Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia (ローレンシウ)
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First chapter: Deekin, from Faerûn to Halkeginia
第一話 Prologue


 

 ―――ここはトリステイン魔法学院。

 

 遥か次元界の片隅に浮かぶ名も知られぬ物質界の一大陸、ハルケギニア。

 この大陸では六千年前にブリミルと呼ばれる人間を祖とするメイジ達によって開かれた魔法文明が発達し、彼らを貴族・王族とする大小いくつもの魔導制国家が繁栄している。

 

 その西方に位置する歴史ある小国、魔法国家トリステインの一角に存在するこの魔法学院では、身分の高い貴族たちに魔法をはじめ必要な各種の教育を施こしている。

 ここは古い歴史を誇る由緒正しき魔法学院であり、遠方の大国からさえしばしば留学生が訪れる。

 学生達は皆名門に連なる優秀な血統のメイジであり、その将来を嘱望されているのだ。

 

 時にはさらに稀少で例外的な存在も見受けられる。

 今、学院の外れの丘で銀の鏡面を食い入るように見つめている桃色の髪の少女などは、まさにその好例だろう。

 

 彼女の名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールという。

 名門貴族の三女でありながらどんな魔法を使っても正常な効果が発現せず、代わりに爆発現象を発生させるこの少女は、魔法を使えぬ貴族という不名誉な烙印を押されてクラスメートから嘲笑の的になっているようだ。

 

 今回もメイジの属性を固定し生涯の進路を決めるとも言える大切な使い魔召喚の儀式において幾度となく爆発を繰り返し……。

ようやく召喚の鏡が現れたかと思えば、そこからなかなか使い魔がやってこないという苦 境に陥っているのだ。

 

「おいおい、何も出てこないぜ?」

 

「散々爆発させたあげくにやっと成功したかと思ったらこれかよ!」

 

「そりゃ、使い魔もゼロのところになんか来たくないよな!」

 

「時間の無駄だ、さっさと帰ろうぜ!」

 

 周囲を取り巻くクラスメートたちから浴びせられる口汚い野次に唇を噛み締めながら、少女はじっと鏡を見つめ続けている。

 もう、数分は経っただろうか。

 

(早く……、早く出てきなさいよ、私の使い魔……!)

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 ―――世界は変わって、こちらはウォーターディープ。

 

 ウォーターディープ山の影の中にあるかの“壮麗な都”ウォーターディープは、この物質界「フォーゴトン・レルム」において最も有名な巨大都市であろう。

 平時は10万人以上の市民が住み、夏季にはその数はさらに5倍にもなるといわれる。

 

 この都が皆の羨望の的であり、繁栄を極めているのは故なきことではない。

 ここにある天然の港は、ソード・コースト沿いにあるもののなかで最高のものである。

 加えてこの都市の地下には狂える大魔道師ハラスターが支配するという、フェイルーン全土で最大のダンジョン「アンダーマウンテン」が。

 ソード・コーストの内陸には人の手が加えられていない地帯が、それぞれ広がっているのだ。

 

 安定した交易と産業によって豊かに潤い、多くの平凡な人々にとって住み易い都市。

 ひと山当てようと考える向う見ずな者どもにとっても限りなく魅力的な都市。

 様々な文化、様々な種族の人々が集まるのは当然のことだといえよう。

 

 テシア人、イラスク人、チョンダス人、カリムシャン人。

 エルフ、ドワーフ、ハーフリング、ハーフエルフ、ノーム、ハーフオーク……。

 

 時には、もっとずっと珍しい住人も見受けられる。

 今、夜の裏路地を歩んでいる小さな人影などはまさにその好例だろう。

 

 両手にリュートを抱え、ポロンポロンと鳴らしながら、鼻歌を歌っている。

 背中に荷物の詰まったザックとクロスボウを背負い、軽革鎧を着込み。

 鋭い刃物を腰に帯びた姿からは、放浪の旅人の身であることが推測されよう。

 大きさは人間の子供と同じ程度だが、皮膚は黄緑色のうろこに覆われており、鼠のしっぽのように毛のない尾が生えている。

 頭はどことなくトカゲか犬のような感じで一対の小さな角が生えていて、目はわずかに赤く輝いている。

 

 ――人型をした爬虫類めいた異様な外観をしたこれは、コボルドと呼ばれる人型生物である。

 

 弱い者いじめを好む陰湿な性癖で悪名高く、人間やエルフ、ドワーフなどの多くの種族と敵対している連中だ。

 力こそ弱いが、数を頼んだり卑劣な罠を仕掛けることで多くの人々の脅威と憎しみの対象となっているのだ。

 だが、この人影がきゃんきゃんと犬の鳴くような声で独り言を呟き、鼻歌を歌いながら無邪気げに歩いている姿を見て、脅威を感じるものは稀であろう。

 

「♪ フンフンフ~ン、フンフン不運~!」

 

 彼の名はディーキンという。

 

 野蛮な種族には極めて珍しいことだが、バード――すなわち剣を振るい、音楽の魔法を使い、各地の伝承を集めて聴衆に語る放浪の詩人を生業としている。

 また、コボルドの体に僅かに流れる竜の血脈を覚醒させた竜の使徒、ドラゴン・ディサイプルでもあるのだ。

 

 かつてはネザー山脈で気まぐれな白竜に仕える気の弱いコボルドだったが、主からバードとしての手ほどきを受けることで英雄や冒険に憧れはじめた。

 そしてとある事件をきっかけに知り合った「すごい英雄」である“ボス”の物語を書こうと、彼の後を追って主人の元から離れたのである。

 その後は彼についてアノーラック砂漠を渡り、恐ろしい冒険を潜り抜け――最後には世界を征服しようとする悪党を討ち倒しさえしたのだ。

 

 そのことで自信をつけたディーキンは、今度は英雄から離れて一人で冒険をしよう、大きな人間の街に出て書き上げた英雄譚を世間に発表してやろう……。

 そう意気込んで、はるばるこのウォーターディープの街まで旅を続けてきた。

 

 しかし、コボルドの一人旅はディーキンが想像していた以上に辛いものだった。

 どこへいっても人々から問答無用で追いまわされ、宿はおろか納屋で寝泊まりさせてもらえればよい方で、しばしば下水の溝で夜を明かすことになった。

 

 それでも辛抱強く頑張ってようやくウォーターディープの出版社から英雄物語を出版してもらえる運びになった。

 しかもこの物語の評判は上々で、かなりの数が売れた。

 

 この時ばかりはようやく苦労のかいがあったとディーキンも喜んだが、それで出版社が彼に支払ってくれた金はほんの2~3000gp(金貨2~3000枚)だった。

 人間の街に不慣れで金の使い方もよく知らなかったために、見たこともない大金に思え、しばらくは騙されていることには気がつかなかった。

 その後も不慣れなカモを騙して金を巻き上げる連中にたかられてじきに金はほとんど底をつき、ようやく不当に報酬が少なかったことに気がついた。

 だが、後の祭りだった。街の衛兵たちに事の次第を話してもみたが、薄汚いコボルドの話など誰一人まともに取り合ってはくれなかった。

 

 あの頃は大変だった。

 酒場で歌ってもちっぽけなコボルドの歌におひねりなどくれる人はいなかった。

 冒険でも、誰も荷物持ち以外の仕事でディーキンを連れて行ってくれなかった。

 

 ……でも、今はもうぜんぜん違う。

 すべて、尊敬する偉大な“ボス”のお陰だ。

 

「♪ オ~、ボスは偉大で、素晴らしい~……」

 

 路地に転がった木箱に腰かけて、月明かりに照らされながらしみじみと回想し、“ボス”を称える即興の歌を歌う。

 

 そう、今は違う。

 

 ウォーターディープのとある宿でアンダーダークへの挑戦者を募っていると聞き、何とか冒険へ連れて行ってもらおうと情報をかき集めて向かったそこで。

 あの懐かしい“ボス”と再会できてから、すっかり運命が変わったのだ。

 

 それからはもう、期待していた以上の冒険の日々だった。

 アンダーマウンテンに挑み、さらに地下深くにあるアンダーダークに送り込まれ、最後には正真正銘の地獄までも彼とともに旅をした。

 そして今では地獄の大悪魔・メフィストフェレスを倒してウォーターディープを破滅から救った英雄の仲間として、皆から認められるようになったのだ。

 

 その後も、ウォーターディープでの暮らしは実に充実したものだった。

 今もメフィストフェレスの残した破壊から街を再建するためにボスとちょっとした冒険をこなしてきたばかり。

 ささやかな宴会を終えて“ボス”と別れ、いい気分でぶらぶらと夜の街をさまよっているところだ。

 

「……ウーイ、ディーキンはちょっと酔ってるみたいなの。ニヒヒ」

 

 さて、この間の物語をいい加減にまとめなくては。

 ディーキンはほろ酔い加減の頭で、ぼんやりとそう考えた。

 

「ええと、タイトルは『ホード・オブ・ジ・アンダーダーク』で決定にして……。今度はディーキンに内緒で、勝手にタイトルを変えたりしない出版社に持っていかないとね!」

 

 先日の冒険の最中に書き溜めておいたメモを背負い袋から取り出すと、月明かりの元でそれをまとめる作業に取り掛かろうとする。

 

(……ン、あれ?)

 

 月の光にしては、何か明るいような気がする。

 

 ふと不審がって俯いていた顔を上げると…、彼の目の前には、いつの間にか銀色の鏡が姿を現していた。

 

「オ……? これは何なの? 見たことがないの……」

 

 いきなり鏡面に移った自分の顔と目をあわせたディーキンは、驚いてとっさに後ずさるとぱちぱちと目をしばたたいてから首を傾げた。

 ためしに《魔法感知(ディテクト・マジック)》の精神集中(ディーキンはこの呪文を作ってもらったスクロールで《永続化(パーマネンシイ)》して自身に定着させてある)を行い、じっと鏡を観察してみる。

 

「……ンー……」

 

 すると、鏡面から“強力”な魔法のオーラが感知された。

 

 ディーキンはふと、いつか読んだ物語の内容を思い出していた。

 その話では確か、銀の鏡面は魔術師の呪文で作られる、空間を飛び越えて遥かに離れた別の地点をつなぐ召喚魔法の門だったはずだ。

 この鏡は見たことのない魔法だが、そういえば冒険の最中に何度か見たその手の移送門に似ている気もする。

 もしや誰かが、自分を召喚しようとしているのだろうか? 何故そうしようとしているのかは分からないが……。

 

「アー……、もしかして、これは新しい冒険に出るチャンスってやつなのかな?」

 

 ディーキンは、目の前の鏡を見つめながらそう呟いた。

 

 この鏡はきっと、どこかの魔術師のところにつながっているのだろう。

 もしかしたら『賢人』エルミンスターとか、ヴァーサのウィッチ・キングだろうか?

 もしエルミンスターだったら……、彼の物語には3箇所綴り間違いがあったから、その一覧表を渡していろいろと話を聞き出してやろう。

 ウィッチ・キングだったら……自分が彼からどういう風に見えるのかインタビューしてみたい。

 

 それとも、“ボス”のようなすごい英雄の魔術師だろうか?

 そうしたら、新しい冒険に連れて行ってもらって、また別の物語を書けるだろうか。

 

「ウーン……、それとも、コボルドを煮込んじゃう悪い魔法使いとか、前の御主人様みたいなでっかいドラゴンかも……」

 

 この鏡がどこにつながっているのかも全く分からないのに、飛び込むのは普通に考えたら馬鹿げている。

 今は“ボス”とも別行動している最中なのだ。何かとんでもない事態に巻き込まれたら、一人では対処できないだろう。

 

「でも……」

 

 ディーキンは考えた。

 

 別に、今の生活に不満があるわけではない。

 ウォーターディープではコボルドだからと見くびられることもめっきり減ったし、冒険にも不自由しない。

 何よりも、優しくて頼れる“ボス”が一緒にいてくれる。

 主人の気まぐれにおびえながら洞窟で暮らしていたころや、人間に追いまわされながら惨めなその日暮らしをしていたころに比べれば夢のような生活だ。

 

 だけど一度、自分ひとりでどれだけ未知の場所で立派に冒険が出来るようになったか試してみたい。

 

 以前にこの街に来たばかりのころは、まるで駄目だった。

 その頃には既に世界を救うほどの大冒険を経験していたし、自分は一人前になったと思っていたのだけれど。

 けれど、“御主人様”や“ボス”と別れて一人になったら途端に自信をなくしてしまって。

 戦うことも魔法を使うこともろくにできずに、おどおどと逃げ惑うばかりだった。

 自分はすごいコボルドのバードだけど、でもやっぱり臆病でちっぽけなコボルドだったのだ。

 

 アンダーダークや地獄でのものすごいの冒険を経て今では本当の自信を身につけたつもりだけれど、本当にそうなのか試してみたい。

 一人で立派にやれるようになって、自分は“ボス”にとって最高の仲間なんだと胸を張って名乗りたい。

 

 そして冒険を続けて、いつか最高のバードになって、英雄と呼ばれるようになろう。

 英雄になれたら、いつか自分は部族の住む洞窟に戻って偉大な族長になる。

 そうしてみんなを人間の街に連れ出そう。

 コボルドを人間やエルフや、大勢の他の種族達に受け入れられる仲間にしてやろう。

 

 →飛び込む

  飛び込まない

 

「……うーん。 よし、ディーキンは思い切って飛び込んでみるよ……。ディーキンは、とっても勇敢なの。ディーキンはとても勇敢だよ……、ディーキンは……」

 

・・・・・

 

「ええと……冒険に出かける前には準備が必要だよね……。羊皮紙とペンはたっぷり……あるみたいだね……。ボスと冒険したばっかりだから背負い袋にはいろいろ入ってるし……。じゃあえっと……、パンツの代えは……」

 

・・・・・

 

「……えーと、景気付けに歌を歌うの」

 

 ♪

 

 さぁ~お知らせを広めよぉ~! 今日ディーキンは出発だ! ディーキンその一部になりた~い!!

 ウォーターディープ! ウォーターディィ~プ~……

 

 ♪

 

・・・・・

 

「アー……、いつまでも往生際が悪いよね」

 

 一しきりうろうろと迷った後で、パンパンと顔を叩いて気合いを入れなおす。

 

「それでは、ディーキンはひとまずウォーターディープにサヨナラバイバイなの……、え~い!」

 

 ディーキンは踏ん切るように弾みをつけて駆け出し、横っ跳びにジャンプして頭から鏡の中に飛び込んでいった……。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 ―――もうすでに、10分以上はたっただろうか。

 

 しびれを切らしたルイズは召喚の鏡の方につかつかと歩み寄ろうとする。

 だが、それは今日の召喚の儀を取り仕切っている頭髪の薄い男性教諭(名はコルベール)に制止された。

 

「使い魔が出てこないうちに、不用意に召喚の鏡に近づきすぎてはいけません。出てくる使い魔が非常に大型だったり、迂闊に近寄っては危険な生き物だったらどうするのですか、危険です」

 

「でも! いつまで待っても出てこないじゃないですか! いっそこの鏡をくぐって、私が使い魔を連れて……!」

 

「ミス・ヴァリエール、そんな馬鹿なことを考えてはいけません。気持ちは分かりますが落ち着いてください。召喚の鏡はこうしてちゃんと現われ、そしてまだ消えてはいないのですから、使い魔は必ずやってきます。時間が少々かかるのはたまにある事です、まだ見ぬあなたのパートナーを信じて、もう少しここで待ってあげなさい」

 

 コルベールはルイズの肩に手を置いて優しく諭すが、それを聞いた周囲の生徒達からは口汚い嘲笑や野次が飛ぶ。

 

「ミスタ、いくら待ってもゼロに使い魔なんか来るわけないですよ!」

 

「さっさと帰りましょう!」

 

 彼らは普段からルイズのことを馬鹿にしているのに加えて、彼女以外全員とっくに使い魔の召喚を終えている。

 さっさと帰って召喚したばかりの可愛い使い魔とコミュニケーションを深めたいというのに、ただ一人のせいで授業が長引いていることに苛立っているのだ。

 非難の言葉を口にしないもう少し行儀のいい生徒達も、おおむね退屈そうにしている。

 

「君達、貴族ともあろうものが級友にそんないわれのない非難をしてはいけません。退屈なのは分かりますが、もう少し………あ、ミス・ヴァリエール!」

 

 クラスメートからの非難の声に顔を上げて召喚の鏡を睨んだルイズは、コルベールが周囲に注意を促している隙にずんずんとそちらの方に歩み寄っていた。

 

(なによなによ、今に見てなさい! すぐ鏡の向こうから凄い使い魔を引きずり出して、みんなをあっといわせて………、え?)

 

 ルイズの前で、鏡が煌々とその光を増していく。

 思わず駆け寄って間近で鏡をのぞきこもうとしたルイズだったが……。

 

 ガツン!!!

 

「「むぎゅっ!!!」」

 

 二つの声が重なる。

 

 ルイズはいきなり鏡から勢いよく飛び出してきた亜人の頭突きを喰らって、地面にぶっ倒れる破目になったのだった―――。

 





用語解説:
 以下の呪文の効果はすべて、D&D3.5版準拠である。
構成要素に音声とある場合、その呪文には詠唱が必要なことを、動作とある場合には身振りが必要なことを意味する。
経験とあるものは、その呪文を使う際には呪文ごとに定められた量の経験値を消耗するということを意味する。

ディテクト・マジック
Detect Magic /魔法の感知
系統:占術; 0レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:60フィート、中心角90度の円錐形の放射範囲
持続時間:精神集中の限り、最大で術者レベル毎に1分(途中解除可能)
 術者は魔法のオーラを感知する。明らかになる情報の量は、術者がどれだけ長い間特定の範囲や対象を観察するかによる。
1ラウンド(6秒)の観察では範囲内の魔法のオーラの有無、2ラウンドでその数と最も強いオーラの強度(希薄、微弱、中程度、強力、圧倒的)、
そして3ラウンド目には各オーラごとの強度と正確な位置とが分かる。
術者の知識次第ではオーラの属する系統やマジックアイテムの特性も判別できる。
破壊されたマジックアイテムや既に終了した呪文の希薄な残留オーラも感知でき、木の扉や土壁、薄い鉄板程度であれば効果範囲はその背後まで貫通する。
 本作品の設定ではディーキンはこの呪文を永続化して自身に定着させており、精神集中するだけで常時効果を起動できるものとしている。
なお、このように呪文を永続化させていることは高レベルの冒険者にとっては特別珍しいことではない。

パーマネンシイ
Permanency /永続化
系統:共通呪文; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作、経験
距離:該当する呪文次第
持続時間:永続
 術者は有限の持続時間しか持たない別の呪文の効果を解呪されない限り永続的に続くものに変える。
ただしどんな呪文でも永続化できるわけではなく、また術者は永続化した呪文の強さに応じて経験点を消耗する。
自分自身に対してのみ永続化可能な呪文は、その術者よりも高レベルの使い手によってしか解呪されない。
他者や物体、場所に対して作用する呪文を永続化した場合には、その呪文は通常通り解呪されうる。


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第二話 Encounter

 

(オオ、イテテテ……、すごく長いコボルドのトンネルをくぐったみたいな気分なの)

 

 『使い魔召喚(サモン・サーバント)』のゲートから飛び出すなり見知らぬ少女に頭突きをかましてしまったディーキンは、そんなことを考えながら……。

 頭をさすりつつ起き上ると、泥をはたいてきょろきょろとあたりを見回した。

 さて、一体自分はどんな場所に召喚されたのだろう?

 

 どうも、ウォーターディープとは随分と様子の違うところのようだ。

 

 抜けるような青い空の下、草原の中。

 周囲では変わった、同じようなデザインのきれいな服を着たたくさんの若い人間……エルフやドワーフとは明らかに違うし、大まかな造形から見て多分人間で間違いないだろう……が、ざわつきながら物珍しそうにこちらを見つめている。

 しかし髪の色や顔の造作(コボルドであるディーキンは人間の細かい特徴や容姿の区別にそんなに詳しいわけではないが)などからして、彼らはウォーターディープで見かける様々な人間の人種の、いずれとも違うように思えた。

 特に髪のバリエーションが豊かで、中には相当珍しい髪の色合いや形をした人間が何人も混じっている。

 

(ウーン、なんか随分カラフルな髪の毛の色の人たちなの。魔法で染めてるのかな? ……ディーキンは青い髪とかもなかなかステキだと思うね、多分……。えーと、あの不自然にロールした髪の女の人はなんなのかな? 錬金術で作った薬とかで固めてるの?)

 

 しかし、それ以上にディーキンの注意を惹いたのは、非常に多種多様な生き物が彼らと一緒に居ることだった。

 犬や猫、梟にカエルなどのありふれた生き物に、とても大きなモグラなどのちょっと変わった生き物。

 空中に浮かぶ目玉(アンダーダークで見たビホルダーやアイボールにちょっと似ている)や尻尾に炎を灯した真っ赤な大トカゲなど、魔獣っぽいものもいる。

 体長20フィート程度のドラゴンらしき生き物(しかし、見たことがない種類だ)もいて、つぶらな瞳をぱちぱちさせてこっちを見つめている。

 

 ディーキンはしばらくきょろきょろとあたりを観察し、いろいろと頭の中で考え込んでいた。

 よく見ると、周囲の人々はデザインや大きさに差はあるものの、皆一様にワンドやスタッフのような棒状の物を手に持っている。

 

 再度《魔法感知(ディテクト・マジック)》の精神集中を行ってしばらく観察してみると、それらがいずれも微弱~中程度までの魔法のオーラを放っていることが分かった。

 

(オオオ、珍しい生き物がいっぱいなの。本でも見たことがないようなのもいるの)

 

 この人たちはみんな魔法使いみたいだから、人間のソーサラーかウィザードで、ちょうど使い魔とか召喚した生き物を連れているところだろうか。

 感じからすると、クレリックとかドルイドとかではなさそうだ。

 

 そうなると、つまり自分も、そうやって召喚された生き物ということになるのか?

 

(ムムム、コボルドを召喚するなんて……、もしかしてこの人たちはハラスターみたいな危ない魔術師の集まりとか?)

 

 先日の冒険で出会った狂える大魔道師・ハラスターは、自分で作り上げたアンダーマウンテンの地下深く広がる広大なダンジョンに住み、数々の危険なモンスターをあちこちから召喚して、その内部に配置していた。

 モンスターたちは大方皆呼び出されたことを不満に思っていたようだが、彼に対して反乱を起こしたり逃げ出すものはいなかった。

 いや正確には、試みたものは大勢いただろうが無事に成功したものはいなかったというべきだろう。

 それだけハラスターの力は強大で、皆から恐れられていたのだ。

 

 ……もっとも“ボス”と一緒にアンダーマウンテンに乗り込んだ時にはドロウ(ダークエルフ)たちによってそのハラスターは捕まっていたのだが。

 まあ、本人(?)は捕まったのはクローンで、わざとそうしたのだとか言っていたが……、そのため、支配者のいなくなったモンスターたちは今が好機とばかりにあちこちで暴れまわっていた。

 しかしそれもドロウ達の背後にいたのが地獄の大悪魔・メフィストフェレスだったからで、そうでなければ仮にも彼が捕まるなどまず有り得なかっただろう。

 実際あのボスでさえ、彼の魔力には全く抵抗できず、制約の呪文をかけられて一瞬でアンダーダークに飛ばされてしまったほどなのだ。

 ついでに自分も巻き添えを食ったが……、お陰でものすごい冒険物語を書けたし、英雄の仲間として評価もされたから結果オーライだろう。

 

 まあ、それは置いておいて―――。

 

(……ウーン。でも、ボスとかハラスターみたいにすごい人たちには見えないね。悪魔とかドロウのほうがよっぽど強そうな感じがするの。じゃあ、何のためにディーキンを呼び出したのかな?)

 

 ここはダンジョンではないようだが、向こうの方に大きなお城みたいな建物が見える。

 もしかして、これからずっとあそこの警備をやれとでも言われるのだろうか。

 

(うわあ、それはちょっと嫌だね! そんなことになったらどうしようかな……)

 

 きょろきょろと観察しながらあれこれ考えをめぐらしているディーキンを指差して、周囲の学生達はざわざわと雑談を続けている。

 

「……ね、ねえ、あれって亜人じゃないの?」

 

「ゼロのルイズが亜人を召喚しちまったぞ!」

 

「見たことないぜ、何だあれ? ……ま、でも随分小さいし、役には立たなそうだな!」

 

「身長1メイルもないわね。あれじゃお使いもできないわ!」

 

「ああモンモランシー、君の使い魔もずいぶん可愛いね、名前はもう決めたかい? 僕の使い魔にはどんな名前をつけようか、迷ってしまうよ!」

 

 周りの人間達が何やらざわついているのに気付いて、ディーキンは首を傾げた。

 どうも大半が自分のことを話題にしているようだが、『見たことのない亜人だ』という声が気になった。

 

 亜人というのは、多分コボルドやオークのような人間以外の人型生物全般を指しているのだろうが……。

 こんなに人が、それも(ソーサラーかウィザードか知らないが)博識なはずの魔術師たちが揃っているのに誰もコボルドを知らないなんて。

 このあたりにはコボルドが全然住んでいないのだろうか?

 いや、そもそもコボルドを知ってもいないのなら、どうして自分を召喚(招請)したりしたのだろう?

 

 ちなみに、自分を見下しているらしい発言が多いのは特に気にしてはいない。

 いや勿論多少はムッとしてはいるが、ここ(どこかは知らないが)ではどうせ誰も自分のことなんて知らないのだろうし。

 大体にして“ちっちゃなトカゲ”が見くびられるのはいつものことだ。

 ゲートをくぐる前から、また以前と同じ見くびられている状態からこんどは自分の力だけでしっかりと周囲に認めてもらうのも冒険の一環だと覚悟している。

 むしろいきなり襲いかかってくるような相手がいないだけでも、ディーキンが事前に想定していた様々な状況の中ではかなりいい部類である。

 コボルドにとっては、人様にいきなり攻撃されずにちゃんと話を聞いてもらえるだろう、などと期待する事自体本来なら楽観的過ぎるのだ。

 

「ミ、ミス・ヴァリエール、大丈夫ですか? 怪我などはありませんか?」

 

「いたた……、ううう……」

 

他のとは大分感じの違う声がすぐそばから聞こえてきて、ふとそちらに目を向ける。

そこには他の人達とはやや違った格好をした比較的年配の人間がかがんで、傍でへたり込んで涙目で頭を押さえている長い桃色の髪の女の子を介抱していた。

そうしながらもちらちらとこちらを警戒している様子からすると、実戦経験もそれなりにありそうだ。

 

「……アー……」

 

 それを見て、鏡から飛び出した時誰かにぶつかったことを思い出す。

 ゲートの傍にいた状況からすると、自分を呼び出したのはこの2人のうちどちらかだろう。

 最初から気にしてはいたのだが、周囲の状況があまり物珍しかったのでつい考え込んで失念し、声をかけるのが遅れてしまった。

 

 どうやら、自分がぶつかったせいでこの少女はかなり痛い思いをしたらしい。

 あの時は決心はしたもののどうにも踏ん切りがつかなかったので、勢いをつけて“コボルド高跳び隊”にでもなったつもりで頭からゲートに飛び込んだ。

 今考えるとかなりバカバカしいことをしていたものだ。

 仮にあの少女がゲートの前に立ってなかったとしたら、顔面から地面に激しくダイブしていたはずである。

 ちょっと意気込みがすぎたようだと頭を掻く。

 

 さておき……、では、どちらが自分を呼び出した魔術師だろうか?

 

 コボルドの頭突きを喰らったくらいでへたり込んでいる少女が強力な魔術師だとは思えない。

 腕利きの魔術師は、体もそれなりに丈夫なものである。

 

 となると、ただ一人年配なあたりから見ても、多分介抱している男の方だろうか?

 他の人たちよりは強そうな雰囲気がするし……、この少女も含めて他の若い人間たちは大方、この男から魔法を教わっている魔術師見習いか何かだろう。

 ディーキンはそう推測した。

 

(アー、でも……、まわりの人たちの話からすると、ディーキンを呼び出した人は“ゼロのルイズ”っていうんだよね。二つ名かなんかかな? ウン、それは格好いい感じだけど……、その後のルイズっていうのは、なんか女の人の名前っぽい気がするの)

 

 とすると、やはり倒れてる女の子の方が自分を召喚したのかもしれない。

 とりあえず自分を呼び出した訳は後で聞くとして、まずはあの女の子に謝っておくべきだろうな、とディーキンは考えた。

 大したことはなさそうだが、もし自分のせいで怪我をしていたら治してあげた方がいいだろうし。

 

「……アー、えーと。さっきはぶつかってゴメンなの。ディーキンは謝るよ。そっちの女の子は大丈夫なの?」

 

 いきなり声をかけられて、コルベールはやや驚いたように目をしばたたかせてディーキンの方に視線を移す。

 ルイズの方は声をかけられてようやく意識が自分の痛みの外に向いたのか、しゃがみ込んだままきっと涙目でディーキンを睨みつけた。

 

「え、ああ……、大事はないだろう。……あの、君、人間の言葉が……」

 

「ちょっとあんた、一体何なのよ!いつまでたっても出てこないし、近づいたらいきなり飛び出してぶつかってくるし! これからあんたのご主人様になる相手に対して、こんな無礼を働いて許されると思ってるの!?」

 

 コルベールがディーキンに返事をしようとしたところで、ルイズが激昂してそうまくしたてた。

 まあ、長時間待たされていらだっていた上に、痺れを切らしてゲートに近づいたところでいきなり頭突きを食らわされたのでは怒るのも無理はないだろう。

 

 いきなり女の子の方から激しく怒鳴りつけられて、ディーキンは思わず飛び上がって2、3歩後ずさった。

 

 生来の気の弱さに加えて、機嫌の悪い時の“御主人様”の癇癪で酷い目にあったり、怒声を上げる大勢の人間に追い回されたりした長い間の経験のためだ。

 未だに怒鳴られたりすると当時の事を思い出して、反射的にぎくっとしてしまうのである。

 今では“ボス”と一緒だったとはいえ恐ろしい悪魔とも戦えるほどの勇気はあるのだが、この性質だけはなかなか完全には抜けないようだ。

 

「ちょ、ちょっとミス・ヴァリエール、落ち着いてください。腹立たしいのはわかりますが、やって来てくれたばかりの使い魔にそんな口を利くものではありませんぞ。彼はこれからの君の、一生のパートナーだということを忘れないように」

 

 指導者であるコルベールにそう窘められて、ルイズは不承不承口をつぐんだものの、ディーキンの方を不機嫌そうに睨み続けていた。

 それを見たディーキンは、慌ててぺこぺこと頭を下げ始める。

 

「アア……、その、ディーキンは謝るの! 本当に、ディーキンにはあんたを傷付ける気なんて少しもなかったの! ……けど、ちょっと不注意だったの……。ごめんなの、でもディーキンは、ただ、呼び出されたことに応えたいって思って……」

 

 キャンキャンと子犬の鳴くような声で哀れっぽく訴え頭を下げて赦しを請うディーキンを見て、今度はルイズの方が困惑してしまった。

 

 もし口応えでもしてこようものなら更に激しく怒鳴りつけていたところだが、こうも素直に、怯えたような哀れな様子で謝られてしまうと気勢が削がれる。

 同時に、待ち続けさせられた苛立ちと痛みに対する怒りでヒートアップした頭が、急速に冷えていく。

 

 ……よく考えれば、相手は人間ではなく亜人ではないか。

 平民なら貴族に無礼を働いたらすぐさま謝るのは当然だが、呼び出したばかりの亜人に人間の礼儀を求めてみても仕方がないだろう。

 

 しかも見たことのない亜人ではあるが、言葉遣いや身体の大きさからみても、どうも相手は子どもではないかと思える。

 小さな子に対して、萎縮しているのをいいことにかさにかかって怒鳴り散らすなんて、 相手が亜人とはいえ罪悪感を感じるし、貴族としても少々みっともない行為だと言わざるを得まい。

 

 第一冷静になって考えてみれば、(どうして向こうが勢いよく飛び出してきたのかはさておいても)使い魔とぶつかったのは要するに自分が召喚の鏡に接近し過ぎていたことにも責任があるのだ。

 ミスタ・コルベールがせっかく注意を促してくれていたというのに、それを無視して勝手に召喚の鏡に近づきすぎた自分も悪い。

 幸い出てきたのが小さな亜人だったから大事はなく、こうして八つ当たりなどしていられるが……。

 もしも使い魔がもっと大型だったりして、それと衝突したりしていたらそれどころではなく、下手をすれば命が無かったかもしれない。

 

 何より、ミスタ・コルベールにも言われたとおり、この亜人はこれから自分の使い魔……、生涯のパートナーとなるであろう相手なのだ。

 初対面から自分の非を棚に上げて一方的に相手の非を咎め、怒鳴りつけるような真似をしては今後の信頼関係にも影響が出てくるだろう。

 そんなことをすれば、一生禍根が残って気が咎めることになるかもしれない。

 そこまでは大げさかもしれないが、それを置いてもこの亜人は、自分の初めて成功させた魔法の証ではないか。

 喜びこそすれ、こんな時に怒って怒鳴り散らすべきではないはずだ。

 

 もしこれが同年代くらいの生意気そうな平民の少年とかだったら『やっと成功させた魔法がこんな平民なんて!』と激高し、無礼を咎めて怒鳴りつけたり召喚のやり直しを求めたりしていたのかもしれないが―――。

 

(―――って、何を考えてるのよ私は。いくら私の魔法でも平民なんかが召喚されるわけないじゃないの!)

 

 とにかく、さっきまでは痛くてそれどころではなかったが、やっと実感が湧いてきた。

 

 ついに、魔法が成功したのだ!

 それもありきたりのちいさなトカゲだのの使い魔ではなく、言葉も話せる亜人だ!

 

 ……よくみるとちいさいといえばちいさいし、なんだかトカゲっぽいが……。

 とにもかくにも大成功には違いないはずだ。

 

(もう誰にも、ゼロのルイズだなんて呼ばせないわ!)

 

「……ああ、その、もういいわ。ぶつかったのはこっちも不注意だったみたいだから。顔を上げなさい。ええ、と……、あんた、ディーキンっていう名前なのよね?」

 

「ああ! だからその……、アー、えーと。許してくれるの? ありがとう、ディーキンはすごく感謝するよ! ……えーと、そうなの。ディーキンはディーキンっていうの。“ディーキン・スケイルシンガー”なの。それで、あんたの名前は、ルイズっていうんだよね?」

 

「そうよ。私の名前はルイズ。“ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール”よ、覚えておきなさい」

 

 ほっとしたように頭を上げると二、三度頷いてニヒヒヒ、と笑うディーキンを指差して、周囲の学生達が一層騒がしくざわざわと雑談を続けている。

 

「ねえ、あいつ人間の言葉で喋ったわよ!」

 

「どんな種族の亜人だ? おい、誰か知らないか?」

 

「人間の言葉を話せるってことは……、もしかして先住魔法も使えるのか!?」

 

「……うーん、ゲートをくぐった時に喋れるようになったとかじゃない? それに使えるとしてもまだ子どもじゃないの、あれ?」

 

「ゼロのルイズにペコペコしてるような奴だしな、気ばっかり強いゼロにはちょうどいいぜ!」

 

 ディーキンはきょろきょろして、その反応にまた首をひねる。

 ルイズは、こっちとの話を中断して「何よ、召喚を成功させたのよ、もうゼロじゃないわ!」などと怒鳴り返しているようだ。

 その様子を見た周囲は何やら一層囃し立てている様子(ディーキンには理解しがたい言葉がいろいろ混じっていて、内容はよくわからなかったが)である。

 

(ウーン、この女の子は普段からこんなふうによく笑われてるのかな? いや、それはともかくとして……、やっぱり、なんかおかしい感じがするね)

 

 確かに周りの人たちが言うとおり自分は今喋ったが……、コボルドが喋るのは、当たり前ではないか。

 

 共通語(フェイルーンで、人間の文化圏を中心に最も広く普及している言語)を話せるコボルドは、まあ確かに、それほど多くはない。

 多くのコボルドは野蛮で学がなく、普段仲間内の会話で使うドラゴン語しか話せない。

 しかし、少なくともディーキンの認識としては、決して驚くほどに稀だというわけでもないのだ。

 

 事実、自分の部族には族長やコボルド高跳び隊を指揮する“飛び跳ね匠”をはじめとして、共通語を喋れるコボルドは大勢いた。

 コボルド自体を知らないにしても、共通語を話せる生物は別に珍しくもなんともない。

 野蛮なゴブリンにだって、地下に住むドロウやデュエルガーにだって、共通語を話せる者は大勢いる。それだけありふれた言語なのだ。

 

(ン……? おかしいといえば……、この人たちの話している言葉も、何かおかしな感じがするね?)

 

 彼らの喋った言葉の意味は自然に理解できていたので今まで特に意識していなかったのだが、注意してよく考えてみるとどうにも妙なことに気がついた。

 ごく普通の、特に注意を払っていない人間ならばこんなことにすぐには気付かないかもしれない。

 しかし、ディーキンの詩人(バード)として、また冒険者としての感覚と経験が、違和感を訴えたのである。

 

 その違和感というのは、周囲の人々は皆、ディーキンの知る共通語を話しているように聞こえるのだが……。

 彼らの言葉には、地域特有の訛りがまったく感じられないということだ。

 

 ここがどこか、正確なことはディーキンにはまだ分からない。

 しかし観察した限りではウォーターディープとは相当に離れた場所であるはずだ、見受けられる人間の人種さえも異なっているのだから。

 ならば、たとえ使っている言語は同じ共通語であっても、ウォーターディープに住まう人々とは異なるその地域特有の訛りや方言じみた言葉が混ざっているのが普通のはず。

 

 実際、ディーキンはいろいろな地方や、時には異なった世界までもを旅してまわって、何度もそういった場所場所の言葉の違いを感じた経験がある。

 なのに、ここではそれがまったく感じ取れないのだ。

 周囲の人々はすべて訛りのない、より正確にはディーキンが訛っていると感じない、最も理解しやすい響きの共通語で話しているように聞こえる。

 

(……ウーン、これはもしかして……、ディーキンやこの人たちが今話してるのは、実は共通語じゃなくて……)

 

「ええと……、いいかね?」

 

 考え込んでいると、横合いからコルベールと呼ばれた男に声をかけられた。

 ルイズとか言う女の子の方はどうしたのかと視線をめぐらすと、まだ囃し立てている周囲の生徒らに何やらぎゃあぎゃあと騒いで噛みついているようだ。

 

(そういえば、さっきから使い魔がどうとかご主人様が何だとかいってるのも気になるけど……、とりあえず)

 

 声をかけてきた相手に振り向いて、ちょっと首をかしげる。

 

「オホン。 えーと、……“ディオス・エレ・ディーキン・ファグツ”?」

 

「……は?」

 

 ポカンとしたコルベールの顔をディーキンはじっと見つめる。

 何を言ってるんだかわからん、なんだその言葉は? ……という感じの顔だ。

 

「……えーと。聞き取れなかったの? “ディオス・エレ・ディーキン・ファグツ”……って言ったの」

 

「……い、いや……、意味が分からない。それは、君の種族が使っている言葉か何かかい? すまないが、私達の言葉が話せるのならそれを使って話してくれないかね」

 

「ああ、わかったの。あんたはディーキンに用なの?って言ったんだよ」

 

「うむ、ありがとう。……そうだよ、ディーキン君。もう理解しているのかもしれないが、君はミス・ヴァリエールの『サモン・サーバント』の呪文に答えて、この場に召喚されたのだ。どうやら君は人間の言葉を話せるようだが、亜人かね? どうもこのあたりでは見ない種族のようだが」

 

「ンー……、それは、ディーキンにもまだよくわからない、かな?」

 

 ディーキンは、そう言ってちょっと首を傾げると、意味ありげな笑みを浮かべた。

 コルベールは、そのどこか意地悪げな笑みを見て、怪訝そうに顔をしかめる。

 

 なお、別にディーキンにはいかなる悪意もない。

 笑ったのはただ、今の短い会話のやり取りで首尾よく自分の思いついた考えを確かめることが出来たので、達成感から自然に湧いてきただけである。

 爬虫類であるコボルドの笑みは、それに慣れない人間にはどこか意地悪そうに見えることもあるものなのだ。

 

 実は今、ディーキンが最初にコルベールに話しかけるのに使った言葉は共通語である。

 ただし、今までのように特に意識せず自然に話すのではなく一言一言注意して、それこそ“正しい共通語講座”の講義でもするかのように、意図的に正しい発音を心がけて話してみたのだ。

 すると、コルベールには何を話しているのかが分からなくなった。

 

 ディーキンは先ほど感じた不自然さから、彼らの話している言葉は実は共通語ではないのではないか、と推測した。

 ある呪文を使用した時の感覚に酷似していることに気がついたからだ。

 そして今のコルベールとのやり取りで、その考えが正しいことを確信したのである。

 

 おそらくは、あのゲートをくぐって召喚されたときに、一緒に《言語会話(タンズ)》に似たような魔法の効果をかけられたのだろう。

 

(どんな相手でも呼び出すのと一緒に言葉が通じるようにするなんて、便利な魔法なの)

 

 となると、あの女の子はかなり腕の立つ魔法使いということだろうか。

 あまりそうは見えなかったが。

 

(あれ、でも……、あのコルベールって人はこの魔法の効き目を知らないみたいだったけど、自分達の使う魔法のことを知らないなんておかしいね。えーと、こんな魔法を使ったっていうことは、つまり……?)

 

 ディーキンはコルベールと会話しながらも、普段になくあれこれと深く考えを巡らせていた。

 

 英雄と慕うボスが傍にいてくれる時には、恐ろしい怪物や何かに怯えながらもどこか安心して無邪気に旅を楽しんでいるのだが、コボルドは本来は臆病で慎重な生き物だ。

 ディーキンは普通のコボルドとは大きくかけ離れた性格をしてはいるが、それでもコボルドとして生まれ、その文化で育った以上、警戒するということがいかに大切かは、よく知っている。

 あの女の子にせよこの男の人にせよ、危険な相手には見えないし悪意もないだろう、ということは既にほぼ確信してはいるのだが、それでもいきなり見知らぬ土地にやってきて相手の目的や状況をまだ把握しきれていない今、完全に気楽になるのは早いと考えているのだ。

 

 今は自分一人で、自分の責任で行動を決めなくてはならない。

 気をつけて情報を集め、自分一人の力で状況に対処しなくてはならない。

 

 そういう気負った思いもあり、周囲の状況やこれから待つであろう新鮮な驚きに心の底から期待を募らせながらも、一方ではいつになく注意深く状況を把握し、よく考えて行動を決めようともしていた。

 そもそも見知らぬゲートに飛び込む事自体賢明とはいえない、ということはディーキン自身もよく承知しているが、根が無邪気な性格で英雄に憧れ冒険を求めているということと、完全に考えなしに能天気極まりなく振る舞うということとは、また別なのである。

 

 一方コルベールは、安堵の気持ちと若干の警戒の混じった微妙な思いで、目の前の亜人を見つめていた。

 

 安堵しているのは、どうやら成功が危ぶまれていたヴァリエール家の息女も含め、例年通り全員無事に召喚の儀を終えられそうだ……、という、肩の荷が下りたことに関して。

 警戒しているのは、最後にそのミス・ヴァリエールが召喚したのは今目の前にいる見たこともない亜人……、それも人間の言葉を話す亜人だということ。

 

 人間の言葉を話せるほど知能の高い亜人は、“先住魔法”(主に亜人が使う、始祖ブリミルの系統魔法以前から存在した魔法)の使い手である可能性が高い。

 世界に宿る数多の精霊達の力を借りる先住魔法は、総じてメイジが個人の精神力だけから生み出す系統魔法よりも強力であり、人々から恐れられているのだ。

 勿論コルベールも、その例外ではない。

 

(いきなり鏡から飛び出してきた彼にミス・ヴァリエールが体当たりされたことはどうやら単に事故だったようだが……、まだ無害とは限らない。召喚の儀を完全に無事に終えるまでは、気を抜くわけにはいかないな)

 

 コルベールは、総じて楽観的な対応をしている(というか、むしろ警戒などまったくしていない)周囲の学生達ほどには呑気に考えない。

 そもそも、“亜人が召喚される”ということ自体が極めて珍しいことなのだ。

 召喚されるのは通常動物か、幻獣類であることもある。しかし、人間とか亜人が召喚されるというケースはほとんど例がない。

 召喚までにやたら時間がかかっていたのも、気にかかるといえば気にかかる。

 

 動物や幻獣の類であれば、召喚の鏡から自発的にやってきた使い魔は大人しく、まずメイジに危害を加えたりはしないという、多くの前例がある。

 しかし、前例がほとんど聞かれない亜人についてもそうであるという、確固たる保証はないのだ。

 

 目の前の亜人は確かに小さな子どものような背丈しかないし、言動からも稚いというか無邪気そうな印象を受ける。

 悪意らしきものも、まったく感じられない。

 だが先住魔法の使い手だとしたら、体の大きさなどから危険度は判断できないし、だからこそ警戒が必要かもしれないともコルベールは考えている。

 

 亜人は総じて人間とは敵対しているものであり、よくても排他的でお互いに関わり合いにならないものだ。

 知能も、種類にもよるが少なくとも動物などよりはずっと高く、策略の類も用いることが出来る。

 

 この亜人は、いくら召喚に応じたとはいえあまりに人間に対して警戒心が無く、友好的過ぎるのではないだろうか?

 亜人とはいえこんな幼げな声形の相手をむやみに疑りたくはないが、生徒たちの安全には自分が責任を持たなくてはならない。

 人間の町や村に混じり、無害な隣人を装って一人また一人と殺してゆく恐ろしい亜人、吸血鬼のような存在でないとも限らないのだから。

 勿論、使い魔として自発的にゲートをくぐってきた以上は、危険な相手である可能性はかなり低いだろうが……、一応まだ、警戒はしておかなくてはならない。

 

「ン……、つまり、ディーキンを呼び出したのはやっぱりあっちの女の子でいいんだね。ええと、ディーキンは見ての通りのコボルドなの。あんたたちは、コボルドを見たことがないの?」

 

「コボルド……? いや、知っているが……、君はあまり、その、コボルドのようには見えないが」

 

「そうなの? ウーン、まあ、ディーキンはとびっきり美少年だから、普通っぽくは見えないかもね!」

 

 ニヒヒヒ、と笑うディーキンを見つめながら、コルベールは困ったような顔で首をひねった。

 

「……そ、そうなのかね? うーむ……」

 

 コボルドならば、勿論知っている。

 比較的ありふれた亜人だ。書物でどういう生物か読んだこともあるし、実際に見たことだってある。

 

 だが、目の前の亜人はどうみても自分の知るコボルドとは別物ではないか。

 コボルドの美醜なぞ知ったことではないが、どう考えてみてもハンサムだとかそういったレベルの違いではない。

 

 コルベールの知るコボルドとは、犬と人間とのあいのこのような亜人である。

 身長は平均150サント程度と小柄で、全体的には人間のような姿をしているが頭部は犬に似ており、腕と足の筋肉が発達しているあたりも犬を思わせる。

 嗅覚も犬並みで、目は赤く輝いていて夜目が利くという。

 大抵は洞窟などで原始的な暮らしをしているが、時折近隣の集落を襲って家畜や財貨を略奪したりすることがあり、また彼らの崇める犬頭の神に捧げる贄として人を攫ったりすることもあるので、人間とは敵対関係にある。

 しかし力も知能もそこまで大した事はなく、魔法を使えぬ平民の戦士でも何とかできる程度の亜人だ。

 例外は、時折生まれる群れを率い先住魔法を用いる神官――コボルド・シャーマンである。

 

 一方、目の前にいる亜人は……。

 確かに頭の形はどことなく犬を思わせるところがあるし、声もキャンキャンいう響きが混じっていて犬っぽい印象を受ける。目もわずかに赤い。

 だが、共通点はそこまでだ。

 この亜人は全身が黄緑色のうろこに覆われているし、小さな角が生えている。どう見ても犬人間というよりはトカゲ人間ではないか。

 身長も見たところせいぜい100サントあるかどうかといったところでコボルドにしては低すぎるが……、それに関しては、単に子どもだからかもしれない。

 

(うーむ、一般的なコボルドとは似ているような似ていないような……、亜種か何かだろうか? しかし……、生物学に詳しくはないが、犬とトカゲではかけ離れ過ぎているような気がするが……。仮にコボルドだとすると、人語を解する点から見てコボルド・シャーマンの子どもということになるのか……)

 

 コルベールはじろじろとディーキンを見つめながら、今後の処遇について考える。

 

 嘘をついているのだろうか?

 そうだとしたら何のためだろう、もし悪意的に解釈するなら、我々を油断させて隙を突くためか。

 いや、まさか。嘘なら、もっともっともらしい話をするだろう。

 こちらを油断させたいのなら人間の言葉など話して見せず、無学で無力な子どもを装ったほうがいい。

 

(やはり単純に、無邪気な子どもという事でいいのかもしれないな……)

 

 本当にコボルドなのかは少々疑わしいが……、これ以上時間を食うわけにもいかないし、この場で悩んでいても答えは出ないだろう。

 ミス・ヴァリエールとの契約は一応動向に警戒だけしておいて行わせることにして、後で学院長に一応報告して調べてみればよいか。

 

「……どうかしたの? あんたは随分じろじろこっちを見てるみたいだけど、ディーキンの顔に何かついてる?」

 

「ああ、うむ、すまない。とりあえず話はわかったよ。他にもいろいろと聞きたいことはあるが、それはまた改めてということにしよう。ひとまずはそろそろ、ミス・ヴァリエールと……」

 

 といいかけてふと視線を巡らせて彼女の姿を探すと、相変わらず何も考えないで騒いでいられる幸せな学生たちと言い争いをしている真っ最中だった。

 

「おい、コボルドだってよ!」

 

「うむ、コボルドなど、平民の戦士でも勝てるくらいの亜人じゃないか。つまりは平民と同じくらいの役にしかたたないということだね!」

 

「……けど、コボルドってあんなのだっけ? 前に領地で見たことあるけど、なんか随分違うような気が……」

 

「自分でコボルドって言ってるじゃない? ちょっと変わった格好のコボルドだってだけでしょ。なんせゼロのルイズの使い魔だもの、変わりモノがお似合いよ!」

 

「いやあ、あの小ささじゃ魔法も使えないだろうしむしろ何の役にも立たないぜ! 流石はゼロのルイズだな!」

 

 

「うるさいわね! 人の使い魔にケチをつける気なの? ただのフクロウだの、カ、カエルだのが使い魔の奴にはいわれたくないわよ!」

 

 

「コボルドかあ……、ヴァリエールのことだからどんな珍しい亜人かと思ったら大したことないのねえ。でも、シャーマンだとしたら先住魔法を使えるのかしらね?」

 

「……わからない、子どもみたいだから」

 

 うんぬんかんぬん。

 

 教師の苦労も知らずに、いい気なものだ。

 トリステインの名門貴族ともあろう者達が、あんな態度と能天気さでいいのか?

 

 少しは物を考えていそうな2人は他国からの留学生だし、これではこの国の将来が思いやられる。

 

(……ウーン……、なんだか全然すごそうじゃないし、平和そうな人たちだね。すごい冒険って感じじゃないの。書くとしたら、珍しい場所を巡り歩いた旅行記みたいな本になるかな? でも、珍しそうなところだし、ディーキンを呼び出した魔法はすごそうだったし……)

 

 コルベールは内心で溜息を吐き、ディーキンは新しい物語の出だしの部分を考えながら、彼らの言い争いをのんびりと見つめていた……。

 





D&Dのコボルドについて:
ハルケギニアでは、また多くの和製RPGなどでは、しばしばコボルドは犬獣人のような姿のモンスターとされている。
これはD&Dが和訳された当時の、「鱗を持ち犬のような頭で犬じみたくぐもった声を出す」という記述の「鱗」の部分が忘れられたものと考えられている。
当のD&Dでは、初期の版の頃から一貫して「爬虫類の鱗を持つ卵生の人型生物」であると描写されている。
体格は版によっても違うが、3.5版では身長が2~2.5フィート(約60~75cm)程度、体重は35~45ポンド(約15~20kg)程度である。
普段は二重関節の脚を曲げていることが多いが、それをぴんと伸ばすと1フィート程度は身長が高くなる。
この脚の構造のためにコボルドはそのサイズの割に足が速く、人間に引けを取らない。
筋力と耐久力においては人間に大きく劣るが、敏捷性では勝る。また、天然の鱗は厚手の布鎧程度の防御力を持つ。
主に洞窟に住んでおり、完全な暗闇でも物を見ることができるが、明るい光の下では若干目が眩んでしまう。
典型的な属性は「秩序にして悪」である。知性は人間にも引けを取らず、特に罠の作成や鉱山での作業には優秀な腕前を見せる。
彼らを野蛮な種族と侮る者は、彼らが誕生を祝福し、死に名誉を与え、種族一丸となって目的に邁進するその規律と統制の高さを知るとしばしば驚かされる。
また種族全体でドラゴンを崇め、奉仕しており、その血を引いていると自負している。
それを証明するかのようにコボルドには生来の魔法の才を示す者が多く、数多くのソーサラーを輩出している。
コボルドの主神は罠と欺きの神カートゥルマクであるが、ドラゴンの神々を崇めるコボルドも多い。


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第三話 Greeting

 

 コルベールはこほんと咳払いをすると、ぱんぱんと手を鳴らして、延々と騒ぎ続けている生徒らの注意を引いた。

 

「こらこら、そんな風にむやみに他人やその使い魔の悪口を言ってはいかん。貴族はお互いを尊重し合うものだし、使い魔はメイジと一心同体の存在だ。珍しい使い魔を見て騒ぎたい気持ちはわかるが、そろそろ静まるように」

 

 それから、ルイズの方に向き直る。

 

「ミス・ヴァリエールも、召喚したばかりの自分の使い魔をいつまでも放っておくのは感心できないな。級友と戯れるよりも先に彼との契約を済ませなさい。時間も押しているし、いい加減にしないと次の授業が始まってしまうじゃないか」

 

「あ……、は、はい。すぐに済ませます」

 

 その言葉でやっとまだ契約を終えていないことを思い出したのか、はっとしたルイズが気まずそうに小走りでディーキンの元に戻ってくる。

 ディーキンの方はというと、周囲の会話を聞きながらきょろきょろとコルベールとルイズを見比べて、首をかしげている。

 

「ああ、その……、ちょっと待って?」

 

 自分の傍に屈み込んで顔を近づけようとしていたルイズを、ディーキンが手を広げて制止する。

 

「……何よ? ちょっと大人しくしてなさい、早く契約をすませないと」

 

「ああ、ごめんなの。その、ディーキンにはよくわからないけど、その契約とかの前に、ちょっとだけ聞きたいことがあるんだけど……」

 

 そういいながら、ちらりとコルベールの顔を窺う。

 

「ううむ……、少しだけなら構わないが、一体何が聞きたいのかね?時間が無いので後で済むことならそうしてほしいのだが、どうしてもというなら手短に頼むよ」

 

「ありがとう、大丈夫なの、すぐに済むよ。ええと、まず……、話からすると、もしかしてあんたたちはディーキンを使い魔にするためにここへ呼んだの?」

 

 契約を制止されたルイズの方は、それを聞いてムッとしたような顔になった。

 これ以上教師の不興を買わないようさっさと契約を済ませようとしているのに、一体この使い魔はいまさら何をわかり切った事を聞いてくるのか。

 

「そうよ、当たり前じゃないの! あんた、召喚の鏡を潜ったんだから、わかっててここに来たんでしょ? 何をいまさら聞いてるのよ。……あと、ちゃんとご主人様と呼びなさい、いいわね」

 

「いや、ええと……。ディーキンは誰かが呼んでることはわかってたけど、使い魔にするためとは知らなかったの。……ウーン、本当にコボルドを使い魔にするの? ディーキンは、その……、コボルドの使い魔って、だいぶ変わってると思うんだけど……」

 

 そのやりとりを聞いて、一旦は静まった生徒らの間からまたくすくすと嘲笑の囁きが漏れ出す。

 

「おいおい、ルイズの奴、自分の使い魔にまで変わり者扱いされてるぜ」

 

「流石使い魔だ、主人のことはよく分かるんだな!」

 

「使い魔の自覚がゼロだなんていい子ねえ、ゼロのルイズにはお似合いだわ!」

 

 それを聞いたルイズの頬にかあっと赤みが差し、目の前の小さな使い魔を睨みつける。

 

「ぐっ……、この、あんた、おかしなこと言って主人に恥をかかせるんじゃないわよ! 誰も好きであんたみたいな妙な……、コボルドだかを、選んだわけじゃないわ。そっちが自分で鏡から出てきたんじゃない。何よ、いまさらになって……、まさか使い魔にされるとは知らなかったから、私に仕えるのが嫌だっていうんじゃないでしょうね!?」

 

 睨まれて怒鳴るような声で詰め寄られたディーキンは、ややたじろいで弁解する。

 

「ああ、その……、ごめんなの! ええと、そんな気はなかったの。ディーキンは、あんたの使い魔になる事は……、たぶん、構わないけど……、いくつか、確認しておいた方がいいと思って……」

 

「……何よ、確認って? この上まだ何を知りたいっていうのよ?」

 

 コルベールはそのやり取りを聞きながら、どうやらこれはまだ時間が掛かりそうだと内心で溜息をついた。

 そして話を後にするよう急かしてさっさと済ませるべきか、それともお互いの納得がいくまで話を続けさせるべきかと思案する。

 

 これが普通の使い魔なら早くしろと急かすところだが、この風変りな亜人が完全に無害だとはまだ言い切れまい。

 本人が納得しないうちに強引に制約させては機嫌を損ねて問題を起こすかもしれない。

 それに、これは実技では失敗続きだったミス・ヴァリエールにとっても初めての魔法の成功で、大切な使い魔召喚の儀だ。

 少しばかり急かしたがために悔いの残る結果になったなどということにはしてやりたくないし、ここはもう多少遅れても仕方ない。

 先に他の生徒だけ戻らせておけば自分とミス・ヴァリエールが多少遅刻する程度で済む。

 

(それに、これ以上周りで騒がれて一層終了を遅らせられるようなことになっても困るな)

 

 そう頭の中で考えをまとめると、ルイズ以外の生徒には先に戻って次の授業に出席するよう指示し、解散を命じた。

 それを聞くと、生徒たちはみな互いに談笑したりしながら呼び出したばかりの使い魔を連れてさっさと学院に戻っていった。

 ルイズと使い魔の遣り取りを囃し立ててはいたものの、大半の生徒は延々とルイズの失敗に付き合わされて内心退屈しきっていたのである。

 ディーキンは使い魔を伴って学院の方に飛んで行った生徒たちの方をじっと見て少し首をかしげていたが、じきにルイズの方に向き直って話を続ける。

 

「……アー、その、ディーキンは使い魔っていうと動物とか魔獣とか、竜とか、そんなのだと思ってたの。それに、あんたたちはディーキンみたいなのを見たことないって言ってたし、他にはディーキンみたいなコボルドはいなかったでしょ?」

 

 ディーキンの知る限り、“使い魔”というと通常はウィザードやソーサラーなどのメイジが連れているものだ。

 ハルケギニアでは系統魔法の使い手のことをメイジと呼ぶが、フェイルーンで単にメイジといえば秘術魔法の使い手である魔道師全般のことを指す。

 カラスやフクロウ、カエルに黒猫、イタチ、蛇、蝙蝠に鷹など、色々な種類の、さほど大型ではない動物がメイジたちの使い魔になりえる。

 

 優秀な術者であれば、ただの動物以外の強力な使い魔を連れている場合もある。

 善良なフェイであるフェアリーや、恐ろしい異形として広く知られているビホルダーの親類であるアイボール。

 元素の世界からやってきた来訪者であるメフィットに、地獄に住む邪悪で獰猛なヘルハウンド。

 あるいは小型の竜であるスードゥードラゴンや、フェアリードラゴン(“ボス”の師匠のドワーフが、この妖精もどきの竜を使い魔にしていた)など……。

 

 使い魔の種類はさまざまで、中にはディーキンの知らない珍しい使い魔だってあり得るのだろう。

 しかし、それにしてもコボルドを使い魔にするというのは、ずいぶん変わっていると思わざるを得なかった。

 

 彼らはウィザードやソーサラーなどとは違う変わった種類のメイジで、コボルドのような生き物でも使い魔にする習慣があるのかもとも考えた。

 しかし先ほどからの周囲の反応や連れている生き物たちを見た限りでは、どうもそうではなさそうに思える。

 先ほど去って行った生徒らが連れていた使い魔(多分そうなのだろう)は、おおよそが動物か魔獣に分類されるであろうものばかりだった。

 まあ見覚えのない種類の生物が多かったし、ビホルダーやアイボールに似ていなくもない目玉などの異形に分類されるのかもしれないものも混じっていた。

 ディーキンの知る限りではちょっと使い魔にはなりそうもない、大きな竜などもいた。

 だがコボルドのような人型生物らしきものは、その中にもやはり見当たらなかった。

 

「ええと……、つまり、もしかしてディーキンを呼ぶつもりはなくて、ここに呼ばれたのは何か間違いとかだったのかもって思ったの。だからまず、本当にあんたは使い魔がちっちゃなコボルドでもいいのかって、ちょっと確認しておきたかったんだよ」

 

 ルイズはディーキンの説明を聞き終えると、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「何言ってるのよ、良いも悪いも、召喚のゲートから出てきたのがあんただったんじゃないの! あんたは知らないのかもしれないけどね、召喚する生き物は術者の属性にあったものがでてくるけど、その種類まで細かく選ぶことはできないの。だから出てきた相手を使い魔にするしかないのよ、たとえあんたがコボルドだろうと妙な亜人だろうとね。私だって、そりゃ選べるものなら、ドラゴンとかを呼ぼうと思ってたわよ!」

 

 ディーキンはその返答を聞くと、まじまじとルイズの顔を見つめた。

 

「……ええと? ……アー、その、ディーキンの聞き間違いじゃないかな? その、あんたはドラゴンが呼びたくて……、それで召喚したらディーキンが出てきたって、そう言った?」

 

 ルイズはこの使い魔は一体何が言いたいのかと怪訝そうな顔をして、少し考え込む。

 

「……まあ、そうよ。そんな風に願ってたわ。でも、ちゃんと仕えてさえくれれば別にあんたが使い魔なことに不満があるってわけじゃないから、そこは勘違いしないで」

 

(ンー……、ドラゴンを呼ぼうとして……、ディーキンを召喚した?)

 

 その言葉は、ディーキンにとってはちょっとした驚きだった。

 

 ディーキンは昔、一度だけ、前の“ご主人様”から『お前にはドラゴンの血が色濃く流れている、だから強いのだ』と言われたことがあった。

 その時は、よく意味が分からなかった。

 自分はドラゴンのように大きくないし、炎や冷気を吹いたりもしない。第一、自分が強いとはとても思えない。

 当時の自分は臆病だったし、それを差し引いても一族の中で一番強くもなかっただろう。族長の方が、当時の自分よりはまだ強かったはずだ。

 

 だが、洞窟を出てボスと初めての冒険を成功させ、一人旅に出て、以前よりも成長するにしたがって……。

 ディーキンは、自分に奇妙な変化が起きていることに気が付いた。

 

 たまに、おかしな夢を見るようになった。

 夢の中の自分は空を飛び、食べるための牛を探していた。本当に強くて、怒りに駆られていて、口から吐く息は硫黄の匂いがした。

 目が覚めると、コボルドは爬虫類であるはずなのに、皮膚が熱くなっていた。

 そんな夢を見た後で人間を目にすると、このちっぽけな種族め、という嘲笑めいた気持ちが心の中に湧き起ってくることがあった。

 普段の自分は絶対にそんなことを考えないし、第一自分の方が人間よりもずっと小さいというのに。

 やがて、ディーキンは昔ご主人様に言われた言葉を思い出した。

 もし、自分が彼のようなドラゴンに……、大きく、強くなって、空を飛べて、いろいろな事が出来るようになれるとしたら?

 

 後にウォーターディープでボスと再会してアンダーマウンテンへの冒険に踏み出す前に、ディーキンは自分は時折自身をとても強いと感じること、そしてそれは自分の中に流れるドラゴンの血のためだと思うことを明かし、それを目覚めさせる訓練をしてみたいと話してみた。

 ボスはそれに、理解と賛同を示してくれた。

 そして、その後のアンダーダークや“九層地獄(バートル)”での激しい戦いを通して、ディーキンはドラゴン・ディサイプルとして訓練を重ねたのだ。

 

 ドラゴンのように大きくこそならなかったが、訓練を続けるにつれて自分自身が確かに変わっていることをディーキン自身も感じていた。

 爪と牙はずっと鋭く、ウロコは硬く丈夫になっていった。

 力が驚くほど強くなり、体も頑丈になった。

 あらゆる感覚が非常に鋭くなり、目で見なくても周囲にいる生き物の所在がはっきりと掴めるくらいになった。

 心なしか頭も冴えて、竜のような威厳が――ほんの少しだけ――備わった気がした。

 コボルドは変温動物のはずなのに、体の中がかあっと熱くなってきて、口から火を吹けるようにもなった。

 翼が生え、空を飛べるようにさえなった。

 そして、ある時ついに、自分の中で何かが決定的に変わったように感じた。

 

 かの九層地獄の第八層・カニアの支配者であるアークデヴィル、メフィストフェレスは、最後の戦いの前にディーキンに話しかけてきた。

 最初は、何故ちっぽけなコボルドなどに地獄の大悪魔が話しかけるのかと疑問に思った。

 驚いたことに彼は自分を強大なドラゴンだといい、甘言で自分の仲間に寝返らせようとしたのだ。

 お前は偉大なドラゴンであるのにどうして脆弱な人間に従っているのか、今のお前は以前主と呼んでいたホワイト・ドラゴンなどよりも遥かに強い、と。

 その言葉は魅力的だったが、もちろんディーキンは拒絶した。所詮は自分を寝返らせるための戯言に過ぎないとも思った。

 

 ボスをはじめとする仲間たちも『お前は自分がどれだけ強いのかわかっていないだけだ』といい、自分の強さを認めてくれていた。

 だがそれでも、自分が本当にドラゴンになったなどとは半信半疑で、ましてやそれほど…、以前の主よりも強くなれたなどとはとても信じられなかった。

 

 しかし、目の前の少女はドラゴンの使い魔を望み、そして自分を召喚したという。

 ならば自分は……、今でもちっちゃなコボルドだけど、それでも確かに、ドラゴンになったのかもしれない。

 そう考えてみると、じわじわと嬉しさと自信が湧き上がってきた。

 

「……ンー、ニヒヒヒ。よくわかったの。ディーキンを呼んでくれてありがとうなの、ルイズ。それなら、ディーキンはちっぽけなコボルドだけど、ドラゴンの血だって流れてるからね。少しはルイズの期待にも応えられると思うよ」

 

 そういって、ルイズに感謝の意を示すように丁寧にお辞儀をする。

 

「ふうん? 亜人はメイジに召喚されることの名誉なんて感じないのかと思ってたけど、ちゃんとわかってるみたいじゃないの。いつまでもご主人様と呼ばないのは気に入らないけど、その感心な姿勢に免じて許してあげるわ」

 

 ルイズは胸を張ってそう宣言すると、次いで眉をひそめてじろじろとディーキンの姿を観察する。

 

「……だけど、何? あんたにドラゴンの血が流れてるって?」

 

 そりゃあコボルドだとかいう割に、この子はワニかトカゲっぽい顔だし。

 なんだか角も生えてるし、少しは似てないこともないけど……。

 

「あんたみたいなちっちゃい亜人が、その何十倍も大きなドラゴンの血を引いてるわけがないじゃないの。気を使ったつもりなのかもしれないけど、人前であんまりおかしな事は言わないでちょうだい。クラスメートがさっきみたいにうるさいんだから!」

 

「ンー………?」

 

 ルイズの言葉を受けて、ディーキンはまた首をかしげた。

 どうもさっきのコルベールといい今のルイズといい、妙な反応……というか、話がかみ合わない感じがする。

 コボルド自体を知らないというわけではなさそうだが、コボルドの割にトカゲっぽいとか、ドラゴンの血を引いてるわけがないとかいうのはおかしな答えだ。

 爬虫類系の人型生物なのだからトカゲっぽいのは当たり前だし、種族全体としてドラゴンの血を引いているというのも有名な話のはずである。

 自分達が生来の魔法の才に恵まれているのは体に流れる竜の血の恩恵だというのは、多くのコボルドのソーサラーが主張するところだ。

 勿論、ディーキンのように本当に竜となったようなものは稀だが……。

 

 なお、先述の通りディーキンには背にドラゴンのような翼が生えているのだが、ルイズやコルベールはそれには気が付いていない。

 別に彼らの目が節穴なのではなく、ディーキンが幻覚を纏って変装しているためだ。

 

 ディーキンはゲートに飛び込む前に、自分を呼び出した相手が危険な存在だった場合に最低限は備えるべきだと考えた。

 そのためにはできるだけ自分の能力や正体、所持品等を隠しておいたほうがいいと思ったのだ。

 そうでなくとも普通のコボルドを呼びだすつもりの召喚者の前に出てきたのがドラゴンの翼の生えたコボルドだったりしたら、警戒や争いを招きかねない。

 そこで《変装帽子(ハット・オブ・ディスガイズ)》を着用して翼や背負った荷物、武器などを隠し、ただのコボルドに見えるようにしたのである。

 

 コボルドをみんなに受け入れられる愛すべき種族にしたいというのがディーキンの望みであり、本人なりのこだわりである。

 今までも随分苦労させられてきたが、たとえどんなに困窮したとしても、コボルドであることを捨てて自分の素性を隠したまま生活し続ける気は全くない。

 よって普段は変装するようなことはしていないのだが……、流石に時と場合によっては必要となることを、ディーキンもしばしば感じていた。

 まして今の自分はドラゴン・ディサイプルとして成長を極めたためにただのコボルドよりずっと異様な外観になっているのだから、なおさらのことだ。

 だからディーキンは、ウォーターディープに帰還した後に必要に応じて変装や変身をするためのマジックアイテム類をいくつか購入していた。

 これまではそんなものは買えなかったのだが、ボスとの冒険を通じて非常に多くの財宝の分け前を手に入れた現在のディーキンにとっては安い買い物である。

 

 最近では、あるいは将来は冒険をする傍らで旅の中で手に入れた品物の一部を売買する商人などとして活動することもあるかもしれないとも思っている。

 もしそんな時がきたなら、おそらく当面はこの帽子で翼を隠して商売をすることになるだろう。

 その場合でも、コボルドであること自体を客に隠す気はないが……。

 

 ちなみにハルケギニアでも幻覚を纏ったり変身したりするタイプの魔法やマジックアイテムは皆無ではないがあまり一般的ではない。

 マジックアイテムは極めて希少かつ高価だし、顔の特徴を少々変える程度でも最高クラスの系統魔法が必要になるのだ。

 先住にはより優れた変身の魔法もあるらしいが、流石に亜人といえどこんな小さな子供(彼らにはそう見える)がそう高度な魔法を扱えるとも思えない。

 そのため、コルベールらもディーキンの姿形に関して疑いは特に持っていなかった。

 

(ウーン、コボルドのこともだし、それに……)

 

 先程のルイズの返答で自分が呼ばれた理由に関しては自分なりに得心がいったものの、他に首をかしげる部分もあった。

 召喚する生き物の種類さえはっきり選べない、とはこれまたずいぶんと珍しい話だ。

 少なくとも、ウィザードやソーサラーならば使い魔にしようとする生物の種類は自分で選べるはずだ。

 他の召喚の魔法でも、呼び出される数が多少不安定になることはあるが種類さえ選べないというのはあまり聞かない。

 

(もし出てきたのがでっかいデーモンとか、タラスクとか、恐ろしいパンプディングとかだったらどうするのかな? ええと、そうするとやっぱりこの人たちはウィザードとかソーサラーじゃなくて何か変わったメイジで、それで……、アア、ウーン……。どうにもディーキンには、よくわからないよ!)

 

 風変りな人々、見覚えのない生物、かみ合わない認識、そして奇妙な魔法を使うメイジ―――。

 ディーキンは、ここはフェイルーンの中にあるどこかではなく、もっとずっと遠く離れた別の大陸か、さもなければ違う世界でさえあるかもしれないと考え始めていた。

 

 ディーキン自身いくつかの召喚術を心得ているが、召喚の魔法には他の次元界から生物を呼び出す類のものも多い。

 《怪物招来(サモン・モンスター)》や《他次元界の友(プレイナー・アライ)》などが、その代表だ。

 よって行き先が別の次元界であるかもしれないくらいのことは想定し、帰還する方法などについても鏡に飛び込む前にあらかじめいろいろと考えていた。

 ただ、ゲートを出た直後は見慣れぬ風景ながらも人間が大勢いる場所だったので、どうやら物質界のようだと思っていたのだが……。

 こうなると、その可能性を再考しなくてはならないかもしれない。

 

「……ねえ、そういえばディーキンはまだ、この場所の名前も知らないよ? あんたがルイズっていう名前なことは、もう知ってるけどね」

 

「あんた、ここがどこか知らないの? どんな田舎者……って、まあ亜人じゃ仕方ないわね。ここはトリステイン王国の、トリステイン魔法学院よ。亜人のあんたにはわからないかもしれないけど、歴史と伝統のある高名な魔法学院なのよ、よく覚えておきなさい」

 

「トリステイン王国? ウーン……、聞いたことないよ」

 

「人間の言葉は話せるのに、トリステインの名前も聞いたことがないの? ……まあ、あんたが人里離れて暮らしてる亜人とかなら、そんなものかも知れないけど」

 

 それを聞くと、ディーキンは目をぱちぱちさせて、少し考え込む。

 

「……ええと……、ディーキンはフェイルーンのウォーターディープってところから来たんだけど、ルイズは知ってる? 他にもネヴァーウィンターとか、アイスウィンドデイルとか……、ムルホランドとか、サーイとかの地名は、聞いたことない?」

 

「全然聞き覚えないわね。どこの田舎よ?」

 

 ディーキンはその発言を聞くと、次いで問いかけるような目でコルベールの方を見た。

 コルベールは時間を気にしつつも2人のやりとりにも興味がある様子で口を挟まずに眺めていたが、ディーキンの意図を察すると少し記憶を探ってみる。

 

「……ううむ、いや、私も聞いたことがないな。それはコボルドの間で使っている地名なのかね? 自分の来た場所のことが気になるのか。なら、後で図書館の地図を見てこちらの地名と合わせてみれば、君がどこから来たのかわかるだろう」

 

 彼はコボルドということだが、このあたりのコボルドとはだいぶ様子が違うようだから、東方かどこかの地名かも知れない。

 コルベールがそんな推論を述べると、ディーキンは小さく首を傾げた。

 

「ンー、それは、どうかわからないけど……。ディーキンもまだ、状況がよくわかってないからね」

 

 ディーキンは今の2人の発言から、ここがフェイルーンのどこかでないことはほぼ間違いないと確信できた。

 博識そうなメイジが、フェイルーンという大陸の名も、その中でも有名な都市や国の名前も、ひとつも知らないというのはちょっと考えられない。

 

 フェイルーンに住む一般の人々の多くは、生涯自分たちの生まれた地に住む。

 したがってその他の場所のことには疎く、ましてやフェイルーンという大陸の外や“別の世界”のことなど大抵は何も……、存在自体すら知らないという者も、少なくない。

 

 だが、ディーキンはバードという職業柄各地のさまざまな伝承や文献に詳しいし、冒険者として実際にさまざまな地域や、別の世界を旅してきた経験もある。

 

 まず、フェイルーンは“アビア・トーリル”と呼ばれる惑星上の一大陸に過ぎない。

 他にもカラ・トゥア、ザハラ、マズティカなどと呼ばれる多くの大陸があることが分かっているし、その他にも、名も内情も知られぬ未知の大陸も少なからずあると噂されている。

 ディーキンとてそれらの大陸に足を運んだことはないが、バードとして異郷の地のさまざまな伝承は噂で聞いたり、本で読んだりして知っていた。

 そこでは人々はフェイルーンとは異なった神々のパンテオンを信仰し、全く別の宇宙観を持っているという。

 

 そして、そのトーリルでさえ“プライム・マテリアル・プレーン(主物質界)”と呼ばれる一つの世界であるに過ぎないこともディーキンは知っている。

 世界の外に広がる広大なアストラル界の海の中には、既に訪れたことのある影界や九層地獄をはじめ、主物質界以外にも様々な世界が浮かんでいるのだ。

 地水火風の元素界に、正と負のエネルギー界や、物質界と併存するエーテル界と影界。

 神々やデーモン、デヴィル、セレスチャルなどの来訪者が住まう多くの外方次元界。

 死せる魂の向う忘却の次元界や、神々だけが行くことができるとされるシノシュア。

 そして、それらすべての次元界を繋ぐ大いなるアストラル界。

 そうした世界すべてをまとめて、“トーリルの宇宙”が構成されているのである。

 

 さらには、さまざまな伝承によればその外にさえ、別の物質界を内包する世界の集まり……、異なる宇宙が、いくつも存在しているらしいのだ。

 そういった別の宇宙からの来訪者やそこに行った英雄に関する伝説も、ディーキンはいくつも耳にしたことがあった。

 そうした物語の中でも最も有名なのは、フェイルーン大陸の中でもひときわエキゾチックなムルホランドの地に住まう者たちに関する物語だろう。

 その地の人々や、ホルス=ラー、オシリス、イシスなどといった彼らの守護神たちは、何千年かの昔に異なる宇宙のひとつからやってきたと伝えられている。

 

(……まあいいや、ここで考えてても仕方ないね。まずは物語の筋を考えておいて、それからにすればいいと思うの)

 

 ディーキンは、ひとまずここがどこなのか考え込むのを一旦止めることにした。

 ここで考え込んでいてどうなるものでもなさそうだし、いい加減に考えすぎて頭が痛くなってきた。

 ルイズやコルベールから聞くにしてもこの場で話し込むと話がややこしく、長くなりそうだ。

 ここがどんな場所なのかは、後で自分で調べたりいろいろな人から話を聞いたりしてみれば今よりは詳しく分かってくることだろう。

 とりあえず早急な危険はなさそうである以上、あわてることもないはずだ。

 

 どうあれ既に他の次元界に送りこまれてそこからの帰還を果たした経験もあるディーキンにとっては、ここが別の大陸であれ異世界であれ、そう規格外の事態ではなかった。

 未知の世界への不安やボスがいないという心配はあるものの、冒険にも慣れた今ではそこまで怖くもない。

 初めて一人で冒険したときの方がよほど恐ろしかったし、ウォーターディープの大きく壮麗な街を最初に見たときの方がずっとびっくりした。

 何より、ここがまだ見ぬ世界であるという事実に、僅かな不安とそれより遥かに大きい期待が膨らむ。

 

(これはまた、大きな冒険になるかもしれないね! あとでしっかり本に書いておくよ。えーと、出だしは……)

 

『勇敢なるボスのお供のディーキンは、たった一人で鏡に飛び込み、見知らぬメイジたちの輪の中に召喚されてしまった。

 ディーキンの分析によると、どうやらここは見知らぬ世界らしい!

 彼はとりあえず、書くことと考えることが多すぎてすごく困った。

 まず第一に、このあたりでも物語を書くための紙とインクは売っているのだろうか?

 そしてコボルド用のパンツの替えは、はたして店にあるのだろうか?』

 

(……ンー)

 

 イマイチかな、と思ったディーキンは、文章に大きなバツを書いて、後で案を練り直すことにした……。

 





ディスガイズ・セルフ
Disguise Self /変装
系統:幻術(幻覚); 1レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:術者自身
持続時間:術者レベル毎に10分(途中解除可能)
 術者は自分の外見を変えることができる。体型を変えたり、装備品一式を別の物に見せかけたり、身長を1フィートまで上下させたりできる。
ほくろや顎髭のようなちょっとした特徴を加えたり消したり、全くの別人や異なる性別であるような外見にすることもできる。
この呪文は選んだ姿が持つ能力や独特な話し方や身振りまでは与えてくれないし、手触りや音声も変わらない。
バトルアックスをダガーのように見せかけることはできるが、それでも武器の機能自体は変化しない。
 作中に登場した《変装帽子》は着用者にこの呪文の効果を永続で与えるマジックアイテムである。値段は1800gp(金貨1800枚)。
これは宿暮らしで王侯貴族のような贅沢な生活を9ヵ月も続けられるほどの額であるが、これでもマジックアイテムとしては非常に安価な部類である。


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第四話 Familiar role

 

「ええ、あんたの故郷とか、そういうことはあとでゆっくり聞かせてもらうわ。……で、質問はそれだけかしら?」

 

 こっちは早く契約を済ませなきゃいけないのに、いつまでも待たせるんじゃないわよといらいらしたルイズから声をかけられて、ディーキンは頭の中で物語の案をまとめるのを中断する。

 どうやらいろいろと考え込むのは後回しにしたほうがよさそうだ……が、あともう一つ二つ大事なことだけは、この場で聞いておかなくてはならない。

 

「アー、ごめんなの。でも、もう少しだけ聞かせてもらえる?」

 

「……まったくもう……、今度は何よ?」

 

「えーと、ディーキンは使い魔のことは知ってるつもりだけど、このあたりはディーキンの知らないところみたいだから勘違いしてるかもしれないの。だから使い魔になるかどうか決める前に、まずあんたの言う使い魔っていうのは何をするものなのかを教えてほしいんだけど……」

 

「なるかどうかじゃないわよ、あんたがゲートから出てきた以上はなんといおうと使い魔にはなってもらわないと困るの。……でも、これから長い付き合いになるんだし、自分の仕事をしっかり理解してもらわないと話にならないわね……。いいわ、手短になら説明してあげるから、しっかり聞きなさい」

 

 ルイズの言葉を聞いたディーキンは、首を傾げて考え込む。

 

「ありがとうなの、ルイズが説明してくれるのならディーキンはちゃんと聞くよ。あんまり覚えはよくないけどね。……ウーン、どうしてもならないといけないの?」

 

 ディーキンは、首を傾げて考え込んだ。

 

「……ええと、やたらに洗い物をさせられるとか、夜中に呼び鈴で叩き起こされて夜食を持ってこさせられるとか……。朝の着替えを持っていったら、『どうして今日の私は赤い服を着たい気分だってわからないの、このろくでなし!』って難癖つけられてぶっ叩かれるとか。まあそれくらいだったら、ディーキンはたぶん大丈夫なの。あんまり楽しくはないと思うけど」

 

 昔読んだそれっぽい物語の内容を思い出してそんなことをいいつつ、懐から羊皮紙とペンを取り出してメモを取る用意をする。

 実際、前の“ご主人様”に仕えていたときには毒を舐めさせられて昏倒したり、麻痺の魔法を掛けられて歯を抜かれたり、しまいには寝ぼけて上にのしかかられて死にそうになったりしたので、その程度なら虐待の内にも入らない。

 とはいえ勿論、そういう扱いをされて愉快だというわけでもないが。

 

 ルイズは呆れたような顔をしつつも、じっとディーキンの様子を見つめる。

 

「まったくもう、そんなことするわけないでしょ……、ふうん、あんた言葉遣いはあんまり賢そうじゃないけど、字が書けるのね。それに紙とペンを普段から持ち歩いててメモをとろうだなんて、なかなか勤勉そうじゃないの」

 

 ディーキンはそれを聞くと軽く肩を竦めて、それからえへんと胸を張った。

 

「フフン、どうせルイズは人間とちょっと話し方が違うからって、ディーキンをバカだと思ってたんでしょ? ディーキンはこれでも冒険者の吟遊詩人(バード)なの、だから物語や歌をすぐに書き留められる用意が欠かせないんだよ!」

 

 いつどこですごい英雄とか、でっかいドラゴンとか、囚われの美しいコボルドの少女とかに出会うかもわからない。

 だから、いつでも書き留められるようあらかじめ備えておくのである。

「……はあ? バードって……、あんたコボルド・シャーマンじゃないの?」

 

 コボルドは知能が低く、基本的に人語は解さない。だが、稀に生まれる先住魔法を使う知能の高いシャーマンは別である……。

 そういう知識を本で読んで知っていたので、ルイズはコボルドだと名乗る目の前の亜人は当然シャーマンの、大きさからみておそらく子どもだろうと考えていた。

 

 実際にはディーキンは肉体的には既に完全に成熟しており、子どもと呼ばれるような年齢ではない。

 犬と人間の中間のような姿で人間より若干小柄な程度のハルケギニアのコボルドとは違い、フェイルーンのコボルドはドラゴンの血を引く爬虫類型の亜人で、身長は成人男性でも人間の半分ほどにしかならないのだ。

 ディーキンは体内に眠る強大なドラゴンの血を覚醒させるのに成功したこともあって平均的なコボルドよりはむしろ体格がいいくらいなのである。

 

(……なんか外見が本で読んだのと全然違うし、本当にコボルドなのかしら?)

 

「シャーマン? ……ウーン、ソーサラーとか、アデプトの事? ディーキンはバードなの、卑劣なコボルドのソーサラーなんかじゃないんだよ」

 

「コボルドに詩人がいるなんて、聞いたこともないわ。ソーサラーとかアデプトっていうのはよくわからないけど、あんたたちの間じゃシャーマンの事をそう呼ぶのかしら?」

 

「ディーキンにはよくわからないの。ディーキンも自分以外のコボルドのバードには、まだ会ったことは無いけどね。でも、ディーキンは確かにバードだよ……、多分、他のコボルドにはバードの手ほどきをしてくれるご主人がいないからじゃないかな?」

 

「……よくわかんないけど、あんたは詩人で、それを教えてくれるご主人様がいたってわけね? まあいいわ。その話はあとで聞くけど、今日からは私が主人だからね!」

 

 そこまで話すと、ルイズは話が脱線していることに気が付いて軽く咳払いをする。

 不興を買っていないかとちらりと傍らで待っている教師の方を窺うが、幸いコルベールも2人の話に興味深げに耳を傾けていて、問題はなさそうだった。

 

「おほん……、ええと、話を戻すわ。まず、使い魔には主人の目となり耳となる能力が与えられるの。つまり、主人に代わって色々なものを見聞きしてくる仕事があるのよ」

 

「ふうん? あんたと使い魔の契約をすると、ディーキンの見てるものがあんたにも見えるようになるの?」

 

 ディーキンの知るウィザードやソーサラーの使い魔は主人と感覚的なリンクを持っており、おおよそ1マイル程度までの距離であればテレパシーで意志を伝えることができる。

 だが、主人が使い魔の目を通して直接物を見るというようなことは、それとは別に魔法でも使わない限りはできないはずだ。

 

(やっぱり、ディーキンの知ってる使い魔とはちょっと違うかもね)

 

 まあ、よく考えればアンドレンタイドの砂漠の遺跡では喋る上に魔法も使えるネズミの元使い魔を見た覚えがあるし、例外は結構あるものだ。

 それにウィザードやソーサラーは所持する使い魔によって自身も若干の特殊能力を得ることができる。

 たとえばネズミの使い魔なら体が頑健になるし、毒蛇の使い魔ならば口がよく回るようになりはったりが得意になる、といった具合だ。

 ここのメイジの使い魔は『使い魔と視覚を共有できる』という特殊能力を主人に与えるのだと考えれば、大して違ってはいないかもしれない。

 

「わかったの。じゃあディーキンはあんたが指示をくれたら、頑張って偵察してくるよ」

 

「よろしい。……ま、あんたじゃ私の代わりになにか見てくるとかはあんまり期待できないかもしれないけどね」

 

 ルイズはじろじろとディーキンの姿を観察する。

 ネズミやモグラ、カエル(絶対欲しくないが!)や鳥などのように、小さな隙間に入れたり地中・水中・空中を移動できる使い魔なら調査や偵察に役立つ。

 しかし、この『自分をコボルドの詩人だと言い張っているトカゲっぽい亜人』には、肉体的に人間と大して違った能力はありそうに見えない。

 変わった亜人だから目立つし、小さな子どもくらいの身長しかないので足も遅そうだし、体力も無さそうである。

 

「ンー……、いや、白くてでっかいドラゴンがいる洞窟とかは嫌だけど、大抵の場所は大丈夫だよ。ディーキンは、見た目よりは断然役に立つの!」

 

 これは決して大言壮語ではない。ディーキンは冒険者として非常な経験を積んでいるし、魔法もかなり心得ている。

 危険地域や水中その他特殊環境での偵察も、その気になれば魔法や道具を駆使して十分こなせるだろう。

 マジックアイテムによる変装のせいでルイズらはまだ気が付いていないが、翼が生えているから空を飛ぶことだって魔法無しでできる。

 

 そんなわけでディーキンは一旦は自信ありげに胸を張ったが、すぐに何か見落としに気が付いたように首を傾げた。

 

「……ああ、ウーン……。けど、あんたはメイジだから、あんたの行けないような場所はディーキンも無理かもしれないね?」

 

 バードは歌の魔法たる呪歌を操り、芸能をはじめ多彩な技能に通じている上に剣も魔法も扱える万能職である。

 その一方で、必然として剣も魔法も専門職には及ばない。

 秘術呪文を主たる売り物、専門とする職業ではないので、通常はメイジと呼ばれることもないのだ。

 自分の魔法でできるようなことは、見たところ秘術呪文を専攻しているメイジであるらしいルイズもできる公算が高いだろう。

 悪くても、スクロールなりワンドなりのマジックアイテムを駆使すればできるはずだ。

 

 先ほど自分を召喚したゲートはかなり強い魔法のオーラを放っていたし、それを作ったルイズは……、何故かあまり強そうに見えないが、まあ理屈から考えて相応に腕利きのメイジに違いない。

 少なくとも、さっき他のメイジたちが全員魔法で飛び去って行ったのを見る限りは空は飛べると見ていいだろう。

 となると、自分が空を飛べることや魔法を使えることは、『ルイズが行けないところに行ける』という根拠にはなるまい。

 ならば契約とやらを急かされている今この場では、余計な時間をかけて詳しくアピールするまでもない。と、そうディーキンは結論した。

 

 実際にはその認識は誤っているし、並大抵のウィザードやソーサラーでは少なくとも単純な魔力という面ではディーキンの足元にも及ばないだろう。

 だが、ディーキンは自分の実力に関してはかなり過小評価しているきらいがあるのだ。

 

 一方ルイズの方は、あんたもメイジだから、のあたりで苦々しげに顔をしかめていた。

 

「……あんたじゃなくてご主人様って呼びなさいっていったでしょ。まあ、今は大目に見ておいてあげるわ。それから次に、使い魔は主人の望むものを見つけてくるのよ。例えば、秘薬とか」

 

「秘薬? ええと、ポーションとかの材料とかのこと?」

 

「それもあるわね。それ以外にも、特定の魔法を使用するときに必要になる触媒よ。例えば硫黄とか、コケとか」

 

「ふーん?」

 

 つまり呪文の『物質構成要素』のことか、とディーキンは判断する。

 ディーキンの知るフェイルーンの呪文にも、発動の際に特定の物質を消費する必要があるものは結構ある。

 例えば《跳躍(ジャンプ)》の呪文を使用するにはバッタの後ろ脚が必要だし、《死者の復活(レイズ・デッド)》は高質のダイヤモンドを消費する。

 あまり高いものはともかく、安価な物なら使い魔に暇なときにそこらで調達させておくということはフェイルーンのメイジでも十分考えられる。

 

「うん、ディーキンはあんたが何を探してきてほしいか教えてくれたら、探してこれると思うよ」

 

「そう? ……まあ、効率は悪そうだけどね」

 

 ルイズはこれといって特別な能力もなさそうな上にこのあたりの地理に不慣れらしい亜人の子どもでは、やはり大して期待はできないと考えていた。

 もっとも今のところまともな魔法が使えないので、秘薬を手に入れてもらっても売却して小遣いにするくらいしかできないのだが。

 

(詩人だとかいってるし、人間の言葉を喋れるのは職業柄ってことかしら?)

 

 仮にコボルド・シャーマンだったとしても、まだ子どもみたいだし、先住魔法は使えないかもしれない。

 

(……まあ、あんまり期待し過ぎない方がよさそうね)

 

 あまり役に立たなさそうなのは少し残念だが、人生で初めて魔法が成功した上に珍しい亜人がでてきてくれたのだから十分だ、と自分に言い聞かせる。

 それに人間の言葉も話せるのだし、子どもっぽい感じはするが割と賢そうだ。

 やたら質問が多いし喋り方がうっとおしい感もあるが、トカゲじみた姿の割に不思議と魅力というか愛嬌があって……。

 こうして話しているうちに、むしろ可愛らしくも思えてきた。

 それが主人と使い魔の縁ゆえなのか、それともこの亜人自体の元々の特質なのかはわからないが。

 

(うんうん、まあ、十分当たりの部類に違いないわ。初めて成功した魔法でそこまで高望みはできないわよね!)

 

「最後に、これが一番大事なことだけど、便い魔は主人を守る存在であるのよ。その能力で主人を敵から守るのが一番の役目ね」

 

「オオ、その辺はディーキンの知ってる使い魔と同じだね。了解なの、もし戦いがあったらディーキンはしっかりあんたを守るよ」

 

 ルイズは張り切って胸を張るディーキンの様子を疑わしそうに見て、肩を竦めた。

 

「その心がけは褒めてあげるけど……、あんたはずいぶんちっちゃいし、カラスなんかにも負けそうじゃない?」

 

 それを聞いてディーキンは少しばかりむっとすると同時に、内心で首を傾げた。

 

 フェイルーンのメイジの使い魔は主として小動物……それこそルイズが言ったように、カラスや何かだったりする。

 だが、立派にメイジを敵から守る盾として役に立つのだ。

 使い魔となった時点で彼らはただの動物から魔法的な獣である魔獣の一種に変化し、姿形こそ変わらないが高い知能と戦闘力を獲得するからである。

 さらに、メイジの実力が上がれば使い魔もより賢く、強くなっていき……、やがては元が単なる猫やカエルであっても、並の人間を凌ぐ知能と巨人の類すら単独で打ち倒し得るほどの戦闘力を備えるようになる。

 

 ルイズの今の発言からすると、こっちの使い魔はメイジの実力が上がっても強くなれないのだろうか。

 仮にそうだとしても、カラスにも負けるとは少々言い過ぎではないだろうか。

 まあルイズにとっては自分はただのちいさなコボルドにしか見えず、いかにも頼りなく思えるというのはわかる。

 とはいえ、普通のコボルドだってカラスなどにはそうそう負けたりはしないだろう。

 

「ええと……、ディーキンはカラスと真剣に戦ったことはないけどね。でも、狼を殺したことはあるよ。だから、カラスに負けたりはしないと思うの。狼は、カラスよりは強いでしょ?」

 

「え、ほんと? ……ってことは、あんたは先住魔法が使えるのね!?」

 

 ルイズが驚きと喜びが混じったような表情でディーキンを見つめる。

 

 こんな小さな子どもの亜人が狼を殺したというなら、それは先住魔法を使ってやったのに違いあるまいと思ったのだ。

 狼を殺せるくらいの魔法が使えるのなら、最低でもドットか……、もしかすればラインメイジくらいの強さがあるかも知れない。

 そうなれば、この使い魔は間違いなく大当たりだ。

 

「……? ええと、本当だけど、その『先住魔法』っていうのは何? ディーキンは聞いたことがないよ」

 

「え……、ああ、そっちじゃそういう呼び方はしないんだっけ。あんたたちの言う『精霊魔法』のことよ。私たちの使う系統魔法とは違う、亜人が使う精霊の力を借りる魔法。知ってるでしょ?」

 

「……ウーン? 精霊の力を借りる魔法……、だね?」

 

 ディーキンは首をかしげた。

 どうやら、このあたりでは魔法の分類の仕方もだいぶ違うらしい。

 

(ええと……、先住魔法で、それは精霊魔法のことで、この人たちが使うのが系統魔法で……。ウーン、どれもぜんぜん聞いたこともないの。これじゃバードの沽券に係わるね、ディーキンはあとでこのあたりのことをもっと勉強しないと!)

 

 ディーキンの知っている魔法の分類の仕方はいくつもあるが、もっとも大まかな分類の1つは秘術魔法と信仰魔法の2つに分けるものだ。

 これがこちらでいう系統魔法と先住魔法(精霊魔法)にあたると考えると、ある程度つじつまが合う感じがした。

 

 フェイルーンとは大分言葉の意味なども違うようだが、それでもここの『メイジ』たちが秘術魔法の使い手であることは、おそらく間違いないだろう。

 ウィザードやソーサラーといった秘術魔法の使い手と、クレリックやドルイドといった信仰魔法の使い手とでは、纏っている雰囲気が違うものだ。

 ディーキンには相手が意図的に隠そうとでもしていない限り、その違いを見分けることくらいはできる自信がある。

 

 秘術魔法は己の内にある力によって発動させる魔法であり、対して信仰魔法は神や自然の諸力などの己の外にある力に助力を求める魔法だ。

 直接見ていないので何とも言えないが、『先住魔法は精霊の力を借りる魔法』という表現からは信仰魔法っぽい印象を受ける。

 

 もし仮にその分類で正しいとすれば、ルイズの質問に対する答えはノーである。

 ディーキンが使えるのはバードの魔法だが、それは秘術魔法に分類されるものであって、信仰魔法はディーキンには使えない。

 

 しかし、精霊(エレメンタル)を呼び出して使役する呪文は秘術魔法にもあり、ディーキンにも使用できる。

 だから『精霊の力を借りる呪文』が使えるかと言われれば、答えはイエスになる。

 

 そのあたりがよくわからないのでルイズに尋ね返したいところだが、話がごちゃごちゃして面倒になりそうだし、時間もないらしい。

 ディーキンの経験上、人間は概してエルフなどと比べて気が短く、細かいことをいろいろ質問するとすぐ機嫌を悪くして怒り出す者が多い。

 まあ、話の相手がコボルドだから鬱陶しく思われているというのもあるのだろうが。

 この女の子もあまり気が長そうなタイプには見えないし、とりあえず分かっている事実だけ答えて後で自分で調べることにしようとディーキンは決めた。

 

「アー、ディーキンにはよくわからないけど……、詩人(バード)の魔法でよければディーキンはいくらか使えるの」

 

「……は? 詩人の魔法? ……って、なによそれ、聞いたことないわ」

 

「ええと……、詩人の魔法は詩人の魔法なの。言葉通りなの。バードが使う魔法だよ」

 

 そこにそれまで事の成り行きを静観していたコルベールが口をはさむ。

 

「失礼、私も聞いたことがないが……、それは先住、いや精霊魔法とは違うものなのかね?」

 

「うーん、ディーキンはその精霊魔法っていうのがちょっとわからないの。たぶんディーキンのいたあたりとこの辺は呼び方が違ってるんだと思うけど……。あんたたちがバードの魔法を知らないってことは、このあたりにはバードはいないの?」

 

「いや、街の広場や酒場などではときどき見かけるが……、その、バードの魔法というのは何のことなのかが分からないのだが」

 

「? ……ええと、バードならだれでも魔法は使えると思うの。だから、それの事だよ」

 

 いまひとつ噛み合わない会話をしながら何がなんだかわからないという感じでしきりに首をひねっているディーキンを、ルイズが疑わしげな眼で睨む。

 

「吟遊詩人なんて平民のやる仕事でしょ、平民に魔法が使えるわけないじゃない! ……さっきからわけのわかんない事ばっかり言って……、あんた、本当に魔法が使えるんでしょうね?」

 

 せっかく魔法が使える亜人などという大当たりの使い魔かと思ったのに、実はこの子の戯言だったのでは……。

 そう思うと、ルイズはまた不機嫌になってきた。

 

「……もう! 使えるのならそのバードの魔法とやらで、ためしに何かやって見せなさい。それを見たら私たちにもあんたの魔法が何なのか分かるかもしれないでしょ、それが一番手っ取り早いわ!」

 

「ンー、まあ……、そうかもね」

 

 確かに、この分だと実際にこっちの魔法を見せる(そしてできれば向こうの魔法も見せてもらう)方が効率がいいかもしれない。

 今日はここに来る前にボスと一緒に冒険を済ませたばかりでさほど高度な呪文を唱える力は残っていないが、簡単なものくらいなら見せられよう。

 

 さて、そうなるとどんな呪文を見せたものか。

 

 力術などの破壊的な呪文は効果がわかりやすいが、音波系を除けばバードが得意な系統とはいえない。

 第一、そんな戦いで使うような代物を無闇にぶっ放すのはまずいだろう。

 心術の類はバードが最も得手とする系統のひとつであるが、効果が目に見えず分かりずらいかもしれない。

 そうなると、見た目に派手な演出もできる幻術がいいだろうか……。

 

 しかし……。

 

(ウーン、別に魔法の自慢をするわけでもないし、簡単な呪文でいいよね?)

 

 ディーキンは結局、そう結論を出した。

 

 大体にして相手は専業のメイジなのだから、バードの呪文程度が自慢になるはずもないだろう。

 試しに見せるだけなら簡単な術でいいし、ここには今のところ特に危険はなさそうだとはいえ、残り少ない魔法の力はできるだけ温存しておきたい。

 

「オホン……、分かったの。じゃあ、ディーキンはお気に入りの一番簡単な呪文をお見せするね――――」

 

 そう前置きするとディーキンはひとつ咳払いして、両手を自分の胸の前に持ってきて、くるくると宙を捏ね回すように動かす。

 同時に、短く歌うような調子で呪文を詠唱し始めた。

 

 ルーンを紡ぎ上げていくにしたがって、ディーキンの回している両手の間にほのかな白い輝きが生じる。

 

「《アーケイニス・ヴル・ミーリック―――》」

 

 ほんの二、三秒の短い詠唱の後に呪文が完成し、それと同時に輝きはディーキンの両手に吸い込まれるように消えた。

 ルイズとコルベールは、呪文が紡がれて光が生じ出すと食い入るようにその輝きを見つめていたが……、詠唱が終了してもそれっきり何も起こらないので、首を傾げる。

 

「……ちょっとあんた、今の呪文は一体何よ? 少し光ったけど、何も起こらないじゃないの」

 

 いぶかしげに問いかけてくるルイズに対してディーキンは軽く右手の人差し指を立ててちっちっ、と振って見せる。

 それから、その指で足元に落ちていた小石を差し示す。

 

 すると小石はゆっくりと持ち上がって、ルイズの目の前に浮かんだ。

 

「おお……、さっきのは『念力』の類の呪文だったのかね?」

 

 浮かんだ小石を見つめながらそう問いかけるコルベールに対して、ディーキンはふるふると首を横に振ると、今度はその小石を左手で掴んでそのまま掌の中に握り込んで隠した。

 一瞬精神を集中するように目を閉じ、しかるのちに掌を開くと、握り込んだ小石はペンキを塗られたように真っ青な色に変色していた。

 

「……?? て、手品とかじゃないわよね……、『錬金』の一種かしら? 石の材質を変えたとか?」

 

「いや、先程の念力の後で別の詠唱も動作もしてはいないようだったが……、それでどうやって錬金を?」

 

 ディーキンはまじまじと見入っているルイズとコルベールに少し得意気に笑いかけると、さらにいくつかの魔法的な現象を起こして見せた。

 

 小石を捨てると、開いた掌の上にいきなり安っぽい作り物の花を生み出す。

さらにその花びらを明るく発光して輝かせて見せたり、微風を起こして花を揺らして見せたりする。

 その後、空中で指揮棒を振るように造花を握った手を動かし、それに合わせて微かな音楽の演奏を作り出して見せる……。

 

 そんな調子で数分ばかり色々とささやかな魔法を生み出して見せた後、ディーキンは軽くお辞儀をしてこの“演芸”を終えた。

 

「えーと……、これがディーキンの、バードの魔法なの。《奇術(プレスティディジテイション)》っていうんだけど……、見たことないの?」

 

 ディーキンは始終不思議そうに今の演芸を見ていた2人の反応に、また僅かに首を傾げた。

 

 《奇術》はバードがよく演芸の彩などに使用する呪文であるが、ウィザードやソーサラーなどの専業メイジにも扱える術のはずだ。

 別名を“初級秘術呪文(キャントリップ)”といい、初学者の呪文の使い手が練習のために扱う簡単な、手品のような魔法である。

 どんな駆け出しの見習いメイジでも、使えて当然の呪文と言ってよい。なのにこの2人の反応は、全く未知の魔法を見たといった感じではないか?

 

「あんた、今の呪文は一体何をやったのよ? 効果は大したことないみたいだったけど、たった一回呪文を唱えただけなのに、どうしてあんなにいろいろな魔法の効果が起こせたの?」

 

 明かりに念力に、錬金に……。

 風の魔法や、それに他にも、よくわからないのがあった。

 最初の呪文でこのあたりの精霊と契約して、いろいろな現象を起こさせたのだろうか?

 

「……ううむ……、いや、先住魔法ならば口語を使うはずだから、君の使い魔が見せてくれたバードの魔法というものは先住魔法とは違うようだ。今の詠唱はむしろ系統魔法のルーンに似ているようだったが、彼は杖も持っていないし……、あのような組み合わせの呪文も、聞いたことがないな」

 

「ええと、なんでって……、そういう魔法だからなの。ディーキンには、それしかわからないよ。別にバードの魔法が、みんなこんな感じだっていうわけじゃないけどね」

 

 ディーキンは正直にそう答えた。

 

 呪文学の知識は相当以上に持ってはいるが、そうはいってもディーキンは、ある種のメイジのように魔法を理論的に研究しているというわけではない。

 バードは主に技術として、実用としての魔法の知識は磨いているが、魔法の根本的な理論や研究的な扱いは専門外なのである。

 自分が使う魔法が根本的にはどんな構成になっていて、なぜそのような現象が起こせるのか、といった話にまでは詳しくなかった。

 

 とはいっても、ある程度までの説明は勿論できるのだが……。

 今それをしたところで、おそらくは余計に話が長くなるだけだろう。

 

「ううむ……、非常に興味はあるが、今ここで話していても分かりそうにないな。後で日を改めてもう少し詳しい話を聞かせたり、別の魔法を見せたりしてもらえないかね?」

 

 コルベールはやや残念そうにしながらもそういうと、ルイズに続きを促す。

 出来れば心行くまで話して検討してみたいが、その前に今はまず契約を進めなくてはならない。

 

「……うーん。まあとりあえず、あんたが変わった魔法を使えるのはわかったわ」

 

 ルイズは嬉しいのかどうか微妙な感じの顔で、僅かに肩を竦めた。

 

 この使い魔は確かにいろいろな魔法を見せてくれたし、ろくに詠唱も動作もなしであれだけ多彩な現象を起こして見せたのは大したものだと思う。

 だが、ひとつひとつの効果はどれもこれもコモンマジックか、せいぜい各系統のドットスペルで可能な程度のものばかりだった。

 しかも念力は小石を何とか浮かべる程度だったし、錬金で作った花は一発で作り物とわかる不格好な代物で、風は花びらを揺らす程度。

 系統魔法にも似たような、子どものメイジがよく覚えて遊ぶ人形を躍らせたり花びらをまき散らしたりする手品まがいの呪文がいくつもある。

 

 まあ、これは簡単な呪文だという事だったが、高レベルのメイジなら同じドットスペルを唱えても威力が下位のメイジとは格段に違うものだ。

 してみると、この使い魔はハルケギニアの系統魔法でいえば、最低ランクのドットメイジくらいの腕前でしかないのだろう。

 もっと高度な呪文が使えたとしても、たかが知れている……、そうルイズは判断した。

 

 実際には《奇術》はその性質上どんな腕前の術者が使用しても一定の効果しか出せない呪文なのだが、そんなことは今のルイズには知る由もない。

 

(まあ小さな子どもみたいだし、そんなものよね……)

 

 第一、サモン・サーヴァントは成功したとはいえ、“ゼロ”の自分が文句を言える立場ではない。

 

 それにさっきの話からすれば、きっと全力を出せば、場合によっては狼を何とか殺せるくらいの魔法は使えるのだろう。

 ならば、非常時には護衛を務めてもらう程度はできないこともあるまい。

いやむしろ、人間の言葉が話せて、少しばかり変わった魔法も使えて、しかも珍しい亜人というだけで十分当たりの使い魔ではないか。

 

 ルイズはそう内心で結論して軽く頷くと、胸を張ってディーキンを見下ろした。

 

「さあ、使い魔の役目についてはこれで終わりよ。もう質問はないわよね? あんたも結構優秀そうな使い魔だってことが分かったし、納得したならそろそろ契約するわよ。……もう次の授業も始まっちゃってるんだから」

 

「ウーン、そうだね。ディーキンは、使い魔の役目についてはわかったよ。質問は今はもういいし、仕事もちゃんとできると思う……、だけど、ちょっとだけお願いがあるの」

 

 それを聞いて、早速契約を始めようと地面に膝をついてディーキンに顔を近づけていたルイズがぴたりと動きを止め、また不機嫌そうに顔をしかめた。

 

「……何よ、契約も済まないうちから御主人様に要求をしようってわけ?」

 

「アー、ごめんなの。でも、その契約とかをする前じゃないと、かえって失礼な話だと思うの」

 

「もう! いいわよ、もうずいぶん遅くなったんだから今更だし。何か知らないけど、言ってごらんなさい」

 

 うんうんと頷くと、ディーキンはルイズの顔を見つめてその“お願い”を告げた。

 

「ありがとうなの、ええと……。ディーキンは使い魔をするけど、やりたいこともいろいろあるから、ずっとはできないの。だから、しばらくしたらお暇をもらおうと思うんだけど、ルイズはそれでもいい?」

 





プレスティディジテイション
Prestidigitation /奇術
系統:共通呪文; 0レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:10フィート
持続時間:1時間
 初心者の呪文の使い手が練習のために使うもので、“初級秘術呪文(キャントリップ)”とも呼ばれている。
発動すると術者は一時間の間単純な魔法の効果を起こすことができるようになる。
1ポンドまでの物質をゆっくりと持ち上げたり、小さな物体に色をつけたり、きれいにしたり、汚したり、冷やしたり、暖めたり、匂いをつけたりできる。
粗雑な脆い物体を生み出したり、仄かに輝くボールを掌の上に浮かべたりといったこともできる。
微かな音楽の音色を作り出したり、食べ物の味や香りを良くしたり、つむじ風を起こして埃を払ったりなどもできる。
ダメージを与えたりすることはできず、この呪文で起こした変化は単に物体を動かすといった程度のものを除けば最大一時間で元に戻ってしまう。
 効果の強さに厳しい制限はあるものの、この呪文はその制限の範囲内でならば「何でもできる」という、一種の万能呪文であるともいえる。


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第五話 Honor or tradition

 

「……はあ!? あんた、ここまで話させておいて、いまさら一体何を言い出すのよ! しばらくしたら使い魔を辞めるだなんて、そんなの通るわけないでしょ!」

 

「その、ええと……、ゴメンなの。使い魔の関係が大事なものだってことは、ディーキンもわかってるんだけど……」

 

 ディーキンはルイズの剣幕にいささかたじろぎながらも、申し訳なさそうに頭を下げた。

 

 こちらのメイジはあるいは違うかも分からないが、フェイルーンではメイジにとって使い魔とは大切なパートナーだ。

 失えば、一年と一日の間は再び代わりを迎えることも叶わない。

 使い魔は単なるペットや、ドルイドなどが持つ動物の相棒とは根本的に違う。

 メイジは使い魔とする動物に己の力を注ぎ込んで魔獣とし、単なる動物を超える力や知能、多くの特殊な能力を与えるのだ。

 そうして契約が完成させると使い魔との間にはテレパシーによる意思疎通が形成され、まさに自分の分身となる。

 

 たとえ己の使い魔にさえ一片の好意も抱かないような心底冷酷なメイジであっても、使い魔を意味もなく酷使し無駄に危険に晒すような者はまずいない。

 もしも使い魔が死ねば、メイジはその使い魔に注ぎ込んだ己が力の幾許かを失ってしまうためだ。

 失った力は経験を積めばまた取り戻すこともできるが、決して軽んじられるほどに小さな損害ではない。

 それは、使い魔を解雇した場合でも同じこと。

 解雇すれば主従の結び付きによる特殊能力は失われるが、それでも、その使い魔はもはや動物ではなく魔獣であり、それは解雇しようが変わりはしない。

 ゆえにその使い魔に注ぎ込んだ力はメイジの元へ戻って来ることはなく、使い魔が死んだ場合と同じく失われてしまうのである。

 そのリスクゆえにあえて使い魔を持たないメイジも多く、契約は一生ものの重要な決断となる。

 

 つまり、仮にこちらのメイジもフェイルーンのメイジと同じだとしたなら、しばらくしたら使い魔をやめさせてくれということは短期間の契約と引き換えにお前の力の一部を永遠に自分によこせと要求しているのに等しい。

 こちらは使い魔にされるとは知らなかったとはいえ、あちらが使い魔を持つという大切な決断をして行ったであろう召喚に応じたのだ。

 同意して召喚に応じてきたはずの相手が突然そんな無法な要求をしたなら、腹を立てるのは当然であろうということは、ディーキンにだって分かる。

 

「だったら、ちゃんと一生私に仕えなさいよ! あんたは私の召喚に応じたし、さっき説明した仕事の内容に文句も無いんでしょ? なら、なんでしばらくしたら辞めるなんて言うのよ!?」

 

「ああ……、その、本当にゴメンなの! 本当はディーキンもルイズに迷惑はかけたくないの! 使い魔になるんならずっと主人と一緒にいるべきだってことは、ディーキンも、その通りだと思うんだけど……」

 

 ディーキンは本当に申し訳なさそうな態度で謝罪し、一度頭を下げてからじっとルイズの顔を上目遣いに見つめる。

 怒鳴られて反射的に少々怯えたような態度になってしまったが、別に媚びているわけではない。申し訳ないというのは正真正銘、本心からである。

 

 ディーキンはしばしば、他人に対して非礼というか、ぶしつけな質問をしたりもする。

 だが、それは単にコボルドゆえに異文化の常識に疎いためだったり、もしくは純粋な好奇心から来るものであって、悪意があっての事ではない。

 単に気分を損ねる以上の実害が相手にあるであろうことを、それとわかっていながら要求したりは普通ならばしないのだが……。

 これについてはこちらにも譲れない事情があって、あえてルイズの怒りを買ってでも話しておかなくてはならないと考えたのだ。

 

 その態度を見ていくらか落ち着いたルイズはそれ以上怒鳴りつけるのは止め、不承不承、ディーキンを睨みつけながらも話を聞いてやろうとする。

 

「……けど、何よ? 一応聞いてあげるから、言ってみなさい」

 

「ありがとうなの、その、ディーキンはここに来る時、使い魔をしなきゃならないことは知らなかったのは話したよね? ええと、ディーキンは、ここに来る前の場所に友だちもいたし、ちょっと離れていたけど自分の部族の仲間もいるし……。いつかきっとやり遂げたい目標も、いろいろとあったの」

 

「……………」

 

「ディーキンはしばらくはここにいたいけど、そのうちには帰って、みんなに会ったり、夢を叶えるために頑張りたいんだよ」

 

 もしも、ここがどこかわかっていて、自分の故郷に近いところだったなら、使い魔の仕事も一緒に続けても構わない。

 だが、先ほど話した感じだとお互いに常識がずいぶん異なっている部分が多いようだし、おそらくかなり離れた場所にあるだろう。

 

「だから、その時になったら、その……、本当にゴメンとは思うけど、ディーキンをクビにして、誰か別の使い魔を呼んでほしいの。もし駄目だったら、迷惑をかけてすごく申し訳ないけど、ディーキンはルイズの使い魔になるわけにはいかないの」

 

 それを聞いたルイズは、困惑したような表情を浮かべて黙り込んでしまった。

 

 さっきは召喚に応じておきながら勝手なことを、と腹を立てたが、この使い魔は契約が一生のものだと知らずに応じたのだという。

 それでも、動物や大した知能を持たない幻獣の類などであれば、寝食の面倒を見て、適齢期には番いの世話もしてやって……。

 野生に生きるよりも恵まれた生活を保障してやれば、不満を訴えてくることもないだろう。

 だが、この使い魔は亜人とはいえ高い知能を持っていて、先ほどから話す限り人間と精神面でも大した差はなさそうだ。

 人間なら、家族もあれば友人も、それまでの生活もある。

 衣食住の世話をして面倒を見てやるから一生仕えてもらってもいいだろうといわれても、それで満足であるはずがない。

 

 それでも仮に亜人ではなく人間の平民であれば、貴族に仕えられるのだし、時には家族に会いに行っても構わないから、というような対応もできただろう。

 けれどこの使い魔は、本人も言うように一体どこからやってきたのかもよくわからない亜人で、しかもまだ子どもと来ている。

 

 小さな子がちょっとした冒険くらいのつもりで好意から召喚に応じたら、家族や友人から引き離され、将来の夢も捨ててずっと使い魔をしろといわれた……。

 そんなことになったら、「いや困る、しばらくしたら帰らせてくれ」というのも当たり前だろう。

 

 いや、もしも自分が同じ立場なら、きっとこの亜人のように大人しくしてなどいられないだろう。

 おそらく大騒ぎをして、すぐ帰せと暴れていたはずだ。

 

 そして自分なら、もし召喚に応じたはずの使い魔が契約を拒否してがなり立てて暴れたら?

 どうしようもなく反抗的な使い魔だと結論して、ろくに話も聞かず強引にさっさと契約をしてしまっていたかもしれない。

 少なくとも、そうしていなかったとは言い切れない。

 そうなれば当然主従の仲は壊滅的に悪化し、ようやく呼び出せた使い魔にまで憎悪と軽蔑の眼差しで見られ……。

 最悪夜逃げでもされて、使い魔にも見捨てられる貴族の面汚し、メイジの恥さらしということに……?

 

 そんな“最悪の展開”について考えると、ルイズはぞっとしてきた。

 

 確かにこの使い魔……いや、亜人の子の要求はもっともだ。

 この子どもが冷静に対応してくれたおかげで、そんな最悪の展開を避けられたようなものだともいえる。

 自分はそんなことまで深く考えず、一方的に向こうが理不尽な要求をしているのだと思ってかっと頭に血が上ってしまった。

 一旦落ち着いて考えてみると、亜人とはいえ小さな子どもがこのような状況で落ち着いた対応をしていられることにはむしろ感心してしまう。

 

 ……が、しかし。

 

(そういわれても、こっちにも引けない事情が……)

 

 ルイズはどうしたものかと、後ろで見守っている教師の方を振り返った。

 見れば、コルベールもいささか困った様子で渋い顔をしている。

 

「あの、ミスタ・コルベール。私の使……、いえ、この亜人は、こういってるんですけど……。その、時間も無いとは思いますけど、もう一度、やり直させてもらうわけには……?」

 

 そう聞いてみるが、案の定コルベールは少し迷った様子を見せたものの、申し訳なさそうに首を振った。

 

「……残念だが、春の使い魔召喚は神聖な儀式だ。一度呼び出した使い魔を変更するなどという例外は、私の権限では認められない。彼の言い分は分かるし、気の毒だとも思うが……」

 

「そ、そうですよね……。で、でも……、使い魔はメイジにとって一生のパートナーです!この子が納得していないのに、無理に契約を進めるわけにはいかないと思うのですが!」

 

「……ううむ。確かに、それはそうだが……」

 

 コルベールとしても、これは少し予想外なことになったなと悩んでいた。

 

 召喚された使い魔がこのような要求をしてきたという例は、知る限り過去になかった。

 通常使い魔は契約を拒否などしないし、ましてやほぼすべての使い魔は召喚された時点で人間と会話できないのだから、要求など突きつけてくるわけもない。

 

 要求をのめば伝統に反することになり、それはこの神聖な儀式の監督者としての立場上、認めるわけにはいかない。

 といって、使い魔の意志を無視して契約を強行してしまえば済むという話ではない。

 先程からの遣り取りや使った魔法を見る限り、まだ未知の部分は多いとはいえ特に危険な相手というほどの事はなさそうだが……。

 抑え込んで契約を強行するようなことは使い魔に対するモラルに反しているし、お互いにとって悔いが残る結果になる。

 

 それに何より、使い魔のルーンには獰猛な生物でも大人しく従順にさせる効果があるといわれてはいるが、普通はそもそも現れた生物が契約を拒むということ自体がまずない。

 ゆえにそのようなケースではどうなるのかを、はっきりとは断言できないのである。

 いやむしろ、このように高い知能を持ち、明確に契約を拒む意志を示した相手の心をがらりと変えられるほどの効き目があるとは思われない。

 強引に契約しようものならこちらに失望して隙を見て逃げてしまうか、最悪、主人やその周囲の人間に牙を剥くようなことだってないとは言い切れない。

 

(となると、どうしたものか……)

 

 ディーキンの方はそんな遣り取りをじっと聞いていたが、2人が悩んで黙り込んでしまうと口を開いた。

 

「……ウーン、ちょっといい? 伝統とかはよくわからないけど、ディーキンは使い魔をやらないとはいってないの。引き受けても構わないし、むしろ喜んでやるの。ただしばらくしたらお暇をもらいたいってだけだよ?」

 

 契約を取り消したりするのが大変で、迷惑なお願いだということはわかっている。

 しかし、どうしてそこまで悩んでるのかがよくわからなかった。

 

 脇からそんな質問をされたルイズは、呆れたように溜息をつくと、ディーキンを軽く睨む。

 

「あんた、自分の要求したことの大きさが全然わかってないのね。迷惑も何も、使い魔は一度契約したら解雇なんてできないのよ。あんたが死なない限り次の使い魔は呼べないし、どっちかが死ぬまで契約を取り消したりもできないの!」

 

「……エエ、そうなの? アー、じゃあ、ディーキンは勘違いしてたみたいだね……」

 

 契約が自分の意志で解除できないと聞いて首をひねる。

 死ぬまで解除できないということは、逆にいえばどちらかが死ぬと契約が解除されるということだろうか。

 

 それはまた、妙な話だ。

 フェイルーンの使い魔は、死んでも《死者の復活(レイズ・デッド)》などの魔法で蘇生させれば、使い魔のままで甦るのだ。

 逆も然りで、主人が死んでも使い魔は依然として魔獣のままであり、単なる動物に戻ったりはしない。

 主人と使い魔の契約は、死によっても終わらない魂と魂の繋がりなのだ。

 実際、アンドレンタイドの遺跡で出会ったネズミの元使い魔は、主人が死んだ後も非常に長い間地下に埋もれた都市に閉じ込められたままで生き続けていた。

 

 そういえばあのネズミはえらく愚痴っぽくて、『ファミリアが死ぬと主人がどうなるってのはよく言われるのに、その逆は誰も気にかけてくれやしない!』などとぼやいていたが……。

 あの時は聞き流していたけれど、まさか自分も同じ使い魔の立場になるとは思わなかったなあ……、と、ディーキンは感慨にふけった。

 

(……にしても、死んだら契約が終わりってヘンな仕組みだね。不便じゃないかな?)

 

 どちらかが死ぬ度にいちいち契約が切れていたら、日常的に厳しい戦いを続ける冒険者のメイジにとっては困ったことにならないだろうか?

 これは死からの蘇生が通常有り得ないハルケギニアと、それが珍しいものではないフェイルーンの事情の違いによるものなのだが、そのようなことを知らないディーキンには随分奇妙に思えた。

 

 まあ、それはさておきそのような仕組みであれば、最悪どっちかが死ぬ(そして蘇生する)という方法もありそうだ。

 しかし、何度も経験のあるディーキンにとっても、死ぬのは気分のいいものではない。

 自分だってわざと死にたいなどとは思わないのに、他人にそんな要求をするほど非常識ではない。

 

 となるとどうしたものか、とディーキンはしばらく考え込んだが……。

 じきに、何かに気が付いたように明るい顔になって頷いた。

 

「……アア! それなら簡単に解決できると思うの。つまり、ディーキンはルイズとその、『契約』をしなきゃいいってことなの」

 

「はあ? ……はあ、あんた意外と賢いのかと思ったけど、状況がまだよく分かってないみたいね! 使い魔を持たなくて済むならこんなに悩んでないわよ……、伝統のこともあるし、使い魔を持たないと私は進級もできないのよ!」

 

「ええと、進級とかのことは知らなかったけど、ルイズは勘違いしてると思うの。ディーキンはちゃんと使い魔の仕事をやるよ、ただ、契約をしないってだけなの。どんなことをやるのかは知らないけど、その契約を済ませないでおけば、新しい使い魔が呼べないことにはならないでしょ?」

 

「……な、……あ、あんたねえ……、そんなことが本当に認められると思ってんの?」

 

 ルイズは呆れたようにそういうが、ディーキンは不思議そうに首を傾げる。

 

「ンー……、ディーキンはあんたたちの伝統とかのことはよくわからないけど、何かマズいの? 契約はしないで使い魔はするってことにすれば、その伝統とかにも反しないし、もう使い魔が呼べなくなるっていうこともないと思うの。それが一番いいんじゃないかってディーキンは思うんだけど……」

 

「そ、そりゃまあ、理屈の上ではそうかもしれないけど……。ちゃんと契約するっていうのは、つまり、貴族の伝統上の問題で……、そんなに簡単なことじゃないのよ!」

 

「ええと、ルイズの言うことはディーキンにはよくわからないの。なんでそんなに、その……、正式な契約とかをすることにこだわるの? 伝統っていうのはただ昔はそうだったっていうだけで、都合が悪いならたった今から変えたっていいと思うけど」

 

 そういってから、ディーキンは少し考え込んで何かさらさらとメモを取るとまばたきしてまたルイズの顔を真っ直ぐに見つめる。

 バードは放浪者であって、法と伝統ではなく、自由と直観を重んじるのだ。

 

「それとも、もしかしてルイズはちゃんと契約しないとディーキンが仕事をサボると思ってるの? ディーキンはいい冒険者なの、いい冒険者は契約違反なんかしないんだよ」

 

 それに、自分はまだこちら伝統の事とかはよく知らないが、使い魔というのはまず主人と信頼し合うことが一番大切だろうと思う。

 

「もしルイズが、ちゃんと契約しないとディーキンの事を信頼できないっていうんだったら、やっぱり別の使い魔を呼んでもらったほうがいいと思うけど……」

 

「い、いや、……なんていうか。私個人はあんたを信じないわけじゃないのよ。私は、まあ、それでもいいんだけど……」

 

 ルイズはそこで、困ったような顔でちらりとコルベールの方を窺った。

 コルベールは頷いて咳払いをすると、ルイズの代わりに進み出てディーキンと向き合う。

 

「……あー、使い魔君。君のいうことはなるほど、その通りだとは思うのだが……。君の主人のミス・ヴァリエールは、二年へ進学するにあたって、君とちゃんと“契約”をして使い魔としなくてはならない。それが、当学園におけるこの春の使い魔召喚の儀式での伝統で……」

 

「ウーン……、じゃあ、あんたには他に何かいい方法があるの?」

 

「いや、方法は思いつかないし、無理に君の意志を無視しようという気もないが……、なんとか納得して契約をしてもらうわけにはいかないのかね? ミス・ヴァリエールも君に十分な暮らしを提供できるはずだし、新しい良い人生の目標も与えてくれるだろう。それにメイジとして、君の家族や友人がそうしてくれたのと同じように、パートナーの君のことを大切に……」

 

 コルベールは何とか穏便に説得しようと、しゃがみ込んでディーキンと顔の高さを合わせながらそう説明した。

 

 この亜人はその子どもっぽい話し方に似合わずなかなか賢いようだし、落ち着いてもいる。

 だが、ミス・ヴァリエールに怒鳴られた際に見せたやや怯えたような気配などから、控えめで幼さの残る性格であることも窺える。

 ゆえに、こちらの理を説いてじっくりと説得すれば最終的には納得し、譲歩して契約を受け入れてくれるだろうと考えたのだ。

 

 だがディーキンは、真っ直ぐにコルベールを見つめ返すと、はっきりとした意志を込めて首を横に振った。

 

「それは、ダメなの。ディーキンは、ルイズがボスとか、おばあちゃんとか、ヴァレンやデイランとか、みんなの代わりになるっていう意見には反対だよ。新しいご主人が前のご主人の代わりになるとか、一人の友だちが別の友だちや家族とかの代わりになるっていうのは、どっちにも失礼な話だからね」

 

「む………」

 

「それにディーキンの目標っていうのは、前のご主人様とか、ボスとか、他の誰かからもらったものじゃないの。みんなはディーキンにいろいろ教えて、ディーキンを変えてくれたけど……、最後にそれを決めたのは、ディーキンだけだよ。ルイズはきっといい人だと思う。けど、誰にもディーキンに他の人生は与えられないの」

 

 コルベールは困惑して、僅かにたじろいだ。

 今の視線と返答にはこの亜人のこれまでの言動からは予想できないほどに、固く強い意志が感じられたからだ。

 ディーキンはそんなコルベールの表情をじっと見つめながら、さらに言葉を続ける。

 

「ディーキンの方は、ルイズと契約しても本当に帰りたくなった時には勝手に出ていくことだってできると思うし、そんなに困らないの。だけど、そうしたらルイズはもう新しい使い魔が呼べなくなるってことだよね。そしたらきっと、ルイズは困るでしょ?」

 

 ディーキンとしては、せっかく呼んでもらったのにルイズを困らせたくはない。

 だが自分の人生はあきらめたくないし、ずっと帰れないのは困る。

 

「新しい使い魔を呼ぶことができないんだったら、もう契約はしないで、使い魔を変えていい時になるまでディーキンがルイズの使い魔をやるの。それしか、どっちも困らない方法はないと思うの」

 

「いや、それは……、しかし」

 

「ルイズもさっき、自分はそれでもいいっていってたよ?」

 

 自分はちっぽけなコボルドだし、彼とは会ったばかりだ。

 だから別に、コルベールにこちらの気持ちを大事にしてくれとか、そんなにずうずうしいことを頼むつもりはない。

 だが、彼はおそらく、ルイズにとっては魔法の先生であるはずだ。

 

「先生なら、弟子の事は大事にしないとダメだと思うの。あんたにはちっぽけなディーキンのためじゃなくて、ルイズのために考えてほしいの。ディーキンにはよくわからないけど、その決まりはルイズ自身の意見とか幸せとか、将来とかより大事なの?」

 

 きっと“ボス”なら、『それはいい考えだとは思わない』というはずだ。

 

「……う、うー……、む……」

 

 コルベールは唸った。

 

 この亜人の言うことは、確かに理屈の上ではいちいち筋が通っている。

 契約を拒んでいる点はともかく、その理由が自分のためではなく主のためだというあたりは使い魔としても立派な態度であると言わざるを得ない。

 仮に、こちらを言いくるめるためにそんな建前を持ち出してきたのだとすれば、見た目に似合わぬ機転だが……。

 表情や態度を見る限りでは、すべてこの亜人の本心なのだろう。

 これでは、これ以上伝統と慣例のために契約しなくてはならないと言う説明で押し通して納得させることは、到底できそうにない。

 

 そこへ、横合いから今度はルイズが口を出した。

 

「……ミスタ・コルベール、私もこの亜人、いえ、ディーキンの意見を支持します」

 

「ミ、ミス・ヴァリエール、君まで……」

 

「私も彼と同じように、よく考えた上でそれ以外はありえないと結論したつもりです。確かに、貴族にとって、またメイジにとって、伝統は重んじるべきものです。ヴァリエール家の三女として、由緒あるトリステイン魔法学院で長年続いた伝統に逆らわなくてはならないことは残念です」

 

 ルイズは少し顔を伏せてそう言ったが、それからぐっと胸を張った。

 

「……ですが、これはあくまで当学院の中における伝統であるはず。メイジの中には一生使い魔を持たずとも、立派なメイジとして尊敬を勝ち得た者もいます。それに対して、使い魔をパートナーとして尊重することはすべてのメイジにとっての伝統であり、義務です。どちらをより重んじなくてはならないかは明白だと考えます!」

 

「……むむ……う」

 

 今度はルイズの表情にも、迷いのないはっきりとした意志が見て取れた。

 元々感情的になりやすくプライドも高く、ちょうど多感な年頃でもあるルイズにとって、先ほどのディーキンの発言は心を動されるに十分だったのだ。

 

 彼女が感じたのは、呼び出したばかりでまだ契約もしていない……今後も永遠にしないかもしれない使い魔が、それでもこちらの事を第一に考えて教師の説得までしてくれていたということに対する感動と、そしてある種の屈辱。

 

 落ちこぼれと蔑まれ続けてこれといった友人もなく過ごしてきたルイズにとって、彼の言葉は大きな喜びであり、衝撃だった。

 それに対して、自分はどうか?

