ばいにんっ 咲-Saki- (磯 )
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小学生編(上)
0.すこしむかし


作中闘牌凡例:
 萬子:一~九
 索子:1~9
 筒子:①~⑨
 風牌:東南西北
 三元牌:白發中
 赤牌:[]内表記 (例):[五][5][⑤]
 副露:()表記 (チー例):(2)13 (ポン例):⑤([⑤])[⑤]


0.すこしむかし

 

 気がつけば生まれていた。たいていの人間は、そんなふうに自分のルーツを処理できる。それは幸福なことだと須賀京太郎は考える。たとえば母親の胎の暗さ、羊水の温さ、産道の狭さや頭蓋骨の軋みを感得したとき、胎児は何を思うだろう。

 彼は想像を巡らせる。

 夜、布団の中で幼い手足をたたみ、背を縮ませて、できるかぎり呼吸も顰めて、京太郎はからだの内側で鳴り響く音楽に耳を済ませる。血流や筋肉が立てる音にとらわれて、殺しても殺しきれない鼓動が刻むリズムの正確さに内向していく。ちく、たく、と小さな心臓は絶え間なく鳴り続ける。ちく、たく、と打たれる拍子は意識を入れ子のように閉じこみ始める。

 

(おれはどこから来たんだろう)

 

 ありきたりでつまらない。陳腐で使い古されている。脈拍と思考の淵で須賀京太郎はそんな自問を繰り返す。生まれて以来彼はずっとその命題に直面している。彼は長野県に住まうただの小学生でしかない。それ以外の何者でもない。けれども、他の誰も認めず、知らない事実が彼をしじゅう苛んでいる。

 

 須賀京太郎はここにいない。

 

 その自認が呪いのように脳裏にこびりついて離れない。

 とはいえ、この世に生を享けたその日から、今に至るまでの十年程度の時間を、彼はそれなりに正しくおぼえている。なんならいくらか諳んじることもできる。周囲はいざ、彼すらその不条理な認知の由来は知らない。ただ結論だけがそこにある。キリンの首みたいに唐突さが前もって用意されており、だから、世の誰も京太郎の居心地の悪さに気づくことはない。彼だけが自分の中にある太虚を知っている。

 

 世界の誰もが自明の理として処理するその事実が、京太郎を永の年月捉えて放さない。その思い込みはほとんど偏執的で、若干狂気に傾斜していることには彼も自覚的だった。ものごころついた時から自意識に敏感だった京太郎は、だからもちろん違和感を口に出したりはしなかった。

 感情の赴くままに動き、体力の枯渇とともに一日を終える。そんな小児の日常のまにまで、京太郎はしばしば、なんともいえない不安にとらわれる。

 たとえばある日、乗用車を運転する母の横顔を見て、突然その女を見知らぬ人のように感じることがあった。

 たいがい、その手の衝動は脈絡もなくやってきた。予告もなく乱暴に肩を叩き、大きな腕で首根っこを掴み、これでもかというほど頭を揺さぶってくる。すると思考は突然澄み渡る。小児特有の無秩序さは忽然と消える。彼は須賀京太郎という存在がはらむ矛盾を数え始める。先のおのれの起源に関する疑問からそれは始まり、まるで眠りから醒めたように(もしくは夢に醒めたように)、自分を含めた全てがうそ臭く思えてくる。

 

(須賀京太郎)

 

 と彼はそんなとき何度も呟く。与えられた自分の名前は常に空々しく聞こえる。声も、容姿も、思考も、日々の全てが、須賀京太郎というフィルタを通して視える世界のあらゆるものが、銀幕の光景のように現実味がない。

 目に映るものに新鮮味がないわけではない。彩りを美しいと思えないわけではない。ただどうしようもなく隔たりを感じるだけだ。家族の愛も、料理の味も、傷の痛みも、全ては淡く仄かに感じた。

 子供らしい語彙に照らして、そんな自分を喩える存在を京太郎はもう見つけていた。

 

(おれは幽霊だ)と彼は結論付けた。

 

 ほかに考えようがなかった。

 おそらく、自分はとっくに死んでおり、今こうして呼吸をしているのは何かの間違いでしかなく、いずれこの間違いが正されて、世界から自分は綺麗さっぱりいなくなる。

 そうに決まっている。

 

 思考がいつも通りに帰結すると、京太郎はようやく少しばかり落ち着くことができる。布団の中で眠ろうという気持ちになれる。面倒な性分だった。瞼を閉じ呼吸を静めて、幽かな希望を頼りに眠りに落ちる。彼は夜毎こんな願いを掛けている。

 

 ――どうか、明日には、世界が正しいかたちになっていますように。

 

  △

 

 音が聴こえる。

 牌が卓を打つ音色だ。

 それは馴染んだノイズだった。局が閉じる。牌が乱れる。山を積む。一幢を取る。繰り返す。跳牌する。

 運命の旋廻が始まる。

 

 遊戯がはじまる。

 

  △

 

 長い夜をようやく超えて、うつろな朝がやって来た。

 

 いつも見たいと思うのは母の夢だった。一年前に心身を病んで、自分の首に手をかけた母の顔を、心から思い出したいと感じている。なぜならそれが最後に見た母の姿だからだ。

 けれども、実際にはもう夢にも母の面影を見ることはない。

 そもそも眠ることもなくなったからだ。

 

 夜通し身じろぎもせず目を閉じていた石戸月子は、今まさに起きたといった風情で背を伸ばす。急な運動に血流が加速すると、こめかみが脈打って一瞬、目が眩んだ。壁に触れていた背筋も軋みを上げて、関節が軽い音を鳴らす。

 左手に置いた時計を確認すると、時刻は朝の五時十五分を回ったところだ。

 居間に目線を転じれば、視界には卓袱台を囲む四人の男と麻雀牌、そしてその周囲で雑魚寝する四人の男女が見える。彼らの周囲には、乾された酒類とつまみの包装、吸殻が山と詰まれた灰皿に、適当に千円札の束がねじ込まれた小箱等が散乱していた。

 多彩なようで決して変わり映えしない朝の幕開けに、月子は鼻を鳴らす。今年で十一歳になる石戸月子の朝は、一年半前から同じような情景を繰り返していた。

 

 16畳のリビングはそれなりに広いが、大人八人に子供一人が入れば手狭に感じる。跳ねた後ろ髪を押さえて目をこする彼女を、気にするものは部屋にいなかった。月子も今さら、自宅に這入り込んだ他人を気にはしない。気にしたところで何もできないからだ。

 月子が朝を迎えてすぐに取る行動は、だいたいの人間がそうであるようにルーティン化されている。まず、起きた拍子で膝から落ちた毛布を畳み、腰と壁に挟んでいたクッションに重ねてクロゼットにしまいこむ。それから髪と寝巻きに染み込んだ煙草とアルコールのにおいに辟易する。嘆息とともに放り出された足を跨いで居間を横切り、無言のまま浴室へ向かう。

 

 廊下から脱衣所へ滑り込むと、鍵のないドアの前に空の衣類かごを置き、洗濯機にパジャマと下着を放り込み、着古されてくたびれた着替えを用意した。

 万が一にも他人とニアミスしないよう手早く身体の洗浄を終える必要がある。

 月子の父親に招かれた男たちの視線に、漠然とした危機感を覚え始めたのはここ最近のことだ。比較的早熟な彼女は、好奇心が半分方を占める男たちの性的な関心をそれなりに正確に察知していたし、「かなりまずい」ものだとも感じていた。

 月子は十一歳にしてはいくらか発育が良く、手足が長く、顔立ちも大人びていた。中学生を自称しても通じるかもしれない。いまやその個性は彼女にとって不幸の呼び水でしかないが、だからといって現実的な不安に対処しないわけにもいかない。

 可能であれば風呂も家の外で済ませたいところだが、小学生の懐事情で銭湯通いは難しい。事情を話せるような友人も彼女にはいない。それどころかクラスでは消極的ないじめを受ける立場でさえある。

 家にも、学校にも、安らげる場所がない。

 母と兄がこの家からいなくなって以来、心から落ち着けた覚えがない。

 

(まずい)

 

 月子にはネガティブな要素を数え上げる癖がある。悪いことを認めて前向きになろうとしているのだと月子自身は思っているが、実際は現状を客観的に見て「自分」と「現実」を切り離そうとする防衛反応でしかない。

 頭から湯を浴びながら、月子は身体の内側に重いものが溜まりつつあることを自覚する。時折、彼女は呼吸にも難儀することがある。学校へ向かう道すがら、帰宅が迫った授業中、家のトイレで息を殺して用を済ますとき、発作的に大声を上げて全てをなげうちたい気分になることがある。動悸が激しくめまいも止まないそんなとき、彼女はひたすら心の中で呪文を唱える。

 

(いつかおわる。だから大丈夫。いつかおわる。だから大丈夫。がまんできる……)

 

 繰り返すうちに、自動的な手足は全身の洗浄を終えていた。タオルで髪の水気をていねいにふき取りながら、月子は浴室から脱衣所へ抜ける。

 唐突に、扉が開かれた。

 

「おお」

 

 父親だった。やや腫れた目が瞬かれて、肢体から雫を垂らす娘を茫洋と眺めている。

 

「風呂か。早いな」

 

 無遠慮な目線に晒されて、全裸の月子はもじもじした。

 夜通しの遊びには参加せず自室にいたようで、常は鋭い男の表情に眠気の名残がほの見える。三十路を回ったばかりの彼は、遠見には雰囲気に険のある長身の美男子でしかない。俳優といっても通るかもしれない。けれども、内実は月子の家庭と母の人生を狂わせた極道でしかない。

 父の名は新城直道という。姓が月子と異なる理由は、彼がそもそも月子の母とは籍も入れていないためだ。ただし認知はされている。明確に月子や兄とこの男のつながりを示すものは、だから実は戸籍のみだった。それでも、月子の顔は家族の誰よりこの男に似ていた。

 麻雀も、兄ともども新城に教わった。

 それは月子の気分を悪くするだけの縁だ。

 とはいえ、いまの月子は扶養の身である。パトロンの機嫌を損ねて得るものはない。

 わずかばかりの愛想を搾り出して、朝の挨拶を繰り出した。

 

「おっはー」

 

 新城の眼差しがうろんなものになった。

 満面の訝りを聞き違いと捉えて、月子は再度のトライを決めた。清水の舞台から飛び降りる心地である。色々な意味で後戻りはできない。

 胸元にバスタオルを入念に巻きつけ、しわぶきを落とし喉の調子を整え、両手でピースサインを決めた。

 

「おっはー」

「……」

 

 返答は黙殺だった。

 これが何日ぶりかの親子の会話である。

 月子は引きつった目顔を逸らして、項垂れた。

 立ち尽くす娘を置いて、父は洗面所で顔を洗い始める。髪を乾かすドライヤーがそこにある以上月子も出て行くわけには行かず、手早く身体を拭うと服を着込んだ。所在無く新城の身支度が終わるのを待っていると、鼻腔を嗅ぎ慣れない香りがくすぐった。

 女のにおい、と月子は思った。

 その直感を裏付けるように、三番目の人物が脱衣所に現れた。

 月子は絶句した。

 素肌に上着を雑に羽織った、しどけないかっこうの女である。恐らくは父の情婦というやつだと月子は思った。ただ問題はそんなところではなく、女の身長にあった。男性の中でも背が高い新城と、ほぼ同じ上背である。180センチに届くかもしれない。

 見上げる位置にある頭から、少しだけ媚態を引きずった瞳が月子を捉えている。ふうん、と鼻を鳴らすと、女が新城に問いかけた。

 

「この子が先輩の娘さんですか?」

 

 女性としては低音の、掠れた声音だった。月子には、女の声が持つ響きが甘やかに聞こえる。きっとこの女はふだんこんな声で喋ったりしないにちがいない、と月子は思った。反射的に「いやらしい」と感じた。

 

「そうだよ。顔、似てンだろ」

「確かに」

 

 しげしげと月子の顔を眺めると、女は納得したふうに何度も頷いた。なるほど、これは確かに親子だ、と呟いた。

 月子はそのセリフだけで女に嫌悪感を抱いた。自覚しているコンプレックスを明け透けに指摘されては、いい気分にはなれない。

 わかりやすく顔をしかめる月子に頓着を見せず、女は快活な調子で名乗りを上げた。

 

「私は春金(はるかな)(きよ)。よろしくね、月子さん」

「……はじめまして」

「何歳? 小6くらいだっけ?」

「今年11歳になります。5年生です。あの」月子はやや挑戦的に春金を見つめ返した。「わたしに何か用ですか」

 

 春金はやや鼻白む。意外そうに眉根を寄せて、微笑み混じりに問い返した。

 

「なんでそう思う?」

「そんな気がしたので」

「なるほど。いいカンをしている」春金はしきりに頷いた。「面構えもいい。姿勢もいい。クールそうな雰囲気もなかなかいい。好きになれそうだよ、君のこと」

 

 前触れのない激賞を、月子は端的に気持ち悪いと思った。

 

「ありがとうございます」

「仏頂面でよくいうなあ。いいよいいよ。子供が腹芸なんかしないでよ」

 

 吹き出す春金だが、言うほど年かさではない。年齢は精々二十歳そこそこに見えた。

 

「お察しの通り、私は君に用がある。月子さん、朝ごはんはもう食べたかしら?」

「朝は食欲が無いので、いつも食べてないです」

「それは育ち盛りによくないな。よかったら、お姉さんと朝ごはんに繰り出そうか」

 

 結構です、と喉をつきかけた言葉を月子は危ういところで飲み込んだ。

 彼女は自分に愛嬌が不足していることを自覚している。中途半端な利発さは境遇への不満と不安と諦念に結びついて、しかしそれを隠すだけの器用さを備えていない。それが大人にどう見られるかも理解しておきながら、矯正を試みるほど安定を望んでもいない。石戸月子は年上、とりわけ同性にとっては「かわいげのない子供」そのものである。

 そんな小生意気な小学生である月子だが、彼女にもおのが心に牢記しているルールがあった。

 

 養われている身である以上、自分を扶養する人間には無意味な反抗はしない。

 

「とりあえず」と彼女は言った。口元に作る微笑みには自信があった。「髪、乾かしてからでいいですか」

 

 春金はつまらなげに唇を曲げた。

 

「その笑顔、君には似合わないね」

「すみません」

 

 反射的に月子の口を衝いて出たのは謝罪の台詞だった。ほとんど思考を介さず舌が紡いだ言葉だった。言葉を発してから、月子は顔を引きつらせた。

 月子は元々、気位の高い少女である。いわゆる直感に非常に優れ、勉強も運動も人後に落ちた記憶はない。強きに随うのが子供の処世であれば、月子はそれと無縁だった(そしてだからこそ、今苦境に立たされている)。そんな彼女だから、母と兄と暮らしていた時分は、周囲の人々を下に見ているところもあった。高慢で鼻持ちならない子供。それが石戸月子が11歳までに築き上げたパーソナリティである。

 そしてそれは、今や見る影もない。

 朽ちる寸前だった。

 

「すみません」歯を食いしばりながら、月子は謝罪を繰り返した。

 

 春金が眉根を寄せる。彼女は顔を強張らせて、視線を月子から新城へと移した。

 

「やっぱり、せんぱいには、父親は向いてないですよ」

「知ってるよ」

 

 新城の応答は簡素この上なかった。

 月子と春金の注意に晒されて、彼は居心地の悪い様子を全く見せない。洗顔を終えてタオルで顔から水気を払うその仕草は洗練されている。ただの立ち居振る舞いで周囲の口を噤ませる雰囲気を、新城は全身から発している。彼自身は寡黙で、特段暴力的なわけでもない。ただどうしようもなく日常から浮いてしまう男だった。同居が始まり一年以上経つが、月子は結局、新城に対していわゆる親子の実感を持てずにいる。

 娘の心境を知ってか知らずか、新城はあくびをかみ殺しながら懐をまさぐり始める。左手で折り目のついた紙幣をつかみ出すと、それを月子へぞんざいに押し付けた。

 身を硬くした月子は機械的な所作でその一万円札を受け取り、うかがう様に目線を上げた。感情の薄い新城の瞳は凪いだままで、鬱屈を抱え込む月子を映している。

 おもむろに新城の口が開かれた。

 

「それで、なんか、あれだ、喰ってこい」

「どんだけ不器用なんですか」春金が思わずといった様子で口を挟んだ。

「うるせえよ」

 

 気だるげに洗面所から退散する男の背を見送って、春金が深くため息をつく。月子さん、と優しい声音で彼女はいった。

 

「行こうか」

 

 月子は無表情のまま頷いた。

 

   △

 

「お父さんって、どんな人なんですか」

「……」

 

 月子が発した台詞に、春金が目を瞬いた。メニューを開く手が止まり、切れ長の瞳がまじまじと月子を見つめ返す。

 平日の六時半を回ったばかりのファミリーレストランに居る客はまばらだった。学生と思しき夜勤明けのウエイターの顔には疲労が張り付いていて、訪う客を迎える声に張りがない。疲れている点については少しだけ居る他の客も同様で、自分たち以外の客に意識を向けるものなどいそうになかった。だから、月子の質問も気兼ねないものになる。

 

「よかったら、教えて欲しいんですけど」

「ふむむ」

 

 数秒、春金は目線を漂わせた。答えあぐねるというより月子の意図を吟味している風だった。長い指がテーブルを軽く叩くと、コップの表面に結露した水滴がゆっくりと落ち始める。その動きを見届けてから、ようやく春金は口を開いた。

 

「うーん、ごめん。もうちょっと具体的に、何が聞きたいのか教えてくれる? どんな人って聞かれても、君が見たとおり、感じたとおりの人としか答えられないかな」

「はっきり言ったほうがいいですか? 私あの人があまり好きじゃないんです。だから好きになれそうな材料があれば、それをください」

 

 月子は口早に言い切った。春金の反応を待つ余裕はなかった。目線を下に落として、汗ばむ両手でスカートの裾を強く握る。

 いってしまった、と思わないでもなかった。けれども言わずにはいられなかった。時機や相手を選んでいたわけではない。いよいよ限界だと感じた瞬間から、いつ吐露してもおかしくはなかった。

 

「材料ね。たとえばどんなものかな。どんな話を聞いたらお父さんを好きになれる?」

 

 月子の予想に反して、反問する春金の声色は平静だった。ただその事実に安堵するほどの余裕が月子にはない。彼女の器は目の前の現実を処理するだけで手一杯だった。

 

「たとえば、どうして、私を、引き取ったのか、とか」

「親子だからでしょ?」

 

 春金の声は何を今さらと言わんばかりだった。

 

「そうはいったって、でも、何年もまともに会ってなかったんですよ?」

「君こそ」と呆れを満面に滲ませて春金はいった。「きょう会ったばかりの他人の私にそんな質問をしてる。そっちのほうがどうしてって感じだけどね。私に聞けて、お父さんに聞けないなんておかしいでしょう。もう一緒に暮らして何ヶ月とかになるんでしょ。……そんなに怖いの?」

「怖いですよ!」思わず月子の声は高くなった。すぐに彼女はトーンを抑えた。「……だって、やくざなんでしょ」

「似たようなものではある。で、それが理由なの? それだけ?」

 

 月子は頷く。春金の見透かす目から逃れるように身じろいだ。

 

「でもさあ、そんなの、私だって同じなんだけど。君の家に来る連中で『そうでない』ヤツなんか一人もいないでしょ。堅気かどうかなんて、本当に君、気にしてるの? 私にはそう思えないんだけどな」

「私の何がわかるっていうんですか」

「わっかんねー」急に声色を変えて即答した春金が、くすりと笑みをこぼした。「あ、ごめん。今の知り合いの真似。けっこう似てるって評判なんだ」

「……もう、いいです」

「すねないでよ。ゴメンっていってるじゃん」春金はどこまでも軽い調子だった。「まあ、あれだねえ。若いころは色々とあるっていうけど、悩ましいことも行動に移してみたら意外とすんなり解決するかもだよ。君は結局、何をどうしたいのさ。お父さんと仲良くしたいの? チンピラ連中の家への出入りをやめて欲しいの? あの家とは関わりを断って施設に入りたいの? それとも、お母さんとお兄さんとまた暮らしたいの?」

「最後のはありえないですけど」

 

 そこだけははっきりと否定して、月子は顔を引き締めた。

 この日初めて、春金の顔を真正面から強く見つめた。

 

「私、自立したい。一人でも生きていけるようになりたい。誰にも頼りたくない」

「なるほど」春金は頷いた。「ちょっとわかった。要するにこういうことかな。君は一人で立てるようになりたい。でも現実的にはそれができない。あの家で、ろくでもない連中が夜毎出入りする様を見送りながら肩身を狭くするしかない。なにしろ君には負い目がある。引き取られたという負い目、養われているという負い目、自分はとても弱いという負い目がある。だから君のプライドはもろもろのことについてお父さんに意見することを自分に許さない」

「そう、なのかな」月子は曖昧に頷いた。たぶん、その通りなのだろうと思った。

「なるほど、なるほど」

 

 春金はようやく得たりと微笑んだ。

 それからいった。

 

「バカじゃねーの」

 

 月子は絶句する。

 折りよくウエイターがブレンドコーヒーとフレッシュオレンジジュースを配膳した。春金はカップの縁に口をつけ、湯気の立つ琥珀色の液体を飲み込んで、くわえた煙草に手際よく着火する。

 さらに続けた。

 

「ガキが何いきがってんだ。ワガママくらい言え。自分の弱さくらい利用しろ。本当に女か、君は」

 

 こんなとき、相手が誰であろうと、萎縮よりも反感が先に立つのが石戸月子という少女である。沸騰する意識に任せて、月子は目前の女を睨みつける。

 春金は唇をゆがめて笑っていた。表情に悪意は見えない。純粋に下らないと思っているのがそれでわかった。とたん、怒りよりも羞恥が月子の意識を支配し始める。自分はそんなに恥ずかしいのか、と月子は考えた。そんな心算はなかった。

 今度は赤面して俯いた月子を眺めて、春金は満悦のようだった。

 

「とはいえ、性分ていうものがあるよね。顔はそっくりなのに、性格はやっぱり育ちなのかねえ」感慨を込めて春金がいった。「……意地悪言って悪かったね。最初の質問に戻ろうか。君のお父さんはね、優しくない人だよ。自分勝手で、我侭で、強くて、怖い。大きな岩のような人だと思う」

 

 その表現は、実にすんなり月子の胸に落ちた。大きな岩。だとすれば、柔弱で線の細い母と、最終的には合わなかったことも頷ける。

 月子の母は、元々鹿児島の出である。月子が一度も訪れたことのない母方の実家は神職らしく、母は小中高と滅菌されたような山奥で育った。そのまま一生を過ごすのが常の世界で、何の因果か流れの旅打ちを自称する破落戸同然の父に出会ったらしい。信じがたいことに母はそんな父に一目惚れで恋に落ちた。そのまま父の旅に同行し、行き着いた長野でつかの間の蜜月を過ごした。

 そこで終わっていれば、ドラマティックな話で済んだだろう。

 しかし、月子と兄が生まれ、物心ついたころには、もう母と父の関係は終わっていた。原因は月子にはわからない。父が悪かったのだろうとは思うものの、母に咎がないと言い切れるほど、今の月子は無知ではない。

 父と切れた時点で実家に戻るをよしとしなかったのは、母なりの矜持だったのだろう(他に頼るものなどない子持ちの女が実家に援助を申し出なかった理由としては、確かに馬鹿馬鹿しいと月子も思う)。結果的にその選択は悪果を産んだが、月子は安易に母の判断を責める気にはなれない。母の心境を慮れるほどの機微は彼女にまだ具わっていなかったが、美しい顔に疲労を刻んで自分たちを養った母を否定したくなかった。

 

「春金さんは、おとうさんと、仲良いんですか」

「私は結婚したいと思ってる」

 

 すんなりと衝撃的な事実を明かした春金は、「ふられたけどね」と言って笑った。人生で初めて直面する事態に、月子は呆然とするほかない。

 

「そ、そうですか」

「子供のころから好きだったんだよねえ」若干目元を赤らめる春金は、六尺豊かの長身に反して存外子供っぽく見えた。「だから正直、君らのお母さんの事、ちょっと恨んだりもした」

「そんなに昔から知り合いだったんだ」

 

 てっきり近ごろ新城と親密になったものとばかり思っていた月子は、意外な事実に驚いた。春金と父の付き合いは月子とのそれよりも長いということになる。

 

「そうなのよ。馴れ初めは私が小六のころ、雀荘でね、ビンタ五十万の担保に処女を……」そこまで話しかけて、我に返ったように春金はかぶりを振った。「ま、そんな話はどうでもいいか」

「ちょっと今の前半の話すごい気になる」

「ま、そんな話はどうでもいいから」笑ってごまかすのが大人の処世だった。「月子さん。石戸月子さん――おねいさんはね、お父さんから、実は君のことをお願いされているのだよ」

「……はい?」

 

 問い返した月子の顔を覗き込んで、春金清は含めるようにこういった。

 

「私のウチの子にならない?」

 

  △

 

 小雨がけぶり、霧が立つ。早朝の山は高みに雲をまとわせて、尾根の輪郭は霞んでいる。鼻をつく草のにおいを肺にまで取り込んで、少年は一歩一歩踏みしめるように道を歩く。息は弾み、身体を湿らせるのも朝露ばかりではない。

 先方を往く女性は六十近い齢を感じさせない健脚で、軟弱な少年の足では着いて行くだけでも一苦労だった。このうえ今日連れて行かれるという神社は長い長い階段のうえにあるのだという。考えるだけでも気が滅入りそうだった。

 だが、気になることがあった。

 

「あの、」

 

 先行する老人を呼び止めかけて、呼び名に迷う。血縁上、彼女は祖母に当たる。だが出会ったのはつい二ヶ月前で、それからまともな会話を出来た憶えもない。母の葬儀を済ませ、今日から彼女が自分の保護者になるという事実を一方的に告げられただけで、いまだに少年は祖母の名前すら知らない。ここ一ヶ月、少年は「分家筋」だという親切な家の老夫婦(姓は薄墨といった)の元で厄介になっており、祖母と顔を合わせるのはまだ二度目だった。

 世話になった夫婦の話では、自分には年が近い従姉もいるという。ただ親類とは離れて暮らしているらしく、こちらとは面識すらない。

 その面通しを行うため、この日は旭が昇りかけた頃から山登りめいたことに励んでいる。だが向かう先が神宮と聞いて、少年の胸には不安が差した。

 振り向いた祖母の厳しげな面差しに恐縮しながら、少年は気がかりを問うた。

 

「ぼく、喪中なんですけど」

「……? それは私もでしょう」

「あ」

 

 そういえばそうだった。先だって亡くなった母は、目の前の女性の娘なのである。間抜けな質問をしたことに今さら気づいて、少年は赤面した。そんな様を見て、祖母は薄く微笑んだ。

 

「安心なさい。忌明けは済んでいます。鳥居はくぐれませんが、穢れは祓いました」それにしても、と祖母は感心した。「よく気がつきましたね。あの子に……母親に教わっていたのですか?」

「ええと、はい」

 

 懐かしむような祖母の顔つきに、少年は咄嗟に嘘をついた。が、すぐに撤回した。

 

「いえ、すいません。嘘をつきました。母さんはあまり昔のことを話してはくれませんでした。自分で調べたんです」

「そう。……ありがとう。気を遣ってくれて」

「いえ」

 

 はるかに年上の人に礼を言われて、少年は反応に困る。悪い気はしないものの、ただただ対処に迷うのだ。結局おざなりに頷いて、道中は黙々と歩くだけになった。

 通りを行き、橋を渡り、いよいよ山麓に近づいた。山に近づくにつれ空気は清涼なものに変わり、不思議と汗も引いた。目的地と思しき神宮の入り口のすぐ近くには、大きな岩のオブジェが見える。

 そしてその傍に、二人の少女が立っていた。

 

「まあ、姫様」

 

 祖母が驚いたように言葉を漏らした。

 それ以上に度肝を抜かれたのは少年である。

 

(姫様!?)

 

 この現代日本で、素面でそう呼ばれる存在がいるとは思いもよらなかった。聞き間違いかとも思ったが、祖母の目線はまっすぐ少女の片割れに向かっている。名前が「ヒメ」なのかもしれないが、それにしても年嵩の存在に「様」付けで呼ばれる女の子など、少年の常識外に住む生き物である。

 

「お待ちしておりました、祖母上様」

 

 二人居る少女のうちの片方が、一歩足を踏み出して少年と祖母を向かえた。目元が垂れていかにも気優しそうな、年上のお姉さんといった風情の少女である。祖母から少年へと移った目線は、なぜか好奇心らしきものできらきらと輝いている。

 嫌な予感を憶えて恐々としながら歩みを進める少年だったが、彼の視線はすぐにもう一人の少女に釘付けになった。

 

「はじめまして。こよみくん。石戸霞で」

「寝てるし!」

「す、よ」

 

 何か話しかけていた少女をさえぎる形で、少年は叫んだ。

 指まで差した。

 髪をおさげにして箒を持った少女が、直立したまま眠っていた。 

 目を閉じているだけかと思いきや、鼻提灯まで膨らませている。

 こんなステレオタイプな居眠りなど見たことがない。

 少年の注視に晒され、ちょうちんが縮む。

 膨らむ。

 縮んで、膨らみ、そして弾けた。

 

「あっ」

「えっ」

 

 ぱっと面を上げた居眠り少女と、少年の目線が交わった。

 少女の顔立ちは、可憐といって差し支えない。ただ少年の脳裏には弾けた鼻提灯が焼きついて離れない。居眠り少女が、少年の中で「ないな」と分類された瞬間だった。

 

「ど、どうもすいません。ねていました……」ごしごしと顔を袖でぬぐって、居眠り少女が深々と頭を下げた。

「これはどうもご丁寧に」少年も慌てて頭を下げた。

「じ、神代小蒔ともうします」

「石戸、霞です」ずずいっと横からもう片方が割り込んだ。

 

(石戸――)

 

 同じ苗字である。どうやら霞が自分の従姉らしいと、実感がまったく伴わない知識と現実を照合させて、少年はもう一度頭を下げた。

 

「はじめまして。石戸古詠(こよみ)です」

 




2012/9/1:誤字修正
2012/9/10:ご指摘頂いた修正漏れを再修正
2012/10/2:誤記・表現修正


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1.かくあれかしときみはいう

 ▽

 

 供されたモーニングセットをひょいひょい口に運びながら、

 

「ところで、私はいわゆる、麻雀で生きている人種なんだ」

 

 と、春金清はいった。

 特段意外な告白ではない、とベーグルを食みながら月子は思う。月子の父親である新城直道は、プロでこそないものの、ただ麻雀を打つだけで生活が成り立つ類の人物である。自然、彼を慕って集まる人種も似たような傾向が多くなる。

 

「君のお父さんとは毛色が違うけれど、同類くらいはいってもいいかもしれない。といっても、所属は旗揚げしたばかりの草の根団体で、世に言うプロ雀士に比べるとだいぶん社会的立場は低いよ。お金もあの人たちみたいにたくさんはもらえないしね」

「それと、私を引き取ることと、何の関係があるんですか?」

 

 月子は冷静に問い返した。春金の誘いは唐突で、もしかしたら驚いて見せるべきだったのかもしれない。ただ予兆が一切ないかといえば、そうではなかった。家にやって来た父と親しい初対面の女が、朝から自分を外に連れ出してまで話がしたいと言うくらいなのだから、それなりに突拍子もない展開を予想することはできる。今日から新しい母親になる、と言われる可能性も織り込み済みだった。

 

「直接的な関係はないよ。ただ……まあ、ちょっと聞いておくれよ。ねえ、興行が軌道に乗っていないいまの状態で、麻雀で生きていく、というのはとても難しいんだ。一匹狼ならともかく、所帯を抱えてというならなおのことだ。マンション巡って賭場を荒らして、で生計が立つほどきょう日の景気はよくない。だからまあ、麻雀教室とか、講習会とか、雀荘の裏メンバーやったりなんかもしながら、日々口に糊しているわけ」

「大変そうですね」

「とてもね」春金は頷いた。「さて、そんな状況を打開するにはどうしたらいいか? 地道な下積みは、もちろん続けなくてはいけない。けれどそれだけでは競争過多なこの業界を生き抜くことはできない。誰もを黙らせるのにいちばん手っ取り早いのは、やっぱり実力示すこと、なんだけど……それが簡単にできれば苦労はないよね」

 

 急に勢いを落として、春金は肩をすくめる。月子はその瞳に、敗北の残り火を見た気がした。春金からは、手ひどい負けを喫したもの特有の色がほんのかすかに見て取れる。

 

「うまくいかなかったんですか?」

「てんで駄目だった。去年の国民麻雀大会(こくま)でね、惨敗を喫したよ。優勝には及ばずとも、なんて気概で臨んじゃいなかった。旗を取る気で卓についた。本選まではそこそこ調子よく進んで、だけど、まあ、色々あって負けたわけ。手前味噌だけど、私は一応団体の旗頭の一人でもあったから、そこでわれわれの野望は成就への迂回を余儀なくされたのであった、まる」

「話、終わっちゃったじゃないですか」

「そう思う? でも、そうは問屋が卸さないわけだな。勝負事やってれば、特にこんな競技なら、どんなに手ひどい負けを喫したところで立ち止まってなんていられないでしょ。前が駄目なら次、次が駄目なら次の次。何度だって、乾坤一擲の勝負を続けることはできる。……矢玉さえあればの話だけどね」

「難しいんですね、大人の世界って」月子は興味なさげに呟いた。

「子供も大人もないでしょう。世界ってきっと難しいものですよ。――さて、お待たせして申し訳なかったけど、そろそろ本題に入ろうか」

「……ようやくですね」

「アハハ、ちょーしでてきたじゃん」月子の軽口を、春金は嬉しそうに聞き流した。「それでね、当座時間が空いた私が次に仰せつかったミッションというのが、人材の発掘。より具体的には、麻雀が強くて、メディア映えする可愛い女の子の捜索」

「……」春金の言わんとすることは、さすがに月子にも察せられた。「もしかして、わたしを引き取るって、そういう意味ですか」

「もしかして、そういう意味です。月子さんなら、ルックス的にもちょーかわいいし。麻雀も強いんでしょ、どうせ。あの先輩の娘さんなんだもん」

「それ、根拠になってませんよ」

「かわいいってところは否定しないところとか、強者特有だよ。で、実際のところ、話聞いてみて、どう? 少しは興味持ってくれた?」

「正直、揺れます。今の家を出られそうなところとか、特に」

 

 隠しても意味がない場面である。月子は正直に心情を打ち明けた。

 そんな月子を、春金はやや痛ましげに見つめていた。

 

(なんだか、騙しているみたいだけど)

 

 胸中で、月子は少しだけ罪悪感を持て余した。

 春金は恐らく、娘が父を嫌う余りに家からの逐電を熱望している、という構図を想定しているものと思われた。

 春金にも言ったとおり、月子は父である新城を好いてはいない。ただし、好意への転化を諦めるほど、新城の人間性を否定することもない。

 いまの生活は苦痛だが、実際のところ、月子の苦痛は新城やその仲間たちに由来するものではない。問題はもっと単純で、根本的なものだった。

 

 月子にはただ、安らげる場が必要なだけだ。

 そして、それは今の家ではありえない。

 それだけの話でしかない。

 

「そう、それはよかった」

 

 春金が、おもむろに席に備えられている紙ナプキンを広げた。次いでアンケート用のボールペンを手にとって、鼻歌交じりに数字を書き込み始める。

 

「……?」

「じゃんっ。何切る問題~」

 

 手元を見る月子へ向けて、春金はやたらと嬉しそうに牌姿を見せ付けた。

 

 {七七八八九⑥⑦⑧234678} ドラ:{5}

 

 示された文字を一瞥する。{九萬}切りならタンヤオ聴牌、{七萬}、{八萬}切りで形式聴牌の姿である。ありふれた問題で、とりわけ良問という程でもない。首を傾げてから、念のため月子は確認することにした。

 

「場況は?」

「そこはあんまり気にしなくていーよ」

「そこが一番大きいと思いますけれど、……一手の変化が12種42牌あるので、{七萬}切るでしょ。まあ、他家に手が入ってそうだったり、オーラストップ目かアガリトップであれば、手成りの{九萬}切りで双ポンでも別にいいと思いますけど」

「そういう模範解答もいいけど、口ぶりからして君の打ち筋じゃなさそうだね。ほんとうのところ、私は、君の感性に興味があるんだ。どれくらい打てるかっていえば、打てるに決まってるのは()()()。それ以上のものが見たいのさ」

 

 声を落として、春金は試す目を月子へ向けた。

 ああ、と月子は納得した。

 

「テストってことですか」

「そう取ってもらってかまわない」

「でもこれ、前提からして成り立ってないです」

「うん? どういうこと?」

 

 今度は、春金が戸惑う番のようだった。春金は自分と打ったことがないのだから、その反応も仕方ないのかもしれない。月子は言葉を選びながら、意図をつまびらかにした。

 

「もちろん配牌次第ですけれど、この牌姿になるまでにわたしが副露してないことはありえないです。それじゃあ、()()()()。仮に配牌がこの形なら{九萬}切って両立直しかしませんし、そうでないなら――たぶん、せいぜい2副露して索子の一通か、上家から運良くドラが出ればチーして食いタンくらいの手になります。それが最終形です」

「ごめん。意味がわからない」満面を疑問符で埋めて、春金がいった。「ええっとー、月子さんはすごく引きが弱いってこと? アンチ面前派?」

「それほど他の人と打ったことがあるわけじゃないのでよくわかりませんけれど――」月子は頷いた。「引きは、弱いというより、()()みたいです」

「スピード優先はべつに珍しいスタイルじゃないし、むしろ最近の主流だけど……引きがない、っていうのは珍しい言い回しだわ。否定はしないけど、だいたい錯覚よ、そういうの」

「そうですね。ただ、今までがそうだったから、何がわたしなのかって聞かれれば、それがわたしだって答えるしかありません。摸打ってそういうものでしょう?」

 

 実績も確信もある事実ではあるが、それは決して絶対ではないとも月子は感じている。現在は必ず未来に繋がっているが、未来を約束する手形にはならない。運勢と呼ばれるものについてはなおさらだ。

 

「なるほど」腑に落ちない顔で春金は引き下がる。「当たり前だけど、やっぱり直接打つのが手っ取り早いね。ではさっそく、といいたいところだけど、今日はそろそろ学校へ行かなくちゃ、か」

「そうですね」

「いいわ。ちょうど明日から週末だし、また顔を出すよ。予定は空いてる?」

「はい」完全に空白です、と心中でだけ呟いた。

 

 ちょうど食事も取り終えて、月子は店内の時計を見やる。時刻は7時20分を回ろうとしているところだ。小学校までは車で送るという春金の言葉に甘えてランドセルは持参しているが、東風戦でものんびり打っていられる時間ではない。

 

「あの、最後にひとつ、いいですか」

「お父さんのこと?」

 

 博徒らしい勘の鋭さを発揮する春金だ。

 素面の自分を思い出しながら、月子は頷いてから疑問を口にした。

 

「あの、本当に、わたしのこと、春金さんにお願いしたんですか。……あの人が」

 

 月子が思う父――新城直道の像に、娘を他人に託すという行動がどうにも合致しない。娘を不憫に思って春金に話を持ちかけたなどというよりは、無関心が極まりペットのように手放そうとしている、とでも考えたほうがしっくり来るほどだ。

 春金は、そんな心境を見抜いたようだった。気まずげに後ろ頭を掻きながら、手中で車のキーを弄んでいる。

 

「あの環境については、まあ教育上どうしようもなく悪いとしかいえないし、月子さんにはかなり思うところがあるだろうけど……」

 

 嘆息、

 

「先輩は、無情ってわけじゃないよ。それに、鈍感でもない。むしがいい話だし、私が言うのも業腹なんだけど、できれば、そこを二人が分かり合えるといいなって思ってる」

 

 先輩、と口に乗せる春金の声色は、やはりどうにも女めいていた。

 話を交わすうちに春金へ好感を抱き始めている月子だが、父への傾倒ばかりは許容できそうもない。

 

「……そうですか」

 

 春金はいわゆる善人ではない。ただ面倒見が良い人間ではある。それがこの一時間強で月子が抱いた春金への所感である。

 彼女の誘いに興味は惹かれるが、それが月子の問題を解決する可能性は、どうやら低い。

 ウエイターを呼びつけて会計を済ませる春金には届かない音程で、月子は呟いた。

 

「確かにわたしはお父さんのこともあの家も好きじゃないですけど、嫌いというわけでは、ないんですよ。ただ辛いだけなんです。本当にそこだけです。――でもそれが、一番の問題なの」

 

 ▽

 

 夏休みが近くなる。与えられた四十日以上の時間は永遠のようにも感じる。ただ小学生四年生ともなれば、その感興が錯覚であることもわかっている。

 錯覚でも構わない。少なくとも普通であれば、夏休みは胸を焦がして待望するものだ。だから、須賀京太郎は押し迫る終業式に素直に胸を躍らせた。

 

 しかしそれはそれとして、週末の休みも待ちわびていることに違いはない。放課後の教室で、京ちゃん京ちゃん、と呼びかけてくる友人たちに合わせて、京太郎は土日の計画を話し合う。基本的に京太郎の交友関係は広かったし、彼らの年頃にしては珍しく男女間の溝や確執といったものにも無頓着だった。たいがい、男子は集まった頭の悪い遊びに興じては馬鹿笑いしたり怪我をして怒られたり、していた。

 サッカー、野球、プール、ゲーム、映画、あるいは何の目的もなく歩き回るのでもいい。時間の潰し方はいくらでも思いつける。気の置けない友人たちと頭を空にして遊ぶ時間は京太郎にとり無心で楽しめるものだった。

 友人の一人が、ふと思いついたようにいった。

 

「そうだ。なんか四人でいくと麻雀タダでやらせてくれるところがあるんだけどさ、そこ行かねえ? 卓も全自動なんだよ。隣小のやつとかもきてるみたいだし」

「麻雀?」京太郎は首をかしげた。「花札とかトランプならできるけどなァ。麻雀はおれ、やったことないな。ルールも詳しくは知らないし。テレビで見たことはあるぜ。あの、なんか、プロとかもいるやつだろ」

 

 京太郎の牧歌的な発言を受けて、周囲がやにわに騒然とした。

 

「京ちゃんマジで!? 小鍛冶プロとかしらないの!?」

 

 彼は少しだけ考えてから、

 

「誰それ」

 

 友人たちは、口を揃えて信じられないと言い立てる。信じられないのは京太郎のほうである。ほとんど毎日顔をつき合わせて遊んでいる仲なのに、麻雀ブームについて無知なのはどうやら自分だけだった。

 

「え、なに。おまえらみんな麻雀できんの?」

「まあフツーに。点数計算できないけど」「おれも」「ぼくはできるよ」

「へえ……麻雀って面白いんだ?」

 

 気のない問に対する反応はまちまちだった。勢い込んで頷くものもあれば、煮えきれない顔で思案するものもいる。京太郎も麻雀が運の要素の強いゲームであることくらいは知っている。また、やたらルールが複雑で、とっつきにくいことも(それが京太郎が麻雀を敬遠している一番の原因でもある)。

 それらの性質を鑑みて、向き不向きが好悪の度合いに直結する遊戯なのだろうとは想像できた。

 ただ巷間、麻雀が大流行していることも事実である。プロのトップリーグ戦やタイトル戦はゴールデンタイムで中継されるほど人気のあるコンテンツだし、娯楽としては野球、サッカーに並び立つといっても大げさではない。

 

 そして京太郎はというと、この年にして、ギャンブルは嫌いではなかった。もっと具体的にいえば、彼は無謀さを愛している節があった。1か0かという極端さの中に身を投げて、破滅に触れたいという願望が、京太郎の根源にはある。

 

 ただ、それはあくまで嗜好のベクトルでしかない。友達を相手に致命的なものをやり取りする気は、さしもの京太郎にもありはしない。せいぜい、友人たちが皆できるというのならば、退屈を紛らわすためにもルールを覚えて損はないと、その程度の関心が芽生えつつあるだけである。

 

「まあいっか。みんなやるんなら、教えてくれよ。じゃあ、明日は七久保駅に集合な」

 

 ▽

 

 そうと決まれば、少しでもゲームを楽しむために、京太郎はルールの予習をすることにした。放課後の遊びの誘いを断って、家路を遠回りしつつ彼が向かうのは町内の公民館に敷設されている図書館である。平時はあまり馴染みのない施設ではあるが、毎年夏休みになれば読書感想文のネタを探すべく頼りにする場所でもある。勝手はいくらか知っていた。

 

「麻雀のルールが知りたいんですけど、そういう本ってありますか?」

 

 気安い口調で司書の老人に尋ねると、彼は破顔して本棚の一角へ京太郎を導いた。

 案内された先で、京太郎は目をみはった。

 

「うわあ」

 

 麻雀のスペースは『一角』どころではなかった。マニュアルはもちろん、主だったプロの自伝や指南書、プロのリーグ戦、タイトル戦の牌譜から、打筋の研究本に見目よい女流プロのグラビアまで、『麻雀』というジャンルの中で実に多岐にわたるラインナップである。

 

(すごいな)

 

 圧倒されながらも何冊か初心者向けの教本を手に取る(グラビアに若干惹かれたことは否定しない)京太郎に、司書の老人は微笑みを絶やさず、友達とやるのかい、と聞いてくる。

 そうですと頷くと、老人は公民館の談話室に雀卓があるよと告げてきた。

 

 雀荘に足を運ぶほどではないものの、コミュニケーションのツールとして麻雀を愛好する老人は存外多く、公民館の談話室はそうした人々の集会所になっているらしい。主な層は年寄りが占めているが、孫を連れてくる例も多くあるらしく、中には京太郎よりも幼い子もいるとのことだった。喫煙も禁止されており、年寄りたちは子供を見つけるとこぞってお菓子やらジュースをあげたがるので、良かったら試しに打っていくといい、と司書は言う。

 話だけ聞けば天国のような空間である。京太郎は少し思案して、

 

「じゃあ、ちょっとルール覚えたら」

 

 と答えた。

 早速席のひとつに腰を下ろして、図解入りの教本を捲り始める。巻頭では麻雀の歴史について触れられていた。大陸で生まれた原型。日本への渡来に、欧米での拡散、米国での研磨。今まで知らなかった遊戯の歴史を興味深く読みふける。現在日本で主流となっている麻雀のルールはいわゆるアメリカ式から発展したものだが、国内においても関東・関西(完全先付けもしくは後付、赤ドラの種類)、あるいは雀荘・競技(アリス、割れ目、一発、裏、カンドラ、カン裏の有無)により様々な差異があるとのことだった。

 この時点で、京太郎は詳細なルールをすべて把握することは諦めた。ローカルな違いではなく、要諦の部分だけを押さえればよいと彼は判断して、ページを捲る。

 文章に目を通しながら、京太郎は脳裏に麻雀の原則を列挙する。

 

 四人が順番に『山』から一枚ずつ牌を取り、四つの面子にひとつの頭が出来上がるまでは十四枚の手札を取捨選択し、一枚捨てることを繰り返す。

 基本的には誰かが和了(あが)るか、河に72枚の牌が捨てられた(目安として、親の自摸は18回)時点で一局が終わる。

 『親』と呼ばれる、得点が1.5倍、自摸被りが2倍となる立場が一巡するまでが一区切りで、それを1度で終わらせるのが東風戦。2度巡るのが東南戦(いわゆる半荘)。他にも4巡を区切りとする完荘も存在するが、昨今では前者か後者が主流である。

 安全牌、リーチ、副露、翻に符、あとはいくつかの役。

 

「ふーん」

 

 一見茫洋としているが集中力と要領のよさには恵まれている京太郎は、一通り項目に目を通すと、これは実践して慣れる類のゲームであると結論付けた。将棋の定石と同じようなもので、ゲームの流れを身体で覚えないことにはいくつかの鉄則も頭に入りそうにない。

 そうなると、司書の誘いは渡りに船といえた。頁を閉じ、一息ついて、京太郎は凝った首を廻らせる。と、視界に小動物の姿が目に入った。

 

「う、うぅ」

 

 小動物と見えたのは、同年代か、少し年下と思しき女の子である。後頭部で二本にくくった短髪を揺らして、目一杯つま先立ちして手を伸ばし、届きそうで届かない本棚をしかめ面でためつすがめつ、ふらふらとしている。

 

(……スルー)

 

 京太郎はその光景を忘れることにした。あえて意地悪する気もないが、見知らぬ少女に対して、頼まれもしないのに手を貸すのは異常だと彼は思う。仮に自分が少女の立場ならば逆に恥ずかしい。

 試練のときだと、心の片隅でエールを送りつつ横目すると、少女が本棚の奥からずるずると足場を持ち出してきたところだった。よほど目当ての本への執着が強いとみえる。

 なんとなく胸騒ぎを覚えて、彼は腰を上げた。少女は足場に上る。手を伸ばす。届かない。さらに伸ばす。届かない。業を煮やした少女は軽く跳ぶ。ようやく本に手がかかる。

 そして足場が倒れる。

 

「え」

 

 少女の足は着地点の見当識を失って、後頭部から床に落ちる――

 

 ――落下が始まる寸前で、京太郎は少女の腰を思い切り抱きすくめた。

 

 ほとんど直感的な動作で、力加減など出来たはずもない。「ぎゅえっ」と蛙の断末魔のような声が頭上で聞こえたが、安堵の息を漏らす。

 

「あっぶねーなァ。気をつけろよ」

「え、え、え?」

 

 軽くて体温の高い少女を、やや乱暴に立たせてやる。目を白黒させて状況把握に努める少女をよそに、京太郎はまさか誰かに見られてはいまいなと周囲を探る。幸い、目撃者はゼロであった。

 

「えっと……」混乱する少女。

「……」沈黙する京太郎。

 

 図書室の静謐を乱すものは、空調の音ばかりだ。

 京太郎は再度嘆息する。倒れた足場を起こし、少女が取ろうとしていた本を代わりに取ると、まだ混乱している少女の手に押しつける。

 

「ぁ、りが、と……ぅ」

「どーいたしまして」

 

 まごまごして礼をいう少女をよそに、京太郎はそれじゃといって背を向ける。彼の顔はすでに赤面していた。

 

(恥ずかしい。超恥ずかしい! かっこつけすぎる、おれ!)

 

 級友に見られずに済んで、心底良かったと思う京太郎である。

 自噴のあまり、麻雀のことも忘れ、彼は席に戻る。どっと疲れた感がある。が、そこでまた例の『感覚』がやってくると、羞恥の潮は一瞬で引いた。冴え冴えとした脳裏で、先ほど読み込んだ麻雀のルールを整理する。

 

(これ、ようするに、重さと速さ、押しと引きで戦うゲームだな――)

 

 極端な例を挙げれば、五千点以上のリードで迎えた最終局の親でリスクを負う必要はない。安手で流すか振り込まないことに専心すべきで、さらに点数に余裕があれば明らかに安いとわかっている他家へ振り込んでゲームを終了させるのも一手である。

 

「咲、本は見つかった?」

「うん。あ、あのね、さっきね、あの子に……」

 

 外野の雑音を遮断して、京太郎は思考に没頭する。

 

(プレイヤーの相手は、基本的に上位者と下位者だ。これはゲームなんだからあたりまえだ。でも、それだけじゃなくて、状況のこともよく考えなきゃいけない。完璧には無理でも他のプレイヤーをコントロールすることができれば一番いい。まず勝つことを考える。そこで勝った場合は、次に負けないことを考える、って感じか)

 

 京太郎の気質的な側面は、「負けない」戦術は弱腰とも感じる。圧倒的なトップで迎えた最終局で役満を和了する合理的な理由があるとすれば、それは合計収支を意識した場合か、純粋に手成りで役が仕上がった場合だけだろう。

 

(負けないことだけを考えてゲームするんなら、そいつはねーな。でも、楽しいのは、たぶん、……リスクを承知で、勝ち切ることを考えるほうだ)

 

 それ以外に、ただその感性を支持する実際的な理屈は、「そのほうがカッコイイ」くらいしかない。そして、破滅願望に傾倒している京太郎にとって、ギャンブルは勝利を主目的としない。

 擬似的な死命の境で散る火花。

 技術や思考の最善を尽くし、工夫を凝らして、それでも届かない偶然に全てを委ねる瞬間こそが心地よい。勝ちきることができればなお楽しい。いわば、勝利は付属品である。

 

(あとは、やっぱりやってみねーとわっかんねー)

 

 そう結論付けて、司書に声を掛けようと立ち上がる。

 その目先に、先ほどの少女と、少女よりやや年嵩とみえる娘がもう一人、いた。

 似た面立ちからして、二人は姉妹とみえる。ただ年嵩の少女は凛然とした雰囲気をまとっており、本を取ろうとして派手に転びかねない危うさは(一見)ない。伸びた背筋といい強い眼光といい、表情がほとんどないことも手伝い、妙な圧迫感を持つ少女であった。

 反面、年少のほうは全体的にふわふわしていた。胸元で借りた本を抱きながら、京太郎へ向けてものいいたげな上目を送っている。京太郎は醒めた目でそれを見る。

 

「なに?」

「この子が世話になった」年嵩の少女が朴訥とした口調でいった。京太郎に話しかけるというより、独り言のような調子である。「ありがとう」

「どういたしまして。でも、礼はもう聞いたよ」辟易して京太郎は応じた。

「麻雀やるの」

 

 こちらの応答を一切無視して、彼女は京太郎の手元に目を向ける。切り込むような問いかけに、京太郎は爽快さすら覚えた。

 

「これから覚えるとこ。ここでも打たせてくれるって言うから、人がいるならやろうかなって」

「良ければ教えようか」

「……まっすぐだな」

 

 衒いが一切ない彼女の発言に、京太郎は目を瞬いた。別段断る理由もなかった。

 

「できれば。お姉さん、強いのか?」

「おまえよりは」簡単に頷く少女だった。

 

 恐らく事実なのだろう。京太郎は「そりゃ、ありがたい」とだけいった。

 

「……そっちのそいつは?」

 

 急に水を向けられて、小動物のような少女はびくりと身を竦ませた。

 

「あっ、わ、わたしは……そのっ」

「……咲。どうする」

 

 姉妹らしき二人が視線を交換する。

 京太郎と年長の少女とを見比べると、年少の少女はじゃっかんためらいを見せた。何かを天秤にかける様子で、瞳を右往左往させる。

 ややあって、小声で呟いた。

 

「わたしは……いい。みてるほうがいいよ、お姉ちゃん」

「そう」

 

(ん?)

 

 辞去する言葉へ素っ気無く応じる態度に、京太郎は違和感を覚えた。

 底冷えするような何かが、『お姉ちゃん』と呼ばれた娘の瞳に宿っている。あるいは煮え滾りすぎて固定化している。京太郎にその感受性を補う語彙があれば、姉の心理に隔意の先触れを見出すことができただろう。

 ただ、幼い彼は機微も未熟だった。

 だから反射的に、彼女の頬を指でつまんで引っ張った。

 

「!?」

 

 少女は、ものすごい勢いで驚いた。

 

「うわぁ……」

 

 もう片方の少女も、かなり怯んでいた。

 

「おれは京太郎」とかれはいった。「よろしく」

「なぜ頬を引っ張っている」

 

 やや聞き取りづらい言葉で彼女はいう。眉目はいささかも揺らいでいない。

 

「いや、なんか、怖い顔してたから」

「……」

 

 その台詞を受けて、彼女は右手で空いた側の頬をつるりと撫ぜた。腑に落ちない調子で眼差しを受けて、ようよう京太郎もつまむ指を離してやる。

 

「てる」とだけ彼女はいった。

「はい?」

「行こう、きょうたろう」

 

 テルは有無を言わさず京太郎の腕を取る。京太郎は引きずられながら、窮鼠の目を同道する他方の娘へ向けた。彼女はにへら、とゆるい笑顔を返してくる。愛想笑いにしては眩しすぎて、京太郎は胸に暖かい気持ちが芽生えるのを感じた(これがいわゆる父性だと彼が知るのはずっと後のことである)。

 

(あ、名前か)

 

 年長の少女――テルは司書に声を掛けると、別人のような愛想良さ(「案内していただけますか?」「ありがとうございます!」)で談話室における卓の借用を申し出る。彼女たちはどうやらこの図書館の常連のようで、司書は快く案内を買って出た。

 

 状況に取り残されながらも、どうやら麻雀が打てそうだと京太郎は胸を弾ませる。

 その遊びが、自分が世界からいなくなるまでの日々を短くしてくれることを希う。

 

 導かれた談話室は、その名から想像していたよりもずっと広く、活気もそれなりにあった。前評判どおり比率は年寄りが多いが、京太郎たちと同年代かそれ以下の子供も何人かいる。

 少女たちの姿を眼にするや、老人たちはこぞって群がってきた。とくに年少のほうが大人気で、彼女の両手はすぐに飴やらせんべいで一杯になる。そんな彼女を眺めるテルの顔つきは無表情だがどこか柔らかいところもあって、京太郎は先刻感じた空気が急に疑わしくなった。

 

「で、教えるって、おれはどうすればいいの?」

「とりあえず一回打ってみる」言い出したわりに、テルにはあまり明確なビジョンがないようだった。

 

 幸い、卓も空いており、面子にも不足はない。京太郎とテル以外の二人も、場にいた二人の老人ですぐに埋まった。

 手積みのため、不慣れな手つきで何度も牌を取りこぼす京太郎を、他の三人は穏やかに見守った。

 

 

 ルール:半荘戦

  持ち点:25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)

  赤ドラ:なし

  喰い断:あり

  後付け:あり

  ウマ :なし

 

 起親(東家):老人A(大沼)

 南家    :老人B(南浦)

 西家    :テル

 北家    :京太郎

 

 

「よろしくお願いします」

 

 テルが折り目正しく一礼する。京太郎もそれに合わせて、頭を下げた。

 

「よろしくお願いします」

 

 胸が弾む。

 楽しげな予感が、彼の中で踊っている。

 十三枚の手牌に触れる寸前で、彼は背後に座る妹へ声を掛けた。

 

「そういえや、おまえ、名前は? まだ聞いてないよな?」

「あっ……と、さ、さき」

「さき?」

 

「そう、咲」

 

「サキ、ね」京太郎は頷いた。

 

 サキがおずおずと手を挙げる。

 

「あの、なんて呼べばいいかな……?」

「そんなん好きにしろよ」

「う……」

 

 「こまっています」と顔に表れかねない勢いで狼狽するサキに、京太郎は何度目かもわからないため息をついた。

 姉も妹も、面白い性格をしていると思った。

 

「じゃ、始めるか」

 

 初陣が始まる。

 




2012/9/21:照、咲の二人の関係性に言及した地の分を修正(登場人物の所感除く)
2013/2/12:牌画像変換


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2.ここから

2.ここから

 

 ▽

 

 宮永咲は麻雀が好きではない。

 

 麻雀は彼女にとってちょっとした不幸を招く装置でしかないからだ。勝ったところで家族の怒りを買い、負ければ欲しいものを買うためのなけなしのお小遣いが消えていく。必然、勝ちも負けもしない打ち方に腐心するようになり、それが可能になるともはや卓を囲む意味も曖昧になった。

 

 遊戯そのものについて、得手不得手を論じるのであれば得意なのかもしれない。麻雀の実力では姉には及びもつかないという自己評価を下している咲ではあるが、136枚の牌に関して明確な不自由を覚えたことはない。姉もかつて同じことを言っていたが、調子が良ければ手牌以外の領域に感覚が及ぶこともある(正確にはあった、というべきかもしれない。咲はもうしばらく麻雀を打っていない)。そういう場合に総身を廻る擬似的な全能感は高揚をもたらすし、勝った瞬間の爽快感は確かに存在する。ただそうしたプラスの要素さえ、咲にとってはもはや煩わしいものでしかない。

 

 最近、照との仲がぎこちなくなっていることに彼女は気づいている。その一因には恐らく麻雀があることもわかっている。だから、あの理不尽なゲームさえなければという思いを咲は殺しきれない。

 

 その日、咲は久しぶりに照と連れ立って公民館の図書館を訪れた。正確には、照が下校するまで待ち構え、偶然を装い着いてきたのだ。半ば強引に帰路を共にしたものの、照の咲に対する態度にはやはり壁があって、咲の気持ちは歩くごとに消沈した。咲自身も、以前ほど屈託なく照に笑いかけることが出来なくなっていると感じた。何かを喋ろうとするたび、彼女の顔色を伺う自分がいる。その自認は彼女の舌を重くさせ、あれこれ溜め込んだはずの言葉がまともに紡がれることはなかった。

 

 何かが手から零れ落ちていく感覚があった。幼い咲はその不安をうまく名づけることができない。夜の闇を恐れるように、漠然と近い将来を彼女は想う。色々なものが損なわれてしまう。そんな予感だけが日々胸に募っていく。

 宮永照は何も応えない。それが咲にはもどかしい。想うところがあるのならば、直して欲しいところがあるのならば、指摘してもらえたほうがずっと気分が楽だった。けれど照は寡黙で、咲に具体的な何かを要求することは決してない。昔から口数が多いほうではなかったが、最近ではあまり笑顔も見ていない気がする。

 

 その照は――いま、初対面の男子と卓を囲んで麻雀を打とうとしている。

 

(なんだか、ふしぎ)

 

 と、咲は思う。考えてみれば、家族以外の面子と彼女は麻雀を打ったことがない。照はそうでもないようだが、彼女が牌を握り、自分が外側からその光景を眺める構図には違和感しか覚えなかった。

 

(うーん……)

 

 咲はなんとなく、初めて麻雀を打つという男子の背後に椅子を置き、腰を据えることにした。別段、他人の打ち筋に興味があるというわけではない。単純に、その男の子に興味があった。

 咲にとり、男子というのは何だか別の世界に住む生き物のようで、近寄りがたい存在だった。賑やかで、乱暴で、落ち着きがなく、意地悪ばかりしている人々と認識していた。稀にそうでない男子がいたとしても、彼らが持っているのかもしれない優しさや好意が、咲に直接向くことはなかった。

 有体にいって、咲は人付き合いが苦手だった。出来ないというわけではなく、他人との会話が単純に億劫でしかなかったのだ。彼女の興味は、書物――平たくいえば物語に激しく傾倒していた。知識や感情は読書によって育まれた。咲の認識する『他人』のパイロットモデルはキャラクターだった。だからか、咲は年齢を差し引いても、人間の感情に疎いところがある。

 こうした咲の性質は、必然的に敬遠を招いた。完全に孤立しているわけではなく、不思議と悪意に晒されることもなかったが、咲にはだから、これといった親しい友人が存在しない。

 とはいえ、咲は人嫌いではない。夢見がちな少女であることも間違いない。たまたま危ないところを助けてくれた少年に、ロマンティックな空想を抱かなかったといえば嘘になる。少年のやや明るい髪は柔らかそうで、雰囲気はこの片田舎の子供にしては垢抜けていて、物腰も落ち着いていた。

 咲とは違う意味で敬遠されがちな姉にも物怖じしている様子がないことといい、咲の身近にいる男の子たちとはずいぶん毛色が違う印象を受けた。

 

(上級生かな)

 

 と、咲は思考にふける。覚束ない手つきで理牌する、京太郎と名乗った少年の後頭部を眺める。

 

東一局

大沼(親):25000

南浦   :25000

テル   :25000

京太郎  :25000

 

 京太郎の配牌は、

 

  {一一二四八九③⑤468北發} ドラ:{①}

 

(手成りの3向聴……)

 

 向聴数からすれば可も無く不可も無い手牌だが、面子候補がことごとく愚形の塔子で構成されている。翻牌のくっつきに期待して遠回りするか、良い自摸をあっさり引き寄せるか。咲は愚形の受け入れに窮したという経験があまりない。少年がどの手に伸びるか、と思案する内に、巡目が回った。各家の劈頭は{北}、{1}、{北}、という切り出しだった。

 

 一巡目

 京太郎:{一一二四八九③⑤468北發}  ツモ:{北} ドラ:{①}

 

(ん……)

 

 打:{發}

 

 2枚切れの{北}を引き、ほぼノータイムで京太郎は{發}を打った。盗み見た横顔は、難しげに河へ向いている。自風が役になる目が消えたことには気づいているようだった。向聴数には変化が無いが、安全牌としては使える対子である。{一}か{三}を引けば雀頭として生きる道もある。京太郎少年の人生における第一摸打を、咲は、

 

(ふつうだ)

 

 と評した。その後についても、特段見るべき箇所は無いまま巡目が進んだ。

 そして、7巡目、親の大沼から立直の発声がかかった。

 場に置かれる千点棒を、京太郎は涼しげな目で眺めている。

 

 大沼:捨牌

 {北南⑨1東八}

 {横三}

 

 南浦は、ためらいなく{南}を手出しした。照は{東}を自摸切った。

 そして京太郎の手番である。

 

 七巡目

 京太郎:{一一一二三四九九468北北}  ツモ:{①} ドラ:{①}

 

 {九}{5}{7}引きで聴牌である。一向聴までこぎ付けたのは、好自摸に恵まれたからとしかいいようがない。{九}は場に一枚切れで三枚見えている上に{北}が枯れているため、和了の目は薄い。

 親の立直に勝負する手ではない。

 

 打:{4}

 

(うーん?)

 

 咲は渋い顔で京太郎の選択を見送った。

 何しろ初めての麻雀である。親の立直に対する押し引きを実行されたらそれはそれで驚きだが、それにしても{4}は中途半端に過ぎた。打ち込みを嫌うのであればほぼ安全牌の{北}を打つべきだし、立直になど目もくれずに聴牌を狙うのであれば(打点効率を鑑みた判断の良し悪しは別として){①}が打たれるべきだ。ただ、セオリーなど念頭に無いからこその初心者でもある。咲は無心で、場の趨勢を見守った。

 

 八巡目

 京太郎:{一一一二三四九九68①北北}  ツモ:{①} ドラ:{①}

 

 打:{6}

 

 九巡目

 京太郎:{一一一二三四九九8①①北北}  ツモ:{①} ドラ:{①}

 

(はっちゃった……)

 

 無筋の索子を河に捨て、かつドラの{①}を暗刻にしたうえ聴牌である。ここまで突っ張ったのであれば、残り枚数など気にせず{8}を打って立直であろう、と咲は推察した。そうなれば打点も満貫に届く。河に{九}は出ていない。山に残っている可能性はある。

 しかし、

 

 打:{8}

 

 京太郎が牌を曲げることは無かった。 

 

 京太郎:{一一一二三四九九①①①北北}  ドラ:{①}

 

(もしかして、役無しじゃ和了(あが)れないってしらないんじゃ……)

 

 我知らず手を握り締めると、咲は感覚を卓上に『向』けた。

 

『――』

 

 大沼、南浦、照の三者が同時に咲を見た。

 咲自身は、他者からの注目に気づかない。気を廻らせ、感覚の網目を狭くした。自身の領域へ深く内向していく。

 場に自分がいない場合、咲が称するところの『感覚』は著しく劣化する。咲もそれはわかっていて、好奇心が押さえきれずに覗き見るような真似をした。

 そして運良く、咲の感覚は京太郎に残された唯一の和了手順を見通した。

 

(――次巡、この子は{一萬}()()()()

 

 打{四}でチャンタへの張替えが完了するが、恐らく親の待ちは{一・}{四・}{七}待ちの平和手である。打{四}とした時点で放銃する可能性が高い。

 正着は、{一}を暗槓しての嶺上自摸――。

 

(最後の{九}は、()()にいる)

 

 京太郎が勝ち抜ける手順はそのひとつきりだ。

 配牌時点の最高形が愚形の立直のみであった牌姿が、たった三巡で満貫手になる。

 少年が冒したリスクに相応の結果だと、咲はわがことの様に興奮した。

 そして、十巡目がやってきた。

 

 十巡目

 京太郎:{一一一二三四九九①①①北北}  ツモ:{一} ドラ:{①}

 

 大沼が薄く笑い、

 南浦が面白げに横目を送り、

 照は浅く息をつくと手牌を伏せた。

 

 そして、京太郎に迷いはなかった。

 

 打:{一}

 

「……えぇ?」咲は思わず声をあげる。

 

 他家もまた、不審な眼差しを京太郎へ向けた。

 親の大沼だけが、得心した様子で牌を倒した。

 

栄和(ロン)。5800」

 

 {二三四五六⑧⑧①②③678} ロン:{一}

 

「なるほどなぁ……やっぱダメか」

 

 京太郎は苦笑いとともに、点棒を大沼へ供出した。

 

 ▽

 

東一局

大沼   :25000→30800(+5800)

南浦(親):25000

テル   :25000

京太郎  :25000→19200(-5800)

 

 

「な、なんで?」

 

 自戒を忘れて、咲は京太郎の袖を引いた。何気ない様子で振り返った少年は、

 

「なにが」

 

 と、尋ね返してくる。

 

「なんで今、カンしなかったの? そしたら、そうしたら……」

「え、なに、そしたらあがってたとか?」

「そうだよっ」こくこくと、何度も咲は頷いた。

「ホントかよ」京太郎は不審げに眉を寄せて、「ふーん……そういうモン? けど、まァ、いいや。いいんだ別に。博打でタラレバいったってしょうがないだろ。おれは、一応、やりたい通りにやったんだよ。負けちゃったけどさー、ちぇっ」

 

 放銃した直後でも、京太郎は平静だった。悔しげではあるが、その分の収穫は手に入れたという風情である。咲はよくわかんないよ、と呟き、座りなおした。

 妙に憤っている自分には、ついぞ気付くことは無かった。

 

「わかってるじゃないか、ぼうや」南浦が感心したように呟いた。「ウチの孫にも聞かせてやりたいね」

「そういやァ、数絵ちゃんと同じ年頃か、この子ら」大沼がいう。

 

「……」

 

 和やかに雑談に興じる好々爺ふたりをよそにして、照が右手を王牌に伸ばす。捲られた嶺上牌は{九}。そして新ドラ表示牌は{八}であった。無機質な目線で差された咲は詰問されたような心持になって、力なく首を振った。

 

(ホントになんでだろう……和了見逃しみたいなものだよね。カンを知らなかったわけじゃないみたいだし)

 

 結果が出た局について可能性を論じたところで、京太郎の言うとおり、意味はない。可能性の芽と共に山は崩されて、東一局は一本場へと進んだ。

 

 東一局一本場

 一巡目

 京太郎:{九①②③④⑤⑦⑧⑨47中中} ドラ:{5}

 

 面前で跳満、仕掛けても満貫が見込める好配牌である。前局の無為な打ち込みなど意に介さないといった風情だ。筒子の引き次第ではあるが、先の失点を補って余りある牌勢といえた。

 そして京太郎は、二巡で{⑨}自摸の打{九}、四巡で中を引き打{7}とした。{③⑥⑨}、{4}で聴牌の一向聴である。

 そして六順目、京太郎は聴牌に漕ぎ着けた。

 

 六巡目

 京太郎:{①②③④⑤⑦⑧⑨⑨4中中中} ツモ:{4} ドラ:{5}

 打:{⑨}

 

(安目だけど……)

 

 巡目も早く、安目を拒否する余地はある。しかし京太郎は迷うことなく聴牌を取った。黙聴(だまてん)を貫くと、積み棒を考慮すれば高目自摸で8000、安目出和了で1600となる。混一色を見切った以上は立直を掛けても損はない手である。

 しかしまたも、河に投じられた{⑨}が曲がることは無かった。

 今度はいったい何を考えているのかと、咲は京太郎の顔色をうかがう。

 その目は、全く手牌に向いていなかった。聴牌したことなど微塵も意識していないように見える。彼の注意は、全て、自分以外に向いていた。

 

(すごいみてる)

 

 京太郎の眼球は忙しなく動いて、局の流れに追従していた。下家の摸打――対面の摸打――上家の摸打――手出しか――自摸切りか――切られた牌への他家の反応はどうなのか――瞬きも忘れた様子で、目元を引きつらせている。彼がぽつりとこぼした愚痴のような台詞を、咲は運良く耳にした。

 

「やべえ、覚えきれねえ……やること多すぎるだろこのゲーム……」

 

(さすがにそれは……ちょっとコツがいるよ……)

 

 暗記が苦手な咲は、こっそりと同意した。と同時に、京太郎の打ち回しについての疑問もある程度氷解する。

 彼は和了を目指していない。初めての麻雀をプレイするにあたって、どうやらテーマらしきものを掲げたうえで打っている。東一局0本場の『テーマ』は、振込みに関する探りだったのだろう。安全牌でもない両嵌を払ってまで彼が試みたのは、危険度の測量だ。ドラ{①}の暗刻引きは偶然に過ぎず、聴牌すらもその副産物だった。

 そして今回は、他家のプレイングの観察が主目的のようである。納得した咲は、心中ひそかに拍手を送った。京太郎の姿勢は真摯で、到底遊びに興じる子供のそれではないと思った。必死とすら評していいかもしれない。

 

 京太郎の観察を、他家は知ってか知らずか巡目は進む(少なくとも照は気づいている、と咲は思った。横顔がほんのかすかにむず痒そうなのである)。京太郎の当たり牌が出ぬままに迎えた9巡目、親の大沼が打った{7}を下家の南浦が喰い取った。

 

 南浦:捨牌

 {北西九①3南}

 {⑨西}

 

 {■■■■■■■■■■} チー:{横7}{68} ドラ:{5}

 打:{8}

 

 急所を鳴いて捨てられた牌に、咲は露骨な作為を感じ取る。南浦老人の瞳が、試すように京太郎へ向いたのである。

 照が手出しで{⑨}を捨て、京太郎が山から牌を自摸る。

 

 九巡目

 京太郎:{①②③④⑤⑦⑧⑨44中中中} ツモ:{九} ドラ:{5}

 

 それまで、比較的淀みなかった京太郎のリズムが滞った。普通であれば自摸切りを迷う場面ではない。が、初心者に関してそうした予断は禁物である。

 

「……んー、コレ?」

 

 打:{4}

 

(間4ケンに刺さりにいったよー!)

 

 ショウでも観ているように、胸中咲は歓声を上げた。聴牌と雀頭を崩しての打{4}である。京太郎は明らかに危険牌を()()()打ったのだ。

 が、発声はない。京太郎は拍子抜けしたような顔で南浦を見ている。薄く微笑む老人は、

 

 ――そう単純なものでもない。

 

 とでもいってるようだった。

 

「ふんふむ」

 

 少年は、奥が深いと言わんばかりに頷いていた。

 

(麻雀、見てるのはけっこう、楽しいな)

 

 正確には、奇想天外な素人の打牌が楽しいのだというべきなのだろう。咲は鼻息を荒くして場を見守る。しかし咲が期待したところで、ドラマティックな展開が起きるはずもない。

 

「ツモ。五本・十本の一本付けは六本・十一本」

 

 次巡、南浦が{二}を自摸和了して、東一局は終了した。

 

 南浦:{三四五五五②②567} チー:{横7}{68} ドラ:{5}

 (待ち:{二・}{五}、{②})

 

大沼   :30800→29700(-1100)

南浦(親):25000→27300(+2300)

テル   :25000→24400(-600)

京太郎  :19200→18600(-600)

 

 ▽

 

東二局

大沼   :29700

南浦(親):27300

テル   :24400

京太郎  :18600

 

 骰子(サイコロ)が振られる。出た目は六。京太郎の目前の山が切り分けられ、各自が一幢を掴み取る。不器用な手つきで理牌する京太郎へ向けて、照がふいにこういった。

 

「もういい?」

「ん? なにが」京太郎はよくわからないと聞き返した。

「麻雀はわかったのかと、聞いている」

「そういえば、教えるとかいってたくせに、おれほっとんど教えてもらってないじゃないか……」

「? いま、まさに教えている」

「おまえの姉ちゃんいつもこんなんか」京太郎が咲を顧みた。

「え、ま、まあ、どうかなぁ……」頷くに頷けない咲である。

「それで、わかった?」

「……おれが思うに」京太郎は難しげに眉根を寄せた。「このゲームは、一生向き合い続けてようやくちょっとだけ……、ホンの少しだけわかるような、そんなゲームな気がする」

「―――」

 

 照の目が、まるく見開かれた。

 咲もまた、驚きに言葉を失した。

 かすかではあるが(実際、咲以外の誰も気付かなかった)、照が笑ったのである。

 

「それは、正しい」と、照がいった。

「間違いねぇやな」大沼が同意した。

「ぼうやがいいこと言ったところで、さあ、再開と行こうか」

 

 南浦が河に牌を捨てる。次いで山に手を伸ばす照に、咲は眼をやった。

 

 瞬間、咲は背筋にふるえを覚えた。

 

 さむけと、頭痛さえ伴う目眩がこめかみを走り抜ける。

 

(お姉ちゃんが――)

 

 そして、5順目。

 

「ツモ。400、700」

 

(――本気になった)

 

 宮永照:{一二三七七③④⑤⑥⑦789} ツモ:{②} ドラ:{1}

 

大沼   :29700→29300(-400)

南浦   :27300→26600(-700)

テル(親):24400→25900(+1500)

京太郎  :18600→18200(-400)

 

 静かな和了であった。ただし、それは予兆でしかないことを咲は知っている。一度走り始めた宮永照の勢いを押し留めることは容易ではない。少なくとも、咲の実力では、勝利や敗北を措いて『ただそれだけ』に専心する必要がある。そうしないかぎり彼女を停めることは出来ない。

 

(東三局……で、おわるかも)

 

 迎えた親番を平静に受け止めて、照が牌を切り出す。

 ――そして、3巡後に和了した。

 

「ツモ。1000オール」

 

 ▽

 

「ツモ、1400オール」

「ツモ、2800オール」

「ツモ、4300オール」

 

 そのまま、四連続で照は和了(あが)り続けた。勢いに遅滞はない。回転を始めた低気圧が膨らむようにして、彼女の打点も上昇を続ける。助走は既に終わった。誰かが(恐らくは京太郎が)飛ぶまで、この東三局は終わらない。仕上がった照を停めるのは至難の業である。初心者の京太郎や、初見の他家にはほぼ不可能事であると、咲は見ていた。

 

東三局四本場

大沼   :29300→19800(-1000、-1400、-2800、-4300)

南浦   :26600→17100(-1000、-1400、-2800、-4300)

テル(親):25900→54400(+3000、+4200、+8400、+12900)

京太郎  :18200→ 8700(-1000、-1400、-2800、-4300)

 

 そして、

 

「――立直」

 

 1巡目

 宮永照:捨牌

 {横北}

 

「……」京太郎は静かに{北}を合わせ打った。

「ダブリーかい。生き急ぐねえ」

 

 続く大沼、南浦が放銃することもなかった。

 しかし、ただそれだけでしかない。

 

 2巡目

 宮永照:{二三三四四伍⑥⑥⑦⑧發發發} ツモ:{⑨} ドラ:{⑧}

 

「6400オール」

 

大沼   :19800→13400(-6400)

南浦   :17100→10700(-6400)

テル(親):54400→73600(+19200)

京太郎  : 8700→ 2300(-6400)

 

「……」

 

 咲は京太郎の様子を伺う。一見、表情に焦慮や苦渋は見当たらない。すでに勝利を諦めているのかもしれない。幸い、この麻雀には何を賭しているわけでもない。元々、彼に麻雀を教授するのが主旨だったはずである。それが始まってみれば照のワンサイドゲームなのだから、その不器用ぶりには呆れざるを得ない(他事はともかく、こと麻雀に関しては、ブランクのある今でも自分のほうが器用であると咲は自認している)。

 

東三局五本場

大沼   :13400

南浦   :10700

テル(親):73600

京太郎  : 2300

 

 ハコ寸前の京太郎に、残された選択肢は少ない。他家は京太郎を飛ばさないために、手順に制約がかかる。一方照の側に制限はない。いつもの例からいって、次は倍満以上を仕上げてくる。そして和了すればその時点でこの半荘は終了だ。この趨勢を覆すには、少なくとも普通の手順では難しい。

 

(わたしなら……)

 

 と、宮永咲は考える。勝ちを見るにせよ原点に戻すにせよ、打つ手はひとつしかない。京太郎に差し込んだうえでじっと機を待つだろう。その場合、点棒が一箇所に集まりすぎたことがネックになる。差し込むにしても、逆に自分が窮地に陥っては意味がない。理想は照に放銃させることだが、その難しさを咲は十分に知っている。序盤の事故か、立直が掛かった場合くらいしか、出和了の目はない。

 帰趨の鍵となる京太郎の配牌は、しかし、惨憺たるものだった。

 

 京太郎:{一一八九②④⑧69東西北白} ドラ:{6}

 

(むり……九種九牌を祈るしかないよ……)

 

 しょんぼりと、肩を落とす咲である。気落ちする彼女を顧みることなくゲームは進行する。照の第一打は{三}――好牌先打や決め打ちというより、すでに牌姿が整っているからこその捨牌だと、咲は直感した。早くて次巡――遅くとも6巡目までには立直の発声がかかる。

 

 一巡目

 京太郎:{一一八九②④⑧69東西北白} ツモ:{8} ドラ:{6}

 

「……」

 

 打:{9}

 

(国士は……間に合わない。そもそも役、知らないかも)

 

 居た堪れなくなった咲は、わずかに身を捩じらせ、照の手牌を覗き見た。

 

 二巡目

 宮永照:{①②③④④⑤⑥⑦⑨1266} ツモ:{④} ドラ:{6}

 打:{1}

 

(あ、聴牌した……けど、向聴戻した)

 

 改めて照の手順を見るのは、考えてみれば初めてのことである。{⑨}切りで辺{3}待ちの愚形聴牌ではあったが、受けの広さを考慮すれば、まだ蓋をする手ではない。照の特徴を鑑みれば、倍満を目指して、ドラの対子落としも視野に入れつつ筒子に寄せていくだろう。

 

 三巡目

 宮永照:{①②③④④④⑤⑥⑦⑨266} ツモ:{⑨} ドラ:{6}

 打:{2}

 

 一瞬で張り直す引きの強さに、咲は半ば呆れた。当然のように次巡{⑧}を引けば、打{⑨}で{④・}{⑦}、{6}待ちになる。ただその場合、役が崩れる{⑦}では倍満に全く届かず、高目{6}を引いたとしても一発や裏ドラの恩恵が必要である。『段階的に打点を上げる』という照のこだわりがどこまでのものなのか(そもそも本人の意思なのか)、それは咲の知るところではないが、いずれにしても結論はすぐに出るはずだった。

 当たり前のように有効牌を引き寄せ、当たり前のように高目を和了するに決まっている。

 培われた経験は、確信の後押ししかしない。

 

 けれど、同巡――咲が思ってもいないタイミングで、声があがった。

 

「立直」

 

(え)

 

 京太郎だった。

 残り少ない点棒が場に供される。

 牌が曲がる。

 

 打たれたのは、{6}(ドラ)――。

 

 三巡目

 京太郎:捨牌

 {9九}{横6}

 

 京太郎の配牌は、咲が確認した限り三巡目で聴牌することはありえない。二・三巡目でいずれも有効牌を引いたところで、最高で二向聴のはずである。

 

 京太郎:{一一八②④⑧8東東西西北白}

 

 念のため手牌を確認しても、間違いなく空聴(というより錯和)だった。

 立直棒を出したことで、京太郎の持ち点は1300にまで減少している。たとい一翻でも放銃すれば彼は飛ぶ。流局しても罰符で飛ぶ。

 自棄になったわけではない、と咲は思った。京太郎の瞳と意思は、強く上家の照を志向していた。

 

 勝負だ――。

 

 かれの目はそう訴えていた。

 京太郎は何かに賭けたのだと、咲には理解できた。彼自身に和了の目が無い以上、答えは必然的に、大沼と南浦に絞られる。要するに、京太郎は同時に複数の賭けに打って出たのである。

 打った{6}が照に刺さらないこと。掛けた立直が足止めとして機能すること。立直を掛けた自分自身が放銃しないこと。そして、迂回した照が、他家に振り込むこと。

 そこまでばかばかしいほどの楽観に打って出る意味が、果たして有るのかはわからない。麻雀は、咲にとってもはや捨てた荷物である。

 大沼と南浦は、それぞれ手出しで{九}を切った。

 そして、照の手番――

 

 宮永照:{①②③④④④⑤⑥⑦⑨⑨66} ツモ:{⑧} ドラ:{6}

 

「――」

 

 ほんの少しの遅滞、

 

 打:{6}

 

(――まわった)

 

 咲は胸を押さえる。打点を求めての選択か、あるいは迂回なのかは判じかねた。ただ、間違いなく京太郎は賭けの一つに勝ったのだ。

 そして、

 

 四巡目

 京太郎

 打:{④}

 

(――かわした! すごいっ)

 

 照が打{⑨}で聴牌を取っていれば、一発で振り込んでいた牌である。小魚を逸した照に、動揺は寸毫もない。しかし、この刹那の局面に関して言えば、京太郎はわずかなりとも勝ったのである。それは快挙だ。咲はすっかり、この少年に肩入れしていた。

 

({③}ひいたら、{⑨}待ち。{④}なら、{③}{⑥}{⑨}待ち――けど、{④}はもういない)

 

 大沼は{東}を切る。

 

({⑤}だったら、{⑤}{⑨}待ち。{⑥}で、{⑦}{⑨}待ち)

 

 南浦は、{發}を打つ。

 

({⑦}は……{⑥}{⑧}{⑨}待ち)

 

 後者は強い打勢だ。

 

({⑧}の場合は、{⑦}{⑧}{⑨}待ち)

 

 四巡目にして、すでに場は終盤に向かっていた。 

 

({⑨}は)

 

 そして、宮永照の自摸がやってくる。

 

 五巡目

 宮永照:{①②③④④④⑤⑥⑦⑧⑨⑨6} ツモ:{⑨} ドラ:{6}

 

(――{③}{⑤}{⑥}{⑦}{⑧}{⑨}待ち!)

 

 {④}が純枯れのため、一気通貫は{⑨}引きにしかつかないが、圧倒的な好形である。

 照は、淀みなく{6}を払う。

 河で曲がる――。

 

「立直――」

 

 打:{6}

 

 

栄和(ロン)

 

 

 静かに牌が倒された。

 大沼の手元で、一色手が光って見えた。

 

 大沼:{1234455678999} ロン:{6}

 

「――24000は、25500だ。リー棒はいらねえ」

 

「{3}{4}{5}{6}待ち……」咲はいった。「お姉ちゃんが立直宣言で3倍満なんてふるの、始めてみた……」

 

東三局五本場

大沼   :13400→29900(+25500、+1000)

南浦   :10700

テル(親):73600→48100(-25500)

京太郎  : 2300→ 1300(-1000)

 

「うへー、しんどいな、マジで……」京太郎が呟いた。

 

 咲は、盛大にため息をつく京太郎の背中を見て、ひとり、誇らしげだった。

 彼は勝者ではない。収支は減だ。

 小細工を弄するまでもなく、照が同じ手順を踏んだ可能性もある。京太郎は無駄にリスクを冒したのかもしれない。

 それでも、あがく姿に胸が躍った。

 少なくとも今局の主役は、京太郎を置いてほかにない。

 咲の胸の中では、そうなった。

 

 ▽

 

「はい」

 

 点棒を吐き出す照の横顔が、咲にはどこか清清しく見えた。

 

「坊主」照から点棒を受け取りながら、大沼が京太郎へ釘を刺した。「(ケン)の心算が面白そうだから乗っちゃァやったが、余り他人様をアテにしてんじゃあねぇぞ。男なら自分でやれ自分で、情けねぇ」

「……うす」

「おまえなぁ、子供のしかも今日初めて牌握った子相手に大人げない……」南浦が苦言を呈した。「ぼうや、きみは中々センスがあると思うよ。ああいうやくざな爺さんの言うことなんざ気にするな」

「ど、どーも」

 

東四局

大沼    :29900

南浦    :10700

テル    :48100

京太郎(親): 1300

 

「よし、がんばるかー」

 

 ゆるく気合を入れて、京太郎は打牌する。

 が、

 

「……あ」

 

 南浦の自摸番のとき、それは起きた。

 

 一巡目

 南浦:{一三九九九②②⑥⑦⑧南南南} ツモ:{二}

 

「地和だ……はじめてみた」

 

 あんまりな幕切れに、嘆息する咲である。

 

「え?」京太郎は混乱していた。「え、と。それどうなるんだ?」

「……」照まで少し呆然としていた。

「おめえ、大人げないとかどの口が言いやがる……南場でもねーんだぞ」大沼は憮然として、いった。

 

 南浦は快活に笑った。

 

「うん、すまん。8000・16000だ」

 

東四局(終了)

大沼    :29900→ 21900(-8000)

南浦    :10700→ 42700(+32000)

テル    :48100→ 40100(-8000)

京太郎(親): 1300→-14700(-16000)

 

結果

大沼    :-8

南浦    :+43

テル    :+10

京太郎(親):-45

 

 ▽

 

 日はすっかり傾いて、目印のようにあぜ道に立つ街灯が、黄昏で迷うみたいにちらついている。蜩の声があちこちで響きすぎて、そういえばランドセルの中に蝉の抜け殻が入ってるな、と京太郎は脈絡のないことを思い出す。

 公民館からの帰り道、彼は少女たちの道連れとなっていた。単純に途中までは方向が一緒だったのである。

 結局2半荘打ったものの、京太郎は南場まで生き延びることはできなかった。それどころか、一度も和了できなかったのである。せめて一度くらいは、と思ったものの、17時を回って公民館が閉館するとあっては粘るわけにも行かない。とりあえず教本を借りて、すごすごと退散したのだった。

 

「に、しても、あのじーさんたち、強かったなぁ」

「あの二人は、プロだから。特に南浦プロは長野に住んでいる。ただ、家は平滝(けんぽく)のほうだったはずなのに、なぜあそこに居たのかはわからない」

 

 衝撃的な事実を発したのは、年長の少女のほうである(京太郎はもう名前を忘れていた)。

 

「え、そうなの!?」もう片方は気づいていなかったようで、ふつうに吃驚していた。

「へー。やっぱりプロって凄いんだな」

「すぐに、追い抜く」

「ああ、おまえもすげー強かったもんなー」

 

 素直に感心する京太郎を、並んで歩く少女がじっと見詰めた。この年頃の子供は、少女のほうが成長が早い。長身の京太郎とほとんど同じ位置にある瞳は、猫のようにかがやいて見えた。

 

「麻雀、面白かった?」

「どうだろ。まだよくわかんないな」京太郎は言葉を濁した。「でも、またやりたいとは、おもうよ」

「そう」

 

 楽しかったのだろうとは思う。

 ただ、どんな遊興にも、心の底からは打ち込めない気がした。

 

(ただ、あれは好かったな。ヒリヒリした)

 

 先刻、最初の半荘で立直を掛けたときは、いっとき、心中の虚無を忘れることが出来た。この世から拒絶され続けている錯覚から、目を背けることが――あるいは錯覚と、向かい合うことが出来た。

 興奮を反芻する。先ほどから何度も話しかけようとしては失敗している娘の様子にも気づかず、黙々と京太郎は歩く。三人の土を踏む足音が、夏の夕方に響く。やがて国道が見えてくる。少女たちと京太郎との分岐点である。見通しがさほどよくない割りに信号が少なく、速度を出す車が多く行き来する道で、カーブミラーの根元にはよく花が生けられている。

 信号が見える。

 

(――おれがあそこに着いたとき、あの信号が、青でも赤でも黄色でも)

 

 夜闇にひかる青色は、鬼火のようだ。

 京太郎の思考が透明になる。

 

(そのまま、まっすぐ行ってしまおう)

 

 瞳を閉じて、道なりに進んだ。

 

 靴底がアスファルトを踏む。

 

 京太郎は前へ行く。

 

 足音がひとつになった。

 

 右手に、飛び込んでくる質量を予感した。

 

 クラクションが派手に鳴る。

 

 ――京太郎は、最後まで目を閉じていた。

 

 ▽

 

「あぶないよっ!」

 

 襟を引かれた。引き倒すような勢いで、京太郎は歩道側に寄せられる。一瞬遅れて、鼻先を車が駆け抜けた。温い風が顔をねぶった。ランドセル越しの背中に、鼓動と、少し汗ばんだ人の熱を感じた。

 誰だと思う前に、今度は無理やり立ち上がらされた。京太郎の正面に居たのは、変わらぬ無表情の――そう、テルとかいう名前の少女だった。

 

「いま」

 

 彼女は静かに問うた。

 

「何をしようとした」

「いや……」京太郎は返答に窮した。発作的に死のうとしたと、正直に打ち明けても仕方ない。「な、なんか、ぼーっとしてた。疲れちゃったのかもな」

 

 答えた直後に、頬を痛みが走った。拳で殴られたのだと、一瞬遅れて気づいた。暴力に萎縮したというわけではなく、純粋に驚いて、京太郎は正面に立つ少女を凝視した。

 

「おっ、お姉ちゃん、なにするの!?」慌てだしたのはサキだった。

「黙っていなさい」

 

 テルはにべもなく、サキの詰問を退けた。じっと、京太郎を睨みつけている。

 

「誰が、どこで、なにをしても、わたしは知らない」

「……と、そ、の」京太郎はただ、圧倒されていた。

「でも、時と、場所と、人くらいは選びなさい」

 

 そういわれて、ようやく京太郎は、自分が彼女らの前で死体になる心算だったことに思い当たった。酷く身勝手で、とほうもなく迷惑な行動だと気づいた。当たり前すぎる気づきだった。信じがたいのは、そんな考えにすら至らなかったことだ。

 

(なにやってんだおれ。なにを、なんで、わざわざ、ここで、莫迦か)

 

 心から悔いた。

 深々と、頭を下げた。

 

「――ありがとう。ごめんなさい」

 

 テルは応じなかった。黙ってきびすを返し、サキに声を掛け、歩き始めてしまう。その後ろを着いて歩くサキは、何度も何度も京太郎を振り返っていた。京太郎は、ずっと、頭を下げていた。

 

 ▽

 

 週末、石戸月子は春金に誘われた約束の場所へ向かっていた。地元駅から飯田線で一時間ほど揺られて、向かうのはいわゆる中心駅であった。

 初めて降りる駅ではあったが、生来方向感覚に強い月子は、地図に照らしてあっさり目的地の場所を割り出した。駅からは更に十分ほど歩かねばならないようだった。

 

 空は碧く、雲は重く、風は温く、陽は熱い。

 

 汗が襟ぐりを湿らせて、ホットパンツの下でむき出しになっている太ももを雫が伝う。久方ぶりに麻雀を打つ気負いも何もなく、月子は無心でただ歩く。

 展望や希望というものを、月子は持っていない。彼女には今のところ、逃避願望しかない。このままでは閉塞して終わる予感があり、それを拭うための何かを心底求めているが、手段は見えず策は思い浮かばない。

 

(わたしは、周りの人間を狂わせるんです――っていったら、春金さんは、笑うかな)

 

 だから家を出たいのだと言ったら、どう反応するだろう。あの快活な女性は、それでも笑い飛ばすのだろうか。

 そう空想した矢先、当の本人を進路に見つけた。高い背丈を更にめいっぱいに主張して、大きく手振りしている。月子も遠慮がちに手を振り返す。

 どうやら、目的地のようだった。道路に面したビルの一フロアが、春金が招く先だ。一見美容室のように小奇麗なテナントのショーウィンドウ越しに、雀卓や飾られた表彰状が見える。

 

「つきこさーん、こっちこっちーっ」

 

 看板には、力強いゴシック体でこう書かれていた。

 

『信州麻雀スクール』

 

 ▽

 

「しんしゅうまーじゃんすくーる」

 

 鸚鵡返しに、須賀京太郎は尋ねる。そこが、今から友人たちと出向く場所だという。小学生だけで出向くにはやや遠い場所らしく、最近麻雀に凝りだしたという友人の母親が車を出していた。

 先生がかんじのいいひとなの、と若くて美人のお母さんは嬉しそうにいう。

 京太郎は走る車の窓を開ける。風が吹き込み前髪を揺らす。

 

 結局、あの日以降、彼は公民館へは足を運んでいない。

 また会う約束などしていないし、そもそもろくに名前も交換しなかった。

 ただ、胸にはしこりがある。

 

 今日、麻雀をすれば、その正体が掴めるような気がした。

 

 ▽

 

「みんなもうお待ちかねだよ」

 

 と、春金はいった。隙あらば手を引こうと伸びてくる腕を払って、

 

「どういう意味ですか?」と月子は問う。

「今日、打つっていったでしょう。そのお相手のこと。せっかくだから私がやろうかとも思ったけどさ、やっぱり外から見たいからね」

「どういう面子ですか」

 

 戸を抜けた先の空間は、広く、清潔で、空調もよく効いて涼やかだった。百平米ほどの空間に、手狭にならない配置で全自動卓が並んでいる。椅子もなかなか質のよいものを使っており、回転率だけを考慮したそのあたりの雀荘よりは居心地が良さそうだった。

 

「んー、みんな月子さんと同年代だよ。あ、ひとりいっこ下かな? その世代じゃ結構名の売れてる子たち。ちなみに、みんな女の子」

「同年代の女の子って」以前春金がいっていた、団体の活動のために人材を集めている、という話を月子は連想した。「もしかして、天秤に掛けようとしてます?」

「その言い回し、雀士っぽいねえ」春金は妙に嬉しげだった。「でも、その予測はハズレ。いちいちふるいに掛ける理由がないじゃん。うちは来るもの拒まず。可愛い子なら三顧の礼で迎えますよ」

「ふーん」

「あっは、気のないお返事だね。まあ、少しでも楽しい今日になるよう祈っているよ。さて、一名様、ご案内。お待たせ、お嬢さん方」

 

 春金が指し示す先で、なるほどすでに三人の少女が卓についていた。月子はざっと一同の身なりをチェックする。ツーテールのこまい娘、キャップにショートカットのボーイッシュな娘、そして落ち着いたかんじのポニーテールの娘。一通り吟味して、なるほど、たしかにみんな可愛い、と認めざるを得なかった。

 

「石戸月子よ。よろしく」

 

 あえて居丈高に名乗りを上げる。

 

「すばらな名乗り、ありがとうございます。私は花田、花田煌といいます!」

 

 ツーテールの娘がはきはきと喋り、会釈した。

 

「南浦数絵と申します。よろしくおねがいします」

 

 小学生にしてはかなりまともな挨拶を寄越したのは、ポニーテールの娘だ。

 

 そして――。

 

「池田華菜」

 

 キャップの鍔に触れながら、最後の少女が簡潔に名乗った。

 

「よろしく。さて、やろうか」

 

 

 ルール:半荘戦

  持ち点:25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)

  赤ドラ:あり

  喰い断:あり

  後付け:あり

  ウマ :なし

 

 起親(東家):花田 煌

 南家    :石戸 月子

 西家    :南浦 数絵

 北家    :池田 華菜




2012/07/22:感想欄にてご指摘頂いた点数表記の誤りを修正致しました。
2012/07/22:感想欄にてご指摘頂いた誤記(×振聴→○空聴)を修正致しました。
2012/09/01:誤字修正
2012/09/21:照、咲の二人の関係性に言及した地の分を修正(登場人物の所感除く)
2012/10/08:オリキャラの姓(修正漏れ)を修正
2013/02/14:牌画像変換


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3.ふめないかげとライオンのあくび

3.ふめないかげとライオンのあくび

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 09:56

 

 席に着くや、春金は四人を相手に細かいルールの説明を始めた。4翻30符は子が7700、親が11600で計算する。流し満貫は他家に鳴かれなければ自分は副露しても成立する。四風連打、四開槓、九種九牌、三家和、四家立直は東南問わず流局するが親は流れず一本場として扱う。大三元、大四喜については(パオ)を採用する。錯和(チョンボ)は満貫払いで親流れはしない。暗槓への槍槓は国士無双のみ成立する。若干珍しいところでは、大明槓後の和了については責任払いとなる、というものがあった(状況が限定的過ぎてまず見られそうに無いな、と月子は思った)。

 そして、赤牌は四枚用いる。具体的には、{⑤}で2枚、{五}、{5}で1枚ずつである。

 

「一発・裏・カンドラ・カン裏あり――はともかくとして、赤4枚ってどういうルールですか……。ご祝儀麻雀じゃあるまいし、そんな公式戦存在しないでしょう?」

 

 一通り話を聞いてみて、月子が引っかかりを覚えたのはやはり赤牌の扱いであった。3種3枚、1種2枚の赤牌というのは比較的人口に膾炙しているが、4枚使いはあまり耳にした覚えのないルールである。

 

「そう? まあ、点数が動いたほうが見目にも派手でわかりやすいでしょう」

「インフレ麻雀がお好みなら、割れ目にアリスもつけたら如何かしら。テレビで芸能人がやっている麻雀はそういうの多いでしょう」

「競技麻雀で割れ目は流石にねー。赤ならまだ副露の技術が問われるからさ」春金は肩をすくめる。

 

 月子は鼻を鳴らした。ルールが違えば、それはもう異なる競技となる。たとえば完全先付けのルールの場合、月子の実力は後付・喰い断ありの場合とは比較にならないほど落ち込むだろう。

 

「もしかして、赤ありのルールに慣れてませんか?」

 

 おそらく善意だけで月子に質問したのは、花田煌であった。円らな瞳を強調するように、こう提案する。

 

「なんなら、私は赤を抜いてもいいですよ。ひとりだけ不慣れなルールというのはすばらくない」

「私も、とくに気にしません」南浦が控えめに同意した。

「ああ、ごめんなさい。そういうわけじゃないの」と、月子は微笑んだ。「べつに、赤ありが苦手ということはないわ」

 

 ただ、と付け足した。

 

「このルールだと、貴女たちが何も出来ずに終わってしまうかもしれない。それがかわいそうだと思っただけよ」

『……』

「それがかわいそうだと思っただけよ」月子は繰り返した。

 

 その場に居る、月子以外の全員の心の声が唱和した。

 

(こいつ友達少なそう)

 

 そんな白眼視を、月子は意にも介さなかった(そして「少ない」のではなく皆無である)。不必要に攻撃的で口が悪いのは彼女の宿痾である。改善のための努力をしようにも、月子の身の回りにはその点を指摘する人間がそもそもいない。矯正されるはずもなかった。

 

「ま、実力の程は自分で示してちょうだい」春金が白けた空気を無視していった。「席順は今の通りで、回り親。一巡したところで場替えしてもう一回。要するに、きみたちには合計八半荘打ってもらう。その収支で競う」

「八?」月子が眉を寄せて声をあげた。「今が10時だから…途中休憩を挟むとしたら、夏でも日が暮れますけど」

「みんなの保護者には許可をとってるよ。数絵さんと華菜は泊まりだしね。月子さんと煌さんは、少しくらい遅くなっても私が送るし。……他に何か聞きたいことはある?」

「いいからさあ、さっさと始めようよ」あくび混じりに提案したのは、池田華菜だった。

 

(――この子)

 

 月子は、皮膚を舐る圧力を感知する。

 

 彼女の感覚が、不快な警鐘を鳴らす。この池田という少女は、この場でもずば抜けた存在感を放っていた。他の二人も衆人に没する域ではない。ただ池田華菜については、月子がこれまでの人生で出会った中でも、一頭地抜けているいきものである。月子が有するこの種の感性に、疑いを差し挟む余地はなかった。彼女は事実として認めた――この少女は()()である。

 

(末はスターかアイドルか――なんてガラじゃないわね。お父さん(あのひと)と同じ側の生き物だ)

 

 麻雀にとりつかれている。牌に愛されてはいないのかもしれないが、心底牌を愛している――そんな顔をしている。勝ちも負けも等しく呑み込んで、呑み込み続けて強くなる。

 池田は幼いとさえ評してよい少女だ。にもかかわらず、その覇気は卓抜している。

 

古詠()と同じ側の人だ。自分を()げたことも、そのつもりもないみたいな(かお)をしている)

 

 月子は、頭蓋の中心が急激に冷える心地を味わった。

 さして意欲も持たなかったこの対局に、やる気を駆り立てる目的が打ち立てられた。

 

「なにガンつけてきてんだよ」凝視ともいえる視線を向けられて、池田は面白げに月子を見返した。

「べつに見ていないわ」月子はあからさまな嘘をついた。

「めっちゃ見てたし」

「自意識過剰なんじゃない?」

「うわー、おっまえむかつくなァ」

 

(この子の、心を、折ってみたい)

 

 意識が先鋭化する。他家への攻撃性を隠しもせず、月子は頭も下げずに呟いた。

 

「ま、よろしく」

 

 各自が、苦笑気味に挨拶を返した。

 

▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 10:15

 

東一局

花田 煌(親) :25000

石戸 月子   :25000

南浦 数絵   :25000

池田 華菜   :25000

 

(さってと)

 

 花田煌の鋭気は充実している。月子はもちろん、他の二人とも今日が初対面である彼女だが、気負うところはなかった。麻雀のスタイルは攻より守を重く見る花田ではあるが、起親で様子見に徹するほどの堅実派でもない。

 

(このワクワク、たまりませんねっ。すばらですっ)

 

 花田は純粋に、この対局が楽しみだった。花田が通う麻雀クラブのコーチと親しいという春金清の誘いに乗って、片道一時間も電車に揺られた甲斐はある。大口を叩いた月子を初めとして、いずれの面子も地元の高遠原では中々お目にかかれない強者の風情があった。

 

 東一局

 1巡目

 花田{:四四[五]六七⑤⑥⑦⑧677白南} ドラ:{南}

 

(……これはすばらな配牌っ)

 

 三色が容易に見通せる牌姿に、花田の心は踊る。萬子はどこを引いても伸びる気配があるし、筒子も横に育てば三面の受け入れが見える。やや迷うところではあるが、花田の指は{白}に向かった。

 

 打{:白}

 

「――ポン」

 

 東一局

 1巡目

 月子:{■■■■■■■■■■} ポン:{横白白白} ドラ{:南}

 

 打{:①筒}

 

 親の第一打に対して間髪入れずに鳴きを入れたのは、花田の下家である石戸月子であった。こなれた手つきで{①筒}を切り出し、鳴いた{白}を右方に寄せる。

 

(あらら、お急ぎですか)

 

 見目にはどこのお嬢様かという風貌の月子だが、親が第一打で切り出した翻牌に対して躊躇も見せずに副露を取るあたり、少なくとも受身の麻雀ではないように思えた。単純に目先の役に飛びついただけならば危惧するには値しないが、そんな娘が大口を叩くというのも考えにくい。

 

(いきなり{南}(ドラ)が切りにくくなっちゃいましたが……)

 

 手牌の{南}に目を落とす。まだ向き先が見える段階ではないが、月子にとっては自風のドラはいかにも切りにくい。処理のタイミングが、花田にとってこの局の勘所と思えた。

 

 東一局

 1巡目

 南浦

 打:{一萬}

 

「――――ポン」

 

 東一局

 1巡目

 月子{:■■■■■■■} ポン{:一一}{横一} ポン:{横白}{白白} ドラ:{南}

 打{:南}

 

 にわかに場が緊張した。

 月子の打牌に淀みはない。やや伏せられた表情は凪いでいて、背は姿勢良く真っ直ぐと伸びている。大胆に露出した背にかかる黒髪には乱れもない。

 

(……もしかしなくても、張りましたよね)

 

 巡目は序盤も序盤であるが、卓の誰もが局面が終盤に移行したことを悟ったようだった。一九字牌は不用意に打てない。ただドラを手放した以上、よほどの配牌に恵まれたのでなければ月子の手は高くても満貫程度と推察できる。花田の方針はある程度決まった。

 

(充分高いですが、こちらも引く手じゃあないですよっ)

 

 次巡の自摸に期待を膨らませる花田をよそに、

 

「え」

 

 という声が対面で上がった。

 出所は南浦数絵である。月子の二度目の副露によって本来の北家――池田の自摸が回った彼女であるが、その手は山に伸びず、困惑した目を上家の月子に向けている。

 

「どうかした?」南浦に目を向けずに月子が問うた。「()()()()()()()()()でも見えたのかしら?」

「い、いえ。すみません」頭を下げた南浦が静かに山から牌を取る。

 

 打たれたのは手出し、そして2枚目の{南}だった。

 そしてようやくといった風情で、池田の自摸が回ってくる。

 彼女はなぜか、自らが摘んだ牌を見、笑う。

 

「ふっ」

 

 東一局

 1巡目

 池田

 打{:北}

 

(げっ)と花田はうめいた。

 

 月子は鈴を転がすような声で発声した。

 

「ロン」

 

 東一局

 1巡目

 月子{:七八九999北} ポン{:一一}{横一} ポン:{横白}{白白} ロン:{北}

 

「2600」

 

(いっかいも自摸らずにおわった!)

 

 人知れず花田は涙して、手牌を伏せた。

 

▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 10:20

 

 東一局

 1巡目(放銃後)

 池田{:三三三③③③④3377北北}

 

▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 10:20

 

東一局

花田 煌(親)  :25000

石戸 月子   :25000→27600(+2600)

南浦 数絵   :25000

池田 華菜   :25000→22400(-2600)

 

「単騎でドラに受けずに{北}ですか」

 

 と、花田は思わず口に出していた。池田の切った{北}は比較的刺さる危険度が高かったし(そして事実当たり牌ではあった)、場況を鑑みて{南}より圧倒的に出やすいかというと、そうでもない。少なくとも満貫を見切るほど差がある牌ではない、と花田は思った。

 

「ええ」月子は頷いた。「実際、そのほうが早く出たでしょう」

「そりゃそうですが……」

 

 理由はないが、ごまかされた、と花田は感じた。

 

(いわゆる勘麻雀の人なんでしょうか)

 

「まァ、アガれりゃそれが正着さ」呟いたのは直撃された当人、池田である。「そうだろ?」

 

 そうですねと言って、花田は卓のスイッチを押し込み、牌を洗った。内心には疑問が渦巻いている。

 

(石戸さんの配牌は、こうだった)

 

 月子{:一一七八九①999白白北南}

 

 受けは狭いが、面子が二つ、塔子も二つ揃った鬼手である。これであれば花田も最初の{白}は鳴いただろう。問題はその後の処理である。

 

({白}を鳴いて{①筒}切り、{一萬}を鳴いて{南}(ドラ)切り……もやもやしますね。これはすばらくないっ)

 

 実際、選択次第では跳満も見込める手だった。結果的に和了できたとはいえ、順調に手が育てば、対子に重ならない限り{南}は花田からこぼれた牌である。月子はわざと打点を落としたようにしか、花田には思えなかった。

 

(さて、たんなるラッキーなのか、それとも何か考えがあるのか……)

 

東二局

花田 煌     :25000

石戸 月子(親):27600

南浦 数絵   :25000

池田 華菜   :22400

 

(相手にとって不足なし、すばらですねっ。見極めさせてもらいましょうかっ)

 

 そう、意思を固めた矢先――。

 

「ツモ」

 

 東二局

 6巡目

 月子{:三四[五]七七②②} ポン{:東東}{横東} チー:{横2}{34} ツモ:{②}

 

「2000オール」

 

東二局0本場

花田 煌     :25000→23000(-2000)

石戸 月子(親):27600→33600(+6000)

南浦 数絵   :25000→23000(-2000)

池田 華菜   :22400→20400(-2000)

 

(見極めさせて……)

 

「ロン。2900は、3200」

 

 東二局一本場

 4巡目

 月子{:一二三②③④東東發發} チー:{横七[五]六} ロン:{發}

 

東二局1本場

花田 煌    :23000→19800(-3200)

石戸 月子(親):33600→36800(+3200)

南浦 数絵   :23000

池田 華菜   :20400

 

(見極め……)

 

「すばら立直っ」

 

 花田は気合を入れて牌を曲げる。温存していた翻牌である。

 

「ポン」

 

 月子に逡巡は皆無だった。立直宣言牌の{中}が即座に喰い取られる。

 次巡――。

 

「ロン」

「すばらっ」

 

 自摸切りした牌を見た下家が、無慈悲に牌を倒した。

 

 東二局二本場

 5巡目

 月子{:三四五③③③⑦⑧88} ポン:{横中}{中中} ロン:{⑨}

 

「1500は、2100」

 

東二局2本場

花田 煌    :19800→17700(-2100)

石戸 月子(親):36800→38900(+2100)

南浦 数絵   :23000

池田 華菜   :20400

 

(みきわ……)

 

「ツモ。2000オールは2300オール」

 

 東二局3本場

 3巡目

 月子{:③④[⑤]89南南} ポン:{白白横白}チー:{横4}{[5]6}  ツモ:{7}

 

東二局3本場

花田 煌    :17700→15400(-2300)

石戸 月子(親):38900→45800(+6900)

南浦 数絵   :23000→20700(-2300)

池田 華菜   :20400→18100(-2300)

 

(み……)

 

「ロン。11600は、12800」

 

 東二局4本場

 6巡目

 月子{:二二二三四[五]六中中中} ポン:{八八横八} ロン:{一}

 

東二局4本場

花田 煌    :15400

石戸 月子(親):45800→58600(+12800)

南浦 数絵   :20700→ 7900(-12800)

池田 華菜   :18100

 

「はい……」自噴をかみ殺した顔つきで、南浦が点棒を差し出した。

 

 

▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 10:51

 

 

 花田の戦慄は、心中、頂点に達した。

 

(やばい。速過ぎます、この人)

 

 副露の技術云々よりも、月子の配牌が良すぎるきらいがあった。翻牌を常に対子以上で抱えられては対策のしようがない。

 彼女が必ず副露する点を考慮すれば、全員が絞りに徹すれば足を遅らせることはできるかもしれない。

 

(速攻副露派の弱点は早い面前立直、とはいうものの……それがまったくないわけじゃないんですよね)

 

 問題は、異様にこちらの手が入る点にあった。配牌から一向聴や二向聴は当たり前にある。そして打点も高い。そうなると、余剰牌を切らないわけにはいかなくなる。

 

 そして、それが鳴かれる。

 もしくは当たる。

 常に、こちらより一手速く進まれる。

 

(影も踏めない――)

 

 今の和了は決定的だった。二位の池田とすら40000点以上差がついてしまっている。

 少なくともこの半荘で形勢を逆転するのは困難と言わざるを得ない。

 

「――なぁーんて」

 

(諦めるわけがないんですけどね!)

 

 内心で己を鼓舞して、花田は己の頬を張った。吃驚した顔で、月子がこちらを見やっている。それになんでもないと答えて、花田ははやる鼓動を落ち着かせようと努めた。

 

(この子、すごい。口だけじゃない。すばら、非常にすばらです)

 

 まずは親を流す。その為に、親の上家として花田の責任は重大である。少なくとも和了は目指せない。仮に役萬が見えても目指さない――彼女は心にかたく決めた。

 徹底的に絞る。

 六本場など、お呼びではない。

 

東二局5本場

花田 煌    :15400

石戸 月子(親):58600

南浦 数絵   : 7900

池田 華菜   :18100

 

▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:01

 

(調子に乗って暴れすぎたかしら)

 

 と、石戸月子は自嘲する。感覚を凝らせば、あれほど出鼻を挫いたにもかかわらず、上家の花田は発気揚々、下家の南浦もまだ何かを狙っている。一番わからないのは眠たげな対面の池田だが、月子の感性が変わらず一番警戒するのは彼女である。()()()()()運気の桁が違いすぎるのだ。

 

 東二局5本場

 配牌

 月子{:一一八八九②②③④⑤東東西北} ドラ:{東}

 

(あら)

 

 手牌とドラ表示牌の{北}を見て、月子はひっそりと顔を曇らせた。

 

(こんな牌出るわけもないし、切れるわけもない。……当座の持ち弾も尽きたし、他家も本格的に絞ってくるだろうし、しばらくは店仕舞いか)

 

 打{:西}

 

 東二局5本場は、静穏極まりない進行を見せた。案の定、花田は鳴ける牌など一つも零さない。他家も同様だった。必然、場は字牌が高くなる。

 そして、月子は基本的に面前で有効牌を引くことはない。引いたとしても、せいぜい一向聴、非常な幸運に恵まれても聴牌にしか届かない。立直後に自摸することにいたっては、これまでの人生で一度も経験がない。

 何故かはわからない。原理など知らない。

 ただ、()()であるからとしかいいようがない。

 

 石戸家――母の実家に連なる家系は、巫覡(ふげき)の血に連なるものであった。現代においては声高に叫んだところで失笑を買うのが関の山だが(その不可思議を体現する月子も例外ではない)、とくに石戸の家は、他者の『わるいもの』を引き受ける術に長じていた。ときの権力者の代わりに危険や災厄を引き受ける。その代わりに力ある人々の庇護下に入り、命脈を保つ。そのサイクルは、いくつかの時代を跨ぐほどに長年続けられてきた。

 

 『権力者』といったものについての具体的な例は月子の想像力の埒外にある(せいぜい総理大臣の顔が思い浮かぶくらいだ。そしてそれはおおよそ、的を射ている)。母にも元々許婚がいて、その男性は政財界の重鎮だった(三十も年上の男だったそうだ)。

 

 その環境への反発から家を飛び出し、父と結ばれたのかというとそうでもない。母は単純に純粋で、それが過ぎたのだろうと月子は思っている。心が弱く、覚悟もなく、才覚が足りなかった。だから壊れたのだ。

 翻って月子はというと、ご多分に漏れず、いわゆる霊感めいた才能を持って生まれてきた子供だった。そうした血筋の背景は、経済的な生活苦も手伝い月子の自我を肥大化させた。様々な要因が重なり、今では、

 

(わたしは、お母さんとは違う)

 

 と、月子は半ば信仰している。

 自分は他者とは違う。容姿に優れ、知性に優れ、特別な力にも恵まれている。それは非常な幸運である。月子が生まれながらに授かった天の利である。

 だからこそ、ある程度の逆境は受け入れるほかない。

 たとえば、母が娘を害そうとするのは、よくあることだ。

 たとえば、特別な感覚を持ったせいで他人に触れられないことも、仕方のないことだ。

 

(独りでいくんだ。自分の力で)

 

 東二局5本場

 15巡目

 月子{:一一八八九九②②③④⑤東東} ドラ:{東} ツモ:{東}

 

 捨牌:

   {西北南南⑨五}

   {三⑨⑧中西1}

   {97}

 

(よりによってこれ……ま、あと3巡で七対子張ったところで、という感じね)

 

 嘆息、

 

 打:{一萬}

 

 その、同巡のことである。

 この半荘が始まって以来、初めて池田華菜が動きを見せた。

 

「――カン」

 

 池田:{■二二■■■■■■■■■■■}

 

 東二局5本場

 15巡目

 池田:{■■■■■■■■■■} カン:{■二二■} ドラ{:東東}

 

  捨牌:

   {西北南9四①}

   {②9三中中⑦}

   {8①}

 

「立直――」

 

 打:{横東}

 

 打たれた四枚目の{東}(ドラ)を前に、月子の思考が閃光のように走り抜けた。

 瞬時に他家の河へ目を配る。

 

 南浦:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 捨牌:

   {西7南⑧三四}

   {11267二}

   {六六白}

 

 花田{:■■■■■■■■■■■■■}

 

 捨牌:

   {9888⑨⑨}

   {[五]五三中⑧⑧}

   {⑦7}

 

 手元の安全牌は{東}――暗刻を落とせば逃げ切れる――たとえ大明槓でも『鳴けば』流局までに和了する確率は非常に高くなる――しかしドラを切った以上、池田は勝負手である公算が高い――とはいえ点差は40000点以上ある――。

 

(この点差、この打点、この態勢――)

 

「カン」

 

(――退く理由はないし、引かない道理がない――)

 

「す・ば・ら……」花田がこっそり顔を引きつらせていた。

 

 東二局5本場

 15巡目

 月子{:一八八九九②②③④⑤} カン:{東東}{横東東} ドラ{:東東①}

 嶺上自摸{:九萬}

 

(ほらね――{八萬}{②筒}待ちのトリプル確定)

 

 打:{一萬}

 

「ロン」

 

「……は?」月子は目を瞬いた。

 

「ロンだよ」と、池田華菜はいった。「立直、緑發(リューハ)に――」

 

 池田{:五六七③④⑤發一發發} カン{:■二二■} ロン:{一}

 

  ドラ{:東東①}

 裏ドラ{:發一七}

 

「裏六つで、17500だ」

 

東二局5本場

花田 煌    :15400

石戸 月子(親):58600→41100(-17500)

南浦 数絵   : 7900

池田 華菜   :18100→35600(+17500)

 

(対子落としを狙われたんだ……わざわざ微妙に理牌を崩すとか――芸が細かいわね)

 

 月子は引きつった笑みを浮かべた。

 

「さすがに……一筋縄では、行かせてくれないのね」

「いまのは単なるあンたの緩手(かんしゅ)だよ」池田が呆れた口ぶりでいった。「{四萬}切れているし{二萬}の壁もあったし、かい? 続けて対子落としの{一萬}とか、ほんとに出るとは思わなかったし」

「ふふ、勉強になるわ。どうもありがとう。たまたま裏乗って倍満なんて、交通事故もいいところね」

「{發}と{一萬}は乗せたんだよ」池田はなんでもないように答えた。「倍満まで仕上げたのはそっちのカンさ。どうもありがとう」

「ど、どういたしましてぇ」

 

 微笑みで応じる月子の内面は、怒りで荒れ狂っていた。

 

▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:09

 

 続く東三局、リズムを崩した月子の隙間を縫うように、花田が5200を自摸和了した。

 

東三局

花田 煌    :15400→20600(+5200)

石戸 月子   :41100→39800(-1300)

南浦 数絵(親): 7900→ 5300(-2600)

田 華菜   :35600→34300(-1300)

 

 態勢を立て直そうと月子があがくものの、他家は引き続き翻牌を絞り続けている。池田を意識するあまり、月子が最速の手順を踏み外した状況で勝ち抜けたのは、親が流れたばかりの南浦であった。

 

「ロン。……1600」

 

東四局

花田 煌    :20600

石戸 月子   :39800→38200(-1600)

南浦 数絵 : 5300→ 6900(+1600)

池田 華菜(親):34300

 

 そして南入――。

 瞬間、場に温い風が吹き込んだ――ように思われた。

 

 月子はちらと風の元に目を向ける。瞳には、辟易の色があった。

 

(めんどうくさいのがもうひとり……)

 

 南浦数絵が、爛々とした目で年上の少女たちをねめつけている。

 

 このままでは済ませないと、彼女の顔は言っていた。

 




2012/7/23:親番の表記間違いと東二局5本場の池田の牌姿を自主修正。
2012/7/25:感想欄にてご指摘を受けた本文中の記載(裏ドラ表記が指標牌になっていた)を修正。
2012/8/26:親の配牌が13牌になっていた(少牌していた)箇所を修正。
2012/9/1:誤字修正
2013/2/15:牌画像変換


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4.なつのひ(前)

4.なつのひ(前)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:20

 

 

(麻雀は、楽しいのか)

 

 須賀京太郎は、あの公民館での出来事以来、絶え間なく自問を続けている。

 

 楽しいことならば他にいくらでもある、とかれは思う。授業でさえ退屈以外の娯楽を見出すことは可能だ。ただそれらの娯楽が、京太郎が生来囚われている()()()()()()()()()()を緩和させるかというと、そうではない。

 それは趣味の限界でもあった。京太郎は何かに心底打ち込んだという記憶がない。これ以上はないというほどの努力や、それでも届かない世界を体験していない。

 

 本質的な勝負を、少年は知らないまま生きてきた。

 

 世にいういわゆる博打狂いが身を持ち崩す理由は、まさにこの『勝負』にあるといわれている。かれらは勝ちや負けそのものを重視していない。『勝負』という非日常の概念に耽溺しているだけであると、そういう考えである。

 

 路傍にたやすく破滅の転がる、それは暗夜の行路である。獣道に踏み入った多数の人間は、道行く内、ある日ふと気づく――積み上がった敗北の負債の高さに。すると急に人の心を取り戻す。いままでに自分が失ったものを数え始めるのだ。しかしすでに、そこは人の(のり)が通じる領野ではない。かれらはそのことに気づかず、博打の本質を忘れ、勝ちを志向するようになる。そして当然のように負ける。

 

 一方で、勘所のあるもの、幸運に恵まれたものは、欲するままに刺激を求めてさらに(くら)い道へと踏み込んでいく。

 

 須賀京太郎という少年にとって、博打は非常に甘い毒だった。麻雀という遊戯の楽しさを問いながらも、彼は週末までの日々を寝る間も惜しんで向学に費やしていた。役、符計算、受け入れ枚数、牌効率――覚えるべきことは汲めども尽きず、身についたこととなるとほとんどない。

 だが学ぶことを止められない。

 その時点で、京太郎は中毒していたのだ。

 だが、かれが一般の博打打ちと異なる点がある。

 かれが麻雀に求めるのは『勝負』ではないのである。

 

 人と、場と、牌。いくらかの技術と運勢に翻弄されながら、牌の譜面を織り編む美しさ。

 収束すべき確率と、局地的に()()を無視する不条理。

 

 麻雀が持つ要素そのものが、京太郎をひきつけて止まなかった。

 

(おれは、こいつを、楽しいと思っているのか――)

 

 友人の母の車に乗って、連れられてきた施設はなるほど快適だった。驚くべきことに屋内には軽食スペースもあり、子供らの保護者はめいめいテーブルで茶を喫している。事前情報通り、小学生から中学生の少年少女が主な客層のようで、講師と思しき数人の感じがいい大人たちが、卓ごとに直接指導を行っていた。

 全自動雀卓の利便性も始めて知った(京太郎の実家には手積みの牌すらなかったため、ここ数日はノートの切れ端で牌を作って学習していた)。確かに便利で、効率的にゲームを消化するうえではこのうえない道具だと思った。ただ京太郎個人の趣向としては、手積みのほうが好みだと感じた。

 

 6人で連れたって来た京太郎たちは、4:2に分かれた。京太郎は前者のグループに属し、後者は初見の子供・講師と卓を囲んでいる。セットではない場合には、揉め事が起きるリスクを少しでも下げるため、講師が同席する決まりになっているらしい。よく考えているものだと京太郎は感心した。

 早速打ち始めた卓は、小場とも荒れ場ともつかない状況だった。他の3人はさすがに生涯3度目の半荘である京太郎よりは慣れた手つきではあったが、公民館で出会った二人のプロは元より、テルといったあの少女よりも拙い打ち回しである。

 

(たぶん、あっちがおかしいんだ)

 

 とはいうものの、京太郎自身の腕は初心者の域を脱するものではない。ずば抜けて、というわけではないものの、小刻みな放銃が続き、ラス目のまま南入した。

 次局に親番を控えた南二局、

 

 南二局

 13巡目

 {京太郎:二三四六七八②③23456} ツモ:{[5]} ドラ:{④}

 

 苦労に苦労を重ねて、京太郎に総捲りの勝負手聴牌が入った。

 

 打:{6}

 

 立直を掛けて{④}(高目)が入れば倍満の手だったが、運悪くドラ筋が最後まで残っていた。聴牌には漕ぎ着けたが、なんとなく、京太郎には{④}は引けないだろうなという印象があった。対面が早い段階で{②}を切り出していたためだ。

 恐らく{④}はすでに山には残っていないか、残っていても一枚と京太郎は睨んだ。一方で{①}は場に一枚切れである。また、なぜか友人たちは無筋でもよく一九牌を切り出すので、狙いごろではあった。

 重ねた全てが崩れる{①}引きを前提にしているのであれば、立直もよかった。ただ既に巡目は深く、おまけに下家は筒子と索子の中張牌をバラ切りして露骨に萬子の染め手気配を発している。2000点がせいぜいの手に蓋をして、満貫の向こうを張る気にはなれない。

 

 そして、次巡、

 

 南二局

 14巡目

 {京太郎:二三四六七八②③2345[5]} ツモ:{一} ドラ:{④}

 

「――」

 

 序盤で切った{一萬}を、京太郎は引き戻した。教本で読んだ単語が頭を過ぎった。三色と一気通貫の両天秤である。

 {五萬}は生牌、{九萬}は一枚切れの場である。迂回した場合聴牌が崩れることになるが、京太郎に迷いはなかった。

 

(どのみち{一萬}は切れない)

 

 打:{③}

 

 南二局

 15巡目

 {京太郎:一二三四六七八②2345[5]} ツモ:{九} ドラ:{④}

 

 今度は、迷う必要はなかった。

 

「立直」

 

 打:{②}

 

「京ちゃんまじで!」

「うっわ、安牌ないよ!」

「おれトップだけどぶっこんでいい!?」

 

 友人たちは、ノーマークだった京太郎から放たれた両面落としの立直に対し、楽しげにそれぞれコメントした。こいつらは気楽だな、と呆れる一方で、京太郎の胸に暖かいものがこみ上げる。

 疑う理由はなかった。

 これもまた、麻雀が持つ楽しさの一つに違いはない。

 ひりつくような刺激だけが、この奥深い遊戯の特徴ではないのだ。

 

(学ぼう。楽しいかどうかはわからないけど)

 

 南二局

 16巡目

 {京太郎:一二三四六七八九2345[5]} ツモ:{④} ドラ:{④}

 

「……はっ」

 

 打:{④}

 

 裏目の{④}(ドラ)が、京太郎を諭しているようにさえ、思えた。

 

 おいおい小僧、おまえはいったい何を読んだ気でいるんだよ。おまえは麻雀の何をどれくらい知ってるっていうんだ? まさか流れだとかそんなもんを感じたとでもいうつもりか――。

 

 誰も牌を倒さなかったのは、単なる僥倖だ。京太郎は照れくさい気分で、流局を待った。

 が、

 

 南二局

 17巡目【海底】

 {京太郎:一二三四六七八九2345[5]} ツモ:{[五]} ドラ:{④ }

 

「……これなら、符計算できなくてもわかるな」

 

 なんだかいいように遊ばれている気分になりながら、京太郎は牌を倒した。

 

「自摸」

 

 裏ドラ:{五}

 

「4000・8000」

 

(学ばせてもらおう――)

 

 京太郎は人生で初めて、麻雀の勝利を経験した。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:25

 

 

南一局

花田 煌(親) :20600

石戸 月子   :38200

南浦 数絵   : 6900

池田 華菜   :34300

 

(露骨に風向きが変わった)

 

 と、月子は胸裡で独語する。花田煌が圏風(ケンフォン)を示すパネルを裏返した瞬間、暖かな風を額に感じた。出処は右方、月子の下家の南浦数絵である。

 胸にいつも蟠る不快感が、いや増すのを感じた。

 

(何がやりたいんだか知らないけれど――)

 

 南一局

 配牌

 {月子:一一八九③④⑥⑦357南南} ドラ:{⑤}

 

(断ラスは静かに息を潜めていればいいのよ。大人しく死んでいなさいよ)

 

 月子は意識を対面へ注ぐ。

 

(わたしとこの娘の勝負に、割り込むんじゃないわよ――)

 

 池田華菜は、理牌もせずにじっと牌姿を見つめていた。恐ろしい程に直向きな瞳は、心底本気で自ら手の行く末を案じている。

 

 花田煌は、慎重な面持ちで第一打を切り出した。興奮にやや膨らんだ鼻腔が、彼女の牌勢を物語っている。それは別段、構わないと月子は思う。ただ、何よりも花田の顔つきが月子の癇に障る。

 楽しくてしかたがないといった風情の少女の模打は、月子の機械的なそれとは正反対の雀風である。そしてそれは花田に限ったことではなく、池田も南浦も同様だった。

 彼女らはそれぞれ、この対局を楽しんでいるのだと月子は思った。

 不公平だと感じた。

 

(わたしは――わたしが、麻雀を楽しいと思ったことなんて、いつが最後なんだろう)

 

 すぐに思い出せるほど近い過去では、間違いなくない。

 

 南一局

 1巡目

 {月子:一一八九③④⑥⑦357南南}  ツモ:{①} ドラ:{⑤}

 

 打:{①}

 

 ――誰も彼も、老若男女の別もなく、たかが絵合わせに本気になる。

 

 月子はその事実を滑稽だと思う。思いながらも、自分もまたその同類に過ぎないことを知っている。それが彼女はもどかしい。自分に何か才能と呼べるものがあって、それが人生を照らす光に成りうるのであれば、何もそれは麻雀なんかの才能でなくてもよかったのだ。

 

 南一局

 1巡目

 南浦:{■■■■■■■■■■■■■■}  ドラ:{⑤}

 

 打:{南}

 

「えっ」

 

 花田が小さく声をあげた。

 

「ポン」

 

 もちろん間髪いれずに月子は鳴いた。

 

 南一局

 1巡目

 {月子:一一八九③④⑥⑦357} ポン:{南南横南} ドラ:{⑤}

 

 打:{九萬}

 

 月子の麻雀は異風である。

 たとえば、彼女が鳴けば、それは向聴への加速となる。

 他家の自摸筋には、自身の有効牌の鉱脈が眠っている。

 そして他家の手は絶好の配牌となる替わりに、その余剰牌が月子にとっての有効牌となる。

 むろん、まともに統計を取ったうえでの事実ではない。確率や常識に反する事象である以上は、ただ感覚的に()()なることが異様に多いだけなのだとしか、言い様はない。

 この「傾向」に最初に気がついたのは父と兄で、どうしても麻雀に勝つことができなかった幼い時分の月子は、それで才能を開花させた。

 

「晒せよ、月子」と父、新城直道は月子にいったものだった。「手牌は心と体そのものだ。そいつを場の目に晒して初めて、おまえは場に参加できるんだ。チップ一枚多めに払う代わりに、神様はおまえにちょっとした恵みをくださってるってわけだ――」

 

 南一局

 1巡目

 {池田:■■■■■■■■■■■■■■} ドラ:{⑤}

 

 打:{北}(手出し)

 

 南一局

 2巡目

 {花田:■■■■■■■■■■■■■■}  ドラ:{⑤}

 

 打:{發}(手出し)

 

 南一局

 2巡目

 {月子:一一八③④⑥⑦357} ポン:{南南横南} ツモ:{七} ドラ:{⑤}

 

(裏目――っ)

 

 打:{七萬}(自摸切り)

 

 河に牌を置いた瞬間、奇妙な感触が月子の背中を滑り落ちた。

 

 それが手拍子の処理に対して指運が鳴らした警鐘だと感得するには、月子は様々な意味で未熟に過ぎた。

 

 月子の麻雀は単調である。副露をすれば手が入る。その速度は対局者にとって脅威でしかない。

 ただそれだけに、序盤における牌の捌きに熟慮することも少なかった。振聴を嫌って両面を払ったこの一手は、彼女にとって絶対のアドバンテージを自ら手放す結果となったのである。

 

 南一局

 3巡目

 {月子:一一八③④⑥⑦357} ポン:{南南横南} ツモ:{六} ドラ:{⑤}

 

(……まず)

 

 ここで初めて、月子は前巡の失着に気づいた。つとめて表情を殺しても、顔面に血が集まることは避けられない。河に並んだ{九・}{七萬}の並びと手牌に孤立した{八萬}が、月子を咎めているようだった。

 

 打:{八萬}

 

 やや強い打牌に、対面の池田が顔を上げた。勝気な瞳と、月子の眼差しが交錯する。その顔がもの言いたげに思えて、「なによ」と、月子はけんか腰で呟いた。

 

「べつに」と、池田はいらえる。「自分の摸打じゃなくて、それをあたしらに見られることのほうがこたえるって顔してたからさ。それは違うんじゃないのっておもっただけ」

 

 月子は答えなかった。池田の言うことはもっともだと思ったからだ。

 過誤は勝つことでしか挽回できない。

 であれば、月子がすべきことは弁解ではない。

 

 南一局

 4巡目

 {月子:一一六③④⑥⑦357} ポン:{南南横南} ツモ:{[⑤]} ドラ:{⑤}

 

(わかってんのよ、あなたの言うことくらい)

 

 打:{六萬}

 

 しかしその後、5・6巡目と、月子は自摸切りを繰り返す結果となった。序盤の失策は月子の足を止め、その遅滞は、当然ながら手が入りやすい状態に仕組まれている他家に利する。

 焦燥と共に迎えた7順目、

 

 南一局

 7巡目

 {月子:一一③④[⑤]⑥⑦357} ポン:{南南横南} ツモ:{6} ドラ:{⑤}

 

(和了逃がしだけど――最高の入り目でもある。ここは前向きにとらえましょう)

 

 打:{3}

 

 聴牌気配を殺すように、静かに牌を河へ置く。目線は固定して動かさない。ただ精神だけを下家の南浦へ志向させる。

 

 捨牌

 南浦:{( 南 )①②北89⑨}

 

(打ち込んでみなさいよ。7700にまけてあげるから)

 

 南浦が山へ手を伸ばす。

 

(打ち込んでしまいなさいよ――)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:28

 

 

(どれだけそっと牌を置いたところで)

 

 南場特有の高揚感に浮かされるように、ただ思考だけは冷静に、南浦数絵は山から牌を自摸る。

 

(たった今聴牌しましたって声が、うるさいくらいに聴こえてる)

 

 親指が牌の表面をなぞった瞬間に、痺れるような感覚が数絵の項から首筋を走りぬける。

 

 南一局

 7巡目

 南浦:{四五六④④⑥⑦⑦⑦1156} ツモ:{4} ドラ:{⑤}

 

(空気読め――とでも言いたいんでしょうけど、麻雀は四人でするものなんだから)

 

 ――数絵は南場の女である。

 

 それは、彼女が尊敬する祖父から受け継いだ資質であった。

 

(私はまだまだ、全然弱いけど、たぶんこの中でいちばんへただけど――数合わせでなんか、終わらないんだから)

 

 石戸月子が鳴くたびに手を加速させるように、数絵もまた、南場において牌勢が奔る「傾向」を持っている。それは単純に、前半は見に回、消極的に回す癖がついているだけかもしれない。あるいはジンクスのせいで南場を待望するあまり、東場の集中力が疎かになっているだけかもしれない。

 しかし、どちらでも数絵には関係がない。

 彼女にとり、重大事はひとつきりだった。

 

 打:{④}

 

(――こっちを、見ろ!)

 

 祖父の()を継ぐものとして、舐められたままで終わらせるわけにはいかない。

 

「立直」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:29

 

 

 南一局

 7巡目

 {池田:一九④⑨19東南西西北白發} ツモ:{中} ドラ:{⑤}

 

 捨牌:{北一九②二6}

 

「……」

 

 打:{④}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:29

 

 

(いまなんだか、ぞわっときたような……)

 

 ノータイムで{④}を手出しした池田に横目を送って、花田は吐息した。

 

 南一局

 8巡目

 {花田:②②②③④⑤⑧⑧⑧東東中中} ツモ:{①} ドラ:{⑤}

 

 彼女にもまた、勝負手が入っていた。面前で自摸りインパチ、立直を掛ければ親倍が見える手である。しかし、聴牌気配の下家(月子)対面(南浦)の立直宣言を受けて、直後に引いたのは立直宣言牌の{①}(スジ)だった。

 

(最後の親だしこの手だし、打点的に考えたら普通に押すべきなんですけどねえ……こうあからさまに()()()()ちゃ()()と……もろ引っ掛けという可能性も、無きにしも非ず。ていうかていうか、とってもすばらくない感じですよこの{①}! 鳥肌とまらないんですけど!)

 

 {④}を切ってとりあえず迂回するとしても、その後の牌が通る保障はない。しかし、花田は、

 

 打:{④}

 

 とした。普通の打牌選択でないことは、花田も自覚していた。ふだんの自分であれば、10回打って10回とも聴牌維持を選ぶ自信がある。しかし、この日ばかりは――この卓ばかりは、どうにも根拠のない直感に逆らうべきではない気がしていた。

 

(がまんがまん、がまんがまん……)

 

 花田が抑えたこの{①}により、池田へほぼ傾斜しきっていた趨勢がまた揺らぎ始めた。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:30

 

 

(他家は降りた)

 

 南一局

 8巡目

 月子:{一一③④[⑤]⑥⑦567} ポン:{南南横南} ツモ:{東} ドラ:{⑤}

 

 引いたのは生牌の{東}であった。通る目算など、無論ない。

 

 打:{東}

 

(わたしは降りない)

 

 ためらいもなく、無言で自摸切った。当たるはずがないと決め込んでいた。根拠はなかった。祈念に近いのかもしれなかった。麻雀を打つもの特有の感覚に、月子は背中を押されていた。

 

(わたしが勝つ)

 

 強打に被せるように、下家の指が月子の眼前を過ぎる。

 

 きれいな指だな、と月子は思う。

 

 南浦数絵の自摸の軌跡は直線状だった。

 弓を引き矢を放つように、腕は山と手とを行き交った。

 

 ――南風(はえ)(そよ)いだ。

 

「ツモ」

 

 南一局

 8巡目

 南浦:{四五六④⑥⑦⑦⑦11456} ツモ:{[⑤]} ドラ:{⑤}

 

「立直、一発、自摸、面前三色、赤1ドラ1。――裏は、なし。3000・6000です」

 

南一局

花田 煌(親) :20600→14600(- 6000)

石戸 月子   :38200→35200(- 3000)

南浦 数絵   : 6900→18900(+12000)

池田 華菜   :34300→31300(- 3000)

 

(そんな待ちで……)

 

 露にされた南浦の嵌{⑤}待ちを見、月子は歯を噛み鼻腔から憤りを漏らした。揶揄を口に仕掛けて、止める。確率云々の言いがかりなど、それを弄ぶ自分が口にしていいことではない。

 どんな待ちでも、枯れていない限り引く可能性は零ではない。

 そして、南浦は引きの一点において月子を凌駕した。

 それだけの話である。

 

「そこ引いちゃいますか……」花田が苦笑気味にいった。

 

(わかるわ、その気持ち)

 

 ほんの少しだけ上家に同感して、月子は牌を伏せる。

 花田の発言は南浦と月子、両者へ向けた言葉であるのだが、伏せられた牌姿の未来は、永遠に問われることもない。月子には、自分が紙一重で生き延びたことなど知る由もなかった。

 

「さぁ……、次、行きましょう」

 




2012/7/29:誤字修正
2012/9/1:誤字修正
2013/2/18:牌画像変換


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5.なつのひ(中)

5.なつのひ(中)

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:30

 

 

 抜け番の京太郎は、次の対局を辞して、しばし他の卓を見学したいと申し出た。騒いだりして邪魔だけはしないようにと言い含める講師に力強く頷いて、かれは軽食スペースでジュースを買う。

 京太郎はそのまましばし、ぼうっと先ほどの半荘を反芻した。何とか全ての摸打を記憶しようと意識しているが、なかなか上手く出来ない。終盤の倍満和了の印象ばかりが鮮烈で、それでは意味がないと京太郎は首を振った。

 

(うまくいった場面ばっかり思い出したって、あんまし意味ねえだろ)

 

 と、京太郎は思う。東一局からの譜面に思いを馳せるかれの目の前に、影が差したのはこのときだった。

 

「ここ、いい?」

「……?」

 

 見上げた先にいたのは、大柄な女だった。白いワイシャツにスラックスという格好からして、講師のようだ。肩口まで伸びた髪は少し脱色されており、左耳には銀のピアスが光っている。胸元の名札には、

 

 『講師 春金(はるかな)』

 

 という文字がゴシック体で書かれていた。

 京太郎は周囲を見回し、やや警戒を込めて応じた。

 

「ほかにも、テーブル空いてますけど」

「さっきの半荘ちらっと見て、あなたとぜひ話したいと思ったの。だめかな?」

 

 大人の女性然とした春金の振る舞いに、京太郎はたやすく動揺した。

 

「って、いわれても、おれ初心者なんで、よくわかんない……です、けど」

「え、まじで」春金が眉を上げた。「初心者って、どれくらい?」

「きょうで4日目くらい」

「うっそぉ」春金が手をひらひらと振った。「そりゃすごい。おねえさん、俄然きみに興味が湧いてきちゃったな」

「は、はあ」

「ねえねえ、さっきの――南二かな。きみが倍満和了った局でさ、{一萬}ひいて三色あきらめたじゃない。あれ、どうして聴牌崩したの? 勘?」

「下家が萬子集めてそうだったし、{①}はともかく{④}は山に薄そうだなァ、って思ったから」

「ふーむ」春金がなるほどと頷いた。「実際、{一萬}は下家の子に当たりだったね」

「たまたまでしょ。読み外して{④}ひいちゃったし」

「でも、{一萬}切ってたらそもそもメンチンに刺さってたから、結果的には唯一にして最高の手順を選択したわけよ、きみは。初心者とはとても思えないな。センス、あるね」

 

 明るく笑って激賞してくる春金に、素直にやに下がるのが普通の少年である。しかし病気をこじらせている京太郎は、だんだんと彼女の態度を胡散臭く感じだした。

 

(なんか、めんどくせえ)

 

「ねえ、本気で麻雀やる気ない? うちの教室でさ。歓迎するけど」

 

(ほれきた)と思う京太郎だった。

 

「営業すか」

「ぐっ」春金の笑みが固まった。「鋭いなきみ。しかし、顔のわりに可愛げがない。……ま、無理にとはいわないさ。でも気が向いたら、ちょっと考えて欲しいな。今うちに来れば、カワイイ子と出会えるチャンス!……があるかもしれない」

「ふゥん――」京太郎はおざなりに相槌を打った。

「ほら、ちょうどあそこの卓で打ってる娘たちなんだけど。みんな、美人さんでしょ?」

 

 春金が指した卓は、なるほど確かに、四人の少女たちに囲まれていた。

 反射的に図書館で出会った姉妹の姿を連想する京太郎だが、無論、いるはずもなかった。

 

「ちょうど、クライマックスみたいだね」と、春金が呟く。

 

 局面は、長い黒髪の少女が、ポニーテールの少女に振り込んだ直後のようだった。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:35

 

 

南二局

花田 煌    :14600

石戸 月子(親):35200

南浦 数絵   :18900

池田 華菜   :31300

 

 

「え」月子はわが目を疑った。

 

 4巡目の出来事だった。

 ドラは{發}。対面から自風牌の{東}を鳴いた月子は、一向聴となり、初牌の{發}(ドラ)を切り出した。鳴かれる程度は考慮していた打牌だった。それでも己が先んずるという自負があればこそ、河に緑發を打ったのだ。

 しかし、

 

「ロン」

 

 ――それが、下家の南浦数絵に刺さった。

 

 南二局

 4巡目

 南浦:{二二五[五]①①77北北中中發} ロン:{發} ドラ:{發}

 

「8000」

 

南二局

花田 煌    :14600

石戸 月子(親):35200→27200(-8000)

南浦 数絵   :18900→26900(+8000)

池田 華菜   :31300

 

(はや)さで)

 

 ぐらり、と価値観がかしぐ音を、月子は聴いた。

 

(純粋に先をいかれた――)

 

 緩みはない。

 その心算だった。

 だが、実際には、南浦の聴牌気配を見落として、軽率な牌を打ち込んだのだ。

 

(また、わたしの緩手? 持つべきだった? 遅すぎた?)

 

 池田の、花田の目に、咎める色を月子は感得した(それはもちろん、彼女の妄想だ)。

 

(わたし、わたし……)

 

南三局

花田 煌    :14600

石戸 月子   :27200

南浦 数絵(親):26900

池田 華菜   :31300

 

 南三局

 配牌

 月子:{二二三五七八①①278白白} ドラ:{①}

 

 動揺冷め遣らぬまま迎えた南3局、南浦の切り出しは{中}(ホンチュン)――明らかに手が入っている。また本人にもそれを迷彩する気がない。

 

「ポンっ」

 

 と、{中}を鳴いたのは、月子ではなく花田だった。

 

 予期せぬ僥倖だった。これで手牌を晒さず、月子は池田の自摸筋を喰ったことになる。予想に違わず、次いで月子は有効牌を引き入れた。

 

 南三局

 1巡目

 月子:{二二三五七八①①278白白} ツモ:{白} ドラ:{①}

 

 {白}を引き、暗刻が揃った。しかし二向聴の速度を、今の月子は量れない。瞳はまだまだ浅い河へ向く。300点差の親である南浦に、少しでも遠い牌を残したい。だが、そんな推知が可能な巡目ではない。

 

(素直にいくしかない……{白}なら、ほとんど安牌みたいなものだし)

 

 打:{2}

 

 しかしその後、月子の手は一向に動かなかった。全般的に速く高い場が続いたこの半荘では珍しく、表面上は静かに巡目が進む。

 月子の焦燥は膨らむ一方だ。なまじ()えるばかりに、彼女には己の運の潮目が引いていく瞬間が手に取るようにわかってしまう。

 けれど、そんな苦境は、何度も経験していた。父や兄や、父の舎弟と、何度となく麻雀を打っていたのだ。その場で月子は、立派に打っていたのだ。父や兄に、及ばないまでもおさおさ劣らない戦績を収めていたのだ――。

 

 母が、壊れてしまうまでは。

 

(凌ぐ。凌いで見せる)

 

 そして、11巡目、満を持して親の南浦が牌を曲げた。

 

 南三局

 11巡目

 南浦:{■■■■■■■■■■■■■} ドラ:{①}

 

 打:{南(手出し)}

 

「立直」

 

(来た。また負けた)

 

 よくないイメージが月子の脳裏を去来する。目線は自然と、南浦の河を浚った。

 

 南浦

 捨牌:{( 中 )東九2⑨四⑧}

    {⑨6①}{横南}(立直)

 

(安牌は{①}(ドラ)だけ)

 

 南三局

 11巡目

 池田:{■■■■■■■■■■■■■} ドラ:{①}

 打:{南(手出し)}

 

 南三局

 11巡目

 花田:{■■■■■■■■■■} ポン:{中横中中} ドラ:{①}

 

 打:{九(手出し)}

 

(――{九萬})

 

 鳴くべきだ、と月子の感性は訴えた。

 が、喉が強張り、ついぞ彼女が発声することはなかった。

 

 南三局

 11巡目

 月子:{二二三五七八①①78白白白} ツモ:{③} ドラ:{①}

 

(無筋の{③}なんか……切れるはずもない)

 

 打:{①}

 

 そして、南浦の一発目が回った。

 

「――……っ」

 

 南三局

 12巡目

 南浦:{■■■■■■■■■■■■■} ドラ:{①}

 

 打:{①}

 

(安牌増やしてちょうだいよ……っ)

 

 続く12巡目も、南浦以外の三家は親の安全牌を切り落とした。

 そして、いち早く安全牌が尽きたのが月子である。

 

 南三局

 13巡目

 月子:{二二三五七八③④78白白白} ツモ:{③} ドラ:{①}

 

「失礼……」

 

 搾り出すように発言して、月子は沈思した。

 

(壁がない。ノーチャンスにも賭けられない。筋すらない。もう{白}を落とすしかない。仮に――打って刺さるなら単騎。{中}と{南}を切っておいて、{白}で待つ理由がない。あの子の感覚でそれを当てられたなら――もう巻き返せる気がしない。大丈夫、と思う。当たらない、と思う。でも、絶対じゃない)

 

 取り留めのない思考が、月子の脳裏で錯綜する。考えているようで、それは雑念でしかなかった。

 事実上、月子は切り出す牌を決めている。

 

(――ああ。麻雀って、こんなに苦しかったっけ。ああ、わたし、わたし――)

 

 打:{白}

 

 思考を放棄した散漫さに押し出された牌に向けて、

 

「ロンっ――!」

 

 花田煌の発声が掛かった。

 

「…………はい」

 

 月子は半ば意外、半ば諦念とともに上家を見やる。

 

 南三局

 花田:{四四四七八九發發發白} ポン:{中横中中} ロン:{白} ドラ:{①}

 

「――12000ですっ」

 

南三局

花田 煌    :14600→27600(+12000、+1000)

石戸 月子   :27200→15200(-12000)

南浦 数絵(親):26900→25900(-1000)

池田 華菜   :31300

 

(――こんなに、麻雀が、下手だったんだ)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:45

 

 

南四局

花田 煌    :27600

石戸 月子   :15200

南浦 数絵   :25900

池田 華菜(親):31300

 

 迎えた南四局(オーラス)に、荒波が立つことはなかった。苦し紛れに月子が狙った清一色が成就することはなく、8巡目、

 

 南四局

 8巡目

 池田:{②③④⑤⑥⑦23456北北} ツモ:{1} ドラ:{北}

 

 池田が面前で平和を自摸和了し、終了となった。

 

「ツモ。2600オール――アガりやめだな」

 

南四局

花田 煌    :27600→25000(-2600)

石戸 月子   :15200→12600(-2600)

南浦 数絵   :25900→23300(-2600)

池田 華菜(親):31300→39100(+7800)

 

結果

花田 煌    :- 5.0

石戸 月子   :-17.4

南浦 数絵   :- 6.7

池田 華菜   :+29.1

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:50

 

 

「さて、けっこう長引いちゃったな」と、池田がいった。「時間的にはお昼だけど、どうする?」

 

 月子は反射的に声を上げていた。

 

「もう一回」顔を伏せたまま、いった。「もう一回だけ、お願い」

 

 池田は肩をすくめた。

 

「べつに、昼飯食べてからでもいいと思うけど? おまえ、熱くなってるし」

 

 次の言葉を発するには、深呼吸が必要だった。

 

「お願いします」

 

 深く、月子は頭を下げた。

 同い年の子供相手に頭を下げたのは、恐らく彼女の人生で初めてのことだった。

 何を意固地になっているんだ、と月子の内側で諌める声がある。

 

「――わかった」池田は応じた。「トップが否とはいえないし、あたしはいいよ。ほかのふたりは?」

 

 それぞれ、快諾が返ってきた。

 

「だってさ」という池田に対して、月子は答えることができない。

 

 本当は、礼を言うべきなのはわかっている。

 けれどもいまの月子に、そんな余裕はなかった。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 12:05

 

 

 立て直しを期した月子に、牌が微笑むことはなかった。それどころかより徹底的に、彼女は打ちのめされる結果となった(月子はこの展開を半ば予期していた)。

 

 東一局、起親の月子は思うように鳴きを入れることも出来ず、ようやく役牌を食い入れた後も、二度の処理ミスを繰り返した。あとは前回の焼き直しだった。池田華菜が10巡目に仕上げた黙聴(だまてん)の倍満に刺さり、一瞬で16000点を失った。

 

 東二局も、池田が吹き上がった。6巡目で掛かった立直の筋引っ掛けに、月子が一発で放銃したのである。結果追加で8000点を失い、残り点数は1000点となった。

 

 もはや、月子に表情はなかった。摸打に気概を込めることもない。ただただ、彼女の心は苦しいばかりだった。何をしても、どう打っても、勝利へのイメージが湧かないのだ。

 

 長引いた一回戦と異なり、二回戦の結末はあっさりと訪れた。

 

「ツモ――2000オール。あんたのトビで終了だ」

 

東三局(終了)

花田 煌    :25000→23000(-2000)

石戸 月子   : 1000→-1000(-2000)

南浦 数絵   :25000→23000(-2000)

池田 華菜(親):49000→55000(+6000)

 

結果(2回戦終了)

花田 煌    :- 7.0(小計:-12.0)

石戸 月子   :-31.0(小計:-48.4)

南浦 数絵   :- 7.0(小計:-13.7)

池田 華菜   :+45.0(小計:+74.1)

 

 

 戦績の収支を見つめて、月子はそっと吐息した。

 

(2連続ラス。おまけに一回は――トビ。まったく……あれだけ大口叩いて、道化にもほどがある、ってやつね)

 

 ふふ、と自嘲の笑みを浮かべる。

 

「それじゃ、約束どおりお昼にしましょうか。――ちょっと、わたしはお手洗い」

 

 やや早足になって、かろうじて優雅に、月子はきびすを返す。

 

「あっ、あのそっちだんしと」花田が何かを言いかけたが、月子は足を止めずにトイレへ向かった。

 

 ベージュの押し戸を開けて、トイレの敷居を跨ぐ。

 真っ直ぐ個室を目指す。

 戸を引いて中に這入り込む。

 鍵を閉める。

 パンツを下ろすこともなく便座に腰を落とす。

 

 月子は両手で顔を覆った。

 

 深呼吸した。

 幻聴が聴こえた。

 

 ――それがかわいそうだと思っただけよ。

 

 誰あろう、二時間前の石戸月子の台詞だった。

 

(うわぁあああああ! 死にたい! 殺したい! 死ね! 殺してっ! さっきのわたし……っ! ああああーっ! あぁ、あっあっあっ、うぅ、ふっ、ふぁあーっ、ふあーん! ああああーっ! わああああーっ!)

