俺の妹は初雪 (cobu)
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【 第一話 】

蝉が遠くで鳴いている。

 

窓から見える景色は、ずっと先へ続く海と、無機質な軍港だ。

太陽は柔らかい橙色に変わり、少しずつ海の向こうへと沈もうとしていた。

 

執務室からぼうっと外を眺めていた俺の背後から、微かに扉を叩く音がした。

消え入るような、か細いこの音を出すのは、一人しかいない。

あわよくば気づかれないまま、とっとと自室へ戻ろうとする俺の秘書艦だ。

 

窓の外を見たまま、入るように命じる。

小さく扉が開く金属音が鳴り、そっと人の気配が流れ込んできた。

 

「作戦が完了した…です」

 

特型駆逐艦三番艦・初雪。

相変わらず、面倒そうで気だるそうな表情だ。

今日は特に暑かったから、三割増しでだるそうにしている。

しかし目立った外傷もないようで何よりだ。

 

初雪は俺と目を合わせることなく、ぼつぼつと完了した作戦内容を報告している。

俺たちがこの鎮守府に着任して、既に半年以上が経過していた。

だが初雪はこの秘書艦の仕事が未だに苦手なようで、

指折り数えて報告内容に忘れているものがないか、確認しながら話す。

 

「…以上、です。………帰ります」

「ん、了解した」

念仏のような報告を言い終えて、やっと初雪の表情も和らいだ。

ふぅっと息を吐き出し、手首の力が入っていない彼女らしい敬礼をする。

 

踵を返す彼女の後ろ髪に、ふと目についたものがあった。

長く整然と揃った黒髪に若干焦げがある。

俺は初雪の綺麗な黒髪が好きだった。

まさか戦闘で火の粉でも被ってしまったのかと、慌てて歩み寄り、髪を撫でた。

「…いやだ、触らないで…!!」

 

突然触れた俺の手から、初雪は逃げるようにしゃがむ。

俺の手には、彼女の髪から落ちた黒っぽいゴミだけが残った。

「悪い、なんかゴミだったみたいだ」

いつも眠たそうな目が、一瞬だけ大きく開いて泳いだ。

気まずそうに目を伏せたまま、初雪が立ち上がる。

(彼女と俺は、変わらないくらいの背丈だ)

 

白くふっくらした頬に、長い髪がかかった。

俺が触れた髪を、彼女も触る。

髪を指先でいじりながら、伏し目がちのまま小さくお辞儀した。

そしてそのまま執務室を出ていってしまった。

 

ゴミをとってくれてありがとう、なのか。

拒絶してごめん、なのか。

はたまた違う意味のあるものなのか。

そのお辞儀の意味は、はっきりとは分かりかねた。

 

「もう半年以上、一緒にいるのにな…」

初雪が今の今まで立っていた場所を、じっと見つめた。

「いや、本当はもっとずっとずっと一緒だったのにな…」

 

俺と目を合わせるのも、俺が触れることも嫌がる初雪。

何を恐れるのか。

俺を“知らない人”だと恐れているのだろうか。

 

 

 

*******************

 

 

どうしようもない気持ちで、俺も執務室を出た。

初雪の居場所は検討がつくが、まさか追いかけたりしない。

 

一人で港まで下りていって、波を眺めていた。

この時間は入渠やら夕食やらで、港あたりに誰もいない。

行き場のない怒りや寂しさのようなこの気持ちを抱えて、

うだうだするのに最適な場所だと思う。

 

先ほど執務室から眺めていた時は鳴いていた蝉も、

いつのまにか黙っていた。

夕日もそろそろ、水平線に触れそうになっている。

 

港も俺も、空も海も、赤色と灰色と黒色だけになった。

今の俺の気持ちに似ている色だなんて感傷に浸っていると、

急に青色が目に飛び込んだ。

「浸っているの?」

背中を丸めて座っている俺の横に、

アイロンがけでもされたかのようにピンと立つのは正規空母・加賀だ。

冷静かつ的確に、俺の状況を確認してくる。

「浸ってるんだよ、ほっとけよ」

体育座りでさらに背中を丸めて、俺は加賀に背を向ける。

 