 伝統を重んじなくてはならないからといいつつも、頭の片隅ではせっかくよさそうな使い魔を引いたのに契約ができなかったらどうなるのか、そうすれば他の生徒らにまたどんなに嗤われるかと心配していて、自分の代わりに教師がこの使い魔を説き伏せてくれることを期待していはしなかったか?

 そんな気持ちが少しも無かったとは言い切れない、だからこそ自分は途中で助けを求めるように教師の方へ話を振ったのでは……。

 

 そういった自分の心の動きに気が付いたことが、彼女の中に喜びと同時に強い屈辱を呼び起こしたのだ。

 使い魔が……、それも亜人とはいえ異郷の地に呼び出されたばかりという子どもがこうもしっかりしているのに、主人の自分がただ教師と使い魔のやりとりを眺めるだけで、他力本願で事態が片付くことを願ってしまっていたとすれば……。

 

 それは、大きな恥だ。

 

 使い魔が頑張っているというのに、主人の側はなりゆきで事態が解決することを望んで、何もせずにただ傍観しているなどと。

 それは断じて、彼女の信じる貴族の態度ではない。

 

「……それでも、どうあっても当学院内では認められない行為ということでしたら、私は―――」

 

「い、いや、待ちたまえミス・ヴァリエール。君たちの言うことは実にもっともだ、だから早まったことは言わないでくれないか!」

 

 慌ててコルベールがルイズの言葉を遮る。

 

 認められなければ退学するとでも口に出しかねない様子だったが、そんなことになれば事態がますます厄介になってしまう。

 コルベールとしてもこの2人の若々しく素直な気持ちには感じるところがあったし、認めてやりたいのは山々だった。

 だが今年度の監督役とはいえ自分はあくまで召喚の場に立ち会っているだけの一教師で、立場上そのような例外を独断で許可するわけにはいかない。

 それに、伝統であるからという建前の問題以外にも、いろいろ考えなくてはならない事があるのだ。

 

 ミス・ヴァリエールやこの亜人の子にとっては、今の自分は頑迷極まる教師としか見えないだろう。

 だがたとえ双方納得の上と言っても、ミス・ヴァリエールにとっては辛いことになるだろうし、2人の間だけの問題で済むという話でもないはずだ。

 

(教師としては、場の雰囲気に流されて軽率に許可を出すわけにはいかん……)

 

 コルベールは顔を伏せ、自分にそう言い聞かせて、なんとか落ち着いて考えをまとめようとした。

 

 彼女は落ちこぼれとして、常日頃から心無い生徒らに貶められている。

 先程も、召喚したのは平民の子のように役立たずのコボルドだなどと言って囃し立てられていた。

 仮にも珍しい亜人を召喚したというのにあんな偏見に満ちた罵詈雑言を浴びせられたのは、彼女に対する蔑視が決して軽いものではないという証左だ。

 なのにこの上正規の契約をできなかったなどと知れようものなら、どんな辛い思いをすることになるか。

 

 この亜人は革鎧などを身に纏っているから、ルーンは鎧に隠れているのだとでも説明しておけば、当面は誤魔化せるだろう。

 しかし亜人だって水浴びなどで鎧を脱ぐ機会もあるだろうし、いつまでも露見しないなどとはとても考えられない。

 

 気の強い彼女は、契約していないのは事実だしそんな批判は平気だとでも言って強がるだろうが、彼女が嘲笑されるというだけでは済まない。

 いくらこの亜人に危険はないと自信を持って断言できるとしても、それは所詮コルベールや、最終的にその決定を承認する学院長の独断でしかないのだ。

 契約も結ばせていない未知の亜人を学園内に置いているなどとなれば、安全管理の不備や伝統の軽視を生徒らの親族などが責めるだろう。

 最悪王宮などにも連絡がいって、責任者である自分や学院長は処罰を受け亜人の方は処分されてしまう……、ということも有り得る。

 この2人はお互いの尊重はしてもまだそこまでは考えていないだろうが……、これらの事柄について説明し、考え直すように勧めるべきだろうか?

 

(……いや、2人が既に合意している以上はおそらく無駄だろう。ここで二対一で話し続けていれば、そのうち私まで彼女らの意見に流されて迂闊な決定をしてしまいかねん)

 

 できれば自分一人で解決したかったが、こうなった以上は学院長にも事情を伝えて裁定を仰ぐべきだろう。

 問題がうまく解決して、2人の望みに沿う形の結論が出ればいいのだが……。

 

 最終的にそのように考えをまとめると、コルベールは咳払いをして顔を上げ、2人と向き合った。

 

「……あー、君たちの考えはわかったし、言い分は実にもっともだと私も思っている。しかし、私は儀式の監督を任されているとはいえあくまでも一教師にしか過ぎないのだから、学院の伝統を覆すような決定を下す権利はないんだ。……よって、君達は学院長に直接会って話を通すのがいいだろうと思うが、どうかね?」

 

「えっ……、オ、オールド・オスマンにですか? ……その、でも。流石に、契約もしていない亜人を学院長のお部屋には……」

 

「ンー、学院長? それって、あんたたちのボスの事?」

 

「まあ、そんなようなものだよ。心配しなくても学院長は相手の身分にこだわられる方ではないし、ちゃんと私の方からも君達が面会して事情を伝えられるように話そう、ついてきなさい。……ああ、授業の方はもう始まってしまっていることだし、それも学院長に伝えて公欠扱いとしよう」

 

 コルベールはそういうと自分の杖を持ち上げたが……、すぐにルイズが飛べない事を思い出してフライの詠唱を止め、2人を先導して歩き始める。

 ルイズは学院長と直接話さねばならなくなったことにやや緊張しながらも、あわててコルベールの後に続いた。

 

 ディーキンは、ルイズらが先程の生徒たちのように飛んで行かないことについて特に疑問は持たなかった。

 フェイルーンの常識では、空を飛ぶ魔法が使えるメイジだからと言って日常的に呪文で飛んだりしないのは当たり前である。

 

 もし魔法を使わなくてもある仕事を実行することが可能であるのなら、フェイルーンの大部分の場所と状況においては、魔法でない手法が取られる。

 簡単に空を飛んだり瞬間移動したりできるくらい強力なウィザードでも、隣町に行くのに特に急ぐ理由がないなら、普通は2本の脚で歩くものだ。

 本当に必要な時のための魔法を温存しておかず、日常的に便利な魔法ばかり用意して気軽に消費してしまうのは愚かなウィザードである。

 ほんの一発《電撃(ライトニング・ボルト)》を撃てれば、たった一回《魔法解呪(ディスペル・マジック)》を使えれば。それで自分の命を救えるという状況にいざ直面した時に、その呪文を使う余力や準備がないなどという事になったら、目も当てられないではないか。

 

 授業が始まってしまうとかいっていたし、先ほどのメイジたちは急いでいたから、やむなく飛行の呪文を使用したのだろう。

 今の場合、もう急いでいないのだから飛ぶ必要はないのだ。

 

 それはさておき、ディーキンには自前の翼があるとはいえ、別に急いではいないし、歩くより飛ぶ方が楽だというわけでもない。

 自分もまた羊皮紙にこれまでの展開のメモを取りつつ、のんびりと2人の後に続いた……。

 





アライメント(属性)について:
D&Dの世界において、個々のキャラクターの大雑把な倫理観や人生観を表す指標。
善と悪、秩序と混沌はD&D世界では単なる哲学上の概念ではなく、世界の有り様を決める現実の力なのである。
善・中立・悪と、秩序・中立・混沌の組み合わせから成る以下の9種類の属性が存在している。
ディーキンはバードであり、この職業は自由な精神を重んじるがゆえに秩序の属性ではクラスレベルを取得できない。
バード以外にも属性によって取得が制限されるクラスは数多く存在する。
その代表例はパラディン(聖騎士)で、このクラスは秩序にして善でなければならず、属性が変わるとそれまでに得たクラス能力をすべて失う。

ローフルイービル(秩序にして悪):
アライメントがローフルイービルの者は、自らに課せられた規制や行動規範の範囲内で私腹を肥やしたり他人から搾取をする利己主義者である。
彼らは伝統や忠誠、秩序は重視するが、自由や尊厳、人命などは軽んずる。
法や約束を破ることを嫌うのは、それらに従うことで自らの身や立場を守る必要があるというのがその一因である。
あの手この手で領民を搾取する無慈悲な領主、上司の命令を盾に殺しを楽しむ兵士などはこのアライメントに属する。
権力中枢がローフルイービルの共同体には往々にして厳格で一握りの権力者に都合のいい法体系があり、殆どの者は厳しい罰を恐れるがゆえにそれに従っている。
ローフルイービルとは秩序立った、計画的な悪行を意味する。圧政者。

ローフルニュートラル(秩序にして中立):
アライメントがローフルニュートラルの者は、法や伝統、自らの戒律などに従って行動する。
彼らは自律を最上として特定の規範や主義に従って生きるか、法と秩序による万人の統治を至上とし、効率が良く安定した政治を求める。
中にはマニュアル人間に過ぎない者もいるが、真に理想的な秩序にして中立とは、弱者の叫びにも私利私欲の誘惑にも惑わされない鋼の意志の持ち主である。
戒律を遵守する修行僧、厳格な裁判官などはこのアライメントに属する。
権力中枢がローフルニュートラルの共同体には往々にして厳格で融通の利かない法体系があり、法は文字通りに守らねばならない。
ローフルニュートラルとは信頼でき、名誉を守り、善悪のしがらみによって信念が揺るがされることがないことを意味する。裁定者。

ローフルグッド(秩序にして善):
アライメントがローフルグッドの者は、絶えず邪悪と戦い続けるだけの信念と規律心の持ち主である。
彼らは真実を語り、約束を守り、不正に対しては声高に異を唱え、悪事をはたらいた者が裁きを受けずにのさばっているのを見過ごしておかない。
邪悪な者に対しては容赦無く鉄槌を下し、罪無き者は己の身を犠牲にしてでも守る。
また悪人でも悔悟の意志を示す者には贖罪の機会を与えようとし、降伏した者には私刑を下すことなく法の裁きに委ねる。
慈悲深く賢明な王、清廉潔白なパラディンなどはこのアライメントに属する。
権力中枢がローフルグッドの共同体には往々にして厳格で万民の利益を重んじる法体系があり、殆どの者は進んで法に従っている。
ローフルグッドとは名誉と慈愛の心の尊重を意味する。求道者。

ニュートラルイービル(中立にして悪):
アライメントがニュートラルイービルの者は、自らを危険に晒さぬ範囲で利己に走り、それによって傷つくものには目もくれない。
彼らは秩序をどうとも思わず、法や伝統、規律などに従うことで自分たちが向上するなどとは微塵も思っていない。
かといって彼らがカオティックイービルの者のように短絡的であったり好戦的であったりすることはない。
自らの欲望のためなら強盗も殺人もためらわぬ悪党、金次第で雇い主を裏切る不実な傭兵などはこのアライメントに属する。
権力中枢がニュートラルイービルの共同体では人々は往々にして抑圧と屈従の中にあり、悲惨な未来に直面している。
ニュートラルイービルとは名誉無き、傾倒無き悪行を意味する。悪人。

トゥルーニュートラル(真なる中立):
アライメントがトゥルーニュートラルの者は、善と悪、秩序と混沌のいずれについてもこだわりをもたない。
彼らは周囲への影響や信頼がおけるという観点から悪よりは善の方を好むが、かといって積極的に善を広めようとも支持しようともすることはない。
平凡な暮らしを送る多くの一般人、学究に没頭し世俗のしがらみに興味を示さない研究者などはこのアライメントに属する。
他方で、一部のトゥルーニュートラルの者はこういった消極的な中立ではなく積極的に中庸を推し進めるべきだという考え方に基づいて行動する。
彼らは善、悪、秩序、混沌のいずれもを危険な極端としてとらえ、長期的観点からの中庸を主張する。
2つの勢力が戦っているのなら、彼らは不利な方に加勢し、そちらが優勢になれば今度はもう一方に加勢して常に均衡を保たせようとする。
万物の調和を何よりも重視する自然崇拝者、凡人には理解しがたい超越的な思想家などはこれに属する。
また、動物などの道義的な判断ができないクリーチャーもこのアライメントに属する。
人食いの虎は善悪の道義を判断する能力がないのだから悪ではなく、忠実な犬や気ままな猫も道義的には秩序や混沌に属するわけではない。
トゥルーニュートラルの権力中枢が共同体に何らかの影響を与えることは稀で、権力者は権力の行使よりむしろ個人的目的を追求する方を好んでいる。
トゥルーニュートラルとは偏見や衝動に影響されない自然体を意味する。中立。

ニュートラルグッド(中立にして善):
アライメントがニュートラルグッドの者は、自身の為しうる限りの善行を行なう。
彼らは人助けに尽力し、通常は君主や判事などに協力するが、これらに背くことになったとしても負い目を感じることはない。
助けを求める者達の声に応じて清濁を併せ呑み、常に最善を尽くそうとする。
おおらかで善良な領主、慈悲深く融通が利く司祭などはこのアライメントに属する。
ニュートラルグッドの権力中枢は共同体の人々が困っていれば助け、それ以外では滅多に住民に影響力を行使しようとはしない。
ニュートラルグッドとは手段の適法性にこだわることのない善行を意味する。慈善家。

カオティックイービル(混沌にして悪):
アライメントがカオティックイービルの者は物欲・私怨・破壊的衝動の命ずるがままに行動する。
彼らは短気で怒りっぽく、攻撃的で、行動を予測するのが難しい。
計画性に乏しく、集団に属していたとしても組織としては脆いものである場合が多い。
カオティックイービルの者同士は武力などで強制されない限り、基本的に協力し合うことはない。
長として彼らを束ねる者がいたとしても、その座は力や策謀によって権力を奪われるまでの話である。
良心の欠如した連続殺人鬼、復讐や殺戮の手段ばかりを模索する危険な発狂者などはこのアライメントに属する。
カオティックイービルの権力中枢は常に人々を思いもよらぬ恐ろしい目にあわせるので、共同体の住民は絶えず怯えて暮らしている。
カオティックイービルとは美しい物、命ある者の抹殺のみならず、それらの存在に必要な秩序までもの破壊を意味する。破壊者。

カオティックニュートラル(混沌にして中立):
アライメントがカオティックニュートラルの者は個人主義者であり、規制や束縛を嫌い堅苦しい伝統などに反抗する。
とはいえ彼らは他者を開放しようと奮闘するグッド系の者や他者を抑圧しようと画策するイービル系の者達ほど積極的に無秩序を推し進めるわけではない。
また、言動が全くの気まぐれによるとは限らず、石橋があれば叩いて渡る者の方が叩いて壊したり下の川へ飛び下りたりする者よりは多いだろう。
機転を活かして諸国を放浪する芸人、快楽主義の奔放な博打打ちなどはこのアライメントに属する。
カオティックニュートラルの権力中枢は何を始めるか予想しにくく、共同体にどんな影響を与えるかはその時々によって異なる。
カオティックニュートラルとは社会の束縛からの自由と善悪的な偏りの無さを意味する。自由人。

カオティックグッド(混沌にして善):
アライメントがカオティックグッドの者は、自らの良心の命ずるがままに行動し、他人の期待や反応などはほとんど気にかけない。
彼らは善や正義を重視しつつも、自身の基準で善悪の判断をするために社会の規範などにそぐわない言動も多く、法や規制などには背を向ける。
権威を振り翳したり暴力を振るって他人を脅し、いう事を聞かせようとするような輩には我慢がならない。
悪党から得た金を密かに民衆に返す義賊、挑戦心あふれる善良な辺境の開拓者などはこのアライメントに属する。
カオティックグッドの権力中枢は困っている者を助け、共同体の住民へ影響力を行使する必要がある場合でも自由の制限には反対する。
カオティックグッドとは自由な精神と善なる心との組み合わせを意味する。叛逆者。


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第六話 Conference

 

 ここはトリステイン魔法学院本塔最上階・学院長室。

 

 齢数百歳ともいわれる学院の長オールド・オスマンは、机に向かいながらもいつものように暇を持て余していた。

 今は部屋の端におかれた別の机で書き物をしている秘書のミス・ロングビルをぼんやりと眺めつつ、彼女の下着の色を確認する策をぼんやりと立てながら、可愛い使い魔のハツカネズミ・モートソグニルにナッツを与えている。

 

「………。退屈じゃのう、何か面白い事はないものかなミス・ロングビル?」

 

「お暇でしたら、たまには日頃私に押し付けている書類の整理でもなさってはいかがですか? ……そうですね、今日は使い魔召喚の儀があったはずですわ。もう大分前に終わっていると思いますが、担当教師からの結果報告はまだ来ていないようですね」

 

 おお、そういえば今日はそんな儀式があったかと、オスマンは顔を綻ばせた。

 この年になると珍しい使い魔などはあらかた見尽くしてしまって刺激はないが、パートナーを迎えた生徒らの喜ぶ顔は微笑ましいものである。

 

「ふむ……、もう夕方近いというのに確かに知らせが遅いのう、報告を忘れておるのではないか? 今年の担当は誰じゃ、ギトー君あたりかな?」

 

「いえ、確か……、ミスタ・コル―――」

 

 ロングビルが日程表に目を通して返答しようとしたところで、学院長室のドアがコンコンとノックされた。

 正に噂をすれば影、というやつである。

 

「失礼いたします、コルベールです。学院長、少しお話が……」

 

 

「……ふうむ、話は分かった」

 

  一通りの事情説明を受けたオスマンは、水パイプを机に置くとコルベールの後ろに控えている問題の2人の方に目をやる。

 

ルイズは、コルベールの説明の間ずっと緊張した様子でもじもじと落ち着かなさそうにしていた。

 一方ディーキンの方は、物珍しそうにあちこちをきょろきょろ眺めては羊皮紙にメモなどをとっていた。

 なおロングビルは内密に事を運びたいコルベールが話の前に席を外してくれるよう頼んだために、またモートソグニルはオスマンの命を受けて密かにロングビルの後を追ったために、既にこの場にはいない。

 

「まあ、ミス・ヴァリエールもそこの使い魔君も、互いに合意したというのであれば契約を無理強いはできんのう。なあに、彼女らの言うとおり、契約なんぞ多分に形式的なものに過ぎん。その後の交流こそが大切じゃ。互いに良きパートナーとなれる自信があるのであれば、せんでも一向に構わんよ」

 

「し、しかしですな! オールド・オスマン、私が心配しているのは……」

 

「わかっておるよ、コルベール君。君が案じるように、慣例に反することによって起こる問題もいろいろとあろう。あとで後悔するようなことがあってはいかん、ここはひとつこの4人で心ゆくまで話し合って、みなの納得がいく結論を出すとせんかの?」

 

 君らさえよければわしはいくらでも付き合うぞ、とオスマンは請け負った。

 学院のつまらない定期会議などよりもよほど有意義であろうし、どうせ暇だったのだから。

 

 オスマンがそういうと、ディーキンはちょっと手を止めてコルベールの後ろから顔をだし、首を傾げた。

 

「オオ、おじいさんはいいことをいうね。それにあんたってまっ白で長いヒゲで、何だかエルミンスターみたいだよ」

 

 それを聞いたオスマンの動きが、ぴたりと止まる。

 

「………なに? 今、何といったかね?」

 

「ンー? もしかしてあんたはおじいさんだから、耳が遠いの? あんたはエルミンスターみたいに見える、って言ったの。それか、ええと……、ガンダルフだかガンダウルフだかいう人にも似てるかもしれないね」

 

 ディーキンは本の挿絵で見たことしかないが、みな優れた魔法使いで白いヒゲが立派な人だったことは覚えている。

 

「ねえ、そういえばそのヒゲっていうのは人間とかドワーフとかがたまに顔につけてるけど、一体なんのためにしてるの? 年寄りの有名な魔法使いに見えてカッコいいからとか?」

 

 そんな大した意味もない雑談に対して、なぜかオスマンが黙り込んで真剣な目で見つめてきたのでディーキンは首を傾げた。

 そうしてしばし黙り込んだオスマンの代わりに、今度はルイズが後ろから口を出す。

 

「ちょっとディーキン、学院長に対して失礼なことを言うんじゃないわ。何だか知らないけど、あんたの話は後で聞いてあげるから、今は黙ってお二人の話を聞いてなさい!」

 

 いくら契約をしないといっても、自分が召喚した以上は彼の言動の責任はこちらにもある。

 あまり場所と立場をわきまえない行動は慎んでもらわねばならない。

 

「アー、ええと……、ごめんなの。でもディーキンにはおじいさんに失礼をはたらく気はなかったよ。ディーキンは思ったとおりを言っただけなの。今のって失礼なの?」

 

 エルミンスターはフェイルーンでは誰もが知る高名な魔法使いであり、偉大な魔法の女神ミストラの“選ばれし者”でもある。

 あのハラスターさえ凌駕するであろう、おそらくフェイルーン最強の魔法使いと言われているのだ。

 ここでは知られていないのかもしれないが、彼の名はトーリルの外にある多くの次元界やいくつかの別宇宙にすら鳴り響いているらしい。

 エルミンスターに似ているといわれれば、普通はむしろ褒め言葉だろう。

 

 もっともディーキンはエルミンスターが格別偉い人だとかすごい英雄だとは考えていないので、割と軽い気持ちでそういっただけなのであるが。

 いくら強くても、理由はどうあれ肝心な時には別の若い英雄任せで後ろに引っこむお年寄りは今一つ英雄的だとはいえないというのが、英雄譚を専門とする一介のバードとしてのディーキンから彼に対する評価なのだ。

 

 むしろディーキンとしては、彼は強大な魔法使いというよりも多くの面白い本の著者だという印象を持っている。

 彼の著作にはかの“災厄の時”に後の魔法の女神ミストラとなった女性ミッドナイトが活躍した話をはじめ、壮大な実話の冒険物語がたくさんある。

 

 それに彼自身の体験談……、というか旅行記の類にも、楽しく興味深いものが多い。

 

 中でも、異世界へ旅してそこで出会ったどこぞの『編集者』とやらにフォーゴトン・レルムの事を語って聞かせたという話が最近のお気に入りだ。

 それは別宇宙の事を伝えてくれる数少ない物語で、実に面白かった。

 マウンテンデューとかいう飲み物が美味かったとか、パソコンとかいうものがどうだとか、しょっちゅう脱線していてよく理解できない部分も多かったが。

 

 その世界でも、きっと編集者のまとめた本を通じて、エルミンスターの名は有名になっているのだろう。

 最近ボスのお供として少しは有名になったと思うし、もしかすると自分もその世界で多少は名が知られたりしているかも……、と密かに期待している。

 まあ、その世界には魔法使いが基本的にいなかったらしいので、ここがその世界だという線はまずなさそうだが。

 

(……あれ?でも別の宇宙っていったら、ええと……)

 

 ディーキンはふと、ボスとの冒険を通じて出会ったある人物の話を思い出した。

 そう言えば、仲間としてアンダーダークやカニアを共に旅してきたティーフリングのヴァレンも、元々は別の宇宙に住んでいたと言っていた覚えがある。

 彼の生まれ故郷は“大いなる転輪”と呼ばれる異なる宇宙にある、無数の物質界や次元界に通じるポータルを有する“シギル”という次元都市だったらしい。

 

 かつて別世界の物語などを聞いたり読んだりした時には自分には縁のないスケールの違う話と思っていたが……。

 何時の間にか身近な事象になっていたらしいことに、ディーキンは今更ながらに気が付いた。

 実際優秀な冒険者ともなれば、別の次元界は勿論別宇宙からの来訪者に遭遇したり、自身がそれらを行き来したりするのも、然程に珍しい事ではないらしい。

 

(ウーン、そういえばガンダルフだかガンダウルフだかいう人もどこかよその世界で有名な魔術師なんだったかな?)

 

 彼らのことは、本の挿絵でちょっと見ただけだが……。

 あれは、どこで読んだ本だったか?

 

(……ンー、そういえば、ここも別の宇宙とかかもしれないんだよね。もしかして、ここの事が書かれた本も、エルミンスターの別の世界の旅のお話とかで読んだことがあったかも。ええと……)

 

 そうやって自分の記憶を手繰っているところに、オスマンから声を掛けられる。

 

「構わんよミス・ヴァリエール、わしは別に気にしてはおらん。むしろ、君の召喚した亜人との会話は非常に有意義なものになりそうじゃ。……あー、亜人君。君の名はディーキンというのかね?」

 

「そうなの、ディーキンはディーキンなの。えーと、あんたの名前はオールド・オスマンでいいんだよね?」

 

「うむ、皆にはそう呼ばれておるが、“オールド”は通称のようなものじゃよ。わしの名はオスマンじゃ、よろしく頼むぞディーキン君」

 

 好々爺然とした笑みを浮かべるオスマンに対してディーキンも一旦思考を切り上げると、にこやかに(コボルド的には、だが)笑い返してお辞儀をする。

 

「こちらこそよろしくなの、オスマンおじいさん。ここはいいひとばっかりだから、ディーキンはすごく嬉しいよ!」

 

 ディーキンは実際、先ほどからかなり機嫌が良かった。

 

 英雄として名が知られた今のウォーターディープは別としても、それ以前ではコボルドだという事でいきなり追われたり攻撃されたりした経験ばかり。

 いくらこちらが友好的に接触しようとしても、まともに話を取り合ってもらえたためしがほとんどない。

 当然召喚される先でもそういった扱いを受けるだろうと予想し、また時間を掛けて自分の事をわかっていってもらうのだと決心して召喚のゲートをくぐった。

 

 なのにここでは今のところルイズもコルベールも、そしてこの偉そうな老人までがみんな自分を追い払うどころか、まっとうな相手として扱ってくれている。

 それがまったく予想外のことで、多少拍子抜けもしたがディーキンはとても嬉しくなっていた。

 ルイズなどはまあ気の強い貴族の少女らしく、多少高慢な態度ではある。

 だが、これまでの人生で暴虐な主人に脅かされたり問答無用で追い回されたりが続いていたディーキンにとって、そんな程度は問題外である。

 

 普段のディーキンならこんな時は嬉しさを表現するべくリュートを弾くか鼻歌でも歌い出すかするところだろう。

 しかし、ここに召喚されてからディーキンはまだ一度も演奏をやっていない。

 演奏などしたら真剣に考えてくれている他の人たちの邪魔になるだろうと考えて、空気を読んで大人しくしている……。

 と、いうのもないわけではないが、主な理由としては単にひっきりなしに羊皮紙にメモを取っている状況なので歌っている暇も無いというだけである。

 

「ええと……、それで、これから話し合いをするんだよね?」

 

「そうじゃ。君らもソファーにでも掛けたまえ。悪いが秘書がおらんので、茶は自分で入れてもらえるかの……。さて、ではまず、契約をせんことでどういった問題がありそうか。見落としがあってはいかん。各々、思いついたことを書き出していくことから始めるとするかな」

 

 オスマンは羊皮紙を何枚かとペンを手に取ると、皆を促して来賓用テーブルを囲むようにソファーに座り、臨時の会議を始めた。

 

 

 話し合いは、各参加者が気付いた問題点を提示していき、それらに関して順に議論する形で進められた。

 

 まず、正規の契約をしないと使い魔としての特殊能力や感覚の共有が得られず、お互いの不利益になるという点。

 これに関しては、ディーキン・ルイズともにお互いの立場の尊重のためにはその程度のデメリットは仕方がないという事で、おおむね意見が一致していた。

 

 ルイズの方には、生まれて初めて魔法を成功させたのだから最後の契約まで済ませてその成果を噛みしめたいという、決して軽くはない願望があった。

 だが、メイジとして使い魔の意思を尊重し、良好な関係を築いていくためには止むを得ないと既に割り切っていた。

 また、元々ディーキンの能力にはさほど期待していなかったために、感覚の共有が無い事で偵察や護衛に差し障ることは大した問題とは考えなかった。

 

 ディーキンの方としても、使い魔として感覚を共有するということがどういうものなのかという興味はあった。

 だがそれは単純な好奇心であって、自分やルイズの将来と天秤にかけるようなことではないため、特に執着はしていなかった。

 一方で、使い魔としての能力が備わらないことでルイズの不利益になるという点に関してはかなり申し訳なく思っていた。

 だがそれも、不利益を埋め合わせられるよう偵察も護衛も自分の力の及ぶ限り真面目に務めると約束して、ルイズがあっさりと合意したことで決着はついた。

 

 オスマンとコルベールも本人たちが納得しているなら特にそれ以上の問題になりそうな話ではないため、すんなり承認した。

 ただし、周囲には正規の契約を済ませているものとして振る舞うように、と言い添える。

 

 ルイズは最初虚偽を貴族らしからぬこととして潔しとせず、契約できなかったことは事実なのだから自分は嘲笑を受けても気にしないと言って反対した。

 しかし、正式な使い魔でないと知られてしまえば自分が笑われるというだけでなく亜人を野放しにした学院側も非難を受けかねないと指摘されると、渋々ながら納得して、その条件に合意した。

 

 ディーキンの方は最初事情がよく分からず、なぜそうするのかを不思議がった。

 だが、ルイズが渋い顔で自分が魔法を使えないことを言葉少なに説明し、またコルベールに使い魔でない亜人を学院に居させては問題だと言われて納得した。

 もっとも、コボルドが嫌われるのは当然としても、強力な召喚のゲートを生み出したルイズがろくに魔法を使えないというのは……。それはディーキンにとっては、別の意味で非常に不思議だったが。

 

 

 ともあれ、その件についてはそれで片が付いたとみなし、4人は別の問題に移った。

 次はコルベールが案じていた、ルーンが無い事がいずれ知られてしまえば、正規の契約を済ませていないと露見してしまうという点。

 

 これにはいろいろな意見が出たが、最終的にはディーキンが精巧に偽装した偽のルーンを体のどこかに付けておけばまず露見しないのではないかと提案した。

 下手に隠せば詮索好きでルイズに悪意を持っている生徒らに勘ぐられるかもしれない。

 だが、目の前にルーンが見えていればかえってそれ以上は気にも留められないだろうと考えたのだ。

 

 それに対してコルベールは、刺青やペイントでは本物と比べて不自然さが残り、観察力の鋭いものやディテクト・マジックの呪文は誤魔化せないと指摘する。

 特に、トライアングルクラス以上の優秀なメイジであればディテクト・マジックを使わなくとも魔法の気配の有無くらいは触れれば分かるものだ。

 

 それを聞くとディーキンは少し考え込んだが、ふと気が付いたように荷物から一本の巻物を取り出す。

 以前の冒険でたまたま入手した《秘術印(アーケイン・マーク)》のスクロールを持っていることを思い出したのだ。

 

「なら、これを使って魔法のルーンを刻めばいいんじゃないかな? これなら使い魔のルーンっていうのがどんな感じかを見せてもらえれば、見た目だってそっくり同じように作れるよ」

 

 そこでルイズが、驚いたような顔をして横から口をはさんだ。

 

「ちょ、ちょっとディーキン。あんた今、いったいどこからその巻物みたいなのを出したの?」

 

「? どこって……、ディーキンの背負い袋の中のスクロールケースだよ」

 

「背負い袋って、あんたそんなのどこにも持ってないじゃない! それに、魔法のルーンを刻める巻物って一体何よ、それ? 何でそんなマジックアイテムを、あんたみたいな亜人の子どもが持ってるの?」

 

 見ればコルベールも、ルイズと同様にやや驚いたような顔をしていた。

 オスマンは年の功なのかさして驚いたふうではないが、それでも興味深そうにはしている。

 

「……アー、そうだったね。忘れてたの、今説明するよ」

 

 ディーキンは自分が《変装帽子》を着用して自身の翼や荷物袋、武器などを見えなくしていたのをやっと思い出した。

 そこでルイズらに説明するため、頭に着けていた小さな指輪型の角飾りを外す。

 

 するとたちまち幻覚が解けて角飾りは元の変装帽子に戻り、ディーキンの姿も一変した。

 ベースはコボルドのままだが背中からは赤みがかった竜のような翼が生え、先ほどまでは隠されていた背負い袋などの携行品も姿を現す。

 

 それを見た他の3人は一様に目を丸くして……。

 続いて、当然のごとくディーキンに対する質問攻めが始まった。

 

 その巻物や帽子は一体なんなのか?

 何故そんな高度なマジックアイテム類を亜人の子どもが、それもいくつも持っているのか?

 どうして自分の姿形や武器などを今まで隠していたのか?

 その翼といい、さっき言っていたドラゴンの血を引いているというのは本当なのか?

 もともと疑わしかったがその姿でコボルドというのはどういうことなのか?

 ……………

 

 3人からかわるがわる質問を浴びせられたディーキンは、予想より随分と大きな反応に困惑しながらも可能な限りそれに答えていった。

 提案の方はすっかり棚上げされてしまったが、この機会にと自分の方からも疑問に感じた点を問い返したりする。

 そうして、ある程度お互いに関する理解を深めることができた。

 

 まず、この帽子は着用者の姿形を若干変更する幻覚を纏うごく低級のマジックアイテムであり、巻物の方も使い捨ての低級呪文を発動するだけのものであって自分の居た都市では店で売っていること、値段もそう高くないということを説明していった。

 何故持っているのかという件についても、自分は冒険者なので巻物などは冒険中によく遺跡などで見つけたりもするし、帽子は人間の街に出入りすると亜人なので騒がれることが多いため、騒ぎを起こさずに歩きたい時のために購入したのだと素直に事実を伝えた。

 

 それを聞いたオスマンが流石は先住魔法だといい、コルベールがいや彼の魔法はそれとは違うらしいと訂正し。

 ルイズもまた、先住でなくても亜人の魔法は凄いのねなどと、感心したように呟いたりしていた。

 それらの反応を見て、どうやらこちらでは幻覚は高度な魔法らしいとディーキンも察する。

 

 どうやら彼らと自分達とでは、思った以上に魔法の体系に違いがあるようだ。

 

 《変装(ディスガイズ・セルフ)》の呪文を発動する程度のマジックアイテムで、彼ら専業のメイジが感心しているのも意外だったが……。

 何よりもスクロールを知らないらしい様子であることが、ディーキンには驚きだった。

 スクロールはもっともありふれたマジックアイテムのひとつであり、ウィザードが新たな呪文を覚えるためには無くてはならないものなのだ。

 一般人でも知っているような品をメイジが知らないとなると、いよいよここは別の宇宙か何かなのではないか。

 好奇心の面からも、また戦いなどになった場合に備える意味でも、できる限り早くこちら側の魔法について詳しく学んでおこうとディーキンは心に決める。

 

 また、「そもそも冒険者とは何か」ということも質問されたが、ディーキンとしても厳密な定義などあるのかどうかもよく知らないので、返答に困った。

 少し考えた上で、それは言葉通り“冒険をする者”であると……、すなわち各地を放浪してさまざまな仕事を請け負ったり、自ら遺跡を探索したりすることで生きる者たちの総称なのだと答えておいた。

 

 ついでに「ある人物を英雄と見込んで彼のお供としてそれまで仕えていた主人の下を離れ、冒険者のバードになった」という経緯も一緒に話しておく。

 その後世界の危機を救っただの、地獄の大悪魔を倒しただのという件については……。それはもう、ちっぽけなコボルドが話して信じてもらえるわけもないことくらいよくわかっているので、今のところは伏せておいた。

 この目で見たボスの武勇、偉大さ、他にも出会った素晴らしい人々の事を、ルイズ達にもみんな知ってもらいたいという惚気たような思いはある。

 だがそれは、いずれまた機会を見て伝えることもできるだろう。

 もっと信頼を得て互いによく知りあってからでも十分だと自分に言い聞かせて、もどかしい気持ちを押さえ込む。

 

 他の質問に関しては、お互いになかなか言わんとするところが伝わらなかった。

 

 だが、オスマンの主導で順に一つずつ疑問点を確認していった結果、重要な新事実が判明した。

 すなわちお互いの認識に食い違いがあり、こちらとフェイルーンとではコボルドと呼ばれる人型生物の種類が違っているらしいということである。

 

 ルイズらの話を聞く限りでは、こちらのコボルドは犬の頭を持つ人型生物らしい。

 フェイルーンの認識でいえばコボルドというよりはむしろ、小柄なノール(ハイエナの頭を持ち身長7フィート半ほどもある邪悪な人型生物)に近い。

 そこでディーキンは、自分の住んでいたフェイルーンではコボルドは僅かにドラゴンの血を引いている爬虫類型の亜人であること、

 そして自分はその中でも特にドラゴンの血が濃いために翼が生えているのだということを説明する。

 また、変装をしていたのはそのように特別な外見なので召喚者を驚かせてしまうのではないかと心配してのことであり、話がややこしくなるかと思って今まで言い出せなかったが悪意はなかったと伝えた。

 

 教師2人は、ディーキンの長い話が終わると納得がいったように頷いた。

 

 コルベールはディーキンの話は嘘ではないと確信していた。

 彼には召喚された最初から今まで嘘をついているような様子は全くないし、嘘だとすると自分達が今まで見たこともないマジックアイテムの説明がつかない。

 オスマンは、それに加えてある別の理由からも、ディーキンが嘘を言っていないと悟っていた。

 

 一方、ルイズはいくら使い魔を信じるべきだといってもこんな突拍子もない話が果たして本当だろうか……と半信半疑だった。

 

(……なんでオールド・オスマンやミスタ・コルベールは、こんなに簡単にこいつの話を信じられるのかしら。そりゃあ、話の筋は通ってるみたいだし、嘘つきにも見えないけど……、いきなりそんなおかしな所から来たって言われても)

 

 ルイズが疑ったのは彼女の無知ゆえではなく、むしろ今までの人生で得た常識と、努力して積み上げてきた知識があるからこそである。

 話の筋は通るし証拠となる品も見せられたのだから、事実なのではないかという気持ちはあるし、自分の使い魔である彼を疑いたいわけでもないのだが……。

 ディーキンの話はあまりに彼女の常識や知識からかけ離れていて、すぐさま全面的に受け入れられるようなものではなかったのだ。

 

 ルイズはまた、この話の展開にいろいろと複雑に入り混じった思いを抱いてもいた。

 もちろん使い魔の思いがけない能力や素晴らしい所持品には喜んだのだが、ルイズは自分の魔法で他のメイジと同じように空を飛ぶことがひとつの夢だった。

 ディーキンが空を飛べると知ると、契約して感覚を共有できれば疑似的にでも空を飛べたのになあと、改めて残念に感じたのだ。

 だがしかし、それを先に知っていれば自分は契約に関してもっと食い下がっただろうし……、そうなると今こうして友好的にしているディーキンとの関係を台無しにしまっていたかも知れない。

 だからむしろ先に知らなかったことは幸いだったのだ、それに感覚の共有はできなくても空を飛べるなら偵察や採集などの有用性は上がるではないか……。

 

 とまあ、そう自分に言い聞かせはするものの、残念なものは残念である。

 それに事情があったとはいえ使い魔に隠し事をされていたことは不本意ということもあり、ルイズは少しばかりもやもやした気分になっていた。

 

(……まあ、今はいいわ、それよりも……)

 

 ルイズは気分を切り替え、是非とも聞いておきたかった質問を口にする。

 コルベールも、それとほぼ同時に質問した。

 

「……ねえ、あんたのその帽子って、誰にでも使える?」

 

「なあ、君。も、もしや、その背負い袋の中には……、まだ他にも、私達の知らないマジックアイテムが入っているのでは!?」

 

 2人とも、何かをすごく期待しているような顔だ。特にコルベールの勢いがスゴイ。

 ディーキンはその様子にややたじろいだが、帽子は誰でも使える、自分の荷物袋の中にはまだたくさんのマジックアイテムが入っている、と質問に答えた。

 というか、そもそも背負い袋やスクロールケース自体も魔法の品であるし、ディーキンが身に着けている武具の類も軒並みそうである。

 むしろ《変装帽子》などよりも、自分が今身に着けているそれらの武具の類の方が遥かに高等で高額なマジックアイテムなのだが……。

 

 ディーキンは内心首を傾げた。

 この感じからするとコルベールは、未知のマジックアイテムについて並々ならぬ関心があるらしい。

 その彼が、何故か武具の類にはろくな関心を示さず、マジックアイテムかどうかを尋ねもしないのが少々気になったのだ。

 

 実際のところその理由は、彼が関心を持っているのは未知の技術についてであって、別に高価なマジックアイテムだからというわけではないからだ。

 武具の類はたとえマジックアイテムであろうと、技術的にはあまり面白い点もないだろうと考えているのである。

 それに加えて文化的な面から言えば、ここハルケギニアでは平民が使うような武具の類は軒並み軽んじられているという点も大きい。

 

 しかしそのあたりの事情を知らないディーキンは、もしかするとこちらの方ではこういった品はありふれているので珍しく感じないのかも、と想像していた。

 だとすれば、しかるべき店に行けば、強力な武具の類が安く手に入るかもしれない。

 こちらの方で自分が持っている貨幣などがどのくらい通用するかはわからないが、機会があり次第どこかで武器屋を覗いてみよう、と心に決めた。

 

 さてそこで、ディーキンの返答に目の色を変えた2人(特にコルベール)がさらに問い詰めようとするのを、横合いからオスマンが制する。

 

「こら、待たんか。2人とも、脱線はそこまでじゃ。正直言ってわしも興味はあるが、今は議題が先ではないかね?こんな調子では日が変わってしまうわ。後でゆっくり話せばよかろう!」

 

「あ……、す、すみませんオールド・オスマン。……その、使い魔とはいえあんたはいずれ帰るわけだし、自分で買ったものなら渡せとは言わないけど……。ただ、その帽子を後でちょっと貸しなさい! 約束よ!」

 

「……むう、残念ですがその通りですな。しかし、今度は是非その品々について教えてくれ。君の居たところについても詳しく! 約束ですぞ!」

 

 2人とも最後まで名残惜しげにしていたが、ともあれ中断していた議題に戻る。

 

 結論としては、ディーキンの提案が通る形となった。

 図書館から古今東西の使い魔のルーンが記された事典を貸出し、それを元にディーキンが自分の体のどこかに適当なルーンを入れて、第三者には正規の契約を済ませたものとして通すという事で決着したのだ。

 

 何も本当に体にルーンを入れなくても、その変装帽子で偽装すればいいのではないか……?

 という意見も出たが、帽子は常に身につけっぱなしというわけにはいかない。

 ディーキン自身も、自分はいつもこの帽子を被っている気はない(頭には他に装備したいものがあるのだ)といったためにボツとなった。

 

 

 その後も、契約しなかった場合に考えられる細々とした問題点を並べ出し、それに対する解決策を提案し合い、折に触れてディーキンの話を聞き……、と言った具合で、議論が続けられた。

 

 ようやく全員がひとまずこれでよしと合意したときには、既に夕食の時間も過ぎてしまっていた。

 そこで皆で食堂へ向かって余ったものを適当に食べさせてもらった後、コルベールが図書館の鍵を開けて古いルーンの本を探し出し(ディーキンは図書館の大きさと、そこにある物凄い本の数とに感嘆していた)、最後に議論の結果を簡単に再確認して、解散となった。

 

 話こそ長引いたものの、結論としては、

 

『正規の使い魔と同様に働き問題を起こさない限りは、いくつかの点で口裏を合わせたりルーンを偽装したりさえすれば何とかなるだろう』

 

 ということで無事にまとまり、皆ほっとしていた。

 

 なおディーキンは図書館へ寄った際、自分はこのあたりの事に疎いので勉強したいからと説明して入館許可をオスマンから取り付けておいた。

 本も早速十数冊ほど借りて背負い袋に収め、至極ご満悦である。

 今は、ルイズの私室に2人揃って戻ってきたところだ。

 

「いろいろあったけど、どうやら片付いたわね。……にしても、今日は疲れたわ」

 

「ゴメンなの。お詫びにディーキンは、ルイズの肩を揉むよ。……ウーン、でも背が届かないみたいだから、ルイズがちょっとしゃがんでくれたらね」

 

「ありがと、でも別にいいわ。あんたが悪いわけじゃないし、謝ることもないわよ。……ところで。契約してないとはいえあんたは使い魔になったんだから、いい加減に私の事はちゃんとご主人様って呼びなさいよ」

 

「ウーン……、それなんだけど、ディーキンには昔“ご主人様”って呼んでた相手がいたの。だからどうも、ルイズの事はそう呼びにくいんだよ。どうしても昔のご主人様を思い出すからね」

 

「ああ……、そういえば、ドラゴンに仕えてたとか言ってたわね。あんたがどこに住んでたのかは知らないけど、韻竜がまだ生きてて亜人の子がそれに仕えていたなんていまいち信じられないわね。いや、別にあんたのことを疑うわけじゃないんだけど、想像できないっていうか……」

 

 ルイズは先ほどの議論の際にディーキンから、『冒険に出る前のご主人様は白いドラゴンで、自分は彼からバードの技を教わった』という話を聞いていた。

 だとすればそれは、ハルケギニアの基準から言えば韻竜(言語を理解し先住魔法を操る、知能の高いドラゴン)ということになるが……。

 既に絶滅したという韻竜がまだ生きていて亜人の子に楽士の手ほどきをするなどとは、あまりにも荒唐無稽でとてもではないが信じる気にはなれなかった。

 

 かといって彼が悪い亜人で無い事は確信しているし、総合的に見ればいい使い魔を引いたとも思う。故意に嘘をついているとも思わない。

 では先ほどからの“ありえない”話は何なのかと考えてみて……。

 英雄と冒険したなどという話といいもしやこの亜人の子は自覚なしに嘘をついている、つまり妄想の気でもあるのではないか、とルイズは思い始めていた。

 

 まあ、妄想というだけでは実際に素晴らしいマジックアイテムを持っている事などは説明がつかないし、一部は真実もあるのかもしれない。

 先ほどの呪文やその見た目からは大して強いとは思えなかったものの、ドラゴンの血を引いているとか英雄と冒険したというのがもし事実だとしたなら、自分の予想に反して実は強いのだろうか。

 そう期待して、尋ねても見た。

 

 だが、ボスの方が自分よりずっと強く、彼はいろいろな事が出来るが主に武器を持って戦う戦士だという返答を聞くと、やはり大したことはないと諦めた。

 主に武器で戦うという事は平民か、メイジだとしても剣より頼りにならない魔法しか使えない程度の腕前ということ。

 魔法の力に比べれば、武器に頼って戦うものの強さなどたかが知れている。

 例えそのボスとやらがよほど強い戦士で、俗にいうメイジ殺しの類だったとしても、せいぜい経験の浅い並みのメイジになら勝てる程度が関の山のはずだ。

 英雄だというのも、世間知らずの亜人の子どもが抱いた憧れからくる過大評価に違いあるまい。

 

 だがディーキンとしても、今はまだ嘘だとしか思ってもらえないであろう大きな話をするのは控えようと事前に考えていた。

 それで心酔する偉大なボスの活躍や自分のわくわくするような経験の数々を語り明かしたいのをぐっとこらえ、内容を選んで話したつもりだったのだ。

 しかるにルイズにとっては、それでもなお信じられるレベルではなかったようだ。

 ここでもまた、お互いの認識の違いによる誤解が発生していたのである。

 

 ディーキンとしては、フェイルーンのコボルドがドラゴンの血を引いていることは既に話したのだから、昔の主人のことくらいは話してもいいと考えていた。

 

 フェイルーンでは竜と言えば通常は真竜(トゥルー・ドラゴン)の事を指す。

 彼らは主に善なる金属竜(メタリック・ドラゴン)と邪悪なる色彩竜(クロマティック・ドラゴン)とに分かれるが、稀にはそれら以外の真竜もいる。

 ワイヴァーンやドレイク、ドラゴン・タートルなどの真竜でないドラゴンは通常、亜竜と呼ばれている。

 そしてホワイト・ドラゴンは色彩竜の中で最も小柄で知能の低い、真竜の中では最弱の種のひとつとして知られている。

 ゆえに、今ならば、主人がホワイト・ドラゴンだったという程度のことは話が大きすぎるとは思われまい……、と踏んだのだ。

 

 もっともディーキン自身は、今でも彼……タイモファラールは自分より強いと思っているし、ましてや弱いとか愚かだとは全く考えていないのだが。

 彼は比較的若く怒りっぽい竜だが、単に力があるとか頭が切れるということだけでは測れない強さ・賢さを持っていることを、傍で見て知っているからだ。

 ディーキンは今でも彼を恐れているが、同時に自分にただのコボルドとは違う道へ進むきっかけを与えてくれた主として感謝してもいる。

 

 一方、ルイズの認識はそれとはまったく違う。

 

 ハルケギニアにもドラゴンはいるが、フェイルーンのそれとは種類や性質が全く異なっている。

 フェイルーンでいうところの真竜として扱われている火竜や風竜にせよ、ワイバーンなどの亜竜にせよ、それらはハルケギニアでは使い魔でもない限りは普通の獣並みの知能しか持っておらず、当然言葉も解さない。

 言葉を話すのは既に絶滅したと言われている韻竜と呼ばれる種だけで、それは最強の妖魔とされるエルフと同等かそれ以上と目される存在である。

 そんなとんでもない、しかも既に滅びたはずの伝説上の存在に師事したなどと言われても誇大妄想かホラ話の類としか思われないのは無理もない。

 

 ハルケギニアの基準で見れば、フェイルーンの真竜は例外なくみな韻竜ということになるだろう。

 

 最も知能が低いとされるホワイト・ドラゴンでさえ、誕生直後のワームリング段階で既にドラゴン語を話せるだけの知能がある。

 それがアダルト段階に達すれば少なくとも並みの人間程度には賢くなり、更に年を経れば、人間ならば天才的と呼びうるほどの知性を得るのだ。

 最も知能が高いゴールド・ドラゴンともなれば、誕生直後でさえ既に並みの人間の賢者を凌駕するほどに高い知性を有する。

 それどころかワイヴァーンなどの亜竜でさえ殆どの種が通常の動物とは明らかに一線を画する知性を備えており、言葉を解することも多い。

 ついでに言えば、フェイルーンではエルフも人間の街を普通に歩いているし、別に人間と敵対などもしていない。

 

 先程の話し合いで相互の認識の食い違いはいくらかは改善されたものの、まだまだ互いに確認しなければならないズレは多いようだ。

 もしディーキンが自制せずに、ボスはドロウ(ダークエルフ)の軍勢を破り、地獄へ送られて悪魔の群れと一戦交え、さらには巨大なドラゴンや、ゴーレムの群れや、ヴァンパイアの教団などとも戦った、まさしく神話級の英雄である……、などと正直に話していたら。

 間違いなく、完全な妄想狂だと断定されてしまっていたことだろう。

 

 さておき、そんなお互いの認識のズレやルイズの内心などは露知らず。

 ディーキンは首を傾げて、あれこれ思案していた。

 

「いや、ディーキンはルイズにウソなんかつかないの。……ウーン、それで、ルイズの事はなんて呼べばいいかな? ディーキンにはボスももういるしね……、髪が桃色だから“ピンクレディー”とか? ああそうだ、“ステキ女性”っていうのはどうかな。いいと思わない?」

 

「……あ、あんたねえ……」

 

 ルイズはこめかみを押さえて首を振ると、内心で溜息を吐いた。

 見た目に反して賢いかと思っていたが、やっぱりこの亜人は何かずれている。

 

(妄想じみたことも言うし……、それともフェイルーンとかいう場所のコボルドは、こういうのが普通なのかしら?)

 

「……やっぱりルイズでいいわ。忘れてちょうだい。もういいから、話を変えましょう。……ねえ、そういえばほら、あの帽子、貸してくれる?」

 

「アア、そうだったね……。でも別にディーキンはその帽子をそんなに使わないから、必要なときだけ貸してくれるならルイズにあげてもいいよ?」

 

 ルイズは帽子を受け取ると、もじもじしてディーキンを見つめた。

 

 彼女が変装帽子を貸してほしがったのは、単に平面を増量してみたいとか、憧れの下の方の姉の姿に……、とかいったごくありきたりな理由である。

 とはいえ、いくら相手が使い魔で亜人の子どもとはいっても、そんな姿を見られるのは気恥ずかしかった。

 

 今すぐしたいのは山々だが、見られたくはないし……彼もこういってくれているのだからいつでもできるだろう。

 それに今はもう眠いし、明日一人になった時にしようとルイズは決めて、一旦帽子を返す。

 

「こんな凄いもの……、いえ、あんたの故郷では凄くないのかもしれないけど、とにかくちゃんと契約したわけでもないのに受け取れないわ。ちょっと興味があって使ってみたいだけだし、こっちから頼んだ時に少し貸してくれればそれでいいわよ」

 

「そうなの? ウーン、ルイズがそういうなら。じゃあ、もう遅いから明日の朝また来るね。おやすみなの、ルイズ」

 

 ディーキンはそういうと、ルイズにちょこんとお辞儀をしてから部屋を出ていこうとした。

 ルイズはそれを見て、目を丸くする。

 

「ちょ、ちょっと。どこいくのよ?」

 

「ン……? ええと、ディーキンはここに来たばかりだから、部屋が無いのは知ってるよね。もう遅いしこのあたりは宿もなさそうだから、どこか外で寝るところを探すの」

 

 それを聞いたルイズは、呆れたような顔をした。

 

「……何言ってんのよ、あんたは私の使い魔になったんだからここで寝ればいいじゃないの。まあそりゃ、ベッドは空きが無いし、翼とかが生えてるあんたが使うのかも知らないけど……、部屋の床でも野宿よりはいいでしょ? 毛布はもし無ければ貸してあげるけど、あんたは冒険者だとか言ってたし、背負い袋の中に持ってそうね」

 

 ディーキンはその言葉を聞くと、驚いたようにまじまじとルイズの顔を見つめた。

 次いで、自分が今いる部屋をきょろきょろと見回す。

 非常に豪華な内装が施された貴族的な私室だ。

 ウォーターディープでもこんな高級そうな宿には泊まったことがない。

 今では英雄の身になったとはいえ、ウォーターディープは未だメフィストフェレスによる破壊から立ち直りきっておらず、難民があふれかえっている。

 そのためボスは宿を難民に譲って街道で野宿することも多く、ディーキンもそれに従っているのだ。

 

 フェイルーンでは大体2sp(銀貨2枚)も払えば、粗末な宿になら泊まれよう。

 その場合は暖炉の傍の床で他の客と並んで寝ることになる……、まあ宿の主人に気に入られれば、ノミだらけの毛布くらいは貸して貰えるだろうが。

 5spほど払えば、もっと身分のいい客と同室で一段高い暖房された床に、毛布と枕を使って眠れる。

 寝台のある個室が欲しいのならば、一泊当たりまず2gp(金貨2枚、銀貨20枚相当)は払わなければならない。

 今いるような豪奢な部屋で、しかも床とはいえ上等の毛布までつけてもらうのには、一体いくらかかるだろう。

 

 自分は使い魔にされるとは知らなかったとはいえそれと知って召喚に応じたのであって、別に異世界から拉致されたとかいうわけではない。

 つまりルイズに養ってもらって当然という立場ではないし、むしろ先程無理な要求を受け入れてもらった分負い目がある。

 よって当然、使い魔として貢献し、対価として最低限日常の糧くらいは要求していい立場になれるまでは野宿をし、食事も自分で用意するつもりでいた。

 

 使い魔になるということで互いに合意したとはいえ、まだ彼女のために何の仕事をしたわけでもないというのに。

 彼女はこんな良いところで、薄汚れたコボルドの自分を寝泊まりさせてくれるというのか?

 自分は、ウォーターディープの英雄になる以前には金のあるなしに関わらず追い回されて、まともな宿など望みようもない生活が続いていたというのに。

 加えて先程も、食堂で自分にも無償で高級そうな食事をさせてくれたし……。

 貴族にとっては余り物とのことだったが、あの食事だって宿で食べれれば一日あたり軽く5spかそこらは取られるだろう。

 

 ディーキンの中では、ルイズに対する評価がグングン上昇していた。

 

 今のところ彼にとってルイズは性格のキツイ高慢な少女などではなく、文句なしで優しい良い女の子であった。

 いや彼女に限らず、自分のために夜遅くまで話し合い続けてくれた2人の教師といい、本当にここはなんていいところだろうとディーキンは軽く感動していた。

 

「……本当に、その、こんないいところで寝てもいいの? ありがとうなの、ルイズ。あんたはすごく、すごーく優しい人だよ! ディーキンはルイズのために仕事するし、歌を作るし、まだどんな筋書きになるかわからないけど、きっと本にも書くからね!」

 

「ふ、ふふん? そんなに感謝しなくても、主人として使い魔に当然与えるべきものを与えただけよ? まあその、あんたの気持ちはありがたく貰っておくけど、働くのは明日からでいいわ。……ふぁ……、もう遅いし眠いわ、あんたももう寝なさいよ」

 

 ルイズの方は、使い魔からの過剰なほどの感謝にやや当惑しつつも得意げに胸を張ると、ひとつ欠伸をする。

 

 それからディーキンに洗濯ができるかを問い、明日の朝自分の下着を洗うように言いつけるとネグリジェに着替えて明りを消し、ベッドにもぐりこみ……。

 じきに、すやすやと寝息が聞こえ始めた。

 

 ディーキンはそれを見届けると、物音でルイズを起こさないよう気を付けながら、暗闇でこれからの思案と作業を始めた。

 ルイズの気遣いは嬉しかったが、せっかくこんなに面白そうな場所に呼び出されたのに、まだろくに何も分かっていないうちから寝るつもりはなかった。

 コボルドには暗視能力があるので、たとえ明りが消えていても問題なく作業ができるのだ。

 

 

 そのころ、オスマンは自身の寝室で酒を傾けながら、物思いにふけっていた。

 今酒を入れているのは、かつて出会った奇妙な魔術師からもらった、不思議な器だ。

指で強く押すと簡単にへこむ薄い金属の円柱形の容器で、読めない文字らしきものが描かれている。その魔術師が言うには、異界の文字であるらしい。

 もらった当初は酒ではなく、奇妙に舌を刺激する、それまでに味わったことのない美味な甘い飲料が入っていたのだ。

 

「……あの亜人は、お主と同じ世界から来た者なのか? さりとて、お主の使いというわけでもないようだったが……。彼に聞けば、お主の事が少しは知れるかの……、なあ、エルミンスターよ」

 





アーケイン・マーク
Arcane Mark /秘術印
系統:共通; 0レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:接触、最大1平方フィート内に収まる印やルーン
持続時間:永続
 術者はこの呪文で、どんな物質にも傷をつけることなく自分のルーンや印を刻むことができる。ルーンや印は6文字以内でなければならない。
書いた文字は可視状態にも不可視状態にもでき、不可視にした場合ディテクト・マジックの呪文を使えば光って可視状態になる。
リード・マジックの呪文は、文字が単語を成していればそれを明らかにする。
印を解呪することはできないが術者の意志かイレイズという呪文によって除去できる。
生きている存在にも記せるが、その場合にはゆっくりとかすれてゆき、約1ヶ月で消えてしまう。
バードの呪文ではないが、〈魔法装置使用〉と呼ばれる技能を用いることでスクロールやワンド等のマジックアイテムから使用することが可能である。

大いなる転輪:
グレイホークという物質界を内包するD&D標準の宇宙観。
フォーゴトン・レルムは同じD&Dでも大いなる転輪とは異なる宇宙観における世界であるが互いに接続があり、共通の魔法を使ったり、たまに行き来する者もいる。
D&D3版系と同じd20システムで判定するゲームには、メジャーどころではd20モダンやd20クトゥルフなどがある。
現代兵器やクトゥルフのモンスターとD&D冒険者で戦うことも、逆に現代人でD&Dモンスターと戦うこともできるわけだ。
キワモノとしてはd20スレイヤーズ、d20ヘルシングなどといったものもある。
なおフェイルーンの有名人であるエルミンスターは地球にやってきたことがあり、公式に地球とD&D世界には接続がある。
したがってゼロ魔とD&Dをリンクさせた場合、ハルケギニア・D&D世界・地球それぞれに繋がりがあることになる。

大魔法使いエルミンスター:
レルムの魔法の女神・ミストラに選ばれた者として生まれたという、まるで日本のラノベみたいな設定の公式チートキャラ。
おそらく3版系の時代におけるフェイルーン最強の人間で、既に千数百年も生きている。
なお、マウンテンデューが好きというのはD&D公式設定である。
米国のサポート雑誌は「レルムの世界の秘密を、次元移動能力で登場したエルミンスターから聞いて作者がまとめた」と言う設定になっている。
ただし彼がそれをフェイルーンの方で本に書いたとかディーキンがそれを読んでいるという点は本作の捏造である。
ただ、高レベルのバードは強力なウィザードの幼少期のアダ名などといったトリビアルなことを普通に知っている。
したがって、ディーキンなら地球やハルケギニアの事をどこかで小耳にはさんだことがあってもさほど不思議ではないと思われる。
……というか、NWN原作中でも、ドナルド(某夢の国のアヒルの方)をどこかで見知っているらしい会話があったりする。


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第七話 Reader

 

 ―――神話や宗教は滅多に歴史家に影響を与えないが、少数の例外はある。

 ハルケギニアにおいては始祖・ブリミルにまつわる伝説などがそうであり、フェイルーンにおいてはいくつもの宗教で語られる創世神話などがそれに当たる。

 

 フェイルーンの歴史は、神々にとっての神である超越神エイオーが、現在トーリルの世界がある宇宙を創造したときに始まったとされる。

 宇宙の全ては最初、霧のかかった影の国であり、やがてその影の本質から双子の女神が生まれた。

 それが夜の闇の女神シャアと月の光の女神セルーネイであり、彼女らが協力して惑星トーリルや、他の多くの天体を創造し、命を吹き込んだのだという。

 

 その過程で、現在のトーリルの世界を体現する大地の女神ショーンティアが生まれた。

 ショーンティアは地上に生命を育むための暖かさを願ったが、それについて双子の女神の意見は分かれた。

 合意をみることはなく、ついに彼女らは自分たちが生み出したものの運命を掛けて戦いを始めた。

 

 セルーネイは宇宙を突き抜けて火の元素界へと達し、純粋な炎を使用して天体の一つに火を着け、ショーンティアが暖まるようにした。

 シャアはそれに激怒し、宇宙にあるすべての光と暖かさを消し始め、セルーネイを手酷く弱らせた。

 

 彼女たちの激しい抗争によって、戦争、病気、殺人、死などを司る多くの恐ろしい神々と、そして最初の魔法の女神であるミストリルが生まれた。

 2人の女神の魔法の本質から生まれたミストリルは光と闇双方の魔法から成る神であった。

 だが、彼女は最初の母であったセルーネイを好んでおり、最終的には両母の争いを平定して停戦を成立させたという。

 

 その創世時代の終焉がどれだけ昔の事なのか、現在のフェイルーン人は知らない。

 少なく見積もっても幾万年か…、あるいはそれ以上昔の事とも言われている。

 

 確かなことは、彼女らの争いは今もなお続いているということだ。

 シャアは未だに孤独を心に抱いて闇の中に潜みながら復讐を誓っており、一方セルーネイは現在では光と共に満ち欠けしながらトーリルの回りを巡っている。

 彼女は多くの子らに囲まれ、更には他の世界からやってきた“もぐり”の神々とも友好を結んでいるという。

 

 そう、フェイルーンの空に昇る月は創造神である光の女神そのものであり、セルーネイと呼ばれているのだ。

 かの地の賢者たちが注意深い観察や忍耐強い占術によって調べたところでは、彼女自身が一つの世界と呼べるほどに大きいらしい。

 地上からは腕を伸ばした先にある人間の掌くらいの大きさにしか見えないが、それはトーリルの回りを約2万マイルも離れて回っているためだという。

 実際にはセルーネイの直径は、おそらく2千マイル以上あるだろうと賢者たちは推測している。

 セルーネイはとても明るく、満月になると薄い影を落とすほどだ。

 彼女は弧を描いて空に広がりながら月を追いかける美しい数多くの発光体を伴っており、それらはセルーネイの涙と呼ばれている……。

 

 

 ――――窓の外に見える2つの月を眺めながら、ディーキンはフェイルーンの創世神話にぼんやりと思いを馳せていた。

 

 ルイズは既にベッドの中で、ぐっすりと眠っている。

 ディーキンは、ここがフェイルーンではない事は間違いないと既に確信していたので、作業の準備をしていた時にふと窓から見えた見慣れぬ月にもさして驚きはしなかった。

 そもそもディーキンはこれまでにも、アンダーダークや影界、地獄などの、空にセルーネイの月が登ることの無い世界に行った経験があるのだ。

 とはいえ2色の月が夜空に登るという光景は新鮮で美しく、しばし見入っていた。

 

「ウーン、あの2つの月はどんな神様なのかな……。もしかして仲のいい双子の兄妹とかだったら、いい詩の題材になりそうだね」

 

 さておき、ここがフェイルーンでないことは夜空に輝く2つの月を見ても間違いない。

 だがディーキンは、まだここがトーリルではない別の物質界または次元界に違いないとまで結論することはしていなかった。

 

 勿論、距離が離れたくらいで1つの物が2つに見えたり、色や姿が変わってしまったりはしないというくらいはディーキンも理解している。

 だが、セルーネイは伝承の通り単なる物体ではなく神そのものであり、そういった常識が通じるものかどうかは怪しいだろう。

 

 カラ・トゥアやマズティカなど、トーリルにあるフェイルーン以外の文化圏では、フェイルーンとは異なる神々のパンテオンが信仰されているらしい。

 ならば、それらの地方にはセルーネイの月が登らず、その地方で信仰されている神の月が空に輝いていても、あるいは空に月が無くてもおかしくはあるまい。

 ゆえにハルケギニアがトーリルの中にあって異なる神々のパンテオンを信奉する別の大陸である可能性もまだ残っている、と踏んだのだ。

 

「……ンー、まあ、歴史や神話の本っぽいのも何冊か借りてきたし、読んでみればわかるかな。そろそろ勉強を始めないといけないね―――」

 

 ディーキンはいい加減に月を眺めるのを止めて、借りてきた文献を読む作業に取り掛かることにした。

 なんにせよ、明るい月明かりが窓から差しているのは好都合だ。

 ルイズが寝ているので明りは灯したくないが、完全な暗闇で暗視能力を頼みにすると視界が白黒になってしまうのだ。

 それだと本は読みにくいし、少しでも明りがあってくれれば他のさまざまな作業をする上でも大いに助かる。

 ディーキンには完全な暗闇でも見える暗視に加えて、低光量の視野を改善する夜目の能力もある。

 そのため、このくらいの月明かりがあれば昼間と同じようによく物が見えるのだ。

 

 まずは図書館で借り出してきた十数冊の本の表紙にざっと目を通す。

 いずれも、タイトルが全く読めない。

 どうやら召喚時に《言語会話(タンズ)》に似たような呪文の効果は付加されたが、読み書きまでは可能になっていないらしい。

 

 だが、勿論そんなことは図書館で本を選んでいた段階で既に分かっていたことだ。

ディーキンは構わず、それらの中から一冊を手に取った。

 

 途端にそれまで読めなかった本のタイトルが頭の中で意味を成し、読解可能になる。

 これは《魔法感知(ディテクト・マジック)》と同様、以前にスクロールで《永続化(パーマネンシイ)》して定着させておいた、《言語理解(コンプリヘンド・ランゲージズ)》の効果によるものだ。

 各地を旅する冒険者、特にバードとしては必須の呪文であり、いちいちかけなおさなくて済むのはとてもありがたい。

 なお《言語理解》では魔法の文字は読めるようにならないが、ディーキンは同様に《魔法読解(リード・マジック)》も永続化しているため問題はない。

 

 ディーキンは順番に手に取って本のタイトルを確認し直しながら、まず何から読んだものかと思案する。

 暫し考え込んだ後、まずはハルケギニア語の辞書と簡単な語学の学習書を通読することに決めた。

 歴史や神話、魔法学などの興味ある本にすぐに取り掛かりたいのは山々だが、まずはこちらの言葉の読み書きを魔法に頼らずできるようにしておきたい。

 

 《言語理解》の効果は決して万能ではない。

 この呪文では書かれた文面や相手の話を理解できるようにはなっても、こちらが書いたり話したりできるようにはならないのだ。

 加えて理解したい書面やクリーチャーに接触しなくては効力が発揮されないし、読む速度も決まっていて、スムーズに読めるというにはやや遅い。

 会話については《言語会話》に似た効果を既に貰っているので問題なさそうだが、文書を満足に読めないというのは不便だろう。

 例えば道の看板ひとつ読むのにも、いちいちそこまで歩いて行って触れなければならないということなのだから。

 なによりも、現地の言葉もまともに分かっていない、というのではバードとしての立場が無い。

 

 無論、ここの言語を学ぶにしても、普通ならば相応に時間がかかる。

 分厚い辞書や学習書などを《言語理解》の効果に頼りながら地道に読んでいたのでは、習得に一体幾日かかるかわかったものではあるまい。

 

 だがしかし、それに関してもディーキンには既に計画があった。

 目の前に並べた二冊の本を、早速開いて読み始める……、のではなく。

 本はそのままにしておいて、荷物袋をがさごそとかき回すと一本のワンドを取り出した。

 

 ワンドはフェイルーンではごく一般的なマジックアイテムの一つであり、秘術・信仰の別を問わず多くの呪文使いが頻繁に使用しているものだ。

 外見は通常指揮棒のように細い杖で木や骨で出来ており、4レベル以下の呪文を一種類、50発分内部に蓄えた状態で作成される。

 蓄えられた呪文はその呪文を習得し得るクラスの術者ならば誰でも、実際には習得していなくてもコマンドワードひとつでワンドから解放できるのである。

 

 フェイルーンの呪文使いの多くはこういったアイテムを用意することで、レパートリーの不足を補ったり手数を増やして非常時に備えている。

 より上級のマジックアイテムであるスタッフや、一回使いきりのスクロールなどにも同じことがいえるだろう。

 

「《エケス》」

 

 ディーキンはワンドを左手に持つと、呪文開放のためのワードを唱えた。

 途端に頭がすうっと冴えわたるような爽快感を伴う魔力の流れが、ワンドからディーキンの全身に伝わっていく。

 そうして呪文に意識を集中したままゆっくりと右手を伸ばし、辞書の表紙に触れる……。

 

 途端に凄まじい量の知識が渦を巻いて、書物からディーキンの頭に流れ込んでいった。

 新たな知識を得て突然世界が明るく広がるような新鮮な歓びと、急激な知識の流入による微かな眩暈を感じながら、ディーキンは本から手を離す。

 

 今使用したワンドには、《学者の接触(スカラーズ・タッチ)》という呪文が込められている。

 これを使用すればどんなに分厚い本であろうと開くまでもなく、数秒接触しただけで内容をすべて熟読したに等しい知識を得ることができるのだ。

 これまでの冒険が戦いの連続であったため、戦闘時に有用な呪文主体に選択してきたディーキンは自力では習得していないが、非常に便利な呪文といえる。

 

 もちろん本来なら自分の目でゆっくり読む方が断然好きだし、ワンドを使えば金もかかる。

 しかし、今は早くここがどんな場所なのか知りたいし、知識不足では十分な仕事ができずルイズにも迷惑が掛かってしまうだろう。

 他にもルーンを調べたり色々とやりたいことがあるので、本をのんびり読んでいるわけにはいかない。

 一息つくと更にもう一度ワンドを使用し、続いて語学の学習書の方にも触れて内容を吸収した。

 

 これで、とりあえずこちらで使われている単語の綴りと文法に関しては、入門書を一回通し熟読した程度の知識は得ることができたはずだ。

 あとは《言語理解》の助けを借りたり、これらを見返したりしながら本を読んでいけば、まあ簡単な文書くらいはさほど時間もかからずに……。

 

「………ンン?」

 

 そこまで考えて、ディーキンは妙な事に気が付いた。

 自分は今、“読んだ”内容に関して詳しく思い返そうともしていないし、もう本に触れてもいない。

 なのに何故、目の前にある十数冊の本のタイトルが自然に読めているのだろう?

 

 《学者の接触》はあくまでも一回通し本を熟読したに相当する知識を与えてくれる魔法であり、完璧な記憶力や習得能力を提供してくれるわけではない。

 最近は竜の血に目覚めたせいか妙に頭が冴えてきた気もするが、とはいえ辞書と学習書を一回通読しただけで未知の言語を母国語同然に習得できるなど。

 そんな桁外れの知能が、自分にあるはずがないのに……?

 

(ウーン……、これももしかして、ゲートを潜った時の効果かな?)

 

 タンズの魔法みたいなものかと思っていたが、勉強の役にも立つとは。

 ディーキンは嬉しくなって、思わずイヒヒヒ、とほくそ笑んだ。

 

「スゴイや! これならディーキンは言語学者にもなれるかもね……。よーし、ボスのところに戻るまでに50ヶ国語くらい覚えて、ディーキン・ザ・スカラーって呼んでもらおうかな!」

 

 以前に砂漠に埋もれたアンドレンタイドの地下遺跡を冒険したとき、ディーキンは古代の偉大なミサルの魔力の幾許かを目の当たりにしたことがある。

 それには都市部全体に掛けられた通訳の魔法も含まれていた。

 アンドレンタイドがまだ空中にあった頃には、千の国から人々が訪れたという。

 そこではすべての人々が相手の言葉を自分の母語として理解でき、取引や知識の交換を不自由なく行っていたらしい。

 都市が墜ちて砂漠に埋もれた現在でもその機能が生き残っていたらしく、石化した自分達を捕えたアサビ族とも支障なく会話ができていた。

 

 そのミサルの魔力は都市すべてに作用する大規模なものだったが、しかし都市から出れば消え失せ、後に知識を残してくれるわけでもない。

 アサビ族と意志を疎通したからと言って、彼らの言葉を習得できたわけではないのだ。

 対してルイズの召喚によって付与されたこの力は召喚された生物一体に対して働くだけだが、僅かな学習で未知の言語を習得することさえ可能にするとは。

 部分的に見ればミサル以上かも知れないその効果にディーキンは感嘆し、すっかり舞い上がっていた。

 

 なんだかディーキンの工夫とこの素晴らしすぎる効果とのコンボのせいで、どこぞの青い髪の少女との素敵なイベントが潰れてしまったような気もするが。

 そんなことは当のディーキンには知る由もないのである。

 まあ、それはさておき。

 

「♪~………、ア、いけない」

 

 舞い上がってはしゃいでいたディーキンは、思わずリュートを鳴らして鼻歌を歌い……、同じ部屋でルイズが寝ていることを思い出して、慌てて止めた。

 そう大きな音では無かったとは思うけど、独り言を言ってはしゃいだり笑ったり、歌ったりしたせいで、起こしてしまってはいないだろうか?

 

 ルイズの不機嫌な顔を想像しておそるおそる振り返ってみる。

 ……が、彼女はまるで何の変化もなくぐっすりと寝ていた。どうやら随分と寝つきがいいらしい。

 

「……ンー、ルイズは冒険者には向いてないっぽいの」

 

 アンダーマウンテンあたりでこんなのんきに寝ていたら、目が覚めたころには首と胴体が泣き別れになっていそうである。

 ディーキンはほっとしながらも肩を竦めてそうひとりごちると、顔の向きを元に戻した。

 

 さて、予想外の速さで言語を習得できたのは嬉しいが、とはいえ普通に読書を愉しむのは後回しだ。

 ワンドのチャージはまだ十分にあることだし、借り出した本を早いところすべて読破してしまおう。

 ある程度状況の把握ができ次第、今後の方針なども考えなければならない。

 加えてルーンの偽装もしなくてはならないし、興奮は収まらないがちゃんと眠って呪文の力も回復させておかなくてはならない。

 翌朝になればルイズから頼まれた仕事もあるのだ。もたもたしてはいられない。

 

 ディーキンはワンドを左手に握りなおすと、早速残りの本に取り掛かった……。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

「このイルククゥが許しても、大いなる意志がお前のちびさ加減を許さないのね。っていうかその青い髪は何なのね、人間の髪の毛でそんな色なんて聞いたことないのね。大体風竜みたいな色は生意気なのね、お前はジャイアントモールみたいな茶色の毛でも生やしてればいいのね。ところでおなかがすいたのね、召喚主として私の食事には責任を持つべきなのね」

 

…………

 

 所はやや変わって、ここはルイズのクラスメイト・タバサの私室である。

 

 先程からベッドで寝ている彼女に向かって窓の外から首を伸ばし、呪詛めいた言葉を吐きまくっているのは、彼女が召喚した風韻竜のイルククゥだ。

 どうやら韻竜という偉大な種族として立派なメイジに召喚されていると思っていたのに、生意気でちびな少女が主だったことが気に入らないらしい。

 

 その後、実は寝ていなかったタバサが唐突にベッドから起き上がってビビったり。

 絶滅したはずの韻竜だとばれては面倒だから今後喋るなと命じられて抗議したり。

 しかしタバサの迫力に負けて結局押し黙らされたりと、一悶着あった。

 

「……う~~、……あっ、そうなのね! ほ、ほら、さっき召喚されてたちっちゃい子、あの子も喋ってたじゃない! ちょっと騒ぎにはなってたけど誰も喋るなとはいわなかったわ、なのにイルククゥはダメなのね? これは明らかに不公平なのね!」

 

 タバサとの<威圧>合戦には負けたものの、このままずっと喋れないなんて冗談ではない。

 そう考えたイルククゥは、あわてて知恵を絞った結果、今度は先ほど召喚された別の使い魔を例に挙げて<交渉>を試みた。

 

 一方その言葉を聞いたタバサは、表情こそ変わらないものの、少し首を横に傾げた。

 

「………何のこと?」

 

「むっ、さてはとぼける気なのね? ほら、さっきあんたと同じくらい変な桃色の髪の奴が呼び出してた子よ! お前らみんなであれだけわいわい騒いでたのに、忘れたとは言わせないのね!」

 

 ……ああ、あの、ヴァリエールの使い魔の事か。

 

 突然予想外の話を持ち出してきた使い魔に、タバサは内心で溜息を吐いた。

 確かに亜人の、しかも未知の種類の使い魔となれば、非常に珍しいし危険だとみなされる恐れも高い。

 だが、ヴァリエールはこのトリステインでは有数の名門貴族の娘だ。

その使い魔が珍しいからとか危険だからと言って、奪い去ったり処分したりすることはまず考えられない。

 

 一方自分は、何の後ろ盾もないどころか本国からの命令があれば逆らえない身分だ。

 韻竜を使い魔にしたなどと知れたら、気まぐれな従姉妹や憎むべき叔父からどんな要求をされるか分かったものではない。

 

 ……しかし、それをこの子に委細余さず説明する必要は少なくとも今はないだろう。

 ここは亜人と韻竜の差異にだけ言及して、要求を退けておこう。

 

「状況が違う。あの子は亜人であなたは竜」

 

 それを聞いたイルククゥはますますぷんすかして抗議を続ける。

 

「きゅいきゅ~い! 違うのね、騙されないのね! あの子は見たことないおかしなちびすけだけど、確かに竜なの。イルククゥがその匂いを間違うはずが無いのね。……っていうか、イルククゥを一目で韻竜だって見抜いたお前がそれに気付いてないっていうの? 嘘くさいのね~、誤魔化そうとしてもそうはいかないわ!」

 

 ……あの子ども(だと思う)の亜人が、竜?

 

「……本人はコボルドだと言っていた」

 

「お前は思ったよりおめでたいやつなのね、あんなコボルドがいるわけないのね!」

 

「あんな竜はもっといない」

 

 確かに、あの亜人は本で読んだコボルドとはまったく姿が違っていた。

 念のため部屋に戻ってから挿絵付きの図鑑を見返してみたが、姿も性格も明らかに異なるようだった。

 しかしなんとなく犬っぽいところもあったし、未知の亜種とかかもしれない。

 仮にコボルドではないにせよ、亜人だというほうが、ドラゴンの仲間だというよりは無理があるまい。

 

「火竜や水竜だって風竜族とは随分姿が違うし、魔法で姿を変えることもできるんだから見た目で判断しちゃいけないのね。いい、コボルドってのは土臭くて犬臭くて淀んだ水みたいな奴なの。あの子からは私たち竜の力強い匂いと、新鮮な葉っぱみたいないい香りがしてたのね。イルククゥは自分の鼻を信じるのね!」

 

「……………」

 

 タバサはじっと押し黙って、今の話を検討する。

 

 この様子からすると、喋れなくなるのが不満で無理に理屈をでっちあげてごねているだけではなさそうだ。

 今日は本当に興味深い事が色々と起こる日だ。

 絶滅したはずの韻竜が生きていて、自分の使い魔になったというだけでも随分驚かされた(表情は変えなかったがちゃんと驚いていたのだ)というのに。

 あの使い魔が本当にドラゴンの一種なのだとすれば、それ以上に興味深く、知識欲が刺激される。

 この子の言うように魔法で竜の姿を変えているとすれば、先住の風の使い手?

 しかし風韻竜ではなさそうだし、第一あんな変わった亜人になって、コボルドだなどと名乗らなくても……。

 

「―――きゅいきゅい! ちょっと、聞いているのね!?」

 

 ……今は目の前できゅいきゅいと話を続ける煩い使い魔を黙らせるのが先か。

 

 こんな風にいつまでも窓に張り付かれて騒がれていたのでは、既に夜とはいえいずれ誰かに見咎められ不審がられてしまうかもしれない。

 それに今は一応、空気の流れを魔法で若干操作して声が漏れにくいようにしてはいるが、建物を伝わる音や振動は風の操作では遮断できないのだ。

 暴れて窓枠に首をガンガンぶつけられでもしたら振動で近くの部屋の生徒に不審がられる恐れがあるし、第一壊れたら困る。

 

 では、どうやって黙らせよう。

 杖で殴るなり魔法をぶちかますなりするか、それとも、もう一度無言で威圧してみるか。

 いや、納得させるのは難しいにせよ、一応は理屈を説いてからでなくては横暴に過ぎるか。

 

「……彼が竜かどうかは知らない。けど、要は他人からどう見られるか。彼は亜人に見え、あなたは竜に見える。それが問題」

 

「きゅいい!? つまり外見で差別するの!? 不公平なのね、失礼なのね、私みたいな美少竜を捕まえて『外見がダメ』なんて! イルククゥは、韻竜の誇りに掛けても断固抗議……」

 

 

 ―――――イッヒッヒ!♪~……

 

 

 そんな風に両者が議論していると、下の部屋から突然犬がきゃんきゃんいうような笑い声と、リュートの音色が聞こえてきた。

 別段大きな音でもなく普通の人間ならばほとんど聞こえもしなかっただろうが、優秀な風の使い手であるタバサとイルククゥの聴覚は鋭いのだ。

 あの声が今丁度話題に上っていたヴァリエールの使い魔のものだということは、2人ともしっかりと認識できていた。

 

「きゅい! あの子はちょうど真下の部屋にいるみたいね。丁度いいの、同じ竜族としてご挨拶がてら私の扱いの不適切さについて話し合うのね!」

 

 そう言って下に向かおうとする使い魔を、タバサは無言で杖で殴る。

 

「きゅい、痛い! なにするのね~!」

 

「……もう遅いのに迷惑。それに、彼があなたと同じ韻竜だとしても、あの部屋で話せばヴァリエールにもあなたの正体が漏れる」

 

「うう~~!」

 

 あくまで不満そうにこちらを睨んで来る自分の使い魔に、タバサは小さく溜息を吐いた。

 

「……明日になったら、私が折を見て話をしてみる。彼が本当に竜なら、人のいないところであなたも一緒に話せばいい。あなたの処遇についてもその時に考える、とにかくそれまでは話しちゃ駄目」

 

「きゅい、本当? ……わかったの、それなら今夜一晩は我慢してあげるのね」

 

 イルククゥはようやく納得した様子で口をつぐむと、眠るのに適当な場所を探すために中庭へ向かって行った。

 タバサはそれを見届けると、明日の行動予定をぼんやりと考えながら、自分もベッドに潜り込んだ……。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

「……うう~~ん……」

 

 ディーキンは、考えをまとめようと部屋の中でしきりにうんうん唸っていた。

 羊皮紙にメモを取ろうかと思ったが、考えがまとまってから書かないと紙が無駄になってしまいそうだ。

 

 傍には、チャージが半分ほどに減ったスカラーズ・タッチのワンドが転がっている。

 借りてきた本は既にすべてワンドの力を借りて読破したが、それによって得られた情報は非常に多く、かつディーキンにとっても予想外の事が多々あったのだ。

 

「ディーキンには考えることが多すぎるの。アア、ボスやナシーラがいたら、きっとディーキンと一緒に考えてくれるのに!」

 

 一人で考えをまとめるのは、正直言って辛い。

 以前のように自信が無くて誰かに依存したいというわけではないが、しかし己の知識には限りがあるのだ。

 そうでなくても自分一人で考えていては、重要なことを見落としたり考えが偏ってしまう恐れがある。

 誰かに意見を求められれば、知識や知恵を貸してもらえれば、どんなに助かるか。

 

 ルイズは……、まあ、まだ無理だろう。

 使い魔になったのだし隠し事をする気もないが、先程の話でさえ疑われていた様子だったのにいきなりこんな話を振っても取り合ってもらえるとは思えない。

 ではオスマンやコルベールならどうだろうか。

 役に立つかはわからないが、話を聞いて相談に乗るくらいはしてくれるかもしれない。

 

 しかし重要な問題として、ルイズは今寝ているし、オスマンもコルベールも今ここにはいない。

 

 誰か、今すぐ相談できる相手はいないものか。

 それもできれば多くの知識を持つ、賢明で見識の深い相手がいい。

 荷物袋の中にはボスや仲間たちと通信ができるような品はあるかも知れないが、しかしこんな未知の場所で相談ひとつのために消費するのは却下だ。

 もっと重要な場面でいつ必要になるか分かったものではないし、使ったらここでは補充が効かないかも知れないのだから。

 

 となると……。

 

「………ア、あの人がいたの」

 

 たしか、元はウィザードだといっていたし、こういう時に話すのにはいいかも知れない。

 いつも相談すると嫌がるのだが、他に相手もいないことだし。

 

 ディーキンは荷物袋の武器入れをごそごそと探ると、一本の短剣(ダガー)を抜き出した。

 

 鞘も持ち手も、刃までもが黒い。

 しかも、見るものに禍々しさを感じさせるような赤黒い仄かな輝きが、刀身に宿っている。

 しかしディーキンは気にした様子も無く、抜いたダガーに向かって“話しかけた”。

 

「こんばんは、久しぶりだね。なんだか顔色が赤黒いよ、あんたは元気なの? 具合が悪いなら磨いてあげようか?」

 

「やあ、コボルド君。こんばんは。手入れはいつでも歓迎ですが、使ってくれる方がなお結構。……おや、今日は、君の“ボス”は一緒じゃないのですか?」

 

 ダガーはどこから出ているのかわからない、まるで人間の男のような声で返事をした。

 

 彼の名は『灰色の』エンセリック。

 以前にアンダーマウンテンで手に入れた、魔術師の魂が宿った武器である……。

 





用語解説:
 構成要素に物質とある場合、その呪文を発動するにはその物質を消費する必要があることを意味する。
構成要素に焦点具とある場合、その呪文を発動するにはその道具を用意する必要があることを意味する。
通常、特に高価でない物質構成要素や焦点具は、すべて術者が身に着けている呪文構成要素ポーチに入れてあるとみなす。
なお、ワンドやスタッフ、スクロール等のマジックアイテムから呪文を発動する場合には、通常これらの要素は必要ない。

タンズ
Tongues /言語会話
系統:占術; 2レベル呪文
構成要素:音声、物質(小さな粘土製のジッグラトの模型)
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に10分
 この呪文は接触したクリーチャーに、どんな言語でも話し、理解する能力を与える。
それがその種族特有の言語であろうと地方的な方言であろうと問題ない。
対象は同時には1つの言語しか話せないが、同時に複数の言語を理解することはできる。
この呪文では会話能力を持たないクリーチャーと話せるようにはならないし、そもそも話したいと思っていない相手が話す気になってくれるわけでもない。
なお、これはバードにとっては2レベルだが、ウィザードやソーサラーにとっては3レベル、クレリックにとっては4レベルの呪文である。
この呪文の効果はパーマネンシイ呪文によって永続化することができる。

コンプリヘンド・ランゲージズ
Comprehend Languages /言語理解
系統:占術; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(煤ひとつまみと、ごく少量の塩)
距離:自身
持続時間:術者レベル毎に10分
 術者はクリーチャーの話す言葉を理解するか、理解できない言葉で書かれた文を読むことができる。
いずれの場合でも、術者はクリーチャーや書面に接触しなくてはならない。また、話したり書いたりできるようにはならない。
文章を読める速さは、1分につき1ページ(日本語にして750文字程度)である。魔法の文章は、それが魔法的なものだとは分かるが読むことはできない。
また、この呪文には暗号を解いたりする効果はない。
この呪文の効果はパーマネンシイ呪文によって永続化することができ、本作のディーキンはそうしている。

リード・マジック
Read Magic /魔法読解
系統:占術; 0レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(透明な水晶か鉱石のプリズム)
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に10分
 術者は通常の手段では読解できない魔法の文書を読むことができる。
さらに、術者は一度この呪文を発動して読んだ文書は、それ以降は呪文の助け無しで自力で読み解けるようになる。
文章を読める速さは、1分につき1ページ(日本語にして750文字程度)である。
術者が<呪文学>の判定に成功すれば、魔法のルーンによる罠等を識別することもできる。
この呪文の効果はパーマネンシイ呪文によって永続化することができ、本作のディーキンはそうしている。

スカラーズ・タッチ
Scholar's touch /学者の接触
系統:占術; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(羊皮紙の断片と一つまみの火口)、焦点具(薄い円板状の水晶)
距離:自身
持続時間:精神集中の限り、最大で術者レベル毎に1ラウンド(途中解除可能)
 術者は本や巻物に僅かに接触するだけで、あたかも完全に読み通したかのようにそれに含まれる知識を吸収する。
含まれる情報量やページ数がどれだけ多いかに関係なく、一冊あたり1ラウンドのペースで読むことができる。
この呪文によって術者はその文面を実際に一回通し熟読したのに等しい知識を得ることができるが、完全な記憶力まで得られるというわけではない。
この呪文は術者が読めない言語で書かれた文章や魔法の本に対しては効果が無い。
また、この呪文によって魔法のスクロールを発動したり、呪文を準備したりすることはできない。


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第八話 Intelligent Items

 

「………ってことで、ディーキンはここのメイジはカラ・トゥアの方の人たちと何か関係があるんじゃないかと思うの。どうかな?」

 

「ふーむ。残念ですが、私はカラ・トゥアのシュゲンジャ(修験者)についてはほとんど何も知りません。単に忘れて思い出せないだけかもしれませんがね。しかし、君のいう事が事実だとすれば確かに単なる偶然とは思えませんね、興味深い」

 

「ウーン、ディーキンも実際にシュゲンジャに会ったわけじゃないから、ちょっと自信はないけど……」

 

 ハルケギニアへと召喚されたその日の深夜、トリステイン魔法学院のルイズの私室で。

 ディーキンはダガーのエンセリックに、先程読んだ本の内容やそこから推測される様々な事柄、感じた疑問点などに関する説明を続けていた。

 

 エンセリックは案の定、最初は議論に参加することに全く乗り気ではなかった。

 

『………剣なんかに助言を求めるのですか? では助言しましょう。剣なんかに助言を求めないことです』

 

『以前君に……、いえ、君の“ボス”に話したことを、聞いていなかったんですか? 確かに私は以前は偉大なウィザードでした、知識も知恵も備わっていました。ですが今、その頃の私の記憶は消えかかっているんです、この剣の中で少しずつね』

 

『今となってはダークパワーが宿っていそうなだけの黒っぽい黄金の鉄の塊の武器も同然のこの私が、一体議論において何の役に立つというのです? 今の私に比べたら、いきなり見ず知らずの世界なんかに私を連れ込んでしまうようなお気楽なコボルドの方が、まだ脳ミソが詰まっている事でしょう!』

 

 ――――そんな調子で、投げやりな態度で皮肉らしきことを吐いたり、ぶつぶつと愚痴ったり、やさぐれたりするばかりであった。

 

 普段ならそれで素直に諦めるのだが、何せ今回は彼しか相談できそうな相手がいないのだ。

 ディーキンは彼を根気よく宥め、励まし、煽て、説き伏せ……、

 <交渉>の限りを尽くした結果、なんとか彼に過去の記憶を掘り起こして議論に参加しようという気を起こさせた。

 

 おかげで随分夜遅くまで作業時間が伸びてしまったが、まあ彼の知識にはきっとそれだけの価値はあることだろうとディーキンは踏んでいる。

 ウィザードだった時代の事はほとんど忘れたと本人は言っているし、実際冒険中もあまりその知識が役立った試しはないのだが……、

 それでもディーキンは、彼が時折漏らす様々な言葉から、かつて優れた魔術師だった時の知識がまだ彼の中には残っていることを感じ取っていた。

 

 よしんば仮にそうでなかったとしても、こうして読んだ本の内容について思い出し、忘れた点を見直しつつ他人に説明することだけでも有意義だ。

 ディーキンの経験上、こういうことが知識の定着を図るのには最適なのである。

 

 ディーキンは既に、短期間のうちに書物で学んだだけにしては、驚くほどハルケギニアの情報に詳しくなっていた。

 それは、《学者の接触(スカラーズ・タッチ)》で瞬時に本の情報を吸収できたからというだけではない。

 この世界について自分が知っておくべき、必要な情報の載っている本を的確に借り出していたためだ。

 

 これはコルベールらが協力して本を探してくれたからというのもあるが、図書館に入る前に指にはめておいた魔法の指輪の力による部分が大きい。

 《研究の指輪(リング・オブ・リサーチ)》と呼ばれるこの指輪は、着用者の抱く問題を解決するために必要な情報が載っている本の所在、

 さらにはその情報が載っている該当のページ数までも正しく教えてくれるという素晴らしいマジックアイテムなのだ。

 これがあったおかげで数千年を掛けて蓄積された恐ろしく大量の書物の中から、今の自分に最も必要な情報の書かれたものを素早く的確に選べたのである。

 

 この指輪は実際のところ、フェイルーン一般の環境の中ではそこまで便利なものではないと言える。

 比較的安価、かつ優秀なマジックアイテムではあるものの、真価を発揮できず無用の長物と化してしまう事が多い。

 何故なら正しい答えが書かれている本がその場になければ無意味だし、フェイルーンでは本は高級品でそれほど普及していないためだ。

 本の複写は一般に熟練した書記の手作業に依存しているため、同じ内容の写本が1ダースを超えて存在しているような本は極めて稀である。

 文章の内容を複写するような呪文も存在はしているが、それを用いて大量に写本を増やすことは、残念ながらあまり広く行われてはいない。

 一般的な街では、たとえ公共の図書館や貴族の書斎であってもそう大量の本があることは期待できない。

 

 しかしながらディーキンが滞在していたウォーターディープは、フェイルーンでも屈指の大交易都市だ。

 市民の識字率は過半数を超えているし、路上では銅貨1枚でブロードシート(新聞形式の短い巻物)が売られている。

 非常に豊かな市民ならば、装丁された本がぎっしりと詰まった広い専用の図書室を持っていることさえあるのだ。

 そしてディーキンは今では市の英雄の一人なので頼めば大抵の図書室は利用させてもらう事ができる。

 そのため、この指輪の機能も十分に生かせると踏んで先日購入しておいたのである。

 

 まさかウォーターディープをも凌ぐほどに大量の本を自由に利用できる環境に召喚されるとは夢にも思っていなかったが、非常に幸運だったと言えよう。

 この魔法学院の図書館には高さ100フィートほどもあろうかという本棚がずらりと並び、想像を絶するほど大量の書物が収められていたのだ。

 アンドレンタイドの遺跡で訪れた図書館は、在りし日には『一千冊の本の家』と呼ばれていたらしいが、それを遥かに凌ぐ量だ。

 まあ、あの図書館には読むことで実際に本の世界に入り込める魔法の書物などもあったので、単純に本が多いからこちらの方が凄いとは断定できないが。

 

 ともかくこの指輪があれば、知りたい情報はほとんど何でもあの図書館ですぐに調べられそうである。

 これからの日々でどれほど素晴らしい物語をあそこから得られるか、夢が膨らむではないか――――。

 

 さておき、ディーキンは今、ハルケギニアのメイジの魔法体系とカラ・トゥアに住むシュゲンジャの魔法体系との類似点について説明しているところだ。

 

 ディーキンが聞いた雑多な伝聞によれば、カラ・トゥアのシュゲンジャ達は自身を周囲にある根源的なエネルギーと調和させる。

 そしてそれらを自分の体を通して集めることで魔法的な効果を生み出す、という信仰呪文の使い手であるらしい。

 彼らは地水火風の四元素のいずれかの元素と深い結び付きを持ち、それらの自然な調和やその乱れに深い関心を示すという。

 中には魔法を学ぶこと自体を目的として、いつの日か“虚無”、すなわち万物を結びつける第五元素の秘密を体得することを目指す者もいるという話だ。

 また、その“虚無”を使いこなす術を専門に学んだヴォイド・ディサイプル(虚無の探究者)というより上級の術者も存在するという。

 

 その思想は、同様に地水火風の四属性に分かれ、虚無を失われた第五の系統とするハルケギニアのメイジたちの魔法体系とあまりにもよく似ている。

 

 これまで読んだ本の内容は、ハルケギニアがトーリルの別大陸であるという考えではどうにも説明がつかないことが多すぎる。

 ここがフェイルーンとは別の異世界……、いや、おそらくは別宇宙の世界であることは、もはやほぼ間違いないだろう。

 しかし、ではこの奇妙な思想の共通点はどういう事なのか?

 

 それは、彼らがカラ・トゥアからこの世界にやってきた人々であるか、もしくはその逆に彼らの一部がカラ・トゥアに移ったためではないか?

 ……と、ディーキンはそう考えていた。

 

 ハルケギニアのメイジは信仰呪文ではなく秘術呪文の使い手であるようだったが、共通の思想を持ちながら別方向に発展した分派と考えることもできよう。

 また、ヴォイド・ディサイプルに関しては信仰呪文ではなく秘術呪文の使い手がなる場合もある……、と聞いた覚えがある。

 あるいは、そのあたりにもつながりがあるかもしれない。

 残念ながらエンセリックにはカラ・トゥアに関する知識はないようなので、確証は少なくとも今のところは得られそうにないが……。

 仮にこの考えが間違っているにしても、ここまで思想に共通点がある以上は過去に何らかの関係があり、影響を与え合っていたに違いない。

 

 そのことは、書物が示すその他の証拠からも裏付けられる。

 図書館で借りた魔法に関する本から、ハルケギニアの系統魔法とフェイルーンの秘術魔法には明らかに<呪文学>の構成に類似点があることが確認できた。

 両者はまったく同系列というほど似通っているわけではないが、しかし無縁とは考え難い程度には類似点がある。

 使い魔のルーンに関しても、フェイルーンにおけるドワーフのルーン文字と全く同一ではないにせよ類似した文字や構成があることを見て取れた。

 

 そこから見て、おそらくは遥かな昔、書物でハルケギニアの歴史に関する信頼できそうな記述が始まっているのが数千年前のようだったから、おそらくはそれ以上の昔に。

 ハルケギニアとトーリルを含む他の世界の文明との間には、何らかの行き来があったに違いない、とディーキンは踏んでいる。

 

 近年のハルケギニアとフェイルーンの間にろくな繋がりが無いのは、共通語その他の話し言葉が全く通じなかったことから明らかだ。

 数千年もの間交流が無ければ、お互いの言語はまるで似つかない方向に変化してしまっていて当然である。

 一方、ルーン文字などの言葉そのものに力を宿す魔法的な言語は、永い年月を経てもほぼ変化することなく残ると言われている。

 だからこそ、<呪文学>の構成にはかなりの共通点が見られるのだろう。

 

 また、本を読んで分かった事柄の中で何よりもディーキンが驚いたのは、このハルケギニアには“神”がいないらしいという事だった。

 ブリミルと呼ばれる存在は信仰されているが、それはこの地のメイジたちの祖であり、英雄が死後に神格化されて崇められだしたものらしい。

 死後に向かうというヴァルハラと呼ばれる世界に関して触れている本はあったが、それも逸話であって確認された事実ではないようだ。

 とにかく崇拝者に信仰魔法を授けてくれる、トーリルでいう真の“神”の存在はどの本にも記述されていなかった。

 ゆえにハルケギニアには聖職者はいても、神への信仰に基づいて魔法を使うクレリックはいないようだ。

 

 ハルケギニアで知られている魔法系統は系統魔法と先住魔法の2つだけで、しかも人間が通常習得できるのはその中の1つ、系統魔法のみだという。

 昼間見たメイジたちの呪文からしても、本の記述からしても、系統魔法は秘術魔法に分類されるものとみて間違いはないだろう。

 また、ブリミルを祖とする貴族の血を引く者でなければメイジにはなれないらしい。

 とするとハルケギニアのメイジは“本の魔法”を学ぶウィザードではなく、生来の才能によって魔法を操るソーサラーに近いものだと考えられる。

 他に変わった特徴としては、あらゆる呪文の使用には音声や動作などの要素に加えて、焦点具として自分専用に用意した杖を持つことが必須であるらしい。

 つまり今日見た生徒や教師達が持っていた杖はワンドやスタッフなどのマジックアイテムではなく、焦点具だったということだ。

 

 先住魔法は本によれば概してとても強力で、特に精霊と“契約”した術者のテリトリーにおいてその本領を発揮するらしい。

 中でもエルフは最強の使い手で、並みのメイジでは数人がかりでも敵わぬ、ドラゴンにも匹敵する存在とされている。

 こちらのエルフはコボルドなどと同じく人間と敵対する妖魔扱いであり、フェイルーンでいえばドロウ(ダークエルフ)のように酷く怖れられているようだ。

 ただ、人間が使わないということもあって情報が少ないらしく、今回借りてきた本からの情報だけではそれ以上あまり詳しい事は分からなかった。

 自然に宿る“大いなる意志”を崇拝し、精霊の力を借りる魔法……との記述からは信仰魔法、それもクレリックではなくドルイドのそれに近い印象を受ける。

 ドルイドも確かに、自分たちの領域と言える自然に囲まれた屋外のフィールドでは格別に強力である。

 先住魔法も系統魔法と同じく魔法を四元素で分類しているらしいので、あるいは彼らこそがカラ・トゥアのシュゲンジャに最も近いのかもしれない。

 精霊の加護を受けるという話からは、カラ・トゥアの秘術使い・ウーイァン(巫人)を思わせる点もあるが……、ディーキンが聞いた話では、彼らはシュゲンジャなどとは異なる『五行思想』とやらに従っているらしいので、おそらく関係は無いだろう。

 

 人間を遥かに上回るエルフの魔法、という話からは、フェイルーンにおける太古のエルフ上位魔法を思わせる点もある。

 彼らが生み出した数々のアーティファクトや、ディーキンもアンドレンタイドで体感したあの大いなる『ミサル』の力は現在までも残っている。

 ディーキンの予想通りかつてハルケギニアとトーリルの間につながりがあったのであれば、強力な魔法を使うというハルケギニアのエルフが、古代フェイルーンのエルフの流れを汲む存在だという可能性もあるかもしれない。

 

 更には、ここでは神々のみならずデーモン(魔鬼)やデヴィル(悪魔)、セレスチャル(天使)などの来訪者さえも殆ど知られていないらしい。

 実在するものではなくお伽噺や神話の中の存在とみなされているようで、そういった関係の本以外ではまともな記述が見られなかった。

 また、妖精(フェイ)の類も伝説の生き物として扱われ、実在しないと思われているらしい。

 精霊(エレメンタル)の類はハルケギニアに住む原住種として存在しているのみで、元素界からの召喚魔法は知られていないようだ。

 

「それはまた、無知も甚だしい……、いや、実に奇妙な話ですね」

 

「そうだね。もし天使も悪魔も妖精もいないんだったら、ディーキンが出会った人たちは一体なんだったのかって思うの」

 

 トーリルの常識からいえば、とても考えられないことだ。

 ディーキンは、冒険の中で魔鬼や悪魔とは、またときには妖精の類とも、うんざりするほど戦ってきた。

 また幾人かの妖精や、天使とは、旅の中で知り合って友諠を結ぶことができた。

 精霊を元素界から召喚する魔法だって、ちゃんと知っている。

 

 物質界のどんなに隔絶した地域でも、またほぼ全ての次元界でも、何らかの神の影響力が一切及んでいない場所などというのはおおよそありえない。

 ディーキンが召喚された事実から見ても、ハルケギニアは他の物質界や次元界との接続が一切無い切り離された世界などではないはずなのだ。

 なのに何故、神々や異次元界の来訪者たちはこの世界に目を向けないのか?

 これは現在、ディーキンにはまだうまい説明が思いつかない疑問点である。

 

 ディーキンはその他にも思い出すまま、思いつくままに、読んだ内容やそれに関する自身の意見、疑問に思った点などをエンセリックに説明していった。

 

「……ふーむ、君の話が事実ならば、ここは随分と変わった世界のようですね? では、今までの話について私からの意見を述べましょうか」

 

 エンセリックはあまり喋らずに大人しく聞いていたが、めぼしい話が出尽くしたと見ると口を開いた。

 なおいうまでもなく比喩であって、ダガーである彼に口はついていない。

 別にどこぞの剣のように鍔の部分をカタカタ鳴らして喋ってるとか言うわけでもなく、声は何処からともなく出ているのである。

 

「この世界と他世界との交流が過去にはあったらしいのに現在では途絶えてしまっているという点、そして神々や異次元界からの来訪者がこの世界に存在しないという点……、その他にも様々な謎があるようです。それらをすべて解決する方法は……、まあ、いろいろな魔法仮説をひねくり回せば、いくつでも考えられはするでしょう」

 

 魔法には、フェイルーンの魔道師たちにとってもまだまだ謎が多い。

 さらにはまた、神の意志などの影響を受けて魔法そのものの構成が変化することさえあるのだ。

 その最たる例がつい近年フェイルーンを、いや全宇宙を巻き込んだ、“災厄の時”と呼ばれた異変である。

 

 そういった要因をいろいろと都合よく仮定し、継ぎ接ぎすれば、現時点で出ている疑問点をすべて解消できる説明はいくらでもひねり出せるだろう。

 所謂、『理屈と膏薬はどこにでもつく』というやつである。

 

「……ですが、仮説すなわち真実、というわけではありません。都合に応じて解釈を付け加えてゆくアドホックな説明では、おそらく真実からはほど遠いでしょう。これは魔法をはじめ様々な学問研究において守らねばならない基本だと、わたしはかつて師から教わりました。物事は可能な限り単純化するべきで……、ただ一つの単純な要因で謎を解くことを、まずは試みるべきだとね」

 

「フンフン、………えーと、つまりそれって、どういうこと?」

 

「……はあ、やれやれ。つまり、色々な要因を継ぎ接ぎする不格好な説明ではなく、ただ一つの要因で疑問点すべてに説明がつくような方法を考えるべきだということです」

 

「ンー、でも、そんなことってできるの?」

 

「いくらでもね。例えばですが、古代アイマスカー人の生み出した次元障壁のようなものがこの世界全体にかかっていると考えればどうでしょう? 君も一時は神々の侵入さえ阻んだ彼らの偉大な力について、少しは聞いたことがあることでしょう。私が人間のウィザードだった頃、彼らの力について、多くの研究テーマのひとつにしていたことを君の話を聞いてふと思い出しましてね。……まあ生憎と、細かい点に関しては今や殆ど何も覚えていないのですが」

 

 エンセリックの意見を聞いて、ディーキンは少し首を傾げる。

 

「えーと……、それって、つまりムルホランドの建国についてのお話のこと?」

 

 昔の主人の元で読んだ本の中に、それについて書いたものがあった。

 ムルホランド建国に関する経緯は神話であり、実話でもある。

 それはフェイルーンでもかなり有名な物語なのだ。

 

 今は無きアイマスカーは、知られる限りフェイルーンでもっとも古い人間の帝国のひとつだった。

 そしてアーティフィサーとも呼ばれていた古代アイマスカー人の支配者階級は、極めて強力、かつ傲慢なウィザードであった。

 彼らは魔法を用いて数々の驚異を成し、幾多の世界へと通じるポータルを作成したと伝えられる。

 

 今から4000年ほど前、アイマスカー帝国はひどい疫病によって人口を大幅に減らした。

 それを補うために、彼らはとある異世界の土地に通じるポータルを開き、そこから10万人以上もの人間を強制的に引きずり込んで奴隷としたのだ。

 異世界の神々はこの蛮行に当然怒り、奪われた彼らの民を救い出そうとした。

 だがアイマスカー人は極めて強力な呪文を用いて2つの世界の間に障壁を作り、接続を永久に絶ってしまったという。

 彼らが一時は神々の侵入さえ阻んだというエンセリックの言葉は、その時の事を指しているのだろう。

 しかし、最終的には神々は障壁を迂回して自分たちの化身を送り込むことに成功し、それによって帝国は滅ぼされたという。

 この時に来訪したオシリスやセトといった異世界の神々が、解放された彼らの民と共に建国したのが、現在ムルホランドとアンサーと呼ばれる国なのである。

 

 過去に何者かがそのような次元間障壁をこの物質界全土に及ぶ規模で作成し、異世界との接続を絶ってしまったとすれば……、

 確かにエンセリックの言うとおり、その一つの仮定だけでいろいろな事実に説明がつくかもしれない。

 

 しかし、その解釈には重大な問題があるのではないかと、ディーキンは首を傾げた。

 

「ンー、けど……、ディーキンとあんたが、フェイルーンからここに召喚されたのを忘れたの? この世界が壁で囲まれてるのなら、ディーキンは呼ばれた時にそれにぶつかって痛かったはずだし、ここに来れなかったはずなの。まあルイズには、ちょっと高跳びしてぶつかっちゃったけどね」

 

「ルイズというのはそこで薄着で寝ている君の……、いや、私たちの召喚者の事でしたね? そのお嬢さんにもいろいろな意味で興味はありますが、今はさておきましょう。君の読んだ限り、基本的にここの召喚術は同じ世界からの招請しかできないらしいといいますが、それ自体が通常は考えられないことではありませんか」

 

 クリーチャーの召喚術とは、通常は異世界からの招来・招請を行うものだ。

 

「よって、仮に障壁でなくとも、この世界全体に、全体でないとしても少なくともかなり大規模に、何らかの制限を及ぼす作用があるものとみるのは自然な事です。無論、私にまだ自然な解釈のできる知力が残っているものとすればですがね」

「ンー……、そういうものなの?」

 

 フェイルーンにおける魔法系統の分類法は、力の源を五元素として分類するハルケギニアのそれとは大きく異なっている。

 魔法系統は幻術、召喚術、死霊術、心術、占術、変成術、防御術、力術の8つに分かれており、それに加えてどの系統にも属さない共通呪文がある。

 このうち召喚術には、ある種のエネルギーや物体、クリーチャーなどを移動させたり、無から創造したりする類の呪文が含まれている。

 ドルイドなどは同じ物質界のクリーチャーを召喚することもあるが、招来・招請系の呪文の多くはアストラル界などを通じて異次元界から呼び出すものだ。

 

 ハルケギニアには『錬金』という、変成術と創造系の召喚術を混ぜ合わせたような土系統の呪文があるらしい。

 また、治癒系の召喚術に相当するであろう水系統の回復呪文もあるという。

 しかし招来・招請系の召喚術としては、ディーキンが読んだ限りでは系統魔法に属さないコモンルーンの使い魔の招請呪文くらいのようだ。

 招来・招請系がほとんど未発達で、しかも一時的な召喚である招来の呪文に至っては皆無というのは非常に奇妙だとエンセリックは考えた。

 

 異世界ならば魔法の法則自体がトーリルとは異なっている可能性も勿論ある。

 アストラル界などの中継界を利用する、他次元界からの召喚自体が原理的にできない可能性も皆無ではない。

 しかし、ルイズがフェイルーンからこの地への召喚を行ったという事実から、それは否定される。

 となると単純に異世界の存在が知られてないため、それを招来しようという発想も技術も発達していないのかも知れない。

 原理的に不可能でなければ、ルイズの召喚が異世界に通じたのは何かのイレギュラーか、あるいは彼女に特殊な資質があるのか、ということで説明はつく。

 

 ならば、なぜ異世界の存在が知られていないのか?

 それは当然、これまで異世界からの来訪者がほとんどいなかったためだろう。

 

 では、何故神々も含めて異世界からの来訪者がいないのか?

 それは、世界全体に侵入を防ぐ障壁か何かがある、または少なくとも、つい最近まではあったからなのではないか。

 

 ―――エンセリックは、そのような順序で推論を組み立てたのだ。

 

「まあ、イレギュラーにせよ特殊な資質にせよ、確かに確率は低いでしょうが……。この世にはありえないほどの偶発的な不幸に見舞われてしまう者も、事実存在しているのですからね。特に冒険者というのは、よく偶然に見舞われるものだと聞きますよ。例えばアンダーマウンテンで不幸にも、魂を喰らう剣の中に永遠に閉じ込められてしまう偉大なウィザード、とかね」

 

「ウーン、なるほど………」

 

 ディーキンはしばし首を傾げて、エンセリックの仮説を自分なりに検討してみた。

 全て推論で何ら証拠はないといってしまえばそれまでだが、確かに、それなりに説明は付くかもしれない。

 少なくとも、今この場ではこれ以上考えても事実が分かるわけもないのだから、とりあえずはそう仮定して少しずつ検証していってみてもいいだろう。

 

「ンー……、ディーキンはたぶん、ひょっとしたらあんたの言う事が正しいかも知れないって思うよ。どうもありがとう、あんたはちょっと暗いし顔色も悪いけど、やっぱり賢いね」

 

「……ハッ! 今や呪文のひとつも唱えられない私が賢いと? コボルドの基準では、まあ今の私でもなんとかそうなるのですかね?」

 

 にっこりと微笑んで御辞儀したディーキンに、エンセリックは相変わらずのひねくれた物言いを返す。

 だが、その声の調子からすると、内心ではやぶさかでもないようだ。

 

「まあ……、それがお世辞でないのなら、一応光栄だといっておきましょう。ではひとつ、感謝の証として私に油をさして、手入れをするというのはどうです?」

 

「うーん……、あんたがそういうなら、ディーキンはあんたをタライみたいにピカピカに磨くの。アア、でもまだルーンを入れてないし、今の話も書き留めておきたいから後でね。ディーキンはあんたが好きだから、今度のルイズの物語にはコボルドのお供の助手として書いてあげるよ」

 

「お預けですか……、やれやれ。しかも、この私がコボルドの助手ね……、ああ、そうですか。いえいえ、今更不満はありませんよ。アンダーマウンテンの床で日がな一日埃の数を数えていた頃に比べればマシですよ。ええ、マシですとも」

 

 エンセリックは、ふん、と鼻で笑った。

 

「あの灰色のエンセリックが、なんとコボルドの助手とはね。思うに、ゴブリンの料理包丁にされることに匹敵するほどの名誉でしょうね!」

 

 ディーキンはそれを聞き流しつつ、羊皮紙を取り出して今の話を思い出しながらメモを取り始める。

 

「えーと、出だしは……」

 

『ディーキンと助手のエンセリックは、すばらしい数々の話題について話し合った。

 世界の間を隔てるのっぽな壁、呪文と魔法の関係、そして2つの異なる世界のつながり!

 羊皮紙の枚数は十分か? 頭はハイになっていないか?』

 

「……うん、こんな感じかな。ねえエンセリック、ところで、さっきのはあんたなりの冗談なの? ウーン……、ハ、ハ……、けっこう面白いかもね。あんたは詩人にも向いてると思うの」

 

 ……一人と一振りでそんな話をしながら、夜は更けていった………。

 

 

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 翌日早朝。

 

「―――んん? もう朝みたいだね、……ファ~~……」

 

 ディーキンは窓から差しこむまだ弱い朝日で目を覚まし、床に敷いた寝袋からもぞもぞと這い出して目をこすると、大口を開けて体を伸ばす。

 

 昨夜はあれこれ議論したり作業したりで忙しく、結局エンセリックを荷物袋に戻して寝袋に入ったのはもうあと少しで空が白み始めようかという頃だった。

 つまりその時間から早朝の光が差し始めるまでの、たった1時間あまりしか眠っていないという計算になる。

 

 普通ならば寝不足で辛いところだろうが、ディーキンは一度大きく伸びをしただけで気分爽快、すっきり目が覚めている。

 

 別に、初めて見る異世界に気分が高揚して疲れを忘れているというわけではない。

 その秘密は使用した寝袋にある。

 これは《ヒューワードの元気の出る携帯用寝具(ヒューワーズ・フォーティファイイング・ベッドロール)》というマジックアイテムなのだ。

 柔らかくてよい香りのするこの寝袋で眠れば、なんとたった1時間の睡眠で8時間完全に休息したのと同じだけの利益を得られるという優れ物。

 同じ作者の《ヒューワードの便利な背負い袋(ヒューワーズ・ハンディ・ハヴァサック)》と同様、冒険者が使うマジックアイテムとしては定番である。

 ディーキンも多少所持金に余裕ができたころに両方とも購入し、それ以来ずっとお世話になっている。

 

 なお、考案者のヒューワードはどうやらフェイルーンとは別の宇宙においてバードを守護する英雄神格(神格の域に到達した英雄)であるらしい。

 その意味でも、バードであるディーキンにとっては親しみの湧く品である。

 別の宇宙で発明されたマジックアイテムや呪文の類はフェイルーンに相当数存在していると言われており、それほど珍しくないのだ。

 

 それはさておき、ディーキンは軽く体をほぐすと今日の行動を思案しはじめた。

 とりあえず毎朝の日課として、まずは呪文を発動するための精神集中の時間を取らなくてはなるまい。

 昨夜のエンセリックの話もあるし、呪文の力が回復したら念のためこの世界で呪文発動に制限が無いかなどもいろいろと試しておきたい。

 

 ハルケギニアのメイジは睡眠で精神力を回復させればそれでいいらしいが、フェイルーンのメイジはそれだけではいけない。

 最低8時間以上の睡眠をとった上で、ウィザードならば呪文書と1時間は向き合ってその日使いたい呪文をあらかじめ用意しておく必要があるし、事前に呪文を用意する必要が無いソーサラーやバードでも呪文の力を用意するために15分は集中して精神をリフレッシュさせる時間を取らねばならないのだ。

 

 ちらりとベッドの方を見れば、ルイズはまだぐっすりと寝ている。

 まあこんな早朝では当然だろう。

 だが、バードは呪文の力を準備するために精神を集中させる間は、同時に歌ったり楽器を鳴らしたりもしなくてはならないのだ。

 寝ている人の横で楽器演奏というわけにもいかないし、他の部屋にもまだ寝ている人が大勢いることだろう。

 どこか人気のない良さそうなところを見繕って……、今後は毎朝、そこで準備を行うことにしよう。

 

「ええと、頼まれてた洗濯もしないといけないんだったね……。ンー、そういえばここって洗い場がどこかにあるのかな? それとも、外で川でも探せばいいの?」

 

 ディーキンは独り言をいいながら昨夜ルイズが脱ぎ捨てた下着を拾い上げて、首を傾げた。

 

 レースのついた白いキャミソールと、パンティだ。

 随分と、繊細そうなつくりをしている。

 

 勿論冒険者生活の中でも、それ以前にも、下着を含め衣類の洗濯をした経験くらいいくらでもある。

 しかし、こんな無駄に高級そうな下着は全く馴染みがなかった。

 はたして誰も細かい事を気にしないみすぼらしいコボルドの衣類や、実用性本位の冒険者の衣類を洗うのと同じ要領で大丈夫なものだろうか。

 

「……まぁ、何とかなるの、うん」

 

 昨日見た感じではこの建物には雇い人が大勢働いているようだったし、適当に声をかけて洗い場の場所を聞けばいいだろう。

 もし駄目でも、冒険者らしく散策がてら洗い場でも川でも探せばいい。

 

 洗い物にしても、ディーキンの手は丈夫なウロコや爪が生えていて繊細な作業には向いていなさそうに見えるが、これでなかなか器用なのである。

 バードというものは、往々にして未習得の技巧を要する作業でも持ち前の機転と才気と器用さで大抵何とかしてしまう“何でも屋”なのだ。

 万が一破れても、呪文の無駄遣いにはなってしまうが《修理(メンディング)》とかで直せばいいだろうし。

 

 そんな風に前向きに考えをまとめると、ディーキンは早速作業の為に荷物を背負って外に向かっていった……。

 





『灰色の』エンセリック:
 NWN拡張シナリオ『Hordes of the Underdark』に登場した、知性があり会話ができる武器(インテリジェント・アイテム)である。
本作の設定ではアンダーマウンテン内部で主人公(ディーキンの言う“ボス”)が発見し、彼が使わなくなった後にディーキンの手に渡った事になっている。
 +4の強化ボーナスを持ち、使用者の希望に応じて形状をダガー、ショートソード、ロングソード、グレートソードのいずれかに変更できる能力がある。
また、ダメージを与えるたびに若干のヒットポイントを使用者に還元する、“ヴァンピリック・リジェネレーション”と呼ばれる能力も備えている。
更には持ち主の生気を一時的に奪うことで、その間自身の力を更に高め、強化ボーナスをエピック級まで引き上げることまでできる。
その強さから考えて、エピック級のマジックアイテムか、もしくはアーティファクトだと思われる。
材質については原作中に記述はないが、漆黒の色合いから判断して本作ではアダマンティン製であるものとしている。
 本人(?)は、『自分はかつて偉大な人間の魔術師だったが、アンダーダークで不幸にも魂を喰らう魔剣の中に囚われたのだ』と主張している。
それが事実なのか、単に魔法に詳しいだけのインテリジェント・アイテムが孤独の中でとりつかれた妄想なのかまでは定かではない。
しかし原作中ではこちらから話しかけると、かつての仲間や家族のことなど、いろいろと興味深い話が聞けたりする。
装備していると冒険中や戦闘中にもやたらと喋るが、残念ながらあまり役に立つことは言ってくれない。


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第九話 Chores

 

「………ウーン、これも特に問題は無いみたいだね」

 

 ここはトリステイン魔法学院近くの森の中。

 予定していた最後の呪文を調べ終わると、ディーキンは一息ついて傍にあった手ごろな大きさの石に腰を下ろした。

 

 最初は学院の中庭らしき場所で作業をしようと思っていたのだが、行ってみると召喚の儀式の時に見た青い竜が中央に寝そべっていた。

 そのため、予定を変えてここまで足を運んだのである。

 

 フェイルーンのコボルドは、一般的に自分達がドラゴンの末裔であると同時に、その奉仕種族でもあると考えている。

 大抵のコボルドはドラゴンを畏敬し、もしドラゴンに出会えれば採掘と収奪で溜め込んだ宝を惜しげも無く差し出して忠実に仕えようとするものだ。

 ディーキンが生まれた“血染めの牙”族のコボルドたちも、主人と仰ぐ白竜のタイモファラールにはみな忠実に仕えていた。

 

 もちろんディーキンはコボルドの典型からは大きく外れているのだが、彼もまたドラゴンに対しては強い憧れを抱いている。

 と同時に、前の主人の影響もあって、ドラゴンを恐れる気持ちも同じくらい強い。

 中庭に寝ているイルククゥを避けたのも、ひとつにはそのドラゴンに対する畏怖心からである。

 

 まあ今では自身もドラゴンなのだし、アンダーマウンテンでは仲間と共に強力なドラゴンを倒した経験もあるので、絶対的に怖いというほどでもないのだが。

 そうはいっても、普通の人間だって用もないのに無闇に寝ているドラゴンを起こしたいとは思わないだろう。

 第一、せっかく気持ちよさそうに寝ているのを意味も無く近くで作業して起こしても申し訳ない。

 

 ディーキンは一息入れながら、改めて先程見たドラゴンの姿を思い返してみた。

 あのドラゴンは体色はブルー・ドラゴン(青竜)に若干似ていたが……、額に角は無かったし、明らかに見たことのない種類だった。

 昨夜見た本の記載からすれば、あれはおそらくウィンド・ドラゴン(風竜)とかいうこちらに住む種の竜だろう。

 流石に一回通し読んだ程度では全体的にうろ覚えだが、竜族に関しては特に個人的に関心が強いのでよく覚えている。

 

 この世界には、トーリルで一般的にドラゴンと呼ばれる、トゥルー・ドラゴン(真竜)族はいないらしい。

 過去に存在した韻竜とかいう種類の竜は、知能が高く言葉を解し、魔法を使ったとあるのでトゥルー・ドラゴン族だったのかもしれないが……。

 彼らは遥か昔に絶滅し、今では動物としては賢い部類と言う程度の、言葉を解すことさえできないドラゴンしか残っていないのだという。

 同様にワイヴァーンのような亜竜族も、ほぼ動物並みの知能しか持っていないらしい。

 

 コボルドと同様、ここでは同じ名称の種族でも随分な違いがあるようだ。

 まだまだ知らない生物も多いだろうし、時間を見て図書館へ足を運び、さまざまな本を繰り返し読んでおく必要があるだろう。

 

 さておき、ディーキンは先程、暫しの精神集中によって呪文の力を回復させた後、自分の使える様々な呪文を順々に試していってみた。

 それらはいずれも、フェイルーンで使った時と同じように、問題なく機能していた。

 

 女神ミストラの“織”が存在しないであろうこの世界で、果たして全ての魔法が問題なく機能するのか若干不安だったが、杞憂だったようだ。

 以前に読んだ本によれば、“織”は魔法というテーブルの上に掛けられたテーブルクロスのようなものであるらしい。

 テーブルクロスという魔法の彩りが無くなっても、テーブルそれ自体が無くなるわけではない、ということだろうか。

 

 無論そうはいっても、いきなり“織”が無くなったら……、つまり突然テーブルクロスが引き抜かれでもしたら、上に乗っているものはみな酷い影響を受けるだろう。

 あちこちで物が転倒したり割れたりして、テーブルのそこら中で酷い惨事が起こるに違いない。

 だが今の場合は、ディーキンは“織”の無い世界に……、いわば別のテーブルの上に、手で持ち上げて穏便に移された食器のようなもの。

 ゆえに、特にこれといった悪影響は受けなかったのだろうと推測できる。

 

 どうやらハルケギニアは、基本的にはトーリルと同じような性質の物質界らしい。

 特定の元素や属性への偏りはないし、影界やエーテル界、アストラル界などの中継界ともちゃんと接しているようだ。

 おそらくは別の宇宙に属するであろうこの世界でも招来呪文が正しく機能するかは、昨夜のエンセリックの話もあって特に念入りに調べたのだが、ルイズがディーキンを別宇宙から招請したのと同様に、ディーキンも中継界を通じて元の世界から同じクリーチャーを招来できるようだ。

 

「ちゃんと魔法が使えるみたいでよかったの、こっちにいる間、ずーっと魔法が使えなかったりしたら不安だもの。それに魔法が使えないとボスに連絡もできないし、ルイズの仕事もうまくやれないかもしれないしね」

 

 呪文で問題なくトーリルの宇宙に接続できるなら、仲間と連絡を取る手段などいくらでもある。

 ただまあ、こちらの事もだいぶわかってきたとはいえ、まだ本で読んだだけだし……。

 とりあえず数日実際に経験してみて、暮らしが落ち着いてきたら一度報告を入れるのがよいだろう。

 

 もちろん連絡だけではなく、帰還して直接報告することもできるだろうが、それはまだ避けた方がいいとディーキンは判断した。

 

 こちらでの魔法の使用には制限がないようだが、外から自力で入ってくる来訪者の類がいないという点からしてまだ安心はできない。

 仮に昨夜のエンセリックの説の通りこの世界全体に障壁のようなものがあるとすれば、その障壁には随分と奇妙な性質があるに違いない。

 例えば一方通行の性質があって、こちらから召喚したり出て行ったりは自由でも、外から入ることはできないというような事だってあり得るだろう。

 フェイルーンに一旦報告に戻ったはいいが、さてハルケギニアに引き返そうとしたらできなかった、などということになっては困る。

 それに関しては試してみるわけにもいかないし、何かの手段で確信が得られるか、戻ってもよくなるまではこの世界からの出入りは避けるべきだ。

 もしも戻れなければ自分もガッカリするし、ルイズや、オスマンら教師達にも迷惑が掛かってしまう。

 

 ルイズにもう一度招請してもらえれば問題ないのだが、召喚する対象は自由に選べないという事なので彼女をあてにするわけにもいくまい。

 

「さて呪文を試すのは終わったから、次は……。アア、洗濯に行かないとね」

 

 いきなり寝ているドラゴンに出会ったのでそちらに気をとられていて記憶が曖昧だが、確か中庭で水場らしきものを見たような気がした。

 森の中で小川でも探して洗ってもいいが、水場で洗う方が綺麗だろうし干す場所にも困らないだろう。

 自分の洗い物なら別に小川でも気にしないし、ドラゴンの寝ていた中庭に戻って洗うよりむしろそっちを選んだだろうが……。

 使い魔として仕事をすると約束した以上、ドラゴンが怖くて洗い場でちゃんと洗えませんでしたなどといういい加減なわけにはいかない。

 

「……うーん、ディーキンは心配なの。ちょっと胃が痛いかも……、(ゲップ!)―――あ、大丈夫だ」

 

 平気な以上、使い魔として行かなくてはならないだろう。

 行くべきだ。行くしかない。

 

「……うう……。

 

 ♪ あ~、不運なディーキン、だけどとっても勇敢~。

 ディーキンはとっても勇敢なディーキン、ディーキンは……」

 

 内心、あのドラゴンがもう起きてどこかに行ってるといいなあ~……、と考えながらも、ディーキンは洗濯物を入れた鞄を背負って、景気づけに鼻歌など歌いながら学院の方へ戻って行った。

 

 

「うんしょ、うんしょ……、」

 

 場所は変わって、ここはトリステイン魔法学院の敷地内。

 教師生徒らが起きてくる前に掃除洗濯や朝食の準備などの雑務を終えなくてはならないため、学院で働く平民たちの朝は早い。 

 今日もエプロンドレスとホワイトブリムを着た若いメイドが一人、早朝から大量の洗濯物を運んでいる。

 

 彼女の名はシエスタ。

 少し長めのボブカットにした艶やかにきらめく漆黒の髪と瞳を持ち、素朴だが愛嬌のある顔立ちをしている。

 輝くような白い肌にはシミ一つなく、そのきめ細かさは貴族の子女にさえそうそう及ぶものはいないだろう。

 

「うんしょ……、っと。さあ、早く洗ってしまわないと―――」

 

「♪ 靴下はいて、苦しみもとめて、幸せすてて~。

 ディーキンはイカすコボルドだから~……」

 

「……え? ―――っ!?」

 

 シエスタは唐突に後ろから妙な歌が聞こえてきたために振り向き……、ぎょっとして、思わず洗濯物を取り落とした。

 歌声の主は、見たこともない異様な姿の亜人だったのだ。

 

 小さな子どもくらいの身長しかないものの、ドラゴンのような大きな赤い翼と剣呑そうな鋭い爪を持つ、人型の爬虫類めいた姿。

 しかも革の鎧を着こんでおり、腰には小剣を帯びるなどして武装している。

 シエスタは咄嗟に亜人の傍から飛び退くと何か身を守るものを求めてあたふたと懐を探りながら、声を上げて人を呼ぼうとした。

 

 が、亜人の方はその様子を見ると慌てて両手を広げ、首を横に振った。

 

「アー、待って、待って! ディーキンはあんたも、誰も傷つけるつもりはないよ。どうかディーキンを殺さないで。ディーキンはただ、水場を探していただけなの!」

 

「た、………あ、……ええ、と……?」

 

 シエスタはその様子を見て困惑し、どう行動するべきだろうかと考えた。

 

 ここは学院なので使い魔の類である猛獣や幻獣は珍しくないが、亜人などを見たのは初めてだった。

 それゆえいきなりの遭遇で驚いたが、もし友好的な相手ならば敵意を向けるべきではない。

 それは、正しくないことだから。

 

 ……だが、しかし……、学院内に何故、亜人が入り込んでいるのだろう?

