そよかぜのいえ (804豆腐)
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第1章 プロローグ

薄紅色の思い出。

あの日、あの桜の花びらがひらひらと舞い落ちていたあのまだ肌寒い春の日。

まだ昼過ぎだというのに薄暗いその部屋で俺は膝を抱え俯いていた。

そして部屋の中央の布団には寝ている人物が居る。

しかしその人物はもう目を覚ますことは無いだろう。

そう医者が言っていた。当時の俺にはそれがどういう意味かも、その人物がどんな人物なのかも知る事は無かったが。

この当時の俺は何も分からず、知らず。ただ漠然とした不安に震えそうな体を抱えていた。

そんな俺の気持ちなど知らず桜の花びらはゆっくりと地面という名の死へ向かう。

かの花びら一枚、一枚に心があれば今どのような事を思うのだろうか。

今、彼らにはどんな景色が見えているのだろう。

後悔は無いのだろうか。

未練は無いのだろうか。

満足しているのだろうか。

生きるという事はどういう事なのだろう。

その答えはまだ出ていない。

きっとこれからもまだでない。そんな気がしている。

いつか答えが出るとしたら、それはまさに今の祖父の様な。桜の花びらの様な時なのだろう。

だから今の俺に出来る事は〝どこかにある生きる理由を探すため〟に生きる事だけだ。

俺はまるでその場に居なかった他人の様な位置から昔の俺を見つめる。

彼にはこれから数多の困難が訪れる。そして彼が本当の意味で祖父の最期の言葉を理解するのにはまだまだ時間が掛かるだろう。

俺はゆっくりと薄紅色に染められていく空を仰ぎながら、その部屋を出た。

今この記憶では俺は部外者だ。

あと少しすれば祖父は一時的に目を覚ます。

そして彼に大事な言葉を残すのだ。それはその時の彼には理解する事が困難だが。

10年以上経った今なら少しは分かる。

きっと生きるという事は……。

 

誰かが俺の頬を触っている。

その少しくすぐったい感覚に俺は身をよじった。

それに驚いたのだろうか、その手は怯えるように俺の頬から離れていく。

しかしまた少しして同じように触ってくる。

その手はきっとあの子だろう。

俺は夢という名前の海から現実という名前の陸へと上がる。

重い瞼をゆっくりと開き、前を見るが、そこには何も見えない。

いや、見えてはいるのだ。正確にはそれがなんなのかを理解する事が出来ない、だ。

ぼやけた視界からははっきりとした輪郭を掴む事は出来ず、それが何か。という事しか理解出来ない。

少しずつ回転を早めていく思考に、急激に浮上してくる意識。

俺は安定していく視界と意識の中で、自分が縁側で昼寝をしていた事を思い出した。

先輩が花見をすると言い初めて、準備をしていたのだが、俺は場所の確保という事で中庭に繋がる縁側のすぐ下にレジャーシートをひき、皆を待っていた。

しかし予想よりも準備に手間取っていた様子だったので、手伝いを申し出たのだが断られてしまい、しかたなく縁側に座り込みながら静かに散る桜を見ていたのだ。

そして気が付いたら寝ていた。という事か。

俺はここまでの状況整理をしながら首を鳴らし、上半身を起こしながら周囲を確認した。

まだ誰も来ていないようだ。ただ1人を除いて。

その少女は俺が突然起きた事に驚いているのか、両手で口元を押さえている。

俺はその少女の方を向きながら自然と笑顔になる。

「やぁ。もう準備は出来たのかい?」

少女の頭を撫でながら、俺は口を開く。

頬を朱色に染めた少女はどこか嬉しそうにはにかみながら首を縦に振る。

「もう少しで……お母さん達も来るよ」

俺は口で小さく「そっか」と言いながら少女の頭から手を離し、中庭の桜を見据える。

随分と懐かしい夢を見ていた。

祖父の死は間違いなく俺の人生に大きな影響を与えた出来事だった。

その後、神宮寺の本家に引き取られてから走り続けてきた。

寝る暇も惜しんで、命をすり減らしながら、それでも止まれなかった。

生きる意味が分からないから。自分が世界に居ても良い理由なんて分からなかったから。

そんな俺が、今こうしてあの日祖父の部屋から見たような桜を見ながらのんびりと日々を過ごしている。

面白いモノだな。人生って奴は。

そんな事を考えていた俺は口元に小さく笑みを浮かべた。

あの時から忘れていた〝笑う〟という事。

そしてこの場所に来て、取り戻した〝生きていく〟という事。

「おにーちゃん、なんか難しい顔してる」

俺はいつの間にか隣に座り、俺の顔を覗き込んでいた少女の顔をゆっくりと見る。

彼女の名前は〝塚原杏〟。ここ〝そよかぜのいえ〟の管理人さんの娘だ。

肩で切り揃えられた栗色の髪に、アメジストのごとく鮮やかで大きな瞳。

少し人見知りでいつも顔を伏せているが、学校でも可愛いと評判らしい。

まぁこのくらいの年頃の男など妙なプライドばかりが先立って正面から女の子と向き合う事など出来ないだろう。

俺は初めて会った時から特に意識する事もなく、ただ何となく付き合ってきた。

そして、そんなこんなでだんだんと懐かれて、今では家に居る時は殆ど一緒に行動している。

「そうかな?」

「うん。なんかココがぎゅ-ってしてた」

杏ちゃんは自分の眉間を指差しながら口を尖らせる。

そんな顔を見て俺は思わず笑ってしまった。

「なんで、なんで笑ってるの?」

「何でも無いよ。強いて言うなら〝生きている〟からかな」

俺は空を仰ぎ、小さく息を吐いた。

そんな俺を見て杏ちゃんは首を傾げながら不思議そうな顔をしている。

杏ちゃんの頭をなるべく優しく撫でながら俺はそっと微笑んだ。

「それは嬉しいってこと?」

「そうだね。そうなるかな」

杏ちゃんは俺に撫でられながら寄り掛かってくる。

頬を朱色に染めながら嬉しそうにはにかむ杏ちゃんを見て俺の頬が緩んだ。

「おー、おー。俺が居ないところでお楽しみじゃないか」

「先輩、もう飲んでるんですか?」

「コレが! 飲まずに! いられるかー!!」

先輩こと、朝霧司。現在職なし。

先輩は右手に持った一升瓶を天に掲げながら叫ぶ。

そんな先輩の姿に怯えたのか、杏ちゃんはそっと俺を壁にし、先輩から隠れた。

「俺、今朝から小説読んでただろ? 『そういえば読んでましたね』そう。〝未来漂流記〟ていう本だった。いや、タイトルはどうでも良いんだ。問題はその作品の主人公には娘が居た。名前は未来ちゃんって言うんだがな? その未来ちゃんは主人公の事が大好きなんだ。しかしそれを言えない。その葛藤の中で、遂に未来ちゃんは何も言わずに主人公と別れてしまうんだ! 分かるか!? この苦しみが、あの娘は今も泣いているんだ。しかも主人公はそんな未来ちゃんの気持ちも知らず笑顔で別れるんだ。〝君とまた未来で会える事を楽しみにしてる〟キリッ。ってなんでやねん! なめてんのか! 俺が主人公だったら何が何でも未来ちゃんと結ばれる方法を見つけるのに……。『ん? それって倫理的にどうなんです?』知るか! 倫理なんて犬にでも喰わせてしまえ! 結局主人公の奴は他に好きな奴が居るとかで、未来ちゃんは別れるまでずっとその2人の応援をしてるんだ。なんて健気なんだ……。う、うぅ……」

「うわぁ、泣き始めちゃったよ。この人」

俺は先輩から距離を離した。

そして同じように俺の背中に居た杏ちゃんも一緒に移動する。

先輩はそんな俺たちに気づくことなく悔しそうに床板を叩いていた。

「しかし重要なのはそれだけじゃない。その主人公、妹が居るんだがな。名前は希ちゃんっていうんだがな。おいおい何後ずさりしてんだ。こっちに来いよ」

先輩は俺の肩を掴むと恨みがましい視線を向けてくる。

そんな目で見られても、俺はどうする事も出来ません。と言う事も出来ず俺はとりあえず笑顔で先輩の肩を叩いた。

「分かってますって、先輩。だから、あんまり引っ張らないで下さい」

先輩は俺の服を掴み、引っ張り上げる。

正直、服が駄目になってしまうので止めて欲しいのだが、既に酔い始めている先輩に何を言っても聞いてくれそうに無い。

俺は先輩の手を穏やかに離す策は無いかと考える。

が、そんなに簡単に浮かんだら苦労は無いワケで。とりあえず現状としては……。

「まぁまぁ。話はちゃんと聞きますから、とりあえず座ってください」

先輩は鼻息を荒くしていたが、俺に諌められ少し落ち着いたのか座り込み、庭の桜の木を眺めていた。

先ほどまで話していた小説でも思い出しているのだろうか、遠い目をしてここには無い何かを見ている様な表情をしている。

普段の先輩はまるで大きな子供の様なヒトだが、今の様な年相応の落ち着いた表情をしている先輩はまるで別人のようだった。

俺と違い、街中に居ても決して埋没する事の無い整った顔立ち。

少し冷たい印象を与えがちだが、笑顔が多いからか女性人気はかなり高い、らしい。

体型も問題ないし。一時期金を荒稼ぎしていたらしく、もう一生働かなくても良いくらい稼いだらしい。

問題があるとすれば、金を稼ぐのを止めたからか、今働いていない事。

働くというのは人間に許された最高の楽しみなのに、それをしていないなんて……理解できない。あぁそれと、もう1つあった。

「あー、どこかに俺の妹か娘いないかなー。小2くらいの」

ロリで始まりコンで終わるあの病にかかっている事だろうか。

その内どこかで通報でもされなければ良いけど。

「ここでなら良いですけど。あまり外で危ない発言しないで下さいよ。この家から逮捕者が出るのは嫌です」

俺が呆れた様に肩をすくめながら言うと、後ろで杏ちゃんが小さく頷いているのを感じた。

そんな俺たちを見て先輩はわざとらしく大きなため息をつく。

「俺だって愛が欲しいのよ」

「いや、だからといって一桁は犯罪です」

先輩はいじけたように縁側から足を投げ出し、床に体を倒す。

そして天井に向かって手を伸ばし、真剣な表情になった。

「いつだって、欲しいモノは手の届かな『あ、みんなそこに居たんだ!』ぐぎゃっ!!『へ?』」

床に寝転がり、決め台詞を吐いていた先輩は突然の襲撃によって倒れた。

いや、既に倒れていたが。

気分良く話していた先輩の腹の上に無造作に乗ったのは1人の女の子だった。

その襲撃者は今俺の後ろにいる少女杏ちゃんの姉で、塚原葵ちゃん。

彼女は活発な輝かんばかりの笑顔と、スラリと長い手足と綺麗な長い黒髪を風に靡かせていた。

杏ちゃんと良く似た顔立ちだが、杏ちゃんとは違い太陽の様にいつも元気に笑っている子だ。

葵ちゃんは咳き込んでいる先輩にその細く綺麗な手を合わせながら謝っている。

「葵君は重いんだから、気をつけてもらわないと」

先輩は息を整え、何も考えずそんな事を言い放つ。

その発言に、葵ちゃんの顔から先ほどまでの笑顔で消えている事にも気づかず、まるで被害者の様な顔つきで寝ている状態から起き上がろうとした。

しかし、そんな先輩の肩を葵ちゃんは無表情で押さえつける。

眉を顰めながら先輩は葵ちゃんを見るが、葵ちゃんは無表情のままだ。

「ねぇ、司にぃ。私って重いかな?」

「あぁ、死ぬかと思ったぜ。気分は道路でトラックに潰された蛙みたいなモンだな」

「そう」

葵ちゃんは無表情から一転、満面の笑みになると先輩の腹の上に自分の膝を乗せた。

少し苦しそうな顔をする先輩。だが、彼女は止まらない。

「ねぇ。本当に重い?」

だんだんと足に体重を掛けていく葵ちゃん。

「う、お……重い」

「いやいや、きっと気のせいでしょ。ね?」

「お、おもい」

どこか暗い笑みを浮かべたまま、葵ちゃんは体重を掛け続ける。

どうしようかと思案していると、誰かが俺の服を引っ張る感触が。

「司くん、苦しそうだよ?」

「そうだね。そろそろ止めようか」

まぁ先輩のうかつな発言が原因とは言え、先ほどから本当につぶれた蛙の様な声を出している人間を見捨てる事も出来ない。

俺はゆっくりと立ち上がり、葵ちゃんに声を掛けようとした。

しかしそれよりも早く葵ちゃんの肩を叩いた人物が居た。

「葵。やりすぎよ」

その人は葵ちゃんと杏ちゃんの母で、この〝そよかぜのいえ〟の管理人、塚原菫さんだ。

葵ちゃんと同じ髪質の黒髪を三つ編みにして肩から下ろしている。

穏やかに微笑んでいる〝大人の女性〟の代表の様な方だ。お母さんの様だとも言う。

しかし1番の疑問は先輩と管理人さんが殆ど同じ年齢だという事で。

そして、何よりも2人の見た目が俺と殆ど変わらない年齢に見えるというのに、一回り近く離れているというのだから驚きだ。

葵ちゃんは瞳に少しの涙を浮かべながら母に抱きつく。

「だって、だって司にぃが重いって言ったんだもん。私重くないもん!」

「いや、マジで死ぬかと『先輩、少し黙ってましょう』……そう怒るなよ」

先輩は座り込み、落ち込んだように肩を落とした。

そんな姿を見ても全く同情など出来ないワケだが。

しかしそれでも一応フォローはしておく事にする。

「先輩。女の子はそういう事を気にするんですから。あんまりうかつな事言っちゃマズイですよ」

「女の子って。あぁそうか葵は女の子だったか。それは悪かったな。最近は全然意識してなかったよ。女の子。そうか女の子かぁ」

先輩は1人で何度も頷き自分の中で納得しているみたいだ。か、しかしその発言を聞き、ふらりと管理人さんから離れ、先輩の背後に幽霊の様に立っている人物は納得など何もできていないのだろう。

「まぁ、昔はそれなりに……『司にぃのバカっ!』ぎゃん!」

葵ちゃんは先輩の頭を振りかぶった手のひらで叩きながら走って逃亡しようとした。

その背中に管理人さんが声を掛ける。

「葵。からあげ、食べないの?」

その声は決して大きな声では無かったが、葵ちゃんの耳にはしっかりと届いたらしい。

走り出そうとした格好のまま時が止まった様に停止した葵ちゃん。

そして大きなため息を付くとゆっくりとこちらに戻ってきた。

どうやら花見はようやく始まるらしい。

 