 

 羞恥と屈辱の余り、涙がこぼれてきた。鼻水も出た。だが嗚咽はかみ殺した。どこで、誰に聴こえるかもわからない。他人に泣いていることを気取られるほど月子が忌むものはないのである。

 数分ほど心中で絶叫を上げ続け、心が平静を取り戻すのを待った。

 

「……ふう」

 

 ようやく当面の衝動をやり過ごすと、月子は立ち上がった。中座が長引けば気取られる恐れがある。負けて悔しくて泣いたと思われるのは我慢がならない。

 が、正直、すでに月子のモチベーションは底を打っていた。

 

(……帰っちゃおうかしら)

 

 その場合春金の面子を潰すことになるし、負け犬の汚名を背負う羽目にもなるが、少なくともこれ以上自信を失うことはなくなる。何よりも自分を大事に思う石戸月子という少女ならではの保身方法であった。

 

 麻雀など、運不運がもっとも重要なゲームであることは月子も理解している。

 だからこそ、それを手玉に取った月子は勝ち続けることができていた。

 

 だが今日、自らの麻雀の底の浅さを見せ付けられた。

 

(というか、言い訳じゃなしに、本当に鈍ってるわね、わたし。それに何より、久しぶりの麻雀であの池田って子の相手は、ちょっと無理目だわ。正直前に座られてるだけでもつらい。お父さんの近くにいるのがしんどいから逃げてきたのに――同じようなのを相手にしているんだから、世話がないわ)

 

 いわゆる「運勢」に対する月子の感覚は、論理では説明がつかないほどに際立っている。

 

 月子がいまの家を離れたいと思うもっとも大きな理由は(純粋に精神的な負担もあるにせよ)、あの家に吹き溜まる不運と、それを相殺する父の運勢にあった。

 

 波間に漂い続けると酩酊するように、大きな運を持つ存在に近づくと、月子は同じように酔ってしまう。三半規管が狂うのだ。酷い場合には、嘔吐さえ伴う。常人と接する場合ですら不快感を覚えずにいられない月子にとって、父や池田のような存在は毒でしかなかった。

 

 もし池田に抱きつかれでもしたら(そんなことは絶対にしそうにないが)、月子は一瞬で卒倒する自信がある。

 

「はあ……」

 

 思い付きには後ろ髪が引かれるし、今日の池田に勝つ手は思い浮かばない。それでも人生においては、気の進まない道に身を投げる必要があることを月子は知っている。

 洟をひとすすりして目元を拭うと、勢い良く個室の戸を開いた。

 

 ――そこで、ひとりの少年と出会った。

 

「あ?」

「え?」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・男子トイレ/ 12:23

 

 

 女子としてはかなり長身の月子より、わずかに下に少年の目線はある。柔らかそうな癖毛の下の顔は、それなりに整っていると見えなくもない。ただ子供らしからぬ疲れた光がその目には宿っていて、全ての印象を台無しにしていた。

 

「……」

「……」

 

 今小用を済ませたばかりと思しきかれは、男子トイレの個室から飛び出してきた月子に少し面食らっているようだった。他方月子はというと、一瞬で状況把握したあと、反応に窮して身を固めている。少年が手を洗い、ハンカチで手を拭き、立ち去る様を黙って見送り、ようやく一息ついた刹那、

 

「おい」

 

 すぐに少年が戻ってきた。

 

「ふわあ!」と変な声で驚く月子である。

「ほら、これ」

 

 少年が手渡してきたのは、熱いおしぼり(アツシボ)である。基本的に他人が触れたものには触れたくない月子であるが、さすがに彼女も少年の意図はわかった。

 ちらと横手の化粧台を眺めれば、なるほどそこに映る少女の瞳は真っ赤である。瞼もやや腫れている。

 ようは、顔を拭けということだと月子は受け取った。泣いている女の子に対する少年の対応は、同じクラスの動物みたいな連中よりだいぶ月子の好みと言えた(というよりも、スマート過ぎて胡散臭いほどだった)。

 しかし、

 

「誰も、何もお願いなんかした覚えはないけれど」

 

 それでも跳ね除けるのが石戸月子である。

 

「そっか、わるかったな」少年はあっさりと引き下がった。「じゃあ、片付けておく」

「まって」そうすぐに退かれると、追いすがりたくなるのも月子だった。基本的に天邪鬼なのである。「……もらうわ」

「おう」

 

 少年は気安く破顔した。瞳の印象を裏切る、年相応に幼い笑みだった。

 受け取ったおしぼりを、月子は顔に当てる。心地よい熱が、瞼を通じて眼球に沁みていく。

 不快感はない。

 嘔吐感などかけらもない。

 

 あれ、と月子は思う。

 

(――なんで、)

 

 少年の手に、一瞬触れた。彼の手が触れたおしぼりを顔に当てた。

 それほどではなくても、少しは『酔う』と思っていた。それは月子にとってもはや人生と一体化した感覚だった。他人とは、例外なく、月子にとっての異物でしかなかった。親も、双子の兄ですら、同じだった。誰もかれもが、月子の『波』に干渉する異邦のひとたちだったのだ。

 

(――なのに、)

 

 まるで平気だった。

 どころか、頭がかつてないほど冴え渡っていた。

 

(――なにこれ、)

 

 月子は、生まれて初めて、いま、不快感を覚えていなかった。

 

 肌に這う虫のような異物の感触も、絶え間なくこめかみを苛む痛みも、いつだって喉元に引っかかる異物感も、気を抜くと吐きそうになる目眩も、しじゅう付きまとい続けた苛立ちも、

 何もかもが、忽然と消えた。

 

 世界に自分以外がいなくなる日まで付き合うつもりだった感覚が、消失した。

 

(治った、の?)

 

 力いっぱい、おしぼりを握り締める。

 月子は目を剥いて、立ち去りかけている少年の襟首を掴みとめた。

 

「待ちなさい」

「おわっ、な、なんだよ!」

「ちょっと来て」

「え、どこに、えっ!?」

 

 月子は少年を引きずってトイレを飛び出す。あたりをうかがう。手近なところに、手持ち無沙汰そうにしている花田が立っていた。ちょうどいい、と月子は思った。

 花田もまた、月子を目にして顔を綻ばせた。

 

「あ、あの、石戸さん、よかったらお昼、ごいっしょに、」

「いいところにいたわ。スバラさん」

「花田ですけど!?」

「失礼」月子は咳払いした。「花田キメラさん」

「煌! き・ら・め、ですっ! 私なにと合成されちゃってます!?」

「ちょっとお手を拝借」月子は意に介さず、花田の手を取った。

 

 小さく柔らかい女の子らしい手だ。指先の麻雀ダコだけが、硬い手触りだった。

 好ましい手の感触だが、

 

「おえっ」嘔吐感は、今度こそ月子を襲った。

「えーっ!?」ショックを受けたように立ちすくむ花田である。

 

(治った……わけじゃない)

 

 空えずきをやり過ごし、改めて引きずってきた少年に目を向ける。今さら少年の存在に気づいたらしい花田が「どちら様?」と問う。

 

 同じ疑問を、もっと根本的に、月子は抱いた。

 

「あなた、人間?」

 

「人間だよ」と少年は即答した。「人間の、幽霊みたいなモンだ」

 

「人間でも、幽霊でも、なんでもいい……」震える声で月子はいった。「……あなた、名前は?」

 

「え、須賀京太郎」今さらながら、目の前の少女が際物だと気づいたらしい少年が、迷いながら自分の名を名乗った。

 

「そう、須賀、京太郎、くん」

 

 その名前を、月子はかみ締めるように呟いた。

 それから、決然と京太郎を見つめた。

 

「こ、これはいったい」外野で花田がどきどきしていた。「もしや、ラブ的なあれでしょうかっ」

 

「須賀くん」

「な、なに?」

「お願いがあるわ。いきなり会って、なんだけど、はしたない子って、思うかもしれないけど……どうしても、どうしても聴いて欲しいお願いがあるの……っ」

「なんだよ……」

 

 月子は胸に手を当て、更に京太郎の襟首を握る力を強め、万感を込めて告白した。

 

「腕を切り落として、わたしに頂戴」

 

「警察呼んでくれ」京太郎は冷静に花田へ訴えた。

 

「お願い!」月子は必死だった。「お金なら、お金なら払うから! 一生かかっても払うから! わたしの安らかな日常のために腕を頂戴! 足でもいいから! なんならホームヘルパー雇って一生お世話するから!」

「誰か、ちょっと、誰か。なにこいつ、頭おかしいんだけど。っていうか力つええんだけど」

「ゆ、ゆびっ。指ならいいでしょ!? それか耳とか! ねっ、それならたぶんそんなに問題ないわ!」

「え、いくらくれんの」

「ひゃ、ひゃく……せんえん」

「思いなおしてそれかよ。出直して来い」

「出世払いするから!」

「人の体仕分けようってやつが何に出世するつもりなんだよ……」

 

「ナニコレ」

 

 呆然と立ちすくむ花田の肩を、背後から叩くものがあった。

 池田華菜である。

 

「ごはん食べないの?」

「いや、そうしたいのは山々なんですが……」対応に窮する花田である。「石戸さんのイメージが。うわーショックー」

「そうか?」池田は首を傾げた。「あたしは一目であいつの頭はおかしいって思ったけど」

「とりあえず、あのふたり、止めませんか」おずおずと提案したのは南浦数絵であった。「なんか怖いことになりそうですし……」

 

「おーい」そこに携帯電話を片手に持った春金がやってきた。「出前とるよー。何がいい?」

「ミソラーメン」と池田はいった。

「中華丼でお願いします」と南浦はいった。

「とんこつラーメン」と花田はいった。

 

「月子さんは?」

「腕とか指とかがいいらしいよ」池田が笑いながらいった。

「カニバルだなあ」春金が顔をしかめる。「適当になんか頼んでおくか」

 

「先っちょだけ、先っちょだけでいいから!」月子は見苦しく喚き続けた。

 

「考えておくよ」

 

 辟易した調子で、京太郎は呟いた。

 




2012/7/29:誤表記修正
2012/9/1:誤字修正
2013/2/18:牌画像変換


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6.なつのひ(後)

6.なつのひ(後)

 

途中経過(2回戦終了時点)

 

花田 煌    :-12.0

石戸 月子   :-48.4

南浦 数絵   :-13.7

池田 華菜   :+74.1

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・喫茶スペース/ 12:45

 

 

 岡持ちから取り出された五つの食器がテーブルに並べられる。湯気の立つそれらを前に手を合わせた少年少女たちが「いただきます」の声を唱和させた。

 そして沈黙が落ちる。

 

「……」

 

 誰もが異質な目を京太郎に向けていた。京太郎自身もまた、場違いを十分に自覚している。手渡されたレンゲでチャーハンを掬いながら(なぜか春金が彼の分も注文した)、おれはなぜここにいるのだろう、とかれは自問する。

 答えは思い浮かばない。

 車座になって昼食に手をつける寸前に、とりあえずといった風情で彼と少女たちは名乗りを交わした。

 

「それで」と直截な質問を切り出したのは池田華菜だった。「おまえ、そいつとどういう関係なの?」

 

 京太郎は早速返答に窮した。

 

(それはおれが聞きたい)

 

 右隣について離れない石戸月子は、先ほどよりは落ち着いたものの、京太郎の腕をぺたぺたと馴れ馴れしく触り続けている。月子の更に隣に居る花田煌は、そんな月子と京太郎の接触に興味津々だった。

 反面、問を発した池田本人と、京太郎の左隣に位置を取る南浦数絵は、あまりスキャンダルに熱心というわけではなさそうである。いずれも粛々と箸を進めている。

 結局、答えは京太郎の口から返された。

 

「初対面だけど」

「ヒトメボレってやつですか!」すばらっ、と指摘したのは花田だった。

「違うわ殺すわよ」月子が一呼吸で否定と脅迫をこなした。「なぜ、このわたしがこんなひょろっちいガキに一目惚れしなくちゃいけないの?」

「す、すみません。ころさないで……」怯えた花田が肩を縮ませた。

「じゃあ、なんなんだよ?」

「こたえる必要あるかしら?」

 

 あくまで月子は強気だった。

 

「少なくとも、いきなり腕くれとか言われたおれは必要あると思うな」京太郎は呟く。

「まあ……そうかもね」突然疲れた面持ちになった月子が、頭を振った。「話せば長くなるのよ」

「うん」

 

 と、相槌を打った京太郎は、月子の言葉の続きを待った。

 月子は食事を始めた(結局彼女は醤油ラーメンを注文した)。

 しばし、麺をすする音が響いた。

 

「話せば長くなるのよ」

 

 咀嚼と嚥下を終えて、月子がもう一度繰り返した。

 

「そんなわけでめんどうくさいから、理由は話さないわ」

「おい」さすがに京太郎の語気が強まった。

「そんなことより、須賀くんはどうしてこんなところにいるのかしら。麻雀、好きなの?」

 

 月子の強引な話題転換に、一同は嘆息した。短い時間ながら、この勝手な少女の気質を思い知らされたような気がしたのだ。

 

「学校の友達と来てるんだよ」京太郎は諦めた様子で答えた。「麻雀は、今週始めたばっかりだ」

「そう」月子は得心したふうだった。「じゃあ、好きも嫌いもこれからね。須賀くんはどちらになるのかな」

「さあ……」濁して答えた京太郎は、一息に残りの炒飯を口の中へ掻き込んだ。「それじゃ、おれはこれで」

「え? どこへ行くのよ」

 

 きょとんとした様子で、月子が京太郎の手首を掴んだ。

 すさまじい力だった。

 

「いてえいてえいてえ」

「悪いけど、このままあなたを帰すわけにはいかないわ」と、抑揚が欠けた口調で月子はいった。「あなたもそうかもしれないけれど、わたしたち、今日ここで麻雀を打ってるの」

「四人いるだろ。おれ、何の関係もないじゃないか。……ちょ、マジで痛い、痛いって」

「須賀くんには、わたしの傍にいてほしいな……」

 

 京太郎の手首を握り締める圧力が、さらに強まった。

 

「言葉だけ聞いてると愛の告白だし」池田が呆れた顔でいった。

「ちょっとやりたい放題すぎませんか、石戸さん」南浦が渋い顔で呟いた。「あの男子、少し可哀想です」

「そう思うなら助けてやれば?」

「巻き込まれたら、私が可哀想です」すまし顔で答える南浦である。

「いい性格してるよ、あんたも」

 

 外野がのんびりとやり取りする間にも、京太郎と月子の拮抗は続いた。月子の顔は涼しげだが、たまらないのは京太郎のほうである。何の誇張もなく、月子の力は子供のものとは思えなかった。得体の知れない熱のようなものが篭った右手は、これを放せば最後とばかりに喰い込んで緩む気配がない。

 大半の苛立ちと、若干の恐怖が京太郎の心理の戸を叩く。かれは、勢いに任せて腕を振り回した。

 

「いい加減、放せってば!」

 

「あ」

 

 という呟きとともに、月子の手が意外なほどあっさりと離れた。ところが振り飛ばされた月子の手は、狙い澄ましたように(実際に狙い澄ましたとしか思えなかった)湯気の立つ丼へ飛び込んだ。

 ラーメンの具も汁も、いささかも飛散することはなかった。

 京太郎も、どうにか二人と取り成そうと試みていた花田も、絶句した。

 

 数十度の液体に右手をたっぷりと浸しながら、月子は薄く微笑んで京太郎を見つめた。

 

「熱いわ」

「……やめろ」京太郎は月子の手首を掴み、器から引き離そうと試みる。

「火傷してしまうわね」

「やめろ、」

 

 手はぴくりとも動かない。

 

「右手が火傷しては、麻雀は打てないわ」月子はさらに言葉を連ねた。「あーあ、須賀くんのせいね。わたしの未来を賭けた勝負が、」

「わかったからやめろ!」

「なにがわかったの?」月子は平静だった。「()()()()()()()()()。わたしの目を見てね」

「おまえの、」京太郎は歯をかみ締めながら、言葉を搾り出した。「おまえの、言うとおりにする」

「オーケー」月子が破顔して、右手を汁から抜いた。「素直な子は、好きよ」

「……」苦りきった顔で、京太郎は月子の右手を観察した。

 

 液体を滴らせる指先も手の甲も、見る間に赤くなっていく。

 

「冷やすぞ」京太郎は月子の手を引いて、スペースの端に敷設されている洗面台へ向かった。

 

「ちょっと、何かあった?」異常を察して早足でやってきた春金清が、沈黙に包まれた一同に問うた。

 

 花田は言葉に迷う様子で、京太郎と月子の後姿を見送っていた。

 南浦も同じだった。

 

「あいついかれてる」池田が吐き捨てた。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 13:20

 

 

3回戦

東一局

花田 煌       :25000

石戸 月子(京太郎) :25000

南浦 数絵(親)   :25000

池田 華菜      :25000

 

「わたしのいったとおりに打てばいいから」

 

 と、石戸月子はいった。右手には真新しい包帯が巻かれている。椅子の背もたれ越しに京太郎の背へ体重を預け、かれの肩に顎を乗せている。

 接触する少女の体温と体臭、包帯と軟膏のにおいが混ざり合って京太郎の鼻をついた。

 

(甘ッたるくて、噎せ返りそうだ――)

 

 眉を顰めて、かれは聞き返した。

 

「言う通りって?」

「捨てる牌、鳴く牌は全てわたしが選ぶ。和了ることも和了らないこともわたしが決める。あなたはわたしのいったことをやればいいの。それを繰り返すだけよ」

「……まァ、いいけどさ」

 

 京太郎は牌を手に取りながら首肯した。肚を据えれば、戸惑うことはない。

 ただ心には、いくらかの後悔が募っている。

 

(ホント、変なやつに絡まれたなァ)

 

 先ほどから、友人たちが京太郎へちらちらと視線を向けている。助けに入るべきか、相談しているようだった。

 

(大人しくしててくれよ)

 

 背に張り付いている石戸月子という少女が異常者であることは、もう疑いがなかった。京太郎は自分自身の経験則から、自傷をためらわない人間に関わっていいことなど一つもないと思い知っている。気の置けない友人たちには、そんな物騒な女と関わりを持たないで欲しかった。

 

(おれががまんしてりゃ、それで済むかな――)

 

 東一局

 配牌

 京太郎:{一一二五八①⑥⑨⑨37中北} ドラ:{北}

 

(これは……)

 

 控えめにいって、話ならない滑り出しといえた。強いて言えばドラを含んだ七対子が薄く見えるが、それ以外に手役が狙える牌姿ではない。

 

「まあ、ボロボロねえ」耳元で月子が囁いた。「わたし本人じゃないせいが大きいのでしょうけど、ツキが引いたみたい」

「ツキ?」京太郎は眉を上げた。「おまえは運勢とか信じるタイプなんだ?」

「あら、須賀くんは信じないの?」

「あればいいなとは思うよ」

「じゃあ、面白いものが見れるかもね」

「そうかい」京太郎は胡乱な眼差しを相方(あるいは操縦者)に送る。

 

 少女の頬は薄っすらと桃色に色づいている。瞳は濡れたようで、年齢にそぐわない色気があった。

 京太郎の感性は、そんな月子の様子を、

 

(毒か虫だ)

 

 と捉えた。およそ、この片田舎で眼にする類の少女とは毛色が違う。素朴さや純粋さからはかけ離れた女だな、とかれは心中で月子の評価を下した。

 

「あ、理牌はしないでね。牌の上下もそのままにしておいて頂戴」

「あいよ……」

 

 東一局

 1巡目

 京太郎:{一一二五八①⑥⑨⑨37中北} ツモ:{發} ドラ:{北}

 

「で、何切る?」

「打{五萬}」

「くすぐってーから息を吐いたり吸ったりしないでくれ」京太郎は手を伸ばしながら、指定通りの牌を切った。

 

 打:{五萬}

 

「ああ、なんて言えばいいのかしら、この感じ」

 

 京太郎が河に牌を置くと同時に、月子が独語した。怪訝な瞳に、少女は応える素振りもない。

 

「ツキはない。からからだわ。どうしようもないのがわかる」

 

 東一局

 2巡目

 京太郎:{一一二八①⑥⑨⑨37發中北} ツモ:{九} ドラ:{北}

 

「打{⑨}」

「……」かろうじて表情を変えずに、京太郎は手牌を切り出した。

 

 打:{⑨}

 

「でも、負ける気がしない」

 

 東一局

 3巡目

 京太郎:{一一二八九①⑥⑨37發中北}  ツモ:{北} ドラ:{北}

 

「打{⑥}」

 

 打:{⑥}

 

(バラバラじゃねえか)

 

「須賀くん」と、月子は囁いた。「どうやらあなたのおかげで、わたし、人生で初めて絶好調だわ」

「そうかい」と、京太郎は白けた口調で応じた。「だったらさっさと役満でも和了(アガ)って解放してくれよ」

「それはちょっと無理ねえ」

 

 東一局

 4巡目

 京太郎:{一一二八九①⑨37發中北北}  ツモ:{⑧} ドラ:{北}

 

 打:{①}

 

 東一局

 5巡目

 京太郎:{一一二八九⑧⑨37發中北北}  ツモ:{四} ドラ:{北}

 

 打:發

 

 東一局

 6巡目

 京太郎:{一一二四八九⑧⑨37中北北}  ツモ:{①} ドラ:{北}

 

 打:①

 

 東一局

 7巡目

 京太郎:{一一二四八九⑧⑨37中北北}  ツモ:{六} ドラ:{北}

 

 打:中

 

 

 東一局

 8巡目

 京太郎:{一一二四六八九⑧⑨37北北}  ツモ:{七} ドラ:{北}

 

 打:{3}

 

(何がやりたいんだこいつは)

 

 京太郎捨牌:

 {五⑨⑥①發①}

 {中3}

 

 言われるがまま牌を切り出しつつ、京太郎は黙考する。萬子の引きに恵まれて、どうにか手はまとまりつつあるが、こうなると1巡目の打{五萬}があまりにも痛い。月子の手順には一貫性がなく、その場その場で打牌を選択しているようにしか思えなかった。あれだけ自信に満ちた宣言をしておきながら、明らかに手の進みが他家より遅れている。

 これでは間に合わない。

 

(麻雀は、どうやって他家より早く和了るかを競うゲームだろ)

 

「本質的には、そうね」心を読んだような月子の言葉だった。「ん? 外れた? いま、『これじゃ遅い』とか、思ったでしょう?」

「あ、ああ」

「いまのわたし、超勘が冴えてるから」月子は片目をつぶって見せた。「エッチなこととか考えたら、一発でわかるわよ」

「考えねーよ」

「あらそう」と、月子はいった。「それで、須賀くんの疑問に対する答えはこうよ。『遅くていい』の」

「……はあ?」

「だって、この局和了(あが)れないもの」

 

 東一局

 9巡目

 京太郎:{一一二四六七八九⑧⑨7北北}  ツモ:{北} ドラ:{北}

 

「打{六萬}」間髪入れずに月子はいった。

「……」

 

 さすがに京太郎はためらった。嵌{五萬}はたしかに振聴となるが、孤立牌の{7}を措いて両嵌の受けを払うのは抵抗がある。

 

(三色みてんのか?)

 

「打、{六萬}」月子が重ねていった。

「わかったよ」

 

 打:{六萬}

 

 下家の南浦が山へ手を伸ばすのを尻目に、ぽつりと月子が呟いた。

 

「ヤバいわね」

「なにがだよ。おまえの頭か」

「そうかもしれない」腐した京太郎の台詞を、月子はまともに受け止めた。「なるほど。これはちょっと、天狗になってしまいそうだわ」

 

 そして、次々巡、{2}を自摸切りした京太郎を尻目に、池田が動いた。

 

「立直」

 

 東一局

 11巡目

 池田:{■■■■■■■■■■■■■} ドラ:{北}

 

 打:{北}

 

 池田捨牌:

 {9⑨1南東發}

 {中一⑧8}{横北}

 

 月子が、不意に呟いた。

 

「……ポンして」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 13:26

 

 

 月子は人知れず、手に汗を握った。

 自ら負った右手の火傷が、じくじくと痛みを発している。

 

(あの体調不良がないだけで、こんなに違うもの?)

 

 経験や読みを飛び越えた直感が、かつてないほど冴え渡っている。

 疑問は尽きない。

 なぜ、出会ったばかりの少年に触れている間、月子を悩ます様々の症状が癒えるのか。

 稀有な出会いとはいえ、なぜ怪我を負ってまで少年を引き止めたのか。

 須賀京太郎に絡むこと全てが、違和感で出来ているようだ。

 

(でも、それはともかく――)

 

 まるで自分が制御できないというのは、月子にとって初めての感覚だった。

 

(わたし――)

 

 月子の背筋にふるえが走る。

 

(いま――)

 

 全員の手牌がほとんど透けて見える気がする、などといえば失笑を買うだけだろう。

 

 花田:{③④[⑤]■⑦23477■■■}

 池田:{三三三四[五]六七八八八■■■}

 南浦:{四五12■45678■■■}

 

 やはり直感で、この鋭敏さが永続するものではないことは理解できた。

 せいぜいこの一両日中に、月子を取り巻く現在の全能感は雲散霧消するだろう。

 だが、今日このときばかりは、

 

(――凄いことになってる)

 

 誰にも負ける気がしない。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 13:26

 

 

「二・三・四・五・六・七・八九萬}?」池田の河を一瞥した月子がいった。「あほか。なんでそんな待ちぽんぽん作れるのよ……須賀くん。次、自摸られるわよ。鳴いて、それから打{7}」

「マジか、そっちかよ――くそ。わかったよ」京太郎は自棄気味に発声した。「ポン」

 

 東一局

 11巡目

 京太郎:{一一二四七八九⑧⑨7北} ポン:{北横北北} ドラ:{北}

 

 打:{7}

 

「あ、それ、ポンです――っ」呼応するように花田が鳴いた。

「そっちか」月子がうめいた。「まいったな、差し込む気だったのに」

 

 東一局

 11巡目

 花田:{■■■■■■■■■■} ポン:{横777} ドラ:{北}

 

 打:{9}

 

 東一局

 11巡目

 京太郎:{一一二四七八九⑧⑨北} ポン:{北横北北} ツモ:{四} ドラ:{北}

 

「なにこれ。意味わかんないわ、あの娘」月子が舌打ちした。「打{北}」

「……おう」

 

 打:{北}

 

 しかし、

 

「自摸」

 

 東一局

 12巡目

 池田:{三三三四[五]六七八八八②③④} ツモ:{七}

 

 ドラ:{北}

 

 裏ドラ:{一}

 

「裏はなし。都合100点しか違わないけど、高めだな。2000・4000」

 

3回戦

東一局

花田 煌       :25000→23000(-2000)

石戸 月子(京太郎) :25000→23000(-2000)

南浦 数絵(親)   :25000→21000(-4000)

池田 華菜      :24000→33000(+8000、+1000)

 

「ナチュラルに8面待ちとか、当然のように高目引くとか、あの子本気で狂ってるわね……」月子がやっていられないという風情でいった。「清一色(メンチン)かと思ってびびっちゃったわ」

「おまえにそんなこと言われたくないと思うわ……」

 

3回戦

東二局

花田 煌       :23000

石戸 月子(京太郎) :23000

南浦 数絵      :21000

池田 華菜(親)   :33000

 

「さァて、おふたりさん」卓中央で賽を回しながら、池田が京太郎と月子へいった。「今度は飛ぶなよ?」

「なに、おまえさっきとんだの?」

「……つぶす……」月子がぎりぎりと歯噛みしていた。「けど、今回も無理か。いまは我慢の一手ね」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 13:35

 

 

 東二局もまた、池田の立直を皮切りに局面が移行した。八巡目に曲がった牌に対して、他家はおおよそ無力だった。とくに苦しんだのは、それなりの手が入っていたらしい花田である。

 そんな花田をアシストしたのが京太郎――もとい月子であった。彼女は京太郎に対して、平然と無筋の打牌を強いた。暴牌に対して池田の牌が倒されることはなく、結果的に月子は安全牌を四枚増やした。花田はこの援護に合わせ打って、どうにか放銃を回避した。

 だが、13巡目に、池田は易々と高目を引いた。

 

 東二局

 13巡目

 池田:{一二三②③④④④12388} ツモ:{①}

 

 ドラ:{⑤} 

 裏ドラ:{三}

 

「4000オール」

 

3回戦

東二局

花田 煌       :23000→19000(-4000)

石戸 月子(京太郎) :23000→19000(-4000)

南浦 数絵      :21000→17000(-4000)

池田 華菜(親)   :33000→45000(+12000)

 

「ハンパじゃねーな、これは」京太郎はたった2局にして、池田の引きに恐れ入っていた。

「引く牌引く牌必ず高目とか、正直やってられないわねー」でも、と月子はいった。「ちょっと潮目が戻ってきたわよ。もう少し辛抱すれば、勝負になる」

「……まさかとは思うけど、ツキが戻ってきたとか、そういうのか?」嫌々と京太郎は尋ねた。「それがわかるって?」

「なんでまさかと思うのよ。それ以外ないでしょう、文脈的に考えて」

「いやもうなんつーか……」

 

 苦言を呈そうとして、止める。

 京太郎は息をつく。

 

(ツキねぇ。――あるのかねえ、そんなモンが)

 

3回戦

東二局一本場

花田 煌       :19000

石戸 月子(京太郎) :19000

南浦 数絵      :17000

池田 華菜(親)   :45000

 

 続く一本場では、1巡目から花田が果敢に仕掛けた。一回戦の月子をなぞるような速攻である。

 それに対して不可解な動きを見せたのは、やはり月子だった。

 

 東二局一本場

 3巡目

 京太郎:{三[五]六七①②⑤⑧⑨147} ツモ:{四} ドラ:{2}

 

「打{[五]}」と月子はいった。

「はいはい」もはや京太郎は一々疑義を挟まなかった。

 

 打:{[五]}

 

「えっ、ポ、ポンっ」

 

 東二局一本場

 3巡目

 花田:{■■■■■■■} ポン:{横[五]五五} ポン:{白横白白} ドラ:{2}

 

 打:{七萬}

 

 東二局一本場

 3巡目

 京太郎:{三四六七①②⑤⑧⑨147} ツモ:{白} ドラ:{2}

 

「打{①}」と月子はいった。

「……」さすがに、その意図は京太郎にも理解できた。「差し込むのか」

「まずはこの親を流さなきゃね」

「あのさあ……自分で和了ろうとは思わないのかよ」

「まだそこまで体勢が整ってないわ」

「おまえの」京太郎は{①}を掴んだ。「言ってることは――さッッぱりわかんねえ!」

 

 打:{①}

 

「ロン」

 

 花田に逡巡はなかった。

 

 東二局一本場

 3巡目

 花田:{二三四②③99} ポン:{横[五]五五} ポン:{白横白白} ロン:{①} ドラ:{2}

 

「2300です」

 

3回戦

東二局一本場

花田 煌       :19000→21300(+2300)

石戸 月子(京太郎) :19000→16700(-2300)

南浦 数絵      :17000

池田 華菜(親)   :45000

 

「いい子ね、須賀くん」

「うっさい。ほっとけ」京太郎は吐き捨てた。

 

 月子の言われるがままに打つ取り決めとはいえ――京太郎は思った。

 麻雀を打っている気がまったくしない。

 まるで心が躍らない。

 

(つまんねえ――つまんねえぞ、これ――)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 13:45

 

 

「つまらないって思ってる?」

 

 東三局・四局・南一局は、息を潜める内に終わった。この日初めて、誰も和了しない局が連続して続いたのである。

 廻ってきた親番でさえ、月子は攻め気を見せなかった。ノーテン罰符が着実に点棒を削って、現在の状況は以下の通りとなった。

 

3回戦

南二局流れ3本場

花田 煌       :21300→20800(-1500、+1000、±0)

石戸 月子(京太郎) :16700→12200(-1500、-3000、±0)

南浦 数絵      :17000→19500(+1500、+1000、±0)

池田 華菜(親)   :45000→47500(+1500、+1000、±0)

 

「よくわかったな」京太郎は、つとめて平静さを装った。

「わかるわよ。そんな仏頂面されれば」月子は笑った。「つまらない理由のひとつは、やっぱり自分で打ってないからでしょうね。それに、和了ってもいない。そしてもうひとつは――」

「おれが下手だっていいたいんだろ」京太郎は月子の台詞をさえぎった。「下手だから、おれにはおまえの麻雀がわからねえんだ」

 

 苛立ちの混じりを、京太郎は抑え切れなかった。月子が何を思い、なぜ特定の牌を切らせるのか、まったく思考が追随できないのである。それは月子独自の感覚によるものなのか、あるいは単純に京太郎が未熟なためなのかが判らない。

 

「ようするに、そういうことかもね――さて、須賀くん。お待たせ、って感じだわ」

 

 南二局三本場

 配牌

 京太郎:{五②③④④⑤[⑤]⑦⑧9南南白} ドラ:{白}

 

「勝負――するわよ」

「そうだな……」

 

 南二局三本場

 1巡目

 京太郎:{五②③④④⑤[⑤]⑦⑧9南南白} ツモ:{白} ドラ:{白}

 

「打{9}」

 

 迷う選択ではない。

 そもそも、選ぶ余地などない牌姿だ。

 それでも――ここで初めて、月子の指示と京太郎の打牌が重なった。

 

 打:{9}

 

「これでいかなきゃ、嘘ってヤツだ」

 

 南二局三本場

 2巡目

 京太郎:{五②③④④⑤[⑤]⑦⑧南南白白} ツモ:{六} ドラ:{白}

 

 打:{六萬}

 

 南二局三本場

 3巡目

 京太郎:{五②③④④⑤[⑤]⑦⑧南南白白} ツモ:{北} ドラ:{白}

 

 打:{五萬}

 

 南二局三本場

 4巡目

 京太郎:{②③④④⑤[⑤]⑦⑧南南北白白} ツモ:{[5]} ドラ:{白}

 

 打:[5]索

 

 南二局三本場

 5巡目

 京太郎:{②③④④⑤[⑤]⑦⑧南南北白白} ツモ:{①} ドラ:{白}

 

 打:{北}

 

 南二局三本場

 6巡目

 京太郎:{①②③④④⑤[⑤]⑦⑧南南白白} ツモ:{4} ドラ:{白}

 

 打:{4}

 

(入らねぇ――河が、染め手丸出しじゃねーか。しかも、赤2枚使いの三色が狙えたか? そっちが正しかったか?)

 

 進まない向聴に、京太郎は焦れ始める。あれだけの配牌を与えられて、まさか和了できないことがあるのか――そんな思いに駆られる。長く打てばいくらでも味わう経験を、かれはまだ何度も経ていない。

 

「迷うことはないわ、須賀くん」諭すように月子がいった。「無様な河と、人に見えたとしても、たとえ通り過ぎた分かれ道が魅力的に見えたとしても、選べる打ち筋はひとつきり。和了への手順もひとつきり。わき目も振らず、まっすぐにいくの」

「……あ、うん」

「なによ」月子が口を尖らせた。「ハトが頭ハネ食らったみたいな顔しているわよ」

「いや、まともな台詞吐けたんだなって」

 

 南二局三本場

 7巡目

 京太郎:{①②③④④⑤[⑤]⑦⑧南南白白} ツモ:{⑨} ドラ:{白}

 

(来た――けど)

 

 ――どれを切る?

 

 京太郎の脳裏を、思考が走った。

 受け入れ枚数だけであれば、一気通貫が見込める上に面子の受け入れが4種11枚存在する筒子に手を出すべきではない。字牌を雀頭とするなら無論迷うまでもなく{白}(ドラ)を使い切って{南}を切り飛ばすのが正しい。しかし、その場合、仮に{④⑤}ポンテンを取った場合、ほぼ出和了りは期待できなくなる。それ以前に、この場況で筒子や字牌をノーケアで切り出す打ち手がこの場にいるとは思えない――。

 

 そして、月子の指示はシンプルだった。

 

「打{白}」

(――マジかよ)

 

「打、{白}よ」

「知らねえぞ、鳴かれても――」

 

 破れかぶれの気持ちで、京太郎は{白}(ドラ)を河に打つ。

 

 打:{白}

 

 発声は――無かった。

 しかし次巡、

 

 南二局三本場

 8巡目

 京太郎:{①②③④④⑤[⑤]⑦⑧⑨南南白} ツモ:{白} ドラ:{白}

 

(ド裏目じゃねえか!)

 

「打{①}」月子の声に動揺はなかった。

 

 失策を取り戻そうという気負いはそこにはない。少なくとも京太郎には感じ取れない。言われるがまま、かれは{①}を打ち出した。

 

 打:{①}

 

 揺らぎは、同巡に起きた。

 

 南二局三本場

 8巡目

 南浦:{■■■■■■■■■■■■} ドラ:{白}

 

「……」

 

 下家の南浦数絵が、強い打勢で――

 

 打:{白}

 

 {白}を打った。

 

(で、やがった)

 

「須賀くん」月子が京太郎の肩に触れる。

「ああ――わかってる」

 

 京太郎も、心得ていた。

 

「ポン」

「え」

 

 南浦が、遅ればせながら{白}を釣られたことに気づいたようだった。

 

 南二局三本場

 8巡目

 京太郎:{②③④④⑤[⑤]⑦⑧⑨南南} ポン:{白白横白} ドラ:{白}

 

「打{②}」

「そいつも、わかってる」

 

 打:{②}

 

(張った――)

 

 {③⑥}待ちの跳満手である。出和了は望めないとしても、引けば十分逆転の目が出てくる。おまけにトップ目の池田にとっては親被りとなる。多少のリスクを鑑みても、突っ張る意義は十分にあった。

 

(引けよ、引け)

 

 南二局三本場

 9巡目

 京太郎:{③④④⑤[⑤]⑦⑧⑨南南} ポン:{白白横白} ツモ:{七} ドラ:{白}

 

 打:{七萬}

 

(引け――)

 

 南二局三本場

 10巡目

 京太郎:{③④④⑤[⑤]⑦⑧⑨南南} ポン:{白白横白} ツモ:{②} ドラ:{白}

 

 打:{②}

 

「覚えておきなさい、須賀くん」しようがなさそうに、月子がいった。「そんなに念じたところで、牌は気まぐれよ。だから命じたところで、来てはくれないの。そこはそう、普段からきちんと躾けておかないとね――引けるわよ。わたしが、鳴いたのだから」

 

 南二局三本場

 11巡目

 京太郎:{③④④⑤[⑤]⑦⑧⑨南南} ポン:{白白横白} ツモ:{南} ドラ:{白}

 

 ――{南}。

 役はつき丁度倍満手となるが、その場合聴牌を取るには打{③}の{④⑤}待ちか、あるいは打{⑤}の嵌{④}待ち、そして振聴となる打{④}の{②⑤}のいずれかを打つ必要がある。当然、待ちは悪形変化も伴う打牌である。張替えを望むのであれば実質打{③}しかとりえないが、

 

(おれなら、――{③}を打つ)

 

「それだと」{南}を指して、月子がいった。「上家の七対子に刺さるわね。だから、ここの正着は打{③}よ、須賀くん」

「……おれも、そう思ってたよ」

 

(ただ、その理由は、ぜんぜん違うんだな)

 

 打:{③}

 

 静かに呼吸を落として、京太郎は次巡の自摸を待つ。上家の七対子、と月子はいった。花田はすでに張っているのだろう。あらためて観たところで、彼女の河から七対子を連想することなどできない。京太郎には当たり前のタンピン手を目指しているようにしか見えない。

 池田・南浦は、手の進みが悪いのか、ここ数局は静穏そのものだった。序盤にキーとなる牌を京太郎が多数切り落としたせいもあるのだろう。二人とも、筒子と字牌の絞りに入っているようだった。

 

 まるで、無人の道だ。

 

(なんでだ?)

 

 と、京太郎は自問する。

 

(さっきまで、あんなに引きたいと思ってたんだ)

 

 南浦が河へ牌を捨てる。

 

(いまは、引かないでほしいって思ってる)

 

 池田が河へ牌を捨てる。

 

(そんなに簡単に、思い通りになるなって思ってる)

 

 花田が河へ牌を捨てる。

 

(なんでだ――)

 

 京太郎は機械的に、山へ手を伸ばす。

 期待も希望も何も無い。

 硬質な確信だけが指先に宿っている。

 

 それは、月子の異能がもたらしたものだ。

 

 それを、京太郎はいやに味気なく感じる。

 

(引くな――たのむから)

 

 南二局三本場

 11巡目

 京太郎:{④④⑤[⑤]⑦⑧⑨南南南} ポン:{白白横白} ドラ:{白}

 

 

 ツモ:{⑤}

 

 

「4300・8300ね」月子がいった。

 

 京太郎は、黙って天を仰いだ。

 

(さっきの倍満より、ずっとむなしいのは、なんでだ)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 13:52

 

 

3回戦

南二局流れ3本場

花田 煌       :20800→16500(-4300)

石戸 月子(京太郎) :12200→29100(+16900)

南浦 数絵      :19500→15200(-4300)

池田 華菜(親)   :47500→39200(-8300)

 

3回戦

南三局

花田 煌(親)    :16500

石戸 月子(京太郎) :29100

南浦 数絵      :15200

池田 華菜      :39200

 

 倍満和了の余勢を駆って一位を狙う、かと思いきや、月子は再び消極策を打った。

 配牌からオリのスタンスを崩さず、要所で花田や南浦に牌を食わせて打点を下げる。そして終盤は一切甘い牌を落とさず、アクロバティックな打ち回しで形式聴牌を固持する。

 変則的な月子の摸打にリズムを狂わされたのか、南三局はまたも無和了で流局となった(花田に至っては2副露したにも関わらず聴牌には至らなかった)。

 

3回戦

南三局

花田 煌(親)    :16500→15000(-1500)

石戸 月子(京太郎) :29100→30600(+1500)

南浦 数絵      :15200→16700(+1500)

池田 華菜      :39200→37700(-1500)

 

3回戦

南四局流れ一本場

花田 煌         :15000

石戸 月子(京太郎)(親):30600

南浦 数絵        :16700

池田 華菜        :37700

 

 そして、迎えた3回戦オーラス――。

 

「念のため聞くけど、トップ、狙うんだよな」京太郎は定位置が肩になった月子の顔に問いかける。

「気持ちはもちろん狙いたいところだけど――残念ながら、厳しいわ」月子の回答は淡白だ。「さっきの和了で、手持ちの弾がなくなっちゃった。またしばらく充電しなくちゃ」

「流れが来てるんじゃないのかよ?」

「流れがないところで無理に集めたからひずみが出たのよ」月子は器用に肩をすくめて嘆息した。「とりあえず、やれるだけやってみる?」

「あたりまえだ」

 

 最下位からここまで追い上げて、頂点を陥れないのでは意味がない。京太郎は体勢を改めると、面持ちを厳しくして賽を振る。

 

 むろん、京太郎は月子の言われるがままに打つ立場である。ただ座席について牌を打つ以上は、思いいれが生じるのは避けようが無い。

 

(勝てば、このイライラも、すこしはマシになるだろ)

 

 だが、

 

「ロン」

 

(え)

 

 呆然とする京太郎をよそに、池田が牌を倒した。

 刺さったのは、花田の打った{一萬}である。

 

 南四局流れ一本場(オーラス)

 5巡目

 池田:{二三六七八八八⑦⑧⑨345} ロン:{一} ドラ:{發}

 

「1300で、終了だ」

 

「ほらね」

 

 と、月子がいった。

 

3回戦

南四局流れ一本場(終了)

花田 煌         :15000→13700

石戸 月子(京太郎)(親):30600

南浦 数絵        :16700

池田 華菜        :37700→39000

 

結果(3回戦終了)

花田 煌      :-16.3(小計:- 28.3)

石戸 月子(京太郎):+ 0.6(小計:- 47.8)

南浦 数絵     :-13.3(小計:- 27.0)

池田 華菜     :+29.0(小計:+103.1)

 

 

「……流れ、ツキねえ……」

 

 一くさり呟くと、京太郎は据わった目で天上を見上げた。

 

「仮にそれがあったとしたって、こいつは、なんか、違うだろ――」

 




2012/8/26:誤字を修正。
2012/9/1:誤字修正。
2013/2/18:牌画像変換


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7.ばいにん(前)

途中結果(3回戦終了)

花田 煌    :- 28.3

石戸 月子   :- 47.8

南浦 数絵   :- 27.0

池田 華菜   :+103.1

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 14:05

 

 

「もういいだろ」

 

 三回戦を終えてすぐ、京太郎は席を立ちかけた。かれの腹腔で、得体の知れない感情が水かさを増しつつある。これまでの人生であまり馴染みのないその感情を、京太郎は名付けないままでやり過ごしたかった。

 しかし、

 

「なにがいいのよ」

 

 と、石戸月子は京太郎を引き止める。やはりと嘆息しつつ、京太郎は途方に暮れた。数々の我侭に晒されて、かれの率直な感情は、月子にほとんど生理的な嫌悪感を抱きつつある。あまり他人を嫌うことがない京太郎にとって、これは珍しいことだった。

 

「おれは友達と来てるんだよ」と、訴えかけるように京太郎はいった。「約束通り、代わりにやっただろ。もう、抛っておいてくれよ」

「ふうん。そのオトモダチとは、今日でもう会えなくなったりするの?」月子がいった。

「いや、学校でだってどこでだって会えるけどさ」

「じゃあ、普通に考えればわたしを優先すべきじゃないかしら」それが自然の道理であると言わんばかりの月子だった。「わたしとはもう会えるかどうかわからないんだし」

「おまえは、おれの友達じゃない」京太郎はきっぱりといった。

「……それは、そうよ」月子は唇を噛んで、一瞬口ごもった。「でも、だからって約束を破るの? 男のくせに」

「だから、約束なら守っただろ」京太郎は今すぐにでもこの場を去りたかった。

「わたしのいう通りにするっていったでしょ」月子が口早に反駁した。

「したじゃねえか」

「だったらあと五回、付き合ってよ!」

 

 ごかい、と京太郎は鸚鵡返しにせりふを口にした。真偽を確かめるように、南浦、花田、池田の顔を見やる。めいめいの反応は簡潔で、明解だった。みなが黙って首肯したのだ。

 

「まじかよ……」京太郎は顔を引きつらせた。「日が暮れる。むりだ」

「で、でも、さすがにこの人は元々関係ないですし」おずおずといったのは花田だった。「石戸さんもけがしてますし、後日、もう一回続きからというのは……」

「私は長野住まいではないので、それは難しいですね」真っ先に南浦が首を振った。「たまたまお祖父さまの所に泊まりに来ているだけですので、明日には地元に帰ってしまいます」

「あたしもふだんは週末、妹の世話とかあるからなー」池田も続いた。「夏休みになったら旅打ちするつもりだし」

「ほら、みんなそれぞれ忙しいのよ」水を得た月子が畳み掛けた。「どうせあなたなんか、ひまな毎日を過ごしてるんでしょう? だったら今日一日くらい、身体を貸してよ」

「おまえらの事情に、そもそもおれは全然関係ねーだろ」京太郎はあくまで渋った。「なんでも無理やりで言うこと聞かせられると思ってんじゃねーぞ」

「それはもっともですね」南浦が京太郎の肩を持った。「だいたい、そこの……須賀くんにだって、都合があるんですから」

 

 諌めるように言葉を紡いだ南浦に対して、月子が示した反応は激甚だった。

 

「――うるさい! ちょっと黙っていなさい!」

「うるさい、ですか」南浦が挑発的に口角を吊った。「そうやって声を上げれば、相手が黙ると思ってませんか?」

「……誰に口を利いてるの? あなた」

「ダンラスの石戸月子さんにですよ」

 

 京太郎を差し置いて、月子と南浦のあいだに一触即発の空気が流れ始めた。

 

「オコボレでたまたまその席にいるというだけなのに、気づいていないみたいね」鼻から大きく息を漏らしながら、月子がいった。

「誰かが下手過ぎて、場が荒れてますからね」南浦は動じず応じた。

「は? 下手?」月子の顔色が変わった。「わたしにいっているの?」

「誰とは言っていませんよ」

「言っているようなものでしょ」月子が目じりを釣り上げた。「このブス」

「ブ……」南浦の表情が崩れた。「ブスっていったほうがブスです」

「うるさいわねブス黙りなさいよブス」

「こっ、ブスじゃないもん……っ」南浦が両手を握り締める。月子と同じ土俵に乗るまいと、冷静さを取り戻すよう努めていた。「む、むむ……!」

 

(なんなんだ……女子こえーよ)

 

 身の置き所のない感覚に押されるように、京太郎は一歩二歩とあとずさる。こういうときこそ大人にいてほしいのに、春金は居合わせていない。休日の昼下がりを回って、麻雀スクールはますます賑わいを増している。各講師はそれぞれの卓に張り付いて、京太郎たちの卓にまで目が行き届いていない。

 

「まあ、そうびびんなよ」京太郎の肩を叩いたのは、池田華菜である。「基本的に麻雀強いやつってみんなどっか自分が一番だと思ってるし、人をハメるのが上手かったりするからな。それが好きかどうかはともかくさ。こんなの、よくあるよくある」

「そ、そうなのか」

「そうなのさ」

 

 と、池田は頷いた。余裕綽々の素振りである。

 

「で、どうなん?」と池田は京太郎に尋ねた。「たぶん、あんたがやるっていうかきっぱり断るかしないと収まんないし」

「……おれがやらないと、卓は割れるのか?」

 

「どうだかね」池田は即答しなかった。「それで、やりたくない理由ってホントは何? 友達と打ちたいって理由じゃないだろ? 元々人数は余ってたみたいだしさ」

 

「理由っていうか」京太郎は迷う。もつれた感情の糸をほぐすように、言葉の端緒を探した。「あいつの、なんていうか、打ち方がよくわかんねぇんだ。それはおれがまだ初心者だからなのか、べつの理由なのか――とにかく、変だ。気持ちが悪い。ただ一緒に打つならともかく、それをやらされるとなると堪らないんだよ」

 

「あいつの打ち方ねえ。なるほど」と、池田がいった。「ツモ牌相を弄って副露して筋をずらして加速、みたいなやつ? ふーん。そっか、あたしは単純に便利そうだなーと思うけど……『気持ち悪い』ね。そういうふうに感じるやつもいるんだナ」

「……ああいうの、普通なのか?」

()()()()()()()()()()()()()けどさ」池田は苦笑した。「そもそも、何と比べて普通だなんて思うんだ? あんた、初心者なんだろ? どんな牌姿も牌勢も摸打も、ありえないなんてことはないし。――たとえばさぁ」

 

 火花を散らす月子と南浦、慌てる花田を尻目にして、池田はラシャの上に詰まれた牌山に触れる。

 

「麻雀牌は34種136牌ある。それで、親の配牌は14枚。単純に組み合わせの数だけなら、配牌はだいたい3000億のパターンが存在するっていわれてる。その中で天和や地和ができあがる確率は30万分の1。気の遠くなるような感じだけど、でも、あたしは、いままでの人生で1回天和、2回地和で和了ってる。数字だけを見れば90万局――単純計算で平均11万回以上半荘をこなさなきゃ出来上がらない記録だけど、あたしが人生で打った半荘の数なんか、まだ1万回いくかいかないかってところだ。そう考えると、華菜ちゃんは人の10倍以上配牌に恵まれてることになるし。――で、聞きたいんだけど、これ、異常だと思う?」

「そういわれると……」京太郎は語勢を弱めた。「運は、すげえ良いなって気はするけどさ。つうか、『華菜ちゃん』?」

「そこはわすれろっ。……正解は」一寸赤面しながら池田がいった。「『異常か正常かはわからない』だ。これから先、あたしが未来永劫3万局に1回天和・地和を和了り続けたらそれは『異常』だ。でもそれを証明し続けることは無理だし、あたしのような美少女もやがては死ぬ――人はみんないつか死ぬ。個人は確率を実証する完全な機械にはなれない」

 

「う、うん」京太郎は必死で頭を回転させる。池田の話についていくのがやっとで、口を挟むことができない。

 

「さて、それじゃア、世界のどこかで立ってる1万個の卓の中にたまたまあたしがいて、たまたまあたしがばんたび天和や地和を和了する役目になったとして、それはある意味で『正常』だ。30万分の1っていうオーダーは守られてる。でももちろん、その役回りが一人に集まるのは『異常』だ。これ、どっちが正解なんだろうね」

 

 実際のところ、池田の言い回しは詭弁や空論に過ぎなかった。

 彼女が言っているのは『恣意的に総体の中で確率の採算を取る』ということである。仮にそんな現象を実現させる打ち手がいるとすれば、3万局に一度配牌和了を授かるよりも、よほどオカルトめいている。

 

「ううん……」京太郎は首を捻る。「なんとなく納得できるような、屁理屈のような」

「ようは」と池田はまとめた。「人ひとりが生きていくだけなら、奇跡が入り込む隙間なんかいくらでもあるってこと。石戸のあれも、まァ、そういうモンの一種なんじゃないかな」

 

「いや、だからさ。納得はしてるんだよ、おれ」どうも勘違いされてるようだと察して、京太郎は言葉をおぎなった。「そういうこともあるんだろうな、ってのはわかる。そういうんじゃなくてさ、うまくいえないんだけどさ、あんなの――あんな麻雀は、つまらないんだ」

 

()()()()()?」その言葉を聴いた池田の顔が硬質化した。「おまえは麻雀の何をわかってるんだ? ヒト様の打ち方を云々するほどえらいってわけか?」

 

「え? いや、それは――」

 

 池田の剣幕に、京太郎は鼻白んだ。脳裏に、黄昏時の国道での出来事が蘇った。

 

(またやってしまった)

 

 と、かれは思った。

 

「ごめん」項垂れて、頭を下げた。「おれには合わない。打ってると、つらい。そういう意味だ」

「――あ、いや、こっちこそ、なんかごめん」池田は後頭部をかいて、目線を逸らした。すぐに柔らかい表情が戻った。「でもま、その気持ちも、わからなくはないよ。そのモヤモヤをどうにかしたいなら打つべきだと、あたしは思うな。つまらない、認めない、だからありえない、いなくなれ――なんて、それこそツマンナイし!」

「……」

 

 池田のいうことも、わからないではなかった。麻雀に関して経験が浅い京太郎も、人の打ち筋を論うことの無意味さに関しては想像がつく。本当にありえないことなど存在しないゲームだからこそ、京太郎のような初心者でも、風向き次第で経験者に勝利しうる。負けた側にすれば、それこそ理不尽な話なのである。

 だが、理屈ではない。

 

(おれはたぶん、もう、この麻雀ってやつにイカれてる)

 

 そして京太郎を惹きつけて止まないその魅力と、月子の打牌は真っ向から相反するのである。

 ただ、それが気に入らない。

 単純な話であった。

 そう内心を決着させて、京太郎ははたと気づいた。

 

(むきになってるのか、おれは)

 

 明日の夜明けさえ厭う自分が、たかが盤上の遊戯に入れ込んでいる。しかも熱意の対象は自分自身の勝ち負けではない。他人――それも今日会ったばかりの、頭のおかしな女の打ち方に対して、かれは明らかに熱くなっていた。

 

(身の程を知らないってのは、このことだ)

 

 京太郎は大きく息を吸い、吐く。路地に面した硝子越しに、夏空を直視する。泳ぐ雲の量が、心なしか多く見える。色も濁りつつある。あるいは一雨来るのかもしれない。

 視線を池田華菜に戻す。どことなく猫を連想させる少女は、気後れもなく京太郎を見上げていた。

 後ろを振り返れば、どうにか花田が月子と南浦の仲裁を終えたところのようだった。ただし未だ興奮は冷め遣らない様子で、角逐をぶつけ合った二人は、お互い大人びた落ち着きをどこかにかなぐり捨てている。罵倒こそ飛んでいないものの、眼光には敵視が色濃く宿っていた。

 

「なあ」と、京太郎は池田にだけ聴こえるように、囁いた。「打つよ。おれは打つ。あいつの代わりにさ。――でも、ひとつだけ頼みがある」

「聞こうじゃないか」と、内容も聞かずに池田は請け負った。

「……アンタ、格好良いなァ」思わず、京太郎は微笑んだ。

 

 池田が唇を尖らせた。

 

「そこはせめて、可愛いといえ」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 14:30

 

 

 結局、京太郎は自ら友人たちに断りを入れる羽目になった。みな納得が行かない顔つきで、しかししょうがないと京太郎を見送ってくれた。京太郎にしても今に至る経緯がよくわからないのだから、かれらにすれば当然面白くない事態のはずである。それでも、皮肉を口にするものは一人もなかった。つくづく友人に恵まれたと、京太郎は心底感謝した。

 問題は帰路である。手持ちの金で地元に帰ることは出来ても、駅からは親に出迎えを頼む必要があるだろう。胸中叱責を買う覚悟を固めると、かれは大きく背伸びした。

 

(さて――)

 

 京太郎の変心を、月子は素直に歓迎した。南浦は納得行かない顔つきだったが、元より予定に沿うだけなのである。少年少女ら五人は、再び卓についた。

 

4回戦

東一局 ドラ:{八}

【南家】花田 煌       :25000

【西家】石戸 月子(京太郎) :25000

【北家】南浦 数絵      :25000

【東家】池田 華菜(親)   :25000

 

 前半戦最後の半荘の、起家は池田である。京太郎の真後ろにぴったりと陣取った月子は、か細い声で囁いた。

 

「まずは、あの娘の勢いを止めないとね」

 

 3回の半荘を追えて断然トップである池田を、月子はやはり重視しているようだった。

 

 東一局 ドラ:{八}

 配牌

 京太郎:{七七八九②③⑤⑧124西西}

 

(三向聴)

 

 順子に偏っているものの、軽い手だ。自風を早い巡目で叩くことが出来れば、そうそう遅れは取らない牌姿である。逆説的に、自風の入りが滞った場合急所になりかねない。

 

 東一局 ドラ:{八}

 1巡目

 京太郎:{七七八九②③⑤⑧124西西} ツモ:{⑧}

 

 打:{1}

 

 1巡目の打牌選択に遅滞は無かった。定石どおりの手順である。月子はこの種の切り出しで変に工夫することは一切無い。

 しかし2巡目、月子の指示が妙な箇所で止まった。

 

 東一局 ドラ:{八}

 2巡目

 京太郎:{七七八九②③⑤⑧⑧24西西} ツモ:{一}

 

(――あん?)

 

 {一萬}引きである。塔子にすらならない牌で、ドラ関連牌でもない。現在の牌姿で自摸切りに迷うような牌ではない。

 

(そのはずだ)

 

 と、京太郎は思う。だが不安感は拭えない。また、月子が持つ霊感めいた何かが、京太郎の指運に背くのかもしれない。そっと伺うと、月子の目線は{七萬}へ触れている。

 

(おいおい。そいつは――)

 

 ありえない。と、京太郎が思った矢先、

 

「そんなばかな」と、月子がいった。笑っているようだった。「打{一萬}」

「……ああ」

 

 打:{一萬}

 

 そして同巡、下家の南浦から{西}が出た。当然、月子は副露を指示した。京太郎も否とはいわなかった。

 

「ポン」

 

 東一局 ドラ:{八}

 2巡目

 京太郎:{七七八九②③⑤⑧⑧24} ポン:{西西横西}

 

「打{⑤}」

 

 月子は赤牌の重なりよりも、{七萬}と{八萬}(ドラ)のくっつきを重視した。どちらも完全一向聴へ向かうため、手順として不自然な箇所はない(打{七萬}とした場合、塔子の{②③}と受け入れが重複する。それを嫌った可能性もある)。京太郎も違和感なく{⑤}を切り出した。

 

 打:{⑤}

 

 そして3巡目、

 

 東一局 ドラ:{八}

 3巡目

 京太郎:{七七八九②③⑧⑧24} ポン:{西西横西} ツモ:{3}

 

(速い……)

 

 あっさりと嵌{3}を自摸り、京太郎は聴牌を果たした。余計な仕草は気配を悟られかねないため、かれもあえて月子を窺いはしない。ただ、当然のような顔をしていることは想像がつく。

 

 打:{七萬}

 

 その後の展開に、大きな山や谷はなかった。最速の聴牌を入れた月子(京太郎)が、次々巡にあっさりと自摸和了を果たしたのみである。

 

 東一局 ドラ:{八}

 5巡目

 京太郎:{七八九②③⑧⑧234} ポン:{西西横西} ツモ:{①}

 

「500・1000」

 

4回戦

東一局

【南家】花田 煌       :25000→24500(-500)

【西家】石戸 月子(京太郎) :25000→27000(+2000)

【北家】南浦 数絵      :25000→24500(-500)

【東家】池田 華菜(親)   :25000→24000(-1000)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 14:36

 

 

4回戦

東二局 ドラ:{①}

【東家】花田 煌(親)    :24500

【南家】石戸 月子(京太郎) :27000

【西家】南浦 数絵      :24500

【北家】池田 華菜      :24000

 

 

 続く東二局の配牌を見て、京太郎は嘆息した。

 

(この配牌……)

 

 東二局 ドラ:{①}

 配牌

 京太郎:{三三[五]六①①④⑥⑧⑧中東東}

 

(また翻牌が対子で入っていやがる)

 

 まだ類例を十分に積み重ねたわけではないにしても、なかなか良く出来た『偶然』だと言わざるを得ない。面子は少なく索子の受け入れも皆無だが、風向き次第で容易に満貫が見えている。{赤⑤}でも引いて更に{①}(ドラ)を重ねれば跳満手である。

 が、

 

「――あら。まいったわ」

 

 京太郎の感想に反して、肩口からは渋い声が上がった。息衝きとともに、「上家のアガり番ね」と月子は続けた。

 

 東二局 ドラ:{①}

 1巡目

 花田:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{①}

 

 劈頭からの{①}(ドラ)打ちに、やにわに場に緊張が走った。次ぐ京太郎の自摸は{二萬}引きである。

 

「打{中}」と月子はいった。

 

 打:{中}

 

「――ポン」南浦が即座に仕掛けた。

 

 東二局 ドラ:{①}

 1巡目

 南浦:{■■■■■■■■■■} ポン:{横中中中}

 

 打:{東}

 

(鳴くか?)

 

 指先でラシャを叩き、京太郎は月子の注意を引いた。月子は無反応だった。

 

(鳴かないのか――)

 

 池田が牌山へ手を伸ばす。その様を、京太郎は軽い驚きと共に見送る。

 月子の呼吸が浅い。京太郎は釣られるように息を潜めて、他家の打牌に眼を凝らす。かれは巻き込まれて座る身である。いわば月子の腕や手でしかない。それは自覚しているが、だからといって得るものもなく漫然と時間を費やすのでは、心情を枉げて卓を囲んだ意味が無い。

 

 東二局 ドラ:{①}

 1巡目

 池田:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{⑨}

 

 池田の打{⑨}を一瞥して、花田がゆっくりと動き始める。

 

「ふぅ――」

 

 東二局 ドラ:{①}

 2巡目

 花田:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{東}

 

 三家の注視に晒されて、親の花田が打った牌は連風牌の{東}であった。

 もはや、疑いようも無い。

 ――花田に本手が入っている。

 

(おいおい。怖えな)

 

 そして四巡目、よどみの無い動作で花田から立直の発声が掛かった。

 

 東二局 ドラ:{①}

 4巡目

 花田:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{5}

 

 捨牌:

 {①東1横5}

 

「リーチっ!」

 

(これは――高いぞ)

 

 京太郎は嘆息する。花田の手牌を類推するまでもない。読めるはずなどない。戦って抗える可能性は零ではないが、それならば2巡目の{東}を叩いていただろう。月子の言動から、彼女にはこの局で和了を目指す意思がないことは察せられた。

 

「とりあえず、安全牌片っ端から切っていけばいいか」京太郎はいった。

「とうぜん、ベタオリでよろしく」

「安全牌が無くなったらどうすればいい?」

「お手上げ」月子は笑った。「でも、そんな心配は要らないんじゃない?」

 

 ここまで、月子の予想は大方外れていない。それは今回も同様だった。浅い巡目の親立直に対して、立ち向かうだけの陣容が揃っているものは皆無だった。月子に続いて、全員が安全牌を手出しした。しかし――。

 

「ツモっ」

 

 花田は難なく自摸和了した。

 

 東二局 ドラ:{①} 裏ドラ:{1}

 7巡目

 花田:{白白白1234[5]67899} ツモ:{3}

 

「……裏がついて、8000オールです!」

 

「それは余計よ……」月子がちくりといった。「240Z(ニイヨンマルゼット)かあ……」

「え、なんですかそれ」花田が首をかしげた。

「おっさんくさいなお前」池田は呆れつつ、単語の意味は知っているようだった。

「お、おっさんくさいんだ……」南浦は人知れず、目を逸らしていた。

 

4回戦

東二局

【東家】花田 煌(親)    :24500→48500(+24000)

【南家】石戸 月子(京太郎) :27000→19000(-8000)

【西家】南浦 数絵      :24500→16500(-8000)

【北家】池田 華菜      :24000→16000(-8000)

 

「……さて」と、点棒を供出した月子が呟いた。「それじゃあ、巻いていきましょうか」

 

 月子の言葉に嘘は無かった。3回戦と同じく、彼女は勝気を見せず、局を消化することに注力を始めたのである。東一局2本場、前場に引きずられた各人が打点を求める最中、月子は容易に自風を鳴いて手を進めた。一馬身抜き出た月子を引き止めることは、その場の誰にもできなかった。

 

 東二局一本場 ドラ:{⑨}

 8巡目

 京太郎:{[五]五七九②②②345} ポン:{横南南南} ロン:{八}

 

東二局一本場

【東家】花田 煌(親)    :48500

【南家】石戸 月子(京太郎) :19000→21300(+2300)

【西家】南浦 数絵      :16500→14200(-2300)

【北家】池田 華菜      :16000

 

 東三局では、フォームを修正した池田が追随した。月子の鳴きに対抗する形で、彼女も役牌を叩いたのである。捲りあいは池田に軍配が上がったものの、和了形は安目であった。

 

 東三局一本場 ドラ:{東}

 11巡目

 池田:{二三四五六七八九南南} ポン:{中横中中} ツモ:{四}

 

「……1000・2000だな」池田は肩をすくめた

 

 満貫まで伸びる手を、3900に削ることに成功して、月子はほくそえんだ。

 

「なるほどね」と月子は上機嫌でいった。「毎度毎度高目を引くわけじゃないってこと」

 

東三局

【北家】花田 煌         :48500→47500(-1000)

【東家】石戸 月子(京太郎)(親):21300→19300(-2000)

【南家】南浦 数絵        :14200→15200(-1000)

【西家】池田 華菜        :16000→20000(+4000)

 

 続く東四局でも、月子が終始ペースを握った。花田は安手で場を進めるため、南浦、池田は点差を縮めるために、牌の絞りを緩めざるを得ない。役牌が出れば月子は叩く。月子が叩けば手が進む――点差を考慮せずひた走る月子を防ぐのは至難の技である。

 また、月子を除く三人の中で、その種の場況に合わせた打ち回しにもっとも長けているのが花田であった。その花田は月子の上家であり、彼女と月子の利害が一致している以上、実質月子の早和了を止める手立てはなかったといえる。

 

 東四局 ドラ:{1}

 5巡目

 京太郎:{一一⑥⑦⑧[5]67東東} ポン:{横北北北} ツモ:{東}

 

「1300・2600……」

 

東四局

【西家】花田 煌         :47500→46200(-1300)

【北家】石戸 月子(京太郎)   :19300→24500(+5200)

【東家】南浦 数絵(親)     :15200→12600(-2600)

【南家】池田 華菜        :20000→18700(-1300)

 

 南一局、池田に回った最後の親番でも、月子の姿勢は一貫していた。打点は度外視して、ひたすら先行する。池田・南浦の両名に手が入っていると見るや、翻牌を放出して花田の手を進める。

 

「ツモですっ。2000・4000っ!」

 

 南一局 ドラ:{③}

 13巡目

 花田:{45[5]5666} ポン:{發發横發} ポン:{99横9} ツモ:{3}

 

南一局

【東家】花田 煌         :46200→54200(+8000)

【南家】石戸 月子(京太郎)   :24500→22500(-2000)

【西家】南浦 数絵        :12600→10600(-2000)

【北家】池田 華菜(親)     :18700→14700(-4000)

 

 石戸月子は、合理的な打ち回しに徹していた。趣向の違いはあれど、その観察眼はなるほど達者には違いない。

 京太郎も認めざるを得なかった。石戸月子は、ただ速度だけを重んじた打ち手ではない。鳴いて手を入れて和了するだけの打ち手でもない。彼女はもっとも効率的な打法を選択しているだけだ。

 

「ロン。――7700よ」

「あうっ」

 

 南二局 ドラ:{一}

 8巡目

 京太郎:{一一七七} チー:{横⑦⑧⑨} ポン:{②②横②} ポン:{南南横南} ロン:{七}

 

南二局

【東家】花田 煌(親)      :54200→46500(-7700)

【南家】石戸 月子(京太郎)   :22500→30200(+7700)

【西家】南浦 数絵        :10600

【北家】池田 華菜        :14700

 

(巧いんだろう。強いんだろう――おれよりかは、ずっと)

 

 京太郎は、月子の思考に自分を重ねる。論理ではなく傾向と呼吸で、月子が動くタイミングを予測する。(おまえは麻雀の何をわかってるんだ?)と、かれの内側で声が反響する。

 

(てんでわかんねえ。まるで何もわかんねえ――そもそもこれが麻雀なのかもわかんねー)

 

 眼下で摸打が流れていく。かれは月子の視線を追う。月子の目は常に山と河に向いている。彼女が入れる副露の法則性を、やがて京太郎は見出す。

 かれは、池田の言葉を思い返す(「ツモ牌相を弄って副露して筋をずらして加速、みたいなやつ?」)。

 月子の鳴きは、確かに池田が言う規則に遵っている。

 

 ――牌山は南(B)・西(C)・北(D)・東(A)という四種の筋を持っている。これを仮に『道』とする。たとえば南一局において、西家である月子の『道』はCである。大前提として、月子は自分本来の『道』では早い和了ができないと考えている。それはほとんど信仰に近い思い込みである。彼女にとっての麻雀は、だから鳴いて己の『道』を転換させることから始まる。

 

 麻雀における副露とは、他家の不要牌を食い入れる術であると同時に、鳴いた他家の自摸筋を『喰う』術でもある。Bの『道』からチーもしくはポンを行えば、同巡月子の『()』は下家に送られ、次巡以降(他家の副露が入らないかぎり)月子は上家の『()』を進む。下家()対面()に対してポンを行った場合も同様である。

 

(つまり)と京太郎は黙考する。(上家に対するポン・チーは、下家に自分の自摸筋を押し付ける。下家からのポンは逆に、上家に自摸筋がいく。対面の場合は対面と自分の自摸筋の交換になる。月子(こいつ)はとにかくそれをしようとする。で、なぜかわけわからんくらいよく役牌が対子になってる――)

 

 では、乗り換えた元々の『道』へ戻ることを、月子は忌避しているのかというと、

 

(それが、そうでもないみたいなんだよなァ)

 

 のである。

 まるで、と京太郎は思う。

 

(悪いモノを、一度人に感染(うつ)したら、それが悪くなくなった――みたいな感じだ)

 

「須賀くん」と、月子が呼んだ。

 

「あ?」不意に話しかけられて、京太郎は我に返る。「あ、なんだ。鳴くか?」

「えっと、そうじゃないけれど――その」珍しく、月子が言いよどんだ。「なんだか、急に喋らなくなったみたいだから、どうしたんかやって」

「お、方言」耳ざとく聞きとがめて、京太郎は口元を綻ばせた。

「どうしたの()()()って思って!」屈辱の色を顔に浮かべて、月子は言い直した。「ふかくだわ……忘れて頂戴」

「なんか、女子って方言いやがるよなァ」と、京太郎は微笑んだ。「べつに、なんでもねえよ。ただ――」

「ただ?」

「勉強させてもらってただけだ」

 

 そして、四回戦の帰趨を占う南三局が始まった。

 追い上げてきたのは、やはりというべきか、池田華菜である。先行して聴牌を入れた月子を見事にかわして、池田は花田から跳満を出和了りした。

 

 南三局 ドラ:{五}

 8巡目

 池田:{四五[五]五③④⑤233445} ロン:{六}

 

 池田の手牌を見た月子が、諦観の混じった笑みを浮かべた。

 

「いい加減しつこいわよ、あなた」

 

 池田も笑って、月子に応じた。

 

「それが信条だし」

 

南三局

【東家】花田 煌         :46500→34500(-12000)

【南家】石戸 月子(京太郎)(親):30200

【西家】南浦 数絵        :10600

【北家】池田 華菜        :14700→26700(+12000)

 

 花田の放銃によって迎えた最終局(オーラス)で、場は急激な収束を見せた。現在一位の花田は和了トップが条件。続く二位の月子は2600以上の出和了か、3900以上の自摸和了が条件。追い上げる池田は花田からの3900出和了か、満貫自摸和了が条件。形勢厳しいラス目の南浦は、出和了ならどこから出ても倍満、自摸なら跳満以上がトップ条件である。

 

 各自必勝を期して体勢を整えたものの――。

 

「……ツモだ」と、京太郎はいった。

 

 やはり、石戸月子だけが勝利を目指していなかった。

 

「300・500ね。――ラストです」

 

 南四局(オーラス) ドラ:{3}

 6巡目

 京太郎:{一一二二三三⑥⑦⑧⑨} ポン:{白白横白} ツモ:{⑨}

 

「そっ、んな、ゴミ手で……」月子の手を見た南浦が、何かを口に仕掛ける。「一手で、チャンタへの張替えもあるのに――」

 

 が、それは一瞬のことだった。深々とため息をついて、彼女も点棒を吐き出した。

 

「……まいりました。ヤキトリです」

「あら――それは運がなかったわね」意外にも、月子の声に勝ち誇る響きは無かった。「とりあえず、ダンラスの汚名は返上させてもらうわよ」

 

南四局(オーラス)

【東家】花田 煌         :34500→34200(-300)

【南家】石戸 月子(京太郎)   :30200→31300(+1100)

【西家】南浦 数絵(親)     :10600→10100(-500)

【北家】池田 華菜        :26700→26400(-300)

 

四回戦

南四局(終了)

花田 煌         :34200

石戸 月子(京太郎)   :31300

南浦 数絵(親)     :10100

池田 華菜        :26400

 

結果(4回戦終了)

花田 煌      :+22.2(小計:-  6.1)

石戸 月子(京太郎):+ 1.3(小計:- 46.5)

南浦 数絵     :-19.9(小計:- 46.9)

池田 華菜     :- 3.6(小計:+ 99.5)

 

「いい感じだわ」と、月子がいった。「3半荘もかけてしまったけれど、ようやく体勢が整ってきた気がする」

「流れが戻ってきたって?」月子の言を聞き、京太郎は半畳を入れた。

「信じられない?」月子は悪戯っぽく微笑んだ。

「いや」京太郎は首を振る。「だったらそろそろいいかなって思って」

 

 とたん、隣の少女は興ざめした顔を見せた。

 

「なによ。また帰るとか止めるとか言うつもり? いい加減納得しなさいよ。男の子がみっともない――」

「いや、いや」京太郎は重ねて首を振った。「それをいうつもりは、もうねーよ。ただ、おまえに頼みたいことがあるだけ」

「頼み?」月子が目を瞬かせた。「須賀くんが、わたしに? なによ。ことわっておくけれど、エッチなことは駄目よ」

「誰がするか」京太郎はにこやかに月子の言を切って捨てた。「簡単なことだよ」

「だから、なんなのよってば」

 

「おれと、打ってくれ。おれと、勝負しようぜ」

 

 と、かれはいった。

 




2012/8/13:脱字修正
2012/8/26:サブタイトル修正
2012/9/1:誤字修正
2013/2/18:牌画像変換


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8.ばいにん(中)

8.ばいにん(中)

 

途中経過(4回戦終了時点)

花田 煌      :-  6.1

石戸 月子(京太郎):- 46.5

南浦 数絵     :- 46.9

池田 華菜     :+ 99.5

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:17

 

 

「いやよ」

 

 月子の答えは明快このうえなかった。

 

「なんで」

「あなた、自分がなぜここにいるか忘れたの?」月子は呆れ顔だった。「わたしが手を怪我して打てないから、須賀くんなんかに代打ちを頼んでるんじゃない」

「そんなの、どうとでもなるだろう。左手で打ってもいいし、おれが入れば一人余るんだから、そいつに代わりに打ってもらったって、いい」

「それは、まあ」月子は渋面を作った。「でも……そもそも、理由がないでしょう」

「だから、単純におれの頼みだっていったろ。これだけ散々言うこと聞いたんだ。ひとつくらい頼まれてくれたって、バチは当たんねえと思うけど」

「そんなに、わたしと打ちたいの?」月子は戸惑った風だった。「なぜ?」

 

 問われた京太郎は、数秒逡巡した。どう繕っても、(人格であればともかく)月子の打ち筋に対するかれの心象は言いがかりに近い。とはいえ、意図を希釈したところで意味はない。

 

(素直に言うか)

 

 と、かれは結論付けた。

 

「おまえの打ち方を見てると、苛々するんだ」

 

 突然の難癖に、月子は目を白黒させた。

 

「は――?」

「矢鱈引ッかかる。むしゃくしゃする。ストレスが溜まる」京太郎は構わず続けた。「かぶりつきでそいつを見せられたとあっちゃァ、なおさらだ。だから、打ってみればスッキリするかなって」

「ちょ、ちょっと待ってよ」月子は頭痛を堪えるように眉根を寄せた。「よく意味がわからない。なんで……わたしの打ち方が、そんなに気に障るの?」

「さあ」京太郎は肩をすくめた。「あの、とりあえず『こうすればどうにかなる』と思ってて、実際どうにかなっちまうのが、気持ち悪いんだよ。自動的っつーのかな。そういう感じ」

「気持ち悪いって――ひどくない?」京太郎が口にした台詞のどこかが、月子のもろい部分に触れた。「そんな思い付きみたいに、きらいとかいわないでよ……」

「嫌いとはいってねーよ。思いつきでもねーし。これでもけっこう、考えたんだ」京太郎は訂正した。「べつに、だからおまえになにかしろって言うつもりはないんだ。ただおれが納得いかないって思うだけだ。あんなのは勝負してる気がしない。おまえは、強いけど、面白くない。なんにも後ろに見えない。そうすれば絵が合うから、ただそうしてるだけだ」

 

「そ、そこまで言う?」一転、月子の瞳に反発のひかりが宿った。「――いいたいことはわかった。でも、そんなのてんで的外れよ。使える技術は使うべきよ。誰にもバレずにイカサマができるなら、それはイカサマすべきなのよ。まして、わたしのあれは、イカサマでもなんでもない。才能なの。持って生まれたものなの。この腕や、足や、顔と同じものよ。あなたがいってるのは、そういうものを指差して、気に入らないっていっているようなものよ」

「わかってるし、まあ、そのへんには普通に賛成できる」京太郎は我ながら屈折してると思いながら、答えた。「だから、あの打ち方を止めろとかなんとか、言うつもりはないんだよ。ただ、おれはもう飽きたってだけだ」

「……だからって、なんであなたとわたしで麻雀するって話になるのよ」

「気になるんだよ。白黒つけたいんだ」京太郎はいった。「あれでいいのか、悪いのか。確かめたいんだ。実際におまえと打ってみて、おれが負ければ、それはそれで納得できる。おれが勝てば、おれのこの変な感じにも、ちょっとは理があることになる――そんな気がするんだ。そうしたら、わかる気がするんだ」

「はあ」と、月子は嘆息した。「なにがわかるって?」

「おれが、麻雀を好きになれるかどうか」

「そんなの、わたしの知ったことじゃないし、正直勝手にしてねって感じなんだけれど……」月子は思案する素振りを見せた。「まあ、いいわ。どうせ遊びなんだし。他の三人がいいっていうんなら」

 

「いいよ」と、真っ先に手を挙げたのは池田だった。「ついでに――トップ目で悪いけど、抜け番はあたしでいい。何なら集計は持ち越しでもいい」

「あら、気前がいいわねえ」すかさず月子が皮肉った。「トップの余裕というわけ?」

「男子の心意気に打たれただけさ」池田は肩をすくめた。「ほかの二人はどうする?」

 

「もう好きにしてください」投げやりに南浦がいった。

「わたしもどちらでも」花田もとくに否やはないようだった。

 

 その様子を見て、今さらながら少女たちの関係に疑問を覚える京太郎である。

 

(ダチって感じでもねーし、そもそもこいつら、何の集まりなんだ)

 

 ともあれ、我侭が通ったことに、かれはひとまず安堵した。

 

「決まりだな」とかれは言う。 

「そうね」と、月子は頷いた。「で、サシウマ代わりには何を賭ける?」

「さしうまってなんだ?」京太郎は首をかしげた。

「普通の順位以外に、わたしと須賀くんの間でだけ取り決める――まあ、罰ゲームみたいなものよ。そんなに軽く済ませるつもりはないけれど」

「そんなの、要るか?」

 

「要る」

 

 急激に場の温度が下がった――京太郎はそう錯覚した。月子の声音はそれ程硬く、冷ややかだった。短時間ながら彼女の言動に翻弄された京太郎である。石戸月子という少女の性分は、なんとなくわかっていた。恐らく彼女が何かしらの交換条件を求めてくるであろうことも、想像の範疇である。

 だから、少なくとも表面上は落ち着き払って、京太郎は答えた。

 

「なんでもいいよ。おれが負けたなら、おまえの言うことを聞くとか、そんなんでもいい」

「へえ、それは結構」月子がわざとらしく笑う。「腕を呉れるって話――冗談じゃ済ませないかもよ?」

「そうだな。それならせめて、利き腕じゃないほうにしてくれ」

 

 返答を聞いた月子の表情が、いっそう醒めた。

 

「……どうせ本気じゃないって思ってる?」

 

「そりゃそうだろ」ぼそりと池田が呟いた。「ていうか、そもそもアンタがコイツに無理やり頼んでた立場で、よくまアそんな上から目線でモノが言えるな」

「それはそれ、これはこれ」と、月子はいった。「いいわ。腕を頂戴とはもう言わないけれど、気持ちは定まったような気がする。須賀くん、わたしはあなたを()()()()()()にしたい。その澄ました顔や他人事みたいな態度をぶち壊してやりたい。そんな願い事を考えておくわ」

「そうか」

 

 と、京太郎はいった。平静な顔に反して、かれの胸裏では恐怖や呆れ、困惑や無関心がない交ぜになっている。ただやはり、いずれも遠い誰かの感情に過ぎない。かれは多くの言葉を持たなかった。けれども語彙の不足や表情の拙さは、かれにとってさして致命的な問題ではない。かれの心の向きは定まっていた。鋭く細く尖った脆い切っ先は、真っ直ぐに四角い卓の136枚の牌を目指している。

 

「こいつが勝ったらどうするんだ?」と、声を発したのは池田だった。彼女は京太郎を指しながら、「賭けるなら、両方だろう。そうじゃないとフェアじゃない」

「べつにどうでもいいよ」と、京太郎は答えた。「おれからは何もない。勝って何が欲しいわけでもない。おれの目的は勝負することだ。勝負ができればいい。それで全部だ――そいつ以外は、付け足しだ」

「無欲ね」月子は呆れた口ぶりだった。「でも、確かにフェアじゃない。まあ、もしわたしが負けたなら、あなたの言うことくらいなんでも聞いてあげるわよ。現実的にできることならね」

「意外と弱気だな。そんなことありえないとか言うのかなって思ったよ」

 

 京太郎は月子の態度に首をかしげた。

 月子は渋い顔で、かれの疑問に答えた。

 

「麻雀に絶対はないからね。()()()()()、という条件がつくけれど」

「なるほど」

「万が一、ともいうでしょう?」

「なんとでもいってくれ」京太郎は嘆息した。「負けたからって、また泣いたりするなよ」

 

「そん――」月子が何かを言いかけた。

 

()()?」花田が首をかしげた。

 

「あ、いや……」おのれの失言を悟って、京太郎は口をつぐんだ。「なんでもない」

 

「さて、それじゃあ丁度後半戦からだし、場決めからだな」池田が場を取り仕切るように言った。「つかみ取りでも良いけど、適当にわけちゃっていいか?」

 

 さり気なく、しかし意味ありげに、池田の目が京太郎へ向いた。

 

「なら、折角だし、おれがやってもいいかな」と、京太郎は手を挙げた。「まだやったことないんだ、その場決めってやつ」

「誰がやっても同じでしょう、そんなの」月子が苛立ちを滲ませた。

「まあまあ。何事も経験ですので」花田がそれを諌めた。

 

「じゃあ、早速」卓に近づいた京太郎は、山を開く。そこから四枚の牌を素早く拾う。伏せた状態でかき混ぜられ、ラシャを滑った牌は、まず花田の手で開かれた。

 

「{北}です」

 

 次いで南浦、

 

「{東}」

 

 そして月子の番が回る。

 

「ああ、そういや手、怪我してるんだったな」と、京太郎は月子を見、呟いた。「捲るよ、代わりに」

「べつにそこまで重傷じゃないけど」まんざらでもなさそうに、月子がいった。「ま、やりたいなら任せるわ」

 

(どうかな――)

 

 月子の元に配られた牌を、京太郎はじっと眺める。花田に{北}、南浦に{東}が配られた時点で、かれが月子に対抗するための条件が半分クリアされている。駄目で元々の心算で池田へ持ちかけた『頼みごと』は、思いのほかあっさりと成就した。

 

(ここからは、おれ次第だ)

 

 京太郎に祈念はない。ただ強く思いながら、牌を捲る。それを見た月子が、気のない声でいった。

 

「……{西}()ね」

 

「ああ」と、京太郎は答えた。「おまえが{西}なら、おれは――残ってる{南}だな」

 

 最後の牌を捲り、地を確かめた京太郎は、無言で卓の中央に設えられたスイッチを押す。中央の空洞に率先して牌を流し込むかれの耳に、ひそやかな池田の声が届いた。

 

()()()()()

()()()()()

 

 指先を解しながら、京太郎は卓へ着く。

 

(とりあえず――最初の賭けには勝ったか。……これだって、イカサマには違いねーんだ。ほんと、おれにはひとの打ち方をどうこう言う資格なんかねえ。けど――)

 

 ()()()()()()()()。かれの推測が正しければ、それは須賀京太郎が石戸月子に抗うための第一条件である。

 

 深く息を衝きながら、京太郎は心から思った。

 

(――勝ちたい)

 

「次は、石戸の手だけど……、どうする? あたしが代わりに打ってやろうか」

「要らないわ」池田の提案を、月子はにべもなく断った。「できれば敵に打ち筋は見せたくないし、左手でも打てなくはないもの。多少摸打が遅くなるくらいは、見逃してね」

「敵、ねえ」池田は苦笑した。「疲れないか? そんなにずっと肩肘張ってさ」

「余計なお世話よ」

 

「話がまとまったなら」京太郎はいった。「打とうか」

 

「ええ」

 

 と、月子も応じた。

 

「打ちましょう」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:40

 

 

 ルール:半荘戦

  持ち点 :25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)

  赤ドラ :あり({[五]、[⑤]、[⑤]、[5]})

  喰い断 :あり

  後付け :あり

  喰い替え:なし

  ウマ  :なし

  サシウマ:敗者は勝者の要求に応じる(対象者:須賀京太郎、石戸月子)

 

 起親(東家):南浦 数絵

 南家    :須賀 京太郎

 西家    :石戸 月子

 北家    :花田 煌

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:40

 

 

 東一局 ドラ:{1(ドラ表示牌:9)}

 【東家】南浦 数絵(親) :25000

 【南家】須賀 京太郎   :25000

 【西家】石戸 月子    :25000

 【北家】花田 煌     :25000

 

 南浦の指先がボタンに触れる。合わせて卓中央で賽が踊る。出た目は七。月子の山から幢が切り分けられる。京太郎は不慣れから、月子は怪我のために、若干ぎこちない動きで山を削る。

 京太郎は、若干緊張している自分を、そこで初めて発見した。薄い胸の奥で、鼓動が弾んでいる気がする。

 その実感を得て、かれは顔を綻ばせた。

 

(こいつは、いいな)

 

 あの図書館での一戦に近い、とかれは感じた。

 少なくとも、友人たちとの麻雀では手に入らなかった感覚である。

 

 東一局 ドラ:{1(ドラ表示牌:9)}

 配牌

 京太郎:{一二三[五]六③⑥⑥⑥22北發}

 

 二向聴の配牌は、ただ和了を望むかぎり上の中といえた。ただし今回京太郎が目指すのは、純粋な勝利ではない。(あくまで京太郎の視点における)理不尽な存在である石戸月子との決着が、かれの本懐である。

 

 東一局 ドラ:{1(ドラ表示牌:9)}

 1巡目

 京太郎:{一二三[五]六③⑥⑥⑥22北發} ツモ:{⑤}

 

(一向聴。發はまだ切りたくないけど、これはいけるか――?)

 

 ここ数日教本と睨めっこを続けた京太郎であるが、たとえその知識がなかったとしても、切り出しに迷う局面ではない。かれの指が摘んだのは{北}である。

 

 打:{北}

 

「ポン」

 

 ――即座に仕掛けたのは、やはり石戸月子だった。

 

 東一局 ドラ:{1(ドラ表示牌:9)}

 1巡目

 月子:{■■■■■■■■■■} ポン:{横北北北}

 

 打:{9}

 

「そうそう」左手で牌を河に捨てながら、月子が思い出したようにいった。「言い忘れていたけれど、須賀くん。わたし、いまけっこう、昇り調子だから。うかうかしていると、あなたが確かめたいこととやらも確かめられないまま、終わってしまうかも――よ」

「……」

 

 京太郎はまともに取り合わなかった。意図的なものではなく、思考に没頭しすぎて月子の軽口に付き合う余裕がないのである。

 

(さっきまでの半荘で、月子(こいつ)が客風を鳴いたケースは殆ど無かった。打ち方を変えたのか? 偶々か? どっちだ――?)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:42

 

 

 東一局 ドラ:{1}

 1巡目

 花田:{三四五六②③[⑤]⑦⑨4467中} ツモ:{一}

 

(いい加減わたしも学習する。けど……それでフォームを変えるのもどうなんでしょ)

 

 通常ならば{中}を打つ。だが月子の叩いた{北}が不穏である。

 

(速さで石戸さんに勝てる気もしないので、先制されちゃった以上は回すしか――)

 

 打点を推量できる巡目でもないが、花田は安全策を取った。まだトンパツではある。巡目も極めて浅い。しかしだからこそ、緩慢な打牌で見え見えの混一色(ホンイツ)になど振りたくはない。

 

(方針は変わりませんね。ひたすら絞る。石戸さんの注意が対面の男子に行くのなら、そこを刺す)

 

 打:{⑨}

 

(とりあえず――この場は見。{中}を切るのは、聴牌った時!)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:44

 

 

 最初の分水嶺は、思いのほか早くやってきた。

 

 東一局 ドラ:{1(ドラ表示牌:9)}

 2巡目

 京太郎:{一二三[五]六③⑤⑥⑥⑥22發 ツモ:{④}

 

聴牌()った)

 

 絶好の嵌張自摸である。役なしだが赤を含む両面の2巡目聴牌を、忌避する理由は何も無い。手代わりを期待する要素もない。立直を掛けて自摸れば3900、裏がひとつでも乗れば7700になる。期待値は上々で、和了確率も高い。

 だが、

 

(行かないわけがない――手なんだけど)

 

 直前まで石戸月子の打牌を目の当たりにしていた京太郎の感性は、孤立牌の切り出しに警鐘を鳴らしている。どうにも、ここでこぼれる{發}の存在が、京太郎の気がかりだった。

 

(とはいったって、流石にまだ2巡目だ……)

 

 手元の収納を開くと、かれは点棒を取り出した。

 

「立直だ」

 

 打:{發}

 

 

「ロン」

 

 

 即座に月子が発声した。

 

「ええー……」声を漏らしたのは、対面の花田煌であった。「まだ一回しか自摸してないんですが……」

 

「……」

 

 京太郎は、嘆息と共に手を伏せた。

 

 月子:{②③④⑥⑦⑧中中發發} ポン:{横北北北}

 

 ロン:{發}

 

「リー棒はしまっていいけれど――3900よ」

 

 すまし顔で、月子は申告した。

 

 東一局

 【東家】南浦 数絵(親) :25000

 【南家】須賀 京太郎   :25000→21100(-3900)

 【西家】石戸 月子    :25000→28900(+3900)

 【北家】花田 煌     :25000

 

「……ダマで全然高い手狙えるよな、それ」月子の手牌を見た京太郎は、目を細めて呟いた。

「そうかもしれないわね」月子は京太郎から点棒を受け取りながら応じた。

「でも、狙わないんだな、おまえは」

「こうすれば和了できるんだもの。それをしない理由が無いわ」月子の口調は挑発的だった。「()()()()()が嫌いなんでしょう、須賀くんは?」

「さあ――」

 

 京太郎は肩を竦めた。

 対局は始まっている。京太郎の月子に対するスタンスは、全て勝敗の帰趨に預けた。博打の俎上に載せた以上、いまの自分が同じことを口にすべきではない、と京太郎は考えた。

 

「やっぱりあなた、へんに潔癖よねえ」月子はそんな京太郎を眺めながら、苦笑した。

 

(何を言ったって、振り込んだあとに口にしたら、そんなモンは負け惜しみだ)

 

 と、京太郎は思う。かれは月子の手牌に注目する。こうすれば和了できる――月子が吐いた台詞だが、最初の自摸で{北中發}のいずれかを引き寄せれば両立直で跳満が確定する手だ。よりにもよって最低の安目を初巡で叩いていく月子の選択は、京太郎には納得しがたいものだった(寡黙な南浦はともかく、見た限り花田も似た感想を抱いているようだ)。

 月子の手に聴牌が入る速度はかなりのものである。当然、和了も引きずられて速くなる。だが一方で、打点はさほどでもない。高い手が作れないわけではないが、打点よりも速度を優先する場面はままあった。それは面前の手作りをほとんど封印している以上は当然の道理である。

 

(とはいえ、3900は別に安くもねえな)

 

 京太郎は気持ちを切り替える。この局は、出来すぎの感がある。いかに月子の打牌がそうした性質のものだとしても、コンスタントにこの巡目での和了を重ねられるはずはない。

 それは京太郎の楽観である。だが必要な楽観でもある。仮に月子の異能(そんなものがそもそも実在するとして)が、副露した次巡で必ず和了できるようなものであれば、京太郎に勝つ術は無い。少なくとも一半荘の勝負で勝ちきることは殆ど不可能に近い。

 

(どっちにしろ、勝負は始まった。なら、あとは進むだけだ――)

 

 振り込んでの親番を、かれは迎える。鼓動は平静である。呼吸も深い。場は良く見えている。するべきことも決まっている。

 回る賽の目は三・六の九を示した。かれは吐息をつくと、自山に手を伸ばす。

 その口元が綻んでいることには、ついぞ気づかない。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:46

 

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 【北家】南浦 数絵    :25000

 【東家】須賀 京太郎(親):21100

 【南家】石戸 月子    :28900

 【西家】花田 煌     :25000

 

(楽しそうな顔しちゃって、まァ――)

 

 上家の少年の顔を横目しながら、石戸月子は手牌を眺めて眉根を寄せる。

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 配牌

 月子:{一四六六七[⑤]⑥357東白白}

 

 最善ではないが、上々の配牌である。場の運勢を(うらな)ってみても、後れを取る気は到底しない。月子が懸念するのは京太郎の配置である。

 

(上家か――)

 

 直接の対手である京太郎が、自分の上家に配置された。これは月子にとって、致命的ではないにせよ明らかな不利である。

 なんとなれば、月子の麻雀は、その性質上、上家の人間の動向次第ではあっさり封じられる可能性が高い。

 

(まさかとは思うけど……気づいてるんじゃないわよね)

 

 月子は瞳を凝らす。牌よ透けよと意識を先鋭化させる。

 荒唐無稽の所業である。イカサマの仕込みもなく他人がそんな真似をしている場面に出くわせば、彼女は迷わず嘲笑を送るだろう。だが、今日この時ばかりは、硬質で無個性な牌の背も、(月子にとっては)容易に見分けがつくほど色彩豊かに視える。

 

(視えるハズ)

 

 しかし――

 

(――あ、あら?)

 

 京太郎:{■■■■■■■■■■■■■}

 南浦 :{■■■■■■■■■■■■■}

 花田 :{■■■■■■■■■■■■■}

 

 いくら目を凝らしてみても、先ほどあれだけ容易に見透かせた牌の裏地は映らない。月子は戸惑いを表情に出さないように苦心しながら、京太郎の打牌を受けて山へ手を伸ばす。

 

(……なんでよ)

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 1巡目

 月子:{一四六六七[⑤]⑥357東白白} ツモ:{南}

 

 先刻のガン牌のメカニズムは、正直なところ月子にも理解できていない。ただ判るから判ったというだけである。あえて推測を立てるのであれば、()()()()()()()()()()と月子は思った。何回かの半荘を終えて、彼女の感覚が、無意識的に自分が触れた牌にだけガン付けを行ったのだ。部分的に牌が見通せなかった理由もそれで説明はつく。

 

 しかしもちろん、月子は自分の指紋など覚えていなかった。自分の指先に対する特別な執着などありはしなかった。これまでの人生で指紋をまじまじと観察した経験も皆無である。仮に指紋を完全に記憶していたとして、牌の背に付着した痕跡と照合させる芸当など出来るはずもない。現実的に考えて(現実的! と月子は思う。それはこの局面においてなんとも馬鹿馬鹿しいことばだ)、月子はそれ以外の方法で先ほどまでガン牌を行っていたはずである。

 

 だが、そうなれば必然的に超現実的な領域へ理由を求めなくてはならない。

 そして超現実的な領域で起きた出来事について、一々納得の行く理由を求めることほど無益なことはない。

 

(仕方ないか――)

 

 月子は嘆息を落とす。圧倒的なイニシアティブを、彼女は忘れることにした。できなければできないでしょうがない。いつだって人生は手持ちの資材でやりくりしなくてはならないのだ。

 

 打:{南}

 

(あ、)

 

 月子は、ふいに手拍子の自摸切りを失着だと感じた。南は自風である。一方、孤立牌の{一萬}は{二三萬}引きの{四萬}(フォロー)がある。重ならなければいずれ切り落とすとしても、手順のうえではまず打{一萬}とすべきだった。

 

(なんて初歩的なミスを……)

 

 苦々しさに、目尻が歪む。不機嫌な顔で河を注視する。目線の先に、副露が可能な牌が打たれることはない。

 そして次巡、月子はあっさりと南を引き戻した。

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 2巡目

 月子:{一四六六七[⑤]⑥357東白白} ツモ:{南}

 

(ほらねえ)

 

 打:{一萬}

 

 牌理の優位は既に逆転しているが、2巡目で周囲にミスを晒すことを、月子を良しとはしなかった。それが更なる裏目を呼びかねない、と心得ていても、彼女の自意識は安閑と南を並べることを許さなかったのである。

 

(まあ、手が進んだら落とすけど)

 

 次巡――

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 3巡目

 京太郎:{■■■■■■■■■■■■■}

 河:{④三}

 

 打:{白}

 

({白}――)

 

 と、月子は思った。副露することは確定している。問題はその後の切り出しである。京太郎の捨牌が不穏だった。初心者に対する河読みは奏功しにくいが、だからといって警戒を放棄するわけにもいかない。かれがすでに聴牌してないと言い切れる材料を月子は持っていない。

 

(とりあえず――この際しょうがない)

 

「ポン」と、月子は発声した。

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 3巡目

 月子:{四六六七[⑤]⑥357東南} ポン:{横白白白}

 

 打:{南}

 

 打たれたのは2枚目の南である。ほぼ安全牌の客風を、他家は黙して見送る――

 ――はずであった。

 

「ポン」

 

 発声が掛かった。

 出所は月子の上家である、須賀京太郎だった。

 

「南を2鳴き?」と、月子は思わず呟いた。

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 3巡目

 京太郎:{■■■■■■■■■■} ポン:{南南横南}

 河:{④三( 白 )}

 

 打:{5}

 

 零れたのは{5}である。染手であれば向聴か聴牌だろう、と月子はあたりをつける。

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 4巡目

 月子:{四六六七[⑤]⑥357東} ポン:{横白白白} ツモ:{7}

 

(東が切りにくい――ていうか、自摸筋が()()()()

 

 厭な予感が、月子の項を這い回る。

 京太郎の手牌が透けない以上、かれの真意を月子は読めない。だが月子の副露に間髪入れずに対応してきた京太郎の挙動には、捨て牌以上に不穏なものを感じた。

 

 打:{四萬}

 

(どうする……?)

 

 と、月子は沈思する。偶然か故意にか、京太郎の副露により、月子の自摸筋は他家に触れられることなく即座に本来のルートに戻された。これでは月子の手は進みにくいままである。そうなれば必然、どこかでまた鳴きを入れる必要が生じる。

 

(とりあえず、試すしかない――)

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 5巡目

 月子:{六六七[⑤]⑥3577東} ポン:{横白白白} ツモ:{⑨}

 

 打:{⑨}

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 6巡目

 月子:{六六七[⑤]⑥3577東} ポン:{横白白白} ツモ:{東}

 

 自摸ってきた牌を見て、月子は首をかしげた。

 

(……あら、珍しく引き入れたわね。須賀くんと持ち持ちならそれはそれでよしとする――塩漬けにする。他家から出れば叩く)

 

 素早く当局の方針を固めて、月子は黙考した。愚形を手早く払ってしまいたいところではあるが、京太郎(上家)の河にいかにも索子は切りにくい。

 

(となれば――)月子は花田(下家)の河へ目を落とした。

 

 花田:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 河:{西九1二}

 

(このへん……?)

 

 打:{六萬}

 

 月子の打った{六萬}へ、花田が素早く反応を示した。

 

「チー」

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 6巡目

 花田:{■■■■■■■■■■} チー:{横六[五]七}

 

 打:{九萬}

 

(いい所鳴かせちゃったかしら?)揚々と牌を切り出す花田の表情を見、月子は澄ました顔で京太郎を見た。(さァ、須賀くん――ともあれ、これでまた『道』はずれたわよ。そこのところ、判ってるの?)

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 7巡目

 京太郎:{■■■■■■■■■■} ポン:{南南横南}

 

 河:{④三( 白 )5八北}

 

 打:{八萬}(自摸切り)

 

(須賀くんの自摸……)

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 7巡目

 月子:{六七[⑤]⑥3577東東} ポン:{横白白白} ツモ:{④}

 

 手牌の進捗を、月子は満足げに見つめる。条件の成就まではあと一手――花田が、移行した月子の自摸筋に触れるのみである。そのためには、この一打が鳴かれなければそれでよい。

 

(とりあえずは、あえて効率無視のこっちで)

 

 打:{六萬}

 

 前巡、花田に鳴かれた{六萬}である。そして同巡、京太郎は{八萬}を自摸切っている。すなわちかれの手牌は前巡から変化していない――

 

 が、

 

「ポン」

 

 京太郎は、{六萬}を鳴いた。

 

「――え」

 

 月子は今度こそ絶句した。

 

「ポンだ」

 

 京太郎は静かに繰り返した。

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 8巡目

 京太郎:{■■■■■■■} ポン:{六六横六} ポン:{南南横南}

 

 河:{④三( 白 )5八北}

   {八}

 

 打:{七萬}

 

(なんでそこから{七八萬}が手出しされんのよ……)

 

 打ち出された{七萬}を、戦慄と共に月子は凝視する。3巡・1巡前の{八萬}は間違いなく自摸切りであった。すなわち、

 

 {六六七}

 

 この形から、京太郎は{八萬}を二度自摸切り、月子の{六萬}切りを一度見逃したということになる。むろん、尋常ではありえない打ち筋である。強いて言うなら無理やりに対々和(トイトイ)を狙っているという可能性もあるが、それであれば最初の{六萬}を見逃した理由が立たない。

 

 間違いなく、京太郎は月子の打ち筋とその急所に気づいている。あるいは確信は持たずとも、それに近い対処法を実践している。

 

 月子の背筋を得体の知れない高揚が走り抜ける。

 

(須賀くん――)彼女は思った。(誰かの入れ知恵? それとも自分で気づいたの? もし自力で気づいたのなら、あなたのほうが、正直よほど気持ち悪いわよ――)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 15:51

 

 

「彼、あれはなにしてんの?」

 

 腕組して対局を見守る池田華菜に、興味深そうな顔で尋ねてきたのは春金清である。昼下がりを回って講義が休憩に入ったらしく、アイスティの注がれたグラスを片手に気の抜けた表情を晒している。そもそもなぜ見知らぬ男子が卓に入っているのか、などといった質問が彼女の口から飛び出すことはなかった。一見大味で雑な印象を抱かせる春金だが、少なくとも自分の庭で起きたことを完全に見逃すほど無能ではない。

 

「向聴進んでないし、そもそも和了に向かってないでしょ、あの鳴き。素人とかそういうレベルじゃない。序盤の親番でふざけるタイプのコとは見えなかったんだけどなー」

「うーん。ふざけてるわけじゃないと思うよ」

 

 と、一頻り池田は首を捻る。感覚的に須賀京太郎がやろうとしていることはわかる。ただそれを人に説明しようと思うと中々難しいものがある。

 迷ったすえ、池田はまず石戸月子の正体から話を始めることにした。

 

「春金さんて、石戸の麻雀のこと、知ってる?」

「いや、あんまり」と春金は答えた。「せんぱい――彼女のお父さんからちょっと聞いたことあるくらいかな。なんか、エセ亜空間殺法みたいなの使うんだって?」

「エセ亜空間殺法……ナルホド」言いえて妙だと池田は得心した。「まあ、プロにもたまにいるじゃん、何かジンクスとかスイッチみたいなのを持ってて、それをすると強くなる、みたいなの。どうも、石戸もそーゆーのの仲間みたいなんだよね」

「ほうほう」春金は頷いた。「はは、()()かどうかはともかく、夢があっていいね。売り出し甲斐がある。具体的にはどんな?」

「たぶん、こんな感じかなァ」

 

 呟くと、池田は点数計算表の裏面に、ペンで走り書きを始める。

 

 【効果】

 (a)全員の配牌が?向聴以下になる(とにかく手がはやくなる)

 (b)石戸以外の三家の余り牌が、石戸の有効牌になる

 (c)石戸は自分の自摸筋からは有効牌が(ほとんど? ぜんぜん?)引けなくなる

 

「効果はこんなモン、なのかな?」と、池田は言う。「本人に聞いたわけじゃないから外れてるかもしれないけどー」

「ああ」と、春金は手を打った。「そういえば言ってたっけ、彼女。面前で自摸ったことがないとかなんとか」

「で、次が石戸が和了るための条件。これはたぶん合ってると思う」

 

 【条件】

 (a)自摸筋を変えること(きっかけは自分でなくてもよい)

 (b)自摸筋が変わったあと、石戸の元の自摸筋に他家が触れること

 

「でさ、この条件(a)は防ぎようがないじゃん。石戸の喉つぶすとかしないと」

「怖いこというなキミは」春金は苦笑した。「でも――なるほどなるほど。確かに、条件(b)は立ち回りと手牌次第で潰せるねえ」

「そうそう。具体的には――こうか」

 

 

 <基本パターン:従来の自摸筋>

 月子()花田()南浦()京太郎()

 

 <パターンA:月子が京太郎に対してポン・チーを仕掛けた場合(3巡目のケース)>

 月子()花田()南浦()京太郎()

 ⇒花田()南浦()京太郎()月子()

 

 ―― 一手で自摸筋を回帰させるためには、月子が鳴いた同巡に京太郎()月子()に対してポンを仕掛ける必要がある。

 

 <パターンB:月子が花田に対してポンを仕掛けた場合>

 月子()花田()南浦()京太郎()

 ⇒花田()南浦()京太郎()月子()

 

 ―― 一手で自摸筋を回帰させるには、月子が鳴いた同巡に京太郎()南浦()に対してチー・ポンを仕掛ける必要がある。

 

 <パターンC:月子が南浦に対してポンを仕掛けた場合>

 月子()花田()南浦()京太郎()

 ⇒花田()南浦()京太郎()月子()

 

 ―― 一手で自摸筋を回帰させるには、月子が鳴いた同巡に京太郎()花田()に対してポンを仕掛ける必要がある。

 

 <パターンD:花田が月子に対してチー・ポンを仕掛けた場合(7巡目のケース)>

 月子()花田()南浦()京太郎()

 ⇒南浦()京太郎()月子()花田()

 

 ―― 一手で自摸筋を回帰させるには、花田が鳴いた同巡に京太郎()月子()に対してポンを仕掛ける必要がある。

 

 

「……」

 

 池田が示した図を一通り読むと、春金はからからと笑った。

 

「なるほど、わからん! 私、中卒だし!」

「まーそうね」池田も同意した。「理屈でわかっても、ふつうこんなの面倒くさくてやらないし」

「ちなみにこれ、華菜があのコに教えてあげたの?」

「いや?」池田は首を振った。「あたし、べつにあいつの味方する理由ないし」

「じゃあ、自分で気づいたのか……」春金はなんとも言いがたい顔をした。「すごい。すごいんだろうけど……無駄な凄さだ……」

 

 まったくその通りだと池田は思った。

 他家のケアが完全にゼロになる、という点を差し置いたとしても、京太郎の月子への対処法には致命的な欠陥がある。

 ひとつは必ず後手に回らなくてはならないこと。

 ひとつは副露の回数を重ねるほど自分もまた不利へ傾くこと。

 そしてもうひとつは、

 

「毎回そんな都合よく合わせ鳴きができたら、苦労しないって……」

 

 無常を込めて瞳を卓へ向ける。

 京太郎の抵抗の甲斐もなく、東二局が石戸月子によって制されたところだった。

 

「……ツモ。100点安目ね――2000・3900」

 

 東二局 ドラ:{⑥(ドラ表示牌:[⑤])}

 12巡目

 月子:{④[⑤]⑥5677} ポン:{東横東東} ポン:{横白白白} ツモ:{4}

 

 東二局

 【北家】南浦 数絵    :25000→23000(-2000)

 【東家】須賀 京太郎(親):21100→17200(-3900)

 【南家】石戸 月子    :28900→36800(+7900)

 【西家】花田 煌     :25000→23000(-2000)

 

(麻雀は、人の和了の邪魔だけして勝てるゲームじゃない)と、池田は京太郎の背を見ながら思う。(自分だ。自分が和了(アガ)ってこそ勝てるんだ。そこんとこ、わかってんのか――?)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:55

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 【西家】南浦 数絵    :23000

 【北家】須賀 京太郎   :17200

 【東家】石戸 月子(親) :36800

 【南家】花田 煌     :23000

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:55

 

 

 京太郎の妨害を受けた月子当人はというと、池田・春金とは異なった見解を持っていた。

 

(参ったわね。……須賀くんがああまで対処してくるとなると、副露後の打牌が手拍子で選べなくなった。考えて打つのはあまり得意じゃないんだけれど)

 

 麻雀を始め、独特の打ち回しを開花させて以来、ああまで徹底的に妨害を受けたのは初のことである。月子は京太郎に対して、必要以上の警戒心を抱いていた。

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 配牌

 月子:{二二三四八九④⑦東東西北發中}

 

ダブ東(ドラ)の対子はあるものの……配牌が若干微妙だわ。染めるの苦手だし)

 

 打:{北}

 

(東以外の役牌を重ねないと、ジリ貧になるパターンね――)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:55

 

 

(石戸さんの親番のうえに連風がドラときました。――これ、あんまりノせたくないなぁ)

 

 花田は上家の少女を見やる。春金からの事前情報では同級生、という話だったが、雰囲気だけを取ればとてもそうは見えない。長い髪は鴉の濡羽色をしており、首は長く、手足は細い。胸元の膨らみも明確で、体の線は明らかに女を主張している。顔の造作自体は整っているのに、目つきは猜疑心と敵意に塗れている。負の感情が塗りたくられた瞳はいま、少しだけ揺らいで、花田の対面へ向かっていた。

 

 そこにいるのは、須賀京太郎――と名乗った少年である。

 

(なんかやっていたみたいだけど、結局また和了られちゃって――)

 

 月子と物騒なサシウマを握ったかれだが、基本的に花田はどちらにも肩入れをする心算はない(池田、南浦も恐らく同様のはずだと彼女は思っている)。麻雀は四人で行うものであり、そして卓を囲んだ以上は頂点を目指さなくてはならない。そしてこの場でいま、撃墜すべき対象は一番手である月子を置いてほかにない。

 

(あいっかわらず配牌はいいんですけどねー)

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 1巡目

 花田:{[五]七九①③⑨⑨2334南南} ツモ:{東}

 

 引いてきた牌の柄を認めて、花田の顔が引きつった。

 

(すばらっ。……重なる気がしなーい! くやしいけど、向聴戻しっ)

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:56

 

 

(同級生の男子と麻雀打つって……そういえば、初めて)

 

 南浦はちらりと右手に座る少年へ目を向ける。椅子に深く腰掛けた少年は、やや長い前髪の奥で瞳を光らせ、手牌を注視している。

 不意に、かれは南浦の視線を気取ったように顔を動かす。

 目線が決して合わないよう、南浦は速やかにそ知らぬふりで顔を背けた。

 

(やりにくいというか、なんていうか――緊張する)

 

 麻雀は国民的な競技だが、南浦が通う小学校では、どちらかというとサッカーや野球の方が重視される傾向があった。南浦自身は筋金入りの麻雀フリークであり、それを隠す心算もないが、身内にプロがいる――という噂が立つことは避けたかった。彼女は、注目されるのが苦手なのである。

 また、南浦の祖父――麻雀プロである彼に、子や孫がいることも世間的には知られていない情報だった。理由は、彼がずいぶん昔に妻を亡くしているためである。

 

 そして、その亡くなった彼の妻は、血縁上は()()()()()()()()()()()

 

 そうした事情の諸々が、まだ幼い南浦に伝えられることはない。ただ稀に出会う親戚との間に流れる空気から、『難しい事情』があることを、彼女は漠然と察している。

 

 東三局 ドラ:{東}(ドラ表示牌:北)}

 1巡目

 南浦:{四五八八⑧1234[5]7白中} ツモ:{東}

 

(東場とはいえ……この好配牌で役牌の絞りにこだわっていたら、流れが腐る。勝負(ドラ切り)は最後。それ以外は絞らない。まっすぐ行く)

 

 打:{白}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:56

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 1巡目

 京太郎:{一二四①[⑤]⑦⑨1139南西} ツモ:{北}

 

(二、三、……八種か。一種足らねえな。前局で月子(あいつ)には印象付けられたし、そろそろちょっと復活しておきたいんだけど)

 

 仮に九種九牌であれば、京太郎は迷わず倒す心算でいた。国士無双という役満を知らないわけではないが、ドラが絡んだヤオ九字牌の四向聴など月子にとってはいい餌でしかないだろう。

 

(まア――風向き次第だ。やるだけやるか)

 

 打:{四萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:56

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 2巡目

 月子:{二二三四八九④⑦東東西發中} ツモ:{白}

 

(そっちじゃないんだけど――)

 

 打:{白}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:57

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 2巡目

 花田:{[五]七九③⑨⑨2334南南東} ツモ:{六}

 

(お、あっさり両嵌解消――すばらですねっ)

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:57

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 2巡目

 南浦:{四五八八⑧1234[5]7東中} ツモ:{9}

 

(平和へ寄せつつ、上手くいったら索子の一通、かな)

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:57

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 2巡目

 京太郎:{一二①[⑤]⑦⑨1139南西北} ツモ:{白}

 

(ふぅん――)

 

 少考のすえ、京太郎は赤牌を抜き打った。

 

 打:{[⑤]}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 15:58

 

 

 観戦する二人は、卓上ですっかり寛いでいた。春金などは仕事を忘れた様子で、同僚からの恨みがましい視線を「監督責任があるから」と言いつつ無視している。彼女の中では、月子が負った怪我は既になんでもない出来事として処理されているようだった。

 京太郎の打牌を眺めながら、春金が小声で囁いた。

 

「華菜なら、あの手牌だったらやっぱり国士行く?」

「8種ならいかない」春金の問いに、池田は即答した。「ドラが字牌のときはとくにいかない」

 

 池田の意見を吟味するように、春金は瞑目する。

 

「まあ――あくまで国士なり混老頭なりを狙うんであれば、{赤⑤}の先切りは理に適っているけど……」

「毎度毎度のことだけど、誰かが鳴いた瞬間一気に場が動きそうだ」池田は淡白に場を総評した。

 

 そして彼女の言葉どおり、序盤から場の動いた前二局とは異なり、東三局は表面上静穏な展開が続いた。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 15:59

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 3巡目

 月子:{二二三四八九④⑦東東西發中} ツモ:{⑨}

 

 打:{西}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 3巡目

 花田:{[五]六七③⑨⑨2334南南東} ツモ:{1}

 

 打:{③}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 3巡目

 南浦:{四五八八⑧1234[5]79東} ツモ:{七}

 

 打:{⑧}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 3巡目

 京太郎:{一二①⑦⑨1139白南西北} ツモ:{⑥}

 

 打:{3}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:02

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 4巡目

 月子:{二二三四八九④⑦⑨東東發中} ツモ:{西}

 

 打:{西}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 4巡目

 花田:{[五]六七⑨⑨12334南南東} ツモ:{①}

 

 打:{①}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 4巡目

 南浦:{四五七八八1234[5]79東} ツモ:{②}

 

 打:{②}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 4巡目

 京太郎:{一二①⑥⑦⑨119白南西北} ツモ:{發}

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:05

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 5巡目

 月子:{二二三四八九④⑦⑨東東發中} ツモ:{中}

 

 打:{發}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 5巡目

 花田:{[五]六七⑨⑨12334南南東} ツモ:{②}

 

 打:{②}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 5巡目

 南浦:{四五七八八1234[5]79東} ツモ:{④}

 

 打:{④}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 5巡目

 京太郎:{一二①⑥⑨119白發南西北} ツモ:{[⑤]}

 

 打:[⑤]筒

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:06

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 6巡目

 月子:{二二三四八九④⑦⑨東東中中} ツモ:{5}

 

 打:{④}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 6巡目

 花田:{[五]六七⑨⑨12334南南東} ツモ:{北}

 

 打:{北}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 6巡目

 南浦:{四五七八八1234[5]79東} ツモ:{三}

 

 打:{七萬}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 6巡目

 京太郎:{一二①⑥⑨119白發南西北} ツモ:{一}

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:08

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 7巡目

 月子:{二二三四八九⑦⑨5東東中中} ツモ:{5}

 

 打:{二萬}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 7巡目

 花田:{[五]六七⑨⑨12334南南東} ツモ:{8}

 

 打:{8}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 7巡目

 南浦:{三四五八八1234[5]79東} ツモ:{一}

 

 打:{一萬}

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 7巡目

 京太郎:{一一二①⑨119白發南西北} ツモ:{中}

 

 打:{二}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 16:10

 

 

「――四枚目の{中}だ。よく引いたな、アイツ」

 

 京太郎が引き入れた牌を見、池田が賞賛混じりに言った。

 

「これであの男のコと、煌さん、数絵さんは一向聴」と春金はいった。「月子さんはちょっと苦しくなってきたね。……ていうかこれ、数絵さんか煌さん、国士に振り込んじゃう――ことはないかもしれないけど、危ないなー。まあ、一見萬子の清一色に見えなくもない河だけど……いずれにせよ{東}は普通切らないよね」

「{東}の切り時が問題」と池田は言った。「結果論だけど、どっちも{東}を抱えすぎた。出るとしたら南浦の方だろうけど――流れる可能性もあるね、この局」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:10

 

 

(厭になる……手がホント、進まない)

 

 毎度の事ながら、月子は面前の歩みの遅さに辟易する。また、上家の河の有様も月子の神経をすり減らしていた。

 

({赤⑤}ばしばし切ってくれちゃって……どうせなら鳴ける牌よこしなさいよっ)

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 8巡目

 月子:{二三四八九⑦⑨55東東中中} ツモ:{⑧}

 

(やっと一向聴――どうせまだ、国士なんかはってもいないでしょ、無視無視)

 

 打:{九萬}

 

(でも、ここからが長い)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:10

 

 

(石戸さんの手が進みましたが……こっちも流石に(ドラ)が抱えきれなくなって来たなあ。というか、対面がすごい高そう)

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 8巡目

 花田:{[五]六七⑨⑨12334南南東} ツモ:{⑨}

 

 恐々と山から拾った牌は{⑨}――打{東}で、{25}待ちの聴牌である。

 が、花田は立直棒を取り出す素振りは見せなかった。

 

(んん……ここで立直すると、下手したら飛ぶ……そんなすばらくない予感がする……)

 

 花田煌は、麻雀を始めてから今日まで、いわゆる『飛び』の状態になったことはない。100点ぎりぎりや、圧倒的なラス目は幾度となく経験している。だが、飛んだことだけは一度もない。それは彼女にとってひそかな矜持であった。

 その矜持を支える直感が、今は牌の曲げ時ではないと囁いている。

 

「ふー」

 

 深く息を落とすと、花田は塔子から一枚、抜き打った。

 

 打:{3}

 

(まだ……東は切れないかなぁ……)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:11

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 8巡目

 南浦:{三四五八八1234[5]79東} ツモ:{①}

 

(こうまで――安めでさえ、こうまで引けないなんて……)

 

 打:{①}

 

 手拍子で打ってから、冷や汗が流れた。

 

(やば――下家の国士――)

 

 が、何事もなく局は進行する。山へ手を伸ばす京太郎を視界に納めながら、南浦は深く自戒した。

 

(今のは酷い緩手だ……もう、この局は下がろう)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:11

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 8巡目

 京太郎:{一一①⑨119白發中南西北} ツモ:{南}

 

 打:{南}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 16:11

 

 

「あ」と池田は言った。「ばか、手拍子で打ったな! なんで生牌切るんだ!」

「こりゃ国士の目は消えたね……」春金が笑った。「連鎖反応が目に見えるようだ」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:11

 

 

「それポンっ!」花田が引きつった顔で鳴いた。

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 9巡目

 花田:{[五]六七⑨⑨⑨1234東} ポン:{南横南南}

 

(すばら――字牌がこぼれたってことは国士が少なくともシャンテン)花田の脳裏を、一瞬で様々な推測が飛び交った。(でも一牌も余らないとかは普通ないし今なら大丈夫な気がするけどドラすばらタンキって要するに他は全ツッパってことだし普通にアガれる待ちで待つのがすばらな気が――)

 

 混乱の極致に達した花田は、指運の命ずるままに牌を摘んだ。

 

「とりゃーっ!」

 

 打:{東}

 

「――ポン」当然のごとく、石戸月子が仕掛けた。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:12

 

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 9巡目

 月子:{二三四八⑦⑧⑨55中中} ポン:{東東横東}

 

(いい子よ、スバラさんっ……!)

 

 打:{八萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:13

 

 

(親満かくてえ!)花田は涙目になった。(でもよかったー振らなくて!)

 

 が、安心したのもつかの間、

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 10巡目

 花田:{[五]六七⑨⑨⑨1234} ポン:{南横南南} ツモ:{5}

 

(これはあうとー!)花田はさらに涙目になった。(フフフ、安牌なし、妙な予感もこういう時はなし! あっこれさっき立直してたら一発だったんじゃ、でも{⑨}打って国士に刺さったら死んじゃうっていうかそれフリテンですし! 索子の下から真ん中とか上家と下家どっちにもアブない! わたし、すばらぴんち!)

 

 安牌がないときは出来る限り、高くまっすぐ行く――花田煌、心の箴言である(引用元は彼女の好きな麻雀漫画だった)。

 

「とりゃりゃーっ!」

 

 打:{1}

 

 {赤5}引いたら高くなるから、という、その程度の根拠だった。

 しかし、結果として花田の打った{1}は素通しであった。

 

(……すばらっ!)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:14

 

 

(面白い人だな……花田さん)と、南浦は思う。(けどそれはそれとして、完全に出遅れた)

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 9巡目

 南浦:{三四五八八1234[5]79東} ツモ:{6}

 

(あれ……聴牌しちゃった……)

 

 打:{東}

 

 それは、京太郎の初役満があえなく潰えた一打であった。

 

(山に一杯生きてる気がするし、とりあえずダマ。危険牌を引いたら――そのときに考える)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:15

 

 

(まあ、役満失敗は別にいいとして――自摸筋戻す小細工もできなかったのは問題だな)

 

 京太郎は手役に固執する性質の人間ではない。いければいく、という程度の思い入れである。そのため、国士無双の失敗も気落ちするほどではなかった。

 が、問題は爾後の捌きである。

 捨て牌読みなど出来ない京太郎だが、さすがに月子と花田の聴牌気配は察している。

 

(いくらでもしのげそうなモンなんだけど……このまんまだと月子(あいつ)和了(アガ)られちまう気もする)

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 8巡目

 京太郎:{一一①⑨119白發中南西北 ツモ:{7}

 

 かれは、冷静に場況を見つめた。

 

 

 月子:{■■■■■■■■■■} ポン:{横東東東}

 

 河:{北白西西發④}

   {二九八}

 

 花田:{■■■■■■■■■■} ポン:{南横南南}

 

 河:{①九③①②北}

   {83( 東 )1}

 

 南浦:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 河:{白中⑧②④七}

   {一①東}

 

 京太郎:{一一①⑨1179白發中南西北}

 

 河:{四[⑤]3⑦[⑤]⑥}

   {二( 南 )}

 

(最悪は、親におれが振り込んで連荘されること)

 

 打:{北}

 

(その次に悪いのは、親が自摸るか、他家が親に振り込んで連荘されること)

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 10巡目

 月子:{■■■■■■■■■■} ポン:{横東東東}

 河:{北白西西發④}

   {二九八}

 

 打:{③}

 

(最良は、おれが親から和了ること。だけどこれはもうさすがに無理だ。だから、他の子が親から和了ってくれることがいまのいちばんか。……これはちっと、望みすぎな気がする。あの爺さんも言ってた――期待するなら、自分の力でやるべきだ)

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 11巡目

 花田:{■■■■■■■■■■} ポン:{南横南南}

 河:{①九③①②北}

   {83( 東 )1}

 

 打:{2}

 

(そうなると)

 

 京太郎は目を細めた。

 {2}――危険牌を河に打つすんでで、花田の目線が動いていた。

 

 目端の行き先は、月子の河――そして京太郎だった。

 

(釣ろうとしたな――)

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 10巡目

 南浦:{■■■■■■■■■■■■■}

 河:{白中⑧②④七}

   {一①東}

 

 打:{九萬}

 

(てことは、おれが狙われてんのか)

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 9巡目

 京太郎:{一一①⑨1179白發中南西} ツモ:{⑧}

 

(手順は南だけど……)

 

 京太郎は、花田を見て微笑した。

 こちらを見ないようにしているその横顔に、必死な自分と同じ色を見つけたからだ。

 

(こいつを打って欲しいんだろ?)

 

 打:{西}

 

「あ、それ」花田が控えめに発声した。「ロン――です」

 

 東三局 ドラ:{東(ドラ表示牌:北)}

 花田:{[五]六七⑨⑨⑨345西} ポン:{南横南南} 

 

 ロン:{西}

 

「2600」と花田はいった。

「2600?」京太郎は首を傾げる。「南、赤ドラ1で、2000じゃないのか?」

「いえ」と南浦が補足した。「{⑨}のヤオ九牌アンコで8符、{南}の字牌ミンコで4符、タンキで2符の14符がつきますので、テンパネしています。2600(ニンロク)ですね」

「あァ、符ハネってやつ? なるほど……」京太郎は得心して、頷いた。「じゃあ、2600な。はい」

 

 東三局

 【西家】南浦 数絵    :23000

 【北家】須賀 京太郎   :17200→14600(-2600)

 【東家】石戸 月子(親) :36800

 【南家】花田 煌     :23000→25600(+2600)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 16:18

 

 

「抜き打ったね」と、春金は京太郎の打牌を評した。「よく見てた――と私はいいたい」

「いや、いらない差込だったよ」池田は深々とため息をついた。「石戸の待ちは山に無かった。クロウト気取っていらない失点してりゃー世話ないわ」

「まあ、華菜みたいに運が強い人は、そう思うのかもね」春金は苦笑した。「でも、傷口を小さくするセンスってのも、けっこう大事なものだよ」

「花田の手がハネ満以下って保証もなかった。2600で済んだのは結果論でしかない。あそこはオリ切るべきだった。てゆーか、花田の打{2}はなんだあれ。あそこで{西}に待ち変えて{2}を打つなら{5}打って石戸に刺さっておけよって感じ」

「華菜は手厳しい。煌さんはともかく……あの男の子、須賀くん? 彼はまだ麻雀始めたばかりっていうよ」

「知ってるよ」池田は肩を竦めた。「ああいう癖は、だから早い内に直さなきゃだめだ。ヘンにカンが鋭いと、それにばかり頼るようになる」

「おやおや」と春金はいった。「ツンデレさん」

「うるさいし! 意味わかんないし!」

 

 獅子吼した池田は、荒々しい手つきで春金のアイスティを奪い、一気に乾した。

 

「あー」と池田はぼやいた。「譲るんじゃなかった。打ちたくなってきた。春金さん、みんな講師でいいから面子揃わない?」

「みんなそんなにヒマじゃない」と春金はいった。「あ、とかやってる間に、東四が終わったみたいだよ」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:29

 

 

 東四局 東四局 ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 【南家】南浦 数絵    :23000

 【西家】須賀 京太郎   :14600

 【北家】石戸 月子    :36800

 【東家】花田 煌(親)  :25600

 

 東四局の京太郎は、完全に手牌に恵まれた。三元牌三種の対子が、配牌から揃っていたのである。6巡目までに月子から{白發}を鳴いたあとは、他家は全てベタオリの姿勢となった。とくに最後の{中}を掴んだ月子および花田の両名は、中盤にして京太郎のされるがままとなった。

 ――しかし、結局、京太郎の牌が倒されることはなかった。

 

 東四局 ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 流局

 京太郎:{中中北北} ポン:{二横二二} ポン:{發發横發} ポン:{白白横白} 

 

「聴牌だ」と、須賀京太郎はいった。「また役満和了り損なったな……」

 

 嘆息する京太郎は、この和了逃しが痛恨であることを悟っている。が、そう易々と決まるものでもないだろうとも思っている。だから、かれの顔に落胆の色は無い。

 

「立直してるわけでもないのにそんな手に振り込んだら引退するわよ」月子が険悪な口調でいった。「ノーテン!」

「ああ、わたしの親番っ」花田が肩を落とした。「ノーテンです」

「ノーテン」南浦は静かに牌を伏せた。

 

 東四局 東四局 ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 【南家】南浦 数絵    :23000→22000(-1000)

 【西家】須賀 京太郎   :14600→17600(+3000)

 【北家】石戸 月子    :36800→35800(-1000)

 【東家】花田 煌(親)  :25600→24600(-1000)

 

「さア、南入だ」と、京太郎はいった。




2012/8/26:脱字修正
2012/8/27:牌譜修正(東二局)
2012/9/1:誤字修正
2013/1/31:漢字の表記を一部変更
2013/2/18:牌画像変換


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9.ばいにん(後)

9.ばいにん(後)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:33

 

 

 南一局流れ一本場 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 【東家】南浦 数絵(親) :22000

 【南家】須賀 京太郎   :17600

 【西家】石戸 月子    :35800

 【北家】花田 煌     :24600

 

 

 石戸月子は運を視る。ただし、()()にはもちろん、実体などない。重みがない。においがない。色がない。手触りがない。

 つまり存在していない。

 ()()()()()()()()()。月子が感じる運勢とは、だから傾きを指している。それはあまりにも独特な感性で、誰も月子の感性に共感することはなかった。月子は生来受容器官を他人よりひとつ多く持っているようなものだ。蛇に手足を生やせばそれはとかげか? と月子は思う。そうではない。それはあくまで「手足の生えた蛇」でしかないと彼女は思う。蛇とは違う蛇に似たものであり、他の何かではない。とかげでなどあるはずがない。それは孤独な個体である。運勢を感知できる人間も同じだと月子は考えている。

 

 それは間違いなく優れた資質だ。

 只人の枠には収まらない才能だ。

 

(だからわたしは特別だ)と月子は思う。

 

 母がまだ正気づいていたころ、「それは見鬼のちからだ」と月子に教えたことがある。見えざるものを視るちから。鬼とは隠が転じた言葉という俗説もある。隠り身は転じて「かみ」と呼び習わしたというものもいる。月子は目で見ているわけではないが、見えざるものを視る「目」を持っている。それを石戸の人々は、見鬼と呼び習わしたというわけだった(月子の兄――石戸古詠は妹の力を『鬼ごっこ』に喩えた。たしかに、月子のちからは古式ゆかしいあの遊戯によく似ている)。

 

 大抵の人々にとって、運とは不可視であり、不可聴であり、不可触である。現象が提示する結果以外から、運の良し悪しを感得することはできない。彼らは皆々ただそこにある運を検知するためのクオリアを持っていない。

 けれども石戸月子は運を視る。場や、人や、ものは、それぞれ傾きを持っていると知っている。彼女には勝負全般に存在するといわれる流れがわかる。澱みがわかる。潮目がわかる。月子はそこから運の多寡を量る。引力と斥力を測る。技術や思考に先んじて結果を察知することができる。

 それは麻雀という遊戯に留まらない優越性である。

 月子は麻雀がそれほど好きではない。だが自負はある。自分は優れているという自負がある。その偏った矜持は、今のところ彼女の視野を狭めるものだ。可能性を剪定し、様々な不利益を自ら進んで囲い込む要因にもなっている。けれどもだからこそ彼女はどうにかやっていけている節がある。耳目を塞いで大口を叩いて日々を生きているからこそ、今のところ(そう、あくまで今のところ)色々なものを投げ出さずに済んでいる。

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 配牌

 月子:{二三六七③④⑥⑦124西西}

 

(須賀くんは)

 

 と、月子は思う。

 

(いまの局で勝ちきるべきだった。役満と倍満の天秤なんか狙うべきじゃなかった。混一色役役に小三元かドラでも絡めば、じゅうぶんわたしをしのぐことができた――初心者にそれを言うのは酷でしょうけれど)

 

 上家の少年を、視界の左端に納める。顔つきは真剣である。牌の切り出しに細心の注意を払うという気概がみえる。だがいかんせんかれは素人である。それは自己申告に過ぎないが、京太郎の所作の端々から、月子はそれが事実であろうと半ば確信していた。牌の取り扱いなどすぐに慣れるものだ。手先が器用なものであればそれこそ一日である程度ものにできる。だが京太郎の手つきは、純粋にぎこちない。

 そして、いまのかれには前局の運勢はない。最前、かれは純粋に、理由もなく()いていた。だから理由もなく()かなくなる。それだけである。

 

(まあ、それなりにたいしたものとは思うわよ。よくわたしの打ち筋を見切ったものよ。お勉強ができるのかしら? それとも単純にカンがいいのかしら? そこは素直にすごいっていってあげてもいい。なんなら強くなるって保証してあげてもいい。でもそれは少なくとも()()()()()()。今日このとき、この卓において、あなたはただのカモでしかない。わたしは――)

 

 月子は視線をかれから南浦、花田――そして抜け番の池田に向ける。

 

(あなたの自己満足にだけ、付き合ってるわけにもいかないのよ。わたしの目的は、前半戦の無様な自分をお祓いすることなんだから。そして、あの家を出て、前に進むんだから――)

 

 この茶番を即座に終える。そして須賀京太郎を精神的に屈服させる。かれの月子に対する得体の知れない作用を吟味するのは、それからでよい。

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 1巡目

 南浦:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{①}

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 1巡目

 京太郎:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{一萬}

 

「――チー」

 

 京太郎から吐き出されたチー材を鳴くことに、月子はいささかの躊躇いももたなかった。打点や巡目は彼女にとって副露をしない理由にならない。

 月子はただ疾きを求めている。

 月子が取り分け警戒しているのは、親の南浦である。これまで池田の陰に隠れて目立っていなかったが、南場における彼女の()()()()()には不自然なところがある。『条件』を満たした状態の月子が聴牌速度で純粋に及ばなかったのも南浦だけである。

 

(あの子には……()()()()()。わたしと近いなにかが)

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 1巡目

 月子:{六七③④⑥⑦124西西} チー:{横一二三}

 

 打:{1}

 

「ポン」と、京太郎がいった。

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 2巡目

 京太郎:{■■■■■■■■■■} ポン:{11横1}

 

 打:{②}

 

「――――チー」

 

 月子は再度鳴く。

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 2巡目

 月子:{六七⑥⑦24西西} チー:{横②③④} チー:{横一二三}

 

 打:{2}

 

 京太郎からの発声はない。

 

(あっさり封殺)と、月子は思う。(運がわるかったわね、須賀くん)

 

 そして、花田の自摸番が廻る。月子の自摸筋に他家の手が触れる。

 石戸月子の鬼ごっこが始まる。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:36

 

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 3巡目

 月子:{六七⑥⑦4西西} チー:{横②③④} チー:{横一二三} ツモ:{西}

 

 打:{4}

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 4巡目

 月子:{六七⑥⑦西西西} チー:{横②③④} チー:{横一二三} ツモ:{①}

 

 打:{①}

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 5巡目

 月子:{六七⑥⑦西西西} チー:{横②③④} チー:{横一二三} ツモ:{八}

 

 打:{⑦}

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 5巡目

 月子:{六七八⑥西西西} チー:{横②③④} チー:{横一二三} ツモ:{九}

 

 打:{⑥}

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)}

 6巡目

 月子:{六七八九西西西} チー:{横②③④} チー:{横一二三} ツモ:{西}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:41

 

 

(槓材――)

 

 月子が引き寄せた四枚目の{西}は、なにかの暗示に見えた。巡目は序盤から中盤に移行しつつある。

 

(それより何より)月子は親の河へ目をやった。

 

 南浦:

 河

 {①南五⑦④9}

 

(いまにもバカみたいに高い手を和了りそうな子がいるじゃない……)

 

 他家はすでに月子の聴牌気配を嗅ぎ取っているだろう。京太郎はともかく、南浦・花田から和了することはできない、と月子は読んだ。

 

(読む?)

 

 月子は微笑する。河や山の読みなど完全ではない。それこそ牌の背が透けないかぎり、放銃を回避し切ることなどできない。筋も壁も絶対ではない。なぜ、京太郎はともかく、などと月子に推し量ることができるだろう? 誰もが和了り、誰もが放銃する可能性が卓上にある。

 ――可能性の手を振りきって駆け抜けたものだけが勝利者になれる。

 

「カン」

 

 と、月子は呟いた。

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)} 槓ドラ:{3(ドラ表示牌:2)}

 6巡目

 月子:{六七八九} カン:{■西西■} チー:{横②③④} チー:{横一二三}

 

 賽の目で自滅を引いた南浦が、事務的な所作で槓ドラを捲る。新ドラ表示牌は{2}である。残念、と月子は胸中で呟く。包帯の巻かれていない左手を嶺上(リンシャン)に向ける。

 そこは王の山。5つ目の配牌が眠る領域である。

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)} 槓ドラ:{{3}(ドラ表示牌:{2})}

 6巡目

 月子:{六七八九} カン:{■西西■} チー:{横②③④} チー:{横一二三}

 

 恩恵を得たところで、次に自摸る牌が判ることはない。次の瞬間に他家の立直が掛かることを防げるわけでもない。捨てた牌に和了を避ける絶対の自信も、ありはしない。月子はただ走るだけだ。その単調な麻雀を、京太郎がつまらないと評する理由も、わからなくはない。

 

(だからって、)

 

 嶺上の花を、彼女は摘みとる。

 

(立ち止まるわけにも――いかないんだって)

 

 ――そのまま、卓上に叩きつけた。

 

 リンシャンツモ:{六}

 

「ツモっ」

 

 と、月子は言った。

 

「1000・2000の一本場は、1100・2100――」

 

 南一局 ドラ:{南(ドラ表示牌:東)} 槓ドラ:{3(ドラ表示牌:2)}

 【東家】南浦 数絵(親) :22000→19900(-2100)

 【南家】須賀 京太郎   :17600→16500(-1100)

 【西家】石戸 月子    :35800→40100(+4300)

 【北家】花田 煌     :24600→23500(-1100)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:44

 

 

 南浦:{22233344[5]6789}

 

({2347}待ちも、一手及ばず、か――)

 

 最後の親を流されて、ただし南浦数絵は嘆息することはなかった。

 息を吐いたものから水面に顔を出す。それは集中力の途絶を意味する。まだ糸を切る時ではない。勝負は最後までわからない。少なくとも今はまだ、そんな状況ではない。

 

(まだ、南場はこれから)

 

 気合を据えて、姿勢を正し、顔を上げる。

 すると、下家の少年と目が合った。

 

「……」

「……」

 

 お互いに沈黙を交換した。物言わぬ少年の目は硝子のようで、あまりにも動きがないせいか睨まれているようにも思える。

 

「な、なに」ぶっきらぼうに南浦は問いかけた。「なんですか」

「おまえ、いつから麻雀打ってんの」京太郎の口調に構えたところはなかった。

「え」と、突然の質問に南浦は戸惑う。「え、と、……幼稚園くらいかな」

「なるほどな」感慨深げに、京太郎は頷いた。「ありがとよ。聞きたかったのは、それだけだ」

 

(な、なんなの)

 

 南浦は疑問符を頭に浮かべながらも、次の局へと意識を切り替える。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:44

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 【北家】南浦 数絵    :19900

 【東家】須賀 京太郎(親):16500

 【南家】石戸 月子    :40100

 【西家】花田 煌     :23500

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 配牌

 京太郎:{一二五六③③⑤⑦⑨2568白}

 

(最後の親……こいつは遠そうだ)

 

 京太郎は頭を振る。急所が多すぎる。初心者のかれの目にも、この手牌が和了にたどり着くまでの困難が見える。

 かといって、牌を倒してやり直しというわけにもいかない。

 かれは最初の一牌を摘む――。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:44

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 配牌

 月子 :{一一三四[⑤]⑦468白白南中}

 

(押し切る)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:44

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 配牌

 花田 :{八九九①④⑥⑥23南南中中}

 

(七対子か、役で速攻か――局面を考慮すれば、ここらで一発カマシたいところですね)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:44

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 配牌

 南浦 :{六七七①②③④⑧⑧⑧3[5]東}

 

(手は、これ以上望めない。あとは――打ち回し)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 16:45

 

 

「数絵さんがお化け配牌をもらったね」と、春金が各人の手牌を一通り見てから囁いた。

「花田も速い。石戸はその二人と比べると重たいが、最悪ってほどじゃない」池田が応じた。「逆に、親番のあいつは、苦しい体勢だな」

「でもここで和了れなきゃ彼の浮上は厳しい」

「これが現実だ」と池田はいった。「実力差を覆すには運か手品、それにチャンスをものにするセンスが必要だ。アイツにはそれがないのかもしれない。さっきの局面で和了りきれなかったのは、つくづく痛いな」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:45

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 1巡目

 京太郎:{一二五六③③⑤⑦⑨2568白}

 

 打:{2}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 1巡目

 月子 :{一一三四[⑤]⑦468白白南中} ツモ:{東}

 

 打:{東}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 1巡目

 花田 :{八九九①④⑥⑥23南南中中} ツモ:{1}

 

 打:{①}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 1巡目

 南浦 :{六七七①②③④⑧⑧⑧3[5]東} ツモ:{9}

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:45

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 2巡目

 京太郎:{一二五六③③⑤⑦⑨568白} ツモ:{⑧}

 

 幸先がいい、と京太郎は感じる。{⑧}(ドラ)の嵌張が早々に埋まった。かれの指は手拍子で字牌に伸びかける。一見して、それがいらないように思えたからだ。

 その反射にも似た短絡を、京太郎はすんでで咎めた。

 

(バカか――考えろ、少しは)と、京太郎は自分に言い聞かせる。(それで簡単に切って、月子(こいつ)に楽させんのか? さっきから、鳴かせてるのはおればっかだ。おれだけが考えが足りねえんだ。学習しろよ、それくらい――)

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:45

 

 

(指先がさまよった)

 

 上家の動向を目端に捉えながら、月子は京太郎の手に自らの有効牌が埋められていることを推知する。

 

(抑えたところで、手が進めば出さざるを得ない)

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 2巡目

 月子 :{一一三四[⑤]⑦468白白南中} ツモ:{北}

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:46

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 2巡目

 花田 :{八九九④⑥⑥123南南中中} ツモ:{②}

 

「フム」と、花田は息を吐く。

 

(早くも……ちょっとした分かれ道)

 

 2巡目で花田に突きつけられたのは、軽い謎かけであった。牌理によった回答は比較的自明だが、この偏った場で常道を重視しては立ち行かなくなる目も見える。

 いつでも迷わず手広い形を採る。受け入れ枚数に重きを置いた一打を打つ。それも一つの強さへの回答である。

 

({八九九}よりも{②④⑥⑥}のが強いのはわかっちゃいますけれども……ちょっと露骨なのが気になるなぁ――{八萬}(これ)

 

 けれども花田煌は、こんなとき、少しばかり捻った回答を提示するのも良いと考える少女だ。

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:46

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 2巡目

 南浦 :{六七七①②③④⑧⑧⑧3[5]9} ツモ:{西}

 

 {打:西}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:46

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 3巡目

 京太郎:{一二五六③③⑤⑦⑧⑨56白} ツモ:{9}

 

 打:{9}

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 3巡目

 月子 :{一一三四[⑤]⑦468白白南中} ツモ:{八}

 

 打:{八萬}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 3巡目

 花田 :{八九九②④⑥123南南中中} ツモ:{九}

 

 打:{⑥}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 3巡目

 南浦 :{六七七①②③④⑧⑧⑧3[5]9} ツモ:{四}

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:48

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 4巡目

 京太郎:{一二五六③③⑤⑦⑧⑨56白} ツモ:{四}

 

 打:{⑤}

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 4巡目

 月子 :{一一三四[⑤]⑦468白白南中} ツモ:{⑨}

 

 {打:中}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 4巡目

 花田 :{八九九九②④123南南中中} ツモ:{①}

 

 打:{④}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 4巡目

 南浦 :{四六七七①②③④⑧⑧⑧3[5]} ツモ:{西}

 

 {打:西}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 16:51

 

 

「しかしまあ、なんていうか全体的に場が速いというか、みんな手の進みがいいねえ」春金が腑に落ちないといった表情で感想を漏らした。「いくらなんでもみんな同時に手が入りすぎてる気がする」

「まあ、そうだね」池田も消極的に同意した。「それがいわゆる、須賀の言う『ツマンナイ』ことってやつなんじゃない?」

「彼のいうこともわからなくはないね」と、春金はいった。「制限とか効果とか――まあ偶に()()()()()と打つこともあるけれど、それホントに麻雀なの? って思うこともなくはない」

 

 三色や対子・順子場のような同時性はともかく、向聴数の足並みがこうも揃う半荘というのはかなり珍しい。石戸月子の強さは言うまでもなく速度にあるが、彼女と同卓したメンバーまで手の進みが良くなる必要性が、春金にはわからなかった。

 池田は首を捻る。

 

「べつに、同じ卓に座って同じ牌に触れてるんだから、そんなに深く考える必要ないと思うけどな。相手がどんなルールで打ってたって、自分が打ってるのが麻雀じゃなくなるわけじゃないし」

「――そうかもね」

 

 春金はほろ苦く笑んだ。その目には羨望のようなものが宿っていた。確かにそれは、まだ諦観も絶望も知らない少女に対する眼差しである。

 戦局に食い入る池田華菜が、その感情に気づくことはついぞない。

 

「しかし、石戸の自摸ホントに腐ってるなー」池田の声色はいっそ感心した風だった。「マジであいつ、この半荘ほとんど面前で有効牌入れてないよ」

 

 ――彼女が卓上で絶望を知るまでには、まだ幾年かの間がある。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:51

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 5巡目

 京太郎:{一二四五六③③⑦⑧⑨56白} ツモ:{發}

 

「――」

 

 打:{一萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 16:52

 

 

「はあ」と、池田は嘆息した。「びびりすぎだあいつ。意外と肝が小さいのか?」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:52

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 5巡目

 月子 :{一一三四[⑤]⑦⑨468白白南} ツモ:{發}

 

(……何か掴まれた?)

 

 上家の摸打のリズムに、月子はわずかな揺らぎを感じ取る。

 

(まずいな。ちょっと、場が平たくなってきた――)

 

 {打:發}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:52

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 5巡目

 花田 :{八九九九①②123南南中中} ツモ:{東}

 

(お呼びじゃないですって、もー!)