 人間、それも多数のメイジが住むこんな場所へ、何が目的で?

 

(に、人間の言葉を話す亜人は、先住魔法を使うって聞いたことがあるし……)

 

 あるいは、こちらを油断させる罠なのかも知れない。

 シエスタは動きを止めながらも懐の果物ナイフからは手を離さず、困惑と緊張とが入り混じった表情で油断なくディーキンの動きを見つめ続けた。

 

 そんなシエスタの様子を見て、ディーキンは軽く溜息を吐く。

 

「……ふう。ディーキンはね、よくこんなことを言うんだよ。たくさん、何度もね。ディーキンは、ディーキンに話しかける代わりに棒とか鋤とかで攻撃しようとする人には慣れてるの。でも、たまに一日中そんなことをして、すごーく疲れる時があるよ」

 

「え、ええと……、あの、あなたは?」

 

「ン? ディーキンはディーキンだけど、もしかして名前を言うのを忘れた? それならディーキンは謝るよ。ディーキンはディーキンだよ」

 

「え? あ、あの……」

 

「……ウーン、あんたは耳が悪い人なの? ならもう一度言うよ、ディーキンはディーキンだよ。それともあんたは、ディーキンのフルネームとか、そういうのを教えてほしいの? ディーキンはディーキン・スケイルシンガー、バードで、ウロコのある歌い手、危険を切り抜ける冒険者、そして物語の著者だよ」

 

「……そ、そうではなくて……、あ、いえ、ご丁寧にどうも……」

 

 シエスタはディーキンの大人しい態度と奇妙な話し方に戸惑いながらも、懐から手を抜いてお辞儀をする。

 そうしながらまた、この亜人の子ども(たぶん)をどう扱ったらいいものかと考えた。

 

 依然として状況はよくわからないが、とりあえずこの亜人にはどう見ても悪意はなさそうに思える。

 となると、まずはここに来た事情を聴くべきだろうか?

 

 だがどんな事情があるにせよ、この子が他の人間に見つかれば騒ぎになる。

 ここには大勢のメイジがいるのだ、不審な亜人の子などは見かけ次第、弁明の暇も無く魔法で始末されてしまいかねない。

 ここは事情がどうあれ、すぐにここから立ち去ってもらう方がお互いのためだ、とシエスタは判断した。

 

「……あの、ディーキン、さん? いきなり失礼な態度をとってしまってすみません、あなたが悪い人でないのはよく分かりました。私はシエスタといいます、この学院のメイドをやってます」

 

 シエスタはそう言って、謝意を示すために一度軽く頭を下げてから言葉を続ける。

 

「でも、ディーキンさんは何の用でここに来られたんですか? ここは、その、人間の住む魔法学院で……、メイジの方に見つかったら、魔法で殺されてしまうかもしれませんよ? もしあなたが迷い込んでここにきたのなら、他の人が起き出してこないうちに出口まで案内します、けど」

 

 ディーキンはそれを聞くと、ちょっと首を傾けた。

 

「ンー……、ディーキンは水場を探してここに来たの。ディーキンは普段は人間が入るなっていうところには入らないよ、でも今日はちょっと理由があって……」

 

「あー、いえ、私はあなたを咎めているわけじゃないですよ? でもですね、どんな理由かは知らないですけれど、他の人があなたを見たら、……?」

 

 シエスタはそこまで言いかけて、ふと彼の喋った妙な単語に気が付いた。

 

「………え? コボルド?」

 

「そうだよ、ディーキンはまさにコボルドだよ。少なくとも、最後にディーキンが鏡を見たときはね。ディーキンはあんまり鏡を見ないの。ディーキンには、人間が使う鏡の位置はたいてい高すぎるからね」

 

 シエスタはきょとんとして、まじまじとディーキンの顔を見つめた。

 コボルドを見たことはまだないが、聞いた話では犬に似た頭部を持つ亜人のはず。

 目の前の亜人はどう見ても姿は犬とは似ても似つかない……が、そういえば喋り方や何かに仔犬を思わせるような部分もあると言えばある。

 

「……、あ………」

 

 シエスタはふと、ディーキンの左手の甲にヘビがのたくっているような奇妙な模様があるのに気が付いた。

 それを見て唐突に、あることに思い当たる。

 

「……もしかして、コボルド……の、使い魔……? 昨夜、ミス・ヴァリエールが召喚したって噂になってた……」

 

「オオ、ディーキンはここでもう噂になってるの?」

 

 なのに誰も、ケチなコボルド野郎を追い出せとかは言ってこないわけだ。

 ここは本当にいいところだと、ディーキンは感動した。

 

「……うーん、そういえばさっきの挨拶に、ルイズの使い魔っていうのを入れ忘れたかな? それじゃあ、ディーキンはあんたとルイズに失礼したよ。今度からは忘れないようにするね」

 

 シエスタはそれを聞くと、慌てて姿勢を正してお辞儀をする。

 

「そ、それは失礼しました! 貴族の使い魔の方とは思わず、無礼なことを……」

 

 シエスタは貴族の使い魔とは知らずに不適切な要求をしたことで彼の機嫌を損ね、そのために彼の主の怒りを買うのではないかと心配しているのだ。

 

 ディーキンはその様子を見てきょとんとする。

 それからとことことシエスタの方に歩み寄り、下げた頭の更に下から彼女の顔を見上げた。

 

「ディーキンは別に、あんたたちがいろんな所に住んでコボルドに出ていけって言うとしても非難したりはしないよ。ディーキンだって普通のコボルドはあんまり好きじゃないし、ディーキンは違うって、みんながすぐに分かってくれるとは思わないもの。それにディーキンはあんたが失礼な人だとも思わないの。コボルドに謝ってくれる人は滅多にいないからね」

 

 見慣れない爬虫類の笑みは一見して意地悪そうなものにも思えたが、その瞳には言葉通り純粋に穏やかな歓びが浮かんでいることにシエスタは気が付いた。

 

 一方ディーキンは、シエスタの顔を間近で覗き込んであることに気が付き、内心で首を傾げた。

 しかしまずは本題をいい加減に片付けようと考え、それを確かめることは後回しにする。

 

「……ええと、それで、さっきも言ったけど。ディーキンはルイズから洗濯を頼まれて水場を探してるの。もしかしてあんたもこれから洗濯だったら、案内してくれないかな?」

 

 

「……それじゃあ、ディーキンさんは詩人として遠くを旅してきて、物書きもされてるんですね。これまでに、どんな物語を書かれたんですか?」

 

「ディーキンは主に叙事詩物語とか、旅の長編大作を書くよ。一緒に旅してきた英雄のボスと助手のコボルド、それにみんなの物語をね」

 

 シエスタは水場で洗濯を干しながら、ディーキンと雑談を楽しんでいた。

 初対面では驚かされたものの、話してみるとシエスタはすぐにディーキンと打ち解けて、彼の異様な外見も気にならなくなっていた。

 

 最初シエスタは、お詫びも兼ねて洗い物は自分が引き受けると申し出た。

 だが、ディーキンは自分が頼まれたことだし、やり方も覚えたかったのでコツだけ教えてほしいと言ってそれを断った。

 貴族の高価で繊細な下着を爪でひっかけて破いたりしないかと、シエスタは指示を出しながらも内心ハラハラして見守っていたのだが……。

 いざ始めてみるとディーキンはほんの少しコツを教わっただけで、シエスタとほぼ同じくらい早く上手に、てきぱきと洗い物を片付けてしまったのだ。

 ただ、ディーキンでは背が低すぎて難儀するため、洗い終わった洗濯物を物干し台に干す作業はシエスタがすべて引き受けている。

 その代わりに、暇な時間ができたディーキンからお礼代わりにいろいろと話を聞かせてもらっているというわけだ。

 

 なお、中庭にいた青い竜は既に目が覚めて主人の少女を乗せ、どこかへ飛び立っていったためにいなくなっていた。

 

「……ふふ、私、英雄なんて物語の中の、自分には縁のないものだと思ってました。だけどディーキンさんは、英雄と旅をしてきたんですね」

 

「ディーキンも最初は、本の中でしか英雄を知らなかったの。コボルドの小さな洞窟で暮らしてた時にはね」

 

 だがディーキンは、洞窟の外にはもっと広い世界があって、どこかに本物の英雄がいること。

 そして、新しく英雄になる人もいるのだということを、さまざまな本を読むうちに知るようになった。

 

「だからボスを初めて見た時、『ああ、この人が英雄だ』ってわかったの。もしも彼がディーキンを導いてくれたら、ディーキンもいつか彼のような冒険者に、英雄になれるかも知れないって思ったんだ」

 

 シエスタはその言葉に何か思うところがあったのか、ふと手を止めてディーキンをじっと見つめると首を傾げて微笑んだ。

 

「……ディーキンさんは体は小さいけど、私よりずっと大人なんですね。私もいつか、そんな英雄さんに会ってみたいなあ……」

 

「ン? それは分からないの、ディーキンはシエスタの年齢を知らないもの。……ウーン、でもたぶん、あんまり違わないんじゃないかな?」

 

 ディーキンはシエスタの言葉を聞いて、首を傾げながら考えた。

 

 シエスタは、外見から判断すると20歳にはなっていないくらいだろうか?

 まあ、たぶん自分と大差はない程度だろう。

 

「ディーキンもシエスタにボスの事を知って欲しいと思うよ。ここに棲んでいる大勢の人たちにもね。ウーン、ディーキンは前に出版した本を一冊持ってるけど……、文字が違うみたいだからここの人たちには読めないね。今は新しい物語を書くのが先だけど、落ち着いたらディーキンはいつかきっと翻訳するつもりなの。もしシエスタがボスの事を早く知りたいのなら、先に読んで聞かせてあげるよ」

 

「わあ、いいんですか? じゃあ、残念ですけど今はまだ仕事がありますから、今度是非ゆっくり聞かせてくださいね!」

 

 シエスタは洗濯物を干し終えると、少し屈み込むようにしてディーキンに丁寧にお辞儀をし、学院の方へと戻って行った。

 

 ディーキンはぶんぶんと手を振ってそれを見送り、ふと首を傾げた。

 そういえば初対面のシエスタからまともな扱いを受けてちゃんと会話できたことが嬉しくて、彼女の出自について確認を取るのを忘れていた。

 

 あの、まるでアダマンティンのように艶やかな、金属めいた光沢を帯びた漆黒の髪。

 奥底に星のような煌めきを宿した、深みのある黒い瞳。

 ただきめ細かいというばかりでなく、一点の曇りも無く仄かに輝く白い肌。

 愛想がよく親しみやすい優しげな雰囲気を満身に纏っていながら、凡百の貴族にも勝る名状しがたい高貴さをも同時に感じさせる。

 

 それらのささやかながら常人離れした特徴から見て、シエスタはおそらく――――。

 

「……ウーン、でもまあ、今考えても仕方ないね」

 

 別段急ぐ話でもないし、そもそも彼女が自分の血筋について知っているという保証もないのだ。

 仕事があるシエスタを引き留めてまで、今聞き出すほどの事ではないだろう。

 今度ボスの話をするときにでも、ついでに聞くとしよう。

 

 ディーキンはそう結論すると考えを打ち切り、リュートをしまうなどの後片付けをして、ルイズを起こすために自分も学院へ戻って行った………。

 

 

「………ウーン、そろそろルイズを起こした方がいいのかな?」

 

 洗濯から帰ってきても、ルイズはまだ寝ていた。

 なのでディーキンは、しばらく部屋の隅で本を読み返したり、物語をまとめたりして静かに過ごしていたのだが……。

 

 冒険者としての生活やドラゴンへの変化によって得た鋭敏な感覚は、他の部屋の生徒たちが既に大方起きて動き出しているらしいことを伝えてくる。

 ルイズが食事や授業に遅れては申し訳ないし、使い魔として起こすべきだろうか。

 毎日学生として過ごしているのだからちゃんと間に合う時間に起きるだろうとは思うが、昨夜は遅かったし、今日に限って寝過ごしているのかもしれない。

 

 ディーキンはベッドの上でいまだにすやすやと寝息を立てているルイズのあどけない寝顔を眺めつつ、首を傾げた。

 窓からはすがすがしい朝の光が差し込んでおり、暗闇に適応した種族であるディーキンにとってはやや眩しすぎるくらいだ。

 よくこんな明るい中で平気で寝ていられるものだなあ、と少し呆れた。

 というか、ルイズは貴族とはいえ修行中の見習いメイジなのに、こんなのんびりした生活を送っていていいのだろうか?

 

 フェイルーンでは大抵のメイジは弟子の育成など面倒だと考え、自分の関心事に注力したがるものだ。

 そのため、見習いメイジは師匠から教授の見返りとして相当の対価を要求されたり、雑務を大量に命じられたりするのが普通である。

 悪名高いサーイのレッド・ウィザードなどは、弟子をまるで奴隷のように扱い、日常的に虐待しているという。

 

 こっちの世界の見習いメイジは、どうやらずいぶんと気楽な修行生活を送っているらしい。

 ここではフェイルーンとは違って不公平な一対一の師弟関係は一般的ではなく、多くの生徒に組織的で公平な教授を与える制度が整っているのだろう。

 

 それ自体はとても素晴らしいことだと思う……が。

 それにしても見習いならば普通は多少の雑務ぐらい与えられ、こなして然るべきではなかろうか。

 ボスだって、ドワーフのウィザード・ドローガンの下で修業していた時にはそれなりに雑務もこなしていたというし。

 雑用は雇い人や使い魔に任せて見習いの身分でぐうたら惰眠を貪っていても咎められないというのは、フェイルーンの基準で見れば甘やかしすぎに思える。

 

 まあディーキンには人間の文化、それも異世界のそれに口出しをする気など毛頭ないし、別にどうでもいいことである。

 軽く首を振って取りとめのない考えを振り払うと、とりあえずやはりルイズを起こそうと決めた。

 気持ちよく寝ているのを起こすのも気が引けるが、まあ遅刻でもする方がもっと問題だろうし、仕方あるまい。

 

 ディーキンはベッドにぴょんと跳び乗ると、ルイズの枕元あたりをぼふぼふと手で叩いて揺さぶりながら耳元で声をかけた。

 

「ルイズ起きて、朝なの。今、ディーキンは、うるさいオンドリなの。ルイズを起こすよ!

 ♪ コッカ ドゥ ドゥル ドゥ~~~~!!」

 

「ZZZ……、………!? な、なななによ! なにごと? ……ひっ!? あ、亜人っ!?!」

 

 ルイズはいきなり耳元で妙な音響を鳴らされて、あわてて飛び起き……。

 すぐそばで爬虫類めいた顔が自分を覗き込んでいるのに気付いて小さく悲鳴を上げ、毛布を引き寄せて身を隠すようにしながらベッドの上を後ずさった。

 

 ディーキンはその反応に首を傾げたが、すぐに起き上がった時のルイズの眠そうな目とふにゃふにゃした痛々しい顔を思い出して状況を察した。

 

「ンー、もしかしてまだ寝ぼけてるの? もし忘れたのなら自己紹介するよ、ルイズ。ディーキンはディーキンだよ。バードで冒険者、物語の著者、そして昨夜からはルイズの使い魔だよ。ついでにさっきは、あんたを起こしたうるさいオンドリだったよ」

 

「……あー……、そうね、昨日召喚したんだっけ。っていうかニワトリってなによ。さっきの妙な鳴き声はあんたの仕業ね? 起こしてくれるのはいいけど、明日からはもう少しましな起こし方にしなさい!」

 

「ウーン? ……わかったの。ニワトリは嫌なんだね、ディーキンは何か他の事を考えておくよ」

 

「……変わった事はしなくていいから、普通にそっと肩を揺さぶるとかしてくれればいいのよ」

 

 溜息を吐いてそういうと、ディーキンの左手の甲にルーンがあるのに気が付いた。

 

「あ……、ルーン、左手に入れたのね」

 

 ディーキンは少しばかり自慢げにルーンを差し出して見せびらかしながら、こくこくと頷いた。

 

 手の甲にルーンを入れたのは、衣服に隠れる胸部や足の裏などより皆の目につきやすく、使い魔だと分かってもらいやすいだろうという思惑からである。

 皆がルーンの事など気にも留めなくなった頃に隠しやすい場所なら更に都合がよく、その意味でも手の甲の方が、同じ目立つ場所でも額などよりよいだろう。

 ディーキンは普段グラブを装備しているので、しばらくの間はグラブを外して皆にルーンを見せ、誰も気にしなくなった頃にまたグラブで隠せばいい。

 《秘術印(アーケイン・マーク)》は、生物に刻むと徐々にかすれて一か月程度で消えてしまう。

 ゆえに、誰も使い魔であることを疑わなくなった後はなるべく衆目に晒し続けたくないのだ。

 

 また、ルーンは既存の物を<呪文学>に照らしてディーキンなりに分析し、蜥蜴や竜などに刻まれるものと類似した特徴・様式のオリジナルを創作した。

 既存のルーンをそのまま刻んで『このルーンは蜥蜴に刻まれるはずなのに何故未知の亜人に?』ということになってはまずいだろうという考えからだ。

 

 参考にしたルーンにはメイジの属性を示すらしい特徴が表れているものが多かったが、主のルイズの属性がよくわからないのでそこはぼかしておいた。

 ディーキンが赤竜の血を引くことを考えれば属性は[火]かもしれないが、その力は後天的に訓練で目覚めさせたものなので断定まではし難い。

 コボルドは洞窟に住み、どちらかと言えば[地]に親和性の高い生き物だし、音を扱うバードであることを考えれば[風]だってありえる。

 早計に判断して、後でルイズの属性が判明したときにそれと違っていたら疑いを招く恐れがある。

 

 そんなわけで、偽物ひとつ刻むのにも、結構頭と時間を使ったのである。

 ちょっとは自慢したくもなるというものだ。

 

「そう、まあ偽物とはいえ、あとでコルベール先生に報告しておかないとね。じゃあ……、ディーキン、着替えるから私の服と下着を出して」

 

 ディーキンはそれを聞くと、首を傾げた。

 

「ンー……、いいけど、どこにあるの? ディーキンは場所を知らないし、そのくらいなら自分でできるでしょ? 説明してもらって探すよりも、ルイズが自分で取る方が早いんじゃないかな」

 

「亜人のあんたは知らないだろうけど、貴族は下僕がいる時は自分で服なんて着ないのよ」

 

「ディーキンは下僕じゃなくて、使い魔なの。命令なら取るけど、別に怠けたいとかじゃなくて、本当にルイズが自分でやった方が早いと思うよ?」

 

 ルイズはそれを聞くと拗ねたように唇を少し尖らせ、指をぴっと立てて説明する。

 

「そりゃそうだけど……、普通は貴族なら、着替えみたいなちょっとした物は召使いに用意させるか、魔法で取るのが嗜みなのよ。だから私は、使い魔のあんたに取って来てもらいたいの。自分が召喚した使い魔に持って来させれば、つまり自分の魔法で取ったのと同じことになるんだから!」

 

 ディーキンはそれを聞いて昨日の話を思い出し、納得した。

 にわかには信じがたい話ではあるが、ルイズは異世界から自分を招請するほどの高等魔法を使っていながら、今までは魔法が使えなかったらしい。

 あたりまえの貴族、あたりまえのメイジらしい事を、初めて成功した魔法の成果である使い魔を使ってやってみたいということか。

 

「わかったの、ディーキンはルイズのために取って来るよ。それで、どこにあるの?」

 

「服はその椅子に掛かってる制服を取ってくれればいいの、下着はそこのクローゼットの一番下の引き出しに入ってるわ。これからは毎日同じように用意してもらうからね、覚えときなさい」

 

「わかったの、ディーキンはルイズの指示を了解したよ」

 

 ディーキンは返事をすると、とことことクローゼットまで歩いて行って下着を一枚取り出す。

 それから椅子の所へ行くと、少しだけ背伸びするようにして制服を取り外すと、下着と一緒にルイズの所へ持っていった。

 

「着せて、……っていうのは難しそうね。まあいいわ」

 

 ルイズは脚をぴんとのばしても1メイルあるかないか程度のディーキンの身長や、手に生えた爪やウロコを鑑みて、着替えさせるのは断念した。

 まだ体が目覚めきっていないのか、だるそうにしながら自分でネグリジェを脱ぎ、新しい下着と制服に着替えはじめる。

 

「……にしても、何も背伸びなんかして椅子から服を外さなくてもいいじゃない。あんたは昨日魔法で物を動かしてたでしょ、それで取りなさいよ」

 

「ディーキンのいたところでは、普通は服を取るくらいのことで魔法を使わないの。魔法を使わなくても取れるものは手で取るし、歩いていけるところに行くのに飛んだりはしないんだよ。ウーン……、けど、ルイズがどうしても魔法で取る方がいいのなら、なんとか考えてみるけど」

 

「ふーん。魔法でできることを体を使ってやるほうがいいなんて、変わってるわね」

 

 ハルケギニアのメイジは、高貴な貴族としての血統の証である魔法の力に誇りを持っている。

 そして、魔法は社会に浸透していて、日常的に用いられることが当然になっている。

 ルイズがそうであるように、普段からまったく魔法を使わず平民と同じように体を使って歩いたり運んだりするメイジはむしろ嘲笑される。

 そのような常識の元で生まれ育ったルイズが、ディーキンの説明したような社会を変わっていると思うのは無理もないだろう。

 

「……まあ、あんたは随分離れたところから来たみたいだし、場所が違えば習慣も違うのかも知れないわね。そうね、いつもとは言わないけど、大変じゃなければ魔法を使ってくれる方がいいわ。ちょっとした雑用みたいなことはメイジならちょくちょく魔法でやるの、それが私たちの嗜みよ」

 

「そうなの? ウーン、魔法で雑用とかはあんまりしたことがないけど……。ルイズがそういうなら、ディーキンはなんとかしてみるよ」

 

 ディーキンは請け負ったものの、さてどうしたものかと考え込む。

 

 昨夜読んだ本によれば、ここのメイジたちは『精神力』という概念を持っており、それを消費して呪文を使うのだという。

 高レベルの呪文ほど精神力を大量に消費してしまうが、ちょっとした雑用に使う程度の低レベルの魔法なら気軽に何度も唱えられるらしい。

 

 フェイルーンにおけるメイジはそれとは違い、呪文のレベル別に『スロット』を持っている。

 下位のスロットをいくら潰しても上位のスロットの代替にはならず、上位のスロットは下位のスロットの代わりに使えるものの、一対一交換しかできない。

 4レベル呪文のスロットを潰して1レベルの呪文に当てても、使えるのはスロット1つあたり1回で固定だ。

 こちらにはこちらの利点もあるものの、総合的に見ておそらくハルケギニアの魔法よりも燃費の悪いシステムだといえよう。

 まあ、そういった不便な点をある程度解消できる特技などもあるのだが……、ディーキンは今のところそういった技術は習得していない。

 それゆえ雑用で頻繁に呪文を唱えていたらスロットがあっという間に枯渇してしまい、本当に呪文が必要な時に困ったことになるだろう。

 

 ……となると、魔法の使い方を少々効率よく工夫しなくてはなるまい。

 そもそも日常生活で魔法を使わなければいいだけの事であって正直考えるのが面倒だが、それが使い魔としての仕事なら仕方ない。

 

 ルイズがさっき言っていたように《奇術(プレスティディジテイション)》を使えば、1回唱えるだけで1時間の間は何回でも効果を発揮できるのだが……。

 しかしあの呪文では、おそらく効果が微弱すぎて出来ない雑用の方が多いだろう。

 たとえば念動ならば持ち上げられる最大重量は1ポンド(約400グラム)で、しかもゆっくりとしか動かせないのだ。

 それではかろうじて制服の上着を運べるかどうか程度の力しか出せまい。

 

(ウーン……、けどまあ、どうとでもなるかな……?)

 

「ほら、ディーキン。着替え終わったから食堂に行くわ、ついてきなさい」

 

「わかったの。ディーキンは金魚のフンみたいに、ルイズにしっかりくっついていくよ」

 

 ディーキンはいくつかの案を頭の中でぼんやりと練りながら、着替えの終わったルイズに続いて部屋を出た………。

 





シエスタについて(作者より):
 お読みになって想像がつくかと思いますが、本作でのシエスタの設定は原作からは若干改変されております。
今後も彼女の設定・性格・容貌などの面については原作とは違いがしばしば見られるかと思いますが、何卒御了承下さい。


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第十話 Old enemies

 

「おはよう、ルイズ」

 

 ディーキンとルイズが部屋を出るとすぐに、廊下にいくつか並んだ似たような木でできたドアの一つが開いた。

 そこから顔を出した燃えるような赤い髪の女性が挨拶をしてくる。

 

 褐色の肌をしていてルイズより背が高い、彫りが深い顔立ちの美しい女性だった。

 ブラウスのボタンを二番目まで外し、大きなバストの胸元を覗かせている。

 身長、肌の色、雰囲気、胸の大きさなど、様々な点でルイズとは対照的な印象を受ける女性である。

 ディーキンは、そのひときわ特徴的な容姿を見て彼女が昨日召喚の場にいた生徒の一人だということを思い出した。

 

 一方ルイズは彼女を見ると途端に顔をしかめて、嫌そうに挨拶を返した。

 

「……おはよう。キュルケ」

 

 キュルケと呼ばれた女性はルイズと、次いでそのすぐ後ろに付き添って歩くディーキンの姿を見て、僅かに不思議そうな顔をして首を傾げた。

 

「……あら、あなたの使い魔は、その子?」

 

「そうよ」

 

「ふーん、そう……」

 

 キュルケは今ひとつ釈然としない様子である。

 

(昨日召喚したときに見たけど、ルイズの亜人に翼なんか生えてたっけ……?)

 

 昨夜召喚された際にディーキンは《変装帽子(ハット・オブ・ディスガイズ)》を身につけていたため、当然キュルケの記憶と現在の姿には食い違いがある。

 ディーキンはずっとあの帽子を使用し続ける気などないので、もしその点を誰かに問われた場合には正直に話す気でいる。

 姿形を多少変える魔法程度は、高度とはいえハルケギニアの系統魔法や先住魔法にもあるようだ。

 なら、そういうマジックアイテムを持っていると知られても別段問題にはなるまい。

 

 さておきキュルケが記憶を手繰っている間に、話題に上げられた当のディーキンは一歩進み出てやや大仰に御辞儀をした。

 

「はじめまして、ディーキンはあんたにご挨拶するよ。ディーキンはディーキン・スケイルシンガー。バードで、ウロコのある歌い手、物語の著者。そして昨日からは、ルイズの使い魔もやってるよ」

 

「ん……、あら。ルイズの使い魔にしては行儀がいいじゃないの。ご丁寧にどうもありがとう、私はキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。二つ名は『微熱』。ゲルマニアから来た留学生よ、よろしくね」

 

「ええと……、よし」

 

 ディーキンは彼女の長い名前をさらさらと羊皮紙にメモすると、満面の笑顔(コボルドなりの)を浮かべて、もう一度会釈する。

 

「それじゃよろしくなの、キュルケお姉さん」

 

 牙をむき出した笑顔と、好奇心に満ちてきらきら光る目。

 キュルケは微笑ましくそれを眺めながら、先ほどの些細な疑問を頭から追いやった。

 

 記憶違いか。あるいは、翼が収納可能な亜人とかも世の中にはいるのかもしれない。

 それとも、これだけ流暢に話す子なら先住魔法の一種とか。

 どうとでも説明はつくし、案外かわいい子で危険もなさそうだ。別にこだわることはないだろう。

 

 キュルケはにやっとした笑みを浮かべると、ちらりと視線をディーキンからその主である少女へ移して様子を窺った。

 流石に、ただ単に初対面の相手に挨拶することに口をさしはさむほど不寛容な事は控えたようだが……。

 

「…………」

 

 案の定というか、自分の使い魔が“宿敵”へ丁重に挨拶をしたことが不本意らしく、むっつりとした表情をしている。

 これはひとつからかっておかねばなるまい。

 

「ええ、よろしくね、ディーキン君? ……にしても、『サモン・サーヴァント』で亜人を喚んじゃうなんて、変わってるわねえ。あなたらしいじゃないの、流石はゼロのルイズね」

 

 それを聞いたルイズの白い頬にさっと朱が差し、眉間に皺が寄った。

 

「うるさいわね……、ただ物珍しいってだけで人の使い魔にケチをつける気なの? ツェルプストーにはメイジとしての礼儀も備わってないのかしら」

 

 キュルケはルイズに睨まれても涼しい顔で、ただ軽く肩を竦めた。

 

「あら、ただ珍しいって言っただけでそんな気はないわよ? ちょっと変わってるけどいい子そうね、なかなかの使い魔じゃない? ……けど、私の使い魔だって負けていませんことよ。紹介するわ、フレイム~!」

 

 キュルケが声を掛けると、待っていたかのように彼女の部屋からトラほども大きさがある真っ赤なトカゲが顔を出す。

 フレイムという名らしいその使い魔がのそのそと近くに寄ってくると、むっとした熱気が感じられた。

 見れば尻尾が燃え盛る炎で出来ており、口からもチロチロと炎が迸っている。

 

「オオ? これは……」

 

「これって、サラマンダー?」

 

 ルイズが微妙に悔しそうな顔でキュルケに尋ねた。

 それを聞いて、まじまじとそのトカゲの様子を見つめていたディーキンが首を傾げる。

 

「ああ……、これが、こっちのサラマンダーなの? うーん、そういえば、さっき読んでた図鑑にも出てたかな……」

 

 どうやらこれもまた、フェイルーンとハルケギニアで共通の名称を持つ別種の生物の一例のようだ。

 なんとなく見た覚えはあったが、言われて初めて本の中で見たサラマンダーの挿絵だという事を思い出した。

 やはり一回通し本で読んだだけなのと目の前で見るのとではまた違うらしい。

 本を読み返したり現地調査をしたりして早くこっちの知識をしっかり身に着けないといけないな、とディーキンは改めて実感した。

 

 フェイルーンの方でサラマンダーと言えば、炎と煙、溶岩で満たされた灼熱の世界、火の元素界に住まう来訪者の一種である。

 彼らはたくましい人型生物に似た上半身と鷹のような顔を持ち、腰から下は大蛇のようで、赤と黒の鱗や炎のようなトゲで全身が覆われた姿をしている。

 自己中心的で冷酷、他者を苦しめることに喜びを見出す強靭かつ邪悪なクリーチャーであり、故郷では輝く金属の都市に軍勢を成して住んでいる。

 また、並みの人間を凌ぐ高い知能と炎に対する完全な耐性、そして優れた金属加工の技術を持つ、最高の鍛冶職人でもある。

 ゆえに彼らは戦士としても、鍛冶場の働き手としても、しばしば物質界に召喚される。

 

 一方で、ハルケギニアのサラマンダーは見たところ爬虫類タイプの魔獣、もしくは亜竜の一種のような姿をしている。

 少々うろ覚えだが、知能面では通常の動物と大差ないという旨の記述があったような気がする。

 もっとも、フェイルーンと同様にハルケギニアの方でも使い魔は通常の動物よりもかなり知能が上がるらしいが。

 

「こっちの? ……ええ、そうよ、火トカゲよ。見てよ、ここまで鮮やかで大きい炎の尻尾は間違いなく火竜山脈のサラマンダーね。ブランドものよー、好事家に見せたら値段なんかつかないわ」

 

 キュルケは得意げに胸を張った。

 

「そりゃよかったわね……。ふん、だけどディーキンだって負けてないわよ。火竜山脈だろうが何だろうがサラマンダーよりずっと珍しいし、魔法だって使えるんだから!」

 

 ルイズも負けじと小さな胸を張り返した。

 それを聞いたキュルケはそれ以上ルイズと張り合おうとするでもなく、首を傾げてディーキンを見つめる。

 

「へえ……、ディーキン君は先住魔法が使えるの? 小さいのにすごい子ねえ。大したもんだわ、主人のあなたはゼロなのにね」

 

「……ぐっ……!」

 

 痛いところを突かれてぎりぎりと歯を噛みしめて睨んで来るルイズを尻目に、キュルケは屈み込んでディーキンの顔を見つめ、にっこりと笑いかけた。

 大きく開いた胸の谷間が丁度見えるような位置関係になっており、それを見たルイズの眉がますます吊り上がる。

 流石に色ボケツェルプストーといえども亜人を誘惑しようなどという意図があるわけではないだろうが、とにかく色々と気に食わない。

 

 さて当のディーキンはその胸元を一瞥して……、それからキュルケの顔を見つめ返して、首を傾げた。

 

 ディーキンにも人間の美醜や色気の有無くらいは大体分かるが、あくまで経験や芸術的な感性によるものであって本能に根差した類のものではない。

 さほど異性に関心はないものの、ディーキンはいたって健全なコボルドの雄である。

 爬虫類系生物であるコボルドに、卵も産まずウロコも生えてない、柔らかい肉剥き出しの異質な生物に欲情しろというのは土台無理な相談というものだ。

 ディーキンは人間に対してまったく抵抗なく対等の相手として付き合えるが、性的な対象として見てはいない。

 

 彼女にしても、おそらくそれは同様のはずだろう。

 色気を強調するような姿勢やそういった仕草をしている時に発する色っぽい猫撫で声は、おそらく身に染み付いた彼女の癖のようなものだろうか。

 

(んー……、この人は、“白のセスタ”みたいな人かな?)

 

 セスタはウォーターディープに住む、美の女神スーニーに仕える女司祭で、自分達がアンダーマウンテンに挑戦するのを助けてくれた人物である。

 

 スーニーの使徒たちは、あらゆる美を崇拝している。

 美しいと感じるものを所有したいと欲し、そして、その望みを隠さない。

 どのような美を求めるかはそれぞれに違いがあるが、彼女の場合は主として異性との交わりがそれにあたるらしい。

 

 ドロウの暗殺者がウォーターディープの有力者達を暗殺してまわっていた時、優秀な司祭である彼女は無事だった。

 自分が無事なのは、「独りでは寝ないように気を付けている」ためだと彼女は言ったものだ。

 一度彼女が口説き落とす予定の名簿とやらを見せてもらったことがあるが、ボスの名前も当然のようにその中に入っており、彼には内緒だと釘を刺された。

 

 ボスはその振る舞いにはやや眉を顰めてはいたが、彼女が結局は善良な人物であることは認めていたし、彼女の信念を尊重してもいた。

 地下世界からのドロウの侵攻によってウォーターディープが脅威に晒された時にも、彼女は進んで危険な地に留まり、街を守るために尽力していた。

 倒れた冒険者たちへの治療や蘇生を無償で行い、神殿が所有する多くの貴重な品を仕入れ値で売ってくれた。

 さらにはアンダーダークへ先行した冒険者達を救うために、貴重な蘇生の魔力を持つロッドを無償で提供してくれさえしたものだ。

 

 ディーキンもまた彼女には感謝しているし、多分に好感を持っている。

 あのロッドのお陰で、自分や仲間が何度命を救われたことか。

 

 目の前のキュルケからも、彼女とどことなく似たような良い印象を受ける。

 分野こそ違えど魅力で人を惹き付ける存在という意味ではバードはまさに専門家であり、ディーキンは自分の見立てにはそれなりに自信があった。

 なぜかルイズの方は、どうも彼女に良い印象を持っていないようだが……。

 

 もっとも、仮にディーキンが人間の男だったとしてもキュルケにさほどに惹かれはしなかっただろう。

 キュルケは所詮は貴族の娘であり、男を誘惑するのに手慣れているとはいっても、アマチュアの域は出ない。

 それに対してセスタは、いわば“その分野”の一流の専門家だったのだ。

 

 それにディーキンは、自然そのものが肉体的美しさを纏って顕現した存在とされるニンフに出会ったことがある。

 老若男女の別も種族の如何も問わず、あらゆる者を誘惑して堕落と破滅へ誘うエリニュスやブラキナなどといった妖美を誇るデヴィルを見たこともある。

 そして、魂から滲みだすような高貴な美しさを持つ、天上界のセレスチャルと友好を深めたさえこともあるのだ。

 

 正しくこの世のものではない美や高貴さを持つ存在と遭遇した経験が何度もある以上、人間の貴族の外見などに今更取り立てて惹かれるところはない。

 彼らと比べてみれば殆どどんな人間でも、容姿にせよ立ち居振る舞いにせよ、比較にならないほど凡庸だと感じられる。

 

 更に付け加えて言うなら、ここの人間は……。

 フェイルーンの人間とは、なんだかえらく容貌が違うのだ。

 

 ルイズやキュルケは、多分可愛くて美人なような気はするのだが、正直言って、今ひとつ確証が持てない。

 なんというか、ここの人間はフェイルーンの人間に比べて全体的に華奢で、異様に目がでかくて、口が小さくて、顔が逆三角で……、まあ、可愛いといえば可愛いが、見方によっては気色悪いという意見もありそうである。

 メリケンチックなフェイルーン人と、ビッグアイ・スモールマウスなハルケギニア人とのデザインギャップに、ディーキンはいささか戸惑っていた。

 

 そんなディーキンの内心など露知らず、フレイムはディーキンの傍にのそのそとやって来ると口を開いた。

 

『よう、ちっこいの。俺はフレイムだ、よろしくな』

 

「……アー、はじめましてなの、フレイム。ディーキンはディーキンなの、よろしくお願いするよ、………?」

 

 ディーキンはにこやかに挨拶を返したが、すぐに妙なことに気が付く。

 

 使い魔になれば知能が上がるのだから、フレイムが喋ったことを不思議だとは思っていない。

 問題は、彼(オスであろう)の喋った言語だ。

 言葉を発するのに慣れていないのであろう獣の喉から発せられたゆえのたどたどしさや、聞き慣れない訛りはあった。

 だがそれでも、間違いなくフェイルーンで用いられている『竜語』と同じものだったのだ。

 

 召喚時に付与されたと思しい翻訳魔法の効力だろうかとも考えたが、すぐにその可能性を否定する。

 何故なら、これまでに出会った人々の言葉はすべて、訛りの感じられない共通語に聞こえていたからだ。

 フレイムの言葉だけが竜語、それも聞いたこともない妙な訛りの入ったものなどに翻訳される理由がない。

 

 つまり、翻訳魔法とは無関係に、フレイムは確かに竜語を喋っているのだ。

 そこでディーキンは、竜語に切り替えて彼と会話した。

 

『……ねえフレイム、あんたの種族……、サラマンダーは、竜語を話すものなの?』

 

『ん?いや、違うぜ。俺達サラマンダーは……、まあ、人間が俺達のことをそう呼んでるってのは俺も昨日知ったんだが……、普通は言葉とやらを喋らないもんだ。このご主人様の使い魔とやらになったときに自然にできるようになったのさ、会話ってやつは実は今お前としてるのがはじめてだ。ちっこいの、お前だって同じ言葉を喋ってるじゃないか……、お前の方はそうじゃないのか?』

 

『ふうん……、そうだよ、ディーキンの種族はもともとこの言葉を使ってるの』

 

『へえ、そうなのか。まあ、お前さんも人間と同じ二本足の類らしいしな……。ああ、ご主人様の使う人間の言葉も、話すことはできんが何言ってるのかは分かるようになったぜ』

 

 ディーキンはそんな調子でフレイムと情報を交換しながら、考えをまとめていく。

 

 使い魔になった時知能が上がり、竜語での会話が可能になるというのは、ここのメイジが与えた特殊能力の一種だろう。

 しかし、ルイズやキュルケの「さっきから使い魔同士で何を話してるの?」という感じの表情を見る限りでは、彼女らの方は竜語を知らないらしい。

 フェイルーンでは、竜語は多くの秘術呪文使いが学ぶ基本教養に近いものなのだが……。

 

 せっかく言語能力を与えるというのに、一体何故主人と同じ言葉ではなく、主人に理解できないような言葉を話す能力を与えるのだろうか。

 ディーキンの話す言葉の方は召喚時の魔法で翻訳されているが、どうもフレイムの方にはそれが掛かっていないのか、彼の言葉は通じていないように見える。

 はっきり言って、どういう意図なのか理解に苦しむ。

 

 まあそれは、とりあえず置いておこう。

 今もっとも気になるのは、むしろ『ハルケギニアでフェイルーンと同じ竜語が使われていること』である。

 

 正確な事情は分からないものの、これもフェイルーンとハルケギニアの間に大昔に交わりがあり、今は無いという証拠のひとつだろうとディーキンは推測した。

 

 共通語は交わりを断ってから数千年の間に、双方共にほぼ原型をとどめないほど変化してしまっている。

 だが、竜語は共通語とは違い、より古く根源的な、魔法的な言語にも近い性質のものなのである。

 そのような言語は言葉それ自体に力があり、意志の疎通を不可能にしてしまうような根本的な変化に強く抵抗する、と言われている。

 事実、フェイルーンにおける竜語は明らかに、ここ数千年の間殆ど変化していないのだ。

 異なる種類のドラゴンの間ではそれぞれ異なる訛りは見られるものの、意志の疎通自体ができないほどにまで変化してしまった例はない。

 ゆえにハルケギニアの竜族および他の古い種族の間に伝わっていたであろう竜語もまた、数千年の時が経過してなお大きな変化をせずに残っていたのだろう。

 

 そんな風にディーキンが思案を巡らせていると、首を傾げて傍に屈み込んでいたキュルケから声が掛けられた。

 

「ねえフレイム、さっきからディーキン君と何を話してるのかしら。……にしてもディーキン君、そんなにフレイムに近づいて熱くないの?」

 

 先程からディーキンは炎をちらつかせたフレイムと話をして考え込んだり、合間に姿形を間近で観察したりしながら、羊皮紙に何やらメモを取っている。

 時には尻尾の炎に触れるのではないかと思うほど顔を近づけて観察したりもしているが、まるで熱そうな様子がないことにキュルケは首をひねった。

 彼女は火のメイジなので、そういった点にはよく気が付くのである。

 

「ン……?ああ、平気だよ。ディーキンには涼しいくらいなの。でもキュルケお姉さんのおかげでうっかり羊皮紙を焦がさなくて済んだの、ディーキンはあんたの気遣いに感謝するよ」

 

 ディーキンは言われて初めて気が付いたように少し羊皮紙を炎から遠ざけると、キュルケに礼を言った。

 実際のところ、単なるコボルドだった少し前までのディーキンならばともかく、赤竜の血を覚醒させた今のディーキンにはフレイムの火など全く熱くない。

 自分がそういう体になっていることを時々失念してしまうので、キュルケに声を掛けられなければ本当に羊皮紙を焦がしていたかもしれない。

 

「それでディーキンもお返しに聞くけど、お姉さんも随分フレイムの近くにいるよ。人間なのに熱くないの? 思うにあんたは、素敵なコボルドのバードと話すのに夢中で、うっかり火傷するのを忘れてるんじゃない?」

 

「あはは! あなた、面白い事をいうわね。ええ平気よ、私も涼しいくらい。私は火のメイジだもの、このくらいの熱ならどうってことはないわ。コボルドは土に近しい生き物だって聞いた覚えがあるけど、あなたはむしろ火に近しいのかしら?」

 

「そうなの? ウーン……。ディーキンの事は、ディーキンにもよく分からないの」

 

 ディーキンはキュルケに返事をしながら、もう一度じっと彼女の姿を観察した。

 フェイルーンの人間とは随分違う造形は人種の差異によるものとしても、おおよそ人間にはありえないような鮮やかな赤い髪をしている。

 洗い場で出会ったシエスタの容貌にはいくつか人間離れした特徴を見て取れたが、ごく僅かながら彼女の姿からもそれと似たような印象を受ける。

 加えて普通の人間とは違い、[火]のエネルギーに対する抵抗力を持っているという。

 

 昨夜はハルケギニアのメイジはシュゲンジャの流れを汲むものと推測したが、彼らの能力はシュゲンジャとは違って、血筋による先天的なものだという。

 そして、例外なく生まれつき四大元素のいずれに属するかが決まっているらしい。

 

 フェイルーンには、“ジェナシ”と呼ばれる遠い祖先に元素の次元界からの来訪者を持つ変わった人間が存在している。

 そのうちのファイアー・ジェナシにはキュルケによく似た赤い髪を持つ者が多く、また[火]に対して若干の抵抗力を持つという点なども共通している。

 フェイルーンのソーサラーがしばしば己の祖先を竜や天使、悪魔、神などの存在だと主張するように、ハルケギニアのメイジはブリミルを祖と仰いでいる。

 だがその力の起源は、もしやすれば太古の昔、ハルケギニアに入ってきたであろう元素界の来訪者に求められるのかも知れない……。

 

 まあ、正しいかどうかわからないし、仮に正しかったとしても今のところ「だからどうした?」という話ではあるが。

 一応頭の片隅にでもおいておいて、後でエンセリックに話してみよう、とディーキンはひとりごちた。

 

 そんなディーキンの思案など知る由も無く、キュルケはフレイムの顎を撫でると話を切り上げて顔を上げる。

 

「さて、お互いに親交を深めたいところだけど、早く行かないと朝食の時間に遅れちゃうし。じゃあディーキン君、ついでにルイズも、お先に失礼するわね~」

 

 最後にそういって軽く会釈し、炎のような赤髪をかきあげてキュルケは去っていった。

 フレイムもディーキンに別れを告げ、ちょこちょこと大柄な体に似合わない可愛い動きでその後を追う。

 

 ルイズはむっつりと睨むようにしてその姿を見送り、ディーキンは挨拶を返した。

 

「じゃあまたね、キュルケお姉さん、フレイム。……ねえルイズ、もう食事の時間ならキュルケたちを見送ってないで、こっちも行った方がいいんじゃないの?」

 

「ふんっ、何よ、もう。……ええ、もちろん行くわよ、でもキュルケと一緒に行く気はないの。ディーキン、私の使い魔として、これからはあんまりあのキュルケに近づかないようにしてちょうだい!」

 

 腰に手を当て、むっつりした顔でそう言い放つ。

 ディーキンはそれを聞くとルイズの顔をじっと見て、小首を傾げた。

 ルイズは怪訝そうにそんな使い魔の様子を見ていたが……、ふと何かに気が付いたように顔をしかめて、ぼそぼそと言葉を足した。

 

「………まあ、その。あのサラマンダーとは仲良くなったみたいだし。使い魔同士の付き合いくらいは、あんたの気持ちに任せるけど」

 

 本音を言えば非常に不本意だが、しかし使い魔同士の交友関係まで縛るのは行き過ぎだろう。

 あまりに狭量では、主人としての度量に障る。

 それに内心、正規の契約をしたわけではないディーキンの行動を無闇に縛ることには気が引けてもいるのだ。

 

「ウーン……、ディーキンはルイズの使い魔だから、ルイズの頼みは無暗に断らないつもりだよ。もしルイズがドラゴンと戦えって言うなら……、がんばって戦うし、パンを買って来いと言うならそうするの。でも、キュルケと付き合うなっていうのは、ディーキンには理由がよく分からないよ。どうして?」

 

「それもそうね……、いいわ、説明してあげる。まず、さっきキュルケも言ってたけど、あいつはゲルマニアの人間で……」

 

 それから、ルイズは自分がキュルケを(というか、彼女の実家であるツェルプストー家を)嫌いな様々な理由を並べ立てた。

 

 曰く、キュルケはゲルマニアの貴族で、私は成り上がりのゲルマニアが大嫌いだの。

 ルイズの実家もキュルケの実家も共にゲルマニアとトリステインとの国境沿いにあって、先祖代々、戦争のたびに殺しあっているだの。

 さらには先祖代々、婚約者や奥さんを寝取られているだの。

 

「……というわけだから、キュルケには近づかないようにしなさい。わかった?」

 

「ウーン……、ルイズの話は、その、分かったの。けど……」

 

 ルイズの話を聞き終えたディーキンはあいまいに口を濁しながら、何やら物言いたげな顔でルイズをじっと見つめた。

 

「……何よ、まだ何かわからないことでもあるの?」

 

「ええと、ディーキンは不思議なの。ルイズのご先祖様が、キュルケのご先祖様とケンカしたことは分かったよ。でも、キュルケ自身はどうなの? ディーキンには、彼女は悪い人には見えないの」

 

 それを聞いたルイズは、いかにも不快そうに顔をしかめてディーキンを軽く睨む。

 

「……ふーん、亜人のあんたまであいつの色香に騙されてるってわけ? 私に対するあの態度を見たでしょ、あいつはいつも私の事をからかうの。それに何人もの男をとっかえひっかえして……、ろくなもんじゃないわ、例外どころか野蛮で品の無いゲルマニア人の典型よ!」

 

 そうでなくても、ヴァリエール家の一員として自分の使い魔がツェルプストー家の者と慣れ合ったりしたら、ご先祖様に顔向けできない。

 そう、ルイズは言った。

 

 それを聞いたディーキンは、少し考え込んでから、じっとルイズの顔を見つめる。

 

「ええと……、ルイズがゲルマニア人を嫌いな理由は分かったし、それは正しいかも知れないね。昔から酷い目に合わされてきたし、意地悪で汚いんだっていうんだね。……だけどルイズ。ディーキンは―――コボルドなの」

 

「………はあ? あんたがコボルドだってのは前に聞いたわよ、一体何がいいたいの」

 

 ルイズは自分の指示に素直に頷かない上、唐突に脈絡のなさそうな話をしだした使い魔にいらいらした様子で眉を顰める。

 昨夜はルイズの僅かな癇癪にも少し怯えた様子を見せていたディーキンは、しかし、その様子に動じるでもなく、真っ直ぐに彼女を見つめたまま話を続けた。

 

「こっちのコボルドはディーキンのいたところのコボルドとは違うみたいだから、どうかわからないけど。フェイルーンでは、コボルドはみんなから嫌われてるの。みんな言うんだよ、コボルドには昔から酷い目に合わされてきたし、意地悪で汚いって」

 

 それを聞いたルイズは、ディーキンの言わんとするところを察して困ったように視線を泳がせた。

 

「そ、そりゃ、そうかもしれないけど……。でもね、なんていうか……、あんたのいうことと、ツェルプストーとの件とはまた話が」

 

「違うの? でも、どう違うのかディーキンにはよく分からないの」

 

 ルイズの返答が終わらないうちに、それを遮るように言葉を返す。

 ディーキンにしては珍しい行動であり、じっと視線を外さない様子と相まって、そこに強い意志が篭っているのをルイズもなんとなく理解した。

 

「ディーキンは、どうしてコボルドがそんなふうに思われるのか知ってるよ。ノームとか人間とか、エルフとかドワーフとか……、みんなそろって『コボルドは卑劣で、卑屈で、そのくせ弱い者いじめが好きで。意地悪で汚い、どうしようもない連中だ』って言うの」

 

「…………」

 

「みんなの言うことは別に間違ってないよ、それが真実なの。だけど、ディーキンはコボルドの事も、みんなよりはよく知ってるよ」

 

 コボルドは、自分たちはノームに人間に、エルフにドワーフに……、どいつもこいつもに、昔から酷い目に合わされてきたのだと言っている。

 そして、『あいつらはみんな、コボルドをチビで馬鹿なろくでなしだと決めつけて見下してくる。意地悪で汚い連中だ』と思っている。

 

「ちょっとあん、………う」

 

 ルイズは何かいい返そうとするが、ディーキンと目が合うと口篭もってしまう。

 亜人と人間の争いを名誉を持って戦う貴族同士の抗争と同一視されたことは腹立たしく、反射的に怒鳴りつけてやろうかとも思った。

 だが、こちらを真っ直ぐに見つめるディーキンの目を見た途端、感情に任せた言葉は喉に詰まって出てこなくなってしまった。

 

「もしディーキンがバカなら、みんなからぜんぶのコボルドが意地悪で汚いと思われてるみたいに、みんなのことも意地悪で汚いと思うの。他のコボルドがそうしているみたいにね。だけどディーキンはバカじゃないし……、みんながコボルドを嫌いな理由はよく分かるの」

 

 ディーキンは決して感情的にならず、むしろ淡々として穏やかに、しかし断固とした調子で話し続ける。

 

 ディーキンがルイズの家とキュルケの家の諍いの話を聞いて、すぐに思い浮かべたのはコボルドとノームの事だった。

 コボルドの主神カートゥルマクは、長年に渡ってノームの主神ガールを非常に憎んでいることが知られている。

 カートゥルマクはコボルド達にノームを皆殺しにせよと命じており、ガールとノームが成した悪事の数々を吹聴して、彼らに対する憎悪を煽っている。

 そのため殆どのコボルドは、ノームを見るや殺しにかかる。

 

 しかし、ディーキンは旅立つ前から様々な本を読んでいたから、そのような一方的な見方には疑問を抱いていた。

 そして実際、人間の街へ出て彼らと会ってみると、ノーム達の悪意の無いユーモアのセンスや発明の才を大変に気にいった。

 しかもノーム達は寛大な心を持っていて、ディーキンが悪意の無い存在であると理解するとコボルドだからといって追い回したりすることもなかった。

 

 ディーキンは自分の経験から、伝聞を鵜呑みにして安易によく知りもしない者達を嫌ったり蔑んだりすることは誤りだと確信している。

 コボルドの側も、他の種族の側も……、もちろん、同じ種族の者同士での争いでも、それは然りだろう。

 

「いつか、コボルドはドラゴンみたいになって、チビで卑怯で怖がりな嫌われ者じゃなくなるよ。ディーキンはルイズの使い魔の仕事が終わって、他にも色々な事をしたらだけど……、いつか部族の元へ戻って、族長になる」

 

 そうして、みんなを洞窟から追い出して、他の種族と交わらせるのだ。

 きっと、そうしてみせる。

 

「ディーキンはもしかしたら、文明化された土地へ行くようになった最初のコボルドかも。だけど、行きたいと思うコボルドはディーキンだけじゃないと思うし、とにかく、ディーキンは挑戦する最後のコボルドにはなりたくないの」

 

「そ、それは、その……、あんたの志は立派だと思うけど。けど、この件に関してはそれは大げさっていうか、ええと、その。つまり……、買いかぶりよ。あいつは、そんな立派なやつなんかじゃ……」

 

「もちろん、そうかもしれないね」

 

 キュルケやツェルプストーやゲルマニアには、ディーキンはルイズほど詳しくない。

 だから、もしかしたらルイズの言う通りかもしれないし、ルイズがそう考えることはディーキンに止める権利はない。

 

「だけどボスなら絶対にそんなことは言わないし、それにディーキンは挑戦する者なのに、他の人をダメだって決めつけるのはアンフェアだと思う」

 

「うー……」

 

「えーと、つまり……、何が言いたいかっていうと。キュルケが本当に嫌な人だってルイズが確信してるんだとしても、ディーキンにも自分でそれを確かめる機会を与えてほしいの。ディーキンはルイズが寛大な人だってことは知ってるよ、だからお願いするの。ルイズは召喚した最初からディーキンの無理も聞いてくれたし、さっきもフレイムとは話してもいいっていってくれたもの。チビのコボルドに、そんなふうに気を使ってくれる人はそういないの」

 

 ひどく真剣な調子でじっとこちらを見つめてくるディーキンを困ったようにちらちらと見つめながら、ルイズは口篭もった。

 

「……、その、あんたの話は分かったし、そういうことなら、その、認めてあげてもいいんだけど……。ほ、ほら。万が一にも使い魔をツェルプストーの人間に獲られたりしたら、ご先祖様に申し訳が……。い、いえ、もちろん自分の使い魔の事を疑ったりなんてしないけど……」

 

 ディーキンの話にはルイズもいささか感じるところが多かったし、こうも誠実な態度をとられた上にやたらと持ち上げられては。

 自分でもいささか狭量だと認識している命令を、これ以上押し通すのは恥ずかしい。

 

 だが話の筋はともかくとして、そもそもどうしてキュルケと話すなという指示にここまで真剣に反対したのだろうか。

 まさか亜人がとは思うが、よもや本当にキュルケに惹かれているなどという事は……と、ルイズは疑心暗鬼になってきていた。

 使い魔を疑うようなことはしないししたくないが、どうしても気になる。

 

「……な、なんであんたは、そこまでしてキュルケと話すことにこだわるのかしら?」

 

「だって、キュルケはディーキンとまともに話をしてくれたもの。なのに今後はお付き合いしないなんて失礼だし、嫌なの。そうでしょ?」

 

「は……?」

 

「人間でコボルドとあんな風に話してくれる人はそういないってことはディーキンはよく知ってるの。ここには親切な人が多いし、ディーキンはキュルケを避けてまわるなんて、受けた親切を裏切るようなことはしたくないの。それはバカなコボルドとか、いやな奴がすることだからね」

 

「そ、それだけ……?」

 

「そうだよ。だってそれは、人間がディーキンにしてくれる中でも随分いい事だからね」

 

 それに、ディーキンにはルイズのご先祖様の事はよく分からないが、少なくとも昨日、ルイズ本人に使い魔になると約束をした。

 それは、互いに信じあえると思ったからだ。

 なのに、彼女は自分がキュルケに獲られるかもしれないのが嫌だという。

 

「ルイズはもしかして、ディーキンが裏切って、キュルケの使い魔になると思ってるってこと?」

 

「え……、いえ、その……」

 

「ディーキンには、それが冗談だって分かるよ。あんまり面白くないけどね。この辺では、そういう冗談が流行ってるの?」

 

「…………」

 

「ボスなら絶対にそんな心配はしないし、ディーキンはルイズの事も信頼できる優しい人だって信じてるもの。だから、そんなことを本気で口にするはずはないの。そうでしょ、ルイズ?」

 

「……わ、わかったわよ!」

 

 あくまでも真っ直ぐルイズの顔を見つめてくるディーキンの視線にいたたまれなくなったルイズは、逃げるように顔を逸らして、そう返事を返した。

 

「キュルケがどんなに節操のない軽薄な女か、時間を無駄にして自分で確かめてみたいっていうなら、そうしてもいいわ! だけど、その為に私の使い魔としての仕事をおろそかにしたりだけはしないこと、いい!?」

 

「勿論だよ、ディーキンはルイズとの約束をおろそかにしたりはしないの。ディーキンは優しい大きな親切に感謝するよ」

 

 ルイズは満面の笑みを浮かべて深々とお辞儀をするディーキンを、さまざまな感情が入り混じった顔で見た。

 彼が顔を上げる前に、またぷいとそっぽを向く。

 

「ふ、ふん。このくらいの頼みを聞いてあげるのは、主人として当然よ。……ほ、ほら! 話し込んでてすっかり遅くなっちゃったし、朝食に行くわよ!」

 

 つんっとした態度を無理に装って足早に食堂へ向かいながらも、ルイズは自分の使い魔について思い悩んでいた。

 

 見るからに小さな姿から、これまで子どもだとばかり思っていた。

 だが、召喚された時の動じない落ち着いた振る舞いと教師達を交えての議論、そして今の会話。

 自分は安易に他人に意見を左右されない確固とした姿勢が貴族の態度だと弁えているのに、簡単に命令を翻させられた。

 それも見たところ演技じみたところも何もない、ただ素直で真っ直ぐな、誠実そのものといった態度で自分の意見を語っただけで。

 

(……もしかしてこの子って、見た目は小さいけど実は私より年上とか?)

 

 そう考えながら、背後からついてきているディーキンの様子をちらりと窺った。

 

「♪ ア~、忘れは~、しないブルー……、レッドリボン・ア~ミ~♪」

 

 先程の真剣な態度などすっかり忘れたかのように、上機嫌で妙な鼻歌をうたいながらリュートをかき鳴らしている。

 無邪気そうなその姿に、ルイズは溜息を吐いた。

 

(まさか………ねえ)

 





技能について:
D&D3.5版において技能判定は技能値+関係能力値ボーナス(平均的な人間の場合は±0)+1d20(20面体ダイス1つの出目)で行われる。
つまり技能がなく能力も平凡な一般人でも平均10前後の数値は出るし、失敗しても再挑戦可能な判定なら粘れば20は出せるわけである。
ディーキンなら、上限まで伸ばした得意技能であれば呪文や装備でのブースト抜きでも平均50近い値が出せると思われる。

<交渉(Diplomacy)>:
自分の話に賛成するよう他人を説得したり、情報を引き出したり、改心させたり、群衆を扇動したり、商品を値切ったりする技能。関係能力値は【魅力】。
この技能には礼儀作法、社交的な優雅さ、如才なさ、相手の意中を汲み取る敏感さ、言い回しの巧さなどが含まれている。
技能判定に成功することで、NPCの態度(敵対的、非友好的、中立的、友好的、協力的、熱狂的)をより良い方に変えることもできる。

・敵対的
痛い目に合えばいいとか、合わせてやると思っている。攻撃、妨害、叱責などの害を成す行為をしてくる。

・非友好的
直接手出しこそしないものの、酷い目に会えばいいと思っている。嘘をついたり悪い噂を流したり、単に避けたりする。信用されない。

・中立的
どうでもいいと思っている。挨拶されれば挨拶を返すくらいはする。道行く他人程度。

・友好的
好意を抱いてくれている。雑談に喜んで応じ、助言したり賛成、擁護してくれる。信用を勝ち得ている。
自分に危険のない範囲なら、多少の不利益や労力を我慢して助けてくれる。

・協力的
積極的に力になろうと思っている。保護や支援、治療、加勢などを行ってくれる。
自分にある程度の危険や不利益があったり、大きな労力を要する事でも助けてくれる。

・熱狂的
心酔し、我が身を投げ打ってでも尽くそうとしてくれる。
怒り狂って突進してくるドラゴンの前に立ち塞がって庇うような、明らかに自殺的な行為でさえ行ってくれる。
通常の状況ではNPCはこのような態度を示すことはない。

中立的な人々を友好的にする(見知らぬ人と仲良くなる)難易度は15である。
判定値が25あれば敵対的な相手を中立的まで持って行くことができ、50あれば協力的に変える事も可能になる。
なおバードやパラディンは一般的に【魅力】が高いため、この技能を得意としている。
作中でディーキンがルイズらを簡単に説き伏せられているのは、この技能の高さによる部分が大きい。


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第十一話 Breakfast

 

 トリステイン魔法学院の食堂は、学園の敷地内で最も高い中央の本塔の中にあった。

 

 食堂の中には百人は優に座れるような長いテーブルが学年別に三列並んでおり、ルイズら二年生は中央のテーブルで食べるらしい。

 左右のテーブルにはマントの色が違う他学年の生徒が座り、一階の上にあるロフトの中階では教師たちが歓談している。

 各テーブルには蝋燭や花飾り、瑞々しい果実が山と盛られた籠などが並び、豪奢な雰囲気を醸し出していた。

 無論室内の装飾もそれに見合った見事なもので、壁際には夜中になると意志を持って動きまわるという精巧な小人の彫像がずらりと並べてある。

 

 この食堂は壁に並ぶ魔法の彫像の名にちなんで、「アルヴィーズの食堂」と呼ばれているという。

 

 もっとも、ディーキンは昨夜夜食を食べに来た時既に内装は見たしその話も聞いたので、今更驚いたりメモを取ったりはしない。

 学院生に明日の貴族たるべき教育を充分に受けさせるために相応の食卓が用意されているのだとかなんとか、ルイズは誇らしげに説明していたが……。

 正直言ってディーキンとしては、あちこちピカピカしてきれいだなあという程度の感想であり、関心は薄かった。

 

 ディーキンは暗黒世界(アンダーダーク)で、地下に引き込まれたアヴァリエル(翼を持つエルフの一種)の女王の城を見たことがある。

 カニアでは、デヴィルが焼けた鉄を打ち鍛えたり氷を削り出したりして作った、恐ろしい威容を誇る数々の建造物も見た。

 これまで暮らしていたウォーターディープにも、城や宮殿は当然ある。

 豪奢な建物を見たのが初めてだというわけでもないし、昨夜見た図書館の方が遥かに重要で驚異的な施設だ。

 そうでなくとも野外での食事に慣れている冒険者の身としては、食事をする場所の豪華さなどははっきりいってかなりどうでもいいことである。

 無論敵に襲撃されかねないような場所では安全に食事ができないから、場所がまったく関係ないというわけでもないが。

 

「ウーン……? それにしても、随分量が多いみたいだね。ねえルイズ、ここの人はみんな、こんなにたくさん食べたがるの?」

 

 料理は朝から過剰に豪華で、でかい鳥のローストや上等そうなワイン、鱒の形をしたパイなどが食べきれないほど並んでいる。

 体格も華奢でさほど体を動かしているようにも思えないここのメイジが、こんなに食べる必要があるのだろうか?

 

 ……まあもっとも、実を言えばディーキンも朝からこれ以上に豪華な食事を食べることはかなり多いのだが。

 《英雄たちの饗宴(ヒーローズ・フィースト)》という呪文を覚えたクレリック、ないしはバードを含む高レベルの冒険者パーティにはよくあることだ。

 もしかするとこの食事もそれに類似した魔法的な効果のある物なのかとも一瞬考えたが、それらしいオーラは感知できなかった。

 

「まさか。全部食べるなんてしないわよ。みんな好みのメニューも違うし、好きなものを食べられるようにいろいろと並べてあるだけなの。食べたいものを食べて満腹になったらおしまいよ、残ったものは使用人のまかないとか使い魔、の……」

 

 椅子を引いて座りながらそこまで話すと、ルイズは何かに気が付いたようにディーキンの方を見た。

 ディーキンはといえば、ルイズと並んで席に座ろうなどとはせずに少し後ろの方にちょこんと立って控えている。

 

「……ごめん、そういえば昨夜はいろいろあったから、あんたの食事を手配しとくのを忘れてたわ……」

 

 ディーキンはそれを聞いて、軽く頷く。

 

 食事の用意をしていないと聞いても、特に不平そうな様子はなかった。

 今までにした使い魔としての仕事と言えば、せいぜい少々の雑用をこなしただけ。

 昨夜の夜食と寝床を提供してもらっただけでも、十分今までにした仕事の対価以上には値する。

 今朝の食事が出なくても、別段不当な扱いではあるまい。

 ましてやこんな豪勢な食卓に、当然のように連日座れるほど厚かましくはない。

 

 英雄として認められる以前には人間の食堂には当然入れてもらえず、あちこちを回ってどうにか残飯を恵んでもらって食いつないだような事もあった。

 そんな暮らしを受け入れてきたディーキンには、飯は食わせてもらえて当たり前のものだなどという感覚はないのだ。

 

「大丈夫なの、ルイズ。ディーキンは食事なら自分でなんとかできるの。もしも用意してもらえるのなら嬉しいけど、それが大変だったらこれからも自分で準備するよ?」

 

 特に気分を害した様子もなく笑顔でそう返してくるディーキンを見て、ルイズはむっと顔をしかめる。

 

 確かに、使い魔には自給自足させる、という方針のメイジは多くいる。

 だが今のところ、この風変りな使い魔に対しては他に報いられるものもないのだから、寝食くらいきちんと用意しなくては主人として立場がない。

 ましてや、用意を忘れるというこちら側の不手際に対して、逆に使い魔から気を使われてそれに甘んじるなどという情けないことはできない。

 自分はこれでも、誇り高きヴァリエール家の三女なのだ。

 

「主人に迷惑をかけないでおこうとする態度は褒めてあげるけど、あんたはそんなことにまで気を回さなくていいの。少し不手際はあったけどちゃんと今後は……、いえ、今朝の分だって食事はちゃんと用意するわ。自分の落ち度で使い魔にそんな負担を掛けるなんて、メイジの恥よ」

 

 ルイズはそう宣言すると、どうするのが最善だろうかと少し考え込む。

 

「ええと……、昨夜はここで余り物を食べてたし、あんたの食事は私たちと同じような物でいいのよね? もし他に何か食べたいものとかがあったら言ってちょうだい。……あ、でも、まさかとは思うけど、その、人間の肝とか……、そんな事はいわないでしょうね?」

 

 たしかコボルドの神は、供物として生きた人間の肝を好むとか聞いた覚えがある。

 まあディーキンはどうも普通のコボルドとは違う種族のようだし、友好的そうだし、そんな習慣があるとも思えないが一応確認してみた。

 

 それを聞いたディーキンは、きょとんとした様子でルイズの顔を見上げた。

 

「ええと、ルイズにはディーキンが人間の内臓を食べたそうな感じに見えるの? ディーキンはケーキが大好きなの、それと、ポテトシチューとかもね。あと、……アー、まあ、最近はいろいろだね」

 

 おばあちゃんが日光浴のあとでよく獲ってくれたおいしい虫も好きだ……。

 と続けるのは、一度食事中にその話をしたところボスから少々嫌そうな顔でやめてくれといわれたのを思い出して控えておいた。

 

(ウーン……、おばあちゃんがよく鶏に手を突っ込んで内臓占いをやってたことも、きっと言わない方がよさそうだね)

 

 人間社会の習慣にもかなり慣れて、そのあたりの事は大分わかってきた。

 いまだに感覚としては理解できないというかいまひとつ納得がいかないことも多いが、理解はできなくとも尊重することはできる。

 

 まあ、食料が乏しく虫なども食べる事が当たり前の習慣となっているアンダーダークでは結局、ボスも現地の習慣に従って口に運んだりしていたのだが……。

 行儀のいい彼は食事に文句を言うなどという事こそしなかったものの、かなり嫌そうな顔をしていた。

 ヒーローズ・フィーストの呪文はそんなボスを喜ばせようとして習得したのだが、心底嬉しそうに感謝してくれたのをよく覚えている。

 まともな食事が手に入らない極寒地獄のカニアの野を旅する時にも、あの呪文には何度も世話になったものだ。

 

 冒険者にとって第一に大切なのは十分な量で滋養のある食事ではあるが、美味しさというのも精神衛生面ではかなり重要なものだ。

 栄養満点の粥を永久に作りだせるという魔法のスプーンを購入した冒険者が、後で後悔して愚痴っているのを酒場で見かけたことがある。

 というのも、その《マーリンドのスプーン》が作る粥は、まるでボール紙のような風味で酷くマズいからだ。

 その点、ヒーローズ・フィーストの呪文が生み出す御馳走は最高に美味である。

 食すことによって得られる超常的な恩恵こそが主眼の呪文ではあるが、味の素晴らしさもまた、過酷な冒険生活の最中に荒んだ心を安らがせてくれる。

 仲間たちの精神面でのリフレッシュも、バードの担うべき務めなのだ。

 

「そう、ならとりあえず食事面で問題はなさそうね。昨夜はここで食べさせたけど、ここは本来は貴族の食堂だから、今日からは他の使い魔と一緒に厨房でもらったものをどこか外で食べて」

 

 今日は事前に話していなかったので余り物か何かになってしまうかもしれないが、明日からは好きなメニューを注文すれば用意しておいてもらえるはずだ、とルイズは言った。

 

「……ま、とりあえず今は、私のをいくらか分けてあげるから床で食べなさい。本当は外なんだけど、私の落ち度だから今回は特別ね。昼食からあんたに食事を出すように、その辺の使用人に話を通しておくわ」

 

「オオ、ただ食べさせてくれるだけじゃなくて、好きな食事まで用意してくれるの? ディーキンは本当に嬉しいの、すごく感謝するよ!」

 

 食うや食わずで餓えた経験が何度もあるディーキンは、食事の味に文句などつけたことはない。

 だが、それでもできるなら食事は当然、美味い方がいいとは思う。

 そしてここの料理が美味い事は、昨夜食べさせてもらった余り物の味で確信している。

 もちろんヒーローズ・フィーストを使えば美食を用意できるが、毎日そればかりではなくて、いろいろな味を試してみたいのだ。

 

 もしかすれば、フェイルーンには存在していない珍しい食材や料理が味わえるかもしれない。

 さまざまな未知の味を求める事は、多くのドラゴンが持つ娯楽でもある。

 ディーキンの以前の“ご主人様”などは、たまに人間に化けて街までミートパイを食べに行っていたほどだ。

 竜の血に目覚めてから味覚が鋭くなり、また金銭にも余裕ができてきたディーキンには、多種多様な味を試して楽しむことにも関心が芽生えてきている。

 そんな贅沢な娯楽は、ほとんどのコボルドにとって……また少し前までのディーキンにとっても、思いもよらぬことであった。

 

 これまでに行ったアンダーダークやカニアにも、フェイルーンの地上世界にはない珍しい食事が様々にあり、中にはとても美味しい物もあった。

 アンダーダークにはロセ(麝香牛に似た魔獣)の肉を使った素敵な御馳走があったし、

マッシュルームから作った酒に毒蜘蛛の毒を混ぜて味付けしたスパイダーブラッド・ワインなども、危険だが上等な味だった。

 地獄にさえも、灼熱の階層であるプレゲトスで実る火葡萄を用いて作られる上等なワインなどが存在していた。

 まあ、基本的には食料の乏しい地だし、単に珍しいというだけで味も何もないような代物も多かったが。

 

「おおげさね、使い魔の食住の世話を見るくらいはメイジとして当然よ?」

 

「そうかな? でも、ディーキンはいつも小さなことに感謝するの。いつか、大きなことに感謝をするためにね。小さなことがちゃんとできない人に、大きなことはできないってよくいうでしょ?」

 

「そういうものかしら? ……まあ、礼儀を弁えた態度は褒めてあげるわ。ほら、この皿とナイフとフォークを貸してあげるから、好きなものを取り分けて持って……って、あんたじゃ取るのが大変そうね?」

 

 ディーキンは食器類を受け取ると背を伸ばして食卓のメニューを眺め、うんしょうんしょと頑張って手を伸ばして、端の方にあるパイを切ろうとしている。

 あの分では、食卓の奥の方にある物には手が届くまい。

 空を飛べば届くだろうが、まさか食堂で翼をはためかせて飛ばせるわけにもいくまい。

 机によじ登って取るなどという恥ずかしい真似をさせるのは論外、椅子を踏み台にさせるかとも考えたが、食事前にごたごたして注目を集めたくなかった。

 それに、もうすぐ食前のお祈りが始まる時間のはずだ。

 

「もう……、いいわ、あんたの身長の事を考えてなかったのも私の落ち度だし。食器を貸して取りたいものを言いなさい、私が取ってあげるわ」

 

 食事を誰かのために取り分けるなど普通なら平民の給仕がするような仕事だが、メイジとして使い魔に餌を手ずから与える事は恥にはならない。

 

「ウーン、いいの? じゃあ、お願いするよ」

 

 雑用は魔法でやれと言われたことを思い出して、何か魔法で取ろうかと考えていたのだが……、ルイズが取ってくれるというのならお言葉に甘えよう。

 ディーキンは少し考えると、これまで見たことのない珍しい食材を使っていそうなものをいくつか選び、皿に盛ってもらう。

 ついでに通りがかった給仕にルイズが用意させた追加の食器にシチューをよそい、パンとパイを一切れずつ添えたお盆に載せて受け取ると床に座った。

 

 生徒らの前に並べられた御馳走に比べれば遥かにささやかな量だが、十分に豪勢な朝食といえる。

 フェイルーンでは、それなりに上等な部類の宿でなければこのレベルの朝食は出まい。

 

「偉大なる『始祖』ブリミルと、女王陛下よ。今朝もささやかな糧を我に与えたもうたことを、感謝いたします」

 

 生徒らが食前の祈りを捧げている様子を見て、ディーキンは首を傾げた。

 自分も同じようにするべきだろうか?

 とはいえ、自分はここのメイジたちの始祖や女王陛下とやらに対して別に何の感情もないし、そんな輩が祈るのもかえって失礼というものであろう。

 

「ウーン……、えーと。コボルドの創造主である『救い主』カートゥルマクと、竜族の創造主である『一にして九なる竜』イオにかけて。ディーキンは今日、この食事を授かったことに、心から感謝するよ」

 

 ディーキンの故郷レルムの宇宙観には、数多くの神格が存在している。

 そしてレルムに住まうほとんど全ての定命者は、程度の差こそあれ、少なくとも一柱以上の何らかの神を信仰しているのが普通だ。

 ディーキンは特に信心深い方でもないが、レルムに住まう住人の常として、何柱かの神格には折々に敬意を払っている。

 

 生前あらゆる信仰を拒絶した不信心者や信じた神を裏切った不誠実者には、恐ろしい運命が待っている。

 レルムでは、定命の存在の魂は死ぬと“忘却の次元界”へと引き寄せられるとされる。

 そこで魂は生前に信仰していた神格の従者が来て、神々の元へ連れて行ってくれるのを待つのだという。

 だが不信心者や不誠実者には、身柄を引き受けてくれる神格がいない。

 そのような者たちは、忘却の次元界を治める『死者の王』ケレンヴォーによって罰を受ける。

 不信心者の魂は分解され、ケレンヴォーの統治する“裁きの都”を囲む生きた城壁の一部に再構成されてしまう。

 不誠実者はその罪の程度に応じた刑罰を申し渡され、ケレンヴォーが解放を命じない限り永久に裁きの都で刑に服し続ける。

 そしてあらゆる死者を公平に裁く厳格な神であるケレンヴォーは、その生涯に渡って絶対に心変わりすることはない、と言われているのだ。

 

 カートゥルマクは悪の神であり、その教義には全く賛同はしないものの、コボルドという種族の守護神格としてはディーキンもそれなりに敬意を表している。

 

 イオは何柱も存在する竜の神格の中でも主神とされ、属性に関係なく多元宇宙のすべての竜族を守護する神である。

 ドラゴンを畏怖しているコボルドには竜の神々に敬意を払うものが多く、最近竜族の仲間入りを果たしたディーキンもその例に漏れない。

 イオは他種族の血を引くハーフドラゴンに対しても寛容な上、旅や知識、魔術などの、冒険者のバードにとって縁の深い多くの権能を有している。

 ゆえに、ディーキンがもっとも頻繁に祈る神の一柱である。

 

 他にも何柱かの神格には時々祈ることがあるが……、まあ食事の場でいちいち名をあげるほどではあるまい。

 そうして祈りを終えたディーキンは、生徒らと一緒に食事を始めた。

 

 

 

「…………」

 

 蒼い髪の小柄な少女――――タバサは、ルイズらから少し離れた席で食事を黙々と口に運んでいた。

 そうしながらも、時折ちらちらとディーキンの様子をうかがっている。

 

 昨夜自分の使い魔に約束した手前、あの亜人がイルククゥの言うように、本当にドラゴンなのかどうかを確かめなくてはならない。

 ゆえに、何か手がかりはないものかと先程から様子を観察していたのだが……。

 

(……今、あの子は竜族の創造主とかいうものに祈っていた。だけど、一緒にコボルドの創造主とかいうものにも祈っていた……)

 

 風のメイジであるタバサは耳がよく、特別に注意を向けていたこともあってディーキンの食前の祈りの文句もしっかりと耳に入っていた。

 おかげで重要な手がかりらしきものは得られたが……、かえって混乱が増すばかりだ。

 

 コボルドは、先住魔法の使用者が“大いなる意思”と呼んで共通して崇拝している存在に加えて、独自の神も祭る……という事は、本で読んで知っている。

 生きた人間の肝を供物として好む犬頭の神であるという以外には、ほとんど未知とされていたが……、彼の言うカートゥルマクとかいうのが、その神の名前なのだろうか?

 

 竜の神については聞いたことがないが、韻竜である自分の使い魔に聞けば何か分かるかもしれない。

 使い魔のイルククゥ(先住の民の名では不自然なので、後で別の名前を与えようかと考えている)には、朝食後に会って経過を伝えると約束している。

 その時にでも聞いてみて……、ついでに、城下町へ本を買いに行かせるとしようか。

 

 しかし……、コボルドの神と竜の神の両方を崇拝している亜人、もしくは竜など、いるのだろうか。

 あの祈りの内容は一体、どう考えたらよいのだろう。

 彼はコボルドなのか、ドラゴンなのか、それとも全く別の何かなのか……。

 

(……それに、翼……)

 

 昨日は確かに、あの亜人にはあんな翼は生えていなかったはずだ。

 

 召喚の場に居合わせた他の生徒たちの中にも、それに気付いて首を傾げているものが何人かいたようだが……、すぐに気にしなくなったらしい。

 まあ他人の使い魔に翼があろうがなかろうが、別段重要でもなんでもない。

 単に記憶違いか、翼を出し入れできるとかの変わった亜人か、何にせよどうでもいいと考えるのは無理もないことだ。

 自分も昨夜の使い魔の言葉がなかったら、そこまで気にはしなかっただろうが……。

 あの子はドラゴンだと言われ、半信半疑で確認に来てみたらいきなり生えてなかったはずのドラゴンみたいな翼が生えていたのだから、そりゃあ気になる。

 

 彼が竜だとして、自分の使い魔も使う事ができる姿を変える風の先住魔法の一種を用いれば、まあ亜人に化けることも可能だろう。

 だがしかし、そもそも何故見た事もない奇妙な亜人などの姿を取り、何ゆえ翼を生やしたり消したりしたのか……。

 そのあたりの納得がいく説明となると、まるで思いつかない。

 

「……タバサ、さっきからどうかしたの? あなたが食事を半分も食べないうちから、手を止めてぼんやりしてるなんて」

 

 隣りの席に座っているキュルケから訝しげに声を掛けられて、タバサは思考を中断する。

 いつの間にか、考え事に夢中で手が止まっていたらしい。

 

「いよいよあなたにも春が来た……、とか言うわけじゃなさそうね。そうなると、ええと?」

 

 この食欲旺盛な友人が、食事をそこそこにして物思いに耽る理由とはなんだろうか?

 キュルケは不思議に思って、じっと観察してみた。

 無表情なタバサだが、付き合いの長いキュルケにはその様子から大体の感情を推し量ることができる。

 

(……別に落ち込んだり思い悩んだりしている様子はなさそうね。かといって、恋の病って感じでもないし……)

 

 キュルケはふと、先程タバサがちらちらと目をやっていた向きを見てみた。

 

「~♪」

 

 そこには、今朝挨拶したヴァリエールの使い魔が座って、にこにこもぐもぐと幸せそうに食事している。

 

「……あら……、あなた、ディーキン君に興味があったのね?」

 

 キュルケはそれで、納得がいったように微笑んだ。

 

「どこで目を付けたのか知らないけど、さすがにあなたは見る目があるわねー。私も今朝話してみて気付いたんだけど、見た目はトカゲっぽいのに愛嬌があって……、不思議と魅力的な感じなのよね。それにいい子みたいだし、あのヴァリエールには勿体ないわ」

 

「……興味はある。見たことがないから」

 

 タバサはそれだけいうと、視線をテーブルに戻して食事を再開する。

 本来の目的は伏せたが、別に嘘でもない。

 使い魔の要望に応えるためという以上に、自分自身でもあの使い魔の素性は気になり始めている。

 キュルケは肩を竦めて苦笑すると、相変わらずあなたは勉強熱心ねえ、などと呟いて周囲の男子との談笑に戻っていった。

 

 タバサとしては別にキュルケを信頼してないわけではなく、むしろ全面的に信頼しているが、今のところは詳しく事情を説明する気にはなれなかった。

 そもそも今話す必要は別にない事だし、もし本当にあの亜人が韻竜の類なのだとしたら、ヴァリエールだって無闇に他人に知られたくはあるまい。

 自分だって、イルククゥが韻竜なことは周囲には伏せているのだから。

 

 とにかく、今これ以上観察を続けたりあれこれと考えていても仕方がなさそうだ。

 

(機会を見て直接聞いてみるのが、一番早くて確実)

 

 タバサはそう結論を出した。

 

 キュルケはあの亜人を「いい子だ」と言っていたし、彼女の人間の観察眼は親友としての贔屓目を抜いても充分信頼できる。

 自分としても、先程の彼とヴァリエールとのやりとりを聞いてみた限りでは穏やかで善良そうな印象を受けた。

 なら、変に策を弄さず本人に正面から聞いてみるのが一番早いのではないか。

 

 どうせ同じ学院の使い魔同士は日常的に交流するのだし、使い魔の間では遅かれ早かれ、韻竜であることは知られるだろう。

 誰にも聞かれる恐れのない上空以外では人間の言葉を話さないよう徹底しておくことと、他の使い魔に口止めを頼ませることは必須として……。

 まあ使い魔同士の言葉でなら、話している様子を主人に見られてもただの竜との区別はできないだろうから、それは許可していいだろう。

 

 問題はヴァリエールの使い魔が同族だったとして主人である彼女に教えていいものなのかどうかということで、それを早めに見定めておきたい。

 使い魔は主人が望めば感覚を共有されるのだから、韻竜同士だからといって普通に会話させ、自由に振る舞わせていれば主人にもいずれ露見せざるを得ない。

 自分だって使い魔にあまり不自由な思いをさせるのは本意ではないし、気兼ねなく会話をできる相手を与えられるならばそれに越したことはないのだが……。

 

「………………」

 

 ヴァリエールは努力家で名誉を重んじ、信頼できない人物とは思わないが、これまで個人的な交流はまったくなかった。

 しかもキュルケを嫌っているようだし、その友人であるとなれば自分にも悪印象をもたれるかも知れない。

 たとえ韻竜同士だとしても当面は会話は互いに先住言語で行って、主人には伏せておいてくれるよう頼む方が現実的かもしれない。

 

 だが、なんにせよ彼の正体と、状況を見定めてからのことだ。

 まずはヴァリエールがいない時を見計らって、自分とあの使い魔だけで話をしよう。

 

(とりあえず、今は食事が先)

 

 ひとまずそう決めたタバサは、学院の殆どの生徒が半分も食べずに残す朝食を、恐ろしいほどのハイペースで胃袋に収めていった……。

 





ヒーローズ・フィースト
Heroes' Feast /英雄たちの饗宴
系統:召喚術(創造); 6レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:1時間(食事)+12時間(効果)
 術者は伝説のヴァルハラの英雄達が食べるような素晴らしい御馳走を、術者レベル毎に1人前ずつ作り出す。
アムブロシア(神饌)のような食べ物やネクタル(神酒)のような飲み物、食器、豪華なテーブルや椅子、さらには給仕までもがセットになって出てくる。
これらの御馳走を1時間を費やして飲食した者は、あらゆる病が癒えるとともに12時間の間毒や[恐怖]効果に対する完全な耐性を得られる。
また、1d8+術者レベル毎に1(最大10)ポイントの一時的ヒットポイントと、攻撃ロールと意志セーヴへの+1士気ボーナスも得る。
この呪文は詠唱に10分の時間を要する。
バードが使う呪文としては最高レベルの部類に入るもののひとつであり、TRPGではよく「英雄定食」などと呼ばれている。


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第十二話 Lesson

 

 朝食を終えたルイズとディーキンは、連れ立って授業に向かう。

 魔法学院の教室は石造りで教壇が一番下の方にあり、そこから席が上に向かって階段状に連なっていた。

 

「オオ~、何だかエヴァンジェリスト(福音伝道者)とかが演説するのによさそうな部屋だね。ディーキンは、メイジの学校の教室って初めて見るよ」

 

 ディーキンのボスはウィザードであるドワーフの師匠の元で修業していたが、そこは個人の私塾であり普通の家と大差なかった。

 フェイルーンにもメイジの学校やウィザード・ギルドなどは存在しているが、ディーキンは生憎とそういった場所に入って見たことはない。

 

 同じ秘術魔法使用者とはいっても、バードは一般的にウィザードからはかなり軽んじられている。

 真剣に学究に打ち込みもせず、生来の才能だけで底の浅い手品紛いの魔法を振り回して喜ぶ芸人に過ぎないと思われているのだ。

 実際には、そんな微笑ましい優越感に浸っている徒弟ウィザードに真の魔法というものを思い知らせてやれる程度には腕の立つバードも結構いるのだが。

 

「エヴァンジェリストって何よ? ……まあそりゃ、亜人のあんたははじめてでしょうね。いい、先生はあの教壇で話して、私たち生徒は周りの席に座って授業を受けるのよ」

 

 ルイズが、何やら一心にメモを取っているディーキンに説明をしてやる。

 

「ふんふん……、ええと、いろいろな使い魔がいるみたいだね。ディーキンは他の人の使い魔にお近づきの挨拶をしてきてもいいかな?」

 

「あんたって結構礼儀正しいわよね……、なんていうか、コボルドってそんな習慣のない野蛮な亜人だと思ってたけど」

 

「ンー……、ディーキンも人間に挨拶して回るコボルドはあんまり見たことないね。たぶん、お互いに挨拶しに行くとよく追っ駆け回されるからだと思うけど」

 

「そうかもね。……でももうすぐ授業だし、今日は使い魔のお披露目だから、私の近くに座ってないとあんたが誰の使い魔かわからなくなっちゃうわ。挨拶に回るなら、授業が済んで私の用事が無い時にしてちょうだい」

 

 ディーキンはそれを聞いてちょっと考えた後、素直に頷いた。

 

「ディーキンもよく追っ駆けまわされててなかなか挨拶する間がないから、できる時にはさっさとすることにしてるの。でも、ここでは追い回されなくて済むみたいだし、ルイズがそういうなら挨拶は後にするね」

 

 そんな2人のやりとりはさておき。

 先に教室に来ていた生徒たちの多くは、2人が入ってくるとそちらを振り向き、くすくすと忍び笑いを漏らしたり、ひそひそ話を始めたりしていた。

 

 キュルケも既に教室にやってきており、2人の姿を認めると軽く手を振ってくる。

 彼女はまるで女王のように、周囲を男子生徒に取り巻かれていた。

 

「……………」

 

 ルイズはそれらをすべて黙殺して他の生徒らからやや離れた席に座ると、教科の魔法書を開いて黙々と読み始めた。

 随分と勉強熱心なようだが、周囲と関わりたくないのもあるのだろう。

 

 ディーキンはキュルケとフレイムに挨拶を返し、周囲からの妙な視線には少し首を傾げて、ルイズの隣の席にちょこんと座る。

 そうして椅子が大きすぎるために浮いた足をぷらぷらさせながら、改めて周囲を見回してみた。

 

 数多くの使い魔が主人であるメイジたちの横に控えている。

 大型すぎて部屋に入れない使い魔は、窓の外に集まっているようだ。

 動物類はまあフェイルーンと同じのようだが……、魔獣や異形の類はフェイルーンにも類似した種は見受けられるものの、やはり少し違うものが多い。

 

(ウーン……、いろいろと見たことないのがいるね。昨日読んだ本には書いてあったかな?)

 

 ディーキンは早速荷物袋から昨夜の本を取り出すと、まだ覚えていない生物について調べ始めた。

 外見からはとてもそんなスペースがあるようには見えないが、昨夜借りた本はすべてこの荷物袋の中にしまってある。

 

 《ヒューワードの便利な背負い袋(ヒューワーズ・ハンディ・ハヴァサック)》は異次元空間に通じており、外見よりも遥かに多くのものを収納できるのだ。

 しかも、どんなに物をしまおうと重量は常に5ポンド(2kg強)のまま。

 さらには欲しいものを思い浮かべて手を突っ込むと、内部にしまったものはなんであれ即座に取り出すことができると至れり尽くせりだ。

 慌てていても確実に目当てのものを取り出せるあたりは、かの名高い耳無し猫のポケットさえ凌駕するだろう。

 とにかく便利な、冒険者の定番アイテムである。

 

 さておき様々な局面において知識の有無こそが冒険の成否、時には生死をも大きく分けるという事は冒険者全般にとって常識である。

 冒険者なら誰であれ、<説話蒐集家>であっても、《知識への献身》を重んじていても、不思議ではないだろう。

 

 特にバードに関してはその最も大きなウリのひとつが広範な知識であり、優秀なバードならば常にあらゆる雑多な知識の収拾を怠らないものである。

 

 自分が無知であることを自覚しながら学ぼうとしない怠惰なバードには、冒険者の資格はない。

 例えば目の前の大きな甲虫はラスト・モンスター(錆の怪物)といって、魔法のかかっているものであろうともあらゆる金属を錆びさせて食ってしまう、ということを知らないばかりに、迂闊に斬りかかって金貨数万枚もする武具を失った挙句、危険なダンジョン深部で途方に暮れた不幸な戦士は数多い。

 トロルが火か酸によってしか真のダメージを受けず、どんなに斬り刻んでもそれらで止めを刺さない限り復活する、ということを知らないばかりに、敵を倒す手段を持っていながらそれに気付かず、不死身と思える相手に疲れ果て絶望しながら殺された冒険者も数知れない。

 

 未知の敵に無策で挑もうとするのは、愚か者か真の勇者だけだ。

 そしてそのどちらも絶えた試しがないことを、バードとして数多くの英雄譚を見聞きしたディーキンはよく知っている。

 だから、バードの話の種もまた、未来永劫尽きる心配はないのである。

 

「……オオ、あの目玉の名前はバグベア? ウーン……」

 

 フェイルーンでバグベアといえば、身の丈7フィートにも達するゴブリン類で最も大柄な種族だ。

 濃い体毛、強靭な外皮、腕力、そして何よりもクマのような鼻を持つことがその名の由来となったらしい。

 ところがハルケギニアのそれは、ビホルダーの亜種か何かかと思うような姿をしている。

 

 どうも、フェイルーンと同じ名を持つ別種族がハルケギニアにはやたら多いようだ。

 数千年の隔絶の間に、同じ名が別のものを指すようになっていった例がたくさんあったのだろうか?

 そういえば、ビホルダーも他の世界ではスズキなにがしと呼ばれているとかいないとか、聞いた覚えがあるが……。

 

 なお、ディーキンにとってここの机は高すぎて、椅子に座ったまま机に本を置いて読むのは不便だ。

 ゆえに途中から椅子を降りて机の上に移動し、今はそこにちょこんと座って、本を抱え込むようにして読んでいる。

 

「ちょっ、………」

 

 行儀の悪い読み方にルイズは一瞬文句を言おうとしたが、ディーキンが一心に本を読む姿を見ると、何を思ったのか微妙に頬を染めて口を噤んだ。

 注意しなかったのは止むを得ない事情あってのことと理解を示したからか、無闇に騒いでまた教室の注目を集めたくなかったためか。

 はたまた、その勉強熱心さを評価したためか。

 もしくは読む仕草が妙に可愛らしいので、止めさせたくなかったか。

 

 その答えはルイズのみぞ知る。

 

 

 

 そうしているうちにタバサが教室に入ってきて、周囲で騒いでいるキュルケの取り巻きたちを無視して彼女の近くの席に座った。

 彼女はディーキンの方へちらりと目を向けたが、すぐに分厚い本に視線を落とすと黙々と読み始める。

 

 ディーキンはそこに、他の生徒からの視線とは異なる微妙な何かを感じたが……、すぐに別の妙なことに気が付いて首を傾げた。

 確か彼女は、昨日風竜の近くにいた生徒だったはずだ。髪の色が特に変わっていたのでよく覚えている。

 しかし、窓の外にはその風竜がいない。

 

 それも当然で、タバサは使い魔のお披露目のしきたりを無視し、朝食後すぐに自分の使い魔を街へ買い物に行かせていたのだ。

 別にお披露目などしなくても留学生で使い魔が風竜となれば目立つから、教師らは皆すぐに覚えてくれるだろう。それより早く有効利用したかった。

 

 ………というのもあるが、最大の理由はイルククゥの態度だ。

 彼女は自分の使い魔であることに不満を感じている様子で、会話禁止にも納得していないのが明らかだった。

 その上ヴァリエールの使い魔と話したがっている彼女をここへ連れてくれば、ボロを出しそうだと懸念したためである。

 そのため、意図的に朝から用事を申し付けて学院から遠ざけておいたのだ。

 

(何か本を読んでる……、図書館から借りた?)

 

 そうだとするとあの使い魔は、召喚されたばかりなのにもう図書館で本を借り出す許可を取ったのだろうか。

 自分が同じ立場でもそうするだろうな、と、タバサは少し親近感を覚えた。

 

 古代の叡智を受け継ぐとされる韻竜なのに食べ物にしか興味なさそうな自分の使い魔とは大違いだ。

 召喚した使い魔が幼生とはいえ韻竜だったことで、もしや母を救う方法を知っていてくれないかと多少は期待したのだが……。

 いざ言葉を交わしてみると、本で読んだ高貴な竜の印象を裏切る全く役に立ちそうもないその幼稚な精神性に軽く失望させられた。

 

 むしろあっちの子の方が、自分と合いそうではないか?

 

「……不本意」

 

「え、タバサ、何か言った?」

 

「何でもない」

 

 ……まあ、食事は自分も食べられる時は大いに食べるし、執着する気持ちもわからないではない。

 それに、いくら良い子そうで気が合いそうだとはいっても、あの小さな亜人では自分の足や力にはなってはくれないだろう。

 その点風韻竜ならば、どこへ行くにも便利だしこれから任務の助けになってくれることも期待できるはずだ。

 何より他人の使い魔を羨んで自分の使い魔を嫌うなど、あってはならないことだ。

 タバサはそんなふうに、自分に言い聞かせた。

 

 先程話を聞かれる心配のない上空でお使いを申し付けた時、ついでに食事の際にあの使い魔が名前を上げていた神についても聞いてみた。

 

 カートゥルマクについては、「コボルドの神様~? そんなもの、イルククゥが知るわけないのね!」……との事だった。

 が、イオについては少し考えた後、「私たち風韻竜が、お祭りとかの時に大いなる意思と一緒に名前を上げて崇める古い竜の神様がそんなお名前なのね。大いなる意思のお導きに従ってすべての竜族をお作りになった、韻竜の知識と力を支え導いてくれる神様。そんなの知ってるってことはやっぱりあの子はドラゴンに間違いないわ! ほらほら私のいったとおりなのね、さっさとあの子にご挨拶に行きたいのね!」……とか言って騒ぎ出したので、また杖で殴っておいた。

 

 だが、早くあの子と話させろ、言う事聞いてるんだから食事は優遇しろとわめく使い魔には随分手を焼いた。

 結局彼女を宥めるのに、街から本を買って戻ってくるまでにはあの子と話をつけておくからと約束してしまった。

 

 これ以上不満を持たれて指示を無視されるようなことになれば、互いにとって不幸な結果となるだろう。

 風竜の翼なら戻るまでいくらもかからないだろうし、昼食前までには少々無理にでも機会を作らなくては……。

 

 

 

 そうこう思案を巡らしているうちに教師が入ってきたので、タバサはひとまず思考を中断した。

 ディーキンも一旦本を閉じて席に座り直すと、授業の内容を書き取るために新しい羊皮紙とペンを用意する。

 

 この時間は『土』系統の魔法に関する講義である。

 教師は『赤土』のシュヴルーズという、紫色のローブに身を包みとんがり帽子を被った、いかにも魔女という感じの、しかし優しげな中年の女性だった。

 彼女はまず教壇に上って会釈すると、満足そうに微笑む。

 

「皆さん、おはようございます。どうやら春の使い魔召喚は大成功のようですわね。このシュヴルーズ、こうやって春の新学期に様々な使い魔たちを見るのがとても楽しみなのですよ」

 

 そしてゆっくりと教室中を見回し、生徒と使い魔の姿を確認していく。

 やがてその視線が、ルイズとディーキンの主従に向いた。

 

「ああ、ミス・ヴァリエールはなかなか変わった使い魔を召喚したものですね。オールド・オスマンから伺いましたよ、何でも亜人で、東方の地に生息するコボルドの一種だとか」

 

 無論でたらめだが、昨夜の相談でそういう設定に決まったのだ。

 当面は東方のロバ・アル・カリイエに住まうコボルドの変種とでもしておけば、一般の生徒や教師らには深く詮索されまいとオスマンが提案したのである。

 

 というか、ルイズやコルベールはお互い地名や常識などがまったく未知であったことから見て、多分実際にそうなのだろうと考えている。

 ディーキンはおそらくそうではないであろうことをその時既に薄々感じてはいたが、特に反対はしなかった。

 事実を何が何でも皆に伝える、ウソは容認できないなどというローフルな信条はないし、現地に詳しい人間がそうするのがいいというなら別に異論はない。

 

 さておきそのシュヴルーズの言葉を受けて、クラスのあちらこちらから教師が入ってきたことで一度は中断されたささやき声や忍び笑いが再び聞こえ始めた。

 

「おおかた召喚できないからって、アカデミーあたりから珍しい亜人を送ってもらったんだろ! ゼロのルイズ!」

 

 小太りの生徒がそうからかうと、笑い声が大きくなる。

 

「なっ………!」

 

 ルイズは、その言葉に憤慨して立ち上がろうとした。

 生まれて初めて成功した魔法で召喚した大切なパートナーに対する、こんな不当な侮辱を看過できるものではない。

 

 だが、しかし。

 

 ちらりとルイズの様子に目を走らせたディーキンが、まるで彼女を制するかのようにそれよりも早く立ち上がった。

 そしてぴょんと机の上に飛び乗ると、周囲に向かって大仰に御辞儀をする。

 

「アー……、はじめまして、皆さん。ディーキンはおチビだから、ちょっとだけ机の上に立たせてもらいたいの。自己紹介は今朝キュルケお姉さんとフレイムにしただけだから、まだ知らない人が多いみたいだね。ディーキンはディーキン・スケイルシンガー。バードで、ウロコのある歌い手、物語の著者、そして昨日からはルイズの使い魔もやってるよ」

 

 よく通る声でそう自己紹介をすると、ルイズの事をからかった小太りの生徒と、ぽかんとした顔のシュヴルーズの方を順に向いて、にんまりと微笑んだ。

 周囲の生徒達はおおむね皆、突然のことで皆呆気にとられたような顔をしている。

 ルイズもまた、席から腰を浮かせかけたままで、先程までの怒りを忘れたようなきょとんとした顔でディーキンを見つめていた。

 

「ええと、そういうわけだから、ディーキンはルイズの使い魔ってことで間違いないの。ちゃんと召喚できなかったんじゃないかとか、ルイズの事を心配してくれなくても大丈夫だよ。それに先生、ディーキンは挨拶する前から自分の事を知っていてもらえたことを、とても光栄に思ってるの。ディーキンの今度書く物語には、先生の事もしっかり入れておくからね」

 

「あ……、え、ええ? まあ……」

 

 シュヴルーズは唐突な言葉にしばし目をぱちぱちさせていたが、すぐに笑顔になった。

 

「まあ……、まあまあ、ご丁寧にありがとう。ミス・ヴァリエールはとても素敵な使い魔を召喚したものですね。……それに、とても流暢に人間の言葉を話すのですね?」

 

「先生、ディーキンは元々、こっちの人が話してる言葉は話せなかったの。ルイズに召喚してもらった時にそういう魔法が掛かったんだと思う。だから、ルイズのお陰だよ」

 

 ディーキンはそう言って戸惑っているルイズに微笑みかけると、もう一度周囲に会釈してからぴょんと机を降りて、彼女の横の席に戻った。

 

「へ? え、その……」

 

「それは素晴らしい、使い魔に適切な能力を与えられるのはメイジの才能です。メイジの実力をはかるには使い魔を見ればよいとよく言われますが、それは単に強力な使い魔を呼べるメイジが優秀という意味ではありません。呼び出した使い魔の力をより大きく引き出せてこそ、主人であるメイジは優秀だという意味なのですからね」

 

 ルイズを賞賛するシュヴルーズの言に、ディーキンもウンウンと頷く。

 

 フェイルーンにおいても、優秀なメイジの使い魔であるほどより強く賢く、優れた能力を持っている。

 ゆえに使い魔の能力の程度を見れば、主人であるメイジのレベルもおおよそわかる。

 特に、使い魔のベースが何ら特別な力を持たない小動物の類などである時ほど、それが顕著に表れてくるものだ。

 

 先程キュルケのフレイムと話して、普通の使い魔に与えられる能力とディーキンに与えられた能力とが随分異なっているらしいことは確認済みだ。

 ルイズの与えてくれた能力はかなり特殊な部類に入るもののようだが、優れた能力であることには疑問の余地はないように思える。

 

「え、ええと……、ありがとうございます。私も、良い使い魔を呼び出せて嬉しく思ってます……」

 

 ルイズは席に腰を落とすと、やや赤面した顔を俯かせながら、そう答えた。

 

 赤面は嬉しさ、恥ずかしさ、その他もろもろの感情が混ざり合った複雑な要因からだったが、嬉しさが最も大きい。

 なにせ教師から実技の成果について褒められたのは初めての経験なのだ。

 加えてその褒められることになった要因が、自分の使い魔の行動から来ているというのがまた嬉しい。

 

 唐突に出しゃばって自己紹介などを始め、教室で目立つ振る舞いをしたことに恥ずかしさや怒りもいくらか感じてはいた。

 だが落ち着いて考えてみると、もしディーキンがあそこで立たなければマリコルヌ(先程の小太りの生徒)らに言い返して不毛な口論になっていたはずだ。

 その結果、おそらくは教師に叱責されていただろう。ルイズには今までにも、何度もそんな経験があった。

 先程自分を嘲笑してきた生徒たちは、教室の空気が変わってしまったので今は不服そうに口を噤んでいる。

 それでもなお侮辱を加えようとした者も数名いたようだが、厳しい顔つきになった教師の杖の一振りによって赤土を口に押し込められていた。

 ルイズとしては不当な侮辱をした連中に真っ向から反論してやりたい気持ちはあったが、結果的に自分の名誉は守られ、賞賛まで受けたのだ。

 

 これは、果たして偶然だろうか?

 もしかすれば、思いのほか賢いこの子の事、主人を庇う意図で話の流れを変えるためにわざとやったのかもしれない。

 そうだとすれば、なんと出来た使い魔である事か。

 そう考えるとルイズは誇らしさで胸一杯になり、俯かせた顔を上げてぐっと胸を張った。

 

 今回の行動については後で軽く注意するけど、その倍くらい褒めてあげよう、うん。

 ……べ、別に、使い魔を甘やかしてるとかじゃないんだからね!

 

 

 

「あはは、本当に面白い、いい使い魔よねえ。さっきまでちっちゃい体で本を抱え込んで読んでたところなんか、なんだかあなたみたいで愛らしかったわ! 流石にうちのフレイムやあなたの風竜には負けるでしょうけど―――」

 

 キュルケは面白そうにディーキンとルイズの主従を眺めながら、傍らの使い魔を撫でつつ友人のタバサと雑談していた。

 もう教師が前に立っているのだから授業が始まるまで静かに待つべきなのだろうが、彼女はそんな優等生な性格ではないのだ。

 それでも成績は文句なく優秀で、特に『火』系統の魔法の実技に関しては学院でもトップレベルなのだが。

 

「……………」

 

 タバサはその言葉に軽く頷いて同意を示しつつも、じっとディーキンの方を見つめて考え込んでいた。

 

(……今いきなり立ち上がって自己紹介をしたのは、ヴァリエールを庇う為?)

 

 そこまで展開を読んで……。

 いやまさか、いくらなんでもそんなわけはない……、だろう。

 

 唐突に使い魔が出しゃばって権利の無い発言をしたことで、逆に怒る性格の教師だっている。

 教室の空気を一歩読み間違えば、より嘲笑が激しくなる恐れもあった。

 あの子は教室に入ったのも今初めてなのだから、教師や生徒らの人柄や行動は雰囲気で察する程度しかできないはず。

 それを意図的に、こうも巧みに誘導するなどできるはずがない。

 ましてやあんな小さな子が、一瞬でそんな機転を利かしたなどと思うのは、考え過ぎだ。

 さっきも本を広げて熱心に読んでたし勉強熱心で賢い子には違いないのだろうけど、でも言動は滑稽というか天然っぽいところもあるし。

 きっと純真さから出た素直な行動が、結果的に上手く行っただけなのだろう。

 

 が……、理屈でそうは思っても。

 タバサは自分の中でこの亜人、もしくは自分の使い魔の判断を信じるなら竜に対する興味が、高まっていくのを自覚していた。

 

(一体、この子は何者なのだろう?)

 

 何故、これまで他人と関わることを極力避けてきた自分が、珍しいとはいえ赤の他人の使い魔などに惹き付けられるのか。

 それは、自分でもまだよくわからなかったが……。

 今や使い魔の頼み事を抜きにしても、彼のことをとても知りたいと感じていることは確かであった。

 

 

 

 さてルイズやキュルケ、タバサらがあれこれと考えているうちに。

 シュヴルーズは教室の空気を授業に向けて引き締めようと、咳払いして杖を振った。

 

 すると、教卓の上に石ころが数個現れる。

 

「はい、皆さん、こちらに注目してください。少し開始が遅れてしまいましたが、そろそろ授業を始めます。私の二つ名は『赤土』、赤土のシュヴルーズです。土系統の魔法をこれから一年の間、皆さんに講義しますよ―――」

 

 それから新年度最初の授業という事で、ハルケギニアの魔法に関する基本事項のおさらいが始まった。

 

 ハルケギニアの系統魔法は『火』『水』『土』『風』の四つに加えて、今は失われた伝説の系統『虚無』を合わせた五系統から成る。

 シュヴルーズの考えでは、彼女の系統である『土』こそがその中でも最も重要な位置を占めている。

 何故なら土系統の魔法こそ万物の組成を司るものであり、この魔法がなければ重要な金属の創造や加工は酷く困難を伴うか、物によっては全く不可能となる。

 大きな石を切り出して建物を建てるにも、農作物を収穫するのにも土系統の魔法が重要な役割を果たし、生活に密着している―――。

 

 この世界の住人にとってはおそらく非常に基本的・常識的な事項なのだろう、生徒の大半は今の話をいちいち書き取ろうともしない。

 

 召喚されたばかりのディーキンでさえ、魔法に関する基礎的な解説書には昨夜目を通しておいたのでその程度の内容は既に把握していた。

 しかし確認のためにもしっかりと話を聞き、大事そうな部分は羊皮紙にメモしていく。

 ルイズは勉強熱心な性格らしく、自分の隣で分かりきった話でもちゃんと要点をノートに取っているようだ。

 使い魔としてはなおさらサボるわけにはいかないと、ディーキンは授業からできる限りの知識を吸収するべく熱心に打ち込んだ。

 

 『土』系統が最重要というあたりは本には書いてなかったが、そこは話半分に聞いておいた。

 きっと身贔屓も入っているのだろう、フェイルーンでも専門化したメイジは自分の専門系統こそが最重要と主張することが多いから。

 

 ルイズの方はといえば、逆に、使い魔でさえ熱心に勉強しているのだから、自分は主人として恥ずかしくないよう一層頑張らなければと考えていた。

 そのため彼女もまた、いつも以上に集中して授業に取り組んでいる。

 傍にいるだけでお互いに良い影響を与え高め合える、理想的な主従の姿であるといえよう。

 

 さて一通りの基本的な話が終わると、いよいよ授業が本題に入っていった。

 この時間の主題はどうやら、一年次の復習も兼ねて土系統の基本である『錬金』をまずは確実に習得してもらう、という事らしい。

 

(ええと……、『錬金』は確か、物質の材質を別の物に変える魔法……だったね)

 

 ディーキンは昨夜読んだ本の内容を思い返す。

 確か、『錬金』こそは土系統の基本にして奥義であり、メイジの実力によって作り出せる物質の種類もその純度も違ってくるのだと書かれていた。

 

 その記憶が確かだったことは、シュヴルーズがルーンを唱えて杖を振り、教卓の上の石を輝く金属に変えたことで確認できた。

 キュルケは目の色を変えて身を乗り出し黄金かと聞いていたが、多少ながら<鑑定>の心得があるディーキンにはそれが真鍮であることはすぐに分かった。

 

 ディーキンは特に、教師が何か魔法を使った際には注意深く観察していた。

 魔法が使われるたび、教師の口元、杖の動き、魔法の効果、魔力の系統や流れなどを細心の注意を払って観察し、細かくメモを取っていく。

 これには永続化した《魔法の感知(ディテクト・マジック)》が大いに役立ってくれた。

 欲を言えば《秘術視覚(アーケイン・サイト)》が欲しかったが、自力では使えないので致し方ない。

 

(ウーン……、今石を真鍮に変えたのが『錬金』ってやつだね。魔法のオーラの系統は……、変成術(トランスミューテイション)、と)

 

 冒険者として<呪文学>を学ぶ目的は何かと問われれば、それはひとつには戦闘時に敵の発動した呪文の種類を識別することにある。

 敵の発動した呪文の種類やその効力を知らねば対応することは難しい、知識が戦闘の明暗を分けるという良い例だ。

 使い魔としてルイズを守ったり冒険者として活動したりするためにも、魔法を使う敵を相手どることは当然想定し、それに備えておかなくてはならない。

 

 ハルケギニアの魔法とフェイルーンの魔法には<呪文学>の構成に明らかな類似点があるのでかなり応用は効きそうだ。

 だが全く同一のものというわけではないし、可能な限り早くこちらの呪文を確実に識別できるだけの知識を得なくてはならない。

 そのためにも、実際に呪文を発動しているところをしっかりと観察することは大切なのだ。

 

 本人によれば、シュヴルーズのランクは『トライアングル』らしい。

 この世界のメイジのランクはドット~スクウェアの4段階に分類され、それに応じた呪文のランク分けがあることは、昨夜本で読んだ。

 

 しかし呪文のレベルが4段階しかないとは、まるでレンジャーやパラディンのようだ。

 フェイルーンではウィザードやソーサラーのような専業メイジなら、0~9までの10段階にレベル分けされた呪文を使いこなすのが普通である。

 呪文に専心していない何でも屋のバードでさえも、0~6までの7段階の呪文を扱えるのだ。

 申し訳程度に呪文が使えるクラスと同じ4段階(プラス、0レベル呪文に相当するコモンマジック)しかないとは、また変わっている。

 

 もっとも、それは別に、必ずしもハルケギニアのメイジのレベルが低いからというわけではないのだろう。

 フェイルーンとハルケギニアではかなり魔法の体系が異なっているようだし、単純に比較できるものではなさそうだ。

 

 実際、『錬金』のように物質を別なものに変化させる魔法というと、フェイルーンではおそらく中程度以上の呪文になるだろう。

 それが、ハルケギニアでは土系統メイジなら駆け出しでもできる基本だという。

 その一方で、《変装(ディスガイズ・セルフ)》のようなフェイルーンでは初歩の幻術が、ハルケギニアでは風系統のスクウェアスペルに相当するらしい。

 フェイルーンの魔法では、実際に石を黄金に変えるよりも幻術でそう見せかける方がずっと簡単だ。

 

 どのような仕組みになっているのか実に興味深いが、バードの身ではあまり深く研究するのも難しそうだ。

 他力本願なようだが、エンセリックが何かいい見解を述べてくれないだろうか……。

 ディーキンがそうこう考えているうちに、シュヴルーズは『錬金』を誰かに実演させようかと、教室の生徒たちを見回し始めた。

 

「ええと……、そうですね。では、ミス・ヴァリエールにやってもらいましょう」

 

 それを聞いて、途端に教室の生徒達がざわめき始めた。

 

「………え? わたし――――ですか?」

 

「そうです。ここにある石ころを、望む金属に変えてごらんなさい」

 

 ルイズはなかなか立ち上がらず、困ったように眉根を寄せている。

 その理由は、ディーキンにも分かった。

 ルイズが魔法を成功させられないのだということは、昨夜本人から聞いている。

 

「ミス・ヴァリエール! どうしたのですか?」

 

 シュヴルーズが再び呼びかけると、キュルケが困った声で言った。

 

「先生、止めておいた方がいいと思いますけど……」

 

「どうしてですか?」

 

「危険だからです」

 

 キュルケはきっぱりと言い、教室のほとんど全員がそれに同意して頷いた。

 

「どうしてです? 彼女が実技が不得手という話は聞いていますが、努力家だとも聞いています。先程見たように、優秀な使い魔も召喚したではありませんか。さあミス・ヴァリエール、気にしないでやってごらんなさい。失敗を恐れていては何もできませんよ?」

 

(アア、ルイズはたぶんやるっていうね……)

 

 ディーキンはぼんやりとそう考えた。

 ルイズがキュルケに対して反発心や対抗意識を持っていることは、今朝のやり取りからも明らかだ。

 その相手からこんなことを言われては、ルイズはきっとむきになって、何が何でもやって見せると考えるはず。

 おまけに教師にまで背中を押されたのでは、後に引けないだろう。

 

 ちらりとルイズの方を窺ってみる。

 案の定、彼女は何か覚悟を決めたような表情でやりますと答え、席を立とうかとしていた。

 

(ウーン、キュルケは口が上手そうだと思ったけど、こういう説得は苦手なのかな?)

 

 

 

「ルイズ、止めて………」

 

 キュルケは蒼白な顔で、教壇の方に向かって行くルイズを止めようとした。

 

 だが止まらない、ルイズは自分の呼びかけなど無視している。

 その顔には既に何が何でもやってやるぞという決意が浮かんでいた、こうなったルイズの決意はテコでも動かせない。

 

(マズイ、マズイわ、このままじゃ新年早々また教室が! いえ、それどころか今度こそあの爆発のせいで取り返しのつかないことになってしまうかも。……諦めずに考えるのよ、キュルケ!)

 

 それに、実のところキュルケとしては、ルイズの評判がまた悪くなることを案じてもいるのだ。

 普段はよくからかって遊んでいるが、別にルイズが嫌いなわけではない。

 向こうは、そうは思ってないだろうが。

 

 その時、ディーキンの姿が目に入った。

 

(……! そ、そうだわ、ディーキン君ならルイズを止められるかも)

 

 先ほども、結果オーライかもしれないが、怒って立とうとしていたルイズの出鼻を上手く挫いてくれていたし。

 儚い希望かも知れないがあの子は何せ使い魔だ、ルイズにとっても特別な存在のはず。

 第一、他に頼れそうな相手もいない。

 

 そこで早速声を上げてディーキンに頼もうとして……、はたと気付いて思い止まった。

 

 もし自分がここであからさまにルイズを止めてくれと頼み、ディーキンがそれに従ったら?

 ルイズが「私の使い魔の癖にツェルプストーの頼みを聞くなんて!」と立腹して、意固地になることは容易に予測できる。

 さっきも、自分がうっかり止めさせるよう教師に進言してしまったことで、逆にルイズがやる決意を固めてしまったことは明らかだ。

 

 二度も同じ失敗は繰り返せない。

 ルイズには自分があの子に頼んだのだと気付かれないようにしなくては。

 そこでキュルケは、すぐさま近くの席に座っている親友の方を振り向いて、小声で頼みごとをした。

 

「ねえタバサ、ちょっと風を使って、ディーキン君のところに声を送ってくれない? ヴァリエールを止めさせるのよ、あの子ならできるかも知れないわ!」

 

 

 

「……………」

 

 タバサはキュルケの頼みを聞くと、押し黙って少し考え込む。

 

 実を言えば自分としては、この展開をむしろ好都合と考えていた。

 教室がヴァリエールによって爆破されれば授業は中止、彼女と使い魔はおそらく後片付けを命じられて残ることになるだろう。

 自分はその手伝いを申し出てここに残りチャンスを窺うか、破損した備品の運び出しなどであの使い魔が教室を出たところを見計らって捕まえればいい。

 滅茶苦茶になる教室とあの教師には気の毒だが、彼と一対一での話に持ち込める格好の機会を得たのだ。

 

 しかし、親友の頼みとあっては無下にもできない。

 結局タバサは、渋々頷くとそっと杖を振って風を操り、ディーキンの元へ声を送った。

 

「――――聞こえる?  あなたに前の席から声を送っている。ヴァリエールが教壇に着く前に何とか止めてほしい、とキュルケが言っている。でないと、爆発する」

 

 

 

「……ア……? ええと……、ウーン?」

 

 突然青い髪の少女からの声を受け取ったディーキンは一瞬面食らったが、直に状況を把握する。

 

 さて、どうしたものだろうか?

 確かに、ルイズを止めようと思えば止める自信はあるが……。

 

 ディーキンとしては、ルイズの魔法が失敗して爆発するというのならばむしろその奇妙な現象は見て確認しておきたい。

 それに立場上現在の自分の主人であるルイズがやる気になっているのなら、その意思も尊重すべきだろうし。

 

 しかし確認するのは後で頼んでやってもらってもいいし、ルイズの評判が悪くなるのも好ましくない。

 よくしてくれたキュルケの頼みでもあるならば、ここはそれに応えるべきだろうか。

 

(にしても、わざわざ頼んで来るってことはよっぽど危ないのかな? ウーン……、あんまり、そうは思えないけど……)

 

 教室の雰囲気からして、怯えている者は結構いる様子だ。

 特に前の方、教壇の近くの席にいる生徒らは椅子の下に隠れ始めている。

 

 とはいえある程度離れた席の生徒はそこまでしてはいないし、後ろの方の席にはルイズの失敗を期待してにやにやしている生徒も若干いる。

 大体本当に凄まじい爆発なら、椅子の下に隠れるのではなく席を立って逃げるだろう。

 せいぜい前の方の席に届く程度の規模で、机の陰に隠れた程度で凌げる爆発であるのなら、そこまで大事とはディーキンには思えなかった。

 

 もっともそれは、常人なら消し炭になって即死するような爆炎に幾度となく巻き込まれた経験がある冒険者の感覚である。

 それに今は教室中に使い魔たちがいる状況だし、それらが暴れてえらいことになる可能性は否定できない。

 

 妙な事には、声を送ってきた青い髪の少女の方を確認してみたところ、彼女自身は止めてほしくないような雰囲気が見え隠れしている。

 さっき妙な視線を送って来ていたことも併せて、気になる人物だ。

 ルイズは教壇に向かって既に歩き出しているのだし、あまり長く悩んでいる暇も無いが、さて……。

 

(ウーン……。これはいわゆる、そこで問題だ! ってやつかな?)

 

 ディーキンは昔どこかで読んだ覚えのある物語の一幕を思い浮かべた。

 ……どこだったかは、よく思い出せないが。

 

 

 

 そこで問題だ! この状況にどう対応するか?

 

 3択――1つだけ選びなさい

 

 答え①:ナイスガイのディーキンは突如全員の顔を立てる名案を閃く

 答え②:真のヒーローのボスが脈絡も伏線もなく突然《次元界転移(プレイン・シフト)》してきて解決してくれる

 答え③:ほっといて成り行きに任せる。テンプレは無情である

 





エヴァンジェリスト(福音伝道者):
D&Dの上級クラスの一種。特定の神格や教義に関する説法を行い、仲間を鼓舞し、他者を改宗させる宣教者。
戦闘中であろうと辻説法をひとつ打つだけで敵の属性までも変更して味方に変えてしまうという、その凶悪な能力で知られている。
元々【魅力】が高く人を引き付ける力に優れたバードなどが、信仰に目覚めてこの道に進む例が多い。

<説話蒐集家>:
技能の離れ業の一種。クリーチャーを識別したり、その特殊な能力や弱点を知るために<知識>技能判定を行う際、判定に+5技量ボーナスを得る。
以下の《知識への献身》との組み合わせが強力な事で知られている。

《知識への献身》:
特技の一種。敵に対する<知識>判定を行い、その結果が高いほど攻撃ロールとダメージロールに洞察ボーナス(最低でも+1、最高で+5)を得ることができる。
TRPGでは優秀な特技のひとつとして知られており、習得している冒険者は多い。


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第十三話 Diplomacy

意を決して教壇へと一歩一歩向かってゆくルイズと、それを指を咥えて見守る生徒たち。

縋るような必死の眼差しを向けてくるキュルケと、無表情に本を広げながらもちらちらとこちらを見ている蒼い髪の少女。

あと、状況をまるで理解していないシュヴルーズ教師。

 

それらを意識しつつ、ディーキンは手早く考えを整理していく。

ここでボスがヒーローらしくジャジャーンと登場して「待ってました!」とばかりに大活躍すれば実に面白い物語が書けそうなのだが……。

 

(……ウーン、けど、流石に期待はできそうにないね……)

 

これといった理由もなく彼がここにやって来るというのは、流石に無理がありすぎるだろう。

彼はほんの一日友人の姿が見えないだけで異世界まで探しにやって来るような、度を越した心配性ではない。

自分は別に、冒険時以外でも四六時中いつもボスと一緒に行動している、というわけではないのだ。

 

(かといってこのままほっとくっていうのもよくなさそうだし……、

 やっぱりディーキンが何とかしないと)

 

取るべき選択肢は決まった。

では次に、全員の顔を立てて事を上手く収めるためにはどう行動するべきか?

 

一番手っ取り早くて確実なのは、ある種の呪文を使ってルイズらの決意を変えることだろうが……。

ディーキンはそれを、真っ先に候補から外した。

大した必要性もなく魔法で人の意志を無闇に捻じ曲げる事は、利欲のためではないにせよ、決して善い行いとは言えないものだ。

それに立場上は主人であるルイズに、使い魔の自分が呪文を掛けて操るというのもどうかと思えるし……。

何よりも、“未知の亜人”の自分が人間に“先住の魔法”をかけて言いなりにするところなどを見られたら、大問題になるのは目に見えている。

 

何でも魔法に頼って解決すればよいというものではない。ここは普通にいこう。

ディーキンは方針を決めると、軽く深呼吸をして心の準備を整える。

そして、手をぴんと伸ばして声を上げた。

 

「先生、ルイズ! アー、ディーキンは話があるの。ちょっと話させてほしいの」

 

「「……えっ?」」

 

今まさに教壇に到着して実演に臨もうとしていたルイズの動きが止まり、シュヴルーズと声が重なった。

振り向いてみると、ディーキンが机の陰からちょこんと顔を出して小さな手をいっぱいに伸ばし、ぶんぶん振っている。

 

シュヴルーズは一瞬微笑ましげにこれを眺めたが、すぐに取り繕うように顔をしかめると注意の言葉を口にした。

 

「おや、どうかしたのですか。今は授業中であなたの主人が実演にかかろうとしているのですよ。

 お話なら授業の後にしてください、使い魔さん」

 

彼女は実際には温厚な性格で本気で怒ったりは滅多にしないのだが、経験上大らか過ぎて生徒に舐められては面倒なことになる、と考えていた。

こういう年頃の生徒というのは、この教師は恐れるに足りぬと思えば往々にして図に乗ってくるものなのだ。

ゆえに態度の悪い生徒に対しては、時には赤土を口に詰めるなどの過激な罰を与えて黙らせてきた。

今も別に怒ってはいないしこの亜人に対してもむしろ好感を持っているが、こうも度々授業を中断されてそれを許しては示しがつかない。

騒ぐのを黙認していると思われてしまえば、授業中に平気で私語を行う生徒が増える。

 

ディーキンの方は注意を受けると、さも申し訳なさそうにおずおずと頭を下げた。

 

「先生、ディーキンはゴメンするよ。

 とっても申し訳ないし、今は黙ってるべきだってわかるけど、でも今すぐに話さないとダメだと思うの。

 ディーキンは先生とルイズに、みんな本当に怖がっているみたいだって伝えたかったんだよ」

「………はあ?

 怖がるって、一体何を怖がるというので……、?」

 

シュヴルーズは怪訝そうに教室を見回して、ようやくディーキンの言うとおり、生徒らの様子がおかしい事に気が付いた。

多くの生徒は不安げにしており、特に席が前の方の生徒は怯えてさえいる様子で机の陰に潜り込むなどの奇妙な行動を取っている。

 

「……?? これは一体……、皆さん、どうしたのです?」

 

シュヴルーズは状況が理解できず、困ったような顔で首を傾げた。

 

先程キュルケらが止めた時には、授業の開始時にルイズが馬鹿にされていたのもあってよくある劣等生へのからかいの類と思っていたのだ。

だが、指摘されて改めて確認してみると、彼女が教壇に向かってから教室全体が明らかに異様な雰囲気になっている。

とても単なるからかいだけだとは思えない。

 

一方ルイズは、目を吊り上げてディーキンを睨んだ。

 

「ちょっとディーキン、また余計な事を言って! 一体どういうつもりなのよ?」

「ええと……、ごめんなの。

 でもディーキンはルイズの事が心配なんだよ、先生やみんなの事もね。

 ルイズは昨日、自分は魔法を成功できなくて、失敗すると爆発するって言ってたと思うんだけど……」

 

それを聞いて、教室のあちこちから同調や嘲りの声が上がりだす。

 

「そうだ止めろ! また教室を壊す気かよ!」

「先生、聞いての通りなのでヴァリエールにやらせるのは無しの方向でお願いします!」

「自分の使い魔にまで言われてるぜ、流石はゼロのルイズだな!」

 

「!! ……っ、」

 

ルイズは罵声が飛び交う中、真っ赤な顔で俯いてぷるぷると屈辱に身を震わせた。

 

ディーキンは……、自分の使い魔だけは、応援してくれるものと思っていた。

他ならぬあの子自身が、昨日自分の初めての魔法で召喚されたのだから。

きっと自分は魔法が使えるようになったんだ、これからは他の魔法も成功するはずだ。

やってみよう、自分の初めての成功の証であるあの子が傍にいる、そう思えば勇気が出てくる。

 

――――そう、思っていたのに。

 

(そのあんたまでが……、私を笑うの?

 こんなときにそんなことをわざわざ言うなんて、私を馬鹿にしてっ……!)

 

ルイズはきっと顔を上げると、酷く険しい……半ば殺気じみたものまで篭った目で、自分の使い魔を睨んだ。

 

「……ぐっ! この、……!」

 

ディーキンはそれに怯えるでもなく、正面から真っ直ぐにルイズを見つめ返す。

それはちょうど今朝、キュルケとの付き合いを禁じる命令に異を唱えたときと同じような目だった。

 

「………、う………?」

 

その目を見ていると何故か気圧されるようで、それ以上言葉が出てこなかった。

同時に不思議と冷静さが戻り、煮え滾った負の感情が鎮まっていく。

 

教室のあちこちからはまだ罵倒や嘲りの言葉が続いている。

普段ならルイズは、そのような言葉を向けられれば平静ではいられない。

暗い怒りと負の感情が沸き起こってきて、強く言い返す。意固地になる。

なのに、ディーキンにじっと見つめられた途端、何故かそれも気にならなくなった。

周囲で軽薄に騒ぐ生徒らよりも、その声と視線の方がずっと強い印象と存在感を持って、ルイズの意識を捕えている。

 

(……どうして?)