柔らかな風に舞い上げられてひらひらと空に遊ぶ薄紅色の花びら。

俺は縁側で透明なコップに入った日本酒を舐めるようなペースで飲んでいる。

左手で体を支えながらボーっと桜の木を眺めて物思いにふけていた。

そんな俺の横には杏ちゃんが両手で少し大きめなコップを持ち、小さく喉を鳴らしながらゆっくりとオレンジジュースを飲んでいる。

たまに小さく息を吐き、俺の方を見て首をかしげている姿はその道の人が見れば、あまりの可愛らしさに思わず自宅に連れて帰ってしまうほどだろう。まぁ犯罪だが。

桜の木の下を見れば、レジャーシートの上で酒を飲んでいる先輩。

そしてそんな先輩に酒を注いでいる管理人さんと、先輩に話しかけるキッカケを探している葵ちゃんが居た。

実に楽しそうだ。

俺はそんな光景を見ながら、酒を口に含む。

口に含む度に、喉と胃に心地よい刺激が与えられ、その場所の体温が少し上がった。

肌寒い春の空の下で全体的に上がった体温を定期的に冷やしながらまた酒を補給する。

アルコール中毒者は酒が燃料だと言うが……なるほど、と思う。

俺は桜の下で焼酎やらウィスキーやらを飲んでいる先輩や管理人さんとは違い強い方では無いから、どちらかと言うとこういう機会でも無いと飲まないのだが……。

やはり、たまに飲む酒というのはどうしてかやたら旨く感じるのだった。

俺が1人空を眺めながらボーっとしているといつの間にか横から居なくなっていた杏ちゃんが両手で大事そうに一枚の皿を持って走ってきた。

トテトテという音がしていそうな可愛らしい走り方だ。

「お母さんから食べ物もらってきた」

杏ちゃんの背中の向こうで管理人さんが笑顔で手を振っている。

走って取りに行ったのだろう。頬を朱色の染めながら白い息を吐いていた。

そんな杏ちゃんが可愛らしくて、俺は頭を優しく撫でる。

杏ちゃんはくすぐったそうに首をすくめ、頬を朱に染めたまま緩ませていた。

可愛い。あぁ可愛いなぁ。なんでこの子はこんなに可愛いのだろう。

それからしばらく頭を撫でていたが、杏ちゃんに少し怒られてしまった。

そして俺は杏ちゃんとまた並んで座りながら管理人さんの作った料理を食べる。

からあげ、桜の形をしたニンジンの入った煮物、出し巻き卵、エビフライ……などなど。

サラッと作ると言っていたが、流石は管理人さんと言うべきだろうか。

「これ、私が握った」

そう言いながら杏ちゃんは1つのおにぎりを俺に差し出してくる。

そのおにぎりは形は少しいびつだが、どんな店の綺麗に作られたおにぎりよりも美味しそうに見えた。

「ありがとう。貰うよ」

それを一口食べる。

すぐに砂を噛む様な感触。やたらしょっぱいのは塩を入れすぎたのだろう。

ふむ。どうするべきか。

杏ちゃんの今後を考えれば、コレを素直に言うべきなのだろう。

失敗をそのまま失敗としない子だ。きっと次に活かすに決まっている。

しかし、その前に悲しんでいる杏ちゃんを見なくてはいけない。

それは耐えられそうに無いな。

よし、このまま何も言わずに食べよう。

俺はそう決意すると、次の一口を食べようとおにぎりを口に近づけていった。

しかし、横からの突然の乱入者のその小さな口の分だけおにぎりを食べられてしまった。

「しょっぱい……やっぱり美味しくなかった」

「いや、違うんだ、俺は結構好きだよ? 『無理してる顔してる』」

杏ちゃんは責める様に俺に迫ってくる。

右足の上に手を乗せ、その顔は俺の顔にくっつきそうな近さだ。

俺は逃げようと身を反らすが、杏ちゃんはそれを追ってさらに迫ってくる。

「悪い所があったら言ってほしい」

「いや、それは」

少し涙ぐみながら唇を尖らせ、怒っているという様子の杏ちゃん。

悲しませたくなくて。とは言いづらい雰囲気だ。

俺は右手で体を支えていたが、杏ちゃんは無理して前のめりになっていたのだろう、体勢を崩してしまった。

そして俺は倒れ掛かってくる杏ちゃんをそっと抱きとめた。

少しの間呆然としていた杏ちゃんだが、状況を理解したのか頬を夕日の様に赤く染めながら慌てて俺からどこうとする。

しかし体勢を崩しているので簡単にはいかず、少し浮き上がったかと思うとまた俺の上に倒れ掛かってきた。

「あ、あの」

俺は右手で体を必死に支えていたが、それを止め縁側に寝そべった。

酒や食べ物は離れた場所に逃がしてあるからこぼれてはいないだろう。

「あれ? おにーちゃん?」

「もう少しこうしていたいな」

俺は短くそれだけ言うと、青空を見た後静かに瞳を閉じた。

遠くで先輩達の声が聞こえる。そして風の音、鳥の泣き声、車の音。

あらゆる音が耳に届くが、それら全てを遠い世界に感じながら胸の上で俺の体に居る小さな存在を近くに捉えた。

杏ちゃんはそのまま俺の胸に頭を置き、寝ているようだ。

「おにーちゃんの音、トクトクいってる」

俺の意識は少しずつ世界に溶け込んでいって。

だんだんと消えていく世界の中で誰かの声を最後に聞いた。

「たのもー!」

それは今までに聞いた事の無い声で。

何故だろう。この穏やかな日常に何か新しい変化が訪れる予感がした。

でもそれは嫌な感じではなく。どちらかと言えば……。

「あのー!! 二宮翠ですけどー!! 誰か居ないんですかー!?」

新しい本を買ったときの様な。

新品の靴を買ったときの様な。

そう、新しい世界が開ける予感とでも言えばいいのだろうか。

「あん? 誰だ、お前」

いや、もっと簡単な表現を俺は知っていた。

「だから、二宮翠ですって」

「だーかーら! なんでココに居るのか! って聞いてるんだよ!」

「あぁ言ってませんでしたね。今日からここの新しい住人になった〝二宮翠〟さんです」

管理人さんののんびりとした声と、先輩と葵ちゃんの叫びが重なった。

そしてその声は当然俺たちにも届いていたが、2人共眠りの世界の住人になっていたのでその声を聞く事はあっても起きる事は無かった。

意識が消える直前俺はふと考えていた事の結論を導き出していた。

多分この気持ちは……未来を、次の扉を、宝箱を開ける気持ち。

そう、ワクワクする気持ちなのだろう。

何か劇的な変化があるわけではないが、ちょっとだけ騒がしい日常に会いにいこうか。

俺は静かに笑みを浮かべたまま意識を夢の世界へと旅立たせた。



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第1章 第1話

畳四畳。

トイレ、風呂は共用。そして食事も共同で。

楽しい事も嬉しい事も悲しい事も苦しい事も共有していきたい。

住んでいるみんなで家族になる。

それが俺が今住んでいる〝そよかぜのいえ〟だ。

管理人さんの名前は〝塚原菫〟さん。2人の娘が居て、それぞれ〝葵〟ちゃんと〝杏〟ちゃんだ。

2人と一緒に微笑んでいる姿はまさにお母さんという感じで、この〝そよかぜのいえ〟でもお母さん的な立ち位置にいる。

しかしたまに見せる少女の様な微笑みに俺は少し心臓が高鳴ってしまうのだが。

まぁその度に杏ちゃんが不機嫌になるので、なんとか自制しようと努力はしている。

杏ちゃんは管理人さんの2人の娘の妹の方だ。

俺は気に入られているらしく、よく部屋に遊びに来るし、行動も大体一緒にしている。

いつもはご機嫌な杏ちゃんだが、1度不機嫌になると直るまでが大変だ。

まずムスッと口を尖らせながら怒ってますよ。というアピールを始める。

そして俺の事なんか知りませんよ。と言いたげに顔を逸らし、腰に手を当て無言になるのだ。

ココまで怒らせるともう謝ろうが、何か物で釣ろうが機嫌は殆ど直らない。

しかし別にコレだけならば酷い話ではあるが、杏ちゃんを放っておけば良いだけの話に思える。

だが、今までに何度かこうなった杏ちゃんを放っておいた事があるが、それから後の流れは大抵同じだ。

怒っている杏ちゃんに背を向けた瞬間、さらに怒りを増した杏ちゃんは俺の背中を小さく握った可愛らしい拳で叩く。

可愛らしいものだ。だが、俺が振り向くとまたそっぽを向く。

そして俺が再び前を向くと、「うー!」と唸り声を上げ背中をポンと叩くのだ。

いくら可愛いとは言え、ずっとコレを繰り返しているわけにも行かず、出掛ける事もあるのだが……。

普段とは違い手を繋いでくれず、横も一緒に歩いてくれない。

かといって出掛けないわけもいかず、しょうがなく後ろを気にしながら歩く事になる。

しかし何よりも辛いのは俺が誰かと会話をする度に、服を小さく引っ張り寂しそうな顔をして俯いてしまう事だ。

そんな顔をさせたくは無いというのに、その原因である俺がどうする事も出来ない。

無力感。

言葉にすれば簡単だが、そんな言葉では表現できない……まるで体が底なしの沼に沈んでいく様な感覚を全身に感じ、体が重くなる。

しかし何よりも辛いのは俺ではなく、目の前で俯きながら涙を堪えている小さな存在だろう。

俺はそんな顔も想いも杏ちゃんにはさせたくない。

だから、なんとか回避したいのだ。そう何か方法があれば……。

 

「それ、先週も言ってた」

「ごめん。急な仕事が入っちゃって」

今日は休日。

カレンダーで赤い数字が書かれている日だ。

さりとて俺は変わらずワイシャツにネクタイを通しているところで。

鏡を見ながら逆三角形を形作っているところなのだが。

扉の前には最初嬉しそうな顔からだんだんと悲しげな顔に変わっていく杏ちゃんがいた。

「約束したのに……」

「来週なら行けるから!」

「先週もそう言ってた。映画、今日で終わりなのに」

杏ちゃんは潤んだ瞳でこちらを見ながらフラフラと近寄ってくる。

そしてそのまま俺のワイシャツをギュッと握るとジッと見上げてきた。

その小さく揺れる瞳と涙で濡れる瞳を見て、俺は胸が締め付けられるような感覚を味わう。

「見たかったのに」

「その映画……俺が一緒に行っても良いぜ」

答えに窮していた俺の前に舞い降りたのは救世主ならぬ、先輩だった。

いつの間にか出掛ける為に服を着替え、ニートな事など悟られぬどこに出しても恥ずかしくないイケメン姿で登場する。コレで助かった。

「司くんじゃ、や」

「そ、そんなぁ」

……と思っていたが、どうやら勘違いだったらしい。

再び俺を責めたてる作業を始める杏ちゃん。

いつもなら先輩は床に這ったまま泣き崩れているのだが、今回は珍しく真剣な顔つきでこちらを睨んでいた。

「そういえば明。お前昨日も出勤してたな。しかも帰ってきたのは今日の朝だ」

「……そうですね」

俺は杏ちゃんに責められている事が頭から吹き飛び、背中に流れる冷や汗を感じさせないように笑顔を浮かべた。まぁ多少ぎこちなかったが。

しかしそんな笑顔でごまかされる先輩ではない。

そして心なしか、杏ちゃんの握る力が強くなった気もする。

「何時間寝たんだ?」

「7時間半ですかね」

「相変わらずごまかそうとするのが下手だな明。嘘はつきたくない。しかし知られたくは無い。その結果がソレか。俺は1日の睡眠時間を聞いたんだが。優秀なお前が分からないワケないよな?」

先輩の眼光は和らぐこと無く鋭く俺の顔を突き刺している。

下から来る鋭い視線と既にしわが酷い事になっているワイシャツも問題だ。

「おにーちゃん約束破った」

「ち、違うんだ! 今週だけ。今週はちょっとだけ睡眠時間少ないかもしれないけど、来週には『先週もそう言ってた』うぐっ」

俺は弁明しようと杏ちゃんに向けていた顔を先輩に向けつつ、横目で時計を確認する。

現在時刻は7時ジャスト。

後、10分以内に支度しなくては間に合わない。

優先事項は会社にとりあえず向かう事だ、杏ちゃんには後でアイスを買ってくるとして、先輩にはあの楽しみにしていた漫画を買ってくれば良いだろう。

今は2人を振り切ることに全神経を向ける!

「あー、もしもし? 神宮寺明の代理の者だが。今日明は体調がよくないので休む。あぁ!? テメェ、過重労働で訴えても良いんだぜ? そう、あぁそうだ。よし。話が早くて助かるな。んじゃ! ……よし。じゃあそういう事だからお前は今日休んで、ココで寝てろ」

先輩はいつの間に掠め取ったのか俺の携帯で颯爽と会社に電話を掛け、俺を休みにしてしまった。

常識も何もあったものじゃないな。

俺は小さくため息を吐き、首元のネクタイを外し、ハンガーに掛ける。

「ま、俺はまだ眠いから寝るぜ。ちなみに明、次に約束破ったら……」

それだけ言い残すと先輩は口笛を吹きながら階段を降りていった。

そして仕方なく俺は服をパジャマに着替え、布団の中にもぐりこんだ。

杏ちゃんはこちらをチラチラと名残惜しそうに見ていたが、そっと扉を閉めて出て行く。

俺は電気を消し、そっと瞳を閉じた。

全身から力を抜き、重力に身を任せる。

ふぅ。とりあえず寝るか。

さて、今日休んだという事は週明けの月曜日に片付けなきゃいけない仕事が……。

「おにーちゃん。眠る時はお仕事の事考えちゃ駄目だよ」

突然カーテンの閉め切られた暗い部屋に一筋の光と声が届いた。

杏ちゃんはそれだけ言うと再びドアを閉める。

……困ったな。いや、何で俺の考えが分かったんだろう。

まぁ考えていてもしょうがない。寝るか。

ぐぅ、眠れない。

そうだ! 寝る前に、少しだけ仕事を片付けてから寝よう。

そうそう、それが気になってたから眠れなかったのか。

「おにーちゃーん? まさか起きて仕事をするワケないよ、ねー?」

「お、おぉ」

俺は立ちあがろうとした中途半端な体勢で再びやってきた杏ちゃんに苦笑いを浮かべながら答える。

杏ちゃんは微妙な笑みを浮かべながら再び扉を閉めた。

……寝るか。

俺は布団にもぐりこみ、目を閉じる。

今度は何も考えず、ただ体を放り出し、意識を底なし沼へと沈めていく。

なんとか眠りの感覚を掴み、意識をゆっくりと沈めていった。

それから扉が少し開き、誰かが部屋に入ってきた事を俺は消えそうな意識の中で感じていたが、意識は既に夢の世界へ足を踏み入れており、そのまま眠り始めた。

布団の中に小さい何かがもぐりこんできている。それの正体も考えずに。

 

目覚めは最悪だった。

長い時間寝るものじゃないな。と俺は上半身だけ起こし首を鳴らす。

肩を回すと嫌な音と共に軽い痛みが腕にまで広がった。

布団に寝るのなんて何日ぶりだろうか。床とは違い硬くないのは良くない。

掛け布団の暖かさも、まだ冬の寒さが抜けきっていない初春では何時間でも眠りに誘われてしまいそうだ。

久しぶりに味わったが、危険だな。

時計を確認すればちょうど全ての針が頂点を指していた。

昼か。どうやら5時間も寝たらしいな。そりゃあ体も痛くなる。

そして俺の横には小さなふくらみがあった。それはどうやら杏ちゃんらしいが、どうして俺の布団で一緒に寝ているのかは分からない。

しかし気持ちよく寝ているようだし、ここは起こさない様にそっと布団から出るか。

「が、しかし服を掴まれているので1人での脱出は不可能なのだった」

って、俺は何を1人で言っているんだ。

俺は両腕を宙に浮かせながらヤレヤレと肩を上げた。

さて、どうするかと布団を少し上げてみればそこには幸せそうな寝顔の天使……もとい、布団という楽園に辿り着いた天使か。

そして何気なく顔を上げ、ドアを見てみれば半開きの向こうからこちらをジッと見つめる瞳が……っ!

「って、怖っ!!」

勢いで叫んでしまった俺だが、叫んだ事で頭が少し冷静になり、その呪われそうな鋭い瞳の持ち主が、何か得体の知れない化け物ではなく先輩だという事が分かった。

それが分かり安心するが、何故そんな恨みがましい視線をこちらに向けているのか理由が分からない。

「うらやましい」

理由が今分かった。いや、分かる。

そうか、俺のすぐ横に原因が居ましたか。

チラッと横に視線を向けてみればそこには少し笑みを浮かべながら俺の服を強く掴み眠る少女が。

「先輩、一応聞きますけど……そこで何を?」

「最初はお前がちゃんと寝ているか確認しに来たんだが。どうせ睡眠時間足りていないのに5時間くらい寝て、1回目が覚めたから満足だな。とか思ってるだろうと思ってな」

その言葉に俺は背中に冷や汗を掻きながら手を振り否定する。

しかしその動きがぎこちなかったせいか先輩は鋭い視線をこちらに飛ばしてきた。

人が目線で傷つく事があるのであれば、俺の体は既に布団の上に倒れこんでいるだろう。

「そんなワケ……ないですよ? まだ、寝ますし?」

「そうだな。それが良い。ほら、寝るまで見ててやるから……寝ろよ」

俺はなんとも言えない表情を浮かべているのだろう。

口元を引きつらせながら、布団に横になり掛け布団を被った。

目を閉じるが、眠くならない。

このままでは先輩はいつまでも出て行かないし、俺は会社へと向かう事も出来ないだろう。

しかし、俺には必殺技がある。

全身の力を抜き、ゆっくり大きく呼吸をする。

そしてあるタイミングから少しずつ呼吸を小さく、そしてさらにゆっくりにしていく。

瞼に力を入れないのもポイントだ。

今はまだ疑い深い先輩だが、もう少しすれば出て行く。

そして出て行けば、そのまま自分の部屋に帰り、また昼寝をするだろう。

その隙に杏ちゃんの手を外し、そして着替え会社へ行く。

まぁ昼からの出勤になるが、ある程度の仕事は出来るだろう。

「寝たか」

先輩は小さな声でそう言いながらドアを開き、閉じる音が聞こえた。

ここで飛び起きてしまえば廊下を歩いている先輩に気づかれてしまうかもしれない。

だからもう少し待つ。

そう、ここは我慢だ。

もしここで俺が起きている事が知られれば先輩はこの部屋で寝るとか言い出しかねないからな。

杏ちゃんが起きてくる可能性もある。

慎重にコトを進めるんだ。

心静かに、冷静に、クールに行く。

……そろそろ、かな?

