ボクはマスコットなんかじゃない (ちゃなな)
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01 騙してたのね

「騙してたのね、キュゥべえ!!」

 

 キュゥべえは、自身に向けられた糾弾の声に咄嗟に耳を伏せた。心の動きがそうさせたのではない。ただ単純に鼓膜に影響が出そうだと判断しただけだ。相手は少女。ぐったりとした様子の同じ顔の少女を抱きかかえていた。感情的な甲高い声が生み出した音の波が後方に抜けたのを見計らって、キュゥべえは伏せていた耳をまた立ち上げる。そして後ろ足で耳の付け根を掻いた。

 

「騙してた、とは人聞きが悪いなぁ。まあ、ボクは人じゃないけどね」

「騙してないとでも言うつもり!?」

 

 表情を変えずに悪びれなく言うキュゥべえを、少女は睨み付ける。だが厳しい表情は長くは持たず、涙を堪えるような表情へと変わって抱きかかえられたもう一人に寄せられた。頬と頬が触れ合うような距離。少女が目を閉じると湛えられていた涙の雫がもう一人の目の縁に落ちた。雫は目の縁から頬へと流れ、まるでぐったりした少女の方まで泣いているように見える。

 こうして見ると、本当に彼女達は似ていた。服装も似ている。布地は同じチェス柄。細かいデザインだけが違っていて、服装を取りかえれば誰も入れ替わったと気付かないだろう。少女たちは一卵性の双子だった。これまでは、何でもお揃いだった。好きな食べ物、嫌いな科目、服の趣味。名前は一字違いで髪型は鏡写し。だけど今。抱える少女と抱えられている少女には決定的な違いがある。

 

「じゃあ、なんで! なんでこの子がこんな事になっちゃうのよ!! あなたが騙したからでしょう!?」

 

 それは。抱えられている少女の方はもう二度と目を覚まさないという事。生と死。それが双子の少女たちを隔てていた。どんどん熱の抜けていっている体を抱き締め、少女が叫ぶ。それに答えるキュゥべえの声は、どこまでも普段と変わらない、落ち着いたものだった。

 

「騙してなんかないさ。ボクはちゃんと言ったよ? "ボクは君たちの願いを叶える"、そして、"願いを叶えた君たちは、魔法少女として魔女と戦う使命を負う"…ってさ」

 

 キュゥべえは理解できないとでも言いたげに首を傾げる。実際、彼には理解できなかった。双方納得した契約関係。キュゥべえとしてはそれを結んだという認識だった。彼は正しく少女たちの願いを叶えたのだから。つい先程までは少女達も同じ見解だったろう。だからこれまで、その代償である魔女との戦いを双子の魔法少女たちはこなしてきた。

 絶望を振りまくものだと説明された魔女との戦い。今まで争いとは無縁の世界に生きてきた彼女たちにとって、もちろん戦闘は恐ろしいものだった。その姿は千差万別だが、嫌悪感を与えるものや恐怖を煽るような外観をしているものも多い。義務感だけでは続かなかった。それでも続けてきたのは、一人ではなかった事と、それで救われる人がいるからだ。

 

「だけど……だけどこんなの、聞いてない!」

 

 少女は片割れを一層強く抱きしめて声を荒げる。

 願いがかなって。一人では怖くても、二人で。人知れず誰かを救うという優越感を感じることが出来て。

 それなのに。

 

「魔法少女が…魔女になるなんて……っ!!」

 

 泣き叫ぶ少女の上に影が落ちる。気付いているだろうに、片割れを抱き締めた少女は振り返らない。彼女の背後にあるのは黒く塗りつぶされた巨大な右腕だった。整えられた爪だけがマニキュアを塗ったかのように白い。肘から先だけが地面から生えたようになっているその腕は、何かを掴もうとしているのか手の平を彷徨わせたり軽く拳を握ったりしている。"それ"が今の少女の片割れ。彼女が変貌する瞬間を少女は見た。信じられなくても理解するしかなかった。今も少女には聴こえている。少女に助けて、助けてと呼ぶ片割れの声が。絶望をまく魔女の泣く声が。

 少女の泣き顔を見ても、キュゥべえの表情は変わらない。赤い瞳は揺れたりしないし、表情筋に余計な力が入ったりもしない。ただ、大きくゆったりとしっぽが揺れる。

 

「気付いてもおかしくないと思うけどね。この国では成長途中の女性の事を"少女"と呼ぶ。それなら、"魔法少女"が成長したら"魔女"になるというのは自明の理だろう? ボクらとしては、上手く定義付けられたなと思ってるんだよ」

 

 キュゥべえにとって、魔女と魔法少女とは大人と子供程度の違いでしかない。大人を大人と、子供を子供と呼ぶようになったように、"記号"として区別しただけの話だった。

 確かに、意図して話さなかった部分はある。キュゥべえは……キュゥべえたちは、"その事"を話すと契約に応じてくれないという事例を何度も見てきた。彼らには都合の悪い事を隠したいという感情がない。そしてどこが都合が悪いのか想像することも出来なかった。だからこのシステムを運営し始めた直後は断られるなどとは微塵も思ってもおらず、全てを話していたのである。断りの言葉を分析して原因らしき情報を隠すことを覚えて、ようやく契約が取れるようになってシステムは回り始めた。人が希望を持って魔法少女となり、そして絶望して魔女になるというシステムが。

 

「どうしてこんなこと……」

「嘆くことなんてないよ。君たちは、見事に世界に貢献しているのだから」

 

 声を詰まらせる少女にキュゥべえが言う。少女はゆっくりと顔を上げた。涙を流し続ける瞳は暗い色ながらも光を反射して輝いているように見える。ただ目元が真っ赤に腫れ上がってしまったせいで少女の可愛らしさは半減していた。

 

「世界に……貢献……?」

「そうとも。世界は危機に瀕している。宇宙全体のエネルギーが枯渇しかかっているんだ。エネルギーは形を変える度にロスが生じるからね」

 

 エネルギーが何かに使われる時。そこには必ずロスが生じる。そのロスは再利用できず、廃棄するしかない。後戻りは出来ないのだ。コーヒーに混ぜたミルクだけを選んで取り出すことができないように。少女の片割れの体から抜けていく熱が戻らないように。

 しかしそんな事を続けていたら、いつかは必ず廃棄されたもので埋め尽くされ、使えるものが無くなってしまう。そして、その"いつか"は目前に迫っていた。減っていくエネルギーを補填しようとする試み。又は代替エネルギーの開発。人類がやってることと変わらない。ただ少し、それよりも規模が大きいというだけだ。

 

「それと、私達と何の関係があるのよ……」

 

 だが地球の環境問題といった宇宙より身近な事柄に関してすらあまり危機感を抱けない少女としては、宇宙のエネルギー問題なんて、それこそ別世界の話。彼女はキュゥべえから片割れへと視線を戻した。

 

「君たちの魔力。それが宇宙を救うんだよ」

 

 キュゥべえはしっぽを大きく揺らす。視線で指し示すのは、少女と、その向こう側で手を彷徨わせている巨大な腕。だけど、片割れに視線を落としている少女はそれには構わずに片割れの乱れた横髪を手で整えている。

 

「感情を魔力というエネルギーへ変換するテクノロジーを開発したは良いんだけど、いかんせんボクたちは感情というものを持ち合わせてなくてね。たまに現れる精神疾患の個体で試してみようともしたんだけど、なにぶん数が少ない上に効率も良くないし」

 

 まるで聞いてないかのような少女の反応だが、キュゥべえは構わず話を続ける。彼我の距離は三メートル程。キュゥべえはゆっくりと少女に近付いた。彼我の距離は、約二十センチ。

 

「だけど、君たち人類は凄いんだ。その個体数、繁殖力、そして何よりも生み出す感情エネルギーの量……」

 

 文明らしい文明を持たない星に出向いて、自前の毛皮もないくせに裸で洞穴に暮らしているような種族を知的生命体と認めて交渉する。それは、いくら感情と言うものが無いと言っていい程に希薄な彼らでも思うところがなかったわけではないが、それでもキュゥべえたちは実行した。宇宙が内包するエネルギーがある程度回復するまでは、人類が減りすぎたり絶滅してしまっては困ると判断したからである。また一から条件に合う知的生命体を見つける所から始めるのが非効率というのもあった。

 そして人類はキュゥべえたちが干渉することによって急激に発展していく事となる。文明は発達し、人口加速度も留まる事を知らない。そしてキュゥべえたちが慣れるにつれて、最大の効果を得られるパターンも確立された。高い所から物を落とすと破壊力が上がるように、強い希望が一転して深い絶望へと変わる時、その差が激しければ激しい程、放出されるエネルギーは大きくなるのだ。

 

「中でも、君たちのような第二次成長期の少女の希望と絶望の相転移が一番効率がいいとデータにも出てる。ソウルジェムになった魂がそうして……」

 

 言葉を一旦止めたキュゥべえは、片方の前脚を上げて少女の手の平に握られた物を示す。少女は顔を微かに動かして、視線を手元にやった。片割れを落とさないように抱きしめながら握りこまれているのは、黒くて丸い宝石。檻のように石を閉じ込める形でいぶし銀で装飾されていて、下方から突き出したピンはまるで宝石が串刺しになっているかのような印象を与える。それはグリーフシード。魔女が持っている魔女の卵にして、消費した魔力の回復が出来るという魔法少女にとって無くてはならないものと説明されていた。

 次いで、少女は片手を上げて自身の耳に触れる。普段は銀色の指輪、そして変身する時や魔女を探す時は手のひらサイズの卵型の置物になる宝石は、今はピアスとして左耳に吊り下げられている。それはソウルジェム。魔法少女になった証にして魔力の源。そう説明されていた。

 だが、その真実は。魂の宝石(ソウルジェム)はその名の通り、魂そのもの。魂を拘束する檻。グリーフシードはソウルジェムが形を変えたもの。川にゴミを捨てれば流れが悪くなるように、ソウルジェムに穢れが溜まれば力を十全に発揮できなくなる。穢れこそを力とするグリーフシードに移すことで取り除いていたのだ。

 キュゥべえの言葉が続く。

 

「グリーフシードに変わるその瞬間。世界は少しだけ救われるんだ。莫大なエネルギーがばら撒かれることによってね」

「やっぱり、騙したんじゃない……」

「騙してないって」

 

 少女は唇を噛みしめる。小さな男の子のような高い声が腹立たしい。今なら分かる。その声に感情はこもっていない。こもっているように聞こえるよう、抑揚が付けられているだけだ。彼にとって、自分たちは消耗品。使い捨ての充電器程の価値しかないのだ。それに気付いてしまった少女は叫ぶ。

 

「私は! 私たちは……! 発電機になった覚えなんてないわ! ずっと…ずっと一緒にいよう、って……」

「一緒にはいれるんじゃないかな? 魔法少女になった以上、遅かれ早かれ魔女になるんだし」

 

 ブン、と空気を叩く音が耳に届くと同時に、キュゥべえは後ろへと飛んだ。一瞬前にキュゥべえがいた位置に棒が振り下ろされる。先端に丸い石の付いた、チアバトン。それを握りしめる少女の手には力がこもっていて真っ白になっていた。

 

「許さない……許さな、あ、あああっ、ああぁぁぁぁぁあああぁあああぁぁぁぁぁ――――――!!」

 

 怨嗟の声と共に、彼女の魂は黒く染まっていく。透明感のある色はどんどん濁っていって。最終的に黒く染まった宝石は、内からの圧力に耐え切れなくなったかのように粉々に砕け散る。

 

 

 それで彼女は再び片割れと"お揃い"になった。

 

 

/*/

 

 軽い音を立てて小さな足は地面を蹴り、白い体を空中へと放り出す。地面に叩き付けられたら助からないだろう高さ。そんな高さから落ちながらもキュゥべえの表情は変わらない。ビルの側面から張り出した看板に一度着地して、再び飛び降りる。そして着地。足を上手く使って衝撃を逃がす。危なげなく地面に降り立ったキュゥべえは顔を路地裏へと向けた。

 

「やあ」

 

 視線を向けた先からは白い姿が現れる。それはキュゥべえと同じ姿をしていた。実際、名乗る必要がある時は同じようにキュゥべえと名乗っている筈だ。自身も新たに現れた方も、同じくこの地球に送り込まれた孵卵器(インキュベーター)の内の一体なのだから。

 

「中々の量のエネルギーを回収できたようだね」

「そうだね。あの二人はお互いがお互いを補完し合って、普通の子たちよりも因果の量が多かったから。ノルマにはまだ満たないけど、結構稼げたかな」

 

 インキュベーターの言葉にキュゥべえは頷く。宇宙の危機を脱するにはまだまだ足りないが、それでも通常の魔法少女よりも高い資質を持っていた二人が揃って魔女となり、相応のエネルギーを得ることが出来た。

 魔法少女を魔女にするにはソウルジェムを限界まで穢す必要がある。その方法は二つ。魔力を使わせるか、絶望させるか。普段の生活の中でも体を動かすのに微量とはいえ魔力を使っているから、穢れを移すグリーフシードがなければいずれは魔女になる。強い魔女をぶつければ限界まで魔力を使って早々に魔女化することもあるが、効率はそれほど良くない。下手に強い魔女と戦わせてジェムが穢れきる前に死なれてしまえばエネルギーは回収できないのだ。効率が良いのは絶望させる事。その絶望が深ければ深い程、多くのエネルギーを宇宙に補充させることが出来る。それにうまく誘導できれば数日かからずに魔女にすることも可能という事もあって、それが推奨されていた。

 

「確か、君の担当していた魔法少女はさっきので最後だよね?」

「ああ。でもこの辺りにはもう目ぼしい子はいないからね。ボクは次の土地へ行くとするよ」

「そう。じゃあ、僕の担当の子をこちらに誘導しておくね」

 

 前脚を舐めて毛づくろいをしながら言った自身の言葉に返事が無くて、インキュベーターは顔を上げる。キュゥべえは、あらぬ方向へと顔を向けていた。

 

「……? どうしたんだい?」

「いや、なんでもないよ。そうしておいて」

 

 よそ見をしていたキュゥべえは、ハッと我に返ったようにインキュベーターの方へを視線を戻し、頷く。インキュベーターもそれに頷いた。

 

「分かったよ。それじゃあ」

「それじゃあ」

 

 別れの挨拶を交わし、インキュベーターが暗がりへと戻って行く。恐らく彼は、これから自身の担当する魔法少女の元へ行き、フリーとなった土地がある事を告げるのだろう。

 魔法少女は基本一人で、多くても二人で行動する。ソウルジェムとグリーフシードの関係性の真実を知らなくとも、数があれば魔力を無駄遣いできるのは変わらない。だからどうしても複数人が同じ土地にいると取り合いになって争いが起こってしまう。取り分も狩場も大きな方が良い。だけど今の土地を離れている間に他の魔法少女に荒されるかもしれない。だからこそ魔法少女は基本一人だし、滅多な事では別の土地に足を延ばしたりはしないものなのだ。

 キュゥべえは、もう一度先程と同じ方に顔を向けた後、それとは逆方向へと歩き出した。宇宙の寿命を延ばすために。




アニメ放映が終わって、ずっと書きたいなーって思っていたんですが、他の長編を書いている最中だった事と、ネタがまとまらずに中々書けなかったまどマギSSです。
長編の終わりが見えたのと、書きたい病がピークを迎えたので書き始めました。
やったねハーメルン! ハメ初出SSが増えたよ!
暫くはあっちもこっちも書くので更新は不定期になります。
次話まではそんなにかからないと思いますが。
まだあらすじ部分まで行けてないし。

短編を晒した時に、一文ずつ改行せずにある程度まとまった所で改行した方が良いとアドバイスを受けましたので、今回はその方法を試しています。
たくさん文字打ってもスクロールバーが仕事しない! 不思議!!
見やすいとか見にくいとか、その他アドバイスも大歓迎ですので、これから完結までよろしくお願いします。


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02 ボクと契約して魔法少女になってよ

 いい天気だった。日差しは暑くも寒くもなく、ただ快適に過ごせるようにとでも言いたげに降り注ぐ。桜はもう散ってしまったが、新緑の織り成す木洩れ日は、その下を歩いているだけで気持ちを穏やかにさせてくれる。

 それを現在進行形で実感している少女が二人いた。隣り合って歩いている。一人は跳ねるように。一人はしずしずと。彼女らの服装は同じデザインのセーラー服。歩き方だけでも性格が正反対であるのは見て取れるが、隣り合い、そして談笑しながら歩いている所を見ると仲は良いようだ。

 たまに縁石に飛び乗ったりして跳ねるように進んでいる方の少女は、長い茶髪を高い位置でサイドテールにして左側にまとめて、前髪は逆に右に流している。サイドの何房かには赤色のメッシュが入っていて、それだけが毛先を癖付けられて存在を主張していた。

 もう一人の少女は、鞄を片手に持ち振り回すようにしているサイドテールの少女とは違い、両手で学生鞄の取っ手を掴んで前に持ち、かけられる声に頷いたり小さく笑ったりしている。髪色は染めた様子のない黒髪で、ギリギリ肩に届くくらいのセミロング。頭の天辺から横髪を編み込みにしていて、まるでカチューシャをつけているようにも見える。スカートの長さも性格のように正反対で、サイドテールの少女はスカートの中が見えてしまわないのが不思議なほどに短いが、セミロングの少女は校則のお手本のようなひざ下5センチの長さだった。

 サイドテールの少女を伊万里(いまり)(こずえ)、セミロングの少女を浅見(あさみ)結衣(ゆい)という。二人は自他ともに認める親友で、学校ではいつも一緒にいるせいで周りからセットとして扱われている。そしてこの日もいつもと同じように並んで下校していた。――この時までは。

 

「何……?」

 

 先に気付いたのは梢の方だった。小さくジャンプして縁石から結衣の傍に降り立つ。結衣も不安そうに胸元に鞄を引き寄せ、辺りを見渡した。

 車通りも人通りもない。まっすぐ伸びた並木道。だけど、その道が歪んで見える。その歪みは見る間に大きくなって、風景は混じってマーブル模様へと変わっていく。

 

「梢ちゃん!」

「結衣、離れないでよ」

 

 梢は鞄を持っていない方の手で結衣の手を取った。心強い発言だが、梢の顔も青い。繋いだ手が汗で湿っている。

 歪みは歩道側の方が激しい。二人は少しでも風景が安定している方へ……車道へと飛び込む。風景が更に現実離れしていく。道の左右に並んでいた並木が巨大な指へと姿を変えた。右手の指は闇を固めたみたいに黒く、左手の指は光を固めたかのように白い。指は上の方で交差し、トンネルのように二人を包み込んだ。もう左右へは抜けられない。梢は結衣の手を引っ張って前へと走る。その性急さに、結衣は足が絡まってこけそうになるが何とか堪え、後に続く。出口の光が遠い。突然の、爆発音。

 

「きゃあっ!!」

 

 結衣が悲鳴を上げた。声こそあげなかったものの、梢も首をすくめる。驚きすぎて、声が出なかったのだ。

 

「もう…何なのよ……!」

 

 周りをせわしなく見回しながら梢は声を上げる。泣きそうな、引きつった声だった。爆風が作り出す砂煙といった類のものは見えない。音だけが断続的に聞こえてくる。右の方向で聞こえたと思ったら、次は左後方。爆発の位置は無差別のようだった。指のトンネル内にいればもしかしたら安全なのかもしれない。そう思わないでもなかったが、その場に留まる勇気はなく、二人は止まった足を動かしてもう一度走り出した。

 

「ね、ねえ、梢ちゃん! あそこ、何か白いのが……」

「今、そんな余裕ないでしょ! 走るの!!」

 

 スピードを緩めようとする結衣。梢は結衣を叱咤して、引っ張る力を強める。様々な色が混じり合ってマーブル模様となった世界。そこに白色があっても、なんら不思議とは感じない。実際、二人を閉じ込めているトンネルを形作っている指の一方も白いのだ。そんな事より今はここを抜ける方が先決。

 梢は額から噴きだした汗を袖口で拭った。そして、進行方向を見やる。トンネルの出口から漏れる光が眩しくて、梢は目を細めた。目が眩んで、対応が遅れる。気が付けば体が押され、結衣と繋いでいた手が離れていた。

 色はおかしいものの、まだ何とか地面だったそこにお尻をしたたかにぶつけ、肘も擦れる。つまり、梢は尻餅をついていた。驚いて見上げると、目の前で青い顔をした結衣が両手を真っ直ぐ梢の方へ突き出している。結衣が、梢を突き飛ばしたのだ。どうして、と声を漏らすのと、強烈な光が目を焼くのは同時だった。漏らした声が、爆音に呑み込まれる。梢は地面についていない方の腕で顔を庇う。爆風が皮膚と服を撫でた。

 体を縮めて蹲ったまま、音と風が完全に通り過ぎるのを待つ。間近で轟いた爆音は体を硬直させるには十分で。一分程、梢は目を開けることが出来なかった。ようやく目を開けて、目の前にいたはずの結衣がいない事に気付く。慌てて視線を巡らせて。

 梢の目に入ってきたのは、脇腹から血を流して倒れている結衣の姿だった。

 

/*/

 

 光弾が走る事によってなびいていた耳の毛を掠っていく。キュゥべえを追い越していった光弾は、地面に着弾して破裂し、爆発音を鳴り響かせた。爆風は体重の軽いキュゥべえを容易く煽り、転ばせる。風景が、逃がさないとでもいうように変わっていった。車道を走るキュゥべえを包み込むように、等間隔で並んだ街路樹が巨大な指となって組み合わされてトンネルのようになっていく。

