚しいものである(vanitas vanitatum)

 

 

 

 

 ……私の、大嫌いな言葉。

 

 

 

 

「そこはもう、信じるしかないかなって……。身も蓋もない答えで申し訳ないです……」

 

「……!」

 

 セイア様は目を見開く。そして、目を伏せた。

 

「……そうか。君は…………いや……」

 

 

 

 

 ……すまない。と、言った気がした。

 

 

 

 

「……話は、以上だ。時間を取ってしまってすまない。ありがとう、イト」

 

「……あ、いえ!では、私はこれで」

 

 私は席を立つ。喉奥に何かが引っ掛かっているような感覚を覚えながら。

 

「それと、最後にもう一つだけいいか?」

 

 そしてセイア様は、苦虫を噛み潰したような顔でこう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ミカを、頼む」

 

 




 前半のハナコのシーン、書いててえぐい楽しかった……。


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ミカゼミ


 ミカミカミカミカミカ……


 毎日投稿頑張るぞ!って思ってたら全然無理でした。

 


 

 セイアちゃんが、死んだ……?

 

 ……何で?どうして?

 

 何がどうなって、え、何でそんなことに……?

 

 どうして?バカなの?だって、私は……

 

 あれ、私……

 

 私、どうしてセイアちゃんを襲撃してって指示したんだっけ……?

 

 セイアちゃんがいなくなったら、私……

 

 

 

 

 

 

 

 未だ太陽の上らない明け方。救護騎士団の団長、蒼森ミネから告げられた「百合園セイアの死」は、ティーパーティー内を瞬く間に駆け抜けた。ティーパーティーは情報の隠蔽工作や犯人捜しで忙しく、建物全体が随分と忙しない。至る所で話し声や足音が聞こえ、酷く嫌気がさす。

 

「ミカ様、いらっしゃいますか?」

 

 私は、そんな喧騒から逃れるために人気のない建物に逃げ隠れていた。薄暗くて閑散とした部屋に、ノックの音が響く。陰鬱な心を揺さぶるその音に苛立ちを覚えた。

 

「……何?……誰?」

 

 扉を隔てた先に、細くて弱々しくて、消え入るような声をかけた。

 

「申し遅れました、糸巻イトです」

 

 イト……?糸巻……。えっと、確か……

 

「浦和ハナコの……?」

 

 糸巻イト。確か、今年の主席の一年生だったっけ。「ハナコさんとシスターフッドの思惑かもしれない」とか言って、ナギちゃんがやけに警戒してた子。そんなわけないのに、おかしいね?相変わらずおバカさんなんだから。

 

「……何の用?」

 

「お話があります。お時間よろしいでしょうか?」

 

 

 

 

 ……うるさい。なんなの?なんで今なの?ほっといてよ。

 

「……今は一人にして」

 

 私は冷たく言い放つ。今は何も聞きたくない。誰とも話したくない。今は、一人がいい。

 

 

 

 

「ごめんなさい、できません」

 

 しかし私の思いとは反対に、扉の向こうから、落ち込みつつも意志のこもった声が聞こえる。今はそんな声、聞きたくない。

 

 しかしその声は言葉を続ける。真っ直ぐで、精悍で、慈愛に満ちた声で。

 

「ミカ様、私はあなたの味方です。何があろうとも味方です。……その、急に何言ってんだって感じですけど……」

 

 

 

 

「……は?」

 

 意味が分からない。本当に何言ってんの?私はあなたのことなんて、興味もないんだけど?味方?面白いこと言うね。それが何を意味するか、分かってないでしょ?

 

「……あなた、私の何なの?私の何を知ってるの?あはは☆本当に意味わからない!」

 

 この子の何かが癇に障ったのだろう。堰を切ったように言葉が止まらない。

 

「何を思い上がってるの?あなたに何ができるの?味方って、何をしてくれるの?」

 

「それは……でも、味方はいるってこと、知っていてほしくて……」

 

 まだ言い続けるんだ?味方、味方って……。何のつもり?私の味方なんていない。私の味方なんていちゃいけないのに。あんなことを…取り返しのつかないことをしちゃったから。

 

 

 

 

 ……セイアちゃんを殺しちゃった時点で、私は許されちゃいけないの。

 

 

 

 

「……うるさいなぁ」

 

 私は席を立ち、扉を思いきり押し開ける。

 

「うげっ」

 

 扉の前に立っていたせいだろう。扉の勢いに負けたのか、イトちゃんは鼻血を流しながら廊下の端まで転がっていた。

 私はそんな彼女の襟をつかみ、持ち上げながら廊下の壁に押し当てる。

 

「がっ…はっ———」

 

 足が地面につかないその子は、鼻血に塗れた顔を更に苦痛で歪める。しかし私は思うままに、激情をぶちまける。

 

「あはは☆こんな時に、ふざけないでよ。一人にしてって言ったよね?あなたのことなんて興味もないんだけど?部外者が分かったような口きかないでよ!……わかったら早く消えてくれない?」

 

「かっ…ぁっ……」

 

「……それとも何?あなたがいれば———」

 

 

 

 

 

 

 

 

「セイアちゃんは生き返るの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その場に沈黙が流れる。こんなものは八つ当たりだ。私の癇癪で、我儘だ。この子は何も悪くない。分かってる。分かってるけど、止まらない。

 

「あなたにそれができるの?あはっ☆無理だよね?無理なんでしょ?」

 

 もう何もわからない。私が何を言ってるのかも、私がなんで泣いてるのかも。しかし私は、頬を伝う涙をそのままに、非力で無抵抗なその子へ乱暴に捲し立てる。

 

「あははっ☆そうだよね!だって死んじゃったんだもん!死んじゃった人が蘇るわけないんだもん!もうセイアちゃんは……戻って……来ないんだもん……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 私、何言ってんだろ。あー、最悪。だめだな、私。セイアちゃんを殺して、何の罪もない子に八つ当たりして、みっともなく泣いて。私、なに泣いてんだろ。慈悲を請うつもりなのかな?あはは、私にそんな権利無いのにね。

 

「ミカ……様……」

 

 しかしその手は、白くて小さくて細くて———まるでセイアちゃんみたいなその手は、慈愛に満ちた聖女のように私の頬へと優しく伸びる。

 

「私は……味方……です、から……」

 

 私はその手を振り払うように、イトちゃんの襟元から手を離した。

 

 

 

 

「ひゅっ……けほっ……はぁっ……はぁっ……」

 

 

 

 

「……ねぇ、なんで?」

 

 地面に座り込んだイトちゃんは涙目になりながら、苦しそうに肩で息をしていた。しかし私は言葉を続ける。

 

「なんで、そんなことを言うの……?なんでまだそんなことが言えるの……?私、今あなたを傷つけたんだよ……?」

 

 イトちゃんがふらふらになりながらも、壁伝いに立ち上がる。しかし私の言葉は止まらない。

 

「それに、私がどんな人か知ってるの?セイアちゃんによく言われたの。バカで、考え無しで、能天気な愚か者だって。あはは……ひどいよね、そんなに言わなくてもよくない?この前だって、セイアちゃん私のことすごい目で睨んできて———」

 

 

 

 

 ……何言ってんだろ私。

 

 

 

 

 

 イトちゃんの腕が伸び、顔が近づく。

 

「イトちゃん、もう私に関わらない方がいいよ?私に味方することの意味わかってるの?それってつまり……トリニティを———」

 

 ———裏切るってことなんだけど?

 

 

 

 

 

 

 

 ……しかし言葉は続かなかった。イトちゃんが私を抱きしめた。イトちゃんの腕に力がこもる。

 

「……ミカ様。私は、ここにきて短いけど……ハナコさんとかシスターフッドとか……みんなが、トリニティが、大好きです。だから、それは、その……ごめんなさい」

 

 

 

 

 ……なんだ、やっぱりそうなんじゃん。

 

 

 

 

「だけど!!」

 

 

 

 

 あんなにもおとなしかったイトちゃんが一際大きな声を張り上げる。その音に私の肩がはねた。

 

「……セイア様と、約束しました」

 

 その言葉に、その名前に目を見開く。目を背けずにはいられない、これからも一生背負っていくことになる、私の罪。

 

「セイアちゃんと……?」

 

「……はい。ミカ様を守ってくれって」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なにそれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 なにそれ?おかしいよ。セイアちゃん、未来が見えていたんでしょ?あはは!意味わかんない!自分を殺そうとしてる相手に、まだそんなこと思ってたの?私に散々甘いって言ってたのに、セイアちゃんも大概だね?

 

 

 

 

 ……………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

「………ごめん」

 

 

 

 

 それは、声になったのかもわからない声。

 

 

 

 

「セイアちゃん……ごめんね……。私のせいで……私がバカなせいで……セイアちゃん……しんじゃった……。ごめん……本当にごめんね……」

 

 

 

 

 未だに整理のつかない、感情の吐露。私の涙がイトちゃんの制服を濡らす。この子が聞いてるとか、そんなの頭にもなかった。

 

 

 

 

 最初はただ、仲良くなりたいだけだった。トリニティと長年疎遠だった「アリウス分校」。もとは同じトリニティの仲間なんだから、仲良くすればいいじゃん。……それくらいのきっかけだった。

 

 ……そのはずだったのに。

 

 

 

 

「……ミカ様」

 

 イトちゃんの腕に、ぐっと力がこもる。

 

「……私、トリニティに来て間もないですし、力も強くありません。だから……ミカ様を守ることは、難しいかもしれません。……でも、寄り添うことはできます」

 

 イトちゃんの顔が離れ、真っ直ぐに目線が合う。

 

「辛かったり、苦しかったり、逃げたくなったりするかもしれません。一人でいるのは、すっごく辛いですから……。でも、そんなときは私に話して、私に寄りかかって……私を、頼ってください」

 

 イトちゃんは、「頼りないかもしれませんが……」と付け足して、くしゃりと笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……その優しさが、とても温かい。

 

 

 

 

「うぅっ……イトちゃんっ…鼻…ごめんね……。首、絞めてっ……ごめんね……。いっぱい、ひどいこといって…ごめんね……!」

 

 私は嗚咽まじりに謝罪をこぼした。イトちゃんの顔が再び近づく。

 

「いいんですよ。私は、味方ですから」

 

 

 

 ***

 

 

 

 ……そうか、イト。

 

 君は、寄り添うことを選んだんだね。

 

 どこまでも甘く、幸せな……しかし虚しい、愚かな理想論だ。

 

 それが、君の言う「楽園」かい?

 

 ……確かに、君はミカの心の拠り所になれたかもしれない。

 

 しかしそれは、同時に聖園ミカを脆くする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……やはり、「楽園」なんて存在しないんだよ、イト。

 





 なんかシリアスおおい……これじゃタイトル詐欺だよ……

 もっとギャグっぽいのも書きたい……


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ミカショッピング①


 一話で書こうとしたら長くなりすぎたので分けました


 

「あ、イトちゃーん!」

 

 時刻は朝10時頃。燦燦と輝く太陽に照らされながら、私は駅前に立っていた。かなり人も多くて、デカくて聴力に優れた私のちょーゆーしゅーな耳にはまあまあな音量が響く。全く、駅前とは大変にぎやかなところで結構なことである。

 

「こんにちは、ミカ様」

 

 なぜこんな場所に立っているのかというと、何を隠そうミカ様との約束のためだ。え?なんの約束かって?もちろん遊ぶ約束である。

 

 ……いや、びっくりするのもわかるが私が一番びっくりしている。だって普通に考えておかしくない?私、ちょっと前までホームレスだよ?

 

 しかし、誘ってくれたのはミカ様の方からだ。あの一件以降、話しかけられることが多くなった。恐れ多くも一緒にお昼食べたり、お茶会に参加させてもらったりと、かなり関わらせてもらっている。

 

 ……少し前までミカ様が笑うことは少なかったけれど、最近はよく笑ってくれるようになった。私も少しくらい役に立てたならいいんだけど。

 

 

 

 

 ……多分、セイア様は生きているだろう。セイア様の死と同時に救護騎士団のミネ様が行方をくらませた件、無関係ではないはず。あれからしばらくたった今でさえ行方が分からないのだから、セイア様の徹底した保護がなされているのではないかと思う。……確証はないけれど。

 しかしセイア様の襲撃は実際にあったわけで、ミカ様がそれに一枚噛んでいることは確かだ。その証拠に、ミカ様はあの時こう言っていた。

 

『セイアちゃん……ごめんね……。私のせいで……私がバカなせいで……セイアちゃん……しんじゃった……。ごめん……本当にごめんね……』

 

 ……ミカ様は利用されたんじゃないかと思う。実際にセイア様を襲撃したのはミカ様じゃないはずだし、実働部隊があったはず。そことミカ様は協力していたんだろう。そこで意見の食い違いがあったのか、はなからミカ様は利用されていたのかはわからないが。

 

 ……実働部隊の正体はまだわからない。わかることと言えば、明確にトリニティへの敵対意志があるってことくらい。真っ先に思い浮かぶのはゲヘナだけど、ミカ様はゲヘナが嫌いなはずで、協力するとは考えにくい。あとは突飛な発想だけど、トリニティ、ゲヘナに次ぐマンモス校「ミレニアム」がキヴォトスを支配しようと躍起になっているのか?

 

 あるいは……アリウスだろうか。でもここの実態がよくわからなさ過ぎて、そんな実働部隊が用意できるのか疑わしい。

 

 あと参考になるのはミカ様の動機だけど……それを推察するには、私はこの人を知らなさすぎる。

 

 だから、正直言ってミカ様が私に興味を持ってくれているっぽいのはありがたくもあった。如何せん情報が足りなさすぎる。しかしそれはそれとして、もちろん普通に嬉しくもある。

 

 

 

 

 ……しかし、さっきからミカ様の顔がしかめっ面だ。

 

「……イトちゃん、その恰好なに?」

 

「え、制服ですが……」

 

「私服は?」

 

「多少は持ってますけど……ミカ様とお会いするのには無礼かなって……」

 

「……」

 

 突如としてミカ様が黙る。ミカ様はトリニティでも有数の権力者なのだから、粗相のないように心がけるのは当然である。ちなみにミカ様は、白のタートルネックニットに、黒のVネックロングワンピースを着て、靴は底が厚い黒のブーツを履いてる。腕にはいつものシュシュをつけていて、首からはキラキラのネックレスを下げている。なんか大人っぽくてちょうかわいい。

 

 ……しかしミカ様はずっと動かない。

 

「えっと…ミカ様の服かわいいですね!」

 

「……」

 

 ミカ様は黙ったままだ。な、なんか気まずい……?

 

「あの……ミカ様……?」

 

「……」

 

「えっと……ミカ様?私、何か失礼を……?」

 

 

 

 

「イトちゃん!」

 

「は、はい!」

 

 突然のミカ様の大きな声に背筋が伸びる。

 

「その!呼び方!ミカ様ってやつ!やめない!?」

 

「ええ!?」

 

 ……わーお。

 

「では、何とお呼びすれば……」

 

「呼び捨てでも、”ちゃん”付けでも、なんでもいいよ!でも”様”はいや!」

 

「……ミカ殿?」

 

「なんでそうなるの!」

 

 この人表情がころころ変わるな。かわいい。

 

「えへへ、嘘です。じゃあ、行きましょうか、ミカちゃん?」

 

「……!うん!」

 

 ミカ様———改めミカちゃんがにっこりと笑う。ミカちゃんはいろんな表情を見せるけど、やっぱり笑顔が一番かわいい。

 

 

 

 

 ……しかし、ミカちゃんか。余裕ぶって揶揄ってみたけど、何ともこう……浮き足立つような、そんな気分だ。

 

「イトちゃん!早くっ、いこ!」

 

「わっ」

 

 ミカちゃんが私の腕をつかんで走る……って、力つよ!?足はや!?

 

 私は慣性に任せて足を浮かせ、電車の中まで連れていかれた。まわりの視線は痛かったけど、ミカちゃんはそんなの気にしてない様子だった。

 

 

 

 

 ……それにしてもミカちゃん、なんか幼くなったような?

 

 ……気のせいかな。

 

 

 

 ***

 

 

 

 電車に揺られてたどり着いたのは、D.U.にある巨大なショッピングモール。それはもうバカでかい。洋服店、飲食店、ゲームセンターに映画館……と、若者御用達のスーパー施設である。

 

「まずはご飯だよね☆イトちゃんは好きな物とかあるの?」

 

 ミカちゃんはずっと笑顔だ。かわいい。ちなみに、電車の中でもここでも私の手をずっと握っている。私は構わないのだが、大丈夫だろうか?私、手汗とか、かいてない?

 

「た、たこやき……」

 

 私は顔を伏せながら答える。だって恥ずかしくない?お嬢様学校の生徒の姿か?これが……。でもこういう時に変に遠慮された方が嫌だと思うんだ。「なんでもいいが一番困る」理論である。……だとしてもたこやきはミスチョイスな気がしてきた。

 

「じゃあそれ食べよ!」

 

 しかしミカちゃんは一層笑顔を深める。私は相変わらずミカちゃんに引っ張られながら、フードコートへと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はふはふっ」

 

 お昼時ということもあって、フードコートは大変混雑している。席に座れたのはラッキーだったかも。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

 

 ミカちゃんは、あつあつのたこやきを丸々口に含んだせいではふはふしている。いや、冷静に考えてトリニティのお姫様に食べさせるものじゃないな。好きな物を聞かれてちょっと正直に答えすぎた。ブラックマーケットにいたときに客にもらったたこやきがうますぎて、それからたこやきが好物になってしまったのだ。

 しかし、私の心配にミカちゃんは手で丸を作って答えた。よかった、ひとまず火傷の心配はなさそう。ミカちゃんに火傷を負わせようものなら一大事である。

 

 しばらく咀嚼した後にミカちゃんがたこやきを飲みこむ。そしてすぐに二つ目を取り、今度は入念にふーふーして冷まし始めた。

 

 そして、それを口に運ぶかと思いきや、あろうことか私に向けてきた。

 

「イトちゃん、はい、あーん」

 

 

 

 

 ……これ、私がもらっていいやつなのか……?相手はトリニティのお姫様ぞ?

 

「あ、あーん」

 

 しかし差し出されたからにはもらうのが礼儀である。

 

「おいしい?」

 

「おいしいです……」

 

 ちょうどいい温度になったたこやきを咀嚼する。このたこやき、タコがデカめで非常にぐっどである。

 

「じゃあ、イトちゃんも」

 

 そう言ってミカちゃんは目を閉じて口を開く。え?これ私があーんするのか?ミカちゃんに?恐れ多すぎないか??

 

「……ふー、ふーっ。あ、あーん」

 

「あーん☆えへへ、おいしい」

 

 私も入念に冷ましてからたこやきを渡す。ミカちゃんはすごくいい笑みだ。いろいろと思うところはあるけど、まあ幸せならOKです。

 

 

 

 

 

 

 

 

「イトちゃんはどんな服が好きなの?」

 

「う、うーん……」

 

 次にやってきたのは洋服店。どうやらミカちゃんは服が好きみたいで、さっきから一際テンションが高い。しかし、どんな服が好みか聞かれても困ってしまう。なにせ基本的に休日はジャージで過ごす。そうじゃなくても無地のオーバーサイズパーカーを着て、布切れ一枚だったホームレス時代に戻った気分を味わうくらいしかファッションの楽しみ方を知らないのだ。

 

「私、あまりファッションには明るくなくて……」

 

「じゃあ私がコーディネートしてあげるね!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……そこから先はすごかった。めちゃくちゃいろいろな種類の服を試着させられた。ミカちゃんは、しっかり見ないとどこが違うのかわからないような服を見比べてうんうん唸ってた。すごいなミカちゃん。私にはない感覚だ。

 

 でも、私は普段のミカちゃんの様子から、てっきりかわいい感じを着させられるのかなと思っていたけど、実際は意外と落ち着いた系統が多かった。私としてもあんまり目立ちすぎる格好は遠慮したかったので、そこはありがたかった。

 

 でも問題はたまに持ってくるネタ衣装だ。とくに途中で持ってきた、背中がガラ空きな服なんてひどかった。私が試着室から出てきた瞬間、

 

『セイアちゃんみたーい!』

 

 と言って大爆笑していた。騒ぎすぎて店員に注意されてしまったが。そういえばセイア様こんな服着てたな。セイア様この服やばいよ……普通に考えてえっちすぎるよ……。

 

 

 

 

 ……でも、ミカちゃんが笑ってくれるようになって、私は本当に嬉しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこそこの時間洋服屋にいたけれど、結局買ったのは黒いキャップだけだった。ミカちゃん曰く、私が元々持っているパーカーと合わせやすいらしい。確かになんかいい感じな気がする。よくわかんないけど。

 あと、キャップにはお店が私の大きな耳を通す用の穴を開けてくれた。なんと無料である。無料以上にお得なことはないからね。ありがたい限りである。

 

 洋服屋から出た後は、ショッピングモール内を二人で適当にぶらぶらしている。こうしているだけでもミカちゃんは楽しいみたい。

 

 そんな時、ミカちゃんが妙によそよそしく話しかけてきた。

 

「イ、 イトちゃんさ……」

 

「はい、どうしました?」

 

 

 

 

「わ、私、専属の……付き人に、なってくれない……?」

 

「付き人、ですか?」

 

「うん……私と、一緒に、暮らすってこと……なんだけど」

 

 ミカちゃんは今、トリニティ内の建物を一つ、丸々使って生活をしている。パテル分派の代表というのはそれだけ高い立場のお方ということだ。ミカちゃん専属の付き人ということはつまり、その建物でミカちゃんに給仕する、言うなればミカちゃんのメイドになるみたいなものだ。もちろんメイド服を着るわけではないが。

 

 ……私としては、これ以上ハナコ先輩に迷惑をかけなくてよくなるので願ったり叶ったりである。さすがに私もそろそろ自立せねば。普通に考えれば断る理由はない。

 

 懸念としては……私という異分子がつくことでミカちゃんの周りからの評価が下がることと……思い上がりかもしれないが、ミカちゃんが私に依存してしまう可能性があること。それと個人的な理由だが、私が目立つことはできるだけ避けたいこと。

 

 

 

 

 ……まあでも、何とかなるか。ミカちゃんの傍にいられるのならばそれが一番だろう。

 

「はい、わかりました」

 

「ほ、ほんと!?」

 

「はい。むしろこちらの方こそ、よろしくお願いします」

 

「よ、よかったぁ……」

 

 ミカちゃんは安心したようにため息をついた。そんな様子に思わず頬が緩む。寄り添うといった以上、私はとことんまで付き合うつもりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、アクセサリー!」

 

 その後歩いていると、ミカちゃんが特に関心を示す店があった。アクセサリー店である。なんでも、ミカちゃんはアクセサリー集めが趣味なんだとか。確かに、ミカちゃんの羽とかすごいキラキラしてるもんね。かわいい。

 

 ……しかし私には別の問題がある。実はさっきからずっと我慢していたことを口にする。

 

「……ごめんなさい、ミカちゃん。私、ちょっとお手洗いに……」

 

 私が申し訳なさに声を落としてそう言うと、ミカちゃんは納得したように口を開いた。

 

「あ、うん!私先に行ってるね☆」

 

 私のお花摘みの間、ミカちゃんはアクセサリー選びをしていてくれるようだ。よかった、待たせるのが一番申し訳ないからな。

 

 そうして、結構ギリギリな私は早歩きでトイレへと駆け込んだ。

 

 

 

 

 ……私を付け狙う影にも気づかずに。

 

 





 ミカの服装は筆者の趣味です。


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ミカショッピング②

 

 ショッピングモール内のトイレ。ここが角にあるせいか、あまり人の気配がしない。

 

「ふぅ」

 

 ……ひとまずの危機を乗り越えた。ミカちゃんがいるのに、失礼かなと思って我慢していたけど、やっちまう方がよっぽど問題だからな。

 

 若干急ぎながら、手を洗う。ミカちゃんを待たせているわけだからな。

 

 ……しかし、そこに忍び寄る3人の影。

 

 

 

 

「……よぉ、久しぶりだな」

 

 突然話しかけられ、私の肩が跳ねる。そして声の主を認識し、再度驚きをあらわにする。

 

 

 

 

「あ、あなたたちは……あの時のスケバン!!」

 

 

 

 

 そう、ブラックマーケットで私に食パンと水の恵みをくれた、心優しきスケバンである。

 

「その節は本当にありがとうございました!あれがなかったら私、今頃死んでて……」

 

 その時、そのスケバン達の顔が邪悪に歪んだ。

 

 

 

 

「そうか、じゃあお返しをもらうとするぜ!」

 

 

 

 

 突如として口に噛ませられる猿轡、目に当てられるアイマスク、腕に掛けられる手錠。

 

「もがが!?」

 

 

 

 

「まさかティーパーティー傘下になってるなんてなぁ!お返しは身代金として受け取ってやるぜ!」

 

 

 

 

 ま、まさか!こ、こいつら……!

 

 

 

 

 ……めちゃめちゃバカだ!

 

 今はたまたま他に人がいないけど、こんな大型ショッピングモールで拉致が成功すると本気で考えているのか!?しかも私をこんな犯罪臭漂いまくる格好にして、ありとあらゆる人の注目の的だぞ!?

 

 命の恩人ではあるが、やっていることは普通に悪いことなので特に助けてあげないことにした。でも力では勝てないので私の身の安否はヴァルキューレ辺りに任せることにする。いやしかし、この純白の制服を着てきたのは失敗だったなぁ……。ごめんねミカちゃん。今日はもう会えないかも……。

 

 

 

 ***

 

 

 

「イトちゃん、遅いな……」

 

 イトちゃんと別れてから20分くらいは経っただろうか。私はすでにアクセサリーショップで買い物を済ませているのだが、いまだにイトちゃんが帰ってこない。

 おなかが痛いとか、メイクを直してるとか、そんな理由だったらいい。でも、イトちゃん今日すっぴんだし……。

 

 そして何より、さっきから連絡が取れない。何度も電話をかけているのにかからない。

 

 ……イトちゃん、いつもなら深夜に電話しても出てくれるのに。

 

 

 

 

 ……目の前が暗くなる。視界がくらくらする。言い表しようのない程大きな不安が私の心を覆う。

 

 

 

 

「なんで? イトちゃん、なんで電話出てくれないの? わ、私といるの、嫌になっちゃったの? どこが嫌だったの? や、やっぱり休日に遊ぶなんて重かった? 深夜に電話かけるなんて迷惑だったよね、ごめんね? あ、あーんとか、絶対きもかったよね? それとも、イトちゃんのこと着せ替え人形みたいにして遊んだこと? い、いきなり付き人になってとか、絶対重かったよね? あの、忘れていいから、ね? 私、きもかったよね? うざかったよね? めんどくさかったよね? 本当にごめんね? 付き人になってほしいって言ったのはね、私、多分イトちゃんが断らないってわかってたからなの。イトちゃん優しいから、だから、そこに付け込んだの。だって、私、イトちゃんがいないと怖いの。ずっとそばにいてほしいの。だから、私のこと捨てないでよ……」

 

 

 

 

 ……誰に聞かせるでもなく呟く。手が震える。呼吸が浅くなる。何も考えられなくなる。

 

 ……そんな時だった。

 

 

 

 

「ねぇ、さっきの誘拐?」

 

 

 

 

 ふと周囲から聞こえた、知らない人の声。しかしその言葉から感じる心当たりに、私はハッと顔を上げる。

 

 

 

 

「誘拐?ねぇ、今、誘拐って言った!?」

 

 私は、声の主に激しく詰め寄る。その人が困ってるとか、そんなの関係ないほどに。

 

「どんな子!?」

 

「え、えっと……ケモ耳の……」

 

 

 

 

 ……やっぱりだ。イトちゃんだ、絶対そう!

 

「どっち行った!?」

 

「あ、あっちの方に……」

 

 私はお礼も言わずに、その人が指さした方へ素早く駆ける。髪が乱れてるとか、周りから浮いてるとかそんなのもうわかんない。私の頭にあるのはただ一つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「イトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃんイトちゃん……!!!」

 

 

 

 

 ……もう二度と、失いたくない。

 

 

 

 ***

 

 

 

 しばらくチンピラに運ばれた後、アイマスクと猿轡を外された私が見たのは廃墟のような場所だった。薄暗い空間に、散らばった瓦礫、蜘蛛の巣、ひび割れたコンクリート……と、決して長く居たい場所ではない。なんかブラックマーケットを思い出す。

 

 私は、どうやら手錠を壁のパイプに繋がれているみたいだ。一応外そうと試みるも、私の力じゃびくともしない。筋トレとかした方がいいかもしれない。

 

「ハッ、アタシらに捕まったのが運の尽きだな」

 

「抵抗しても無駄だぜぇ!?」

 

「心配しなくても、高い金ぶんどってやるからよ!」

 

 ……チンピラたちは嬉しそうだ。誘拐が成功してよかったね。でも、聞こえた限りでもショッピングモールにいた人たちのざわつきがかなり耳に入ってきたんだけど、大丈夫なのだろうか?

 

「……きっと、目撃者が今頃ヴァルキューレに通報していると思います。逮捕されるのも時間の問題です。今のうちに逃げといた方が……」

 

「う、うるせぇ!」

 

「アタシらは捕まる気はねぇぜ!」

 

 うぅ……話を聞いてくれない。ここで引いてくれたら私的にも助かったんだけど……流石に無理だったか。

 

「おい!トリニティに連絡しろ!こいつを返してほしければ身代金用意しろってな!」

 

 チンピラの一人がスマホを取り出した。普通のスマホじゃ逆探知されると思うんだけどな……。いろいろと杜撰で、心配である。

 

 そして、チンピラがスマホで電話をかけようとした、その時だった。

 

 

 

 

 ドオオオオオオン!!

 

 

 

 

 辺りに爆音が響く。同時に、壁の一部が崩壊し、土煙が舞い、一つの人影が浮かぶ。

 

 廃墟とはいえコンクリートの壁だ。それだけの破壊力、その侵入者は爆弾か何かを使ったに違いないと思ったが、そうではなかった。

 

 

 

 

 ———素手である。

 

 

 

 

「はいはーい☆失礼するね?」

 

 その場には似合わない、明るい声が響く。そして私はその声に聞き覚えがあった。

 

 

 

 

 ……ミカちゃんである。

 

 

 

 

「なんだこいつ!?」

 

「か、壁を素手で……」

 

「お、お前ら、ボーってしてないで構え———」

 

 チンピラが各々の銃を手にしようとした、その瞬間。

 

 

 

 

 ……三人が宙を舞った。

 

 

 

 

「きゃあ!?」

 

 辺りに暴風が吹き乱れる。私は突然の出来事に悲鳴を上げた。私の腕が手錠で壁に繋がれていたからよかったけど、そうじゃなかったら吹き飛んでいた。え……?速すぎない?何も見えなかったんだけど??

 

 白い目をむいたチンピラが地面に転がる。全員顎に一発入れられてる。

 

「へぁ……」

 

 ……びっくりしてめちゃめちゃ情けない声を出してしまった。ミ、ミカちゃん、強すぎない……?チンピラ大丈夫か……?

 

 

 

 

「イトちゃん大丈夫!?けがは!?」

 

「うわぁ!!」

 

 気づけばミカちゃんの顔がすぐ横にあった。ミカちゃんの動きが速すぎて私じゃ目で追えない。またびっくりしちゃって大きな声を出してしまった。

 

「あ……だ、大丈夫です!ごめんなさい、大きな声出して……」

 

「良かった……」

 

 そう言いながらミカちゃんは、私の腕についた手錠を片手で軽くぶっ壊した。金属製なはずなんだけどな?おかしいな?

 

 

 

 

 ……いや、そんなことよりもちゃんとお礼しなきゃ。

 

「ミカちゃん、助けてくれてありがとうございま———」

 

 

 

 

 ……しかし、そんな私のお礼よりも先に、ミカちゃんが私をぎゅっと抱きしめる。

 

 

 

 

「良かった……本当に……生きてて……」

 

 ミカちゃんは震えた手で私を抱きしめた。強く……痛いくらいに。

 

「ミカちゃん……」

 

 私はミカちゃんの背中をトントンと叩く。

 

「私、生きてます。ミカちゃんが助けてくれたから、怪我一つありません!だから……ありがとうございます!」

 

 私はできるだけ明るく振る舞う。しかしミカちゃんの震えは止まらない。うーん、どうしたものか……。

 

 

 

 

「また……失うかと思った……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ミカちゃん、その紙袋なんですか?」

 

 さっきから疑問だった。ミカちゃんの持っているその紙袋は、私と別れる前には持っていなかったものだ。

 

「あ、こ、これは、えっと……」

 

 ミカちゃんが私から離れる。そして、その紙袋を私に差し出した。

 

「こ、これ、は……プレゼント、なんだけど……」

 

 

 

 

「えーーーっ!私にですか!?」

 

「う、うん……」

 

 すごい、なんてこった!すごいうれしい!

 

 私が嬉しさをあらわにすると、ミカちゃんは下を向いてもじもじした。え、すごいかわいい!!

 

「開けてもいいですか?」

 

「うん……い、いらなかったら、全然捨てていいからね……?」

 

 何を言っとるんだこのお姫様。私がそんなことするわけないだろう。私は嬉々として紙袋から中身を取り出す。

 

「わー、きれい!」

 

 中身は青紫色のお花がきれいな髪飾りだった。ん?これって……。

 

「ミカちゃんとお揃いですか?」

 

 私がそう言うとミカちゃんは勢いよく目線を下ろし、あたふたし始めた。

 

「……あ、あはは、やっぱり重いよね、ごめんね?ほんと、いらなかったら———」

 

 

 

 

「ミカちゃん」

 

 私は無礼にもミカちゃんの言葉を遮り、髪飾りをミカちゃんに渡す。

 

「これ、結んでもらえますか?ミカちゃんと同じ髪型に」

 

 そう言われたミカちゃんは呆気にとられたようだった。

 

「え、あ……うん!」

 

 

 

 

 ミカちゃんの手際はとてもよくて、一瞬でミカちゃんと同じサイドのお団子ヘアが出来上がる。

 

「で、できたよ?」

 

 ミカちゃんがそう言い、私は振り向いて笑顔を向ける。

 

「えへへ、似合ってますか?」

 

「……うん、かわいい!すっごいかわいい!」

 

 

 

 

 ……よかった、ミカちゃんが笑ってくれている。

 

 

 

 

「……これ、大事にします!」

 

 私は髪飾りを撫でながら、笑顔のミカちゃんへ、そう誓った。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ただいまー」

 

 あの後、現場に来てくれたヴァルキューレの生徒にチンピラの身柄を渡し、ミカちゃんと解散することになった。あの時は助けてくれたけど、やっぱり誘拐はよくないのでしっかり反省してもらいたいところである。

 

 いやー、今日はミカちゃんとかなり仲良くなれた気がする。助けてくれたし、プレゼントもくれたし。今度何かお返ししなきゃな。

 

「お帰りなさ……あら?」

 

 家に帰ると、奥からハナコ先輩が出てきた。いつも通り水着である。いっそ安心する。しかしハナコ先輩は私の姿を見ると、訝しげに目を細める。

 

「イトちゃん、その髪型は……?」

 

「これですか?」

 

 私はミカちゃんからもらった髪飾りを触る。

 

「えへへ、これミカちゃんがくれたんです。髪の毛もセットしてもらいました!」

 

「……ミカ、ちゃん?その呼び方……」

 

「あ、はい!ミカちゃんからミカ様呼びは嫌だって言われて……」

 

「……」

 

 ハナコ先輩が黙る。しかし私は言葉を続ける。

 

「それと、ミカちゃんから直々に付き人に任命されました!自分の生活部屋を与えられるので、もうハナコ先輩に迷惑がかからなくなります!」

 

 私は満面の笑みでハナコ先輩に話しかけた。

 

「そん、な……」

 

 しかし、ハナコ先輩は顔を絶望に歪めて膝から崩れ落ち、床に手をつく。

 

「ハ、ハナコ先輩!?」

 

「うぅ……イトちゃん、私とは遊びだったんですね……」

 

「ええ!?」

 

「私はイトちゃんに汚されたのに……そんな無責任に捨てるなんて……」

 

「何を言ってるんですか!?」

 

 事実無根である。そのような事実は記憶にございません。

 

「そうです!今から私が今からイトちゃんを汚してしまえば、私から逃げられなくなりますよね……♡」

 

「や、やめっ……ひゃあ!?」

 

 眼に光を無くしたハナコ先輩が私に詰め寄り、押し倒される。腕も掴まれてしまい、一切身動きができない。くぅ……相変わらず力が強い。っていうか、キヴォトスの生徒に力で勝てたことがない私が弱いのかもしれない。ミカちゃんもあんな細い腕でとんでもない力持ちだったし。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……イトちゃんは、それでいいんですか?」

 

 ……先ほどまでとは異なり、ハナコ先輩が真剣な顔つきで私に問いかける。心なしか腕にかけられる力も強まった。

 

「……はい」

 

 私がそう答えると、ハナコ先輩が一瞬顔をしかめ、そしてほほ笑んだ。

 

「……わかりました」

 

 そう言ってハナコ先輩は私から手を放し、立ち上がる。そして、リビングへと歩き出した。

 

「……寂しくなりますね」

 

 ハナコ先輩がそう呟く。自由になった私もハナコ先輩の後を追い、立ち上がる。

 

「暇なときは泊まりに来てもいいですか?」

 

「まぁ……お泊り、ですか?構いませんよ……♡」

 

「……他意はありませんよ?」

 

「ふふ……♡」

 

 そうして、私と先輩は一緒に夕食を取った。こうして一緒に食事するのもあと少しだけと考えると、少し寂しくなった。

 





 ミカの戦闘力盛りすぎた気がする……

 でもミカって目に見えないスピード出せそうだよね


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トリカス①


 またも長くなりすぎたので二つに分けました。

 今回はトリカスがかなりトリカスしてます。

 胸糞注意です。


 

 ミカちゃんの屋敷への引っ越しは昨日、滞りなく行われた。荷物の搬入はパテル分派の生徒がやってくれたみたいで、私がやることは特になかった。ミカちゃんの付き人という立場の高さを実感すると同時に、新参者の私が他の生徒をパシるということへの危機感を強く感じた。

 

 私に与えられた部屋はミカちゃんの隣の部屋だった。いざ部屋に入ってみるとその圧倒的ならぐじゅありー加減に打ちのめされた。部屋一つ一つにキッチンとふかふかベッドとお風呂がある。まるで高級ホテルである。

 

 私の仕事はミカちゃんの部屋の清掃と、ミカちゃんの着替え、髪のセット、荷物の管理、業務管理、洗濯や食事の用意などである。後は、呼び鈴が鳴ったらいついかなる時でも素早くミカちゃんの部屋に行って要望を聞くという仕事もあるが、そっちは特に気にする必要はなかった。

 ……なぜなら、ミカちゃんが常に私の部屋にいるからだ。昨日の夜はお風呂まで一緒に入ろうと言われたのだが、私の傷跡だらけの身体を見せてびっくりさせるのは忍びないので丁重に断った。

 