俺はうっすらと目を開け、そして上体を起こし、目の前に居る先輩と目があった。

叫びださなかった俺はなかなか頑張ったと自分でも思う。

「おはよう。まだ……10分くらいだけど? 随分早起きだなぁ」

「あははは、トイレにでも、行こうかな! なんて」

俺は右手で頭を掻きながら口だけで笑うが、表情は全く笑顔ではないのだろう。

先輩も乾いた笑みを浮かべながら俺の肩をしっかりと掴み、笑顔が夜叉の顔に変わる。

「今日はこの部屋で本でも読ませてもらうよ。なにせ日当たりが良さそうだからな」

「それは良いと思いますよ。とってもね」

どうやら今日は布団から逃げられないらしい。

俺はため息を吐きながらゆっくりと布団という名の敵地へと全身を沈めた。

 

まどろみの中で俺は〝そよかぜのいえ〟の縁側に居た。

しんしんと雪が空から舞い降りていたある冬の昼下がり。

俺は荷物を横に置きながら縁側に1人座り込んでいた。

この時はまだそう呼んでいなかったが、先輩にこの家に連れてこられたからだ。

「おう、待たせたな」

「別に。用事があるなら早くしてください。次の仕事に行かなきゃいけないので」

俺は冷め切った顔で先輩の顔を見ることも無く、庭を眺めたまま抑揚の無い声で答えた。

そんな俺に先輩は何を思っていたのだろうか。

今更聞くのは怖いが、少し聞いてみたい気もする。

「次の仕事か。もう必要ないだろう。仕事なんてくだらない事に命を削る必要はない。止めてしまえ」

「は? なんて言ったんですか?」

それまでは他人のどんな言葉も俺に響くことは無かったが、その言葉は妙にずっしりとした重みをもって俺の心に入り込んできた。

それもそのはず。この当時の俺にとって仕事をするという事が生きる事で、仕事をする事でしか人との繋がりや世界に関わる事が出来なかったのだ。

だからその繋がりを絶やさない様に必死に繋いできたのに、それを目の前で否定されたのだ。心が平穏でいられるハズは無かった。

「くだらない。と言ったんだ」

「仕事をする事が俺の生きがいだと……知ってもですか? あんたみたいに生きている意味を持っている人間とは違う。俺は、俺はこんな事でしか世界が見えないんだ!」

強い目をした。瞳の奥に確かに輝きを持っている男。

泥の底で今にも沈みそうな体でそれでもなんとか地面にしがみついていた俺とは対極に居る存在に俺は憎しみをぶつける。

しかし彼は言葉を発する事も無く、ただ黙って俺の目を見つめるだけで。

「そんな俺に必要ない? くだらない? あんたに何が分かるんだ!!」

握りすぎた拳が色をなくし、感覚が無くなろうと俺は叫び続けた。

当時の俺にとって世界は寒すぎて、1人で生きていくにはあまりにも孤独だった。

何もしなければ誰にも見つからないまま底なし沼に1人消えていってしまう。

ただ、それが怖かった。

「俺は!! 『わぁ、雪だぁ! お母さん、雪だよ!』……?」

俺は部屋の中に居た先輩を睨みつけていたが、すぐ背後から聞こえてきた甲高い声に振り向いた。

そこには厚着をした元気な女の子が少し降り積もった雪の上で両手を広げながら走り回っている。

しかし空ばかり見て走り回っているからか何かに躓き雪の上に盛大に転んでいた。

「ぎゃうー!」

しかもどうやったのか顔から雪の上にダイビングしている。

そしてそんな彼女に小走りで駆け寄ってきてハンカチで顔を拭いている女性。

それは当時の俺が、いや今も変わらないが、俺がずっと求めてきた〝家族〟というモノの姿だった。

少女は自身の頭を掻きながらバツが悪そうに笑い、女性の手を取る。

女性も困ったように微笑みながら少女を立ち上がらせ、服についた汚れを払っていた。

「お前、いや明君。今何歳だ?」

「今年で……17」

先輩は小さく「そうか」と呟くとまた無言になってしまった。

俺はあまりにも眩しすぎる家族の姿から目を逸らす様に再び先輩に向き直り、その顔を見て衝撃を受けた。

先輩は悔しそうに唇を噛み締めながら、どこか泣きそうな顔で当時の俺を見ていたからだ。

そして先輩は静かに頭を下げた。

「すまなかった」

「何を謝ってるんだ」

先輩は震えながらもなんとか答えた俺の言葉に反応する事も無く、ただ頭を下げ続ける。

何故先輩がそんな事をするのか理解できず、俺はただ流されるままにその光景を見ていた。

「俺があの時引き取れば良かったんだ。だが、それが出来なかった。それは俺がまだガキだったからだ。それに関して言い訳をするつもりは無い。だから俺は、お前と過ごせたハズの時間を過ごしたい。コレは俺のワガママだ。お前がこのまま家族の温もりを忘れたまま孤独に消えていくだなんて耐えられない。見たくも無い。だから、ここで過ごすはずだった時間を今から始めたい」

「家族の……ぬくもり……?」

それは10年以上前に失われたハズの何か。

俺は無意識に立ち上がり、後ずさりをする様にこちらをまっすぐに見つめている先輩から離れようとした。

しかし、数歩下がってすぐに何かにぶつかってしまう。

「きゃ!」

「お、っと」

俺には殆ど衝撃など無かったが、俺のすぐ後ろに居た何かは違ったらしい。

何かが雪の上に落ちる音と小さな声が聞こえた。

俺は急いで振り返り、そして目が合った。

それは酷く小さな少女で、ぶつかった衝撃でだろうか目じりには涙が浮かんでおり、そして毛糸の帽子が雪の上に落ちていた。

「おにーちゃん。どうしたの?」

どうしたの? は俺の台詞だ。と思いながらも俺は何も口に出せずにいた。

ただただ、何故か滲んでいく視界の中で少女を見つめる。

「どっか痛いの? それならあんず、凄い魔法知ってるよ」

言いながら少女は俺の強く握り締めた拳をその小さな手のひらで包み、口付けをした。

そして俺の拳を何度も優しく撫で、そして俺に微笑んだ。

「少しだけ痛い痛いが隠れますように」

この時俺はきっと今までの人生で1番動揺していたのだろう。

「えっとね。痛いのって妖精さんが危ないよー。って教えてくれてるんだって」

ずっと見ないようにしてきた〝家族〟を見てしまって。

「だからね。えっとね」

出会ったばかりの人に家族になりたいと言われて。

「きっともう少ししたら痛いのが無くなるから」

少女に優しくされて。

「後もう少しだけおにーちゃんの痛いのが隠れますように」

だからしょうがないのだ。こんなにも涙が溢れて止まらないのは。

俺は少女に両手を差し出したまま雪の上に膝立ちになり、ただただ涙を流し続けた。

それから長い時間泣いていたが、杏ちゃんはずっと傍で俺の手を握り続け、優しい笑みを浮かべていた。

「少しずつで良い。焦らなくて良いんだ。ゆっくりと答えを出してくれれば良い」

先輩も俺の背後に立ち、一言一言を噛み締めるように言う。

「ただ、命を削って仕事をする事だけは反対だ」

「それでも俺には仕事しか……」

先輩は俺を見ながら静かに首を振った。

「これだけは覚えておけ明。命は売る事はできるが、買う事はできない。1度売り払ってしまえば二度と取り戻せないんだ。だからそんな方法で絆を確かめるなんて悲しい事を考えないでくれ」

俺は黙って何も言えず俯く。

「ここならきっと明の求めているモノが見つかる。だから……」

結果的にその言葉がキッカケになり、そのまま〝そよかぜのいえ〟に住み、そして現在に至る。

それから俺は少しずつだが、この場所での生活に溶け込んでいた。

 