 これは、自身を殺すために展開された魔女結界。追われているのは分かっていた。

 

 "彼女"はキュゥべえへの恨みで魔女化したのだから。

 

 理解できない心の動きだったが、そういうものなのだと受け入れる事は容易かった。そういう心の動きこそ、宇宙を救う力となるのだと考えれば、理不尽な事でも許容できる。

 進路方向を制限されて、それでもキュゥべえは慌てない。生き残ろうとする本能はあっても、焦る等といった心の動きはないのだ。爆発する光弾を避けながら、ただここから脱出する為に頭を働かせる。

 再び光弾が掠り、少ししっぽが焦げた。爆風でコロコロと地面を転がる。回転は、元街路樹であった指に体がぶつかる事で止まった。追撃を受けない内に立ち上がる。

 

「……!」

 

 顔を上げて、キュゥべえは小さく息を呑む。目が合った。魔女でも、その使い魔でもない。結界内を走る二人の少女。その片割れ。彼女はキュゥべえを見てもう一人の方に声をかけたようだが、そちらは相当切羽詰まっているらしく、キュゥべえの方へ顔を向けることなく片割れの少女を引っ張っていく。逃げているという事は、魔法少女ではないだろう。どうやら、近くを歩いていたせいで巻き込まれた人間のようだ、とキュゥべえは結論付けた。

 そして、ここを逃れる方法も思いつく。光弾は真っ直ぐにしか飛ばない。少しくらいなら曲げることもできるようだが、同時に、それは野球のピッチャーが投げる球種程度であって、とても誘導弾といえるレベルではないことも何発か攻撃を向けられて把握していた。巨大な指と地面によって上下左右を封鎖された今、逃げ場は少ないが攻撃方向も制限されている。キュゥべえは道路の真ん中に飛び出して、出口と入口、そして走る少女が一直線となる場所に位置どった。

 次の攻撃が飛び込んできたのは、少女達が出口と定め、向かっていた側から。薄暗いトンネルから見たら外は確かに明るかったが、光弾のせいでより一層眩しく輝く。キュゥべえは少女達の視界に入らないように背後側に立ったので、ちょうど少女達が盾となる形になる。

 光弾が近付いてくることに、少女達も気付いた。だが、先導していた方の少女はまともに光を見てしまったらしく、動きが鈍る。動いたのは、引っ張られていた方の少女だった。先導していた少女に体当たりして、更に両手で突き飛ばす。ただでさえ動きの鈍っていた少女は、それで少し離れたところに転がった。だけど、それをした方は反動で動けない。その脇腹に光弾が着弾し、破裂した。

 

/*/

 

「結衣! 結衣!!」

 

 それしか言葉を知らないかのように結衣の名前を繰り返し呼びながら、梢は覆いかぶさるように倒れる彼女に近付いた。意識はないのか、半開きの瞳に光はない。同じように半開きになった口からは赤い血が一筋流れ出している。酷いのは腹部で、脇腹からヘソの近くまでがごっそり無くなっていて結衣のウエストを半分程にしていた。血が一定間隔で噴き出している所を見ると、まだ心臓は動いているようだったが、致命傷だという事は医学なんてろくに分からない梢にも判断できた。

 

「結衣……!」

 

 梢は結衣の体を揺さぶろうとして伸ばした手を、宙で彷徨わせる。今、少しでも衝撃を与えてしまうと本当に死なせてしまいそうで怖かった。こんな所に救急車が来るはずがない。なにより、この傷では助からない。そんな事は異常な状況で働かない頭でも分かってはいたが、それでも自分で終わらせてしまうかもしれない行動を取るのを咄嗟に回避していた。結衣に触れることができなかった梢には、ただ呼びかけることしかできない。そんな梢の耳に、場にそぐわない可愛らしい幼い男の子のような声が届いた。

 

「彼女を助けたいかい?」

 

 違和感よりも何よりも、その言葉の内容に、梢は音を立てそうな勢いで声の方向へと顔を向ける。声の主は、子供ではなかった。人間ですらなかった。

 ちょこんとおすわりして梢の顔を見上げているのは、猫に似ているが今まで梢が見た事のない動物。白い体にルビーのように赤く透き通った丸い瞳。猫のような三角形の耳の中から伸びた毛は綺麗に整えられていて、一つの房として地面に向かって垂れ下がっていた。その先はピンク色のグラデーションになっていて、毛先に近付く程濃い色になっている。そして耳毛の中ほどには金色の細い輪があって一種のアクセントになっていた。どうなっているのか、輪は浮かんでいるように見える。ここまででも猫に似た違う生き物と判断できるが、一番猫っぽくないのは、ゆらゆらと左右に揺れるしっぽだった。まるで絵に描いたリスのようにふっくらとしている。体長ほどもある長くて太いしっぽは、こんな状況でなければ触りたくなるほど柔らかそうだった。

 

「今の…あんた?」

「そうとも」

 

 恐る恐る声をかけると、白猫もどきは耳をピクピクと動かしてアピールをしてくる。声は聞こえるが、口は動いていないのでその配慮かもしれない。

 

「ボクの名前はキュゥべえ。キミの力になりにきたんだ」

 

 遠くで、また爆発音がした。梢は肩をすくめ、青い顔であたりを見渡す。そんな梢にキュゥべえと名乗った白猫もどきが言う。梢は眉をしかめた。

 

「……力? あんたが?」

「そうとも」

 

 懐疑的な視線を向ける梢にキュゥべえは先程と同じ言葉を返してくる。梢はこの突然現れたキュゥべえを即座に信じることができないでいた。都合よく唐突に現れたのもそうだが、話す言葉に違和感がないのも怪しい。テレビにたまに取り上げられる喋る動物の言葉だって、注意して聞くとそう聞こえるかもと思える程度の不明瞭なものだ。そして、こんな場所に現れる動物が普通なわけがない。この変な世界を作り出した元凶か、その仲間。そう思ってしまうのもしかたのないことだろう。

 

「いいの? 彼女はもう限界みたいだけど」

 

 梢はその言葉に慌ててキュゥべえから視線を外す。先程より悪くなったように見える結衣の顔色。先程まで勢いよく一定間隔で噴き出していた血は収まりつつある。それは鼓動が止まりかけているのを示しているようだった。

 

「結衣……っ!」

「ボクなら……いや、キミなら、彼女を救ってあげられる」

「あたし…なら……?」

 

 呟くように言う梢にキュゥべえは頷いてみせる。

 

「そう。キミなら。それに、ここから出ることだって可能になるだろう」

 

 正直、疑いの気持ちはまだあった。だが疑っている暇はないし、無視も出来ない。大きなしっぽが左右に揺れる。カウントを取っているようだ、と梢は思った。命のカウントダウン。右手で胸元を掴む。セーラー服に皺が刻まれた。爆発音は続いている。このままここから出れなければ、いずれは梢も爆発の餌食になるだろう。

 だが、梢はまだ自分の身に降りかかってない非現実よりも結衣の事で頭がいっぱいだった。このままでは確実に結衣は命を落とす。だけど、キュゥべえは梢になら結衣が救えると言う。他の誰でもない。梢になら、と。大きく振られたしっぽが地面を優しく叩く。

 

「キミには彼女を救う力がある。だから……」

 

 言葉を聞き逃さないように、梢は神経を集中させた。爆発音が遠ざかったような気がする。その声は何にも遮られることなく梢に届いた。

 甘い毒が。

 

「ボクと契約して魔法少女になってよ」

 

 沁み込んでくる。




メイン魔法少女の名前はまど☆マギっぽくするならひらがな三文字が適当かと思いましたが、正直、ひらがな三文字の名前って字で読むには読みにくいと思いませんか?
まどかとか、なのはとか。


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03 それが君の願いの力

 ――ボクと契約して魔法少女になってよ。

 

 どんな無理難題を言われても落ち着いていようと身構えていた梢だったが、告げられた言葉につい顔をしかめてしまった。何をファンタジーな、と言いかけて、この状況が既にファンタジーだと思い直す。歪む風景。爆発。喋る猫もどき。倒れて死にかけている親友。刻一刻と悪くなっていく彼女の顔色に、梢は唾を飲み込み、その言葉を言った。

 

「いいわ。契約する。それで結衣が助かるのなら!」

 

 キュゥべえはピクリと耳を動かす。地面に向かって垂れ下がっていた耳毛が手のように梢に差し出される。

 

「君の想いはエントロピーを凌駕した。……契約成立だ」

「ん……くぅ……っ!」

 

 突然の痛みに梢は呻いた。胸を押さえる。体中の神経がそこに集まっているかのような感覚。手の平が熱い。指の隙間から光が漏れている。ギュッと目を閉じて一度息を呑むと痛みが引いていく。体の力を抜くと、梢はゆっくりと目を開けた。痛みは消えたが、手の平に灯った熱は消えない。梢は開いた手の中に視線を落とした。

 

「解き放ってごらん。それが君の願いの力だよ」

 

 それは、綺麗な卵型の宝石だった。キュゥべえの瞳のような赤瑪瑙。金の台座が付いていて、エッグスタンドのように見える。台座と卵が離れてしまわないように、台座から卵の先っぽに向かって何本か金のラインが伸びていて、天辺には十字架を模した彫刻がワンポイントになっていた。淡い光を放つそれを梢は見つめる。不思議とどうすればいいのかは説明されずとも理解できていた。ド忘れしていた公式をふと思い出したかのような、その感覚。

 梢が宝石を持った左手を前に差し出すと、そこから漏れた光は指先から腕へと上がっていく。光が通り過ぎた後、腕を覆っていたのは黒いドレスグローブだった。そのまま光は梢のセーラー服を包んでミニのワンピースへと形を変える。前で布を重ね合わせたそれは右側の布が上にきて、中心より左側で大きなボタンによって固定されていた。ただ、ボタンはヘソぐらいの位置までしかなく、残りはスリットとしてヒラヒラと揺れている。次は髪をまとめていたシュシュ。下側から上に向けて扇状に布が張り出し、サイドテールという事もあって斜めを向いているが、それはまるでナースキャップのようだった。その中心には黒抜きの十字がプリントされている。最後にスカートのスリットから覗く左脚に十字の形に変化した宝石がくっつき、それを中心にしてリングガーターが太ももを包む。

 一通り変化が終わって光が止み、自身の姿を見下ろした梢は口元をひくつかせた。その顔は赤い。風通しのいい太ももをすり合わせる。長さの違うアンバランスなブーツが落ち着かない。スカートのすぐ下までをカバーしている右のそれとは違い、リングガーターがあるせいか、左は踝が隠れる程度の長さしかないものだった。

 

「な……何これ、ナースのコスプレ? あたし、そういう趣味ないんだけど!?」

 

 確かに変化したシュシュや十字のデザインはナースを思い起こさせる。しかし、黒いブーツに手袋、そして宝石と同じ赤瑪瑙色のミニのワンピースを纏うナースはいないだろう。グイグイとスカートを下へ引っ張って、出てしまいそうになる太ももを隠そうとしながら詰め寄ってくる梢をキュゥべえは促す。

 

「君の願いが"他者の治療"だからかもしれないね。さあ、早くしないと手遅れになっちゃうよ」

「そ、そうよね。格好にツッコミいれるのはいつでも出来るわよね」

 

 梢は頷いて、左手で太ももの宝石に触れた。まだ頬は赤いが、表情は真剣なものになる。石から細長い物が現れて、梢の手の平に収まった。それは見る見るうちに巨大化して一抱えもある大きさの注射器へと形を変える。ピストンを引くと、注射器の中の開いた空間に液体が湧きだした。液体がある程度の量になると、梢は注射針を結衣へと向ける。針先が逡巡するように数秒揺れたが、結衣の浅かった呼吸音が聞こえなくなりそうなのに気付いた梢は唇を噛みしめて横たわる体に針を突き立てた。針が肉に沈み込んでいく感触に、梢は肌を粟立たせる。唇を固く噤む。そして、ゆっくりとピストンを押し込み、中の薬剤を結衣へと注入していった。

 

「……ぅ、ぁ……」

 

 小さく結衣が呻く。眉根が寄っていて額に脂汗が浮いている。苦しそうではあるが、呻き声を上げられるだけ先程よりもマシだと思えた。針を抜くと、結衣の体がビクリと震える。ごっそりと無くなっていた脇腹の肉が断面から盛り上がっていく。ホラー映画で見るようなその様子を梢は正視することが出来ず、顔を背けて腕を振るう。提灯型になった袖の中から出てきた包帯が蛇のような動きで宙を走り、結衣の傷口を隠した。肉が膨らんでいくのに沿って巻き付いた包帯もうねるが、直接見えないだけで随分視覚を襲う不快感は無くなる。その包帯のうねりもすぐに落ち着いた。キュゥべえが結衣の傷口があった所に近付いて顔を近づける。ウエストのサイズは元に戻っているし、顔色も先程に比べれば随分良い。

 

「……随分血を失ってた筈なのに、貧血の方も大丈夫そうだね。その薬剤、造血効果でもあるのかい?」

「その時々で必要な薬剤を作り出せるみたいね」

 

 落ち着いた結衣の呼吸に梢は息をつく。キュゥべぇは視線を結衣から彼女へと移した。

 

「さあ、これで一先ずこの子の命の危機は脱した。次はこの結界を作り出している魔女を倒してキミ達の危機を脱しよう」

「魔女…… まあいいわ。その話、長そうだし。でも、後で説明してもらうわよ」

「もちろん」

 

 キュゥべぇは頷いた。それを横目で確認した梢は手に抱えたままだった注射器を改めて構える。

 

「んじゃ、やってみますか。えぇっと……」

 

 言いながら、梢はピストンを引いた。再び注射器の中が液体で満たされていく。だが新たに湧き出た液体は、先程結衣に注入した薄青のものではなく、紫色をしている。先程のは傷を癒す為のものだったが、今度のは相手を害する目的で調合されたもの。違う薬品なのだ。梢は、注射針を突き刺す対象者を探して辺りを見回す。だが、行動は相手の方が早い。爆発音はいつの間にか聞こえなくなっていた。既に相手は行動を起こしていたのである。

 

「あいたっ!? 何っ!?」

 

 突然の鋭い痛み。梢はその痛みの発生源を見下ろした。リングガーターと短いブーツの間。むき出しの左脚に金属の牙が噛みついている。サメの顎の標本のようなそれは、梢の血に塗れて鈍く銀色の光を放っていた。上顎と下顎の繋ぎ目には小さなおもちゃのような羽が付いていて懸命に羽ばたいている。

 

「な、何これ!?」

「トラバサミに似ているね。罠の中央に獲物の足が乗ると、バネの仕掛けで金属の板が閉じて足を挟み込んで動けなくする…って罠だよ」

「解説はいい!」

「そうかい?」

 

 思わず叫んだ梢に、キュゥべぇが落ち着いた声で答えた。確かに梢の足に噛みついたソレはトラバサミに似ている。実物を梢は見たことがなかったが、罠にかかった動物を助ける場面が出てくる本を読んだことがあったので、どういうものかは知っていた。

 問題は、普通トラバサミは上を通った相手を捕獲する道具であって、自ら噛みついてくる物ではないということである。梢は大きな注射器を落とさないように小脇に挟んだまま、何とか噛みついていたトラバサミの口を開けさせることに成功した。魔力で腕力を強化して繋ぎの部分を破壊する。初めて使う魔力という力だったが、宝石を使っての変身と同じように自然に扱い方は理解できていた。梢は壊れたトラバサミを地面に叩き付けるように投げ捨てる。問題を一つ解決したことで息が漏れた。そして顔を上げて顔を引き攣らせる。

 

「ちょ……っ、いっぱい飛んできた!?」

 

 梢の視界に映ったのは、複数のトラバサミ。両手の指程多くはないが、片手の指では確実に数えきれない。それらが一斉に梢に向かって飛んでくる。梢は注射器を振り回す。だが注射器は一抱えもあるサイズなので、動きはそれほど早くない。それで捉えられたトラバサミはほとんどいなかった。小さな羽で器用に旋回して避けて回り込んでくる。注射器にぶつかった個体も致命打には程遠い。後ろに飛んで衝撃を殺したのかすぐに体勢を立て直して再び飛び掛かってきた。

 

「痛っ、痛いって!!」

 

 左手で注射器を抱き締め、右手を振り回す。注射器で前面は守れたが、他は金属の歯形が増えていく。

 

「きゃあっ!! こ…んのぉ……!」

 

 上で振り回していた右手に噛みつかれて、梢は叫んだ。そして痛みに涙目になって柔肌に牙を食いこませたトラバサミを睨み付ける。そのトラバサミに真っ白な包帯が巻き付いた。結衣に巻き付いた時と同じように袖口から伸びている。包帯は無理矢理トラバサミの頤を開かせて梢の腕を解放させると、思い切り振り回した。包帯に掴まれたトラバサミと羽ばたいていたトラバサミが空中で衝突事故を起こして繋ぎ目が壊れてバラバラになって地に堕ちる。

 仲間の最後を見て怯んだのか、トラバサミの動きが鈍った。それを見逃さず、幾筋もの包帯が伸びて捕獲していく。捕獲したトラバサミは先程のようにお互いをぶつけたり、注射器を叩きつけたりして破壊する。いくら空を飛び意志を持っているかのように攻撃して来たり怯んだりするとは言っても、材質は金属。注射器の中の薬剤は残念ながら役には立たない。

 最後のトラバサミが地面に捨てられる。残骸は跳ね返って空気に溶けるように消えていった。マーブル模様だった風景が正常なものへと変化していく。

 

「……逃げた?」

「そのようだね」

 

 辺りに顔を巡らせた梢にキュゥべぇが答える。トンネルのように覆っていた指の屋根が街路樹に戻り、日差しが戻ってきていた。結衣や自身をこんな目に遭わせた相手にやり返してやりたい気持ちはもちろんあるが、それより結衣の方が優先順位は高い。梢はホッと息をつくと、結衣のそばに駆け寄って膝を付いた。軽く体を揺する。

 

「結衣、結衣! 起きて!」

「う……ん……梢、ちゃん……?」

「そうだよ! もう大丈夫だから!」

 

 反応は程なく返ってきた。薄く目を開けた結衣に、梢の表情が輝く。腹部に巻かれた包帯に沁み込んだ赤色が痛々しいが、結衣の顔色は悪くはない。問題なく梢の使った薬剤が効いている証拠だった。

 状況をすぐさま把握できないでいるらしい結衣がキョロキョロと辺りを見回している所にキュゥべぇは声をかける。

 

「とにかく、ここを離れないかい? 結界が解かれたから、いつ人が来てもおかしくないし」

「そうね。さっきのバケモノとかの説明してもらわなきゃだし、結衣も休ませたいしね。結衣、動ける?」

 

 驚いた表情でキュゥべぇを見ていた結衣は、梢の声にハッと我に返って、立ち上がった彼女にならって身を起こした。足に力が入らずによろけたところを梢に支えられる。結衣は梢を見上げて礼を言うと、今度こそ自分の足で体重を支えた。

 

「えっと……確かに何が起こったのか説明欲しいし、休憩もしたいし動けるけど……」

 

 少し赤くなった顔で目線を逸らし、口ごもる結衣に梢は首を傾げる。

 

「結衣?」

「その……この格好で歩き回るっていうのは……」

「え? もちろん、こんなコスプレ衣装で歩き回るつもりは…………あ」

 

 梢の視線は結衣の腹部へ。脇腹がごっそり無くなるような怪我で服が無事なはずもなく、素肌こそ包帯に巻かれて見えたりはしないが、結衣の姿はかなりあられもないものなのだった。

 

/*/

 

 薄い板の扉と天井の隙間から差し出された白乳色の塩ビ袋に結衣は手を伸ばした。触れた感触が分かったのか、扉の向こうの手が袋を離す。重力に従って落ちてきたそれを、結衣は抱きしめて確保した。

 

「ありがと」

「いいよ。結衣が怪我したのは、あたしのせいなんだし。……あたしも、ありがとう」

「それこそ、いいよ」

 

 礼を言うと、扉の向こうからも礼が返って来る。結衣はくすぐったそうに小さく笑うと、袋の中をチラリと確認して蓋を閉めた便座の上に置いた。ここは、二人が歩いていた並木道の道中にある公園の公衆トイレの一室。狭いが、プライバシーは守られる。

 結衣は衣服として体裁を保てなくなってしまったセーラー服に手をかけた。血が固まってしまっていて苦労したが、何とか脱ぐ。だが、勢い余って肘が扉にぶつかってしまった。大きな音と衝撃に結衣は首をすくめる。邪魔になった服をトイレタンクの上に置いて、打った肘を擦った。ある程度痛みが引いたら、次は便座の上の袋に手をかける。袋には安さが取り柄の量販店のロゴが印刷されていた。ロゴに書いてある量販店で梢が買ってきた代わりの服である。中学生である彼女たちの所持金の事情で服を一式用意しようとしたら少し離れているが、その店しかなかった。

 

「さて、揃ったし、そろそろ始めようか。ユイは着替えながら聞いて」

 

 洗面台に座ったキュゥべぇが唯一閉ざされた扉の向こうへと声を上げる。自己紹介は梢が量販店に行っている間に済ませていた。同じように梢も洗面台に腰かける。この公衆トイレの洗面台は木の長い天板に白い陶器製の洗面ボウルがいくつかちょこんと乗っかるように取り付けてあるというデザインで、更に人一人腰かけてもビクともしないくらいに頑丈で、スペースもあった。キュゥべぇは梢を見上げる。その梢の肌には、散々噛みついてきたトラバサミの歯形は既にない。治癒を祈りとした彼女は、変身を解く前に自身に治療を施していた。

