屍人が目覚める世界で (毛ガニ武者)
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屍一体目

春の暖かな陽光が差し込む昼下がりの教室、教壇の上では教員が何時ものように黒板に書いた文字の説明をしている。

仄かな暖かさと教員の単調な声が何とも眠気を誘う。

 

『彼』はその時間は何時も眠気に誘われるままに昼寝をするか、読書をして時間を潰していた。

その事で教師の間で『彼』は有名な問題児として扱われている。

 

『彼』の名前は紫藤秀次。18歳。私立藤美学園高校3年A組出席番号は10番。

背丈180cm以上の長身であり、鍛えているのか、そこそこ肉付きの良い身体をしている。

髪は黒髪で肩につくほど長く、邪魔にならないように後ろで一本結びで纏めている。

顔立ちは端整ではあるが、その表情を滅多に動かすことはない。

それに加え眉間に残っている大きな傷跡も合わさり、他者を威圧する冷酷な印象を放っていた。

 

幼い頃、秀次は交通事故に遭いそれ以前の記憶を全て失った。自分を育てたらしい母親の顔すら知らない。

事故が起きて、退院した時に床主にある今まですんでいたと言う家ではなく、東京の父親の家に引き取られたからだ。

 

何も知らない秀次は父親から母親が碌な母親ではなかったと教わった。半ば育児を放棄し、最後には酒に溺れて早死にしたらしい。

 

哀れな女だと父は笑っていた。

 

事故の時に負った頭の怪我の後遺症で感情の大部分が欠落したせいか、目の前で母親を馬鹿にされ、笑われても何も感じる事はなかった。

 

見ず知らずの人間を馬鹿にされて怒れというのも難しい事だったからかもしれない。

 

何度か兄とも顔を合わせる事もあった。しかし、何度顔を合わせても、幾度言葉を交わせども、思い出せる事は何も有りはしなかった。

 

父親からは弟のサポートをしろと言われ、様々な事を学ばされた。

 

しかし、その弟の母親からは邪険にされ、当の本人からは心底疎まれるだけで顔を見るのも嫌がられた。

事故を装って階段から突き落とされたのも何度かある。

 

そんな暮らしに最初は何か感じていた事があったような記憶はある。

時が経るにつれ、何も感じないようになっていき、今ではその時に何を感じていたのかさえ思い出せなくなった。

 

そして追い出されるように藤美学園への入試を受けさせられ、寮に入れられた。ここは父親が理事をしている故に、色々と勝手が利くらしい。

授業中どうどうと別の事をしていても注意の一つされない理由がこれだ。

だからこそ兄以外の教師達は権力を恐れて秀次に関わろうとしない。

 

生徒にもその雰囲気は伝わったのか、基本腫れ物扱いで近づく者は居なくなった。教師に目を付けられるからだ。

 

唯一人、昔の友人を名乗る女子との交流はあったが、それだけだった。

それも、その女子が一方的に絡んでいるだけで秀次から何か行動をおこした事はない。

 

 

 

秀次は読んでいた本から目を外して、その女子の席を見るが、授業をサボっているのか昼休みまで居たはずの席には今は誰も座っていない。

 

珍しいと思いつつ窓の外に目をやってみると火事でも起こっているのか、何時もは無い黒煙の柱が立ち昇っていた。

 

それも狭い窓から見える範囲だけで3本もだ。

 

視線を降ろし、街を見る。確かに街から上がっている煙だった。秀次は更に視線を下げ、あり得ないものを発見し、視線がソレに固定される。

 

 

ガガッ!

『全校生徒・職員に連絡します! 全校生徒・職員に連絡します! 現在校内で暴力事件が発生中です

 生徒は職員の誘導に従って直ちに避難してください!!』

 

 

教室のスピーカーが叫ぶようにそう伝える。

周りの同級生達は何が起こったのか不安そうに顔を見合わせたり、小声でボソボソと何事かを話し合いを始めた。

 

そんな中、秀次はアレが暴力事件? と疑問を抱き、眉をピクリとだけ動かす。アレはどう控えめに見ても暴力事件の範疇を超えている。

 

 

『繰り返します。現在校内で暴力事件が発生中で』

                             ブッ!!

                               キィィ……ン

 

ガギン!! ……ン

『ギャアアアアアアアアアア!!! 助けてくれ!! 止めてくれ!! ひぃいぃぃ! 助けっひぃ!!

 

           痛い痛い痛イいタイイタイ!! 助けて!! 死ぬ!!  ぐわああああぁぁぁあああ!!』

 

 

その直後に悲痛と恐怖にぬれた絶叫がスピーカーが割れんばかりの音量で響いた。それが途切れた後、しばらく教室内部を静寂が支配する。

 

少しして、正気に戻った生徒の何人が扉に向けて動き始め、ドアを開いて出て行くと、

それを目で追っていた生徒と教員の全員が堰を切ったかのように逃げ出していった。

 

教員、生徒問わず、全員が目の前の邪魔な障害物を押しのけ、蹴り倒し、悲鳴と怒号が相次いで響いていく。

 

 

秀次はその雑音を耳障りだと思いながらも、今自分の目に映っているモノは何なのか頭の中を探って考えていく。

自分の眼下の校庭では、先ほどまで同じ人間に首を喰い千切られてのた打ち回り、

動かなくなった筈の人間が何事もなかったかのように立ち上がり、ふらふらと校舎に向けて足を進めてきている。

 

 

アレは何だ? 人間が人間に喰らいつくという事は起こっても何ら不思議でも不可能でも無い為、理解できた。

しかし、今此方にフラフラとした足取りで歩いて来ているモノは別だ。

 

人間があれほどまで重傷を負わされても傷口を押さえもせずに、何事も無く歩く事など有りえる筈が無い。

いや、首の肉の殆どを喰い千切られていても生きている人間なんて存在しない。

 

しばらくの間、アレがどうやって動いているのかという仮説を立て、熟考する。

 

が、答えらしい答えは出ない。どれもこれも推測に推測を重ねただけの張りぼて以下の理論にすぎないものしか考え付かなかった。

 

そもそもアレに関する情報は全く無いのも同然なのだから、今答えを出そうとするのが間違っているのかもしれない。

 

 

考えを深めるのを打ち切り、これからどうしようか、と秀次は考えた。

 

 

悩み始めてどれくらい経っただろうか? とうの昔に廊下の喧騒は消え、静かなものになっている。そこまで悩んでもなお、秀次は答えを出すことができなかった。

 

答えが出ないまま秀次は自分の鞄から教材を全て抜き、必要だと思えたものを詰めるとフラリと3-Aと入り口に書かれた教室の外へと出る。

 

 

「ヒッ……人か? よ、よかった! 助けてくれ!!」

 

 

廊下の先に居た男子生徒が教室から出てきた秀次に気付き、一瞬怯えた様子を見せた後、安堵の声を上げて秀次の居る場所へと近寄ってくる。

 

男子生徒は左手に怪我でもしているのか、左手を庇っているような動きを見せ、時折顔を顰めている。

 

足も特に怪我をしたようには見えないが、消防斧を杖の代わりにしていて右足を庇いながら歩いている。

その消防斧は、すでに誰かに使ったのか刃が血に塗れ、床に赤い痕跡を残していた。

 

 

「生きてる人に会えてよかった……下はもうゾンビだらけでさ」

 

「そうか」

 

 

生きている人間に会えて余程嬉しいのか、男子生徒は聞かれてもいないことを饒舌に話し始めた。

 

自分の名前、学年、クラス、番号、放送があってあら起こった事、洗いざらい全てだ。

 

 

「それで、命からがら逃げ出してきたんだよ……って、なんだよ?」

 

 

そこまで話してようやく秀次が自分の左手を注視している事に気が付いたのか、それを隠すように手を後ろに回す。

 

 

「これは……あれだよ。ほら階段降りて外に逃げようとしてた時に、後ろから押してくる奴らに思い切り引っかかれてさ……」

 

 

また聞いてもいないのに男子生徒が言い訳をしているかのごとく歯切れの悪い言葉を口にした。

 

 

「そんな事は聞いていない」

 

「そ、そうか。そうだよな! って、おい! どこいくんだよ!!」

 

 

秀次が踵を返して別の場所に向かおうとすると、男子生徒は慌てた様子で秀次の肩を掴み引き止める。

 

彼の手から零れ落ちた斧がガランと重い音をたてて床に落下した。

 

 

「……何だ?」

 

「頼む、置いていかないでくれ……」

 

 

首だけ回して振り返り、掴まれた肩を見つめ視線を外して男子生徒の顔を見る。

 

怒りと不安、そして怯えが入り混じった必死の形相を浮かべて秀次の肩を力の限り握り締めている。

 

絶対に逃がさない。そんな言葉が聞こえてきそうなほどだ。

 

 

「離せ」

 

「……嫌だ! 俺はこんな所で死にたくないんだ!! 助けてくれ!!」

 

「……そうか。わかった」

 

 

こいつは敵だ。

 

 

「――っ!? よかった!!」

 

 

その言葉を聞くと、何か勘違いでもしたのか男子生徒は驚いたように目を白黒させた後、深く安堵の息を吐いて指の力を抜いた。

 

 