 今のところミカちゃんとの生活に大方不満はないが、一緒に寝るときに私の耳をはむはむするのだけはやめていただきたい。口が寂しいのかもしれないけど、その……いたたまれない気持ちになるのだ。おかげで昨日はあまり寝られなかった。抱き着かれると逃げられもしないし。

 

「はい、できました」

 

「ありがとー☆」

 

 そうして、二人で迎える初めての朝。朝食と歯磨きを終えてもまだ眠そうなミカちゃんを鏡の前に座らせ、髪のセットや軽いメイクを施す。今までやったことはなかったが、付き人になるという話をいただいた日から猛練習したのだ。ミカちゃんの付き人としてふさわしくならなければ。

 

「本日の予定は通常の授業と、放課後にナギサ様との会議です。議題は直近に迫ったエデン条約についてと、ナギサ様が計画なさっている「補習授業部」について、となっています」

 

「うわー、めんどくさいなー」

 

 ミカちゃんがため息をついた。

 

 ……補習授業部。表向きは成績不振の生徒のために作られた救済措置のようであるが、その実はナギサ様による「裏切り者」の容疑者を閉じ込める箱である。そしてその容疑者の中には、ハナコ先輩もいるようだった。

 恐らくだが、ナギサ様は補習授業部全員を退学にさせることまで考えていると思う。今のナギサ様ならやりかねない。

 

 ……まあハナコ先輩がいるし、退学の心配はあまりしていない。ナギサ様の疑心暗鬼に巻き込まれる生徒は気の毒だが、私としてはハナコ先輩が少しでも、そこでトリニティを好きになってくれたら……と願うばかりである。

 

 

 

 

「はい、今度はイトちゃんの番!」

 

 しばらく考えに浸っていると、ミカちゃんの明るい声にハッと意識を戻された。ミカちゃんは強引に私を鏡の前に座らせると、櫛で私の髪をとき始めた。

 

「あの、ミカちゃん。私もう自分でできますよ?」

 

 私がそう言うと、ミカちゃんははにかみながら首を横に振った。

 

「……ううん、私がやりたいの」

 

 私もつられて微笑む。本来、主に髪のセットなど絶対にさせてはならないのだが、今回ばかりは甘えさせてもらうとしよう。それに私は、ミカちゃんに髪をセットしてもらうこの時間が好きなのだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

「あれ……無い……」

 

 トリニティに来てから、すでに結構時間がたった。その中で、周囲の私に対する評価もかなり固まってきたようだ。

 

 ……率直に言えば、私はかなり周囲から目の敵にされている。原因はどうやら、急にティーパーティー傘下になった貧乏人のくせに成績だけはやたら優秀なことにあるようだった。さらに、私のことを「ティーパーティーの権力目当て」だったり、「トリニティを崩壊させるためのスパイ」みたいに思っている人もいるみたいだ。

 

 おかげで友達がほとんどできない。私に積極的にかかわってくれる人は、ハナコ先輩とミカちゃんくらいなものである。

 

 

 

 

 ……そうして日々を過ごしていくうちに、私に対する嫌がらせが目立つようになった。

 

 

 

 

 はじめは些細なことだった。私だけ仕事量が多かったり、みんなから無視されたり。そのくらいなら、別にいいと思った。みんなから見ても、ぽっと出の私は煩わしかっただろうから。

 

 だけど、少し前から……具体的にはミカちゃんと関わりだしてから、周囲の私に対する敵意が強まったように思う。聞こえるように悪口を言われたり、文房具や教科書を隠されたりすることも増えた。

 

 ……辛くないと言ったら嘘になる。

 

 ここトリニティでは、そういったことは往々にしてあるようだ。幸いなことに他人にばれないようにやってくれるので、ハナコ先輩やミカちゃんにいらない心配をかけずに済んでいるが……それも時間の問題かもしれない。

 

「私の……お弁当が……無い……」

 

 午前の授業が終わり、教室にいた生徒たちのほとんどは学食へと向かった。残った生徒はお弁当を持参しており、いくつかのグループに分かれてお弁当を食べている。

 

 私は必死にバッグを漁る。まあ、私の昼食がなくなったところで大した問題ではないのだが、今は私を焦らせる事情がある。

 

 スマホが震え、モモトークの通知を知らせた。

 

『イ』

 

『ト』

 

『ちゃ~ん☆』

 

『今から会える?』

 

『一緒にお弁当食べない?』

 

『噴水のところで待ってるから』

 

 私を焦らせる事情……それは、ミカちゃんとの約束である。ミカちゃんのお誘いはできるだけ断りたくはない。

 

 しかし私が手ぶらで向かおうものなら、私に対する周囲からの嫌がらせがミカちゃんに露見する可能性もあった。

 

 

 

 

 ……ミカちゃんを悲しませることが、私は一番いやだ。

 

 

 

 

「はぁ……」

 

 仕方ない。ここは断るしかない。

 

『ごめんなさい、どうしても外せない用事があって……』

 

『埋め合わせに、今夜はスイーツをお作りしますね。何かご要望はありますか?』

 

 メッセージを送ると、すぐに既読がついた。

 

『えー、残念』

 

『でも、スイーツ楽しみにしてるね☆』

 

『ロールケーキ以外で!』

 

 ミカちゃんが元気そうでよかった。思わず頬が緩む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 クスクス……

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 嘲笑が聞こえる。教室の真ん中を独占している、純白の制服のグループからだ。

 

 あのグループの生徒は、私が以前書類仕事に務めていた時に仕事を丸投げしてきた人たちである。どうやらここでも支配的なようで、彼女らの周囲には空白ができており、他の生徒はみな教室の隅でお弁当を食べている。

 

 私は彼女らへ目を向けた。

 

「……なにか?」

 

「……いえ」

 

 相変わらず、彼女らは私の扱い方を心得ているようだ。彼女らが銃をちらつかせる度に、私の身はすくんでしまう。

 

 ……初めてトリニティへ来た時のことを思い出してしまって、身体が震えてしまうのだ。あの時に死にかけた出来事は、思った以上に私の心に傷を与えているらしい。

 

 ……仕方ない。売店でたこやきパンでも買おう。あれはおいしいからな。

 

 

 

 ***

 

 

 

「はぁ……」

 

 ため息がこぼれる。まさか便所飯をすることになるとは。どうも、教室は私の居場所じゃないみたいだ。

 

 たこやきパンはおいしい……んだと思う。でも今はあんま味がしない。ハナコ先輩やミカちゃんと食べるご飯はあんなにおいしいのに。

 

「やっぱり、付き人の件、断ればよかったかな……」

 

 今はまだ、いい。今はまだ、ターゲットが私だけに限られているから。それなら誰にも迷惑はかからない。

 

 でも、不安なのは私の悪名がハナコ先輩やミカちゃんにまで及ぶ可能性だ。あのお嬢様方のことだ。「糸巻イトと付き合いがある」というだけでも十分に嫌がらせの対象になり得るだろう。それだけは絶対に避けたい。

 

「どうすればいいんだろう……」

 

 ……本当はわかってる、どうしようもないって。ミカちゃんやハナコ先輩には迷惑をかけたくないし、ティーパーティーをやめるわけにもいかないし。ナギサ様なんて特に私のことが嫌いだろうし、上司に報告してもいい方向に転ぶとは思えないし。

 

 

 

 

「……ミカちゃん」

 

 

 

 

 私は、ミカちゃんにもらった髪飾りと、結んでもらったお揃いのお団子を撫でる。

 

 ……とにかく、PTSD(トラウマ)を何とかするのが先決だろうな。ミカちゃんに射撃練習の的にでもしてもらおう。

 

 そう思い、モモトークを開こうとした、その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ———べちゃ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トイレの個室のドアと天井の隙間から飛んできた物体が、私の頭にかかった。それは———

 

 

 

 

「……わたしの、おべんとう?」

 

 

 

 

 私が、今朝作って持ってきていた、お弁当だった。本当なら、今頃、ミカちゃんと一緒に、笑いながら、食べていたもの。

 

 ハンバーグのデミグラスソースが、ナポリタンが、シーザーサラダのドレッシングが、私が今朝早起きして作った食品の数々が、ハナコ先輩のおさがり制服を、ミカちゃんのお揃い髪飾りを汚していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あら、ごめんなさい。手が滑ってしまって」

 

 

 

 

 声の主には聞き覚えがある。教室にいたはずの、ティーパーティー傘下の生徒グループの一人。

 

 ……私に対する嫌がらせの、首謀者である。

 

「汚れてしまったでしょう?かわいそうに……」

 

「私たちが洗い流して差し上げますわ」

 

「せーのっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……次いで降ってきたのは、バケツ一杯の大量の水。私の髪や制服、靴に至るまで、余すことなく濡らしていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 アハハハハハハハハ

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……なんで?

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんでっ……こんなことするんですか……」

 

 私は個室のドアを開き、その場から去ろうとしていた彼女たちに話しかけた。

 

「なんで……こんなひどいこと……」

 

 私の顔から水が滴る。みるみるうちに目の前の生徒の顔が歪む。

 

「私、何かしましたか……? 何がいけなかったんですか……?」

 

 舌打ちが聞こえた。彼女らが私との距離を詰める。

 

 

 

 

「……きもちわるいのよ」

 

 

 

 

 びっくりするほど、冷淡な声。しかし明確な敵意を思わせる重さがあった。

 

「ちょっと頭がいいからって調子に乗って」

 

「うっ」

 

 私の肩が突き飛ばされる。

 

「ミカ様に媚び売って擦り寄って」

 

 彼女らの腕が私の髪へ伸び、引っ張られる。

 

「痛っ、いたいっ……!」

 

「ミカ様に寄せたこの髪飾りも!この髪型も!!」

 

 今朝ミカちゃんに結んでもらったお団子が……崩れた。お揃いの髪飾りが彼女に奪われる。

 

「ぜんぶッ!!!」

 

 

 

 

 ……彼女は手に持ったそれを、踏みつけた。

 

 

 

 

「きもちわるいのよッ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ……あぁ……」

 

 私はみっともなく蹲る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 やめて……やめてよ……それは……ミカちゃんがくれた……

 

 

 

 

 

 

 

 

 蹲る私を叩きつけるような罵声は終わらない。

 

「こんなものつけて、アピールのつもり?」

「どうせ、ミカ様の後釜を狙ってるんでしょう?」

「現ティーパーティーでは一番騙しやすそうだものね!」

「けれどそうはいかないわ!」

 

 髪飾りへ掛けられる力は増してゆく。

 

「ミカ様を騙してまで得る地位に価値なんてないのよ」

「次期ティーパーティーには、あなたのような薄汚い嘘吐きなんかより、私の方がお似合いだわ!」

「分かったらとっとと消えてくれる?」

「……ここ、トリニティの生徒用のトイレなんだけど」

 

 

 

 

 

 

 

 

 キャハハハハハハハハハハハハハ

 

 

 

 

 

 

 

 

「……して」

 

「は?」

 

「……返してッ!!」

 

 髪飾りの上に置かれた足を払いのけ、強引に奪う。

 

「……っ!」

 

 彼女はバランスを崩し、床にしりもちをつく。

 

 

 

 

「これは! ミカちゃんからもらった、大切なものだ!! お前らなんかが、触っていいものじゃないんだ!!!」

 

 

 

 

 私は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。彼女らの横暴さが、残虐さが、浅ましさが、そして何より……ミカちゃんをバカにしたことが許せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……しかし、彼女らの顔は愉悦に歪む。

 

 

 

 

「……ねぇ、今の見たぁ?」

 

「うん、見た見た」

 

「そいつが先に手ぇあげて転ばしたんだよねー」

 

 しりもちをついた生徒の顔が、大きくゆがむ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「キャーーーっ!!やめてーーーーーっ!!!」

 

 

 

 

 周囲に鳴り響く、甲高い悲鳴。耳を塞いでいても聞こえるその声は建物中へと響き渡る。

 

「……っ!」

 

 

 

 

「……悪者は、どちらに見えるでしょうね?」

 

 彼女が勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

 

 

 

 

「糸巻イト。あなたの負けよ」

 

 

 

 

 クスクスクスクス……

 

 





 トリカスってこんなトリカスだったか……?


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トリカス②


 デカグラマトンで良すぎるガキが来ましたね。

 薄さって素晴らしい。


 

 トリニティの一角にある、大きなバルコニー。そこに置かれた机を囲むのは、三つ置かれた椅子とそこに座るミカとナギサ。三つの内一つの椅子……百合園セイアの椅子のみ虚しく空白となっている。

 

「ですから、何度も言っているでしょう!?」

 

 高貴なティーパーティーの場には似つかわしくない、ナギサの怒気を孕んだ声が響く。ナギサには、ずっと前から抱えているストレスの種があった。

 

 

 

 

「……イトさんは危険です。彼女は……」

 

 ……糸巻イト。今年のトリニティの入試で、全教科満点で主席合格を果たした人物。誰が見ても優秀であるが、それを鼻にかけるでもなく献身的に仕事をする様はナギサもよく知っている。しかしだからこそ、本心の全く見えない彼女を深く危惧していた。

 

 ナギサは彼女を昨年の浦和ハナコに重ねている。イトの聡明さは、まさにあの時の彼女のものであった。

 

 そんな彼女が、どんな方法かはわからないが大切な幼馴染に取り入り、あろうことかミカの付き人にまで上り詰めていく様子は、ナギサの心を焦らせるには十分すぎる出来事であった。

 

「えーまだ言う? イライラには甘いものがいいらしいよ☆ はい、どーぞ」

 

 しかしナギサの想いは届かない。ミカはナギサのティーカップへ角砂糖をぼとぼとと落とす。

 

 

 

 

「…………彼女は、あの事件前にセイアさんと面会をしています」

 

 ナギサは、額に青筋を浮かべながらも言葉を止めない。

 

「それに先ほども言った通り、トリニティの裏切り者の可能性があるハナコさんとも親しいと聞きます」

 

 ……同じティーパーティーであるセイアのヘイローが破壊された。エデン条約が迫ったこの時期に。

 犯人はいまだ不明だ。もし犯人の目的がエデン条約の阻止ならば、次に狙われるのはナギサと考えるのが妥当だろう。

 

 ……もし、自らの身に何かあれば、ミカにすべてを預けることになる。それまでに何としても裏切り者を追放する必要があった。

 

「……彼女は過去が不透明です。シスターフッドは口を割りませんが……過去にどんな組織に属していたのか、どのように生活をしていたのか……ここへ来た目的や本名に至るまで、全てが偽造であると私は考えています。……言うなれば、アズサさんよりも疑わしい」

 

「でもそれって、ナギちゃんの妄想でしょ?」

 

「……っ! 大体、ミカさんが———」

 

 ナギサが机を叩き、立ち上がったその時だった。

 

 

 

 

「ナギサ様! ミカ様! 報告があります!」

 

 

 

 

「……なんですか」

 

 ティーパーティーへと割り込む、一人の生徒。ナギサに睨まれたその生徒は、額に汗を浮かべ、息も絶え絶えに言葉を続けた。

 

 

 

 

「糸巻イトが暴力行為を起こしました!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……え?」

 

 それはミカの声だった。

 

 このタイミングで、そんなことになるとは……。

 

 

 

 

 ……都合が良い。

 

 

 

 

 ナギサは浮かんだ一つの案に笑みを浮かべる。

 

「……わかりました。案内してください」

 

 

 

 

 ……やはり、糸巻イトはトリニティから排除すべきだ。

 

 

 

 

 ナギサとミカはその生徒に連れられ、現場へ向かった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 現場に到着したナギサが見たのは、水浸しのトイレとそこにへたり込むイト。そしてそれを囲う様に立っている四人のティーパーティー傘下の生徒だった。

 

 イトの有り様には目を疑うほかなかった。彼女は、彼女のものと思わしき弁当の残骸に塗れ、制服をひどく汚していた。それに全身はずぶ濡れで、髪は乱れている。

 

 

 

 

 ……何より、ミカがあげたという髪飾りが、壊されていた。

 

 

 

 

「……なにこれ」

 

 

 

 

 ミカが力なく呟く。イトはその姿を見ると、顔を見る見るうちに絶望に染めていった。

 

 

 

 

「ミ、ミカちゃ———」

 

「状況を聞かせてください」

 

 ナギサはイトの言葉を遮り、淡々と為すべきことをなす。

 

 

 

 

「わ、わたしは———」

 

「イトさんは黙っていてください」

 

「……っ」

 

 イトは言葉を失う。しかし、ナギサの眼は依然厳しくイトを睨み続けたままだ。

 

 ……イトに何かをさせてはいけない。彼女に何かをさせたら、全てがうやむやになる可能性がある。

 

 ナギサのイトへの警戒心は、それほどまでに大きいものだった。

 

 

 

 

「こいつが先に手を出したんです。変な言いがかり付けて、私のこと転ばしてきて……」

 

 そう言ったのは、イトを取り囲んでいた生徒の一人だった。

 

「私…怖くって! 私、何にもしてないのに、どうしてこんなことするんだろうって……」

 

 その生徒の目が涙で潤んでいく。そしてナギサはその生徒へ、何かを訴えかけるように話しかける。

 

 

 

 

「……これはすべてイトさんのせいだ、というわけですね?」

 

 

 

 

 ……ナギサには考えがあった。

 

 もちろん、この状況がイトのせいだと本気で思っているわけではない。どう考えても彼女は被害者側だ。この状況で騙せると考える自分の部下に頭を抱えたくなる。

 

 だがこれは好機だと思った。もしもこの一件をすべて彼女のせいにできれば……

 

 

 

 

 ……退学か、それは無理でもエデン条約締結まで停学にできるのでは?

 

 

 

 

 しかし、そんな状況で黙っていられない人物が一人いた。

 

 

 

 

「ナギちゃん、何言ってるの?」

 

 

 

 

 この状況で最も危惧すべき変数、聖園ミカである。

 

「この状況で、こんなになってるイトちゃんを見て、本気でそう思ってるの? どう見たってこの子たちが———」

 

 

 

 

「ミカさん」

 

 

 

 

 そんなミカに対し、ナギサは釘を刺す。

 

「……少し、静かにしていてもらえますか? この件は私が請け負いますので、ミカさんは帰っていただいて構いません」

 

 

 

 

「……は?」

 

 

 

 

 ミカの目が冷え切ったものに変わり、拳が強く握りしめられる。ナギサは冷や汗をかいた。

 

 ナギサは考えを巡らせる。どうすればミカは帰ってくれるだろうか? どうすればイトに責任を負わせられるだろうか? どうすれば、エデン条約は———

 

 

 

 

「ミカ様!」

 

 ……しかし、そんな思案とは裏腹に、どこまでも軽薄な笑みを浮かべて声をあげる者たちがいた。

 

「ご覧くださいミカ様!」

「ミカ様に纏わりつく薄汚い蛆虫は、私共で排除いたしました!」

 

 ナギサはひそかにため息をついた。この生徒たちへの失望故か、もしくは自分への……。

 

 ミカは無言でゆっくりとその生徒たちへ身体を向ける。

 

「ミカ様、騙されてはなりません!」

「糸巻イトはミカ様の地位にしか興味がないのです!」

「私共はミカ様をお守りいたしたのです!」

「ですから、付き人にはこいつではなく私共を———」

 

 その者たちが愚かにも矢継ぎ早に言葉を話した、その時だった。

 

 

 

 

 ……ミカの強く握りしめられた拳が、振り上げられた。

 

 

 

 

「……っ! ミカさん!!」

 

 ナギサは焦って呼びかける。

 

 ……しかしミカは止まらない。止まれない。ミカの怒りは、イトの姿を見たときからすでに限界であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……だからこそ、ミカは気づけなかった。

 

 ……間へ割り込む、一つの影に。

 

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 

 重く、鈍い音とともに殴り飛ばされた生徒は、けたたましい衝突音を響かせながら壁に突き刺さる。誰の目にも軽傷では済まされない衝撃であることは明らかだった。

 

 ……しかし、殴られたのはイトを取り囲む生徒たちの誰でもない。

 

 

 

 

「イト……ちゃん……?」

 

 

 

 

 次第に土埃が晴れ、殴り飛ばされた生徒———糸巻イトの姿が見え始める。ナギサはその姿に息を飲んだ。

 

 イトの頭からは夥しい量の血液が流れ、彼女の制服をさらに汚していた。胸部を強打したのか、呼吸も浅い。

 

 

 

 

「ミカ、ちゃ———それは……だめ……」

 

 

 

 

 ……もしも私情で他生徒を傷つければ、ミカが糾弾を受ける可能性がある。ティーパーティーの一員だろうと処罰は避けられない。

 

 だが、傷つけた相手が「暴力行為を働いた生徒」ならば話は別だ。ミカの行動は糾弾の対象ではなく、悪人を成敗し、哀れな一般生徒を救うヒーローのものに早変わりする。

 

 

 

 

 ……つまり、イトは身を挺してミカをかばったのだ。傷を負うこと、自分の立場を失う可能性があることに構いもせず。

 

 

 

 

 しかし、そんな姿を見たミカは……

 

 

 

 

「イ、 イトっ……ちゃっ……」

 

 

 

 

 そこにあるのは、ティーパーティーの威厳など存在しない、涙目で小刻みに震える少女の姿だった。手に残る鈍い感触も、顔に張り付く返り血も、彼女を苦しめるものでしかなかった。

 

 

 

 

「やっ……やだ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……そして、イトのヘイローが———消える。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ……あぁぁあああ!!」

 

 その場にミカの悲痛な叫びが響いた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 はい、くそ雑魚イトちゃんです。

 

 いやー、びっくりしましたよ、まさかワンパンされるとは。

 

 まあ確かに? ミカちゃんは超強いし、私は超弱いですが?

 

 仮にも同じ女子生徒なんだから、もうちょっとパワーバランス取れてるべきじゃないですか!

 

 ミカちゃんパンチをくらった瞬間に「あ、これはやばい」って思いましたよ。

 

 なんて言えばいいんでしょうか……トラックにはねられたような、くそデカい鉄球にぶつかったような……。

 

 自分じゃ抵抗しようのない力でしたね。痛すぎてもはや痛くなかったです。あの細い腕のどこにあんなパワーが……。

 

 

 

 

 しかし、ミカちゃんには悪いことしたな……。

 

 せっかくくれた髪飾りを守れなかった。ミカちゃんに私を殴らせてしまった。

 

 いっぱい傷つけた。

 

 だから、謝りたい。

 

 でも、ミカちゃんはどこにいるんだろう?

 

 っていうか、私は今どこにいるの?

 

 

 

 

「……ちゃん!」

 

 

 

 

 なんか、声が聞こえる。

 

 

 

 

「……トちゃん!」

 

 

 

 

 ……あったかい。

 

 

 

 

「……イトちゃん!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ますと、そこにいたのは険しい表情を浮かべたハナコ先輩だった。

 

 

 

 

「……ハナコ、先輩?」

 

「イトちゃん……よかった……」

 

 ハナコ先輩は私の手を握りながら顔を伏せ、安堵の息を漏らす。ハナコ先輩の手は温かくて、どうやら全身の感覚は残っているようで一安心だ。辛そうなハナコ先輩の頭をよしよししておこう。

 

「ここは……?」

 

「……救護騎士団のベッドです。イトちゃん、ひどい怪我で……」

 

「……」

 

 私はうつむく。自分の怪我への絶望故ではない。私の心にあるのはただ一つ。

 

 

 

 

 ……ハナコ先輩にも、知られてしまった。そのことに対する、深い絶望だった。

 

 

 

 

「ハナコ先輩、知ってる限りでいいので、経緯を教えてくれますか?」

 

 私がそう言うと、ハナコ先輩はさらに辛そうな顔をする。ハナコ先輩には申し訳ないが、今の私には何よりも優先しなければならないことがある。

 

「今……ですか?」

 

「……大事なことです」

 

 私は訴えかけるようにハナコ先輩を見つめた。

 

「はぁ……わかりました」

 

 彼女は諦めたようにため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「では、イトちゃんが気を失った後から……。イトちゃんがけがを負ったので、まず救護騎士団への通報が行われました。彼女らの到着までの応急処置はナギサさんが行ったそうです」

 

「ナギサ様が?」

 

 ハナコ先輩は頷く。

 

 意外だ。ナギサ様は私のことを煩わしく思っているだろうから……。

 

「はい。イトちゃんは特に頭部からの出血がひどくて……もしもこの応急処置がなければ危なかったそうです」

 

 ハナコ先輩は顔の影を深めながら「でも、こんなことで贖罪できたつもりなら……ふふ♡」と付け足した。

 

 お、おこってる……。ナギサ様逃げて……。

 

 

 

 

「救護騎士団が到着後、その場は一旦解散となり……その後、目撃者全員に口止めがされました」

 

「口止め、ですか?」

 

 ハナコ先輩の顔がより一層険しくなる。

 

「……ティーパーティーは目撃者に、この一件についての一部始終を一切他人に明かさないことを要求しました」

 

「……」

 

 ティーパーティーはこの一件をなかったことにしたいのだろう。まあ事実だけ見たら、ミカちゃんが一生徒に怪我を負わせたわけだから隠蔽したいのもわかるし、私としてもそっちの方が助かる。

 

 

 

 

 でも……ハナコ先輩からすれば……。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……っ! イトちゃん、どうしました?」

 

 私は再度ハナコ先輩をよしよしする。

 

「いや、ハナコ先輩は優しいなぁ、と思って」

 

「……」

 

 ハナコ先輩黙っちゃった。複雑そうな顔してる。余裕そうに見えて案外かわいいからな、この人。

 

 

 

 

「……それで、私の怪我の容態は?」

 

「……っ」

 

 ハナコ先輩の顔が一気に曇る。

 

「……肋骨二本の骨折と、頭蓋骨線状骨折だそうです」

 

「……あちゃー」

 

 そんな気はしてた。さっきから胸と頭が痛かったし。にしても、頭蓋骨がイっちまうとは。でも陥没じゃなくてよかった。ヒビが入っただけなら手術がいらないし。

 にしてもミカちゃん超強くてすごい。これ、ただのパンチだぜ?

 

「それから……」

 

 先輩が口を開く。

 

 

 

 

 

 

 

 

「救護騎士団の方がおっしゃっていたのですが……イトちゃんの身体は特別に弱いそうです。それも不摂生や運動不足では説明がつかないほどに。何か心当たりはありますか?」

 

「いえ……」

 

「そうですか……」

 

 そうなのだろうか? 確かに、ミカちゃんはおろかハナコ先輩にも力で勝てたことはないけれど……。もちろん心当たりなど全くない。私は健康体のつもりなんだけどな?

 

 

 

 

「……幸いにも、内臓に異常は見られませんでした。記憶や受け答えもしっかりしているので大丈夫だと思いたいのですが……しばらくは絶対に安静にする必要があります」

 

 先輩の目がいつになく真剣だ。多分、本当に動いちゃいけないんだろうな。取り返しがつかない事態になる可能性もあるのかもしれない。

 

 

 

 

 ……でも、ごめんなさい。私にはやることがある。

 

 

 

 

「……ミカちゃんは今どこに?」

 

 

 

 

 私のやること。それは、ミカちゃんの隣にいること。今のミカちゃんを一人にさせるなんて、私にはできない。

 

 

 

 

「……教えられません」

 

 

 

 

 しかし、ハナコ先輩の視線は鋭い。やっぱり、私が病院を抜け出そうとしていること、見抜かれているかな。

 

「イトちゃん。今のイトちゃんは何があっても安静の身です。頭を強打した以上、急に容態が悪化する可能性だって———」

 

 

 

 

「ハナコ先輩」

 

 

 

 

 ……ハナコ先輩はいい人だ。だから、傷つけたくはない。それでも———

 

「お願いします」

 

 

 

 

「……っ」

 

 ハナコ先輩の顔がひどく苦しそうに歪む。けれど私は強く目線で訴えかけた。

 

 

 

 

「……わかりました」

 

 

 

 

 ……やっぱり、ハナコ先輩は優しい。

 

 

 

 

「……ごめんなさい」

 

 私は微笑みながら、そう言った。

 





 イトちゃん怪我多くない?


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ミカダンシング


 本当は「トリカス①」からこの回までを一話にするつもりでした

 お話作るのって難しいね……


 

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!

 

 イトちゃんが、死んじゃった。イトちゃんが死んじゃったっ!

 

 私のせいで……私が、またっ、殺しちゃった!!!

 

 また……私が……!

 

 私が……いるから!

 

 みんな……死んじゃった!!

 

 

 

 

 私が……生きてるせいで……!!!

 

 

 

 

「うっ……おぇぇえええ……」

 

 薄暗い屋敷の一室。部屋に備え付けられた便座に向かい、私は嘔吐した。今朝とは異なり、部屋が静まり返っているせいで不快な音がやけに響く。

 

 頭を砕く嫌な感触。血の臭い。苦しそうなイトちゃんの姿や声。その全てが鮮明に残り続けて離れない。

 

 

 

 

 ……何でこんなことになっちゃったんだろう。

 

 私はただ、一緒にいてほしかっただけなのに。

 

 一緒にいて、私の心の穴を埋めてほしくて……。

 

 

 

 

 ……そうか。

 

 私、赦された気になってたんだ。

 

 イトちゃんがいてくれるから、私は悪くないんだって勘違いしてた。

 

 自分の弱さを押し付けて、勝手に寄りかかって。

 

 それを受け入れてくれるイトちゃんに甘えて、私のわがままに巻き込んで。

 

 

 

 

 イトちゃんの生活を奪ったのも、イトちゃんが嫌がらせを受けたのも、イトちゃんを殺しちゃったのも……セイアちゃんが死んじゃったのも……!

 

 

 

 

 ぜんぶ……ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ!!!

 

 

 

 

「私のせい……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな時だった。

 

 

 

 

「ミカちゃんのせいじゃないよ」

 

 

 

 

 トイレのドアの向こうから声が聞こえた。聞こえるはずのない声。私が殺しちゃったはずの……

 

 

 

 

「イト……ちゃん……?」

 

「はい、イトちゃんです」

 

 便座を見つめたままの私に、イトちゃんの明るい声がかかる。

 

「いき、てる……?」

 

「い、生きてますよ!?」

 

 イトちゃんが大きな声を出す。

 

 ちゃんと……生きてる……。

 

 

 

 

 イトちゃん……死んでなかった。私、殺してなかったんだ!

 

「よかった……よかったぁ……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 そっか! 今までのは本当は夢で、イトちゃんを殴ったことは全部嘘で、明日は一緒にお昼ごはんが食べられるんだ!

 

 なーんだ! 私、バカみたい! ちょっと嫌な夢見ただけでこんなになって!

 

「ミカちゃん、扉を開けてくれますか?」

 

 ほら、イトちゃんの声はこんなに元気なんだもん!

 

「う、うん! 今開けるね!」

 

 

 

 

 明日は何食べよう? そういえば、最近できたスイーツ店が評判なんだよ? イトちゃんと一緒に行きたいなって思ってたの!

 

 だって、イトちゃんは生きてるんだもんね! 私、イトちゃんを殴ったりしてないもんね! 明日も、これからもずっと、一緒にいてくれるんだもんね!

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ……?」

 

 

 

 

 その、頭の包帯は……? 包帯に滲むその赤色は……? イトちゃんの顔、なんでそんなに腫れてるの……?

 

 

 

 

「あ……あぁぁ……」

 

 足に力が入らない。目の前の現実を見たくない。また吐き気がする。

 

 

 

 

 ……だめ。うけいれ、ないと……。うけいれて、しっかりあやまって……

 

 それで、イトちゃんの前から……消えないと……。

 

 

 

 

「ごめんね……」

 

 私はイトちゃんの足に擦り寄る。

 

「私の……せいなの……。私が、イトちゃんを……こんなにしちゃったの」

 

 イトちゃんはしゃがみ込んで、私と視線を合わせた。

 

 私は今の感情をイトちゃんにぶつける。

 

 

 

 

「……だから、もうイトちゃんには会えないの……。会っちゃいけないの。だって私は……ただの人殺し———」

 

 

 

 

「ミカちゃん」

 

 

 

 

 だけど、イトちゃんはその先を言わせてくれない。

 

 いつもに増して穏やかな顔のイトちゃんが、私の手に何かを乗せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……かみかざり?」

 

「はい……さっき直したんです。ちょっと不格好になっちゃいましたけど」

 

 そう言ってイトちゃんはくしゃりと笑う。

 

 

 

 

「これ……結んでくれますか? ……いつもみたいに」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……いいの?」

 

 赦されても……いいの……?

 

 

 

 

「はい、お願いします」

 

 イトちゃんは笑顔のままだ。

 

「わ、分かっ、た……」

 

 私はイトちゃんの髪を梳く。

 

 

 

 

「ミカちゃん」

 

 イトちゃんは私に体重を預けながら口を開いた。

 

「な……なに……?」

 

 

 

 

「私、ミカちゃんに、お礼を言いたくて」

 

「え……?」

 

 なにを……

 

「ミカちゃんが一緒にいてくれて、私のために怒ってくれて……私、すごい嬉しかったんです」

 

 

 

 

 ……なんで?

 

 

 

 

「だから……ありがとう」

 

 

 

 

 なんで、そんなに優しくするの……?

 

 

 

 

「赦して……くれるの……?」

 

「ゆるすも何も……はじめから怒ってなんかないですよ?」

 

 イトちゃんはまた笑った。

 

「ミカちゃんは何も悪くないです」

 

 

 

 

 私は……何も悪くない……?

 

 

 

 

「だから、責任を感じる必要なんてないんです」

 

 

 

 

 責任を……感じなくていい……?

 

 

 

 

「だって悪いのは……」

 

 

 

 

 悪いのは……?

 

 

 

 

 

 

 

 

「……私ですから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……は?

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は、ミカちゃんがくれた髪飾りを守れませんでした」

 

 

 

 

 ……違う。

 

 

 

 

「勝手なことして、ミカちゃんに私を殴らせてしまいました」

 

 

 

 

 ……全然違う。

 

 

 

 

「ミカちゃんを、いっぱい傷つけました」

 

 

 

 

 ……ふざけないで。

 

 

 

 

「だから、謝るのは私の方なんです」

 

 

 

 

 本当に悪いのは、イトちゃんでも私でもなくて———

 

 

 

 

「ごめんなさい、ミカちゃん」

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

 

 私の、わずかに残った理性が警鐘を鳴らしていた。

 

 

 

 

 だめだ。

 

 もしこの先を言葉にしたら……。

 

 ……私はきっと、止まれなくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……お団子、できたよ」

 

 きっと、私の声はひどく不愛想だったと思う。それほどまでに、私は憤りを感じていた。

 

「えへへ、ありがとうございます!」

 

 けれど、イトちゃんの顔には今までで一番いい笑顔が浮かんでいた。

 

 

 

 

「……そうだ! ミカちゃん、お腹すいてますか?」

 

 イトちゃんが何かを思い出したようにパンと手を叩いた。

 

「私、ケーキ作ってきたんです!」

 

「ケーキ……?」

 

「はい。今日のお昼ご飯、一緒に食べられなくて……。その埋め合わせに」

 

 私は昼のモモトークを思い出す。そう言えば、そんなこともあったな……。

 

「明日にしますか……?」

 

 私は首を振る。そして、今できる精一杯の笑顔を浮かべた。

 

「ううん、今食べたい!」

 

 私の言葉に、イトちゃんの顔がパッと晴れる。

 

「じゃあ、持ってきますね!」

 

 そう言って、イトちゃんは隣の部屋に消えていった。

 

 

 

 

 ……今は、この笑顔を見られるだけでいい。

 

 この笑顔を守れれば、それで……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらくするとイトちゃんが戻ってきた。手にはケーキが乗ったお皿を持っている。

 

「お待たせしました!」

 

「わぁー! おいしそう!」

 

 今日の朝食やお昼の弁当を見たときにも思ったけど、イトちゃんは料理が上手い。味はもちろんだけど飾りつけが本当に丁寧で、まるで高級レストランの料理みたい。

 

 イトちゃんが私のためを思って、精一杯作ってくれる料理。そんなのが、明日も明後日もこれからもずっと食べられるのかな。

 

 寝るときにもイトちゃんがいて、朝起きてもイトちゃんがいて……そんな生活が、ずっと続けられるのかな。

 

 ……もしそうなら、どれだけ幸せだろう。

 

 私がそんな幻想に浸っていた、その時だった。

 

「ショートケーキとチョコケーキがあるんですけど、どっちがいいとか———」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……イトちゃん?」

 

 

 

 

 最初に聞こえたのは、食器が落ちる音。次いで、重たいものが倒れる音。

 

 

 

 

 ……そこには、力なく倒れるイトちゃんがいた。

 

 

 

 

「あ、あぇ……」

 

 ヘイローは———ある。うつ伏せに倒れたイトちゃんが、震えた手で上半身を起こした。

 

 

 

 

「あれ、足に、力が……うまく、入らな……っ」

 

 

 

 

 地面に落ちたケーキに向かって顔面から倒れたせいで、イトちゃんの顔はケーキの残骸に塗れていた。その顔が見る見るうちに曇っていく。

 

 

 

 

 その姿が、あの時の———弁当に塗れたイトちゃんの姿に重なる。

 

 

 

 

 ……それは、最後に残った私の理性を壊すのに十分だった。

 

 

 

 

「ご、ごめんなさい……! ケーキ、もう一回作り直して———」

 

「ううん、大丈夫☆」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……許さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「直接食べるから☆」

 

 イトちゃんの首から顔にかけて舌を這わせる。

 

「えっ……ひゃあ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「んっ……私の顔、きたないですよ……?」

 

「イトちゃんに汚いとこなんてないよ?」

 

 

 

 

 イトちゃんも私も、何も悪くない。

 

 責任を感じなくていい。

 

 だって悪いのは……

 

 

 

 

 ……あいつら(トリカス)なんだから。

 

 

 

 

「あはははは☆」

 

 

 

 

 

 

 

 

 大っ嫌い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゲヘナも、アリウスも……。

 

 

 

 

 トリニティも……!!

