ヤーナムの少女たちの物語 (山本航)
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『夕刻』

 西に大きく傾いた燦然たる太陽が一日の終わりを前にして、ヤーナムの新市街の端で輸血液の如き真紅に燃え上がる

 聖堂街上層に住まい、先の獣狩りの夜を眺めた者であれば、あるいは気づくだろうか

 赤と黄金に染め上げられた街の輝きは、今や固く封鎖された旧市街を焼き尽くしたかつての悲劇、病を浄化すべく放たれた地獄の如き火災を思わせる

 

 一方、東の空より迫り来る暗澹たる黄昏は去り行く赤と黄金を追うようにしてヤーナムの街を覆い、百千と連なる屋根々々、高楼、尖塔に天鵞絨の裾を被せて行く

 紫を経て黒に塗り込められる新市街の姿は谷底に横臥する旧市街の憐れな遺骸によく似ている

 

 悉くを黒炭と化す高熱の火炎から逃げ惑い、悲鳴をあげて助けを乞う群衆など新市街にはいない。しかし微風の触れただけで疼く火傷に苛まされるが如く、身を抱えるようにして道端で蹲る者がいた。谷底の街を焼尽せしめた炎の海に追い詰められた者たちのように、壁に縋り付き、突っ伏す者がいた

 涎を垂らし、黄色く淀んだ瞳に映ったものを呪い、行くあてもなく彷徨う彼らは病のもたらす痛みのせいか深手を負った獣のように呻き、熱に苦しむ赤子の癲癇のように痙攣を繰り返すのだ

 

 引っ繰り返った蜘蛛の脚のような奇妙な形に捩くれた菩提樹の下、噴水広場に捨て置かれた典麗たる装飾の霊柩馬車と捨て置かれた堅牢な棺の陰、谷を越えた先の聖堂街へと繋がる壮麗な大橋と交差する下道を閉ざす橋門、それら暗い影の内には、陽光を憎み、夜闇に恋焦がれる者たちが、「獣の病」の罹患者たちが潜んでいた

 

 ヤーナム新市街の一角、噴水広場を囲む高台に構える館、その二階に白い大きなリボンの少女が1人、窓から縋るような視線を街に、眼下に広がる痛ましい様相に向けていた。災厄に圧し潰され、終末を迎えた人の野原に恐れと憐れみを感ずる母なる女神さながら、背けたい眼差しを下界に注いでいる

 

 少女は何かを探すように視線を走らせていたが直に耐えられなくなると、窓から目を外し、街に響く怨嗟の声を遮るように小さな両手で両耳を塞ぎ、窓から逃げるように、あるいは悪夢的な光景から逃げるように離れる

 目を閉じても、人血に染まったようなヤーナムに蠢く悲痛な影が瞼の裏に張り付いていた。耳を塞いでも、おぞましい姿に変貌しつつある罹患者の悲嘆と悩乱の入り混じる咆哮の如き轟きが聞こえてくるのだ

 

 扉を開く音が階下から聞こえ、少女はびくりと身を震わせる。しかしそれが正常な人間の丁寧に玄関の扉を開く音だと分かると春の訪れを歓ぶ仔兎のように白い大きなリボンを揺らしながら階段を駆け下りる

 

 玄関には眉目よき婦人が1人、少女の母だ。夕暮れの最後の輝きのような黄金色の髪を後ろに纏め、鉛色のブラウスにギャザーを寄せたスカートを身に着けている

 楚々とした立ち振る舞いで、しかし神経質なまでに施錠を確認している

 

 少女はしっかりと戸締りをする母に後ろから抱き着き、母の匂いを胸一杯に吸い込む

 

 

おかえり、お母さん

私、良い子にお留守番できたよ

寂しくなんて、なかったよ

それで、それでね

 

 

 少女の母は辛そうに息を切らし、胸元を飾る真っ赤な宝石のブローチを上下させている。そして閉めた扉にもたれかかり、他に誰もいないかのように愁然として追憶に耽る

 少女の父の行方が知れなくなってから、少女の母は時折深く物思いに沈むことがあった

 

 

…お母さん?

どうかしたの?

気分が悪いのなら、横になる?

 

 

 少女の母は今気づいたかのように幼い我が子に目を向け、同じ色の髪を梳くように頭を撫で、調度品の見栄えを検討するように白い大きなリボンの形を整える。そして常の、気高く、貴く、麗しい面色に戻ると少女の視線の高さに合わせて腰を屈める

 

 

よく聞いて、大橋の、大聖堂の円形広場への正門が閉じたわ

また獣狩りの夜が始まったということよ

 

 

 かねてより正門は、聖堂街に不浄な獣が逃げ込まないように獣狩りの夜には固く閉じられ、狩長が帰還するまで、すなわち獣狩りが完了するまで開かれることはない

 少女は戸惑いつつも、追及を逃れんとする罪人のように舌をもつれさせ、つっかえながら言葉にする

 

 

だったら、獣除けの香を焚かないと!

獣が入って来ないように、だから、私、準備するね

 

 

…そうね、でも、私はあの人を迎えに行かなくてはならないわ

 

 

 そして少女の母はブローチに触れて何事かを呟くと、少女のそばを離れ、急ぐように支度を始める

 少女もまた館の薄暗闇の向こうに母を見失うことを恐れるかのように、その背中を追いかける

 ケープを纏い、大きな包みを抱える母を、少女は端から眺めていた

 言いたいことは一つだけだが、その言葉に馬の手綱のような母を引き留める力がないことを少女は確信していた。それ故に、せめて母が早く戻って来れるように早く送り出すのだ、と考えるに至った。そしてふと気付き、少女は別の部屋へと走ると一包みの獣除けの香を取り、既に玄関で扉に手をかけていた母を呼び止める

 

 

お母さん、獣除けの香を持って行かないの?

 

 

 母は少女の差し出した包みを見ると、僅かに眉を寄せて首を横に振る

 

 

あなたが大事に使いなさい、私は大丈夫だから

あの人を連れて帰るまで、一人で留守番、できるわね?

 

 

 少女は瞳を滲ませてこくりと頷き、出て行こうとする母をもう一度だけ、湿り気を帯びた声で呼び止める

 

 

お母さんもお父さんも、帰って来るよね?

お父さん、獣になんてなってないよね?

 

 

 少女の母は脣辺に微笑みを浮かべ、もう一度少女を抱き寄せ、少女はその温かな抱擁に身を委ねる

 

 

あなたの父は敬虔な聖職者で、偉大な狩人よ

きっと、今も、病み人のために祈りを捧げ、獣を狩っているはず

あなたも真摯に祈りを捧げていれば、獣狩りの夜などすぐに明けてしまうわ

 

 

 かのようにして少女の母は忌まわしくも逃れ難い獣狩りの夜へと去り、少女は固く閉ざされた扉のこちら側に一人取り残されたのだ

 

 少女は一人、瞳の奥から熱がこみ上げるのを感じ、しかしじっと閉ざされた扉を見つめて堪えた。そして獣除けの香と蝋燭を携え、急いで館中の窓のそばに据えられた香炉を巡る

 少女は、招かれざる夜闇が冬の冷気のように忍び込む回廊を通り抜け、携えた蝋燭の灯火を受けて鎌首をもたげる蛇のように影を揺する階段を上り、何も見落とさないように各部屋を巡る

 肥大した肉体に獣皮を纏い、鋭い爪と牙を持つ恐ろしい獣にかかれば窓など窓格子ごと簡単に破られてしまうが、しかし獣除けの香を絶やさず焚き続ける限り、柔らかな獲物にありつくことはないのだ

 