「拗ねているの?子供ね」

「子供だよ。俺は中学生だよ」

「でも提督だわ」

 

俺は顔を伏せていたが、加賀が俺の前へ移動してきたことは分かる。

俺より背の高い加賀の影に、すっぽり入ってしまって辺りが真っ暗になったのだ。

きっと鋭く刺すような目で俺を見ているに違いない。

 

加賀は何でもかんでも冷たいから嫌いだ。

声も言葉も、態度も視線も。

 

そうだ。

『あの日』だって加賀は、とんでもなく冷たかった。

憎らしいほど冷たかった。

 

 

 

**************

 

 

『あの日』。

俺たちがここへ来ることになった日だ。

 

俺はいつも通りの学徒動員の帰りだった。

深海棲艦とかいう訳の分からないものと戦争をしていて、大人の数が減っていた。

俺みたいな学生も労働力として駆り出され、もはや学校でお勉強などしていない。

 

父が海軍兵学校を出て、連合艦隊で戦っている。

憧れだったし、俺自身も同じ道を歩むものだと信じていた。

せっかく中学生になれたのに勉強出来ない、

なんて悔しがっていた時期もあったが、

これだけの国難ともなれば諦めるしかない。

 

俺と同じくらいの中学生が運転する電車に乗って、家へ帰っていた。

(電車の運転だって子供がやるほど、人手が不足しているのだ)

 

大人が減って荒れ始めていた街を眺めていたら、

見覚えのある後ろ姿を見つけた。

「おい、今帰りか!?」

電車から飛び降りる。

 

突然降ってきた俺に驚いて、その子はビクリと大きく揺れた。

「あぶな…っ…。やめてよ、お兄ちゃん」

―――俺の妹だ。

「下手くそでちんたら走っているから、飛び降りたって怪我しないさ」

 

俺を心配する可愛い妹の頭をグリグリと撫でてやる。

今の栄養不足になりがちな食生活なのに、妹の髪はとてもきれいだ。

栄養素は全部髪の毛にいっているのかもしれない。

母に毎朝整えてもらう長い髪は、

撫でると上質の絹のようにさらさらとしていた。

 

「もう、さわらないでよ…」

そう言う割には、口角が上がっている妹。

たった一つしか年齢が変わらない俺たちは、

兄妹であり幼馴染の親友のようでもあった。

それは俺が中等学校、妹が高等女学校に行っても変わらない関係だ。

 

「おまえも動員の帰りか」

「うん…。工場で縫い物…してきた」

「女らしいなあ」

俺たち男子は、製鋼所に行っていた。

妹の手を見るとどうにも針で刺したような跡もある。

女らしいと褒めたものの、まだまだ未熟なようだ。

「こんなんじゃ、嫁に行けないぞ。…俺が養うしかないか」

「…………ばか」

 

妹は引っ込み思案で、こうやって俺と話していても声さえ小さくて、

俺にとってずっと守りたくなる存在だった。

そんな俺に妹も懐いていて、どこでも俺についてきてそのまま後ろで隠れている。

今だってこうやって並んで歩けば、俺のやや後方を歩く。

肩の後ろに妹の肩が時々触れる。

実際の背の高さはほとんど変わらないが、うつむきがちな妹は俺より小さく感じた。

 

「おい!何だあれ!?」

妹と歩いていると、前方から見たこともないものが飛んできていた。

背中が緑色に発光しているカラス…?

違う。もっと異質なものだ。

 

ギラリと光った頭部から、禍々しい大きな歯が見えた。

歯があるのに、機械のようで、しかし飛行機などとは全く違う。

「逃げるぞ!」

目はないようだが、視線が合ったような気がしたので妹を引っ張って逃げた。

火の粉などがかからないように、風向きと逆方向へ来た道を走った。

俺たちよりもずっと後方で、爆音が響く。

 

あれはきっと深海棲艦の飛行機なんだろう。

どこかでも空襲があったと聞く。

ついに俺たちの町にも空襲がきたのだ。

 