夢の世界から現実世界への帰還は人によっては重労働だと聞くが、俺は比較的楽だ。

水の底からゆっくりと体が浮上していく感覚と言えば良いだろうか。

だんだんと水面に近づくにつれ意識がはっきりとしていくのだ。

「おはよう」

「ん。先輩、おはようございます」

俺は上半身を起こした後軽く体を動かし、頭を覚醒させる。

数秒としない内に思考はくるくると回り始め、視界もはっきりとしてきた。

時計を見ればあれからさほど時間は経っていないみたいだ。

先輩は窓際で本を読みながら穏やかにこちらを見ている。

俺は先ほどまで見ていた夢を思い出しながら口元で小さく笑った。

「随分と楽しそうな夢を見ていたみたいだな」

「えぇ。まぁ、そうですね」

どんな夢を見ていたかを話すのは少し恥ずかしい。

しかし俺が夢の内容を話さなくても先輩には全て分かっているのか、何も言わず静かに目を伏せた。

そんな対応が心地よくて、俺も笑みを作ったまま静かに目を閉じる。

そして数刻そうしていたが、ふとすぐ横で小さな寝息を立てている存在を見てこの後どうするかを考える。

杏ちゃんが見たいと言っていた映画の上映時間を調べて、みんなで見に行く。

そして帰りに駅前のファミレスで夕飯を食べて、家に帰る。

帰りにデザートを買ってきても良いな。

俺は想像するだけで心が暖かくなる。そんな休日を心に描いて杏ちゃんの可愛らしい寝顔を見続けた。

それから少しして目を覚ました杏ちゃんが頬を夕日の様な色に染めながら俺の背中をポカポカと叩き、それを見た先輩が羨ましいと叫ぶ。

それはそれで楽しい。そんな俺の春の1日が過ぎていった。



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第1章 第2話

「みんなでピクニックに行こうよ!」

とある平日の夜。俺は椅子に座り、今日の夕飯、カレーを食べていた。

どうやら今日は杏ちゃんがニンジンを切るのを手伝ったらしく、いつもよりも美味しく感じる。

無論、管理人さんの料理はいつも美味しいのだが。

「ちょ、ちょっと! 明にぃ! サラッと聞こえなかったフリしないでよ!」

「いや、俺は関係ないのかな。と思って」

俺はそう半目でそう言いながらスプーンを口に含む。

うん。おいしい。

葵ちゃんは右手にスプーンを握りながらこちらを睨んでくる。

持っているスプーンが小刻みに震えているのは彼女の怒りゆえだろうか。

「明にぃが行くって言わなきゃ何も始まらないのっ!!」

「そんなアホな」

俺は食卓をすぐ右から順番に見ていく。

横には管理人さん目が合っておしとやかに笑っている。うん美人だ。

そして俺の正面に葵ちゃん。今にも立ち上がりそうな勢いで俺にまくし立てている。うん怖い。

そしてその横に先輩。今日も正面に座っている杏ちゃんの食べている姿をジッと見つめている。うん残念だ。

そして俺の左隣にカレーをもぐもぐと一生懸命に食べている可愛らしい少女、杏ちゃん。俺の視線を感じたのか、口いっぱいのカレーを含みながら首を傾げている。うん可愛い。

管理人さん一家は言うまでも無く、先輩はこの家に俺よりもずっと前から住んでいて、さらに管理人さんとも親しい。なら言うまでも無く俺よりも立場は上だろう。

俺の意見など最後に「はい。その決定に従います」くらいのモノだ。

「俺の意見はさほど重要じゃ無いさ。ねぇ、管理人さん?」

管理人さんは湯のみを両手で持ち、それで上品にお茶を飲んだ後一息ついた。

そして俺を見て、にっこりと微笑んだ後。

「私はみんなで決めた事を尊重したいですね」

まぁある程度予想はついていたが、管理人さんは周りの決定の通りに動くみたいだ。

後は、先輩と杏ちゃんだが。

「ねぇ、杏。あんた一緒にピクニック行きたいよね?」

葵ちゃんは斜め向かいに座っている自身の妹に伺う様に尋ねる。

カレーを無心で食べていた杏ちゃんはそんな姉の声にどこか面倒そうに顔を上げた。

「や、面倒」

スプーンを皿の上に置き、右手を軽く振りながら一蹴。

基本的にアウトドア派な葵ちゃんとインドア派の杏ちゃんが、意見が合う事自体少ないのだ。

そもそも性格も違うし、年齢も違うし。

まぁ姉妹だから何でも一緒なんて方が珍しいだろう。

「ちょっとは、考えても良いんじゃないの?」

「や。面倒なんで。お姉ちゃん1人で、どうぞ」

葵ちゃんは笑顔のまま怒りに震えている。なんとも器用なモノだ。

杏ちゃんは、義務は果たしたと言わんばかりに姉から視線を外し、またカレーを食べ始めた。

「先輩は行かないんですか?」

俺はこのままでは葵ちゃんが可愛そうだと思い、先輩に声を掛ける。

先輩はフッと無駄にイケメンな笑い方をした後、顔を上げこちらに右手を出してきた。

「や、面倒」

「先輩がやっても可愛くは無いですよ」

「や。本音」

先輩は自身の左手で自分の顔を隠しながら身を逸らした。

本音は止めろと、口調を崩さずに言う先輩。

なんていうか、汚いな。いや、色々と。

「汚いって、お前どういう事だよ」

「あー、口に出してましたか。こりゃ失礼」

ハハハと笑いながら俺は先輩の言葉を軽く流し、カレーに再び口をつけた。

何度食べても飽きのこない味。そして漬物が口の中を常に新しく変えてくれる。

母の料理など食べた事は無いが、こういうのを母の味というのだろうな。

「おにーちゃん。後で映画見ようよ」

「ん? 良いよ。でもホラーは駄目だぞ。杏ちゃんが夜寝れなくなるからな」

杏ちゃんは頬を林檎の様に染めながら右手で俺の左腕を叩いてきた。

「うー」と恥ずかしそうに声を上げているのも可愛らしく、俺は甘んじてその拳を受け入れる。

「俺も見る! 映画! 見たい」

突如として先輩が右手を高く上げながら叫んだ。

そんなに激しく主張しなくても、いつもの様にレンタルビデオ屋で借りてきた映画をテレビの部屋で見るだけだから、参加なんて簡単なんだが。まぁ性格か。

杏ちゃんは先輩をチラッと見た後、小さく頷いた。

その反応に先輩は狂った様に立ち上がり、歓声を上げる。

「いよっしゃー!『やっぱりうるさそうだから、や』なんで!?」

喜び飛び上がった状態から器用に着地し、そのまま床とお友達になっていた。

床に落下した音など一切せず、やはり凄い人なのだな。と再に認識する。

俺はそんな先輩の姿を横目にカレーを食べた。うん、おいしい。

「ずるい! ずるい! ずるい!!」

俺はスプーンからカレーを口に運びつつ、正面で立ち上がり叫んでいる葵ちゃんを見た。

葵ちゃんは悔しそうにスプーンを上下に振りながら怒っていた。

そんな葵ちゃんを管理人さんは優しく諌めている。

「葵。行儀悪いですよ」

「だって、だってお母さん! 明にぃも司にぃも酷いんだもん!!」

いや、酷いと言われてもなぁ。

俺はお茶を一口飲みながら、考える。

先輩は椅子に座りなおし、葵ちゃんの方を見ていた。

と思っていたら、横目で姉の事など一切見ず、カレーを無心で食べている杏ちゃんをチラッと見る。真剣さの足りない人だな。

しかし、確かにコレは葵ちゃんが可哀想か。

「よし。俺は一緒に行こう」

どうせ今は仕事もゆっくりとできる時期だ。土日も休みだな。

1人の寂しさは知ってるつもりだ。

「ホントに!?」

「あぁ」

「ホントのホントに!?」

葵ちゃんは身を乗り出しながら、嬉しそうに微笑みながら聞く。

それに俺は口元だけで笑いながら答えた。

「ホントのホントだよ。ついでに言うなら、ホントのホントのホントだ」

葵ちゃんは俺の手を握りながら嬉しそうにはしゃいでいたが、その手を見て顔を赤く染めながら静かに椅子に座った。

「じゃあ、いつ行くか決めないとね。後、行くところ」

「そうだな。葵ちゃんはもう新しい自転車には慣れたのかい?」

葵ちゃんはその俺の問いかけに一瞬驚いたような表情を浮かべ、何故そんな事を聞くのかと俺に疑問を投げかける。

「そりゃあ。自転車で川沿いを走れたら気持ち良いだろう?」

「う、うん! 凄く楽しそう!!」

葵ちゃんは先ほどよりももっと嬉しそうに頷いた。

色々想像しているのだろうか。頬が緩んでいる。

しかし、そんな葵ちゃんが突如顔を真っ赤にしながら俯いた。

「こ、これってデートみたいだね」

そして俯くと同時に消え入りそうな小さな声が俺の耳に届いた。

確かに言われてみれば葵ちゃんの言うとおり、デートっぽく見えなくも無い。

葵ちゃんは見えていないだろうが、デートという言葉を聞いたのか、カレーを食べていた杏ちゃんの動きが止まる。

「まぁデートと言われればそうかもしれないね。なら最高のモノにしないとな」

「あら素敵。当日のお弁当は私が作りますね」

管理人さんも笑顔で俺の言葉に続いた。

そしてその言葉に反応する人物が食卓には2人いた。

俺の言葉からさらに顔を赤くした葵ちゃんと、既に怒りの兆候を見せ始めている杏ちゃんだ。

俺はそれに気づきつつも杏ちゃんをフォローする事はしない。

その理由は簡単だ。

「……私も行く」

その言葉は誰も聞こえなかったかもしれないが、俺の耳には確かに届いた。

俺は思った通りにコトが運んだ事に喜びを感じながらも、それを顔に出さないようにしながら、管理人さんの方を見る。

管理人さんもその小さな声を聞いていたのか、いつもと変わらない笑みを浮かべながら小さく頷いた。

「じゃあ、今度の日曜日にみんなでサイクリングとピクニックに行こうか」

俺は言いながら横に座って、眉を顰めている杏ちゃんの頭を撫でた。

その俺の言葉に杏ちゃんは自分が勢いで言ってしまった発言に気づいたが、小さくため息をついて頷いた。

「まぁこうなった以上俺も行こう」

「そう言ってくれて良かったですよ」

先輩は今までの流れなど無かったかの様にカレーを食べながらそう告げた。

だいたいは当初、管理人さんが描いた絵の通りになっただろう。

多分だが、葵ちゃんが新しい自転車に乗って、どこか遠くへ行きたがっている事に気づいていた。

そして、それを止めるよりも一緒に行く方が安全だと考える。

さらに杏ちゃんと先輩の外出嫌いも少しはいい方向に行けば良いと考えたのではないだろうか。

結果、この終着点である。

俺はカレーを食べ終えた後片付けで1人洗い物をしていた管理人さんに先ほどの考えを聞いてもらった。

「ふふ。70点ですね」

「おや、どこが不足でしたか」

俺の個人的な予想では90点以上だろうと思ったのだが。

どうやら決定的に抜けているポイントがあったらしい。

「明君は自分の事を抜かすのがよくない癖ですね」

「と言いますと?」

「明君はもうこの家の家族だ。という話です」

どういう事なんだろうか。

意味を管理人さんに問うても微笑むだけで答えてはくれなかった。

いつか、俺にも分かる日が来るんだろうか。

俺は静かに管理人さんに頭を下げると、そのまま台所を出て廊下を歩いていた。

そして階段を上り、部屋のドアを開けると、目の前には人の顔が。

「うわぁ!?」

「ぎゃあ!!」

二人で大声を上げてしまった。

叫び声と同時に早くなっていく心臓の鼓動を感じながら右手で胸を押さえる。

そして少しずつ冷静になっていく頭で目の前に居る存在を見た。

地獄から這い上がってきた悪霊の様な雰囲気と死んだ魚の様な目。

暗闇に溶け込んだその存在はよく見れば幽鬼の様ではあるが、間違いなく先輩そのものだ。

「まったく心臓止まるかと思いましたよ」

「どうするつもりだ」

突然の疑問に頭に疑問符が溢れる。

この人はいったい何を言っているのだろう。

ここまで意味不明なのは久しぶりだ。

「人は自転車に乗れる様に出来ていない」

「はい?」

先輩はこの世の終わりの様な顔をしながら言葉を紡ぐ。

それは確かに日本語の形をしていたが、日本人であるはずの俺には理解できない言葉だった。

俺はその言葉の意味するところを考えていた。

腕を組みながら眉を顰め、考え続ける。

「つまり、先輩は自転車に乗れない……と?」

言葉の意味を考えれば、そうとしか考えられない。

俺は固唾を呑みながら神妙そうな先輩を見守った。

「普通は乗れない」

「いや、まぁ何をもって〝普通〟かは知りませんが。先輩は乗れるかと思ってましたよ」

「お前は乗れるのか?」

「まぁ、そうですね」

先輩は俺の言葉が意外だったのか、驚いた様な顔をした後腕を組み目を閉じる。

「何年あれば乗れるんだ」

「まぁ乗り始めた年齢にもよりますが、先輩なら3日もあれば乗れるんじゃないですか?」

その言葉に先輩は言葉を一瞬失ったようだ。

俺はそんな先輩の様子に何も言えない訳だが。

そしてそんな俺たちの間に何とも言えない沈黙が流れる。

「三日……? ちょっと待てよ。自動車免許だってもっと時間掛かるんだぜ? あり得ないだろ」

「いやいや、まぁ確かにセンスがあるなしで時間は変わるらしいですが。先輩は運動神経も良いし、大丈夫でしょ」

「なら、そこまで言うなら付き合ってもらうぞ。明日からの3日間地獄への旅になぁ!!」

先輩はそう宣言すると、何故か高笑いをしながら俺の部屋から出て行った。

俺も地獄に行くのか。嫌だなぁ。

 

そして三日が過ぎ、日曜日になった。

ここまでの日は確かに地獄だった。

何かがある度に屁理屈、屁理屈。

「本人の前では言えないが、面倒だった」

「おいおーい。聞こえてるぞ」

俺は自転車に寄りかかりながらこれまでの日の事を考えていた。

「なんて面倒な人なんだろう」

「こら、聞こえてるって言ってるだろ」

俺は首を振りながら、この日を迎えられた自分を褒めていた。

そしてとりあえず自転車に体重を掛けながらみんなが来るのを待つ。

「すぐ横に先輩によく似た人が居るが、気のせいだろう」

「おいこら! どんだけ恨んでんだよ。悪かったって」

「ま、別にそこまで恨んでないですけどね」

俺は先輩を無視するのを止め、俺と同じく自転車に寄りかかりながらこちらを見ている先輩に目線を合わせる。

そしてまた思考が停止した。

まぁ顔は普段と変わらず一目を引く様な格好良さだ。それは別に好きにすれば良い。

問題はその服だ。

体にぴったりと張り付いた半ズボンのジャージの様な服。

自転車競技で着る様な服だが、残念ながら着ているのは自転車3日目の男だ。

何を着ても似合うのは似合うのだが、感想は言いたくない。

「先輩はいつも形から入りますね」

「なんだ、褒めてるのか? ま、違ってもそう解釈して勝手に喜ぶがな!」

先輩はいつも幸せそうだぁ。

まぁ特に何かを言うつもりは無いが。

「お待たせー!」

俺と先輩が微妙な空気になる前に二台の自転車と2人がやってきた。

って、2人?

「葵ちゃんと管理人さん? えっと、杏ちゃんは?」

その俺の問いかけに管理人さんは苦笑して、葵ちゃんは憤慨していた。

2人の後に杏ちゃんが付いてくる様子は無い。

朝ご飯を食べた時は普通だったから、出てくる前に何かあったか。

「杏は行かないよ! 1人で留守番!!」

「そういうワケにもいかないでしょ」

俺は自転車から離れ、家の中へと走っていった。

玄関を開き、靴を脱ぎ捨て管理人室へと走る。

そしてノックした後、中の返事を聞かず走り込んだ。

「杏ちゃん」

「行かない」

杏ちゃんは部屋の隅で体育座りをしながら壁を見つめていた。

原因はいつもの姉妹喧嘩だろう。

しかし、1人で置いていく? それは論外だ。

「なら俺も行かない」

「やだ!」

俺も部屋の入り口に座り込みながらこちらを見ている杏ちゃんに視線を合わせる。

杏ちゃんは何を言っているのか分からないとでも言いたげな顔だ。

「だってお姉ちゃんと一緒に行くのが楽しみだって!」

「そうだね」

さて、どうしてこんな事になったのかな?

おそらくだが、勢いだけで今日のピクニックに行くと言ってしまったが、当日になってやはり出掛けるのが嫌になってしまった。それを母に相談しようとしたが、それを姉に聞かれてしまったという所だろうか。

「私の事なんてどうでも良いって!」

「思ってないよ」

俺は立ち上がって叫ぶ杏ちゃんに視線を合わせる様に膝立ちになる。

半泣きになりながらこちらにゆっくりと寄ってくる杏ちゃんの頭を撫でた。

「でも私、自転車乗れない」

「なら俺の後ろに乗っていけば良い」

今までの俺なら表面上の杏ちゃんの意思を尊重して、こんな無茶な事は言わなかっただろう。

人の嫌がる事を言わず、せず。

全ての人に優しくありながら、全ての人を遠ざけてきた。

「でも……」

「ごめんね。杏ちゃん。俺はワガママなんだ。だから全員一緒に行きたい」

俺は意地の悪い言い方をしながら杏ちゃんの反応を待つ。

杏ちゃんは迷っているようだが、後10分もしない内に頷くだろう。

そして俺たちはその後にピクニックへ行くことになる。

 

自転車で川沿いを走らせながら、全身に風を感じる。

まだ冷たい春の風は、上着の隙間から体をどんどん冷やしていくが、それ以上に俺の体は熱を発していた。

当然だ。自転車を漕いでいるのだから。

そして背中にも確かな温度を感じる。

杏ちゃんが落ちない様に背中にしがみついているのだ。

怖がりながらも速度を出してぐんぐん前に進む自転車に喜びを隠しきれず、笑顔を隠せない。

そんな表情をしてるんだろうなぁ。うん、見てみたい。

……が、今は運転に集中するべし。

自転車とはいえ。事故ればタダでは済まないしね。

「全て思い通りという顔ですね」

「そうですか?」

「えぇ。ここで私がこうして話しかけてくる事まで計算ずくという顔です」

俺は横を並走しながら苦しそうな顔一つせず笑顔で自転車を走らせている管理人さんに少しの恐怖を感じつつ、いつも通り答えた。

しかしそんな俺の反応もお見通しだったのだろうか。管理人さんは笑顔のまま何も言わなかった。

そしてそのすぐ後に少し急な坂が現れ、俺は杏ちゃんに一声掛けた後その坂をゆっくりと上っていく。

「ひゃぁぁぁあああふうううぅぅぅ」

そんなゆっくりと上っていく俺のすぐ横を走り抜いて行く一台の自転車が。

どうやら乗っているのは先輩の様だ。

無駄に車体を寝かせながら立ち漕ぎで走り抜いていく。

声と勢いの割にあまり速度が出ていないのは余り気にしてはいけないのだろう。

そして先輩はその小高い坂の頂上へ上りきると同時に両腕を上げ叫んだ。

「ツールドフランス!!」

まぁあの人は気にしないで行こう。

そして笑顔のまま体勢も変わらず管理人さんが速度をどんどん上げて先輩を追っていく。

俺はそんな2人に付いていく事はせずマイペースで自転車を走らせていた。

「杏」

「お姉ちゃん」

俺は後ろの事など何も気にせず、ただ前だけを見ながらゆったりと漕ぐ。

そうこれから話す事は俺には何も聞こえないのだ。

「あの、その……」

「お姉ちゃん、あのねっ!」

「待って。私から言いたい」

「うん」

「その、今日はごめんね。カッとなってあんな事言っちゃって」

「ううん。私の方もごめん。もっと前に言えば良かったのに」

「良いんだ。ホントは私がワガママ言い始めたのがキッカケだし」

「ふふ。じゃあ2人とも悪かったんだね」

「そうだね。じゃあ2人とも悪かったって事で解決だ」

話は終わったのだろう。

俺は一定速度を保ちながら、道の先を見据える。

俺のとった選択肢は間違えていた。きっと管理人さんも。

2人の行く道は俺たちが決める事では無く、2人で決める事なのだろう。

もしかして先輩は始めから分かっていたのだろうか。

だから、先回りしないで常に後から……。

いや、まさかね。

「よーし。明にぃ! お母さん達先に行っちゃったし、私達もどんどん速度上げていきましょー!」

言いながら葵ちゃんはペダルをどんどん回して速度を上げていく。

俺もゆっくりと速度を上げながら葵ちゃんの後を追いかける。

「わぁ」

後ろで小さく杏ちゃんが喜ぶ声が聞こえた。

風を切り速度を上げていく自転車と後ろに感じる杏ちゃんの体温。

今、俺はここで生きている。

〝そよかぜのいえ〟のみんなと。



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第1章 第3話

仕事は良い。心が洗われるようだ。

久しぶりの仕事だったからだろうか、随分と張り切ってしまった。

「管理人さん。ここに置いておきますね」

「ありがとうございます。明さんが居ると仕事が早くて助かります」

「洗濯物を取り込むのは速度が大事ですからね。いかに早く取り込み、たたむ。これが一番大事だと俺は思います」

俺は洗濯物を外し、管理人さんにパスする。

振り向けば既にたたまれた洗濯物が山となっていた。

いったいどんな早さでたたんでいるのだろうか。不思議だ。

俺は最後の洗濯物を管理人さんに手渡すと同時に胸の携帯が震えているのを感じた。

今週で何度目だろうか。

流石に面倒になってきた。

「はい。もしもし?」

『もしもし? お兄ちゃん?』

「ひかり、か? どうした?」

俺は管理人さんに手で合図をしながら少し離れた場所で通話を続ける。

まだ春だが、日差しが少し強い。

俺は桜の木の陰に隠れながら電話の声に集中する。

『お兄ちゃん、会社辞めたって聞いたけど。本当なの?』

「あぁ、その件か。まぁそうだね」

そう、止めたのだ。働く事。神宮寺の家で居場所を作り続ける事。

生きていく理由を求め続ける事を。

その代償は昼夜問わず鳴り響く電話と、面倒な対応だった訳だが。

光からも電話がくるとなると、神宮寺はまだ諦めていないみたいだな。

『もう帰らないの?』

「そう、なるかな」

『私、この4年間ずっと我慢してきたよ。お兄ちゃんがアイツに連れてかれてから、いつかきっとお兄ちゃんは帰ってくるって、信じて頑張ってきたよ。なのに酷いよ……』

電話の向こうで光が泣いているのが分かる。

伊達に何年も兄弟をやってきたワケではないのだ。

だがしかし、俺はもう帰ることは出来ない。あの家に戻ることは今までの生活に戻ることになる。

生きる目標を求め、暗闇の中を歩き続ける生活に。

「悪い。別に光を悲しませたかったワケじゃないんだ」

『良いよ。帰ってきてくれたら許してあげる』

「……すまないが、それは出来ない」

そう、それは出来ないのだ。

ここは、〝そよかぜのいえ〟は俺が初めて自分で選んだ場所だから。

先輩や管理人さん、葵ちゃんが……俺の家族が居る場所。

そして何よりも杏ちゃんが居る。

他の誰よりも俺が離れたくないのだ。この場所から。

『私よりも大事なの……?』

「比べる事は出来ないよ。ただ、今はここに居たいんだ。自分の人生って奴を考えてみたい」

『いつ帰るの?』

「今はまだ、分からない」

いつかそんな日が来るのだろうか。あの神宮寺での日々が思い出になる日が。

あの家に帰る日が。……いつか来るのだろうか。

『……そう、分かった』

光は少しの沈黙の後、静かにそれだけ告げると電話を切ってしまった。

なんとも言いがたい。後味のあまり良い終わり方ではなかった。

「おにーちゃん、お電話?」

「あぁ、杏ちゃんおかえり。まぁそうね、電話だね」

俺が既に切れた携帯電話をジッと見つめながら考え込んでいると背中から杏ちゃんが話しかけてきた。

どうやら学校から帰ってきたらしい。もうそんな時間になっていたのか。

俺は懐に携帯をしまうと何事もなかったかの様に振舞おうとした。

しかし、そんな俺の考えを見通す様に杏ちゃんは、無垢な瞳で俺をジッと見つめてくる。

俺は思わずその瞳から逃れる様に視線をそらしてしまった。

別に何か隠し事があるワケでも無いのだが。

「別に問い詰めようとは思わないよ。良い女は聞かなくて良い事は聞かない女だって先生が言っていたし」

「そっか」

その言ってた先生の性別によって色々意味が変わりそうだな。

しかし何にせよ。色々と問い詰められなくて良かった。

って、何で良かったんだ?