 

「何から聞きたいかい?」

「……あたし達を襲ってきたヤツの事から。魔女って言ってたわよね?」

 

 キュゥべぇからの問いかけに、少し考える素振りを見せてから梢は答える。キュゥべぇのしっぽが波打つように上下に一度だけ揺れた。

 

「じゃあ、そこから話そう。キミ達を襲ったのは、魔女。呪いから産まれ、絶望を撒き散らす存在なんだ。ボクは、その魔女を倒す事のできる素質を持った少女を探してる」

「それが魔法少女ってわけ?」

「そうだよ。ボクは願いを持った少女の所を訪ねて、その願いを叶える。その代りに魔女退治をお願いしているんだ」

 

 まっすぐ梢を見上げながらキュゥべぇは言う。梢は目の前に翳した手の甲を見た。中指にシルバーのリングが嵌っている。これは、魔法少女になった時に梢の手の中に現れた宝石が形を変えたものだった。

 

「それはソウルジェム。魔力の源で、魔法少女の証だから失くさないようにね」

「身分証みたいな?」

 

 梢は小さく笑う。指輪にはいぶし銀加工で模様が入っていた。一定間隔で並ぶそれは文字のようにも見える。事実、それは文字だった。何処の国の物にも当てはまらない文字。だが梢には読むことが出来た。魔力の使い方と同じように自然に。魔法少女になること。それがトリガーなのかもしれない。ここに来る前に結衣に見せたが、彼女には読めなかった。"KOZUE"。指輪にはそう書かれている。これを知っている者に見せれば、自身が梢という名前の魔法少女だと証明できるという事だろう、と梢は結論付けた。

 指輪から視線をずらす。指輪が嵌っている指の爪に模様が描かれている。これも、魔法少女になるまでは無かったものだ。赤瑪瑙色のその模様は十字。卵型の時のソウルジェムの先端についているワンポイントによく似ていた。扉の向こうから衣擦れの音と結衣の声が聞こえてくる。

 

「何か、アニメの中の話みたい…… キュゥべぇは、いわゆるマスコットなの?」

「マスコットって何だい?」

「あー、アニメとかじゃ大抵小動物が魔法少女のサポートをしてるのよ」

 

 首を傾げるキュゥべぇに、梢は頭を掻きながら答えた。実際、アニメで見る魔法少女物には必ずと言っていい程可愛らしい小動物や妖精がサポートしてヒロインに付いている。白猫に似ているキュゥべぇなら確かにピッタリだろう。

 

「なるほど。その認識は間違っていないね」

 

 我が意を得たりといった様子でキュゥべぇが頷く。梢は翳していた手を下ろしてキュゥべぇを見下ろした。

 

「絶望を撒き散らすって具体的にはどういうことなの?」

「怒りや憎しみを過剰に増幅させたり、不安や猜疑心を煽ったり…いろいろだよ。そういった災いの種を人々に植え付けるんだ。結果、対象が自殺したり、殺人を犯したりする。原因不明のそういった事件は、大抵魔女の呪いが原因なんだ」

 

 洗面鏡は天板の長さを全てカバーできる大きなものが取り付けられている。顔をしかめた梢はより深く腰を掛けて鏡にもたれかかった。現実の梢と鏡の中の梢が背中を預け合う。梢は行儀悪く片膝を立て、そこに肘を置いて頬杖をついた。

 梢が魔女のもたらす呪いに付いて憤っているのはキュゥべぇにも感じ取れる。ピクピクとキュゥべぇは耳を動かす。この様子なら、彼女はきちんと魔女と戦ってくれるだろう。

 

「でも、どうして誰もそれに気付かないの? あんな異常な事を体験したら話題に上りそうだけど」

「普通は生きては帰れないからね」

 

 そんな事を思っているキュゥべぇに、納得のいかなそうな声で梢が尋ねる。キュゥべぇはあっさりとした口調でその問いに答えた。

 

「今回は偶然ボクがキミ達に気付いて、さらにキミ達に素質があったから魔法少女になることが出来て相手が逃げたけど。それに、キミ達が飲み込まれたあの異常な空間。あれは魔女の結界と言って、魔女はその奥に隠れ潜んで人前には決して姿を現さないんだ」

「ちょっと待って。"キミ達に素質"? 結衣もなの?」

「そうだよ。彼女にも素質がある。ボクの姿が見えるからね。素質のあるなしはそれで分かるんだよ」

 

 驚いたように梢が鏡から背を離す。それに大きく頷いてみせる。

 

「だからね、ユイ。キミもボクと契約して魔法少女になってよ!」

 

 キュゥべぇは閉じた扉へと視線を投げかけた。結衣の姿は扉の向こうなので、もちろん表情は見て取れない。それでも衣擦れの聞こえなくなったそこからはその言葉を考えているような雰囲気が伝わってくる。

 

「だ、だめよ、ダメ!」

 

 それを遮ったのは梢だった。詰め寄るように天板に腰かけたままキュゥべぇに近付いて身を乗り出す。

 

「魔法少女になったら、その魔女と戦わなきゃいけないんでしょ!? 結衣が戦えるわけないじゃん! あたしが戦うから。それでいいでしょ?」

 

 自分の胸に手を当てて、"あたしが"という事を強調して言う梢に、キュゥべぇは首を傾げる。

 

「でも、一人より二人の方が戦いやすいんじゃないかな?」

 

 言葉に詰まる梢。彼女にも分かっている。先程、殆ど敵にやられるだけだった自分は、あまり戦闘には向いていないという事を。だけど、そんな自分より戦いに向いていないだろう結衣を戦わせる事は許容できそうになかった。

 カチャリと金属が触れる音がして、ゆっくりと扉が開く。そこには心配そうな表情の結衣が立っていた。大人しげな、落ち着いた色のワンピースを着て、扉に触れていない方の手には白乳色の塩ビ袋を提げている。それが少し膨らんでいるのは、今まで来ていた制服が入っている為だ。

 

「梢ちゃん……」

「いいの。もう結衣に怪我させたくないんだから」

 

 呟く結衣に、梢はキッパリと告げる。キュゥべぇはやれやれといった様子でしっぽを揺らした。

 

「そう……なら仕方がないね。でもユイ、忘れないで。キミには素質がある。願い事さえ言ってくれれば、いつでも魔法少女にしてあげられるからね」

「……うん」

 

 結衣は小さく頷く。話を断ち切るように、ことさら機敏な動きで梢は天板から降り立つと、結衣の姿を上から下までチェックする。

 

「うん、似合う似合う。あたしの見立てに間違いはなかったね」

「そ、そうかな。ありがとう」

 

 ワンピースは安物ということもあって地味ではあったが、それでも結衣は嬉しそうに少し顔を赤くして俯く。

 

「じゃあ、帰ろうか」

 

 それに梢も嬉しそうに微笑んで、天板の上に壁にもたれかからせるようにして置いていた学生鞄の内の一つを差し出した。




ようやくあらすじ公開分まで書けたwww
あらすじの中身なんて、注意書き除けば二行しかないのに。
ネタバレ有りとは言え、原作未見の人にも分かるような文章を心がけてます。
一話目からあれだけネタバレしてるのにまど☆マギ知らない人がここまで読んでいるかは不明ですが。


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04 貴方はどうしていつもそうなの

 梢の家は、キュゥべえが想定していたよりも若干大きな物件だった。小さな門を開けて敷地内に入った梢はポストから複数の郵便物を取り出す。ざっと封筒を繰って何処からの物か確認するが、ダイレクトメールだけだった。郵便物が落ちないように持ち直して、梢は通学鞄の脇の金具から鞄の中に伸びた紐を引っ張る。その先に括り付けられていたのは銀色の鍵。それを玄関の鍵穴に差し込んでいる梢の足元で、キュゥべえは不自然にならない程度に辺りを見回した。

 家の壁はあまり色褪せたり汚れたりはしていない。おそらく建ててそれ程経っていないか、塗り直したのだろう。だが、そんな家自体とは裏腹に庭は随分色褪せている。季節ごとの花が植えられているだろう花壇は手入れが行き届いておらず、茂ってはいるが花の数は少ない。葉の色も悪く、蜘蛛の巣も所々に見受けられた。キュゥべえが梢の家の規模をもう少し小さく考えていた思考の材料は結衣の着替えを用意する段階で知った梢の財布の中身だったが、もしかしたら家を建てた後あたりで彼女の親の仕事が上手く行かなくなったのかもしれない。それなら楽そうだ、とキュゥべえはチラリと考えた。

 

「……ただいま」

 

 キュゥべえが玄関を潜ると同時に閉じられた扉は鈍い音を響かせ、その音は家の中に反響する。その空虚さからか、それとも音量のせいか、梢の声もハキハキとした明るさや鮮やかさを失って、くすんで色褪せていた。結衣と歩いた木漏れ日の中で梢が感じていた春風の暖かさはそこにはない。ひんやりとした廊下を通ってリビングダイニングに入ると、梢はテーブルに郵便物を置いて、その横に置かれていたメモ帳に視線を移した。

 

 "夕食代です。母より"

 

 空白の多いメモ帳にはそれだけが書かれている。梢はメモを破ってくしゃりと丸めるとゴミ箱に向かって後ろ手に投げた。その行方を追う事もせず、一緒に置かれていたお札を財布に収める。

 

「部屋、こっち」

 

 声をかけて階段へと足を向ける梢の後をキュゥべえは追う。梢の自室は二階の階段のすぐ傍。ドアには梢の部屋であることを示す木で作られたプレートが下げられていて、開けるとドアと触れ合って軽い音を立てた。

 部屋に入ると、足の裏に感じるふかりとした感触。視線を下げたキュゥべえの目に入って来たのは、毛足の長いパステルカラーの絨毯だった。今は暖かくて気持ち良いが、恐らく来月中旬あたりで薄手の物か毛足の短い物に変えることになるだろう。扉を開けてすぐ右手には木をイメージしたコート掛けが立っていて、複数のショルダーバッグが掛けられている。梢はそのコート掛けに通学かばんを引っかけることなく、ドアから部屋の奥へ直進した所に置かれた勉強机の上に投げ出すように置いた。机の上にはブックエンドに立てかけられた参考書が数冊と、円柱型のペン立て、そして首を曲げて照らす角度を変えられるデスクライト。すっきり整頓されている。部屋の反対側にあるベッドのカバーも可愛らしいデザインで、いかにも年頃の女の子の部屋といった印象を受ける内装だった。

 キュゥべえが部屋を見渡していると、突然目の前が真っ暗になる。体にかかる重さ、やわらかさ。キュゥべえの上に、一抱えはある大きさのビーズクッションが乗っていた。飛んできたそれに潰されたのである。

 

「一体何だい?」

「寝る時、それ使って」

 

 クッションの下から顔を出しながらキュゥべえが問いかけると、梢はクッションを投げた体勢のままその問いに答えた。這い出そうともがくキュゥべえの横を通ってチェストから着替えを出し、そのまま梢は部屋を後にする。クッションから無事脱出するも置いて行かれたキュゥべえは、体をブルブルと揺らした後少し考えて、自身の上に乗っかっていたクッションに飛び乗った。前脚で寝床を整えてそこに丸まる。ビーズクッションは体の形に合わせて形を変え、やわらかくキュゥべえを包み込むように受け止めた。

 梢が戻ってきたのは、それから三十分程経った頃。外に行った様子はなく、ただシャワーを浴びただけらしい。服装はセーラー服からタオル地の部屋着になっていて、髪はドライヤーを当てた様子もなく生乾きで首にタオルを引っかけていた。梢は乱暴に水滴をタオルで拭うと、そのタオルを勉強机の椅子に引っ掛けてベッドに潜り込む。そのまま寝る体勢に移行する梢にキュゥべえも何も言わず、ドアが開いた時に上げた顔をゆっくりと下ろした。頬に感じるクッションの感触。キュゥべえはクッションに一度頬ずりをして再び目を閉じた。

 

/*/

 

 階下の音を拾い、ピクリとキュゥべえは片耳を震わせて頭を起こす。辺りは暗い。目を閉じた時はまだ夕方と言っていい時間だったが、今は夜のようだ。窓を覆うカーテンから日の光は入ってこないし、車の行き交う音もしないという事は真夜中だろう。聞こえる音と言えばベッドで眠る梢の小さな寝息と、その枕元に置かれた目覚まし時計の微かな秒針の音くらい。もう一度耳を震わせると、キュゥべえはするりとクッションから降りて、ドアノブめがけて飛び上がった。その動きに寝起きのような気だるさはない。夜目も利くので暗くても目測を誤ることもなかった。レバータイプのドアノブを体重で下げ、壁を蹴る。その反動でドアは開いた。キィという微かな音と、暗い部屋に差し込んでくる人口の灯り。電気がついているのだ。キュゥべえはドアノブから前脚を離して床に降り立つと、ドアの隙間から廊下へと身を滑り出させた。

 廊下の手すりの隙間から顔を出して、吹き抜けになっている階下を見下ろす。階下はリビングダイニングで、梢が郵便物を置いていたテーブルがよく見える。帰った時は誰もおらず、静かだったその空間に、今はテーブルを挟んで一組の男女が向かい合っていた。だが、二人仲良く食事を摂っているわけではない。確かに男性の前には食べる物が置いてあったが、それは缶ビールとチャック付きの袋に入ったツマミで、女性の前には何もない。そもそも、女性は椅子に座ってすらなかった。元々は座っていたが乱暴に立ち上がったらしく、椅子は机に対して斜めになっている。女性は手の平でテーブルの天板を思い切り叩いた。激しい音と共にビールの缶が跳ねて横倒しになる。中身はすでに飲み終わっていたらしく、しぶきを少しだけ飛ばして軽い音と共に転がった。

 

「……バンバン机を叩かないでくれよ。ビックリするだろう?」

 

 男が倒れた缶を起こしながら眉を八の字にする。バンバン、ということは女性がテーブルを乱暴に叩いて激しい音を立てるのは一度目ではないのだろう。キュゥべえの耳が拾った音はその時の音のようだ。困ったようにへらりと笑う男に女が目尻を釣り上げる。

 

「貴方はどうしていつもそうなの!?」

 

 ヒステリックな高い声で女が声を荒げた。テーブルの上で握られた拳は力がこもって真っ白になっている。男は苦笑いの表情を変えないまま、身を守るように両手で相手を留めるように胸の前で押すように動かした。

 

「落ち着けって。大体、部下を連れて飲みに行くなんてよくある事だろう?」

「へえ? 今度は別部署の子じゃなくて部下なのね。ふうん?」

 

 男の言葉に女は片手を腰に当て、馬鹿にしたように鼻で笑う。そして手元に置かれていたハンドバッグから横型のフタの大きな封筒を取り出した。写真屋のチェーン店のロゴが印字されている。男の口元が引きつった。

 

「だ・い・た・い! 飲みに行く場所がラブホってどういうことなのかしらねぇ?」

 

 封筒から取り出されたのは、束になった写真。枚数はかなり多い。使い捨てカメラ一個では足りないだろう。キュゥべえの位置からではどんな写真か見ることは出来ないが、想像はできる。

 必要な情報を集め終わって階下の騒ぎへの興味を失ったキュゥべえは部屋へと戻った。鼻先で押してドアを閉めると、暗闇が戻ってくる。階下の言い争い、もとい一方的な女性のヒステリックな糾弾の声はまだ続いているが、ドアを隔てた事で軽減され、随分とマシになった。暗闇の中、一直線にクッションに向かって歩き飛び乗ったキュゥべえは、その上で体を丸める。

 

(――ああ、本当に簡単そうだ)

 

/*/

 

「おっはよー!」

 

 ニコニコと上機嫌に梢は前方を歩いていた結衣に声をかける。先程までとは随分様子が違う。結衣の後姿が見えなかった先程までとは。朝起きてから、キュゥべえは初めて梢の声を聞いた。家にいる間に梢の口から出た音は、机の上に置かれたメモを見て吐かれた溜息ぐらいしか聞いていない。

 声に気付いた結衣が振り返る。今日の結衣が来ているのは、梢とお揃いの冬用セーラー服ではない。黒に近い紺のセーラー服に身を包んでいる梢とは違い、結衣のセーラー服は白くて生地が薄く、涼しげだった。その上にカーディガンを羽織っている。一着しかない冬用のセーラーがダメになったので、夏用の半袖セーラーを着ているのだ。結衣は梢の姿を認めて嬉しそうに目を細める。次いで梢の肩に掴まったキュゥべえに気付いて目を見張った。

 

「おはよう。って、わ。キュゥべえ付いて来たの?」

「うん。てかホントに他の人には見えてないみたい。すれ違う人、誰も気付かないの」

「へえ……」

 

 結衣はキュゥべえの顔を覗き込んで、猫にするように顎の下を撫でた。キュゥべえは目を細める。そして心の中で呼びかけた。

 

『こんなこともできるよ』

「ふわっ!? 頭の中で声が響いてる……」

 

 ビクリと肩を震わせて、手をキュゥべえから話すと結衣は自身の頭に手を当てる。

 

『君たちも、頭の中で喋りたい言葉を考えてごらん』

 

 これは魔力というエネルギーを発見したインキュベーターや魔法少女が使う事のできる魔法の一つで、"念話"と呼ばれている。結衣は魔法少女ではないが、今はキュゥべえがアクセスポイントの役割を担っていた。一定距離内にいて対象を意識していれば、それで対象が伝えたいと思った言葉をキュゥべえ側で受け取り、更に伝えたい人に発信することが出来る。

 

『えーと… テステース』

『わ、すごい! 梢ちゃんの声が聞こえるよ!』

『おー、おもしろい』

 

 魔法少女になって使えるようになってはいたが、念話初体験の梢も頭の中に直接届く言葉を楽しむ。キュゥべえは小首を傾げて片耳をピコピコと動かした。

 

『この声はボクが中継しているんだ。普通の人にはボクの姿は見えないからね。人前で誰もいないところに話しかけるわけにはいかないだろう?』

『そだね。んー、便利便利』

 

 満足そうに梢が息をつく。しばらくそうやって静かなやり取りを交わしていた二人と一匹だったが、耳に届いたチャイムの音に顔を上げる。

 

「やっば、予鈴だ!」

「い、急ごう、梢ちゃん!」

 

 梢と結衣は慌てて通学路を走り出す。キュゥべえは振り落とされないように梢の肩にしがみついていた前脚に力を込めた。

 

『キュゥべえは授業中はどうするの?』

 

 息を切らせながら、念話で結衣が問いかける。こうして走りながらでも、念話なら言葉はしっかりと届く。少し考えてキュゥべえは念話を返した。

 

『校内を一通り見て回るよ。何かあったら心の中で呼んで。校内なら声は届くから』

『オッケ。放課後から魔女捜し開始ね。放課後…そうね、体育館裏で待ち合わせましょ。あの建物ね』

 

 校門を抜けて昇降口へと走りながら梢は校舎の端の方を指で示す。植木で隠れているが、そちらのほうに校舎のものとは違う屋根が少しだけ覗いていた。

 

『分かったよ。それじゃあ、また後で』

 

 キュゥべえは梢の肩から指で指された方へと飛び降りる。キュゥべえも、急いでいる梢と結衣も振り返ったりはしない。屋上に取り付けられたスピーカーから本礼のチャイムが鳴り響いた。

 

/*/

 

 梢と結衣が通っている中学は、どこにでもあるような鉄筋コンクリートの校舎一つ、そして渡り廊下でつながったプールと体育館があるだけのそれほど大きくない学校で、見て回るのにそう時間は掛からない。実際午前中だけで回り終わり、残り時間をキュゥべえは屋上から町を眺めることで消費していた。眼下の運動場では体育の授業が行われていて、トラックを体操着に身を包んだ学生たちが走っている。その中には梢と結衣の姿もあった。

 

(結局ユイ以外にはいなかったな。それでもこの学校で素質のある二人が近くにいて、思考と行動を誘導しやすいのはメリットだろうね…… 隣り町にも中学校はあるし、明日はそちらも調べてみよう)

 

 しっぽをユラユラと揺らしながらキュゥべえは心の中でそう呟く。視線は息を切らせて走っている結衣の後姿に固定されている。キュゥべえは、別行動の間に校内に魔法少女になれる素質を持つ少女を探していた。だが、結果は空振り。今現在校内にいる"素質があり、且つ魔法少女でない少女"は結衣だけという事になる。前にいたところのように、担当する魔法少女が魔女になる度に新しい魔法少女に乗り換えていく方法は使えない。

 昨日の様子を見る限り、梢を魔女に堕とすのは難しくはないだろう。むしろ簡単だと言っていい。放っておいても魔女化しそうな危うさが梢にはあった。難しいのは、魔女化させるタイミング。あまりにも早いと結衣と魔法少女の契約を結べない可能性がある。

 

(優先すべきはユイとの契約。コズエを堕とすのはその後。ユイに付いて契約の隙を見つけたいところだけど、コズエは脆そうだ。コズエの傍に居て、絶望をコントロールした方がいいだろうね)

 

 傍にあるスピーカーから、チャイムの音が鳴り響く。今日最後の終業チャイムだった。運動場で、教師が生徒を集めて整列させている。これから片付けとショートホームルームがあるならば、もう少し待たされることになるだろう。

 キュゥべえはゆっくりと起き上がると校舎から身を躍らせた。空中を蹴って、滑落するように降下する。着地は渡り廊下の屋根の上。足元の渡り廊下を生徒たちが数人走っていくが、キュゥべえに気付いた様子はない。そのまま屋根を隔ててすれ違い、キュゥべえは体育館へと辿り着いた。午前中に確認しておいたので道に迷う事はない。