家には戻れなかったが、幸いに近くの防空壕へ逃げられた。

周囲は燃えてしまっているようで、防空壕内へも熱気が風で運ばれてくる。

年寄りと女子供ばかりの防空壕の中で、俺は妹を包むように抱いて外を睨んだ。

誰も守ってくれないのだから、俺が妹を守らなければならない。

 

 

+++++

 

 

空襲そのものは長くなかった。

しかし家々が燃え広がって、防空壕を出ると焼け野が原になっていた。

 

「お兄ちゃん、もうやだ…帰りたい…」

妹が俺の服の裾をつかむ。

その白い手が震えていた。

「お母ちゃんが家にいるはずだよな。早く帰ろう…」

震えが止まるように手を強く握って、妹と家へ走った。

 

しかし走っても走っても、家なんてほとんどない。

木造住宅ばかりだから燃えてしまっている。

俺たちの家も、どこにあるのかさえ分からなくなっていた。

 

どこまで歩いたのかもよく分からず、俺と妹は疲れて立ち尽くす。

外は明るいが、これは炎のせいだ。

本当はもう夜になっているはずだ。

 

「…帰りたい……」

か細い妹の声は、本当は叫んでいたんだと思う。

「戻ろう。お母ちゃんもどこかの防空壕に逃げたかも知れない」

重たすぎる足を、なるべく元気に見せかけて歩いた。

妹の足取りは重い。

声には出さないが、一足ごとにぽつりと涙が零れていた。

 

隠れていた防空壕へやっと戻って来た時には、すっかり夜らしくなっていた。

 

この防空壕は小さな山をくり抜いたような横穴だ。

奥が広くて、柱もあるし、作りがしっかりとしている。

 

だから多くの人がここに避難していると思ったのだが、

何故だかしんとしている。

誰もいないのだろうか。

だが妹は疲れ果てている。

ここで問題ないはずだ。

「今日はここで寝よう」

「ん…」

 

ぽっかりと空いた横穴は、奥が見えず闇そのものに見えた。

だが妹も恐怖より眠気が勝ったんだろう。

嫌がるかと思ったが、すんなりうなずいてくれた。

二人で支えあうように横穴へ近づく。

 

すると突然。

「待っていました」

そこで冷たい声に、歓迎された。

 

思わず妹と二人でびくついてしまったが、現れたのは二人の女性だった。

俺たちよりは大人に見えるが、こうも暗いとよく分からない。

分かるのは、弓道着のような服を着ている赤色と青色の二人組だということだ。

 

「急にごめんなさい。でも、聞いてほしいの」

赤色の服の女性は、優しげに話しかけてくれた。

どうぞ、と言われて俺たちは防空壕の中にあった座布団に座った。

 

赤色の人が防空壕に明かりを点けているうちに、青色の方が話し出した。

 

「単刀直入に言います。あなたたちの両親はどちらも死んでいます」

 

事実だけを淡々と告げる、思いやりのない声だった。

 

「母親はこの空襲で死にました。父親は既に海で戦死しています」

 

冷たいかき氷を一気に食べると頭が痛くなるが、

冷たい言葉を一気に浴びせられても頭が痛くなるようだ。

 

 

+++++

 

 

 




中学生が運転する電車ってのは、
祖父から聞いた実話です。


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【 第二話 】

加賀さん視点です。


初めてお会いした提督――、いえ、この時はまだ一人の少年でした。

その少年は、疲れ切った顔をしていました。

 

空襲の中歩き回ったのでしょう。

顔に煤がついていましたし、足も真っ黒に汚れていました。

世間では深海棲艦との戦いの中で、

深刻な物資不足となり、靴さえ貴重なのだそうです。

この少年も他の子供たち同様に、

空襲の中でさえ裸足で歩き回っていたのでした。

 

「待っていました」

 

私が声をかけると、反射的に彼は妹を自身の背後にやりました。

その妹も彼と同じように疲れ果て、汚れていました。

私は海と鎮守府以外の場所へ行くのは、あまり好きではありません。

彼らのような子供を見るのが辛いからです。

 

不憫さに何か慰めでも言いたかったのですが、

私は上手く言葉にできませんでした。

不審げに私を睨む少年と、ピリリとした空気の中見つめあっていると、

赤城さんが私の代わりに「とにかく、座りませんか?」と

話を続けてくれました。

 