 

 

 

 

 ぜんぶ、ぜんぶぜーーーーんぶ!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 大っ嫌い!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 アハハハハハハハハ☆

 





 イトちゃん、ただ曇らせに来ただけで草



 ちなみにミカに髪の毛をセットしてもらっている間、イトちゃんには激痛が走っています。なんせ殴られた場所をいじられるわけですからね。

 あとイトちゃんの足が動かないのは一時的な物です。絶対安静って言われたのに無理して動いたから倒れちゃいました。



 倒れたままイトちゃんが死んじゃうIFも書いてみたいですがおさまりがつかなくなっちゃいそうで難しいです。


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イトミーティング


 やっと先生が出ます。

 でも影薄いです。


 

 

「ロールケーキをぶち込みますよっ!?」

 

 

 

 

 数多の学園が立ち並ぶ学園都市キヴォトスにおいて、規模、影響力、歴史———あらゆる要素で一二を争うマンモス校、トリニティ総合学園。連邦捜査部シャーレの顧問として今までも様々な場に招かれてきたが、ここまで厳粛な空気を感じたのは初めてだった……はずだった。

 

 トリニティの生徒会、ティーパーティーの場に出席するのは、ティーパーティーメンバーの桐藤ナギサと聖園ミカ、そして先生と……もう一人。始めの内は高貴な空気を保っていたが、徐々にミカの茶々が目立ち始めた。

 

 それにナギサがキレたのだ。それはもうすごい剣幕である。

 

 

 

 

「それからイトさん!」

 

「は、はい!」

 

 イトと呼ばれたその生徒———ミカの隣に立つその生徒は背筋をピンと伸ばした。

 

「イトさんも、ミカさんの付き人なら注意をしてください! ミカさんがティーパーティーとしての自覚を持てるように、責任を持って育て上げるようお願いをしたはずです!」

 

「……」

 

 糸巻イト。先生はティーパーティーのミカの付き人として彼女の身の回りの世話を担当しているのだと聞いている。イトの立ち姿はそれはもう美しいものだし、ミカとお揃いの髪型や、耳、尻尾の毛並みはもふもふしたくなるほど綺麗でふさふさなのだが……先生には別に注目すべき点があった。

 

 

 

 

 ……彼女の頭に巻かれた、痛々しい包帯である。

 

 

 

 

「……申し訳ありません、ナギサさ———」

 

 イトが実に見事なお辞儀を見せた、その時だった。

 

 

 

 

「ナギちゃんうるさーい☆」

 

 ミカが相変わらずの快活な声を上げた。その顔に反省の色など微塵もない。

 

「ティーパーティーの自覚とかどうでもいいし、イトちゃんは関係ないでしょ? イトちゃんに責任を負わせようと躍起になるのも大概にしたら?」

 

「…………」

 

 ミカの言葉に場が凍る。ナギサが眉間の皺をいっそう深め、ミカとの間に火花を散らしている。

 

 

 

 

 ……き、気まずい!

 

「ふ、二人とも落ち着いて———」

 

 

 

 

 しかし、そんな先生の想いは届かない。

 

「……あの件(・・・)は過去のこと。これとは無関係です」

 

「あはは☆ ナギちゃんの中ではね!」

 

「話を聞いてください! 私が言っているのはミカさんの今の態度の話です!」

 

「ならナギちゃんもそうだよね? イトちゃんは私の(・・)付き人なんだけど?」

 

「……どういう意味ですか」

 

 

 

 

 二人が次第にヒートアップしていく。もはや二人の頭に先生の存在は無いようだ。

 

「わあ!?」

 

 ミカがイトを強引に抱き寄せる。

 

 

 

 

「勝手に命令するなっていってるの☆」

 

 

 

 

 その姿にナギサがより顔をしかめた。

 

 

 

 

「……そもそも、イトさんがこのティーパーティーの場に出席しているということ自体特例です。私の気分次第でどうとでも(・・・・・)なるということをお忘れなく」

 

 

 

 

「へぇ……」

 

 

 

 

 その瞬間、今まで明るい表情を崩さなかったミカが真っ暗な顔を浮かべた。先生の本能がうるさく警鐘を鳴らしている。

 

「もしかして、まだ疑ってるの?」

 

 ナギサは余裕綽々といった表情を崩さずにティーカップから紅茶をすする。しかし先生は見逃さない。ナギサのティーカップがわずかに震えているということを。

 

 

 

 

「イトちゃんが、トリニティのう———」

 

 

 

 

 そこまで言いかけたとき、ミカの言葉が途切れた。

 

 ……イトの人差し指がミカの唇に当てられたのだ。互いの鼻がぶつかるくらい顔が近い。

 

 

 

 

「しーっ、聖園様(・・・)。それに桐藤様も」

 

 先ほどの雰囲気とは一転して、イトの温かい声が響く。

 

 

 

 

イトはミカの手を振りほどくと、先生に向かい完璧なお辞儀をした。

 

 

 

 

「……先生の前で話す内容ではありませんでした。申し訳ございません」

 

 

 

 

 ハッとしたような顔を浮かべたナギサがそれに続く。

 

「申し訳ございませんでした。あの、今のは忘れていただけると……」

 

「うん、大丈夫だよ」

 

 先生は困ったように笑ってそう言った。実に真面目な子たちである。

 

 ……しかし、先ほどからピクとも動かない生徒がいる。

 

 

 

 

「みその……さま……?」

 

 

 

 

 そこに先ほどまでの威圧感のあるミカの姿はない。あるのは震えた肩と涙目を携えた少女の姿であった。

 

 

 

 

「な、なんで……? いやっ、捨てないで……」

 

 

 

 

 ミカがイトの裾を掴む。先生の目には、その姿がかなり異質なものに見えた。イトの包帯といい、さっきのナギサとミカの会話といい、今のミカの態度といい……。

 

 ……何かある。

 

 そう先生に思わせるには十分すぎるほどだった。

 

 

 

 

「ミカちゃん」

 

 

 

 

「ぁ……」

 

 イトがミカの耳元へ口を近づけると、ミカが蚊の鳴くような声を出した。

 

「後でなんでもしてあげますから……今だけ、我慢できますか?」

 

「……なんでも?」

 

「はい」

 

 イトが屈託のない晴れやかな笑顔を浮かべた。ミカの表情から負の感情が抜けていくように見える。

 

 

 

 

「……じゃあ、がんばる」

 

 

 

 

「はい! さすがです、ミカちゃん!」

 

 イトは「いい子いい子」と言いながら、ミカの頭を撫で始める。

 

 

 

 

「……えへへ☆」

 

「……」

 

 ……こうしてみると親子のようである。もちろんイトが母でミカが子供だ。身長も年齢も立場も、全てミカの方が上のはずなのだが……。なんだかすごいものを見た気分である。

 

 しかし、そんな二人とは裏腹にナギサの顔は暗いままだ。

 

 

 

 

「……そろそろ本題に戻りましょう」

 

 緩み切ったその場の空気を一瞬で元に戻すような、ナギサの一声で再び会議が始まった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「つまり私は今まで、本当の力を隠してたってこと!!」

 

 

 

 

 ティーパーティーとの会議の後、補習授業部の担任となった先生は顔見知りのヒフミとイトと共に、補習授業部のメンバーを集める旅に出た。メンバーの一員であるヒフミはともかく、イトが一緒に行きたいと言ったことは先生にとって意外だった。なんでも、同じくメンバーのハナコと親しく、一目会っておきたいらしいのだ。

 

 ……そのハナコを見たとき、先生は頭を殴られたような衝撃を受けた。清廉潔白で淑女そのもののようなイトの親友としては、あまりに異質だったのだ。

 ハナコは校内を水着で徘徊していたところを、正義実現委員会に捕まっていた。そこだけ見れば文句なしに問題児である。

 

 

 

 

「今度のテストはちゃんと、1年生用のテストを受けるから! そうすればちゃんと優秀な成績を———」

 

 

 

 

 そうしてメンバー集めを終えた一同は、とある教室でそれぞれの自己紹介をした。

 

 その時、補習授業部のメンバーになったことを認められない、自称エリートのコハルによる必死の弁解が始まった。曰く、飛び級のために一つ上の2年生用のテストを受けたせいで試験に落ちたらしい。

 

 おかしな話ではあるが、一応は成立している理論なはずだった。

 

 

 

 

 ……この場に糸巻イトがいなければ、だが。

 

 

 

 

 入試で主席合格だったことに加え、3年生までの過程を含めた試験ですでに満点を叩きだしていることは、コハルを含めた同年代の中で有名な話だ。それに、ティーパーティーから直接指名が入るほどの人材という噂も耳にしたことがある。

 つまり本物のエリートを前に、コハルの言い分はもはや意味を成さないのだ。

 

 ……そのことにコハルが気づいた時にはもう遅い。必死に取り繕った嘘ですら墓穴を掘り始めるコハルの姿は、いっそ哀れでもあった。

 

 

 

 

「……っ、と、とにかく! 私はあんたたちと違って優秀なの! そこのイトなんかよりもね!」

 

「ふふ、イトちゃんよりもですか?」

 

 ハナコがニッコリと笑みを深めてそう言った。

 

「わ、私は正義実現委員会のエリートよ! 当り前じゃない!」

 

「イトちゃんはティーパーティー直属の付き人ですが……」

 

「う、うるさい!」

 

 コハルに向けられる目線がかわいそうなものを見る目に変わっても、彼女は止まらない。

 

「ぜ、ぜったい私の方がエリートだもん!」

 

 

 

 

 そして、コハルはさらに自らの首を絞める。

 

 

 

 

「……なんだったら、勝負してあげてもいいわよ!」

 

 

 

 

「……勝負?」

 

 イトの耳がぴくりと動いた。そして鋭く光る視線をコハルにぶつける。

 

「ふふ……コハルちゃん、私は構いませんよ……?」

 

「え、いや……」

 

 先ほどまでの温かな雰囲気とは一変、そこにあるのは圧倒的な強者の笑みであった。その姿はどこかハナコに似ている。反対にコハルは縮こまった。

 

 ……両者の実力差は誰の目にも明らかであった。

 

「あ、あはは……」

「あらあら♡」

「コハル、やめた方がいい。こうして見ただけでわかる……かなり強い」

 

 ヒフミ、ハナコ、アズサの三名はそれぞれにコハルを憐れむ反応を見せる。

 

 しかしそれは、コハルのプライドを強く逆撫でする行為であった。

 

 

 

 

「な、なによ! やってやろうじゃない!!」

 

 

 

 ***

 

 

 

 勝負は去年の過去問の得点で行われた。コハルとイト、それぞれに解いてもらい、それを先生とヒフミで採点する……といった方式である。

 

「じゃあ、発表するよ」

 

 採点を終えた先生が告げる。すると、ずっと小さかったコハルの背中がさらに縮こまった。

 

「うぅ……」

 

 コハルはテスト中から……もっと言えばテスト前から、ずっとこんな調子だ。

 

 原因は一つ。過去の自分の発言のせいである。今のトリニティで、三年生までを含めた全生徒の中でもトップクラスに優秀なイトを相手に、どうして啖呵を切ってしまったのだろう。

 

 

 

 

「……コハル5点! イト95点!!」

 

 

 

 

「うわぁああん!! うるさいうるさいうるさぁああい!!!」

 

 先生が結果を発表した瞬間、コハルが大声で喚き始めた。

 

「ちがうもん! 調子が悪かっただけだもん!!」

 

「コ、コハルちゃん……」

 

「コハル……勇敢と無謀は別物だ」

 

 ヒフミとアズサが憐憫を込めた言葉をかけた。しかし、それはコハルをより惨めに思わせるものでしかない。

 

 

 

 

「イトちゃんが……95点?」

 

 しかし、そんな騒がしさとは裏腹に、ハナコは信じられないといった表情を浮かべる。

 

「ごめんなさい、ハナコ先輩。ミスっちゃいました」

 

 イトはあざとく自分の頭を拳で叩いた。「てへっ」などと言っている。イトにしては珍しい態度だ。

 

「あぁ……ふふ、なるほど♡」

 

 その様子にハナコは納得したように笑う。

 

 

 

 

 ……ようやく、イトとハナコが親友という事実に納得した、と先生は思う。今の会話は二人だけの、他人が理解できるものではない。互いの信頼が垣間見える一幕だった。

 

 

 

 

「ヒフミちゃん、よく見てください。二人の正解したものと、間違えたものを……」

 

 ハナコがそう言うと、ヒフミが二人の回答を見比べ始めた。

 

「……えっ、あっ!」

 

 そして、何かに気づいたヒフミが声を上げた。

 

「コハルちゃん、見てください!」

 

「うっうっ……なによ……」

 

 先ほどまで蹲って泣いていたコハルの前に、二人の答案が現れる。

 

 

 

 

「イトちゃんが唯一間違えた問題……コハルちゃんは正解できています!」

 

「えっ……?」

 

 コハルが顔を上げると、そこには確かにヒフミの言う通りのものがあった。

 

「えーっ、すごい!」

 

 イトが明るい声を上げながら、コハルに近づく。

 

「私、この問題解けなかったのに……すごいですね、コハルちゃん!」

 

「……」

 

 学年トップが解けなかった問題を、自分は解けた。

 

 その事実に、単純にもコハルの顔はみるみる明るくなる。

 

 

 

 

「……ふ、ふん! これで分かった? 私はすごいのよ!」

 

「はい、すごいです!」

 

 イトの言葉に、コハルは胸を張る。

 

「それに、ここの問題……コハルちゃんが証明できた定理を使えば、もっと簡単にできたんですね! 私、別の方法使ったせいでたくさん時間がかかっちゃって……」

 

「えっ……あ、ほんとだ! そ、それなら、こっちも……!」

 

「おお! よくわかりましたね、すごいです!」

 

 二人はそれからも会話を続けた。

 

 

 

 

「……イトはすごいね。それに優しい」

 

 先生はハナコに話しかけた。

 

 イトがしたことはつまり……コハルの能力を理解し、コハルがどの問題なら答えられるかを予測したうえで、その問題だけを選択的に間違えたのだ。その後のコハルのメンタルケアはもちろん、コハルに思考を促して成長させることまで欠かしていない。

 

 

 

 ……これ私いらなくない?

 

 

 

 

 先生は切実にそう思った。

 

 

 

 

「ええ、本当に」

 

 ハナコは答える。その顔は実に満足そうに見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで……ハナコ」

 

 先生には、今まで抱えていた一つの疑問があった。

 

「はい、なんでしょう?」

 

 イトの姿は可憐な少女そのものだ。彼女の着る純白の制服も、頭を彩る髪飾りも、イトが纏うものはすべて彼女によく似合っている。

 

 

 

 

 ……頭に巻かれた、包帯を除いて。

 

 

 

 

「イトの、頭の怪我について……何かあったの?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ハナコの顔がひどく歪んだ。

 

 

 

 

「……足を滑らせて、階段から落ちたそうですよ」

 

 ハナコはこちらを見ずに、冷静に答えた。

 

 

 

 

 ……失敗した、と先生は思った。ハナコの声色には、怒りが混じっていたのだ。

 

「そっ、か……」

 

 先生はそこにあるただならぬ闇を感じ、手を伸ばせずにいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……もう少し追及していれば、あんなことは防げたかもしれないのに。

 

 



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イトシンキング


 アートワークスヨカッタ……


 

 あれからしばらくの時間がたった。

 補習授業部はヒフミ先輩以外、見事に第一次特別学力試験不合格となり、合宿が行われているようだ。ハナコ先輩から水着パーティーの写真が送られてきた。あれから行けてないけど、みんな仲良くやれているだろうか?

 

 いや、仲良くできているだろうな。ヒフミ先輩の包容力すごかったし、アズサ先輩のかわいさもすごかったし。コハルちゃんとかハナコ先輩と相性よさそう。私よりも全然。

 

 

 

 

 ……ハナコ先輩のトリニティ嫌いは、私のせいで加速したと思う。その尻拭いを補習授業部のみんなに任せるのは無責任だと思うけど、私が下手なことするより効果的だと思う。だから補習授業部に深く関わることはやめていた。

 

 ……いや、それも言い訳かもしれない。私が補習授業部と関わりたくなかったのにはきっと別の理由がある。

 

 

 

 

 やっぱり、先生(大人)は怖い。

 

 どうしても、頼る気になれない。先生が何かしたわけではないのにこんなことを言うのは申し訳ないけれど……やっぱり、好きになれない。

 

 先生との関わりはこの前会ったのくらいだけど、年季を感じさせるような落ち着きを孕んだ振る舞いに、背中が妙にぞわりとしたことは記憶に新しい。

 

 

 

 

 あと、ミカちゃんも一度だけ先生に会いに行ったようだ。多分用事は……トリニティの裏切り者についてだろう。

 

 ……ミカちゃんはまだ止まらない気なんだろうな。やはり、自分のミスで親友を死に至らしめたという事実は、彼女から冷静さを奪うのに十分すぎた。たとえそれが嘘だったとしても、ミカちゃんがそれを知る方法はない。

 

 それもすべて私の責任だ。

 

 ミカちゃんを救うには、私では力不足だった。私は彼女に醜態を晒してばかりで、彼女の心の穴を埋めてあげることができなかった。ミカちゃんがまだ止まらないことがその証拠だろう。

 

 なにより私の無能を証明するのは、セイア様が生きていることの確証が未だ得られないことだ。

 

 如何せんコネがない。加えて、一部の生徒の間では「暴力行為を起こしたが付き人の特権でもみ消した奴」として噂され、何かと忌避されてしまうことも少なくない。

 

 つまり私には、ミカちゃんを救う方法がない。

 

 

 

 

 だけど……選択肢だけは残してあげたい。

 

 

 

 

 ナギサ様は多分助けてくれない。ハナコ先輩には青春を楽しんでほしい。先生には……頼りたくない。

 

 

 

 

 ……だから私は、私の持てる全てを利用する。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほう……生きていたのか、糸巻イト」

 

 そんな思いを胸に、私は自分の過去と対峙する。

 

 

 

 ***

 

 

 

 さて、ここはトリニティのど真ん中。帰宅途中のイトちゃんこと私は、とある異変に気が付いた。

 

「なんか、騒がしいな……」

 

 さっきからさほど遠くないところで銃声が聞こえる。それに、黒いセーラー服を着た正義実現委員会の姿も見える。

 

「何が起こって……!?」

 

 近くの正実の子たちの声が聞こえた。各々の動きはまばらで、統率が取れている様子はない。彼女らが混乱しているのは明らかだった。

 

「ゲヘナです! ゲヘナの美食研究会が!」

「こちらに向かっているとの情報!」

「早くハスミ副委員長へ連絡を!」

 

 委員長よりも副委員長への連絡が急がれる様子は異質ではあるが、ツルギ委員長は勝手に出動するとある意味信頼されているのだろう。あの方の冷静さとバーサーカーぶりの二面性は非常にギャップがある。

 

 しかし、そんなことよりも気になることがある。

 

 

 

 

 ……ゲヘナが、こんなところに? エデン条約も目前に迫った、この時期に?

 

 

 

 

 ふと頭をよぎるのは、あの日のセイア様との対話で得た、一つの仮説。

 

 

 

 

 ……エデン条約は、崩壊する。

 

 

 

 

「……っ!」

 

 そんな焦りから、私は物陰に隠れながら正実のみんなが向かった先を見た。

 

「んんっ!? んーーーっ! んんんんんっ!?」

「御覧なさい。このゲヘナ給食部長の、感涙にむせび泣くほどの同意を!」

「猿ぐつわのせいで、何を言ってるのかさっぱりですけどね★」

「うわっ、マグロがまだビチビチ跳ねてる! ひれでビンタされてるっ!?」

「イズミ、ちゃんと捕まえてて! それすっごい高いんだから!」

 

 そこにいたのは5人。内一人は明らかに誘拐されたような被害者の風貌だ。よって首謀者は4人。イズミと呼ばれた少女が随分と大きなマグロを抱えている。

 あれは確か……展示中だったはずのゴールドマグロ? 売り飛ばすつもりだろうか? ……それにしてはしっくりこないような?

 

「ところでこれいつ食べられるの? マグロにはビンタされるし、黒いセーラー服の子たちに追いかけられるし、そろそろお腹すいたんだけど!」

 

「黒いセーラー服って、それ正義実現委員会じゃん!? こっちの風紀委員会と同じくらいヤバいよ! どうするのハルナ、逃げ切れるの!?」

 

 イズミさんの言葉に赤い髪の少女が焦りを漏らした。

 しかし、ハルナと呼ばれた銀髪の少女は余裕の笑みを一切崩さない。

 

 

 

 

「ふふっ……逃げられるかどうかなんて、大した問題ではありませんわ」

 

 その言葉に、私は戦慄する。

 

 あの余裕は本物だ。本当に大した問題ではないと考えている顔だ。それも、トリニティが誇る武力集団、正実に追われながら。

 

 ……まさか、正実とやり合えるだけの戦力が———

 

 

 

 

「大事なのは食べられるか、否か!」

 

 

 

 

 ……そんな私のおバカな考えは、いとも容易く崩れ去る。イトちゃんがいとも容易く……なんちゃって。

 

「つまりは「食べるか、死ぬか(eat or die)」! ただその二択のみ! それこそが、私たち美食家が歩むべき孤高な道なのです!」

 

 つまり、この人たちは実に愉快なお方たちということだ。まあ「美食研究会」なのだから、希少種たるゴールドマグロを味わいたいと考えるのは至極真っ当な思考である。

 ヒントは十分だった。それなのにこの回答に至れなかったのは反省だ。ハナコ先輩ならすぐに分かっただろうに……私もまだまだである。

 

 

 

 

ドバババババ!!!

 

 

 

 

 そこへ銃声が響く。正実の生徒によるものだ。夜中なのにこうした出来事に対応せねばならない正実の人たちには頭が上がらない。

 

「そんな高らかに喋ってないで、適度に戦って逃げないと!!」

 

 赤髪の少女が声を上げる。今のところ給食部長を含めて二人目の常識人に見えた。苦労してるんだろうな……これからも苦労は絶えないだろうから頑張ってほしい。ひそかに敬礼を送る。

 

 ……いや、こんなことしている場合じゃない。要するにここが戦場と化すということだ。一応武器は持っているけど、口径の小さいハンドガンとグレネードだけ。ちょっと心許ない。銃なんてまともに撃ったことないし……。

 

 そんな風に考えている、その時だった。

 

 

 

 

ドォオオオオオン!!!

 

 

 

 

「うわぁ!!」

 

 

 

 

 最初に聞こえたのは爆音。さらに全身を襲う衝撃。

 

「うぅ……」

 

 次いで知覚できたのは痛みだった。徐々に意識が正常に戻ってくると、自分のすぐ近くで爆発物が起爆したことが分かった。

 

 巻き込まれた。流れ弾か何かに当たったのだ。そして私は焦る。

 

 

 

 

 ……やばい。やばいやばいやばいやばい!!

 

 今日の用事は誰にも言ってない! もしここで何らの傷を残してしまえば、ここにいたことがバレてしまう! ミカちゃんはともかく、ハナコ先輩にはこれだけでも十分すぎるヒントになる!

 

 

 

 

 あの事(・・・)は、誰にもバレるわけにはいかない!!

 

 

 

 

 逃げなきゃ……。そう思い、転がる身体を起こすために地面に手をついた、その時だった。

 

「っ!? ぐっ、うぅ!?」

 

 右手から伝わる、圧倒的な違和感。引き裂かれるような激痛に喘ぐしかなかった。

 

 

 

 

 改めて自分の右手を確認すると、そこにあるのは———信じられないほどグニャグニャに折れ曲がった指だった。

 

 

 

 

 ……やらかした。傷を残してしまった。

 

 これは、私の個人的な問題だけじゃない。ゲヘナ生が「ティーパーティーの付き人」に怪我を負わせたという事実を残してしまう。

 

「うぅ……」

 

 やっとの思いで身体を起こし、瓦礫の影にもたれかかる。

 

 ……もしこの怪我をエデン条約反対派に見つかれば、これを理由にゲヘナとの因縁を作られてしまう可能性もある。

 この怪我は、明らかに失敗だ。私の危機感が足りなかった。

 

 ……しかし、苦難はそれだけで終わらない。

 

 

 

 

「止まりなさい、ゲヘナ!」

 

 意志のこもった声。凛とした正義感と確実な強さを孕むその声に、私は聞き覚えがあった。

 

 

 

 

 ……正義実現委員会副委員長、羽川ハスミ様である。

 

 この方はまずい。ハスミ様はゲヘナ嫌いで有名である。エデン条約に向け理性的な判断を下してくださることへの疑いはないが、私の怪我があればもしかしたら話は変わってくるかもしれない。ハスミ様はそれだけ優しい方だ。

 

 ひとまずこの場は身を潜めるほかない。それに、折れた指を元に戻さなければ。

 

「うっ、ぐうぅぅ……」

 

 適当な木の板を噛み、歯を食いしばる。痛いと分かっていながら力を込めるのはなかなか難しい。

 

 

 

 

 ———パキッ

 

「がっ、ぁ……」

 

 痛い……けど、痛みには慣れてる。何とか声は押し殺すことができたし、指も元の位置に戻った。右手の指は一本残らず赤黒く変色してしまったが。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 次は固定だ。そう思い、咥えていた木の板を指へあてがう。包帯代わりの布は、今着ている私服のパーカーを破くしかないかな……。

 

 私がそう思い、服の裾へと手を伸ばした、その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……イト?」

 

「っ!?」

 

 突如降りかかる人の声に、私は反射的に顔を上げた。

 

 その声の主は、先生だった。

 

 

 

 

「っ! どうしたのそのけが———」

 

 私は大慌てで、私の怪我に驚く先生の口を無事な左手で塞ぎながら先生を押し倒す。かなり強めに抑えてしまっている気がするがそんなことに気を遣う余裕はない。

 

 なぜこんなところに先生が? 何でこんなタイミングで? 私の怪我を見られた!?

 

 

 

 

 ……くそっ! やっぱり、大人は嫌いだ!!!

 

 

 

 

 しかし、そんな私の理不尽な怒りとは裏腹に、私はさらに追い詰められることになる。

 

 

 

 

「先生! 指揮をお願いします!」

 

 

 

 

 それは、本来ハスミ様しかいなかった場所から聞こえた……ヒフミ先輩の声。

 

 ……それだけで見なくてもわかる。大方、ハスミ様への連絡が入ったところにたまたま先生率いる補習授業部が居合わせ……対美食研究会へと同行したのだろう。

 私以上に身体が脆弱な先生は、流れ弾を防ぐために物陰から指揮を送る作戦……なんだと思う。

 

 ……つまりこの場には、ハナコ先輩もいる。

 

 それは、考え得る限り最悪の———

 

 

 

 

「……っ! 先生、手短に話します!」

 

 私は先生の上に乗り、先生の耳元へ口を近づける。万が一にも聞かれるわけにはいかない。

 

「私がここにいたことは、他の誰にもバレたくないです! ……ので! みんなには私がいない体を装ってください!」

 

 

 

 

「……あれ、先生?」

 

 なかなか返事をしない先生を心配するヒフミ先輩の声が聞こえる。時間の猶予はない。ここで私も必殺技を使うとする。

 

「さもなくば、先生が大事にしているフィギュア……全部ぶっ壊します!!」

 

 瞬間、先生の顔が一気に青ざめる。この前に先生の財布からちらっと見えたレシートの内容を覚えていて正解だった。二桁万円のフィギュアの購入履歴があったのだ。相当大事にしているはず。

 

 

 

 

「先生? 大丈夫ですか!?」

 

 いい加減不安になったのだろう。ヒフミ先輩の声に緊迫感が増した。

 

「……じゃあ、お願いしますよ」

 

私はそう言い残し、先生の上から降りる。

 

 

 

 

イト……後で病院に絶対連れて行くから……ごめん! 瓦礫に躓いて転んじゃった!」

 

 先生は起き上がるなり、そう言い放つ。さすがは大人、こういうことは慣れっこなのだろう。

 

「えぇ!? 大丈夫なんですか!?」

 

「大丈夫だよ、心配かけてごめんね」

 

 ヒフミ先輩はうまく騙されてくれたようだ。たくさん先生のことを心配してて、本当にいい人。かわいい。

 

 

 

 

「先生……そこに誰かいますか?」

 

「……っ!」

 

 ……さすがはハナコ先輩。相変わらず聡い。私は先生へ目で訴えかけるしかない。お願い! うまく隠してください!!

 

「だれもいないよ?」

 

「そう……ですか」

 

 先生さすがのポーカーフェイス。大人の責任を果たしてくれてありがとうございます。

 

 

 

 

「それじゃあ……いくよ、みんな!」

 

 先生はそういうと、懐からタブレット端末を出した。

 

 

 

 ***

 

 

 

 せ、先生すごい……。

 

 あの戦いを見た私の感想はそれだった。補習授業部や正実のみんなの動きが、先生の指揮によって明確によくなっているのが分かった。

 もちろん的確な指示による戦術もすごいけど、先生の強みはきっと生徒一人一人の特性をよく理解していることだろう。直接参加はしていないけど、私にとっても実りのある戦いだったと思う。参考になった。

 

 ある程度戦った後、美食研究会の人たちは各々バラバラに逃げたものの……一人を除いて全員捕まったようだ。あの給食部長の方も捕まってしまったらしい。とてもかわいそう。

 

 捕まった彼女らの身柄は本来ならトリニティ側が処罰を決めるのだが、時期も相まって処置はゲヘナへ託されるそうだ。

 また、このゲヘナへの受け渡しをシャーレが担当することになった。第三者が介入することで両校の政治的な摩擦を解消することが目的だ。

 

 この提案をしたのはハスミ副委員長だったらしい。失礼だが……彼女がしっかりと理性的な判断をしてくれて一安心である。

 

 それと、先生の尽力もあって私の存在はみんなにバレていない。フィギュアの効力がすさまじい。これからも必要とあらばこの手法を使わせてもらうことにする。

 

 

 

 

 そして、話は現在に至る。

 

「……あなたは?」

 

 私は目の前の人にきっかり90°のお辞儀をする。

 

「わ、私は糸巻イトと申します!」

 

 美食研究会をゲヘナへ輸送している先生の下へ、尾行した私が「私も連れてって」と突撃したのだ。

 理由は一つ。ゲヘナの生徒を一度この目で見てみたかったからだ。

 

 トリニティにいると、ゲヘナの悪口はよく耳にする。野蛮だとか、角がどうだとか……。両校の間の溝は非常に深いものだ。

 

 でも、私はみんながみんなそうだと考えたくないのだ。何かの枠組みで一括りにできるほど人間は簡単じゃない。必ずいい人だっているはず……。

 

「糸巻イト……。確か、聖園ミカの……」

 

 美食研究会みたいなテロ集団じゃなくて、せめて普通の人が来てくれたらなぁ……。

 

 

 

 

 ……なんて考えていたのに、まさか風紀委員長(空崎ヒナ)が来るなんて。

 

 私よりも小柄なはずなのに、戦車でも前にしているのかと勘違いするほどの威圧感を覚える。しかも私のこと知ってるし、目つき鋭いし……。正直言って怖い。さっきから震えが止まらない。

 

 

 

 

「それで、どうして先生と一緒にいるの?」

 

 

 

 

 空崎さんの言葉に、私は息を飲む。

 

 空崎さんが言いたいのは……「せっかく先生が政治色を弱めてくれたのに、ティーパーティーに関係が深いおまえが出てきたせいで台無しになったんだけど、どう責任を取るつもり?」ということだろう。

 

 風紀委員長の噂は何度も聞いたことがある。圧倒的な強さと冷酷さ。一度規則違反者を目にすれば、地獄の果てまで追い詰める……。

 

「ご、ごごごごご、ごめ、ごめぬっ……!」

 

 くそっ! 動け私の口!!

 

「……そんなに怖がらないで。別に責めているわけじゃない」

 

「し、ししし死刑だけは……」

 

「そんなことしない」

 

 私が過去一のビビりをかましていると、先生から声がかかった。

 

「イト、ヒナはいい子だよ。少なくとも私は信頼してる」

 

 

 

「……っ!」

 

 先生の言葉を聞いた瞬間、空崎さんの顔が赤くなる。それは噂に聞く冷酷さとはかけ離れた姿だった。

 

 ……あれ? 聞いてた話よりもずっとかわいい?

 

「あの……私がここにいるのは、単なる好奇心からで……。政治的な思惑は全くありません。ごめんなさい、変なこと言って……」

 

「……っ。そう、わかったわ」

 

 

 

 

 ……やはり、噂などあてにならない。

 

 

 

 

「それでヒナ、聞きたいことがあるんだけど」

 

 先生が口を開く。

 

「うん? 聞きたいこと……?」

 

 先生は今の状況とこの先の展望について、空崎さんに詳しく話した。

 

 ティーパーティーから補習授業部の担任を任されたこと、補習授業部の現状、ナギサ様の思惑———裏切り者の追放と、ミカちゃんのエデン条約に対する考え。それと水着パーティー。

 

 この話を聞けたのは私にとってもありがたい話だった。ミカちゃんは自分を裏切り者の線から外すために、エデン条約の持つ強大な力の危険性を先生に説いたようだ。ミカちゃんの立場に立って考えれば、先生の知っている情報とそうでない情報をうまく織り交ぜたいい作戦だと思う。

 

 しかし、私にはそれよりも印象深いことがあった。

 

 

 

 

 ……へぇ。それ、私にも聞かせちゃうんだ。

 

 

 

 

 ……先生の立場で、私のことは絶対に信用してはいけないはずだ。現状で私以上に怪しく見える生徒はいないはず。その私の前で今の話を軽々しくするだなんて、あってはいけないことだ。

 

 やはり、大人は信用ならない。

 

 

 

 

「エデン条約が軍事同盟、ね……まあ、興味深い見方ではあるかもしれない」

 

 空崎さんが口を開く。

 

「ただ、少なくとも私はそうは思わない。あれはれっきとした平和条約、私はそう考えてる」

 

 それから空崎さんは自分の考えを話した。

 

 ミカちゃんの指摘したのはエデン条約機構(ETO)に暴走の危険性があること。しかしそんな暴走が起こるなら、それは両校のトップ———ナギサ様や羽沼マコトさんらが協力することを意味する。そんな協力ができているのならば、はなからエデン条約などいらない……というのが空崎さんの考えのようだ。

 

 また、ゲヘナ側でエデン条約を推し進めたのは空崎さんだということも言っていた。なんでも、ETOができればゲヘナの治安もよくなるはずで、そうなれば自分が風紀委員長じゃなくてよくなると考えたかららしい。

 

「なるほど……」

 

 ……少なくとも私は、目の前の彼女が噂に聞くような冷酷無慈悲な人間になど見えない。そこにいるのは、ただ他人より強くて優秀なだけの……ちゃんと弱さを持った一人の少女だ。

 

「……糸巻イト、あなたはどう考えているの?」

 

「私ですか?」

 

 急にバトンが来てびっくりした。しかも空崎さんから。

 

「そう……トリニティ側から見た意見も聞きたいから」

 

 ……なるほど。空崎さんは真面目な方だ。ならば私も真面目に答えるとする。

 

 

 

 

「……エデン条約が平和条約であるという考えには完全に同意します」

 

 本当は、ETOができたからと言ってゲヘナの治安が良くなるとも思わないし、風紀委員長を引退したら今度はETOの重役が待っているだけだと思うけど……それを口にするのは空崎さんの願いを嘲る行為だと思うからやめておいた。

 

 

 

 

「ただ……「契約」はここキヴォトスで大きな意味を持ちます。エデン条約ほどの大きな契約、もしも誰かに利用されることがあれば……」

 

 私は先生を睨む。

 

 これは私の本音だ。エデン条約の崩壊があるならば、これしかないと私は考えている。

 

 契約の悪用。人を騙し、陥れ、自分だけが利益を得るよう仕向ける……。

 

 そんなことをするのはいつも……大人だ。

 

 

 

 

「それと」

 

 私は言葉を続ける。

 

「……正直言うと、私はエデン条約がよくわからないんです」

 

「というと?」

 

「もちろん、両校の長年にわたるいがみ合いを公的に解消することの意義はわかります。でも……」

 

 私は空崎さんに近づく。

 

「私と空崎さんは、こうして話しているじゃないですか」

 

「……」

 

「それだけじゃダメなのかなって」

 

 その場に沈黙が流れる。

 

 やはり、私の意見はあまりに身も蓋もない。

 

 それでも私は、こんな理想論が好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「風紀委員長、まだですか?」

 

 沈黙を破ったのは救急医学部の部長、氷室セナさんだった。

 

「……ええ、今行く。……でも、その前に」

 

 空崎さんが私へと近づく。

 

「……?」

 

 彼女が私の右腕へと手を伸ばし……真っ黒に変色した指を持ち上げた。

 

「……っ!」

 

「やっぱり」

 

 

 

 

 ……私は今まで右手を背後に隠していた。うまく隠しているつもりだったのに。いや、風紀委員長相手に隠し通せると考える方が悪かったかもしれない。

 

 私の指を見た瞬間、空崎さんが顔をしかめた。

 

「……これ、ずっと放置していたの?」

 

「……気づいていたんですか」

 

「ええ……。美食研究会(こいつら)のせいよね? ……ごめんなさい」

 

 彼女が私に頭を下げた。

 

「っ! 空崎さんが謝ることでは……」

 

「いえ、これはゲヘナ側の責任よ。……セナ、お願いできる?」

 

「わかりました」

 

 氷室さんはそう言い、私の手を取った。

 

 

 

 

 彼女の手際はとてもいいもので、あっという間に添え木と包帯で私の手が固定された。私はその間、用意された椅子に座りながら「この人の髪色私に似てる」なんて思っているしかなかった。

 

「終わりました。治るまではあまり動かさないようにお願いします」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 氷室さんは処置を終えると、車の運転席に戻った。

 

 

 

 

「……イト」

 

 空崎さんの声だ。

 

「それ、あえて黙っていたのでしょう? エデン条約を前に余計な心配を生まないようにって……」

 

「……そう、ですね」

 

 空崎さんの顔が近づく。

 

「私が言うことではないかもしれないけれど……周りのためといって自分を犠牲にしすぎるのは考えものよ。きっと……イトが傷つくと悲しむ人がいるはずだから」

 

 ……空崎さんの言うことはもっともだ。だからこそ、私の心に深く刺さる。

 

 

 

 

 だけど、それでも私は……。

 

 

 

 

「じゃあお疲れ様、イト、先生。また……」

 

 そう言い、空崎さんは車へと歩みを進めた。

 

「……補習授業部のことは、先生が守るのよね?」

 

「うん」

 

「……そう」

 

 空崎さんは安心したように目を閉じる。……本当に噂はあてにならない。

 

「最後に……イト」

 

「は、はい!」

 

 彼女と目が合った。

 

 

 

 

「あなたの考え……私は好きよ」

 

「……」

 

「……じゃあ、またね」

 

 そう言い残し、彼女を乗せた車が走り出す。

 

 私の胸には、彼女の言葉が温かく響き続けていた。

 



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ナギサビーティング


 うおおおおお!!
 ハレ!!マキ!!チヒロ!!!

 キャンタマぁぁぁあああああああああ!!!!!