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:52

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 5巡目

 南浦 :{四六七七①②③④⑧⑧⑧3[5]} ツモ:{6}

 

(微速前進――か)

 

 打:{3}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:53

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 6巡目

 京太郎:{二四五六③③⑦⑧⑨56白發} ツモ:{三}

 

 河:{289⑤一}

 

(これも――いや)

 

 京太郎は、己の自摸と河を見、胸中でだけ苦笑した。

 

(これが麻雀――)

 

 {打:發}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:53

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 6巡目

 月子 :{一一三四[⑤]⑦⑨468白白南} ツモ:{5}

 

 打:{8}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 6巡目

 花田 :{八九九九①②123南南中中} ツモ:{二}

 

 打:{二萬}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 6巡目

 南浦 :{四六七七①②③④⑧⑧⑧[5]6} ツモ:{1}

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:55

 

 

 そして、各自進みに苦慮する7巡目、

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 7巡目

 京太郎:{二三四五六③③⑦⑧⑨56白} ツモ:{1}

 

 打:{1}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 7巡目

 月子 :{一一三四[⑤]⑦⑨456白白南} ツモ:{北}

 

 {打:北}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 7巡目

 花田 :{八九九九①②123南南中中} ツモ:{7}

 

 打:{7}

 

「チー」

 

 花田から零れた{7}に対して、南浦が仕掛けた。

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 7巡目

 南浦 :{四六七七①②③④⑧⑧⑧} チー:{横7[5]6}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 16:56

 

 

「一番乗りは数絵さん」と春金は言った。

「いや、今のは――」池田が眉を集めた。「不用意だったかもな」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:56

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 8巡目

 京太郎:{二三四五六③③⑦⑧⑨56白} ツモ:{4}

 

(そっちを引いたか――ま、そうだよな。自業自得ってヤツだ)

 

 南浦の副露により、京太郎もまた聴牌を引き入れた――ただし、いうまでもなく振聴である。3巡前に{一萬}を捨てていなければ、ここで和了していたということだ。

 

 つくづく、このゲームは良く出来ていると京太郎は思う。思いながら、淀みない動作で立直棒を取り出した。

 

(当然――)

 

 {打:白}

 

「立直だ」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:56

 

 

 果たして、打たれたポン材に対して月子が鳴くことはなかった。

 

(親の立直に、鳴いて向聴取ったところで、悪ければノミ手――立ち向かう気も起きないわね)

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 8巡目

 月子 :{一一三四[⑤]⑦⑨456白白南} ツモ:{7}

 

(はいはい危険牌危険牌――安牌ならたくさんあるわよ)

 

 {打:白}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:57

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 8巡目

 花田 :{八九九九①②123南南中中} ツモ:{一}

 

(安牌――なんですけど、なんか……ヘンな感じですね)

 

 打:{一萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:57

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 8巡目

 南浦 :{四六七七②③④⑧⑧⑧} チー:{横7[5]6} ツモ:{七}

 

 自摸った{七萬}に、南浦はつかの間思案する。むろん、嵌張から三面張への張替えを躊躇うための迷いではない。赤牌を引けば12000の手である。親の立直であろうと引くという選択肢は無い。

 だが、

 

(引き入れたのか――掴まされたのか)

 

 南浦を悩ませるのはこの一点である。この日、得意の南場ですらことごとく月子や池田に上を行かれた。その事実が、彼女の摸打に疑義を挟ませている。

 

(――なんて、悩んだところで、しょうがない)

 

 解答など出ない問いである。

 

「あは」

 

 そうと気づいた南浦は、笑った。

 

(当たるなら、あたれ!)

 

 打:{四萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 16:57

 

 

「これはきつい」春金が呟いた。「彼の待ちは……山に残り2枚か。同じ3面張だけど、数絵さんは7枚山にいる」

「あるなら引くときは引くし」池田は淡々と言った。「捲りあいなんてそんなもん。大事な要素は数だけじゃない。山に浅いか深いか、それも大事なことだ。……まあでも、大体は多いほうが先に引くけど」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:58

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 9巡目

 京太郎:{二三四五六③③⑦⑧⑨456} ツモ:{中}

 

 {打:中}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 9巡目

 月子 :{一一三四[⑤]⑦⑨4567白南} ツモ:{2}

 

 {打:白}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 9巡目

 花田 :{八九九九①②123南南中中} ツモ:{五}

 

 {打:中}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 9巡目

 南浦 :{六七七七②③④⑧⑧⑧} チー:{横7[5]6} ツモ:{九}

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:59

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 9巡目

 京太郎:{二三四五六③③⑦⑧⑨456} ツモ:{⑤}

 

 打:{⑤}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 9巡目

 月子 :{一一三四[⑤]⑦⑨24567南} ツモ:{2}

 

 打:{[⑤]}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 9巡目

 花田 :{五八九九九①②123南南中} ツモ:{八}

 

 {打:中}

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 9巡目

 南浦 :{六七七七②③④⑧⑧⑧} チー:{横7[5]6} ツモ:{7}

 

 打:{7}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:59

 

 

(自摸れ)と京太郎は思う。

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 10巡目

 京太郎:{二三四五六③③⑦⑧⑨456} ツモ:{⑥}

 

 打:{⑥}

 

(自摸れよ――)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:59

 

 

(まずい)と月子は思う。(()()()()

 

 彼女の感覚は、場の均衡が崩壊する瞬間を察している。南浦数絵に凄まじい勢いで『流れ』が収束しようとしている。当初胎動でしかなかったはずの不自然な偏りは、今や明確な磁場となっている。

 

(尻上がりとかそういうのじゃなくて、純粋に南場に運気が向上してるのか――はは、いるもんね、似た人が。だからなぁんか気に喰わないんだ、この子。相性良すぎるもの、わたしと)

 

 それは押し留めるには苦労する勢いだ。奔流に喩えても構わないかもしれない。

 

(ここで和了られたら、一気に()()()()()()()

 

 感性が鳴らす警鐘に、彼女の身体は半ば自動的に反応した。

 

「……チー」

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 10巡目

 月子 :{一一三四⑨24567南} チー:{横⑥)[⑤]⑦

 

 打:{7}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:59

 

 

(チー!? オリてるんじゃなかったんですか石戸さん!?)

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 10巡目

 花田 :{五八八九九九①②123南南} ツモ:{白}

 

 {打:白}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 16:59

 

 

(なに……いまの鳴き)と、山へ手を伸ばしながら南浦は思う。(なにか……厭な感じがした)

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 10巡目

 南浦 :{六七七七②③④⑧⑧⑧} チー:{横7[5]6} ツモ:{②}

 

 打:{②}

 

 彼女の視線は、己の本来の自摸を拾う京太郎――ではなく、それを誘発させた石戸月子へ向いた。

 

(この人……やっぱり、()()()()()()

 

 そして、

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:00

 

 

 京太郎は歯噛みする。自分の与り知らないところで、何らかのやり取りが交わされたことをかれは感知する。同じ場、同じ卓にいながら、月子はかれを一瞥もしなかった。月子の視線は他に向いていた。

 

(これは、引かされたのか)

 

 心に、波が立つのがわかった。

 かれは、久しぶりに自分が怒っていることに気がついた。

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 11巡目

 京太郎:{二三四五六③③⑦⑧⑨456}

 

(おれなんか、眼中にないってか――)

 

 揺らぐ感情そのままに、発声した。

 

 ツモ:{七}

 

「――ツモ」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:00

 

 

 南二局 ドラ:{⑧(ドラ表示牌:⑦)}

 【北家】南浦 数絵    :19900→17300(-2600)

 【東家】須賀 京太郎(親):16500→24300(+7800)

 【南家】石戸 月子    :40100→37500(-2600)

 【西家】花田 煌     :23500→20900(-2600)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:00

 

 

 京太郎に点棒を払った南浦は、無言で嶺上牌へ手を伸ばそうとして――

 

「――」

 

 岩戸月子の視線を感じ、止めた。

 

「知っていますか、石戸さん」と、代わりに南浦はいった。「あるべき流れに手を加えれば、そこには揺り返しがうまれるそうです――私には難しくてよくわかりませんでしたが、お祖父様がいっていました」

「それは()()()()()()」と月子は答えた。「だからって、抵抗しないわけにはいかないわ」

「そうですね――それはそうだと思います」南浦は肩を竦めた。思ったほど、気分を害していない自分に気づいた。「でも、私、このままじゃ終わりませんよ」

「はいはい」と月子は言った。「始まる前に終わらせるわ。土壇場で大逆転なんてお話、わたしあまり好きじゃない」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:04

 

 

 京太郎の連荘で迎えた南二局一本場は、前局の焼き直しのような展開となった。ただし今回立直を発声したのは花田である。またも先んじられた月子の注意は、明らかに南浦数絵へ向いていた。月子は彼女の手の進みを見透かすように不要な鳴きを入れ、流れを阻害したのである。

 最早、卓上で月子が意識しているのは、南浦数絵と、そして花田煌だけだった。

 

 そして、京太郎は最後の親で更に加点をすることもなかった。

 かれは聴牌に漕ぎ着けることさえできず、南二局は流局を迎えた。

 

 南二局一本場

 【北家】南浦 数絵    :17300→16300(-1000)

 【東家】須賀 京太郎(親):24300→23300(-1000)

 【南家】石戸 月子    :37500→36500(-1000)

 【西家】花田 煌     :20900→22900(-1000、+3000)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:17

 

 

 街路に面した硝子に、水滴がついた。はじめぽつりぽつりと控え目に跳ねた飛沫はやがて勢いを増し始める。青空はいつのまにか灰雲に覆われ、雨足は一瞬にして強くなった。通りを行き交う人々が、小走りに雨宿りの場を探していた。

 春金清はさすがに同僚に無理やり引きずられて離席し、池田華菜は眠たげにアイスコーヒーを啜っている。

 スクールの中で、雀牌をかきまぜる音が絶えることは無い。

 

 万雷の拍手にも似た雨音に耳を澄ませながら、四人の少年少女は山から牌を拾い集める。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 【西家】南浦 数絵    :16300

 【北家】須賀 京太郎   :23300

 【東家】石戸 月子(親) :36500

 【南家】花田 煌     :22900

 

 南三局――京太郎の物言いによって幕を開けた半荘も、残すところ二局となった。現在のトップ目である月子の親番である。順位は京太郎、微差で花田、やや空けて南浦と続く。

 京太郎が月子をまくる条件は満貫の直撃か跳満自摸となる。必然他家はそれと同等か更に厳しい条件が課されるが、無論、場のだれの目にも諦めの色は宿っていない。

 

(偶々の二着――お零れの二着)

 

 京太郎は瞑目する。

 頭が冴えていくのを感じる。

 

(だからなんだ)と、かれは思う。(実力なんざ、ハナから図抜けて低いに決まってる。馬鹿馬鹿しい――思い通りにならないのなんて、当たり前だ。それが()()から、こんなことやってんじゃねえか)

 

 牌を握る。その指が、手が、熱い。この場に座る理由を、かれは思う。改めて思い返せば、ひどい言いがかりだと今さら悟る。確かに、月子の打牌は京太郎の趣味に合わない。

 だがただそれだけでしかない。

 彼女を含めた女子三人と、囲む麻雀はこんなにも楽しい。京太郎にとって、娯楽とは時間を潰す作業と同義だった。怒り、苦しみ、喜びといった感情の震えが伴う行為ではなかった。気の知れた仲間たちと時間を共有する心地よさだけがそこにあった。それは穏便で、尊い時間だ。けれども京太郎が欲するものは、そこにはなかった。

 

 それは()()()()()

 

 どれだけ力を尽くしても及ばないこともある。

 積み重ねた労力が、刹那を挟んで塵になることもある。

 知恵を絞った選択が、何一つ報われずに終わることもある。

 

(これが麻雀……)

 

 かれは牌を握る。

 

(これが、麻雀――)

 

 手牌を見下ろす。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 京太郎:{一六八①②④247白東東西}

 

 酷く不自由で、和了りの形さえ思い浮かばない。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 1巡目

 月子 :{■■■■■■■■■■■■■}

 

 {打:西}

 

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 1巡目

 花田 :{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{一}

 

 淀みのない摸打が、そこで停止した。

 南浦の巡目である。山から牌を引いた彼女は、思案げに口元へ手をやった。

 

「――失礼」

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 1巡目

 南浦 :{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{[5]}

 

 ――ブラフではない、と全員が感じた。京太郎にさえ判った。いっそ親切な南浦の劈頭は、京太郎の戦意を簡単に挫きかねない一打である。だが、

 

(チャンスかもしれない)

 

 とも京太郎は思った。現在の親は月子である。つまり子が高い打点で和了すれば、その分月子が被る支払いも多くなる。京太郎自身に和了の目が薄い今局、南浦ないし花田が自摸和了して月子の点数を削ることは、最善ではないにしても次善といえる。けれども、そのためにはまず京太郎が放銃を避ける必要がある。

 

(人任せは禁物――って思い出したばっかりだっけな)

 

 だが、いよいよとなればどんな手も使う必要がある。

 京太郎は心を定めて、局面の移行をへ意識を向ける。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:22

 

 

 異様に、静かだった。

 京太郎、花田はともかく、南浦は牌の絞りなど明らかに眼中がない。にもかかわらず月子の副露は全く入らない序盤だった。

 何かがおかしいと、誰もが気づいていた。とりわけ鋭く察知していたのは、もちろん石戸月子だったのだろう。彼女は刺々しい雰囲気を更に研ぎ澄ませ、対面の動向に意識を割いていた。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 2巡目

 南浦 :{■■■■■■■■■■■■■}

 

 {打:發}

 

 3巡目

 南浦 :{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{3}

 

 4巡目

 南浦 :{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{七}

 

 南浦の手の進みを、誰も止める術を持たなかった。彼女は無人の野を行くかのように牌を手から切り落とした。おそろしいほどに真摯な瞳で、一枚の切り出しも間違えはしないという意思を摸打に込めて。そしてその執念にも似た手牌は、5巡目に大きな動きを見せた。

 

(カン)

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)} 槓ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 5巡目

 南浦 :{■■■■■■■■■■} カン:{■99■}

 

(おい……)

 

 嶺上牌を引き入れる南浦の所作に、遅滞はわずかも無い。彼女は摘み取った牌を手の中に入れると――

 

「立直」

 

 打:{4}

 

 河に打った牌を、曲げた。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 5巡目

 京太郎:{六八②④2347白白東東南} ツモ:{4}

 

(ドラ8確定か)京太郎は即座に{4}を合わせ打った。

 

 打:{4}

 

「チー」

 

 やはり間髪入れずに、月子が鳴いた。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)} 槓ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 5巡目

 月子 :{■■■■■■■■■■} チー:{横435}

 

 {打:發}

 

(何のための鳴きだ)と、京太郎は考える。(一発消しか? 倍満確定の手に? そうじゃなければ和了るためか?)

 

 常識的に考えれば、月子は和了を目指しているはずだ。何しろ巡目が浅すぎた。降りる材料を南浦はいくらか詳らかにしているが、それでも十分とはいえない。筋など信用できるか定かではない。ただ南浦への振込みを避けるにしても、手材料が覚束なければどこかで勝負する必要がある。であればいっそ多少迂回しても和了を目指すのは、尋常の手順である。

 

 だが、石戸月子という少女の手順にそんなセオリーはそぐわない。

 京太郎は思考する。材料はある。かれは間近で月子の打牌を観察した。文字通りの彼女の手になった。全てではないとしても、この場の誰よりも自分は月子の打牌に詳しいはずだ。

 

(ここで月子(こいつ)が鳴く理由。ひとつは和了のためだ。仮に他に理由があるとすれば、それは何だ)

 

 すぐに思い当たる。

 前の半荘の出来事だった。彼女は池田の立直に対して言った。確かに京太郎へ命じた。あれも立直を受けた直後だった――「須賀くん。次、自摸られるわよ。鳴いて、それから打{7}」。

 

(もしかして、()()()か。自分が和了るためだけじゃなくて――)

 

 他家の和了を妨害するための副露。

 馬鹿げている、と京太郎は思う。眉唾もいよいよ本格的である。だが、可否はともかく、月子の意図に関する真偽はすぐにわかる。彼女のこれから打つ牌が、彼女の方向性を示してくれる。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)} 槓ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 6巡目

 京太郎:{六八②④2347白白東東南} ツモ:{北}

 

 果たして、京太郎は次巡、北を引いた。

 本来ならば南浦の一発自摸である。河にはまだ見えていない。

 それを余興で打つ気には、なれない。

 

 打:{4}

 

 そして月子は、

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)} 槓ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 6巡目

 月子 :{■■■■■■■■■■} チー:{横435}

 

 {打:發}

 

 安牌を重ねて打った。しかも、

 

(対子落とし)

 

 である。まだ確信は持てない。だが少なくとも、真っ直ぐに和了を目指しているわけではない。

 そして京太郎が逡巡する間にも、局は進む。自摸は回る。山は削られ続けていく。槓により一枚減じた山の海底は、月子の副露に応じて現在花田に回っている。京太郎に課された残り10回の自摸を、かれは何とか凌がなくてはならない。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)} 槓ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 7巡目

 京太郎:{六八②④237白白東東南北} ツモ:{北}

 

(また{北}――)

 

 打:{3}

 

 巡目は進む。南浦は自摸切る。月子は振らない。花田も振らない。二人とも京太郎には見えない世界が見えているとしか思えない。暗中をただ彷徨う京太郎が、たどるのは二人が切り開いた道である。京太郎はただ手を引かれているようなものだった。それでも、手牌は徐々に窮屈になっていく。真綿で首を絞められるように、逃げ場を失っていく。呼吸を求めて喘ぐ魚の気持ちが、いまならわかると京太郎は思う。雨足は更に強まり、雨音は五月蝿いほどなのに、卓を囲む四人の息遣いが聞き取れる。

 

 9巡、10巡――

 

 場は動かない。

 

 11巡、13巡――

 

 場は動かない。

 

 16巡――

 

 場は動かない。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)} 槓ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 16巡目

 京太郎:{五五[五]六八②④⑥⑧⑨北北中} ツモ:{⑨}

 

 打:{⑨}

 

 前巡、花田の打った安全牌を合わせ打った。

 次の巡目も同じ牌を落とせば、京太郎は凌ぎきれる。

 

(終わりか)と、かれは思う。(次はオーラスで――おれは二着で、トップとの差は13000)

 

 続けて、かれは上家の南浦を横目する。怜悧なイメージの少女の顔立ちには、焦燥も苦渋もない。粛々とおのれの命運を牌に預けている。仮に自摸れずとも、それが配剤と受け入れているのかもしれない。

 潔い、と京太郎は感じた。

 

(けどよ――)

 

 月子が、花田が、安全牌を河に並べていく。

 

 流局が刻一刻と近づいてくる。

 

 南浦が、最後の自摸に手を掛ける。このときばかりは、その柳眉に力が篭るのを京太郎は見た。そして、その潔癖な瞳に落胆と脱力が兆すのを、かれは見た。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)} 槓ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 17巡目

 南浦 :{■■■■■■■■■■} カン:{■99■}

 

 打:{⑦}

 

 その牌が河に打たれた瞬間、直感としかいいようのないものが京太郎の背を叩いた。馬鹿げた、何の意味もない決断を、それは促した。鳴け、とかれの中にいる何かが呟いた。()()()()()。別段、月子や南浦が持つ特別な何かが京太郎に兆したわけではない。それはただの合理的な判断だった。京太郎はもはや和了れない。物理的に和了れない。恐らく花田も同様だ。となれば、もっとも効果的に月子を追い落とす方法はひとつしかない。

 少なくともその可能性を残す方法は、ひとつしかない。

 

 体が命じている。

 

 ――()()()()()

 

 心も随えと言っている。

 

 ――()()()()()

 

 拒む理由はない。

 

「チー」

 

 と、京太郎はいった。

 

 え、

 

 と誰かがいった。南浦だったかもしれないし、月子だったのかもしれない。池田や花田ではないのだろうとかれは何となく思った。仮に彼女らが自分と同じ立場であれば、同じ行動を取るような気がしたからだ。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)} 槓ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 17巡目

 京太郎:{五五[五]六八②④⑨北北中} チー:{横⑦⑥⑧}

 

 打:{⑨}

 

 最後の牌を自摸らずに終えた瞬間、京太郎の背筋が粟立った。生ぬるい風が、額を舐った気がした(それはたぶん南風だった)。

 

(……ん)

 

 月子が大きく目を瞠って、京太郎を見ていた。それは、今まさに彼の存在に気づいたとでもいいたげな表情だった(さすがに京太郎の被害妄想かもしれない)。だが、もはや彼女に打つ手はない。選択肢も無い。京太郎と同様、ただ南浦に与えられた海底の結末を見送ることしか許されていない。

 

(自摸っちまえ)と京太郎は思う。

 

 祈りではない。競い合う相手の勝ちを祈るほど、京太郎は殊勝にはなれない。忸怩たる思いは確かにある。自分が和了できるのならば、それがいちばんいいに決まっている。だがそれすら許されないこともある。それが麻雀だ。不自由で理不尽で不平等な遊戯だ。

 だから楽しい、とかれは思う。

 

 花田が安牌を打つ。

 

 南浦が、本来ありえなかった海底牌を自摸る。

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)} 槓ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 18巡目(海底)

 南浦 :{■■■■■■■■■■} カン:{■99■}

 

 ツモ:{■}

 

 沈んでいた牌に刻まれていた字をいとおしげにひと撫ですると、

 

「ツモ」

 

 万感を込めて、南浦が宣言した。

 

 南浦 :{四四四⑦⑦⑦中中中北} カン:{■99■} ツモ:{北}

 

「――8200・16200」

 

 

 南三局流れ二本場・供託立直棒1000点 ドラ:{9(ドラ表示牌:8)} 槓ドラ:{9(ドラ表示牌:8)}

 【西家】南浦 数絵    :16300→49900(+32600、+1000)

 【北家】須賀 京太郎   :23300→15100(-8200)

 【東家】石戸 月子(親) :36500→20300(-16200)

 【南家】花田 煌     :22900→14700(-8200)

 




※役満は全て四倍満の扱い(四暗刻単騎を八倍満とは計算しない)。

2012/9/4:一部表現およびサブタイトルの項番が誤っていたため修正
2012/9/6:一部表記を修正
2013/2/18:牌画像変換


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10.ばいにん(始)

10.ばいにん(始)

 

 

途中経過(南三局終了時点)

 【南家】南浦 数絵    :49900

 【西家】須賀 京太郎   :15100

 【北家】石戸 月子    :20300

 【東家】花田 煌(親)  :14700

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 17:35

 

 

 雨が煙る。雨滴を吸い込んだアスファルトはその色を濃くしていく。藍色の路上で、水が徐々にその版図を増していく。増える水溜りには無数の波紋が連なっている。大粒の雨は、まだまだ止む気配がない。

 けれどこの勝負は終わる、と池田華菜は思う。

 南浦数絵の四倍満和了により、趨勢は決したかのように見えた。実際、二着に三万点近く突き放してのトップ目は、ほぼ磐石といっても良い体勢である。仮に二着(月子)跳満(12000)を放銃したところで、南浦のトップは動かない。

 最後まで何が起こるかわからないのが麻雀とはいえ、それを南浦が心得ていないわけではない。優勢は優勢である。池田の目にも、南浦の優勝は動かしがたいように見える。

 となれば、もうひとつの関心は、サシウマを握る石戸月子と須賀京太郎――この2者に向かざるを得ない。

 両者の点差は、月子の役満親被りによって5200点まで縮まった。月子があくまで首位を期すならば三倍満以上の自摸か、南浦からの倍満直撃が必須となる。単純に京太郎を凌ぎ、二位抜けで満足するのであれば、和了さえすればよい。ここまでの月子の性向からして、恐らく後者の路線を選ぶであろうことは想像に難くない。

 

(こんなの、よくある半荘でしかない)と、池田は思う。

 

 終局(オーラス)の親は花田である。散家(サンチャ)に、南浦、京太郎、月子と続く。各人期するところを胸に抱えて、口数は少ない。四人は寡黙に、機械がこなす洗牌(シーパイ)砌牌(チーパイ)を見守る。

 運命を決する山が井桁に積まれる。

 卓上にせり上がった136枚に、ちょっとした運命のようなものを左右する力が与えられる。

 

(ミスも多い。厳しい目で見れば、たいしてレベルが高い卓じゃない)と、池田は思う。

 

 花田の細い指が、卓上のスイッチを押す。

 骰子(サイコロ)が踊る。

 

(でも、いつもふしぎに思うんだ。どんな卓にもそれはあるんだ。おかしなもんだ――)

 

 廻る――

 

(この勝負――熱いぜ)

 

 彼女の指が、疼きに促されて、牌を手繰る素振りをなぞる。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:35

 

 

 花田煌は一意専心して賽を振る。彼女に雑念はない。窮地である。正念場である。ここを逃せば先の加点も帳消しになりかねない。力及ばず勝てなかった結果を受け入れる用意はあるが、最後の最後まで、諦めが花田の脳裏を掠めることは無い。

 

(とにかく連荘、なんてケチなことはいわない。そうなると石戸さんや南浦さんに凌がれますからね――)

 

 覚悟も深く、花田は瞑目する。鼓動が高鳴っている。今日という日に、この卓を囲めた幸運に、彼女は感謝した。

 

(きてよかった。今日はすばらな日になりそうです。そして、よりすばらな明日を――)

 

 廻る賽が止まる。

 出目は、四。

 

(――ぜったい勝って迎えるぞっ)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:35

 

 

 出目は果たして、開門に月子の山を選んだ。

 

(二の二、――天和の目、か)

 

 南浦数絵はその賽の目にいわくを感じる。

 かつて祖父が昔語りをした折に聞かされた覚えがある。

 それは卓上において、神秘よりも技術が猛威を振るった時代の話だ。

 玄人(バイニン)と呼ばれた人々が息づいていた頃の話だ。

 今では全自動雀卓の普及により日の目を見なくなったその技術を、手慰みに祖父が見せてくれたことがあった。霞むような牌捌きに、不自然なところは全くなかった(少なくとも南浦には検知できなかった)。だが賽が振られ、配牌を終えたとき、祖父の手は紛れもなく和了(アガ)っていたのである。

 

「いまとなっては、ただの郷愁でしかないのかもしれない」と、祖父は苦いものを含んだ顔で語った。「もちろん使いどころなんてありはしない。こいつは裏芸さ。人を騙して食い散らかしてきた証拠でしかない。いやしくもプロと呼ばれる人間が、たとえ(おまえ)だろうと目に触れさせていいモノじゃない。――だが、感覚が錆付かないようにと毎日牌に触れて、そのたびに私はこの技を繰り返すんだ。そして、日に日に鈍る指先の感覚を、どうしてかな、哀しいと感じるんだ――」

 

 実のところ、南浦数絵はある程度祖父のいう『裏芸』に通じている。渋るかれに頼み込んで、お年玉さえ要らないからとごねにごねて、一度だけという条件で、いくつかの技を披露させたことがある。積み込みもスリ替えも、求められるのは器用さと、何よりここ一番の肝の太さである。子供特有の熱心さで技術はある程度飲み込んだ南浦だったが、大一番でいかさまを仕掛ける度胸は持てる気がしなかった。

 実戦で使ったことはない。これからも使うことはないだろうと彼女は思っている。祖父にも厳しく命じられている(それは公正さを重んじての命令ではなく、南浦の今後の成長を阻害させないための言葉だった)。

 

 ―― 一瞬の回顧であった。花田が最初の幢を自摸った動きに合わせて、南浦もまた慌てて壁へ手を伸ばす。

 

(なんでいま、お祖父様のことを思い出したんだろう)

 

 牌を撫でるうちに、理由はすぐに思い浮かんだ。右手にはまだ、前局の海底役満和了の余熱がある。

 南浦にあの手を運んだのは月子。そして成就させたのは京太郎だった。

 

(凄いことを、したわけじゃないんだろうけど)と、南浦は京太郎を見るともなしに思う。(初心者だからかな? なんだか、心が浮くみたいな麻雀を打つ人みたい――)

 

 捲られた牌は{三萬}。ドラは{四萬}。

 

(役満を和了ったからって、流しはしない。合計収支を競っているんだから、ここで勝ち切る。勝つ)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:36

 

 

(天国、地獄、大地獄――という感じね)

 

 トップから一転、大差の二位に転落して、月子は自嘲を禁じえない。しかし、省みる暇は彼女に与えられていない。時は着々と刻みを続けるし、他家は虎視眈々と月子の点棒を狙う。

 

(やってらんないわね、まったく……とは思えないのが、不思議なところ)と、月子は胸中独白する。

 

 実際、常の彼女であれば、腐ったところで不思議は無い状況だった。押さえ込んだと思った矢先に子の役満和了を親被りなど、事故以外の何者でもない。

 過去の対局の傾向からして、トップの座を明け渡した直後の彼女は、集中力を切らしやすい。そこから調子を崩すのが恒例でさえあった。

 しかし、すくなくともこの半荘の月子は、べつの感興に支配されていたのである。

 

(もしかして、わたし、楽しいとか――思っちゃってたり、したりして)

 

 一概に否定はしきれない。何事かを賭した勝負は、人に興奮をもたらす。勝利の喜びを倍増させ、敗北の悔いをも増倍させる。

 そういうこともあるのだろうと、彼女は心に整理をつけた。

 

(――前局、わたしに仕損じは無かった。須賀くんのあの鳴きも、所詮は苦し紛れでしかなかった。純粋に南浦さん(あの子)の勢いに押し切られただけの話でしかない。――そして、むかつくことに、あんな手を和了っておいて、まだ流れがよどんでない)

 

 月子の感覚は、引き続き南浦への警戒を訴えている。こうなれば、二位以下の点差など無いに等しかった。もっとも現実的な策は配牌オリを決め込んで南浦の和了を待つことだが、それは他家を自由にさせることに他ならない。月子()()()()()の特性上、それは巧手とはいえなかった。

 

(なにより、()(かむ)りは性に合わないしね)

 

 現実的に、月子の逆転は困難と判じざるを得ない。高目を育てる悠長な場況になるとも考えにくい。石戸月子は、速度を信仰している。麻雀とは他者と和了を競う遊戯である。であれば、誰より早く和了し続けることを目指すべきだ――そう頑なに信じている。

 

(ゴミ手でもいい。自分の麻雀を打ち切ろう)

 

 月子は深呼吸する。幾度も繰り返した摸打を、この場面でも繰り返す。彼女がこの対局に臨むにあたり心がけることは、それだけである。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:36

 

 

 そして、須賀京太郎は天を仰いだ。

 

「やろうぜ」

 

 と、かれはいった。誰に向けた言葉でもなかった。強いて言うなら、かれの意思はおのれを志向していた。何かが変わるという期待と、何も変わらないという諦念がせめぎ合うかれの心理は、いま、勝負の熱に焦がされていた。

 このときだけでいい、とかれは心底、思った。いまが永遠であればいい、と本気で願った。

 

(けど、終わりはやってくる。泣いても笑っても、泣かなくても笑わなくても)

 

 旦夕のように、それを留めおく術は人の手が届かない場所にある。それを京太郎も知っている。余計な思考は頭の隅に追いやって、かれは真っ直ぐに勝利を目指す。

 

「さア、勝負だ――」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:37

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 【南家】南浦 数絵    :49900

 【西家】須賀 京太郎   :15100

 【北家】石戸 月子    :20300

 【東家】花田 煌(親)  :14700

 

 配牌

 花田 :{[五]六八九九①③④122277}

 

 配牌

 南浦 :{二四四五⑦334西西白白白}

 

 配牌

 京太郎:{三三四②②[⑤]⑥89北中中發}

 

 配牌

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]689發發中}

 

 たどり着いたオーラスで、ずば抜けた配牌を与えられたのは南浦である。前局の劇的な和了を引きずるような{四萬}(ドラ)2枚を含む好牌姿の2向聴を、少女は落ち着いた面持ちで見下ろしている。

 次点で、親の花田がいる。萬子の高目がやや重たい急所となっているが、和了への道筋は簡明で塔子も恵まれている。わずかに吟味した彼女の第一打は、{①}であった。

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 1巡目

 花田:{[五]六八九九①③④122277}

 

 打:{①}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 1巡目

 南浦 :{二四四五⑦334西西白白白} ツモ:{①}

 

 打:{①}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 1巡目

 京太郎:{三三四②②[⑤]⑥89北中中發} ツモ:{九}

 

 打:九

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 1巡目

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]689發發中} ツモ:{東}

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:38

 

 

(1巡目から、子方は全員自摸切りですか――打たれた牌からじゃいまいちわかりませんが、ちょっと字牌(ツーパイ)が高いかな)

 

 感覚を研ぎ澄ませた花田は、三方の子に気を払う。緩んだ打ち回しも、漫ろな捌きの誤りも、致命傷となる局面である。麻雀に対する揶揄の一種として、絵合わせという表現があるが、それもまた本質の一つには違いない。

 

(問題は、このパズル……完成をだれも約束してくれないことなんですけどね)

 

 これはと思った本手が、他家の手や王牌に殺されていることもある。しょっちゅうある。そのたびに泣きを見る花田であるが、不思議と、もう懲り懲りだと思ったことはない。

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 2巡目

 花田:{[五]六八九九③④122277} ツモ:{4}

 

(内に内にと手なりで寄せて、はたしてすばらな未来があるものか――)

 

 打:{1}

 

(――っていったって、定石を疑うほど、わたしはまだ巧くないですからね。まっすぐですっ)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:38

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 2巡目

 南浦 :{二四四五⑦334西西白白白} ツモ:{⑨}

 

({⑨}……)

 

 引き当てた筒子に、南浦は眉を顰めた。

 

({二四四五}や{334}の連続形を見限る巡目じゃない。落とすとしたらオタ風だけど、{西}はたぶん山に丸生きしてる。飛び道具(ポン)を捨ててまで、この嵌張――急所をあえて増やす必要が、あるのか、どうか……)

 

 思案のすえに、彼女が選んだのは2巡連続の自摸切りであった。

 

 打:{⑨}

 

(この選択、どう出るか)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:39

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 2巡目

 京太郎:{三三四②②[⑤]⑥89北中中發} ツモ:{5}

 

 奇しくも上家の南浦の行動に倣うように、京太郎も自らの自摸を見、その動作をわずかに停滞させた。ほとんど閃きに近い方針がかれの脳裏を過ぎったのはそのときである。

 

(こいつは……――)

 

 手拍子で打北といく手順に、指運に、かれはあえて逆らった。

 

 打:{9}

 

(伸るか反るか)と、かれははらを据えた。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:39

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 2巡目

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]689發發中} ツモ:{東}

 

 連続の{東}引きに、さしもの月子も口角を吊った。

 

(よくあることだけど! もう見慣れた光景だけれども! この局面でこう来られると、ほんと、むかつくわ!)

 

 {打:東}

 

(ああ、面前で自摸るのって、どんな感じなんだろう――)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:39

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 3巡目

 花田:{[五]六八九九③④222477} ツモ:{8}

 

(すばらっ。両面塔子でフォローしつつ、タンヤオへ移行――ですね!)

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:39

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 3巡目

 南浦 :{二四四五⑦334西西白白白} ツモ:{⑧}

 

(ド裏目……っ!)

 

 おのれの指感を信じなかったことを、南浦は悔いた。

 

(よくあることだけど――役満和了ったから適当に打ってるなんて、絶対におもわれたくない。⑨⑧⑦の並べ打ちなんて、できないっ……)

 

 苦みばしった表情で、南浦は対子を落とした。

 

(両面なら、フリテンだってふつうに字牌対子よりうえだもの――!)

 

 {打:西}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:40

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 3巡目

 京太郎:{三三四②②[⑤]⑥58北中中發} ツモ:{⑨}

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:40

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 3巡目

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]689發發中} ツモ:{北}

 

(自風――とはいえ、使いでがない。3巡連続でなんだけど……)

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:41

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 4巡目

 花田:{[五]六八九③④2224778} ツモ:{5}

 

 打:{九萬}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 4巡目

 南浦 :{二四四五⑦⑧334西白白白} ツモ:{南}

 

 {打:西}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 4巡目

 京太郎:{三三四②②[⑤]⑥⑨5北中中發} ツモ:{⑧}

 

 打:{5}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 4巡目

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]689發發中} ツモ:{西}

 

 {打:西}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:42

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 5巡目

 花田:{[五]六八③④22245778} ツモ:{南}

 

 {打:南}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 5巡目

 南浦 :{二四四五⑦⑧334南白白白} ツモ:{六}

 

 {打:南}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 5巡目

 京太郎:{三三四②②[⑤]⑥⑧⑨北中中發} ツモ:{南}

 

 {打:北}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 5巡目

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]689發發中} ツモ:{6}

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:42

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 6巡目

 花田:{[五]六八③④22245778} ツモ:{七}

 

(裏目?――いいえ、わたしはそうは読まない。これは……すばらなツモ!……のはずっ)

 

 打:{八萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:43

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 6巡目

 南浦 :{二四四五六⑦⑧334白白白} ツモ:{東}

 

({三萬}・⑥{⑨}引き打{4}の1向聴――{⑨}をとっておけば、嵌{三萬}でもう聴牌)

 

 少なくとも同局の間、前巡の摸打を顧みることは禁物である。そうとわかっても嘆息を禁じえないほど、南浦はここからの旅路が長くなることを予感していた。

 

(ここからが……)

 

 {打:東}

 

(――長い)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:43

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 6巡目

 京太郎:{三三四②②[⑤]⑥⑧⑨南中中發} ツモ:{三}

 

 {打:南}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:43

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 6巡目

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]668發發中} ツモ:{5}

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 17:44

 

 

 卓のぐるりを廻って場況を観察し終えると、池田は壁に背を預けて腕を組んだ。位置取りは、京太郎・月子の背後である。

 

(須賀と石戸が、それぞれ南浦のまじめなこだわりに迂回に救われた形だ。須賀が四枚目の{三萬}を引き当てて、石戸と南浦のキー牌を同時に殺した。ふたりが辺・嵌{三萬}と心中するなら、抜けるのはたぶん、花田――なんて、北海道がぴたりとアタるなら、苦労はないか)

 

 順当に行けば、京太郎の手牌では{發}が、月子の手牌では{中}がそれぞれ余る。計らずも京太郎が実践した月子の早和了封じが機能する手格好なのである。これを京太郎のツキと見るべきか、月子の不ヅキと見るべきか、池田は黙考した。

 

(石戸は苦しいな。実質、配牌からほとんど手が動いてない。鳴けないかぎり、マジで引けないのかな? どうやってそんなことしてるんだ? 積み込みやってるってことか? 自動卓に?――ああ、考えてもわっかんないなァ)

 

 京太郎

 河:{九985北南}

 

 月子

 河:{東東北西98}

 

(須賀、アンタは自摸に沿ってるだけか? それとも小細工に溺れてるのか?)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:44

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 7巡目

 花田:{[五]六七③④22245778} ツモ:{北}

 

 {打:北}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 7巡目

 南浦 :{二四四五六⑦⑧334白白白} ツモ:{2}

 

 打:{二萬}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 7巡目

 京太郎:{三三三四②②[⑤]⑥⑧⑨中中發} ツモ:{白}

 

 {打:白}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 7巡目

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]566發發中} ツモ:{八}

 

 打:{八萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:44

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 8巡目

 花田:{[五]六七③④22245778} ツモ:{9}

 

(タンヤオが崩れる{9}引きではありますが、――絶好ではなくても、上々の自摸っ)

 

 打:{7}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:44

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 8巡目

 南浦 :{四四五六⑦⑧2334白白白} ツモ:{⑦}

 

(これで、ようやく、フリテン解消――)

 

 打:{⑧}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:44

 

 

 そして、この半荘何度目になるのか――またしても、翻牌の切り出しを契機に、場が動き出すときがきた。

 契機の役目は、京太郎が担った。

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 8巡目

 京太郎:{三三三四②②[⑤]⑥⑧⑨中中發} ツモ:{①}

 

 8巡目、{①}を自摸った京太郎は、おもむろに打{發}といった。

 月子の副露に対する警戒など、前巡の打{白}から失せてしまったかのようだった。

 

 {打:發}

 

「――ポン!」

 

 馴染んだ発声が下家であがった。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:44

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 8巡目

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]566中} ポン:{横發發發}

 

 鳴いた月子が河に打つ牌を選ぶとき、もちろん、京太郎の『対策』を懸念していないわけではなかった。手順は{中}を切り出せといっている。だが{中}は生牌(ションパイ)である。打って鳴かれれば、再び自摸筋が戻ってしまい、この副露が無駄になる。

 

 だが、逡巡は一時だった。

 

(どのみち、しょうがない――あるかどうかもわからない副露を警戒して、シャンテン戻しなんか死んでもしたくないわ)

 

 {打:中}

 

「ポン」

 

 やはり、京太郎は鳴いた。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:44

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 9巡目

 京太郎:{三三三四①②②[⑤]⑥⑧⑨} ポン:{中中横中}

 

 月子から{中}が出た瞬間、京太郎はほとんど自動的に発声していた。しかしいざ牌を晒す段になって、手が止まる。聴牌を目指すだけであれば、{⑨⑧}を払っていくべきだ。その場合、ロスは4枚見えている{⑧⑨}の二度引きのみである。ただ和了るだけならば、その手順に疑いはない。

 しかし、かれが参加しているのは条件戦である。二位の月子との点差は5200ある。3900を自摸和了しても届かない。仮に以下のような最終形になったとして、

 

 京太郎:{三三三四①②③[⑤]⑥⑦} ポン:{中中横中}

 

 かれが月子を捲くるには、ドラを跨ぐ{二五萬}を月子から直撃するか、{赤五萬}を自摸る必要がある。{三萬}を手の内で使い切ったこの場況、{二萬}が飛び出る可能性はある。実際すでに上家から一枚零れている。

 だが、{赤五萬}が山に残っているか――そもそも月子が京太郎の中り牌を打つか、といった点で、まだ布石が足りないとかれは思った。

 京太郎は自らの河に染め手の演出を施した。露骨な河に仕上げて見せた。だがまだ足りない。現時点では萬子聴牌(マンテン)とも筒子聴牌(ピンテン)とも取れる河である。

 

(止まるな)と京太郎は自分に言い聞かせる。(淀むな。迷うな。ためらうな――)

 

 熟考の素振りを見せれば、かれの浅知恵は露見するだろう。見透かされるとまではいかなくとも、()()()()()()()()()、と月子に思われてしまえば、警戒を招く。

 

 滑らかな動作で、かれは牌を抜き打った。

 

 打:{四萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:44

 

 

(――{四萬}(ドラ)打ち。まずい。足を止めすぎた――)

 

 月子は歯噛みした。温存したドラを打った以上、京太郎は聴牌と見るべきだった。彼女はよほどその一役を鳴いて喰い取りたかった。だが鳴けないものはしかたない。

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 8巡目

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]566} ポン:{横發發發} ツモ:{3}

 

(索子か……)

 

 月子は場を見渡す。これから先、聴牌に漕ぎ着けるまでは、一打も誤ることは許されない。

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 

 花田 :{■■■■■■■■■■■■■}

 河  :{①1九九南八}

     {北7}

 

 南浦 :{■■■■■■■■■■■■■}

 河  :{①⑨西西南東}

     {二⑧}

 

 京太郎:{■■■■■■■■■■} ポン:{中中横中}

   河:{九975北南}

     {白( 發 )四}

 

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]566} ポン:{横發發發} ツモ:{3}

   河:{東東北西98}

     {八( 中 )}

 

(須賀くんの{75}と{北}は手出し)月子は思考を巡らした。(すくなくともあの時点で{556}ではなかった。{975}の切り出し順でチャンタの目は消せる。{12}を残して{579}の両嵌を払う意味がない。問題は{455}の場合から{5}を先打ちした場合だけど、少なくともわたしの手に{5}は二枚見えてる。一応{3}はあてにならないワンチャンスってわけだけど――)

 

 打:{3}

 

(それにしたって、{455北}の形から、{5}の先打ちはない。ドラ切りから見ても、字牌の温存から見ても、打点を考えても、筒子(ピンズ)混一色(ホンイツ)を疑う理由はない――)

 

 月子の背を、冷たいものが伝う。

 この日初めて、彼女はかれを強く意識して打っていることに、まだ気づかない。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:45

 

 

 気合を込めて牌を自摸る。すると手に入る。

 花田煌はそんな夢も見る少女である。

 

(でも、入らないものは、入らないのでした!)

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 9巡目

 花田:{[五]六七③④22245789} ツモ:{中}

 

({②③④⑤}、{3456}の受け入れも、自摸れなければすばらくないですねー)

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:45

 

 

 そして、聴牌一番乗りを果たしたのは、南浦だった。

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 9巡目

 南浦 :{四四五六⑦⑦2334白白白} ツモ:{⑦}

 

(受けはふたつ。どちらも直前に処理された{3}タンキ……そして{四七萬}(ドラ筋)の待ち)南浦は顔を曇らせた。

 

 打:{3}

 

(自摸る。南場のわたしなら、自摸できるはず)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:45

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 10巡目

 京太郎:{三三三①②②[⑤]⑥⑧⑨} ポン:{中中横中} ツモ:{④}

 

(――そっちか)

 

 望外の{④}自摸であった。が、求める打点には一手届かない。一気通貫を目指すのは悠長に過ぎるだろう。{四萬}強打のあとに{三萬}の切り出しはいかにも悪手である。

 

(下手の考え、休むに似たりってやつかね、こりゃァ)

 

 絡め手が、京太郎の手を自縛し始めていた。

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:45

 

 

(筒子がこぼれたわね)

 

 むろん、月子は目ざとくその牌に目をつけていた。逡巡してからの{①}切りである。前巡聴牌をしていなかったか、あるいはよりよい待ちに切り替えたのだろう。

 

(ぜったい筒子切れないわよもー)

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 10巡目

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]566} ポン:{横發發發} ツモ:{西}

 

(空気読みなさい!)

 

 {打:西}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:46

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 10巡目

 花田:{[五]六七③④22245789} ツモ:{四}

 

「――ぅぁちゃ」

 

 引いた牌を目にした花田は、露骨に眉を寄せた。前々巡に京太郎が打った牌ではあるが、2巡もすれば場は変わる。もはや、超がつくほどの危険牌である。

 

({③④}を払うか、{45}を払うか――筒子は須賀くんにこわく、索子はほかにこわい)

 

 花田の目から見て、切り出しに四苦八苦しているのは月子と南浦である。京太郎は初心者特有の思い切りの良さで、わき目も振らず和了を目指している(ように見える)。

 どうしてもこれが切れない――脈絡もなくそんな霊感がおとずれるときが、麻雀にはある。いまの花田にとって、その対象が{四萬}であった。ほかは正直、どれも同じように見えた。であれば、あとは好みの問題である。

 

(じゃあ、こっち)

 

 打:{4}

 

 花田は打{4}といった。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:46

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 10巡目

 南浦 :{四四五六⑦⑦⑦234白白白} ツモ:{4}

 

 打:{4}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・H卓(空卓)/ 17:47

 

 

 場況はいよいよもって緊張感の頂点に達しつつあった。現状聴牌を果たしたのは南浦・京太郎の二名である。池田の感覚では、次の瞬間にもどちらが和了ってもおかしくない。

 ――そして、実際に、京太郎は和了牌を引き当てた。

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 11巡目

 京太郎:{三三三②②④[⑤]⑥⑧⑨} ポン:{中中横中} ツモ:{⑦}

 

(あ、)と、池田は思った。

 

 打:{⑨}

 

 ノータイムの打{⑨}であった。四枚目の{⑦}を引いてから⑨を抜き打つまでの京太郎の動作に、逡巡は皆無だった。

 むろん、ここで和了を宣言したところで打点は700・1300である。かれがサシウマを握っている石戸月子には1900点及ばず終了となる。

 

(当然の打{⑨}。とはいえ、顔色も変えずによくやるねえ――)

 

 息を詰めていた自分に気づいて、池田は窓越しに表通りを眇め見た。夏の宵が徐々に近づいている。厚い雨雲により日が遮られて、教室内の白色灯が鮮烈に映えていた。

 

 誰が勝つか予想することを、彼女は止めた。

 なんだか、その通りになってしまいそうな気がしたからだ。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:47

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 10巡目

 月子 :{一二②④⑤⑥[5]566} ポン:{横發發發} ツモ:{6}

 

(――うそ、聴牌)と、月子は思った。意外さのあまり、目を瞬いている。

 

 しかし、聴牌を取るためには{②}を切らざるを得ない。

 

(天の蜘蛛糸か、甘く見えるただの罠か――{二一萬}と廻す手もある。万が一の{③}引きなら、筒子の受けで聴牌を取れる)

 

 喉が渇く。緊張と興奮が月子の腹腔からこみ上げてくる。それは熱を持っている。妖しい熱である。人を絡めとり、堕落させる。

 

 ――博打の熱だ。

 

(熱い――)

 

 月子は、

 

 打:{②}

 

 と、いった。

 

(――勝負をしなくちゃ、勝てないんだから)

 

「ポン」

 

 京太郎の発声だった。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:48

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 11巡目

 京太郎:{三三三④[⑤]⑥⑦⑧} ポン:{②②横②} ポン:{中中横中}

 

 打:{⑧}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:48

 

 

 場の全員が思考を同じくした。これまで、頑として防いだ自摸筋の「ずらし」を、京太郎が自ら行ったのである。

 京太郎の打牌に対する発声はなかった。

 

(これはタナボタ!)

 

 慮外の副露に、月子は興奮を隠し切れずに山へ手を伸ばす。

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 11巡目

 月子 :{一二④⑤⑥[5]5666} ポン:{横發發發} ツモ:{發}

 

 そして、月子は条件を満たした。

 

(荒らしてやるわ――この磐石の場を、めいっぱい!)

 

「――カン!」

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)}

 11巡目

 月子 :{一二④⑤⑥[5]5666} 加カン:{横發}({横發}){發發}

 

 リンシャンツモ:{南}

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 11巡目

 月子 :{一二④⑤⑥[5]5666南} 加カン:{横發}({横發}){發發}

 

 {打:南}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:49

 

 

(加カンですか、この局面で。……しかも捨てようとした牌に乗っちゃったし)

 

 苦笑を禁じえない花田だった。

 彼女は基本的に正道を行く打ち手である。応用力はあり、奇抜な発想も時たまするが、本当の意味で()()()ことはできない。なんとなく、月子の自由気ままな摸打に、憧れのようなものを覚えはする。

 

(でもまあ、よそはよそ、うちはうち――ってやつですかね)

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 11巡目

 花田:{四[五]六七③④2225789} ツモ:{6}

 

(わお。すばらツモです!)

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:49

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 11巡目

 南浦 :{四四五六⑦⑦⑦234白白白} ツモ:{1}

 

(和了逃し――正着は、{四萬}落としの{14}ノベタン受け、か)

 

 痛恨のミスに、南浦は微笑した。

 

(そんな受け、いまのわたしには、正直むりです!)

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:50

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 12巡目

 京太郎:{■■■■■■■} ポン:{②②横②} ポン:{中中横中}

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:50

 

 

(なに、その{⑦}……)

 

 上家の打{⑦}に、月子は激しく戸惑った。

 

 京太郎:{■■■■■■■} ポン:{②②横②} ポン:{中中横中}

   河:{九975北南}

     {白( 發 )四①⑨⑧}

     {⑦}

 

(全部手出しなのに、面子落としてるじゃない……)

 

 前提が瓦解する音を、彼女は聴いた。単なる染め手ではない。京太郎は、おそらく一度以上和了放棄をしたのだ――少なくとも月子を捲れる手を育てるために。

 

(いや、混一色の線が消えたわけじゃない。でも、対々和(トイトイ)もありえる。最悪、両方かもしれない。場に、筒子がけっこう高い)

 

 そうと気取ってしまうと、先ほどの打{②}は酷い暴牌なのだと自覚できた。牌を倒されなかったのは僥倖に過ぎない。あの副露が、結果的に京太郎に逆転の目を与えてしまったのだ。

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 12巡目

 月子 :{一二④⑤⑥[5]5666} 加カン:{横發}({横發}){發發} ツモ:{9}

 

(安牌――)

 

 打:{9}

 

 救われた心地で牌を打つと、今さらながら月子の心理を不安が叩いた。

 

(なんで……よりによってわたしは、ドラ表示牌のこんな腐った待ち(辺{三萬})を残したのよ……)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:51

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 12巡目

 花田:{四[五]六七③④2225678} ツモ:{二}

 

(……危ないですが、ここは行くべきところ)

 

 打:{二萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:51

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 12巡目

 南浦 :{四四五六⑦⑦⑦234白白白} ツモ:{二}

 

(引き戻して――合わせうちか。わたしの{四七萬}は、山にあとどれくらいいるのかな――)

 

 打:{二萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:51

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 13巡目

 京太郎:{■■■■■■■} ポン:{②②横②} ポン:{中中横中}

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:51

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 13巡目

 月子 :{一二④⑤⑥[5]5666} {横發}({横發}){發發} ツモ:{③}

 

(よりによって、超危険牌を……)

 

 迷いが月子の心に忍び寄った。指先が{③⑥}を行きつ戻りつした。やがてその向き先は、安全牌の{二萬}に伸びかけ、止まる。{二萬}を合わせ打つということは、聴牌を捨てるということだ。向聴を戻すということだ。巡目はすでに終盤――{③}を残して聴牌に復帰する目がないわけではない。受け入れはかなり広い。当然だが、辺{三萬}と心中するよりはまだ可能性の目があるかもしれない。

 

(どう、どうすれば――)

 

 {②}を打って辺{三萬}の聴牌を取ったのだ。

 今度も同じく{③}を打つべきだ。

 ――それが、どうしても出来なかった。

 

(苦しい――息が、苦しい――)

 

 打:{二萬}

 

(――あ、)

 

 それを置いた瞬間、月子は、京太郎の()()()に気がついた。

 

 おのれの手牌の端に孤立した{一萬}が、何もかもを物語っているような気がした。

 

(そうだ。今日……ずっと、手離れが遅かった、この牌)

 

 脳裏を去来するのは、最初の半荘戦――池田に倍満を振り込んだあの一局である。

 特定の牌が重たくなる日、というのが麻雀にはある。思い込みやジンクスのようなものである。

 物質の運勢を感得できる月子にとって、その意味は常人よりやや重い。

 注意深く観察すれば、{一萬}は――やはり、他の牌よりも月子にとって悪果を運びやすい引力を持っていた。

 

(須賀くんは、わたしに命令されてずっと打ってたじゃない。それに気づいた事だって、十分……ありえる)

 

 知らず、月子は唾液を喉へと送った。

 

(須賀くんの待ちは――混一色ではなく、{一萬}タンキ……!)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:52

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 13巡目

 花田:{四[五]六七③④2225678} ツモ:{七}

 

(ポンカスを含む{②⑤}待ち。オリる気ないし槓ドラあるしで立直してもいいんですが――また{七萬}引いたときにそのまま放しちゃうのが厭だなー)

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:52

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 13巡目

 南浦 :{四四五六⑦⑦⑦234白白白} ツモ:{九}

 

(上家が面子落としで聴牌気配――わたしの当たり牌を抱え込まれたかな)

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:52

 

 

(苦しいな)

 

 と、京太郎は思った。笑みがこみ上げてきそうなほど苦しかった。頭の奥が疼いて止まらなかった。不思議な酩酊感が付きまとい続けていた。

 かれは心底、負けたくなかった。点棒を明け渡すことをとても負担に感じた。その精神性を、かれは指差しして笑いたい気分だった。

 

 命を惜しんだことがないかれだ。

 そんな人間が、たかだか遊戯のうえの点数に、一喜一憂している。

 

(苦しい。苦しいけど――楽しいな。ああ、そうだ、すげえぞこれ。すげえ楽しい――)

 

 色々なものに、感謝をしたいとかれは思う。たとえば、図書館で会った姉妹がそうだ。あんな別れ方をしたままにはできない。これから京太郎も図書館に通い詰めて、あの少女にきちんと謝らなければならない。そして礼を伝えるのだ。

 

 手は尽くした。

 ミスもあったし、もっとスマートに決着できた可能性もあっただろう。

 だからといって、負けてよいなどとは思わない。

 勝負は勝ってこそだ。

 勝ってはじめて、京太郎は胸を張って伝えることができるだろう。

 

(打てよ。打て――打っちまえ)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:52

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 14巡目

 京太郎:{■■■■■■■} ポン:{②②横②} ポン:{中中横中}

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:52

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 13巡目

 月子 :{一③④⑤⑥[5]5666} 加カン:{横發}({横發}){發發} ツモ:{一}

 

(申し合わせたようにくる{一萬})

 

 月子は笑んだ。

 

(――これは、通る!)

 

 打:{③}

 

 一瞬だけ、場が森閑とした。

 危険牌を通すとき特有の、張り詰めた糸が鳴らす無音の音だった。

 

 だが、

 

「ロン」

 

 と、京太郎は告げた。

 

「――――」

 

 牌が倒れる様を、声もなく、月子は見送った――。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:53

 

 

 ちょうどそのとき、雨が止んだ――などといえば、格好はついたのかもしれない。しかし実際には雨は止まなかった。それからしばらくは振り続けて、人を地を湿らせ続けた。

 けれども、ちょうどそのとき雷が光った。

 稲妻が空を切り裂き、どこかへ落ちた。音はなかった。

 

 その日、その場で麻雀に興じていた少年少女たちが、その光に気づくことはついぞなかった。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:53

 

 

 南四局(オーラス) ドラ:{四(ドラ表示牌:三)} 槓ドラ1:{5}(ドラ表示牌:{4})

 

 京太郎:{三三三③④[⑤]⑥} ポン:{②②横②} ポン:{中中横中}

 

 ロン:{③}

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:53

 

 

 南四局(オーラス)

 【南家】南浦 数絵    :49900

 【西家】須賀 京太郎   :15100→17700

 【北家】石戸 月子    :20300→17700

 【東家】花田 煌(親)  :14700

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:53

 

 

 五回戦

 南四局(終了)

 南浦 数絵    :49900

 須賀 京太郎   :17700

 石戸 月子    :17700

 花田 煌     :14700

 

 順位

 優勝:南浦 数絵

 二位:須賀 京太郎(席順で上位)

 三位:石戸 月子(席順で下位)

 四位:花田 煌

 

 

 結果(五回戦終了)

 花田 煌      :- 15.3(小計:-  6.1)

 石戸 月子     :- 12.3(小計:- 58.8)

 南浦 数絵     :+ 39.9(小計:-  7.0)

 池田 華菜(京太郎):- 12.3(小計:+ 87.2)

 




2013/2/18:牌画像変換


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11.つきよのばんに

11.つきよのばんに

 

 

 五回戦

 南四局(終了)

 南浦 数絵    :49900

 須賀 京太郎   :17700

 石戸 月子    :17700

 花田 煌     :14700

 

 途中経過(五回戦終了時点)

 花田 煌      :-  6.1

 石戸 月子     :- 58.8

 南浦 数絵     :-  7.0

 池田 華菜(京太郎):+ 87.2

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:53

 

 

 誰かが、あるいは誰もが息を詰めた。雨は降りしきっている。雷もどこかで鳴っている。長引いた半荘は決着した。麻雀という競技における帰結がたいがいそうであるように、結果は明確だった。勝利者は南浦数絵、そして須賀京太郎である。京太郎と三位との差は席順でしかないが、振り込んでの落着は、物言いの隙もない。牌を倒した京太郎は、吐息しながら、独り言のように呟いた。

 

「ちょうど2600だから、17700の同点だ。こういうときって、おれの勝ちでいいんだよな」

「……ええ、そうですね」花田が頷いた。「キミが二位――キミの勝ちです。たいへん、すばらでした」

「まあ、一位とはずいぶん離されちまったけど」

 

 手をひらひらと振って、京太郎は南浦を流し見る。南浦は目を細めて、その視線に応じた。彼女の瞳は真っ直ぐで、動揺や含羞は億尾にも出さない。

 

「おめでとう、っていったら嫌味かな」南浦が笑って言った。

「素直にもらうよ――」京太郎は苦笑した。「ありがとさん」

 

 卓上の牌が音を立てたのはそのときだった。

 

 音源は石戸月子である。背を曲げ顔からラシャに突っ伏して、ぴくとも動かない。長い髪が束ごとに背に肩に机に広がって、露な肌の白さと机上の緑に映えている。ゆるく曲がった指先が、牌を掻くように関節を曲げる。すぐにその動きも止まる。南浦は厭そうに顔を歪める。花田は手を伸ばしかけて、掛ける言葉を探すように口を開閉させる。

 京太郎はきっぱりといった。

 

「おれの勝ち。おまえの負けだ」

 

 月子の肩がぴくりと動く。

 

「おかげで楽しかったよ。ありがとうな」京太郎は二心なくいった。「おまえの打ち方がどうとかなんとか、正直、そんなもんは忘れてた。ただ、面白かった。そんだけだ」

「………」

 

 だが、月子が何かを返すことはなかった。

 

「そりゃ、アンタは勝ったから楽しいだろうけどな」池田が口を挟んだ。

「負けても麻雀は楽しいですよ?」花田が言った。

「それは麻雀が楽しいだけで、負けるのが楽しいわけじゃない」池田は断言した。「どっちにしろ、いつまでもぐずるもんじゃない。勝負は水物。――須賀との勝負は済んだんだ、ホラ、起きなよ石戸。続きだ続き」

 

 それでもなお、月子は動かなかった。そのまま十秒が過ぎ、三十秒が過ぎた。一分が経った。それからようやく、彼女は立ち上がった。

 顔に色はない。表情もない。視線は誰に定まっているわけでもない。誰も彼女に声を掛けない。花田が何かを言おうとしたとき、その台詞を遮るように月子が呟いた。

 

「トイレ」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・女子トイレ/ 17:54

 

 

 足取りは確かだった。頭痛も目眩も悪寒も嘔吐感もなかった。月子は迷わず行き着いた手洗い場の戸を開き、洗面台に両手を着く。暖色の照明の下で、鏡の中にいる石戸月子は見たことも無い表情をしている。その揺れる視線を追うともなく追いながら、彼女の脳裏では過去の様々な記憶が再生されていた。

 それは彼女と麻雀にまつわる記憶だった。

 

 ――はじめは四人だった。

 

 まだ月子にとっての『家族』というものが歪でも苦でもなかったころ、父母と兄と囲んだ卓が、月子が初めて打った麻雀である。前後の記憶はない。打つに至った経緯はわからない。原風景のひとつとしてそのスチルは切り出され、心の奥深い場所に置かれている。当然勝負の行方も覚えていない。ただ皆楽しそうに笑っていた。月子ももちろん、笑っていた。あの父でさえ、少しだけ微笑んでいた。

 

 ――そこからひとり欠けた。

 

 父がいなくなると、母は家から父の面影を残すものを隠したがった。ただ捨てる踏ん切りもつかないようだった。月子はなんとはなしにそんな思いを察して、麻雀からは離れるようになった。月子はたぶん、家族みんなでいることを大切に思っていたし、楽しいと感じていた。父が欠け、母に辛さを強いるその遊戯に、独りで没頭する気にはなれなかった。

 一方兄はというと、母の心情などお構いなしだった。無神経に麻雀を求めた。独りでも牌に触れ続けた。彼ははじめ月子に対局を求めたが、それが叶わないと知ると母に請うようになった。母は仕方なさそうに兄の求めに応じた。近所の人や勤め先に来る麻雀好きな客(ダンベエ)に頼んで、手ごろな相手を用意してやりさえした。 

 

 そんな日が暫く続いた。月子はすっかり、麻雀を忘れた。兄は無邪気に牌と戯れ続けた。生活は豊かではなかったが、彼はいつも笑っていた。麻雀を打てることが楽しかったのだろう。そんな兄を見て、母も笑っていた。疲労をその顔に刻みながらも、母は兄の成長を生き甲斐のようにしている節があった。

 

 月子は笑うのが得意ではなかった。どうしてもうまく笑えないのだ。他人は月子にとって不快の呼び水でしかない。月子は誰とも触れ合えない。もちろん、母には何度となく体質について相談した。その都度母は眉間にしわを刻んで『おまじない』を月子に掛けた。いっとき、母の『おまじない』は月子を癒した。だがかわりに母は更に疲労した。『おまじない』のたび歳を刻んでいくように()()()()()()母を見て、月子は相談することを止めた。

 

 もう平気になった――そう嘘を吐いた。

 

 母はたぶん、その嘘に気づいていた。

 でも何を月子に言うこともなかった。彼女にはすでに兄がいた。兄は母に優しかった。よく笑いかけた。労わりもしたし、稚い気遣いも見せた。それが月子にできないわけでもなかったが、母はたぶん、兄にそうされるほうが嬉しかったのだ。月子はそれを知っていた。

 

 だから、月子は歯を食いしばって生きることにした。不得手な笑顔を作ることを止め、他者を排斥し、勉強に運動に没頭した。それでいくらか、身に負う苦痛を減じることはできる。かつて大事にしていたものから遠ざかることになったが、それは仕方のないことだった。

 

 ――次に、母が倒れた。

 

 それはいつか訪れるべきものだったし、母が裕福な男と再婚でもしない限り避け得ない現実だった。朝夕の仕事に疲労を溜めた母は頻繁に体調を崩すようになった。彼女の優れた容姿はそれなりの見返りを石戸家にもたらしたが、知識や狡猾さや精神の脆さをおぎなうほどの長所にはならなかった。それもやはり、仕方のないことだった。

 ある日のことだった。小さな医院に運ばれた母を、月子は兄と見舞った。病床にいる母の顔色は紙のようで、豊かできれいだった黒髪に、白いものが光っているのを、月子は見た。見た瞬間、彼女はどうしようもなく、何もかもが厭になって泣けてきた。管を通る生理食塩水にブドウ糖が混じった点滴と、月子の頬をつたう液体は殆ど同じものだった。それなのに一方は病人の身体を癒し、一方は月子の心をささくれ立たせた。

 

 月子は、母ではなく、自分の未来を案じて悲嘆に暮れていることを自覚してしまった。

 

 母は頑張っていた。月子も頑張っていた。兄もきっと、彼なりに頑張っていたのだろう。でも月子はどうしても母も兄も、もう好きにはなれなかった。親しみを覚えることができなかった。家族と他人の区別ができなくなっていた。人の労わり方を、優しさの使い方を、月子は忘れていた。

 この世にいる全ての人間がどうでもよかった。どうにかして自分が幸せになる術を考える必要があった。でも月子がそんな妙案を思いつくことはついぞなかったのである。それは至極当然で、なんとなれば、月子は幸福の条件も忘れてしまっていた。月子にとって幸福は過去と空想の中にしか存在しないものになった。彼女が何とかうまく生きていくためにはそうする必要があったのだ。

 

 ――別れた父を頼ることを、母が告白した。

 

 別れた後も、母と父は連絡を交わしていたらしかった。兄はそれを知っていた。月子だけが何も知らなかった。割り切っていたつもりでいながら、その事実は月子にそれなりに衝撃を与えた。誰かに悪意があったわけではなく、それを月子も心得ていたが、心情はまるで納得しなかった。当て所のない衝動が、少女の体内で反響し続けた。

 

 わたしはなんなのだろう、と月子は思った。父母の娘であり兄の妹である。しかしそれは実感の伴わない現実でしかない。意味がわからなかった。月子は全てから距離を置いて生きたかった。でもどうやら、心はそう思っていなかった。何かに寄り添いたがっていた(そうでなければ、どうして他人の振る舞いに傷つくことがあるだろう?)。

 

 父は裕福だった。彼の計らいで月子たち三人は引越し、腰を落ち着けることができるようになった。当座母が無理を押す必要も無くなった。どのみち、母の身体はもう無理が利く状態ではなかった。心も、もしかしたらこの頃から傾いでいた。

 

 父が再び、月子の人生に合流すると麻雀もまた距離を詰めてきた。父は麻雀を生業とする人であった。昔からそうであったらしいが、それは月子の与り知らぬ世界の出来事だった。テレビのゴールデンタイムで放映される華々しい勝負とは、同じ道具を扱いながらも一線を画した道の話だった。

 

 この頃にはすでに麻雀で一頭地抜けた才覚を示していた兄は、当然父の眼に留まった。兄は何年かを置いてまた父に麻雀を習い始めた。はじめは反発もあったようだが、父の水際立った腕前に、兄はやがてすっかり感服したようだった。月子にも父の教導を盛んに勧めた。あのひとはすごい、ぼくらのおとうさんはすごい、プロより強いかもしれない――よりによって母がいる場所でも、兄はそんな台詞を吐いた。

 それは月子にとって許容しがたい無神経さだった。ありえなかった。母が――あの疲れた女が、どれだけ兄のために心身を削ったと思っているのだろう。その女の前で、全てである息子がその労苦の元凶を誉めそやしているのだ。

 情ではないと月子は思っている。それは義憤だと思っている。けれども実際は情なのだろうとも思っている。ついに誰にも顧みられなかった月子は、ただ、誰の視線をも集める兄を強く嫉んだのだ。そしてその衝動に促されるまま、月子は暴力を振るった。驚いたのか怯えたのか、それとも違う理由なのか、兄はされるがままだった。遠慮呵責ない月子の暴力を甘んじて受けた。こめかみを縫うほどの怪我を、月子は彼に負わせた。

 

 母は激昂した。月子を厳しく詰責した。泣きながら手も出した。あれだけ激怒した母を、月子は生まれて初めて見た。月子は頑として理由を話さなかった。彼女にも意地があった。母にも意地があると知っていた。あなたがあんまりかわいそうで、あの莫迦な兄が許せなかったから手を出したなどと、言えるわけもなかった。

 

 でも実際は、言えばよかったのだろう。

 

 母を諌めたのは父だった。月子を一時預かるという話にもなった。月子は拒んだが、母はそれを是とした。お互いに頭を冷やしたほうがよいというのが母の言い分だった。

 そういうわけで、月子は家族と離れることになった。彼女に感興は特段なかった。どこにいても変わらないという諦念は、すでに月子の中心に居座っていたからだ。

 

 けれども、生まれて初めて、そこで友達ができた。

 

『よいよ――なぁんかたいぎぃ顔しよる子がおるの。あんた、どーしょんなら?』

 

 耳慣れない言葉をつかう、美しい少女だった。歳は月子の一つ上だといった。彼女の父が月子の父――新城の知己であり、広島の遠地からたまさか、遊びに来ていたのだという。

 まず自分より容姿に優れた同世代の同性という存在が認められず、月子は猛烈に反発した。だが、問題を起こして移った場所でまた問題を起こすわけにもいかない。少女は異常に人懐っこく、月子のすげない態度にめげることもなかった。彼女はいつも笑っていた。それは兄や母が浮かべるのとは全く違う種類の笑みだった。

 有体に言えば、作り笑いなのだ。

 けれども、無理がどこにもない笑顔でもあった。

 

 なぜ、楽しくもないのに笑うのか。

 

 それが、月子が少女に初めて自分から掛けた言葉だった。

 

『はぁ。あんた、何いいよんよ。楽しくにゃー(わろ)ーたらいかんの? そがぁなことないじゃろ。いっこもいなげなことないじゃろ。なんよのぅ――どーゆん? しんきな顔しよったって、よういいコトあったりゃーせんじゃろ。ほじゃけぇ、()()()()()()は笑うんかいの――ハッ、あんたもなー、そがぁに他人ら、気にすなや。あんならぁ、どいつもこいつももとーらんことゆーだけじゃ。ちゃちゃのんはのぅ、あんならに笑ーとるわけじゃァない。そっちのほーが気分えーから笑ーとるだけじゃ。いまもそーじゃ。あんた、ちゃちゃのんのともだちになりんさい。ちゃちゃのん、あんたが気に入ったんじゃ――』

 

 あっけに取られて口を開ける月子を前に、少女はこう言った。

 

『――そーいえば。あんた、麻雀打ちよるん? 打ちよるんじゃろ? 打とーや、いまから。いますぐ!』

 

 にかっと歯を見せたその顔は、最初の儚げな印象を裏切る少年のような顔だった。

 彼女との交友をきっかけに、月子はまた麻雀を始めた。彼女は目眩がするほど麻雀が強く、月子はやはり麻雀を楽しいとはそれほど感じなかったが、それでも、悪くは無かったのだろう。彼女はそう長い期間滞在していたわけではなかったものの、月子の心に強い影響を残していった。

 

 少女は月子の言い分などほとんど聞かなかった。彼女はしたいようにした。当たり前のように自分の言い分を通した。

 月子は、彼女に憧れた。

 ただ独り、ただ高いだけでは駄目なのだ。

 

 ()()()()()()()()()()()

 

 ――それから。

 

 それから月子は――

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・女子トイレ/ 18:05

 

 

「月子さん?」

 

 春金清が背後に立つのを、月子は鏡越しに見た。春金は注意ぶかく月子と距離を取っていた。そういえば、初対面からこちら、春金が月子に肉体的接触を試みたことはない。おそらく、父から月子の『体質』を聞いていたのだろう。

 今回の催しも、たぶん、月子のスカウトなどは二の次だったはずだ。

 

(視界が、急に、広がった気がする)

 

 自虐を込めて、月子は顔を歪める。

 

「春金さん」と月子は言った。「負けました。わたし。初心者にさえ」

「えっと、それがどうかした?」春金は首を傾げた。「プロだって小学生に負けることもあるのが麻雀なんだけど」

「それでも、勝つべきところで勝てない人に向いてるゲームでもないでしょう」

「……否定はしないけど、刺さるな、その言葉」春金は苦笑した。

 

 月子は、軽く浅く、呼吸を重ねた。

 

「春金さんの話、いまのわたしじゃ、受けられません」

「――そっか」春金はやるせない顔で頷いた。「素直に残念に思うよ。本当に」

「あ、勘違いしないでください」と、月子は言った。「言ったでしょう、『今の』わたしじゃ、って。これから勘を取り戻して、もっと真面目に勉強もして、強くなるので――それまで待ってもらえれば、嬉しいんですけど」

 

 春金が、きょとんと目を瞬いた。

 

「そりゃ――もちろんだけどさ。でも、それなら何も……」

「たぶん、わたしが麻雀で強くなろうと思うなら、まずお父さんを頼るべきなんです。教えてくれるかどうかはわかりませんけど、でも、教えてもらわなくちゃならないんです」

「いいの?」春金は徐々に月子の変心を呑み込み始めたようだった。嬉しげに、口元に笑みを浮かべている。瞳には気遣いの色もある。

 

「いいんです」

 

 と、月子は言った。

 

「――それがたぶん、わたしの正着(したいこと)です」

「せんぱいが渋ったら、私も説得に協力するよ」春金が請け負った。

「それはどうも。とても、心強いです」月子は笑った。だいぶぎこちなく――なんとか――しかし確かに、笑った。「ま、それはそれとして、春金さん。わたし、初心者なんかに負けて――ぴったり差されて、超、死ぬほど、悔しいです。悔しくて泣きそうです。あの、叫んでもいいですか」

「えっ」春金が耳を疑う素振りを見せた。「つ、月子さん? どど、どうしちゃったの?」

 

 月子は深く息を吸い込んだ。

 

「あっ――」

 

 感情を、体中から集めようと、彼女は思った。

 

 

「あァッあああああああああああああああああああ! むかつくッ、むかつくッッ、むっかっつっくぅぅあア、もぉぉっ! まけた、まけた、まけちゃったあ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!」

 

 

 鏡がふるえるほどの声量を絞った。腹筋が攣るほどに力を込めた。ありったけの感情を吐き出した。体の錆を落とす必要がある、と月子は思った。とまった時間を動かすために、あちこちの部品を磨いて研いできれいにする必要がある。肺のなかに篭った何もかもを、脳に溜まった全ての澱を、月子は残らず放出した。

 感情の整理がそう巧くいくわけは無いことは、もちろん心得ていた。石戸月子には瑕がある。心は多分に歪んでいる。

 矯正はしなくてもいいのかもしれない。

 ただそれは、月子が許せる限りの話だ。

 

(次に行こう)

 

 ここで腐って留まったままでいることを、ようやく嫌うことができた。

 

(クソ初心者なんかにしてやられるわたしが――いまのわたし)

 

 石戸月子は、いまの自分を良しとはしなかった。

 

(なんでもいいから前へ進もう。次に行こう)

 

 声を出し切り、喉を枯らして、彼女はしわぶきを落とす。きびすを返す。耳を押さえてうずくまる春金をよそに、トイレを後にする。

 真っ直ぐに卓へ向かう。

 少年少女がそこにいる。

 

 さしあたって、彼と彼女らが、月子が乗り越えるべき壁である。

 

「須賀くん」と、月子は言った。「まさか、勝ち逃げする気じゃないでしょうね! せめてあと一回は打ってもらうわよ!」

「いいぜ」

 

 と、京太郎は即答した。

 

「嫌って言ったってむりにでも……」二の句を次いでいた月子は、勢いを奪われ、口をすぼめた。「……いま、いいっていった?」

「ああ」京太郎は頷いた。「悔しいんだろ? なら、勝負だ。いつだって、何回だって、付き合うよ」

「そ、それはどうも。……なんかものわかりがいいわね」

「まあ、楽しかったからな。――なんなら、おれが勝ったんだから、あの、サシウマだっけ? それで命令したっていいくらいだ。でも、そっちから言われたんなら、別のことに使わないとだな。まあ、なんか考えとく」

 

「そういえば、そんなこともあったっけ――」勝者の権利を思い出した月子は、手を打った。「そんなのいつまでも持たれても気分わるいから、いま言いなさいよ。なんでもいいから考えなさい」

 

「急に元気になったな」池田が呆れ気味にいった。

「いいじゃないですか、前向きなのはすばらなことです!」花田は手を叩く。

「それより、さっきの絶叫、やっぱり石戸さんでしょうか……」南浦が顔をしかめていた。

 

「そうだなァ」京太郎は数秒思案して、「あ、じゃあこういうのはどうだ?」

 

 かれは、こう続けた。

 

「おれに、麻雀を教えてくれよ――」

 

「え゛」

 

 月子は思い切り、いやな顔をした。

 

 

 ▽ 長野県 国道153号線 タコス(ファミリーレストラン)/ 20:29

 

 

 残り三回戦の内二回に京太郎は参戦し、きれいに二回とも飛んだ(ちなみに京太郎を飛ばしたのは池田と花田である)。最後の一回戦は当初の少女たち四人で囲んだ。月子は劣勢から怒涛の追い上げを見せたが、最後は2000点差で池田にまくられ、決着した。総合順位は池田、花田、南浦、月子の順である。

 

 猛烈に悔しがる月子をよそに、春金は遅い夕食を提案した。それがだいたい、20時過ぎのことである。

 

 ちょうど雨が上がった頃だった。南浦数絵の祖父だという老人がスクールに現れたのも同時刻である。意外な場所で見知った顔に出会った京太郎は、ここで暇をしようとした。いいかげん時間も深かったし、少女たちに囲まれた夕食というのは、なんともすわり心地が悪そうだったからだ。

 が、

 

「君も来なさい。男一人では私が居づらいじゃないか」

「お祖父様がこういっているので」

 

 南浦老人の一声によって、半ば強引に同席することとなった。ファミリーレストランの喫煙席に陣取った都合七名の集団は、思い思いのメニューを注文した。ちなみに京太郎は対面に南浦老人、左手に月子、右手に池田という位置だった。

 月子の注文はサラダバーとドリンクのみで(調理されたものを食べると気分が悪くなるらしい)、その発達した肉体に違和感を覚えるほど小食だった。京太郎はそもそも食に興味がないため、腹にたまれば何でもよいという意見である。マイノリティとして意外なところで意見の一致を見た二人に、池田から物言いが入った。

 

「うまいものを食べないなんて、あんたたち人生損してるし! 大きくなれないぞ!」

「うっさいわね。放っておきなさいよ。そんな台詞はわたしより背とおっぱい大きくしてからいいなさい」

「おまえが育ちすぎなんだよ!」池田がさも心外というふうに反論した。

 

「おっぱい……」花田が難しい顔で月子の胸部を注視した。

「わたしたちはこれからですよ」南浦は澄ました顔でスープを啜る。

 

「須賀くんは胸が大きいほうと小さいほうどっちがいいの?」

「普通に考えたら、大きいほうに決まってる」京太郎は息をするように答えた。

 

 女性陣が、声をそろえて「最悪」と言った。

 

「私も彼に同意見だな」ほうじ茶を飲む南浦老人が、京太郎の肩を持った。「女性はやっぱりふくよかでないといかん。かつすこやかであればいうことなしだ」

「南浦プロ、やっぱりはやりんとか好きなんですか」花田が純粋に疑問に思った様子で問うた。「あのひと、おっぱい大きいですよね!」

「いや、彼女はちょっと……」南浦老人は言葉を濁した。

「はやりんてだれ」池田が首を傾げた。

「若手の瑞原プロのことです。ほら、最近教育番組で麻雀のおねぇさんをやってる――」

「あー、あのキャラ作ってるプロかぁ」

 

「でもま、そういうこと言う男に限って全然タイプが違う子とくっついたりするんだよねえ」春金が訳知り顔で京太郎に囁いた。

 

 京太郎は答えず、肩を竦めた。

 かれの気は、終始漫ろだった。かれにとっての関心は、目下今日の麻雀とこれからの麻雀にしかない。かしましい少女たちと共にする食卓が楽しくないわけではない。ただ、それは日常の楽しさでしかない。須賀京太郎にとって、彼女たちの魅力は『面白い麻雀が共に打てる』ことに尽きる。ただ食事をするだけであれば、他の誰とでも代替可能なのである。

 京太郎は笑える。必要であれば泣くことも出来る。だからかれは喜怒哀楽を持たないわけではない。ただそれは表層的な反応でしかない。この場で起きる全ての出来事が、かれの深い部分に届くことはない。

 

「ねえ、須賀くん」

 

 食事と会話に勤しむ少女たちをよそに、石戸月子が小声でいった。

 

「なんだ?」と、京太郎はこたえた。

「なんだか、不思議ね。わたしたちみんな、今日会ったばかりなのよ。麻雀をいっしょに打っただけの――他人なのに」

「あれだけ打てば、みんな友達(ツレ)みたいなもんだろ。不思議でもなんでもない」

「……そうなの?」月子は、心底不思議そうにいった。「みんな友達だなんて、あなた、幸せな頭、してるのね」

「おれは、おまえも友達だと思ってるけど」他の誰もと同じように、と京太郎は思った。「なに、おまえって、友達選ぶタイプなの」

「もちろん」月子は頷いた。「すくなくとも、わたしに勝ってる部分がない人とは付き合いたいとは思わないわ」

「なら、あっちの三人は資格アリだな」京太郎はいった。「おまえより、麻雀が強かった」

「とりあえず、今日のところはね」それから彼女は早口で付け足した。「あと須賀くんも」

「おれが?」京太郎は首をかしげた。「おれは――全然だったろ。結局、おまえに勝てたのは最初の一回だけだった」

「それで十分よ。ここ一番で勝てる。それはいまのわたしにない資質だからね」はあ、と月子は嘆息した。「ねえ、最初の半荘のオーラス。なんで{③⑥}で受けたの? わたしはてっきり……」

 

 月子の言わんとすることを察して、京太郎は言葉を先取りした。

 

「{一萬}だと思った、か?」

「うん。――やっぱり、気づいてたんだ」

「まあ、なんとか、たまたまな」京太郎は肯ずる。「そうだな、もしも、{一萬}を引いていたら、それで待ったと思うよ。待ったかもしれない。でもさ――」

「そんな話、してもしょうがないわね」今度は月子が京太郎の言葉を奪った。「わかってるわよ。ちょっと、気になってただけ」

 

 それきり、今日の麻雀について取りざたされることはなかった。京太郎はそれを物足りなく思った。麻雀のことについてならば、いくらでも語れる気がしたからだ。

 

 やがて食事が終わる。春金がくわえた煙草から紫煙が立つ。南浦老人も同じように一本()もうとして、京太郎の視線に気づいた。

 

「――喫いたいなんていわないでくれよ。マスコミを喜ばせるだけだ」

「喫いたくなったら自分で喫うよ」京太郎は言った。「喫う……喫いますよ」

「無理に言葉をととのえなくていい。その年頃でちゃんと使える数絵が特殊なんだ」

「いいことなのに、変なことしてるみたいに……」祖父の言い草に、南浦は気分を害したようだった。

「はは、すまんな、数絵」南浦老人が愉快げに笑んだ。「それで少年、何か言いたそうじゃないか。質問でもあるかい」

 

「麻雀って、どうすれば強くなれる?」

 

「何をしても強くはなれない」南浦老人は間髪入れずに答えた。「麻雀が努力を受け入れるのは巧拙の分野だけだ。だから、『どうしたら巧くなれるか』という質問には色々な用意がある。なんなら朝まででも語りつくせる。だが、きみの問いに対する答えは一つだ。これは恐らくどんなトッププロに聞いたところで同じだ」

「なるほど」京太郎は満足した。「よくわかった。ありがとう――ございます」

「……ああ、まあ、いいが」南浦老人は意外そうに京太郎の礼を受け取った。

 

(なるほど)と、京太郎は心中で何度も繰り返した。

 

 南浦老人の回答は、まったく京太郎の思い描いたとおりのものだった。

 

(――それでこそ、遣り甲斐がある)

 

 

 ▽ 長野県 国道153号線 / 21:06

 

 

 春金の車に揺られて、助手席の池田が豪快な寝息を立てている。月子は見るとも無しに窓越しの夜景を眺めている。京太郎はただ目を閉じて、心を静めていた。

 南浦数絵は、祖父と共にどこかへと向かった。花田は通り道ですでに下車した。少女たちはすっかり気を許しあったようで、ファミリーレストランを出る頃には皆、長年の友人同士のようだった。

 

「――あまり、のめりこまないようにね」

 

 京太郎の胸中を言い当てるような言葉を発したのは月子だった。

 

「なにがだよ」と、京太郎は言った。

「麻雀の話よ」月子は言った。「どれだけ楽しくても、あれは遊びで、ギャンブルなんだから。プロでも目指すなら別だけど、人生を賭けるにはちょっとリスキーなゲームだと思うわ」

「――ふうん。そういうもんか」

 

 月子の言葉を、京太郎は心に留めることにした。今日はたまたまある局面で勝っただけで、こと麻雀という事物における関わりは、月子のそれは京太郎よりもずっと深く濃いはずである。そうしたものの言葉を忽せにする理由もとくにない。

 

「でも、なんでまたいきなり」

「さあね。ただのおせっかいみたいなものよ」月子は咳払いした。「それより、麻雀を教えるって話だけど。いつ、どこで教えればいいの?」

「いつでもいいし、どこでもいいよ。教えてくれるだけで、ありがたい。――ただまァ、言ったきりほったらかしとかは止めてくれよ」

「女に二言はないって、いったでしょ」

 

 それからまた会話が途切れた。春金が何かを言うこともなかった。車中はラジオから流れる少し古いポップスの曲調に満たされる。茫洋と窓外に目をやる京太郎と月子の視線が合うことはない。京太郎の目線の先――雲の晴れ間に、黄色く大きな月が浮いている。雨に洗われたように鮮やかな月を、京太郎は無感動に見つめる。

 

 月子の指が、京太郎の指に重なる。触れた部位の面積は爪の先ぶんもない。その半分程度の交流である。包帯が巻かれていない彼女の左手の指は、かすかに冷たい。

 

「よくわからない。あなたは、本当に、なんで平気なのか――」

 

 月子の自問のような独り言に、京太郎はもちろん答えを持たない。

 

 月が明るい。

 車は道を行く。

 

 じきに夏休みがやって来る。

 

 京太郎は興奮に身を任せて、目を閉じる。

 

(図書館に行こう――あの子に会えるまで)

 

 心に、そんな思いを秘した。

 

 だが、かれが数日前に図書館で出会い、卓を囲んだ少女と再会するまでには少し間があった。

 

 少なくとも、夏に再会は叶わなかった。

 

 秋も同じだった。

 

 ――その年の暮、冬の寒い日に、ようやく、かれは、宮永照と再会できた。

 




2012/9/17:みはるんとはやりんが悪魔合体していたため、一部表現と誤字(みはりん→はやりん)を修正。
2013/2/18:牌画像変換


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小学生編(下)
0.かげろうループ


0.かげろうループ-remorseful summer-

 

 

 ▽ 7月下旬 長野県 須賀邸/ 04:53

 

 

 早朝5時前、夜がようやく明けきろうとする時間帯に、須賀京太郎の眠りを妨げるものがあった。騒音である。小刻みに鳴り響く電子音が、朝の静謐を端から丁寧に金槌で叩くように壊していく。枕に顔を押し付けるようにしていた京太郎の意識は、乱暴に現へ引き戻される。

 

「……うるせええぇ……」

 

 連打されるインターフォンに耐えかねて、京太郎はとうとう体を布団から起こした。枕元のフローリングには、夜っぴて起こした牌譜の山が散乱している。花田煌から勧められた学習法で、プロや実業団の試合中継から起こした牌譜を元に、一手ずつ打牌の検討を行うのである。麻雀はその性質上一人では打てないが、これであればひとりの時間でも慰み程度にはなる。

 

 半分霞がかったような有様で、のたくたと京太郎は部屋を出、階段を降り、玄関へ向かう。父母の姿はない。週末は二人とも、互いの相手の家に泊まるのがここ一年ほどの須賀家の通例である。 

 鍵を外し、戸を開けた先にいるであろう人物には、当たりがついている。だから本当は無視するのがもっとも正しい選択だと知りながら、京太郎は一言放たずにはいられなかった。

 果たして、玄関先にいたのは石戸月子だった。相変わらず肩や背中、太ももを大胆に露出した格好で、今日はキャミソールにミニスカート、厚底のサンダル(ミュール)という出で立ちである。

 月子は、小首をかしげて、すまし顔で言った。

 

「おはよう、須賀くん」

「くたばれ」

 

 京太郎は戸を閉めようとした。そのすんでで挟まれたのは月子の足である。鈍い音を立てて閉戸を阻害された扉は、すぐに再び引き戻される。月子の腕力は京太郎よりも上で、機先を制しそこなった力勝負では抗いようがない。

 

「いきなりご挨拶ね。せっかく遊びにきたのに」不機嫌そうに月子がいった。「私たち、――と、友達でしょう」

「夏休み入ってから一週間連続夜明け前にインターフォン連打するようなやつは、友達でも、人間的にどうかしてる」京太郎はあくびをかみ殺しながらいった。

 

 えー、と口を尖らせる月子である。

 

「だって、時間は有限なのよ。遊ぶなら朝早くからのほうがいいじゃない」

「いや……理屈はそうだけどよ……」

「おじゃましまーす」弱った京太郎を差し置いて、勝手知ったるとばかりに月子は須賀家への侵入を果たした。

 

 その背を見送って、

 

(はじめはこんなじゃなかったのになア)

 

 と、京太郎は思った。

 月子が初めて京太郎の家を訪れたのは、麻雀スクールでの邂逅から一週間後の週末である。平日の夜、掛かってきた電話で予定を確認され(番号と住所は電話帳で調べたという)、春金清とともに現れた月子は上品なワンピースを着て、菓子折りまで持参していた。あまりの豹変振りに目を疑った京太郎だが、

 

「だって、ともだちの家に遊びに行くってはじめてなんだもの」

 

 という月子の言に、とりあえず納得した。友達と遊んだことがないという月子の社交性の低さには心底驚いたが、それはまた別の話である。

 最初、家中の月子は、まさに借りてきた猫といった風情だった。初対面時の傍若無人さなど消えうせて、受け答えもぎこちない。約束どおり麻雀を教えてくれとせがんでも、そもそも麻雀をするための道具を持ってきていなかったという始末である。結局その日は、昼過ぎまで春金も交えて適当に見繕ったカードゲームやらをして過ごした。その後、そろそろ暇しとうかと春金が言い出したところで、月子が突然、

 

「須賀くんの部屋が見たいわ」

 

 と、言い出した。京太郎としては、特段否やはなかった。部屋にあるものといえば学習机と本棚、それにベッドくらいのもので、他に何があるわけでもない。つまらないぞと念を押しても、月子の希望は変わらなかった。京太郎の部屋に入った彼女は、何をするでもなく室内をしげしげと見回した。あちこちに触れ、何度も得心したように頷いた。そして最後に、京太郎のベッドへ腰掛けた。

 二秒後には、眠りに落ちていた。

 あとはなにをいっても無駄だった。叩こうが怒鳴ろうが、月子は目覚めなかった。はじめは苦笑していた春金も、日が暮れるころになるとさすがに慌て始めた。月子が何か持病を持っているのではと疑ったのである。とうとう月子の父にまで連絡を取って、基本的に石戸月子は眠らない少女であることが明らかになった。

 須賀家の父母が、週末は基本的に家に寄り付かないことも、恐らくは幸運だった。そうでなければさすがに月子を泊めることは叶わなかっただろう。結局月子が目覚めたのは翌日、日曜の昼前だった。二十時間以上寝入っていた計算になる。さすがに目を腫れぼったくした少女は、開口一番こういった。

 

「……おしっこ」

 

 京太郎は彼女の手を引いて、トイレへ案内した。風呂を沸かしてやり、コンビニで購入したカップ麺を振舞った。人心地ついたところで、月子は春金と共にそそくさと須賀家を後にした。

 以来、月子が須賀家に来て京太郎の部屋に足を踏み入れたことはない。なぜかと、あえて問うことを京太郎はしなかった。

 

「途中でアイス買ってきたから、昼になったら食べましょう」

 

 台所から月子の声が響いたかと思うと、冷凍庫を開閉する音が聴こえる。しょうがないと肩をすくめて、京太郎はさっぱりと睡眠を諦めた。

 

 

 ▽ 7月下旬 長野県 須賀邸/ 05:16

 

 

「一番初めにも言ったことだけれど、麻雀に必勝法はないわ。基本的にも究極的にも、運が強い人が勝つゲームなの。ただ、下手くそな人は()()()()()()()()()()ゲームではある。麻雀を学ぶっていうのは、だから、勝ち方を学ぶというよりは、負けにくくなる方法を学ぶというほうがきっと正しいでしょう。――じゃ、今日はちょっと牌効率のさわりから話しましょうか」

 

 さて、京太郎の希望により麻雀の講師となった月子であるが、その打法に反して、彼女の教育は理詰めで行われた。月子いわく、彼女がいまの打ち方に開眼するまでは『死ぬほど負けた』らしく、その時分に一通りの基礎は叩き込んだのだという。

 

「知っての通り、麻雀はイチからキュウまでの萬子、筒子、索子――27種の数牌(シューパイ)と、四喜牌(スーシパイ)、それに三元牌の、計34種136牌を使って行われる。そしてこれらの牌には、それぞれ優劣がある。わかりやすいところだと、(オタ)風と自風、または場風とを比べたら、とうぜん客風牌を切るでしょう? これはまあ翻がつくかどうかっていうところが肝になるけれど――さて、須賀くん。数牌とそれ以外の牌のいちばん大きな違いってなにかしら?――そう、正解。『順子になること』が数牌の特性で、単純に数牌は字牌(ツーパイ)の4倍弱引きやすい。結局のところ、麻雀でもっとも和了率が高いのは、順子――平和形だわ。とりもなおさず、出来やすいのも平和形なの。順子の捌きが和了率の明暗をわけるといってもいいくらいよ」

 

 月子自身も、錆付いた感性を取り戻すために、基本のおさらいをしている最中らしかった。名のある打ち手だという月子の父に教わる前に、最低限の技術を身につけると意気込んでいる(そういえば、あの夜、途中で別れた南浦老人とその孫は、実は月子の父と共に卓を囲んだらしい。京太郎にはうまく想像できないが、月子の父はとにかくそうした次元の打ち手ということだ)。

 基本的に性格がよろしくない月子だったが、京太郎との相性は比較的よかった。とにかく京太郎は、よくいえば寛大で、悪く言えば他人の言動所作に無頓着なところがある。かれの性格は人によってはその神経を逆撫ですることもあるだろうが、月子は逆に毒気を抜かれがちだった。

 

 あの日、卓を囲んだ少女たちの仲は、どうやら今も続いているようだった。通う学校には友達がいないと広言してはばからない月子だが、花田煌や池田華菜とは、夏休みに入ってからも交友が続いているらしい。夏休み中、春金も含めて旅行に出向く計画まで立てている(それとなく京太郎にも誘いはあったが、さすがに断った)。

 県外に住まう南浦数絵だけはその輪から外れているが、夏休み中にもう一度長野に訪れる予定だという旨が、彼女から出された暑中見舞いに記してあった。ちなみに、月子には南浦からの手紙は送られていないらしい。

 

「それにしても」と、月子はいった。「週末になると、ほんとうにあなたの親、姿を見なくなるわねえ。どこ行ってるの?」

「恋人のところ」と、京太郎はこたえた。

「ふたりいっしょってこと?」といってから、月子が顔を曇らせた。「いや、あぁ――え、そういうことなの。別々?」

「そうそう」

 

 へえ、と月子は呆け顔になった。彼女自身感性がずれていたし、そもそも京太郎があまり気にしていないので、特に気まずい空気が流れることはない。

 

「ふうん。それで成り立ってるなんて、なんか不思議――ドラマの家庭みたいね。でもそれで、須賀くんはさびしくないの?」

「そりゃ、ひとりでいたらさびしいさ」京太郎はあっけらかんと答えた。「だから、おまえが遊びに来てくれて、嬉しいよ。麻雀もできるしな」

 

 ぴしゃん、と音がした。

 月子が自らの口に掌を勢い良くぶつけた音だった。

 

「どうした」と、京太郎はいった。

「なんでもない」と、不機嫌な声で月子は答えた。口元は手に隠されたままである。「――それより、もうすぐ6時よ。どうせ今日も行くんでしょ、ラジオ体操」

 

 おう、と京太郎は力強く頷いた。

 

 

 ▽ 8月中旬 鹿児島県 トカラ列島・悪石島/ 13:33

 

 

 暑気は留まるところを知らない。石戸(いわと)古詠(こよみ)の見上げる空は蒼褪めて、果てが無い。雲すら見えない。太陽は誰はばかることなく熱を輻射して地を焼く仕事に励んでいる。古詠は舌でも出しそうなほど汗を流しながら、足を引きずるように歩く。麦藁帽を結ぶひもは汗を滴らせるほどに湿っている。無地のシャツもまた汗を吸い、背骨が浮き出るほど身体に張り付いている。

 

 少年の両肩が負うのは、簡易組み立て式のデッキチェアとビーチパラソルだ。腕には西瓜を二玉提げている。古詠の体格は11歳の男子としては平均的だが、仮に彼があと三年歳経ていたとしてもほとんど苦行に近い大荷物だった。もちろん、彼は好き好んで荷役に興じているわけではない。ちょっとした出来心から、ちょっとした賭け事に挑み、あっさりと大敗を喫したのだ。その結果がこの仕打ちだった。

 

 汗が地面に落ちる。乾ききった大地は、水気をすぐに失う。牛馬のにおいが鼻をつく。畜糞の入り混じった臭気は、古詠の気を更に滅入らせる。道は長く、景色は美しいが平坦である。目路の限り陽炎が立っているせいか、現実味も欠けている。ただ潮騒だけがいやに涼しげで、気分をいくらか慰めた。

 片道三十分、往復一時間の道程を踏破した彼を、迎えた第一声は容赦の無いものだった。

 

「遅いですよー。待ちくたびれました」

 

 岩礁の汀に遊ぶのは、水着姿の少女であった。手といわず足といわず良く日に焼けた少女の肢体は闊達な雰囲気を発散しており、跳ねるように歩くさまは羚羊を思わせる。

 

「どこかで寄り道でもしてたんですかー?」間延びした口調で、薄墨(うすずみ)初美(はつみ)が言った。

 

 飄々とした出迎えに、言葉を返す余裕は古詠にはない。荷物を地面に落としざま、彼は尻を落として天を仰ぐ。ものも言わずにうずくまり、こみあげる吐気を空えづきとともにやり過ごした。

 鼻歌交じりに荷を回収する少女は古詠に目も呉れず、浅瀬に飛沫を上げながら、即席の休憩所を組み上げた。

 パラソルを開閉しつつ、彼女は、

 

「いい感じです。帰りもよろしくー」

 

 と、言った。

 それから今さら、古詠の惨状に目を留めて、眉を下げる。

 

「それにしても、体力ないですねえ」

「わるかったね」負けた身分では反論する気力も湧かず、古詠は薄墨へ降伏の構えを取った。「しかし、こんなにこき使っておいて、よくそんな口が利けるな」

「まー、泳ぎで私に勝つなんて十年早いって感じですかー」得意げな顔で、薄墨は胸を張った。「この悪石島の人魚の異名を取る私に挑もうなんて……」

「河童の親戚か」

「尻子玉抜きましょうかー」薄墨がにこやかに右手を開閉させた。

 

 震える足腰に鞭打って、古詠は薄墨から距離を取った。そんな様を見て、嘆息する少女の表情は情けないと言わないばかりだ。

 

「そんなだから、学校でもいじめられるんですよ。姫様や霞ちゃんに心配かけて、悪い子ですねー」

 

 薄墨の発言に、古詠は耳を疑った。

 

(いじめ?)

 

 事実無根の話である。中途半端な時機に転入した小学校に、しんから馴染めているとは言いがたい。しかしそもそも、古詠の通う学校に他者を排斥するほどの連帯感は存在していなかった。田舎の子供と侮っていたつもりはないが、皆それなりに乾燥した心持で新たなクラスメートを迎え入れていた。

 

「いや、いじめられてないから」古詠は慌てて否定した。「なんだよその話。なんでぼくがいじめられてるなんてことになってるんだ」

「あれ」と、薄墨は首を傾げる。「でも、霞ちゃんが、夏休みなのに一度も家に友達が遊びに来てない、こよみくんはいじめられてるんじゃないかしらって……」

「友達を家に呼んでないのはほんとうだけれども、いじめられてるとかはないよ」古詠は嘆息した。

「むう……」薄墨は腕組して唸った。「ガセネタをつかまされましたかー。……つまらないですー」

「薄墨さん、けっこう性格キツいね」と古詠は言った。「そもそもあの人、家にいないのに、どうしてそんなこと知ってるんだろう」

「そっか。霞ちゃんはふだんから姫様と一緒でしたね」合点が行ったふうに薄墨は頷いた。「それはそれとして、ホントにぼっちじゃないなら友達のひとりも家に呼べば良いじゃないですか。そうすれば霞ちゃんも安心するんですから」

「いやだよ。親いないとか知られたら気を遣われるじゃないか」

「自分かわいそうですか?」薄墨が鼻を鳴らした。「それ、ばかみたいですよー」

「ああ、なるほど」得心した古詠は笑った。「たしかに、もしかしたら、そういう気分もあるかもしれない。自分ではたんに説明とか面倒くさいってだけだと思ってたけど、ほんとうは、周りにかわいそうだって優しくしてもらいたかったのかな」

 

「……」

 

 薄墨が、拍子抜けしたように白けた顔を見せた。

 彼女は恐らく自分のことが気に食わないのだろうな、と古詠は他人事のように思う。薄墨とまともに顔を合わせたのは、古詠が鹿児島に越して以来これで三度目となる。いずれもまともに会話を交わしていない。

 特に彼女と揉めた記憶はなかったが、どうやら薄墨は古詠を嫌っているらしかった。連絡船でこの島に入ったのは昨晩のことになるが、今日だけでも、薄墨は何かしら理由を見つけては古詠に突っかかってくる。

 ふだんの薄墨がどんな少女かを古詠は知らない。ただいまの彼女の反応は、古詠に妹を想起させる。だからたんに感傷が呼び起こされるだけで、挑発に乗るような気分には、どうしてもならなかった。

 

「ごめんね」と、彼は言った。「たぶん、ぼくを怒らせたいんだろうけど、そんな気分になれないんだ」

「そうですか」打って変わって淡白に、薄墨は答えた。「じゃ、もういいですー」

 

 そのまま、薄墨は抱えた西瓜を岩場に打ちつける。存外と軽い音を立てて四分五裂した玉から適当な塊を見繕うと、指に付着した汁気を舌で舐めつつ、彼女は紅い実にかじりついた。

 そこでいまさら、古詠は喉がからからに渇いていることに気がついた。

 

「それ、もらっていい?」

「持ってきたのは君ですよー」薄墨は古詠を見もせず答えた。

 

 言葉に甘えて、古詠もまた割れた西瓜に手を伸ばす。水気を含んだ果実は甘く、噛んで飲み下すたび身体に活力が染み渡る心地がした。

 ふたりは、しばらく、無心で西瓜にかぶりついた。会話は絶えた。西瓜の実を咀嚼する音、種をより分け吐き出す音、浪打の音、それにとんびらしい鳥の鳴き声が、その空間に響く全てだった。

 一玉を食べきるまでに、十分も掛からなかった。先に満腹になった薄墨が、体を投げ出すように浅瀬に寝転んだ。古詠の目など気にもならないのか、満足げにあいき(げっぷ)さえした。

 

 括られた髪が水に揺らめく様は、古詠に死体を連想させる。

 母が最期に選んだのも水場だった。

 つい数ヶ月前に、小さな借家の浴槽で、母は事切れた。

 その死体を最初に見つけたのは、古詠である。

 心を病んだ母が一時退院する運びとなってから、三日後のことだった。前日、母は久方ぶりに腕によりをかけて手料理をふるまってくれた。古詠も野菜の下ごしらえを手伝った。最後の晩餐は、おおよそ和やかに終始した。笑みが飛び交い、それなりに明日への希望を繋ぐ夜だった。少なくとも古詠はそう思った。どこかのボタンを掛け違えて、母は心を傷めたけれども、それも徐々に快方へ向かい、また家族四人で暮らせる日が来る――古詠は、そんな暢気な空想が持つ信憑性を、まるで疑っていなかった。

 お母さん、がんばるからねと、母はその夜言った。

 

 そして、次の日に死んだ。

 

「……すごい目をしてますよ」

 

「――そう?」

 

 薄墨の声をきっかけに、古詠の意識は現在へ立ち戻る。黒くて大きな薄墨の瞳に、見て取れる感情は浮かんでいない。彼女が古詠に向ける関心の薄さが表れているようだった。

 そんな視線を、古詠は心地良く感じている。

 

 薄墨初美は、活力に溢れた娘だった。古詠にはそう見えた。自分に対して向ける好悪の情がどうあれ、だから古詠は鹿児島で出会った親族の中で、彼女だけはいくらか『人間』らしいと思っている。従姉である石戸霞も含め、霧島神境と呼ばれる領域に関わる幾人かと彼は出会い、言葉を交わしたが、皆例外なく()()している存在だった。受けた気遣いや恩に思うところがあるわけではない。彼女たちに感謝する気持ちは確かにある。ただそういった思考とは別の領域で、古詠の感情が神代の人々を生理的に拒んでいた。

 

「それで――」宙を見つめたままで、薄墨が言った。「君はどうしてまた、ここにやってきたんですかー。べつに私に会いに来たってわけでもないでしょう。盆祭りも終わってるし、この島にはホントに何もないですよ。君みたいに都会から来た人には何も面白くない所だと思いますけど」

「別に都会から来たってわけじゃないけど」古詠は苦笑した。「薄墨さんの思ってる通り、ぼくはこの島には、べつだん用向きはないよ。ただ、ここって何があったって連絡船が来るまでは様子なんて見に来れないでしょ。だから、ちょうどいいかなって思って」

 

 薄墨が顔を曇らせた。

 

「なにか、悪いことしようとしてますかー」

「どうかな。どうだろう」古詠は肩をすくめた。「ぼくはたんに、邪魔されずに出かけたいだけなんだ。でも、さすがにひとりでどこか行ったなんてバレたら、石戸の家の人にも心配かけるでしょう。だから、帰るのは来週ってだけ伝えておいて、この島に来たわけ。薄墨さんのおじいさんたちには前に世話になったし、それならべつに不自然じゃないだろ?――で、ぼくは明後日来る連絡船で一足早く鹿児島に戻って、そこからは暫く自由に動けるようになる、と」

「なるほど。それで、元々帰る予定の日には、何食わぬ顔で戻ってきてると。そういうわけですか」薄墨は、疑問の氷解に微笑みを浮かべた。

「そうそう」

「で、それを聞いた私がだまって君の自由にさせると思いますかー?」と、笑みを崩さず彼女は言った。

「そうしてくれると嬉しいけど、薄墨さんが駄目っていうなら、元々諦めるつもりだよ」

 

「……は?」薄墨が目をみはった。「ちょっと、なんですか、思わせぶりな悪巧みしておいてそんなにアッサリと」

 

「しょうがないよ」と、古詠は答えた。「今の話で誰がいちばん迷惑かっていったら、こっちでぼくの面倒を見ることになってる薄墨さんちだからね。薄墨さんに反対されたなら、それは諦める。貰われ子の身分で、そこまでわがままになるつもりはない。来週帰る日まで、釣りでもやって大人しくしてるさ」

 

「その物分りのよさ、気持ち悪いですねー」やや苛立ちを込めた口調で薄墨がいった。「もちろん、君のわがままなんか許しませんよ。それはぜったい。でも、なんなんです、その態度?」

「態度って……」古詠は眉を集めた。「なんか気に障った?」

「霞ちゃんの家の人も、本家の人も、誰も君のこと、悪く言わないんですよねー。もちろん姫様も霞ちゃんも」指折り数えるように、薄墨は続けた。「家の仕事はよく手伝う。いいつけは素直に聞く。小さい子達の面倒を見る。神境のことには立ち入らない。質問しない。調べもしない――あのですねー、気づいてないなら言いますけど、君、おかしいですよ。子供らしくない」

 

(そういう自分も子供じゃないか)

 

 とは、思っても口にはしない。かわりに、

 

「そう?」と、古詠は落ち着き払って応じた。「じゃあ、どうすれば子供らしく見える?」

「まず、そういう切り返しをしてくる時点でダメダメです」薄墨は言い切った。「君、君、ホントに――」

 

 そこで数瞬、薄墨は言葉を切った。二の句を言うべきか言わざるべきか、迷っているような逡巡である。それで古詠は、彼女が吐きたい言葉についてだいたい察しがついた。

 

「聞きなよ」と、古詠は促した。「そこまでいったらすっきりしたほうがいいでしょ」

 

 薄墨の表情が、苦いものを含まされたように変じた。半身を起こした彼女は、古詠を吃と見据えて、

 

「……お母さんが死んで、悲しくないんですか」

 

 ――そう呟いた薄墨の背後に、()()()()()()()のを古詠は視る。生前の姿そのままだった。顔色は最期に見たように土気色をしていなかったし、眼球は正常で、鼻梁も崩れてはいない。血の臭いをまとってもいない。服薬による曖昧な目線も正されて、柔和な瞳を古詠へ向けている。石戸霞と、そして自分に良く似た母の顔は、数年来見かけたことがないほど安らいでいた。

 ただし、止め処なく涙を流してもいた。悲しげな顔でもないのに、落涙はまるで自動的だった。古詠はその涕泣が何らかの訴えであると解釈した。母は何かを求めている。それが何かについては、おおよそ察しがついている。

 生前の母が此の世でいちばん欲していたものを、古詠は知っている。それはものではない。概念でもない。娘でもない。息子でもない。

 恋人だ。

 母は父を求めている。

 もう一度逢瀬をやり直したいと想っている。

 その未練のあまり、死してなお、息子に姿を見せている。

 

 母の唇が動く。

 無音の名を紡ぐ。

 彼女は父の名を呼んでいる。

 ぽっかりと空いた口腔は深淵だった。歯も舌も咽喉も見えない。そんなところばかりが空想的で、影のない母の姿が幻でしかないと古詠に教えてくれる。

 

「どうかな」と、不自然に間を置いて、古詠は答えた。「正直なところ、よくわからない。自分がどう想っているのかがどうしてもうまくつかめない。悲しくないことはないんだろうけど、正直なところ、ちょっと肩の荷が下りたと感じたことは間違いない。だから、もしかしたら、嬉しいのかな? でも、ほんとうによくわからないんだ。母さんの死体を見つけた瞬間、なんだか、そういう色々なものが全部頭の中から消えちゃったんだよね。その感じがいまも続いてる」

「ちゃんと、泣いたんですか」薄墨はもう後には引けないとばかりに踏み込んできた。

「それ、薄墨さんに関係ある?」純粋に奇妙に感じて、古詠は反問する。

「関係はないですけど、石戸の人たちじゃ、君に気を遣ってちゃんと聞けなそうですからねー」薄墨は嫌そうな感情を隠そうともせず答えた。「しょうがないじゃないですかー」

「泣いたりわめいたり、荒れたり当り散らしたり、怒ったり憎んだり、そういうのが苦手なんだ」古詠は嘆息した。「体力つかうし、面倒じゃない。陰気なのも趣味じゃないし、楽しいことだけやってたほうがいい。笑ってたほうがラクでいい。そういうのがおかしいっていわれたら、そうなんだとしかいいようがないよ。それがぼくなんだとしかいえないよ」

 

「――」

 

 薄墨は、だまって古詠の言葉に耳を済ませていた。大きな双眸は揺るぎもせず古詠へ固定されていた。彼女は確かに、何かしら不穏な気配を古詠から嗅ぎ取っているらしい。それが母の亡霊に由来するものなのか、もしくは古詠の性質自体に対するものなのか、古詠には判別しようもなかった。

 石戸霞や、神代小蒔――霧島神境を訪うたその日に顔をあわせた少女たちは、神に奉仕する役目を負った特別な人間だった。詳しく説明を受けたことはない。ただ雰囲気や、会話の端々で察せられることがある。彼女たちは神の実在を前提としている。超現実的な存在を霊感のようなもので捉え、ときに借力し、ときに調伏している。

 しかし彼女たちに、母の存在を指摘されたことはない。だから古詠は自らの立ち位置を判じかねている。彼は目に映る現実的極まりない母が、自身の妄想である可能性も考慮している。そうであれば話は単純で、彼は自分の狂気と折り合いをつければいい。だが問題は、母の残骸が確かにそこにいて、霞や小蒔の感覚では検知されていない場合である。

 

(面倒くさいな――もう)

 

 未練がましくそこに立つ母を、古詠は哀れに思う。だから極力、願いをかなえてやりたいとも思う。しかし一番先に立つ感情は倦怠である。母は死んだ。古詠はその死を確認した。人は死ねば終わりだ。生きている限りはどんなことでもありえてよい。しかし故人が生者に何かを働きかけることは、古詠にとってひどく条理に沿わないことだった。

 

(母さん、死んだんだろう。生きるのがいやになったんだろう。だからぼくを残して死んだんだろう。だったら、大人しく消えてくれればよかったんだ――)

 

 もう一度、彼はため息をついた。薄墨さん、と目前の少女に呼びかける。

 

「薄墨さんもだけど、この島って、麻雀打てる人、いる?」

「半分以上の島民が打てますよ」と、薄墨は答えた。「私も含めて」

「いいね」と古詠はいった。思わず、口元が綻んだ。「じゃあさ――ぼくのこと、見逃してくれなくていいから、麻雀しようよ。この島に何もなくても、麻雀があればいいや」

「君、麻雀できるんですか?」薄墨は目を瞬かせた。「姫様たちはそんなこと、ぜんぜん言ってなかったですけど」

「あっちじゃ打ったことないからね。ふたりとも強そうで、是非打ってみたかったんだけど、最初ちょっと誘ったときに気が進まないみたいだったからさ」

「なぜですかー」

 

 問われた古詠は、母の幻に醒めた目を送りながら、簡潔に答えた。

 

「何も賭けない博打なんて、つまんないだろ? ――それを厭といわれちゃァ、しょうがないよ。彼女らとは遊べない」

「へえ――なるほど」

 

 薄墨初美が、初めて、本心からの笑みを見せた。

 ただし、その感情は攻撃性の発露である。

 

「ようやく、チョッとだけわかりました、君の事」と、薄墨はいった。「いいですよ。やりましょう。――もし私に勝てたら、見逃す件、考えてもいいですよ」

「やっぱり」と、古詠は破顔した。「思った通りの人だな、薄墨さんは――がぜん、夜が楽しみになってきたよ」

「何のんびりしたこといってるんですかー」薄墨が、勢いをつけて立ち上がる。そのまま躊躇いもせず水着を脱ぎに掛かると、着替えを置いている場所へ走り出した。「打つならこれからですよ。時間には限りがあるんですから」

 

 さすがに古詠は度肝を抜かれて、ぽかんとその背を見送った。遠目に、焼けていない薄墨の白い背や臀部が見える。含羞がまるでないその振る舞いは少年のようだが、彼女の大人びた物言いとの落差が、かえって古詠の頭に血を集めた。

 

 ――しかしそんな淡い感情も、母の姿を認めると急激に冷え込んだ。

 

「麻雀、久しぶりだな」と、彼は言った。

 

 それから薄墨が戻るまで、妹のことを考えていた。

 

 

 ▽ 8月中旬 長野県 信州麻雀スクール/ 11:16

 

 

「雀卓がほしい?」と、南浦数絵はいった。

 

 打:{北}

 

「そうなんだよ」と、京太郎は重々しく首肯する。

 

 打:{二萬}

 

「そっか――うちには生まれたときからあるけど、ない家も普通にあるよね」

 

 打:{9}

 

「一応近場で打つところもあるんだけどな。やっぱり手元で触りたいんだ」

 

 打:{九萬}

 

「ほんとに好きだね――麻雀」

 

 打:{東}

 

「そうだな。好きだよ――きっと、おれはこいつで身を持ち崩すだろう。そんなふうに思うくらい好きだ。月子に教えられて、こいこいやらチンチロ、ポーカーとか、そっちにも手を出してはみたけどさ、悪かァなかったものの、やっぱり麻雀が一番やってて楽しいよ」

 

 打:{五萬}

 

「それは――あはは、小学生の物言いじゃないね」可笑しそうに、南浦は笑った。「須賀くん、ほんと、変わってる――でも、その気持ちはわかるけどね。テレビとか見ていると、やっぱりプロには憧れるもの」

 

 打:{七萬}

 

「それにしても、タイミング悪かったな。せっかく長野に来たのに、ちょうどみんな旅行行ってるところでさ。どうせなら、また囲めたらよかったんだが」

 

 打:{4}

 

「そうね――残念だけど、仕方ない。池田さんも花田さんも石戸さんも、みんないっしょなんでしょう?」

 

 打:{北}

 

「ああ。とりあえず東海まで南下して、そっから三重、奈良、大阪までだとさ――。池田さんは最初ひとりで沖縄まで行くつもりだったみてーだけど、生まれたばかりの三つ子の世話が大変で、予定を短くしたらしい」

 

 打:{六萬}

 

「耳を疑う計画だね、それ」南浦の顔が引きつった。「女の子なのにそんな、一人旅とか、自覚がなさすぎて怖い。……どう?」

 

 打:{八萬}

 

「ロン。一通西(ドラ)3で8000ちょうどだ。――うーん、やっぱり二人打ちは駄目だな。話すほうに熱中しちまう」

 

 京太郎:{八①②③④⑤⑥⑦⑧⑨西西西} ロン:{八}

 

「やられちゃったな」山を崩して、南浦が嘆息した。「巧くなったね、須賀くん」

「たまたまだよ、今のは――アガり損なってたし」

「ううん、これからまだまだ、巧くなると思う」真剣な顔で南浦はいった。「始めたばかりのころって、そういうものだよ。新しい知識や技術を吸い込んで、どんどん巧くなる。自分でもその伸び幅がわかるくらい。でも、たぶん、どこかでそういう伸び方は終わっちゃうんだ」

 

 追懐するように、目を細める南浦だ。京太郎は黙って、先達の言葉に耳を傾けた。

 

「――こういう競技だから、伸び悩む時期に不調が重なることはある。それが続くと、牌から離れたくなることもある。スポーツみたいに、ちょっと休んだからってすぐどうにかなるようなものじゃないけど。お祖父さまは、そういうときには一旦間を置くのも悪くはないって言ってた」

「そうだな。どうしても勝てないときって、あるな」

「だから、気分転換しようか」晴れがましく笑うと、南浦は席を立った。「お昼行きましょう。せっかく長野にいるんだから、おそばとか食べたい」

「マック食べるくらいの金しかないぜ」財布の中身を広げて、京太郎は闊達に笑った。

「しょうがないなァ――」南浦が苦笑いした。「まけといてあげる!」

 

 二人連れたって、打ち場をあとにする。この日も残暑がきびしく、陽射しは猛烈だった。くるくると良く変わる南浦の表情は、初見の怜悧な印象を裏切って、年頃の少女然としている。京太郎は関西の地へ行った馴染みの顔ぶれを思い返して、

 

 ――南浦が後方で立ちすくんでいることに気がついた。

 

「おい、――どうした?」

 

 問うが、彼女は答えない。蒼褪めた顔色で、前方の一点を注視している。

 京太郎は南浦の視線を追う。

 果たして、その先には、京太郎と同年代と見える男女が二人いた。 

 印象に際立ったものはない(少なくとも京太郎にはわからない)。ふたりはただ歩いているだけだ。良く日に焼けた少女が、隣の少年に説教じみたことを言い含めている。対する少年は暖簾に腕押しの風情で、少女の苦言を明らかに聞き流していた。

 

「どういうことなんですか、長野くんだりまで来て、目当ての人がいないって!」

「まァ、いないものはしょうがない。廻り合わせが悪かったとしかいいようがない」

「しょうがないじゃないですよー!」少女はいたく憤慨しているようだった。「もう、姫様たちにバレちゃったんですから、こうなったらとりあえず何かお土産でも買うしかありませんー!」

「ふーん。がんばってね」

「なにいってるんですか、お金は君が払うんですよ」

「え、なんで……薄墨さん勝手に着いて来ただけでしょ。お金は自分で持つっていったじゃん」

「ふふん、この前の麻雀とここまでの旅費で、コツコツ貯めたお年玉はすっからかんですよ。――だからもう、ホントお願いしますー」

「あのねえ――あ、麻雀スクールだってさ。どうせヒマになっちゃったし、せっかくだから入ってみる?……と思ったけど、ノーレートか。やっぱりいいや。まあ、子供でも入れるレート有りの店なんかないもんなァ――」

「お年よりのみなさんが入れてくれたお賽銭をしゃぶりつくして、まだ足りないなんて、君ホントにゲスですねー……」

「え、あれそんなお金だったの……え、マジで? それ、ぼくが悪いの?」

 

 そのまま、二人は京太郎、南浦とすれ違う。彼らはこちらを見もしない。陽炎が立つアスファルトを歩いて、ほどなく、その背も見えなくなった。

 ようやくといった様子で、南浦が大きく息をつく。

 

「なんだったんだ?」尋常ではない彼女の様子に、思わず京太郎は訊いた。「あいつら、なんかあったのか?」

「――ううん、なんでもない」南浦はゆっくりとかぶりをふった。「ごめんなさい。いきましょう」

「……大丈夫か?」

「べつに、へいき」南浦は少し翳りのある笑みを浮かべた。

 

 それから、二人組みが消えた方角へ目を向けた。彼女はしばらくそうしていたが、やがて何かを期すように鋭く息衝くと、鮮やかにきびすを返して、京太郎を促した。

 

 京太郎は、わけもわからぬまま、彼女に従った。

 

 

 ▽ 12月中旬 長野県・飯島町・七久保/ 16:17

 

 

 夏が終わり、秋が来た。

 ――冬枯れの季節になった。

 

 客観的に判断して、麻雀との出会いは須賀京太郎に悪影響をもたらした。これまでのかれは、良くも悪くも志向を持たない少年でしかなかった。虚無的な思想の偏りはあからさまに発露することはなかったし、かれの性格自体は凡庸で善良なものであったためだ。

 ただ、一度のめり込む事が出来ると、今までは水面下に隠れていたかれの本質が現れるようになった。要するに、かれの生活は完全に麻雀中心のものへと組み変わったのである。学業の優先度は加速度的に下落して、観戦したプロの対局の牌譜を起こし、検討するうちに夜が明け、疲労が囁くまま夕方まで寝入ることようなことはしばしば起きた。欠席が増えれば、当然父母へも連絡が行く。須賀家は健全な状態とは言いがたかったが、両親から息子の社会性への懸念が失われたわけではない。須賀家では当然の流れとして、息子から麻雀を引き離す方針が採用された。

 声を荒げ、この決定に反抗する意気が京太郎になかったわけではない。ただかれは、最終的にこの裁可を従容と受け入れた。

 

「いがーい」と評したのは石戸月子だった。「須賀くん、完全に麻雀キチになってたじゃない。あわや家庭内暴力勃発かと思ったわ」

「べつに」と京太郎はいった。「諦めるつもりはないよ。ただ、むだに親に心配を掛けちまったのは、おれが悪かった。それを反省しただけだ。――ま、ウチの外でも麻雀やるなってんなら逆らっただろうけどさ」

 

 さすがに両親も、週末や家庭外での息子の行動を制限する心算はないようだった。彼らが幼少期から全く懐く様子を見せなかった初子を扱いあぐねているのは明らかで、京太郎はそのことを非常に申し訳なく思っている。京太郎の生来の性質が、いまの須賀家の様相の因となった――そんな思いが拭いきれない。

 といって、ことは意気込みひとつで綺麗に革められることでもない。京太郎の姿勢は単なるどっちつかずで、中途半端なものでしかなかった。真実親を思うのであれば、かれは月子の言うような行動に走るべきだったのだ。この件に対する京太郎の処方は、かれと家族の距離を、また一つ広げるだけの結果となった。

 

 生活を忽せにしないこと。また、したとしてもそれを気取られないこと。

 

 京太郎はその点を胸に刻んで、麻雀への没頭を続けた。特定の集団に属するということはなかったが、とくに相手は選ばなかった。参加者を選ばない場が立つと聞けば、どこへでも出向いた。とくに池田華菜は呆れるほどそうした場の情報に詳しく、彼女についていけば相手に困るということはなかった(ただし、たいていの場合京太郎よりかなり上手(うわて)の対手を向こうに廻すはめになった)。

 次に京太郎が入り浸ったのは、花田煌が通う麻雀クラブか、そうでなければ月子の自宅だった。後者はお世辞にも子供が足を踏み入れるに適した環境とはいえなかったし、じっさい初めて月子に案内された折にはひどく驚いたものだった。が、とにかく打てればそれでよいというのが京太郎のスタンスである。月子と同じく物怖じせず、月子と違って素直な京太郎は、比較的大人に(とくに商売女に)受け入れられた。

 

 週末ともなると、京太郎はほぼ必ず家を空けた。友人と遊ぶか、麻雀を打つかがかれの大事だった。

 

 そんな日々の中で、京太郎が気に留めていたのは、夏に図書館で出会ったあの少女たちである。あれから幾度か図書館に通ったものの、すんなり再会ということにはならなかった。折悪しく司書も以前勤めていた人から変わってしまい、彼女らの素性を知るための線が途切れていた。

 京太郎の主観では、卓を囲んだほうの少女は相当な達者である。なにしろプロを向こうに回して一歩も引かずに戦った小学生だ。しかし月子も池田も、「そんな小学生がいてたまるか」と京太郎の主張を一顧だにしなかった。

 

「あのなァ」と池田は諭した。「プロはすごいすごい強いぞ。まじでなんかおかしいんだ。中には、そりゃそうじゃないのもいるけどさ――いっしょに打ったの、南浦プロと大沼プロだろ? そんな卓でおまえ、あたしらと同年代が勝ちそうにかったとか、そんなんがこのへんにホイホイいてたまるか。いたら絶対知ってるし」

 

 残念ながら、少女の名前を失念したうえに人相を伝える能力に乏しい京太郎には、反論する術はなかった。

 

 さらに日が空くと、再会できる目はどんどん薄くなった。京太郎自身も、何をそこまでこだわっているのかを見失いつつあった。もはや慣習と化した図書館通いも、止める踏ん切りがつかないだけだった。

 

(今日は何を読むかね――)

 

 麻雀関連の書籍で目ぼしいものは粗方読んだ。気の向くまま、京太郎は児童書のコーナーに立ち寄る。ふだん目を向けない場所になら何かあるかもしれないという、ありがちな(ゲン)かつぎである。

 吟味したすえ、かれは特徴的な装丁に惹かれ、『エトピリカになりたかったペンギン』という絵本を手に取った。

 

 ――その本の書き出しはこんな具合だった。

 

 

エトピリカになりたかったペンギン

 

 

 つめたい風がいつも吹く、あるさむい島に、およげないペンギンがいました。

 そのペンギンのつばさはとてもみじかく、いくら水をかいてもはやくすすめないのです。

 それにからだもまんまるとして、はしることも、氷のうえをすべることも、とくいではありませんでした。

 

 ペンギンは、まわりのみんなが水にもぐってさかなをつかまえているときも、ひとりだけおかのうえにいます。

 

 ペンギンのなかまたちは、くちばしをそろえていいました。

 

「きみのつばさは、どうしてそんなに小さいんだい。

 きみのからだは、どうしてそんなに丸いんだい。

 きみのくちばしは、どうしてそんなにみじかいんだい。

 およげなくっちゃ、さかなをつかまえることもできないじゃないか。」

 

 ペンギンは、なかまたちに、こういいました。

 

「ぼくは、およげなくてもいいんだよ。ぼくは、ほんとうは、ペンギンじゃないんだ。」

 

「うそをつくなよ。きみがペンギンじゃないなら、なんだっていうんだい。」

 

「よくかんがえてごらんよ。およげないペンギンなんて、いるわけがない。

 だから、ぼくはペンギンじゃないんだ。」

 

 なかまたちは、みんなそろってかんがえこみました。

 

「それじゃあ、きみは、だれなんだい」

 

 きかれたペンギンは、くちばしをとじて、だまりこんでしまいます。

 

 ペンギンは、じぶんがだれなのか、わかりませんでした。

 

 なかまたちは、ペンギンではないといいだしたペンギンをなかまはずれにしてしまいます。

 

「きみがペンギンじゃないなら、どこかべつのところへいってくれないか。

 ここにはおよげるペンギンしかいないし、およげなくっちゃさかなをたべることはできない。」

 

 およげないペンギンは、とてもいじっぱりだったので、なかまたちにあやまったりしません。

 ペンギンはみじかいつばさと足をばたばたさせて、なかまたちとおわかれしました。

 

 きがつくと、ペンギンはずいぶんとおくに来ていました。

 おなかがとてもへっています。

 いまにもたおれそうなほどです。

 もうあるくこともできず、ペンギンはそのばに立ち止まりました。

 

 あまりにおなかがすきすぎて、ペンギンはとうとう泣き出してしまいます。

 

「ぼくは、いったいなんなんだろう。

 ペンギンじゃないなら、なんなんだろう。

 ああ、それにしてもおなかがへったなあ」

 

 そこにあらわれたのがエトピリカでした。

 

 ――。

 

 そこまで読み終えたところで、ふと、何の気なしに、京太郎は顔を上げた。なにやら視線を頬に感じたのである。

 

「ん」

 

 と右手に顔を向けたところに、あの少女がいた。

 

「あ」

 

 と、彼女は口を開ける。京太郎もまた、

 

「あ」

 

 と、呟いて、ふたりは目を合わせたまま、しばらく立ち尽くした。

 

 

 




2012/10/2:誤記修正
2013/2/18→2013/3/13:牌画像変換(差し替えたつもりで差し替え忘れていたため)


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1.たいようモード(前)

1.たいようモード(前)-mode of the sun-

 

 

 ▽ 12月中旬 長野県・飯島町・七久保/ 16:35

 

 

 以前出会ったのは夏のことである。卓こそ囲んだが、正面きってつぶさに容姿を観察したわけではない。声も、姿も、ほとんど記憶らしい記憶は残っていなかった。それでも京太郎は、その少女にすぐ気づくことができた。少女には人目を惹く華のようなものがある。その存在感が、京太郎に彼女を忘れさせなかったのかもしれない。

 

「――よう」

 

 と、言葉を探すものの、京太郎は二の句を次げない。考えてみれば、少女を探すという目的だけがここしばらく脳裏にあって、そこからどうするか、といった点はきれいに抜け落ちていた。

 絵本を手に、見合って言葉を探す京太郎を、少女は茫洋とした目で見つめている。記憶を手繰るような目線である。大きな瞳の直向さに気後れして、京太郎は視線を下へ外す。

 ダッフルコートの前を開いた少女の胸元に、名札が掛かっている。

 名札には、『六年二組 宮永照』と書かれていた。

 

(二ツ年上か)

 

 新しい情報ではある。だが話題の取っ掛かりになるようなものではない。いよいよ言葉に窮する京太郎はとりあえず初対面の日のことを謝りたいが、一方的に頭を下げて満足するようでは、時間を費やした意味が何らない。とりあえずといった風情で会話の切り口をかれが見出すのと、照が口を開くのは同時だった。

 

『麻雀』

 

 と、和声が響いた。

 京太郎は苦笑し、夏に出会った頃よりすこし背が伸びたらしい照の目も、偶然を楽しむように細められる。

 

「……どーぞ」

「うん」

 

 促す京太郎に応じて、照が言葉を紡いだ。

 

「麻雀は、まだ続けてる?」

「もちろん――」

 

 京太郎は即答した。

 

「頭の天辺までどっぷりだ。おかげで夏からこっち、成績はぐんぐん下がってる」

「そう。それは、悪いことを教えたかな」

「とんでもない」少し顔を曇らせた照を見、京太郎は慌てて否定した。「ずっと、あんたにありがとうって伝えたかったんだ。あのとき、最初に麻雀をやったのがあんたたちじゃなかったら、おれは、麻雀の楽しさなんてわからないままだったよ」

「そんなことはないと思う」

「あるよ」京太郎は言下に言い切った。「とにかくおれはそう思ってて――すごく、いま、楽しいんだ。だから、ありがとうってずっと言いたかった」

「……どう、いたしまして」

 

 こころもち身を引いた照の視線が、当て所に困ったように彷徨った。大げさな物言いに、彼女が戸惑っていることはさすがに京太郎にも察せた。

 京太郎自身は、自分の言葉を毫も誇張したつもりはない。ただ理由のない疎外感から世に拗ねていたかれはいま、巷間の子供たちとひとしなみに、麻雀という世界に没頭することができている。それは京太郎にとって、まったく生まれて初めての感覚である。そして感動のきっかけは、紛れもなく照と囲んだ最初の卓にあった。自分の感謝をどうすればうまく伝えられるか、考えたところでやりようは浮かばない。

 結局、かれは、万感を込めて伝えるしかない。

 

「ほんとに、ありがとうな」

 

 真っ直ぐ照の目を見て、伝えた。

 京太郎の直截な感情を突きつけられた少女は、まるで動じなかった(彼女は一貫して無表情だった)。わずかに顎を引いた仕草が、感謝の受領を京太郎に伝えた。そこで肩の荷をまとめて降ろした気分になって、京太郎はようやく人心地がついた。

 

「いや、だからどうってこともないんだけどさ。――それだけだよ、おれがいいたかったのは」

 

 首をかしげた照は、京太郎の視線を正面から受け止めている。思案げな顔にも、困った顔にも、何も感じていない顔にも見えた。麻雀を介して異性との交友関係がずいぶんと広がった京太郎から見ても、照は特異な少女だった。容姿や実力ではなく、空気がどこか違う(浮世離れ、という表現をかれが知っていれば、照をそう評したに違いない)。

 白々とした図書館の照明の下で、二人は数秒沈黙を共有する。京太郎は視線を外すタイミングを失って、照の鳶色の瞳を覗き込んでいた。深い色だった。薄明の湖面を思わせるほど凪いだ虹彩は、感情を容易に読み取らせない。反面、彼女の前に立つと、京太郎は奥深い部分まで見通されているような気分になった。

 

(あのときも、そうだった)

 

 と、かれは思う。想起するのは照と初めて出会った日の帰り道である。あの日、京太郎はいつもの『衝動』に見舞われた。ふと、命をつまらない天秤に載せてみよう、と思いついた。それを実行するのにためらいもなかった。麻雀に夢中な最近はなりをひそめているが、あの手の戯れを京太郎は度々行動に移しては、自然な帰結として大きな怪我を負うことがあった。

 大抵の人はそんな京太郎を見、注意力が散漫な子供と見なした。じっさい、腕白な子供とはそうしたもので、周囲が京太郎の性質に疑いの目を向けるようなことはない。京太郎も胸裏に抱える希死念慮について、誰かに打ち明けたことはない。

 しかし、照はあの日、それを一目で看破したのである。

 かれを苛んでやまない心持を見破ったのも咎めたのも、宮永照が初めてだった。

 

(――だからか。おれは、こいつに、だからまた会いたかったのか――)

 

 目前の少女に自分がこだわり続けた理由を、京太郎はふいに諒解した。

 とたんに、居た堪れないほどの羞恥がこみ上げた。目元が赤らみ、京太郎はとっさに照から目線を外した。一刻も早く、この場から離れたかった。しかし、逃げることを思いついたかれが口を開きかけるすんでで、照が、

 

「――立ち話もなんだから、うとうか」

 

 と、言った。

 

「え?」

「麻雀」自らの手に目を落として、照は続けた。「うとうか」

「喜んで、っていいたいけど――」京太郎は図書館の壁時計を見やった。「もうすぐ閉館だぜ、ここ。外も真っ暗だ」

「じゃあ、やめる?」

 

 問われた京太郎は口ごもった。かれにとって麻雀の誘いは、いつだって魅力的だった。相手がこの少女ともなればなおさらである。

 逡巡は一瞬だった。麻雀卓が常備されている一風変わった談話室を、見るだけ見に行こうという話になる。

 結果から言えば、その日、京太郎と照が再び卓を囲む機会は来なかった。二人が訪れた談話室は無人だったのである。古びた型の灯油ストーブがひとりきりで気を吐いて、室内をやや暑いくらいに暖めている。コートを脱いだ照は一通りあたりを見回して雀卓に腰を下ろすと、

 

「誰もいないね」

 

 と見たままを呟いた。

 

「ああ」

 

 京太郎も散漫な相槌を打って、照の対面にすわった。

 二つ年上の少女の身体は、ハイネックの白いセーター越しにも、徐々に子供の域を脱しつつある線を描いている。女性らしさという観点では照よりも石戸月子のほうが(年少にもかかわらず)成熟しているが、なぜか京太郎は、照に対して月子にはない気恥ずかしさを覚えていた。

 部屋の空気は、からからに乾燥していた。暖房が立てる音は無個性で、二人が言葉を切ると、しじまは耳が痛いほどになる。手遊びに、京太郎は卓上に置かれたケースを覆して牌を撒いた。洗牌の要領で、裏返し、散らし、揃えて積んだ。四つの山を作るまでには、まだ二分近くは掛かってしまう。

 照は、ほんの少しだけ目に感心を浮かばせていた。

 

「だいぶ上手くなった」

「飽きるまで続けてるからな」と、京太郎はこたえた。「だけど飽きないから、いつまでもやってんだ。そりゃ、こなれもするさ。――そういえば、こんなの知ってる?」

 

 積んだ山を、京太郎は注視する。観察に数秒を費やして、かれは指を牌に伸ばし、136枚の内4枚を捲って見せた。

 すべて、{白}だった。

 

「――」照が、目をまん丸に見開いた。口も少しだけ開いた。「すごい。どうやったの」

「あれ?」予想と違う反応に、京太郎は頭を掻いた。「みんな知ってると思ったけど、そうでもないのかな。{白}って他の牌と高さ違うじゃん。だから山にあったら場所わかるよなって話。まあ、今のところ実戦で役に立ったことねーけど」

「……」

 

 捲られた{白}を適当な牌と並べて、少女は目を眇める。顔が触れんばかりに牌を凝視する照は、人慣れしない野良猫を連想させた。

 数秒ほど続けたところで、照が、疑わしげな目を京太郎に向けた。

 

「嘘ついてない?」

「――い、いや、ホントだって。良く見りゃわかるだろ」

「……知らなかった」牌を摘んだ照が、首をかしげながら言った。「高さで牌を見分けるなんて、考えたこともなかったから」

「ガン牌って、手牌透けるレベルじゃねーとほとんど意味ねーからなア」京太郎は苦笑した。

 

 そこからは、比較的滑らかに会話がすすんだ。閉館を報じるチャイムが鳴り始めると、コートを着込み始める照に合わせて、京太郎も帰り支度を整える。といっても、かれは基本的に教材を家に持ち帰らないため、荷物は体操着の入った鞄だけである。他方照はきちんと使い込まれたランドセルを背負っていて、京太郎はそのアンバランスな組み合わせに吹き出した。

 

「なにかおかしい?」照が言った。

「なにもおかしくない」京太郎は笑いながら答えた。

 

 公民館の職員に暖かい飲み物を手渡された二人は外に出て、染み入るような寒さに首をすくめた。どこか遠くで、『遠き山に日は落ちて』のメロディが鳴っていた。冬の黄昏はごく短く、見渡す景色はすっかり夜である。雪でも降りそうなほど、その日の風は冷たかった。

 照などはコートだけでなく、手袋、マフラー、イヤーマフまで揃えた完全装備である。冬らしい装いは手袋程度しかない京太郎を見て、そんな彼女は眉を顰めた。

 

「寒そう。見てるだけで寒い」

「寒いけど、寒いだけだからな」京太郎は飄々と答えた。実際は相当堪える寒風であるが、かれは見栄っ張りである。

 

 照は少し思案して、

 

「マフラー貸してあげる」

 

 と、言ってきた。

 

「おお」ちょうど、暖かそうだな、と思っていた京太郎は、断ることを思いつきもせず、そのマフラーを受け取った。

「その代わりにお願いがある」と、照は心なしか言いにくそうに呟いた。

「金ならねーぞ」

 

 照は首を振って、こう言った。

 

「くらくてこわいから、一緒に帰って欲しい」

 

 目を瞬いた京太郎は、もう一度あたりを見回して、それはそうだと納得した。

 

 会話が得手とはいえない二人である。帰路で会話が弾むようなことはなかった。訥々と、切れ端のような言葉を交し合って、記憶にも留まらないような時間を過ごした。少なくとも照にとっては、同道者が異なるだけの、いつもの道のりだったはずである。

 京太郎にとっては、少し違った。かれはどうにかして、照ともう一度卓を囲みたいと考えていた。であれば、素直に打ちたいと言えばいい。それで白黒は着く。いつもの京太郎ならそうしたはずである。しかし、どういうわけか、かれの喉から簡潔な言葉が出ることはなかった。

 結局かれは、照の自宅にたどり着く前に、マフラーの借用を延長することにして、週末に返す約束を取り付けた。

 照は素直に頷いて、

 

「ありがとう、京太郎。――それじゃあ、またね」

 

 薄っすら笑うと、家の灯りに飛び込んでいった。

 照の笑顔は、自然極まりなかった。しかしだからこそ、明らかに作ったものだと京太郎にはわかった。

 それは彼女なりの気遣いに基づく作為で、不快を覚えるようなものではない。

 けれども、何かが京太郎の胸に詰まった。

 一頻り首を傾げると、マフラーを少しきつく巻きなおして、京太郎もまた家路に着く。

 

(名前――)

 

 と、かれは思った。

 

(覚えてたのか)

 

 空を見た。冬の夜気は酷く透明で、例年のことながら、星が鮮明に観測できる。北極星(ポラリス)の瞬きを口を開けて眺める京太郎は、鼻をつく甘い香りに、今さら気づいて眉根を寄せる。

 

 それが照のにおいだと気づくと、不思議と顔が熱くなった。

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・須賀邸/ 09:20

 

 

 翌日に照との約束を控え、京太郎は面子集めに腐心していた。

 特に照に断りを入れてはいないが、当日京太郎は、彼女と麻雀を打つ心算である。そのついでにマフラーを返却する。となれば面子を集めなければならない。ただ打つだけであれば級友でもよいのだが、叶うならば強い打ち手で卓を囲みたいとおもう京太郎である。

 そうなると候補は限られて、かれが頼るのは池田華菜か花田煌となる。池田は当然として、花田も実は、近在の小中学生ではトップレベルの打ち手であった。

 しかし、

 

『悪い。日曜は先約ありだ』

『あー、すみません、わたし丁度、日曜に友達のお誕生日会がありまして……土曜日だったら大丈夫なんですがっ』

 

 折悪しく、二人の都合がつかない。次善の策として石戸月子に渡りをつけたが(彼女は週末は大体京太郎の家にいるので、改めて誘うまでもなかった)、もう一人が如何ともしがたい。この際初対面でも構わないと、京太郎は顔の広そうな池田へ心当たりを尋ねた。

 

『あたしも別にそっちが地元ってわけじゃないからなァ』と、池田は言った。『顔見知りってくらいなら、染谷まことか井上純とか……あ、でも連絡先知らないし』

 

 嘆息する京太郎である。面子とは不思議なもので、立つときは連日立つものだが、合わないときは全く合わない。

 

「ウチの父さん所に出入りしている人でよければ都合つくかも」

 

 と、提案したのは月子だった。今日も今日とて我が物顔で須賀邸に居座る彼女は、台所で朝食を作っている。違和感しかない光景だが、最近は京太郎も慣れてしまった。片道四〇分の距離をものともしない月子に、尊敬の念すら覚えている。

 

「でも、それ大人だろう。おれたち(子供)に混じって打ってくれるかな」

「子供好きって言ってたから大丈夫だと思うけど――ちなみにむかし、インターハイに出たらしいわ」

「へえ」

「でも東京行ってAV女優になっちゃって、それでも食べられなくなったからこっち戻ってきたんですって。お近づきのしるしにその人が出演してるDVD、もらったのよ。いいでしょう」

「べつに」

「ちなみにタイトルは、『パイのおねぇさん~カンチャンずっぽし~』。瑞原はやりにはあんまり似てないけどね、さすがに美人よ」

「きいてねーから。あと、そのひとには声掛けなくていいから」

「なぜ」

「小学生にAV渡すような大人は、ちょっとな」自分が小学生であることを棚に上げて、京太郎は正論を吐いた。

「じゃあどうするのよ。打ちたいんでしょう、その人と」

「そうだなァ」京太郎は宙を見つめた。「この際、探しに行ってみるか。――花田さんトコの教室なら、たしか、今日開いてただろ」

「そうね――」

 

 台所から香る甘い匂いに釣られた京太郎が月子の手元を覗くと、ちょうどフレンチトーストが四切れほど出来上がったところだった。続いて月子は、冷蔵庫に余らせていた玉ねぎとにんじんを不ぞろいな形でみじん切りにする。刻み終えた野菜とグリーンピース、スイートコーンは溶いた卵に絡められて、フライパンの上で手早く炒められた。

 

「麻雀は頭脳労働だから、糖分は取らなくちゃね」

「砂糖でも舐めればいいじゃねーか」

「須賀くんは女の子にモテなさそうねえ」

 

 月子は呆れたように呟いて、皿に野菜炒めを移した。

 

「せっかくだから、花田さんのところで食べるお弁当も作りましょうか」

「任せるよ」

「はいはい――」

 

 はたと手を止めて、月子はなんともいえない顔になった。

 

「どうした?」

「――なんだかわたし、須賀くんのお母さんみたいじゃない?」

「気のせいだろ」

 

 言って、京太郎は冷蔵庫からミネラルウォータのペットボトルを取り出した。

 月子は腑に落ちない表情で、しきりに首を捻っている。

 

 ――石戸月子という少女は、他人と自分の間に深くて越え難い一線を引いている。

 

 縁を持って数ヶ月になる京太郎は、月子の対人関係の処方を知った。彼女は基本的に人を嫌っている。触れ合いともなれば忌避しているといってもよい。その反応はほとんどアレルギー的で、月子の言によれば『体質の問題』らしかった。

 初対面からは想像がつかないほど月子と親密になった花田や池田もその例外ではない。月子は他人との物理的な接触を極力避けている。

 その例外が京太郎なのだと打ち明けられたのは夏休みの終盤だったが、以来今に至るも月子の『体質』が改善された気配はない。恐らく永遠に快癒はしないと月子は語った。嘘にしては告白する月子の表情は恬淡としていて、口ぶりにはきっぱりとした断念があった。一生を持ち越す覚悟などというものを京太郎は知らないが、月子の意思はそれに近いような気がした。

 京太郎は、月子との出会いのやり取りを思い返して、つい、

 

『――おれの身体があれば、どうにかなるのか』

 

 と、訊いた。月子は不機嫌そうな顔であれは冗談だといい、質問には答えなかった。京太郎は月子を気の毒に思い、力になりたいと思ったが、裏を返せば、かれが月子に向ける感情はそれだけだった。麻雀スクールでの敗戦から、月子は良い方向へ変わっている。生きるのにも難儀していた少女は、上手い立ち回り方を苦心して見出そうとしている。麻雀も人付き合いも停滞を嫌って、どこかへ進もうとしている。

 翻って京太郎は、この数ヶ月、麻雀をしているだけだ。そして、それ以外に何をする気にもなれない。自分が抱えている問題について、かれはここのところ殆どまともに考えることを止めていた。月子のように受け入れることも、誰かに打ち明けて相談する気にもなれなかった。

 京太郎は、本気で、

 

(麻雀だけを打って、そして死にたい)

 

 とまで考えている。一種の逃避である。かれは勝負の熱に浮かされ、遊戯に没頭していた。

 須賀京太郎は麻雀に取り付かれた。その奥深さや不条理さ、残酷さに魅入られた。

 ただし、かれ自身に目的はなかった。たとえば子供らしい夢――プロを目指すことはもちろん、『強くなる』ということさえ志向していない。かれはただ麻雀を打ち、打ち続けて、行き着くところまで行ければそれでよかった。際どい勝負、不利な勝負が本望だった。だから牌理を月子に学んでいるし、上達の手間を惜しむことはない。しかし勝利への欲がかれにあるかといえば、それは否である。

 麻雀には巧拙がある。強弱もある。そしてこの二つは、それぞれ次元が異なる尺度である。いまの京太郎は、あえて分類すれば『巧くて弱い』打ち手であろう(もちろん、実際的には技術もまだまだ拙い)。

 かれは、感覚的に自分に(ツキ)がないことを悟っている。霊感めいた話を持ち出すまでもなく、自信のない人間は勝負における勘所でしばしば後れを取りやすい。決断に迷いを残してしまうためである。

 

 こうした指摘を、京太郎はすでに月子の教師である春金清から受けていた。「好きにやればいいと思うけどさ」と断った上で、彼女は京太郎の上達に甲斐がないことを告げたのである。

 恐らくは変心を期待したのであろう忠告は、やはり京太郎に響かなかった。向上心は排他性に似たところがある。そして京太郎の持つ攻撃性は、全て自分に向いている。

 かれは変わろうとは思っていない。変化を待望することもない。かれは相変わらず消極的な自殺志願者でしかない。歪な自意識は今も世界からの拒絶を感得しているし、夜眠ることも未だに得意ではない。

 麻雀との出会いは少年を慰めたけれど、変えてはいない。

 

 ――今はまだ。

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 10:10

 

 

 見知らぬ学校には、異国に近い情趣がある。通いなれた校舎と似て非なる構造や、歳は近いのにまるで見覚えのない顔ぶれが、感覚をおかしな具合に錯綜させるのである。

 冬季ということもありグラウンドに人影は殆どなかったが、体育館では剣道の稽古が行われていた。竹刀が打ち合わされ、床を踏み鳴らす音がかすかに響いている。肩を並べて門を抜けた京太郎と月子は、校舎二階の窓で手を振る花田の姿を見つけた。

 

「おはようございます!」

「花田さんはいつも元気ね」勢い良く二人を迎えた花田へ、月子がひらひらと手を振った。

 

 仲良さげに挨拶を交わす花田と月子を見、京太郎は目を細めた。少女たちの語らいを尻目に、かれは教室内を見回す。室内に三つ置かれている卓の内、二つが埋まっている。責任者である講師は、どうやら席を外しているようだった。家庭用の全自動雀卓をわざわざ毎週小学校に持ち込む講師は、かつて実業団で鳴らしたという初老の男性である。この講師には以前春金も師事しており、花田が月子と卓を同じくした所以はそのあたりにあった。

 

 顔見知りがガールズトークに興じる間、京太郎は進行中の卓の戦況をざっと眺めた。一見して麻雀の実力がわかればそれほど楽なことはないが、現実的にはそうも行かない。結果どこを見るかというと、京太郎は姿勢や打ち方を見ることにしている。それで少なくとも打ち慣れているかどうかは察しがつくからだ。

 

(ここに来るのも初めてじゃないし、強いやつがいりゃアとっくに知ってるだろうけどさ――)

 

 窓際に位置取り、教室を概観する。空調の効いた室内は暖かく、冬の陽射しも思いのほか心地よく、京太郎の眠気を誘った。

 欠伸をかみ殺し、目じりを擦ろうとしたところで、左側からの強い視線を感じた。

 

(なんだか、図書館を思い出す絵面だな)

 

 と、思いながら京太郎が顔を向けると、そこに見知らぬ子供がいる。近い。咄嗟に背を逸らし、一歩後退した京太郎は、現れた子供の全体像を視界に収めた。背丈は低い。可愛らしい顔立ちをしているが、服装はパーカにジーンズという出で立ちのうえ髪型もどっちつかずの長さで、性別を判じかねる。大きな瞳は照とは異なり種々の感情に溢れていて、物怖じの無さは幼さと容姿から来る自負によるものと思われた。

 

「おまえ、見ない顔だな」

 

 というせりふを聞いて、

 

(女か)

 

 と、京太郎は思った。耳に捉えた声が、高く柔らかい質を持っていたからだ。

 

「ああ、ここの生徒じゃないからな、おれ」と、京太郎は答えた。「あそこの――花田サンの知り合いなんだ」

「……フーン」

 

 じろじろと遠慮の無い目で見回してくる少女である。

 

「おまえも麻雀打つのか?」

「うん」と、少女は頷いた。「始めたばっかりだけど――」

「へえ、おれもだよ。夏に始めたばっかりでさ」

「そうなのか!」と、急に少女が食いついた。「あ、じゃあじゃあ、――まだ、点数計算とかできない!?」

「それはないわ」京太郎は即答した。「まあ、別に点数計算出来ても強さには関係ねーけど」

「ぐっ。そのヨユーがイヤミっ」なにやら少女は傷ついたようだった。

 

「おや、もう仲良しさんですか? すばらですっ」と言いつつ会話に割り込んできたのは、月子と話を終えたらしい花田である。

 

「あの、いきなりなんだけど」と、京太郎は早速本題を切り出した。「明日、一人面子がほしいんだ。誰かいねーかな」

「ええ、電話の件ですよね」花田は心得ていると微笑んだ。「いますよ。すばらな人材が、ちょうど!」

「お、だれだれ」

「その子です」

 

 と、花田は京太郎の隣の少女を指差した。

 

「こいつ?」京太郎は不信感を露にした。「いま、自分で初心者って言ってたけど――いや、まあ、おれもだから人のことはいえねえけどさ」

「ま、そうなんですけど」花田は苦笑した。「でも、強いですよ。条件付なら、たぶんわたしよりも」

「へえ――そりゃすげえ」

 

 思わず感心して、京太郎はまじまじと少女を見詰めた。得意絶頂という風情の少女は、思い切り胸を反らしている。

 

「とはいえ、口でもいってもわからないですよね。――せっかくですし、試しに打ってみましょうか。ちょっと、びっくりすると思いますよ」

「それは願っても無いけど、そっちはいいのか?」自信満々な花田に圧されて、京太郎は少女へ問うた。

 

「わたしは一向にかまわない()()!」揚々と応じる少女である。

 

「そうか――じゃあ、よろしく。おれは須賀京太郎」手短に京太郎は名乗った。「そっちは石戸月子。で、おまえは?」

 

 大げさな見得を切って、少女はこたえた。

 

「人は、わたしを天才少女と呼ぶ――片岡優希とは、わたしのことだじょ!」

「片岡さん、早速だけれどその語尾イラつくから止めてくれない?」にこやかに月子が片岡を脅しに掛かった。

「ひい!」素早く京太郎の背後に避難する片岡である。「あ、あいつ――人殺しの目をしてるじぇ……!」

 

「とりあえず、決まったからにはさっさと打とうぜ」京太郎は素早く卓へ牌を広げ始めた。

「須賀くんホントいつもマイペースですね」花田が苦笑していた。

「時間は有限だし、人生は短いし、麻雀はなるべくたくさん打ちたいし」と、京太郎は言った。

「そうだ、須賀くん――」と花田がいたずらっぽく微笑んだ。「あの子、あんなんですけれども、あまり舐めないほうがいいですよ?」

 

「花田さんが強いっていうやつを、舐める気は無いよ」

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 10:30

 

 

 ルール:半荘戦

  持ち点 :25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)

  赤ドラ :なし

  喰い断 :あり

  後付け :あり

  喰い替え:なし

  ウマ  :なし

 

 起親(東家):片岡 優希

 南家    :石戸 月子

 西家    :花田 煌

 北家    :須賀 京太郎

 

 

 




2012/10/08:誤字修正
2013/02/18:牌画像変換


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2.たいようモード(後)

2.たいようモード(後)

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 10:30

 

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 【東家】片岡 優希 :25000

 【南家】石戸 月子 :25000

 【西家】花田 煌  :25000

 【北家】須賀 京太郎:25000

 

「飛ばしていくじぇ!」

 

 元気よく吼えた片岡が、たどたどしい手つきで理牌を始める。「むむっ」と難しい顔で摘んだ牌を河に置くすんでで、花田の「待った」が掛かった(既に手を伸ばしかけていた月子の動きが、そこで止まった)。

 

「第一自摸を忘れていますよ」と、花田がいった。

「――おおっ」と手を打った片岡は、照れくさそうに笑うと山から一枚、牌を自摸った。「危ない危ない、またチョンボするところだったじぇ」

「まあ、コレわたしもたまに忘れますからねぇ……」

 

 教室に配置された卓は、雀荘の回転率を劇的に向上させた配牌自動卓である。各座の手元にせり上がる配牌は13枚であるため、親も常に山から最初の一枚を自摸る必要がある。

 そそくさと手に牌を入れる片岡を横目にした月子が、

 

「あーあ、少牌させようと思ったのに」と、言った。

「このおねえさんさっきから怖いじぇ……」片岡が眉を下げる。

「大丈夫です。月子さんは怖くないですよ」と、花田が片岡に向けて微笑んだ。「優しくもないですが」

「スバラさんもいうようになったわねえ」

「花田ですけどー」花田は訂正して、「あのう……、ときどき思うんですが、素で間違ってないですよね?」

 

 軽口を叩き合う月子と花田は友人そのものである。人格に問題を多く抱える月子だが、池田華菜や花田煌と話すときばかりは年齢相応の少女にしか見えない。年上という自負のためか、自分に対しては嵩に掛かってくる彼女のそんな姿を見るのが、京太郎は嫌いではない。

 とはいえ、麻雀より好きなわけでもない。少女三人の藹々としたやり取りを視界の端に押し付けて、京太郎は配牌を眺める。

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 配牌

 京太郎:{一一二九②④⑦3889南西}

 

(七対子で四、手成りで五向聴――こいつはまた、ヒサンな並びだ)

 

 自摸の風向き次第では、和了を見切って守りを考慮してもよい牌姿である。ただこの日の京太郎には片岡優希の実力を見定めるという用向きがあった。

 

(打てて数回。それで何がわかるってわけでもねえだろうけど、とりあえず真っ直ぐいってみる)

 

 自分よりもよほど達者である花田の推薦を疑う心積もりはないが、初見の相手と囲む卓には独特の緊張感がある。その空気は京太郎の好む所である。

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 1巡目

 片岡:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{④}

 

 各人の視線に晒されて、片岡が劈頭に並べた牌は{⑤}(ドラ)傍の{④}であった。月子はつまらなげに河を一瞥すると、山へ手を伸ばす。音もなく牌を自摸る。指を素早く繰ったかと思うと、手の内でかすかに音が鳴る。そして、次の瞬間には河へ牌を置いている。

 教本に載せられるような小手返しである。

 彼女の右手は実に器用に牌を扱った。滑らかで、いかにも熟達しているといった風情の手つきだった。京太郎は密かにそんな仕草に憧れているが、真似をすると月子はとても嫌な顔をして怒り始めてしまう(「ただの手癖で、意味なんかないんだから、須賀くんは真似しないように」と京太郎に言い聞かせた)。

 

「それ、カッコいい!」

 

 片岡がわかりやすく目を輝かせる。態度に出さず京太郎も同意したが、片岡と同じ感性かと思うと、何とはなしに残念な心持になった。

 

「どうも」と、月子は素っ気無く応じる。彼女の目線は動かない。

 

 続けて花田の手番が回り、淀みなく摸打が行われた。不穏な起親の第一打からすれば、変哲の無い字牌が河に並ぶ。

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 1巡目

 京太郎:{一一二九②④⑦3889南西} ツモ:{西}

 

(縦――七対子までなら、あと三つ)

 

 {打:南}

 

 そして2巡目、片岡はまたも強い牌を切り落とした。

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 2巡目

 片岡:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{⑥}

 

 手出しである。愚形とはいえ、十分両面への変化があり得る嵌{⑤}(ドラ)の塔子を払った。常道であれば相当な手が入っていると見るべきだが、片岡は見るからに自らの道を行くタイプの打ち手である。予断は保留することにして、京太郎は他家の目線を伺った。

 

 月子は、どうやら見に徹する心積もりのようだった。もっともこれは牌姿があまりよくない時点で、京太郎にも察しがついている。月子が()()()であれば、既に何らかの仕掛けが行われているはずである。

 花田は、よくわからない。彼女の打ち筋は素直で堅実である。ただし時折異常としか思えない打ち回しをすることもある。まさか後輩に花を持たせる心算とも思えないので、目下のところ、京太郎にとっては最も警戒に値する対手といえる。

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 2巡目

 京太郎:{一一二九②④⑦3889西西} ツモ:{6}

 

 打:{9}

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 3巡目

 片岡:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{九萬}

 

({④⑥}のあと、これも手出しで{九萬}……)

 

 京太郎は、項のあたりに熱を感じる。夏からこちら積み上げた浅い経験が、それでも警鐘を鳴らしていた。

 

(そろそろ来るな)

 

 と、かれは思う。確信に近い予想である。自分の勘が鋭いとは思っていない京太郎だが、この種の予想をかれが外すことはあまりない。ほとんどないといってもいいかもしれない。

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 3巡目

 京太郎:{一一二九②④⑦3688西西} ツモ:{七}

 

(――)

 

 打:{6}

 

 下家の気配に全注意を傾けながら、京太郎は打{6}とした。親の安牌を温存しつつ、七対子の決め打ちである。見切りがやや早く、払うならば{3}からがセオリーだが、片岡の反応を釣るのが目的であった。

 片岡は河に打たれた{6}へ一瞬目をやったかと思うと、興味なさげに手元へ視線を戻した。手が早々に山へ伸びる。

 

(ここじゃないか)

 

 彼女が素直な性格であることを、京太郎は現時点では疑っていない(ここまでの言動が全て演技であれば、どの道京太郎の手に負えない人間だ)。いまは少しでも片岡に関する情報が欲しい京太郎は、あえて捩れた打牌を選択した。が、

 

「……」

 

 対面の月子が、凄まじく不機嫌そうな顔で京太郎を凝視していた。つまらない小細工をするなと、その大きな瞳が克明に語っている。何かというと裏をかいたり出和了を引き出そうとする京太郎の癖を、月子はしばしば咎めた。どうも彼女は面前で自摸和了できない鬱屈を京太郎に投影している節があって、呪文のように「両面作って立直して自摸りなさい」と繰り返し京太郎に囁いてくる。

 

(しらん)

 

 京太郎はそ知らぬ顔で、月子の怒りを受け流した。彼女の主張の正当性はわかっているが、それも時と場合による。

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 4巡目

 片岡:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{5}

 

 一際強く、片岡が打ったのは{5}である。自摸切りだった。一向聴か聴牌と、京太郎は見た。

 高目か好形への変化が手広い場合を除き、巡目が浅く先行聴牌であれば愚形だろうがとりあえず立直せよ、とはやはり月子の教えである。この明解で有効な戦術を、花田が片岡に伝えていないとも思えない。だがそれを片岡がどれだけ実践するかは計れない。論理が枠を作る。いくつかピースも示されている。しかし足りない欠片は多々存在する。真実という図面の、肝心な部分を埋めるのは経験と感性である。

 その確度を、人は指して博才と呼ぶ。

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 4巡目

 京太郎:{一一二七九②④⑦388西西} ツモ:{②}

 

(あと三つ)

 

 打:{3}

 

 京太郎が向聴を進めた直後、とうとう片岡が動きを見せた。

 

「――立直だじぇ!」

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 5巡目

 片岡:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 {打:南}

 

 河:{④⑥九5横南}

 

(――{南}?)