深海のように暗い闇に満ちた防空壕に、赤城さんは灯りをつけていきます。

古い白熱電球が灯りました。

本来は電球には黒い布で傘などして明るさを外に漏れないようにします。

空襲の際に、少しでも敵に家があることを悟られないためです。

外も家の中も、夜は真っ暗で憂鬱なものです。

けれどこの防空壕は奥が深い横穴なので、電球は剥き出しでした。

おそらくこんなに明るい夜は、彼らにとって久々でしょう。

 

明るい場所で私たちの姿を見て、彼らは少しは安心したようでした。

外見的には私も赤城さんも一般的な女性です。

布きれのような座布団に座る少年の膝で、固く結ばれた拳がやや緩みました。

妹の方は相変わらず怯えているようでしたが、ひたすらうつむいて黙っています。

 

私も黙っている、というわけにはいきません。

私たちがここへ来たのは目的があってのことです。

任務を遂行しなくてはなりませんでした。

 

「単刀直入に言います。あなたたちの両親はどちらも死んでいます」

 

まずは彼らが気になっているであろうことを伝えました。

これだけでは説明不足でしょう。

念のため、付け加えます。

 

「母親はこの空襲で死にました。父親は既に海で戦死しています」

 

深海棲艦に一般的な攻撃は効きません。

少年の父は、他の大人たちと一緒に海の藻屑となりました。

痛ましいことです。

 

「か、加賀さん…!」

私が説明しているところへ、赤城さんが慌てて戻りました。

「ごめんなさい。早速本題に入らせてもらっているわ」

「いえ、そうじゃなくって、その言い方は…」

ちらりと赤城さんが少年を見ました。

先ほどまで私を真っ直ぐ見ていた少年は、変わらず私を見ています。

眉をひそめ、唇がかすかに震えていました。

 

赤城さんが私の耳元で囁きます。

「泣いたりしたらどうするんですか。もっと優しく言いましょう」

「優しく言ったところで、事実は変わりません」

「そうですけど…」

 

私は改めて彼らへ向き直りました。

赤城さんもため息まじりに、私の横へ座ります。

少年は私を見つめ、彼の妹はうつむいたままです。

私は少年たちが、嘘だなんだと泣いたり喚かないことに感心しました。

話が早く進められます。

 

「今、我が国では両親を亡くした子供たちに新しい学徒動員をさせています」

鞄からさっと書類を取り出し、彼らの前に出します。

書類は誰でも知っている赤色の紙です。

少年はハッとして、紙を手に取りました。

「召集令状…!…いや、何だこれ…」

 

果たしてその紙は召集令状で間違いありません。

彼はその内容に困惑したのでしょう。

召集令状であるのに、そこには彼ではなく、彼の妹の名が書かれていました。

 

「新しい学徒動員は、女子限定です。それは、あなたの妹に宛ててあります」

「学徒動員って、戦地へ行かすってことなのか!?」

召集令状を乱暴に握りつぶして、彼は妹の肩を抱きました。

妹は長い髪が邪魔をして、表情は分かりません。

 

「戦地に行きますが、今の生活よりずっとよい暮らしになるんですよ!」

私と彼の間に入るようにして、赤城さんが笑顔を作りました。

「私たちもその学徒動員の一員なんです。見てください、良い服でしょう?」

赤城さんの白い袖が揺れます。

洗濯したばかりの優しい石鹸の香りがしました。

 

薄汚い国民服の少年ともんぺ姿の少女では、

こんな服を何年も着れていないはずです。

「機密事項が多いので、お兄さんにあまり詳しく説明できませんが、

衣食住は保障されています。同じ年頃の女の子もたくさんいますよ」

そして赤城さんは、彼らの暮らしでは決して手に入らない生活の話をしました。

甘言で釣るようですが、しかしその言葉に嘘はありません。

 

「お兄さんの生活も保障します。安心してください」

「俺のことなんか、どうでもいいんだ!」

ずっと黙って聞いていた少年が、ついに口を開きました。

妹の肩を抱く手は離しません。

 