 漏れがないことを確認すると少女は残りの香を持って暖炉のある一階南側の居室に移り、そこで一夜を過ごすことに決める

 ここが日頃家族の集う部屋で、それ故に思い出の痕跡に触れれば寂しい気持ちを少しでも和らげられると思ったのだ

 在りし日の家族の肖像画、物心つくまえから掛けられた古びたタペストリー、書庫から持ち出された蔵書のいくつかが積まれた脇机、以前は何とも思っていなかったそれらの物ですら今は愛おしい家族の象徴なのだ

 冬の日に家に帰るなり凍えた体を暖炉で温める時のように、少女にとって快い記憶のよすがが小さな体の内で震えるか弱い魂を慰める

 

 その部屋の窓台に吊り下げられた最後の香炉に火を灯した時、少女はふと気づく

 そこに一台の小さなオルゴールが置いてあった

 四隅に脚のついた小さな木の箱に美しくも大袈裟な蔦花文様の銀の象嵌が施されている

 少女は咄嗟にオルゴールを引っ掴み、玄関へ向かおうとするが、どこに父を探しに行ったか分からない母に追いつけるはずもないと気付き、諦めて窓台に戻す

 それは少女の父の好きな思い出の曲が流れるオルゴールだ

 

 仮に父が自分たちのことを忘れていても、その曲を聴けば思い出すはずだ、と母が言っていた言葉を思い返す

 少女は、軒下で鳴く他に何も出来ない一匹の仔猫を憐れむように母の忘れ物を優しく撫で、小さな溜息をつく。そうして窓辺の椅子に腰かけ、オルゴールを開いて巻き鍵をつまみ、ゼンマイを巻く

 

 久々に風を浴びた風車のようにシリンダーが回転し始め、真っすぐに並ぶ櫛歯を順に弾くと恐ろしい夜さえ供とするような柔らかで優美な旋律が辺りに流れる

 浩々と輝く月の下に響くような寂しさと孤独な赤子に歌いかけるような物悲しさが暖炉の温もりさえ忘れさせる、たどたどしくも冷ややかな響きだ。それでも少女が今までにこの音色を聞いていた時はいつも家族がそばにいて、故に少女の寂しさも少しばかり和らいだ

 白い大きなリボンの少女は獣狩りの夜に一人、父と母が戻ってくるまでの慰みに、過ぎし日を懐かしむように、獣除けの香の香りとオルゴールの音色に身を委ねた

 

 

 

 児戯幻想の類に似て触れれば破れそうなオルゴールの音色に聴き入りながら、どれくらい経っただろうか

 いつの間にか、すっかり日は沈み、館が水底のような如何にも暗い闇に満たされていることに気付き、少女は暖炉の明かりだけでは心細くなる

 

 幸い薪と蝋燭は十分にあり、生きているヒモのようなか細い炎を幾つか燭台に灯すと、獰猛な獣を惧れることはあっても闇に怯える心配はなくなった。そして何か耐え難い悪夢を見たような、あるいは見ているような気分になって、少女は自身を勇気づけるためにも獣狩りの象徴たる仕掛け武器でも握るように燭台を掴み、母を探して館を巡る。しかし母も父もまだ帰っていなかった

 

 一人暖炉の部屋に戻ってくると窓に映った少女自身が不安そうな面持ちで立ちすくんでいるのが見えた

 少女は窓の中の暗い顔の少女を叱咤するように睨みつけ、元気づけるように笑いかけ、馬鹿々々しくなって窓辺の椅子に腰かける

 待つしかできないもどかしさと己の未熟さに苛立つ想念が頭の中を、脳の中を渦巻いているが、少女はそれを言葉にすることが出来ず、ただただ不快な感情の溜まった心の底で、外からやってくる変化を待つ他できなかった

 

 ふと聞き慣れぬ靴音と、覚えのある臭いに気づく

 獣除けの香がきちんと焚かれていることを確かめ、鎖で戒められた窓格子の間の窓の外に注意を向ける

 見慣れぬ服装の見知らぬ者が窓辺に通りかかった

 そちらの道は常に重々しい鉄格子の扉が閉ざされているので、その訪問者は下水道の方からやって来たということだ

 

 

…あなた、だあれ?

 

 

 訪問者は名乗る

 遥々ヤーナムまで医療教会を訪ねてやってきた多くの病み人の内の一人なのだという

 

 

知らない声、でも、なんだか懐かしい臭いもするの

もしかして、獣狩りの人かな?

 

 

 訪問者は静かに頷く

 いつもならば見知らぬ他人に少女が少しは抱くはずの懐疑心がこの獣狩りに対しては現れなかった

 

 

だったら、お願い、お母さんを探してほしいの

獣狩りの夜だから、お父さんを探すんだって…それからずっと帰ってこない

私ずっと…でも、寂しくって…

 

 

 獣狩りは言葉少なに請け合う

 何の要求もされなかったが、しかし少女は疑いも挟まず素直に喜ぶ

 

 

本当?ありがとう!

お母さん、真っ赤な宝石のブローチをしてるんだ

大きくて、すっごく綺麗なんだから、きっとすぐに分かると思う

それで、それでね

お母さんを見つけたら、このオルゴールを渡してほしいの

 

 

 少女は少しばかり窓を開き、堅い窓格子の隙間からオルゴールを押しやる

 獣狩りは拝領するように受け取った手の内の小さなオルゴールを、癖字の手記か古い手紙でも検めるように外を内を子細に眺める

 

 

お父さんの好きな、思い出の曲なんだって

もし、私たちのこと忘れちゃってても、この曲を聴けば思い出すはずだって

…それなのに忘れていくなんて、おっちょこちょいなお母さんだよね

 

 

 獣狩りはもう一度少女と約束を交わすと、小さなオルゴールを丁寧に懐に仕舞う。そして道の端の仕掛けを動かして閉ざされた鉄格子の扉を開くと、噴水広場の方へと出て行った



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『宵』

 星々は陰り、恩寵は失われるも月の光は絶えることなく、宵は弥増して深まる

 

 古い名を持つヤーナムの街に蠢く獣たちはますます盛んに活動し、同じく慈悲なき獣狩りと死闘を演じている

 

 白い大きなリボンの少女は窓辺にて色の濃い霧の如き眠気に包まれ、うつらうつらとして、夢と現世の境を行き来する

 眠ってしまいたいのは母のいない寂しさと父のいない心細さを一時でも忘れられるからだ。起きていたいのは館の外を、ヤーナムの街を行き交う理性の喪失した「獣の病」の罹患者の忌々しい気配を感じるからだ。それに、耳を塞いでも鼓膜を貫くように聞こえてくる、神経に障る烈しい叫び声のせいだ

 

 「獣の病」の罹患者たちの喉が枯れんばかりのざらついた叫び声が獣狩りの夜の間中しきりにヤーナムの通りに響き続けているのだ

 

 

失せろ!あっちへ行け!

脳みそをぐちゃぐちゃにしてやる!

 

 

 「獣の病」の罹患者は理性を崩壊させ始めると得てして獣狩りを始める

 自身が罹患していることにすら気づいていないのか、あるいは病を軽く見ているのか

 そうして獣を狩るならまだしも、彼らは既に人と獣の区別がつかなくなっている

 結果、不用意に出歩いた者が徒に撃ち殺され、訳もなく火に焙られる凄惨な光景が生まれるのである

 

 

呪われた獣め!

この疫病ネズミめ!

