EACH TIME (愛秋)
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憂鬱とヨガマット
新調したヨガマットの上で低反発でぎこちない柔らかさを踏みしめながら、目を閉じ、直立し深く深呼吸する。ヨガとは瞑想することが醍醐味であるがこんなに雑念があるとは。何のポーズをするでもなく、とにかく考え込んでいた。
マナは憂鬱だった。そもそも考え過ぎなのはわかっていた。憂鬱な気分になるから考え込むのか、考え込むから憂鬱になるのか。自分自身でも、正直なところよくわからない。マナ自身、深読みしすぎる性格であることは25年間生きてきて痛いほどわかっていた。
新調したヨガマットの上で低反発でぎこちない柔らかさを踏みしめながら、目を閉じ、直立し深く深呼吸する。ヨガとは瞑想することが醍醐味であるがこんなに雑念があるとは。何のポーズをするでもなく、とにかく考え込んでいた。
「マナの得意技。閉じるやつ。ピシャッと扉を閉じるのではなく、そっと音を立てずに扉を閉めるように心を閉ざすやつ。」山田はいつかマナにそう言った。週末のやり切れない時間に押し潰されて、山田からの連絡をシャットダウンしてしまうクセがマナにはあった。寂しさ、孤独、不安、色んな感情が相俟って限界点に達した瞬間に閉じてしまう。何もかも理解しているはずだった。マナがまだ思春期の頃には、すでに山田は誰かのもので、それからマナに出会い現在に至るまでの10数年間も山田は人生を共にしている人がいるのだ。
マナに出る幕が無いことは最初から理解していた。「一定の距離を持つこと。これ以上好きになってはいけない。」と毎日のように言い聞かせていた。しかし山田は、マナのそんな努力もつゆ知らず、全力でマナを求め、素直に愛した。マナよりも先に「愛してる」という言葉を使い、二人になるといつも強く抱きしめた。山田は、いつだってありのままだった。マナと少しでも連絡が取れなくなると、いてもたってもいられなくなる。そうなると、山田は妻の目を盗んで、五月雨のようにマナにメールを送り続ける。”返事して。””何してるの?””何を思ってる?”まるで子供のように、ありのままぶつかるのだ。山田の真っ直ぐな愛情は決して通わせることは出来ないものだった。同じだけ愛して欲しいと山田はマナに言うものの、マナにとって一番望むその行為こそが、マナ自身を苦しめる行為そのものだったのだ。それでも、山田はマナを”器用に”愛し続けるのだった。マナはそんな山田に戸惑い、怒りつつも、その五月雨メール攻撃(たまに電話までかけてくる)が閉じた心をこじ開けることも知っていた。
最近山田が忙しい。今夜も会えなかった。金曜日なのに。今日が過ぎればまた、土曜と日曜をやり過ごして月曜日を待つだけだ。たった1日会えないだけでも”週末を目前にして会えない金曜日”はマナにとって拷問だった。山田も仕事を片付けてなんとか会おうとしていて、ギリギリまで煮え切らない返事をしたままだった。期待した方が失望は大きい。月曜、火曜、水曜、木曜、金曜...と日を追う毎に会える日数は目減りしていく。そんな現実がいつもマナに静かに忍び寄る。
「男をただひたすら待つだけの女」が一番嫌いだ。しかし今、マナ自身がそれになりつつある。山田に会える時までの自分をどうやり過ごしていいのかわからない。どうしてこんな女になっちゃったんだろう。山田のせいだ。マナの心をこじ開けては去り、いつの間にか閉じられるはずの鍵穴は何度もこじ開けたせいでグチャグチャにされてしまった。もう鍵はかからない。マナはまた更に憂鬱になった。
仕事中でも、週末でも山田はメールをする。今日起きた出来事や仕事の話を次から次へと。週末、深夜の映画ロードショーには時間を合わせて、同じ映画を観ながらメールし合った。「なんだか一緒に観てるみたいだな」と山田は言った。お互いに気持ちを馳せながら、別々の場所で観る映画。週末は実在しないはずの山田の存在に、マナは心も体も奪われていた。
ヨガマットの上で直立しながら手を高く天井まで上げながら深呼吸をしていると、マナお気に入りの着信音ー口笛のような音ーが鳴った。目を開けて携帯を手にし、山田からのメールを確認して返信した。そして再び目を閉じて、真っ暗な憂鬱の世界に舞い戻った。不思議と口笛の音を聞く度、体が軽くなっていく気もしていた。
憂鬱なことは、あれよあれよと続く。そんなに押し寄せてきてどうするつもり?と叫びたくなることもある。
びっくりするほどぺしゃんこに心が押し潰されそうになる。だがそんな時こそ自分の足でしっかり地面を踏み締めるのだ。ぎこちない柔らかさを踏みしめる、ちょうど今のように。そして、前を向いて背筋を伸ばし、肩の力を抜きながら両足に同じ分だけ体を預け、右にも左にも偏らないように直立する。ちょうど今のように。
バランスを取るとはまさにこういうことではないか。辛いことと楽しいことでバランスを取るなんて楽観主義過ぎやしないだろうか。両足で同じ分だけ憂鬱を踏み締めてこそ、初めて真っ直ぐ立っていられるのだと、マナは思った。
そして再び口笛が鳴る。その瞬間ふと、真っ暗な憂鬱の世界でマナの体はまた軽くなる。
目を開け携帯を手に取ると、画面には4文字。「愛してる」と書いてあった。思わず喉の奥にでかかった「会いたい」という4文字を無理矢理押し込めながら、山田と同じ4文字を静かに返信した。
ぎこちない柔らかさが容赦なく、足の裏を包み込んでいる。背筋がスッと自然に伸びた。ゆっくりと体中に山田が浸潤していく気がした。
次のポーズは何だっけ。英雄のポーズ?犬のポーズ?今度はそんなことを考えながら、マナは目を開けたまま、深呼吸をした。
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