「さっきから調子のいいこと言いやがって。

それでも戦地へ行くんだろ。命の保証はあるのかよ」

尤もな話でした。

赤城さんは言葉選びに逡巡します。

「ほら、やっぱり!」

 

黙っていると、まだまだ文句を言いそうでした。

妹を大事に思っているのでしょうが、これでは埒があきません。

私は彼の口をそっと手で覆いました。

私の手が冷たいので驚いたのでしょう。

膝立ちをしていた彼は、どすんと腰を落としました。

「お前、体温が…」

 

「命の保証はありません。でも、あなた勘違いしているわ」

彼の言葉に耳を傾けず、私は自分の言うべきことを言いました。

力任せに握りしめられた召集令状を丁寧に開きます。

「学徒動員と言いましたけれど、これは召集令状です。命令よ」

 

国の命令を無視することは、常人ならあり得ないことです。

どんな命令でも、国の命令ならば従わなければ狂人です。

「あなたの許しを請いに来たのではないわ。

私たちは、あなたの妹を迎えに来ただけです」

 

私は召集令状をそっと横へどけて、彼の妹の前へ進みました。

彼女は一瞬だけ私を見ましたが、すぐに怯えて視線を外しました。

彼女の視線の先には、彼女を守る兄の手がありました。

「これは私たちにしかできないの。私たちしか、深海棲艦を倒せない」

話しかけると、彼女はさらに俯きました。

整然とそろった前髪は、深い深い影を落とします。

「私たちだけが、この国を救えるの」

 

ぽんと、優しく肩を叩かれてはっとしました。

振り返ると赤城さんが微笑んでいます。

「熱くなってしまったようね。ごめんなさい」

「いいえ。でも、ずいぶん遅い時間になりましたよ」

 

赤城さんは召集令状を鞄に戻しました。

「この防空壕は、明日まで誰も近くに来ません。

朝までは、二人でゆっくり休んでください」

 

防空壕の中には、一般的に多くのものが置いてあります。

靴、包丁やまな板、ざるや釜、バケツ、シャベル他農具、

雑巾、チリトリ、ホウキ、それに布団もあります。

 

朝まで休むどころか、住むことも出来そうなほどです。

この防空壕は特に大きなものなので、

一通り揃っていました。

 

「明日の朝に迎えに来ます。では、おやすみなさい」

兄妹は素直に私たちを見送りました。

少年はじっと私を見つめていました。

逃げられると思わないで、なんて余計な牽制は不要のようです。

 

真っ直ぐな彼の瞳。

自分のことよりも妹を心配する彼の言葉。

 

信頼してよいと判断しました。

 

 

 

 

+++++

 

 

 

 

赤城さんと防空壕を後にする中、私は考えていました。

私が鎮守府に着任する前に、どんな生活をしていたのだろうと。

 

彼のように私を大事に思う家族がいて、

その家族を守るために戦っているのだと思えば、

気持ちが救われるようでした。

 




小説内の設定の一部は、引き続き戦時中の暮らしを参考にしています。
防空壕は共同で使うものもあれば、家の庭や軒下に作らされる場合もあったそうです。
「軒下に防空壕を掘ると、いつ爆弾が落ちてくるか分からなくて怖かったから庭に作った」という体験談を聞いたことがあります。
シャッター式の最新のタイプもあるようですが…ってもう防空壕話はいいですね。


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【 第三話 】

「俺」視点に戻ります。


二人の女が帰っても、防空壕の中には戻らず

ぼうっと立っていた。

何かを考えていたと言うよりは、何も考えられずにいた。

 

父は既に死んでいた?

母はこの空襲で死んだ?

妹に召集令状?