「でも、でもでも。気になるから、誰からの電話か聞きたいな」

杏ちゃんは手を組みながら上目遣いにこちらを見てくる。

悩んだのだろう。しかし、頬を朱に染めながら涙目で聞いてくるのは少々卑怯だと思うワケで。

「まぁ妹からの電話かな」

しかし、俺はその可愛さに負けて喋ってしまうわけで。

でも別に後悔は無いな。うん。

話してしまえばなんて事は無い話だったが、杏ちゃんは少々違ったようだ。

先ほどまでこちらを見ていた顔は今は地面を見つめながら瞳を揺らしている。

「おにーちゃん、ここを出て行くの?」

杏ちゃんはようやく顔を上げたと思ったら、突然そんな事を言ってきた。

「出て行かないよ。少なくともみんなが出て行くまでは、ね」

「そっか」

杏ちゃんはそんな俺の言葉に安心したのか、嬉しそうな笑みを浮かべる。

「なら、私はずっとこの家に居る! そうしたらおにーちゃんもずっとこの家に居られるんでしょ?」

「そうなるね。それも良いかもしれない」

俺は何十年後もこの場所でみんなと過ごしている未来を想像して心が暖かくなった。

そんな未来はあり得ないのだろう。でも、それでもそんな未来が来れば良いと願ってしまう。

それはきっと悪い事では無いのだろう。

俺は杏ちゃんと手を繋ぎながら、縁側でお茶とお菓子を用意していた管理人さんのところへと向かった。

 

世界には美味しいものがどれだけあるのだろう。

俺は縁側で管理人さんの淹れてくれたお茶を飲みながらお茶菓子を1つ口に入れる。

甘い。

しかし、ただ甘いだけというワケではなく適度な柔らかさを保った餡が舌の上で少しずつ溶けながら甘さを口いっぱいに広げていく。

決してしつこくなく、さりとてさっぱりもしすぎていない。

「おかーさん。これすっごいおいしい!」

そう、どんな綺麗な言葉や難しい言葉など必要としない。ただうまい。

流石は杏ちゃんだな。物事の本質をちゃんと分かっている。

「本当に美味しいですね。これ。随分と高いんじゃないですか?」

「古い知り合いからのもらい物なので、ちょっとお値段は分かりませんが。多分有名な店の商品だと思いますよ」

それを聞いて俺は思わず腕を組みながら考え込む。

仕事で何度か高いものや良いものは食べたけれど。これ程のものはなかなか出会えなかった。

少なくとも市場で大量に出回っているモノではなく、どこかの老舗の商品か?

「ふーん。じゃあ味わって食べないともったいないね」

「ふふ。そうね。ゆっくり食べなさい。でも夕飯の前だからあまりいっぱい食べちゃ駄目よ」

「むー! 杏、もう大人だから分かってるもん!」

微笑ましい杏ちゃんと管理人さんのやり取りと見ながらお茶を一口飲む。

無粋な事は必要ない。美味しいモノはただ美味しい。それだけで良い。

もっと自然体にならなければなぁ。

「うぇあぁ、朝は、だるい。眠い」

部屋の奥から自然体代表選手が入場してきた。

代表選手こと先輩はもう夕方だというのに寝癖のまま寝ぼけ眼で無理やり体を動かしている感じだ。

こんなにも自然体になれるだなんて先輩は凄い。が、こうはなりたくないと感じている自分も居た。

「もう夕方ですよ、先輩」

「うるさい! 大体朝なんだよ。だいたい!」

「いや、流石に無理がありますよ」

俺がお茶を一口飲みながら先輩に意見すると先輩は腕を組みながら少し考える仕草をした。

そして数刻後。

「AM8時は朝だな?」

「まぁそうですね。誰も疑うことのないほど朝ですね」

「AM8時1分は?」

「言うまでもないですね。朝です」

なんだ? 何が始まったんだ?

「AM8時2分は?」

「文句のないほどに朝です」

「AM8時3分」

「圧倒的に朝です」

先輩は何が言いたいのだろうか。少し思考を先読みしようとするが、何を考えているか分からないほど深い瞳だ。

まるで死んだ魚の様な目をしている。

「まぁあまり続けても仕方ないが、朝とは誰も定義出来ない程曖昧な存在だ。そして今の問いかけから分かる様に1分に差はない。つまりそれがどれだけ積み重なろうとも朝という定義は1分という差の積み重ねの上に成り立っている以上変わらないという事だ。つまり今は朝だ」

「は? いや、理屈は分かりますが、さっぱり分かりませんよ」

ようするにAM8時から1分ずつ足す作業を480回ほどこなせば今という時間は朝になり、今は朝だと。いや落ち着いてください。

確かに24時間という時間の中では1分は大した時間ではない、ないが、その理屈はおかしい。

「ま、いいや。明、お前最近「大変たいへんタイヘンダー!?」あん?」

「今の声は葵ちゃんですね」

先輩の声を遮るように響き渡った葵ちゃんらしき人物の声にその場にいた皆がいっせいにその声のした方。

つまりは玄関の方へと視線を向けた。

そしてそちらから駆けて来る葵ちゃんの姿。

何をそんなに慌てているのか制服を乱しながら、一心不乱に走っていた。

やはりというべきか、葵ちゃんは自らの足に引っかかり床へと倒れこんでいく。

机の上から落ちたリンゴの様に、あらゆるモノを平等に縛る重力という名前の楔。

しかし葵ちゃんの体は床に吸い込まれるよりも早く前に踏み出した俺に抱きかかえられ、なんとか床と友達になる事は回避した。

「あ、ききき、あきらにぃ!? 何をしているのでしょうか!?」

「……? 葵ちゃんを抱きとめているのだけれど」

俺は顔を赤くした葵ちゃんを抱きしめた体勢のまま何でもないことの様に言った。

そこからいつもの何でもない日常を始めようと俺は口を開こうした。しかし。

「ところで葵ちゃん。さっきの声はいったい「汚い家」」

俺の声を遮るように聞こえたその声はどうやら庭の方からしているようだった。

勝手に人の家の庭に入り込むなど客とは言いがたい。

さらにこの場所を〝汚い〟などと言う人間だ。俺は少しの苛立ちを感じつつ庭を見た。

そこに立っていたのは1人の少女だった。

いや、少女という形容詞は正しくない。何故なら俺はその子のことをこの場の誰よりも知っているのだから。

〝そよかぜのいえ〟の誰よりも、そして少女の背後に立つ屈強な男達よりも。

「ひかり……」

「久しぶりお兄ちゃん。迎えに来たよ?」

そう言って少女は笑顔で俺の方へと手を差し出した。

少女の名前は神宮寺光。神宮寺の正統な血の繋がった娘。そして俺とは義理の兄妹だ。

確か今は葵ちゃんと同じ年だったはずだが、最後に会った4年前と殆ど変わっていないその姿は俺の思い出から抜け出してきたかのようだった。

そして4年前と何も変わらない幼い顔立ちのまま、キラキラと太陽に反射する母譲りの金色の髪を風に靡かせ、透き通るような白く細い手をこちらに差し出したまま動かない。

光の中では俺がその手をとらないなどという選択肢はないのだろう。

しかし、俺は宣言したはずだ。この場所にいる。と。

「お兄ちゃんの言いたい事は分かってるよ。だから光も無理強いをするつもりはないの。お兄ちゃんがこの家に居たいなら光はそれが良いと思う。でも光は昔みたいにまたお兄ちゃんと一緒に生活したいの」

光は潤んだ瞳を揺らしながら俺を見つめていた。

そんな光を見て胸が痛まないワケではない。でも俺は……。

「ふぅ。やっぱりお兄ちゃんは電話で言ったとおり、ここに居たいんだね。この汚い家に」

「何よ! 人の家に汚いだなんて失礼ね!」

光の汚い家という発言に怒った葵ちゃんが光に食って掛かる。

そんな葵ちゃんを光は何も言わず静かに睨みつけた。

「あんた、「何よ! 怖くなんてないんだからね!」」

光の言葉を遮りながら涙目で叫ぶ葵ちゃん。

あまりにも早すぎる展開についていけていないのだろう。

俺の服を掴んでいる手が震えていた。

「あんた、お兄ちゃんから離れなさいよ。関係ないでしょ? さっさと消えなさいよ」

「か、関係なくない! 「関係ないのよ! あんたなんて他人で」家族だもん!」

「へぇ家族。お笑いだね。ただ一緒の家に暮らしているだけじゃない。それで家族とか「光」なぁに? お兄ちゃん「何か俺に言いたいことがあるのだろう?」うん。光ね。この汚い家を買う事にしたの。お兄ちゃんには悪いけど、買ったら潰しちゃうね」

楽しいおもちゃで遊んでいる子供の様に無邪気に笑う光。

しかし言っている言葉は随分と酷い言葉だ。

昔から人の気持ちとかよりも自分の事を優先する子供だったから、今度も宣言している以上実行するのだろう。

俺はすぐ後ろに居るであろう先輩に目線を向けた。

先輩は無言で頷き、すぐ背後まで来ると小さく呟いた。

「4時間」

「了解」

俺は誰にも聞こえない様な小さな声で先輩に返した。

そしてそれから大きく息を吐くと葵ちゃんをしっかりと立たせ、庭に置いてあった靴をしっかりと履く。

「俺が神宮寺に戻れば満足するか? 光」

「そうね。私は別にこんな汚い家は要らないもの」

「じゃあ行こうか」

俺がそう言うと光は本当に嬉しそうに俺の胸に飛び込んできた。

そんな光を受け止めて、抱き上げたまま俺は庭を越え、玄関先にいる車へと向かう。

そして先に光を中に入れると、俺も乗り込んだ。そしてドアを閉めようとしたが、それよりも早く誰かがドアを押さえ込んだ。

少し驚いて顔を上げればそこには少し怒っている葵ちゃんの姿が。

葵ちゃんは驚いている俺をよそに中に入り込み、俺の横に座った。

「何故あなたまで乗り込んでくるのよ!?」

「家族だもん!」

「どんな家族よ! 他人が!」

「あ、あああ明にぃとは結婚の約束をした恋人だもん! 家族だもん!」

そうか、知らない間にそんな事になっていたのか。

葵ちゃんは顔を真っ赤にして自分の制服のスカートを握りしめている。

あまり強く握りすぎるとしわになるから……。と注意するような状況でもないし。どうするかな。

「ホントにそうだって言うんなら、良いわ。ウチに招待してあげる。神宮寺の本家にね」

そう光は言い放つと、ドアを使用人に閉めさせ車を神宮寺家へ向かわせた。

道中、車内でもまた光と葵ちゃんの衝突があったりしたのだが、ここでは割愛する。

そして神宮寺の本家へと着いた。

 

「じゃあ、お母様を呼んでくるからお兄ちゃんと、自称恋人はお兄ちゃんの部屋で待っててね」

そう言われ久しぶりに入った俺の部屋は何も変わらない殺風景な部屋だった。

まぁここに帰っても寝る事以外に何もしていないのだから当たり前だが。

「なんか寂しい部屋。今の明にぃの部屋とは全然違うね」

俺は葵ちゃんの頭を撫でながら何か答えようとしたが、何も喋る事が出来なかった。

どうしてだろう。いつもなら取り繕う言葉などいくらでも出るというのに。それだけが不思議だった。

そして2人で何とも言えない沈黙の中で固まっていると、ドアが小さくノックされた。

「良いかしら」

「はい。開いていますよ。奥様」

部屋に入ってきた妙齢の女性はすぐ近くの椅子に腰掛けると、こちらも座るように促した。

奥様は使用人に持ってこさせたお茶を一口飲み、俺を鋭い目で睨み付けた。

「明、私たちを裏切り、朝霧の家に渡ったそうね」

「別に裏切ったワケでは「言い訳なんて見苦しいわよ、明」すいません」

「いいこと? あの家は我が神宮寺とは対立する家。あなたは神宮寺の為に命を使うのではなかったの? ならばどうするべきか分かるわね」

「はい」

「よろしい。話は以上です。私たちは貴方が戻ってきてくれるならそれで十分だわ。例えどこの馬の骨とも知れない子を恋人だと言って連れて帰ってきてもね。最終的にはこちらの選んだ女性と結婚してもらいますが」

「分かっております」

俺の返事を聞くと奥様は満足したのか部屋を出ていき、部屋は俺と葵ちゃんの2人きりになった。

葵ちゃんは状況に全く付いていけないのだろう。椅子に座ってぼんやりとしている。

さて4時間。どうしようか。特にやることは無いが。

俺は窓の外を見ながらどうするかを考え、葵ちゃんは椅子に座って紅茶をずっと見つめている様だった。

それからしばらく沈黙が流れていたが、葵ちゃんが控えめに口を開いた。

「……ずっとそっちの方が幸せだと思ってた」

「え?」

葵ちゃんは既に冷めているであろう紅茶の入ったコップを握りしめ、俯きながら蚊の鳴くような声で呟いた。

「だって明にぃが笑った所見たこと無かったから!」

すぐ背後にある窓から外に広がる世界はだんだんと夜の闇に包まれていく。

部屋もそろそろ電気を付けなくては何も見えなくなるだろう。

しかし、何故だろう。俺はそんな気にはなれなくて。

「何をしていても、いつも、なんだか一緒にいないみたいで」

葵ちゃんは椅子から立ち上がり、俺から一定の距離を保ったまま泣いていた。

泣きながら喋っているせいで声は聞き取りにくいのに、何故か言葉は俺の耳で綺麗に聞こえていた。

「でもいつも私や杏の事を心配して! なんで!? 明にぃが分からないよ! 私たちは何も明にぃに返せない! だったら……」

「よし、帰ろうか」

俺は4時間はここに居るつもりだったが、もう帰る事に決めた。

そして先輩に連絡を取り、戻る事を告げる。

どうやら神宮寺からの圧力を逃がすのにもうそんなに時間は掛からないらしい。流石は先輩だ。

「じゃあ俺はもう帰るんで」

呆然としている奥様と光にそれだけ宣言すると、葵ちゃんの手を引きさっさと神宮寺家を後にした。

そして追っ手が来ない内にさっさと電車に乗り込む。

流石都会だけあって電車はすぐに来たが、家に帰る為には乗り換えなくてはいけない。

そしてどうやらその電車は次が来るまで20分もある。

暇だな。

俺は俺と葵ちゃん以外誰もいない寂れたホームで深くベンチに座り込む。

足を投げだし、コートのポケットに両手を突っ込んだ。

横で葵ちゃんが相変わらずの急展開に付いていけずどうしたらいいのか困っている様子だった。

「迷惑だよなぁ」

「え?」

「いつもこっちの事情なんか知らずにあれこれ押しつけてくるんだ。今回はそれで葵ちゃんにも迷惑を掛けちゃった」

神宮寺の家の人間は強引な人間が多いらしい。

あの家の人間と16年以上付き合ってきて、嫌という程それを思い知らされた。

「俺はさ。小さい頃に両親を亡くしたんだ。とは言っても記憶はないんだけど」

話ながらポケットで携帯が揺れるのを感じ、メールを開く。

先輩からのメールだ。

『今夜、テレビで往年の名作映画が放映するんだが。レコーダーの容量が足りない! どうすれば良い!?』

どうでも良いメールだった。

『中に入ってるデータを消せば良いでしょ』

俺はメールを送り、携帯を閉じた。

「悪いね。それから遠縁のお爺さんに引き取られたんだ。でもその人はとある名家の凄い偉い人だった」

話ながら携帯を開き先輩からのメールを確認する。

『消せるワケないだろうぎゃ! 全て大切なデータですよ?』

知りません。

『なら外付けHD買ってくれば良いのでは?』

「でもその人も俺が引き取ってからそんなにしないで亡くなってしまってね。今度はさっきの神宮寺家の前当主に引き取られたんだ」

横で葵ちゃんは静かに聞いていた。

まっすぐに俺を見ながら。

『お届け日が明日の夜だって書いてある』

通販かい。

『ならおとなしく近くの電気屋で新しいレコーダーを買ってくるのが正解ですね』

「でも当主は俺を引き取った年に亡くなってしまってね。お葬式の時は随分と色々言われたよ。俺が来たせいで神宮寺はダメになる。アイツは疫病神だって」

俺は当時の事を思い出し、少し嫌な気持ちになった。

『じゃあ明は何時頃帰ってくるん?』

俺に買って帰らせる気か。

『後1時間くらい先に駅に着きますよ』

「それから俺は奥様の指示の下働き始めた。まだ出来る事など殆ど無かったが、ただ働く事でしか自分はあの家で存在出来ないと思っていたから」

『それじゃ間に合わなくなるぞ』

『知りませんよ』

今まで静かに聞いていた葵ちゃんは苦しそうな顔をしている。

そんな葵ちゃんの頭を撫でながら俺はまた過去を思い出す。

「そして俺は成長し、ある日とある青年実業家に会ったんだ。彼の名前は〝朝霧司〟と言った」

『リアルタイムで見なきゃ楽しさ半減だろうが!』

『そうなんですか?』

「彼は今の俺にもっとも必要な物を渡したいと言い、とある小さな町に俺を連れていった。灰色だった雲からはいつの間にか白い結晶が舞い降りていて。酷く寒い日だった」

話をしながら目の前に止まった人の乗っていない電車に乗り込む。

「思えば誕生日だったんだな。でもそれそらも俺は覚えていなかった。ただ命をすり減らしながら仕事をして、そして気が付いたら何も無くなっていた」

さっきまでと同じように座り、そして変わらず話を続ける。

「そんな時、あの場所で俺はようやく見つけたんだ。ずっと探してたものを。それからの日常は俺にはまるで夢の世界の様で。だからなのかな。どう接したら良いか分からなくて。うまく笑う事も出来ていなかったのかもしれない」