秀次は振り返ると同時に下に落ちている斧を蹴り、

肩から離れようとする腕を掴み、

引き寄せ、

足を払い、

頭を殴り、

床に引き倒し、

掴み捻り上げた腕をそのまま圧し折った。

 

男子生徒は完全に気を抜いて油断していたのか、抵抗らしい抵抗すらしなかった。

 

あらぬ方向へと曲がった腕を離し、背中から首に手を回し、締め上げる。

男子生徒が秀次の下で咳き込みながら手足をバタバタを動かし、体を返して秀次を振り落とそうともがくのを押さえつけた。

 

引き倒した時に舌でも噛んだのか、男子生徒が咳をする度に床に赤い水滴が飛び散っていく。

 

次第に動きが弱くなっていき、首を締め上げていた腕を掻き毟っていた手から力が抜け、床にコトリと落ちた。

 

死んだ。あっけない。と思いつつ秀次は立ち上がり、後ろに蹴飛ばした消防斧を拾いにいこうと死体の隣を通った時、誰かに足を掴まれた。

 

 

「――――ッ!!?」

 

 

倒れている男子生徒が顔を床に突っ伏したまま、秀次の左足を掴んでいた。

秀次が足を引き抜こうと動かすが、万力にも似た力で締め付けられ、指が肉にくいこんでいき、痛みだけが増していく。

 

 

死んだふり? いや、確実に殺した。と秀次は増していく足の痛みに眉を顰めながら考え、

 

男子生徒の力が肩を掴んだ時と比べ物にならないほど強くなっている事に気がついた。

 

 

男子生徒がゆっくりと顔を上げる。その顔は人間の顔ではなかった。

 

目の焦点は合っておらず、左右別の方向に向き、瞳孔は完全に開ききっている。

それに目と口からは血が流れ出し、時折、開いた口からは呻いているような音が漏れ出していた。

 

 

「早いな……」

 

 

復活の速さに少しばかりの感嘆を覚え、左足に噛みつこうと開いた口を狙い靴先をねじ込む。

 

上の前歯を折った感触と共に、開いていた口が閉じられ、靴底に歯が食い込んでいく感触が感じられた。

 

噛み付かれた靴をそのまま倒して、靴底に食い込んでいる歯を折っていく。

それでも尚噛みつくことをやめようとしないソレを見て、秀次はコレに知性は無いと断じた。

 

 

顎を閉じられないように更に靴をねじ込んでいき、靴先で下顎を押さえ、足を徐々に上へと傾けてゆき、ソレの顎の間接を強引に外す。

 

歯を折られても、顎の間接外されても全く変化の無い様子を見て、痛みを感じていないと断じる。

 

掴まれた足の皮膚を破り、ズボンごと指が肉を潰していく。

握っているその手は、籠められた力に耐え切れないのか、爪が内側から剥がれていた。

 

 

秀次は、消防斧を拾い上げながら、足元のナニカのデータを纏めていく。

 

脳内のリミッターが外れているのか、その力は驚異的の一言に尽きる。

しかし、知恵は無く、その力を出せるのは自壊していない最初だけ。

時間が経つにつれコレ単体の脅威度は減じていく可能性は高い。

痛覚は無く、胴体への打撃はほぼ無意味。

 

 

「頭を潰されても動けるか?」

 

 

拾った斧の刃の裏側に付いていたピッケルをソレの後頭部へと振り下ろす。

 

先端が頭皮を裂き、

頭蓋を割り、

脳髄を犯し、

肉片を辺りに撒き散らす。

 

グチャリと音が廊下に響いた。

 

 

ソレの体がビクリと痙攣し、手から力が抜けていく。痙攣した以降、ソレが動く事はなかった。

 

 

「頭を潰せば死ぬ。電気信号で動いてるのは変わってないか」

 

 

頭から消火斧を引き抜くと、こびり付いたピンク色の肉片と血がパタパタと滴り落ち床に赤い斑点を付けていく。

 

 

「柄は90cm弱、刃は10cm辺り重さは2~3kg……肉の色とは随分違うな」

 

 

エモノを検分した後、ピッケルに付着するピンク色のソレを見て、秀次はそう感想を零すと、

斧を肩に担ぎ目的地を何処とも定める事無く歩いていった。

 

 

 

 

右、左、左、右、左。得体の知れないナニカになってしまっている同級生や下級生の横を通りぬける。

 

他の人間は襲われて、今通っているとなりでも集団で集られて喰われているというのに、自分には全く反応を示そうとしない。

 

原因は靴に布を巻きつけて、足音の殆どが消えているからだろう。と秀次は考えている。

先ほど、確認のためにコインを投げてみればほぼ全てのナニカが反応したのがその証拠だと言える。

 

それを見たからこそ、床に転がっている死体から服を剥ぎ取って靴に巻きつけたのだ。

移動に呼吸音と衣擦れ以外の音のほぼ全てが消えている今、ナニカが自分の存在に気付く事はなく、目の前を通っても何も反応を示さない。

 

 

安全すぎる。と秀次は欠伸をしながらそう思った。下手に慌てたり、予期していないアクシデントさえ起こらなければなんて事も無い。

 

問題はその音がなった時、ナニカは過敏に反応する上に音が鳴った方向にある障害物にすら噛みつこうとするところだろうか。

 

おかげでコインを投げた時に後ろから襲いかかられて結局乱闘になった。

 

 

下手に何かすると逆に危険を招く。そう考えながら歩いていると、教員棟に繋がる渡り廊下に辿り付いていた。

現代国語担当の脇坂が血を流して倒れていたのを目視し、死にたてかと観察したが、

 

目が飛び出して頭が陥没して動いていないところを見ると、既に誰かに再度殺された後のようだ。

 

と確信し、秀次は斧を置き、腰を下ろし、死体を詳しく調べ始める。

 

 

頭の陥没具合から、凶器は細長く、円筒形で頑丈な物であると推定できた。恐らく金属バットだろう。

 

胸と腰には穴が開いている、何か先端が鋭い細長い棒で突かれたのだろうか。

 

右腕の肩付近の骨は完全に砕かれている、鈍器での強打、先ほどと同じ金属バットによるものだと推定する。

 

 

ピッケルでこじ開けた口からは少量の肉片と、学制服らしき布着れが零れ落ちた。

秀次はソレを見て、ここで脇坂は誰かに噛みついたのだと推測した。少なくとも3人~5人の集団の誰かに。

 

最初は脇坂に誰かを噛まれて、それをやめさせようと棒で突き、バットで殴打するが脇坂はそれを無視して噛みつきを続行、

 

そして最後にバットで頭を強打され、その衝撃で噛みつかれていた肉が完全に食い千切られ口内に肉片と布切れが残った。

 

筋書きとしてはこんなものだろう。分かってしまえばどうとでもない話だ。

と秀次は欠伸を零しながら斧を拾い上げ目の前の管理棟へと足を進める。

 

職員室の前までくると、ナニカの数も減ってくる。

教室棟と校庭がナニカで溢れかえっている分、余り人の詰めていなかった此処、管理棟に来る個体は少なかったのだろう。

 

 

「喉……渇いたな」

 

 

既に空になった缶ジュースを捨て、秀次は息苦しそうにカッターシャツの第一ボタンを外しながらそう言うと、

 

ナニカはその音と声に気付いたのか此方に目がけてワラワラとゆっくり近づいてくる。秀次はソレに斧を構えて応じた。

 

 

先ずは斧頭で一番近くにいた個体の顔面へ刺突、鼻の骨を砕きたたらを踏ませるがそれ以上の効果は無く、個体は再度前進。

 

斧を振り上げ背後から近づいてきた別個体の頭にピッケルを突き刺し、振り降ろすと同時に引き抜き目の前のナニカの頭を両断。

 

頭に刃が食い込んだ死体を左足で蹴りつけ、斧を引き抜き、

右足を軸に体ごと回し遠心力をつけてその後ろから近づいて来ていた個体の首を跳ばす。

 

斧の重さに体が振り回される前に自分から床に身を投げ出して転がり、立ち位置を変える。

床に斧が当たり、鉄が石を引っ掻く音が微かに鳴った。ナニカ達が音の方向を捕捉して首をグリンと回し、進む方向を変える。

 

落ちてきた首の髪の毛を掴み、ナニカの背後にあるドアを狙って投げつける。

鈍い音が鳴り、ナニカ達の注意が此方から逸れて床に落ちてゴロゴロと転がる首に移った。

 

背中を向けたナニカに斧を振るい

頭蓋を砕き、

首を跳ばしていく。

 

自分以外立っているモノがいなくなった廊下で、秀次は斧をクルクルと回して弄びながら、

返り血で真っ赤に染まったカッターシャツと制服を見て、静かに溜息を零した。

 

 

 

 

秀次は職員室のドアを無造作に開ける。教員は全員逃げた後なのか誰も居ない。後ろ手でドアを閉め、そのまま給水場に足を運んだ。

 

その途中で返り血で赤く染まりきった制服とカッターシャツを脱ぎ捨てる。

血と肉に塗れた斧と鞄も、今や誰も座ることのないだろう机の上に置いた。

 

 

シンクに頭を突っ込み、そのままハンドルを捻る。

 

蛇口から勢い良く飛び出した水が頭を濡らし、顔にこびり付いていた血と肉を洗い流していく。

 