 

たった四人の俺の家族が、みんないなくなってしまう。

もともと父が軍人であまり家にいなかったので、

家族みんなで楽しく暮らしていた思い出は多くない。

遠い記憶が、本当は夢だったのではないかと思えた。

 

目を開けても閉じても、辺り一面まっくらだ。

夜空には暗雲。

星さえなく、風が心も体も凍てつかせるようだった。

 

「お兄ちゃん…」

 

妹から声をかけられるまで、時間も忘れて立っていた。

振り返ると、妹はかすかに笑っていた。

「風邪ひくから…中に、入ろう」

「……………ああ」

妹が微笑んでいることが辛くて、

俺はうつむきがちに頷くしかできなかった。

 

防空壕の中の黴臭い布団をひっぱり出す。

空襲はまたいつ起きるか分からない。

ここ最近そうであったように、俺たちは寝間着にも着替えず

布団に並んで寝転がった。

 

あ、と気づいて妹が電気を消してもう一度布団に入る。

一枚の薄い掛け布団しかないので、俺から布団を奪わないように

妹はそっと戻った。

 

一瞬外の冷たい空気が入ってきて、

それからすぐに妹の体温が伝わってきた。

生きている人間が横にいる。

それは今が現実である、と痛感させた。

(夢ならよかったのに)

 

昼は学徒動員で働き、夕方から夜にかけて空襲で逃げ回り、

本来なら体を横にした瞬間眠ってしまうだろう。

しかし、目が冴えてしかたない。

耳を澄ますと、虫の声さえ聞こえないほど静かだった。

寝息が聞こえない。

妹も寝ていないようだ。

 

「…なあ」

小声で呼びかけると、小さく寝返りをうった後に

「なに」と返事がかえってきた。

なに、と聞かれると答えに詰まった。

それでも会話を途切れさせないように、思ったことを口にする。

 

「疲れたな」「眠れないな」「寒くないか」

「お腹すいたな」「風呂に入りたいな」

 

妹は、うんと頷くばかりであまり会話にならない。

目を開けて、ちらりと妹の方を見た。

ずっと目を閉じていたから、真っ暗な防空壕の中でも妹が見えた。

妹は俺に背を向けて寝ていて、防空ずきんを枕にしている。

 

「そのずきん、お母ちゃんが縫ってくれたやつだろ?」

「………。………うん」

「………………………お母ちゃんが死んだって本当だと思うか?」

他愛ないことばかり口にしていたが、

ついに俺は言いたかったことを話し始めた。

妹がそっと上半身を浮かして、防空ずきんを見た。

青色の防空ずきんだ。

父がいる海と同じ色の布を使おうと、母が言って作った。

 

「本当だと…思う。……そう感じたから…」

二人で歩いた焼け果てた町。

妹が言うように、俺も感じていた。

俺たちがいた防空壕は町から離れていて助かったが、

母がいたはずの家周辺は何もかも燃えていた。

平地だったのが災いして炎は燃え広がり、

家も人も何もかも―――。

 

そして父のこともそうだ。

家に帰れなくても、手紙をくれた父。

戦局には触れず、俺たちのことばかり語られる手紙。

時には下手くそな絵が描いてあって、

母がそれを壁に飾ったりしていた。

その手紙も届かなくなって、ずいぶん経っていた。

 

「あの女の人たちの言ったことは、全部…本当だと思う…」

妹は俺の次の質問を察して言った。

声色は一定して落ち着いている。

「学徒動員って言いながら、召集令状を出してきたんだぞ」

「でもあの召集令状は本物だった……」

「そうだ。本物だ。本物だけど、あいつらは怪しいって話だ」

 

俺たちは召集令状を何度も見たことがあった。

近所の仲が良かったお兄さんにも、親友のお父さんにも届いていた。

だから本物かどうかはすぐ分かる。

俺たちの両親の話だって、全く脈絡のないものではなく

むしろ嫌になるくらい辻褄が合う話だった。

 

「看護要員で戦地に行くって話はあるけど、召集令状はおかしいだろ。

しかも俺にじゃなくて、お前になんて…」

 

言葉にすると、気持ちが口を抉じ開けて、

言わなくて言いことまで言おうとする。

 

「戦地にお前が行って、何になるって言うんだ。

何をさせようって言うんだ。そんなことしたって……」

それ以上口走りそうになって、俺は自分の手を思いっきりつねった。

痛みに、声を失う。

思わず爪を立ててしまったので、血が出た。

でもこれでやっと少しだけ落ち着いた。

 

「…ごめんな。今のはなしだ。今のは言いたかったことじゃない」

妹からはぎ取らないよう、そっと布団を出た。

俺が前に座ると、妹も布団に包まりながらも起き上がる。

膝を突き合わせて、じっと暗闇の中で見つめ合った。

妹とこうして見つめ合うのは初めてだ。

 