 

 さすがに目を白黒させて、京太郎は口元を歪めた。打ち出されたのは一枚切れの{南}で、間違いなく手出しだった。速度と河から浮かぶのは七対子やチャンタ系の変則手だが、

 

(さっぱりわかんねえ。国士じゃねえだろうな)

 

 ちらと過ぎった推測が思考を占めかけるのを感じて、京太郎は頭を振った。可能性を考慮はするが、敵を大きくしてかれに利することはない。

 月子、花田は、穏当に安全牌を打った。オリ切るには巡目が浅く、勝負に出る時宜を選ぶ必要がある。

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)}

 5巡目

 京太郎:{一一二七九②②④⑦88西西} ツモ:{東}

 

 打:{九萬}

 

 迷う余地はなかった。このタイミングで()()()()()親の連風牌は不穏すぎる。頭を下げて、暴風の過ぎるのを待つしかない――

 

 と思った矢先に、片岡が喜色満面の声を上げた。

 

「ツモだじぇー!」

 

 東一局 ドラ:{⑤(ドラ表示牌:④)} 裏ドラ:{東}(裏ドラ表示牌:(北})

 6巡目

 片岡:{五六七⑤⑤⑨⑨⑨123東東} ツモ:{⑤}

 

「立直一発自摸ドラドラドラ、ウラウラ……えーっと」片岡はにこにこしながら指を折って、花田を伺った。「ろ、6000オール……?」

「いえ、8000オールですね……」花田が切ない顔で点棒を取り出した。

「役無しで親倍とか」月子はうんざりした風情だった。「しかもドラとダブ東のクソ待ちいっぱつツモとか!」

「点棒いっぱいだじぇー!」

 

「……」

 

 浮かれる片岡へ黙って点棒を供出すると、京太郎はひとり、抑えた{東}を眺めた。

 

 東一局

 【東家】片岡 優希 :25000→49000(+24000)

 【南家】石戸 月子 :25000→17000(- 8000)

 【西家】花田 煌  :25000→17000(- 8000)

 【北家】須賀 京太郎:25000→17000(- 8000)

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 10:33

 

 

 開始三分で大きなイニシアティブを得た片岡は、一本場も止まる気配を見せなかった。7巡目に花田が打った立直に対して三連続無筋を被せて、11巡目に自らも追っかけ立直に走る。後退の二文字が存在しない摸打は、運が続く限り小細工などものともせずに走ってしまう。案の定、次々巡に片岡は自摸和了を決めて見せた。

 

「4100オール! だじぇ!」

 

 東一局一本場

 【東家】片岡 優希 :49000→62300(+ 1000、+12300)

 【南家】石戸 月子 :17000→12900(- 4100)

 【西家】花田 煌  :17000→11900(- 1000、-4100)

 【北家】須賀 京太郎:17000→12900(- 4100)

 

(ただのバカヅキにしか見えない――んだけど)

 

 心もとなくなっていく手元の点棒を数えながら、京太郎は片岡ではなく、むしろ花田の様子を伺った。追いつかれた挙句の自摸被りにさすがに悄気てはいるが、好調と思しき片岡に一言掛ける様子もない。日常的な展開として、この大量リードを受け入れているようだった。

 京太郎の胸裏に疑心が湧いた。

 

(そこまで強いのか、こいつが?)

 

 見る限り初心者でしかない片岡が、偶さかではなく常にこんな強さを誇っている。京太郎はそんな想像をしてみる。()()()()()とかれは根拠もなく己の思考に反駁した。身近なところでは花田や池田や月子、そして照――他幾人か知っているかれが「格上」と分類する打ち手たちと、いまの片岡が伍するとはとても思えない。

 

(あれ)

 

 わかりやすい反発心が鎌首をもたげるのを悟って、京太郎は軽い戸惑いを覚えた。片岡が強いことは、かれに不都合を与えない。強い打ち手と神経を焦がすような勝負をすることが、かれの何よりの望みである。

 そのはずだったが、かれはいま、確かに、

 

(面白くない)

 

 と、感じていた。

 新鮮な感情の動きに、京太郎は蒙が啓かれた気持ちになった。その情動の由来をかれは探った。理由にはすぐに突き当たった。嫉妬だ、とかれは思った。

 

 快調に二本場へ臨む片岡を、京太郎は思わず見つめた。

 

(まじか。おれが、こいつに――()()が!)

 

「ん?」

 

 視線に気づいた片岡が、フフンと、得意げに笑う。勝ち誇っている。小憎らしい顔である。

 京太郎はうれしくなって、思わず笑ってしまう。

 

(なんだ、こいつ。むかつくなァ――)

 

 初心者であったかれが麻雀を学ぶ環境の必然として、周囲の打ち手は皆一日の長があるものばかりだった。信州麻雀スクールで知己を得た月子を始めとする少女たちもそうだし、クラスメートも同様だった。時折目にする初心者は大概年下で、同い年、似た立ち位置で麻雀に取り組んでいる人間は、思えば片岡が始めてなのである。

 そして、かれが嫉妬を覚えた人間も、恐らく片岡が初だった。御せない感情は、京太郎にとって必要以上に鮮やかに感じられた。麻雀がどれほど根深く自分の精神に刺さったのかを、かれは改めて思い知る。

 胸に兆した情動を持て余しながら、かれはようよう、手牌へ目を落とした。

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 配牌

 京太郎:{一一三三四六八九①④8北北}

 

 呼吸を調える。思考はクリアになる。感情は片岡を強く意識している。やられるがままの月子と花田に身勝手な憤りも覚えている。

 そんな京太郎の意気や感想を置き去りにして、対局は進む。

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 10:38

 

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 1巡目

 京太郎:{一一三三四六八九  ()④8北北} ツモ:{東}

 

 打:{①}

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 2巡目

 京太郎:{一一三三四六八九④  ()東北北} ツモ:{南}

 

 打:{8}

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 3巡目

 京太郎:{一一三三四六八九  ()東南北北} ツモ:{八}

 

 打:{④}

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 4巡目

 京太郎:{一一三三四六八八九東南北北} ツモ:{⑤}

 

 打:{⑤}

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 5巡目

 京太郎:{一一三三四六八八九東  ()北北} ツモ:{七}

 

 {打:南}

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 10:40

 

 

 急所が埋まる。萬子が自然に寄っていく。東一局0本場、成就しなかった七対子を京太郎は想起する。

 だが不穏さもかれは嗅ぎ取っている。同じ卓に好調者は並立しない。必ずどちらかが上だし、どちらかが下だ。そして片岡は既に実績で自らの調子を示している。一方で、いまのところ京太郎は常に後手に回っている(そもそも片岡以外の三名は焼き鳥である)。

 

(半ヅキのときこそ不調のしるし――っていったっけか)

 

 格付けは、京太郎も望むところだった。この局面で片岡を狙わない手はない。いまは東一局――東風戦ならいざ知らず、配牌は残り最低七度与えられる。親番さえ二度残っている状況で、トップ目を避ける理由はない。

 片岡優希がこの局面に望む展開もまた、散家との真っ向勝負のはずである。不測の事態を起こす可能性は、誰かのハコをカラにすることで摘み取れる。

 

(このまま一人旅にはさせねえぞ)

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 6巡目

 京太郎:{一一三三四六七八八九 ()北北} ツモ:{白}

 

 {打:東}

 

「――ポン」

 

 動いたのは石戸月子だった。

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 10:40

 

 

 見に徹する心算が、あまりに好き勝手に打たれて、月子はあっけなく我慢を放棄した。年長を気取ったところで彼女の負けず嫌いが希釈されるわけではない。相手が片岡のような初心者ともなれば尚更である。

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 7巡目

 月子:{一二三三②③④⑥南西西} ポン:{東横東東}

 

 {打:南}

 

 花田が「強い」と評した片岡については、月子はおおよそ見極めを終えていた。片岡は月子にとって半分だけ『同類』だった。おまけに知り合いの少女(南浦数絵)に良く似た性質を持っている。単純だが、それだけに侮りがたい相手であることはすぐにわかった。

 なるほど確かに、片岡優希は強い。

 ただし片岡は南浦よりも、幾らか融通の利かない体質のようだった。単純に経験不足か、それとも自覚の薄さゆえか、片岡の好態勢は押せば崩れる均衡のうえに立っている。

 

(まあ、だからって五万点差を押し返せるかは微妙だけど――とりあえず親は流す)

 

 と、姿勢を決しかけたところで、月子はふだんと様子が違う京太郎に気づいた。

 

(おや、須賀くんの様子が……)

 

 勝負の勘所に差し掛かるまでは今ひとつ火の付が遅い京太郎が、どことなく愉しげな顔で場を見据えている。基本的に表情を変えずに打っているかれに見慣れている月子は、少しばかり驚いた。

 

(なんかよくわからないけど、須賀くんが燃えている)

 

 一瞬黙考した彼女は、

 

(お手並み拝見)

 

 とりあえずこの場はかれの動向を見守ることを選択した。

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 10:40 

 

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 7巡目

 京太郎:{一一三三四六七八八九白北北} ツモ:{7}

 

 打:{7}

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 8巡目

 京太郎:{一一三三四六七八八九 ()北北} ツモ:{五}

 

 {打:白}

 

(あと――ひとつ)

 

 望外の{五萬}を引き入れて、京太郎は{白}を落とした。{一二三七北}引きで聴牌だが、いずれも愚形である。更にこの巡目で{八萬}(ドラ)を落とすのも抵抗がある。

 とはいえ、引けば勝負だ。日和る打点や場況ではない。

 

(さっきから見てるけど、片岡(こいつ)の頭にオリはない。河さえほとんど見ていない。ひたすら真っ直ぐ、アガりだけ見てる。そりゃァ、ハマれば強いよ。引けるやつが強いんだ。おまえは強いのかもしれない。それが麻雀だ。でも――)

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 9巡目

 京太郎:{一一 ()三四五六七八八九北北} ツモ:{七}

 

 打:{三萬}

 

「立直」

 

 京太郎

 河:{①8④⑤南( 東 )}

   {7白横三}

 

(引き続けるやつはいない。勝ち続けるやつもいない。それが絶対だ。()()()()がどんなルールを持ち込んでも、そこは枉がらないし――枉げさせない)

 

「うっ」

 

 果たして片岡は、そこで初めて、摸打にためらう素振りを見せた。

 順調だった自摸に、陰りが見えたのかもしれない。流石に旗色悪しを悟ったのかもしれない。だが目一杯に手を広げて、面子を落とす決断でもできずにいる。京太郎は彼女の心理が手に取るようにわかる。

 

 {一萬}も{北}も、()()()()()、とかれは思う。

 

 待ちは双ポン――だが、字牌に老頭の形である。黙聴(ダマ)でも満貫で、{北}が刺されば跳満に届く。無理に立直を掛ける必要はなかったかもしれない。しかし、片岡から出和了を釣るためには必要な立直だった。

 月子や花田は勝負手以外であれば、京太郎の立直に当たり牌({一萬}{北})は死んでも切らないだろうが、この卓で片岡だけは、京太郎へ放銃する可能性がある。だからこそ京太郎は安心して立直を掛けた。

 そしてかれは、片岡がいずれかを打つと感じた。それは洞察や理論を超越した直感で、いってしまえば都合の良い空想でしかない。かれもそれは心得ている。

 けれども、何かを賭すとはつまりそういうことだった。

 都合の良い空想の実現に身を擲つ。

 いずれ来る破滅を、刹那の判断で先延ばしにする。瞬間の決断に全てを預けた先に、痺れるような快感がある。

 

「う――」片岡が苦吟する。ゆったりと山から牌を自摸る。その顔色がやや晴れる。「こ、これなら大丈夫だじょ――」

 

 東一局二本場 ドラ:{八(ドラ表示牌:七)}

 9巡目

 片岡:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 {打:北}

 

「ロン」

 

 間髪入れずに、京太郎は牌を倒した。

 

「一発で高めなら、16600だ」

 

 東一局二本場

 【東家】片岡 優希 :62300→45700(-16600)

 【南家】石戸 月子 :12900

 【西家】花田 煌  :11900

 【北家】須賀 京太郎:12900→29500(+16600)

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 10:45

 

 

 東二局 ドラ:{發(ドラ表示牌:白)}

 【北家】片岡 優希 :45700

 【東家】石戸 月子 :12900

 【南家】花田 煌  :11900

 【西家】須賀 京太郎:29500

 

 数秒、判りやすく落ち込んだ片岡は、しかし次局が始まるころには持ち直していた。倍満を振り込んだとはいえ、未だ持ち点のリードは圧倒的である。追われる苦しさはあるものの、麻雀は基本的に先行者が有利な遊戯だ。オリ切る技術も場を流す技術も身につけていないのであれば、姿勢を変えずに攻めるのは正しい。

 だからこそ、ここで頭を抑えつけることに意義がある。京太郎は片岡を追う。わき目も振らずに真っ直ぐと、

 

「ロン」

 

 ――行こうとした矢先に、月子に刺さった。

 

 東二局 ドラ:{發(ドラ表示牌:白)}

 3巡目

 月子:{二三四⑥⑦⑧34發發} ポン:{横白白白}

 

 ロン:{2}

 

「――5800」

 

(は!?)

 

 東二局 ドラ:{發(ドラ表示牌:白)}

 【北家】片岡 優希 :45700

 【東家】石戸 月子 :12900→18700(+ 5800)

 【南家】花田 煌  :11900

 【西家】須賀 京太郎:29500→23700(- 5800)

 

「どうも忘れてたようだから、教えてあげる」と、月子は呆れ混じりにいった。「麻雀って、四人でするゲームよ須賀くん。――あなた下手なんだから、下手なりに周りに目を配るところはわたし、イイと思ってるの。でも今のは全然駄目ね、無防備すぎ。どこの無防備マンかと思ったわ」

「バカ言え」と京太郎は反論した。「3巡目の聴牌なんかわかんねーよ」

「ならそのままラスでも何でも引きなさい」月子は冷たく言い放った。「あと、さっきの倍満も、結果和了れたからいいけれど――あなた、手に惚れてたでしょう。場を全然見てなかった」

「それは」思い当たる節があった京太郎は、素直に頷いた。「――そうだな。気をつける」

「やーい」片岡が月子の尻馬に乗った。

「片岡さんも東場終わったらひどいことしてあげるからよろしくね!」

「――じょ!?」

 

「スパルタですねえ」花田がのんびりと感想を述べた。「愛を感じます……すばらっ」

「そんなもの持ち合わせていません」きっぱりと月子はいった。「ていうか、今日こそ花田さんに勝つわ!」

 

 実は、月子と花田の直対では、月子の勝率は四割を割っている。数値だけを取れば、月子は池田華菜より花田を苦手としているのである。生真面目にも人毎に収支表をつけている月子は、ことあるごとに京太郎へ対花田戦術を開陳しているが、目下のところ実を結んでいないようだった。

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 10:50

 

 

 東二局の動静は、総合的に見れば片岡と京太郎の持ち点が分配された形になった。

 一本場、月子はドラの隠れ暗刻を含んだ満貫手で片岡から直撃をもぎ取った。

 

 東二局一本場

 【北家】片岡 優希 :45700→33400(-12300)

 【東家】石戸 月子 :18700→31000(+12300)

 【南家】花田 煌  :11900

 【西家】須賀 京太郎:23700

 

 ――しかし、続く二本場で、月子は花田に黙跳満を放銃した。

 

 東二局二本場

 【北家】片岡 優希 :33400

 【東家】石戸 月子 :31000→18400(-12600)

 【南家】花田 煌  :11900→24500(+12600)

 【西家】須賀 京太郎:23700

 

 片岡から月子が奪った点棒は、左から右へ移動したわけである。

 

「は!?」月子はあからさまに悔しがった。「ツモり四暗刻ならツモりなさいよ! 出和了しないでよ! ていうかせめて立直かけなさいよ!」

「そういわれましても」花田は笑って抗議を受け流した。

 

「テンションたかいおねーさんだじぇ」片岡がぼんやりと年上女子二人のやり取りを眺めていった。

「会ったころはそうでもなかった」京太郎は一応、フォローにならないフォローを入れた。「いや、どうだったかな……」

「そういえば――おまえ、男子のクセにあのおねーさんや花田せんぱいと知り合いなのか?」今さらな質問を投げる片岡である。

「そうだな。友達(ダチ)だよ」京太郎は頷いた。摸打をする動作をしながら付け加える。「麻雀(これ)で知り合った」

「ふゥん――」首を傾げる片岡は、よくわからないと言いたげだった。「ヘンなの。ガッコーの男子は、女子と遊んでたりすると男のクセに、って苛められたりしてるじょ」

「ああ、まあ、そういうこともあるかもな」

 

 彼女の言わんとするところは、京太郎にもわかる。かれらの年頃は、徐々に性の分化が兆し始めるころでもある。男女はそれぞれのコミュニティを築き、その境界を侵すものは攻撃を受けがちだ。なぜ男子が女子に混じって遊んでいるのかと、そうした趣旨の質問なのだろう。

 ある意味では、京太郎が身を置く環境は少しだけ特殊だった。学校においては未だその傾向が薄く、月子や花田は同世代より精神性が大人びており、池田はそもそも世界観が独特である。京太郎自身が同世代の性別に意味らしい意味を感じていないこともあって、片岡の言う性差を明確に意識したことはなかった。

 

「――みんな、どっかヘンだからなァ」

 

 そのとき、かれの脳裏には照の顔と声、そしてにおいが再生された。

 その意味を、京太郎は深く考えないようにした。

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 11:00

 

 

 東三局

 【西家】片岡 優希 :33400

 【北家】石戸 月子 :18400

 【東家】花田 煌  :24500

 【南家】須賀 京太郎:23700

 

 東三局は、再び月子の和了番となった。

 相変わらずの速攻で、花田から3900を奪い返した。

 場は更に平たくなって、片岡が掴みかけた勝機は完全に振り出しに戻っていた。

 

 東三局

 【西家】片岡 優希 :33400

 【北家】石戸 月子 :18400→22300(+ 3900)

 【東家】花田 煌  :24500→20600(- 3900)

 【南家】須賀 京太郎:23700

 

 迎えた東四局(トンラス)では、東一局からなりを潜めていた片岡が、再び爆発した。二鳴きしている月子と花田に対して、変わらぬ攻めの姿勢を貫き、立直から2巡後、満貫を自摸和了ったのである。

 

 東四局

 【南家】片岡 優希 :33400→41400(+ 8000)

 【西家】石戸 月子 :22300→20300(- 2000)

 【北家】花田 煌  :20600→18600(- 2000)

 【東家】須賀 京太郎:23700→19700(- 4000)

 

 チャンスの一つである親番を逃した京太郎は、むしろ腰を据えて対局に取り組んだ。劣勢からの挽回こそ、かれが勝負に求める刺激である。

 

 京太郎はトップをひた走る片岡に照準を向けて、南場に気持ちを入れ替えた。

 が――

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 11:14

 

 

 結論から言うと、南三局で片岡が飛んだ。

 南一で月子に満貫を振り込み(-8000)、南二、南三では連続して花田の跳満に刺さった(-12000、-18000)。

 そして南三局の一本場で止めの4200を放銃し、京太郎は南場ではほとんどゲームに参加せず、この半荘は終了を迎えた。

 

「おまえ、ふざけてないよな」と京太郎は半眼でいった。

「まったくな」大真面目に片岡はうなずいた。

「いつもこうなんですよ」花田は肩をすくめた。「東場は凄いのに」

「また負けた――ああ、また負けたあ!」月子がひとり、敗北をかみ締めていた。「なぜなの……」

 

 南三局一本場(終了)

 【西家】片岡 優希 :- 800

 【北家】石戸 月子 :28300

 【東家】花田 煌  :52800

 【南家】須賀 京太郎:19700

 

「気合入れて損した」京太郎は嘆息する。

「ぐぬぬ」片岡が怒りを露にした。「しょうがないんだじぇ。なんか、南場に入ると急にシューチューできなくなっちゃって……」

「そういうレベルじゃなかったと思う」

 

 南場の片岡は、一言では言い表せないほど酷いものだった。初心者からビギナーズラックを取り去ればこうなるという手本のような悪循環に陥り、立直に向かっては一発で振り込む装置になっていた。

 歯ごたえがないというどころではなく、京太郎は完全に消化不良の体である。好敵手と見定めた片岡がこの有様では、芽生えた感情も立ち消えにならないとも限らない。

 数秒沈思して、京太郎はこう提案した。

 

「――昼飯まではまだ時間あるし、東風戦やるか」

 

「ああっ」と花田が声を上げた。「だ、だめですっ、それはすばらくないっ!」

 

「ん?」と片岡が首をかしげた。「とんぷうせん……とんぷうせんとは?」

 

「東場だけで終わる麻雀だよ」と京太郎はいった。「やったことないか?」

 

 そのときのことを、片岡優希は後にこう語った。

 ――タコ麻雀が褒め言葉じゃないってしったときよりも驚いたじぇ。

 

「な、ないじょ。まったくないじょ――え、なに、マジで? そんな素敵ルールがあるのか!?」片岡の声は震えていた。エウレカ、と今にも言い出しそうなほど目を見開いている。「く、くわしく! くわしく教えるんだじぇ!」

「教えるも何も、そのままだろ。テレビで見たことないか? 東風戦フリースタイルとかさ。ほら、ルーマニアのエイミー・ペトレスクがこの前金メダル取ってたやつ――」

 

「ああ、楽を覚えさせないようにしていたのに……」花田がこっそりと肩を落とした。

「あなたもけっこうスパルタね」と、月子が呟く。「それにしても、半荘戦では片岡さんがヘボすぎて、逆に東風戦だと須賀くんが全く相手にならなくなると思うんだけれど、どうしましょうか」

「いやいや、東風で彼女の相手はふつうにわたしも無理ですよ」花田が苦笑した。

 

 その後、昼までに東風戦を二度打った。

 

 ――京太郎は、片岡の影も踏めずに負けた。

 

 

 ▽ 12月中旬(土曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 16:49

 

 

 夕日が稜線の影に落ちかけて、最後の残光を校庭に照射する。じきに休日の校舎を夜が(おとな)う。打ちつかれた少年少女が講師に礼をして、三々五々家路についていく。

 

「――今日も打ったなァ」

 

 と、大きく背伸びして、京太郎は満足げに呟いた。

 

「でも明日も打つんでしょう」そんなかれを横目に、月子は心得た口ぶりでいった。

「ま、明日が本番だからな」京太郎は頷く。「じゃァ、明日、頼むぞ優希」

「おおー」片岡が眠たげな様子で手を挙げた。「だいじょうぶだじぇ。たぶん――」

「ああ、ホラ、そんなにフラフラして」花田が心配げに片岡の身体を支えた。「あ、それじゃあお二人とも、明日はこの子のこと、よろしくお願いします」

「麻雀打つだけだから特によろしくすることもないわよ」月子は鼻を鳴らした。

 

 それでもよろしくお願いしますと繰り返して、花田と片岡は、別の帰路に向かった。

 その背を見送りながら、京太郎は、

 

「優希――アイツ、おまえと同じだろ」

 

 と、呟いた。

 

「同類ってほど近くは無いけれど、でも須賀くんからすれば似たようなものでしょうね」

 

 石戸月子は、以前、麻雀における打ち手について、以下のようなことを語った。

 

 河と自手牌――認知できる限りの領分における正着と、実質的な正着にはしばしばズレがある。対手の牌姿や残りの山、王牌の情報が伏せられている以上、受け入れ枚数は全局面の正解とはなりえない。しかし現実的に京太郎の目や直感は一足飛びに真実を掴むことはできないし、他に頼る術があるかといえばそれもない。打点の期待値と和了速度をはかりに掛け、あたうかぎりに失策を減らし、放銃を回避する。それが麻雀の巧拙に対するひとつの解である。

 

 数万回と対局を重ねれば、もっとも高い勝率をあげるのはそうした打ち手である、と月子は京太郎に語った。これを彼女は巧手と評した。

 ただしそれが達者の全てではないとも言い含めた。感性が論理を凌ぐ場面は間違いなくある。その時機を逃さず対手をコロすのが強者である。たとえば池田華菜は、その典型だった。強運と感性に理論を添えて、対手の心を折る術に長けている。

 そして、更に異なる次元に基準を置く打ち手もいる。月子自身や、月子が言うには南浦数絵もこの分類に当てはまる。

 

『厳密にいえば』と月子は語ったものだった。『わたしたちが打っているのは麻雀ではないのかもしれない。少なくとも須賀くんが打つ麻雀というゲームとわたしが打つ麻雀というゲームはちょっとばかり趣が違っているわ。――花田さんは、あれもちょっとよくわからないんだけど、彼女はそこまでではないかな』

 

 よくわからない、と京太郎は言った。

 

『わたしたちはルールを持っている。それを四角い卓の上に持ち込むことが出来る。()()()()すれば、もしくは()()()()なれば()()なる、というルールを布いている。それはジンクスに近いもので、はために見ればものすごくおかしな偶然でしかない。そして同じ卓にいるほかの人間にとって、もちろんそんなルールはただの理不尽でしかない。彼ら彼女らにとって、麻雀はそういうゲームではない。須賀くん、あなたがあの時気持ち悪いとかいったのは、たぶんこういう気持ちなんだと思うんだけれど、合ってる?』

 

 知らないしそれはおまえがそう思ってるだけで実際には偶然が続いているだけかも知れない、と京太郎は言った。

 

『そうね』と、月子はそのとき、否定はしなかった。

 

「最初に言われたときは、ぴんとこなかったけどさ」京太郎は過去を振り返りながら続けた。「南浦とか、おまえとか、優希と何回か打つあいだに、()()()()がわかったよ。たしかにありゃァ――堪ンねえな」

「まあ――わたしはこっち側だから、何か言うのも変かもしれないけれど」月子は言葉に迷った風だった。「わたしも、うんざりとしたことは何度かある。むしろ、何度もある。麻雀を続ける意味が、よくわからなくなったこともある」

 

「そうか?」と京太郎は首を捻った。「おれは、そんな感じはないな。厄介だし、手ごわいし、たぶん何百回とやれば完全に負けが込むんだろうけどさ、でも勝てないわけじゃない。だから楽しいよ。遣り甲斐がある」

「……須賀くんて、ほんと、かわってる」

 

 やわらかい口調で、月子が京太郎を評した。

 その表情は、半分だけの夜に紛れて、もう見えない。

 

「ずっと――その気持ちで麻雀を好きでいられると、いいね」

「うん」

 

 それから数分もしない内に、燃え盛る太陽は完全に地平の向こうへ没する。

 

 ――明日その陽が中天に昇るころ、京太郎は宮永照と、二度目の卓を囲む。

 

 




2013/2/18:牌画像変換


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3.ほうこうフール(前)

3.ほうこうフール(前)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・七久保/ 11:55

 

 

 京太郎が照と待ち合わせたのは昼前、場所はくだんの図書館だった。照は今日も温かそうな装いで、膝下までをすっぽりと覆う暖色のウールコートが、鮮やかな色合いのハイカット・スニーカーとよく馴染んでいた。眠たげなその瞳は図書館の門前で手を振る京太郎を捉えると、ほんのわずかに細められた。

 

「よう」と、京太郎はいった。

「おはよう」と、照はいった。

 

 借りたマフラーの返却は速やかに行われた。月子の助言に従いわざわざ菓子屋で購ったケーキを手渡すと、心なしか嬉しげに照は「ありがとう」といった。よかったら一緒に、という誘いを受けて、照と京太郎は図書館の談話室で一時を過ごした。

 京太郎はそこで彼女を麻雀に誘った。一方的にものを渡して頼みごとを断り難くするという手口だったが、照は葛藤する様子もなく二つ返事で了承した。ふたりは京太郎の先導の元、その日の場に向かった。

 

 晴れ間は見えるが、雲の多い空だった。相変わらず空気は冷え切り乾いて、風は頬をしびれさせる毒を含んでいるようだった。照はミトン型の手袋越しに耳を時折擦りながら、京太郎の取り留めない話に相槌を打ったり首を傾げたりした。彼女の視線を、京太郎は意味もなく追いかけた。陽に当たって溶けかけている霜柱や、河辺に茂る外縁を狐色に変じさせたセキショウや、踏みしだかれて色あせたイチョウの葉や、老人が連れた白い犬を共に眺めた。緩い歩調のなかで、時間の流れ方が酷く穏やかだと京太郎は感じた。

 

(おれは、このひとを、意識してる)

 

 と、京太郎は思った。

 かれは自分の感情をどう名付けるべきか、少しの間迷う。照に対する好感は確かにあった。それは初対面の日、卓を囲み、帰り道で頬を打たれた瞬間からかれの胸に根付いている。ただかれは自分が他人に対して恋情や慕情を抱けるとはとても思えなかったし、その資格がないとも考えていた。京太郎にとって、麻雀を介さないコミュニケーションは表層的な反射がこなす作業のようにすら思える(もちろんそれはかれの思い込みに過ぎず、かれが麻雀を通して得た経験とそれ以外の経験に客観的な優劣や多寡が存在するはずはない。かれもそうした理屈はわかっている。それが現実なのだと知っている。ただ実感だけが伴わない)。

 そんな人間が、いっぱしに他人を好きになったりするものだろうか? と京太郎は懐疑する。

 

「どうかした?」

 

 思考に内向して急に黙り込んだ京太郎を訝って、照がいった。

 京太郎は反射的に韜晦しようとして、やめた。留保や迂回をすることに何の意味があるとも思えなかった。ここでごまかしたところで、それはただ感情の損傷を厭うだけの逃避だとかれは考えた。

 だから、軽く浅い呼吸を挟んで、かれは思ったままを打ち明けた。

 

「もしかしたら、おれは、あんたのことが好きなのかもしれない」

 

 照が、ぽかんと口を開けた。

 

「あんたの顔を見ると、背筋をしゃんとさせなくちゃと思う」訥々と、京太郎は感情を仕分けるように語った。「その眼で見られると、こっちも眼をそらせなくなる。話しかけられればどんな言葉も聞き逃しちゃいけないような気がするし、あんたの()()()を嗅ぐと頭がぼうッとする。女子が誰それが好きだとか、どんなヤツが好みだとか、そんな話をしてるとき、おれの頭には、照さん、あんたの顔が浮かんでる。――だから、おれは、あんたのことが好きなのかもしれないと思った」

 

 照は口を開けたまま、意味もなく手を振ったり、コートのポケットを探ったり、髪形を整えたりした。応じかけて口を噤み、いもしない言葉のあて先を探して目線を左右させ、最終的に、

 

「え――――――うん」

 

 とだけ、彼女はいった。

 出会ったばかりの年下の少年から唐突に告白された小学生女子としてはありきたりでも、宮永照という人間としては相当に希少な反応だったが、羞恥と思考に意識の八割を割いている京太郎に照の表情を観察する余裕はなかった。

 

「でも」と、京太郎は続けた。「おれはひとを好きになったことはないし、これからもなるとは思ってなかったから、『それ』が『そう』なのかわからない。べつに何かをもらいたいわけでもねーんだ。強いて言うなら麻雀がしたいだけで、それが好いた惚れたとは違う話なのはおれにもわかる。ただ、いま言うべきだって、なんとなく思った」

「そう……」

 

 頷いた照は、それきりしばらく、物思いに沈んだ。

 京太郎は胸の鼓動が激しく打たれるのを、一方で朦朧と、一方で冷静に受け止める。前者のかれは歳相応の少年である。世間知が足りず、感情に率直で、愛され方を覚えないままに育ちつつある、どこにでもいる子供だった。後者のかれは世を拗ね斜に構える少年である。あらゆる物事に価値と意味を見出せず、自分を含めた世界の全てを俯瞰できる心算になっている。

 

 会話が途絶えても、京太郎と照が感得する時間の相対的な速度に変化はなかった。渡る寒風に首をすくめ、陽射しの暖かさに救われる。着々と目的地の小学校へ二人は進み、幼い二人の歩幅のぶん、きっかりと距離は縮む。

 校舎のシルエットが見えた頃だった。見計らったように、唐突に照が、

 

「ありがとう」

 

 と、いった。

 黙考のすえに吐き出された言葉にしてはずいぶんと味気なく、簡素で、何より肝心な要素が欠け落ちていた。ものごとから要点だけを抽出しようとして、そのために付随する色々なものを削ぎ落とし、結果必要な部分まで除いてしまったような具合だった。

 

「お、おお」

 

 京太郎は目を瞬きながらとりあえず照の礼を受け取った。先ほどの話題を蒸し返そうとはかれも思っていない。好意を伝えたところで、その先の展望などありはしないのだ。差し当たりかれが照に望むことは、やはり麻雀しかない。照に触れたり、時間を共有したり、喜ばせたいといった欲求はそこに含まれない。

 そして麻雀の時間はすぐそこまで迫っている。京太郎の脳裏から他の全ては薄れてしまう。存在がなくなるわけではない。ただ焦点が合わなくなるだけだ。

 

 ――宮永照はそうではない。卓につき牌を握ったとき、彼女は少女ではなく『宮永照』になる。彼女自身に変化が訪れるわけではない。ただ周囲は否応なく気づかされる。そこに座る存在が()()()()だと思い知らされる。

 

 誰かは、()()()()を称して魔物と呼んだ。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:13

 

 

 まずはじめに片岡優希が(くさめ)をした。鼻を擦りながら彼女は「急に寒くなったじぇ」と呟いた。次に()()に気づいたのは石戸月子だった。月子は須賀京太郎がご執心の少女を一目見てやろうと、窓から身を乗り出し校門を踏み越えやってくる少年少女を視界に捉えた。まず京太郎を見た。少年はいつもどおりこの世の全てに興味が無いという顔をしていた(仏頂面が崩れて時たま見えるかれの笑顔が、月子は嫌いではない)。次に、かれの後ろについて歩く少女を見た。

 

 次の瞬間、吐気が月子を襲った。

 

 遠慮呵責のない悪寒だった。見えない手が内臓を直接鷲掴みにした。月子は思わず桟から身を離す。背筋の温度が急激に下がり、一時的に思考が軽い恐慌状態に陥った。

 

「なにあれ」と彼女は呟いた。「あんなのだなんて聞いてない。なに、あれ――」

 

 一度ならず馴染んだ感覚だったせいもあり、比較的素早く彼女は解けた思考をまとめた。それから今日、自分と片岡、そして京太郎が『あれ』と打つという事実に思い当たった。

 

(――冗談じゃない)

 

 と、彼女は思った。意味がない。『あれ』と打って益することなど何もない。片岡はまだしも、とりわけ京太郎にとって、『あれ』は害毒でしかない。かれが『あれ』と打ち交わすことで学べることなど一つしかない。

 そしてそれは、京太郎が学ぶ必要のないことだ。

 

「あの――莫迦!」

 

 京太郎への悪態を吐き捨て、月子は唾液と共にえずきを飲み下す。身を翻して大股で教室を飛び出し、廊下を駆け抜け、三段飛ばしで階段を下りる。余勢を駆って上履きのまま校舎外に駆け出すと、息ひとつ乱さず京太郎と『あれ』の前に立った。

 

「月子?」

 

 京太郎が軽く驚いたように顔を上げていた。後方の少女の様子に変化はない。一見、どこにでもいる可愛らしい少女だった。無表情さえ何とかすれば、ローティーン向けのファッション雑誌にいても可笑しくない風貌である。けれども彼女が発する存在感は、ある種の人間にとっては到底許容しがたいものだった。表情も感情も運勢も知覚できる距離にまで近づいて、月子は確信を深める。須賀京太郎とその少女の組み合わせは、途轍もない違和感を月子に与えた。

 

「石戸月子です」と月子は名乗った。

「宮永照」と少女が応じた。

 

 何気なく向いた照の双眸に、月子は視線を合わせる。それだけで月子は居心地が悪くなり、心が波立つのを感じた。照の瞳は、何もかもを見透かしているようだった。世の人々が言葉を尽くし努力を尽くしてもなしえないことを、彼女の視線はあっさりと実現させることができる。荒唐無稽な直感に、月子は疑いを抱けない。

 

「来て早々申し訳ないんですけれど」と、月子は照に向けていった。「今日はもう解散ということにしませんか」

「おい」京太郎が声をあげた。「何言ってるんだ」

「須賀くん、ちょっとこっち」月子は京太郎を手招きする。警戒心を漲らせて寄ってきた京太郎の襟首を捕まえて耳元に口を寄せると、彼女は鋭く呟いた。「あのひとと打つのは止めておきなさい」

「なんで」

「勝てないから」と、月子は万言に勝る理由を口にした。「須賀くん、いい、須賀くん。わたしが誰かのために忠告するというのはとてもとても珍しいことよ」

「それは知ってる」

「だったら、この気持ちを汲んでほしい」と、月子はいった。「あのひとはだめよ。少なくともいまの須賀くんがあのひとと打っても、何も得ることはない。そこに成長はない。たぶん満足もない」

「へぇ」と、京太郎は面白げに口元を歪める。「じゃァ、なにがあるんだ」

 

 説得の方針を間違えた、と月子はさとった。

 

「……現実があるんでしょうね」苦いものを口にする表情で、月子は答えた。「面白くもない、理不尽な現実ってやつが、きっとあなたを待っている」

「それが現実なら、避けては通れないってことだ」京太郎は心を決めた口ぶりだった。

「何も今日、向かい合う必要はないっていっているのよ」

 

 自分が何を忌避しているのか、説得を試みながら月子は整理した。まず、初めて目にした宮永照は誰の手にも余る存在だった。少なくとも同年代の輪において、照は異質に過ぎた。羊の群れに恐竜が混ざるようなものだ。そして月子は、そうした存在を他にも知っている。麻雀を打ったこともある。心を折られ、麻雀から離れようと思ったこともある。

 

(つまり)と、月子は自分の感情を認めた。(わたしは須賀くんにそうなってほしくないと思っている。須賀くんはバカでカッコつけで麻雀狂いだけれど、だからって傷ついてほしいとは全然思わない。だからわたしは必死になってる)

 

 もちろんそれは月子の勝手な思い入れでしかない。事実京太郎の意識はすでに対局へ向かっている。もはや物理的な手立てでも講じない限り、勝負は避けられそうにない。だからといって力尽くで京太郎や照を麻雀から引き離したところで、それは一時的な対処に過ぎない。月子は京太郎とのまずまず居心地の良い関係を失い、かれは日を改めて照と卓を囲むだろう。

 そして吹き散らされるだろう。

 

「何をそんなに心配してるんだ?」京太郎は訝しげにいった。「おれが弱いのなんていまに始まったことじゃない。勝てないのも、とりあえず認めるしかない。でもだからって打たない選択肢なんて選ばない。負けるのが厭ならそもそも勝負なんてしねーよ。それに、どれだけ実力が離れてたって、絶対じゃない。麻雀ってのは――そういうもんだろ」

「それは、そう、だけど」

 

 月子の言葉が勢いを無くした。京太郎は正しい。反論の余地はない。けれどもかれが本当に正しく宮永照と打つことの意味を把握しているとは思えない。

 あるいは月子の反応は過敏に過ぎるかもしれない。少なくとも京太郎がそう思っていることは明らかだった。京太郎にとってみれば照も月子も格上の打ち手という意味では違いがない。今日、月子の予感が違うことなく宮永照が勝ち、須賀京太郎が惨敗を喫したとする。京太郎にとってその敗北は他の敗北とは違う意味を持ちえるのだろうか?

 京太郎は持たないと思っている。

 月子は持つかもしれないと思っている。

 その相違が感性や経験に由来するものである以上、月子に京太郎を論理的に説き伏せる術はない。彼女は不承不承その結論を受け入れる。苦し紛れの月子の矛先は、ぽつんとひとり佇む宮永照へと向かった。

 

「宮永さん」月子は事務的な口調でいった。「わたしはあなたは須賀くんと打つべきじゃないと思ってる。初対面でこんなことを言うのは気が引けるけれど、あなたは()()()()()()にいるべきひとじゃないように見える。あなたにはあなたに相応しい場がきっとあるし、そしてそれはここじゃない。帰ってもらえません?」

「それは京太郎が決めることだと思う」照の回答はこれ以上ないほど率直だった。「京太郎が望むなら私は打つ。今日私は、そのためにここにいる。そしてもう京太郎の結論は出てるように見える」

「そういうことだ」と、京太郎はいった。

 

 月子は――

 思い通りにならない怒りを感じなかった。忠告を聞かない京太郎への苛立ちもなかった。融通の利かない宮永照にも悪い感情を抱くことはなかった。ただ、言いようのない寂寞が胸の奥から湧いてきて止まらない。気を抜けばそれは涙に変わりかねない感情の粒だった。その感情は諦観と呼ぶべきものである。尊い何かが今しも失われるかもしれない。けれどもそれは仕方のないことだった。何しろ諦めはずっと月子の隣人だった。これからも慣れ親しんでいくことだろう。

 

(冗談じゃない)

 

 と、月子は思った。

 

「わかった」月子はいった。「ならもう何も言わない。水を差して悪かったわ。打ちましょう、須賀くん。――それに、宮永さん」

 

 彼女は静かに照を見つめる。照は月子の視線を意に介していない。照は京太郎を見ている。京太郎も照を見ている。月子は歯を鳴らす。どいつもこいつも、と彼女は思う。

 

(そんなに麻雀が好きか――)

 

 石戸月子は()()を据える。なるほど確かに、麻雀に絶対はない。どんな怪物も永遠に勝ち続けることはできない。どんな魔物も永遠に引き続けることはできない。京太郎の主張はまったく正しい。当然過ぎて非の打ち所がない。

 けれどもそれは、あくまで()()()と永遠に打ち続けることが出来ればの話だ。

 

(――だったら、自分でなんとかしてみせなさい、須賀くん。あなたの旗は、あなたの腕が振るべきよ)

 

 彼女は静かに照を見つめる。

 

(正念場は、いつだって唐突にやってくる)と彼女は思う。(まだロクに話もしてないし、須賀くんが懐くくらいなんだから、きっと宮永さん、あなたは悪いひとじゃないんでしょう。――でもやっぱり、あなたはここにいるべきひとじゃない)

 

 視線には決意がこもっている。

 

(どうせあなたも、いつか人間辞めてしまうひとなんでしょう。ただ強ければ他の事なんかどうでもいいってひとなんでしょう。父さんや兄さんと同じ人種なんでしょう。なぜこんなところに迷い込んだのかは知らないけれど――獲物が欲しいなら、どこか遠いところを狩場にすればいい)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 ルール:半荘戦

  持ち点 :25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)

  赤ドラ :なし

  喰い断 :あり

  後付け :あり

  喰い替え:なし

  ウマ  :なし

 

 起親(東家):片岡 優希

 南家    :須賀 京太郎

 西家    :宮永 照

 北家    :石戸 月子

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 【東家】片岡 優希 :25000

 【南家】須賀 京太郎:25000

 【西家】宮永 照  :25000

 【北家】石戸 月子 :25000

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 配牌

 片岡:{三三四四五①②③④⑦⑦58東}

 

(なんだか空気が重いじぇ……)

 

 片岡優希は、上家と対面から質の違う圧迫感を覚える。正確に言えば、少し前からずっと息苦しさのようなものを感じている。

 朝起きたときには、いつもの通り快調だった。朝食も昼食もたらふく食べており、充電は完了済みである。天気も晴れている。不調の種となるようなものは何もない。

 それでもやはり空気は重々しい。迂闊に軽口を叩くことを許さない雰囲気が、ずっと卓上に沈澱している。その発生源は主に月子である。しかし本質的な原因は対面の――なんとかいう年上の女にある気がした。根拠はなかったが、片岡一流の直感がそう囁いている。

 

(なんかしゃべれ、京太郎)

 

 昨日知り合った男子に目顔でそれとなく救援を求めるが、かれは難しい顔で首を傾げるだけだった。『むり』と眉毛が言っている。

 

(おおう。使えないヤツめ……)

 

 しかたなく、片岡はいつもどおりに麻雀を打つことにする。

 

 打:{東}

 

 今のところ麻雀は、彼女にとっていくつかある娯楽の一つに過ぎない。ルールが(とくに点数計算が)難しく、まだ所々慣れきっていないけれど、好きか嫌いかで言えば『勝てれば好きだ』と答えることはできる。負けるのは好きではない。だから負けてもまったくへこたれなかった昨日の京太郎を見て、彼女は少しだけ感心した。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 月子の危惧を、京太郎はそれなりに正しく察している。彼女が照を恐れていることはわかっている。あの居丈高な少女が、意味もなく他人を怖がるとは京太郎も思っていない。月子の忠告を跳ね除けた以上、京太郎には彼女が案じた良くない結果を受け入れる義務がある。

 けれども、半信半疑であることは否めない。

 月子の危惧は、大げさすぎるとかれは思う。

 

(たとえば、今日)

 

 京太郎はイメージしてみる。可能な限り最悪な勝負の結末を脳裏に思い描く。

 

(おれが手ひどく負けたとする。十回連続東一局で照さんに振り込み続けて十回連続ハコラスになったとする。もちろんおれは無様すぎて死にたくなる。でも麻雀をやめたりはしない。じゃア、十回が百回なら、千回ならどうだ?――そうなったらわからない。少なくともおれはおれの打ち方に二度と確信を持てなくなるだろう。でもそんなことは実際にはありえないし、そもそも百回や千回打つ時間はない)

 

 改めて、月子が心配するような事態には陥らないと京太郎は結論付けた。月子自身は多くを語らないが、彼女は何かしら強者に対する苦手意識のようなものを強く持っている。直面した照に、月子は苦手とする何かの影を見たのかもしれない。そのために過剰に反応した。

 論理の筋道は通ったが、京太郎にとっては少し面白くない話だった。

 自分がその程度のことで麻雀を見限ると思われていたことに対して、腹が立った。

 

(だいたい、頭から負ける前提で同情されるのも気に入らねえんだ――)

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 配牌

 京太郎:{一四八九①①②258西北北}

 

 直視に耐えない手牌である。和了の手順など、ほとんど見えはしない。けれどもどんな配牌も、天和という例外除けば和了を約束されてはいない。論理に沿った最善手を打ち続けても、感覚に基づく正着を打ち続けても、それは勝利することとイコールではない。敗北しないこととイコールではない。そこに麻雀の妙味がある。

 

優希()がダブ東の切り出し――あいつの場合、対子からの払いも平気でやりそうだから、なんともいえねえが)

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 1巡目

 京太郎:{一四八九①①②258西北北} ツモ:{7}

 

(急所が多すぎる牌姿だ。上手く聴牌に漕ぎ着けたって愚形が残る。テーマを決めよう。この局――積極的に和了は目指さない。そして、死んでも振り込まない。{一萬}(ドラ)は使い切る)

 

 打:{5}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 1巡目

 照:{二五六⑥⑧⑨4白白白中南南} ツモ:{發}

 

「――」

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 1巡目

 月子:{{一一二七七③④⑥468發發}} ツモ:{9}

 

(この世にいるのかもしれない麻雀の神さま)と、手元の牌を並べて月子は皮肉混じりに思う。(牌の中からでもなんでもいい。もし見てるのなら――あいつらみたいに贔屓なんてしなくていいから、せめて意地悪するのをやめてほしい)

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 2巡目

 片岡:{三三四四五①②③④⑦⑦58} ツモ:{3}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 2巡目

 京太郎:{一四八九①①②278西北北} ツモ:{3}

 

 {打:西}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 2巡目

 照:{二五六⑥⑧4白白白發中南南} ツモ:{三}

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

(ダブ東のあとの打{①}、{5}のあとの打{西}、上家から整理された翻牌――)

 

 月子は神経を集中させる。彼女が想像する最高の状態は、須賀京太郎と出会った日、その直後にかれに指示しながら打った麻雀である。

 あのとき、月子は突き抜けていた。壁の向こう側へと足を踏み入れかけていた。たとえ一過性のものだったとしても、一度出来たことが、二度出来ない道理はない。

 

(理屈はなんでもいい)

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 2巡目

 月子:{一一二七七③④⑥468發發} ツモ:{東}

 

 {打:東}

 

(ただ、勝ちたい)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 3巡目

 片岡:{三三四四五②③④⑦⑦358} ツモ:{⑤}

 

 打:{②}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 3巡目

 京太郎:{一四八九①①②2378北北} ツモ:{1}

 

 引き寄せた{1}が、手役に現実味を与える。それは往々にして罠である。ただ狙えるべきところで狙わないものでもない。

 

(三連続の索子()引き――手順はとっくに{一萬}を手放せって言ってるけど)

 

 打:{四萬}

 

(欲目は落ち目の誘い水――かな?)

 

 京太郎は、打{四萬}といった。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 3巡目

 照:{二三五六⑥⑧4白白白發南南} ツモ:{5}

 

 照の目が、一瞬だけ片岡の河と、彼女が次巡、自摸る牌へ向いた。

 

 打:{二萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 3巡目

 月子:{一一二七七③④⑥468發發} ツモ:{八}

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 4巡目

 片岡:{三三四四五③④⑤⑦⑦358} ツモ:{4}

 

(きっ――たぁ!)

 

 打:{8}

 

「リーチっ! だじぇ!」

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:32

 

 

 揚々たる立直宣言に、京太郎は眉をひそめた。

 

(――矢ッ張り速ぇな)

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 4巡目

 京太郎:{一八九①①②12378北北} ツモ:{西}

 

 片岡への安牌は三枚ある。親の立直へ太刀打ちできる向聴数ではないが、上手く立ち回らなければ早々に苦境に立たされる。

 

(気負ったところでこんなもんだ。苦しいけど楽しい――いつもの麻雀じゃねえか)

 

 打:{②}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:32

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 4巡目

 照:{三五六⑥⑧45白白白發南南} ツモ:{七}

 

 打:{三萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:32

 

 

 上家から親立直一発目に打たれた牌を、月子は戸惑いと共に見つめる。喰い取れる牌ではある。だがその後の展望はよくて片和了りの2000点だし、悪ければ親への放銃に繋がる。鳴けるはずはなかった。

 

(いきなり{三萬}(無筋)――ド危険牌の強打って、もう聴牌ってるわけ? それともただの()任せのブンブンさん?)

 

 片岡

 河:{東①②横8}

 

 京太郎

 河:{5西四②}

 

 照

 河:{⑨中二三}

 

 月子

 河:{9東⑥}

 

(――そんなわけないか。この序盤で{二三萬}の両面塔子落としってことは――いっこ前の{二萬}が()()()ってこと? {一萬}(ドラ)の受け入れを見切ってまで払ったのは、そういう意味?)

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 4巡目

 月子:{一一二七七八③④468發發} ツモ:{中}

 

(お願いだから山が透けてるとか、言い出さないでよね――)

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:32

 

 

「さあ、――一発ゥ!」

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 5巡目

 片岡:{三三四四五③④⑤⑦⑦345} ツモ:{1}

 

「ならずだじぇ……」

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:32

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 5巡目

 京太郎:{一八九①①12378西北北} ツモ:{9}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:33

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 5巡目

 照:{五六七⑥⑧45白白白發南南} ツモ:{⑤}

 

 {打:發}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:33

 

 

(また生牌――しかもわたしの有効牌)

 

 照の意図を、月子は慎重に測る。たんに切り出しに窮して適当な牌を被せているとは思いにくい。照は不穏なほどに気配がなく、月子の見立てでは恐らく未だ聴牌もしていない。かといってベタオリには到底見えない。何かを企図して{三萬發}と並べ打っている。

 

 月子:{一一二七七八③④46中發發}

 

(わたしに鳴かせようとしてる――つまり、この自摸筋で続けたくない理由があるんだ)

 

 片岡の特性に、早くも照が把握したとは思いたくない月子である。それは願望が色濃い推測だった。だが事実として照が自摸筋をずらそうとしている以上、月子としてはその誘いに乗るわけには行かない。

 なぜならばこの半荘、月子が期して臨むのは勝利ではない。

 宮永照の妨害である。

 

(麻雀は四人でするもの。それだけ突き抜けているんだから、ちょっとくらいのアンフェアは覚悟しているでしょう)

 

 月子は、照から打たれた{發}を見送る。

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 5巡目

 月子:{一一二七七八③④46中發發} ツモ:{一}

 

(最上は流局。次は片岡さんが自摸ること。その次はわたしか須賀くんが振ること。いよいよとあれば、差込もする――)

 

 {打:發}

 

(今日は、宮永さん(あなた)にまともな麻雀はさせない)

 

 断固たる決意をもって、月子は{發}を抜いた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:34

 

 

「むっ――」

 

 と、片岡は山から自摸った牌を、満面の笑みで見つめた。

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九}) 裏ドラ:{⑨}(裏ドラ表示牌:{⑧})

 6巡目

 片岡:{三三四四五③④⑤⑦⑦345} ツモ:{二}

 

「ツモ! えぇっと――ウラはないから」

 

「6000オール」と京太郎がいった。

 

「そう、6000オールだじぇ!」

 

 東一局0本場

 【東家】片岡 優希 :25000→43000(+18000)

 【南家】須賀 京太郎:25000→19000(- 6000)

 【西家】宮永 照  :25000→19000(- 6000)

 【北家】石戸 月子 :25000→19000(- 6000)

 

 素直に喜ぶ片岡を尻目に、月子はひとり、息をつく。

 

 そんな月子を視界の隅に捉えて、照がぽつりと呟いた。

 

「過保護」

 

 そして、次局――

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:36

 

 

「ロン」

 

 と、照がいった。

 

 東一局1本場 ドラ:西(ドラ表示牌:南)

 4巡目

 照:{四四七八九②③344556} ロン:{①}

 

「1000は1300」

 

 放銃したのは、月子だった。

 

 東一局1本場

 【東家】片岡 優希 :43000

 【南家】須賀 京太郎:19000

 【西家】宮永 照  :19000→20300(+ 1300)

 【北家】石戸 月子 :19000→17700(- 1300)

 




2013/2/19:牌画像変換
2013/3/8:ご指摘いただいたわかりにくい表現を修正


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4.ほうこうフール(後)

4.ほうこうフール(後)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:37

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 【北家】片岡 優希 :43000

 【東家】須賀 京太郎:19000

 【南家】宮永 照  :20300

 【西家】石戸 月子 :17700

 

(ここからだ)

 

 と、京太郎は思う。かれの脳裏には、照と打った最初の局面が去来している。擦り切れるほどに思い返して、人生最初の二半荘は、少年の心に完全に焼き付いていた。あの夏の夕方、京太郎はもちろん、照さえも偶然同卓したプロ二人(京太郎は未だにあの日なぜ南浦と大沼が公民館にいたのかを知らない)に勝つことはできなかった。分類すれば照も京太郎と同じ卓上の敗者だった。しかしその打ち回しには雲泥以上の差があった。地殻と月よりも距離があった。

 

 京太郎は、照にあこがれた。

 

 打った時間はただの二半荘である。それも初心者の京太郎が、いずれも飛ばされて終了している。麻雀の実力は短期的な戦果で測れるものではない。それは一つの事実である。だから宮永照の真価を、京太郎は知らないのかもしれない。あるいは池田華菜や月子がかれに何度も言い聞かせたように、照は実はそれほど大したことがない打ち手なのかもしれない。

 

(ここから――)

 

 けれども京太郎にとっては、事実などどちらでもよかった。いまのかれにとって、宮永照は追い求めた強さを体現する一つの具象である。それが事実で、そして全てだった。この対戦を経てその印象が変わっても変わらなくても、それは勝負が終わったあとの話だ。つまり、京太郎の興味の外に置かれている物語だった。

 卓を囲む相手の実力は、京太郎にとって麻雀に耽溺するための要素の一つでしかない。強いに越したことはないが最重要ではない。必須でもない。()()()()()()()()を京太郎は目的としている。その道がどこに到達しようとにかれは構わない。血管と肺と心臓が破裂するまで走ることができればかれはそれでよかった。

 

 麻雀卓が配置された教室には、いつも通りそれなりに賑やかで、穏やかな時間が流れている。昼下がりの陽射しはカーテンに遮られ、教室に持ち込まれたヒーターが眠気を催す温風をひたすらあたりに振りまいている。少年少女たちは楽しげに雑談を交わしながら摸打を繰り返す。だがある一角だけはやや趣が異なっている。少女三人に少年一人の組み合わせである。皆ほとんど言葉を交わすことなく、手元に配られた牌を静かに見つめている。

 

 京太郎の一度目の親番が始まる。

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 配牌

 京太郎:{三四八九④④⑤⑧⑧36789}

 

(上々の配牌――{九萬}(ドラ)含みの塔子は愚形、向聴戻すほど悠長なこともしてられねえ。が――まっすぐだ。好形への変化が入れば辺張は払う)

 

 打:{3}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:38

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 1巡目

 照:{一二六①③③③⑨2499白} ツモ:{⑥}

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:38

 

 

(須賀くんの第一打は尖張牌。形は決まってそうだけれど……)

 

 石戸月子は集中する。すでに気は取り直している。前局の照への放銃は、どうしようもない。京太郎の台詞ではないが、あの巡目での黙聴牌を察することなど、ガン牌でもしていなければ絶対に出来ない。幸い打点は低く、大勢に影響するものではなかった。

 

宮永さん(このひと)がどれだけのものか、正直まだわからない)

 

 何を持って月子が宮永照を異常と判断したかといえば、それは感覚によるものとしかいいようがない。月子の目から見て、照は間違いなく異常な人間だった。ただその全容はうまくつかめない。巨大すぎる建造物を足元から眺めたような圧迫感だけがあり、具体的に警戒すべき箇所が何かはわからない。

 

(まったく、肝心なところで役に立たないわね、こんなもの――)

 

 彼女()()は少しだけ常識から外れた麻雀を打つ。彼女()()は独自のルールを盤上に持ち込むことができる。彼女()()は多少あるいは相当、『そうでない』人間より有利に麻雀を打つことができる。

 ただしそれは麻雀の本質を損なうものではない。

 少なくとも月子は損なわないと考えている。この点について、彼女と須賀京太郎の理念は不一致である。月子にしてみれば、やはりできることは許されていることだとしか思えない。

 才能は利器である。ときに倫理や思考を無視した振る舞いを見せる。振るうべき場面で振るわれないことを才能は何より嫌う。ほとんど自律的にそれは作動する。

 

 片岡優希は東場において打点と速度に恵まれるように、逆に南場においてはその揺り戻しが来るように、南浦数絵が東場ではどれだけ失点しても飛ぶことは決してなく、撓めた力を南場で解放するように、石戸月子は晒し、他家の自摸筋を奪うことで和了することが出来る。

 

 ()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()と月子は解釈する。それは彼女が短い人生において学んだ多くの教訓のひとつである。どちらかといえば多く悪果を運んできた気づきではあるが、信条には変わりない。物語に登場した銃は必ず撃たれるし、名探偵は殺人の謎を解かずにいられない。月子が持つ才能もそうしたもののひとつだ。好むと好まざるとに関わらず、それは作動する。才能は一種の装置である。

 

 そして石戸月子は、自分の才能を未だ十全に使いこなせていない。

 自分にはまだ先があると彼女は信仰している。

 それは半ば幼稚な願望である。

 ――けれども半ば、正鵠を射てもいる。

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 1巡目

 月子:{一三五五七七④白白中中東北} ツモ:{②}

 

 絶好の配牌だった。索子の絶一門(チェーイーメン)かつ、門前混一色に七対子の二向聴である。月子はその特性上七対子は決して和了できないが、役牌を重ねれば、軽く満貫に届く。

 

(もう、一打も気は抜かない。巡目なんて関係ない。宮永さんを見極める)

 

 打:{②}

 

(引けない愚形の塔子に価値はない)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:38

 

 

(親が流れちゃったじぇ……)

 

 やや消沈しながらも、片岡はのたくたと理牌する。牌姿を把握するので手一杯で、彼女は上家が滑らかに打つ河はほとんど見ていない。

 

 卓上には、片岡が普段打つ麻雀とは一線を画する空気が流れていた。皆言葉少なく、鋭い目で河と山へ眼差しを向けている。クウキが薄くなったようだ、と片岡は思う。彼女はその優れた感性で、場に漂う張り詰めた雰囲気を察している。緊張感は片岡にも伝染して、しかしそれは彼女にとって不思議と苦ではない。

 楽しいだけが麻雀ではない。

 苦しいだけが麻雀ではない。

 それは知っていた。手ひどく負けることも、逆に出来すぎなほど勝つことも片岡にはよくある。むしろほとんどそれしかないといってもよい。ギリギリの差しあい、という状況を彼女はほとんど経験していない。彼女にとっての対手は、今のところ簡単な相手と難しい相手しか存在していない。

 

(だけど今日は)と、片岡は思う。(なんだろ。どきどき――わくわく? なんか、ヘンな感じがする――じょ)

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 1巡目

 片岡:{六九九①①⑦⑨12發發發南} ツモ:{3}

 

(ムム)

 

 自摸った牌と手牌を見比べて、片岡は眉根を寄せる。親番は流れたものの、勢いはある。急所が第一自摸で埋まった僥倖を、彼女は吉兆と捉えた。

 

(また南場で点取り戻されちゃうかもしれないから――ここでいけるだけいくじぇ)

 

 打:{六萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:38

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 2巡目

 京太郎:{三四八九④④⑤⑧⑧6789} ツモ:{③}

 

 打:{9}

 

(一向聴――)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:38

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 2巡目

 照:{一二六①③③③⑥2499白} ツモ:{二}

 

(……)

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:38

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 2巡目

 月子:{一三五五七七④白白中中東北} ツモ:{西}

 

 打:{④}

 

(見え見えだろうがなんだろうが――いくわ)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:39

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 2巡目

 片岡:{九九①①⑦⑨123發發發南} ツモ:{1}

 

 {打:南}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:39

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 3巡目

 京太郎:{三四八九③④④⑤⑧⑧678} ツモ:{②}

 

 打:{八萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:39

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 3巡目

 照:{一二二六①③③③2499白} ツモ:{1}

 

 {打:白}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:39

 

 

「ポン」

 

 ――当然、月子はその{白}を叩いた。

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 3巡目

 月子:{一三五五七七中中東西北} ポン:{横白白白}

 

 {打:北}

 

({⑨⑥}、{白}の切り出し――宮永さんの手、たぶん、遅い。ここで差しきれる!)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:39

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 3巡目

 片岡:{九九①①⑦⑨1123發發發} ツモ:{東}

 

(んー……{發}(ミドリ)あるし、いらないじぇ)

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:39

 

 

(優希の{東}、を見てるな――月子(あいつ)

 

 京太郎の目は、まずツモ切りされた{東}を見る。その{東}を見て顔を少し引きつらせる月子も見えている。

 微細な表情の変化である。若干頬の筋肉が強張っただけだが、普段ポーカーフェイスを徹底している月子だけに、わずかな変化が目に付くものだ。

 

(――鳴かされた、とか思ってんのかね)

 

 副露は月子の判断だが、それを促したのは上家の差配である。偶然の一言で十分片付けられる出来事だが、月子の過剰な反応を見ているとそうも思えなくなってくる。

 オカルトの実在を受け入れると、もっとも厄介なのはこうした疑心暗鬼である。全ての偶然に裏があるような錯覚が頻繁に引き起こされる。無駄に敵の影を肥大化し、正しい判断も正しくない判断も出来なくなる。決断そのものを留保しはじめる。それはつまり、勝負の土俵から降りる行動に等しい。

 

(考えることで打つ手を思いつけそうなら、考えるべきだ。でも、そうじゃないんなら、ただ迷いを残すだけだ――)

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 4巡目

 京太郎:{三四九②③④④⑤⑧⑧678} ツモ:{白}

 

 最前鳴かれた{白}――最後の一枚を、京太郎は盲牌する。安牌として手元に残し打{九萬}とする手順もある。防御に重きを置くのであれば孤立牌の{九萬}(ドラ)は手放しておきたいところだ。

 

(とはいえ、よもやの二枚目を思うと、うかつに打てない。5800あれば十分と見るか、満貫確定の手順を残すべきか)

 

 思考は半瞬にも満たない。手牌にの端に{白}を一瞬だけ置いて、京太郎はすぐに自摸切りした。

 

 {打:白}

 

(打つなら聴牌と引き換えだ)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:40

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 4巡目

 照:{一二二六①③③③12499} ツモ:{八}

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:40

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 4巡目

 月子:{一三五五七七中中東西 ポン:{横白白白}} ツモ:{四}

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:40

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 4巡目

 片岡:{九九①①⑦⑨1123發發發} ツモ:{⑨}

 

(えっと、これ……たしか)

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:40

 

 

(手出しが多い――全員ガンガン手が進んでる。そういう局面ってことか)

 

 各自の切り出しを目ざとく確かめながら、京太郎は目を細める。月子が参加する場はとかく早いうちに高くなりがちである。元より運の要素が強い麻雀であるが、彼女が打つ場はよりその特性が強調される――と、素面で考える自分を、京太郎も馬鹿馬鹿しいと思わないわけではない。ただ傾向は明らかで、実際的な現象を伴う以上は対応するしかない。

 そうした意味では、京太郎はどこまでも現実的な思考をしていた。

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 5巡目

 京太郎:{三四九②③④④⑤⑧⑧678} ツモ:{一}

 

 打:{一萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:40

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 5巡目

 照:{一二二六八①③③③1249} ツモ:{3}

 

 打:{4}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:40

 

 

(今日び迷彩って時代でもないけれど、それにしたって宮永さん(上家)の河――露骨すぎる下の三色だわ。やっぱり勘と力技オンリのひとなのかしら)

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 5巡目

 月子:{一三四五五七七中中西} ポン:{横白白白} ツモ:{中}

 

 5巡目、月子が山から引いたのは、出来すぎの{中}であった。当然月子は、

 

 {打:西}

 

 といった。これで萬子であれば{八九萬}以外のどこを引いても聴牌となる。

 

(あとひとつ)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:40

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 5巡目

 片岡:{九九①①⑨⑨1123發發發} ツモ:{5}

 

 打:{5}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:40

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 6巡目

 京太郎:{三四九②③④④⑤⑧⑧678} ツモ:{⑤}

 

(――高目への振り替え)

 

 かれは、瞬間的に場況を整理する。

 

 京太郎

 河 :{39八白一}

 

 照

 河 :{⑨⑥( 白 )94}

 

 月子

 河 :{②④北東西}

 

 片岡

 河 :{六南東⑦5}

 

照さん(下家)に、{②}はチト強いか――)

 

 それは曖昧な感覚である。待ちは変わらないまま、高目一益口(イーペーコー)を見切る理由はない。照から立直はかかっておらず、打った{②}を叩かれたところで照の手が透けるだけだ。月子に学んだデジタルに照らせば、ここで勝負勘とやらに指運を託して{②}を抑えるのは間抜けに他ならない。

 しかし、

 

(――123の三色が下家の本線。ただセオリーとして、234とのテンビンがあってもおかしくない。{4}が零れてきたのはそういうことだ。でも{⑨⑥}を初っ端から叩き落としてる以上、手の内に{④⑤⑦⑧}は残してないだろう。少なくとも2巡目までは手牌になかったはずだ。だったら――{①②③}は確定してるか、辺張か嵌張だ。おれが打{②}といった場合、高目は残り三枚の{③}だけど、――こいつ、もう山にいねぇんじゃねえか? もしそうなら、アガれない高目への振り替えのために無駄に手を進ませちまうかもしれない)

 

 京太郎は疑念する。

 

(ああ、こいつはカンだ。月子にまた怒られちまうかもしれない――)

 

 牌を山から自摸り、手牌の縁に{⑤}を寝かせる。ふた呼吸分の時間を思索に費やすと、京太郎は、

 

 打:{⑤}

 

 自摸切りした。

 

(どうだ――)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:41

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 6巡目

 照:{一二二六八①③③③1239} ツモ:{九}

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:41

 

 

(萬子、引け――)

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 6巡目

 月子:{一三四五五七七中中中} ポン:{横白白白} ツモ:{8}

 

(ふぁっく!)

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:41

 

 

 東二局、最も早く聴牌に手を届かせたのは、片岡優希であった。

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 6巡目

 片岡:{九九①①⑨⑨1123發發發} ツモ:{⑨}

 

 打{1}で{①九萬}待ち黙満貫の聴牌である。牌を曲げれば跳萬が確定する。一発で自摸るか、もしくは自摸って裏がひとつでも乗れば倍満に届く。

 しかし、片岡は、

 

(まだ――まだ、まだだ、じぇ!)

 

 打:{3}

 

 その手を最終形とは見なさなかった。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:41

 

 

(いらねえ欲を出したな、優希――顔でわかるぜ)

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 7巡目

 京太郎:{三四九②③④④⑤⑧⑧678} ツモ:{五}

 

 山から牌を自摸った京太郎は、深く息衝いた。

 ――聴牌である。

 前巡、片岡が{1}を切って立直を打っていれば、安牌のない京太郎は苦し紛れの{九萬}を切り、一発で放銃していた。

 それはかれの知覚を越えた結果論だが、ともあれ片岡の向聴戻しは、結果的に悪手となったわけである。

 

「立直」

 

 打:{九萬}

 

 京太郎は、{九萬}(ドラ)を曲げる。

 

「――ポン!」

 

 と、片岡が吼えた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:41

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 7巡目

 片岡:{①①⑨⑨⑨112發發發} ポン:{九九横九}

 

(うぅー、立直してれば一発だったのか……しかたないじぇ……)

 

 打:{2}

 

「とおれ!」半ば祈るように、片岡は{2}を切った。

 

 ――通った。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:41

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 8巡目

 京太郎:{三四五②③④④⑤⑧⑧678} ツモ:{南}

 

 {打:南}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:41

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 7巡目

 照:{一二二六八九①③③③123} ツモ:{三}

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:41

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 7巡目

 月子:{一三四五五七七中中中 ポン:{横白白白} ツモ:{一}

 

(引いた――けど、)

 

 打{五萬}で、{一七}待ちの聴牌である。しかし、{五萬}は京太郎に対しても片岡に対してもわかりやすい危険牌だった。

 方針として照以外への放銃をよしとするとはいっても、見るからに拙い片岡へ振り込むことはやはり業腹な月子である。

 

(下手すると飛ぶわ――とくに片岡さん。ドラ明刻だし、あの河……べらぼーに高そうだわ)

 

 そして肝心の照はというと、明らかに三軒聴牌に追随できていない。この東二局0本場で、もっとも窮地に立っているのは明らかに彼女だった。

 

(ええい――やんぬるかな! 満貫手を押さない理由はないわっ!)

 

 勢い良く、彼女は打{五萬}といった。

 

 打:{五萬}

 

 京太郎と片岡の倒牌は、ない。

 

(くう――っ)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:42

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 8巡目

 片岡:{①①⑨⑨⑨11發發發 ポン:{九九横九} ツモ:{北}

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:42

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 9巡目

 京太郎:{三四五②③④④⑤⑧⑧678} ツモ:{7}

 

 打:{7}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:42

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 8巡目

 照:{一二二三六八①③③③123} ツモ:{發}

 

「――」

 

 打:{八萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:42

 

 

({五萬}の筋とはいえ、生牌のドラ表示牌をノータイムで強打とか――このひと、ほんとに強いの?)

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 8巡目

 月子:{一一三四五七七中中中} ポン:{横白白白}} ツモ:{⑦}

 

(――また危険牌)

 

 引き寄せた他家の危険牌を見、月子はうんざりした心地になる。苦しい思いをして聴牌に漕ぎ着けて、その先にある和了を目指すとき――絶好の待ちなのにいつまで経っても引けないとき――和了れないとき――他家に追いかけられたとき――押されたとき――待ちをカスったとき、心はいつも問いを発する。

 声が聞こえる。

 『それでいいのか』と声は言う。『危ないんじゃないか?』とも声は言う。『考えるのをやめよう』と囁く。思考を凍結させ、運否にすべてを預けてしまうことも、ひとつの処方である。考えたところで正解が導けることは極めて稀だし、突っ張ることは簡単だった。打点や待ちの手広さはわかりやすい安心材料だった。条件が揃っていれば、統計的にはその選択が正しいと自分を納得させることは容易い。

 けれどもいつだって声は囁くことを止めない。

 それでいいのか? と声は言う。

 危ないんじゃないか? と声は言う。

 ――月子の答えは決まっている。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 と、月子は思う。

 

(確信を持った摸打なんてありえない。わたしたちがどれだけそう信じても、どんなルールを持ち込んでも、『もしかしたら』は残り続ける。次巡役満を自摸ることが予見できたところで、その自摸をずらされることも、他家にゴミ手で和了られることも防げないし、防げちゃいけない。『もしかしたら』は残り続ける)

 

 確率に支配された遊戯――それが麻雀の本質である。

 それはおよそ殆どの場合において、失われることのない属性である。だからこそ、本質足りえるともいえる。

 

(そこを越えて先に行く人は――たぶん、()()()()()なんだ)

 

 打:{⑦}

 

 迷いは尽きない。選択に絶対はない。技術や知識や能力の成長や劣化が、選ぶ道を違えさせることはある。全ての摸打には成功や失敗が付きまとう。両者は結果というコインが持つ表裏である。

 和了の発声はない。

 淡々と巡目は進む。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:42

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 9巡目

 片岡:{①①⑨⑨⑨11發發發} ポン:{九九横九} ツモ:{5}

 

 打:{5}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:42

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 10巡目

 京太郎:{三四五②③④④⑤⑧⑧678} ツモ:{8}

 

 打:{8}

 

(おいおい、こいつは――キツいな)

 

 京太郎は苦笑する。

 浅い巡目の先行両面立直である。なんでも押してくる他家もいる。絶対ではないが、たいていは和了れる牌姿といっていい。

 けれど和了れないことはある。頻繁にある。理不尽に腐ることもあるし、その残酷さこそ面白いというものもある。京太郎はどちらかといえば後者の人間である。

 けれども、焦燥がないわけではない。じわじわと追い上げる熱を、かれは背中に感じている。

 かれのなかの何かが警鐘を鳴らしている。

 

 ――ここで止められなければ終わりだぞ、とそれはいっている。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:43

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 9巡目

 照:{一二二三六①③③③123發} ツモ:{②}

 

 打:{六萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:43

 

 

 月子は、目を瞠った。

 涼しい顔(実際には、もちろん無表情)で上家が河に放った牌を目にしたためである。

 

(また――生牌! しかも、超危険牌!)

 

 {六萬}は片岡に対してこそ安牌だが、京太郎にも月子にも危険な牌である。

 すでに、照の暴牌は読みの鋭さでどうこう出きる領域を逸脱していた。目隠ししてつり橋を渡っているようにしか、月子には思えなかった。

 

(さすがに、これで張ったんだしょうけれど――)

 

 月子は、瞬間的にチーの発声を呑み込む必要があった。{横六五七}として打{七萬}とした場合、待ちはよくなるがフリテンになる。つまり、月子は受けを誤り、和了り損なったのだ。

 

 前々巡、{一七萬}の双ポンではなく嵌{六萬}にさえ受けていれば――。

 

(――()()()()をいっても、しかたない)月子は歯を食いしばる。

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 9巡目

 月子:{一一三四五七七中中中} ポン:{横白白白} ツモ:{東}

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:43

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 10巡目

 片岡:{①①⑨⑨⑨11發發發} ポン:{九九横九} ツモ:{6}

 

 片岡の顔に焦りが浮かぶ。混老頭・対々和・發・ドラ3――自摸っても出和了でも倍満確定の手が、いっこうに和了れない。時間の流れが濃密で、一打一打に気力を消耗しているような気さえする。

 

(あのとき――立直しておけば)

 

 悔やみが、影のように滲む。

 

 打:{6}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:43

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 11巡目

 京太郎:{三四五②③④④⑤⑧⑧678} ツモ:{二}

 

(入り目)

 

 と、京太郎は思った。下家の照に危険な牌だということはわかっている。先ほどからの押し一辺倒の打牌からして、へたをすればこれは放銃かもしれない。

 それは、神ならぬ京太郎にはどうしようもないことだった。

 

(仕方ねえ――こんなもんは、どうしようもねえ――)

 

 打:{二萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:43

 

 

「チー」

 

 と、宮永照は言った。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:43

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 10巡目

 照:{二二①②③③③123發} チー:{横二一三}

 

 {打:發}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:43

 

 

 片岡の口から、声が吐き出された。

 

「カン」

 

 と、彼女は発声した。場の流れも雰囲気も、片岡にはよくわからない。カンをすれば一度多く自摸れる。更にドラが捲れれば、打点が上昇する可能性もある。

 片岡は自分の意思で鳴いた。

 彼女はそう思っている――

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 11巡目

 片岡:{①①⑨⑨⑨11} カン:{發横發發發} ポン:{九九横九} リンシャンツモ:{4}

 

 打:{4}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:43

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八}) 槓ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 12巡目

 京太郎:{三四五②③④④⑤⑧⑧678} ツモ:{2}

 

 不可解な副露、不可解な{發}、不可解な大明槓に、つかのま、京太郎の思考は時間を盗まれていた。片岡の打牌を何事もなく見送り、漫然と山から{2}を自摸り、河へ置く。一連の動作は自動的だった。

 

 そして、ゆったりと下家の宮永照が山へ手を伸ばすのを見た。

 

(あ――)

 

 悪寒が背筋を走った。かれのなかの何かが大声で喚いている。やってしまったな、とそれはいっていた。どうして誤発声の錯和(チョンボ)でも何でもしなかった? どうして()()()に自摸らせた?

 

 あーあ、とかれのなかの何かがため息をついた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:43

 

 

「ツモ」

 

 と、照は静かに宣言した。

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八}) 槓ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 11巡目

 照:{二二①②③③③123} チー:{横二一三} ツモ:{二}

 

「500・1000」

 

 誰かが息を呑む音がした。そして不思議と、それを境に一切の音が途絶えた。たまたまその麻雀教室に訪れた、瞬間的な静寂だった。

 

 

 東二局0本場

 【北家】片岡 優希 :43000→42500(-  500)

 【東家】須賀 京太郎:19000→17000(- 1000、- 1000)

 【南家】宮永 照  :20300→23300(+ 3000)

 【西家】石戸 月子 :17700→17200(-  500)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:43

 

 

 東三局0本場

 【西家】片岡 優希 :42500

 【北家】須賀 京太郎:17000

 【東家】宮永 照  :23300

 【南家】石戸 月子 :17200

 

 東三局――宮永照の親番が始まると、まず片岡が意気込むように自らの頬を張った。初手から強い牌を切り出した。役牌だった。それを月子は逃さず鳴いた。先手必勝の構えだった。

 ――5巡目に、片岡が照に振り込んだ。

 

 東三局0本場

 【西家】片岡 優希 :42500→39600(- 2900)

 【北家】須賀 京太郎:17000

 【東家】宮永 照  :23300→26200(+ 2900)

 【南家】石戸 月子 :17200

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:45

 

 

 次は4巡目だった。照は平和・ドラ一を自摸和了った。誰一人、まだ形すら定まっていない状態での和了だった。

 

 東三局1本場

 【西家】片岡 優希 :39600→38200(- 1400)

 【北家】須賀 京太郎:17000→15600(- 1400)

 【東家】宮永 照  :26200→30400(+ 4200)

 【南家】石戸 月子 :17200→15800(- 1400)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:47

 

 

 初巡、照が中張牌の暗槓を仕掛けた。嶺上牌を自摸るや、彼女はそのまま立直を打った。暗槓が成立しているため両立直ではないが、もはや待ちなどわかるはずもない。2巡目で片岡が両面に刺さり、2本場はまたも一瞬で終了した。

 

 東三局2本場

 【西家】片岡 優希 :38200→32800(- 5400)

 【北家】須賀 京太郎:15600

 【東家】宮永 照  :30400→35800(+ 5400)

 【南家】石戸 月子 :15800

 

 ――とうとう、片岡が照に捲くられた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:49

 

 

 もはや、だれも宮永照に追随できなかった。逆転を許した片岡優希は明らかに気勢を殺がれ、石戸月子はひとり気を吐いたがほとんど無力だった。

 彼女は内心で、ある事実に気づいていた。

 ――宮永照は、とくに何もしていない。神秘的な異能を駆使して和了を重ねているわけではない。少なくともいまのところ、その兆候はない。ただひたすらに運と、そして技術だけで打っている。いまの照は、京太郎と同じ土台で打っているのだ。そこに超越的な何かはない。

 照はただ、ひたすらに強く、とてつもなく速い。

 

 東三局3本場

 【西家】片岡 優希 :32800→30500(- 2300)

 【北家】須賀 京太郎:15600→13300(- 2300)

 【東家】宮永 照  :35800→42700(+ 6900)

 【南家】石戸 月子 :15800→13500(- 2300)

 

 宮永照は和了を重ねる。

 

 東三局4本場

 【西家】片岡 優希 :30500→21600(- 8900)

 【北家】須賀 京太郎:13300

 【東家】宮永 照  :42700→51600(+ 8900)

 【南家】石戸 月子 :13500

 

 石戸月子の表情が精彩を欠く。無力感に、息を喘がせる。

 

 東三局5本場

 【西家】片岡 優希 :21600→10500(-11100)

 【北家】須賀 京太郎:13300

 【東家】宮永 照  :51600→62700(+11100)

 【南家】石戸 月子 :13500

 

 片岡優希の、まるく、柔らかい頬を、一筋の涙が、一瞬だけ伝う。

 

 須賀京太郎は、つかれきった声で、

 

「……八連荘だな」

 

 と、いった。

 

 宮永照は何も答えず、6本目のシバ棒を場に積んだ。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:10

 

 

 長い半荘は、しばしばある。驚異的な連荘も、稀にある。けれども満遍なく三家の点数が削られる状況は、ほとんどない。全ての場が流れずにひとりの和了で決着を見ることも、同様にほぼないといってよい。

 不調者の悪循環というものがある。持ち点が落ちれば打牌に制限が生じる。結果リスキーな選択肢を採らざるをえなくなる。それが奏功しないとき(大方は奏功しない)、彼らは更に点数を失う。失点は抜きん出た首位の温床である。

 ――その場で起きているのは、そうした『よくあること』ではなかった。

 何しろ、運を競う場面すら発生しない。誰もが聴牌に行き着かないうちに、たったひとり、宮永照だけが和了るのである。逆転を期すこともできない。みずからの決断に身を擲つこともない。全ては一瞬で始まり、終わる。そして照の点棒ばかりが増えていく。そこに勝負はない。熱狂もない。

 ただ暴威だけがある。

 

 東三局6本場 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 3巡目

 照:{■■■■■■■■■■■■■}

 

「――リーチ」

 

 風が吹いている、と京太郎はぼんやりと思う。まるで嵐だった。穏やかで静かな冬の昼下がりに不釣合いな暴風が、かれの下手で荒れ狂っている。

 それは災害のようなものだ。

 

 照

 河:{西北横南}

 

 訪れたのであれば、息を殺して身を潜め、去るのを待つしかない。

 

「ツモ」

 

 東三局6本場 ドラ:{②}(ドラ表示牌:{①}) 裏ドラ:{⑤}(ドラ表示牌:{④})

 4巡目

 照:{一一七七八八九①②③⑦⑧⑨} ツモ:{九}

 

「――8600オール」

 

 東三局6本場

 【西家】片岡 優希 :10500→ 1900(- 8600)

 【北家】須賀 京太郎:13300→ 4700(- 8600)

 【東家】宮永 照  :62700→88500(+25800)

 【南家】石戸 月子 :13500→ 4900(- 8600)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:12

 

 

 月子のなかで、何かが切れた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:12

 

 

 京太郎を含めた誰かが何かを間違えたというわけではなく、運や天気や時宜が悪かったということもない。その日その卓で起きた事象のすべては完結している。須賀京太郎は宮永照と麻雀を打つという望みを果たした。それは間違いない。けれども()()()()()()を、つまりかれが望んだ事柄の意味を、かれが十分に心得ていたかといえば、それは否だ。京太郎は無知だったし、照は無自覚だった。

 

 麻雀で勝つことは、12歳の宮永照にとっては呼吸や睡眠と同じくらい当たり前の行いである。だから彼女は息を吸って吐くように、あるいはまぶたを閉じて開くように、眼下に並んだ13枚の牌を誰より速く高く美しいかたちに揃えて和了(あが)る。歳若い彼女はまだ未熟で、失策や誤謬がその摸打にないわけではない。十全にその才能を発揮しているわけでもない。『宮永照』という打ち手が完成するには今しばらくの時間を要する。

 とはいえそれはまったく瑣末な要素でしかない。京太郎と照の間に横たわっているのは、時間や修練が解決しないたぐいの問題だった。()()()()の領域に追随できたものだけが、熟達の程度を取り沙汰することができる。支配の強弱や感覚の深浅や効果の広狭を語るものとそれらを感知しえぬものは、そもそも同じ卓にいながら同じ次元には存在していない。こと麻雀という領域において、照は空を泳ぐ龍で、京太郎は吹き散らされる雲でしかない。

 

 そしてその差が広がり遠のくことはあっても、覆ることはない。縮むこともない。

 

 東三局7本場

 【西家】片岡 優希 : 1900

 【北家】須賀 京太郎: 4700

 【東家】宮永 照  :88500

 【南家】石戸 月子 : 4900

 

 皆、最初とは異なる意味ですっかり言葉を発さなくなった。その卓上に、緊張感はもはやなかった。あるのは倦怠と疲労、そして若干の悲哀である。須賀京太郎は黙り込み、機械的に理牌を行う。片岡優希は目じりに涙を溜め、時折鼻をすすりながら、それでも席は立たずに打ち続けている。

 

 宮永照の態度は、徹頭徹尾、変わらない。彼女は寡黙だった。まるで勝つためだけにそこに存在しているかのようだった。勝利を運命付けられた少女の顔に、喜や楽は見出せない。退屈そうですらある。

 この局、彼女の手牌は、

 

 東三局7本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 配牌

 照:{一222345679東東東南}

 

 こうであった。出来すぎた牌姿を、彼女は当然のように受け入れる。そして当たり前の手順を踏む。

 

 打:{一萬}

 

「………チー」

 

 それを、石戸月子が喰い取った。

 

 東三局7本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 1巡目

 月子:{■■■■■■■■■■} チー:{横一二三}

 

 {打:西}

 

 初巡、老頭牌を喰い取る両面のチー、しかし切り出された客風牌から、不穏な気配はない。照の()から見て、それは苦し紛れの副露でしかない。()()()を求めて繰り出された、非効率な一手である。

 

 東三局7本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 2巡目

 照:{222345679東東東南} ツモ:{一}

 

(――?)

 

 2巡目、照は初巡に払った{一萬}を引き戻した。煩わしいが、起き得ないことではない。けれどもこれまでの経験上、すでに仕上がった状態でこうした無駄な自摸を引き入れることは、珍しいといえば珍しい。

 

 対子落としを嫌う心理から、照の指は余剰牌の{南}へ伸びかけ――止まる。

 

 この半荘で初めての、宮永照の警戒だった。

 

 結果、彼女は構わず、再度{一萬}を払うことを選んだ。

 

 打:{一萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:13

 

 

「ロン」

 

 と、月子がいった。

 抑揚を全く欠いた、平坦な声音だった。

 

 東三局7本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 2巡目

 月子:{一一二三②③④南南南} チー:{横一二三} 

 

 ロン:{一}

 

「1000点の7本場は、3100」

 

 東三局7本場

 【西家】片岡 優希 : 1900

 【北家】須賀 京太郎: 4700

 【東家】宮永 照  :88500→85400(- 3100)

 【南家】石戸 月子 : 4900→ 8000(+ 3100)

 




※本場をいくら重ねても翻数しばりはなし

2012/10/29:表記漏れ修正
2012/10/30:誤字修正(×対子→○明刻)
2012/10/31:ご指摘いただいた脱字を修正
2012/10/31:ご指摘いただいた東三局2本場の符が凄いことになっていた箇所を修正(1翻100符→2翻50符)
2013/2/19:牌画像変換


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5.しんえんアーチ(前)

5.しんえんアーチ(前)

 

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:13

 

 

 東四局0本場

 【南家】片岡 優希 : 1900

 【西家】須賀 京太郎: 4700

 【北家】宮永 照  :85400

 【東家】石戸 月子 : 8000

 

 意識が沈澱していく。石戸月子の精神の表層に、いま、言語的な思考は浮かんでいない。最前の和了もまた、明確な根拠に基づく仕掛けではなかった。両立直・チャンタ・一益口を見切り、照の劈頭を叩いて得た2巡目和了だったが、その内実は紙一重である。ただ身体が鳴くべきだといった。だから月子は鳴いた。思考はほとんど用をなしておらず、感覚が和了に手を届かせた数十秒だった。

 

(目眩が止まない)

 

 月子は『運』を感覚的に捉える少女である。その実感は誰とも分け合うことはできないし、それが事実であると証明する術もない。運の多寡は、やはり結果でしか論じ得ない。

 つまり、月子が()()()()()()()()()()()()()()を不正と証明することは誰にもできない(もちろん、月子自身にもできない)。

 

(吐気が止まない)

 

 月子は瞑目する。

 目を閉じた瞬間、彼女が持つ前後左右上下の見当識はあっさり散じた。血が頭から下がったときのように、月子の身体はつかの間、重力のくびきから解き放たれる。『月子』は希薄になる。精神が希釈され、広がり、卓上へ感覚の糸を伸ばす。今しがた内部に落とし込まれた東三局7本場の牌の群れが、音を立てて洗われているのが『月子』にはわかる。34種136枚の牌が踊り、廻る。ユリア樹脂性の牌の内部に固められた磁石と、自動卓に組み込まれている磁石の磁力が引かれ合う。牌は卓内の機構に吸い込まれ、回転し、整えられて積みなおされていく。

 都合5局を経た牌に、この場に座る四人以外の残滓はかすかだ。片岡が触れた牌、京太郎が触れた牌、照が触れた牌、そして月子が触れた牌。あるいは複数の指が触れた牌(逆に、ほんのわずかだがだれにも触れられていない牌もある。照の和了が早すぎるせいだった)。けれども問題になる程度ではない。

 人には運がある。場には運がある。ものにさえも運はある。それは色素のようなものである。他の干渉を受け、ときには自分の色さえ変える。しかし、人が、場が、ものが固定された状況においてはそうではない。運は固着する。それが『流れ』になる。『流れ』は山、手牌、そして摸打に現れる。それを月子はつぶさに捉えることができる。

 ――後先を顧みなければ、手を加えることさえできる。

 どころか、そもそも、月子に宿ったものの本質は()()()()()()にこそある。ただしそれはあくまで一過性のものである。ある局面で自分に都合の良い『流れ』を引き寄せることは可能だが、直後には必ず巨大な揺り戻しが発生する。

 捏造した幸福を、わざとらしい不幸の温床にするのが月子のちからだった。

 

 たとえば、月子は物心ついたころ、近所の寺で産気づいた野良猫の世話をしたことがある。野良猫は可愛らしい子猫を四匹産んだ。月子はやはり動物だろうと他の生き物に触れることを避けていたが、小動物のわかりやすい愛嬌はそれなりに彼女を虜にした。月子は足しげく猫の親子のもとへ足を運んだ。なけなしの小遣いをはたいてそれとなく餌を恵んだりもした。彼女にしてみれば単純な善意の所産に過ぎない行為だった。生まれつき自分の()()()の扱い方を知っていた月子は、生まれて初めて、生き物の幸運を願った。野良の動物としては驚異的なことに、子猫たちは一ヶ月ばかり、大過なく過ごした。元気に走り回れるようになった。月子に懐き始めた猫もいた。

 そして二ヵ月後には皆、どうしようもない不運のせいで死んだ。

 

 たとえば、月子の母は、過労とストレスで病み、疲れていた。それこそ別れた夫に頼ることを余儀なくされるほど追い詰められていた。月子と母の家族仲は、結局良好とはいえないものだったが、それでも月子は母が嫌いではなかった。少なくとも死んで欲しいとは思っていなかった。だから月子は、細心の注意を払って、遠まわしに、ゆっくりと、そうとわからぬ程度に母の周囲の運気を改善させることにした。直接母の運勢に手を加えれば、あの猫たちのように何かしら良くないことがその身に起きる可能性がある。それを警戒して、月子は一つ一つ地歩を固めるように環境に手を加えた。何かが起きたとしても、その矛先が母に向くことが決してないよう、慎重を期した。数カ月がかりの仕事だった――やがて母は奇跡的に体調を回復させた。苦労が実ったと、月子は人知れず達成感に酔った。

 そして母は心を壊した。

 

(頭痛が止まない)

 

 あの夏の日の麻雀スクールで、絶好調だった自分が無意識的に行ったガン牌を月子は想起する。あのとき、彼女は指紋をしるしに牌の見分けを行ったと考えていた。そしてその当て推量は、あながち外れてもいなかった。ただし月子がガン付けしていたのは目に見えるしるしではない。牌のそれぞれが持つ『運』のコントラストを見極めていたのである。

 何しろあの場には、異常な運を持つ池田華菜がいた。『流れ』に不自然な偏りを仕込む南浦数絵がいた。ここ一番でおかしな歪みを生じさせる花田煌がいた。そして、驚くほどに何もない須賀京太郎がいた。つまり、期せずして月子が見分けやすい場が成立していたのである。月子のガン付けは、際立った性質を持たない打ち手だけで構成される場では機能しない。また条件を満たしていたとしても、二回や三回半荘を打った程度では場の『流れ』も固着しない。ようするに短期戦では、何ら意味を持たない異能である。

 ただし、今日この場には宮永照がいる。

 照は、月子の感覚においては人間ではない。その存在感で皓々と場を照らし支配する彼女は、現象に近い。照は自分のルールに基づき牌を求め、そして彼女を愛する牌は容易に求めに応じる。裏目や捩れはそこにない。照が打つ場には、本来麻雀にあるべき歪みが極めて少ない。

 宮永照は強すぎる光である。

 だからこそ月子は仕掛けを打ちやすい。

 

(悪寒が止まない)

 

 腹の底で、月子が生来抱える不快感の塊が鎌首をもたげる。

 彼女が存在を始めた瞬間――母の胎内で名前さえ持っていなかった時分に()()()()()()()が、月子の自我を押しのけて、顔をのぞかせる。

 

(動悸が止まない)

 

 開門まで自動的に行う全自動卓のうえに、東四局0本場の山がせり上がる。月子は浅く速く呼吸を連ねる。耳の裏側を流れていく血液が立てる音に彼女は耳を済ませる。唾液を何度も喉へ送り込む。目を開く。すると景色が回転して見える。

 

(焦点が定まらない)

 

 対面に須賀京太郎がいる。かれの表情に変化はない。勝敗は麻雀に興じる誰にとっても常のことだ。手ひどい負けの百や二百を、誰しも経験している。信じがたい不調や出来すぎな幸運に、誰しも覚えがある。かれはそれを知っている。だからそういうものだと思っている。それは全く正常な感想である。同じ状況が十度続けば異常を悟るかもしれない。そして宮永照は同じ状況を何度でも再現できる。そのときかれが何を思うのか、本音を言えば、月子は少しだけ興味がある。

 

 下家に片岡優希がいる。表情は冴えない。集中力は途切れている。なまじ感性が鋭いだけに、京太郎よりもよほど正確に照の脅威を捉えている。けれども場はまだ東場で、だから彼女の『流れ』は終わっていない。片岡にその気がなくても牌は寄る。それは照の和了が何度続いても変わらない。照の領域と片岡の領域は、いまのところ共存に矛盾が生じるものではない。

 

 上家に宮永照がいる。背筋を伸ばし、目の前の対局に心を向けている。連荘を断ち切られた彼女に何ら動揺は見出せない。

 照を見た『それ(月子)』は、彼女を美しいと思う。

 照を見た『月子(それ)』は、彼女を魔物だと思う。

 その感想は、いずれも正しく、いずれも誤っている。

 

 定まらない視界で、月子は各人の手牌を視る。

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 配牌

 月子 :{八九⑦⑦⑨333345北北北}

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 配牌

 片岡 :{■二■七七■九①⑧■46■}

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 配牌

 京太郎:{三三■七九③■12■南西■}

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 配牌

 照  :{四四五六六④⑥56678北}

 

 じゅうぶん以上に、よく視えた。

 ただし、山は視えないままである。月子自身がここ数ヶ月で解明したこのガン牌の理屈に沿えば決して視えないものではないはずだが、それでも視えたことはない。元より不可思議な現象だから、万事説明がつくとは月子も思っていないが、何となく、山や王牌が()()()()()()()()()である気がした。卓上にはそれぞれの領野があり、月子のそれは山や河に、王牌に行き届くものではない。それもまた、ひとつのルールなのだ。

 

(牌は視えてる。貴女の運も翳ってる。わたしはわたしの運を使い切る。この一局で弾切れになるけれど――これでようやく、少しは戦える)

 

 彼女は思う。

 

(勝負よ、宮永さん――)

 

 ――何をしたところで敵わないことは、もちろんわかっている。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:14

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 配牌

 月子:{八九⑦⑦⑨333345北北北

 

 打:{⑨}

 

 初巡、跳満(インパチ)確定の両立直を、月子はまたも打たなかった。{七萬}が三枚他家(しかも片岡と京太郎)の手で使われているからには、辺{七萬}の待ちで曲げることは出来ない。

 山に{七萬}が生きていても、面前では決して自摸和了できないという宿痾(しゅくあ)は、結局どんな状態でも変わらない。月子はその呪いを受け入れている。思うところはあれど、どうしようもないことであれば、付き合っていくしかない。

 精神が、鑢に掛けられるように、刻一刻と消耗して行く。

 月子は血眼になって他家の手牌を透かし見る。悪化する体調は、歯を食いしばって耐える。それでもあと数分も持たないであろうことを、月子は感覚的に理解した。

 

()()()()()――)

 

 霞む目の裏側に、宮永照の顔を焼き付ける。その顔が少しでも歪む未来を想像して、月子は口元を引きつらせた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:14

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 片岡:{一二二七七八九①⑧⑨46白} ツモ:{9}

 

(ようやくおねーさんの親が終わったじぇ……)

 

 {打:白}

 

 苦い顔で、片岡は牌を打つ。心は倦んでいる。この対局を続けることに、彼女は意義を見出せない。東場はじきに終わる。南場になればますます勝ち目は薄くなる。片岡の負けん気は十分に強いが、ここで息を吹き返すことの至難さが判らないほど不屈ではない。

 

(悔しいけど、悔しいけど――もう終わったほうがいい。だって、苦しいし……つまんない――)

 

 こんなときもある。それが麻雀である。大敗を次に引きずらない切り替えの早さを、彼女は生来的に備えている。

 

(でも――終わって、それで、どーするんだろ)

 

 けれども問題は、対面の少女に、自分が勝つ光景がどうしても想像できない点にある。

 

(また、このひとと、打つのか――?)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:14

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 京太郎:{三三五七九③⑥12東南西中} ツモ:{⑤}

 

(まいったな)

 

 と、京太郎は思う。

 

(手の打ちようがねえぞ、これは)

 

 八万点の差を、覆す方法が思い浮かばない。役満を直撃しても差せないとなれば、事実上親で連荘を重ねるしかない手はない。けれどもこの面子でそれをすることの難しさを、かれはじゅうぶん知っている。

 

(ツイてるだけなのか? それとも、()()が月子が言ってたことか?)

 

 右手に見える照の横顔は涼しげである。平然と本場を重ね、それが途切れたところで何の痛痒も感じていない。泰然という言葉を少女の形に押し込めたような風情だった。

 胸の内には空虚な風が吹いている。かれにとっては馴染みの無力感である。尽くすだけの手を尽くして、届かないことなど世には五万と転がっている。越えられない壁は厳然と、しかもいたるところに存在している。月子の言が正しいのならば、照はそうした壁の一つだ。

 

(――でもおれは、麻雀にそんな壁は、ないと思うんだ)

 

 それが事実でも幻想でも、かれには関係がない。照がどういった存在だったとしても、かれに影響を与えることはない。京太郎の世界は内側で閉じている。石戸月子が京太郎の姿勢を案じるのは、京太郎の麻雀への入れ込みが健全なものであるという誤認があるためだった。

 

(それにしても、なんかやってんのかアイツ)

 

 照とは対照的に顔色が悪い対面の月子へ、京太郎は視線を移す。血色が完全に顔から失せて、青白い頬は死体を連想させるほどだった。眼球は険しい光を宿して、自分の手元や河ではなく、他家の手牌の背に向いている。

 この土壇場で、古式ゆかしい理牌読みを試みている、というわけではなさそうだった。それにしてはあまりに目の色が必死で、視線が露骨である。理牌読みは気取られた時点で意味をなさないどころかリスクさえ孕む。確実性にも乏しい。

 となると、他人の牌を凝視する理由など一つしかない。

 

(もしかして、ガン牌か――?)

 

 {打:南}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:14

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 照  :{四四五六六④⑥56678北} ツモ:{三}

 

 山から牌を自摸った照は、右手の{三萬}を二秒きっかり眺め、次いで、浮き牌の{北}に目を落とす。手牌は横に伸びたがっている。{北}に縦を引ける気配はない。山にいる様子もない。残す意味は欠片もない。

 だからこそ彼女は、そこに作為を感じた。

 前局の{一萬}がまさしくそうだった。

 

(………)

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:14

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 2巡目

 月子:{八九⑦⑦333345北北北} ツモ:{一}

 

 打:{一萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 2巡目

 片岡:{一二二七七八九①⑧⑨469} ツモ:{1}

 

 打:{4}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 2巡目

 京太郎:{三三五七九③⑤⑥12東西中} ツモ:{發}

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 2巡目

 照  :{三四四五六六④56678北} ツモ:{8}

 

 打:{④}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 3巡目

 月子:{八九⑦⑦333345北北北} ツモ:{東}

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 3巡目

 片岡:{一二二七七八九①⑧⑨169} ツモ:{8}

 

 打:{6}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:15

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 3巡目

 京太郎:{三三五七九③⑤⑥12西發中} ツモ:{發}

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:16

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 3巡目

 照  :{三四四五六六566788北} ツモ:{⑤}

 

「――――」

 

 打:{⑤}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:16

 

 

(アヤが――ついた)

 

 上家の面子被りに、月子は確かな手ごたえを感じた。照は間違いなく月子の『仕掛け』に気づいている。詳細まではわからずとも、前局の不自然な被弾は照に警戒心を植え付けたはずである。だからこそ手の内で露骨な孤立牌である{北}を打たずにいる。手順に則り真っ直ぐに和了へ向かって劈頭で{北}を打っていれば、照の牌姿はこの巡目で、

 

 {三四五六六④⑤⑥56788}

 

 となっていた。どうとでも和了に向かえる牌姿である。ふたたび照の連続和了の皮切りとなったことは想像に難くない。

 そして、さすがに月子も翻牌のバックも期待できない牌姿から役無しの大明槓を仕掛ける心算はなかった(嶺上に最後の{七萬}が埋まっていれば話は別だが、嶺上牌はガン付けできなかった)。つまり、照の警戒は杞憂である。

 

(それを防げただけでも大きい……)

 

 異様に冷えた心地のする首筋に触れながら、月子は山へようよう手を伸ばす。摸打を繰り返すだけでも注意が必要だった。無理が祟り、気を抜くと吐瀉しかねないほど体調が悪化している。

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 4巡目

 月子:{八九⑦⑦333345北北北} ツモ:{6}

 

(出来すぎの自摸――)

 

 苦笑を浮かべる余力もない月子は、有効牌を引き寄せる感覚に、少しだけ浸る。

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:16

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 4巡目

 片岡:{一二二七七八九①⑧⑨189} ツモ:{三}

 

(牌が集まってくる)

 

 消沈した意気に、自摸った{三萬}が眩しく感じる。片岡は遣る瀬無い気持ちになる。牌の気まぐれに振り回されている自分が、どうにも可笑しく感じられて仕方がなかった。

 

(まだ、いけるのか?)

 

 自問したところで、答えはないに決まっている。

 

(でも――まだ、東場だじぇ)

 

 勝てないまでも、一矢を報いることはできる。

 

 打:{二萬}

 

 熾火を胸に宿して、片岡はつよく牌を打った。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:16

 

 

優希(上家)月子(対面)の手が進んでるうえに、照さん(下家)がこの序盤で{④⑥}の嵌張見切って面子カブリってことは、少なくとも一向聴)

 

 場況と手元を比べて見て、京太郎は嘆息した。

 

(向かっていける手牌じゃねえ)

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 4巡目

 京太郎:{三三五七九③⑤⑥12西發發} ツモ:{西}

 

 打:{③}

 

(手を狭めても、廻せる形に仕上げる――)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:16

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 4巡目

 照  :{三四四五六六566788北} ツモ:{9}

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:17

 

 

(ヨレまくってるわね、宮永さん――そんな経験、どれだけある? せいぜい、堪能して頂戴)

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 5巡目

 月子:{八⑦⑦3333456北北北} ツモ:{⑧}

 

({⑧}――)

 

 引いた牌を盲牌して、月子はつと河へ目をやった。

 

 河:{⑨一東九}

 

 憔悴に塗れた瞳に、皮肉の色が浮かぶ。

 

(ズルして運がよくなっても、わたしが下手なら、裏目もある、か)

 

 打:{⑧}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:17

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 5巡目

 片岡:{一二三七七八九①⑧⑨189} ツモ:{八}

 

 自摸った牌に、片岡は熱を感じた。過去にない感触だった。向聴の変わらない{八萬}引きが、一辺に目路が開けたような感覚を伴っていた。

 

(なんだろう、コレ)

 

 打:{1}

 

(――追い風みたいだじぇ)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:17

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 5巡目

 京太郎:{三三五七九⑤⑥12西西發發} ツモ:{南}

 

 {打:南}

 

 他方、京太郎は苦しい体勢であった。自風の{西}か{發}を叩かねば、和了への見通しも立たない。ただし叩いたところで急所が残る。足が速い他家に抗するには、良形が最低条件である。

 

{3}(ドラ)――そもそもいるのか、こいつ)

 

 疑念と共に、辺{3}の塔子を見やる。場を一頻り眺めると、京太郎は軽く息衝いた。

 

(――ここは手仕舞いだ)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:17

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 5巡目

 照  :{三四四五六六566789北} ツモ:{③}

 

 打:{③}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:17

 

 

(なんて自摸してるのよ……)

 

 上家が河に並べた筒子の中張牌を、月子は苦笑と共に見送る。こうなってくると、照が頑なに抑えている{北}が気になった。月子自身は感知し得ない嶺上を照は見通しており、そこに月子の和了が埋まっているのかもしれない。そんな気分にさえなってくる。

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 5巡目

 月子:{八⑦⑦3333456北北北} ツモ:{六}

 

(結局{七萬}待ちかぁ)

 

 憔悴に濁った瞳を一度伏せて、月子は口角を吊った。この愚形と心中する覚悟を固めたのである。形は歪でも、それは照の洞察に対するある種の信頼だった。

 仮に嶺上に最後の{七萬}が埋まっていたとして、いまここで{3}を暗槓することはできない。最低でも6000オール、槓ドラが乗ればさらに上もありうる――つまり対局が終了してしまう。けれども、仮に役満を自摸和了ったところで照を捲くることはできない。仮に和了るのであれば、照から出和了るしかないのである。

 そして肝心の照はというと、非効率としかいいようがない迂回を迷わず実行し続けている。{北}だけは切るまいという堅牢な意思を表明し続けている。

 

(たぶん、きっと――)

 

 奇妙な確信と共に、月子は{6}を手から抜いた。

 

 打:{6}

 

 同卓してまだ一時間足らず――けれども月子は、照が自らの麻雀暦において指折りの打ち手だと確信していた。成長性まで見込めば、過去どころか未来を含んでも照以上の相手と見えることはないかもしれないとまで思った。こんな片田舎の、牧歌的な小学校で出会える手合いではとてもない。照との遭遇は月子にとって何ら益するものはなかったが、それも心持次第だった。

 

(わたしが)と、月子は思った。(これからも麻雀(ここ)で生きていくのなら、宮永さんみたいな人と打つことは、避けて通れない)

 

 いつしか、京太郎を案じる心情よりも、照に対するある種の反骨精神が月子の思考を占めつつあった。肉体と精神の不調が彼女から暖色の感情を削ぎ落としていた。対人関係の処方が改善されようとも、月子は本質的に利己的な人間である。追い詰められれば攻撃的な側面が主張を強め始める。

 真っ当なやり方では、照に勝てないことはわかっている。

 だからといって、尻尾を巻いて白旗を振ることは、石戸月子の流儀にない。

 

「ふゥ――」

 

 嘔吐の衝動を深く細い呼吸で逃がしながら、月子は頭上に灯る黄色い電球を見つめる。震える手を握る。京太郎を見る。年下で異性の友人は、相も変わらず麻雀に夢中だ。意外に聡いかれは、おそらく月子の変調に気づいているが、それを口に出したりはしない。月子が気遣いを嫌うことを知っているからだ。

 

(あなたみたいに、須賀くん――わたしもちょっと、打ってみようかと、思うわ)

 

 止まらない額の冷や汗を親指で拭うと、月子は目前の対局に没頭した。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:22

 

 

 その後の東四局は、奇妙なほど平穏で、動きがなかった。拍子のように摸打が繰り返され、誰の仕掛けも発声もないまま、ただ巡目だけが進行した。

 月子は照を強く意識し続け、照は聴牌を見送ってまで{北}を抱え続けた。互いに互いの牌勢を過敏に察するがゆえの膠着が生まれた。

 

 その中で打牌が目だったのは片岡である。序盤から聴牌気配の濃い月子の河には目もくれず、ひたすらに中張牌を切り続け、老頭牌がこぼれたと見えた13巡目、彼女は何の迷いもなく、

 

「――立直」

 

 と、いった。

 

 その発声を受けて、月子は嘆息する。

 照は無表情で、手に止め続けた{北}に触れた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:23

 

 

 東四局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2}) 裏ドラ:{北}(ドラ表示牌:(西})

 14巡目

 片岡:{七七八八九①①⑦⑧⑨789} ツモ:{九}

 

「ツモ……」

 

 どこか疲労の滲んだ――東一局とは全く様変わりした形相で、片岡は和了を宣言した。

 

「4000・8000!」

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:23

 

 

 東四局0本場

 【南家】片岡 優希 : 1900→17900(+16000)

 【西家】須賀 京太郎: 4700→  700(- 4000)

 【北家】宮永 照  :85400→81400(- 4000)

 【東家】石戸 月子 : 8000→    0(- 8000)

 

「立直も……掛けられなくなったわね、お互い」

 

 億劫さを隠そうともせず、月子は京太郎に語りかけた。京太郎は肩を竦め、無言のまま月子を見返した。瞳に気遣う色があった。月子もまた、声には出さずにその気遣いを跳ね除けた。

 そして、重たい右手を引きずるようにして、嶺上牌とふたつの槓ドラを彼女は捲り――

 

 嶺上牌:{七}

 槓ドラ1:{3}(ドラ表示牌:{2})

 槓ドラ2:{北}(ドラ表示牌:{西})

 

(――なるほど。手筋次第で、届いたんだ)

 

 と、納得したように頷いた。

 

「そう、いえば……、ちゃんと、決めてなかったわね。大明槓の(パオ)

 

 途切れがちに呟いて、月子は照を見やる。照は特段何の反応も見せなかった。静かに、次局の開始を待っている。

 

「南入だ」

 

 と、京太郎がぽつりと呟いた。

 

「そうね、――?」

 

 月子は長く吐息した。

 

 ――とたん、背中にこれまでとは種類の違う悪寒を感じた。

 

 何かに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ような、そんな感触だった。

 

 思わず振り向きたくなる衝動を、月子はじっと堪えた。振り向いたところでそこに何も存在しないことはわかりきっていたからだ。

 何をされたかはともかく、誰が仕掛けたかは自明だった。

 

(ようやく、ちょっとその気になったってところ?)

 

 すまし顔で座り続ける最年長の少女を、月子は凶悪な眼差しで見つめた。

 

(――でも、もう遅い)

 




2012/11/14:ご指摘いただいた多牌を修正
2013/2/19:牌画像変換


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6.しんえんアーチ(後)

6.しんえんアーチ(後)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:25

 

 

 仮にこの世に牌の寵愛を享ける人間が存在したとする。

 

 彼ら、彼女らの()()は、いわゆる超能力的な特性が発揮する強さとはやや趣を異にしている。石戸月子は身近に存在する少ないモデルケースから、ある程度の仮説を導き出した。

 たとえば鳴けば手が入る。あるいは流れを知覚し変える。これらはいずれも月子の体質を源泉とした一定の『ルール』に基づく現象である。極めて私的だし非現実的ではあるけれども、そこには範囲と出力が存在し、だから必然的に限界も設定されている。逆説的に、条件を満たさない限り月子の『道』は何ら意味を持たず、他家に利するだけの裏芸になる。

 彼ら、彼女ら――この場でいえば、宮永照はそうではない。彼女に月子と同じ真似が出来るかといえば、『恐らく望めば出来る』と月子は考えている。体得することもできるだろうし、月子とは異なるアプローチで同じ結果を導き出すこともできるだろう。けれどもそれは照から牌への能動的な働きかけではない。牌が照の意に沿うために起きる現象である。つまり、事実上ただの偶然でしかない。()()()()()()()()()()()ことの、それは差異である。むろん微差でしかない。しかし狭間に刻まれた溝は深い。

 

(この手のひとたちの、いちばんやっかいなところは)

 

 と、月子は思う。

 

(オカルトじゃない。いみわかんないくらい鋭いカンじゃない。読みや洞察じゃない。そんなのぜんぶ持ってるに決まってる。問題は、たとえ、それをぜんぶもってても――()()()()ことなんだ)

 

 照の支配域が、月子の感覚を塗りつぶす。先刻までの、無防備に卓を囲んでいた照はもういない。彼女は月子の仕掛けと特質と弱点を一見で看破し、把握し、対応した。すでに月子には、場の手牌を見透かすことはできなくなっている(照が何かを行ったのか、それともたんに月子の集中力が途切れたためか、実のところ原因がどちらかはわからない)。

 

(単純に、運がとんでもなく良い。それが、この()()()()()たちの強さの――本質なんだわ)

 

 いま、場には月子の打った仕掛けの揺り戻しが発生している。二局連続の好配牌を引き寄せた代償を、今にも払えと流れが要求している。

 ようするに、月子以外の全員にとって都合の良い状況が成立した。

 それこそ月子の望むところである。もちろん、ガン牌と同様に、この仕掛けも照に無効化されないという保証はない。月子は何事においても楽観はしない。九割方無効化されることを覚悟している。

 ――けれども、もう遅い。

 この半荘において、宮永照は前局まで(ヒラ)で打っていた。むろん裏技(ゴト)の有無ではなく、能動的に特異な現象を起こしていなかったという意味である(つまりここまでは純粋に持ち前の運と技量のみで打っていたということでもあり、それはそれで月子をうんざりさせる事実だった)。

 そして、照が月子への()()を始めたとき、すでに南一局の牌山は自動卓の中で積み上げられていた。月子にはもう余力がないが、因果は既に含まれている。全自動卓の機構を利用した、時間差を置いた仕掛けであった。

 

(たったの一半荘、それも東場だけでこのザマは、なんとも情けない――ところだけれど)

 

 霞む視界に闘争への意欲を滾らせて、月子は手元の牌を捲る。指を開閉する。

 飲み下した胃液は、血の味がした。

 

(わたしにできる全部の手を使って、潰す)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:25

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 【東家】片岡 優希 :17900

 【南家】須賀 京太郎:  700

 【西家】宮永 照  :81400

 【北家】石戸 月子 :    0

 

(トビは、とりあえずなくなったけど……ツモったら終わっちゃうじぇ)

 

 東場が終わり、気炎が消える。馴染みの感覚は片岡から力を奪う。集中力が途切れ、自身の引きに対するある種の確信が薄れる。かといってここでいつも通り傾けば、一瞬で対局は終わる。対面の女に一方的に弄られて、直撃の一つも奪えないままに敗北が刻まれる。

 片岡は強い。少なくとも同じキャリアの同世代の打ち手と比せば、抜きん出ているといってもよい。しかし敗北を知らないわけではない。半荘戦では東場のリードを守りきれずに捲くられることが多く、南場に緩手を打つ自分に嫌気が差すこともある。

 

 巧くなりたければオリを覚えるべきと、大多数の年長者は片岡に諭す。度重なる放銃を経て、片岡も同じ感想を持っている。だが彼女には、牌の危険度などわからなかった。基本的に片岡の感性は鋭いが、その犀利さは攻撃面に傾倒している。

 たとえば和了を目指し、手牌を目一杯に構えていた一向聴、他家から立直が掛かる。安全牌はない。そんなとき、何を切るべきか――片岡は基本的に不要な牌を切る。つまり、河の状況から相手の待ちなど忖度しない。牌に応じた統計的な安全度は、無論ある。端牌、字牌、筋、壁――覚えるべきセオリーはそれなりにあり、それらの習得には経験が必要だった。守りや読みのセンスについてだけをいえば、片岡のそれは乏しいといえた。

 山勘で打つ。

 打てば中る。

 そしてどんな手も、成就しなければただの夢だ。

 そんな光景は、飽きるほど繰り返された。

 

 東場の成功体験は、南場の片岡にとって足かせになる。同じ要領で打っているはずなのに、感覚的にも実際的にも、和了率と放銃率に一割五分以上の開きが生じるのである。その落差は片岡を混乱させる。東場の自分は強い。だが南場の自分は弱い。そうとしか捉えられないし、それは一見、事実だった。必然片岡は、南場は守りに徹するべきだと考えた。最初から和了を目指さず、硬く打つことを心がける。それでもここ一番という南四局(オーラス)、なぜか彼女は絶対に打ってはいけない牌を引き、どうしようもなく窮して手放し、刺さる。

 

 東場では圧倒的に強く、南場では対照的に弱い。

 

 みな、不思議がりながらも、片岡の麻雀を()()()()()()だと認識する。

 片岡も同じように考えている。

 花田煌は、少しだけ、違った。

 

『そうかな、どうかな――私は、違うと思うな』と彼女はいったのだ。『東場に強いのは、上乗せがあるってことでしょう。だから、つまり、南場で弱いのは、上乗せがなくなっただけの話じゃないですかね。つまり、巧くなれば――南場でも強いし、東場ならもっともーっと強いってことです! すばらっ!』

 

(――そんなツゴーのいい話、あるわけないじぇ)

 

 と、片岡は思う。

 けれども、自信満々に根拠のない願望を語る花田を想うと、

 

(でも、もしかしたら)

 

 とも、思うのである。

 小学生の片岡にとって、年次の序列とはまだ不分明なシステムでしかなかった。ひとつ年上の花田はだから、級友の延長上にいる存在である。それでも居住まいを正させるような空気を、花田は持っている。彼女がこの麻雀教室にいなければ、片岡はとうに麻雀に飽いて、いまごろ外で走り回っていただろう。

 

(今日の麻雀は、楽しくはない。なんだか重たくて、ちょっとキツイ)

 

 呼吸を調え、片岡は宮永照を睨みすえる。

 

(ヨユーの顔しちゃってぇ――)

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 配牌

 片岡 :{五五六九②②⑥⑥2247西北}

 

(ほえ面、かかせてやるじぇ!)

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:25

 

 

(自摸ったら、満貫以下ならその時点で3着確定。役満自摸でも連対止まり。最低でも照さんからの直撃が欲しいところだが)

 

 京太郎は不自然にならない程度に息を潜める。

 

(引き出すには細工が要る――)

 

 緊張を隠すために、強いて脱力して、手牌と向かい合った。

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 京太郎:{八2348東白白發發發發中} ツモ:{6}

 

 滅多に見かけないほどの勝負手である。大三元まで望むのは強欲に過ぎるが、それでも容易に面前混一色が狙える牌姿だった。けれどもこの場況においては、やや扱いに苦労することも事実である。

 

(ぜんぶ、聴牌に漕ぎ着けるまでの自摸に掛かってる。ふだんなら迷彩なんざ気にしてもしゃーねぇけど、出和了が最低条件ならそうも言ってられねぇ、自摸がヨレてバレバレな河になりゃァ、ぜんぶおじゃんになっちまう――)

 

 上家の片岡の第一打から牌を自摸り、河に捨てるまでの間に、京太郎は必死で思考をめぐらせた。

 

(ここから、おれができること――)

 

 {打:發}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:25

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 照  :{二六八②③⑧⑨1579北北} ツモ:{南}

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:25

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 月子 :{一四七①⑤⑧2399東南西}

 

 牌が河に打たれてから視認し、動作を開始するまでに数秒の間があった。時間感覚さえ覚束なくなった意識の狭間で、月子は山へ手を伸ばす。

 ――その手のひらの内側には{東南}が握りこまれている。二枚の牌は磁石のようにぴったりと月子の手に付着し、完全に他家の視界からは隠れている。

 開門は月子の右手、つまり片岡の山だった。月子は左手で服の袖を押さえる仕草のカモフラージュを行い、照の視界から右手を部分的に隠す。同時に卓下の左足を軽く揺さぶり、音を立てる。生物的な反応として、片岡、照、京太郎の意識はほんのわずかだけ音源に向く。月子は全神経を指先に集中する。呼吸も止める。本来の月子の自摸――北家が最初に自摸る下山の数センチ先のラシャに右手を被せる。{南}を上、{東}を下山に見立てて、右手に忍ばせた二枚の牌を音もなくラシャに置く。擦るように自摸る動きをなぞる。月子が元々自摸る下山の牌を摘むと同時、片岡と京太郎の自摸筋に存在する牌を摩り替える。単純に()()()()()()()()()()だけのすり替えである。しかし難度は非常に高い。月子のすり替えの技術はそれなりに習熟こそしているが、所詮は手慰みに覚えた技術だった。玄人どころか、多少目が良い人間にも見破られる程度のものでしかない。

 だからここで仕掛けた。

 1巡目、すなわち他家の意識がもっとも手牌に注がれる瞬間に、意識の間隙がある――。

 

 かすかに音がなる。

 

 つたない指の操作のせいで、摩り替えられた牌山がわずかに乱れる。

 

「――っ」

 

 月子の背を冷たい怯えが伝う。肩筋に力が篭る。さっきから嘔吐感は彼女を途切れなく襲っていて、それが緊張のためか体調悪化のためかの区別もつかない。

 一瞬が過ぎる。

 誰の声も掛からない。

 月子の手牌が、一時的に少牌になったことを指摘するものもいない。

 顔色を変えずに、しかし胸中で、月子は安堵の息をつく。

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 月子 :{一四七①⑤⑧6899西} すり替え:{南東} ツモ:{西⑦一}

 

(片岡さんの自摸筋には{⑦}、須賀くんの自摸筋に{一萬}……)

 

 月子は先刻、幸運の恩恵を受けた。次は不幸の逆襲を受ける番である。そして麻雀における不幸とは、畢竟他家の和了に集約される。だから、他家には手が入っている。それは間違いない。けれどもかれらの和了がどういったかたちで訪れるかは、月子の制御の外である。このすり替えは、()()()()()()を確認するためのいかさまだった。月子はすでに、自らが和了することについては断念している。

 

(とはいえ、巡目が早すぎて、ふたりの有効牌かどうかもわからない。宮永さんの自摸筋は、遠くてわたしの腕じゃすり替えはむり。ただ、使いようくらいはあるでしょ)

 

 打:{①}

 

(そう何度もできる技じゃない。というか、久しぶりすぎて、もう出来る気がしない――)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:26

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 2巡目

 片岡 :{五五六②②⑥⑥2247西北} ツモ:{南}

 

(場風――キライだけど、いちおう、もっておく)

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:26

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 2巡目

 京太郎:{八23468東白白發發發中} ツモ:{東}

 

(打{八萬}から{7}、東、白引きで黙跳聴牌の一向聴……)

 

 引き寄せた{東}(ドラ)が月子に掴まされた牌とは知らず、僥倖としか思えない自摸を前に京太郎は黙考した。

 これ以上を望めば、それはたんなる潮目の見誤りになる。

 普通であれば、そうなる。

 けれどもこの場況において12000は、なしのつぶてにも等しい。

 更に上の打点を見据えて、京太郎は手順を想像する。

 出来すぎるほどの自摸と他家に和了されないという二重の幸運に恵まれさえすれば、どこまでもゆける。

 

(なんだ――簡単じゃねえか)

 

 場を視ずひたすら、和了を目指す。いずれ和了されれば終わる身である――そう開き直れば、麻雀はたんなる捲りあいの遊戯になる。そこに面白さがあることを、京太郎は否定しない。その種のスリルこそ、かれが求めるものである。

 しかし、

 

(――いまはそういうときじゃねえ。12000の自摸より、優希や月子からの32000より、照さんからの8000が必要なんだ)

 

 と、京太郎は考えた。

 いまは、あくまで照からの直撃を引き出すべきときである。32000点の聴牌は、それ単体では1000点の和了に劣る。それは麻雀における絶対の真実である。

 しかし、真っ直ぐな打牌は警戒を招く。誰しもの、京太郎自身の意表さえつく一手でなければ、照からの直撃は引き出せそうもない。

 

(あの、はじめてあった時、みたいな――)

 

 脳の右側が、疼くように蠢くのを京太郎は感じる。むろん脳に触覚はない。たんなる錯誤である。しかしかれは、そこから背骨の中身をとろけさせる何かが分泌され、全身に行き渡っていく感覚を確かに持っている。擬似的な危険に近づく剣呑さが、かれを捉えて離さない。五階建ての建物から雪の積もった地面に飛び込んだときのような開放感とむやみな爽快感が、かれのなかで拡がっていく。

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:26

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 2巡目

 照  :{二六八②③⑧⑨579北北南} ツモ:{白}

 

 打:{二萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:26

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 2巡目

 月子 :{一一四七⑤⑦⑧6899西西} ツモ:{三}

 

(さあ、何向聴地獄が始まるのかしら)

 

 打:{⑤}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:26

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 3巡目

 片岡 :{五五六②②⑥⑥2247南西} ツモ:{②}

 

 {打:西}

 

 3巡目、片岡は急所となりうる{②}の縦をアッサリと引いた。彼女の目が素早く手牌の塔子を行き来する。七対子の2向聴だが、当然、ドラも含まない2400点を和了ったところでこの場では意味がない。

 

(どうせなら……目指すはひとつ――だけど)

 

 これが東場であれば、あるいは片岡はその特性により、独力で縦自摸を重ねたかもしれない。確信をもって方針を定めたかもしれない。しかしいまは南場である。行くか進むか――手広く構えるか決め打ちか――片岡の脳裏を複数の選択肢が行き交う。どれもそれなりに説得力を持ち、それなりに合理的で、彼女は解を絞りきれない。

 

(すなおに……来る牌に、合わせて……)

 

 確信はない。

 だが、行かないという選択肢はない。

 道を踏み外したが最後、彼女の最後の親番は終わる。

 たとえ聴牌を入れても、京太郎か月子が聴牌せずに流局を迎えれば、対局は終わる。

 

(ほんと、きっついじぇ――)

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 4巡目

 片岡 :{五五六②②②⑥⑥2247南} ツモ:{⑧}

 

 {打:南}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 5巡目

 片岡 :{五五六②②②⑥⑥⑧2247} ツモ:{3}

 

 打:{7}

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 6巡目

 片岡 :{五五六②②②⑥⑥⑧2234} ツモ:{五}

 

 打:{六萬}

 

(二ツ目)

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 7巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑧2234} ツモ:{七}

 

 打:{七萬}

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 8巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑧2234} ツモ:{九}

 

 打:{九萬}

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 9巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑧2234} ツモ:{中}

 

 {打:中}

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 10巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑧2234} ツモ:{⑧}

 

 打:{4}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 11巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑧⑧223} ツモ:{6}

 

 打:{6}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:26

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 3巡目

 京太郎:{八23468東東白白發發發} ツモ:{2}

 

「…………」

 

 打:{八萬}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 4巡目

 京太郎:{223468東東白白發發發} ツモ:{①}

 

 打:{①}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 5巡目

 京太郎:{223468東東白白發發發} ツモ:{8}

 

({8}……)

 

 混一色七対子ドラ2の一向聴である。受け入れは狭いが、単騎はその分照準が付けやすいともいえる。

 ――が、京太郎は思いなおした。

 

(いや、だめだ――ここで2枚目の{發}を手出ししたら、染め手か七対子って宣伝するようなものだ)

 

 {打:白}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 6巡目

 京太郎:{2234688東東白發發發} ツモ:{④}

 

(寄れ)

 

 {打:白}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 7巡目

 京太郎:{④2234688東東發發發} ツモ:{6}

 

(――寄れ)

 

 {打:東}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 8巡目

 京太郎:{④22346688東發發發} ツモ:{中}

 

 {打:中}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 9巡目

 京太郎:{④22346688東發發發} ツモ:{3}

 

 京太郎の肌が粟立つ。役牌と{東}の対子を切り落としながら、怪物のような手が育っていく。とても自分の引きとは思えない。それほどに順調な自摸だった。

 

 打:{④}

 

 そして、10巡目――。

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 10巡目

 片岡 :{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{4}

 

 上家から打たれた緑一色を確定させる{4}を、京太郎は無視した。一瞥すらしなかった。現状、京太郎の河は{白}と{東}(ドラ)が異常に目立っている。よほどの手が入っていることを、すでに欺瞞することは不可能だろう。しかしその『手』が緑一色と気取られることだけはあってはならない。劈頭の{發}がその気配の希釈に大きな役割を果たしている。

 だが、{發}は(当然ながら)初牌以降一枚も場に見えていない。ここで京太郎が{468}を叩いた場合、聴牌を確定させることができても出和了できる可能性が減る。槓子からの一枚落としという単なるセオリーに思考が至る可能性を少しでも減らす必要がある。

 

(だから、鳴かない)

 

 表情を変えず、京太郎は歯を食いしばった。

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 10巡目

 京太郎:{223346688東發發發} ツモ:{③}

 

 打:{③}

 

 さらに、11巡目、

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 11巡目

 片岡 :{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{6}

 

(……マジかよ)

 

 怖気が京太郎の背を伝う。河を忙しなく検めようとする瞳の動きを、かれはかろうじて制御する。露骨な目線は手の内を晒す。迂闊な動きは布石を台無しにしかねない。

 しかし、

 

{68}(こいつ)は……あと、どれくらい――山にいるってんだ)

 

 叩くべきだった。

 かれが月子から学んだ定理も、ごく一般的な常識も、その行動を支持している。ドラを2枚も切り落としておいて、今さら役の一つを迷彩することにどれだけの意味があるというのだろう。他人の裏をかいたところで、照が和了牌を掴み、放す確率がどれほどあるというのだろう。

 いま、片岡が打った{6}は自摸切りだった。すなわち、前巡の{4}を喰っていれば、今巡で京太郎は緑一色を自摸和了っていたのである。一度も和了ったことのない役満を、ただ出和了の布石のために見送る意義とは、ただ宮永照という少女に勝てる()()()()()()可能性を残す点にだけある。面前を貫いたところで確実に勝てるわけでもない。連対に絡むことができれば次の半荘に勢いをつけることができるかもしれない。2着の何が悪いというのだろう。

 そもそも京太郎は1着にそれほど固執しているわけではない。

 照に勝てないのであれば、それは、それだけの話でしかない。

 

(――でも、鳴かねー)

 

 表情を凍らせて、京太郎はまたも、片岡のこぼした有効牌を無視した。

 

(勝つだけじゃあ、意味がねえんだ。それじゃあ、何も意味ねえんだ――このヒリヒリした感じがないなら、――――あ?)

 

 頑なな瞳で、牌を自摸った京太郎は、右手の親指の腹がなぞる盲牌の感触に、人知れず心をふるわせた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:28

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 11巡目

 京太郎:{223346688東發發發} ツモ:{8}

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:28

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 3巡目

 照  :{六八②③⑧⑨579北北南白} ツモ:{④}

 

 {打:南}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 4巡目

 照  :{六八②③④⑧⑨579北北白} ツモ:{五}

 

 打:{八萬}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 5巡目

 照  :{五六②③④⑧⑨579北北白} ツモ:{⑤}

 

 {打:白}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 6巡目

 照  :{五六②③④⑤⑧⑨579北北} ツモ:{九}

 

 打:{九萬}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 7巡目

 照  :{五六②③④⑤⑧⑨579北北} ツモ:{5}

 

 打:{5}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 8巡目

 照  :{五六②③④⑤⑧⑨579北北} ツモ:{8}

 

 打:{5}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 9巡目

 照  :{五六②③④⑤⑧⑨789北北} ツモ:{①}

 

 打:{⑧}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 10巡目

 照  :{五六①②③④⑤⑨789北北} ツモ:{東}

 

 打:{⑨}

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 11巡目

 照  :{五六①②③④⑤789東北北} ツモ:{⑦}

 

 

「――」

 

 片岡

 河:{九北西南7六}

   {七九中46}

 

 京太郎

 河:{發中八①白白}

   {東中④③東}

 

 照

 河:{1二南八白九}

   {55⑧⑨}

 

 月子

 河:{①⑤南南白中}

   {1①①9}

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:28

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 11巡目

 月子 :{一一三四七⑦⑧6789西西} ツモ:{二}

 

(7巡連続自摸切りしたかと思いきや、10・11巡と連続で手が入ってくるってことは……そろそろ、どちら様も準備オーケーって感じ、なのかしら)

 

 遠くない終局の予感を前にして、月子は疲弊しきった顔に憂鬱を浮かばせた。

 京太郎と片岡に対して、少しだけ申し訳ない気がしたからである。

 

(宮永さんとやらせるためだけに、わたしのちからに、二人を巻き込んじゃった)

 

 おまけに、肝心要の部分は結局運任せの捲りあいになる。京太郎が「つまらない」という麻雀の典型である。これから起きることはたとえどんな結果であろうとそれは予定調和の範疇で、きっとそれは、月子の友人が好む麻雀とは相容れない性質の出来事だった。

 

(そうねえ――須賀くん、あなたのいうことも、いまなら、わかる気がする)

 

 打:{七}

 

(じぶんで戦わない麻雀なんて、正直つまらないわよね――)

 

 大きくため息をついて、月子は首を傾けた。

 相変わらず焦点が合わない視界が、積年を連想させる漆喰の素材についた染みを捉える。

 

(あぁーあ)

 

 一寸だけ泣きそうになって、月子は思わず、天井を仰ぎ見た。

 

(麻雀、強くなりたいなぁ――)

 

 石戸月子ひとりを蚊帳の外において、月子が作り上げた渦中の勝負は、最終局面へ移行した。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 12巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑧⑧223} ツモ:{⑦}

 

 打:{3}

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 12巡目

 京太郎:{2233466888發發發} ツモ:{③}

 

 打:{③}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 12巡目

 照  :{五六①②③④⑤⑦789北北} ツモ:{七}

 

 聴牌を引き入れた照は、少しだけ瞑目した。

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 13巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑦⑧⑧22} ツモ:{⑦}

 

 打:{⑧}

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 13巡目

 京太郎:{2233466888發發發} ツモ:{⑨}

 

 打:{⑨}

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 13巡目

 照  :{五六七①②③④⑤⑦789北} ツモ:{③}

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 14巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑦⑦⑧22} ツモ:{⑥}

 

(――やっと、三ツだじょ)

 

 打:{⑧}

 

 万感を込めて、片岡は牌を置いた。

 

 むろん、立直はしない。

 

 自摸っても、親の役満であればシバ棒の差で照を捲くれるが――

 

 彼女の目は、照だけを捉えている。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 14巡目

 京太郎:{2233466888發發發} ツモ:{3}

 

 打:{3}

 

(仮令緑一色(リューイーソー)確定だろうが、いない待ちで待つことはできない)

 

 ノータイムで打{3}といって、京太郎は目を伏せた。

 

(あんたから出たなら――{1}でも倒すぜ、照さん)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 14巡目

 照  :{五六七①②③③④⑤⑦789} ツモ:{四}

 

 打:{七萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 15巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑥⑦⑦22} ツモ:{一}

 

 打:{一萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 15巡目

 京太郎:{2233466888發發發} ツモ:{三}

 

(生牌――)

 

 {三萬}を掴んだ京太郎は、顔を歪めた。

 危険だと思った。

 片岡や照に刺さる可能性が、極めて高い。しかし問題は、これが片岡の和了牌であった場合である。

 

(照さんがこいつを抱えて抑えてた場合、みすみす、優希の和了目を消しちまうことになる……つったって――)

 

 京太郎は歯噛みする。

 

(……だめだ。それでも、ここで聴牌は崩せねえ。)

 

 打:{三萬}

 

 幸いにして、発声は、なかった。

 

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 15巡目

 照  :{四五六①②③③④⑤⑦789} ツモ:{4}

 

「……」

 

 照が、眉尻をわずかにゆがめた。

 

 打:{③}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 16巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑥⑦⑦22} ツモ:{三}

 

 打:{三萬}

 

(絶対出る、絶対ある、ぜったい――)

 

 もはや只管念じるように、片岡は和了を待つ。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 16巡目

 京太郎:{2233466888發發發} ツモ:{⑥}

 

(また生牌かよ――ちくしょう)

 

 それでも、京太郎は強く{⑥}を打った。

 

 片岡が、目を細め、しかし何も反応は見せなかった。

 

 それを確認してから、照が、

 

「チー」

 

 と、いった。

 

(――は?)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 16巡目

 照  :{四五六①②③④4789} チー:{横⑥⑤⑦}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 オリに徹しつつも、ノーテン罰符による終了だけは回避すべく、月子は聴牌を入れていた。

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 16巡目

 月子 :{一一一二三四⑦⑧678西西} ツモ:{一}

 

 そこにきて、槓材を引き入れた月子は、皮肉な微笑を浮かべる。

 

(まさか、わたしが面前で聴牌までいくなんてね――こんなときだからこそ、なのかな? まぁ、このままだと宮永さんに海底がいっちゃうし――)

 

 吐息を落とし、

 

「カン」

 

 と、物憂げに月子はいった。

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北}) 槓ドラ1:{⑥}(ドラ表示牌:{⑤})

 16巡目

 月子 :{二三四⑦⑧678西西} カン:{一■■一} リンシャンツモ:{九}

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:29

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北}) 槓ドラ1:{⑥}(ドラ表示牌:{⑤})

 17巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑥⑦⑦22} ツモ:{四}

 

 打:{四萬}

 

(あと、一回――)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:30

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北}) 槓ドラ1:{⑥}(ドラ表示牌:{⑤})

 17巡目

 京太郎:{2233466888發發發} ツモ:{八}

 

(三枚目……)

 

 打:{八萬}

 

(いないのか、もう――)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:30

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北}) 槓ドラ1:{⑥}(ドラ表示牌:{⑤})

 17巡目

 照  :{四五六②③④4789 チー:{横⑥⑤⑦}} ツモ:{四}

 

 打:{四萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:30

 

 

(とりあえず、宮永さんに自摸られることはなくなったけど――はってるのかしら?)

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北}) 槓ドラ1:{⑥}(ドラ表示牌:{⑤})

 17巡目

 月子 :{二三四⑦⑧678西西} カン:{一■■一} ツモ:{八}

 

 打:{八萬}

 

(これで、今度こそ、わたしの出番は終了)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:30

 

 

 祈るように、片岡はこの場最後の自摸に、手を伸ばす。

 ――しかし、彼女の口から、前局に引き続き和了が発声されることはなかった。

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北}) 槓ドラ1:{⑥}(ドラ表示牌:{⑤})

 18巡目

 片岡 :{五五五②②②⑥⑥⑥⑦⑦22} ツモ:{東}

 

(こっん、なの――が、なんで――引けないんだよう!)