 今回ほぼ原作通りです。


 

 それはアズサの言葉だった。

 

「……ティーパーティーのナギサが探してる『トリニティの裏切り者』は、私だ」

 

 第二次特別学力試験がナギサの妨害により不合格になった。残すは三次試験だけとなりもう後のない補習授業部は、翌日に迫ったそれを前に眠れない夜を過ごしていた。

 

 しかしハナコより告げられた現状———正義実現委員会により、試験会場への立ち入りは何人たりとも認めない———に、皆は絶望することになる。

 

 ……試験を受けたいのならば正義実現委員会を敵に回せ。

 

 それは、ナギサの「裏切り者」に対する強大な敵意の表れだった。

 

 そんな現状に、これ以上隠し通せないと考えたアズサが自らの正体を明かしたのだ。

 

 その後もアズサは話を続ける。自分がアリウスの出身であること、そのアリウスからナギサのヘイロー破壊という任務を受けてトリニティに潜入していること、明日の朝にアリウスの生徒たちがナギサを狙ってトリニティに潜入すること。そして———

 

 

 

 

「……私は、ナギサを守らなきゃいけない」

 

 ———アズサの考え。それは話の流れを真っ向から裏切るような、確固たる意志だった。

 

「ま、待って! おかしくない!?」

 

 アズサの言葉に、コハルが声を上げる。

 

「よ、よく分かんないけどアズサはティーパーティーをやっつけに来たんでしょ? なのに守るってどういうこと? 話が合わないじゃん!」

 

 至極当然の疑問だった。コハルの意見にその場の皆が同意した。

 

 ……ただ一人を除いて。

 

「……アズサちゃん自身(・・)は、最初からその目的でトリニティに来た。そういうことですね?」

 

 それはハナコの声だった。

 

 ハナコは知っていたのだ。アズサがアリウスの人物と密会をしていたことを。その上で裏切る準備を一人進めていた、二重スパイであることを。

 

「……どうして、ナギサさんを守ろうとするんですか? それは、誰の命令で?」

 

「……これは誰かに命令されたわけじゃない。私自身の判断だ」

 

 アズサは続ける。

 

「桐藤ナギサがいなければ、エデン条約は取り消しになってしまう。あの平和条約が無くなればこの先、キヴォトスの混乱はさらに深まるだろう。その時また、アリウスのような学園が生まれないと思えない……」

 

 アズサの動機。それはとても勇敢で、正義感と慈愛に満ちていて、それでいて———

 

「……とっても甘くて、夢のような話ですね。今回の条約と同じくらい、虚しい響きです」

 

 ハナコの言葉はとても厳しく、しかして本質を突いたものだった。

 

 アズサは嘘をつき、周囲を騙した裏切り者だ。そしてその裏切り者のせいで、何の罪も無い補習授業部のメンバーが退学の危機に陥っている。

 

 それは紛れもない事実であった。

 

「アズサ、ちゃん……」

 

「本当にごめん。私のことを恨んでほしい。今のこの状況は全て、私がもたらしたことだから……」

 

 アズサが痛みを堪えるように俯きながら、そう吐き出した。

 

 しかし、そんな姿に黙っていられない人物がいた。

 

 

 

 

「……それは違うよ」

 

 

 

 

「……先生?」

 

 アズサがはっと顔を上げる。

 

「元々の原因はきっと、『信じられなかったこと』の方」

 

「……」

 

「ナギサがもっとヒフミを、ハナコを、アズサを、ハスミとコハルを信じていたら」

「ミカがもっと、ナギサのことを信じていたら」

「もっとお互いがお互いを深く信じられていたら、こんなことにはならなかった」

 

 そんな先生の言葉に、皆が押し黙る。

 

 他人を信じる……。それはひどく難しく、虚しい響きだった。

 しかし、先生の瞳は確かな意思を宿している。

 

「そうですね、そうかもしれません」

 

 沈黙を破ったのはハナコだ。

 

「……ごめんなさい。先ほどのは何と言いますか、どうしても意地悪がしたくなってしまったんです。アズサちゃんの真っ直ぐな顔を見ていると、何だか心が落ち着かなくなってしまって」

 

「……」

 

 ハナコが纏う何とも言えない異質な威圧感に、アズサが顔を引きつらせる。

 

「本来ならアズサちゃんのような『スパイ』は、こんな注目されるところに長くいてはいけないはずです。誰にも気づかれないように消える……そういう手段やタイミングは、今までいくらでもあったはず」

 

 しかし、ハナコの表情は真剣そのものだ。

 

「……しかしアズサちゃんは、そうしませんでした。その理由を、私は知っています」

 

 ナギサの保護を第一の目標に据えるのなら、———より酷なことを言えば、補習授業部の皆を救いたいと考えるのであれば———本来するべきではないのにもかかわらず、アズサが補習授業部に残り続けた理由。

 

「……補習授業部での時間があまりにも楽しかったから。そうではありませんか?」

 

「……!」

 

 勉強をする、ご飯を食べる、洗濯や掃除をする……目標に向かって努力する。それも、友達と一緒に。

 

 それが、あまりに楽しかったから。

 

「違いますか、アズサちゃん?」

 

 アズサは言葉を詰まらせる。いろいろな言葉が頭をめぐり、口に出かかっては引っ込めた。

 

 しかし、そうして出した結論はただ一つ。

 

「……そうかもしれないな」

 

 それは単純なことだった。

 

「何かを学ぶということ、みんなで何かをするということ……。その楽しい時間を、私は手放せなかった……」

 

 もっと学びたい。もっといろんなところへ行って、いろんなことを知りたい。

 

 ただそれだけだった。

 

「アズサちゃん……」

 

 ヒフミがアズサを見つめる。アズサの想いは、皆も同じだった。

 

「何だか知ったような口をきいてしまいましたが……分かるんです、その気持ち。何せ……はい。同じように思った人が、いたんです」

 

 ハナコは話す。何かと要領が良くて、何でもできてしまった(・・・・・・・)その人のことを。

 

「その人にとってトリニティ総合学園は、嘘と偽りで飾り立てられた、欺瞞に満ちた空間でした」

 

 誰もがその人の能力を必要とした。いや、正しくは「どの組織も」だ。

 そこにその人自身(・・)へ向けられる感情など一つもなかった。その人の能力以外を、誰も見てはいなかった。

 誰にも本心を話せず、本当の姿を見せられず。

 

 

 

 

「さらにその人は、突如現れた後輩(・・・・・・・)に……勝手に過去の自分を、そして自分の『もしも』を重ねていました」

 

 ハナコは続ける。

 

「その後輩も本当に何でもできて、賢くて……。自分のようにならないよう、その人は後輩を守り、導くつもりでした」

 

 ハナコは俯き、自分の腕を強く握った。

 

「しかし、そんなその人の傲慢は、後輩に不幸をもたらしました。その後輩は他人を想うあまりに、自分の身を犠牲にし始め、そして、この学校に……」

 

 

 

 

 ……殺されかけました。

 

 

 

 

 その音を耳にした人物はいなかった。しかし誰もがその言葉を聴いた。

 ハナコの纏う怒りや後悔。それは誰の目にも明らかだった。

 

「その人にとって、全てのことは無意味で……学校を、辞めようとしていたんです。……その後輩もついて来てくれるんじゃないか、なんて縋ったりもして」

 

 それは……ハナコにしては珍しい、紛れも無い本心の吐露だった。

 

「ですが……その人とアズサちゃんは違いました」

 

 アズサがもし目的を遂げたなら。書類を偽造してトリニティに入学したのに、アリウスをも裏切ってしまったら。

 

 アズサは、帰る場所を失ってしまう。

 

 にもかかわらず、アズサはいつも一生懸命だった。

 

「アズサちゃんいつも口癖のように言っていた通り、全ては虚しいもの(vanitas vanitatum)のはずなのに」

 

 皆の顔が曇る。

 

「ですが同時に……アズサちゃんはその後ろに、いつも言葉を付け加えていました」

 

 

 

 

『……うん。たとえ全てが虚しいことだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない』

『それにあの事態は気の毒だけど、いつまでも虐げられてるだけじゃダメ。それがたとえ虚しいことであっても、抵抗し続けることを止めるべきじゃない』

 

 

 

 

 アズサの言葉。いつも彼女が失わない、強さの正体。

 

「そうして……ようやく、その人も気づいたんです」

 

 ハナコが静かに目を閉じた。

 

「……学園生活の、楽しさに」

 

 自分をさらけ出せる人たちと、何かに全力で挑むこと。それがこんなにも楽しかったんだと。

 

 

 

 

 それを、後輩(イト)にも知ってもらえたら……。

 

 

 

 

 ハナコが目を開く。

 

「アズサちゃん、もっと学びたいんでしょう? もっと知りたいんでしょう? みんなで色んなことをやってみたいって、あの時話したじゃないですか。海に遊びに行くとか、ドリンクバーで粘って夜更かしとか。……それを、諦めてしまうんですか?」

 

 それは、答えの分かりきった問いだった。

 

「……何も諦める必要はありません」

 

 ハナコが強い意志を持って宣言する。

 

「桐藤ナギサさん……彼女を、アリウスの襲撃から守りましょう。そして私たちは私たちで無事に試験を受け、合格するのです」

 

 しかし、アリウスの襲撃と試験開始時刻は同時。ハナコの宣言は、物理的に不可能なものだった。

 

 ……本来であれば。

 

「今ここには正義実現委員会のメンバーと、ゲリラ戦の達人と、ティーパーティーの偏愛を受ける自称凡人な人と、トリニティのほぼ全てに精通した人がいます」

 

「……?」

「へ、偏愛……!?」

「……?」

 

「その上、ちょっとしたマスターキーのような『シャーレ』の先生までいるんですよ?」

 

「ま、まあ……」

 

 周囲の困惑とは裏腹に、ハナコがニッコリと……それはもう満面の笑みを浮かべた。

 

「この組み合わせであれば、きっと……トリニティくらい、半日で転覆させられますよ♡」

 

 ハナコの言葉に、各々が驚きの反応を示す。ハナコは「試験を受けて合格するだけです♡」などと言っているが、本当か疑わしいほどの笑みだ。

 

「さあ、今こそ力を合わせるときです。行きましょう!」

 

 

 

 ***

 

 

 

「……ふぅ」

 

 私用のセーフハウスにて、もう何杯目かも分からない紅茶を飲み干し、ナギサは息をつく。紅茶のカフェイン故か……はたまた別の理由か。ナギサは眠れない夜を過ごしていた。

 

 ナギサの頭にあるものは一つ。

 

 

 

 

 ……ついに、エデン条約を阻止しようとする「裏切り者」との戦いが終わる。

 

 

 

 

 補習授業部を設立してから長かった。自分の持つ権利、さらにはシャーレまでをも最大限に利用し、裏切り者と戦ってきた。それで失ったものも大きいかもしれないが、ナギサにとってもはや仕方のないこととすでに切り捨てたものだ。

 

 そんな戦いの大詰め。三次試験のボーダーは大きく上げた。それに、正義実現委員会まで使って戒厳令を敷かせた。

 

 ……抜かりはない。これで間違いなく、裏切り者は追放できるはずだ。

 

 

 

 

 ———コンコンコン。

 

 

 

 

 そんな中、突如として部屋にノックの音が響いた。

 

「……紅茶でしたらもう結構です」

 

 ナギサは、そのノックが紅茶のおかわりを淹れに来た使用人のものだと考えた。

 

 しかし、その考えは間違いだとすぐに知ることになる。

 

 

 

 

 ギィイイイイ———。

 

 

 

 

 そのドアが勝手に開いた。

 

「……?」

 

 ナギサは困惑する。自分は「結構だ」と言ったのだ。主人の許可なしに入室する使用人などありえない。

 

 

 

 

「……可哀そうに、眠れないのですね」

 

「っ!?」

 

 その声に、ナギサの顔が強張る。なぜならその声はまさしく———

 

「それもそうですよね、正義実現委員会がほとんど傍にいない状態……不安にもなりますよね、ナギサさん?」

 

「う、浦和ハナコさん……!? あなたがどうして、ここに……!?」

 

 ———補習授業部のメンバー、浦和ハナコだったからだ。

 

「それはこのセーフハウスをどうやって知ったのか、という意味ですか?」

 

 ハナコは告げる。ナギサの87個のセーフハウス、そのローテーションから変則的な運用まで、すべて把握していることを。

 

 ……情報戦で完全に後手に回っている。その事実がナギサを焦らせ、椅子から立とうとするも……。

 

「動くな」

 

「……!」

 

 背後より忍び寄った白洲アズサに銃口を向けられ、阻止された。

 

「白洲アズサさん、浦和ハナコさん……まさか……!」

 

 ナギサはいつまでもにやけ顔をやめないハナコを睨みつけた。

 

「『裏切り者』はひとりではなく、ふたり……!?」

 

 ナギサの言葉に、ハナコはますます笑みを深めた。

 

「……ふふっ、単純な思考回路ですねぇ♡ 私もアズサちゃんも、ただの駒に過ぎませんよ。指揮官は別にいます」

 

「……!!」

 

 ナギサは歯ぎしりをした。ハナコの煽りにではない。

 

 ……裏切り者による被害の、予想外の深刻さにだ。

 

「それは、誰ですか……!」

 

 ナギサは凄まじい剣幕でもって問いかける。

 

 すると、ハナコは先ほどまでのにやけ面が嘘のように真剣な面持ちに変わった。

 

「そのお話の前にナギサさん……ここまでやる必要、ありましたか?」

 

「……」

 

 ハナコの問いに、ナギサは返す言葉を持っていなかった。

 裏切り者との戦いの間、常に考えていたことだ。

 

「最初から怪しかった私や、アズサちゃんは仕方ありません。ですが……ヒフミちゃんとコハルちゃんに対しては、あんまりだと思いませんか?」

 

 ハナコの言うことは正しい。

 

「特にヒフミちゃんは……ナギサさんと、仲が良かったじゃないですか。どうしてこんなことをしてしまったのですか? ヒフミちゃんがどれだけ傷ついてしまうのか、考えなかったのですか?」

 

「……そう、ですね。ヒフミさんには悪いことをしたかもしれません……」

 

 正しいが———それはもう割り切ったものだ。

 

「ですが、後悔はしていません。全ては大義のため。確かに彼女との間柄だけは、守れればと思っていましたが……私は……」

 

 もちろん、未練などタラタラである。ヒフミのことは大切に想っているし、想われていたいとも思う。

 それでも……全ては大義のため、エデン条約のため。ナギサはそう考えていた。

 

 

 

 

「……ふふっ♡」

 

 

 

 

 先ほどまで真剣な面持ちだったハナコの顔が、またもにやけ顔に変わる。

 

「ではあらためて私たちの指揮官からナギサさんへ、メッセージをお伝えしますね」

 

 ナギサの脳が警鐘を鳴らす。この先を聞いてはならないと、本能で理解する。

 ……しかし無情にも言葉は紡がれた。

 

 

 

 

「『あはは……えっと、それなりに楽しかったですよ。ナギサ様とのお友達ごっこ』……とのことです」

 

 ……それは、彼女の———ナギサが親愛を向ける、阿慈谷ヒフミのものだった。

 

「……っ!? ま、まさか、ということは……!?」

 

 ナギサの脳が回る。決して結びつけてはならないはずの、ヒフミと裏切り者の姿が……トリニティに仇をなし、今までナギサを散々苦しめた忌むべき存在が……繋がる。

 

 しかしそんなナギサの絶望よりも先に、アズサが向けた銃の引き金が引かれた。

 

 そして、ナギサの意識は底へ落ちる……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……はずだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドォオオオオン!!!!

 

 

 

 

 突如響き渡る爆音、そして舞い上がる土埃。

 

 そして次第に晴れ行く土埃から、徐々に一人の人物の影が浮かび上がる。

 

「「「!?」」」

 

 それは、その場の誰も……ハナコでさえ予測していなかったものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はいはーい☆ ちょーっと待った!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その場に見合わない明るい声、ピンク色の髪、壁を素手で破壊するほどの膂力。

 

 そんな人物は一人しかいない。

 

 ティーパーティーながら、トリニティの戦略兵器と名高い「剣先ツルギ」にも匹敵する強さを持った……。

 

「……ミカさん!!!」

 

 ナギサは突如現れた強力な助っ人に、安堵の笑みを浮かべた。

 

 

 

 

「あはは☆ 迎えに来たよ、ナギちゃん!」

 

 





 今回はイトちゃんの出番がありませんでした。

 もしかしたら次回もそうかも……。


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ナギサ'sブレインブレイキン!


 ナギちゃん負けないでっ!


 

「うーん、間一髪ってところかな☆」

 

 第三次特別学力試験を翌朝に控えた夜。補習授業部の「裏切り者」に囲まれ、ピンチに陥っていたナギサの前に颯爽と現れたのは、幼馴染である聖園ミカだった。

 

「聖園、ミカさん……なぜここに!?」

 

「えーっと……浦和ハナコ、だっけ? あはっ、ごめんね! ナギちゃんは私がもらうよ☆」

 

 ハナコが先ほどまで浮かべていた余裕の一切を無くしてミカに問うと、ミカは余裕綽々と言った表情で返した。その姿を見てナギサは安堵を深め、ハナコににやけ面を返す。

 

「ふっ……残念でしたね、ハナコさん!」

 

 ナギサは先ほど受けた脳へのダメージの意趣返しのように、ハナコを煽った。

 そしてミカの方へ向き直り、現状を伝えるべく言葉を捲し立てる。

 

「ミカさん! 裏切り者の正体が分かりました!」

 

「……へぇー」

 

「ハナコさんとアズサさん……それに、ここにはいませんがヒフミ、っ、さん……です!!」

 

 ヒフミが裏切り者だなんて信じられないし、信じたくもない。その想いがナギサを未だに困惑させている。

 

 しかしそれも、ミカの存在で全て解決する。

 ミカは強い。補習授業部が一丸となってミカに挑んだとしても、ミカの勝利は揺るがないだろう。ミカとの付き合いが長いナギサには確信があった。

 

「つまり、補習授業部のほぼ全員が黒です!」

 

 しかし、ナギサは気づかない。

 

 普段の彼女なら……脳破壊を受ける前の彼女なら、気が付けたかもしれない。

 

 ミカの纏う空気の異質さに。

 

「……ハナコさん、アズサさん。投降しなさい」

 

 この場においてナギサだけが理解していない、自分の愚かさに。

 

「ミカさんがこの場にいる以上、あなた方の勝ち目は……」

 

 

 

 

「ナギサさん!! 今すぐミカさんから離れ———」

 

 ハナコが叫ぶ。しかしそれは、一歩遅かった。

 

 

 

 

 ———バシッ

 

 

 

 

 ナギサが聞いたのは乾いた音。次いで衝撃。

 

「あはは☆ ナギちゃん、何言ってるの?」

 

 ミカの明るい声が響いた。ナギサが、自分が平手打ちを受けて倒れたのだと理解したのは、頬がジンジンと痛み出し、ミカの振りぬいた手を認識してからだった。

 

「へ……ぁ……?」

 

「補習授業部のみんなが黒? そんなわけないじゃん!」

 

 ナギサは言葉が出せない。状況が分からない。目の前の彼女が……誰か分からない。

 

「だって……」

 

 ミカがナギサの震える顔を掴み、無理やりに目線を合わせた。

 

 そして、ミカの顔にあった笑顔が———消える。

 

 

 

 

「本物の裏切り者は、私だよ?」

 

 

 

 

「な……」

「……っ!」

 

「えっ、あっ……へ?」

 

 ミカのその発言に、アズサとハナコ、ナギサがそれぞれの反応を見せた。

 

「ナギちゃんをティーパーティーから追放して……私がホストになるの☆」

 

 ナギサの意識がぐらりと揺れる。

 

「ナギちゃんは何か勘違いしてるかもだけど、補習授業部はなーんも関係ないよ? ああでも、白洲アズサだけは違うけど」

 

「……」

 

 理解ができない。ナギサの目には、目の前の幼馴染が全く知らない人物に映った。

 

「そん、な……。ち、違います! ミカさんは、そんな人じゃ……」

 

 ナギサは何かに縋るように呟いた。

 

 ありえない。信じられない。幼少から共に過ごしてきたのに、お互いにいろいろなことを分かり合ってきたのに、ナギサには今のミカが全く理解できない。

 

「違う? ……何が違うの? もしかして、補習授業部のことも信じないし、これも受け入れないつもり? 私には自分勝手だの何だの散々言っときながら、人のこと言えないね?」

 

 普段のミカとは似ても似つかない、どこまでも冷え切った声。その見慣れない姿に、ナギサはみっともなく歯をカチカチと鳴らす。

 

 そして紡がれる、呪いの言葉。

 

 

 

 

「あはは☆ ナギちゃんさ……勝手に私のこと理解してる気になってない?」

 

 

 

 

「ぁ……」

 

 あはは。

 

 その言葉がナギサの脳を強く揺する。

 

 

 

 

「糸巻イトちゃん」

 

 

 

 

「ぇ……?」

 

「ナギちゃんさ、あの子のことずーっと疑ってたよね」

 

 突如としてミカが呟いたのは、今までナギサを散々苦しめ続けた人物の名前。

 

 糸巻イト。ナギサが補習授業部よりも警戒していた人物。不透明な素性、優秀すぎる頭脳、理由もなくミカへ尽くす姿。

 ナギサは、もはや心のどこかで裏切り者は彼女であると決めつけてさえいたのかもしれない。ミカに近づき、洗脳し、利用し……不要になれば暗殺でもするつもりなのだろうと、そう思っていた。

 もともとナギサが裏切り者探しに躍起になっていたのは、ミカの為だった。それなのにあの一件(・・・・)以降、ミカがまともに目を合わせてくれなくなった。

 それでも、大切な幼馴染を守れるのならそれでいいと、そう思っていた。どれだけ嫌われてもいいと思っていたのだ。

 しかしその一方で、ナギサはこうも考えてしまった。

 

 彼女のせいでミカがおかしくなった。彼女のせいでミカが狂った。

 

 彼女のせいで、ミカは———自分のことを嫌いになった。

 

 思わず浮かぶそんな責任転嫁を抑えられるほど、ナギサは大人ではなかった。

 

 

 

 

「あの子さ……私にちょっと辛いことがあった時、ずっと一緒にいてくれたんだ」

 

 そう言うミカの表情は本当に穏やかだった。

 

「味方になるって言ってくれたり、付き人になってくれたり、たいして興味もないはずなのにショッピングに付き合ってくれたり……。イトちゃんはね、私があげた髪飾り(独占欲)も、笑って受け入れてくれたの! 私が苦しいとき、ずっと頭を撫でてくれたの! 私が悲しいとき、ずっと抱きしめてくれたの!」

 

「わ、私も……味方———」

 

 ナギサがそう呟いたその時、ミカの顔が激しく歪む。

 

「あはははは!! 味方? 今更何言ってんの!? イトちゃんにあんなことしたのに!? イトちゃんが私にしてくれたこと全部、ナギちゃんはしてくれなかったのに!?」

 

「っ、ぁ……」

 

 ヒフミの裏切り。ミカの裏切り。

 

 ナギサの瞳が次第に潤んでいく。

 

「それとも……まだ理解してないの?」

 

 ミカの顔から、再度表情が消える。

 

 

 

 

「私がナギちゃんの敵なんだって」

 

 

 

 

「いやっ……いやぁっ……」

 

 ミカから告げられる、その言葉。もはや……絶交の宣言ともとれる発言。

 

 ナギサの心はもう、限界であった。

 

 

 

 

「ナギちゃんさ、私のこと理解したいんだよね?」

 

 ミカの頭上で、ゆっくりと……握り拳が形成される。

 

「じゃあさ、まずは味わってみようよ……あの時のイトちゃんの痛み」

 

 そしてその拳は勢いよく、ナギサの側頭部へと振り落とされる———

 

 

 

 

「アズサちゃん!!!」

 

 しかし、その拳がナギサを捉えることはなかった。

 

 ハナコの叫び。同時にミカとナギサの間へ割り込む、白銀の髪。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……邪魔しないでよ、白洲アズサ」

 

「ふっ、ぐうっ……!!」

 

 アズサが自身の銃でミカの拳を受け、ナギサを守る。ナギサは虚ろな目をしており、もはや今の彼女に何かを考える力はなかった。

 

 一見拮抗しているような両者の競り合い。しかしその実は全く異なっていた。

 

「邪魔するなら容赦はしないよ」

 

 ミカの腕に込められる力が増す。

 瞬間、アズサの身体が後方の壁へと叩きつけられる。

 

「ぐうっ!」

 

 アズサが痛みに呻き声を上げた。

 

「……面倒だなぁ」

 

 ミカが拳を下げ、吹き飛ばしたアズサを見ながらそう呟いた。

 

「邪魔だし、面倒だし、イライラするし……なんなら、先にあなたたちから———」

 

 そうしてミカがアズサの方へと一歩を踏み出す、その時だった。

 

「……っ、なにこれ?」

 

 ミカが何かに躓いた。

 

 

 

 

 ドォオオオオン!!!

 

 

 

 

 瞬間、その何か———アズサがナギサを庇った際に、その場で落としていた手榴弾が爆発した。

 

 ミカの足元。項垂れているナギサへと爆風が届き、当然、ナギサは吹っ飛んだ。

 

 そして、ナギサが吹っ飛んだ先には……ハナコがいた。

 

「っ! ナギサさん、捕まえました!!」

 

「……っ!」

 

 ハナコの下へナギサの身が渡ったことを確認すると、ミカが少し狼狽えた様子を見せた。

 

「ナギサさんの身は私が安全な場所へ運びます! だから、アズサちゃんは……っ」

 

 ハナコはそこまで言い、言葉に詰まった。

 

 もともとの作戦は、アリウス生徒たちの足止め及び誘導をアズサが行い、ナギサを安全な場所へ隠した後に先生と残りの補習授業部メンバーと合流し一気に殲滅、というものだ。

 アリウス生徒ならば問題ない。アズサの腕を信じているし、アリウス相手ならば怪我の心配すらないとハナコは考えていた。

 

 ……しかし、相手が聖園ミカであれば話は別だ。

 

 襲撃に来るアリウス生徒の全てよりも、ミカ単体の危険度の方が圧倒的に高い。加えて今のミカは何をするか分からない。

 

 だからこれは賭けになる。しかも掛け金は……アズサの身の安全。

 

 その事実がハナコを迷わせていた。

 

 しかし……。

 

「ハナコ」

 

 アズサは力強く話す。

 

「行ってくれ」

 

「……っ!」

 

 その姿に、ハナコの迷いは吹っ飛んだ。

 

「……気を付けてください!」

 

 そう言い、ハナコはナギサを抱えて走り出した。

 

 

 

 

 そして、残された二人が向かい合う。

 

「あはっ、足止めのつもり? あなたにそれができるの、白洲アズサ?」

 

「さあな……やってみないと分からない」

 

 物静かな深夜のトリニティに、両者の銃声が響いた。

 

 





 ナギちゃんかわいそう……


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トリニティの乱


 こんにちは。

 コ〇ナにかかっちゃってました、ちゅーぴかです。


 

 アズサは走る。

 

「ハァ……ハァ……次は、右……」

 

 息も絶え絶えに呟きながら角を曲がる。

 

「あはっ☆」

 

 深夜のトリニティ。戒厳令もあってかやけに静かなその場に、ミカの明るく軽薄な声が響く。

 ミカが追い、アズサが迎撃しながら逃げる。この構図はアズサの得意とする戦術だった。彼我の戦力差を埋める、ヒットアンドアウェイの戦法。元々はアリウスの生徒たちに使う予定だった爆弾を多分に用いた戦法だ。

 

 しかしアズサは苦難していた。

 

 理由は二つ。一つはミカの圧倒的な硬さである。

 

「格闘も無理。銃も無理。爆弾も無理。もうさ、諦めてナギちゃんの居場所を吐いた方がいいんじゃない?」

 

「……まだだ」

 

 アズサの使命。それはハナコがナギサの身を隠すまでの時間を稼ぐことだ。アズサは壁を盾に、廊下の一本道に立つミカの姿を覗き見た。

 

 どこまでも深く、光を失った瞳に、貼り付けたような薄ら笑い。いっそ恐怖を覚えるほどだ。

 

 手持ちの手榴弾や弾薬はほとんど使い果たした。仕掛けた爆弾も無限ではない。

 さらにアズサを苦難させる二つ目の理由もある。状況は絶望的と言えるだろう。

 

 ……しかしアズサは疑問を抱く。

 

「おかしい」

 

「……え?」

 

「これだけの銃撃戦に、静まり返ったトリニティ。銃声や爆発音は学校中に響くはずだ」

 

「……」

 

 アズサの意図を理解したのか、ミカが押し黙る。

 

 

 

 

「ミカ……アリウスの生徒はどこだ?」

 

 

 

 

 そもそも,本来ナギサを襲撃するのはアリウス生徒の予定だったのだ。本当の裏切り者であるミカがこの場にいること自体不自然である。

 

 二つ目の理由。それはアリウス生徒の加勢が予想されることだった。

 しかし未だにその前兆もない。それがアズサの抱く疑問である。

 

「……さあね」

 

「なに?」

 

 アズサの予想外か、はたまた予想通りか。アズサの問いにミカはふてぶてしく答える。

 

「アリウスは……どこにいるんだろうね? もしかしたらもうナギちゃんを捕まえちゃってるかも?」

 

 そしてミカは悪足掻きのためか、アズサに含みを持たせた笑みを向けた。

 

 アリウスがナギサを捕まえているのであれば、そもそもミカがこんなことをする必要はない。

 そんな矛盾にすら気づかないミカの様子に、アズサの疑問は確信に変わる。

 

「いいや、おかしい。この場にミカが現れれば、情報の優位性を失うことになるはず」

 

「……」

 

「自ら名乗り出なければ、私たちをナギサ襲撃の犯人に仕立て上げることだってできたはずだ」

 

 ミカは黙ったままだ。

 

 

 

 

「ミカ……どういうわけかは分からないが、アリウスはここに来ていないんだな?」

 

 

 

 

「……っ」

 

 アズサの確信めいた問いに、ミカがたじろいだ。

 

「……だったら何? この状況がどうにかなるの?」

 

「……」

 

「この廊下の先は行き止まりだよ? 追い詰められてるの、分かってる?」

 

 ミカの言葉はおおむね正しい。確かに今の装備でミカを長時間足止めすることは難しい。

 

 しかし、そんなものはアズサが諦める理由になり得ない。

 

 

 

 

「……っ、閃光弾!?」

 

 ミカの足元へ転がるのは、アズサが投げたスタングレネード。

 それが放つ閃光と音は確実にミカへ届き、視覚と聴覚を奪う。

 アズサはその隙を逃さない。

 

「っ、行かせない!!」

 

 しかしミカは驚異的な回復力で、すでに視覚を取り戻しつつある。

 ミカの横を通り抜けようとするアズサの腕へ伸ばされる手。

 

 しかしそれは、アズサの想定内だった。

 

「……っ!」

 

 ミカが掴んだのはアズサが腕に見立てた……彼女の銃だ。

 いくらミカとはいえ、この短時間で腕と銃の見分けがつけられるほど視力を回復させることは難しい。

 

「ハァ……ハァ……!」

 

 アズサはミカに捕まれた銃を手放し、全力で走る。

 

「っ! 待って———」

 

 ミカがアズサを制止する、その時だ。

 

 

 

 

 ドォオオオン!!

 

 

 

 

「……っ!」

 

 突如として起爆した爆弾による廊下の壁の崩壊。

 それは、アズサとミカの間に瓦礫という足止めを作った。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ハッ……ハッ……」

 

 あれからしばらく走った。アズサは息を整えながら、壁を背に座り込む。

 

 アズサはミカの行く手を阻むよう、道中いくつもの爆弾を設置した。そのうちのいくつかは爆発させ、さっきと同じように瓦礫で廊下を埋めた。

 

 それでもミカが追ってくるようであれば、設置した爆弾が起爆する。その音をアズサが聞き逃すはずもない。

 

「……なぜだ」

 

 つまり、アズサはミカがどこにいるのかを大まかに把握できるようにしたのだ。

 これはアズサの経験のなせる業。即興ながら、確かな技術に裏付けされた、確実なものだ。

 

 だからこそ分からない。

 

「一つも起爆していない……?」

 

 アズサが設置した爆弾。その全てが爆発していない。

 

 ミカが追ってきたのではあれば、一つも起爆しないのはあり得ない。そもそも追ってこないのはそれ以上にあり得ない。

 

 

 

 

 ドォオオオン

 

 

 

 

 その時、アズサの耳に微かな音が響く。

 

「……何の音だ?」

 

 

 

 

 ドォオオオオン!

 

 

 

 

 爆発音ではない。しかしそれとよく似た轟音。

 

 

 

 

 ドォオオオオン!!

 

 

 

 

「……近づいて来ている」

 

 

 

 

 ドォオオオオン!!!

 

 

 

 

 アズサが壁から顔を出し、周囲を確認しようとした、その時だった。

 

 

 

 

 ドォオオオオオン!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

「ばあっ☆」

 

 

 

 

「……っ!」

 

 アズサの背後。何もないはずのそこから突如現れたのは……ミカの顔だった。

 

 アズサの作戦は正しい。常人であれば、アズサの下へたどり着くことすらなく無力化していただろう。

 

 アズサに間違いがあるとするなら、それは相手がミカだったことだ。

 

「壁を……!」

 

「アズサちゃん、み~っけ☆」

 

 ミカが普通の道を通るはずもない。

 

 ミカはアズサの位置まで、文字通り一直線にやってきたのだ。

 

「手持ちの武器はさっきので使い果たした。体力だってもうあまりないでしょ? あはは☆ 絶体絶命だね?」

 

 そう言うミカの顔には、相も変わらず薄ら笑いが張り付いている。

 

「くっ……」

 

「もう逃がしてあげないよ? さっさと諦めて、ナギちゃんの居場所をいいなよ」

 

 しかしアズサの目から闘志は消えない。

 

「……ハナコと約束した。ミカの足止めをするって」

 

「……へぇ」

 

「たとえそれが虚しくても、私は抵抗をやめない」

 

 ミカが目を細める。

 

「そっか……」

 

 そして、腕を振り上げる。

 

「じゃあ……ばいばい」

 

 その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ペロロ様、お願いします!!」

 

 

 

 

「え?」

 

 両者の間に投げ込まれるのは、一つのぬいぐるみ。

 

 あまりにその場に似合わないコミカルなそれは、両者の時を一瞬止める。

 

「……っ!」

 

 しかし、アズサはすでにヒフミの戦闘を見ている。

 

 両者の経験の差が、その緊迫した場面に一瞬の差を作った。

 

 

 

 

 ドォオオオオン!!

 

 

 

 

「っ! 爆発!?」

 

 突如としてぬいぐるみが起爆。

 あらかじめ知っていたアズサと異なり、ミカはその爆風を正面から受けてしまう。

 

「けほっ、けほっ……!」

 

 辺りに土煙が立ち込める。それはミカを咳き込ませ、視界を塞いだ。

 

 

 

 

「そこまでだよ、ミカ」

 

 

 

 

 次第に晴れてゆく視界。

 

 そんな中掛けられた声の主を、ミカはその目で捉えた。

 

「先生……」

 

「ミカ、銃を下ろして」

 

 そこにいるのは、先生と補習授業部。それに……

 

「シスターフッドまで、どうして?」

 

 黒いベールに身を包んだ、多数のシスターたち。

 彼女らシスターフッドは、徹底した秘密主義組織。

 それがこうもあからさまに行動を起こすことが異質だ。

 

「シスターフッド、これまでの習慣に反することではありますが……ティーパーティーの内紛に、介入させていただきます」

 

 シスターフッドの首長、歌住サクラコが口を開く。

 

「へぇ……シスターフッドが動くなんてね。浦和ハナコ、何を支払ったの?」

 

「……」

 

「まあ、どうでもいいんだけど☆」

 

 ミカは笑みを絶やさない。

 

「あはは☆ どれだけ援軍が来ても、被害者が増えるだけだよ?」

 

「……」

 

「分かるでしょ? 早くナギちゃんの居場所を吐いて? じゃないと……ね?」

 

 ハナコは何も話さない。その場の全員に緊張が走る。

 

 ミカの言葉。それはハッタリでも何でもない。紛れも無い事実である。

 ミカがその気になれば、シスターフッド全員を相手取ることも夢じゃない。

 

「……アズサちゃん」

 

 しかしハナコに動揺はない。

 

「怪我はありませんか?」

 

「……ああ、問題ない」

 

「ふふ、流石です♡」

 

「さっきはありがとう、ヒフミ。助かった」

 

「いえ、アズサちゃんが無事でよかったです……!」

 

 ハナコの余裕につられてか、そのやり取りに敵前を思わせる緊張は無かった。

 

「おーい、話聞いてる? とっととナギちゃんの居場所を吐いてって言ったんだけど、理解できなかった? 早くしないと、こっちから仕掛け———」

 

「聖園ミカさん」

 

 その瞬間、あれだけ穏やかな表情を浮かべていたハナコの雰囲気が一気に締まる。

 

「……投降しなさい」

 

「……は?」

 

 ハナコにしては珍しい、強気な発言だ。

 

「あなたがこんなことをした動機はわかります」

 

「へぇ」

 

「最初はいろいろな理由があったのかもしれません。どうしようもない事情もあったのでしょう」

 

「……」

 

「けれど一番大きな理由は……『嫌いだから』。違いますか?」

 

 ハナコとミカの目線がぶつかる。

 

「……ははっ、だから何? くだらないって? ……あなたに何が分かるのさ」

 

「分かりますよ。私も同じだから……」

 

「……?」

 

 ハナコが目を伏せる。

 

「イトちゃんのこと……私だって許していません。直接イトちゃんに怪我を負わせたミカさんのことも、少なからず憎く思っています」

 

「……」

 

「だからこそ、こんなことやめてください」

 

 

 

 

「イトちゃんはこれを望まない」

 

 

 

 

 ハナコの言葉に、ミカが目を見開く。

 

 脳裏に浮かぶのはイトの笑顔。

 血に塗れ、顔を腫らし、包帯に巻かれながらも、イトはそれを絶やさなかった。

 

「分かってるよ……そんなこと……」

 

 ミカは顔から笑顔を消し、小さく呟いた。

 

「それともう一つ、ミカさんに言いたいことがあります」

 

 ハナコは続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

「イトちゃんは、セイアちゃんの代わりじゃありません」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……っ!」

 

 ハナコが言うのは、ミカ自身も理解できていない、ミカの本音。

 

「ははっ……キツイこと言うなぁ……」

 

 ミカは俯き、自分の心と向き合う。

 

 しばらくの沈黙の後、ミカが口を開いた。

 

「うん……そうかもね……。確かに、イトちゃんのことセイアちゃんの代わりにしてたかもしれない」

 

 ミカはそう呟く。

 

「でも仕方なくない? セイアちゃんが死んじゃったその日に表れて、味方になるなんて言ってくれて、それからずっと一緒にいてくれて……!」

 

 何かにとりつかれたように、ミカは早口で言葉を捲し立てた。

 

 ミカはセイアの死によって空いた心の穴をイトで埋めていた。そうしなければ冷静でいられなかった。

 

「はは……わかってるよ、私が最低なことくらい……」

 

 ミカはそこまで言って、手で顔を覆う。

 

 ミカは「イト」を見ていなかった。イトを通して、その裏にある「セイア」を求めていた。

 そうして「セイア」と共に暮らすことで、赦しを求めていたのだ。

 自分の罪から目を逸らし、目の前の温かな生活だけを享受していた。

 

 そんなこと、決して許されるはずもないのに。

 

 そして「セイア」を自らの手でもう一度壊しかけて、ミカの心は崩壊した。

 自分の罪から逃げて、それを他人に責任転嫁した。

 「嫌いだから」と言い聞かせて、幼馴染すらも傷つけた。

 

 そのことを、ミカは深く理解する。

 

 

 

 

「でも……私は止まらないよ」

 

 ミカは顔を覆った手を放し、ハナコを見つめる。

 

「ううん……セイアちゃんが死んじゃった時点で、私は止まっちゃいけないの」

 

 ミカの悲壮な顔に、その場の誰もが口を噤む。

 

「それに、トリニティを嫌いになったことは変わらない。だから、私は———」

 

「ミカさん」

 

 ミカの言葉をハナコが止めた。

 

 そして、今まで隠され続けた事実を語る。

 

 

 

 

「セイアちゃんは無事です」

 

 

 

 

 その瞬間、ミカは自分の足場が崩れたように感じた。

 

「え……」

 

「傷が治らなくて、まだ目が覚めていないのですが……救護騎士団の団長が、今もそばで守ってくれています」

 

「そっ、かぁ……」

 

 ミカは銃を手放し、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。

 

「よかったぁ……」

 

 友人が生きていた。自分は殺していなかった。

 そのことはひどく嬉しい。

 

 けれど、この数か月。全てが無駄だったようで……どこか虚しくもある。

 

「ははっ、私……ばかみたい……」

 

 ミカは静かに涙を流す。

 

 ミカの脳裏によぎるのは、イトの姿。

 イトの好きな物……ミカはたこやきしか知らない。嫌いなものなど一つも知らないし、今までどんな風に暮らしてきたのか聞いたこともない。

 

 何より、イトが心の底から笑っているところを見たことがない。

 

 ミカは、イトのことを全然知らない。

 

 今までの生活、今までの出来事。

 

 全てはミカの独りよがり。

 

「……」

 

 イトは賢い。ハナコと比較しても見劣りしないほどに。

 そんな彼女だから、ハナコと同様に「イトにセイアの代わりを求めている」ことを理解していたはず。

 ミカはそう考えた。

 

 もしそうなら……もしその上でイトが自分にあんな風に接してくれていたのだとしたら……

 

 イトはどれだけ優しく……

 

 ……自分はどれだけ醜いことだろうか。

 

 

 

 

「……あやまらなきゃ」

 

 それはミカの口から出た言葉。

 

「セイアちゃんにも、イトちゃんにも……あやまらなきゃ」

 

 そして、叶うことなら、もう一度。

 

「そうだね」

 

 先生が口を開く。

 

「しっかり罪を償って、しっかりあやまれば……二人ともきっと許してくれる」

 

「ははっ、どうだろ、先生……イトちゃん、最近私に冷たいし……」

 

 最近のイトは、夜にいつもどこかに出かけている。そのせいでなかなか一緒に寝てくれない。

 これは最近のミカの悩みだ。

 

「今日だって、どこか行くって言って、私に行き先も教えてくれなくて———」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今、何と……!?」

 

 

 

 

 ミカの言葉に重ね、ハナコが大きな声を出す。その顔はひどく真剣だ。

 

 ハナコは瞬く間にミカへと駆け寄り、強い剣幕でミカの肩を揺する。

 

「今イトちゃんは外出していると、そう言いましたか……!?」

 

「え、あ、うん……」

 

 ハナコの気迫に押され、ミカがたじろぎつつも答えた。

 その答えに、ハナコが唇を噛んだ。

 

「アリウス生徒が確実に通る場所へ案内してください!!」

 

 ハナコの脳が素早く回る。

 

 

 

 

 ……イトの不在と、アリウス生徒の不在。

 

 無関係であるはずがない。

 

「イトちゃんの身が……危険です!!」

 

 

 

 ***

 

 

 

 時は少々さかのぼる。

 

「作戦変更は無し、トリニティの戒厳令に問題はない」

 

「予定通り……作戦地点へ到着次第、セーフハウスに突入。桐藤ナギサの身柄を確保する。質問はないか?」

 

 トリニティ自治区のどこか。人の立ち寄らない、廃墟と化したカタコンベ出入口。

 

 そのさらに奥、多くの人から忘れられたアリウスより、任務のためにやってきた生徒たちが数十人。隊列を成して移動をしていた。

 

 その任務とは———「桐藤ナギサのヘイローを破壊すること」。

 

 戒厳令が敷かれ、さらに聖園ミカによりトリニティ内の各組織へ圧力がかけられた今、トリニティの警備は穴だらけとなる。

 

 順調にいけば何も難しい任務ではない。しかしこの任務は重要な意味を持つ。

 

 ……決して失敗は許されない。

 

 その事実に、アリウス生徒たちのガスマスクの下の表情は硬い。

 

「それではこれよりトリニティへ向か———」

 

 指揮官が進軍を指示しようとした、その時だ。

 

「———待て」

 

 指揮官の目に、人影が映る。

 

 

 

 

『あ、あーっ、あーーーっ。聞こえますかー?』

 

 

 

 

 大きな耳と尻尾に、小柄な身体をしたその人物は、メガホンを携えて言葉を発した。

 

『うぅ……夜だとやっぱり冷えますねぇ』

 

「……誰だ」

 

 作戦開始時間に迫った今、居るはずの無い部外者の登場に、アリウス生徒たちの視線は鋭くなる。

 

 

 

 

『誰だ……? あはっ! そんなのどぉ~でもいいじゃないですかぁ~!!』

 

 

 

 

 その人物は体をくねらせ、大きな声を発した。

 暗くて分かりづらいが、その顔は確かに笑っている。

 

『私の言いたいことはただ一つです』

 

 そう言い、彼女はその手を上に掲げ……指を鳴らす。

 

 瞬間、その辺りに光が灯る。

 

「……っ!」

 

 夜の闇に慣れたアリウス生徒たちには眩しすぎる光が、辺り一面に置かれた光源から発せられる。

 

 そして、次第に慣れてゆく生徒たちの目が捉えたもの。それは……

 

 

 

 

「カイザーPMC……!?」

 

 

 

 

 重装甲に身を包んだ兵士や戦車。それらがメガホンの少女の周りにずらりと並んでいた。

 

『あなたたち……』

 

 

 

 

『ここから先へは行かせませんよ?』

 

 

 





 久々のイトちゃん登場


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イトファイティング


 ヒナ美しすぎる……一生ついていくぜブルーアーカイブ


 注意! 直接の描写はありませんが、今回性行為を匂わせる描写があります! 苦手な人は注意してください!