蛇口から出る透明な水はシンクに落ちる頃には赤く染まっていた。

 

 

 

手を洗い、顔と頭を洗い流した後、シンクから顔を引き抜き、そばに掛けられてあったタオルを一枚手に取り、水気を拭き取っていく。

 

傍に置いてあったカップを引き寄せ、出しっぱなしにしていた水を汲み、それを呷るように飲み干した。

それを喉が潤うまで、ニ三度と繰り返したあと、ハンドルを捻って水を停める。

 

秀次はタオルを放り投げ、その場に座りこんだ。

昨夜はロクに眠れなかったからか、先ほどから眠気がこみ上げてきているのが嫌でも分かった。

 

壁に頭をを預け大きく息を吐く。そこそこ運動したからか、冷水を被った直後だというのに体は程好い熱を持ち、眠気を誘っている。

 

そういえば今日はまだ昼寝もしていなかったのだ。と霞がかった頭でそう思った。

 

息を吐きながらゆっくりと目を閉じていく。落ちていく意識の中で、

 

そういえばアイツはまだ生きているだろうか? と少しだけ気にかかった。

 

秀次の体から完全に力が抜け、頭の重さでズリズリと体が横に傾ぎ、倒れる。誰も居ない部屋の片隅で静かな寝息だけが微かに響いていた。

 

 

 



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屍二体目

 

 

狭苦しい車に乗せられて運ばれている。

オレは誰かもわからない大人達に囲まれていた。オレを運ぶ車はスピードを上げて道路を走っていく。

 

隣にはオレと同じぐらいの年頃の女の子が座っていた。怯えているのか、その小さな手でオレの服の端を掴んでいる。

 

誰だろうか、と思ったが周りにいる人間の顔に全て白い霧のようなものがかかり、誰と判断する事は出来なかった。

 

 

「      。         」

 

 

オレの口が動き、女の子に何かを言う。そして自分は女の子の手を握り締めた。握った手はどうしようもなく震えていた。

 

オレは確かに何かを言っている筈なのだが、何も聞こえない。しかし、オレはそれを疑問すら感じることなく女の子を慰めていた。

 

 

「      、         」

 

 

その震えを抑えようとオレは笑顔を浮かべて、また何かを言った。

 

 

「    ?」

 

「  、      」

 

 

女の子が不安気に口を開き、オレがそれに答えて頭を撫でている。

握った手の震えは次第に治まっていき、オレはソレに安心して息を吐いた。

 

 

「     !   !!」

 

 

大人が話していたオレ達を怒鳴りつけ、オレの頭を殴った。

不思議と痛みを感じる事はなく、ただオレは背中の後ろで怯える女の子に振るわれる拳が届かないように必死で庇っていた。

 

 

大人達はそんなオレを見ながらゲラゲラと笑う。

 

 

「  !!     !!            !!」

 

 

車を運転している大人が後部座席に座るオレ達を怒鳴りつけた。

オレを殴りつけていた大人はその声に不承不承といった様子で座席に座りなおし、オレの顔に唾を吐きつける。

 

 

「     ?      ?」

 

 

女の子が泣きながらオレの殴られた場所をさすり、ハンカチで吐きかけられた唾をふき取った。

 

 

「           」

 

 

オレは泣いているその子の顔を両手で優しく掴み、視線を合わせ何かを囁いた。

 

 

 

その瞬間映像が唐突に消え、周り一面全てが黒に染まり、ただ沈んでいくような感覚だけが残る。

 

オレは何を言っていたのだろうか? あの女の子は誰だったのか?

疑問が尽きる事は無い。自分の記憶にはそのような事があったという情報は無いのだから。

 

 

「あ……うう」

 

 

オレはオレが言っていた言葉の一つを口の形を真似て発音する。

 

 

「あい…おうう」

 

 

その言葉を口にしようとする度に酷く眉間の傷が疼いた。撫でようとするが、体は意思に反して全く動こうとしない。

 

 

「だい…ょうぶ」

 

 

眉間が痛いほど疼く。だが、あと少しで何かを掴めそうだった。

溺れていくなか水面に手を伸ばすのにもよく似た感覚で何かを探そうと手を伸ばす。

 

さっきまで動かなかった手が不思議と動いた。

 

 

「だいじょうぶ」

 

 

 

 

 

 

 

そこで目が覚めた。暗闇は消え、ぼやけた視界の中、二年間で見慣れた天井が目に入る。

 

伸ばした手は自分の顔を覗きこんでいる誰かの頬に当てられていた。頭の後ろには何か暖かくて柔らかい感触があり、それがまた眠気を誘う。

 

何か夢を見ていた筈だと、秀次は瞳を揺らして記憶を掘りかえすが、白い靄のようなものが記憶にかかったかのように、何も思い出せない。

 

無意識的に秀次は頬に指をなぞらせるが、やはりそこには何時もの真一文字に結ばれた唇があるだけだった。

 

 

何か、大切なものが自分の手の中から逃げていったような気がした。

 

 

「やっと目を覚ましたか。こんな状況で熟睡とは……君は本当に神経が太いな」

 

 

頬に手を当てられた誰かはそう言うと微笑んで当てられた手に手を重ねる。

 

 

「……誰?」

 

「まだ寝惚けているのか。ほら、そんな所で寝てないで、早く起きるんだ」

 

 

そう言うと誰かは別の手を頭の後ろに回し、秀次の体を起こす。

 

秀次はまだ眠りから覚めきっていないのか、ぼんやりとした表情で周りを見渡し、眠そうに目を擦った。

 

そして、今まで自分はその誰かに膝枕をされていたのだと気付き、

眠い目を擦りながらすぐ傍に座っている誰かを首を傾げながらマジマジと見つめる。

 

 

「……冴子?」

 

「他の誰かに見えるか? その様子だと、大事ないようだな。安心したよ」

 

「……まだ生きてたんだな」

 

「私がそう簡単に死ぬ筈がないだろう? こういう時は、お前も無事でよかった。と言うものだというのに」

 

 

首を傾げた秀次に冴子と呼ばれた長い黒髪に凛とした雰囲気を纏う女子生徒が苦笑しながら「全く君は……」と呆れた声でそう零す。

 

 

「鞠川校医が寝ている間に左足の怪我は治療してくれた。気休め程度らしいが、我慢してくれ」

 

「……そうか」

 

 

左足を見ると、ズボンが捲られていて、アレに握り潰された場所は真新しい純白の包帯を巻きつけられていた。

 

周りにいる人間に目を奔らせると、長い金髪で胸の大きな女性がこちらに笑顔でVサインを送っているのが目に入る。

恐らく彼女が鞠川校医なのだろう。秀次はそう当たりをつけ彼女に軽く頭を下げた。

 

 

「それで、他は誰だ?」

 

「人の名前を他人から聞くんじゃなくて。最初に自分から名乗ったらどう?」

 

 

声が聞こえてきた方向へ顔を向けると、そこには不機嫌そうな顔をした長い桃色の髪をツインテールに纏めた女子生徒が秀次を睨んでいる。

 

 

「言ったら答えるのか?」

 

「あったり前じゃない。敵対してるならまだしも、私達は敵じゃないでしょ」

 

「3年A組出席番号10番 紫藤秀次……以上」

 

「2年B組高城沙耶よ。出席番号は必要ないわね、デブオタ! アンタもさっさと言う!!」

 

「に、2年B組の平野耕太です……よろしく」

 

「高城沙耶……一心会会長の娘か」

 

 

秀次は頭の記憶を掘り返し、どこでその名前を知ったかを記憶を探り、確か父親の持っている書類の中にあった名前だと思い出した。

 

見た書類は確か……父親が所属している組織のトップの家族構成を書いたものだ。

写真も無かったから顔を見るのは初めてだが、なるほど。書類に書いてあった特長通りらしい。

 

長い桃色の髪にそれを纏めるツインテール。

目は釣り目がちであり勝気。メガネだけが情報と違っていたが些細なことだろう。

 

その彼女に怒鳴られて名乗ったのはメガネをかけた太った男子生徒。手には釘打器を改造したらしいものを握っている。

 

 

「そういうアンタは紫藤一朗の息子でしょ。今はそんな肩書き何の意味もないわ」

 

「確かにそうだ。次」

 

 

元々名前を知っていたというだけで、それ以上の興味も関心もさして持ち合わせていなかったのか、

秀次はあっさりと話を終わらせるとその隣に立っている二人の男女に目を向ける。

 

 

「同じ2年B組の小室孝です」

 

「宮本麗よ」

 

「……宮本?」

 

 

この名前にも秀次は覚えがあった。

去年辺り、父親の悪事を暴こうとしていた警察官の娘だ。その件には自分も関わっていた為この名前はよく覚えている。

 

 

「なによ?」

 

「なんでもない」

 

 

あの時何があったのかを知っているのか、自分にかなり敵意を抱いていると秀次は感じた。

よく見ると麗と孝の手にはそれぞれモップの柄と金属バットが握られている。

 

 

「渡り廊下で脇坂をやったのはお前達か? 噛まれたのがいると思ったが……死んだか?」

 

「なっ!? 何でそんな事を知ってるのよ!!」

 

「脇坂の死体を調べた。最後の授業料は高くついたな」

 

「ふざけないで!! 何が授業料よ!!」

 