 

 目じりに涙を浮かべて、片岡は牌を捨てた。

 

 {打:東}

 

 そして――

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:30

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北}) 槓ドラ1:{⑥}(ドラ表示牌:{⑤})

 18巡目

 京太郎:{2233466888發發發} ツモ:{4}

 

 海底に、それはいた。

 京太郎の和了牌だった。

 自摸を宣言すれば、役満が成就する。

 ただし、月子が飛び、京太郎は片岡を差しての2着で終了する。

 その結果も、悪くはない。

 収支だけを考えれば、当然和了ってしかるべき局面だ。

 けれども、京太郎は、牌を倒すことができなかった。

 

 和了できるはずがないと諦観し、手拍子で、自摸った牌を打ったのである。

 

 打:{4}

 

 ――打ってから、かれの背筋は凍った。

 

(あ)

 

 ありえない打牌だった。

 

(なにをやってんだおれは――)

 

 聴牌を取るだけであれば、ほぼ完全安牌の{發}がある。

 なぜ、一枚切れの{4}を、この海底で、打ったのか――

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 14:30

 

 

「ロン」

 

 と、照がいった。

 冷たい声だった。

 失望が滲んでいるように、京太郎には思えた。

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北}) 槓ドラ1:{⑥}(ドラ表示牌:{⑤})

 18巡目(海底)

 照  :{四五六②③④4789} チー:{横⑥⑤⑦}

 

 ロン:{4}

 

「1000点」

 

 

 南一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 【東家】片岡 優希 :17900

 【南家】須賀 京太郎:  700→- 300

 【西家】宮永 照  :81400→82400

 【北家】石戸 月子 :    0

 

 

結果

優勝:宮永 照

2着:片岡 優希

3着:石戸 月子

4着:須賀 京太郎(飛び)

 

 

 

 

 




2012/11/20:誤字修正
2013/2/19:牌画像変換


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7.たそがれミーム(前)

7.たそがれミーム(前)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 17:05

 

 

 木枯らしが気忙しげに渦を巻く。襟元を撫でる寒風に、帰り道を行く少年少女が身体を縮こまらせる。昨日と同じように散り散りに家路へ着く流れの中で、二人ばかりが校門へ続く途上に立ち止まっている。動かない二人は少年と少女である。二人は言葉少なく相対している。少女は東を見、少年は西に向いて佇んでいる。必然少年の目には夕暮れの全景が映りこむ。かれの瞳の中で、今日も冬の太陽は山の端に沈む。橙色の残照は一本の剣のように校舎を貫き、窓を透かし、須賀京太郎の眼球を焼いた。

 かれは右手を面前にかざして両目を細める。

 太陽を背にする宮永照を見る。

 彼女は校舎に自分の存在を刻むように、長い影法師を引き連れて立っている。照の立ち居は、数時間前この小学校を訪れたときから何ら変わりない。彼女の様子がおかしく見えるのは、だから京太郎の側に変化した要素があるためだった。京太郎は靄がかかったような頭で、

 

(負けたなァ)

 

 と、思う。

 念願だった照との麻雀に対する感想は、それに尽きた。

 照との半荘は都合五回行われ、照はその全てを他家を飛ばして終了させた。しかも五回のうち二回は、自分以外の三家を全て飛ばすという有様だった。終わってみれば、南場に漕ぎ着けたのは、月子が参加していた最初の一半荘だけである。その後の四回は、南場にさえ辿りつくことはできなかった。

 

(負けた――)

 

 と、繰り返し京太郎は思う。その独白の空々しさを、かれは認めざるを得なかった。()()()、とかれは実際に口に出して呟いてみる。

 それは、とても事実には思えない。照と打ち交わした麻雀に、勝ち負けなどありはしなかった。照はただ和了り、飛ばし、終わらせただけだ。誰も彼女に追随さえできなかった。月子以外は、彼女から直撃さえ奪えなかった。「勝負にならない」という言葉の意味を、はじめて京太郎は具体的に実感した。

 

「石戸さんは」

 

 と、日暮を背に受け照が呟く。朴訥とした口調にやや気懸りな情が混じる。京太郎はそれを察して、強いて気楽に応じた。

 

「大丈夫だと思う。ただ、気分が悪くなっただけだってさ。一半荘しか打てなくてごめんって、照さんに伝えといてって言われた」

「うん」

 

 頷きを返す照の表情は、京太郎の位置からではうかがい知れない。真正面に立っているにも関わらず、逆光が照の端整な顔を塗り潰している。顔のない女と会話をしているような気分になって、京太郎は矢継ぎ早に言葉を連ねた。

 

「あいつ、ふだんはすげえ丈夫で、全然寝なくてもケロっとしてるようなやつなんだ。珍しいこともあるもんだ――」

 

 かれの脳裏には、口にする話題とは全く異なる情景が浮かんでいる。一半荘目の南一局、弛緩した意識で河底を打った時点から、京太郎の態勢は取り返しがつかないほどに崩れた。

 あの失着に、精神的な衝撃を受けたというわけではなかった。良くも悪くも、京太郎の放銃は凡庸なエラーでしかない。悔やむに悔やめない気持ちはあるが、麻雀を打っていればどこかでああした失策は犯すものである。忘れては意味がないが、一日引きずるほど大仰なものでもない。とくに京太郎は気持ちの切り替えが早い性質だったから、一度の誤謬を長く引きずるということは少なかった。

 衝撃という意味では、一半荘目に京太郎が飛んだ直後、月子が卓に突っ伏して動かなくなったときのほうがよほど京太郎を驚かせた。対局が始まって以降、月子が始終顔色を悪くしていたことには気づいていた。それでもかれの中には身体的には頑健極まりない石戸月子のイメージがあって、彼女が倒れたという事実に、思考は一瞬ついていかなかった。

 月子は呂律の回っていない口調で「少し休む」といい、教室の端に座り込むと、とうとう夕方まで復帰することはなかった。月子の開けた穴には適当に他の卓の面子を引き込み、順番に入れた。即席のメンバーは皆照と一度打つと辟易したような調子で席を立ちたがった。傍目には照の麻雀は幸運(バカヅキ)を大上段に振りかぶった摸打そのもので、手のつけようがない。片岡以外はろくに聴牌すら入れられずに箱下終了を押し付けられるのだから、京太郎も気持ちはわからないでもなかった。結局二度以上照と同卓したのは、京太郎と片岡だけである。 

 

 音をあげたのは、京太郎が最初だった。五度目の半荘で、照が起親だった。東一局で京太郎、片岡、そしてもう一人が飛んで試合は終わった。

 誰も何もしないままだった。

 勝負は始まりさえしなかった。

 永遠に始まることはないだろうと、承服せざるを得なかった。

 そして京太郎は、無力を悟った。緊張の糸が途切れるのを感じた。だから、片岡が「もう一回」と口に仕掛けるのを制した。

 

 時計が17時前に差し掛かるのを見て、そろそろ終わろうか、とかれはいった。

 

 片岡は、その言葉にショックを受けたようだった。大きな瞳を瞠り、口を開けて、何事かを声にならない声で口走った。京太郎が聞き返す間もなく、疲弊しきった様子で席を立つと、彼女は「帰る」と一方的に宣言した。瞳は潤んで、今にも雫を落としそうだった。けれども泣くことはしなかった。京太郎は片岡の意地を見た気がした。無言で遠のく小さな背中にどんな言葉を掛けるべきかもわからず、ただ教室を出て行く片岡を見送った。

 

 なんとなく、もう彼女と麻雀を打つことはないかもしれない、とかれは思った。

 

「帰るね」と、照がいった。「今日は、ありがとう」

 

 少女が踵を返す。陽が没しきる。

 京太郎は、発作的にその背に声を掛けた。

 

「ごめん」

 

 照が足を止めた。

 

「――なにが」

 

 と、彼女はいった。

 京太郎は、言葉に詰まった。咄嗟に発した謝罪の裏を、詳らかに話すべきか今さら逡巡した。「なにが」と照は言った。彼女は今日一日の出来事について、特に問題を感じてないのかもしれない。けれども京太郎には、到底そうは思えなかった。

 照は今日、一度もまともに「麻雀」を打てなかった。

 

(たとえば)

 

 と、京太郎は思う。

 この日、彼女は決してオリなかった。あらゆる聴牌に妥協なく突っ張った。暴牌としか見なせない打牌を幾度も繰り返した。だれもそれを咎められなかった。照は結局、読みと指感のみを頼りに全ての対局を乗り切った。それで特に問題もなく、放銃もなかった。それで乗り切れる程度の対手しか、照の卓にはつかなかった。(たぶん、月子以外は)誰も照の思考を、意識を、予測を超えることはできなかった。

 そして、照が特定の誰かを狙い撃ちにするということもなかった。時には一発の出和了を見逃して自摸和了に徹したこともあった。高目を放棄し安目で和了ることもあった。照は丁寧に丁寧に力の加減を調整しているのだと京太郎は感じた。それでもなお、かれは彼女の敵とはなりえなかった。

 悔いさえ浮かばない。

 京太郎は純粋に不甲斐なく、そして只管に照に申し訳がなかった。

 こんなにもつまらない麻雀があり、それをよりにもよって照に強いたことが、京太郎が思う最大の過ちだった。

 

 こうした心境の諸々を、京太郎は全て言葉にして整理することが出来たわけではなかった。かれの心象は混沌として、ただ、疲れていた。

 

「――いや」

 

 結局、ろくに言葉を継げずに、京太郎はため息をついた。

 その間を見計らって、

 

「やっぱり、帰る前にすこし、あるこうか」

 

 照が平坦な口調で提案した。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 17:17

 

 

「今日も、寒いね」

「ああ……」

 

 しなやかな背中を追いながら、京太郎は照の意図が読めずに、曖昧に頷きを返した。日はすっかり落ちた。街灯がちらついて、黄色い光を放っている。ふたりは校舎の周囲に流れる小川に掛かった橋のうえにいる。吐息の白さと星の輝きを見比べて、京太郎は照の言葉を待った。

 照がいう。

 

「京太郎は、今日、楽しかった?」

 

 京太郎は刹那、目を閉じて、

 

「楽しかった、とはいえないな」

 

 と、答えた。

 照は続けて、

 

「じゃあ――()()()()()()()()?」

 

 と、尋ねた。

 

「――ええ、と」

 

 今度は即答できなかった。

 掠れた、音になり切れない声で、どうかな、とかれは呟いた。

 

 石戸月子が危惧していたような、敗北による瑕は、かれには刻まれなかった。京太郎は相応に沈み、気落ちして、けれども何事もなければ、明日からまた牌を握るだろう。心の奥底で今日の出来事を引きずりつつ、表面上は何事もなく麻雀に没頭するに違いない。

 人の心理が具える襞は複雑極まりない。それは誰であろうと変わりない。ただ、須賀京太郎という少年が抱える厄介さは、他者に与える印象と実態に途方もない乖離がある点にあった。かれは多少捻くれつつも基本的には善良で、麻雀が好きで、運動もそれなりに得意で、勉強はややまずく、勝負事に傾倒するきらいがある。それらは紛れもなく京太郎を構成する不可欠な要素の集合で、わかりやすいかれの特性だった。

 ただし、それら全ての特性の根底には、かれが殆ど表出させないひとつの指向が存在する。

 

 煮え切らない京太郎の返答を待たずに、照はさらに続けた。

 

「京太郎は、どうして麻雀をするの?」

 

 彼女の声色に、特別なものは含まれていない。世間話の延長に、照の問は存在する。実際に変哲のない言葉は、けれども、京太郎にとって刃物のような鋭さを孕んでいる。

 

「楽しい、から」今度はようよう、しかしはっきりと、京太郎は答える。

「何が、楽しいの?」

 

 京太郎は言葉に詰まる。返事が思い浮かばなかったからではない。

 理由を口にすることが、単純に憚られた。

 

(それは――)

 

 宮永照の言葉は続く。彼女の質問は無垢で、他意などなく、たんに京太郎という少年を知ろうとしている。詰責の響きはない。言葉に悪意はなく、無機的で、だからこそ犀利だった。照の直観と洞察は鋭利過ぎた。彼女は自分の()()()()()()()ことにまだ無自覚だった。虫や動物を解剖するような無頓着さで、照は京太郎を披きつつあった。

 

()()()()」と彼女は重ねて言った。「()()()()()()()()()()

 

 照は静かに呼吸する。

 京太郎は息さえ詰めて、照の横顔を眺めている。彼女は手袋を欄干に添えて、静かに双眸を河流へ向けている。うろのように凝った闇の奥で水の流れる音がする。そんな雑音でもなければ時が止まったと錯覚しかねないほど、照の表情は動かない。

 

「あのときもそうだった」

 

 と、照はいった。

 

「ずっとそうだった。京太郎は、ほんとうは、麻雀とは違うことがしたいように思える」

 

 京太郎の喉が鳴る。

 静止していた照の横顔が動いた。ゆっくりとずれた眼差しが、京太郎の視線と交わった。真っ直ぐに引かれた眉毛の下で、息を呑むほどに深く澄んだ照の瞳が京太郎を凝視(みつめ)ている。

 

「京太郎は、どうして、わたしと、うちたかったの」

 

 照の質問は最後まで密やかで、正しい回答を期待している風でもなかった。

 

「――京太郎は、どうしてそんなに、()()()()()

 

 問いを発し、それを受けた少年の様子だけで十全を知りうる少女は、具体的な言葉を求めない。子供から少女への、そしていずれ女への変遷を控えた宮永照は、京太郎がその短い生涯で秘し続けた事柄の大半を、一瞥で解き明かした風だった。

 照の瞳に少しだけ憐憫が混じる。

 京太郎はただ黙然として、『須賀京太郎』が何もできずに解体される様を見送った。抵抗の余地なく、照の異常な感性はかれの奥底まで見透かした。行為の主体が誰かは関係なく、生理的な不快感が京太郎の全身を這いまわる。肌が粟立ち、目前に立つ人影と、友誼を結んだ少女との同一性がかれの中で損なわれ始める。

 

 物語でも読むように。

 頁でも捲るように。

 簡単に、照は京太郎を解き明かした。

 

(人間じゃないな)

 

 と、京太郎は思った。

 そして、自分が彼女にこだわり続けた理由を知った。

 初めて出会ったときから、ずっと、京太郎は彼女の眼に魅入られていた。

 

「理由なんか、ないよ」

「……」

「ただ、いつのまにか、そうだったんだよ」

 

 乾ききった声で、京太郎は答える。ただ()()だから()()なのだ。京太郎はどうしても、自分が不要であり消えるべきだという強迫観念を忘れられない。これから先、成長するにつれ、一過性の心情として処理されるかもしれないその意識から、ただ今は何をしても逃げられない。

 

(おれはいなくなるべきだ)

 

 けれども、死ぬのは不実である。京太郎の良識と、生物としての臆病さが、かれを極端な行為に走らせない。死は恐ろしい。それにあからさまに命を投げ捨てれば、それはかれだけの問題に収まらない。京太郎は自分の身はともかく、周囲の全てに傷ついてほしいとは寸毫も思わなかった。時折発作的に投げ捨てたくなることはあっても、今日という日までかれが生きているのは、結局のところかれの社会性が衝動を上回っていることの証左に他ならない。

 

 麻雀は。

 

 京太郎に死を思わせた。死を忘れさせた。死の代償行為だった。深く内容を学べば学ぶほど、京太郎を虜にした。純粋にその遊戯を京太郎が好まなかったわけではない。ただ、京太郎はもう、夜毎考えることに疲れていた。叶わない願いや叶ったところで何の意味もない夢に心を煩わされることに倦んでいた。かれは思考を怠りたかった。同時に全てを吐き出して、誰かにつまらない悩みだと笑い飛ばしてほしかった。けれどもかれの自意識は誰かに心情を吐露するをよしとはしなかった。もっとも身近な人間である父母は家に寄り付かず、友人たちには打ち明ける決心がつかず、月子はどちらかといえば京太郎に体重を預けている風情だった。京太郎は気を吐き続ける必要があった。

 だから、自分を殴り飛ばして叱咤した照ならと、かれは期待していた。

 かれは、照に、甘えたかった。

 

 本当は、麻雀など二の次だったのかもしれない。

 麻雀を続けていれば、また照に会えると思ったのかもしれない。

 だから今日まで、狂ったように麻雀を打ち続けていたのかもしれない。

 

 京太郎の日常に根付いておらず、強く、綺麗で、非日常の化身のような照に、そんな役目を押し付けた。

 

「ごめんね」と、照はいった。

「ちがう」反射的に京太郎はいった。

 

 照はかぶりを振った。

 

「京太郎に、麻雀、教えないほうが、よかったね」

 

「違うんだって……謝るなよ」

 

 京太郎は力なくうめいた。猛烈な羞恥が身を焦がした。自分のあまりな無様さに気づいて、視界が眩んだ。照と再会して以降のここ数日の心情の動きが、甚だ滑稽に思えた。唇が寒さのせいばかりではなく震える。涙が出るほどかれは慄く。

 最悪なのは、見透かされたことそれ自体ではなく、()()知られてしまったことだ。自分の与り知らぬところで何もかもを押し付けられて、一方的に熱をあげられ、思い入れの矛先にされ、それを照が悔やんでいることだ。

 京太郎が麻雀にふれたあの日、照の行為は完全な善意に基づくものだった。多少強引だったかもしれないけれども、瑕疵などひとつもなかった。京太郎の頬を打った行いも正当な怒りだった。照に負い目など何もない。

 

「照さんが、謝ることじゃないだろ……」

 

 ごめんね、と照はもう一度だけ、繰り返した。

 京太郎は、絞るように呟いた。

 

「そんなふうにしてほしくて、あんたに会いたかったんじゃ、ないんだよ」

 

 かれは片手で顔を覆った。空を見上げた。今にも涙が溢れそうだった。

 深く、照が吐息を落とした。

 

「そのままなら、京太郎は麻雀を続けても、辛いだけだと思う」

 

 最後に頭を下げると、照は、

 

「ばいばい」

 

 と言って、その場から去った。

 

 静かになった。

 

 すぐに夜が来た。耳が痛いほど夜気は冷えた。服の裾から寒気が忍び入り、身体の内側まで凍てつかせる。星の眩さがいやに目障りだった。ごめんね、という照の声が京太郎の耳に残った。耳を済ませれば、照の置いていった言葉がまだ其処彼処にわだかまっている。京太郎はひとつひとつの言葉を反芻する。ごめんね、と照は言った。暴いたことではなく、暴いたあとに見えたものについての謝罪だった。彼女の洞察は概ね正しかった。正しすぎた。けれども言葉はてんで的を外したものばかりだった。京太郎はそれが不思議でならなかった。どうして、京太郎自身の問題について照が何かを負う必要があるだろう? 照の優しさは傲慢さと紙一重だ。

 

 京太郎は欄干に体重を預ける。

 腕を組み顔を伏せる。

 

「――はぁ」

 

 泣こうと思ったが、涙は出ない。どうしても泣けない。そもそも何も悲しいことなどない。かれはただ()()であっただけだし、照はありのままを知っただけである。それに気づくと、京太郎は泣くことを諦めた。自分がすべきことは他にあると考えた。

 

 差し当たって、体調の悪い月子を家まで送ることを、かれは思いついた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 18:01

 

 

「で、ちゅーとかしたのかしら?」

「いきなりそれか」

 

 月子は未だに教室に居座っていた。さっさと施錠して帰宅したい様子の講師が、床に伸びた少女を見下ろし辟易としている。京太郎は講師に一言断ると、かれより上背も体重もある月子を引きずり校舎を後にする。月子をピックアップする春金清は、19時過ぎに京太郎の家に到着する予定だった。

 さかんにオンブオンブと訴える月子の要求を叶えてから、最初の一言が先の台詞である。

 

「だって、二人とも全然戻ってこないし、わたしのこと置いて帰ったのかと思ったら須賀くんだけ戻ってきたじゃない? 何かあったのかなって思うでしょう」

「その何かがどうしてちゅーになるんだよ」

「だって須賀くん、宮永さんのこと好きなんでしょう?」

 

 月子が耳の後ろ側で呟くと、京太郎は思い切り表情を歪めた。

 

「なんのことだか」

「バレバレですけどー」

「うるせーよ。重いんだよ」

「何照れてるのよ。宮永照さんだけに」

「ばかじゃねーの……」

「好きっていーえーよーうー」

 

 頬を摘まれた京太郎は、黙秘を貫くことを決心した。そもそも他人に語れるほどかれの心情は整理されていないし、いまは普段どおりに振舞うだけで精一杯だった。照に対する感情は、この際棚上げにしておくしかない。

 その後もしばらく月子は背中ではしゃぎ続けたものの、京太郎から芳しい反応がないとわかると途端に静かになった。

 冬とはいえ、人を一人背負って歩く重労働は、京太郎を疲弊させた。余計な半畳がないのは望むところである。かれは黙々と家路を急ぐ。自分の鼓動と呼吸に集中し、時折驚くほど冷え切った月子の足に両手を添えなおして、歯車仕掛けの人形のように前へと進む。

 やがて、月子が、

 

「悪かったわ」

 

 と、呟いた。

 

「おまえもかよ」思わず、京太郎は吐き捨てた。

「わたしもって?」

「なんでもない」京太郎はこたえる気がないことを語調で示した。「で、何が悪かったって?」

「きょう、わたしが余計なことしなければ、片岡さんは宮永さんに勝ててたの」

「タラとかレバとか、麻雀でンなもん――」

「違うの」月子は硬い声で言い切った。「()()()()()、わたし。南一局の1巡目に、片岡さんと須賀くんの自摸を摩り替えたの」

 

 唐突な告白に、京太郎は不意をつかれた。全く何のことか、見当がつかない。月子がそんな行為に及んだ理由もわからなければ、いつ仕出かしたのかもわからなかった。

 だから素直に、かれは感心した。

 

「――すげえな。さっぱりわかんなかったよ」

「まあ、ね」

 

 月子の応答には、苦笑の響きがあった。

 

「でも――だから、になるのか? 勝てなかったんだよな」

「そうね。勝てなかった」月子の声が沈んだ。「やったことは、後悔していない。途中からすっかりむきになってしまったけれど、それでもわたしはやっぱり、勝つことが大事だと思う。――でも、結果に結びつかないどころか、裏目を引かせたことは、とても、よくなかったって思うわ」

「おまえの考え方にはときどきついていけないよ」京太郎は乾いた笑いを漏らした。「いつもおかしいけど、今日はとくにおかしかったな、おまえ。よくわかんねえけど、そんなに――イカサマしてまで、照さんに勝ちたかったのか?」

「さあ」

 

 と、月子はいった。はぐらかす風ではない。単純に、問いへの答えを持っていないようだった。

 

「思うところは色々あったけれど」と彼女は続ける。「いちばん大きかったのは、『試したい』って気持ちだったと思う。たぶん、宮永さん(あのひと)には勝てないっていうのは、最初からわかってた。何をやっても、どうしたところで、無駄って気はしてた。でも、やらずにはいられなかったの。――じゃないと、なんか、しゃくじゃない」

「初対面なのに、よくもまあそこまで買えたもんだな」

 

 邂逅の時点で、月子の照に対する警戒心は異常だったことを京太郎は想起した。かれには感知さえできない領域で、照と月子には通じるものがあったのかもしれない。

 思い返せば、照の側も、どこか月子を特別に意識していた。

 この日、本当の意味で照と『勝負』をしていたのは、月子だけだったのかもしれない。

 

「アツくなってしまったのは、宮永さんに、兄さんを被せてたからでしょうね」

 

 兄、という単語に、京太郎は首をかしげた。かれの知る限り、月子の家に住む彼女の親族は父の新城のみである。月子の家庭事情が相応に込み入っていることは推察していたが、具体的な情報を聞いたことはなかった。

 

「にいさん」

「そう、兄さん」月子は頷いた。「いったことなかったかしら? わたし、実は双子でね。いまは一緒に暮らしてないんだけれど、上に兄がいるの。麻雀も――まあ、もともとは、兄さんのついでで始めたようなところがあるわ。それで、これがまた、ばかみたいに強いわけ。もう、ただただ、打てば負けるし、負けることがそのまま麻雀だと思うくらい、勝てないの。――わたしが負けず嫌いのせいかもしれないけれど、兄さんと麻雀を打って、楽しいと思えたことなんかほとんどなかった。どうして双子なのにこんなに違うのかとか、そういうことばっかり、考えさせられた」

 

 だから、兄さんは大嫌いなの、と月子は続けた。

 肉親についての言葉とは思えないほど、乾燥した口調だった。

 

「会ったことねーけど、おまえの兄貴も照さんくらい強いの?」

「宮永さんほどじゃないと思うけど、強いわね」と、月子は言い切った。「兄さんなら、今日の5半荘のうち、一回くらいは勝ちを獲れたかもしれない――そのくらいと思って頂戴。とりあえず、()()()()()()、いい勝負はすると思うわ」

「ぴんとこねーな」京太郎はいった。「麻雀なんて、そもそも、運がいちばん大事なもんじゃねーのか」

「それって要するに、運量が上の相手には何をしても無駄ってことでしょう。合ってるじゃない。今日の状況が、まさしくそれよ」

「あほか」京太郎は一蹴した。「運なんて、その日その日で違うだろ。調子が良い日もあれば、悪い日もある」

「そう思う?」月子が神妙な様子でいった。

「あ?」

 

「――()()()()()()()?」

 

「思えるよ」

 

 京太郎は言下に応じる。月子がその反応を望んでいる気がしたからである。ここまで来れば、月子の懸念を京太郎も察することができた。

 彼女は、京太郎が麻雀に見切りをつけることを恐れていた。宮永照のような存在――勝つことを運命付けられたような存在が、この界隈には厳然と存在する。彼ら彼女らは彼岸にいて、京太郎は此岸にいる。京太郎が打つ麻雀と照が打つ麻雀は同じでいて致命的に異なる。卓上において、照が勝者であることを約束されているのだとすれば、その対手は同類でない限り必ず負ける。負けることが前提の勝負に挑むものはいない。それは競技の大前提である公平性を損なっている。

 その現実の一端に触れて、月子は京太郎に問うた。

 京太郎は問題にもならないと答えた。

 ――嘘ではなかった。

 

 ただ、本音でもなかった。

 

「そう。――よかった」

 

 だから、心底安堵したように呟く月子に、京太郎は後ろめたさを覚えた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日)長野県 国道153号線 タコス(ファミリーレストラン)/ 19:41

 

 

 予定通り、19時過ぎに月子の迎えはやってきた。ただし訪れたのは長身の女性――春金清ではない。

 月子の父、新城直道だった。長身痩躯の新城は黒いコートにスーツを着込んで、面差しの厳しさも手伝い一見して堅気ではない雰囲気をまとっている。国産車から長い足を降ろす彼の姿を目にしたとき、月子は「げ」と呟き、京太郎も思わず目を丸くした。新城が須賀邸まで足を運ぶのは、初めてのことだったからである。

 新城は一瞥して月子の体調が良くないことを見て取ると、京太郎に向けて、

 

「世話ァ掛けたな」

 

 と、いった。京太郎は、

 

「べつに。おれのほうが月子には世話になってるんで」

 

 と、答えた。

 それがどうやら新城の琴線に触れたらしい。彼は破顔すると、強引に京太郎を車中に連れ込んで夕食へ誘った。いずれにしろ京太郎の夜食はコンビニエンスストアの弁当か出前しか選択肢がない。とくに断る理由も思い浮かばず、かれは招きに応じた。

 ファミリーレストランへ向かう途上、月子は寡黙だった。というよりも、人心地ついて気が抜けたようだった。ぐったりした様子で後部座席に寝そべり、助手席の京太郎を呆れさせた。新城はそんな月子の様子を目にしつつも、とくに何もいわなかった。

 レストランへついても月子は回復せず、無念げな気色で車内で休んでいる旨を伝えた。さすがに気後れする京太郎を、新城はやはり構わなかった。結局男ふたりで入店する羽目になった。何でも好きなものを喰えという新城に、京太郎は甘えた。かれには食の好みはなかったから、適当に同年代の好みそうなハンバーグセットを注文した。

 注文を終えると、待つだけの時間がやってくる。京太郎の心境はひたすら沈黙を貫くことを支持していたが、実際的にはそうも行かない。かれは話題を探す。とはいえ京太郎と新城に共通する話題など月子と麻雀のことしかなかった。

 

「おじさんって、麻雀、強いんだよな」

「それで身を立ててるんだから、弱いとは言えねえな」唐突な話題にも関わらず、新城は簡単に応じた。

「麻雀、好きなんだ?」

「好きじゃなきゃ続かないだろうよ」

「――そうかな」

「おまえは、嫌々打ってンのか?」

 

 反問を受けた京太郎は、黙りこくって水を一飲みした。

 

「違う、と思う」

「ははあ」新城が快活に笑った。「おまえ、負けたな?」

 

 図星を刺されて、京太郎は苦虫を噛み潰したような顔になった。

 

「違うよ。――勝負にもならなかった。そもそも、勝ち負けなんて話にも、持っていけなかったんだ」

「ふゥん」新城が目を細めた。「成る程な。月子(アレ)も一緒にやられたってわけか。そんで一丁前に凹んでやがるのか」

「まァ、そんなところ」京太郎は言葉を濁した。さすがに新城に、事情を明かす気にはなれない。「おじさんは、麻雀で負けたことは?」

「そんなもん、腐るほどある」新城が呆れ顔になった。

「え、いや、だって――」京太郎は戸惑った。「すっげえ強いって、月子が」

「俺だけが強けりゃァ、そりゃ負けはない」新城が鼻を鳴らした。「だが、実際はそんなワケもない。卓には必ず勝ち負けがある。()()にある。そしておまえのいう『すっげえ強い』同士がやりあえば、どっちかは負ける。そんなもん、当たり前だろう」

 

 新城の台詞は、道理だった。

 同時に京太郎は、自分の目線が一方的であることに気づいた。

 かれが連想したのは、当然宮永照の打牌である。

 彼女は強い。

 京太郎が実際に知る限り、及ぶものなどないようにさえ、思えた。

 ――けれども、そうではない。

 初めて彼女と打った麻雀で、照はプロ二人を相手にしていたとはいえ、確かに負けたのである。

 少なくとも、いまの照は絶対ではない。

 

(つまり)

 

 と、京太郎は、自明の理に思い至った。

 

(――おれが、弱いだけだ)

 

 純粋に力が足りず、照に窮屈な麻雀を打たせた。それだけは確実に京太郎の咎だった。かれ自身が内面で照をどう置いていたかは、あくまで京太郎だけの問題である。それを暴いたのは照自身だし、負い目に感じるのも照の都合でしかない。京太郎には照の感じ方を左右する力はない。事実である以上弁解もできない。それは京太郎の力ではどうにもならないことだった。

 けれども、麻雀に関しては違う。

 事実上、限りなく不可能に近いとしても、京太郎が照と対等に戦うことは、無理ではなかった。

 

(でも、強かったら、どうだっていうんだ)

 

 照に伍すだけの実力が自分にあったとして、それがいったい何を解決するのだろうと京太郎は考えた。

 答えは明白である。

 何一つ問題は片付かない。

 強さは、京太郎を救わない。

 戦い、勝つ――強さとは、それだけのものだ。

 

(もう――めんどくせえな)

 

 京太郎は、それ以上突き詰めることを諦めた。問題は根深く、何かしらの答えを出したところで一朝一夕に解決する気配はない。思い煩うことそのものが、いまのかれにとってはストレスだった。京太郎は全てを擲ちたかった。何もかもを手放したかった。心はその方針を全力で支持している。ただ何かが、かれをすんでのところで押し止めている。

 気も漫ろに、かれは新城との雑談に興じる。運ばれた料理に手をつける。切り分け口に運び咀嚼し嚥下する。まるで味がしない。耳の奥で照の声が何度も繰り返されている。京太郎はそのたびに耳を塞ぎたくなり、苛立ちを押し隠すのに苦労する。

 

(なにが、ごめんなんだよ)

 

 目元が熱くなる。

 京太郎は肉を食む。

 

(自分だけ、言いたいこと言って――)

 

 遠ざかる照の背を思い、思考がかき乱される。

 

(――勝手に、納得しやがって)

 

 対面の新城が、京太郎から目をそらして、呟いた。

 

「泣いても、月子には黙っておいてやるぞ」

「泣かねえよ。何も悪いことなんか起きてねえんだ。誰が泣くかよ」

 

 鼻を啜って、京太郎は一気にライスを口の中へ掻き込んだ。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・権堂町/ 13:50

 

 

 明くる朝、目覚めた瞬間、遠くへ行こうと京太郎は思った。

 

 意識は睡眠から覚醒へ、鮮やかに切り替わった。部屋の窓を開け放つと、冷たい朝の空気が流れ込んで来た。かれは顔を洗い、歯を磨き、まず学校に電話を掛けた。風邪気味なので今日一日休みますと担任に告げた。最近はそうでもないものの基本的には善良な京太郎の虚言はすんなり担任に受け入れられ、京太郎の逐電の第一段階は成功を収めた。それからかれは全財産と毎朝食卓の上に置かれている千円札二枚を手提げ鞄にねじ込み、家を出た。

 

 快晴だった。冬の高い空が蒼穹を無辺際に延ばしていた。霜を踏みしだいてかれは目的もなく歩き始めた。小学校への道は最初の一歩から踏み外していた。30分ほど無目的に歩くと、隣の学区に行き着いた。見慣れない同年代の子供たちが、隊伍をなして通学路を歩いている。通りには腕章をつけた有志の保護者と思しき大人がところどころに立っている。彼らの目を憚って、京太郎は道を逸らす。国道(バイパス)を目指して歩き始める。9時を回り、授業がとっくに始まったころに、かれは七久保駅へたどり着く。特に目的地も定めず、かれは電車の到着時間が近いホームに立つ。重役出勤と見える高校生が無遠慮な視線を向けてくる。京太郎はとくに気にせず空を仰ぐ。太陽はまぶしく、空は青い。目に染みるほどだ。ホームから望む南アルプスの山には薄く白い化粧が施されている。どこまでも真っ直ぐ伸びる線路を前に、京太郎は少しだけ途方に暮れる。やがて電車がやってくる。駒ヶ根方面である。京太郎は何も考えずに車両に乗り込む。通勤時間帯から外れているためか、車内には空席が目立つ。暖かい空調に一息ついて、京太郎は腰を落ち着ける。

 目を閉じる。

 かれは眠る。

 

 目覚める。

 着いた駅は駒ヶ根だった。名前の通り山々の麓に位置する駅を、京太郎は感慨もなく見渡して、次の電車に乗り継ぐ。岡谷から中央本線に乗り換え松本へ向かう。ここまで来てようやく、かれは意味もなく県庁所在地を目的地に定めることにした。だからさらに篠ノ井線を乗り継いで、車窓の旅を続けた。途中、老婆二人組が京太郎を見咎めて、あれこれと話しかけてきた。京太郎はのらりくらりともっともらしい話を仕立て上げて、彼女たちの暇つぶしに付き合った。時刻は昼を回っていた。かれは老婆たちからもらったみかんやら飴で、空腹を紛らわせた。

 長野駅には13時過ぎに到着した。景色は地元とはまるで違っていた。当たり前のことだが、知っている顔などどこにもない。皆早足で歩いている。時間の流れ方まで変わったかのようだった。半日を掛けて見知った土地から発作的に離れ、いま、京太郎の胸を満たすのは奇妙な開放感だった。()()()()()()()()()()()()()()()、とかれは思う。誰に出会うこともない。誰を気にすることもない。何を患うこともない。

 京太郎は自由だ。

 そして、目的のない自由ほど退屈なものはない。

 かれは嘆息すると、やはり当所もなく歩き始めた。

 

 京太郎――つまり子供が昼日中に歩く様は、それなりに耳目を集めた。とはいえ、迷う様子もなく(実際には迷うために歩いている)動き回るかれを正面きって見咎めるものはいない。京太郎はは警邏中の警官にだけ気を配り、それ以外は概ね気ままに街を漫ろ歩いた。市内を廻る電鉄に乗り、二駅ほど過ぎたところで車窓から見えた商店街に惹かれ、下車した。時刻は14時前に差し掛かっている。今日中に地元へ帰る場合は、20時前には折り返しの電車に乗る必要があることを京太郎は意識した。両親が京太郎の不在に気づくかどうかは五分五分だが、気づかれた場合は流石に大事になる可能性を否めない。ただ、そもそも帰らない場合はそんなことを気にしたところでしようがない。京太郎は帰宅についての判断を保留することにする。

 

 かれがまず始めに目をつけたのは、アーケードの奥まった位置に居を構えるゲームセンターだった。それなりに規模が大きく、警官の巡回場所としていかにも指定されていそうな風情である。補導されるならばそれもよしと、むしろ堂々と京太郎は店内に足を踏み入れた。

 屋内は電気的な騒音で充満していた。入ってすぐ出くわしたプライズ系の機器が占拠する一角を物珍しげに眺めつつ、京太郎は店の中を一通り回った。店は二階建てで、一回にはプライズと新機種と思しき大型筐体がスペースを占め、二階は半分がコインゲームコーナー、残り半分が小型筐体が連なるビデオゲームコーナーのようだった。

 京太郎の興味を惹いたのは、二階に十台ほど並ぶ麻雀ゲームのコーナーだった。見たところ、一台を除き他は空席である。京太郎はその内の一席に腰を下ろす。

 モニタの上に据えられたパネルに、筐体を通して全国の系列店下にいるプレイヤーと卓を囲める旨の解説が記載されている。ほとんど思考を経由せず、京太郎は筐体にコインを投入した。

 

(あァ――)

 

 ゲームが始まり、配牌が画面に表示される。覚束ない手つきで機械的に打牌を選択しながら、京太郎はふいに、頭をかきむしりたくなった。

 

(――おれは、こんなところまで来て、なにやってるんだ)

 

 どこまで逃げたところで、問題はかれと共にある。何が京太郎を悩ませているのかといえば、実は単純な二択でしかない。

 

 京太郎は、今日、半ば以上死ぬ心算で家を出た。

 

 照のいう『ほんとうにやりたいこと』が自害であるならば、それが正しい行いだと思ったからだ。

 けれども、京太郎は、生や死とは関わりのないところで、麻雀に興じている。たまたま目に付いたからといえばそれまでである。けれどもいま、かれに時間を潰す必要はなかった。落ち着いて自分を顧みることこそ必要だった。益体のない遊戯に没頭する余裕などないはずだった。

 けれどもかれは、麻雀を打っている。

 問題から逃げるために、麻雀を打ち始めたのだと、いまはわかる。

 それを思い知らされてなお、かれは麻雀を打っている。

 勝ちたいわけではない。

 強くなりたいわけでもない。

 死の代償行為としてだけ麻雀に価値を見出しているのかといえば、たぶん、それだけでもない。

 

(打ちたいから、打ってる)

 

 と、京太郎は、ぼんやりと考える。牌を自摸る。河に捨てる。場を見る。仕掛けが入る。切り出しを見る。廻す。廻す。廻す。打てない牌を引く。オリる。オリる。立直が掛かる。オリる。また立直が掛かる。オリる。オリる。――一発で自摸られる。親かぶりである。かれは最善の心算で打ち回した。けれども収支は減だった。直撃よりはましかもしれないが、けれども、理不尽な心地を拭えない。画面のエフェクトに目を瞬かせながら、京太郎は打つ。

 半ば夢心地でかれは打つ。

 

(これで負けたなら、もう――いいかな)

 

 旗色は極めて悪い。二局目・6巡でダマの親満貫に刺さり、かれの持ち点は東三局で10000点を切る。かれは諦念と共に牌を自摸り、打つ。牌勢は劣悪だ。後がないとばかりに目一杯に構え、一向聴まで漕ぎ着けたところで他家の立直が入る。戦える打点ではない。かれは基本に則りオリる。オリる。自摸られる。また失点する。

 まだ対局は続く。

 かれは手成りで打つ。

 聴牌する。

 浅い巡目だ。

 三面張の受け入れに、迷わず牌を曲げる。

 2巡後に、他家の追っかけ立直が入る。

 京太郎の胸裏の戸を、不安が叩く。

 さらに2巡後に、他家に自摸られる。

 ――受けは愚形の辺張待ちである。

 

 京太郎は、思わず、笑った。

 

(ひっでえゲームだよなァ――これ)

 

 理不尽で、残酷で、絶対というものがどこにも存在しない。

 これが麻雀だと、京太郎は思っていた。

 そうではない人もいると、今は知っている。

 そして、南一局――最後の親番が回ってきたとき、京太郎の持ち点は4000まで減じていた。

 

 南一局 ドラ:{五(ドラ表示牌:四)}

 配牌

 京太郎:{三五五六七七八九④8東南白白}

 

「――は」

 

 好配牌に、京太郎は目元を歪める。

 

(けど、すんなり萬子色に寄せられる気がしねえな――)

 

 打:{南}

 

 麻雀は厳然たる確率の遊戯である。千や万の対局を連ねれば、そこには自力が浮き彫りになる。だからこそ牌効率は有効だし、和了率の上昇や放銃率の低減には甲斐がある。けれども局地的に、非効率な打ち回しが奏功する場合もある。それもまた、麻雀の妙味である。

 

 南一局 ドラ:{五(ドラ表示牌:四)}

 10巡目

 京太郎:{三四五五五六七八⑦678白} ツモ:{⑥}

 

 前巡、すでに対面から立直が入っている。

 打てば恐らく、京太郎は飛んで終了する。

 飛んで終わったなら、それで終わりでもよいと、京太郎は心底思いこんでいる。

 

 そして――。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・権堂町/ 14:44

 

 

「うぎゃー!」

 

 唐突に、左隣の席から声があがった。

 

「――オモ3ウラウラ一発タンピン三色!? 親の三倍満っすか! マジっすか! なんでド高目つかむかなー!」

 

(――は?)

 

 京太郎は、凝然と顔を声の元に向けた。

 

(んな、莫迦な。――ぜったい、さっきまで、誰もいなかった)

 

 しかし、そこには、確かに人がいた。

 

「あぁあ、レートがぁ……飛び率がぁ……うー、とんだ事故っすよ、これ」

 

 しかも、明らかに京太郎と同じ年頃の子供だった。見目は少女だが、異常に存在感が希薄で、目線を切ったらまた存在を認知できなくなりそうなほど、儚い。確かにそこにいるのに、どうしても焦点が合わない。常に暈をまとっているように曖昧な姿だった。

 

(おいおい)

 

 冷たいものが京太郎の背を伝う。

 幽霊を自認するかれだが、本物らしき現象に遭遇するのは、初めてのことだった。

 

「――ん?」

 

 強張って一言も発せない京太郎の視線を悟った幽霊が、フッとシニカルに笑った。

 

「見かけない顔っすけど――君も、サボりっすか?」

 




2012/11/26:誤字修正
2012/11/26:ご指摘頂いた誤記・およびその他誤字修正
2013/2/19:牌画像変換


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8.たそがれミーム(後)

8.たそがれミーム(後)

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・権堂町/ 15:02

 

 

 その娘についての噂がある。

 陳腐で根も葉もないけれども、それだけに誰もが無遠慮に装飾を貼り付けていく。

 たとえばこんな話が、ある場所で行き交う。

 

 いわく、彼女は駅前の通りで事故死した小学生の霊である。彼女の家庭は貧窮しており、父母はパチンコ・スロットに足しげく通っては消費者ローンの戸を叩き、返金するために借金する類の人間であった。父母はしばしば親類友人に金銭を無心することがあった。そんなとき、ともに連れ出されたのが少女である。哀れを演出するための小道具として、両親に少女は利用された。用が足りれば彼女は、盛り場の夜が23時を迎えるまで――煌びやかで騒々しい店舗が鎧戸を降ろすまでのあいだ、放置された。そんな彼女が時間を潰していたのがゲームセンターだった。もちろん少女は遊ぶ金など毫も持たない。時おり少女を哀れんだ大人がいくらか彼女にゲームを奢ってやると、常は俯いて決して顔を上げない彼女は眼を輝かせて喜んだ。もっともそんな奇特な人種がそうそう現れるとは限らないし、良からぬ目的を持って少女に近づくものもいる。何より盛り場は警邏の巡回路である。いちはやく少女の境遇を問題視したのは、親切な警官だった。

 警官は彼女の環境を聞き、両親に苦言を呈した。表面上、両親は諾々と官憲の説教に頭を垂れたが、内心は面子を潰された屈辱で満ちた。その矛先は少女に向いた。彼女に金輪際警察に見咎められるような()()は打つなと固く言い聞かせ、きつく折檻した。もちろん、少女は素直に両親の言うことに従うほかなかった。彼女はことのほか他者の視線に過敏になった。誰かに声を掛けられそうになればすぐに身を隠した。追われれば素早く逃げた。ある日、くだんの警官が再び彼女を見かけたときも同じだった。少女は言いつけの通り警官の目から逃れ、――そして、通りで左折するトラックの内輪に巻き込まれて帰らぬ人となった。

 以来、そのゲームセンターには()()という。誰もいないはずの空間で、筐体だけが音を発していることがある。そんなとき、その場所には()()がいる。目を凝らしに凝らすと、幽かな影が見えることがある。そこには少女が座っている。少女は楽しげに笑っている。生前自由に楽しめなかったゲームを、好きなだけ遊んでいる。

 

 ディテールがやや凝っているせいか、現実的でやるせない感はあるものの、ありきたりな怪談である。眉に唾して聞く気も起きないほど平々凡々とした巷説に、異常があるとすれば()()がほんとうに存在する点に尽きる。

 

 ――という、その界隈で最近まことしやかに流れる噂を、余所者の須賀京太郎はもちろん知らない。存在感が薄すぎて一見幽霊に見えなくもないという特異体質を活かして噂を積極的に流しているのが()()当人であることも、かれはもちろん知らない。噂には生い立ちも含め一切真実が含まれていないことなど知るはずはない。

 ()()の名前は東横(とうよこ)桃子(ももこ)という。

 孤独を極めた少女である。

 単純に偶然、二人はその日出会った。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・権堂町/ 15:02

 

 

「……」

 

 投じられたフランクな質問を持て余して、三秒ほど、京太郎の心中でいくつかの行動が浮かんでは消えた。幽霊という過去例のない入力に、さしものかれも反応に窮したのである。

 応じる。目を擦る。一度死んだ感想を聞いてみる。自分の正気を疑う――いずれも適当ではない気がした。そもそも正解があるかどうかもわからなかった。だから、最終的にかれは、黙殺を選んだ。さりげなく左側の気配から目を逸らして、画面に再び向き直る。筐体に硬貨を投入し、また対局を始める。

 

 横目を少女に向ける。

 少女は笑顔のまま固まっていた。それもやがて解けて、彼女は諦めきった調子で嘆息する。床に届いていない両足をぶらつかせると、

 

「……あー」

 

 と、低い声でうめいて操作盤のうえに突っ伏した。

 非常にわかりやすい落ち込みようだった。

 

(う)

 

 京太郎の胸が、罪悪感に疼く。そもそも隣席の少女が本当に幽霊なのかと、脳裏で自問が渦巻いた。しかし一度無視してしまった以上、今さら声を掛けるのも白々しい。また、そもそも少女が生きていようと死んでいようと、京太郎に関わりはないのである。

 かれは気持ちを切り替え、画面上の対局に集中する。

 

 東一局0本場 ドラ:{二}(ドラ表示牌:{一})

 配牌(南家)

 kkk(京太郎):{一五九①④⑤⑦⑦289西北}

 

 和了目を見出せない配牌だった。が、京太郎はこうした配牌が嫌いではない。1巡目で一向聴や二向聴であるよりも、自摸次第で行方が決まる手作りが好みである。もっとも今回に限れば、たとえ聴牌を果たしたところで打点は高が知れている。月子の教えに即せば安牌を溜めて見に徹する場面であった。

 麻雀は四人で行う遊戯であり、四局に一度、和了れれば首尾は上々である。自身の和了番で、如何にして他家に打撃を与えるか――そして、他家の和了番では、如何にして被る害を抑えるか。京太郎は、単純にその二点の巧拙が麻雀における肝だと考えている(そして、毎局必ず聴牌を入れるような『強さ』を、かれは最初から考慮していない)。

 和了を目指すとき、打ち筋は拘束される。自摸の向き先を察知し、山から最終形を掘り当てることに神経を割く必要がある。同時に他家の歩みに目を向ける必要もある。自摸切りの頻度や空切り、待ち替えの有無。場に見えるドラの枚数。巡目が進めば進むほど、局面は張り詰めて、来るべき決着の瞬間を強く浮き彫りにする。思考は情報の波に浚われて、意識からは余分な領域が削ぎ落とされる。

 

(相手の顔が見えない麻雀)

 

 為すべきことは変わらない。ただし現実で打つ麻雀とは、やや情報量に差がある。摸打が自動的に処理されるために、進行も円滑である。リズムよく巡目を深めていく局面に没頭して、京太郎はひたすら打つ。思考が先鋭化される。教え込まれた牌理が、打牌の取捨選択を円滑にする。もっとも、最大効率を追いかけたところで裏目からは逃れ得ない。マクロな最適解とミクロな正着手は、往々にして食い違い、最終的に一致する。

 

(何回も――何千回も、何万回も)

 

 京太郎は打つ。

 

(頭を捻って、知恵を絞って、繰り返し打つしか――ないのか)

 

 じわりと、頭が熱を持つ。

 

(そうしてるあいだに、おれと、照さんの差は、どれだけ広がるんだ)

 

 女々しいと自覚しながらも、かれの思考は宮永照を追いかけた。正確には、彼女の麻雀を追いかけた。京太郎の脳裏には、24時間前に彼女が重ねた摸打がこびりついている。かれは具に敗北した半荘の展開を思い返すことができる。

 京太郎は思考の半分で画面上の半荘をこなし、残り半分で昨日の感想戦を行う。

 

 東一局0本場 ドラ:{二}(ドラ表示牌:{一})

 1巡目

 kkk(京太郎):{一五九①④⑤⑦⑦289西北} ツモ:{二}

 

 打:北

 

({八2348東白白發發發發中}――上家打{九萬}手出し、自摸{6}打{發}、下家打{1}手出し、対面打{①}手出し、上家打{北}手出し、自摸{東}打{中}、下家打{二萬}手出し、対面打{⑤}手出し、……)

 

 東一局0本場 ドラ:{二}(ドラ表示牌:{一})

 4巡目

 kkk(京太郎):{一二四五③④⑤⑦⑦⑨899} ツモ:{東}

 

 打:{東}

 

(――上家打{西}前巡自摸の手出し、自摸{2}打{八萬} 、下家打{南}1巡目自摸の手出し、対面打{南}自摸切り……)

 

 思考の比重は、徐々に現在よりも過去へ傾いていく。

 

(出和了を狙うとしても、發の暗槓はほんとうになかったか? ドラの活かしどころはなかったか? あの手は鳴いてでも和了るべきだった――)

 

 東一局0本場 ドラ:{二}(ドラ表示牌:{一})

 9巡目

 kkk(京太郎):{二四四五③④⑤⑦⑧⑨99北} ツモ:{二}

 

 打:{北}

 

(おれは、あのとき、)

 

 東一局0本場 ドラ:{二}(ドラ表示牌:{一})

 12巡目

 kkk(京太郎):{二二四四五③④⑤⑦⑧⑨99} ツモ:{二}

 

(――ほんとうに、勝とうとしてたか?)

 

 打:{五萬} (立直)

 

 そのとき、

 

「え。両面に受けないんっすか?」

 

 と、声が上がった。京太郎はほとんど無心で、

 

「そうだなァ――もうちょい浅ければ普通に両面で受けただろうけど、直前で二枚も{三萬}{六萬}の筋が処理されたし、対面も1巡前に{五萬}落としてる。マタギをそんなに信じてるわけじゃねえけど、関連牌が他に全然見えてないし{五六か四五}、ちょっと捻ってドラ期待の{一三}の塔子があるような気がする。で、塔子が{五六}だった場合{四萬}打ったら刺さるだろ。どっちにしても{三六}の筋はもう山に生き残ってる気がしないから、それなら四枚壁になってる{8}頼みに1枚切れの{9}出てくるかな、と」

 

 一息に答えた。

 

「あ、なるほど――っす」

「まァ、それでも、{四萬}が通りそうだったら普通に両面に受けるべきなんだけどな――」

 

 自然に受け答えしている自分に気づいて、京太郎ははっと周囲を見回した。

 先刻いた気がした少女の姿は、かれにはもう見えなかった。薄ら寒いものが背筋を伝うが、それも一瞬のことだ。恐ろしいという感覚がないわけではないが、恐怖に対する具体的な方策が思い浮かばない。

 受け入れるほかないと悟れば、とくに迷わず京太郎は不思議を容れることができる。

 

「――そのほうが枚数有利だし」

 

 そして次巡、自摸った{三萬}で放銃して、赤恥を掻いた。

 

「こういうこともあるわけだ」

「それが麻雀っすからねぇ」

 

 しみじみとした共感の言葉に安堵している自分に気づいて、京太郎は思わず苦笑した。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・権堂町/ 15:51

 

 

 16時前に、京太郎はゲームセンターを後にした。

 出掛けに、缶ジュースの自動販売機で温かい汁粉を買うと、かれはそれを麻雀ゲームの筐体に置いた。踵を返して階段へ向かうと、「忘れ物っすよ」という声がかかった。京太郎は律儀に、

 

「お供えだ」

 

 と答えた。

 

 いささか時間を無為に費やした感があるが、もともと目的といえば漠然と死に場所を探す程度の外出である。焦ったところで詮無いと思いなおし、かれはのんびり街を散策する。

 姿のない声の主とは、あのあと二、三度会話にも満たない言葉を交わした。全てに麻雀に関わる話だった。いかんせんプレイ中だったこともあり長々と話し込むことはできなかったけれども、京太郎は自分の中で死のイメージが変わるのを感じた。

 

(おれが死んで、死んだとして――幽霊になっちまって、あんなふうに、ゲーセン麻雀打ってるなら、それはいまと何が違うんだろうな)

 

 益体がないが、悪くもない空想だった。思い出し笑いをマフラーの下で噛み殺して、京太郎は歩く。陽は傾き、日中の温もりは失われつつある。冬の信州における寒気に妥協はない。相当な厚着越しにも染み入る冷気は、京太郎の身を竦ませる。市街地の中心を抜け、緩い歩調で、かれは道なりに進み続けた。

 空の色彩から、蒼が抜けつつある。皮膚を刻むような風に晒されて、むき出しの耳が少し痺れる。家路につく同年代の子供らを見送りながら京太郎は往く。河でもあればな、とかれはふと思う。この季節である。コートを脱いで水に飛び込めば、溺死よりも先に心臓が止まるかもしれない。と、極力楽な死に様を選り好みしている自分に気づいて、京太郎は馬鹿馬鹿しくなる。

 理由をつけて死を順延させるのであれば、それは結局死にたくないということである。

 

(そうだな)

 

 今さら、京太郎は、認めた。

 

(おれは、たぶん、死ぬほど死にたいわけじゃないんだよ、照さん)

 

 ただ、()()()()()()だという思考から、どうしても逃れられないだけだった。生きていることに違和感がある。後ろめたさがある。日々の暮らしに収まりがつかない。京太郎の歯車はどこかで歪み狂って、今日まで狂い続けている。不協和音はもう無視できないほど高まっている。

 

(――そこだけは、あんたの間違いなんだ)

 

 わかりやすい原風景があればよかった。たとえば、両親との不和や、心に深い傷を負うような具体的な何かが過去にあれば、京太郎はそこに悪因を見出すことができただろう。けれども京太郎の思い込みに特別な由来や明確な原因はない。だからこそかれは、誰にも心情を吐露することができなかった。不満も意味なく、ただいなくなりたいと臆面もなくいえる勇気も厚顔さも、かれにはなかった。

 秘していたそれらの感情を見破られて、自棄になった。

 それがいまの京太郎である。きょう一日の行動が、無様で稚拙であることはかれも十分自覚していた。その認知は苛立ちに拍車を掛ける。達観した振る舞いをしつつも、感情の奔流には抗えない。いっそ全てを終わらせる心算で踏み出した逐電も、時間を置きすぎたせいか冷静さと怖気に絡め取られつつある。かれはいよいよ自分がわからなくなる。何をすれば良いのか、何をしたいのか、何が正しいのか。全てに明確な答えがほしいと痛切に思う。しかしそもそも自分が何を問題としているかもよくわかっていないことに気づく。端緒である『衝動』には理由がない。理由がない以上抜本的な除去などできるはずもない。自分が最初から袋小路にいて、『衝動』を解消することでしか問題に終わりは来ないことをかれは知る。

 

(なるほど)

 

 一応の帰結を見て、京太郎の心は軽くなる。いい加減、思い煩うことにかれも嫌気が差していた。ここまで遠出した以上、何らかの決着を付けたいという心理も手伝った。

 かれは踏み切ることにした。

 すると、驚くほど肩が軽くなる。思い定めて行動に移れば、あとはほとんど迷わないのが京太郎という少年の特性だった。澄み渡った思考に任せて、()()()()()のに適した場所をかれは探す。

 あちこちの標識を見、西に橋があることをかれは知る。太陽が沈む方角へ漠然と向かう。胸の内に涼やかな風が吹いているようだと、京太郎は感じる。迷妄や躊躇を断つことは、かれが快適に生きるために(そして死ぬために)、恐らく必要不可欠だった。身を切り裂いていくような寒さも、いまは気にならない。

 やがて日も落ちる。

 すでに、京太郎の脳裏から帰宅の選択肢は消え去っている。かれは、急かされるように歩く。二十分ほど歩いたところで、河川に架かった橋にたどり着く。薄暮の橋に宮永照の背中を幻視したが、もう心は疼かない。吐く息が白く天に立ち上るのを、眺めて、かれは橋の中ほどに行く。欄干に手を掛ける。川面に目を向ける。水位が思ったよりもずいぶん低い。京太郎の矮躯であっても、足は容易に川底へつきそうだった。流れも穏やかで、到底溺れやすそうには見えない。

 ただ、きれいな川だと思った。

 落ちつつある陽光の緋色が水面に映えて、不定形の光の鱗が、誘うように揺れている。かれは鞄を足元に置く。靴も脱ぐ。マフラーをほどき、コートを脱ぎ、その場に畳む。通りすがった老婆が、けげんな顔をかれに向ける。声は掛けてこない。かれは快活に「こんにちは」といって笑う。老婆は戸惑った風に挨拶を返し、会釈して通り過ぎていく。

 京太郎は天を仰ぐ。これまでも幾度か、無体な運試しに身を投じたことはある。死んでもいいと思い、実際に大怪我を負ったこともある。ただ過去の行いは、『衝動』に促されてのものだった。それらはどこか自動的で、真実単なる衝動だった。どうしようもない何かの発露として、京太郎は死に少しずつ足を進めていった。

 今回は違う。

 かれはかれが思う必要性に従って、命を投じようとしている。結果は二の次である。死んでも、死ななくても、どちらでもよい。命を擲つことそのものに、かれは興味があった。これまで自分の頭を悩ませ続けた命題がどの程度のものか、その実態を知りたかった。そのためには、どうやらほんとうに死んでみるしかない。だから、かれは死んでみようと考えた。

 照や家族のことも、頭の中から消え去っていく。最後に残ったのは、これまでに幾度かあった、思い出深い対局の記憶だった。図書館の対局を思った。級友たちと打った人生最初の勝利を思った。石戸月子に巻き込まれた勝負を思った。池田華菜に連れて行かれた金を賭けた勝負を思った。花田煌に誘われ出場した小さな大会を思った。南浦数絵とその祖父に受けた指導を思った。宮永照に喫した敗北を思った。いずれも、かれの中で、決して色あせていない記憶だった。

 

 その事実は、京太郎をそれなりに満足させた。

 

 一息で欄干によじ登ると、京太郎は呼吸を調えた。

 風が一際強く吹いた。

 視界の端で、黒髪が流れるのを見た。

 

(――月子?)

 

 もちろん、違った。

 ゲームセンターで見たあの少女が、そこにいた。

 京太郎は彼女を凝視する。確かに、そこに()()。やはり薄い印象だが、存在していることには間違いない。少女はそこに立ち、息づいて、足下には影も見える。顔には表情もある。いま、彼女は何かに驚いたように目を丸くして、京太郎を見ていた。手には未開封の汁粉の缶が握られている。

 

「よう」

 

 と、京太郎はいった。

 

「どうも」と、少女は呟いた。

「あー、っと」京太郎は、その反応を見、「おまえ、もしかして、幽霊じゃない?」

 

 少女は無言で頷いた。

 

「そりゃ、わるかった。お供えなんていって」京太郎は笑って、手を立てた。「勘弁してくれ」

「そうっすね。だから、コレは返すっす。もらう理由、ないんで」

 

 少女は素っ気無くいって、缶を京太郎の足元に立てた。

 そして、じっと、欄干に立つ京太郎を見据えた。

 

「いっしょに麻雀やったよしみで、いっておくっす」

 

 淡白な調子で彼女はいった。

 

「今、冬っすよ」

 

 思わず、京太郎は吹き出した。

 

「知ってる」

 

 と、笑いながら、かれは答えた。

 

「じゃあ、何しようとしてるんすか」

 

 笑われたことが気に障ったのか、やや硬質な声で彼女がいった。

 

「いや、まァ――気にするなよ」

 

 嘆息すると、京太郎は川面を名残惜しげに見て、かぶりを振った。いつぞやの照の言葉を思い出した。もちろん、幽霊ではないと判明した少女の目前で川に飛び込む気はない。そそくさと欄干から足を下ろし、靴を履きなおした。コートを着込み、鞄を持ち、少女につき返された汁粉を掴む。買った際は暖かかった缶は、外気に晒されすっかり温度を失っていた。

 

「要らないなら、飲んじまうぞ」

「どーぞ」猜疑心に塗れた瞳で、少女が応じた。

 

 京太郎は冷え切った指をプルタブに掛ける。気の抜けた音と共に開封された汁粉が、仄かに甘いにおいを立ち上らせる。できれば暖かい内に飲みたかったとこぼしながら、京太郎は一息に中身を呷った。

 

「――それじゃ」

 

 口内に充満する甘味に顔をしかめて、京太郎は黙然と佇む少女に背を向ける。

 その背に、やや掠れた声で、問いが飛んだ。

 

「麻雀、好きなんすか」

 

(――)

 

 京太郎は足を止めた。

 振り向いた。

 

「なんで、そう思う」

「さっきの……ゲームセンターで」

 

 少女は、京太郎の勢いに喫驚した様子でこたえた。

 

「――ずっと、すごく、楽しそうだったから」

 

 その回答は、綺麗に京太郎の穴を埋めた。

 無闇な納得が、京太郎の胸に落ちた。慮外の感情が、ふいに京太郎の感情を揺さぶった。過去に類を見ないほど大きく、突然の不意打ちだった。かれは危うく声をあげて泣き出すところだった――かろうじてその感情を呑み込むと、次に訪れたのは笑殺の衝動だった。

 それら全てを一瞬で処理して、それでも隠しきれずに声を震わせながら、京太郎は、

 

「好きだよ」

 

 と、いった。

 

「それより大事なものも、やりたいことも、あるかもしれない。でも、おれは、麻雀が好きだよ」

 

 口にして、それが正解だと理解できた。

 

 そろそろ夜になるな、とかれは思った。

 




2013/2/19:牌画像変換
2013/4/2 :変換漏れを修正


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9.はつゆきトーン(前)

9.はつゆきトーン(前)

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・旭山/ 16:33

 

 

 時計の針は黄昏時を踏み越えようとしている。正面の山には12月の前半に降り積もった雪の名残が見える。身体の芯まで凍えさせるような夜が近づくと、薄っすら雪化粧が施された尾根の景色はどこか妖しげに見えて、京太郎を惹きつけた。

 地元に帰るのであれば、引き返すための電車までの間はあまりない。けれども遠出の疲労は京太郎の身体を確りと捕まえている。いいかげん歩くことに嫌気を覚えて、京太郎は適当な場所で座って眠り込みたい欲求に駆られる。

 

(それもいいけど――)

 

 かれの服装はそれなりに防寒を考慮したものだったが、真冬の信州で一晩野宿して無事に済むほど徹底はしていない。人目を嫌って山に入れば、京太郎は結果的に当初の目的を果たすだろう(つまり、死ぬ)。それはもう、かれが望むところではなかった。積極的に自害する意思は、先刻もらった少女の言葉が霧消させた。丸一日かけて、京太郎を納得させたのは特段突飛な回答ではない。始終考え込んで得た結論でもなかった。始めから判りきっていることだった。

 

 京太郎が麻雀と出会って数ヶ月が過ぎた。

 

 かれが麻雀に魅入られた切欠に、代償的な刺激を欲する面は確かにあった。それは揺らぎようのない事実である。けれども刺激にはいずれ慣れる。京太郎が他の何をおいても麻雀にのめり込んだのは、麻雀自体の面白さに捉えられたからに他ならない。

 麻雀は気を紛らわせるかもしれない。

 けれども、命を終わらせる行為は麻雀の代わりにはならない。

 

 須賀京太郎は死を志向している。

 けれども生き続ける理由がある。

 かれはまだ麻雀を打っていたい。

 

(結局のところ、おれは、だれかに、麻雀が好きだって保証してほしかっただけか)

 

 徒労が肩を叩く。

 

(こんな遠くに来てまで、死んでやるなんて気になって、でも、打ってていいんだって、背中を押して欲しかったのか)

 

 無性に気恥ずかしくなって、京太郎は深く息をついた。

 

(ひでえ甘ッたれだ――だせぇなァ)

 

 次に沈黙を保っている少女を見た。長めの前髪の奥で、円らな瞳が無感情に京太郎を見つめている。少女の瞳は、ただそれだけで京太郎に宮永照を連想させる。透徹とした視線に畏怖のようなものを覚えている自分に気がついて、京太郎は唇に指を添えた。

 

「おれは、帰るよ」

 

 と、なんとなく、京太郎は少女に向けて宣言した。最前の質疑とは違う、特段感情の篭らない声だった。思えば京太郎は、目の前にいる幽霊少女のことを何も知らない。少女もまた、京太郎のことを何一つ知らない。そして二人の間で何かを交換する必要性を、かれは感じなかった。

 

「そうすか」

 

 と、少女も事務的に返答した。欠伸をかみ殺すように唇を引き締めて、さっさと踵を返す。一歩遠のくごとに、その小さな背中は京太郎の意識の焦点から外れていく。騙し絵を見ているような心地で、京太郎はむきになって少女の背中を凝視した。と、数歩進んだ所で少女が京太郎を顧みた。

 

「町のほうへ戻るなら、途中までは一緒っす。どっちに帰るんすか?」

「ああ」と、京太郎は呆けた頭を振った。「うん、そうだな。おれも、そっちだった」

 

 苦笑を深めて、京太郎はまた歩き始める。

 少女の背を追う。

 

 思考はとても冴えている。

 近づく夜の空気と同じくらいには、澄んでいる。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市/ 16:40

 

 

 並んで歩く少年少女の間に、会話はほとんどなかった。暮れかけた空を漠然と眺めて、同じくらいの歩幅で、市街地の駅へ続くアスファルトの道をただ進む。道しな、京太郎は頻繁に少女の存在を忘れかける。しかしそのたびに不自然な意識の空白が少女の輪郭を浮き彫りにして、忘れる都度かれは少女を思い出す。それは頭痛が伴うほど不条理な現象で、京太郎は真剣に自分の頭を疑い始める。念のため二ヶ月前の月曜日から朝食のメニューを一つずつ思い出し、昨夜の夕食までを諳んじてみて、とりあえず記憶力に問題が生じているわけではないことを確認する。

 そうなると、原因は外に求めるしかない。

 

「おまえ、なんなんだ?」

 

 と、たまりかねた京太郎は、道すがら少女に訊ねた。

 少女は一瞬だけ横目を京太郎に送ると、すぐに視線を逸らした。

 

「べつに――()()()()()()っすよ。なんでもなくて、ほんと、ただそれだけっす」

「なんだそれ」

 

 要を得ない回答に、京太郎は首をかしげる。すぐに、問われても困る類のことだったのかもしれないと、かれは思いなおした。やや気まずい心地で、他の話題を探す。思い当たるものなど一つしかなくて、自分の引き出しの少なさに辟易しつつ、京太郎はまた口を開いた。

 

「麻雀、いつもゲーセンで打ってるのか」

「だいたいは」と、少女は頷いた。「それか、ひとりで打ってるっす」

「ひとり?」京太郎は呟いて、「――もしかして、四人分の山積んで、一人で局を廻してるってことか」

「……よくわかったっすね」

 

 ずっと前を向いていた少女の目線が、驚きの色とともに京太郎へ移った。

 

「おれもよくやる。まァ、人と打つほうが多いけどさ。おまえは――麻雀やる友達とか、いないのか?」

()()()()()()()なら、いないわけじゃないっすよ」心なしか気安いトーンで、少女が答えた。「ただ、人と打ちたいだけならゲームでもいいし、麻雀がやりたいだけなら一人でもじゅうぶんだし――実際に会って遊ぶのは、いろいろ疲れて、メンドーなだけっす」

「そういうもんか」京太郎は腑に落ちない表情を隠そうともせず、いった。「おれは、やっぱり差し向かいで打つ麻雀がいちばん……そう、楽しいと思うけどな」

「――ふ」

 

 京太郎の台詞を聞いた少女の表情から、一瞬、幼さや稚さが消失した。瞳から感情の色が抜けた。口元だけが笑みを象った。何も知らない子供を笑う、それは哀れみや嘲りの混じった微笑だった。

 

「君にはわからない」

 

 と、彼女はいった。

 

「おれにはわからない」と、京太郎は繰り返した。「でも、おまえはそれで楽しいんだろ」

「そうっすね」少女は肩を竦める。

「だから、打ってるんだろ」

「そうっすね。そこは、きみと同じっす」

 

 少女のまとう空気の質が変わったことに気づきながら、京太郎は頓着しなかった。かれは彼女に、奇妙な同調を感じていた。京太郎は人見知りする子供ではない。それでも訪れたこともない街で偶さか出会った少女に対する心境として、自分のそれが適当である気はしなかった。

 京太郎が少女に対して仄かに抱く感情は、親しみや好感とは分類を異にしていた。かれは自分の感情に符合する言葉を探したが、ついぞ思いつくことはない。良く似た、けれども根本的に由来が違う二種の生き物が出会えば、ちょうどこんな心持になるだろうという気がした。相憐れむには隔たりがありすぎ、割り切るには相似が多すぎる。曖昧な関係性が京太郎に連想させたのは、先日図書館で手に取った絵本の内容だった。花魁鳥(エトピリカ)にあこがれた企鵝(ペンギン)を、かれは想った。

 

「なら、それで十分だと、おれは思うよ」

 

 京太郎は、当たり障りのない言葉を、強いて選んで口にした。

 

「きみは――」そこまで言いかけて、少女はかぶりを振った。「きみ()、ちょっと、ヘンっすね」

 

 京太郎が曖昧に応じると、また会話は止まった。駅に近づくにつれ、道に人通りが戻り始める。京太郎は歩調を緩め、勝手知ったる少女の先導に従う。彼女を見失わないように必死で眼を凝らす。

 

 少女は軽やかに道を進む。行き交う人々は誰一人彼女に注意を払わない。半歩譲るような素振りさえ見せない。少女は人波をすばしっこく縫って歩く。彼女は誰の目にも留まらない。暗色のダッフルコートの裾を翻らせて、スニーカーが石畳のうえを踊る。黒髪の襟足が揺れる。京太郎は彼女の影を目で追いかける。引き離されないよう足を早める。

 夜を前にして、街は人造の光源を燈し始める。目前に控えたクリスマスに向けた装飾が、アーケードの天井や通りの並木を彩っている。広場には巨大な樅の姿もある。電飾が賑やかに夜を照らしている。星より強く輝く暖色の灯りは(まばゆ)く、わざとらしいほどに美しく、いつもどおり京太郎の胸を打つことはない。けれども前を行く少女は、楽しげに景色を見回している。余所見をしながら、器用に人を避けている。見慣れた光景だろうに、少女の顔に飽いた色はない。鼻歌さえうたっている。しかしそれは誰の耳にも届かない歌である。少女はひとりで完結している。絵画を眺めるように、自分を切り離して、湧き立つ街を楽しんでいる。とても寂しくて異常な情景なのに、京太郎には少女が影を負っているようには見えない。

 

 どこかで楽しげな音楽が鳴っている。聖夜を招く歌が響いている。誰も少女に気付いていない。京太郎は歩くのを止めたくなる。無性に少女から目を離したくなる。動悸が激しくなる。呼吸が落ち着かない。不安で仕方がなくなる。いったい、あんな人間が存在していいのか? と、かれは思う。周囲は人で溢れかえっている。悩む人を気取る京太郎自身も、群衆に含まれている。少女は違う。彼女だけがこの道の中で浮いている。京太郎は心理的に、彼女は実際的に、()()()()()()()

 

(意味がわかんねえ。なんでおれは)

 

 京太郎は目頭を押さえて、自問した。

 

(泣きそうになってんだ――)

 

「どうかしたっすか?」

 

 京太郎の様子に気がついた少女が、顔を覗き込んでくる。白皙の肌は寒気に晒され仄かに朱く色づいて、少女が彼岸の人ではないことを示している。

 

「おまえは」乾いた声で、京太郎はもう一度いった。「()()()()()

 

 一瞬だけきょとんとしたあと、少女は悪戯っぽく笑った。

 

「ただの――人付き合いが嫌いな、影が薄い女の子っすよ」

 

 冬の空より透明に突き抜けた、曇りのない顔だった。

 懊悩や逡巡をはるか遠くに置き去りにした人特有の危うさを、京太郎は彼女に感じた。ただ、それを直接言葉にすることは躊躇われた。直感を整理することはできなかったが、少女に対して哀れみや同情を投げかけるのは、ひどく不適当だという思いがあった。京太郎は苦りきった顔で口を噤む。そうこうする内に少女は歩みを再開する。京太郎は後を追うしかない。

 ほどなく、二人は駅が目に見える通りにたどり着く。時刻は17時を半分回っていた。

 少女はさっぱりとした調子で、「それじゃ」と別れの挨拶を口にする。

 

「わたしは、こっちなんで――」

「ちょっと待て」

 

 思わず、京太郎は少女を呼び止めていた。とはいえ、用件などない。制止の声を発してから、その理由を探して、かれは咄嗟に視線を彷徨わせた。

 

「なんすか?」

「そこにいろ」と、京太郎はいった。

「はあ」

「――いいか、かってにいなくなるんじゃないぞ。そこにいろよ」

 

 言い置いて、京太郎は走り出す。横断歩道を挟んだ交差点の向かいにある自動販売機へ足を飛ばす。理由のわからない不安が、京太郎の背中を押す。焦りがかれを急がせる。かれは呼吸を乱しながら飲み物をふたつ買う。

 数分も間を置かなかったはずである。

 けれども、元の場所に戻った京太郎には、少女の姿を見つけることはできなかった。

 

「……はぁ」

 

 弾む呼吸を抑えて、京太郎は両手に握った缶ふたつ――火傷しそうなほど熱い汁粉の缶を見下ろした。

 右にも、左にも、少女の姿はない。

 

「礼を、いいたかったんだ」京太郎は、小声で呟いた。「べつにおまえじゃなくてもよかった。でも、おまえに楽しそうっていってもらえて、おれは、救われたんだよ」

 

 かれは嘆息した。

 

「でも、そんなもんはおれの勝手な都合なんだろうな」

 

 頬に、冷たいものが触れた。

 雪だった。

 京太郎は天を仰ぐ。

 

 白い粒子が、次から次へと降りしきる。雪国では当たり前の光景である。周囲からは感嘆よりも、明日の除雪を嘆く声が多く立ち上る。日中の好天からは予想がつかないほど勢いを増し始める降雪に、京太郎もうんざりとした心地になった。

 

「ありがとな」

 

 京太郎はその場にひとつ、未開封の缶を置くと、その場を離れた。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市/ 17:35

 

 

「――どういたしまして」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()東横桃子は、置き去りにされた缶をつまみ上げる。

 とぼとぼと立ち去る少年の背中を尻目に、プルタブを押し開けた。

 

「そういえば、名前も聞いてない」

 

 一息で飲み干した汁粉は、火傷しそうなほど熱く、歯が疼くほど甘かった。

 

「――そのうち、またどっかで会うっすかね」

 

 東横は、快活に笑った。

 

「なんて、私に気づけないんだから、無理っすね! ……」

 

 それからふと無表情になると、彼女は数秒、空になった缶と近場のゴミ箱を見比べた。

 停滞は数瞬のことだった。

 

「………………さむ」

 

 白い息を落として、コートのポケットに缶をしまうと、彼女はまた目的もなく逍遥をはじめた。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日) 長野県・飯島町・七久保駅/ 22:20

 

 

 長旅に凝った身体をほぐし、京太郎は大口を開けて欠伸した。電車を降り、駅を出、充満する寒気を肺に取り込み思考を覚醒させる。

 雪は七久保でも降っていた。交通が阻害されるほどではないが、積雪は相応で、靴下まで水浸しになることは覚悟しなければならない。長野市内で購入したビニル傘を差して、京太郎は誰もいない夜の道を歩き始める。精神的にはともかく、身体的にはほとほと疲れ果てて、かれは一刻も早く眠りにつきたかった。

 

 夜闇に浮く白雪が視界の大半を埋める。その見慣れた光景を、美しいと思う感性が京太郎にはない。ただ美しく思えればいいとは思う。

 遠地で出会ったあの幽霊めいた少女の姿を、かれは追想する。京太郎の目には、彼女はどうしようもなく孤独に見えた。慮るのも憚られるほどの隔たりを感じた。京太郎が望む存在とは、畢竟彼女に他ならないとも感じた。そこには羨望や嫉妬はなかった。感情のヴェクタさえも一切遮断するほど、あの少女の不在は際立っていた。

 

(夢でも見せられたみたいだ)

 

 寂々と、雪上に足跡を刻みながら、京太郎は沈思する。無為に過ごした一日を思い、死に損なった自分を無様に思い、何より今すぐにでも麻雀を打ちたいと思う。糸は解けてまとまらず、思索はとりとめもなく広がって定まらない。

 

 かれの足取りが重いのは、家にたどりついたときにひとつの現実を見ることを予期しているからである。

 

 今日は平日で、すでに時間も深く、常ならば須賀家の両親はともに帰宅している時間だった。京太郎はふだん、毎朝両親が置いていく小遣いで朝食と夕食を済ませた(実際にはほとんど遣っていないから、かれには小学生としては分不相応なほどの蓄えがある)。日常的には、朝餉や夕餉をかれらと囲むことはなかった。例外はせいぜい月に一、二度くらいなもので、それで須賀家は概ねうまく廻っていた。

 

 かれの両親は、特段不仲というわけではなかった。お互いに意中の相手は家の外にいて、そのことについての不満や悪意は澱のように積もっている。けれどもそういった不和が家庭で発露されることはない。京太郎は、その理由が自分にあることを察している。唐突に得体の知れない振る舞いを見せる異物に対する倦厭と、多感な時期にある息子への配慮とが、須賀家には混在している。

 京太郎は、両親が嫌いではない。二人とも幸せであってほしいと心底想っている。けれどもそのためには自分が障害となるであろうことも自覚している。彼らに心配をかけるのは、だから本意ではない。

 単純に、かれは家出の露見を恐れていた。両親は京太郎を避けているが、かれに無関心というわけではない。今回のような大胆な行動に踏み切った裏を、必ず追求するはずである。むろん自殺のことなど仄めかすわけにもいかない。従って適当な言い訳を作る必要があり、それはかれにとってはたいへんな面倒だった。

 しかし、仮に両親が自分の不在に気づいていなければ、このまま朝を待って何事もなかったようにやり過ごすことができる。

 ぼうっと落ちる雪を眺めることしばし、京太郎は今夜の方針を決めた。

 

(――月子んちに泊めてもらうか)

 

 そうと決まれば、とばかりにかれは公衆電話を探した。普段存在を意識していないこともあって即座に場所は思いつかないが、少なくとも駅まで戻れば確実に一台はある。かれは踵を返し、

 

 そこに石戸月子がいた。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日) 長野県・飯島町・七久保駅/ 22:22

 

 

 何があったのか、月子は激しく呼吸を乱していた。汗までかいているようで、額に長い黒髪がはりつき、ふだんは乱れのない髪の流れも今はあちこちに広がっている。断続的に吐かれる息は明らかに熱を持っていて、紅潮した頬からさえ湯気が立っている。

 

「月子? なにやって」

 

 問いが終わる前に、月子が動いた。高い位置にある彼女の頭が沈む。黒髪が反動に跳ね上がる。墨跡のようにそのまま尾を引いて、月子は一瞬で京太郎に肉薄する。京太郎は呆気に取られて全ての様を見送る。月子の右手が振りかぶられる。手先には拳が作られている。コンパクトに畳まれた腕は撓んで開放の瞬間を待つ発条を連想させる。そのイメージを裏切ることなく、引き絞られた拳は勢い良く放たれて、京太郎の顔に向かう。

 

 殴られる、と京太郎は思う。

 

 殴られた。

 

 鼻の奥で、火薬のような匂いが広がる。痛みよりも、感触と衝撃が感覚の全てを占拠した。捩れていく首の動きに逆らわず、京太郎は足を支えにその場に留まろうとしたが、気がついたら靴底が地面から離れている、あ、おれ飛んでる、と思った次の瞬間にかれは頭から雪に突っ込んだ。冷え切った身体にさらに冷たい雪が覆いかぶさる。

 

「とりあえず」と、月子が息も絶え絶えにいった。「手間賃として、一発、殴らせなさい」

 

(もう殴ってるじゃねえか)

 

 と、思いはするものの、京太郎は声を発することができない。頬が尋常ではなく熱く、頭が揺れてまるで思考がまとまらない。突然の暴挙に抗弁しようとするものの、地面に手を着いて立ち上がろうとした傍から滑り、膝が笑って、また這い蹲る。口はしから唾液が滴り落ちる。雪面に出来た染みには赤いものと、白く硬質な物質の欠片が混じっている。

 そんな京太郎の襟首を掴む手がある。むろん月子である。無理やり身体を引き起こすと、月子の端整な顔が京太郎の視界いっぱいに広がる。汗みずくの月子の体温の高さを感じて、京太郎はふいに、事情を察した。

 

「――あのね、須賀くん」

 

 と、万感を込めた調子で、月子がいった。

 

「莫―――ッッッッッ迦じゃないの!? ばーか! ばぁか!!」夜を劈くほどの絶叫だった。「なんなの、負けてソッコー家出とかいったいどういう神経してるの!? あなたヘーキな顔しておいてもうなんなの! ほんとに! ひとにひとにもぉおお、心配掛けて! なんなの!? ほんっっっと、あせったっ! 幽霊かと思った! 須賀くんのせいでまだ無駄に運悪くなっちゃうじゃないなんなの! もう、莫迦!」

「おちつけ」と、京太郎はいった。

 

 また殴られた。

 

「冗談じゃないわよほんとにもう――ちょっとねえ、ひとがっ、どんっだけ心配したと、くっ――ばか! 用水路とか川とかでなんかへんな塊見るたびに心臓に悪くてもー! むかつく! なに平気な顔してるの!? なんなの!?」

 

 仰向けに倒れこんだ京太郎に馬乗りになって、月子は支離滅裂な罵声を浴びせ続けた。興奮のあまり、月子の目じりには涙が仄見えた。鼻も時おりすすっているようだった。本格的に泣き出さないのは、彼女の意地のゆえだろう。加減のない暴力を、京太郎は粛然と受け入れた。甘んじて受け入れる必要がある痛みだった。

 一頻り衝動を吐き出した月子が落ち着いたタイミングを見計らって、京太郎はいった。

 

「おまえなんで、おれが家出したってしってるんだ」

「そんなの」と、月子はいった。「あなたの親に連絡もらったからに決まってるでしょう! 春金さんも! 父さんも! あなたのおとうさんとおかあさんも! みんな! 須賀くんのこと探してるわよ、いま!」

 

(あァ――そっか。そうだよな)

 

 京太郎は、

 

(そういうことも――あるよな。親だもんな。なんで、気が回らなかったんだろう)

 

 目を閉じた。

 

「そいつは、わるかった」

「謝れば済むと思ってるわけ!」

「いや、そうじゃねえけど」

 

 対応に苦慮する京太郎を目にして、月子はようやく、声のトーンを落とした。

 

「……死んじゃったかと思ったわ」

 

 図星を刺されつつ、京太郎は自然な態度で笑った。

 

「たかが麻雀に負けたくらいで、そんなわけあるか。ただちょっと、サボっただけだよ」

「たかが、なんて思えないよ」弱弱しい声で、月子がいった。「だって須賀くん、いつも、いなくなりたそうじゃない」

 

 今度こそ、京太郎は驚きのあまり、呼吸を止めた。

 

「――なんで」

「なんで? なんでってなにが?」月子が顔をゆがめた。「()()()ばれた、とでもいいたいわけ? あなた、人のことなんだと思ってるの?」

 

 京太郎は、咄嗟に答えられなかった。

 

「須賀くん、麻雀以外、全部どうでもいいって顔しかしてない。何話しても、誰といてもそうじゃない」月子はさらに言い募った。「いつも遠いし、どうでもよさそうだし、上の空で、須賀くんが楽しそうにしてるの、麻雀以外じゃ見たことないもの。あんな調子で、それでみんなうまく誤魔化せてると思ってたわけ? ひと当たりよくして、優しくしてれば、それでどうとでも流せると思ってたんでしょう。――あのね、須賀くん、自慢じゃないけど、わたし、友達があんまりいないのよ」

 

 自ら殴った頬に手のひらを添えて、月子が告げた。

 

「だから、親友(あなた)のことくらい、ちゃんと見てるし、いつでもわかりたいって思ってる。――須賀くんは、わたしのことも、じぶんの親のことも、ちょっと、馬鹿にしすぎよ。想像力が足りなすぎよ。みんな、あなたが思うほど、あなたに無関心じゃないの。あなたが無関心なほど、まわりはあなたに無関心じゃないの」

 

 最後に、いくぶん弱く(それでも鋭く)、月子は京太郎の頬を張った。

 それからいった。

 

「だから、反省しなさい。――わたしも、一緒に謝ってあげるから」

 

 全ての言葉に耳を澄ませ、心の奥深くに納めると、京太郎は呟いた。

 

「月子」

 

「なに」

 

「麻雀が、打ちたい」

 

「――――――――――――」

 

 『絶句』というタイトルをつけて飾っておきたいほど、そのときの月子の表情は見ものだった。

 そんな顔をさせたことに満足して、京太郎は笑った。

 

「冗談だよ」

 

 と、いった。

 

 もちろん、嘘だった。

 

 

 ▽ 12月27日(金曜日) 長野県・飯島町/ 13:18

 

 

 終業式が終わったその足で、目的地へ向かう。急く気に任せて、歩調は小走りになる。本調子ではない身体は気だるさを訴えているが、かれはまったく頓着しなかった。

 

 家出の後、京太郎は熱を出した。この季節に冷えすぎたこともあるが、根本原因は月子の打撃である。彼女の一撃は京太郎の乳歯を砕き、傷口に雑菌が入り込み、それが高熱をもたらした。とはいえ体調が悪いと気づいたのは翌日の朝のことであり、当日の夜、京太郎は月子(と、遠巻きにふたりのやり取りを眺めていた春金清)に引き連れられて、両親の元に送り届けられた。京太郎の姿を見た父はとりあえず安堵したものの、本格的に取り乱していた母は顔を腫らした息子を見て更に混乱する羽目になった。

 詳細は省き、とりあえず京太郎は両親に心配を掛けたことを謝罪した。

 

 もちろん、須賀家に内在する問題が、そんな一幕で解消するはずはない。それは当事者たちがいちばんよくわかっている。わだかまりは厳然と存在していたし、それは息子が行方不明になるという非常事態にあっても同じだった。ただ、困難を共有するという経験はいくらか両親の関係性を改善したようだった。それは養育者として息子を気に掛けるという方面の一致であり、恐らく家族としてのそれとは異なったが、改善には変わりない。

 

 とまれ、京太郎は冬休みを目前に控えた数日を、病床で過ごすはめに陥った。見舞いには級友が数人と、月子が一度だけ訪れた。母は一日だけ仕事を休んで京太郎の世話をしたが、多少回復が見込めた二日目以降は、京太郎自身が母を促して仕事に向かわせた。

 その間、京太郎はずっと考えていた。

 

 ――どうすれば、宮永照に勝てるかを。

 

 照に対して、何かしらの悔恨があるかといえば否である。喫した手ひどい敗北については、京太郎自身に責がある。だからかれは、別段雪辱のために照の攻略を検討していたわけではなかった。かといって、月子に初めて挑んだときのような釈然としない心地を感じているわけでもない。

 

 照は強い。

 

 強いて挙げるとすれば、それだけが京太郎の動機だった。改めて麻雀に向かい合い、生きていくために、照に挑むことは、悪くない案のように思われたのだ。しかしただ対局するだけでは、どうにも勝てる気はしない。仮に勝てたとしても、それはたんなる偶然に任せた結果に過ぎない。そうした勝利が欲しいだけなのであれば、極論麻雀をする必要はない。賽の目でも振り合うだけでもいい。それでは足りないから京太郎は麻雀を打つ。

 そして、打つからには勝つべきだという想念がある。

 勝利への意欲が、やはり京太郎は希薄である。それは純粋に性質的な問題で、短期間で覆るものではない。ただ不可能事への挑戦であれば話は違ってくる。

 照は壁である。磐石で途方もなく高い。少々の小細工では到底打ち崩せない。余程の策と幸運に恵まれて、ようやく瑕のひとつもつけられるかもしれない。

 

 だからこそ、挑み甲斐があった。

 

 そして、証明しなければならない。

 

(あんたは別に何も悪くないし、おれは、これでいいってことを)

 

 京太郎は、だからまた、照に挑む。

 

 

 ▽ 12月27日(金曜日) 長野県・飯島町/ 14:00

 

 

「――」

 

 照の足が止まる。表情は全く変わらないが、もしかしたら驚いているのかもしれない、と京太郎は思う。

 いつか見たコートにマフラー、ランドセルの装いで、照は一人で帰路についていた。周囲に友人やそれ以外の影はない。京太郎は以前一度だけ歩いた彼女の家に続く道の前で、ただ待っていただけである。

 

「こんにちは」

「うん」

 

 と、照は頷いた。他にどういったらいいかわからないという風情である。その不器用さがなんとも微笑ましくて、京太郎は相好を崩した。

 

「わかってるだろうけど――麻雀、うとうって言いにきた」

「打たない」照は言下に言い切った。「麻雀は、京太郎に向いていない」

「それを決めるのはあんたじゃない」

「わたしは何も決めていない」と、照は答えた。「ただ、そうだからそういってる」

「そうだったとしても、麻雀がおれに向いていないとしても、おれは()()()()()()()()()()よ」

 

 京太郎は、あくまで穏やかに反駁した。

 

「前も言ったけど、照さん、おれはあんたが好きだよ。たぶん、初恋ってやつだ」

「……うん」

 

 少しだけ照の挙動が不審になったが、構わず京太郎は続けた。

 

「ただ、それは、それだけだよ。必要なものじゃない。でも、麻雀はおれに必要なんだ。おれが生きていくのに、そいつはどうしても必要なんだ――もし生きていくのなら、そう生きたいって、心から思ったんだよ」

「――」

「前に言ったよな、おれが本当にやりたいことはなにかって」京太郎は、雲に覆われた空を眺める。「もうわかってるだろうし、今さらだから白状するけど、おれはずっと、この世からいなくなりたかった。――ていうか、いまもそうだ。なんか、いなくならなきゃいけないような気がしてる。誰もそんなこと言ってないし、言われたこともないんだけど、そう言われてるような気がしてるんだ。もうずっとそうだ。長いこと、そんなふうに感じながら、毎日生きてきた。そのうち、何が正しいのかわかんなくなった。いなくなったほうがいいんじゃないか、それが本当なんじゃないかって思って、でも実際に死ぬような思い切りもなくてさ、ナァナァでやってきた。馬鹿みたいなことや危ないことを時々やって、ああ、今回は駄目だったな、でもいつか本当に死んじまうのかなって、思ってた。――はじめてあんたらに会った日も、そうだったよ」

 

 一息で喋り、京太郎は照の様子を伺う。生涯で初めて、かれはおのれの本音を赤裸々に語る。照は黙して、京太郎の告白に耳を澄ませている。

 

「でも、麻雀を打ってると、そんなことは忘れられるんだ。逃げてるだけって思うかもしれねーけど、でも、おれは、それがそんなに悪いことだとは思わない。照さん、なぁ、照さん――おれは弱い。あんたよりもずっと弱い。下手だからとかそういう話じゃなくて、たぶん、どうしようもないところで、おれの弱さとあんたの強さの間には線が引かれてる。なぁ、そうじゃないか?」

「わからない」と、照は答えた。

 

 その留保は、彼女の優しさだ。

 京太郎は満足げに頷く。

 

「おれは弱いよ」京太郎は繰り返した。「でも麻雀が好きだ。まだ好きになれると思う。これからも打っていく。だれを向こうに回しても。何を相手にしたとしても。おれはこいつと生きていく」

 

 呼吸、

 

「そのために、あんたが邪魔だ、照さん」

 

 照の眼が細められた。

 

「どういう意味?」

「ごめん、言葉が足りなかった」京太郎はわざとらしく頭を下げた。「()()()()()()が邪魔だって話さ。ホント、個人的な話でわるいんだけど、どうやっても勝てないし、どうやっても負けないなんてそんなモン、おれは認められない。最終的に勝ってのけるやつならべつにいい。最終的に負けるのでもべつにいい。ただ勝つことがあらかじめ決まってるやつはだめだ。そんなの、勝負する必要ないじゃねーか。そんなやつがいたなら、そいつこそ麻雀には向いてないんだよ。牌に愛されてるんだかなんだかしらねーが、そいつこそ麻雀を打つべきじゃないんだよ」

「……京太郎は、わたしが()()だと思ってる」

「照さんが()()だとは思わない。そんな存在はいない。何の力もないけど、――()()()()()()()()()()

「それを証明するために、京太郎はわたしと打ちたいと思ってる」

「おれの負けは、おれが弱いからだ。照さんの勝ちは、照さんが強いからだ。そいつは外側での決まりごとなんかじゃねーんだ。おれはそのことについて、どうしても納得したい」

「わたしたちの勝負は、わたしたちが決める」

 

 京太郎は肯んずる。

 

「恥ずかしいけど、もういっかい言うよ、照さん。おれはあんたが好きだよ。あんたの麻雀や強さに憧れてる。これからも、できれば打っていきたい」

「うん」照の瞳に、力が宿る。

 

 常勝の強者に相応しい圧力が、その身から発される。

 

「だから照さん」と、京太郎はいう。「勝負しよう」

 

「わかった」

 

 と、照はいう。

 

「――打とう」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 06:30

 

 

 その部屋は12畳ほどのリビングである。3LDKの一室として、極々平均的な間取りの中央部に、違和感の塊が鎮座している。全自動麻雀卓――それも家庭用ではなく業務用だった。

 

「まだひとり到着していないみたいだけれど、ざっとルールの確認をしましょうか」

 

 夜明けの陽射しを浴びながら、面子を見回して石戸月子が語る。

 

「前もって聞かされていると思うけど、念のため最後の確認です。まず、今日あなたたちは麻雀を打つわけだけれど、打つに当たっては、()()()()()()()()()()()

 

 含みおきのルールである。異論を発するものはいない。

 

風速(レート)は点50円。順位ウマはワン(500円)スリー(1500円)。まぁ、小学生が打つにはちょっとお高いレートかもしれないわね。さて――清算は半荘ごとに行うわ。そして、清算のとき払えなかった人が出た時点で、対局は終了。ようするにデスマッチというわけ。逆に言えば、払いが続く限り勝負は終わらない。一晩でも二晩でもね。みんな、お泊りするって話はもちろん家の人にしてきたんでしょうね」

 

 各自が頷いたのを見、月子は満足する。

 

「さて、プラスして、今回のゲームではちょっとした特殊ルールを採用します。っていっても、特別ヘンというわけじゃないけどね。採用する特殊ルールはみっつ。『ご祝儀』と『割れ目』、そして『ドボンなし』よ。さっき言ったとおり、基本的にお金の清算は半荘ごとだけど、ご祝儀についてだけは一局清算とします。ただ半荘の途中で終了することをさけるために、オーラスまでは基本、チップでやり取りしてもらうわ。チップの価値――つまりご祝儀は、一枚100円。ご祝儀の対象は、『一発』一枚、『赤』ひとつにつき一枚、『裏ドラ』ひとつにつき一枚、『役満』は一役につき五枚。当然、出和了よりも自摸和了のほうが多くを稼げるということになるわね」

 

 咳払い、

 

「次に割れ目。こちらはわりと単純なルールです。開門のとき振った賽の目にあたった人については、支払および収入を二倍計算とする。つまり散家()が割れ目のとき、満貫を自摸和了したら4000・8000の倍満相当になるし、親に満貫を直撃されたら24000を支払わなくちゃならないってこと。

 ――で、最後に『ドボンなし』だけれど、これはそのままね。ようするにトビなしってこと。南四局の親が流れるまで、たとえハコワレしても半荘は終了しません。さて、ここまでで質問は?」

 

「はい」

「どうぞ、()()()()

 

 手を挙げた少女――花田煌は、早朝を苦にもしない溌剌とした調子で、司会を気取る月子に問うた。

 

「割れ目なんですけど、自摸被りの支払いも倍になるんですか? たとえば子の一人が割れ目で1000・2000を別の子が自摸和了ったら、収入は4000じゃなくて5000?」

「そのとおりよ」

「ふーん。ナルホド……和了基準がちょと変わりますね」しばし宙を見やって、「――すばらっ。はあくしました!」

「それはよかった。――宮永さんと須賀くんは……まあ、須賀くんは大丈夫よね。()()()だし」

「まーな」京太郎は頷いた。

「わたしもルールについてはとくにない」非常に眠たげな宮永照が、それとは別に質問がある、といった。

「なに?」

「さっき、ひとり到着していないって言ってた」

「いったわね」月子は肯定する。

「面子はもう四人いる」照が、自身と京太郎、花田、月子を指差した。「あとひとりって?」

「ああ、それね」月子は手を打った。「今回はわたし、打たないのよ。いま麻雀やってもサンドバッグになるだけだから、今回は遠慮するわ」

 

 そこまで答えたところで、インターフォンが室内に鳴り響いた。

 

「――きたみたい」

 

 間もなく現れた少女は――

 

「ねむいし。ひじょーに眠いし……」

 

 寝ぼけ眼を擦る池田華菜である。トレードマークのキャップを目深に被って、何度も欠伸をかみ殺していた。

 

「あれ」と首をかしげたのは月子である。「池田さん、呼んでたかしら」

 

「念のためおれが呼んだ」と、挙手したのは京太郎だった。「リザーバーっていうか、ホケンとして」

「要らなかったみたいだけどな」ぶっきらぼうに池田が呟いた。「ホールでうろうろしてたから、ピンときて連れて来たよ。たぶん、あいつが須賀のお客さんだろ? ――オイ、隠れてないでさっさと来る!」

「は、はいっ」

 

 おずおずと顔を見せた最後の少女の姿を見て、照が目を瞠った。

 

「咲――?」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 06:30

 

 

ルール:半荘戦

  持ち点 :25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)

  赤ドラ :あり({[五]、[⑤]、[⑤]、[5]})

  喰い断 :あり

  後付け :あり

  喰い替え:なし

  ウマ  :あり(二位:10000点、一位:30000点)

  レート :1000点・50円

  チップ :一枚・100円

  祝儀  :一発(チップ一枚)、赤ドラ(チップ一枚)、裏ドラ(チップ一枚)、役満(チップ五枚)

  その他 :割れ目

 

一回戦

 起親(東家):花田 煌 

 南家    :宮永 照

 西家    :須賀 京太郎

 北家    :宮永 咲

 




2013/2/19:牌画像変換


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10.はつゆきトーン(中)

10.はつゆきトーン(中)

 

 

 

 

 ▽ 12月27日(金曜日) 長野県・飯島町・町立公民館・図書室/ 15:15

 

 

 その日、手狭な図書館に、宮永咲以外の来訪者はいなかった。終業式を終えた足で久方ぶりに通学路から外れた公民館に訪れた彼女は、興味が促すまま本棚から手に取った本を読みふける。ジャンルは問わなかった。文学もSFも推理小説もハーレクィンもジュニアノベルも童話も、咲は平等に読みこなした。トルストイの絶え間なく続く思索に翻弄され、アルフレッド・ベスターの挑発的な文章に苦笑し、ミヒャエル・エンデが紡ぐ物語に胸を躍らせた(さすがに『フィネガンズ・ウェイク』は数十ページで挫折した)。

 

 紙と埃と陽射しと年月の匂いに満ちたその空間が、咲は嫌いではない。愛しているといっていいかもしれない。彼女が孤立を苦にしないのは、孤独を愛しているからではなく、ひとりで足りる術を知っているからこそだった。

 級友たちは皆明日から始まる冬休みに心を浮き立たせていた。文字通り弾むような足取りで教室から出て行く彼ら彼女らの背中を、どこか隔たった気持ちで咲は見送った。彼女自身は、この季節が実のところあまり好きではない。

 年末年始の宮永家では家族麻雀を催すのが恒例である。父母姉妹縁戚を相手に麻雀を打つ時間は、彼女にとって少しばかりの苦痛を孕む。手渡されたばかりのお年玉を死守しようと勝てばいい顔はされず、負ければもちろん懐が寂しくなっていく。買いたかった本も小物も咲から遠のいてしまう。

 だから咲は平らかに局面を均す。

 それは退屈さに比して慮外な精密さを要する作業である。

 楽しいはずがない。

 予定された時間を思うと、気鬱が咲の喉元にこみ上げる。

 感情は窒素に混ぜ合わされて、ため息として口から吐き出された。

 

(いやだなぁ――)

 

 咲は憂いを忘れるように頭を振る。黙々と目前の書に没頭する。本の頁を捲るうちに、思考は文字の連なりにすっかり沈んでいく。

 灯油ストーブが静かに唸り、ストーブの上に乗った薬缶がひかえめに蒸気を吹きだしている。外界の厳しい寒さとは区切られた穏やかで暖かい空間に、咲はひとりでいる。彼女は不足も不満も感じていない。あえていうなら時間が流れることに理不尽を感じている。

 それでも、時計の針は、静かに密かに容赦なく進む。

 静寂は、しかし一人の少年が訪れたことでわずかに乱れる。

 

「――?」

 

 咲は一瞬だけ集中を途切れさせて、首を傾げた。

 珍しい来客だった。この図書館の客層は大方を老人が占めており、稀に自習の場を求めた中高生が訪れる程度である。咲と同年代の小学生が来ないわけではないものの、この日区内の小中学校は全て終業式を終えたはずで、冬休みを前に寂れた図書館へ足を運ぶ物好きがそういるとは思えない。

 いきおい目線が少年の顔に向かう。

 咲はわずかに肩を強張らせる。

 

(あれ)

 

 記憶を掠めるものがあった。紙面に這わせた指を、手繰るように咲は震わせる。図書館に入った少年は大またで室内を横切り、咲から最も離れた席のひとつに座る。書棚に寄るでもなく目当ての本を探すでもなく、思案げに双眸を中空に彷徨わせる。少年としては比較的長いかれの指が、拍子でも刻むように軽快に机を叩き始める。その様を盗み見ながら、咲は記憶を辿り続ける。見覚えがある顔だった。しかしどこで見かけた顔か思い出せない。小学校ではない。同級生にも上級生にも、かれはいない(下級生であるという可能性はとくに根拠もなく除外された)。

 

(どこだろう――どこだったっけ)

 

 たんなる既視感かもしれない。痞えを覚えつつ、咲は追憶を諦めた。少年から視線を切り、手元の本へ意識を戻す。

 そわそわと落ち着かないものを感じながらも、そのまま数十分が過ぎた。

 ――少年の姿がいつの間にかなくなっていることに気づいたのは、16時前のことだった。

 

(帰ったのかな)

 

 首をかしげた直後、ぶるりともよおして、咲は席を立つ。手洗いは公民館の一階と二階にあったが、一階には和式しかないため、もっぱら二階を愛用している咲である。

 図書室のカウンターでは、最近赴任してきたばかりの司書(若い女性だった。以前は中学校にいたらしい)が、腕を組んで堂々と居眠りを決め込んでいる。こんなに楽な仕事があるならぜひ将来はこの職に就きたいと考えつつ、咲は押し戸を開いた。

 

 

 ▽ 12月27日(金曜日) 長野県・飯島町・町立公民館・談話室/ 15:59

 

 

「あ」

 

 少年が、階段を上がった先にある談話室にいた。四角い卓を前に、かぶりつくように背を丸めて盤面を注視している。表情は穏やかで、どこまでも真剣だった。妥協や弛緩の余地がない瞳は揺るぎもせず、時おり伸びる手は、卓上に散じた麻雀牌に触れていた。

 

 硝子越しの景色を見て、咲の記憶が再び疼く。

 

 ――横顔。

 ――麻雀。

 

(思い出した)

 

 半年近く前、まさにこの場所で――咲の目前で、照と卓を囲んだ少年だった。

 

(あのときの子だ――)

 

 連鎖的に、かれの名前が想起される。

 

(すが、きょうたろうくん、だっけ)

 

 どうやら、いまも麻雀を続けているようだった。

 その楽しさは咲にはわからない。

 ただ、牌に向かいあうかれの姿勢はとても直向に見えた。

 

(麻雀、好きになったのかな)

 

 ようやく喉に刺さった小骨が取れた心地で、咲は手洗いへ向かおうとする。

 と、まさに踵を返そうとした瞬間に、視線を移した少年の目と咲のそれが直交した。

 射竦められたのは、盗み見たような後ろめたさと、少年の目線の強さに打たれたせいだった。気づかないふりをしてそのまま歩み去るには、咲の気は弱すぎた。とりあえず最初から談話室に用事があったような体で、彼女はおずおずと室内に足を踏み入れる。少年は無言で咲を迎える。しげしげと自分の身体を見回す視線から逃れようとしてかなわず、咲は手足を擦り合わせた。

 

「ど、どぉも」

「よう」と、かれは偶然を楽しむような素振りで応じた。「ごぶさただな。サキ、でよかったっけ?」

 

 相手がまるで覚えていなかったらどうしようと思っていた咲だったが、京太郎の気安い台詞に、とりあえず安堵の息を吐いた。

 

「よく覚えてるね」

「いま、ここで顔みたら思い出したんだよ。さっき、下にもいたよな? わるい、あのときは普通に気づかなかった」

「あは」思わず、咲は笑った。「実は、わたしもそうなんだ」

 

 と、答えたところで会話が途絶える。互いの距離感を計りかねている時特有の、探るような間が生じて、咲は話題を探した。

 

「な、なにやってるの? ひとりで」

()()()の検討」と、答えてから、京太郎は頬を掻いた。「ってーか、反省会というか、ダメだしみてーなモン」

「ぱいふ」

 

 と、鸚鵡返しに呟いて数秒、咲は『牌譜』に思い当たった。彼女自身にそういった経験が皆無であったため、理解が遅れたのである。

 

「へえ……」

 

 何とも反応に窮して、咲は深い追求を避けた。彼女にとって麻雀は、偶然と感性の所産であるという意識が根強い。終わった対局の検討をすることに、さほどの意味があるとは思えなかった。とはいえ京太郎は真剣な様子で、さすがにそんなかれに対して『それ意味あるの?』とは訊けない。その落差が却って好奇心を刺激して、咲は京太郎の手元を覗きこんだ。

 

 {一二六①③③③⑨2499白}

 

「これは?」

「配牌」と、京太郎は答えた。「で、これが自摸と河」

 

 自摸:{⑥二1八3九三發②(チー)(和了)}

 河 :{⑨⑥白949九八六發}

 

 最終形:{二二①②③③③123} チー:{横二一三} ツモ:{二}

 

「7巡目に上家の親から立直が入ってるのに、10巡目で仕掛け(チー)を入れて、11巡目で8枚目の腐れシャンポンを引き和了(アガ)ったんだ。まァ――麻雀は結果的に和了れればよしとはいうけどよ、どうしてもなんか、不思議でしょうがなくてな、この手順」

「……一回も自摸切りがないね、この河」

「そうだな。よくわかんねえ打牌もある」つまらなげに京太郎はいった。「場況に応じた指運っていうのかね――他にもいくつかあるぜ」

 

 そう言って京太郎は、素早い手つきで配牌と自摸、河を再現していく。口ぶりからしてかれ自身の手ではないらしいが、他人の牌姿をよく事細かに覚えているものである。そして一局一局、場況の補足を入れつつ、不自然な点や不可解な箇所を論っていく。京太郎の関心は、それらの一打々々が、失着とはならず必ず和了へ結びついている点にあるようだった。

 あまり興味はないながらも、謎解きでもしているような風情の少年に感化されて、咲も本腰を入れる。

 ――が、入れたそばから、彼女は拍子抜けした。

 

「えっと、ごめんね? へんなこと訊いちゃうかもしれないけど」と、断って、咲はおずおずと疑問を口にした。「その手順――何か、そんなに難しいことあるかな?」

「難しいことはない」と、京太郎は答えた。「誰がいつ聴牌するかと、どこで待たれているのかと、自分の和了目がどこにあるか――それが()()()()わかるなら難しいことはない」

「そうだよねえ……じゃあ、なにがわからないの?」

「……あァ、なるほど。もしかして、」

 

 両目を解して天井を仰いだ京太郎が、咲に意味ありげな視線を送ってきた。

 

()()()()()()()()()()()?」

「え?」

「ま、どっちでもいいや」京太郎が笑った。「おまえ、照さんとどれくらい打ってんの」

「打ってるって……麻雀?」

「他に何があるんだよ」

「え、えー、最近はあんまり。前はしょっちゅう」咲はへどもどしつつ答える。「で、でも、いっかいも勝ったことない……」

「ふゥん。――照さんのクセとか弱点とか、知らない?」

「知らないよ……」と、いってから、「……()()()?」

 

 妙に気安い京太郎の呼称に、咲は目を瞬いた。彼女の記憶が正しければ、照と京太郎の関わりは自分のそれと大差なかったはずである。

 

「ああ」と、京太郎は手を打った。「照さんから何も聞いてないか? 先週、あのひとと打ったんだよ、おれ。で、今さっきまた来週打つ約束してきたとこ」

「そうなの?」

 

 照と少年がなんだか心安げなこと、照が家の外で麻雀を打っているらしいこと――二重の意味で喫驚して、咲は口を開けた。

 

「まァ、前回はぼろ負けしたんだけどな」と、苦く、京太郎は笑った。

「……うん」

 

 照に勝つことがたぶん無理だとは、さすがに思っても、咲は口にしなかった。

 

「そういえば、最初の最初も、大負けするところをおまえに見られてたっけ」

 

 随分と旧い思い出を口にしたかのように、京太郎の目が細められた。咲も追憶の焦点を合わせて、周囲を見回す。人生初の対局で空聴立直を打って照をやりこめたかれを思い出すと、未だに微笑まずにいられない。

 あの瞬間だけ、咲は麻雀を楽しいかもしれないと、また思うことができた。

 夏から冬にかけての数ヶ月に、印象深い何かが咲に訪れなかったわけではない。10月末に誕生日を迎えて、咲は10歳になった。すこし大人になったような気がした。お気に入りの本も増えた。大きな浮き沈みのない穏やかな時間の中で、咲は概ね満足行く生活を送ってきた。

 京太郎はというと、どうやら咲が思う以上に麻雀にのめり込んでいるらしかった。

 

「麻雀、好きなの?」

 

 と、咲は思いつくままに問を発した。

 質された京太郎は、呆れたように笑った。

 

「最近、ホントそれよく聞かれるぜ」

「あ、ごめん、いやだったら――」

 

「好きだよ」

 

 と、京太郎は言った。

 

「誰に、いつ、どこで聞かれても、答えは同じだ」

 

 少しだけ掠れた声のトーンと言葉の並びに、咲は赤面した。衒いのない好意の囁きが、彼女の持つ琴線のどこかに触れたのだった。他愛ない問いかけの心算が想像以上の熱量を返されて、咲は二の句に窮した。

 

「そ、そっか……」

「おまえは?」と、今度は京太郎が問うた。「前、ここで打とうとしなかったよな。麻雀好きじゃないのか?」

「それは――」

 

 喉元までせり上がっていた肯定を、咲は反射的に押し止める。咲は麻雀を倦厭している。それは事実である。けれども京太郎が好きだと言ったばかりの麻雀を否定するような台詞は、いかにも口にしづらかった。 

 小説の登場人物のような軽快な韜晦が、咄嗟に思いつくはずもない。咲は言葉の接ぎ穂を見失い、視線を漫ろに左右させる。京太郎の直線的な感情を前に、彼女はかれに声を掛けたことを後悔しはじめていた。

 

(べつに、わたしは何も悪くないのに)

 

 また、会話が止まる。京太郎は答えあぐねる咲の様子を素早く察したようで、子供らしくない苦笑いを浮かべた。

 

「ばッかだなァ。気ィ遣ってんのか? べつに、おまえが麻雀嫌いだってどうとも思わねーよ」

「ごめん……」

「謝ることもないだろ。気にすんな」と、京太郎は言う。「でも、もったいないな。たぶん、おまえも強いんだろう? 照さんが強すぎて厭になったのか?――あぁ、答えたくねーならそう言ってくれよ」

 

 伝法で、とても優しくはない京太郎の口調と妙な気遣いのギャップに、咲は思わず笑みをこぼした。

 

「言い難いことじゃないんだよ」と、咲は答えた。

 

 それからぽつぽつと、麻雀に倦んだ経緯を語った。麻雀を打つことそのものが苦手なわけではないこと。最初から麻雀が嫌いだったわけでもないこと。いつからか家庭内のバランスのようなものが崩れ、勝つことも負けることも否定され、今ではただの作業と変わりなくなってしまったこと。並べて伝えてみると、それは如何にも単純な理由で、それだけに根が深かった。勝つ喜びを否定されれば、最早競技に興じる理由はなくなる。とくに咲にとって、麻雀は決して生活を送るために不可欠な要素ではなかった。あくまで、咲は麻雀が()()()()()()だけである。負担だけを押し付けられて、積極的に続けるほどのものではない。

 

 一頻り語り終えると、咲は息をつく。ついぞ記憶にないほど一気呵成な喋りに、後半はやや舌が縺れたほどだった。

 黙って咲の事情に耳を済ませていた京太郎は、悩ましげな顔で、

 

「くっだらねー……」

 

 と、思わずといった調子でいった。

 

「くだらなくないよっ」これは捨て置けないとばかりに、咲は抗弁した。「何もいいことないもん、いやになったっておかしくないでしょ!」

「悪い。おまえにとったら、そうだよな」京太郎は素直に頭を下げて、「……でも、なんかイメージ合わないな。さっき照さんに勝ったことないって言ってたろ。親父さんとかお袋さんが、勝ったら怒るってのか? 家族麻雀で?」

 

 頬を膨らませて、咲は頷く。

 京太郎はますます困惑した風に眉根を寄せた。

 

「ひとの家のことだから、何もいえねーけど」と、かれはいった。「それなら――無理強いはしねーし、気が向いたらでいいけどさ、おれとか、おれの友達と打とうぜ。みんないいやつばっかりだから、厭な思いはしないだろうし、させないよ。賭けてもいい」

「え」

 

 思っても見ない提案だった。望んでもいなかった。かといって、有難いと感じないわけでもない。瞬間的に自分の心が指す方位がわからなくなって、咲は混乱する。

 いまの彼女に、麻雀を打ちたいという欲求はない。

 一切ない。

 今後未来永劫打てなかったとしても、まるで苦にならない自信がある。

 けれども、あんなに楽しそうだった京太郎の横顔が、今でも思いだせる。

 

「でも、えっと――すがくんの友達って、男の子でしょ? わたし、男の子、ちょっとこわい……」

「いや、女子も多いんだこれが。照さんも含めて年上ばっかだけどな」京太郎はやや羞じた素振りでいった。「しかもみんな、だいたいおれより強い」

「……けっこう、女の子と一緒に遊んだりするの?」

 

 硬派な印象を裏切られたような気がして、咲の口調にはやや棘が混じった。

 

「麻雀打てれば男とか女とか関係ないよ。強けりゃもっと言うことはないけど、上手い下手も、関係ない。打ちたいときに打てばいいのさ。そこに何を持ち込んでも持ち込まなくても、そんなのは自由だ」京太郎は屈託なく笑う。

 

 その返答は、咲の腑に落ちた。京太郎の主軸がわかったような気がしたのである。咲にとっての読書が、つまり京太郎にとっての麻雀だった。もちろん二人はそれぞれ異なる趣味嗜好を持ち、違う動機を持って各々の世界観に向き合っている。何もかもが同じであるはずはない。

 

(こうやって――ただ、ふつうに、麻雀が好きな人もいる)

 

 テレビの中にも、身の回りでも、咲には理解できないほど麻雀を好む人種は溢れている。恐らくは京太郎もその一人に違いない。

 かれに特別なものがあるわけではない。

 

(お姉ちゃんも、そうなのかな。そうなんだろうな。わたしとは違って……)

 

 咲は、照のことを思い浮かべる。照は咲の知る限りもっとも強い少女であり、咲が生きるうえでの一つの指針である。それは何かしら重々しい理由に裏付けられたものではなく、単純な慕情だった。

 

(わたしとは違うのに……この子とは、同じなんだ)

 

 照と、何の制限もない卓を囲む光景を、試みに空想してみた。

 咲は期待していない。

 いつだって現実は味気なく、空想の色彩と比較すれば、モノトーンにも等しい。

 麻雀に未練はない。

 それは事実である。

 けれども、まぶたの裏の景色にまで未練がないわけではない。

 屈託なく家族で遊び語らうことを、放棄できるほど彼女は達観していない。

 

「ねえ」

 

 と、咲は、衝動に促されるように京太郎に囁きかけた。

 

「――おねえちゃんとは、いつ打つの?」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 06:43

 

 

 予期せぬ対面に、瞬間的に場が森閑とする。宮永照と宮永咲が、地元を離れ、早朝、雀卓が据え付けられたマンションで向かい合う。要素を並べれば違和感しかない構図である。

 

(ほんとに何も話してなかったのか)

 

 照に対して、自分の存在を伏せて欲しいと咲はいった。仔細は訊かなかった。京太郎と同様、咲にも何かしら期するところがあるのかもしれない。咲が京太郎に助言も助力も求めなかった以上、それを心得ておく必要はない。

 

「……」

 

 照の瞳は能弁である。無言のまま京太郎に状況の説明を求めている。

 京太郎は肩を竦めた。

 

「見て聞いたとおりだよ。四人目の面子はそいつってこと」

「どうしてそうなったの」

「成り行き」

「――そう」

 

 咲へ視線を戻した照が、嘆息交じりに口を小さく開閉させる。何か言葉を掛けようとして、失敗したといった様子だった。

 京太郎は一寸意外な光景に目を眇める。照はふだん朴訥としているが、肝心なときに必要な分の弁は立つというのが京太郎の認識だった。咲に対して言葉を掛けあぐねる様子は、照が見せた新たな側面である。

 

(どこの家も、色々あるんだろうな。とはいえ――)

 

 今日は、家族談義をするために集まったわけではない。

 

「あなたたち、毎日顔合わせてるんだから積もる話があるってわけでもないでしょう」呆れた顔で、京太郎の意図を汲んだ月子が場を取り成した。「さっさと座りなさいよ。きょうは二人とも麻雀を打ちにきたのよね。なら、やるべきことはにらめっこじゃあないわ」

「たしかに」

 

 と、頷いたのは照だった。咲を促し、フロアに招く。ただしその間ずっと、照の目線は京太郎に刺さったままだった。

 

「なにか」少し挑発的に、京太郎は照を見返した。

 

 照の反応は、京太郎の想定外だった。

 彼女は薄っすら微笑み、京太郎の手を取ったのである。

 

「――やっぱり、京太郎は()()」と、照はいった。

 

 何を返す間もなかった。一瞬で照の指は京太郎から離れる。月子も、花田も、咲も意識していない間に起きた出来事だった。

 反応できずに立ち尽くす京太郎の肩を、笑みをこらえ切れないといった顔の池田が叩いた。

 

「なんかよくわかんないけど、青春してるねぇ」

「ほっといてくれ」

 

 京太郎は仏頂面で、その手を跳ね除けた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 06:55

 

 

ルール:半荘戦

  持ち点 :25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)

  赤ドラ :あり( {[五]、[⑤]、[⑤]、[5]} )

  喰い断 :あり

  後付け :あり

  喰い替え:なし

  ウマ  :あり(二位:10000点、一位:30000点)

  レート :1000点・50円

  チップ :一枚・100円

  祝儀  :一発(チップ一枚)、赤ドラ(チップ一枚)、裏ドラ(チップ一枚)、役満(チップ五枚)

  清算  :半荘清算(誰か一人の持ち金が不足(アウト)した時点で対局終了)

  その他 :割れ目(積み棒、罰符は対象外)

  その他 :アガり止めなし

  その他 :多家和なし/頭跳ねあり

  その他 :三家和/四開槓/九種九牌/四風連打/四家立直/錯和(チョンボ)は流局連荘(積み棒はなし)

  その他 :大三元・大四喜の(パオ)あり/生牌(大明槓)の(パオ)なし

  その他 :嶺上自摸符は2符、連風牌の雀頭は4符として扱う

  その他 :暗槓への槍槓は国士無双和了時のみ有効

 

 持ち金を含めた最終的なルールの確認が終わった。掴み取りで場決めを行い、各人が席につく。席順は花田――以降に照、京太郎、そして咲と続く。

 

「――よろしくお願いします」

 

 花田が、律儀に三家へ一礼する。合わせて会釈する照と京太郎に一拍遅れて、咲が頭を下げた。

 花田の指が、卓中央へ向かう。

 踊る賽の目は「2・3(ジゴク)」を出し、仮親に自分を引いた。続けて花田がボタンを押す。賽が回る。出た目は再度の「6・3(ジゴク)」――。

 

「親番を引きました」

 

 神妙な面持ちで、花田煌は面子を見回した。

 

一回戦

 起親(東家):花田 煌 

 南家    :宮永 照

 西家    :須賀 京太郎

 北家    :宮永 咲

 

「では、記念すべき最初の門を、開けるとしましょう」

 

 そして出た目は「5・6(トイジュウイチ)」。

 

 ――京太郎が、この日最初の割れ目となった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 06:59

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 【東家】花田 煌  :25000

     チップ:±0

 【南家】宮永 照  :25000

     チップ:±0

 【西家】須賀 京太郎:25000<割れ目>

     チップ:±0

 【北家】宮永 咲  :25000

     チップ:±0

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 06:59

 

 

(さて、今年最後の大一番――)

 

 まだ清涼さの残る早朝の空気を肺に取り込み、花田煌は三方を見渡す。夏からこちらもはや馴染みの感のある須賀京太郎を対面に置いて、上下は全くの新顔である。

 花田が強く意識しているのは、下家の少女だった。

 

(東場のあの子に、影も踏ませなかった、宮永――照さん)

 

 先週の日曜日に起きた事の顛末については、京太郎と月子から聞き及んでいた。「平たく言えばぼっこぼっこにされた」とは月子の弁である。当事者の一人である片岡優希は、年末ということもあってか昨日も一昨日も、麻雀教室に姿を見せることはなかった。臍を曲げて麻雀から距離を置いている可能性もあるが、そうではないだろうと花田は考えている。

 片岡は、良くも悪くも見た目どおりの少女である。負けん気が強く、陽気で、感情的で何より活力に溢れている。敗北は彼女に痛手を与えただろうが、花田は、それが成長への糧となることを疑っていなかった。

 

(いい勉強をさせてもらったと思いましょうか。それはそれはすばらなことです。でも、まァ――後輩の借りを返すってわけじゃ、ないですけど)

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 配牌

 花田:{一一一七⑤⑥488南北白中中}

 

(――私も、なけなしのお小遣いをはたいて来てます。負けて年越す気は――ないですよ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 06:59

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 配牌

 照:{二四六八①③④⑥⑨1268}

 

 手牌に目を落とし、宮永照は徐に自らの胸へ手を伏せる。

 鼓動はやや早い。

 心に急かされるような拍動を、彼女は期待の表れと受け止める。

 

 対面に座る咲を、照は見る。

 そして、瞑目する。

 

(――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 06:59

 

 

 須賀京太郎は、牌に触れる。滑らかな質感はかれに落ち着きを与えてくれる。呼吸を深くゆっくりと重ねる。思考や意識に泡沫のように浮かぶ夾雑物を、丁寧に削ぎ落としていく。

 

(思い入れは、あっていい)

 

 麻雀に不要なものを取り除いていく。

 

(悩みや迷いも、あっていい)

 

 偏りを均すイメージで、かれは心の向きを束ねていく。

 

(おれはここにいて、麻雀を打ってる)

 

 遠方で出会った少女の、冠絶した孤独を想う。

 友人に打たれた頬の熱さを想う。

 

(消えてなくなりたい以上に、麻雀を打ちたいからだ)

 

 京太郎の心象は、未だ頼りない藁の束だ。

 

(でもこいつが――芯になる)

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 配牌

 京太郎:{一二三三六七九②⑦6東東發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 06:59

 

 

 いやに澄んだ空気に、咲は戸惑う。生来朝に弱い彼女の思考は、未だはっきりとした覚醒を迎えていない。義務感と緊張に促され足を運んだこの場所で、彼女ひとりだけ、まだ戦いの場に臨む気概を構え切れていない。

 実のところ、動機も整理し切れていない。

 金銭を掛けた麻雀を打つのは初めてではない。京太郎にはその点何度も念押しされ、そのうえで今日、彼女はこの場に訪れた。明確な覚悟や決意を持ってきたわけではなく、どちらかといえば衝動や勢いによる行動の結果である。

 

(この空気――)

 

 牌に触れる。ずいぶんと久しぶりの感触にも関わらず、指先の延長のように、その物質は咲に馴染む。違和感の欠片もない。咲の手の中に納まるのが当然であると、牌は主張しているかのようだった。

 

(そういえば、家族以外のヒトと麻雀打つの、はじめてだ。あいさつもちゃんとしてないし、なんだか、すごく緊張するよ……)

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 配牌

 咲:{二六九⑦⑧137999南白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:00

 

 

「お腹空いたし」

 

 と、池田華菜がいう。

 

「台所に食材もあるから何か適当に作れば?」月子はにべもなく応じる。

「めんどい……今日も家出る前にチビたちの離乳食つくってきたばっかだし……」

「しょうがないわねえ。朝ごはんの残りのおにぎりでよければあげるわよ」

「あんならはやく出せよ」

「何様かしらほんとに……」

 

 嘆息する月子が手渡した握り飯に齧り付くと、池田は今さら物珍しげに周囲を見回した。

 

「しっかし、ここ凄いな。マンション麻雀のハコだろ? さすがにはじめてだ。テンションアガるなー」

「街の雀荘やマンションより先に賭場の開帳に顔だしてるような子がなにいってるのよ」月子は口はしをゆがめていった。「一応、ここ現役のハコらしいんだけどね。同じこのマンションの別のフロアにも部屋があって、最近そこがガサ食らったんですって。で、客足も遠のいちゃったし汚れちゃったしで、いまべつの物件探してるからって、きょうは無理いって貸してもらったの」

「なるほど、だからメシも雀卓もあるのかー。至れり尽くせりだな。なぁ、ここ溜まり場にしようよ!」

「わたしの話聞いてた?」

「それにしても、テンゴワンスリーで割れ目もご祝儀もアリアリとか、須賀もずいぶんガチな場ァ開いたよな」唐突に話題を変える池田である。彼女は基本的に気まぐれで強引で自分勝手だった。「どうしちゃったの、あいつ」

「須賀くんなりのけじめなんですって」月子は肩をすくめた。「何も賭けなければ、結局勝つまで際限なく続くだろうから、どこかで終わりを決めることにしたとかいってた」

「ふ」池田が笑った。「それが時間や場所じゃなくて銭に行き着くあたり、なかなか救いようがない莫迦だ」

「それで女の子ばっかりの面子が揃っちゃうのもどうかと思うわ」

「違いない」

 

 吹きだした池田が、ふいに鋭く目を細めた。

 

「――ああ。今日は、荒れる気がするよ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:01

 

 

(頭はまわってる。指にも血はめぐってる)

 

 はじまりの配牌は3向聴。中よりやや上の賜りものを、花田は自分らしいと笑って受け入れる。

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 花田:{一一一七⑤⑥488南北白中中}

 

(す、ば、)

 

 {打:北}

 

(――ら!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:01

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 照:{二四六八①③④⑥⑨1268} ツモ:{五}

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:01

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 京太郎:{一二三三六七九②⑦6東東發} ツモ:{八}

 

 手ごたえのある自摸だった。

 分断を前提としていた萬子に埋まった嵌{八萬}が、手牌の進路を示しているようだ。

 

(初っ端から自摸の気まぐれに躍らされたんじゃ、先が思いやられる)

 

 冷たい空気を肺に取り入れて、かれは劈頭に宣戦のための牌を置いた。他家を見渡せば、いずれも自分より格上と思しき面子が並んでいる。つまりは普段どおりということだった。

 

(照さんがいるからって、照さんに拘ってもしょうがねえ)

 

 打:{②}

 

(さて、どう来る)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:01

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 咲:{二六九⑦⑧137999南白} ツモ:{[⑤]}

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:01

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 2巡目

 花田:{一一一七⑤⑥488南白中中} ツモ:{⑨}

 

(今のところ、仕掛けを入れても2000の手――)

 

 自摸った牌と手元を見比べ、花田は口元を緩めた。

 

 {打:南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:01

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 2巡目

 照:{二四五六八①③④⑥1268} ツモ:{4}

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:01

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 2巡目

 京太郎:{一二三三六七八九⑦6東東發} ツモ:{白}

 

(なんともまぁ、2巡目にして悩ましい自摸だな)

 

 心中期するところを持って臨んだからといって、運が上向けば苦労はない。博打とは無情であり、それ自体は温度を持たない概念だ。

 ただし、月面や暗がりのように、稀に綻んだ顔を見せることがある。

 

(――まずは、奇をてらうより今日の調子の確認といく)

 

 打:{⑦}

 

 京太郎は、進路を定めて舵を切った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:01

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 2巡目

 咲:{二六[⑤]⑦⑧137999南白} ツモ:{3}

 

 {打:南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:02

 

 

 陽が昇りきる。

 窓から差し込む光の眩さに目を細める月子の眼前で、対局は淡々と進んでいく。

 その日最初の山――東一局0本場は、各人が驚くほど順調な自摸に恵まれた。

 中でも突出した牌勢を得たのは、誰あろう面子の中では月子がもっとも不利と見る京太郎である。

 

(須賀くん)

 

 月子が激昂したあの日から、すこし、京太郎は変わった。

 少なくとも月子は、京太郎に変化を見出している。具体的な兆しや、明確な徴があるわけではない。曖昧なそれは、むろん、気のせいかもしれない。

 人はどこまでいっても完全に他者とは交じり合えないと、月子は信じている。紡いだ言葉も正しくは伝わらない。肉親さえ理解できない月子だ。京太郎に対しては大きな口を叩いても、それを支えるだけの自負や確信は、彼女にはない。

 月子の直観には、だから願望が多分に含まれている。

 

(意地のひとつも、見せてみなさいよ――)

 

 それでも、かれを応援する気持ちに濁りはなかった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:03

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 3巡目

 花田 :{一一一七⑤⑥⑨488白中中} ツモ:{④}

 

 打:{⑨}

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 3巡目

 照  :{二四五六八①③④⑥2468} ツモ:{發}

 

 打:{①}

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 3巡目

 京太郎:{一二三三六七八九6東東白發} ツモ:{四}

 

 打:{6}

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 3巡目

 咲  :{二六[⑤]⑦⑧1337999白} ツモ:{二}

 

 {打:白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:03

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 4巡目

 花田 :{一一一七④⑤⑥488白中中} ツモ:{7}

 

 {打:白}

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 4巡目

 照  :{二四五六八③④⑥2468發} ツモ:{中}

 

 {打:發}

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 4巡目

 京太郎:{一二三三四六七八九東東白發} ツモ:{⑦}

 

 {打:白}

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 4巡目

 咲  :{二二六[⑤]⑦⑧1337999} ツモ:{③}

 

 打:{7}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:03

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 5巡目

 花田 :{一一一七④⑤⑥4788中中} ツモ:{西}

 

 {打:西}

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 5巡目

 照  :{二四五六八③④⑥2468中} ツモ:{②}

 

 打:{二}

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 5巡目

 京太郎:{一二三三四六七八九⑦東東發} ツモ:{北}

 

 {打:北}

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 5巡目

 咲  :{二二六③[⑤]⑦⑧133999} ツモ:{4}

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:04

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 6巡目

 花田 :{一一一七④⑤⑥4788中中} ツモ:{九}

 

 打:{4}

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 6巡目

 照  :{四五六八②③④⑥2468中} ツモ:{5}

 

 打:{八}

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 6巡目

 京太郎:{一二三三四六七八九⑦東東發} ツモ:{發}

 

 打:{⑦}

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 6巡目

 咲  :{二二六③[⑤]⑦⑧334999} ツモ:{④}

 

 打:{六}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:04

 

 

「お」

 

 と、池田が声を漏らした。一気呵成に萬子へ寄せきった京太郎の自摸に感心しているらしい。{二五(ドラ)發}引きで聴牌の一向聴――高目{五萬}を引けば黙倍満に届く鬼手である。しかも、京太郎は割れ目でもある。この出端で和了りきれば、イニシアティブどころか勝負を決するほどの打点だった。

 

「実力じゃないわ」

 

 と、つとめて醒めた声色で、月子はいった。

 

「まあな」池田も否定はしなかった。「べつにあそこに座ってるのが須賀じゃなくても、あの配牌と自摸をもらえばたいていのやつが同じ最終形に届くだろう。でも、麻雀ってそういうもんじゃん?」

「それは、まぁ、そうだけど」

 

 彼女の眼にも、今日の京太郎は好調に視える。

 ――が、凡俗の好調を一蹴するのが超人である。月子が池田の尻馬に乗らないのは、現実を見て落胆することを避けるためもあった。

 

(宮永さんはともかく、あの妹さん……ちょっと、よくわからないわね)

 

 後追いでやってきたお下げの少女は、今のところ際立った動きを見せていない(東一局なのだから当然といえば当然だった)。月子の()()は彼女もまた際物であると訴えているが、照に比べるとまだ可愛らしいというのが、現時点での判断だった。

 

(それでも、あのおねえさんの向こうを張れるってだけで相当なんでしょうけれど――)

 

 唐突に現れた異分子を、月子は腑に落ちない思いで眺める。

 その視線の先で、場に最初の波が立っていた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:04

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 7巡目

 花田 :{一一一七九④⑤⑥788中中} ツモ:{北}

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:04

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 7巡目

 照  :{四五六②③④⑥24568中} ツモ:{⑥}

 

 四人の中でもっとも遅れて、宮永照が1向聴に達した。{3}が埋まった場合はフリテンだが、嵌{7}を入れれば3面張の平和手である。

 立直を打てば高目出和了3900、自摸和了りで1300・2600――ただし、この場には割れ目のルールが存在する。よって自分が割れ目ではなかったとしても、自摸和了の時点で得点は必ず1.25~1.5倍となる。要するに、打点の期待値は子であろうと通常の親番並に跳ね上がるわけである。『聴牌が速い』ことは、この偏った状況下では途轍もないアドバンテージであった。

 

 {打:中}

 

 打たれた紅中に、かかったのは花田煌だった。

 

「――ポンっ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:04

 

 

(序盤から中張牌を並べ打ってる須賀くん(下家)にノーケアで役牌乱れ打ちですか――ま、生粋のデジタルさんってこともフツーにありえますが)

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 8巡目

 花田 :{一一一七九④⑤⑥788} ポン:{横中中中}

 

(お手並み、拝見っ)

 

 打:{7}

 

 照は、打たれた{7}に一瞥もくれない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:05

 

 

{横768}(食い延ばしチー)からの打{2}で{36}待ち(良形)の聴牌取れるけれど、池田さんならあれは鳴く?」

 

 と、月子は池田に尋ねた。

 

「鳴かない」と、池田はいった。「あたしは、あの受け入れなら面前で仕上げる。親から仕掛け入ってるのにノミ手じゃやってられないし。――ま、でも、あんたは鳴くだろ」

「あの巡目ならそりゃ聴牌いれるわよ。でも……」月子は首を捻った。「あのひとなら、ほら、ああなるでしょうからね」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:05

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 8巡目

 照  :{四五六②③④⑥⑥24568} ツモ:{7}

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:05

 

 

 山から引いた(下家)の自摸を見、京太郎はわずかに眉を集めた。

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 7巡目

 京太郎:{一二三三四六七八九東東發發} ツモ:{[五]}

 

(出来過ぎの自摸――じゃ、あるけども、上の二人の切り出しからして、聴牌は二番か三番乗りって感じか)

 

 花田

 河:{北南⑨白西4}

   {7}

 

 照

 河:{⑨1①發二八}

   {( 中 )2}

 

 京太郎

 河:{②⑦6白北⑦}

 

 咲

 河:{九南白71六}

 

(一枚切れの{發}と{東}(ドラ)。親が{中}を叩いたこの場況、出やすい待ちじゃあ、全然ない――けど、こいつは当たったら事故だな)

 

 打:{三萬}

 

 零れた萬子を無造作に河へ捨て、京太郎は瞳を伏せた。

 

(顔を上げろよ)

 

 自制を言い聞かせても、かれの心は、照を強く志向しようとする。

 

(――首が落ちるぜ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:05

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 7巡目

 咲  :{二二③④[⑤]⑦⑧334999} ツモ:{①}

 

「ん――」

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:05

 

 

「三軒聴牌に、ひとり乗車遅延か」池田が値踏みする目を咲へ送った。「河もろくろく見てないな。当たり牌どれも止められそうにない」

「どうかしらね」

 

 食い入るように場を見つめる月子は、咲に対する評価を保留する。

 

(あの気配の宮永さんの妹が、そんなに可愛らしいとは思えないけれど)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:05

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 9巡目

 花田 :{一一一七九④⑤⑥88} ポン:{横中中中} ツモ:{五}

 

(あら……)

 

 待ちの変わる自摸を前に、花田は数秒思考をめぐらせる。場から計れる待ちの残り枚数は嵌{六萬}も嵌{八萬}も同じ三枚である。基本に則れば待ちは外に寄せるべきである。{五萬}を自摸切って引っ掛けを期待するのも常道ではある。ただし下家の聴牌気配が濃い以上、中筋とはいえ生牌を切ることには抵抗がある。

 そして、何より、

 

(萬子の真ん中は、あまりにも須賀君がこわい。――あの子、無表情でえっぐい手張りますからねぇ……うーん、ここは店じまいっ)

 

 打:{一萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:05

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 9巡目

 照  :{四五六②③④⑥⑥45678} ツモ:{8}

 

 その牌を引いた照の動作に、逡巡や遅滞は一切なかった。彼女は引いた二枚目の{8}を迷わず手牌の中ほどにいれる。彼女は黙して、場に視線を飛ばす。

 光沢のない瞳が浚うのは、京太郎の河である。

 そしてつかぬま、照の双眸は瞼に隠れる。

 

「―――立直」

 

 と、彼女は言って目を開き、

 

 打:{8}

 

 牌を、曲げた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:06

 

 

「空切りィ?」池田が眉をひそめる。「須賀への(アツ)か?」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:06

 

 

(あ、これヤバイ。すばらくない)

 

 虫の知らせとしか呼べない感覚がある。それは唐突にやってくる。下家の立直に際して、花田煌の右脳があまりにも甲高く警鐘を鳴らす。()()()()()()()()()と、彼女の感性が叫ぶ。こうしたとき、花田はおのれの直感に逆らわない。それがどれだけ道理に逆行していようと、彼女は彼女の内なる声に従うことにしている。

 

「っ、その{8}――ポンです!」

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 10巡目

 花田 :{一一五七九④⑤⑥88} ポン:{横中中中} ポン:{横888}

 

 打:{一萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:06

 

 

 その副露に対して、宮永照の眼がほんのかすかに驚きの形を描いたことを、その場にいる誰も気付かない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:06

 

 

(一発消し――じゃない)

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 10巡目

 照  :{四五六②③④⑥⑥45678} ツモ:{1}

 

(なに――いまの鳴き)

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:06

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 8巡目

 京太郎:{一二三四[五]六七八九東東發發} ツモ:{八}

 

(――)

 

 立直後に引いた牌が上家()の安牌と見るや、京太郎は迅速に自摸った{八萬}を手牌に入れた。そのままノータイムでもともと手にあった{八萬}を打った。奇しくもかれは、照と似た空切りを打ったのである。むろん、目的は、オリを他家に印象付けるためだった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:06

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 8巡目

 咲  :{二二③④[⑤]⑦⑧334999} ツモ:{發}

 

(お姉ちゃんの安牌。……すがくんはオリてるし――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:06

 

 

「完璧すぎる」池田が笑いをこぼした。

「うっそぉ」月子は、目の前の光景が信じられずに目を丸くする。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:06

 

 

 咲は、ほとんど手拍子で、

 

 {打:發}

 

 と、いった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:06

 

 

「ロン」

 

 東一局0本場、

 

「16000の一枚は――」

 

 京太郎:{一二三四[五]六七八九東東發發} ロン:{發}

 

「――32000の一枚だ」

 

 手牌を場に晒したのは、須賀京太郎だった。

 

 

 東一局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 【東家】花田 煌  :25000

     チップ:±0

 【南家】宮永 照  :25000→24000(- 1000)

     チップ:±0

 【西家】須賀 京太郎:{25000→58000(+32000、+ 1000)<割れ目>

     チップ:+1

 【北家】宮永 咲  :25000→-7000(-32000)

     チップ:-1

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:06

 

 

「え」

 

 と、咲は呟いて、口元を引きつらせた。




2013/1/6:後日投稿分を合併
2013/2/20:牌画像変換
2013/4/2 :変換漏れ修正
2013/4/7 :割と重要なルールが遺漏していたため追記


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11.はつゆきトーン(後)

11.はつゆきトーン(後)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:07

 

 

 椅子の背が撓る。

 腰から力が抜けて、背もたれに体重を押し付けようとする。

 原点割れを示す黒点棒まで吐き出して、宮永咲は嘆息した。

 

(やっちゃったぁ……)

 

 上家の少年の顔色に感慨は見えない。かれは淡々と、咲が卓上に置いた点棒とチップ(チープなプラスチック製のコインだった)を手元に回収した。

 義務感めいた衝動に押し出されて、咲はかれに笑いかけた。

 

「……すごいね」

「今のはたまたまだろ」

 

 と、京太郎は苦笑交じりに答えた。

 謙遜ではなく、事実である。それは咲も理解している。先刻の一打は避けえない交通事故だった。実力や駆け引き、読みの関与しない偶発的な出来事でしかない。今回は()()()()咲にその順番が回ってきただけで、何ら特別なことはない。河に牌が一列並びきらない内に役満を聴牌して崩した経験も、逆に打ち込んだ経験も咲にはある。

 

(けど、ホントに全然わかんなかった)

 

 高い打点には、相応の気配がある。打ち子の挙動や場況から推し量るのではなく、咲は感覚的に卓上で息づく存在感を察知する。先刻の京太郎にそれがなかったわけではない。単純に、咲のピントが場に合っていなかったのである。ブランクや油断が招いた失着といえばそうかもしれない。けれども咲は強いて自分に言い訳はしなかった。麻雀はしょせん遊戯である。咲はおのれの実力に関して矜持を持ってはいない。失策を挽回しようとする焦りと、だから彼女は無縁である。

 卓上で起きるあらゆる出来事はなるべくしてなるものだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、どんな結果も受け入れるしかない。

 

(強くなったんだ――すがくん)

 

 自動卓に敷設されている手元の7セグメントディスプレイに、咲の点数が表示されている。彼女は平坦な瞳で数字を眺める。

 

『-7000』

 

 ついぞ記憶にない値だった。家族で打ち交わした日々の中でも、東一局でここまで凹んだ記憶は数えるほどしかない。具体的には、麻雀を始めたばかりの時代にまで遡る必要があるかもしれない。

 

「そっか」

 

 かろうじて空気を震わせる程度の声音で、咲は呟いた。

 

「わたし、()()()()()()()

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:09

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 【北家】花田 煌  :25000

     チップ:±0

 【東家】宮永 照  :24000

     チップ:±0

 【南家】須賀 京太郎:58000<割れ目>

     チップ:+1

 【西家】宮永 咲  :-7000

     チップ:-1

 

 上家の照が親番となる東二局、京太郎の心境はかれ自身不思議なほど凪いでいた。

 

(出来すぎの32000――とはいえまた割れ目だ。守勢に回ってリードを守りきるには序盤過ぎる。さぁて――)

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 配牌

 京太郎:{三三四[五]②④⑧⑧467東南}

 

(――こっからどうする)

 

 前回の照との対局から京太郎が学んだのは、照から勢いを奪うことの重要性だった。

 宮永照は暖機するように、連荘を重ねるごとに打点を上げていく。その打ちまわしが加減に由来するものか何らかの制限なのかはわからない(現時点では後者と仮定して相手取るしかない)。従って、照に張り合うには何より速度が重要になる。高打点に届く前に連荘を断ち切る必要があるからだ。

 もちろん、その程度の対策は前回の直対の際にも試みていた。効力の程は結果が物語っている。前回について言えば、いくら京太郎が副露の頻度を増やしたところで、照の面前に追いつけなかったのである。

 

(単純におれが下手ってのも理由ではあるんだろうけど)

 

 京太郎は特に面前に拘りを持っていない。けれども副露を得意としているかといえばそうでもない。麻雀における副露と守備は、特別な才能でも持たない限りは経験と観察力、判断力――総じてセンスと呼ばれる地力がものをいう分野である。

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 1巡目

 照:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:一

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 1巡目

 京太郎:{三三四[五]②④⑧⑧467東南} ツモ:{一}

 

 

(とはいえ、照さんが今日もだんだん打点を上げてく心算なら、出端をおさえなきゃァしょうがねえ。最大でも4000の支出に抑えられるなら、ある程度は突っ張る)

 

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:11

 

 

 流れという言葉を京太郎が遣えば、ほんとうにそれを知るものの失笑を買うに違いない。それでも、前局の和了に続き、京太郎は己の自摸に手応えを感じていた。

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 5巡目

 京太郎:{一三三四[五]②④⑥⑧⑧467} ツモ:{二}

 

(ほぼ無駄自摸なしの一向聴)

 

 照

 河:{一北①中八}

 

 京太郎

 河:{東9南⑨}

 

 咲

 河:{東91二}

 

 花田

 河:{①5三2}

 

 裏づけのない自信が、そっと京太郎の肩を叩く。

 

(いける)

 

 誰より早く聴牌へ届く。

 

 打:{4}

 

(ここで追い討ちをかける)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:11

 

 

(一向聴か聴牌、かな)

 

 京太郎(上家)の打牌を横目して、咲は山から牌を取る。

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 5巡目

 咲:{六七八九②③[⑤][⑤]⑤46白中} ツモ:{西}

 

(次巡、槓材を引ける――)

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:11

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 5巡目

 花田:{②②③④⑦⑦⑧78南南發發} ツモ:{④}

 

(嵌{③}で一役――{78}を落とせば面前混一色七対子の一向聴ではありますが、{8}は須賀くんのド本命。割れ目である以上巡目が早かろーと河の気配は安かろーと……赤とドラがひとつでも絡めば満貫なみの失点は、すばらくない。とはいえここで連荘させて一人旅は、もっとすばらくない。さて――)

 

 手中の{④}を弄び、花田は幾許か黙考の間を置いた。

 

(――少し勝負)

 

 打:{8}

 

 発声はない。

 

(わたしにも、年長者のめんもくってものがあるから――そう簡単にらくしょーはさせませんよ?)

 

 花田は唇を歪める。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:11

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 6巡目

 照:{三四六①③③67789白白} ツモ:{東}

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:11

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 6巡目

 京太郎:{一二三三四[五]②④⑥⑧⑧67} ツモ:{⑧}

 

(――ふーん)

 

 暗刻を重ねた{⑧}を見下ろし、京太郎は場の有効牌を数え上げた。

 

(受け入れの広さは打{②}(8種27牌)が一番――次が打{⑥}(7種23牌)の受け。索子の両面塔子落とし(6種21牌)もあるにはあるけど――)

 

 打:{②}

 

(ここは正攻法で受ける)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 6巡目

 咲:{六七八九②③[⑤][⑤]⑤46西白} ツモ:{⑤}

 

 {打:白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12

 

 

「ポン」

 

 と、照がいった。

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 7巡目

 照:{三四六①③③67789} ポン:{白横白白}

 

 打:{六萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12

 

 

「ム」と、照の打牌を見た月子が唸った。「{①}じゃないんだ」

「{六萬}も受け入れ枚数は変わらないからな」池田が呟いた。「それに{②}を直前で須賀が切ってるとはいえ、フリテンの受けを残しちゃうし、嵌{七萬}見切ったんなら前巡自摸切りより先切りしとくべきだったって感じかな? ま、エラーってほどじゃないけど」

「あの人ねえ」月子が遣る瀬無さげにため息をついた。「エスパーかっていうくらいに当たり牌ビタ止めするのよね。なにか、そういうコツってあるのかしら」

「ビタ止めって……結果的にそうなってるだけだろ、さすがに」池田は苦笑して月子の言に首を振った。「つか、つっきーと囲む卓ならあたしも結構止められる自信あるよ。手が早くなる分、あんたの当たり牌すんげーわかりやすくなるじゃん」

「……?」

 

 と、月子は池田の言葉を聞きとがめること暫時、数秒沈思の海にもぐって、発言の意図するところに気づくや否や、勢いよく膝を打った。

 

「あ、あー、なるほど。そういうからくりね」

「いまさら気づいたのかよ……」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 7巡目

 京太郎:{一二三三四[五]④⑥⑧⑧⑧67} ツモ:{四}

 

(赤{⑤}がねーなら最高形は打{④}の構え――だけど)

 

 打:{一萬}

 

赤{⑤}(ドラ引き)に備えて、かつ最短の和了を目指すなら――こっちだ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12

 

 

「うーん」

 

 満足げに京太郎の打牌に頷く月子とは対照的に、池田は思案顔で首を傾げていた。

 

「何よ。デジタル的にも今のは正しいわよ」

「いや、それはわかるよ」と、池田はいった。「須賀もまァ、麻雀それなりにできるようになったなと。それはあたしも認める。けども」

「けど?」

「いっとくけど、怒るなよなー」池田はそう前置きして、「なんかアイツ、小さくまとまってないかなー……。あそこは嵌{⑤}を見切ってあくまで打{④}で押すのもありじゃないかな。じっさい、{⑤}は全部あっちのお下げ()に抱えられてるわけだし」

「うっわー、出たわよ、ほらまぁ、こういう、こぉーいう根拠のない……ばかじゃないの!」月子はうんざりした顔で池田の意見を一蹴した。「あのねえ、この巡目で手牌読みとか、そういうオカルティックなことはうちの須賀くんに吹き込まないでくれる? せっかく彼を健全でハイクオリティなデジタル雀士に育て上げようとしてるんだから」

「燕雀鳳を生まずっていってな」池田はにやりと笑みを浮かべた。「自分にできないことを教えようとしたところで、なかなか上手くはいかないもんだぜ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 7巡目

 咲:{六七八九②③[⑤][⑤]⑤⑤46西} ツモ:{九}

 

「……」

 

 {打:西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 7巡目

 花田:{②②③④④⑦⑦⑧7南南發發} ツモ:{⑨}

 

 打:{7}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12

 

 

 花田(上家)から零れた{7}を見、宮永照がゆったりと鳴いた。

 

「{7}……チー」

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 8巡目

 照:{三四①③③677} チー:{横789} ポン:{白横白白}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:14

 

 

「……あの打点ですっげー前のめりだな」池田が呆れ混じりに照を評した。「ホントに強いの? アレ」

「見てればわかるわ」月子は肩を竦めた。「いやでもね」

 

 そして、その言を裏付けるように、

 

「ツモ――」

 

 2巡後、手牌を晒したのは宮永照だった。

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 10巡目

 照:{三四③③678} チー:{横789} ポン:{白横白白}

 

 ツモ:{{二萬}}

 

「500オール」

 

 

 東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 【北家】花田 煌  :25000→24500(- 500)

     チップ:±0

 【東家】宮永 照  :24000→26000(+2000)

     チップ:±0

 【南家】須賀 京太郎:58000→57000(-1000)<割れ目>

     チップ:+1

 【西家】宮永 咲  :-7000→-7500(- 500)

     チップ:-1

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:15

 

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 【北家】花田 煌  :24500

     チップ:±0

 【東家】宮永 照  :26000

     チップ:±0

 【南家】須賀 京太郎:57000

     チップ:+1

 【西家】宮永 咲  :-7500<割れ目>

     チップ:-1

 

 払い出した点棒の行方を、京太郎は漫然と見送る。京太郎が卓に置いた他家に倍する点棒を、照は数瞬首を傾げて見つめ、その後得心した様子で収納に放り込んだ。

 そんな照を眺めながら、かれは脳裏で前局を振り返った。

 

(手順に落ち度はなかった)

 

 少なくとも与えられた配牌と自摸の中でかれは最善を尽くした。無論それでも和了の確約はありえないのが麻雀である。余分な想像は予断に繋がり、判断力を損なわせる。そうとは知りつつ、京太郎は前局の和了逃しを象徴的な事柄として受け止めた。東一局に吹きつけた想定外の追い風が、照の和了により断たれたような気がしたのである。

 

(少なくともおれには、流れなんか、わからない。でも照さんにはそれがわかる。あのひとはたぶん、()()を捕まえてる)

 

 京太郎は意識的に深く大きく呼吸する。肺に酸素を取り込み、血液を全身に廻すイメージを思考に浮かべる。下家――咲の築山が開門となった東二局一本場の配牌を、一幢(イートン)ずつ拾い上げる。動作を行う各人の顔を、かれは具に観察する。照、咲、花田――三様の表情を意識に焼き付ける。

 照の表情筋は相変わらず動かない。咲は萎縮した仕草で理牌を行っている。口元にはかすかに綻びの兆しが見える。(楽しんでいるのであれば何よりだ)と、京太郎は彼女から32000を出和了った事実を棚に上げ思う。花田はいつだって楽しげである。ただし彼女はあまり金銭を賭した麻雀には馴染みがないらしく、今日は普段より幾分緊張が見える。背後を顧みれば、やや離れた位置に置かれたソファに座って、月子と池田が囁きを交し合っている。

 周囲は良く見えている。

 調子は決して悪くない。

 京太郎は手牌を眺める。

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 配牌

 京太郎:{七九②⑥⑨147東南北北白}

 

(面子手が6、七対子に国士も5向聴かよ)

 

 思わず笑みがこぼれた。

 巡り合わせの悪さを、京太郎ももどかしく思わないわけではない。点差の有利が心理に与える余裕を、かれも否定はしない。

 

(それでも、よくある。こんなこと、ほんとうに、いくらでも良くあることなんだ)

 

 仮に咲の立場でこの配牌に行き会えば、京太郎は焦らずにはいられないだろう。

 

(まァ、この()()()()()もコミで麻雀だ)

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 京太郎:{七九②⑥⑨147東南北北白} ツモ:{2}

 

(面子手まで5向聴――)

 

 下の下の配牌に凡庸な自摸を得て、京太郎は思索に瞬時を費やした。遠い和了を直向に目指せば、精々が1向聴で流局の牌勢である。それ以前に目一杯に構えて受けを広げ続ければ、進退窮まり放銃する未来が容易に見通せる。

 麻雀の実力は、余程の差でもなければ短期的に測れるものではない。月子が京太郎に麻雀を手ほどきするに当たって、最初に伝えた言葉のひとつである。長期的な視野で勝率を上げることをこそ至上の命題とすべきであり、あらゆる局面で遮二無二和了を目指すような無駄な危険を、冒すべきではない。

 その方針は大局的には正しいけれども、局地的には唯一の解答ではない。

 

(この牌姿で急所潰していくのもばかばかしい――せいぜい捻ってみせようか)

 

 打:{4}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:16

 

 

(打{4}……またすがくんがはやそう)

 

 東二局一本場、東家()南家(京太郎)の切り出しは{一萬}、{4}である。持ち点を鑑みれば配牌オリの可能性もあるが、トビなし割れ目ありのルール下では、30000点のリードは決して安全圏ではない。

 

(へんなルール)

 

 と、咲は思う。先ほどの月子の説明(咲も遅れて受けた)によれば、考案したのは京太郎とのことである。一通り把握した上で咲の持った感想は、

 

(お姉ちゃん――だけじゃなくて、最後の最後まで、勝ってる人が不利になり続けるルールみたい)

 

 というものだった。赤ドラも割れ目も偶然性が強く作用する要因であり、余程でなければどんな局面からでも一発逆転が可能である。

 

(なんか、ギャンブル、ってかんじ)

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 咲:{一一三五八八[⑤]⑦289東東} ツモ:{一}

 

(このままだと、たぶんまたお姉ちゃんが和了る)

 

 打:{2}

 

 ため息混じりに河に牌を打って、咲は左手の指で喉元を擦る。

 白刃のような鋭い注視を、彼女はひっきりなしに感じている。出所は言うまでもなく対面である。咲がこの部屋に足を踏み入れてから、照の()は咲に絞り込まれている。その強烈な視線に、咲は少しばかり戸惑っていた。照の意図が読めなかったからである。

 

(だまって来たから怒ってる?)