 

 時は少々さかのぼり、美食研究会がゴールドマグロを取りに来る少し前。

 

 私ちゃんこと糸巻イトは、キヴォトスの一角、とあるオフィスに来ていた。

 

「ほう……生きていたのか、糸巻イト」

 

 相変わらずの高圧的な態度にいっそ安心しながらも、私は沸き立つ胸の内を示す様に彼を睨みつける。

 

 

 

 

「お久しぶりですね、ジェネラル」

 

 

 

 

 私は、目の前の男(?)に負けないくらいの威圧感を放つ。……放ってるはず。

 

「毒を振りまく道具は不要だと言ったはずなのだがな……まさか戻ってくるとは」

 

「……」

 

 ぶっころすぞ、このくそ野郎。

 

「……もう治療は済んでいます」

 

 今すぐにでも殴り掛かりたい衝動を噛み殺す。

 

 

 

 

 15年。

 

 私がこいつら(カイザー)に道具として扱われ、搾取され続けた年数。

 

 幸か不幸か……梅毒にかかって捨てられるまで、私はブラックマーケットのとある風俗店に監禁され続けたのだ。

 

 思い浮かぶのは私に気持ちの悪い情欲を向けるクソ共の顔くらいなもの。

 

 彼らにとって私は、自身の嗜虐心や性欲を満たすための道具でしかない。

 

 私にとって、大人とはそういうものだ。

 

 

 

 

「まあ……失った時間は戻りませんけど」

 

 顔を俯かせ、悲しんでる演技をする。これから利用する気満々なので、そっちが加害者で私はかわいそうなのだと刷り込ませよう。少しでも交渉の役に立てばいい。

 

「私だって、もっと楽しい生活を送りたかっ———」

 

「御託はいい。さっさと要件を言え」

 

 ちっ、血も涙もないやつめ。

 

 仕方ない、元々こいつはこんなやつだ。私はおとなしく彼に向き直る。

 

「……取引しに来ました」

 

「取引?」

 

 ジェネラルが眉を顰めた……気がした。

 

「……私に、少しだけ兵力を貸してほしいのです」

 

「対価は?」

 

 ふむ、当然の対応だろう。私とてバカじゃないつもりだ。対価くらい考えてある。

 

「エデン条約はご存じでしょう?」

 

「……トリニティとゲヘナ間の平和条約だな。それがどうした」

 

 行くぞ必殺、イトちゃん流交渉術。こちとら何年も人の機嫌を伺いながら生きとんじゃい。

 

「はい。……ですがその本質は、エデン条約機構(ETO)の設立にあります」

 

「……」

 

「ETOの中枢は両学校のトップ……ティーパーティーや万魔殿(パンデモニウムソサエティー)が務めることになるでしょう。キヴォトスでも有数の規模を持つ二校です。その影響力は言うまでもありません」

 

「……要領を得ないな。だからどうした」

 

 イトちゃん交渉術その一、最初に相手の不安感を煽ること。

 

 不安の種は何でもいい。ただ相手に「このままではまずい」を自認させることができればいい。

 

「まあそう焦らないでください。ところでジェネラル……私の今の所属、ご存じですか?」

 

「………………さあな」

 

 

 

 

 あ! イライラしてる!! あのジェネラルさんが、イライラしてますぅ~!!!

 

 ぷーくすくす。あーおもしろ。もっとイライラしちゃえばいいんだこの鉄仮面野郎。

 

 私が生きてることすら知らなかった彼が、私の今の所属を知らないことは当たり前だ。だから私のさっきの質問は全くの時間の無駄である.

 

 でも聞いちゃう。おもしろいから。気持ちいいから。

 

「ティーパーティーの一人である、聖園ミカ。その専属の付き人です」

 

「……!」

 

 そこにイトちゃん流交渉術その二。その一で煽った不安の種の解決法を提供すること。

 

 まあ正直変わったことはないのだが、今も昔もこれがよく効くのだ。

 

「私は彼女に強く信頼されています。ETO設立後にも私に多くを語ってくれるでしょう」

 

 正直、これは嘘だ。

 

 ミカちゃんと言えど、さすがに上層部の機密を部下に漏らしたりはしない。私もミカちゃんからティーパーティーの会議の具体的な内容なんて聞いたことないし、これから彼女が起こすであろう襲撃についても終ぞ教えてくれなかったし。

 

「つまり……」

 

「ええ。私が提供できる対価は、エデン条約締結後、ETO内部の機密情報です」

 

 それに、私はもう一つ嘘を混ぜている。

 

 あの時、セイア様との対談で得た、一つの仮説。

 

 

 

 

 エデン条約は崩壊する。

 

 

 

 

 それが正しいのならば、そもそもETOなんて設立しない。つまり、私は実質ノーリスクなのだ。

 

 もしエデン条約が成立しちゃったらその時はその時である。

 

 

 

 ***

 

 

 

 私の狙いは一つ。

 

「! 何の音だ!?」

 

「爆発です! 部隊後方で瓦礫が崩落! 補給及び撤退が封じられました!」

 

 ミカちゃんの襲撃に、アリウスの関与を無くすこと。

 

「くっ、包囲を突破する! 全員、突撃!」

 

 アリウスとミカちゃんの決定的な関与が認められなければ、この襲撃はただのミカちゃんの癇癪だったということにできる。もちろんそのための証拠隠滅も欠かさない。

 

「ひとかたまりになるな! 散らばれ!」

 

 『他校を巻き込んだ政治的な襲撃の主犯』と『ティーパーティー同士のちょっと激しい喧嘩』ではその重みがまるで違う。

 

「だめです! 辺り一面に地雷があります!」

 

 仲良くしたかっただけの、騙されただけのミカちゃんが、もう二度と今まで通りの生活を送れないなんて。

 

 そんなの間違ってる。

 

『全員』

 

 もしミカちゃんが望むなら、また今までの生活が送れるように。

 

 たった一度のミスで、全てを諦めるなんてことがないように。

 

『一斉射撃』

 

 選択肢だけは残してあげたい。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ふぅ……」

 

 何とかなった。

 

 ミカちゃん向けに送られた通信を、私お手製の改造ラジオで傍受した時は本当にびっくりした。まさかアリウスがミカちゃんと結託していたとは。黒幕の候補にはあったけど、こんな兵隊を用意できる組織だと思っていなかった。

 

 暗号を解読し、通信の内容を聞いたときは「やっぱりそうか」と思った。

 

 桐藤ナギサの襲撃計画。ミカちゃんがティーパーティーのホストになるため、ナギサ様を追放する作戦だ。

 ハナコ先輩やアズサ先輩は、しっかりナギサ様を守れているだろうか? いや、問題ないかな。ハナコ先輩はハナコ先輩で何か用意しているみたいだし。

 

 正直、戦力が足りるかは不安だった。ジェネラルは「お前が使えるかを判断する」なんて言ってちょっとしか戦力を貸してくれなかったし。

 

 その点、間近で美食研究会を相手に指揮する先生を見れたのは大きかった。戦力の配置や敵の誘導なんか、先生を参考にした部分が大いにある。

 

「ぐっ、うぅ……」

 

 地面に伏すアリウス生徒の呻き声だ。

 

 ミカちゃんを騙した人たち。今回の騒ぎの、黒幕的な存在。つまり私の敵に他ならないわけで、私はこの子たちと戦わなければいけなかった、はずだ。

 

 けれど、どこか違和感があるのだ。

 

 この子たちのトリニティに対する憎しみは相当なものだ。でなければこんな統率が組めるほど訓練できるはずがないし、こんな作戦を実行に移すこともしないはず。

 

 けれど、その恨みはどこから来るのだろうか?

 

 確かに、昔のトリニティはアリウスを徹底的に弾圧した。そのせいでアリウス生徒が真っ当な暮らしを送れていないのも事実だろう。

 

 でも、それだけで民衆がここまで結託したりはしない。中には声を上げる人がいたとしても、こんな充実した装備を全員分用意できるはずがない。自治区を巻き込んだ規模がいるだろう。

 

 恐らく、いや確実に。絶対的な支配者の存在……大人が、関わっているはず。

 

 この子たちに過酷な訓練を強いるような、憎しみの思想を植え付け洗脳するような。

 

 そんな、醜い大人が。

 

「……ごめんね」

 

 もしもこの子たちが、大人に消費される道具としての人生を歩んできたのなら……それはきっと私も同じだ。

 

 だから私は、この子たちを責める気にはなれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時ふと、私に近寄る一人の兵士が目に入る。

 

「あ、あの……ぼ、ぼくのこと、おぼえてる、よね? へっ、へへっ……」

 

 そのPMC兵士はたどたどしくもそう喋った。その時、私が過去に見た記憶が鮮明に思い浮かんだ。

 

 その喋り方、覚えがある。

 

 確か、特に私を利用(・・)することが多かった……幼女趣味の、変態ごみくず野郎。

 

「あ、あの時から、その、あんまり変わってなくて……あん、あ…あんしん、した……」

 

 そう言いながら、彼は私の腕をつかむ。その力はかなり強い。

 

 そうだ、この感じ。他人への思いやりの欠片もない、自己愛に満ち溢れた、粗末で馬鹿で横暴なくそ野郎。こいつは私に暴力をふるうことも多かった。

 

「いなくなっちゃって…心配、したよ? へへっ、ぼくさ、あれから色々……本っ当……たいへんだったんだから」

 

 私の腕に掛けられる力が次第に強まる。彼は空いた腕で物陰の方を指さした。

 

「ね、いこ……? ま、また前みたいに…ぼ、ぼくと…つきあってよ……へ、へへっ……」

 

 

 

 

 前までの私なら。ブラックマーケットで、ただ項垂れて、時間が過ぎるのを待つだけの、生きているのかも分からないような私なら。

 

 あるいは、ついて行ってしまったのだろう。

 

 ……けれど今は。

 

 

 

 

「嫌です」

 

 

 

 

 今の私はもう、私でいることを諦めたりしない。

 

「私は道具じゃない。あなたたちの言いなりになんてなりません!」

 

 昔の私は、あまりに馬鹿だった。

 

 全て受け入れて、我慢して、飲み込んで、そのせいで全てを失って。

 

 けれど、今の私にはみんながいる。

 

 ハナコ先輩と出会ったあの日から、私の命はみんなのために使うって決めてる。

 

 もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。

 

 

 

 

「……は?」

 

 けれど、現実はあまりに無情だ。

 

「っ!?」

 

 瞬間、側頭部に鋭い痛みが突き刺さり、世界がぐるりと一回転する。

 

 殴られたのだと、すぐに分かった。

 

 けれど、それだけでは終わらない。

 

「うっ、けほっ……!」

 

 寝転がった私の腹部に、強烈な蹴りが突き刺さる。

 

 

 

 

「お前が! 俺に!! 口答え!!! してんじゃねぇ!!!!」

 

 

 

 

 何度も、何度も、私のお腹は繰り返し痛めつけられる。

 

「うっ、ぐっ、げほっ!」

 

「身体売るしか能のねぇゴミが!! 俺がいなけりゃ今頃生きてもねぇくせに!!」

 

 ……私が生きてるのは、おまえのおかげなんかじゃない。

 

「俺は命の恩人なのに!! 恩を仇で返しやがってこの売女が!!」

 

 くたばれ、ただの性犯罪者め。

 

「うっ、げほっ……おえぇっ」

 

 私は腹部への衝撃に耐えられず、血液混じりの嘔吐をする。

 

 

 

 

「あっ……はっ、へへっ……」

 

 その瞬間兵士の動きが止まり、顔が恍惚に歪んだ。

 

「へへっ、きたねぇ……きたねぇよぉ、イトちゃぁん……」

 

 きもい! こいつ本当に気持ち悪い!!

 

「けほっ…はぁ……はぁ……おえっ」

 

 胃の中身はもう空っぽなのにえずくのが止まらない。

 

「い、いい? いいよね?? へっ、へへっ。あっ、ぼく……ひひっ……」

 

 そう言いながら彼は、馬乗りの体勢で私のスカートに手をかけ、ホックを外し始めた。

 

「はっ、はぁ……イトちゃん……」

 

 きもい。最低。最悪。痛くて、苦しくて、辛い。

 

 ……でも、後悔はしていない。

 

 たとえ何をされても、それがみんなのためになるのなら。

 

 

 

 

 ……だけど。

 

「うぅ……」

 

 辛いものは辛い。

 

「は、ははっ……ないっ、ないてるの? へっ…そ、そんな顔されたらぼく……」

 

 

 

 

 やっぱり、どうしても大人は嫌い。

 

 

 

 

「おい、さすがに目に余るぞ」

 

 そう言ったのは今まで静観を貫いていたまわりの兵士の一人だ。私が借りた部隊の隊長を務めているらしい。

 

「こんなガキでも今は客だ。そうである以上、丁重に扱え」

 

 彼がそう言うと、私の服の中をまさぐる手がピタリと止まった。

 

「へへっ…わ、わるかったよ……分かったから、銃を下ろせよ……」

 

「ちっ……」

 

 観念した彼は私の上から降りた。

 やるならもっと早く言ってくれよ。そうすれば私がここまで蹴られる必要なんてなかったはずなのに。

 

「さあ、撤収作業に移るぞ。作戦終了後は即時撤収、だったよな、糸巻?」

 

 そう。本来の計画は、アリウス生徒の無力化からPMCの撤退までを1時間未満で済ませることだ。タイムリミットは近い。

 

 ハナコ先輩やミカちゃんが私を探しに来ることはないと思うけど、万が一にも私の行動を知られるわけにはいかないから。

 

「……っ、けほっ!」

 

 返事をしようと思ったけれどうまく言葉が出なかった。これ、だいぶ強く蹴られてるな……。

 

「……全員、行動開始!」

 

 隊長の一声で、兵士のみんなが一斉に動き始めた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「はっ、はっ……」

 

 静まり返ったトリニティ自治区。私は一人全力で走っていた。

 

「イトちゃん……どこ……!?」

 

 頭にあるのはただ一つ。ハナコちゃんが言った、イトちゃんが危ないという言葉。

 

 思えば確かに、最初から変だった。

 

 作戦開始の時間が来てもアリウスと連絡が取れなくて、それで私は焦って、ナギちゃんを先に捕らえないとって思って……。

 

 でも、こんな時にアリウスと連絡が取れなくなるなんて、確かにおかしかった。

 

 それに今日は、イトちゃんが外出するって言ってて、行き先は教えてくれなくて。

 

 そんなの、無関係なはずがない。

 

 それをハナコちゃんから聞いてからもう無我夢中で、みんなを置いて一人でここまで走ってきた。

 

 ……正直、イトちゃんは本当に弱い。非力で、貧弱で……私がちょっと力を加えれば、多分骨なんて簡単に折れてしまうだろう。

 

 そんなイトちゃんがもし、今もアリウス生徒の足止めをしているというのなら……。

 

「だめ……そんなの……」

 

 私はうわ言のようにそう呟きながら走る。

 

 その時だった。

 

 

 

 

「うぅ……お腹いたい……」

 

 

 

 

 少し遠くから、微かに声が聞こえた。

 

「……っ!」

 

 私は声の聞こえる方へ向かう。

 

 聞きなれた、細くて優しい声。

 

 

「イトちゃん……イトちゃんっ……!!」

 

 しばらく走ると、一人の人影が目に映った。

 

 大きな耳、大きなしっぽ、それに小さな身体。

 

 間違いなくイトちゃんだ。その姿にひとまず安堵する。

 

 ……けれど、それはひどく弱々しかった。イトちゃんはおぼつかない足取りで、お腹をおさえながらふらふらと歩いている。

 

 

 

 

「イトちゃん!!!」

 

 

 

 

 私は抑えられず、大きな声を出して呼びかけた。するとイトちゃんはぴくりと体を震わせて、私の方へ振り返った。

 

「えっ……あっ、ミカちゃん!? 何でここに……」

 

 振り返ったイトちゃんの顔を見て、私は歯噛みをする。

 

「それはこっちのセリフだよ……」

 

 イトちゃんはお腹をおさえて、口から血を流してて。

 

 何より、泣いた跡がある。

 

「ねぇ、イトちゃん」

 

 その痛々しい傷も、弱さを見せないイトちゃんが泣いちゃうほど悲しいことがあったのも。

 

 全部私の為で……

 

「全部私のせい、なんだよね……?」

 

「……」

 

 私がそう言うと、イトちゃんは困ったような顔をして押し黙った。

 

「……いいえ、違います」

 

 しばらくするとイトちゃんが口を開く。

 

 

 

 

「きっとこれは、大人の責任なんです。だからミカちゃんは……ううん、ミカちゃんも、トリニティのみんなも、アリウスの生徒たちだって、本当は誰も悪くないんです」

 

 そう言うイトちゃんの顔は、いつものように本当に穏やかだった。

 

「だけど、私は———」

 

 私がそこまで言いかけたとき、イトちゃんが言葉を遮って話し始めた。

 

「ねぇ、ミカちゃん」

 

「な、なに……?」

 

 

 

 

「ミカちゃんは、どうしたい?」

 

 

 

 

 どうって……?

 

「ミカちゃん。今なら、どうとでもできます」

 

 今までとは異なる、真剣な声色だ。

 

「どういう……」

 

「ミカちゃん、よく思い出してください」

 

 思い出す……?

 

「現時点で、ミカちゃんとアリウス生徒の関与をトリニティの上層部は認知していません」

 

「えっと……」

 

「つまり今のミカちゃんの罪状は、暴行未遂と器物破損だけのはず。違いますか?」

 

「……」

 

 確かに、状況だけ見ればそうかもしれない。結局ナギちゃんは捕まえられなかったわけだし、セイアちゃんも生きていたんだし。

 

 だけど、そういう話じゃない。

 

 私は、悪意を持ってナギちゃんに迫った。セイアちゃんをアリウスに傷つけさせようとした。

 

 ……イトちゃんを、殺しかけた。

 

 全部、私がバカなせいで。私の心が醜いせいで……。

 

 

 

 

「あ……」

 

 そうか。イトちゃんの言う「どうとでもできる」って……。

 

「気づきましたか?」

 

 私の、ナギちゃんや、セイアちゃんやイトちゃんに対する罪。

 

 それら全てには、アズサちゃんやハナコちゃんの証言以外に確固たる証拠がない。ティーパーティーとしての権限を使えばもみ消せる範疇だ。ナギちゃんに関しては、「ちょっとした喧嘩だった」で済むかもしれない。

 

 つまり……私の罪は、私次第でどうとでもできるということ。

 

「その上で、もう一度聞きます」

 

 そう言って、イトちゃんは私の目を真っ直ぐ貫いた。

 

 

 

 

「ミカちゃんは、どうしたい?」

 

 

 

 

 これはきっと、イトちゃんが私にくれたチャンスなんだ。

 

 イトちゃんがこんなボロボロになってまで戦ってくれたのは、このためだったんだ。

 

 こんな私のために、この子はここまで尽くしてくれたんだ。

 

 ……だけど。

 

 

 

 

「……イトちゃん、ごめん」

 

 私は彼女の目線に真っ直ぐ答える。

 

「私は……謝りたい。セイアちゃんにも、ナギちゃんにも、補習授業部のみんなにも……イトちゃんにも。私がしちゃったこと全部認めて、ちゃんと償いたい」

 

 もしかしたらそれは、イトちゃんのしたことを無駄にしちゃう行為かもしれない。

 

 けれど、罪を認めてしっかり償うこと。そんなことできるのかは分からないけど、きっとこれが正しいんだと思う。

 

「その上で、イトちゃんが好きって言ってたこのトリニティを、私ももう一回好きになれるか、試してみようと思う」

 

 私がトリニティのことを嫌いなのは、今も変わらない。

 

 でも、私が大好きなイトちゃんは、ここが好きだって言ってた。

 

「……うん。分かりました」

 

 イトちゃんはそう言って、安心したように深く笑った。

 





 そろそろタグに「リョナ」を追加した方がいい気がしてきた


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仲直り


 な、なんてことだ……前までのシリアスは一体どこへ?


 

「ミカ様、ご注文の品をお届けしました」

 

「あっ、ありがとー☆」

 

 あれから、私はすべてを自白した。

 

 アリウスにセイアちゃんを襲撃させたことや、ナギちゃんを監禁し自分がホストになろうとしたことなどなど……。

 

 もちろん私は捕まり、今は檻の中で生活を送っている。まあ檻の中とは言え生活用品は充実してるし、私が集めてたアクセサリーなんかも手元にあるのだが。

 

 それでも今までの生活とは比べ物にならない。よく知らない子が監視についてるなんてまあまあ最悪である。

 

 けれど、これは私が望んだことだ。そしてその選択肢は、イトちゃんがくれた。

 

 もしもイトちゃんがいなかったら……選択肢すら用意されなかったら、私はどう思っていたんだろうな。

 

「さてさて……」

 

 とまあそんなことを考えつつも、私のひとまずの興味はさっき出て行ったパテルの子が持ってきてくれた品だ。私はカバーを外し、その中身を見る。

 

 

 

 

 そこには、頬を赤く染めた私とイトちゃんを表紙に携えた、大体20~30ページくらいの漫画本があった。

 

 

 

 

 なんでも、レッドウィンターの『メルリー』という人が私たちを題材に漫画を描いたらしいのだ。ちなみに題名は『秘密のお茶会~After Story~』。学校のWi-Fiだとなぜかブロックされてしまうサイトから購入したものだ。

 

 ティーパーティーの激務を終え、疲れ切った私をイトちゃんが出迎えて……というあらすじである。

 実際のティーパーティーの仕事なんて、お菓子をつまみながらナギちゃんのながーい話を聞くだけだから、疲れ切るなんてそうないんだけどね。書類仕事はイトちゃんが爆速でやっちゃうし……。

 

 私ははやる気持ちを抑えきれず、しかし傷をつけないように慎重に本を開く。

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 ………………。

 

 

 

 

「……………………わ、わーお」

 

 

 

 

 急いで本を閉じた。なんかすごいものを見た気がする。

 

 なんというか……いつもとは違う冷たい目をしたイトちゃんが私を押さえつけて、私にきつい口調で命令したり、私に首輪をかけたり、でもたまにいつもみたいな笑顔を見せたり……。

 

 とにかくいつもと違うイトちゃん過ぎて、その、それがギャップで、えっと……。

 

 その……そんなイトちゃんも案外悪くな———

 

 

 

 

「いや、いやいやいやいや!」

 

 私は頭に浮かんだ考えに、勢いよく頭を振った。

 

 おかしい! イトちゃんはこんなことしないもん!

 

 こんな……こんな、私を罵倒するようなことしない! 大体この作者、イトちゃんに対する理解度が低いよっ! 耳はもっとおっきいし、尻尾はもっとふさふさなの!

 

「……」

 

 で、でも……もうちょっとだけ……。

 

 べ、べつに興味があるとかそういうんじゃないけど。

 

 私はそう思い、閉じていた本をちらりと開く。

 

「あっ、イトちゃん……そんなことまで……」

 

 私が、何か開けてはいけない扉を開けようとしていた、その時だった。

 

 

 

 

「ミカちゃん?」

 

 

 

 

「ひゃぁああっ!?」

 

 噂をすれば何とやら。突如として背後からイトちゃんの声が響いた。私は大慌てで本を背中に隠す。

 

「あっ……」

 

「ど、どうしたの?」

 

 イトちゃんが押し黙り、目を細めた。その様子に緊張が走る。

 

 見られた……?

 

「あー……」

 

 しばらく間、地獄にも似た沈黙が流れると、檻の向こうのイトちゃんが困ったように笑いながら口を開いた。

 

「後の方がいいですか……?」

 

「い、いや!? 全然!?」

 

 私は大きく首を振った。

 

 まずい。さっきの本でにやにやしてたことを知られようもんなら私の今後に響く。いくら優しいイトちゃんでもきっと私のことを見限っちゃうに決まって———

 

「ねぇ、ミカちゃん」

 

 その時、イトちゃんは優しく微笑みながら指を曲げ、私を呼んだ。私は導かれるままに彼女へ近づき、耳を貸す。

 

 

 

 

「ミカちゃんがしたいなら、やってあげますよ?」

 

 

 

 

イトちゃんはその口の奥に隠れた八重歯を見せながら、ジト目で私にそう囁いた。生暖かい吐息が耳にかかる。

 

「ひぁぁ……」

 

 え? 何その表情。その言葉。それ、どういう意味……? イトちゃん弱いくせに、ちょっと生意気……。

 

 私がそうしてドギマギしていると、イトちゃんが一層笑みを深めた。ひぇぇ……。

 

 そこでふと、イトちゃんが私の背後、牢屋の奥を指さした。

 

「あれ、ミカちゃん、それ……」

 

「……え? あ、あぁ……」

 

 イトちゃんが指さした方には、ナギちゃんから送られた……大量のロールケーキがあった。

 

「ナギちゃんがくれたの。私の食事なんだってさー」

 

「えぇ!? 三食ですか!?」

 

 そう。私の食事は三食ロールケーキ。栄養価の一つも考えられていない、食事と言えるかすら怪しいものである。

 

「そうなんだよねー。最初はよかったんだけど、毎回こうだと流石に飽きちゃって……」

 

 するとイトちゃんは胸の前に両手の小さな拳をぐっと掲げ……

 

「じゃあ、私が食べてあげます! ダメにしちゃうのはもったいないので……」

 

 

 

 

 眼を瞑って小さな口を精一杯開き始めた。

 

「え?」

 

 え、これ、私が食べさせるの?

 

 いや、いいんだけどさ……ほ、ほんとに?

 

「……ミカちゃん、すみませんが早くいただけますか? その、口が疲れちゃって……」

 

「えっ、あっ」

 

 私は仕方なく余ったロールケーキ丸々一本を手に持ち、鉄格子越しに手を出した。

 

「じゃあ、いくよ……?」

 

「はい! ……んっ」

 

 わっ、食べた。

 

「っ、はむっ……」

 

 わー……。

 

 イトちゃん口ちっちゃ……。予想以上にロールケーキが太いのか、結構苦しそう。

 

「お、おいしい……?」

 

「はむっ、ん……!」

 

 イトちゃんはなんとか押し込まれるロールケーキを飲み込みながらうなずいた。

 

 息は鼻から吸い込んでるみたい。窒息の心配はなさそうで一安心だ。思ったより器用なんだね、イトちゃん。

 

 

 

 

 私の心にふと邪念が浮かぶ。

 

 こ、これ、もっと奥まで押し込んだらどうなるんだろう……。

 

 だ、大丈夫。やばそうだったらすぐやめればいいんだし。

 

 そう思い、私は少しだけ腕に力を込めた。

 

「んっ……んんっ!?」

 

 あ、イトちゃんちょっと苦しそう……。

 

「んっ、お”っ……」

 

 

 

 

 ……は? 何その声。

 

「ん”ん“っ! みっ……やっ……」

 

 何その表情。目じりに涙をためて、えずきながらも必死に食べて……

 

 え? なにこれ、ぞくぞくする。

 

 私が新しい扉に完全に手をかけ、あとはもう一歩を踏み出すだけとなった、その時だった。

 

 

 

 

「なにしているのですかミカさん……」

 

「うひゃぁ!?」

 

 部屋の扉に、私に冷め切った目を向ける人物がいた。私は急いでロールケーキから手を離す。

 

 

 

 

「な、ナギちゃん……どうしてここに」

 

「ミカさんとは話をしなければと思っていましたから……」

 

 ナギちゃんはため息をつき、イトちゃんの方へ視線を向ける。

 

「けほっ、けほっ……」

 

「まさか、後輩いじめに勤しんでいるとは思いませんでしたが」

 

「……」

 

 

 

 

 いや、それナギちゃんが言う? イトちゃんのいじめを見て見ぬふりしたくせに。

 

 ……まあ、この状況じゃ何にも言えないんだけど。

 

「……で、何? まさかそんな嫌味言うためにここまで来たの? ティーパーティーのホストって、案外暇なんだね?」

 

「……」

 

「……なんか喋ったら?」

 

 違う。こんなこと言いたいんじゃない。私は謝りたかったはずなのに。

 

「けほっ、み、ミカちゃん……」

 

 でも、ナギちゃんの顔を見るとなんか止まらくなっちゃうんだ。正直今だってぶん殴ってやりたい。イトちゃんのこと、まだ許してない。

 

「っ、ふぅ……」

 

 すると、ナギちゃんは震えながら深く息を吐いた。

 

 何、やる気? やるならいつでもかかってきな?

 

 私がファイティングポーズを取ろうとした、その時だ。

 

「……っ!」

 

 ナギちゃんが、深く頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ミカさん、申し訳ありませんでした」

 

 その姿に、私は呆気にとられた。

 

「私はあなたの大切なものを、深く……傷つけてしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」

 

 ……ナギちゃん、震えてる。

 

 考えてみれば当たり前か。ナギちゃんの目の前にいる私は、自分に怪我を負わせようとした張本人なんだから。

 

「そ、それで……」

 

 ナギちゃんは言葉を続ける。

 

「も、もしよろしければ……わ、私と……」

 

 ナギちゃんの震えがより強まった。

 

 

 

 

「もう一度……友達になってください!」

 

 

 

 

「……」

 

 すぐには言葉が出せなかった。

 

 ナギちゃんとは幼馴染だ。小さいころからいつも一緒にいた。友達じゃなかったことなんてない。

 

 幼いころは小さな喧嘩なんてしょっちゅうあることで、そのたびに仲直りをしてた。

 

 喧嘩は今もあるけど、ナギちゃんがこんな風に自分の気持ちを言葉にするとこなんて久々に見た。

 

 要するに、こんなの久々で、その……

 

 

 

 

「……照れくさい、ですか?」

 

「!」

 

 そう言ったのは、歯を見せて「ししっ」と笑うイトちゃんだった。

 

「ミカちゃん、ナギサ様を許してあげてくれませんか?」

 

「でも……」

 

「私も、ナギサ様から謝罪を受けました。ナギサ様は何度も何度も頭を下げて、私がいいと言っても深々と謝罪し続けていました」

 

 ナギちゃんの肩がぴくりと震えた。

 

「ナギサ様、ずーっと悩んでいたんですよ? 『どうすればミカさんに許してもらえるでしょうか……』って」

 

「なっ、それは秘密と……」

 

 ナギちゃんが、真っ赤に染めた顔をばっと上げた。

 

「私に会うたびにミカさんミカさん……って。ミカちゃんは本当に愛されてるなぁって思いました! そもそも、ナギサ様があんなに頑張っていたのも全部ミカちゃんのためで……」

 

「い、イトさんっ!」

 

 ナギちゃんが大慌てでイトちゃんの口を塞いだ。

 

「もがが……!?」

 

「まさかイトさんがそこまでおしゃべりだとはっ! まだ喋るようなら、ロールケーキをぶち込みますよっ!?」

 

 おお、なつかしい。ナギちゃんそれ好きね。

 

「ぷっ、ふふっ」

 

 目の前で繰り広げられるコントに耐え切れず、私は噴き出してしまった。

 

 なんかもう……私が怒ってるのがバカらしくなってきた。

 

 

 

 

「ね、ナギちゃん」

 

 私はナギちゃんに話しかけた。さっきまでとは全く違う、胸中は穏やかそのものだ。

 

 

 

 

「私は……ナギちゃんを許すよ」

 

「……!」

 

「それから……」

 

 私は、深々と頭を下げる。

 

 

 

 

「私も……ごめんなさい。私も、ナギちゃんをたくさん傷つけちゃった」

 

「……」

 

「それと、私も……ナギちゃんともう一回友達になりたい」

 

 私の言葉を聞いた二人の顔がぱっと明るくなる。

 

「ミカさん……!」

 

「わぁあ!」

 

 イトちゃんめちゃくちゃ嬉しそう。イトちゃんは嬉しいと尻尾をふりふりするんだね。

 

 

 

 

 けどまあ……私も嬉しい。二人につられて、私も一緒に笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ですがミカさん? 先ほどのは一体どういうことですか?」

 

 何か喉につっかえていたものが取れた感覚を味わうのも束の間、ナギちゃんが口を開いた。

 

「先ほどのって?」

 

「何か怪しい顔で、イトさんのロールケーキをぶち込んでいた件です」

 

 あ……。

 

「あ、いや、あれは私がミカちゃんに頼んだんです! だからミカちゃんは何も悪いこと———」

 

「いいえ、あの顔は確実に悪人のそれでした。どこか犯罪臭もしましたし……」

 

 いや、実際ちょっと考えによぎらなかったと言えば嘘になるけど、私は別に悪くな……くないかも。言い逃れはできないなぁ……。

 

 

 

 

「あ、あはは……☆」

 

 

 

 

 困った私はもう、笑うしかなかった。

 

「あっ、ミカちゃんだめっ!!」

 

 しかし、それがだめだったらしい。

 

 

 

 

「あ…はは……?」

 

 

 

 

 ナギちゃんの様子が、何か変だ。

 

 次第に呼吸は浅く、全身が震え、表情が絶望に染まり始めた。

 

 

 

 

「あっ、あああああああああああああっ!!!!!!」

 

 

 

 

 そしていつものナギちゃんからは考えられない、鼓膜が破けるかというほどの絶叫を上げた。

 

「わっ、なになに!?」

 

「ナギサ様っ!!」

 

 イトちゃんがナギちゃんを抱きしめる。

 

「ナギサ様!! しっかり!!」

 

「いやああああああああっ!!!!!」

 

 だめだ、ナギちゃんがどう考えてもおかしい! イトちゃんの声がまるで聞こえてないよ!?