「……? ふざけているつもりは全く無いが? 払ったのが自分の命でなかっただけ、よかったじゃないか」

 

「――――ッ!!」

 

「落ち着け麗! こんな所で喧嘩しても仕方ないだろ!」

 

 

そう言うと秀次は立ち上がり、グッと体を伸ばす。冷たい床で寝ていたからか、背骨やアチコチの骨がバキリボキリと音を立てて鳴る。

その言葉に激昂して殴りかかろうとする麗を孝が必死になって止めていた。

 

 

「これだけ言われても孝は悔しくないわけ!? コイツは永が死んだのを授業料って言ったのよ!!」

 

「わかってる!! けどここで争いあっても奴らが寄ってきて餌になるだけだろ! いいから落ち着け!!」

 

「ハイハイ、あんた等の喧嘩は後にしてちょうだい。これで全員の紹介はこれで終わったわね。

さっそくだけどそこのヤクザ、連中について知ってるがあったら教えてくれないかしら? 弱点とか習性とか何だっていいわ」

 

 

ヤクザ? と秀次は辺りを見回し、そう呼ばれた人物を探すが見つからない。

その人物を呼んだ沙耶を見ても、ジトリと此方を見つめるばかりだ。

ニ三度パチクリと目を瞬かせてから再度、右を見て左を見る。

全員の視線が自分に向けられていた。首を傾げながら指で自分を指し示し沙耶を見ると、彼女は黙って首を縦に振った。

 

 

「ヤクザ……そう言われたのは初めてだ。歩く死体の話をすればいいのか?」

 

「えぇ、そうよ」

 

「わかった。お前も知っている事があったら教えろ。観察した限りあれは……」

 

 

 

 

秀次は自分の知っている限りの事を話した。

 

アレに痛覚は無い事。

感染して死んだらすぐにアレになる事。

力は生きている時と比べモノにならないほど強くなっている事。

音に反応して動いているらしい事。

恐らく電気信号で動いている為、頭を潰せば殺せる事。

 

代わりに教えられたのは、アレは痛覚は無いのではなく非常に鈍くなっているだけだという事。

あとは大体同じ情報らしい。

 

「連中の情報はこれで大体出揃ったわね……それじゃあ行くわよ! サッサと動く!! 対策は歩きながら話すわ!」

 

「……? 何の話だ?」

 

「部活遠征用のマイクロバスを使って屍人がたむろする校庭を突破する。そんな計画さ、君も乗るか?」

 

 

状況が今一掴めていない秀次に冴子はそう言って微笑みながら手を差し伸べる。秀次は何も言わず、その手を握った。

 

 

「あと……だ。君はもう少し相手の心情を慮ってやった方がいい。先ほど宮本君に対して言った言葉は褒められるものではなかったぞ」

 

「……そうなのか?」

 

 

冴子の注意に秀次は首を傾げる。事実をそのまま言った事がそれ程悪い事だったのだろうか? 冴子はそれに大きく首肯して肯定する。

 

 

「そうだ。もっと言葉は選べ。君ならば出来ると私は信じているよ」

 

「…………」

 

「人は事実を言われる事が何よりも嫌な時がある。分かってくれ」

 

「…………」

 

 

冴子の言葉に秀次はしばらく思い悩んだ後、特に不利益を被る事はないと判断してコクリと肯いた。

 

 

「そこのヤクザ!! これアンタのでしょ。さっさと着て準備する!! アンタ以外は準備すんでるわよ!」

 

 

沙耶の声と共に、赤黒く染まった学生服とカッターシャツが飛ぶ。血は完全に固まっていたのか、赤い塊がボロボロと服から零れ落ちていく。

 

秀次はソレを受け取り、比較的汚れていないカッターシャツだけ羽織り、ボタンを閉め、裾をズボンの中へ押し込んだ。

 

 

「鞄と斧はここだ。鞄にはお茶の入ったペットボトルも入れておいた。何か他に聞きたい事はあるか?」

 

 

秀次は冴子から脇に置いてあった斧と鞄を受け取り、中身を確認したあと黙って首を横にふる。

 

冴子はそんな秀次に苦笑いを浮かべ、強く肩を叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

「最後に確認しておくぞ無理に闘う必要はない。避けられる時は避けろ! 

転がすだけでもいい。生存者が居れば話は別だ。屍人を殲滅して救助する」

 

「連中、音にだけは敏感よ! それからヤクザの話でもあったように腕力は異常だわ、

掴まれたら余程運がよくない限り食われるから気をつけて!」

 

 

冴子と沙耶の二人が要点を簡潔に纏めて伝えていく。生存者の救出は聞いていなかったが、自分には特に関係の無い話だ秀次は切り捨てた。

 

そういう事は他の人間に任せて自分は何も考えずにナニカを……冴子の言葉を借りるならば屍人を殺していればいい。何時も通りの事だ。

 

 

「きゃああああああ!!」

 

 

階段から女性の叫び声が廊下に響く。秀次以外の者が一斉に悲鳴が聞こえてきた場所へと走り出す。

階段の踊り場で女子2人と男子3人が屍人の群れに囲まれていた。

 

秀次が着いた頃には耕太が既に狙いを付けたのていたのか、釘を撃ち5人の一番近くに居た屍人の頭を狙撃し、殺す。

 

冴子が階段を跳び降りてゆき、落下の加速を木刀にのせ頭を砕いた。

 

孝と麗の二人組みも素早く階段を降りていって屍人をバットやモップの柄で殴り倒していく。

 

 

「なにアンタだけさぼってんのよ!」

 

 

沙耶が小声で怒鳴るという高等技術をやってのけながら秀次の脇腹を肘で突く。

 

 

「必要ない」

 

 

ゴスゴスと腹を突かれる秀次は何でもないかのようにそう言い切って、

 

後ろから追いかけてきた一匹に斧を振るい、首を跳ねとばし、

その勢いを殺すことなく右足を軸にして回転すると同時に前進

目の前にいる沙耶を回りながらかわし、もう一方から近づいてきた屍人の側頭部に刃を当てる。

 

 

結果は斬りおとすというよりも砕け散る、と表現した方が正確だった。

頭を西瓜のように割れて、肉片になった脳髄と脳漿が廊下一面にぶちまけられた。

頭の中身の殆どが空になった屍人の体は膝から崩れ落ちるように倒れていく。

 

 

「過剰戦力だ」

 

「……狭い階段にアンタを投入しても互いの邪魔になるだけみたいね、わかったわ」

 

 

頭の中身を完全にぶちまけられた死体を見た沙耶は少しだけ顔を青ざめさせて、

それだけ言うと安全の確保がすんだ踊り場へと早足で降りていった。秀次は斧を担ぎなおすとその背中をゆっくりと追う。

 

踊り場まで降りると電話でもかかってきたのか、鞄から微かな振動が伝わってくるのを感じ、秀次は中を覗きバイブレーションを続けていたアイフォンを無造作に掴み取り、鞄から抜き出す。

 

秀次は裏向きのソレをひっくり返して誰からかかってきているか確認して、目を少しだけ見開いた。

 

そこには自分の父親の名前である紫藤一朗の名前が表示されていた。

 

 




感想があったら嬉しいな……(チラッ


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屍三体目

 

 

『秀次か?』

 

 

アイフォンに差し込んだイヤフォンからは、何の親しみも感じさせない何時も通りの父親の冷徹な声が聞こえてくる。

 

 

「あぁ……」

 

『藤美学園は今どうなっている?』

 

「動く死体が学園内に侵入。学園に居た人間の殆どが死亡、生き残りは僅か」

 

『状況としてはベターか……浩一はどうした? アレも死んだか?』

 

「不明」

 

『探せ。反抗的ではあるが、近くにいないお前よりも遠くにいるアレの方がよほど役に立つ。

お前の命に代えてでもアレは生かせ。わかったな?』

 

「了解」

 

『死…で…ら……く……チッ……波が』

 

 

ノイズが奔り、唐突に電話がブツリと切れた。秀次はアイフォンの画面をジッと見つめた。圏外と表示されている。

 

履歴を調べてみれば寝ている間に兄からも連絡があったようだ。

 

その事に秀次は兄が生きている事を確信した。

役にたたなくなったアイフォンの電源を切り、耳からイヤフォンを外し鞄の中に仕舞いこむ。

 

 

「ここで抜ける。やる事が出来た。オレは放っておいて脱出しろ」

 

「ハァ? いきなり何言ってるわけ? アンタ死にたいの?」

 

 

踊り場にいた全員が唖然とした顔で秀次の顔を見つめ、

いち早く正気に戻った沙耶が馬鹿にした口調でそう言い放ち、メガネを押し上げた。

 

 

「今更ここに留まって何しようっての? 連中の夕食にでもなるつもり?」

 

「兄を探す」

 

 

それを聞くと沙耶は口をポカンと開けて絶句し呆れ果てた。

すでに死んでいるかもしれない人間を、この中で何の情報も無しに探すのはほぼ不可能に近い事だからだ。

言ってしまえば遠まわしな自殺と変わりない。

 

 

「さっきの電話で、そう言われたの?」

 

「そうだ」

 

 

隣に居た鞠川校医が沙耶の後を引き継ぐようにそう質問を投げかけ、秀次はそれにアッサリと肯き肯定を示した。

 

 