 

 

 少女はたまらず燭台と獣除けの香を持って暖炉の部屋を出る

 あるいは香りが弱まって、「獣の病」の罹患者が館に近づいてきているのかもしれない、と思ったからだ

 

 順に部屋を巡り、残りの心細い香炉に獣除けの香を足し、館を神秘的な香りで満たして行く。一階を巡り、二階の様子も見に行く

 母の帰りを待ちながら街並みを眺めた部屋、それに下水道側にも窓のある部屋がある

 

 親切な獣狩りが下水道の方から来たのだろうことを思い返し、僅かな月明りが差すばかりの酷い汚泥溜りを眺める

 窓の中に林立する鋸歯状の尖頂の黒い輪郭が少女を圧倒し、ヤーナムの街を形作る整層乱積みの石壁の錯綜する目地が眩暈を呼ぶ

 

 宵も深く更けたが、多くの窓辺が寂し気に灯り、生命を示すように僅かに揺らめいている。そうでなければヤーナムの街は生気を失った廃墟の如き眺めになったことだろう

 獣狩りの夜に不安を覚え、心細さを感じ、灯りと香りに頼っているのは自分だけではないのだ、と少女は少しだけ安心する。たとえそれが怖れや苦しみであっても共有する者たちがいることに少女は慰めを得るのである

 

 ふと視界の端で何かが動き、少女は常に警戒を怠らない野鼠のようにさっと目を向ける

 下層の家の二階の窓辺で何かが動いたように見えた

 誰かがこちらを見ていたのだろうか

 少女は不吉な予感を抱きながらもじっと薄暗闇の向こうの窓辺を見つめる

 

 

全部お前のせいだ!

獣め!この汚らわしい獣め!

 

 

 少女は驚き、跳ねるように窓から離れる

 集中していた心に罹患者たちの不意な叫び声が差し込み、思いのほか近くにいるように聞こえたのだった

 心臓が早鐘の如く暴れるので痛みを堪えるように胸を抑える

 

 それに、物音が聞こえる。獣や罹患者のような騒々しさではない、何かを丁寧に、しかし繰り返し叩く音だ。扉ではなく、どこかの窓が、階下の窓が叩かれている

 母なわけがない、獣だろうか、と少女は危ぶむ。しかし獣が律儀に窓をノックするわけもない

 

 少女は燭台を掲げ、音のする方へ、先ほどまで少女が夢現でいた暖炉の部屋へと向かう

 窓を叩いていたのは獣狩りだった。少女を案じて、様子を見に来てくれたのだそうだ。それでいて少女は自身を驚かせた獣狩りに対して少し不機嫌さを示す

 

 

…こんばんは。獣狩りさん

お母さん、まだ見つからないの?

 

 

 獣狩りは静かに首を振る。しかしきちんと探してくれているのだということは伝わった

 

 

…うん、わかった。私、待てるよ

お母さんの子だし、獣狩りさんも、優しいし

一人でも、寂しくなんてないんだから

 

 

 獣狩りの再度のごく短い訪問は少女の心に毛布のような柔らかな温もりをもたらしたが、再び去ってしまえばすぐに寒々しい気分が戻って来た。あるいは強がってみせたのが良かったのかもしれないが、たった一人では空しくなるばかりだった

 獣狩りはいつになったら母を見つけてくれるのか、母はいつになったら父を見つけて帰ってくるのか、あるいは父を見つけることなど…

 

 誰も逃れられない夜の到来を受け入れるように、櫂も櫓も棹もない小舟に身を委ねるように、死蔵されて忘れ去られた道具のように、少女は底のない陰鬱とした情緒に沈んでいく

 

 ふと油断した意識の隙間に、壁を叩く音が聞こえた気がしてびくりと身を震わせる。しばらく耳を澄ませるが同じ音は聞こえない

 気のせいだろうと再び椅子に身を預ける。その時、今度こそ、確かに、玄関の扉がノックされた。少女は冷静さを失って取る物も取り敢えず玄関へと走る

 

 

おかえり!お母さん!

 

 

 少女が玄関へ向かいながら大きな声で呼びかけると扉を叩く音はぴたりと止んだ

 そこでようやく、少女は鎮静剤を飲み干したように落ち着きを取り戻し、しっかりと閉ざされた扉を見据え、灯りのない廊下ではたと立ち止まる

 

 母が玄関の扉を、それにああも鋭く、叩く必要などないのだ

 

 今度は沈黙している扉がとても恐ろしく感じ、少女は踵を返して窓辺に逃げ戻り、椅子の中で縮こまる

 

 またもや囃し立てるようなノックの音が聞こえる

 少女は頑なに耳を閉ざす。しかしその音は少女の最後の砦たる館ではなく、別の家の扉を叩いているらしい

 低く悲し気な声が微かに聞こえる

 

 

とても寒いのです、親愛なる姉妹よ

 

 

 無意識に、救いを求めるように窓辺に手を伸ばして探る

 そこにはもう少女の恐怖と不安を慰める小さなオルゴールはない

 少女は目を閉じ、耳を塞ぎ、すべてを拒むように縮こまる



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『月夜』

 獣狩りの夜は未だ終わらず、夜空には慰めにもならない月が浩々と輝いている

 罹患者の怒鳴り声と、どこか遠くで遠吠えをあげる獣の恐ろしげな声がヤーナムの複雑に入り組んだ通りにこだましている

 

 母も父も帰って来ず、少女の頼った獣狩りもあれからずっと姿を見せないでいる

 再び玄関の扉が叩かれることはなく、獣除けの香は尽き欠けていた

 今焚かれている香ですべてだ

 

 どうしたことだろう、と少女は首を捻る。当然、一夜を過ごすに足る充分な備蓄は常に用意されていた。いつもより多く使って無駄にしたはずもなかった

 もしも香が尽きたなら、もしもその時、一人ぼっちだったなら、と思うと少女は氷を呑み込んだような寒々しい気持ちになった

 

 

エッエッエッエッ…

お母さん、帰ってきてよう…

寂しくって…怖いよう…

いやだよう…

グスッ

 

 

 その時、窓の外から声がかかった。獣狩りが1人戻って来たのだった。つまり母はまだ見つかっていないのだ

 少女は伝う涙を恥ずかしそうに拭い、母を連れずに戻って来た獣狩りの言葉を待つが、中々切り出されない

 

 暫くして獣狩りは窓を開くように促す

 少女が素直に窓を少しばかり開くと何かを握る手を差し出してきた

 

 少女はおずおずとそれを受け取る。小さくて、少しの重みがある、それは母の胸元にあるべき真っ赤なブローチだった

 見出した意味を、しかし信じられず、少女はすがるような気持ちで狩人に問う

 

 

…え、えっ…

獣狩りさん…本当なの?

 

 

 言葉にせずとも獣狩りの真摯な眼差しがすべてを物語っていた

 

 

…お母さん…お母さん…

一人はいやだよう…

エッエッエッエッ…

 

 

 少女はブローチを握りしめ、獣除けの香の立ち込める窓辺に泣き崩れる

 もはやブローチにはほんの僅かな温もりも残っておらず、それが少女に悪夢のような現実を突きつけているようだった

 

 その後も獣狩りは何事かを不幸な少女に語り掛けていたが、それは影の発する言葉のように少女の耳には届いていなかった

 ただ一人、月夜の窓辺で少女は小さな体に余る辛苦に耐えかねて涙を流し、感じたことのない苦悶の果てに嗚咽を漏らすばかりだった

 

 

エッエッエッエッ…

 

 

 気が付けば獣狩りはいなくなっていた

 何を言っていたのかを思い出そうとするが、ただ母を失った悲しみに引きずり込まれるだけだ

 

 ふと香りの変化に気づく。とうとう獣除けの香が切れたのだ

 少女は慌てて館中の香炉を確かめに行くが、すべての部屋のすべての窓辺で香は燃え尽き、残り香が消えゆくばかりだった

 