 

 恐らくそうではない。照が激するような場面を、咲はあまり見たことがない。照が放つ雰囲気は、どちらかといえば発奮に近い。家族で囲む卓では近ごろついぞ見られないような気魄をもって、この対局に臨んでいる。ただ、いくら考えてもその理由がわからなかった。

 この日の朝、彼女は尋常ではなく眠い眼を押し開き、まだ薄暗い駅まで父に送り出されて電車に乗じた(照は自転車で駅に走ったらしい)。生来寝起きの悪い咲にとって、常ならばまずありえない行動である。それを彼女も自覚していたから、咲は未だにこの場所で麻雀を打つことに迷いを残している。

 

(お姉ちゃんと、前みたいに遊ぼうとして来たのに、そういえば、何を話すかも考えてなかったよ)

 

 顔色をうかがい、頭を下げて時間が過ぎるのを待つだけであれば、咲がこの場に来た意味はなくなる。

 かといって、照や京太郎に対するスタンスも定まっているわけではない。

 結果的に、彼女は自らがもっとも慣れ親しんだ打ち回しを選択した。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:16

 

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 花田:{[五]六九②③③⑥⑧1336中} ツモ:{發}

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:16

 

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 2巡目

 照:{二四八①①②③⑤[5]9南北白} ツモ:{7}

 

 {打:北}

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 3巡目

 照:{二四八①①②③⑤[5]79南白} ツモ:{三}

 

 {打:南}

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 3巡目

 照:{二三四八①①②③⑤[5]79白} ツモ:{6}

 

 打:{9}

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 4巡目

 照:{二三四八①①②③⑤[5]67白} ツモ:{八}

 

 打:{①}

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 5巡目

 照:{二三四八八①②③⑤[5]67白} ツモ:{④}

 

 {打:白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:18

 

 

 一直線に有効牌を引いて5巡目で聴牌を入れた照の自摸を、池田は胡散臭げに「都合がよすぎる」と評した。

 

「――河、むっちゃ強いな。それにしても、あれで立直しないのはなんでだ? 東一と何がちがうんだ?」

「東一はそもそも和了する気がない立直だったってことでしょう」

 

 と、月子はいった。

 

「ふゥん」

 

 と、池田も応じた。

 月子は大口を開けて拳大の結びを瞬く間に咀嚼していく池田を尻目に、戦況を見守る。スムーズに連なっていく摸打の音を呼び水に、彼女は京太郎の『頼みごと』を思い出していた。

 

 宮永照との再戦を、かれは病床で口にした。

 

 五日ほど前のことである。須賀家自体には毎週足を運んでいる月子だが、一度京太郎の部屋で前後不覚に陥って以来、かれの私室に足を踏み入れることは極力避けている。しかしさすがに病人を見舞っておきながら寝床から引きずり出すわけにもいかず、月子はかれの枕元で所在なげに視線を彷徨わせつつ、見舞い品のりんごを剥いてやっていた。

 少年の呼吸は浅く速く、頬は薄っすらこけて、目は潤んでいた。弱った京太郎を、月子は新鮮な心持で観察した。この年下の友人が持つ社交的な側面が、月子はあまり好きではない。器用な振る舞いが、大事なものを隠す覆いのようで癇に障るのである。だからこそ、稀に垣間見るかれの素面が、月子は嫌いではない。

 

 京太郎は驚くほど醒めた貌と年齢相応の相をそれぞれ使い分けて、他者と角逐を合わせることもなく日々を過ごしている。世辞にも付き合いやすい人間ではない月子とかれが良好な関係を継続していられるのは、京太郎があまり自分の意見というものを持たないせいだった。

 

 京太郎の部屋は、そんな主の人格を表している。寝台と机と書棚が揃った部屋には、生活や学業に必要な備品以外はあまりものがない。麻雀関連の書籍や走り書きはとくに気に入ったものでなければ図書館で済ましているらしく、かれの麻雀の傾倒ぶりからすると意外なほど、書棚の隙間が目立っている。

 

 そんなありきたりな部屋に、京太郎と月子は二人きりだった。月子は無心でりんごを剥き、ひと口大に刻んで更に積み上げた。さすがに寝込む京太郎に麻雀を教えるわけにもいかず、すぐに暇を持て余した。とはいえ月子も学校をサボタージュしており、今さら家に帰ったところでとくにすることもない。うろうろと部屋を右往左往していると、机上に妙に手の込んだ葉書が飾られていることに気づいた。

 クリスマスカードだった。宛名には当然京太郎の名前があり、差出人はカードの装飾に合わない達筆で『南浦数絵』と記名されている。

 露骨に眉根を寄せて、月子は苦しげに呼吸する京太郎を顧みた。こういう京太郎の如才ない部分が、月子は気に喰わないのである。しかし京太郎がそういう人間でなければ自分と友人であり続けることも難しいとわかっている。非論理的な感情の鬱屈に当惑した月子は、とりあえずカードの内容を読みふけった。

 

 すると、ふいに、熱に浮かされた口調で、京太郎がこういった。

 

 ――場を用意してほしい。

 

 数絵の律儀な文章に目を落としながら、そんなものどこにだってあるわと月子は答えた。

 京太郎は億劫そうに首を振った。

 

 ――大人の目が入らなくて、夜通し麻雀やっても大丈夫な場所。ねえかな。

 

 あるわけないでしょうと月子は答えた。同時に、いつだって麻雀のことしか頭にない友人に腹も立てた。

 

 ――春金さんとか、おまえの親父さんに聞いても、だめかな。

 

 しつこいとにべもなく答えつつ、月子は内心驚いた。京太郎が、これほどひとつの事柄に食い下がるのは珍しい。そもそもかれはあまり人に頼るということをしない。何か負い目でもあるかのように一定の距離を置いた関係性が、京太郎の対人処方である。今回の相談は、そのルーティンから外れたものだった。

 

 だから月子も気まぐれを起こした。ひとに頼ることに不精な友人に、たまの甲斐性を見せてやりたくなった。

 ただし、照に対する勝ち目はないと、釘を刺すことは忘れなかった。

 京太郎はどうかなと笑って、その日明答することはなかった。

 

(30000点のリード)

 

 その京太郎は、いま、ふたたび宮永照との対局に臨んでいる。いくつかの変則ルールを用いたかれの狙いは、麻雀の有するギャンブル性をあたう限り増幅させることにある。そういった意味では、東一局の和了は目論見通りだった。

 

(骨身に染みてるでしょうけど、そんなの、安全圏でもなんでもないわよ、須賀くん――)

 

 そして、月子の視線の先で、

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 6巡目

 京太郎:{七九①②⑨⑨123北北白白} ツモ:{⑥}

 

 京太郎が照の中り牌を掴んだ。

 

「まだ一段目だ。――出るな」

 

 と、池田が冷静にいった。

 が、

 

 {打:白}

 

 京太郎はノータイムで打{白}といった。

 

「お?」

「あら、ハズレね」目を瞬く池田を見、月子はほくそえんだ。

「聴牌気配察したのか? あの河から? まじか……」

 

 照

 河:{一北南9①白}

   {二}

 

「先生役としては怒らなくちゃならないところなんでしょうけど」月子は一転、口元に苦笑を浮かべる。「たぶん、そうじゃないわね、あれは。熱意のたまものというか、なんというか――ただの信頼の裏返しで、べつに須賀くんの実力じゃないと思うわ」

「なにそれ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:19

 

 

この人(照さん)()()()()()()()()()()()()()()()()んなら、もう聴牌だろ)

 

 嘆息と共に、京太郎は手仕舞いの覚悟を決めた。直後、

 

「ロン」

 

 と、照の声が響いた。

 

 東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 6巡目

 照:{二三四八八①②③④⑤[5]67}

 

 ロン:{③}

 

「――3200の一枚」

「うわたっ――」

 

 放銃者は、花田である。1向聴を入れたまさにその瞬間の出来事だった。照の進みの早さを警戒しての先切りと見えたが、それでも遅かった。

 京太郎と花田の分水嶺は、たんに照との対局経験の有無に根ざすものである。

 

 【北家】花田 煌  :24500→21300(-3200)

     チップ:±0→-1

 【東家】宮永 照  :26000→29200(+3200)

     チップ:±0→+1

 【南家】須賀 京太郎:57000

     チップ:+1

 【西家】宮永 咲  :-7500<割れ目>

     チップ:-1

 

(やっぱり、強え)

 

 こみ上げる高揚に緩む口元を、京太郎はてのひらで覆い隠す。

 

(さァて、いまのはたまたまヤマが当たったけど、どうやって崩せばいいのかね、この親――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・飯島町・高遠原・片岡邸/ 07:20

 

 

 片岡優希は一瞬前までカピバラの背に乗って空を飛んでいた気がするが、もちろん実際にはいつも通り暖かい布団の中でまどろんでいる。鳴り響く目覚まし時計のベルが意識を徐々に現実に引き戻し、彼女は夢の内容を早々に忘れる。

 ベルは鳴り続ける。

 けたたましいその音を止めようと片岡は手を伸ばすが、届かない。ふだんは枕元に置いている目覚まし時計は、今日に限って部屋のドアのふもとにぽつんと配置されている(もちろん昨夜、彼女が自分でその場所に置いて起床時刻を設定した)。

 

「う――う、うぅ」

 

 と、幼子がぐずるように、片岡は枕へ顔面をこすりつける。たっぷり9時間以上は寝たものの、眠気はまだまだ強い。しかし本能的な睡眠への欲求を押しのける何かが、片岡の意識に覚醒を促す。

 

(なんだったっけ――)

 

 重たい瞼を薄っすら開いて、彼女は覚束ない手つきで枕の下をまさぐる。

 指先が紙片にふれる。

 親を経由して花田煌から渡されたそのメモを、ぼうと見やって――

 

 記憶が火花のように明滅し、屈辱が想起され、闘志が燃え上がる。

 

 ――片岡優希は跳ね起きた。

 

「思い出したぁっ!」

 

 二秒で寝巻きを脱ぎ捨て全裸になるや、彼女は獅子吼(ししく)する。

 

「――このまま年越しなんて、ごめんだじぇ!」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・信州麻雀スクール/ 07:20

 

 

 徹夜明けの頭を振りながら、栄養剤を片手に、春金清は仕事道具を清掃する。牌の一枚や点棒の一本に至るまで磨き上げる彼女は、不眠のため精神が躁状態にある。同じように教室内の清掃に励む同僚に鬱陶しがられながらも、どうにか今年を乗り切れたことを彼女は声高に祝う。

 

(まあ、相変わらずの自転車操業。来年は危ういかな)

 

 と、後ろ向きな思考に浸った矢先、備え付けの電話が鳴り出した。春金も含めた同僚たちが、互いに顔を見合わせる。年内の営業はすでに終了している(もっとも、今夜からはこの教室はちょっとした賭場に趣を変えることになるが、通常の客層はそんな事実は知らない)。周囲が向ける催促の視線に押されるようにして、結局春金が受話器を取った。

 

「はい、信州麻雀スクールです。申し訳ありませんが、年内の業務は――はい、私ですけど……って、数絵さん? あれ? なに、ひさしぶりじゃん。どしたの、こんな時間に。ううん、いいいけど、え、いま駒ヶ根SAにいんの? じゃあもうすぐ着いちゃうじゃん。あ、じゃあ、年越しはこっち? へえ――あ、そういえば、駒ヶ根っていえばさ、月子さんが今日――」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 鹿児島県・霧島市・国分/ 07:20

 

 

 眠れぬ夜の次に、旅立ちの朝が来る。凍りつくような空気の中で、少年は鈍くのっぺりとした灰色を貼りつかせた空を視る。端々にかかる薄雲は襤褸切れのようにも見える。所々穴の開いた雲の衣はいかにも寒々しくて、彼の眉間に皺を刻ませた。

 

「着替えは持った? あと、ハンカチと、ティッシュと、くつしたと、あ、向こうは寒いから懐炉もきっと要るわ。持ってる? ねえ、やっぱりひとりで大丈夫かしら……」

 

 目の前で旅支度を指折り数える従姉の姿を、石戸古詠はどこか隔たった眼差しで見つめる。

 

「ひとりじゃないよ」と、彼は平坦な声色で応える。極力従姉を安心させるような表情を心がける。「空港でお祖母さんとも合流するからさ。それよりほんとにごめんね。こっちは色々忙しくて大変な時期なのに、ぼくだけ旅行に行かせて貰っちゃって」

「もう、それはいいっていったじゃない」

 

 と、石戸霞は柔和に微笑んだ。年のころはまだ12程度だというのに、彼女には見るものを心安くさせる独特の雰囲気がある。また彼女は年齢に比して身長や体格も早熟である。そんなわけで、古詠と並んで歩いた場合二人が一つ違いの姉弟と見られることはほとんどなかった。

 

「神代さんや狩宿にもお土産買ってくるから、よろしく言っておいてよ。次に会うのは年明けになっちゃうけど」

「ええ……」

 

 見送る霞の表情は、あくまで不安げだった。

 

「あと薄墨さんには――」クリスマス当日にインフルエンザに罹り、隔離状態で本家の一室に臥せっている年上の麻雀仲間を思い、古詠は言った。「『よいお年を』って言っといて」

「ええ……え? それわたしが言うの?」

 

 この年嵩の従姉の存在は、いつも古詠を少しばかり混乱させる。彼女は古詠の死んだ母に瓜二つである。そして古詠もまた、母に良く似た面立ちをしている。当然、霞と古詠も顔立ちや雰囲気は似通っているのだった。だから古詠と霞を並べて血縁を疑うものはどこにもいない。身内さえ、縁遠い中には二人が従姉弟ではなく実のきょうだいだと勘違いしているものもいる。

 けれども実際は違う。霞は古詠にとってあくまで従姉である。この夏に出会うまで存在さえ知らなかった他人である。そこに加えて『母に似ている』という要素がある。その要素はいまの石戸古詠にとって負でしかありえない。日々夜毎母の亡霊に脅かされている彼にとって、母の面影は何であれ歓迎すべきものではない。

 もちろん、その不快感は霞にぶつけていいものではない。古詠にもその程度の分別はある。ただし感情を完全に割り切れるほどいまの古詠には余裕がない。元々どこか超然とした物腰の従姉を、彼は得手にはしていなかった。彼女と相対する場合、古詠は常に膜を一枚挟んでいた。

 霞個人に対する感興といったものは、古詠のなかにはほとんど存在しない。霞に限らず、他人全般について古詠は特別な感情は持ったことがない。ただ霞が持つ種々の性質が、古詠を戸惑わせるだけである。

 そんな内心を表出させないよう、彼は腐心する。

 

「じゃあ、霞さん――」

 

 と、口にすると、霞の顔がほんのわずかに曇る。他人行儀な呼び方が露骨に線を引かれているようで気にしている――とは、古詠が鹿児島に来て作った数少ない友人の助言である。

 そのことを思い出した彼は、それらしい言葉を推し測り、訂正した。

 

「――じゃなくて、お姉ちゃん。いってくる」

 

 言い直した台詞を耳にした霞は、一瞬だけ気まずさを堪えるような顔をした。自分が無理に呼ばせているのではないかと気にしている顔だった。

 ただ、そんな葛藤は喜色に塗り替えられて、すぐに消えた。霞は年相応の、屈託のない笑顔を面に浮かべた。

 

「――はいっ。いってらっしゃい、古詠くん」

 

 上機嫌の霞に手を振って、空港へ向かうバスの発着場へ古詠は歩き出す。彼の胸裏には呼称一つで一喜一憂する従姉への不可解さと、ただ場を凌ぐために彼女の機嫌を取ったことについての若干の後ろめたさがある。古詠は霞がどうすれば喜ぶかを知っていても、霞が()()()()()が判らない。

 

 古詠が持つ霞に対する感謝に偽りはない。世話になっているという認識もある。だからことあるごとに言行で報いている。けれども根本的な所で古詠と霞の互いに向けた姿勢には齟齬がある。霞は古詠を家族として、弟として扱うと決めている。彼の入り組んだ生い立ちを労わりたいと、少女らしい善良さで心から考えている。

 

 古詠は彼女に、しかし何も求めていない。家族であってほしいとも考えていない。彼女から何かを受け取ろうとも思っていない。古詠にとっての鹿児島の石戸家とは、行き場のない自分を引き取った親切な人々である。それ以上でもそれ以下でもない。だから彼は尽きない感謝を行動として表している。遠慮や気遣いがなくなることはない。

 この数ヶ月を経て、さすがに古詠は彼と霞を始めとする人々との温度差に気づいている。ただしそれを無理に正すことに益はないということも知っている。だから彼は自分の器量が許す限りそれらしく振舞う。善い少年、良い子供として、石戸古詠は鹿児島の地での半年を過ごした。

 

 母の亡霊を常に傍らに置いたまま。

 

 やがてバスが来る。彼は左隣を見る。そこには歳を取った霞――ではなく、死んだはずの母がいる。彼女はやはり涙を流している。古詠はもうその妄想に反応しない。彼はすっかり自分の狂気を受け入れた。欠伸をかみ殺し、バスに乗るすんでで、頬に冷たいものを感じる。

 

 空から雪が降っている。

 

(初雪か)

 

 感情は揺れない。

 頬に触れて解けた雫を拭って、彼は父と妹がいる土地へ旅に出る。

 




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2013/2/20:牌画像変換


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12.ばいにんテール(一)

12.ばいにんテール(一)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:23

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 【北家】花田 煌  :21300

     チップ:-1

 【東家】宮永 照  :29200<割れ目>

     チップ:+1

 【南家】須賀 京太郎:57000

     チップ:+1

 【西家】宮永 咲  :-7500

     チップ:-1

 

 東二局二本場は、親の照が自ら割れ目を引いた。

 賽の目が照自身の築山を指したとき、他者に知れぬほどかすかに反応したものが、その部屋に三人いた。月子、京太郎、そして咲である。

 三人の視線は、示し合わせたように宮永照に集中した。

 

(打点はどうなる)

 

 と、京太郎は胸中で自問に似た問いを発した。かれが今日の場で割れ目ルールを用いた目的のひとつがここにある。

 京太郎にしてみれば数半荘ほどの傾向でしかないが、照の和了には一定の法則がある。かれが照と囲んだ卓において、彼女は必ず段階的に打点を上げてみせた。照が1000点を和了れば、次局彼女が和了った場合、その打点は1300から2600の範囲に収斂する。多少の誤差はあれども、京太郎が知る限り一足飛びに満貫へ打点を上げた例はない。今日もまた東二局0本場で1500(2000)、一本場で2900と、器用に和了を重ねてみせた。これがたんなる偶然でないのであれば(もちろんその可能性は大いにある)、今局で照が和了れば、その打点はおおよそ3900から5800の間に落ち着くはずである。

 

(ただし、割れ目じゃなければ)

 

 京太郎は、もとより照との対戦が易々と片付くとは思っていない。かれの目的は、まず照の『ルール』を見定めることにあった。照が今局、割れ目による打点倍増を考慮して和了を目指すのであれば、彼女の最終形は前局の和了(2翻30符)に近い牌姿になる。従って次に彼女が割れ目でなくなれば、今度は5800から7700を目安にするだろう。

 また、そもそも照の特性が『打点の制約』ではなく『符・翻の制約』にあるのであれば、彼女は今局、割れ目などまるで斟酌せずに3翻程度の和了形(割れ目を踏まえると打点は7800から11600になる)を仕上げてくる。そしてやはり、次局で照が割れ目でなくなれば、4翻が彼女の和了形の目安となり、打点としては同程度の和了を重ねることになるはずである。

 いずれにしても、照が打点の制約を課し続けるのであれば、割れ目は彼女にとって常のリズムを崩すルールでしかなくなる。

 

(しかし――なんつぅ苦しまぎれ)

 

 京太郎も、全てが思い通りに運ぶとは考えていない。割れ目が照にもたらす影響は、苦肉の策にも含めていなかった。とはいえ麻雀の実力は一朝一夕に向上するものでもない。照と京太郎の差は百や二百の旦夕が埋めるものでもない。ある日突然強くなる――そんな魔法が使えない以上、追う立場の京太郎にできることは限られている。

 つまり、照を少しでも高みから引きずり降ろす必要がある。

 

(付き合ってもらうぜ)

 

 と、はらを据えたところで、かれは己の手牌を開き、わずかに目を細めた。

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 配牌

 京太郎:{一九2223344678西}

 

(また本手じゃねえか――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:23

 

 

「今度は竹か」

 

 京太郎の配牌を見た池田が、呟きを漏らした。

 

「でもああいうのほど和了れないものよね」

「普通にチャンス手だとおもうけど」池田は苦笑する。「裏目・ヨレヅモに慣れきっているつっきーならではの言葉だな!」

「うるさい」

 

 正鵠を射ているだけにそれ以上の反論も思い浮かばず、月子はソファから腰を上げた。盤面はまだ序盤だが、見守っていたところで状況に影響があるわけではない。まだ半荘の一回戦――今日という日が長丁場になることは織り込み済みである。始終対局に付き合っていては気疲れしてしまう。

 それは卓を囲む面子にしても同様である。思い思いの表情で手牌を開く四人へと、月子は声を掛けた。

 

「何か飲む?」

「おかし」

 

 即答したのは照だった。

 

「え、いや、あの、飲み物っていいましたよね……」思わぬオーダーに、月子は一瞬虚をつかれた。

「ないの?」照が首を傾げる。

「ありますけど」

「ならほしい」と、照はいった。「あと、ココア」

「わかった、わーかーりーまーしーたー」月子は捨て鉢に頷いた。「宮永さんが、お菓子とココアね。ほかのひとは?」

「そういうサービスありなんですか!」花田が吃驚していた。「じゃあ、梅こぶ茶で」

「むだに渋い……」

 

 呆れながらも、とりあえず月子は請け負った。ココアも梅こぶ茶も、比較的簡単に準備できる。

 

「須賀くんは」

「ホットありありで」

 

 と、京太郎が月子を振り向きもせずにいった。

 何となく腹が立ったので、月子は京太郎の頭を軽く叩いた。

 何だよと双眸を突きつけてくるかれを適当にいなして、最後のひとり――咲へと向き直る。

 

「あなたは?」

「――へぁいっ」

 

 声を掛けられた少女の、肩が震える。

 小動物めいた微温の仕草はほほえみを誘う。

 月子に向いた咲の瞳には、物怖じがあった。ただその怖気は月子へ向いたものではない。月子を通して視える何かを、咲の感情は指向している。先刻ルールの説明を行った際から、咲の月子に対する態度は一貫して同じであった。もの問いたげな空気をまといつつ、直接的な言葉は何一つ発しない。

 

(奥ゆかしいって言うのかもしれないけれど)

 

 つとめて表情には出さないようにしながら、月子は、

 

(この娘とは、なんだか()()()()

 

 と、思った。

 腰を据えて何かを交し合った末の判断ではない。たんなる印象である。けれども月子の経験上、この手の感覚が大きく外れたことはない。京太郎を介して出会う同年代の人間には久しく感じていなかった反発を、月子は咲に覚えた。咲の人格や性質に対して不快感を覚えているわけではない。月子にもその所感の具体的な根拠はわからない。

 

「お姉ちゃんと、おなじので」

 

 ようよう口にした咲に、軽い調子で反問する。

 

「お菓子とココア?」

「おかしはいいです」

「了解。――おじゃましたわ」

 

 面子に手のひらを向けて再開を促すと、月子はそそくさとキッチンへ向かった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:23

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 配牌

 照:{二二四六七八①②④⑥89發南}

 

 {打:南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:23

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 1巡目

 京太郎:{一九2223344678西} ツモ:{南}

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:23

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 1巡目

 咲:{三九[⑤]⑥⑧⑧⑨⑨46中中東} ツモ:{中}

 

 打:{九萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:23

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 1巡目

 花田:{二三五八②⑤⑦1白發中南北} ツモ:{9}

 

(うわぁ……麻雀は配牌より自摸とはいえ、なんとゆー駄目配牌)

 

 放銃直後に花田を訪れた配牌――和了り目の見出せない牌姿に、一瞬途方に暮れる。配牌オリを決め込むのも一手ではあるが、よりにもよって花田の風は北、下家は割れ目の親である。頭から好牌を先打ちして照の向聴を進ませたのでは何の意味もない。

 

(ひたすら絞って、安手で他家に和了ってもらうのがべすと。できれば須賀くんじゃなくて、断ラスの上家の子がいい――)

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:23

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 2巡目

 照:{二二四六七八①②④⑥89發} ツモ:{6}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:24

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 2巡目

 京太郎:{一2223344678南西} ツモ:{四}

 

 打:{一萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:24

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 2巡目

 咲:{三[⑤]⑥⑧⑧⑨⑨46中中中東} ツモ:{一}

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:24

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 2巡目

 花田:{二三五八②⑤⑦1白發中南北} ツモ:{③}

 

 {打:南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:24

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 3巡目

 照:{二二四六七八②④⑥689發} ツモ:{二}

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:24

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 3巡目

 京太郎:{四2223344678南西} ツモ:{⑦}

 

(一色に決めるのは、そりゃラクだけど)

 

 3巡――本来与えられた自摸の6分の1を消費して、索子の受けは広がらない。

 

 {打:南}

 

(齧りついてでも蹴りたい親――どこまで手組を広げようか)

 

 漠とした懸念はついて離れない。京太郎は自摸に問いかけるように、己の牌姿を凝視した。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:24

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 3巡目

 咲:{一三[⑤]⑥⑧⑧⑨⑨46中中中} ツモ:{7}

 

 自摸った{7}を見下ろすと、瞬き一回分の間、咲は場を見回した。

 巡目は浅い。

 まだ情報といえるだけのものは河に出揃っていない。

 

「……」

 

 そして、咲は牌に手を掛けた。

 

 打:{一萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:24

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 3巡目

 花田:{二三五八②③⑤⑦1白發中北} ツモ:{西}

 

(……すばらくない……)

 

 {打:西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:24

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 4巡目

 照:{二二二四六七八②④⑥68發} ツモ:{5}

 

 {打:發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:24

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 4巡目

 京太郎:{四⑦2223344678西} ツモ:{[5]}

 

(引いた)

 

 京太郎は、最大の要所をこれ以上ない形で引き入れた。染め手を考慮したとしても一枚切れの客風を残す選択肢はない。かれは、

 

 {打:西}

 

 と、いった。

 セオリーなら、{三萬}もしくは{⑦}へのくっつき次第では即座に曲げる局面である。縦引きはともかく{⑨}引きの場合が苦しい形だが、打{四萬}もしくは打{⑦}を支持するほどの材料とはならない。

 

(索子をがめって足を遅くしたんじゃ話にもならねえけど)

 

 割れ親の照の打点が相応の確度で量れている以上、多少迂回しても中押ししたい局面だった。たとえ親であっても、和了を重ねていない照に対してはいくらでも押していける。京太郎のような凡人にとって、(少なくとも1向聴か聴牌時の)押し引きの最たる基準は己と、そして他家の打点である。そうした意味において、照の性質はむしろ制限である。

 牌譜を顧み、京太郎が彼女の独特な打ち回しに気づいたとき、始めに持った印象は手加減であった。しかし宮永照という少女の人格を思えば、それはあるまいとかれは考えた。京太郎の知る限りにおいて照はそこまで器用な少女ではない。

 

(この巡目でこれなら――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:24

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 4巡目

 咲:{三[⑤]⑥⑧⑧⑨⑨467中中中} ツモ:{三}

 

()()(){中}()()()()()()()()()――たぶん出てこないけど……)

 

 打:{7}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:25

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 4巡目

 花田:{二三五八②③⑤⑦1白發中北} ツモ:{白}

 

(ここなら)

 

 打:{五萬}

 

(下家の人は鳴かない――そんな気がします)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:25

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 5巡目

 照:{二二二四六七八②④⑥568} ツモ:{7}

 

 1向聴を入れた照の指が、まず伸びたのは{8}である。機械的に受け入れ枚数のみを指標とすれば、この牌姿での選択肢は打{58}がマジョリティ、微差で打{四萬}が候補に挙がる。

 けれども、その指が停まる。

 

「――」

 

 論理に疑義を投げかけるのは、照の洞察を司る霊感である。

 

 照

 河 :{南①9發}

 

 京太郎

 河 :{九一南西}

 

 咲

 河 :{九東一7}

 

 花田

 河 :{9南西五}

 

 河を見る彼女の瞳は何も映していない。場況を見定めるほどの情報はまだ卓上に出揃っていない。宮永照は、他家の手を透かし視るわけではない。あくまで本質と状況を推し測る能力が常軌を逸しているだけである。

 その彼女が選んだ打牌は、

 

 打:{⑥}

 

 であった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:25

 

 

 京太郎、咲、花田の思考は、その瞬間のみ完全に一致した。

 

(――聴牌――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:25

 

 

 上家が打った{③}(ドラ表示牌)の筋を、京太郎は眇め視る。

 

(先行されたか?――でも、)

 

 立直もないこの巡目での打牌である。かれの警戒は、少しばかり神経質に過ぎる。ましてや打点の推量が可能な照なのだから、1向聴の京太郎にとっては降りる理由がない。

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 5巡目

 京太郎:{四⑦2223344[5]678} ツモ:{2}

 

 ましてや、聴牌したとなれば尚更である。

 

(こいつは――索子の鉱脈を掘り当てたか)

 

 打{四萬}と打{⑦}に優劣はない。強いて言えば親の照に対して{④}(ドラ)筋かつ{⑥}のマタギとなる{⑦}がやや強いという程度である。いずれも赤牌を引けば塔子にもなる。両面変化が可能な{四萬}か、赤の枚数が多い{⑦}かという選択に、京太郎は明確な回答を用意できない。

 次に来る自摸など知りようがない。

 

(知るかよ。だから面白いんだからよ――)

 

 打:{四}

 

 京太郎は、表情を変えずに{四}を打った。

 照の発声はない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:25

 

 

(すがくんも来てる。索子が高いし、筒子の下からまんなかが、お姉ちゃんに怖い)

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 5巡目

 咲:{三三[⑤]⑥⑧⑧⑨⑨46中中中} ツモ:{東}

 

(廻そう――)

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:25

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 5巡目

 花田:{二三八②③⑤⑦1白白發中北} ツモ:{⑨}

 

(合わせ打ちィ)

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:25

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 6巡目

 照:{二二二四六七八②④5678} ツモ:{④}

 

「――――」

 

 打:{四萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:25

 

 

(あの{四}は……おれが{⑦}打ってても出てきたのか?)

 

 前巡、{四}ではなく{⑦}を打っていれば仮聴の{四}タンキに刺さる照の打牌に、京太郎はつかのま、目を瞠った。

 

(いや――ここでアテたって、5200直取りだけだ。さすがにこの手をンな安目で倒せねえ。しかし、{四萬}手出しって――今聴牌(イマテン)か? 待ち替えか?)

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 6巡目

 京太郎:{⑦22223344[5]678} ツモ:{白}

 

(こいつで、ダマでも満貫)

 

 打:{⑦}

 

(――まだまだ行くけどな)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 6巡目

 咲:{三三[⑤]⑥⑧⑧⑨46東中中中} ツモ:{發}

 

 引き入れた緑發を見、咲は唇を柔らかくほどいた。

 先刻の32000放銃を想起したのである。

 

(また、おんなじ――お姉ちゃんの安牌。すがくんの本線。綾牌だよね)

 

 けれども彼女は、ノータイムで打った。

 

 {打:發}

 

(でももう、中らないとおもうよ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 6巡目

 花田:{二三八②③⑤⑦1白白發中北} ツモ:{北}

 

(上家のひと、すばらっ)

 

 {打:發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 7巡目

 照:{二二二六七八②④④5678} ツモ:{③}

 

 打:{④}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

(こんどは、{④}(ドラ)。そいつを咎められないのもしょうもねえけど)

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 7巡目

 京太郎:{22223344[5]678白} ツモ:{[⑤]}

 

 打:{[⑤]}

 

(こっちもひよってはやらねえぞ――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 7巡目

 咲:{三三[⑤]⑥⑧⑧⑨46東中中中} ツモ:{⑧}

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 7巡目

 花田:{二三八②③⑤⑦1白白中北北} ツモ:{9}

 

(――{9}とか須賀くんに無理すぎる!)

 

 打:{⑤}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 8巡目

 照:{二二二六七八②③④5678} ツモ:{北}

 

「…………」

 

 照

 河 :{南①9發⑥四}

    {④}

 

 京太郎

 河 :{九一南西四⑦}

    {[⑤]}

 

 咲

 河 :{九東一7⑨發}

    {⑨}

 

 花田

 河 :{9南西五⑨發}

    {⑤}

 

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 照の押し振りに、京太郎は苦笑した。

 

(――いまさらだけど)

 

 それほどに自身の読みに確信があるのだと思うしかない。

 あるいは、照は特に何の考えもなく牌を打っているだけかもしれない。

 備え持った強運が、彼女につまらない放銃を許していないだけなのかもしれない。

 

(ま、そうじゃねえんだろうけどな)

 

 京太郎が思い返すのは、彼女と初めて出会い、卓を囲んだ図書館の情景である。あの場で、照は同卓していた老人――大沼秋一郎に見事に討ち取られた。

 少なくとも、宮永照は無敵の存在ではない。

 京太郎が太刀打ちできるかどうかはともかくとして、照は無欠の少女ではないのである。

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 8巡目

 京太郎:{22223344[5]678白} ツモ:{4}

 

({13469}待ち――まァ、{169}引き以下、{58}引き以上なら、妥当ってトコか)

 

 やはり瞬時に5面張へと受け替えて、京太郎は、

 

 {打:白}

 

 といった。

 出和了など期待していないのだから立直を掛けるべきだが、ここはあくまで照を叩きたい局面である。

 

(それに、もしも裏が乗って24000(3倍満)に届いちまう場合、()()()()()()()()()かもしれない)

 

 花田煌と打つ場にはそういう傾向がある。彼女の点棒を全て奪う可能性のある手は、決して彼女から直撃を取ることができない。ときに他動的に、ときに自律的に、花田はトビを必ず回避する。それは様々な形で現れる。東一局のように自ら自摸を喰いずらして他家に当たり牌を掴ませることもあれば、安手で場を流し流させることもある。過程はそれこそ無限にある。結果も局面に応じて異なる。

 ただ、事実は一つである。

 花田煌を飛ばすことはできない。

 彼女から点棒を全て奪うことはできない。

 それが彼女の『ルール』だ。

 ――たとえ照を相手にしても、それは同じだと京太郎は睨んだ。だからこそ、今日の卓に花田を誘ったのである。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 京太郎の放った役牌を見て、咲は引き時を悟った。

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 8巡目

 咲:{三三[⑤]⑥⑧⑧⑧46東中中中} ツモ:{1}

 

 と、よりによって引いたのが{1}である。彼女は苦笑すると、

 

(――うーん、これは閉店っ)

 

 {打:中}

 

 といった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 8巡目

 花田:{二三八②③⑦19白白中北北} ツモ:{5}

 

(うっひゃぁ――逆に楽しくなってきた!)

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 この時点で、照の待ち({58})は山に3枚。

 また、京太郎の待ち({13469})は6枚生きだった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 9巡目

 照:{二二二六七八②③④5678} ツモ:{4}

 

 9巡目、照は京太郎の和了牌を引いた。とはいえ打{二萬}とすることで振聴の平和3面張――割れ親とすれば決して分の悪い勝負ではない。

 ――が、彼女の選択は、

 

 打:{8}

 

 であった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 あからさまな照の暴牌に、場に漣が立った。京太郎もまた、われとわが目を疑った。

 

(こいつだ)

 

 と、苦々しくかれは思う。

 

(なんなんだ、この精度――)

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 9巡目

 京太郎:{222233444[5]678} ツモ:{東}

 

(マジに、手牌が透かされているのかよ)

 

 {打:東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

(……)

 

 咲は『感覚』を凝らす。

 久方ぶりの麻雀である。肩慣らしをする必要がある。

 このぎりぎりの場況は、ピントを合わせるに相応しい、と彼女は思う。

 

(そこに、)

 

 咲の瞳が、照の目前に向かう。

 余人の手が届かぬ領域に、彼女の感覚が行き渡る。

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③})

 9巡目

 咲:{三三[⑤]⑥⑧⑧⑧46東中中} ツモ:{⑧}

 

(――いる)

 

 {⑧}を愛でるように撫でると、

 

「カン」

 

 と咲は言って、牌を場に晒した。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

「は?」

 

 と、京太郎はうめいた。

 

「まじですか」

 

 と、花田も呟いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③}) 槓ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③}) 槓ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 【北家】花田 煌  :21300

     チップ:-1

 【東家】宮永 照  :29200<割れ目>

     チップ:+1

 【南家】須賀 京太郎:57000

     チップ:+1

 【西家】宮永 咲  :-7500

     チップ:-1

 

 京太郎:{(ドラ)(ドラ)(ドラ)(ドラ)33444[5](ドラ)678}

 

 【北家】花田 煌  :()()()()()

 

(ばっ――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③}) 槓ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 9巡目

 咲:{三三[⑤]⑥46東中中} 暗槓:{■⑧⑧■} リンシャンツモ:{5}

 

(うん、だいじょうぶ。ちゃんといる……)

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:26

 

 

(須賀くんの手がスッゴイことになってそーですが……)

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③}) 槓ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 9巡目

 花田:{二三八②③⑦159白白北北} ツモ:{西}

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:27

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③}) 槓ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 10巡目

 照:{二二二六七八②③④4567} ツモ:{一}

 

 照の親指の腹が、その牌に刻まれた柄をなぞる。

 その感覚が、照に和了の未来を囁く。

 

「――立直」

 

 打:{7}

 

 宮永照が牌を曲げる。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:27

 

 

(槓ドラがもろ乗りの一色手に、索子両面塔子落として立直……)

 

 照の暴挙も、二度続けばかえって京太郎を冷静にした。照は普通ではない。そんなことは始めからわかっている。だから京太郎も彼女に挑んでいる。

 

 照

 河 :{南①9發⑥四}

    {④北8横7}

 

(たぶん、ノミ手にドラいち――役がついても3翻まで。つまり放銃は7800から11600の範囲。裏はしらねえ。もうンなもんどうしようもねえ)

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③}) 槓ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 京太郎:{222233444[5]678} ツモ:{[五]}

 

(危険牌――)

 

 刺さる。

 半ばその確信を持ちながらも、京太郎は自摸切ることを決心している。

 割れ目の親からの立直――それも一発目である。とはいえ、京太郎も5面待ち高目32000の聴牌を崩す理由がない。照の聴牌気配は数巡も前から察していたのである。今になって降りるのであれば、最初から突っ張るべきではない。

 

 打:{[五]}

 

 だから、かれはまっすぐ自摸切った。

 照の牌が倒れることはなかった。

 

 ――それに安堵している自分に気づいて、京太郎はこの局の負けを悟った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:27

 

 

 東二局二本場 ドラ:{④}(ドラ表示牌:{③}) 槓ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 11巡目

 照:{一二二二六七八②③④456}

 

 ロン:{一}

 

 (裏ドラ:{東9})

 

 【北家】花田 煌  :21300

     チップ:-1

 【東家】宮永 照  :29200→37600(+8400)<割れ目>

     チップ:+1

 【南家】須賀 京太郎:57000→48600(-8400)

     チップ:+1

 【西家】宮永 咲  :-7500

     チップ:-1

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:28

 

 

 東二局三本場

 【北家】花田 煌  :21300<割れ目>

     チップ:-1

 【東家】宮永 照  :37600

     チップ:+1

 【南家】須賀 京太郎:48600

     チップ:+1

 【西家】宮永 咲  :-7500

     チップ:-1

 

 東二局三本場の割れ目は花田だった。点差11000まで詰め寄られた京太郎は、勢いを失った手牌を前に、凌ぐことを選択する。

 序盤、果敢に仕掛けたのは花田である。しかし、彼女の早仕掛けは当然、照の自摸を増やすことに繋がる。結果、

 

「立直」

 

 5巡目に、照の河に置かれた牌が曲がった。

 が、

 

「ロン」

 

 立直棒を置く照の動作を、押し止めたのは宮永咲だった。

 

「平和のみ。1000点は、1900点です」

 

 【北家】花田 煌  :21300<割れ目>

     チップ:-1

 【東家】宮永 照  :37600→35700(-1900)

     チップ:+1

 【南家】須賀 京太郎:48600

     チップ:+1

 【西家】宮永 咲  :-7500→-5600(+1900)

     チップ:-1

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:30

 

 

(――取った)

 

 照から出和了を奪った咲を見、京太郎は黙考した。

 かれの知る限り、照から直撃を取った人間は三人いる。

 図書館での大沼秋一郎、麻雀教室での石戸月子、そしていまの宮永咲である。

 

(おれと、何が違う? 才能か? へんてこな流れやツキってやつか?――そんな莫迦な)

 

 嘆息すると、かれは口端を吊り上げた。

 

(まァ、やるだけやってやる)

 

 何しろ、時間はまだまだ、沢山ある。

 




2013/2/20:牌譜変更
2013/2/20:牌画像変換


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13.ばいにんテール(二)

13.ばいにんテール(二)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:23

 

 

 元の用途が用途であるだけに、キッチンの設備は小料理屋もさながらの充実振りだった。抜け番の客をもてなすためのカウンターには、月子が目にしたこともないような銘柄の洋酒が整然と並んでいる。冷蔵庫に生鮮品は流石に乏しかったが、日持ちのする食材は呆れるほど詰め込まれていた(もちろん酒肴が主である)。電話機の隣には出前のチラシ・メニューも山と積まれている。ピザ、寿司、中華料理、弁当、蕎麦、人妻……。

 

(人妻?)

 

 首をかしげながら、月子は注文の準備に取り掛かる。

 

「ココア、梅こぶ、コーヒー、ココア」

 

 節を回して呟いた。

 電気ケトルに水を入れてスイッチをオンにすると、月子はマグカップを3つと湯呑を1つ、食器棚から取り出した。梅昆布茶の顆粒は一年毎日飲んでも使い切れないのではと思うほど大量にある。花田からはとくにオーダーされていないがとりあえず二袋を開封し、続いて茶菓子の準備に取り掛かる。

 

 キッチンカウンターの鏡越しに、居間で牌を打ち交わす四人が一望できる。月子の位置からはちょうど照の手牌がよく見えた。

 

「ふんふむ」

 

 つまみのドライフルーツを一切れ口の中に放り込み、月子は東二局の推移を見守った。敵情視察とばかりに、照の取捨選択を頭に焼き付ける心算である。

 

 ――東二局二本場、京太郎の大物手に対して照はフリテン塔子落としからの立直を打った。出和了できない役あり三面張と出和了可能な役なし変則二面張の優劣はさておいて、かなり苦しい牌勢からの勝負である。

 けれども結果として、照は当然のように京太郎から和了ってみせた。

 

(あくまで結果。結果的に和了ってる。だから宮永さんは正着――だったのかしら?)

 

 彼女には彼女にしかわからない何らかの直感があったのかもしれない。直感の完全な立証や否定は不可能事である。

 

(宮永さんの打ち筋がセンスと絶対的な幸運に支えられただけのものなら、まだわかりやすい)

 

 と、月子は思う。感性や幸運は(月子の主観では)必ず変動するものである。まったく機能しない場合も異常なほど研ぎ澄まされる場合も、しばしばある。運勢の満ち干きは万物すべてに存在する。それは照でさえも例外ではない。宮永照は月子の眼から見て雲上の龍にも等しい怪物であるが、怪物の好調不調を見分ける目を、月子は持っている。照がただ持って生まれた才覚を振るうだけの少女であれば、組み合う手段は思いつかないわけではない。当然のように圧倒的な負けを重ねることにはなるけれども、絶対に勝てないとは思わない。

 けれども照に対して、月子は勝算を見出すことができない。その意識は論理や感情に基づくものではない。一週間前の対局ではそうだった。自明の理として、月子は照の勝利を受け入れた。思いつく限りの、最後の手段を除いた全ての札を切った。それでも及ばなかった。その事実が格付けを済ませてしまったのかもしれない。

 

 苦手意識は誰にでもある。麻雀に限らず、競技のつき物である。ときにそれは、ジンクスにもなる。面子や自風、特定の牌や待ち。印象的な一度の体験が、その後の全ての経験に影響を及ぼすこともある。

 しかし、

 

(でも、宮永さんの打ち回しには(キズ)がある)

 

 何にも増して月子を戸惑わせる最大の要因は、『宮永照』という少女はどんな観点から見ても完璧な打ち手ではないという事実だった。

 たとえば前局、照は9巡目に和了逃しをしている。

 彼女の東二局二本場時点の配牌は、

 

 {二二四六七八①②④⑥89發南}

 

 であった。

 河は、

 

 {南①9發⑥四}

 {④北8横7}

 

 である。

 そして、立直を打つまでの自摸は「{6二57④③北4一}」だった。

 つまり、この自摸から想定できる最高形は、

 

 {六七八①②③(ドラ)(ドラ)56789}

 ツモ:{4}(9巡目)

 

 ――となる。曲げれば親割れの8000オール、そうでなくとも5200オールの手を、否定する要素が月子には見つからない。月子から見た照の瑕とは、だから2・3巡目の打{①}と{9}にある。この二打が、9巡目の自摸・平和・ドラの和了を挫いた綾になった。

 手順自体に大きな瑕疵はない。むしろ平凡すぎる程である。麻雀には裏目などいくらでもあって、それが照に訪れたことを、本来は疑わしく思うべきではない。

 が、5巡目の打{⑥}から趣を変え始め、9・10巡目の打{87}は完全に暴牌だった。

 確かに放銃はなかった。それが結果である。そして結果が全てというなら、照が和了って見せたことも9巡目の{4}引きで事実上の和了逃しをしたことも含めて結果である。

 

(わたしにも放銃は一回あったから、宮永さんは山や手が透けてるタイプではないと思ってたけど、それにしては放銃率が少なすぎる。前回も結局直撃取ったのはわたしだけだったし……聞いた話だけでいえば、対子を落として一色手の3倍満(トリプル)に刺さったこともあるっていうから、絶対に当たり牌をつかまないとか、他家の当たり牌が完全にわかるひとじゃないんだ)

 

 現時点の照と比較して、楽勝は不可能でも実力的には勝ちを拾えそうな打ち手を、月子はいくらでも思い浮かべることができる。ゴールデンタイムを飾る中継の向こう側にいる華々しいプロ雀士たちは当然として、月子自身の父、兄、昔出会った広島弁の少女――。

 

(指じゃ足りないくらいには、いる。でも、思い浮かべた大抵のひとに、宮永さんは最終的には勝つ気がする。じっさいどうなるかはともかくとして)

 

 その理由がわからない。

 そして、わからない部分こそが照の強さの中核だと月子は思う。

 

(須賀くんは……それ、わかってるの?)

 

 訝る瞳の先で、東二局三本場が始まる。

 照の手牌は、こうだった。

 

 {三四四五六七②⑤⑥344西北}

 

(――仕上がってる)

 

 ドラは{4}――理想的な軽い手である。中ブクレで縺れれば終盤火薬庫と化す手牌だが、たんに和了を目指すだけならば文句のつけようもない。照の打牌は危険牌回避を除けばごく真っ当なものである。

 月子の注視をよそにして、照は打西といく。月子は自分に準えて思考する。

 

(そりゃあ、基本原則は西北だけれど)

 

 照の手順はあくまで直線状だった。自摸に真っ直ぐに、定規で引かれたように道を行く。彼女がその歩みを変えるのは他家の和了を察したときである。しかしどうやってその機を捉えているのかが、月子にはどうしてもわからない。そうこうしている内に、照は{21}を連続で引いた。{①}を引いて自摸切った。

 

 {三四四五六七⑤⑥12344}

 

(1向聴――)

 

 固唾を呑む月子に、

 

「おい」

 

 と、いつの間にか寄ってきた池田が囁いた。親指をケトルに向けた彼女は、

 

「沸いてるぜ」と、いった。

「失礼」頬をかいた月子は、雀卓から目を切って沸いた湯を湯呑に注いだ。

 

 とたんに、梅の香りが場に立った。

 

「あたしも何か飲みたいな」池田がいった。「――そんなに勝負が気になる?」

「そういうわけじゃないわよ。べつにわたしが何を賭けてるわけじゃあるまいし」

「でも、須賀に思いいれを乗せてンだろ。そいつはじゅうぶん、入れ込んでるっていえるし」

「そうかしら」

 

 池田の指摘は、月子の実感を掘り起こさなかった。月子が京太郎へ向ける思い入れはある。むしろ否定する要素がない。

 

「池田さんは、須賀くんのことどう思う?」

「なにそのふわっふわの質問」池田が苦笑する。「いいヤツだと思うよ。麻雀に向いてるとは思わないけど」

 

 意外な評価に、月子は目を丸くした。

 

「どうして?」

「ブレーキ壊れてるのにセンスがないから」と、池田は答えた。「あァ、ブレーキ壊れてるはいいすぎかな。どっちかっていうと、サイドブレーキしか動かない、のほうが近いかな? ま、そんな感じ」

「ぜんぜんわかんないんだけど」

「わからなくていいし」池田は笑う。「でも、あたしがあいつについて思うことに、意味なんかないんだよ。それはあたしだけの気持ちだもん。だから、須賀が向いてないと思うからって、べつに麻雀辞めろとかは思わない。あいつと打つのはそれなりに楽しいし、この先、どんなに可能性が低くたって、須賀が麻雀を自分に向けないともかぎらない。つっきーはつっきーの思うようにあいつと関わっていけばいいんだよ。あたしはそれを変えたいと思ってるわけじゃない。それよりホラ」

 

 そこまで言い切ると、池田は目線で月子を促した。

 

「長い親が終わったみたいだぜ」

 

 卓上で牌を倒していたのは宮永咲だった。

 そして立直宣言と同時に燕返しを受けたのが、宮永照である。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:32

 

 

 東二局三本場 ドラ:4(ドラ表示牌:3)

 咲:{二三六七八①①①②③789} ロン:{四萬}

 

 詳らかになった咲の手牌を見るや、京太郎は彼女の河に目をやった。照から直撃を取った秘訣がそこにないかと勘ぐった。藁にもすがる思いである。

 

(四巡目だ。事故みたいなもんだ。参考になんかならねー。それはおれもよくわかってる――けど)

 

 咲

 河:{南①九白}

 

(事故でだって、おれは照さんから1000点も直取りできてないのが実際だ)

 

 和了形と、咲が並べた河の違和感に、京太郎は目を細めた。

 

「その{九萬}、自摸切りじゃ――」花田が何事かを口走りかけて、首を振った。「いえ。なんでもありません」

 

 京太郎も同じことを考えていた。

 結果として照の打ち込みは打{四萬}である。咲が満貫を和了ることはできなかった。しかし{一萬}はまだ場に一枚も出ていない。親の立直を前に出る保証のない牌を待つかはともかくとして、最初からその可能性を切り落とす打ち筋は理解しがたかった。

 

(完全な高目放棄)

 

 打{①}まではまだわかる。槓子を扱いかねて雀頭と面子に固定したというストーリーがある。しかし京太郎には、打{九萬}だけは理解できなかった。咲の河のうち、手出しは{南①白}の3種である。入り目は判じかねるものの、聴牌を取ったのは照が打ち込む寸前だった。

 

(仮に入り目が{八萬}として)

 

 と、京太郎は牌姿を思い浮かべた。

 

 {二三六七①①①②③789白}

 

(――この形で{九萬}を引いて、自摸切りする理由なんかあるか。打{六萬}はやりすぎにしても、{①}を切り落としておいて{白}をかかえる意味がねえ。……照さんと同じで、こいつもだんだん点を上げてったりするのか?)

 

 かれは瞑目した。いくつかの可能性が頭の中で明滅し、枝葉を伸ばしては剪定されていく。けれども結論は出ない。オカルトめいた麻雀の存在を受け入れた場合の最大の弊害が、ここにある。卓上におけるあらゆる所作が疑わしくなるのである。実証が不可能である以上、かれは対局者が布いているであろうルールを自力で読み解かなくてはならない。そしてルールは傾向からしか読み取れない。つまり検証の手順が必須となる。そして京太郎が咲や照の全てを検証するには、彼女らと重ねた局があまりに少ない。

 

(なら、おれに都合のいいように考える)

 

 嘆息と共に開き直った京太郎は、意識を咲から照へ移した。連荘を止められた彼女の顔色は、京太郎の想像通り不変である。

 

「なァ、照さん」

 

 そんな彼女に、京太郎はいった。

 

「マナー違反でわるいけど、手牌、見せてもらってもいいかな」

「うん」

 

 照に迷いや逡巡はなかった――ただし、京太郎の気のせいでなければ、彼女の瞳には光が湛えられていた。彼女は試せと言わんばかりだった。京太郎が欲する情報を可能な限り与える用意があるようだった。無表情の奥に強者の余裕を見透かすのは、京太郎の弱目の反映でしかない。鎌首をもたげつつある反骨心を意外に思いながら、

 

「なら、お言葉に甘えて」

 

 といって、かれは笑った。

 照が牌を曲げた形を、かれは具に観察する。

 

 {二三四五六七⑤⑥12344}

 

(ダマで5800。それを曲げて11600にしたってことは)

 

 ――今局、照は『前局の和了原点(3900)以上』ではなく『前局の和了点(7800)以上』を目指していたわけである。

 

「ふゥん……」

 

 と、鼻を鳴らして、京太郎は目を細めた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:32

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 【西家】花田 煌  :21300

     チップ:-1

 【北家】宮永 照  :35700

     チップ:+1

 【東家】須賀 京太郎:48600

     チップ:+1

 【南家】宮永 咲  :-5600<割れ目>

     チップ:-1

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:32

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 配牌

 京太郎:{一四四②③⑦⑦⑨89發東東南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:32

 

 

 指先に血の通う感触があった。

 停まっていた時間がぎこちなく動き始めた。

 宮永咲は呼吸するたびに自分の感覚が整備されていくのを感じる。打ち始めてはや三十分、いまの彼女に鈍りはない。眠気は未だ取りきれないものの、視界も思考も麻雀を打つには支障ない。二分ほど睡眠の欲求に後ろ髪引かれながらも、咲は目の前の卓に意識を払う。

 

(かわばたさんもいってたっけ)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 配牌

 咲:{五七七八④⑥⑥⑧1223中}

 

 ――彼女は、花を思い浮かべる。

 

(ひとさしの花は、百輪の花よりも花やかだって)

 

 孤高に咲く一輪。

 それが咲が麻雀に持つもっとも強いイメージである。

 ひそやかに息衝いて、咲は感覚の指を卓上に這わせていく。

 

(もう少しかな――まだまだかな――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:32

 

 

(東場、まっっったく! いいとこナシです! これはいけません、すばらくないっ)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 配牌

 花田:{二三四[五]①②⑦79發東西西}

 

(とはいえ、この手――はたして、しかけるにじゅうぶんかどうか――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:32

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 配牌

 照:{一二六六九③⑨245南南北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:33

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 1巡目

 京太郎:{一四四②③⑦⑦⑨89發東東南}

 

(どんなときに、手は透ける?)

 

 京太郎は自問する。

 

(切り出し、副露、手癖、理牌、目線、手順、自分の手元、河)

 

 咲の山を崩して引いた手牌を調えつつ、かれは沈思する。萬筒索を端から並べて牌勢を量る。まずまず、恵まれた配牌といってよかった。面前を押すにはやや重く、急所を残さず立ち回る必要はあるが、連風牌さえ叩くことができればどうとでも進めていける。

 

(そんなもん当たり前の答えだ。そして――)

 

 京太郎:{②8⑦⑨一四東四9發東⑦南③}

 

 調えた牌を無秩序に崩した。

 牌の並びを記憶した。

 

(それだけで、完全に手を見透かすことはできない。できるならそいつはガン牌だ。でもガン付けが完璧なら、そもそも振り込むはずはねえ。つまり照さんは、他家の手を透かし見てるわけじゃない。少なくとも、()()じゃない)

 

 最後にかれは、手牌を全て伏せた。

 

(じゃあ、何が読まれてるんだ?)

 

 打:{四萬}

 

 親番最初の一打を、河に置く。置きながら、かれの口元は綻んだ。

 

(まったく、ばかみてーな麻雀やってんなァ、おれ!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:33

 

 

「親番にあの手牌で無理染めか?」池田が苦笑した。「なんにしろ、なんかはじめやがった」

「あぁあああ」飲み物を盆に並べながら、月子は頭を抱えた。「ああいうことをやらせたくなくて、ずっとちゃんと教えてたのに!」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:33

 

 

(ずいぶん長く理牌してたなあ――手、伏せちゃったけど……いいのかな?)

 

 上家の素振りを横目にしつつ、咲は眉根を寄せて考えた。

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 1巡目

 咲:{五七七八④⑥⑥⑧1223中} ツモ:{⑨}

 

(いきなり自摸切りしちゃうけど……)

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:34

 

 

(なんか、ヘンテコなこと始めましたね?)

 

 対面の京太郎の動向に注意を払いつつ、花田は一考した。麻雀を始めて数ヶ月、京太郎の手順はおおよそ型にはまりつつあるといってよかった。月子の指導はなるほど理に適ったもので、そうした意味では京太郎は真っ当に成長してきたのである。

 けれども、時おり京太郎は異彩を放つ。自棄や諦観ではなく、大真面目に異常な手順を踏むことがある。それはかれなりのロジックに基づいた選択で、もちろん空振に終わることもままある。ただ奏功する場合も、決して少なくはない。

 基礎力は大事である。その点について月子は声高に主張するし、花田も全面的に支持するに吝かではない。しかし技術や牌理は全局面的な最適解である。網目から零れ落ちる勝ち目を諦めるか掬うかが、麻雀における勝敗の分水嶺だと花田は考える。

 その点で、彼女は京太郎の嗅覚はなかなかのものだと評価していた(池田や月子の同意を得られたことはない)。

 

(そんな須賀くんの目線は下家のおねえさん)

 

 かれの意識は、始終宮永照に向いている。とくに前々局の終盤からは、ほとんど凝視の勢いである。視線に晒されている照はというと、気色はあくまで涼しげだった。京太郎の視線は露骨である。気づいていないはずはあるまい。であれば従容としてその観察を受け入れていると解釈するほかない。

 

(月子さんは、須賀くんの片恋(カタコイ)相手とかいってたけど――なんとも、不思議な関係っぽい)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 1巡目

 花田:{二三四[五]①②⑦79發東西西} ツモ:{發}

 

(フ――すばら)

 

 打:{東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:34

 

 

 叩けば2900が確定する連風牌を、京太郎は当たり前のように無視した。一瞥もなかった。もちろん視界に入っていないはずはないが、その無関心さは演技にしては堂に入りすぎていた。

 

「目線も向けないとか……」池田が呆れた顔でいった。

「ちょっとぶっとばしてくるわ」月子が腕まくりした。

「落ち着きなって」

 

 危うく月子の腕を押さえそうになって、池田はすんでで留まった。この風変わりな友人は、他者の接触を病的に(それは実際に病のような何かとしか表現できない)苦手にしている。

 

「む……悪いわね」

 

 その気遣いを素早く悟った月子が、ため息混じりに矛を収めた。それでも憤懣やるかたないといった様子で唇に人差し指を這わせながら、彼女は京太郎を低い声で詰り始める。

 

「にしても! なんなのあいつ……なにがしたいのかしら? 親番捨てる気?」

 

 けんか雲を吹きだしそうな素振りの月子は、平時と違ってずいぶん幼く見える。初めて出会った頃の不安定さは、ずいぶんとなりをひそめていた。そんなところにも時間の経過を感じて、池田は微笑んだ。

 

「つっきー、四六時中一緒にいる割に、意外と須賀のことわかってないなァ」

 

 と、彼女はいった。

 

「――あいつがヘンなことやるときは、だいたい、珍しくマジで勝ちたがってるときだよ」

 




2013/2/20:牌画像変換


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14.ばいにんテール(三)

14.ばいにんテール(三)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:34

 

 

 宮永照の瞳が捉えているのは、厳密に言えば卓上に積まれる136枚の牌ではない。照は漠然と総体としての『場』を把握しているだけだ。石戸月子や須賀京太郎が思うほど、突き詰められた怜悧なロジックを常に脳裏で組み合わせているわけでもない。彼女はまだ自分の麻雀の完成形にたどり着いていない。おぼろげにその形を想像することさえしていない。彼女は今のところ、ただ才能と感覚と牌が命じるままに麻雀を打っている。

 

 宮永照の麻雀は演繹的な思考と無縁である。

 

 手元に並んだ13枚の牌と相対したとき、そして14枚目の牌を山から自摸ったとき、照はその局の行き先を非言語的な感覚で悟る。それは皮膚に吹き付ける風から三日後の天気を言い当てるようなもので、曖昧極まりない直感である。アナログな人々が「流れ」と呼ぶものを、極めて繊細な粒度で照は察している。そこに根拠や法則はない。はっきりと「解る」といえるものでもない。照自身も仕組みをよくわかっていないから説明のしようもない。ただ彼女は思念して、そしてその感覚はほとんど外れることなく実現する。それはだから、実際的には明確な神秘ではない。感性としかいいようがないものである。

 

 麻雀に全く同じ局はないという。照もそれは理解している。同じ手牌、同じ山であっても、人が変われば結果も変わる。照自身が和了るための道筋を見出すには、ノイズを極力削ぎ落とす必要がある。

 だから彼女はまず自分の態勢を把握する。麻雀において照が信じられるものは自分だけだからだ。『宮永照』という要素の入力だけは決して揺らがないし、揺らいではいけない。いまの照はとりあえずそう感じている。それが正しいと思うからそのように打っている。

 

 彼女はまず配牌から都合20回弱の自摸と辿りうる和了目を読み、次に他家の動静を捕まえる。卓上に座る自分以外の三人に顔はない。彼・彼女らは照にとって牌と同じ情報であり、その性質や志向は一定しない。彼らは万化するたんなる変数である。照が彼女の思う最適解を卓上で実現させるためには、変数の中身によってしばしば向き先を変える風を捕まえる必要がある。無貌のそれらに解を当てはめる作業が要る。そればかりはただの感覚でやり通せるものではない。

 

 ――そこで照は、他家の『中身』を視る。彼らを識るプロセスを踏む。照がイメージするのは水面か鏡である。()()()()である。そこにある()()の性質や能力や傾向や機嫌や思考や運を浮き彫りにする()()である。

 

 そして照はそれをつかまえる。

 

 今の宮永照が麻雀において異能らしきものを駆使するとすれば、この瞬間だけだった。

 宮永照は、結局のところ未だ少女である。好悪も得手不得手もある小学生でしかない。打ち手としての才能も実力も異常なほどに際立っていても、自身の力を持て余している節がある。孤独であることは強者の条件ではないけれども、強者は必然的に孤高を強いられる。強さは勝利が証明するものであり、勝利は他者に敗北を突きつける。勝利を重ねて塔に登るということは、敗北の山を築く行為と同義である。麻雀という領野において、照はだから孤独である。もちろん現時点の照より上位の存在はいて、照も彼らの存在を知覚している(純粋に性質的に、宮永照は井蛙(せいあ)とはなりえない)。けれども彼らは皆遠い世界の人である。子供である宮永照にとって、彼らは不在の人々でしかない。

 充実した時間を、等し並みに照も求めている。だから彼女は本を読む(宮永咲と異なるのは、それが物語に留まらないところである)。甘味も好む。麻雀という競技において、宮永照は将来的にはある種の超人になりえる。それだけの可能性と実力を彼女は具している。けれどもそれは照が人間であることを拒む要素ではない。照は怪物である。少なくともやがて()()()()胚芽を身の内に秘めている。けれども彼女はもちろん人間で、そして少女だった。

 

(――どうして)

 

 照がいつか須賀京太郎に問うた言葉は、実のところ照自身に向けた言葉でもある。

 

(麻雀をするのか――)

 

 彼女は宮永咲のことを想う。照は当然、咲が家庭内の麻雀を倦厭する原因を知っている。誰でも自分に不利益しか押し付けない存在を好ましく思うことはできない。その点で咲の気持ちは理解できる。ただ咲は、自分がなぜ他人の怒りを買うのかについて深い考えを持っていない。()()()()()()()()()()()()()のだと思っている。それが厭だから回避している。

 照の眼から見た咲は、幼さゆえかそれとも純粋に性質に由来するものか(照の見立てでは後者である)、とにかく人の機微に(うと)いところがある。自分の世界に埋没しがちで、ほとんどの世事に興味らしい興味を抱かない。流行になど目を向けない。娯楽といえば活字ばかりで、それも恐らくは照の影響だった。そんな咲にとって、麻雀はただ『いやなもの』でしかなかったのだろう。

 

 咲が採った回避策は照をして呆れさせるようなものだったけれども、問題は咲がそこで停止した点にあった。咲は明らかに麻雀を嫌っていた。もちろん咲をそう仕向けたのは環境である。照自身もその原因には含まれる。けれども、理不尽と知りながら照は疑義を抱かずにいられない。

 咲は――咲もまた、才能に恵まれた少女である。これまで、照の身近で照に比肩しうる(あるいは凌駕しうる)存在として、咲はほとんど唯一の存在だった。けれども咲は、他に何をするでもなく、ただ麻雀を見放した。絢爛たる才覚を持ち、それを操る術を知りながら、咲は麻雀にどんな種類の拘りも見せなかった。麻雀という存在をあっさりと心理的に切除してみせた。

 

(そういうひともいる)

 

 その行為に照がどういった感情を抱いたかは問題ではない。ただ照は不思議に思うのである。照と咲はほとんど同じ場所にいる。条件も似通っている。けれども咲は照と異なる道を選びつつあった。

 

(でもここにいる)

 

 照は咲を見る。視ざるを得ない。対面に座る見慣れた顔は、卓を挟んで見るとなぜか少しだけ懐かしく感じられる。

 

(――京太郎に呼ばれてここにいる)

 

 照は京太郎を見る。かれもまた、照を見ている。直向な視線である。直線的で妥協がない。かれにも顔がある。上家の花田も含め、今日この場にいる面子に顔のないものはいない。照自身が、対局者をただの変数として扱うことをしたくなかった。理由はわからない。京太郎の言葉を借りるならば、ただ()()だから()()なのだ。

 

(考えたこともなかった)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 1巡目

 照:{一二六六九③⑨245南南北} ツモ:{九}

 

(私は、どうして麻雀を――)

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:34

 

 

 京太郎はこの一局、他家への警戒を犠牲にすることを決めた。少なくとも立直の発声が掛からない限り、かれは照を観察し続けることにする。伏せた牌も崩した理牌も苦し紛れの小細工だった。偶然性を高める割れ目や祝儀と同様に確度の低い照への対策でしかない。それでも思いつく手立てがある以上は、実行するにしくはない。

 とはいえ、麻雀自体を疎かにしたのでは本末転倒である。京太郎の選択はその見地からすると、自ら設定した境界をいささか踏み越えていた。

 

(何を考えているんだろう。何を思ってるんだ? どんな景色が見えてるんだ?)

 

 京太郎は照のことを考える。彼女の表情や一挙手一投足を凝視する。呼吸さえ忘れかけるほどにかれは集中する。手牌に触れる照の指は少女らしく細い(とはいえ京太郎と手の大きさはあまり変わらない)。爪は綺麗に整えられており、蛍光灯の光を受けて輝いて見える。日常的に麻雀を打っているにしては指の関節の()()は随分少なかった。上半身は温かそうなダークブラウンのポンチョ風ニットを纏っており、いまは卓に隠れて見えないがボトムスは濃い赤のキュロットを黒地のアーガイルタイツに合わせている。襟ぐりからは鎖骨の輪郭が見え隠れしている。顎から頬にかけての線は子供らしい丸みと女性らしい角度の中間を描いている。髪は肩口まで伸びていてやや癖があり、質は少し硬そうに見えた。瞳は大きく、力がある。睫は長く、眉のかたちは当世風に整えられている。唇は赤く、触れずともその柔らかさを感じさせる程度に瑞々しい。リップが塗られている、と京太郎は思う。かすかに綻んだ上唇と下唇の隙間に白い歯列が見え隠れする。歯並びは良い。麻雀には全く関係ないけれども京太郎は照がそれなりに美人であることに今さら感じ入った。万人を黙らせる器量ではない。それでも十人並みの容姿ではない。彼女が笑って快活に振舞えば人を魅了するだろうという不思議な予感がある。そしてそんな振る舞いは照の性格にはそぐわないというのに、京太郎はかんたんにそんな風に笑う照を思い浮かべることができる。空想を切り捨てながら京太郎はなおも照を凝視する。彼女の呼吸は深く遅い。呼吸に合わせて一定の拍子で上下する胸は薄く、起伏はなだらかである(というよりも、ほとんどない)。稀に喉が動く。暖房で乾燥した空気に喉を湿そうとして唾液を呑んだのかもしれない。姿勢はほとんど揺るがない。視線は揺らがないように見えて、実際は固定もされていない。山や河や他家の顔を照は凝視はしていない。彼女の視線の焦点は無限遠に結ばれている。あるいは他の誰にも見えない何かを見据えている。咲の自摸と切り出し――花田の自摸と切り出し――いずれも照はただ見送っている。それでも彼女は要所で動くことを京太郎は知っている。京太郎の観察に晒されているが故の無反応ではない。思い返せば照はいつでも同じだった。静かで密かで淡々として、ただし苛烈で容赦がない。彼女は仕草や物理的な情報から対応を行っているのではないと京太郎はふいに感得する。

 

 京太郎の自摸番、

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 2巡目

 京太郎:{②8⑦⑨一東四9發東⑦南③} ツモ:{2}

 

 京太郎は山から自摸り、伏せたままの手牌から一枚抜いて河へ打つ。

 

 打:{一萬}

 

 照から目線は逸らさない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:34

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 2巡目

 咲:{五七七八④⑥⑥⑧1223中} ツモ:{三}

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:34

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 2巡目

 花田:{二三四[五]①②⑦79發發西西} ツモ:{1}

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:34

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 2巡目

 照:{一二六六九九③245南南北} ツモ:{二}

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:34

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 3巡目

 京太郎:{②8⑦⑨東四9發東⑦南③2} ツモ:{[⑤]}

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:34

 

 

「孤立してる(オタ)風残して両面対子見切って、{⑥⑧}両嵌(リャンカン)受けの打{⑦}」

 

 淹れ立ての茶を啜りながら、池田が京太郎の手牌を言い当てる。

 月子は口を開閉させつつ、池田の横顔を見やった。

 

「……須賀くんの手牌、伏せられたままなんですけど」

「覚えた。――あつっ、あつっ」池田は猫舌らしく、湯の熱さに涙を浮かべる。「ま、やりたいことはちょっとわかってきたな。攪乱したいんだろ、あれは」

「それはそうなんでしょうけど、奇をてらうとフォーム崩れるじゃない」

「フォームがどうとかいうレベルにはなってないだろ、須賀は」池田は微笑んだ。「いろいろ試してみればいいんだよ。仮に駄目でも無駄にはならない。金は賭けてるかもしれないけど、そいつはちょっとばかり高い授業料になるのさ。それに、どんなめちゃくちゃな打ち方したって、普通に打ってれば自摸は平等に18回やってくるんだ。この場限りで見れば、和了れないとも限らない」

「周りの自摸があんまり悪ければね」

 

 期待薄だと言外に込めて、月子は嘆息した。手元にはココア2杯、梅昆布茶、コーヒーに菓子が揃っている。

 

「それじゃ、給仕してきます」

「いってらっしゃい」真剣な目つきで湯呑に息を吹きかける池田だった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:34

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 3巡目

 咲:{三五七七八④⑥⑥⑧1223} ツモ:{③}

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:34

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 3巡目

 花田:{二三四[五]①②⑦79發發西西} ツモ:{6}

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:34

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 3巡目

 照:{一二二六六九九③245南南} ツモ:{①}

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:35

 

 

 決め打ちに近い打ち回しで、照の読みの精度を測ろうという目的がまずあった。和了に向けて一直線の打牌は、多かれ少なかれ手牌の情報を場に晒すことになる。照の目付けが京太郎の打ち回しそのものにあるのであれば、常と異なる打風が、あるいは読み違いを誘発できるかもしれない。

 

(平場でこんなんやってたら月子にぼてくりまわされるだろうけど、相手が相手だ。この際しゃァねえ)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 4巡目

 京太郎:{②8⑦⑨東四9發東南③2[⑤]} ツモ:{五}

 

(くっついた)

 

 4巡目――京太郎の親指が擦る牌の感触は、{五萬}のものだった。これで、劈頭に並べた{四萬}の片割れを活かすことができる。

 

(序盤のマタギなんかで引っ掛けられるとは思っちゃいねえが)

 

 かれは意図的に手順を壊しているのであり、和了を放棄したわけではない。これで塔子は四つ揃ったことになる。出足は明らかに遅れたが、無為に他家を楽にさせる心算もなかった。

 

({四五②③[⑤]⑦⑨289發東東南}の形――浮き牌は{2}と{南}。とっくに手放しておくべきは{南}だ。まァ、普通なら)

 

 だからこそ、京太郎は異なる牌を打つ。

 

 打:{8}

 

 と、したところで、

 

「ふぅん」

 

 背後から、鼻にかかったような声が聴こえた。月子の声である。京太郎は振り向きもせず、

 

「なんだよ」

 

 と、突っ慳貪に応じた。

 

「ホットありあり、どうぞ」

 

 いらえる月子の声も、何かを堪える調子である。掠れた声で礼を言いつつ、京太郎は湯気の立つカップを受け取った。別段コーヒーが好きなわけでも常飲しているわけでもないけれども、カフェインはいずれ来る眠気を抑止し砂糖はもしかしたら思考に冴えをもたらすかもしれない。その程度の(ゲン)担ぎであった。

 

「あと梅コブにココアね。それとこれ、お菓子」

 

 四席の左方に配置されたサイドテーブルへ、月子が手際よく飲み物と菓子を置いて回る。京太郎の左手に座す照は、花柄が地に飛んでいるデザートプレートを一瞥するや、心持ち眉目が緩んだ。

 

「これは……」

「ごまどら焼きとごまマドレーヌです」

 

 と、月子が補足した。

 

「あぁー、ごまのお菓子、よく売ってますもんね、このへん」花田が手を打った。

「いただきます」

 

 皿の上に載った2つのマドレーヌと2枚のどら焼きが、瞬く間に照の口の中へと運ばれた。小さい口を開いて頬張る様は、京太郎の目から見てもあまり年上らしい貫禄がない。栗鼠のように頬袋を膨らませる照を何となく場の全員が注視した(咲だけは少し恥ずかしげだった)。

 

「お腹すいてたんですか?」

 

 呆れ混じりに月子が言うと、照が、

 

「ふぉれふぉふぉでも」

 

 と、いった。

 

「なんて?」

 

 顔を引きつらせて月子が問い返した。

 

「……」

 

 照は無言で月子を見つめ、ココアを一口含むと、顎を上下させ続ける。

 咀嚼に専念しているようだった。

 曰く言いがたい沈黙がその場に降りる。

 

「えぇ……と、つもります」

 

 咲が居た堪れない様子で山から牌を自摸った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:37

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 4巡目

 咲:{三五七七八③④⑥⑥⑧123} ツモ:{北}

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:37

 

 

 照が咥内の物を一息に嚥下する。対面の咲が河へ打った牌を流し目で見送りながら、彼女はさらにココアを一口啜った。両手でマグカップを握り温度の高い息を吐く様は泰然としたもので、周囲の目など気にもしていない。

 それから改めて月子を見、徐に言った。

 

「それほどでもないけど」

「そおですか」

 

 月子は曖昧な表情を浮かべて肩を竦め、「それじゃ、お邪魔様」と呟き、場を退いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:37

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 4巡目

 花田:{二三四[五]①②⑦67發發西西} ツモ:{④}

 

「ふむ――」

 

 鼻腔を擽る梅の香りを楽しみながら、花田は手牌を前に少考した。といって、切り出す牌に迷ったわけではない。

 

({⑦}は浮いちゃってるけど、この場況――筒子の上はやや安い。この巡目は打{①}としても、翻牌を叩いて打{⑦}……のあとは、どーしよう。嵌{③}と心中するか、萬子の連続形を頼みに愚形を外していくか――ま、どのみち面前で聴牌(テンパ)れる手じゃなさそーな気はしますが)

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:37

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 4巡目

 照:{一二二六六九九①③45南南} ツモ:{南}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:37

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 5巡目

 京太郎:{②⑦⑨東四9發東南③2[⑤]五} ツモ:{東}

 

(自力で引いたか)

 

 暗刻になる四枚目の連風牌を、京太郎は感慨もなく手牌の端に伏せた。

 

 {打:南}

 

(けど、この局――テーマは和了じゃない。うまく遣わねーとな)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:37

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 5巡目

 咲:{三五七七八③④⑥⑥⑧123} ツモ:{西}

 

(んー、{西}かぁ……)

 

 咲は、下家(花田)に視線を送った。

 

(嶺上に()()わけでもないし、使い切れない――しょーがない)

 

 {打:西}

 

「――{西}、ポン」

 

 一呼吸を挟んで、花田が鳴いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:38

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 5巡目

 花田:{二三四[五]②④⑦67發發} ポン:{横西西西}

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:38

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 5巡目

 照:{一二二六六九九③45南南南} ツモ:{白}

 

「――」

 

 打:{③}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:38

 

 

(最初の仕掛けは花田さん、と)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 6巡目

 京太郎:{②⑦⑨東四9發東③2[⑤]五東} ツモ:{中}

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:38

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 6巡目

 咲:{三五七七八③④⑥⑥⑧123} ツモ:{⑥}

 

 打:{⑧}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:38

 

 

(さーて、問題はここから)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 6巡目

 花田:{二三四[五]②④67發發} ポン:{横西西西} ツモ:{中}

 

 京太郎

 河:{四一⑦8南9}

 

 咲

 河:{⑨中2北(西)⑧}

 

 花田

 河:{東19①⑦}

 

 照

 河:{⑨北2①③}

 

(ここからですよ――ほんとに)

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:38

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 6巡目

 照:{一二二六六九九45南南南白} ツモ:{9}

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:38

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 7巡目

 京太郎:{②⑦⑨東四發東③2[⑤]五東中} ツモ:{7}

 

(被りやがった)

 

 京太郎は、引いた牌を前に嘆息を堪える。不条理に沿って打ったのである。むしろ当然の帰結なのだ。かれの自意識は{7}を手放したがる。けれども場に索子の上はやや高い。一面子を晒した花田は、序盤に{9}を切り落としている。単純に浮き牌でなければ、彼女の手の内には{6}がいる可能性が高い。{西}を叩いた際の彼女の手出しは{⑦}――次巡は{中}の自摸切りである。

 

(聴牌してることも、普通にある)

 

 今局の仕掛けは成就していない。他家に和了を攫われるのは、京太郎も覚悟の上だった。しかし軽々に放銃するわけにもいかない。

 

(じゃないと、莫迦みてえなマネした甲斐がねえものな)

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:39

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 7巡目

 咲:{三五七七八③④⑥⑥⑥123} ツモ:{[5]}

 

(これは――さすがにもう打てないや)

 

 打:{八萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:39

 

 

 上家の咲が花田に聴牌を入れる{赤5}を抑えたその直後、

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 7巡目

 花田:{二三四[五]②④67發發} ポン:{横西西西} ツモ:{發}

 

 花田が三枚目の{發}(ドラ)を引いた。跳満を確定させる一枚である。望外の自摸といえた。向聴数に変化はないけれども、嫌う理由は何もない。とはいえ期待していなかった牌の縦引きに、花田は若干の胸騒ぎを感じた。

 

(ここで引いちゃったかぁ。――正直、出ても叩く気はなかったんですけれども……だいたい、考えてない牌が来ると、そのあとって――)

 

 打:{④}

 

(ヨレるんですよね。うーん、一鳴き、はやまったかな?)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:39

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 7巡目

 照:{一二二六六九九45南南南白} ツモ:{8} 

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:39

 

 

 花田の予感が、正鵠を射た。各自順調に手を進めていた序盤とは対照的に、四人の牌勢は急な停滞を見せたのである。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:39

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 8巡目

 京太郎:{②⑦⑨東四發東③2[⑤]五東7} ツモ:{一}

 

 打:{一萬}

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 8巡目

 咲:{三五七七③④⑥⑥⑥123[5]} ツモ:{八}

 

 打:{八萬}

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 8巡目

 花田:{二三四[五]②67發發發} ポン:{横西西西} ツモ:{④}

 

 打:{④}

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 8巡目

 照:{一二二六六九九45南南南白} ツモ:{四}

 

 打:{一萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:40

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 9巡目

 京太郎:{②⑦⑨東四發東③2[⑤]五東7} ツモ:{北}

 

 {打:北}

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 9巡目

 咲:{三五七七③④⑥⑥⑥123[5]} ツモ:{中}

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:40

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 9巡目

 花田:{二三四[五]②67發發發} ポン:{横西西西} ツモ:{③}

 

(きらめ・ザ・裏目! あぁ、もうっ――)

 

 打:{③}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:40

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 9巡目

 照:{二二四六六九九45南南南白} ツモ:{⑤}

 

 {打:白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:40

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 10巡目

 京太郎:{②⑦⑨東四發東③2[⑤]五東7} ツモ:{8}

 

「――ふぅ」

 

 4巡目に切り落とした{8}を引き戻して、京太郎は場を見渡した。

 

 京太郎

 河:{四一⑦8南9}

   {中一北}

 

 咲

 河:{⑨中2北(西)⑧}

   {八八中}

 

 花田

 河:{東19①⑦中}

   {④④③}

 

 照

 河:{⑨北2①③9}

   {8一白}

 

(ブサイクな河だ)

 

 と、京太郎は己の河を評した。

 既に両面の振聴塔子を落とすほど悠長に構えられる巡目ではない。{78}は確定させるべき面子である。

 

({2}か――)

 

 この巡目の切り出しはほぼ決めていた。となると、最終的な浮き牌は{發}(ドラ)となる。生牌である。残る三枚の行方は杳として知れない。未だ山に眠っているかもしれない。他家が切りあぐねて抱えているかもしれない。対子で持たれているかも知れない。暗刻になっているかもしれない。役牌ばかりは、いくら目を凝らそうともかれにはその当て所を探ることはできない。

 

(少なくとも、照さんの手にはないはずだ……たぶん)

 

 数少ない照の和了が断ち切られたあとの局面で、彼女は打点を持ち越すことはしていなかった。どういう理屈に基づいているのかはともかく、照の打点は完全に何らかの規範に則っている。しかしあいにく、その類例は数が少なすぎて京太郎も確信を得るまでには至っていなかった。現時点ではただの希望的観測に過ぎない。

 

(くそ、切っちまいてえ)

 

 放銃と共に最低でも7700以上の失点が確定する役牌のドラを、京太郎は疎んじた。すでに重なりの期待は失せている。無論、未来の自摸などかれには知りようがない。ただし自摸れる気もしない。こうなると先に切ることが得策であるように思えてくる。

 本来であれば、抱えて沈むことも一考に値する場況である。けれども京太郎はこの{發}(ドラ)を切らねばならない。それも最大限効率的な局面を見据えた上で、振らずに打つ必要がある。

 

 打:{2}

 

(まだだ、まだ、もう少し――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:40

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 10巡目

 咲:{三五七七③④⑥⑥⑥123[5]} ツモ:{4}

 

(塔子がくっついたけど――あふれちゃった。ええと、)

 

 咲は改めて、山に視線を配る。

 

()()()(){②}()()()(){⑥}()()()()()()()。……一枚切れの{四萬}がないと、この手はあがれないけど、たぶん、もう{四萬}はいない。でも萬子は下家の人に切れない。――うーん)

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:40

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 10巡目

 花田:{二三四[五]②67發發發} ポン:{横西西西} ツモ:{六}

 

(すばら! 聴牌受け入れ11種!)

 

 打:{②}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:40

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 10巡目

 照:{二二四六六九九⑤45南南南} ツモ:{五}

 

 打:{⑤}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:40

 

 

「……打{六萬}じゃないんだ。七対子の目を残すってこと?」

 

 照の打牌を見た月子が、押し殺した声でいった。

 

「それもあるけど、須賀へのケアだな、たぶん」池田が面白げに応じた。「なるほど。あたしにもわかってきた。あれは確かに変態だ」

「変態? 天才じゃなくて?」

「山読みやカウンティングで読めれば天才。そういうレベルじゃないみたい。あれはとんでもなく精度が高い()()()()()だと思う。――どうやら、見てるものが違うんだ」

 

 訳知り顔で頷く池田を前に、月子は渋面をつくった。

 

「いってる意味がわかんないんですけど」

「そうお?」池田が目を瞬いた。「ま、あたしも今のところなんとなくそうかなってだけだし!――うーん、須賀の勝負が終わったら打ってみたいなァ。今日は無理かな?」

「そういえば、あなたも宮永さんとは種類が違う変態だったわ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:41

 

 

 11巡目、

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 11巡目

 京太郎:{②⑦⑨東四發東③[⑤]五東78} ツモ:{[⑤]}

 

(塔子オーバー)

 

 雀頭となる二枚目の{赤⑤}が、京太郎の手の内で重なった。足が遅い2向聴である。しかし聴牌に向かうには、まず{發}と、そしていずれかの面子を落とさなければならない。

 

(愚形の嵌張塔子( {⑦⑨} )を、嵌{⑥}の受けを残しつつ{⑨⑦}と崩していくのがセオリー、だけど)

 

 京太郎

 河:{四一⑦8南9}

   {中一北2}

 

 咲

 河:{⑨中2北(西)⑧}

   {八八中1}

 

 花田

 河:{東19①⑦中}

   {④④③②}

 

 照

 河:{⑨北2①③9}

   {8一白⑤}

 

(――筒子の枯れが早い。おれの有効牌の{①④}が残り4枚。おれから見えてる{②⑤}が5枚、{③}が2枚、{⑦⑨}がそれぞれ3枚。{⑧}は1枚切れで――{⑥}は生牌。下家()が劈頭に{⑨}置いて、6巡後に配牌から位置が変わってなかった{⑧}を手出しした。{⑧}は残ってても1枚だし、{⑥}はこいつの手のなかに一枚以上――たぶん対子以上ある)

 

 数秒、京太郎は黙考した。

 

(皮算用でしかねーけど、だれかの手牌で暗刻になってないかぎり、{⑧}は山に生きてる。外すなら{四五}か{②③}か{78}――ま、出来合った面子を見て考えるしかねえか)

 

 そして、

 

(どっちにしても、ここが最後だ)

 

 {打:發}

 

 といった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:41

 

 

(スルー)

 

 対面が場に放った生牌のドラを、花田は素知らぬ顔で見送った。

 

 花田:{二三四[五]六67發發發} ポン:{横西西西}

 

(鳴いても打点には変化なし。むしろ受け入れも安牌も減っちゃう。鳴きませんよ?)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:41

 

 

(ずいぶん溜めてた。……聴牌なの? そんな感じ、まだしないけど……)

 

 京太郎が打った{發}(ドラ)への反応は皆無だった。皆不自然なほど静かにその牌が捨てられる様を見た。その事実が、咲にいくつかの情報を与えた。

 

(槓子から外したんじゃないかぎり、すがくんの手にもう{發}はない。お姉ちゃんが()()()の和了にドラを抱えてることも、たぶんない。嶺上にもないのはわかってる。()()()()()(){中}()()()()()()()、新ドラや裏ドラになる場所に{發}はいない。山のふかいところに二枚以上寝てない限り、もうあの{發}は場に出てる。それも対子じゃないのかな? 対子だったら頭じゃないかぎりさすがに鳴くもんね。つまり――)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 11巡目

 咲:{三五七七③④⑥⑥⑥234[5]} ツモ:{三}

 

(下家のひとが残りぜんぶ、もってる。ここから刺さってマイナス24000は、さすがにちょっと頑張らないと巻き返せないし……)

 

 打:{③}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:41

 

 

 咲の手出しは{③}であった。慎重な切り出しに、攻撃的な気配は見えない。花田は咲の打牌を回し打ちかオリと睨んだ。

 

(ここに来て聴牌したっぽい須賀くんじゃなくて、わたしへのケア? ムム、なんだか見透かされてる気がしますね)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 11巡目

 花田:{二三四[五]六67發發發} ポン:{横西西西} ツモ:{6}

 

(――きた)

 

 打:{7}

 

(しょーぶですっ!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:41

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 11巡目

 照:{二二四五六六九九45南南南} ツモ:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:41

 

 

「あ、掴まされた」

 

 花田が聴牌を入れた直後――照が引いた牌を見た池田が、のんびりといった。

 

「自分でも切ってる四枚目の{一萬}ね」

 

 と、月子が思案げに呟いた。

 

「うーん、親も上家も高そうだし、ここで聴牌でもないのに手拍子で打{一萬}はちょっとないな。あたしならオリる」

「同感なんだけど」月子は苦笑する。「宮永さんがオリたところ、見たことないのよね」

「まァ、さっきのメンチンに向かっといてここでベタオリはないよな」

 

 目を輝かせる池田は、お手並み拝見とでも言いたげだった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:41

 

 

 京太郎

 河:{四一⑦8南9}

   {中一北2發}

 

 咲

 河:{⑨中2北(西)⑧}

   {八八中1③}

 

 花田

 河:{東19①⑦中}

   {④④③②7}

 

 照

 河:{⑨北2①③9}

   {8一白⑤}

 

「――」

 

 打:{二萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:41

 

 

「なぜよりによって生牌……?」

「理屈じゃないんだろ」

 

 唖然とする月子を指差して、池田がからからと笑った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:41

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 12巡目

 京太郎:{②⑦⑨東四東③[⑤]五東78[⑤]} ツモ:{⑧}

 

(――待ってたぜ)

 

 微笑みと共に、京太郎は安全牌を打ち出した。

 

 打:{③}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:41

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 12巡目

 咲:{三三五七七④⑥⑥⑥234[5]} ツモ:{西}

 

 {打:西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:41

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 12巡目

 花田:{二三四[五]六66發發發} ポン:{横西西西} ツモ:{5}

 

(後退は、ない)

 

 打:{5}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:41

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 12巡目

 照:{一二四五六六九九45南南南} ツモ:{北}

 

 {打:北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:41

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 13巡目

 京太郎:{②⑦⑨東四東③[⑤]五東78[⑤]⑧} ツモ:{白}

 

 {打:白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:42

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 13巡目

 咲:{三三五七七④⑥⑥⑥234[5]} ツモ:{七}

 

 打:{[5]}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:42

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 13巡目

 花田:{二三四[五]六66發發發} ポン:{横西西西} ツモ:{2}

 

(この3面張……どれくらい、残っているものか――)

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:42

 

 

 ――宮永照は、山から牌を自摸る前に、須賀京太郎の河を見下ろした。

 

 京太郎

 河:{四一⑦8南9}

   {中一北2發③}

   {白}

 

 咲

 河:{⑨中2北( 西 )⑧}

   {八八中1③西}

   {[5]}

   

 花田

 河:{東19①⑦中}

   {④④③②75}

   {2}

 

 照

 河:{⑨北2①③9}

   {8一白⑤二北}

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 13巡目

 照:{一二四五六六九九45南南南} ツモ:{9}

 

「――」

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:42

 

 

 このとき、京太郎の牌姿は、

 

 京太郎:{四五②[⑤][⑤]⑦⑧⑨78東東東}

 

 であった。つまり、照が打った{9}を喰えば打{②}で{三六萬}の聴牌が取れる。

 四枚目の{9}である。連風牌の隠れ暗刻を手の内に蔵して、鳴かないはずはない牌だった。

 

(そうだな、そいつは和了牌じゃない。振聴の受けだ。でも、鳴けば聴牌が取れる。たぶん、それくらいはわかってたんじゃないか? 想像くらいはついてたろ――だから鳴かせてくれたんだ。つまり、やっぱり理牌や河からおれの手を見てたわけじゃなくて、感覚的に、どこがおれの欲しい牌かわかってるってことだ)

 

 ――()()()、京太郎は無言で山へ手を伸ばした。

 

(そんなもん――()()()()()

 

 {9}を、かれは一顧だにしない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:42

 

 

(――――――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:42

 

 

 そして、

 

(――だからって、これは出来すぎだけどな)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 14巡目

 京太郎:{②⑦⑨東四東[⑤]五東78[⑤]⑧} ツモ:{6}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:42

 

 

「須賀が自力で聴牌取った」

 

 池田が、ぽつりと言った。これを聞いて目を丸くする月子である。

 

「え、何待ち?」

「{三六萬}。めちゃくちゃ薄いけど、まだ活きてる。――てか、ホラ、伏せ牌やめたぞアイツ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:42

 

 

(意外とできるモンだ。まァ、たまたま、珍しくツイてただけだろうけど)

 

 自身の運については、ある程度折り合いをつけている京太郎である。これが稀な事例であることは、誰に釘を刺されずともかれ自身重々承知していた。

 

(いいさ。百回に一回だろうが、いまできればそれでいい)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 14巡目

 京太郎:{四五②[⑤][⑤]⑦⑧⑨678東東東}

 

 打:{②}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:42

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 14巡目

 咲:{三三五七七七④⑥⑥⑥234} ツモ:{白}

 

 {打:白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:42

 

 

(追いつかれましたか。やれやれ――すばらなことです)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 14巡目

 花田:{二三四[五]六66發發發} ポン:{横西西西} ツモ:{6}

 

({6}――親の聴牌気配が濃厚なこの巡目でまったく無筋の{36}。これは、さすがにちょっと、すばらくないですね)

 

 打{二萬}もしくは{六萬}で、それぞれ{三六萬}、{二五萬}への張替えが可能である。そして{6}は生牌――。

 

 {打:發}

 

 花田はほぼノータイムで、打發といった。

 

(イチかバチかの12000より、7700を取ります!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:43

 

 

「須賀が{9}を鳴いてたら、{6}はきらめんじゃなくてあの赤毛に入ってたわけか。突然態勢苦しくなったね、あの人」

「須賀くんは、なんで{9}鳴かなかったのかしら。まさか自摸を読んだわけじゃあるまいし」

「単純じゃん。つっきーもさっき言ってたでしょ。同じことだ。それだけ上家を信じてるんだよ」池田がつまらない手品の種を明かすような口ぶりで言った。「意味もなく自分に牌を喰わせるようなことをするはずがない。だから、鳴かない。思い通りには動かされない。そういうコトでしょ。実際それで成功してる」

「なるほどね」

 

 池田の言を聞き、月子は嘆息した。照の実力と異常性への信頼が、京太郎に場の不条理性を勘定に入れた打ち回しを選択させているというわけだった。京太郎を指導する立場としては受け入れがたい話だけれども、なるほど言われてみれば頷かざるを得ないものがある。

 

「じゃあ、須賀くんは宮永さんに一杯食わせることに成功したのかしら。これがやりたかったの?」

「さあ――伏せたり理牌崩したりしてたのは、結局意味なかったわけだし。どーなんだろ」

 

 といって、池田は肩を竦めた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:43

 

 

 そして、

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 14巡目

 照:{一二四五六六九九45南南南} ツモ:{八}

 

 打:{5}

 

 照が山から牌を自摸り、河へ{5}を打つまでの時間は、秒にも満たなかった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:43

 

 

(自摸は、あと、三回)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 15巡目

 京太郎:{四五[⑤][⑤]⑦⑧⑨678東東東} ツモ:{①}

 

(――和了逃し)

 

 河へ打った{②③}が、これ見よがしに京太郎の目に入る。それでもかれは表情を変えず、黙って{①}を場に打ち出した。

 

(山読みなんて、こんなもんだ。枚数の多い少ないなんて、たとえ当たってたところで平気で裏目るもんだ)

 

 打:{①}

 

(――それが麻雀だろ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:43

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 15巡目

 咲:{三三五七七七④⑥⑥⑥234} ツモ:{5}

 

(安牌、あんぱい)

 

 打:{5}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:43

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 15巡目

 花田:{二三四[五]六666發發} ポン:{横西西西} ツモ:{①}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:43

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 15巡目

 照:{一二四五六六八九九4南南南} ツモ:{七}

 

 花田、京太郎に後れを取る形で、15巡目に照の聴牌が入った。待ちは出れば5200の辺{三萬}――しかし照はすでに今局、己に和了目がないことを悟っていた。

 

 打:{4}

 

({三萬}は、残り一枚。でも咲が引く。触れない)

 

 綾は、むろん13巡目の打{9}であった。あれは照の感覚では、京太郎が鳴くはずの牌だったのである。

 

(たぶん――)

 

 京太郎

 河:{四一⑦8南9}

   {中一北2發③}

   {白②①}

 

 咲

 河:{⑨中2北( 西 )⑧}

   {八八中1③西}

   {[5]白5}

 

 花田

 河:{東19①⑦中}

   {④④③②75}

   {2⑧發}

 

 照

 河:{⑨北2①③9}

   {8一白⑤二北}

   {954}

 

 京太郎の待ちは{三六萬}。花田の待ちは{一四七萬}。

 いずれかが和了る。

 それが照の視る、今局の結末である。

 

(――こういうこともある)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:43

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 16巡目

 京太郎:{四五[⑤][⑤]⑦⑧⑨678東東東} ツモ:{五}

 

(超がつく危険牌。――じゃあ、{四萬}を打つのかって話だ)

 

 打:{五萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:43

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 16巡目

 咲:{三三五七七七④⑥⑥⑥234} ツモ:{三}

 

(回してただけなのに、やたら高くなったなぁ)

 

 打:{五萬}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:43

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 16巡目

 花田:{二三四[五]六666發發} ポン:{横西西西} ツモ:{中}

 

(うぅ)

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:43

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 16巡目

 照:{一二四五六六七八九九南南南} ツモ:{②}

 

 山へ手を伸ばし、牌に触れた瞬間、奇妙な感覚が照の指から腕、肩を抜けて首を這った。

 虫の報せとでもいうべき、それは予兆である。

 

(――{六萬}。さいごの)

 

 と、照は思った。

 

(京太郎の和了牌――)

 

 打:{②}

 

 そして、照の予感は実現した。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:44

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 17巡目

 京太郎:{四五[⑤][⑤]⑦⑧⑨678東東東} ツモ:{六}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:44

 

 

 打:{六}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:44

 

 

 その牌を視た瞬間、

 

(――――――え)

 

 照の思考に、空隙が生じた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:44

 

 

「へ」

 

 と、月子が目を白黒させた。何かを口にしようとして、それもままならない様子で池田に訴えかけるような目を送る。

 池田は苦笑いを浮かべ、

 

「――莫迦じゃねーの」

 

 と、いった。

 

「アイツ、16000をフイにしたし! そこまでやるか、フツー?」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:44

 

 

 咲もまた、京太郎が自摸切った{六萬}に、少しならず不意を衝かれた。

 

(あ、あれ? {六萬}、え、あたりじゃないの? あれぇ――そこだと思ったんだけどなぁ)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 17巡目

 咲:{三三三七七七④⑥⑥⑥234} ツモ:{⑧}

 

 打:{⑧}

 

(調子悪いのかな――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:44

 

 

({六萬}、とおりますか――本命だと思ったんですけど)

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 17巡目

 花田:{二三四[五]六666發發} ポン:{横西西西} ツモ:{二}

 

(んー……{五萬}の筋ですけど、{一三萬}が残ってるかー)

 

 打:{六萬}

 

(しょーがないですねっ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:44

 

 

 今局における、宮永照最後の自摸番が回った。

 

 予想を違えても、照の思考は冷静さを欠いていない。彼女の精神はそこまで脆弱ではない。けれどもどうしようもないすわりの悪さがあって、その違和感は否定しようがなかった。冷徹に卓へ向かう意思とは異なる場所で、照の内なる声が疑問符をしきりに浮かべている。

 

 ()()()(){六}()()()()

 

 打点は11600から12000、京太郎の和了で今局は幕を閉じる。それが既定された結末だったはずである。点差こそ広がるものの、それは照にとってどうとでも挽回できる範囲の出来事でしかない。卓上で発生するあらゆる事象は、照の『感覚』にとっては予定調和的に終結する。

 物語の筋書きのようなものだ。

 その約束された筋道が、唐突に()()()

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 17巡目

 照:{一二四五六六七八九九南南南} ツモ:{九}

 

 彼女が最後に引いたのは、{九萬}である。打{六萬}で満貫が確定し、そして{三萬}が純枯れである以上意味のない打牌だった。とはいえ{六萬}は今巡、完全なる安全牌である。振り替えに何ら不都合があるわけではない。

 けれども、照の感覚は{六萬}が京太郎の和了牌だと告げている。ここで{六萬}を合わせ打つことは、自身の感覚が誤りであったことを認めるに等しい。

 

(刺さることは、問題じゃない)

 

 しかし、京太郎は{六萬}では和了できなかった。このうえで{六萬}を手元に抑えるというのは、照の意地でしかない。なんの意味もない。{六萬}は安全牌である。事実はそれ以上でもそれ以下でもない。

 

({九萬}は、)

 

 照は、()()()()

 

「――」

 

 京太郎

 河:{四一⑦8南9}

   {中一北2發③}

   {白②①五六}

 

 咲

 河:{⑨中2北( 西 )⑧}

   {八八中1③西}

   {[5]白5五⑧}

 

 花田

 河:{東19①⑦中}

   {④④③②75}

   {2⑧發①中六}

 

 照

 河:{⑨北2①③9}

   {8一白⑤二北}

   {954②}

 

(――生牌)

 

 仮に刺さるとすれば、{六萬}が通っており、かつ照の元に三枚見えている以上はタンキしかない。比較的安全度は高いけれども、絶対ではないということである。

 少なくとも、どちらを切っても聴牌が確定している状態で{六萬}とテンビンに掛ける牌ではない。

 

 照は――

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:45

 

 

(はじめてみた)

 

 と、咲は心中呟いた。

 

(――おねえちゃんが、長考してるところなんて)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:45

 

 

 十数秒ほどの間だった。

 

 照は、

 

 打:{六萬}

 

 と、いった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:45

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 18巡目

 京太郎:{四五[⑤][⑤]⑦⑧⑨678東東東} ツモ:{九}

 

 京太郎は、生牌の{九萬}を、

 

 打:{九萬}

 

 一瞬のためらいもなく切り落とした。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:45

 

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 18巡目

 咲:{三三三七七七④⑥⑥⑥234} ツモ:{⑥}

 

(どうせ和了り目はないけど、海底を人に回すこともないよね)

 

 咲は、嘆息した。

 

「――カン」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:45

 

 

 そして、東三局0本場は――

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:45

 

 

 宮永咲が手牌を開いた。

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 咲:{三三三七七七④234} カン:{■⑥⑥■}

 

「テンパイ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:45

 

 

 花田煌が手牌を開いた。

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 花田:{二二三四[五]666發發} ポン:{横西西西}

 

「残念、テンパイです!」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:45

 

 

 宮永照が手牌を開いた。

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 照:{一二四五六七八九九九南南南}

 

「……テンパイ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:45

 

 

 須賀京太郎は、

 

 東三局0本場 ドラ:{發}(ドラ表示牌:{白})

 京太郎:{四五[⑤][⑤]⑦⑧⑨678東東東}

 

()()()()()

 

 手牌を伏せた。

 

「――親流れだな」

 

 と、静かな口調でかれはいった。

 

 そして卓中央のスイッチを押すと、ぽっかりと口を開けたうろに、13枚の牌を河ごと流し込んだ。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:45

 

 

 

 【西家】花田 煌  :21300→22300(+1000)

     チップ:-1

 【北家】宮永 照  :35700→36700(+1000)

     チップ:+1

 【東家】須賀 京太郎:48600→45600(-3000)

     チップ:+1

 【南家】宮永 咲  :-5600→-4600(+1000)<割れ目>

     チップ:-1




2013/2/11:牌譜修正
2013/2/11:ご指摘頂いた誤字・表記を修正
2013/2/12:タイムラインの誤表記修正
2013/2/13:感想でご指摘頂いた牌譜誤り(多牌)を修正
2013/2/20:牌画像変換


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15.ばいにんテール(四)

15.ばいにんテール(四)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:47

 

 

 東四局流れ一本場

 【南家】花田 煌  :22300

     チップ:-1

 【西家】宮永 照  :36700

     チップ:+1

 【北家】須賀 京太郎:45600<割れ目>

     チップ:+1

 【東家】宮永 咲  :-4600

     チップ:-1

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:47

 

 

 東場最後の局が始まる。四人目の親である宮永咲の指先が卓中央のボタンを押す。軽い音を立てて回る骰子(サイコロ)の出目は一・三――開門に選ばれたのは京太郎の山であった。

 

(最初の親――)

 

 咲は気息を調える。もう萎縮はない。東一局の放銃は、却って咲から余分な力みを排除した。ただし、久方ぶりに直面した照の打ち筋は、少しばかり咲に動揺をもたらした。

 照の強さなど、とうのむかしに思い知らされている心算だった。今さら驚くことなどないと思っていた。

 けれども、それは勘違いだった。ここしばらく対局を避けて回っているうちに、照は更に成長を遂げたように見える。

 咲の感性が捉える今の宮永照は、ほとんど物理的な圧迫感を持って立ちはだかる巨人である。

 

(勝てる気はしないけど)

 

 と、咲の弱気の虫が囁き出す。

 

(でも、このまま終わったら、お小遣いなくなっちゃう)

 

 この日に向けて、咲が備えた持ち合わせは、多くも少なくもない(各自持ち金は事前に月子に伝えている。ただし公平さを期すために卓上の面子は、相手がどれだけふところに呑んでいるかは知らされていない)。けれども箱下にウマがついて平然としていられるほど咲の財布は重くないのである。

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 配牌

 咲:{一一七九⑧24[5]7889北發}

 

(――きた)

 

 山から拾った14枚を並べて揃えて一瞥した刹那、咲はほとんど直観的に己の和了を予感した。理屈や、その感覚を裏付ける論理はない。和了形が具体的に思い浮かぶわけでもない。手筋や枚数を一足飛びに越えて、事実だけが朧に咲の知覚に映るのである。

 

(いちども間違えなければ、たぶんお姉ちゃんより早い)

 

 咲の経験上、照の聴牌と和了は5~9巡付近に集中する。打点や待ちの良し悪しはほとんど関係しない(そんなはずはないのかもしれないけれども、とにかくそうなのだ)。ノミ手だろうと倍満だろうと照は和了るべき時には易々と和了る。その歩みが滞るのは他家の聴牌が照に先んじるか追いついたときのみである。

 咲が捉える照の強さは、麻雀の理想形に近い。配牌が良く、自摸が良く、感覚が鋭く、機を見るに敏であり、他家の当たり牌を勘能く止める。対手を捻じ伏せ突き抜ける。照本人に好調や不調が存在しても、それは彼女の麻雀には影響しない。終わらない災害のようなものだ。単純で、それだけに対処のしようがない。

 そんな照と正面から四つの体勢で組み合うのは、たんなる無謀である。咲にとって照と打つ麻雀とは、いかにして大きく負けずにいるか――そして、いかにして和了を断つかが肝腎だった。照は基本的に和了の回数で他家を引き離す。だからそのリズムを途切れさせることができれば、勝てはせずとも、大きく負けることもない。

 そのための手札を、咲はいくつかストックしている。

 

(さっきの、すがくんの、あれは……もしかして)

 

 咲は上家の少年へ目線を送る。供された珈琲に息を吹きかけて冷ますかれの仕草に、勝負手を逃した口惜しさの色はない。

 そしてその少年を見る瞳がもう一対、咲の正面にある。

 照である。相変わらず感情の小波さえ瞳には浮かんでいない。ただし、間違いなく京太郎を指向している。咲には照の気持ちはわからない。咲は気質的に、他者の内情について気を持つことがほとんどない。ただこのときばかりは、照の心理が推し測れる気がした。

 

 前局の打六萬――それが咲と照が共有する違和感である。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:48

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 配牌

 花田:{三五七七七①④⑦12東南南}

 

萬子(ワンズ)への寄せ? いやいや――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:48

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 配牌

 照:{二四八②③⑤⑥⑨15669}

 

 ろくに配牌を見もせず、照は無言で下家を注視する。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:48

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 配牌

 京太郎:{一四六六⑦⑦⑨33西北白發}

 

(鳴いて対々和(トイトイ)七対子(チートイ)以外にやることあるかね、これ……)

 

 足の遅い配牌を一目して、京太郎は他家の顔色を流し見た。すると、他家三人の内二人と目が合う。宮永照と宮永咲である。後者は瞬間的に目線を逸らし、前者は小揺るぎもせず瞬きさえしない。

 

(疑ってるな?)

 

 京太郎は、手ごたえを感じた。

 であれば、前局の暴挙も無為ではない。

 

 先の和了見送り――。

 

 この半荘だけを見れば、当然、親満貫は和了ってしかるべき手だった(もちろん、どんな場合においてもあの手を和了らないなどという選択肢はまずありえない)。単純に照より点数を稼ぐことだけが京太郎の目当てであれば、それも悪くはなかった。あるいは、運が京太郎に向いて、照よりも上位でこの一回戦を終えることも出来たかもしれないのである。

 

(まァ――でも、たといアレをアガってたって、それでおれがそのまま勝つってのは、まずねえな)

 

 楽観を、京太郎は信じ切れなかった。口でどういったところで、照の強さは異常である。十回や二十回セットを組んで、その全てにひとりが勝利するようなことは(頻繁ではないにしても)起こりうる。ツキとはときにそうした不条理を孕む。しかし照の勝ち方は毎回同じである。たまたまツイて、その帰結として勝ったわけではない。照との勝負において、明らかに照以外の人間が勝つべき局面はあった。好配牌、無駄のない自摸、早い聴牌、完全な迷彩、広い待ち――照の対手がそれらを持たないわけではなかった。平等な確率で、彼と彼女らにもそれは訪れた。

 けれども照には勝てなかった。

 照は、()()()()()()を手折って摘める強さを持つ娘だ。

 

 その認知は京太郎自身のものである。そして容易には拭い去れない。であれば異常に合わせた麻雀を打ってみるしかない。どうせ自力では敵わないのだ――京太郎が考え付いたのは、その程度のものだった。ただの閃き以上のものではない。

 

 あの局、だから満貫を捨てたのはたんなる過程である。打点の多寡は問題ではなかった。拾った和了を捨てることこそ目的だった。仮に聴牌した手が役満でも、自摸った以上は捨てる意気をもって臨んでいた。

 東三局のかれは、この半年間で築き上げた麻雀への常識を、丁寧に壊した。ゆえなく自棄に走ったわけではない。か細い推察を重ねた京太郎なりの勝ちへの布石として和了を捨てたのである。

 

(おれが、一瞬でも、照さんの上をいけたのは、()()()()だけだ)

 

 京太郎が想起するのは、かれが人生で初めて打った麻雀である。照、大沼、南浦の三家に囲われた卓――いま思えば、最初にして最高の卓でもあった。あれ以来かれが座った卓は100を下らない。けれどもあのとき以上に程度が高い卓を、京太郎はまだ知らない。

 本来であれば、諸人がどれほど望んだところで実現するはずのない二半荘だった。そんな卓で麻雀を経験できた一点だけで、京太郎は己の運も捨てたのものではないと思える。

 

(いまでも、思い出せる。配牌は――)

 

 {一一八九②④⑧69東西北}

 

(ドラは{6}――ツモは{8東西}、切り順は、たしか、)

 

 {9九横6}

 

(――こう)

 

 苦し紛れに牌を曲げた。たんなる空聴、たんなる錯和(チョンボ)だった。意表を衝くことが目的だった。自棄的な一手が、万分の一以下の確率で奏功しただけだった。結果として照は後塵を拝することになったけれども、それは照の敗北であって京太郎の勝利ではない。同卓していたのが達人でなければ、京太郎はただ恥を晒して終わっていたはずである。

 

 今回も同じかもしれない。むしろそれより悪いかもしれない。

 その憂いは拭えない。

 何かしら策をめぐらせた心算で、裏目を引くことなどいくらでもある。京太郎は神ではない。魔物でもない。ただひねているだけの凡人でしかない。かれの中に衆人から逸している要素があるとすれば、それはただ精神性だけの話である。それも際立ったものではなく、誰に誇れるようなものでもない。

 

(でもいい。ありあわせでいい。やるだけやるんだ。やれることはぜんぶだ。思いついたこともありったけだ。ぶつけるんだ――照さん)

 

 かれは、照を見つめ返した。

 

(いくぜ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:48

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 1巡目

 咲:{一一七九⑧24[5]7889北發}

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:48

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 1巡目

 花田:{三五七七七①④⑦12東南南} ツモ:{7}

 

(枚数だけなら打{④}ですが、――赤入りである以上は)

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:49

 

 

(小細工なら、それもいい)

 

 照は、京太郎から目線を外す。

 山から牌を自摸る。

 

(もしかしたら、わたしがずれたのかもしれない)

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 1巡目

 照:{二四八②③⑤⑥⑨15669} ツモ:{④}

 

(何がきても変わらない)

 

 打:{9}

 

(誰がいても――私は、変わらない)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:49

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 1巡目

 京太郎:{一四六六⑦⑦⑨33西北白發} ツモ:{1}

 

(いきなり悩ましいなァ――)

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:49

 

 

 この日最初の半荘が迎えた東四局(トンラス)において、突き抜けた牌勢を得たものはなかった。すると必然、場の帰趨を決するのは自摸ないし副露による手の進行速度となる。

 面子を定める自摸は縦か横のいずれかである。そして大原則として、速度において順子(シュンツ)刻子(コーツ)に勝る。34種存在する牌の中で、特定の1種を自摸る確率は凡そ3%といわれる。対子は1種、面子は両面以上であれば2種より上の受け入れが存在する。一向聴の七対子(受け入れは3種)が聴牌に至るまでには平均10巡要するという定説の論拠である。

 

 そして、今局、奇しくも縦と横の手作りを目指すものが二対二となった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:49

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 2巡目

 咲:{一一七九⑧24[5]7889發} ツモ:{九}

 

 打:{發}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 3巡目

 咲:{一一七九九⑧24[5]7889} ツモ:{8}

 

 打:{⑧}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 4巡目

 咲:{一一七九九24[5]78889} ツモ:{中}

 

 打:{中}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 5巡目

 咲:{一一七九九24[5]78889} ツモ:{4}

 

 打:{2}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 6巡目

 咲:{一一七九九44[5]78889} ツモ:{1}

 

 打:{1}

 

(4対子……)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:49

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 2巡目

 花田:{三五七七七④⑦127東南南} ツモ:{二}

 

 打:{東}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 3巡目

 花田:{二三五七七七④⑦127南南} ツモ:{北}

 

 打:{北}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 4巡目

 花田:{二三五七七七④⑦127南南} ツモ:{⑧}

 

 打:{7}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 5巡目

 花田:{二三五七七七④⑦⑧12南南} ツモ:{中}

 

 打:{中}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 6巡目

 花田:{二三五七七七④⑦⑧12南南} ツモ:{②}

 

({二三}、{五七}または{七七七}、{⑦⑧}、{12}、{南南}――よゆーの塔子オーバー。6ブロックの構えも、限界かな? 受け入れ的には打{五}といきたいところ。ですが……南を叩いたときにヘッドレスで一手後れになる。{七}一枚落とすのもアリですけれども、残る形が{12}や{②④}というのはすばらくない――割れ目ルールで最悪四センチってのはちょーっと、ぞっとしませんし、ここはすなおに{12}おとしですかねぇ)

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:49

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 2巡目

 照:{二四八②③④⑤⑥⑨1566} ツモ:{赤⑤}

 

 打:{1}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 3巡目

 照:{二四八②③④⑤赤⑤⑥⑨566} ツモ:{3}

 

 打:{⑨}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 4巡目

 照:{二四八②③④⑤赤⑤⑥3566} ツモ:{六}

 

 打:{八}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 5巡目

 照:{二四六②③④⑤赤⑤⑥3566} ツモ:{一}

 

 打:{一}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 6巡目

 照:{二四六②③④⑤赤⑤⑥3566} ツモ:{7}

 

 打:{3}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:49

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 2巡目

 京太郎:{四六六⑦⑦⑨133西北白發} ツモ:{西}

 

 打:{北}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 3巡目

 京太郎:{四六六⑦⑦⑨133西西白發} ツモ:{八}

 

 打:{發}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 4巡目

 京太郎:{四六六八⑦⑦⑨133西西白} ツモ:{2}

 

(横か? いや、まだまだ――)

 

 打:{白}

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 5巡目

 京太郎:{四六六八⑦⑦⑨1233西西} ツモ:{白}

 

(――ふゥ)

 

 打:{白}

 

 あっさりと、裏目を引いた。

 牌を静かに河へ並べ、京太郎は口元を撫でる。

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 6巡目

 京太郎:{四六六八⑦⑦⑨1233西西} ツモ:{北}

 

(周りの手は――?)

 

 咲

 河:{北發⑧()()}

 

 花田

 河:{①東()()2}

 

 照

 河:{91⑨八()3}

 

 京太郎

 河:{一北發白()}

 

 ※↓:ツモ切り

 

(出足、遅れたか。で、おれはまた裏目と――)

 

 打:{四}

 

(さすがに七対子で追いつくのはキツいな。暴れる隙間もなさそうだ。次、向聴が減らないようなら安牌溜めないとだな、こりゃ)

 

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:52

 

 

「見切りが早い」

 

 京太郎の打牌を一見するや、ひそめた声で池田が呟いた。咎める響きだった。

 

「そうねえ」月子も否やはなかった。「横を全く見ないのはどうかと思うけど、須賀くんがツッパるときとオリるときの基準がよくわかんないわ」

「打点なら割れ目で{西(ドラ)西(ドラ)}あるんだから攻めてるところだろうしな。ふり幅がでかいっつーか、ちょっと相手の影を大きくしすぎだね」

「気持ちはわからなくもないけど」

 

 腕組して、月子は気鬱に吐息した。京太郎が月子と片岡もろともに照にさんざん痛めつけられたのはつい先日のことである。かれにも心意気があるからこそ照に再挑戦したのだろうが、かれの脳裏には圧倒的な照の印象が鮮やかに刻み込まれている。照の影は先のように京太郎に利することもあるけれども、全体的に見れば不利に働くはずである。

 

「麻雀てのは、結局自分との戦いとはいうけど」珍しく、池田が穏やかな顔で月子へいった。「敵は自分だけでも、他人だけでもだめなんだよなァ。ま、あたしもちゃんとできてるかっていうと、アヤしいけどさ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:53

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 7巡目

 咲:{一一七九九44[5]78889} ツモ:{赤五}

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:53

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 7巡目

 花田:{二三五七七七②④⑦⑧1南南} ツモ:{南}

 

(すばらっ。――うーん、今日、ヒキは良いんですけどね)

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:53

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 7巡目

 照:{二四六②③④⑤赤⑤⑥5667} ツモ:{五}

 

 打:{二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:53

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 7巡目

 京太郎:{六六八⑦⑦⑨1233西西北} ツモ:{2}

 

(和了逃し――さて?)

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:53

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 8巡目

 咲:{一一赤五七九44[5]78889} ツモ:{六}

 

(両嵌が――埋まった)

 

 鼓動の弾みに合わせて、咲は刹那、呼吸を止めた。

 

(ここが――剣が峰)

 

 聴牌の受け入れ枚数を基準とした場合、マジョリティは当然の打{九}である。ツモ{一3468}の五種に対応できる。すでに{一}が純枯れであることを考慮しても、最優の打牌に違いない。

 

(だけど、{4}(これ)は、次には刺さる牌)

 

 不安はある。常にある。

 照との久方ぶりの対局は、咲に不思議な緊張を強いた。家族で牌に触れるときとは違う。何か――じっとしていられないような興奮を伴う緊張である。

 

(次に{4}を引き戻すかもしれない。これはお姉ちゃんの当たり牌じゃないかもしれない。お姉ちゃんはもう聴牌してるかもしれない。かもしれない。かもしれない。かもしれない――)

 

 咲は、唇を綻ばせた。

 

()()()()()()――なんて気は、ぜんぜん、しない)

 

 打:{4}

 

(お姉ちゃんはいま一向聴。次に{47}で聴牌する。さっきのすがくんの打{六}は自摸から手を崩したんだ。わたしと同じ理由では、ないと思うけど……)

 

 不安はある。

 自分が勝つことで、照の不興を買うかもしれない不安がある。

 けれども、そうはならないために咲は感覚を磨いた。

 今、それを疑ったところで、信じるものは他にない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:54

 

 

(う)

 

 親の打{4}に、花田は身をわずかに固くした。

 

({九}手出しのあとの{4}って……テンパっちゃいましたかねっ)

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 8巡目

 花田:{二三五七七七②④⑦⑧南南南} ツモ:{③}

 

(――そっちが先に埋まったなら……)

 

 打:{⑧}

 

({一四五六⑦}引いたら――勝負ですっ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:54

 

 

 対面の河を見据えつつ、照は山へ手を伸ばす。

 

({4}を)

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 8巡目

 照:{四五六②③④⑤赤⑤⑥5667} ツモ:{5}

 

(1巡前に処理された)

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:54

 

 

(二軒聴牌気配)

 

 京太郎は、瞑目した。

 

(店じまい)

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 8巡目

 京太郎:{六六八⑦⑦⑨2233西西北} ツモ:{4}

 

 打:{北}

 

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:54

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 9巡目

 咲:{一一赤五六七九4[5]78889} ツモ:{6}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:54

 

 

 対面への放銃を回避しつつ聴牌を入れた咲の手並みに感心しつつ、月子は眉を集めた。

 

「聴牌。だけど――」

「{一}は純枯れ。{8}は三枚遣い。変化も少ない」池田が苦笑して応じた。「対面のほうの{47}もたいがい薄いけど――分が悪いな。まあ、立直は……ないね、これは」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:54

 

 

(立直を掛ければ、お姉ちゃんに自摸をずらされる)

 

 打:{九}

 

(だから、ダマでいい)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:54

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 9巡目

 花田:{二三五七七七②③④⑦南南南} ツモ:{九}

 

(ほりゅう……)

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:54

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 9巡目

 照:{四五六②③④⑤赤⑤55667} ツモ:{⑤}

 

 三枚目の{⑤}を引いた瞬間、

 

({②}――を)

 

 無言で照は、手牌の端に手を掛けた。

 

 打:{7}

 

(切るべきじゃ、ない)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:55

 

 

「{②}じゃなくて{7}落として平和と一益口を捨ててシャボの受け?」月子が顔に戸惑いを浮かべた。「(小さいほう)へのケアかしら」

「不合理な待ち替えだ」池田が仏頂面で、しかし口角を吊って照の打牌を評価した。「でも、おもしろい」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:55

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 9巡目

 京太郎:{六六八⑦⑦⑨22334西西} ツモ:{發}

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:55

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 10巡目

 咲:{一一赤五六七4[5]678889} ツモ:{西}

 

(うん)

 

 打:{西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:55

 

 

(ノータイムで生牌の{西(ドラ)}とかっ)

 

 迷いのない咲の一打は、ここまで杳として姿を見せなかった{西(ドラ)}である。花田は口元を引きつらせて、祈る気持ちで山から牌を自摸った。

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 10巡目

 花田:{二三五七七七②③④⑦南南南} ツモ:{西}

 

(ぐっ……結果おーらい)

 

 打:{西}

 

 そして、

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:55

 

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南})

 10巡目

 照:{四五六②③④⑤⑤赤⑤5566} ツモ:{赤⑤}

 

 その牌を引いた瞬間に、照が静かに宣言した。

 

「――槓」

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南}) 槓ドラ1:{三}(ドラ表示牌:{二})

 10巡目

 照:{四五六②③④5566} カン:{■赤⑤赤⑤■}

 

 嶺上ツモ:{4}

 

(――ちがう?)

 

 打:{4}

 

(和了り、逃し)

 

 意外さを、それでも表情には出さずに、照は嶺上牌を自摸切った。

 

(そうか――打たされたんだ)

 

 彼女の意識は、対面に座る少女へ注がれた。

 

(咲――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:55

 

 

 京太郎が危なげなく{西}を手出しするのを見届けて、咲はとりあえず、人心地ついた。

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ツモっ」

 

 東四局流れ一本場 ドラ:{西}(ドラ表示牌:{南}) 槓ドラ1:{三}(ドラ表示牌:{二})

 11巡目

 咲:{一一赤五六七4[5]678889} 

 

 ツモ:{8}

 

「2000は2100の、チップが2枚オールですっ」

 

 【南家】花田 煌  :22300→20200(-2100)

     チップ:-1→-3

 【西家】宮永 照  :36700→34600(-2100)

     チップ:+1→-1

 【北家】須賀 京太郎:45600→41500(-4100)<割れ目>

     チップ:+1→-1

 【東家】宮永 咲  :-4600→ 3700(+8300)

     チップ:-1→+5

 

 



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16.ばいにんテール(五)

16.ばいにんテール(五)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:58

 

 

 倒された咲の和了形を、京太郎は何気なく見下ろす。その眉目はかすかに歪んでいる。憤りや悔いではなく、不可解さによるものである。

 

 {一一赤五六七4[5]678889} 

 

 ツモ:{8}

 

({一8}の受け――実質地獄タンキかよ)

 

 愚形の見本のような受けだった。赤二枚の役なしで立直を打たなかった理由もよくわかる。しかし仮聴というには、咲の切り出しに違和感がある。京太郎は咲の河に目を向けつつ、記憶を逆さに回した。

 

 咲

 河:{北發⑧中21}

   {九4九西}

 

({西}はツモ切り。最後の手出しは{4九}の順だった。あの形から{4}を落としってのは、さすがに筋が悪すぎる。ふつうは{9}だ。それなら、打{4}の時点じゃ索子のブロックはまだ決まってなかったってことか? その手前の捌きはどんなだ? 最後に埋まった索子はなんだ? {44赤568889}――もしくは{44678889}、じゃなけりゃ{44赤578889}? どっちにしても、そこまで{9}を残しておく手順がわかんねえ。最後に入れた牌がどれかはおぼえてねえし――テキトウか? それにしたって、仕掛けた照さんが競り負けたってのは――)

 

「あ、あの」

「ん」

 

 顔を曇らせる京太郎へ、遠慮がちに問いかけたのは咲である。先に渡した点棒とチップをのたくたと手元の収納に収めながら、彼女の瞳は泳いでいた。

 

「どうか……した、かな?」

 

 河を洗って次局へ移ればいいものを、京太郎の視線を気にして動けない様子だった。

 

「ああいや、なんでもない」

 

 と、京太郎は答えた。軽く手を振って、卓上の牌をラシャの下に追い落とす。

 

「次いくか」

「う、うん」

 

 京太郎はおずおずとボタンを押す咲の指を眺めた。

 

(四枚遣い――そういや、今日はよく暗槓が出てる。東二で一回、東三で一回、いまは照さん、それに槓子じゃないけど、(こいつ)も)

 

 常識的に考えれば、安易な槓はただリスクを増やすだけの選択である。京太郎自身は月子から、『聴牌で待ちが広ければしても良いけど、基本的にはしないこと。受けを減らして槓子抱えるのもおすすめしない』とだけ教えられている。とくだん反論は思い浮かばない言葉だった。そもそも普通は、暗槓自体あまり出るものでもない。

 

()()()()

 

 と、京太郎は口の中で繰り返した。また咲を見た。

 思考に、違和感が兆した。

 

(馬鹿馬鹿しいって、思うこと自体馬鹿馬鹿しいんだけどな。まあ、あるならあるんだろ)

 

 確証はない。かれの閃きが事実だったとしても、それを証明する手立てはない。結果がどれだけ堆く積み重ねられても、かれが息する世界の常識は、照や月子の――そして、もしかしたら咲の――住まう領域に触れることはない。

 京太郎はほんの少しだけ彼女らを眩く思う。

 あの雪の日、これと心を思い定めたときから、かれは少しだけ変わった。名前も知らずに出会い別れた少女の言葉か、それとも月子の入れた檄か、あるいは他の何か――変化をもたらした直接の要因は京太郎も知らない。

 

(片思いってのは、つらいな)

 

 洗牌の音に耳を澄ませて、かれは珈琲を一口啜った。

 

(楽しいけどな)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:58

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 【南家】花田 煌  :20200

     チップ:-3

 【西家】宮永 照  :34600

     チップ:-1

 【北家】須賀 京太郎:41500

     チップ:-1

 【東家】宮永 咲  : 3700<割れ目>

     チップ:+5

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:58

 

 

 咲が振った賽の出目は、自らの山を割れ目に選んだ。捲れた牌が示す懸賞(ドラ)は{九}である。各々が山を切り崩しつつ、点棒の状況を確認する。

 着順は東一局から変わらず京太郎がトップを維持しているものの、追う照はすでにかれの背を叩ける位置にいた。積み棒も考慮すれば3200以上の直撃か5200以上の自摸和了で逆転は成る。やや離れて花田が後ろに付け、一人沈みの咲はしかし、親の割れ目である。満貫の自摸和了が達成されれば一気に二着に届く。仮に跳満が出れば京太郎からの出和了か自摸でトップに躍り出ることもありえる。

 

 今局、京太郎が意識したのは咲の親を蹴ることだった。照への警戒を解くわけではないけれども、ラス目の親が割れ目という状況は、現時点でトップのかれにしてみればリスクしかない。割れ目かつドボンなしのルールは逆転を容易く招く。裏を返せばリードの維持は難しい。まさかトップ目で折り返しを迎えるとは思っていなかった京太郎は、自分が提唱したルールによって首が締まっていた。

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 配牌

 京太郎:{二二三九⑥⑦⑧⑨245白白}

 

(白を叩けりゃ、軽く蹴るには理想の手だが)

 

 かれは、上家の照と、対面の花田を観察する。照はまだしも、三着の花田の思惑は京太郎と同様のはずである。とはいえ各人がトップを狙う以上は、どちらかといえば京太郎の差込を期待するはずである。

 

(面前の打点なんかさっぱりわかんねーし、そう都合よくもいかねーか)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:58

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 配牌

 咲:{一①①①①③⑤赤⑤⑥⑦3東中中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:58

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 配牌

 花田:{六八九②赤⑤⑨1149西西北}

 

(これはひどい)

 

 表面上は澄ました顔を保ちつつ、花田は胸中ひっそり嘆じた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:58

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 配牌

 照:{一一二三五七②③668白中}

 

「…………」

 

 宮永照は、己の手牌を目にした瞬間、曰く言い難い感覚に囚われた。三向聴は決して悪い配牌ではない。聴牌までの手順も彼女の眼には見えている。回る必要はなく、一見急所に見える{五七}と{668}の塔子も5巡目までに埋まる。しかしどうしても、照にはこの手の和了目が見えない。論理的な根拠は何らない。経験則を声高に主張できるほど多くの場を、照は見ていない。ただ彼女の感覚だけが、この牌姿に未来のないことをしきりに訴えてくる。

 

(この{②③}――もう死んでる)

 

 そしてこういう場合、彼女の感覚は大抵外れることがない。

 

 照は漠然と場を俯瞰する。

 

(――対面()

 

 脅威の元を、彼女は検知する。

 

(手心は、ないから)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:59

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 1巡目

 咲:{一①①①①③⑤赤⑤⑥⑦3東中中}

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:59

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 1巡目

 花田:{六八九②赤⑤⑨1149西西北} ツモ:{北}

 

(ふむ?)

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:59

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 1巡目

 照:{一一二三五七②③668白中} ツモ:{二}

 

「――」

 

 照:{一一二二三五七②③668白} ({中})

 

 

「――」

 

 

 照:{一一二二三五} ({七}){②③668白中}

 

 打:{七}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:59

 

 

(――迷った?)

 

 目ざとく上家()の切り出しに注目しつつ、京太郎は内心で首を捻った。宮永照というひとの摸打に逡巡が入る様など、今日まで想像もしていなかった。先の東三局の振聴を回顧しつつ、京太郎は少しだけ祈らずにはいられない。

 

(何かしら、足をのろくさせるような効果があったんなら、御の字だけど)

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 1巡目

 京太郎:{二二三九⑥⑦⑧⑨245白白} ツモ:{⑥}

 

 打:{2}

 

(そううまくはいかねーかな……)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:59

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 2巡目

 咲:{①①①①③⑤赤⑤⑥⑦3東中中} ツモ:{④}

 

 打:{3}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 07:59

 

 

「今日は割れ目の人に染め手がよく入るわ」

 

 あっさりと嵌{④}(最大の急所)を埋めて面前混一色の1向聴を取った咲の牌勢を見て、月子が感嘆した。

 

「あれ和了ったら――」池田がぽつりと呟いた。「たぶん、アイツの総マクりだな」

「なぜ」月子が首をかしげた。「さすがにあれなら鳴いて進めるでしょうし、満貫か、よくて跳満でしょうに。一気に場は平たくなるでしょうけど」

「まず筒子をあとひとつ引くか――中が暗刻になるか東が対子になる。そして{①}暗槓するだろ」池田が当然のようにいった。「それでおわりだよ。引いたのが役牌なら嶺上・自摸・面前混一色・役・赤。東を重ねるか、槓ドラが一つでも乗れば親倍に割れ目がついて16000オールだ」

「……たしかに残ってる筒子はぜんぶ有効牌だけれども」

 

 月子は、自分の面貌に出来る限りの呆れの色を浮かばせた。目を眇め、口を半開きにして、とても胡散臭いものを見る顔つきになった。

 

「なんだよ、面白い顔して」こんどは池田が首をかしげた。

「いや、――どうして嶺上前提?」

「きょう、ここまでに三回槓があったじゃん?」池田がなんでもないように答えた。「ひとつは大きいほう()が晒してたけど、嶺上牌が、ぜんぶ小さいほう()の有効牌だった。というか、そうなるように手を進めてたみたいだけど」

 

 月子が、顔を曇らせた。

 

「あなたは、それは偶然じゃないと思ってるってこと?」

「うん」池田は即答する。「まァ、()()()()()の、気配ってやつ? そんなのあたしわかんないけど、卓のうえで指運以外のなにかをよりどころにしてるやつは、わかる。つっきーも、あのふたりも、それ以外にも。直接打ったらもっとハッキリすると思うけど、たぶん当たってるよ。(あいつ)の手作りは縦に寄ることを前提にしてるし、自摸もそれに沿ってるし。抱えた四枚目の牌を前に一度も迷った素振りがない。いちばん大きいのは東四局流れ一本場(さっき)の自摸和了りだ。あれは四枚目の{8}を引く根拠があったんだ。そしてじっさい引いてきた」

「なるほど」月子は小さく頷いた。「そういわれると、なるほどと言いたくなるわ。そんなのありえないなんて、わたしが人に言える立場じゃないしね」

「当たってるかどうかは、お手並み拝見って感じかな」池田は楽しげにいった。「いや、世の中色んなヤツがいるよほんと。

 ――麻雀を莫迦にしてるようなのが」

 

 そう嘯く池田の目つきに剣呑なものを感じて、月子は息を呑んだ。

 

「……池田さん?」

「つっきーがそうだって言ってるわけじゃないよ」池田は肩をすくめた。「あたしは、つっきーの麻雀、好きだもん。べつに、そういう連中がみんな駄目ってわけじゃないんだ。あの二人も、どうなのかな。よくわかんないけど、そうじゃないといいなって思う。ただ、まァ――」

 

 声の温度をふいに上げて、池田が囁いた。

 

「そういうやつと打つと、燃えるんだ、あたし」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:00

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 2巡目

 花田:{六八九②赤⑤⑨114西西北北} ツモ:{九}

 

(おっ? わくわくしてきましたよっ。すばらですっ)

 

 打:{②}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:00

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 2巡目

 照:{一一二二三五②③668白中} ツモ:{5}

 

「……」

 

 照は、対面を見据えつつ、

 

 打:{中}

 

 と、いった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:00

 

 

(ん――)

 

 咲:{①①①①③④⑤赤⑤⑥⑦東中中}

 

(だめ。ここで鳴いちゃうと……間に合わないよ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 08:00

 

 

「聴牌取らず? 打{①}で東タンキの受けは厭ってこと? どうとでも好形に変化できる23200をスルーは……ちょっとヌルすぎないかしら」

 

 と、月子はうめく。

 

「これでいくつかのことがわかったし」池田が立てた指を順繰りに折る。「とりあえず、中はヘッド。スルーしたのは聴牌速度よりも確実な和了速度を優先したからだね。ここまでの打ち回しから見るに、打点に目が眩むタイプでもない。むしろ神経質なくらい他家をケアしてる。槓のリスキーさを考慮してないわけじゃなくて、そこで終わるから考える必要がないんだ」

「それにしたって、槓したいから聴牌取らないって、異次元過ぎるわ……」月子が頭を抱えた。

「まァ、あれがこだわりなら、けっこうあたしは好きなんだけどね」池田は苦笑した。「てか、やっぱり対面()のほうがちょっと上手っぽい」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:00

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 2巡目

 京太郎:{二二三九⑥⑥⑦⑧⑨45白白} ツモ:{1}

 

(愚形の二度受け。どのみち見切ってた)

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

「あ、それぽん」

 

 と、花田が鳴いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 3巡目

 花田:{六八九九赤⑤⑨4西西北北} ポン:{1横11}

 

(対子4つなら――七対子よりも対々和! それになんとすばらなことでしょう! うっすら! 混老頭(ホンロー)も見えてますし!)

 

 打:{4}

 

(ちょーっと、やけくそですけどね!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

「……{4}、チー」

 

 と、照も鳴いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 3巡目

 照:{一一二二三五②③68白} チー:{横456}

 

「……」

 

 打:{白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 08:01

 

 

「なぜそこからチー!?」

 

 月子が思わずといった体で身を乗り出した。

 

「もしかして、対子で{一}落としてタンヤオの{④}片和了りとか狙ってるのかしら」

「この巡目でそんなんしたらただのあほだし」と、池田がいった。「あれは、たぶん、須賀に――」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

「ポン」

 

 と、京太郎も鳴いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

(さすがに、さっきとは状況が違う――)

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 3巡目

 京太郎:{二二三九⑥⑥⑦⑧⑨45} ポン:{横白白白}

 

(二軒に仕掛けが入って、ここを見送る余裕はない)

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

「それが出るならさらにポン!」

 

 当然、花田が再度叩いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 4巡目

 花田:{六八赤⑤⑨西西北北} ポン:{九横九九} ポン:{1横11}

 

 

 打:{六}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

(ま、また飛ばされちゃったよ……)

 

 自分を置き去りにして繰り広げられる空中戦を、咲は呆然と見送った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 4巡目

 照:{一一二二三五②③68} チー:{横456} ツモ:{東}

 

「――」

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

({白}から{一}ね……)

 

 やや露骨なフォローに眉を寄せつつ、京太郎は照の誘いに乗ることにした。

 少なくとも、いまこの局面では利害が一致している。

 彼女の真意は掴めずとも、思惑に乗ることは京太郎にとっても損ではない。

 

「――チー」

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 4巡目

 京太郎:{二⑥⑥⑦⑧⑨45} チー:{横一二三} ポン:{横白白白}

 

 打:{二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

「ポン」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

 東四局二本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})

 5巡目

 照:{一三五②③68東} ポン:{二二横二} チー:{横456}

 

(――)

 

 打:{6}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

「え」

 

 と、呟いたのは、京太郎だった。

 信じられないものを目にしたように、表情を固めて、照が河に置いた{6}を凝視している。

 

「……須賀くん? ツモ番ですよ?」

 

 と、気遣わしげな声を発したのは花田である。

 

「あ、いや」

 

 京太郎は頭を振って、

 

「ロン――だ」

 

 と、宣言した。

 動きが鈍る指をようよう繰って、かれは牌を倒そうとする。ぱらぱらと崩れる牌が全て現れる前に、照の指が河に点棒を置いた。

 

「……」

 

 京太郎は、口元を引きつらせて、照を見返した。

 

「……まだ、点数申告してないぜ、照さん」

「1000は1600」と、照が静かな声音でいった。「違った?」

「合ってるよ」

 

 声色を硬くして、京太郎は牌を晒した。

 

 

 京太郎:{⑥⑥⑦⑧⑨45} チー:{横一二三} ポン:{横白白白}

 

 ロン:{6}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:01

 

 

 東四局二本場

 【南家】花田 煌  :20200

     チップ:-3

 【西家】宮永 照  :34600→33000(-1600)

     チップ:-1

 【北家】須賀 京太郎:41500→43100(+1600)

     チップ:-1

 【東家】宮永 咲  : 3700<割れ目>

     チップ:+5

 

 

 

【東場終了】

 



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17.ばいにんテール(六)

17.ばいにんテール(六)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 08:03

 

 

 息つく間もない進行だった。契機は京太郎の打{1}――瞬く間に花田と照、京太郎の空中戦が場を席巻した。咲は結局、向聴を維持したまま一度も自摸ることなく親番を流された。

 結果的な東四局の勝者は須賀京太郎である。けれども真に場を支配していたのは、間違いなく宮永照であった。

 

「ガンパイとしか思えないけど」

 

 眉を集めて嘆じた月子が、止めていた呼吸を再開する。

 

「そうじゃないことはわかってるけど、そうとしか見えないね」池田もまた驚きを隠せない様子で頷きを返した。「手の中から完全に須賀のキー牌である{白一6}を摘んだのは、どう受け止めればいいんだろ。とても手牌や河から推し測れるような巡目じゃないし」

「調子が最高に良ければ、わたしも同じようなことはできるけど」月子は肩をすくめた。「宮永さんは()()にとくべつ優れてるわけじゃない。単純に素面で須賀くんが欲しそうなところを打ったんでしょう。で、()()()()それが狙い通りにいったと」

 

 演繹的な理屈に根差さない直観が、正鵠を射ることはある。結果としてその判断が正解だった場合、理由は三つに分類される。

 ひとつは過程を飛び越えた経験知が働いた場合である。いつか見た類似した状況に現在を照らし合わせて行動を選ぶ。基準は現在にはない。自覚的であるとも限らない。この場合の正しさの担保は過去にある。

 ふたつめは単純な僥倖である。癖や性質、手拍子と呼ばれる咄嗟の選択が奏効したとして、この場合の正当性を保証するものはどこにも存在しない。

 そしてみっつめは、一つ目と二つ目の中間に存在する。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と知った上での選択である。この手の判断は、空想とほとんど区別がつかない。月子のガンパイや、先刻の照の打牌はこれに当たる。所謂オカルトと呼ばれるものである。論拠はないけれども根拠はある――そしてそれは誰に説明ができるものでもない。

 

(というか、まずあの巡目でいもーとさんの打点を察する時点でぶっ飛んでるんだけど)

 

 改めて、月子は照の途轍もなさを実感した。

 違和感も同時に覚えた。

 

 照は何を捧げているのだろうと、彼女はふいに疑念した。

 

 努力で届く境地ならまだよい。費やすのは時間やそれに準じるものである。しかし照が失っているか、あるいはこれから先()()()()()ものは、そこまで心安い代償ではない気がした(これもまた明確な拠所を持つ論理ではなかった)。月子の知る限り、突出した能力は何かを犠牲にして得るものだ。照ほどに突き抜けているのであれば、対応するように何かが致命的に欠けているはずである。

 

 たとえば月子が知る中で、比較的照に近い存在は、他者に共感する能力が絶望的に欠けていた。根本的に人の気持ちがわからない人間だった。その代わりに常識では測れない力を有していた。

 そして月子自身も、運に干渉できる代わりに、(例外を除いて)他者に触れ得ない体質を持っている。

 照にもまた、そうした不備が存在するのかもしれない。

 

(仮にそれが正しいとして)

 

 と、月子は思う。

 

(宮永さんは、そのことを、どう思っているのかしら)

 

 欠落に自覚的なのか。その欠落を能力の代償として良しとしているのか。あるいは欠落を忌んでいるのか。無自覚なのか。欠落しているくらいなら能力など不要だと感じているのか。それともより欠落してもよいから能力を必要だと感じているのか。

 月子の瞳の行く先で、宮永照は常と変わらずそこにいる。

 

 そして、欠けてはいても、突き抜けてはいない月子の友人と、対峙している。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:03

 

 

 南一局0本場

 【東家】花田 煌  :20200<割れ目>

     チップ:-3

 【南家】宮永 照  :33000

     チップ:-1

 【西家】須賀 京太郎:43100

     チップ:-1

 【北家】宮永 咲  : 3700

     チップ:+5

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:03

 

 

 花田煌は場を見晴らす。幾度かの勝負手を逃して迎えた最後の親番である。未だ和了らずの三着目において、彼女は割れ目を引いた。賽の出目は3・6(ジゴク)だった。彼女は鼻腔から薄っすら息を抜きながら、目前で山を割って牌を捲る。

 

(集中)

 

 祈ったところで配牌が良くなると思うほど、花田は霊験を信奉していない。といって流れというものを全否定するほどデジタルに傾斜しきっているわけでもない。

 

(集中――)

 

 麻雀という亡国の遊戯に魅入られてこのかた、花田は上達と頭打ちを繰り返し続けた。会心の勝利を出来すぎなほど積み上げたこともある。一時的な確率の偏りを実力と勘違いして、その後すぐに長い低迷期に入ったこともある。フォームが崩れてどうしようもなくなったこともある。麻雀を始めたばかりの初心者にさえいいようにされて負けたことがある。何が上手さで何が強さなのかわからなくなったことがある。わからないことは、今でも山ほどある。

 

 それでも、学ぶべきを学び、歩み続けた今がある。

 

 押し引きや牌効率には解がある。仕掛けのセンスにオリの技術、手作りの巧さや切り順、打牌選択が積む微差の山、まだまだ花田が突き詰めるべきことは五万とある。そしてその極致に至ったところで、麻雀における絶対の強者などにはなりえない。あるいは座る卓を選べばそれに近いことが少しはできるのかもしれない。しかし停滞は花田のもっとも苦手とする事柄の一つである。打つならばより巧者と――できるならば強者と。それが花田煌が麻雀に対して持つ基本理念である。同じ領域の住人と鎬を削りあうならば、勝率は必然的に均衡へ収束する。

 

 花田は、麻雀を難解な模様を持つ織物として捉える。麻雀を構成する要素に確率と技術がある。両者は綱を引きあい、複雑な綾を象っている。打ち手はそのうえで踊り、往々にして翻弄される。うまく踊りきるか、あるいは偶さか踊りきれたものが、卓上の勝者になる。この遊戯にとりつかれたものは皆、いくらかの諦念を抱えて牌を握る。旦夕を上達のために繰り返して、けれども根本的な部分で甲斐のなさを感じている。

 

 麻雀は、技術を磨いたからといって、筋力や体力のように目に見える効果が直ぐ表れるものではない。十度打った結果など誤差である。百では足りない。千でようやく形が見え始める。万を越えればそれは手ごたえとなる。徹底的に冷厳な論理と気まぐれ極まりない数字に裏打ちされたその編目はたとえようもなく美しい。

 けれども、目に見えない隙間が繊維と繊維のまにまに存在している。

 そこには不思議がある。

 この世界で麻雀を打てば打つほど、高みを目指せば目指すほど、不可視の法則を感じずにはいられない。

 

 地図の空白のような、暁の出所のような、大地の支柱のような、荒唐無稽な空想が、けれども実存している。

 

 花田の良く利く鼻は、その匂いを確かに嗅ぎ分けている。たとえば花田が良く知る範囲に限っても、石戸月子がいる。南浦数絵がいる。片岡優希がいる(実のところ花田もその境界線の先にいる。ただそれはあまり如実な発露の仕方をしていないから、花田煌はまだ自分の異常性には無自覚である)。

 

(このひとたちも、たぶんそうなんだろーなー)

 

 花田は上家()下家()を視界に納める。

 ただそれでも、花田煌が打つべき麻雀が変わるわけではない。

 

(べつに、違うゲームしてるわけじゃないんですからね)

 

 花田はかすかに微笑む。

 牌を自摸りはじめる。

 

(まずは四つ)

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 花田:{1⑨東3}

 

(もう四つ)

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 花田:{1⑨東3⑨5二七}

 

(さて、)

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 花田:{1⑨東3⑨5二七六4東發}

 

(――いざ、勝負っ)

 

 最後の二枚を、跳牌する。

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 花田:{1⑨東3⑨5二七六4東發一⑦}

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 配牌

 花田:{一二六七⑦⑨⑨1345東東發}

 

(いい配牌です)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:03

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 配牌

 照:{一二三①④⑥2345西西白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:03

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 配牌

 京太郎:{四四[五]七①②②④[⑤]⑨12發}

 

 京太郎の指が、南一局の配牌を整える。かれの内心には忸怩たるものがある。脳裏に閃くのは前局の和了である。上家()による明らかな差込を、京太郎は半ば反射的に和了った。

 もちろん、和了は一局の収支で見れば正しい選択だった。先の和了によって照との点差はさらに3200開いて差は10100となった。今局においては親の花田が割れ目であるため逆転条件はやや緩いものの、それでも照が常の打法を通す限り、京太郎の首位は比較的安全圏にあるといってよい。

 

(それでも、まずったかもな)

 

 一度塞いだ照の目を、先ほどの和了で開かせてしまったかもしれない。といって、では和了らないことが正着であったと、自信を持って言える根拠も京太郎にはなかった。照がゆえなく失点をするとも思えない。高い仕掛けを入れていた花田か、あるいはほとんど参加せずに終わった咲に対するケアだったのだろう。

 

()()()()()()――ねぇ)

 

 配牌を眺めながら、京太郎はおのれの心理状態を俯瞰する。照の力量に対する信頼が、京太郎自身の感覚や指運より優先されつつある。

 

(これは()()()()な)

 

 選択は結果的に正しいかもしれない。むしろその可能性が高いからこそ、舵を切る指標と成り得る。ただ京太郎は、照との勝負において必ずしも正しさを優先しているわけではない。場当たりの勝利を欲しているわけでもない。

 京太郎は、照が持つ非人間性を否定したい。仮に照が怪物としての側面を持っているのだとしても、それが絶対ではないことを証明したい。そのために今日この卓に座っている。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:03

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 配牌

 咲:{三六八八九⑧77889南南}

 

(お姉ちゃん……)

 

 勝負手を一瞬で不意にされて、けれども咲の心境に動揺はなかった。照であればあの程度のことはしてのける。彼女は咲とは違う。麻雀において妥協や手心を差し挟むようなことはしない。機械的なまでに揺らがず、超人的に強い。咲がいくらか抵抗を試みたところで、とても適う相手ではない。

 それが咲がこころに描く宮永照の像である。

 咲が照の摸打をある程度見透かしているように、照も咲の打ち回しにおいて警戒すべき点を知っている。

 そもそも、配牌が良すぎたきらいはあったのである。打点が向上すればするほど、照は他家の河や己の手牌、山の気配からほぼ正確にその程度を推し測ってくる。

 

(ふつうに打ったんじゃだめだ――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:03

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 花田:{一二六七⑦⑨⑨1345東東發}

 

(面子候補はじゅうぶん。しいていうなら{一二}が苦しい。{東}は一鳴きする。ドラ表示牌の{2}を引いて連続形を――っていうのも都合(ツゴー)がいいですが)

 

 打:{發}

 

(どうですかね、――と)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:04

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 照:{一二三①④⑥2345西西白} ツモ:{③}

 

 打:{白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:04

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 京太郎:{四四[五]七①②②④[⑤]⑨12發} ツモ:{發}

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:04

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 咲:{三六八八九⑧77889南南} ツモ:{北}

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:04

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 2巡目

 花田:{一二六七⑦⑨⑨1345東東} ツモ:{⑤}

 

({東}を叩いて{⑨}を雀頭とするなら、嵌{⑥}の受け? {一二}よりはあきらかに{⑤⑦}は強いですが……ここで辺張見切った場合は{三}引きがあまりにいたい。打{⑨}の両嵌受けもなくはない。2900の手も、割れ目となれば5800――ここはぜったいにものにしたいところ)

 

 2巡目において、花田は刹那を思索に費やした。

 

(ここは保留の打{1}――でいくとして)

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:04

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 2巡目

 照:{一二三①③④⑥2345西西} ツモ:{9}

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:04

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 2巡目

 京太郎:{四四[五]七①②②④[⑤]12發發} ツモ:{中}

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:04

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 2巡目

 咲:{三六八八九⑧77889南南} ツモ:{⑦}

 

「……うぅん」

 

 打:{三}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:04

 

 

(この{三}を――チー、は、ある)

 

 上家から打たれた急所を埋める牌を、花田は懐疑の眼差しで見つめる。

 

 花田:{一二六七⑤⑦⑨⑨345東東}

 

 現在の牌姿における急所は辺{三}および嵌{⑥}である。今局親かつ割れ目の花田に要求されるのは、何よりも速度だった。赤牌の受けもあるこの形であれば、この巡目とはいえ愚形を解消するのは悪手ではない。ましてやこのルールの半荘戦で、役牌のバックを嫌うほどの余裕はない。

 とはいえ花田の手牌は面子オーバーである。打点を下げてまで打たれた{三}を喰うべきかといえば、悩ましいところであった。

 

(赤が一枚でもあれば鉄板なんですが――)

 

 花田は、

 

「その{三}――チーです!」

 

 逡巡を億尾にも出さずに{三}を喰った。

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 3巡目

 花田:{六七⑤⑦⑨⑨345東東} チー:{横三一二}

 

(迷ったときは、とりあえずいってみる!)