 

これが、主人と使い魔の絆というものなのだろうか?

それとも、この子自身の持つ才能や能力の類なのだろうか?

 

「え……? 爆発って、あなたたち一体、何を言っているのですか。

 錬金の呪文で爆発など……」

 

そんなルイズの戸惑いと、話についてこれていない教師の混乱とをよそに、ディーキンは一旦ルイズから視線を外す。

そうして、周囲で罵声を飛ばす生徒らの方に向き直った。

 

「やいこら、ディーキンのルイズにそんな口をきくのは気に入らないの!

 黙って聞いてたけど、いい加減にしないとディーキンの堪忍袋の緒が切れるの」

 

むっつりと不機嫌そうな声でそういいながら、腰に両手を当てて胸を反らし、首をゆっくりと傾げて周囲を見回した。

見るからに、『おいお前ら、ディーキンはぷんすかしてるの』とでも言いたげな様子である。

普通に見ればむしろ愛嬌があるくらいの発言と仕草だったが、何故か奇妙な威圧感を感じてほとんどの生徒が口を噤んだ。

一部の鈍い生徒らは空気の変化にすぐには気付かずディーキンにも嘲笑を向けたものの、じーっと睨まれると声を詰まらせ、じきに声を落とす。

 

ディーキンは<交渉>するのに比べれば、あまり<威圧>するのは得意ではない。性格的にも向かないし、小柄なので迫力にも欠ける。

とはいえズバ抜けて印象的な高い【魅力】を持ち、何でも臨機応変にこなせる高レベルのバードである。

実際のところ、その気になれば多少気位が高いだけの貴族の子弟を一睨みで黙らせる程度はできて当然なのだ。

 

「ディーキンはルイズの使い魔で、ルイズはディーキンの友だちなの。

 だから誰にもルイズにそんなことは言わせないの。……少なくとも、ディーキンがそばにいない時以外は!」

 

ディーキンは指をびしっと突き出してそう宣言すると、またルイズの方に向き直る。

 

「……だけどルイズも、どうして爆発するのなら先生にそう言って断らないの?

 教室でそんなことをしたら、みんな迷惑だと思うの。

 たまたま失敗してそうなるのは仕方ないけど、分かっててやるっていうのはよくないんじゃないかな?」

 

ディーキンがこれまでの様子から見るに、ルイズはプライドが高く頑なな面はあるにせよ、本来は根は誠実で筋を通す少女だと思える。

教師の方も、多少過激な方法で生徒を黙らせたりはしていたが、恐らく基本的には穏健派で悪意のない人物であろう。

ならばこちらも誠意をもって、正面から筋道立てて理を説くのが<交渉>を平和的に纏める最善手だとディーキンは判断した。

何より、強引に止めたり適当に誤魔化したりするよりも、ルイズも含めて皆が納得できるように事を収める方がいいに決まっている。

 

「え、その―――――」

 

ルイズは先程から、ディーキンの言葉に怒ったり、戸惑ったり、嬉しかったり、恥ずかしかったりでかなり微妙な顔をしていたが……、

そこにまた、不躾なくらいに率直な疑問をぶつけられて狼狽する。

 

ディーキンの口調はあくまでも穏やかで問い詰めるような調子など全くないのだが、ルイズは詰問でも受けているような気分になった。

それに他の生徒が見ている今、この場でそんな話に受け答えするのは極まりが悪い。

 

(……っていうか……、授業中に、このまま使い魔と話していていいものかしら……?)

 

ルイズはそう考えて、助けを求めるようにちらりとシュヴルーズの方を窺ってみた。

内心、ディーキンの質問に正直に答えるのが嫌で、ここらで教師が制止してくれてうやむやにならないだろうかなどと、多少姑息な期待も込めている。

 

しかし、シュヴルーズは予想外の事態に何が何だかわからない様子で、口を挟みかねて狼狽えている様子だった。

どうやらこうなっては、自分で対応するしかないらしい。

ルイズはひとつ息を吐いて覚悟を決めると、胸を張り、きっとした表情を作って自分の使い魔と相対した。

 

「……なによ。そんなの、やってみなきゃわからないわ。昨日はあんたの召喚にも成功したし、できるようになってるかもしれないじゃない。

 挑戦しなきゃ永遠にできるようにはならないわよ、そうでしょ?」

 

実際のところは、教師の後押しを受けたのと、キュルケら級友達に失敗すると決めつけられたことに対する反発心から、というのが一番正直な答えだろう。

だけど、そんなことを認めるのはみっともない。そんなことを知られて、使い魔に軽蔑されたくない。

だからルイズが今、話した理由は、多分に言い訳であった。

感情的に怒鳴って反発してもこの使い魔には通じないし、そんなことはみっともないから、半ば無意識のうちにそれらしく考え出したものだった。

ルイズはそれを、ディーキンと自分自身とに言い聞かせるかのように、努めて落ち着いた口調で説明した。

 

ディーキンはその説明を聞いて、うんうんと頷く。

 

「そうだね、挑戦してみるのはすごくいい事なの。

 ディーキンも挑戦するコボルドだから、ルイズを心から応援するよ。

 でも、怖がってたり、心配してくれてる人がたくさんいる教室で、それをやらなきゃいけないって理由はあるの?」

「……だ、だって……、先生にやるようにと言われたのよ?

 出来るかわからなくても、やれと言われたことに挑戦するのは生徒として当たり前じゃないの!」

「けど、先生は今日が初めての授業だから、ルイズの呪文が、その……、爆発するのを、知らないんでしょ?

 ンー……、例えば、ただ一緒に来てくれとだけ言われて付いて行って、後でドラゴン退治をするって言われたら、普通は話が違うって怒らない?

 まず自分の事をちゃんと説明して、それでもやれって言われるかどうかを確かめる方が親切だとディーキンは思うの」

 

むしろ止めたがっている周囲の生徒らが、何故はっきり教師に爆発すると教えないのかがディーキンには不思議だった。

あるいは、迂闊な事を言って癇癪でも起こされては危ないからと、皆率先して発言するのを避けていたのかも知れない。

爆発を起こされるのは怖いが、自分からそれを止めに行くのも嫌だという、他力を期待する心情か。

 

逆にキュルケが止めようとした時に爆発の事に触れなかったのは、そのことを恥じているのであろうルイズに対する気遣いから、と言ったところか。

残念ながらルイズにはその真意が伝わらず、裏目に出てしまっているようだが……。

 

「う……、な、なによ。それは、その、そうかもしれないけど!

 でも………、私だって、その………」

 

ルイズは言葉に詰まってもごもごと口篭もり、俯いて押し黙った。

ディーキンは答えを急かすことなく、そんなルイズの様子をじっと見守る。

 

そこで、それまで脇の方で戸惑いながら事の成り行きを眺めていたシュヴルーズが、たまりかねたように声を上げた。

 

「ちょ、ちょっと待ってください! 先程からあなたたちは、一体何を言っているのですか。

 錬金は失敗しても爆発などしません。私とてこの学院で長年教杖を執ってきた土のトライアングル、それは確かだと断言できます!

 その、決して、あなたたちを疑うわけではありませんが……、爆発がどうのというのは、何かの間違いでは?」

 

周囲の生徒らから何を今更といった、冷たい、あるいは呆れた視線が向けられるのを感じたが、シュヴルーズは頑張った。

 

彼女にも、メイジとして今まで積み重ねてきた知識と経験に対する誇りが、そして教育者としての義務がある。

学問というのは、断じて多数決や場の雰囲気で真偽が変わるものではないし、変えるべきものでもない。

たとえ頭の固い教師だと思われようが、明らかな誤りを生徒らがそのまま信じ続けるのを見過ごしておくことはできない。

 

だが、そこで、ルイズが意を決したように顔を上げた。

 

「……いえ、先生、本当に、私は、その……、ば、爆発、するんです。

 で、ですから、あの、私……、ディーキンの言う通りで、それでもやっていいのかどうか……、」

 

ルイズは恥辱と屈辱とで赤くなった顔をぎゅっとしかめ、口篭もりながらも、はっきりとそう言った。

 

それを聞いて、幾人かの生徒が驚く。

キュルケもその一人だった。

 

(……あ、あのルイズが、自分でできないと認めるなんて!?

 あの、負けん気の塊みたいな子が……)

 

先程のディーキンの<威圧>がまだ効いていたのか。

それとも、屈辱に震えながらも自らできないことを認めたルイズの姿に、多感な若者として、そして貴族として感じるところがあったのか。

此度はルイズに対する嘲笑の声はひとつも上がらなかった。

 

屈辱を感じながらもそれに耐えているルイズと、そのルイズと教師とを見比べながら首を傾げているディーキン。

キュルケはその小さな主従の姿を、思うところのある様子でじっと見つめていた。

 

シュヴルーズはしかし、そんな教室の空気には気付いていながらも。

なおもルイズを説き、励まそうとしていた。

 

「ミス・ヴァリエール、これまではきっと、何かの間違いで失敗したのでしょう。

 大丈夫ですから、そんなに恐れずに………」

 

彼女は彼女で、できないという『思い込み』からルイズを立ち直らせ、誤りを正すという、教師としての務めを果たそうと頑張っているのだ。

そこには何の悪意もない、彼女なりの教師としての使命感と、熱意と善意からの行動だ。

残念ながら現状その努力は空回りしており、ルイズの苦しみをかえって深め、引き伸ばす結果となっているのだが。

 

「――――いえ、その。

 ……お分かりいただけないとは思いますけど、でも、間違いとかではなくて……」

「あなたはそう思い込んでいるのかもしれません。

 それが不運によるものか、なんであるのかは私にはわかりませんが。ですが……」

 

「アー、ルイズ、先生。ディーキンはちょっと意見を言っていいかな?」

 

そこでまたしても、脇の方からディーキンが声を掛けて注意を引いた。

ルイズや他の教室の生徒らは、すぐにそちらの方に注意を向ける。

 

「……なんですか、使い魔さん。言ってごらんなさい」

 

シュヴルーズはまたしても自分の行動を遮られた形になり、不服そうではあったが、しかし発言を止めることはせずに続きを促した。

 

単に授業を遮っているだけなら強行手段で止めてしまうのだが、この使い魔のいままでの行動や指摘には、相応の正当性があるように思える。

妥当な理由のある発言を、教師が押し潰してしまうわけにはいかない。

厳格な教師であるのはよいが、横暴な教師であることは彼女の信条に反するのだ。

 

だが一言、忘れずに釘を刺しておく。

 

「あなたの指摘には感謝しますけれど、これ以上何か言われても実演を差し控えさせるわけにはいきませんよ?

 爆発など錬金の魔法がどう失敗しようと起こるはずがありません、何かの間違いです。

 数え切れないほどの錬金を実際に見てきた土のメイジとして、それは私が自信を持って保証します」

 

実際に幾度となく爆発するのを見てきた生徒たちはそんな頑なな教師の言葉にうんざりした顔をする。

だが、ディーキンはそれを聞いてひとつ、同意するように頷いた。

 

「うん、ディーキンも実際にコボルドの洞窟を出て外の世界を見てみるまで、何千人も人が住む天井のない野ざらしの街があるなんて信じられなかったよ。

 だから、信じられないって先生の気持ちはよく分かるの」

 

シュヴルーズはこれが初めてのルイズとの授業なのだ。

そのような常識に反する事を使い魔や未熟な生徒たちの言葉だけで受け入れられないのは無理もないし、むしろ安易に受け入れない方が正しい態度だろう。

ディーキン自身はまだ見てもいないうちから爆発するというルイズの説明を信じているが、それはまた事情が違う。

 

「けど、他の生徒さんたちは爆発するのを信じてるし、怖がってるみたいなの。

 先生が自分の考えを信じるのは正しいと思うけど、生徒の意見も尊重するのがもっと正しいと思う。

 だから、どっちも納得できる方法でやればいいんじゃないかな?」

 

それを聞いたシュヴルーズは、怪訝そうに眉を寄せながらも小さく頷いた。

 

「それは、まあ……、確かに、それに越したことはありませんね。

 ではその、あなたの言う、『お互いが納得できる方法』というのは?」

 

ディーキンはひとつ咳払いをして、自分の考えた方法について説明を始める。

 

「ええと、まず聞きたいんだけど……、『錬金』っていうのは、離れてても使えるの?

 何メイルか離れてても大丈夫?」

 

それを脇で聞いていたルイズは、いきなり何を言うのかと怪訝そうな顔になる。

シュヴルーズも首を傾けたが、少し考えて得心が行ったように頷いた。

 

「ええ……、メイジの腕にもよりますが、数メイル離れた場所に錬金する程度の事はほぼ誰でも可能です。

 つまりあなたが言いたいのは、万一爆発が起きた場合に備えて、教壇の上ではなく離れた場所で行うべきだということですか?」

 

確認を取るようにディーキンの方を見ると、ディーキンは笑みを浮かべて首肯する。

 

「そうなの、ディーキンがその小石を窓の外に浮かべるから、ルイズにはそれに『錬金』を掛けてもらえばいいの。

 たとえ爆発しても、窓の外なら教室はそう酷い事にならないし、みんなも怖がる必要はなくなるでしょ?

 ルイズも、それなら迷惑をかけずに、ここで挑戦してみる事ができると思う」

 

ついでにディーキンもその爆発を見て確認ができるしね、とは心の中だけで続けて、ディーキンは2人と他の生徒たちの様子を窺った。

 

シュヴルーズは少し考え、それならば特に否定しなくてはならない要素もなさそうだからと承認した。

ルイズはあらためて決意を固めたような顔になると、無言でしかしはっきりと頷く。

 

他の生徒らも、それなら危険はないと判断したのか概ね安堵の表情を浮かべている。

窓際に近い生徒らは、自分の使い魔に爆発に驚いて騒ぎ出さないようにと事前に注意を促している。

窓の外に大型の使い魔を待機させていた生徒らは、一時的に離れた場所に行くようにと指示して避難させた。

 

いよいよ準備が整うと、ディーキンはまず《奇術(プレスティディジテイション)》の呪文を唱えてから、教壇に近い窓を細めに開けた。

そして呪文の効果で教壇の小石を持ち上げて運び、窓から何メイルか離れた場所に浮かべる。

机の陰に隠れなかった生徒らと教壇との間の距離から見て、このくらい離れていればまず大丈夫だろうと判断した長さだ。

 

亜人の“先住魔法”を見たことがない生徒らの多くはその様子をがやがや騒いで見ていたが、教師の注意を待つまでもなくじきに静かになる。

所詮はレビテーションと似たような効果で、しかもほんの小さな物体を浮かべるだけなのだから大したことがないと見て興味も失せたようだ。

加えてこれからルイズが爆発を起こすのだから、まず安全とはいえある程度緊張しているのもあるだろう。

 

ただキュルケの友人である蒼い髪の少女だけは、興味を失うでも、起こるであろう爆発を怖れるでもなく、浮かぶ小石をじっと見続けていたが……。

 

「ミス・ヴァリエール。錬金したい金属を、強く心に思い浮かべるのです」

 

緊張気味に窓際からやや離れた位置に立つルイズに、後ろに立ったシュヴルーズは緊張を解すようににっこりと笑いかけた。

 

ルイズはそれにこくりと頷き、唇をぎゅっと引き結んで窓の外に浮かぶ小石と、窓の傍に佇んでこちらを見つめているディーキンを交互に見る。

それからしばし目を閉じて深呼吸をすると、杖を振り上げた。

 

さあいよいよだと、ディーキンは不謹慎ながら少しワクワクしていた。

呪文の失敗で爆発が起こるとは、一体どういう現象なのか?

ディーキンはルイズが杖を振り上げるのを見ると、窓の外の小石とルイズの両方を視界に収めて精神を集中し、魔力の流れをしっかりと感知しようとする。

ついでに密かにエンセリックをそっと握り鞘を少し押し上げて、一緒に見ておいてくれという合図を送った。

 

ルイズは目を瞑ったまま祈るように短くルーンを唱え、小ぶりなワンドを振り下ろす。

小石は呪文の影響を受けて一瞬白く発光し……、

 

次の瞬間、窓の外で大爆発が起こった。

 

「「きゃああああ!?」」

 

細く開いていた窓から入ってきた爆風で、近くに立っていたルイズとシュヴルーズは押し倒された。

 

外傷はないが、顔に浴びた爆風と煤のためにルイズは咽こむ。

涙が滲んでいるのは、果たして咽たためだけか。

 

「………大丈夫、ルイズ?」

 

ディーキンはルイズの傍に寄ると、背中をさする。

ルイズは、大丈夫よと力なく答えると、そっとディーキンの手を払った。

 

それにちょっと首を傾げてから、ディーキンは腰を抜かして事態の成り行きに呆然としている教師に声を掛ける。

 

「先生、見ての通りみたいなの。

 ディーキンには爆発したように見えたけど、どうかな?」

「あ、……え、ええ、そう―――ですね。

 すみません、まさか、その、こんな………何故………」

「分からないの、ディーキンも分からないし、先生にも分からないんだね。

 それなら、ルイズは今すぐには多分『錬金』は無理だと思うの」

 

それを聞いて、地面にへたり込んで俯いたルイズの肩がぴくりと震える。

ディーキンはちらりと心配げな視線をそちらに向けるが、そのまま言葉を続けた。

 

「けど、ディーキンが思うに……、今すぐ錬金ができなくてもいいんじゃないかな?

 がんばってゴールまで走れば、一番もビリも走った距離は同じだって、昔の偉い先生は言ったそうなの。

 そういうのが、つまり教育の精神だってディーキンは思ってるの。

 ねえ先生、どう?」

 

ディーキンは以前の主人の元でバードの勉強をしていた時、覚えが悪い自分に短気な主人がいつ愛想を尽かすか、癇癪を起こすかと始終ビクビクしていた。

だが彼は、普段の短気さからは想像もつかないほど長期間にわたって自分に教育を続けてくれた。

無論狩りをしたり、略奪の算段を立てたり、にやにやと宝の山を眺めたりするのに飽きて、気が向いた時だけではあったが。

 

『人は明日の完璧な答えより今日のマシな答えの方が良い、などと言うが、ドラゴンはそんなに急がんものだ。

 お前が何者かになるのを見届けることと、その緩やかに上達していく歌物語とが、当面は私のいい娯楽になってくれるだろう』

 

ただ一度、機嫌のいい時にそう言って笑っていたことを、ディーキンは今でもよく覚えている。

 

ボスもまた、最初はろくに戦う事も出来ず、魔法もほんの数個しか使えなかった自分に、足手纏いだとも言わずに同行を認めてくれていた。

ディーキンが迷惑をかけても笑って許し、傷つくたびに癒し、死んだときは蘇生までしてくれて、友人として扱ってくれた。

 

彼らがかつて未熟だったころの自分を信じて根気強く手解きを続けてくれたからこそ、今の成長した自分がある。

 

「え? え、ええ、……それは、そうですね」

 

シュヴルーズが戸惑いながらもそう同意したのを聞くと、ディーキンは満面に笑みを浮かべて何度もこくこくと頷いた。

そうして、今度はまたルイズの方へ向き直る。

 

「ねえルイズ、練習なら授業が終わってからディーキンと2人でもできると思うの。

 頑張って練習して、できるようになったら皆に見せびらかして、おおいばりしてグウと言わせるの。どう?」

 

ディーキンはそういって肩をポンポンと手で叩くが、ルイズは俯いたままだ。

ルイズは、今度はその手を払おうともせずに、ぽつりと呟いた。

 

「………簡単に言わないで」

「簡単じゃないよ、だから練習するの。ディーキンもやったよ」

「練習なら私もやったわよ! 何度も何度も!

 だけどいつも爆発するだけなの! 魔法が使えるあんたには分からないでしょうけど!」

 

きっと顔を上げて、目じりに涙をためて、自分の使い魔を睨む。

ディーキンはそれをじっと見つめて瞬きをすると、首を傾げた。

 

「ウーン……、そうだね、分からないと思う。

 でも、誰も人の本当の気持ちは分からないものだけど、分からなくても力にはなれるんだ、ってボスは言ってたよ」

 

ルイズはまだ何か言おうと顔を上げて…、使い魔のあくまで穏やかな雰囲気に口を噤み、また顔を反らした。

 

正直なところ、使い魔の召喚に成功しても依然魔法が使えないショックで気持ちが荒れている。

ディーキンがあくまで自分の事を気遣ってくれているのは分かるが、口を開けば恨み言か愚痴しか出てきそうにない。

 

だがいつまでも黙り込んでいるわけにもいかず、結局また口を開くと、不機嫌そうな声をぼそぼそと紡ぐ。

 

「……それで……、具体的に、あんたがどう力になれるっていうのよ。

 根拠のない気休めはもう、聞き飽きたわ」

「ウーン、そうだね……」

 

ディーキンは少し考え込む。

 

「まあ、今すぐ解決はできないだろうけど、いくつか方針はあるの。

 ディーキンはルイズが呪文を唱える時に魔力の流れを見たし……、

 それに、『失敗して爆発する』っていう事にも、ちゃんと心当たりはあるからね」

 

ルイズは思いがけない答えに、顔を上げるとまじまじとディーキンを見つめた。

 

「心当たりがあるって……、ほ、本当に?」

「もちろん。ディーキンは後で練習するときに、それを話すつもりなの。

 今すぐ話せたらいいけど、授業の最中だからね」

 

ディーキンはそう返事をすると、にこにことルイズを見つめ返した……が、

実は、その表情程にやましさの欠片もないというわけではない。

 

今の発言はまあ、完全な嘘ではないが、すべて真実かといわれればそうでもなく、多少<はったり>をかましている部分もあった。

失敗すると爆発するというのは、確かに一応、心当たりはある。

例えばフェイルーンのメイジが自分の力に余るスクロールを発動しようとして失敗すると、そういう現象が起きる場合もある。

だが自分の力だけで呪文を唱えようとして爆発するという現象は知らないし、スクロールにせよ、使用に失敗すればいつも爆発するというものでもない。

ワイルド・メイジと呼ばれる連中はわけのわからない現象を起こしたりすることもあるが、必ず爆発するというような決まりはない。

だからその部分は、ルイズを落ち着かせるためのやや誇大な表現だといえる。

 

ディーキンは<交渉>することに比べれば<はったり>をかけるのはそこまで得意とは言えないし、ルイズを騙すのに気が引けないわけでもない。

だが、ディーキンは厳格な規律よりも自由を愛する方だ。

多少嘘を含んでいようと、それでルイズが立ち直って前向きになれるのなら、それに越したことはないと思ったのだ。

それにはっきりした心当たりがあるというのは言い過ぎにせよ、方針があるというのは嘘ではない。

先程の魔力の流れを見たことで少なくともあの爆発の属する系統は分かったし、エンセリックが何か意見を出してくれるかもしれない。

あるいはもっと詳細に、もっと何回も見てみれば、さらに何か手がかりが掴めるかもしれない。

 

まあ、ルイズの爆発については長い間専門家であるハルケギニアのメイジたちが何も掴めなかったことなのだから、容易に解決できるとは流石に思わない。

だが少なくとも、ルイズが諦めない限り自分も全力を尽くすつもりだ。

その点には一切、嘘はなかった。

 

「正直言ってディーキンは、一人だと自信がないけど……。

 でも、ディーキンは頼もしい友だちが傍にいるとすごく安心できて頑張れるの。

 だからボスやルイズが傍にいて一緒に力を貸してくれたら、何も心配はないの。

 ルイズは、ディーキンと一緒に頑張ってくれる?」

 

そういって、ディーキンは握手するように右手を差し伸べる。

 

「…………」

 

ルイズは、ディーキンの目と、ウロコと爪に覆われた小さくもごつごつとした手とを交互に見比べた。

自分を見つめてくる目はきらきらと輝いていて、全身から嘘偽りなくルイズを信じ、頼る気持ちが滲み出ている。

そこには、自分が力になる側なのだという尊大さや、押し付けがましさ、内心見下したような態度などは微塵も感じられなかった。

 

ややあって、ルイズは目をぐっと拭って不敵な表情に戻り、しっかりと差し出された手を掴んで立ち上がった。

ディーキンの背の低さからいって、へたりこんでいる状態の方がむしろ握手はしやすかったが、その手を取って立ち上がる事にこそ意味がある。

 

「――――しょうがないわね、あんたは私のパートナーなんだから。

 お互いに協力するのはメイジの務めよ。

 だから……、その、一緒に頑張ってあげる、から……、私を放って途中で投げ出したり、私より遅れたりしないでよね!」

 




ワイルド・メイジ(でたらめ魔道師):
D&Dの上級クラスの一種。呪文を体系化する試みを無意味と断じ、何の仕組みも構造もない、予測不可能な“暴発魔法”を操ろうとする混沌の魔道師。

<威圧(Intimidate)>:
脅して相手の態度を変えさせたり、士気を挫いたり、群衆を急き立てたり、スラムを安全に歩いたり、効果的に拷問したりする技能。関係能力値は【魅力】。
手っ取り早く話を纏めるには<交渉>よりもいいかもしれないが、不用意に用いれば以降の関係は当然ながら険悪になるであろう。
使いどころに注意しなくてはならない技能である。

<はったり(Bluff)>:
嘘をついて相手を騙す技能。関係能力値は【魅力】。
相手の<真意看破>との対抗判定となるが、下記のように状況に応じて難易度が上下する。

・相手がこちらの言い分を信じたがっている…難易度-5
「愛している、アンリエッタ。だから僕と一緒に来てくれ」

・その嘘は信じられうるもので、信じても特に害はない…難易度±0
「この子は竜じゃない。ガーゴイル」

・その嘘はやや信じがたい、対象にある程度のリスクを求める…難易度+5
「こいつを鍛えたのはかの高名なゲルマニアの錬金魔術師シュペー卿、魔法がかかってるから鉄だって一刀両断でさ。
 その分お安かあありませんぜ、お値段はエキュー金貨で二千、新金貨なら三千。
 ……高いですって? とんでもねえ、お買い得でさあ。名剣は城にも匹敵しますぜ!」

・その嘘は信じがたい、対象に大きなリスクを求める…難易度+10
「いえ、これは確かに学院の宝物庫の品ですが、盗品などではありません。
 あまり大きな声では言えないのですが、学院長の不始末で現金が大至急入用になったので売らなくてはなりませんの。こちらとしても不本意なのです。
 これでも私は学院長秘書です。あなたまで罪に問われかねないような品をお売りする、そんな女ではありませんわ」



「ちっ、結局売れなかったか。
 疑われちゃいなかったと思うが、やっぱり使い方が分からない杖じゃあ買い手がつかないね。
 何とかして使い方を調べないと……」

・あまりにブッ飛んだ話で、常識的に考えて一考にも値しない…難易度+20
「あんたには信じらんないかも知れないけど、シルフィは実はボロ布体に巻きつけたアホ女とかじゃなくて韻竜なのね!
 私たち風韻竜はウソつかない種族なの、だから私の事も信じてくれていいのね。
 シルフィ生まれてから一度もウソなんかついたことはありません!
 それで、通りすがりの見知らぬ人を見込んでお願いするけど、シルフィは初めてきた街で食べ歩きをしてみたいからお金貸してほしいの。
 ほら早く貸すのね、後でうちのちびすけの財布からちゃんと返すから!
 ……あのちびすけが嗅ぎつけてくる前に、早くお金出すのね!」



「きゅい~……、なんなのねあの人!
 シルフィはお金貸してっていってるのに、なんで衛兵呼ぶのね。わけわかんない!
 お陰であちこち追っかけまわされるわ、駆けつけてきたお姉様には殴られるわ、もう散々なのね!」

なおこの技能は、戦闘時にフェイントをかけて相手の隙を突いたり、敵の視線を逸らせて<隠れ身>の機会を得るなどの用途にも使用できる。
また、さりげない身振りやほのめかしなどを使って、他人に真の意味を理解されることなく特定の人物だけに密かなメッセージを送ることもできる。


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第十四話 Consider

ディーキンに差しだされた手を取って、ルイズは立ち上がった。

 

そこで、周囲から拍手が起こった。

最初はまばらに、やがて、教室中から。

 

「……え?」

 

ルイズは困惑して周囲を見渡し……、

そこで、やっとここが教室で、周囲に級友がいたことを思い出した。

 

「………~~!!」

 

途端に顔を真っ赤にしてぱっとディーキンの手を放すと、慌てて彼から離れた。

 

よりにもよって衆人環視の元でわめいたり、愚痴ったり、あんな恥ずかしい台詞を交わして、使い魔と見つめ合ったり……、

冷静に考えるともう、恥ずかしくて顔から火が出そうだ。

ルイズは伏し目がちにしながらも、ディーキンを恨めしげに軽く睨んだ。

 

とはいえ決して、本当に不快というわけではなかった。

これまで嫌な注目や罵声を浴びる事はあっても、好意的な注目や賞賛を浴びたのは初めてだったから。

それに何よりも、先程のディーキンの言葉が嬉しかったからだ。

 

普段はルイズを馬鹿にしているクラスメートたちだが、トリステインの貴族はこういった、ある意味芝居がかったような場面が大好きなものらしい。

ディーキンの作り出した空気に飲まれ、素直な感情を吐き出したルイズに感情移入して、何時の間にやら大勢が拍手喝采を送っている。

教師のシュヴルーズまでもが一緒になって、にこやかに拍手していた。

 

勿論全員がそうではなく、この展開を面白くなく思っていたり、白けている者も多少はいるだろう。

だがそういった連中も周囲の雰囲気に流されているか、そうでなくとも、少なくとも口を噤んで大人しくしている。

ルイズを普段侮蔑していた連中の大半は、弱い立場の者を叩いて喜ぶ幼稚な愉しみに浸る子供か、雰囲気に流されてそれに加担していただけの者だ。

そんな輩がこの場であえて周囲に逆らい、ルイズを貶めにかかれるはずもなかった。

 

一方でディーキンの方はといえば、困惑するでもなく慣れた風に御辞儀をして、にこにこと周囲からの拍手喝采に応えている。

 

「オオ……、どうもありがとう、ありがとう。

 ディーキンはみんなにお礼を言うよ。これからもみんながルイズを応援してくれると嬉しいの」

 

あまり目立たないやり方で事を収めることもできなくは無かったが、ディーキンはあえて非常に目立つ上に少々芝居がかった方法を取った。

その理由としては、周囲の教師や生徒らの気質を読んでこういう展開に狙って誘導したという面も無論ある。

だが、第一の理由は単純で、そういうのが好みだからだ。

 

ディーキンに限らず、バードというのは大抵スポットライトを浴びたがる目立ちたがり屋なのだ。

バードは通常、高い【魅力】を持っている……、つまり個性が強く印象的で、人を動かし惹きつける力に優れている。

冒険者チームのリーダーになることはあまりないが、情報収集、交渉といった社交関連の役目は大抵バードが第一人者として担う。

一行のムードメーカーとなっていることも多い。

 

結果的には狙い通り誘導した空気に上手く教室中が乗ってくれたようだし、特に問題はない。

ほぼ全員にとって良い結果が得られ、ルイズや自分が賞賛まで浴びられたのだから、いい選択だったといえよう。

 

ディーキンは御辞儀をしながら、大きな満足感を覚えていた。

 

昨夜の内に心行くまで話し合い、ルイズの魔法が失敗爆発を起こすことを既に聞き出していたのが、今、この場で幸いしたのだ。

そうでなければ何故皆がルイズを制止したがるのかもわからず説得できなかったか、

もしくは仮に説得できたとしても、ルイズにとっては不満を残すような結果になっていただろう。

 

そして昨夜の話し合いが成立したのは、ルイズやオスマン、コルベールらが、自分の話を真剣に取り上げてくれたからこそだ。

今この場でも、ディーキンがいくら巧妙に話を持っていこうとしても、ルイズやシュヴルーズらがまともに取り合わなければそれまでだっただろう。

 

勿論彼女らに話を聞く気にさせたのはディーキンの技能が優れていたからであり、真摯に筋を通して話をしようと心掛けたからでもある。

しかし、それを自分一人の手柄だと思うほどディーキンは自惚れていないし、周囲の人間を軽んじてもいない。

議論は一人ではなく、誠実に対応してくれる相手がいるからこそ実を結ぶ。

 

仲間たちと協力した積み重ねが実を結んで、良い結果を生んだ。

そのことが、冒険で強い敵を仲間と協力して打ち破ったときと同じように嬉しいのだ。

 

(………おっと、まだ安心するのは早かったね)

 

教室の皆はともかく、自分の方は、やりたいことがまだ終わっていないのだ。

それはおそらく、キュルケの隣でじっとこちらを見つめつつ、表情を変えずにルイズに拍手を送っている蒼い髪の少女もだろう。

ディーキンは一通り御辞儀を終えると、教師の方に向き直った。

 

「ええと、先生。随分時間が掛かってディーキンは悪かったよ。

 窓の外とかが少し汚れたみたいだから、ディーキンはそれを掃除するね。

 もう邪魔はしないから、どうぞ授業の続きをしてほしいの。それにルイズももう、席に戻っていいの?」

 

声を掛けられたシュヴルーズははっと我に返って少し頬を染め、小さく咳払いをする。

 

「あ……、そ、そうですね、すみません。

 いえ、汚れでしたら後で誰か使用人をやって綺麗にさせましょう。

 あなたの申し出のお陰で助かりましたし、そんな掃除などはしなくて構いませんよ」

 

しかしディーキンは首を振って、じっとシュヴルーズの顔を見つめた。

 

「いや、窓の外でっていったのはディーキンなの。

 ちゃんと片づけをしないと申し訳ないから、ぜひやらせてくれるようお願いするよ」

 

シュヴルーズは心底感心したようにほうと溜息を吐くと、満面の笑みを浮かべて何度もうんうんと頷いた。

 

「ミス・ヴァリエールは本当に良い使い魔に恵まれたようで、嬉しい限りです。

 あなたなら必ず将来は立派なメイジになることでしょう、今は分からなくて残念ですが私もあなたの爆発の原因を考えてみます。

 では、あなたに掃除をお願いすることにしましょう。ミス・ヴァリエールは席に戻って……皆さん、お待たせしました、授業の続きを始めますよ」

「あ、ありがとうございます。

 むう……、じゃあ、悪いけど―――頼むわ」

 

ルイズは教師に会釈するとディーキンの方を見て少し迷ったが、大人しく席に戻る。

掃除を任せるべきか、それとも自分の爆発で汚したのだから協力するべきかと少し悩んだが、授業を放り出して掃除するわけにはいくまい。

おまけにフライもレビテーションも使えない自分では、外の窓や外壁を拭くような作業は面倒だし、危ない。

その点ディーキンは翼を持っているのだから、無責任な気もするがここは任せた方がいいだろう。

 

「オーケー、ディーキンはこう見えても実は掃除の達人なの。

 ピッカピカにするから、ルイズも勉強を頑張ってね」

 

ディーキンはひとまず室内に吹き込んできた煤を先程唱えた《奇術(プレスティディジテイション)》の効果を使って綺麗にしていく。

それから、授業を再開した教室内の様子を尻目に、窓を開けて外に出た。

 

 

「……ウーン、さて……、残りも上手くいくといいんだけどね」

 

窓から外に出て人目を逃れると、ディーキンは一息ついて、小声でそうひとりごちた。

 

別に掃除をする責任を本気で感じていたわけではない。

そもそも自分がいなければ室内がもっと酷い事になっていたはずなのだから、その程度はさすがに免責されてしかるべきだと思う。

かといって人気取りとか、そう言ったことを考えたわけでもない。

自分のやりたかったことの残りを遂行するためには窓の外に出ることが必要だったので、そのための口実として申し出た、というのが本当のところだ。

 

適当に窓枠や壁のでっぱりに手を掛けて、まず窓や外壁に残った爆発の痕跡に目をやってみた。

壁面にはどうにか取りつける程度の手がかりは十分あったが、万一落下しても自前の翼があるのだから気楽なものである。

 

教室内の様子からも分かっていたことだが、爆風の当たった範囲には煤の汚れが付着している。

ルイズの失敗魔法が火系統(もしくはフェイルーン的に言うならば[火]の副種別)の呪文であるかどうかは分からないが、高熱を発したことは確かだ。

実質的な有効範囲は……、ディーキンの見積もりでは、おそらく半径10フィートほどか。

教室内で椅子の陰に隠れていたのが前の方の席の生徒だけだったあたりから見ても、規模はおそらく毎回その程度なのだろう。

それ以上遠くには、まばらな煤汚れは付着しているものの、おそらく爆音を除けば大した影響はなかったように思える。

まあ教室内で炸裂すれば、爆音や爆風で仰天した使い魔達がパニックを起こしたりはしたかも知れないが。

 

続いて、爆風が当たった部分の煤汚れを、《奇術》の効果で落としていってみた。

 

煤が落ちた後の外壁や窓ガラスを仔細に観察してみるが、爆風の当たった範囲であっても傷はほとんどついていなかった。

爆散した石の微細な破片がぶつかったらしい僅かな傷や痕跡は見られるが、早急に修理や交換をしなくてはならないというほどのことはない。

熱風に晒された痕跡も少々見られるが、石が焼け焦げたり溶けたりするほどではなかったようだ。

爆風で吹き飛ばされたり、不意に受けてショックで昏倒する程度はあるかも知れないが、いずれにせよ明らかに非致傷的なダメージの範疇だろう。

多少距離を置けば、爆風には大した殺傷力はないということだ。

対象が大きい石で破片が大量に飛び散ったりすれば多少は違っていたかもしれないが。

 

傷は微細とはいえ一応修繕はするべきかとも思ったが、《修理(メンディング)》の呪文で直すには、少々傷ついた範囲が広すぎる。

かといって、自力では唱えられない《完全修理(メイク・ホウル)》の呪文をアイテムを消費してまで使うほどでもあるまい。

ここは汚れを落としておくだけで勘弁してもらおう。

 

一方で、呪文が直接対象とした小石は粉砕されている。

そのことから見て、直接狙った対象に対しては少なくとも小さな石を砕ける程度の致傷的なダメージは及ぼせると見える。

とすると、あるいは対象に取った小石を砕いたのが主たる効果で、その際に生じる爆風は副産物的なものなのか?

 

先程ルイズが呪文を唱える際に感知できた魔力のオーラは、使おうとしていた『錬金』と同じ変成術だった。

だがそれは、他の種類の呪文を唱える場合でも同様なのだろうか?

 

「うーん……」

 

まあ、ルイズの爆発がいつもこの程度の規模であるのかは分からない。

しかし教室の生徒らの様子を見るに、規模が多少違うことがあるとしても何倍も違うとは思えない。

もしも場合によっては遥かに大規模な、あるいは致命的な爆発が起きるのなら、教室中の生徒がディーキンが進み出る前に逃げ出していたはずだ。

大きな違いはないものと見なし、ひとまずこの爆発を参考に推論を立てても構うまい。

 

ディーキンはひとまず自分だけでそこまで考えをまとめると、他の意見を拝聴するためにエンセリックを鞘から引き出した。

 

「ねえエンセリック、見ててくれた?

 あんたはこの爆発についてどう思うか、何か意見を聞かせてくれない?」

「ええ、見ていましたとも。一応ね。

 今の段階では何とも断定はできかねますが、当て推量でよければ多少は」

 

エンセリックは、珍しくあまり嫌そうな様子もなく話に応じる。

普段は、剣としての仕事以外の話を振っても投げやりな答えしか返ってこない場合が多いのだが……。

昨夜の説得が功を奏したのか、それともルイズの爆発に彼の元魔術師としての関心を引く何かがあったのだろうか。

 

「ですがその前に、君自身の見解は何か無いのですか?

 彼女は君の……、『主人』なのでしょう? お先に意見をどうぞ、コボルド君」

「ディーキンの? ウーン……そうだね」

 

ディーキンは聞き返されると、少し首を傾けて考え込む。

 

なおディーキンは会話しつつもちゃんと汚れを落とす作業を継続し、加えて教室内の授業の様子にもしっかりと注意を向けている。

メモを取りたい内容は《奇術》の着色効果を応用し、ひとまず壁面に書き込んでおく。

一通り作業が済んだら羊皮紙にまとめ直せばいいし、どうせ呪文の効果は1時間で切れるため後で消す必要もないのが便利だ。

 

「ディーキンが思うに……、この爆発は《火炎使い(パイロテクニクス)》の呪文とかにいくらか似てるかなって思うよ。

 呪文の系統も同じ、変成術みたいだったしね」

 

《火炎使い》は変成術の一種であり、火を眩い閃光もしくは濃密な煙幕に変化させる呪文だ。

その際、対象に取った火は消えてしまう……、つまり継続して燃え続ける火のエネルギーを一瞬の閃光や煙に変える効果だといえる。

一見すると互いにあまり共通点の無さそうな呪文だが、ディーキンは変成術でルイズの爆発と類似した魔法はこれだ、と感じたのだ。

 

一体何が似ているのかといえば、《火炎使い》の呪文が火を変化させるのと同様に石などの呪文の対象となった物体を変化させる、という点だ。

つまり対象に取った小さな物体、ないしは大きな物体の一部分を破壊して、物体の形から高熱を伴う爆発のエネルギーに変える……、

ディーキンは、ルイズの爆発はつまるところそのような呪文なのではないか、と推測したのである。

 

「ほう……、なるほど? その発想は無かった、面白い着眼点です。

 種別としては確かに、類似点もあるかもしれませんね」

 

エンセリックは流石に元魔術師というべきか、何故そう考えたのか細かく説明しなくともすぐに理解したようだ。

 

「では次に私の推測を述べますが、君とは少し別方面の内容になります。

 ……確かに種別としては《火炎使い》と類似した効果であるのかも知れませんが、私はあの御嬢さんの爆発は、そもそも呪文ではない、と見ました」

「………ンン? それって、どういうことなの?」

 

ディーキンは首を傾げた。

確かに望んだ効果ではなかっただろうが、ルイズは焦点具となる杖を持ち、呪文の動作と詠唱を行い、明らかに魔法的な爆発が起こった。

なのにそれが呪文ではないとは、一体どういう意味なのか?

 

「ふむ、では順を追って説明しましょう。

 まずあの御嬢さんは、どんな呪文を使っても成功しない、爆発するといっていたと。

 ……昨夜そう聞いたと思いますが、合っていますね?」

「うん、ディーキンはそう聞いてるよ。実際に見たのは今初めてだけどね」

「ということは、あの爆発を起こすのには動作要素も音声要素も実際には関係していないという事です。

 どんな呪文に対応した身振りでも詠唱でも、それとは全く無関係に、同じように爆発が起こる。

 もしあれが呪文であればそのようなことは有り得ない、……そう思いませんか?」

「……あ」

 

確かに、言われてみればその通りだ。

呪文の様々な構成要素を省略したり別の物に偽装したりする技術はフェイルーンにも存在する。

だが、ルイズがまさか、そのような高度な技術を使っているわけもあるまい。

 

「ここのメイジがあらゆる呪文の詠唱に必要とするという焦点具……杖は持っていましたが、私はおそらくそれも無くてよいと睨んでいます。

 杖が無くては呪文が発動しないという思い込みがそうさせているだけです。

 実際には、あの御嬢さんの爆発には“呪文”を唱えようという意志さえあればおそらく音声・動作・焦点具、そのすべてが不要でしょう」

 

エンセリックの推論を聞いて、ディーキンは考え込む。

呪文ではない……、確かに先入観を捨てて状況から判断すれば、そうとしか思えない。

しかし、それでは一体あの爆発は何であるというのだろうか?

 

「ンンン……、そうなると、あの爆発はなんなのかな?

 ディーキンが口から火を噴くみたいなものかな、それとももしかしてサイオニックとか?」

 

思いつくままに意見を述べながらも、どうもそうではなさそうだとディーキン自身感じていた。

 

生まれつき、もしくは努力によって、多少の超常能力ないしは疑似呪文能力を体得している人間はフェイルーンにも時折見られる。

ディーキン自身、訓練によって竜の血を覚醒させることで、ブレス攻撃を行うなどの超常能力を得た身である。

だが、どうもルイズの爆発は……、なんというか、そういうものとはやや違うような感じがするのだ。

もちろん、超常能力の一種には違いないのだろうが。

 

イリシッド(マインド・フレイヤー)などの種族や超能力者と呼ばれる人々が使う精神の力、サイオニック能力ともおそらく違う。

そもそもサイオニックは、普通はメイジと呼ばれる職業の者が使う力ではない。

 

「あの御嬢さんが特異な才能の持ち主であることは間違いありませんし、いずれも無いとは言い切れませんね。

 ですが、私の考えでは、おそらくそうではない。

 私の意見としては、あの爆発は一種の温存魔力特技(リザーブ・マジック)か、もしくはそれに類似したものである、と推測します」

 

それを聞いたディーキンは、きょとんとして首を傾げた。

 

「……温存魔力特技?

 っていうと……、《炎の爆発(Fiery Burst)》とかの事だよね?」

「そうです。君の言うそれは、もっとも普及した温存魔力特技のひとつですね。

 まあ、私は習得していませんでしたがね」

 

温存魔力特技とは、術者の体内に内在する呪文のエネルギーを活用して、その呪文自体を消費することなく超常的な効果を発生させるという技術である。

超常能力の一種だが、呪文を力の源としている点でドラゴンのブレスなどとは少し違っている。

ただし、呪文そのものというわけでもない。

 

例えば、ある術者が《火球(ファイアーボール)》(ハルケギニアの同名のドットスペルではなく、ずっと強力なフェイルーンの呪文)を使えるとする。

この呪文は広範囲を焼いて多数の敵を一気に薙ぎ払える強力なものだが、当然ながら使えば消費されて無くなってしまう。

より強力な敵に出会った時のために呪文を温存しておくべきか、それとも今使うべきかという選択は、メイジにとって常に悩ましいものだ。

 

『このくりまんじゅう、食べるとうまいけどなくなるだろ。食べないとなくならないけど、うまくないだろ。

 食べてもなくならないようにできないかなあ』

 

―――どこぞの世界の少年もそういって悩んでいたと言うが、まあそのようなわけだ。

そして、その手の贅沢な悩みに対するひとつの回答となり得るのが《炎の爆発》なのである。

 

この温存魔力特技によって術者は呪文自体を消費せずに、《火球》よりも小規模ながら爆炎を起こして敵を攻撃することが可能になるのだ。

エンセリックも言うように《炎の爆発》はその優秀さからおそらく最も広く普及した温存魔力特技だが、他にも多くの種類がある。

長距離の瞬間移動呪文を温存することでごく短距離の瞬間移動をしたり、強力な召喚術を温存することで短時間の間弱い精霊を召喚したりといった具合だ。

これらによってウィザードなどの術者の多くが、リソースが切れれば何もできないという難点をある程度克服することができる。

 

加えて温存魔力特技には、他にもいくつかの呪文に勝る利点がある。

その最たるものは、呪文ではないために『発動に一切の構成要素を必要としない』という事だ。

動作も詠唱も焦点具も物質構成要素も必要なく、猿轡をかまされていようと縛り上げられていようと、ただ精神を集中させるだけで起動できるのだ。

しかも呪文のように相殺や解呪をされることもなく、多くの強力な怪物が備えている呪文抵抗に阻まれることもない。

 

「ウーン……、でもルイズは魔法が使えないっていうよ?」

 

温存魔力特技を使うには、その特技に対応したある程度高レベルの呪文、ないしは呪文を扱える力が自分の中に存在していなくてはならない。

駆け出しの、まだ呪文を唱えることすらできないメイジに習得できる物ではないはずだが……。

 

「あくまで仮説ですが、あの御嬢さんの中には何か強力な呪文の器が既に発動可能な状態で存在しているのです。

 しかし彼女は今のところそれを解放できない―――単純に詠唱を知らないとか、あるいは他の何らかの条件がそろっていないとかでね。

 そしてそのような特異な才能を持つ代わりに、通常のメイジの扱うような呪文の素養は備わっていないため、他の魔法も使えないのでしょう」

 

ハルケギニアのメイジは、全員が専門家ウィザード(スペシャリスト・メイジ)のように、ひとつの専門系統を持っている。

彼らは後天的にそれを定めるのではなく、生まれつき地水火風の属性が決まっているのだという。

専門系統に特化する度合いは、メイジの才能や現在のランク、努力の度合いなどによって変わるが、自系統以外ほとんど使えないというメイジも多いらしい。

 

ディーキンはそれらの情報を昨夜本で知り、エンセリックにも伝えていた。

エンセリックはそこから、ルイズは非常に特殊な素質を生まれ持ち、それがゆえにその特化した“何か”以外の系統呪文が扱えないのだと推測したのだ。

フェイルーンにも、先天的・後天的の違いはあれど通常の専門家ウィザードよりも遥かにひとつの専門系統に特化したメイジが存在している。

彼らは真の専門家ウィザード(マスター・スペシャリスト)と呼ばれており、専門系統の驚異的な奥義を使いこなす。

ルイズは彼らと同様、いやそれ以上にひとつの特異な“何か”に専門化した存在であるのかもしれない。

何せ、それ以外の全ての系統を犠牲にしているのだから。

 

ぶつぶつ文句を言いつつもしっかりと昨夜の話を覚えていて、頭の中で仮説を組み立てていたあたり、流石はウィザードだとディーキンは感心した。

彼の考えが正しいかどうかはまだ分からないが、少なくとも自分には、そんな事は思いつけなかったであろう。

 

「ウーン、あんたの意見はすごく参考になったよ。ディーキンは感謝するね」

 

礼を言われたエンセリックの方は、かたかたと笑うように身を震わせた。

 

「ハッハッ、どういたしまして! 

 感謝してくれるなら私をもっと磨いて、戦いでたくさん使うようにしてくださいね」

「わかったの、ディーキンは善処するよ。

 ……ところで、あんたの事を後でルイズに紹介してもいいかな?」

 

ディーキンとしては、自分の口から話してもいいがエンセリックを紹介するついでに彼から直接話してもらえればなおいいだろう、と思ったのだ。

 

「ええ勿論。若い女性に紹介されるのは大好きですからね。

 ……ああそうだ、今度一緒にどこかの街に行くというのはどうですか?

 見てないのですよ、身にほとんど何もまとってない美しい女性を……、んんー…、随分長い間……」

 

ディーキンはそれを聞いてまた首を傾げると、エンセリックをそっと鞘に戻す。

 

「えーと……、つまり、ディーキンにそういうのを見せてくれる店とかに入れってこと? 

 まあ、あんたがそうして欲しいっていうならディーキンはそれも考えておくよ。

 ディーキンも、綺麗なウロコのコボルドの女の子が踊りを見せてくれる店とかがもしもあったら、多分行きたいだろうからね。

 でも、そういうことならこれからはルイズが着替えてる時にはあんたを鞘から抜かないようにするの。きっと、彼女に失礼だと思うからね」

 

それを聞くと、エンセリックはまたかたかたと身を震わせて鞘を鳴らした。

 

「フン、別に構いませんよ?

 私はああいう……、起伏が足りない感じの幼い娘は好みじゃないのでね!

 まあ、君のような爬虫類に女性の胸部装甲や腰つきの引き起こす感情が理解されるとは思いませんが」

 

そうして最後にひとつ鼻を鳴らすような音を立てると、それきり静かになった。

もうこれ以上は話が無さそうなのを確認すると、ディーキンはエンセリックを懐にしまい込んで今後の方針を立てる。

ルイズの爆発が本当に温存魔力特技かどうかを確認するのは、おそらくさほど難しくないだろう。

 

まず温存魔力特技ならば、呪文と違い使用回数に制限が無い。

したがって、いくら爆発を起こしても精神力が枯渇しないはずだ。

 

杖が無くても爆発を起こせるかどうかを試させてみるのもいいだろう。

通常なら、おそらくできるわけがないと決めつけて試してみようともするまい。

もし仮にやってみても、できないという思い込みから精神の集中が弱まって失敗するだろう。

だが、<交渉>してその気にさせることはディーキンにとっては何でもない。

 

「ええと、ウーン、後は……、」

 

「……つまり、固定化を用いれば錬金を始め、より力に劣るメイジからの魔法による影響の多くを遮断できるのです。

 加えて自然な経年による劣化なども防げます。

 錬金と同じく、土系統を建築や生活になくてはならない素晴らしいものとしている呪文のひとつですね。

 例外となるのが強い物理的な打撃で、つまりはやはり土系統の、例えばゴーレムによる直接攻撃などが有効といえますが―――」

 

ディーキンが色々と案を練って頭をひねっているところへ、教室内のシュヴルーズの講義内容が聞こえてきた。

 

「……オオ、そうだ。固定化っていうのもあったね」

 

固定化は呪文の影響を遮断するというが、ルイズの爆発がもし温存魔力特技であれば呪文ではないのだから、遮断できないかもしれない。

となれば、固定化で守られた物体をその影響を受けずに変質や破壊をさせられるかどうか、試してみる価値はあるだろう。

より確実な実験のためには、固定化はより力のあるメイジの呪文には無効らしいので、なるべく高位の土メイジが固定化した物体が欲しいところだ。

見習いメイジであるルイズがそれを簡単に変質させたり破壊したりすることができるなら、信憑性は高くなる。

機会があり次第調達するなり、場合によってはオスマンらに相談してみてもいい。

それにシュヴルーズも協力してくれると言っていたし、トライアングルクラスの土メイジが固定化した物体なら現状でも入手するアテはあるわけだ。

 

「――――よし、ひとまずはこんなところだね」

 

ルイズの爆発について今分かることは大体調べたし考えもまとまった、方針も立てた。

これで大方の仕事は済んだが、まだあと最後のひとつが残っている。

 

ディーキンは窓枠に手を掛けてそっと教室内を覗き込み、視線を落として黙々と本を隠れ読んでいる蒼い髪の少女の方を見つめた……。

 




パイロテクニクス
Pyrotechnics /火炎使い
系統:変成術; 2レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(火元1つ)
距離:遠距離(400フィート+1術者レベル毎に40フィート)
持続時間:本文参照
 この呪文は火を眩い多彩の火花や濃密な煙雲など、術者が選んだものに変化させる。
この呪文は火元1つを対象とし、それはすぐに消える。
その火が一辺20フィート以上の大きなものだった場合、その一部だけが消える。
魔法的な火は消えないが、火に基づくクリーチャーが源として使われた場合、その対象は術者レベル毎に1ポイントのダメージを受ける。
火花を選ぶと華々しい多彩の閃光が炸裂して、火元から120フィート以内のクリーチャーを1d4+1ラウンドの間、盲目状態にする。
煙雲を選ぶと火元から20フィート以内に視覚を遮り息を詰まらせる濃密な煙が立ち上り、その中にいる者の筋力・敏捷力に-4のペナルティを与える。
煙は術者レベル毎に1ラウンド残留し、ペナルティは煙の外に出てからも1d4+1ラウンドの間残り続ける。
火花の効果は意志セーヴ、煙雲の効果は頑健セーヴに成功すれば無効化できる。

《炎の爆発(Fiery Burst)》:
温存魔力特技の一種。2レベル以上の呪文を発動する能力を持つことが習得の前提条件である。
習得者は呪文レベル2以上の[火]の呪文を発動可能な状態である限り、半径5フィートの範囲に広がる炎の爆発を回数無制限で作り出すことができる。
射程距離は最大30フィートまでで、発動可能な最高レベルの[火]の呪文の呪文レベル毎に1d6ポイントの[火]のダメージを及ぼす。
このダメージは反応セーヴに成功すれば半減できる。
加えてこの特技を習得しているものは、[火]の呪文を発動する際の術者レベルに+1の技量ボーナスを得る。

ファイアーボール
Fireball /火球
系統:力術[火]; 3レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(蝙蝠の糞が乾いた小さな玉と硫黄)
距離:遠距離(400フィート+1術者レベル毎に40フィート)
持続時間:瞬間
 この呪文は低音の響きと共に火炎を炸裂させ、半径20フィート以内の全てのクリーチャーと装備中でない物体に[火]のダメージを与える。
ダメージは術者レベル毎に1d6(ただし最大で10d6)ポイントである。このダメージは反応セーヴに成功すれば半減できる。
火球は最初術者の指先から輝く豆粒ほどの大きさで飛び出し、あらかじめ定めた地点、または障害物に着弾した地点で瞬時に膨れ上がって炸裂する。
ファイアーボールは可燃物を発火させ、金、銀、銅、青銅、鉛などの融点の低い金属を融かす。
この呪文が障壁で遮られた場合でも、もしダメージが障壁を破壊するのに十分ならば効果範囲はその向こうにまで広がっていく。
 ごく平凡な一般人のヒットポイントは一桁台しかないため、この呪文に巻き込まれればほぼ確実に黒焦げになって即死する。
効果範囲が直径十数メートルにも及ぶため、人が密集しているところに投げ込めば一撃で数十人の死傷者を出すこともあり得る、恐ろしい破壊の呪文である。
余談だが、ゼロ魔原作における破壊の杖M72A3_LAWの威力はd20モダンによれば10d6であり、これは10Lv以上の術者が放ったファイアーボールと同等である。


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第十五話 Private conversation

「ではミスタ・グランドプレ、前へ。

 私が固定化をかけた石を錬金できないということを確かめてみてください。

 それから……、ミスタ・グラモン。あなたは、こちらの石に固定化を。

 それに対して、私が同じように錬金をした場合には―――――」

「…………………」

 

キュルケの親友であるところの蒼い髪の少女、『雪風』のタバサは、机の下で本を開いて読み耽っていた。

ちょっと見ると下を向いて熱心に勉強しているようだが、実は開いているのは教科書ではなく、授業とは関係のない本である。

この程度の基礎的な講義の内容はとうの昔に全て知っており、教科書を開いているよりも新しい知識を仕入れる方がよほど勉強になると思っているのだ。

それゆえ時折顔を上げて授業の進行具合や実演の様子を観察する以外、講義は聞き流している。

 

タバサは本を読みつつ、授業内容ではなく別の考え事に注意を払っていた。

言うまでもなく、ルイズの使い魔であるところの亜人、もしくは竜に関してである。

 

あの使い魔が只者ではないのは確かだ。

先程自分の主人も含め教室中の意見を上手く誘導して大事なく事を収めた手並み、あれはもはや偶然とは思えない。

外見や話し方からして小さな子どもだとばかり思っていたが、あの手練手管を見るとそうではないのかもしれない。

 

だが、それが分かったからと言って、こちらの目的に何か進展があったかと言われると結局何も進展はしていないと言わざるを得ない。

只者ではないからといってイコール竜だと決まるわけでもないし、むしろ騒ぎに乗じて目立たずに接触しようという当てが外れてしまったのが痛い。

 

しかしまあ、今更ぼやいていても仕方ない。

目立ちたくはなかったが、こうなれば授業後に張り付いてヴァリエールのいない隙を見計らい、あの使い魔を捕まえて話をすることにしよう。

幼生とはいえ自分の使い魔は風韻竜、その翼で用事を終えて戻って来るまでにそう掛かるはずもないのだし、のんびりと好機を待ってもいられない。

 

(……おそらくもう、街にはついた筈)

 

今自分の使い魔がどのあたりにいるのか気になったタバサは、感覚の共有を試みた。

もし早々に買い物を終えて戻って来そうなら、なおさら急がなくてはならない。

 

(……――――――)

 

そっと目を閉じて意識を集中すると、脳裏に現在イルククゥの見ている光景と聞いている音がぼんやりと浮かんできた。

 

 

……イルククゥの耳に、トリステインの街の雑踏が聞こえている。

通りゆく人々の談笑、店の呼び込み、聖歌隊のパレードの笛の音色……。

 

彼女は人間の街が珍しいのか、あちこちをきょろきょろと眺めているらしく、光景が頻繁に切り替わる。

あちこちの店の陳列品に、大道芸人の行うジャグリングの芸に、聖歌隊の行進に………。

ふらふらとさ迷い歩いているうちに、目的の店とはまるで違う方向に移動していく。

 

そのうちに、イルククゥ自身のつぶやきが聞こえてきた。

 

『………ここどこなのね?』

 

 

タバサは誰にも気づかれないほど小さく溜息を吐くと、感覚共有を打ち切った。

 

どうやらあの子は油を売っているようだ、おまけに道に迷ったらしい。

仮にも伝説の韻竜だというのに、まったく子どもっぽいにもほどがある。

 

呆れたものだ……が、まあ今は好都合だ。

もしスムーズに買い物が済んでしまっていたならこの授業を理由をつけて抜け出し、窓の外にいるヴァリエールの使い魔と接触しようかとも考えていた。

だが、この分ならまだ余裕がありそうだし、そこまで強引な手を使って急がなくともいいだろう。

 

タバサがそう考えてひとまず思案を打ち切り、本の内容に戻ろうとした時。

耳元に囁くような声が聞こえてきた。

 

『――――アー、アー、ええと……、聞こえる?』

「……?」

 

今の声は、一体誰だろう。

タバサは怪訝に思ってあまり顔を上げずにそっと周囲を見渡してみたが、それらしい者は見当たらない。

感覚共有は切ったしイルククゥの聞いた声という事もないはずだが……空耳だろうか?

 

『ええと、聞こえたかな……。

 こちらはルイズの使い魔のディーキンなの。

 授業の邪魔をして申し訳ないけど、聞こえてたら囁き返してくれる?』

「! ………聞こえる」

 

タバサは驚きにやや目を見開きつつも、周囲の生徒に不審がられないよう顔を伏せながら指示通り小声で囁き返した。

これだけ小さな声で、まして授業中ならば誰にも聞こえる心配はあるまい。

 

『アア、ちゃんと通じてるみたいだね。よかったの』

 

囁き返すと、ディーキンの安心したような返事がまた耳元に聞こえてきた。

タバサは困惑しながら、ちらりとディーキンがいるはずの窓の向こうに目をやる。

 

今は窓の下の方で掃除をしているらしく、小さな角の生えた頭がちらちらと見え隠れしていた。

どう考えても、普通ならば囁き声でやりとりができる距離ではない。

 

(………これは………、何?)

 

彼女が困惑した理由は、唐突にディーキンが自分に声を掛けて来た理由を計りかねたからというだけではない。

勿論それもあるが、それにもまして不思議なことがあった。

 

タバサはトライアングルクラスという、かなり上位の腕前を持つ風のメイジである。

風のメイジは自分の周囲で起こる風の動きに敏感であり、優秀な使い手ならばその動きで、目を閉じていても周囲で動くものの様子をある程度察知できる。

タバサの知る限り、声を遠くへ届かせるのは風の呪文である。先程ディーキンに声を送った自分の呪文もそうだ。

亜人が用いる先住の魔法といえども、系統魔法と同じく地水火風の四属性に分類されるのだから、それは変わらない。

そして、たとえ先住の風魔法であろうと、周囲で風の自然ならざる動きがあれば見逃すはずがないという自信が彼女にはあった。

 

なのに、ディーキンが声を掛けてきた時には、風の動きを全く感じなかった。

それどころか、注意深く気を配っている今でさえ、何ら不自然なものは感じ取れない。

どんな呪文かは分からないが、明らかに魔法によって声を届けているはずなのに……。

 

僅かに眉根を寄せて考え込むタバサをよそに、ディーキンは話を続ける。

 

『ええと、ディーキンは今、少しあんたと話しても大丈夫かな?』

「………大丈夫。でも、何故」

『ウーン、なんていうか、ディーキンの勝手な勘違いかも知れないけど……。

 さっきあんたが声を掛けてくれた時、もしかしてディーキンに何か話があるのかなって思ったの』

「………。どうして、そう思った?」

『いや……、その、そんな顔っていうか、感じっていうか。そう見えたの。

 けど、普通に話しかけてこないから、何か他の人に聞かれたら困る事かなって思ったんだけど……』

「………、そう……」

 

タバサは表情こそ殆ど変えなかったが、内心かなり驚いていた。

 

自分は、感情を態度や顔に出さない。

それは今までに経験してきたことからそうならざるを得なかったためであり、また、意識してそのように訓練してきたためでもある。

この学院の中で自分の表情や態度の僅かな変化から感情を読めるのは、親友のキュルケくらいのものだ。

なのにあの使い魔はほとんど初対面で何も知らない間柄の自分の感情を見抜いた。

そしてその理由までも洞察し、わざわざ気を使って他人に知られないように声を掛けてきてくれたというのか。

 

一方、ディーキンの側からすれば、それはなんら不思議な事ではない。

 

なにせ幼少期から気まぐれで暴力的なドラゴンを主人として傍に仕えていた身である。

主人の機嫌や思惑を的確に読んで不機嫌な時は傍に寄らない、もしくは上手く機嫌を取る術を学ばねば、命に関わったのだ。

相手が異種族であろうが、表情の変化に乏しかろうが、やるしかなかった。

 

冒険者となった後も、ドロウやイリシッド、そしてデヴィルなどの策略の達人として知られる様々な相手と渡り合ってきて、更に技量は高まっているのだ。

連中とやり合うのに比べれば、ほんの2、3年ばかり感情を隠す術を磨いた程度の少女の悩んだ様子に気が付く事など難しくもなんともない。

先程周囲の意見を誘導して、上手く自分の望む方向に持って行ったことも然りだ。

あの程度の状況を何とかできないような<交渉>や<真意看破>の技量では、暗黒世界や九層地獄では全く通用しないだろう。

 

『アア、でももし違ってたら、勝手な思い込みで迷惑を掛けてゴメンなの。

 もしそうなら、お詫びして話は止めることにするよ』

「……違わない、あなたの考えは正しい」

『オオ、それならよかったよ。

 ウーン、じゃあ、今ならその事を話してもらって大丈夫かな?

 だけど今は授業の最中だね……、終わってから、どこかで話してもらってもいい?』

「今、話したい。あなたが大丈夫なら。わざわざ気を使ってくれて、感謝する」

 

まさか向こうから、人目に付かないような形で接触を図ってきてくれるとは。

タバサにとっては実際願ってもない話で、感謝したくもなる。

 

『ンー……、そう? じゃあ、今話してもらうことにするね。

 ああ、ディーキンは自分が気になったから話しただけで、感謝されるような事じゃないの。』

 

ディーキンは窓の縁に掴まりながら、少し首を傾げてそう返事を返した。

 

実際、わざわざ授業中に呪文まで使って声を掛けた理由としては、面識もない少女が何故自分と話をしたいのかが単純に気になったからだ。

ついでに言えば、その少女が勉強中の学生メイジにしては妙に戦い慣れしているような気配をまとっているのも、関心を強めるのに一役買っていた。

 

『ところで、ディーキンはコボルドのバードで冒険者、鱗を持つ歌い手だけど、あんたはなんていう名前なの?

 ディーキンはまだ、それを聞いてないよ』

「タバサ。『雪風』のタバサ」

『ウーン……、雪風のタバサ……だね、ディーキンは覚えたよ。

 よろしくなの、タバサ』

「こちらこそ」

 

ディーキンはタバサと挨拶を交わしつつも、他の学生とはなんだか名前の感じが違うなあと首を捻った。

タバサというと、どこだかの古い言葉で何か、草原に棲む動物を指すのだったような気がする。

 

(もしかして、偽名とか?)

 

あるいはその事も、自分と密かに接触したがった理由に関係しているのかも知れない……、というのは、穿ち過ぎだろうか。

まあ今の段階でそんなことまで考えていても仕方がないだろうが。

 

『それで、ええと……、タバサは、ディーキンにどんな用事があるの?』

 

タバサはそこで、少し逡巡する。

果たして、この得体の知れない使い魔に、自分の使い魔の事をどこまで伝えてよいものか……。

 

「私の使い魔は風竜、それが昨夜からあなたに関心を持っている。

 あなたが、自分と同じドラゴンだと思っているらしい。

 ……それが本当かを、聞きたい」

 

タバサは結局、ひとまず韻竜であるという事は伏せて、端的に用件を告げることにした。

 

『……え? ドラゴンが、ディーキンにそんなことを言ったの?』

 

ディーキンは窓の外でやや驚いたような声を上げる。

 

フェイルーンではコボルドはドラゴンを敬い、忠実に仕えようとするが、残念ながらドラゴンの方が惨めで脆弱な遠い親類に興味を持つことは稀だ。

昔の主人もコボルドは同族と認めるには弱すぎると言って歯牙にもかけず、機嫌が悪い時には平気で殺していた。

まあ、自分だけは少し特別扱いしてくれたが。

 

『ええと……、うーん、それは……、多分本当だよ。

 コボルドはドラゴンの血を引いてるからね、きっとそのせいだと思うの』

「コボルドがドラゴンの血を引いているなんて、聞いたことがない。

 それに、あなたはコボルドには見えない」

『アア、それは昨日ルイズ達にも説明したけど……』

 

ディーキンは自分が遠く離れた地から来た亜人で、その地ではハルケギニアとは名称が同じでも別種の生物であるものが多いらしい、と説明していく。

 

『ディーキンが昨日ちょっと本を読んで調べた感じではコボルドもそうだし、ここで見た感じだとサラマンダーやバグベアーなんかも違ってるね。

 それから、ええと………』

 

ディーキンは“ルイズと正規の契約をしていない”と言う部分だけは約束なので伏せたが、これまで分かった事の多くを正直に伝えていった。

彼女は教室の他の生徒達と比べて段違いに鋭そうな雰囲気を纏っており、深い意味もなく無闇に多くの事を伏せても勘ぐられるだけで逆効果だと思える。

それにタバサはキュルケの親友だという事だし、『隠し事はありそうだが信頼できる人、かなりの大物かも?』というのがディーキンの見立てであった。

ごく直観的な判断ではあるが、駆け出し時代のボスを一目で偉大な英雄だと見抜いた自分の目、特に大物を見抜く目は確かだと自負している。

 

「……………」

 

それに興味深く耳を傾けていたタバサは、話が一区切りつくとじっと考え込む。

 

まるで聞いた事もないような話ばかりで、普通なら非常に疑わしい……、まず信じられないような内容ではあった。

だがタバサは、結局それらはみな本当の話であろうと判断した。

 

彼女とて数々の困難な任務を潜り抜け、裏切りや策謀にも常に注意を払ってきた身なのだ。

信頼できる相手かどうかを見抜く目、嘘を見抜く目は、相応に身に付けているという自信がある。

彼には嘘をついているようなそぶりは全く感じられなかったし、間違いなく只者ではないにせよ悪意のある人物とは思えない。

 

(……彼の故郷、フェイルーンと呼ばれる地では今も韻竜が当たり前に存在している。

 その地では稀に韻竜が他種族の姿に身を変えてその種族との間に子を成すことがあり、竜の血を引く者が時折見受けられる。

 特にフェイルーンのコボルドは種族全体が竜の血を引いていて、竜に奉仕している。

 彼は以前に韻竜の主人に詩人として仕えていて、竜の力を引き出すための訓練も積んでいる……)

 

その話が本当であるなら、彼は韻竜である自分の使い魔の話し相手として、これ以上ないほどに相応しいだろう。

おそらくこちらの立場を理解して、秘密を守ってくれそうな人物にも思える。

しかし………。

 

『アー、それで、タバサの使い魔さんがディーキンに興味を持ってるのは分かったけど。

 つまり……、あんたはディーキンに、一体何をして欲しいの?』

「……その前に、お願いがある。

 これからする話は、あなたの主人には伝えないでほしい。

 ルイズの害になるような話でないことは、誓う」

 

タバサは窓の向こうの話し相手には見えないことを承知で、小さく頭を下げた。

他人の使い魔に対して主人に隠し事をしてくれなどと要求するのは非常識な事だが、こればかりはどうしようもない。

 

『つまり、タバサはディーキンが約束すれば、それを信じて大事な秘密を話してくれるってことなの……?

 オオ……、ディーキンはすごく嬉しいの、あんたの期待を裏切らないようにするよ』

「……? 頼んでいるのは、私の方。どうして、あなたが感謝するの」

『ンー……? だって、ちっぽけなコボルドを信じて大事な秘密を話してくれるなんて、滅多に無い事だよ。

 そんな風に扱ってもらえることに感謝するのは、当然だと思うの。

 信頼されるって、コボルドには滅多に無い事だし、そうでなくても誰にとっても大事な事じゃない?』

「………」

 

タバサはなんとなく、キュルケがこの使い魔を高く評価していたことに得心がいった。

色々と行きがかりはあったが、彼女もまた、無口で愛想の欠片もない自分の事を最後には信頼できる親友として認めてくれた人だったのだから。

 

同時に、この使い魔の事は全面的に信頼してよいだろう、と結論を出した。

 

「―――そうかもしれない。

 ……じゃあ、話す。まず、私の使い魔は風韻竜で……」

 

 

「ただいまなの、ルイズ」

 

ちょうど授業が終了した直後に、ディーキンは窓の外から戻ってきた。

教室を出ていくシュヴルーズに軽く挨拶してからルイズの元へと戻る。

 

「お帰り……、随分時間が掛かってたわね。その……、そんなに汚れてた?」

「アア、いや、それほどでもなかったの。

 けど、始めたら色々細かいところが気になって、関係ないとこまで片付けてたから時間が掛かったの」

 

ディーキンはにこやかにそう答えて、詫びるように軽く頭を下げた。

 

まあ、嘘ではない。

確かに『タバサとの話』というルイズとは関係のない事で、細かいところをしっかりと詰めていたら時間が掛かってしまったのだから。

 

「ふうん。……そういえば、随分機嫌良さそうな感じね。

 そんなに掃除が好きなの? 出ていく前に掃除の達人だとか言ってたわね」

 

ディーキンがにこにこしているのは、言うまでもなく授業時間中目いっぱい頑張って万事上手くやりおおせた達成感からである。

ルイズは何やら勘違いをしているようだが、まあディーキンがタバサと話をしていたなどとは分かるわけもないし、無理もない事である。

 

あの後ディーキンはタバサと話を続け、彼女の使い魔である風韻竜の話し相手となる事、その正体をルイズを含め他の者には伏せることを承諾した。

正直に言えばドラゴンは未だに少し怖い相手だが、『自分に相応しい自信と勇敢さ』を持つことをボスも望んでくれていたし。

それにタバサが言うには彼女は子どもっぽい竜で、怖れることはないらしい。

何よりも、初対面の自分に全面的な信頼を寄せてくれたタバサの願いなら是非もない。

 

ルイズに使い魔の正体がばれないかという事に関してはタバサがかなり心配していたので慎重に話し合った。

彼女はディーキンが話さないという事は疑っていないようだったが、使い魔の感覚共有で露見する事を危惧していたのだ。

 

ディーキンはまず、ルイズも信頼できる人物であり知らせても秘密を守ってくれると請け合ったのだが。

タバサはそれでも当面は伏せたいと主張した。曰く、

 

『あなたの主人は名誉を守る人物で、信頼はできると思う。

 けど、未熟なところがあるし、感情的になりすぎるから何かのはずみで誤って漏らしてしまうかもしれない。

 それに私はキュルケの友人、彼女はキュルケと不仲』

 

……ということらしい。

ディーキンとしても確かにそう言う面はあるかもしれないと思ったので、それ以上無理に説得しようとはしなかった。

 

実際のところ、正規の契約は行っていないので感覚共有で露見する心配は一切ないが、それをタバサに伝えるわけにはいかない。

ディーキンはタバサは信頼できる人物で話しても問題ないと信じているが、だからといって勝手に話せばルイズや学院長らの信頼を裏切ることになる。

 

したがって、なるべく人のいないところで話すとか、会話には竜語を使うとか……。

仮に感覚共有があったとしてもまず問題ないようなやり方を詰めておく必要があり、それに余計な時間が掛かってしまったのだ。

 

また、密談に使った《伝言(メッセージ)》の呪文についても色々と聞かれた。

どうやらタバサは風のメイジであり、この呪文がハルケギニアの類似の呪文と違って風を使っていないことに気付いたらしい。

そのような事に鋭敏に気付くあたり、やはり彼女は相当優秀な人物なのだろう。

 

ディーキンは自分の魔法はバードという職業の者が使う歌の魔法であってハルケギニアの亜人が使う先住魔法とは別物である事、

どちらかと言えば系統魔法の仲間であり、他の存在に頼るのではなく自分の内にある力を用いる魔法である事などを簡単に説明してやった。

タバサはそれを聞くとより関心を深めたようで機会があればより詳しく聞かせて欲しいと言って来たので、

代わりにこちらも系統魔法について本では分からないあたりを教えてほしいと求めると、お互いに同意が得られた。

 

その後壁面に書き取った授業のメモを羊皮紙にまとめ直したり色々と後片付けを済ませると、ちょうど授業の終了時間だった。

 

「じゃあ、また私の横に座りなさい。次の授業があるからね。

 ……その、さっきはありがとう。

 でも今度は、あんな目立つことはしないでちょうだい……恥ずかしいから」

 

顔を赤くして俯きつつ、周囲の視線を気にしながらもごもごとそういうルイズを見て。

ディーキンは少し首を傾げると、素直に隣に座った。

 

「ンー……、バードは目立つのも仕事の内なの。

 でもルイズがそういうなら、ディーキンは……ええと、善処するよ」

 

 

それからルイズとディーキンは、そろって午前中の残りの授業を受けた。

 

ディーキンは一時間目のように派手に名乗りを上げたり演説をしたりと目立つようなことはせず、大人しく熱心に授業を聞いてメモを取っていた。

いずれの授業の教師もルイズの事を既に知っていて指名しようとはしなかったし、使い魔に言及するのも避けたので、特に騒ぎも無かったのだが。

ルイズもまたそんな使い魔に恥じないように熱心に集中し、とても誇らしく充実した気分で午前の授業を過ごした。

 

一方、タバサの方の機嫌はよろしくなかった。

 

「……ねえタバサ、あなたどうかしたの? 

 さっきから何だか機嫌が悪そうじゃない、途中まではむしろ機嫌は良さそうな感じだったのに」

「別に、何でもない」

 

2時間目まではディーキンとの実りある会話の一件もあって、キュルケが言うように機嫌はかなりよかったのだが。

3時間目の途中でイルククゥがそろそろ戻って来るかと再度感覚を共有してみたところ、本の代金を使い込んで買い食いをしていることが判明したのである。

こっちは大切な使い魔のためにあれこれ便宜を図り、先住の名前では目立つだろうと人間向けの偽名まで考えてやったりしているのに……。

 

(……帰ってきたら、ただじゃおかない)

 

ちらりとディーキンの方を見れば、彼は主のルイズと並んで、仲良く熱心に勉強している。

やっぱりあの子みたいな使い魔がよかったと、タバサは内心で深い溜息を吐いた。

 




<真意看破(Sense Motive)>:
相手の嘘や真意を見抜く技能。関係能力値は【判断力】。
直感的にその場の状況を判断する能力でもあり、何かが間違っている場合(例えば相手が偽物であるなど)に違和感を感じ取ることができる。
密かなメッセージの意味に気付いたり、敵の強さがどの程度であるかを大まかに看破することにも使える。
また、そもそも相手が信頼できそうな人物かどうかを直感的に見抜くこともできる(難易度20)。
更に、魅惑や支配などの何らかの精神作用の影響を受けている者を、それと識別することもできる(難易度25)。

メッセージ
Message /伝言
系統:変成術[言語依存]; 0レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(短い銅線1本)
距離:中距離(100フィート+1術者レベル毎に10フィート)
持続時間:術者レベル毎に10分
 術者は伝言を囁いて伝え、相手が囁き返した返答を受け取ることができる。
最大で術者レベル毎に1体までの距離内のクリーチャーを目標にすることができ、全員に同時に同じ伝言が伝わる(返答を受け取れるのは術者のみ)。
この呪文は風に音を運ばせるわけではないため、途中に障壁があってもそれが薄いものであれば声は伝わる。
1フィートの石、1インチの金属、薄い鉛、3フィートの木や土、(フェイルーンの)サイレンス呪文はこの伝言を遮る。
伝言は直線を通る必要はなく、途中に分厚い障壁があっても迂回するルートが存在しており、かつその経路全体が呪文の有効距離内ならば問題はない。
 持続時間が比較的長いので必要となる状況を見越して事前に発動しておくことも容易にでき、0レベル呪文ながら有用性はかなり高いといえる。


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第十六話 Cook and poet

「……ほう、するってえとお前さんがさっきシエスタの言ってた亜人の使い魔か?

 そういや昨日の夜勤の連中も、夜遅くに学院長に連れられて見たことのない亜人が食堂に来たとか話してたな」

 

いかつい中年の責任者らしき男が、目の前に立つディーキンをじろじろと見つめる。

ディーキンは、つい先程午前の授業を終えたルイズと別れて厨房に顔を出し、自己紹介を済ませたところだ。

 

他の従業員たちも、おおよそが同じような興味深げな視線をむけてくる。

流石に魔法学院で働き、さまざまな使い魔を見慣れた彼らは、使い魔であるとわかれば亜人であっても怖れたりはしないようだ。

ましてやディーキンは態度も大人しく、体も小さな子どものような大きさで全く危険には見えないのだから尚更だろう。

 

なんにせよコボルドの身では、初対面の人間には嫌悪や恐怖の目を向けられるのがごく当たり前である。

好奇の目で見つめられる程度のことは、ディーキンにとっては決して不快ではない。

 

「そうですマルトーさん、この子がさっき話したディーキンさんです。

 あ、ディーキンさん、こちらは料理長のマルトーさんです」

 

シエスタはディーキンの傍に屈んで、にこにこと挨拶と料理長の紹介をする。

 

「ありがとう、シエスタ。

 ディーキンはあんたたちにはじめましてを言うよ。

 ええと、ルイズは、今日からここで食事を出してもらうようにって言ったんだけど……」

 

さて、どのように頼んだものかと、ディーキンは少し考える。

ルイズは好みのメニューを作ってもらえると言っていたし、ディーキン自身も新しい土地での味には期待してはいた。

しかし、いざとなるとどうも特注であれこれと図々しくオーダーする気にはなれなかった。

というのはディーキン自身、一度ならず料理人として仕事をした経験があるからだ。

 

最初は“ボス”の後を追ってコボルドの洞窟を発ち、初めての冒険に出た時。

彼の旅について行きたい一心で、彼と同行するハーフリングのキャラバンを訪ねて給料も要らないからと拝み倒し、まかないとして雇ってもらったのだ。

 

二度目はボスと一旦別れた少し後、一人で旅をしていた時。

大きなクマに食料を荒らされてしまって飢え死にしそうなほどひもじかったため、普段は入らない人間の村に食べ物を乞いに踏み込んでみた。

その頃は追われるのにすっかり参ってしまって挑戦心がいささかくじけていたので、人間の集落からは久しく足が遠のいていたのだ。

ところが、そこで入った酒場の“ママ”に思いがけず歓迎してもらい、そのまましばらくの間、住込みの従業員として働いた。

 

料理をするのは好きだ。だが、料理人を仕事としてやるとなればこれは大変な事だというのは、それらの経験からよく知っている。

そんな大変な仕事をしている最中に、予定外のオーダーを勝手気ままに持ち込まれるのがいかに迷惑かということも、容易に想像できる。

いくら貴族の使い魔としての権限で好きなメニューを注文できるとしても、彼らに余計な迷惑はかけたくない。

 

そのように考慮した結果、ディーキンはとりあえず、何でもいいので余り物なり残飯なりがあれば回してもらえれば嬉しいとだけ頼んでおくことにした。

 

「アア、それともし十分な量がない時はわざわざ余計に用意したりしないでね。

 ディーキンは自分で何とかするから、余ってる時だけで構わないの」

 

マルトーはその言葉にほうと声を漏らして笑みを浮かべると、ディーキンの肩をばんばん叩いた。

 

「ほほお、ちびっこいのになかなか遠慮深い奴だな、気に入ったぜ。

 おいシエスタ! この品のいいお客さんに、白パンとスープを出してやってくれ。

 貴族の連中に出す茶や焼き菓子の余りなんかもつけてな」

 

ディーキンは目をしばたたかせて小首を傾げると、まじまじとマルトーの顔を見つめた。

 

「ええと……、あんたは今、ディーキンを品のいい客って言ってくれた?

 あんたはディーキンを、『ちっぽけで薄汚い、いるだけで店を汚しそうなコボルドのチビだ』とか思わないの?」

 

昔ひもじさに耐えかねてどうにか食事と歌う場所を貰えないかと試みに人間の店に行ったとき、店長や客にそういわれて叩き出された事があったのだ。

英雄として知られる前は金はいつもろくに持っていなかったし、どうにか汚い酒場で音楽を演奏できても、誰も聞いてはくれなかった。

それでも大切な冒険用の備品類だけは、意地でも手放さずにとっておいたが。

 

別に、それが不当な扱いだったとは思わない。

コボルドの自分を許容してくれないかといつも期待はしていたが、受け容れられるのが当然だなどとは考えていなかったし、今でもそうである。

今では名の知られたドロウの英雄、ドリッズト・ドゥアーデンが地上で受け容れられるまでの苦難の物語を例に引くまでもない。

逆に人間がコボルドの洞窟に迷い込んだとしても同じように扱われるだろう。あるいは、もっと酷い事になるか、だ。

そうはいっても、バードは魅力的で人扱いが上手なものだと聞いていたのに、自分はあまり立派なバードではないらしい、と少なからず落ち込みはしたが。

 

冷たい扱いや迫害も覚悟していただけに、ここに来てからあまりにもよい扱いばかり受けていることにディーキンはいささか困惑していた。

成長した今の自分なら、英雄の名声が無くても人々に魅力的だと思ってもらえるのだろうか。

それとも、そんな考えは馬鹿げた自惚れにすぎなくて、単純にここの人達が本当にとても善い人ばかりだからなのだろうか。

 

その考えはある程度は正しく、ある程度は間違っている。

 

今のディーキンの技量が、以前人間に追い掛け回されていた頃とは比較にならないほど高いのは確かだ。

しかし、実際は当時の彼も充分以上に優秀な、人間ならばとうに英雄として名を馳せていてもおかしくないほどの腕を持つバードだったのだ。

一人旅を始めた時点で、既にボスと共にひとつの世界の危機を救う冒険を成功させていたのだから。

コボルドの身でともかくも人間に殺されず、かろうじて街で許容されるまでにこぎつけただけでも大した仕事であるといえよう。

その事に、本人は気付いていない。自分の実力やこれまでの業績について、ディーキンはまだまだ過小評価しているきらいがあった。

 

それに、ここハルケギニアで今までにディーキンが出会った人々が概ね善い人ばかりだというのも、まあ確かだろう。

だがハルケギニア人全体がそうというわけでは勿論ないし、貴族の使い魔としての立場が無ければ、少なくとも当面の間はやはり追い回されていたはずだ。

 

さておきマルトーはディーキンの問いに肩を竦めると、さも当然のように頷いた。

 

「ああ、あたりめえじゃねえか?

 ここの貴族どもときたら普段は気取って上品ぶってるくせに、俺らが丹精込めて作った食事を山ほど残しやがる礼儀知らずだ!

 その点坊主はずっと行儀がいいし、ちょっと見は汚れてそうだが嫌な臭いはしてねえ、逆に上等ないい香りが漂ってるからな。

 おめえがちゃんと身綺麗にしてからここに顔を出した、礼儀を弁えた上客だって事ぐらいが分からんようじゃあ、これだけの厨房は預かれんぜ」

「オオ………、」

 

ディーキンはその言葉に少し驚く。何とも度量の広い人らしいが、観察力も鋭いようだ。

確かにディーキンは厨房に入る前にちゃんと綺麗にしておこうと、汚れを落として『ビターリーフ・オイル』を塗ったのだ。

 

以前に料理人として働いていた経験からである。

一度汚れを落とさず厨房に入ったら、先輩の料理人に凄い形相で包丁を投げつけられた上、硬そうな石鹸で殴られそうになったことがあった。

 

「ディーキンにも、あんたが立派な人だって事が分かるよ。

 それぐらいが分からないようじゃあ、英雄のお付きは務まらないからね。

 料理長の旦那、ディーキンはあんたに感謝するよ。

 あんたのことは、必ずディーキンが今度書く物語のどこかに入れておくからね!」

 

そういってにこにこと御辞儀をしたディーキンに、マルトーも屈み込んで顔の高さを合わせて豪快な笑みを返した。

 

「おお、坊主は英雄の物語も書くんだったな。

 俺みたいな一介の料理人がまさか英雄の物語に入れるとはな。よーし、期待しとくぜ!」

「ウーン……、でも英雄物語に料理人を入れるのってどうしたらいいかな?

 例えば悪いドラゴンのために、お姫様を料理する役とか?」

「………。い、いや、あまり無理に入れようとしなくていいぜ」

 

「はい、ディーキンさん。

 私たちの食べるのと同じ賄い物とあと貴族の方々にお出しした余り物ですけど、どうぞこちらに座って食べてください」

 

そんな他愛もないやりとりを交わしている間に、シエスタがてきぱきと料理を食器に取り分けて運んできた。

その後ろからもう一人、シエスタの後輩らしきやや不慣れそうなメイドが、ディーキンが座るための台を運んできてくれた。

背が低い上に翼などが生えているディーキンは、普通の椅子には座りにくいだろうと気を利かせてくれたようだ。

 

ディーキンは彼女らに礼を言ってから、朝と同じような食前の祈りをささげると、さっそく食事に取り掛かった。

 

 

「――――ふん! 確かにメイジにゃ魔法はできるさ。

 土から鍋や城を作ったり、とんでもない炎の玉を撃ち出したり、果てはドラゴンを操ったりな。

 たいしたもんだと俺も思うぜ、だがな、絶妙の味に料理を仕立て上げるのだって一つの魔法みたいなもんよ!

 コボルドの坊主よ、おめえはそう思わねえか?」

「うん、ディーキンはその通りだと思うよ。

 冒険をしてると、食事の大切さっていうのはよく分かるの。

 食事を作るのがいろんな意味で魔法だっていうのも、まったく正しいね」

「だろう? 坊主、いやディーキン、おめえはまったくいい奴だな!」

 

すっかりディーキンが気に入ったらしいマルトーは、仕事が一段落つくと旨そうに食事をしている彼との雑談に興じていた。

既に料理は全て終わっており、後は貴族たちの食事の進行に合わせて出すだけだ。

 

ディーキンはマルトーの言動から、ははあ、彼は魔法や貴族が嫌いなのだなとあたりを付けた。

 

マルトーは己の才能と努力で富を勝ち得た裕福な平民だ。

長年磨き上げてきた料理の腕を認められ、今や伝統ある魔法学院の料理長として取り立てられた彼の収入は、生半な貴族のそれを凌駕している。

ハルケギニアのそういった平民の多くは、生まれの良さと魔法の力を振り翳して大きな顔をする凡愚な貴族を嫌っている。

魔法学院で働いているとはいえ彼もその例に漏れず、一部の例外を除いて基本的に貴族は好きではない。

であるから、必然的に魔法にもあまり好感は持っていないのだ。

偉大な力だとは認めるものの、そのせいで正当な評価を受けられない平民のいかに多い事か。

 

フェイルーンにも、遺憾ながら城に棲む盗賊以外の何者でもないような貴族は、少なからず存在している。

もっともディーキンはコボルドであるから、人間の貴族については伝聞や物語で聞いた事はあるものの、実際の体験としてはほとんど知らない。

だがコボルドの社会も概ねソーサラーが強い権力を握る魔導制の社会であり、貴族というものとは少し違うが、でかい顔をする魔術師はいくらでもいる。

だからディーキンにも、マルトーのそういった気持ちはある程度は理解できた。

ディーキン自身も魔法の使い手ではあるが、卑劣で威張り腐ったコボルドのソーサラーは好きにはなれなかったものだ。

もっともディーキンはコボルドの社会自体に馴染めなかった異端児で、普通のコボルド全般がそもそもあまり好きではなかったのだが。

 

これは《英雄たちの饗宴(ヒーローズ・フィースト)》の呪文の事は彼にはしばらく黙っておいた方がいいな、とディーキンは考えた。

現世の料理を超える天上の美味が、魔法ひとつで作れるなどと知ったらショックを受けそうだ。

無闇に人の矜持を傷つけて、機嫌を損ねるものでもあるまい。

 

「……ウーン、ディーキンはむしろ、魔法が料理を援助することがあってもいいと思うね。

 もっといい料理を作るためとか、雑用のお手伝いとかに。料理っていうのは、そのくらい大事なものだからね」

「そうよ! まったくその通り! おめえは本当によくわかってる奴だぜ!」

 

マルトー料理長はそういってディーキンの頭をわしゃわしゃと撫でた。

それからぶっとい腕をディーキンの肩に巻きつけて抱っこでもするように顔を寄せ……、ふと何かに気が付いたように首を傾げた。

 

「……あん? 何か香りがしてると思ったがおめえ、クリームか何か塗ってるのか。

 しかしこりゃなんだ? まるではしばみ草みてえな匂いだがちょっと違うな……。

 まあ、すっきりした感じで悪くねえがな」

「ン? ああ、さっき塗ったビターリーフ・オイルの事だね。

 はしばみ草っていうのは知らないけど、フェイルーンじゃ、コボルドはよくビターリーフから作った軟膏で自分の肌を磨いて手入れするんだよ」

「そうなのか。しかし、ビターリーフってのは聞いたことがねえな……。

 おめえもはしばみ草を知らねえところを見ると、どうやら随分こっちとは離れたところから来たみてえだな?」

「ウーン、そうみたいだね……」

 

フェイルーンのコボルドは、自分の外皮を強く健康で光沢のある状態に保つために、ビターリーフ・オイルで手入れをする。

これによって清潔さを保ち、リラックスして健康を維持増進させ、さらには脱皮(コボルドはたまにするのだ)の必要を無くすこともできる。

まあ普通のコボルドにとっては少々高級品なので、すべてのコボルドがそれを使えるわけではないのだが。

 

(ンー、ビターリーフが無い…ってことはオイルが無くなったらどうしようかな?)

 

まだ沢山持ってはいるが、とはいえ何ヵ月もここにいればいずれ尽きてしまうだろう。

使わなくても死ぬわけではないが、これでも自分は身だしなみを大切にする方なのだ。

それが社交的なコボルド・バードとしての、ディーキンなりのダンディズムというものである。

 

……はしばみ草というものが近い香りを持っているのだとすれば、もしかすればそれで代用品が作れるかもしれない。

そういったものが市販されているかはわからないが、暇な時に自作を試みてみてもいいだろう。

自分は錬金術関係の<製作>が特に得手というわけではないが、そのくらいのものならばおそらく、ある程度の時間と材料があれば作れるはずだ。

普通の冒険者は錬金術アイテムの類を自作するなどという事は滅多にしないのだが、当面は平和な日常が続きそうだし。

そういえば、ハルケギニアの『錬金』という呪文とフェイルーンの<製作:錬金術>も、名前は似ているのに随分と違うもののようだが……。

 

ディーキンはそんなふうに雑談や考え事をしながらも、ぱくぱくと料理を口に運び、早々に全て平らげた。

食欲が旺盛だというのもあるが、それだけ、本当に美味しい食事だったのだ。

 

「――――うん、ごちそうさま。

 昨日のも、今朝のも、そして今の食事も、本当に凄く美味しかったの。

 あんたたちは最高に腕のいい料理人だよ!」

「わはは、おめえは本当に嬉しい事ばかり言ってくれるぜ!」

「だって、本当の事だからね。

 今回のは特に、スープに少しだけ入ってた甘い味付けがよかったよ。

 ウーン、南瓜に似た味だったけど……、ディーキンが知らない食材なのかな?」

 

豪快に笑っていたマルトーの顔が、その一言でぎょっとしたように固まった。

 

(こ、こいつ……、俺がほんの僅か、隠し味として加えておいた南西瓜の粉末に気が付いたってのか!?)

 

別に、ディーキンが料理に関して何がしかの特別優れた技能を持っているというわけではない。

 

料理の技量面でいえば、ディーキンは特に最初の頃は食事に砂を混ぜシチューにネズミを入れと、他種族の料理の基本をまるきり弁えていなかった。

流石にその後ボスと旅を続けたりママの酒場で働いたりするうちに覚えて、今では人間が食べても普通に旨いと思える程度の食事は作れるようになっている。

とはいえ、それこそ魔法の助けでも借りない限り、マルトーのような一流の料理人とではまず比べるべくもないのは明らかだ。

 

これは単に、フェイルーンのドラゴンが優れた感覚能力を数多く備えており、味覚もそのひとつだというだけである。

特に識別能力が優れていて、真竜族はシチューを一口啜っただけでもそこに使われているすべての食材を言い当てることができると言われている。

そのため、多くのドラゴンは食事に対する選り好みが激しかったり、まだ見ぬ味に惹かれる美食家だったりするのだ。

例えば、邪悪な竜族の代表格として知られる赤竜(レッド・ドラゴン)が乙女の肉を好み、しばしば生贄を要求するという迷惑な習性もこのためなのである。

 

ディーキンの方はそんなマルトーの驚きをよそに、食後の紅茶をいただきながら次に何をしたものかと考え始めていた。

食堂の学生たちはおそらくまだ半分も食べていないだろうし、ルイズの食事が終わるまで大分時間がありそうだ。

 

しばしの思案の後に、これだけ美味しい食事をこれからずっと食べさせてくれるというのだから、そのお礼をちゃんとしておこうと決める。

とはいえ今更代金を払うなどというのは野暮だろうし、バードらしい礼と言えば……。

 

「ええと、ディーキンはあんたたちに食事のお礼をしたいんだけど。

 ディーキンはバードだから、少し時間をもらってよければ、何か芸をお見せするよ」

「ん、ああ……、いや、他の使い魔にも食事は出してるんだ、気にするこたあないぜ。

 おめえらの食事の代金もちゃんとここの貴族どもの学費に含まれてるし、俺たちはそこから給料をもらってるんだからよ」

「ンー、けど、そのお金を出してるのはルイズ、……の家の人、だよね。

 ディーキンはその人たちのことをまだよく知らないし、自分でも何かお礼をしたいんだよ。

 本当にすごくおいしかったし、お世話になって何もしないのは心苦しいからね」

「ははっ、本当にどこまでも行儀のいい奴だな!

 亜人に……、ああ、いや、すまねえ……、あんなわがままな貴族のガキどもの使い魔に、しとくのは勿体ねえぜ!」

 

マルトーは満面に笑みを浮かべながらがしがしとディーキンの頭を撫でた。

 

「そうだな、お前さんの芸とやらには興味があるし、お言葉に甘えて見せてもらうぜ。

 ……で、何をしてくれるんだい。コメディーか?」

 

微笑ましく遠巻きにやりとりを眺めていたシエスタら従業員も、ディーキンの申し出に興味を惹かれて周囲に集まってくる。

ディーキンは頭を撫でられて目を細めて笑いながら、ちょっと首を傾げた。

 

「お笑い? いや、お笑いもできるけど……、ディーキンはすごいコボルドのバードなの、この世にある全部の芸ができるよ!

 いや、まあ、断言はできないけど……、多分、少しはできるよ。

 今のところ、英雄とドラゴンの物語が一番の専門だよ。あと五行詩も好きだけど……、ちょっとウケが悪いんだよね」

 

ディーキンは実際のところ、《多彩なる芸能者》にして《なんでも屋》であり、極めて優れた【魅力】を持つ超一流のバードだ。

よくやるリュートの演奏や歌唱、詩吟などを始めとして、各種の演劇や舞踏、楽器演奏に、演武だってできる。

当然分野によって技量には大分差があるが、最低限どんな芸能であれ、プロとして人前で披露しても恥ずかしくないレベルでは演じられるはずだ。

その気になれば棒歌ロイドからポールダンスまで、何でもこなして見せる自信はある。

 

ただ、伝説のスカルドを目指して取り組んでいる五行詩や、あえて音程を外す前衛様式の歌といった一番気に入っているジャンルは、どうもウケが悪い。

本当ならそういったものを披露したいのだが……、多分歓迎されないだろう。

これまでにそれらの芸を高く評価してくれたのはボスとノーム達だけ、というのがディーキンにはいささか不満であった。

そういえばどこぞの異世界にも、ピアノ演奏は上手だが本当に好きなバイオリンの腕は酷評されている、風呂好きな少女がいるという話を聞いた覚えがある。

なお、ノームはコボルドにとっては不倶戴天の宿敵なのだが、ディーキンは寛容で前衛芸術に理解があり、面白い発明品を作る彼らにかなり好意的であった。

 

それと同じくらいかそれ以上に皆に聞かせて回りたいのが、ボスとの冒険譚であるが……。

今は少し余裕のある時間帯らしいが、きっともう少しすればデザートを配ったり空いた皿を下げて洗うなど、後片付けをしなくてはならないのだろう。

そうなると、冒険譚のような長い話をやる時間は残念ながらなさそうだ。

 

「ウーン、今回はあんまり時間が無さそうだね。

 じゃあ…有名な短い詩歌をディーキンがアレンジしたものを一曲ご披露するよ」

 

ディーキンは周囲にお辞儀するとリュートを取り出して静かな曲を奏で、それに合わせて歌い始める。

 

 

 

 

 あなたが暗い寒さに震えるとき

 たき火にはじける火花を見つめて

 瞳があなたを見守っている

 

 吹きつける風の中を歩きながら

 オオカミのうなり声を聞いて

 歌があなたに届く

 

 あなたが雪の中で迷ったとき

 ワシの飛ぶ高い空を見上げて

 星はあなたへ輝く

 

 あなたは見放されていない

 あなたは忘れられていない

 時にのまれることはない

 雪に埋もれる事もない

 

 本当の勇者が訪れるまで

 世界が暖かくなり神が微笑むまで

 私があなたと共にいるから

 

 ………

 

 

 

 

何やらキャンキャンと犬の鳴き声じみた響きの混じった、それ自体はお世辞にも美声とは言えない声だった。

だが、何故か深く優しく、心の奥にまで響いてくるような歌声と、リュートの音色。

所詮子どもの芸と期待もせずに興味本位で微笑ましげに見ていたマルトーらも、始まると魅入られたように一心に聞き入った。

 

シエスタもまた、驚いた顔でディーキンの歌う姿を見つめていた。

彼女は朝にディーキンの妙な鼻歌を聞いていたので、まあそのようなものだろうと思っていたのだ。

 

―――そうして、ディーキンが演奏を終えて御辞儀をすると、一瞬の静寂の後に騒々しい拍手喝采が沸き起こった。

 

そんな周囲の大歓声が予想外だったのかディーキンはしばし戸惑った様子をしていたが、じきに満面の笑みを浮かべて拍手喝采に礼を送って回る。

ちなみに厨房の壁は食堂に調理等の雑音が聞こえないように防音性が高く作られており、食堂の学生たちはこの小さな演奏会に気が付いていない。

 

皆と共に興奮に顔を赤らめて拍手を送っていたマルトーは、騒ぎが収まってくると今度はやや神妙な顔をしてディーキンと向かい合った。

 

「……なあ坊主、いやディーキン。

 俺はいろいろな貴族の下で働いた、お抱えの音楽家が演奏するところを何度も聞いたし、宮廷音楽家の演奏会に行ったこともあるんだ。

 だが、今のお前の演奏はそんなものとは比較にならねえ……、

 俺は音楽に関しては素人だが、職人として、そいつははっきりと分かる!

 ……お前は、すげえ奴だ。正直俺の料理の代金に、お前の演奏は払いすぎってもんだぜ」

 

ディーキンはマルトーの顔をじっと見上げて少し首を傾げると、リュートをしまいながら真顔で返事を返した。

 

「ねえ料理長の旦那、いやマルトーさん。

 ディーキンはこれまであちこちで歌ったけど、『チビのコボルド』の歌なんて、ろくに聞いてもらえないことがほとんどだったよ。

 正しく評価してくれる人のためならディーキンはいくらでも歌うし、代金は気持ち次第で構わないの。

 喜んでくれる人のために歌うのがバードだよ。旦那だって、きっと喜んでくれる人のためになら、タダでも食事を作るでしょ?」

 

これはディーキンの正直な気持ちである。

 

偏見なく受け入れられ正しく評価してもらえるということだけで望外の報酬、少なくともディーキンはそう思っている。

今回の演奏はあくまでお礼のつもりだったのに、これほど認めてもらえて、一体何の不満があろうか。

それに、彼の料理に自分の歌に見合うだけの価値がないなどともまったく思わない。

短い曲を一曲披露しただけで、銀貨を何枚も支払わなければ口にできないような食事を食べさせてもらって、どうして見合わないなどと思えようか。

 

「いや、俺にも職人としてのプライドがある。

 さっきの演奏を、貴族の残り物なんぞの代金扱いで済ませることはできねえ」

「ウーン……、じゃあ、どうするの?」

「それよ、いいかディーキン、お前がバードとやらなら俺は料理人だ。

 もらいすぎた代金は料理で返す!

 ……明日から楽しみにしてな、お前の演奏に見合うだけの料理を作ってみせるぜ。

 お前たちもいいな!『我らの詩人』のために!」

 

マルトーが呼びかけると、他の従業員たちも嬉しげに返事を唱和した。

 

「「『我らの詩人』のために!」」

 

ディーキンはあまりの盛り上がりに一瞬きょとんとしたが、すぐに満面の笑みを浮かべて椅子から立ち上がると周囲に会釈を送った。

 

「……オオ、いいの?

 あんたたちの料理がさっきの歌に見合わないなんて、ディーキンはぜんぜん思わないけど……。

 もしもっとすごい料理を作って食べさせてくれるのなら、それはすごく嬉しいよ。期待しておくね!」

 

遠慮して余り物だけでいいと頼んだが、どうやらルイズが保証した以上に、美味しいものにありつけそうだった。

 

「アア、でも無理はしないでね、ディーキンは迷惑にはなりたくないよ。

 ……そういえば、そろそろ仕事はいいの?」

 

それを聞いて、従業員らがはっと我に返った。

マルトーはディーキンにもう一度礼を言うと慌てて席を立ち、従業員に後片付けの指示を出していく。

シエスタも食堂へデザートを配ったり、空いた皿を下げに行くために、後輩の少女と一緒にあたふたと準備をし始めた。

 

そんな様子を見て、ディーキンは首を傾げる。

 

どうやら、予定よりずいぶんと長く歌に付き合わせてしまったらしい。

まあ時間を忘れていた彼らの責任といえばそうだろうが、歌ったのは自分だし、ルイズの食事が終わるまでまだ時間もあるだろうし……。

それにルイズに頼まれていた『雑用を魔法で』という注文に応えるために、考えておいた呪文の運用を試すいい機会でもある。

 

「ええと、時間が足りないのなら、ディーキンもシエスタたちの仕事を手伝うよ―――」

 




<芸能(Perform)>:
芸術表現やそれを用いた興行を行うための技能。関係能力値は【魅力】。
芸能は演芸、舞踏、打楽器、弦楽器、管楽器、歌唱、鍵盤楽器、詩吟、お笑い、演武などといった複数の専門分野に分かれている。
上演によって金を稼いだり、聴衆に感銘を与えてこちらへの態度をよくしようとすることなどに用いられる。
またバードが呪歌(まがうた)の能力を使用する際の判定にも用いられるため、この技能を伸ばしていないバードは皆無といってよい。
その芸の出来栄えは、技能判定でどれだけの難易度に成功したかによって異なる。

・難易度10
平均的な能力値で技能無しの人間が出せる期待値であり、つまりは全くの素人芸。これで金を取ろうとするのは基本的には物乞いである。

・難易度15
楽しめる上演。豊かな街で一日演奏すれば、宿に泊まって食事をできる程度の金は稼げるだろう。

・難易度20
素晴らしい上演。いずれはその地方で評判となり、プロの一座に加わるように声が掛かってもおかしくない。

・難易度25
記憶に残るほどの上演。時が経てばおそらく国中の評判となり、後援者となる貴族の目に留まるかも知れない。

・難易度30
際立って素晴らしい上演。遠方から後援者が名乗り出るだろうし、他次元界の偉大な存在の目に留まる事さえありえる。

ディーキンはレベルや能力値から見ておそらく50くらいは普通に出すと思われる。
ハルケギニア中探しても、彼より腕の立つ者はおそらくいないだろう。
しかし原作のNWNではディーキンの演奏は音程がずれているとか、詩や歌の評判はあまり芳しくない、といった描写がある。
本作は基本的にTRPG第3.5版のシステムに準拠しているが、それだとこのような原作中の描写とはかなり矛盾してしまう。
色々考えた結果、ディーキンは専門分野では間違いなく凄腕だが専門外の妙な前衛芸術がお気に入りで、折に触れて披露しようとするのだと解釈した。
ピアノの演奏は上手いのに殺人的に下手なバイオリンの方を好むしず○ちゃん、みたいなものだと思ってもらえればよいかと。

《多彩なる芸能者(Versatile Performer)》:
特技の一種。何らかの種類の<芸能>を5ランク以上持っていることが習得の前提条件である。
自分の【知力】修正値と同じ数(ただし最低でも1つ)の芸能分野を選び、所持している最高ランクの芸能と同じだけのランクを持っているものとして扱う。
例えば<芸能:弦楽器>しか持たない者がこの特技を取得して<芸能:歌唱>を選べば、リュートの演奏に合わせてそれと同等の技量で歌えるようになる。
また、このように複数の分野を合わせて上演した場合、判定値に+2のボーナスを得ることができる。

《なんでも屋(Jack of All Trades)》:
特技の一種。【知力】の値が13以上であることが習得の前提条件である。
この特技の所有者は、本来なら習得していなければ判定を試みる事すらできないものも含めて、ありとあらゆる技能判定を行えるようになる。
例えば、重要書類を<偽造>しようとしたり、自分に<自己催眠>を掛けようとしたり、<手先の早業>で簡単な手品やスリを試みたり、といった具合である。
扱いとしては、すべての技能を最低でも1/2ランク所持しているものと見なす。
通常は伸ばしていない技能で出せる判定値などたかが知れているが、D&D3.5版では能力値や技能判定を魔法やアイテムでブーストすることは比較的容易い。
そのため高レベルの冒険者ならば、これを取ればあらゆる技能判定を二流の専門家程度には引けを取らないレベルでこなす事も不可能ではなくなる。
ディーキンが先立ってやったこともない貴族の下着の洗濯をてきぱきとこなせたりしたのも、この特技の恩恵である。


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第十七話 Accident

 

「お、おい? ……あれって、先住魔法じゃないか?」

「何なんだ、どうして亜人がメイドの手伝いをしてるんだ……!?」

「あの子は確か、二年のヴァリエールが召喚した亜人よ……、朝もちょっと見かけたわ」

 

ディーキンの様子を遠目に窺いながら、生徒らがひそひそと小声で会話している。

そうして食堂中の注目を集めながら、ディーキンはまるで誰かに話しかけるように空中に向かっててきぱきと命令を出していた。

 

「えーと……。

 我と我が祖霊の名において契約したる見えざる従者たちよ、アー……、

 テーブルの上の、空いた皿を回収せよ……、

 あ、それとそっちの従者は、ケーキの皿を持っといてね」

 

その命令に応じて、自然に皿が空中に浮かびあがり、ふわふわと運ばれていく。

まるで見えない誰かが皿を持ち上げたかのようだ。

いや、実際にそうなのだ。

 

ディーキンの傍には現在多数の《見えざる従者(アンシーン・サーヴァント)》………の、影術版が従っている。

《影の召喚術(シャドウ・カンジュレーション)》を使い、《従者の群れ(サーヴァント・ホード)》という呪文を模倣して作ったものだ。

妙な命令の文句は、本から得た知識を元に先住魔法っぽい感じを演出しようと、ディーキンなりに工夫したものである。

 

ディーキンの冒険者仲間のナシーラ、ドロウの暗殺者にして練達のウィザードである彼女は、状況に応じて様々な呪文を巧みに活用する術を身に付けていた。

彼女からはディーキンも大いに学んだものであり、今回のような影術呪文の有効な使用法もそのひとつだ。

まあ、冒険中にこういう呪文を使うのは大抵当のナシーラの役だったし、ましてや冒険と関係ない雑用などをさせるために使ったのはこれが初めてだが。

 

シエスタともう一人のメイドは運ばれてきた皿からケーキを切り分けて配っていく。

普段はかさばって重たいたくさんの皿に苦労するものを、今日は代わりに運んでもらえて嬉しげである。

彼女らも、食堂の生徒達も、未知の魔法に対する戸惑いや恐怖は最初多少あったようだが、皿を運ぶだけで別段無害だと分かるとすぐに慣れたようだ。

 

 

「へえ、あれが先住の魔法なのね。

 たくさんの皿を別々に運んで……、この学園の精霊と契約でもしたのかしら。

 あの子はまったく、授業中からこっちを飽きさせないわねえ」

「…………」

 

キュルケも、他の生徒に混じってディーキンの働く姿を面白そうに見つめていた。

タバサはデザートをぱくぱくと平らげつつ、横目で興味深くディーキンの様子を見守りながら、キュルケの話には曖昧に頷き返す。

 

もちろんタバサは午前中にディーキンと話をしているので、彼の呪文が先住のそれとは違う事は既に聞いて知っている。

だが本人の許可もなく勝手に話していい事でもないと思ったので、キュルケにはなにも言わなかった。

まあ彼はキュルケのことも信頼しているようだし、もちろん自分も話しても問題はないと信じているが、それでも一応本人に確認はするのが筋だろう。

 

(あれも……風の力は使っていない)

 

手も触れずに物を宙に浮かべて移動させるとなるとハルケギニアの常識では風系統以外は考えにくい。

もしくはコモン・マジックの念力などだ。

 

しかし、今回もやはり風の動きは感じ取れなかった。

おまけに彼は見たところ最初に簡単な口語の命令を出しただけであとはそちらに注意を払ってもいないのに、複数の作業を同時にこなしている。

テーブルのあちこちから皿を取りあげて移動させたり、浮かべたまま保持したり……。

系統魔法では風にせよコモンにせよ、そんな作業を集中した様子もなくしかも複数同時に行うことはほとんど不可能である。

精霊を使役して作業に当たらせる先住魔法ならばそれも可能だろうが、彼は自分の呪文は系統魔法に近いもので、先住ではないといっていたし……。

 

(本当に、興味深い)

 

タバサは改めて、そう思った。

 

 

「こんにちは、ディーキンは注目してもらって嬉しいよ。

 ディーキンはコボルドのバードで、冒険者、今はルイズの使い魔もしてるの。

 ……アア、コボルドに見えない?

 よくそういわれるよ。きっとここのコボルドとディーキンとは、違う種類なんだと思うけど……」

 

当のディーキンは、“従者”に時折指示を出すだけなので手持無沙汰……、という事もなく。

皿を運ぶ傍ら、自分の噂話をしている生徒や教師らに挨拶をして回っていた。

最初は自分も皿を運ぼうかと思ったが、背が低すぎてかえって迷惑そうなので止めて、この機会に他人と交流を深めることにしたのだ。

注目を浴びたらそれに答えるのは、バードとしても当然の事である。

 

教師や生徒の中には戸惑いながらも挨拶を返したり、質問をするなど会話に応じてくれる者が大勢いた。

中には、ろくに返事をしない者や見下して鼻で笑う者も、もちろんいた。

 

ディーキンは言うまでもなく、そのどちらであれ上機嫌で対応していた。

コボルドだと言うだけで追い出されるか殺そうとされるのが当然のフェイルーンから見れば、嫌々でもとにかく存在を許容されるというだけで上々の扱い。

ましてや会話に応じてまっとうな相手として扱ってもらえるなど、望外の厚遇というほかない。

見下された程度で気分を害したりはしないし、特に好意的な対応をしてくれた相手の事は敬意と感謝の念を持ってしっかりと覚えておいた。

 

そうこうしているうちに、ルイズのいる二年生のテーブルのところまで給仕が進む。

午前中の授業での一件もあってか、この辺りの生徒らの大半には、ディーキンは特に好意的に受けいれられているようだった。

 

「ちょ、ちょっとディーキン……、さっきから一体何してるのよ?」

「見ての通り、ディーキンは食事を食べさせてもらったお礼にお手伝いをしてるの。

 はいルイズ、ケーキをどうぞ」

「食事をもらうくらい当然の権利じゃない、お礼なんて必要な……、

 いえ、ま、まあ悪い事でもないから、別にあんたの好きにすればいいけど!」

 

ルイズは最初、また無闇に目立って、と少しばかり腹を立てて文句を言いかけたが、ディーキンが首を傾げたのを見ると慌てて口を噤んだ。

そのまま続けたら、今朝キュルケと揉めた時のように、逆に意見される気がしたのだ。

あの時は別に責められたというわけでもなかったのだが……、なんというか、酷く居心地の悪い気分になった。

 

ルイズは頑固でプライドが高く、人に遠慮して自分の主張を引っ込めたりは滅多にしないタイプである。

少なくとも、クラスメートや平民の使用人などに対するときはそうだ。

だが、もちろん誰に対してもそうだというわけではない。

厳しい母親や父親、上の姉などに対するときには少なからず萎縮するし、優しい下の姉に対しては素直で甘えがちになる。

 

使い魔はメイジにとっては無二のパートナーなのだから、家族と同様特別な存在であって当然で、別段不思議はないといえばない。

正規の契約もしておらず、召喚してまだ丸一日も経っていないというのにもうそんな気分になるというのは不思議だったが……、事実なのだから仕方がない。

契約を結ばずとも使い魔と自分との間にそれほどの絆があるとしたら、それは嬉しい事に違いないのだし。

 

(……なんだか、主従の立場が逆なような気もするけど……。

 あの子の方は私のことを、一体どう思って見ているのかしら……)

 

ルイズはなんとも微妙な、ちょっとばかり拗ねたような気分になって、そんなとりとめのないことをぼんやりと考えた。

そして、ディーキンの仕事ぶりを眺めながら、ゆっくりとケーキを口に運んでいった。

 

 

ディーキンがしばらく給仕の手伝いや挨拶をして回っているうちに、奇異の目で眺めていた教師や生徒らも次第に状況に慣れてきたらしい。

二年生のテーブルでの和やかな様子を目にしたあたりで、彼らの大半はすっかり緊張を解いた。

そしてこの奇妙な亜人から視線を外すと、自分たちの雑談に戻っていった。

 

そんなことは関係なく、ディーキンは見えざる従者達を伴って、シエスタらと共に給仕を続けていく。

やがて、何やら一風変わった装いのメイジのところへやってきた。

金色の巻き髪にフリル付きのシャツを着た、なかなかに整った面立ちの少年で、薔薇を胸元のポケットに挿している。

ルイズと同じ二年生のテーブルについているが、他の生徒達とやや服装が違うのと、仕草が変わっているために少しばかり周囲から浮いていた。

 

この人は確か、授業中に教師からミスタ・グラモンと呼ばれていた土系統のメイジだったなと、ディーキンは思い出した。

 

胸元に挿してある薔薇は、演習の時に彼が手に持って振っていたことから察するに恐らく変則的な形状をしたメイジ用の杖だろう。

先程は彼も他の生徒と同様ディーキンの方に興味の目を向けていたようだったが、じきに慣れて興味を失ったらしい。

今ではディーキンには目もくれず、周囲の友人たちとの雑談に花を咲かせている。

 

「なあ、ギーシュ! お前、今は誰とつきあっているんだよ?」

「そうだよ、誰が恋人なんだ? ギーシュ!」

 

どうやらミスタ・グラモンにはギーシュという名前もあるらしい。

するとフルネームはギーシュ・グラモンだろうか?

いや、ルイズやキュルケの例から察するに、他にもごてごてした言葉がくっついたもっと長い名前かも知れない。

 

そんなことを考えつつ、ディーキンは彼らの席の空いた皿を従者に回収させてはケーキを置いていった。

午前の授業中にもう名前は覚えてもらっただろうし、会話の邪魔をするのも迷惑だろうと考えて声はかけずに、軽く会釈するだけに留める。

ギーシュはそれに気付きもせず、友人の質問にもったいぶって芝居がかった返答を返した。

 

「つきあう? 僕にそのような特定の女性はいないのだよ。薔薇は多くの人を楽しませるために咲くのだからね」

 

何やら、えらく自分に陶酔しているようだ。

ディーキンにはその姿がまるで安っぽい舞台で自分をアピールするのに夢中な駆け出しのバードのように見えて、内心軽く苦笑した。

 

(………ン?)

 

その場を立ち去ろうとしたちょうどそのとき、ディーキンはギーシュのポケットから何か落ちたのに気付く。

中に紫色の液体が入った硝子の小瓶だ。ポーションかオイルの類だろうか?

いや、あるいはフェイルーンでは見られない、変わったマジックアイテムかも知れない。

 

一瞬正体を調べてみたい誘惑に駆られたが、今は仕事中でゆっくりそんなことをしている時間はない。

第一、他人のものを許可もなく調べ回すなど失礼だろう。

ディーキンはちょっと屈んで小瓶を拾うと、ギーシュの服の裾を引っ張った。

 

「ええと……、ギーシュさん?

 あんたのポケットからこれが落ちたよ?」

 

ギーシュはしかし、そちらを顧みることなく、無視して友人たちと話し続けた。

ディーキンはそれを見て、少し不思議そうに首を傾げる。

 

今、この少年は会話に夢中で気付かなかったのではない。

確かに一瞬だがこちらの方に視線を向け、僅かに困った様子で顔を顰めた。

その上で今、気付かぬふりをしているのだ。

 

そこまでは気付いたものの、それが何故なのかは流石に分からなかった。

何かこの瓶を持っていたことが知れるとまずい理由でもあるのだろうか……、まさかとは思うが、盗品の類とか?

流石にそこまでは何とも判断がつかないが、この瓶をどう扱うのがいいだろうかと、ディーキンは少し考え込む。

 

だが、すぐにそんな思案は無用になった。

 

「あの、グラモン様……。ポケットから、瓶が落ちましたよ?」

 

その様子を見ていたシエスタが、ギーシュが話に夢中で気付かなかったのだろうと判断し。

ディーキンの傍に屈んでそっと瓶を取ると、そう言って机に置いたからだ。

 

ギーシュは苦々しげにシエスタを見つめると、その小瓶を押しやった。

友人たちも気付いてそちらの方に注意を向けてしまったため、無視し続けるわけにもいかなくなったのだ。

 

「これは僕のじゃない。君は何を言っているんだね?」

「え? ですが、私は確かに落ちるところを……」

 

そうこうしているうちに、ギーシュの友人たちが小瓶の出所に気付く。

 

「……おっ!? その香水はもしかして、モンモランシーの作った物じゃないのか?」

「そうだ! その鮮やかな紫色は間違いない。

 モンモランシーが自分のためだけに調合しているはずの、自慢の香水だ!」

「そいつがお前のポケットから落ちてきたってことは、つまり……、

 お前は今、モンモランシーとつきあっているんだな!?」

 

(ふうん……、つまり、付き合ってる人の事を知られたくなかったのかな?)

 

ディーキンは納得したような困惑したような、微妙な気分で目をしばたたかせた。

 

彼が無視を決め込んだ理由はどうやら、付き合っている女性との関係を知られたくなかったためらしいが……。

人間、特に若い人間がそう言ったことに気恥ずかしさを感じて隠したがる場合が多い、ということはいろいろな物語などを読んでちゃんと知っている。

とはいえ理屈はまあ分かっているが、感情的には今ひとつ理解できない。

 

コボルドの雌雄は、そんな微妙な感情の機微を弄ぶような付き合い方は滅多にしないのである。

最初はそう言った物語を読んでも、一体何をやきもきしたり顔を赤くしたりしているのか理解できず、仲間たちにいろいろ尋ねたりしたものだ。

 

関係を誇って、触れて回るのなら、慎みはないかもしれないがまだしも理解はできる。だが隠す必要がどこにあるというのだろう?

深く愛せる、素晴らしいと思える相手なら、関係を知られることをどうして恥じる必要がある?

そんな態度を取ること自体、好きになった相手に失礼じゃないのか?

……と、ディーキンには思えるのだ。

 

それはさておき、ギーシュは友人たちに問い詰められてしどろもどろに反論している。

 

「ち、違う。いいかい、彼女の名誉のために言っておくが……」

 

そのとき、後ろの一年生たちのテーブルに座っていた茶色のマントの少女が立ち上がり、ギーシュの席に向かって歩いてきた。

栗色の髪をした可愛い少女だったが、今にも泣きそうな顔をしている。

 

いや、ギーシュの元まで来ると、本当にボロボロと涙をこぼしはじめた。

そして嗚咽交じりにギーシュを睨み、問い詰める。

 

「ギーシュさま……っ、や、やっぱり、ミス・モンモランシーと……」

「い、いや……、彼らは誤解しているんだよ!

 いいかい、ケティ、僕の心の中に住んでいるのは君だけ……」

 

さっきは薔薇はみんなのために咲くとかなんとか言ってたけど、とディーキンは内心で肩を竦めた。

知らん顔を決め込んだのは、彼女との関係を隠したかっただけではなく二股がばれるのを怖れたためでもあったらしい。

 

それにしても、実に下手な<交渉>である。

あれじゃ説得は無理だろうね……、とディーキンが思っていると。

案の定、話し合いはあっさりと決裂し、ギーシュはケティとかいう少女に思い切り頬を引っ叩かれた。

 

「その香水があなたのポケットから出てきたのが、何よりの証拠ですわ……!

 もう知りません、さようなら!」

 

だがギーシュの災難は、それだけに留まらなかった。

 

ケティが泣きながら去っていくと、今度は二年生のテーブルの遠くの席から、一人の見事な巻き髪の女の子が立ち上がった。

ディーキンの記憶によれば、確か彼女は先程の話題に出てきたモンモランシーという名前の少女だったはずだ。

彼女は先程の少女とは違って気丈な性質らしく、ひどく険しい顔つきで、靴音も高くギーシュの席までやってきた。

 

「モ、モンモランシー、誤解だ!

 か、彼女とはただ、一緒にラ・ロシェールの森へ遠乗りをしただけ……」

 

ギーシュは首を振りながら必死に冷静な態度を装おうとしたが、その顔色と額を伝う汗がその努力を台無しにしていた。

 

「……やっぱり、あの一年生に手を出していたのね……?」

「お、お願いだよ、『香水』のモンモランシー。

 咲き誇る薔薇のような顔を、そのような怒りでゆがませないでくれよ。

 僕まで悲しくなるじゃないか!」

 

モンモランシーは無言でその台詞を聞き流すと、テーブルに置かれたワインの瓶を掴んで、中身を全てギーシュの頭に注いだ。

それが済むと空になった瓶をテーブルに放りだし、そのまま一言も言わずに肩を怒らせて去っていった。

 

気まずい沈黙が場を包む。

が、当のギーシュはハンカチを取り出して顔を拭くと、首を振りつつ芝居がかった仕草で言った。

 

「やれやれ、あのレディたちは、薔薇の存在の意味を理解していないようだ」

 

―――当然のように、周囲から白い目線が向けられた。

ディーキンは肩を竦めると、呆気にとられているシエスタらを促して仕事を再開しようとする。

 

しかし、それにギーシュが目をつけた。

 

「君たち、待ちたまえ」

「……ン? 何かディーキンたちに用があるの?」

 

ディーキンらが立ち止まると、ギーシュは椅子の上で体を回転させ、さっと足を組む。

 

……空回り気味ではあるが、ひとつひとつの仕草がいちいち気取って芝居がかった少年である。

もしかして才能を磨けば、将来はいい芸人かバードになれるかも知れないな……と、ディーキンは小さく首を傾げた。

 

「そこのメイド君、君が軽率に香水の瓶などを拾い上げたおかげで、二人のレディの名誉が傷ついた。

 どうしてくれるんだね?」

 

ギーシュはシエスタの方を睨んでそう言った。

 

「……え……?」

 

シエスタは突然の言いがかりに困惑し、次に自分が思いがけない災難に巻き込まれたと悟って、さっと顔を青ざめさせる。

 

「いいかい、メイド君。

 僕は君があの香水の瓶をテーブルに置いたときに、彼女たちのためにちゃんと知らないフリをしたんだ。

 使用人なら状況を察して、間を合わせるぐらいの機転があってもいいだろう?」

「そ、それは………、」

 

シエスタの青ざめた顔に、今度はさっと赤みが差した。そのまま俯いて、悔しげにぐっと顔をしかめて黙り込む。

不条理な物言いに反論したい怒りの気持ちと、貴族に逆らうべきではない、謝って事態をやり過ごしたいという規律感や怯えとの板挟みになっているようだ。

 

もう一人のメイドは怯えて萎縮した様子で、シエスタに援護の口出しをするのは無理そうである。

周囲の生徒らは、おおむねギーシュを非難の目で見る者、事態を面白そうに見ている者、そして全く関心がない者、に分けられる。

今のところは、直接口を出す気がある者はいなさそうだった。

 

ディーキンはそれらの状況を確認してまた少し首を傾げると、口を開いた。

 

「……アー、ええと……、ギーシュさん?」

「む? ……なんだね、ルイズの使い魔君。僕は今このメイドと話をしているのだ、君は関係ない」

「いや、そうでもないと思うの。

 だって、その瓶を最初に拾ってあんたに渡そうとしたのはディーキンだからね」

 

ギーシュはそれを聞いて一瞬怪訝そうに眉を顰めたが、すぐに事の顛末を思い出して鼻を鳴らした。

シエスタの方は、話に割って入ったディーキンを驚いた様子で見つめている。

 

「ふん……、ああ、そうだったね。

 それを拾って、不作法にも会話の途中に僕の服を引っ張ってまで渡そうとしてきたのは君の方だったか?

 そのメイドは君の意を汲んで、僕に瓶を差し出した、ってわけだ」

 

ディーキンはウンウンと頷く。

ギーシュは少し考え込むと、足を組んだままくるりとディーキンの方に向きを変えた。

 

いささか不実な面もあるとはいえ、ギーシュは一応、自分を女性を守る薔薇だと自負している男。

平民とはいえ見目麗しい少女よりは、出しゃばって給仕の真似事をしていたこの使い魔に責任を負わせて体面を取り繕う方がいいと考えたのだ。

 

「そうだな……、確かに。

 元はと言えば君が本来メイドのするはずの仕事にでしゃばって、不作法な渡し方をしたことに問題があったんだ!