 体育館裏は、体育館とプール用更衣室に挟まれた小さな庭だった。特に手入れもされておらず、ちらほらと雑草が生えているだけで特徴もない。キュゥべえは更衣室のエアコン室外機に座って梢たちを待った。

 

「おまたせ」

「ごめんね。着替えと片付けに手間取っちゃった」

 

 時計の長針が180度程動いた頃、黒と白のコントラストがキュゥべえの元へとやって来た。冬と夏のセーラー服。

 

「構わないよ。……早速だけど」

「あ、ちょっと待って」

 

 キュゥべえが室外機から飛び降りて梢に近付くと、彼女は手でその動きを押し留めて結衣へと視線を向けた。

 

「結衣」

「何? 梢ちゃん」

「魔女退治は危険だから、結衣は先に帰ってて」

 

 結衣は梢のその言葉に目を見張った後、通学鞄の取っ手を握り直す。

 

「えっ? で、でも……」

 

 狼狽えたような結衣の言葉。だが、梢が結衣に向ける厳しい視線は緩まない。それでも怯えさせないように、口調だけは優しげに聞こえるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「お願い。私もまだシロートだしさ。守り切れる自信、ないし。昨日みたいなの、もうヤなの」

「梢ちゃん……」

「ね、お願い」

「…………うん」

 

 ダメ押しにもう一度言われ、結衣は小さく頷いた。結衣の表情は暗いが、梢の表情は対照的に柔らかくなる。俯いた結衣の肩にポンと手を置く。

 

「ありがと。また明日ね?」

「うん…… また、明日……」

 

 結衣の返事に満足したように梢は頷いて、その場に結衣を置いて元来た道を引き返し始める。俯いて瞳を揺らす結衣。それが足元にいるキュゥべえにはよく見えた。

 

『ユイ』

『……っ!』

 

 キュゥべえが念話を送ると、結衣の肩がピクリと跳ねる。この念話はチャンネルを絞って彼女だけに向けたもので梢には聞こえていない。

 

『コズエのことが心配なんだね?』

 

 静かにキュゥべえが問いかける。返事は縦へと振られる首の小さな動き。

 

『そうだね。キミは、コズエの切り札になれるだろう。キミが願いさえすれば、魔法少女になれるのだからね』

 

 ゆっくりと白い尾が左右に揺れる。逆に不安そうに揺れていた結衣の瞳には落ち着いた光が戻ってきた。それを確認してキュゥべえは言葉を続ける。優しげに聞こえるように意識して。

 

『大丈夫。ボクに任せて。どうなってるのか、念話で中継してあげる。コズエに危険が迫ったら、すぐに教えてあげるから』

『……うん。お願い……』

「キュゥべえ、行くわよ!」

 

 付いてこないキュゥべえに気付いたらしい梢が片手を腰に当てて振り返る。

 

「ああ、今行くよ、コズエ!」

 

 呼ぶ声に返事をして、キュゥべえは結衣に背を向けた。大きな白いしっぽがゆらりと宙を撫でる。梢の後を付いて行きながら、チラリと背後に視線を送った。目に映るのは、通学鞄の取っ手を握りしめて、不安そうにしながらも梢の後姿から目を逸らさない結衣。キュゥべえは誰にも聞こえないような小さな声で呟く。

 

「……じゃあ、また後でね。ユイ」




今年最後の更新に間に合った……!
誰か私の分の睡眠取ってくれないかな。
最近夜更かしができない、したらしたで疲れが取れなくなってきた(´・ω・`)


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05 私の、せいだ

 結衣と別れた梢は、昨日魔女に襲われた並木道までやってきた。昨日と同じように木漏れ日が気持ちよい。この場所に来たのはキュゥべえの指示だった。梢は視線を地面に落とす。そこに白い色彩が入り込んできた。

 

「で、魔女捜しってどうするの?」

 

 訊ねられた足元のキュゥべえは梢を見上げる。

 

「ソウルジェムを指輪から宝石に」

「ん……」

 

 梢は頷いて手を前に差し出す。中指のシルバーリングが光に変わり、形を変える。指からするりと抜けて手の平で卵型に固まった。卵型の光は赤瑪瑙色のジェムとなる。流れ込んでくる、魔力の使い方。宝石が鈍く明滅を始め、梢の瞳がその光を反射する。梢は宝石を乗せた手の平を空中で滑らせて反応の強いほうを探っていく。いわゆるダウジングと呼ばれる探知技法だった。

 

「……反応、薄いわね」

「一日経ってしまっているからね」

 

 しかし、期待したほどの変化はない。どの方向に向けても同程度の反応に溜息をつく梢にキュゥべえは言う。それでも強いかなと思える方へと梢は歩き出した。キュゥべえも遅れないように足を動かす。

 昨日結衣と歩いた道を、今日はキュゥべえと歩く。たまに人とすれ違う事もあるが、梢とキュゥべえに注意を払う者はいない。道中の公園では何人かの子供が駆けまわって遊んでいて、キャーキャーと甲高い歓声を上げている。それをチラリと確認して、ジェムを向けた。光の強さは変わらない。梢は止めていた足を再び動かした。何人かの通行人とすれ違い、並木道が終わりを告げる。

 突き当たりは丁字路となっていて、そこは大通り。並木道と違って人通りも車通りも多い。分かれ道に立つと、ついにジェムの反応に変化が出た。望んでいた変化ではない。今まで鈍く、それでも一定間隔で明滅を繰り返していたジェムの光が途絶えてしまったのだ。

 

「……反応が……」

 

 梢は慌てて左右の道へとジェムを向ける。一方の道で反応が戻って、小さく息をつく。そちらへと歩を進める梢とキュゥべえ。今度の反応は顕著だった。進むにつれて、明滅が激しく、光も強くなっていく。

 

「近いよ」

「ええ!」

 

 キュゥべえの言葉に、梢の足が速くなる。光に導かれて大通りから脇道に入り、何度か曲がり角を曲がって梢はそこに辿り着いた。ビルとビルの間で取り残されてしまったような空間。漂う寂れた雰囲気。ジェムの反応は、そのビルの内の一棟を示していた。寂れた雰囲気が一番強く、掃除すれば何とか使えそうな他の建物とは違い、そのビルだけは使えそうにない。なぜならば、建設中のまま放置されているからだ。忘れ去られてしまったかのような中途半端に作られた壁に、中途半端に覆われたブルーシート。雨風にさらされ続けていただろうそれらは、もし建築が再開されることとなっても取り壊す所から始めることになるだろう。塞がれていない窓や入り口は風化を始めていて、既に廃墟といっていいような有様だった。

 ポッカリと開いた入口から建物内へと足を踏み入れる。ビル内に灯りはないが、黄昏時という事もあって入り口や窓になる筈だった穴から外からの夕陽が射しこんでいるので見えないという事はない。天井は作ってあるが、中途半端に穴が開いている所がある。おそらく、二階への階段かエスカレーターがそこに来るはずだったのだろう。風に運ばれたのか中の方にまで砂が入ってきていて、梢が歩くとジャリジャリと音がする。くっきりと浮かぶ足跡。足音こそしないものの、それに付いて歩くキュゥべえも足跡だけは砂に刻んだ。

 梢とキュゥべえは辺りを見回す。建設途中という事で建物内の壁は作られていない状態だが、何もないわけではない。柱に、建築資材。ハンパに組まれた足場。梢はその足場の傍に何かの影を見た。子供ほどの大きさの、影。

 

「……誰か、いる?」

 

 呟いて梢は足場に近付くが、すぐにその影が子供ではない事に気付いて足を止めた。足場に引っ掛けられ、垂れた縄。ギシギシと風に揺られて重量のかかっているそれが音を立てている。縄に重量をかけているのは人の体だった。先端が輪になっていて、喉元を締め付けている。

 

「……っ!」

 

 その姿が夕陽に照らされてハッキリと梢の目に飛び込んできた。梢は息を呑んでそれに駆け寄る。子供ほどの大きさに見えた影だが、子供ではない。成人女性だ。ただし、両手両足がない。それが女性の影を子供のように小さく見せていたのだった。

 

「……これは…もう……」

「うん、もう死んでるね」

 

 梢の言葉に、キュゥべえは当然のように言って頷く。女の顔には血の気が無く、目は虚ろで濁っており、絞まった首にはどす黒いあざが見えている。両手足の切断面は無理矢理引きちぎったかのように歪で、床に落ちた血だまりは既に乾ききっていた。これほど分かりやすい死体はそうないといえるレベルだろう。

 

「そんな……! な、治せないの!?」

 

 それでも梢は諦めきれないのか声を上げる。

 

「無理だよ。死者は蘇らない。そんなに簡単に蘇るなら、ユイを助ける為って君との契約を急かす必要なんて、ないだろう?」

 

 しかしキュゥべえがそう言うと、梢は沈痛な面持ちで顔を伏せた。重症の結衣をあっという間に治してみせた魔法の力。だが、魔法は万能ではない。そんな事、魔力を実際に振るう事が出来るようになった梢は理解している。それでも、訊かずにはいられなかったのだ。手の中のジェムを握りしめる。

 

「…………」

「コズエ、首元を見てごらん」

「首元……? 何あれ。刺青?」

 

 俯く梢にキュゥべえが声をかける。チラリと梢はキュゥべえを見下ろして、次いでキュゥべえの視線を追って首吊り死体の首元を見た。縄に絞められたことで出来た痣。それとは別に何か模様のようなものが刻まれているのに梢は気付いた。梢が気付いたのを視線で確認してキュゥべえは話を続ける。

 

「あれは魔女の口づけと呼ばれるものだよ」

「魔女の口づけ?」

「魔女の植えつける呪い、災いの種。それが、魔女の口づけ。魔女のターゲットとなってしまった人間に刻まれ、受けた人間は……」

 

 昨日聞いたばかりの話。キュゥべえが意味深に言葉を途切れさせても、梢にはその先を簡単に想像できた。

 

「自殺したり、殺人を犯す……」

「そうだよ」

 

 よく出来ました、といった様子でキュゥべえが頷く。梢は眉根を寄せて再び俯いた。視界に映るのは、スカートと靴のつま先、キュゥべえの後頭部。そして床にばらまかれた赤い色。その赤い色が滲んで、梢は目を細めた。

 

「私の、せいだ……」

「コズエ?」

 

 呟く梢の声に、キュゥべえはそちらを見上げる。

 

「昨日…私が魔女を取り逃がさなければ……」

 

 唇を噛みしめる梢の瞳が揺れていた。水分が瞳に膜を作っている。キュゥべえは一度瞬きをした。

 

「コズエのせいではないよ。昨日逃がさなかったとしても、この人は助からなかっただろうから。死後一日は確実に経ってる。コズエが魔法少女になった頃には、この人は既に死んでたみたいだね」

「え……っ?」

 

 梢とキュゥべえの目と目が合う。梢の目が見開かれ、水分が少し落ち着くのがキュゥべえには分かった。

 

「この魔力の感じだと、ここにいるのは使い魔かな。この人は首を吊った後に魔女の手下…使い魔にでも喰われたんだろうね」

「使い魔?」

「魔女が生み出す呪いの欠片のことだよ。使い魔は生み出されてしばらくは魔女の元で割り振られた役割をこなす。そして呪いの力が強まると独立するんだ。最終的には親元と同じ魔女になる。昨日のトラバサミも使い魔だよ」

 

 キュゥべえが説明すると、梢は死体をもう一度見る。そして、昨日襲ってきたトラバサミを思い出した。肌に噛みつかれた痛み、付いた歯型。金属の鋭い牙。噛みつかれた時、梢は魔法少女として魔力を纏っていたからあの程度の怪我ですんだが、抵抗できない状態で噛みつかれたとしたら。

 

「トラバサミ…… この噛み痕…もしかして……?」

「その可能性はあるね。見てごらん」

 

 背筋に寒気が走って肩を擦りながら梢が言うと、キュゥべえは少し考える素振りをしてから同意した。そして、視線で近くの壁を示す。窓となる筈だった穴から差し込む夕日に紛れて今までは気付かなかったが、そこには光で描かれた模様があった。縦に長い楕円形の模様で、その色鮮やかさはまるでステンドグラスの影を見ているよう。梢は振り返るが、もちろんそこにステンドグラスなどはない。

 

「光の…模様?」

「魔女の結界だ」

 

 もう一度壁の模様を見て梢が首を傾げると、キュゥべえは簡潔に答えた。魔女の結界。昨日、結衣と紛れ込んでしまった異界。その向こうに、魔女がいる。

 梢は眉尻を吊り上げて手に握ったままのジェムに意識を集中させた。ジェムから漏れた光が梢を包む。光が通り過ぎていった部分からセーラー服が魔法少女のコスチュームへと変換されていく。最後にソウルジェムがリングガーターとなって太ももを包み、変化を終える。まだ慣れていない短すぎるスカートの裾を手で引っ張り下ろして梢は結界の入り口を睨み付けた。

 

「……行くわよ」

「分かった。あの模様を潜れば、そこが魔女の棲み処だ」

 

/*/

 

「……あれ?」

 

 結界に足を踏み入れた直後、梢は戸惑いの声を上げた。風景は一変している。廃ビルの灰色から、クレヨンで力強く、言い方を変えれば乱暴に描かれたような線が彩る空間へ。上から下へ振り下ろされたような軌跡の茶色が左右に並び、縦線の上の方で緑色がぐりぐりと円を描くような軌跡で走っている。一見して森の小道のように見えるが、その内のいくつかの緑の中から赤い縦線が垂れ下がり、その先の肌色で描かれた丸と楕円を繋いでいた。それは先程の首吊り死体をデフォルメして絵にしたかのようで、肌色の楕円には所々赤色が混じっている。現実味のない不気味な風景。だが、言えることが一つある。それは、この結界が昨日結衣と共に巻き込まれたものと同一ではない、ということだ。

 

「昨日のと…違う?」

「どうやら、全く別の魔女結界のようだね」

「…………」

 

 キュゥべえの言葉に、梢は顔をしかめる。見上げてその表情の変化に気付いたキュゥべえは、素直に頭に浮かんだ疑問を彼女へと投げかけた。

 

「喜ばないのかい? 本格的にキミのせいじゃなくなったのに」

「……喜べるわけないでしょ。あんなことが出来るのがその辺にゴロゴロしてるって言われてるようなものなのよ」

「ふうん?」

 

 首を傾げて、不思議そうにキュゥべえは呟く。何人かの少女と契約して共に過ごしてきた彼には、梢が負の感情を抱いているということを気付くことが出来た。それが怒りや憤りと呼ばれているという事も知っている。だが、何故そういった感情の動きが発生しているのかは分からなかった。

 梢は目線を外すキュゥべえに構わず、クレヨンで描かれた草木を左右にかき分ける。ざあ、という本物の葉が擦れるような音がして道が開かれた。今までの小道とは違う、円形の広場のような空間。気配を感じて梢は近くの茂みに身を潜めた。キュゥべえも姿勢を低くして梢に寄り添う。その広場の真ん中で、何かが蹲っていた。

 

「……いた!」

 

 くっきりとしたアーモンド形の目を険しくして、小さく梢は叫ぶ。キュゥべえも相手の姿を確認する為に茂みから顔を出した。視界はそれ程よくないが、相手の姿はハッキリと見て取れる。

 

「あれは……やっぱり使い魔のようだね」

 

 キュゥべえの報告を聞きながら、梢も蹲ったモノをよく見ようと目を凝らす。蠢く影は、人のような(かたち)をしていた。完全な人ではない。人と獣を掛け合わせたような姿は、人狼、というのが一番近いだろう。前屈みになったその体は、背が異常に盛り上がっていて固そうなタテガミで覆われていた。体は全体的に痩せ細ってガリガリだが、下腹部だけは異様に膨れ上がっている。更に目つきの鋭い顔は狼らしく鼻が前へと突き出していて、獣の口からは黄色く濁った牙と不自然な程に赤い舌が覗く。その色遣いは、まるで子供がクレヨンで過剰な程の力を込めて描き殴ったかのよう。そして、口回りの毛皮は赤く汚れ、濡れていた。べロリと舌が汚れた鼻の辺りを拭き取り、頭が下げられる。どうやら食事中らしい。その口が食んでいるのは、噛み千切られたような断面を晒している女性の左脚だった。

 

「ぅぇ……」

 

 梢はグロテスクなその光景に小さく呻いて手を口に当てる。吐き気は何とか堪えたが、眉根が寄ってしまうのは仕方のない事だろう。なるべく直視しないようにして、梢は腕の中に注射器を呼び寄せた。

 

「でも、考えようによっちゃ、今がチャンスよね……」

「……! コズエ!」

「な、何……!?」

 

 身構えた梢にキュゥべえが声をかける。焦っているのか、その声は鋭く、早口だ。その理由はすぐに分かった。

 

「ぁあ…ぁ……っ」

 

 ベキ、ボキ、ブチ、と何かを壊して潰して無理矢理に、且つ乱雑に作り変えていくような怪音。それは、人狼の膨らんだ腹の中から聞こえてくる。元々膨らんでいた腹が歪に形を変えながら更に膨れ上がっていく様を視界に収めたまま、梢は口元を先程よりも強めに押さえた。顔を青くし、目を見張る。腹は骨と皮ばかりの痩せ細った狼とは思えない程に膨らんだ後、ついには弾けた。裂け目は、繊維が千切れるような音と共に胸側から肛門側に向けて一直線に走る。その線に沿って血がぶちまけられた。赤の中に、濡れぼそった獣の前脚が覗く。重たい水音が二回して、大きな塊が血の水たまりに落ちた。一つはその身を起こし、もう一つはピクリとも動かない。

 身を起こした"それ"は、今まで死肉をむさぼっていた使い魔より幼さない印象を受ける人狼だった。腹を裂かれ、中身を失くしてくずおれた使い魔よりも小さな体格、幼い顔。だが、離れていても感じる醜悪さは使い魔と比べ物にならない。死肉を食んで鼻面を真っ赤に染めていた大きな人狼よりも、全身が血と羊水に塗れた仔狼の方が余程禍々しく感じられる。結界内のクレヨンで殴り書きされたような木々の間から覗く、日の射さない空を見上げて仔狼は口を開いた。涎と羊水と血がボトボトと零れ、空気が混じって泡が立つ。幼い顔立ちから想像できない程大きく裂けた口から吐き出されるのは、産声。

 グリーフシードを孕み魔女となった使い魔は、分裂元となった親の名前を踏襲する。結界内に文字が降り注いだ。梢のシルバーリングにも刻まれている魔法の文字。それは空気に溶けるようにすぐに消えてしまったが、魔法少女として魔力に目覚めた梢には難なく読み取ることが出来た。――曰く。

 

 Winfriede(ヴィンフリーデ)




お久しぶりです!
ようやく新車が来て代車から解放されました。
皆さん、運転する時は気をつけてくださいね……(切実

お祓いした方がいいかもしれない (´・ω・`)


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06 危ないこと、しないで

 梢とキュゥべえの目の前で産まれた魔女、ヴィンフリーデ。その仔狼姿の魔女の産声と共に、地面の影が不自然に揺らめいた。注意深く見てみると、血溜まりと影が混じり合い、水面のように波打っているのが分かる。何が起こるのかは分からないが、少なくとも良いことではないだろう。そう判断した梢は、武器であり盾でもある注射器を強く抱きしめた。

 

「これが、魔女……」

 

 小さな姿から発せられる醜悪な気配に息を潜めて梢は呟く。その声は固い。使い魔とは比べ物にならない程の醜悪で大きな魔力を肌で感じ、身動きが取れなくなっていた。梢とキュゥべえが見つめる中、プールからプールサイドへと上がるように影の中から地面に横たわったものとそっくりな人狼が現れる。違うのは、毛並みが血に染まっていない事と、腹が膨らんでいない事。新たに現れた人狼は、濡れた体の水分を飛ばすようにブルブルと体を振るわせると顔を上げた。そして広場をゆっくりと見渡すように視線を巡らせる。人狼の視線は仔狼姿の魔女で一度止まり、二度目は梢とキュゥべえが隠れる茂みで止まった。小さく鼻をひくつかせ、ニタリと嗤う。

 

「見つかった……!」

 

 キュゥべえが短く叫ぶ。同時に梢も動こうと身じろぎするが、それよりも人狼の方が動きが早い。一直線に飛び掛かってくる。考えるより先に、梢は抱きしめていた注射器を体の前に突き出していた。横に寝かした状態のまま。人狼はぶつかるように注射器の本体部分に牙を立てる。

 

「……っく!」

 

 魔力で強化しているから、それで注射器の筒が割れたりはしない。だが、押し倒そうとしてくる人狼の力と体重に梢は呻いた。必死に力を込めて衝撃に閉じてしまった目を薄く開くと至近距離で人狼と目が合う。濁った瞳の色は血が固まったような赤茶色。その中に恐怖で歪んだ梢の顔が映り込んでいる。堅そうな体毛の色は茶色で、薄暗い森の中では木の幹と紛れてしまいそうな色合いだった。口からは涎が溢れ、注射器を濡らす。動物園にいるかのような臭いが酷く鼻につく。

 

「コズエ! 足元!!」

 

 臭いのキツさに梢が顔をしかめていると、キュゥべえが鋭く警告の声を上げた。ハッと足元に視線を落とすと、人狼の影が波打っている。

 梢は慌てて手を離し、注射器を突き飛ばした。その反動で、一歩分、梢の体が後ろへと下がる。その下がる前にいた場所を、影から伸び上がった茶色が斬り裂いた。遅れていた長い前髪の一房がそれに巻き込まれて宙に散る。