「明にぃ」

「でも、俺にとってはあの場所が宝物で君たちが夢なんだ。だからみんなが笑っていてくれる事が俺は一番嬉しい事なんだ。だから、ありがとう。今までも、これからも」

ボロボロと涙を溢れさせている葵ちゃんをそっと抱きしめる。

背中を撫でながら、俺も涙が少し目尻に浮かぶ。

電車が駅に止まり、乗ってきた乗客がこちらを見て、そのまま笑顔で電車を降りていった。

なんか悪い事をしたな。

そして、葵ちゃんが泣き止むと同時に俺たちは目的の駅に着いた。

まだグズっている葵ちゃんと共に駅に降り立つ。

たった何時間だけ離れていただけだというのに妙に懐かしい。

ゆっくりと改札へ向かい歩いていく俺たちのすぐ横を電車が発車し、風で服が暴れ回る。

もう既に夜になって、改札の周囲にだけ人が居る様だった。

「あ、おにーちゃん帰ってきたー!」

そしてその改札からよく聞きなれた声が聞こえてきた。

もう夜も遅いというのに、杏ちゃんは遠目からでもよく見える可愛らしいコートを着て、何度もこちらに手を振っていた。

横には管理人さんや先輩も居て。

葵ちゃんはみんなに気づいたのか俺の背中に隠れて涙を拭っていた。

「ただいま。帰りました」

「おかえりなさい」

俺たちは改札を通り、皆に挨拶して帰路についた。

今日あったことをみんなで話しながら帰ろう。

ケーキでも買って、家に帰って先輩の言っていた映画を見よう。

「明、よく覚えておけ。名作映画っていうのは家族で見るから面白いんだ」

そして星の広がる帰り道をゆっくりと帰る。

俺の家族達と一緒に。



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第1章 第4話

「虹に願い事をすると叶う」

雨ばかりが続いたまだ夏の気配の遠い春のある日、窓の外を眺めながら先輩が突然言い始めた。

「いや、虹の下の竹藪の中には3億円がある。だったか」

顎に手を当てながらまだ妙な事を言っていた。

「いきなりどうしたんです?」

「いや、なんか虹に関する伝説的な事があった気がしたんだが」

虹の伝説?

何だろうか。虹。虹と言えば雨。雨といえば梅雨。梅雨と言えば今。

うん。さっぱり分からないな。

「虹の根本には宝物が埋まってる。ですよね」

台所で昼飯の後片づけをしていた管理人さんが笑顔でそう先輩に言う。

手を拭きながら笑顔で俺の横に座った。

俺は座布団の上にあぐらをかいていて、その足の上には杏ちゃんが座り込んでいた。

杏ちゃんは俺に寄りかかりながら、少し眠そうにうとうととしている。

葵ちゃんは近くで座布団を肘の下に敷き、うつ伏せでマンガを呼んでいた。

ここ最近雨が何日も続いているせいか俺は庭の掃除という仕事が出来ず、毎日時間を持て余している状況だ。

そしてそんな俺には現在悩みがいくつか。

1つ。あの日、光襲来事件からこっちあの子からの電話がひっきりなしに掛かってきているという事。

まぁ内容はだいたいいつも一緒で、早く家に帰ってこいだ。

2つ。内容としては1つ目と関係があるのだが、あの日から杏ちゃんがずっと俺の傍から離れようとしない事だ。

そして、葵ちゃんもやたらとこっちに気を向ける様になってきた。

さて、どうしたものかな。

正直、俺も1人で考えごとをしたい時くらいある。

まぁ具体的に言うならば、トイレと風呂は1人で過ごしたい。

現在、問題は深刻だ。

俺は台所の向こうで周囲を異常に見渡している1人の人物を見つけて

1つため息をついた。

いや、先の2つなどこの問題に比べたらまだ軽いものかもしれない。

先日の事だが、この家でお花見をやったのだ。

その時に、新しく二宮さんという人が入居してきた人が居たのだけれど。

最初の印象はメガネを掛けているどこか大人しい人だな。という印象だったのだが。

時折、やたら人目を気にしてこそこそ隠れているのだ。

何かよくない事をしているワケでは無いが。

そもそも元来から隠れるとか人目を気にするというのは何かやましい事があるからだ。

はたして彼女の〝隠し事〟とは何だろうか。

みんなに迷惑を掛けるような事で無ければ良いのだけれど。

それを確かめるワケにもいかず、どうしたら良いのか考えているのが現状だ。

つまり、問題山積み。

さて、何から片づければ良いものか。

「よし、ボードゲームで遊ぼう」

窓の外を見ていた先輩は満面の笑みで俺たちにそう宣言した。

ボードゲームと言われても、実は生まれてこの方やったことが無いわけですが。

「俺はルールも分かりませんけど」

「ま、ルールはやりながら覚えれば良いさ」

先輩がそう言うので、せっかくだしボードゲームをやってみる事にした。

そして一応二宮さんに声を掛けてみるが、どうやら部屋で大切な用事があるらしい。

しょうがないので俺と先輩、杏ちゃんと葵ちゃん、管理人さんでやる事になった。

大人数でも変わる事なく遊べるのがボードゲームの良いところらしい。

「このゲームはいわゆる〝人生〟を体感出来るゲームなのだ」

「人生を……体感できる……!?」

そんな凄いゲームだったのか。

ただの厚めの段ボールにプラスチックの建物が立ち並ぶだけのセットにそんな凄い意味が込められていたとは。

「そんな神の作ったかの様なこのゲームの名前を〝人生ゲーム〟と言う。人生とは喜びも悲しみもゲームのごとく。ととある偉人が呟いた事からそういう名前が付いたらしい。まぁその偉人の名前は言えないが、ほら、お前も財布の一万円を出して、後は言わなくても分かるな?」

「サラッと嘘を教えないで下さい。子供達も信じちゃうじゃないですか」

管理人さんの冷静なツッコミで一万円札をジッと見つめていた俺はそれが嘘だと思い知らされた。

とは言っても、どこからどこが嘘で、どこからどこが本当かは分からないが。

何にせよ軽くルールをレクチャーされ始めた〝人生ゲーム〟だったが、開始早々から波乱を迎えていた。

「人生を初めて早々に職業を決めるんですか? しかもこのルーレットで止まった所の職業にならなくてはいけない……!」

「ん、ああ。そうだな。人生とはギャンブルである。という言葉もあるくらいだからな」

俺はおそるおそるルーレットを回し、自分の未来を決める事にした。

出来れば生活の安定する職業に就きたいが、そもそも多種すぎる職の中ではどれが一番安定するかなど分からない。

かと言ってこのままフリーターという事になれば貯蓄も出来ず、結婚相手にも苦労をさせるだろう。子供が出来てしまえばその子の養育費はどうするのだ。金は沸いてくる物では無い。

「良いから早く回せ! 考え込みすぎだ!!」

俺はルーレットを握りしめたまま考え込んでいたらしい。

何とこのゲームは早さも求められるらしい。確かに人生で必要な事は素早く、正しい決断を下すことだからな。

「神よ!」

俺は気合いと共にルーレットを回し、職業を決めた。

どうやら教師らしい。そして先輩の話ではさらに奥には医者とかの給料の高い仕事があるらしいが、失敗するとフリーターになる。

俺は大人しく教師になる事にした。

教師という職業をバカにする事なかれ。

子供という人生で今後を決める一番大事な時期に勉強だけじゃなく、人生について大事な何かを教える職業だ。

「俺に出来るだろうか。教師」

「いや、そこまで考えこまなくても良いよ」

次に杏ちゃんがルーレットを回し、アイドルという職業に就いていた。

「やったー! アイドルだよ!」

「おめでとう杏ちゃん」

普段は大人しい杏ちゃんが随分とはしゃいでいた。

やはり女の子というのはアイドルに憧れるものなのだろうか。

ひとしきり喜んだ後、俺の足の上に座り、寄りかかる。

「あー先生、アイドルと密会ー!? イヤらしいんだー!」

「アイドルでもまだ学生だもん。ね、せんせい」

先輩が謎に俺に絡み、そしてどこか嬉しそうに杏ちゃんが俺に微笑み掛けた。

教師としてはどうするべきだろうか。

「司君。授業中は静かにするように」

「先生だけ贔屓だーひいきー」

わーぎゃー騒いでいると葵ちゃんが静かに手を挙げている事に気づいた。

「どうしたの、葵ちゃん」

「先生、お嫁さんという職業がありません!」

「それは、職業なんでしょうか?」

「ち、違うんですか!?」

俺が職業じゃ無いのではというツッコミを入れると、何故か管理人さんが一番驚いた顔をしていた。

いやいや、おかしいでしょ。

「残念ながらこの世界にはお嫁さんという職業は無いらしい」

先輩は震える両手で口元を隠しながら悲しげに告げる。

「ではどうすれば……?」

「ここに政治家という職業がありますね」

というかいきなり政治家という職には就けるんですね。

お嫁さんが無い事よりもそれがある事の方が驚きですが。

10代で市議会議員になったりするんだろうか。凄い世界だ。

「お母さん、私政治家になってお嫁さんになる!」

「葵……立派になったわね。お母さん嬉しいわ」

「お姉ちゃん。がんばって」

感動的な親子のシーンだ。これも人生か。

その後、努力はしたのだが、結局葵ちゃんは政治家にはなれず、医者になっていた。

職業としては最高の職らしい。

そして管理人さんは俺と同じ教師になった。

「私、昔から先生に憧れてたんですよね。女教師。ってなんか良い響きじゃないですか」

「俺はとても良いと思います」

女教師。実に良い響きだ。

何というか、心に、いや魂に響く。

とか考えていたら、口をとがらせた杏ちゃんに太股を抓られ悲鳴を上げていた。

「いたたたたたた」

「先生、よそ見はダメですよー」

杏ちゃんの満面の笑みに背筋が少し冷えた。

俺は無言で首を縦に振るとゲームに意識を戻す。

そして目の前では今、最高職を目指し、結果フリーターという奈落の底に落ちようとしている1人の男が。

「先輩……」

「笑えよ。結局フタを開いてみれば、お前は教師、俺はフリーターだぜ」

「何言ってるんですか。人生って言うのはどんな職に就いたかじゃ無い。そうでしょう?」

「明。お前……」

先輩はフリーターと書かれたカードを手に感動している様だった。

まぁ現在の先輩は働いていないし。それよりはずっと上ですから。

とは思ったが、口には出さなかった。

そして続くゲーム。

「さて、就職が決まり、次は結婚マスか!」

「早い! まだ就職してすぐですよ!? 杏ちゃんなんてまだ学生アイドル。スキャンダルなんてレベルじゃないでしょ!?」

「ま、確かに一理あるな。がそれはあくまでお前の中の常識だ。他の誰かの常識じゃない。人の数だけ人生がある。そうだろう?」

た、確かに……。

言いながら先輩は誰よりも早く結婚マスに止まり結婚していた。

「先輩、流石にフリーターで結婚っていうのは……」

「明……。人を幸せにするのは、金じゃねぇ。一緒に居たいっていう気持ちだよ」

先輩はそう言いながらピンク色の棒を車の助手席に差した。

そしてそっと右手を俺に向かって突き出す。

「ま、とは言っても金は必要なので、2000ドルだ。祝え」

「結婚式で渡すお金なのに割り切れる金、ですよ?」

「細かい奴だな。ドルを円換算しろよ。それで割り切れなくなるから。まだ割り切れるならユーロで計算しろ」

先輩は何が何でも2000ドル欲しいらしい。

俺はとりあえず所持金から2000ドルを抜き出し先輩に渡した。

そしてどうやらそれは俺だけじゃなく他のメンバーも全員らしい。

まぁ先輩だけフリーターなのに真っ先に結婚したし、2000ドルでも恵まないと可哀想か。

そして2番目に葵ちゃんが結婚マスに止まった。

「やったー!」

「おめでとう葵ちゃん」

「明にぃ」

俺は先輩から聞いていた祝い金を葵ちゃんに渡す。

どうやら2番目の人には1000ドルらしい。

なりたいと言っていたお嫁さんになれたんだ。このくらいは安いだろう。

しかし葵ちゃんは俺からの1000ドルを受け取ろうとしない。

「どうしたんだい?」

「別に、一緒の車に乗るからお金要らないかなって」

「ん? どういう意味だい?」

葵ちゃんは赤くなり俯いたまま俺の車を手に取り、そして自分の車からピンク色の棒を抜くと俺の車の助手席に差した。

「良いかな?」

「先輩、良いんですか?」

「いや、ルールが崩壊する」

先輩は冷静に首を振りながら手を顔の前でクロスさせバツを作っていた。

まぁそうですよね。

「葵ちゃん。駄目だって」

「私、電車で明にぃの話聞いてからずっと思ってたの。明にぃには家族が必要なんだって。だから……」

「お姉ちゃん」

杏ちゃんは葵ちゃんをジッと見つめながら何かを言いたそうな顔をしている。

そして少し涙を瞳に浮かべていた葵ちゃんも杏ちゃんを見る。

見つめ合う二人。

いつまでも続くと思われていた沈黙は唇を尖らせ、眉をひそめた杏ちゃんによって終わりを迎えた。

「バカ!」

「なっ、お姉ちゃんにバカって何よぅ」

杏ちゃんは葵ちゃんを怒鳴りつけた後、俺のシャツを強く握りしめる。

そしてそんな杏ちゃんの言葉に葵ちゃんは半泣きのまま杏ちゃんを伺う様に見た。

2人はそのまま動けない。

このまま場がまた沈黙に支配されるかと思われたが、そんな中で1人の声が場に落ちる。

「あぁ杏ちゃんの言うとおりだな」

「そうですね」

先輩と管理人さんだ。

2人は微かに笑いながら俺を1回見た後、葵ちゃんを優しく見つめる。

あぁ、そういう事か。と俺は察した。

「なんだ、寂しいな葵ちゃん」

「え? どういう事?」

葵ちゃんは訳も分からず半泣きでキョロキョロと周りを見渡している。

そんな葵ちゃんに俺はゆっくりと言葉を紡いだ。

「俺はもうてっきり家族だと思ってたんだけどな。先輩と杏ちゃんと管理人さんと、そして葵ちゃんと。葵ちゃんは違ったのかい?」

「あ……」

葵ちゃんは俺の言葉に呆然としていた。

そしてその頬に一粒の涙が流れる。

それはきっとキッカケだったのだろう。それから葵ちゃんの頬を次から次へと透明な滴が頬を濡らしていく。

そんな葵ちゃんを管理人さんは優しく抱きしめ、この日の人生ゲームは途中で中断になった。

 