 

 打:{⑤}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:04

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 3巡目

 照:{一二三①③④⑥2345西西} ツモ:{1}

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:04

 

 

(花田さんが辺{三}喰って、照さんは打{⑥}――濃いところが出てきたな。出遅れ気味か?)

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 3巡目

 京太郎:{四四[五]七①②②④[⑤]12發發} ツモ:{②}

 

(まっすぐに打{①}――? いやいや)

 

 打:{七}

 

(微差で{①}より悪いけど、受け入れ枚数は同じ{三四六③⑥3發}(7種20枚)だ。ここは筒子の伸びに期待する)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:04

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 3巡目

 咲:{六八八九⑦⑧77889南南} ツモ:{八}

 

(縦かぁ)

 

 打:{六}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:05

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 4巡目

 花田:{六七⑦⑨⑨345東東} チー:{横三一二} ツモ:{四}

 

 打:{四}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:05

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 4巡目

 照:{一二三①③④12345西西} ツモ:{④}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 08:05

 

 

「三色を見ての{⑥}先打ちだったんでしょうけど、ここで{④}重ねてしまいました、と」照の引きを見、月子が池田を顧みた。「どうでしょうか、池田さん。さすがに打{①}?」

「余裕のツモ切り」池田が即答した。

「えー」月子が唇を尖らせた。「聴牌確率下がるじゃない」

「いうほど変わらないし、そのわりに最高打点の期待値が倍以上違うし」池田は肩を竦める。「っていっても、須賀が{②}三枚もがめってるから――手牌が透けてるか、それに近いものが見えてるんなら、打{①}だろ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:05

 

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:05

 

 

 花田

 河:{發1⑤四}

 

 照

 河:{白9⑥①}

 

 京太郎

 河:{⑨中七}

 

 咲

 河:{北( 三 )六}

 

(打{⑥}からの打{①})

 

 照の切り出しを尻目にしながら、京太郎は各家の進捗を推理する。花田、照、咲ともに早々に不要牌の整理は終えて浮き牌の処理に掛かっている。向聴という面では、京太郎が後れを取っている感があった。

 

(序盤の照さんは、比較的自摸にまっすぐだ。展開が込み入ってくると感覚で打牌を選ぶから、頭ン中には追いつけねえけど――{②⑤}(間4ケン)がむちゃくちゃにおうな)

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 4巡目

 京太郎:{四四[五]①②②②④[⑤]12發發} ツモ:{三}

 

 京太郎:{三四四[五]} ({①}){②②②④[⑤]12發發}

 

(――いや?)

 

 京太郎:{三四} ({四}){[五]①②②②④[⑤]12發發}

 

 打:{四}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:05

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 4巡目

 咲:{八八八九⑦⑧77889南南} ツモ:{中}

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:05

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 5巡目

 花田:{六七⑦⑨⑨345東東} チー:{横三一二} ツモ:{赤5}

 

(おぉ……すばら)

 

 打:{5}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:05

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 5巡目

 照:{一二三③④④12345西西} ツモ:{四}

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:06

 

 

花田さん()はたぶん、役牌のバックか隠れ暗刻の聴牌か1向聴? 照さんは急所が埋まってからのこぼれた{一}処理?)

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 5巡目

 京太郎:{三四[五]①②②②④[⑤]12發發} ツモ:{發}

 

{3}(ドラ)の受けは)

 

 打:{2}

 

(ここで見切る)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:06

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 5巡目

 咲:{八八八九⑦⑧77889南南} ツモ:{7}

 

(手が大きい――重たくって、これじゃ追いつけない……っ)

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:06

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 6巡目

 花田:{六七⑦⑨⑨34赤5東東} チー:{横三一二} ツモ:{六}

 

(両面対子――すでに一番強い{六七}より、{⑦⑨⑨}の形を大事にするのが定石ですけど、どっちにしても{東}を叩けなければこの手に和了目はない。なら――どこからでもポンテンを取れる形で)

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:06

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 6巡目

 照:{二三四③④④12345西西} ツモ:{4}

 

「……」

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:06

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 6巡目

 京太郎:{三四[五]①②②②④[⑤]1發發發} ツモ:{白}

 

 一枚切れの{白}(役牌)を、引いた京太郎の目じりが強張る。かれの警戒は対面は親、そして割れ目の花田に向かう。最初の{白}が河に打たれたのは1巡目である。その後顔を出していないこの役牌が、誰の手の内でも重なっていないと言い切れる根拠はない。

 

(だからって、重なってるとも言い切れない。こんなもん、この巡目でいちいち全部抑えてられるか)

 

 刺さるなら刺されとばかりに、

 

 打:{白}

 

 京太郎は自摸切った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:06

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 6巡目

 咲:{八八八⑦⑧777889南南} ツモ:{白}

 

 打:{白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:06

 

 

 ――各人の足並みが揃った南一局0本場6巡目を終えて、それぞれが聴牌を目前に、一瞬だけ停滞した。

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 7巡目

 花田:{六六七⑨⑨34赤5東東} チー:{横三一二} ツモ:{一}

 

 打:{一}

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 7巡目

 照:{二三四③④④23445西西} ツモ:{北}

 

 打:{北}

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 7巡目

 京太郎:{三四[五]①②②②④[⑤]1發發發} ツモ:{⑤}

 

 打:{1}

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 7巡目

 咲:{八八八⑦⑧777889南南} ツモ:{1}

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 8巡目

 花田:{六六七⑨⑨34赤5東東} チー:{横三一二} ツモ:{②}

 

{②}(コレ)は……下家さんがほしそうなところですが……)

 

 打:{②}

 

(――いかざるをえませんっ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

「ち」

 

 と、照が言いかけたところで、

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

「カン」

 

 と、京太郎が鳴いた。

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 8巡目

 京太郎:{三四[五]④⑤[⑤]發發①發} カン:{②横②②②}

 

(照さんが喰いそうで、かつどうもさっきからリンシャンがなんか妖しいから、とりあえず邪魔カン)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

「……」

 

 照は吐息すると、ややぬるくなったココアを啜って、

 

「おかわりください」

 

 と、いった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

(え)

 

 咲は、目を瞠った。

 

(えぇえー……それ、わたしの……)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

 気のない素振りで、京太郎は嶺上牌を見つめた。

 

 リンシャンツモ:{⑨}

 

(たしかに、脂っこいところではある)

 

 打:{⑨}

 

(押すけどな)

 

「っ、ポンです!」

 

 京太郎が河に置いた{⑨}を見て、花田が間髪入れずに鳴いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2}) 槓ドラ1:{發}(ドラ表示牌:{白})

 9巡目

 花田:{六六七34赤5東東} チー:{横三一二} ポン:{⑨横⑨⑨}

 

(これはもう――あとにはひけませんね)

 

 打:{七}

 

 花田の唇が、不適に弓形を象った。

 

「すばらです」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2}) 槓ドラ1:{發}(ドラ表示牌:{白})

 9巡目

 照:{二三四③④④23445西西} ツモ:{6}

 

 打:{④}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2}) 槓ドラ1:{發}(ドラ表示牌:{白})

 9巡目

 京太郎:{三四[五]④⑤[⑤]發發①發} カン:{②横②②②} ツモ:{①}

 

(打{⑤}で{③⑥}の受け――とかやるくらいなら最初から{②}大明槓なんかしねーっての)

 

 自摸った聴牌を入れる牌を穏やかに見つめて、京太郎は上家に合わせ打った。

 

 打:{④}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2}) 槓ドラ1:{發}(ドラ表示牌:{白})

 9巡目

 咲:{八八八⑦⑧777889南南} ツモ:{⑧}

 

(ふぅ……)

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

(むむ!)

 

 半ば念じながら、花田は山から牌を引く。

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2}) 槓ドラ1:{發}(ドラ表示牌:{白})

 10巡目

 花田:{六六34赤5東東} チー:{横三一二} ポン:{⑨横⑨⑨} ツモ:{九}

 

(ちがう!)

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2}) 槓ドラ1:{發}(ドラ表示牌:{白})

 10巡目

 照:{二三四③④234456西西} ツモ:{六}

 

「……」

 

 一瞬だけ、照は花田の河と手牌に目を向けた。

 そして秒も置かずに、

 

 打:{六}

 

 自摸切った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 08:07

 

 

「あたれないほう」

 

 花田への同情を込めつつ、照からオーダーされたおかわりのココアを練りながら月子が呟いた。

 池田もまた、お菓子をつまみ食いしつつ、首を振った。

 

「バック仕掛けの宿命だ。しょうがないね。ホラ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2}) 槓ドラ1:{發}(ドラ表示牌:{白})

 10巡目

 京太郎:{三四[五]⑤[⑤]發發①發①} カン:{②横②②②} ツモ:{東}

 

 山から引いたその牌を凝視して、

 

(生き残ってる役牌は、{東}(これ)と{南})

 

 京太郎は、嘆息した。

 

(こいつはたぶん、花田さんにアタリだ)

 

 花田は親である。そして割れ目でもある。見るからに安い仕掛けだが、場に{3}(ドラ)は一枚も見えていない。仮に花田の手の内で暗刻か――あるいはシャンポンにでもなっていれば、放銃の失点は最低でも満貫(12000)近くになる。

 

(でも、おれも跳満の手。超能力でもあったんなら、上手く打ち回して、アガリを拾うんだろうけどよ)

 

 かれは、苦く笑んだ。

 

({①}対子落としで回るのもありだろう。ベタオリなら当然{發}の暗刻落としだ。でも、ここはそうじゃない。麻雀に()()()()()。アタリは{東}じゃなくて{南}かもしれない。もう暗刻になってるかもしれない。なら、)

 

 打:{東}

 

(ここは勝負をする場所だ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 08:07

 

 

「つっきー、なにニヤニヤしてんの?」

「べつに」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

 瞬間、花田の脳裏で思考の火花が散った。

 

 花田:{六六34赤5東東} チー:{横三一二} ポン:{⑨横⑨⑨}

 

(――{東}ポン、打{3}フリテン{36}? 打{六}はさすがに悠長に(ノンビリ)すぎてすばらくない。じゃぁやっぱり打{3}? すくなくとも須賀くんは確実に聴牌してるのにションパイのドラは打てないし槓ドラの發は見えないからたぶんどこかでかたまってるここは――)

 

 彼女は、決断した。

 

(鳴かない。叩きません)

 

 眦を決して、しかし表情はつくろい続ける。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:07

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2}) 槓ドラ1:{發}(ドラ表示牌:{白})

 10巡目

 咲:{八八八⑦⑧⑧77788南南} ツモ:{①}

 

(あ、引いちゃった)

 

 京太郎の和了牌を引いた咲の決断もまた迅速である。

 

(ならオリで)

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:08

 

 

 南一局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2}) 槓ドラ1:{發}(ドラ表示牌:{白})

 花田:{六六34赤5東東} チー:{横三一二} ポン:{⑨横⑨⑨}

 

 常と変わらず、肩の力を抜いて、一定の拍子で、花田煌は山から牌を自摸る。

 牌に触れる。

 親指の腹で表面をなぞる。

 刻まれた感触が、

 

「――すばら」

 

 彼女に幸運を運んだ。

 

 ツモ:{東}

 

「2600――は、割れ目で5200オール! そしてぇ、いちまいオールですっ!」

 

 

 【東家】花田 煌  :20200→35800(+15600)<割れ目>

     チップ:-3→±0

 【南家】宮永 照  :33000→27800(- 5200)

     チップ:-1→-2

 【西家】須賀 京太郎:43100→37900(- 5200)

     チップ:-1→-2

 【北家】宮永 咲  : 3700→-1500(- 5200)

     チップ:+5→+4

 

 

「やたっ、ヤキトリ脱出です! すばらっ」

 

 



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18.ばいにんテール(七)

18.ばいにんテール(七)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:10

 

 

 南一局一本場

 【東家】花田 煌  :35800

     チップ:±0

 【南家】宮永 照  :27800<割れ目>

     チップ:-2

 【西家】須賀 京太郎:37900

     チップ:-2

 【北家】宮永 咲  :-1500

     チップ:+4

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:10

 

 

「ふぅ」

 

 と、花田煌は深呼吸する。ようやくの和了で人心地つきたいところではある。トップを射程距離に捉えることもできた。

 

(とはいえ、だからこそ、まだ息を切らすわけにはいかない)

 

 各人から回収した点棒を手元の収納に叩き込みながら、花田は自動卓中央のボタンを押した。うろに流し込まれた牌を余さず呑んで、卓上に次局の山がせり上がる。力強くボタンを押下する花田の指の先で、踊った賽の目が5・1(右六)を示した。

 此度の割れ目は宮永照である。

 

(ここで、稼がないことには――)

 

 意気もあらたに、花田煌は山を割る。きっかり14枚を手元で開いて、

 

(お――)

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 配牌

 花田:{三三四五六七九⑥⑥⑧245東}

 

(――すばらじゃないですか)

 

 想像以上の好配牌に、けれども彼女はやや面相を厳しくした。ドラを含む典型的なタンピン手である。嫌う要素は何もない。もちろん花田も内心は素直に喜び勇んでいる。ただ常日頃「表情がわかりやすい」と言われている彼女は、近ごろ牌の巡りが良いときには渋い面持ちをつくってしまうのだった(それはそれでわかりやすいことには気づいていない)。

 

(こういう手をアッサリ蹴られることに慣れてるだけに……手にホレて散家のみなさんへの注意をおこたらないようにしないと、ですねっ)

 

 三方を見渡して、花田は牌をまっすぐ河へ打った。

 

 打:{東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:10

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 配牌

 照:{五②④⑥⑥⑦⑦15567南}

 

 宮永照は、点棒を確認する。何度見ても結果は変わらない。南一局一本場における彼女の順位は3位である。10000点以上の差をつけていた花田に、逆転を許したのである。

 

(綾は京太郎の大明槓――)

 

 照は、前局、食い損なった{②}を思う。鳴き三色を確定させる副露を完全に潰された。次巡花田が打つであろう{6}で2000点を和了ることが、前局における照の絵図であった。京太郎にとって何らキーとなりえないはずの{②}が、まさかあのタイミングで喰い取られるとは思っても見なかった。

 まったく、あの瞬間に限っては、京太郎の意趣も有効に機能したと言わざるを得ない。それが自身の和了に結びついていない以上はただの閃きでしかない。けれども、照は、一杯を食わされたことを素直に認めた。

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 1巡目

 照:{五②④⑥⑥⑦⑦15567南} ツモ:{4}

 

 打:{1}

 

 牌を自摸り、河へ打つ彼女の動作に変調はない。

 表情も常どおり変わらない。

 ただ彼女の指が触れた牌だけが、奇妙な熱を持っている。

 その熱には、照自身も含めて、まだだれも気付いていない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:10

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 配牌

 京太郎:{一二八九①③④4東南西西白}

 

 愚形まみれの4向聴の配牌を与えられて、京太郎は方針を定める。今局、この牌姿で真っ直ぐに和了を目指すのはあまり現実的ではない。まずは照に代わって2位に迫っている花田の親を蹴る必要がある。けれどもそのために次の親である照をアシストすることはできない。必然的に、かれの目は下家の咲に向いた。

 常道であれば、折りよく下家である彼女の援護に徹する局である。

 が、

 

「うん?」

 

 と、目を瞬く咲を一瞥して、京太郎は手牌に目線を戻す。

 

 照と異なり、咲の実力の程を京太郎は正確には知らない。序盤の放銃から、少なくともあの時点では照ほど硬い打ち手ではないということしか判らない。照から直撃を取り、仕掛けた照に先んじて和了って見せた手際も、たんなる偶然と切り分けることは難しい。

 やや背高の椅子に深く腰かけて、咲は両足をふらふらと中空で揺らしている。いつの間にか脱がれたソックスが縮れて床に落ちていた。危なげない手つきで理牌する仕草から、ダンラスの焦燥はまるで斟酌できない。

 

(へんなやつ)

 

 照ほど浮世場慣れしているわけではない。

 月子ほどエキセントリックでもない。

 片岡優希ほど自信過剰でもない。

 池田華菜ほど()()()()()()があるわけでもない。

 学校の教室を見回せば、似たような見目の少女はすぐ見つかるような気がする。

 しかしそれでも、彼女はこの場にいる。卓を囲み、麻雀を打っている。京太郎の知る限り、ありふれた少女はいくら誘われたからといって金銭を賭す遊びに早朝から参加したりはしない。さしたるためらいもなく京太郎の招きに応じた時点で、宮永咲は見た目通りの少女ではない。

 

(まァ、みんなどっかへんではあるけど)

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 1巡目

 京太郎:{一二八九①③④4東南西西白} ツモ:{發}

 

 打:{東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:10

 

 

 胸が疼いた。

 

(――?)

 

 宮永咲は突然、息苦しさを覚える。疼痛と呼べるほど明らかな感触ではない。ただ喉元に何かが詰まるものを感じた。胸に迫るものがあった。

 右方で、土俵際の粘りで見事に和了を攫った花田煌が嬉しそうに頬を緩めていた。それはまったく無心の喜色である。金銭の遣り取りが伴うこの半荘戦ではあるけれども、花田の笑顔はそうした泥臭さとは縁遠いものにさえ見える。単純に際どい勝負を制したことを喜ぶその表情が、咲に何かを感じ入らせる。

 

(楽しそう……)

 

 照に機先を制された前々局、京太郎の感覚的なものとしか思えない妨害を受けた前局と、咲にとっては不自由な展開が続いた。思い描いていた絵図と局面は、徐々に乖離を始めている。咲はもどかしさを覚える。恐らくは照による最大限の警戒が、咲の調()()を妨げる最大の要因ではある。それは間違いない。地力において、宮永照は宮永咲の先を行く。

 

 ただそればかりでもない。要所において花田や京太郎は、それぞれの立場から照や咲を利用しようと立ち回っている。それは今のところ、全てが成功しているとは言いがたい。とはいえ何もかも無為に終わっているわけではない。照の力量は突き抜けているけれども、警戒や絞りを徹底的に受けても意に介さないほど懸絶しているわけではない。

 咲も照もこの卓にいて打っている。

 花田も京太郎も勝利を目指して打っている。

 

(麻雀って、こんなんだっけ)

 

 きょう、咲は自宅以外の場所で、生まれてはじめて麻雀を打った。

 今のところ、特筆すべき感想はない。

 対面には照がいる。金銭を賭している。負ければそれなりの痛手を被る。そうした要素はかつてと何ら変わるものではない。

 赤牌やチップの有無、ドボンや割れ目といったルールには初めて触れる。けれどもそれは咲の考える麻雀の本質が損なわれるものではない。牌に触れて感じることができるのであれば、枝葉末節がどのような形態をとっていようとそれは()()()()()()()

 

(麻雀って――どんなんだっけ)

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 配牌

 咲:{赤五六⑧⑨13378北北南中}

 

 かすかに漫ろな咲をよそに、各家は山を割って手牌を揃えていく。咲も半ば反射的に上家である京太郎の動作に追従する。牌を自摸る。13枚を手元に並べて理牌する。その最中で、彼女は己の心が細く尖っていく心象を脳裏に思い描く。卓上の隅々にまで気遣いを行き届かせる。曖昧でしかない感覚を予知めいた確信にまで引き上げる。

 そうでもしなくては、とても宮永照とは渡り合えない。

 

()()()()()

 

 と、咲は思う。

 言葉の響きに不思議な皮肉を感じる。彼女は決して対手と正面から組み合おうとはしていない。誰もが頂点を目指す中で、彼女だけは異なる方向を向いている。それは痛みを避けるための処方である。しかしいま、彼女が座る卓でその処方が必要なのかといえば、そうではない。咲もそのくらいのことは心得ている。ここには照がいるけれども、彼女たちの家ではない。この麻雀では金銭の遣り取りが発生するけれども、それは単純な約束事のうえに成り立つルールである。卓上においても卓外においても打ち手の関係性は平坦でしかなく、そこに政治的な力学は存在しない。

 今日、この場所で、咲はどんなふうに打っても良い。

 恐らく、勝っても負けてもその結果自分が不快になるようなことにはならない。

 なぜならば、

 

(わたしは、遊びに来てるんだから。お姉ちゃんと。すがくんと。ほかのひとも)

 

 胸が疼く。

 痛みではない。

 

(麻雀で)

 

 それは衝動に近い。

 

(遊ぶために、わたしは、ここにいるんだよ)

 

 旧い馴染みの衝動である。しばらく前に咲はその気持ちと別れを告げた。名前も忘れてしまった。思い出す必要性もなくなって、時間が経った。咲はそれから、無難に日々を過ごしてきた。生活は問題なく送ることができた。不自由はなかった。むしろ円滑に回った。角逐を避け丸みを帯びることで、軋轢を回避することができる。咲は幼くして不条理を学んだ。ゆえに不条理を回避する術も学んだ。それは成長である。誰に指弾を受ける筋合いもない。咲は胸を張って主張することが出来る。彼女の選択は正しかったし、誤りではない。仮にそれが何かを傷つけていたのだとしても、自分が傷を負い続けるよりは良いと、そう判断したのである。それはだから、咲にとっては成長だった。

 けれども喪失でもあった。

 忘却も兼ねていたかもしれない。

 そしていま、失ったもの(あるいは失くしたと思っていたものが)が咲の肩を叩いている。

 

(麻雀って)

 

 咲は自問する。

 

(どんな顔して打てばいいんだっけ――)

 

 その答えが、すぐ傍にある。

 

花田さん(このひと)

 

 親の花田が意力を乗せるような牌を打つ。劈頭は{東}である。自風を真っ先に切り落とす彼女の牌勢は、どうやら悪くない。曲げて自摸ればこの半荘の決定打になりかねない。

 

(楽しそうだなあ)

 

 眉間に寄った眉や、頬の力み具合から、花田が口角を噛んで緩みを堪えているのだと、咲はなんとなくわかった。年上の彼女のそんな仕草が妙に微笑ましかった。

 胸の疼きがまた増した。

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 1巡目

 咲:{赤五六⑧⑨13378北北南中} ツモ:{2}

 

 打:{南}

 

 花田を真似て、口角を吊ってみた。

 不思議と、蒙が啓かれたような気がした。

 ()()()()()()()と咲は思った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:11

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 2巡目

 花田:{三三四五六七九⑥⑥⑧245} ツモ:{⑤}

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:11

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 2巡目

 照:{五②④⑥⑥⑦⑦45567南} ツモ:{三}

 

 打:{南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:11

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 2巡目

 京太郎:{一二八九①③④4南西西白發} ツモ:{6}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:11

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 2巡目

 咲:{赤五六⑧⑨123378北北中} ツモ:{7}

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:11

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 3巡目

 花田:{三三四五六七九⑤⑥⑥⑧45} ツモ:{六}

 

(フム? 塔子(ターツ)オーバー)

 

 打:{九}

 

(……一気通貫(イッツー)はむよう)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:11

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 3巡目

 照:{三五②④⑥⑥⑦⑦45567} ツモ:{8}

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:11

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 3巡目

 京太郎:{一二八九③④46南西西白發} ツモ:{2}

 

(生牌なら、役牌は先に処理しとくか)

 

 打:{白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:11

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 3巡目

 咲:{赤五六⑧⑨1233778北北} ツモ:{北}

 

(1向聴だけど――)

 

 打:{⑧}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:12

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 4巡目

 花田:{三三四五六六七⑤⑥⑥⑧45} ツモ:{赤5}

 

(こ、これは……ブックブクの予感ですっ)

 

 打:{⑧}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:12

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 4巡目

 照:{三五②④⑥⑦⑦455678} ツモ:{四}

 

 打:{5}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:12

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 4巡目

 京太郎:{一二八九③④246南西西發} ツモ:{發}

 

(何週遅れてんだ、こいつは……)

 

 打:{南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:12

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 4巡目

 咲:{赤五六⑨1233778北北北} ツモ:{四}

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:12

 

 

 5巡目――。

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 5巡目

 花田:{三三四五六六七⑤⑥⑥45赤5} ツモ:{八}

 

 照、咲の両名に一歩遅れて、花田もまた1向聴に漕ぎ着けた。

 

(あとひとつ――下家さん()の{⑥5}の被せぶりからして、もうかたちはそうとう決まってる。打牌候補は{⑥}か{5}か。目に見えてる枚数じゃ優劣はないですけども)

 

 花田

 河:{東2九⑧}

 

 照

 河:{1南⑥5}

 

 京太郎

 河:{東①白南}

 

 咲

 河:{南中⑧⑨}

 

(甘い打牌には、いまにもロンの声が掛かりそうな……)

 

 花田は、とくに目立つ南家()の河を推知する。

 

(萬子の染め手という線もありますが、たぶんそれよりも多面受けの形を決めて絞ったっぽいですね。とすると、どーせ{⑥}も{5}も最低あと一枚は持ってるのかなー。……なら)

 

 打:{5}

 

(――こっちでいってみる)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:12

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 5巡目

 照:{三四五②④⑥⑦⑦45678} ツモ:{⑦}

 

「……」

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:12

 

 

(当然の、)

 

 すかさず、花田が吼えた。

 

「ポン!」

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 6巡目

 花田:{三三四五六六七八⑤4赤5} ポン:{⑥⑥横⑥}

 

 打:{⑤}

 

(聴牌取りです!――この5800も、もらう!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:12

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 6巡目

 照:{三四五②④⑦⑦⑦45678} ツモ:{③}

 

(――今度は、邪魔させない)

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:12

 

 

花田さん(対面)照さん(上家)は、たぶんもう……)

 

 序盤から中盤に差し掛かるというタイミングで、早くも京太郎は退路が断たれつつある事を察知した。花田、照ともに聴牌気配が濃厚である。そしてこの巡目では、安全牌も十分に蓄えられていない。

 

(これはきついぞ)

 

 そして、

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 6巡目

 京太郎:{一二八九③④246西西發發} ツモ:{9}

 

(……どっちにも完全にアウトだな。{147と369}は満貫手でも聴牌()らねーかぎり絶対打てない)

 

 両名に対する本線の牌を引き当てて、京太郎はオンリを決心した。

 

(ちっくしょー)

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:12

 

 

 そして、咲もまた、

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 6巡目

 咲:{四赤五六1233778北北北} ツモ:{1}

 

 同巡に聴牌を果たした。

 

(――ん)

 

 打{8}で嵌張待ち――打点5200の聴牌である。場には{5}が二枚見えている。恐らくは赤を含む残り二枚も照と花田の手の内だと咲は察した。下の三色か、あるいは雀頭にでも据えられていなければ、さほど悪い待ちではない。

 

 打:{1}

 

 それを、咲はノータイムで自摸切った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 08:12

 

 

 月子が、弱った顔で池田に助けを求めた。

 

「解説。おねがい」

「たまには自分で考えてよ……」池田がげんなりと嘆息した。「まあ、教科書的に考えると、{69}の受けがなくなって危ないからじゃない? まァでもあたしならあれは聴牌とるな。{2}は2枚見えとはいえ、少なくとも親は引いても切るだろーし」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:13

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 7巡目

 花田:{三三四五六六七八4赤5} ポン:{⑥⑥横⑥} ツモ:{北}

 

(――くさいところだけど、気にしないっ)

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:13

 

 

(――ここ)

 

 咲は、

 

()()

 

 と、いった。

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 7巡目

 咲:{四赤五六1233778北} ポン:{北北横北}

 

 打:{7}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 08:13

 

 

 月子が、更に弱った顔で池田に助けを求めた。

 

「いけださん。なにあれ」

「あたしもアレはわかんねー……」

 

 池田が両手を挙げた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:13

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 8巡目

 花田:{三三四五六六七八4赤5} ポン:{⑥⑥横⑥} ツモ:{白}

 

 打:{白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:13

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 8巡目

 照:{三四五②③④⑦⑦45678} ツモ:{⑦}

 

「…………」

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:13

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 8巡目

 京太郎:{一二八九③④2469西西發} ツモ:{9}

 

(だから……うてねーっての)

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:13

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 8巡目

 咲:{四赤五六123378北} ポン:{北北横北} ツモ:{3}

 

(まず、いっかい)

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:13

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 9巡目

 花田:{三三四五六六七八4赤5} ポン:{⑥⑥横⑥} ツモ:{4}

 

(あ、あぶらっこーい!)

 

 打:{4}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:13

 

 

(受け損なった)

 

 上家の打牌を見るともなく見届けて、照は冷静にその結果を評価した。

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 9巡目

 照:{三四五②③④⑦⑦45678} ツモ:{一}

 

(さっきの{北}ポン――)

 

 猜疑の眼差しを、照は咲に向ける。

 勘所においては、ときに照さえ驚かせる冴えを見せる咲である。

 先刻の副露が、たんなる役牌の一鳴きだとは考えられない。

 とはいえ、

 

 ――この手が止められるわけがない。精々、1、2巡の延命でしかない。

 

 と、照は考える。待ちの広さや枚数などは二の次である。照の中の確信が、和了を確かに見通している。

 山に{369}は確実にいる。

 そして照は程なく自摸り、和了る。

 

 既定の結末は、咲といえども変えられない。

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:14

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 9巡目

 京太郎:{一二八九③④24699西西} ツモ:{2}

 

(……{2}? 通りそうではある。花田さんには安牌だ。でも、照さんにはどうか――どっちにしろ、かんたんには切れない。もう現物も残り少ない。……)

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:13

 

 

 胸が疼く。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:14

 

 

 そして咲は、その牌を引いた。

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 9巡目

 咲:{四赤五六233378北} ポン:{北北横北} ツモ:{3}

 

(これで、二回)

 

 先刻の{北}ポンによって花田の自摸筋を喰い取った――というほど、咲は各自の自摸を強く意識しているわけではない。彼女の感覚はそこまで明確に山を見通しているわけではない。特定の領域においては照を上回る精度を発揮することはあっても、総体的な鋭敏さでは、やはり照には及ばない。仮に{1233377}の形で受けていれば、照はその気配を察して8巡目に受けを替え、次巡花田の打{4}で和了っていただろう。

 

(これが、いまのわたしの、限界)

 

 そして、独力による抵抗はここで潰える。

 同巡、照は{9}を引く。そして勢いに乗って南場の親番を迎える。そして勝負はそのまま決する。

 このままであれば、その結末は避けられない。

 

(あとは、――賭けてみるしか、ないかな)

 

 咲は呼吸を整える。

 ただの一打に、これほど胸を弾ませるのはいつ以来か、ついぞ記憶が思い当たらない。

 

(いつか、そうしてたみたいに)

 

 咲は、その牌を河に置く。

 大仰な仕草や、わざとらしい目線は決して使わない。

 それをすれば、とても大切な何かが損なわれると感じていた。

 

 打:{2}

 

(また――わたしも)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:14

 

 

 ためらいの半秒があった。

 花田の手が山へ向かった。

 咲は少しだけ眉を下げて、結果を受け入れる準備を整えた。

 

 ――現実はこんなものだと、彼女は自分に向けて呟いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:14

 

 

「……ポン」

 

 と、京太郎が鳴いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:14

 

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 9巡目

 京太郎:{二八九③④4699西西} ポン:{22横2}

 

(隠してる心算でも、顔に出てるんだよ)

 

 迷いの末に、態々安全牌を2枚もどぶに捨て、京太郎は何の意味もないように見える牌を叩いた。

 内心には渋味と苦笑がある。けれどもかれは、その気色を億尾にも出さない。

 

(ポーカーフェイスもできねーくせに麻雀は強いとか、冗談じゃねえぞ)

 

 散々毒づきながら、

 

 打:{4}

 

 といった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:14

 

 

 胸の疼きが甘い。擽られているような感覚が、咲の腰骨から背筋を駆け抜ける。それは興奮に近しい感情である。咲は戸惑いながらも、その感覚を受け入れる。破れかぶれの祈念が見事に通じたその瞬間の快感が、思考を焼きつかせる。

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六})

 9巡目

 咲:{四赤五六333378北} ポン:{北北横北} ツモ:{9}

 

「カン」

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六}) 槓ドラ1:{二}(ドラ表示牌:{一})

 咲:{四赤五六789北} ポン:{北北横北} カン:{■33■}

 

 リンシャンツモ:{赤⑤}

 

 王牌から、咲は花を摘む。

 咲いたのは紅い花だった。

 それは太陽に向けて咲く紅い花だ。

 

「――カン」

 

 南一局一本場 ドラ:{七}(ドラ表示牌:{六}) 槓ドラ1:{二}(ドラ表示牌:{一})

 咲:{四赤五六789赤⑤} 加カン:{北北}{横北}({横北}) カン:{■33■}

 

 リンシャンツモ:{赤⑤}

 

「ツモ。――北、赤3、嶺上開花。2100・4100の3枚オールです」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:14

 

 

 【東家】花田 煌  :35800→31700(-4100)

     チップ:±0→-3

 【南家】宮永 照  :27800→23700(-4100)<割れ目>

     チップ:-2→-5

 【西家】須賀 京太郎:37900→35800(-2100)

     チップ:-2→-5

 【北家】宮永 咲  :-1500→ 8800(+10300)

     チップ:+4→+13

 

 

 



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19.ばいにんテール(八)

19.ばいにんテール(八)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:16

 

 

 南二局0本場

 【北家】花田 煌  :31700

     チップ:-3

 【東家】宮永 照  :23700<割れ目>

     チップ:-5

 【南家】須賀 京太郎:35800

     チップ:-5

 【西家】宮永 咲  : 8800

     チップ:+13

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室・キッチン/ 08:16

 

 

 照におかわりのココアを渡し終えてから、あらためて月子は呆然とした。

 

「なにあれ」

 

 目の前で起きた出来事が、眼球を通って脳に届き、咀嚼されて腑に落ちるまでたっぷり数秒を要した。

 瞬間の出来事だった。

 少なくとも京太郎が咲の打った牌を叩くまで、咲は完全に追い込まれていたのである。

 その趨勢が、一瞬で覆った。

 半ばオリていた体勢からの電撃的な和了を目の当たりにして、月子は喪心した様子で嘆息した。

 

「さすがに、あれはどうなのよ。連開花(レンカイホウ)からの五筒開花とか、出来すぎでしょう」

「おまえがいうなよって感じではあるけど、まァ、そうだねえ」

 

 半畳を入れる池田の面貌にも、驚愕が色濃い。

 彼女の言葉に月子は何度も頷く。

 古役において{⑤}は花に擬される。咲が当然のようにその牌を嶺上から引き和了った様子はあまりにも暗示的で、麻雀らしからぬ光景だった。

 ()()()()()()()

 月子が自身の特異性を棚に上げてそう零さざるを得ないほど、咲の和了は鮮烈だった。

 

「槓ドラが乗ってないのが幸いではあるけど、あれで必ずドラも乗りますとかだったらもう、手がつけられないわね。お姉さんよりどうしようもないわよ」

「槓する特徴のひとつがそれだから、そうなっても不思議じゃないけど。いまのところあの子の手牌、槓ドラが乗ったことはないね」

 

 呟いた池田が、伸ばした指を折り始める。

 

「東二の二本場は――{⑧}槓の嶺上は{5}。東三は{⑥}槓してツモ切りだったけど{7}。東四は大きいほう()が{⑤}槓してのツモ{4}。南一の0本場では須賀が{②}を邪魔槓してツモ{⑨}。で、南一の一本場、つまりいまが――{3}と{北}を槓して{赤⑤}を2枚を引いた。筒子がよく槓刻になってるけど、ぱっと見わかりやすい特徴はないね」

「……毎度思うんだけど、池田さんよくそんなん覚えてられるわね」

「え、これくらい須賀もできるよ? てかあいつも基本自分が打った譜面はおぼえてるよ。まああたしが覚えろっていったんだけど」

「まじでっ!?」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:16

 

 

 卓上にありえないことはない。どんな奇遇も起こりえるし、ときに奇跡に近い現象がひとつの卓で複数起きることもある。そうとわかっていても、京太郎は目前の事象に乾いた笑いをこぼすほかなかった。

 

(ありえない)

 

 と、かれは思った。

 宮永咲は、二連続で槓をした。嶺上開花で和了ってみせた。嶺上に埋もれていたのは、二枚とも{赤⑤}だった。待ちはタンキだった。

 つまり雀頭がない状態から都合三連続で自摸を行い、咲は一息に照と花田を抜き去ったのである。

 和了を構成する一連の流れの内、一つ一つは多少珍しい程度の要素でしかない。しかしそれらが全て連続したとなれば、もはや偶然や奇跡という言葉で言い表せる出来事では、それはない。

 咲の自摸には確信があった。端から嶺上にいる牌を知っているとしか思えない振る舞いだった。()()()と――だから出来たのだと、そう説明されればいっそ納得できると京太郎は思う。けれどもそれはあるまいとも思う。咲はただ道筋が見えていただけなのだ。恐らくは照の和了や回避と同じく、京太郎を含む大多数の人間には見えないものが見えているだけなのだ。

 一瞬で和了をもぎ取った張本人は、やや上気した顔で集めた点棒を手元に仕舞っている。

 

(槓刻ができやすい。槓材がどこにあるのかわかってる。嶺上にある牌がわかる――もしくは、嶺上をすれば和了れる。照さんほどじゃないけど、それなりの確かさでこっちの手牌や打点を読んでくる)

 

 その顔を眺めながら、京太郎は胸中で咲の個性を列挙した。

 

(このうち、どこまでが偶然で、どこからがそうじゃないのかはわかんねえけど)

 

 京太郎の肌が粟立つ。咲が披露したわかりやすい異常性が、かれの琴線に触れる。

 

(どっちかというと照さんより月子よりな感じだな。運が良ければ――まァ、ようするに()()()できればそれなりに抑えるかもしれない。逆にいえば、槓材がなけりゃどうしようもないってことなんだけど。聴牌入れた瞬間に槓材があったら即和了ってことだから――)

 

 南二局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 配牌

 京太郎:{三五九①②⑧⑧67東西中中}

 

(嶺上でしか和了れねーならひとりだけ12枚で麻雀やってるようなもんだし、たいしたことない。でも東二の三本場の和了形はふつうに平和(ピンフ)手だった。牌姿は{二三六七八①①①②③789}で{四}の出和了、河は{南①九白}の並び――つまり槓できる形を捨てたんだ。月子みたいな、()()()()()()()()()()()()()じゃない)

 

 習い性というべきか、配牌を整えつつ京太郎は咲の特徴に対する推理を進めていった。この場において、京太郎にとり咲だけは未知数の範囲が大きい要素である。

 京太郎が面子に花田と咲を選んだのは、たんなる手遊びではない。かれはかれなりに、己が宮永照に勝ち得る条件と状況を突き詰めた。その結果として選んだ面子とルールである。そんなかれが咲に期待したのは、照に対する直接的な抑止力だった。咲と交わしたわずかな会話で、少なくとも咲がある程度照を相手に立ち回る器量があることは伺えた。勝率についても幾度か確認した。咲は照との勝負に「勝ったことがない」とは言っていたけれども、それは所謂合計収支を基準にした場合の結果だった。局面においては(つまり一度の半荘の収支においては)、咲の着順が照を上回ることも、かつてはあったという。

 麻雀であれば、それは当然のことである。この偶然性が高い競技で永遠に連対し続ける人間がいれば、それはもはや怪物という言葉さえ生ぬるい埒外の存在である。少なくともプロフェッショナルに敗北を喫した現在の照がそうではないことは京太郎も心得ている。

 それでも、どこか危うく散漫なところがある咲が、照を一時的にでも上回るという事実は重い。先の対戦においては、京太郎も、片岡優希も、そして月子も、ついにはかなわなかった照からの勝利である。

 照と同等かはともかく、咲もまた彼岸の打ち手であった。そんな彼女を招くことには、当然リスクもあった。

 

(全員、おれより麻雀が巧いし強い。そういう卓だ)

 

 南二局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 照:{■■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{北}

 

(でも、いちばん実力がある奴が、いつだって勝てるわけじゃない――)

 

 親の照が一打する。

 相も変らぬ拍子である。

 彼女のリズムが変わるそのときが、京太郎は恐ろしくも待ち遠しい。

 

 南二局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 京太郎:{三五九①②⑧⑧67東西中中} ツモ:{一}

 

 打:{九}

 

(それも麻雀だ)

 

 南二局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 咲:{■■■■■■■■■■■■■}

 

「……?」

 

 一瞬、下家(シーチャ)である咲の摸打が滞った。

 彼女の目線は京太郎が切り出した牌に向いている。

 

(腰牌か?)

 

 ――結局、咲が何らかの行動を起こすことはなかった。山から牌を自摸り、

 

 打:{北}

 

 静かに三枚目の{北}を打った。

 

 南二局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 1巡目

 花田:{■■■■■■■■■■■■■■}

 

 打:{一}

 

 そして、次巡――

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:17

 

 

「ツモ」

 

 と、照がいった。

 

 南二局0本場 ドラ:{東}(ドラ表示牌:{北})

 2巡目

 照:{七八③③③⑦⑧⑨345南南} ツモ:{六}

 

「――500通し(オール)は割れ目で1000通し(オール)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:17

 

 

「は?」

 

 花田と京太郎の声が唱和した。

 

「な、なんでダブリーしないんですかっ。そうすれば――安全牌がなければ、やっぱり須賀くんが一発で{九}出したかもしれないのに」

 

 照の牌姿を目にした花田が、次いで言う。それはまったく京太郎の疑問でもあった。

 

(この局面でこの手をダマにする理由なんかねえぞ……実際一発ツモだ。裏次第じゃ一瞬でトップ目だったのに)

 

 その疑問に対する照の回答は、

 

「なんとなく」

 

 であった。

 

「あそこで曲げたら、和了れない気がしたから」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:17

 

 

(……すがくんの{九}をカンしてたらよかった、のかな?)

 

 咲:{六六六七八九九九①③235}

 

(――わかんないや)

 

 咲は無言で、手牌を伏せた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:17

 

 

 【北家】花田 煌  :31700→30700(-1000)

     チップ:-3

 【東家】宮永 照  :23700→26700(+3000)<割れ目>

     チップ:-5

 【南家】須賀 京太郎:35800→34800(-1000)

     チップ:-5

 【西家】宮永 咲  : 8800→ 7800(-1000)

     チップ:+13

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:18

 

 

 南二局一本場

 【北家】花田 煌  :30700

     チップ:-3

 【東家】宮永 照  :26700<割れ目>

     チップ:-5

 【南家】須賀 京太郎:34800

     チップ:-5

 【西家】宮永 咲  : 7800

     チップ:+13

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:18

 

 

(また照さんが割れ目)

 

 冷や水を浴びせられた心地で、京太郎は居住まいを正した。絶好のチャンスがたんなるノミ手になった。いまの照の和了をそう前向きに捉える気にはなれなかった。ここまで、相当の幸運と他家の力量によって抑え込んでいた照の和了が、ついに遂げられたのである。

 

(たぶん、二度目(ここ)をいかれたらまずい――)

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 配牌

 京太郎:{四[五]八①①④⑦⑧4東南西北}

 

(で、五向聴かよ。うまくいかねえなァほんと)

 

 配牌を一頻り眺めて、京太郎は内心苦笑する。

 

(無駄ヅモなしで聴牌入れたところで、こいつは追いつけないか……)

 

 かれは、意図的に呼吸を深くした。

 焦って視野が狭くなれば、それこそ勝ち目は薄くなる。

 

(――どうする)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:18

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 配牌

 照:{二三七九②②③⑤⑦899中中}

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:18

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 1巡目

 京太郎:{四[五]八①①④⑦⑧4東南西北} ツモ:{1}

 

(定石は打{1}(ツモ切り)だけど)

 

 かれは、山と下家()の手牌に、かすかに視線を送る。

 

 打:{東}

 

(また、こいつに和了ってもらう――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:18

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 1巡目

 咲:{二七②④⑥⑧⑨1122白發} ツモ:{白}

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:18

 

 

(さっきのは事故。そんなのわかってる。け、れ、ど――)

 

 背に張り付く悪寒を拭うように、花田はやや緩慢に牌を自摸った。

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 1巡目

 花田:{三六六[⑤]⑥24456889} ツモ:{發}

 

(わるくない。2向聴はむしろ良い。ですけれども……)

 

 打:{發}

 

(先行している気がしない――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:18

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 2巡目

 照:{二三七②②③⑤⑦899中中} ツモ:{①}

 

 打:{七}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:18

 

 

(愚形塔子落とし――面子候補はじゅうぶんって感じか)

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 2巡目

 京太郎:{四[五]八①①④⑦⑧14南西北} ツモ:{西}

 

(花田さんか、下家()から叩きたい)

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:18

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 2巡目

 咲:{二七②④⑥⑧1122白白發} ツモ:{3}

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 2巡目

 花田:{三六六[⑤]⑥24456889} ツモ:{7}

 

(すばらっ――急所解消!)

 

 打:{三}

 

(あとひとつっ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 3巡目

 照:{二三①②②③⑤⑦899中中} ツモ:{②}

 

「……」

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 3巡目

 京太郎:{四[五]八①①④⑦⑧14南西西} ツモ:{中}

 

({中}――{中}ねえ。まだ出てないな)

 

 京太郎は思案に暮れる。月子の教えのひとつに、『序盤における役牌の絞りなんて一人でするだけ無駄。ただし例外(わたし)を除く』というものがある。いちいちもっともではある。なんの制約もない局面で手組を窮屈にしてまで役牌を抑えるのは、現代的な定理からは愚策に分類される。

 けれども、何かが京太郎に自摸切りをためらわせた。

 とくに根拠はない。たんなる気分といって差し支えない。

 

(――打点的に照さんは今局二翻あたりを狙ってくるはずだ。速度を考えれば、いちばん手軽なのは役牌を叩くかタンヤオのドラ絡み……初巡に{東}を通しておいて、ここで止めるってのは、デジタル的にはハンパもいいところだけど――)

 

 打:{八}

 

 その判断が結果的に奏効だったとしても、それはただの偶然である。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 3巡目

 咲:{二七②④⑥⑧11223白白} ツモ:{三}

 

 打:{七}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 3巡目

 花田:{六六[⑤]⑥244567889} ツモ:{八}

 

(んー)

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 4巡目

 照:{二三②②②③⑤⑦899中中} ツモ:{7}

 

「――」

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

(止めたそばから……)

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 4巡目

 京太郎:{四[五]①①④⑦⑧14南西西中} ツモ:{③}

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 4巡目

 咲:{二三②④⑥⑧11223白白} ツモ:{東}

 

 打:{東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 4巡目

 花田:{六六八[⑤]⑥24456789} ツモ:{⑨}

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 5巡目

 照:{二三②②②③⑤⑦7899中} ツモ:{赤⑤}

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

(対子落としかよ。と、いうことは)

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 5巡目

 京太郎:{四[五]①①③④⑦⑧14南西西} ツモ:{北}

 

 打:{北}

 

(――そろそろか)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 5巡目

 咲:{二三②④⑥⑧11223白白} ツモ:{1}

 

({1}――槓材は、……すがくんの手かあ)

 

 打:{⑧}

 

(この巡目で出てないなら、たぶん使われちゃってる)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 5巡目

 花田:{六六八[⑤]⑥24456789} ツモ:{赤5}

 

(ふむ。一通は消えるけど――これはこれですばら)

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

(京太郎が“3”)

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 6巡目

 照:{二三②②②③⑤赤⑤⑦7899} ツモ:{⑥}

 

(咲が“2”)

 

 打:{③}

 

上家(シャンチャ)のひとが“1”)

 

 照は眼を細める。

 

(なんだろう)

 

 彼女の眼球に閃く像がある。

 

(鏡みたいなものが――みえる気がする)

 

 その鏡面は、未だ真白で、何も映していない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 6巡目

 京太郎:{四[五]①①③④⑦⑧14南西西} ツモ:{七}

 

(あんたから対子落としの上に尖張牌がこぼれたなら)

 

 照

 河:{九七①中中③}

 

 京太郎

 河:{東北八中北}

 

 咲

 河:{⑨發七東⑧}

 

 花田

 河:{發三8⑨2}

 

(もう聴牌入れたと思うことにするよ)

 

 照への警戒を深めながら、京太郎は牌を自摸切った。

 

 打:{七}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

(ここで)

 

 その牌を引いた咲の眉が、わずかにひそめられた。

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 6巡目

 咲:{二三②④⑥111223白白} ツモ:{9}

 

(この生牌(ションパイ)――たぶん危ない、けど、まだ6巡目、だけど――どうしよう)

 

 これまでの普段なら、抱えて沈む牌だった。

 照に対して、一般的な巡目による推量など無意味である。

 骨の髄まで宮永照と相対することの意味を知る咲だ。

 楽観が招く連鎖的な均衡の崩壊を、彼女は何度も体験してきた。

 経験則と感性の、いずれかが危険だと訴えたならば、まだ間に合う可能性はある。

 けれども経験則と感性の双方が警鐘を鳴らすならば、それに逆らうのはただの無謀でしかない。

 

(経験があぶないっていってる)

 

 咲は自問し、

 

()()

 

 咲は自答した。

 

()()()()()()()は、まだ通るって、思ってる)

 

 打:{9}

 

(――なら打つよ。打って、勝負する)

 

 咲が打った牌に対して、だれの声も上がらない。

 

 安堵よりも強く咲のからだを駆けるのは、昂揚だった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:19

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 6巡目

 花田:{六六八[⑤]⑥44赤556789} ツモ:{西}

 

(おや、生牌)

 

 打:{西}

 

(ま、この手で抑えるとかないですけどー)

 

 軽々と打たれた西に、

 

「その{西}――ポンだ」

 

 京太郎の発声が掛かった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:20

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 7巡目

 京太郎:{四[五]①①③④⑦⑧14南} ポン:{西横西西}

 

 打:{③}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:20

 

 

 照:{二三②②②⑤赤⑤⑥⑦7899}

 

(京太郎)

 

 自摸番を飛ばされた照は、とくに素振りも変えずに、おかわりのココアに口をつけた。

 

(少しいじわるになった)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:20

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 7巡目

 咲:{二三②④⑥111223白白} ツモ:{白}

 

(間に合って――)

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:20

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 7巡目

 花田:{六六八[⑤]⑥44赤556789} ツモ:{九}

 

(むぐっ)

 

 打:{九}

 

(――あとひとつなのに、聴牌がとおいっ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:20

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 8巡目

 照:{二三②②②⑤赤⑤⑥⑦7899} ツモ:{⑧}

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:20

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 8巡目

 京太郎:{四[五]①①④⑦⑧14南} ポン:{西横西西}

 

(もうがんばれねえぞ。安牌増やしてくれ――)

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:20

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 8巡目

 咲:{二三②④⑥11123白白白} ツモ:{⑤}

 

(――はいった!)

 

 聴牌を入れる牌を引いて、咲は静かに手元に置いた。

 

({白}は、山にいる。このままなら次にお姉ちゃんが引く――立直は掛けられない。だったら、ここは、他のヒトから出ても、和了る)

 

 打:{②}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:20

 

 

 照が静かに息を吐いた。

 嘆息に近い音程だった。

 

「カン」

 

 と、彼女はいった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:20

 

 

「――――え?」

 

 咲が呆然と、対面の照を見返した。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:20

 

 

 南二局一本場 ドラ:{四}(ドラ表示牌:{三})

 9巡目

 照:{二三⑤赤⑤⑥⑦⑧789} カン:{②②横②②}

 

嶺上(そこ)が見えなくても)

 

 四枚の{②}を場に晒して、

 

()()()()()()()()()()()()、牌は透ける)

 

 照が、嶺上牌へ手を伸ばした。

 

(この卓のうえに、独り占めできる場所なんてないんだから)

 

 リンシャンツモ:{一}

 

「――ツモ。1100通し(オール)は、割れ目で2100通し(オール)の一枚オール」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:21

 

 

 【北家】花田 煌  :30700→28600(-2100)

     チップ:-3→-4

 【東家】宮永 照  :26700→33000(+6300)<割れ目>

     チップ:-5→-2

 【南家】須賀 京太郎:34800→32700(-2100)

     チップ:-5→-6

 【西家】宮永 咲  : 7800→ 5700(-2100)

     チップ:+13→+12

 

 



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20.ばいにんテール(九)

20.ばいにんテール(九)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:21

 

 

 【北家】花田 煌  :28600

     チップ:-4

 【東家】宮永 照  :33000<割れ目>

     チップ:-2

 【南家】須賀 京太郎:32700

     チップ:-6

 【西家】宮永 咲  : 5700

     チップ:+12

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:21

 

 

 ――照がトップに立った。その事実が須賀京太郎を動揺させることはない。照の優勢は必然である。彼女は勝つべくして勝ち、和了るべくして和了る。照の勝利に偶然は介在しない。少なくとも結果はそのように目に映る。宮永照の特異性はまさにその点にある。京太郎はそう解釈している。

 

(強い。強い。ほんとうに)

 

 照と相対すると震えが走った。それはたぶん、発奮ではなく畏怖に由来する震えだった。()()()()の振る舞いは、とうてい、京太郎がとらえる麻雀の像にそぐわない。山を読み手牌を透かし待ちをかわして和了(アガリ)をさらう。自摸は確信と共に行われ、副露は当然のように他家の当たり牌を喰い流し、無様な放銃など滅多なことでは起こさない。慮外の異能を駆使して、条件が揃えば即座に牌を倒す。

 

(ばかげてる)

 

 と、京太郎は思う。

 

(そんな人間がいるものか)

 

 と、京太郎は思う。

 麻雀という領域における、それは偶像である。誰もが思い描く空想めいた強者の要素を並べて集めて固めれば、それはすなわち照になる。

 かつて、初めて照と打ったときにはわからなかったことが、いまの京太郎にはわかる。

 論理と統計と確率をはるか眼下に差し置いて、彼女らは、京太郎には届かない場所へ手を掛けていた。

 

(こんな連中が、いるものか――)

 

 シバ棒を場に積み開門の賽を振る照を、京太郎は凝視する。

 

()()()()()()ぜ、照さん)

 

 惻隠の情と呼ぶほど大仰なものではない。器量や身の丈にそぐうか否かは別として、とにかく京太郎はそう感じた。照は強い。疑う余地はない。その強さは、けれども京太郎の目にはどこか作為的に見える。経験や才能といった当たり前の裏打ちが、ふつうは強さを形作る。照にそれがないというのではない。照が強者の条件を満たしていないわけではない。彼女は十分に強い打ち手である。

 しかしそれにしても、照の強さは度を越えつつあるように、かれは思う。いまはそうではなくとも、遠くない未来で彼女は()()()()()()()()のではないかと京太郎は危惧している。

 

(まるで)

 

 回った賽が目を示す。

 南二局二本場の開門は、みたび照の山となった。

 

(――勝たされてるみたいじゃないか)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:21

 

 

 南二局二本場

 【北家】花田 煌  :28600

     チップ:-4

 【東家】宮永 照  :33000<割れ目>

     チップ:-2

 【南家】須賀 京太郎:32700

     チップ:-6

 【西家】宮永 咲  : 5700

     チップ:+12

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:22

 

 

 照は眼を凝らす。

 息をひそめて耳を澄ませる。

 見逃してはいけない何かや、聞き漏らしてはいけない何かをとらえようとするように。

 

 極めて敏感な彼女の感覚を、先刻から遠慮がちに叩くものがある。ある種の予感に、それは近い。対面に座る()()()()から輻射される熱が、高まるにつれその予感は確信へ迫っていく。

 

(咲)

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 配牌

 照:{[五]五八九①⑧⑧⑨⑨2788東}

 

(咲――)

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:22

 

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 1巡目

 京太郎:{七②④⑤⑥⑧12南西北白白} ツモ:{東}

 

 打:{西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:22

 

 

 刺すような視線を、対面から感じた。

 

(お姉ちゃん……)

 

 咲は気が強い少女ではない。他者との争いは数ある苦手な分野のうちのひとつである。そんな彼女を指向する照の瞳はとても(つよ)い。妥協や容赦がない。冷たく鋭く尖っている。

 どこかに熱を誘うような妖しさを孕んでいる。

 このとき、咲は不思議と自然体でその目を見返すことが出来た。

 

 照の面貌は常と変わらない。表情筋は緩みを見せない。その気になればいくらでも浮かべられる笑顔を、照はあまり積極的につくろうとはしない。愛想はある。けれども照は寡黙である。笑顔の効能も知っている。けれども照はあまり、笑わない。

 時と場合に応じていくらでも顔を使い分ける彼女の器用さを、羨んだこともある咲だ。けれども照のそれがある種の副産物であることを気取ってからは、あまり積極的に憧れることもなくなった。

 いつからか、照は咲とのあいだに線を引いた。

 咲も同じだった。

 

 むかし、ふたりはそれなりに仲の良い間柄だと、咲は思っていた。

 

 改めて確認したことなどなかったけれども、それはたんに疑うに値しないからだった。他者はいざ、まさか照その人に隔意を持たれている可能性など、咲は想像したことさえなかった。

 

(――お姉ちゃん)

 

 切欠はある。明確にある。しかしそれは決定的に箍を外した事柄でしかない。咲の中で前々から不安を食べて育っていたそれが最初に産まれたのはいつだっただろう? 何かの小説を読んでいたときかもしれない。太陽が眩しかったからかもしれない。暑過ぎたか寒過ぎたせいかもしれない。とにかく()()は咲の中にいた。いつのまにか心の片隅で、背を丸めてひっそり息衝いていた。

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 1巡目

 咲:{二五六七①②④[⑤]336南中} ツモ:{5}

 

 咲の中には、照への負い目がある。

 昏く重いその感情の名は、嫌悪である。

 

 打:{二}

 

 宮永咲は、宮永照をおそれている。

 照はそれを察して、咲から距離を置いた。

 

 咲はそして、照との接し方がわからなくなってしまった。

 

 そのことに向き合うために、咲は今日この場所に来た。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:22

 

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 1巡目

 花田:{一二三三七九③67北北發中} ツモ:{②}

 

(仕掛けても1000点の手――)

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:22

 

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 2巡目

 照:{■■■■■} ({■}){■■■■■■■■}

 

 打:{①}

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 2巡目

 京太郎:{七②④⑤⑥⑧12南北白白} ツモ:{四}

 

 打:{北}

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 2巡目

 咲:{■■■■■■■■■■■■■} ({■})

 

 打:{中}

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 2巡目

 花田:{■■■■■■■■■■■■■} ({■})

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:22

 

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 3巡目

 照:{■■■■■■■■■} ({■}){■■■■}

 

 打:{⑨}

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 3巡目

 京太郎:{四七②④⑤⑥⑧12南白白} ツモ:{9}

 

 打:{9}

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 3巡目

 咲:{■■■■■■■■■■■■■} ({■})

 

 打:{南}

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 3巡目

 花田:{■■■■■■■■■■■■■} ({■})

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:22

 

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 4巡目

 照:{■■■■■■■■■■■■■} ({■})

 

 打:{東}

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 4巡目

 京太郎:{四七②④⑤⑥⑧12南白白} ツモ:{3}

 

(急所が埋まった)

 

 打:{南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:22

 

 

 4巡目、咲の自摸番、

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 4巡目

 咲:{■■■■■■■■■■■■■} ({■})

 

 打:{8}

 

 ツモ切りである。

 ――河に置かれたその{8}に、ポンの声が掛かった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:22

 

 

「ポン」

 

 と、照がいった。

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 5巡目

 照:{■■■■■■■■■■■} ポン:{8横88}

 

 打:{7}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:22

 

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 5巡目

 京太郎:{四七②④⑤⑥⑧123白白} ツモ:{九}

 

({8}ポンの打{7}――)

 

 上家()の仕掛けを確り脳裏に織り込んで、京太郎は手牌を前に小考する。

 

(まァ、{788}からの仕掛けだ。それはいい。問題は打点だ)

 

 照

 河:{⑨①⑨東7}

 

 京太郎

 河:{西北9南}

 

 咲

 河:{二中南( 8 )}

 

 花田

 河:{中發9}

 

(前局は嶺上赤いちの2900(1000オール)――今局も割れ目ってことは3900から5800を狙ってくるはずだ。タンヤオにドラを絡めてるか、もしくは混一色か……って、河をすなおに読むと、思うんだろう)

 

 打:{②}

 

(そんなかんたんな相手なら、苦労はねえんだけどなァ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:23

 

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 5巡目

 咲:{■■■■■■■■} ({■}){■■■■■}

 

「――……」

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:23

 

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 4巡目

 花田:{■■■} ({■}){■■■■■■■■■■}

 

 打:{三}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:23

 

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 6巡目

 照:{■■■■■■■} ({■}){■■■} ポン:{8横88}

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:23

 

 

{2}(ドラ)

 

 京太郎は、毎度のことに唇をゆがめた。

 

(はえぇンだよ、だからよぉ――)

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 6巡目

 京太郎:{四七九④⑤⑥⑧123白白} ツモ:{2}

 

(おれも、ドラ)

 

 半秒ほども胡散臭げにその牌を眺めると、かれは嘆息と共にツモ切った。

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:23

 

 

 京太郎が牌を打った。その様を、咲は思わしげに見届ける。

 すわ腰牌かと、京太郎は思う。

 ――けれども、どうやらそうではない。

 咲の瞳には焦点がない。京太郎が照に合わせ打った二枚目の{2}(ドラ)は、咲の関心の向き先ではないようだった。彼女の注意は場のもっと深い部分に向いていた。

 

「……」

 

 数秒ほども間があった。京太郎が訝りの視線を向けると、咲は意外なほど敏捷に山へ手を伸ばし、

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 6巡目

 咲:{■■■} ({■}){■■■■■■■■■■}

 

 打:{①}

 

 すぐさま手出しした。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:23

 

 

(イヤーな間が……)

 

 顔をしかめて、花田は牌を山から自摸った。

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 5巡目

 花田:{一二三七九①②③467北北} ツモ:{六}

 

(両面に受け替えできますが……下家(シーチャ)がちょっと聴牌気配)

 

 照

 河:{⑨①⑨東72}

 

 京太郎

 河:{西北9南②2}

 

 咲

 河:{二中南( 8 )1①}

 

 花田

 河:{中發9三}

 

(親の河はぜんぶ手出し。ドラまで吐き出して、これでテンパってないってのはあまえすぎかなぁ。さて、でも……ここでオリきるのもむりがあるしなー)

 

 花田:{一二三六七九①②③467北北}

 

(まぁ、さすがにここは)

 

 打:{九}

 

(とおるでしょう!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:23

 

 

「ロン」

 

 と、照がいった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:23

 

 

 南二局二本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 照:{五[五]七八八八八⑧⑧⑧} ポン:{8横88}

 

 ロン:{九}

 

「5800の割れ目は11600――二本場は12200の一枚」

「うえええ!?」花田が狼狽した声をあげた。「まっじですかっ。そんな待ち!?」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:24

 

 

 南二局二本場

 【北家】花田 煌  :28600→16400(-12200)

     チップ:-4→-5

 【東家】宮永 照  :33000→45200(+12200)<割れ目>

     チップ:-2→-1

 【南家】須賀 京太郎:32700

     チップ:-6

 【西家】宮永 咲  : 5700

     チップ:+12

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:24

 

 

 咲:{五六七②③④⑤33456九}

 

「……」

 

 ぱたん、と、咲は軽い音と共に手牌を伏せた。

 

 咲:{■■■■■■■■■■■■■}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:24

 

 

 宮永照の親番が三本場を迎える。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:24

 

 

 サイコロボタンを押下する照の指を、京太郎はじっと見詰めた。ここまで、照の割れ目が三度続いている。偶然であれば出来すぎている。あるいはこれもまた()()()()()()の範疇かもしれないと、ふとかれは疑念する。その疑義が真実に迫っていた場合、京太郎の数少ない(ほんとうに数少ない)勝ち目はいよいよ絶望的になるだろう。

 

(東場を見た限り、そうじゃない。そうじゃないはずだ――)

 

 はたして、照が出した賽の目は、

 

 南二局三本場

 【北家】花田 煌  :16400

     チップ:-5

 【東家】宮永 照  :45200

     チップ:-1

 【南家】須賀 京太郎:32700

     チップ:-6

 【西家】宮永 咲  : 5700<割れ目>

     チップ:+12

 

 ――"一・六"だった。

 

 京太郎は、少しだけ、唇を吊り上げた。

 

 




2013/4/15:手牌修正


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21.ばいにんテール(十)

21.ばいにんテール(十)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:25

 

 

 南二局三本場

 【北家】花田 煌  :16400

     チップ:-5

 【東家】宮永 照  :45200

     チップ:-1

 【南家】須賀 京太郎:32700

     チップ:-6

 【西家】宮永 咲  : 5700<割れ目>

     チップ:+12

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:25

 

 

(照さんが、割れ目から外れた)

 

 淡々と山から配牌をとりながら、京太郎は脳裏で計算を進める。

 

(照さんの今日の和了は全部自分の親番だ。――東二の0本場で500オール、一本場で2900を花田さんから直、二本場で割れ目になっておれから7800――つまり3900を直取り。そのあと満貫以上の手を作ろうとして、親を逃がした。南二はここまでずっと割れ目で、和了の内訳は3000(1000オール)6000(2000オール)、そして11600。翻は1、2、3ときてるけど、打点だけを見ると割れ目が消えたこの局は満貫(12000)以上の手を作ってくるはずだ。積み棒を含めてるのかどうかわかんねーけど、それも含めるなら跳満(18000)以上――いくらなんでも、狙ってかんたんに仕上げられるモンじゃない)

 

 四家に牌が行き渡る。

 

(照さんがどうかは、まァ、わからねえ。けど月子みたいに()()()()()()()()()()()()()っていうなら、問題はそいつが何をもとに決まってるかだ)

 

 かれは沈思する。

 

(たとえば、こう考える――局が始まった時点で、山には照さんがその局で和了るべき『()()』が埋められてる。下山・上山・中筋・外筋――そいつはたぶん、一本道じゃない。いろんなところに材料は埋まってる。照さんはそれを掘り当てる。場況に合わせて自摸筋を変える。基本的には浅いところに最終形がいるんだろうが、照さんはその道筋を心得てる。道は途中で枝分かれしてるけど、スタートとゴール(打点)は変わらないんだ。が――)

 

 配牌を開く。

 

(割れ目は卓の外のルールだ。チップもそうだ。前局の和了は三色同刻に赤いちの30符3翻ちょうどの5800――でも実質的には11600に積み棒でプラス600に赤祝儀でプラス2000で、照さんの正味の収支は実際の打点より8400点も多くなってる。貰った点棒と手牌の完成形がつりあってねえんだ。そいつに、どこまでついていける?――この局の山は、たぶん照さんが4翻を和了る山だ――でも照さんは、40符4翻か5翻、もしかしたら6翻以上を作らなくちゃならない。そこには、ひょっとしたら、付け入るスキがあるかもしれない)

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 配牌

 京太郎:{赤五七八①②⑥⑨789南白中}

 

 手牌を一目して、京太郎は大方の手順を思い描いた。面前三色の目は真っ先に除外した。この局の主題は、何を置いてもまず照より先に和了ることである。

 次に照の和了を許せば、このルールにおいても逆転の目は限りなく小さくなる。

 そのための指針さえ、仮定に仮定を重ねて希望的観測を混ぜ合わさなければならない現状だ。

 

(馬鹿馬鹿しいとは思う。実際にこの牌が積まれたのは前局の途中だし、割られる山の位置だってサイコロ振って始めて決まるんだ。照さんが前局何点で和了るかなんて、機械が前もって知ってるわけもねえ)

 

 いかにも苦しい論理の展開に、京太郎は内心苦笑する。

 

(ま、結局、おれにできるのは、教わった通りに手を進めることだ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 1巡目

 照:{二八①③④⑨334688南北}

 

「……」

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 1巡目

 京太郎:{赤五七八①②⑥⑨789南白中} ツモ:{⑧}

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

「ふぅ」

 

 と、宮永咲は息を吐く。

 

(――あつい)

 

 と、彼女は思う。気づけば薄っすら、背筋が汗ばんでいる。布地が肌に張り付く不快感を感覚の隅に追いやりながら、彼女は山から牌を引く。

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 1巡目

 咲:{七九①③赤⑤⑦357東東南西} ツモ:{9}

 

(ひどい……配牌……だけど)

 

 浮かされるように、彼女は河に打つ牌を選ぶ。

 

 打:{南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

(やっばいなー。おっきいの振り込んじゃった……)

 

 ひとり馬群から離された感のある花田に、焦りが忍び寄っていた。

 

(これ以上は打てない。とはいえ、守りに入ってなにかいいことあるわけもない――)

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 1巡目

 花田:{一一二五六七②②⑤⑤114} ツモ:{發}

 

(チートイの2向聴――ドロヌマな気もするものの、いまは早さより打点がほしいし、横も見切りたくないっ)

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 その自摸を、

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 2巡目

 照:{二八①③④⑨334688南} ツモ:{②}

 

 目にした照の眉目が、刹那硬直した。

 

「――」

 

 打:{南}

 

 文字通り瞬間の停滞だった。傍目に異常が感じ取れるほど露骨な動作もなかった。照はすぐさま手牌から不要牌を抜き、変わらぬ無表情で河へ牌を置いた。

 彼女の仕草に、気づいたものはいなかった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 2巡目

 京太郎:{赤五七八①②⑥⑧⑨789南白} ツモ:{⑥}

 

 打:{南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 2巡目

 咲:{七九①③赤⑤⑦3579東東西} ツモ:{4}

 

 打:{西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 2巡目

 花田:{一一二五六七②②⑤⑤114} ツモ:{5}

 

(そこがくるなら――)

 

 打:{1}

 

(路線へんこう!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 3巡目

 照:{二八①②③④⑨334688} ツモ:{三}

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 3巡目

 京太郎:{赤五七八①②⑥⑥⑧⑨789白} ツモ:{白}

 

(三色は偶然役――ってな。ここまでだ)

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 3巡目

 咲:{七九①③赤⑤⑦34579東東} ツモ:{五}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 3巡目

 花田:{一一二五六七②②⑤⑤145} ツモ:{⑦}

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 4巡目

 照:{二三八①②③④334688} ツモ:{六}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:26

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 4巡目

 京太郎:{赤五七八①②⑥⑥⑧789白白} ツモ:{六}

 

({八}……?)

 

 京太郎:{赤五六七} ({八}){①②⑥⑥⑧789白白}

 

(――いや)

 

 打:{⑧}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 4巡目

 咲:{五七九③赤⑤⑦34579東東} ツモ:{④}

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 4巡目

 花田:{一一二五六七②②⑤⑤⑦45} ツモ:{北}

 

「あうっ」

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 5巡目

 照:{二三六八②③④334688} ツモ:{九}

 

「……」

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

(ツモ切りね)

 

 上家(シャンチャ)の動向に気を払いつつ、京太郎は牌を自摸った。

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 5巡目

 京太郎:{赤五六七八①②⑥⑥789白白} ツモ:{七}

 

(1向聴――白が出れば叩いて打{①}で3900の聴牌、取るか? {⑥}引いたら曲げるか? めくりあいになったら勝てる気がしねえぞ――)

 

 打:{②}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 5巡目

 咲:{五七九③④赤⑤34579東東} ツモ:{四}

 

 打:{七}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 5巡目

 花田:{一一二五六七②②⑤⑤⑦45} ツモ:{北}

 

(またぁ!? チートイならシャンテンだったのに……すばらくない!)

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 6巡目

 照:{二三六八②③④334688} ツモ:{2}

 

(――)

 

 打:{3}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 6巡目

 京太郎:{赤五六七七八①⑥⑥789白白} ツモ:{③}

 

(……やっちまったか)

 

 瞭然の裏目をしげしげと眺めると、京太郎は嘆息を落として自摸切った。

 

 打:{③}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 6巡目

 咲:{四五九③④赤⑤34579東東} ツモ:{東}

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 6巡目

 花田:{一一二五六七②②⑤⑤⑦45} ツモ:{中}

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 7巡目

 照:{二三六八②③④234688} ツモ:{7}

 

 打:{八}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:27

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 7巡目

 京太郎:{赤五六七七八①⑥⑥789白白} ツモ:{發}

 

({發}――)

 

 眉根を寄せると、京太郎は河を見渡した。

 

 照

 河:{北南⑨①九3}

   {八}

 

 京太郎

 河:{中南⑨⑧②③}

 

 咲

 河:{南西①⑦七九}

 

 花田

 河:{發11北北中}

 

(――1巡目に切れたきりかよ。ちょっと怖えな)

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:28

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 7巡目

 咲:{四五③④赤⑤34579東東東} ツモ:{發}

 

 打:{發}

 

 咲の所作に、ためらいは皆無だった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:28

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 7巡目

 花田:{一一二五六七②②⑤⑤⑦45} ツモ:{⑥}

 

(よーやく……でも、ちょっと、遅い、かも)

 

 打:{⑤}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:28

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 8巡目

 照:{二三六②③④2346788} ツモ:{⑥}

 

「……」

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:28

 

 

(――{⑥}が、出ちまったか)

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 8巡目

 京太郎:{赤五六七七八⑥⑥789白白發} ツモ:{九}

 

(おまけに聴牌)

 

 打:{發}

 

(曲げれば高目満貫だけど――)

 

 京太郎は、(ダマ)を選択した。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:28

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 8巡目

 咲:{四五③④赤⑤34579東東東} ツモ:{6}

 

(広い聴牌。三色もある――)

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:28

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 8巡目

 花田:{一一二五六七②②⑤⑥⑦45} ツモ:{西}

 

(フオンな{西}――自風のひとが早々捨ててるし、単に山かな? 待ち頃な牌ではあるんですが)

 

 打:{西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:28

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 9巡目

 照:{二三六②③④2346788} ツモ:{5}

 

 9巡目に、照に聴牌が入った。曲げれば高目満貫、自摸れば跳満まで見える。

 

{一}(低目)を引いたら、和了れない――ドラ表示牌の高目を、引いてようやくこの手は成就する。けれど)

 

 照は、

 

「――立直」

 

 寸毫の迷いもなく、牌を曲げた。

 

()()()()()()()()()()()()、関係はない)

 

 打:{六}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:29

 

 

 その宣言を受けて、

 

(何でもかんでも、)

 

 照

 河:{北南⑨①九3}

   {八⑥( 六 )}

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 京太郎: ({赤五}){六} ({七}){七八} ({九}){⑥⑥789白白}

 

 京太郎が即座に鳴いた。

 

「チー」

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 9巡目

 京太郎:{六七八九⑥⑥789白白} チー:{横六赤五七}

 

 打:{九}

 

(――思い通りに引けると思うなよ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:29

 

 

({六九}はもう京太郎の手の内で足りているはずだった――)

 

 一翻と共に河から奪われた牌と、京太郎の手牌を注視して、照はすこしだけ、目を瞠った。

 

(聴牌からの一発消し出来面子チー……そんなに大したことじゃないけど)

 

 それから彼女は、頬を緩めた。

 ――場違いと知りつつ、手つきさえ覚束なかったあの夏のかれを思い出した。

 

(上手になった。ほんとうに)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:29

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 9巡目

 咲:{四五③④赤⑤34567東東東} ツモ:{一}

 

(すがくんが、引いてたこの牌……ドラ表示牌の筋で生牌。場に{一二三四}の関連牌はまるで見えてないし――たぶん、あたり。家なら、ぜったいに打たない牌だよ。だけど……)

 

 咲は、つかの間、逡巡した。

 {3}(安全牌)は一枚きりである。そしてここでその牌を打つことは、手を崩すに等しい。

 

(お姉ちゃんの手が――)

 

 すいません、とか細い声で断って、咲は瞳を閉じた。

 

(123の三色なら、終わり。234なら……もしかしたら)

 

 ここで{一}を自摸切る麻雀は、あるいは『宮永咲』に相応しい麻雀かもしれない。

 それは、調()()のための放銃である。

 

(123――234。ふたつに、ひとつ)

 

 あたり牌を知ってそれを手放すことを、これまで咲は何度も繰り返した。

 

 収支を差し引きゼロとするためであれば、役満も和了らず崩した。勝利で買う叱責や、敗北で生まれる出費を、咲は心から厭う。柔弱なおのれの気性が、苦で仕方ないこともあった。

 

 理不尽に対して癇癪を起こせばよかった。そう咲は何度となく思った。けれども実行に移せたことはただの一度もなかった。いつだって、彼女の胸にはたくさんの言葉が満ちていた。そしてその万分の一も、咲の口から落ちることはなかったのである。

 家族麻雀のあと、腑に落ちない気分で枕に顔をうずめて、ふいに涙を零したこともあった。それが咲自身意外だった。誓って、彼女はのめり込むほど麻雀を好んでいたわけではない。麻雀は彼女にとってあくまで交友のツールだった。打てばだれかが彼女の代わりに喜んだ。それは何も麻雀である必要はなかった。家族と、姉と、遊ぶことが咲の望みだった。笑顔が欲しかった。褒美が欲しかった。頭を撫でる手が欲しかった。

 それが消えた。

 だから価値もなくなったのだ。

 咲は麻雀を拒んだのだ。

 

 それでよかった。

 そう思っていた。

 あるいはそう思い込んでいた。

 

(天国と地獄――)

 

 何をしても中の下の自分が、他者に勝れることも、少しは嬉しかったのかもしれない。結局照には及ばなかったけれども(少なくとも咲は心からそう信じている)、照に追いすがっている感覚は、咲の自尊心を少しならず満たしたかもしれない。それを懐かしく思っていることは否定できない。

 かつて、麻雀を楽しく思った。

 それを否定することはできない。

 

 そして、いま、咲は握った牌を茫洋と見つめる。周囲から催促の声はない。(早くきらなくちゃ)と彼女は思う。(でも、なんのために?)と彼女は思う。(ささるかな)と彼女は思う。(ささるにきまってるよ)と彼女は思う。(なんでオリないのかな)と彼女は思う。彼女は{一四}が照の和了牌であることを九割がた確信している。(ほかの牌を切ればいいんだよ)と彼女は思う。(でもそれじゃ手が死んじゃうよ)と彼女は思う。(それなにかだめなんだっけ)と彼女は思う。(いままで何回もしてきたのに?)と彼女は思う。思考が巡る。なぜこの{一}を切るか否かで自分が悩んでいるのか、咲にはわからない。切れるはずがない。高目安目など関係がない。これは照に刺さる。それは無様なことだ。もう勝利の目はない。ここで和了れなければやはりほとんど勝利は適わないが、それがどうしたというのだろう。リスクを負ってこの牌を通す利益などない。なのに咲の、指も手も腕も身体も頭も思考も心も{一}を河に打とうとしている。(あれ、それじゃあ)と彼女は思う。

 

(なにが、この手を止めるのかな)

 

 止めるものは何もない。

 そのことに気づいたから、

 

 打:{一}

 

 咲は牌を静かに河へ置いた。

 

 照の手牌は、倒れなかった。

 

 その瞬間を認知した咲の全身に、ふるえが走った。

 

(――っ)

 

 咲の腰骨から背骨を電流が走る。それは延髄を通り抜けて頭蓋を浸す。甘く痺れるような感覚がこめかみから顔、首を廻って全身へ広がっていく。

 

(――ぁっあっ、ぁ)

 

 視界が鮮明になる。

 体の熱はそのままに、思考が一気に冷却される。

 感覚が拡張される。

 絶え間なく感じていた照からの圧迫が、和らいだ。

 

(――た、)

 

 咲は、この日はじめて、陽性の笑みを浮かべた。

 

(楽しい――!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:30

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 9巡目

 花田:{一一二五六七②②⑤⑥⑦45} ツモ:{白}

 

(フ――終了)

 

 生牌を引いた花田は、ここにいたってオリを決意した。

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:30

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 10巡目

 照:{二三②③④23456788} ツモ:{二}

 

「――」

 

 打:{二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:30

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 10巡目

 京太郎:{六七八⑥⑥789白白} チー:{横六赤五七} ツモ:{四}

 

(さすがに、こいつは無理だ――)

 

 京太郎もまた、花田に次いで戦線から離脱した。

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:30

 

 

 そして。

 

(お姉ちゃん)

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 10巡目

 咲:{四五③④赤⑤34567東東東} ツモ:{五}

 

 宮永咲は、息を深く吸った。

 

(お姉ちゃん――)

 

 宮永照を、真正面から見据えた。

 

「――――とおるなら」

 

 打:{四}

 

「立直」

 

 照は何も言わない。

 牌が倒れることもない。

 

(――勝負だよ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:30

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 10巡目

 花田:{一二五六七②②⑤⑥⑦45白} ツモ:{南}

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:31

 

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 12巡目

 照:{二三②③④23456788}

 

 ためらいも、焦燥も、照にはなかった。

 ただ牌運を粛々と受け入れる厳正さだけが、彼女の顔にある色らしい色である。

 

(――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:31

 

 

 ツモ:{8}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:31

 

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:31

 

 

「ロン……」

 

 信じられないものを見るように、ただし確固たる声で、咲は宣言した。

 

 南二局三本場 ドラ:{五}(ドラ表示牌:{四})

 10巡目

 咲:{五五③④赤⑤34567東東東} 

 

 ロン:{8}

 

「裏は――なし。一発なら……8900は割れ目で16900の――二枚、です」

 

「はい」

 

 照は、微塵も動揺した素振りもなく、点棒を場に置いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:31

 

 

 南二局三本場

 【北家】花田 煌  :16400

     チップ:-5

 【東家】宮永 照  :45200→27300(-16900、-1000)

     チップ:-1→-3

 【南家】須賀 京太郎:32700

     チップ:-6

 【西家】宮永 咲  : 5700→23600(+16900、+1000)<割れ目>

     チップ:+12→+14

 

 

 



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22.ばいにんテール(十一)

22.ばいにんテール(十一)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:31

 

 

 南三局0本場

 【西家】花田 煌  :16400

     チップ:-5

 【北家】宮永 照  :27300

     チップ:-3

 【東家】須賀 京太郎:32700<割れ目>

     チップ:-6

 【南家】宮永 咲  :23600

     チップ:+14

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:33

 

 

 石戸月子は脱力してソファに腰掛け、天井を黙視する。最前繰り広げられた宮永照と宮永咲の遣り取りに思いをはせる。

 

(あの{一}を、捉えなかったのは――)

 

 結果的に大失点に繋がった照の和了見逃しについて、今度ばかりは何故とは問わなかった。

 

(それが、宮永さんのルールだったから?)

 

 月子は照の人柄についてあまり多くを知らない。けれども仮令血縁だろうと対手に対してあからさまな施しを掛けるような少女だとは思えなかった。手心は感情の所産である。たとえば傲慢や憐憫が照の口を噤ませた可能性もある。しかし卓上の照に、そんな微温的な振る舞いは似つかわしくない。彼女に情動がないというのではない。単純にあまりに方向性が違うというだけである。仮に照に咲から和了る気がなかったのであれば、そもそも立直を掛けることも、和了を重ねることもなかったはずである。

 

 たとえば月子は、自分の自摸筋では和了できない。その宿痾(しゅくあ)について、論理的に懐疑を連ねると腑に落ちない点は山ほどある。牌は機械が、あるいは人の手が積む。積まれた山に意思は介在しないし、時おりしたとしてもそれは絶対ではない。また山が積まれた時点で、賽はまだ振られていない。月子が摘む(トン)も引くべき自摸も定まっていない。そのうえで必ず特定個人の自摸和了が禁じられるというのであれば、月子はある種の理不尽を認知せざるを得ない。

 

(この世の中には、なにかすごいものがいて、それは、誰かや何かを名指しで選んでるっていうのなら)

 

 月子自身は、その恩恵と不遇の双方に浴している。そのことについて明確な意見を、彼女は持っていない。容姿や環境と同様に、最初から具わっていた要素に対して月子が肯定や否定を感じることはない。

 ただし、彼女はやはり生来的な天邪鬼でもある。

 

(その鼻を明かしてやりたいって気持ちは、すごくよくわかる)

 

 月子は京太郎を見る。

 じきに最初の半荘が終わる。

 長丁場を前提にしたこの鉄火場で、かれが純粋に己の運と力量を照に対して問える半荘は、これが最後になることを、月子は知っている。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:33

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 配牌

 京太郎:{二四五七九九①②④[⑤]6東南西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:33

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 配牌

 咲:{一二三[五]八⑧⑨⑨15東西中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:33

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 配牌

 花田:{六六六七②④37788東南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:33

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 配牌

 照:{四五六七八⑦3456白發中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:33

 

 

 長い南二局が終わり、四家に南三局の配牌が行き渡った。割れ目は親番でもある京太郎だった。くしくも東三局と同じ構図が成立したわけである。

 

 今局、比較的速い脚を与えられたのは宮永照、そして花田煌であった。ふたりを追う形の咲と京太郎については、牌勢がよろしくない。先の照への放銃が祟り、ここに至って一人沈みである花田にとっては、是が非でも打点が欲しい状況である。

 

 ――もっとも周囲三家も、それは十分に心得ている。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:33

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 1巡目

 京太郎:{二四五七九九①②④[⑤]6東南西}

 

(きつい状況だけど)

 

 咲による照からの直撃取りによって、かろうじてトップに返り咲いた京太郎にとっては、リスクあるこの局を和了り切ることが最善である。軽い手による点数の横移動によって親を蹴られることが次善である。そして最悪は、放銃か自摸被りによるトップ転落である。

 僥倖に次ぐ僥倖が守らせたかれのトップは、薄氷のうえに成立している。

 

 二位に転落した照と京太郎(トップ)の点差は5400――割れ目により打点が容易く向上するこの半荘戦においては、リードともいえないリードである。

 ――()()()()()

 

(信じられねえラッキーだが――さっきの放銃のせいで、照さんはほとんど死に体だ)

 

 照の打ち筋でもっとも避けるべきは終盤、しかも親番がない状態で点差のある上位者を作らないことであった。彼女は小さく打点を刻む。階段を上るように和了を束ねる。そう()()()()のかそう()()()()()()()()()のかは京太郎の与り知るところではない。単純に、照がこれまでと同じ打ち方を続けるならばもう彼女に勝ちの目は薄いというだけの話である。

 

(まァ、それで終わるようなカワイゲのあるひとじゃ、絶対ねえだろうけどよ)

 

 もちろん、照への警戒を解いていいはずもない。差込など論外だった。照の打ち筋の傾向などしょせん京太郎が仮定に仮定を積み重ねたものでしかない。

 

(1翻と、決めて掛かってぶざまにぶっぱなしてラス転落とかまぬけすぎる)

 

 打:{西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:33

 

 

(取れた)

 

 咲の中で火が熾きた。

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 1巡目

 咲:{一二三[五]八⑧⑨⑨15東西中} ツモ:{2}

 

(お姉ちゃんから――取れたんだ)

 

 回路が接続されたような心地だった。灯った篝火は見る間に不可視だった領域を照らし出す。対面に座る照の顔が、いまは確りと見えた。

 目線が交わる。

 逸らす必要はない。

 

(まだとおい。けど、でも、もしかしたら、わたし――)

 

 打:{西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:34

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 1巡目

 花田:{六六六七②④37788東南} ツモ:{9}

 

(3着までは7200。2着までは10900――で、1着までは16300。今局は親の須賀くんが割れ目なので、3着への浮上条件は3900以上の直撃か、1300・2600(イチサンニンロク)の自摸和了。2着までなら6400以上の直撃か満貫自摸――ていうか、満ツモなら実質跳ツモなので総マクりかー)

 

 自摸った牌をよそにして、捨て牌を選ぶ素振りで花田は方針を整理する。手成りで牌を編んで浮上できる局面では、すでにない。南三局および南四局(オーラス)を残し、いまの花田に与えられた選択肢は二つである。

 

(踏み込むか、引くか――)

 

 打:{東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:34

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 1巡目

 照:{四五六七八⑦3456白發中} ツモ:{⑥}

 

(南三局。二着。親番はもうない)

 

 失着を経て親番を逃がした。磐石のトップ目を真正面から切り崩された。麻雀に流れを見出すのなら、照の態勢は芳しいとはいえない。

 

京太郎(トップ)との差は5400)

 

 けれども、照の胸中に焦りや悔いは皆無だった。先刻の放銃は彼女が思う摸打を貫いた結果である。一度裏目を引いたからといって、打ち筋を変えるなどという選択肢は浮かばない。裏打ちの有無という深刻な差異があったとしても、その点において照の方針はデジタルと何ら変わりはなかった。

 

(ぎりぎりの場況)

 

 感覚を鋭く細く尖らせて、彼女は河へ牌を切り出す。

 

 打:{中}

 

(負ける気はまるでしない)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:34

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 2巡目

 京太郎:{二四五七九九①②④[⑤]6東南} ツモ:{1}

 

(塔子が弱い――)

 

 打:{東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:34

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 2巡目

 咲:{一二三[五]八⑧⑨⑨125東中} ツモ:{北}

 

{北}(ドラ)

 

 打:{東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:34

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 2巡目

 花田:{六六六七②④377889南} ツモ:{9}

 

(ひと役、確定――)

 

 打:{南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:34

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 2巡目

 照:{四五六七八⑥⑦3456白發} ツモ:{四}

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:34

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 3巡目

 京太郎:{二四五七九九①②④[⑤]16南} ツモ:{9}

 

(――)

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:34

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 3巡目

 咲:{一二三[五]八⑧⑨⑨125北中} ツモ:{3}

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:34

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 3巡目

 花田:{六六六七②④3778899} ツモ:{3}

 

(――ん? て、聴牌しちゃったんですけど……)

 

 予想外の自摸の効きに、花田は瞬時動作を滞らせた。

 

(……曲げるのはなし)

 

 打:{七}

 

 当然聴牌は取りつつ、花田は(ダマ)を択んだ。つまりは当面、嵌{③}による和了を放棄した。むろん、平場であれば是非もなく立直の一手である。一局あたりの収支を考慮しても、ここで牌を曲げない選択は愚策に分類される。

 とはいえ、花田には花田なりの思惑があった。

 

(一発はまあともかく、この牌姿――対子形ばっかりだし、ウラ期待はちょと分がワルい。となるとリーチイーペーで2600か、ツモっても1000・2000プラス須賀くんからもう2000――ラス親をちょびっとまくって3着浮上じゃぜんぜん安心できない。1種しかない良形変化期待とか月子さんには確実にディスられちゃうけど、……リーチ打つならせめて{赤⑤}引いて5200以上を確定させたい。――ふぅ)

 

 心を澄ませて、彼女は居住まいを正した。

 

(願わくば、やっぱりリーチしておけばよかったなんてことに、なりませんように!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:34

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 3巡目

 照:{四四五六七八⑥⑦3456白} ツモ:{一}

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:34

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 4巡目

 京太郎:{二四五七九九①②④[⑤]16南} ツモ:{③}

 

(急所が入った)

 

 打:{1}

 

(でも、また、遠い)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:35

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 4巡目

 咲:{一二三[五]八⑧⑨⑨1235北} ツモ:{2}

 

(ここで、もいっこアガっておきたい……)

 

 打:{八}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:35

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 4巡目

 花田:{六六六②④33778899} ツモ:{②}

 

(打{六}?――七対への張替えも、ありといえばアリ。何より{北}(ドラ)の受けが嬉しい。ただ、縦の変化もまだあるんだから、ここでのすばらな一打は……聴牌を取りつつ、)

 

 打:{④}

 

(これで!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:35

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 4巡目

 照:{四四五六七八⑥⑦3456白} ツモ:{2}

 

 照の眼が、山河を見晴らした。

 

「……」

 

 打:{白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:35

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 5巡目

 京太郎:{二四五七九九①②③④[⑤]6南} ツモ:{南}

 

(一枚切れだけど……重なってくれたか)

 

 打:{二}

 

(これで2向聴――この巡目なら、悪くは……ねえはずだ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:35

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 5巡目

 咲:{一二三[五]⑧⑨⑨12235北} ツモ:{北}

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:35

 

 

(――そう)

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 5巡目

 花田:{六六六②②33778899} ツモ:{9}

 

({赤五赤⑤24赤5北}あたりがいちばん嬉しかったけど、そりゃあ、こういうこともある――)

 

 5巡目、場の誰より早く聴牌を入れた花田の手牌が、大きな岐路を迎えた。

 ここで手の内に{9}を留めるということは、聴牌を崩し受け入れが広いとはいえない1向聴に受けるということである。

 

(打牌候補は{②378}のどれか)

 

 山から牌を引き、河の手前に引くまでの一瞬間のことだった。

 盲牌をした時点で、花田は半ば聴牌を崩すことを心に決めている。

 

(有効牌の残り枚数がすくないっていっても、{78}の並びシャボは見切れない。から、{②3}のどっちか。この牌姿で好形候補とかいっててもしょうがない……ん、で、す、け、どぉ――)

 

 京太郎

 河:{西東91二}

 

 咲

 河:{西東中八2}

 

 花田

 河:{東南七④}

 

 照

 河:{中發一白}

 

 花田は河を注視する。巡目はまだ浅い。山を推し測れるほどの情報は出揃っていない。各人はまだ不要牌整理の半ばにあるように見える。花田は間違いなく馬群から抜けている。ただしそれが真っ直ぐ和了に結びつく保証はない。

 

(でもいくっ)

 

 打:{3}

 

 果断さこそ、いまの花田に求められているものだった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:36

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 5巡目

 照:{四四五六七八⑥⑦23456} ツモ:{1}

 

「……」

 

 打:{五}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:36

 

 

「{八}じゃないんだ」聴牌を入れた月子の打牌を見、月子が呟いた。「三色なんかはもう見切ったってことなんでしょうけど、それにしても露骨じゃない?」

「……あれは、たぶん」と、池田がいった。「リー棒の代わりだ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:36

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 6巡目

 京太郎:{四五七九九①②③④[⑤]6南南} ツモ:{三}

 

 上家()の打{五}は、変哲のない河の並びの中で一際目立って京太郎の注意を引いた。もちろんかれの少ない経験則は、これまでと同様に警鐘を鳴り響かせる。ただしかれの手に照の現物は{五}一枚きりだった。そしてここであるかどうかもわからない聴牌を警戒して面子を崩すというのならば、それはこの局をオリ切ることと同義である。

 

(手は間違いなく進んでる。問題は聴牌かどうかだ――そんなのは決まりきったことだ。おれが考えなくちゃいけないのは、その手前のことだ。どうする? オリるか? 進むか?)

 

 放銃したところで、照の打点は恐らく低い。しかしその推測にほんとうの意味での根拠はない。

 

(真っ直ぐ1向聴を取るなら{6}を打って{八九③⑥南}でかまえる。それなら零れる牌は{七九}のどっちか。マタギや裏筋なんか関係ねえ――何があたるかなんかどうせわかんねんだ。けっきょく、大事なのは無筋をふたつ通して聴牌を取る価値がこの局面にあるかどうかだ)

 

 京太郎は、かすかに眉をゆがめた。

 

(遅いんだよ――いまごろそんなこと考えてどうするんだ。なんとなくで手を進めてるんじゃねえんだ。びびって引くなら、安全牌もっと溜めとけって話だろう)

 

 かれの脳裏を掠めるのは、前局の咲の姿だった。

 照の立直に真正面から切り込んだ。あげくに勝ちを得た。勇ましいとはとてもいえない少女が、見せた意気は少しならず京太郎の胸を打った。けれどもあらゆる牌を突っ張ろうと思えるほど、京太郎は感情的にはなれない。かれの頭の中には常に醒めた視点が存在して、安易な没入を許さない。

 

(でも麻雀は、)

 

 京太郎は、そして、

 

(攻めなきゃ、勝てない)

 

 打:{6}

 

 真っ直ぐに打った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:36

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 6巡目

 咲:{一二三[五]⑧⑨⑨1235北北} ツモ:{⑨}

 

({⑧}がこぼれちゃう……のは……)

 

 打:{赤五}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:36

 

 

「――!」

 

 その自摸に、花田は明らかな手ごたえを感じた。

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 6巡目

 花田:{六六六②②37788999} ツモ:{②}

 

(す――ばらァ!)

 

 打:{3}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:36

 

 

「すごい……この巡目で」

 

 月子が花田の牌勢に息を呑んだ。

 {6789}待ち――すでに{9}は枯れているが、仮に{78}を自力で自摸ったならばいうまでもなく役満である。

 

「{78}は……」

「残り四枚全部山に丸生きだ」池田が後を引き取った。「じゅうぶんありえるし……もしも自摸ったなら、完全に決定打になる」

「でも、立直はしてない」

「そうだね。そこはへんだ」池田が首をかしげた。「直前に須賀が処理したド安めの{6}じゃ出和了りできない。自摸ったらどうする気かな」

「そのときはたぶん、打{7}で赤期待の三暗刻確定で立直を打つ気でしょう。二枚使いだけど、まあ悪くはない待ちよ」

「先に{赤5}引いたら?」

「ツモ切りに決まってるわ」

「うーん」苦笑で応じる池田だった。「それはさすがに、欲張りすぎだとおもう」

「でも、そうでもしなければ、勝ち目は薄い」

「たしかに」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:36

 

 

 6巡目――

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 6巡目

 照:{四四六七八⑥⑦123456} ツモ:{北}

 

 引いた生牌の{北}(ドラ)を、

 

 打:{北}

 

 照は躊躇なく叩き切った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:36

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 7巡目

 京太郎:{三四五七九九①②③④[⑤]南南} ツモ:{二}

 

(打{九}の両嵌受け?――は、{南}を引いたときに一手遅れる)

 

 打:{五}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:36

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 7巡目

 咲:{一二三⑧⑨⑨⑨1235北北} ツモ:{4}

 

(テンパイ――{6}は嶺上にある。{⑨}も次の次にひく。けど、{⑧}が、でちゃう、でちゃうよ……)

 

 京太郎

 河:{西東91二6}

   {五}

 

 咲

 河:{西東中八2[五]}

 

 花田

 河:{東南七④33}

 

 照

 河:{中發一白五北}

 

 

「…………っ」

 

 咲:{一二三} ({⑧}){⑨⑨⑨12345北北}

 

 刹那だけ迷いを見せた後、咲は小さく息を吐いた。

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:37

 

 

(上家のひとが回った)

 

 花田は目ざとく、咲の迷いを見咎めていた。切り出しに明らかな躊躇があった。そうして摘まれたのは{北}(ドラ)である。

 恐らくは照か花田に対するケアだった。

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 7巡目

 花田:{六六六②②②7788999} ツモ:{發}

 

(出るのか、どうか――)

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:37

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 7巡目

 照:{四四六七八⑥⑦123456} ツモ:{7}

 

「――」

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:37

 

 

({1}手出し? あの位置からして、引いたのも索子か? 打てない牌を抑えたのか、それともたんなる張替え?)

 

 迷いは尽きない。推察は決して完全には機能しない。相当の確度で見込んだ読みが、ものの見事に外れることもある。

 けれども、考えることを止めることはできない。

 

(あぁ、ちくしょう)

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 8巡目

 京太郎:{二三四七九九①②③④[⑤]南南} ツモ:{白}

 

(通れ――)

 

 打:{白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:37

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 8巡目

 咲:{一二三⑧⑨⑨⑨12345北} ツモ:{九}

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:37

 

 

(ドラの対子落とし――ふつうなら、オリたと見るところだけど)

 

 上家の動向に、花田も注意を払わざるを得ない。咲が見せた異形の和了は、それほどに鮮烈だった。員数外と見なした次の瞬間に、頭を跨がれ追い抜かれる可能性も十分にある。

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 8巡目

 花田:{六六六②②②7788999} ツモ:{4}

 

(危険牌?)

 

 花田の思考が火花を散らした。

 

(前巡切れてる以上{14}はない。あたるなら{35}か{44}か{56}――でなければ{4}タンキ。その待ちを、ないって言えるだけの材料はないけど……)

 

 願望と読みが、花田の心理でない交ぜになる。確度が低い推量を支持したがるとき、結局心理は押すことを選んでいる。花田もそれはじゅうぶん理解している。だからこそ彼女は『切っても良い理由』を集めている。

 

(いける。気がする)

 

 そして、確信もなく牌を打つ。

 

 打:{4}

 

 ――通る。

 

 それはたんなる幸運であって、技術や統計、感覚の優秀さを示すものではない。

 

 ()()なら。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:37

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 8巡目

 照:{四四六七八⑥⑦234567} ツモ:{四}

 

「――」

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:37

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 9巡目

 京太郎:{二三四七九九①②③④[⑤]南南} ツモ:{南}

 

(これ見よがしな{⑦}――)

 

 京太郎は、醒めた目で照が放った牌を見下ろした。

 

 打:{七}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:37

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 9巡目

 咲:{一二三九⑧⑨⑨⑨12345} ツモ:{⑨}

 

(あと……すこしっ)

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:38

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 9巡目

 花田:{六六六②②②7788999} ツモ:{北}

 

(3巡自摸切り――)

 

 打:{北}

 

(――じょうとぉ!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:38

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 9巡目

 照:{四四四六七八⑥234567} ツモ:{七}

 

「……」

 

 打:{七}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:38

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 10巡目

 京太郎:{二三四九九①②③④[⑤]南南南} ツモ:{白}

 

「……」

 

 打:{白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:38

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 10巡目

 咲:{一二三⑧⑨⑨⑨⑨12345} ツモ:{白}

 

 打:{白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:38

 

 

 そして、そのときがきた。

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 10巡目

 花田:{六六六②②②7788999} ツモ:{⑥}

 

({⑥}――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:38

 

 

 あっと、月子は気の抜けた声を漏らしかけて、慌てて口元を抑えた。傍らの池田は黙して目を細めていた。{⑥}は京太郎と照の中り牌である。頭跳ねアリのこの半荘においては、つまり照の和了となる。前々巡の不可解なタンキへの受け替えは、まさにこのためかと思ってしまうほどに作為的なタイミングだった。

 

(あれは)

 

 と、月子は思った。

 

(とうてい止まらないし、止めるべきでもない。出る――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:38

 

 

()()()()()

 

 と、花田は思う。

 転瞬、彼女は、

 

 打:{9}

 

 と、いった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:38

 

 

「……すごいな」池田が目を瞠った。「あれは、あたしも止まんないなァ」

「まじでえぇえぇ……」月子は語調が崩れるほど驚いた。「んな、あほな。ていうか、だめでしょう、それは。押していい打点でしょう。勝てない麻雀じゃない……」

「でも、つっきーはきらめんに勝ち越せてない」

「うん」

 

 それを言われると、ぐうの音も出ない月子だった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:38

 

 

(通せる理由が、ひとつでもあれば打つ。けど、でも)

 

 役満を崩した花田煌は、ほんの少しの未練を滲ませて、河の{9}に別れを告げた。

 

(この場況――{③⑥}が通る絵が、ぜんぜん見えない。そんな牌を打つのは、すばらくない)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:38

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 10巡目

 照:{四四四六七八⑥234567} ツモ:{發}

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 11巡目

 京太郎:{二三四九九①②③④[⑤]南南南} ツモ:{⑦}

 

(カスった)

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 11巡目

 咲:{一二三⑧⑨⑨⑨⑨12345} ツモ:{三}

 

(いまなら、{⑧}は通るかな? でも……)

 

 打:{三}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 11巡目

 花田:{六六六②②②⑥778899} ツモ:{③}

 

(ですよねえ……)

 

 苦笑と共に、花田は手を壊した。

 

 打:{②}

 

(ただ、諦める気はぜんっぜんありませんけどっ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 11巡目

 照:{四四四六七八⑥234567} ツモ:{8}

 

 打:{5}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 12巡目

 京太郎:{二三四九九①②③④[⑤]南南南} ツモ:{西}

 

 打:{西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 12巡目

 咲:{一二三⑧⑨⑨⑨⑨12345} ツモ:{④}

 

({⑧}――{⑧}さえ、つもればっ……)

 

 打:{④}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 12巡目

 花田:{六六六②②③⑥778899} ツモ:{⑥}

 

(おおぉ……集まる集まる)

 

 打:{六}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

「どーして三枚使いで生牌の{六}はアッサリ切れるのかしら……」心底腑に落ちない様子で、月子がいった。

「{三九}がわりと最近通ってるからじゃない? {五}が場に三枚見えてるし{一四六九}あたりも相当危険度高いんだけどねぇ……」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 12巡目

 照:{四四四六七八⑥234678} ツモ:{東}

 

 打:{東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 13巡目

 京太郎:{二三四九九①②③④[⑤]南南南} ツモ:{九}

 

(……{九})

 

 京太郎

 河:{西東91二6}

   {五白七白⑦西}

 

 咲

 河:{西東中八2[五]}

   {北北九白三④}

 

 花田

 河:{東南七④33}

   {發4北9②六}

 

 照

 河:{中發一白五北}

   {1⑦七發5東}

 

(出そうにない{③⑥}を見切って、{①④}か{②⑤}ノベタンへの受け替えは……あるか? ただそうすると、出て行くのは{①}か{赤⑤}……どっちも生牌だ)

 

 京太郎は答えの出ない問いを投げる。

 河を凝視する。

 

({①④}か{②⑤}か――{③⑥}か――)

 

 そして、かれは、そのどれをも、選ばなかった。

 

「――――」

 

 打:{②}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

(えっ……{②}……?)

 

 上家(京太郎)の打牌に、咲は眉をひそめた。腑に落ちない空気を感じた。

 東三局の終盤にも似た、意識の間隙を縫うような違和感である。

 

({②}――)

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 13巡目

 咲:{一二三⑧⑨⑨⑨⑨12345} ツモ:{⑤}

 

(……)

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

(この局面で、長いこと触っていなかった面子から抜き打った手出しの{②})

 

 花田もまた、京太郎の打{②}に言い知れぬ違和感を覚えていた。

 

(牌を打つ前の小考と、河を見晴らした()()()

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 13巡目

 花田:{六六②②③⑥⑥778899} ツモ:{①}

 

(わたしの{②}手出しを受けての合わせ打ちとすれば――須賀くんなら、たとえば)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

(11巡目のあの落とし方――{②}は花田さんの手で暗刻だったはずだ。4巡目に{④}を手出しして、6巡目に入れた牌、つまり{②}を11巡目に打った。手元に{②}がある状態であの浅い巡目に{④}を見切るとしたら、形は{②②④}か{②②②④}からの打{④}だ。{①②③④}ってこともあるにはあるけど、赤の受けを見切るにはまだ早い。だから、)

 

 京太郎は息を潜める。

 

(おれの読みが正しければ、花田さんにだけは、場に出てない{①}がわりと安全であることがわかるはずだ。オリにきゅうきゅうとしてるいまなら、出る――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

(この後半まで須賀くんが{②}を持っていたからには、まちがいなく面子に絡んでいたはず。そして聴牌もいまじゃない。あえて{②}を抜いたからには、よっぽど山に生きてるっていう自信があるか、誰かから――たとえばわたしから出ると踏んだんでしょう。ちょっと信じられないけど、わたしの手に{②}がまだ二枚いると見て、わざと壁を作って見せたり、とか。そのためにわざわざ両面やノベタンを崩したり、とか……)

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 13巡目

 花田:{六六①②②③⑥⑥778899}

 

 花田は、己が手牌を見下ろした。

 

(その条件にあう牌は、いましがた引いた{①}(コレ)しかない)

 

 京太郎

 河:{西東91二6}

   {五白七白⑦西}

   {②}

 

 咲

 河:{西東中八2[五]}

   {北北九白三④}

   {1}

 

 花田

 河:{東南七④33}

   {發4北9②六}

 

 照

 河:{中發一白五北}

   {1⑦七發5東}

 

(ナルホド)

 

 と、花田は思う。

 

 河:

       {⑦}

   {②}

 

 河:

        {④}

 

 

 河:   {④}

       {②}

 

 河:

    {⑦}

 

 

(たしかに、筒子の下が()()――)

 

 花田:{六六①②②③⑥⑥778899}

 

(でも、それでわたしが{①}打つっていうのは、ちょっとなめすぎですよ、須賀くん)

 

 彼女は牌を打ち、

 

 打:{③}

 

 そして、曲げた。

 

「立直です」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 13巡目

 照:{四四四六七八⑥234678} ツモ:{4}

 

「……」

 

 打:{六}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:39

 

 

({③}切っての立直かよ――出るのかよ。くそ、完全に裏目った)

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 14巡目

 京太郎:{二三四九九九①③④[⑤]南南南} ツモ:{赤5}

 

(――)

 

 かれは歯噛みすると、

 

 打:{③}

 

 花田の立直宣言牌に合わせ打った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:40

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 14巡目

 咲:{一二三⑤⑧⑨⑨⑨⑨2345} ツモ:{6}

 

(――むぐっ)

 

 打:{4}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:40

 

 

「ポン」

 

 と、照が鳴いた。

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 14巡目

 照:{四四四七八⑥23678} ポン:{4横44}

 

 打:{七}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:40

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 15巡目

 京太郎:{二三四九九九①④[⑤]赤5南南南} ツモ:{中}

 

(未練は――ぜったい、禁物だ)

 

 打:{南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:40

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 15巡目

 咲:{一二三⑤⑧⑨⑨⑨⑨2356} ツモ:{③}

 

「……ううっ」

 

 咲は若干べそをかきながら、

 

 打:{③}

 

 と、いった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:40

 

 

 南三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 14巡目

 花田:{六六①②②⑥⑥778899}

 

 ツモ:{①}

 

「――ツモ」

 

 大きくため息を吐いて、花田は手牌を倒した。

 

「あら。すばら――く、ない。裏は乗らずで、1600・3200です」

 

 

 【西家】花田 煌  :16400→26000(+9600)

     チップ:-5

 【北家】宮永 照  :27300→25700(-1600)

     チップ:-3

 【東家】須賀 京太郎:32700→26300(-6400)<割れ目>

     チップ:-6

 【南家】宮永 咲  :23600→22000(-1600)

     チップ:+14

 

「{①}――待ち、か」

 

 やや呆然と、京太郎が呟いた。

 

「ええ。{①}です」

 

 和了形に目を見開く京太郎へウインクを飛ばして見せてから、花田はほがらかにうたった。

 

「さあ! オーラスですよ!」

 



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23.ばいにんテール(十二)

23.ばいにんテール(十二)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:40

 

 

「もう、9時前か」

 

 壁の時計を見た池田華菜が、間を繋ぐように呟いた。

 月子は小さく頷いて、

 

「池田さんは、誰が勝つと思う?」

 

 と、いった。

 

「それを聞くかあ」池田は苦笑して頬を掻いた。「つっきーは、だれに勝って欲しいの?」

「だれって……」反問に月子は言いよどんだ。

「そういう場況だとおもうよ、もう」

 

 深い考えがあっての言葉ではなかった。アガりトップが三人を占め、かつ配牌も開かれていないこの状況でそれを問うことの無意味さがわかっていないわけでもなかった。

 南四局(オーラス)を迎えての各人の順位は、一位に京太郎、300点差の二位に花田、花田から300点差の三位に照、そして照から2700点差の四位に咲という並びである。この半荘には西入の規程はない。そして和了止めもない。ラス親である咲以外の誰かが和了った時点で勝負は決する。

 月子のうちには仄かな期待がある。

 純粋な麻雀の力量と経験において卓に着く誰より低い須賀京太郎が、先だって宮永照に手も足も出なかったかれが、勝つかもしれない。出端で得た交通事故のような貯金を、ほぼ削られるばかりでようよう維持しているトップ目だということは無論わかっていた。ただ京太郎が実力の範疇で懸命に尽くしていたことも事実である。そして、だからこそいま僅差のトップについていられる。

 正直に言えば、月子は京太郎に勝って欲しかった。かれは多少なりとも自分に師事した。だから月子はかれに何かを投影しているのかもしれない。明確に傑出している照や咲を下して、京太郎がこの勝負を勝ちぬけたのならば、それはさぞかし胸のすく光景だろうという確信があった。

 

 けれどもその願望を、月子は素直に露出することができない。期待や願望は裏切られ続ける。それが月子の経験則だった。

 

「強いて言うなら」答えあぐねた月子を見透かすように、池田は言葉を引き取った。「やっぱりあの、おかし好きな人じゃない? 南三局(さっき)もほとんど場を完全にコントロールしてたし」

「おかし好き……宮永、照さんのほうよね。でも、そうかしら?」月子は首を傾げた。「たしかに聴牌は取ってたけど、すぐにオリてたじゃない」

「きらめんがツモり四暗壊してまで{⑥}抑えたのは、まァ、もともと危険牌だってことには変わらなかったんだけど、あのひとが河に{②⑦}並べて見せたせいもあると思う。ずーっと須賀に絞り入れてたし、そもそもあの局面で{⑥⑦}の両面から{⑥}タンキに受けていいことなんか、フツーないし。たぶん、あそこは自分じゃなくて他家に和了らせて須賀を削りたかったんだ。完全にオリてたのに立直後に対面から{4}鳴いたのも――ま、ただの一発消しかもしれないけど、あれで結果的に本来須賀がツモって和了りのはずだった{①}をきらめんに流すことになった」

「それはないでしょ」

 

 池田の言葉を、月子は取り合わなかった。

 

「仮にそれが本当だとして、おまけに宮永さんが花田さんや須賀くんの手をほぼ読み切ってたとして。それでも役満崩していくつもあるうちの危険牌をたまたま花田さんが止めるなんて、それはもう読みとかそういうレベルじゃないわ。わたしや池田さんや須賀くんとか……前々から花田さんの性格や打ち筋を知ってればまだしも、宮永さんは花田さんとは初対面よ。おまけにこれが最初の半荘」

「そうなんだよね」月子の反論を、池田はあっさり受け入れた。「自分の手は三色(高目)をアッサリ見限ってたし、やりくちが遠回りでバクチすぎる。そこはあたしもへんだと思う」

「どっちにしても、結果的に須賀くん、花田さん、宮永さんは1翻だろうとアガった時点で優勝確定――そういう場にはなった。割れ目ありのルールとはいえこの三人は完全に横並びだし、最後の最後で完全に運ゲーになったわねえ」

「それも麻雀。これも麻雀」

 

 ソファの上であぐらをかいて、池田はオーラスを迎える卓を見つめた。

 高鳴る鼓動を意図的に無視しながら、月子も池田に倣った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:42

 

 

 ボタンを押す咲の指の向こうで賽が踊る。少しならず熱を込めた指先がわずかに白む。

 

 踊りを終えた直方体の出目は5・5(右十)である。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 【南家】花田 煌  :26000<割れ目>

     チップ:-5

 【西家】宮永 照  :25700

     チップ:-3

 【北家】須賀 京太郎:26300

     チップ:-6

 【東家】宮永 咲  :22000

     チップ:+14

 

 オーラスの開門には、花田煌の山が選ばれた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

 燃え上がった熱はそのままに、咲の心理は平穏だった。点差は平たいとはいえ、咲はひとり不利である。この局で本場を積まずに決着を目指すならば割れ目も考慮して最低1000オールを自摸和了る必要がある。それだけではなく、三人を凌いでトップに立ったところで、この半荘では和了り止めができない。

 全員を捲くった上で、点差を守る。

 それが咲に課せられた勝利条件である。

 

(らくちんだとは、思わないけど……)

 

 京太郎も花田も、与しやすい相手ではなかった。何よりもこの卓には照がいる。彼女を制さない限り咲に勝ちはない。それはいかにも難事である。

 

(できないかな? できないかな……)

 

 胸中で唱える言葉は空疎だった。ただ音だけを連ねた感がある。なんとなれば、咲はもう、()()()になっている。

 

(できないかな――)

 

 咲は照を見る。

 

(――そんなに、難しいかな?)

 

 咲にとって、彼女は越えがたい壁だった。過去君臨し続け、今後もそうであることを疑ったことはない。咲の主観における照はある種の信仰対象ですらあった。照の強さに疑いを差し挟む余地はない。ただ、咲は少しだけ、自分の立ち位置を見直すべきだとも感じていた。

 照の強さを疑う必要はない。

 ただ、己の弱さを疑う必要はあるのかもしれない。

 

「……ふぅ」

 

 深呼吸と共に、咲は山を切り取る。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 配牌

 咲:{二二六六六③⑧⑧⑨24白白白}

 

 彼女の瞳が嶺上に突き刺さる。

 

(――{白}、{六}、{⑤}――{東})

 

 不可触の領域に萌える四枚の(はな)を、彼女の双眸だけが視通している。

 

 その瞳に、焔が燃えている。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

(おちついて)

 

 花田は指に灯った和了の火照りを擦って落とす。

 

 ――流れは自分にある。

 

 デジタルに払拭されつつあるそのオカルトは、麻雀を打つものの肩をしばしば叩く。枯れたすすきの陰に見る幽霊のようにそれはもっともらしい。花田は頭からその霊感を否定しているわけではないけれども、信じた傍から裏切られた経験は山ほどある。潮目が変わり流れが来たとばかりに打牌(フォーム)を崩せば、幸い勝ったとしてもそれは拾った勝利である。

 

(しっかりと、場をよく見て)

 

 花田は漠然と、運を有限の代物と解釈している。それは彼女独特の感性である。いくら汲めども水が尽きない甕はない。運も同様である。たとえば(ツキ)がどこからか自然と湧き出てくるものだとしても、使い切る速度が湧出(ゆうしゅつ)のそれを上回れば器は枯れる。水の多寡や甕の軽重、柄杓の大小は個々人によって違うのかもしれない。花田は自分の器がそれほど大きいとは考えていない。

 ただ使いどころを誤らなければ、どんな相手をも刺すことが出来ると信じている。

 

 そして、彼女はオーラスの配牌を開いて、

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 配牌

 花田:{一三四②④⑤⑦1147南西}

 

(あっはっは。すばらくなぁい)

 

 胸中乾いた笑いを上げた。塔子は足りない。仕掛けも遠い。{1}(ドラ)は対子でもいまばかりは余計な手荷物でしかない。アガりトップの局面でこの配牌は、最悪とは言わないまでもひどくもどかしく感じられた。

 だからこそ、彼女は笑った。

 口はしを仄かに吊って眦を決する。

 姿勢を正して十三枚の牌に触れる。

 息を深く吸い込み、

 

(――でも勝つ)

 

 静かに密かに、気炎を吐いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

 この日、この場所に座り、牌を握っている宮永照について照は考察する。奇縁が結った四人が集って牌を手に手に麻雀を打ち合っている。思惟と技術と霊感と運の限りを尽くしてちゃちな点棒を遣り取りしては一喜一憂している。傍目には滑稽な絵なのかもしれないとふと彼女は考える。少なくとも不可思議であることには否定の余地がない。一年があと一日で終わる今日という日に、彼女は二つも年下の少年に請われてずいぶん遠くまで足を伸ばし、そして金銭を賭して麻雀を打っている。

 

(おかしい)

 

 場にいる誰も気付かないほどかすかに、照は微笑んだ。付き合いがもっとも長い咲ですら見逃すほど小さな、それは発露だった(仮に咲が照の微笑に気づけば、きっと瞠目したはずだ)。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 配牌

 照:{三八②⑥1356東南西北中}

 

 授かった十三枚の牌を、照は笑みを消した容貌で見つめた。

 

(六向聴)

 

 勝敗のかかった終局で劣勢であることも、これほどの悪配牌となったことも、ついぞ彼女の経験にはないことだった。目を伏せて数秒、照は胸に兆した得体の知れない感情について沈思した。

 正体はすぐに思い当たった。

 自分が卓上でそんな感情を覚えたことに、彼女はほんの少しだけ驚いた。

 

(わたしは)

 

 と、照は思った。

 

(興奮している)

 

 それからその表現は少しはしたないかもしれないと考えた。とはいえ自覚は更に症状を助長させた。頬から首元にかけての皮膚一枚を隔てて、照のなかみがじわりと熱を孕む。甘い痛痒に似た疼きがへその下から太ももを伝ってふくらはぎに向かう。厚手のタイツとスリッパ越しにカーペットを噛む足の指に少しだけ痺れがある。とてもすわり心地の良い椅子に深々と腰掛けながら、照はすっかり冷めたココアを一口飲む。

 

 己の右手を開閉する。

 彼女は水と鏡を想像する。

 体と心が自分のものではないような違和感と、かつてないほど()()()()()という直感がない交ぜになっている。

 彼女は水と鏡を空想する。

 

 予兆めいた心の揺らめきは、いまや明確な波となって照の静謐な心理に紋を描いていた。照はつかの間、予期せず芽生えた不思議な情動の汀に思考を遊ばせた。瞑目して洞察の焦点を内向させた。彼女は『宮永照』という記号を象る様々な要素を完全に客観的に分析し分解して詳らかにしようと試みた。波紋を連ねる水面に指を浸し、腕を浸し、肩を浸し、首まで浸かった。ふるえて止まない己の心象が鳴らす音に耳を澄ませた。何も聴こえなかった。あるいは何もかも響き合っているせいで誰の声も何の音も互いに殺しあってしまったものだと思われた。照は自分を(あるいは自分だと思われる像を)直視した。当然そのためには鏡が必要である。けれども照の前にはただ揺れる水面だけがある。水面に映る自分の顔を彼女は幻視する。当然振動する水は像を正しく描かない。捉えどころのない人面は造作さえつかめない。どれだけ顔を水面に近づけてもそこに仄見える相貌は捉えられない。照の顔は波に洗われ常に無貌である。なおも諦めず照は自分を捉えようと凝視を続けるが、やがて無為を悟った。彼女は答えを得た気分になった。()()()()()()()()()()()のだと彼女は思った。それは少しだけ残念で、そしてとても納得の行く解だった。牌を握っているとき、照は自身の非人間性について無自覚だった。人の本質を見透かすとき、照は自身の犀利さについて無自覚だった。けれどもいま、家族以外の人々と向き合って麻雀を打っている自分を鑑みて、照は『宮永照』という存在について少しだけその理解を深めることが出来た。

 是非はどうあれ幼い彼女はそう感じた。

 

 彼女は水と鏡を幻想する。

 

 そこに身を浸す少女はいない。

 

(――そうか)

 

 照は自分こそが水と鏡なのだと、確信する。

 粟立つ肌だけが、彼女の感情の出力を隠していない。

 そして、鏡が現出する。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 配牌

 京太郎:{一七九①②③赤⑤⑦23669}

 

「――」

 

 京太郎は、咲も花田も照も見ていない。

 己の手牌も見ていない。

 14枚の王牌を含む残り83枚が積まれた山を、ただ黙して見つめている。

 




※本文には別途加筆する可能性がありますが、その際は活動報告でお知らせさせて頂きます。


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24.ばいにんテール(十三)

24.ばいにんテール(十三)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

 飛びぬけた配牌を前に、咲はさして思案に暮れない。咲の洞察は照に届かず、感覚もまた照の洞察を欺瞞し得るほど育まれていない。聴牌気配や打点の高さを、隠すことはもはやただの枷でしかなかった。ことここに至っては、真っ向勝負こそが咲に見える唯一の勝ち目である。

 

(まっすぐに、だれよりも)

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 1巡目

 咲:{二二六六六③⑧⑧⑨24白白白}

 

(お姉ちゃんよりも)

 

 親の第一打が河に放たれた。

 

 打:{③}

 

(――はやく和了るんだ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

 咲が並べた牌を目にした瞬間、

 

({③})

 

 理牌も終え切れていない花田の脳裏で、いくつかの思考が弾けた。

 

(この手の最速の和了目は――)

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 1巡目

 花田:{一三四②④⑤⑦1147南西}

 

{二三四②③④234}(ニサシ)の三色、{1}(ドラ)対子を落としてのタンヤオ、じゃなければ{南}(役牌)。面前で進めるなら{②④⑤⑦}の間四ケン塔子の急所を埋めるかどうかして、無駄ヅモなしでも最低5巡。すっごい早そうな親の下家でめいっぱいに手広く構えてそんなにゆっくりはできないし――いま2着でアガりトップのうえにアガられラスもありえちゃうこの局面でオリ前提の打ち回しもありえないし――)

 

 刹那に思考を連ねつつ、

 

(ううん)

 

 彼女は黙殺を選んだ。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 1巡目

 花田:{一三四②④⑤⑦1147南西} ツモ:{8}

 

(塔子はそろったけど……はやさが足りない)

 

 つとめて表情を殺し、花田は手牌を抜いた。

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 1巡目

 照:{三八②⑥1356東南西北中} ツモ:{東}

 

「……」

 

 牌を手の内にいれるや否や、照は静止した。それは完全に意識と切り離された所作だった。彼女自身の意思に思索や逡巡による間とは完全に別種の半瞬が卓上に降りる。

 手牌を調えている他三家はそのかすかな停滞にまだ気づかない。

 照は左手を視界に重ねる。指の隙間から対面に座る咲が見える。その光景は最前から何ら変わりないものである。しかし何かが決定的に違う。座る咲や並ぶ牌、見える景色に変動はない。にもかかわらず照に視える世界は数秒前とまったく趣を変えている。

 

 息を詰め、照は意識を凝らす。大蛇が重たい頭を巡らせるように、彼女の意の焦点がゆっくりと視界を薙いでいく。それもやはり自律的な動作である。

 視界に映る人間の像は、これまで照にとってただの変数に過ぎなかった。記号と大差ない代物だった。けれどもいま、かれと彼女らの姿は、照の瞳により(つぶさ)に視える。雪崩か洪水のように対手が備える情報が照の脳裏に刻み込まれ、分解・析出されて咀嚼されていく。

 

 微塵に散った細工の破片を再構成するように、難解で精緻極まりない『人間』の像が照の目前で築き上げられていく。花田煌という人間の本質が、須賀京太郎という人間の本質が、照の解釈によって詳らかに透かされていく。

 

 左から右へと見えない軌跡を刻みながら、照は花田、京太郎を、

 

 ――見明かした。

 

(ひとは)

 

 と、照は思う。

 

(どうして、こんなにも、明らかなんだろう)

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

 気負いはなかった。

 ただ胸の高鳴りだけがある。

 牌を摘む指先に淡く甘い痺れがある。

 京太郎は、

 

(おれは、あとどれだけ、こんな麻雀が打てるんだろう)

 

 と、考える。

 

 この面子を相手に、自分の腕で首位を守って終局を迎えることの幸運を、計れないわけではなかった。()()()()()()()()というかれの主張が、照にかかれば薄紙と変わりないことも知っていた。

 かれはただ譲れないだけだった。

 

(たぶん、おれのこいつは、ただのわがままでしかない)

 

 照が非人間的な領域へ踏み込みかけていることも否定はしない。

 

(麻雀に、よけいなものを、おれは乗っけちまってるのかもしれない)

 

 かれにとっての麻雀と、照にとっての麻雀に致命的な差があることもわからないわけではない。

 

(でも、いま、おれは、すごく楽しいよ)

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 1巡目

 京太郎:{一七九①②③赤⑤⑦23669} ツモ:{五}

 

 頭は冴えている。

 かれに許されていることは、全力を尽くすこと。

 そして、せめて自摸が効くことを祈る程度のものだった。

 

(それで、できれば、)

 

 かれは、上家の少女に眼を向けないようにしながら、胸中で呟いた。

 

(――だれだって、みんなそうだって、信じていたいんだ)

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:45

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 2巡目

 咲:{二二六六六⑧⑧⑨24白白白} ツモ:{5}

 

 打:{2}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:45

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 2巡目

 花田:{三四②④⑤⑦11478南西} ツモ:{南}

 

(……すばら)

 

 打:{西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:45

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 2巡目

 照:{三八②⑥1356東東南西中} ツモ:{①}

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:45

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 2巡目

 京太郎:{一五七九①②③赤⑤⑦2366} ツモ:{7}

 

(下の変わりに真ん中の三色が見える、か?)

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:45

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 3巡目

 咲:{二二六六六⑧⑧⑨45白白白} ツモ:{⑨}

 

「……」

 

 打:{⑧}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:45

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 3巡目

 花田:{三四②④⑤⑦11478南南} ツモ:{發}

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:45

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 3巡目

 照:{三八①②⑥1356東東南西} ツモ:{九}

 

「…………」

 

 打:{西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:45

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 3巡目

 京太郎:{五七九①②③赤⑤⑦23667} ツモ:{三}

 

(――いまさらだぜ)

 

 3巡目、{三}を引いた京太郎は河の{一}に未練を覚えて、瞬時に切って捨てた。こんな場面は麻雀をしていれば飽きさえ感じないほど行き当たる。かれがすべきは前巡を悔いることではなく、

 

({四}か{八}か)

 

 牌の取捨選択である。

 

(迷ったときは、基本に戻る。待ちは外へ。手作りは内へ)

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:46

 

 

 そして、

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 4巡目

 咲:{二二六六六⑧⑨⑨45白白白} ツモ:{⑦}

 

(安目――出和了なら2000、ツモれば3900に割れ目がついて5200の聴牌)

 

 最速で聴牌に漕ぎ着けたのは、親にしてラス目の咲である。

 

(ダマだと、下家のひと(割れ目)から出ても4000だから、トップにはなれない。リーチ、したほうがいいのかな――)

 

 打:{⑨}

 

(――やめておこう)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:46

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 4巡目

 花田:{三四②④⑤⑦11478南南} ツモ:{6}

 

 山から牌をツモりつつ、親の挙動に花田は目を細めた。

 

(この巡目だけど――全部手出しで{③2⑧⑨}? 立直してないし、さすがにまだ、まだ聴牌ってはないとおもいたいけど……)

 

 打:{②}

 

(さア、どうでしょ)

 

 少しだけ覚悟を決めつつ放った牌に、声は上がらない。安堵の息をつきつつ、花田は口端を吊り上げた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:46

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 4巡目

 照:{三八九①②⑥1356東東南} ツモ:{4}

 

「――」

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:46

 

 

{1}(ドラ)――)

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 4巡目

 京太郎:{三五七①②③赤⑤⑦23667} ツモ:{⑥}

 

(あと二ツ……)

 

 打:{7}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:46

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 5巡目

 咲:{二二六六六⑦⑧⑨45白白白} ツモ:{中}

 

 打:{中}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:46

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 5巡目

 花田:{三四④⑤⑦114678南南} ツモ:{發}

 

(ぅあちゃー……カブった)

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:46

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 5巡目

 照:{三八九①②⑥3456東東南} ツモ:{四}

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:46

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 5巡目

 京太郎:{三五七①②③赤⑤⑥⑦2366} ツモ:{北}

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:46

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 6巡目

 咲:{二二六六六⑦⑧⑨45白白白} ツモ:{南}

 

({南}――……)

 

 咲

 河:{③2⑧⑨中}

 

 花田

 河:{一西發②發}

 

 照

 河:{北中西1九}

 

 京太郎

 河:{9一九7北}

 

(まだ、だいじょうぶ)

 

 打:{南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:47

 

 

「ポン」

 

 と、花田が鳴いた。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 6巡目

 花田:{三四④⑤} ({⑦}){114678} ポン:{横南南南}

 

 打:{⑦}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:47

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 6巡目

 照:{三四八①②⑥3456東東南} ツモ:{八}

 

 打:{南}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:47

 

 

(親は2巡続けて自摸切って、花田サンから仕掛けが一丁)

 

 言わずもがなの場況を再確認して、京太郎は目を細めた。

 

(こいつはまた、出遅れてる気がするぜ)

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 6巡目

 京太郎:{三五七①②③赤⑤⑥⑦2366} ツモ:{④}

 

(これで、仕掛けても聴牌が取れる――)

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:47

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 7巡目

 咲:{二二六六六⑦⑧⑨45白白白} ツモ:{8}

 

({36}――は、やっぱり、もう……)

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:47

 

 

 盲牌の瞬間、

 

「――っ」

 

 花田はかすかに息をつめた。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 7巡目

 花田:{三四④⑤114678} ポン:{横南南南} ツモ:{赤五}

 

 打点にさほど変化はない。しかし高目を引き寄せた。

 咲に遅れること3巡――

 

(どこから出ても8000は割れ目で16000――すばら)

 

 打:{4}

 

 花田もまた、聴牌にたどり着いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:47

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 7巡目

 照:{三四八八①②⑥3456東東} ツモ:{④}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:47

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 7巡目

 京太郎:{三五七②③④赤⑤⑥⑦2366} ツモ:{西}

 

 打:{西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:47

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 8巡目

 咲:{二二六六六⑦⑧⑨45白白白} ツモ:{⑥}

 

 その牌を自摸った咲の目じりが、わずかに固まった。

 

(ここで)

 

 咲

 河:{③2⑧⑨中(南)}

   {8}

 

 花田

 河:{一西發②發⑦}

   {4}

 

 照

 河:{北中西1九南}

   {①}

 

 京太郎

 河:{9一九7北①}

   {西}

 

{⑥}(コレ)を引くなんて――)

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:47

 

 

(いまさら{⑨}手出し――)

 

 山から祈念と共に牌を引きつつ、花田は親への警戒を強めた。

 

(4巡目に切ってる以上、かたちとして{⑨⑨}から{⑧}引いての辺張への受け替えはない。あるとすれば{⑧⑨}に{⑥}引いての{⑥⑧}か、でなければ空切り、本線は{⑦⑧⑨}(出来面子)に{⑥}を引いて入れ替え……)

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 8巡目

 花田:{三四赤五④⑤11678} ポン:{横南南南} ツモ:{北}

 

(あらら……)

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:47

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 8巡目

 照:{三四八八②④⑥3456東東} ツモ:{赤⑤}

 

 8巡目――照の手牌を1向聴へ押し上げたのは、両嵌を埋める{赤⑤}であった。

 

 打:{②}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

 ――照の引きを目の当たりにして、月子は苦笑を深くした。

 

(あたりまえみたいに、安全なほうを引く――その運の太さって、なんなのよ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

 それは暗闇に似ている。

 

(また、照さんが進んだ)

 

 それはしるべのない夜道に似ている。通り過ぎたばかりの暗がりに似ている。眼を凝らしても見えないうろの底に似ている。そこには何かがおり、けれどもその正体を言い当てることはできない。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 8巡目

 京太郎:{三五七②③④赤⑤⑥⑦2366} ツモ:{發}

 

 それは足音も無く背後をついてくる。それは顧みても眼に映らない。それには実体がない。

 

 それが肩を叩くことは決してない。

 

(また足踏みかよ――)

 

 それに追いつかれたことを知った瞬間が、敗北を留保できる刻限でもある。

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 9巡目

 咲:{二二六六六⑥⑦⑧45白白白} ツモ:{七}

 

(……{七})

 

 咲は瞑目した。

 この牌を、手放すべきではないと、彼女はふいに感じた。

 

({七}――)

 

 試みに感覚へ問う。答えはない。当然のことだった。どれだけの経験や実績があったとしても、感覚は感覚でしかない。どれだけ鋭く、何より優れていたとしても、そこに明確な根拠はない。だれも彼女たちが裡に抱く観念的な存在を担保などしてくれない。不安は、だから常に付きまとう。

 羅針盤は無い。

 それを信じるために必要なものは、利器ではない。

 

(進むんだ。進むよ。進む。わたしは――いくよ)

 

 咲は唇を噛む。

 照を見る。

 照は咲を見ていない。彼女はひとりである。この場にいて、四人のひとりとして麻雀を打っている。

 咲と同じ場所にいる。

 ふたりが立つ高さに差はない。

 咲は照の対手として、ここにいる。

 

 打:{5}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

({5}――?)

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 9巡目

 花田:{三四赤五④⑤11678} ポン:{横南南南} ツモ:{北}

 

 打:{北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 9巡目

 照:{三四八八④赤⑤⑥3456東東} ツモ:{7}

 

「――」

 

 打:{八}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 9巡目

 京太郎:{三五七②③④赤⑤⑥⑦2366} ツモ:{七}

 

(それなら――片アガりでも、ポンテンを取れるほうを)

 

 打:{三}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

「あっぶな……」

 

 思わず声を漏らして、月子ははっと口を噤んだ。

 

「緩いね」

 

 烏龍茶を片手に、池田が京太郎の打牌を批評した。

 

「っていっても、あのめいっぱいの手組みでいまさらオリもないだろーけどサ」

「うん、そうね」

 

 と、うなずきを返して、月子は自らの胸に手を当てた。

 

「へんなの。ひとの麻雀なのに、わたし、どきどきしてるわ」

「ひとの麻雀だからどきどきするんだろ?」池田が笑った。「じぶんの麻雀なら、きっと胸が打ってる鼓動なンて、気にしているヒマはないよ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

(すがくんも強い。――もう、だれに来てもおかしくない)

 

 息を呑みながら、咲は麻雀を打つ。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 10巡目

 咲:{二二六六六七⑥⑦⑧4白白白} ツモ:{一}

 

(わたしも、引かない)

 

 打:{4}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 10巡目

 花田:{三四赤五④⑤11678} ポン:{横南南南} ツモ:{東}

 

({東}――まァ、生牌(ションパイ)なんだけど)

 

 生牌を掴んで、花田は薄く、微笑んだ。

 

(だから、どうした――っと)

 

 打:{東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 10巡目

 照:{三四八④赤⑤⑥34567東東} ツモ:{五}

 

 ――咲に立ち代わり、照が聴牌へ届く。

 

 そして――

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

()は両面の塔子落とし、花田さんは生牌の強打、照さんは対子落とし)

 

 京太郎は、秒単位で自らの神経が削られていく様を想像する。

 

(確実に、おれだけが遅れてる。ミスはしてないのに。ミスは――)

 

 牌を自摸り、

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 10巡目

 京太郎:{五七七②③④赤⑤⑥⑦2366} ツモ:{四}

 

「――」

 

 かれは吐息を零した。

 

(裏目か――)

 

 よくあることだった。

 それだけに、いま、ここで起きたことを、皮肉に感じずにはいられなかった。

 

(しょせん、おれはここまでってことか)

 

 引いた{四}を眺めて、京太郎は笑んだ。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:48

 

 

(打っても、それは当たらない)

 

 摸打を滞らせた京太郎の横顔を見、月子は歯がゆさに身じろぎした。

 

(でも)

 

 咲

 河:{③2⑧⑨中(南)}

   {8⑨54}

 

 花田

 河:{一西發②發⑦}

   {4北8東}

 

 照

 河:{北中西1九南}

   {①②八八}

 

 京太郎

 河:{9一九7北①}

   {西發三}

 

 

(聴牌気配が強いこの河に、萬子の下から真ん中は、いかにも打ちにくい。須賀くん――)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:49

 

 

(なんて、あきらめるわけねーだろ)

 

 打:{四}

 

 平然と、京太郎は無筋を押した。

 強打である。

 河に{四}を置いた瞬間、えもいわれぬ感覚が、かれの背筋を走った。

 そして、発声は無い。

 

(――通るか)

 

 京太郎は、三方を見回すと、笑みを深めた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:49

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 11巡目

 咲:{一二二六六六七⑥⑦⑧白白白} ツモ:{八}

 

(――これで、)

 

 打:{一}

 

(勝負!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:49

 

 

(いいかげん{③⑥}くらいいてもいいんじゃないですかねえ……)

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 11巡目

 花田:{三四赤五④⑤11678} ポン:{横南南南} ツモ:{一}

 

 打:{一}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:49

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 11巡目

 照:{三四五④赤⑤⑥34567東東} ツモ:{發}

 

 打:{發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:49

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 11巡目

 京太郎:{五七七②③④赤⑤⑥⑦2366} ツモ:{4}

 

(嵌{六}か{七6}のシャンポン――どっちも薄いな、これは)

 

 脳裡で当て込める枚数を数えつつ、

 

 打:{七}

 

 ノータイムでふたたび生牌を切り落とし、京太郎は聴牌を取った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:49

 

 

 その打牌が皮切りだった。京太郎を最後に、卓上の四人が聴牌を果たしたのである。咲、花田、照、京太郎の四人は無言のうちにその匂いを嗅ぎ取った。

 

 咲:{二二六六六七八⑥⑦⑧白白白}

 待ち:{二六九}

 

 花田:{三四赤五④⑤11678} ポン:{横南南南}

 待ち:{③⑥}

 

 照:{三四五④赤⑤⑥34567東東}

 待ち:{258}

 

 京太郎:{五七②③④赤⑤⑥⑦23466}

 待ち:{六}

 

 咲を除く全員のトップ条件は、ただの一度和了ることである。オリる理由はどこにもなかった。ここにいたって、技術や読みはその意味合いを半ば失った。和了が勝利に直接結びつく以上、そしてウマによる獲得点がはっきりと四者の明暗を分けてしまう以上、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、聴牌を捨てることはそのまま勝利から遠のくことを意味する。

 

 単純なめくりあいが、勝敗の帰趨を占う。

 

 ――勝負が始まる。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:50

 

 

 咲が自摸る。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 12巡目

 咲:{二二六六六七八⑥⑦⑧白白白} ツモ:{9}

 

 打:{9} 

 

 花田が自摸る。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 12巡目

 花田:{三四赤五④⑤11678} ポン:{横南南南} ツモ:{西}

 

 打:{西}

 

 照が自摸る。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 12巡目

 照:{三四五④赤⑤⑥34567東東} ツモ:{①}

 

 打:{①}

 

 京太郎が自摸る。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 12巡目

 京太郎:{五七②③④赤⑤⑥⑦23466} ツモ:{1}

 

 打:{1}

 

 まだ、誰の声も上がらない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:50

 

 

 13巡目――

 

 打:{中}

 

 打:{中}

 

 打:{⑦}

 

 打:{北}

 

 まだ、誰の声も上がらない。

 

 けれども、 ほど近い決着のときを、その一室にいる誰もが予感していた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:51

 

 

 ついに、

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 14巡目

 咲:{二二六六六七八⑥⑦⑧白白白} ツモ:{赤5}

 

 咲が、照の和了牌を掴んだ。

 

 彼女は、秒も置かずに牌を河へ打つ――

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:51

 

 

 打:{八}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:51

 

 

「……あの子、あの子」

 

 その光景を上手く形容することができないまま、月子は口を開閉させる。

 咲は、毛筋ほどのためらいも見せずに聴牌を崩してみせた。

 そして、それでいて、その所作に諦念は何一つ見えない。

 残りの自摸もわずかなこの巡目で、少女の瞳にはまだ焔が煌々と燃えていた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:51

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 14巡目

 花田:{三四赤五④⑤11678} ポン:{横南南南} ツモ:{7}

 

 打:{7}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:51

 

 

 ――ふるえが走った。

 

 熱さと冷たさが、照の世界に同居している。

 

 追い詰めた。喉元に鋒を擬した。咲はすでに死に体である。そのはずだ。

 

 けれども、照の脳裏で警鐘は鳴り止まない。

 

(……咲)

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 14巡目

 照:{三四五④赤⑤⑥34567東東} ツモ:{⑥}

 

 打:{東}

 

(咲――!)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:51

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 14巡目

 京太郎:{五七②③④赤⑤⑥⑦23466} ツモ:{九}

 

(――まったく胃にキてしょうがねえぞ、この半荘――)

 

 打:{九}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:51

 

 

({九}……)

 

 胸が張り裂けそうだ、と咲はぼんやり考える。考えるだけである。形象は曖昧で言葉に感情が付随しない。もっとずっと熱いものに、咲の全身全霊は振り分けられてしまっている。

 

 いま、彼女は、身のうちを貫く感覚を完全に統御している。

 

 かつてないほどに充実して、宮永咲は宮永照に追いすがっている。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 15巡目

 咲:{二二六六六七⑥⑦⑧赤5白白白} ツモ:{二}

 

 打:{赤5}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:52

 

 

(っ……強い!)

 

 一瞬も間をおかずに払われた{赤5}は、花田に戦慄と歓喜を運んだ。

 

(ほんとうに強い! このひとたち!)

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 15巡目

 花田:{三四赤五④⑤11678} ポン:{横南南南} ツモ:{⑨}

 

(つもれないのは泣きたいけど!)