 

「きゃ……っ!?」

 

 一歩分では、足りない。そのまま転がるように梢は後ろへと飛び退る。人狼の口の中に残った注射器は噛み砕かれて、中に満たされていた薬剤が地面に沁み込まれていった。注射器は元の小さな大きさに戻って小さな水たまりに落ち、波紋を描く。梢はもう一本注射器を取り出して魔法で巨大化させた。今度は威嚇するように針を人狼に向ける。だが、新たに取り出したものなので、中に薬剤は入っていない。

 人狼の数は、二匹。もう地面は波打っていない。しかし呻り声と腹の虫の音が混じり合って、もっと数が多いような錯覚を受ける。人のように背筋を伸ばせないのか前屈みで、前脚は毛で覆われ爪が凶器に使えるほどに伸びて尖っていても、人のように指は分かれていた。爪と爪が触れ合って、カチャカチャと音が鳴る。

 

「お腹、膨らんでいないけど、あの魔女を産んだのとは違う種類なのかしら。お腹以外は同じに見えるけど」

「多分、同じものだと思うよ。魔女は使い魔を生み、使い魔は魔女となる。さっきの使い魔の腹が膨らんでいたのは、魔女を孕んでいたからのようだしね」

「……とにかく、使い魔を何とかしなきゃ近付けなさそうね」

 

 ジリジリと距離を取りながら人狼を観察する。人狼たちも視線で梢を追う。梢は針が人狼たちから逸れないように注射器を構えたまま薬剤を補填する為にピストンを引いた。

 だが、薬剤が溜まりきる前に二頭が同時に動く。咄嗟に針を突き出すも、当たらない。先行した一頭の爪がすり抜けざまに梢の肩を引っかけた。

 

「く、ぁっ」

 

 袖口が肩から破れ、血しぶきは地面に模様を描く。梢に傷を負わせた人狼は、その模様にむしゃぶりついた。血の匂いに夢中になっているようだ。もう一匹は向かってくる。

 

「えぇーいっ!」

 

 柳眉を逆立てた梢は薬剤がチャージしきれていないのを承知で注射器を槍のように再び突き出す。まっすぐに突っ込んできた人狼は避けきれない。針は人狼の胴体に付き立った。ピストンを押し、人狼の体に薬剤を注入する。薬剤の半分程が入った所で、梢は人狼に右足で蹴りを入れた。反動で針がすっぽ抜け、体が後ろへと流れる。先程注射器から手を離した時と同じように、それによって空いた空間を地面に飛び散った血を舐めとり終わった人狼が埋めた。再び、人狼と睨み合う。違うのは、向き合っている者の数と、梢が注射器を抱えているか否か。キュゥべえは茂みの傍ですぐに引っ込める位置にいる為に、先程は二頭対一人という形だったが、今は注射された一体が苦しみながら地面をのた打ち回っているので一頭対一人の構図になっている。補充しきれなかった為に元々の薬剤の量が少なかったのと、邪魔が入ったせいで全て注入することは出来なかったが、十分効いているらしい。

 

「よし、効いてる!」

 

 梢が明るい声で言う。思わず息をつく梢にキュゥべえの警告が飛んだ。

 

「右からもう一頭来てるよ!」

「ぁ……!」

 

 咄嗟に右を向いた梢の視界に映るのは、飛び散る赤色。血液の赤と、布地の赤。梢は注射器を横に薙ぐ。人狼が距離を取るのを視界の端に収めつつ、地面に向けた注射器の縁に足をかけた。歯を食いしばってピストンを引き、今度は完全に薬剤を補充する。その動きは大雑把かつ乱暴で、確かに梢は普段から繊細な動きなどしてこなかったが、それと比べても動きに余裕が感じられない。

 

「んのぉ!!」

 

 梢は腰を落とし、大きな注射器を気持ち針を上目に構えて突き上げた。針は、飛び掛かって来たことによって空中にいた人狼の大口の中に吸い込まれる。そして、ぶつかった衝撃を勢いに変えてピストンを押し込む。薬剤が、今度は針の空洞を通って完全に人狼の体内へ流し込まれた。人狼の苦鳴。それは、口に突っ込まれた注射器のせいでくぐもっている。体が痙攣し、噛みしめた口の端からは涎を垂れ流していく。眼光も見る間に濁っていき、瀕死状態なのは間違いない。だが――

 

「……っ!? 抜けない……!」

 

 注射器が、抜けない。先程のように下がれない。その上、空中にあった体が地に堕ちて、梢の体も引きずられるように体勢を崩した。

 

「コズエ!」

「…しま……っ」

 

 キュゥべえの声。注射器に貫かれたままの瀕死の人狼の脇から、近づいて来ていたもう一匹が飛び掛かってくる。注射器から手を離すという選択も梢の頭には浮かばなかった。ただ、迫りくる汚れた牙を瞳に映す。しかし。

 

「えっ?」

 

 梢の口から漏れたのは、間の抜けた声だった。瞳の中から牙が消えている。牙は、ずれた位置で噛み合わされていた。正面にいた人狼の頭が横に逸れたのだ。距離が空いたわけではない。我に返った梢は注射器を横に薙ぐ。重いが、それは魔力で無理矢理補助した。注射器は人狼のわき腹に当たり、短い距離ではあるが吹き飛ばす。突き刺さったままだった方の人狼も力なく針からすっぽ抜け、梢の腕にかかっていた負荷が消えた。魔女を腹に抱えていたのと合わせて三頭の人狼が地面を転がり、一頭は身を低くして距離を取って魔女の傍へ。地面を転がっている人狼は一頭だけが身じろぎ、地面を掻く。だけど、梢の意識はもうそちらへは向いていなかった。

 

「どうしてここに……」

 

 緊張と恐怖と興奮から荒くなっていた息を整え、梢は窮地を救った因子へと視線を向ける。相手の息も若干荒い。息を呑んで、ふう、と大きく息をついた。梢は何かを堪えるように顔をしかめて掠れた声を上げる。

 

「結衣……!」

 

 口を大きく開けた醜悪な人狼の代わりに梢の瞳に映ったのは、大事な親友。人狼の頭を殴り飛ばした学生鞄を胸元に引き寄せた浅見結衣だった。

 

/*/

 

 キュゥべえは息を弾ませる結衣の姿を肉眼で確認して耳を軽く動かした。動きに合わせて耳毛が揺れる。彼女が結界に入った事は分かっていた。今まで念話で繋がっていたのだから。無感情故に恐怖がどんなものなのかキュゥべえには分からなかったが、それでも分からないなりに今まで関わってきた魔法少女達との経験を元に敵の姿を恐怖心を煽るように伝え、梢が手傷を負った事を血の匂いがしそうなほど丁寧に伝え、常人では踏破の困難な結界内の道を安全に渡れるように伝え。

 結衣がキュゥべえの元に辿り着いたのは、人狼と梢が一頭対一人で向かい合ったところだった。結衣は荒れた息を膝を掴み、前屈みになって整える。そうでもしないと地面と仲良くする羽目になっていただろう。ずっと休むことなく走り続けていたせいで、膝が笑っていた。汗が数滴地面を濡らす。結衣が顔を上げるのと、キュゥべえが声を上げるのはほぼ同時だった。

 

「右からもう一頭来てるよ!」

 

 顔を上げた結衣が見たのは、鋭い爪に胸元を深く斬り裂かれる梢の姿。破かれた赤瑪瑙色の布地の切れ端、赤褐色の血液が飛び散る。結衣の目が見開かれた。

 本当にいいタイミングで辿り着いてくれた、とキュゥべえは思いながら、しっぽを揺らして戦場を見やる。丁度、梢が口の中を串刺しにされてくずおれる死体に引き摺られ、体勢を崩したところだった。同時に、興味なさそうに座り込んでいる仔狼の魔女の影が揺らいでいるのに気付く。影溜まりから出てくるのは、新たな使い魔。使い魔は、梢が気付く前に距離を詰め、飛び掛かろうとする。

 

「……っ!」

 

 体を硬直させて顔を青くしていた結衣が、茂みから飛び出す。人狼の方が生身の結衣より動きは早い。だが、立ち位置は茂みが近かったので、梢の元へ到達したのは同程度だった。

 人狼は大きく口を開ける。結衣は力強く踏み込む。ローファーの底が地面を擦って音を立てた。通学鞄の取っ手をしっかりと握り、側面が人狼の横っ面を引っ叩けるように振り抜く。ゴルフのドライバーのような軌道を描いた通学鞄は、小さな球ではなく人狼の頬を張り飛ばし、牙の軌道を変えた。

 さすがにそう来るとは思わなかったキュゥべえは目を丸くする。元々丸い瞳で、且つ変化が少ないのでよく見ないとその変化には誰も気付かないだろうが。少なくともキュゥべえに背を向けている結衣と、その結衣の登場と行動に自失している梢は気付かなかった。

 

「結衣……!」

 

 呆然と結衣の名前を呼ぶ梢。だが、敵は待ってはくれない。人狼が視線を外した梢に襲い掛かる。梢は爪が届く直前で我に返り、慌てて避けた。袖口が斬り裂かれるものの、肌には届かず、傷はない。それでも顔を青くして動こうとする結衣の隣にキュゥべえは静かに寄り添うように歩み寄った。

 

「ユイ。危険だ、下がって。相手は魔女。人間じゃないんだ。魔法少女じゃないキミでは、対抗できない」

 

 見てごらん、とキュゥべえは梢と人狼を示す。注射器を盾として構える梢と、彼女に噛みつこうとしている人狼がもみ合っている。

 

「咄嗟に鞄で殴り掛かってコズエのピンチを救ったのは凄いと思うけど、キミではダメージを与えられない。魔女や使い魔に対抗できるのは、魔法少女だけなんだ」

 

 梢は人狼との力比べを諦めて注射器から片手を離す。対抗の力が緩んだことで人狼が押し込んできた。梢は押し倒されないように後ろに下がりながら手をひらめかせる。その手の中には、新たに呼び出した小さな注射器。

 

「……でも、コズエは魔法少女になったばかりだし、戦いなれてない。――コズエ、もう一頭が回復したみたいだよ、気をつけて!」

 

 手の中の注射器をもみ合っている人狼に振り下ろそうとしていた梢は、手の振りを縦から横へと変更した。迫っていたもう一匹は背を反らして注射器を避ける。だが注入された薬剤のせいで足腰が弱っていたのか、そのまま尻餅をつくように倒れ込んで反撃はない。しかし、もみ合っていた方の力に対抗できなくなって距離を取らざるを得なくなり、梢も追撃をかけることは出来なかった。ハラハラとその様子を見つめていた結衣の足に、キュゥべえがしっぽを絡める。

 

「一人だと、倒すのは難しいかもしれないね?」

 

 柔らかく、温かい感触に逸れた意識と、いっそ優しげな囁きに結衣は息を呑んだ。視線を彷徨わせて唇を一度引き結ぶが、その力はすぐに緩む。

 

「結衣」

 

 だが、その口から紡がれようとした音は、別の口から放たれた音で形になる事はなかった。結衣が顔を上げると、梢は背を向けたまま人狼と対峙している。もみ合った挙句に奪われた注射器は破壊されたようで、彼女の手に握られているのは小さな注射器だけだった。

 

「でも……っ」

 

 言外に止められて、結衣は言葉を詰まらせる。

 

「危ないこと、しないで」

 

 争いごととは無縁の生活をお互いしてきた。梢は結衣に戦いは無理だとキュゥべえに言ったが、それは梢にも言える。危ないことはして欲しくない。どうしてもする必要があるのならば、せめてその時は共に。泣きそうな表情の結衣に梢は笑って見せた。苦笑だけど、それは心からの笑み。

 

「それは、こっちの台詞。魔法少女じゃない結衣が横っ面ひっぱたけるんだもの。魔法少女のあたしが負けるわけ、ないでしょ」

 

 そう言って結衣に背を向けた梢は決意を新たに武器を人狼へ向けた。

 結衣は、絶対に守ってみせる。そして、魔女を倒すのだ、と。




お久しぶりです!
何とか仕事場の引っ越し作業も終わり、移動にも慣れてきました。
でも通勤時間10分ちょい→1時間以上はキツイですww
暫く文章書けなかったから、矛盾がないかなどのチェックが大変……
こういう時、プロットのあらすじって大切なんだなーと心の底から思います。


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07 ほら、餌の時間よ

 

 お腹が空いた。

 

 

 ヴィンフリーデは頭を巡らせる。

 肉がひとつ、ふたつ、みっつ…… あれを全て食べればこの飢えは癒えるのだろうか。

 

 

 食べたい、喰べたい。

 

 

/*/

 

 子供がクレヨンで描いたような森の中。字面だと微笑ましく思えるかもしれない。しかし、木々の間に描かれた首吊り死体が、地面に沁み込んだ赤い血が、醜悪な人狼が、その死体が。それらが微笑ましい絵をおどろおどろしいものへと変えている。

 結衣をキュゥべえと共に広場の端まで下がらせた梢は、視線から逃れるように動く人狼に合わせて体をずらし、いつ飛び掛かられても対応が可能なように注射器を構えていた。視界の端で、何かが掠める。赤い色。同時にジグザクに走りながら距離を詰めてくる人狼へ注射針を向けた。タイミングを合わせて突き出そうとするが、それは叶わない。突然、首元に衝撃を受けて体が背後へと流れたからだ。咄嗟に手が首元に伸び、注射器が落ちる。

 

「……っぐ」

「梢ちゃん!」

 

 首が締まり、嘔吐く。梢の呻き声に結衣が泣きそうな声を上げた。ぶれる視界の中で、いつの間にか背後に回っていたらしいもう一体の人狼を確認する。薬剤の注入が中途半端だったが故に死なず、しかし苦しみながら地面に蹲っていた個体だったが、動ける程度に回復したらしい。

 梢の首に巻き付いたものは細くて長い縄のようなもので、色は赤。先程視界を掠めたのはこれのようだ。先端は人狼の背中側、腰より少し下方の辺りで繋がっている。どうやらそれが人狼の尾らしく、ある程度伸縮させることが出来るらしい。赤い縄を思い浮かべて森の木々に吊るされた現実味のない(イラストの)首吊り死体と、この結界に足を踏み入れる前に見た現実(ほんもの)の首吊り死体が思考を掠めた。

 

「だ、大丈夫……!」

 

 だが、思考に耽る暇はない。距離を詰めた人狼が爪を振りかぶっている。梢は右足をスイングさせて思い切り蹴り上げた。地面にあった注射器が蹴られ、人狼に向かって飛ぶ。注射器が人狼の振るった手によって弾かれるも、そのスピードを殺す事に成功した。首の絞まる苦しさに顔を歪めたまま、梢は左腕をひらめかせる。

 

「こっちだって拘束手段はあるんだからねっ!」

 

 袖口から延びた包帯が重力に逆らって伸び、トラバサミを捕えた時のように人狼二頭を拘束。ピンと人狼と梢の間を真っ直ぐに繋いだ白い帯は、次の瞬間地面と平行にたわみを作った。

 

「いっけぇっ!」

 

 引っ張る力に負け、弱っていた方の人狼の足が宙に浮く。人狼は梢を中心に円を描くように飛び、もう一体に衝突する。もつれ合って倒れ込む人狼たち。下敷きにされた方は上に乗ったまま動かない人狼を跳ね除け、立ち上がる。どうやら上に乗っていた方は意識を飛ばしたらしく、乱暴に地面に叩き付けられてもピクリとも動かなかった。起き上がった方もぶつかった拍子に腕を折ったのか、右腕が不自然に垂れ下がっている。チャンスと見て、梢はもう一度左腕をひらめかせた。袖口からもう三本の包帯が伸びて、更に雁字搦めに拘束する。

 

「飛んでけー!」

 

 人狼は、今度はその力に逆らえなかった。勢いよく空中に放り出され、凄まじい勢いで座り込んだまま動かない魔女へとぶつかる。ぶつかったように、みえた。

 

「うぇ!?」

 

 梢が驚きの声を上げる。梢や結衣の視界に映る人狼は片脚だけとなっていた。ブラブラと揺れるそれには薄汚れた硬そうな肉球が確認できる。小さな魔女の口元で。魔女が顔を上げた。口からすっぽ抜けたように真上に飛んだ人狼の脚が重力に従って落ちていく。ガパリ、と魔女は口を開けた。小さな体格ではあり得ない程大きく。落ちてきた脚は縁に当たることなく魔女の口に入り、飲み下される。殆ど丸呑みに近かったせいか血は全く零れず、凄惨さはない。ただ、異様さだけが際立っていた。

 

「た、食べちゃった……!」

 

 結衣が顔を青くして口元を手で覆う。包帯を回収しながら梢は警戒するように後退った。キュゥべえが耳をひくつかせて顔を上げる。

 

「! コズエ、また使い魔が産まれるよ!」

 

 その声に視線を地面に移すと、先程まで落ち着いていた魔女の影が波打っていた。影から出てきた人狼の腕はこれまでのように地面に手を付き、その体を持ち上げる。先程食べられたものと同個体なのかは梢たちやキュゥべえにも分かりようがないが、右腕も脚も健在だった。梢は顔をしかめる。

 

「……やっかいね」

「追加で産まれる気配はないね。上限が決まっているのかも」

「となると、消滅したり食べられたりで完全に姿が無くなったら新しく産み出せるってことかしら。完全復活されるとしたら、倒した人狼は食わせるわけにはいかないわね。倒しても倒しても復活されちゃたまんないもの」

 

 キュゥべえの言葉に梢は息をついて落としたままだった注射器を持ち上げる。人狼に払われはしたが、割れてはいない。筒の中で薬剤が揺れている。倒れたままの人狼と魔女に視線をやって、新たに出てきた人狼へと向き直った。

 

「自分からは動かないのが救いね」

 

 魔女は動かない。自身にぶつかってきた人狼すら食べるという方法で動かずに解決した。動く気はさらさらないらしい。代わりに動くのは人狼。先程よりも素早い動きで突っ込んでくる。梢は注射器を体に対して微妙に斜めに構えることでそれを受け流した。スピードの付きすぎていた人狼は逆らえずに体勢を崩す。

 

「きゃっ」

 

 小さな悲鳴。すぐ傍に倒れ込んだ人狼に結衣が体を竦ませた。

 

「結衣、もっと下がって!」

「う、うん……!」

 

 人狼が起き上がって近くの結衣に襲い掛かる前に、梢は包帯で人狼を拘束する。結衣が広場の端からさらに奥、茂みの影まで下がるのを確認してから人狼に注射器を突き刺した。拘束された人狼は何度か大きく痙攣した後、息絶える。

 包帯を袖の中に戻して梢は振り返った。一頭は梢の足元。別の一頭は少し離れたところに。そのほど近い所で一頭が気絶し、魔女の傍で腹が破れた一頭が血に伏している。

 

「これで、残るは本体のみ!」

 

 薬剤を補充した注射器の針を向けられ、初めて魔女は梢の声に気付いたように耳をそばだてた。顔動かして倒れた人狼を確認し、さらに梢に顔を向けて小首を傾げる。可愛らしい仕草だったが、先程の大口を開けるシーンを見た後では薄ら寒いだけだ。

 

「来るよ!」

 

 魔女の影がざわめき、キュゥべえが警告の声を上げる。注射器を持つ手に力が入った。同時に、波立った影はその波一つ一つを鋭利な先端を持つ鞭に変え、一旦空中の高い位置に伸び上がった後、落ちるようにして辺りに襲い掛かる。

 

「わわわわ、わっ」

 

 雨が降るように無差別に来る攻撃を、梢は翳した注射器と包帯で弾く。結衣は傍にあった木に身を寄せて盾とし、キュゥべえは器用にステップで避けながら素早く茂みに飛び込んだ。弾かれたり避けられたりで当たらなかった影の帯は地面や木、地面に転がったままの死体に突き刺さる。

 

「えっ!?」

 

 思わず梢は声を漏らす。影が追撃する素振りも見せずに魔女の元へと戻って行ったのだ。その理由は、すぐに分かった。影の帯に引き摺られて、貫かれた人狼が魔女の元へと集まっていく。

 

「そうか…… 今のは攻撃の為じゃない…… 使い魔の回収が目的だったんだ!」

「っ! じゃ…じゃあ、また……!」

 

 歯噛みして、梢は魔女に駆け寄ろうとする。それよりも魔女が人狼を処理する方が早かった。自身より二回りどころか五回りは大きな、四頭もの人狼をまとめて一口。咀嚼もせずに飲み込んだ魔女の足元がまたもや波打つ。影から、先程と同じように人狼の腕が伸びた。身を起こした人狼は、しぶきを払うように身を震わせる。梢は驚きのまま呟いた。

 

「……? 一匹、だけ?」

 

 そう。現れた人狼は一頭。波立っていた影も落ち着き、異常は収まっている。後続が現れる気配は、ない。

 梢が魔女を見ると、魔女は咳き込んでいた。むしろ、嘔吐いているといった方が良いだろう。梢は口元に軽く指を当て、首を傾げた。

 

「もしかして、使い魔ごと摂取した毒のせい……?」

「そうか…… 薬剤を注入していないのは、魔女を産んでそのまま死んでいた一頭のみ、だったね」

 

 キュゥべえが納得したとばかりに頷く。確かに、見付けた直後に魔女を産んで死んだ人狼以外は、気絶していた個体含めて一度は注射器での攻撃が成功している。

 

「……そして、口に入るものは食べずにはいられない……」

 