「私達についてこないで、どうやってここから逃げるつもりなの?」

 

「……?」

 

 

その質問になにか意味があるのか? とでも言うように秀次は首を傾げる。

 

 

「紫藤君、貴方……走れないんでしょう? それなのにここに残って、どうやって逃げるつもり?」

 

「……!」

 

「応急とはいえ足の怪我を治療したのは私よ。怪我の具合も貴方と同じ程度は理解してるつもり、

それに……さっきから見てたけど、貴方は歩く時も闘ってる時も左足を庇ってる。それで本当に逃げ切れるの?」

 

 

先ほども走らなかったのではなく、走れなかった。常に斧を振りまわす時は右足を軸にしているのは左足では軸にならないから。

秀次はそれを認め、首肯する。

そして目の前のポヤンとした雰囲気を持つ鞠川校医の評価を大きく改めた。

 

この人は見かけによらず、冷静であり洞察力が高いのだと。

 

 

だが、彼女は一つ、大きな勘違いをしていた。

彼女は目の前にいる秀次が自分達と同じく、ここから生きて脱出する事を考えていると思っていた。

しかし秀次は目的が何かすら定まっていない中で、あくまで誘われたから同行したにすぎない。

それ以上に優先順位が高い事が起きれば、秀次はそれに従うことを考えていない。

 

 

「それがどうかしたのか?」

 

 

だからこそ、秀次は不思議そうに首を傾げてそう尋ね返した。

 

 

「どうかしたのかって……」

 

「それがお前達の脱出に何か関係する事があるのか?」

 

「それは……しない、けど」

 

「なら鞠川校医、私が秀次と共に残ろう。それで納得して頂けないか?」

 

 

その様子に見るに見かねたのか、冴子がそう提案して秀次と鞠川校医の間に割って入った。

 

 

「え!? でも……二人になっただけじゃ……」

 

「心配は無用だ。私と秀次の二人だけなら戦力と隠密性でここに居る全員を上回る。

不測の事態が起こらなければ屍人に殺される事はまずないだろう」

 

「アンタ達二人とも残られたら私達が困るんだけど?」

 

 

黙って聞いていた沙耶がとても迷惑だという顔をして横から口を挟み、冴子を責めるように言った。

沙耶にとってここで高い戦力を持つ二人に同時に抜けられるのは許容しかねる事だ。

 

 

「あぁ、だから私達が行動するのは君達を送り出した後だ。秀次は此処で君達がバスで逃げるまで待ち、

私は君達をバスまで護衛した後、校内に戻り秀次と合流し紫藤先生を捜索する。秀次もこれで異論はないな?」

 

「……わかった」

 

 

不承不承といった様子で秀次は賛成の意を示し、階段をあがりきると廊下にドッカと腰を下ろす。それを見て冴子は安堵の息を吐いた。

それから冴子は沙耶や鞠川校医と話し合い、承諾を得たのかどちらも苦い顔をして首を縦に振った。

鞠川校医は心配気に、麗や沙耶は冷たい視線を秀次に浴びせたあと、階段を降りていく。

冴子も「大人しく待っていろ。すぐに戻る」と言い残し、その後に続き姿を消していった。

 

 

 

 

 

 

数分後、下から大きな金属音が響いた。秀次はバッと顔を上げて斧を杖に立ち上がる。

今は近くに屍人は居ないのか、姿が見えないが、音に敏感なアレがこれを聞いて近寄ってこない筈がない。

 

秀次は耳を澄まし、目をはしらせどこから屍人が現れるのが早いかを調べた。

 

 

「―――――!!」

 

「―――!?」

 

「―――ッ!!」

 

 

そして秀次の耳は遠くから近づいてくる、屍人とは明らかに違う物音を拾う。聞こえてくるのはかなり多数の人間の足音と、声だ。

 

階段の上から聞こえてくるソレに秀次は斧を下ろし、杖代わりに床に突き立て、音を出している団体の到着を待つ。

今からやってくる集団の中に兄が居るという訳も無い確信が秀次にはあった。

 

 

「早く走って!! アレは相手にしようとせず恐れず走り抜けなさい!! ―――ッ!? 秀次!? どうしてここに!?」

 

「父の命令だ。今すぐ駐車場に向かえ。マイクロバスで逃げようとしてる一団がいる。今なら、まだ乗れるだろう」

 

「……わかりました。皆さん! 今のを聞きましたね!! 正面玄関から一気に駐車場まで走りぬけなさい!!」

 

 

浩一は父の命令だという部分にかなりの違和感を感じたが、父はともかく秀次が嘘を吐けるような人間では無いのは知っている。

それにここに留まっていても下の階で大きな物音が鳴ったのは自分達にも聞こえていた。

 

浩一は様々な要因を加味して数秒考えたあと、秀次の言葉を信じた。

 

兄についてきていた生徒の一団が、それを聞いてバタバタと慌てた様子で階段を降り、一階へと走っていく。

 

 

「さぁ! 秀次、貴方も!」

 

「オレは殿だ。兄を守れと父から命令があった……サッサと行け」

 

「……わかりました! 無理だけはしないように!!」

 

 

浩一が差し伸べた手を無視して、横を通りざまに兄にそう囁き、階段を降っていく。

それを聞いた浩一は歯をギリリと食い縛ったあと、秀次の頭を撫でるように叩いて急いで降りて行った。

 

 

「あとは兄をマイクロバスに届けるだけ」

 

 

そう言って秀次は階段の手すりに腰を下ろし、そのまま滑り降りていく。

途中で襲われることがあれば危険だが、現在の移動手段としてはこれが一番速く移動できる。

 

 

一階まで降りると、団体の何人かが屍人に捕まったのか幾つか屍人が集まっている場所があった。

その隣を通り過ぎて秀次は正面玄関をくぐり、校舎の外へと出る。

 

先に出ていた兄は少し離れた場所に居た。生徒を誘導し、走らせ、マイクロバスに大声を張り上げて存在を主張している。

 

屍人が溢れかえっている中を秀次は自分の存在に気付いていないものは無視し、気付いている個体には斧で頭を砕き、後へと続く。

 

バスで何かがあったのか、誰かが何事かを叫ぶ声が微かに聞こえてくる。

何かあったのかと少し気になったが、屍人達が視線を塞ぎ、秀次にはバスで何が起こったのか全く知る事ができなかった。

 

兄とバスとの距離は未だ近いとは言えない。少なくとも後、数十秒は必要であることには間違いない。

 

秀次は返り血の数を増やしながら、最後尾の10メートル後ろを歩いてついていく。

 

かなりの人数が通ったであろう空白の道は、時が経つにつれ屍人の壁で狭まりはじめていた。

 

前を見る秀次の目が兄が自分に何かサインを出している事と、兄が率いている一団の中を逆走してくる冴子の姿を捉えた。

冴子が一団から抜け出し、疾走しながらも正確に屍人の頭を叩き割り秀次に接近する。

 

一瞬の交錯の後、冴子の木刀は秀次のすぐ背後にまで迫っていた屍人の頭蓋を砕き、

身を屈めて足を払い、周りに近づいていた屍人達を転倒させる。

 

 

「君には色々と言いたい事が山ほどある。後でたっぷりと付き合ってもらうぞ」

 

「……わかった」

 

 

冴子と秀次はそれ以上何も言わずに背中を合わせる。

手を伸ばしてくる屍人を互いにカバーしながら倒し、ジリジリとバスとの距離を縮めていく。

 

 

「せ、先生! 足首を挫きました!!」

 

 

前方から男子生徒が懇願するような声を張り上げているのが秀次と冴子の耳に入った。

秀次が目を向けると、そこには地面に這い蹲った男子生徒にズボンを握り締められている兄の姿があった。

 

秀次は何一つ迷うことなく、空高く斧を投擲する。

元々投擲用に作られていない消防斧が不恰好に回転しながら二人の居る方向へと飛んでいった。

 

 

秀次はそれを最後まで見届けることなく、空いた両手で屍人の腕を取り、他の個体を巻き添えにさせながら投げ捨てる。

 

 

「ギャアアアアああああああああああぁあああ!!」

 

 

前方から悲鳴が上がり、屍人の動きが変わる。そこには背中に斧を生やした、兄に背負われた男子生徒がいた。

兄はソレを見て、手遅れだと見切りとつけると、悲鳴を上げる男子生徒を降ろし、彼の背中に刺さっている斧を引き抜いた。

その激痛に男子生徒は絶叫を上げて屍人を引き寄せる。そんな彼を置き去りにして浩一はバスへと向かい、乗り込んでいった。

 

 

終わった。

 

 

それを確認して秀次は安堵の息を漏らし、体から力を抜く。生還後の父親への報告。

それはどうにも難しい事のようだ。それに、これは出来なくても全く問題にはならないだろうという確信があった。

 

なぜなら父は、電話をした時点で兄が生きているなど欠片たりとも思っていないからだ。

ただ生死確認をしておきたいだけだろう。生きていれば儲けモノぐらいの認識の筈だ。

あの父が、自分の息子の心配をするなどまずあり得ない。

 

 

使える物は使う、使えないものは捨てる。それがはっきりしている人だ。

今回のこの騒動では兄はまだ使える、そしてオレは使えないと判断された。

 

さしずめ使い道の無くなったオレの廃棄処分、という腹積もりだったのだろう。

 