 そうすると昏い狂気に陥った凶暴な獣が館に飛び込んで来るのも時間の問題だ

 待っていても父と母は戻って来ない。少女自身が行動しなければならないが、もはや獣除けの香と同様に長い深い夜を生き抜く気力も尽き欠けている

 

 真っ赤なブローチを握りしめて窓辺に戻ってくると、獣狩りの残り香が獣狩りの残した言葉を思い起こさせた。少女の泣き声と嗚咽の合間に聞こえた獣狩りの言葉が蘇る

 

 ヨセフカの診療所だったか、オドン教会だったか

 

 獣狩りは少女が泣き崩れている時に避難する先を紹介してくれたのだ。それは生きる意志を期待してくれたことの表れだろう

 示された二つの避難先のどちらがどうだったのか思い出せないが、そこには沢山の獣除けの香があって、他にも避難している人がいて、安全だとのことだ。しかしどちらも少女には遠い道のりだ

 

 ヨセフカの診療所ならば、ここから噴水広場を通り抜け、大橋の橋門を潜り抜け、市街地を北東へ、獣憑きの淀んだ眼差しと鋭い鉤爪を掻い潜っていかなければならない

 一方オドン教会ならば裏路地から大橋へ…

 

 少女は間違いに気づく

 大橋は、聖堂街への門は、獣狩りの夜の始まりと共に封鎖されている。母もかくの如く言っていた

 

 そして少女はもう一つの道筋に思い至る

 獣狩りが下水道の方から現れたのはそういうことだ

 大橋は二本ある。南側にもう一本下水道を通した水路橋があり、谷を越えた先、上層に広がる聖堂街のオドン教会の地下墓地へと渡されている

 獣狩りはそこから市街と聖堂街を行き来したのだろうと合点がいく

 

 少女は覚悟を決める

 親切な獣狩りが、少女に生き残ることを期待してくれた命を守るべく、獣狩りの夜を生き延びる覚悟を



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『夜明け前』

 厚手の少し大きなブーツに履き替えると、少女は恐る恐る玄関の扉を開き、陰鬱な暗夜に蠢く罹患者たちの不気味な呻き声に耳を傾ける

 誰かにとっての特別な符牒のような小さな鐘の音や暗い情念か呪いの類のような不吉な鐘の音が遠くから聞こえたが、その持ち主は見当たらない

 

 少なくともすぐそばには誰もいないようだと分かると影の如く音を立てずに扉の隙間から忍び出る

 恐ろしげな出で立ちの菩提樹を横目に、槍の如く尖った不均一な鉄柵に沿って館を回り込み、頼りない街灯の朧な光と不安を招く霧がかった路地の獣狩りと言葉を交わした窓辺を通り過ぎると、不浄な下層への梯子に手をかけて下を覗き込む

 

 少女の七層倍もあろうかという分厚い肉体の大男が1人、丸太のような腕をぶら下げて、何事かをぶつぶつと呟きながら館宅の玄関の方を向いて立ち呆けている

 

 白い大きなリボンの少女は、凶兆が背中に忍び寄る時のように音を立てず、慎重に梯子を降り、大男に気づかれないようにそっとその場を離れる

 

 祈りを捧げる者の像が袖柱に据えられた小さな橋を渡り、再び長い梯子を暗黒に満ちた最下層の、下水道に建てられた不安定な足場まで降りて行く

 水位が高い時はこの足場を頼りに船で行き交う者たちもいる。そのため、陰気な下水道であるにもかかわらず、子供か老人かも判然としない醜悪な像がガス灯を吊り下げている。しかし今は水位が下がっていて、臭いや汚れを気にしなければ下水道橋に歩いて辿り着けるはずだ

 

 それでも少女が躊躇ったのは白い靄の奥に、溜まった泥の中に、大量の水に秘されていたが今や顕わになった水底に、眠りから目覚めた死者のような青白い人の形が見えたからだ

 泡を立てるような呻き声が微かに聞こえる

 理性と尊厳を失った「獣の病」の罹患者が渇きの末に下水さえも啜り、生きながらに腐乱している

 

 そのおぞましさに少女は身も心も震わせ、しかしその感情こそ自身にまだ理性があることの証明のように感じ、珍妙な安堵を覚えた

 泡立つ汚水と昇ってくる腐臭、朽ち果てた古い足場、どこかから聞こえる湿った足音、何もかもが呪わしい気分を煽り、それでいて奇怪で醜悪な下水道に挑もうという自身の魂を鼓舞する力になった

 

 暫しの間、少女は父と母を思い、意を決すると足場を降り、生温い泥にブーツを浸す。そうして、足を取られないようにゆっくりと一歩一歩確かめるように進む

 下半身の融解した痛ましい罹患者が憎悪に満ちた声を漏らし、長い手で掻くようにしてうねりながら少女の方へと這い寄ってくる

 少女は構わず、カビ臭い悪臭に吐き気を催しつつも足を泥に塗れさせながら下水道橋へと急ぐ

 

 橋まで半ばも過ぎた頃、突然つんざくような鳴き声と禍々しい羽ばたき音が降って来た

 「獣の病」に感染して肥大し、それでも屍肉を漁って生き延びているカラスだ

 もはや空を失ったカラスだが、しかし翼をばたつかせて飛び上がり、まだ体の内に熱い鮮血の流れる少女を引き裂こうと襲い掛かってくる

 カラスにも負けない少女の甲高い悲鳴が下水道に連続してこだまする

 

 橋に辿り着けば、橋を渡れば、地下墓地からオドン教会へと昇れば、助かるのだ

 少女は必死に下水道を走り抜け、梯子まで辿り着く

 カラスは途中で諦めたらしく、姿を消していた

 梯子を昇れば目の前は大橋だ

 

 

助けてくれ 神よ!

お前はここに必要ない!

 

 

 少女は驚き震え上がり、梯子の先を見上げる

 姿は見えないが獣狩りの真似事をする「獣の病」の罹患者が幾人かいるらしく、松明の投げかける明かりと影が走り、不規則な足音が降ってくる

 躊躇われたが、しかしオドン教会へ至る道は他にない

 

 ふと、もう一つの道が、目の前にあることに気づく。水路だ。少なくとも橋の反対側までは下水道を通れば辿り着けるはずだ

 ガス灯の明かりはここまでで、その先は真っ暗闇だ。下水道を水路にして行き交う人々もこの先へは進まない。しかし少なくとも暗闇の先には何者の声も聞こえない

 

 少女は胸元に取り付けた真っ赤なブローチを掴み、亡き母と行方不明の父に祈る。少女自身に、自身もまた狩人の娘であることを心の内で言い聞かせ、なけなしの勇気を掻き集めると暗闇の中へと踏み込む

 どうして携帯ランタンを持って来なかったのだろう、と少女は後悔する。家のどこかにあるはずなのに、少しも気づかなかった己の不明を嘆く

 

 濡れた足音を響かせて、少女は下水道をそぞろ歩きで進む

 苔生した歪な石壁に錆びた排水管と歪んだ排水口が並んでおり、下水を嚥下するような不気味な水音が響いている

 

 ふと視線の先に倒れ込む人影が見え、少女に戦慄が走る

 少しも身動きせず、吐息一つ漏らさないそれは死体のようだった

 先に進みたければその遺骸の横を通り抜けなくてはならない。しかし、もはや獣除けの香のように勇気は尽き欠けていた。これ以上進めず、かといって戻ることも出来ない。恐怖が忘れかけていた寂しさと心細さをも蘇らせる。立ち尽くしていたところでどうにもならないと頭では分かっていても、手足は言うことを聞いてくれない