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:52

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 15巡目

 照:{三四五④赤⑤⑥⑥34567東} ツモ:{2}

 

 打:{東}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:52

 

 双方にらみあってやり合う照と咲を左右に置いて、京太郎は背を炙るような熱を感じている。

 彼女らの視界において、自分は端役だと、認めざるを得ない。

 

(あんたらから出ないってのは、もうわかったよ)

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 15巡目

 京太郎:{五七②③④赤⑤⑥⑦23466} ツモ:{3}

 

 危険牌を引いた。

 咲、照ともに手を崩した様子だったが、それも確実ではない。

 

 打:{3}

 

(――いつもいつも、綱渡りばっかりだぜ)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:52

 

 

 そして、

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 16巡目

 咲:{二二二六六六七⑥⑦⑧白白白} ツモ:{⑧}

 

(――――)

 

 打:{七}

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 16巡目

 花田:{三四赤五④⑤11678} ポン:{横南南南} ツモ:{三}

 

「……っ」

 

 打:{三}

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 16巡目

 照:{三四五④赤⑤⑥⑥234567} ツモ:{9}

 

「……………」

 

 打:{9}

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 16巡目

 京太郎:{五七②③④赤⑤⑥⑦23466} ツモ:{①}

 

 打:{①}

 

 そして――

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 停滞の16巡目を経て、17巡目に、和了の声が上がった。

 

 



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25.あたらよムーン(上)

25.あたらよムーン(上)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 朝の空気が壊れていく。日が(ひる)に向け昇っていく。その部屋で麻雀卓を囲む子供たちは一言も発さず淡々と山を切り崩し、河を牌で埋めていく。

 

 全員が聴牌を迎え、崩れ、さらに張りなおして幾巡かが過ぎた。時の刻みは微分されたように遅々として進まない。

 ただし一定に保たれた摸打の拍子は打ち手に停滞を許さない。

 

 山から牌を摸す。

 そして和了(アガ)りでなければ、河に打つ。

 

 連綿とその動作は繰り返される。

 誰かが和了るか、誰も和了れないことが確定するまで遊戯は続く。

 

 単純で明快な、そして厳格で残酷な決まりごとである。

 南家(花田)による東家()からの{南}ポンが唯一の副露である南四局において、16巡目の京太郎の牌が通ったいま残る自摸は七回だった。

 仮にこのまま誰も和了らなければ、全員聴牌による点数移動のない一本場である。そんな静かな結末も麻雀にはしばしば訪れる。

 

 けれどもこの瞬間に限っては、誰もそんな終局を信じていない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 宮永咲は無心である。彼女の思考に遊びはない。ただ目の前の流れにのみ専心している。積まれた山は動かない。埋もれた残りの牌も揺らがない。この終盤において咲は意図的に感覚を鈍らせている。たとえば、咲の望む牌が他家の筋にいたとする。それを気取った自分が、何らの反応も示さないと言い切ることはできない。いずれにせよ局面はすでに運否天賦を問う領域に足を踏み入れている。それは技術や感覚や能力の外に置かれる要素である。

 

 けれども、咲は祈らない。

 いま、彼女はそんな気分ではない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 花田煌は胸の鼓動のままに打つ。何を引いても勝つためには打つしかない。和了り牌以外は捨てるしかない。あらゆる要素が花田に突っ張ることを要求している。ここに至れば技術や知識が介在する余地はほとんどない。ただ運だけがものをいう。技術の研磨に積み重ねた努力が、勝敗の帰趨を決することは無い。この土壇場で席に座るのが花田ではなかったとしても、結果は恐らく変わらない。それが麻雀である。花田もそんなことは知っている。

 

 けれどもこの結果にたどり着くまでの道程は、自分とこの面子でなければありえない。

 それが心の底まで刻み込まれているから、この理不尽な遊戯は花田を惹きつけて止まない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 宮永照は瞳を伏せて、ただ静かに決着のときを待つ。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 17巡目

 咲:{二二二六六六⑥⑦⑧⑧白白白} 

 

 ツモ:{8}

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 17巡目

 花田:{三四赤五④⑤11678} ポン:{横南南南} ツモ:{二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 花田の唇が歪んだ。

 彼女に神がかった直感はない。不可視を見通す瞳はない。だからなんの根拠もないただの勘にすぎないけれども、彼女は確信した。

 

(ああ、これは……)

 

 それでも、止めることは出来なかった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 打:{二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 時間が止まる。

 

 ――少女が鳴いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 17巡目

 咲:{六六六⑥⑦⑧⑧白白白} カン:{横二二二二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 嶺上ツモ:{白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 17巡目

 咲:{六六六⑥⑦⑧⑧} カン:{■白白■} カン:{横二二二二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 嶺上ツモ:{六}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

「まったく」

 

 と、月子は切なげに呟いた。

 

「……やってられないわね」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 17巡目

 咲:{⑥⑦⑧⑧}  カン:{■六六■} カン:{■白白■} カン:{横二二二二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 嶺上ツモ:{⑤}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

「――ツモ」

 

 と、咲は言った。

 

「三槓子、白……」

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9}) 槓ドラ1:{④}(ドラ表示牌:{③}) 槓ドラ2:{一}(ドラ表示牌:{九}) 槓ドラ3:{6}(ドラ表示牌:{5})

 17巡目

 咲:{⑥⑦⑧⑧}  カン:{■六六■} カン:{■白白■} カン:{横二二二二}

 

「嶺上開花――」

 

 {⑤}

 

「――4000オール」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 【南家】花田 煌  :26000→18000(- 8000)<割れ目>

     チップ:-5

 【西家】宮永 照  :25700→21700(- 4000)

     チップ:-3

 【北家】須賀 京太郎:26300→22300(- 4000)

     チップ:-6

 【東家】宮永 咲  :22000→38000(+16000)

     チップ:+14

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:55

 

 

 南四局0本場が終わった。ただし、この場ではラス親による和了り止めは認められていない。つまり咲が聴牌せずに流局を迎えるか咲以外の誰かが和了ることでしか、半荘に終わりはやってこない。

 この特殊ルール下において、咲の点差は圧倒的とはいえない。けれども次局、接戦を力で捻じ伏せた咲に隙はなかった。彼女の警戒は最大の障害である照に偏ることもなく、満遍なく高い次元で三家をケアし続けたのである。

 

 そして、

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:03

 

 

 南四局1本場 ドラ:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ1:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ2:{中}(ドラ表示牌:{發})

 18巡目

 咲:{三三五五赤五⑦⑨} カン:{■二二■} カン:{■八八■}

 

「……()()()()

 

 咲:{■■■■■■■} カン:{■二二■} カン:{■八八■}

 

 宣言と共に、咲は牌を伏せた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:03

 

 

 南四局1本場 ドラ:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ1:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ2:{中}(ドラ表示牌:{發})

 花田:{九九①①⑨1199南南西西}

 

「――ふぅ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:03

 

 

 南四局1本場 ドラ:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ1:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ2:{中}(ドラ表示牌:{發})

 照:{一一三四五六七⑦⑧⑨中中中}

 

「……」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:03

 

 

 南四局1本場 ドラ:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ1:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ2:{中}(ドラ表示牌:{發})

 京太郎:{一二①②②③③④⑨1238}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:03

 

 

 それぞれの牙が咲に届くことはなく、半荘は終結を迎えた。

 

 【南家】花田 煌  :18000→19500(+ 1500)

     チップ:-5

 【西家】宮永 照  :21700→23200(+ 1500)<割れ目>

     チップ:-3

 【北家】須賀 京太郎:22300→20800(- 1500)

     チップ:-6

 【東家】宮永 咲  :38000→36500(- 1500)

     チップ:+14

 

 一回戦

 持ち点

 宮永 咲  :+57

 宮永 照  :+ 3

 須賀京太郎 :-19

 花田 煌  :-41

 

 チップ(一枚百G)→点棒(点五十G)換算

 宮永 咲  :+14→+28

 宮永 照  :- 3→- 6

 須賀京太郎 :- 6→-12

 花田 煌  :- 5→-10

 

 合計

 宮永 咲  :+85(+4250G)

 宮永 照  :- 3(- 150G)

 須賀京太郎 :-31(-1550G)

 花田 煌  :-51(-2550G)

 

 清算(持ち金)

 宮永 咲  :11000円→15250(+4250)円

 宮永 照  :  500円→  350(- 150)円

 須賀京太郎 :90000円→88450(-1550)円

 花田 煌  :13000円→10450(-2550)円

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:10

 

 

 咲が、何かの実感を確認するように掌を開閉している。

 その様を(いろ)の無い瞳で見つめながら、

 

「次」

 

 と、照が明瞭な声を発した。

 

「――打とう」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 鹿児島空港発・中部国際空港行 国内線飛行機内/ 09:30

 

 

 霧島市内から鹿児島空港への道行きも祖母との合流も、滞りなく進んだ。思い描いていたよりも随分手狭な飛行機への搭乗にもとくに問題はなかった。万事は旅慣れた様子の祖母に付き従うだけで済んだ。FAの案内にしたがって席に腰を下ろすと、窓外に舞う雪がよく見えた。粒子は風に翻弄され、複雑な軌跡を描いて地に落ちる。その様は落花に似ていた。

 積もるほどの勢いはない。

 石戸古詠(こよみ)は雪を追いかけることをやめて、瞑目した。

 やがて機内アナウンスを経て機体が動き出し、飛翔した。耳抜きのために鼻をつまんでいると、

 

「疲れましたか」

 

 と、傍らに座る祖母が問いかけてきた。

 和装の貴婦人といった風情の彼女は、格安航空会社のエコノミー便にそぐわない雰囲気をまとっている。

 彼女の言葉に、古詠は首を振った。

 

「まだ起きたばかりだし、そうでもないです」

「空港には10時前には着きますが、そこからは長旅になるのだから、眠ければ寝ておきなさい。私と話したところで面白くもないでしょうし」

「そんなことは、ないです」

 

 突然の踏み込みに、面食らいながら古詠は応じた。祖母は神官である。ふだんは従姉である石戸霞や親戚の神代小蒔と同様、『神境』を在所としている(つまり、古詠と同居はしていない)。彼女はだから、古詠にとっては血縁であってもいわゆる一般的な『家族』ではない。それでも彼が鹿児島の地で知り合った中では飛びぬけて尊敬できる存在だった。

 親しみを感じているとは言えないけれども、彼はこの厳しい老人が嫌いではなかった。情実の枯れたような言動が好きだった。自らに任じた役目のためなら私心を殺す潔癖さが好ましかった。孫に亡くした娘の面影を見ることを戒めているような瞳が何より古詠の気を惹いた。

 祖母は古詠が出会った中でもっとも完成された『大人』だった。それだけに彼女の心や思考を彼はとても興味深く感じている。手塩に掛けて育てた娘が生家から逐電し、堅気とはいいにくい男を相手に子供をふたり産み、育て、やがて疲れて心を病み、ついには自裁した事実を母としてどう考えているのか、聞いてみたくてたまらなかった。

 

 自分が思うことと祖母の思うことにどれだけの乖離があるのかを、古詠は知りたかった。

 

(訊けないけどさ)

 

 今頃は病で臥せっているであろう薄墨(うすずみ)初美(はつみ)にその心境を打ち明けたときのことを思い出しながら、古詠は温度のない息を吐き出した。

 薄墨は古詠にとって、鹿児島において唯一といって良い気安い相手だった。もっとも薄墨に対して、彼がとくに友情や親愛を篤く感じているというわけではない。ただ薄墨は古詠に対して何も望まないし期待をすることもない。彼女は気まぐれで、時おり古詠の肝を冷やすような残酷さを発露させる。かと思えば年下としか思えないような無邪気さを見せることもある。それでも、ある一定の線を越えて古詠に歩み寄ろうとは決してしない。薄墨にとって古詠はどこまでいっても『石戸霞の従弟(おとうと)』でしかない。完全に固定されたその距離感の保ち方が、古詠にとっては意外なほど心地よかった。

 

 そんな薄墨が、石戸の祖母について愚痴らしきものを口にしたことがあった。内容は他愛ないものだった。勤めについて叱責を買ったというようなものである。その合いの手として、古詠は内に抱いた祖母への感情をふと零してしまった。それを耳にした薄墨は、稚気をはらんだ表情を一瞬で冷酷なそれに変えると、ひどく突き放した口調で古詠に忠告した。

 

 ――君は誰にもほんとうのことを言うべきじゃないと思いますよー。もちろん、わたしにもです。

 

 この言に対して、古詠はおおいに頷いた。納得せざるを得ないとおもった。彼は薄墨の慧眼にたいへん感じ入ったのである。

 以来、彼はとりあえず何か判断に迷ったときには薄墨を頼るようにしていた。今回の長野行きについても正直なところ薄墨の助言を仰ぎたかったけれども、あいにく彼女は常日頃の薄着が祟って寝込んでいる。致し方なく、古詠は試みに賽を振って長野へ向かうかどうかを決めたのだった。

 

 福岡空港を出発して三十分ほど過ぎたところで、古詠は暇に耐え切れず機内誌を眺め始めた。プロリーグの牌譜は預けた荷物に入れたままだったのである。退屈な観光案内の文字を追いかけていると、効果覿面、数分もしないうちに睡魔が古詠を訪れた。

 

(あ)

 

 まどろみの中で、疑問が閃いた。ふだんなら理性が歯止めを掛けるそのせりふを、古詠は思いついたままに舌へ乗せた。

 

「お祖母さん」

「――どうしました」応じた祖母が、古詠に目をやった。

 

「もしも、死んだお母さんに会えたら、お祖母さんならなんて言いますか」

 

「『迷うな』というでしょうね」

 

 即答だった。

 

「……なるほど」

 

 と、古詠は頷いた。

 

 通路を挟んだ先の空席に座った母の亡霊は、相変わらず涙を流し続けている。

 

 未練がましいひとだと、古詠は眠りのふちでぼんやり呟いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・信州麻雀スクール近辺/ 11:32

 

 

 花田煌に託された紙片を頼りに、押っ取り刀で支度した。威勢よく家人に小遣いを要求し、行きの電車賃をせしめると自転車で最寄の駅まで向かった。年越しの準備をすっかり整えた道行を尻目に片岡優希は疾駆した。

 

 胸の内には不甲斐ない自分への怒りが燃えていた。

 

 一週間前、片岡は宮永照を相手取り、須賀京太郎と共に惨敗を喫した。勝負を切ったのは京太郎の言葉だった。夕刻と共に彼の口から発せられた事実上の降伏宣言に、片岡はいたく腹を立てた。

 

 ――()()()()()

 

 内心は、救われた思いだった。本音をいえば、あの怪物めいた少女と、片岡はもう打ちたいとは思っていなかった。敗北や勝利を経て築いてきた自負のようなものを、宮永照の麻雀は根こそぎ砕いていった。遠慮呵責のない圧倒的な力を前にして、片岡はかろうじて抗うだけで精一杯だった。

 京太郎の提案は、だから渡りに船だった。自分自身の戦意は萎えていないことを示しつつ、片岡は勝負の場から立ち去った。照が片岡に向けて何かを発することはなかった。

 

 何もかも打算づくで振舞ったわけではなかった。良くも悪くも片岡は単純な性質だったし、京太郎に対して裏切られたような気分になったことも事実である。けれどもあの場における自分の行いは、少なくとも、

 

(ろくなもんじゃ、なかったじぇ)

 

 と、片岡は思うのである。

 そして自身の心象がそう断じたならば、その行いは正されねばならない

 いまでも、麻雀のことを思い浮かべるたびに、片岡は照の底知れない瞳を思い出す。その追想には恐怖が伴う。萎縮が伴う。あの吐気を催すほどの無力感と徒労感を彼女は忘れていない。

 

 ――だからこそ、打たねばならない。

 

 そう心に決めて、花田の誘いに応じた今日である。

 花田の紙片には、『麻雀打ちたかったら』という添え書きと共にある麻雀教室の住所が記されていた。他に頼りもない片岡はとりあえず最寄り駅へと向かう電車に乗り、目的地で降りた(人生ではじめて、ひとりだけで電車に乗ったことには後で気づいた)。

 

 そして迷った。

 完膚なきまでに行く道を見失った。

 住所など紙に書かれても、そこへどうやって着けばいいのか、片岡は判らなかったのである。

 

「どこ、ここ」

 

 途方に暮れた片岡の言葉に、応じる人の影はない。勢いだけで走り始めただけに、その火が消えればとたんに片岡の胸に不安が兆した。

 

「んん……」

 

 ひとしきり唸る。腕を組み頭を捻る。妙案は閃かない。しかたがないので、片岡はとりあえずあてどなく歩き回ることにする。駅の近場まで行けばそれなりに人通りもある。メモを見せて訊ねれば道も開けようと、彼女は楽観的に構えた。

 

「とりあえず、つぎに見かけたひとに道を聞いてみるじぇー」

 

 薄っすら雲の張った空を見上げながら、鼻歌混じりに片岡は歩く。ほどなく彼女の視界に特徴的な三人組が入り込む。若い女、片岡より少し年上と見える少女、そして老境の男性という組み合わせである。年齢はともかく、まとう空気は少なくとも親子孫というそれではない。道を尋ねるのに適した組み合わせとも思えない。けれども一度決めたことなので、片岡は一切ためらわずに大声を掛けた。

 

「もし! そこのひとたち!」

 

 喫驚した様子で、一同が片岡を顧みた。見知らぬひとに一斉に視線を向けられると、ふつうは萎縮する。年端もいかぬ子供であればなおのことである。けれども片岡は、そういう意味での『普通』からは縁遠い少女である。

 

「信州麻雀スクールってどこにあるかしりませんか!」

 

 と、胸を張って訊ねた。

 無言の間が過ぎて、片岡をよそに三人が顔を見合わせた。老人は労わるような目を片岡に向けた。長身の女は何かを思い出すように首を捻っていた。

 三人目の少女が、ポニーテールを揺らしながら、呆れ混じりに告げた。

 

「あなたのうしろにあるのがそれよ」

「――」

 

 いきおい、片岡は背後に目をやった。一面が硝子張りの建物がそこにある。いまはブラインドが降りて屋内を見透かせないけれども、見上げた位置にあるその屋根には、確かに、

 

 信州麻雀スクール

 

 と、あった。

 

「まじか」

 

 と、片岡は呟いた。

 

「もうちょっと看板わかりやすくしたほうがいいかなぁ……」若い女が悩ましげにいった。

「これ以上わかりやすくしようとすると、ネオンでもつけるしかないんじゃないかね」老人が苦笑した。

 

「ここが、わたしの旅の終わり……」

 

 万感を込めて、片岡は胸に手を添えた。

 

「で、結局あなた何しにきたの?」

 

 心なしか距離を置いて問いかけてくる少女に、片岡は肩をすくめて応じた。

 

「おねえさんはおバカなのか?」

「あ?」少女が剣呑に眉をひそめた。

「麻雀スクールに、麻雀以外のなにをしにくるんだじぇ!」

「……まァ、たしかに」少女は片岡の言にしぶしぶの納得を見せた。

 

 これを見た片岡は、

 

「まあ、気にするな。だれにでも間違いはあるじぇ!」

 

 といって、鷹揚と笑った。

 

「あ、ありがとう。――あれ? なに、私いまなんで慰められたの?」

 

 これが片岡優希と南浦数絵の、記録にも記憶にも残らない初遭遇であった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 13:26

 

 

 ――電話が鳴った。

 

 弾かれたように、月子は立ち上がる。ソファから腰をあげると、足元が少しだけ揺れた。立ちくらみもした。どれだけ長い間観戦していたのかと時計を見つめて、彼女は小さく声を漏らすほど驚いた。時刻はすでに13時を半分近く回っている。開戦からじつに6時間以上も、かぶりつきで麻雀を見ていたというわけである。

 

 池田華菜は、すでに長丁場に見切りをつけて、別室で仮眠を取っている。

 

 月子は鳴り続ける電話に催促されながら、強く握り締めてしわだらけになった収支表を見下ろした。

 

 ―― 一回戦

 宮永 咲  :+85(+4250G)

 宮永 照  :- 3(- 150G)

 須賀京太郎 :-31(-1550G)

 花田 煌  :-51(-2550G)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 13:26

 

 

 ―― 二回戦

 宮永 照  :+105(+5050G)

 花田 煌  :-  8(- 400G)

 宮永 咲  :- 31(-1550G)

 須賀京太郎 :- 66(-3300G)

 

 

 ―― 三回戦

 宮永 照  :+ 98(+4900G)

 宮永 咲  :±  0(    0G)

 花田 煌  :- 28(-1400G)

 須賀京太郎 :- 70(-3500G)

 

 

 ―― 四回戦

 宮永 照  :+ 77(+3850G)

 宮永 咲  :+ 20(+1000G)

 花田 煌  :-  2(- 100G)

 須賀京太郎 :- 95(-4750G)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 13:26

 

 

「……ツモ」

 

 宣言と共に、宮永照が牌を倒す。焦燥に満ちた顔でその様を見送るのは宮永咲である。

 花田煌は、言葉少なになって久しい。摸打にこそ陰りはないが、瞳には疲労がちらついている。

 

「6000は割れ目で12000オール――」

 

 そして須賀京太郎は、色を亡くした顔で、積み重ねられる和了を、呆けたように見つめていた。




2013/6/24:牌譜修正


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26.あたらよムーン(下)

26.あたらよムーン(下)

 

 

 ▽ 12月29日(日曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 23:44

 

 

 板を一枚挟んだ卓の内側で、自動的な機構によって136枚の牌が攪拌される。乱雑に打ち捨てられた牌はドラムの上で洗われ、磁石のリングに絡め取られて卓の四隅に設えられた吸い上げ口に一枚ずつ滑り込んでいく。レールの上を牌が回り、一山を十秒ほどで積み上げる。それが四方其々で繰り返される。

 

 京太郎はその様を繰り返し確認する。牌がどのように扱われ、どのようにかき混ぜられ、そして山として積まれていくのかを細大漏らさず観察する。疑問に感じたことはメモを取り、ある程度まとまると、夜半であることを気にもせず春金清に電話を掛けて(スクールの講師で麻雀納めの真っ最中だった)訊ねた。集中力が落ち、眠気が思考を捉えても、かれは舌を噛んだり凍てつくような夜気を身に浴びたりすることでやり過ごした。ひたすらに自動卓が牌をかき混ぜ、積み上げる様を凝視し続けた。

 

 そんな京太郎を、月子は理由もなく見つめていた。部屋には二人きりだったけれども、ふたりの間に交渉はなかった。京太郎の意識は愚直な機械にすっかり集中していた。

 かれの師匠筋として、行動の無意味さや不可解さを咎めていないわけではない。月子の(やや過剰な)諫言はもうすでに一通り京太郎へ吐き出しきっている。それでも京太郎は自動卓を何度も回すことを止めなかった。その夜に降雪はなかったけれども、寒さは一入だった。灯油ストーブは休みなく働いていて、まったく言葉が行き交わないその空間では、へたをすると京太郎や月子よりも人間めいて見えた。

 

「何がしたいの」

 

 と、月子はいった。そこではじめて、咥内が乾ききっていることに彼女は気づいた。舌は縺れて発言は不明瞭だった。音はおそらく、京太郎の耳には届かなかった。そうと察して、けれども月子は言を重ねるような気にはならなかった。質問を口に出してみてから、彼女は自分が求めているものが回答ではないと気づいたからである。京太郎が口にするであろう言葉など、聞くまでもなく月子には想像がついた。かれはただ単純で完結な答えを寄越すに決まっていた。

 

 数日前、勝ちたいと、かれは病み上がりの身で月子にいった。月子はその意思の指向を知りつつ空とぼけた。勝てるわ、と答えたのだった。基本を学び、技術を磨き、そして相手を選べばよい。月子は京太郎の言葉を意図的に曲解した。そうする以外に選択肢はなかった。

 

 もちろん、京太郎は()()()に勝ちたいに決まっていた。

 月子はその求めに応じられない。

 

 彼女は、不可能を可能にする魔法使いではない。月子から京太郎へ伝えた麻雀の技術に、特異な内容は何一つ含まれていない。たとえば月子自身が駆使するような『運の偏差』など概念としてすら持ち出していない。ましてやそれを前提とした打牌など教えるはずもない。月子が京太郎と交換した時間は、どこまでも当然で現実的な、地に根付いた論理に満たされている。そこにはいつ失われるともしれない異能や不可視の不思議による揺らぎはない。常識の外に位置するような打ち手を向こうに回して打ち勝つ術など含まれていない。

 

 京太郎の願いは、だから祈りとともにしか存在できない。

 たとえば、幾度も牌を打ち交わせば、かれが局地的に照を上回ることもある。それは京太郎や照の実力に結びつかない厳然たる運の支配する領域の出来事である。それが道理である。

 しかし、『幾度』が『何度』を指すのかを明言できるものはいない。

 京太郎が宮永照に勝利する確率は数学的にはゼロではない。

 けれども運命的に皆無なのかもしれない。

 勝利することを規定された存在が、この世にはいるのかもしれない。

 

(……ばかばかしい)

 

 月子はかぶりを振る。益体のない思考を打ち消す。ソファのうえで膝を抱えて左右に身体を揺らしては、漫ろに視線をさまよわせて最終的にまた京太郎へ目を戻す。長い髪で手遊びを試みる。京太郎を見る。髪を編む。結ぶ。ほどいてまたまとめ、京太郎を見る。少年は牌と機械と戯れている。急きたてられるように必死に、取り付かれたように黙々と、かれは何度も位置を変えては席に座り、部屋の調度を難しい顔で眺める。照明の位置を変える。

 大真面目に、馬鹿馬鹿しいことに取り組んでいる。

 

 少年の横顔は、修辞で飾ればひたむきと評せないことはない。ただ実際には、あまりに切迫していて、およそ十歳に差し掛かったばかりの子供が見せるような顔ではなかった。

 

 須賀京太郎が、これまであまり見せなかった、剥き身の感情が宿った顔だった。

 

 かれと出会って半年近くが過ぎた。その間、月子がもっとも時間と空間を共有した他人は、間違いなく京太郎である。

 だから須賀京太郎について、石戸月子が知りえたことは少なくない。初めて遭遇した違和感を覚えない他人である少年は、月子にとって新しい景色への窓そのものだった。かれと麻雀を通して、月子は友人を得た。花田煌と池田華菜は、(月子は決して口に出してそれを認めたりはしないが)いわゆる親友に分類された。あの夏の日に三人の少女と一人の少年に出会って、長らく停滞していた月子の時計は刻みを再開した。

 そんな存在が、月子にとっての京太郎である。

 

 かれに関することならば、とくに理由がなくとも月子は知りたがった。京太郎の自意識に触れない範囲で、彼女はかれを掘り下げ続けた。何を好み何を嫌い何を思い何を考え何を為し、何を為さないのかを見つめ続けた。語る言葉や選ぶ話題の傾向を分析した。たとえば食材に手をつける順序や、あるいは人と話すときの癖や、珍しいところでは接続詞の種類別の使用頻度をあたう限り整理した。かれと話した内容は毎夜ノートに書き留めて長い夜の手慰みにもした。言葉の端々や目線の行き先を追い続けた。それは何かしらの見返りや結論を求める行動ではなかった。京太郎に限らず、月子は接触を持った人間についてはだいたい同じことをした。出会った人間や話した事柄やその運勢を記録し、分析し、論理的に解体した。ただ中でも、やはり京太郎についての思索に割く時間は群を抜いていた。

 

 月子は自らのそうした習性がやや偏執的であるかもしれないと懸念していたので、いちど京太郎にその秘密を打ち明けたことがあった。出会ってから三ヶ月でルーズリーフ200枚超となった『京太郎ノート』を目にした京太郎は内心かなり驚愕していたけれども、かろうじてその感情を表出させずに、「べつにいいんじゃねえの」とだけいった。

 

「少なくともおれは気にしない」

 

 かれの動揺を月子は見抜いていたけれども、本人の言質は取ったので、行動を改めないことにした。

 そんなふうに、京太郎は感情を面に出すことを自戒する傾向があった。何らかのストレスに遭遇したとき、かれがまず始めに選ぶのは耐えることだった。傍目にもどうしようもない困難に対してもそれは同様だった。かれは、どうにかしてそれをうまく受け入れることができないものかと苦心するのである。

 京太郎の欺瞞は、見抜きようもないほど巧妙なときもある。失笑するしかないほど稚拙なときもある。いずれにせよ、月子は京太郎が隠し立てする全てを暴く心算だった。どれだけ時間を掛けても、須賀京太郎という人間を解き明かす心算だった。

 

 ――京太郎が希死衝動と綺麗に折り合いをつけるそのときまで、月子はかれを見守っていたかった。

 

(……――)

 

 牌を攪拌してはせり上げる自動卓。温風を吐きつづけるストーブ。一心に牌を見つめ続ける少年。順々と意識の矛先を変えながら、月子は膝を折りたたんだままソファに横になる。傾いだ世界では、少年が無為な労を支払い続けている。()()はその様子に胸を痛める。報われればいいと思う(けれども同時にこの上なく勘気を刺激する。身の程を知らず分を弁えないかれのありようは、月子から一時的に理性を奪う。月子のなかの月子が、眠りから覚めた蛇のように鎌首をもたげる)。

 

「ねえ」と少女は呼びかける。

「なに」と少年が応じる。

「そんなことしても、勝てないわよ。なにをしても、あなたじゃあれには勝てないと思う。それはこの先練習し続ければとか、運が良ければとか、そういうことじゃないのよ。あれとあなたが何かを比べること自体が的から外れたことだと知りなさい。羽虫が猛禽と空を争うようなものと知りなさい。あれは決定的に選ばれている娘だし、あなたはあまりにも選ばれていないものなのよ。自分でもわかっていることを、どうして認めようとしないの? あなたがやろうとしていることにも、あなた自身にも、何の意味もないってわからないの?」

「今さらどうした」少年が顔をしかめた。

「めざわりなのよ」少女も顔をしかめた。「わたしは色々なことを諦めながら生きてきたの。これからもたぶんそうしていかなきゃいけないの。あなたよりもずっと持っているけれど、それでも諦めるしかなかったの。あなただってそうやってずっと来ていたはずじゃない。なのになんで今さらそんな、捨てたものを拾いに行くようなことをしているの? 気慰みでやってることじゃないの? 諦めるための道具じゃないの? そんな遊びに必死になっていたら、逃げ場の意味がないわ」

「うるせえよ。ほっとけ。ひとの勝手だ」

 

 と、眠気を引きずった声音で、けれどもきっぱりと、かれは答えた。

 

「……ん?」

 

 月子は目を瞬いて、半眼の京太郎を見返した。

 

「……()()()()()()()()()()()()()()()?」

「寝言吐いてたな」呆れ顔で京太郎は呟いた。「まァ、たいしたことはいってねえよ。あたりまえのことだ。正しいことだ。ぜんぜん、ふつうのことしか言ってなかった」

「そう強調されると逆に気になるけど……うん、信じるわ」

 

 京太郎は肩をすくめて、また卓に戻った。

 月子は黙って、その背中を見ていた。

 

 儀式めいた検証は、12月29日、すなわちかれが宮永照との再戦を約した日の前日朝からひと時も休まずに続けられ、そして12月30日を迎えて暫くして、ようやく終わった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 14:04

 

 

「……ロン」

 

 京太郎が河に打った牌に対して、咲が和了を宣言した。

 

 南四局四本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 6巡目

 {一一一二⑨⑨⑨34赤5南南南}

 

 ロン:{三}

 

「……5200の四本場は、6400です」

 

 それが、五回戦南四局の終わりを告げる和了になった。

 祝儀を含めた合計収支の着順は、以下の通りである。

 

 ―― 五回戦

 宮永 照  :+ 62(+3100G)

 宮永 咲  :+  8(+ 400G)

 花田 煌  :-  9(- 450G)

 須賀京太郎 :- 71(-3350G)

 

 持ち点の着順こそ花田が上回ったものの、チップを稼いだ咲が照に準じる形になった。いずれにせよ照が圧倒的な首位であり、他方京太郎が突き抜けた最下位という構図は二回戦から変わりがない。

 四度目の断ラスを食らった京太郎は、大きく息を吐いて、背もたれに深く体重を預けた。

 

(ここまで――)

 

 薄く目を開けて、対面に席を替えた照を見据える。当たり前のことだけれども、彼女の見目に変化はない。朝このマンションを訪れたときから、宮永照の何かが変わったかといえば、そんなはずはないと京太郎は答えるだろう。

 事実、照は何も変わっていない。

 変わったのは、()()()()()である。

 とはいえ、それも露骨なものではない。放銃はもともと少なかったし、和了を重ねて打点を上げていく特徴も同様である。配牌から聴牌に達する速度も折込済みだった。宮永照はこの場における生粋の強者である。ただ、それを踏まえても、二回戦目以降の照は異質だった。

 圧倒的な打点はない。目を瞠るような速度もない。奇抜な打ち回しでもない。明確な殺し手が存在するわけでもない。目を疑うような和了もない。照はけれども、()()()()()()()()。無数に存在する網目のような岐路の中から、唯一の正着手を一手も間違えずに選び続けている。仮に己の和了目がない局だとしても、正確に被害を最小限にするよう局面を誘導してしまう。一回戦において唯一照に土を着けた咲だけが何とか照に追従し、しかし必ず決定的な場面で読み負けしては下されている。

 これまでどこか自動的だった照の麻雀は、今や他者の牌どころか心理まで見透かしたように変幻自在の強さを見せていた。

 

 しかもその精度は、局面を重ねるごとに増しているようにさえ思える。

 

(ここまで、強いのか)

 

 清算を終えて、京太郎は唇を歪める。

 今日この場に持ち込んだ金は正しく彼の全財産だった。年初に受け取った数年分のお年玉や、朝・夕食のために親から渡された金を、かれはろくに遣うこともなく溜め込んでいた。もとより自ら働いて得た金ではない。使い道を思いつかないからこそ手元に置いていたものでもある。

 五回の半荘を終え、種銭はすでに二万円近く溶けていた。総額九万円は、もとより長期戦を覚悟し、決して有り金が尽きないようにと持ち込んだ金額である。

 それでも、この速度でここまで減ることは想定していなかった。

 

(それに、おれもあまり好くねえ――)

 

 ここまでの展開を顧みて、京太郎は天井を仰ぐ。一言でいえば、今日のかれは()いていなかった。いわゆる半ヅキという状態である。大物手は入る。よく入る。しかし他家に――主に照に――必ず潰され、成就しない。主因は紛れもなく照にあるだろうことは、かれもわかっている。しかしだからといって、入った手を全て無為に見送ったのでは勝利を放棄しているのと変わりない。

 ときに照を欺瞞するためにわざと打点を下げるような打ち回しもした。莫迦正直に立直へ突っ張ることもした。たいした手でもないのに親へ押すことも試した。そのことごとくを照は封殺した。一度惑うことがあっても次の巡目にはもう揺らぐことは無かった。そして同じ手は二度と通用しない。いまとなっては、照に対して京太郎の虚偽(ブラフ)に類する行動は事実上機能しなくなっていた。

 

(まいったな)

 

 素面でどこまで照に抗えるかを、正確に見積もっていたわけではなかった。実力で言えば天と地ほどの開きがあっても、偶然の要素がその間合いを埋めるのが麻雀である。

 ただし、天運が京太郎の味方をすると、誰も保証などしていない。

 

(ただでさえ腕で負けてるのに、運もぼろ負けかよ。――いや、そもそも、()()()()()()なのか)

 

 一回戦で多少善戦が出来ただけに、二回戦以降の負債は京太郎の心理を大きく圧迫した。弱音の虫も騒いだ。何にも増して、根源的な畏怖の気持ちが抑え切れそうにもなかった。

 照に一度和了られるたびに、胸が騒いだ。京太郎を軽い混乱が襲った。和了の声が上がり、牌が倒れ、点数が申告される。擬似的な金銭が支払われる。敗北である。けれどもかれの胸に屈辱や後悔が惹起されない。敢闘した清々しさも希薄である。負けが込みすぎて頭がおかしくなったのかと京太郎は思う。かれは照に対し、この期に及んで憧れさえ感じている自分に気づく。かれは、

 

 憤りすぎて死にたくなる。

 

 京太郎は負けを心から悔いるほど、勝利に拘れない。

 それでも、敗北を当然として受け入れるようなら、牌を握る意味などないことを知っている。

 

「――須賀くん? だいじょぶですか?」

 

 心配げな声が、右方から掛かった。目じりを下げて問うのは花田煌である。

 

「ああ、大丈夫」

「次で六回戦ですけど、お昼もテキトウでしたし、疲れたなら休憩にします?」

 

 冷却の提案である。純粋に京太郎を慮っていることも確かだが、彼女自身も、照の変容に対処するための時間が欲しいと見えた。

 けれども、この場面では頷けない。京太郎は首を振って、

 

「いや、まだ、――あれ。月子は?」

 

 部屋に月子(ホステス)の姿がないことに気づいた。

 

「さっき電話があって、なんか慌てて出て行った。親父さんからの呼び出しだってさ」答えたのはなぜかパジャマ姿の池田華菜であった。「もしかしたら戻ってくるの遅くなるかもって言ってた」

「ふゥん……新城(おやじ)さんからなんて、めずらしい」

 

 京太郎は首を捻った。師事した彼女の視線を意識することで迂闊な摸打を自制しようと心がけている節もあるけれども、月子がいたところで根本的な状況が好転するわけではない。

 ただし、おかしな胸騒ぎがあった。

 月子と父、新城直道の関係性のぎこちなさは京太郎も知るところである。表面的には平凡な須賀家と異なり、月子の家庭事情は判りやすく込み入っている。

 かれは何となく友人の行く先を憂えたが、すぐに思考を打ち切った。

 

「ところで、なんでパジャマ着てるんですか?」花田が池田の格好に突っ込んだ。

「家じゃ寝れなくて超おねむだからだし! 三つ子の夜泣きとかマジハンパねーし!」

「いま寝るとそれはそれで眠れなくなるんじゃ……」

「え? だってどうせ徹マンでしょ?」苦笑いの花田に、池田がきょとんと答えた。

 

 えっ、と宮永姉妹が声を上げると同時、

 

 ――インターフォンが連打された。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・カフェ ムース/ 14:10

 

 

 ――古詠が来てる。会う気はあるか。

 

 電話口で父から告げられたのは、端的で素っ気無い質問だった。月子は一瞬だけ背後の京太郎たちを顧み、返答に窮した。

 

 古詠とは、月子にとって双子の兄の名である。その名を父が口にした以上、同名の他人などではあるはずがない。

 月子と兄――古詠の仲は、良好とはいえない。古詠の側はともかく、少なくとも月子は兄を嫌っている。憎んでいるとまでは言わないけれども、彼女はどうしても兄が好きになれない。だから一年半以上も前に()()()()()()()()古詠と月子は、今日まで一言も交わすことなく暮らしてきた。

 

(なんの用事なんだろう)

 

 と、月子は思うものの、答えは出ない。最終的に月子を頷かせたのは、古詠ではなく母の存在だった。兄が長野に訪れたということは、必然的にその保護者であり遠方で療養していた母も同様のはずである。月子が最後に記憶している母兄との別れは世辞にも碌なものだったとはいえない。けれども兄を伴ってきた以上、母の状態は快方に向かったのであろうと月子は楽観的に結論付けた。

 

 ――自分の人生に、そんな牧歌的な快復はありえないと、心の片隅では理解している。

 

 父が待ち合わせ場所に指定したのは、マンションから歩いて十分ほどの距離にあるカフェだった。左方に聳える雪山を眺めつつ、吹き込む寒風に月子はコートの襟を寄せる。空は九割がたを灰色の雲に切り取られつつあって、降雪を予感させる模様だった。

 

 急ぎ足だったこともあって、目的地にはさほど迷わず辿りついた。

 父の車が駐車場に停車していることを確かめながら、月子はがらにもなく自分が高揚していることを認めた。一度は断絶を受け入れた『家』の人々が、予期せずこの年の瀬に再会を果たすことになった。それは知友を得て心境の変化を果たした月子にとってとても暗示的で、ちいさな幸福を予感させる出来事だった。

 少し呼吸を調えると、月子は白塗りの外観でまとめられた店へ歩み始めた。カウベルが設えられた扉を押し開けた。ウエイターの落ち着いた声が彼女の来店を出迎えた。

 

 待ち合わせです、と店員の男性に告げると、男性は淀みなく店の奥へ月子を案内した。そう広くはない店の一角に、三席が埋まっている四人掛けの席が見えた。どこにいても目立つ父の人相が目に入った。次に月子に対して背を向けるふたりの姿を見た。片方は子供である。そしてもう片方は、

 

(お母さん――)

 

 美しい和装に身を包んだ、白髪の女性だった。

 

(――じゃ、ない、わね)

 

 早速目算を崩され、月子は出端をくじかれた気分になった。それでも今さら顔を出さないという選択肢もない。歩む速度を落として、彼女はテーブルに向かった。

 

 まず父が、目顔で月子を迎えた。彼の右隣が空席だった。とくに断りもなく月子はそこに座ろうとして、

 

()()()()()()()

 

 制された。

 兄――石戸古詠は、月子の記憶よりも少し成長したようだった。相変わらず背も低く顔も母親に瓜二つで女性的だが、彼は紛れも無く兄だった。

 

「ひさしぶり」

 

 と、口にしながら、月子は古詠の制止を無視してそのまま父の隣に腰を下ろした。古詠は少しだけ眉をひそめると、酷く冷たい目を誰もいない方向へ向けて、嘆息した。

 

(……?)

 

 いきなりの所作に困惑しながら、月子は古詠から視線を切って最後の一人を注視する。後姿を裏切らない上品な老婦人がそこにいた。顔の造作そのものは柔和で、少しだけ古詠に似た雰囲気があった。だから月子は、老婦人を母方の親戚であろうと当たりをつけた(それは正鵠を射ている)。老婦人の側はというと、感情の読み取れないしわに包まれた瞳が、やや胡乱な光を放っていた。月子は直観的な嫌悪感を覚えた。老婦人のそれは――有体に言えば、値踏みするような視線だった。

 が、その不快な光は一瞬のものだった。老婦人は一度瞑目すると、すぐに笑顔をつくった。

 

「はじめまして」と、彼女はいった。「月子さんですね? わたしは――あなたのお母さんのお母さん、つまり、祖母にあたるものです」

「……はじめまして」予測が当たったとはいえ、何ともいえない居心地の悪さに、月子は座席の上で腰の位置をずらした。「石戸、月子です。しってると思いますけど」

 

 それから、間を持たせることを期待して、

 

「あの、お母さんは、今日はいないんですか」

 

 と、いった。

 

 老婦人の顔が凍りついた。

 瞬間の強張りだった。目じりが震え、そして感情の発露らしきものはそれで終わった。またしても瞬きを一度すると、彼女は完全に平静を取り戻した。

 そして、あからさまな非難を込めて、月子の左方――新城へ抗議の視線を刺した。

 

「――どういうことでしょうか」

 

 射竦められそうなほどおそろしいその瞳を、新城は真正面から見返した。

 

()()には」と、彼は言った。「母親のことはまだ言っていません。私が言わないほうがいいと判断しました。そして、今日この場で伝えるべきとも」

「……なんて勝手な」婦人が苦みばしった顔で呟いた。

 

 その遣り取りだけで――

 

(……あ)

 

 月子は、自分が発した質問の答えを、半ば悟った。

 

(あ、あ、……え、え)

 

 手がかりを得た思考を抑止するものはなかった。推察を止める理由もなかった。最後に見た母の状態――この場にいる人間の関係性――そして物言い。すべてが、月子の胸騒ぎの先にある結論を補強する材料になった。疑念が一瞬で確信に漸近した。瞬間的に、月子の中でいくつかの、他愛ない記憶が閃いた。『おまじない』をして症状が緩和されたあと、同じ布団で眠りに落ちた記憶があった。買ってもらった新しい服を見せた記憶が、いやになるほど鮮やかに、まぶたの裏で再生された。病床で見た病んだ瞳と痩身を思った。艶やかな黒髪に一筋映えていた白髪を想った。吐気を催すほどの悪寒が月子の総身を貫いた。

 

「なんだ、聞いてなかったんだ、月子。だからお葬式にも来なかったんだね」

 

 古詠の声を聞きながら、月子は推察を否定する材料を探し続けた。

 兄はその心理を見透かしたように、残酷で決定的な言葉を発した。

 

「母さんは死んだよ。自殺したんだ。だから、もう、()()()()()()()()()

 

 もうずいぶん長い間思い返すこともしていなかった。それなのに、

 

 月ちゃん、

 

 という、母の呼び声が、あきれるほど簡単に、月子の深い部分で響いた。

 

 それがもう二度と聴こえない声だということが、とても哀しかった。

 




2013/7/13:ご指摘頂いた誤字を修正。


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27.あたらよムーン(弦)

27.あたらよムーン(弦)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・カフェ ムース/ 14:18

 

 

 感情が千々に乱れて心の平衡が失われるような、そんな動揺はなかった。

 判りやすく声を上げることも涙を流すことも彼女はしない。ただ母が死んだという巨大な一石はとても高い飛沫を上げて月子の中に沈み込み、余裕があるとはいえない彼女の容器の底へまっしぐらに落ちていく。心の水位が上がり、月子は名状できない息苦しさを覚える。双子の兄の言葉は、彼女の体の真ん中にある何か重要な回路のようなものを大方塞いで見せた。

 月子は、

 

(なるほど)

 

 と、思った。

 

 会話が途切れたタイミングを見計らったウエイターが持ってきた銅製のタンブラーを、かたい面持ちで見下ろした。結露した器の中では氷が涼しげに浮かんでいる。珪藻土(ダイアトマイト)のコースターごとタンブラーを手繰って、月子は一息に冷水を煽った。気遣うような老女の瞳が、量るような古詠の瞳が、一枚幕を挟んだ光景のように、彼女には見えた。

 水の味はわからなかった。

 喉を抜けていく温度も曖昧だった。

 それでも、

 

「そうなんだ」

 

 と、月子はいった。

 古詠が眉根を寄せた。

 

「『()()()()()』?」と、彼は言った。「――ふうん」

 

 二の句はなかった。悲しくないのか、とも、他に言うことはないのか、とも古詠は訊かなかった。月子が想像した通りだった――間を空けた対面でも、月子は兄の性格(あるいは性質)を熟知している。彼が他人を気遣うことなど決して無いと知っている。

 古詠が月子の感想を掘り下げないのは、だから彼の気遣いではない。単純に、母を亡くした妹の心境になど興味がないのだろうとあたりをつけた。

 

「まァ、()()はべつにいいや」と、古詠がいった。

(やっぱり)

 

 月子は無表情を保ったまま、確信を深める。無意味な満足感が彼女を慰める。けれどもふと気づけば、タンブラーに這わせた指は少しばかり震えている。微震が氷と水に伝い、月子が制御しきれない感情の一部を代弁している。恐らくその場にいる全員が月子の押し殺した感情に気づいていたけれども、ひとりは純粋に興味がなく、ひとりは言葉を掛けあぐねていた。

 最後の一人、つまり父である新城だけが、月子にいった。

 

「悪かった」

「謝るのは勝手よ、『おとうさん』。でもわたし、謝ってほしいとは、どうも思ってないみたい」月子は言下に応じた。どこか決まりきった台詞を読み上げているような空々しさがつきまとった。「わたしはこんな性格だし、いまはともかく、少し前まで余裕もなかったから、……べつに、間違ってはなかったんだと思う。ただ、やっぱり、黙っていてほしくは、なかったの」

 

 月子はため息をつく。

 息継ぎのように間を取る。

 思考さえ喘いで、矛先が定まらない。

 

(――自殺か)

 

 片手で顔面を覆う彼女は、自身が負った傷の深さを計っている。

 神妙な三人の様子を前に、ふいに大声を上げて暴れ出し、身も世も無く泣き叫びたくなる。それは悲哀の所産ではない。暴力的な自棄衝動か、自虐的な好奇心が齎す空想である。

 積みあがっている何かを発作的に破壊したくなることと、そんな内面を億尾にも出さず振舞うことの平凡さを、いまの石戸月子は心得ている。

 誰にでも、何もかもを擲つ自由がある。

 そして、それを自制する力を持っている。

 月子はその力を理性と呼ぶと知っている。

 母からはその力が欠けてしまったのかもしれない。

 自分や古詠が、そして父が、母から進む力を奪ったのかもしれない。

 

「ねえ、もういいかな」平板な声を上げたのは古詠だった。「それなりに驚いただろうし、悲しくないだろなんてことは言わないけどさ、母さんはどっちにしたってもう月子の前からいなくなってずいぶん――一年以上も経ってるわけじゃないか。それが永遠になっただけで、べつに今の何が変わるわけでもないんだ。だからやっぱり、月子は父さんに感謝したほうがいいんだよ。きっとね」

「……」

 

 月子は、凝然と兄を見返した。母に関する葛藤が一瞬吹き飛ぶほどの驚きが、彼女の胸を打ったのである。まがりなりにも古詠の口から慰めに似た言葉が出たことは、月子にとってそれほどの衝撃だった。

 

「母さんは」と、古詠は(月子が思う)彼らしくも無い強い語調で続けた。「自分から降りたんだ。いろんなものをほったらかしにして途中で止めたんだ。誰がいちばん悪いのかって言えば、それは母さんなんだよ」

「古詠」老女が、月子さえ身を竦ませるような鋭い声を発した。

「いわせてよ、お祖母さん」古詠は譲らなかった。「それでも母さんを責める資格はぼくらにはない。家族のぼくらにないからには、この世の誰にもたぶんない。()()()()()頃の母さんが、ぼくは、けっこう、好きだったよ。月子はフクザツだったんだろうけど――だから、母さんが自分で自分を殺しちゃったことについては、なにか思うことがあっても、それは自分だけのことだよ。良い悪いなんてどうこういってもしょうがない。あれからもう一年近くも過ぎてるんだ。この場で顔つき合わせて話し合うようなことじゃない。もうほんとうの意味で終わったことだ。そして二度と始まらないことだ。ちがうかな?」

 

 古詠が周囲を見回した。

 視線をまず受け止めたのは、新城だった。

 

「たとえそれが正しくても、おまえだけが決めることじゃない。おまえだって、そんなふうに考えられるようになるまでには時間が必要だっただろう」

 

 と、彼は言った。

 

「まあ、ね」

「月子にも、少なくとも同じくらいの時間が要る」

 

 反問を許さない断固とした口ぶりだった。古詠はばつが悪そうに口をつぐんだ。

 石戸の祖母が、場を取り成すように咳払いした。

 

「きょうは大事な話があったのだけれど――日を改めたほうが良さそうですね」

「いえ」と、新城がかぶりを振った。「先送りにしても意味がない。何も今日決めるというわけでもない。本題があるなら、それは今切り出すべきでしょう。いま言ったことと同じです。考える時間は、あればあるほどいいとは言わないが、少なくとも無いよりはましだ」

「むかしの貴方には、考える頭があったようには思えませんでした」

「子供らの手前、それはおたくの目が曇っていたからだとしか言えませんな」

 

(うえっ)

 

 唐突かつ鋭すぎる皮肉の応酬に、月子は思わず新城と祖母の顔を見比べた。父がほんとうの意味で激昂したところを月子は知らない。ただ、本能的に絶対に怒らせてはいけない人種だと感じていた。

 そして、父に対してためらいもなく挑発を仕掛ける祖母も、同種の存在だと思った。

 

「――まあよいでしょう」はじめに折れたのは祖母だった。「古詠の言い草ではありませんが、娘と貴方のことはそれこそ終わってしまった話です。それよりも、子供たちについての話を始めなければならない」

「同感です」

 

 応じて口元に煙草を運びかけた父の手から、

 

「一本頂きます」

 

 あまりにも自然な動作で、祖母が煙草を奪った。テーブルに備え付けてあるマッチを擦り、火を点し、紫煙を燻らせマッチの火を消すまでの一連の仕草が、見蕩れるほど堂に入っている。上品な見目と雰囲気に似つかわしくない所作を目にして、月子は目を瞬いた。

 

「おいバアさん」父がやや崩れた口調で呟いた。

「――不味い」煙を吐き出しながら、祖母は無表情で評を下した。「相変わらず安い煙草を吸っていますね、直道さん。――まア、良いでしょう。たしかに貴方の言う通り、先送りにしても意味はあまりないことです」

 

 そういって、彼女は手鞄から一葉の写真を取り出し、月子と新城に見えるよう向きを直してテーブルに置いた。

 

(――子供の頃の母さん?)

 

 写っていたのは、一瞬月子がそう見間違えるほど母の面影を残した少女だった。もちろん良く見れば随所に違いは見て取れる。ただ瞬間的に錯視する程度には似た造作である。

 写真の中央をその少女が占め、向かって右隣には古詠、左隣には後ろ髪をお下げにした少女が立っている。三人は子供らしい遠慮の少ない距離感でファインダーに収まっていた。牧歌的な光景だった。幸運を切り取ったような、そんな微笑ましいスチルである。

 祖母が、細く長い指で写真に写る見知らぬ少女を示し、

 

「中央にいるのが霞」と、月子に向けて語った。「私の孫で、つまりあなたと古詠の従姉でもあります。左にいるのは神代小蒔さま――長じれば神境に住まう女子らの要となるかたです」

「……きれいな子たちですね」

 

 なんとなく感想を求められているような気がして、月子は当たり障りの無い言葉を返した。

 

「気立てもよいですよ」祖母は歯切れよく請け負った。「難しいところはあるでしょうけれども、きっと貴女とも仲良く出来るはずです」

「――」

 

 その言葉の意味するところを、もちろん月子はすぐに悟った。

 とっさに、父に横目を送った。泰然と目線を返され、月子は思わず瞳を逸らす。次いで行き先が古詠に向かう。彼は白けた顔を漠然と月子の左方に向けている。ふたりとも、何かを口出ししようとする気配はない。最終的に祖母へ意識を落ち着かせて、月子はやや硬い声音で問いを発した。

 

「あの、それって、つまり?」

「古詠といっしょにうちの子になる気はありませんか?」

「は、……」

 

 予測はついても、うまい切り返しまでは都合よく浮かばなかった。

 

「あの、」

 

 月子は答えあぐねる。

 心はまず否定に向いた。

 けれども明確な理由は見当たらない。

 不慮の報せが立て続けに訪れて、月子の思考は飽和しつつあった。

 

「えっと、それは」

「あなたの」祖母は柔らかく、それでもきっぱりと畳み掛けた。「()()についても、神境(うち)の人間ならば対処できます。少なくとも症状の軽減はできますし、時間を掛ければ根治も可能かもしれない」

 

 よく砥がれた刃物のように、祖母の言葉は鮮やかで鋭かった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 14:18

 

 

 インターフォンはとりあえず無視した。それでもめげずに音は鳴り続けた。騒音が対局の続行に支障を来すどころか、隣近所からの苦情を招くまであまり猶予はないように思えた。

 

『……』

 

 当然ながら照、咲、花田および池田の無言の要求は卓を立てた京太郎に向いた。

 が、かれもまた困惑している点については彼女らと同様だった。

 京太郎はこの施設についての扱いは月子に一任していたし、明るみに出るといろいろな問題を招く可能性があることも言い含められている。とはいえいまマンションの7階は全室無人になっているという話だったし、もともとこの部屋で賭場を開帳していたオーナーは既に別の箱へ移っている。マンション麻雀のオーナーにとって客との繋がりや信頼関係は何より重視されるものであり、少なくとも()()客に対してオーナーが新しい箱の情報を伝えていないことはありえない。

 

(まあ、いいか)

 

 現実的には、止まない呼び出し鈴を無視し続けることはできない。とりあえず応じることに決めた京太郎は、覗き窓越しにドアの向こうにいる来訪者の姿を確かめた。

 

(……あ?)

 

 そこに見知った顔をふたつ認めて、かれは顔をしかめながらドアを開く。

 

「おひさしぶり」と、南浦数絵はいった。

「よう、負け犬」と、片岡優希はいった。

 

「……ああ」

 

 京太郎は答えに窮して、とりあえず二人を室内に招きいれた。

 あれ、と京太郎の背後から二人の姿を目にした池田と花田が声を揃える。

 

「おぉ……久しぶりだし!」

「その節はどうも……ホントに麻雀やってるのね、――と」

 

 コートを脱ぎながら様相を見渡した南浦が、卓に座るふたりの少女を目に留めて、顔をしかめた。

 

「また女の子ばっかりね、須賀くん。相変わらずチャラいわ」

「いきなりそれかよ。……たまたまだよ」

「それで、どの子が本命なの?」冗談交じりに南浦がいった。

 

 京太郎はためらいなく照を指差した。

 

「あのひと」

 

 簡潔な回答が、室内を一瞬で完全な沈黙に陥れた。

 南浦の苦笑が凍り、片岡は収支表を片手に聞き流し、池田と花田は意味深に目配せを交し合い、咲は凝然と照を振り返り、照は周囲の注視を完全に黙殺して何も聴こえていない風を装った。

 

『……』

 

 結果、全員が京太郎の発言をなかったことにした。

 

「さ」と、気を取り直した京太郎は照、咲に声を掛けた。「中断、悪かったな。続き、やろうぜ」

「まて」

 

 と、京太郎を制したのは、収支表を手に提げた片岡である。満面に苦渋を浮かべて、彼女は紙面に記された京太郎の収支状況を突きつけた。

 

「……まじめにやってるのか?」

「やってる」京太郎は即答した。「おれは、全力で、勝ちにいってる」

「それで、これか?」片岡が犬歯を剥きだしにして唸った。「いくら負けてるんだじぇ、これ――」

「五回戦が終わったところでマイナス333。要するに、もう16650円溶けてる」

「さんびゃくぅ!?」

 

 喫驚する片岡を尻目に、南浦が首を傾げて池田に問うた。

 

「点5の五回戦で、須賀くんがそんなに? ウマは?」

「ワン・スリー。で、チップが2000点ぶんだし。おまけに割れ目ありのトビなし」池田がいった。「このルールなうえに須賀の体勢がかなり悪いのもあるけど、何より相手が悪い。()()()()()()悪い」

「割れ目……なるほど」照と咲に流し目を送って、南浦は得心したふうに頷いた。「でも、それにしても……ちょっと、信じられないわね。須賀くんがとても強いという気はないけれど……」

「たしかに、要所で少し緩いところは目立つね。ふだんのアイツらしくないかもしれない。それだけ気負ってるんだろ。じゃなけりゃ――ま、どうだろう」

 

 外野の遣り取りを耳に入れながら、京太郎は片岡を避けて卓へ向かう。体にはやや倦怠感が付きまとっていた。夜っぴて牌とにらみ合っていたことも影響しているだろうし、先に患った風邪で崩れた体調がまだ完全に癒えていないせいもある。

 

(金はもっても、身体がまずいかもな)

 

 深々と息を吐いた京太郎の肩を、掴んだのはやはり片岡だった。

 

「……わたしとかわれ」

「あ?」京太郎は、険相で振り返った。「なんだと?」

「だ、から」やや怯んだ様子で、片岡がなおも言い募った。「わたしが打つ。負けっぱなしはごめんだじぇ。せっかくあのお姉さんがいるんだから、この前のクツジョクを返すじょ!」

「……」

 

 京太郎は天を仰いで瞑目した。いくつかの言葉が頭を過ぎった。『無理だ』『勝てるわけが無い』『やるだけ無駄だ』『金は持ってきてるのか』――すべてが不適当で、大方は京太郎の身に跳ね返ってくる物言いだった。

 改めて、京太郎は今日の自分を省みる。五回の半荘でアベレージマイナス66オーバーは、端的にいって異常な沈み方である。ルールの特性があったとしても、京太郎自身麻雀を始めて以来ここまで短時間で負けが込んだのは始めての経験だった。それほどに照が強いと見るべきか、話にならないほど自分が弱いと見るべきかは判じかねた。両方とも妥当な理由だったからである。

 片岡が不甲斐ないと感じるのも無理はないと思った。

 それでも、彼女に席を譲ることはできない。

 それだけは、どうしてもできない。

 

「わるいな、おまえとは替われない。この面子でなきゃ、意味が無いんだ」

 

 と、京太郎は言った。

 

「――なんで」片岡が唇を噛んだ。「じゃあ、勝てるのか? 逆転できるのか? ぜったいに?」

「麻雀に絶対は無い」京太郎は、それだけはきっぱりと言い切った。「でも、そいつを逃げ口上にはしたくはない。――正直に言えば、難しいんだろうな。おまえが打ったほうがずっとマシかもしれない。前の時だって、結局照さんを追いかけられたのは月子とおまえだけだった」

「なら、」

「でも、今日はだめだ」

 

 疲れを声に滲ませて、京太郎は片岡を諭した。

 

「ここはおれの卓だ。おれの勝負だ。おれの麻雀だ。どんだけひでえ負けだろうが、それはおれのもんだし、何よりまだ、勝負の途中だ」

「むゥ……」

「やりたきゃ、おれのあとにやれ。そんときは、おれも口出しはしない」

 

 片岡が黙り込む。しかつめらしく口を結んで沈思する。袖が余った赤いセーターを握り締めて、彼女はとても重大な決断を前にした人のように迷いを見せた。

 

「頼むよ」

 

 と、京太郎はいった。

 

「おれの勝負なんだ。止めないでくれ」

「…………わかったじぇ」

 

 見開いた片岡の瞳に、星のような光が舞っていた。やおら右手を振り上げると、勢いをつけて京太郎の背を叩く。

 景気のいい音を鳴り響かせて、片岡はこう言った。

 

「――勝てよ!」

「がんばるよ」

 

 軽く応じて、今度こそ京太郎は卓に向き直る。

 花田は微笑ましげに眼を細めていて、京太郎はどことなく居心地の悪さを感じる。

 すわりが悪そうに何度も尻の位置を調節している咲は、もの問いたげな空気を醸していた。

 そして、照が、座る京太郎を見つめている。

 

「いつまでやるの?」

 

 と、彼女は言う。

 

「終わるまでやるんだ」

 

 と、かれは答える。

 

「だれかの持ち金が尽きるまで?」照は問う。

「だれかの気力が尽きるまでかもしれない」京太郎が言う。「とにかく、打てる限り勝負は続く。飯は食ってもいいけど、終わるまでは打ち続ける。日が暮れても、夜が来ても、明日になっても、終わらないかぎり麻雀はつづく。そういう勝負だ。最初に言ったとおりだ」

「なるほど」

 

 照が頷き、もう一度「なるほど」と繰り返した。

 

「それでも」と、彼女は言った。「京太郎は私には勝てないかもしれない」

「なァ、照さん。それを決めるのはあんたじゃない。あんたは強くておれは弱い。それは動かないだろう。でもそうじゃないんだ。そういうもんじゃねえんだよ。なあ、照さん――おれは、ほんとうは、勝ち負けじゃなく、あんたに()()を見せてやりたい」

「よくわからない」

 

 応じる彼女の瞳は無機質だ。

 まるで、鏡のようだった。

 京太郎はその鏡を正面から覗き込んで問うた。

 

「照さん、麻雀、楽しいか?」

「よくわからない」

「なら」

 

 と、かれは言った。

 

「おれが教えてやる」

 



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28.あたらよムーン(魄)

28.あたらよムーン(魄)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・カフェ ムース/ 14:30

 

 

「答えは急ぎません」

 

 と、祖母は言った。そう前置きした上で、「ただし」と付け加えた。

 

「これから、私はあなたにいくつか質問をします。その答えによっては、そうのんびりとは構えていられないかもしれない」

「質問に、答えることについてはべつにいいです」心持ち前のめりになって、月子は目前の老婆を正面から見据えた。「それより、『体質』って? 古詠からわたしのこと、何か聞いてるんですか」

「あなたについてそれほど多くのことを知っているわけではありません」祖母は淡々と答えた。「あなたの体のことについては、古詠というより、そこの――あなたのお父さんから何度か相談を受けていました」

 

 月子は、思わず新城を顧みた。

 

「どういうこと?」

「聞いたとおりだ。それ以上でも以下でもない」

 

 父の態度は相変わらずである。視線にも物腰にも漫ろな部分が毫もない。真っ直ぐに娘の瞳を受け止め、ただし必要なことも不要なことも語らない。彼は常に変わらない。

 もちろん今に限って、例外が起きるわけもない。

 彼から何かを問いただすことは早々に諦めて、月子は祖母へ向き直った。

 

「……治るんですか?」

「きっと」いとも容易く請け負って、祖母は皺深い顔に笑みを浮かべる。 

「ずいぶん、簡単に約束してくれるんですね」月子は反射的に皮肉をこぼした。「母さんには、結局どうすることもできなかった。あなたなら、どうにかできるんですか?」

「本当のところは調べてみなければわかりません。けれども『治るかどうかはわからない』という言葉をあなたが聞きたいとも思えません」祖母は微笑んだまま、揺ぎ無い口ぶりで続けた。「また、『がんばったけれども駄目でした』と、私はあなたに言う気にも未来永劫ならないでしょう。であれば、最善を尽くし結果を出すだけです。子供に助けを求められて、応じられない人間に大人を名乗る資格はない、と私は常々思っていますので」

 

 肯う老人にためらいはない。

 そうですかと、月子は掠れた声で言葉を返した。

 納得はできなかったけれども、約束の反故を恐れず子供の安心を重んじた回答は、月子を様々な意味で安心させた。体質改善の可否はどうあれ、自分たちの祖母は、善人らしい。

 月子は、話題に関心を示さず頬杖をつく兄を見る。

 母の死を知って、衝撃の後に月子を訪れたのは、古詠()への後ろめたさである。

 自分ばかりが父と平穏に暮らし、友人に恵まれ日々を過ごしていた。その間古詠は母と死に別れ、他人も同然の人々に囲まれ暮らしていたという。

 月子は古詠に対して好感や親愛をほとんど抱いていない。それでも彼は月子の兄には違いない。切っても切れない縁が家族を結んでおり、そこにはやはり情もある。遠地で暮らしていた兄が必ずしも不幸だったわけではないらしいと推察して、月子は安堵した(実際に古詠が何を感じたかは月子にとって問題ではない。月子が重視するのは自身への心理的な圧迫である。だから彼女はもとより、異郷における古詠の生活について深く聞き出そうとは全く思っていない。それは彼女にとって遠く隔たった世界の出来事だからである)。

 

「もし」気を取り直して、月子は祖母へ問う。「わたしがそっちへ行かないって言ったら……」

「だからと言って臍を曲げたりはしませんよ。少し不安にさせる言い方でしたね――ごめんなさい」祖母はあっさりと頭を下げた。「あなたの身体と心は、なんというか、そう――恐らくとても特別なものです。そして我々が住まう神境もまた特殊な地です。あなたのお母さん、つまり私の娘も、そして私も、その特殊な地に育ちました。私の母やその母も同じです。私たちはずっとそこで暮らし、血を継ぎ器を接ぎ、大体にしてそこから出ることなく一生を終えます」

「えっと、たしか、神社、なんでしたっけ」

 

 記憶の底から、月子は頼りない実家に関する知識を思い返した。昔、母の持ち物に幣や水干を見つけたことがある。母が自分に対して『おまじない』をする時、それらが持ち出されたこともある。

 祖母は頷く。

 

「そうです。同じようなものですし、実際に同じこともします。ただ、いま言った通り、我々は、とくに神境の女はあまり『外』には出ません。まったく出ないわけではありませんが、領域の外に出ることは基本的に好ましくないと考えられています。血を絶やさないこと、外界の穢れに触れないこと、ただし俗世の毒を矯めること――それが霧島の女の生業です。だから、深山幽谷――狐狸鳥獣も避けるような山奥で私たちはふだん、暮らしています。学業が終わればもう、一部の例外を除いてそこから出ることはなくなります。そんな生活はあなたにしてみれば不自由に聞こえるでしょうし、実際に不自由のない暮らしとはいえません。飽き飽きだといって出て行くものも少数ですが絶えません。とはいえ、私たちは、意味も理由もなく閉じこもっているわけではない――まァ、簡単に言えば、私たちにとって、ときに『外』の空気は害になるのです」

 

 『外』と口にしながら、祖母は漠然と指で机を叩く。月子にも、それが『ここ』であることは察せられる。 

 祖母は窓外に遠く聳える山嶺を目顔で示した。

 

「たとえばこのあたりに住んでいるのなら、シナノキンバイは知っていますか? 高い高い山の――雪の解けた夏ごろに咲く、黄色くて可愛らしい花の名前です。私はあの潔く伸びた茎と萌える花弁のかたちがとても好きで、むかし苗を取り寄せ咲かせようとしたことがあるのですが」

「うまくいかなかった?」結果を先取りして、月子はいった。

 

「うまくはいきました」祖母は緩やかに首を振った。「たいへん苦労しましたがね。まず芽吹かせるのに二年以上使いました。咲いたのは苗を育て始めてから五年目です。土やら気温やら、識者の力を借りてようやくです。それだけに感慨もひとしおでしたけれど、咲いた花はとても弱々しく、私の知る花のありようとは少し違ったものでした。だからといってがっかりはしなかったのですが……私も娘たちも、とてもその花を可愛がっていました」

 

 祖母は一瞬だけ眼差しを過去に投じる。

 

「花に限らず、生き物にはそれが生きるのに合った環境というものがあります。私の仕立てた苗床は、その花にとってあまり住み良いところではなかったのでしょう。――少々くどくなってしまいましたが、神境の女もまた、いと高きに咲く花と同じなのです。そこで息することに血の隅々まで適応してしまっているのです。だから時として『外』にいると、その空気に中てられることがある」

 

 彼女の眼球に、月子は母の面影を幻視した。

 

「月子さん、あなたのように。そして、あなたの母のように」

「つまり」と、月子はいった。「わたしのこの体質を完全に治すためには、わたしは『そこ』でずっと暮らす必要があるかもしれないってこと?」

()()()()()()

 

 祖母の言葉を切欠に、会話が途絶える。

 月子は水を呷って大きく息をつく。喫茶店の中に流れる音楽に彼女は気づく。耳にようやくメロディラインが届くような音量である。それは瞬間的に生まれた静寂を効果的に塗りつぶして、気まずさをいくらか希釈してくれる。

 音楽の効能を月子は思う。

 そして自分の心について考える。

 

「なんとなく、わたしたちの血筋はいろいろ面倒だってことはわかりました」と、月子は端的に祖母の言葉を総括した。「でも、わたしは実は、あんまり『なんで自分が』とか『どうして』とか、そういうことを今は気にしていません。昔はそればかり考えたこともありましたけど、いまはもうぜんぜんです。というのも、まず考え飽きたということがあります。そしてある程度、もう仕方ないかなって思えるようになったからです。要するに一度諦めたわけです」

「ええ」

 

 と、祖母は頷く。月子は慣れない敬語を繰りながら、言葉を丁寧に選んだ。

 

「諦めたのは……そうするほうが楽だからです。一々なんでどうしてと喚いて悲しい気持ちになるより、そうするほうが楽しく生きていけるからです。人生は差し引きです。どうやったって辛いことや苦しいことからは逃げられないんだと思います。そういうものと向かい合うために、楽しい気持ちは使われます。そういうものと向かい合わないためにも、楽しい気持ちを使っています。この違和感や吐気や目眩は永遠にわたしを困らせると思うんですけど、そういう時に、でも、楽しいことを思い出せば、どうやらいくらか気持ちはマシになるみたいです。わたしはその、と、とも、トモダチ……的な人たちといて、最近ようやくそう考えられるようになりました。だから、おばあさんの言っていることをそのまま受け止めていいかどうか、今凄く迷っています」

「――そうね」

「おばあさんの聞きたいことに、答えます」月子はいった。「でも、たぶん、間違ってるんですけど、きっといつか後悔するような気もするけれど――でも、どうにも、いろんな顔がちらついて」

 

 月子は、池田華菜のことを思った。花田煌のことを思った。春金清のことを思った。父のことを思った。

 須賀京太郎のことを思った。

 それらと引き換えに手に入れる健常な未来を思った。

 口元を引きつらせて、祖母を見返した。

 

 天秤は、

 

「身体は、治ればいいと思います。ほんとに、思います。でも、それは、もう――

 ――わたしにとっては、今、何より大事なことじゃないんだわ」

 

 つりあわない――

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 14:32

 

 

 戻らない月子の代わりに闖入者二名を観客に加えて、六回戦が始まった。起親は照である。席順はそのまま花田、咲、京太郎と続く。

 お手並み拝見とばかりに後背に位置取った新顔二名をまるで気にせず、照の指は牌に触れる。京太郎はさしたる感慨もなく自分の手牌を見下ろす。

 

 東一局0本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 配牌

 京太郎:{一二五八九①②⑥337西西}

 

 急所が早々に埋まれば、あるいは勝負になるかもしれない。とはいえその仮定が成り立たないからこそ打ち手の苦労は絶えない。

 

(こんな手牌で、たとえば池田さんなら、チャンタにピンフ、三色ドラ1を立直一発でツモって見せるのか)

 

 京太郎は淡々と打つべき牌を吟味する。負けが込み、いまは一本でも多く点棒が欲しい状況ではある。それでもかれの中に焦りはまだない。敗北に慣れたわけではないけれども、それはそれとして、かれは平静を保っている。年不相応の精神性が具わっていることも、京太郎の平常心を支える一因である。ただもっとも大きな理由は、

 

(このくらいは、当たり前だ)

 

 と、頭からはらを括っていたためである。

 照、花田、そして照と日常的に打ち交わしている咲と卓を囲もうという時点で、不利は見込んでいた。むろん数回の内にそれがここまで如実に現れようとは思っていなかったけれども、それでも予想の範疇に収まる出来事ではある。

 

(あと、どれだけ、おれは――)

 

 場は静かに進捗した。京太郎は僥倖に恵まれ、5巡目にして一向聴に漕ぎ着ける。

 そして、

 

 東一局0本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 6巡目

 京太郎:{一二三七八九①②133西西} ツモ:{③}

 

 高目を確定させる急所を埋めた。

 打{3}で{2}(ドラ)待ち――ダマでも満貫、自摸れば跳満である。

 河に聴牌気配はない。

 立直を掛けて自摸ったなら、一発でなくとも裏が一枚乗れば倍満である。割れ目は照――仮に引ければ、東パツから照に対して40000の点差を稼げる。ほとんど絶対的なアドバンテージである。

 

({3}は場にも一枚切れている。{2}が山に生きている見込みはそれなりにある。これで曲げたら、出和了なんかあるわけねえ。でも、曲げていい形だ)

 

 かれは河に牌を置く。1000点棒も共に放つ。

 

 打:{横3}

 

 ――瞬間に、疑念が京太郎の頭を過ぎる。

 

(打{1}の{33西西}は――どうだった?)

 

 四翻下げて役なしの聴牌を取る利点はない。考慮にも値しない選択肢である。とはいえ、京太郎の脳裏にはそもそも想像すら及んでいなかった。視野が固化している、何よりの証拠である。選ぶ選ばないという次元ではなく、発想が浮かばなかったことをこそ、京太郎は危惧した。

 

(この面子で、悪待ちを取る理由はない。どうせどんな待ちでも出ないんだ。でも、{2}と{3西}のどっちが引き易いのかを、おれは考えないといけなかった――)

 

 京太郎の胸中で、答えのない自問が繰り返される。

 失着ではない。ここまでの選択に何の問題もない。その点については京太郎は声高に主張できる。けれどもそれはただ過誤がないだけである。そしてそれだけでは手も足も出ないからこそ、京太郎は知恵と工夫を凝らさなければならない。

 それを怠れば、京太郎がこの卓に座っている意味も無くなる。

 

 そして、2巡後、

 

 東一局0本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 8巡目

 京太郎:{一二三七八九①②③13西西} ツモ:{西}

 

 生牌の{西}を引いた。和了り逃しを悔やむ京太郎ではない。そのこと自体を、かれは問題視していない。

 けれども――

 

 打:{西}

 

『ロン』

 

 ふたつの声が、同時に上がった。

 

「え――」

 

 倒された牌姿を見て、京太郎の背が凍った。

 

 咲:{一九九①⑨19白發中東南北}

 

 比喩ではなく、冷や汗が流れた。

 

(終わった――)

 

 と、かれは思った。

 が、

 

「……頭ハネだね」

 

 嘆息一つと共に、倒した牌の並びを崩す、咲である。

 彼女の目線は対面――京太郎の下家に向いている。

 

 照:{四四八八⑧⑧88發發東東西}

 

 照は何ら感慨を見せることも無く、

 

「2400の割れ目は、4800」

 

 そう呟いて、場にシバ棒を一つ積んだ。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 16:00

 

 

 牌を自摸り、打つ。場を警戒し、得点と失点を秤に掛けて、瞬間の選択に身を投げ出す。焦げ付くような高揚感が心を支配する。意想外の手運びに心が躍る。狙い通りの結果に胸がすく。ままならない牌運に歯噛みする。どうしようもない不運を受け入れる。京太郎が思う麻雀には、受け入れるべき失敗と可能な限り排すべき失敗が混在する。たとえば捨て牌一段目の役満聴牌を、かれの麻雀は考慮しないし、できない。

 もちろん、早い巡目の怪物手に対し、疑いを持つこと、あるいはと牌を抑えることも、決して不可能ではない。けれどもそれはただ逃避にも等しい守勢である。そこには勝率の吟味が存在しない。

 照や咲、あるいは条件を満たした場合の花田は違う。

 彼女らは何か、確信するに足る理由を以って振込みを回避する。だからこそ、より際どい線まで踏み込んでいける。押し引きの精度が京太郎のそれとは違う。京太郎は物差しをもとに考える。彼女らはけれども、見、触れ、必要があれば味さえ感じ取る。

 和了り続ける特性や、嶺上を見通す眼力や、箱下を回避する感覚は、京太郎にとってあまりに現実感がない。あったとしても、それはただの幸運と見分けがつかない。彼女らの力を計る尺度がかれの中にはない。

 だからこそ、かれの同一線上に彼女らが立った時こそ、力の差がはっきりとわかる。

 広い広いこの海原のような卓上で、彼女たちには、もしかすれば磁針が与えられているのかもしれない。

 京太郎には決して与えられないその利器を、かれが羨んでいないといえば嘘になる。

 

 けれども、どこか哀れにも思えるのである。

 

(『そんなのは、ただの負け惜しみ』)

 

 いつか(恐らく先週、風邪で寝込んでいたときのことだった)、照への心境を吐露した京太郎に、月子は酷くつっけんどんな態度でそう言い返した。

 そのとき、かれは月子から照にこだわる理由の説明を求められた。照に対する京太郎の心情は複雑極まりなく、散り散りでまとまりがない。恋慕がある。感謝がある。憧憬がある。倦厭がある。畏怖がある。尊敬がある。憐憫がある。好意も敵意も敬意もない交ぜになっている。ただそれらのどれひとつ、照に届いている気がしない。理由は恐らく、照にとっての京太郎が路傍の石のような存在だからだと京太郎は思っている。

 

 現実の照がどう考えているかではない。

 実存としての宮永照にとっての須賀京太郎の価値とは、ただしく無意味なのである。

 

 京太郎の心理は、だからある意味とても単純で明解だった。自らの行いに関する正誤をかれは斟酌していなかった。照が自分をどう思っているかなど、実際のところ()()()()()()()()()()。かれは照のために照を討つことを企図しているわけではない。照に宣言した通り、かれが打つ理由は徹頭徹尾自身にある。

 京太郎が麻雀を打つ理由は全て自分だけで完結している。

 かれはただ麻雀が打てれば良いだけの少年でしかない。

 そのために理不尽の権化のような少女が、邪魔だった。

 彼女の存在は、京太郎の思う麻雀の像を損なうと感じた。

 

『ばか』と、月子はかれに告げた。『そんなのはただのカッコつけよ、須賀くん。あなた自分で思ってるほどクールじゃないのよ』

 

 局は続く。

 賽が回る。

 牌が打たれる。

 ――京太郎ではない誰かが和了る。

 

『ただ我慢してるだけだと思うわ。それは感じていないのとは違うのよ、きっとね。あなたはただ宮永さんに構ってほしいだけなんじゃない? 見て欲しいって思ってるんじゃない?』

 

(そうだな)

 

 耳鳴りがする。

 何をしても、京太郎は届かない。

 照にも、咲にも、花田にも届かない。

 

『そうじゃないの? そうお?――でも、わたしにはそう見えてしかたがないわ!』

 

 振り込む。

 点棒が底を尽く。

 立直すら掛けられなくなる。

 それでも更に点は減る。

 

(そうなのかもな。でも――だから、なんだってんだ?)

 

 牌を河に置くたびに、京太郎の指が竦む。

 全員の安全牌以外、何を切っても中るような気分になる。

 

(それを認めたら、おれは強くなるのか? そんなわけはないだろう。何がどうなるんだ?)

 

 怯えを振り切って進む京太郎を遥か後方において、照と対峙するのは咲である。

 彼女は朝に見せた弱気をいまは完全に払拭している。果敢に立ち向かい、瞬間的に照さえ上回ってみせる。

 照はそんな咲に対してだけ、薄っすらと熱のようなものを見せる。

 二人は互いに叩き合い、高めあって、京太郎の理解が及ばない次元で遊戯に耽溺している。

 

 ―― 六回戦

 宮永 咲  :+ 53(+2650G)

 宮永 照  :+ 23(+1150G)

 花田 煌  :- 17(- 850G)

 須賀京太郎 :- 59(-2950G)

 

 そして、また京太郎はラスを引く。

 大言を吐き、全霊を振り絞って、それでもまったく届かない。

 惨めだった。かれは痛切に消え入りたいと感じた。見得を切った相手である片岡の顔を見るのが辛かった。それでも、そんな素振りは億尾にも見せない。

 かれはただ、次の勝負を促すだけだ。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:10

 

 

 ―― 七回戦

 宮永 照  :+ 43(+2150G)

 花田 煌  :+ 19(+ 950G)

 宮永 咲  :- 11(- 550G)

 須賀京太郎 :- 51(-2550G)

 

 七回戦目が終わる。清算が一通り済むと、咲が席を立ち、覚束ない足取りでトイレへ向かった。

 花田が欠伸をかみ殺し、やや充血した瞳で時計を見る。更に移した視線の先では、すでにすっかり夜の帳が下りていた。色々な都合上、部屋の窓はカーテンで締め切っているけれども、眠気覚ましも兼ねて花田が換気を提案し、全員が同意した。

 

「……」

 

 宮永照は、無言で今日十杯目のホットココアを飲み干した。

 

 部屋に言葉は少なかった。片岡は既に腹を括ったようで、先ほど自宅に電話を入れている。最後まで付き合うつもりらしい。

 南浦は南浦で、痛ましげに京太郎を見つめては、結局何も言葉を掛けずにため息をつくことを繰り返している。

 

 そして京太郎は、無言で部屋の調度の位置を直していた。

 

「わあ、さむぅ――い」

 

 窓を開け放った花田が、首を竦めて白い息を吐いた。温まりきった部屋に一気に寒気が吹き込んで、少女たちの眼差しが少しだけ冷える。茫洋とした瞳で一同の顔を見回した京太郎は、遅ればせながら彼女らと自分の疲労に気づいた。

 都合十二時間近く、麻雀を打っている。面子の中では花田、咲の疲れが顕著だった。照ばかりは顔に全く素振りを見せないので判断がつかない。とはいえ疲労を感じていない筈はない。

 京太郎もまた、悠長に他人の疲れを量っていられるほど余裕があるわけではなかった。思考はやや霞がかっており、目の焦点も若干合い難くなっている。頭の中心には疼くような重さが居座って、取り留めなく浮かぶ感覚や意思を統御することができていない。ひたすら牌に触れ続けた腕にも、気だるさが積もっている。

 

「須賀」

 

 と、声を掛けてきたのは池田だった。こちらは途中で自侭に仮眠を取ったせいか、さっぱりとした顔つきである。彼女は京太郎の顔を見、眉をひそめる。

 

「しんどいか」

「それなりに」

「でも、止めないんだろ」

 

 野趣溢れる笑みと共に突きつけられた確信的な言葉に、京太郎は対応できない。

 

「疲れた、ダルい、勝てねェ、ちくしょう――って(ツラ)ァしちゃいるけど、つらい、止めたい、なんて感じじゃ、ないなア。ちょっと、感心したよ」

「……」

 

 池田に、京太郎は腹案も勝算も何一つ告げていない。

 それでも、何かを汲んだように、池田は京太郎の肩に手を置いた。

 

「――でも、そろそろ潮時だ。何を待ってるかは知らないけど、もう止めとけ」

()()()」京太郎は即答した。

「ツブれるぞ」池田が酷く醒めた目で、京太郎を見つめた。「おまえが吐き出してる金を、おまえは使い道もない小遣いとしか思ってないんだろうけど、もうそんなに軽い額じゃない。いろいろと、もうまずいところまで足を踏み入れてるぞ。そうじゃなくても、フォームも随分崩れてる。なにも、麻雀が打てる日は今日だけじゃないだろ」

「それでも、だめだ」京太郎は頑なに言い張った。

「――そっか。ま、そう言うだろうと思ったよ。あたしでもそーゆーだろうし。いちおう、年上としての義務を果たしただけだし!」

 

 と、池田はいって、快活な笑みを浮かべた。

 

「なら、好きにしたらいい――納得するってことは、何より大事なことだし。ただ、」

 

 低く冷たい声で、彼女は呟いた。

 

「勝負をした以上、どんな結果も、それは一人だけのものじゃないんだ。それはおぼえとけ。ツブれてもいいと思うなら、相手に自分をツブした負い目を持たせることも、別に構わないってこと――そこはきちんと自覚しておけ」

 

 京太郎は、もう返事をしなかった。気遣いを無碍にした後ろめたさがあった。気を抜くと、池田の言葉に甘えそうになる自分がいた。

 口元を引き締めて、かれは池田から目を逸らし続けた。

 池田の飄々とした言葉は続いた。

 

「なア、須賀、おまえ何そんなに悲壮感背負っちゃってるんだ? 麻雀はさ、そんな、顔をしかめてやるようなことじゃねーだろ? 楽しくないのか?」

「楽しいよ」

 

 心から、京太郎はいった。

 言葉が震えていた。

 もしかしたら、心も震えていた。

 

「楽しいよ――こんなに負けてるのに、すげえ楽しい。何をしてもどうしようないけど、それは、全然、変わらない。池田さん、麻雀は楽しいよ。でもさ、そう思ってるのが自分だけかもしれないって思うと、笑えない。そう思わないか?」

「思わない」池田はきっぱりいった。「楽しければ、須賀、笑え。笑えねーなら、おまえは楽しくないんだ。楽しめてねーんだよ。人にそう思わせられないやつが、何を教えられるとか思ってんじゃねー。だから、笑え須賀。負けて土を噛んでも笑って死ね」

 

 池田の指が、京太郎の頬に触れる。

 口角をつまんで、自らもそうして見せて、池田は微笑んだ。

 

「こうやって、ね。――そうしたら、もしかしたら、奇跡が起きるかもだから」

「どういう理屈だよ……」京太郎は苦笑した。

「神頼みだよ」池田はいった。「あたしら非モテ組は、最後はそーやってお願いしなきゃなんないのさっ」

 

 それじゃと手を振ってソファに飛び込んだ池田は、南浦と片岡を捕まえて退屈だから付き合えと、もう一つ卓の準備を始めた。

 ちょうどトイレから戻ってきた咲が、眠そうな眼を開かれた窓に向け、

 

「あ」

 

 と声をこぼした。

 

 釣られて窓外を見た京太郎の目にも、大粒の雪が闇を舞っている景色が見えた。

 

「また積もりそうだね……」

 

 浮かされたような咲の声におざなりに応じて、京太郎は身動ぎもせず卓上の牌と語らう照を見る。

 

「照さん」

 

 と、かれは言う。

 照の意識が、言葉に反応する。

 京太郎は冷たい空気を吸い込み、

 

「――サシウマ握らないか?」

 

 と、彼女に告げた。

 




2013/8/20:ご指摘いただいた脱字を修正


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29.あたらよムーン(影)

29.あたらよムーン(影)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・民宿『天川』/ 15:22

 

 

 時間を少し遡る。空がその模様をくすませてきた頃、石戸月子とその血縁者たちは会食を終えた。名分は家族といって差し支えない彼らの会話は、終始間合いをはかるようにしていた。

 四人の中でいちばん遠慮の無い振る舞いをしていたのは、他の三人ともっとも付き合いの少ない石戸の刀自である。会話は常に彼女のペースで行われ、新城直道が相槌を打ち、月子や古詠は問われたことに言葉少なく応じるだけだった。年の瀬の店内にはそれなりに他の客も居合わせていたけれども、一角を占めるその奇異な四人組を、(少なくとも血縁のある)家族と見抜いた人間はほとんどいなかった。

 石戸古詠とその祖母は、駒ヶ根市内に宿を取り、しばらく――少なくとも年明けから一月ちかくは逗留する予定とのことで、それを聞いた月子の父は珍しく顔に驚きを浮かばせていた。

 ほとんど何も言わずに友人たちを置いてきた形になる月子は、会食の終了と共にマンションへ戻る心積もりでいた。結果的にそうならなかったのは、ひとえに刀自の誘いがあったためである。やんわりとした物腰で月子の『症状』を診させて欲しいといった祖母に月子は最初都合を理由に断りを入れたが、是非にと再三請われては、拒み続けることにも限界があった。結局、月子は古詠、石戸刀自と連れ立って、彼らが宿泊する民宿にともに向かう運びとなったのである。

 新城は、「迎えが要るなら電話をしろ」とだけいって、立ち去った。

 

 宿への道すがら、一人分の幅を置いて古詠とふたり、後部座席に居座った。運転手は祖母だった。月子は右手の古詠に視線を向けることもなく、頬杖をついて車窓越しに流れる景色を見る。歳末特有の遽しさと物寂しさが同居した光景に京太郎を連想して、月子はため息をついた。

 

(須賀くんはだいじょうぶかしら)

 

 月子らが最初卓を立てていたマンションは駒ヶ根市内の駅近く、伊南バイパスよりも中央自動車道寄りに居を構えていた。これから彼女らが目指す宿は、中央自動車道よりも更に山よりの地域だった。スキー場をほとんど目の前に置いているような立地である。

 

「滑ったり、するんですか?」

 

 老婆とウインタースポーツという組み合わせにはなんだか頷きかねる月子である。とはいえ血縁上自身の祖母に当たるというこの婦人はどうにも外見や言葉遣いと所作に一致しないところがあって、安易に判じかねた。

 祖母は朗らかに応じた。

 

「滑れなくはないけれど、今回はそういう予定はありませんねえ」

 

 それからいくつか、月子に当たり障りの無い質問を返した。月子は気づかなかったけれども、祖母による話題の選択には警戒に近い恣意が働いていた。石戸の祖母が言及したのは天気や気候、花や動物、霧島の生活などについてで、月子自身の核心に触れるようなことは全く口にしなかった。ただ運転をしながらも合いの手は巧みで、月子は彼女が思う以上に多くのことを舌に乗せた。三十分ほどかけて目的地に到着した頃、月子はいくらか親しみに近いものを祖母に対して抱いていた。

 

 駐車場まで迎えに出た仲居に案内された宿の格に、特筆すべきものはなかった。客に月子を加えた頭数が予定と異なり少しだけ事務的な手続きは発生したものの、対応も部屋も無難で、むしろ普通過ぎることに月子は驚きを覚えた。

 祖母はそんな月子の感想を敏感に察して、

 

「不景気ですから、必要のない贅沢はしませんよ」

 

 といって笑っていた。

 

「さて、早速ですけれど、さっき聞いておいた通りこれから私から貴女にいくつか質問と……そして医師がするような診察めいたことをします。ちょっとした性格診断のようなものも兼ねているので、あまり構える必要はありません。と、思っていたんですけれど……」

 

 祖母は首を傾げて、名案でも思いついたように手を打った。

 

「せっかく旅館に来たのだし、温泉にでも入りましょう」

 

 唐突な提案に、月子は目を白黒させる。月子とて学ぶ。ここまでの経緯を踏まえると辞去は無為に終わるだろう。とはいえ今日出会ったばかりの人間に湯へ誘われて二つ返事で応じられるほど、月子の対人能力は高くない。彼女は戸惑いのあまり、古詠に助けを求めた。

 

「ちょ、ちょっと」

「ぼく、散歩に出てくる。食事の時間までには戻るから」

 

 兄から妹への回答は、一瞥も無くその言葉だけで終わった。古詠は少ない荷物を通された座敷間に置くや、着替えもせずに部屋を出て行ってしまう。

 

「……」

 

 兄妹仲は到底良いとはいえない間柄ではあるけれども、あまりな対応である。月子は閉口して、去った古詠の背中の替わりに戸をにらみ続けていた。

 

「御免なさいねと、私が貴女にいうのもおかしな話でしょうけど」祖母が苦いとも辛いともつかない表情でいった。「古詠にも離れて暮らしている間にいろいろあったのです。きっと、貴女と同じように。許せとはいわないけれども、見切りはつけないであげてほしいわ」

「あいつが空気読まないのは今に始まったことじゃないけど、あんなのでホントに仲良くやってるんですか」

「そうね」祖母は頷いた。「傍目には睦まじく見えます。霞――あなたたちの従姉とも、姫様とも。女社会だけど、不思議と馴染んではいるようです。よく気を遣っているし、細々としたことや小さい子たちの面倒も見てくれています。時々ふらふらといなくなるけれど、基本的に周囲の評判はおしなべて『いい子』ですよ。けれどもそれは、たぶん、本当の意味では私達に気を許していないからなのでしょう」

 

 祖母が語る古詠の人間像は、月子の思考の埒外だった。甲斐甲斐しく他人の面倒を見る兄の姿など、想像することもできない。

 月子が知る石戸古詠は、自分と麻雀にしか興味がない子供だった。彼は暴力的でもやんちゃでもなかったけれど、とにかく人のことを気にしない子供だった。自分のせいで誰かが傷ついたり泣いたりすることを何の苦にも思わない少年だった。彼がたまたま主張や執着をほとんど持たない性格だったから周囲との軋轢が少なかっただけで、関係の必然性から古詠と長い時間を共有している月子は、兄のことをまともだと思ったことはない(言葉を選ばず自分を棚に上げれば、異常者だと思っている)。その点だけを取れば、古詠にはいまの須賀京太郎とどこか似た印象がある。けれども月子は、古詠と京太郎を並べて似ているとは感じない。それは才能においてもそうであるし、何より二人の人間性があまりにかけ離れていた。

 

「見たらわかったと思いますけど、わたしたちね、仲良くないんですよ」

「そのようですね」

「というか、わたしが勝手に嫌いだったんですけど。たぶん、あっちはとくになんとも思ってなかったんじゃないかしら」

「さて」

 

 須賀京太郎は常軌を逸した部分を持ってはいるけれども、基本的には気の良い少年である。他者の感情を、かれはひとしなみに想像することができる。自制もできる。言葉を選ぶことができる。

 早熟であること、あるいは幼稚であることは、個人の資質によるものでしかない。そうした意味で京太郎は、歪でこそあれ生まれ持ったかたちそのものは健全であるといえる。

 京太郎は精神的な病を抱えている。それは根深い。ただしありきたりだし、処方さえ間違えなければ深刻なものではない。月子が京太郎の重篤さを正しく見極められているかはともかく、彼女の本能は友人と兄の違いを嗅ぎ分けている。

 月子の友人は変人だけれども、異常者ではない。

 色合いが少し変わっているだけで、花実を結べるふつうの命だ。

 月子が考える兄は、そういう()()ではない。基盤の時点で既に何かが欠けていて、それを常態として生きてきた。性格の良し悪し以前に、ものを見る尺度が他人とは違う。社会性が希薄なのである。

 

 もっとも、古詠のそれが極めて稀有な性質かといえば、そうでもない。子供だけの社会においても、古詠のそれに近しい人間はそれなりにいる。彼ら彼女らは、たとえば人が当たり前にこなすことをどうしても同じように出来なかった。あるいは瞬間的な癇癪に人格全てを委ねてしまうものもいた。何の意味もなく日常的に嘘を吐き続ける人も見た。

 

 自分以外の生き物の気配に触れるたびに吐気を覚えるものもいた。

 

 それらがどんな場合においても深刻な障害になるというわけではなかったし、ときに利することもあるのかもしれない。実際は月子が思うような欠落ではなく、たんなる個性のひとつに数えられるのかもしれない。

 それでも、月子は自分を含むそうした人間が()()()であるとは思っていない(石戸月子は精神性を出来合いの産物と捉えている節がある。基本的には過不足なく滑らかであり、そしてそれは概念上の図形のように整備されて万人に与えられていると無意識的に思い込んでいる。世の人々が持つこころは大抵がささくれのない直線か曲線で構成された図形であると思い込んでいる。自分たちはとても異常だとずっと思い続けている。だから彼女は兄や自分が人よりも多くのものを諦めなければならないことをある程度受け入れている)。

 

 石戸古詠が、周囲を巻き込まずにいられない性質を隠蔽できているというなら、それは紛れもなく成長だと月子は思う。どちらかといえば矯正なのかもしれないとも思う。古詠は家族と離れ、母を喪い、妥協を覚えたのかもしれない。月子が想像する兄がここ一年で置かれた環境は、世辞にも安閑としたものとはいえない。だからといって月子が古詠に対して好感を覚えたかというと、それも否だった。むかし、二人の関係は悪かった。古詠の側はいざ知らず、月子は明確に古詠を嫌っていた。

 いま、月子は古詠に対して苦手意識以外の具体的な感情を持ち合わせていない。なんとなれば、すでに兄は月子の日常の外にいる要素だった。彼がどうであろうと、それはもう月子にとって関心の外でしかない。

 

「それで」

 

 と、言葉を次いだのは祖母だった。月子の瞳をまともに捉えて、彼女は試すように、

 

()()()どうなのですか?」

 

 と、いった。

 月子は答えあぐねて、

 

「……さあ」

 

 とだけ呟いた。

 古詠が消えた室内には居心地の悪いしじまが居座って、月子はぬるい緑茶に口をつける。手馴れた仕草で湯浴みの準備を整える祖母を目の当たりにしながら、

 

(え、ほんとにお風呂はいるの?)

 

 と、彼女は考えた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・民宿『天川』/ 15:53

 

 

 ワンコールの途中で呼び出し音は途切れた。「はいっ」と若干裏返った声で電話を受けたのは幼い声である。続けて噛みながら応じた声(「社務所」を「しゃみゅしょ」と言っていた)の半ばで、古詠は受話器を置いた。

 

「……」

 

 三分ほど間を置いて、小銭を入れ、再度同じ番号を押した。今度は四度ほど呼び出し音が繰り返された。先ほどとは打って変わって落ち着いた声が応じた。聞き知った声だった。アルバイトで社務所に勤めている地元の大学生で、親しくはないけれども古詠も何度か会話を交わしたことがある。

 古詠は丁寧に挨拶をし、長野の宿に問題なく到着した旨を告げる。そもそもこの繁忙期に祖母が出かけているということを始めて知ったらしい彼女は最初要を得ていなかったけれども、とりあえず身内に伝えてとだけいって、古詠は受話器を置こうとした。

 

「もしもし、古詠くん、」

 

 その腕を止めたのは、少し舌足らずな甘い声だった。

 聞き間違えようが無い。

 従姉――石戸霞のものである。

 古詠は嘆息して、

 

「もしもし」

 

 と、応じた。それから、まったく同じ報告を再度繰り返した。

 

「いま宿に着いたよ。父さんにも会えた。お祖母さんはお風呂に入るってさ。うちのひとには、よろしく言っておいて」

「月子さんには会えたの?」

 

 その名前に、古詠は少しだけ息を詰めた。霞の聡さを、少しだけ鬱陶しく感じる。この従姉は古詠が意図的に妹の話題を避けていると知っていながら、話題の水を向けている。

 

「会えたよ。相変わらずだった」

「何を話したの?」

「とくに何も」と、古詠はいった。「いや――母さんのことを、すこし。あのひと、母さんが死んだこと、教えてもらってなかったんだってさ」

 

 今度は霞が黙る番だった。霞は今年で12歳になる少女である。年不相応な責任感や振る舞いは立場が彼女に備えさせた特性だが、それはつまり彼女が年相応の無頓着さを持たないということでもある。身内の死といういかにも触れにくい話題を突きつけられて、霞は声の勢いをだいぶ失した。

 

「そう……」

「でも、それくらいだった。何を話せばいいか分からないとか、そういうのじゃなくて、ほんとに、ぼくたちの間には話すことがないんだ。むかしからそうだった。よくわからないけど、きょうだいなんてそんなものなのかも」

「そうとは、限らないと思うけど」

「霞さんと神代さんは、仲良しだよね。ほんとうの姉妹より姉妹らしいと思う」

「そ、そうかしら」答える霞の年上めかした物言いに、はにかみが混じる。

「でもそれは」と古詠は続ける。「ふたりがふたりだったからなんだよ。時間や場所や間柄より何よりも、それが一番大きいんだ。ぼくとあれはたまたま双子として生まれて、一緒に暮らしてきたけど、霞さんと神代さんみたいに仲が良かったことは一度もなかった。あれはずっとぼくのことを嫌っていたし、ぼくはどうしても納得がいかなかった。だから気にもしないことにしてた。()()()()()()()()()なんだって飲み込んでた」

 

 霞の声が途切れる。受話器の向こうで息を呑む音が聴こえる。古詠は夢を見るように目を閉じる。

 彼は言葉を次いでいく。

 

「母さんがだめになって、父さんのところにいって、母さんとまた暮らすことになって、それもだめになって、霧島へいった。そこで家のことを色々聞いて、ようやくぼくは納得できた。ずっと不思議だったんだ。気になってしょうがなかったんだ。ぼくのことや、あれのことを、みんなのおかげでわかることができた。納得できた。だから、そのことは、すごく感謝してる」

『でも、古詠くんはお兄ちゃんでしょう? 月ちゃんのことを、守ってあげなくちゃいけないわ』

「それがそもそも嘘だったんだよ。ごまかしだったんだ。母さんだって知っていたはずなんだ。なのに黙ってた。認められなかったんだ。母さんは弱かったから、そういうことにするしかなかった。でもそれは嘘だった。おかしいことだったんだ。ぼくは聞いたんだよ。霞さんは隠してたみたいだけど、神代さんや薄墨さんから教えてもらった。狩宿も認めてた。久しぶりに会って、気づいた。あれは同じだ。神代さんや薄墨さんと、そしてたぶん霞さんとも、同じなんだ。だから、すごく、よくわかった。ぼくはあいつのことを知らなかったけど、もうわかった。あれは――」

 

 そこで古詠は、とうに通話が切れていることに気づいた。受話器のスピーカは、無機質で規則的な電子音を響かせている。古詠は瞬きを二度すると、鼻を鳴らして公衆電話に受話器を戻す。仲居が会釈をして通り過ぎていく。母はフロントの目前で棒立ちして、何を主張することもない。古詠はおや、と思う。今しがた母と電話としていたはずだと考える。なのにどうして母はあそこにいるのだろうと疑念する。それから母はとっくに死亡しており自分はその死体を見ていて今まさに電話をしていた相手は従姉の石戸霞だということを思い出す。

 

 彼はため息をついて、

 

(よくないな)

 

 と、思う。

 

(ぼく、もう頭がおかしくなってきてるみたいだ)

 

 その狂気への自覚は、けれどももう死んでいる母の幻影を殺すには至らないので、彼は途方に暮れるしかない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・民宿『天川』/ 16:11

 

 

「とにかく一緒に入浴するのは無理」と頑なに主張して、月子は家族風呂に一人で沈むことに落ち着いた。祖母は特段残念がるわけでもなく、フロントで月子のために浴具一式を借り出すと、「身を清めておくように」と言い含めて自身は大浴場へ向かった。数秒立ちすくんだあと、月子はフロントの視線に負けてたまたま空いていた家族風呂の脱衣所に向かい、腑に落ちないまま服を脱ぎ、踏み込んだ浴場を見て少し感心した。

 

「へぇ……」

 

 家族風呂は総檜作りで、民宿の外観からは想像できないほど本格的な作りだった。香りも悪くない。ふつうなら諸手を挙げて喜んでもいいのかもしれない。けれども月子は、そも入浴という行為そのものを苦手としていた。月子は異物を嫌う。それらは基本的に彼女を不快にする。そして水は媒介である。『水に浸かる』ということは薄く広がって同化するような心象とどうしても繋がってしまう。

 この場においても彼女の宗旨が変わることはない。月子は隅々まで身体を清めると、時間を掛けて長い髪を洗い始める。夏場は暑苦しく、冬場は手入れするたび全身が凍えそうになるこの髪形を、月子は持て余している。発作的に切り落としたくなることが頻繁にある。それを踏み止まらせているのは、益体のない記憶である。

 幼い頃、月子の髪を母が梳いていた。櫛通りがよく艶めく母譲りの特徴を、恐らく月子は気に入っていた(彼女は基本的に自分の容姿に自信を持っているけれども、なかでも一入だった)。月子の最初の友人である少女も褒めてくれた髪だった。池田や花田も、自分は癖毛だからと羨んでくれた。月子の中にあるいくつかの尊い記憶と、髪は強く紐づいている。彼女はだから、結局手間を惜しむことができずにいる。

 

 その日もずいぶん長い時間を掛けて髪を洗った。浴場からさっさと出ても、時間いっぱい脱衣所で髪を拭いた。髪質が傷まないよう習慣化された手つきで労わった。今日初めて出会った祖母に手を引かれてきた非日常に彼女はいる。けれどもこの時間は単調で、静謐で、孤独で、充実していた。結局孤立に安心を求める自分の根暗ぶりを哂いながら、月子は身支度を整え、祖母の待つ部屋に戻った。

 

 そして、唖然とした。

 

「お帰りなさい」

「……どうも」

 

 湯上りと見える白装束の祖母が、座敷の上で正座している。先ほどまでしていたらしい化粧が落ちた彼女の面は、赤みを帯びて不思議と若々しく見えた。

 部屋は大きな机が除けられ、中央には布団が一組敷かれている。枕元にはちゃちな着物を着せられた顔のない人形が据えられている(月子の知識に照らすと、案山子と雛人形の合いの子という表現がもっとも適当だった)。月子から視た祖母は布団を挟んだ彼岸に座していて、無言で月子に横になるよう要求している。状況を飲み込めない月子は思慮に思慮を重ねて祖母の要求を汲み取ろうとするけれども、最終的には諦めた。

 

「あの、それで、わたしは何をすればいいの?」

「楽な姿勢で、そこで横になってください」

「眠くないんですけど」

「でも、これからたぶん、気分が悪くなると思いますので」

「……はぁ」

 

 少しだけ感情をささくれさせながら、月子は言われるがまま布団に腰を落ち着ける。厳粛な祖母の顔をうかがう様に、うつ伏せになる。鼓動がやや早まり、彼女に緊張の自覚を促す。

 

「月子さん」

 

 と、祖母が言う。

 

「たぶん、あなたは自分が人と少し違うことを知っている。それが自分を苦しめていることも知っている。けれども違うからこそ優れているということも知っている。でもどうして自分が他人と違うかをわかっていない。ちがいますか?」

「……占いでもするんですか?」胡乱げに月子はいった。説教を聴くためにここに来たわけではない。

「それに近いことも必要ならします」祖母はいう。「あなたは――そう、人に触れることを厭うのでしたね。でもそれは人だけでしょうか?」

「……」発作的な反抗心が、一瞬月子を悩ませる。このまま沈黙を貫いてみるのも一興だと彼女は考える。けれどもそれはどう考えても子供じみた振る舞いでしかない。そうと自覚すれば黙っているわけにもいかず、彼女はしぶしぶ口を開く。「人だけじゃなくて、人が触ったものとか、作ったものでも、そうなります」

「そうですか」と祖母は頷く。「具体的に、どんなときにあなたの気分は悪くなるのですか?」

「人に触ったとき。触られたとき」

「ほかには」

「人が触ったものに触ったとき。人が作ったものを食べたとき。良くない人を視たとき。水に入ったとき」

「『良くない人』?」

「何かを運命付けられている人。特別な人。他から抜き出ている人。そういう……ほかとは違うなにかがある人」

「つまり、強く生きている人のことですか?」

「そう……そうかもしれない」

「呼吸はどうですか?」

「え?」

「わたしとあなたは、いま、この部屋にいます。同じ空気をふたりで吸っています。あるいはわたしが吐いた息をあなたは呼吸しているかもしれない。そのことについては何とも思いませんか?」

「思わない。思ったことがない……です」月子はぼんやり呟いた。「そういえば、なんでだろ……」

「気分が悪くなるとは、どういった状態を指しますか?」

「目が回る。頭が痛む。胸がむかついて、吐気がする。そんな感じ、です。あぁ、ちょっと、気持ち悪くなってきた……」

「その『気持ち悪さ』は、他の何かにたとえることができますか? たとえば車や船や何か乗り物で酔ったようなときとか、空腹でたまらないときとか、起き抜けに目が眩むときとか、そういったものです」

「たとえようがない。たとえにはならない。わたしはそういうたとえよりも先にこの感じと付き合ってきたから。ただ、しいていえば、乗り物酔いに、似てるかも」

「石戸の家のことを、あなたはどれくらい知っているのでしょう」

「えっと……」

「石戸の家は神職を担うものです。とくに霧島神境において、女系からは女仙を多く輩出した家系でした。あなたの母もそのひとりです。あなたの母は、生きた天児(あまがつ)でした」

「……」

「好きな方角はありますか?」

「……北東」

「天児とは、不運や災いを肩代わりする人形のことです。そこの枕元においてあるものがそうですね。名前や見目を偽るのと同じように、人を模したその形がよくないものを引き寄せます。けれどもそれは、やはり人形でしかない。だから本当に厄介なよくないものを誤魔化すことは、ただの天児ではできない。そこに石戸の需要がありました」

「意味が……わからない」

「仰るとおり、それはわからないものです。わかりえないものです。()()()()()()()()()ものなのです。鉄と火が山を拓き神の在所を理で塗りつぶしてもなお、この世には空白が残りました。わたしたちはそこで肩を寄せ合い身を潜めています。わたしたちは解明されてはならないものでした。わたしたちは名付けられてはならないものでした。隠れていなければならないものでした。そこから外に出て行くのなら、守らなくてはならない掟がありました」

「……」

()()()()

「はい……」祖母の強い呼びかけが、月子の耳に長く響いた。祖母の言葉の十分の一も、月子は理解できていない。質問の意味するところもわからない。ただ呼びかけられるがまま、彼女は応じた。

「一年前の今日、あなたは何をしていたか思い出せますか?」

「わかりません。覚えてない……」

「ではそれより前は。さらに前は。いちばん旧いあなたの記憶はなんでしょう?」

「わかりません」

「あなたの気分を損なうものはなんでしょう。あなたはどうして生きるものやその名残に触れると傾いてしまうのでしょう。あなたを偏らせるものはなんでしょう?」

「運のせい」月子は答えた。「ものみなが持つ命の偏りをわたしは感覚している。その傾斜がわたしを不快にする。触れるたびに足元が揺らぐような心地になる」

()()()()」と、誰かが月子の名前を呼ぶ。「()()()()()()()()?」

「わたしは、わたし」

 

 ()()は答えられない。

 

「産まれたときから、変わらない……わたし」

 

 吐気がこみ上げる。

 彼女は嘔吐する。

 祖母の手が背に触れる。

 

「――諸々の枉事(まがごと)罪穢れを(はら)ひ賜へ清め賜へと申す事の由を天津神国津神、八百万の神達共にきこしめせと畏み畏み申す」

 

 その祝詞を、月子は何度も聴いたことがある。

 




2013/9/29:誤字修正


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30.あたらよムーン( )

※近日本文に追記予定


 

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:16

 

 

 京太郎の提案を受けて、照はしばし黙考した。顎をかるく上げ、硝子球のような瞳を虚空に浮かばせて、言葉が意味するところを吟味しているようだった。

 ややあって、

 

「どんな?」

 

 と、彼女はいった。

 

「そうだな――」

 

 京太郎は少し首を捻り、考える素振りを見せる。

 演技である。かれは腹案を既に用意していたし、口にすべき台詞もずいぶん前に選び終えていた。

 

「こういうのはどうだ?」

 

 かれが照に持ちかけたサシウマの内容は、単純明解であった。通常の順位ウマの他、二人が競うのは互いの点差である。半荘が終了した時点で差し引きが100点であれば、敗者は勝者に100Gを渡す。当然、1000点であればその十倍、10000点であれば100倍となるわけである。

 

「いやいや、それ、ただのデカピンじゃないですか!」

 

 京太郎の説明を耳にして、即座に異論を唱えたのは(この場では比較的)良識のある花田だった。

 

「そうだな」

「そうだなじゃなくて」

 

 平然とする京太郎の袖を引いて、花田が口早に囁いた。

 

「……須賀くん、今日もう相当負けてるでしょ。やめといたほうが」

「だから大きく張るんじゃないか」こともなげに京太郎はいった。

「まさにどつぼに嵌ってる人の考え方!」

 

 言い募る花田を横に除けて、京太郎は照を見る。彼女は京太郎が持ち出した非常識な(年齢を度外視したとしても、それは全く非常識な)レートについて、特別な感想を持たないようだった。動揺も憐憫も昂揚も、照の面差しには見当たらない。

 

「いい。べつに構わない」

 

 と、彼女は言った。

 事も無げに無謀な賭けを請け負った。そこには力量への自負も京太郎への軽侮もない。金銭の多寡を、照は問題にも感じていないようだった。少なくとも表面上はそう見えた――京太郎の思惑からは外れた、かれの知らぬ照の性質だった。

 

 思惑が外れた、というのが京太郎の偽らざる心境だった。ここからリャンピン程度まで引き下げる用意がかれにはあって、あまりにも無頓着な照の承服に鼻白んでいる。けれどもそれを面に出すわけにも行かない。かれは平静を保ち続ける。それでも耳朶について離れない声がある。池田の言葉が反響する。

 

『いろいろと、もうまずいところまで足を踏み入れてるぞ』と、かれは思う。

 

 反論の余地は無い。

 すでに遊びの範疇を越えている。仮に照か京太郎の親にこの催しが露見すれば(そしてその確率はとても高い)追求は免れない。照やそれ以外の人間との関係性も含めて、京太郎はいよいよ、乗せてはならないものまで秤に積もうとしている。かれは自分の暴挙をある程度自覚しており、何度も後戻りを検討する。鹿爪らしくうなる花田と無表情に牌に触れている咲の様子をうかがう。

 池田のいうことは正しい。京太郎に何か譲れないものがあったとしても、それは今日この日でなければ証せないという類のものではない。照と打つ機会は、作ろうと思えばいつでも作れるのである。ここで意固地になる利はない。へたをすれば二度と彼女と卓を囲めなくなる危険を冒すほどの価値が、この一半荘にあるとは思えない。

 

(いまのところ)

 

 と、かれは思う。

 

(合計収支は照さんがプラス405、(あいつ)がプラス124、花田さんがマイナス96――で、おれがマイナス443、かな。終わってんな、しかし)

 

 もはや、乾いた笑いしか出ないほどの大敗である。

 

(たぶん、ここで止めとくのがいいんだろうな)

 

 他人事のように京太郎は独白する。負けた負けたと手を叩き、悔しさも露にいつかの雪辱を誓うことが、この一日の正しい終わり方である。京太郎にもそれはわかるし、そうしてはならない理由もない。

 たとえば、京太郎の一番欲しいものが照との居心地の良い関係性だったなら、そうしても良かった。

 気の置けない仲間を増やして、こんなふうに時間を合わせて麻雀にふけることが目的なら、そうしても良かった。

 けれども、そのいずれも、いまの京太郎にとっての最重要ではない。

 

 かれは照を見る。

 照は静かに視線を返す。

 彼女は促すように、深く椅子に座りなおす。背もたれが軋む。片肘を肘掛について顎を支え、少し気だるさをまとった顔でじっと京太郎を見つめている。硝子の瞳が京太郎を閉じ込める。その中で問いが投げかけられる。京太郎が豪語した言葉の委細を、照は求めている。曖昧な決着を彼女は望んでいない。

 

 全てを見せろと彼女は言っている。

 

 この場の誰よりも、宮永照が、勝負の中断を望んでいない。

 少年が張った意地の結末の価値を、彼女は見届けようとしている。

 その結果としてかれが燃え尽きてしまったとしても、それを受け入れる用意が照にはある。

 

「じゃあ」

 

 と、照が口火を切る。

 取り返しがつかなくなるかもしれない門を開ける。

 

「はじめよう、京太郎」

 

 呟く照に躊躇いは無い。

 

「勝負をしよう。ぜんぶを賭けて」

 

 その鮮やかさに、京太郎もまた腹を括った。

 

「そして、教えて見せてよ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:20

 

 

ルール:半荘戦

  持ち点 :25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)

  赤ドラ :あり([五]、[⑤]、[⑤]、[5])

  喰い断 :あり

  後付け :あり

  喰い替え:なし

  ウマ  :あり(二位:10000点、一位:30000点)

  サシウマ:あり(半荘終了時に須賀京太郎と宮永照の点差は1000点/1000円で清算)

  レート :1000点/50円

  チップ :一枚/100円

  祝儀  :一発(チップ一枚)、赤ドラ(チップ一枚)、裏ドラ(チップ一枚)、役満(チップ五枚)

  清算  :半荘清算(誰か一人の持ち金が不足(アウト)した時点で対局終了)

  その他 :割れ目(積み棒、罰符は対象外)

  その他 :多家和なし/頭跳ねあり

  その他 :三家和/四開槓/九種九牌/四風連打/四家立直/錯和(チョンボ)は流局連荘(積み棒はなし)

  その他 :大三元・大四喜の(パオ)あり/生牌(大明槓)の(パオ)なし

  その他 :嶺上自摸符は2符、連風牌の雀頭は4符として扱う

  その他 :暗槓への槍槓は国士無双和了時のみ有効

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:20

 

 

 極端なレートの高騰に、花田と咲はそれぞれ局面が終盤に移行したことを嗅ぎつけた。全体の収支はすでに照が抜きん出ており、一半荘での挽回はどうあがいても難しい。けれども彼女らは疲労の色濃い面貌にある種の祈念をはりつかせ、言葉少なく方針を受け入れた。

 席順は、回り親ではなく今回も掴み取りで決まった。

 

 東一局0本場

 【東家】須賀 京太郎:25000

     チップ:±0

 【南家】宮永 咲  :25000<割れ目>

     チップ:±0

 【西家】宮永 照  :25000

     チップ:±0

 【北家】花田 煌  :25000

     チップ:±0

 

 各々席に着き、思い思いの姿勢で最初の開門を待つ。

 京太郎は対面に座る照を凝視する。彼女には目線の揺らぎも指先の漫ろさもない。意味のない重心の移動もない。ただ少しだけ瞳が赤い。涙が溜まり潤んでいる。照が何度か欠伸を噛み殺していることを京太郎は見逃していない(もちろんかれ自身も、本音を言えばとても疲れている)。

 見目から露骨な憔悴は見出せない。

 それは余裕によるものかもしれない。

 ただ確実に、疲労は蓄積されている。

 

(……はずだ)

 

 祈りにも似た心境で、京太郎は照の内心が見目ほど安閑とはしていないことに賭けた。すでに十二時間近く麻雀を打っている。咲を通じて探った照の麻雀遍歴に照らしても、これだけの長丁場は過去例がないはずだった。年長の照は京太郎よりも体力的に恵まれているかもしれないけれども、少なくとも彼女が運動に秀でているという話はこれまで聞いたことが無い。そして集中力の持続は体力にも左右される。

 疲労は失策を呼ぶ。

 失策は勝機に繋がる。

 そして京太郎には、最後の手札も残っている。

 

(ただ、)

 

 卓中央のボタンを押下する。せり上がる四つの山を前に、起親の京太郎は賽を振った。

 

(――札を切れるかどうかは、完全に運だ)

 

 鼓動を意識すると、心臓の存在感が増した。拍子は早鐘のそれである。右手の人差し指と親指を擦り、手汗を拭い、京太郎は苦笑する。自律神経に促されるように想像は具体的な結末へ及んで、敗北が現実味を帯び始める。

 もちろん、負けというならばすでにこれ以上なく負けてはいる。けれども、この対局で何も残せなかったというのであれば、それは額面よりもよほど大きな傷になると京太郎は考えていた。自らそう仕向けた。ただの敗北を必要以上に大きくした。

 遣り取りされる点棒の多寡以上のものを、かれは賭した。

 一時間後の自分を思って、かれは表情を強張らせる。下腹部に石を呑んだような重さがある。寝不足や疲労、ストレスが手伝い鳩尾には痺れるような痛みも滲んでいる。勝ち目はひとつだけある。そう思わなくてはここにはいられない。ただ、それ以外の全ての目が、かれにとっての敗北である。大口を叩き風呂敷を広げ格好をつけて縺れ込ませたこの局面で、かれは今さら、重圧めいたものを意識する。手もなく破れ形無しになった自分を容易に想像できる。死力を尽くしてそれでも照に及ぶ光景を、ほんの欠片しか信じることができない。天に向けて手を伸ばすようなこの行為を、かれ自身測りかねている節がある。いったい、自分が掴もうとしている勝利までの距離はどれほどなのだろう? と京太郎は思う。身の丈に余ることだけはわかっている。だから足りない尺を、詰めるだけの工夫を凝らした。それでも結局、太陽を握ろうとしているのであれば石をいくら積んでも甲斐はない。

 

(怖い)

 

 と、かれは心から思う。

 

(負けるのが怖い。何もできずに終わるのが怖い。見下げられるのが怖い。迷惑を掛けるのが怖い。かっこう悪くなるのが怖い。何をしてもおれじゃ無理なんだって、認めちまうのが怖い。これが麻雀なんだって思い知らされるのが怖い)

 

 恐怖の種を、心中指折り数え上げていく。

 

(でも、それでもだ……)

 

 頬が引きつる。

 池田の助言を反芻する。

 余裕の微笑というには、あまりに不恰好ではあったが。

 京太郎は、歯を見せて笑った。

 

 東一局0本場 ドラ:{⑧}(ドラ表示牌:{⑦})

 配牌

 京太郎:{一二四五①⑤⑥78東東西白中}

 

(それでも勝負は始まるし、終わる)

 

 打:{西}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:22

 

 

(割れ目か――)

 

 咲を蚊帳の外に置いて、京太郎と照の賭けは成立する。そして流れのままにまた半荘が始まり、咲は牌を打つ。

 疲れはある。家庭で慣れている麻雀でも、所詮は子供を交えた遊戯である。夜っぴて打ち通したことはない。大人たちはそうでもないようだったけれども、照や咲といった子供たちは、頃合を見て場を辞すのが常だった。子供同士で卓を囲んだとしても、当然徹夜をしたことはない。単純に時間的な意味において、咲は未踏の領域に踏み込みつつある。

 ただ、もう、倦厭はない。

 牌を操る咲の手指に、鈍りはあっても辟易はない。

 本音を言えば、身体は今にも眠り込みたいほど消耗している。結構なブランクを置いて、照と鎬を削り続けている今日だ。一戦々々における咲の消耗は尋常なものではない。体力的にも、面子の中では一際劣っている自覚が彼女にはある。

 

(つかれた。つかれたよ……)

 

 視界を縁取る光にもやや陰りが見えている。目を利かせすぎて、時おり人物や牌の像が乱れる。長時間読書にふけり続けたときのように、眼筋が消耗して焦点を結び難くなっているのかもしれない。

 コンディションもパフォーマンスも、一回戦から比して半減しかけているといっても過言ではない。

 

(でも、やめたくない)

 

 照を凌いだ瞬間、何かをつかめた気がした。喪った遊戯の時間を取り戻した以上の充実感が、咲の心を捉えたのだった。それは単純に壁を一つ越えたための充実感である。停滞のあとの解放には楽が伴う。そして抜けた扉の向こうに、照がいる。わき目も振らずに前を目指す彼女がいる。その背を見て、咲は、急き立てられずにはいられない。

 追いつきたいのではない。

 

(すがくんや、お姉ちゃんとのことなんて、もう関係ない)

 

 越えたい。

 

 超えたい。

 

 咲の背を押すのは、原始的な衝動でしかない。

 疲労が表層的な情動を削ぎ落とし、単純で根源的な衝動が原動力になる。

 下家に座す照の顔に移ろいはない。仮面のように動かない表情を、咲はどうしても崩したい。出力はなんでもいい。ただ彼女が秘めてまるで見せない感情を暴きたい。それは咲本人にも由来が知れぬ暴力的な衝動である。

 

(勝っても負けても、たぶん、それだけじゃだめなんだ。お姉ちゃんには届かないんだ)

 

 東一局0本場 ドラ:{⑧}(ドラ表示牌:{⑦})

 1巡目

 咲:{二五七⑦⑧⑧2345南南發} ツモ:{九}

 

「ふ……、ふっ」

 

 覚えず、笑みが零れた。

 怪訝な視線が三方から寄った。常ならば赤面しているところだ。けれどもいまの咲は、不思議と自意識が鈍感だった。

 

(つらいなぁ)

 

 と、咲は思う。

 下唇を噛む。

 腕が重い。

 明日はきっと筋肉痛だろうなと、頭の片隅で考える。

 

(みんな、こんなのに、いっしょうけんめいになって……)

 

 打:{發}

 

(わたしも、……ばかだったよ、お姉ちゃん)

 

 そして心の中央で、超人を超克するための方策を突き詰める。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:22

 

 

 深い思慮があるわけではなかった。照を衝き動かすのはたんなる好奇心以上のものではない。「教える」と京太郎はいった。かれは照の知らない問いの回答について用意があるようだった。かなうならば、照はそれを知りたいと思った。だから京太郎の提案を呑んだ。損がない勝負だから受けた。

 期待がないわけではない。それが皆無であれば、照はこの場に座ってはいなかっただろう。須賀京太郎は何かをずっと待っている。

 照が視明かした『須賀京太郎』は凡俗の域を出る人間ではない。異才を持たず、技術的にもまだまだ伸びしろを持っている。つまり現時点では稚拙な打ち手だということである。それでもかれが麻雀と出会ってからの数ヶ月は、研鑽に研鑽を重ねた時間だということが照には()()()。麻雀を覚えたての素人が、明けても暮れても麻雀のことを考え続け、理論的な経験者に師事し、強者との卓にも恵まれた。早々ありえない好条件に恵まれ、本人の資質も決して悪くはない。予想外でも異常でもないけれども、京太郎は目覚しい成長を経て照の前に再び座っている。かれが麻雀に掛ける心情も、特性も、傾向も、これから先辿るであろう経路も、照は大方見通した。

 

 ただ、京太郎がこの勝負に見出している勝機だけは、照にもわからない。照はあくまで京太郎の本質を解剖しただけである。それは京太郎の心を読むこととは決定的に異なる。心理とは能力や属性ではない。照はただ見えないものが視えているだけであり、聴こえないものが聞こえるようになったわけではない。

 照はだから、京太郎が二回戦からこちらずっと何かを待ち続けていることに気づきながらも、その『何か』の解答を知っているわけではない。照の持ち点が一定以上になったとき、かれが押し引きの基準を極端に緩めていることにも気づいている。それこそが京太郎の圧倒的な失点の根本原因だと理解している。実力的に劣っているという以上の割合で、かれは今日ここまで負けを重ねているのはそのためである。

 目前の敗北よりも何かを優先して、京太郎は巧妙に暴牌を要所で打ち続けている。それは結果的に場における歪の元である照や咲の当たり牌になる。降りるべきところで降りずに進むかれは、それをしている花田よりも余計に点棒を吐き出し続けた。

 

 そこまですることに、どれだけの意味があるのか、照は知らない。

 京太郎の意地は、照にとって言葉以上のものではない。

 かれの思い入れの大きさを知る照にとって、興味の対象は一つだけである。

 ――果たして、かれの一念が、壁を抜いて届くことがあるのかどうか。

 それだけだった。

 

(わたしはたぶん、いま、生まれてから一番強い)

 

 全霊を尽くすことを覚えた咲との足を止めた打ち合いが、照をかつてない領域にまで引き上げていた。卓に座る全員の本質が、いまの照にとっては火を見るよりも明らかで、詳らかだった。肉体的な消耗は莫迦にならなくとも、それを凌駕するように身の内は全能感覚で溢れている。山には完全に意識が行き届いている。誰がどんな手牌のときに何を切り出しどんなツモを経てどこへ向かうかがはっきりとわかる。

 

 東一局0本場 ドラ:{⑧}(ドラ表示牌:{⑦})

 1巡目

 照:{一一四六七①②334白白北} ツモ:{2}

 

 どんな相手にも、負ける気がしない。誰を相手取っても勝てる気がする。とはいえその心情は一時的な昂揚がもたらす錯覚だと照は知っている。傲慢や過信は失策に繋がり、油断が思わぬ事態を引き起こす。だからこそ、手を抜く心算も試す心算も、照にはない。

 

(でも、どこに行けばいいのかもわからない)

 

 全力を尽くす。

 京太郎の誓いも思惑も斟酌しない。

 結果、何かを挫かねばならないというならば、それが自分の進むべき道だと受け入れるしかない。

 

 打:{四}

 

 熱の欠片もない視線を、照は対面の少年へ向ける。

 口ほどにも無い結果しか、まだ残せていないかれだ。

 それは妥当だったとしても――

 

(教えて見せればいい)

 

 照は、納得していない。

 



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30.あたらよムーン( ):承前

区切りが良い所まで書き終え次第、前話と統合します。


 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:23

 

 

「ツモ」

 

 開幕を飾ったのは、やはりというべきか照の和了である。

 

 東一局0本場 ドラ:{⑧}(ドラ表示牌:{⑦})

 4巡目

 照:{一一六七八①②③234白白} 

 

 ツモ:{一}

 

「400・700」

 

 東一局0本場

 【東家】須賀 京太郎:25000→24300(-  700)

     チップ:±0

 【南家】宮永 咲  :25000→24200(-  800)<割れ目>

     チップ:±0

 【西家】宮永 照  :25000→26900(+ 1900)

     チップ:±0

 【北家】花田 煌  :25000→24600(-  400)

     チップ:±0

 

 速やかで、静かで、単純で、そして常道に照らせば不可解な和了りだった。今となっては照と同卓する誰もが彼女の不自然さに気づいている。歯止めを掛けるために工夫を凝らすこともしている。同等の感性を以って追いすがるものもいる。それでも結局、照は他の追随を許さない。彼女は直線的に和了を嗅ぎつけ、過たない。運は尽きず、自分を()げることもない。()()()()()()を繰り返している。

 そして勝ち続けている。

 

「あぁ」

 

 と、眉を寄せて嘆息を漏らすのは、幾分力が抜けた風情の片岡優希である。もどかしそうに両手を開閉させては、未練がましく京太郎が座る席を睨んでいる。

 

「集中しなさいよ」

 

 そんな片岡に苦言を呈す南浦数絵もまた、口ほどに目前の三麻(サンマ)に没頭できてはいなかった。対面の池田華菜の(ホウ)を眇める彼女の顔色は、心なし蒼褪めている。

 

「なんか、調子悪そうだね」南浦の面差しを眺めながら、池田が首を傾げる。こちらは一見他方の卓に未練はないように見えた。

「調子が悪いって言うわけじゃあ、ないですけど、……ちょっと」

「ふゥん――あの髪の毛尖ってる姉妹(ふたり)のせい?」

「わかるんですか?」一寸意外な風に、南浦が眦を開いた。

「わかんないけど、人が多い大会とかだと、たまに変なのと卓を囲むし」池田は思い出す目つきで宙を睨んだ。「もっともっとたまには、二人同時にそういうのと打つこともある。そういうとき、なんかその子らって、時々やたらリアクションが激しくなる。あの子たちの目は、心も、なんだか特別感じやすいように見える。怯えたり驚いたり、いちいち牌以外のものに気を取られていたよ。アンタもそういうののお仲間なんだろ?」

「どうなんでしょうね。よくわかりません」南浦は曖昧に応じた。「池田さんは……その、()()()()()、どう思いますか?」

 

 牌を山から自摸りつつ、池田が首を傾げた。

 

「どう思うって、()()()()かってこと? それとも、()()として、それをあたしがどう感じてるかってこと?」

「どちらもです」

「なんかなァ――」

 

 牌を手出しして、河で横に曲げつつ、池田は鼻を鳴らした。

 

「つっきーもそういうの気にしてたね。そんなの人に聞いてどうする? ずるいとかイカサマだとか言って欲しいのか? それとも凄いねーって羨ましがられたいのか?――立直だ」

「それは――」自分の中から答えを探すように、南浦が吐息を絞った。「それは、たぶん、全部、そうなんだと思います」

 

 会話に入りかねている片岡が上下のふたりをうかがいながら、池田の安全牌を手出しする。

 

「あたしは別になんとも思わないよ。ひとの持ち物見て指をくわえたくなるほど、まだ自分に見切りをつけてないんだ。麻雀舐めてるやつはぶっ飛ばしたくなるけど、そんなの誰に限ったことでもないし、あるかないかなんて、そいつの横っ面を引っぱたきたくなることにはほとんどカンケーないし」

 

 淡白で難解な池田の言い回しを、南浦は理解しかねたようだった。眉をひそめつつ、

 

「ふつうの子は、みんな言う……言うんですよ。私と打っても、つまんないって。いつも南場で逆転するなんておかしいって……。そういう気持ちはたぶん私もわかってるんです。自分が勝てないゲームが全部つまらないとは言わないですけど、誰かが一方的に勝ち続けるゲームは、絶対つまらないと思います。勝つほうと勝たないほうが決まってるって、それもう勝負じゃないでしょう。それで、その線引きは、がんばったりとか、そういうことじゃなかなか変わらない。線のこちら側にいるためには、何より才能が大事で、そういう特別なものがないのに、須賀くんはなんで、()()()()に勝とうとしてるのか、不思議で――無理なのに」

 

 牌を山から自摸って、沈思する。

 

「自分から、痛い目を見に行く意味がわからない」

 

 ツモ:{⑦}

 

 南浦:{②③④④④④⑦⑦赤556東東}

 

「あのふたり、……」

 

 南浦:{②③④④④④⑦⑦⑦赤5} ({5}){6東東}

 

 池田

 河:{南39發東赤⑤}

   {⑥横⑧}

 

 南浦:{②③④④④④⑦⑦⑦赤55} ({6}){東東}

 

 打:{6}

 

「なにかあったんですか」

 

 中筋を打った南浦の捨て牌を眺めながら、池田は吐息した。

 

「――須賀は別に、勝とうとはしてないと思うけどね。ただコロそうとしてるだけだ」

「え?」

「それにさ、麻雀が運の勝負だなんて、誰だってわかってることなんだよ。紙一重の牌の後先に、だれだって歯噛みするし、それはべつに配牌やツモにかぎったことじゃない。でも努力がまるで意味ないわけでも、絶対にないんだ。それもみんなみんなわかってる。だろう? 牌効率や押し引きだけじゃなしにさ、よく見える目や、長い指や、おおきな手、裏をかく発想や、どれだけ負けてもとけない資金や、心を削る盤外戦術の巧さだって、それは麻雀の強さには違いない。サマを認めるわけじゃないけど、その場の誰も咎められないサマなら、それは一つの強さだとあたしは思う。須賀は、たぶんあんたよりかは、そのことをわかってる」

「それはどういう……」

 

 聞き返した南浦の目前で、山から牌を模した池田が、手牌を倒した。

 

「ツモ――2000・4000」

 

 池田:{一一一九九九①②③⑧⑨11}

 

 ツモ:{⑦}

 

「最後の二枚か一枚か――そんな{⑦}(この牌)を、こんな感じに都合よく自摸ることだって、誰にだって出来るんだよ。出来すぎたことは誰にでも起きるんだ。それが麻雀なんだよ。あんたも須賀もあたしもつっきーもどんな麻雀打つやつも、それはおんなじなんだ。どうせ無理とか水差してやるなよ。――負けそうな馬こそ、応援しがいがあるんだぜ。ホラ、むかしのサムライがいってただろ」

 

 南浦は数秒顔をしかめて、自らの手牌を静かに伏せる。

 

「別に仔細なし。胸据わって進むなり……ってさ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:26

 

 

 あっけなく京太郎の親は流れ、東の風は席順に則り下家の咲に移った。回る賽の出目は花田を割れ目に選び、四人は黙々と山を崩して配牌に向き合う。

 

 東二局0本場

 【北家】須賀 京太郎:24300

     チップ:±0

 【東家】宮永 咲  :24200

     チップ:±0

 【南家】宮永 照  :26900

     チップ:±0

 【西家】花田 煌  :24600<割れ目>

     チップ:±0

 

 場は平たくとも、咲も花田も、目線を動かさないまま照を意識しているのが京太郎にもわかる。一つの小さな和了りは、やがて暴風に成長する。照が二つの和了を積んで親番を迎えれば、歯止めは効かなくなる。ここまでに何度も繰り返された光景である。上がり続ける翻が片手の指を全て折った頃、照の速度はようやく翳る。そんな隙ともいえない隙を突くには、多くの幸運か磨き上げられた技術か奇形に近い天稟か、あるいはその全てが必要になる。

 そして京太郎は今のところそのどれもに恵まれていない。

 走り出した照を止めるのは咲か、咲の助力を得た花田である。

 

 東二局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 配牌

 京太郎:{一一三七①⑤⑧46東南西西} 

 

 振るわない配牌を、京太郎は平坦な心持ちで受け入れようと努める。焦燥が背中に張り付いていた。その生臭い息遣いまで聞こえていた。けれども焦ったところで、かれにとっての何かが好転することはない。

 

 東二局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 咲:{■■■■■■} ({■}){■■■■■■■}

 

 打:{①}

 

 東二局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 照:{■■■■■■■■■■■■■} ツモ:{■}

 

 打:{中}

 

 東二局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 1巡目

 花田:{■■■■■■■■■■■■■} ツモ:{■}

 

 打:{發}

 

「ポン」

 

 と、咲が鳴いて、京太郎のツモ番が飛ばされた。

 

 東二局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 2巡目

 咲: ({■}){■■■■■■■■■■} ポン:{發横發發}

 

 打:{一}――

 

(のっけから一手遅れか)

 

 目前を通り過ぎていく牌の遣り取りを、もどかしく眺める。ただ対面の照とツモを交換する形になった。仮に照の和了が山に約束されているのであれば、この副露は彼女の足を幾らか遅らせるかもしれない。

 

(でも、このくらいのことなら、誰にだってできるんだ)

 

 そして、この程度では止められないから、今夜の照の独走がある。

 

 東二局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 2巡目

 京太郎:{一一三七①⑤⑧46東南西西} ツモ:{白}

 

 打:{南}

 

 麻雀において完全な同一局面はほぼありえないといわれる。ただ類似した展開は、今日この卓に限っては頻繁に繰り広げられている。何度かの場面で、常に自分が無力だったとは京太郎は考えていない。照の和了を遅らせたこともその逆もあった。ただ結局それらの工夫は勝利に結びつかなかった。無意味ではなかったけれども、足掻きの域を出るものではなかった。暗闇の中で、独り貧弱な得物を盲滅法振り回しているようなものだった。のみならず、対手は京太郎の眼に見えない様々なものを隅々まで見明かしている。

 

「……」

 

 そのまま、4巡が過ぎた。

 

 東二局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 7巡目

 京太郎:{一一三七⑦⑧246西西白白} ツモ:{9}

 

 京太郎の向聴は思うように進まない。塔子は愚形で溢れ、打点も望めない。他方で咲、照の手からは既に中張牌が零れている。次に打つ牌に和了の声が掛かっても何ら不思議ではない。

 

(だめだ。こいつはもう)

 

 京太郎は、

 

「……」

 

 咲

 河:{①一東西2九}

   {7}

 

(――ほかに、できることがねえ)

 

 打:{6}

 

 と、いった。

 

「チー」

 

 その牌を、すぐさま咲が喰らう。

 

 東二局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 8巡目

 咲:{■■■■■■■■} チー:{横64赤5} ポン:{發横發發}

 

 打:{六}

 

 詰めていた呼吸を緩めて、京太郎は場に投げ出された牌を見る。山に手を伸ばし、同じ拍子で自摸切る照を尻目に、かれは居住まいを正す。明確な抜き打ちを、照も花田もとくに咎める素振りはない。手牌を短くしている親よりもケアすべき相手を子に定めるという状況に、もはや全員が慣れ切っている。

 

 そして――

 

「ツモっ」

 

 東二局0本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})

 9巡目

 咲:{五六七八八③④} チー:{横64赤5} ポン:{發横發發}

 

 ツモ:{②}

 

 この局面の攻防を制したのは、咲だった。

 

 東二局0本場

 【北家】須賀 京太郎:24300→23300(- 1000)

     チップ:±0→-1

 【東家】宮永 咲  :24200→28200(+ 4000)

     チップ:±0→+3

 【南家】宮永 照  :26900→25900(- 1000)

     チップ:±0→-1

 【西家】花田 煌  :24600→22600(- 2000)<割れ目>

     チップ:±0→-1

 

「……ふゥ」

 

 京太郎:{一一三七⑦⑧249西白白白}

 

 京太郎は、静かに瞼を擦ると――

 

 満足げに、吐息した。

 




2014/2/23:ご指摘いただいた脱字を修正


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30.あたらよムーン( ):承前-2

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:31

 

 

 卓上に声が途絶えた。

 何かの切欠があったわけではなかった。長く卓を囲んでいれば、そんな場面も訪れる。12時間近くも牌を握っていれば、未だ体が仕上がっていない子供たちの口は重くなる。

 京太郎と照――子供らしからぬ大金を握って点棒を交わす二人の存在も、咲と花田に緊張を強いる一因にはなっていたかもしれない。あるいは金銭の授受も手酷い敗北者の存在もまるで念頭になく、単に全員が牙を剥く瞬間を決して逃すまいと専心しているだけかもしれない。

 

 連荘で自ら割れ目を引いた咲は、手牌を開くや瞳をかすかに細めた。

 

(死んでる――)

 

 東二局1本場 ドラ:{⑥}(ドラ表示牌:{赤⑤})

 配牌

 咲:{一一二四七九九①③⑧26北北}

 

(塔子は揃ってるけど、揃ってかたちが悪い。値段も安い)

 

 和了目を見出せないわけではない。しかし遅すぎると咲は考えた。

 親と割れ目を兼ねた局は、大量得点の好機である一方、子の自摸和了全てが痛烈な一撃と化す危機でもある。

 

(チャンタに寄せれば下家(お姉ちゃん)が入れ食いになる……マジョリティは打{⑧}か{26}――もしくは{七}?)

 

 打:{⑧}

 

 さして時間も掛けず、咲は{⑧}を見切る。{⑥}(ドラ)とのくっつきが見込める牌ではあるけれども、この手牌では活かしようがないと見たのである。

 東二局1本場は、沈黙の内に始まる。重たいまぶたをようよう開いて、咲は各々の顔を見るのである。

 まず対面の花田に目が行く。彼女の姿勢はとても良い。この場の誰より背筋が伸びている。疲労が無いはずはないけれども、少なくともそれを億尾にも見せない。その意気を、咲は純粋に尊敬する。

 

 須賀京太郎は、傍目にも勢いがなかった。飄々とした物腰もなりを潜めて、眉間にはかすかにしわが寄っている。が、唇もまた歪んでいるのである。笑みにも見える。苦しんでいるようにも見える。咲にはかれがわからない。ただ、なんとなく、その胸の内には共感を抱くことができるような気がした。かれとは、今日この卓において、目指す場所が一致しているからである。

 

 そして、宮永照について咲は考える。下家に座る少女の横顔をうかがう。鼻梁を隔てた右目の輝きを咲は注視する。星か炎のような光が、その瞳に宿っている。咲には、照がまとう気炎がまざまざと見える。この卓に着く前と後で、照はもはや別人のようにさえ感じられた。熱量はまだ上がる。照自身にも、己を問うているような気配がある。この場に座る人々をすっかり見透かした彼女は、いま余人には仰ぐこともできない何かに触れようとしている。

 

 照に何があったのかはわからない。

 照が何を目指しているのかもわからない。

 

 それを理解して照の気持ちを理解しようという発想は、咲には生まれない。それは二人の関係性というよりも宮永咲という少女の人間性に根差す傾向である。咲は、やはり、人の心の機微については無頓着だった。それが身内かどうかは関係がない。際立って鋭い感性が、人間の情実へ耳を欹てることは、少なくとも今はない(そして、その善悪を判定することは誰にもできない)。

 咲はだから、牌の声に耳を澄ます。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:36

 

 

「ポン」

 

 場の静寂を裂いたのは、四巡目――京太郎の打牌に対しての照の発声だった。どちらかといえば訥々とした発音は、不思議と誰にも聞き逃されることは無い。

 

 東二局1本場 ドラ:{⑥}(ドラ表示牌:{赤⑤})

 四巡目

 照:{■■■■■■■■■■■} ポン:{南横南南}

 

 打:{3}

 

 案の定、軽く早い手だった。この期に置いて、単純に一鳴きして役を確定させただけとは、咲も考えていない。照はすでに聴牌か、悪くて一向聴と見るべきだった。

 

 咲:{一一二四七九①③677北北}

 

(むりかあ――)

 

 形勢ははっきりと悪いが、割れ目の親番で手に蓋は弱気に過ぎる。多少強引にでも押す覚悟を、咲は決めた。

 が――

 

(とはいえ……)

 

 八巡目に、二度目の動きがあった。

 

「――カン」

 

 呟いたのは、咲ではなく京太郎である。

 

 東二局1本場 ドラ:{⑥}(ドラ表示牌:{赤⑤}) 槓ドラ:1(ドラ表示牌:{9})

 八巡目

 京太郎:{■■■■■■■■■■} カン:{⑥■■⑥}

 

 げ、と花田が空気を喉から漏らす。嶺上から有効牌を奪われた咲もまた、ひそかに歯噛みした。

 

 京太郎

 河:{一9西(南)八東}

   {⑤}

 

 徐に京太郎の手が伸びる。咲の前で割れた王牌の嶺にある牌を摘む。模したその牌の裏地を、咲だけが知っている。

 

({六}――)

 

 それを、京太郎は手の中に入れる。

 零れたのは、

 

 打:{七}

 

 であった。次いで訪れた自摸番に沿いながら、咲は脳裏で目まぐるしく京太郎の手牌を想像する。

 

(最後の手出しは{東}――{七七八八東}のかたちから{八→東}と落として{六}引いての打{七}? じゃなければ、タンヤオ仕掛けを睨んで{四五七八東}から二度受けと{九}引きのフリテンを嫌って{東}(安牌)残しの塔子落とし? それならすがくんは普通に{七}を先に切る、と思うけど――でもまだ、中と發が枯れてない。そもそも{東}は生牌で、安全牌として機能してない。たとえば{東}の槓刻落として隠れ暗刻――の{四五七七八八東東東東}からの{八東}落として{六}引きからの打{七}だったら……形は{四五六七八東東東}――でも、それなら、立直だよね?)

 

 東二局1本場 ドラ:{⑥}(ドラ表示牌:{赤⑤})

 九巡目

 咲:{一一二三四七八九677北北}

 

 ツモ:{九}

 

(――掴まされた? {677}(索子の上)はもちろん危ない。{北北}もすがくんの風で生牌――持ち持ちなら……{一}打って回るにしてもあとが続かない。でも、打てば、16000が決まってる……)

 

 咲の感覚は、それでも{九}が絶対の危険牌ではないと訴えている。しかしその精度は完全なものではない。今や咲の感性と願望は綯い交ぜになっており、「当たってほしくない」と「当たらない」は未分化の状態になっている。疲労の弊害である。また、単純に京太郎には嵌め手が多い。ここぞというときに彼が行ってきた異色の受けが、咲の心象には強く根付いている。

 牌を置く。

 ただそれだけの行為に勇気が要る。

 確信を裏切ることも、ときには必要になる。

 そこに麻雀の面白さがある。

 咲も、それが徐々にわかってきた。

 

(ここは、いくよ――)

 

 打:{九}

 

 静かに自摸切った牌には、誰の声も掛からない。

 咲は露骨に安堵の息を落とす。

 それから半秒も間を置かず、

 

 打:{赤五}

 

 と、照がいった。生牌の自摸切りである。強いと、花田がわずかに目を瞠る。咲も同感だった。照の所作には完全な確信がある。自分が当たり牌を掴むはずがない――そうした妄信による打牌ではなかった。思考を放棄しているわけでもない。京太郎の待ちに関する推察への、余程の自信が彼女の摸打を支えている。

 

 花田が合わせ打つ。

 そして、

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:42

 

 

 東二局1本場 ドラ:{⑥}(ドラ表示牌:{赤⑤}) 槓ドラ:1(ドラ表示牌:{9})

 九巡目

 京太郎:{三四五六東東東⑦⑧⑨} カン:{⑥■■⑥}

 

「――」

 

 ツモ:{⑨}

 

 その自摸に、京太郎は言い知れぬ悪寒を覚える。打つ手は三つある。{三}か{六}か{⑨}自摸切りか――待ちの広さではわずかにノベタンが有利だし、意外性という意味では{⑨}待ちに構えても良い。

 しかし――

 

 ――京太郎は笑った。

 

 打:{⑨}

 

「ロン」

 

 照:{三三四四五五六六⑨⑨} ポン:{南横南南}

 

 活路は、もう無い気がしていた――。

 

「1000は1300」

 

 点棒を取り出しながら、

 

「……ひとつ、教えてくれないか」

 

 と、京太郎はいった。

 

「なんで{赤五}を切った? 空切りで入れ替えてよかったじゃねえか」

「そうしたら出ないから」

 

 照の回答には一切の逡巡がない。

 答案が彼女の瞳に張り付いているようだった。

 

「なんで出ないって思うんだ?」

「自分のことも、誰かに説明されないとわからないの?」

 

 心底不思議そうに照はいった。

 

 東二局1本場

 【北家】須賀 京太郎:23300→22000(- 1300)

     チップ:-1

 【東家】宮永 咲  :28200<割れ目>

     チップ:+3

 【南家】宮永 照  :25900→27200(+ 1300)

     チップ:-1

 【西家】花田 煌  :22600

     チップ:-1

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:45

 

 

 局が進む。自ら引いた親番で、照が振った賽が選んだ割れ目は花田の山だった。薄っすらと掻いた手汗をスカートの裾で拭って、花田は今後の展開について思いを馳せる。

 

 東三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 配牌

 花田:{七八九②③③⑤⑧28東白白}

 

 たんに親を蹴る手として、配牌はまずまずといえた。それでも花田の表情は浮かない。類似した局面を、今日だけで何度見たか知れないのである。そしてそのたびに照は彼女の目論見を上回って見せた。ときおり歯が立つこともあった。ただそれは、完全に退路を断った前傾を取った上で、精々四回に一回程度である。残り三回は、綺麗に逆撃をもらっている。まず、照の速度に追いつけない。併走するためには無茶が要る。必然防御を後回しにする。短い手牌で四苦八苦して結局討ち取られる――今日の面子の中で、須賀京太郎に次いで放銃が多いのは(京太郎の数字が圧倒的過ぎるため妥当な比較ではないにせよ)花田だった。

 

「……」

 

 視界と思考に疲労が滲む。摸打を繰り返す右腕には気だるさがまとわりついている。腰は重いし、暖房にさらされた髪と肌はやや乾きつつある。体調は万全から遠のき続けて、いまの花田は実力を十二分に発揮できる態勢では、もはやない。

 及ばないことはもう十分に悟っている。

 

(……だから?)

 

 それは、花田にとって何ら倦む理由にはなりえない。

 なんとなれば、彼女は既に収穫を得ていたからである。

 この日、花田(きらめ)は宮永照という少女を知った。実のところ、卓に着いて面と向かうまでは何処か甘く見ていた部分があったことは否めない。石戸月子や片岡優希を、難なく下した同世代の女の子がいる。そんな彼女と年の瀬に卓を囲む。月子を通じて受けた京太郎の誘いに、花田は二つ返事で飛びついた。

 強い相手がいるならば、それが同じ年頃の少女ならば、ぜひとも打ちたいと彼女は願った。だから花田は今日、多少法外なルールであることも気にせずこの場にいる。麻雀という連帯だけで池田華菜や石戸月子と友人づきあいを続けられる彼女もまた、どこか凡庸から逸した感性を持っている。

 侮っていたわけではない。

 強いて言えば、自惚れていた。

 いわゆる強者を向うに回したとしても、無様な打ち回しは晒さない自負があった。

 

(は・ず・か・しィ――)

 

 フと、渋面を崩して花田は唇を緩めた。

 宮永咲を見る。

 宮永照を見る。

 

(――つよい! すばら! ですっ)

 

 と、彼女は思う。身のうちで火が熾きる。互いに面影を宿す二人を見つめる花田の胸には、少しばかりの憧憬がある。

 彼女らがいわゆる彼岸の人であることを、花田は感覚的に悟っている。彼女らは花田と同じ子供で、少女で、牌に縁持ち同じ卓に着いた。ただ共通項はそこで品切れになる。たんに別人だという言葉以上の意味で、照や咲と花田の()()()は違う。

 

(こんな子たちがいるんだ。それを知れただけでも、今日はよかった。きてよかった。ほんとよかった。でも、けど、だけど――)

 

 打:{西}

 

(なにがちがうんだろ)

 

 目を伏せる。呼吸を意識して深くする。花田は目の前の卓に没頭する。劈頭に{西}(ドラ)を並べた照の後を受けて牌をツモる。ドラ表示牌の{北}を引く。自摸切る。西家の京太郎が牌を自摸る。かれの目線を花田は追う。京太郎は両目を充血させて四方に視線を撒いている。瞬きさえ忘れているように見える。牌を入れたかれの切り出しは{7}である。手が早い。かもしれない。自摸番が親が流れたばかりの咲へ移る。彼女は迷う様子もなく、控えめに{⑨}を切り出す。

 

()()なりたいわけじゃあ、ないんですけど)

 

 {④}を引く。{東}を抜く。河に置く。声は掛からないことはおおよそ察しがついている。麻雀を打っていれば、そんな勘働きはしばしばある。蓄積された経験値が、あるいは疲労がもたらす錯覚が、結果的に的を射て超能力めいた感覚を得た気になることがある。

 たとえば石戸月子はその感性についてこう言う。『ちょうのうりょくでも何でもいいけどとにかく自分が打つ牌には全部理由がつけられなくては駄目よ。経験知ならまずそれを言葉にできなきゃ意味がない。何切ると同じよ。場況次第とかそういういいわけはいーのよ。同じ局面に百回ぶつかったら百回同じ答えを出せなくちゃ意味が無いわ! それが麻雀強くなるってことよ!』(花田はおおいに頷いた)。

 一方で池田華菜は違う見解を持っている。『掴もうとすると逃げるだろ。だから掴もうとしない。牌は来るし。必ずくるし。あたしツモれるし。なぜなら超スゴいあたしは超スゴい! そうやって自分を信じる。そうするといつの間にかツモってる。かんたんでしょ』(花田は月子と共同してまったく参考にならないと非難した)。

 

「ふ」

 

 友人たちの顔を思い出して、花田は自然に笑んだ。

 麻雀は性質的に孤独を強いられるゲームである。他家の()は開かれるそのときまで判らない。自分の行方さえ伏せられて定かではない。ただ、それでいて同時にこのうえない交流のための手段であるとも彼女は考えている。様々な表情を見せる盤面に翻弄されながら、人は牌を模し、打つ。

 見るたびに色を変えるこの136枚に、花田は魅入られた。

 恐らくは、ここにいる誰もが、そうだと思った。

 

 そして、六巡目――。

 花田の手牌は、こうなった。

 

 東三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 六巡目

 花田:{七八九②③③④⑤246白白}

 

(一向聴……ここからが長い)

 

 花田は人知れず、唾液を嚥下する。似た動作、似た推理、似た光景を突きつけられ続けて、心身はすっかり疲弊している。脳が軽い錯誤を起こす。いつか、どこかで、全く同じ手牌に出会ったような気がする。同じ河、同じ人、同じ自摸……。そのときの結果を記憶から掘り返そうとしている自分に気づいて、花田は思考を打ち切る。

 そんな事実は無い。

 答案は過去には無い。

 

(いまだ、いま、いま……今)

 

 唇だけが言葉を連ねる。早い一向聴である。しかし役牌が出れば鳴かざるを得ない牌姿でもある。そうなれば頭が不足する。

 

 東三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 七巡目

 花田:{七八九②③③④⑤246白白}

 

 ツモ:{白}

 

 彼女は、自ら一役を確定させる。予測していた自摸である。ただ、この手牌における正着を、花田は決めかねる。

 

(打{②}なら{③⑥2356}、{③}なら{②⑤}以外の受け入れはいっしょ――打{6}は{①②③④⑤⑥234}、打{2}なら索子の{234}(ニサシ){456}(シゴロ)に変わる。さて――)

 

 ――結局、彼女が選んだのは{6}である。

 けれどもその選択の結果が占われることはなかった。

 次巡、

 

「ツモ」

 

 花田の逡巡をはるか後方に置き去って、照が和了した。

 

 東三局0本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 八巡目

 照:{二三九九九⑦⑦111456}

 

 ツモ:{一}

 

「……700オール」

 

(役なしっ――またあっ? なんで立直、しないんですか、ホント……)

 

 目を瞠る花田を気に留めることもなく、照はシバ棒を卓に積んだ。

 

 東三局0本場

 【西家】須賀 京太郎:22000→21300(-  700)

     チップ:-1

 【北家】宮永 咲  :28200→27500(-  700)

     チップ:+3

 【東家】宮永 照  :27200→30000(+ 2800)

     チップ:-1

 【南家】花田 煌  :22600→21200(- 1400)<割れ目>

     チップ:-1

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:57

 

 

 東三局1本場 ドラ:{4}(ドラ表示牌:{3})

 【西家】須賀 京太郎:21300

     チップ:-1

 【北家】宮永 咲  :27500

     チップ:+3

 【東家】宮永 照  :30000<割れ目>

     チップ:-1

 【南家】花田 煌  :21200

     チップ:-1

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:58

 

 

 時間が過ぎる。

 本場が進む。

 宮永照の連荘が始まる。

 

 花田を含めた全員が、今日何度目とも知れない山の到来に、弛みつつある意識を引き締める。不思議な感覚だった。居住まいを正さずにはいられないような、そんな効能が照の和了にはある。魔除の鉦めいた清浄な気配である。照が和了り続けるかぎり、だから他三人は倦怠の中に身を浸しきれない。

 全身全霊を以って抗うことを余儀なくされる。

 

(とはいえ……)

 

 東三局1本場 ドラ:{4}(ドラ表示牌:{3})

 配牌

 花田:{■■■■}

 

 山を崩す花田の胸に、勝算はない。一度席に座れば、後は祈るより他にすることがない――麻雀には間違いなくそうした側面がある。短時間での実力向上などありえない。劇的な運の追い風は、もしかしたらあるかもしれない。そして結局は好調も不調も確率が示す波紋に過ぎない。巨視的な見地に立てば、一手の後先を効率化する努力は、波すら立てないものである。波紋を描けば余程良い。

 

(なのに、ある。ないと知っているのに、ある。それを信じずにはいられないってときが)

 

 東三局1本場 ドラ:{4}(ドラ表示牌:{3})

 配牌

 花田:{■■■■■■■■}

 

 流れについて、花田煌は考える。宮永照の勢いは、実力や読みという次元を簡単に飛び越えている。麻雀を打つものならばよく見知っている、『何をしても手がつけられない』態勢を常としている節がある。

 

(それが、人間にできるなら、麻雀なんて……ヌルゲーですよね)

 

 東三局1本場 ドラ:{4}(ドラ表示牌:{3})

 配牌

 花田:{■■■■■■■■■■■■}

 

 照の跳牌を待ち、花田、京太郎、咲が最後の一枚を山から削る。13枚を手中に置いた花田は、呼吸も深く、伏せた牌を揃えて立てる。

 

 東三局1本場 ドラ:{4}(ドラ表示牌:{3})

 配牌

 花田:{二六六七赤⑤⑥⑦⑧4456南}

 

 鬼手である。(ダマ)で満貫――高めで曲げたなら倍満まで見える。天恵のように降って湧いたこの好配牌に、花田は何かしらの暗示を感じずにはいられない。

 

(ここが)

 

 喉がからからに渇いている。

 

(剣が峰――)

 

 祈るように、花田は牌へ触れた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 19:00

 

 

 東三局1本場 ドラ:{4}(ドラ表示牌:{3})

 配牌

 照:{二二三赤五七①②②⑧⑨白東西北}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 19:00

 

 

 東三局1本場 ドラ:{4}(ドラ表示牌:{3})

 配牌

 京太郎:{一五八九九③⑥⑦235發發}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 19:00

 

 

 東三局1本場 ドラ:{4}(ドラ表示牌:{3})

 配牌

 咲:{四四④⑤赤⑤⑨⑨1127中東}

 

 




2014/03/25:誤字修正


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