 呟いて、梢は注射器に手を沿わせた。飛び掛かってきた人狼を余裕を持って避け、鞭のようにしなった尾は上体を逸らすことで躱す。尾は鼻先を掠るように上を通って行く。その尾に絡み付くは、梢の左腕の袖口から飛び出した白い包帯。

 

「っ、今!」

 

 左腕を思い切り引く。着地したばかりで踏ん張れなかった人狼の体が傾いだ。そこへ右手で構えた注射器を突き刺す。人狼の爪が地面を引っ掻く。薬剤が体に入り、痙攣を始める。その体が跳ねる度、地面に刻まれる引っ掻き傷は増えていく。地面を掻く動きはどんどん速くなって、唐突に無くなった。地面に落ちた腕はもう動かない。

 梢は注射器を人狼の体から抜いた。押し込んでいたピストンを引く。空いた空間に薬剤が溜まっていく。溜まりきったら、足元に倒れたままの人狼にもう一度針を突き刺す。薬剤を注入する。もう一度。もう一度。

 最後にもう一度針を刺して、今度は抜かずに持ち上げた。既に死体となった人狼から抵抗が来ることはない。だらりと頭を下げ、手足がぶらぶらと揺れるのみ。

 

「ほら、餌の時間よ」

 

 梢が注射器を振るう。針から抜けた人狼の死体は魔女の方へと飛んだ。ぶつかる瞬間、魔女の口が大きく開かれる。死体はやはり一口に頬張られ、辛うじて縄のような尻尾だけがその存在を主張していた。だがそれも、麺類を啜るように魔女の口の中に納まり、完全に見えなくなる。

 変化はすぐに訪れた。先程のように、しかし先程よりも強く魔女の体が痙攣する。今まで餌が来るのをひたすら待ち続けて全く動かなかった魔女が苦鳴を上げてのた打ち回った。閉じきれない口から垂れた胃液が地面を濡らす。

 襲い掛かる余裕がないらしい魔女は、梢が近付いても反応できず、地面をただ転がる。梢は薬剤を補充し直した注射器を魔女の体に突き刺した。ピストンを押し込み、薬剤を注入する。それで終わり。横たわった魔女はもうピクリとも動かない。注射器を死体から抜くが、それ以上支えていられずに腕の力が抜け、重力に従って注射器の針は地面に深く穿たれた。

 

「梢ちゃんっ!!」

「ゆ、い……」

 

 緊張の糸が切れ、倒れ込むように座り込んだ梢を結衣は駆け寄って支える。結衣を呼んで上げられた梢の顔は汗でぐっしょりと濡れていた。点在する人狼の死体、目の前の魔女の死体。それらが見ている内に空気に溶けるように消えていく。

 

「おわった?」

 

 消えるのを見送って、梢が呟く。結衣の隣にしっぽを大きくなびかせたキュゥべえが並んだ。

 

「うん、魔女は倒れた。コズエの勝利だよ」




戦闘後が予定より長引いたので分けました。次話は夕方以降、文章が推敲出来次第UPります。


■オリジ魔女図鑑


Winfriede(ヴィンフリーデ)

人狼の魔女。性質は飢餓。口に入るものなら何でも呑み込むが、自分からはあまり動かない。親の役割を持たせた使い魔が持ってくる餌を待ち続ける。イヌ科故に大きな音や匂いのキツイ物は苦手。


Wolf(ヴォルフ)

人狼の魔女の手下。その役割は狩猟。親であり、子である魔女の為に獲物を狩る狼。だが使い魔自身も飢えているのでついついつまみ食いしがち。


イメージは「汝は人狼なりや?」。
初回占いはやめてください。中身見えてるんですか (´;ω;`)
そのリアルスキルで逆呪殺目当てで呪狼になり、初日に占い師三人を全滅(ただし一人は突然死)させたのは良い(?)思い出。
二日目に出てくる死体が四体(突然死一、襲撃死一←初日先生、逆呪殺二)ってどういうことなの……
久しぶりにやりたいなと思った。知らない人はググって下さい。ここでつらつら語るのはアレなんで。

魔女のヴィンフリーデは潜伏狼、使い魔は実際に噛みに行く狼。


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08 だって、友達は助けたいもの

本日二回目の更新です。


「魔女は倒れた。コズエの勝利だよ。――ほら、結界が消える」

 

 キュゥべえの視線を追って空を見上げると、クレヨンで描かれた空が罅割れていた。罅の向こうにはビルの天井が覗いている。見える部分はどんどん広がり、空間がガラガラと崩れていく。クレヨンで描かれた空、クレヨンで描かれた木、木に吊るされていたクレヨンで描かれた首吊り死体。それらが作りかけの廃ビルに置き換わる。夕日に照らされ、影が伸びた。風景が完全に置き換わり、我に返った結衣が梢を支える為に沿えた手に力を込める。

 

「梢ちゃん、梢ちゃん、梢ちゃん! 怪我…怪我は大丈夫!?」

「怪我……?」

 

 訳が分からないといったような様子で眉をひそめた梢は、結衣の視線を辿って視線を下げる。そして視界に入った色に目を見開いた。

 

「あ……」

 

 赤。ボタンの糸は一部が切れて、垂れ下がっている。胸元が裂け、大きくはだけていた。そこは赤く染まり、赤瑪瑙色の布は別の赤が混じって濡れている。梢は震える手で胸元に触れた。そこは、大きく抉れていて。

 

「とにかく、手当っ!!」

 

 結衣は切羽詰まった声を上げるが、手を彷徨わせるだけで動けずにいた。手持ちに応急処置に使えそうなものはない。鞄の中に絆創膏なら入っているが、その程度で塞ぎきれる物ではなかった。胸元に寄せた手で肩を抱き、梢は喉を引き攣らせる。結衣の声は聞こえなかった。

 熱い。どう考えても、動き回ったりなど出来ないと思われる程、抉れた傷。熱い。熱い。熱い。

 蹲る梢の背に結衣が触れた。全身から噴き出した汗で湿っている。

 

「梢ちゃん!?」

「ああああああああああああああああ!!」

 

 声の限り、梢は叫ぶ。胸元が熱い。熱くて熱くて、声が我慢できない。

 

「やだ…… 梢ちゃん、梢ちゃん! どうしよ…… キュゥべえ、どうすればいいの!?」

 

 梢に縋りついた結衣は、半泣きになってキュゥべえに助けを求める。キュゥべえはその懇願に答えて結衣の横から梢の膝元に歩を進め、下から梢を覗き込んだ。瞳に映ってはいても、叫び続ける彼女の視界ににキュゥべえは入らない。

 

「落ち着いて」

 

 小さな前脚を片方、梢の膝に乗せてキュゥべえが言う。

 

「コズエ、ついさっきまで、痛くなかっただろう? 今のキミは魔法少女だ。傷から意識を逸らせば、痛覚なんて簡単にシャットダウンできるんだ。ほら、息を大きくすってごらん」

 

 キュゥべえの声は、直接頭の中に入ってくる。だから、傷の熱さで結衣の声も聞こえない梢の中も届いた。

 

「ぅ、ふううぅ…… ふうぅぅぅ~……」

 

 痛みで息を詰まらせつつも、無理矢理深呼吸をする。一回、二回、三回。回数を重ねるごとに、息は長く、落ち着いていく。漏れていた声が消え、息を吸って吐く度に上下に動いていた肩の動きが小さくなり、沈黙が落ちる。息を呑んで結衣が見守る中、梢が上体を起こした。その顔は涙と脂汗で濡れていたが、顔色は落ち着いたものになっている。キュゥべえは前脚を膝から降ろし、結衣の隣へと戻った。梢は肩を抱いていた手を緩めて胸元を見下ろす。見えるのは先程と同じだが、ただ映像として認識した時のように痛みは感じなくなっていた。

 

「……本当だ……痛く…なくなった……」

 

 呟いて、片腕を伸ばす。袖口から蛇のように包帯が伸びた。包帯は胸回りを縛り、傷口を覆い隠す。そして、クルリと手の中に呼び出した小さな注射器を胸に刺した。中の薬剤は、結衣を助けた時のものと同系統のもの。傷口に熱が灯るが、先程ほど強烈なものではない。それは痛みから来る熱ではなく、再構成の為に活発化した細胞の発する熱だった。熱が引いて包帯を解くと、そこには傷一つないきめ細やかな白い肌が現れる。

 

「良かった…… 梢ちゃんが死んじゃうかと思った……」

 

 ホッとしたように結衣が表情を緩め、鼻を啜る。梢は結衣の瞳に浮かんだ雫を指で拭う。

 

「結衣、ほら、泣かないの。もう治ったから」

「ん……」

 

 頷く結衣に梢は微笑む。そこにキュゥべえは声をかけた。

 

「コズエ」

「何、キュゥべえ?」

「そこを見てごらん」

 

 梢の声は、先程衝動のままに叫んだために少し掠れている。そんな梢に、キュゥべえは床の一角を示した。顔を濡らしていた汗を手の甲で拭いながら、梢と結衣はそちらを見る。床に、何か黒いものが落ちていた。気だるげに立ち上がった梢がそれに近付く。

 

「あ…… 宝石?」

 

 それは、黒い宝石のような物だった。いぶし銀で装飾を施されている黒い球形の宝石で、中心を上部に細工の施されたピンが貫いているように見える。それが重力に逆らうようにピンの尖った方を下に自立していた。梢は宝石を摘みあげて左の掌に載せる。その上でもやはりその宝石は転がることなく自立した。

 

「これ、どうやって立ってるの?」

「不思議……」

 

 結衣が梢の手の平の上を覗き込んで呟く。

 

「それはグリーフシード。魔女の卵だよ」

 

 だが、じっくりと見ていることは出来なかった。キュゥべえのそんな台詞と共に、驚きの声を上げた梢が宝石を放り出したからだ。宝石は床をある程度滑った後、起き上がりこぼしのように立ち上がる。結衣も若干腰が引けているようで、通学鞄を胸元に引き寄せて怯えた目を宝石へ向けた。

 

「大丈夫。その状態だと安全だし、魔法少女にとっては有用な物でもあるんだ。コズエ、ソウルジェムを宝石の状態にしてみて」

「えっ? ええ」

 

 梢は言われた通りに変身を解く。破けた短い丈のナース服のような魔法少女の衣装は学校指定のセーラー服に戻り、左脚にリングガーターとしてくっついていたソウルジェムは卵型の宝石になって梢の右手の上に転がった。

 

「さっきより、光が濁ってるだろう?」

 

 キュゥべえに言われて見てみれば、手の上の赤瑪瑙はここへ来て変身する前よりも色が濁っているような気がする。比べたわけではないし、元よりそこまで色合いに注目して見ていたわけでもないから、"気がする"程度なのだが。

 

「今回の戦いは、魔力をそこそこ使ったからね。魔力を使い続けると、ソウルジェムはそうやって濁っていくんだ。使った道具は汚れるものだからね。だけど、ソウルジェムは魔法少女の力の源だから綺麗に保っておかなくちゃならない。そこで使うのが、グリーフシードだ」

 

 もう一度、キュゥべえは地面に落ちた黒い宝石を示す。

 

「ソウルジェムとグリーフシードを近づけてみて」

 

 梢はちょっと嫌そうに表情をしかめた後、恐る恐ると言った様子で二回ほど指先で突いた後、グリーフシードを拾い上げた。ソウルジェムは右手の上に。グリーフシードは左手の上に。手の平を近づける。じわり、とソウルジェムの中に黒いものが滲んだ。滲みは吸い寄せられるようにグリーフシードへと移っていく。その動きが止むと、黒いグリーフシードはさらに暗い色に、そしてソウルジェムは濁りが消えて元の輝きを取り戻し、若干明るい色合いになっていた。

 

「グリーフシードは再び孵化しようと穢れを集める。だからそうして近付けるとジェムに溜まった汚れ…穢れを吸い取ってくれるんだ。――ほら、元通り」

 

 キュゥべえが耳をピクピクと動かしながら言う。感嘆の息をついて、梢はジェムを夕陽に翳した。日の光を浴びた半透明の赤瑪瑙が眩しい。

 

「これでコズエはまた万全の状態で魔法を使う事ができるよ。グリーフシードに穢れが溜まりきるとまた孵化してしまうから、そうなる前に回収して孵化しないように処理するんだけど……うん、後一回は大丈夫そうだね。持っておくといいよ」

「ふうん……分かったわ」

 

 手の中のグリーフシードを転がしながら梢は頷き、スカートのポケットの中へと収めた。ソウルジェムは指輪となって中指にはまる。それを見届けてキュゥべえは踵を返した。

 

「それじゃあ、今日は帰ろうか」

「あ、待って」

「どうしたんだい?」

 

 出口に向けて歩き出したキュゥべえを梢が止める。キュゥべえは不思議そうに梢を見上げた。

 

「電話する所があるわ。……あのままには、しておけないもの」

 

/*/

 

 一定間隔の照明の灯り、そして大きな窓から射しこむ黄昏時の日の光が柔らかく空間を染めている。規則性を持って配置されたテーブル。小さなそれには向かい合わせるように、丸い曲線が柔らかい印象を与える木製の椅子が二脚、大きなテーブルには四脚設置され、どのテーブルにもトレイに載せられたいくつかの調味料、木製のケースにセットされた紙ナプキン、薄い冊子が置かれている。冊子はアルバムのようになっていて、写真がレイアウトに拘って貼りつけられていた。ただ、その写真に写っているのは人物でも風景でもなく、飲食物。そしてそれらに添えられているのは簡単な説明文と、値段。落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。

 

「お待たせしました。ケーキセットになります」

 

 店の雰囲気のようにゆったりとした速さでそう言った店員が、結衣と梢の前にソーサーに乗ったカップと茶の入ったポットを置く。食器のぶつかるカチャリという小さな音が店内に流されるBGMに溶ける。二人であるにも関わらず窓際の大きい方のテーブルを占拠した彼女らに、その店員は嫌な顔一つしない。種類の違うケーキがどちらのものか確認してテーブルに置き、ごゆっくりと声をかけて厨房の方へと戻って行った。

 それを見送って、二人はそれぞれポットの茶を自分の前に置かれたカップに注ぐ。赤く染まった空間で、より紅い液体が揺れた。立ち上る湯気。遠くから聞こえるサイレンがBGMに混じって耳に届き、二人はポットをテーブルに戻して顔を上げる。高めの軽いそのサイレンはパトカーの物だ。オフホワイトの薄いレースで作られたカーテンが端に寄せられた窓の外を見ると、道路を行き交う人が目に入る。この喫茶店はあの廃ビル群からそう離れてはおらず、外を歩いていた通行人もサイレンに気付いたようで足を止め、二人と同じ方へと顔を向けていた。

 

「そろそろ警察、ビルに着いたかしら……」

 

 梢の言葉に、調味料置きとなっている木のトレイから林檎の形をしたシュガーポットを引き寄せていた結衣の動きが一瞬止まる。

 サイレンを鳴り響かせたパトカーを呼んだのは、梢。公衆電話で警察に首吊り死体を見つけたと通報したのだ。名前は名乗らずに。あのまま放っておいて女性の体が朽ちていくのを、梢は良しとすることはできなかったし、結衣も同意見だった。パトカーのサイレンが聞こえたという事は、今現場に向かっていてこれから死体を発見するのか、それとももう発見して応援が駆けつけようとしているかのどちらかだろう。

 改めてカップの横までシュガーポットを引き寄せた結衣は蓋を開け、砂糖を二匙紅茶の中へと放り込む。蓋をして元通り林檎の姿を取り戻したポットをトレイの上へと戻した。

 

「あの女の人…どうなるのかな……」

 

 スプーンで紅茶を混ぜながら訊く結衣への答えを梢は持たない。沈黙のまま、梢は憂鬱そうにケーキをフォークでつつく。本当は、あんな凄惨な死体や不気味な人狼を見た後ということで食欲は湧かなかったが、戦闘行為で体が糖分を求めていた。代わりに答えたのは梢の鞄で占拠された椅子からテーブルに飛び乗り、調味料のトレイの傍に陣取ったキュゥべえ。伏せの形で体を横たえ、質問者である結衣を見上げる。

 

「おそらく、自殺として処理されるだろうね。実際、彼女は自分で首を吊ったんだから、その辺りで不自然な所はないだろうし。死体の損壊は野犬の仕業…って事になるんじゃないかな」

「そっか……」

 

 結衣は俯く。カップの中に眉尻を下げた結衣の表情が写り込むが、スプーンを紅の水面から引き上げた事で波紋で掻き消える。スプーンから零れた雫が紅茶へと戻って行く。スプーンをソーサーに置いた結衣は、一度目を閉じて大きく息をつくと意を決したように顔を上げた。視線の先には、梢。

 

「やっぱり……私、魔法少女に」

「結衣っ!」

 

 言いかけた結衣の言葉を梢が遮る。それでも結衣は想いを紡ぐ。

 

「だって、友達は助けたいもの」

「ユイは友達思いなんだね。コズエも。なんせ、コズエの願いは"ユイの命を救える力が欲しい"…だもんね」

 

 言葉を詰まらせる梢に、キュゥべえは軽く小首を傾げてしっぽを大きく揺らした。

 

「魔女の結界から脱出するのに、どうせ力は必要だった。だから、結衣は気にしなくていいの」

 

 梢は形の良い眉をしかめてそっぽを向き、少し乱暴にケーキにフォークを立てる。ふわふわのスポンジはあっさりとフォークによって割られ、突き刺された小さな欠片は梢の口の中に運ばれた。結衣は砂糖が入って甘くなった紅茶を一口飲んで、小さく首を横に振る。

 

「ううん。それでも、梢ちゃんが私を願い事を使って助けてくれたことにかわりはないもの。だから、私は梢ちゃんの願い事で魔法少女になりたい」

「結衣……」

 

 困ったように梢は結衣の名を呼んだ。梢には結衣の気持ちが痛い程分かった。友達を助けたい。それは梢と同じ想い。梢はその想いから魔法少女になった。そして、結衣は選ぼうとしている。梢は諦めたように息をついて、紅茶を口に運んだ。結衣とは違って砂糖を入れていないから少し苦みを感じる。

 

「…………願い事は、結衣自身の為に使って。あたしは、考える時間なかったからさ。どうせなら、有効に、ね」

 

 それは、梢が結衣が魔法少女になることを許した証。結衣は綺麗に笑って頷いた。

 

「うん。……願い事、考えとくね」

 

 キュゥべえは話がまとまったのを見て窓の外に視線を移す。サイレンはもう止んでいた。先程より増えた通行人は皆同じ方向へと進んでいく。廃ビル群の方へ。サイレンを聞き付けて野次馬にでも行くのだろう。まるで、砂糖に群がる蟻のよう。

 窓ガラスには、窓の外を見続けるキュゥべえと、同じように窓の外へ視線を投げかけた梢と結衣の姿も映っている。少女たちのその表情は物憂げだ。キュゥべえは冷めた目で、それを見ていた。



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09 よく出来てると思うよ

 その中学校は梢や結衣が通っている所と同じように、ありふれた鉄筋コンクリートで出来ていた。校舎は一つで縦と横の長さが同じくらいのL字型。その線の交わる場所にある昇降口は円柱状に一部張り出していて、上は小さな屋上になっている。縁にはアルファベットのオブジェクトが複数設置され、それが学校名だった。

 屋上にはプランターに植えられた色鮮やかな季節の花が置かれ、下から見上げると、まるで学校名が花を背負っているように見える。二階廊下からでも花は楽しむことが出来るが、屋上へのドアはない。恐らく手入れなどは窓から出入りしてやっているのだろう。梢の家の花壇とは違い、しっかりと手入れがされている。だが、手入れがされてるされていないはキュゥべえには関係がないし、興味もない。ただ横切った際に水やりで濡れた花びらが体に貼りつき、それが多少煩わしく感じられた。

 キュゥべえはアルファベットとアルファベットの間から飛んで昇降口へと降り立ち、開いたままのそこから校舎内へと入る。授業を行っている教師の声と、運動場で体育を受けている児童の声が時折届く程度の静かな廊下。その真ん中をキュゥべえはペタペタと歩く。しかし既に午前中の授業の四枠目も半ばにさしかかった廊下には人通りはなく、キュゥべえの姿と微かな足音に気付く者もいない。

 一階、運動場、体育館、二階、三階と見て回り、もう一度キュゥべえは昇降口の屋上に降り立って思考を巡らせる。この学校にいる、魔法少女の素質があるのはただ一人。本日三校目の学校偵察で初めて得ることのできた、唯一の収穫だった。

 そんなわけで乗り換え先の候補として確保したいところだったが、残念ながら優先権は隣の地区にいる個体が上だとキュゥべえは判断する。近い所から順番に回っていたとはいえ、三つ目ともなるといささか離れていると言わざるを得ない。交渉にさえ入ってしまえば優先権も主張できるが、同時進行するには梢は不安定すぎる。傍を長時間離れるわけにはいかないのだ。結衣と契約を交わすまでは、梢には魔法少女でいてもらわなければ都合が悪い。

 そこまで考えて、キュゥべえは朝、結衣から昼休みに学校の屋上に来るように言われていたのを思い出した。キュゥべえとしてはここの候補者を担当するのが難しい以上、他の学校も回って候補者探しの続きをしたいところだったが、早速願いが決まった可能性もある。キュゥべえは梢たちの学校に向かうことにした。結衣を魔法少女にすることができれば梢に付きっきりになる必要もなくなり、先に交渉に入れるかもしれないと考えたからだった。

 

/*/

 