 涙が零れ、舌をもつれさせながら少女は呟く

 

 

お母さん…

 

 

 その時、下水道の先、暗闇の向こうから足音が聞こえて来た

 少女は瞳を濡らして息を呑み、口を閉ざす

 それは人の足音ではない、鋭い爪音だ。二本足ではなく、馬のそれよりもずっと重々しい跫音が下水の泥濘を踏みつけながら近づいてくる

 

 それは霊柩馬車にも比する巨大な豚だった。灰褐色の皮膚を弛ませた巨体にどす黒い体毛が生えている。歯を剥き出しにして、涎を垂らしながら醜怪な獣が近づいてくる

 「獣の病」が変身させたそれは、果たして元から豚だったのか、誰にも分からない

 

 豚は小さな少女を目にした途端、少しの猶予もなく猛突進してきた

 絶望的な大敵に対し、少女は震える足を奮い立たせ、何とかかわそうと身を捻るが、しかし掠っただけで軽々と弾き飛ばされ、下水道の石壁に叩きつけられる

 頭を打ち、精神麻酔でも飲まされたように脳が麻痺し、意識が揺らぐ

 

 豚はそのまま走り抜け、隧道から飛び出した辺りでようやく止まり、ゆっくりと物々しく首を振りながら振り返る。巨体の故に制御が利かないようだが、それを知ってか知らずか今度は少女をじっと見定め、狙いを付けていた

 

 少女は額からドロリとした血を流し、背中を痛め、足まで挫き、汚泥に塗れ、もはや勇気どころではなく、気力まで尽き欠けていた。体の動きは鈍り、泥濘を蹴立てて迫る巨大豚に目を向けることも出来ず、泥に浮かぶリボンを見つめる

 母に貰った大切なリボンが、美しい光沢、繊細なレースを伴ったそれが汚い泥みどろになって、薄汚いありさまになっていた

 

 これが正しい運命だとでもいうのだろうか

 

 叩きつけられた拍子に外れて落としたらしい白い大きなリボンを掴むと、少女は怖ろしさでも寂しさでも悪夢的な絶望でもない感情に支配され、狩人の血を引く体が突き動かされる

 少女は顔を上げ、迫り来る醜い豚を睨みつけ、拳にリボンを巻き付け、これを力の限り振り上げる

 

 下方からの不意の打ち上げに豚は怯み、よろけ、壁に巨体をぶつけて体勢を崩した

 

 一方少女は豚の脚の間を潜り抜け、隙を晒した豚の背後に一人立ち上がった。不思議と生きる力、その感覚が回復した少女は、いつだったか父に聞いた話を思い出す

 獣の皮は分厚く、また体毛は硬い

 銃弾などでは命に届かず、それ故に狩人たちは鋭利な刃で分厚い皮膚をも切り裂くか、目方の重い鈍器の衝撃で叩き潰すのだ、と

 もっとも、如何な獣とて臓腑は軟らかく、優れた狩人は獣の僅かな傷と隙を見落とすことなく、内側から狩ることができる

 

 少女は躊躇うことなく、血の温もりを求める獣のごとき衝動のままに巨大豚の昏い孔から拳を突っ込み、無我夢中で内臓を掻き混ぜ、手当たり次第に掴んで一気に引き抜いた

 豚は醜い声で哮り立ち、膝を折ってその場に倒れ込み、そうして痙攣するばかりになった

 

 

 

 下水道の先には対岸からの点検用の通路があり、少女は息の詰まる下水道からようやく解放された

 

 水路橋は丁度旧市街の焼け落ちた聖杯教会の頭上に架けられており、少女は微かに焦げ臭い風を浴びる。すぐ近くにまたもや長い梯子を見つけ、少女は重い体を何とか持ち上げる。そして上下に行き交う両の手を見て、絡めていたはずの白い大きなリボンが無くなっていることに気づく

 母から貰ったとても大切なリボンだが、下水道に取りに戻る気にはなれなかった

 

 橋の上には予想していた通り「獣の病」の罹患者の獣狩りの群衆が手に手に凶器を握り、これ見よがしに火炎瓶を並べて屯していた

 

 少女は罹患者たちに気づかれないように息を潜め、幾つかの錠と蜘蛛の巣のような鎖に縛られた棺や燭台彫像の溢れる路地を進んでゆく。暗い路地の急な階段を上って行き、重厚な門を潜るととうとう地下墓地へと辿り着く

 

 地下とはいえ聖堂街は山腹にあり、渓谷に橋を渡すように広がる建物の隙間から夜空が見える

 墓地の中心に据えられた石碑の周りには無数の墓標と墓石が無造作に並び、捩くれた小径の植栽は枯れていた

 整然とはしていない。忌まわしい墓荒しか呪われた獣にでも荒らされたのだ

 

 ここまで来ればオドン教会と獣除けの香、そして泥に塗れてまで希った安寧は目と鼻の先だ

 安堵と共に、すべてのできごとが、まるで悪夢であったかのように思えた

 

 白い大きなリボンを失った少女は墓所を回り込むように設えられた階段を上り、オドン教会の真下に位置する開かれた鉄扉に近づいた

 

 その時、不吉な予感が安堵に満たされたはずの頭をよぎる

 振り返った先、高台から墓地への落下防止の鉄柵の一部が失われている

 見てはいけないものがそこにあるような気がした

 気づかないふりは出来なかった

 少女は湧き上がる不安に反し、歪んだ鉄柵の方へ近づくことを余儀なくされる

 そうして恐る恐る覗き込む

 

 

お母さん!

 

 

 心臓を打ち付けたような衝撃と共に少女は母の斃れる小屋の屋根の上に飛び降りる

 縋り付いた母の体は既に冷たくなっていた

 

 獣狩りはここで母を見つけ、形見として真っ赤なブローチだけ届けてくれたのだと少女は理解する

 葬送されるとしても獣狩りの夜が明けた後だ。そうでなくとも墓地街ヘムウィックは収容限界を越えていて、棺の行く当てはない

 この寒々しい場所で獣狩りの夜に一人取り残された母を不憫に思うが、しかし少女にはどうすることもできなかった

 

 滔々と涙を流し、声の限りに慟哭し、すべてが枯れても母を抱き寄せたまま動けずにいた少女だが、既に固まった血の噴き出したであろう母の深い傷に気が付く

 それは獣の爪ないし獣をも切り裂く獣狩りの武器によるものだ。いずれにせよ「獣の病」の罹患者に違いない

 

 少女は母の遺志を想い、静かに母の冥福を祈ると屋根から降り、獣除けの香に溢れているだろうオドン教会に背を向けて、獣狩りの夜へと消えた



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『夕刻』

 夕刻にもなれば早くも陽光を失うヤーナムの奥まった狭隘な裏路地には、か黒い獣のような罹患者のおぞましい呻き声と凶暴化した野犬の咆哮が響いている。いずれも狩人が通りかかるまでの短い命を察しているかのように目をぎらつかせ、夥しい涎を撒き散らし、幻めいて朧げな残照と姿を現し始めた影の移ろいに怯え、まだ見ぬ死に屈服するように隠れ潜んでいる。肉体の膨れ上がった醜怪な罹患者の大男がただ立ち尽くし、時折身も凍るような恐ろしげな声で囁いている

 

 その忌まわしい混沌の景色を小さな窓の中から、符牒を読み取り、予兆の表象を探るように眺める少女がいた。親を失った者、親に捨てられた者、あるいは落とし子、それら孤児の集う家の屋根裏部屋から呪詛のような眼差しで街を見つめている

 

 狭く埃っぽい屋根裏部屋から見える景色は針のように尖った無数の尖塔と陰鬱な路地、干上がった下水路、そしてまるで少女を見下ろすように聳える高台の邸宅だ

 