「葵ちゃんの様子はどうですか?」

「ま、元気は元気だよ。ただ明に会うのは難しいと思う」

「お姉ちゃんのバカ……」

俺は膝の上に俯く杏ちゃんを乗せながら、壁に寄りかかり先輩の話を聞く。

先輩がこちらに来たという事は管理人さんは葵ちゃんに付いているのだろう。

さて、どうするべきだろうか。

葵ちゃんは俺に言われた言葉がショックだったのでは無く、ただ俺にその言葉を言わせてしまった事がショックだったのだろう。

「他の言い方もありましたかね」

「ま、どう言っても結局はこうなったと俺は思うが」

俺と先輩はどこかのんびりとしながら状況を考えていた。

既に終わった事なのに何か改善策があったのでは、と考えてしまう。

「まぁ、葵ちゃんに今度会えたら謝らないと駄目ですね」

「ちょっとあの流れは可哀想だったしな」

「私、お姉ちゃんに嫌われちゃったのかな」

膝の上に乗っている杏ちゃんが小さく震えていた。

俯いていて、表情は見えないが、少なくとも笑ってはいないだろう。

そんな杏ちゃんを俺はそっと抱きしめる。

「きっとまた仲直りできるさ」

「……うん」

先輩が杏ちゃんに視線を合わせて微笑みながら言った言葉に杏ちゃんは泣きそうな声と共に頷いた。

俺は何か杏ちゃんを慰める方法はないか考える。

そして葵ちゃんが元気になる方法もだ。

「そうだ、虹」

「虹がどうしたんだ?」

「先輩話してたでしょ? 虹に願い事をすると叶うって」

そう、ぼんやりと窓の外を見ながら話していた話だ。

しかし、それは管理人さんによって違う事は分かった。

だが、今必要なのはその話なのだ。

俺は先輩にアイコンタクトを送る。

「……。そう、だな。確かそういう話があったな」

俺は先輩のその言葉を聞き、顔を上げた杏ちゃんを立たせながら視線を合わせる。

「杏ちゃん。一緒に虹を探そう」

「お願い、叶えてくれるかな?」

「当然! 杏ちゃんの願いは絶対に叶うさ」

俺は強く頷き、杏ちゃんの手を取って、外へと向かう為に靴を履いた。

傘を差し、雨の中を歩き始める。

たとえ土砂降りの雨だって、晴れるだろう。きっと。

 

傘を差しながら家を出て、行く当ても無く歩く。

空を見れば一面灰色の空だ。

「雲が切れてる場所があれば良いんだけど」

道を歩きながら四方の空を見る。

杏ちゃんもキョロキョロと見回しているが、結果は変わらず重苦しい雲が空を覆いつくしていた。

後どれくらい時間が経てばこの雲は消えるのだろうか。

俺は天気の事をそんなに詳しくは無いが、今空に広がっている雲は後1時間やそこらで消える様なモノには見えなかった。

風も殆どないし、太陽の光が殆ど届かない様な厚い雲はそんな些細な風では動かないだろう。

最初は空を見ていた杏ちゃんもだんだんと視線を下に落としていった。

そして今はもう地面を見ながら傘で表情を隠していた。

言葉も無く、動くのを止め立ち止まってしまった杏ちゃんを見て俺はどうしようもない無力感を感じていた。

杏ちゃんは別に葵ちゃんと仲直りが出来ないから落ち込んでいるわけではないだろう。

きっと杏ちゃんも怖いのだ。俺という家族が消えるかもしれないという現状が。

俺自身はここに居たいと言っているが、世界というのは誰かの気持ちだけを優先したりはしてくれないから。

色々な人の気持ちを混ぜ合わせて出てくる結果だけが現実なのだ。

それが世界の仕組みだって事は分かってる。でも、でもな!

「今だけはこの子の気持ちを優先させてくれよ」

俺は空を睨みつけながら誰に聞かせるわけでもなく呟いた。

ただ俺たちの願いはいつだって1つだけだ。

家族が笑ってあの家で日常を送る事が出来ればいい。それだけだ。

だからなんてことは無い。みんな少しの勇気が欲しいのだ。

こんな事でみんながバラバラになるなんて嫌だ。そんな事は無いと分かっていても不安は消えない。

人の気持ちなんて分からないし、現実はいつだって人の気持ちを置き去りにしていく。

俺は昔の事を思い出しながら杏ちゃんの横で立ちつくし、祈るような気持ちで空を見た。

そういえば、あの日もこんな雨が降っていた。

祖父が亡くなり、世界の全てが壊れてしまった日。

あの日は祖父が眠りにつくのと同じ様なタイミングで雨が降り始めた。

俺は祖父に言われた言葉を理解しようとしながら必死に祖父に縋りついていた。

何故か不安が心に押し寄せてきていたから。

俺と祖父が一緒に暮らしていた部屋で俺の声しかしない。

毎日の様に訪ねてきていた祖父の友人の〝はじめ〟と〝つかさ〟もこの日はまだ来ていなかった。

どんなに祖父を呼んでも彼は目を覚ます事は無い。

そんな俺の声で大人が部屋に入り、俺を祖父から引き離した。

俺は必死にその拘束を振り払い祖父に触れたかったが、その力は強固で俺には動かす事すら出来なかった。

何故、どうして。祖父は目を覚まさないのだ。

昨日まで俺の頭を撫でてくれた。一緒に笑っていた。

さっきまで俺に話しかけてくれていたのに。

俺は、祖父と、もっと、もっと一緒に居たかったのに。

やがて祖父の体に触っていた男が首を静かに振った。

それがどういう意味なのか俺には分からなかったが、それからどんどん大人が集まり、祖父の物を勝手に触り、動かしていく。

そして祖父の顔に白い布を被せた。

そんなモノを被せたら苦しいじゃないか! 祖父に何の恨みがあるんだ!

俺は叫びだしたい気持ちでいっぱいだった。でも体は動かなくて、ただ雨音だけが俺の耳にいつまでも響いていた。

そして俺は知ったのだ。世界は簡単に壊れてしまう。

昨日まで平和に過ぎていた日常は次の日には無くなってしまうかもしれないのだ。

どうしようもない事がいつ来ても良い様に、今出来る事をしたい。

俺は地面を見つめる杏ちゃんを横目でチラッと見た後、再び重苦しい灰色の空を見た。

何か方法は無いかと考える。しかし、そんな方法があれば苦労はしないし、既にやっている。

心の中で暗い空を眺めながら毒づくが、空は何も変わらず雨水を吐き出していた。

諦めに似た気持ちでため息が出そうになった時、空の向こうに何かが光ったのを見た。

それは遠い位置に居るのかやけに小さい光だった。

よく見れば、それは凄い速さで左右に動きながらこちらに近づいてきている。

飛行機だろうか? いや、それにしては動きが速すぎて、しかもあり得ない動きをしていた。

どちらかと言えばUFOだろうか。

そんなモノが実在しているのかは分からないが、何か違う気がする。

そしてソイツは随分と俺たちに近いところで止まった。

近いと言ってもソイツは遥か上空に居るのだからソイツがどんな形をしているのかすら分からない。

そう分からないはずなのだが。何故か俺にはソイツが人間に見えた。

そしてソイツを中心にして町の上空に広がっていた雲に青白い電流が走る。

直後、電流は雷となり、雲は荒れ狂う嵐となった。

杏ちゃんが小さな悲鳴と共に俺に抱きついてくる。

俺は杏ちゃんを抱きしめながらも空のソイツから目を離す事が出来なかった。

そして、世界を覆いつくすかの様な閃光に周囲が包まれた後、俺たちに一筋の光が差し込む。

それは天からの光だった。

雨雲に隠れ、見えなかった太陽の光だ。

呆然と空を見上げる俺の目の前にはだんだんと崩れ、消えていく雨雲が見えた。

「うそ……だろ」

いくつかに分かれた黒々とした雨雲は突然吹き始めた風の影響でどこかへ霧散していく。

そして隙間の出来た空から差し込む光は町を照らしていた。

まだ空に残る霧の様な雨が光を反射させて空をいつもよりも輝かせていた。

「なんだ、あれは」

俺は空に浮かんでいるソイツから目を離す事が出来ずにいた。

ソイツは悠然と空に浮かんでいる。しかしまだどこかへ動く事は無いようだ。

そして俺はソイツの横に見えたモノを見て、本来の目的を思い出した。

「虹だ……杏ちゃん! 空を見てごらん。虹が出ている!」

「にじ?」

俺に抱きつき震えていた杏ちゃんは恐る恐るといった様子で空を見上げた。

そして空と同じ様に曇っていた表情が晴れ渡る。

俺は虹を見上げながら1つ心に願う。

そして俺は目を開け、ふと歩いてきた道を見た。

どうやら願い事はもう叶ってしまったらしい。

「あんずー!! 明にぃー!!」

「お姉ちゃん」

杏ちゃんは相当驚いているのか、呆然とその川沿いを走ってくる葵ちゃんを見つめていた。

そして葵ちゃんは走ってきた勢いのまま杏ちゃんに抱きつき、そのまま俺にも抱きついた。

「ごめんなさい!」

それは誰の言葉だったか分からない。俺にも分からない。

ただそれはみんなの共通した気持ちだったのだろう。

だから誰が言った言葉でも良いのだ。良いのだと思う。

遠くからゆっくりと管理人さんと先輩が歩いてくるのが見えた。

「よう。問題は解決か?」

「そう、ですね。色々と不思議な事がありましたが」

「世界って奴はまだまだ分からない事の方が多いんだ。そういう事もあらぁな」

先輩はこの異常気象の事も特に気にしていない様子だった。

流石は大物と言うべきだろうか。いや、管理人さんも動じていない。

この2人が特殊なのか、俺が単に細かい事を気にしすぎなのか。

まぁ今はどちらでも良いか。と俺は空を動かないソイツを見ながら思う。

どこの何かは知らないが1つ借りが出来てしまったか。

「しかし流石は俺のロリレーダー。どんな場所に居ても幼女、少女を探してしまう。俺の才能が恐ろしい」

「あら、じゃあ杏は司君にストーカーされたら逃げられないわね」

先輩はどこか苦悩そうな表情を作りながら言い、それに困った様子も無く、頬に手を当て微笑んでいる管理人さん。

いつもの光景だ。何も変わらない。

そして俺の後ろでは葵ちゃんと杏ちゃんが2人きりで話し合っている。

何を話しているのかを探るほど俺は野暮じゃあない。

俺は心の中で今回の功労者に礼を言おうと空を見上げた。

相変わらずそこに浮かんでいるナニカ。

そしてそのナニカがゆっくりと移動していく。なんとなくその方向を視線で追えばそれは『そよかぜのいえ』の方向だ。

いや、偶然だろう。しかし、なんだ。これを偶然で片付けてはいけないという思いが俺の足を無意識に動かしていく。

「あ、おい! どうしたんだ明!」

「ちょっとすいません。気になる事が!」

俺は困惑している先輩に軽く返事をして、そのままナニカを追いかけた。

幸い見失う事も無く、ソイツの後を追い、そしてソイツが『そよかぜのいえ』の屋根に降り立ったのを見た。

それを見た時、正直信じられない気持ちでいっぱいだったが、俺は急いで『そよかぜのいえ』の中に入る。

そして2階へ駆け上る。

どうやらナニカは新しく入った二宮さんの部屋の中に侵入したようだ。

確かに俺たちは今日あのナニカのやった事で問題を解決した。

しかし、それと新しく家族になったかもしれない二宮さんに手を出そうとするのは話が違う。

よくよく考えてみればアイツは雲を一瞬で吹き飛ばす謎の力を持った存在だ。

何かがあってからでは遅い。俺は二宮さんの部屋のドアを激しくノックする。

「大丈夫ですか!?」

「え? ちょ、ちょっとまっ」

まずい。既に手遅れだったのか。中から人が倒れる様な音と、ガラスが割れる音がした。

既に襲われている。そう確信した俺は何も武器を持たないまま、ドアを開き中へと突入した。

「無事ですか!?」

「いたたた。酒瓶早く片付けないとなぁ」

俺の目の前にはピンクのフリフリの衣装を着て、何かファンシーな棒を持った1人の女性が床に転がっている光景が広がっていた。

そしてどうやら俺の見間違いでなければその杏ちゃんが見ていた朝の小さい女の子が主人公のなんとかという番組の格好にそっくりだった。

確か、その姿をした女の子の事を先輩がこう呼んでいたのを俺は覚えている。

そう……。

「魔法少女……」

俺の言葉に場は凍りつき、誰も動けずに居た。

どうやら新しい住人もまた一癖ありそうな人間だったようだ。

 



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第1章 第5話

「魔法少女、まじかるみどり……ですか」

「そう。信じられないかもしれないけど」

俺は手に持ったハンバーガーを食べる事も忘れ、目の前の女性を見る。

ただ、感情もなく、見る。

「やだ、恥ずかしい。もうお姉さんに惚れちゃったの?」

「少女……?」

「何が言いたい!」

俺は頭痛がしそうになるのを感じながら目の前でテーブルを叩きながら凄んでいる女性のプロフィールを思い出していた。

確か、二宮翠OL、管理人さんとは違ったタイプの女性で管理人さんを家庭的で可愛らしい女性とするならば、二宮さんは仕事の出来るカッコいい女性という感じだった。

つい先日までは。

俺と同じく朝会社に出勤し、夜疲れて帰ってくる。

管理人さんのご飯に酷く感動していて、『そよかぜのいえ』に来てからは随分と生活が楽になったと言っていた。

どうやら家事は出来ないらしい。そして部屋からは酒の匂いが絶えずしていたが、朝になれば理知的な顔によく似合ったメガネをかけ、颯爽と出掛けていく。

まぁ夜に酒くらい飲まなければやっていけない時もあるだろう。

それだけ昼の仕事が大変なのだ。きっと『そよかぜのいえ』の中で誰よりもしっかりとした人なのだな。と思っていた。

つい先日までは。

まぁ確かこういう趣味の人をなんていうんだったか。そうコスプレイヤーだ。

趣味に対して他人がとやかく言うのはおかしいと思うし、別に好きにすれば良いと思う。

しかし冷静になってもう1度プロフィールを思い出してみよう。

二宮翠OL、24歳。

別に女性の年齢に対して何かを言うつもりはない。だが、俺は目の前の女性を見ながら考える。

「しょう、じょ?」

「何よ! はっきりと言いなさいよ!」

マズイ頭痛がしてきた。俺は近くにあったコーラを飲み、喉を潤す。

ふぅ。一息つき、また頭が冷静になってきた。

「まぁこの際、色々な細かい事は置いておきまして。ちょっと意外でしたね」

「そ、そう……よね。魔法なんて信じられないわよね」

「え? いや、よく20歳を越えて少女を自称できるな。と」

「まだそれ続いてたの!?」

いや、人には人の考え方がある。それを否定してはいけないな。

大人になるんだ明。些細な疑問をいつまでも持っていては大きい人間にはなれない。

「少女がどうこうはとりあえず置いておきましょう。ところで二宮さんは魔法がどうこうと言っていましたが、そんなモノ実在すると信じてるんですか?」

「実在するも何も、私が魔法少女なのが証拠でしょ?」

「うーん。人の知られざる一面という奴ですね。一見大人びている様に見える人が人形遊びを大人になってもやっている的な」

俺の言葉に二宮さんは顎に手をあて少し考えている風だった。

さて、これからどんな手品が飛び出すのだろうか。大抵こういう言葉を言うと証拠を出そうとするものだけれど。

と、ふと俺は考えながら違和感を感じた。

何かがおかしい。周りで一瞬前までしていた音が一切していない。

それだけじゃあ無い。動きが止まっている。人もモノも動物も、窓から見える全てが停止していた。

まるでビデオの停止ボタンを押した時の様に。

「気づくの早いね。はい。私が魔法少女っていう証拠だよ」

「は? いや、どういう……?」

「時間を止めたんだよ」

時間を止めた? 世界の全てを停止させたという事だろうか。

それならば何故俺たちは互いが見えているんだ? 何故俺は地面に立てている?

いや、そういう概念が通じないのが魔法なのか?

「色々混乱してるみたいだね。1つだけ私の魔法には決まりごとがあるの。それは私のしたい事しかできないという事」

その言葉の意味を考え、即座に俺は答えた。

「つまりは、二宮さんの望んだ事のみが叶えられる力という事か。だから呼吸をする事も出来るし、世界はこんなにも明るい」

「ふふ。物分りのいい子は嫌いじゃないよ。さて、理解は出来たみたいだね。コレが私、魔法少女まじかるみどりだよ」

理解は出来た。しかし1つ腑に落ちない事がある。

俺は目の前で珈琲を飲んでいる二宮さんを見て思考する。

さて、この人は何を考えているのだろうか。

「1つ、気になる事があるんですよね」

「なんでしょう」

「何故、俺に魔法の事を打ち明けたんですか?」

二宮さんは目を閉じ、何かを考えている様子だった。

そして突然人差し指をこちらに向けると何か赤い光を俺に向かって撃った。

しかし、ソレは俺に触れても何も無く、消えていった。

「君、何者?」

「どういうことですか?」

「今、君に魔法を使ったんだよ。でも消えてしまった。本来は君も含めて全ての時間を止めたつもりだったのに、君は動いている。あの雨の日も雲を吹き飛ばす姿を誰も見ていないのに、君だけはそれが見えた。君は何?」

何? と言われても、俺は何も知らない。

そもそも魔法なんてものは今日初めて知ったのだ。

しかしこれで二宮さんが俺に魔法の事を打ち明けた理由が分かった。

つまり二宮さんは俺という存在が敵か味方か見極めたかったのだろう。

「まぁ、俺に何故魔法が効かないのかは分かりません。ですが、俺は二宮さんの敵では無いですよ」

「それで、はいそうですか。って私が頷くと思う?」

「思いませんね。だからこれからデートしませんか?」

これは好都合だと俺は考える。二宮翠という人物が『そよかぜのいえ』に何か不幸を呼ぶ人間になる可能性があるのかどうか見極める。

そして、俺が無害である事を実証できずとも少しでも信用してもらえれば、これから動きやすくなるだろう。

どちらにしても、互いを知るのに短い時間でも行動を共にするというのは有効だと俺は思う。

「ほぅ。お姉さんをデートに、ね。面白い。付き合いましょう」

 

そして始まったのはデートという名前の戦い。だったハズなんだが。

「ねぇねぇ明君! コーラが良い? それともコーラ? アハハ」

とりあえず最初は映画を見に来たのだが、既に二宮さんのテンションは壊れていた。

両手にコーラのLサイズを持ちながら何がそんなに楽しいのかずっと笑っていた。

もしかしてこの人、クールな大人びた女性なんかでは……ない?