父も秀次がそこまで深読みすると知っている。オレにそう教育をした当の本人なのだから。

そして秀次が自分の命令に背くはずがないとも分かっている。全て計算済みの上の事だ。

 

 

 

しかし、父も秀次も全く想定していなかった人物が、秀次の背後に居た。

 

彼女は今も必死の形相で

かわし、

流し、

打ち込み、

殺している。

 

その姿はさながら水を得た魚のようであり、不思議と目を惹きつける魅力を放っていた。

 

 

「オレを置いて行けば、お前なら逃げるくらい容易い事だろう。なのに何故……」

 

 

どうしてここに残っている? 秀次は気がつけば、そう口走っていた。

 

 

「生き残っている最後の友人を見捨てろとは、随分と酷な事を言うものだ。

見捨てるつもりなら最初から助けになど来ていない! 私を余り見縊ってくれるな!」

 

 

冴子はその言葉に「何を馬鹿な事を言っているのか」と叱責するような口調で言い返す。

その目はこの状況においても二人で切り抜けられることを信じて疑わず、一欠けらの曇りすらない。

 

冴子のその姿に、秀次は胸の中で微かに何かどす黒いものがのたうったのを感じた。

秀次はそのどこか懐かしい感覚に首を捻る。

 

 

「そうか、お前がそう言うなら……間違っているのはオレの方か」

 

 

元々父から直接的に「死ね」と言われた訳ではない。全てはオレの深読みにすぎない。

兄を探し、生かすという目的を果たした以上、何の問題もない。恐らく失望はされるだろうが……。

 

秀次はそう自分を納得させると、冴子と同じく全力で足掻く事に決めた。

助かる可能性は低いかもしれないが打つ手が無い訳でもないのだ。

 

 

「……ッぉお!!」

 

 

倒れている死体の腰に巻かれたベルトを掴み、そのまま持ち上げ迫る屍人の集団の頭を目掛け投げつける。

屍人達を強制的に後ろへとたたらを踏ませて僅かながらの時間と距離を稼いだ。

 

稼いだ時間で鞄から防犯ブザーを取り出し、ピンを取り外す。けたたましい電子音が辺りに鳴り響き、周りにいる屍人達の注意をひきつけた。

 

耳が痛いほどの音を出しているそれを正面玄関へと地面に滑らせるようにして投げる。

 

防犯ブザーは屍人達の足元を潜りぬけ、

転がっている死体の隣を通過し、

10メートル程後方で屍人の一匹に当たり、

地面を跳ねながら転がっていき、静止した。

 

 

ブザーの鳴り響くその場に、屍人が群がっていく。

二人の近くに居た屍人も目標を変えたのか、音の鳴っている方向へと足を進めていく。

 

 

それとほぼ同時に前方でバスがエンジン音をあげ、クラクションを鳴らして動き始めた。

これ以上待つと動けなくなると判断したのだろう。

 

 

「これで、歩いて出るしかなくなったな……」

 

「仕方あるまい。彼等とて、命がかかっている。恨み言は言えんよ。さ、私達も行くぞ」

 

 

二人は多少息を弾ませながら疲れた声でそう言葉を交わし、

校門へと向かうバスに追従するように屍人達が動き始めるのを見つめる。

 

後ろから聞こえていた電子音はブザー本体が破壊されたのか、すでに消えていた。

 

 

「今……何か聞こえたか」

 

「エンジン音……だったな。しかし、バスはもう……」

 

 

冴子が秀次に肩を貸し、校門へと移動する二人の耳はどこから車のエンジンがかかる音を微かにだが捉えた。

 

二人は右斜め前方にある駐車場に目を向ける。車があるのはそこ以外にない。

 

 

「あれはまさか……」

 

「コペン……だな。何か心当たりがあるのか?」

 

「まぁ、そんな所さ。どうやら、彼女は私達を助ける心算らしい」

 

 

目を向けた先では小さな赤色のコペンが動き始めていた。冴子は驚きに目を見張った後、フ……と笑みを浮かべる。

秀次の問いかけにも曖昧な答えを返し、冴子は立ち止まって木刀を大きく上に振り上げコペンに向けて存在を主張する。

 

コペンはそれに気付いたのか、方向を変えると一直線に此方へと屍人を跳ね飛ばしながら猛進し、二人の直前でドリフトしながら停車した。

 

 

「早く乗って!!」

 

 

コペンの運転席から鞠川校医が窓を少しだけ開け、中で叫ぶように二人にそう言ってフロントガラスごしに助手席を指差す。

 

二人は顔を見合わせた後、即座にその言葉に即座に従い、車に近付き、助手席側のドアを開ける。

冴子は秀次の背中を押して、強引に座らせると、押し込まれた秀次の膝の上に跳び乗り、開いたドアを閉める。

 

その直後にフロントガラスやパワーウィンドウに追いついてきた屍人がその血に濡れた手を叩きつけた。

 

 

「どこかに掴まって! じゃないと舌噛んじゃうわよ!!」

 

 

二人が乗り込んだ事を確認した鞠川校医は即座にドアにロックをかけ、アクセルをベタ踏みして急発進する。

フロントガラスやパワーウィンドウに張り付いていた手が引き剥がされ、赤い手形だけを残して消えていく。

 

 

「これでようやく……一息つけそうだな。若干狭いが」

 

「…………」

 

 

一つの座席に無理やり詰め込まれている形になっている二人は、助かった事に安堵の息を漏らすが、

やはり居心地は最悪なのか冴子は一言だけ愚痴を口にする。

 

秀次に至っては座席と冴子の背中に顔を挟まれ、何も言えなくなっていた。

 

鞠川校医は一応苦労して買った自分の車を貶されて少しばかりの腹がたったが、

隣をチラリと見てそれを言うのも仕方が無いと思い直し運転に集中した。

 

コペンの小さな車体を活かし、バスが開けた閉じつつある大穴を乱暴ではあるが的確な運転で潜り抜けていく。

 

 

やがてマイクロバスのすぐ後ろに追いつき、コペンが無事に校門を抜けていく。

 

そこで鞠川校医の緊張の糸が切れたのか、ほぉ~……と長く深い溜息をつき、肩どころか体全体から力を抜いた。

 

 

「鞠川校医、出来れば私達もバスに移った方がいいような気がするのだが……あっ、やめろ秀次、動くな!!」

 

「狭い、苦しい」

 

「あっ、だからやめ……んっ……はぁん……」

 

 

外がある程度安全になり速度が落ち着くと、急な加速やカーブによってかかるGと、

膝の上に座る冴子が原因で押し花にされかけていた秀次が、顔を顰めながら楽な体勢を探してゴソゴソと動き始めた。

冴子はその自分の体の下で蠢かれる感覚に艶やかな声を上げる。

 

 

「貴方達いい加減にしてよ!もー!!」

 

 

緊張が抜けたと同時に今まで胸中で溜めていたものが弾けとんだのか、鞠川校医の懇願によく似た嘆き声が車内に響いた。

 



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屍四体目

 

 

「……痛い」

 

 

未だにヒリヒリと痛む頬に手を当てる。

 

秀次はコンビニの前でマイクロバスへと乗り換える時にコペンから降りた直後、

冴子に頬を強かに平手で叩かれた理由がサッパリ分からず、首を傾げて悩んでいた。

 

 

となり座っている冴子はまだ不機嫌なのか、顔を赤くして窓の外を眺めながら小声で何事かをブツブツと呟いている。

 

聞く気はない。昔それと同じ事をして彼女に手酷く叱られた覚えがあるからだ。

何が気に触ったのかはわからないが、同じ轍を踏むつもりは秀次には全く無かった。

 

 

鞠川校医は自分の車に乗っていくか、それともマイクロバスに乗り換えるかで非常に思い悩んだあと、

涙目になりながらも車を捨て、マイクロバスへと乗り換えた。バスの方が安全だと判断したのだろう。

 

遠ざかっていく自分の愛車を見つめるその目は遠く、何とも悲しげであった。

 

そんな彼女は流石に疲れきったのか、秀次の足の包帯をとり代えると、座席にクタリともたれかかり目を閉じて休んでいる。

 

 

「秀次……なぜ、人を殺した? あの者はまだ感染していなかった筈だ」

 

「……? ……逃げてる途中で転んで足首を挫いたと叫んでいたアレのことか?」

 

 

落ち着いてきたのか、ようやく呟くのをやめた冴子が窓から顔を離し、秀次の横顔を見ながらそう問いかける。

 

秀次は一瞬誰の話をしているのか分からず首を傾げたあと、

自分が斧を投げつけた相手だと思い当たり、冴子に何が言いたいのかと問い返した。

 

 

「あの者はまだ助かる見込みはあった。少なくとも君の兄君は救おうとしていた。それを君は殺した。何故だ?」

 

「救おうとしたのが兄だったからだ」

 

「……? どういう意味だ?」

 

「オレは兄を探し、護るためにあの場に残った。それ以外の人間がどうなろうと、知った事ではない

此方から手を出すつもりはないが、目的の邪魔になるようなら排除する」

 

 

冴子は全く意味が分からなかったのか、首を傾げる。秀次はそんな彼女に顔を合わせ、目線を合わせながら本心を淡々と述べた。

 

 