 階下から聞こえてくる女の下卑た笑い声から逃れるように少女は窓に張り付き、高台の邸宅を睨め上げる。慄然とする少女はしかし口元に微笑みを浮かべ、手持無沙汰の指で血筋を示す金色の髪を捩じり、時折灰色の制服の上着やスカートを縁取る白いレースを愛おしそうに撫でる

 

 少女は、如何に有害なれども獣狩りの夜を好いていた

 

 恐ろしくとも、労働から解放される僅かばかりの深遠なる夜に少女はその窓辺を独占し、果てしない宿命的な夢想に浸る。その金の髪に白い大きなリボンを飾る姿を具に思い馳せるのだ

 

 金属の軋む嘲笑的な響きが聞こえ、少女は悠遠なる物思いから戻り、恨みがましい目つきで上段の邸宅を見上げる

 邸宅の脇にある封鎖された路地の鉄格子を開く時に、そのような音が鳴ることを少女は覚えていた

 

 もう一度長い軋み音が鳴った後、陰から一人の女が姿を現し、梯子を降りてくる

 ガスコイン夫人、ヴィオラだ。少女と同じ貴い血筋に連なる者でありながら異邦の聖職者と結婚し、上段に移り住んだ嫌らしい女だ

 

 ヴィオラが無様に右足を引きずって、辻を曲がり、下水路へと去って行くのを少女は愉快そうに笑みを浮かべて見送る

 どこへ何をしに行くのか、少女には判然としないが、ガスコイン神父が行方不明になっていることは周知の事実だ。あるいはそのことと何か関係があるのかもしれない

 

 つまり、今、あの邸宅では少女よりも年若い女の子が1人きりだ。臆病で、何より寂しがり屋の女の子だ。きっと辛い思いをしていることだろう

 そう思うと少女は昏い喜びを仄めかす異質な笑みを零すのだった

 

 いつもの獣狩りの夜よりも更に奇怪で奇妙な夜になりそうだ

 

 暫くしてヴィオラが降りて行った梯子から、今度は昇って来る者がいた。薄気味悪い異邦の服にズボン、黒いフードに汚れた包帯、格好を見るにヤーナムに救いを求める嫌悪すべき病み人、ありふれたよそ者らしいと判る。奇妙なのはよそ者が右手に仕掛け武器、左手に銃を携えていること、典型的な獣狩りの装備を身に着けていることだ

 

 だからだろうか、少女はそのよそ者の獣狩りに畏怖と狂気の印象を抱き、心の裡に戦慄する

 獣狩りというのは総じて奇態な連中ばかりだが、少女がこれほどに不安感を催す者はいなかった

 

 よそ者は注意深くも真っすぐに少女の棲む家へとやって来て、税吏の如く玄関の扉を叩く

 少女は思考を超えた恐怖に躊躇いつつも忍び足で階段へと近づき、細大漏らさず聞き逃すまいと訪問者との会話に耳を澄ます。しかし玄関の扉の向こうのよそ者の声は聞こえなかった。代わりにこの家の主たる女の、よそ者を疎む奇矯な声だけが聞こえる

 

 

…よそ者め

お前たちに開ける扉などあるものか

ああ、いやだ、汚らしい

 

 

 情動的な女の漠然とした恐怖に基づく忌避感によってあえなくあしらわれ、よそ者は僅かも惜しむことなくその場を離れた

 

 少女は安堵し、素早く窓辺へと戻ると獣狩りの夜にあってなお異様な雰囲気を醸すよそ者の背中を目で追う

 

 よそ者は身軽に上段への梯子を昇って行き、かの邸宅の陰へと隠れてしまった。しかし噴水広場へと抜ける鉄格子の軋む音が聞こえたのは随分後のことだった

 

 その事実に暗示され、少女の脳裏に見ていない景色が焼き付く

 鉄格子の手前の窓辺で今邸宅に一人きりの女の子と会話するよそ者の姿だ

 

 一体何を話したのだろう、と少女は当惑しつつ想像する

 よそ者とよそ者の娘だ。何か通じるところがあったのかもしれない

 少女は何故か妙に気にかかって、日が暮れるのも気づかずにいた



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『宵』

あああああ!

 

 

 嗄れた叫び声を耳にして少女は水面で跳ねる魚のように飛び起きる

 

 窓辺に身を預けたまま眠ってしまっていたらしい

 初めは悪夢に魘されたのかと思ったが、身の毛もよだつ声は階下から這いあがって来ていた。まるで「獣の病」に憑かれた罹患者のような声だった

 

 とうとうこの家も病に浸食されたのかと少女は冷や汗をかく。しかしもしも既に女の瞳孔が崩れ、蕩け、その身がおぞましい獣に変じているならば少女の命は眠っている間に狩られて、血を啜られていたことだろう

 

 少女は何とか気の乱れを鎮め、窓からの景色を眺める

 すっかり日が暮れ、代わりに白い月の光が浩々と裏路地に差し込んでいて、むしろ家屋の陰に沈んでいた夕刻よりもずっと明るい

 

 少女がまた上段の邸宅を見上げると窓の一つに過ぎる人影を瞥見した

 邸宅の中で灯火、おそらく蝋燭を持った何者かが行き来しているのである

 少女がじっと邸宅を見据えていると今度は二階の窓に蝋燭の明かりがやって来た。ガスコインの娘が窓辺に現れた

 

 遠眼鏡なしでも、その髪を飾る白い大きなリボンが月の光の中に印象的に浮かび上がるのが見える

 忌々しい気分が弥増して少女は上段の少女を睨みつけるが、目が合ったような気がするとすぐに身を隠す。暫く間を開けて再び窓から覗き込むとガスコインの娘は姿を消していた

 

 代わりに月明かりの照らす路地を行く者がいた。あのよそ者だ

 すっかり獣狩りらしい、まともな人のものではない血を浴びた不浄な姿になっている

 獣狩りの夜のヤーナムに通暁した狩人のように迷いのない足取りで、今度は戻ってくる道をたどって、梯子を降り、腐敗した下水道へと消える

 

 一体どうして、と少女は首を傾げる。よそ者の狩人がただの一人ぼっちの女の子に何の用があるというのだろう。当然、狩人の用は獣狩りに決まっている。もしやヴィオラか、その娘である女の子が獣と化したか、あるいは「獣の病」の兆候でも表れたのだろうか

 

 右足を引きずって去って行ったヴィオラの後ろ姿を少女は思い浮かべる

 「獣血は右足から這いあがる」とは古い時代の迷信だ。だが「獣の病」の萌芽、数多ある奇怪な症候の一つ、初期症状によく似ている

 

 少女は胸の悪くなるような発想を見出し、下唇を噛み、邸宅を見上げる

 もしもヴィオラか、その娘が獣と化したなら、白い大きなリボンはどうなるのだろう、と少女は不安に憑りつかれる

 

 そう思うと少女は居ても立ってもいられず、階段へと急いだ

 多くのヤーナムの民と同様に血の常習者でもある家主の女は空の輸血液瓶が散らばった机に酔っ払いのように突っ伏し、相変わらず少女を夢から連れ戻した身も凍るような呻き声をあげている

 気づかれないように静かに玄関の扉を開けると、少女はそっと獣狩りの夜に忍び出る。そして少女は道端にころがる、まるい石ころを拾い、ガスコイン邸の方へ適当に投げつける。しかし石ころは壁にぶつかって跳ね返り、軽やかな音で地面を叩く。それ以上のことはない

 

 少女は下水道から立ち上る汚らわしい堆積物の臭いから逃げるように、よそ者が二度行き来した雑然とした路地を行き、冷たい梯子を昇る

 窓格子に守られた窓辺には明かりが灯っていて、窓枠の間隙から獣除けの香の匂いが漂っている

 姿を見られないように窓辺を通り過ぎ、開けられたままの鉄格子の門をくぐり、噴水広場を横目にガスコイン邸の玄関扉を返事が返ってくるまで執拗にノックする。そこにある白い大きなリボンに呼びかけるように強く何度も叩く

 

 

おかえり!お母さん!