 

「くっ、こうなったら……」

 

 しかしイトちゃんは冷静だ。

 

 そうしてゆっくりと、地面に座り込んだナギちゃんの耳へとその口を近づけた。

 

 

 

 

「おい、ナギサ」

 

 

 

 

「えっ」

 

 思わず声が出る。

 

 一瞬、誰の声かわからなかった。今でさえそれがイトちゃんから出た声とは思えないほど、冷ややかで低い声と口調だった。

 

「そんな風に地面に座り込むなんて……私がいつ許可を出した?」

 

「あぇっ」

 

 イトちゃんのその声に、ナギちゃんの絶叫が止んだ。

 

「ちっ、膝がよごれてるじゃねーか」

 

 いや、よく聞いたら元の声がかわいすぎて今も全然かわいいな。むしろ無理して低い声出してる感じがよりかわいいまである。

 

「ご、ごめんなさっ……!」

 

 ナギちゃんはまだ錯乱してるみたい。身体の震えが収まってない。

 

「ったく、まだ理解してないみてーだな」

 

 そしてイトちゃんはその口を、触れてしまうんじゃないかってほどナギちゃんの耳に近づけた。

 

 

 

 

「ナギサを汚していいのは、私だけだって」

 

 

 

 

 その瞬間、ナギちゃんの震えが止まり、

 

「は、はいぃ……♡」

 

 とても他人には見せられない姿をしていた。

 

 

 

 

 その様子に、私はデジャヴを覚えた。

 

 さっきまでこっそり読んでたあの漫画、『秘密のお茶会~After Story~』。

 

 それに出てきたイトちゃんが、まさにこんな感じで……。

 

 それがちょっと、うらやましくて……。

 

「……ナギちゃん」

 

 

 

 

「やっぱり、許さないじゃんね☆」

 

 

 

 





 二人の間の溝は、まだまだ深まるのでした……


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限界イト

 

「いーとーまきまき いーとーまきまき」

 

 時刻は夜中の三時。一人だけとなってしまったミカちゃんの屋敷に、私のへたくそな歌が悲しく響く。

 

 晴れて三徹目となり、目の隈がすごいことになっちゃった私ことちゃんイトの目の前には、これでもかと山積みに置かれた書類の数々があった。

 

「ひーて ひーて とんとんとん」

 

 書類仕事の次は元ミカちゃんの屋敷の掃除があり、昼にはトリニティ上層部の会議にティーパーティー代表として出席、さらに夜はゲヘナへ外交に行かねばならない。そしたらまた書類仕事が待っているはずだ。四徹も視野に入れる必要があるな……。

 

 なぜこんなことになっているのか。それはひとえに、ティーパーティーの現状に問題がある。

 

「いーとーまきまき」

 

 セイア様の生存は確認できたが、いまだお目覚めにならないそうだ。その原因はミネ様にも分からないそう。彼女の未来視と関係あるのだろうか? ミカちゃんは言わずもがな、今は牢屋の中である。

 

 そしてナギサ様はというもの……実は一番深刻かもしれない。

 

 なぜか、『あはは』という笑い声を聞くとすぐに過呼吸になり、仕事などもってのほかの状態になってしまうのだ。

 

 初めてその症状を見たときは驚いた。

 

 私がナギサ様から謝罪を受けていた時。なかなか顔を上げてくれないナギサ様に困って、私がつい『あはは』と口にしてしまったのだ。

 

 直後のナギサ様の絶叫と来たらそれはもう。その時は周囲に誰もいなくて、私は焦ってしまって、不敬にも抱きしめながら耳元で『大丈夫だよ』と囁くしかなかった。

 

 しかしそれがいけなかった。

 

「いーとーまきまき」

 

 その瞬間のナギサ様の顔、体温、震え、そして言い放った『ままぁ……』という言葉。

 

 このときの衝撃は私の人生のなかでも間違いなくトップのものだ。そうそう超えられるものではないだろう。

 

 あのナギサ様が、ティーカップを持つ手を震わせようとも絶対に顔には出さない理性的なあのナギサ様が、まさか……まさかである。

 

 それからナギサ様はことあるごとに、私にハグを要求するようになってしまったのだ。

 仕事で辛いことがあったとき、人間関係がうまくいかないとき、ひいてはペットボトルの紅茶がおいしくなかったときに至るまで。

 

 愚痴をこぼしながら、ひどいときは声を上げて泣きながら私に抱き着き、私が精いっぱい癒す。まさかそこまで傷ついていたとは……私で助けになっているといいのだが。

 

 その後少しでも助けになれたらと、どうしたらナギサ様が喜んでくれるのか私なりに研究した。

 

 最初のように包容力を出すか、あるいは小さい子のようにふるまって甘えてみるか、それともあえて突き放してみるか……。

 

 その結果辿り着いたのが、ミカちゃんの牢屋の前で見せたあれだ。

 

 つまりは……オレ様系イトちゃんである。

 

「ひーて ひーて」

 

 とまあこんな具合に、ナギサ様も前までのように仕事をこなせる状況ではなくなってしまった。

 

 ティーパーティーはもともと三人。それが現在ほぼワンオペな上、それを担うナギサ様があんな状況。

 

 業務に支障が出るのは必然である。

 

 そこで白羽の矢が立ったのが私、糸巻イトである。

 

 まあもともとミカちゃん専属の付き人という立場だ。もしもの時に代理を務める覚悟はあった。

 

 

 

 

 しかし……ここまでの状況は想定していなかった。

 

 

 

 

 正直、今のナギサ様に仕事は任せられない。つまり現状、ティーパーティーでまともに仕事できるのは、代理の私のみ。

 

 加えて今のミカちゃんのティーパーティーの権限はまだ『停止』であり、『剥奪』ではない。つまり私の『専属の付き人』という肩書は生きている。

 

 要するに、今の私は『ティーパーティー代表代理』でありながら『付き人』でもあるのだ。計四人分の仕事がこれでもかと降りかかる。

 

 私の部下は……まあ、私の命令では当然動いてくれないから、ティーパーティーの組織はほとんど私だけで動かさねばならないのが実際のところである。

 

 いくらスーパーハイスぺイトちゃんとは言え、さすがに疲れもする。

 

「とんとんとん」

 

 とはいえ、これで書類は全部。私は擬音を口にしながら書類をそろえた。

 

 しかし……

 

「まずいよなぁ……」

 

 この状況。正直、いくら私と言えどこれ以上は限界だ。

 

 三徹な上、果てしない業務量。他ティーパーティー所属生徒からの嫌がらせだって終わらない。

 

 こんな状況ではパフォーマンスの維持ができない。それはつまり、ティーパーティーの危機を意味する。

 

 現に今も頭痛や眩暈がする。思考力もだんだんと鈍っているのを感じる。今日すらまともに終えられるのかあやしい。

 

 そんな状況にため息をつきながら、机の上に乱雑した書き損じ等のゴミをくるりとまとめ、ゴミ箱へ放った。

 

 ……ぽすっ。

 

「ふふん」

 

 私の手から放たれたゴミは見事な放物線を描き、小気味よい音を立てながらゴミ箱へと吸い込まれた。相変わらずの華麗さに、誰もいない空間で私は一人胸を張る。

 

 意外だろうか? 昔からこれだけは得意なのだ。ティッシュを日に箱単位で消費してた生活が功を成したのかもしれない。

 

「ふへっ、ふへへへっ」

 

 そうだ。私にもあるのだ、特技。ゴミ箱スローインだけは誰にも負けないぞ。

 

「ふへへへへへへへへ!!!!」

 

 そう思うと、どうも笑いがこみあげてくる。

 

 ……これが三徹、休憩ほぼ無し、全力全開フルスロットルで仕事をやった代償なのだろうか、理性の枷はとっくに壊れてしまったようだ。

 

「私が!! スローイン!!!! 世界一だぁぁぁあああああっ!!!!!!!」

 

 きもちいい。大声出すって最高だよ。

 

「ふへへへへへ!! へへっ、あーっはっはっはっは!!!!」

 

 靴を脱ぎ、椅子に足を乗っけて叫ぶ。付き人としてはあり得ないことだが、誰も見ていないという事実にかまけて自由に振る舞ってやる。

 

「私が!! 世界一なんだあああああああ!!!!」

 

「はい、そうですね♡」

 

「ですよね!!」

 

 そうだ。私は世界一なんだ。だって同意してくれたし。

 

 

 

 

 ……あれ? 誰が同意してくれたんだ?

 

 この空間は私だけなはず。だからこそ私はこんなにはっちゃけたのだ。さすがに人前でこんなことをするほど理性を失ったりしていない。

 

 もしもここに誰かいるのであれば……それはつまり、私の痴態も見られたということで……。

 

 全身から血の気が引いていくのを感じながら、私は歯車が錆びたロボットようにぎこちなく後ろを向いた。

 

「お疲れ様です、イトちゃん♡」

 

「うわぁ!?」

 

 そこには、相変わらず全裸のハナコ先輩がいた。

 

「い、いつから……」

 

「イトちゃんがかわいらしいおうたを歌っていた時から……です♡」

 

「あぁぁ……」

 

 膝から崩れ落ちた。

 

 あんまりだ。こんなところ、ハナコ先輩に見られたくなかったのに。

 

「大丈夫ですよ、イトちゃん」

 

「ふぇぇ?」

 

 ハナコ先輩は項垂れる私に近づき、そっと抱きしめた。あったかくてすべすべでもちもちで、非常に心地がいい。

 

 やば……これ、落ちる……。

 

「イトちゃんの素敵な一面を知れて、良かったです♡」

 

「あぅ……」

 

 だめだ。私にはまだ仕事がある。ねるわけにはいかないのだ。

 

 ねるわけには……ねる……みかも、ねる……。

 

 ねるねるねるね……?

 

「ふへへへへ!!」

 

「……相当お疲れですね」

 

 おもろい。我ながら最高のギャグが出た。

 

 

 

 

「……ほめて」

 

「え?」

 

「ほめてっ!!」

 

 そうだ。私は世界一のお笑い芸人なのだ。みんなから褒められて当然なのだ。

 

「よ、よしよし?」

 

 ハナコ先輩のおててが私の頭を沿う。

 

「ふへへへ」

 

 思わず頬が緩んだ。ハナコ先輩はやっぱりいい人。好き。

 

 

 

 

 しかしだ。そんなハナコ先輩にもよくないところがある。

 

「そういえば……」

 

 深夜とはいえ、ここはトリニティ。誰もいないという保証はどこにもない。現に私はいるし。

 

 そのことを踏まえた上で、目につくのはやはりハナコ先輩の服装。

 

「なんで全裸なんですか……?」

 

「ん? ああ、これですか?」

 

 先輩は私から離れて、自分の身体を見下ろした。

 

「なぜと言われましても……ふふ♡」

 

 そう言って、ハナコ先輩は妖しい笑みを浮かべた。私をからかうような、そんな目線である。

 

 かっちーん、イトちゃんキレちゃいました。

 

 私は自身の胸の衝動に任せ、ハナコ先輩の胸へ飛び込んだ。

 

「わっ、どうしました?」

 

「……やだ」

 

 先輩困ってるかな。私から抱き着くって少ないし。

 

 でも許してあげない。

 

「私以外が見てたら、どうするつもりなんですか」

 

「え?」

 

「そんな姿、他の人に見せちゃやです」

 

 なんかもう眠気でよくわかんない。自分が何言ってるのかもよく理解していない気がする。

 

「あら、嫉妬ですか?」

 

 ハナコ先輩はまだ余裕そうだ。

 

「多分、そうです」

 

「!」

 

 そうだ。これは多分嫉妬……あるいは庇護欲なのだ。

 

「全裸になるの、やめて」

 

「で、ですが……」

 

「……やめてくれないの?」

 

「……」

 

 ハナコ先輩、生意気である。世界一の私に盾突こうなんてよぉ!

 

「じゃあ……」

 

 この子娘には、ちょいとお灸を据える必要があるみたいだ。

 

「なっ、イトちゃん……!?」

 

 そう思い、私は先輩の鎖骨辺りに口をつけた。

 

 そのまま、先輩をそのまま飲み込むくらいのつもりで強く吸った。

 

「っ!」

 

 ハナコ先輩の顔が少し強張った。

 

 私は口を離し、先輩の肌に残った愛おしい痕を優しく舐める。

 

 

 

 

「ふへへ。これで、もうそんなかっこで出歩けませんね?」

 

 まんぞくである。

 

 これでもう平和なはず。私は使命を果たした。

 

 思い残すことは……な……い———

 

 

 

 

「えっ、あっ、イトちゃん……?」

 

「……」

 

「寝てしまったんですか?」

 

「……」

 

「はぁ……」

 

「びっくりしました。まさかイトちゃんが、こんな……」

 

「すぴー」

 

「イトちゃん」

 

「……」

 

「ねぇ、イトちゃん」

 

「……」

 

 

 

 

「……本当はあの夜、何があったんですか?」

 

「……」

 

「イトちゃんが、誰の助けも無しにアリウスを足止めできたとは考えられません」

 

「いったい誰に、何を支払って……」

 

「すぅ、すぅ」

 

「……ごめんなさい。私が不甲斐ないばかりに……」

 

「……ふへ」

 

「もっと、うまくできたはずなのに……」

 

「……ふへへ」

 

「……はぁ」

 

「……」

 

「……」

 

「…………おねえちゃん」

 

「!?」

 

「おねーちゃん」

 

「ね、寝言ですか」

 

「おねえちゃん、好き……」

 

「!?!?!?!?」

 

「ずっと……いっしょ……」

 

「―――――っ!!!!」

 





アズサ「ハナコ、その絆創膏はどうしたんだ?」

ハナコ「こ、これは……」

コハル「!!!! エッチなのは駄目!! 死刑!!!!」

ヒフミ「あ、あはは……」

曇らせが!!足りないっっ!!!!(曇らせモンスター)


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エデン条約調印式、はじまり


 ひ、引っ越しって、めちゃめちゃいそがしいね……


 

「ここにおかけください」

 

 暗くなり始めた時刻は夕方6時ごろ。私が窓から外の様子を眺めていると、先導してくれた生徒がそう言った。

 

「はい、ありがとうございます」

 

 慣れない土地だ。そこかしこから銃声や爆発音が聞こえる。ブラックマーケットほどじゃないが、治安はあまりよろしくないようだ。

 

「風紀委員長が参るまで、もうしばらくお待ちください」

 

 失礼しますと言い、風紀委員の人が部屋から出て行った。私はトリニティのそれに勝るとも劣らない、果てしなく豪勢な部屋にポツンと取り残されてしまう。

 

 そう、ここはトリニティと対を成すマンモス校、ゲヘナ学園である。

 

 そう、私がここにいるのは他でもない。あろうことか、ティーパーティーはおろかトリニティを代表して外交に来ているからだ。

 

 相手はあの風紀委員長、空崎ヒナさんである。

 

 過去に面識があるとはいえ、ここは厳粛な場。加えて私の付き添いなどは一人としておらず(ティーパーティー生徒に頼んでみたが全員に拒否されてしまった)、もしこの会談で何かしらの無礼があれば私を守るものは何もない。

 

 加えて、ハナコ先輩のおかげで少しは寝ることができたとはいえ、今の私は圧倒的な寝不足だ。頭痛や眩暈は絶えないし、この前カイザーのクズ野郎にやられたお腹もまだ痛む。コンディションは絶不調と言って差し支えない。

 

 ……しかし、ハナコ先輩の鎖骨の絆創膏は何だったんだろうか。本人に聞いても何にも言ってくれないし、火傷でもしたのかと不安になる。

 

「ふーっ……」

 

 まあ、そんな言い訳を並べたところで何かが好転するわけでもない。差し出されたコーヒー(カフェイン)に感謝しつつ、ゆっくり息を吐きだした。

 

 粗相があってはならない。その緊張感から、私は掌に人の字を三回書いて飲み込んだ。

 

 その時だった。

 

「ごめんなさい、待たせたわね」

 

 そう言いながら、空崎さんが扉を開けた。私は急いでコーヒーカップを置き、立ち上がる。

 

「いえ! お忙しい中、お時間をいただき感謝申し上げます」

 

 そのまま私は深く頭を下げた。相変わらずの存在感に尻込みをする。

 

「久しぶりね、イト」

 

 私は頭を上げ、空崎さんの顔を見た。

 

 あの時……美食研究会の引き渡しについていった時よりもさらにやつれているように見える。今もここに来る前に不良生徒の鎮圧をしていたのだろうな。さっきまで聞こえてた銃声が止んだし、会談に少し遅れたのもそのせいだろう。

 

 いくらめちゃめちゃ強いとはいえ、こんな小さくて細い少女に背負わすには重すぎる労働だと思う。

 何かあってからでは遅いのだ。しっかり休んで、よく寝て、よく遊んでこその女子生徒である。空崎さんはもっと自分を大切にすべきだと、部外者なりに思う。

 

「はい、お久しぶりです、空崎さん」

 

 そうして空崎さんと顔を合わせる。私よりも小さいこの人が頑張っている以上、泣き言も言ってられない。私ももう一回気合を入れなおそう。

 

 ……と、思っていたのだが。

 

 

 

 

「キキキッ! お前がティーパーティーの聖園ミカ、だな?」

 

 まさか、万魔殿の議長までいらっしゃるとは……聞いてないっ!!

 

 この会議の出席者は私と空崎さんだけだったはずだ。ここに羽沼さんがいるってだけでまあまあ政治的な意味を持ってしまうんだけどなぁ……?

 

 切れ長の目に、銀色の髪とロングコートをなびかせるその人は、空崎さんの前に割って入り腕を組んだ。背が高くてちょっと怖い。

 

「……申し遅れました。お初にお目にかかります。私はティーパーティー代理、糸巻イトと申します」

 

 この人は、まあいわゆるゲヘナのトップだ。色んな記事にあった内容では随分……その、ちょっと……ゆ、愉快な方という印象がある。

 

 しかしトップはトップ。私がトリニティ代表としてきている以上、細心の注意を払う必要がある。

 

「キキキッ、このマコト様に早速ひれ伏すとはいい判断だ! さすがはティーパーティーだい……だ、代理?」

 

 羽沼さんがわなわなしだした。

 

 うん? これは「風紀委員会」と「ティーパーティー」ではなく、「ゲヘナ」と「トリニティ」の会議なんだから、羽沼さんにも資料くらい行ってるはずなんだけど……まさか伝わってないのか?

 

「くっ、なめられたものだ。まさかこのマコト様に代理などをよこすとは……!」

 

「えっと……」

 

 そもそもあなたはお呼びじゃないのに。

 

「なるほど……これはトリニティの陰謀だ! このマコト様と秘密裏に取引するつもりだろうが、そう上手くいくものか!」

 

「あー……」

 

 なるほど、話が通じない……というよりは、成り立たない人か。

 

「しかし……キキッ! こんな貧弱なやつが代理とは、ティーパーティーのレベルがうかがい知れるな! やはり我々ゲヘナの方が圧倒的に上だ!」

 

 エデン条約を控えたこんな時に……大胆不敵が過ぎるぞ。ゲヘナのトップが仮にもティーパーティー代理にそんなこと言っちゃうの? 怖いんだけど??

 

「好都合! この場にいる空崎ヒナと共に、私が直接……」

 

 

 

 

「マコト」

 

 

 

 

 羽沼さんがそのコートをはためかせ、高らかに声を上げた、その時だった。

 

「……少し、黙って」

 

 空崎さんの纏う空気が、一瞬で変わった。

 

 その場に漂うあまりに高密度な殺気に、私の身体が意志とは無関係に震えだした。喉が締まって、うまく呼吸ができなくなる。

 

 

 

 

 ……こわい。漏らしそう。

 

 羽沼さんも感じたようで、額に冷や汗を浮かべている。

 

「……こ、今回は見逃してやる。次はないぞ! 空崎ヒナ! 糸巻イト!」

 

 そう言って羽沼さんはそそくさと出て行ってしまった。何しに来たんだ、あの人。

 

 

 

 

「ごめんなさい、イト。邪魔が入ったわね」

 

「あ、いえ……」

 

「勝手についてきたみたい。大方、トリニティの重鎮にちょっかいをかけたかったんだろうけど」

 

 か、勝手にって……。

 

「羽沼さんはいつもそう、なのですか?」

 

「うん」

 

 空崎さんはそう言うと、心の底からあふれ出したようなため息をついた。

 

「羽沼さんは、トリニティのことがお嫌いなのでしょうか……?」

 

「まあ、そうね」

 

「えっと、過去に何か……?」

 

「多分なにもないと思う。嫌いな理由はなんとなく。特に何も考えてないんじゃないかしら」

 

「わぁ……」

 

 なるほど、系統でいえばミカちゃんと同じか。

 

 

 

 

 ……そのアナロジーで考えれば羽沼さんもエデン条約に関して何かしらの妨害を行っている可能性はあるな。

 

 そもそもゲヘナ側でエデン条約を進めてきたのは空崎さんだと本人から聞いた覚えがある。空崎さんは、羽沼さんが何も考えていないのだろうと言っていたけれど、本当にそうだろうか。

 

 何かを嫌うのはすごいエネルギーを生む。ゲヘナに対するミカちゃんしかり、私に対するティーパーティー生徒しかり。その行動力は決して侮っていいものではない。

 

 警戒するに越したことはないだろう。

 

 

 

 

「それより、本題に入ろう」

 

 私がそう考えに耽っていると、空崎さんから声がかかった。まあ、エデン条約はもう目前だ。今更なにかできるわけでもあるまい。

 

 ……と、思うことにする。

 

「そうですね、失礼しました」

 

「……エデン条約調印式当日の予定について、だったわね」

 

 そうだ。そもそも私がここに来た目的を忘れちゃだめだ。

 

「はい。調印式当日の予定では、私と空崎さんは一緒に会場入りをし、開会式の挨拶を行うことになっています」

 

 そう、私にはティーパーティー代表として空崎さんをお出迎えし、格式ばった挨拶をする役割を与えられてしまった。

 

 これはティーパーティー生徒たちからの推薦である。一見名誉なことだけど、曰く『ゲヘナ……それも空崎ヒナにへりくだって下手に出るなんて、あなたのようなプライドもへったくれもない目先の権力に溺れた卑しい魔女にしか務まりませんわ』とのことだ。ひどい。私が泣いちゃったらどうするんだ。

 

「私の当日の予定は、早朝に会場の設営、その後来賓の受付と接待があります。空崎さんと合流できるのはその後なのですが……当日のご予定はいかがですか?」

 

「……私は車で向かうことになってる。会場につくのは比較的遅くなると思うから……」

 

「それなら、ちょうどよく合流できそうですね」

 

 よかった。このために仕事を早めに切り上げようものなら、他のみんなからどんな暴言が飛んでくるか分かったものじゃない。一安心である。

 

「それにしても……あなた、ティーパーティー代理なのに、そんな雑用までやるの?」

 

「え?」

 

 雑用って……設営や接待のことを言っているのだろうか?

 

「会場の設営なんて、部下にやらせれば……」

 

 それ、空崎さんが言うか。自分だって風紀委員の仕事を一人でやっちゃうくせに。

 

「あ、あはは……そう、ですよね……」

 

 そうはいっても、私の部下(笑)はやってくれない。一応、正実やシスターフッドのみんなとも協力するけど、ティーパーティーからは私しか参加できないみたい。そんな事情もあって、私はボランティア扱いだ。

 

「……あなた、苦労してるのね」

 

 空崎さんはそう言った。労われるのなんてそうないから、ちょっと嬉しい。

 

「空崎さんこそ……」

 

「イトほどじゃない。あなた、何日も寝てないでしょう?」

 

「……」

 

「隈、すごいわよ」

 

「あー……」

 

 メイクで何とか隠してたつもりだったけれど、だめだったみたい。

 

「すみません、お見苦しい姿で……」

 

「そういうことじゃない。それに、この前の指だってまだ完治してないでしょう? それに、そのお腹はどうしたの?」

 

「な、何でそれを……?」

 

「動きが変だった」

 

 ありゃ……そこまでお見通しだとは。空崎さんの戦闘経験で培われた観察眼だろうか?

 

「ちゃんと寝なさい」

 

「ぜ、善処しますね」

 

 私は、困ったようにそう笑うしかなかった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ……とは、いったものの。

 

「イト……」

 

 ほとんど休めないまま私は調印式当日を迎えた。

 

「は、はい? なんですか?」

 

 早朝……朝6時から会場の設営があり、8時からは来賓の接客をし……。

 

 そして迎えた午前10時。

 

 私と言えば、もう満身創痍である。

 

 

 

 

「全く……糸巻イトさん、そんな状態で開会の挨拶ができるのですか?」

 

 そう言うのは、空崎さんの隣で私を見下ろす……ゲヘナ風紀委員会の行政官。実質のNo.2である、天雨アコさんだ。

 

 セイア様と同じ……失礼だが、明らかにおかしい構造の服を着ている。

 

「問題ありません」

 

「ならいいのですが……」

 

 眩暈が眩むし、頭痛が痛いけれどパフォーマンスに問題はない。イトちゃんがこの程度で倒れるものか。

 

「……イト、式の様子は?」

 

 空崎さんが口を開いた。

 

「今のところ順調です。ティーパーティーやシスターフッドなど、トリニティ側の出席者はすでにそろっています」

 

「そう。なら私たちも行こう」

 

 空崎さんには挨拶の最終確認のため、と銘打って少し早めに来てもらった。けれど、私の狙いはそこにはない。

 

 

 

 

 常に、私の頭にあるもの。

 

 

 

 

 エデン条約は……崩壊する。

 

 

 

 

 本当なのかもわからない。しかし無視するには、あまりに大きすぎる懸念。

 

 ……結局、私には分からなかった。

 

 どのように崩壊するのか? なぜ? 誰が? どうやって?

 

 分からないものには対処のしようがない。

 

 私は漠然とした不安を抱え続けていた。

 

 けれど、こうして当日を迎えられた以上一つだけわかることがある。

 

 事前に調印式自体が崩壊したわけではないのだから……崩壊するとしたら、それはきっと政治的な背景によるものではない。

 

 

 

 

 ……武力行使だ。

 

 会場は夜通しチェックしたから爆発物はない。暗殺か、はたまた正面切ってこの場に乗り込んでくるのかもしれない。

 

 いずれにしても、私がどうこうできるものではないだろう。

 

 

 

 

 しかし、空崎さんは違う。

 

 もしも黒幕が武力行使を企むのであれば、それ以上の武力をぶつけるまで。

 

 風紀委員会の武力、その半分を担うと言われる空崎さんなら、対処ができるのかもしれないと思った。

 

 空崎さんには申し訳ないけれど……私にはそんな目的があったのだ。

 

 

 

 

「それはそうと空崎さん」

 

「なに?」

 

「調印式には、シャーレの先生も出席するそうですね」

 

「え、えぇ」

 

「まだ少しなら時間もありますし、せっかくなら会いに行きますか?」

 

「……!」

 

 ふぇへへ。顔赤くして、かぁいいねぇっ!

 

 疲れ切った頭に、美少女の赤面が染みる。

 

「先生も『ヒナを吸いたい』って言ってましたよ」

 

「っ!?」

 

「な、なんですかそれは!?」

 

 まあ普通に気持ち悪すぎる。これ本当に言ってたからね。

 

 いくら大人だろうと、先生が本当に吸うわけないからさすがに冗談だろうけど……冗談にしても趣味が悪い。

 

 本当に吸っていようものなら、くたばってもらって構わない。

 

「ひ、ヒナ委員長を吸う!? あの人は何を言ってるんですか!? 委員長にそんなこと、私が絶対にさせませんよ!?」

 

 ほら、天雨さんもこうして怒ってて———

 

 

 

 

「委員長を吸う前に! 私を吸わせてやります!!!」

 

 

 

 

「……」

 

「あ、アコ?」

 

 う、嘘だよな? 風紀は一体どこへ……??

 

「先生はどこですか!? 私がとっちめてやりますよ!」

 

「アコ、落ち着いて」

 

「これが落ち着いていられますかっ!!」

 

「アコ、うるさい」

 

「くぅん……」

 

 天雨さんはそう鳴くと、すっかりおとなしくなってしまった。なんだこれ。天雨さんはかわいいわんちゃんなのか?

 

「ご、ごめんなさい、イト」

 

「あ、あはは……」

 

 びっくりした。風紀委員会はこういうものなのか。

 

 

 

 

 そんな一幕がありつつ、私は空崎さんらと共に歩き始めた。

 

「そういえば、空崎さん」

 

「なに?」

 

「ずっと気になっていたんですけど……万魔殿の方々とは一緒ではないのですか?」

 

 私はてっきり、万魔殿の人たちも一緒なのかと思っていた。その情報収集のために、あの場に羽沼さんがいらっしゃったのかと考えていたし。

 

 私がそう言うと、空崎さんは遠くを見る目で空を見上げた。

 

 

 

 

「万魔殿は飛行船で来るらしい。風紀委員は地を這ってこい、だとか言っていたそうよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 

 その瞬間、私の頭から雑音が消える。

 

 万魔殿のリーダー、羽沼マコトはミカちゃんと同様の思想……なんとなくでトリニティへの嫌悪感を持っている。

 

 そんな人が、こんな条約をすんなりと受け入れるはずもない。

 

 改めて考えれば、至極当然のことだ。

 

「い、イト? どうしたの……?」

 

 それに、風紀委員会と万魔殿は不仲と聞いた。

 

 そこまで踏まえたうえで、空崎さんに陸路を強いた?

 

 万魔殿は、わざわざ飛行船で来ている?

 

 ……なぜ?

 

 陸。空。その違い。

 

 そんなの、考えなくても分かる。

 

「……っ!!」

 

 裏にいるのが何者なのかは分からない。

 

 もしもまた(・・)そう(・・)なのであれば。

 

 

 

 

 ……確実に、大人の関与がある。

 

 

 

 

「!? イト、どうしたの!?」

 

「空崎さんっ! 来てっ!!!」

 

 私は、空崎さんの腕を強くつかむ。

 

「イトさん? どうしたのですか?」

 

 そこに、天雨さんの困惑の声が届いた。私はそれに歯噛みをする。

 

 

 

 

 ……だめだ。私の身体では、一人が限界。

 

 

 

 

「……っ、ごめんなさいっ!!!」

 

 私は天雨さんを振り切り、空崎さんを連れて走りだした。

 

「ちょっと!? どういうことですか!?」

 

 走りながら周囲を見回す。

 

 どこか、なけなしだろうと壁になるようなものは……。

 

「イト、本当にどうし———」

 

 そこで、空崎さんの声が途切れた。

 

 なぜか?

 

 ……聞こえたからだ。

 

 

 

 

 ヒュオオオオオオオオオ———!!!!

 

 

 

 

 耳をつんざく、空を切るような何かの音。

 

「あ、あれは……!?」

 

 見つけた。あそこなら、何とか爆風を少しは防げるはず。

 

「空崎さんっ!!!!」

 

 私は空崎さんを抱きかかえ、建物の窓を突き破った。

 

 そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドォオオオオオオオオオン!!!!!!!!

 

 

 

 

 けたたましい爆発音とともに、私の意識は闇に沈んだ。

 

 





 これは確実にGlitch Street流れてる


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はじまり


※注意! この回、ダメージ描写が強めです! というか、この先のイトちゃんはずっと痛そうです! お気をつけください!


 

 そうか、イト。

 

 君は、その道を

 

 苦痛に塗れたその道を

 

 どこまで進んでも絶望しかないその道を

 

 これまでも……そしてこれからも

 

 愚鈍に、愚かに、ただ真っ直ぐ、迷うことなく

 

 進み続けるというのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 なぜ?

 

 どうして?

 

 私はそれを、知っていたというのに。

 

 

 

 

 ……。

 

 ………。

 

 …………すまない。

 

 すまない、イト。

 

 私には、これしか分からなかった。

 

 こうする他になかった。

 

 だから……

 

 ……

 

 だから、私は……

 

 

 

 ***

 

 

 

「…………ト!」

 

 最初に知覚したのは光だった。

 

 それは太陽の光なんて温かいものではない。

 

 空を覆いつくす黒煙と、それを巻き上げる業火。

 

「イト! お願い……起きて……」

 

 それに当てられて、私の意識は死体みたいにぷかぷかと浮き始めた。

 

「……っ、血が……止まらない……」

 

 次いで知覚したのは声だ。

 

 何か、私の傍で切迫した声が上がる。

 

「っ、ぁ……」

 

「! イト!!」

 

 頭がくらくらする。視界がぼやける。耳鳴りがする。全身の感覚がよく分からない。

 

「イト! 私が分かる……!?」

 

 それに呼吸が苦しい。肺に何か詰まっている感覚がある。

 

「ぅ、けほっ!! ……っ!?」

 

「う、動かないで……動かないでいい……」

 

 私が咳き込むのと同時に吐き出されたらしい血液は、重力に従って再度肺へと流れ込む。どうやら私は仰向けになっているようだ。

 

 次第に視界が鮮明になっていき、耳鳴りも収まり始める。

 

 すると私の視界は、心をズタズタに切り裂かれたような顔を浮かべる、一人の少女を捉え始めた。

 

「そら、さきっ……さん……?」

 

 

 

 

 ……そうだ、思い出せ。

 

 今まで何があったのか、そしてこれから何をすべきなのか。

 

「だ、大丈夫。大丈夫だから……」

 

 思考を止めるな。頭を回せ。

 

 仮にこの爆発が開戦の合図なら、本番はここからなはず。

 

 そんな時に倒れていては、私が生きている意味がない。

 

 動け! 立て! 私!

 

 もしここで動かなかったら、みんなの命があぶな———

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ゛っぐ……っあああ!!!!」

 

 

 

 

 痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!

 

「あっ、い、イトっ……!!」

 

 意識の靄が晴れ始め、周囲の情報を知覚できるようになった私を、切れ味の悪い熱したノコギリで削られるような痛みが襲う。

 

「ぐぅう゛……ああああああっ!!!」

 

「大丈夫、だ、だい……じょうぶ……」

 

 辛い、苦しい、ここにいたくない、意識を保っていたくない、いっそのことこのまま死んでしまいたい。

 

 そんな風に思うほどの痛みだった。

 

 

 

 

 ……けれど、だめだ。

 

「……っ、うぅっ……」

 

 そんな風に楽になろうとするな。

 

 死んでしまいたいなんて、二度とそんな風に思うな。

 

 そんなこと、許されるものか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなことで、私の罪が消えるものか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「だ、だいじょうぶ……です……」

 

 私は改めて思考を取り戻す。そしてやるべきことを成す。

 

 まずは状況の把握。古聖堂のあったはずのそこには見る影もなくて、辺り一面から黒煙と悲鳴が立ち上っている。

 

 どうやら、あのミサイルは私の想定を大きく上回る威力を有していたようだ。

 

 私はどうやら瓦礫の上に寝かせられていて、空崎さんがそこに寄り添ってくれているようだ。自分を見れば、爆発前に建物に隠れて伏せたのが功を成したのか、胴体や下半身はなんとか無事で致命傷はないようだ。

 

 しかし一点だけ気になる点がある。

 

 空崎さんがさっきからガーゼで押さえてくれている、私の左腕。

 

 血がとめどなく溢れ続けているのだが、それ以上に。

 

 

 

 

 ……肘から先の、一切の感覚がない。

 

 

 

 

「……っ」

 

「あっ、だめっ!!」

 

 私は自分の左腕を持ち上げる。

 

 すると空崎さんがかぶせてくれていた真っ赤なガーゼがめくれ、その下があらわになった。

 

 

 

 

 ……そこにあった物を私の腕と呼ぶべきかは分からなかった。

 

「あ…れ……」

 

 それは……ちょうど真ん中くらいでちぎれかけており、よく見れば断面からは白い骨が突き出ていた。

 

 肘から先はまるで一本の棒になったかのようでまるでいうことを聞かず、ただ振り子の原理でぷらぷらとぶら下がっているだけだった。

 

 

 

 

 私に十五年間も付き合ってくれた左腕。かつてあの人(・・・)の手を、今はみんなを抱きしめさせてくれた、私の腕。

 

 

 

 

「ごめんなさい……」

 

 私が呆然としていると、空崎さんが優しい手つきでまた新しいガーゼをかぶせてきた。

 

 蚊の鳴くような声だ。

 

「ごめんなさい……私のせいで…‥私の……」

 

 空崎さんへと視線を移す。

 

 彼女はすごく辛そうだった。私の傷を私より痛んでいるようだった。

 

「私が、この腕を……わたし、が……わたし…の……」

 

 

 

 

 この人はきっといつもそうなんだ。

 

 いつも自分で抱えて、人に頼ることをしないで、でも一人で居れるほど強くない。

 

 かっこよくて、きれいで、かわいくて、やさしい……きっと、空崎さんはそんな人だ。

 

 そんな人に、こんな風に泣いてほしくない。

 

「……イト?」

 

 私はまだ動く右腕を伸ばし、空崎さんの涙をぬぐった。

 

 

 

 

「……空崎さんは、無事ですか?」

 

「……っ、あ……」

 

 そんな風に震えないで。

 

 そんな風に泣かないで。

 

 自分のせいだなんて思わないで。

 

「私は……だい、じょう…ぶ……」

 

 だって全ては私の責任。

 

 全ては私の自業自得なんだから。

 

「えへへ……よかった」

 

 左腕以外はなんとか無事だ。立てないわけじゃない。私は踏ん張って、足に力を込める。

 

「イト…! だめ、動いたら……!」

 

「だーいじょうぶ! けほっ……私は平気です!」

 

 体を起こすとまた吐血したが、大した問題ではないはず。今考えるべきは私の身体についてじゃない。

 

 この爆発の意味。

 

 これは、明らかなテロ行為だ。

 

 この爆発だけで終わるなんてことはあり得ないだろう。トリニティとゲヘナ両校の首脳が一挙に集まるこの場。それに先生だっているんだ。

 

 爆発だけなんて不完全な方法じゃなく、これらを確実に葬るための実働部隊があるはず。

 

 正直言うと……そんな切迫した場面で、空崎さんほどの戦力を私一人の治療で拘束するなんてありえない。

 

 

 

 

「空崎さん……私のことを気遣ってくれて、ありがとうございます」

 

 申し訳ない、と思う。

 

「でも、空崎さんのやるべきことは、別にあります」

 

 空崎さんには、これから命の価値を選別してもらうことになる。

 

 トロッコ問題、というやつだ。

 

「え……」

 

 私は立ち上がり、もらったガーゼで左腕を抑えながら空崎さんを見下ろした。

 

「空崎さんのやるべきことは二つ。一つは今すぐここを離れて敵部隊を迎撃すること。もう一つは、どこかにいる先生を見つけ出し、確実に保護すること」

 

 空崎さんは、初めて屠殺を見た子供のように震えている。

 

「それで…イトは、どうするの……?」

 

「えへへ、言ったでしょう? 私はもう平気だって」

 

 大丈夫だ。歩くことに支障はない。

 

 私は瓦礫の山から抜け出し、周囲を確認する。

 

 遠くに…あれはツルギ委員長だろうか? 正義実現委員会の人が戦っているのが見えた。

 

 

 

 

 相手は……やはり、アリウス。

 

 

 

 

「いや……」

 

 それだけじゃない。

 

 あれは……

 

「イト……?」

 

 見覚えがある。

 

 あの、レオタードを着たガスマスクのシスターたち。

 

 

 

 

 あれは確実に……『ユスティナ聖徒会』。

 

 

 

 

 エデン条約、この襲撃……

 

 アリウス、第一回公会議、古聖堂、発射のタイミング……

 

 カタコンベ、アミューズパークの怪談、アリウス自治区の位置……

 

 戒律の守護者…………エデン条約……『エデン』……

 

 

 

 

「……空崎さん」

 

 もしも……

 

 もしも、この仮定が正しいのなら……

 

 トリニティとゲヘナは、キヴォトスから消える。

 

「作戦変更です」

 

 かつてアリウスがそうなったように。

 

「なにを…‥」

 

「戦闘は最小限に。一刻も早く先生の下へ向かってください」

 

 そしてそれを止める手段は……存在しな———

 

 

 

 

 

 

 

 

 ———いや! ある!