「そんなにこれから始まる映画が楽しみなんですか? 二宮さん」

「翠ちゃんでいいよ。ところでこれからどんな映画が始まるの?」

「え?」

「え?」

互いに疑問符を浮かべながら見つめ合う。

てっきり映画が楽しみではしゃいでいるのかと思ったがそうでは無いらしい。

しかし実際に映画が始まれた翠さんは画面に釘付けになっている。

そして右手でひたすらにポップコーンを食べていた。

「あれ? いつの間にポップコーン買ったんですか?」

「ううん。コレ魔法で作った無限に減らないポップコーン、ノンカロリー」

何、その一部の人にだけ喜ばれる様な無駄な魔法は。

魔法ってもっとメルヘンなモノかと思ってたけど、どうやら違うのか。

そして俺は魔法について考え続けていて、気がついたら映画が終わっていた。

「次はどこに行くー!?」

「適当に町を散策しながら考えますか」

「おー」

と、映画館を出る時に映画のタイトルを見たが、よく考えればこの映画って杏ちゃんが見たがっていた映画じゃないか。

マズイなぁ。こんな所を杏ちゃんに見つかったら何を言われるやら。

思わず不安になり周囲を見渡すが、特に怪しい気配は無かった。

「考えすぎか」

「何してるのー? 早く早くー」

「はいはい」

俺は先行している翠さんに追いつく為に足を速める。

そして様々な店に行った、が。

服屋にて。

「服? 高い服は良い服なんでしょ?」

アクセサリーショップから。

「何このジャラジャラしたの。こんなの体に付けて嬉しいの?」

本屋で。

「何か本に囲まれてると眠くなってくるんだよね」

楽器屋。

「へぇ。何か凄いね。あんまり興味ないけど」

玩具……。

「子供扱いしないで欲しいね。私は大人のレディですよ?」

そして偶然立ち寄ったスーパーでは。

「ようやく、本命ですか。さて、イカと生ハムとししゃもを買って、日本酒だー! いえー!」

「デートとはいったいなんだったのか」

俺は思わず1人入り口に立ちつくしながら考えてしまった。

そんな俺を放置し、翠さんは1人ウキウキと酒を選んでいる。

そしてある程度選び終わったのだろう、籠を持ってレジに行こうとしていた。

しかし、翠さんよりも少しだけ早く別の方向から翠さんと同じレジに並ぼうとしているおばさんが。

籠にはいっぱいに食材が入っている。これは時間が掛かりそうだな。と思った瞬間、世界が止まった。

ハンバーガーショップの時と同じく、俺と翠さん以外の全ての物が止まっている。

そんな中翠さんはおばさんよりも早くレジに並び、そしてまた時間が動き始めた。

おばさんは何が起こったのかと翠さんを見つめていたが、翠さんが指を光らせると何事も無かった様に翠さんの後ろに並んだ。

あれも魔法なのか。また随分とメルヘンから遠い使い方をしているなぁ。

 

そして『そよかぜのいえ』に帰り、俺の部屋で飲んでいる。

何故翠さんの部屋ではないか。それはあの部屋が汚すぎるからだ。

人がくつろぐ環境ではないからだ。

人間の住む部屋ではないからだ。

しかし、俺の部屋にもゴミがだんだんと溜まり始めていた。

さっさと用件を終わらせなければ俺の部屋も飲み込まれてしまう。

「翠さん」

「ふへへ。なぁに?」

既にかなり飲んでいる翠さんが怪しげな表情で俺に笑いかける。

子供の前でこういう顔をしている不審者が居たら、すぐに警察に連れて行かれるだろう。

軽く苛立ちを感じつつそれを抑えながら俺は平静に話を続ける。

「帰れ。部屋に」

「やだー、明君たら。まるで怒ってるみたいですよー?」

俺は自分の心の中に芽生えそうになる気持ちを必死に押さえ込んでいた。

このまま苛立ちに負けてしまったら酷い暴言を吐いてしまいそうだ。

それはマズイ。翠さんにも何か深い考えが……。

「はい! 1番、二宮翠! 明君の部屋のうっふっふな本を探します!」

翠さんはふらつきながら立ち上がると、押入れの布団に手を突っ込む。

しばらく漁っていたが、特に何も無い事を知るとそのまま別の場所へと移動する。

「たいちょー! 本棚が怪しいと思います!」

「よぉし! 隅から隅までー、探すのだー!」

翠さんは1人で敬礼をし、そのまま自分で答えていた。

コレにも何か深い理由が、何か考えているのではないだろうか。

「真面目な本ばっかりであります! 駄目ですね。これは。とんだ堅物野郎ですわ。ロリコンですわ」

「なんでだ!」

「だっていつも管理人さんのところの娘さん達にベタベタしてるじゃない。……ハッ! そうか。全ては繋がっていたんだ。明君の狙いは未亡人……っ!」

「あの、少し黙ってくれませんか? こう、心の中でですね。黒いモヤモヤとした気持ちがですね。軽く弾けそうなんですが?」

俺は必死に自分の中に眠る殺意という名前の衝動を抑えながら翠さんと会話を続けていた。

しかし、翠さんは俺の言葉に一瞬キョトンとした顔をすると、目を見開き、自分の体を抱きしめた。

「やだ! 翠ちゃんも狙われてるの!? 怖い! そんな、あぁ!」

「ハハッ、こんな気持ちになったのは生まれて初めてですよ。人はこんな気持ちを抱えながら生きていかなくてはいけないのですね。胸が苦しい」

「はい。医者にも治せない。その苦しみの正体を私は知っています。それは恋。ラヴ。愛」

さらに湧き上がる苛立ちを感じながらすぐ近くで武器になりそうなブツを探す。

相手は魔法が使えるらしい。そうなれば出来るだけ殺傷力の高い武器が良い。

と、既に荒らされている部屋を見て、苛立ちをさらに感じながらもソレを見つけた。

先ほどまで透明な液体が入っていた俺の腕よりも太い透明な瓶。

俺はおもむろにソレを掴みながらゆっくりと立ち上がろうとした。

しかし、翠さんの顔を見て、動きを止めてしまった。

「何泣いてるんです?」

「へ? いや、涙なんて……」

翠さんは不思議そうな顔をしながら涙を拭おうとするが、次から次へと流れてくるソレを止める事が出来ないようだ。

無理に笑顔を作ろうとしているが、それも出来ない。

「明君はさ。ホントに良い子だね。お姉さんは惚れちゃいそうだよ」

「別に俺は何もしてないですよ」

「でも、魔法の話をしても私を気持ち悪がったりしなかった。それに私を1人の人間として見てくれてる」

翠さんは酒瓶を抱きかかえながら笑みを作る。

その寂しそうな微笑みに俺は何故か不思議と懐かしい気持ちを感じていた。

それほど昔ではない。しかし、毎日の様に見ていたその顔は生きる為に生きている人間の顔だ。

誰にも心を開かず、ただ1人で生きてきた人間だけがする顔だ。

俺には分からないが、魔法が使えるという事は便利な事ばかりでは無いのだろう。

今の翠さんが今日1日の答えの様な気がした。

「俺が凄いんじゃないですよ。俺もこの場所に来るまでは、誰かの事を考える事なんてしてきませんでしたから。だから凄いのは管理人さんで、先輩で、葵ちゃんで、そして杏ちゃんなんだと思います」

「そっか」

翠さんはさっきまでの頭の悪そうな笑顔から何かを考え込む様な表情に変わった。

その表情を見た時、俺は思わず翠さんに向かって言葉を発していた。

いや、それは翠さんに向けた言葉であって、翠さんに向けた言葉ではなく、すでに俺の記憶の中にしかいない、不器用なガキに向かって言った言葉だったのかもしれない。

「今すぐに何かを変える事は出来ないかもしれません。他人を信用する事なんて出来ない。でも、家族なら。どんな自分でも受け入れてくれる。後もう1度だけ信じて欲しい。この場所でなら。ここの人達を。もし怖いなら、躊躇うのなら俺がいつでも手を貸しますよ」

翠さんの言葉は無かった。しかし、それでも俺は良かった。

結局は自己満足なのだろう。でも人は誰だって自分の嬉しい様に、したい事をする。

だから、俺はいつか翠さんと先輩達が庭の桜を見ながら一緒に酒を飲む日が来てもいいんじゃないか。と思う。

そんな景色を見たいから、俺は翠さんともっと仲良くなりたいと思った。

「ま、今の話は独り言なんで、もし聞いてたら適当に忘れちゃって構いませんよ。ところで、翠さんってさっき愛がどうとか恋がどうとか言ってましたけど。自分はソレどうなんです?」

翠さんは一瞬虚を衝かれた、ポカンとした表情をしていたが、俺の意図が分かったのか柔らかく微笑んだ。

そしてまた少し前と同じ、酒に飲まれたおっさんの様な表情に戻る。

「私としては明君の過去の方が気になるけどなぁ。むしろ今? 本命は誰なのかな? 明君が1番大切なのは……」

「仕事、ですね。働いている瞬間が最高に楽しい」

「明君ってさ。結構変人だよね」

俺と翠さんはコップに入った酒を飲みながら言葉を交わす。

「何を言いますか。俺ほど普通な人はそうは居ませんよ。普通オブ普通。普通の中の普通。ザ平均点君とでも呼んでくださいよ」

「残念ながら普通な人は普通でない物に憧れる人が多くてね。普通だよ。と自分では言わないんだよ」

「ま、中にはそういう人も居ますね。俺は違いますが」

笑いながら時間も忘れて、くだらない話を続ける。

「明君、ロリコンはね。普通じゃないんだよ?」

「そんな諭す様に言われても……。いやそもそもロリコンじゃないですし」

「じゃあ、アンコンか」

「なんです? ソレ」

「杏ちゃんコンプレックス。略してアンコン」

「俺は杏ちゃんの何にコンプレックスを感じれば良いんですか。俺は杏ちゃんの兄みたいな立場ですよ」

それから俺はよく覚えていないが、確か朝日が上がってきた辺りまで飲んでいた気がする。

深夜という事もあり騒がないようにはしていたし、2階には俺と翠さんしか住んでいないから、という事もあったのだろう。

いや、後から考えてみれば問題はこの時点で俺が昼からの杏ちゃんの約束に間に合うと思い込んでいたことだ。

もっと冷静に杏ちゃんの性格を考えれば昼から映画を見に行く約束をしていれば、もっと早い段階でテンションが高くなった杏ちゃんが部屋に来る事が予測できただろう。

そしてその為に早めに解散し、翠さんを部屋に帰す事も出来ただろう。

しかしいつの間にか俺は意識を失い、深い眠りの旅へと旅立っていた。

 

酒を飲みながら布団も出さず、畳の上で眠り、何時間経ったのだろう。

その目覚めは最悪だった。

「緊急ー!! 家族会議ー!!!」

先輩の叫び声が『そよかぜのいえ』全体に響き渡る。

そして俺は締め付けられる様な痛みを感じながら目を開け、そして固まった。

冷静にどういう事なのか理解しようと頭を回転させるが、酒を飲みすぎたせいかうまくいかない。

ドアの前で叫ぶ先輩、そして俺のすぐ横で座りこちらを睨みつけている杏ちゃん。

俺は畳の上で寝たせいか服が乱れており、そしてすぐ横には俺に抱きついてのん気に寝息を立てているほぼ全裸の翠さんの姿があった。

それから俺の叫び声に目を覚ました翠さんが服を着て、俺達は管理人室へと連行された。「はい。2人はどうしてここに呼び出されたか分かっていますか?」

管理人さんはいつも通り変わらない声と表情で俺達に話しかけてくる。

無言で睨みつけてくる杏ちゃんや葵ちゃん。面白がっている先輩しかいないこの場所では随分とありがたい事だった。

「まぁ、そうですね」

「別に人の恋愛にどうこう言う気はありませんが。ドアを半開きにしたままというのはいかがなものでしょうか? 大人だけなら良いかもしれませんが。子供も居るんですよ」

「はい。申し訳ございません」

俺は畳に額がつくほど深く頭を下げた。

何が起きているのか理解は出来ているが、出来ていなかった。

記憶では酒を飲んで、話をしていただけだったハズなのだが。

「謝るなら私ではないと思いますよ。約束していたんでしょう?」

「そうですね。杏ちゃん」

俺はまだ怒っているであろう杏ちゃんの方を向くと、そのまま頭を下げた。

「ごめん。約束を忘れていたワケじゃないんだけど。こんな事になってしまった言い訳の言葉も無い」

「おにーちゃん」

杏ちゃんは壁に寄り掛かっていたが、俺の方に歩いてくると少ししゃがみ、俺と視線を合わせた。

そして唇を尖らせたまま小さく消えそうな声で俺の耳元に囁いた。

「じゃあ、また来週も映画、その次も。後、後でギュッとして」

「了解」

どうやら杏ちゃんは納得してくれたようで、俺のすぐ横に座り、俺に寄り掛かってきた。

まだ頭を下げそうな雰囲気なので、出来れば離れて欲しいのだが、それを言えばまた機嫌が悪くなりそうだ。

そしてそんな俺達を見て、先輩が口を開いた。

「明」

「はい」

先輩は神妙な顔をしたまま俺を見続ける。

そして少ししてまた言葉を発した。

「男なら本命一筋であれよ。わざわざ売れ残り商品に手を出す事も無いだろ」

「ちょっと待ちなさいよ。あんた今なんて言った?」

先輩の言葉に翠さんは俺の横で勢いよく立ち上がる。

そして腕を組みながら壁に寄り掛かっていた先輩を睨みつける。

「なんだ。聞こえなかったのか? 耳が遠いんだな。もう年か」

「いい度胸してるわね。女が1番輝く時期というのが分かっていないみたいね」

「あぁランドセルを背負っている女の子はいつも輝いているな」

「このロリペド野郎」

「なんだ嫉妬か? 売れ残りのクリスマス女」

2人は火花が散りそうな程睨みあっていた。

どうやら入ってきた日の事を俺は寝ていたので知らないが、先輩とひと悶着あったらしい。

それ以来2人はあまり近寄らないようにしていたようなのだが。

「まだ24よ!」

「ならイブだな。もうリーチじゃねぇか。酒を飲みたくなる気持ちも分かるよ」

「犯罪者予備軍に言われたくは無いわね。いーえ。もう逮捕済みかしら?」

互いに一歩も引く事無く、互いを罵り続ける。

昨日の夜に家族云々という話をしていた矢先にコレか。と俺は頭を抱えたくなった。

俺は言い合いをしている2人を放置して、葵ちゃんを見た。

葵ちゃんは俺の方を見て複雑な顔をしながら俺と視線があった事ですぐ傍まで寄ってきて口を開いた。

「明にぃは女好きなの?」

いきなりの言葉に思わず立ち上がって否定しそうになったが、右腕に感じている杏ちゃんの存在が俺を引き止めた。

「そんな事は無い! 誰がそんな事言ったんだ」

「学校の友達。でも最近、明にぃの周りに色んな女の子が居るから」

確かに言われて思い返してみれば、普段よりもそういう事が多かったかもしれない。

しかし断じて違う。俺はそんな軽い人間じゃない。

「それは全部誤解だ。俺はそんな浮ついた気持ちで誰かと付き合う事は無い」

「そう、なんだ」

俺の言葉に葵ちゃんは頬を染めながら小さく頷いた。

もしかして、もしかしなくてもコレは面倒な事を言ってしまっただろうか。

しかし、口から出た言葉は今更戻せない。

俺は妙な事にならないようにと願いながらこの騒動が収束するまでを待つ事にした。

ある春の日の事である。

その日から翠さんは本当の意味で俺達、『そよかぜのいえ』の一員となった。



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