いつも伏し目がちで、人と目を合わせない妹。

真っ直ぐ見つめるとこんなにも、力強い瞳をしていたのか。

 

「征くんだな」

「……ん、征きます」

 

たった一言だけ言葉を交わして、俺たちはもう話せなくなった。

お互いに涙が溢れてしまって、言葉にならなかった。

 

俺は妹をどうしてやることも出来ない無力さに泣いた。

もっと大人だったら、何かしてやれたかもしれない。

でも俺は何もできず、妹を戦場に送るのだ。

 

妹は何を泣いていたのだろう。

言葉にならない嗚咽の中に、

何度も謝罪の言葉があったのは分かった。

馬鹿な妹だ。

俺を置いていくことは何も悪いことじゃない。

俺が悪いんだ。

 

悔しくて悔しくて悔しくて、

朝を迎えるまで二人で大声をあげて泣いた。

 

 

 

14歳の俺と、13歳の妹は

どうしようもなく子供だった。

 

父と母の腕に抱かれて、

よしよしと頭を撫でてもらいたかったが、

戦争で両親とも死んでしまった。

 

 

 

 

+++++

 

 

 

空が白んできた。

昨日の夜の雲は風に流されて、明るい朝がやってきた。

 

俺たちはやっと泣き止んで、お互いの顔を見て笑った。

いつも腫れぼったい瞼の兄妹が、一層ぱんぱんに腫らしている。

「お前のその目、好きな男に見せたらだめなやつだぞ」

「…泣き顔も可愛い女なんて、男の浪漫か幻想……」

 

クスクス笑いながら防空壕を出た。

辺りを見回しても、あの二人の女はいない。

少し歩いたところに池があったので、妹と顔を洗った。

冷たい水に手がかじかんだが、少しは瞼の腫れも治まったかもしれない。

 

池の水を鏡替わりに、妹と並んで見た。

昔はそっくりだと言われた俺たちも、

成長して次第に違いが出てきた。

これから俺の骨格はどんどんゴツゴツしていくだろうし、

妹は柔らかくまるくなっていくのだろう。

 

(大人になったら、一目では兄妹とは分からなくなるかもしれないな)

 

―――今日戦地へ征く妹が、大人になれるだろうか?

そんな不安が脳裏を過って、俺は大きく頭を振った。

 

妹の顔に、洗ったばかりの顔の水しぶきを浴びせた。

「拭いたばっかりだったのに…。やめて…」

そう言って、妹は乱暴に手拭いで俺の顔をぬぐう。

「んぐっ、お前こそっ…やめろって!」

 

じゃれ合うように手拭いを奪い合った。

俺は闘牛の物まねをして華麗に避けるものの、

妹はこしょぐり攻撃という反則技を駆使してくる。

 

しんとした朝の空気に、俺たちの笑い声だけが響いていた。

 

無理をして笑いあっているのではない。

いつも通りに戻ったのだ。

このまま家に帰れば、母にも会える気がした。

 

 

 

+++++

 

 

 

防空壕の手前まで戻って、妹がぴたりと足を止めた。

魔法が解けたように、すうっと笑顔から真剣な顔つきに変わる。

「本当は手紙、とか…何かを残しておきたかったけど…」

 

姿勢を正して、妹が深く頭を下げた。

「ありがとうございました……」

何秒間か頭は下がったままだった。

「お兄ちゃんの妹で………よかった」

顔を上げる。微笑んでいた。

 

「お父さんはいつも『お前たちを守るために戦う』って言ってた。

昨日の人は…深海棲艦を倒せるのは“私たち”しかいないって…。

私、お兄ちゃんを守るために…ん、戦います」

 

お国のために、ではなく、俺のためと言ってくれた。

それが俺の胸を突く。

 

妹は下手くそな敬礼をして、もう一度頭を下げた。

「私だって本気出せばやれるし、

もしものことがあっても…お父さんたちが待っててくれるし…。

……心配いらない、です」

 