「君は……それを本気で言っているのか?」

 

「本気だ。オレが父から受けた命令は、兄を探せ、オレの命に代えてでも生かせ、それだけだ。

兄さえ生きていれば、それでいい。文字通り足を引っ張って兄を命の危険にさらすような者を見逃す理由がオレにはない」

 

 

秀次はそう言いながら職員室から持ってきた2リットルの緑茶が入ったペットボトルを取り出し、

先ほど立ち寄ったコンビニで買った紙コップにトクトクと音を鳴らしながら注いでいく。

 

 

「それが見知らぬ他人なら尚の事だ。だから殺す」

 

「……なぜだ?」

 

「それが一番手早い。騒がれるのも恨みを買うのも、ただの時間と手間の無駄にしかならない」

 

 

だから殺す……と秀次は再度その言葉を口にした。

冴子はそれを聞くと二三度何かを言おうとしたが、結局何も言わずに目を落とし、顔を伏せた。

 

秀次はその姿を横目で眺めながら、余り冷えていない温い緑茶を口に含み、それを胃に流し込んで喉の渇きを潤す。

 

 

「お前も飲むか?」

 

「……あぁ」

 

 

新しく紙コップを取り出し、緑茶を注ぐ。冴子は気落ちしているのか、声に何時もの覇気は感じられなかった。

 

 

「入ったぞ」

 

「……有難う」

 

 

小さな声で礼を言って、冴子は緑茶がなみなみと注がれたコップを受け取り、少しずつ飲んでいく。

 

 

「助かった、有難う」

 

「なに?」

 

「忘れていた。世話になったら礼を言うんだったな」

 

 

お前が教えたことだ。と秀次は言ってペットボトルのキャップを閉め鞄に入れる。

冴子はその言葉に面食らったのか、ポカンとした顔で秀次を見つめていた。

 

 

「……随分と昔の話だな。君と再会して直後ぐらいの事だったか」

 

「二年前だ。あの頃のお前は五月蝿かった」

 

「それは君が原因だろう……」

 

 

タメ息を吐きながら、そう言った秀次に冴子は呆れきった声で深くタメ息を吐きながら言い返す。

 

 

「高校で初めて再開した時の君は本当に酷かったからな……」

 

 

常識という常識の殆どをどこかに置き忘れてきた、といっても過言ではなかった頃の秀次を思い出し、

冴子は疲れたように深く息を吐く。あの時の苦労は忘れようにも忘れられるものではない。

 

 

「それほど酷かったか?」

 

「酷かったとも。私の堪忍袋の緒を易々と断ち切る程度にはな……」

 

「あぁ……あれか」

 

 

あれは珍しいものだったと、秀次は昔を思い出し、そう思った。

烈火の如く怒るとは言うが……まさにアレがそうだと言えるだろう。冴子もその時の事を思い出していたのか、含み笑い零していた。

 

 

「……何故お前はオレに構う?」

 

「君は私の古い友人だから……。このやり取りも懐かしいものだ」

 

 

二年前、幾度となく二人の間で交わされた挨拶のようなものである。

冴子はしばらく懐かしげに顔を緩めたあと、両手で頬を叩いた。

 

 

「どうした?」

 

「いや、何でもない」

 

 

それを見て、秀次が首を傾げながらそう尋ねると、冴子は首を軽く横に振って否定の意を示し、、座席に身を沈める。

 

 

「流石に私も疲れた。少し休ませてもらうよ」

 

「……オレは寝る」

 

「近頃は何時も寝ているな。また思い出せない夢でも見ているのか?」

 

「そうだ」

 

「何か掴めたものはあったか?」

 

「何も無い……。何度も見ている。その筈だ、その感覚だけある……だが何も分からない」

 

 

昔からそんな夢を見る事があった。寝ている間に見ている筈なのに、目が覚めるとすぐさま霧に包まれるようにして記憶から消えていく夢。

 

何を見ていたのか、という断片的な映像でさえ思い出せない。目が覚めた時には喪失感だけを残して跡形も無く消えていく。

 

事故からしばらくして収まった時期はあったのだが、藤美学園に来てからは何故かそれが再発し、

時を経るにつれ、それが段々と酷くなってきている。最近は毎日と言えるかもしれない頻度でそんな夢を見続けていた。

 

寝ていても尚、手を伸ばしてまで掴もうとしていたのは何なのか。

その手がかりの欠片さえも何一つわからない事の歯痒さに秀次は歯噛みする。

 

 

「何かしら切欠があれば思い出せるかもしれないが……何か心当たりのようなものはないのか?」

 

「ない」

 

 

ふむ、と口に手を当てる冴子の疑問に秀次は頭を振って否定した。

 

 

「しかし、珍しいな。君が苛立つとは……」

 

「最近はアレのせいで碌に眠った気になれない。その原因すら不明となれば……苛立ちの一つもする」

 

 

秀次は舌打を鳴らして忌々しげに言い捨てると、後ろの座席に誰も座って居ないのを良い事に座席を限界まで倒し、座席に頭を預けた。

 

 

「案外、夢を見続ければ求める答えが見つかるかもしれんな」

 

「……そう……かも……」

 

「……うん? ひで……もう眠ったのか。相変わらず寝付きの速さはレイモンドのノピタ君並みだな……」

 

 

途切れた言葉に冴子は隣に座る秀次の様子を横目で窺うと、そこにはスゥスゥと寝息を立てながら眠る秀次の顔があった。

 

 

「……私も眠るか」

 

 

その言葉を最後に冴子も秀次と同じように座席を倒し、目を瞑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気がつけば病室にいた。

 

病室の寝台には誰か寝ているのか膨らみはあるが、顔があるべき場所はやはり白い靄に包まれている。

オレは隣に立っていた細く、背が高い誰かに手を引かれてその寝台へと近づいていく。

背が高い誰かはオレの背中を優しく押して寝台に横たわる誰かの枕元へと追いやった。

 

 

「―――――――――――――」

 

 

寝台に横たわる誰かが苦しそうに言葉をオレに吐き、オレはその言葉に静かに涙を流する。

誰かはそれを言い終わると力尽きたようにガクリと手から力が抜けていった。

 

誰かの人数が急に増え、周りが急に慌しくなっていく。

 

オレは寝台の周りに集まって何かをしている複数名の誰かをただ涙を流しながら見つめていた。

 

 

 

 

 

 

またブツリと映像が途切れ、周りが黒く染まる。

 

 

 

 

 

 

「――――ッ!」

 

 

遠くから聞こえる怒声に意識を引き上げられ秀次は目を覚ました。

 

 

「……うるさいんだけど」

 

「うん? なんだ、君も起きたのか」

 

 

秀次は眠い目を擦ろうとして……自分の手の甲に付着して固まっている僅かな血痕を見てやめた。

万が一、これで感染するようならば笑い事ではすまない。避けうるリスクは避けるに越した事はないのだ。

 

 

「何の騒ぎだ?」

 

「説明するより、見た方が早いだろうな」

 

 

そう言って冴子は走行中の車内の真ん中に立って声を張り上げて不満をぶちまけている金髪の男子生徒を指差した。

 

 

「現状を欠片たりとも理解出来てない馬……奴が暴れてるだけか?」

 

「言い方は悪いが、間違ってはいないな」

 

「んだとっ……!!」

 

 

話の内容が聞こえたのか、頭に青筋を浮かべた金髪の男子生徒が振り向き、

怒声をあげようとして……秀次の顔を見て怖気づいたのか途中でその言葉を切った。

 

 

「なんだ?」

 

「チッ……んでもねぇよ……とぉ!?」

 

 

バスが急停止し、ガクンと体が前へと押し出される。男子生徒はバランスを崩しかけたのか、二歩足を進めた。

 

 

「五月蝿いですねぇ。運転中くらいは静かにしてくれませんか? 

何時車道に何が飛び出してくるかわからないんですから、集中を途切れさせないで下さい」

 

「――――ッ!!?」

 

 

若干苛立っているのか、眉根に皺を寄せて運転席から浩一が顔をだす。

思いもよらない所から非難の声があがった事に動揺したのか、男子生徒は唇を噛んで黙り込んでしまった。

 

 

「君は一体どうしたいのだ?」

 

「こいつだ!! オレはこいつが気にいらねぇ!! 偉そうにしやがって!!」

 

 

冴子がそう男子生徒に問いかけると、そう言って男子生徒は睨むような目で自分を見ていた孝を指差した。

その言葉に耕太が釘打ち器を手に立ちあがろうとするが、沙耶がそれを抑えてやめさせる。

 

 

「あれのどこが偉そうなんだ?」

 

「一人だけ椅子に座らず、台に座っているとか自分を睨んでいたといった所ではないか? 私も理解はできんが」

 

 

声を潜めて返された答えに秀次は一人だけ集団の中で目だっていたから目を付けられたのかと納得する。

容姿から余り迫力を感じないといったところもあるのだろう。

 

そう冴子と言葉を交わしている間にも事態は進んでいたのか、男子生徒と孝との間で険悪な空気が流れ始めていた。

 

 

「何がだよ? 俺が何時お前に何か言ったよ?」

 

「――ッ!? てめぇ……ッ!」

 

 

その刺々しい物言いが琴線に触れたのか、男子生徒が孝に殴りかかろうとする。

 

 