 梢たちの学校に辿り着いた時、既に二人は屋上のフェンスの傍のコンクリートが出っ張っている所に腰かけてキュゥべえを待っていた。近付いたキュゥべえに気付いた結衣が、梢との間に座るようにとポンポンとコンクリートを叩く。黙ってその指示に従いそこに飛び乗るキュゥべえを、笑顔の結衣と紙パックの紅茶をストローで啜る梢が迎え入れた。

 二人の傍らにあるのは、弁当らしき包み。梢の方は大判のナプキンの上に乗った、ラップに包まれた大きな俵型のおにぎり。これは朝、梢が適当におかずになるものと一緒に握りこんでいた物だとキュゥべえは知っている。二つ作っていたが、一つは既に食べ終えたらしく、未開封のものの横にクチャクチャに皺の寄ったラップが風に飛ばされそうになっていた。

 一方、結衣の方はプラスチックの弁当箱。蓋は閉まっていて、中は見えない。飾り気のない暗い色のそれは大きめで、男性が使う事を想定したものだと分かる。大人しげな結衣が膝の上に抱えるには、いささか違和感のあるものだった。

 

「ねえ、キュゥべえって食べられないものとかある? ネギ類とか」

 

 膝の上の弁当箱の蓋を開けながら、結衣は自身と梢の間に行儀よく座ったキュゥべえに視線を落としながら口を開く。その声は期待にはずんでいた。キュゥべえは顔だけを動かして結衣を見上げる。

 

「人間が一般的に食べているもので、ボクらに害があるという物は今の所、発見されてはいないね」

 

 インキュベーターは地球の動物の中では猫に一番近い姿形をしているが、猫ではない。猫のように、ネギ類やカカオ等で体調を崩すという事もなかった。それ以前に、インキュベーターは一般的な食事を必要としていない。口があるので食べるのには問題ないし、そこから養分を体に取り込むこともできる。だが、活動に必要なエネルギーは回収したグリーフシードから少しもらうだけで事足りるし、活動を停止した仲間を摂取することでも得ることができる。なので、非効率極まりない食事を自ら摂る個体はいないと言ってよかった。

 例外があるとすれば……

 

「そうなんだ、よかった! じゃあ、コレ食べてみて。あーん」

 

 このように、誰かに差し出される場合だった。インキュベーターの姿を見ることが出来るのは魔法少女か、魔法少女になれる可能性を持つ思春期の少女なのだが、彼女たちの中にはこうやって、インキュベーターに食べ物を与えたがる者も多い。結衣もそのタイプの人間のようだった。だからこそ、わざわざ不釣り合いに大きな男子用の弁当箱に詰めてきたのだろう。

 キュゥべえは差し出された箸の先に挟まれた物を見やる。そこにあったのはウズラ卵のスコッチエッグ。カロリーを抑えるためか揚げるのではなく焼いてあり、タレ等はかかっていない。そして、キュゥべえの小さな口に入るように配慮したのか半分に割られている。箸で割られた断面は決してキレイではなかったし、キュゥべえの口にはそれでも大きいようだったが、断面の黄身に白身、そしてそれを覆う焼かれたひき肉の色は偏らずに整っていた。

 

「ほら。あーん」

 

 促すようにもう一度目の前で揺らされたスコッチエッグをキュゥべえは頬張る。魔法少女への勧誘にあたって、こういう行動を取るのが良い事だと彼は他の個体からもたらされた情報で知っていた。目的に近付けるなら、非効率な行為もそうではなくなる。目測通り、スコッチエッグはキュゥべえの口には少々大きくて食べ辛い。頬が膨らむ。その様子に結衣の目じりが下がった。スコッチエッグを頬張ってリスやハムスターのように頬をもごもごさせているキュゥべえは、まさに彼女の好みだったらしい。

 

「どう? おいしい?」

 

 結衣は瞳を輝かせて身を乗り出す。キュゥべえは、口の中にあるスコッチエッグに思考を向けた。下味がしっかりと付けられているので、タレがなくとも味が薄いという事はない。猫科を意識して作成したのか、ひき肉に玉ねぎは混ぜられてはいなかった。口の中いっぱいの肉と卵を飲み込んで、結衣の弁当箱を覗き込む。ご飯の白、その上にまぶされたふりかけの黄色や黒、肉類の茶色、野菜の緑と赤。色彩がバランスよく箱に収められている。キュゥべえは批評を下した。

 

「そうだね…… 主食・主菜・副菜のバランスも良いし、よく出来てると思うよ」

「何、その感想。おいしいかどうかを聞いてるのに」

 

 残ったもう一つのおにぎりを食べながら隣でその言葉を聞いた梢が、口元に軽く握った拳を当てて小さく噴き出す。だけど、キュゥべえとしては他に何と言えばいいのか分からなかった。再びおかずを摘んだ箸が差し出され、キュゥべえはそれを口に入れる。何度かそれを繰り返し、合間に結衣や梢も弁当箱の中身をつつき、ようやく空っぽになって箸が置かれた。

 結衣は魔法瓶から冷たい麦茶をカップ代わりの蓋に注ぎ、一息つく。カップは梢に一旦渡った後にキュゥべえにも差し出され、彼も喉を潤した。梢はラップを丸めて畳んだナプキンの間に挿み、結衣は少し残ったカップの中身を排水溝へと流して魔法瓶を片付ける。そしてその魔法瓶は脇に置いて弁当箱の蓋を閉めて巾着に入れた。キュゥべえの体がふわりと浮く。巾着を魔法瓶の隣に置いた結衣がキュゥべえを抱き上げたのだ。キュゥべえの体は引き寄せられて結衣の膝の上に乗せられる。されるがままになっていたキュゥべえは、ひっくり返された格好のまま結衣を見上げた。逆さまの結衣は随分と機嫌が良さそうに見える。

 

「ユイ、願い事は決まったかい?」

 

 そう問いかけると、キュゥべえの白い腹毛をゆっくりと滑っていた手の平の動きが止まった。結衣の柳眉が少し下がる。小さく息をついて、呆れたような表情で空を見上げた。雲一つない快晴、とまではいかないが晴れていて風が気持ちいい。

 

「実は、まだ。いざ願い事をしようと思って考えると、意外と思い浮かばないのね」

「そうなのかい? 大抵の子はすぐに願いを言ってくれるんだけどね」

「願い事がないわけじゃないの」

 

 結衣は、言いながらキュゥべえの後ろ足の付け根付近にくっついていた花びらを取り除く。次いで毛並みを手櫛で梳かれる。不快感が無くなって、キュゥべえは目を細めた。投げ出されたしっぽが揺れる。

 

「それを願わないの?」

「どれも、ちょっと何かを我慢すれば達成できるようなものばかりで。それじゃあ、ちょっとね」

「そうそう。有効に使ってくれなきゃ、怒るわよ」

 

 苦笑する結衣に歯を見せて梢が笑う。予鈴が鳴って、梢はケータイで時間を確認して立ち上がった。結衣も名残惜しそうにキュゥべえを一撫でして立ち上がる。座っていたコンクリートの上にゆっくりと下ろして巾着を手に取った。

 

「じゃあ、今日も魔女捜し頑張りましょ。キュゥべえ、昨日と同じ時間に、同じ場所で待ってて」

「今日は、最初から付いて行くからね」

 

 結衣の言葉に、梢は柔らかく口角を上げて頷く。キュゥべえも歓迎するように大きくしっぽを揺らした。

 

/*/

 

 薄暗闇の中、憂鬱そうに歩く梢の足元でキュゥべえは歩を進める。歩幅が圧倒的に違うが、靴底が磨り減りそうなほど重そうに足を引きずる梢の歩みは遅く、小さなキュゥべえでも余裕で付いて行けた。

 怪我をしているわけではない。今回の探索では魔女や使い魔を見つけることが出来なかったので戦ってすらいない。だが、結衣と別れてから家に近付くにつれて彼女の歩みは重くなっていった。沈黙が重く横たわるが、キュゥべえから話しかけたりはしない。

 梢は前日と同じように小さな門扉から敷地内に入ってポストを開ける。昨日はいくつかの郵便物が入っていたが、今日は入っていない。暗かった梢の表情が少し明るいものになった。ポストの蓋を勢いよく閉めると、梢は今までの足取りは何だったのかと問いたくなるほどの軽いそれで点在する敷石を渡って玄関のノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。

 キュゥべえに目もくれない梢に置いて行かれないように扉をすり抜けたキュゥべえは、玄関に二足の靴が並んでいるのに気付く。男物の革靴と、ハイヒール。そこに脱ぎ散らかされたローファーが追加される。パタパタと廊下を進んだ梢はリビングに続く扉を開けた。リビングダイニングには、二つの人影。その人影にキュゥべえは見覚えがある。昨夜、言い争っていた男女だった。

 

「た…ただいまっ」

 

 テーブルの近くで立っていた二人に向けて、梢は弾んだ声を上げた。明るいトーンだが、緊張しているのだろう。声の調子は固い。振り返った、梢の声のように硬かった男女の表情が少しだけ緩む。それを見て、梢がほう、と息をつく。

 

「おかえりなさい、梢。夕ご飯にしましょう」

 

 梢に声をかけたのは女の方だった。女はそう言ってキッチンカウンターの中に引っ込む。男は黙ったまま晩酌の時と同じ位置に腰を下ろした。梢は落ち着きのない様子でテーブルを拭いたり箸立てを用意したりなど簡単な手伝いをしてから男の斜め前の椅子に腰かける。

 やがて、チンという電子音がダイニングテーブルとは別に置かれた、応接セットの一人用ソファに飛び乗って丸くなったキュゥべえの耳にも届く。女が何度かキッチンとテーブル間を往復することによって、湯気の立つ蓋付きの透明な食品トレーがいくつかと取り皿が三枚、テーブルに並んだ。

 男が取り皿を一枚自分の元へと引き寄せ、トレーに箸を伸ばす。座ろうと椅子の背もたれに手をかけていた女は一瞬顔をしかめるが、そのまま梢の隣の椅子に腰かけた。そして残った取り皿と箸を梢と自分の前に置き、手を合わせていただきます、と呟く。男はすでに取り皿の上の物を口の中に入れて咀嚼している。梢も慌てて女と同じように手を合わせた。




Wordの文章校正初めて使ってみました。
誤字脱字ないといいなぁ……
単語登録してないから、"キュゥべえ"で毎回「入力ミス?」とか出てくるけどww


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10 願い事、叶えてあげる

 細い裏路地。そこには表通りの街灯やネオンの光も入ってこない。だが、何も見えないというわけでもない。ビルとビルに挟まれた細い空から少しふくらんだ半月の光が降りてきているのだ。その光に照らされて、闇の中にいくつもの白い塊が浮かび上がっている。白い塊は、猫のような姿をしていた。風が路地を走り、耳毛や大きなしっぽをそよがせていく。

 キュゥべえは、インキュベーター同士の集まりに参加していた。記憶の共有はなされているが、それだけで地球での活動の全てが滞りなく進むわけではない。なので、このようなミーティングが一定期間ごとに設けられていた。

 

「ねえ、君が見つけた候補者だけど」

 

 いくつかの報告と方針の話し合いの最中、一匹のインキュベーターがキュゥべえに声をかけてくる。隣の地区のインキュベーターだった。話の内容を半ば予感しながらも、キュゥべえは小首をかしげる。

 

「何だい?」

「僕の担当している魔法少女が明日か明後日には魔女化する見込みなんだ。君はもう一人候補者を確保してるよね?」

 

 思った通りの話題に、キュゥべえは耳をピクリと震わせた。そうだね、と肯定する。

 

「譲ってくれないかい? 魔女化が予想外に順調に進んだから、候補者を探す暇がなかったんだ」

「……分かったよ。あそこは君の方が近いからね。交渉も回収もしやすいだろう」

「ありがとう」

 

 キュゥべえが了承すると、インキュベーターは当然のように頷いた。効率を考えればそうなるのは自明の理だったので、断られる可能性など考えていないのだ。候補者相手になら笑っているように見えるよう目を細める場面だろうが、インキュベーター同士でそんな無駄な事などしない。話が終わったインキュベーターは、キュゥべえに背を向けて去って行く。他の個体もそれぞれ話し合っているが、これ以上この場に留まってもキュゥべえが関係する話題は出てこないだろう。そう判断したキュゥべえも路地に背を向けた。

 表通りに出ると、街灯とネオン、そして車のヘッドライトの光がキュゥべえを照らす。それに気付く人間はいない。灯りは梢の家に近付くにつれて少なくなっていき、着いた頃にはまばらな街灯と月の光だけになっていた。辺りの家は既に寝静まっているようでほとんどの家の灯りは落ちている。梢の家は真っ暗だった。

 キュゥべえは地面を蹴ると一跳びで一階を覆う屋根に着地する。薄く開けたままにしておいた梢の部屋の窓から室内へと入った。閉められたカーテンの幕を潜ってベッド脇のコンポの置かれた棚に飛び乗り、部屋の主へと視線を向ける。梢は布団もかぶらぬまま、着衣もそのままにベッドに臥せっていた。動かない。眠っているようだ。うつぶせで、さらに両腕を顔の下に敷いていて表情は見えない。だけど出かけた時の様子から、その頬には濡れた痕があるのだろうとキュゥべえは予測した。梢は、泣いていたのだ。そして泣き疲れて眠ってしまったらしい。キュゥべえは、出かける前――伊万里一家の夕食の記憶を振り返った。

 

/*/

 

「離…婚……?」

 

 その話を切り出したのは、たった一人だけが浮足立った空気の重い夕食で、最初に食べ終わって箸を置いた梢の母親だった。食事時の挨拶以降、始めて彼女の口から出た言葉。それが離婚することになったから、という台詞だった。

 

「ええ。正式な離婚は慰謝料の金額が決まってからするから、ひとまずは別居…という事になるけれど」

 

 呆然と呟く梢に母親は頷きながらあっさりと言う。梢に視線を向けることもなかった。冷茶のボトルを手元に引き寄せて傾ける。茶色に色付いた液体が茶碗に溜まっていく。

 

「え? え?」

 

 困惑して言葉を詰まらせる梢。両親に視線を向けるも、冷茶に目線を落としたままの母親とも、目を逸らした父親ともそれが合う事はなかった。

 母親は茶を一口啜る。そして言葉だけは優しげに口を開いた。

 

「安心して。あなたの親権は私が取るし、別居中はこの人が出て行くから引っ越しや転校の手続きもまだ先の話だから」

「……てんこう……」

 

 離婚。別居、転校。

 別離を示す言葉の羅列に梢の顔から血の気が引く。ゆるゆると首を振って、弱々しい声音ながらも必死に訴える。

 

「そんなの、やだ…よ…… どうして」

 

 母親は促すように無言で父親を睨み付けるが、彼は答えない。面倒臭そうに、食品トレイの上に最後に残った唐揚げを箸で突いて転がしている。苛立ちを隠せていない表情で母親は溜息をついた。

 

「今日、会社に女が乗り込んできたのよ。この人の子供が出来たから別れろ、ってね!」

「いや、だって仕方ないだろう? 責任は取らなきゃ」

 

 この人、の所で思い切り指を付きつけられた父親は、鬱陶しそうに向けられた手を払う。母親は、払われた手をテーブルに叩き付けた。衝撃と音で梢はビクリと肩を竦め、置かれた箸は転がっていく。

 

「私は夫としての責任を果たして欲しかったんですけどね!」

「君は一人でも生きていけるだろうけど、彼女は俺がいなきゃダメなんだよ」

 

 うんざりしたように表情を歪ませ、父親は突いていた唐揚げを口に放り込むとそそくさとその場を後にする。キュゥべえの陣取った横のソファに置かれていた小さな鞄を手に持って。家の中の他の部屋ではなく、外へ。

 待って、という梢の小さな呟きのような叫びはキュゥべえにしか届かなかった。届いたからといって、何をするでもないけれど。

 

 これが、梢が嬉しそうに席に着いた一家揃っての夕食の顛末だった。

 

/*/

 

 意識を現在に戻したキュゥべえは、足元に視線を落とした。白い自身の前脚と、踏みしめている棚の天板が視界に入る。そこから降りて寝床として与えられたクッションの上で丸くなった。

 梢は追いつめられている。別に梢の両輪に働きかけたわけではなかったというのに、このタイミングで。

 集会が今日じゃなかったらな、とキュゥべえは思いながら目を閉じた。今日じゃなかったら、候補者の交渉権譲渡の話が来る前に交渉に入れた可能性は高かっただろう。

 結衣は、契約する。それが明日なのか明後日なのか、そしてどんな形でなのかはいくつかパターンがあるけれど。

 

 ――キュゥべえ。

 

 それは、耳が捉えた音ではなかった。閉じて暗くなった瞼の裏側に少女の姿が映る。チェス盤のような白黒の衣装をまとった見知った少女。キュゥべえは少女の名を呟く。音にはならなかった。

 

 ――おいで。ブラッシングしてあげる。

 

 優しげな声。彼女はしっぽを引っ張ったりしてちょっかいをかけてくる片割れとは違い、よくそうしてキュゥべえを呼んで、ブラシをかけていた。誘われるまま、少女に近付く。だけど、目の前に立つ少女は別の少女にすり替わっていた。キュゥべえは少女の名を呟く。今度は音になった。ユイ、と。

 名を呼ばれた結衣はニコリと微笑んでキュゥべえを抱き上げて座り、膝の上に乗せる。されるがままになっていたキュゥべえは、ひっくり返された格好のまま結衣を見上げた。逆さまの結衣は随分と機嫌が良さそうに見える。

 屋上での焼き直しのような光景。キュゥべえは、その時にした願い事の言及を今回はしなかった。腹毛を撫でる繊細な指先を感じながら目を閉じる。

 

 次に目を開けた時、世界は夜目が利かなくとも辺りが見える程度には明るくなっていた。雀の鳴く声が聞こえる。体に触れる感触は人の指ではなく、クッションの布地のもの。時計を見ると、昨日の梢の起床よりも三十分程早い時間だった。だが、梢のベッドは空になっている。もう起きているらしい。

 キュゥべえはクッションから身を起こして、先程自身が経験したことについて考えてみた。推測を一つ、声に出す。

 

「もしかして、今のが夢…ってやつなのかな」

 

 夢。現実の経験のように感じられる、睡眠中に見る幻覚。先程見たのがそうであるならば、キュゥべえにとって初めての事だった。

 インキュベーター同士で意識を共有し、自身の体験していない記憶などは把握できないほどあるが、ここまで支離滅裂なイメージも初めてだった。

 

「全く…… ワケが分からないよ」

 

 人間は、しょっちゅう夢を見るという。こんな支離滅裂な幻覚を何度も何度も見せられるから、人間は精神を患うのかもしれない。そこまで考えて、キュゥべえは首を振った。

 クッションから降りて、階下へと向かう。リビングのテーブルには飲み終えた後のコーヒーカップ。少しよれた新聞紙がその横に置かれている。

 梢の姿は見えなかった。だが、声は聞こえる。玄関の方からだった。そちらへ向かうと、ハイヒールを靴ベラを使って履く母親と、それに半泣きで縋りつく梢の姿があった。早く起きたのは、離婚を考え直してほしいと母親に訴える為だったのだろう。

 だが、梢の言葉は母親には届かなかった。縋りつく手を解いて、眉根を寄せた彼女は口を開く。

 

「ごめんね。もう、疲れたの」

 

 梢の目の前で、扉が無情にも閉められた。空虚な音が玄関に響く。

 ずるり、と梢は三和土に座り込んだ。黒いタイルの上に水滴が落ちる。

 

「やだ…… やだよ、お父さん……お母さん……」

 

 小刻みに震える梢の肩。流れる涙。それらが感情が大きく揺さぶられているサインだとキュゥべえは知っている。だから、キュゥべえは一言促すだけで良かった。

 ユイに願いを叶えて欲しいと言えばいい、と。

 しかし、キュゥべえはそれを言葉にすることが出来なかった。何故かは、分からない。

 結局言えないまま時間は流れ、ひとまず泣き止んだ梢が鼻を啜りながら立ち上がる。キュゥべえは数歩下がった。

 ふらつきながら、梢は洗面所へと歩いていく。備え付けの洗面台の前に立った梢は蛇口をこれでもかというほど捻り、出てきた大量の水で顔を洗った。あまりにも勢いが強くて辺りに水飛沫が舞う。乱暴に、しかし時間をかけて洗われた顔は冷やされ、水を止める頃には何とか体裁を取り繕うことのできる程度になっていた。多少目元が赤くなっているくらいだ。

 鏡でチェックして、ひとまず合格点を出したらしい。壁に固定されたタオルハンガーからタオルを引き抜いて顔や手の水分を拭う。そして、大きく息をついた。リビングに戻って時計を見上げる。いつも家を出る時間を既に数分オーバーしていた。手早く学校へ行く準備を済ませて家を飛び出す。キュゥべえもそれに続いた。

 家を出た頃にはいつもより大分遅くなっていたので通学路に人気はない。走らなくては始業時間にも間に合いそうになかったが、家を出てからの梢の歩みは重かった。とうとう、梢の足が止まる。後ろを歩いていたキュゥべえはそれにぶつかりそうになって立ち止まった。梢を見上げると、彼女は驚きの表情で前を見つめている。視線を追うと、公園のゲートに背中を預けた少女が目に入った。

 

「結衣……」

 

 梢が少女の名を口にする。噛みしめるような声音だった。結衣も梢に気付いて、短い距離を駆け寄ってくる。

 

「一旦学校に行ったんだけど、梢ちゃん来てなかったから心配になって……」

 