 

 

 少女は直ぐにノックを止めて女の子が扉を開く前に踵を返し、待つ者のいない家へと急ぎ帰った

 

 ヴィオラはまだ帰っていないらしい。もう帰って来ないのだろう。ならば、ガスコイン家の娘だった女の子もまた孤児となり、白い大きなリボンを携えて、この家へとやって来るだろう



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『赤い月』

 少女はまるで一昼夜を寝て過ごしたような気がしたが、恐るべき夜はまだ明けていなかった

 寝ぼけ眼で眺める窓枠に埋没した景色もまた妙に明るかった。月とも星とも太陽とも違う、不可解な色彩に照らされている。一方で蠢動する影は知られざる通路を経て宇宙的暗黒を滲ませ、更に濃度を増している。それにガスコイン邸の窓辺から漏れていた明かりが消えている

 

 少女の頭が冴え、怜悧な脳の奥底から言い知れぬ不安が間歇的に募る。同時に階下が妙に静かだと気付き、少女の表情に疑念の色が浮かぶ

 それでも少女は身に付いた忍び足の癖で階段に近づき、階下の様子を窺う

 

 主たる女は机に突っ伏して寝息も立てず、微動だにしない。まるで死んでしまったかのようだが、少女は油断せず階段を降り、女の後ろを通り過ぎる

 その時、女が小さな呻き声のような、大きな寝言のような声を喉から漏らし、少女は戦慄し、固まる

 進むか、戻るか、迷っている内に、まるで暗い孔の底で吼え猛る者がゆっくりと這い出してきているかのように徐々に女の声が大きくなる

 

 凍り付いた表情で少女は女の様子を見守る

 

 女の体がびくりと動いたかと思うと激しく痙攣し始め、人ならぬ声と共に体を丸め、同時に背中が盛り上がり始める。勢いよく椅子が倒れると、人間らしい輪郭を失いつつある女は嗚咽を漏らしつつ、目に見えぬ何かに連れ去られるのを抗うように机にしがみつき、袖口から現れた短剣の如き爪が天板に深々と爪痕を残す。少女と同じく窶れていたはずの腕が膨張し、引き裂かれた袖の中から、黒々とした毛に覆われたおぞましき野獣のごく太い前肢が現れる。胴も足も分厚くなり、女の頭が持ち上がると鼻が、口が伸び、獣の口吻の如き鼻面が現れた。髪の間から垣間見えた眼には篝火の如き光が閃き、少女はそこに焦がれるような誘惑を見出す。耳まで引き裂かれたような口からは鋭い牙が覗き、その隙間からどろりとした涎が滴り落ちる。巨躯の獣は正体不明の昂奮に憑りつかれた様子で暴虐の光に眼を爛々と輝かせ、凶悪な咆哮を狭苦しい部屋に轟かせる

 

 少女の中で身を引き裂くような冷たい恐怖と共に秘められた殺意が燃え上がり、その体を突き動かした

 憎々しい相手が、殺しても構わない酷い獣化者に、そうしても誰かに責められることのない荒い毛に覆われた狂気の獣に変貌したことで、少女の内を歓びが満たす

 倒れた椅子を取り上げて、怒りと恨みと憎しみと歓びを込めて思い切り振り下ろす

 

 獣は頭を机に叩きつけられ、蹴とばされた野良犬のように呻き、床に倒れ、吼え立てながらも動きが鈍る

 狂うとて混乱するのだ

 

 少女の方は冷静に、獣に馬乗りになって拳を振り下ろす

 弱点など人間と大して変わらない

 目を殴り、鼻を殴り、喉を殴る

 

 ガラスが割れる音と共にそばに割れた瓶が転がった

 誰かが自分のためにそこに置いてくれたのだと少女は確信し、割れた瓶を女の喉に、女だったものが動かなくなるまで何度も突き刺した

 

 血が飛び散り、涎が撒き散らされ、とうとう髄液が溢れ出す。瀉血器を引っ繰り返したが如く真っ赤な彼岸の花が大輪を開く

 

 ことが終われば、少女には再び焦りが生じる

 こんなことをしている場合ではないのだ

 

 呪いから解放されて冷めゆく憐れななれの果てを捨て置いて、少女は偏執にも似てこびり付く死血の穢れを適当な布切れで拭い、新たな服に着替える

 

 もはやこの冒涜的な夜に自分を咎める者はいない

 

 少女は意気揚揚と孤児の集った家を出、不思議な引力に引き寄せられるように夜空を見上げる

 そこには宇宙悪夢的な青ざめた空が広がり、突然に超次元より訪れた理解しがたい天啓の如く、いやに近く感じる赤い月が浮かんでいた

 夜空の暗黒というには明るい、屍の如き青みを帯びた雲が厚く立ち込めて星々を隠し、縦横に渦動している

 

 何かがおかしい、しかし名状し難い

 

 その真性とは言い難い眩惑的な月を見つめていると宇宙の深淵を覗き見たような不思議な感覚に陥る。自分が自分でないような、体が裏返り、奥底にあるべきものが曝されているような、自他の境界が失われたような、生まれて初めて覚醒したような

 

 少女はまるで白い大きなリボンが永遠に失われたかのような、偏執狂的恐怖に襲われて身震いする。尋常とは異なる月の呼び声に耳を塞ぐように、驚異的な赤から目を剥がす。感応する精神を閉ざすように混迷する頭を覆う靄を振り払ってガスコイン邸を見上げる

 

 獣狩りの夜にしては嫌に静かだ。神をも恐れぬ遠吠えではなく、煩わしい呻き声ばかりが聞こえる。しかしその上段に構えるガスコイン家の邸宅は死に絶えたように静まり返っている

 

 少女は向かいの家の手前で立ち呆けている大男を横目にそっと梯子を昇り、暗い窓辺へとやってくる。そして獣除けの香が薄らいでいることに気づく。よもやと思い、少女は玄関へと走る

 こじ開けられたような痕跡はないが、扉が開いたままで、何事かが起きたことを示している

 

 少女はガスコイン邸へと忍び込み、理性のある者と同様に息を潜めて、家探しする。自身を飾るべき白い大きなリボンを求めて、怨霊の如く廊下を過ぎ、処刑人の如く階段を上り、使者の如く各部屋を覗き込み、チェストの中の金糸の刺繍に彩られた衣服を掻き分け、キャビネットの薄汚れた手袋や獣狩りの夜にはまるで役に立たない輝く硬貨を引っ張り出し、机の抽斗の白い丸薬をぶちまけ、寝台の下を覗き込み、隅々まで漁る、が不首尾に終わる

 やはり、白い大きなリボンはどこにもない、それにガスコインの娘もいない

 

 どこへ行ったにせよ、図々しくもリボンを持ち去ってしまったのだ、と少女は火に焙られるような焦燥感を覚える

 まさか獣狩りの夜を一人、我が身を反故にして小さな女の子を探して歩き回るわけにもいかない。既にリボンは獣の腹の中かもしれない。獣狩りの夜の明けるのを待っていたら、リボンを呑み込んだ獣もまた焼き殺されるかもしれない。しかし少女は諦める気にもならず、むしろリボンへの思いは嵩ずるばかりだった

 

 何かないかとガスコインの娘が過ごしていただろう暖炉の部屋へとやってくる

 燠火の微かな灯りが煤けた暖炉の中に生き残っている。釣り香炉の煙はもうほとんど消えかかっている

 

 不意に少女は思い立つ、ここを何度か訪れていた狩人のことを

 迂遠なる計画だが、白い大きなリボンと同じくらい獣や病から身の安全を守ることが肝要だ

 

 

 

 再び明かりを灯した窓辺で少女が根強く好機の訪れを待っていると、斑気が起こる前に例のよそ者の獣狩りがやって来た

 少女はすぐさま声をかける

 

 

ああ、もしかして、妹をご存じではありませんか?