「―――がぁッ……!?」

 

 

しかし、距離を詰める事さえ出来る事無く、孝の背後から現れた麗がつき出した棒が腹にめり込み、

悶絶しながらバスの床へ倒れ、苦しげな声を上げる。

 

 

「……最低」

 

 

その無様ともいえる姿に麗は蔑んだ目をしながら一言だけそう呟いた。

その声は男子生徒の苦悶の声以外、何の音も声もしない車内の中思いのほか良く響いていた。

 

 

パチ、パチ、パチ

 

 

余り勢いも無ければ力も篭っていない、迫力の欠片も感じられない白々しい拍手の音が運転席から鳴る。

その音にバスに乗っている全員が目を向けると、運転席からバスをエンジンをかけたまま道の脇に停車させた浩一が立ち上がった。

 

 

「実にお見事。武力行使は余り感心出来ませんが、今回はそこの少年の自業自得でしかないので何も言わないでおきましょう

 

しかし、これで分かったのではないのですか? 我々のような集団にはどうしてもリーダーが必要になるという事が」

 

 

浩一は大仰な身振り手ぶりと芝居がかった声で演説をしながら前へと進み出る。

その様子に麗は浩一に侮蔑の視線を投げかけ、歯噛みした。

 

 

「で? 候補者は一人きりってわけ?」

 

「いえいえ、貴方がなっても構いませんよ? その場合に噴出す不平、不満の矛先は全て貴方に向く事になりますが、

それでも良いというのなら……私は喜んで貴方を推しましょう、ねぇ高城さん。貴方は立候補するのですか?」

 

「…………」

 

 

その問いかけに沙耶は黙して答えない、しかしそれはこの場では何よりもの答えだ。

浩一はその様子を見て人好きする笑みを顔に浮かべた。

 

 

「人は自分より目下、同等、格下だと思っている相手に命令される事が何より嫌う生物です。

しかし、それが目上、格上の相手であれば、それほど反発心は抱かない。縦社会教育の賜物ですね。

この場合は私、もしくは鞠川先生のどちらかが暫定的にリーダーになってもらうというのが筋でしょう」

 

 

少し考えれば当たり前の事だ。この理解出来ない状況でバスという狭い空間から外に出られない状態……

 

どれほどのストレスがかかっているか考えるまでもない。

 

そのストレスをぶつける明確な矛先を与えるようなものなのだ、自分と同等だと思える者をリーダーに立てるという事は。

 

だから先ほど沙耶は何も答えなかった。彼女は自分が人に好かれるような性格も言動もしていないという事は重々自覚している。

そんな彼女がリーダーになっても的確な指示は出す事は出来たとしても、碌な統制が取れることは無い。だからこその沈黙だった。

 

 

「とはいえ……鞠川先生にその適性があるかと言えば、私は疑問を抱かずにはいられません。

そこの所はご自分でどう思われますか? 鞠川先生?」

 

「え、えっと……私もちょっとそういうのは無理かな~って」

 

「有難う御座います。という事で、ここは私が暫定的にリーダーとならせて頂きますが……

 

何か反論、または立候補する方はいませんか?」

 

 

浩一はそう言ってバスの車内を見回すが、誰も手を上げず、何も言わない。

そんな薄ら寒い静寂が車内を制圧した後に生徒の何人かがパチパチと手を鳴らして賛成の意を示す。

 

浩一は大仰に礼を返し、その拍手に答えた。

 

 

「誰も居ないようですので、私がリーダーの地位に付かせて頂きます、

あくまでも暫定的なものではありますが……よろしいですね?」

 

「――ッ!」

 

 

その言葉を聞いて麗は嫌悪感を隠そうともしない視線をぶつけ、歯を食い縛る。

不倶戴天の敵である彼が自分の上に立って、命令を下すようになるのは彼女にとって何よりも耐えがたい事だった。

 

 

「あぁ、宮本さん。貴方が胸に溜め込んでいるものは大体理解できますが……

ここは私に従っておいた方が賢明だと思いますよ? 少なくとも町に出るまでは……」

 

「大きなお世話よ!!」

 

「麗!!」

 

「イヤよ! そんな奴等と絶対一緒にいたくなんかない!!」

 

 

浩一が差し伸べた手を叩き、バスの外へと飛び出す。

その背中に孝が声を投げかけるが戻ってくる様子さえなく、麗は誰も居なくなった夕暮れの町並みを歩いていく。

 

 

「嫌われたものですね。ここで私が止めに行っても聞かないでしょうし、非常に残念ではありますが……仕方ありませんね……」

 

「何言ってんだ。アンタ……っ!?」

 

 

叩かれた手を見つめ、そう言って溜め息を吐き見送る姿勢を見せた浩一を孝が信じられないという目で見た後、

外へ飛び出した麗を連れ戻しに自らもバスから飛び降りていった。

 

 

「戻って……うん? あれは……拙い!!?」

 

 

浩一は再度溜め息を吐き、バスの中へと向き直り何かを言おうとして……バックウィンドウの先に見えた何かに気付いた。

 

目を凝らし、その正体に気付いて浩一は驚愕する。

 

即座に運転席へと走り、

運転席に飛び乗り、

アクセルを踏み、

ハンドルを回し、

 

すぐ近くの空き地へとバスを飛び込ませた。

 

当然、バス内部はその急発進の衝撃に襲われ、

何人もの生徒と一名の先生がそれに対応できずに頭を強かに座席にぶつけ、短い悲鳴を上げた。

 

 

その後ろでは今までバスを停車してあった場所を、転倒して横倒しになった別のバスが轟音を立てながら突っ込み、

通過する予定だったトンネルを塞ぎ、炎上、爆破した。

 

 

「……危なかった」

 

 

浩一は安堵で体の力が抜けたのか、ハンドルに頭を預けると、ハァァ……と肺の奥深くから息を吐き出していく。

 

気付いて反応出来たからよかったものの、運が悪ければそのまま追突されてドカンだ。

その余りにも衝撃的な出来事のせいか、浩一の頭からはその直前にバスから降りた二人がいた事をすっかり忘れていた。

 

 

冴子が急いでバスから飛び降り、事故現場へと向かう姿を見て、全く働いていない頭がようやく回転し始める。

 

 

「あ……、慌てすぎて二人の存在を完全に忘れていましたね」

 

 

やってしまったと言わんばかりに浩一はバスの天井を扇ぎ、頭に手をあてて眉間を揉み解す。

 

あの時、気付いていたから何か出来たのか?

 

と問われても、きっと何も出来なかっただろうが、存在すら忘れるのは失点だったと浩一は反省する。

 

 

「あ~……どうでした? あの二人は無事でしたか?」

 

「あぁ、どうやら大事ないらしい。それより、道は完全に塞がれているようだが……」

 

 

トンネルを塞ぐように炎上したバスが横たわり、

その中からはすでに屍人と化した乗員が炎上しながらも次々と溢れ出すように出てきている。

 

 

「戻って別の道を探すしかありませんね……。あぁ……それと」

 

「まだ何か?」

 

「いえ、弟を助けて頂いて本当に有難う御座いました。あの子の代わりに御礼を……」

 

「礼なら既に本人から言って貰っているのですが……」

 

「……そうですか。では出発しますので、席に戻ってください。色々とお疲れ様でした」

 

 

浩一は疲れた顔に一瞬だけ意外そうな表情を浮かべると、

ソレをフッと暖かな微笑みに変えて、そう言うとシートベルトを装着していく。

 

冴子はそれにコクリと首肯したあと、

何事もなかったかのように緑茶を啜っていた秀次の隣に戻り、座席に身を沈めた。

 

 

「お帰り」

 

「あぁ、ただいま。私にも一つくれないか?」

 

「コップ」

 

「これだ」

 

 

最低限の会話を交わし、冴子は先ほど自分が飲み干した空の紙コップを秀次に差しだす。

秀次は何も言わずにソレにトクトクと音を立てて緑茶を注いでいく。

 

 

「とと、それぐらいだ」

 

「了解」

 

 

満杯近くになったところで冴子が秀次をとめ、秀次はペットボトルを傾けるのをやめ、キャップを閉める。

 

 

「で、どうだったんだ?」

 

「何の話だ?」

 

「あの二人だ」

 

「生きているよ。この先どうなるかは私にもわからない。あの二人次第だろう」

 

「そうか」

 

 

冴子はコクコクと緑茶を飲みながら秀次の質問に答える。

秀次は満足のいく答えは得られたのか、それ以上問いを投げかける事はなかった。

 

 

「この先……か。秀次」

 

「なんだ?」

 

「この先、世界はどうなるのだろうな?」

 

 

バスの窓から、遠ざかっていく燃え盛る車と、

火達磨になりながらもバスを追おうとする屍人を見ながら冴子がどこか陰りのある顔で秀次にそう尋ねた。

 

 

「わからない。オレ達が持っている情報は少なすぎる。確実に言えることは……」

 

 

秀次はそこで一旦言葉を切った。そして何を言うか迷っているのか、暫く目を閉じ、考え込んだ後、

 

 

「今までの世界が完全に壊れた事だけだ」

 

 

とだけ言って、秀次は温い緑茶を喉に流し込み空になったソレを握りつぶした。

 

 

 




少々忙しくなるので来週は投稿出来るか怪しいです。


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