 使い魔なら使い魔らしく、主人の傍にいればいいものを……どうしてくれる?」

 

ディーキンはその言葉に軽く首を傾げると、じっとギーシュの方を見つめた。

この少年は軽薄そうだが、授業中などのこれまでの様子を見た限りでは(まあ、そんなに注目してはいなかったが)根はそう悪くない人物に思える。

ならば無闇に刺激しないようゆっくりと理を説けば、<交渉>をまとめる事は充分にできるだろう。

話をどう運ぶか、頭の中で手早く考えをまとめながら口を開こうとする。

 

だが、そこでまたしてもシエスタが割って入った。

 

「お、お待ちください!」

 

……どうもさっきから、悪いタイミングでシエスタが動く。

ディーキンは開きかけた口を閉じると、少し困ったように顔を顰めてシエスタの方を向き……、

驚いて、軽く目を見開いた。

 

「オ……?」

 

つい先程まで、シエスタは怯えて青ざめ、体を震わせていた。

自分の不実を棚に上げた言いがかりに対する怒りも見て取れたが、それを堂々と口に出す勇気はない様子で。

理不尽でも使用人としての立場から規律に従い、じっと災難に耐えようとしていた、臆病で従順な少女としか見えなかった。

 

それが今は、まるで違う。

 

いや、今でも怯えているのは変わらないし、体も少し震えている。

だがその恐怖を懸命に押さえつけ、毅然としてギーシュの顔を正面から見据えている。

恐怖に青ざめながらも、不正に立ち向かおうとする意志がその顔から見て取れた。

 

ディーキンはそんな顔をよく知っている。

パラディンである“ボス”や、旅の最中に知り合った幾人かの高貴な天上界の来訪者たちが、悪と対峙した時に浮かべる顔。

彼らとは比べようもないほど未熟な姿ではあるが、それでも彼女からは一度それを知った者ならば決して間違えようのない、あの高貴さが滲み出ていた。

 

この世のものではない―――天上の高貴さが。

 

(やっぱり、シエスタは……)

 

一方、そんな気配など感じ取れるわけもないギーシュは、話を遮られて不機嫌そうに彼女の方を一瞥する。

そして、追い払うように軽く手を振った。

 

「……なんだね、メイド君。

 君の非はこの使い魔君に気を利かせたつもりだったということで大目に見よう。

 もういいから仕事に戻りたまえ」

「っ……、そ、そんな訳には、いきません!

 ディーキンさんには何の非もない事です……、そ、その瓶をお、お渡ししたのは、私ですから!」

 

シエスタは青ざめて体を震わせながらも、勇気を振り絞るようにしてそう言った。

ギーシュは一介の使用人が自分に反論したことに少したじろいだ様子を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻すと、蔑んだような目を向ける。

 

「はあ……? いまさら何を言っているんだね。僕の話を聞いていたのかい?

 いいか、彼は本来する必要のない給仕の真似事などをして、僕とあの女性たちに対して不作法を働いたんだよ」

「……~~!」

 

ギーシュの返答を聞いたシエスタは一瞬、悔しそうに表情を歪めて俯いたが……、

すぐに顔を上げると、はっきりと怒りのこもった目でギーシュを睨んだ。

 

「それは、……違います!」

「……何だと?」

「ディーキンさんは、私たちに食事を食べさせてもらったお礼だといって、仕事を手伝ってくださっているんです。

 料理長や他のみんなの許可だって取っています、何も悪い事なんかしていません!」

「なっ……!?」

「それに、あなたの落とし物を拾って渡そうとしたことだって、善意からではありませんか!

 自分の不実さから招いた災難の責任を押し付けるために、何の非もない善意の人を悪者に仕立て上げようとするなんて!

 あなたのほうこそ、先程のお二方に謝るべきです!」

 

ギーシュはひどく困惑した。

まさか一介の使用人風情が、こうも公然と貴族を非難してくるとは。

 

さっきまではただ怯えて自分の非を詫びるばかりだったというのに、何故?

黙っていれば矛先が変わって、無事に罪を免れられるはずだったのに、どうして?

 

そんなギーシュの困惑をよそに、周囲の生徒たちはどっと笑った。

 

「そのとおりだギーシュ! お前が悪い!」

「平民のメイドにまでいわれるなんて、情けない奴だな!」

 

それを聞いて、戸惑った表情を浮かべていたギーシュの顔にさっと赤みが差した。

理由はわからないが、いくらレディーといえども平民にこんな態度を取られ、大勢の前で恥をかかされて黙っているわけにはいかない。

 

「……どうやら、君は貴族に対する礼を知らないようだな。

 ここまで侮辱されたからには、たとえ女性といえど、容赦するわけにはいかない」

 

ギーシュはゆっくりと立ち上がると胸元の薔薇を手に取り、シエスタの方に向けた。

 

「君に、礼儀を教えてやろう。

 そのケーキを配り終わったら、ヴェストリの広場まで来たまえ!」

 





アンシーン・サーヴァント
Unseen Servant /見えざる従者
系統:召喚術(創造); 1レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(糸切れと木片)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に1時間
 術者は目に見えず姿形も精神も持たぬ力場から成る従者を作り出す。
従者は術者の命令に従って荷物の運搬や掃除、繕い物などの単純な作業を行える。
この従者の筋力は2(平均的な人間の筋力は10~11程度)で、最大20ポンドまでの重量を持ち上げたり、100ポンドまでの重量を押し引きできる。
移動速度は通常移動で毎ラウンド15フィート(平均的な人間は30フィート)であり、実体を持たないので空中を移動することも可能。
この従者は攻撃は行えず、また範囲攻撃から6ポイント以上ダメージを負ったり、術者の現在位置から見て呪文の距離外に送り出そうとすると消えてしまう。

サーヴァント・ホード
Servant Horde /従者の群れ
系統:召喚術(創造); 3レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(小さな交差した棒に紐を何本も結んだもの)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に1時間
 術者はアンシーン・サーヴァントと同様の従者を、2d6+術者レベル毎に1(最大15)体まで同時に作り出す。
バードの呪文リストには含まれていないが、シャドウ・カンジュレーションで効果模倣はできる。
ディーキンは1度の使用で平均22体従者を作り出すことができ、朝起きた時に詠唱すれば夜寝る時にもまだ効果が続いているほど持続時間も長い。

シャドウ・カンジュレーション
Shadow Conjuration /影の召喚術
系統:幻術(操影); 4レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:本文参照
持続時間:本文参照
 術者は物質界に併存する複製めいた世界、影界から影の物質を引き出し、それを使って物体や力場、クリーチャーなどの半ば実在する幻を生み出す。
シャドウ・カンジュレーションはウィザード/ソーサラーの3レベル以下の任意の召喚術(ただし招来または創造の呪文のみ)の効果を模倣する。
影が本物であると信じた者、意志セーヴによる看破に失敗した者に対しては、模倣した呪文は本物と全く同等の効果を及ぼせる。
意志セーヴによる看破に成功した者や、意思を持たない物体に対しては、本物の2割の効果しかない。
ダメージを与える呪文であればその威力は5分の1になり、ダメージを及ぼさない効果は20%の確率でしか働かない。
また、この呪文で作られたクリーチャーは、看破の成否にかかわらず本物の5分の1のヒットポイントしか持っていない。
看破に成功した者には、シャドウ・カンジュレーションはぼんやりとした形で希薄な影の上に透き通ったイメージが重ねあわせられているかのように見える。
 コストパフォーマンスは良くはないものの、呪文のレパートリーを疑似的にだが大量に増やすことのできる、ちょっとした万能呪文である。


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第十八話 Hero

 

 ヴェストリの広場で礼儀を教える……。

 それはつまり、形式的には決闘を挑むということ―――実質的には、無礼を働いた平民を決闘という形で打ちのめし、罰を与えるという事を意味していた。

 

 ギーシュは不本意そうな仏頂面で身を翻すと、食堂から去っていった。

 何も、こんな展開を望んでいたわけではない。

 平民のメイドやルイズの使い魔をとがめたのは、何とか少しでも責任を余所に負わせて、多少なりとも面目を回復したかったため。

 決して憂さ晴らしに平民を虐めようとかそんなつもりはなかったし、ましてや相手が女性ならなおさらのことだ。

 だが、まさか平民のメイドから非難し返されるなどとは思ってもみなかった。

 こうまで体面と名誉を傷つけられては、今更黙って引き下がるわけにはいかない。

 

 彼の友人たちをはじめ、思いがけぬ余興を期待する多くの生徒らがわくわくした顔で立ち上がり、その後を追って行く。

 興味を示さず食堂に残った者の中には、馬鹿な真似を、と冷たい蔑みや嘲りの表情を浮かべる者もいれば、シエスタに同情するような目を向ける者もいた。

 

「せ、先輩……、なんで、あんなことを………」

 

 シエスタと共に給仕をしていた後輩のメイドは、顔を青ざめさせてがたがた震えながらそう言うと、逃げるように走り去っていった。

 黙ってそれを見送ったシエスタは、俯いて軽く唇を噛む。

 彼女はその後、落ち着いたしっかりした足取りでケーキを配り終えると、準備を整えるために一度自室へ戻ると断って食堂をでていった。

 

 ディーキンは少し離れたところから、じっとその一部始終を見つめていた―――。

 

 

「ルイズ、ちょっといい?」

「何よ? ……見てたわよ、あんたと一緒にいたあのメイド、貴族に決闘を挑まれるなんてね。大方ギーシュが悪いみたいだけど、平民がメイジと決闘なんかして勝てるはずがないわ。あんたも口添えして、謝るようにいってあげればよかったのに……」

 

 ルイズは感心しないといったふうに少し眉を顰めて、近寄ってきたディーキンの方を見た。

 一方ディーキンは、その言葉を聞くとまばたきをして首を傾ける。

 

「ええと……、決闘? あのギーシュって人が何とかの広場へ来いって言ってたのは、その事なの? 怒ってて、何かシエスタにするつもりみたいなのは分かったけど」

「ああ……、そういえば、あんたには分からなくて当然ね。ヴェストリの広場っていうのは『風』と『火』の塔の間にある西の方の中庭よ。日があまり差さなくて広いから、決闘するのにはうってつけの場所ね。まあ、決闘は禁止されてるから、実際に使ったことがあるわけじゃないんだけど。そんな場所に呼び出すってことは、決闘の名目であの子を嬲りものにしてやろうってつもりでしょ。まったく、いくら引っ込みがつかなくなったからって禁止されてる決闘を、それも平民に吹っかけるなんて……」

 

 怒ったような顔でぶつぶつと呟くルイズをよそに、ディーキンは考え込んだ。

 

「ええと……、もう少し聞いていい? その決闘っていうのは、どういうものなのかな。ディーキンのいたところでは、メイジの決闘っていうと普通は魔法でするものだと思うんだけど……。シエスタは、その、多分……、魔法は使えない、よね?」

 

 フェイルーンでもメイジ同士の決闘は決して珍しいものではない。

 メイジは概して己の秘術の力に多大な誇りを持っており、それを誇示するため、あるいはライバルに差をつけるためなど、様々な理由で決闘を行う。

 それが素晴らしい力を持つ数々の魔法を華々しくぶつけあう“魔法決闘”だ。

 

 だがシエスタは、まあ……、メイジではないだろうし。

 一体メイジと非メイジとの間でどのような勝負をしようというのだろうか?

 

 メイジが戦士などの非メイジと決闘するというのは、フェイルーンではあまり一般的ではない。

 もちろん実戦で殺し合う事は頻繁にあるが、公開決闘には見物人を楽しませるという意味も多分にある。

 そして戦士とメイジの決闘など、大抵は見ていてあまり面白いものではないのだ。

 

 メイジ同士の決闘ならば、凄まじい魔法が飛び交う、驚嘆すべき戦いが見物人を魅了するだろう。

 戦士同士の決闘ならば、人の限界に挑戦するかのような力や芸術的な域にまで高められた技巧のぶつかり合いに、見物人は賞賛の声を送るだろう。

 だが戦士とメイジの決闘というのは、どちらが勝つにせよ、往々にしてあっけない一方的な決着になってしまうのだ。

 遠距離から魔法で手も足も出せないうちに戦士が倒されるか、懐に潜りこまれたメイジが抵抗する術もなく打ち倒されるか、といった具合に。

 

 そう言う戦いでも楽しめるという者は無論いるだろうが、メイジ同士、戦士同士での決闘と比べると、やはり華に欠ける。

 とはいえ周囲の生徒らは随分盛り上がっていたようだし、学生の身では決闘というだけで充分刺激的な見世物なのかもしれないが……。

 

「そりゃそうよ。貴族崩れでもないただの平民に魔法が使えるわけないでしょ。こっちでだってメイジと平民が決闘なんて普通ないわよ、まともな決闘になるわけがないもの。ギーシュは多分、あのメイドを少し痛めつけて、謝らせて終わる気じゃないかしら?」

「フウン……、そうなの? それは、確かにあんまりよくないね……」

 

 ディーキンは少し腑に落ちないというように、また少し首を傾げた。

 

 フェイルーンでは、必ずしもメイジと非メイジでは勝負にならないと決まったものでもない。

 メイジ側が万全の備えをして、常に最善手を打てば戦士側の勝ち目は薄いだろう。

 だが、実戦においては、特に経験や思慮の浅い者では、なかなかそうもいかないものだ。

 

 レベルで大きく勝る戦士がメイジと戦えば普通に戦士が勝つし、実力が近くても、さほどレベルの高くない者同士の勝負では往々にしてそうなる。

 高レベルの戦いにおいて呪文の力の有無は致命的に大きいが、生半な腕前ならば戦士がメイジをあっさりと斬り伏せてしまうことも決して珍しくはない。

 まあシエスタが戦士といえるかどうかは微妙だし、戦士でもない一般人ではまず勝ち目はない、というのは確かだが。

 

 ともかく、ルイズの考えが正しければ、あのギーシュという少年はシエスタを一方的に叩きのめして力づくで謝罪を引き出そうとしているらしい。

 そうであるのならば、やはり放っておくわけにはいかないだろう。

 

「教えてくれてどうもありがとう、ルイズ。それなら、ディーキンはちょっとシエスタのところに行ってくるね」

 

 

 シエスタは、自室へ戻ると棚からしまっておいた武具の類をひっぱり出していた。

 

 普段から護身と雑用を兼ねて持ち歩いている果物ナイフと、もう少し大きめのダガーが、それぞれ一本ずつ。

 主に炊き付けの枝を切ったりするのに使用しているハンドアックスが一本。

 帰省などで野外を旅する際に身に帯びる、普段は鉈として使っているククリが一振り。

 同じく野外を旅する際に狩猟用に使うライト・クロスボウ1つと、そのボルトが2ダースあまり。

 そして油で煮て硬化させた革で作った、レザー・アーマーが一着。

 

 これらが現在、彼女の持つ武具と呼べそうなもののすべてだった。

 傭兵でもない一介の平民としては、まあそれなりに備えがある方だと言えよう。

 

 だが、ではこれでメイジ相手に戦えるのかと問われれば……。

 相手の技量にもよるが、控えめに言っても『かなり分が悪い』だろう。

 シエスタは大概の武器や防具の扱い方は一通り身に付けているが、聖騎士であった曾祖母や軍人であったという曽祖父とは違う。

 彼女は所詮は一介の使用人であって、戦士ではない。狩りの経験くらいはあるが、そこらの平凡な傭兵と一対一で戦って勝てるかも怪しい。

 

 一方メイジは、腕利きなら一個小隊程度の傭兵を単身で相手取っても勝てるほど強い。

 そこそこの技量しかない者であっても、不意を打たれない限り一人や二人の傭兵にはまず負けはしない。

 

「うう………」

 

 確か、相手のギーシュという少年はド・グラモン家の三男で……、父親は元帥だと聞いている。

 それだけ家柄の良い貴族の子息ならば当然それなりに魔法の腕は立つだろうし、実戦経験はさておいても戦い方を学んだことくらいはあるだろう。

 

 おそらく、いや、十中八九、勝てない。

 

「……ど、どうしよう……」

 

 顔が青ざめ、手が震えて鎧を上手く着込めない。

 先程の食堂では、義憤に駆られるあまり恐怖を忘れていた。

 だが、こうして一人になって興奮が冷め、改めて冷静に考えてみると、とんでもないことになってしまった。

 

 今からでも、謝ろうか?

 いや、不正に頭を下げるなど、そんな正しくないことは絶対にできない。

 けれど、最後まで謝らずに戦い続けたら……、頭に血が上ったあの少年に、もしかして本当に、殺されてしまうかも……。

 

「………っ!」

 

 最悪の末路を想像して、シエスタは一瞬気が遠くなった。

 鎧を着込みかけたまま体を縮こまらせると、部屋の真ん中でがたがたと震えだす。

 

 その時扉がコンコンとノックされて、シエスタはハッと体を起こした。

 あの少年の友人が、早く決闘に来いと急かしに来たのだろうか。

 

 もう、ぐずぐずと嘆いている時ではない。

 この上は自分の正当を最後まで主張し、正しい者に神の御加護があることを信じよう。

 シエスタはそう、腹をくくった。

 

「……すぐに行きます、貴族様。今準備をしているところですから、あと一分も待って頂ければ―――」

 

 しかし、帰ってきた返事は予想とは違っていた。

 

「ディーキンは別に貴族じゃないよ」

「……! ディ、ディーキンさん?」

 

 実は食堂にはちゃんとギーシュの友人が一人見張りとして残っていたが、あえてシエスタの後を追おうとはしていなかった。

 シエスタが出ていくとき、彼はこのメイドは逃げるか、先に食事を終えて出ていった学院長か誰か責任者に訴えて助けてもらう気だろう、と踏んでいた。

 だが食堂でシエスタの怯えず堂々と振る舞う姿を見ているうちに感嘆や同情の念が湧き起こってきて、あえて見逃してやるつもりだったのだ。

 

 勘違いに対する気恥ずかしさと安堵とで、シエスタの少し頬に赤みが戻る。

 服を整え直して扉を開けると、そこにはリュートを手にしたディーキンが立っていた。

 

 ディーキンは室内に入ると、シエスタの着かけていた鎧を見つめ、それから床に置かれた武器類を見た。

 

「アア、準備の邪魔をしたみたいで申し訳ないの。ええと、ルイズに聞いたんだけど……、シエスタはこれから、あのギーシュって人と決闘するんだよね?」

「……はい。グラモン様は礼儀を教えてやるといっておられましたが……、たぶん、そうなるかと思います」

 

 ディーキンはそれを聞くとちょっと首を傾げて、シエスタの所持する品々について考えを巡らせた。

 

 手入れはしっかりしてあるようだが、自分が初めてボスについて行った時に持っていたのと大差ないような、貧相な武具の品揃えだ。

 いや、自分は主人のタイモファラールに貰った魔法の武具や道具なども少しは持っていたから、むしろそれよりも劣るか。

 この程度の備えしかないということは、やはりシエスタは特に戦士として訓練されているわけではなさそうだ。

 

 ハルケギニアではどうか知らないが、フェイルーンでは一般的に腕の立つ戦士は、武装も相応に優れたものを保有している。

 ワイヴァーンと一対一で戦えるほどの腕を持つ戦士が、魔法の武器や鎧を全く持っていないなどということは、まず考えられない。

 しかるにシエスタが用意している武具は、どれもこれも魔法の武器どころか高品質の武器でさえなく、両手剣などの高価な軍用武器も含まれていない。

 実戦で戦うにはいかにも頼りない、不十分極まりない代物だった。

 

 それにフェイルーンの戦士は武器や防具だけではなく、それ以外のマジックアイテム類も多々所有しているのが普通だ。

 高レベルの冒険者なら、小国の金庫の中身にすら匹敵しようかというほどの額の装備品を持ち歩いている場合すらある。

 なのにシエスタの準備しているものの中には、ポーションの一本すら含まれていないではないか。

 

「ええと。それで、シエスタはあのギーシュって人に勝てると思うの?」

「……そ、それは……」

 

 シエスタは口篭もりながら、少し目を逸らした。

 やはりシエスタ自身も、決闘をしてもまず勝てないと考えているようだ。

 

「……ねえシエスタ、よかったらディーキンが代わりにその、決闘っていうのを受けようか? これでもディーキンはすごく……、いや割と……、まあたぶん、その、ちょっとは強いと思うからね!」

 

 ディーキンは一応、提案してみた。

 それを聞いたシエスタが、はっと顔を上げる。

 その表情には、ディーキンの申し出を歓迎したり、安堵したりしている様子は少しもない。

 それどころか、先程までは必死に押し隠そうとしていた恐怖の色が、あからさまに浮かんでいた。

 

「い、いけません、そんなこと! ディーキンさんに、迷惑はかけられません! あの方を非難したのは私です、決闘するというのなら私が受けます! その、私……、もしディーキンさんが見ていて、応援してくれたら、きっと勝てると思います。だからどうか、心配しないでください」

 

 シエスタは必死な様子でそう言うと、無理矢理に笑顔を浮かべた。

 その顔をじっと見つめて、ディーキンも笑みを返した。

 

 そもそも彼女は自分を庇うために話に割って入り、そして決闘の申し出を受けたのだ。

 今朝知り合ったばかりの、このちっぽけな得体の知れない亜人を。

 交代を提案しても、たとえ本当は恐ろしくてたまらないにしても、彼女はきっと受け容れないだろうとは最初から思っていた。

 

 それに自分も、実を言えばこうなってしまった以上は、もうシエスタが戦うのが一番いいかも知れないと考えている。

 自分が代わって戦って勝っても、あるいは何とかしてギーシュやシエスタを言いくるめて事を収めても、それではシエスタの『名誉』を守れない。

 所詮は平民だ、土壇場で怖気づいて使い魔の亜人に助けてもらったのだ、などと言われて嘲笑されるだろう。

 

 何よりも、彼女のような女性が非もなく嗤いものにされるなど不愉快である。

 少なくとも自分はそうだし、ボスだってきっと同じように考えるだろう。

 自分の見出した“英雄”の凄さを皆に伝えたい、分かってもらいたいと渇望することは、バードとしても当然の性だ。

 

「アア、わかったの。決闘を代わって欲しいとは言わないよ。確かにそれはシエスタが受けたものだし、ギーシュって人もディーキンが代わるんじゃ納得できないだろうからね。だけどディーキンにも、どうか英雄のお手伝いをさせてほしいの。それがつまり、ディーキンの本業ってやつだからね」

 

 それを聞いたシエスタはほっと胸を撫で下ろして、次に少し不思議そうに首を傾げた。

 

「……ええと……、英雄、って?」

 

 ディーキンはきょとんとした様子のシエスタに、笑みを浮かべてウンウンと頷く。

 

「そうなの、シエスタはすごい英雄になれる人なの。ディーキンにはちゃんとわかるんだよ。ディーキンはこれでも、英雄専門のバードだからね」

「え、ええ……? そんな、その、ええと……、ありがとうございます。ですけど、私はただの村娘ですから、英雄だなんてことは」

 

 もしかしてお世辞を言われているのだろうか……、などと当惑しながら、反応に困った様子のシエスタ。

 ディーキンはそれに対して、ちっちっ、と指を振って見せた。

 

「じゃあ、シエスタは、英雄っていうのはどんなものだと思ってるの? ドラゴンを叩きのめせるような人? それとも、神さえ悪魔さえ超えるような、すごーい力の持ち主のこと?」

「え、それは……、その……?」

「どっちも英雄かも知れないね。でも、それだけじゃ一流の英雄とはいえないの。……ねえ、シエスタ。シエスタは最初、あのギーシュって人を怖がって、謝って済ませようとしてたよね。でもディーキンが文句を言われそうになったら、割って入って庇ってくれたでしょ?」

「……それは……だって」

「それに今も、あの人をすごく怖がってるのに、ディーキンが交代しようかっていったら断ったよね。安心するどころか、その方がもっと怖い、っていう感じだった」

 

 そう言いながら、ディーキンは満面の笑みを浮かべて真っ直ぐシエスタを見つめる。

 

「シエスタは知らないの? そういうのが、最高の英雄なんだよ!」

 

 そう熱弁するディーキンの目には、少年らしい憧れの光が輝いていた。

 それを見れば誰でも、彼が決してお世辞や建前でいっているのではなく心からそう信じているのだと分かるだろう。

 

 自分自身の身体や名誉が不当に傷つけられることには我慢できるが、他人のそれが不当に傷つけられることには声高に異を唱える者。

 自身の身の安全より他人の身の安全を慮り、自身が傷つくこと以上に他者が傷つけられることに恐怖を感じられる者。

 

 それを英雄と言わないのであれば、世界に英雄などいない―――。

 少なくとも、ディーキンにとっては。

 

「ディーキンは食堂でシエスタがあの人に勇気を出して立ち向かっているのを見た時からシエスタの事がもっと大好きになったの。シエスタはディーキンの尊敬する人だよ、だから、何か役に立たせてほしいの」

 

 面と向かってそんな事を言われたシエスタは、顔を真っ赤にしていた。

 

「~~………! そそ、そんな、大好きだなんて、あの……、その……」

 

 胸中で恥ずかしさと感動と、その他様々な感情が混ざり合っていて、すぐには言葉が出てこない。

 

「あ、ありがとう―――ございます。……けど、その、やっぱりそんなことは、ないです。英雄だというなら……、ディーキンさんの方が、ずっとそうだと思います」

 

 今度は、ディーキンの方が不思議そうな顔をする番だった。

 

「ンン……? ディーキンは、何もしてないと思うけど?」

 

 シエスタはぶんぶんと首を振ると、屈み込んでディーキンの手をぎゅっと握る。

 

「いいえ……、いいえ、そんなことはないです! 私があなたを庇ったというなら、あなただって最初、私がとがめられていた時に名乗り出て身代わりになってくれようとしたじゃないですか。今もこうして、私が怯えているのを見て代わろうかって言ってくれて……。それに何より、私、自分のしたことを馬鹿なことじゃないかって……、ディーキンさんが認めてくれてすごく、嬉しかったんです。あなたにはわかってないんです、今の私が、あなたがここにいてくれてどんなに心強いか―――」

 

 そう熱弁するシエスタは感動のあまり少し涙ぐんでいて、頬も上気している。

 その表情にはこれから厳しい戦いに臨まなければならないことを忘れてしまったかのように、怯えの欠片も残っていなかった。

 

 シエスタからしてみれば、ディーキンは自分と同じことを、自分よりも先にやっている。

 それに自分とは違って、貴族が相手でもいささかも怯えたような様子がない。

 なのにそれを鼻にかけるどころか気に留めている風もなく、こちらの行動を過剰なほどに褒めてくれて、しかもそこに全然作為や嘘が感じられない。

 だから、彼の方がずっと立派だ、ということになるのだ。

 

 今度はディーキンの方が、照れたような笑みを浮かべて恥ずかしがった。

 

「エヘヘヘ……、そんなこと言われたらディーキンは赤くなっちゃうの、シエスタ。ウロコだらけだから、わからないだろうけどね。でも、シエスタの方がずっと立派なことを、ディーキンは知ってるの」

 

 自身も確かに似たような事をやってはいるかもしれないが、別にそれは英雄的でも何でもない。

 何故ならディーキンには、シエスタと違って特にギーシュを怖れる理由がないからだ。

 

 生まれたその時から陰謀渦巻く社会で生き抜き、数百年の生涯を通じて技量を磨き続けるドロウエルフやデュエルガーなどといった暗黒世界の種族。

 定命の人間やコボルドなどには決して得られぬ、偉大な超常の能力を持つ異界の来訪者たち。

 見上げるような巨大な体躯を持つ、巨人やドラゴン。

 そして恐るべき特殊能力を備えた、メデューサやビホルダー、マインド・フレイヤーなどといった、魔獣や異形の類……。

 ディーキンは今まで、仲間たちと共に、そんな敵達と幾度となく戦ってきた。

 

 それに比べて、あの少年には語るに足るような力も凄みも一切感じられない。

 自分がこちらの魔法についてまだよく知らないことを差し引いても、全く問題にならない相手だと確信していた。

 

 だが、シエスタにとってはそうではないだろう。

 

 ディーキンからすれば、シエスタは自分が勝てないと思っている相手に対してそんな勇気を示せるからこそ英雄的なのである。

 人間がドラゴンに立ち向かうことは、勇気や英雄性の証明となるだろう。

 だが、逆にドラゴンが人間をひねりつぶしたところで、それは何の証明にもならないのだ。

 

「………それで、ええと。ディーキンはシエスタのお手伝いをしたいから、まずどんな手伝いができそうかを知りたいの。シエスタはどんなことができるの? 戦った経験はあるの?」

「あ……、その、いいえ、狩りとかは少し覚えがありますけど、戦いは……。武器や鎧の使い方は、一応、一通りは知っていますけど……」

 

 少し現実に引き戻されて、やや萎縮気にそう答えるシエスタ。

 ディーキンはそれを聞いて、うんうんと頷く。

 

 概ね予想通りの答えだった。

 戦士としての訓練は受けていなさそうだが、それでもシエスタの“種族”を考えれば、武器や防具の一通りの扱い方には《習熟》していて当然だろう。

 

「えーと、魔法……は、使えないよね? シエスタはアアシマールみたいだけど」

「え……、ええ、私は平民ですから、魔法は……」

 

 シエスタはそう答えながらも、困惑したように首を傾げた。

 

「……その、ディーキンさん。ああしまーる、っていうのは、なんですか?」

「アア……、もしかして、こっちではそういう言い方はしないのかも知れないね。アアシマールっていうのは、セレスチャル……ええと、つまり、天使みたいなのの血を引いてる人のことなの。ええと、シエスタはちょっと念じるだけで明かりを灯せたり、暗いところでも目が見えたりは、しない?」

 

 それを聞いたシエスタの目が、驚きに見開かれた。

 

「な、なんでそんなことを知ってるんですか!? こっちに来てからは、そんなこと、誰にも話したことはないのに……」

「ンー? なんでっていっても……。ディーキンの住んでたところにはそういう人が結構いたからね、見れば分かるよ」

 

 これは嘘でも誇張でもなく、本当の事だ。

 

 ディーキンが召喚前に住んでいたウォーターディープは、フェイルーンでも屈指の巨大交易都市である。

 そこには多種多様な人種が住んでおり、アアシマールにも何度も会ったことがある。

 

 シエスタの輝くような肌や瞳、アダマンティンのように艶やかな光沢をもつ黒髪、優しげで親しみやすそうで、どこか高貴さも感じさせる雰囲気……。

 それらはすべて、アアシマールの受け継ぐ天上の血がもたらす特徴である。

 アアシマールにも、そしてその祖であるセレスチャルにも、幾度となく会ったことのあるディーキンには、容易に識別できるものだ。

 

 それに冒険者仲間のヴァレンも、シエスタと同じプレインタッチトである。

 まあ彼はセレスチャルの血を引くアアシマールではなく、フィーンドの血を引くティーフリングだが。

 

「天使の血を引く人が、大勢住んでいるところ……!?」

 

 シエスタが、更なる驚きに目を丸くした。

 一体、この素敵で不思議な亜人の子は、どんなところに住んで、どういう人生を送ってきたのだろうか……?

 

「そうなの。まあ、コボルドももうちょっと住んでると嬉しかったけどね。つまり、シエスタは自分の力とか血筋については、ちゃんと知ってるんだね?」

「あ……、は、はい。どうせ本気にしてもらえないでしょうし、必要もないと思って、ここでは誰にも話してないんですけど……」

 

 そう前置きすると、シエスタは自分の血筋について、知っていることを包み隠さずに語り始めた。

 それによれば、彼女の血統は随分と奇妙なものであるらしい。

 

 彼女の曾祖母は数十年前に異世界からハルケギニアの地にやってきた、天使の血を引くパラディン(聖騎士)だった。

 そして曽祖父は、それとはまた別の世界からやってきた軍人だった。

 2人は、互いに見知らぬ世界からやってきた異邦者同士、親近感を感じたのか、幾度となく語り合い、慰め合い、やがて、愛を育んだ。

 生まれた子供はタルブの別の村人と結婚し、また子を生んで……。

 シエスタは、その家系に生まれた子孫であるという。

 

 つまり、彼女は三重の異界の血を引く者だ、ということになるらしい。

 

「……でも、私にはひいおばあちゃんみたいな凄い力はありませんし、ひいおじいちゃんみたいな軍人でもありません。確かに他の人と少し違う力はありますけど、全然大したことはないです。もちろん、自分の血筋を誇りには思っていますけど。他には本当に、武器とか鎧の使い方を少し教わっただけで……」

 

 そう言って少し俯くシエスタの肩を、ディーキンがポンポンと叩く。

 シエスタが顔を上げると、ディーキンの顔には自信に満ちた笑みが浮かんでいた。

 

「大丈夫なの、それならシエスタは勝てるよ!」

 

 そう請け合うと、ディーキンはシエスタから聞き出した情報を元にして方策を練り始めた。

 

 怖くて武器を扱うこともできないとかいうことがなく、最低限の能力を備えてさえいれば、シエスタをあの少年に勝たせる手段などいくらでもあろう。

 たとえば、自分の持つ武具やアイテム類を一時的にシエスタに貸すというのはどうか?

 

 ……いや、村娘に不釣り合いな、あからさまに強力な装備で勝つのはあまり良くないかも知れない。

 

 フェイルーンでは一般的に、強力なマジックアイテムを手に入れられることも強さのうちと見なされる。

 したがって実戦はもちろん決闘でも、片方がもう片方より優秀な武装をしていたとかで文句を言われることはあまりない。

 

 しかし、自力で手に入れたものならばともかく、借りただけの武装の性能に頼り切って勝つのでは、流石に問題があるだろう。

 

 仮にディーキンがシエスタに、アダマンティン製の剣、透明化の指輪、対魔法の外套、精神耐性の頭巾、俊足の靴、各種ポーション類などを貸したとする。

 決闘にはまず間違いなく勝てるだろうが、どう見ても『装備のお陰で勝っただけ』だと言わざるを得ないような状態になるだろう。

 それでは、対戦相手のギーシュも、観客たちも、そして戦ったシエスタ自身も、納得できないのではないか。

 

 ここは、多少の『助力』は受けたにせよ、シエスタ自身が勇敢に戦ったのだと、周囲に納得のいくような方法で勝ってもらいたい。

 となるとやはり、バードらしい方法が一番だろう。

 

「……ええと、ディーキンが、その、つまり……、バードらしく『歌』でシエスタを応援することを、許してくれたらね!」

 





来訪者(アウトサイダー):
 その起源に物質界以外の他次元界が関わっており、かつ精霊(エレメンタル)ではないクリーチャーを総称した種別。
その多くは多分に霊的な存在であり、飲食や呼吸、睡眠の必要がない。
しかしプレインタッチトのように強く物質界に結びついている来訪者は(原住)の副種別を持ち、普通に飲食し、呼吸し、睡眠する必要がある。
セレスチャルやフィーンドが有名だが、他にも数多くの種類の来訪者がいる。

セレスチャル:
 善の属性を代表するさまざまな種類の来訪者を総称してこう呼ぶ。俗にいう天使のような存在。
アルコン(秩序にして善)、ガーディナル(中立にして善)、エラドリン(混沌にして善)、エンジェル(いずれかの善属性)などの種別が有名。

アアシマール:
 彼らはプレインタッチト(次元界の血を引く者)の一種族であり、セレスチャルと人間のカップルの遠い子孫である。
セレスチャルの祖先ほどの力は持たないものの、彼らは今でもその血の中に僅かに神性を保持しており、それを誇りに思っている。
彼らはその来歴を表す些細な外見的特徴を持っている場合があるが、それ以外はほぼ普通の(しかし概してとても美しい)人間に見える。
典型的な特徴としては金属のような光沢をもつ髪、変わった目や皮膚の色、印象的な鋭い眼差し、仄かな後光などがあげられる。
彼らの大部分は祖先から善の性質を受け継ぎ、敬虔な善の擁護者として、さまざまな形で悪と戦う。
身を持って悪と戦い、人々を教え導こうと試みる者もいれば、普段はそれほど熱心ではなく、すっかり平凡な暮らしに馴染んでいる者もいる。
時には人間の中に潜む悪に幻滅し、冷淡なまでに高潔な態度を示して他人を避け、孤独な生活を送る者もいる。
しかし大部分のアアシマールは優しくて愛想が良く、親しみやすい。
アアシマールの適正クラスはパラディン(聖騎士)である。
彼らは普通の人間とは異なり、以下のような能力を生来備えている。

・アアシマールは魅力的で、洞察力にも優れている(【魅力】+2、【判断力】+2)
・アアシマールの感覚は鋭い(<聞き耳>と<視認>に+2の種族ボーナス)
・アアシマールは完全な暗闇でも目が見える(有効距離60フィートの暗視を持つ)
・1日1回、疑似呪文能力としてデイライトを発動できる。術者レベルはクラス・レベルに等しい(ただし最低でも1)
・[酸]への抵抗5([酸]から受けるダメージを5点減らす)、[冷気]への抵抗5、[電気]への抵抗5
・すべての単純武器および軍用武器の扱いに《習熟》している

デイライト
Daylight /陽光
系統:力術[光]; 3レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に10分
 術者の接触した物体は半径60フィートに明るい照明、更にその周囲60フィートに薄暗い照明を投げかけるようになる。
その呪文名にも関わらずこの光は日光に弱いクリーチャー(ヴァンパイアなど)に対して特別な害は及ぼさない。
また、光源になっている物体に覆いをすることによって光を遮ることができる。
[光]の補足説明を持つ呪文は、それと等しいかより低い呪文レベルの[闇]の呪文を相殺・解呪するのに使用できる(その逆も同様である)。


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第十九話 Inspire Courage

魔法学院の敷地内で『風』の塔と『火』の塔の間にある中庭、ヴェストリの広場。

そこは今、決闘の噂を聞きつけた生徒達で溢れかえっていた。

 

貴族と平民……、それも使用人の少女の決闘という、前代未聞の組み合わせ。

多くの観衆は始まる前から、ざわざわと話し合っていた。

 

「二年のギーシュが決闘するぞ!」

「相手は平民のメイドらしいが……、一体どういう組み合わせだよ、そりゃあ?」

「何でもミスタ・グラモンの不義がばれたことが原因で因縁を吹っかけられたそうよ……、可哀想に」

「いや、聞けばあのメイド、使用人の分際でギーシュを真正面から非難したらしいぜ」

「そうさ! ギーシュ、あの生意気なメイドに立場を弁えさせてやれ!」

 

ギーシュは薔薇の造花の杖を弄びながら不機嫌そうにしていたが、声援を送られると気を取り直して片手をあげてそれに応えた。

 

こんな展開は不本意だったが、こうなってしまった以上は仕方がない。

観衆はかなり沸いているようだし、ここで華々しく活躍すれば貴族の矜持を守ったということで自分の評判も持ち直すだろう。

あの少女には気の毒だが、公然と貴族を批判した向こうにも非はある。

すこしばかり痛めつけて降参の機会を与えれば、こちらは慈悲深く振る舞った、あちらは貴族相手によく頑張った、ということでお互い面目が立つだろう。

 

ギーシュはそんなふうに算段を立てながら、薔薇の造花を掲げて宣言する。

 

「諸君! 決闘だ!」

 

その宣言を受けて、いよいよ始まるぞ、と周囲の興奮が更に高まった。

ギーシュは自分に歓声を送ってくれた者たちに腕を振って応えつつ、漸く決闘相手の方を向いた。

 

「……とりあえず、逃げずに来たことは誉めてあげよう」

「私は、自分でしたことの責任を負わずに逃げたりはいたしません」

「ふん、相変わらず口の達者な平民だな、君は。まあ、殊勝な心がけだと褒めてあげよう」

 

降参して非礼を詫びれば無かったことにしよう、と提案することも一瞬考えたが、この様子ではどのみち受け入れそうもない。

なにより、ここまで場が整っているのに今更やめるといっても、観衆が収まるまい。

 

見ればあのメイドは貧相な革の鎧らしきものを身に纏い、武器を用意してきたようだ。

だがそんなものなどメイジの前では問題外、蟷螂の斧も同然である。

実際にその斧を持つ敵と対峙した経験などなかったが、ギーシュはこの世界の常識としてそう考えていた。

観衆の大部分も同様であり、シエスタの武装を見て野次や嘲笑を飛ばしている生徒が大勢いる。

 

「武器か。平民どもがメイジに一矢報いようと磨いた牙……、

 だが君のそれは、随分と貧相なんじゃないかね?」

 

ギーシュのからかうような言葉に周囲からどっと嘲笑が巻き起こる。

シエスタはそれを黙殺すると、ぐっとギーシュを睨み返した。

 

「まあ、そんなちゃちな代物で僕に対抗できるというのならして見たまえ。

 ……ああ、ところで」

 

ギーシュは視線をシエスタから、その少し後ろについてきている亜人の方に移す。

 

「ルイズの使い魔君、君はそんなところで何をしているんだね。

 これは僕と彼女の決闘だ、見物ならもっと離れていたまえ。

 それとも……、君が彼女に代わって決闘を受けるとでもいうのかい?」

 

半ば冗談だが、ギーシュはもし仮にこの亜人が決闘を受けても何ら問題はない、と踏んでいた。

いやむしろ、本当に交代してくれるならその方がいいかもしれない。

先程の授業や食堂での様子から見て魔法は多少使えるようだが、先住魔法使いの亜人とはいえ所詮は子ども。

あんな小さな子に、一体何ができようか。

加えて土壇場で代役を立てたとなれば所詮は平民、情けない奴だということで、向こうに非があるという印象がより強くなるだろうし。

 

それに対してディーキンやシエスタが何か返答する前に、観衆に混じっていたルイズが声を上げる。

 

「ちょっとギーシュ、何言ってるのよ!

 ただでさえ禁止されてる決闘なんか吹っかけて、その上ディーキンまで巻き込もうっていうの?」

「おおルイズ!

 いやいや、別に無理に君の使い魔と戦おうってわけじゃないさ。

 もし本人がその気なら、貴族として堂々と受けて立とうというだけだよ。

 ……ついでにいえば、禁じられてるのは貴族と貴族の決闘であって、平民や使い魔との決闘を禁止する規則はないはずだが」

 

ぐっと言葉に詰まりながらも、更に何か言おうとするルイズをディーキンが制した。

 

「ルイズ、別にディーキンは決闘とかをする気はないの。

 ディーキンはただ……、ちょっと、その、ギーシュさんにお願いがあるだけだよ?」

「ほう、なんだね?

 いまさらそのメイドを許せとでもいう気かい?」

「ああ、いや、そうじゃないの。

 決闘するっていうのはシエスタが決めたことだし、やめてとか代わってとかいうつもりはないよ。

 でもディーキンだって瓶を拾ったわけだから、シエスタだけに戦わせたくもないの」

「……つまり、何が言いたいんだね?」

 

怪訝そうな顔をするギーシュを見て、ディーキンはちょっと首を傾げる。

 

「ギーシュさんはさっき、ええと……、その、薔薇は女性のために咲くものだって話してたよね。

 なら、あんただって仲良しの女の人がこれから戦うって言ったら、何かしたいって思うでしょ?」

 

ギーシュはその言葉にぎくりとした。

名誉のためとはいえ、相手が平民とはいえ、この自分が女性を傷つけようとしていることは実際不本意で後ろめたく思っていた点だ。

もしやこいつは、観衆の前でそれを追及して、こちらの非を鳴らそうとでもいうのか?

 

「ま、まあ、それはそうだな。

 ………しかしだ! 今の場合には、いくらレディーと言えども―――」

 

それを見たディーキンは、(コボルド的には)にこやかな笑みを浮かべた。

ギーシュ自身にもやましい気持ちは十分あるらしい。

引っ込みがつかなくなって本人も不本意に思っているのだとしたら、やはりそう悪人ではないのだろう。

 

「アア、いや、何か勘違いされてるかもしれないね。

 ええとね、つまり、何が言いたいかというと……、ディーキンは、シエスタにはそれに相応しい応援が必要だと思うの」

「………へっ? 応援?」

「そうなの、それに戦いの一部始終を見届けて、それを歌にして語る詩人もね。

 ディーキンは、シエスタのために歌うよ。

 戦いはしないけど、歌って応援するだけならいいでしょ?

 ディーキンはバードだからね、それがディーキンがシエスタにできる、一番いいことだと思うんだよ」

 

コルベールから、この世界にはフェイルーンでいうようなバードはおらず、“歌の魔法”についても知られていないことは確認済みだ。

ならばこの申し出は、特に警戒されることもないだろう。

ディーキンとしては、歌での応援を許可するという、ギーシュからの言質を取っておきたいのだ。

ちょっとばかり詐欺臭い感もあるが、まあ明らかに彼の方が悪いのだからこのくらいはよかろう、と考えていた。

彼は善良ではあるけれども、良くも悪くもそこまで正々堂々な性格というわけではないのだ。

罪なき人を助けるのに敵を騙まし討ちすることが必要なら、たぶんそうするだろう。

 

「あ、ああ……! な、なるほど!」

 

ギーシュはディーキンの要求を理解すると、内心ほっと胸を撫で下ろした。

なんだ、所詮は子どもか。

結局ただ単に応援したいだけとは、どうやら自分の考え過ぎだったようだ。

 

もちろんディーキンは、弱点を追及される事を免れて露骨に安堵したギーシュの内心を、その表情や態度から読み取った。

どうやら自分の要求はすんなり通りそうだが、もうひと押ししておこう。

 

「もちろんあんたの事もちゃんと歌に入れるし、ディーキンはウソを歌ったりしないって約束するよ。

 あんたが勝ったら、名誉を守るために戦った貴族の歌を作ってみんなに聞かせてあげるつもりなの。

 どうかな、ディーキンの応援を認めてくれる?」

 

この少年の、名誉……というか、見てくれと体面に固執した性格からすれば、自分を称える歌を作ってもらえるというのは願ってもない話だろう。

ディーキン自身、この戦いの様子は後で歌にしようと思っていたので別に問題ない。

その主役がギーシュになるかどうかは、また別の問題だが。

 

「ほう……、君の歌がどの程度のものかは知らないが、気が利いた申し出じゃないか。

 たかだか平民との決闘に武勇を称える歌とは大げさだが、本式で実にいい!

 もちろん歓迎しよう、いい歌を作ってくれたまえ!」

 

周囲の観衆も、この思いがけない話の展開にさらに沸き立った。

所詮はどの程度の腕があるのかも定かでない子どもの申し出とはいえ、亜人の作る歌など滅多に聞けるものではない。

退屈な学園生活に降ってわいた娯楽に、より一層の余興が添えられたのだ!

 

 

「……ディーキン、あんた一体、何を考えてるのよ?」

 

ルイズは歓声の湧き起こる中、ひとり困惑したような顔で呟いた。

 

先程、ディーキンはギーシュやあのメイドを説得して止めるために食堂から出ていったとばかり思っていた。

授業中に、また教室を爆破するところだった自分を止めてくれた時のように。

 

なのに止めるどころかギーシュを称える歌などを作る約束をするなんて、一体なぜ突然そんなことを言い出したのか。

まあ、正確には勝った方を称える歌を作るとかいう話だったが、平民では貴族に勝てるわけがない。

食堂ではあのメイドと仲が良さそうだったのに、これではまるでギーシュの味方をして、あのメイドを徹底的に晒し者にしてやろうとしているみたいだ。

説得しに行った先で、あのメイドとひどい仲違いでもしたのだろうか?

 

(けど、仮にそうだとしても……)

 

あのディーキンが、果たしてそんなことをするだろうか。

まだ召喚して丸一日も経っていないし正規の契約もしてはいないが、ルイズはディーキンの事を既にかなり深く信頼し、良いパートナーを得たと考えている。

ギーシュの馬鹿げた行動に同調して無力な平民を嬲るようなことをしているとは思えないし、思いたくもない。

 

それに一緒になって決闘の場にやってきて、今も近くに並んで立っている様子。

そしてあのメイドが時折ディーキンに向ける視線からすれば、仲が悪いとは思えない。

 

というか……、何だかあのメイドがディーキンを見る様子には、説明しにくいがルイズにとって微妙にイライラするものがあった。

だがそんなことを深く考えているような状況ではないので、思考を切り替える。

 

「……つまり……、何か、理由があるの―――よね?」

 

こんな悪趣味な決闘など、場合によっては自分もディーキンに口添えして止めてやろうと思っていた。

だが何故かそのディーキンが止めようともせず、今の状況になった。

ならばその選択を信じて、最後まで見届けてみよう。

 

 

「……相変わらず見てて飽きない子だけど、ちょっと意外ね。

 メイドと一緒に出てきたときには、てっきりギーシュを止める気なのかと思ったけど」

「……………」

 

キュルケもまた、観衆に混じってこの決闘の様子を見ていた。

彼女は抱えた本を開くでもなくじっと決闘が始まるのを見守っている傍らの友人と、今朝知り合ったばかりの亜人とを交互に見やって、首をひねる。

 

「……意外といえば、あなたも。

 こんな騒ぎを自分から見物に来るなんて思わなかったわ」

 

自分は野次馬根性で見にきたが、この友人はどう考えてもそういうタイプではない。

大方騒ぎには加わらず、人がいなくなって静かな間にこれ幸いと本でも読んでいるだろうと思っていたのだが。

なぜか、誘ったわけでもないのに自分から進んで広場へ同行してきたのである。

 

「興味がある」

「そりゃまあ、興味があるからこそ来たんでしょうけど……。

 あなたがこんな、決闘もどきみたいなことに興味があるとは思わなくて」

 

それに対してタバサは、自分の大きな杖を持ち上げてディーキンの方を差し示す。

 

「彼が出ていったから」

「え………、ディーキン君?」

 

小さく頷く友人を見て、キュルケはますます意外に思った。

 

自分もこの広場へやってきた時に、あの子が決闘の場にいるのを見て思っていたよりも面白いことになりそうだと期待したものだ。

しかしこの友人は、そもそもここに来た理由があの子が出ていったからだ、という。

まあ確かに、あんな変わった亜人が関わるというのならば、この無関心そうに見えて意外と好奇心旺盛で知識欲の強い友人が見に来ても不思議はない。

 

だがタバサの物言いからすれば、彼女はディーキンが決闘に関わることを最初から確信していたことになる。

 

自分だってあの子には充分興味があるし、時折には様子を窺ってもいたが、そんなことは分からなかった。

一体なぜ、この他人には概ね無関心な友人が、そんなことに気がつくくらいにあの子のことを気にかけているのだろうか?

 

(まさか、春が来た?

 ……とかいうことは、いくらなんでもないわよね……)

 

いや可愛いのは認めるけど。

 

だがトカゲだ。

 

確かにこの友人は今までろくに男に興味を示したことが無かったが、

だからといってまさか、そんな、ディープな趣味があるわけが……、

 

「……ない、わよね……?」

「何?」

「い、いえ、何でもないわ!

 気にしないでちょうだい。それより、あなたは、ええと……、ディーキン君に興味があるのよね?

 その……、なんで、あの子が決闘に参加すると思ってたの?」

 

タバサは少し首を傾げたが、小さく頷く。

 

「そうかもしれない、とは思ってた」

「そ、そう、じゃあ残念だったわね。

 あのメイドが負けるところなんて見ても仕方ないでしょうし……。

 だけど、あなたがそれでも帰ろうともしないでまだ熱心に見てるのは、あの、ええと―――」

 

何やらいつになく歯切れが悪い友人の様子に僅かに怪訝そうにしながらも、タバサは首を小さく横に振った。

 

「あのメイドが負けるとは限らない」

「……え? それってどういう……」

「ただの勘。気にしないで」

 

タバサはそういって話を打ち切ると、決闘場の様子に注意を戻す。

キュルケには悪いが、もしも自分の憶測通りならば、彼に断りなく勝手に話すわけにもいかないだろう。

 

確かにディーキンが決闘に参加するつもりなのではないかと思っていたので、彼が自分は加わらないと宣言したときは少しがっかりした。

しかし、彼の歌で応援したいという言葉を聞いて、先程聞いた話を思い出したのだ。

 

『ディーキンの魔法は、その先住の魔法とかってやつじゃないの。

 どっちかっていうとあんたたちと同じような……、

 ええと、ディーキンの住んでたとこだと秘術魔法っていうんだけどね、“歌の魔法”なんだよ』

 

だとすればつまり、そういうことなのだろう。

彼は後で詳しい話を聞かせてくれるとも言っていたが、実際にこの目で見られるチャンスを逃したくはない――――。

 

 

「………すぅ――――」

 

シエスタは、周囲の野次を無視するように目を閉じて静かに深呼吸をすると、腰に帯びたロングソードをそっと撫でた。

片手持ちにも両手持ちにも対応でき、ククリやハンドアックスなどの軽い武器よりずっと威力がある、広く普及した実戦的な軍用武器だ。

 

ここに来る前にディーキンが自分の荷物袋の中を漁って探し、シエスタを説得して貸しつけたものである。

ハルケギニアに来る少し前にボスと一緒に探索した遺跡で拾い、いずれ換金するつもりで無造作にしまっておいた武器類の中に混じっていたものだ。

魔力も帯びていないし高品質でもない古い品で、今のディーキンにとっては屑鉄に等しい代物だが、一応作りはちゃんとしている。

何よりロングソードはありふれた武器で、シエスタのような村娘でも旅する際の護身用に所持していてもあまり不自然ではなさそうなのが都合がよかった。

 

貸したのは、強力な魔法の武器を貸すのは問題があるだろうが、さりとてシエスタ自身の持つ短剣や手斧だけでは少々心もとないな、という考えからだ。

ついでにいえば長剣のほうが、決闘するに際して(少なくとも、ディーキンの美的感覚では)短剣や手斧よりも格好良く見える。

 

ディーキンは、先刻シエスタにも力説したように、英雄はまず何よりも心構えだと思ってはいる。

でもバード的には、見てくれの格好良さも割と大事なのだ。

……別に野性的なハーフオークとか、渋いドワーフの親父とかをディスってるってわけではないけれど。

素敵なコボルドの詩人だっていることだし。

 

まあ、それはさておき。

 

シエスタはさらに、予備の武器としてダガーも用意していた。

ククリとハンドアックス、それにライト・クロスボウは部屋に置いてきている。

クロスボウなどの飛び道具で杖なり腕なりを撃つというのは、実戦ならば平民がメイジに勝つ現実的な方法の一つなのだろうが……。

剣ならば腹や柄、鞘などで殴るといった手加減もできるが、飛び道具を使うのは危険が大きすぎる。

シエスタには、素早く正確に小さな的を狙えるような腕はないのだ。

狙いが逸れて腹にでも当たったら、あるいは的が外れて周囲の観衆に当たったら、大惨事を招きかねない。

 

「―――――ふぅ………」

 

息を吐いて背後のディーキンの方をちらりと見ると、お互いに軽く笑みを交わす。

 

先程、彼は「自分が『歌』で応援すればシエスタは勝てる」といっていた。

それがどういう意味なのかは、よく分からなかったが……。

 

『とにかく、シエスタは自分と、できたらディーキンのことも信じて、正しいと思うことだけを頑張ってやってくれたらそれでいいと思うの。

 それできっと、うまく収まるよ。だって、偉大な物語ってみんなそうなるんだから!』

 

彼が笑顔で胸を張ってそう断言するのを聞いたら、問い質す気もなくなったのだ。

 

歌で応援すれば勝てるなどと、客観的に見ればふざけているのかとしか思えないような話である。

現実が見えていない子どもの甘い幻想だというのが普通の感覚であろうことは、シエスタだってわかっている。

だがそれでも、何故か彼の言葉は信じられるものだと思えたし、その純粋な言葉に対して、説明しろと詰め寄るようなことはしたくなかった。

 

「……ふふっ」

 

その時のディーキンの様子を思い出して、シエスタは笑みさえ浮かべる。

状況は大して何も変わってはおらず、これからメイジ相手に勝てそうもない決闘をしなくてはならない、というのに。

先程一人でいた時には強く感じていた不安も恐怖も、不思議と今は感じなかった。

 

 

「さてと、では始めるかな」

 

ギーシュはまたひとしきり周囲の歓声に応えた後、そういって2人の方へ向き直った。

 

シエスタは頷いて一礼すると、剣の柄に手を掛ける。

ディーキンもこくりと頷くと、小さく咳払いしてリュートを手に取った。

 

そんな両者を余裕の笑みで見つめつつ、ギーシュは薔薇の杖を振る。

その動きに応じて花びらが一枚宙に舞い、瞬く間に甲冑を身に纏った女戦士の人形に変化すると、ギーシュとシエスタの間に立ち塞がった。

 

身長は人間と同じぐらい。

甲冑も含めて全身が真新しい青銅でできているようで、それが陽光を受けて煌めく様子はなかなか様になっている。

 

(オオ……、あれがこっちのゴーレムなのかな?)

 

ディーキンは少し驚いたが、すぐに昨夜読んだ本の内容を思い出して人形の正体にあたりをつけた。

シエスタは、こちらの魔法に慣れているので予想していたのか、少し緊張したくらいで特に驚いた様子はない。

 

フェイルーンにもゴーレムはいるが、例によってハルケギニアのそれとは大分異なる存在だ。

製作に長い時間と費用を要するが、多くの魔法を受け付けない永続的で強力な人造であり、命令に従って自律的に行動する。

対してハルケギニアのゴーレムは、主に魔法で即席に作られて用いられる一時的な存在で、自律的な思考能力を持たない操り人形であるらしい。

フェイルーンの定義では、ゴーレムというよりはアニメイテッド・オブジェクトに近いものだといえそうだ。

 

アニメイテッド・オブジェクトはかなり高等な呪文であるのに、一系統に特化しているとはいえ、駆け出しのメイジでさえ類似した呪文を使えるとは……。

ただ、アニメイテッド・オブジェクトがその場にある物をそのまま操作して人造に変えるのに対し、今の人形は花びらを変化させて作り出していたようだ。

その場に適当な素材が無くても常に安定して同じ性能のものを作り出せるのは利点だろうが、製作と操作で二重に魔法を使うのは無駄が多い気はする。

 

単純にどちらが上というものではないが、とにかくハルケギニアとフェイルーンでは魔法体系が大きく異なるのだということを改めて実感させられた。

必ずしも錬金で一から作らなくても、その場にある素材をそのままゴーレムに仕立てることもできるのだとは思うが……。

 

そういえばアンダーダークの遺跡で己の意思を持つセンティエント・ゴーレムに出会ったことがあったな、とディーキンは思い返す。

その中にはブロンズゴーレムもいて、大きさはあのワルキューレと大差ない程度だったがかなり熟達した動きと高熱の火炎を放つ能力をもっていた。

もしワルキューレにあのブロンズゴーレムと同程度の強さがあるのなら、シエスタが勝つのは相当厳しいだろう。

 

だが、いくら魔法体系が違うとはいえ、そんなレベルの代物を駆け出しのメイジが容易に作れるとは思えない。

あれは『造り手』アルシガードと呼ばれる古のデュエルガーのウィザードが作った、非常に特殊な人造である。

そのアルシガードは遺跡の奥深くでデミリッチになっていたのを発見したが、向こうから襲ってきたのでやむなくボスと一緒に滅ぼしてしまった。

 

まあなんにせよちょっと硬そうな相手が出てきたし、ああいう手合いにはククリのような軽い武器ではやや対処が面倒だ。

あらかじめ剣を渡しておいてよかった。

 

そんな風にディーキンが思考している間に、ギーシュはもったいぶった様子で一礼するとシエスタに声を掛けた。

 

「申し遅れたが僕の二つ名は『青銅』、青銅のギーシュだ。

 僕はメイジだ、だから魔法で戦う。よもや文句はあるまいね?」

 

シエスタは素直に頷く。

 

「ありません。シエスタです、平民なので二つ名はありません。

 私はメイジではありませんから、剣で戦います。構いませんでしょうか?」

 

ギーシュはそれを聞いて鼻を鳴らした。

 

「ふん、もちろん構わないさ。

 生意気な態度だが、なかなかいい覚悟なのは認めよう。

 ならばこの青銅のゴーレム『ワルキューレ』にその平民の磨いた牙で太刀打ちできるか試してみたまえ!」

 

杖を突きつけてそう宣言するギーシュに対し、シエスタは落ち着いて借り物の剣を抜くと人形に向けて身構えた。

 

そこへ、ディーキンが後ろから口を挟む。

 

「アー、ディーキンもいいかな?

 ディーキンはバードだから、歌で応援するよ。文句はない?」

「ん……? ああ、さっき許可を出したね。

 まあせいぜいいい曲を謳ってくれたまえ、彼女が降参しないうちにね!」

 

ディーキンは頷くと、早速リュートを準備して勇気を掻き立てるような勇ましい旋律の曲を演奏しだした。

同時に、曲に合わせてよく響く声で歌を謳い始める。

 

 

 

 

 フーン、フ~ン、不運! フーン、フ~ン、不運! フーン、フ~ン、不運、不運、フ~ン、フ~ン、フーン!

 緊張が昂ぶった! 音楽は高まった!

 

 エグセラー・ヘンジオ・モーティバル・オヴァーマー、イレシア・メアシアル・サヴィアル・テリム……

 

 この詩を歌う時は、英雄達に敬礼!

 ディーキンは、英雄と戦う方法を知ってるの!

 

 ………

 

 

 

 

声にしろ歌詞にしろ、それ自体は特に素晴らしいわけでもない。

しかし、何故か、魂に沁みわたるような言い知れぬ崇高な響きを持ち、不思議と惹き付けられる奇妙な歌だった。

 

所詮は幼稚な亜人の子の歌だろう、と滑稽な道化的余興を期待していた周囲の観客からも感心したような声が漏れた。

ルイズやキュルケ、タバサなどの面々もディーキンの歌を聞くのは初めてで、同じような反応をしている。

 

だが、シエスタにとっては違っていた。

 

 

「―――――! あ……、」

 

その歌を耳にするや、シエスタは目の前の対戦相手の事も忘れて驚愕に目を見開いた。

 

他の者にとってはまだ始まってほんの数秒。

内容もちょっと想像していたイメージとは違うけど、思ったより随分といい歌じゃないかという程度で、さして特別なことはない。

 

だが、シエスタにとってはまったく違っていたのだ。

 

一音一音調べを聞いている時間が、まるで圧縮されたようにとても長く感じられた。

現実にはたった数秒しか続いていない歌が、体と心の内側に深く、長く響き、魂の奥底を震わせていく。

体が、心が、どんどんと軽くなり、戦いに不要なものがすべて心身から抜け落ちてゆく。

まるで心身の隅々にまで歌が沁み通り、四肢に力が、心に勇気が漲ってくるかのようだ。

 

これこそ、バードの得意とする『勇気鼓舞の呪歌』の効果だ。

しかしながら、シエスタが驚いたのは、ただその効果に対してだけではなかった。

 

(……それに、それに、これは―――!)

 

この曲の調べのところどころに使われている、特別な“言葉”。

それは、シエスタにとっては忘れがたく、聞き違えようもないあの“言葉”に違いなかった。

 

今やシエスタの心を震わせるものは、恐怖ではなく勇気と歓喜に変わっていた。

 

きっと神様が、あの人を遣わして私を助けてくれたんだ。

やっぱりこの世に、あやまちがまかり通るなんてありえないんだ。

 

シエスタは、今こそ心からそう信じた。

 

「………何をぼんやりと余所見しているんだね?

 先手は君に譲るからかかってきたまえ、それともいまさら怖じ気づいたのかい」

 

怪訝そうなギーシュの声ではっと我に返る。

慌てて視線をディーキンの方から戻すと、改めて剣を構え直した。

 

「いえ……すみません。では、行きます!」

 

ディーキンの奏でる勇ましい歌の調べは今も続いており、全身に今まで感じたことのないような力を尽きることなく送り込んでくれている。

 

体が羽のように軽く、両手に構えた剣もまるで自分の手の延長のようにしっくりと馴染んでいる。

一通りの扱い方は学んだとはいえ、自分は決して普段から頻繁に剣を使っているわけではないというのに。

目の前のギーシュやワルキューレの動きだって、やけに遅く見える。

そして何よりも、心に勇気が漲っている。

 

負ける気が、しない。

 




勇気鼓舞の呪歌(Inspire Courage):
何らかの<芸能>技能のランクを3ランク以上持っているバードが使用可能な呪歌。
術者が選択した目標に対して、魅惑および恐怖を及ぼす効果に対するセーヴ(抵抗判定)と攻撃ロール、武器のダメージに士気ボーナスを与える。
どれだけの量のボーナスを与えられるかはバードのレベルによって異なる。
術者は使用に当たって音声要素を伴う芸術を披露し、目標はそれを聞いていなければならない。
呪歌という名称だが、音声を伴う芸能でさえあれば歌に限らず楽器演奏、朗誦、演説等何でもよく、聞き始めた瞬間から効果が発揮される。
また、聞き終えてからも5ラウンドの間効果は持続する。
これはバードというクラスの持つ能力であるが、呪文とは異なる。
効果を受けた全員がガンダールヴの廉価版になるようなものだとでも思えばよい。
上がるのは攻撃力だけで素早さや回避力は変化せず、知らない武具の扱いができるようになる等の効果もないので総合的には大分弱いだろう。
しかし術者が選んだ複数の者を同時に強化でき、術者自身に効果を及ぼすこともできるなど、優れている部分もある。
ディーキンのレベルなら素人を一応の訓練を積んだ傭兵以上の腕前にし、ダガーの威力をロングソード以上にアップさせる、という程度の効果はある。
また、この呪歌が与えるボーナスをさらに増やすことができる呪文や特技なども存在している。
聞いたものが実際にどんな状態になるのかは不明瞭で、作中での描写は個人的な解釈。
なんで<芸能>なのに冒頭の数秒聞いただけで完全な効果が発揮されるのかも不明だが、まあ超熱いアニソンとかイントロ聞いただけでテンション上がるし。
ちなみに国産TRPGのソード・ワールドRPGでは呪歌(じゅか)だが、D&Dでは呪歌(まがうた)と読む。


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第二十話 Duel

 

「もうしない、もう絶対しないから。

 あだっ! 君、年寄りにそんな乱暴じゃから婚期を……あいだっ!」

 

ここはトリステイン魔法学院本塔・最上階。

暇を持て余したオスマン学院長が秘書のミス・ロングビルにセクハラを行い、反撃を受けている。

いつもの光景だ。

 

そこへ早足で向かってくる足音が聞こえ、続いて扉をノックする音が響いた。

 

ロングビルはさっと机に戻ると、何食わぬ顔で業務の続きを始める。

オスマンも素早く起き上がって軽く服を整え直すと、腕を後ろに組んで重々しく威厳のある態度を装う。

これもまたいつもの事で、二人とも手慣れたものだ。

 

「誰かね?」

「私です、オールド・オスマン」

「ああ、ミスタ・ゴートゥヘル君か、はいりたまえ」

「私はコルベールです!」

 

コルベールは仏頂面で扉を開けて部屋に入ってきた。

これまた、よくあるやり取りだ。

どうもわざと名前を間違うのは、この学院長の持ちネタであるらしい。

 

「お邪魔して申し訳ありません、学院長。

 実はヴェストリの広場で、決闘を始めようとしている生徒がおりまして……」

「まったく、暇をもてあました貴族ほど性質の悪い生き物はおらんな。

 ……で、君は止めなかったのかね?」

「その、情けない話ですが……、

 止めようにも生徒たちの熱狂がひどくて、どうも」

 

オスマンはそれを聞いてひとつ溜息を吐く。

 

「やれやれ、君はそういうことになるとどうにも気弱でいかんの。

 それで、誰が暴れておるんだね?」

「はい……、すみません。

 その、一人は、二年生のギーシュ・ド・グラモンです」

「ああ、あのグラモンのとこのバカ息子か。

 オヤジも色の道では剛の者じゃったが、息子も輪をかけて女好きと見えるわい。

 大方他の男子生徒と女の子の取り合いになって、といったところかの?」

「いえ、それが………」

 

コルベールはそこで、言いにくそうに言葉を濁した。

 

「む? ……なんじゃ、違うのか?」

「相手は男子生徒ではありません、というか生徒でもなければメイジでもなく――メイドです」

「………、なんじゃと?」

「そのため、私以外の教師もどう対応していいものか戸惑っているようで。

 中には止める必要はないと生徒に混ざって傍観している者も……」

 

オスマンはそれを聞いて、困惑したように眉間に皺を寄せた。

 

「……平民と決闘……? 何を馬鹿な事をしでかしておるんじゃ。

 性質が悪いにもほどがある」

 

興味深げに横合いで聞き耳を立てていたロングビルの目がきらりと光った。

 

「学院長、でしたら大事にならないうちに止めた方がよろしいのでは。

 私に宝物庫の鍵を貸していただければ、急いで『眠りの鐘』を用意してきますわ」

「むう、そうじゃな……、」

 

オスマンが考え込みながら杖を振ると、壁にかかった『遠見の鏡』にヴェストリの広場の様子が映し出された。

 

なるほど、周囲を熱狂した観衆に取り囲まれたギーシュとメイドらしき少女が、今まさに決闘を始めようとしている。

オスマンはその様子を見てますます顔をしかめたが、少女の後ろに昨夜この部屋を訪れた亜人の姿を見つけると表情を変えた。

視線を止めて、少し首を傾げながら数秒ほどじっと鏡を見つめる。

 

「……学院長、どうされるのです?」

 

ロングビルに怪訝そうに声を掛けられて、オスマンははっと我に返った。

見ればコルベールも似たような顔をしている。

 

「む……、ああ、そうじゃな。

 ひとまず用意はしておいてくれ、使うべきかどうかはもう少し様子を見てから判断するとしよう」

 

オスマンはそう言ってロングビルに鍵を渡すと、困惑したような顔のコルベールをよそに鏡の光景をじっと見つめ続けた。

 

一方ロングビルは、鍵を受け取ると一礼して学院長室を足早に立ち去った。

その顔に怪しげな笑みを浮かべながら……。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

ヴェストリの広場では、いよいよ決闘が開始された。

シエスタはディーキンの『勇気鼓舞の呪歌』の演奏を背に受けながら、剣を構える。

そして小細工も何もなく、ぐっと姿勢を低くして勢いをつけると、真っ直ぐワルキューレに斬りかかっていった。

 

対するギーシュは余裕の姿勢を崩さない。

普通に考えれば青銅製のゴーレムを剣で、それも素人の女性が斬り付けたところで大した傷が与えられるはずもないのだから、当然と言えよう。

しかもワルキューレは硬いのみならず、屈強な成人男性以上の腕力と素早さを持っている。

その気になれば防御も反撃も容易いことだ。

 

(よし、まずは振り下ろしてくる剣を余裕で弾いて見せて……、

 体勢が崩れたところへ、可哀想だが軽く一撃叩き込んでやるとしよう)

 

実際に力の差を痛感させれば、あのメイドも目を覚ます事だろう。

ギーシュはそう考え、余裕たっぷりに薔薇の杖をくいと持ち上げてワルキューレに指示を出した。

 

――――が、しかし。

 

「え……?」

 

シエスタの剣はギーシュがその足の速さから想像していたよりもずっと速く、力強く振り下ろされていた。

ワルキューレが主の命令を受けて拳を持ち上げる遥か前に肩口を鋼鉄の刃が捕え、青銅をまるで粘土のように容易く斬り裂いていく。

 

斜めに両断されたゴーレムは瞬く間に形を失って、ぐしゃりと地面に崩れ落ちた。

 

「……!? お、おい、あのメイド、ゴーレムを倒したぞ?」

「せ、青銅ってあんなに簡単に壊れるもんだったのか? なあ、お前土メイジだろ、どうなんだよ?」

「そ、そりゃあ……、出来具合にもよる。けど、まさか女の子の力で………」

「あのメイド、実は剣の達人だったのか!」

 

予想外の展開に、観衆が一斉にざわめきだす。

 

シエスタ自身もまた、自分の攻撃がもたらした結果に少し目を丸くしていた。

ある程度想像はしていたが、まさか自分のような素人同然の娘に、ここまでの力を……。

 

「……な、なかなかやるじゃないか!

 どうやら、丸っきりの素人というわけではないらしいね」

 

ギーシュは若干顔をひきつらせながらも精一杯余裕のある態度を装い、薔薇の杖を大きく振った。

複数の花びらが舞い落ちて、今度は同時に六体ものワルキューレが、しかも盾を装備した状態で構成される。

 

全部で七体のワルキューレがギーシュの武器なので、これで数の上では全力を出したことになる。

盾を持たせたのは一撃でワルキューレを斬り倒した攻撃力を警戒したのと、流石に殺傷力の高い武器を持たせて殺し合いにするわけにはいかないためだ。

 

「おおっ、ギーシュが本気を出したか?」

「これで勝負は決まったな」

「そう? でもあのメイド、同じゴーレムをさっき一瞬で斬り倒していたじゃない」

「いや、どんなに力があってもあれだけの数に囲まれたら、魔法が使えない平民じゃ対応できないさ。

 それに今度は、盾を持たせてるしな……」

「着てる鎧は粗末なもんだし、一度殴られて体勢を崩したら殺到されて終わりだな」

 

わいわいと沸き立ちながら今後の予想などを話し合っている観衆をよそに、ディーキンは内心少し感嘆していた。

駆け出しのメイジが中型サイズのアニメイテッド・オブジェクトに類似する人造を簡単に作れるだけでも大したものだが、同時に六体とは。

しかもどうやら、任意の武具を装備した状態で作ることも可能らしい。

 

ただ、呪歌でサポートしたとはいえシエスタに一度斬られただけで倒れるあたり、強度や耐久性は少し低いようだ。

青銅ならもう少し硬くてもよさそうなものだが……。

そういえば先程の授業で、錬金の魔法はどうしても不純物が混じったりするものだ、と言っていたか。

ならば作成者の腕もまだ未熟なのだろうし、見てくれはよくても中身が炉でしっかりと精製した青銅には劣るのは仕方ないのだろう。

 

瞬殺されるのを見た以上、数を増やすよりもより強い大型のゴーレムを出した方が良さそうな気もするが……、それはできないのだろうか。

そのあたりのことも後でまた、しっかりと調べておこう。

 

「まずは褒めよう、ここまでメイジに楯突く平民がいることには感激したよ。

 レディーとはいえ手加減は無用のようだ、僕も本気を出すとしよう。

 悪いが君の活躍はここまでだ」

「………はい、私も、最後まで全力でお相手します」

 

ギーシュは一時の動揺から回復して、新たに呼び出した忠実な僕たちにシエスタを囲ませながら、一斉攻撃を仕掛けるタイミングを見計らっている。

シエスタは少し険しい顔をして周囲を囲むゴーレムに視線を走らせつつ、いつでも動けるように身構えている。

 

ディーキンは数秒ほど思案に耽っていたが、ギーシュとシエスタのやりとりを聞いて我に返った。

考え込みながらも演奏に全く乱れが無いのは流石といったところだろうか。

まあ、激しく戦闘しながら演奏を続けなければならないこともあるバードがこの程度で演奏を乱していたら、それこそお話にならないのだが。

 

……この状況は、『勇気鼓舞の呪歌』だけでは少し厳しいかもしれない。

 

この呪歌では攻撃力は上がっても、耐久力や回避力まで上がるわけではないのだ。

これだけの数に囲まれれば、周りの観衆も論じている通り、恐らくかわし切れずに攻撃を喰らってしまうだろう。

数発も殴られれば、一般人と大差ないシエスタの体では持つまい。

たとえそうでなくとも、シエスタにこんなことであまり痛い思いをさせたくはないし……。

 

ならば。

 

「オオ、いよいよ決戦なんだね?

 ちょっと待って、ディーキンもそれに相応しい音楽で応援するよ!」

 

そう宣言して周囲の注目を集めると、歌うようにして素早く二、三の音節を呟き、今まで演奏していたリュートから手を離した。

するとリュートはその場で宙に浮かび、今までと変わらない演奏をひとりでに続ける。

 

おおっ、と驚きの声を上げる観衆をよそに、続けて更にもう一つ呪文を唱えた。

呪文が完成するや、ディーキンの手の中にバイオリンが出現する。

それをさっと構えると、今まで以上に心を高揚させる荘厳で勢いのある旋律を、浮かぶリュートの演奏に重ねて奏で始めた。

 

《動く楽器(アニメイト・インストゥルメント)》と《楽器の召喚(サモン・インストゥルメント)》という、2つの呪文を使用した芸当だ。

 

「せ、先住魔法だ!」

「精霊の力を借りる恐ろしい技だって聞いていたけど……、こんなこともできるの!?」

「いや魔法もすごいが、演奏も……」

 

普段は畏怖している“先住魔法”による楽しい演出と、お抱えの宮廷詩人のものだと言っても通用しそうな勇ましく荘厳な演奏。

観衆の興奮は、最高に高まっている。

 

一見するとただ注目を集めて気分よく歌っているかに見えるが、実のところディーキンの負担は、ある意味戦っているシエスタ自身よりも大きかった。

2つの呪歌を立て続けに“強化”して歌った反動で、ディーキンの喉には鈍く熱い痛みが走り始めている。

もしシエスタの体にこれと同じ反動を負わせたら、耐えきれずにたちまち昏倒してしまうだろう。

 

だがその苦痛を少しも表情には出さず、胸を張って楽しげに、誇らしげに、歌い続ける。

ここで苦しそうな顔などしていたら演出が台無しだし、何より実際、ディーキンはその表情通りの気分なのだから。

 

英雄の活躍に立ち会えて、その手伝いまでできる。

観衆も、最高に沸いてくれている。

この状況で楽しさと誇らしさとを感じないバードがいようか。

 

これで、決戦に向けての準備は整った。

 

「おおっ、何とも気の利いた音楽と演出じゃないか!

 ワルキューレたちの総突撃に相応しい調べだな、感謝するよルイズの使い魔君!」

「…………」

 

ギーシュは先程の焦りなどすっかり忘れて、自分の活躍を引き立ててくれる(と自分では思っている)勇ましい調べに気を良くしていた。

一方シエスタは、自分の中に湧き上がってくる更なる力に驚愕して言葉を失っていた。

 

今までの力でさえ信じられないほどだったのに……。

しかも今度のは、ただ力が漲っているというだけではないような気がする。

何か、感じたことのないような――――。

 

「さて場も整ったことだし、今度こそ覚悟をしたまえ」

「……………! はい、行きます!」

 

ギーシュがワルキューレの布陣を終えて、いよいよ一斉突撃を命じようと余裕ぶって杖を構えたあたりで、シエスタはハッと我に返った。

間髪をいれずにばっと駆け出すと、一番手近のワルキューレに向けて先程と同じように剣を叩きつけようとする。

 

囲まれて不利な立場に追いやられる前に、先手を打って数を減らそうとしたのだ。

明らかに数で不利な状況だというのに、敵がこちらを囲んで突撃してくるまでただ漠然と構えて待ち受けるほど愚かではない。

 

「えっ……!?」

 

先程まで少しぼうっとした様子だった少女があまりにも唐突に、素早く行動に移ったことで、宣言をしたギーシュの方がかえって不意を突かれた。

 

ワルキューレは所詮ギーシュの指示を受けて動くもの、ギーシュ自身の命令よりも素早い反応はできはしない。

そして今のギーシュの反応速度は、シエスタよりも明らかに遅かった。

突撃を命令しようとしていたのを慌てて防御の指示に切り替えるが、既にシエスタはワルキューレの眼前に迫っている。

しかも重い盾を持たせたためにかえって腕の動きが鈍り、先程以上に速いシエスタの剣を防御するのには全く間に合っていない。

 

盾に遮られない角度から横薙ぎに斬り付けた長剣が、そのワルキューレの胴体を両断して仕留めた。

 

「くそっ!」

 

ギーシュとて全くの素人ではなく、軍人の家系であるがゆえにゴーレムを運用する戦闘の訓練はそれなりに受けている。

自分が命令しようとしていた個体がもう駄目なのを悟ると、悔しげに呻きながらもすぐに残りのワルキューレに指示を出して態勢を立て直させた。

 

もしシエスタが真に凄腕の剣士だったなら、間髪をいれず手近のワルキューレに連続攻撃をかけて、態勢を立て直す前に更に一、二体は仕留められただろう。

だが呪歌の効果で大幅に攻撃が素早く、力強くなっているとはいえ、シエスタの技量自体はやはり素人に毛が生えた程度でしかないのだ。

数秒の内に三体も四体も敵を倒すというような真似は無理だった。

 

「これ以上はやらせない、いけワルキューレ!」

 

ギーシュの命令が飛ぶのを聞くと、シエスタはさっと視線を巡らせて周囲のワルキューレたちの動向を確かめた。

残った五体全てがこちらへ向かってきているが、二体はまだ若干距離が遠い。

早急に対峙しなくてはならないのは正面に二体、そして背後に一体。

 

シエスタはそれだけ確認すると、攻撃される前に素早く正面右側のワルキューレの懐へと飛び込んで行った。

今度はワルキューレの側も既に攻撃に対する備えができており、向かってくるシエスタに反応してさっと盾を構える。

 

しかしシエスタは強引に盾の上から斬り付けるような事はせず、ワルキューレの前で踏み止まると下から構えられた盾を思い切り蹴り上げた。

予想外の方向からの衝撃に盾を弾かれて体勢を崩した隙に、腰をすかさず全力で斬り付けてまた一体倒す。

ワルキューレはギーシュの指示によって動いている関係上、事前に想定していなかった状態になると立て直すのが遅れるのだ。

 

一見して見事な戦い方のようだが、見る者が見れば速さと力は並外れているが動作自体はあまり洗練されていない、ということにすぐに気が付くだろう。

呪歌の効力によって攻撃の素早さや力強さは段違いに上がっているが、技量自体が高まっているわけではない。

 

戦い方も実に大味だが、それに関しては単に未熟だからというだけではないちゃんとした理由があった。

仮に剣技を身に付けた人間相手なら、シエスタも未熟なりに牽制や受け流しなどを交えてもう少し技巧的に戦おうとしていただろう。

だが、今戦っている相手は人間とはまったくその性質が違う。

 

ワルキューレは基本能力はそこそこ高いが剣技などの技巧は皆無で、その代わりに人間と違って痛覚も恐怖もなく、体は金属製で硬い。

人間相手なら鎧の隙間を突けば軽い攻撃でも有効打となるし、それゆえにフェイント気味の素早いが軽い突きなどで牽制することもできる。

だが全身くまなく青銅製のワルキューレ相手では力の乗っていない攻撃は有効打になり得ないし、当然それに怯むこともない。

それに数が多いので丁寧に一体ずつ相手にしていては不利になるばかりであり、その間に囲まれて集中攻撃を受けてはたまらない。

 

ここはできる限り素早く倒して数を減らさなければならない。

ならば躊躇わずに一気に防御を崩しに行き、多少強引にでも隙を作ってそこを全力で斬り付け、一撃で倒すことを狙っていく……。

それがシエスタが自分なりに考えて選択した戦い方だった。

そのためにフェイントなどの技巧を駆使しない、全力で振り抜く攻撃ばかりの大味な戦い方になっているのだ。

 

シエスタは敵を仕留めた余韻に浸る間もなく、すぐに残る二体に対峙しようと体の向きを変えた。

しかし振り向いた時には既に一体が目と鼻の先にまで迫っており、今まさに殴りかからんとして盾を振り上げていた。

 

「………っ!」

 

慌てて地面に転がるようにしてどうにかその攻撃は避けたが、そこに残る一体がすかさず拳を繰り出す。

シエスタはとっさに革鎧の小手の部分をその腕の内側に叩きつけるようにして拳の軌道を逸らし、どうにか凌いで体勢を立て直した。

だがその時には既に距離の離れていた二体もシエスタの後ろに回り込んでおり、すっかり態勢を整えたワルキューレたちに取り囲まれてしまっていた。

 

これでは、もうこの囲みから抜けるのは難しい。

今と同じことをやろうとしても、一体に飛び掛かればすかさず残り三体が背後から襲ってくるだろう。

 

(よ……、よし!

 少し冷や汗をかかされたが、これで何とかなる!)

 

ギーシュは内心で安堵する。

 

まさか平民の、それもただのメイドがこれほどの使い手だとは思ってもみなかったので、ワルキューレを次々と撃破された時は少々焦った。

だが先程ワルキューレ二体がかりでの攻撃を切り抜けた時は相当際どい様子だったから、こうして四体で囲んで攻撃すれば流石に避けきれはしまい。

いかに動きが速かろうが太刀筋が鋭かろうが、革鎧を着ただけの生身の人間。青銅の拳や盾が直撃すれば痛みで動きが鈍るはずだ。

そこへ周囲から数発追撃を入れてやれば一気に逆転、勝負を決められる。

 

だが、ここで気を抜いてまたワルキューレを失えば今度こそ勝利が危うくなるだろう。

ギーシュはここまでの反省から今度は余裕ぶった態度も取らず、周囲を取り囲み終えると即座に杖を振って一斉に攻撃を仕掛けさせた。

 

シエスタは正面から盾で殴ろうとしてきた一体のワルキューレの懐に、姿勢を低くして飛び込んだ。

攻撃を仕掛けようと盾を掲げたために隙だらけになった脚から腰に掛けて、一気に斬り上げるようにして倒す。

そしてその勢いのまま、身を捩るようにして横へ飛んだ。

シエスタに迫っていた一体のワルキューレの拳は間一髪で脇を掠め、今倒した相手の体を打つ。

 

だが、身を捩りながら飛び退いた先に向かってきた、もう2体の攻撃はかわせない。

シエスタは咄嗟に体を捻って、斜め前方から向かってきたワルキューレの拳をかろうじて防具の硬い部分で受け止めた。

しかし、背後から迫っていたもう一体が、脇腹を盾で強く殴りつけた。

 

たかが革の防具などでは殺しきれない威力の、常人なら体を折って悶絶するような強烈な一撃だった。

シエスタは攻撃を受けたと悟った瞬間、思わず目をぎゅっとつぶって襲ってくるであろう痛みを必死にこらえようとした。

 

だが。

 

(……………、えっ?)

 

シエスタは、覚悟していた苦痛が無い事に気が付いた。

 

受けた攻撃が決して弱いものでなかったことは間違いない、それは感じ取れた。

だが、その攻撃は実際のダメージをまるで伴わない、形ばかりの痛みと衝撃しかもたらさなかったのだ。

まるで毛布を何重にも分厚く体に巻き付けた、その上から殴られたかのように。

 

(これも、あの人の歌の………?)

 

シエスタはワルキューレたちがここぞとばかりに追撃を掛けようと向かってくるのに気が付くと、困惑を振り捨ててぎゅっと剣を握り直した。

自分を殴りつけた背後のワルキューレを蹴り退け、正面で拳を振り上げたワルキューレの脇をその勢いで駆け抜けざまに斬り捨てる。

相手は苦痛で身動きが取れまい、と油断しきっていたギーシュは、まるで痛みなど感じさせないその素早い動きに全く反応できなかった。

 

「ばっ……、馬鹿な!?」

 

シエスタはギーシュが狼狽して指示を出せないでいる間に、素早く踵を返して先程自分を殴りつけた背後のワルキューレも袈裟懸けに斬り捨てる。

ギーシュは我に返ると、慌てて最後に残ったワルキューレを戻らせ、自分をガードするよう命じた。

 

だが、今更守りを固めたところで、ワルキューレは既に残り一体。

連携作戦も取れない以上、もうギーシュに勝ち目はない。

血気に逸ったシエスタはそう確信し、一気に片を付けようと突進していった。

今の自分に勝てるものなどいるのだろうか? 

歌のもたらす高揚感も手伝って、そんな考えさえ、心に浮かんでくる。

 

つまるところシエスタは、やはり素人であった。

 

一流の戦士ならば、単純な動きしかできないゴーレム同士での連携よりも、ゴーレムとメイジの連携の方がずっと脅威であることを失念したりはするまい。

加えて、後がない状況に追い詰められた敵は往々にして覚悟を決めて、最後の激しい抵抗に出てくるもの。

そこへ攻め込んでいかねばならないこの状況は、先程までと同様心してかかるべき正念場であり、決して消化試合などではないのだ。

 

敵に対する然るべき敬意、すなわち警戒心を忘れたものは、往々にして手痛い代償を支払わされることになる。

 

シエスタはギーシュの前で盾を掲げて防御姿勢を取ったワルキューレに突撃すると、盾で守られていない側面から一気に斬り裂きにかかった。

狙い過たず、刃は防御姿勢を取ったまま棒立ちのワルキューレに食い込んでいく。

 

事前に防御の態勢を整えていたにも関わらず、全く反応せずに棒立ちで両断されていくワルキューレを見て、シエスタは一抹の不安を覚えた。

今のは、攻撃に対する反応が間に合わなかったのではなく、最初から対応させる気が無いように見えた。

最後に残った一体のゴーレムで必死に対抗しようとせず、操作を放棄した?

 

と、すれば、

それは、つまり………。

 

「……あ……、っ!?」

 

はっとして顔を上げたシエスタの目に、倒れていくワルキューレの陰からこちらに向けて薔薇を突きつけているギーシュの姿が飛び込んでくる。

 

その目には今までのような余裕も、気取りも、女性への遠慮も……、そして焦りも、狼狽も感じられない。

シエスタが駆け寄るまでの数瞬の間に、ギーシュは相手の強さを認め、これまでの自分の数々の慢心と自惚れを反省した。

そして勝敗はどうあれ、ただ最後まで全力を尽くそうという覚悟と決意とを固めた。

 

その、闘志の炎だけが燃えていた。

 

何か対応せねばとは思えど、全力で振り下ろした刃がまだワルキューレの体に食い込んだままで、満足に身動きが取れない。

背後のギーシュの動向に対してまるで無警戒であったために、完全に意表を突かれた。

 

「――――この時を待っていた! くらえ、『石礫』だァーー!!」

 

杖の先から飛び散った多数の薔薇の花びらがそれぞれ石礫に変化し、高速の散弾となってシエスタに襲い掛かる。

ギーシュが最後に残ったワルキューレを囮として、残る精神力を振り絞って勝負をかけた攻撃だ。

シエスタは咄嗟に剣から手を離し、飛び退きながら顔などの急所をガードしようとしたが、間に合わない。

 

石礫は容赦なくシエスタの体を叩きつけ、何発かは鎧に覆われていない剥き出しの部分に命中した。

普通なら致命傷にはならないまでも打たれた場所が内出血を起こし、骨にはひびが入り、大きな被害を受けるであろう攻撃だ。

 

だが、ギーシュの顔には快哉の笑みは無く、緊張した面持ちのままシエスタの様子を窺っている。

 

つい先程同じような状況で油断して反撃を受け、ワルキューレを壊滅状態にさせられた件を忘れるほど愚かではない。

もっとも、これに耐え抜かれたらもう油断もくそもなく、精神力もほぼ尽きているしこれ以上打つ手もない自分の負けは確定なのだが……。

例えそうなるとしても、油断した無様な姿を晒して負けたくはなかった。

 

果たして彼が懸念したとおり、シエスタは無事であった。

石礫にまともに撃たれても顔をしかめて一瞬怯んだだけで、やはり倒れなかったのだ。

ギーシュの最後の攻撃も、ディーキンの『武勇鼓舞の呪歌』による守りを打ち破るには至らなかった。

 

苦痛に怯まないだけならまだしも、剥き出しの肌をあれだけ打たれても傷ついた様子さえないのは不思議だったが……、

どうあれ、この期に及んで抗議や言い訳などは無様なだけだな。とギーシュは自嘲して、疑問を頭から追いやった。

 

「……まいった、僕の負けだ」

 

ギーシュは杖を捨て、降伏した。

 

それを見た周囲の観衆からどよめきや歓声、野次などの様々な反応が巻き起こる。

ディーキンもひとつ頷いてにこりと笑みを浮かべると、クライマックスを弾き上げて演奏を終えた。

 

だがシエスタは呆然とした様子で打たれた部分を撫で、それから捨てられた杖と手放した剣とを交互に見て……、

やがて、ゆっくりと首を横に振った。

 

「………、いいえ……、いいえ、ミスタ・グラモン。

 私の負けです、ありがとうございました」

 

そう言って深々とギーシュに頭を下げ、次いで背後のディーキンの方を振り返って、同じように頭を下げた。

せっかく応援してもらったのに勝てなくて申し訳ありません、というように。

 

ギーシュは呆気にとられ、ディーキンは二、三度まばたきして首を傾げた。

周囲の観衆も、あまりに思いがけない展開の連続にがやがやと騒ぎ、首を傾けながら決闘の当事者たちを見守っている。

 

「……い、いや、何を言っているんだね?

 誰が見ても君の勝ちだよ、残念だが僕にはもう、戦う力は残っていないんだ……」

「いいえ、私はミスタ・グラモンが杖を捨てられるより先に、思わず自分の剣を手放してしまいました。

 杖を失ったメイジが負けとなるのなら、剣を手放した平民も同じのはずです」

 

シエスタはそう言って静かにギーシュの方に歩み寄ると、先程彼が落とした杖を拾って、もう一度頭を下げてからそれを差し出す。

 

その敗者らしい礼儀と顔に浮かぶ力のない微笑みを見て、ギーシュにもシエスタがおためごかしなどではなく、本心からそう言っているのはわかった。

だが、それであっさり納得して喜べるほどには彼のプライドは安くない。

ギーシュは差し出された杖を受け取らずに、悔しげに顔をしかめてシエスタを睨んだ。

 

「待ちたまえ、そんなことは事前に決めていなかったはずだ。

 剣を手放したと言っても君は無傷で、僕にはもう、戦える力が残っていない。悔しいが、素手で君に勝てないのは、やってみなくてもわかる。

 誰が見ても君の勝ちさ。君が勝者として僕の降伏を受け容れてくれない限り、その杖を返してもらうわけにはいかないよ」

「いいえ、私がミスタ・グラモンと戦えたのは、ディーキン様が応援してくださっていたからです。

 それなのに……、それに最後まで全力で戦うとお約束したのに、それを忘れて、私は、……」

 

シエスタは口篭もって俯いた。

悔しさに唇をかみしめ、少し震えて、目に涙まで浮かべている。

 

彼女がこの戦いを自分の負けだと感じたのは、本当を言えば剣を手放したから、などという形式的な理由からではなかった。

 

ギーシュは、誰が見ても自分の負けだと言った。

だがそれ以前に、もしディーキンの歌による援護がなければ、自分はとっくに倒されている。

他の誰が知らなくても、自分にとっては明らかなことだ。

 

他人の援護のお陰で戦えているだけだと知りながら、最後には慢心し、自分のものでもない力に思い上がってしまった。

虚栄と傲慢の罪に塗れてしまった。

その結果が、あの被弾である。あれは、歌の力によって守られていなかったら、致命的だっただろう。

苦痛こそ殆どなかったが、精神的なショックは大きかった。

最後まで全力でお相手しますなどと約束しておきながら、あんな不義で、恥知らずな考えを胸に抱いてしまった自分が許せなかった。

 

望外の助力まで得ておきながら、なんという無様な体たらくか。

こんなことで、どうして他人の不義を咎める事などできようか。

 

「……………、」

 

ギーシュは神妙な面持ちで、そんなシエスタの姿を見つめた。

何故ここまで彼女が落ち込んでいるのか、どうして勝ちを受け容れないのか、彼ははっきりと理解はしていなかった。

 

ただ一つだけ確信したのは、このメイドが高貴な心を持っているという事。

おそらくは、貴族である自分以上に――――。

 

「……分かった、それではこの戦いには勝者はいないということだ。

 それでも、たとえ君が勝者でなくとも、僕が敗者である事は変わらない事実だ」

 

そうきっぱりと宣言すると、人ごみの中にモンモランシー、ケティの姿を見つけて、詫びの言葉を述べてから深々と頭を下げた。

それからシエスタとディーキンにも向き直って、同じように。

 

「すまない、2人とも、僕が悪かった!

 ……君たち2人に責任を負わせようとしたのは、僕が間違っていた。この通りだ!」

 

それを聞いてシエスタはハッと顔を上げると、慌てて自分も礼を返した。

 

「そ、その……、私の方も、貴族様に逆らうような事をしてしまって申し訳――――」

「いや、あれは悪いのは僕の方だった。君に非はない」

 

ギーシュはその言葉を押し留めると、剣を拾ってシエスタに差し出した。

 

「君は自分が敗者だと言うが、今、僕が非を認められたのは君の……、いやあなたのお陰だということを忘れないでほしい。

 そのあなたが堂々と胸を張っていてくれないと、僕がますます惨めになるだろう?」

「あ………、は、はい!」

 

2人がそれぞれ剣と杖を差し出して交換すると、誰かが拍手を始めた。

それを皮切りに、すっかり静まり返って事態を静観していた観衆から満場の拍手と喝采が沸き起こる。

 

ディーキンは何か場に合った演奏をしようかとリュートに手を掛けたが、周りの様子を見てもうその必要もないと悟ると、自分も拍手に加わった。

 

こうして、誰も傷つかず、誰もが勝者であり敗者であるという、奇妙な決闘は幕を閉じた。

後にディーキンによって詩の形にされ、永く歌い継がれることになる物語を残して………。

 





アニメイト・インストゥルメント
Animate Instrument /動く楽器
系統:変成術; 2レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に1分
 目標となった楽器1つに自動的に演奏する能力を与え、効果持続時間中に術者の演奏を引き継がせたり、術者の代わりに演奏させることができる。
その際の<芸能>判定には術者と同じ修正値を使用する。
これによって呪歌の効果を発揮させることも可能であり、通常は精神集中を要する呪歌であったとしても術者自身の精神集中は不要である。
非魔法の楽器でさえあれば種類は何でもよく、手持ち式の楽器であれば持ち運ばない場合にはその場に浮遊して演奏を行う。
楽器がダメージを受けた場合にはこの呪文の効果は終了する。

サモン・インストゥルメント
Summon Instrument /楽器の召喚
系統:召喚術(招来); 0レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:0フィート
持続時間:術者レベル毎に1分
 術者は任意の手持ち式の楽器1つ(呪文の完成時に選択する)を手中または足元に招来する。
この楽器はごく普通の品質のものだが、術者自身にしか演奏できない。

武勇鼓舞の呪歌(Inspire Greatness):
何らかの<芸能>技能のランクを12ランク以上持っている、9レベル以上のバードが使用可能。
術者が選択した目標は疑似的に2レベル上のファイターになったかのように、攻撃ロールおよび頑健セーヴへのボーナスと、一時的ヒットポイントを得る。
また、ヒットダイスを参照する効果に対しても、本来より2ヒットダイス分高いものとして扱われる。
一時的ヒットポイントが残っている限り、ダメージを受けてもそちらが減るだけで、本来のヒットポイントを失うことはない。
本文中でシエスタがギーシュやワルキューレの攻撃を受けても傷つかなかったのは、この一時的ヒットポイントによるものである。


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第二十一話 Paladin

 

 オスマンとコルベールは学院長室から『遠見の鏡』で決闘の一部始終を見終えると、顔を見合わせた。

 鏡面に映し出されたヴェストリの広場では、未だ鳴り止まぬ拍手と歓声が続いている。

 2人の少し後ろの方で、『眠りの鐘』を用意して戻っていたロングビルも興味深げにその光景に見入っていた。

 

「オールド・オスマン、あのメイドが勝って……、あ、いえ、勝負無しということにはなったようですが……」

「うむ……」

 

 驚きの表情をありありと顔に浮かべたコルベールとは対照的に、オスマンにはさほど動揺した様子がない。

 ロングビルはそれをじっと見て、疑問を口にした。

 

「あの、学院長は……、こうなることを見越しておられたのですか?」

「ん? 何故そう思うのかね、ミス・ロングビル」

「それは、あまり驚かれた様子がありませんし……、これをすぐ使えと言われなかったのも、不思議に思っていましたから」

 

 そういって、折角運んだというのに出番のなかった掌中の小さな鐘を示す。

 まあ自分にとって本当に重要なのは宝物庫へ入る口実の方だったので、無駄足だったなどとは思っていないが。

 

 オスマンは長い白髭を少しさすると、首を横に振った。

 

「まさか。こんなもん読めておったわけがなかろう。年を取ると大概の事では動揺を見せなくなるというだけじゃよ、ちゃんと驚いておるしそれなりに感嘆もしておる。……ま、その鐘を使わねばならんような大事にはなるまい、とは思っておったが……」

 

 オスマンはそう言ってロングビルとの会話を打ち切ると、鏡面を見ながら何やら物思いに沈んでいく。

 

 ロングビルはまだ釈然としなかった。

 このエロ爺がセクハラ発言のひとつも無しにさっさと会話を済ませるとは、一体何にそれほど注目しているのだろうか?

 

 ……まあ、いいだろう。

 気にはなるが、今は絶好の機会。

 単なる好奇心を満たすよりも先に、もっと重要な事を成すべきだ。

 

「それでは、私はこの鐘を宝物庫に戻してまいりますわ」

「うむ……。すまんが、そうしてくれ」

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 一方ヴェストリの広場の方では、盛り上がりが一段落したところでやっと教師たちが介入し、生徒らを促して授業に向かわせだす。

 もう昼食時間はとっくに過ぎ、午後の授業を始めなければならない時間になっていた。

 

 ディーキンは自室へ戻っていくシエスタの後姿をじっと見送ってから、ルイズのところへ向かった。

 

 そして、いろいろ質問したそうなルイズを押し留めると、自分は応援した手前もうちょっとシエスタと話がしたいし、他にも色々やりたい事があるから午後の授業への同行を免除してもらえないだろうか、と願い出た。

 

「はあ? ちょっと、何言ってるのよ! 勝手にまたこんな目立つことをしておいて、この上まだ何の説明もしないで、私を放って……」

 

 ルイズはルイズで今の決闘の成り行きとかについていろいろと聞きたいことがあったし、今日は使い魔の顔見せの日でもある。

 おまけに仮にも使い魔が御主人様を放って、あのメイドとこれ以上一緒にとか……、とにかく、色々と不満だ。

 

 したがって怒鳴りつけて即座に却下しようとしたのだが、ディーキンは怯まなかった。

 さりとて自分の要求は正当で認められて当然なのだというような偉ぶった態度を取るわけでもなく。

 ただ普通に彼女の言い分を聞いて謝るべきところは謝りつつ、それでもあえて自分がそうしたい理由を説明して、根気よく交渉する。

 

 シエスタには決闘に関わらせてもらった縁があるのに、何も言わずにさっさと別れるのは礼儀に反すると思う。

 ルイズが聞きたいことは同じ部屋で過ごしているのだし今夜にでもちゃんと話すから、それまで待ってほしい。

 教師への紹介は今これだけ目立っていたのだからどうせ顔も名前も知れ渡っただろうし、無用だろう。

 むしろ今ディーキンが教室に行ったら、きっと決闘の件で注目されて生徒らに騒がれる。

 そうすると授業の邪魔になって、教師からの心証が悪くなるかもしれない……。

 

「それに、あの人との約束通り、今の決闘の歌も考えなきゃいけないし。もしかして考え事に夢中になって鼻歌とか口ずさんだりしたら、迷惑だろうからね。ディーキンが教室にいないことで他の人達がルイズを嗤うのなら、何故いないのか説明してやればいいの。それでも分かってもらえないようなら、後でディーキンがちゃんとその人に説明して、分かってもらえるようにするから。……ね、どう?」

「う、うーっ……」

 

 もしディーキンが感情的に怒鳴り返したり、自分の要求は認められて当然、お前の意見は愚かだ……とでもいうような態度を取ったりしていたなら。

 おそらくルイズは激怒し、正規契約をしていないとはいえ、仮にも使い魔である者の不従順に対して罰を言い渡していただろう。

 

 しかしながらルイズは癇癪を起こしやすく独占欲が強い反面、真摯に誇りを重んじる貴族でもあるのだ。

 頭を下げて許可を求めに来て、落ち着いて交渉している相手を一方的に怒鳴ったり無下にするような真似はできない。

 そう言った点が以前の主人であるタイモファラールに似ていなくもないので、ディーキンにとっては懐かしいというか、対応し易かった。

 もちろん邪悪で気まぐれなタイモファラールに比べれば、ルイズは遥かに話の分かる相手だが。

 

「……分かったわよ、あのメイドもあんたにお礼とかいいたいだろうし……」

 

 ディーキンは相手の立場や考えを尊重して、軽々に批判したり見下したりはしない。

 かといって卑屈になるわけでもなく、自分の意見はしっかりと主張してくる。

 ルイズとしては内心複雑ではあったが、ともかくディーキンが自分の事を軽んじていないのは理解できたし、彼女にとってはそれが一番大切な事だった。

 

 本当はまだ不満はあるし、メイドのところへ行く前にまずこっちに説明してからにするか自分も同行させろ、くらいは言いたいところなのだが……。

 そんなことをしていたら、授業に遅れてしまう。

 基本的に真面目な性格かつ実技が壊滅状態なルイズには、やむにやまれぬ事情があるわけでもないのに授業をサボる事などできない。

 

 それゆえ、渋々ながらディーキンの言い分を認めることにしたのだった。

 

「ただし、夜までには絶対に戻って来なさい。約束通り説明してもらうからね!」

「もちろんなの。ディーキンはお泊りなんてしないよ?」

 

 

 そんなこんなでルイズと別れると、ディーキンはさっそくシエスタの部屋に向かった。

 彼女が中にいる気配があるのを確かめてから、扉をノックする。

 

「………?」

 

 シエスタは部屋に戻ってしばしぼうっと物思いに耽った後、鎧を脱いで着替えをしている最中だったが、ノックの音を聞いて首を傾げた。

 

 学院の教師がやってきたのだろうか。罰を申し渡されるのならば、受け入れなくてはなるまい。

 理由はどうあれ自分は貴族に逆らい、決闘などを承諾して規律を乱す真似をしたのだから。

 でなければ、使用人仲間の誰かか……。

 

「はい、どなたですか? 少しお待ちください。取り込み中なので、終わりましたらすぐに――――」

「ディーキンはディーキンだよ。わかったの、ええと、3分間くらい待ってればいいかな?」

「! ……ディ、ディーキン様? す、すみません、すぐに開けます!」

 

 シエスタはディーキンの声が聞こえるや、あたふたとドアを開けると膝をついて恭しく頭を下げた。

 たとえ貴族に対してでも、ここまで畏まった態度を取ることは滅多にないだろう。

 まあ、ドアの前で待たせるよりも、上着が脱げかけた姿で応対する方が礼儀にかなっていると言えるのかどうかは、また別の問題ではあるが。

 

 一方突然そんな態度を取られたディーキンはきょとんとして、自分の目線と同じくらいの高さにきたシエスタの頭を見つめながら首を傾げた。

 

「……アー、ええと……、シエスタ、もしかしてさっきの決闘で耳がおかしくなったの? ディーキンはディーキンだよっていったの。別にディーキンは王様だからぺこぺこしろとか、言ったわけじゃないよ?」

 

 そういってもシエスタは顔を伏せたまま、畏まった態度で返答を返す。

 

「それは……、だって、あなたは私を救ってくださった方です。それに、天使様ですから――――」

「……うん? ええと、もしかして、おかしいのはディーキンの耳の方だったのかな。シエスタは今、『天使』って言ったの?」

「はい、そうです。ディーキン様は、天使様なのでしょう?」

 

 シエスタはそう答えると、ますます恭しく、深く頭を垂れた。

 

 その態度には、決してお世辞や冗談などではない本当の崇敬の念が感じられる。

 どうやら本気でそう信じ込んでいるらしい。

 

 一方、ディーキンは目をぱちくりさせた。

 

 天使とはフェイルーンでは主にエンジェルを、広義ではそれも含めて善の来訪者であるセレスチャル全般を指す言葉だが……。

 言うまでもなく、コボルドはその中に含まれない。

 

 ディーキンは少し考えるとおもむろに屈み込み、シエスタの顔を下からじーっと覗き込んだ。

 

 シエスタは突然の事に驚いてどぎまぎした様子でさっと目を逸らす。

 ディーキンは横を向いたシエスタの顔の前にささっと回り込むと、今度は爪の生えた指でシエスタの目蓋を広げて目の奥まで覗き込む。

 更に額と額を当ててみたり、頬を撫でてみたり――――。

 

「……ななな……!? あああの、何をされてるんですか??」

 

 シエスタはディーキンの行動にどぎまぎして、顔を赤くしたり、目を白黒させたりしている。

 

「ンー、見た感じ目は普通だし、熱とかもなさそうだけど……。ディーキンが天使に見えるってことは、目がおかしいか、頭がぼーっとしてるかじゃないかと思ったの」

「……え、あの?」

「アア、それとももしかして、シエスタは天使の血を引いてるけど、天使の出てくる物語は聞いたことないとか? 天使っていうのは綺麗で、きらきらして、ふわふわして……、言うことがいつも、真面目で完璧な感じなんだよ」

 

 ディーキンはそこでエヘンと胸を張る。

 

「ディーキンはそりゃ美男子だけど、光ってないし、ごつごつしてるし、ジョークだって言えるからね。天使じゃなくてコボルドの詩人なのは、確定的に明らかだよ。すごい英雄と悪いドラゴンとじゃ、同じ格好いいのでも感じが全然違うでしょ?」

 

 シエスタはそれを聞いて当惑したように視線を泳がせ、そわそわと身じろぎした。

 

「そんな、でも。それは、その……」

 

 嘘です、と言いかけたが。

 天使を嘘吐き呼ばわりするなど非礼の極みだと慌てて口を噤み、顔を伏せて、正しい言葉を探す。

 

「………本当の事ではない、と思います。きっと深い考えがあって隠されるのでしょうけど、私には、わかりますから――――」

 

 ディーキンの方は、それを聞いて困ったように肩を竦めた。

 どうも何か大きな誤解をされているようだが、原因はなんなのだろう?

 

「ええと……、ディーキンはシエスタに、隠し事なんかしてないの。それじゃシエスタは、なんでディーキンを天使だと思うの?」

 

 そう尋ねると、シエスタはよく聞いてくれたと言わんばかりにばっと顔を上げて、熱弁を始めた。

 

「だって、天使様の言葉を使っておられて、それで私を助けてくださったじゃないですか! ひいおばあちゃんが少しだけ習っていて、聞かせてもらったことがあります。一度聞いたら絶対忘れられない響きです。何よりグラモン様が心を改めてくださったのも、あなたがおられたお陰です。私を助けてくださるため、正義を護るために神様が遣わしてくださったのでなければ、なんなのですか? いえ、それ以外ありえません!」

 

 素晴らしい美少女が頬を上気させ、上着が少し肌蹴た状態で、自分に向けてあからさまに憧れとか畏敬とかの念が篭った笑顔を浮かべている。

 人間の男だったら誤解を正すのなんかやめて手を出してしまいそうな状態だが、幸か不幸かディーキンはコボルドである。

 

「……あー、なるほど。シエスタが信じてることは、分かったよ」

 

 どうやら、ワルキューレとの戦いの際に呪歌と共に用いた《創造の言葉》が、誤解を招いた主たる要因であるようだ。

 

 それは世界創造の時に用いられたという失われた言葉であり、現在のセレスチャルが話す天上語の前身であるとも言われている。

 その断片だけでも知っている者は既にセレスチャルの中にも少ないそうだが、シエスタの曾祖母はたまたま学んだことがあったのだろう。

 そんなものを用いて自分を手助けしてくれたとなれば、誤解されるのもやむなしか。

 

 それにしたってコボルドを天使だの神の使いだのと考えるのは極端だとは思うが……、まあ、善良で信心深い人なら、そんなものなのかもしれない。

 ディーキンはとりあえずシエスタを促して室内へ入り、向かい合うように椅子に腰かけて説明を始めた。

 

「じゃあ、ひとつずつ説明させてもらってもいいかな? まず、シエスタがなんて言ってもディーキンはやっぱり天使じゃないし、別に神さまのお使いとかでもないの」

「で、ですが、それなら………」

「さっき歌う時に使った言葉は、シエスタのひいおばあちゃんと同じで、天使から習ったんだよ。ディーキンは天使じゃないけど、天使の知り合いはいるからね」

 

 それから、どういう経緯でそうなったのかを、リュートを爪弾きながら語り聞かせる。

 

 アンダーダークで大悪魔メフィストフェレスの罠にかかり、ボスと一緒に一度は死んで、地獄へと送られた事。

 そこで、遥か昔から想い人を待って眠り続けていた、『眠れる者』と呼ばれる偉大な天使、プラネターに出会った事。

 ボスの尽力あってついに目覚めて想い人に巡り合うことができ、深く感謝してくれた彼とは地獄を逃れた後にも交友が続いた事。

 そして年古く強力な天使ゆえに太古の言葉にも通じていた彼が、ディーキンが詩人であることを知って《創造の言葉》の秘密を教えてくれた事――――。

 

 シエスタはそれらの話に、熱心に聞き入った。

 

 地獄に送られてなお、悪魔を討って生還してくる英雄たち。

 想い人を求めて天上の楽園を去り、寒く昏い地獄の果てで待ち続けた天使。

 

 そんな人たちと一緒に旅をすのは、どんなに素晴らしい事だろう。

 一体、どこまでが本当の話なのか……、嘘をついているとかではなくて、きっと物語だから脚色もあるのだろうけど……。

 

「―――――とまあ、そういう感じなの。だから頭とか下げられてもディーキンは困るの、わかった?」

「えっ、あ……、は、はい!」

 

 物語の世界にすっかり入り込んで夢想に浸っていたシエスタは、慌てて返事をする。

 それから、そっと頭を下げて、言葉を選びながら訥々と続ける。

 

「その、お話、ありがとうございます。……ディーキン様が天使でないことは、分かりました」

 

 どこまでが本当の話なのかはわからないが、天使に出会って学んだというのはきっと本当なのだろう。

 目の前の人物が、種族としては天使ではないのは納得できた。

 

 しかし………。

 

「ですが、私とグラモン様を救ってくださった方であることは変わりません」

 

 シエスタにとっては、最善のタイミングで手を差し伸べて、すべてを上手く行かせてくれたのがディーキンだ。

 天使であろうがなかろうが、彼の介入は、シエスタにとっては偉大で慈悲深い神や運命の導き以外の何物でもなかった。

 

「……それに……、いえ、つまり、ですからやはり、あなたは私にとっては恩人で、神様の御遣いなんです!」

 

 あくまで敬いの態度を変えないシエスタに、ディーキンはちょっと顔を顰める。

 

「ンー……、それはシエスタの考え違いじゃないかな。お礼を言ってくれるのは嬉しいけど、いくつか間違ってると思うの」

「えっ?」

 

 ディーキンはシエスタの肩をつついて顔を上げさせると、ちっちっと勿体ぶった態度で指を振って見せた。

 ちょっと気取って講釈を始めようとする教師のように。

 

「まず、シエスタは仮に、ディーキンが神さまのお使いだったとして。もしかして神さまの手助けがなかったら、さっき自分は上手くやれなかったって思ってるの? ディーキンはただ、英雄の活躍を見逃したくなかったから出しゃばっただけなの。お手伝いなんてしなくても、結局は同じことだったはずだよ?」

 

 それを聞いたシエスタは、ぶんぶんと首を横に振る。

 

「そ、そんなわけないじゃないですか! 私があの方と……、貴族様と戦えたのは、みんなあなたのお力で―――」

「ふうん? じゃあ、シエスタは……、仮に、ディーキンが応援しなかったとして。あのワルキューレとかいうのにボコボコにやられたら、降参して謝っていたの?」

「え…? い、いえ! 間違った事に頭を下げるなんて!」

「なら、シエスタは。あのギーシュっていう人のことを、もし相手が降参しなかったら死ぬまで殴っておいて、絶対謝らない人だったと思ってるの?」

「そんな! あの方は過ちを犯されましたけれど、そんな非情な方では……」

 

 それを聞いて、ディーキンは得意げに胸を張る。

 

「でしょ? シエスタはどんなにやられても諦めたりしなかったし、相手は死ぬまで殴るような人じゃなかった。なら、ディーキンがいなくたって、シエスタは上手くいってたってことなの。ちょっと余計に怪我はしたかも知れないけど、結局最後には分かってもらえたはずでしょ?」

「そ、それは……、」

 

 返事に困って視線を泳がせるシエスタに、ディーキンは誇らしげに胸を張った。

 

「たとえ力がなくても正しい事ができるのが、本当の英雄ってもんなの。絶対にそういうものなんだから!」

 

 先程までのシエスタにも劣らず熱っぽい様子で瞳をきらめかせながら、ディーキンは熱弁した。

 シエスタと同様に頬が上気しているかどうかは、ウロコに覆われていて分からない。

 

「そ、そんな…………」

 

 自分が敬う相手から逆にそんな目で見られたシエスタは、頬を染めて口篭もる。

 

「……その。あるいは、そうかもしれません。でも、私が戦う勇気を出すことができたのはあなたが居てくださったおかげです、ですから……」

 

 なおも食い下がるシエスタに、ディーキンは腕組みして(コボルドにしては)重々しく、威厳ありそうな感じの声を作る。

 

「オホン……、『ならば、それは私の力ではない。私を見て何かを学んだというなら、それは君自身の才能と情熱のおかげだ。友よ、手柄はあるべき所に帰すべきだ』」

「……は? あ、あの?」

 

 いきなり感じが変わったのにきょとんとしているシエスタを見て、ディーキンは得意げに胸を反らせた。

 

「―――イヒヒ。今の、『眠れる者』の真似なの。似てた?」

「は、はあ……? いえ、私、その天使様の事を知りませんから………」

 

 何とも微妙な顔をしているシエスタに対して、ディーキンは少し真面目な顔に戻って更に言葉を続ける。

 

「それに、ディーキンが本当に天使とか神さまのお使いだったとしても、天使はそんな風に拝んでもらいたいとは思わないよ。彼もそういってたし、ディーキンが知ってる他の天使もみんなそうだったからね」

 

 パラディンであるボスは最初、今のシエスタのように『眠れる者』に対して敬意を表していた。

 だが、彼はそのような扱いに当惑し、自分は身に覚えのない崇拝を望まないと言った。

 彼らは真の善の化身であり、その目的は善を奨励する事であり、自分達が崇められるよりその崇拝をより偉大なものに向けさせることを願うのだ。

 

「『私はより偉大な栄光に仕える天使だ。私に価値を見出すならば、私よりも高貴な愛や美があることも知るといい』……彼は、そういってたの。ディーキンも、それに賛成なの。ボスやシエスタは大した英雄だからね、天使とかディーキンとか拝んでないで、もっと大きな目標を持って、とんでもなーく凄い人になるの。そうすればディーキンももっともっといい物語が書けてカッコいい詩が歌えるし、他のみんなも喜ぶでしょ? もしディーキンが神さまだったら、シエスタにはきっとそうしろっていうね」

 

 ディーキンはそういうとちょっと首を傾げて、シエスタの頭を撫でた。

 

「アー、だから……、つまり。まとめると、ディーキンはディーキン様とか呼ばれるのには反対だってことだよ。ディーキンはディーキンであってディーキン様じゃないからね、余計なものはくっつけない方がいいの。俺様とかって、何か悪役っぽくてよくないでしょ? 様をつけていいのは怖いご主人様とか威張った王様とかだよ、素敵なコボルドの詩人にはつかないよ!」

 

 シエスタは英雄なんだから英雄には自分より立派な存在でいてほしい、敬われても嬉しくない……、というのはまあ、本当だが。

 実のところ敬称を遠慮したい理由は、それだけでもなかった。

 

 ボスはもちろん、自分を純粋に対等の仲間として扱ってくれる。

 だが、今まで自分は、上位者として扱われた経験はない。

 コボルドをそんなふうに扱う奴は普通同族しかいないし、それにしたところで地位の高いコボルドに対してに限られる。

 礼儀作法上とかではなく本心から敬われる、などというのは初めてであって、照れ半分、困惑半分、どう対応していいのかわからないのだ。

 

 シエスタは頭を撫でられて少し頬を染めつつも神妙な、若干不満げな面持ちで話を聞いていたが……。

 やがて、微笑みを浮かべて頷いた。

 

「……わかりました、ディーキンさ……んがそういわれるのなら、きっとその通りなんだと思います。私、もっと善い事ができるように、頑張りますね」

「オオ……、よかったの。ありがとう、それならディーキンは、これからもシエスタの事を応援するよ」

 

 ほっとした感じでうんうんと頷き返したディーキンに、

 シエスタはしかし、意味ありげに目を細めると、また頭を深々と下げた。

 

「―――――はい。つきましては、そのためにも是非、あなたにお願いしたいことがあります!」

「……ウン?」

「私の先生に、なってくれませんか?」

 

 ディーキンは目をしばたたかせると、困ったように頬を掻いた。

 

「ええと、その………。どういうことなのか、ディーキンにはちょっとよくわからないけど。ディーキンと契約して魔法少女になりたいとか、そういうことじゃないよね?」

 

 シエスタは顔を上げると、にこにこ微笑みながら質問に答える。

 

「私……、先程の戦いのとき、『声』を聞いたんです。グラモン様が考えを改められて、私に剣を差し出してくださった時に――――」

「?? 声……?」

 

 ディーキンは唐突な話にきょとんとして、少し考え込む。

 が、ふと思い当って首を傾げた。

 

「ええと、それって……、もしかして『召命』の声のこと? じゃあ、シエスタは、パラディンになれって言われたの?」

「はい!」

 

 その時の事を思い返して興奮と喜びに目をきらめかせているシエスタを見て、ディーキンはようやく得心がいった。

 

 いくら天使の言葉を話したにしても、恩人であるにしても、ちょっと態度が極端で大げさすぎやしないかと思っていたが。

 なるほど、この状況に加えて更にこれまでの人生を一変させるような出来事まで重なったとなれば……。

 それに大きく関わったディーキンの事を、自分に遣わされた天使かなにかだと思い込むのは無理もない話だ。

 

 実際、これはシエスタにとっては確かに運命的なものなのかもしれない。

 多元宇宙に働く何らかの意志が、しばしばそのような導きをもたらすことは、ディーキンも知っていた。

 

 とはいえ………。

 

「ウーン、つまり、シエスタはディーキンにパラディンになるための勉強を教えてほしいってこと?」

「そうです、私はまだぜんぜん力もありませんし……、パラディンの事も、おばあちゃんを見て教わった事以上には知りません。あなたの望まれるような英雄になるためにも、せひ私の先生になってください!」

「いや、ええと……、ディーキンはバードなの。パラディンじゃないよ。バードとパラディンっていうのは、プレインズウォーカーと頑固爺さんくらいに違うの」

 

 ディーキンはよく分からない例え話をして、シエスタの願いを断ろうとした。

 

 バードには、パラディンのような生き方はできない。

 パラディンの生き方が善き規律に支えられたものであるのに対し、魂に訴えかけるバードの旋律は自由な魂から生まれるものだからだ。

 少なくともフェイルーンで、パラディンになるための訓練でバードに師事する、などという話は聞いた事もない。

 

「ディーキンは、たまにボスみたいになるか試すの。立派なことだけ考えて、それから、神聖でいようと頑張ってみて……、でもすぐおかしなことを考えて大笑いしちゃうの、それがけっこうつらいんだよね。だからディーキンは、シエスタの考えてるみたいな立派なパラディンのための先生にはなれないと思うの」

「いいえ、ひいおばあちゃんだってよく笑ってましたし、その『ボス』という方も、あなたのお話からすると朗らかな方なんでしょう? 真面目に生きるということは、決して朗らかさをなくすことと同じではないと思います。それに、あなたは素晴らしい英雄の方と旅をされていたし、天使様ともお知り合いなのですから。その方々の生き方を、もっと歌や話にして聞かせてください。私にとってはそれが、素敵な勉強になると思います。剣とか、その他の訓練は……、もし教えてくださることができないのでしたら、自分で頑張りますから!」

 

 それでもなお熱心に頼んでくるシエスタを見て、ディーキンは困ったように首をひねる。

 

「ン、ンー……、それは、ぜひ聞いてほしいけど……。別に先生とかでなくてもディーキンはいつだって喜んで聞かせるし、パラディンの訓練なら他に、いい人がいるんじゃないかな?」

 

 大体、バードとパラディンは進む道も違えば、能力的にもほとんど似つかない。

 どちらも魅力に優れ、交渉などの才を持ち合わせてはいるが、共通点と言ったらせいぜいその程度だろう。

 

 パラディンは若干の信仰魔法を用いる戦士、バードは秘術魔法を使う何でも屋だ。

 普通に考えれば同じパラディンに師事するのが最善だろう。

 そうでなければ、剣の訓練をするならファイターとか、信仰を鍛えるならクレリックとかが、おそらく適任のはず。

 

 渋るディーキンに対して、シエスタはぶんぶんと首を横に振った。

 

「いいえ! ……いいえ、そんなことはないです。何と言われようとあなたは私の恩人で、私に可能性を掴ませてくれた憧れなんです。私はあなたよりも自分の先生に相応しい方なんて知りません!」

「う! うーん?? そ、その、そんなことはないと思うけど、ありがとう。ディーキンはなんだか、すごく照れるよ……」

 

 詰め寄らんばかりの勢いで熱弁してくるシエスタに、ディーキンもたじろいでいる。

 

「この学院におられるのはメイジの方ばかりです。みんな貴族としての誇りを重んじられる立派な方々です、けれど、パラディンの教師に向いておられるとは思いません。学院の外でも、強い方と言ったら大体メイジの方ばかりで……、剣を使うのは傭兵とかだけですし、そんなすごい達人とかは、私は知りません。それに私は、ひいおばあちゃんの他にはパラディンは一人も知りません。ひいおばあちゃんはきっと、この世界には『声』が届かないんだろう、っていってました」

「アー…、そうなの?」

 

 初耳だが、よく考えればこの世界にはバードもクレリックもいないのだった。

 メイジの力が支配的で、かつ系統魔法と先住魔法しか知られていないというのだから冷静に判断すればパラディンだっているはずがない。

 

 シエスタにだけは召命の声が聞こえたというのは、彼女がアアシマールであることを考えればそれほど不思議な話でもあるまい。

 パラディンたり得るものはフェイルーンでも希少だが、天上の血を引くアアシマールにはすべからくその適性が備わっていると言われている。

 

 剣の力についても、確かに昨夜読んだ本ではほとんど触れられていなかった。

 おそらくフェイルーンの古の魔法帝国アイマスカーなどがそうだったように、この世界では剣の技は廃れてしまっているのだろう。

 強いファイターは滅多におらず、概ね低レベルのウォリアーくらいしかいないのだとすれば、シエスタが長期的に師事するのには些か不足だ。

 

 そうなると、ディーキンに教えを乞うというのもまんざら悪い選択ではなく、むしろ良い選択なのかもしれない。

 

「ウ~……、でも、先生なんてディーキンはやったことないの。ディーキンが教わった先生は気が向いた時にだけ教えてくれて、そうでないときには寝ぼけて体の上にのしかかったり……、機嫌が悪い時にはディーキンの体を麻痺させて歯を抜いたりもする、ドラゴンのご主人様だけなの」

「誰だって最初はやったことがないはずです。それにディーキンさんは、そんなひどい教え方はなさらないです、信じてます。……さっき、私の事を応援してくださるって言われましたよね? でしたら、さあ、私が立派なパラディンになるために力を貸してください。応援するって、そういうことでしょう?」

 

 シエスタは、ここぞとばかりに先程のディーキンの発言を持ち出して畳み掛ける。

 このためにいったん譲歩してみせて、言質を引き出したらしい。案外したたかな面もあるようだ。

 パラディンは邪悪な行為をしてはいけないが、最終的に善を推進するためのちょっとした計略くらいは問題ないのである。

 

 ディーキンは困った顔をして、しばし考え込んだ。

 

 別に秩序な性格ではないので口約束なんて場合によっては無視してしまうのだが、それでシエスタに嫌われたりするのは嫌である。

 かといって大したことが教えられるとも思わないし、それはそれでシエスタを失望させることになってしまわないか不安だ。

 が……、まあ、彼女に教えるのもそれはそれで確かに新しい楽しい経験になるかも知れない。

 何より彼女はボスの話を聞きたいと言ってくれたし、それはこちらとしても存分に語りたいことだ。

 

 返事は決まった。

 

「……うーん、わかったの。ディーキンは今ルイズの使い魔をしてるから、お願いしてみないといけないけど。いいって言ってもらえたら、シエスタのためにできるだけの事はするよ」

 

 シエスタはそれを聞くとぱあっと顔を輝かせて、ディーキンを思いきり抱き締めた。

 

「ありがとうございます、先生! それじゃあ、これからよろしくお願いしますわ!」

「オオォ……!? ちょっとシエスタ、痛くないの?」

 

 シエスタは今、上着がちょっと肌蹴た状態でディーキンを強く抱き締め、喜びのあまり頬ずりとかまでしている。

 人間の男なら嬉しくてそれどころじゃないかもしれないが、ディーキンは彼女の柔らかい肌が自分の硬いウロコに擦れて、傷つかないか心配だった。

 

「………!? あ、わああ! すす、すみません!」

 

 そういわれて漸くシエスタは今の自分の格好に気付くと、途端に顔を真っ赤にしてぱっと離れ、大慌てで胸元をさっと覆った。

 慌てたり緊張したり、必死に熱弁したりで、今の今まですっかり失念していたらしい。

 

「? 別に、シエスタが謝るところじゃないとおもうけど……、それよりディーキンはその、先生っていうのは――――」

「……だって先生は先生じゃないですか。これは誤解とかそんなことは関係なく、先生ですから問題ないです。学院の生徒の方々だって、みんな教師の方の事はそう呼んでいらっしゃいますわ。私だってそうお呼びしないと失礼です、ええ、絶対そうしますから」

 

 シエスタは上着をしっかりと着直すと、まだ少し頬を赤くしながらも澄ました顔で得意げにそう答える。

 結局、彼女は最終的には、ディーキンをある種の敬称で呼ぶ許可をちゃんと取り付けたのだった。

 

 

「ニヒヒヒ……、ウーン、なんか、先生になったの」

 

 仕事に戻らないといけないからというシエスタと別れたディーキンは、少しにやけながらぶらぶらと人気のない廊下を歩いていた。

 先程は突然の申し込みに困惑していたが、自分が先生などと呼ばれて敬意を払われる立場になったのかと思うと、徐々に嬉しさが湧き上がってきたのだ。

 

 様づけで呼ばれるのはどうにもむずむずするし、ご主人様みたいで遠慮したいところだが。

 先生というのは、それとはまた違う感じがする。

 どう違うのか、上手く説明はできないが……、なんにせよ、何の悪意も含みもない態度で褒められたり認められたりするのは嬉しい事だった。

 

 まあ正確にはルイズの許可を得られたらということだが、それについては後ほどシエスタと一緒に頼もう、ということに決めておいた。

 たぶん渋られるだろうが、ちゃんとお願いすれば説き伏せられる自信はある。

 

 ……そういえば、元々シエスタの部屋を訪れたのは、挨拶がてら約束の歌の件について相談しようと思っていたのだが……。

 予想外の話の展開に、すっかり元の用件を忘れてしまっていた。

 だがまあ別に急ぐ用事でもないし、彼女が生徒になりたいというのなら今後も話す機会はいくらでもあるだろうから、今はいいか。

 

「ええと……、これから、どうしようかな?」

 

 まだ大分時間はあるが、ルイズの授業には今日は出ないと言ってしまったし、図書館へでも行くか。

 この世界の事はまだまだよく分かっていない、調べたいことならいくらでもある。

 

 あるいはシエスタにどんな指導をするか考えて、その準備をしておくか。

 引き受けた以上は、しっかりとやりたいところだし。

 

「ウーン………、ん?」

 

 いろいろと考えながらふと窓の外に目をやると、妙な人物が目に留まった。

 

 タバサだ。

 

 今は授業中のはずだが、何故か空を飛んで、学院の外の方へ向かっている。

 他に生徒はいないようだし、課外学習という風にも見えない。

 遠目ではっきりとはわからないが、何だか急いでいる様子だ。

 

 ……何かあったのだろうか?