 

 そうだ、その仮定(・・)だ。

 

 もしも、戒律の守護者を何らかの方法で顕現させているのなら、それはきっと科学ではない。

 

 なにか……特殊能力とでも言うべきものだろう。

 

 そんな力を持っている人なんて、そういるもんじゃない。

 

 原因を叩けば、何とかなる可能性だって……!

 

 

 

 

 

 

 

 ———ギィイイイ……

 

 

 

 

 その時だ。

 

 この喧騒の中、確かに私は聞いた。

 

 そして、見た。

 

 この場において、明らかに異質。

 

 それは高貴なタキシードを身にまとい、木偶のような双頭をもっていた。

 

 心がざわつく。

 

 絶対の存在が私の目の前で絶望を運んでいるような、そんな気分。

 

 

 

 

 あれは……大人、だ。

 

 

 

 

「ごめんなさい、空崎さん」

 

 気づけば私は……

 

「私、行きます!!」

 

「っ!? まって、イト!!」

 

 ……彼の背中を追いかけ始めていた。

 

 





ヒヨリ「ひ、ヒナさん、まだ立って……といか、無傷…ですねぇ……」

ヒナ「……っ! こんな時に……!!!」



イトちゃんしなないで……泣


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Ready, set, go!

 

「ふんふーん☆」

 

 やけに広い監獄に、私の上機嫌な鼻唄が響く。頬張るロールケーキは飽きたけどまあおいしいし、取り寄せた紅茶は最高級ってだけあって香りがいい。

 

 今朝の目覚めもよかった。メイクもばっちり決まってる。髪の毛のコンディションもいいし、イトちゃんとお揃いの髪飾りも何だか今日はいつもより輝いて見えた。まあ、誰に見せるってわけでもないんだけどね。

 

 まあ端的に言えば、今日の私は絶好調なのだ。

 

『そしてトリニティ総合学園におけるティーパーティーのホスト、桐藤ナギサも古聖堂に到着したようです! 各学園の主要人物が、次々と集まってきています!』

 

 テレビはクロノスのニュース番組を流している。そろそろ始まるみたい。

 

 それに伴い、私の胸も高鳴りを始めた。その理由はただ一つ。

 

 

 

 

 どうやら、この調印式でイトちゃんがスピーチをやるらしい。

 

 

 

 

 すごいよね! 大出世だよ! いや、まあイトちゃんがすごいのはそりゃそうなんだけど!

 

 ゲヘナの風紀委員長と一緒なのが気に入らないけど、イトちゃんの雄姿が見れるなら我慢する。

 

 私は、そんなイトちゃんの一大イベントを前に、気合を入れまくっていたのだ。早起きしてお風呂も入ったし、今日は料理だってしちゃったんだよ? ロールケーキ焼き作ったんだ!

 

「ふんふふーん☆」

 

 そんなわけで、私は珍しく朝からテンションマックスなのだ。

 

 

 

 

 でも……イトちゃん、面会に来てくれるたびにやつれてて、ちょっと心配だなー。

 

 この前なんて、私との面会途中に寝ちゃったもん。イトちゃんの寝落ちなんて珍しすぎて写真撮っちゃった。一緒に暮らしてた時でさえ、私より後に寝るし私より早く起きるから寝顔なんてそうそう見せてくれなかったのに。

 

 仕事が忙しいのかなと思って他のティーパーティーの子に聞いてみても、むしろ暇なくらい言ってたし、本人は何も言ってくれないし……イトちゃんがまた、なにか危ないことをやっているんじゃないかと不安になる。

 

「イトちゃん、大丈夫かなぁ……」

 

 あぁそれと、ナギちゃんに関しては不安しかない。

 

 なんかよくわかんないけど……イトちゃんから聞いた話では、『あはは』って聞くだけで発狂しちゃう身体になったらしい。

 

 おかしいよね! まったく、イトちゃんのメンタルの強さを見習ってほしいもんだよ!

 

 ……なんてね。私がナギちゃんの立場だったら、ナギちゃんと同じようなことになってたかも。ううん、きっともっとひどい。

 

 ナギちゃんから『今まであなたを友達だと思ったことはないです』とか、イトちゃんから『近づかないでください、気色悪い……』なんて言われたら……。

 

 うっ……考えたくない……。

 

 うぅ……勝手にダメージを負ってしまった。まあこれも私の罰だよね。

 

 気分を切り替えて……私はロールケーキを食べながらイトちゃんの活躍の場を今か今かと待ちわびる。

 

 ここからじゃうまく見えないけど、外は快晴らしい。それはイトちゃんを晴れ舞台の下へ送り出してくれることだろう。

 

「いつかなー? まだかなー?」

 

 きっとイトちゃんは完璧にこなす。そしたら、何しよう?

 

 イトちゃんが帰ってきて、ついでにナギちゃんも帰ってきて、一緒にロールケーキ食べたい! いややっぱロールケーキ以外がいいかも。

 

 そう。全ては順調に終わる。

 

 何の滞りもなく。

 

 何の問題もなく。

 

 私の大切な人たちは、いつも通りに帰ってくる。

 

 

 

 

 ……そう、思っていたのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

『緊急事態です! 古聖堂が、正体不明の爆発によって炎に包まれ……!』

 

 

 

 

 なんで?

 

 

 

 

 その時、牢獄の中のテレビは、壊れたんじゃないかってくらいのノイズを響かせた。画面はぐらぐらで見れたもんじゃない。

 

 爆発? 誰が? 古聖堂? 何のために?

 

 私の頭が高速で感情のろくろを回し始めた。出来上がる陶器がどんな形をしているのか私にもわからない。

 

 まあでも、その名前はいたってシンプル。

 

 

 

 

「……っ!!!」

 

 

 

 

 ……怒りだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

「状況の把握ができるまで、動くのは得策ではありません!」

 

 エデン条約調印式、当日。私たち補習授業部は、カフェで卒業パーティーを執り行っていた。

 

 卒業を祝いつつも、これで補習授業部が終わってしまうことに一抹の寂しさを感じながら、私たちは思い出話に花を咲かせていた。

 

 それで終わるはずだった。

 

 そのまま、楽しい思い出になるはずだったのに。

 

「で、ですがアズサちゃんが……!」

 

「アズサちゃんも正義実現委員会も、少なくとも自分の身は守れます! 今はそれよりバラバラに散らばることの方が危険です!」

 

 調印式の場に、ミサイルが落とされた。

 

 その混乱と共に、アズサちゃんが私たちの前から姿を消した。

 

 アズサちゃんを心配するヒフミちゃん、正義実現委員会を心配するコハルちゃん。両方の気持ちは痛い程分かるが、今は危険すぎる。

 

 そのことを憂いての静止だった。

 

 今やるべきことは、身の安全の確保と状況の把握。

 

 そして、シスターフッドの代理として、上層部を失ったトリニティの混乱を収めること。

 

 この状況においても、私の頭は残酷なまでに冷静でいられた。

 

 

 

 

 ……しかしだ。

 

 もし……いや、確実にイトちゃんもあの爆発に巻き込まれているだろう。

 

 他の方々ならいざ知らず……イトちゃんが、あの爆発を食らって無傷で居られるだろうか。

 

 仮に無事だったとして、自分の身の安全を一番に考えて行動してくれるだろうか。

 

 

 

 

 これでも、イトちゃんと知り合ってからは長い。

 

 だからこそ断言できる。

 

 

 

 

 それはあり得ない。

 

 

 

 

 あの子が……どこまでも優しく、そして自分を大事にしないあの子が、保身に走るだなんてあり得ない。

 

 だからこそ痛い。

 

 隣にストッパーがなければ、きっとあの子はどこまでも立ち向かってしまう。

 

 ……死でさえ、受け入れようとするだろう。

 

 だからってトリニティを放置すれば、一部の過激派が何をするか分からない。

 

 戦争でも始めようものなら、両校の共倒れは明白。そうなれば、その影響は両校だけにはとどまらないだろう。

 

 

 

 

 ……私は軽く舌打ちをする。

 

 全く、あの毒蛇共はどこまでも……。

 

 

 

 

 そこまで考えて、私は一つ、悪魔のような考えに至った。

 

 ……なぜ?

 

 なぜ、私が……あの毒蛇の巣窟を、守る必要がある?

 

 あの場所(トリニティ)に、それほどの価値がある?

 

 イトちゃんの命の危機に、彼女を苦しめ続ける奴らなんかのために……?

 

 

 

 

「ハナコちゃん、コハルちゃん……私たちどうすれば……」

 

 ……いや、違う。

 

 いくらトリニティが毒蛇の巣窟だろうと、あそこはヒフミちゃんやコハルちゃんの帰る家なんだ。

 

 それに何より、イトちゃんはそれを望まないだろう。

 

「……っ」

 

 イトちゃんはきっとうまくやる。

 

 やって、くれる……はず……。

 

 そう思い込むしかない。

 

 私は調印式の場に後ろ髪を引かれながら、混乱の最中にあるだろうトリニティへと向かった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「はぁ……はぁ……!」

 

 木の人形は古聖堂にある地下へと向かった。私が追うと、そこにいたのは数多くのアリウスの生徒たちだった。

 

 私は急いで身を隠した。姿は見えないが声は聞こえる距離。

 

 私の存在を察知されようものなら……命はないと考えた方がいいだろう。

 

 ここに空崎さんがいなくてよかった。彼女にここまでのリスクを負わせるわけにはいかない。

 

「ひぃっ……!」

 

「き、木の人形……!?」

 

 アリウス生徒の怖がる声がする。

 

「……無作法だな。私を呼ぶのであれば、芸術への敬意も込めて『マエストロ』と呼んでほしいものだ」

 

 木の人形……マエストロと名乗ったそれは、どこからかは分からないが、意味不明な言葉の羅列を発した。

 

「そなたらにはまだ、芸術の何たるかは尚早だろうか……ならば済まないが、そなたらとは愉しい対話は成り立ちそうにない。知性、品格、経験……それらを備えて来るが良い。キヴォトスの生徒たちよ、どうかわたしを落胆させてくれるな」

 

 なるほど……。マエストロという人物の輪郭が見え始めた気がする。

 

 やはりこいつも大人だ。

 

 ちっぽけで価値のないプライドを引っ提げて、自分の姿を大きく見せようとする。

 

 私たち子どもに対して、自らはまるで上位種かのように思い込んでいる様。

 

 私が見てきた大人の姿に合致する。

 

「……されど、あの守護者たちの『威厳』を複製(ミメシス)できるというその一点には興味を惹かれた」

 

「……!」

 

 ミメシス……? 現象の模倣と、その表現……?

 

 守護者たちの『威厳』の複製……?

 

「戒律を守護せし者の血統……そのロイヤルブラッドの『戒命』が動作する様を見届けられたのは、幸甚であった」

 

 ……これだ。

 

 すべてがつながった。

 

 やはり、私の仮説は間違ってなかった。

 

 第一回公会議で定められた戒律。その守護者であるユスティナ聖徒会の複製。

 

 それを担っているのは、間違いなくあのマエストロだ。

 

 そして、それが今アリウスの手に渡っている現状を鑑みるに……。

 

 第一回公会議の再現たる、このエデン条約に……『トリニティ』としての権限を持ったアリウスが調印したとみていいはず。

 

 そこに『ETOはアリウスが担う』とでも書き加えたのだろう。

 

「おかげで私の実験は、さらに『崇高』に近づくことができるだろう」

 

 ……と、なればだ。

 

 私は空崎さんに、先生を保護するように言った。今ならまだ先生もこの場にいるはず。

 

 このエデン条約は確かにトリニティとゲヘナの間の条約だが……それを最初に発案したのは連邦生徒会長だったはずだ。

 

 ならば彼女が設立したシャーレにも、エデン条約の参加者としての権利があるはず。

 

 もう一度調印式を再現し、先生が条約を上書きすれば……。

 

 

 

 

 命令系統が混乱し、ユスティナ聖徒会を無力化できる……!

 

「……っ」

 

 時間が惜しい。今も被害は広がり続けているはずだ。

 

 今の私はティーパーティー代理なのだ。トリニティの混乱を収めたり、被害者の安否を確認したりする義務がある。

 

 行かねば。こうして座り込み、聞き耳を立てている暇はない。

 

 立って進まねば。

 

 一行も早く……!

 

 

 

 

 みんなの……とこ……ろ、へ———

 

 

 

 

 

 

 

 ———どさっ

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ…れ……?」

 

 

 

 

 物静かな洞窟の中に、私が倒れる音が響く。

 

「だ、誰だ……!?」

 

 思うように立ち上がれない。思うように足に力が入らない。

 

「けほっ……! なんで……!?」

 

 そう口にはしたものの。

 

 度重なる徹夜に、過重労働。

 

 加えて、さっきの爆発による失血。

 

 私の身体がとっくに限界を迎えていることなど明白であった。

 

「誰だ!? なぜここに!?」

 

 だからこれも、私のミス。

 

 これから何が起きようとも、私の責任。

 

 これから私が、どうなろうとも。

 



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アリウス自治区へ


 相変わらずイトちゃんが痛そうです。



 

「う゛っ……げほっ……!」

 

 エデン条約調印式。ミサイルの投下による狂乱の中、その地下にある一際静かな洞窟には一人の少女の苦痛に満ちた声が響き渡っていた。

 

「誰だ。何の目的でここに来た」

 

 そこには数多くのアリウス生徒がおり、そしてその集団の中に渦中の人物がいた。

 

「言え。どうやってここを見つけた。目的は何だ。我々の会話をどこから聞いていた」

 

 渦中の人物……糸巻イトは、すでに満身創痍ながらもアリウス生徒の一人に拷問を受けていた。

 

 銃身で頭を何度も殴られ続けた彼女にはもう喋る気力すらない。

 

「予備戦力は? ここまでの到着予定時刻は? トリニティ側はこの事態をどこまで把握している?」

 

「ぁ……っ、げほっ!」

 

 いくら殴ろうと、いくら痛めつけようと、彼女が口を割る気配は一向にない。そんなイトの様子に嫌気が差したのか、はたまた放っておいてもいずれ消えゆく命に興味を無くしたのか、アリウス生徒は倒れるイトの上から降りた。

 

 これでひとまずの苦痛からは解放される……。

 

 そう、イトが安堵したのも束の間だった。

 

「がほっ!」

 

 仰向けで寝転がるイトの脇腹に、強烈な蹴りが入る。

 

 イトの身体は少しの間宙に浮き、そのまま転がってうつ伏せの状態になった。

 

「お、おい……」

 

 それは、凄惨な現場を周囲で静観していたアリウス生徒の一声だった。

 

「そいつ……死んじまうぞ……?」

 

 その声を聞いても、イトの拷問は終わらない。

 

 彼女はイトの上に乗り、髪を乱暴につかむ。

 

 

 

 

「……何を言っているんだ?」

 

 

 

 

 そしてそのままイトの頭を持ち上げ……。

 

「うっ…あぁ……」

 

「こいつは……」

 

 そのまま、勢いよく地面へ叩き落とした。

 

 

 

 

「トリニティの生徒なんだぞ?」

 

 

 

 

 その衝撃は、発せられた音を聞けば一目瞭然だった。

 

「っ、ぁ……」

 

 その光景には、暴力に慣れたはずのアリウス生徒たちでさえも目を背けた。

 

「ましてこいつはティーパーティーの関係者だ。我々アリウスの憎しみの元凶……」

 

「だ、だからってなにも殺すことは……」

 

 アリウス生徒たちは十分な訓練を受け、統率を取れるほど優秀だ。しかし、過激な思想を持つ者、温和な思想を持つ者……その思想はやはり十人十色である。

 

「……何だ貴様」

 

 彼女はガスマスクに張り付いた返り血を気にも留めずに、外野の生徒をぎろりと睨んだ。

 

「マダムの意志に背くつもりか?」

 

 マダム。その言葉を聞いた瞬間、周囲にいた生徒たちの肩が跳ねる。

 

「い、いや……」

 

「ならば黙って見ていろ」

 

 そうして彼女は立ち上がり、地面に伏せるイトの背中を踏みつけ……。

 

「……いいか、決して忘れるな」

 

 ……ちぎれかけの左腕を掴んだ。

 

「っ、ああああっ!!!」

 

 イトの悲鳴が響く。

 

 左腕にかけられる力は増していく。

 

 傷口からはとめどない血液が溢れ、ぶちぶちと筋繊維が切れる音がする。

 

「いっ、づ……あああっ……!!」

 

全ては、虚しいものだ(vanitas vanitatum)

 

 誰もが息を飲む。

 

 こんな光景、アリウスでの訓練でさえ見たことがない。

 

 こんな悲鳴、聞いたことがない。

 

 ここまで明確に、人に死が迫っている様を眺めたことなどない。

 

 ……しかし。

 

 その場の誰も、動くことはなかった。

 

 誰も止めることはしなかった。

 

 だって、全ては虚しいものだから。

 

 自分たち(アリウス)に戦いを強いたのは。

 

 貧困を強いたのは。

 

 すべて、こいつ(トリニティ)のせいなんだから。

 

 だから。

 

 

 

 

「こいつは、こうなって当然———」

 

 

 

 

 

 

 

 

「スーッ、ススッ」

 

 ちがうよ。

 

 誰かが、そう言った気がした。

 

「何を……」

 

「スッ、ススッ、スーッ」

 

 アリウス生徒たちが身に着けているガスマスクとは異なる、不吉な仮面を身に着けた少女、秤アツコが手話を用いて語り掛ける。

 

「こいつを……人質に……?」

 

「スッ、スーッ、ススッ」

 

 アリウス生徒は、辛うじて繋がっているだけのイトの左腕を乱雑に投げ、考え込む素振りを見せた。

 

「……確かに、腐ってもこいつはティーパーティーの関係者。人質としての価値はあるかもしれないな」

 

 そう言い放った彼女はイトの背中から足を下ろした。

 

 同時にアツコはイトへ近づき、その顔を優しく持ち上げる。

 

「……」

 

 しかし、イトはもう呻き声さえ上げることは叶わない。

 

 その時、アツコはイトの胸元へ何かを忍び込ませた。

 

「スッ、スッ」

 

 ごめんね。がんばって。

 

 そしてその言葉を最後に、イトの意識は途切れた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 イトがいない。

 

 どこを探しても、見失ったイトを見つけることができない。

 

「どこ……」

 

 焦燥感に身を任せ、ヒナはひたすらに変わり果てた古聖堂を走り回っていた。

 

 イトの容態はヒナのみが知っているものだ。あれは決して動いていい身体ではない。

 

 そもそもあの時、イトの手を離すべきではなかった。冷静になったヒナの頭にはしてもしきれない後悔が募る。

 

「っ、邪魔!」

 

 行く手を阻むユスティナ聖徒会の頭をヒナは自分の愛銃で外すことなく打ち抜く。こうした作業はもう何度も行ってきた。

 

 しかし見つからない。ユスティナ聖徒会相手では尋問さえできない。

 

 

 

 

 そんな時、銃声がひしめき合うこの場でヒナは自分の名を呼ぶ声を確かに聞いた。

 

「ヒナ!!!」

 

「先生……?」

 

 それは先生の声だった。ヒナが倒したユスティナ聖徒会の群れは偶然にも先生を取り囲んでいたものだった。

 

「せ、先生……!!」

 

 ヒナは偶然の巡り合わせにそっと胸を撫でおろした。

 

 ひとまず先生が無事。それはヒナの個人的な感情を抜きにしても非常に大きな意味を持つ。この混乱を収められるのは先生しかいない。

 

 それだけじゃない。この人なら、今ヒナが直面している問題も解決してくれるかもしれない。そう希望を持つことができる。

 

 一刻も早く。その意志でヒナは口を開いた。

 

「先生! イトが……」

 

 

 

 

 しかしヒナはそこで言葉を止め、逡巡する。

 

 ……果たしてそうだろうか?

 

「……ヒナ?」

 

 この状況で、四方から銃弾が飛び合いどこから流れ弾が飛んでくるかもわからないようなこの状況で。

 

 果たして先生は、無事で居られるのだろうか。

 

「っ、ぁ……」

 

 否。

 

 ヒナの思考では、それ以外の答えが見つからなかった。

 

 イトの命が危ないことを伝えれば、この人は確実に助けに向かってしまう。先生が生徒を見捨てることなどあり得ないということはヒナの経験から明らかだった。

 

 しかしそれは、先生の命を危険に晒すことと同義。そしてその影響はキヴォトス全体の危機にまでも直結するだろう。

 

「ヒナ? イトが……どうかしたの?」

 

 しかし……しかしだ。

 

 あの出血だ。イトの死は刻一刻と迫っているはず。

 

 こうして迷っている間にもイトは苦しみ続けているはずなのだ。

 

 

 

 

 ……そこでヒナは初めて、自らに与えられた残酷な二択を理解した。

 

「っ、はっ…」

 

 呼吸が浅くなる。

 

 ヒナに与えられた二択。それは先生を危険に晒し見つかるかも分からないイトを捜索するか……

 

 

 

 

 ……イトを見殺しにして、先生をここから逃がすか。

 

 

 

 

「……なんでもない」

 

 迷う時間すら、ヒナには与えられなかった。

 

「先生、こっち!!」

 

 ヒナは覚悟もできないまま、先生の手を取り戦場から逃げ出した。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ずるずる。ずるずる。

 

 古聖堂の戦いの音がはるかに遠のいた。そう実感するほどカタコンベを進み、果てにはアリウス自治区へ足を踏み入れたところ。

 

 住民の多くが戦場へ出向いているせいか、いつもよりも静かなその場所に重い荷物を引きずりながら歩くアリウス生徒がいた。

 

「はぁ……」

 

 思わずため息がこぼれる。

 

「なんだって私がこんなこと……」

 

 己に課せられた任務に不満が募る。それは糸巻イトの運搬だった。

 

 せっかく訓練した技術が一切活かされない任務だ。アリウス生徒が退屈と感じても無理はない。

 

「しかしこいつ……ひどい有り様だな。生きてんのか?」

 

 彼女はふと背後のイトの姿を見やった。

 

 顔面には痛々しい打撲跡、それに出血。それに全身には、ミサイルによる切り傷が無数にあり……そしてなにより、ちぎれかけの左腕。

 

 こんな有り様では放っておいてもすぐに死ぬだろう。正直、人質としての価値には疑問が残る。

 

「でも任務だしなぁ……」

 

 しかし上官の命令は絶対。そう教育されたアリウス生徒は与えられた任務には忠実だった。

 

 

 

 

 どれだけ進んだろうか。ふと振り返ってみれば、イトの身体から絶えず流れ続ける血液がこれまでの道筋を示していた。さながらヘンゼルとグレーテルである。

 

「やっべ……これ、アリウス以外のやつもここまでこれちゃうんじゃ……」

 

 カタコンベは道が変化し続ける不思議な場所だが、それもすぐにってわけじゃない。

 

 もしもこの道しるべに気づく者がいれば、あるいはアリウス自治区への侵入を許す結果を招くかもしれない。

 

 

 

 

 ……イトをこの場に放置して、証拠隠滅に注力した方が良いだろうか。

 

 アリウス生徒がそんな思考を巡らせた、その時だった。

 

 

 

 

 ———ピピッ

 

 

 

 

 アラーム音のような機械音が、イトの方から響いた。

 

「……何の音———」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドォォオオオン!!

 

 

 

 

 突如として、イトの身体が爆発した。

 

「わっ!? なんだ!?」

 

 爆風に飛ばされながらも、アリウス生徒は瞬時に臨戦態勢を取る。

 

 敵襲だろうか? それとも他のアリウス生徒のいたずら? あるいは手榴弾の誤作動か?

 

 あらゆる可能性を考慮するも、この舞い上がった砂煙の中では状況の把握は叶わない。

 

 次に取るべき行動を考える。

 

 最も考慮すべきは敵襲だろうが……それよりも、頭を支配するのはもっと緊急の事情だ。

 

 

 

 

 ……糸巻イトが見つからない。

 

 

 

 

 砂埃が落ち着き、視界が確保される。

 

 それでもなお、イトの姿は捉えられない。

 

 そこにはもぬけの殻となった廃墟の街しかなかった。

 

「どこだ!? どこにいった!?」

 

 アリウス生徒を焦燥が包む。

 

 まさか……意識を取り戻したのか?

 

 そして、あの重傷で逃げおおせたのか?

 

 

 

 

 ……いいや、そんなはずはない、とアリウス生徒は考える。

 

 たとえ意識を取り戻したとしても、あの重傷では俊敏に動けまい。

 

 逃げたのだとしてもそう遠くへは行ってないはずだ。

 

 銃を改めて握りなおす。

 

「早く出てこい! これ以上痛みを味わいたくはないだろう!」

 

 あの拷問の現場を見てきた身だ。こんな脅しは無意味と知りつつも、アリウス生徒は声を張り上げた。

 

 集中しろ。

 

 意識を研ぎ澄ませ。

 

 影の一つ、足音の一つを見落とすな。

 

 重傷の人質を取り逃がすなんて失態、マダムに知られれば……

 

 

 

 

 ……処分されるのは自分なのだ。

 

 

 

 

 その時だった。

 

 

 

 

 ……ぞくり。

 

 

 

 

 その時アリウス生徒は確かに後方に、背筋が凍るような気配を感じた。

 

「っ!?」

 

 思わず反射で振り返る。

 

 しかし。

 

「な、なんだ!?」

 

 後方を確認することは叶わなかった。

 

 一瞬遅れてガスマスクに血をかけられたのだと気づく。

 

「視界が…!」

 

 状況の把握も束の間、今度は腰の部分をまさぐられる感覚を覚えた。

 

 そしてアリウス生徒は、そこにあるものを理解して戦慄した。

 

 そこには確か……

 

 サブで用いるハンドガンが……!

 

「ま、まて———」

 

 しかし、アリウス生徒がそれを理解した時にはもう遅かった。

 

 そして間もなく、アリウス生徒の顔面のほぼゼロ距離から発せられる一弾倉分の銃声が大きく響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ…はぁ……」

 

 そこに立っていたのはイトだった。イトは自分が気絶させたアリウス生徒を見下ろす。

 

「ごめんね……」

 

 誰に届くでもない言葉をつぶやく。

 

 イトの意識を覚醒させたのは、アツコがイトの胸元に忍ばせた時限爆弾だった。イトの頭には意識が途切れる前に見たアツコの手話が流れる。

 

 そんな記憶に思いを巡らせながらも、イトの意識はすでに別の方向へ向かっていた。

 

「にげ、なきゃ……」

 

 イトに確証はないが、ここは敵の本拠地なのだ。そんな場所で爆発音に銃声まで上げてしまった。

 

 一刻も早くこの場を離れなければ、敵の増援が来ることは明白だろう。

 

「ちも、とめなきゃ……」

 

 全身の激痛を堪えながら歩みを進める。

 

 しかし……。

 

「あうっ……」

 

 一歩を踏みしめることすら叶わず、イトの身体は地面へと転がった。

 

「はぁ…うでも、きって……やいて、しけつして……それで……」

 

 

 

 

 ……それで?

 

 

 

 

 イトにはその先が分からなかった。

 

 仮に、運よくこの場を切り抜けられたとして、その次は?

 

 現在地も分からない、敵の本拠地のどこか。帰り道も分からない。逃げ場なんてどこにもない。

 

 加えて敵はアリウス生徒たち。イトが万全の時でさえ一人だって倒せるか分からないのに、それが徒党を組んで自分を追い詰めるこの状況。

 

 

 ……イトは優秀だ。このキヴォトス全体を探しても、彼女以上の頭脳はそういるものじゃない。

 

 だからこそイトは理解してしまう。

 

 自分に待ち受ける、絶対的な運命を。

 

「うぅ……っ」

 

 その時、イトの目からは涙が流れていた。

 

 

 

 

「しにたくない……しにたくないよぉ…………」

 

 生まれたときから道具として扱われ続け、()を背負ってまで生き抜いてきて。

 

 それでようやく……また誰かと笑い合うことができたというのに。

 

「しにたく…………ない……………………」

 

 あの人(・・・)と、約束したのに。

 

 それを果たせず終わるなんて。

 

 

 

 

「おねぇ……ちゃん……………………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静まり返ったアリウス自治区、その一角。

 

 すでに動かなくなったイトの下へ、一つの足音が近づいていた。

 

 漆黒に身を包んだその者は、暗闇に溶け込むように呟く。

 

 

 

 

「クックックッ……」

 

 



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【番外編】きずあと


 これからどうなっちゃうのぉ!? な時ですが、ここでイトちゃんの過去編です。

 ブルアカ要素がほぼ0のほとんどオリジナルです。オリキャラがもう一人出てきます。

 あとだいぶ人の心が無いです。

 でもイトちゃんという人間には大事な話ですので、よければ読んでください。




 

 私の十五年の人生は、やっぱり明るいものなんかじゃなかった。

 

 最も古い記憶は生後二か月、言語を理解し始めたときのものだ。

 

 薄暗い部屋、満足に呼吸ができない苦しみ、私を取り囲む無数の薬品と大人たち。

 

 その全てを鮮明に覚えている。

 

 

 生後五か月もすれば、大人たちの高度な会話も理解できた。私は誰にも望まれない出産であったこと、人としての命を歩めないこと、そして私の寿命はせいぜい20年かそこらであることを知った。

 

 なんでなんだろう。どうして私は生まれてきてしまったのだろう。

 

 ……なんて、赤子ながら切実に思ったものだ。

 

 

 次に思い出すのは2歳のころ。それは手術台の上だった。

 

 不十分な麻酔で、手術中に意識が覚醒した時だ。腹を切られる痛みや身体の中に他人の手が入ってくる感覚。

 

 なにより、取り出された私のどこかの内臓。

 

 今でもたまに夢に見る。

 

 

 私が処女を失ったのは4歳の時だった。

 

 初めてなんてあっけないもので、私が気絶しているときに失ったそうだ。

 

 それからは毎日、知らない大人が代わる代わるやってきた。その中に私の実の父親もいたそうだけど、そんなのはどうでもよかった。

 

 ずっと苦しかった。腹を切られるよりもずっと痛かった。

 

 

 だけど、嬉しいこともあった。5歳の時、初めて友達ができたのだ。

 

 その子は私よりも年上の8歳。親に売られてここに来たらしい。私はその子と同じ、小さな部屋で生活することになった。

 

 私は最初、不思議に思った。私以外の大人じゃない人なんて、初めて見たから。

 

 その子はいつも笑顔だった。常に明るくて、『明日は何しよう?』なんて平気で言える子だった。明日も犯されるに決まってるのに。

 

 だけど、私はその笑顔が好きだった。私もそうなりたくて、その子の笑い方を真似た。

 

 その子は私に、『おねえちゃん』と呼ぶように言った。初めは血の繋がりなんてないのに変だと思ったけど、次第にそれが好きになった。

 

 辛いことばかりじゃない。そう思うだけで、世界に色がついたような思いだった。

 

 

 そんなある日のことだ。おねえちゃんがとある歌を教えてくれた。

 

「いーとーまきまき いーとーまきまき」

 

 聞きなじみのない言葉だった。

 

「それ、なに?」

 

「えぇ!? 知らないの!?」

 

「うん。ずっとここにいたから」

 

「あっ…そっ、か……」

 

 おねえちゃんの顔から笑みが消えて、私は焦った。おねえちゃんから笑顔を奪うなんて、殺すことと同義だと思ったからだ。

 

 だけど、その心配はなかった。

 

「えへへ、これはね? 『いとまきのうた』って言うの! しってる?」

 

「だから、知らないって……」

 

「じゃあ今日覚えよう! ほら、一緒に歌って?」

 

 いーとーまきまき いーとーまきまき。

 

 不思議だった。最初はわざわざ体力を消費して意味のない言葉を並べるだけの行為に意味を見出せなかったけれど、その時は歌うことが楽しく思えた。

 

「そうだ! 109番ちゃんさ、お名前、ないんだよね?」

 

 109番は大人たちが私につけた、個体識別番号だった。

 

「あっ、うん……」

 

「じゃあさ! 名前、イトちゃんにしよ! いとまきイトちゃん!」

 

 糸巻イト。『いとまきのうた』からとった、安直なネーミング。

 

「どうかな?」

 

 だけど、おねえちゃんからもらったもの。それだけでとても嬉しかった。

 

「うん…私は、イトちゃん……!」

 

「えへへ、よろしくね! イトちゃん!」

 

 そう言っておねえちゃんはいつもの笑顔を見せてくれた。つられて私も笑った。

 

「だけど、おしいよねー」

 

「おしいって、何が?」

 

「109番だよ! 110番だったら、もっとイトちゃんっぽかったのに!」

 

 ぷんぷん! なんて聞こえてきそうな表情でおねえちゃんは怒っていた。

 

「だけど…私はこれで良かったと思う」

 

「え、なんで?」

 

「だってその方が、正真正銘おねえちゃんからもらった名前って感じがする」

 

「そ、そっか! え、えへへ……」

 

 きっと、私が生まれたのはこの日だったのだろう。そう思えるほど、今でも輝き続ける記憶だった。

 

 

 ある日のことだ。

 

「私ね、夢があるの!」

 

 読んでいた絵本を閉じて、おねえちゃんがそう口にした。いつまでも笑顔を失わないおねえちゃんに負けないよう、私も精一杯の笑顔を作った。

 

「……どんな夢?」

 

「私ね、このお話のおひめさまみたいになりたい!」

 

 そう言っておねえちゃんは絵本の表紙を見せてきた。使い古しの絵本。おねえちゃんはそれが好きなようで、毎日のように眺めていたのを覚えている。

 

「お姫様?」

 

「そう! 私もいつか、世界一かっこいいおうじさまと結ばれるの! それでこんなところから救ってもらうの!」

 

 ……そんな王子様なんていないよ。

 

 そう口にしそうになって、ぐっとこらえた。

 

「それでね! 山のふもとにちいさな家を作るの! おうじさまとかわいい子どもたちといっしょに、静かにくらすのが夢なの!」

 

 そう言って無邪気に笑った。

 

 だけど私は……うまく笑えなかった。

 

 そんな人絶対にいない。こんな私たちは、大人に使われて死ぬしかない。どうせ長くは生きられない。

 

 私たちは、そういう運命なんだよ。

 

「……いい夢だね」

 

「でしょ!」

 

 私は口にはできなかった。したくなかった。

 

 おねえちゃんの笑顔を奪いたくなかった。

 

「イトちゃんは?」

 

「え?」

 

「夢! なんかないの?」

 

 そんなこと考えたこともなかった。

 

「わ、わかんない」

 

「なんでぇ! もったいないよ!」

 

「……?」

 

「夢ってね? すごくいいものなんだよ? そのことを思うだけで、ぱぁって明るくなるの!」

 

「そう、なのかな」

 

「うん! 絶対そうだよ!」

 

 どれだけ考えても、夢なんて抱けなかった。

 

 でも、その時のおねえちゃんの顔は今までで一番輝く笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だけど私が8歳になったとき、おねえちゃんから笑顔が消えた。

 

 それはいつも通りの日だった。いつも通り私もおねえちゃんも大人に呼ばれて、相手をしていた。

 

 部屋に帰ったのは私が先だった。いつもよりも殴られて、あざがたくさんできていたのを覚えている。

 

 当然私に笑顔はなかった。だけどおねえちゃんは違う。

 

 おねえちゃんはどんなときにも笑顔だった。今日もきっとそうだ。

 

 大人に文句を言いながら、笑顔で夢の続きを話してくれるに違いない。

 

 そう、思っていたのに。

 

「おねえ…ちゃん……?」

 

 そこにおねえちゃんの笑顔はなかった。

 

 ぼろぼろに破かれた服の下には無数のあざ。ぼさぼさの髪の奥には、腫れあがった顔面と光を失った目。

 

「どう、したの……?」

 

「……イトちゃん」

 

 それは涙交じりの声だった。おねえちゃんが泣いてるのを見たのは、それが初めてだった。

 

「何されたの! おねえちゃん!」

 

「あのね、イトちゃん……」

 

 おねえちゃんの言葉に耳を傾けた。

 

 

「私たちね、子供作れないんだって」

 

「ぇ……」

 

「イトちゃんも、手術。受けたでしょ……?」

 

 2歳のころの記憶が思い浮かんだ。

 

「あれね、子宮を取り出してたんだって」

 

「っ、ぁ……」

 

「だからね、私たちは子供を作れないんだって」

 

 その痛みを理解することは私にはできなかった。

 

 けれど。

 

「子供を作れない女に、価値はないんだって」

 

「ち、ちがっ」

 

「だから、私の夢は絶対に叶わないんだって」

 

 何を言えばいいのか分からなかった。どうすればまた、おねえちゃんが笑ってくれるのか分からなかった。

 

 だけど、笑顔を失ったおねえちゃんを見るのが苦しかった。だから私は必死だった。

 

「ち、ちがうよっ!」

 

「え……?」

 

「おねえちゃんが何を言われたのかはわかんないけど……」

 

 私は必死に叫んだ。

 

「おねえちゃんはおねえちゃんだよ! 私の…世界に一人のおねえちゃんだよ!!」

 

「……」

 

「私はっ、おねえちゃんが大好きだよ! だから…もう……っ」

 

 いつしか私も涙を流していた。

 

「そんな顔、しないでよ……」

 

 私が涙を流したのも、思えば初めてのことだった。

 

「……」

 

「おねがい……」

 

「……ふふっ」

 

 その時の、頭に乗せられた手の温もりはよく覚えている。そしてその時のおねえちゃんの顔も。

 

「……そうだね、イトちゃん」

 

 おねえちゃんの笑顔は、どこか大人びて見えた。

 

 

 

 

 それから私は必死だった。

 

「おねえちゃん!」

 

「なぁに、イトちゃん!」

 

 おねえちゃんの笑顔を絶やさないことに必死だった。

 

「おねえちゃん!」

 

「……なに、イトちゃん」

 

 だって、苦しかったから。

 

「おねえちゃん!」

 

「…………なに?」

 

 楽になりたかったから。

 

「おねえちゃん!」

 

「……………………」

 

 

 

 

 だからこれは、私の罪。

 

「おねえちゃん!」

 

 楽になろうとした、私への罰。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………うるさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ、あぇ……?」

 

 信じてしまった。

 

 いつも笑顔を失わなかったおねえちゃんは、強い子なのだと思ってしまった。いつかまた、あのころの笑顔を取り戻してくれると思ってしまった。

 

 ……だけど違った。

 

 おねえちゃんは普通の女の子だった。

 

 フィクションに夢を見る、ただの女の子だったんだ。

 

「……あっ」

 

 おねえちゃんは驚いた顔で口を塞ぎ、どこかへと走り出してしまった。

 

「あっ、まって……!!」

 

 部屋から出て行くおねえちゃんを追いかけた。今行かねば、どこまでも遠くへ行ってしまう気がしたから。

 

 ……だけど、私がおねえちゃんと話をすることは、もう二度となかった。

 

 

 

 

 おねえちゃんを見失っても、私は必死に施設の中を走り続けた。

 

 謝りたかった。笑顔でいることを強要したことを、おねえちゃんの夢を軽く見たことを、私は何としても謝りたかったんだ。

 

 施設の中を探し回った。何分も、元々ない体力を絞って走り回った。

 

 そうして見つけた、おねえちゃんの姿。

 

 それは、やっぱり笑顔なんかじゃなかった。

 

「おねえ…ちゃん……?」

 

 天井に吊るされたロープ。

 

 乱雑に倒れた脚立。

 

 そして、宙に浮いたまま動かない……おねえちゃん。

 

 

 

 

「いや……」

 

 

 

 

 私は、どうすればよかったんだろう。いくら蘇生を繰り返しても目を覚まさないおねえちゃんを見つめながら、そう考えた。

 

 おねえちゃんが病室へ連れていかれてからも、そう考え続けた。

 

 そうして見つけた、私の答え。

 

 

 

 

 私が生まれてきたのがいけなかったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「植物状態だ」

 

 朦朧とした意識の中で、ジェネラルの残酷な言葉が聞こえた。

 

「脳への酸素供給が長時間断たれたことによるものだ。回復の可能性は小さい」

 

 お前がもっと早く見つけていれば、こうはならなかったかもな。

 

 そう付け足したジェネラルの言葉はうまく耳に入らなかった。ベッドに座りながら私を見ようともしてくれないおねえちゃんを眺めながら、私はただ茫然としていた。自分を責めることも、大人を責めることもなかった。

 

 ただ、何もわからなかった。

 

 その時、私の腕に一丁の拳銃が乗せられた。

 

「……え?」

 

「面倒だ。糸巻、お前が処理しておけ」

 

「……は?」

 

 やっと私の理解が追いついた。つまりは、そういうことなのだ。

 

「な、なんでっ!!」

 

「……なぜ、だと?」

 

「まだ回復の可能性が残ってるんでしょ!? なんでおねえちゃんが死ぬ必要が———」

 

 私の言葉はジェネラルが放った銃弾によって遮られた。

 

「……費用が掛かる。お前ほどの頭脳で分からないはずもないだろう?」

 

「……でもっ!! なっとくっ、できな———!!!」

 

 また言葉を遮られた。今度は一弾倉を撃ち終えるまで、銃弾は止まなかった。

 

「うぅっ……うううううっ!!」

 

「こいつの処理は任せたぞ、糸巻」

 

 横たわる私とおねえちゃんに目もくれず、ジェネラルは去っていった。

 

 その背中を殴るように、私は叫んだ。

 

 

 

 

「お前の!! お前たち大人のせいだ!!! 私がっ、こんななのも!! おねえちゃんが死んじゃったのもっ!!!! 全部お前たちのせいだ!!!!!」

 

 

 

 

 けれど、その言葉は誰に届くこともなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブラックマーケットのとある一角。

 

 廃墟ビルの間をすり抜け、鬱蒼とした林を抜けた先にそれはあった。

 

「わぁ……!」

 

 そこには小さく咲く花畑があった。木漏れ日に照らされたそれは、まるでおねえちゃんが読んでいた絵本の中のようだった。

 

「きれいだね、おねえちゃん」

 

 返事のないおねえちゃんへと語り掛け、車いすを花畑の中央まで押し進めた。

 

 そして私は座り込み、花をいくつか摘み取る。

 

「本でしか見たことないんだけど……できた」

 

 本の知識を元に花を編み込むと、そこには二つの指輪と花冠ができた。それを私とおねえちゃんの頭と左手の薬指に差し込んだ。

 

「病めるときも健やかなるときも、私は……」

 

 そして、私はおねえちゃんの左手をそっと握った。

 

「おねえちゃんを愛すると誓います」

 

 それはおねえちゃんが夢に見ていた……私なりの結婚式だった。

 

「おねえちゃんは、私じゃ嫌だったかもだけど……」

 

「私にもね、夢ができたんだ」

 

 いつかあなたがくれた言葉。

 

「私ね? 世界一かっこよくなりたい!」

 

 いつかあなたが語った夢。

 

「おねえちゃんが私のこと王子様だって思ってくれるように……私、頑張るから」

 

 それは確かに、今も私を照らしてくれている。

 

「だからね……?」

 

 

 

 

「おやすみ、おねえちゃん」

 

 

 





 イトちゃんの過去編でした。

 もともとこの話を書く予定はなかったのですが、「イトの自己犠牲に理由がないと薄っぺらくなっちゃうよなぁ」と思い急遽追加しました。

 これから花の指輪も花冠もズタズタにされて、挙句の果てに梅毒で捨てられるわけですから、イトちゃんにとっては相当辛いと思います。

 筆者もイトちゃんが幸せになってくれることを願っております。


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えぶりわん びかむ くらうでぃ!