留守番をしていたはずなのですが、どこにも姿が見えなくて…

白い大きなリボンをした、小さな女の子です

どこか、ご存じではありませんか?

 

 

 獣狩りは確かにガスコインの娘を知っているという

 口ぶりから小さな女の子が一人、獣狩りの夜を過ごすことを気にかけていたようだと判る。それならば、代わりに白い大きなリボンを探してきてくれるだろう、と少女は目論む

 しかし泡沫的な期待は予想以上の早さで実現する

 

 獣狩りが何も言わずに差し出したものを、少女は窓を開いて窓格子の隙間から受け取る

 それは赤いリボンだ。臭いたつ濃い赤は臓物の血の色であり、持ち主の運命は想像するに難くない

 

 

…ああ、やっぱり…

…あの子、なんで、外に出たりなんか…

ううう…

…でも、これであの子のために祈ることができますね…

 

 

 獣狩りが気遣わしげに言葉をかけるが少女はただリボンを握りしめ、さめざめと真珠粒のような涙を零すばかりだ

 

 

ううう…

 

 

 とうとう獣狩りはお悔やみの言葉を残してその場を去った

 遠ざかる足音の間に、少女は胸を打つ心臓の高鳴りを感じる。そして堪えがたい思いが喉を突いて出る

 

 

綺麗なリボン…やっと私のものね…

とっても似合うでしょうね…

ウフ、ウフフフフフッ

 

 

 もはや少女にはリボンの他に何も目に入らず、鼓動の他には何も聞こえず、軟体生物のように柔らかな絹の手触りに魅入られ、警句の如く弄ぶ

 赤い月を見上げていた時のように、その赤いリボンに瞳を吸い寄せられる

 本来は白い大きなリボンで、今は匂い立つ血に滲んでいる

 

 濡れた血から醸し出される濃厚な匂いに誘われ、抗しきれず、倒錯を伴う好奇心に背中を押され、少女は淡い紅色の舌をそっと伸ばし、血の滑りを舐めとり、甘受し、生の喜びを見出す

 何故か、妙に、甘く感じた

 少女は赤いリボンが白くなるまで、血をすべて舐めとる

 美しい光沢、繊細なレースを伴ったそれはやはり可憐な少女にこそ映えるものだろう

 

 

ああ、素敵…

ウフ、ウフフフフフッ



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『未明』

 少女はどこかで聞いた聖歌を口ずさみながら、何度となく白い大きなリボンを結び直し、鏡の前で金の髪と白いリボンの交わりを矯めつ眇めつ眺める

 

 ようやく満足し、もはや獣除けの香の残り香さえも完全に消え去ったことに気付き、家へ帰ることにする

 腑分けした病巣のような浮腫んだ月の下、ガスコイン邸を後にし、菩提樹を脇に見て、裏路地へと入ったところで背後に胡乱な足音が聞こえた

 

 

あなた、今、私たちの家から出て来なかった?

今は誰もいないはず、この家に何か用?

 

 

 少女に聞き覚えのある声だ

 その昔、少なからず交わりもあったものだ

 少女は立ち止まるが、しかし振り返らない

 

 

それに、その白い大きなリボン

私の失くしたリボンによく似てる

ねえ、リボンをよく見せて

 

 

 少女が何も言わずにいると足音が背中へ近づいてきて、何者かの手がリボンに触れた

 少女は振り向きざまに飛び退き、庇うようにリボンを掴むと髪から外れてしまった

 

 ガスコインの娘が困惑と怒りを綯い交ぜにした瞳で少女を睨み上げている。どこで得たのか、ガスコインの娘は医療教会の象徴たる聖布を首に巻いていた、まるでガスコイン神父のように。その胸元には血のように真っ赤な雫型の石を嵌め込んだブローチが輝き、まるで獣狩りのように全身に赤黒い血を浴びている

 見た目にも顕著だが、何よりガスコインの娘の内側に大きな変化があっただろうことが見て取れる

 

 

このリボンは…私のものよ…

何か勘違いしているのではなくって?

 

 

 少女は嘯くが、ガスコインの娘は聞く耳を持たない

 

 

よく見せてくれたら、判るよ

お母さんに貰った大切なリボンだから、そうしたら見間違えたりしない

 

 

 ガスコイン家の娘が手を差し出すが、少女はリボンを握りしめ、病的な目つきで拒むように退く

 

 

ウフ、ウフフフフフッ

 

 

 ヴィオラの娘は小さなため息をつき、胸元のブローチを外すと拳の内に握り込む

 

 

それじゃあ、力尽くで見させてもらう

 

 

 少女は受けて立つことを示すように、白い大きなリボンを握りしめ、両の拳を構える。そしてリボンを握り込んだ拳をヴィオラの娘の脇腹に目掛けて放つ、が軽快な足取りでかわされる。もう一度、今度はその憎々しい顔面に目掛けて拳を繰り出す。

 が、ヴィオラの娘は拳から腕、脇腹にかけて潜り抜け、背後に立つ。

 

 すかさず少女は体を翻し、余所者の娘を打ち据えんと曲線的な軌道を描いた裏拳打ちも、またもやかわされた。少女は向きになって盲打ちに拳を放つが、悉くを躱されてしまう

 

 攻守交替とばかりにヴィオラの娘から放たれる拳はその身に似合わず鋭く重く、少女の身を守る腕を抉る

 体格の差を活かし、ヴィオラの娘の腕の届く範囲の外側から拳を放つが、容易く防がれる

 

 一方ヴィオラの娘は足取り軽く少女の拳の裡へと潜り込み、猛然と連撃を繰り出す

 たまらず後ろへ跳躍するが、追って繰り出される拳に少女は防戦一方だった。少女の放つ拳がヴィオラの娘を捉えることがあっても、再び返される拳の重さには少しの躊躇いも疲労も感じられない

 

 一体この獣狩りの夜に、ガスコイン家の一人娘の身に何があったというのか、少女には知る由もない

 

 牽制を交えた拳に少女は翻弄され、徐々に少しずつ追い詰められる。獣狩りと「獣の病」の罹患者の如く、振るわれる拳の奔流に呻き声を漏らしながら身を守るのが精一杯だった

 

 真っ赤なブローチを握り込んだ拳が、白い大きなリボンが纏わりついた拳を掠めると、握りしめた指が緩み、リボンが解き放たれてしまった

 

 数瞬、宙を漂うリボンを二人の視線が追う

 

 先に動いたのは少女だ。隙だらけのヴィオラの娘を横目にリボンへと飛びつく。しかし右足が梯子を越え、少女の体は大きく傾く

 

 助かろうとする右手には白い大きなリボンが纏わりつき、その伸びた指の先によそ者の子供が目を見開いて手を伸ばしている。この期に及んでリボンに拘り、奪おうというのだ

 

 少女はリボンを守るため、抱え込むように腕を引っ込め、体は重力に従う。離れ行くガスコイン夫妻の娘に悲しげな表情で見送られる



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