 

 こういう事があるとすぐに首を突っ込みたくなるのが冒険者の、そしてバードの、何よりディーキンという人物の性分である。

 好奇心の命じるままにぴょんと跳び上がって手近の窓を開け、外へ飛び出すと、そちらの方に向かって翼を羽ばたかせ始めた。

 





《創造の言葉(Words of Creation)》:
 高貴なる特技の一種。【知力】15以上、【魅力】15以上、基本意志セーヴ・ボーナス+5以上を持つことが習得の前提条件である。
習得者は今は失われた言語であり、現在セレスチャル達が用いている天上語の前身であると言われている『創造の言葉』の断片を扱えるようになる。
これは世界が創造された時に話されていた言葉であるとされ、あらゆる創造の手続きを強化することができる。
歌にすればいかなる地上のメロディーをも凌駕する天界の音楽の荘厳さが木霊し、それが呪歌であればその効力を倍増させる。
創作の際に用いればそれが魔法によるものであれ手作業によるものであれ、創作物をより完璧なものにする。
[善]の呪文や魔法のアイテムを発動させるときに用いれば、その効力を一層強くする。
全てのクリーチャーが持つ【真の名】を研究すれば、それを使って対象を拘束することもできる。
定命の存在には本来口にできない言語であり、用法によっては使用者は非致傷ダメージを受け、大きく消耗する。
善属性でない者がこの言葉を口にしようとすれば、直ちに発狂するか即死する。
高貴なる特技は理想的な善の道を歩んでいる者だけが、善の強力な代理人からの贈り物としてのみ習得できる。
原作でのディーキンはこのような特技は習得していない(NWNにこの特技は存在しない)し、そもそも原作終了時点での属性は真なる中立である。
しかし、本作では彼の慕う“ボス”がパラディンであるという設定になっている。
そのため、彼の影響を受けて旅の間に善の道に“戻った”(初登場時のディーキンの属性は混沌にして善だったので)ものとしている。
それと、原作中で『眠れる者』などの強力なセレスチャルと知り合っていることから、原作終了後にその筋からこの特技を習得したと設定した。

『召命』:
 パラディン(聖騎士)となるべき者がいつの日か聞く、運命の呼び声のことである。
多くのパラディンは若い頃にこの声を聞くが、必ずしもそうとは限らない。
パラディンになるとは慈悲と信念を持って悪を討ち、善と秩序を守るべしという召命の声に答えること、すなわち自分の運命を受け容れることである。
中には召命の声、すなわち自分の運命を拒否して、他の何らかの人生を送る道を選ぶ者もいる。
どれほど勤勉な者、どれほど意志の強い者であっても、この声を聞く素質無くしてはパラディンになることはできない。
出自に関係なく全てのパラディンは、この召命の導きを通して、互いの間に文化や種族、宗教さえも超越した永遠の絆を認める。
それが例え世界の反対側から連れてこられた2人であっても、自分たちは仲間だと考える。


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第二十二話 Flirtation

「あー、タバサ! まって、まって!」

 

フライの呪文で空を飛んで魔法学院の厩舎へ向かっていたタバサは、思いがけず背後から聞き覚えのある声を掛けられて、僅かに顔を顰めた。

 

今でなければむしろ歓迎する(普段の彼女を知る者にとっては驚くべきことだろうが)ところだ。

先程の決闘についてや彼の故郷の話など、聞きたいことが沢山ある。

 

だが今、自分は急いでいるのだ。

彼とのんびり話し込んでいる暇などない。

無視してしまおうか?

 

しかし、すぐに思い直した。

 

彼とは今朝から縁があるし、今後聞いてみたいことも多いし、自分の使い魔とも仲良くしてもらうつもりだ。

ここで無視したりして、印象を悪くしたくはない。

 

やむなく止まって声のした方へ向き直ったが、幸いそう待たされることはなかった。

ほんの数秒後には、声の主であるディーキンがタバサの傍に到着する。

 

その様子を見ていたタバサは、内心少し驚いた。

体格と翼の大きさの比率から見て彼は大したスピードは出せまいと踏んでいたのだが、予想外に速い。

おそらくは、最速の部類の馬にも引けを取らないだろう。

 

ちなみにディーキンがこれだけ速く飛べるのは、移動速度を増加させるマジックアイテムを常時着用しているお陰である。

本来はこの半分くらいの速度だ。

 

「何の用?」

「ンー……、ディーキンは、タバサが急いでどこへ行くのかと思ったの。

 今は、授業の時間じゃないの?」

「急用ができただけ」

 

一言だけ答えると、すぐに元の方へ向きを変えて飛ぶのを再開しようとする。

先程授業中に好奇心と気遣いから声を掛けてくれたのはありがたかったが、今は逆に迷惑だった。

一時も惜しい時に、単なる好奇心で呼び止められて無駄に時間を浪費したくはない。

 

ディーキンはタバサの相当急いだ様子を見て、首を傾げた。

 

「ウーン……、もしかして、タバサの使い魔がどうかしたの?」

 

それを聞いたタバサはぴくりと眉を動かして、飛び続けながらも背後に目をやった。

ディーキンは翼を羽ばたかせて、しっかりと自分の後ろについてきている。

 

「何故?」

「ええと、さっきのお話でタバサは、自分の使い魔が今お使いに行ってて、たぶんお昼頃までには戻って来るって言ってたよね。

 でも、急ぎの用事でドラゴンがいるなら、普通は自分で飛ばないでそれに乗って出かけるでしょ?

 ってことは、まだ戻って来てないってことなの。

 もうお昼は過ぎたのにまだ戻って来てないのなら、その使い魔に何かあったのかな、って思ったんだよ」

「………そう」

 

やはりこの亜人は鋭い、と、タバサは内心で唸った。

 

フェイルーンという地のコボルドが皆そうなのか彼が特別に優秀なのかは分からないが、観察力も洞察力も優れている。

なのに自分の使い魔ときたら……、いや、それはもう考えまい。

 

「感覚の共有で調べた。あの子は今、人攫いに捕まってる」

「……? ええと、この辺にはドラゴンを捕まえるような人攫いがいるの?

 それって、巨人とかデーモンとかなのかな」

 

ドラゴンを捕まえるというと、成体になる前の白竜(ホワイト・ドラゴン)を番犬に使う霜巨人(フロスト・ジャイアント)のような連中か……。

もしくはある種のフィーンドなら徒党を組んでそんなこともやるかも、というくらいしか想像できない。

 

そういえば前の主人も以前に霜巨人に痛い目に会わされたことがあったとかで苦手意識を持っていたな、と思い出す。

自身はといえば、カニアの氷原でその霜巨人を大勢倒しているのだが。

それでも、今の自分は前の主人より遥かに強いはずだとはまったく考えないあたりがディーキンらしい。

 

「犯人はただの人間、おそらくメイジが含まれている。

 見てなかったけど多分、人間に変身している間に騙されて捕まっただけ。

 向こうはドラゴンだとは知らないはず」

「ああ……、でも、ドラゴンなら自分で逃げられないの?

 そんなにすごい人攫いなのかな」

「あの子は経験の浅い幼い竜。

 縛り上げられたら一人で逃げるのは難しいし、周りに他にも捕まっている子がいる」

 

タバサは飛び続けながらも、淡々とディーキンの疑問に答えていく。

彼には既に自分の使い魔の事を打ち明けているのだし、事実を説明しても構うまい。

 

そうこうしているうちに厩舎の傍まで来たので、タバサは高度を下げた。

 

「つまり、タバサは自分の使い魔を助けに行くんだね。

 どこに行けばいいかは分かってるの?

 ちゃんと間に合う?」

「連中は攫った子を荷馬車で運んで、ゲルマニアに売り飛ばすつもり。

 荷馬車はちゃんとした道以外は走れないから、国境の関所を通らなければならない。

 馬でそこへ向かえばいい」

 

もちろん関所では積荷を改められるが、普段からこういった仕事に手を染めているのなら、担当の役人は買収済みなのだろう。

ならばこちらは単騎の馬で最短距離を通って先に関所へ向かい、現場を押さえて一網打尽に捕えてやればいい。

 

「オオ、なるほど……。タバサは頭いいの」

 

ディーキンはタバサの明確な方策に、素直に感心した。

 

しかし、タバサは、間に合うのかという質問には答えなかったことにもちゃんと気が付いていた。

話をする間も止まろうとしないこの急ぎようからすれば、かなり危ういのだろう。

 

実際、タバサは果たして間に合うかどうか確証が持てていなかった。

もっと早く気付いていればと、内心で歯噛みをする。

 

いくら道草や買い食いをしていたにせよ、昼食の時間を過ぎてもなお戻らない時点で、本来ならば気が付いていてよかったはずだ。

だが昼食中に突然始まった決闘に気を取られ、終わった後にもそこで見た多くの出来事について考えに耽り。

漸く自分の使い魔の事を思い出して感覚共有を行ってみた時には、既に間に合うかどうか怪しい状況になってしまっていた。

 

(いまさら悔やんでも始まらない)

 

タバサは自分にそう言い聞かせる。

 

今はとにかく全力で急ぐしかない。

それで間に合わなければ、国境の外まででも追いかけていく覚悟だ。

メイジとして自分の使い魔を見捨てるわけにはいかないのだから、他にどうしようもない。

 

ディーキンはタバサの横に並んで地面に降り立つと、厩舎へ向かおうとするタバサの袖を引っ張った。

 

「待って。……ねえタバサ、もしかして間に合わないかもしれないの?

 だったら、ディーキンがお手伝いするよ」

「………手伝い?」

 

それを聞いて、手を振り払って先を急ごうとするタバサの動きが止まった。

 

「ディーキンが、馬よりも速く移動できる方法を用意するよ。

 それと、一緒について行ってその人攫いを退治するお手伝いをするの。どうかな?」

 

それを聞いて、タバサは少し考え込んだ。

 

どんな方法なのかは想像もつかないが、この亜人がいろいろと不思議な魔法を使えるのは間違いない。

それに頭もいいし、信頼のおける人物だとも思っている。

だから馬よりも速く移動する方法を用意できると彼が言うならばそれは事実なのだろう、その点は疑ってはいない。

 

力を借りるかどうかという点についても、悩むような話ではない。

間に合わなければ使い魔の命に関わるのだ。

早く行ける方法を用意できるというのならば、むしろこちらから頭を下げてでも頼むべきところだ。

 

唯一の問題は―――――。

 

「………その方法は、あなたが一緒についてこなければ駄目?」

「ン? アー……、いや、そうでもないけど?」

「それなら、ぜひお願いする。

 けど、行くのは私一人でいい。あなたはここに残って」

 

それを聞いて、ディーキンは顔を顰めた。

 

「なんで? ダメだよ、ディーキンを連れてって!

 だって一緒に行かなかったら、あんたの物語が書けないよ。

 ディーキンは、自分の使い魔をカッコよく助けるメイジのお話が書きたいのに!」

 

タバサは抗議するディーキンに対して淡々と理由を説明する。

 

「これは私の問題で、あなたはルイズの使い魔。

 それに相手は人攫い。あなたを私のために、危険な目にはあわせられない」

 

それに彼は、賢くて奇妙な魔法を使えるとはいえ、幼児のごとく小柄な亜人である。

命のかかった実戦で、果たして役に立つのかどうかはわからない。

対して相手はメイジを擁する人攫いで、おそらくは傭兵崩れか何かの集団だ。

 

自分は一人で戦うのに慣れているし、敵の実力にもよるが奇襲をかければ十分勝てる自信はある。

ゆえに、戦力か足手纏いかも未知数な者を下手に同行させない方が間違いが起こらなくていい、とタバサは考えていた。

 

ディーキンはそれを聞いて少し首を傾げていたが、やがてまた口を開いた。

 

「えーと……、タバサはディーキンに、自分の使い魔と仲良くして欲しいって言ってたよね?

 つまり、友だちになってくれってことなの。そうでしょ?」

 

タバサが首肯したのを見て、ディーキンは続けた。

 

「だったら困ってる時に助けに行かないなんて駄目だと思うの。

 人攫いに捕まってるのに助けに行かないとか、そんな友だちがいるの?」

「別に、必ずしも自分が助けに行かなくてもいいはず。

 自分にできることをすればいい」

 

そう、何も力が無いのに無理に助けに行って殺される危険を負わなくても、自分にできることをすればいい。

 

平民なら、友人が人攫いに捕まった時は近くの貴族に知らせるとかするだろう。

それは賢明な対応であって、決して冷たい対応ではない。

自分は貴族であの子の主人なのだから、あの子を助けるのは私の役目だ。

 

「だからあなたは、私に早く行く方法を貸してくれればそれでいい。後は私が助ける」

「ふうん、それって、ディーキンにはタバサと一緒に行く力が無いって思ってるってこと?」

「そうはいわない。けど、私にはあなたの力がよくわかっていないのは確か。

 だからどのくらいあなたが助けになるのかわからないし、一人でもやれると思う」

 

ディーキンはそれを聞いて、ひとつ首を傾げるとじっとタバサを見つめた。

 

「なら、タバサは賢いし、強そうだけど、冒険者には向いてないの」

「? ……どういうこと」

「冒険者なら、みんなと力を合わせるってことだよ」

「私は、一人で戦う方が慣れている」

「ボスだって一人でも十分強いけど、自分だけで旅をしようとはしないよ。

 一人でも強い人がみんなと力を合わせたら、もっともっと強いの。

 ディーキンはボスやみんなと力を合わせてきたから、今もこうして生きてるんだよ」

 

自分一人でやれると思って単身でダンジョンへ踏み込んで行く冒険者など、ものの数分でモンスターの餌か罠の錆になるのがオチだろう。

どんなに強かろうと戦士や魔法使いには罠は外せないし、罠を外せる盗賊には護衛が必要だ。

自分の持っていない力を持っている仲間と協力できない冒険者は、生き残れない。

 

熟達した冒険者なら、多少事情は違うかもしれない。

だがしかし、どんなに腕の立つ冒険者であろうともミスは必ず犯すし、運が悪い時もあるものだ。

そうしたときにフォローしてくれる仲間がいなければ、ほんの少し歯車が狂っただけでもすぐに命を落としてしまうことになる。

ディーキンはタバサがそんなことにならないか心配なのだ。

 

それに、彼女がそれなりに強いだろうことはわかっているが、一人で何でもできるほど強いとも思えない。

敵の強さもよく分かっていないというのに、彼女一人で大丈夫だろうと高をくくってそのまま行かせるなど、ありえない話だ。

 

「―――でも、……」

 

タバサは思わず少し感情的な反論を口にしそうになって、慌てて口を噤んだ。

 

下手に彼の機嫌を損ねて、やっぱり手助けしないなどと言い出されては元も子もない。

まあ、まずそんなことはないとは思うが。

いやそれよりも、こんなふうに押し問答をしている暇はないのだ。

彼を説得するのは難しそうだし、そうしている時間もない。

どうしたものか……。

 

そんなタバサの内心を知ってか知らずか、ディーキンは更に交渉を続ける。

 

「ディーキンがルイズの使い魔だから、タバサの手助けはダメっていうのも違うの。

 使い魔が攫われて一人で助けに行こうとしてる友達を黙って見送るなんて、ルイズならしないはずだよ。

 だから、ディーキンだってそんなことはしないの。

 それこそルイズに対して恥ずかしいことだからね、そうでしょ?」

「………友達?」

「そうだよ、タバサはディーキンの友達だから、お手伝いをさせてほしいの。

 それにタバサもきっと英雄になれる人だと思うし、ディーキンは親しい英雄の物語なら、ぜんぶ見逃さずに書きたいからね!」

 

そう言ってぺこりと御辞儀するディーキンを、タバサは不思議そうな目で見つめた。

 

この子はどうして先程知り合ったばかりで何の恩義もなく、同族でさえない異種族の娘を疑いもなく友達と呼ぶのだろう?

その上どうして、危険も顧みずに手助けを申し出てくれるのだろうか?

 

そういえば先の決闘の時にも物語を書きたいから、などと言っていたが、そんなことが彼にとってはそれほど大切なのだろうか。

彼の種族は皆こうなのか、それとも彼自身の性格なのか………。

 

タバサはしばし急いでいることも忘れ、無表情な顔を微かに曇らせて悩む。

ディーキンは彼女にとって、様々な面から少なからず心をかき乱す存在だった。

深く考えると、ともすれば心がぎすぎすとささくれ立ちそうにさえなってくる。

 

けれどタバサはそこで、一年程前に親友から『友達になってあげる』と言われた時の事を思い出した。

先程の『タバサはディーキンの友達』という言葉がそれと重なる。

それらの言葉を胸の内で反芻しているとなにか、あの時と同じ、温かい感情が湧き起こってくるような気がした。

 

ささくれ立ちそうになった気持ちが急速に鎮まっていく。

俯いたタバサの顔からすっと陰りが消え、代わりに口元に僅かにはにかんだような微笑みが浮かんだ。

 

「……わかったから、顔を上げて」

 

そうだ、今はそんなことを悩んでいる場合ではなかった。

そして、ゆっくりと感傷に浸っている場合でもない。

 

タバサはディーキンが顔を上げるのを確認すると地に片膝をつき、同じ高さで向かい合うと今度は自分の方から頭を下げた。

顔はすっかり、元の無表情に戻っている。

 

「頼むのは私の方、よろしくお願いする。

 あなたの主人には後で私から説明して謝るから、急いで準備を」

「やった! ディーキンは英雄と友達のためならいつでもでかける準備はできてるよ!

 それにいい物語とか、ケーキとか、あったかいポテトシチューのためでもね。ええと、あと、他にも……」

「急いで」

「ああ、うん……、ごめん、ディーキンは急ぐね」

 

ディーキンは急かされてあせあせと背中の荷物袋に手を突っ込むと、一本のロッド(王笏のような形状の杖)を取り出した。

それを見たタバサは、僅かに怪訝そうに首を傾げる。

 

(杖を使う?)

 

確かに彼の呪文は先住魔法ではなく歌の魔法であり、どちらかといえば系統魔法に近いという説明は、既に受けている。

だが、先程の決闘でメイドを魔法で手伝った(そうに違いないとタバサは確信している)時には楽器を手に持っていて、杖などは使っていなかったはず。

だから先住魔法と同様杖が無くても使えるものだとばかり思っていたのだが……、そうとは限らないのだろうか。

 

またひとつ後で聞きたいことが増えたな、とタバサは内心でひとりごちた。

 

なおディーキンが取り出したのは、《呪文持続時間延長の杖(メタマジックロッド・オヴ・エクステンド)》というマジックアイテムである。

この杖を通して発動した呪文はその持続時間が2倍に伸びるという便利な代物で、冒険者には愛用している者が多い。

関所に到着するまでどの程度かかるのか分からないため、万が一にも途中で効果が切れたりしないよう、念の為使っておくつもりなのだ。

 

ディーキンは取り出した杖を握ると、それでコンコンと二、三度地面を叩いて歌うように呪文を詠唱し始めた。

 

「《スジャッチ・クサーウーウク……、ナヴニック・ジヴィ―――》」

 

朧な影のようなものが呪文に応じて湧きだし、固まって、何かを形作っていく。

 

「……………!」

 

タバサは僅かに目を見開くと、じっとその様子を観察した。

確かにこれは、『錬金』などの系統魔法とは明らかに様子が違う。

 

数秒の後に呪文が完成すると、そこには一体の生物が形成されていた。

体は黒く、鬣や尾は灰色。

奇妙な煙で彩られた蹄を持ち、鞍やはみ、手綱などをしっかりと身に着けている。

 

それを見たタバサの顔が、今度は困惑でやや顰められた。

多少、奇妙な見た目ではあるが……、これは、明らかに、

 

「……馬?」

「そうなの」

「あなたは、馬より速い移動手段を用意すると言ったはず」

「大丈夫、この馬は普通の馬なんかよりずっと、ずうーっと速いの。空を走ることだってできるんだよ!」

 

ディーキンが胸を張って自信たっぷりに請け合うのを見て、タバサは考え込む。

確かに魔法で作り出したのだから普通の馬とは違うのだろうが、構造が馬そのものである以上そこまで極端に速さが違うものなのだろうか。

彼の使う呪文自体が今のところかなり不可解な要素の多いものなので、考えても仕方ないのかもしれないが……、

知識欲も好奇心も強い性質のタバサは、それでも気になった。

 

系統魔法のゴーレムは普通の生き物と変わらないように動かす事が非常に難しく、大型であるほど目に見えて動きがぎこちなくなる。

人間大ならばギーシュのワルキューレのように、概ね人間と同じような動きをさせることも可能だ。

だが馬は人間よりは大型だし、四足歩行なので、人間にとって馴染みがない動作をさせねばならない点もネックになる。

普通の馬と同様に走れる馬型ゴーレムとなると、スクウェアクラスの熟達したメイジでも即席の呪文ひとつでは作れるかどうか。

ましてや普通の馬より遥かに速いものとくれば……。

 

(―――でも、それは普通の馬のように脚で走る場合のこと)

 

翼もないのに空を飛べるということは、フライの呪文と同じようなものがかかっているということだろうか。

それなら肉体構造と速さは関係なく、馬よりずっと速く飛ばすことも不可能ではないかもしれない。

第一、彼が嘘をついているとも思えない。

まあ、少し大げさに言ってはいるのかも知れないが。

 

「……分かった。あなたは私の後ろ?」

 

タバサは気を取り直すと出てきた馬の様子を確かめながらそろそろと跨りつつ、ディーキンに確認を取った。

馬は一頭だが、ディーキンは人間の幼児ほどの大きさだし、タバサ自身も小柄だ。

もしかすると自分の翼で飛んでいくかもう一頭出すつもりなのかもしれないが、相乗りでも十分だろう。

 

ディーキンはそれに対して、首を横に振った。

別に、タバサとの相乗りが嫌だとかいうわけではない。

この幽体馬(ファントム・スティード)は、作成時に指定した一人しか乗れない仕組みだからだ。

 

「タバサが案内してくれたら、ディーキンは自分で飛んで着いて行くの。

 ええと、ちょっと待ってね……」

 

タバサの胸とか背中にしがみ付いて行くことはできなくもあるまいが、自分が小さいとはいえ、この体のままでは流石に辛いものがあるだろう。

ディーキンは小さく咳払いをすると、もうひとつ別の呪文を唱え始める。

 

「《ジスガス、オーシィ・ダラストリクス―――》」

 

歌うような詠唱に伴って、ディーキンの体をほのかな光の帯が包む。

そして光に霞んでぼやけた輪郭が、みるみる縮んで、変形していく。

 

変形が終わって光が消えると、ディーキンは僅か数秒の間にまったく別の形態に変貌していた。

鏡のようにきらめく美しい純白の鱗と、大きな翼、長い尻尾を持ち、四足歩行するそれは見た事もない種類ではあるし、大きさもあまりに小さい。

けれども間違いなく、これはドラゴンの一種であろうと認められるような姿であった。

 

「…………!」

 

それを目の当たりにしたタバサは、先程以上の驚きに目を瞠った。

 

博学なタバサは、韻竜が“変化”と呼ばれる風の先住魔法で自分の姿を変えられることは知っている。

風韻竜である自分の使い魔もその呪文を習得していることは確認済みだ。

 

だが、今の呪文はそれとは明らかに違う。

 

まず、彼は変身する前には鎧やら荷物袋やらを沢山身に付けていたはずなのに、影も形もなくなっている。

普通に考えれば、術者は姿を変えられても着用していたものは変化しないから、壊れるか脱げ落ちるかするはずだ。

少なくとも変化の先住魔法ならばそうなる。

それがどこにも見当たらないとは、一体どうなっているのだろう?

 

全部が全部なくなったわけではなく、装身具などの中には残っているものもかなりあるようだが……、それがなおのこと不思議だ。

どうして、残るものと無くなるものがあるのか?

 

しかも残っているものも、明らかに元の姿の時とはサイズや形状が変化している。

呪文にそういう不可思議かつ便利な効果があるのか、それとも特殊なマジックアイテムでも使用しているのか……。

 

加えて変化の先住魔法と違い、変身時に風の力が働いたような様子はなかった。

力の源や原理は、一体どうなっているのだろう?

 

あのドラゴンにしても、タバサがこれまで読んだどんな本でも、見た覚えのない種類だ。

 

翼や尻尾を目いっぱい伸ばせば全長はかなり大きくはなりそうだが、胴体部分はネコくらいしかない。

まだ幼生の竜である(とはいえ100年以上は生きているが)自分の使い魔でさえ、全長6メイルはあるのに。

生まれたての赤子か何かなのか、それともああいうとても小さい種類の竜なのか。

 

「…………」

 

そんなタバサの数々の疑問をよそに、ディーキンは変化した自分自身の姿を入念にチェックしている。

 

爪を見て、体を見て、翼をばさばさ動かしてみて、尻尾をぱたぱたさせてみて……。

首をあちこちへ回してそれらの様子を一通り眺め終わると、満足そうに胸を張った。

 

ディーキンが誇らしげにしているのは、この姿が彼が憧れを抱いていた形態、以前の主人と同じ白竜のそれであるからだ。

もちろん主人はもっとずっと、比べ物にならないくらい大きかったが。

 

「エヘン……、どう?

 ディーキンはかなり、かなーり、格好良くなったでしょ?

 今のディーキンはさしずめ、ズーパーディーキンといったところなの。ヘッヘッヘ!」

「………」

「うーん、それとも“ディーキン・ザ・ズーパーマン”のほうがいいかな?

 超人みたいで格好良いし、ルイズやキュルケの名前もなんかそんな感じだったよね?」

「………。時間がない、ついてきて」

 

タバサはどうコメントしていいものかわからず、困ったので。

とりあえず自分の疑問を脇に置いて大義名分を盾にディーキンを促すと、手綱を握ってさっさと出発した。

 

 

「すごい……」

 

空中を疾走する影の幽体馬の手綱をしっかりと握りながら、タバサは思わずそう呟いた。

 

何という速さだろう。

最初急ごうと思って全力で駆けさせた時には、速過ぎて危うく振り落とされかかったほどだった。

一旦馬を止まらせてから呪文で体に当たる風圧を遮断するシールドを張り、今度は慎重に手綱を握って、幾分か抑えた速度で再度出発させた。

それでも余裕で、使い魔を乗せた荷馬車より先に関所へ到着できるだろう。

ごく普通の馬の3倍……、いや4倍か、あるいはそれ以上にも速いかもしれない。

ペガサスやヒポグリフ、グリフォンなどといった幻獣類でさえも、余裕で凌駕するであろう速さだ。

 

しかし、この不思議な馬にもまして驚きなのは……。

 

タバサはちらりと後方に目を向ける。

ディーキンはそのネコのように小さな体に比して大きい、幅2メイルを超える翼を高速で羽ばたかせて、今も幽体馬の後ろをぴったりとついてきていた。

幽体馬は全力で走っているわけではないとはいえ、体の大きさからして驚異的な速度である。

特に息を切らせたりしている様子もなく、体力的にも十分に余裕がありそうだ。

 

「……シルフィードより、ずっと速い―――かも」

 

タバサはぽつりとそう呟いた。

 

この馬も、そして彼も。

まだ召喚して間もなくあまり乗ったこともないから確かには言えないが、風韻竜とはいえ幼生である自分の使い魔より、おそらくは速いだろう。

あるいは竜騎士が跨る火竜でさえ凌ぐかも知れない、しかも火竜よりも遥かに小さいため小回りも利くはずだ。

 

なんかうちの使い魔って本気でこの子に勝ってるとこ何もなくね? ……とタバサは思い始めた。

メイジとしてそのような考え方はあまりよろしくないかも知れないが、事実は事実、現実は非情である。

 

なんせ自分の使い魔は召喚してこの方、こちらを舐めているっぽいし。

そのくせ馬鹿だし、愚痴っぽいし、勝手に金を使い込むわ、迷惑はかけられるわ……。

だからといって使い魔交換したいとか、そんなことはメイジとして決して思わない……、いや多分思わない……、思わないように努力はするつもりだが。

 

そんなタバサの内心など露知らず、ディーキンが後ろから不思議そうに声を掛ける。

 

「タバサ、シルフィードってなんなの?」

 

高速で飛びながら今のつぶやきが聞こえるくらいにはディーキンは耳がいい。

まあ冒険者なんだから、<聞き耳>は取っていて何の不思議もない。

 

「私の使い魔」

 

ディーキンは少し首を傾げた。

 

「ええと……、タバサがイルククゥに別の名前を考えてあげたってこと?」

 

タバサがこくりと頷く。

 

「“風の妖精”という意味。先住の名前では、不審がられる」

「オオ……、いい名前だね。

 それに気付いて名前を用意してあげるなんて、タバサは頭がいい上に優しい人だよ。

 詩人にも向いてるかもしれないね!」

「そう……?」

 

大して興味なさそうに返事をするが、タバサの顔には若干照れたように頬に赤みが差していた。

ともあれ、目的の関所まではもうすぐだ……。

 




ファントム・スティード
Phantom Steed /幻の乗馬
系統:召喚術(創造); 3レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:0フィート
持続時間:術者レベル毎に1時間
 術者は半ば実在する馬のようなクリーチャーを創造する。
この乗馬には術者1人か、術者が他人のために作成した場合その人物1人が騎乗することができる。
ファントム・スティードは体が黒く灰色の鬣や尻尾、煙で彩られた音を立てない非実体の蹄を持ち、鞍やはみ、手綱のように見えるものを着けている。
この乗馬自身は戦うことはないが、普通の動物は皆これを避けようとし、交戦を拒む。
乗馬のアーマークラス(以下AC)は18、ヒットポイント(以下hp)は7+術者レベル毎に1ポイントで、hpを全て失うと乗馬は消える。
移動速度は術者レベル毎に20フィート(最大240フィート、普通の馬の移動速度は種類によるが40~60フィートなのでその4~6倍相当)である。
最高速度の乗馬が全力で疾走した場合の速度は、算出すると170km/h以上にも達する。
ハルケギニアの竜騎士が乗る火竜は約150km/hとされているため、それを上回る計算になる。
また、術者レベルが上がるにしたがって乗馬は地形による移動制限を無視したり、水面を疾走したり、空中を走ったりといった様々な特殊能力を得ていく。
 バードの呪文リストには含まれていないが、シャドウ・カンジュレーションでの効果模倣ならばバードにも使用できる。

オルター・セルフ
Alter Self /自己変身
系統:変成術(ポリモーフ); 2レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:自身
持続時間:術者レベル毎に10分
 術者は自分と同じクリーチャー種別でサイズ分類の差が1段階以内、かつ術者レベル毎に1ヒットダイス(以下HD)以下のクリーチャーに変身する。
ただしどんなに術者レベルが高くても、最大で5HDまでのクリーチャーにしか変身はできない。
どのような姿に変身しても能力値やクラス・レベルなどの元の姿の能力の多くはそのまま維持される。
術者は変身先の姿の持つ移動能力や肉体武器、外皮によるACボーナスなどある程度の能力を得るが、超常能力や呪文能力は一切得られない。
変身先の姿に合わない装備品は変身中は肉体に融け込み、機能しなくなる。
術者は変身する種族の正常範囲内でなら、髪や肌の色や質感といった細かな肉体的特徴を選択できる。
この呪文を<変装>のために用いると、判定に+10のボーナスを得られる。
 なお、普通のコボルドは種別が人型生物なので人間やエルフなどの人型生物に変身するがディーキンの場合は種別が竜なので竜に変身する。
ただしヒットダイスやサイズの制限の都合上、サイズ分類が超小型~中型(猫~人間程度の大きさ)の、非常に限られた範囲の竜にしかなれない。
例えば何種類かの真竜のワームリング(ホワイト、カッパーなど)やスードゥ・ドラゴン(偽竜)などに変身が可能である。

ホワイト・ドラゴン(白竜):
 フェイルーンの真竜族の中では最も小柄で知性が低い種であり、彼らは一般的に知性より本能を重視する動物的な捕食者である。
しかし年かさの者は少なくとも人間と同程度には賢く、幼い者でさえ単なる肉食動物とは一線を画する知性を持つため、愚かな生物と考えるのは間違いである。
彼らは住処の周囲数マイルに渡って最上の待ち伏せ場所を全て知っており、戦闘時や己の縄張りを守る際などには特に狡猾に立ち回る。
全身を純白に輝く鱗が覆っており、その顔つきからは狩猟動物の如きひたむきな凶暴さが窺える。
彼らは火には弱いが冷気に対しては完全な耐性を持ち、蜘蛛のように凍った表面を滑らず自由に登攀する事ができる。
凍結させた食べ物を好み、広範囲に極低温のブレスを吐いて敵をまとめて凍らせるとそのまま平らげてしまう。
ある程度以上高齢の個体は呪文や疑似呪文能力も使いこなす。
 ホワイト・ドラゴン・ワームリングの体の大きさは猫ほどしかないのだが、長い首や尾を含めると全長は4フィート、翼を広げた最大翼幅は7フィートにもなる。
成年のホワイト・ドラゴンは全長31フィート、最大級の個体は全長85フィートにも達し、翼幅はそれ以上にも大きくなる。
彼らは移動能力全般に優れており、ワームリングでさえ地上を最も早い乗用馬に匹敵する速度で走り回り、その2.5倍もの速さで空中を飛ぶことができる。
加えて走るのと同じ速さで水中を泳いだり、人間の地上移動速度に匹敵する速さで地面を掘って移動したりすることもできる。
 霜巨人(フロスト・ジャイアント)はよく幼い白竜を捕えて番犬として使う。
しかし白竜が成年以上に達すると力関係は逆転し、逆に白竜が霜巨人の部族を服従させるケースもある。
 なお、D&Dでは年齢が0~5歳の段階のドラゴンの事をワームリング(雛)という。
100歳を超えるとアダルト(成年)に達するがその後も成長は続き、“黄昏”と呼ばれる最晩年を迎えるまで衰えることなく強大化し続ける。
彼らは真竜としてはもっとも寿命が短い種であるが、それでも寿命は平均で2100年以上である。
 主人がホワイト・ドラゴンであったためにディーキンはこの種に思い入れがあるようで、原作中でも自分の翼が白でないことを残念がる様子が見られた。


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第二十三話 Rescue

「きゅい………」

 

夕方にはまだ少し早いくらいの時間帯の、トリステインからゲルマニアへと向かう人気のない峠道。

がたごとと揺られる馬車の荷台で、タバサの召喚した使い魔である風韻竜のイルククゥは、悲しげに呻いていた。

 

今朝主人に本の買出しを命じられてトリスタニアという人間の街へ初めて行った彼女は、ふらふらと道草を繰り返すうちにすっかり道に迷ってしまった。

そして食欲の赴くままに入り込んだ食堂で、預かっていたお金を使い込んでしまった(お金は使ったら無くなるということを知らなかったのだ)。

主人からの罰を怖れて、お金くださいなのねーとか往来でわめいていたが、当然もらえるわけもなく通行人に可哀想な目で見られ……。

挙句の果てには、人攫いに甘言で騙されてホイホイついていき、御覧の有様だよ!

……というわけである。

 

自分が騙されて捕まり、これから物のように売買されるのだと理解した彼女は、激昂して変身を解こうとした。

しかしロープには魔法が掛かっていて容易には切れず、膨れ上がる体に食い込んで激痛が走ったために断念せざるを得なかったのだった。

 

今の彼女は若い人間の女性の姿に変身したままの状態で縛り上げられ、馬車の荷台に詰め込まれている。

周りには、同じように縛られて嘆きや諦めの表情を浮かべた女の子が何人もいた。

 

それに、マスケット銃と酒瓶を握りしめた、見張りの男が一人。

 

男は時折少女らの体をじろじろと眺めては下卑た笑いを漏らしたりしているが、手は出さなかった。

高値で売る予定の大切な商品に下手に手を出して、値打ちを落としたら損だからだ。

それに、軽率な事をして仲間のメイジどもの怒りを買うのも御免だった。

 

平民の自分に回ってくる分け前は少ないが、それでも上等なゲルマニア女と幾晩かたっぷりと楽しむくらいの贅沢はできる額になるはずだ。

何も今、こんなしみったれたガキどもに手を出す必要はない。お楽しみは一仕事した後だ。

それにうまい酒と飯も、たらふく腹に詰め込みたい。

ゲルマニアに着いたら、まずはこんなしけた酒とは段違いの上等なエールを、大角牛の焼肉で飲み明かすとしよう。

 

男はうきうきと皮算用を立てて満足感に浸りながら、酔い潰れない程度にちびちびと安酒を煽っていた。

 

他人の人生を犠牲にして自分の欲望を満たすことを何とも思わない、そんなろくでなしの見張りを睨みつけながら。

イルククゥは、この状況をどうにかできないものかと一生懸命に考えていた。

 

だが、何もいい方法は思いつかない。

 

先住の魔法は杖を要しないが、口語と身振りによる精霊への呼びかけは必要で、このように縛り上げられていては使うことができない。

それに今は高度な“変身”の呪文を維持しているので、たとえ動けても他の魔法はまともに使えない。

となると変身を解くしかないのだが、丈夫な魔法のロープで縛り上げられていてそれもできないときている。

 

しかも人攫いは一人ではなく集団で、今自分が乗っている荷馬車と、後続のさらに大きな馬車とに分かれて乗っている。

その中には幾人かのメイジが含まれている上に、目の前の見張りのような武装した兵隊もいるようだ。

人間は弱いが、系統の魔法を使うメイジだけは油断ならないと両親から聞かされている。

たとえ自分がなんとかして元の姿に戻っても、勝ち目は薄いかもしれない。

 

イルククゥは自分が何も知らない、無知で無力な存在にすぎなかったことを痛感した。

 

「ああ、とんでもないことになったのね……」

 

外の世界を見てみたい好奇心から召喚に応じてみれば、主人はいけ好かないちびすけだわ、こんな目に会うわ、もうさんざんである。

人間の召喚なんかに応えないで、故郷の“竜の巣”で大人しく暮らしていればよかった。

 

両親が助けに来てくれないだろうかとも思ったが、ここは故郷から何千里も離れた場所である。

 

到底叶う話ではないと諦めて大きな溜息を吐いた、その時。

突然馬が嘶いて、馬車が大きく揺れた。

 

それに続いて、御者台に座っていた人攫いたちが次々に悲鳴を上げる。

 

「ぐわあぁあぁ!?」

「ひぃぃ! な、なんだあぁ!?」

 

馬車はしばしがたがたと揺れながら進んだ後に、どしん! と何かにぶつかったような衝撃があって、動きが止まった。

見張りの男はしばらく狼狽えていたが、ハッと我に返ると何があっても動くなと少女たちに凄んでから、銃を構えて荷台の外に飛び出して行った。

 

「な、何……」

「まさか、誰かが助けに来てくれた?」

 

にわかに少女たちがざわめき始める。

 

もしや、本当に両親が助けに来てくれたのだろうか?

イルククゥは興奮して、ぐるぐる巻きに縛り上げられて自由が利かない全身を一生懸命に捩って外の様子を窺った。

 

自分たちの乗った馬車は、どうやら路肩の樹木にぶつかって止まっているようだ。

馬と馬車を繋ぐくびきが何者かによって断ち切られたらしく、馬たちが嘶いて逃げ去っていくのが見える。

そして、御者台にいた連中はどこからともなく現れた大きな竜巻状の風に巻き上げられて宙を舞っていた。

 

ちがう、両親じゃない。

あれは精霊の起こした風じゃない。

 

だけど凄い竜巻だ、いったい誰がやったのだろう。

イルククゥは一生懸命に首を動かして、術者の姿を探した。

 

そうこうしているうちに、竜巻が収まった。

 

人攫いたちは竜巻が消えると同時に宙に放り出され、馬車の傍の立ち木に衝突して地面へと崩れ落ちる。

激しい砂埃の舞うその奥から、ゆらりと小さな影が現れた。

 

「ち、ちびすけ………?」

 

それは遠く離れた魔法学院にいるはずの自分の主人、タバサであった。

 

タバサは相変わらず無表情で、ぼんやりした眠そうな目をしている。

だが、その体から立ち上る雰囲気というか、発するオーラが並々ならぬものであることにイルククゥは気が付いた。

これまでは頭から見下していたのもあってさっぱり感じ取れていなかったが、仮にも韻竜。臨戦態勢に入った今のタバサの強さは、流石に察知できた。

 

(――――こ、このちびすけ、只者じゃないのね!)

 

その時、後ろの馬車からゆらりと一人のメイジが降り立った。

道中で人攫いたちが“頭”と呼んでいた人物だろう。

 

イルククゥはそいつを見た瞬間、震えが走った。

 

そいつはまだ若い女性だった、おそらく年の頃は二十を過ぎたばかりだろう。

だが、長い銀髪の下には鋭い目を光らせており、全身から発されるオーラもタバサに劣らぬ雰囲気を醸し出している。

 

杖を構える仕草も堂に入っており、相当に強そうだ。

元は名のある貴族だったのかもしれない。

 

「あ、あねご!」

 

地面に倒れていたメイジの一人が、彼女を見て哀願するような声を上げる。

彼女は肩を竦めて、冷たい目でそいつを睨んだ。

 

「まったくだらしがないねえ。油断するなといつも言ってるだろうに」

 

それからタバサの方に目を向けると、唇の端を持ち上げて冷笑を浮かべる。

 

「おやおや、あんたは正真正銘の貴族のようだね。

 こりゃあ好都合ってもんだね」

 

タバサは表情を変えるでもなく、無言でその女頭目と対峙する。

すると女頭目は、頼まれもしないのにぺらぺらと自分の身の上話などをし始めた。

どうやらタバサの視線を、どうして貴族が人攫いなどに身を堕としたのか、という無言の問いかけだと解釈したらしい。

 

要約すると、自分は三度の飯より“騎士試合”が大好きで、伝説となった女隊長のように都に出て騎士になりたかった。

しかし親に猛反対されたため、やむなく家を出て、好きなように試合ができる傭兵を始めたのだ、という。

 

もちろんタバサには、誇張だらけか嘘八百と相場が決まっている犯罪者の身の上話などに関心はない。

それに例え本当だとしたところで、結局のところこの連中のやっていることは。

 

「ただの人攫い」

「ははは、そりゃあ食うためには仕方がないさ。

 あんたみたいなお嬢ちゃんにはまだわからない話かもしれないけどね」

 

女頭目が嗤ってそう言うのを、タバサはそっけなく聞き流す。

 

それよりもタバサは、この女頭目が話で時間を稼ぎながら、まだ倒されていなかった見張りの部下に横目で合図した事の方に注意を払っていた。

それを受けた部下はマスケット銃を構えたまま、気取られぬようにそろそろと馬車の荷台の方へ戻っていく。

おそらく、攫われた少女たちやイルククゥを人質に取るつもりであろう。

 

普通なら即座に話を打ち切って、問答無用であの男へ呪文を飛ばし足を止めるべきところだが………。

しかし今回は、その必要はないはずだ。

 

タバサは小さく口を動かして、ほとんど聞き取れないほどの小声で何事かをぼそぼそと呟くと、微かに笑みを浮かべた。

女頭目はそんな事には気付かず、にやついた笑みを浮かべたまま言葉を続ける。

 

「……さて、騎士同士の決闘には順序と作法ってもんがあるだろう?

 正々堂々といこうじゃないか」

「私は騎士じゃない」

 

ましてあなたは尚更、とは心の内だけで続けて、タバサは杖を構える。

 

女頭目はそれを見ると首を振って、指で馬車の方を示した。

馬車の傍に立った見張りの男が下卑た笑みを浮かべながら、マスケット銃を荷台に向けている。

 

「この騎士試合に付き合わないっていうんなら、あいつが女たちを殺すよ」

 

女頭目はそう言ってじろりとタバサの顔を睨む。

 

タバサは少し考えると、小さく頷いて了承の意を伝えた。

それを確認した女頭目が満足そうににやりと笑って、杖を構えると優雅に一礼する。

タバサはまた小さく口を動かしてぼそぼそと何事か呟くと、どうでもよさげに杖を構えて、それに合わせて礼を返した。

 

(――――今だ!)

 

その瞬間、女頭目は素早く杖を振るうと、まだ礼を終えていないタバサめがけて呪文を放った。

 

先程の竜巻から見て魔法の実力はおそらく自分と同程度、見た目に似合わず手強い相手と踏んで、隙をついて確実に勝とうとしたのだ。

騎士試合云々などというのは、とどのつまりはそのための方便に過ぎない。

 

先手を打つのは戦いの常識だ。

ただ漫然と杖を構えて敵が来るまで白痴のように待つなど、所詮は本当の殺し合いというものを知らぬ木偶のすること。

自分はお行儀のいい騎士様などではなく、傭兵なのだ。

正々堂々の勝負などに無駄に拘わることはないし、子供相手だからと舐めてかかって不覚をとるような愚かな真似もしない。

 

……だが結局、彼女は、自分が目の前の少女をそれでもなお過小評価していたことを思い知らされることになった。

 

放たれた風の刃がまさにタバサの胸を襲おうかとした瞬間、彼女は驚くべき反応速度で横に飛んで、その攻撃をかわしたのだ。

必殺を確信していた女頭目の目が、驚きに見開かれる。

体をかわしながら素早く呪文を完成させたタバサは、次の瞬間には隙だらけの女頭目に魔法の矢を放っていた。

 

「ひっ!?」

 

魔力によって実体化した矢が狙い過たず女頭目の杖を切り裂き、その服を地面に縫い付ける。

勝負はついた。

 

一瞬にして打ち負かされた女頭目は、信じられないと言った顔でタバサを見上げた。

体捌きの速さ、呪文詠唱の素早さ、そしてコントロールの正確さ、そのいずれもが驚嘆に値する。

自分が互角だったのはただ魔力の強さだけで、それを扱う腕前には天と地ほどもの大差があった。

 

「あ、あんた、一体何者……」

「ただの学生」

 

タバサはまるでいつもと変わらない様子で、淡々と答えた。

女頭目は悔しげに歯ぎしりをしていたが、やがてまた幾分か余裕を取り戻して先程と同じように笑みを浮かべた。

 

「……はっ、とんでもない学生がいたもんだ!

 まったくあたしもツキがなかったね。わかったよ、誰を助けに来たのか知らないけど、そいつは返してやるよ。

 だけどあたしたちはこのまま見逃してもらうよ、でないと―――」

 

そう言いながら先程、人質を取るために向かわせた部下の方に目を向け……、

 

「………は?」

 

次の瞬間、その笑みが凍りついた。

 

「オオ、タバサはやっぱりすごいみたいだね。

 どう? ディーキンの言ったとおりになったでしょ?」

「ほ、本当にすごいのね………」

 

そこに立っていたのは、見張りから奪い取ったマスケット銃を弄びながら、タバサの戦いを見て喜んでいるディーキン。

それと、彼の手によって戒めから解放され、荷台から顔を出してぽかんとした顔で主人の戦いを見守るイルククゥであった。

先程の部下は、いつの間にか2人の足元で伸びていた。

 

「……あ、あの亜人は……、あんたの使い魔かい?」

 

がっくりと項垂れる女頭目の問いに、タバサは今度は心なしか、少し嬉しそうな声で答えた。

 

「私の仲間」

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

人攫いたちが襲撃を受ける、少し前のこと。

 

タバサは関所までもう間もなく到着できるというあたりで時間にまだ大幅な余裕があることを確認すると、当初の待ち伏せ作戦を変更した。

救出は早いに越したことはないし、関所で騒ぎを起こせば役人を巻き込むことになり敵が増え、後の始末や事情の説明も面倒になる。

予想外に早く着けそうだし、これならば道を辿ってさっさと馬車を奇襲する方がよい、と判断したのだ。

賄賂を受け取って人身売買を見逃していた役人の名前は、後で聞き出してしかるべきところへ報告しておけばいいだろう。

 

そうして人攫いの馬車を発見すると、ディーキンは慌てて襲いかかったりはせず、まずは襲撃の算段と役割分担を決めよう、とタバサに提案した。

 

ディーキンのその功を焦らない、落ち着きのある場馴れした対応に、タバサは彼が実戦でもあてにできる人材であることを確信した。

とはいえまだ彼に具体的に何ができるのかはよく分かっていないし、攫われたのは自分の使い魔。

やはり最も危険な役目は自分が勤めるべきだ、という思いもあった。

 

そこでタバサは、自分が敵に奇襲をかけた後正面からの掃討を担当するという作戦を提案した。

ディーキンの役目はタバサに敵の注意が向いた隙に人質の元に辿り着いて彼女らを護り、状況に応じてタバサを援護することだ。

 

今回のような状況では人質を取られるのが最も厄介である。

傭兵崩れの人攫いなど一人でも掃討できる自信はあるが、それだけは警戒せねばならない。

丁度、小さくて素早いドラゴンの姿に変身しているディーキンは、その役目にうってつけである。

 

ディーキンは別に不満な様子もなく、すんなりとその提案を受け入れた。

そもそも自分はタバサの活躍を見届けたいのであって、別に彼女の見せ場を奪って大暴れしたいのではない。

彼女が主役で自分が脇役、というのはむしろ望むところだ。

 

そうして案が纏まると、2人は一旦別れてめいめい襲撃に適した位置につき、仕掛けるタイミングを見計らった。

事前の感覚共有で、攫われた子らが前の馬車に乗っていることと、御者台に乗っている2人がメイジで、荷台には見張りが一人いることが分かっていた。

 

荷台の見張りはディーキンに任せるとして、まずは厄介なメイジを優先的に片付けねばならない。

 

タバサはまず、人攫いたちに見られない死角から風の刃を放って、馬のくびきを断ち切ることで襲撃の口火を切った。

突然の事に御者台のメイジ2人の体勢が崩れたところへ、続けて巨大な竜巻を放つ。

馬の制御に気を取られていた彼らは、攻撃に気付いて対応する暇もなく打ちのめされた。

 

その様子を見て、ディーキンは改めて感心した。

 

攫われた子たちに害を与えないよう馬車を止めつつ敵の数を速やかに減らす手並み、呪文の威力、狙いの正確さ、遅滞のない的確な行動。

そのいずれもが、まだ幼いと言ってもいいくらいの年齢の少女としては並外れている。

まあ幼いと言っても人間としてはの事で、実際のところ自分より年下なのかどうかとかはよくわからないが。

なんにせよ、同じ学生でもあのギーシュという少年とは比較にならない。厳しい戦いを随分と潜り抜けて来たのに違いないだろう。

 

そう感心しながらも、ディーキンは自分の役目を果たすために遅滞なく行動にとりかかった。

茂みに隠れつつ、まずは変身を解除する。

続いて《不可視化(インヴィジビリティ)》の効果を身に纏うと、素早く馬車の傍へと移動して様子を窺った。

タバサとしては変身したまま体の小ささと素早さを利用して馬車に潜り込む事を想定していたのだろうが、透明になっておく方がより確実だろう。

 

そうして見張りが去ったのを確認すると、入れ替わりに素早く荷台の中に入り込む。

 

あとは、女頭目とタバサが話していた間に、イルククゥらに声を上げないよう注意しながら事情を手短に説明して。

何も知らずにのこのこ戻ってきた見張りを隙を見て後ろから締め上げて昏倒させ、銃を奪ったというわけだ。

 

もちろん襲撃に先だって、ディーキンはタバサに先の授業中にも使った《伝言(メッセージ)》の呪文を掛けていた。

彼らはそれを解して襲撃の間中お互いの状況の進展を小声で知らせ合っており、敵の動向や事態の推移はすべて把握していたのだ。

タバサが手出しは無用といったので、騎士試合とやらの間はディーキンは彼女を信頼して、解放したイルククゥと一緒に見学していたのである。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

タバサはディーキンと協力して人攫いを全員捕縛すると、彼らを手短に訊問する。

その結果、彼らはやはり以前から関所の役人に賄賂を渡して人攫いを黙認してもらっていたことが判明した。

所詮欲得だけの関係ゆえに義理立てして隠し通そうとするはずもなく、名前も簡単に吐いたので、彼らを引き渡す時一緒に報告すればよいだろう。

 

解放した少女たちは女頭目の使っていた馬車に乗せ、厳重に縛った人攫いたちを荷物用のスペースに詰めて、乗馬経験があるという少女に手綱を任せる。

それが済んだタバサは、人目のないところで元の姿に戻った自分の使い魔に跨って、馬車と並んでトリステインへと向かうように言った。

イルククゥも今度は文句を言わず、素直にそれを受け入れた。

タバサとしては内心ディーキンの出してくれた幽体馬にまた乗りたい気持ちもあったが、今はまあ、自分の使い魔の方に乗るべきだろう。

 

ディーキンは念のため人攫いたちを見張るのと、少女たちの受けたショックを和らげる役に立ちたいからと言って、彼女らと一緒に馬車に乗っている。

最初は命の恩人とはいえ見た事もない異様な姿の亜人に怯え気味だった少女たちも、じきに彼の人懐っこさに馴染んだようだ。

少女たちは今ではもう酷い目に会った事など忘れたかのように、彼の弾き語りにうっとりと聞きいっている。

 

タバサもまた、普段のように本を開くこともなく、馬車と並走する使い魔の上で密かに耳を傾けていた。

内容は旅と恋に関する詩のようで、聞いたことのない内容だが美しい調べだった。

 

 

 

 

 砂漠のあの子に会いたけりゃ

 4つの砦の真ん中に

 

 海のあの子に会いたけりゃ

 ふたつの月の輝く海に

 

 ………

 

 

 

 

ともあれ、後はトリスタニアで官憲に人攫いと少女たちを引き渡して、事情を説明すれば一段落だ。

後はルイズに事情を説明して(すべてを正直に伝えるべきかはともかく)詫びなければならないが……、まあそれは、後で考えてもよかろう。

今しばらくは余計な事を考えずに、彼の歌でも聞いてリラックスしよう。

 

そう考えていたところへ、使い魔が声を掛けてきた。

 

「きゅ、きゅい、きゅい…、」

 

イルククゥはそう鳴きながら、何かを訴えるようにタバサの方を見たり、馬車の方をちらちらと見たりしている。

どうやらタバサとディーキンに助けられた礼を言いたいらしい。

が、口を利いてはいけないと言われているのでどうしようかと迷っているのだろう。

 

「……………」

 

タバサは無言で杖をくいくいと上の方に向けた。

イルククゥはきょとんとした顔をしたが、すぐにその意図するところを悟って急上昇していく。

そうして今朝話をしてもいいと言われた高度に達すると、早速口を開いた。

 

「あ、あの……、タバサさま。どうもありがとう、助かったのね。

 それにあの子……、ええと、ディーキンさんにも」

「彼とはちゃんと話をつけておいた。

 お礼は後で、一緒に話しながらすればいい」

 

タバサがそう言ってやると、イルククゥは自分を助けに来てくれた上に、ちゃんと朝の約束も守ってくれていたことに驚き感激した様子だった。

 

さらにどうして自分の場所が分かったのかとか、何であの子も一緒にきたのかとか、色々質問してくる。

タバサはそれらの質問にひとつひとつ、簡潔に答えてやった。

イルククゥはしきりに主人の賢明さに感心したり、新しい友だちがまだろくな面識もない自分を助けに来てくれたことに感動したり、していた。

 

それから本を買うのを失敗したことについて謝罪もされたが、タバサはそれについて特に罰を与える気はなかった。

確かに勝手にお金を使い込んで買い食いされたのには腹も立ったが、まあ使い魔の知能や知識の程度を把握していなかった自分にも問題がある。

仮にも韻竜だからそのくらいできようと思っていたが、どうやら思っていた以上に精神が幼く、人間社会に関する常識も皆無だったらしい。

いつまでも愚痴っていてどうなるものでもないし、自分から謝ったのだから咎めはすまい。

 

それに人攫いを捕えて被害者を助け出したのだから、多少は役所から礼金も出るだろうし。

使い込まれた金貨一枚分くらいは、埋め合わせて余りあるはずだ。

何よりも今回の一件でディーキンと協力できたのはタバサにとっては喜ばしい、得難い経験であった。結果オーライというやつである。

 

さて話を打ち切って下に戻ろうかとしたところで、タバサはひとつ、彼女に伝えておかなくてはいけないことがあったのを思い出した。

 

「シルフィード」

「……え? それ、なんなのね?」

「あなたの名前。“風の妖精”という意味。ここでは先住の名前は目立つ」

 

「…………!!」

 

イルククゥはもう、あれだけ反抗的で失礼な態度を取った上仕事にも失敗した自分に名前まで考えてくれていたと知って、感極まった様子だ。

 

「素敵な名前なのね! きゅい、きゅいきゅい!!」

 

タバサも。自分の使い魔の予想以上の喜びようにこちらまで嬉しくなり、照れたのを誤魔化すように本を開いた。

主人の頬に差す微かな赤みに気付いて、ますますイルククゥ、改めシルフィードは心をくすぐられる。

 

「可愛いのね! 私も嬉しいのね! なまえ、なまえ、あたらしいなーまえー!

 きゅいきゅい、るーるるるー♪ ……」

 

陽気にはしゃぎ、歌とも言えないような珍妙なメロディーを口ずさみ始める自分の使い魔を見てタバサは微かに苦笑めいた笑みを浮かべた。

歌も下手とは、本当に何から何まで、あの亜人の子とは大違いだ。

 

けれど陽気で素直で、こちらまで暖かい気持ちにさせてくれるところだけは似ているかもしれない。

この子が使い魔でよかったと、タバサは召喚して初めて、心からそう思えた。

 

「ねえねえ、タバサさま!

 わたし、タバサさまのことをお姉さまって呼んでいいかしら?

 私の方が体は大きいけど、なんだかそう呼ぶのが相応しいような気がするのね!」

 

タバサはその唐突な申し出に少し首を傾げたが、じきにこくりと頷いた。

シルフィードは興奮して、きゅいきゅいとはしゃぎ続ける。

 

「あ! それに、ディーキンさんのこともお兄さまって呼ぶのね!

 あの方も小さいけど、さっきはすっごく格好よかったわ!」

 

ディーキンはタバサのような明らかな強さや凄さを見せてくれたわけではない。

 

けれど先程助けに来てくれた時に、突然声を掛けられて事情が掴めず騒ぎ出しそうだった自分を止めて、焦らず落ち着いて説明してくれたり。

戻ってきた見張りを手早く昏倒させて、強そうな女頭目と対峙するタバサを信じ切った態度で見守っていたり。

戦いが終わった今も、攫われた子たちの事を気遣って、素敵な音楽を演奏してあげていたり……。

 

そんな彼の姿にシルフィードは頼もしさを感じ、憧れを抱いたのだ。

自分もあんな風に落ち着いた素敵な竜に、そしてこの素敵な主人のお役に立てる使い魔になりたい、と。

 

タバサはまた少し首を傾げて考え込んだ後、小さく頷く。

 

「彼が、嫌がらなければ」

 

そうしてあれこれ話し込んでいるうちに、そろそろトリスタニアの街が見えてきた。

赤みがかった日の光に照らされて目を細めながら、タバサは興奮冷めやらぬシルフィードを促して、高度を下げさせた。

 




インヴィジビリティ
Invisibility /不可視化
系統:幻術(幻覚); 2レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(1本のまつ毛をゴムに封入したもの)
距離:自身あるいは接触
持続時間:術者レベル毎に1分
 術者が接触したクリーチャーあるいは物体を不可視状態にする。呪文の受け手が装備を持っている場合は、それも一緒に見えなくなる。
地面に下ろした物や落とした物は目に見えるようになるが、拾った物も服やポーチの中にしまっておけば不可視にできる。
ただし受け手の匂いや立てる音、移動時に残した足跡等の痕跡まで消してくれるわけではない。
静止している不可視状態のクリーチャーは<隠れ身>の判定に+40、動いている場合には+20のボーナスを得る。
この呪文は対象が何らかのクリーチャーを攻撃した瞬間に解けるが、その際の攻撃一回に関しては不可視状態の利益を得られる。
ここでいう“攻撃”には、敵を目標とした呪文や、効果範囲に敵を含む呪文等も入る。
なお、誰が“敵”であるのかは不可視化したキャラクターの認識による。
 誰も装備していない物体に対して何らかの行動をしても、呪文が解けることはない。
また、間接的に害をなすことは攻撃とはみなされない。
もっぱら味方に作用を及ぼして利益を与える呪文は、たとえ敵も効果範囲に収めていたとしても攻撃とは見なされない。
したがって、透明化した者は扉を開け、話をし、物を食べ、階段を登るなどしても不可視状態が解除される心配はない。
怪物を召喚して攻撃させ、敵が渡っている最中の吊り橋のロープを切り、罠を作動させるボタンを押し、敵陣の井戸に毒を投げ込んでも差し支えない。
もちろん、味方に強化や回復の呪文を掛けて回ることも一向に構わない。
 この呪文は《永続化(パーマネンシイ)》することもできるが、物体を対象とした場合に限られる。


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第二十四話 Monetary system

 

トリスタニアへ到着したタバサは、早速役所へ行って人攫いと少女たちの身柄を引き渡すことにした。

先程主人に懐いたばかりのシルフィードも一緒に行きたいといい出し、人間の姿に化けていそいそと服を着直す。

人間の服を着るのは好きではない様子だが、憧れのお姉さまと一緒にお出かけするためならば、と我慢しているようだ。

 

そうなると当然ディーキンも同行したがるわけだが、それにはタバサが難色を示した。

 

小さくて無害そうに見えるとは言っても、ディーキンはハルケギニア人にとっては未知の亜人である。

自分が使い魔だと説明すれば多分そう大きな騒ぎにはなるまいが、不要に注目を集めたり時間を食ったりするのは避けたいところだ。

彼には主人のルイズにも無断で着いてきてもらったのだし、これ以上面倒事に巻き込むようなことはしたくない。

 

実を言えばシルフィードにも残っていてもらいたかったのだが、どうせごねて話が面倒になるに決まっているので何も言わなかった。

主人としては、使い魔の同行を無闇に拒むのもどうかと思うし。

 

「あなたには街の外で待っていてほしい」

「ンー……、」

 

ディーキンとて今まで人間の街や村へ出向いて追い回されたことは一度や二度ではなく、そのくらいの理屈はわかる。

自分一人ならそうなるのも覚悟の上で行くのだが、タバサらに迷惑をかけるのは本意ではなかった。

 

だからといって、バードともあろうものがせっかく来た初めての街へ入らずに外で待機しているなどというのも論外である。

 

少し考え込んだ後、荷物袋から《変装帽子(ハット・オブ・ディスガイズ)》を取り出して頭にかぶると、ある姿を頭に強く思い浮かべる。

すると、見る見るうちにディーキンの外見が変化していった。

 

髪の色は銀色で、色白で瑞々しい肌に血色のよいバラ色の頬を持ち、くりくりした大きな青い目の幼く愛らしい人間の少年の姿だ。

身長も1フィートほど伸び、着ているものはハルケギニアの貴族風の装いに変わった。

腰に帯びた短剣の外観も、メイジの杖状に変化している。

その姿でタバサの少し後ろに控えていると、まるで高貴な身分の令嬢の幼い弟か、遊び相手を務める下級貴族の小姓とでもいった風情だった。

 

ディーキンとしては本当ならタバサと同年代くらいの少年に化けたかったのだが、この帽子による変装ではあまり大きく体格を変えられない。

この状態でもほぼ限界まで背を伸ばしているのだが、それでもまだタバサよりもかなり身長が低かった。

フェイルーンならハーフリングかノームにでも化ければいいのだが、ハルケギニアでは人間の街には亜人がいないらしいので仕方がない。

 

ディーキンは自分の変化した姿をきょろきょろと一通り確認してから、タバサに問い掛けた。

 

「ええと……、これなら、どう?」

 

タバサは少し考えてから、こくりと頷く。

 

「それならいい」

 

今日は一日ディーキンの披露したあれこれに驚かされ通しだったタバサだが、今度はさほど驚かなかった。

 

今の変身は風のスクウェアスペルであるフェイスチェンジにも匹敵、あるいは凌駕するような代物ではあるだろう。

だが同じ変身なら先程の小さな竜になる呪文の方がよほど驚異的だったし、自分の使い魔も衣類までは変化させられないとはいえ変身ができる。

もちろんいくつかの点で興味はあったが、呪文自体はいまさら大げさに驚くほどのものでもあるまい。

 

その時横から唐突に、素っ頓狂な声が上がった。

 

「まあ可愛い!」

 

声の主は、タバサの使い魔のシルフィードであった。

彼女は目を輝かせ、頬を紅潮させて顔をディーキンの方に突き出し、食い入るようにその容貌を見つめている。

 

タバサに心をくすぐられたことからも分かるように、彼女は小さくて愛らしい子どもがド真ん中ストライクで好みなのだ。

 

「アー…、そうかな?」

 

ディーキンはきょとんとして、少し首を傾げた。

確かに人間としては愛らしい感じの外見にしたつもりだったが、まさかドラゴンにそんなことを言われるとは。

 

そのかわいい仕草を見たシルフィードは、ますますヒートアップする。

 

「お兄さまったらなんて可愛いのね! 食べちゃいたいくらい!」

 

興奮したシルフィードは、少し困惑している様子のディーキンをそのままぎゅっと抱き締める。

が、途端に顔を顰めて、抱きついた腕の力を緩めた。

 

「……きゅい!? 痛い!

 な、なんだかごわごわしてちくちくして、ヘンな手触りなのね。

 見た感じはもっとやわらかくってぷにぷにしてそうなのに、ウロコみたい。

 それに声も変わってないわ、お兄さまの声は素敵だけど、何だかその格好には合わない感じがするのね!」

「ンー……、それは、この帽子は見た目を変えるだけだからね」

 

シルフィードの先住魔法や《自己変身(オルター・セルフ)》の呪文による変身などとは違って、この帽子はあくまでも幻術で外観を『偽装』するだけだ。

実際の体の大きさや質感などは、全く変化していないのである。

ディーキンの体は並のコボルドのそれよりもずっと硬い鎖帷子並みの強度を持つウロコで覆われている上に、鎧や何かも着込んでいる。

そりゃあ柔らかい肉剥き出しの人間の体で不用意に抱きついたりしたら、痛いのは当然だ。

 

当然、声も変化などしない。

ディーキンの本来の声は……、確かに、声変わり前の人間の少年の姿にはおよそ似合いそうもない。

これまであまりこんなことをする機会がなかったので気付かなかったが、今後変装するときには気を付けた方が良さそうだな、とディーキンは心に留めた。

 

しかしまあ、今回は少し街に入るだけだし、呪文をやたら使いすぎるのも避けたいので、声までは変えなくてもよいか。

応対はタバサに任せれば喋る必要も殆どないだろうし、風邪か何かでちょっと声が潰れているということにでもしておけば済むだろう。

 

「きゅい、よく分からないけどそういうものなの?

 残念なのね、じゃあシルフィが元の姿に戻ったら、抱きつかせていただくのね。

 はっ……! 小さなお兄さまとウロコとウロコの触れ合い……、きゅいぃ、シルフィったら、禁断っぽいのね~~!!」

「?? ……アー、その、ええと……?

 ディーキンには、あんたが何を言ってるのか、よく分からないんだけど……」

「…………」

 

何やら勝手に身悶えしてきゅいきゅい言っているシルフィードを見て、ディーキンは少し引く。

そして2人の様子をじっと見守っていたタバサは、やおら杖を持ち上げると、無言で自分の使い魔の頭の上に振り下ろした。

 

 

そんなこんなで、結局3人で一緒に役所へ向かう運びとなった。

 

シルフィードは街を歩いている間も、構ってもらおうとしきりにやかましくタバサやディーキンに話し掛け続けた。

しまいにはまたタバサに杖で殴られたので、今はもじもじと落ち着かなさそうにあたりを見回しながらも静かにしている。

 

ディーキンの方はといえば、街を歩いている間、初めて訪れるトリスタニアの様子をメモを取りながら目を輝かせて観察していた。

 

白い石造りの賑やかな街並みが広がり、道端には露店が沢山並んで、大勢の人が行きかっている。

今は夕方だが、日中ならばさらに騒がしく、人通りも多いことだろう。

前にディーキンが住んでいたウォーターディープとは大分様子が違うが、ここもまた、ずいぶんと大きな都市であるようだ。

 

タバサはといえば、2人が浮ついた様子でいるのをまるで気にした様子もなく淡々と歩き続けた。

だが、先行し過ぎると時々立ち止まって2人を待ったりするあたりからして、実際は気にかけていないわけではないのだろう。

街に不慣れな弟と手のかかる侍女とを引率する、外見の割に大人びた貴族のお嬢さんとでもいった感じである。

 

そうして役所へと到着すると、タバサが一行を代表して、役人たちに事情を説明した。

こういうのは無口なタバサよりディーキンの方が向いていそうだが、まだこちらに不慣れであるし、正式な身分もないので仕方がない。

 

役人たちは当然のごとく、こんな子どもらが本当に人攫いを捕えたのか、と胡散臭げな様子でいろいろと詮索してきた。

が、やりとりを通してタバサの身分を知ると、皆一様に驚いた様子ながらもどうにか納得したようだ。

悪評高い傭兵団を捕えて失踪事件を解決したことに感謝を述べて、後日正式な礼と褒賞を用意する旨を約束してくれた。

 

ディーキンが横で聞いて理解したところでは、どうやらタバサは『シュヴァリエ』とかいう功績ある者に贈られる身分を得ているらしい。

衛兵たちの驚きようからして、おそらく彼女のような若さで持っているのは相当に凄いことなのだろう。

もちろん彼女の腕前を既に見ていたディーキンは、なるほど流石にと得心こそすれ、特に驚きはしなかったが。

 

 

用を済ませて役所を出たタバサは、帰る前に少し書店へ寄り道すると告げた。

もう遅いし早く帰った方がいいのだろうが、せっかく王都へ来たのだからシルフィードに買わせる予定だった本を購入していきたいのだ。

 

「きゅい、あのお店に行くの? なんだか変な匂いがしてて、シルフィはあまり好きじゃないのね!」

「オオ、本のお店? いいね、ディーキンも何か買おうかな……、」

 

そう返事をしたディーキンはしかし、買おうにもこちらの通貨をまだ持っていないことに思い当たった。

 

ディーキンの手持ちにあるレルムの貨幣はまず間違いなくこちらでは知られていないはずだ。

授業中のキュルケの様子からすれば、金などの貴金属にはこちらでも普通に価値があるようだから、完全に無価値とはならないだろうが……。

そのままの状態では通貨としては使えまいし、流石にいきなり店に行って、価値はあるはずだからこれと交換してくれなどというわけにもいかないだろう。

 

「……うーん、タバサ。

 できたら、本屋さんの前に、寄って欲しいところがあるんだけど……」

「何?」

「ええと、ディーキンはまだこっちのお金を持ってないの。

 だから店に行く前に、欲しい品物があったら買えるように手持ちのものを少しこっちのお金に変えたいんだよ。

 そういう取引をしてくれるお店はない?」

 

タバサはそれを聞くと、小さく首を傾げた。

 

「どんなものを売るのかにもよる」

「ああ、そうだね……」

 

ディーキンはそこで、ちょっと考え込んだ。

 

手持ちで一番価値が高いものと言えばマジックアイテム類だが、レルムとは大きく魔法体系の違うここでは査定に時間がかかりそうだ。

その分未知の品ということで高く売れるかもしれないが……、冒険用の品々はなるべく売りたくないし、今は時間も無い。

となると、手早く換金できて売っても特に困らないものはやはり貴金属や宝石類だろう。

 

「……うーん、こんなのとかはどうかな?」

 

ディーキンは懐からごそごそと財布と宝石袋を取り出して、タバサに見せた。

買い物のたびにいちいち荷物袋から取り出す手間を省くために、交易用延べ棒や貨幣、宝石類などは、普段から多少は懐に入れてある。

荷物袋の中にはまだ沢山入っているし、他にも装飾品の類とかもあるが、まあ今は当面の買い物に不足が無ければいいので全部換金する必要はあるまい。

 

「……これは、コボルドの貨幣?」

「ン? 違うよ。コボルドは鉱山を掘るけど、お金は作らないの。

 それはディーキンのいたあたりの人間の街で使われてるお金だよ、それ以外のところで拾ったものとかもあるけどね」

「そう」

 

タバサはそれらの品々を受け取って、興味深そうに調べる。

 

……貨幣類は、全体的にこちらのものよりもやや大きめのサイズのようだ。

大半は芸術的な価値が認められるほど手の込んだものではないが、何にせよ金属としての価値で売ることは可能だろう。

銅貨や真鍮貨などは屑鉄同然の値しかつくまいが、金貨などはサイズも大き目だし、それなりの値で換金できるはずだ。

 

小さな亜人の子が沢山の貨幣や高価な延べ棒、宝石類を持っているというのは驚きだが……、そういえば、冒険生活をしていると言っていたか。

ならば、有事に備えてこのくらいの蓄えはあってもさほど不思議ではないか。

 

この辺りでは見たことのない、珍しい宝石もあるようだ。

自分にははっきりしたことはわからないが、なかなか綺麗で品質もよさそうに見える。

専門家に見せれば、あるいは高値で売れるかもしれない。

 

いくつかまとめて紐に通された、小さな三日月形をした奇妙な金属片もある。

精緻な象眼が施されているあたりからすると装飾品かと思ったが、ディーキンによると貨幣の一種だということだった。

白金に琥珀金で装飾をしたものだそうだが、これならば、あるいは芸術的な付加価値もつくかもしれない。

 

「どう? 売れそうかな?」

「……はっきりとはわからない。けど、ちゃんとしたところで売ればかなりの額になると思う。

 私の知っている店でよければ、これから案内する」

 

そこへシルフィードが、勢い込んで口を挟んできた。

 

「お金? お金は大事なのね!

 お兄さま知ってる? お金って使ったら変わったりなくなったりするのよ。気を付けた方がいいのね!」

「え? ……ああ、うん、大丈夫。ディーキンは、お金の使い方はちゃんと知ってるよ。

 この辺の物の値段とかは、まだよくわからないけどね」

「きゅい! じゃあシルフィが、お兄さまに教えて差し上げるのね!」

 

シルフィードは得意げに胸を張って、今日の体験から覚えたばかりの知識を披露し始める。

手にしたばかりのにわか知識を自慢げにひけらかして回りたがる辺り、実に子どもっぽい。

 

「おほん……。いい、お兄さま。

 まず、お店でおいしい焼いたお肉を買うのね?

 そうすると、きらきらした黄色っぽいお金が、きらきらした灰色っぽいお金に変わって、増えるのね!」

「? アー……、そうなの?」

「そうなのね! それで、もっと使うと数が減っていって……、

 そのうちきらきらしてないお金になって、それだと本が買えないのね!」

「?? その……、ええと?」

 

「………」

 

シルフィードの要領を得ない体験談にディーキンが困惑しているのを見て、タバサはいい加減にしろと言うように杖で使い魔の頭を小突いた。

まるで、小さな妹が恥ずかしい事をして回っているのを叱る、お姉さんのようである。

 

「きゅい!? ……いたいよう、なんで殴るのね?」

「私が、彼にちゃんと説明する。あなたも、一緒に聞く」

 

タバサは2人を先導して歩きながら、ハルケギニアの貨幣制度について淡々と説明していく。

 

ハルケギニアで主に用いられている通貨はドニエ(銅貨)、スゥ(銀貨)、エキュー(金貨)、それに新金貨の四種類。

10ドニエが1スゥであり、100スゥが1エキュー。新金貨は大体、エキュー金貨の3分の2くらいの価値。

一般的な平民が日常の買い物で使う貨幣はおおむね銅貨と銀貨で、金貨・新金貨は主に貴族や裕福な平民、商人などが高額な買い物の際に用いる。

街で中流階級程度の不自由ない生活を送るには、年間120エキューほどは必要。

もちろん、田舎で自給自足の生活を送るのならば、必要な額は遥かに少なくなるが。

 

ディーキンはそれを聞きながらメモを取ったり、タバサが財布から取り出して見せてくれた貨幣をしげしげと眺めたりした。

それから適当に何種類かの品物の相場について尋ねたり、気になった点をいろいろと質問したりしていく。

 

「ンー……、ところで新金貨がエキューの3分の2の価値だと、スゥにした時に割り切れないけど?」

「本来は新金貨はエキューの4分の3、75スゥの価値ということになっている。

 だけど新金貨は、より歴史のあるエキュー金貨と比べると信頼性が低く見られていて人気が無い」

「アア、それで実際使う時の価値がちょっと低くなってるんだね?」

「そうなる」

 

フェイルーンでも、例えばウォーターディープ特有の貨幣であるハーバー・ムーンは、同都市の外では価値が下がる。

それと似たようなものだろうとディーキンは理解した。

 

「あと……、ディーキンのいたあたりだと銀貨が銅貨の10倍で、金貨も銀貨の10倍だったけど。

 この辺りは金の価値が、ずいぶん高いんだね?」

「昔は100ドニエが1スゥで、銅と銀、銀と金の換金の割合が同じだった時代もあった。

 でも、卑金属は『錬金』で贋金を作りやすいけれど、金はスクウェアメイジでもごく微量しか錬金できないから贋金の心配が少ない。

 それで、信頼性の高い金の値打ちが他に比べて次第に高くなっていった」

「オオ……、なるほど。タバサは、すごく物知りだね」

「あなたこそ、呑み込みが早い。……それに、目の付け所もいい」

 

ディーキンは、様々な質問に対して即座に明瞭な答えを返してくるタバサの博識さに感嘆していた。

 

タバサの方もまた、ディーキンの呑み込みの良さや、鋭い着眼点からの質問には、少なからず感心していた。

それに、今まで一人で生き抜くための知識を溜め込み続けるばかりだったタバサにとって、親しい誰かにそれを披露するのは楽しいことだった。

もちろんキュルケとは親友だが、彼女はあまり知識を得ることに興味を示す性質ではないので、そういった関わりは殆どなかったのである。

 

そんなわけで、ディーキンとタバサは、2人して楽しい時間を過ごしていた。

もっともタバサの方は、傍から見れば無表情のままだったが。

 

「あなたのいた所では、『錬金』は使われていない?」

「ウーン、ディーキンはまだ、こっちの呪文に詳しくないけど……。

 昨日本で見た感じだと、割と腕のいい魔法使いじゃないと、同じようなことをするのは無理だと思うね。

 だからええと、あんまり使われてない、かな? ディーキンはそう思うの」

「では、物はすべて手作業で作るの?」

「マジックアイテムとかじゃない普通の物は、大体そうだと思うの。

 組み立てを魔法でやったりすることもあるけどね。

 あと、錬金術でちょっと変わったアイテムを作ったりする人も、大勢いるけど……」

「錬金術……? それは、『錬金』とは違うの?」

 

一方、シルフィードはというと。

 

頑張って耳を傾けてはいたものの、途中から頭を抱えてうんうんと唸り始めた。

今日初めて貨幣制度について学び始めたお子様にとっては、いささか内容が複雑すぎたようだ。

 

「……お、お兄さまもお姉さまも何言ってるのかよくわからなくなってきたのね!

 きゅいい、む、難しい……」

 

その様子を見て首を傾げたディーキンが、にこやかに提案する。

 

「イルク、それなら後で、ディーキンと一緒に勉強しない?」

「きゅい? お兄さまが、教えてくださるの?」

 

人にわかりやすく説明しようとすることが自分自身の理解を深め、定着させることにも繋がる。

昔バードの勉強を始めたころ、呑み込みの悪かったディーキンに対して以前のご主人様が助言してくれたことだ。

自分でもこれまでの経験則として、まさにその通りだと感じている。

 

なお、イルクというのは勿論、シルフィードの本名であるイルククゥを縮めたものだ。

 

いきなりお兄さま扱いされて困惑したものの悪い気もしなかったディーキンが、じゃあこっちも何か特別な呼び方を、ということでさっき提案したのである。

本人も大喜びしてくれたので、早速フレンドリーな雰囲気で使っている。

タバサとしても、縮めた名称なら先住由来の名だとは分からないので、特に文句はなかった。

 

……にしても、ドラゴンともあろうものがお金の事を知らなかったとは。

ディーキンにとっては、実に意外な話だった。

 

フェイルーンのドラゴンは善良な種も邪悪な種もみな、等しく強欲で物惜しみする傾向がある。

宝の山を所有していないドラゴンなど、皆無に等しいといっていい。

 

しかし彼女はまるで、そういう財宝については興味が無いどころか、知識すらほとんどない様子だ。

食欲だけは相当あるようだが……。

 

そうこうしてこのあたりの物価や貨幣の歴史等に関する質疑応答、および雑談が一区切りついたあたりで、ようやく目当ての店が見えてきた。

 





D&D世界における貨幣と冒険者:
 フェイルーンをはじめとするD&D世界では、銅貨、銀貨、金貨、白金貨が主に使用されている。
時にはエレクトラム(琥珀金)貨や、鉄貨、真鍮貨、ミスリル貨などの珍しい貨幣が使われることもあるが、あまり一般的ではない。
銅貨(cp)10枚で銀貨(sp)1枚の価値、銀貨10枚で金貨(gp)1枚の価値、金貨10枚で白金貨(pp)1枚の価値、となる。
鋳造された場所によってデザインや名称には差異があるが、含有される貴金属の量に差が無い限り、基本的にはどこのものでも価値は変わらない。
貨幣の重量は種類によらず一枚あたり0.02ポンド(約9グラム)である。
高額の買い物には重量1ポンドの交易用延べ棒や、宝石類なども使用される。
一般人は銀貨、貧しい人々は銅貨を主体に使うが、冒険者は購入品の値段の関係上基本的に金貨より下の貨幣は滅多に使わない。
 D&D世界の一般的な物価の例として、1gp(金貨1枚)あれば山羊なら1頭、ニワトリなら50羽も買うことができる。
自宅に住み、自給自足的な生活をしている肉体労働者の月収は平均3gpである。
対して武具は、魔法のかかっていないごく普通の両手持ちの大剣(グレートソード)でさえ50gp(金の延べ棒一本分の価値)である。
高価な魔法の武具やマジックアイテムになれば、数千~数万gpなどという値段の品もザラにある。
したがってD&D世界では、それなり以上の腕を持つ冒険者は概ねかなりの金持ちであるといってよい。

エキュー金貨とD&D金貨の価値の比較:
 ハルケギニアのエキュー金貨のサイズは、原作の記述によれば一円硬貨くらい。
王都で宿の個室を一週間借りるにはどんなボロ部屋でも最低5エキュー、王都で一年生活するには120エキューは必要だとされている。
 D&D世界の金貨のサイズは、ルールブックに載っている原寸大のイラストからすれば五百円硬貨よりやや大きいくらい。
宿屋暮らしをすると、野宿よりはマシ程度の共用宿泊施設で寝起きする場合で月額12gp、人並みの生活をするなら月額45gpは必要になる。
個室を借りて快適に生活したければ月額100gp、王侯貴族のような贅沢三昧の生活を愉しむためには月額200gp……、となる。

ハーバー・ムーン(港の月):
 白金に琥珀金(金と銀の合金)を象眼した、中央部に穴の開いた三日月形の貨幣。
ウォーターディープで鋳造されている特有の高額貨幣で、同都市内では50gp、それ以外の地域では30gpの価値を持つ。
波止場で大量の積荷を購入するためによく用いられることがこの名前の由来だという。
なおウォーターディープ特有の貨幣としては他にトールというものもあるが、これは真鍮貨で、他の地域ではほとんど無価値である。
 ウォーターディープでは白金貨はサン(太陽)、金貨はドラゴン(竜)、銀貨はシャード(かけら)、銅貨はニブ(ペン先)と呼称されている。


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第二十五話 Evening girls

 

ここはトリステイン魔法学院。

既に夕食も済んで、外はすっかり暗くなっている。

 

「ふう……、」

 

メイドのシエスタは、学院の広い廊下でカーテンを閉めて回る仕事をしていた。

随分と疲れた様子で、溜息など吐いている。

 

といっても、昼間の決闘や使用人の仕事で疲れている、という訳ではない。

 

昼間の決闘に勝った後、食堂に戻ったシエスタは使用人仲間から大歓声を持って迎えられたのだ。

自分たちの仲間が“偉ぶった生意気な貴族の子ども”に堂々と楯突き、あまつさえ勝ったのがよほど痛快だったらしい。

特にマルトー料理長などは「我らの剣」などという大層な呼び方までして持ち上げてくれたものだった。

おまけに、英雄にこんな仕事はさせられないとかいって事あるごとに皆が手伝いを申し出てくれたので、いつもより仕事量は少なかったくらいだ。

 

だが、シエスタとしてはそのような扱いを受けても困惑する気持ちの方が強く、あまりうれしいとは感じなかった。

あの決闘はあくまでも不公正な態度を見過ごせない自分の信念と、友人(ディーキン)を庇う気持ちから受けたにすぎないからだ。

 

シエスタ自身には基本的に貴族の権威や既存の秩序を軽んじる気持ちなどはなく、普段はそれに敬意を払い、従っている。

今回戦ったギーシュという少年のことだって別に嫌いなわけではなく、むしろよい人物だと思う。

規律と善行を重んじるシエスタにとって、事態を穏便に収拾できず彼と決闘などをしたのはむしろ恥ずべき事だったといっていい。

ましてや今回の勝利は自分の力ではないことをシエスタは知っているのだから、なおさら喜ぶ気持ちにはなれなかった。

もちろんそれとは別に、ディーキンと巡り合わせたこと、召命の声を聞いたことは、この上もなく幸福な経験ではあったが。

 

だから、「あれは褒められるようなことじゃないし、勝ったのもディーキンさんの応援のおかげですから」と、言ってはみたのだが。

 

達人は誇らないものだとか何とか解釈されてますます熱狂的に持ち上げられるばかりで、どうしようもない状態だった。

おまけに決闘の際には怯えていた後輩のメイドが、敬意と熱情とが入り混じったような上気した顔でやたら付きまとって世話を焼いてくるのには閉口した。

 

そんなこんなで、今日のシエスタは普通に仕事をこなしている普段よりも数倍、気疲れしたのである。

 

決闘の件に関しては、一応学院側から呼び出しを受けた。

シエスタはクビも覚悟していたが、学院長の判断で特に責任は問わないという事になった。

なんでも決闘相手のギーシュが学院長室まで出向き、非は全面的に自分にある、彼女を罪に問わないで下さいと頭を下げたらしい。

シエスタはそれを聞いて少なからず感動し、今度彼にお礼を言っておかなくてはと心に留めた。

幸いなことに行為はともかく後の反省の態度は潔いということで、彼の方も今回は口頭注意だけで済むそうだ。

 

(怖かったし、疲れたけど……、今日は本当に素敵な日だったわ)

 

シエスタがしみじみとそう思い返しつつもうひと頑張りしようと気合を入れ直した時。

急に、背後から声をかけられた。

 

「ちょっと、そこのメイド」

「は、はいっ?!」

 

こんな時間に声を掛けられるとは思っていなかったシエスタは、びくりとする。

口調からすれば貴族の女生徒のようだが、もしかして疲れた様子か何かが態度に出ていて不興を買ったのだろうか。

それとも、昼間の決闘の件で何か言われるのだろうか。

 

恐る恐る振り向いて、相手の姿を確認する。

そして、ほっと一安心した。

 

「これはミス・ヴァリエール、お声を頂きまして恐縮です。

 私に何かご用でしょうか?」

 

シエスタは、実際のところルイズの事をあまりよく知っているわけではない。

 

貴族なのに魔法を使えず、しょっちゅう爆発を起こして周囲に迷惑をかけ、『ゼロ』という不名誉な渾名をつけられて蔑まれているとか。

そのくせ他の貴族と変わらない高慢な態度を取る生意気な娘だとか、他の使用人たちが陰口を叩いていたのを小耳に挟んだことはある。

しかし事実であろうとなかろうと、陰で悪口を言うような真似は好きではないのでそれに加わった事はなく、あまり詳しい話は知らなかった。

 

自分が魔法を使おうとすると爆発するのを承知していながら周囲への迷惑を顧みないのであれば、確かにそれは感心しない行為だとは思う。

だが、それ以外に関しては特に問題があるとは感じなかった。

陰口を叩いていた使用人達は態度が高慢で生意気だといっていたが、シエスタの見る限りでは貴族として妥当な姿勢の範囲を超える程だとは思えない。

見たところ、時折見かける本当に高慢で弁えのない貴族のように、理不尽に平民に当たったりしている様子もないし。

 

なんにせよシエスタとしては、今まではさしたる感情は持っておらず、特別意識したことも無かった。

だが何であれ、彼女は自分が崇敬しているディーキンを召喚した、彼の“主人”なのだ。

ならばやはり彼女も善人であろう。少なくとも、悪い人のはずがない。悪い人に、彼が仕えるものか。

 

そうでなくても、今やパラディンであり《悪の感知(ディテクト・イーヴル)》が使えるシエスタには、その気になれば悪人は簡単に見分けられる。

もちろん、見境なく他人に対してその能力を使用するのも失礼だろうから、まだ実際に誰かに使って確かめたりはしてないが。

 

「ええ、用があるから声を掛けたのよ。

 やっと見つけたわ、あなた、昼間ギーシュと決闘をしてた子で間違いないわよね?」

「は、はい、そうですが……」

「それならちょっと聞きたいのだけど。

 あなた、ディ……いえ、私の使い魔がどこにいるか知らないかしら?」

「え? せんせ……あ、いえ。

 ディーキンさんの居場所、ですか?」

 

シエスタは首を傾げた。

 

あの人が自分の元を訪ねてくれたのは決闘の直後、もう何時間も前の事だ。

だから当然、とっくの昔に主人の元へ戻っていると思っていたのだが。

まさか昼過ぎに分かれたあの時から今まで、ずっと主人の元に戻っていないという事なのだろうか?

 

いや、そういえば皆がちやほやしてなかなか仕事をさせてくれなかったせいで、あまり気を回す暇もなかったが……、

確かに先程の夕食の時には、あの人の姿を見なかった気がする。

 

(あれ? でも、確か使い魔って、主人の方と感覚を共有できるとか……)

 

ルイズはシエスタが考え込んでいる様子を見ると、溜息を吐いて首を振った。

その表情は苛立ち半分、心配半分といった感じだ。

 

「……その様子だと知らないみたいね。

 図書館にもいなかったし、まったくもう、どこに行ったのよ……」

 

ルイズはディーキンに夜までには戻って来いと言っただけで、特に正確な時間は指定していない。

それは当然で、ハルケギニア人には正確に待ち合わせ時間を指定して守るように要求するというような習慣はない。

そんな事はおおよそ無理だからである。

 

ハルケギニアでは一応半魔法式の懐中時計も発明されてはいるが、所有しているのは裕福な貴族などの一部の者のみだ。

殆どの者は携帯可能な時計はおろか、一切の時計の類を持っておらず、公共の場の時計や時報の鐘、天体の運行などに頼って生活しているのが普通である。

ルイズ自身、普段から懐中時計などは持ち歩いていないし、頻繁に時間を確認する習慣も無かった。

学院内でも、授業時間の区切りや食事時などの大まかな時間が鐘の音で知らされ、生徒も教師も使用人も、皆それに従って行動する。

 

そのあたりの事情はディーキンの住んでいたフェイルーンでも概ね同じで、むしろハルケギニアよりも若干遅れているくらいだろう。

懐中時計などの機械式の時計はランタン島のノーム等が一応発明はしているがまるで普及しておらず、そういった物の存在を知っている者自体が稀だ。

一般に時計と言えばせいぜい水時計とかそんなもので、それにしたところで所持しているのは一部の金持ちだけだ。

魔法による時計も作ろうと思えば作れなくはないだろうが、やはり一般的ではない。

 

ともあれ、ディーキンはここに来たばかりだが、授業の終了時や開始時に鐘がなるのは既に何度も聞いて知っているはずだ。

正確な指定などはしなくても、それらを頼りにして放課後か遅くとも夕食時までにはまず戻って来るだろう……と、ルイズはそう考えていたのだ。

 

ところが、放課後になっても、夕食が始まっても、終わっても……、ディーキンは一向に姿を見せなかったのである。

 

(図書館にもいない、食堂にも来ない。これだけ見て回っても見つからない、となると……、

 まさか、学院の外に遊びに出ていって迷子になってたりなんてしないでしょうね?)

 

迷子だけならまだいいが、迷った挙句に危険な生物に出くわしたり、人間の集落にさまよい出て騒ぎに巻き込まれることだってありうる。

いろいろ考えているうちにルイズは次第に不安がつのってきて、そわそわしはじめた。

ディーキンが見かけによらず賢いことは承知しているが、でもやっぱり小さくてこのあたりに不慣れな子だし、と思うと不安だった。

 

シエスタはその様子を見て、少し躊躇したのちにおずおずと口を挟む。

 

「……あの、ミス・ヴァリエール。

 あの方にはそんなに心配はいらないとは思いますけど、もし気になられるのでしたら……。

 メイジの方には、使い魔との感覚の共有というのがあるのでは?」

 

シエスタにとって、ディーキンはいまだに自分を救い素晴らしい運命に導いてくれた神の御使いなのである。

本人が説明してくれた通り種族的には天使とは違うのかもしれないが、そんなことは彼女にとってさして重要なことではなかった。

その天使様がどこかで迷子になって困っているだとか、そんなことは当然想像もしていないし、何も心配ないと思っている。

戻ってくるのが遅いのは、きっと何か、あの人なりの事情があるのだろう。

 

とはいえ、そのことで不安に思っている人がいるのなら、それは何とかしてあげたい。

そう思っての、純粋に気遣いからの提案だったのだが……。

 

提案された当のルイズは、何やら顔をしかめて半目で軽くシエスタを睨んでいた。

予想外の反応に、シエスタは少し慌てる。

 

「え、そ、その………、わ、私、何か失礼なことを申し上げてしまったでしょうか?」

「……いえ。あなたは知らないに決まってるんだから仕方ないわよね……」

 

ルイズは一旦言葉を切ると、ふう、と息を吐いて気持ちを落ち着けるように軽く首を振る。

 

向こうはディーキンと自分が正規の契約をしていないことを知らないのだから、何の悪意も非もあるわけではない。

なら怒ってはだめだろう、貴族として。

 

「なんていうか……、ちょっと理由があってね。私はあの子とは、感覚の共有ができないのよ」

「あ……、そ、そうだったのですか、失礼しました!」

 

シエスタはルイズが魔法をうまく使えないという話を思い出し、そのせいで感覚共有がうまくいっていないのだろうと解釈した。

良かれと思ってした提案だったが、かえって彼女を傷つけてしまったかと少しへこむ。

 

まあ、事実は少し違うのだが。

 

「別に、気にすることはないわ。

 けどこのことはほかの人には内緒にしておいてちょうだい、いいわね?」

「あ、は、はい。かしこまりました」

「ありがと。……そういえば私、さっきのあなたの決闘の事でディーキンから聞くつもりのことがあったんだけど。

 あいつはいないし、せっかくここで会ったんだからあなたに―――――」

 

2人がそんな会話をしているところへ、また別の生徒が通りかかった。

 

「―――――あら? ルイズと……、あなた、昼間ギーシュと決闘してた子ね。

 夜分遅くにこんなところで、2人して一体何を話してるのかしら?」

 

「あ……、これはミス・ツェルプストー、良い夜です」

 

シエスタは声を掛けられてキュルケの存在に気が付くと向き直って丁寧に挨拶したが、ルイズは露骨に嫌そうな顔をする。

 

「なによツェルプストー。あんたには関係ないことよ」

「何よ、つまんないわねえ。教えてくれてもいいでしょうに。

 まさか、人に言えないような用事なのかしら?」

「うるさいわね。あんたこそ何しに来たのよ」

「別にー? 私はちょっと、食堂で夜食をもらおうと思っただけよ」

 

キュルケは今夜は幾人かの男子を順番に部屋に招いて、夜が更けるまでたっぷりと楽しむ予定である。

そのため客人をもてなしたり、合間に自分が英気を養ったりするための軽い飲食物を、今のうちに調達しに来たのだ。

 

そうこうして少し言い合いをしているうちに、キュルケはふと何かに気が付いたように首を傾げた。

 

「……あれ? そういえばルイズ、ディーキン君とは一緒じゃないの?」

 

キュルケは午後の授業で、ディーキンがルイズと一緒に教室に来ていなかったのは確認している。

ルイズとしては午前中随分と目立った上に今度はあの決闘騒ぎで、今日はもうこれ以上注目されるのは嫌だったのだろうと考えて納得した。

あるいはディーキンの方からそう申し出たのかもしれない。見た目に反して随分と賢く、気遣いもできる子のようだったから。

 

だがしかし、ルイズにとって彼はやっと成功した魔法の証であり、仲もとても良好そうなパートナーである。

おまけにまだ召喚した翌日とくれば、本来ならそんなに長い間手元から離しておきたいわけがない。

当然授業が終わった後は日中離れていた分余計にべったりくっついて連れ歩いてることだろうとばかり思っていたのだが……。

 

「もしかして小さい子だから、もうおねむであなたのベッドの中なのかしら?」

「…………」

 

答えにくいことを聞かれたルイズは、キュルケの問いかけに咄嗟に返事もできず、ますます顔を顰めてキュルケを睨むばかり。

シエスタはといえば、何か言いたそうにしながら困ったような顔でもじもじしている。

 

キュルケはそんな2人の様子を見て、ますます不思議そうな顔をした。

 

「……何よ、一体どうしたの?

 おねむじゃなかったら……、どこか遠くへお使いにでも出して、なかなか戻ってこないとか?」

 

昼間授業に出てない間に触媒探しにでも行かせて、慣れない土地で道に迷って帰りが遅くなっているのだろうか。

それでルイズが、いらいらしたりやきもきしたりしているのでは……。

そんな風にキュルケが考えていると、ルイズが不機嫌そうに返事をしてきた。

 

「それが分からないから、探してるところよ!」

「……そう……、まあ、ディーキン君ならそんなに心配はいらないとは思うけど」

 

ルイズを安心させるようにそういいながらも、キュルケも少し深刻そうな顔をする。

 

もし学院の外に行ったのだとしたら……。

彼は賢い亜人だが、この真っ暗闇で未知の土地では道に迷う恐れはある。

人間とトラブルを起こすとかいった心配はないとは思うが、夜の間に獣などに襲われる事はないとはいえない。

この辺りには滅多にそんな危険な獣はいないはずだが、可能性はゼロではない―――。

 

シエスタと違って、ルイズやキュルケは今のところ、ディーキンが獣などに襲われてどうにかなるような存在ではないことを知らない。

おまけに、外見や口調から見て賢いとはいえまだ年端もいかない子どもであろうと思っている。

そりゃあ、夜中まで行方不明になっていれば心配するのも無理はないだろう。

 

(タバサがいれば、あの子に頼んで風竜でこの辺を空から探すとかできるかしら。

 いえ、もう暗いから難しいわね。それにあの子、さっきから姿が……)

 

そういえばあの無口な親友も、ちょっと前から姿が見えないのだ。

 

タバサは午後の授業の途中にふらっとどこかへ出ていって、そのまま姿を消した。

まあ彼女の場合は今までにもたびたびそういうことがあったので、キュルケはそれほど心配はしていないのだが……。

 

(あの子とルイズの使い魔とが一緒に行方不明って……。

 まさか、何か関係があったりとか?)

 

キュルケはふと、タバサとディーキン、両者の行方不明を結びつけて考えてみた。

すると、それまで心配していたのとは全く別の、昼間の決闘の際に暫時頭をよぎった疑念がキュルケの中に再び生じてきた。

 

(あの子、昼間の決闘の時といい、ディーキン君に何か普通じゃないくらい興味があったみたいだったけど……。

 ま、まさかあの子が他人の使い魔を連れだしてデートとか……、いくらなんでもそんなわけが)

 

考え過ぎだろう。

 

今までだってあの子がふっと姿を消すのは珍しくなかったんだし。

何故あの子がルイズの使い魔に召喚直後から異様に関心を寄せているのかまでは知らないが、2人が同時に居なくなったのはあくまで偶然に違いない。

今回はたまたま時期が重なったというだけで、関係など無いに決まって……、

 

「! あっ……、」

 

キュルケがそんな風に自分の想像を振り払おうとしていた時。

2人の会話に口を挟むわけにもいかず廊下のカーテンを閉める作業に戻っていたシエスタが、窓の外を見て声を上げた。

 

「何、どうかしたの?」

「ミス・ヴァリエール、ディーキンさんが戻られました。外を歩いておられますよ」

 

シエスタは窓を開けて軽く身を乗り出し、手を振りながら目を凝らす。

ルイズとキュルケも慌てて手近の窓に駆け寄り外をのぞいてみるが、ほとんど何も見えなかった。

セレスチャルの血を引くシエスタには、人間には見ることのできない暗闇の中を見通せる生来の暗視能力が備わっているのだ。

 

そのシエスタの次の発言で、ルイズとキュルケが一斉に固まった。

 

「誰かと、えっと――――、

 ……あ、ミス・タバサとご一緒に戻られたみたいですよ?」

 





ディテクト・イーヴル
Detect Evil /悪の感知
系統:占術; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作、信仰
距離:60フィート、中心角90度の円錐形の放射範囲
持続時間:精神集中の限り、最大で術者レベル毎に10分(途中解除可能)
 術者は悪の存在を感知する。明らかになる情報の量は、術者がどれだけ長い間特定の範囲や対象を観察するかによる。
1ラウンド(6秒)の観察で悪の存在の有無、2ラウンドでその数と最も強いオーラの強度、3ラウンド目には各オーラの強度と位置が分かる。
アンデッド、悪の来訪者、悪の神のクレリックなどは特に強いオーラを放つ。
また、[悪]の副種別を持つ魔法や、それによって作られた悪のアイテムなどの放つオーラも感知できる。
あまりにも強力な悪の存在を感知した場合、術者がそれに打ちのめされて短時間の間朦朧としてしまう事がある。
分厚い壁や鉛の薄膜はこの呪文の効果を遮るが、木製の扉や普通の土壁、薄い鉄板程度であれば効果は貫通してその背後も調べることができる。
 パラディン(聖騎士)は最も基本的な能力として、ただ精神を集中するだけでいつでもこの呪文と同等の効果の超常能力を回数無制限で使用できる。
ワルドが悪党だとか、シエスタがいれば一発でわかるよ!(実際にやるとはいってない)


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第二十六話 Girls and Deekin

 

「お帰りなさいませ、先生、ミス・タバサ」

 

パタパタと翼を羽ばたかせて窓から入ってきたディーキンと後続するタバサを、シエスタが丁重に御辞儀をして出迎える。

ディーキンはきちんと足の汚れを落としてから、廊下に降り立った。

 

「オオ、ただいまなの、シエスタ。

 ……あれ、ルイズと……、キュルケもいるの?」

 

ディーキンはシエスタに御辞儀を返してから、後ろで顔を引き攣らせているルイズと、呆気にとられたような顔をしているキュルケを見て、首を傾げた。

 

「こんなところで、みんなで何してるの?」

「ちょ、ちょっとディーキン?

 あ、あなた、い一体こんな時間までミス・タバサとどこへ行っていたのかしら?」

「ああ、ええと、そのことだけど、出かける前に言ってなくて申し訳なかったの。実は……」

 

何やら剣呑そうな雰囲気のルイズにひとまず頭を下げると、ディーキンは事情を説明しようとした。

が、そこでキュルケが何やら優しげな顔で背後からルイズの肩をそっと押さえる。

 

「ルイズ……、召喚したばかりの使い魔がいきなり他の子と逢引していてショックなのはわかるけどね。

 いくらあなたがその子の主人でも、そんなことを聞くなんて野暮ってものよ?」

「………アー、」

 

キュルケは気を利かせたつもりなのかもしれないが……、ディーキンは事情はよく分からないものの、何かまずい事になったような、嫌な予感がした。

案の定、ルイズは落ち着くどころかいきなり顔を真っ赤にして錯乱し、キュルケを振り解くと猛烈な勢いでディーキンに詰め寄る。

 

「あ、あああ逢引ですってぇ!? はは放しなさい!

 ディーキン、ちょっとあんた、私に上手いこと言っておいて、なな何を……!!」

「……へっ? いや、その……、ルイズ? ちょっと、あの……」

 

ちょっと怒りっぽいところや勝手なところもあるようだけれど、話せばちゃんとわかってくれる、優しくていい人。

……というのが、現在のディーキンがルイズに対して抱いている印象である。

 

ルイズ自身のプライドの高さと、彼女の良識に訴えるディーキンの説得とが、昨夜から何度か噴き出しそうになった彼女の激情を抑えてきたのだ。

ゆえにディーキンはまだ、ルイズの感情の起伏の、時に極端なほどの激しさをよくわかっていなかったのである。

彼女のバーバリアンのごとく激怒して感情を爆発させる予想外な暴走ぶりに、流石のディーキンもしばし困惑してしまった。

そもそも過去のトラウマから、大声で怒鳴られて詰め寄られるような状況自体が苦手だというのもあるが。

 

(……もしかしてルイズって、レイジ・メイジみたいな魔法使いなのかな?)

 

そんな場違いな疑問が頭をかすめたりする。

助け舟を出してくれたりしないかな、という他力本願で、ちらりとシエスタの方を窺ってみるが………、

 

「そ、そんな、先生がまさかミス・タバサとなんて、いくらなんでも……、

 いえ、でも先生みたいな方だったら、ミス・タバサのような高貴な方でも、もしかして……」

 

彼女もまた何やら混乱している様子で、頬を染めてあたふたしたりぶつぶつ言ったりしている。

 

(……ンー、ダメそうだね……)

 

これは自分でまたなんとかルイズをなだめて、話を聞いてもらうしかないか。

そうディーキンが諦めかけた時、それまで黙っていたタバサがルイズの肩を杖でこんこんと叩いて注意を引いた。

剣呑な形相のままそちらに顔を向けたルイズに、タバサは怯えた様子もなく落ち着いて深々と頭を下げる。

 

「ミス・ヴァリエール。私は今日、あなたの使い魔に大きな借りができた。

 あなたにも、そのことでお礼とお詫びを言わなければならない」

「……えっ……?」

 

普段は石のようにだんまりを決め込んで他人とコミュニケーションを取ろうとしない級友の意外な言葉に、不意を突かれたルイズの勢いが弱まる。

が、タバサがその先を続けようとした矢先、ルイズから離れたキュルケがそっとその友人を抱き締めるようにして口を挟んだ。

 

「……タバサ……。あなた、彼の主人にお詫びしなきゃいけないだなんて、もうそんなところまでいったのね。

 でも誰に対してもお詫びする事なんかないわよ、恋はすべてに優先するものよ!

 あなたがそういう趣向だったなんて意外だったけど、私は応援するわ」

 

何やら、盛大な勘違いをしているようだった。

 

別にキュルケとて、男女間に恋愛以外の、親愛や敬愛などの愛情も成立し得ることを認めていないわけではない。

だが、そういった愛情は、ある程度長い期間を経て成立するものだと思っている。

少なくとも彼女の見解では、短期間のうちに成立する強い愛情は、激しく燃え上がる恋愛以外にはまずないのである。

 

それに、自分もこの使い魔には好感を持っているし仲良くしたいと思ってはいるが、この友人が人と仲良くするのはそれとはわけが違う。

彼女はひどく非社交的な性質で、自分以外には友人らしき人物もおらず、それどころか他人と口を聞くこと自体が滅多に無いのだ。

自分だって、彼女と初めて出会ってから友人となるまでには紆余曲折あって、随分と長い時間がかかったものだった。

 

なのにこの使い魔とは、知り合った翌日に一緒に外出までするとは。

キュルケの中ではもうこれは、彼女は彼に恋をしているということで120%確定しているといってよかった。

 

「違う」

 

友人が何やらえらい勘違いをしているらしいことに気が付いたタバサは、彼女の腕の中からするりと逃れると杖でその頭を軽く叩いた。

それから改めてルイズに説明をしようと向き直り……、その形相を見て、今ので完全に手遅れになった事に気が付いた。

 

「お、おおおお詫びですっkせbcんlrちぇんfrふぇふぇmでm:!?!?」

「あ、あの、ミス・ヴァリエール……、ちょっと落ち着いてください、もう夜中ですし、その……」

 

キュルケの言葉に完全に錯乱して、SAN値を失って一時的に狂気にでも陥ったのかと思うような凄まじい状態になっているルイズ。

自分も頬を染めてうろたえながらも、ルイズを宥めようと必死に彼女を押さえるシエスタ。

状況の変化に全然付いてこれていない様子で、目を丸くしているディーキン。

 

そんな3人の様子を見ながら、タバサは騒ぎを穏便におさめるのは諦めて小さく溜息を吐いた。

 

(……ヴァリエールがあのメイドの制止を振り切って杖を持ち出したら、軽いウインド・ブレイクを当てる)

 

こうなれば、実力行使で止めるしかあるまい。

 

普段なら別に待ったりもせず、今すぐそうするところなのだが……。

仮にも恩義と負い目がある相手に対して、やむを得ない状況になる前にこちらから手を出すのはためらわれた。

 

「もう、照れちゃって。初心だから仕方ないわね~」

「とてつもない勘違い」

 

未だに勘違いしている様子で、この状況でも上機嫌で暢気にこちらの頭を撫でてくるキュルケの方を軽く睨む。

といっても睨んだことに気が付くのは普段のキュルケかディーキンくらいなもので、傍目にはちらりと目を向けただけにしか見えないだろうが。

 

(………それにしても………)

 

キュルケが余計な事を言って状況を悪化させたせいとはいえ、ルイズがここまで錯乱したのは、タバサにとっては意外だった。

 

確かに彼女は頭に血が上りやすい性質だとは思うが、誇り高く礼儀作法を弁えた公家の令嬢でもあり、普段はこうまで取り乱すことはまずない。

他の生徒達から嘲笑されても通常はエスカレートし過ぎない程度に言い返したり、教師に仲裁を求めたりする程度だ。

キュルケと言い合いをしている時にはもう少し熱くなることが多いが、それでもこうまで逆上するのはかなり珍しい。

授業中に教室を爆破したことは幾度もあるが、あれは別に逆上した結果とかではない。

 

召喚が済んでからまだ丸一日しか経っていないというのに、もうそれだけ彼女にとって、彼は大切なパートナーになっているということなのか。

 

「………」

 

タバサは微笑ましさ半分、羨望半分といった胸中で、じっと状況の変化を見守った。

 

「ええい! 放しなさいって……、言ってるでしょうがあぁぁ!」

「わ、わっ!?」

 

ルイズがついにシエスタを振り解き、腰から杖を引き抜いた。

腕力でいえばシエスタの方が明らかに勝っているはずだが、怒りの力がその差を埋め合わせたのだろう。

激怒してパワーが増すあたり、いよいよもってバーバリアンじみている。

 

「あああ、あんたには……、ちょっとお仕置きが必要みたいね……!!」

 

どうやら狙いは、自分ではなく彼女の使い魔の方らしい。

彼女が誤解したまま、感情に任せて自分の大切な使い魔を傷つけてしまうのを止めるためにした、というのであれば大義名分も立つだろう。

後はルイズが杖を振り上げると同時に、こちらも杖を振って、風を解き放つだけだ。

 

そう考えて、タバサは杖を握る手に力を込め直した。

 

タバサは風のメイジとして、また豊富な実戦経験を持つ者として、呪文の早撃ちには相応の自信を持っていた。

現に先刻シルフィードを救出しに向かった際には、腕利きの傭兵メイジの女頭領との手合せでも圧勝している。

加えて、呪文発動に必要な詠唱も、先程ルイズがシエスタともめていた間に密かに済ませてある。

ルイズにはどんなに詠唱の短い呪文を唱えても同じように爆発を起こせるという点での優位はあるが、所詮は素人に過ぎない。

彼女の唱える呪文がなんであろうとも、絶対に自分の方が速い。

 

タバサのその考えは正しい。

それにもかかわらず、彼女が実際に風を放ってルイズを押さえ込む事は無かった。

 

それまでただおろおろしていたようにしか見えなかったディーキンが一瞬で杖を持ったルイズの懐に飛び込み、素早く彼女の杖を払いのけたからだ。

 

「ルイズ、待って!」

「……あ……、っ?」

 

ルイズは一瞬あっけにとられた後、凄まじい形相で間近のディーキンを睨み付けた。

 

「こ、この……、あんたっ……!」

 

ディーキンはそれに対して特に表情を変えるでもなく、ただじいっとルイズを、真っ直ぐに見つめ返した。

今朝方、キュルケの件で少々揉めた際にも見覚えのあるその視線に、逆にルイズの方が少したじろぐ。

 

「ルイズ」

「……な、何よ」

 

ディーキンはコホン、と小さく咳払いをして、ぴっと指を立てる。

 

「ディーキンは確かにルイズに失礼なことをしたけど、こんなところで呪文を使っちゃダメだと思うの。

 ここには他にも人がいるし、学校のものだっていっぱいあるの。

 ここで魔法を使ったらみんなに迷惑になるし、そうしたら後で、ルイズだって怒られるでしょ?」

「う………、」

「もしルイズがすごく怒ってて、どうしてもこらしめないと気が済まないっていうなら、ディーキンだけならいくらでも殴っていいの」

 

そういうと、ディーキンは御辞儀をするようにしてルイズの方へ頭を突き出した。

気が済むまで好きなように殴れ、と言う事だろう。

 

「―――う、う~~……、」

 

ルイズはそれを見て、戸惑いながらも一旦は腕を振り上げたものの、振り下ろすこともできずに困ったように落ち着きなく視線を彷徨わせていた。

まさかこんなしおらしい態度の小さな子に、手を上げることができようか。

僅かな間にすっかり怒りが冷めてしまったようで、今は頬に残る紅潮だけがその余韻を留めている。

 

ディーキンはそのまましばらく待ってから、ちらりと上目遣いにルイズの方を窺う。

そうして彼女が手を出してこないのを確認すると、もう一回頭を下げ直してから口を開いた。

 

「……殴らないでくれるの? ありがとう、ルイズはやっぱり優しい人だよ。

 それで、その、言い訳をするつもりはないけど……、ちょっと、説明させてもらいたいことがあるの。

 ちょっとだけ、お話をしてもらってもいいかな?」

 

 

「わあ……」

 

シエスタは先程までの焦りと困惑からすっかり解放されて、事の成り行きに感嘆の溜息を洩らした。

 

目の前でルイズが凄まじい形相をして、今にもこちらへ呪文をぶっ放そうとしていた。

その様子を見てもディーキンは怯えもせず、怒ったり失望したりもせず、これまでに彼女が見せてくれていた良識や優しさの方を信じた。

安直に力で抑え込んだり魔法に頼ったりせずにひたすら理を解き、自分の非は詫び、良識的な対応に努めた。

だからこそルイズもそれを感じ取って普段の自分を取り戻し、衝動に任せた自分の行為を止めたのであろう。

 

敵意に対して敵意を返さないのは高貴な善の証であり、それが功を奏して、争いを未然に防ぐことができたのだ。

天界の高貴な来訪者の血を引くシエスタがそれを目の当たりにして、感銘を受けないわけがなかった。

 

(やっぱり、先生は神様の御遣いです!)

 

少なくとも、シエスタ自身にとってはそれは明白な事実だった。どんな証拠よりも、行動がすべてを明らかに示している。

そしてそれは、彼の『主人』であるところの少女にとってもそうであるに違いない、とシエスタは思った。

 

実際にはいささか大げさでロマンチックに過ぎる見解かも知れないが、パラディンにして善の来訪者となれば、概ねそんなものである。

 

彼女は慈悲深い運命の導きと人の善意とを、心から信じているのだ。

それが、信じる者の前にこそ姿を現すものだ、ということも含めて。

 

 

(……あらあ? もしかして、意外とライバルが多いのかしら?)

 

キュルケはこの成り行きにいささか首を傾げつつも、自分以外の4人の様子を交互に窺うと、そんなことを考えた。

 

ルイズがあれほど昂ぶらせた感情を爆発させずに、説得されて抑えるのは見たことがない。

たとえ相手が自分の使い魔であるにせよ、短期間のうちにああまでなるものだろうか。

そこに何か、それとは別の感情が混じっているとしても、不思議ではない。

 

それに、あのメイドもだ。

彼女の事はよく知らないが、それでもディーキンを見つめる目に何か熱っぽい感情が籠もっていることは、一目でわかる。

 

「タバサも大変ね……」

 

キュルケはそうひとりごちる。

自分の親友の(たぶん)初めての恋なのだから、なんとかしてうまくいかせてやりたいものだが、と思った。

 

 

「……………」

 

タバサは表情こそほとんど変えないものの、内心では愕然としていた。

 

自分はあらかじめ事態の展開を予想し、事前に詠唱を済ませ、状況の変化に対応するべく心の準備をしていたのだ。

その自分よりも、状況を把握できずにただうろたえているだけに見えた彼の、ディーキンの行動の方が速かったというのか。

彼は自分が杖をほんの一振りするよりも先に、数歩分は離れたルイズの懐まで一瞬で潜り込んで、彼女の杖を払いのけてみせたのである。

座学でも実技でも人後に落ちたことはなく、ここ2~3年ばかりの間には命がけの任務を度々こなして、幾多の実戦経験を積んできた自分よりも………。

 

タバサは結局放たれることのなかった呪文が籠もったままの杖を、知らず知らずのうちにぐっと握りしめていた。

 

その胸中には複雑に絡み合った様々な感情が去来して、いらだちに似た不快なざわめきを生じさせている。

タバサは決して、ディーキンが嫌いなわけではない。

むしろ、はっきりその逆だと言える。

非常に好ましい人物だと思っているし、キュルケの考えているようなニュアンスではないにしても、これからも親しく付き合っていければとも思っている。

 

それでも今、彼を見てタバサの胸中に生じた感情は間違いなく不愉快なものだった。

タバサがこんな気分になったことは、これまでになかった……。

 

 

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「そ、そういうことなら早く言いなさいよ!」

「アー、ゴメンなの。もっと早くいいたかったんだけど、何だかルイズが怒ってるみたいだったから……」

「まったく、ルイズはよく人の話を聞かないで騒ぎ出すからね~」

「あなたのせい」

「ミス・タバサの使い魔の竜を助けるなんて、さすが先生です!」

 

その後、廊下で話し続けるのもなんだからとルイズの部屋に場所を変えて、事の次第を説明した。

ディーキンが中心に、タバサが補助に回って。

その甲斐あって、どうやらルイズらの誤解も解けたようだ。

 

といっても、完全に正確な事実を伝えたわけではない。

タバサが事前に、シルフィードの正体はルイズに対してはまだ伏せておいてほしいと希望していたからである。

そのため、今回ディーキンがタバサと一緒に行動した理由については、

 

『タバサの使い魔が学院から離れて散策中にちょっとした事故にあって負傷し、身動きが取れなくなってしまった。

 生憎とその場所は危険な動物や妖魔がごく稀にだが目撃されている所で、負傷している幼竜では襲われれば命の危険があった。

 ゆえにタバサが急いで助けに向かおうとしていたのをディーキンが見咎めて声を掛け、高速で移動できる手段を提供しようということになった。

 急ぎの用件だったのでルイズに報告もせずに出てしまったが、申し訳なかった』

 

という話にしておいてある。

 

キュルケに関してはまだ一部の誤解が解けていない節もあるが、まあそれはディーキンは知らない事なので、タバサが一人で何とかするしかあるまい。

それで解決するかどうかは不明だが。

 

「……それで、その馬より高速で移動できる方法って何よ?

 あんたがそんなことをできるなんて聞いてないわ、そんなことができるなら私にも早く教えなさいよ!」

 

今までは正式な使い魔ではないということであれこれ問い質すのは遠慮していたのだが、自分以外の者が知っているとなると話は別だった。

仮にも私は主人なんだから、他の女に教える前に自分に教えてくれるのが筋だろう、と拗ねているのだ。

もちろん今回は緊急事態だったのだということは理解しているが、隠し事をされたようでどうにも気に入らない。

 

「魔法? それともあんたのその背負い袋の中に、そういうマジックアイテムでも入ってるの?

 私は、……その、一応、あんたの主人なんだから。

 タバサには教えておいて、私には教えないっていうのはないでしょ!」

 

ルイズはそういってディーキンを問いただした。

無論、決まりが悪いのを隠すためにさっさと別の話題に変えたかった、というのもあるだろうが。

 

それに対してディーキンは少し考えると、自分のできることを今すぐに全部説明するのは無理であるから、明日からおいおいにさせてほしい、と申し出た。

 

それはまあ、本当の事ではある。

ディーキンに“できること”となると非常に多いし、所持しているアイテムなども多岐にわたるので、全部の説明などとても今すぐはしていられない。

 

それに今日はもう随分と呪文を使っているので、これ以上消費したくはなかった。

まだ数に余裕はあるし別に冒険中というわけでもないし、本当は今日寝る前にできる限り説明してしまう方が効率的といえば効率的なのだろうが……、

呪文数の消費をできる限り抑え、万一の時のために力を温存しておこうとするのは、冒険者としての習慣である。

 

また、それとは別に。

自分にできることや所有している品々を特段隠し立てる気はないものの、たださっと見せて終わるのは勿体ない、という思いもあった。

 

ディーキンはバードであり、バードは本来エンターテイナーである。

ただ力を誇示して威張るような、幼稚で品のない事は好きではないが、芸術的な演出でもって感嘆や驚異の視線を向けられ、注目されるのは大好きだ。

せっかく公開するなら、今すぐではなく劇的で格好良い演出を考えて、バードとしての面目を施したいのである。

そうしてみんなをより長期にわたってわくわくさせ、楽しませることができれば、それを傍で感じられれば、バードとしてそれ以上の喜びはない。

それこそが、バードである自分が本来最も得意であることを……、少なくともそうであるべきことを、みんなに示して見せることにもなるはずだ。

 

今すぐいろいろと教えてほしい、タバサに後れを取ったままでいたくない、という気持ちのルイズは当然ごねた。

他の3人も、早く知りたくてうずうずしている様子であった。

 

だが所詮、腰を落ち着けて話しはじめてしまえば、彼女らを説き伏せるなど<交渉>上手のディーキンにとっては造作もないことだ。

 

続けて、帰りに立ち寄ったトリスタニアで換金のため貴金属等を鑑定に預けたことをルイズに伝える。

それから、虚無の曜日にそれを受け取りにここにいるみんなで一緒に出掛けるのはどうか、お金が入ったら何か奢るから……、と提案してみた。

 

キュルケもシエスタもタバサもそれに同意したので、内心みんなより先に知りたいと思っていたルイズもやむなく頷く。

 

そこでディーキンは続けて、それとは別に、明日の放課後に2人で一緒にトリスタニアへ出掛けないか、とルイズに提案した。

件の幽体馬の速さをもってすれば、授業後に軽く王都で夕食でも食べてその日のうちに学院へ帰るくらいは余裕である。

 

久し振りに王都へ、しかも平日に足を運べる上に、望み通りディーキンと2人で邪魔されずに出かけられる。

しかもキュルケやシエスタよりも先にその高速移動の方法を見ることができるとなれば、ルイズが文句を言うはずもなかった。

 

これにはルイズのご機嫌をとる他に、平日でも王都まで余裕で往復できることを示せば外出するのが容易になるだろうという打算も含まれている。

これからもちょくちょく学院から出かけたいと思っているので、ルイズから平日の外出許可を楽に取れるようになれば、自分にとっても都合がよいのだ。

 

それ以外のいろいろな事……、シエスタを決闘で勝たせた秘密とか、そんなことに関しては、放課後等の暇なときに来てもらえば話すということでまとめた。

 

ルイズは、放課後に話すのなら彼の“主人”として傍にいる自分が真っ先に話せるだろう、と考えて了解した。

シエスタは、大好きな“先生”にこれからいろいろ教えてもらえるとなれば文句などあるはずもない。

キュルケは、ルイズより先にあの子を捕まえて悔しがらせてやったり、タバサを連れて………、といった具合に、今後の方針を楽しみに思案している。

タバサは、放課後に個別に好きな時に訪れることを受け容れてもらえるのなら、自分にとっては都合がいいと考えた。

そしてディーキンは、毎日少しずつ来てもらえれば、その間にいろいろとみんなを楽しませる演出を考えておく時間が稼げるだろう、と目論んでいた。

 

かくして、全員にとって納得のいく約束を結んで、今夜はお開きとなった。

ディーキンは自分に“できること”の手始めとして、その<交渉>の腕前を彼女ら相手にきちんと実演して見せたのである。

 





バーバリアン(蛮人):
D&Dの基本クラスの一種。文明社会の洗練されたファイター(戦士)とは違う、パワフルな辺境の闘士。
ファイターほど優れた武技の持ち合わせはなく、高い技術力で作られた重装鎧を身に帯びることにも慣れていない。文字の読み書きをできないものも多い。
しかし彼らには驚異的な生命力と危機に対応する直観力があり、荒野を駆けまわることに慣れているために高速で移動できる。
また、己の内に煮えたぎる激怒を力に変えて、一時的に脅威的な筋力と頑健さを得られる能力を備えている。

レイジ・メイジ(激怒魔道師):
D&Dの上級クラスの一種。目もくらむような怒りに我を忘れることで、その根源的な感情から莫大な魔力を引き出す変わり種の魔道師。
彼らは一般的な魔道師のような学究的準科学的なやり方ではなく、原初的な情熱に基づいて魔法を使う。
バーバリアンのように激怒しながら呪文を使うことで、その威力や詠唱速度を向上させることができる能力を備えている。


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第二十七話 Imperial City

ディーキンがタバサと戻ってきた翌日。

独占欲を燻らせたルイズは、その日の授業が終わるとすぐに隣に座っていたディーキンに話し掛けた。

 

「ほら、ディーキン。昨夜の約束は忘れてないでしょうね?」

「もちろんだよ。ディーキンは物覚えは良くないけど、約束はちゃんと覚えるの」

「よろしい。なら、さっさとトリスタニアへ行くわよ。もたもたしてたら日が暮れちゃうわ!

 あんたのいう、その……、ファントム・スティード? っていうのがどれだけ速いのか知らないけど、今日は平日で時間がないんだから」

 

時間がないというのは、まあ本当ではあるが。

ルイズとしては、邪魔者のキュルケやタバサに呼び止められたりシエスタがやって来たりする前に出かけたい、というのが本音である。

 

今日、授業中こそディーキンはルイズと一緒にいたが……。

食事や休み時間の間は、寸暇を惜しむようにしてあちこちへ出かけ、いろいろな者と交流している様子だった。

 

他の使い魔や、学院の教師・生徒、それにマルトー料理長をはじめとする平民の使用人たち……。

その中にはきっと、シエスタだって含まれているだろう。

 

授業に出なければならない自分より先に、シエスタがディーキンと楽しくやっているのではと思うとルイズは内心気が気ではなかった。

かといって、正規の使い魔ではないディーキンに対して授業外でも出歩かずに傍に居ろと要求するような狭量な姿勢を見せたくもない。

だからこそ先約があって、堂々とディーキンを自分一人で連れ出せる放課後をじりじりとした気持ちで待っていたのだ。

 

ルイズのその考えに反して、実際にはディーキンは、今日はシエスタと大した話はしていなかった。

 

日中はルイズに授業があるように、シエスタにも色々と仕事があるのだ。

秩序を重んじる彼女としては、自分の仕事をおろそかにしてディーキンと話し込むことなどそうそうできるわけがない。

彼女が今日ディーキンと一番落ち着いて話をしていたのは、ルイズが起き出す前に水場で会った時である。

その際にも、ごく短時間談笑をして、ちょっとした冒険譚と短い演奏を聞かせてもらっただけだ。

シエスタとしては本当なら一日中でも話を聞いていたい気持ちだったが、だらだらと話を長引かせて後の仕事に差し障りを出すようなことはできなかった。

たとえ他の使用人たちが何かとシエスタを英雄扱いしてくれていて、そのくらいで文句をいわないとしても。

 

まあどうあれ、ルイズとしてはそんな事情は知るわけもない。

彼女はディーキンを抱えるようにして教室を出ると、足早に外へと向かっていった。

 

 

「あらあら、あの子もせっかちねえ……」

 

ディーキンを引っ張ったルイズがいつになくそそくさと教室を出ていくのを見て、キュルケは苦笑した。

 

「いいの、タバサ? ディー君がルイズに連れてかれちゃったわよ?」

 

隣りに座っている、彼に惚れている(に違いないと確信している)親友に悪戯っぽく問いかける。

タバサの方は本を開いたまま、その言葉に対して僅かにじとっとした目を向けた。

 

「あなたの言う意味が分からない」

「またまたぁ。いいのよ、私にはちゃんとわかってるから」

「……全然わかってない」

 

睨まれたキュルケは、むしろ楽しげにその視線を受け流した。

 

本当に意味が分からない、どうでもいいことであるならば、この友人はからかわれようと返事もせず、目も向けないだろう。

この反応は間違いなく照れや嫉妬の産物だ、とキュルケは解釈した。

彼女としては、いつも無表情で幸薄そうな自分の親友が、そんな感情を持つようになったことが素直に嬉しかったのだ。

 

ちなみに昨夜キュルケが自室に招いていた男たちは、彼女がルイズの部屋でディーキンの話に夢中になっていたため、全員約束をすっぽかされていた。

部屋に戻ったキュルケは彼らに詰め寄られてようやく約束の件を思いだしたが、すっかり興味が別に移っていたので話もそこそこに強引に追い払った。

 

彼女は根は人がいいし、悪人ではないけれど、些細な約束なんて気が変わったら知ったこっちゃない混沌派なのである。

勿論タバサのように大切な友人が相手なら別だが、キュルケからしてみれば彼らはあくまで遊びの相手であって、微熱が冷めたらそれまでだ。

どうせ向こうだって、美人でナイスバディの女だから言い寄っているだけで大して真剣でも何でもないのだから、特に悪いとも思わなかった。

 

「さっ、恋に遠慮は不要よ。私達も行きましょ」

 

返事も聞かずに、タバサを引っ張るようにして、キュルケはルイズの後を追った。

 

「…………」

 

友人の思い込みを解くのを諦めたのか、彼女の好意を無下にしても悪いとでも思ったのか、それともただ単に億劫なのか。

あるいは、本当にディーキンの後を追うのがやぶさかでもないのか……。

 

なんにせよタバサは、結局は本を読みながらも、引きずられるまま大人しくキュルケについていった。

 

 

「……ちょっと、何であんたたちがくるわけ?

 昨夜、今日は私とディーキンの2人で出かけるっていってたのを聞いてなかったのかしら!」

「別にー? 私たちもた~またまタバサのシルフィードで、ちょっとトリスタニアへいこうかって話になったのよ。

 行き先が同じならせっかくだからご一緒に、ってね」

「駄目に決まってるでしょ! 今は私がディーキンと話す時間なの、邪魔するんじゃないわよ!」

「あーら、邪魔なんかする気はないわ、ただついて行くだけよ?