妹が俺の頬を拭って初めて、自分の涙に気付いた。

俺に優しく触れる手を両手で握りしめた。

「お前の武運長久を祈って、万歳三唱します」

 

本当は妹だって、戦地へ征きたいなんて思っていないだろう。

でもそんなことを言っても征くしかないから言わないのだ。

自分を奮い立たせて笑顔でいる妹を、

俺も笑顔で見送ってやりたかった。

 

握っていた妹の手を放す。

そして力いっぱい、大仰なほどの万歳三唱をした。

声は情けないほど震えていたが、妹は嬉しそうに笑った。

 

「元気に行ってまいります…!!」

 

 

 

+++++

 

 

 

防空壕の中に入ると、あの二人が待っていた。

相変わらず、青い弓道着の女は愛想が悪く、

俺たちが戻るなり「時間です」と突き放すように言った。

 

俺の背後にいた妹が、一歩前に出る。

赤い弓道着の女が優しく肩を叩いてニコリと笑いかける。

「一緒にがんばりましょう」

そして次に真剣な面持ちで俺を見て、大きな封筒を渡した。

「これはあなたのこれからの生活についての書類です。

新しい家もあります。…ありがとう」

 

渡された封筒の中を取り出して流し見る。

新しい家は、ここからずっと離れた場所のようだ。

戦死した父の特別弔慰金や妹のおかげで、生活費は困りそうもない。

当面の金も入っている。

 

ざっと目を通し終わったところで、もう妹を連れていくと言われた。

既に一晩待ってもらっているのは分かっている。

これ以上待ってほしいとは言わない。

 

防空壕の中を片付けて、自分たちの荷物だけ持って出た。

妹と向き合い、握手をする。

もう泣かなかったし、もう何も言わなかった。

 

妹たちは軍の用意した車に乗って行くそうだ。

窓が真っ黒で、乗ってしまうと中は全く見えない。

妹は俺の顔をじっと見た。

もしかしたらこれが最後に見る顔かもしれないと、俺も見つめる。

扉が閉まる瞬間まで、俺たちは見つめ合った。

 

「………死ぬなよ」

閉じられた扉を見つめて呟く。

車のエンジンにかき消されて、

俺の言葉は自分でも聞こえないくらいだった。

 

走り出す車につられるように、俺の足は勝手に動いた。

「元気でいろよ。死ぬなよ。死んでくれるなよ」

一歩一歩踏み出すたびに、走るごとに、俺の声は大きくなった。

車の中の妹には決して聞こえないだろう。

それでも俺は必死に走って、妹へ声をかけ続けた。

 

車は次第に俺を引き離していき、豆粒くらいになって、

やがて見えなくなった。

 

俺は最後に全身の力を振り絞って、妹の名前を叫んだ。

 

 

 

+++++

 

 

 

ヒューヒューと口から息が零れる。

胸が苦しく、のどが焼けるように熱かった。

近くにあった焼け残った井戸の水を汲み上げ、

服を濡らさないようにして頭からかぶった。

 

「これで…お別れか……」

重力に任せて腰を落とす。

井戸にもたれて、妹が行った道を眺めていた。

 

これから俺は遠い安全な場所へ行って、

父と妹の命でもらった金を使って生きていくのだ。

 

「…………」

 

いつか平和が訪れて、妹が帰ってきたら

俺はどの面下げて会おうか。

 

「……………」

 

万が一、いや億が一にでも妹の身に何かあったら

俺はどの面下げて生きていこうか。

 

「………………」

 

荒れた呼吸が次第に落ち着いてきた。

「これじゃだめだ…」

まだ足は棒のようになっていて、まともに力が入らない。

それでも無理やり立ち上がった。

 

朝日に照らされると、気持ちが明るくなった。

周りには、空襲で焼け出されても

前向きに町の片づけをしている人たちがたくさんいる。

俺も諦めていてはいけないと思えてきた。

「このまま終わっちゃだめだ…」

 

俺はまだ子供だけど、何かできることがあるはずだ。

 

車が走って行った道に戻る。

この道の先を、俺は知っていた。

 

いつか昔、父に連れられた軍港だ。

妹はきっとそこへ行ったに違いない。

 

 

 

 



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