 その言葉の通り、結衣は通学鞄を持っていなかった。学校に置いてきたのだろう。梢の目の前に立った結衣は、少し目を見張り、そろりと梢の頬へ手を伸ばす。

 

「赤くなってる。――泣いたの?」

 

 触れるか触れないかの微妙な感触に、梢は顔を歪めた。通学鞄を放り出して結衣に抱き付く。結衣はたららを踏むも、何とか堪えて梢の背中に手を回した。玄関の時とは違い、声を上げて梢は泣く。

 

「お母さんとお父さん……離婚する、って……」

 

 握りしめられた、結衣の制服に深い皺が刻まれる。

 

「引っ越しも、転校もするって…… お父さんに新しい子供も出来たって…… いやだ、そんなの、嫌っ!!」

 

 結衣は、肩に埋められた梢の頭に顔を寄せた。背中を擦る手の優しさに梢の声が大きくなる。

 

「お父さん、お母さんに"君は一人でも生きられる、でもあっちは自分がいなきゃダメなんだ"って…… あたしは!? あたしだって一人じゃ生きられないよ! 一人じゃ嫌だ。お母さんとお父さん、二人揃ってなくちゃダメなのにっ!!」

 

 ガバリ、と勢いよく梢は結衣の肩から顔を上げた。だが、手は離さない。強く握りしめたまま、結衣の目を覗き込むようにして梢は言う。

 キュゥべえが唆そうとして、結局は言葉に出来なかったそれを。

 

「……結衣。お母さんとお父さんが離婚しないようにして」

「え?」

「キュゥべえにお願いして。願い事、まだ決まってないって言ってたでしょう? 助けたいって、言ってくれたでしょう!?」

 

 頬を濡らしながら、叫ぶように言う梢を結衣は見つめた。目尻を吊り上げて切羽詰まった様子の梢とは違い、随分と落ち着いた表情をしている。数分の沈黙の後、一度目を閉じた結衣は柔らかく目を細めて頷く。

 一つ梢の背中を撫でて体を離させると黙ったままだったキュゥべえに向き直った。キュゥべえの耳がふるりと震える。

 

「できる? キュゥべえ」

 

 キュゥべえは一つ頷いた。ハッと梢は顔を上げる。その拍子に涙が一粒零れた。視線の合った結衣は梢の頬を伝う雫を指で払い、柔らかく微笑む。

 

「梢ちゃん、泣かないで? 私が梢ちゃんの願い事、叶えてあげる。……ここじゃ人目に付くかもしれないよね。公園に入ろう?」

 

 結衣は梢の腕の裾を軽く引いてゲートの中へと誘う。向かった先は遊具と遊具の間。公園の入り口から見えない位置。そこでキュゥべえと結衣が向かい合った。キュゥべえは結衣を見上げる。彼女の瞳は決意を秘め、静かな光をたたえている。それでもキュゥべえは一つ訊ねた。

 

「本当に、いいんだね?」

「いいよ。梢ちゃんの両親の離婚しないようにすること。それを、叶えて」

 

 願いが、エントロピーを凌駕する。キュゥべえは結衣に耳毛を伸ばした。結衣の胸元から光があふれ、それが宝石の形を取る。深い森の中のような暗緑色。それがころりと結衣の手の中に転がり込んだ。

 

「契約は成立した。これで願いは叶ったよ」

 

 不思議そうに手の中の宝石に視線を注ぐ結衣に言う。結衣は頷いてソウルジェムを胸元に抱き寄せる。もう一度手を広げると宝石はそこに既になく、銀の指輪として結衣の指を飾っていた。

 

「梢ちゃん、今帰ってもまだおじさんとおばさん帰って来てないでしょ? とりあえず、今は学校に行こうよ。それで、今日は魔女探しはお休みして家に帰ろ」

 

 ソワソワと今すぐにでも踵を返して家に帰ってしまいそうな様子の梢に笑う。そして足元にいたキュゥべえを抱き上げて猫にするように喉を撫でた。目を閉じたキュゥべえのしっぽが揺れる。

 

「キュゥべえはうちにおいで。しばらく、親子水入らずにさせてあげてよ」

「……そうだね。ボクはユイのところに行くとするよ」

 

 キュゥべえがそう答えると、結衣は嬉しそうに笑った。



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11 それでもまだ、愛してるから

 手の平の上で暗緑色の宝石が鈍く明滅する。その間隔は長い。しばらく歩いても、それは変わらなかった。

 一時間ほど歩いて、疲れたので休憩がてらにファーストフード店に入る。結衣は注文したアップルパイとジュースを受け取って窓際の席に着いた。ソウルジェムをテーブルの上に置いてアップルパイのパッケージを開ける。

 

「反応、ないね」

「うん、この辺りにはいないみたいだ」

 

 ぼやく言葉に机の隅に座ったキュゥべえが同意する。結衣は大きくふう、と息をついた。

 

「まあ、魔女なんていないに越したことないよね。でも、捜すならある程度目星をつけておかないと難しいかも。キュゥべえ、魔女が好きな場所とかってある?」

「そうだね…… 好きな場所なのかは分からないけど、大きな道路や歓楽街みたいに人の多い所、又は全く人の寄りつかない所に結界を張る魔女は多いよ」

 

 キュゥべえの返答に、結衣は不思議そうに首を傾げる。

 魔女がする事は悪い事。悪い事をするには人気のない所、というイメージが結衣の中にある。だから人の寄りつかない所には納得いったが、歓楽街という答えは結衣にはピンとこない。実際、結衣と梢が襲われた場所は人通りが多い所ではなかったし、梢が発見した魔女結界も廃墟にあった。

 

「正反対の場所なんだね」

 

 結衣は言いながらパッケージから少し引っ張り出したアップルパイに齧りつく。軽い歯ごたえと共に、シナモンの効いた熱い林檎のフィリングが口の中に入ってきた。はふはふと熱さを逃がしながら口元を押さえる結衣を眺めながら、キュゥべえは大きく尻尾を揺らす。

 

「そうだね。魔女がどういう呪いを撒き散らしているかにもよるんだけど。多いのはその二パターンだよ。例えば、手っ取り早く数を稼ぎたい魔女は人の多い所に陣取る。交通事故や傷害事件を起こせば、一度に出る犠牲者は多くなりやすいからね。ただし、その場合って殺し損ねが結構あるみたいなんだよね。九死に一生を得る、っていうんだっけ? 軽傷で済んだり。対して自殺は事故より死亡させやすいから、確実に殺していきたいタイプの魔女は人気のない場所に対象を誘導して……って感じかな」

「自殺……」

 

 口の中のものを飲み込んで結衣が呟く。その表情は暗い。先日の首吊り死体を思い出してしまったのだろう。

 

「そう。この間の魔女はそのタイプだね」

 

 キュゥべえは頷く。

 

「後、パターンからは外れるけど、被害が大きくなりやすいっていったら病院かな。特に入院施設のあるような大きな所」

「そっか…… 病気でただでさえ弱ってるのに、呪いなんて受けたら……」

「そういう事」

 

 結衣はキュゥべえの言葉を聞いて、残りのパイを口に詰め込みながら立ち上がる。口の中の熱さはジュースで冷やした。飲み込んで、キュゥべえに視線を落とす。

 

「じゃあ、町一番の病院に行こっか。今日は一人だし、パトロールはそこでおしまい」

「分かったよ」

 

 コップを握った方の脇で通学鞄を挟み、もう片方の手でソウルジェムを忘れず回収。

 キュゥべえも机の上で立ち上がって身を翻した。

 

「梢ちゃん、もう家に着いたかな……」

 

 結衣は呟いて窓の外を見やる。空は朱色に染まり、建物も美しく彩られている。日は少しずつ長くなっているとはいえ、もうすぐ日は沈むだろう。

 

/*/

 

 梢が家に着いたのは、赤い空に藍色が混じり始めた頃だった。昨日よりも早い時間だが、寄り道しない時の帰宅時間からすると遅い。パトロールを休んで足早に帰宅の路につくも途中で不安になり、立ち止まったり無駄に遠回りをしたりしたせいだった。

 玄関の前でしばらく躊躇ってから扉を開ける。両親はすでに帰宅していたようで、居間の扉に填め込まれたガラスから人工の光が射しこんで廊下を照らし、玄関に置かれた靴は男物女物が揃っていた。

 

「た、ただいま……」

「ああ、おかえり」

「お帰りなさい」

 

 暗い廊下から明るい居間に顔を出すと、音に気付いて振り向いた両親が梢を迎え入れる。

 

「ちょっと早いけど、もう出来てるから夕ご飯にしましょう。手を洗ってらっしゃい」

 

 母親の言う通り、すでに夕飯の準備は整っているようだ。出来て時間は経っていないようで湯気が立ち上っている。梢は慌しくソファに通学鞄を置いてキッチンの水道でおざなりに手を洗うと席に着いた。ざっとテーブルを見渡す。

 トマトの添えられたキャベツとレタスのサラダ。タルタルソースのたっぷりかかった鮭のムニエル。溶き卵のスープに白いご飯。昨日のような出来合いの総菜ではないようで、食品トレイではなく皿に綺麗に盛り付けられている。久しぶりの母の手料理だった。

 

「……梢」

「な、何?」

 

 席について早々、母親が口を開く。梢は箸を取ろうとしていた手を止め、居住まいを正した。結衣が願い、叶ったとキュゥべえは言ったが緊張する体の反応は止められない。梢はゴクリと喉を鳴らす。

 

「昨日はごめんなさいね。短慮を起こしてしまって…… 今日、改めて話してね、再構築することにしたの」

 

 その言葉が母親の口から放たれて、ようやく梢は肩の力を抜いた。思い切り息をついて、呼吸を止めていたことを自覚する。

 

「すまなかったな、心配をかけて。彼女とは、ちゃんと別れるよ」

 

 そんな梢に、父親は優しく笑って彼女の頭を撫でた。

 

「不倫ばかりする人だけど……それでもまだ、愛してるから……」

「俺も、愛しているよ」

「あなた……」

 

 見つめ合う二人。温かで穏やかな夕食。夕食後、仲良くコーヒーを飲む姿を見るのも数ヶ月ぶりだった。

 宿題があるから、と食器を下げて居間を後にした梢は階段を駆け上り、自室に飛び込んで通学鞄を投げるように学習机に置いてベッドにダイブする。足をボフボフとバタ足のように動かして叫びたい気持ちをぶつけた。

「叶った…… お父さんとお母さんは離婚しない。一緒にいられる…… 離れないですむ」

 疲れて、ようやく落ち着いた梢は寝ころんだまま枕を引き寄せて抱きしめる。滲む涙が枕カバーに滲みを作った。

「ありがとう、結衣……」

 幸せだった。去年の末頃から急に仲の悪くなった両親。それは、実はすでに一度経験のあったことだった。

 小学校の低学年の頃だったから、梢は経緯を詳しくは知らない。ただ、母の実家にしょっちゅう預けられたり、スーツにくすんだ金色のバッジをつけた男が出入りしていたりしていた事は覚えているし、母の実家や当時住んでいた家に漂っていた殺伐とした空気は忘れていなかった。そして、それが始めてではないこともぼやく祖母の話を聞いて知っていた。初めての時を梢が覚えていないのは、それが彼女が生まれてすぐのことだったから。

 梢がこの家に来たのは、二回目の直後。預けられていた母の実家から直接この家に連れてこられて、始めて引っ越したことを告げられた。両親となかなか会えず、祖父母もピリピリしていて落ち着けなかった梢は、更には突然すぎる転校で友達に別れを告げることも叶わなかった。

 転校先ではそれまで受けていたストレスが原因で馴染めず、新しい環境に慣れて落ち着いた頃には既に周りから遠巻きにされていた。中学に進級し、その頃を知らない層が入ってきたことで友達もようやく増えてきたが、親友と呼べるのは、一人だけ。その頃も今も相も変わらず側にいてくれた結衣一人。暗い雰囲気を漂わせていたかと思えば、思い出したように無理矢理明るい声を出してテンションを上げようとする梢を周りは気味悪がったが、結衣だけは側にいることを許してくれた。

 また転校し、結衣と離ればなれになるのが嫌だった。一人は寂しい。殺伐とした空気や気持ち悪いものを見るような遠巻きの視線は怖い。ずっと苦しかったから、その心配がなくなったのが嬉しい。幸せ。

 ――でも。

「ごめん……ごめんね……」

 結衣を危険に放り込むことになってしまった。今更、梢はその事を思い出した。相対する危険が同じなら、せめてもの権利として自分で願いを決めて、自分のための願いを叶えるように言ったのは自分だったのに。

 枕に顔を埋めたまま梢は呟いた。目から溢れた水分が滲みを大きくしていく。

「……ごめんなさい……」

 

 

/*/

 

 結衣は小規模の住宅街の中にある一軒家の前で立ち止まった。足元のキュゥべえに向けて手を広げる。

 

「いらっしゃい。ようこそ、私の家へ」

 

 その手の平にソウルジェムは乗っていない。異常のなかった病院からの帰り道はソウルジェムは指輪に戻していた。キュゥべえは指輪の反射する光に目を細めて、一軒家へと視線を移す。

 住宅街が小規模、とあって結衣の家はこぢんまりとした洋風の建物だった。だが手入れは小まめにやっているらしく花壇には季節の花が咲き乱れ、飾り付けも見てもらう事を念頭にバランスよく仕上がっている。ただ受ける印象は鮮やかというより派手、と言った方がいいだろう。それは遠くからでも目立つだろう屋根や壁などの家自体の色だったり、様々な色の溢れる花壇だったりのせいだった。蔦の絡まったガーデンアーチは門扉がついていて、扉にはプランターホルダーが取り付けられてやはり季節の花が咲いている。結衣が門を開けるとキィと金属の擦れる音がした。

 玄関前で立ち止まり、結衣は付いてきたキュゥべえに視線を落とす。

 

「ちょっとビックリするかもだけど……」

 

 キュゥべえは結衣の言葉に首を傾げる。息を吸って、吐いて、意を決したように結衣は扉を開けた。

 

「たっだいまーっ!」

 

 結衣から放たれた突然の大声に、キュゥべえの動きが止まる。

 今まで聞いた結衣の声の中で最も大きく、弾んだ声だった。結衣はボソボソと喋るわけではないが、声を張り上げたりもしない。学校でもそうだが、魔女の結界内ですらここまでの声量はなかった。

 閉まろうとする扉にハッと我に返り、慌てて結衣の後に続く。キュゥべえが滑り込むのと同時に扉は閉まり、代わりのように廊下奥の扉が開いた。

 

「おかえり、結衣! 遅かったわね、何してたの?」

「梢ちゃんと遊んでたの!」

「まあ! 元気があって良いことね。お母さんとも遊んで頂戴♪」

 

 機嫌の良さそうな女性はスリッパの音を響かせて玄関で満面の笑みを浮かべる結衣に近付くと、ガバリとその体を抱き締めた。きゃあ、とはしゃぐ声。

 女性は結衣の体を解放すると、優しく家の中へと誘う。

 

「ふふっ、さ、手を洗ってらっしゃい。今日のご飯はねぇ……ハンバーグよ!」

「やったぁ!」

 

 諸手を挙げて大げさに喜びを表現して女性の後に続く結衣を、キュゥべえは呆然と見送るしかなかった。

 

/*/

 

「ふぅ…… つかれた……」

 

 二階の一室に入ってすぐに荷物をベッドに投げ出して結衣は疲労を滲ませ、溜息を零す。

 広々とした廊下に設えられた大きな窓、そこから見えた広いバルコニーが開放的だった分、結衣の自室は手狭に思える。梢の部屋と比べても狭かったし、本棚とクローゼットの間に置かれた一人用のソファが部屋を圧迫し、その印象に拍車をかけていた。

 内装はパステルカラーが主だった梢の部屋より明るい色が多く、小物が多い。本棚の上やベッドの上は大き目のぬいぐるみが存在を主張し、勉強机には庭にも咲いていた花が花瓶に活けられている。出窓もちょっとした飾りや人形が置かれていて、下手に乗ったら倒してしまいそうだった。

 結衣は投げ出した荷物の内の一つであるレジ袋を引っ張り出し、中から帰宅途中に買った物を取り出す。小さな牛乳パックと、フルオープンエンドの缶詰。そして一階から失敬してきた少し深さのある皿二枚とスプーン。結衣が用意した、キュゥべえ用の食事だった。

 缶詰の中身はキャットフードで、それは皿の一つにスプーンで盛りつけられ、もう一つの皿には牛乳が注がれる。完全にペットのような待遇だったが抵抗したりはしない。円滑に任務を遂行するのに、有効ではあっても支障はなかったからである。

 皿を差し出されたキュゥべえは、身をかがめてキャットフードを口に含む。細かく砕かれた食材は柔らかく煮込まれ、どろどろに溶けあっている。野菜も多く入っていて、栄養バランスは問題ない。隣に置かれた牛乳にも適度に口を付け、食べ進めた。

 しばらくその様子を微笑ましそうに眺めていた結衣は、ふと立ち上がってクローゼットの戸を開けた。奥からワンハンドルのバスケットを引っ張り出して勉強机に置く。それにテーブルナプキンを敷きながら、結衣はキュゥべえをチラリと見やった。

 

「……ビックリした?」

 

 その言葉にキュゥべえは顔を上げる。結衣が言っているのは先程の彼女の親らしい女性への対応の事だというのはすぐに分かった。ペロリと小さな舌で口回りを舐める。

 

「梢といる時と随分対応が違うんだね」

「見ての通り、私の両親ね、とーってもテンション高いの。優しくて明るくて、大好き。ただ、素の私でいると、すっごく心配しちゃうの。元気ない、って」

 

 結衣は少し恥ずかしそうに笑う。

 

「心配かけたくないから、お父さんやお母さんの前だとああやってはしゃぐようにしてるの」

 

 言いながらも手の動きは止めない。バスケットの底に、柔らかそうなタオルを数枚入れて、息をつく。

 

「でもね、正直あのテンションに合わせるのって疲れちゃう。その点、梢ちゃんはね、優しくて明るくて、でも私にそれを要求しない。一緒にいて、すごく楽」

 

 結衣は、ふふっと小さく笑ってキュゥべえの顔を覗き込んだ。キュゥべえのルビーのような瞳に結衣の顔が映る。

 

「キュゥべえは好きな子とかいないの? 気になる子とか。魔法少女になれる子を探してるんだよね? 仲間とかいないの?」

「ボクらはいっぱいいるけど……好きな子、というのはよく分からないな。考えたことないよ」

「そうなんだ。ふふ、私も初恋まだなの。一緒だね。……よし、キュゥべえの寝床、完成」

 

 突然の理解できない質問に目を白黒させながらも、キュゥべえはバスケットの中に入って体を丸めた。ふわりとしたタオルの柔らかさがキュゥべえの体を包む。バスケットの大きさも、尻尾を収めて丁度いいサイズだった。

 

「どう?」

「うん、問題ないよ」

「そう、良かった。じゃあ、私お風呂に入って来るね」

「分かったよ」

 

 キュゥべえが頷くと、結衣は机の上に宝石に戻したソウルジェムを置き、着替えを手に取った。部屋を出て行こうと踵を返す彼女を、キュゥべえは身を起こして引きとめる。

 

「あ、ユイ。ソウルジェムは身に着けていて」

「え? でもお風呂に入れちゃっていいの?」

「大丈夫だよ。置き忘れたり転がって失くしちゃったりする方が大変だから」

 

 嘘ではない。失われたら困る。それに家の中だけなら問題は少ないが、体から外す習慣をつけられても面倒だった。身体は魂なくては動かない。容を持った魂(ソウルジェム)が身体を認識できるのは精々百メートル。それ以上離してしまえば、魂が身体に触れて再接続されるまで動かせなくなってしまうのだ。

 これは魔女化と並んで魔法少女とその候補者に隠される真実。だから本当の理由をぼかしてキュゥべえは伝えるし、それに納得したように頷く結衣も適当にずれた答えに辿り着いているのだろう。

 

「そっか…… それもそうだね、分かった。……あれ?」

 

 ジェムを手に取った結衣の動きが止まる。

 

「色が違う?」

 

 結衣の言う通り、昼間見た暗緑色から深い赤色にソウルジェムは色を変えていた。光に翳したりひっくり返したりする結衣を視線で追いながら、キュゥべえはしっぽを揺らす。

 

「へえ、まるでアレキサンドライトみたいだね」

 

 アレキサンドライト。受ける光によって様々な色の変化を見せる宝石で、太陽光の下で緑や青系統の色に、白熱灯の下では赤紫色や褐色などの色に変化する。結衣のソウルジェムも似たような性質を持つのだろう。

 結衣は相槌をうって、キュゥべえの顔の横にソウルジェムを持ってくる。

 

「もうちょっと明るかったらキュゥべえの目の色だったのにな…… でも、不思議で綺麗。明日梢ちゃんにも教えよっと。じゃあ、入って来るね」

「うん」

 

 小さく笑って、結衣は指輪をはめて部屋を出て行く。キュゥべえはそれを見送って体をタオルのクッションに横たえる。思考の端にチラつくのは、結衣と契約した時の事だった。あの時、思わず言ってしまった言葉。

 

 ――本当に、いいんだね?

 

 あれは、思いとどまらせようとする言葉だ。なぜそんな言葉を紡いでしまったのか、自身の事なのに分からない。契約をしてくれるというのなら、それでいい筈なのに。

 気になる子、と言われて、脳裏に浮かんだのは。

 頭をクッションに押し付ける。タオルは柔らかくキュゥべえを受け止めた。

 

「…………へんなの」




これでようやく、プロットの約半分を消化できました。
起承転結の転が始まります。


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