 側にいるだけでも邪魔だなんてヴァリエールは心が狭いわね、彼氏とのデートって訳でもないでしょうに」

「な、なな、何いってるのよ!」

 

ルイズがそうしてキュルケ相手に熱くなっている間に、タバサは目立たないように、すすっとディーキンに近寄った。

 

主人であるルイズを説得するよりも、使い魔であるディーキンの同意を取り付けるほうが楽で話が早いだろう。

ディーキンが説得すればルイズが簡単に折れるであろうことは、先日の経験からタバサにはよーくわかっているのだ。

一旦同行すると決めた以上は時間を有意義に使いたいし、さっさと話をまとめて出発するに限る。

 

「……だめ?」

「ンー、ディーキンはみんな一緒の方が楽しいけど……」

 

ディーキンはルイズと約束したこともあって、最初は少し遠慮気味だった。

が、タバサに、

 

「頼めばルイズも分かってくれるはず。

 それにあなたが一緒に出掛けてくれれば、シルフィードも喜ぶ」

 

と言われると、すんなり折れた。

ディーキンは別にガチガチの秩序派というわけでもない。バードだから当然だが。

ルイズをちゃんと説得して合意が得られれば、そのくらいの予定変更は構わないだろう、と結論したのだ。

 

かくしてディーキンが、

 

「ルイズ、ディーキンはいつもルイズと一緒にいるの。

 でもキュルケやタバサは、わざわざ来てくれたんだから、一緒に行ってあげるのは当然だと思うの」

 

と、何やら放蕩息子を諭す父親のような論調でルイズを説得した結果、程なく話はまとまった。

そうして、当初の予定を変更して、ルイズ、キュルケ、タバサ、シルフィード、そしてディーキンの5人で、トリスタニアへ向かうこととなったのだった。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

「すごいすごーい!!」

「シルフィードより、はやーい! ……あはははは!!」

 

ルイズとキュルケがディーキンの作りだした幽体馬(の影術版)に跨って、高速で空を飛ばしてはしゃいでいる。

 

出発当初は人数が増えたことに不貞腐れていたルイズだったが、元より乗馬好きな事もあってすっかり機嫌が直ったらしい。

キュルケも、ペガサスなどの幻獣よりずっと速く、火竜並みかそれ以上の速度で空を駆ける馬を乗りまわすという経験にはかなり興奮しているようだ。

 

「きゅきゅい、きゅい~きゅ~い!(お姉さまたちが重いせいなのね、そうでなきゃ、私が馬なんかに負けるはずがないのね!)」

「……………」

 

タバサとディーキンを乗せたシルフィードはムキになってスピードを上げるが、まだ幼竜の彼女では全速の幽体馬には追いつけないようだ。

しまいに余計な負け惜しみを言って、主人に杖で頭を叩かれた。

 

「うーん……、タバサ?」

「何?」

 

何やら首をひねって考え込んでいたディーキンは、隣で本を読んでいるタバサに声を掛けた。

 

「もしかしてタバサは、ディーキンが名前を変えた方がいいと思う?」

「……?」

 

唐突に脈絡のない話を振られて、タバサは怪訝そうに首を傾けると、ディーキンの方を見た。

 

「何故?」

「ああ、その……、つまり、ディーキンはルイズの使い魔になったから、もしかしてもっと良い名前が必要かもって思ってたの。

 ルイズにはなんだか、すごく長くてかっこいい名前があるじゃない?」

 

タバサは軽く首を横に振る。

 

「別に……、あなたにはもう、ちゃんとした名前がある。

 ディーキンのままでいいはず」

 

名前は大切、と呟くと、何やら思うところでもあるのか、タバサは少し遠くを見るような目になる。

ディーキンはじっとその様子を見て、きまり悪そうに頭を掻いた。

 

「うん、そうだね……。タバサは、そう思ってくれる?

 あの、ただね、その……、ディーキンって名前は好きなの。でも、響きが、その……、ええと。

 きっと、ディーキンが書くボスやルイズの本を手にした人が、ディーキンの名前を声に出すと、顔をしかめるかもしれないの。

 子どもっぽい名前だから、青二才が書いたと思ってね」

 

2人の迷惑にならないかな、と、割と真剣な様子で聞いてくるディーキンに、タバサは少し呆れた様子で返事をしようとして……、

そこへ、シルフィードが口を挟んだ。

 

「名前? お兄さまの名前は格好いいのね、とってもいい名前なのね。

 けど、イルククゥもお父さまたちから貰った大切な名前だけど、シルフィードってお名前も素敵よ。

 お兄さまも、使い魔になったんだから、お姉さまに名前を考えてもらうといいのね!」

 

タバサは僅かにじとっとした目で、不躾に口を挟んだ自分の使い魔を睨む。

 

「彼の名前を考えるとしたら、それはルイズの仕事」

「きゅい、でもあのピンクの髪の子はセンスなさそうなのね。お姉さまの方がきっとお上手なのね!」

「……ルイズに失礼」

 

杖でまた軽くシルフィードの頭を小突いたタバサはしかし、ちらりとディーキンの方を窺って、少し考え込んだ。

 

確かに、彼には別にシルフィードと違って新しい名前など必要ないと思うし、仮につけるとしてもそれはルイズの権利だとは思う。

しかし、自分が彼の主人のように、彼に名前を付けられたら……と考えると、どこか心惹かれるものがあった。

 

「……よく考えると、それもありかも知れない。あなたには何か、名乗りたい名前がある?」

 

タバサにそう聞かれて、ディーキンは少し考え込む。

 

「ウーン? はっきりした考えがあるわけじゃなかったけど、ディーキンはボスの名前が好きだな……、

 アア、でも小さなディーキンには合わないかな、そんなことをしてもボスはきっと喜ばないだろうし。

 ルイズのもかっこいいと思うけど、ちゃんとすらすら言えないと思うし……」

「……あなたがルイズと同じ名前を名乗っても、彼女が困る。他には?」

 

「ええと、じゃあ……、“ドナルド”にしちゃうとか?

 ドナルド・スケイルシンガー、いかにも人気者って感じの名前だと思うの」

 

「―――ドナルド?」

 

その名前を聞いた途端、タバサの脳裏に、唐突にある光景が閃いた。

 

 

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「ランランル~、ランランルゥ~~♪」

 

食堂でいつもの妙な鼻歌を少し変えたような歌を口ずさみながら、オーバーリアクションでダンスを踊っているディーキン、もといドナルド。

回り中の生徒から嫌な注目を集めているが……、陽気ながら妙に威圧感のある雰囲気のせいか、誰も咎められないようだ。

 

「……君、悪いが、レディたちが嫌がっているようなんだが。

 その妙な歌とダンスを止めてくれないか?」

 

勇気を振り絞ってギーシュがそういうと、ようやく他の生徒からも、賛同する声がぱらぱらと上がりはじめる。

それを聞いてぴたりとダンスを止めたディーキン、改めドナルドは、唐突にグルゥ! と振り向くと、ものすげえいい笑顔で親指を横に向けた。

 

「お前ら

 表へ出ろ」

 

 

-----------------------------------

 

 

(……何、今の光景?)

 

物凄い嫌な光景を思い浮かべてしまったタバサは、ふるふると首を振ってその妄想を振り払うと、顔をしかめた。

なんでまた、脈絡もなくそんな光景を思い浮かべてしまったのか、さっぱり訳がわからない。

 

一方でディーキンの方はといえば、どうやらタバサとは違うキャラクターを想定していたらしい。

片腕を前に突き出してアヒルのように甲高く騒がしいだみ声でわめきながら、前傾姿勢のままぴょんぴょん飛び跳ねている。

飛行中のドラゴンの上で、ずいぶんと器用なことをするものだ。

 

タバサはそれを見て、ますます頭が痛くなってきた。

 

「妙なお芝居は止めて、今は飛んでいる最中、危ない。

 ……あとその名前は駄目、なんだかよくない感じがする」

「ウーン……、そう?

 残念だけど、タバサがそういうのなら、ディーキンは止めておくよ」

 

ディーキンは若干未練がありそうな様子で、渋々同意すると飛び跳ねるのを止めた。

 

「……一体、どうしてそんな名前を思いついたの?」

「え? ええと……、ディーキンは、確か、スクロール上のどこかで読んだの。

 うーん。もうちょっとで思い出すかも……」

「いい、思い出さなくていい。とにかく、他の名前に」

 

「じゃあ、ええと……、筋肉モリモリマッチョマンの、“ザ・ディーキネーター”っていうのはどうかな?

 強そうに聞こえるでしょ?」

 

「―――ディーキネーター……?」

 

 

-----------------------------------

 

 

「来いよワルド、杖なんか捨てて……かかってこい!」

 

何故か身の丈2メイル近くもある、筋肉モリモリマッチョマンのディーキンがナイフを構えて、羽根帽子を被った髭面の青年を挑発している。

 

あっさりその挑発に乗って杖を捨てると、「やろうぶっころしてやる!」とか端正な面立ちに似合わぬ暴言を吐いてナイフを抜き、襲い掛かってくる青年。

その腹を、ディーキンの投げた金属のパイプがぶち抜いた。

 

「地獄へ堕ちろ、ワルド!」

 

 

-----------------------------------

 

 

(……………)

 

またしても妙な光景を思い浮かべてしまったタバサは、自分の頭がおかしくなったのではと本気で心配になって、ぶんぶん頭を振った。

っていうかワルドって誰だ。

 

「ねえ、どうしたのタバサ。頭でもいたいの?」

「……何でもない、気にしないで」

「そう? それで、ディーキンの名前は……」

「……その話は、もう止めて。あなたの名前は、ディーキンが一番いい」

 

タバサは強引に話を打ち切ると、ディーキンから視線を外して、先程の嫌な妄想を忘れようとまた本に集中し始めた。

 

 

「もうトリスタニアが見えて来たわ! 本当に、物凄く速い……!!」

 

そのころ、ルイズは得意の乗馬で幽体馬を乗り回して上機嫌であった。

夢中になって走り、キュルケもぶっちぎって(別に彼女にはタバサらを置いてけぼりにしてまで無理に追いつく気もなかったのだが)随分と先行している。

 

「……夕食にはまだ、ちょっと早すぎるわね」

 

太陽の位置を確認して大まかな時刻を確かめたルイズが、そうひとりごちる。

彼女は夕食だけでなく、できれば何か記念になるようなプレゼントでも買っておいてやりたい、とも思っていた。

 

ルイズは昨夜、皆と別れた後にディーキンにいくつか質問をしていた。

どんなものを換金するよう頼んだのかという彼女の問いに対して、ディーキンはまだ換金しなかった硬貨や貴金属、宝石などをルイズに見せた。

その中には見たことのない珍しい宝石や美しい金属細工など、貴族であるルイズの目から見ても相当に価値の高そうな品がいくつもあった。

それにルイズは、ディーキンがハルケギニアでは非常に高値がつくであろうマジックアイテムをいくつも所持しているらしいことも知っているのだ。

 

ディーキンが換金を頼んだ貴金属等の代金は、査定と用意に少々時間を要するので、次の週の虚無の曜日に受け取りに行く予定になっているとのことだった。

つまり現時点でのディーキンは、まだハルケギニアの通貨は持っていないことになる。

しかし換金が済んでしまえば、かなりの額のまとまった現金が入るであろうことは明らかだ。

 

となると、主人らしく使い魔の金銭面での面倒を見る機会はまだ換金が済んでいない今しかないかもしれない、とルイズは考えたのだ。

 

「みんなが来たら、先に街を見て回ろうかしら。

 あいつが欲しがるようなものが、何かあると良いんだけど……」

 

 

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王都トリスタニアへ到着し、街を歩く一行。

 

シルフィードは自分も行きたいとタバサにゴネていたが、ルイズやキュルケには正体は秘密だから駄目、とすげなく却下されて結局留守番になった。

ディーキンが後でお話とか美味しいものとかを用意するからと宥めたら、あっさり機嫌は直ったが。

 

「ここはブルドンネ街、トリステインで一番の大通りよ。この先には宮殿があるの」

「フンフン、そうなの?」

 

ルイズはディーキンに、ここぞとばかりに得意げにあれこれと説明した。

ディーキンはそれに対して相槌を打ったり、メモを取ったり、時折質問をしたりしてルイズに付き合っている。

 

説明された内容の半分くらいは既に昨日タバサとこの街へ来た時に知っていたが、わざわざそれを言ってルイズの気分を害するようなことはしない。

それにおおむねは既に知っている内容でも、聞き流さずしっかり耳を傾ければたまに何かしらの新しい情報が入ってきたりするものだ。

 

大通りというだけあって、平日ながら結構な数の人々が行き来していた。

 

皆マントをつけていない平民で、老若男女、様々な職業の人々がいるようだ。

今日は変装していないので、人々はディーキンに好奇の目を向けてきたり、若干ぎょっとした様子で道を開けたりする。

しかし学生とはいえ貴族が3人も一緒ということで、珍しいペットか使い魔の類だと思われたのだろう、取り立てて騒ぎが起こるようなことはなかった。

 

ディーキンも目を向けてくる人々には軽く会釈したり、笑いかけたりして、自分は無害で友好的な存在だとさりげなくアピールしていた。

人々の反応からして今のところ効果のほどは怪しいが、これからもこの街にはくるつもりだし、その時にはルイズらが一緒でないこともあるだろう。

一人で街を歩いていても危険のない存在だと納得して受け入れてもらわなくてはならないのだから、小さなことからコツコツと努力しておくべきだ。

 

さておき、通りには露店が立ち並び、商人たちが様々な品物を売っていた。

食料品や日用雑貨などのありふれた品を売る店が大半だが、中にはちょっと変わったものを売っている店もあるようだ。

 

厄除けだの恋愛成就だのの効果があると謳って、護符や装飾品などを売っている店があった。

ルイズはちょっと興味を示していたが、ディーキンが見た感じでは殆どの品にはなんら魔力などはなく、おもちゃも同然の安ピカ物ばかりだ。

高価な品の一部には微弱な魔力を付与してあるものもあるようだが、それにしたところで魔力の系統から見て、お守りに役立ちそうな代物ではない。

おそらくはただ気分的に何らかの魔力を込めてみたというだけの代物だろう、おおよそ気休め以上の有意な効果があるとは思えなかった。

ルイズのように高級品に慣れている貴族の令嬢には、それがかえって物珍しかったのかもしれないが。

キュルケもタバサに、「いい機会だからこういうの買ってみない?」などといって勧めていたが、タバサの方は興味ゼロの様子だ。

 

遠方から仕入れた各種の名品とやらを並べている、胡散臭い店もあった。

たとえば、ロバ・アル・カリイエの海岸で取れたものだとかいう、黄金色の巻貝。

ディーキンの目には、そこらで拾ったかたつむりの殻に金色の塗料を塗っただけに見えた。

火竜山脈近くで採掘された、希少な銀の一種でできているという指輪。

しかしどう見ても、銀ではなくスズ製であった。

ドラゴンの牙から削り出したという、『勇者イーヴァルディ』だかを象った小像。

たぶん、本当は牛かなにかの骨から作られているのだろう。

絶体絶命の危機に陥った時に鞘から抜けば、一度だけ奇跡の力を発揮してくれるとかいう『封印の剣』。

ちょっと手に取ってみたが、すぐに重量が全部鉛製の鞘によるもので中は空っぽだとわかって、興味を失った。

他の品も、それらと同程度か、それ以上にも出来の悪いガラクタばかりだ。

何かほしいものがあったら買ってあげるわよ、とのルイズの申し出を、ディーキンは丁重に辞退した。

 

大きな緑色の魔女帽を被った小柄な桃色の髪の少女と、チョコレート色のかわいい猫とが店主を務める、やたらにメルヘンな店もあった。

かわいい人形、キャンディのビン、安物の香水にびっくり箱……、と、バラエティに富んだ品揃えをしているところからすると、雑貨屋だろうか。

あと、『カエルの王子様、キス一回1ドニエ』と書かれた札の横に、かごに入った大きなカエル(ルイズが悲鳴を上げた)がいた。

 

「オオ、カエルの王子様? 何かのお話で聞いたことがあるよ。

 ンー、キスって、するのはディーキンでもいいのかな? 男の娘とかでも大丈夫なの?」

「……絶対やめなさい、いろいろな意味で。

 もう、そんなろくでもない物にいちいち興味を持たないでちょうだい。あんたには何か、他にほしい物はないの?」

「ンー、そう? 残念だけど、ルイズがそういうのならやめておくの。

 買ってもいいならディーキンにはほしい物はいろいろあるよ、ええと……」

 

ディー君と王子様がキスなんて面白そうじゃない? などとからかわれてキュルケと言い合いになったルイズをよそに、ディーキンはちょっと考え込んだ。

今言ったとおり、余裕さえあれば欲しいものはいくらでもあるが。

とりあえず、早めに見繕っておきたいものとなると……。

 

「……ウーン、じゃあ、武器とか防具とかを売っているところはある?

 この辺のお店には、あんまりちゃんとしたものはおいてないみたいだけど」

「まったく、これだからツェルプストーは見境がないにも……、

 って、え? 武器?」

 

ディーキンが興味を持ちそうなものとして、何か珍しい小物とかちょっとした魔法の道具のようなものを考えていたルイズは、意外そうな顔をした。

 

「武器とか防具って……、そりゃ、その、使い魔としては主人を守るのは大事だけど。

 あんたは魔法だっていくらか使えるんでしょ、だったら何もそんな、平民の護身用みたいなものを買わなくたって。

 それにあんた、剣とか鎧とかは、もう持ってるみたいじゃないの」

「そんなことはないの。ディーキンは魔法も使えるけど、戦う時は武器を使うことの方が多いよ。

 それに今持ってる武器や防具に満足してないわけじゃないけど、この辺りはディーキンが住んでたところとは随分違うみたいだからね。

 何か珍しいものがないか、ちょっと見てみたいんだよ」

 

ディーキンの説明は全くの事実である。

 

バードが覚える呪文には直接的な破壊に優れた代物は少ないし、呪文を使える数もごく限られている。

ウィザードやソーサラーのように魔法だけを使って戦うというのはかなり無理があるので、ほとんどのバードは戦闘時には武器も普通に使うのだ。

とはいえバードは、ファイターのような戦闘専門職に比べれば攻撃力も耐久力もずっと劣る。

正面から敵陣に斬り込んでいくことは少なく、後方から呪歌や呪文を使う合間に飛び道具などで支援する、という形が多いだろう。

ディーキンは今では近接戦もかなりいけるようになったが、ボスやヴァレンがそれ以上に圧倒的に強いので、前線に立つことは少なかった。

 

フェイルーン全体で見ても非常に強力な部類の、エピック級と呼ばれるような武具を所持しているのだから、今の武具に不満があるわけではない。

ただルイズにも言ったとおり、このハルケギニアにはどんな武具があるのかを見てみたいと思っているのだ。

召喚された日の夜、ルイズらの反応から、ディーキンはこの世界では非常に強力な武具が珍しくないのではないかと考えていた。

その後いろいろと書物などを見て、今ではどうやらそうではなく、この世界では単純に武器を使う戦士に対する評価が低いらしいと理解している。

しかし、だからといって元の世界には無いような変わった武器があるかも知れないという、興味や好奇心がなくなったわけではなかった。

 

それを差し引いても、いちおうルイズの使い魔を引き受けたわけだし。

今のところ危険などはなさそうな環境ではあるが、いざという時のためにもそういったことを早いうちに把握しておくのは大事なはずだ。

 

「そ、そうなの?」

 

ルイズの方はといえば、魔法をある程度使えるなら、その力は武器を使う平民の戦士などより遥かに上であると考えている。

それはハルケギニアにおける、ごく一般的な見解でもある。

メイジ殺しなどという存在もいるにはいるが、それは希少な存在であり、あくまで例外的なものに過ぎない。

そのメイジ殺しにしたところで、充分戦闘訓練を積んだ腕利きのメイジには、奇襲でもしない限りはまず勝てないとされている。

 

召喚した際に見た手品まがいのような魔法から当初は大した腕ではないと思っていたが、その評価は昨日今日で大分改められた。

ディーキンの使う魔法はハルケギニアの魔法とは大きく性質が違うようだから、一概には判断はできないが……。

それでも食堂で沢山の食器を運んでみせた謎めいた魔法や、先程のすごく速い空飛ぶ馬を作る魔法などは、きっとそれなりに高度なものだろう。

 

ならばいざ戦いとなった時には主に魔法に頼るに違いない、武器や防具を持っているのはあくまで保険的なものだろう……、と、ルイズは考えていた。

第一、ディーキンの幼児のごとく小柄な体格は、武器で戦って強そうには全く見えない。

 

(もしかして、戦いに使えるような呪文はほとんど覚えてないってことかしら?)

 

ハルケギニアでも、物品の加工や治癒などを専門にしてそれだけに特化している『土』や『水』のメイジの中には、そういう者が結構いる。

ディーキンがこれまでに見せた魔法は戦いとは関係ないものばかりだったし、大方そういうことなのだろうとルイズは結論した。

となると、残念だがやはり護衛としてはあまり期待できないのだろうか……。

 

彼女がそう考えるのは無理もないことである。

事実キュルケも、おおむねルイズと同じように考えていた。

もっとも彼女の場合、武器が好きなんて亜人とはいえやっぱり男の子なのね、というように解釈して、微笑ましげに眺めていたが。

 

ただ一人、昨夜のディーキンの俊敏な動きを見ていたタバサだけが、興味を惹かれたように本から顔を上げて、やりとりに耳を傾けていた。

 

「ンー……、ダメかな?」

「いや、その、あんたが見たいなら、そりゃ駄目ってことはないけど……。

 でも本当に大したものはないと思うわよ、あんなところ」

 

ルイズはいまいち気乗りしない様子であったが、ディーキンが本当に見てみたそうにしているのを確認して仕方なく同意する。

そうして、以前見かけた武器屋の位置を記憶の底から掘り起こすと、大通りから離れて狭い路地裏に入っていった。

 

 

華やかな表通りから外れた路地には、ゴミや汚物が道端に転がっており、悪臭が漂っていた。

 

ルイズとキュルケは顔を顰めると、ハンカチなどを取りだして鼻に当てた。

タバサは平然と本を読み続けている。

ディーキンはむしろ興味深そうに、くんくんと匂いを嗅いだり、転がっている物を調べてみたりして、ルイズに文句を言われていた。

 

「ちょっと、そんなものを調べて回らないでちょうだい!

 もう、だからあんまり来たくなかったのよ、こんな汚いところ……」

 

ルイズは四つ辻の所で立ち止まると、きょろきょろとあたりを見回す。

 

「ええと、確か前にピエモンの秘薬店の近くで見かけたから、この辺りのはずなんだけど……」

 

ディーキンも一緒にきょろきょろ探し始めたが……。

 

「―――あそこ」

 

そこらの看板に頑張って目を走らせている2人を尻目に、タバサは本を開いたままですっと杖を持ち上げる。

その杖が指し示す先に、剣の形をした銅の看板がぶら下がっていた。

 

「あ、あった! ……ありがとう、ミス・タバサ」

「タバサでいい」

「ありがとうなの、タバサ。

 ええと、タバサはこの店の場所を知ってたの?」

「前に見た」

「あら、こんな場所に来るなんて一体何の用事があったのかしら?

 まあ、あなたにも色々あるんでしょうけど……」

 

そんなやりとりをしながら、一行は店の石段を上り、羽扉をあけて武器屋の中に入っていった……。

 



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第二十八話 Weapon Shop

 

武器屋の店内は、そろそろ夕方ということもあってだいぶ薄暗かった。

 

まあ、日当たり自体が悪い立地なので、昼間でもあまり明るくはなさそうだったが。

天井にひとつランプの灯りがともされており、普通の人間でもいちおう視界に困らないくらいの光量はある。

夜目が利くディーキンならば、このくらいの光があれば昼間と同様に何の支障もなく物を見ることができた。

 

店の壁や棚には所狭しと武器類が並び、立派な甲冑や紋章入りの盾なども飾られている。

 

ルイズは武器や防具に興味はないようで、それらをちょっと一瞥しただけであとは見向きもしない。

キュルケはふーん、というような顔で、煌びやかで高価そうな装飾付きの武器や防具を適当に眺めている。

タバサは意外とこういった物にも関心があるのか、本を閉じると手近な物を手に取ってじっくりと調べてみたりしていた。

 

「ン~……、」

 

ディーキンも、店内の様子を一通りきょろきょろと見渡して確認してみる。

 

一見すると結構な品揃えのようだが、少し注意して観察すると、どうにも胡散臭い店のように思えた。

まるで商品の細部を細かく観察して欲しくないかのような、乏しい明かり。

煌びやかで手入れのよい目立つ場所の展示品とは裏腹に、埃っぽい隅の方にはきちんと分類もせずに乱雑に積み上げられた商品の山。

 

なんというか、ウォーターディープのいかがわしい地区によくある、怪しい出自の品や違法すれすれの品を売る店のような雰囲気だ。

店が大通りから外れた、辺鄙で一般的な人の目の届きにくい場所にあるあたりもよく似ている。

 

よく考えたらただでさえ戦士の評価が低いらしいこの世界で、戦いと縁遠い修行中のメイジであるルイズが武器屋の質なんて判断できるとは思えない。

いやそれ以前に、彼女は多分この街の武器屋はここしか知らず、それも偶然知っていただけで入った事もないらしい雰囲気だった。

これだけ大きな街なのだから他にも武器屋はあるだろうし、後日自分でも他の店を探したりもしてみるべきかもしれない。

 

まあ、とはいえ……、こんな店にはろくな品がない、と決めつけるのは早計だろう。

 

こういう店だからこそ、思わぬ掘り出し物が見つかったりするかもしれない。

それにここは異世界なのだし、フェイルーンでの感覚に基づいた自分の判断が正しいとも限るまい。

そうでなくとも、今回はこの世界にはどんな武器や防具があるのかを見てみたいというのが主目的で、別に無理に何か買おうというわけではない。

大体まだ自分はお金を持っていないのだし、ねだればルイズが買ってくれるにせよあまり高い品に手を出すわけにもいかない。

 

ただ、無理に買う気はないとはいっても、商品の価値をしっかり見定められなくては困る。

しかるに自分の<鑑定>の腕前は、初めて訪れる異世界の、このような胡散臭い店で試すには、少々心もとないものだ。

 

(ウーン、ちょっともったいない気もするけど……)

 

ディーキンは少し迷ったが、密かに荷物の中から一本のワンドを手に取ると《鑑定の接触(アプレイジング・タッチ)》の呪文を解放した。

この呪文の効果さえあれば、そんじょそこらの胡散臭い店くらいでそう心配する必要もあるまい。

 

使い終わったワンドはそのまますぐに荷物の中に戻した。

1レベル呪文のワンドは使用回数50回で市価750gp(金貨750枚)だから、これで1回分、15gpの出費になったわけだ。

まあガラクタをバカ高い値で売りつけられるリスクを考えれば、このくらいは仕方のない必要経費だろう。

 

店の奥の方でパイプをくわえながら窓に鎧戸を下ろしている五十がらみの男が、どうやら店主らしい。

彼は来客に気付いてそちらを振り向き……、ぎょっとした様子でパイプを落とした。

学生とはいえ貴族が三人も、しかも得体の知れない亜人を伴って店に入ってきたのを見て、何か良からぬ事態を想像したらしい。

 

ますますもっていかがわしい店だ、とディーキンは思った。

何かやましい事がなければ普通、そんな過敏な反応はしないだろう。

 

さておき、店主はすぐに気を取り直してパイプを拾い上げると、ルイズらの方にずいと近寄ってドスの利いた声を出した。

 

「貴族の旦那方、言っときますがこう見えてもうちはまっとうな商売をしてまさあ。

 お上に目をつけられるようないわれはありやせんぜ」

 

ルイズは眉を顰めると、腕組みして胸を張った。

 

「何を勘違いしてるの。客よ」

「む……、こりゃあまた、貴族の方々が剣を?」

「違うわ。この子」

「はっ? へ、へえ……、こちらの、……亜人、の方で?」

「そう。私の……、使い魔よ」

 

紹介されたディーキンはとことこと店主の前に進み出ると、会釈して挨拶する。

 

「はじめまして、ディーキンはディーキンだよ。

 今日はちょっと武器とかを見せてもらいたくて来たの」

「………え、ええ、構いやせんとも。

 忘れておりました、最近は貴族の使い魔も剣を振るようですな」

 

店主は予想外のことで少し面食らっていたようだが、やがて気を取り直すと商売っ気が出てきたのか、そんなお愛想を言った。

ルイズはちょっと首を傾げてディーキンに質問する。

 

「私は剣のことなんか分からないけど、あんたはどうなの、ディーキン。

 武器は持ってるみたいだけど、良し悪しは分かるの?」

「うん、ディーキンは少しは分かってるつもりだよ。

 たくさんあるみたいだから、ちょっと見て回ってみてもいい?」

 

それを聞いた店主はほくそ笑んだ。

 

金をたんまり持っていそうな世間知らずの貴族のお嬢様たちと、自分では武器に詳しいつもりらしい亜人のガキが相手ときた。

これはいいカモだ。見てくれだけの御飾りか何かを、目一杯高く売りつけてやるとしよう。

 

「どうぞどうぞ、ごゆっくりと。

 ですが、よかったらこちらからもお勧めを紹介しやすよ。

 そこらに飾られてるような品物じゃあ、貴族の方の従者には不足かもしれやせんからね」

「そう? じゃあ、それもお願いするわ」

「へえ」

 

店主はルイズの了解を取り付けると、ぺこりと頭を下げてからいそいそと奥の倉庫に向かって行った。

キュルケはその後ろ姿を目を細めて見送ると、ふんと鼻を鳴らした。

 

「……何だか胡散臭い店主ね。大方、ろくでもないガラクタを奥から持ってきて売りつける気じゃないの?」

「あら、ゲルマニアの貴族は金にうるさいだけあって卑しい発想をするのね。

 トリステインにはそんないかがわしい店はそうそうないわよ」

 

キュルケはそれを聞いて呆れかえった。

この娘は純真というか、おめでたいというか。まったく世間知らずなことだ。

 

「ルイズ、あなたねえ。……まあいいわ、もう」

 

この様子ではどうせルイズに言っても逆効果だろうし、いざとなったらあの子の方にアドバイスしてやろう。

そう思ってディーキンの様子を窺うと、彼はいつの間にかルイズの傍を離れて、目立つ場所に飾られた大きな斧を調べながら首を傾げていた。

どこから取り出したのやら虫眼鏡などを使って子細に観察しているその様子がなんとなくかわいらしくて、キュルケはくすりと笑う。

 

「ウーン……」

「あら、ディー君。その斧が気に入ったの?」

 

そう話しかけながら、自分も近くにいって同じように斧を眺めてみる。

じきにルイズとタバサも気が付いて、同じように近寄ってきた。

 

ルイズはディーキンが調べている斧を見ると、露骨に顔をしかめる。

 

「ちょっとディーキン、斧持ちなんて格好悪いわ!

 確かにそれは大きくて立派な感じだけど、どうせ買うなら剣とかにしなさいよ」

 

ルイズの感覚では、斧などを使うのは蛮族かさもなければ樵である。

ゆえにおよそ平民の武器としても立派なものだとはいえない、と思っているのだ。

 

キュルケもそれにはおおむね賛成であった。

実用性はいざ知らず、いかんせんイメージ的に野暮ったいのは否めない。

そして大概の平民が用いる武器の『実用性』など、メイジにとっては誤差の範囲というのが、ハルケギニアでのごく一般的な常識だ。

である以上は、一流の貴族の身辺を守る使い魔が持つ武器であるならば、美しさ優先で選んだ方がよいであろう。

 

「そうね。それに、ディー君にはちょっと大きすぎないかしら?」

 

見たところ、この斧は普通の人間の男であっても両手で扱わなければならないくらいのサイズだ。

幼児くらいの背丈しかないディーキンにとっては大きすぎるだろう。

それにサイズの問題を別にしても、刃が大きくて分厚く、とても重そうである。

キュルケには自分がこれを持ってもまともに武器として振り回せるとは思えなかったし、ましてやディーキンのような小柄な者には……。

 

「イヤ、別にこれを買いたいってわけじゃないの。

 ただちょっと、変わった斧みたいだから気になったんだよ」

 

ディーキンは無造作に片手で刃の部分を掴んで斧をひょいと持ち上げると、ひっくり返したりして色々な角度から眺めてみた。

それを見て、キュルケはびっくりして目を丸くする。

 

この子には、外見に反して凄い腕力があるのか?

それともこの斧が、見かけよりも大分軽いのだろうか?

 

「………。その色、何かの魔法?」

 

斧とディーキンを交互に見つめていたタバサが、少し考え込んでそう聞いた。

 

この斧は変わった色合い……、美しい光沢のある漆のような黒色をしている。

自分は『土』のメイジではないので鉱物にそう詳しくはないが、普通の鉄などとは明らかに違った、風格を感じさせる色だ。

そういった点に興味を惹かれたのかと思ったのである。

ディーキンがこの重そうな斧を軽々と持ち上げられた理由も、特別な材質や魔法によるものだとすれば説明が付く。

 

タバサが試しに触れてみると、斧からは僅かな魔力が感じられた。

魔法の品であれば、タバサ程の使い手ならディテクト・マジックを使わずとも僅かな魔力は感じられる。

とはいえ何らかの魔法が掛かっているのは間違いないが、それが特別な魔法なのかどうかまでは触れただけではわからない。

少し上等な武器にはよく施されているただの固定化なのかもしれない。

 

ディーキンはそれに対して、首を横に振る。

 

「ううん、違うと思う。ディーキンも最初はそうかもって思ってたけどね。

 ディーキンが今気になってるのは、形の方なの」

 

ディーキンは最初、この斧の高級そうな漆黒の色合いを見て、もしやアダマンティン製かと興味を持って調べ始めたのだ。

しかし実際に近くで見て触ってみると、材質は赤銅(しゃくどう)であることがすぐに分かった。

赤銅は銅と金の合金であり、主に装飾などに用いられるものである。

 

そのような実用本位とは言い難い金属で作られている以上、これが実戦的な目的の品とは思えない。

ゆえに、威力や命中精度を強化するような魔法も付与されているとは考えにくい。

少なくともフェイルーンでは、元が高品質な武器でなければわざわざ魔法を施して強化したりはしないものだ。

一応永続化してある《魔法感知(ディテクト・マジック)》で調べてみたが、ひとつだけかけられている魔法の強度はごく弱いものだった。

オーラの強度や系統からみて、おそらく大した腕ではないメイジによって、固定化とやらが施されているだけだろう。

 

それきり興味を無くしかけたが、一応もう少し調べてみた所、品質はいざ知らず何やら変わった造りの斧だということに気が付いた。

明らかに両手持ち専用の大斧だが、戦闘用にしては随分と扱いにくそうな形状と重量バランスをしているし、かといって伐採用の斧でもないようだ。

 

それで今は、一体どんな用途に使うものなのか、何か手がかりがないだろうかと調べまわしているところである。

 

「………ン?」

 

ディーキンはふと、斧の中央部辺りにやや不格好で周囲と不調和な、奇妙に盛り上がった部分があるのに気が付いた。

 

虫眼鏡で注意深く眺めてみると、どうやら文字か何かがそこに彫られていたのを、後から金属を流し込んで埋めた跡のようだった。

しかし埋め方がぞんざいで、虫眼鏡で細かく見ていくと部分的に判読できる箇所が残っている。

 

「――――『神の名において……汝ら罪なし』、……?

 ウーン、どういう意味かな?」

 

ディーキンが何をそんなに熱心に調べているのかと怪訝そうに見ていたルイズが、それを聞いて首を傾げた。

 

「何よそれ、お祈りの言葉みたいね」

「お祈り……?」

 

それを聞いて、ディーキンはぴんと閃いた。

 

「……オオ、お祈り! 

 それだね、おかげでよくわかったの。ありがとう、ルイズ」

「はっ?」

 

きょとんとしているルイズをよそに、ディーキンはウンウンと頷いた。

 

つまりこれは、処刑台に固定された罪人の首や胴に振り下ろし、両断するための処刑用の斧に違いあるまい。

台に固定されて動かない罪人に対して振り下ろし、間違いなく一撃で切断することだけに特化しているから、他の斧とは造りが違っていたのだ。

動き回る敵と戦う分には重量バランスが悪く重すぎて扱いにくいが、無防備な標的に対し振り下ろす分には大きな威力が出せる。

 

赤銅で作られているのは処刑を見世物として映えさせるためか、あるいは罪人の最後を飾ってやろうと言うせめてもの慈悲ゆえといったところだろうか。

斧に彫られた祈りの言葉は、処刑人ないしは罪人のために捧げられたものか。

そして忌まわしい血糊に長々と触れるのを嫌う処理係が多少処理を疎かにしても錆びついたりしないよう、最低限の固定化を施してあるのだろう。

 

……しかし、元は処刑に使われていたような斧をどこからか引き取ってきて、細工をして出自をごまかして売るとは。

やはりここは、少々いかがわしい店であるらしい。

まあディーキンとしては出自が多少不穏であるくらい大して気にはしないのだが、この分では他の商品にも油断はしない方がよさそうである。

 

そんなことを考えている間に、店主が奥から品物を持って戻ってきた。

ディーキンは斧を元に戻すとルイズと一緒にそちらの方にてってっと移動していった。

 

 

ディーキンが店主の方に向かうと、キュルケとタバサはそそくさと斧の傍に寄って、重さを確かめてみた。

 

おおむね、外見から予想できる通りの重量だった。

キュルケにとっても振り回すには重すぎるし、小柄で非力なタバサでは相当力を込めてやっと持ち上がる代物だ。

 

2人は顔を見合わせる。

 

「やっぱり見た目通りすごく重いわね、コレ」

「重い」

「ディー君てあんななりで、すごい力持ちだったのね。

 よく考えたら亜人なんだから、人間よりずっと力持ちでも不思議はないけど」

「……そうかもしれない」

「それに、さっきの斧を熱心に見てる様子なんてかわいいだけじゃなくて知的な感じもあったわ。

 本を読んでる時のあなたといいい勝負かも。

 まあ、あなたのお相手が頼りになる男の子で、私も安心ね?」

 

からかうようにそう言うキュルケに対して、タバサは若干苛立ったように眉根を寄せて首を振る。

 

「……勘違い」

 

そう、勘違いだ。

そうにきまっている。

 

タバサは内心で、自分自身に言い聞かせるようにそう呟いた。

 

 

少し離れた場所でのそんなやりとりをよそに、店主は持ってきた商品をルイズに紹介し始める。

ディーキンの体格に合わせて小さめの武器をいくつか見繕ってきたようだ。

 

最初に彼が見せたのは、一メイルほどの長さの細身の剣だった。片手持ち専用らしく柄が短く、護拳が付いている。

分類としては細剣(レイピア)にあたるだろう。急所を突く戦い方に適した、片手持ち専用の軍用武器だ。

 

「昨今は『土くれ』のフーケとかいうメイジの盗賊がここらの貴族の方々のお屋敷に度々襲撃をかけてはお宝を盗みまくっておるそうで。

 宮廷の貴族の方々の間でも、警戒して下僕にまで剣を持たすようになってきておるようですな。

 そういった方々がよくお求めになるのが、このようなレイピアでさあ」

「ふうん……」

 

ルイズは特に興味のない話に気のない相槌を打ちつつ、その武器をじろじろと眺めた。

武器を買うこと自体にあまり気乗りはしないが、どうせ買ってやるならいいものを持たせたい。

 

もちろんルイズには、武器としての良し悪しなどがわかるわけではない。

彼女としては、どうせ使う機会などそうそう無いだろうし余程の魔剣か凄腕のメイジ殺しでもなければ武器など大して頼りにはならない、と考えている。

別に少しばかり切れ味が良かろうが悪かろうが大差ないのなら、貴族として恥ずかしくない見た目かどうかを吟味すればよい。

 

まあもちろん、自分が気に入ってもディーキンが嫌なら仕方がないわけだが……、

ちょっとは主人らしくアドバイスしてやれたら、と思っているのだ。

 

さて、ルイズが見たところ、このレイピアにはなかなかきらびやかな模様がついている。

それなりの身分の貴族が近衛に持たせても、恥ずかしくなさそうな綺麗な剣だった。

少なくとも、ディーキンが今持っている武器よりも見た目は確実にいい。

この子には少し大きめかも知れないが、刀身が細く、軽くて扱いやすそうだし、なんとかなるのではないか。

 

そこまで考えてから、ルイズは剣を手に取ってしげしげと眺めているディーキンに声を掛けた。

 

「どう、ディーキン。その剣は気にいった?」

「ン~……、ダメ。これはディーキンには使えないよ。もしもお芝居とかで使うのなら、綺麗でいいけどね」

 

それを聞いた店主はぴくりと眉を動かし、ディーキンの方へ身を屈めて、ずいと顔を突きつけるようにして話し掛ける。

 

「お客さん、お言葉だが、剣と使い手にゃあ、相性ってもんがある。

 その剣は力のない者でも軽くて扱いやすい、だからお客さんみたいな小さい方にはよく合うと思うんですがね。

 一体何が駄目だってんで?」

 

ディーキンは少し首を傾げると、間近の店主の顔をじっと見つめ返しながら返答する。

 

「いや、別に剣が悪いんじゃなくて、ディーキンはあんたたちよりも小さいからダメってことなの。

 その剣は片手で持って、敵の急所をさっと突き刺す武器でしょ?

 けどディーキンがその長さを持つのは、片手じゃ無理だよ」

 

腕力的には片手でも、もちろん問題なく持てる。

 

だが、どんなに腕力があろうと、長さや体積の問題はそれとはまた別だ。

ディーキンの体格だと、この剣は片手持ちでは身体の大きさと武器の長さとのバランスが悪すぎて、まともに扱えない。

レイピアの扱い方自体はディーキンも心得ているが、小型サイズの種族用のもっと短い物でないと駄目だ。

 

また、調べた限りでは、武器としての作りもごく平凡なようだった。

魔力もやはり、固定化とかいう物が掛かっているだけだ。

 

先程言ったとおり、お芝居の小道具として使うなら見栄えがするのでいいかもしれないという程度か。

ディーキンはバードなので芝居で使うというのもそうそうありえない話ではなく、その意味では買っても悪くはないかもしれない。

ただしそれは金に余裕がある時ならであって、今買ってもらうような代物ではあるまい。

 

「………。ですが、体が小さい分、手も小さいはずですぜ?

 普通の人間ならたしかにこの長さの柄は片手持ち専用ですが、お客さんなら両手で持てるでしょう」

「イヤ、柄の長さとか手の大きさとかだけの問題じゃないの。

 そんな細い剣を両手で振り回して叩きつけたり、思いっ切り突き刺したりしたら、すぐ折れると思うの。

 もし両手持ちで使うんだったら、槍みたいにもっと丈夫なつくりでないと」

「む……、」

 

店主は渋い顔で少し考えていたが、やがてゆっくりと体を起こして軽く頭を下げた。

 

「……なるほど、そいつは気付きやせんで失礼しました。

 どうもお客さんみたいに体の小さい方は初めてだったもんで、うっかりしとったようです。

 では、こちらはいかがで?」

 

店主はそう言って、奥から持ってきた荷物の中からまた別の武器を取り出した。

先程のレイピアと同じくらいの長さで、丁寧に装飾された、鳥を模したような優雅で美しいデザインの両刃の長剣(ロングソード)だ。

 

これもルイズは、一見してなかなか気にいった。

それに、確かにこれならば、両手で持って振り回してもそうそう折れたりはしなさそうに見える。

 

「どうです、綺麗でしょう?

 だがこいつはただ見てくれがいいってだけじゃねえ、滅多に無い業物でさあ。

 ちょっと持ってごらんなさい、他の武器との質の違いが分かることでしょう」

 

ディーキンは店主の言葉に頷いてそれを受けとると、ちょっと首を傾げて、しげしげと観察してみた。

それから剣先を指でトントンと叩いてみたり、軽く振ってみたり、していたが……。

 

やがて、首を振って剣を返した。

 

「ンー……、駄目。

 これは、ディーキンが小さいからとかじゃなくて、本当にお芝居用の剣だよ。戦いには使えないと思うの」

「……。そりゃあ、また、どういうことで?」

 

また顔をしかめて、少し苛立ったような声で問い質す店主。

 

タバサは興味を持ったのか、つと近寄って、自分もその剣を手に取ってみた。

なるほど、確かに店主の言ったとおり、持つと並みの剣と違って、手にしっくりくる感じがする。

とても取り回しやすく、自分のように小柄で非力なものでも扱えそうだ。

 

だがディーキンは、これは駄目だ、お芝居用の剣だと言っていた。

 

「……なぜ?」

 

端的に問い掛けるタバサに、ディーキンはちょっと首を傾げて、理由を説明していった。

 

「この剣が手にしっくりくるのは、重心が下の方にあるからだよ。

 剣先の方が凄く軽いから振り回しはしやすいけど、こういう剣だったらふつう、重心はもう少し上の方にあるものなの」

 

この剣を持ってすぐにそういった違和感を感じたディーキンは、まずは軽量化などの特殊な魔力が掛かっているのかどうかを確認してみた。

だが、かかっている魔力はやはり先程のレイピアと同じで、微弱な固定化だけのようだった。

 

そこで次に剣先を指でトントンと叩いてみると、どうやら刀身が鋼ではなく何か非常に軽い金属でできている上に、中空であるらしいことが分かった。

こんな刀身では、叩き斬ろうとしても力が乗らずまともなダメージを与えられないだろう。

それどころか、刀身の方が曲がったり折れたりしてしまうかも知れない。

 

さらに加えていえば、この剣の一見美しいデザインや形状も、おおよそ実戦向きの剣とはかけ離れていた。

 

そこまで確認すれば、結論を出すのには十分だ。

この剣は明らかに実用品ではなく、舞台での見栄えを考慮して美麗なデザインを施し、非力な役者でも持てるように刀身を軽くした演劇用。

さもなければ、壁にでもかけておくための展示用であることは明らかだった。

そういった意味での用途なら駄目というわけではないが、やはり今買いたいというような物ではない。

 

その説明を聞いて、納得した様子で小さく頷いたタバサ。

いささか意外そうな、感心したような様子で、横で聞いているルイズとキュルケ。

 

そして、内心で悪態をつきながら、渋い顔をしている店主。

 

(……クソッタレが。このガキ、思ったより手強いじゃねえか!)

 

ガキっぽい亜人のくせに、予想外に武器に詳しいようだ。

 

だが、絶好のカモを目の前にしてこのまますみすみ引き下がるわけにはいかない。

確かに予想外だったが、相手は所詮はガキ、こっちはプロなのだ。

 

こいつらの財布の中身は絶対に掠め取ってやるぞ……と、さらに闘志を燃やして。

店主はまた、このガキを上手く騙すことのできそうな代物はなかったかと、持ってきた商品の束を物色し始めた。

 

(フンフン? まだ何か、面白いのが出てくるのかな?)

 

一方ディーキンとしては、せっかく来たのだから、この店をもっと楽しんでやろうと言う気分になってきていた。

 

最初は胡散臭い店だと思っていたし、今も思っているが……。

買う買わないはともかく、いろいろと変わったものが出てきて結構面白い。

冒険中に遺跡の一室を何かないかと探し回っている時のようなワクワク感があった。

そういうのはたとえお宝はなくても往々にして当時の面白い小物や住人のメモ帳なんかが出てきたりして、やってるとなかなか楽しいのだ。

 

そして、そんな彼の様子を、乱雑に積まれた武器の陰からじっと窺う“物”がいた……。

 





アプレイジング・タッチ
Appraising Touch /鑑定の接触
系統:占術; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:術者
持続時間:術者レベル毎に1時間
 術者は呪文の持続時間の間、接触している物体に対する直観的な洞察を得ることができる。
対象の物体に接触している限り、術者はその物体の価値を判断するための<鑑定>の判定に+10洞察ボーナスを得る。
また、たとえこの判定に失敗したとしても、術者が対象の物体の価値を±50%の範囲を超えて誤って見積もることはなくなる。
この方法で価値を鑑定するには、調べる対象1つにつき2分の時間がかかる。

アダマンティン(Adamantine):
 隕石の中や魔法的な土地に稀に見られる鉱脈などでしか発見されない、光沢のある美しい漆黒色の希少な金属。
かの有名なミスラルさえ凌駕する地上最硬の金属で、その強度はアメリカ陸軍主力戦車M1A2エイブラムスの装甲にも匹敵(参考:d20モダン)するとされる。
この金属を用いて作成された武器には、より劣る物体の硬度を無効化することができる天然の能力が備わる。
また、この金属で作成された鎧は着用者にダメージ減少の能力を与えてくれる。
アダマンティンの硬度は20(ミスラルは15、鋼鉄は10)で、厚さ1インチごとに40(ミスラルおよび鋼鉄は30)ヒット・ポイントを持つ。
アダマンティンの刃にかかれば、鋼鉄はおろかミスラルでさえも紙のように容易く斬り裂かれてしまうのだ。
 アンダーダークのドロウの中には、この優れた金属でできた武器を使用しているものがかなり多い。
しかしそれらは地上のアダマンティンとは違い、陽光に晒されると次第に脆くなっていき、ついには崩壊してしまうという奇妙な特性を持っている。
有名な『ダークエルフ物語』の主人公ドリッズト・ドゥアーデンも、アンダーダークで暮らしていた頃には2本のアダマンティン製シミターを持っていた。


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第二十九話 Derflinger

店主は、今度は小さなナイフを差し出してきた。

柄には美麗な図柄が象眼してあり、刀身は鏡のように磨き上げられていて、仄かに銀色の輝きを放っている。

 

「こいつはどうです、小さいですが、お客さんの手にはピッタリかと。

 小品ですが、かの名高い名工グリンウルドの鍛えた刃物に、ガリアの一流の錬金魔術師マイアリーが魔法を掛けて仕上げたものです。

 御覧なさい、ここに銘が刻まれとるでしょう?」

「―――へえ、なかなかよさそうね」

 

ルイズは一目見て、その小さくまとまった美しさが気にいった。

 

平民の磨いた牙とたとえられる剣のような、野蛮な刃物とは違う貴族の小道具的な上品な高級感がある。

また、名高い名工と一流の魔術師の手による品だという店主の説明にも惹かれた。

貴族が身の回りにいる者に持たせるのは、そういう一級品が望ましい。

 

「そうでしょう。それに、魔力で刀身自体が輝いとるのも見ればお分かりでしょうな。

 超一流の技と魔法が合わさった極上の逸品です。

 決して錆びることも、刃こぼれすることもありやせんぜ」

 

ディーキンは、そのナイフを手にとって注意深く調べてみた。

 

なるほど、確かに魔力の輝きを放っている。

しかもオーラの強さからすると、先程見た斧やレイピアよりも腕のいいメイジによるものだ。

さらに、固定化とかいう物だけではなく、それ以外の魔法がもうひとつふたつかかっているようだ。

切れ味を増す魔法と……、決して刃こぼれしないという店主の言葉からすれば、刃の物理的な強度を上げるような魔法だろうか?

 

ベースのナイフ自体の作りも実に丁寧で、握り心地がよく扱いやすい。間違いなく高品質な代物だ。

名工の手によって作られた刃物に一流のメイジが魔法を施したものだという説明自体は、まず嘘ではないだろう。

 

さてこれはどう扱ったものか、とディーキンは首を傾げた。

 

「今度はどう、ディーキン? 私には良さそうに思えるけど」

「ウーン……、いくらくらいなのかにもよると思う」

「そうね。おいくら?」

 

ルイズの質問に、店主は咳払いをして、勿体ぶった調子で話しはじめる。

 

「オホン。何ぶん、こいつは2つとは手に入らぬ一級品ですからな……。

 おやすかあ、ありませんぜ?」

「私は貴族よ」

 

胸を反らせて続きを促すルイズに、店主はひとつ頷くと淡々と値段を告げた。

 

「へえ。では、そうですな。

 先程の失礼の分多少勉強させていただいて、エキュー金貨で千二百、新金貨なら千八百というところで」

「……ちょっと、何よそれは。そんな小さなナイフが?

 それだけあれば立派な家だって建てられるじゃないの、たかが武器に……」

 

ルイズは値段を聞いて、呆れたような顔でそう文句を言った。

しかし店主は至って真面目な様子である。

 

「お言葉ですが、若奥さま。並みの剣ならいざ知らず、名のある剣の中には城に匹敵するだけの値がつくものもありますぜ。

 こいつは小品とはいえ、間違いのない名品で。家で済んだら安いものでさ」

「今は新金貨で百しか持ってきてないわ」

 

店主はそれを聞くと顔をしかめて、話にならないと言うように首を振った。

 

「……それっぱかしじゃあ、ごくありきたりの剣を買っていただくしかありませんな。

 魔剣はもちろん、魔法が掛かっていなくとも、大剣ともなれば装飾や魔法抜きでも相場は二百は下りやせんぜ。

 お手持ちで買えるのは、せいぜい普通の長剣くらいまででさ」

 

ルイズはそれを聞いて顔を赤くした。武器がそんなに高いものとは知らなかったのだ。

 

ディーキンは、少し首を傾けて、果たしてその値段で妥当かどうかと考えてみた。

フェイルーンなら、平均的な長剣は15gp(金貨15枚)、大剣で50gpといったところだ。

もちろん同じ金貨でもハルケギニアのエキュー金貨や新金貨とは大きさが違うし、物価も異世界だから違っていて当然ではある。

 

ハルケギニアの物価については昨日少しはこの街で見たりタバサから聞いたりしたが、武器の値段についてはまだよく知らない。

だからはっきりと断定はできないのだが……、それでもなんとなく、若干ぼったくっているようには思えた。

そこまでとんでもない値段をつけてはいないだろうが、数割程度は水増しした額を言っているのではないかという気がする。

 

一方で、魔法の武器に関しては、フェイルーンなら威力や命中精度を高めるまともな強化を施した武器なら最低でも2000gpは下らない。

金貨千二百枚で魔法の武器が買えるというのなら、むしろ安いようにディーキンには思えた。

 

無論、まともな武器なら、ということだが。

 

「……聞いての通りよ。残念だけど、それは買えないわ。別のにしましょう」

「うん、ディーキンは別に構わないの。

 いいものだとは思うけど、果物ナイフに家が買えるお金を払うのはちょっと高すぎるからね」

 

悔しそうにしていたルイズだったが、ディーキンのその言葉を聞いてきょとんとする。

 

「……え? あれって、果物ナイフなの?」

「たぶんそうだよ。いいものみたいだから、安かったら買ってもいいと思ったけど」

「なんだ、そうなの」

 

店主はそのやりとりを聞いて、内心で苦々しく舌打ちをした。

今度はあのガキもうまくひっかかったと思っていたら、気付いていたのか。

 

確かに、あれは間違いなく名高い名工が作った品であり、魔法を掛けたメイジも有名ではないが一流の腕前だ。

ただ、武器ではない。

ディーキンの見立て通り、名工が知人に頼まれて作った果物ナイフなのである。

 

多少手入れを怠って野菜の汁が付いたままにしても錆を生じないよう、一流の固定化が施されている。

硬い物や柔軟な物、何を切っても、長期間使い続けても刃こぼれしないよう、きちんとした硬化も施されている。

野菜でも果物でも楽々と切れるように、切れ味を増す強化魔法までもがしっかりと施されている。

 

しかしいくら作りがよくとも、そもそも戦闘用ではない。

素の刃の切れ味が鈍すぎて、武器としては強くもなんともない。

あくまでもおしゃれと実用品を兼ねた小物なのだ。

 

貴族の中には刃物など、それこそ果物ナイフくらいしかまともに扱ったことはない、という輩が少なくない。

そういう連中は剣というのも少し大きいだけで果物ナイフと似たようなものくらいにしか思っていないだろうから、区別などできまい。

むしろ見慣れた形状で美しい飾りや一流の魔力が施されていれば、見慣れぬ形でいかにも野蛮そうな剣よりも上等な武器だと考えるだろう……。

 

店主はそう考えたからこそ、元の持ち主が没落して捨て値で売りに出されていたこの果物ナイフを買い取ったのである。

実際、ルイズは思惑通りに乗せられていたのだが、ディーキンはそうもいかなかったようだ。

 

まあ、どうせ上手く騙せていたところで百しか持ってないガキが相手じゃ仕方なかったな、と店主は気分を切り替えた。

 

「……ええと、お勧めはもうないの?

 なら、ディーキンは自分で探してみていいかな?」

「え? ……ああ、どうぞ。すみやせん、何か気にいったのがあれば説明しますんで」

 

ディーキンは説明が一段落したのを確認すると、今度は自分で店内を見て回ってみることにした。

この店主に付き合うのもなかなか面白いが、自分の目で見て回るのも、きっと楽しいことだろう。

 

 

「―――うん? あれは……、」

 

店のあちこちに積み上げられた武器を見てまわっていたディーキンが、展示棚の一角に飾られたマスケット銃に気付いて目をしばたたかせた。

その横には拳銃も数丁並べられており、隣の棚には角製の火薬筒らしきものが詰め込まれている。

 

「へえ、銃というもんです。……お客さんは、ああいったものにも興味がおありで?」

 

店主は、これはしめたなとほくそ笑んだ。

 

銃はメイジが火の秘薬を精製して作った火薬を用いて鉄の弾を飛ばす、高度な技術を要する武器だ。

種類にもよるが拳銃程度ならこの亜人のように小柄でも問題なく扱えるし、火薬に頼るので非力でも高い威力が出せる。

それに、このガキは武器には意外と詳しいようだが、まさか亜人の身で銃のような高度な武器にまで詳しくはあるまい。

 

そう考えると、こういった手合いに売りつけるのには正にうってつけの武器と言えるかもしれない。

まあ、こいつの主人の手持ちでは銃は買えないが、不足分は残り2人の貴族に建て替えさせるか、ツケにしておいてもいいだろう。

 

「ンー……、一応。

 銃っていうのは、つまりクロスボウみたいなもので、金属の弾を撃ち出す小型の投石機でしょ?

 スモークパウダー(煙火薬)を使って弾を飛ばすんだ、って聞いてるよ」

 

フェイルーンでは、小火器の類は比較的新しい武器である。

ごく近年になってから作成方法が知られた魔法の錬金術物質・スモークパウダーを使用しているからだ。

罠づくりに長けた種族であるコボルドの錬金術師は酸の爆弾を作ったりもするが、スモークパウダーはそういった物とはまた違っている。

 

ごく近年の一時期に、超越神エイオーの意思によってただ一柱を除くすべての神々が力を失い、魔法が混乱した“災厄の時”と呼ばれた期間があった。

その間、多くの神々が化身と呼ばれる定命の肉体に封じられ、地上を闊歩していたといわれる。

 

考案と製作の神、“驚きをもたらすもの”ガンドもそうした神々の中の一柱であった。

彼は災厄の時に定命のノームの姿となって、半ば伝説的な発明者たちの楽園・ランタン島の岸辺に降り立ったのだ。

この期間に滅ぼされた神々も多かった中で、彼はかの島の人々に匿われて無事に災厄の時を乗り切ることができたという。

その事に対する感謝として、後日ガンド神はランタン島の人々に、スモークパウダーの秘密を教えたのである。

 

それは、今から僅か二十年ばかり昔の話に過ぎない。

スモークパウダーを用いる小火器が発明されたのはそれ以降のことだ。

ランタン島や進取的で発明好きなノーム達の間では割と普及しているらしいが、一般的にはまだまだ珍しい代物である。

 

こんな武器屋に複数の銃器が当たり前のように並べられているというのは意外だった。

こちらの世界では、そのあたりの技術の発達や普及がフェイルーンよりも進んでいるのかもしれない。

そういえば、昨日タバサと一緒に対峙した傭兵崩れも銃を持っていたな、とディーキンは思い返した。

 

そこへ、キュルケが興味深そうに割って入る。

 

「ふうん、ディー君のいたところでは火薬のことをスモークパウダーっていうの?

 ……ねえ、私は火のメイジだから、そういうのには結構詳しいわよ。

 それに故郷のゲルマニアじゃ、性能のいい銃もたくさん作られてるんだから。よかったら選ぶのにアドバイスをしてあげましょうか?」

 

そういいながら、挑戦するように目を細めた不敵な笑みを店主に向ける。

店主は愛想よく笑みを返すが、内心では悪態をついていた。

 

(けっ、成り上がりのゲルマニア貴族のお嬢様がしゃしゃり出やがって。

 半端な知識を自慢したいのか知らねえが、世間知らずの小娘に本物の銃の何がわかるってんだ?)

 

ルイズはそんなやり取りを見て、不機嫌そうに腰に手を当てる。

 

「ツェルプストー、あんたは関係ないんだから余計な口を出さないでちょうだい!

 何よ、銃なんて平民の使うおもちゃじゃないの。

 そんな役立たずより、もっとましな武器を買いなさいよ!」

 

ディーキンは少し考えるとそれに頷き返して、キュルケと店主に軽く断りを入れてから銃の展示棚を離れた。

 

別に、銃が悪い武器だとは思わない。

力がなくてもある程度訓練すれば割と手軽に人を問わず扱えて、そのくせ威力も結構高いというのだから。

 

ただ、ディーキンの感覚では、大衆の武器ではあっても英雄の武器ではない気がした。

誰でも扱えるが、逆に言えば誰が使っても威力は同じであり、強力な魔法が付与された剣を振るう英雄にとってはなんというか物足りないのだ。

それに高度な技術で作られている分値段も割と高めだし、使うたびに弾薬だけでなく火薬の代金もかかる。

もしかすれば、いずれは技術が進歩し、改良されて、英雄の武器としても不足のない強力な銃も生まれるかもしれないが。

 

……というか、そもそも昨日見張りから武装解除がてら失敬しておいたマスケット銃が、既に背負い袋の中に入っている。

彼が所持していた火薬や弾も全て回収しておいたので、もし必要そうならそれらを使うだけで十分だろう。

銃は特に実戦で使う気もないが、火薬の方は工夫次第では便利かもしれない。

 

「じゃあ、ええと……。他には、何かないかな?」

 

ディーキンが乱雑に積み上げられた大剣をひょいひょいと持ち上げて、順に眺めていた時。

突然、少し離れた場所から声をかけられた。

 

「亜人の坊主よぉ……、自分でさっき言ってたじゃねえか、おめえの体格じゃあここらの剣はデカすぎて扱えねえよ。

 見る目がねえそっちの貴族の娘っ子はほっといて、さっきの拳銃にしといたらどうなんだ?

 おめえみてえなチビには、剣よりもああいうのが向いてるぜ!」

 

低い、男の声だった。

 

その声を聞いて店主は顔をしかめるとしまったというように頭を抱え、他の4人は一斉に声のほうに向きなおる。

しかしそちらのほうには剣が積んであるだけで、人影はない。

 

「ン~?」

 

ディーキンはちょっと首をかしげると、とことこと声のしたほうに歩いていき、そこに積んである剣の束を調べはじめる。

なにせ身近にエンセリックという喋る武器がいるのだから、声の主の正体にはすぐに察しがついた。

 

「ほお。俺っちの正体に気付くとは、さっきの見立てといいナリに似合わず見る目はあるじゃねーか、坊主。

 だが、おめーじゃ俺っちを扱えそうにねえのが残念だな」

「オ……、今喋ったのは、ええと、あんただね?」

 

ディーキンは間近で声を掛けられたことで喋っている対象を特定して、そちらの方に目を向ける。

それは、錆の浮いたいかにも古そうな一本の剣であった。

 

「おう、そうよ。デルフリンガーってんだ」

「はじめまして、デルフリンガーさん。ディーキンはディーキンだよ。コボルドの詩人で冒険者で、今はルイズの使い魔もやってるよ」

「名前だけは一人前のボロでさ」

 

店主が横から差し挟んだ悪態にちょっと首を傾げると、ディーキンはうんと背伸びをしてデルフリンガーを掴み、ひっぱり出して観察してみた。

 

長さは5フィートほど。柄は長く、両手でしっかり持てるように作られている。大きさからいっても、人間がこれを使うなら普通は両手持ちだろう。

しかし剣身は片刃で細く、薄手に作られており、長さの割にはやや軽い。そのため、訓練を受けた者なら片手でもなんとか扱えそうだ。

分類としては、片手半剣(バスタード・ソード)や刀(カタナ)と同じようなカテゴリーにあたるだろうか。

 

錆が浮いているが、魔法のかかった剣である以上自然に錆びつくとは思えない。

もし錆びつくようなことがあれば、その時点で魔法が綻んでいるということで、魔剣ではなくなってしまっているはずだ。

フェイルーンでも、見た目はみすぼらしいが実は強力な魔力を持つアイテムというのはそう珍しいものではない。

おそらくは一種の偽装だろう。どういった魔力があるのかは、呪文などを使ってじっくりと調べてみなくては分かりそうにないが……。

 

「あれって、インテリジェンスソード?」

「そうでさ、若奥さま。意志を持つ魔剣とやらで。

 一体どこの誰が剣をしゃべらせるなんてことを始めたのかしりやせんが……」

「ふうん、この店って珍しいものをずいぶん置いてるのね。

 ……ガラクタの寄せ集めって気もするけど。その剣も錆びててボロっちいし」

「珍しい」

 

ルイズは当惑したような声を上げ、キュルケは若干興味を示し(後半は聞こえないよう小声で付け足した)、タバサは無言でディーキンの方を見つめた。

そんな周囲の反応をよそに、魔剣はひっぱり出されたことに文句を言っている。

 

「おいおい坊主、気安くひっぱり出すなよ。俺っちを見てどうしようってんだ?

 おめえみてえなチビじゃあ、俺をまともに扱えるわけがねえだろうによ」

「おいこら、デル公! お客様に失礼なことをいうんじゃねえ!」

 

店の主人が怒鳴り声を上げる。

 

「失礼? けっ、俺は本当の事をアドバイスしてるだけだぜ。

 おめえこそ、さっきから見てりゃあこいつにろくでもねえガラクタばかり売りつけようとしやがって!

 そっちの方がよっぽど失礼だろうがよ!」

「うるせえ! 滅多なことをぬかすんじゃねえぞ、デル公!

 それ以上商売の邪魔をしたら、貴族に頼んでてめえを溶かしてもらうからな!」

「へっ、おもしれえや!

 やってみろ! どうせこの世にゃもう、飽き飽きして、……!?」

 

店主と言い合いをしていた剣は、唐突に黙りこくった。

 

「……おい、どうしたデル公? 溶かされるのが怖くなりやがったか?」

「…………。ま、まて坊主、俺を戻すな! そのまま持ってろ!」

 

剣は怪訝そうな店主を無視して、自分を頼まれた通り元の場所に戻そうとしていたディーキンを制止する。

それからしばらくして、剣は小さな声でしゃべり始めた。

 

「……おでれーた。こいつは見損なってたぜ。

 おめえ、ナリは小せえがとんでもねえ力が全身に漲ってやがるな。

 しかも、『使い手』……? いや、違うか。だが、何か……」

「? ええと、ディーキンはそんなに強くないよ。

 それにあんたが何を言ってるのかも、ディーキンにはよく分からないけど」

「それで強くねえだと? 自分の実力にも気付いてねえのか?

 ……まあ、いいか。しかし……、」

 

剣はそれから一人でぶつぶつと呟きながら、悩み始めた。

 

「……買えと言いてえところなんだが、いくら強くても体がその大きさじゃ俺は使えねえだろうしなあ。

 剣として、使ってもらう事の出来ねえ相手についていくってのもなあ……。

 だがこんな相手はそうそう見つからねえし、何か気になるし……、今、こいつについていかねえとなると……」

 

ディーキンはその様子を見て、首をひねる。

 

「……アー、よく分からないけど。

 つまりあんたは、ディーキンに買ってほしいけど、剣としても使われたいってこと?」

「まあ、そいつがベストなんだが……」

 

それを聞いてひとつ頷くと、ディーキンはもう一度じっくりと剣を観察しながら思案を巡らせ始めた。

 

確かに、このデルフリンガーを自分がまともに武器として使うのは無理だろう。

 

自分は片手半剣の扱いには慣れていない。

両手持ち専用で大剣(グレートソード)として運用するにしても、自分は大剣の扱いにも不慣れだ。

無理をすれば使えない事もないだろうが、それなら他のもっと慣れた武器を使った方がいいに決まっている。

 

それより何より、まず第一にこの剣は自分には大きすぎる。

エンセリックのように、自分の種別やサイズを変更できる能力がこの剣にもあれば問題ないのだが。

 

(なら……、シエスタに使ってもらうのはどうかな?)

 

自分にパラディンを指導できるとは思わないが、昨日彼女から頼まれて引き受けた以上は精一杯やるつもりだ。

彼女が今後パラディンとして生きていくつもりなら、武器を用いた戦闘技能は必ずや重要になってくるはずなので、その訓練もしていく必要がある。

しかし彼女は今、ろくな武器を持っていない。昨日自分が貸した剣だって、ただの拾い物だ。

なら、この剣を彼女に贈れば丁度いいのではないか?

 

シエスタが片手半剣の扱いに慣れているとは思えないが、おそらく一通りの軍用武器は扱えるはずだ。

両手持ちで大剣のように振るう分には問題ないだろう。

自分の美的感覚から言っても、大剣はパラディンの武器に相応しいもののひとつだ。

外見が錆びているのは難点だが。

 

使い道の問題は、それで当てが付いた。

残る問題は、値段だ。

 

自分は今、金を持っていない。ルイズの手持ちも、ごく普通の武器がやっと買えるか買えないかという程度らしい。

ところがこれは魔法の武器、しかもフェイルーンでは希少な『知性あるアイテム』なのだ。

ここでは知性あるアイテムの評価がどの程度のものなのかは分からないが、少なくとも先程の果物ナイフなどとは比較にならないほどの高値だろう。

 

そう考えつつ、ディーキンは遅まきながらも永続化している《魔法感知(ディテクト・マジック)》で、この剣にかかっている魔法の強さを調べてみた。

フェイルーンとは基準の違いもあるだろうが、とりあえずどのくらい強力な品か見て値段のあたりをつけようというのだ。

 

しかし……。

 

「――――!? ウッ……、」

 

突然間近で強烈な魔法のオーラを感知したディーキンは一瞬目が眩んだようになり、ショックと驚きとでややふらついて一、二歩あとじさった。

 

この剣は、“圧倒的”な魔法のオーラを発している。

つまりはエピッククラスの術者が作成した品か、あるいはアーティファクトだということだ。

 

エピック級のマジックアイテムなら、値段の方は最低でも金貨二十万枚以上……、百万枚以上ということも十分に考えられる。

ディーキンの手持ちで最も強力な部類のエピック・マジックアイテムにも、そのくらいの値が付く。

無論、そもそも売られること自体が滅多に無い代物ではあるが。

 

そしてアーティファクトともなれば、もはや値が付く代物ではない。

定命の存在の間では作成法自体が遺失した古代の遺産であり、僅かな所有者は城どころか小国ひとつと交換しようといっても、まず手放そうとはしない。

 

まさかこんな店に、ここまで強力なアイテムが眠っているとは思わなかった。

これはもう、掘り出し物とかいうレベルではない。

仮にツケが利いたとして、自分の今持っている資産の範囲で果たして買い取れるかどうか……。

 

ディーキンはどうしたものかと悩んだ。

が、とりあえずダメ元で、まずは値段を聞いてみることにする。

 

「ええと、店主さん。この剣は、いくらなの?」

「はっ? ……そ、そいつを、お買い上げいただけるので?」

「ウーン、買いたいけど……、まず買えるかどうかがわからないからね。

 きっと、すごーく高いでしょ?」

「……い、いえいえ、とんでもねえ!」

 

まさかあのうるさい剣が売れるとは思っていなかった店主は戸惑っていたが、ディーキンの問いに慌てて首を振った。

予想外の流れだったが、商売の邪魔になるばかりの面倒な不良在庫を厄介払いできるいいチャンスだ、と思ったのだ。

 

どうせ喋るだけで何の役にも立たないウザったい錆び剣だ。

それが売れて金が入るなら、この際高値でなくとも構うものか。

下手に吹っかけて、せっかくのチャンスがおじゃんになってもつまらない。

 

「あれならもう、百……、いや、五十で結構でさ」

「………へっ?」

 

ディーキンは予想外……、というより、意味を掴みかねる店主の言葉に、きょとんとした。

 

「……五十? 五十って、何の五十なの? 五十万エキューってことかな?」

「おいおいお客さん……、ああ、いや、冗談がお上手ですな。

 そんな天文学的な値段をつけるわけがねえでしょう?

 五十といやあ、あちらの若奥さまがお持ちの新金貨で五十枚の事に決まってまさあ」

「……………」

 

呆れた様子で苦笑する店主の顔を、ディーキンは困惑したような疑い深いような目で、しばらくまじまじと見つめた。

どう見ても、この店主の言葉は嘘や冗談では無いようだが……。

 

(この人って、実はいわゆる面白い人なのかな?)

 

ディーキンは、先程まではこすっからくて油断ならない人物だと思っていた店主への評価を改めた。

というか、もしかして気の毒な人なのではないかと心配し始めた。

 

魔法のかかってない普通の剣でも二百だとさっき言っていたのに、魔法がかかっていてしかも知性まである剣を五十で売るとか、気は確かなのだろうか。

 

そりゃあ、フェイルーンとこことでは物の価値は大分違うのかもしれない。

だが、それにしたって魔法の剣が普通の剣より安いというのは常識的に考えて有り得まい。

見る目がないというよりも常識がない、いやむしろ判断力がないのではないかと、疑いたくもなろうというものだ。

 

「……ええと、本当に新金貨五十枚でいいの?」

「そりゃもう、こっちにしてみりゃ厄介払いみたいなもんで」

 

ディーキンは肩を竦めると、ルイズに向き直った。

 

「じゃあ、ルイズ。これを買ってもらってもいい?」

 

それを聞いたルイズは、露骨に眉を顰めて嫌そうな声を上げた。

 

「え~~~。そんなのにするの?

 もっと綺麗でしゃべらないのにしなさいよ」

「…………」

 

その反応に、ディーキンは困ったようにちらちらとキュルケやタバサの方を窺ってみた。

 

2人とも、ルイズに比べればこの剣に興味はあるようで購入すること自体に不審そうにはしていないが、さほど強い関心を持っている様子でもない。

どうやら自分以外のこの場の誰一人として、この剣にさして高い価値を認めてはおらず、店主のつけた値に大した疑問も持ってはいないらしい。

ディーキンは自分の常識に外れ過ぎている周囲のこの反応に、強いカルチャーショックを受けて、なんだか頭がくらくらしてきた。

 

エピック級、もしくはアーティファクト級のマジックアイテムがたったの金貨五十枚である。

フェイルーンでそんな値段を聞いたら、デヴィルとか邪神とかいった良からぬ連中の策謀の一環なのではないかと疑うであろう。

もし仮に何の裏も無いと確信できるのであれば、たとえ使うアテがなくても転売目的で即買いだ。

 

こんなうまい話を聞いても誰も何の反応も無いとは、一体ここの人々の考え方はどうなっているのか。

この世界では、そこまで戦士や、戦士の使う武器への評価が低いのだろうか。

 

そんなディーキンの内心に気付いたわけでもないのだろうが、キュルケが購入を渋るルイズをからかうように声を掛けた。

 

「なあに、ヴァリエールは大切な使い魔にそんな錆びた剣の一本も買ってあげられないのかしら。

 なら、タバサと私とでディー君にプレゼントしてあ………」

「買うわ!」

 

そうして、カウンターにじゃらじゃらとぶちまけられた五十枚の新金貨と引き換えに、デルフリンガーはディーキンの所有物になったのだった。

 




ディーキンが扱える武器・防具について:
 ディーキンはコボルド(後天的ハーフドラゴン)のバードであり、ドラゴン・ディサイプルでもある。
 3.5版のバードは、すべての種類の単純武器(素手、ダガー、メイス、スピア、クロスボウ、スリング、ダーツ、クォータースタッフ等)に習熟している。
加えて、軍用武器・特殊武器のうち、ロングソード、レイピア、サップ、ショート・ソード、ショートボウ、ウィップにも習熟している。
軽装鎧(パデッド、レザー、チェイン・シャツ等)と、タワー・シールドを除くすべての種類の盾にも習熟している。
また、バードは軽装鎧を着用していても、動作要素が必要な呪文の発動に支障をきたさない。
 ドラゴン・ディサイプルは、両手の爪と噛み付きの肉体武器を用いた攻撃に習熟している。
特に防具には習熟していないが、硬い外皮によるACへのボーナスを持つ。
 習熟していない種類の武器を扱う場合は、攻撃ロールに-4のペナルティを被る。
逆に言えば、ただペナルティが付くというだけで使用すること自体はできる。
 ディーキンは小型サイズの種族であり、人間のような中型サイズの種族用に作られた武器はそのまま同じようには扱えない。
たとえば、ロングソードは通常片手持ち・両手持ちのどちらでも扱える武器である。
しかし中型サイズの種族用のロングソードは小型サイズの種族にとってはグレートソードと同様であり、両手持ちでないと扱えない。
逆に小型サイズの種族用のロングソードは中型サイズの種族にとってはショート・ソードに相当し、片手持ちしかできない。
したがって、体の大きさの関係上、ディーキンがデルフリンガーを普通に武器として使用することは不可能である。


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第三十話 Legend Lore

「それじゃ、ええと……、ミスタ・エンセリック。

 あなたは私の使ってる爆発は魔法の失敗じゃなくて、その温存魔力特技とかいうものだっていうの?」

 

ここはトリステイン魔法学院、ルイズの私室。

 

部屋の主であるルイズは、王都からの帰りにディーキンが「自分より魔法に詳しい人物」として紹介した知性を持つ剣、エンセリックと話し込んでいた。

なおルイズが敬称をつけているのは、彼がただのインテリジェンスソードではなく、魔剣に魂を囚われた元魔術師だと紹介されたからである。

 

「エンセリックで結構ですよ、御嬢さん。

 あくまでも、あのコボルド君から聞いた話と授業中に拝見した情報とを元にした仮説ですがね。

 実際に確かめてみなくては何とも言えませんね」

「ふうん、ヴァリエールにそんな変わった力があるなんて、興味深い話ね。

 まあ眉唾だとは思うけど、それで、確かめるっていうのは一体どうやるつもりなのかしら?」

 

ルイズと一緒にエンセリックを囲んで座っているキュルケが口を挟んだ。

隣にはタバサもいて、興味深げにじっと話に耳を傾けている。

 

もちろんルイズは最初、私の部屋に勝手に入るな、帰れと要求していたのだが、2人ともどこ吹く風であった。

タバサもキュルケも、彼女が新しく召喚したばかりの使い魔に頼めばどうとでもなるだろうということは、既に把握しているのだ。

ぎゃあぎゃあわめく部屋の主を無視してディーキンに頼み、彼がうまく取りなしたことで、結局3人一緒に話を聞くことになった。

 

なお、ディーキン自身は話をまとめた後、ちょっと中庭へ行くとルイズに断って、デルフを持って出ていった。

エンセリックの仮説は事前にもう聞いていたので、改めて聞くよりもデルフをゆっくりと調べておきたかったからだ。

 

それに、シエスタとの予定もあった。

ディーキンは彼女の仕事が済んだ後で、夜に話や訓練に付き合うと昼間約束していたのである。

もちろんルイズはそんなことは知らないわけだし、知っていたらきっと不満を漏らしていただろうが。

 

「ごく簡単なことですよ、美しい御嬢さん。

 温存魔力特技は精神力を消耗しませんし、身振りも呪文の詠唱も、あなた方の持つ杖のような焦点具も必要ありません。

 あなたの爆発にそのような特徴があるかどうか、試してみればいいのです」

「……えーと、要するに?」

「だからどうするっていうのよ。もっと具体的に言いなさいよ!」

「……あー、わかりませんか? つまりですね……」

 

飲み込みの悪いキュルケとルイズに対して、エンセリックが溜息交じりに答えようとする。

だがそれよりも先に、タバサが口を挟んだ。

 

「杖は持たず、呪文も唱えず、体も動かさない。

 ……ただ精神を集中して、頭の中で爆発を起こそうとだけ考える」

「……はあ?」

「それでもいつもどおりの爆発が起こったなら。

 それが、あなたの爆発がその温存魔力特技というものだという何よりの証明になる」

「ええ、その通りです。あなたは賢い方ですね」

 

タバサの説明に満足したように、軽く賞賛の意を表すエンセリック。

しかし、ルイズやキュルケはその方法には納得できていない様子だった。

 

「ちょっと、何言ってるのよ。

 考えただけで爆発を起こすなんて、そんなことができるわけないわ!」

「そうね、そんなの先住魔法だって無理じゃない?」

 

それは、ハルケギニアの常識からいえば当然の反応であろう。

 

系統魔法にはフェイルーンでいう所の焦点具となる各メイジ固有の契約した杖が必須で、それを手に持ち振るって呪文を詠唱することが必要だ。

先住魔法には杖は不要だが、精霊に呼びかけるための身振りと口語の呪文を唱えることはやはり必要であるとされる。

ただ頭で考えただけで呪文のような力を使うなど、あまりにも常識外れであった。

 

「あなた方の魔法や先住魔法とやらの事はよくは知りませんが、温存魔力特技というのはそういうものですよ。

 ……そもそも、思念だけで超常現象を起こす程度が、さほどに珍しい能力とも思えないのですが。

 この辺りでは、擬似呪文能力やサイオニック能力を使う種族はいないのですか?」

 

フェイルーンの常識では……、少なくとも、広い世界を見て回った冒険者の常識では、意志だけで発動できる超常能力はそう珍しいものではない。

魔法の使い手が後天的に温存魔力特技という形で取得する以外にも、生来そういった能力を備えている強力な生物は多々存在する。

人間にも、その手の能力を扱える生得の才能に恵まれた者が生まれることは稀にある。

 

しかし、ハルケギニアの3人の少女は困惑したように顔を見合わせては、首を横に振るばかりだった。

 

「………何よ、それ。そんなの聞いたことないわ。

 ギジジュモンだとかサイオニックだとか、一体何のことよ?」

「聞き覚えはないわね。

 コボルドの間で使われてる言葉……、ってわけでもなさそうよね、あなたが人間のメイジだったっていうんなら。

 そうなるとディー君とあなたって、一体どんな場所から来たのかしら?」

「私も知らない。気になる」

 

(……ふうむ)

 

来訪者や神格がいないだけでも驚きだが、思った以上に勝手が違う世界のようだ。

エンセリックはそう考えながら、さてこの3人に何から説明したものか、どこまで話していいものかと、若干うんざりした気分で思案し始めた。

どうやら、まだまだ話は長くなりそうだ。

 

まったく、元魔術師とはいえ今の自分は剣であって、こんなことを真剣に考えたところでそれが一体何になるだろう?

一切興味が湧いてこないといえば嘘にはなるが、今の自分の境遇を思い出すとどうしても憂鬱な、やさぐれた気分になってしまう。

ひとつ自分が役立つことを示してやろうかと思ってつい承諾したが、やはりあのコボルドに任せて引き篭もっていればよかったかもしれない。

なにやら彼が新しく買ってきた、あの喋る剣とゆっくり話もしてみたいことだし。

 

(――――しかし、まあ)

 

随分と華奢過ぎるというか、フェイルーンの人間とはえらく違った体型と顔立ちではあるが、それでも3人とも結構な美少女なのは間違いない。

それにこうして囲まれて話ができるのなら、面倒を我慢するくらいの役得はある、という見方もあろう。

今の自分には眺める以上の事ができないのが何とも残念だが……。

 

(余計なことを考えずに、もっとのんびりと楽しみながら説明してやるか。今の自分の境遇を愉しまんとな)

 

キュルケの胸の谷間を、剣であるがゆえに気付かれる心配もなくじっくりと眺めながら、エンセリックはそう気持ちを切り替えた。

 

「――――そうですねえ。

 ではまず、私のほうの質問にいくつか答えていただけますか?

 よりよい説明のためには、御嬢さん方の住んでおられるこのハルケギニアという場所についてもう少し知っておきたいので……」

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

「……なあ、亜人の坊主よお」

「―――ン? 何?」

「さっきからこんなところで俺をいじくり回したり、妙なモン引っ張り出して呪いみてえな事を始めたり……、

 邪魔しちゃ悪いと思って黙ってたが、一体全体何をしてやがんだ、おめえは」

「ああ、いや。ディーキンは、あんたにどんな力があるのかを調べようとしてるんだよ」

 

ディーキンは中庭のあまり目立たない、しかし見るに困らない程度には月明かりの当たる一角で、先程買ってもらったデルフを詳しく調べていた。

時間をかけて細かく叩いてみたり、こすってみたり、ひっくりかえしてあちこち虫眼鏡で子細に眺めてみたり。

とはいえ、ここまでの調査で判明したのは、デルフの表面に浮いている錆はいくらこすっても落ちないのでやはり偽装だろうと確信できたことくらいだった。

 

もちろん、並行して魔法的な調査も行っている。

デルフがいぶかしんだ奇妙な行動は、そのためのものだ。

この手の占術には、高価な焦点具や物質構成要素を用意した、時間のかかる儀式が欠かせないのである。

冒険者ならこの手の呪文は自分で唱えるよりマジックアイテムから発動することの方が多いが、その場合でも時間がかかることは変わらない。

結果が出るのには、もう少し時間がかかるだろう。

 

この呪文は発動後成果が出るまでの間に食事や睡眠などの日常活動を行っていても問題はないので、その間にこうして少しおしゃべりなどをしているわけだ。

 

「俺の力? うーん、そういわれると何かあった気もするんだが……。

 何せ六千年も生きてきたもんで、忘れた」

「フウン、六千年も? あんたはずいぶん、長生きなんだね」

 

六千年と言えば、長命なドラゴンでさえ何らかの手段で定命の枠を超えねば生きられないほどの長さだ。

フェイルーンでそれほど昔から存在しているのは、年古い強大なアンデッドや来訪者などの、ごく僅かな存在だけであろう。

それが本当なら、そして、この世界とフェイルーンとは過去には関係があったという、以前の考えが正しければ……。

彼は2つの世界の交流が断たれる前、もしくはその直後に、今では失われてしまった太古の技術によって作られたのかもしれない。

 

「ええと、じゃあ……、大昔の英雄のお話とかは、覚えてないの?

 あんたを持ってた人のこととかは?」

 

デルフリンガーはディーキンのやや期待を込めたその問いに対して、しばし考え込むように押し黙った。

 

「…………悪いが、もうあんまりよく覚えてねえな。

 最後にまともな使い手の手に納まれたのも、もう随分と昔のことなんでな」

「そうなの? ンー、それは、なんだか気の毒だね……。

 じゃあ、今ディーキンが調べてみてるので何かわかったら教えてあげるよ。そうしたら、思い出せるかもしれないでしょ?」

「そりゃあありがてえが……、調べるったって、なあ。

 俺をいじり回したり、そんな呪いみてえなことをしたりしてわかるような話でもねえだろ」

「フフン? ディーキンはそうでもないと思うの。賭けてもいいよ」

「そうかあ……? まあ、俺もそのうちまた何か思い出したら話してやるけどな……。

 まあ、とりあえずそんなことよりもだ、坊主」

 

デルフリンガーは、ひとつ咳払いをして、話題を変えた。

 

「うん……、何?」

「……俺の力がどうとか言う以前によ、そもそもおめえ、俺を買って、これからどうする気なんだ?

 そりゃあおめえが強えのは確かだし、なんか知らんが気になることもあったし、買うっていうから何となくついて来ちまったがよ……。

 剣として使われもしねえで、あれこれ調べ回して後は仕舞いっぱなしなんてのはご免だぜ。

 まさか、転売しようなんて腹でもねえだろうが……、おめえのそのナリで、何か俺を使う方策でもあんのか?」

「アア、そのことなんだけどね、」

 

ディーキンがデルフの疑問に答えようとした時、別の方から声がかけられる。

 

「――――先生、遅くなってすみません!」

 

声の方を見れば、シエスタが本塔の方からこちらへ小走りにやってくるところだった。

頬をほんのりと上気させ、息を切らせている所からすると、仕事が終わると同時に急いで駆けて来たのだろう。

 

「オオ、シエスタ、いらっしゃい。ディーキンもついさっき来たところだよ」

 

ディーキンは立ち上がると、小さな体をうーんと伸び上がらせるようにしながら、そちらに向かって大きく手を振った。

 

「んっ? ……なんだ、あの娘っ子はおめえの知り合いか?

 てめ、昼間の貴族の嬢ちゃんの3人組といい、トカゲの亜人の割にゃあ、やけに人間の娘っ子にモテてんな!」

「そうなの。イヒヒ、ディーキンはこう見えても人気のバードだからね!

 ちょうどよかったの。あの女の人はシエスタっていって、これからあんたを使ってもらおうと思ってるんだよ」

「ほう。………って、何だと!?」

 

 

「―――――ってことなんだよ」

 

ディーキンは、デルフリンガーを手に入れた経緯と、これをシエスタに稽古などで使ってほしい旨をかいつまんで説明した。

 

シエスタはといえば、ディーキンからの贈り物だというので、ぱあっと顔を輝かせたり。

かと思ったらそれが錆びた剣で、なんだか微妙な気分になったり。

しかし話を聞いて、それが本心から良かれと思って用意してくれた品物なのだとわかって気を取り直したり、していた。

 

「どう、シエスタ。この剣を使ってみてくれないかな?」

「その……、先生がそこまで気を使ってくださって、うれしいです。

 はい、私にうまく扱えるかはわかりませんけど、喜んで……」

 

「……ちょ、ちょっと待ておめーら! 勝手に決めんな!」

 

この流れにいささか面食らっていたのか、それまで黙って話を聞いていたデルフが慌てて割って入った。

 

「おいこら、坊主! 俺はおめーが買ったからついてきたんだぜ。

 そのメイドの娘っ子に使われるなんて話は聞いてねえ! つまらねえ使い手には、もううんざりしてんだ!」

「……え? あ、ええと、その、すみません……」

「ちょっとデルフ、それは聞き捨てならないの。

 シエスタは、きっとすごい英雄になれる人なんだよ!」

「そ、そんな! 私のような平民が、英雄になんて……」

 

デルフの文句と、それに対して恐縮するシエスタと、抗議するディーキン。

そしてディーキンの言葉に、ますます恐縮するシエスタ。

 

ひたすら恐縮し通しのシエスタの様子を見て、デルフはふてくされたような声を上げた。

 

「けっ、その縮こまったお行儀のよさそうな娘っ子が英雄になるだあ……?

 寝言いうんじゃねえよ、坊主!」

「ンー……、この辺ではそういう冗談が流行ってるの?

 ディーキンは別に、何も冗談はいってないの。

 ディーキンには見る目があるの。特に、英雄を見る目には自信があるんだ!」

 

ディーキンはそういって、得意気に胸を張った。

冗談を言っているような様子もなく、本当に自信満々でそう確信しているらしい。

 

「……ふん? まあいいぜ、俺も買われた手前があるし、そこまでいうんならちょいと試してみてやらあ。

 おい、そこの娘っ子!」

「え? ……あ、は、はいっ!?」

「畏まってねえで、俺をちょっと構えて、素振りしてみな。できるんなら、だけどな!」

 

どうしていいものか困った様子で畏まっていたシエスタは、デルフにそう指示されて、慌てて彼を掴み上げた。

そうして、やや不慣れな様子で緊張しながらも、真剣な面持ちでぐっと正眼に構え、数度、角度を変えながら素振りをする。

 

数千年の経験を蓄えた魔剣は、手に持たれた時に伝わってきた感覚や、その構え方、振り方などから、シエスタの力量を吟味していった。

 

「―――ほお、まったくの素人じゃあねえな? まだ若い割にゃあ、なかなかだぜ。

 坊主のいうことも、まるっきりデタラメってわけでもねえようだ」

「あ、いいえ、そんな、たいしたことはないですけど……。

 いえ、先生が嘘つきって訳じゃなくて……、ええと、その。あ、ありがとうございます」

 

構え方、振り方は、少なくともド素人のものではない。

真剣を手に持っている時のぐっと引き締まった気迫、精神性もなかなかに思える。

身体能力も見た目の割にはかなり高く、並みの男にひけは取らないだろう。

 

今でもそこらの二流三流の傭兵となら十分戦えそうだし、多少鍛えればすぐに、そんな連中よりもずっと上に行けるだろう。

頑張って鍛えれば、そして機会に恵まれれば、確かに英雄と呼ばれるような人物にもなり得るかもしれない。

 

―――しかし、だ。

 

「……まあ、ちょいと見損なってたってのは確かだがな。

 こう言っちゃ悪いが、だからといって別に、おどれーたってほどでもねえぜ。

 ましてや、そこの坊主と比べりゃあな」

 

先程武器屋でディーキンに持たれた時に彼から感じた、驚異的な身体能力、技量、魔力、そして潜在力。

 

それは、シエスタから感じるものとはまるで比較にならないほどだった。

シエスタはあくまでも常人の範疇では優秀だという程度であり、たとえて言うならばドラゴンと子猫の勝負といったところだ。

将来は優れた英雄になるとディーキンはいうが、見たところ彼自身も年齢的にはシエスタと大差ない程度であろう。

それでこれだけ能力の差があるのなら、将来性の面でもシエスタがディーキンに勝るとはデルフには思えなかった。

 

「おい坊主、やっぱり、………ん?

 待てよ、なんか魔力を感じるぞ。おめえ、実はメイジ……、いや、違うな。ただの人間じゃねえのか」

「えっ!? な、なんでわかったんですか?」

「俺はな、自分を使うやつのことは大体わかるんだよ。

 なんだか知らねえが人間以外の血が混じってやがるようだな、娘っ子。

 ……ハーフエルフ、じゃねえな。その坊主と同じ亜人の仲間、ってわけでもねえ。

 昔、おめえみてえな感じのやつに会った気がするんだがな―――」

 

「シエスタは、アアシマールなの」

 

ディーキンはちらりとシエスタに目を向けて話していいかどうか確認を取ると、なにやら考え込んでいるデルフに簡単に説明していった。

この世界の常識からみて天使の血が混じっているという話を信じるかどうかは疑問であったが、デルフは意外とすんなり納得したようだ。

 

「―――なるほど、天使の子孫か。最近はみねえが、何千年か前には確かにそんな連中がたまにいたような気がするな。

 ……まあ、あんまりよくは憶えてねえがな」

「フウン、やっぱり昔はディーキンのいたところとあんまり変わらなかったのかな。

 とにかく、チビのコボルドでも英雄になれるのなら、天使と人間の血を引いてるシエスタになれないはずはないの。

 だから、あんたを使うのに相応しくないなんて事はないの」

「……ふん。俺にゃあその娘っ子が、天使だろうが何だろうが関係ねえ。

 俺がその娘っ子に使われてやるかどうかってのは、英雄になれるのなれないのとはまた別の話だぜ?」

 

デルフは金具を鳴らして不機嫌そうな声を出すと、ディーキンの説得を突っぱねた。

 

とはいえ、もし武器屋の時点でディーキンではなくシエスタが自分を買おうとしていたのならば、おそらくデルフも承諾していただろう。

彼としては、ディーキンの武器になると思っていたところへ急にシエスタが出てきたのが、非常に気にいらないのだ。

これではまるで、英雄の武器になれると思っていたら、お付きの小姓に下げ渡されたようなものではないか。

 

無論、シエスタに使われなかったらディーキンに使ってもらえるのかといえば、それは体の大きさの関係上無理だろう。

だから最終的には折れざるを得ないだろうということはデルフだって分かっているが、とにかく気が乗らないのである。

まあ、簡単に言えば、ちょっとスネているのだ。

 

それにデルフがディーキンについていきたいと思ったのは、ただ単に彼が強いからというだけではない。

彼にかつての『使い手』に通じる何かを―――仮に、彼が使い手そのものではないとしても―――感じたから、というのもあった。

 

その『使い手』とはなんであるのかは、すっかり遠い記憶の彼方に霞んでしまって、デルフ自身も既によく覚えてはいない。

ただ、自分にとってそれがとても重要な存在だということだけは、はっきりと覚えている。

より正確には、武器屋でディーキンが自分を手に持った時に突然、思い出したのだ。

おそらく『使い手』は自分が作られた意義そのものに関わる存在であり、その存在に共鳴したのかもしれないとデルフは考えていた。

 

仮にシエスタが英雄と呼ぶに十分な実力を得たとしても、結局は彼女は『使い手』とは無関係な存在だ。

ディーキンと比べたら、デルフにとっての優先度は低いと言わざるを得ない。

 

困ったような顔で2人のやりとりを聞いていたシエスタが、おずおずと口を挟んだ。

 

「……あの、先生。その、デルフさんがおいやなのでしたら、私は無理には。

 訓練だけなら私の持っている武器でも、十分できますし……」

「ンー……、でも、シエスタに使ってもらう以外に、ディーキンにはデルフを使う当てはあんまりないの。

 ねえデルフ、あんたは『ガンダールヴ』の武器だったんでしょ?

 それが本当に、立派な英雄になれる人に使われもしないで、ホコリをかぶってる方がいいの?」

「へっ、そうよ! 俺はもともと『使い手』の武器さ。だからこそ、………?」

 

ディーキンのその発言に反射的に言い返し掛けたデルフが、急に何かに気付いたように喋るのを止めた。

そしてそのままぶつぶつと、何やら独り言を呟きながら考え込みはじめる。

 

「………『ガンダールヴ』だと? その名前は、どこかで………」

 

横で聞いていたシエスタが、きょとんとした顔になった。

 

「それって、もしかして“始祖”ブリミル様の使い魔の名前じゃないですか?」

 

それを聞いて、デルフがはっとしたように叫ぶ。

 

「――――お、……おお、そうだ! そうだぜ! 思い出した!!

 『ガンダールヴ』だ! あいつが『使い手』なんだ! 俺は昔、あいつに握られてたんだ!

 すっかり忘れてたぜ、なにせ今から六千年も昔の話だ!!」

 

シエスタは目を丸くして、わあ……、と感嘆の声を漏らした。

なにせ、伝説の中で語られるような人物が使っていた武器が目の前にあるというのだ。

正直今ひとつ実感が湧いてこない部分もあるが、そりゃあ多少なりと感動もしようというものだ。

 

一方ディーキンはといえば、楽しげににこにこしてはいるが、特に驚いた様子はない。

 

「オオ、昔のあんたの持ち主の事を思い出せたの? それは良かったの」

「ああ、懐かしいねえ。まったく、泣けてくるぜ……」

 

デルフはしばらく、しきりにうんうんと感動したり納得したりしていた。

しかし、ふと我に返ってディーキンに訝しげに問う。

 

「……けどよ、坊主。思い出させてくれたのはありがてえが……、おめえ、なんで俺が『ガンダールヴ』の武器だってことを知ってたんだ?

 もしかして、最初からそれに気が付いてたから俺を買ったのか?」

「イヤ、買った時は全然知らなかったの。そのことは今さっき知ったばっかりだよ」

「?? そりゃあ、一体どういう――――」

 

訳が分からないという様子で、不思議そうにディーキンを見つめるデルフとシエスタ。

 

ディーキンは2人の視線を意識して、得意げに背を伸ばすと悪戯っぽくにんまりと笑って見せた。

観衆を大いに驚嘆させ、喜ばせ、心地よい注目を浴びられたことを喜んでいるのだ。

それこそ、バードとしての本懐である。

 

「フフ~ン、聞きたい? じゃあ、ディーキンが歌にしてご披露するよ。

 それを聞いたら、デルフももっと思い出せるかもしれないしね」

 

ディーキンは2人に勿体ぶって御辞儀すると、荷物袋の中から竪琴を取りだし、手近の岩に腰かけて朗々と詩歌を吟じ始めた。

つい先程、完成した《伝説知識(レジェンド・ローア)》の呪文で判明したばかりのそれに、即興のアレンジを加えて仕立てたものを。

 

 

 

 

 遥けき古に、魔法を操る小さき小人あり

 彼女の名はガンダールヴ

 ひとつの魂を作り、刃に宿し、携えて、己が左手と定めたり

 

 彼女とその主とを護る、神の盾

 携えられし彼の名は、デルフリンガー

 

 この永き時を経て、錆びれた刃を見るがいい

 くすんだ輝きは、長の年月の間に役目を失い衰えた、その心魂を現すもの

 されど再び奮い立つ時が来れば、何千年を経ようとも、刃金は若き輝きを取り戻すだろう

 

 輝ける刃はあらゆる呪文を切り払い、魔法を奪い、蓄える

 その様、あたかもかの伝説の剣聖、カイエス=ナインタークが剣の妙技のごとくなり

 危機に際しては蓄えし力で主を操りて、その窮地を救うなり

 

 彼は触れし武器を識り、言葉を操り、携えし者の力をも悟る

 やがて宿りし鋼の砕ける時、かの魂は、新たな器を求めるであろう

 

 ………

 

 

 

 




レジェンド・ローア
Legend Lore /伝説知識
系統:占術; 4レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(250gp以上の価値のある香)、焦点具(正方形に組んだ、それぞれ50gpの価値がある4本の象牙の細片)
距離:自身
持続時間:本文参照
 この占術を用いれば、術者は知りたい重要な人物や場所、物品の伝説を心の中に浮かび上がらせることができる。
その伝説が今では忘れ去られているものであったり、一般に知られたことが一度もないものであったりしても問題はない。
ただし、その対象が伝説となり得るような重要性を持たないものであれば、術者が情報を得ることはできない。
術の発動中はずっと儀式や詠唱にかかりきりでいなければならないわけではなく、食事や睡眠などの日課程度ならばしていても構わない。
 大まかに言って、11レベル以上のキャラクターであれば十分に伝説的な人物であると見なされる。
そのような人物が戦ったクリーチャーや使った魔法のアイテム、偉業を成した場所なども、同様に伝説の対象と見なされる。
 術者が対象の噂を聞いたことがあるだけなら、術の発動には2d6週間かかり、得られる情報は曖昧で不完全な、言い伝え程度のものになる。
術者が対象の詳しい情報を知っているだけなら、術の発動には1d10日かかり、得られる情報はあまりピンポイントでも完璧でもないものになる。
それでも、それらの情報を手掛かりにさらに多くのものを見つけ出せば、次はより良い形でこの術を再発動することができるようになるだろう。
 術者が調べたい人物や物品、場所等のすぐ傍にいる状態であれば、術の発動には1d4×10分しかかからず、ごく詳細な情報を得られる。
対象が魔法の武器やアイテムなどであれば、おそらくはその能力や使用制限、機能を作動させる合言葉等も知ることができるだろう。
 なお、これはバードにとっては4レベルだが、ウィザードやソーサラーにとっては6レベルの呪文である。


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第三十一話 Sentient Golem

ここはトリステイン魔法学院、深夜の中庭。

 

「へえ、まさか、そんなにすごい剣だったとはね……。

 こりゃあの武器屋は一世一代の大損をしたわね、あっはは、可哀想!」

「……ガンダールヴの、剣? 本物?」

「そ、その……、デルフさんがそんなすごい剣なのでしたらやっぱり、私のような未熟者が使わせていただくわけには……」

「いやいや、別におめえが悪いってわけじゃねえぞ、娘っ子。

 けど、俺はやっぱり使い手のための剣なんだよ。

 そりゃあ、坊主だってガンダールヴそのものじゃあないのかも知れねえが、思い出した以上はなおさら……」

「そ、そんな話、疑わしいものだとは思うけど……。とにかく、それは私があんたに買ってあげた剣でしょ!?

 何で勝手に、そのメイドにあげようとしてんのよ!」

 

ディーキンが《伝説知識(レジェンド・ローア)》で得た情報を語り終えた後、デルフがまたいろいろと思い出して興奮して、情報を交換して。

途中から爆発魔法の検証のために外でちょっと実験をしてみようとやってきたルイズらと合流して、また情報を交換して……。

そうして今は、実験を一時棚上げしたルイズらも交えて、こうしてみんなで賑やかしく話し合っているというわけだ。

 

「オホン。……ええと、その。順番に話させてもらっていいかな?」

 

こうも頭数が増えててんでに意見を主張していては普通ならとても収拾などつきそうにもないが、そこは腕利きのバード。

ディーキンは騒ぐルイズや愚痴るデルフを巧みに宥め、どうにか落ち着いて話を聞いてくれる状態に持っていった。

 

まず、ルイズに関しては、彼女に相談せずに贈り物の処遇を決めようとしたことについては素直に謝り……。

その上で、デルフをシエスタに与えるわけではなく貸すだけなのだということを説明し……。

さらに、“デルフ自身の権利”についても言及した。

 

「アア、ルイズの気持ちを考えてなかったと思われたのは申し訳なかったと思うの、それは本当に反省してるよ……。

 ディーキンはこんな立派な剣を買ってもらえて、本当にすごく嬉しいの。

 だけどディーキンじゃデルフを使えないし、彼にも使われる権利があると思う」

 

次いでシエスタが自分に指導してほしいと頼んでくれたこと、それがとても嬉しかったことをうちあけ、彼女に対しても責任を持ちたいのだと訴える。

そのように彼女の良識や周囲の他の面々の感情に訴えるような頼み方をした結果、ルイズは結局、どうにか納得してくれた。

ディーキンにとっては、やはり彼女はちょっと拗ねやすいだけの素直で善良な女の子だった。

 

そうして彼女のほうをひとまず片付けたディーキンは、今度はデルフに対応する。

 

とはいえ、先にルイズを説得した時の話の流れで既にデルフをシエスタが使う空気ができあがっており。

さすがのデルフも、今更になって彼女にはどうあっても使われたくないとは主張しにくい雰囲気になっていた。

 

「そ、そりゃあ……、俺は剣だからな。

 使われてなんぼだし、坊主が俺のことを考えてくれてこの娘っ子に渡そうとした、ってのは嬉しいけどよ。

 ただ、その、なんつうかよ、俺はやっぱりガンダールヴの剣だしな……」

 

ディーキンがそれを狙っていたのかどうかはさておき、明らかに最初より弱腰である。

そこで、今度は穏やかに諭すような調子で説得を始めた。

 

インテリジェント・アイテムは、使用されることに同意していなければ、持ち主に反抗することもある。

そのような反抗は、しばしば致命的な結果をもたらす場合さえあるのだ。

だから、渋々ではなく、ちゃんとシエスタに使われることに十分納得してもらわなくてはならない。

 

「ねえデルフ、あんたは自分がガンダールヴのための剣だっていうけど……。

 確かに、はじめはそのために作られたのかもしれないけど、それはもう六千年も前のことなんでしょ?

 あんたには自分の心があるんだから、他の生き方を試してみてもいいんじゃないかと思うの」

「……へっ。そりゃ、六千年は俺にとっても長いけどな。

 貴族が名誉にこだわるみてえによ、モノにはモノなりの筋を通す生き方ってものがあるんでえ。

 俺は昔も今もガンダールヴの相棒さ、そいつは変わりようがねえことだぜ」

 

それを聞いたディーキンは、ひとつ頷くと、意味ありげな微笑みを浮かべた。

 

「ンー……、そうなのかもね。

 けど、ディーキンは前に、自分の生き方を変えようとしたゴーレムに会ったことがあるよ――」

 

物語や説話、時には自分自身が経験した冒険などを例に引いて相手を窘めるのは、多くのバードが得意とする手口だ。

ディーキンはリュートを爪弾きながら、詠うようにして、自身の体験談を皆に語り始めた……。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

話は、ディーキンがボスやヴァレン、ナシーラらと共に地下世界を旅していたときのことにさかのぼる。

ディーキンとボスは、ある時アンダーマウンテンの支配者ハラスターによって、広大な地下世界へと送り込まれてしまったのだ。

 

2人はそこで、強大で邪悪なドロウ(闇エルフ)の権力者、ヴァルシャレスに対抗しようとする、善きドロウたちと出会ったのである。

ヴァルシャレスは急激に力をつけており地上の支配をも目論んでいる、と聞いたボスは、彼らに協力してヴァルシャレスと戦う決意を固めた。

そのための戦力となる味方を求めて、2人はヴァレン、ナシーラといった新たな仲間たちと共に、アンダーダークのあちこちを訪れて回っていたのだ。

 

手がかりを追って訪れたある遺跡の奥で、一行はなんと、自らの意思を持つゴーレムたちが2つの勢力に分かれて戦い合っている現場に遭遇した。

 

それは奇妙な戦であった。

彼らは互いに激しく戦い合い、何体ものゴーレムが倒れていった。

しかし、双方の陣営は倒れた味方を収容しては修理して甦らせており、戦は永遠に終わらぬように見えた。

 

一行はやがて双方の陣営から自分たちに味方してこの戦いを終わらせてほしいと頼まれ、ようやくその奇妙な戦いの始まった事情を知ったのだった。

 

彼らは完全な生命体の創造を志した『造り手』と呼ばれる魔術師によって、遥か昔に生みだされたのだという。

完全な人造物ではなく考えることも感じることもできる、センティエント・ゴーレムと呼ばれる存在だ。

しかし彼らの造物主は五百年も前に遺跡の奥深くへと自ら姿を消したきり、今も戻ってきていなかった。

 

『造り手とはアルシガードという名の強力な、しかし有限の存在であるウィザードにほかなりません。

 彼はこの隔離された場所へ、完全な存在、完全なゴーレムを造るためにやって来た……、

 しかし、ご覧の通り私たちは、とても完璧とは言えません。おそらくはそれが理由で、造り手はゴーレムに見切りをつけたのかもしれません。

 最初の3世紀は私も他のゴーレムと同じく造り手の帰りを待っていたのですが、200年前、私はついに見捨てられたことを悟ったのです。

 ですが造り手を永遠の存在であり、神であると考えている他のゴーレムは、この明らかな事実に耳を貸そうとしません』

 

一方の勢力の長、ゴールデン・ゴーレムのフェロンはそう言った。

彼らは、造り手はとうに自分達を見捨てておりもう戻っては来ない、だから自分達はこの遺跡から出て新たな生き方を見つけるべきだと主張した。

そして同じ考えを持つ多くの仲間が、彼の下に集まっていた。

 

対してもう一方の勢力の長、デーモンフレッシュ・ゴーレムのアガーツは、造物主の命に逆らうことは叛逆に他ならぬと断言した。

ゴーレムはみなこの地に留まり、造り手によって任じられた高僧である自分の命令に従わなくてはならないというのだ。

 

『造り手はずっと昔、他のデュエルガー(灰色ドワーフ)の同族たちと共に暮らしていた。

 しかし、彼はその計り知れない知力によって自分の種族の欠点に気付いてしまい、それに嫌悪感を募らせたのだ。

 ついに彼は同族の下を去り、自然が成し得なかった完全体を造るためにこの人里離れた場所をみつけた……。

 私、並びにほかのゴーレムたちは、そんな彼の完全体への探求の成果なのだ。

 アルシガードは我々に命を与えてくれた。

 ゆえに我らは彼への感謝を示し、造り手の秘密を知る価値もない者どもから、彼の実験室を守らねばならない』

 

彼はそう主張し、センティエント・ゴーレムに自由意思を与えている造り手のアーティファクトをフェロンらに引き渡すことを拒んでいた。

それを手に入れない限り、彼らは遺跡を離れることはできないのだ。

アガーツの下にもまた、今でも忠実に命令を守り続けようとする多くのゴーレムが従っていた。

 

フェロンは、アガーツは暴君に過ぎず、造り手のためではなく自分の権力のために支配しているのだと非難した。

 

『造り手は私に何も言ってきません。

 彼は私を造ってくれましたが、しかし、私は私、一個人なのです。

 自分で選んだ道を自由に生きる権利があるのです、それをアガーツは認めようとしないのです。

 彼は自分を造り手の高僧だと主張していますが、実態はその権利を悪用しているただの暴君に過ぎないのです!』

 

対してアガーツは、造物主への恩義と彼から与えられた使命を忘れて好き勝手に生きようとするフェロンらは不徳の輩だといった。

 

『我々の社会は発展しないと言われるが、しかしそれは永久的なものなのだ。

 肉体のある命には限界があるが、我々の存在はその限界を超越している。

 造り手がここを去る時に彼は私を高僧に任命した、そして我々はここで待機するように命じられたのだ。

 ここを去るような命令も、造り手を探すような命令も受けていない。

 どうして彼に背く必要があろうか?

 我々は造り手の子供、アルシガードの忠実なしもべだ。5世紀が経とうとも、肉体のある生物のように信念が揺らいだりしない。

 フェロンはアルシガードに命を与えてもらったのにも関わらず、造り手への恩義を受け入れず、私の権威も認めない。

 今、我々は果てしない戦争をしているが、最後には我らが勝利するだろう。それが造り手の意志だ!』

 

アガーツは一行に、フェロンを討って不道徳な教えを一掃して欲しいと提案した。

フェロンは一行に、なんとかしてアガーツの持つ力の源を手に入れて自分たちを解放して欲しいと懇願した。

そしてどちらの陣営も、望みが叶えらえればヴァルシャレスとの戦いの際には力を貸そうと約束した。

 

どちらに味方をしても、自分たちの本来の目的である、ヴァルシャレスと戦うための戦力を得ることはできそうだった。

 

だが、果たしてどちらの味方をするのが正しい決断なのだろうか?

あるいは、それ以外の行動を取るべきなのか?

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

「………フェロンはね、こうも言ったの。

 自分たちは今よりもよくなろうとしているけど、そのためには自分たちの気質を改めなくてはいけない、って」

 

ディーキンはそこでちょっと視線を巡らし、最初は唐突な話を訝しげに聞いていた皆が、今や熱心にのめり込んでいるのを確認した。

そうして、誇らしげに胸を張る。

 

「ディーキンには彼のいうことがよくわかるの。

 ずっと前のディーキンはただのバカなコボルドだったけど、今は有名な冒険者で、有名なバードで、作家なの」

「……有名って、あんたが?」

 

ルイズがやや胡散臭そうな目をして聞き返した。

ディーキンにはそれに対して少しばかり不服そうな顔をして肩を竦めると、ちっちっと指を振って見せる。

 

「むっ……。やだなぁ、ルイズ。ディーキンはこうみえても、向こうじゃ少しは有名なんだよ。

 でも、今は別にそんなことが言いたいんじゃないの」

 

そこで一旦言葉を切ってデルフリンガーの方に向き直る。

 

「ウロコだらけのちっちゃなコボルドでも変われるってことは、おしゃべり金属のおっきいのだって変われる、ってことなの。

 ねえ、あんたはそう思わない、デルフ?」

「い、いや、そりゃまあ……、おめえの言いたいことは分かるけどよ。

 俺は別に、そいつらと違って、使い手に不満があるってわけでもねえし……」

「そうだね。でも、ディーキンが思うのは、あんたはただ、その使い手を待つだけじゃなくても―――」

 

と、話し込もうとしていたところへ、シエスタがおずおずと口を挟んだ。

 

「……あ、あの、すみません。

 その、フェロンさんとアガーツさんは、どうなったんですか?」

 

シエスタは話に横槍を入れてしまったことを恐縮そうにはしているが、続きが気になって仕方がないらしい。

見れば、他の面々の様子も概ね似たようなものだった。

高レベルバードの技量の高さと、実体験に基づく臨場感あふれる本物の冒険譚に、みな強く惹き込まれているようだった。

 

観客の希望を無下にするのもよくないので、ディーキンはデルフとの話をひとまず後回しにすることにした。

 

「アア、お待たせして申し訳ないの。

 ええと、その後はね―――」

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

一行の行動の決定権は、ボスにあった。

 

彼は双方の言い分を真剣に検討した上で、一時決断を保留した。

そして、この争いに何らかの決着をつけるための更なる手がかりを求めて、造り手が去ったという遺跡の奥を目指したのだった。

完全な存在を追い求めていたという古の魔術師、アルシガードの辿った運命を突き止めるために……。

 

その探索は、決して生易しいものではなかった。

道中にはアルシガードが遺した危険な罠や守護者が、次々と立ち塞がった。

それは500年もの間、遺跡への侵入者たちも、そして上層部に残った彼の忠実なゴーレムたちも、突破することのできなかった障害だった。

 

だが、一行は傷つきながらも罠を踏み越え、最も強大なミスラル・ゴーレムの守護者をも打ち砕いた。

そしてついに、遺跡の最深部へと辿り着いたのだ。

 

そこで見つけたのは多くの貴重な呪文書の収められた書棚や複雑な実験装置の類などが並べられた研究室と、『造り手』アルシガード本人であった。

アルシガードはなんと、まだ存在していたのだった。

強大で忌まわしいアンデッドである、デミリッチと化して。

 

一行はその悪しき存在に対する嫌悪感を押さえて彼と言葉を交わし、様々な事を聞き出そうとした。

彼が完全な存在を追い求めた理由は何か、ゴーレムにそれを見出そうとした理由は何か。

そしてゴーレムたちを捨てて、デミリッチとなったのは何故か―――。

 

アルシガードは心の中に直接響く禍々しい声で、しかし意外なほど素直に、それらの質問に答えてくれた。

 

『全ての生物は……、お前たちも、私の子供たちでさえそうであるように、欠陥品なのだ。

 遥か昔に、私は肉体の弱点を学んだ。

 友人や家族は、おまえを裏切るだろう。だがそれは、彼らのせいではない。

 それは、完全を求める肉体の弱点なのだ。私はそれを理解した時、完璧な生物を造り出すことを誓った。

 欠点なく造られた人造物には、不完全な生き物にはできないことができる。それゆえに私は、ゴーレムという子供たちを造ったのだ』

 

彼は自分の技術に完璧さを追求し、一切の妥協をしなかった。

そしてついに、彼は心と意志の自由を持つ、単なる人造物ではない生物としてのゴーレムを造り上げた。

 

しかし、そのゴーレムたちでさえも完璧ではないことに、彼はやがて気が付いた。

 

ゴーレムたちは生物のように知性や自己認識能力を持ってはいたが、学習や成長は見られなかったのだ。

しかも彼らは素材となった石や鉄のごとく頑なで、社会を形成させようと試みてみても、独立した個体としてしか行動しなかった。

相互関係を構築したり仲間意識をもつことがなかったのだ。

彼らは結局、主人と従者の概念しかもちあわせておらず、生物を生物たらしめる事項をこなせなかった。

 

『ゴーレムたちは明らかに、疑問と恐怖を抱いていた。彼らは変わることを恐れ、進化することを恐れていた。

 私が与えた意志の自由が、強さではなく欠点となってしまった。他の生物と同じように、彼らもやはり欠陥品だったのだ』

 

そしてある時、アルシガードはふと考えた。

 

あるいは―――自分がいることが、彼らの成長の足かせとなっているのではないか。

自分が干渉しなければ、彼らは自らの性質の限界を乗り越えて、社会らしきものを生み出すかもしれない。

 

『………今思えば、私は彼らを破壊すべきだった。

 だが、私もまた不完全な者だった。

 愛着という感情が私の考えを曇らせ、自分をそのようにごまかさせた。

 そうして私は、子供たちを生かしたまま、彼らからただ去ることにしたのだ―――』

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

途中で、デミリッチとは何か、アンデッドというのは――といったような質問を度々挟んできたルイズやタバサに簡単に解説しながら、そこまで語り終える。

そうして、ディーキンは小さく溜息を吐いた。

 

「……アルシガードは悪い人で、ただの浮かぶガイコツだったけどね。

 彼も自分のゴーレムが大事で、だからこそ自分から離れることで変わって欲しかったんだって。

 ディーキンも、もし前のご主人様がディーキンの事をそんなふうに気遣ってくれてたら、すごく嬉しいって思うの」

 

ディーキンは、旅立つ時に以前の主人、ホワイトドラゴンのタイモファラールが返してくれた人形の事を思い出していた。

 

今でも荷物袋の奥に大事にしまってあるそれは、麻布に乾燥した干草などを詰めて作られた、とても粗末で小さな人形だ。

非常に磨り減っていてそこかしこで破れてしまっているが、昔のディーキンにとっては非常に大切なものだった。

 

ボスがタイモファラールから預かったといってその人形を差し出したときに、ディーキンは主人が自分を解放したことを知ったのだ。

彼はさして執着した様子もなく、幾ばくかの金銭と引き換えに、溜息をひとつはいただけでディーキンを解放したという。

しかし、返された人形には小さな布切れが付けられており、そこにかすかな文字でメッセージが記されていた。

 

『若きものよ、そちの夢を追うがよい、幸運を。 ……T』

 

タイモファラールは万事に無関心で皮肉っぽく、短気で乱暴な悪いドラゴンだ。

自分も何度も痛い思いや恐ろしい思いをさせられたし、決していい主人ではなかったのだろうけど。

それでも彼からは様々なことを学んで感謝しているし、自分の事を少しは案じてくれていたのだろうと信じている。

 

当時はようやく得た自由がただ嬉しくて、それに夢中で、気が付いたのは随分と後になってからだったのだが。

 

フェロンたちは、最終的には自由になれた。

彼らはついに自由を得たことだけがただ嬉しくて、造り手の運命など気にもならなかったようだったけれど。

いつかは創造主の思いも理解するだろう。

 

ディーキンはそう信じている、何故なら自分自身もそうだったから。

 

「ディーキンはね、使い手とかブリミルとかいうのが、どんな人たちだったかは知らないけど……。

 でもあんたがずっと新しい使い手が来てくれるのを待つっていうくらいだから、いい人だったんでしょ?

 なら、きっとデルフがずっと待ち続けるより、新しい生き方を見つけることのほうが喜んでくれるはずだと思うの」

 

そうして、物語を交えながらの交渉を今しばらく続ける。

 

デルフが、使い手の元に戻ることをいつまでも切望してはいるけれど、シエスタを試してみて、よければしばらく使われてみてもいい……、

ということを承諾してくれるまで、もうそう長くはかからなかった。

 

 

「それで、ええと……。その後は、どうなったのですか?」

 

デルフとの話が一通りまとまった後で、シエスタがデルフを背負いながらそういって話の続きをせがんだ。

最初は腰に差そうとしたが、どうにも刀身が長すぎて収まりが悪く、背負うしかなかったのだ。

メイドの仕事をするときにまさか剣を背負ったままというわけにもいかないから、普段は部屋に置いておくことになるだろう。

 

デルフはいつも持ち歩いてもらえないのかと若干不満そうだったが、まあエンセリックと一緒にしておけば、話し相手もできてお互いに退屈はするまい。

 

「ン? アア、その後は、あんまり楽しい話じゃないよ。

 今は必要ないし、またいつか機会があったら話すの。それより、まだ他の用事があるからそれを終わらせないとね。

 後回しになったけど、ルイズはここに、自分の魔法を調べる実験に来たんでしょ?」

 

ディーキンはその後の物語の顛末をしみじみと心に思い浮かべながらも、彼女らにはまだ話さないことにした。

いろいろと思うところがあるし、必ずしも明るい話というわけでもないからだ。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

―――アルシガードの話の中には、あるいは歪んだものかもしれないが、自分の創造物に対する愛情が確かに感じられた。

 

ボスは彼を憐れみ、ゴーレムたちが彼の望んだとおり、数百年の時をかけて今、ようやく変わろうとしているということを伝えた。

そしてアルシガードに、彼らの下に戻って争いを収めてくれるように、と提案した。

 

だが哀しいかな、デミリッチと化したアルシガードは既に、昔の心を持ち合わせてはいなかったのだ。

 

『ゴーレムの失敗は私に原因があった。私の肉体自身が欠陥だったのだ。

 弱く、年老いた不完全な造り手に、どうして完璧な生物など造れるものか?

 脆弱な肉体を捨て去り、デミリッチになると、私の考えを曇らせていたものはなくなった。

 私の子供たちは失敗作だ、私は何を施すべきだったのか本当に理解する前に、彼らを造ってしまった。

 私の研究は既に最終段階に入っているが、いかに変わろうと彼らは絶対に完全体にはなれない。だからこそ、彼らを破壊した方がいいのだ』

 

アルシガードは最終的に、この話は時間の無駄だったと言い切った。

話に応じたのは自分が不完全な生物だったときの悲しい名残に過ぎず、そこには何の目的もない、と。

そして彼は、話を打ち切り、それ以上の一切の交渉を拒否して襲い掛かってきた。

 

その闘いは、それまでに一行が経験した数々の戦いの中でも有数の熾烈さだった。

デミリッチの肉体は頭蓋骨のみで物理的にはほぼ無力だが、並みのリッチを遥かに凌ぐ常軌を逸した魔力を備えている。

全員が限界まで力を出し切って戦い、最終的に勝利を収めた時には、持てる力の殆どを使い果たしてしまっていた。

 

虚しい勝利ではあったが、その死闘の見返りとして彼の研究室の中の数々のマジックアイテムと、ゴーレムの製造装置とを手にすることができた。

そうして一行は事の顛末を『造り手の子供たち』に伝えるべく、しばし休息を取った後来た道を引き返したのだった。

 

フェロンは造り手が死んだことを聞くと大きな溜息を吐き、ごくあっさりとその事実を受け容れた。

彼はさして悲しんではいないようだったが、あまり喜んでもいなかった。

 

『教えてくださったことには感謝します。

 ですが、造り手が死んでも状況は何も変わりません。

 アガーツは決してそのことを認めないでしょう、造り手の死は彼の権力の終わりを意味するのですから』

 

果たして、その通りだった。

 

アガーツは造り手が死んだと聞くと首を振り、造り手は永遠の存在であり神である、そのような考えは神に対する冒涜だといった。

ボスは造り手の死が事実であり、自分がこの手で葬ったのだということを、非難されることを覚悟の上で強く断言した。

 

しかし、それを聞くとアガーツは唇を歪めて、ボスの耳元でこうささやいた。

 

『―――いいか、私は造り手の高僧だ。もし彼が死ねば、私の権力の資格も彼と共に死ぬ。

 私は造り手が戻ってくるまでの間、ここを支配するように指示されたのだ。

 造り手が死ぬはずはないが、もし造り手が二度と戻ってこないならば、私の支配も永遠に続くことになる。

 信仰とは壊れやすいものだ、私はそれを壊そうとする者から守らなくてはならん。フェロンのような輩からな。

 ……わかるか?』

 

その言葉で、一行はアガーツの真意とその正体を、ようやく確信することができた。

 

彼は決して造り手を盲信するだけの人造物などではなく、フェロンにも劣らず、自分の意志に溢れた生物だったのだ。

ただ、その意志が利己的なものだったというだけのことだ。

フェロンの言うとおり、彼はただ自分のためだけにこの地に留まり、造り手の命令を利用して権力の座に居座り続けることを選んでいたのだった。

 

アガーツはボスが自分の言葉の裏を察して、手にした情報を伏せておいてくれることを願ったのだろう。

だが、彼が卑劣な暴君であるとわかった以上、パラディンであるボスがその企みに手を貸すはずがない。

ボスがきっぱりと要求を拒み、フェロンの要求に従うべきだと告げると、アガーツは激高した。

彼は永遠なる造り手の名にかけてこの異端者どもを殺せと配下のゴーレムたちに命じ、一行に襲い掛かってきた。

 

だがそれは、愚かな選択だった。

 

造り手の残した最強の守護者も、造り手自身すらも退けた一行にとって、アガーツやその配下のゴーレムたちなどは既に敵ではなかった。

結局、アガーツは自分の選んだ行動で、自分の運命を絶ってしまったのだ。

一行は暫しの戦いの後にさして危なげもなく彼らを殲滅すると、奪取した力の源をフェロンの下へ届けた。

 

この一連の出来事は必ずしも後味のよいものではなく、ボスもこの冒険をあまり成功とも名誉とも思っていないようだった。

造り手やアガーツ、そしてアガーツに従う数多くのゴーレムたちを結局救えず、破壊せざるを得なかったのだから。

しかし、それによってフェロンたちが念願の自由を手にし、地上支配を目論むヴァルシャレスに抵抗するための戦力が得られたのもまた確かなことだった。

 

フェロンたちは、ついに自由を得たことを喜んでいた。

彼は、自分たちは旅立ちを決意するのにさえ500年の時を要した、実際に準備を整えて旅立つにはさらに長い時間がかかるだろうと言っていた。

それは、人間の視点から見れば停滞しているとしか見えないかもしれない。

しかし、彼らが自分たちなりに、確かに進歩しようとしていることを、ディーキンは知っている。

 

ディーキンはいつか、この冒険をボスやフェロンを中心として、一冊の本に詳しくまとめるつもりでいる……。

 




D&D世界におけるゴーレム:
 D&Dのゴーレムはハルケギニアの同名の人造とは違い、呪文ひとつですぐに作成できるというようなものではない。
高価な費用と時間と労力とを費やして組み立てた素体に様々な魔法を掛け、地の元素界から来た霊を封じ込めることによって作られる。
素材の違いによって分類される様々な種類のゴーレムが存在し、一旦作られたゴーレムは破壊されない限り永続的に存在し続けられる。
 最もよく使われる素材は鉄、石、粘土、屍肉だが、その他の金属や宝石などのより変わった素材から作られたものも稀にある。
ハルケギニアでしばしば見られるような巨大なものは一般的ではなく、大きさは大抵身の丈3m弱程度である。
だが、殆どの魔法や超常能力に対して完全な耐性を有しており、かつ物理的な打撃に対しても強く、種類によって差はあるがいずれも大変に強力である。
 一般的にゴーレムは精神を持たず作成者の命令に完全に忠実であるため、戦い方は単純で自ら戦略や戦術を組み立てることはできない。
作中で言及されているセンティエント・ゴーレムは、自ら思考する能力を持つ特殊な存在である。

リッチ/デミリッチ:
 リッチとは、強力な呪文の使い手が自ら望んで変じたアンデッド(かつては生きていた者が歪んで甦った、生ける屍や幽霊のような存在)である。
古びた豪奢な装束を身に纏っているが、体は痩せ衰えて萎びた肉が張り付いた骸骨のようで、眼窩には赤い光が燈ったおぞましい姿をしている。
しかし、その痩せ衰えた外観にもかかわらず肉体的にも強靭で、優れた知力と魔力を備え、触れただけで生者を麻痺させる力を有している。
また、その生命力の精髄を抽出して封じた経箱を破壊しない限り、倒されても数日後には再び甦ってしまう。
ヴァンパイアと並んで知性を持つ強大なアンデッドの代表格ともいうべき存在であり、真の英雄でもなければ歯が立たない。
 デミリッチはリッチの中でも強大な者が更に変成した存在で、肉体は頭蓋骨しか残っていないにもかかわらず、並みのリッチを遥かに凌ぐ力を有する。
それを打倒し得るのは、壮大な叙事詩や神話に名が残るほどの力を持つ英雄の中の英雄だけである。
 D&Dにおいてリッチは人気の高いモンスターであり、デミリッチのほかにも様々な変わったバリエーションがある。
ドラコリッチ(ドラゴンのリッチ)、アルフーン(マインド・フレイヤーのリッチ)、バエルノーン(エルフのリッチ)などがその一例である。


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第三十二話 Inspire Competence

デルフとの話もまとまって一段落したあたりで、いよいよディーキンとエンセリックによるルイズの爆発の検証実験が始まった。

 

「それでははじめますか。御嬢さん、まずは適当に何種類かの呪文を唱えてみてください。

 ああ、目標にするのはそこらの岩とか、何でも構いませんよ」

 

まず最初に、ルイズに普段通りにいくつか呪文を唱えてもらい、それによって起こる爆発に試みた呪文の違いによって差異があるかどうかを確認していく。

結果はコモンスペルからスクウェアスペルまでどれも同じで、属性による差異も認められなかった。

 

次に、では立てつづけに呪文を唱えたことで疲労や消耗を感じているか、とルイズに問う。

その返答は、取り立てて疲れたとは感じない、というものだった。

 

「―――ふむ、おおむね推測していた通りです。

 やはりこれは、明らかに呪文ではありませんね。実際に見て確信ができました」

「そうだね、ディーキンもそう思うの」

 

納得がいった様子のディーキンとエンセリックに、対照的に不服そうな様子のルイズが詰め寄った。

 

「な、何であんたたちに、ちょっと見ただけでそんなことがはっきり分かるっていうのよ?