 

 

 古聖堂を抜けた先、トリニティ自治区への道の最中。そこには、破竹の勢いで敵をなぎ倒すヒナとそれに護衛される先生がいた。

 

「はぁ…はぁ…」

 

「ぐっ…空崎ヒナ……!!」

 

 二人を取り囲むのはアリウススクワッドと、彼女らが率いる無数のユスティナ聖徒会。両者の頭数には圧倒的な差があった。

 

 しかし、戦況は二人に軍配が上がる。

 

 ヒヨリとミサキはすでに戦闘不能、アツコも負傷し後方へ。ユスティナ聖徒会では足止めにすらならない。つまり、アリウス側の戦力はほとんどサオリ一人と言える。そのサオリもすでに満身創痍、満足に戦える状態じゃない。

 

 当初、アリウスはミサイルの爆発およびヒヨリの奇襲でヒナを戦闘不能にする算段だったのだ。しかし息切れこそあるものの、現にヒナの状態は若干のかすり傷程度。

 

 ヒナの驚異的な戦闘力や先生の卓越した指揮能力もさることながら、これは身を挺してヒナを守ったイトの戦果とも言えるだろう。これがなければ結果は大きく異なっていたはずだ。

 

「これで…おわり……!!」

 

 ヒナがサオリに引き金を引く。

 

 まさにその時だった。

 

 

 

 

「……あはっ☆ なーんだ、もうボロボロじゃん!」

 

 

 

 

 底抜けに明るく、能天気。しかし確かな怒りを孕んだ声がその場に響き渡った。

 

「……!?」

 

「な……」

 

 ヒナはその声に心当たりがなかった。しかし、先生とサオリは違う。

 

「ミカ……!」

 

「やっほー! 久しぶり、先生!」

 

 ミカは軽やかな足取りで二人の間に割り込む。その様子を待つように、その場の誰しもが動きを止めた。

 

 そしてミカは歩みを止め、ゆっくりと首を捻る。

 

 

 

 

「それと……久しぶり、サオリ」

 

 

 

 

 その瞬間、全員の時が止まる。

 

 そこで感じ取ったもの。

 

 そこでミカが放ったもの。

 

 それは、明確な殺意だった。

 

「くっ、ミカ……!」

 

「あははっ! 元気そうで何よりだよー!」

 

 そしてミカはその引き金に殺意を込め、銃口をサオリの額へと押し当てた。

 

「ねぇ、早速質問なんだけどさ!」

 

「……!」

 

「イトちゃん、どこか分かる?」

 

 その名を聞いた瞬間、ヒナの肩が跳ねた。

 

「イトちゃんだよ、イトちゃん! 背が小っちゃくて童顔で、身体も力もすっごく弱くて、でも誰よりも優しくて…お耳とふさふさしっぽの超かわいい子! 分かるでしょ?」

 

「……」

 

「あの爆発に巻き込まれちゃったんだー。それから何度電話をかけても、一回も繋がらないの」

 

「……」

 

「私の大事な人なんだけどね! サオリ、知ってる?」

 

 サオリは黙ったままだ。それが何よりの答えだろう。

 

「あっそう。じゃあいいよ」

 

 イトの情報を持たない者に興味はない。

 

「ミカ!!!」

 

 そう言わんばかりのどこまでも冷淡な声を放ち、ミカは引き金を下ろした。

 

 

 

 

「ぐうぅ……っ!」

 

「あはは☆ 守れなかったね、先生!」

 

 地に伏せるサオリを見もせずに、ミカは先生の方を振り返った。

 

「ミカ……!!!」

 

「わーお、怖い顔」

 

 いつまでも魔女のような笑みをやめないミカに、生徒に対しては初めてともいえる敵視の目線を先生は向けた。

 

「でも、先生はちょっと黙っててね! 今は先生に興味ないの!」

 

 ミカはその笑みのまま、ゆっくりと歩く。

 

 向かう先はただ一つ。

 

「今はあなたに興味があるんだ! ねぇ……空崎ヒナ?」

 

 そこには、先ほどまでの威厳などどこにもない、かたかたと震えるヒナがいた。

 

 それは恐怖心故の震えではない。

 

「あなたさぁ? 調印式の開会式で、イトちゃんと一緒に開会の挨拶をするはずだったよね?」

 

「っ、ぁ……」

 

 ひとえに、罪悪感故だった。

 

「ってことはさ、あの爆発の時、イトちゃんと一緒にいたはずだよね?」

 

 イトを見殺しにした。

 

 彼女を大事に想うミカを前に、その重さを痛感してしまったからだ。

 

 小鳥遊ホシノの件でその痛みは知っていたはずなのに。

 

「ねえ、聞かせて? 何であなたはそんな軽傷なの? 何でここにイトちゃんがいないの? イトちゃんは今どんな状態なの?」

 

「ミカ! それ以上は———」

 

「黙っててって言ったよね?」

 

 先生の静止も意味を成さない。向けられた銃口を前に、先生は押し黙るしかなかった。

 

「次喋ったら本当に撃つよ? 大丈夫! 致命傷は避けてあげるからね!」

 

「……っ!」

 

「せ、せんせい……」

 

 ミカは先生を一瞥してから、改めてヒナの方を向き直った。

 

「ってことで! 答えてくれる? あなたは爆発の後、何をしていたの?」

 

「わ、私は……」

 

 先生に向けられた銃口を眺めながら、ヒナはしてもしきれない後悔を抱いていた。

 

 なぜあの時、イトよりも先にミサイルに気づけなかったのだろう。

 

 なぜイトの手を離してしまったのだろう。

 

 なぜ先生を頼らずに、イトを見殺しにしてしまったのだろう。

 

 全て避けられたはずだ。自分ならイトを救えたはずだ。

 

 なのに、どうして。

 

 

 

 

 気づけばヒナは。

 

「ごめんなさい…ごめんなさい……!」

 

 涙を流していた。

 

「……なにそれ」

 

 ヒナはたどたどしく言葉を続ける。

 

「イトが、爆発から、まもってくれて…」

 

「……」

 

「それで、イトは…重症、で……」

 

「……」

 

 ミカの顔からみるみるうちに笑顔が消えていった。

 

「そのあと、イトがどこかに行ってしまって…探しても、見つからなくて……!!」

 

「……で?」

 

「ぇ……?」

 

 ミカは先生に向けた銃口を下げた。

 

 そして、ヒナへと照準を合わせる。

 

「いやいや、え? じゃないよ。それで? 何でここにいるのがイトちゃんじゃなくて先生なの?」

 

「あぁ…ああぁぁ……」

 

「泣いてちゃ分かんないよ。はっきり言って? 角が生えると喋ることもできなくなっちゃうの?」

 

 いつしかヒナは立つこともままならなくなっていた。

 

「わたしは……」

 

「……?」

 

 

 

 

「イトを、見殺しにした……! 先生を選んで…イトを置き去りにしてしまった……!!」

 

「……」

 

「ごめんなさい…! ごめんなさい……!!」

 

「ヒナ……」

 

 それは先生も初耳だった。つまりヒナは、先生の安全を優先して一刻も早くあの場から逃がす選択をしたのだ。

 

 それは、自らへの信頼が足りていなかった証拠だろう。先生は己の不甲斐なさに苛立ちを覚えた。

 

 そして、ミカは……。

 

 

 

 

「……もういいよ」

 

「え……?」

 

「もうあなたのことなんてどうでもいい」

 

 ヒナが顔を上げると、そこには一切の感情が抜け落ちたミカの表情があった。

 

「先生もトリニティもゲヘナもアリウスも、エデン条約も…このキヴォトスだって、全部どうでもいい!」

 

 ヒナへ向けられた銃口が力なく下げられてゆく。

 

「もう私だけでいい。私がイトちゃんを守る」

 

 そう言ってミカは二人に背を向けた。

 

「あっ…どこへ……?」

 

「決まってるでしょ? 古聖堂だよ。私はイトちゃんを探す。何日かかったって絶対に見つけ出す」

 

「ミカ……」

 

「あなたはそこで蹲ってなよ。蹲って、一生後悔してれば?」

 

「あぁぁ……」

 

「じゃあね」

 

 そう言い残して、ミカはその場から姿を消した。

 

 そこには項垂れるヒナと寄り添う先生が残るだけだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ……嫌な夢を見た。

 

 懐かしい夢。だからこそ嫌な夢。

 

「うぅ……」

 

 私はどうなったのだろう。私が殺したおねえちゃんの様に死んでしまったのだろうか? 実は私が気づいていないだけで今は土の中、とか?

 

「おねえ…ちゃん……」

 

 なんだろう。

 

 ぱきぱきと、木の焼ける音がする。それに何だか温かい。私に掛けられているこれは…黒いスーツ?

 

 それに頭に巻かれている包帯も気になる。左腕は…縫合までされているようだ。依然として肘から先の感覚はないけど、血は止まってる。

 

 おかしい。私は確か死にかけの状態でアリウス自治区で倒れたはずだ。こんな治療、アリウスの子たちがしてくれるはずもない。

 

 一体だれが……?

 

 

 

 

「おや、目が覚めましたか?」

 

「うわぁ!?」

 

 突如として降りかかる声に私の身体が跳ねた。

 

 声のした方を見やると、そこには大きめの丸太に腰かけながら焚火をしている人がいた。上着を脱いだ黒いスーツ姿で、顔は…異形と言わざるを得ない。辛うじて口と目の位置が分かる程度。

 

 正装に、異形の顔。調印式の場で見かけた人形の姿が想起される。

 

 ならばこいつも…大人?

 

「い゛っ……!」

 

 対抗手段を持たなければ。そう思い腰に取り付けたホルスターに手を伸ばした私に、全身を電流のような痛みが走る。

 

「クックックッ……まだ動かない方がいい。傷口が開きますよ」

 

 そいつはそう言い、不気味に笑って見せた。

 

「っ……あなたは?」

 

「申し遅れました、私のことは黒服とお呼びください」

 

 ……大人のくせに、随分と礼儀正しいじゃないか。

 

「その…助けてくれたんですよね……? ありがとうございました……」

 

「クックックッ……」

 

 黒服と名乗ったその人に頭を下げ、周りを見渡す。

 

 辺りは真っ暗だ。黒服が起こしてくれた焚火以外に明かりが見つからない。

 

 ……ということは、今は夜なのか? ミサイルの着弾が午前だったから、ほぼ半日は意識を失っていたとみていいのだろうか? ……ってことは、黒服は半日も私を看病していたのか……?

 

「道の中央で倒れているイトさんを見つけ保護しました。一通りの治療を施しましたが、如何せん重傷だったもので……未だ完治とは程遠い状態です。ああそれと、その左腕はもう二度と動かないものと考えてください」

 

「……なぜ私の名を?」

 

「クックックッ……私が何も知らないとでも?」

 

 なるほどな。こいつもやっぱり大人だ。

 

 腕がどうとかは正直どうでもいい。そんなことよりも黒服が大人である以上、対価が発生することは確実だろう。

 

「……それで、私に何を求めるんですか?」

 

「……話が早くて助かります」

 

 黒服の目が細まった。

 

「私は、あなたに興味を持ちました」

 

 興味……?

 

「なぜなのか。一体なぜ、その狂気的なまでの自己犠牲を成すのか。そのモチベ―ションはどこから来るのか、とね」

 

「……」

 

 黒服の言葉に、私は押し黙るしかなかった。

 

 確かに今まで考えたこともなかったけれど、いざ考えてみれば答えは簡単だった。

 

 黒服は『自己犠牲』と言ったけれど、実際はそんな綺麗なものじゃない。

 

 どこまでも利己的で、醜悪で、意地汚い。それは、私という人間の醜さが詰まったもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

「義姉の……罪滅ぼし、ですか?」

 

 

 

 

「……っ!!」

 

 その時、私の身体は反射的に動き、気づけば黒服に銃を向けていた。

 

「…‥傷口が開くと言ったはずですが?」

 

「黙れ!! そんなのはどうでもいい!!」

 

 声を張り上げ、引き金に力を込める。

 

「なんで、それをお前が知っている!?」

 

 黒服は黙ったままだ。急に動いたせいか、私の頭からは血が流れ始めていた。

 

「いや…カイザーなんかと組んで、何をするつもりだ!! 答えろ!!!」

 

「……」

 

「もしも、このキヴォトスに害をなすつもりなら……ここでお前を殺すぞ!!」

 

 あの事(・・・)は私とカイザー以外知らないはず。なら、黒服はカイザーと繋がりがあるということは明白だった。

 

 そのことを理解した瞬間、私はもう冷静ではいられなかった。幸い私は殺人を経験している身だ。引き金は軽い。

 

「それは、過去の話です」

 

「……過去?」

 

「ええ。あの時は『キヴォトス最高の神秘』を求めていたのですが……あの者(・・・)に阻止されましてね」

 

 ……神秘? あの者?

 

「……分かるように言ってください」

 

「クックックッ……あなたは分からなくて良いことです」

 

 ……大人のこういうところが嫌いだ。

 

「とにかく落ち着いてください。身体に負担ですし、何より私の話はまだ終わっていません」

 

「……まだ何か?」

 

「はい。あなたに興味を持った理由、これだけではありません」

 

 客観的に見て、私という存在に価値はないだろう。まして大人がわざわざ労力を払ってまで、私を治療する意味は見当たらない。仮に死にかけの私を見つけたとして、そのまま見殺しにする方が合理的で正しい行動だと思う。

 

 こんな人殺しを助ける理由は、私には分からなかった。

 

 

 

 

「あの時は『キヴォトス最高の神秘』に惹かれましたが……今回は逆。あなたの持つ、『キヴォトス最低の神秘』に興味を惹かれたのです」

 

「キヴォトス…最低……?」

 

 思わず力が抜け、銃口を下げてしまった。

 

 何を言っているんだろうか。そもそも神秘ってのも私には曖昧なままなのに……。

 

「それだけじゃありません」

 

 それだけじゃないらしい。私の疑問はあっさり置いていかれてしまった。

 

「あなたは、あの者……先生の持つ役割を阻害するようです」

 

「何を……」

 

「以前までの先生ならば、生徒にこんな取り返しのつかない傷を負わせることはなかった」

 

 なんだこいつ、先生の狂信者か?

 

 確かに先生の持つ力は大きい。けれどそれは買い被りすぎってもんだろう。いくら何でも一人でキヴォトス全体を守ることは難しいはずだ。

 

「私の同僚の表現を借りるとすれば……イトさんは先生の『テクスト』を奪う」

 

 テクスト……? 『文脈』と解釈すればいいのか?

 

「つまり……本来、この一件は先生が見事に解決するはずだったのに、私が邪魔をしている……とでも言いたいんですか?」

 

「クックックッ、それは私の専門外です。私の同僚に聞いてください。あなたならば、彼らも喜んで受け入れてくれることでしょう」

 

「……遠慮したいですね。碌なことがなさそうです」

 

 なんとも荒唐無稽な話に聞こえる。まるで『こうなるべき未来』があったような言い草だ。

 

「クックックッ……我々からすれば、あなたはそれほどに興味深いのです。もしも先生すら手に負えないほどの存在であるならば、これ以上ない発見と言えるでしょう」

 

 しかし、この話をでたらめとして切り捨てるのは良くない気もする。現に私は『複製(ミメシス)』なる現象を見ているのだ。奇想天外な何かは実際にあり得るものと考えるべきだろう。

 

 ……となれば。

 

 もしもそんなでたらめが、あり得るのだとしたら。

 

 

 

 

 私が存在したせいで、こんな悲惨なことが起きてるとでもいうのか……?

 

 

 

 

「……っ、それで、外の様子はどうなってるんですか?」

 

 私はそんな考えを振り払うように黒服に問いかけた。

 

 そうだ。まやかしに決まってる。

 

 そんな……私ひとりの存在で未来がどうこうなるだなんてあり得ない。

 

 私はそんなに大きな存在ではない。

 

「さぁ? 私には分かりません」

 

 嘘吐きめ。

 

 まあ、はなから答えは期待していなかったからよしとする。

 

「……で、結局。私は何をすればいいんですか?」

 

「それはイトさんの自由です。ここから出る道を模索するも良し、アリウス自治区を探索するも良し」

 

 何を言ってやがるんだ。こうして貸しを作った以上私を観察やら実験やらに使うつもりだろうに、何の障害も無しにここから出してくれるはずもあるまい。

 

「クックックッ……ここからは私の独り言ですが……」

 

 そらきた。

 

「もしもあなたにその気があるのなら…アリウス分校の旧校舎、そこにある地下回廊を抜けると良いでしょう」

 

「……そこに、何が?」

 

「それは言えません。しかし、このキヴォトス…そしてあなたの大きな脅威となる存在、とだけ伝えておきましょう」

 

 このタイミングでそんな存在。もう答えを言ってるようなもんじゃないか。

 

「……お優しいんですね」

 

「クックックッ……なんのことやら」

 

 なんだ、いいやつじゃないか黒服!

 

 いいぞ、目的が立った。出口を探すといっても遭難して野垂れ死ぬのがオチだ。どうせ最初から黒服の目的はその『大きな脅威となる存在』とやらと私を対面させることなんだろう。いいだろう、その話、乗ってやるぜ。

 

「さて、私はこれで失礼します。どうかお気をつけて……」

 

 そう言って黒服は立ち上がった。

 

「あ、ありがとうございました……」

 

 いろいろと嫌な大人ではあったが、命の恩人であることは確かなのでお礼はしておく。ほんとありがとう、半日も看病してくれて。

 

 

 

 

 これでもっと、かっこよく死ねる。

 

 

 

 

「お気になさらず……ああ、それと」

 

 立ち上がった黒服は私の方を振り返り、私の左手を指さした。

 

「その左手の指輪ですが……」

 

「わぁ!? なんですかこれ!?」

 

 私の左手を見ると、そこには銀色に輝く一つの指輪が嵌っていた。感覚を失っていたせいで気づけなかった。

 

「それは私と同僚の合作でして。くれぐれも外さないようにお願いします」

 

「合作……?」

 

「ええ。それには二つの効果が付与されています。一つはここアリウス自治区における『彼女』の監視から逃れることのできる効果です」

 

 彼女、というのはアリウス生徒たちが口にしていた『マダム』のことだろうか。

 

 であれば、さっき黒服が言っていた『大きな脅威となる存在』もこいつのこととみていいだろう。

 

「……もう一つは?」

 

「あなたの持つ神秘を、別のテクストに書き換えて顕現させる能力です」

 

 うわぁ……固有名詞多い。

 

「えぇと……私の一部を犠牲に、特異現象を起こす…ってことですか?」

 

「流石……理解が早くて助かります」

 

 なるほど……これは……。

 

 ……これは、あまりに危険すぎる。

 

 これは、黒服が私にくれた『彼女』への対抗手段なのだろう。裏を返せば、キヴォトス最低とまで言われた私の神秘でも『キヴォトスの脅威』への対抗手段足りうるということだ。

 

 つまりだ。例えばさっき話に出た『キヴォトス最高の神秘』を持つ人の手に渡って、その人が悪意を持ってこの指輪を使ってしまったとしたら……。

 

 

 ……考えるのはよそう。とにかくこの指輪は誰にも渡さなければいいんだ。

 

「我々の中でも自信作でしてね、それはあなたに差し上げますが…壊されるとこちらとしても物悲しいのです」

 

「だからって、なんでわざわざ左手の薬指につけるんですか……」

 

「クックックッ……その指が最も『契約』の効果が高まるのですよ」

 

 なんだそれ。

 

「それでは、私は失礼しますね」

 

 クックックッ。

 

 おなじみの笑い声を上げながら、黒服はどこかへと去ってしまった。

 





 ゲマトリア便利すぎる!


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夜食


 大学とバイト始まりました。投降頻度落ちると思います。ごめんね

 勉強たのしい


 

 

 黒服と別れてからすでに一日くらいは歩いたと思う。けれど目的地はいまだ見えてこない。

 

 如何せん土地勘がなさすぎる。アリウス自治区はまともに整備されてる道も少ないからただ歩くだけでもしんどい。

 

 何よりここは敵の本拠地だ。曲がり角を曲がったら敵とエンカウント…なんてことは避けなければならない。

 

「はぁ…はぁ……」

 

 体力の消耗も激しい。元から満身創痍だし、傷を治すにも体力を持っていかれるし。

 

 

 

 

 そして何より、私がしてしまったある重大なミスがメンタルを削ってくる。

 

「ほんと…どこやっちゃったんだろ……」

 

 私はそう言いながら、自分の側頭部を撫でた。そして『そこにあるはずのもの』がないことにため息を一つ。

 

 

 

 

 そう。私はあろうことか、ミカちゃんからもらったお揃いの髪飾りを無くしてしまったのだ。

 

 爆発の際に飛ばされてしまったのか、気を失っているときに落としてしまったのか……。

 

 いずれにしろ、主からもらったものを無くす従者などありえない。ミカちゃんにどんな顔をして会えばいいのか分からない。まあ、もう会えないかもしれないけれど。

 

 

 

 

 ……そっか。もう会えないかもなんだ。

 

 

 

 

 私の頭にふとそんな考えが浮かんだ。

 

 黒服といたときは、大人の前ということもあって気を大きくして『かっこよく死ねる』なんて考えていたけれど。

 

 そっか、死んじゃったらもうみんなに会えないよな。

 

「……ふぅ……」

 

 そう思うと、周囲の暗がりがより一層孤独に感じる。

 

 正直言って今すぐ帰りたい。書類仕事と嫌がらせが待っているとはいえ、みんなの下へ帰って温かいご飯が食べたい。

 

「……ごはん?」

 

 そうだ、ご飯! 私あれから何も食べてない!

 

 調印式の日から考えれば…もう二日近くは何も食べていないことになる。その前に食べたのだって夜食のカップラーメン一杯のみ。そんな状態でこんな極限状態に置かれればメンタルも削られるはずだ。

 

 うぅ……そう考えると、急に視界もぐらついてきた。一刻も早く何かを口にしなければ。

 

 何か食べ物を……

 

 何か……

 

 なにを……?

 

 あれ、私何を食べれば……?

 

 周囲の民家を探してみても、大抵はもぬけの殻か、あっても腐った物だけ。ここにはハナコ先輩もミカちゃんもいないから、手料理もロールケーキももらうことはできない。あの時の様にスケバンが食べ物くれたりもしないだろう。

 

 まずい……いろいろありすぎて忘れてたけど、そういえば食料は死活問題だ。黒服め、食料の一つくらいくれたってよかったのに!

 

 ———ぐぅううう……

 

 私とは対照的に胃は元気だ。おなかからの悲鳴が誰もいないアリウス自治区に虚しく響く。

 

 そしてその音に誘われるように、私の足元へ近づいてくる一匹の動物がいた。

 

 

 

 

 ———チューチュー

 

 

 

 

「……ネズミ?」

 

 ネズミ…ネズミだ……!

 

 鹿や猪はともかく……こ、こいつなら…私でも仕留められる!

 

 やっと見つけた手ごろなカロリー源に私の心が躍った。

 

 けど。

 

 ……けれど。

 

 私の中に残ったわずかな自尊心がそれを躊躇わせる。

 

「いくのか……? ネズミを……?」

 

 ネズミだ。あのネズミだ。

 

 ゴミ箱の残飯を漁り、ドブの中をほっつき歩いていたであろうあのネズミだ。どんな細菌や寄生虫を飼っているか分からない。

 

「チュー?」

 

 つぶらな瞳が私を射抜く。思わず唾を飲み込む。

 

 おなかは相変わらず元気である。今ならなんだって食える気がする。

 

 

 ……そうだ。いくぞ。私はやるぞ……。

 

 ネズミを…あのネズミを……食べてやるぞ……!!

 

 

「うおおおおおお!!」

 

 ……と、私が雄たけびを上げると

 

「チューー!?!?」

 

「あっ」

 

 当然だけど、ネズミはどこかへと逃げてしまった。

 

「や、やってしまった……」

 

 やらかした。せっかく見つけたタンパク質を逃してしまった。

 

 はぁ、仕方ない。私の左腕でも食べよう。ネズミよりは抵抗感ないし。指とか切ってしゃぶってれば食べ歩きグルメみたいでいいんじゃないか?

 

 私の指示無く動かなくなった以上、落とし前はつけてもらおう。ほら、兄貴の好きなケジメですよ、っていうやつだ。やったろうやないか、イトが如く。

 

「……あれ?」

 

 ドス(折り畳みナイフ)でまずは小指からいったろかと構え始めた、その時だった。

 

「……バッタ?」

 

 またもや私のことに舞い込んだ小さな命。しかし今度はバッタである。

 

「バッタだ!」

 

 きた! タンパク質! カロリー源!! しかも割と清潔!!

 

 こいつなら私も簡単に捕まえられる!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……おいしい。エビみたいで。醤油とか塩とかあればもっとうまそう。

 

「うぅ……」

 

 バッタをおいしく感じてしまう事実に、少しだけ頭を抱えるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「はぁ…はぁ…なんなのこいつ!」

 

 瓦礫の山と化した古聖堂、私はそこへイトちゃんを探しに向かった。

 

 瓦礫を砕いて塵にしながら隅々まで探し回った。一日くらいはそうしていたと思う。

 

 しかし見つからない。イトちゃんの残滓すら感じることができない。探してる間も多くの負傷者が運ばれていったけれど、そこにもイトちゃんの姿はなかった。

 

 辛かった。見つからない時間が、イトちゃんの今を明確にしていくようで。

 

「っ、邪魔!!」

 

 そうして、今まで目を瞑っていた残酷な事実がじわじわと心を覆い始めた頃、こいつは現れた。

 

 聖職者のような見た目の巨大なバケモノ。四本腕のうち二本は常に祈りを捧げており、顔はぽっかり穴が開いたような真っ暗闇でよく見えない。

 

 とにかく、私はこんなよく分からない奴に数時間足止めを食らっていた。

 

 基礎スペックは私の方が上だろう。パワーもスピードも負ける気はしない。

 

 ただ、なんというか、こいつと私は相性(・・)が悪い。私の攻撃が全て半減(・・)されてるような感じがする。

 

 このままやり合えば多分勝てる。でもそれは何時間後になるか分からない。ひょっとすれば一日以上かかるかもしれない。

 

 その時にはきっと…一縷の希望すら潰えてしまうだろう。

 

「……っ」

 

 いやだ。そんなの、絶対に……!

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヒナ、今だよ!!」

 

「……!」

 

 瞬間、凄まじい弾幕がバケモノを覆った。声のした方に目線をやると、そこにいたのは二人。

 

「せん、せい……?」

 

 先生と、ゲヘナの風紀委員長、空崎ヒナ(イトちゃんを見殺しにしたやつ)がいた。

 

「ミカ! 話は後だよ!!」

 

 先生が叫ぶ。先生のこんな顔を見たのはこれで二回目だ。

 

 そして先生はその手を懐へ向かわせた。

 

「“大人のカード”を使う!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこからは早かった。

 

 先生が使った“大人のカード”の効力は絶大で、バケモノを倒すのに時間はかからなかった。心なしかいつもより私の動きも良かった気がする。

 

「……で?」

 

 戦闘を終え、身の回りの安全が確保されたけれど、むしろ私にとってはここからが本番だった。

 

「今更何の用?」

 

 空崎ヒナに向き直る。

 

「ゲヘナなんかにウロウロされても、鬱陶しいだけなんだけど?」

 

 空崎ヒナは相変わらず下を向いたままだ。その様子に心底腹が立つ。

 

 イトちゃんを見殺しにしておいて今更どんな面下げて私の前に表れたの?

 

「……」

 

 ウザい。鬱陶しい。

 

「なんか言いなよっ!!」

 

 私は自分の思うままに、私は彼女へ拳を向けた。

 

「っ!」

 

「ヒナ!」

 

「いい、先生……」

 

 みぞおちへの衝撃に蹲る彼女へ、先生が心配の声を上げた。いい加減先生もめんどくさくなってきたな。

 

「……へぇ、やっぱり強いんだね。私、ヘイローを壊すつもりで殴ったんだけどな」

 

「ミカ……!」

 

 私の放ったそれは、普通の人が食らったら間違いなく病院送りになるものだ。私とて私の強さは自覚している。前だってイトちゃんを抱きしめたら危うく背骨折るところだった。

 

「大丈夫…けほっ、聖園ミカには私を殴る権利があるから……」

 

「あはっ☆ 何? 殺されにでも来たの? いい度胸してんじゃん!」

 

 実際、彼女と殺し合いをしたらどっちが勝つか分からない。私も強いけど、空崎ヒナも相当なものだ。

 

 でも今なら殺せそうな気がする。

 

 彼女にその気がないのもそうだけど、何より今の私には迷いがない。

 

 空崎ヒナもアリウスもあいつら(トリカス)も……私も。イトちゃんを傷つける奴は全員殺す。

 

 自分でもびっくりだけど、今はそのことに一切の疑いがない。

 

「聖園ミカ…私は、謝りに来たの……」

 

「……へぇ?」

 

「今更…何を言っても遅いのは……わかってる、けど……」

 

 雨が降っている。それもひどく鬱陶しい。

 

「ごめんなさい…あなたの…大切な人を見殺しにしてしまって……」

 

「……」

 

「だけど、私にも協力させてほしい…! もちろん、それで許されるなんて思ってない」

 

 空崎ヒナは続ける。

 

「イトには…助けてもらったの……。だから……」

 

「今の今まで逃げてたのに?」

 

「……っ、ええ。不甲斐なくて…ごめんなさい……。もしイトが…戻らなかったら……その時は、私を殺してくれて構わな———」

 

 

 

 

「ヒナ」

 

 

 

 

 それを、先生が制止した。

 

「それだけは駄目だ」

 

「先生……?」

 

 その時の先生の顔は、今までにないくらい真剣なものだった。

 

「命を落としてしまったら…そこで全て終わりだよ? どれだけ罪の意識に苛まれても、それだけは絶対に駄目なんだ」

 

 先生は分かったような口を利き始めた。

 

 一体何様のつもりだろう。大人ってそんなに偉いの?

 

「それにミカも」

 

「……?」

 

「ヘイローを壊すなんて、冗談でも言っちゃ駄目だ」

 

 ……へぇ。

 

 先生はこの期に及んでまださっきのあれを冗談だって思ってるんだね。

 

 どこまでも楽観的で平和主義者。それが先生の美徳なんだろうけど。

 

 ……反吐が出る。

 

 あなたがそんなだから、イトちゃんは……。

 

「イトを想ってのことだとしても、感情に身を任せて間違いを犯すつもりなら許さないよ」

 

「……」

 

「なにより、イトはそれを望まないはずだ」

 

「……は?」

 

 先生がそこまで話して、明確に分かった。

 

 私、この人が嫌いだ。

 

 大人ってだけで何もかも知った気になって、まるで自分と同種じゃないみたいに私たちを扱って。

 

「……先生はイトちゃんの何を知ってるの?」

 

「……」

 

「大人のくせに、手の届くところにいたくせに、イトちゃんを守れなかったくせに……!」

 

「……」

 

「分かったような口きかないでよ!!」

 

 許せなかった。なんの関係もない人にイトちゃんを語られるのが。

 

 イトちゃんの努力も、苦しみも、私が一番知ってるんだ。それを……。

 

「……確かに、私はイトのことをよく知らないかもしれない」

 

「だったら!!」

 

「でも、イトが優しい子だってことは知ってる」

 

「……!」

 

 そんなの、私が一番……!!

 

 ……

 

 …………

 

「………………わかった」

 

 私が一番知ってる。

 

 そう言いかけて、やめた。

 

 思えば、私はイトちゃんの過去を知らないままだ。思えば私はイトちゃんに頼られたことがなかった。

 

 それを思い出してしまったから。

 

 そんな状態のまま、イトちゃんの一番なんて言いたくなかったから。

 

「空崎ヒナ」

 

「な、なに……?」

 

 イトちゃんに、頼ってほしかったから。

 

「私と一緒に、イトちゃんを助けにいってくれる?」

 

「……!」

 

 空崎ヒナが顔を上げた。

 

「ほんとはゲヘナと…ましてあなたと協力なんて絶対に嫌。だけど…それでイトちゃんを失うことの方がもっと嫌」

 

「……」

 

「ただしイトちゃんを見つけるまで。その後のことは約束しない。……これでいい?」

 

「わかった。それで、いい」

 

 虫唾が走る思いだ。空崎ヒナのうじうじした顔も、先生の理解者面も全部大嫌い。

 

 だけどこんなことで我儘を言ってはイトちゃんに顔向けできない。だから、我慢する。

 

「そうと決まれば……アロナ!」

 

『はい、先生!』

 

 そうして先生は唐突にタブレット端末へと話しかけた。

 

「アロナ……? 誰?」

 

 空崎ヒナも知らないようだ。タブレット端末に話しかけるなんて、どこからどう見てもやばい人だけど……今の状況でふざけるはずもないだろう。

 

「イトの携帯の位置、調べてもらえる?」

 

『うーん…イトさんの携帯……今は電波の届かない場所にあるみたいです……』

 

「じゃあ、イトの携帯の電波が切れた場所は分かる?」

 

『はい、少々お待ちください! えーと……見つかりました!』

 

 先生は独り言を続ける、けど、それは明らかに誰かと会話しているものだった。

 

 空崎ヒナと顔を突き合わせる。お互いに疑問符を浮かべていた。

 

『イトさんが最後に消息を絶ったのは今からおよそ36時間前、場所は古聖堂の地下、カタコンベの入り口です!』

 

「36時間前…爆発後すぐ、だね。ありがとう、アロナ」

 

 そう言って先生はタブレットを懐にしまった。どうやら何か解決したらしい。

 

「二人とも、イトが向かった場所が分かったよ」

 

「「!」」

 

 その言葉に私の心に希望が差した。ようやくイトちゃんへの手掛かりがつかめるかもしれない。そう思うだけで居てもたってもいられなかった。

 

 けれど。

 

 手がかりをつかんだはずの先生の顔は、決して明るいものじゃなかった。

 

 





 イトちゃんに役割を奪われたので、ミカの先生に対する好感度はかなーり低いです。


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