 私の家族も先生方も、みんなこれは呪文の失敗だって言ってるのよ?」

 

勿論、2人がそう考えるに至った理由は、既に部屋でエンセリックから大まかに聞いてはいる。

そのような能力を持つ存在は、彼らの故郷では然程珍しいものではないということも。

ルイズはその驚きに満ちた話に半ば圧倒されたからこそ、言われるがまま実験をしてみようということに同意してここまでやってきたのだ。

 

しかし少し冷静になってみれば、いきなり言われて頭からすべて信じられるというような話ではなかった。

何よりも、これまで呪文を唱えて失敗しているとばかり思っていたものが実は呪文ですらなかったと言われては異を唱えたくもなろう。

 

そこへ静観していたタバサとキュルケも口を挟んだ。

 

「彼女に特別な力があるかどうかは別。でも、私もこれは呪文だと思う」

「そうよね。ルイズが呪文を唱えて、それによって魔力が解放されて爆発を起こした。

 詠唱も私の聞く限りでは正確だったわ。

 なぜ爆発したのかはわからないけれど、何かの理由による呪文の失敗だって考えるのが普通じゃない?」

「いいえ、そうは思いません。

 爆発が起こっている以上は何らかの超常能力、あなた方の言い方に習えば魔力を解放しているはずだというのは、もちろんその通りです。

 しかしそれが呪文だと言う点については、明らかに誤りですね」

「……それは、何故?」

 

エンセリックの断定に首を捻るタバサらに、今度はディーキンも参加して説明していく。

 

「ええと、まず……、どんな呪文を唱えても必ず爆発する、っていうのがひとつだね。

 もし呪文の失敗だとしたら普通は何も起こらないか、呪文の構成によって起こることが違うかでしょ。

 必ず爆発するってことは、それは失敗じゃなくて……、ええと、つまり。

 そういう仕組みで、それが正しく働いてるってことだと思うの」

「その通り。御嬢さんの唱えた呪文は、実は単に失敗して何も起こっていないだけです。

 爆発が起こっているのは、使おうとしている呪文が何であるとか、そういったようなこととは無関係な現象なのですよ。

 関係があるのは、あなたが何かを―――あなたの狙いとしては呪文を―――起こそうとして、それに精神を集中させている、ということです」

 

例えて言うならば、1レベルのウィザードが9レベルの呪文を唱えようとしているようなものだろう。

それではいくら詠唱が正確でも、なにも起きないに決まっている。

いや、むしろクレリックがウィザード呪文を唱えようとしているようなものだという方が正確かもしれない。

どれほどそのクレリックに強い力があったとしても、使おうとしている力の種類が自分に合っていない、ということなのだ。

 

しかし、ルイズのどうしても呪文を使いたいという強い一念が、温存魔力特技、もしくはそれに類似した何らかの超常能力を発現させた。

それが彼女の呪文の失敗で起こる爆発の正体だ、というのが、エンセリックが推測し、ディーキンが肯定した結論であった。

 

「先程部屋でお話ししていた時にもおおよそは説明したはずでしょう?

 あなた方の常識に反することであるのならなかなか受け入れがたいというのはわかりますがね。

 ……まあとにかく、推測をいつまでも続けるよりも試してみる方が確実ですよ。

 さあ御嬢さん、早くやってみてくれませんか?」

 

エンセリックがそう促すも、ルイズは明らかに躊躇していた。

 

「で、でも。杖を置いて……、しかもわざと爆発を起こす気でやれだなんて……」

 

「ええと、ルイズ、もしかしてどうやったらいいかで悩んでるの?

 ディーキンはあんまり詳しくはないけど、たぶん呪文を唱える時と同じような感じで集中して、頭の中で杖を振るつもりでやればいいと思うの」

「そうですね、彼の言うとおりでしょう。

 ひとつ補足するなら、呪文を唱えるようなつもりでといっても実際に口や体を動かすのは駄目です。

 呪文を唱えるのとまったく同じにしては、杖がないとできるはずがないという先入観が先立ちますからきっと上手くいかないでしょう。

 上手くやれるようになったら、カモフラージュのために普段は杖を振って適当な呪文を唱えるようにするというのはアリでしょうがね」

 

2人がそう助言するも、ルイズは顔をしかめて俯いたままだ。

ややあって、小さく首を横に振った。

 

「………無理よ。できないわ」

 

ディーキンは首を傾げると、とことことルイズの傍に近寄って顔を覗き込んだ。

 

「ンー……、ディーキンは、そんなことはないと思うの。

 ねえ、ルイズは今までずっと呪文ができなくても諦めなかったんでしょ?

 なのにどうして、今はやりたくないの?」

 

ルイズは僅かに頬を染めると、やや不躾とも思えるその質問には答えずにむっつりと押し黙ったまま、ディーキンの視線を避けるように顔を反らした。

が、ディーキンはじいっと問いかけるようにルイズの顔を見つめたままで、離れようとしない。

 

ややあって、ルイズは観念したようにぽつぽつと自分の心情を告白していった。

 

「……だって。私は、普通の呪文も、コモンルーンさえ何ひとつできないのよ?

 そんな特別な力なんて、あるはずがないもの……。

 今さらそんな自惚れたようなこと、恥ずかしくて試す気にもなれないわ。それに………」

「それに?」

「そ、それに……、そんな吸血鬼みたいな力を自分が持っているなんて、本当だとしても嬉しくないわ。

 私はそんな、わけのわからない力が欲しいわけじゃないの。

 ただ、一人前の……、普通のメイジになりたいっていうだけなのよ」

 

ルイズは先程、部屋でエンセリックから呪文以外の超常能力について、簡単な説明を受けていた。

詠唱も身振りもなく超常の力を発揮する生物が、ディーキンやエンセリックの故郷であるフェイルーンという場所には大勢いる、というのだ。

例えば、睨んだだけで犠牲者を石化したり、発火させたり、殺したりできる生物や、念じただけで対峙した相手の思考を読みとれる生物など。

 

驚くべき話ではあったが、自分の既知の知識に当てはめてみて、それらはある種の危険な幻獣や妖魔の類なのだろうとルイズは理解した。

 

ハルケギニアにも、呪文とはまた違う生来の超常の力を備えた生物は若干存在している。

例えば血を吸って殺した犠牲者に先住の水の力で偽りの命を吹き込み、グールと呼ばれる魔物に変えて操る吸血鬼などがそうだ。

 

つまり、ルイズの認識ではそれは、人間に敵対する忌まわしい魔物の持つ力なのだ。

そのような力が自分に備わっていると証明したところで、ルイズが願う、普通に呪文を使える一人前のメイジになれるわけでもない。

それどころか、自分を異端のバケモノのような存在だと証明するようなものだ。

そんな実験に気乗りするわけがなかった。

 

「ふうん?」

 

ディーキンはそれを聞いてしばらく考え込んでいたが、やがて、おもむろにルイズの顔の前でパンパン、と手を叩いた。

そうして彼女の注意を惹くと、小さく咳払いをする。

 

「オホン。……ルイズ、ディーキンは……、ええと、おおよそ……、大体……、

 アー、約2つか3つか……、つまり、いくつかの点から、その意見には反対なの」

「反対って……、何よ、それは?」

 

ディーキンはぴっと指を立てて、説明を始めた。

 

「まず……、ルイズの爆発は呪文じゃないとしても、ルイズが何ひとつ呪文を使えないっていうのは、明らかに間違ってるの。

 ディーキンは、ルイズに召喚されたからここにいるんだよ。忘れたの?」

「そ、そりゃ、まあ、そうだけど……。

 けど、あの後も一向に他の呪文は使えるようにならないし……」

 

もごもごと口篭もるルイズに、続けてもう一本指を立ててみせる。

 

「二つめに……、ルイズは吸血鬼みたいな力っていったけど、超常能力は何も悪い生き物だけが持ってる力ってわけじゃないの」

「……そんなこと言ったって……、吸血鬼じゃなかったら、何だっていうのよ。

 どっちにしろそれは、人間じゃなくて、化け物の力じゃないの」

「ンー? そんな事もないの。たとえば……、そうだね……」

 

ディーキンはそこで、ちょっと躊躇いがちに、問いかけるような目でシエスタの方に視線を送った。

 

「? ………あ、」

 

シエスタはディーキンから視線を送られてしばらく不思議そうにしていたが、やがて何かに気が付いたような声を漏らすと、微笑んで小さく頷き返した。

そうして、ゆっくりとルイズの方へ歩み寄る。

 

「あの、ミス・ヴァリエール。僭越ながら……、」

「……? 何よ」

「先程からお話は伺っておりましたが、それでは。

 ……ミス・ヴァリエールは、私を見て、化け物だと思われますか?」

「はあ……?」

 

ルイズは、それを聞くと訝しげに眉根を寄せた。

 

「……何言ってるのよ。あんたはただの、平民でしょう。

 そりゃ昨日ギーシュに勝ったのには驚いたし、大したものだとは思うけど、あのくらいで化け物だなんて言えるもんじゃないわよ」

 

平民でもメイジに勝つほどの高い技量を持つ、メイジ殺しという優秀な戦士の例もないわけではない。

ましてギーシュは、まだ勉学中の半人前の学生メイジであり、ランクも最下級のドットだ。

もちろん、それでも平民が勝つというのは並大抵のことではなく、驚きもしたし、感心もした。

戦士だというわけでもないのにあれだけの腕前というのは、大したものだと思った。

 

が……、まあ言ってしまえば、ただそれだけのことだ。

化け物扱いするほどに異常なことというわけではない。

 

「いえ、先日あのお方に勝てたのは、私の力ではありません。ただ……。

 私にも、その、少しだけですが……、呪文を唱えずに魔法のような力を使うことができるとしたら、どうでしょうか?」

「え?」

 

思いがけぬ話にきょとんとしているルイズらの見つめる前で、シエスタはひとつ深呼吸をして雑念を払い、精神を集中していく。

自分自身の内側を覗き込み、生まれた時からその身に宿っている、ささやかな天上の力に触れるために。

 

シエスタは自分の血筋から来るこの力に誇りを持ってはいたが、それを他人の前で見せびらかしたいと思ったことはない。

無闇に力を誇示などして傲慢の罪に塗れたくはないし、それに人外の力を持つ亜人や異端者の類だと思われれば迫害さえされかねないのだから。

だが、シエスタはこの場にいる3人の貴族が、短慮に人を迫害するような人物でないことを知っている。

それに何よりも、ディーキンが傍にいてくれている。

自分の力を示すことで多少なりともルイズにとって慰めとなり、彼女を奮い立たせる役に立つのならば、パラディンとしてそれを躊躇する理由はない。

 

数秒と経たぬうちにシエスタの意識は自身の魂の内から溢れ出る天上の輝きに触れ、それを外界へと解き放つ準備が整った。

そうして、光源とするために足元に落ちている小石をゆっくりと拾い上げ、ルイズの前に差し出す。

 

「ちょっとあんた、さっきからいったい何をわけの、――――――!?」

 

ルイズが言いかけた文句は、差し出された小石から急に放たれた眩い輝きによって遮られた。

 

それは、タバサが夜分ということで杖の先に灯していたライトの呪文の小さな光が、まるで問題にならないほどの光量だった。

深夜であるにもかかわらず、小石の周囲数十メイルの範囲がたちまちのうちに、真昼のように明るく照らし出される。

 

「な、何よ、これって………、」

「平民が魔法を……!? せ、先住魔法とか?」

「……違う。呪文は唱えてなかった」

 

一様に驚いた様子のメイジたちを見つめながら、残る一人と2振りとはひそひそと話に興じていた。

 

(ふうむ。メイジともあろうものがアアシマールの生得能力程度でこれほど驚くとは、やはり相当に我々の世界とはかけ離れた異界のようですね)

(ンー、でもディーキンの呪文はここでもみんな普通に使えたよ? 案外近いかも知れないの)

(おお、そういやあ天使の血を引く連中はこんなことができるんだっけな。よくは覚えてねーが、なんとなく懐かしいぜ)

 

それからややあって、シエスタに対するメイジ3人の質問攻めが始まった。

 

途中ディーキンやエンセリックが助け舟を出したり、たまにデルフが昔の事を思い出して口を挟んだりしながら。

シエスタは祖先から天使の血を引いている、アアシマールと呼ばれる混血の人間なのだ、ということをどうにかルイズらに説明していった。

 

「い、いきなり天使とか言われても……、そりゃ、何か凄い力を持ってるのは確かだし、あんたたちを疑う気もないけど、でも……」

「そうね、いきなりそんな突拍子もない事を言われてもにわかには信じがたいわ。

 亜人の血を引いているとか言われた方が、まだ説得力があるわね」

「……天使……?」

 

ハルケギニアの若きメイジたちは、その説明を聞いても半信半疑といった様子だった。

まあ、それは無理もないことである

ここでは天使などというのは御伽噺か、さもなければ始祖ブリミル等にまつわる神話の中の存在なのだから。

 

ルイズはディーキンやシエスタが嘘をついているとは思わないものの、天使の血を引く人間が目の前にいるなどといわれてもどうにも実感が湧かなかった。

キュルケはシエスタは実は翼人か何かの、天使だと誤認されてもおかしくないような姿をした亜人の子孫なのではないかと考えていた。

そしてタバサはというと、首を傾げながらシエスタとルイズとをしばらくじろじろと見つめていた。やがて、ぽつりと呟く。

 

「……似てない」

 

ディーキンは3人の様子を見ると肩を竦めて、ちっちっと指を振って見せた。

 

「別にディーキンは、ルイズもシエスタみたいに天使の血を引いてるって思ってるわけじゃないよ。

 ただ、そういう力を持ってるのが吸血鬼とか、そういう悪そうな生き物だけじゃないっていうことを言いたかっただけなの。

 きらきらした天使だっておんなじような力を持ってるって思えば、そんなに嫌じゃないって思わない?

 ね、ルイズは是非やってみるべきなの。どう?」

 

シエスタはそれを聞いて力強く頷くと、自分もルイズを励まそうとするように声を掛ける。

 

「その、ミス・ヴァリエール。差し出がましい事だとは思いますが……、

 貴族の方々は皆、その血筋と祖先から受け継がれた魔法の力に強い誇りをお持ちで、それは素晴らしい事だと思います。

 私も平民とはいえ祖先の血筋とささやかながら受け継いだこの力には誇りを持っております。

 呪文ではない力をお持ちであるというのなら、それが受け継いだものであれ努力して身に付けられたものであれ、もっと誇られてよいと思いますわ」

 

そして、2振りの剣も。

 

「コボルド君や侍女の御嬢さんも気を使ってくれているようですし……、私も今や剣の身の上なのを我慢して、魔術師として考えたのですからね。

 今さら少しばかり試してみるだけのことを、いつまでも嫌だなどとは言い張らないで下さいよ、御嬢さん」

「まあそこのエン公の言うとおりだな、娘っ子。俺もおめえも、嫌だろうが何だろうがなるようにしかならねえんだしよ。

 おめえにそんな力があるもんかどうかも、俺が使い手以外の奴に持たれてどうなるもんかも、試してみるしかねえってことだぜ」

 

更に流れに乗って、キュルケとタバサまで。

 

「ま、ヴァリエールの三女がなんにもできない子だっていうんじゃツェルプストー家としても張り合いがありませんわね。

 そんな力があるのなら、ここはひとつやれるところを見せていただきたいものですわ」

「プライドがあって諦めないのがあなたのいい所」

 

ルイズは周り中から励ましを受けて、しばし顔を真っ赤にして俯いていた。

が、やがて顔を上げると、ぐっと胸を反らして杖を地面に置く。

 

「ふ、ふん。何よ、あんたたちに言われるまでもないわ!

 さっきは、ちょっと弱気になっただけなんだから!

 見てなさい、天使だか何だか知らないけど、メイドにできることくらい私だってやって見せるわよ!」

 

これだけ言われては、負けず嫌いのルイズとしては挑戦してみないわけにはいかない。

 

しかし、周囲の応援に押されてやってみる気にはなったものの、まだ自分にできると本心から信じてはいないのをディーキンは見抜いた。

ルイズはプライドと負けん気の強さで気張ってはいても、内心では自分には才能がないのだと落ち込み、長年に渡って劣等感を持ち続けていたのだから。

 

せっかくやる気を出してくれたのだから、ここは是非とも一発で成功してもらいたい。

もっと自信を持って取り組めば、きっとうまくいくだろう。そうすれば、そのことが更なる自信にもつながるはずだ。

そう考えて、ディーキンはリュートを手に取った。

 

「オホン……、ルイズがせっかく挑戦してくれるんだから、ディーキンもひとつ、集中力を高めるような音楽でルイズを応援するよ。

 そうすればきっと、成功間違いなしだと思うからね!」

 

シエスタが見せた生来の疑似呪文能力と同じように、ディーキンにも呪文とは違う超常の能力がいくつか備わっている。

もっともディーキンのそれは、生来のものではなく訓練によって後天的に会得したものだが。

今用いようとしているバードの呪歌も、そのひとつだ。

 

すうっとひとつ深呼吸をした後、ディーキンはリュートを勢いよくかき鳴らしながら、なにやらハイテンポで、やたらと熱い感じの歌を歌い始めた。

シエスタが使って見せた疑似呪文能力と同じく、呪文によらない超常の力。バードの『自信鼓舞の呪歌』だ。

 

 

 

 

 ア~!

 

 頑張れ頑張れできるできる絶対できる頑張れもっとやれるって~!

 やれる気持ちの問題だ、頑張れ頑張れそこだ~~!!

 

 ハ~、もっと熱くなれよおおぉおおぉォォ~!

 おおオォ~~!!

 

 ………

 

 

 

 

……無駄に暑苦しく、周囲で聞いている皆も最初はかえって集中の邪魔になりそうな歌だと思ったが……。

不思議と、聞いているうちに強い熱意と元気が溢れだし、誰もが自信がみなぎってくるような感覚を覚えはじめた。

 

そして目を閉じて精神を集中しているルイズは、他の者よりもなお一層、強い自信と熱意とが湧き上がってくるのを、はっきりと感じとっていた。

 

(ええ、やれる! やれるわ! 分かるわよディーキン、あなたといれば私はやれる!)

 

ディーキンの歌う歌詞が、旋律が、ルイズの中に心地よく染み込んでいく。

それが不安を沈め、勇気と自信を湧き出させてくれた。

耳から入った音楽は一度心に染み込み、そこから湧き出してきた新たな勇気と自信の旋律が、今や心の中で強くうねり出している。

神経は研ぎ澄まされ、それ以外の雑音はもう一切耳に入らない。

 

あるいはそれは、一人では何もできない臆病者のための勇気、後ろ盾あっての偽りの自信でしかないのかもしれない。

けれど、自分の使い魔と共にあることで勇気や自信が出せるのなら、それでもいいとルイズは思った。

 

(体の中で、何かが生まれ、行き先を求めてそれが回転していく感じ……)

 

誰かが言っていたそんなセリフを、ルイズはふと思い出した。

 

自分の生まれ持った『系統』の呪文を唱える時に、メイジはそんな感じがするという。

今まで一度もそんな感じがしたことはなかったけれど、もしかしたら、それは今のような感覚なのかもしれない。

だとすると、温存魔力特技とかいうものかもしれないという、この爆発こそが自分にとっての『系統』のようなものなのだろうか?

それとも、ディーキンのこの歌が……。

あるいは、自分の使い魔の歌だから、そう感じるだけなのか……。

 

いや、そんなことを考えるのは、すべてやり終えてからだ。

 

完全に心の準備を終えてきっと目を見開くと、あらかじめ爆発の目標にしようと決めていた石、ただ一つだけをしっかりと見据える。

その集中力の強さのためか、10メイル近く離れた場所にある石ころがやけに近く感じられた。

ルイズは事前にアドバイスされたとおりに、心の中だけで呪文の身振りと詠唱を始める。

 

(―――――ウル・カーノ……、『炎球(ファイヤー・ボール)』!)

 

己の中で呪文の詠唱を完成させ、石に向けて炎球を放つイメージを思い描く。

その想像上の炎球が石に炸裂したとき、ルイズにとっては見慣れた眩い閃光が石から放たれ……。

そして、聞き慣れた爆音が周囲に轟いた。

 




自信鼓舞の呪歌(Inspire Competence):
何らかの<芸能>技能のランクを6ランク以上持っている、3レベル以上のバードが使用可能。
術者は30フィート以内にいて視聴覚でバードを知覚できる者1人を音楽や詩を用いて鼓舞し、作業の効率を高めてやることができる。
着手する作業の内容に応じて、バードは対象の気分を高揚させたり集中力を増したりなどするために呪歌を用いる。
対象はバードの音楽を聞き続けている限り、1種類の技能判定について+2の技量ボーナスを得る。
ルール上はこの呪歌を使っても温存魔力特技の使用においては何のボーナスも得られないが、作中では自信を鼓舞するという性質から演出的に用いている。


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第三十三話 Training

ルイズが多くの友の立会いの下で、失敗呪文改め爆発を起こす未知の超常能力の実験を済ませた、その次の日のこと。

 

「えい! やっ!」

 

早朝のトリステイン魔法学院の中庭に、シエスタの澄んだ、気合いのこもった掛け声が響いていた。

 

彼女は待ち合わせたディーキンと軽く雑談を楽しみ、パラディンとしての心構えを助言してもらった後、まずは素振りなどの基礎訓練を一通り済ませた。

そうして今はデルフを握り、彼に武器戦闘の手合せをしてもらっているのだ。

 

この時間にはルイズはまだ、寝床で夢の中である。

 

シエスタは両手で携えたデルフを様々な角度から振るい、自分の知る限りの技で懸命に攻撃を仕掛けた。

若い少女がこの大きさの剣を振るい続けられるだけでも大したものだが、剣技の方もそこそこ形になってはいる。

おそらく、そこらの平凡な傭兵に後れを取ることはないだろう。

 

だが、ディーキンは自分の体より大きい剣が唸りを上げて襲ってくるこの状況に、まるで脅威を感じていないようだ。

いつも通りの涼しい顔で、時折助言などを交えながら余裕を持って対処していた。

 

「ウーン、シエスタ。

 ディーキンみたいに小さいのを相手にするときは、もう少し剣を低く構えて、小さく振った方がいいと思うの。

 そんなに力んで剣を大きく振りかぶったら、振り下ろすより前に懐に入られて組み付かれるよ?」

 

足さばきだけでシエスタの攻撃を右へ左へとかいくぐり、立て続けに空を切らせる。

時には自分の武器を使って勢いのついた斬撃を軽く受け流し、またある時には小枝のように容易く打ち払う。

 

「……はあ、はあ……、は、はいっ!」

 

シエスタは息を切らせながらそう返事をすると、助言を考慮して剣を構え直し、また必死に打ち掛かっていく。

自分の半分ほどの背丈しかない相手に渾身の打撃をこうも軽々といなされていることに、彼女は内心舌を巻いていた。

 

もちろん、彼女には自分が『先生』と仰ぐディーキンが強いのであろうことは先刻承知していたが、実際にこうして相手をしてもらうと想像以上だった。

あの決闘の時、自分は歌の力で強くなった己に自惚れて、今の自分以上に強い剣の使い手などいないかもしれない、と考えた。

 

しかるに今、戦っているディーキンの力は、それを明らかに上回っている。

そのくらいは、シエスタにもわかった。

 

これまで自分の知っていた世界の、なんとちっぽけだったことか!

 

「ンー……、」

 

そうこうしてある程度つきあった後、ディーキンはシエスタが大分疲れてきたようだとみて、終わらせることにした。

 

彼女が幾度目かに仕掛けてきた渾身の唐竹割りを受け流さずにがっちりと受け止めると、そのまま力任せに勢いよく押し返す。

両手で握っていた武器を突然上に跳ね上げられたシエスタは、驚愕していた上に体勢を崩されて隙だらけになった。

 

ディーキンはその隙に素早く懐へ潜り込み、そのまま勢いよく彼女に体ごとぶつかっていく。

幼児のごとく小柄な体格からは信じられないほどの衝撃に、シエスタはひとたまりもなく吹き飛ばされてデルフを取り落とし、地面に転がった。

 

そのまま起き上がる暇もなくディーキンに体の上に押さえ込むように飛び乗られて、首元に小さいが鋭そうな爪をぴたりと突きつけられる。

 

「あっ……、ま、参りました……」

 

シエスタは一瞬呆然とした後、素直に負けを認めた。

それから、嬉しそうに微笑んで、自分の上から降りようとしていたディーキンを腕を伸ばしてぎゅっと抱き締めた。

 

「すごい! 先生、すごいです!」

 

もちろん、あっけなく負けたのは悔しいし、自分の未熟さを恥じる気持ちもあった。

だが今はそれよりも、敬愛する『先生』が自分が想像していたのにもまして強かったことを喜ぶ気持ちの方がずっと強かった。

 

「オオオ……? えへへ、そんなに抱き締められると、ディーキンは照れちゃうの。

 でもシエスタは、こんなことして、痛くないの?」

「平気です。……あ、あの、先生。私、誰にでもこんなことする女ってわけじゃ、ないですから。

 こ、これは、その、先生が、相手だから……」

 

シエスタはほんのり頬を染めて上体を起こすと、そのままディーキンに頬ずりをする。

確かにウロコに擦れて少し痛いが、そんなことは気にもならなかった。

胸の奥から湧き上がってくる暖かい感情に比べれば、僅かな肉体的な痛みなど些細な問題に過ぎない。

 

……なにやら脇の方からぼそぼそと呟くような小さな声が虚しく響いたが、2人とも全然気にしていない。

それは先程吹っ飛ばされたデルフが少し離れた茂みの中から愚痴る声と、ディーキンが腰に下げたエンセリックの低く呟く声だった。

 

「……おい娘っ子、俺はどうなるんでえ。

 おめーら爆発しろ……じゃなくて、いちゃいちゃしてるとこ悪いがよ、さっさと拾って泥を払ってくれよ」

 

「……羨ましい御身分ですね、コボルド君。

 そんな可愛い娘さんを乱暴に押し倒しておいて、嬉しそうに抱き締め返してもらえるとは。

 しかし、どうせ爬虫類の君では、柔らかい肌に包まれても十分には楽しめないでしょうし……。

 ここはひとつ、私を君と御嬢さんの胸の間に挟むとか、そのくらいの気を利かせてくれてもいいのではありませんかね……」

 

 

「……ねえ、シエスタ」

「はい? 何でしょうか、先生」

「王都の方に、ディーキンが演奏できそうな場所はないかな?

 ディーキンはもっといろんな人に、歌とかお話とかを聞いてもらいたいんだけど……」

 

稽古が終わって、一通り身なりを整え直して後片付けを済ませた後、ディーキンはそうシエスタに聞いてみた。

 

なお自分とシエスタの朝の仕事は、稽古の間に、影術の《従者の群れ(サーヴァント・ホード)》で呼び出した見えざる従者たちが済ませておいてくれた。

今でも雑用なんかに呪文を使うのは勿体ないと思ってはいるが、こうして使ってみるとなかなかに便利であることは否定できなかった。

お陰で自分が仕事をする手間が省けて、その時間を別な作業に当てられるのだから。

 

「え? 演奏……、ですか?」

「そうなの。ディーキンは頑張ってどこででも演奏させてもらえるようにしたいけど、ルイズたちに迷惑はかけたくないからね。

 ちっちゃなコボルドが演奏していても、文句を言われないような場所が、あったりしないかな?

 もちろん、無かったら無理にとは言わないけど……」

 

フェイルーンの普通の街なら、そんな都合のいい場所があると期待する方が間違っているだろう。

だがこのハルケギニアでは、あるいは単に運が良かっただけなのかも知れないが、召喚されて以来随分と良い扱いを受けられている。

だからちょっと欲張ってみる気になって、駄目元で彼女に聞いてみたのである。

 

ルイズらに聞いてもいいだろうが、街のことなら平民である彼女の方が詳しそうだ。

それに、なまじ権力のある貴族の少女たちに聞けば、あるいは気を遣って多少無理にでも力になってくれようとするかも知れない。

その結果彼女らの立場を悪くしたり、迷惑をかけてしまったりするようなことになるのは避けたい。

 

「……うーん、そうですね。

 私としては、先生のような方ならどこででもすぐに受け入れられるとは思いますけど……」

 

そうはいっても、確かにいきなり受け入れてもらうのは難しいかも……、とはシエスタも考えた。

 

自分だって、初めて彼の姿を見た時にはぎょっとして、外見で危険な亜人と判断して果物ナイフに手をかけてしまったのだ。

人々を落ち着かせて話を聞いてもらうことはきっとできるとは思うけれど、上手くいかずに騒ぎが大きくなってしまう危険性も否定はできない。

そうなった場合にルイズや学院の教師たちに迷惑がかかることを、彼は懸念しているのだろう。

 

王都の広場ではたまに芸人や詩人が来て商売をしているが、そんな不特定多数の人が通りがかる場所ではいつ騒ぎが起きるかも知れない。

ディーキンが安全だと広く知られるまでの間は、誰か彼の身元や安全性を保証してくれる人物が管理している場所が必要だろう。

とはいえ、亜人が役所や衛兵にかけあう……などというのは現実的ではなさそうだ。

ヴァリエール家の令嬢である彼の主人が仲介すれば別かも知れないが、それはシエスタが判断や保証をできる話ではない。

 

そうなると、どこかにいい場所はあっただろうか?

 

「………あ」

 

しばし思案していたシエスタは、ふとある場所と、そこに住む自分に近しい人々のことを思い出した。

あそこなら、間違いなく彼を受け入れてくれるに違いない。

そうすることであの人たちが迷惑を被る事もないだろう、むしろ益になるはずだ。

 

「……ン? 本当に、どこかいい場所があるの?」

 

ディーキンが目を少し大きく見開いて、そう尋ねる。

シエスタの様子から、彼女が何かいい場所に思いあたったのを察したらしい。

 

彼女は微笑んで頷いた。

 

「ええ。私の叔父さんと従姉妹が、トリスタニアで居酒屋をやっているんです。

 あの場所……、『魅惑の妖精』亭でしたら、先生を詩人として雇って、身分を保証してくれるはずですわ!」

 

それを聞いて、ディーキンはにこにこと顔を綻ばせ、手をこすり合わせた。

まさかシエスタの身内が王都で酒場を経営していたとは、何と素晴らしい偶然だろうか!

酒場は、バードが歌を披露するのにうってつけの場所のひとつだ。

 

そこでエンセリックが、横から口を挟む。

 

「ほう、酒場……? 『魅惑の妖精』亭ね。

 名前からするときれいな女の子などがいそうな感じですが、そういう場所ですか?」

 

シエスタは少し頬を染めて、ちょっと困ったように視線を泳がせる。

 

「え……と、その、はい。

 いえ、そんないかがわしいところではないのですけど、スカロン叔父様と従姉妹のジェシカは、その……、

 私とは、ちょっと考えが違って。少し型破りで……、でも本当にみんな、とってもいい人たちですから!」

「ほほう、なるほど?

 いやいや、そのようなよい方々とは是非会ってみたいので、行くときは私も連れて行ってもらいたいですね」

 

そんなシエスタのちょっと不審な様子と、エンセリックのやや浮かれたような声とに首を傾げていたディーキンだったが、少し考えて頷いた。

 

「うん、ディーキンも、是非紹介して欲しいの。

 ねえシエスタ、今夜一緒にトリスタニアまで行って、その人たちに紹介してもらえるかな?」

 

そうして二つ返事で了承してくれたシエスタとデルフにひとまず別れの挨拶をすると、ディーキンは満足したように笑みを浮かべて大きく伸びをした。

今日もまた、長く充実した、良い一日になりそうだ。

 

ディーキンはルイズを起こすべく、洗濯物を従者らに持たせると、水を汲んでから部屋へと戻っていった。

 

 

そしてその日の夜、シエスタと一緒に出かけたトリスタニアの『魅惑の妖精』亭で。

ディーキンはシエスタと同じ黒髪のアアシマールで、しかし彼女とは違って秩序の属性ではないらしいジェシカやスカロンに会って挨拶をした。

そして、毎日は無理でも、顔を出したときにはいつでも歓迎する、という言葉をもらうことができたのだった。

 

ちなみにエンセリックはというと、店で働く色とりどりのきわどい衣装を着た女の子たちを見て最初は喜んでいたようだったが……。

同じように露出が多く、型破りな姿と立ち居振る舞いをしたハーフオークのごとく逞しい中年男性のスカロン店長の姿を見てからは、口を噤んでいた。

生理的に、どうにも受け付けなかったらしい。

 

ディーキンとしてはユニークな恰好で面白いし、いい人だし、遥かにおぞましい外見の怪物なんて掃いて捨てるほどいるじゃないか、と思ったのだが。

まあ、怪物相手ならともかく、元人間のエンセリックだからこそ人間相手では受け付けない、ということもあるのかもしれない。

美しい少女たちが大勢いたにもかかわらず、次に来るときには私は連れてこなくていいですとまでいっていた。

 

さておき、この店でのディーキンの活躍ぶりは……。

それはまた、別の日のお話である。

 



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第三十四話 Jealousy

 

ある日のトリステイン魔法学院、図書館の一角にて。

 

「ンン~……、」

 

ディーキンが何冊もの古びた本に次々と目を通しては、考え込んだり、メモを取ったりしていた。

人間用に作ってあるがゆえにコボルドにとってはいささか大きすぎる本が多く、机の上に座って、本を抱え込むようにして読んでいる。

 

今は日中で、生徒らはまだ授業中である。

 

ディーキンは毎日時間割を見たり、時には挨拶がてら教師に確認に行ったりして、授業内容を事前に把握するようにしていた。

自分が出ても仕方が無さそうな授業の時間には、ルイズに断って席を外し、他の作業をしに向かうのだ。

 

やりたいことはいくらでもあるのだが、そういった時間には主として今のように、図書室へ向かう事が多かった。

そこで自分に必要な勉強や調査をしたり、ルイズの爆発について何か前例や手掛かりがないか、古い文献を調べてみたりするのである。

そんなわけで、ルイズに召喚されてまだ数日だが、ディーキンは既に何度もここに顔を出している。

学院の全ての施設の中で彼が一番有用性が高いと考えており、また気にいってもいる場所がこの図書館なのだ。

フェイルーンのように本がまだまだ高価で希少な世界に住む者としては、書物の与えてくれる知識の素晴らしさを高く評価するのは当然であった。

 

入り口に座っている若い女性の司書は、そんな彼の様子を僅かに微笑みながら見つめていた。

 

彼女は、ディーキンが最初にここを訪れた時には、汚い亜人に触られて貴重な本が傷まないかと嫌そうな顔をしていたものだが……。

彼が非社交的な雰囲気を醸し出している彼女に対しても愛想よく友好的に接し、本も丁寧に扱うのを見て、程なく態度を改めた。

だからなのか、机の上に座るなどの行儀の悪い行動に対しても、体の大きさの関係上やむを得ない事と理解して見逃してくれている。

 

まあ、彼がちょこんと座って本を抱える姿が愛らしくて気にいったから、というのもあるのかもしれないが。

 

「……ウン。これはもういいから、返しておいて。

 次は、あの本と……、アア、それと、そっちの本も取って来て欲しいの」

 

ディーキンはめぼしい部分を読み終えた本を傍らの《見えざる従者(アンシーン・サーヴァント)》に渡し、元の場所へ返却しておくよう指示する。

それに加えて新しく目をつけた本を持ってくるよう、さらに別の従者にも指示を出した。

不精なようだが、自分で本を取ろうにも、図書館の中で翼を広げて飛び回ったり、本棚をよじ登ったりするわけにもいくまい。

その点これらの従者は形を持たぬ力場なので、音もなく移動でき、高いところの本でも楽々取って来てくれるのだ。

 

最初はルイズの要求を満たすために仕方なく呼び出した従者だったが、自分自身でもあれやこれやで存外便利に有効利用できている。

なんでも試してみるもんだね、とディーキンはひとりごちた。

 

そういえば、フェイルーンでもウィザード・ギルド内部では、あらゆる種類の雑用に呪文を使っていると聞いた。

掃除や給仕などはすべて見えざる従者が行い、本のページをめくるのにすら《魔道師の手(メイジ・ハンド)》などの呪文を使用するらしい。

それは、自分は賤しい雑用などに筋肉を使う必要がないのだと誇示することで、仲間たちからの尊敬を集めるためだという。

 

そこでディーキンも、ためしに自分も偉大な魔法使いっぽくやってみようと、一度は見えざる従者に本のページをめくるよう指示を出してみたのだが……。

ちょっと読むたびにいちいちページをめくれと口で指示しなくてはならないのが面倒だったので、すぐに止めてしまった。

こんなことをするくらいなら、自分の手でめくっていく方が遥かに手っ取り早くて楽だ。

試してみてはいないが、《魔道師の手》の呪文にしたところで自分の手で本のページを捲るよりも楽だとはまず思えない。

あの呪文は使用するのに精神集中が必要なのだ。

呪文に精神を集中したままで本の内容にも注意を払って読んでいくなんて、余計疲れるに決まっている。

 

掃除や洗濯などの雑用を呪文でぱっぱと済ませるのは、やってみると確かに楽だった。

だが、自分の手を使う方が楽に決まっている作業にまで呪文を使うとは。

ウィザードという人々も合理的に見えて、おかしなところで虚勢を張るためにエネルギーを使っているものなのだなあと変に感心した。

ハルケギニアのメイジがどうでもいい雑用まですべて呪文でやるというのも、似たような理由であるらしいし……。

 

「―――あなた、ずいぶんと精が出るのね?」

 

そんなことを考えながらページをめくっていると、脇の方から急に声を掛けられた。

司書が興味を持って席を立ち、傍に見に来たのだ。

 

「ンー……、そうかな?」

「ええ。ここの学生や教師にも、あなたくらい本を熱心に読む人は少ないわ」

 

これは別に、お世辞でも何でもない。

 

図書館に何日も続けて通う生徒は少ないし、借りていくのも大概小説とかの娯楽本だ。

テスト時期などのごく一部に参考書などの類を借りていく生徒が増えるくらいで、せっかくの蔵書の大半は埃を被っている。

この亜人に負けないくらい熱心にここに通っていろいろな本を読んでいるのは、眼鏡をかけた青髪の小柄な留学生の少女だけだろう。

あとは、何かの研究に熱中しているらしい時のコルベール教員が、たまに数日から数週間ほど集中して入り浸るくらいだ。

 

ここは歴史あるトリステイン王国でも有数の図書館であり、数千年前からの貴重な蔵書が収められているというのに、何とも嘆かわしいことである。

もっとも、親元を離れて青春真っ盛りの若者たちとなればそのくらいがむしろ健全だろうし、教員は何かと忙しい。

仕方がないことだとは自分も理解してはいるのだが……、司書の身としてはどうしても、一抹の虚しさを覚えてしまう。

 

それに、自分はお世辞にも社交的な方だとはいえないが、それでも学生が訪れない日中からずっとここで本の番をしていてはいささか寂しくもなってくる。

件の青髪の少女は授業をサボっているのか日中でも時折姿を見かけるのだが、あいにくと彼女は自分以上に極端に非社交的な性質らしい。

これまでに何百冊もの本を借りているにもかかわらず、未だに事務的な用件以外では口を利いたことさえない。

 

「……よければ、一息入れて一緒にお茶とお菓子でもどうかしら?

 人間の食事が口に合うのかは分からないけど、この間王都で美味しい御茶菓子買ってきたの」

 

だから時には、たとえ相手が変わった亜人の使い魔であってもこんな風に話し掛けてみたくなったりするのは致し方ないことなのだった。

 

それに聞いた噂では、この亜人は最近、ちょっとした人気者になっているらしい。

なんでも、この間の決闘の時に立ち会いをして、それに関する出来のいい詩歌を作ったとか……。

図書館で歌ってもらうわけにもいかないが、もし今日話してみて彼のことが気にいったら、今度聞きに行ってみようか。

 

さておきそれを聞いて、ディーキンの方は少し首を傾げた。

 

「ンー……、ディーキンはお茶もお菓子も大好きなの。

 だけどここで飲んだり食べたりしたら、本が傷むんじゃない?」

「ええ、もちろん、ここで食べては駄目よ。

 でも、カウンターの奥の方に私の私室があるから、よかったらそこで……」

 

ディーキンはもちろん二つ返事で承諾して、満面の笑みを浮かべる。

 

フェイルーンにいたころにも、縁あって呪いから救い出した有翼エルフの女王が返礼として歓待の宴に招待してくれたりしたことはあった。

だが、特に何の借りがあるわけでもないコボルドに自分から声を掛けて招待してくれるとは、なんとも嬉しいことだ。

 

このお礼に後で何か、芸でもお見せしなくてはなるまい。

図書館の中で楽器演奏というわけにもいくまいし、無声劇でもやってみようか?

そんなことを考えながら、ディーキンはその素敵な、親切な女性の後についていった……。

 

 

「…………」

 

そんな一連のやりとりを、タバサが少し離れた物陰から、黙ってじっと見つめていた。

 

彼女は今の時間の授業は自分には出る必要がないと判断したので、図書館へ行くことにしたのだった。

いまだに何か勘違いしているらしいキュルケに、「あら、ディー君と逢引? 頑張ってね」などと応援されたりしたが……。

 

実際のところ、大好きな本を読むために図書館へ来たのではあるが、ディーキンに会えればいいなと思っていたのも事実であった。

まだまだ聞いてみたいことがたくさんあったし、彼の語る様々な物語や不思議な音楽もとても気にいっていたから。

だから、図書館にディーキンがいたのは彼女にとっては願ったり叶ったりの状況……の、はずだった。

 

しかしタバサは、彼がちょうど司書と親しげに言葉を交わして私室へ招かれていくのを見て、声を掛ける事が出来なかったのだ。

しばらくの間俯いて、じっと立ち尽くしていたが……。

やがて大好きな本を見もせずにくるりと図書館に背を向けると、その場から静かに立ち去る。

 

(……私は、あの人と会話したこともない……のに……)

 

タバサは心中、穏やかではなかった。

 

私だって、思っていたのだ。

自分と同じようにいつも一人で、静かに図書館で本と向き合っているあの司書に、内心では少しく親しみを感じていたのだ。

それでたまには話でもしてみようかと、時折ぼんやり思ってもいたのだ。

 

でもできなかった。彼女と親しくなるのが怖かった。彼女を自分の運命に巻き込んでしまうのが怖かった。

両親の仇である叔父に服従しながら復讐の機を窺うという、道を外れた生き方を選んだ自分は、無闇に人と親しくなれるような身ではないから。

 

いや、そうではないかもしれない。

 

そもそも、自分が彼女と親しくなれるのかと思うと怖かった。確かめるのが怖かった。

私のように愛想のひとつも振りまけない、笑顔ひとつ向けられないものが友情を求めて、人が応じてくれるものだろうか、と。

 

キュルケの時は、紆余曲折あった末に、彼女の方から進んで友人になろうと申し出てくれた。

ディーキンの時は、彼が最初から当たり前のように友人と呼んでくれていた。

自分から進んで誰かと親しくしようと試みたことは、未だになかった。

 

なのにあの子は、亜人で、使い魔の身でありながら……。

 

「……私だって……」

 

自分だって、昔は彼と同じように明るかったのだ。3年も前なら。

無知で無力で、幸せだったころの自分なら、あのくらいはできたはずだ。

 

それに彼は芸達者なようだけれど、自分だって昔は魔法で、上手に人形を躍らせたりしていたのだ。

それでお芝居などをやって、父様や母様からずいぶん褒められたりもしたのだ。

どうして彼に劣る事があろうか。

 

――――いや、だが。本気でそんな、愚にもつかないようなことを信じられるのか?

 

公女時代の自分は、他人にこちらから進んで愛情を求めたことなどなかったのではないだろうか。

親しい使用人はいたけれど、それは自分が公女だったから、大公の娘だったから、彼らの方から進んで世話を焼いたりしてくれたのだ。

同年代の、上下関係のない本当の友だちなんて、思えばキュルケの前には一人もいなかったような気がする。

 

芸にしたところで、昔の自分なんてまるで無力で、ただ小器用だっただけではないか。

家族や使用人からは、子どもに対する御愛想で褒められただけではないのか。

比べれば彼の歌はずいぶん妙だし、不器用そうな印象もあるけれど、本当の力に満ちているのは、聞いていてわかる。

自分にはとても、出せないような力が……。

 

「……そんなはず、ない……」

 

様々な取り留めもない考えが頭の中を去来し、何に対してかもわからぬ否定の言葉が、ぽつりと口をついて出た。

 

なんだか、あの子に図書館を……、自分の居場所をひとつ、取られたような気がした。

いや、そうではない。取られたのはあの司書だ。

彼が私を出し抜いて、先を越して、彼女と親しくしはじめたのだ。

いいや、それもちがう。むしろあの司書が彼を私から取ったのだ。

今日は自分が彼と話をしようと思っていたのに、それを、あの女の方が先に。

いや、それも違うか?

 

自分が本当に気にいらないのは、そうではなくて……、ああ!

 

(……私はいったい、何を考えているの……?)

 

ディーキンに対する得体のしれない不快なざわめきと、好意的にしてくれる相手に対してそんな気持ちを抱く自分自身に対する嫌悪感とで胸がもやもやする。

考えれば考えるほど気持ちがネガティヴになり、ぎすぎすと心がささくれ立ってきた。

先日、逆上したルイズを取り押さえようと身構えていたのに、ディーキンに後れを取ったときもそうだった。

今はあの時よりも、もっと酷い。

 

しかし、どう考えても、あの子にはなにも非はないではないか。

 

なのに自分は、なぜこんな些細なことで、一人で勝手に心を乱しているのだろうか。

今では危険な任務の最中でも、命の危険を感じる時でさえも、滅多に心が乱れることはなくなったのに……。

 

「……わからない……」

 

思案の海に沈みながらぽつりと呟いたタバサは、いつの間にか図書館のある本塔を出て、中庭のあたりにまで歩いて来ていた。

自分が慕う主人の姿を目ざとく見つけたシルフィードが、すぐに傍へとやって来る。

 

「きゅいきゅい!! ………、きゅいぃ?」

 

嬉しげに可愛らしい鳴き声を上げながら主人の顔を覗き込んだ彼女は、しかしすぐに、不審そうに首を傾げた。

それから無言で主人の首根っこを咥えて自分の背中へ乗せると、上空へ舞い上がる。

その間タバサは人形のように無抵抗で、されるがままであった。

 

十分な高空まで達したところで、シルフィードは待ちかねたように口を開くと、人語で主人に質問する。

 

「お姉さま、いったいどうしたの?

 今日はなんだか、すごくむっつりした顔をしていらっしゃるわ。なにか心配事でもあるの?」

「別に、何も」

 

そっけなく返事をすると、タバサはシルフィードを促して、自分の部屋へ向かわせた。

 

今さら授業へ戻る気もしないし、なんだか本を読む気にもなれない。

今日はもう部屋で休んで、気持ちを切り替えよう。

 

しかし、そうはいかなかった。

 

「きゅい? お姉さま、何か鳥がこっちへ飛んでくるのね」

 

部屋について、タバサが窓から中に入ろうとしたあたりで、シルフィードがそんなことを言った。

そちらに目をやったタバサの眉が、ぴくりと動く。

 

それは、フクロウであった。

灰色の毛並みをしていて、足には書簡が結び付けられている。

いつも意地の悪い従姉妹からの任務を伝えに来る、ガリアの伝書フクロウに違いない。

 

フクロウは傍にいる大きな竜を怖れる様子もなく、真っ直ぐにタバサの元まで飛んでくると肩に留まった。

タバサはその足から書簡を取って、目を通す。

案の定、そこにはただ一言、『出頭せよ』とだけ書かれていた。

任務の内容を事前には一切伝えられず、ただ一方的に呼びつけられるのはいつものことなのだ。

そうして毎回、非常に厄介な仕事を押し付けられる。命に関わるような危険を伴う事も、珍しくない。

 

だが、自分を庇って心を壊された母を人質にとられているも同然のタバサには、拒否する権利はなかった。

 

このような任務を歓迎した事など、今までに一度もない。

今回だって歓迎などまったくしていないが、とはいえ、このぎすぎすした気持ちを切り替える役には立つかもしれない。

命がけの任務に取り組んでいる間は、埒のあかない考えごとで心を悩ませている暇などないだろうから。

 

タバサはそう考えてひとつ溜息を吐くと、気を引き締め直して、もう一度シルフィードに跨った。

 

「きゅい? お姉さま、どうしたの? また出かけるのね?」

「遠くへ行かなくてはならなくなった。飛んで」

 

この子を連れていくべきだろうか、と少し悩みはしたが、これからもこういう任務はくるはずだ。

自分の使い魔に、いつまでも隠しておけるような事でもあるまい。危険に巻き込みたくはないが、仕方がない。

 

任務に向かう道すがら、自分の抱えている事情をこの子に説明することにしよう。

果たしてこのいささか足りない部分のある子に、ちゃんと理解してもらえるかどうかは不安だが……。

 

そんなことを思案しながら、タバサは飛び立ったシルフィードに、ガリアの方角を指し示した。

 





メイジ・ハンド
Mage Hand /魔道師の手
系統:変成術; 0レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:精神集中
 術者は指先を物体に向けて、その物体を遠くから意のままに持ち上げ、動かすことができる。
動かせる最大重量は5ポンドであり、また魔法の力を持つ物体や、誰かが装備中の物体は対象にできない。
術者は精神集中を続けている限り、移動アクションとして物体をどの方向にでも毎ラウンド15フィートまで移動させることができる。
術者と物体の間隔が呪文の距離制限を超えた場合、呪文は終了する。
 この呪文で、たとえば罠がある扉や宝箱などを遠くから安全に操作したり、部屋の反対の端においてある鍵をこっそり引き寄せたりできる。
ハルケギニアの念力と比べると非常に力は弱いが、それでも様々な用途で有効に活用することができる、とてもポピュラーな呪文である。


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第三十五話 Fouquet the Sculptor

ディーキンがハルケギニアに召喚されてから、十日あまりが経った日の深夜のこと。

トリステイン魔法学院の本塔最上階の一階下、宝物庫がある階で、息を潜めて周囲の様子を窺う人影があった。

 

学院長オールド・オスマンの秘書、ミス・ロングビルである。

 

今の彼女は、人前ではいつもかけている眼鏡を外していた。

その口元には妖艶な笑みが浮かび、目は獲物を狙う猛禽類のように鋭く吊り上っている。

 

それは、誰にも見せたことのない彼女のもう一つの素顔であった。

 

彼女の本名は、マチルダ・オブ・サウスゴータ。

元々は空中に浮かぶ大陸・アルビオンの王国のさる大公家に仕える、由緒正しい貴族家の一員であった。

しかしとある事情からその大公家は取り潰しの憂き目に遭い、彼女の家系も共に没落して、貴族の名を失ったのである。

 

その後はすっかり荒んだ生活を送るようになり、やがて盗賊稼業にまで手を染めるようになった。

元々優秀なメイジで機転も利く彼女は新しい生活にもすぐに慣れ、様々な偽名を名乗ってあちらこちらで活動し、巧みな手口で成功を重ねていた。

現在彼女が主に活動しているトリステインでは、『土くれ』のフーケと呼ばれる性別すらも分からぬ神出鬼没の大怪盗として、貴族を震えあがらせている。

 

さて、そんな彼女がここトリステインの魔法学院に秘書として入り込んだのは、もちろん宝物庫に収められているお宝が狙いであった。

 

彼女は宝石でも絵画でもヴィンテージワインでも、価値あるものならなんでも盗むが、高名で強力なマジックアイテムの類が特に好みなのだ。

そしてこの魔法学院の宝物庫には、数多くのマジックアイテムが収められている。

 

無論、ここはメイジの学院である以上、盗む上で厄介な障害となり得るメイジの数は多い。

だが、所詮は未熟な学生と世間知らずの教師が大半であり、実際のところ大して危険ではないと彼女は踏んでいた。

たとえそうでなくとも、ハルケギニア全体でも有数の歴史を持つこの学院のお宝には、危険を冒して狙うだけの魅力が十分にある。

 

「……さて、と。そろそろ、いいかしらね」

 

感覚を研ぎ澄まし、本塔の中で動く者がいなくなったのを確認したフーケは、そうひとりごちた。

優秀な土メイジである彼女には、接触している建物の床からの振動を注意深く感じ取ることで、近くに動いている者がいるかどうかを把握できるのだ。

 

今ならば、自分の行動を誰かに見咎められる心配はあるまい。

それでも、念には念を入れることにした。

 

ポケットから鉛筆ほどの長さの杖を取り出すと、無造作に軽く手首を振る。

杖はするすると伸びて、見る間に指揮棒ぐらいの長さになった。

 

彼女はその杖を振って、低い声で『サイレント』の呪文を唱え、周囲の空気の振動を止めて音が周囲に響くのを防いだ。

さらに、続けて『暗視』の呪文を唱える。水系統のこの呪文を使えば、唱えた者は一定の時間、闇の中でも視界を得ることができるようになるのだ。

屋内は暗いが、たまたま外を通りがかった使用人などに宝物庫のあたりで灯りが動くのを見られて不審がられる可能性もあるので、照明は使わない。

 

今回の彼女は、何もここまでしなくてもよかろうというくらい、過剰なまでに念入りに用心を重ねていた。

わざわざ秘書として学院内に潜り込んで事前の調査を行なったりして、ここに来るまでに随分な時間と労力とを使っているのだ。

ここまで来ておきながら些細な用心を怠ったばかりにすべて台無しになった、などということになってはつまらない。

 

秘書として働きながら情報を収集し、彼女が特にこれと目をつけたお宝は、学院長秘蔵の品として知られる2振りの杖であった。

 

今夜はついに、それを盗み出す予定なのだ。

 

先に施したサイレントの呪文では、空気が音を伝えるのは防げても、建物の床の振動までは防げない。

ロングビルは念には念を入れてゆっくりと静かに歩を進め、宝物庫の巨大な鉄の扉の前にやってきた。

 

魔法学院成立以来の秘宝が収められている宝物庫の扉には太く頑丈な閂が掛かっており、その閂はこれまた巨大な錠前で守られている。

 

もちろん、この宝物庫の錠前や扉は、ただ物理的に頑丈なだけではない。

錠前はスクウェアクラスのメイジが設計した魔法の鍵で、普通の鍵なら簡単に開錠できるメイジの『アンロック』の呪文を受け付けない。

扉にもやはりスクウェアクラスのメイジによる『固定化』が施されており、自然の酸化や劣化、『錬金』などの各種の魔法の影響から守られている。

物理的に破壊するにしても、扉も周囲の壁も極めて分厚く頑丈な作りで、たとえ巨大なゴーレムなどを用いても短時間のうちに壊すのはまず不可能である。

 

まずもって文句のつけようのない堅牢な宝物庫であり、並大抵の盗賊ではどうやってこれを破ったらよいものかと途方に暮れるところであろう。

実際、彼女自身も、初めてこの宝物庫を検分した時にはどうしたものかと少なからず頭を悩ませたものだ。

 

だが、その問題は既に先日、解決済みだ。

にやりと唇の端を吊り上げると、錠前に向けて小さく杖を振り、アンロックの呪文を唱える。

 

たちまち、かちりと小さな音を立てて錠が外れた。

 

タネは簡単で、先日の決闘の折に『眠りの鐘』を取りに宝物庫に入った際、ちょっとした細工を施しておいたのだ。

借りた鍵を使って本物の錠前を外した後に、自分で錬金して作った外見がそっくり同じ偽の錠前を掛けたのである。

腕利きのメイジである彼女の作った錠前は、優秀なメイジが疑って注意深く調べでもしない限り、まず偽物とは気付かれないであろう出来だった。

ちゃんと本物用の鍵を使えば開くようにも仕組んでおいたので、鍵が合わないなどで疑われる心配もまずない。

 

本物の錠前は錬金で作った粗悪な素材でくるんでただのガラクタ道具のように見せかけ、宝物庫の目立たない隅にある箱へ押し込んでおいた。

後は仕事が済み次第そこから取り出して元通りに掛け直し、偽の錠前の方は分解して土に還してしまえば一切の証拠は残らぬというわけだ。

 

(立派な宝物庫もお宝も、持ち主があんな間抜けなエロジジイじゃあ気の毒ってもんだね。

 ここはひとつ、私がいただいて有効利用してやるさ……)

 

心の中でそんな嘲りの言葉をつぶやくと、真っ赤な舌でちろりと唇をなぞった。

 

最初はなかなか鍵を一人で預かることができず、かといって錬金やゴーレムによる力押しでの攻略も難しそうで、どうしたものかと悩んでいた。

宝物庫の弱点など聞き出せないかと自分に好意を寄せているらしいコルベール教員に付き合ってみたりもしたが、大した情報は得られなかった。

ところが先日の決闘の折に、何故か学院長が非常に興味を示していて上の空だったお陰で、何もかも首尾よく運んだのだ。

 

そういえばあの決闘をしたメイドは、最近平民の間では人気者らしく、よく噂を聞く。

決闘で貴族を負かすという、メイジの面子に泥を塗るようなことをしでかしたにもかかわらず、何故かメイジの間での評判も悪くはないようだ。

不思議なことに、決闘で平民に負けるという醜態をさらしたあのグラモン家の少年も何故か嗤いものなどにはなっておらず、評判はむしろいいらしい。

決闘の際の双方の潔い態度もさることながら、ヴァリエール家の少女の、あの奇妙な使い魔の披露した詩歌がとてもよかったという噂だが……。

 

(……まあ、私にゃあ関係ないね。

 あのガキどものお陰で万事上手くいったことには、感謝するけどねえ)

 

自分も機会があれば一度その詩歌とやらを聞いてみたいものではあるが、今はそんな事を考えている場合でもあるまい。

 

それよりも、苦労して手にしようとしてきたお宝が、ついに自分のものになるのだ。

フーケはとりとめのない思考を打ち切ると、いそいそと宝物庫の中へ入っていった。

 

そこには、実に様々な宝物があった。

片っ端から盗んでやるのも気味がいいだろうが、それは自分の流儀ではない。

今回の狙いはただ2つ、『破壊の杖』と『守護の杖』だけだ。

所在は、前に宝物庫に入った際に既に調べてある。フーケは真っ直ぐにそこへ向かった。

 

宝物庫の奥まったところに様々な杖が壁にかかった一画があり、その中に一本、どう見ても魔法の杖には見えない品があった。

 

全長は一メイルほどの長さで、優秀な土メイジであるフーケでさえ、見たことのない金属でできている。

その下にかけられた鉄製のプレートには、『破壊の杖。持ち出し不可』と書いてあった。

 

用途もよく分からないし、『ディテクト・マジック』をかけてみても、魔力の反応は全く感じられない。

しかし、強力なマジックアイテムであれば、正体を探りにくいよう魔力を隠蔽してあるということも考えられる。

材質が自分でさえ知らない未知の金属であるというだけでも、確かに大したお宝に違いないことは確信していた。

 

その隣にもう一つ、こちらはいかにも魔法の杖という形の品があった。

 

木製の長杖で、石突きは鉄でできており、見たことのない奇妙な形の印形やルーンらしきものが無数に彫り込まれている。

その下にかけられた鉄製のプレートには、『守護の杖。持ち出し不可』と書いてあった。

 

一見すると高価そうには見えないし、これもまた使用法はよく分からない。

だが、こちらはディテクト・マジックをかけてみると、目が眩むほどの強烈な魔力の輝きが感知できた。

これほど凄まじい魔力を帯びた品は、様々な魔法のお宝を盗んできた自分でさえ、見たことがなかった。

 

(……まあ、使い道はあとで、何としてでも探り出してやるさ。

 とにかくこいつらは、王宮にさえないようなとんでもない値打ちものに間違いないからねえ……)

 

フーケはほくそ笑みながら、その2つを壁から取り外した。

 

さてこれらの杖は、どちらもさほど重くはない……むしろ破壊の杖などは、予想より遥かに軽くて驚いたくらいだ。

とはいえ、2つとも持ち運ぶには少々かさばる。

それよりなにより、宝物庫のお宝を持ち歩いているところを誰かに見られては厄介なことになるだろう。

 

そこで、杖を振ってゴーレムを一体出現させる。

ギーシュの使っているワルキューレと似たような青銅ゴーレムで、ただ身の丈はもう少し大きく2メイル半ほどあり、体格もがっしりしていた。

ここでは自分は平凡なラインメイジで通しているので、このくらいのサイズが妥当だろう。

 

フーケはこのゴーレムの体の中の空洞部分に、盗み出した2本の杖を収納させた。

さらに音がしないよう、周囲に錬金で詰め物をする。

 

もし帰り道で誰かに出会って聞かれたら、少し遅くまで仕事をしていて暗くなってしまったのだといえばよい。

このゴーレムは夜も遅いし、学院内とはいえ万一を考えて護衛用に連れ歩いているのだと説明すれば、まず疑われる心配もあるまい。

これで、帰り道でお宝が見つかる恐れはなくなったわけだ。

 

(さあて、あとは仕上げだね。

 仕込みはちゃんと上手くいってるかね?)

 

無論、お宝の入手という目的は、既に達成したわけだが……。

 

しかしこのままでは、貴重な杖の盗難が露見したときに、先日鍵を預かった自分が真っ先に疑われる対象に入ってしまうだろう。

一旦疑いをもたれてこれまでの経歴などを調べられはじめれば、まず誤魔化し切れまい。

よしんばこの場では捕まらなかったとしても、顔が割れてしまっている以上、今後の仕事には確実に支障が出る。

ゆえにもう一工夫、自分が容疑者から上手く外れられるような細工が必要だった。

 

そのための仕込みも先日、既にしてある。

フーケはその成果を確認するべく、宝物庫の別の一角へ向かった……。

 

 

しばしの後、仕込みが首尾よくいっていることを確認したフーケは、意気揚々と宝物庫を後にした。

 

これで後は、予定通り明日の夜に仕上げを済ませれば完璧だ。

無論その前に宝物庫に誰かが入り、お宝がなくなっていることに気付かれれば計画は破綻してしまうわけだが……。

翌日が休日である『虚無の曜日』なことを考えれば、まずその心配もないはずだ。

 

彼女は本塔から外に出る前に、抜け目なく眼鏡を掛けなおすと、気分を切り替えて生真面目そうな表情と態度を取り繕った。

人目があるかも知れない場所では、彼女は常に怪盗のフーケではなく、秘書のロングビルなのだ。

そうしてから、先程作ったゴーレムを伴って、自分の宿舎へ向かう。

 

それでも、内心の浮かれた気持ちが多少なりとも態度に現れて、足取りがいささか軽くなってはいたが。

 

「………あら?」

 

その途中、ふと妙な気配を感じて、空を見上げる。

明るい2つの月明かりの中、一頭の比較的小柄な青い竜が、女子生徒らの寮塔の方から学院の外へと向かって行くのが見えた。

 

あれはたしか、最近の使い魔召喚の儀で召喚された竜だったはずだ。

背中に、何人かの人影が見えたが……。

 

ロングビルは、内心で苦笑した。

いいところのお嬢様たちのくせに、明日が虚無の曜日だから、夜遊びに出ようというわけか。

 

まったく、普段はお行儀よくしていても最近の若い少女というものは。

自分があの子らくらいの年の頃は、貴族の娘としてもっとお行儀よくしていたものだ。

 

まあ、内心、もっと奔放に遊びたい気持ちも無かったと言えば嘘にはなるが。

故郷に残してきた大切な妹も、あの子らくらい元気に明るく、おおっぴらに遊び回れるようになれば、それは嬉しいだろうし……。

 

「……まあ、よいでしょう。私は教師ではありませんので」

 

彼女は肩を竦めてそんな言い訳じみたことを呟くと、特に呼び止めて注意をするでもなく、そのまま宿舎へ戻っていった。

 



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第三十六話 Nightlife

 

ミス・ロングビルこと『土くれ』のフーケが、密かに宝物庫へ侵入してお宝を盗み出していた、ちょうどその頃。

ディーキンはキュルケの部屋で、日中の務めや勉学を終えて集まった少女たちに詩歌を披露していた。

 

内容は、理不尽なまでに強い、ある神話級の英雄の活躍を題材としたものだった。

ディーキンが昔どこかの本で読んだ物語であって、ハルケギニアに元々存在する話ではない。

だが熱いものやコミカルなものなどいろいろなエピソードがあって、元々この物語が知られている場所では広く歌われており、根強い人気があるらしい。

 

 

 

 勇敢なる『ノーザンの拳』リューケは、たちまち賊の大群に取り囲まれた!

 

 彼と共にある仲間は、強い絆で結ばれた強敵(とも)が2人だけ

 敵はざっと1000人くらいさ

 さあ、ひとりあたり、最低300人ちょっとは倒さなくちゃならないね!

 

 ………

 

 ああ、悪党とはいえなんて気の毒なんだろうか?

 たったそれだけしかいないのに、3人もの英雄相手に挑まなくちゃならないなんて!

 

 

 

参加者はルイズ、キュルケ、シエスタ、タバサの4人の少女たち。

あとはエンセリックとデルフリンガーも、一応いる。

 

彼女らは最初、あまり女の子向けの話ではなさそうだと、若干苦笑しながら聞いていたのだが。

いつの間にかみなストーリーに引き込まれ、今や目を輝かせながら熱心に耳を傾けだしていた。

そのあたりは他の世界からもたらされた話の新鮮さや、話自体の出来の高い面白さ、そしてディーキン自身の技量によるものであろう。

 

最近のディーキンは、夜に少し時間を取ってキュルケの部屋に行き、彼女に演奏の助言を行ったり、彼女と合奏を楽しんだりしていた。

キュルケの趣味はハープの演奏であり、ディーキンの腕前を知った彼女がぜひ一緒にと自分から頼んだのである。

 

ディーキンからその件で許可を求められたルイズは当然非常に不満であったが、パートナーの前でまた狭量な態度を取るのも嫌で強く反対できなかった。

結局は渋々許すことにしたのだが、代わりに自分も立ち会わせてもらうといい出したのは驚くにあたるまい。

 

シエスタもまた、その事を知ると自分も参加させてくださいと熱心に頼み、同席を認められた。

普通なら平民が貴族の部屋へ上がり込んで演奏会に同席したいなどという願いが認められるものでもあるまいが、無論ディーキンがいれば話は別である。

 

そんなわけで参加人数がずいぶんと増えてしまい、キュルケは最初、少々不服であった。

 

本当なら自分の親友であるタバサも……いや彼女をこそ同席させたかったのである。

だが、その肝心のタバサはいつの間にかまたどこかへ出かけたらしく学院内に姿が見えなかったので、どうしようもなかった。

 

とはいえキュルケも、じきにこういうのも賑やかでいいかも、と思うようになった。

 

彼女は男子にはちやほやされているが、その奔放な振る舞いから、女子にはあまり人気がないのである。

同性の親しい友人と言えばこれまでタバサくらいしかおらず、そのタバサも社交的な性質ではないため、こういう集まりにはこれまで縁がなかったのだ。

 

そのタバサはといえば、ここ数日ばかり『任務』のために出かけていたが、つい先程学院に戻ってきていた。

それを見つけたキュルケから、早速誘いをかけられて同席したのである。

 

なお、キュルケはタバサが何日も学校をサボってまで出かけていた理由については無理に問い質そうとはしなかった。

タバサは自分の境遇についてキュルケに話したことはないが、彼女は友人が学院からいなくなるのを不審には思っても、無理に詮索したりはしない。

そのあたりが、まったく性格の違うこの2人がよい友人であり続けられる理由のひとつだった。

 

今夜はいくらか演奏の助言などを済ませた後で、せっかく大勢集まっているのだからと、自分の演奏を皆に聞いてもらっているというわけだ。

 

演奏は続き、主人公たちが幾度もの死闘を潜り抜けた後、物語はいよいよクライマックスを迎える。

ついに英雄は2人の古くからの友人たちとも別れることになるのだ。

 

 

 

 共に心が通い合い、幸せを掴んだ2人の仲間を置いて、英雄リューケはまた旅立った

 

 自分の墓標に、名は要らない

 看取る人も、なくていい

 

 自分が死ぬ時は、ただ荒野の果てに消えて、二度と姿を見せなくなるだけだ

 その日まで、旅は終わらない

 

 そう、死すならば戦いの荒野で!

 

 ………

 

 かくして、英雄は伝説となり、

 伝説は神話となる―――

 

 

 

そうして荘厳な演奏と共に長い物語を歌い終えて御辞儀をすると、少女たちから大きな拍手が贈られた。

 

「いいじゃないの、ディーキン! 私の実家で雇ってる音楽家だって、そんなに上手じゃないわ!」

「よかったです、先生! その……、今のもボスという人の話と同じで、本当にあったことなんですか?」

「本当に上手ね、ディー君。うっとりするわあ……。ああ、私も、そんな素敵な英雄と恋がしてみたいものね……」

「……イーヴァルディよりすごい、……かも」

 

ディーキンはそんな賛辞の数々に照れたように目を細めて顔を綻ばせると、もう一度御辞儀を返して回った。

 

「えへへ、ありがとうなの。ディーキンはご清聴に感謝するよ。

 この英雄のお話は他にもあるから、気にいってもらえたなら、また今度お聞かせするね?」

 

しかし、そういうと、気持ちが高揚してすっかり話にのめり込んでいた彼女らからは今すぐ続きをとせがむ声が上がる。

 

ディーキンはそれを聞くと、少し目をしばたたかせて、さてどうしたものだろうかと考え込んだ。

今披露したのはこの長い物語の大筋の流れであり、ごく一部のエピソードに過ぎない。

外伝なども含めた全部は、一夜ではとても語り尽くせないほどの量だ。

だからまだ、いくらでも歌える話はあるし、いい加減に夜遅いとはいえ歌う時間もまだ少しはあるだろう。

 

しかし……、切りもよいし、やはりこのあたりで今回は終えておくほうがよさそうだと、結局は判断した。

 

「オホン……。ディーキンの歌はね、つまり、ええと……、一夜の夢、なの。

 だからね、もう一度時間を取ってもらえるのなら、また別の夜に。

 ってことで、どうかな……?」

 

ディーキンはそんな事を言って断ろうとしたが、気持ちが高揚している少女たちは、なかなか承諾しなかった。

明日は『虚無の曜日』で休日だから、少しくらい遅くなってもいいからもっと聞きたいと、再三せがんで来る。

 

「ウ、ウーン……、」

 

ディーキンは嬉しさ半分、困惑半分で曖昧な笑みを浮かべて言葉を濁した。

なにせ、歌わせてくれと頼むことには慣れていても、歌ってほしいという頼みを断るのにはまったく慣れていなかったから。

 

それに本当のところは、自分もまだ歌いたくてうずうずしているくらいなのだ。

もっとみんなに楽しんでもらいたい、自分ももっともっと注目を浴びたい、という気持ちは大いにある。

もう今日はこれ以上歌いたくないなんてことは、ぜんぜん思っていない。

 

だが、引き際を弁えるのも芸人の嗜みだということは、ちゃんと心得ている。

 

歌にせよ、呪文にせよ、自分の芸を一度にあまりたくさん見せすぎてはいけない。

人気の出たシリーズは、一回で終わらせるよりも幾度かに分けて少しずつ披露した方がよい。

もう十分に好評を博したことだし、この熱狂が冷めぬうちに話を終えれば、続きを歌った時にもまた熱心に聞いてもらえることだろう。

続きを歌うその日までに自分の芸をまたひとつ増やしておけば、ずっとずっと新鮮な芸を披露し続けて、永く楽しみ続けてもらえるはずだ。

それが客のためであり、自分のためでもあるだろう。

 

それに今夜は、この後ちょっと出かけたい用事もある。

トリスタニアの『魅惑の妖精』亭で、先日約束した仕事をさせてもらおうと思っているのだ。

うっかりしてあまり長く延長し過ぎて、それに差し障りが出ても困る。

少し短いくらいで止めにしておいた方がいい。

 

ディーキンはそう自分に言い聞かせて、二つ返事で少女たちのリクエストに応えてしまいそうになるのをぐっと我慢した。

 

とはいえ……、どうやったら首尾よく断れるものだろうか?

仕事があるからと言えば納得はしてもらえるだろうが、せっかく夢見心地の良い気分に浸れている客を、こちらの都合でがっかりさせるのは好ましくない。

ましてや下手な断り方をして不機嫌にさせてしまうようではいけない。

となると、今の話の続きの代わりに、何か短い即興の話か音楽でもこしらえて、アンコールの演目として披露しようか?

それで満足してもらえるといいのだが……。

 

ディーキンがそんなふうにいろいろ考えていると。

最初は他の3人と同様に続きを聞きたそうにしていたタバサが、じっとその顔を見つめて、ぽつりと呟いた。

 

「やめた方がいい」

「………え?」

 

虚を突かれた他の3人が、一斉にタバサの方を振り向いた。

 

「彼が話したくないのなら、今夜は無理に聞かない方がいい」

 

それを聞いて、ルイズとシエスタは少し戸惑ったように顔を見合わせたが、やがて。

 

「そ、そうね……。貴族ともあろうものが無闇に続きを急かすなんて行儀が悪いし、また今度でいいわ。

 それにあんた、そういえば今夜はこれから仕事だかに出かける予定があるんだっけ?

 遅れないうちに行かなきゃね、引き留めて悪かったわ」

「す、すみません。私、無理を言って同席させてもらっていますのに、出過ぎた要求を……」

 

そういって、要求を取り下げた。

 

キュルケはと言えば、少し驚いたようにタバサの方を見つめ、やがてその表情が優しげなものに変化した。

当のタバサはキュルケのそんな様子になど気付きもせず、じっとディーキンの方を見て。

 

「ありがとう。いい歌だった。

 あなたの気が向いた時に、また続きを聞かせて」

 

そういってもう一度会釈をすると、それきり周囲の事など忘れたように、本を開いて黙々と読み始めた。

そんなタバサの態度を見て、キュルケの笑みがますます深くなった事はいうまでもない。

 

(やっぱり恋をすると違うわね~、この子がディー君のことをそんなに気遣ってるなんて……)

 

実際のところはというと、タバサは自分たちに続きをせがまれて嬉しいような、困ったような、そんな様子でいるディーキンを見ているうちに……。

ふと、ある人物のことを思い出したのだった。

 

その人物とは、自分が公女だったころに親しくしてくれていた、トーマスという名の平民である。

 

彼は自分の住んでいた屋敷のコック長を務めていたドナルドという男の息子で、自分より五つか六つほど年長だった。

手品が得意で、小さかった自分の遊び相手によくなってくれたものだ。

執事のペルスランには、高貴な身分の令嬢は平民と必要以上に交わるべきではない、としかられたものの、タバサはよく彼の目を盗んで厨房へと足を運んだ。

トーマスが教えてくれた遊びは、当時夢中であった読書と同じぐらい面白いものだったから。

 

彼は魔法も使わずに、ポケットから何個もボールや鳩を取り出してみたり、カードの模様を当ててみたり……。

果てはマントをかぶって、さっと姿を消してみせたものだ。

当時の自分は、一度も彼の手品のタネを見破ることができなかった。

あの頃の自分にとっては、不世出の天才と謳われた父を別にすれば、彼こそが周囲のどんなメイジにもまして、本当にすごい“魔法使い”だと思えたものだ。

兄のように感じてさえいたかもしれない。そんな彼の姿を、技を見て、当時の自分はいつも朗らかに笑えていた……。

 

それだけ彼の技に夢中だったから、自分は彼が今日はもう終わりだといっても、もっと見せて欲しいとしょっちゅうせがんだものだった。

そんな時に彼は決まって、嬉しいような困ったような、そんな顔をして、自分を宥めた。

 

『お嬢様、私の技はつまらぬ平民の手品、一時の慰みでございます。

 あまり一度に御覧になれば、すぐに飽きてしまいましょう。

 ……そうでございますな、3日後の八つ時にまたお越しくだされば、もう一度楽しんでいただくこともできましょう』

 

けれど幼い頃の自分には、3日という時間はとても長く思えて、不満たらたら、彼を困らせたものだった。

結局彼に予定の時間を延長してつき合わせてしまって、こっそり抜け出したのがばれて、後で怒られたりもした。

だが今思えば、ただでさえ貴族の令嬢と身分を弁えずに遊び、その上勉学の時間にまで遅刻させた彼は、もっと叱られていたのではないだろうか……。

 

そんなことを思い出したから、タバサはディーキンにあまり強くせがんで引き留めては悪いと感じたのだ。

 

さてディーキンは、演奏会の後始末を終えると、早速みんなに挨拶をして出かけようとしたが……。

せっかくだからルイズらにも一緒に来てもらえばいいのではないか、とふと思いついた。

 

仕事は夜遅くにすることになるので、翌日が休みでなければ勉学や仕事で忙しい彼女らを誘うことはなかなかできない。

それに、翌日には以前に頼んでおいた貴金属等の換金が済む予定になっているので、そのお金も受け取らねばならなかった。

まとまったお金が入ったら、彼女らに何か奢るなり贈るなりして、これまでお世話になったお礼もしたい。

 

「ンー……、ねえルイズ。明日は『虚無の曜日』で、みんなお休みなんでしょ?

 ディーキンはお金の受け取りもあるし、例のお仕事もしたいから、今夜のうちに出かけて街でお泊りしようかと思ってるんだけど……。

 もし、今日の話の続きじゃなくて、ええと、恋のお話とかでもよかったら……、みんなで聞きに来ない?」

 

キュルケとシエスタは喜んで、タバサは無言で頷いて、ディーキンの誘いに応じた。

優等生なルイズは、「こんな時間に夜遊びなんて……」と少し渋ってはいたが、結局は同行する事に合意した。

自分を差し置いてキュルケやシエスタやタバサらがディーキンと出かけるのは嫌だ、という思いもあったのだろう。

 

そんなわけで、一行はしばしの後、簡単に支度を整えてシルフィードに跨ると、夜の闇の中を王都へと向かったのであった。

 



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第三十七話 Maid cafe

しばらくの後、一行は『魅惑の妖精』亭についた。

 

この店は一見ただの宿屋兼居酒屋だが、実は可愛い女の子が際どい格好で飲み物を運んでくれるという、少々いかがわしい趣のサービスで人気を博している。

背中の大きく開いたドレスや胸元の開いたワンピース、丈の短いスカートなどといった、色とりどりの派手な衣装に身を包んだ給仕の女の子たち。

彼女らはあちこちのテーブルへ料理を運んで忙しく働きながらも、疲れた様子ひとつ見せずに微笑みながら、男たちに酌をして回っていた。

とはいえ、この店はそれらの給仕にこっそりと金貨の数枚も握らせれば寝床を暖める仕事もしてくれるとかいった類の場所ともまた違う。

普段は健全な世界に生きている者が少しばかり羽目を外して、夢見心地で楽しみたい時に訪れる店、とでもいったところだろうか。

 

当然、客の中には給仕の少女たちに向かって下品な野次を飛ばすものや、体を触ろうとするもの、無法ないやらしい要求をしてくるものなどもいる。

彼女たちはそんな時でも笑顔を崩さず、何をいわれても、されても怒らずにいる。

それでいて何もかも言いなりになるわけでもなく、お触りやサービスの枠を超えた要求には応じないのだ。

 

触ろうとする手を露骨に叩いたり払いのけたりはせず、優しく握って触らせない。

嫌な要求をされても顔をしかめたりはせず、そのまますいすいと会話を進めて相手を誉めそやし、いい気分にさせつつ話をそらす。

そのため客は拒まれても気分を害する事もなく、むしろそんな娘たちの気をひこうとして、さらにチップを奮発するのだ。

彼女らはみな、かなり巧みな接客術を身に付けているらしい。

 

このくらいの場所の方が一般人にはウケがいいのか、それとも店主であるスカロンのやり方が上手なのか、店は連日繁盛しているようだった。

羽振りのいい客も多く来ており、そういった客から少女たちは毎日結構な額のチップをもらっている。

特に人気のある子などは、もらったチップの合計額が一日にエキュー金貨数枚分にもなることもあるようだ。

 

マジックアイテムの類を使用した美しい照明や音楽で、店内には華やいで落ち着いた雰囲気が作り出されており、食事もなかなかに美味い。

女の子が美人でサービスがよいという以外にも、こういった設備面でも充実し、あらゆる面から見て居心地の良い店であることが人気の秘訣らしい。

平民が店主を務める店でこれだけの設備を用意できるところを見ると、やはり相当稼げているのだろう。

稼げているからこそたくさんの女の子を雇え、設備も充実させることができる。

そうすれば、それによってさらに稼ぎが増える、というわけだ。よいサイクルである。

 

「……か、仮にもヴァリエール家の使い魔ともあろうものが、こんないかがわしい場所で……」

 

これまでディーキンがどんな場所で働くのか詳しく知らなかったルイズは、テーブルで周囲の様子を見まわすと、目を吊り上げて顔を赤くしていた。

由緒正しき貴族家の令嬢で世間知らずなルイズにとっては、この程度の店でも不埒極まりない場所に感じられるようだ。

 

シエスタがそんなルイズに反論しつつ、店や自分の身内の良さについて弁明し、宥めている。

 

「そ、それは、あまり品のいい所じゃないかもしれないですけど……。

 でも、いかがわしくなんてないです!

 ここは、私の親戚が働いているお店なんですから!」

 

「あ、あんたの親戚って……、あの、入り口で私たちに声を掛けたおかしな革の胴着の男……?」

 

キュルケはそんな2人をむしろ楽しそうな様子で眺めながら、さっそく店員にお勧めを聞いて料理や酒を注文した。

 

「あら、私は楽しそうなお店だと思うわよ。

 それに、人の身内に対してヘンだなんて、失礼じゃありませんこと?

 トリステインの貴族は礼儀がなってないのねえ。

 向こうはあんたみたいなお子様にも、店の子が霞むくらい綺麗だなんてお世辞をいってくれてたじゃないの」

 

そんなことを言ってルイズをからかったりしつつ。

仕事の準備に向かったディーキンが姿を現すのを、寛いで待っている。

 

「大勢楽しんでいる。それに食事もおいしい。それで十分」

 

そう短くコメントしたタバサはというと、キュルケの横で静かに本を読みながらも、料理が届くたびにひょいひょいとつまんで口に運んでいる。

こんななりで、なかなかに大食いらしい。

 

もちろんシルフィードも一行に同行したがっていたのだが、ルイズらには正体は秘密だからとタバサが却下したのである。

しばらくきゅいきゅいとごねていたが、ディーキンからお土産に何か御馳走を用意すると約束されてどうにか落ち着いた。

 

そのうちに、それまで店内に流れていた、店の備品である魔法人形たちの奏でる音楽が止まる。

 

この店でのディーキンの仕事は、言うまでもなくバードとして店の客に音楽や詩吟などの娯楽を提供することだった。

いよいよ酒場に設けられた舞台の上にディーキンが姿を現し、一礼すると、周囲から喝采が巻き起こる。

 

ディーキンは先日既にこの店で一度演奏を披露しており、大好評を博したのだ。

喝采を送っているのはその時に居合わせた客と、従業員の少女たちである。

もちろんその時のことを知らない客たちは、いきなり奇妙な亜人が舞台に現れて戸惑った様子であった。

だが彼らも、周囲の客が大勢喝采を送っているのを見ると、疑問や文句の言葉を一旦引っ込めて、成り行きを見守ることにしたようだ。

 

ディーキンは誇らしげに胸を張って周囲の騒ぎが収まるのを待つと、もう一度、目を細めて御辞儀をした。

 

「こんばんは。ディーキンは、みんなに歓迎してもらえてすごくうれしいの。

 ……今夜は、どんなお話を歌おうかな?」

 

リュートの弦を軽く調整しながらそう問うと、先日居合わせた人々から、次々にリクエストの声が上がる。

 

「よーし坊主、こないだの英雄の話の続きをしてくれ!

 あれだけすごい冒険をしたって英雄ならよ、他にも武勲があるんだろ?」

 

「いや、英雄の話も聞きたいが……。

 演奏の後で言ってた、恐ろしい白い竜の話を聞かせてくれないか」

 

「それより、おめえがこれまでしてきたっていう、旅の話を聞かせてくれよ!」

 

つい先程まで給仕の少女たちに鼻の下を伸ばしていた中年、壮年の男たちが、まるで少年のように期待に目を輝かせて壮大な物語を求めてくる。

給仕の少女たちも、立場上自分たちでリクエストをしてくることはなかったものの、表情を見る限りでは同じ気持ちのようだ。

もちろん、先程部屋で冒険譚の続きをねだっていたルイズたちも、おおむね同じような気持ちである。

 

「ンー……、どうしようかな……」

 

ディーキンはそれらの要望を聞くと、少し困ったような笑みを浮かべて、首を傾げた。

 

もちろん、自分が得意なのはそういった種類の物語である。

先日ここで歌ったのもそうだったし、リクエストに答えてまた披露したい気持ちも大いにある。

 

しかし、ディーキンの演奏について何も知らない初見の客たちは、見るからに困惑した様子であった。

こんな奇妙な子どものような亜人の演奏に、なぜ周囲が異様な盛り上がりを見せているのか。

どうしてこういう店で、そんな店の雰囲気に明らかに合わない少年向けのような物語をリクエストするのか、と不審がっているのだ。

 

そうした初見の客たちの不審そうな様子を見て、ディーキンはいつものように歌いたい気持ちをぐっと押さえ込んだ。

今日は、違う種類の物語を……、もっとこの店の雰囲気に合いそうな物語を、披露するつもりで来たのだから。

 

「ええと……、この間は、そう、英雄の物語を聞いてもらったね。

 でも、ディーキンはみんなに、他にもいろいろな話を聞いてもらいたいからね。

 みんなのリクエストも考えて今日はね、英雄の冒険だけじゃなくて……、ロマンスの物語もしようと思うの」

 

別に恋の要素などを入れなくても、リクエストされたような英雄譚や冒険物語などを歌って、観客を惹き付ける自信がないわけではない。

実際、この間は大好評を博したのだから。

 

フェイルーンにおいて、バードは冒険者としての力ではやや頼りないと思われがちな反面、一般大衆にとっては大変な人気者だ。

民衆は突然見知らぬ魔道師が町に姿を現すと往々にして恐れおののくが、バードが町にやってくるとしばしばお祭り騒ぎの大歓迎をするのである。

 

バードには魔道師のように、疫病をもたらしたり悪魔の群れを呼び出したりといった、大破壊をもたらす危険はまずない。

そして何よりも、力ある魔法に満ちた新しい歌と物語、音楽に舞踊といった、素晴らしい娯楽の数々。

それらをもたらすバードの技は、聴衆にしばしの間、人生の悩みや苦しみを忘れさせる。

優れたバードが寂れた村の安酒場で歌えば、その場にいる者たちはみな、最下層の労働者でさえも、一時ながら王者の娯楽を味わえる。

短い間ではあるが、安酒に酔いつぶれた時などとは比べ物にならない、豪奢な夢心地の気分に酔いしれることができるのだ。

 

貴族や王族といった権力者にとっても、魅力的で機知に富み、多芸多才なバードは歓迎すべき存在だ。

そこそこの腕前でしかないバードであってさえ、王宮の門を叩けば数曲の歌と引き換えに宴会の末席に加わり、一夜の宿を得ることができる。

中には有力な貴族の信頼を勝ち得てお抱えの芸人として、あるいは顧問や密偵、子女の家庭教師などとして、長期的に召し抱えられる者もいるほどだ。

そういった者たちは彼らから家族同然の待遇を受け、多大な権力と名誉を勝ち得ているという。

 

そしてディーキンのバードとしての技量は、間違いなくフェイルーンでも屈指だ。

おそらくどんな大国の宮廷にも、彼に匹敵するだけの腕を持つ宮廷詩人はいないであろう。

コボルドであるというフィルターを外して見てもらえさえすれば、観衆が彼の芸に熱狂するのは至極当然。

たとえ場の雰囲気に合わない歌でも、それを覆して観客の気持ちをそちらに惹き付けられるだけの技量は十二分にある。

 

それに、英雄譚や冒険物語にも往々にしてロマンスはつきものだとはいえ、ディーキンにとっては人間の恋の話などは専門外なのだ。

 

コボルドは爬虫類であり、卵生であり、部族の単位で生活する。

人間は哺乳類であり、胎生であり、家族の単位で生活する。

ゆえに両者の間には、恋愛観や性生活や貞操観念などに、あまりにも大きな開きがあるのだ。

 

例えば、人間にとっては恋愛沙汰と性交渉を持つことの間には通常、強い結び付きがあるらしい。

だがコボルドにとっては、基本的に両者はほとんど無関係である。

 

コボルドにとって繁殖行為は種の生存と繁栄に直結する種族的な義務であり、部族の全ての個体が参加して、複数の相手と関係を持つのが普通だ。

そこには恋愛がどうのこうのといった感覚が入る余地など、全くないといってよい。

食べたり寝たりするのと同じで、それは単に、必要なことなのだ。

 

したがって、人間でいう結婚のような男女間の結びつきも、種が存続する上では不必要である。

実際、生涯そのような相手を持たないコボルドの方が多い。

 

逆に言えば、必要というわけでもないのにあえてそのような結び付きを求めるということは、それだけ互いの情愛が深いことの証でもある。

それは人間でいう恋愛感情のようなものの場合もあるし、強い信頼で結ばれた親友同士のような間柄である場合もある。

いずれにせよ、そういった結び付きはほとんど常に、相互の間に何らかの種類の強い愛情がある場合にのみ求められる。

人間のような種族にそれを話すと、コボルドのような野蛮な種族の間にそんな純粋な愛情があるのは意外だといって、よく驚かれるのだが。

 

ディーキンは典型的なコボルドの生活には馴染めなかった異端児であり、どちらかと言えばむしろ人間の生活の方に惹かれている。

とはいえ、やはり生まれ育った環境の違いから身に染みついた、常識や観念の違いというものはある。

人間の恋愛物語などを読むと、たびたび登場人物の心理がさっぱり理解できない部分があって頭をひねったものだ。

 

『ウーン……、ねえボス。ちょっと聞いてもいい?

 この話に出てくる男の人はなんで、好きな女の子が他の男と寝ただとか、そんなことですごーく怒ってるの?』

 

『ナシーラ、あんたたちドロウは、ええと……、一緒に寝たり、結婚したりするときにも陰謀を企んだりするんでしょ?

 じゃあちょっと教えてほしいんだけど、この本に書いてある“政略結婚”とかってのは何なの?

 愛し合う2人以外で結婚することで、お互いに何か得があるの?』

 

そんなような質問を、事ある毎によく仲間たちにした。

そのたびにボスやデイランやヴァレンには困ったような顔をされたり、苦笑されたり、居心地の悪そうなしかめ面をされたり……。

トミやシャルウィンやナシーラには笑われたり、からかわれたり、艶話や陰謀飛び交う愛憎劇(すべて実話らしい)を聞かされたり、したものである。

 

まあその甲斐あって、今ではおおむね理屈は把握しているつもりではある。

だが、感情的には未だに共感できない部分も多いし、ちょっと自信がない。

ゆえにこれまでは、あまりそういった、恋愛がらみの題材は詳しく取り扱ってこなかったのだ。

 

しかし、何を歌っても観客を熱狂させられるだけの技量があるとしても、やはり場に合った歌というものはあるだろう。

ディーキンは先日のここでの演奏で、その事に思い至ったのである。

 

大好評を博して演奏を終えた、その時にはただ満足していた。

だが、自分の演奏によって客の気分をすっかり変えてしまったらしいことに、後になって気が付いた。

客たちはみな、演奏が終わると瞳を輝かせ、上気した満足そうな顔でそのまま店を出ていった。

歌によってすっかり気分が変わり、それ以上酒を飲んだり、女の子といちゃついたりという気持ちではなくなってしまったらしいのだ。

 

別に給仕の少女たちや、店のオーナーであるスカロンやジェシカが、迷惑だったと言ってきたわけではない。

それどころか、自分たちもまた聴きたいと、口々に演奏を褒めてくれた。

それでも、その日のそれ以降の店の売り上げや、少女たちがもらうはずだったチップの額を、自分が減らしてしまったのは確かだろう。

 

自分だけの演奏会なら、それでもいい。

だが、せっかく雇ってもらったというのに、店の売り上げや従業員仲間の稼ぎに悪影響を及ぼすようではいけない。

長い目で見れば自分の演奏を目当てに来てくれる客なども増えるのかもしれないが、そんな先のことより、当面の改善をする努力をしなくては。

だから、今日はもっとこの店の雰囲気に合っていそうな、恋の話とかそういうのにも挑戦してみよう、と決めていたのだ。

 

このハルケギニアへ来てから、自分はずいぶんあっさりと一般の人間にも受け容れてもらえるようになった。

そのためか、受け容れてもらうことがまず大事でその後のことは二の次だった以前には気付かなかったことにも、色々と気付くようになった気がする。

 

そして、新しくいろいろなことにも挑戦できる。

これまでは数少ない人前で歌う機会に、わざわざ専門外の題材を披露しようと考えることは決してなく、挑戦してみる機会もなかった。

けれど、バードとして芸の幅や深みを増すことは、大切なことだろう。

 

本当にここへ来てよかったと、ディーキンは改めて、ルイズをはじめとするいろいろな人々や、運命の導きというものに感謝していた。

しばらくそんな感慨にふけった後、咳払いをすると、ちょっと気取った感じで胸を張る。

 

「オホン……、それでは。

 今宵は、ディーキンが竜退治の英雄のお話をいたしましょう。

 偉大な英雄、宿敵たる龍、英雄の帰りを待つ姫君、姫君を守る血塗れの騎士、そして知恵深き魔女の織り成す物語を――――」

 

彼なりに、壮大な叙事詩に似合いそうなおごそかな調子を装ってそう語った。

そうしてから、いよいよリュートを手に取ると、物語形式の詩歌を演奏し始める……。

 



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第三十八話 Story of the dragon and the love

~~♪

 

 

深夜の魅惑の妖精亭に、耳に心地の良い歌声と、美しいリュートの音色とが静かに響いている。

 

ディーキンが今披露している詩歌は、竜退治の英雄行に出かける勇者とその周囲の人々にまつわる異世界の物語だ。

だが事前に宣言していた通り、恋愛物語的な要素も強いものだった。

 

物語の主人公はエロルという名で、とある辺境の地の若き領主。

婚約者である良家の姫君レツィアとの結婚を間近に控えたエロルは、突如領地に現れた緑竜から己が民を救うべく、自ら立ち上がる事を決意するのだ。

 

彼はまず、いかなる攻撃も通じぬ竜を打ち倒し得る武具を求めて、親友でもある近衛兵ベルガーひとりを連れて探索行に出る。

 

途中で、2人は領地の民が事あればみな頼りにするという森に棲む善き魔女に出会い、彼女から助力を受ける。

最初は彼女の若さと魔女という肩書きに疑いの目を向けるエロルも、やがて彼女の深い叡智や善良さを知り、敬意を抱くようになっていく。

そして苦しくも温かさのある旅の末に、ついにエロルは竜の厚い鱗をも貫けるという黄金の槍を手にした。

 

次に来るのは、魔女とエロルとの別れの場面。

 

魔女もまた旅を通してエロルに惹かれており、別れる前に自分の気持ちを彼に告げるのだ。

孤独な暮らしで人との深い交わりに慣れていない若い魔女の、不器用ながらも真摯で情熱的な求愛。

エロルはそれを聞いて辛そうな顔をするが、故郷に残してきた婚約者に対する自分の気持ちを説明する。

自分は故郷と領民だけではなく、彼女を助けたいからこそ自ら命を懸けようと決めたのだと。

 

初めての恋が破れた魔女は深く悲しむが、最後には笑顔でそれを受け入れる。

そして、これからはあなたのことを兄と思って慕おうと言い、エロルのために夜も寝ずに作った護符を渡して彼を静かに見送る……。

 

 

 

「んん~~……、トレビアン」

 

先程までの喧騒もぴたりと止み、客も店の少女たちも、みなうっとりした様子で物語に耳を傾けている……。

店の奥の方からそれを見て、スカロン店長は組んだ掌を頬に寄せて目を輝かせながら、腰をカクカク振って嬉しそうにしていた。

 

スカロンは、その女性的な口調に反して筋骨逞しい男性的な体格をしていた。

シエスタと同じ艶のある金属光沢の黒髪にオイルを塗って撫でつけ、さらにぴかぴかに輝かせている。

大きく胸元の開いた紫のサテン地のシャツからは同じく艶のある黒い胸毛をのぞかせ、鼻の下と見事に割れた顎には小粋な黒ひげを生やしている。

 

彼もまたアアシマールらしく印象的な容貌の持ち主だが、美しいと思うかどうかは人によってかなり好みが分かれそうだ。

そんな姿の男が腰を振る様子は人によってはかなり異様に感じられただろうが、今はみな歌に夢中で気に留めるものもいないようだった。

 

「ディーキンちゃん、本当に素敵ねえ。

 店の女の子がかすんじゃうくらい、お客さんのハートを掴むのがじょうずだわん」

 

横の方で、スカロンの娘のジェシカが同じようにディーキンの方を見ながら、父の言葉に満足そうに頷いた。

 

「そうね、シエスタが初めてあの子を連れてきたときには、いろいろな意味で心配したけど……。

 あの子が毎日うちで働いてくれたら、これまで自慢にしてきた魔法人形の演奏も、お払い箱になっちゃうわね」

 

ジェシカの容貌は、父親と同じく艶のある金属光沢の長いストレートの黒髪に、太い眉。

シエスタとは大体同じくらいの年だろうか、飛び抜けて美人というほどではないが、愛らしく、全身から華やいだ活発そうな雰囲気を漂わせていた。

豊かな胸の谷間を強調するような胸元の開いた緑のワンピースを着ていて、奔放というほどではないが、解放的な印象を受ける。

 

彼女もまたアアシマールのようだが、高貴さよりも親しみやすさが前面に出ていて、すっかり街娘に溶け込んでいる。

その雰囲気や装いなどから見ても、少なくともシエスタほど秩序寄りな性格ではなさそうだった。

 

(いえ、それどころか、私たちのサービスもなくてもいいくらいになるかもね……)

 

ジェシカはそう、心の中で呟いた。

 

なにせ普段は下心丸出しで来ている客たちが、酒や料理はおろか、目当てだったはずの給仕の少女たちにまで目もくれずに聞き入っているのだ。

曲の雰囲気に当てられたのか、普段はガードが固い少女たちの幾人かがうっとりして客に寄り掛かったり、腕を組んだりしてくれているのにもかかわらず。

一旦演奏が終われば曲の雰囲気の余韻も手伝って、店の少女たちとの『束の間の恋』に、また一層熱心に精を出しはじめるのだろうが……。

 

ジェシカは同じように静かに曲に聞き入りながらも、内心僅かに苦笑して肩を竦めた。

 

(……まあ、あの子がすごく上手なのは確かだけどさ)

 

ジェシカが他の少女たちほど歌の世界にのめり込めなかったのは、ここまでの話の筋書きに納得がいかず、あまり感情移入できなかったからだった。

何もせずに故郷で待っているだけの婚約者よりも、命懸けで彼を助けた魔女の方にこそ見返りを求める権利があろうというものだ。

 

(そんなにそのエロルだかが好きなら、身を引くとか妹としてだとか綺麗事言ってないで押し倒しなさいよ、まったく……)

 

本当に無我夢中で好きなら押し倒せるはずだ、というのがジェシカの見解である。

彼女は小さく溜息を吐くと、ディーキンの主人だという貴族の少女と一緒に夢中になって歌に聞き入っているシエスタの方を見て、肩を竦めた。

 

あんたも、好きな相手にはいつまでも遠慮してないでさっさと積極的に行かないと、取り逃がしちゃうんだから。

 

 

 

―――そんなスカロンやジェシカの思惑をよそに、物語は続く。

 

 

 

 勇ましきエロル、緑深き森の地の大公

 

 今こそ、愛する人に別れを告げて旅立たん

 己の民を脅かす、おぞましき緑竜を討たんがため

 

『我は、今こそ槍とならん。

 戦うために放たれて、飛び往くことが槍の定め。

 槍は折れる事など恐れはせぬ。

 さらば、ふるさと。

 さらば、愛する人よ』

 

 憂いるレツィア、エロルの婚約者たる美しき姫君

 

 今、愛しき人の旅立ちを見送らん

 与えられるものもなく、ただ力になれぬ己の身を嘆く

 

『そうして、あなたは行ってしまう。

 私にはそれを、止めることもできない。

 あなたの、力となることも』

 

 ……

 

 

 

魔女とエロルの別れの場面も終わり、ディーキンが今歌っているのは、今度は決戦を間近に控えて故郷に戻ったエロルとレツィアとの別れの場面である。

 

レツィアには魔女とは違い、彼を助ける力もなければ、与えられるものもない。

これまでも毎日、胸の締め付けられるような思いをしながら、ただ愛する人の無事を祈ることしかできなかった。

 

これ以上、そんな日々には耐えられない。

けれど、彼を引き留めることもできない。

 

だから彼女は、戦いに赴くエロルに、誓いの言葉と明日に残る契りとを求める。

 

 

 

『ああ、どうか、必ず戻るといってください。

 槍として死なず、私の下へ戻ると約束してください』

 

 エロルは力強く恋人を抱き締めると、その額に口付けた

 彼女を、なんとか安心させたかった

 いよいよ別れるという時になって、彼女の悲しむ顔を見たくはなかった

 

『愛しき人よ、ならば、我は誓おう。

 再び戻りし日には、永久の契りを果たさんことを』

 

 エロルには、絶対に戻るとは誓えなかった

 内心では既に半ば、覚悟を決めていたのだ

 二度と戻れぬかもしれぬと

 

 だから、戻った時のことを誓った

 そんな日が、果たして来るかどうかもわからないままに

 

 そんな空々しい誓いの言葉には、レツィアも騙されない

 彼女はなおも悲しげな顔で、婚約者を問い詰めた

 

『ならばなぜ、今ここで抱こうと、言ってくれないのですか?』

 

 ……

 

 

 

レツィアは、空約束に終わるかも知れぬ婚約者の言葉だけでは満足できない。

 

私には、あなたに与えられるものがなにもない。あなたの力になることもできない。

だから、せめて私自身を与えたい。少しでも、あなたの慰めになれると思いたい。

そうして自分の中に、確かに愛し合った印を残していってほしい。

だから、来ないかもしれない明日ではなく、今ここで愛してほしい―――。

 

エロルも愛する人からの熱意を込めた誘いに、一度は振り向いて彼女に手を伸ばしかける。

だが彼は葛藤の末、結局は婚約者を抱き締めることなく、再び背を向けてしまう。

 

 

 

(……どうして?)

 

演奏にじっと聞き入っていたタバサは、そんな疑問を抱いた。

 

先程からずっと本も開かずに、食い入るようにディーキンの演奏する姿を見つめている。

彼女を知るものがその姿を見れば、歌にひどく夢中になっているのは明らかだった。

 

(なぜ、好きな人に背を向けるの?)

 

魔女に対して、あれほど切なげに婚約者に対する想いを語っていたというのに。

ましてや、これが最後かもしれないというのに。

なぜ? どうして、それほど好きな相手を腕に抱かない?

 

余程に感情移入しているのか、無表情ながらも瞳がやや切なそうに潤んでいる。

そんなタバサの疑問に答えるかのように、ディーキンが切々としたエロルの返答を歌い出した。

 

 

 

 

『愛しい人よ、許してくれ。

 

 あなたをこの腕に抱いたなら、私の勇気は萎えてしまうだろう。

 あなたを二度と、離したくなくなってしまう。

 あなたの下から離れては、生きていけなくなる。

 

 だから、どうか背を向けることができた今のうちに、このまま行かせておくれ。

 民に対する、私の義務を果たすために』

 

 ……

 

 

 

「…………」

 

タバサは、その答えに完全に満足したわけではなかった。

だが、この英雄の気持ちを、少しは理解できたような気がした。

 

レツィアは自分の気持ちに従い、自分のために愛を求めた。

だがエロルは自分の気持ちを抑え、民のために愛に背を向けて勇気を取ったのか。

 

(……私は……、どっちなんだろう?)

 

タバサはふと、そんな事を考えた。

自分の心は、レツィアとエロルのどちらの方により近いのだろうか?

 

何年か前の、まだ戦いとは無縁だった頃の自分ならば、間違いなく姫君の方だったろう。

その頃の自分は、勇者に憧れるよりも勇者に助けられる囚われの少女に憧れるような少女だったから。

愛する英雄の無事をただ祈って、彼が戻って自分を迎えに来てくれるのを待つ姫君に自分を重ね合わせたはずだ。

 

けれど、今の自分なら、そんなことはしない。

無事に戻って来てくれるかもわからない英雄をただ待って何もしないでいるなんて、そんな自分は許せない。

たとえ竜を相手では敵わなくとも、自分も間違いなく戦いに行くだろう。

 

(でも、私には、彼のような選択はできない……)

 

自分には姫君のようにただ待っているような選択はできないが、不特定多数の民のために命を捨てて戦う道も選べそうにない。

今、母国からの命令に従って命がけの任務に務めているのも、ひとつには身内である母の命を守るため、そしてもうひとつには自分の復讐のため。

たまに請われて人助けをするくらいのことはあっても、普段からそのために戦っているわけではない。

決して、任務をこなすことで多くの人々を守りたいからとか、そんな立派な気持ちから命を懸けているわけではないのだ。

 

ましてや、愛する人に背を向けてまで義務に生きるなんて。

貴族として、タバサにもそのような生き様が誇り高いものだという思想はあったが、どうしても納得しきれない。

姫君のようにただ祈って待つ道は選べないけれど、この場面では、むしろ彼女の方に感情移入してしまう。

 

そうだ、今の自分は姫君ではない。

けれど、英雄でもない。

じゃあ、一体今の自分は……、なんなのだろう?

 

所詮は物語のこと、そんなことを真剣に考えても埒もないとはタバサにもわかっている。

だというのに、なぜかその考えは、なかなか頭を離れてくれなかった。

 

 

 

さておき、歌の世界と自分の思索とに深くのめり込んでいるタバサをよそに、物語はさらに続く。

 

 

 

『愛しき人よ、君にひとつ、頼みがある。

 戻りしその時には、どうかすぐに、暖かい食事で迎えてはくれまいか。

 竜退治で骨を折った後には、君の手料理が恋しくなっているであろうから』

 

 姫君は、成すべきことを得て歓喜した

 

『愛する方よ、ならば約束します。

 あなたが戻られるその日まで、私は待ちましょう。

 その日まで、毎日あなたのために、手料理を用意しておきましょう。

 あなたのお好きな豚のあばらの煮込み、柔らかい鳥の足、ローズマリーのスープ、それに……』

 

 ……愛し合う恋人は、そうして未来に夢を託した

 大事を前にして、未だその行方も分からぬままに―――――

 

 ……

 

 

 

結局レツィアがエロルのためにできることは、彼のために毎日、料理を作ること。

 

そんなものは所詮、おまじないに過ぎない。

だが、実際に神が声を掛けてくれなくても、神々への信仰が人々の心の支えとなるように。

毎日料理を作り続けて待つ限り、彼はいつか戻ると彼女は信じる事ができるはずだ。

 

だが、彼がもし、永遠に戻らなかったら?

その行為はまじないから、彼女を縛る呪いへと変わってしまうのではないだろうか?

 

だとしても、永遠の愛などが都合のいい幻想に過ぎないのと同じように、永遠に解けない呪いもない。

いつか、彼女は新しい相手と幸せを見つけられるはずだ。

まじないは、ただその日まで彼女の心を支え続ける、儀式でさえあればよいのだ……。

エロルはそう、考えたのであろう。

 

それを裏付けるように、この後、親友である近衛兵と別れたはずの魔女が姿を現し、自分たちも共に戦おうと申し出てくる。

 

だがエロルは、近衛兵には自分がいない間婚約者の身を守ってくれるようにと命じ、同行を断った。

自分が戻らなかったときにはこの友人と、という気持ちがあったのに違いない。

魔女には、あなたは領民にとってなくてはならない人だから、これからも人々の願いを聞き届けてやってほしい、と頼んでやはり後に残す。

 

そうしてエロルはついに旅立ち、ただ一人で竜の棲む森の奥深くへと分け入っていく……。

 

 

 

(ディー君ってば、無邪気な子供みたいな顔をして、こんな歌も上手に歌えるのね)

 

キュルケもまた、感心してうっとりと歌に聞き入っていた。

 

ただ、彼女はジェシカと同じでそこまで深く歌の世界に入り込んではいないらしく。

時折周囲の客たちや自分の連れの様子を横目で眺めては、僅かに苦笑したりもしていた。

 

いい年をして子供のように熱中している客の男たちや、しばし仕事も忘れてうっとりと聞き入っている給仕たち。

頬を紅潮させ、目をきらめかせて真面目に聞き入っているルイズやシエスタ。

それに、意外なほどに夢中になっているらしい自分の親友……。

 

(まったく……、みんな素直なものよねえ。

 男ってものは大体、こういう話が大好きなのかしら)

 

男たちは英雄の覚悟に憧れや共感を抱くのか。

あるいは単に、帰りを待ってくれる姫君がいるというシチュエーションが男の夢なのか。

給仕たちも、いつか白馬の王子ならぬ英雄が迎えに来てくれるのを待つということにロマンを感じたりしているのだろうか。

ルイズは、大方貴族として自分の義務のために愛も命も顧みないエロルの姿に憧れているのだろう。

シエスタのことはまださほどよく知らないが、性格的にはかなり規律を重んじる性質らしいからルイズと似たようなものなのだろう。

タバサは、切なそうな様子からすると姫君に惹かれているのだろうか。そんなロマンチックなところがあるとは知らなかった。

 

キュルケ自身はといえば、この物語の登場人物たちの行動にはいささか不満であった。

 

特にレツィアだ。

キュルケはああいう、トリステインの貴族によくあるお行儀だけ良くて行動力の足りない女は好かないのだ。

 

自分なら、誘いを拒んで出ていこうとする恋人はしがみ付いてでも引き留めて、愛を受け容れさせるだろう。

いやそもそも、家で待つなんてしないで自分も一緒に戦いに行く。ツェルプストーは軍人の家系なのだ。女だって戦える。

 

毎日料理を作って待つ? そんないじくらしいことなんてしていられるものか。

自分には恋人がもし帰らなかったら、何年も待てる自信はない。

一年は待てるだろう。三年でも待てるかもしれない。でも、五年待てるとは思えない。

そんな自分など想像もつかない。きっと、そのうちに昔の約束にはきっぱりとけじめをつけて、新しい恋を探しに行く。

 

エロルは確かにいい男(キュルケにとっては英雄かどうかよりも大事なことだ)なのだろうが、女を見る目がない。

魔女や近衛兵のように、聞き分けのよすぎる態度も好きじゃない。

自分なら友人の命が危ないかもしれないという時に、断られようと力にならずにはいられない。

 

まあ、これは物語なのだから、と言ってしまえばそれまでだが。

 

(だけど、微熱じゃなくて、いつか体が焼き尽くされるような激しい恋に身を焦がしたら……。

 私もそんな気持ちになったりするのかしら? ……まさかねえ)

 

 

 

「――――うん、今日はここまでにするよ。

 竜退治の行方と、その後のみんながどうなったかについては、また別の夜にね」

 

ディーキンはそういって丁寧にお辞儀をすると、長い演奏をひとまず終えた。

 

あちこちから、今すぐに続きをとせがむ声が上がるが、時間を考えるとどの道、どこかで一旦演奏を区切らねばならなかった。

それに、自分の演奏だけで店じまいまで引っ張って、また店の売り上げに悪影響を与えるようなことはしたくない。

 

ディーキンは観衆を上手く宥め、物語を伴わない短く軽快な楽しい音楽などをアンコール代わりに2、3曲披露することで演奏を切り上げた。

 

その後はもらったたくさんのおひねりの半分以上を、観客へのお礼と店への還元を兼ねて皆に酒と食事を振る舞うのに費やし。

あちこちの席を回って大勢のお客や給仕らと知り合い、仲良くなって、楽しい一夜を明かしたのであった……。

 



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第三十九話 Chat

盛大な宴から一夜明けた、『虚無の曜日』のうららかな午後。

 

ディーキンは昨夜は『魅惑の妖精』亭での演奏が終わった後、ルイズらや熱狂した観客たちと一緒に明け方近くまで宴を続けて……。

流石にみんな眠くてたまらなそうだったので、スカロンに頼んで空いている部屋を一部屋借りて、そこで全員一緒に、ぐっすりと眠った。

ディーキン以外は全員女性だが、ディーキンは子どもっぽいし何よりも亜人であるので同室でも特に問題にはされなかった。

 

まあルイズは、学生の身で夜更かししてしまった事や、部屋が汚くて狭いこと、平民やキュルケと一緒に寝ることなどにぶつぶつ文句を言ってはいたが。

何分、あまり強く不平を言ってまたディーキンに意見されるのも嫌だったし、何よりも眠気には勝てないものである。

 

そうしてゆっくり休んだ後、正午辺りになってようやくみんな起き出したので、ジェシカたちに別れを告げて街へ繰り出した。

 

ディーキンはまず、美味しそうな料理店を見繕って、みんなに昼食を奢った。

昨夜貰ったおひねりは既に半分以上は宴で消えていたが、それでも数エキューは残っていたので、学院の食堂にも劣らない豪勢な昼食を摂ることができた。

 

それから、先日貴金属等を預けた店に、換金したお金を受けとりに出向いた。

 

とりあえず当面の資金にと換金を頼んだ分は、あわせて五千エキューあまりの額になったようだった。

少々額面が大きくて貨幣だけではかさばるので、八割方はハルケギニアの基準で通用する交易用延べ棒で受け取り、残りは金貨で用意してもらった。

 

ルイズやシエスタはあまりに大金なことに驚き、キュルケも目の色を変えていたが……。

実際のところディーキンとしては、そんなに大金だとも思っていなかった。

フェイルーンでは高レベルの冒険者の買い物は高額なマジックアイテムや魔法武具などで、一度に金貨数百枚から数万枚分も支払う事がザラにある。

もちろん数万枚ともなれば全部貨幣では払っていられないので、宝石や延べ棒を使うことも多い。

 

とはいえフェイルーンでも、大半の一般人にとっては金貨五千枚といえば、生涯働いても手にすることのできないであろうほどの大金なのだが。

高レベルの冒険者というものは、一般人とは金銭感覚が相当にかけ離れているのである。格差の大きい社会なのだ。

ただし、冒険者というのはそれだけの価値を認められる、恐ろしく危険の伴う仕事だということでもある。

一般人が何十人束になっても勝てないような怪物とも頻繁に戦うのだから、一概に不公平だともいえまい。

 

「ええと、ところで……、ルイズ?」

 

「……ん? 何よ?」

 

友人の少女たちに囲まれてのんびりと王都を見物して歩きながら、ディーキンはふと思い出したことがあって、ルイズに声を掛けた。

 

「ディーキンはね、もっとルイズの役に立ちたいと思うの。

 だってディーキンは、ルイズの使い魔だからね?」

 

唐突にそんなことをいわれて、ルイズは嬉しさ半分、困惑半分といった感じで、首をひねった。

 

「……ええと、その、ありがと。

 でも、あんたはもう十分役に立ってくれてると思うし、感謝してるわ。

 なんでまた、急にそんなことをいい出すのよ?」

 

「ええと、つまり……、ディーキンは今のコボルドのバードのままで、十分ルイズの役に立てるかが心配なの。

 ディーキンは大して強くもないし、魔法の相談に乗るのだってエンセリックの方が得意でしょ?

 だから、ええと、何か……、新しい訓練を始めたらどうか、って思ってるんだよ」

 

「新しい訓練……って、何よ?」

 

今ひとつディーキンの言わんとするところがわからず、不思議そうに首を傾げるルイズ。

シエスタ、キュルケ、タバサも、興味を惹かれたようにディーキンの方を見つめる。

 

「ンー、ディーキンの一番の仕事は、ルイズを守ることなんだよね?

 いつか危ないことが起こった時にルイズを守って戦うなら、ファイターとかの戦士になるのもありかな、って思うの」

 

今のディーキンにも、肉弾戦闘ができないというわけではない。

しかし、ディーキンの戦士としての強さは主に経験と基礎身体能力の高さに依るもので、戦士としての専門的な技巧はさほどない。

もちろん戦い方の基本くらいは抑えているし、実戦経験も積んでいるが、洗練された高度な戦闘訓練を受けたことはないのだ。

 

一応戦えるというだけで、誰かを守って戦えるほどの力があるかといえば実に心もとない……。

少なくとも、ディーキン自身はそう思っていた。

 

(それにディーキンが勉強すれば、シエスタにももっとちゃんとした戦い方を教えられるようになるかもしれないしね……)

 

ディーキンとしてはシエスタにもう少し戦士としての技巧を身につけてもらいたいのだが、生憎とディーキン自身にも今のところ大した心得がない。

基礎的な訓練以上のものを教えるには、自分自身がもう少しそういった技巧を身に付けることは有益かも知れない。

 

戦士になるのではなくドラゴン・ディサイプル(ドラゴンの徒弟)としての修練をさらに続けるというのも、一応考えてはみた。

 

竜としての力を覚醒させてゆくこのクラスは、純粋な前衛戦士としてのそれではないものの、肉弾戦にも大きな力を発揮できる。

事実、ディーキンはこのクラスの修練を始めてから、コボルドの域を越えた超人的な身体能力を身に付けてきた。

他にも、魔力容量の大幅な拡張や、ブレスを吐いたり飛行したりする能力、視覚に頼らない鋭い知覚力など、このクラスの修練から得られた恩恵は大きい。

 

しかし、ドラゴン・ディサイプルとして身に付けられる力は、シエスタに訓練を施す上では、あまり有用ではありそうにない。

このクラスは戦士としての技巧を磨いて強くなるというよりは、身体能力を超人的に高めて強くなるものだからだ。

その問題を解決できないのでは、ドラゴン・ディサイプルとして修練を続ける意味は薄い。

 

自分自身の戦士としての力を高めるという点においても、これ以上ただ単に身体能力を高めようとするのが最適な方針とは思えない。

戦士として腕を磨き、現在の自分に欠けているそういった専門的な戦いの技巧を身に付ける方が、より有益だろう。

それに、ディーキンは既にドラゴン・ディサイプルとしての修練によって、己の身を半竜として覚醒させ終えているのだ。

このクラスが目的とするところは竜となる事であり、ディーキンは既にその目的を達している。

この上さらに修練を積んでも、あまり有意義な結果は得られないかもしれない。

 

「でも……、こっちのほうでは魔法使いの方が戦士より頼りになる、っていう考えなんだよね?

 それに、魔法の勉強をすればルイズの相談にも、もっと乗れるかもしれないから……。

 バードよりもっと魔法の専門家として勉強をする、っていうのもいいかもね」

 

本格的な魔法の勉強をするとなると、第一の候補はやはりウィザードやソーサラーだろう。

しかし……、今さら一からそんな本格的な専業職として訓練を積み直す、というのは現実的な選択ではないだろう。

 

戦士と魔法の両天秤でダスクブレード(黄昏の剣)などというのもあるかもしれないが、いかにも中途半端だ。

 

ダスクブレードはバードと同様魔法戦士系のクラスであるが、多彩な芸能にその才能を振り分けるバードと違い、生粋の戦闘者だ。

剣技においては純粋な戦士にもそうそう引けを取らず、単純な戦闘能力という点ではバードに大きく勝るだろう。

とはいえ、やはりいまさらバードから転向して一から修行し始めても、あまり報われるとは思えない。

 

魔法を伸ばす選択をするなら、半端なクラスを一から選ぶよりももっと特化しているクラス。

それでいて、既に習得しているバードとなんらかのつながりがある、これまでの経験を活かせるクラスを選択すべきだろう。

そうなると……。

 

「うーん、もしディーキンが今から魔法をもっと勉強するのなら……。

 サブライム・コード(崇高なる和音)になるのが、一番いいかもしれないね」

 

音楽と魔術、根を同じくするその2つの力にバード以上に深く通じる学究の徒。

時の曙に聞くことのできたという伝説の創造の歌を探求する彼らは、音楽の力を持って時をも操り、宇宙の根源のエネルギーを引き出しさえもするという。

 

ビガイラー(欺く者/楽しませる者)やウォーメイジ(戦の魔道師)なども、一応考えてはみた。

だが、どれも今ひとつピンとこないし、バードとのつながりもない。

バードとしての経験を活かし、なおかつ魔法に関する理解と力とを高めていくのであれば、サブライム・コード以上のクラスはあるまい。

 

「もちろん、ディーキンにはルイズをがっかりさせるつもりはないよ。

 もしルイズが、このままディーキンがバードを続けるのが一番だって言うなら、ディーキンはそれで幸せなの。

 どうする?」

 

「ど、どうするって、そんなこと急にいわれても……」

 

ファイターはなんとなくわかるけど、サブライム・コードってのはそもそも何よ? ……とルイズは思ったが。

まあ文脈からすれば、要するに今よりも魔法が得意な職業ということなのだろう、と理解した。

 

とはいえ、唐突にそんな事を聞かれても返答に困る。

そりゃあ、戦士と魔法使いの両方になれるんだったらハルケギニアの常識的に魔法使いの方が断然いいんじゃないか、とは思うが……。

別に現状のディーキンに不満などがあるわけでもないし、どうしたものか?

 

「その、先生はもう十分強いとは思いますけど……。やっぱり、向上心が大切なんですよね」

 

「ふうん。ディー君が今よりもっといろいろな事をできるように勉強しようってこと?

 あなたの歌はすごくいいし、このままでいてくれても全然いいとは思うけど、面白そうね」

 

「興味ある。あなたの言った職業について聞きたい」

 

他の3人も次々に口を挟む。

そうして楽しく雑談や相談などしながら、いろいろ見て回ったり買い物をしたりして、5人で楽しく休日を過ごしていた。

 

もう少し後で、昨夜から長時間にわたって放置されたシルフィードにディーキンとタバサは散々文句を言われるのだが、それはまた別の話である。

 

 

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所変わって、こちらはトリステイン魔法学院。

 

「ミスタ・コルベール」

 

「おや、ミス・ロングビル。こんなところでなにを?」

 

自身の研究室へ向かう最中に突然思いがけない人物に声を掛けられたコルベールは、間の抜けた声を出した。

ここは彼女の普段仕事をしている場所とは離れている。

それに、今日は休日だ。ここは来て楽しいようなところでもない。

 

「いえ、遠くから姿をお見かけして。休日なのに熱心に研究をしておられると思いまして……。

 他の教師の方々は大概休むか出かけるかしておられますのに、勤勉ですのね」

 

「そ、それは、どうも……。いやあ、ただ、暇人で。趣味でやっておるだけでして……」

 

照れくさそうに顔を赤くして、コルベールは相好を崩した。

 

内心、この女性秘書にいささか気があるのである。

そんな相手に御愛想程度とはいえわざわざ声を掛けられ褒められて、多少舞い上がるのも致し方ない。

 

ミス・ロングビルは、そんな彼の様子を見てにっこりと微笑んだ。

そして、多少くだけた調子になって話しを続ける。

 

「ねえ、ミスタ・コルベール」

 

「は、はい? なんでしょう?」

 

密かに懸想していた相手からそんな声を掛けられたコルベールは、跳ねるような調子で答えた。

そして彼女の次の言葉で、完全に舞い上がってしまった。

 

「もし、よろしかったら、なのですが……。

 もう少ししたら、夕食をご一緒にいかがでしょうか?」

 



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第四十話 Bald head

 

夜のトリステイン魔法学院。

窓から二つの月の光が差し込む学院のとある休憩室で、ロングビルとコルベールは遅い夕食の卓を囲んでいた。

 

ロングビルがここで食事をしようと提案したのには、いくつかの理由があった。

 

まず第一に、ここは『火』の塔にある部屋で、女子生徒らの寮が近いということだ。

コルベールの研究室もこの塔の傍にあるので、あまり不自然なく誘うことができる。

それに、まずないとは思うが、コルベールが興奮して食事中に自分に手を出して来たりしたら予定が狂いかねない。

万が一にもそんなことのないように、傍に女子生徒らの部屋があって迂闊に不埒な真似などのできない場所として選んだのだ。

 

そして第二に、こちらこそが本当に重要な点なのだが、この場所は宝物庫のある本塔から程よい距離にあるということだ。

具体的には、窓から本塔のおおまかな様子が見える程度には近く、何かあってもすぐには駆けつけられない程度には離れているのだ。

 

今の自分の目的を考えれば、この場所は実に都合がよい。

これからの予定について思いを巡らすと、学院長秘書ミス・ロングビルこと『土くれ』のフーケは、ひそかにほくそ笑んだ。

 

それから、かちこちに緊張して顔を赤くしながらも、なんとかこちらの気を惹こうと様々な話題を振ってくる目の前の中年教師のことを考える。

 

コルベールは、たかが同僚の女性から同じ学院内での夕食に誘われた程度のことで、滑稽なほどに着飾ってきていた。

頭に馬鹿でかいロールした金髪のカツラを乗せ、レースやら刺繍やらでゴテゴテに飾られた装飾過剰なローブを実に不恰好に着込んでいる。

最初にその姿を見た時、フーケは思わず吹き出しそうになった。

 

まったく、ちょろい男だ。

この間もちょっと食事の誘いに乗ってやっただけでデレデレして、まるで無警戒に宝物庫の弱点に関する考察だのをしゃべってくれた。

だからこそ、今回もこの扱いやすい男を利用してやろうと決めたのである。

案の定、今度はこっちから食事に誘ってやったというだけで、前以上に有頂天になっている。

 

単にこの間のお返しでこちらも誘っただけの、社交辞令の類だろうとは考えないのか。

もっとも彼に限らず、このあたりの貴族たちには、概していささか芝居がかって夢見がちな傾向があるような気はするが。

 

結局、前回この男から聞き出した考察は何の役にも立たなかった。

物理的な攻撃が弱点だなどと、まったく机上の空論もいいところだ。

確かに固定化以外の魔法はかかっていなかったから、物理的な攻撃を続ければいずれは破壊できるのだろうが……。

魔法以前に素の壁が分厚く頑丈で時間がかかりすぎるために、そんな手段は全然現実的ではない。

10分も20分も巨大ゴーレムでガンガン殴り続けていたら、その間に学院中のメイジが集まって来るだろう。

 

が……、とはいえ。

この男が学院の教師の中でもっとも勤勉で、いろいろと変わった研究をしているのは確かだ。

どう見てもうだつの上がらない、冴えない男なのだが、学院長からの信任も妙に厚いようだし……。

 

(もしかしたら、あの杖の使い方を知ってるかもしれないね……)

 

さほど期待してはいないが、まあ駄目で元々だ。

今回もまた上手く水を向けておだて上げ、さりげなく聞き出してみよう。

もしうまい具合に知っていて、口を滑らせてくれれば御の字だ。

 

「ミスタ・コルベールは本当に物知りでいらっしゃるわね。

 私などは無学なものですから、ミスタのお話についていくのが難しくて……。

 ……ああ、そうですわ。確かミスタは、宝物庫にある学院長秘蔵の2振りの杖のことなどご存知でしたわね?」

 

「え? ……あ、ああ! あれですか、ええ、それはもう、知っておりますとも!」

 

前回、宝物庫の弱点について聞き出そうとしたときに、コルベールがあの杖を見たことがあるのは確認済みだ。

まあその時は、まず宝物庫を破るのが優先で杖の性能などは二の次だったので、あまり詳しいことは聞かなかったのだが。

 

「ミスタ・コルベールは、本当に博学でいらっしゃるわ。

 私もこの間、『眠りの鐘』を取りに入った時に少し目にしたのですけど……。

 ミスタのおっしゃったとおり、両方とも奇妙な感じの杖でしたわね」

 

「い、いやあ……、光栄ですな。

 はは、博学だなどと……、ひ、暇にあかせて書物に目を通すことが多いだけで。

 ミス・ロングビルこそ、そ、聡明な上にお料理も上手ですな。

 こうして手作りの夕食などいただいてしまって。本当に多芸で素敵な方ですな。

 わ、わたくしなどは研究一筋とでも申しましょうか、はは。

 おかげで、この年になっても独身でして……」

 

フーケはその様子をにこやかな表情を繕って眺めながらも、内心では冷ややかに毒を吐いていた。

 

(そんなこと聞いちゃいないよ……。

 手料理食わせてもらったくらいで夢見てるんじゃないよ、このハゲ!)

 

ちょっと話を振ってやっただけでいちいち舞い上がってべらべらと、まったくウザったいハゲ親父だ。

余り物を挟んだだけのサンドイッチや、温めなおした昼間のミルクティーの残りをもらえたのがそんなに嬉しいか?

 

しかし、そんな胸中はおくびにもださずに、晴れやかな笑顔を維持する。

今回付き合っているのはいろいろと目的もあってのことなのだし、せっかく目当ての話も聞けそうなのだから、今しばらくは我慢しよう。

 

「……特に片方は、ずいぶん奇妙な形でしたわね。あんな杖、どうやって使うのかしら?」

 

「ああ、『破壊の杖』ですな。確かに、まったく奇妙な形でしたなあ。

 なんでもオールド・オスマンが昔助けられた恩人が持っていたものだそうですが……。

 使い方は……、そうですなあ、学院長しか知らないのではありませんかな」

 

それを聞いたフーケは、心中で忌々しげに舌打ちをした。

しかしすぐに気を取り直すと、目の前の男を信頼しきって期待に目を輝かせた女、のような表情を浮かべる。

 

「……そうですの。でも、ミスタ・コルベールのように博学な方でしたら、使い方の推測ぐらいはつくのではありませんか?」

 

「え? い、いやあ……。そ、そういわれると、ですな……」

 

舞い上がったコルベールは、ミス・ロングビルの気を引きたい一心で頭を働かせた。

宝物庫で許可をもらって杖を調べてみたときの記憶を、一生懸命に思い出す。

危険なものだということであまり詳しくは弄らせてもらえなかったが、それでもある程度の観察はしたはずだ。

その時に自分がした考察は、どんなものだったか?

 

「それはその、こうではないかという推測くらいは……、ええと……」

 

期待した顔で待ち続けるロングビルを失望させまいと頭をフル回転させて、どうにか十秒あまりで考えをまとめた。

そして、もったいぶって一つ咳払いをする。

 

「……おほん。ああ、失礼。

 その、まったくの推測ですが、それでもよければ……」

 

「かまいませんわ。それが正しいかどうかよりも、ミスタのお話だから興味がありますの」

 

フーケは机に肘をつくと、上目づかいにコルベールの顔を見つめる。

 

「そ、それは……、ま、まったくもって光栄ですなあ……。はは、は……」

 

すっかりのぼせ上ってゆでダコのように真っ赤になったコルベールは、額の汗を拭いてどうにか心を落ち着けると、真顔に戻って話し始めた。

 

「……突拍子もない話のようですが……、わたくしの考えでは、実はあれは杖でもマジックアイテムでもないのではないか、と思います」

 

「え……? まさか! だって、学院の宝物庫に秘宝として……」

 

「いや、そう思われるのはもっともです。順序を追って説明しましょう」

 

それから、コルベールはまず、自分がオスマンから聞いたこの杖にまつわる話をかいつまんで説明した。

 

それによると、オスマンは三十年ほど前、森でワイバーンに襲われ、その時に『破壊の杖』の持ち主によって命を救われたという。

その人物はワイバーンを、その杖から放った強力な魔法の弾丸のようなもので爆裂させて倒したらしい。

彼は見たこともないような服装の人物で、件の杖を2本携帯していた。

その後、深い怪我を負っていたその恩人はしきりに自分の故郷を想ってうわごとを吐きながら、手当ての甲斐もなく息を引き取ったそうだ。

そしてオスマンは杖の一本を彼の墓に埋め、もう一本を形見として宝物庫にしまい込んだ……。

 

フーケは、杖がもう一本あると聞くと早速その墓の場所を質問してみたが、コルベールもそれは教えられていなかった。

少々残念だったが、まあそれはまた機会があれば探ってみようと決めて、続きを促す。

 

「……さて、今の話によりますと……、杖が使われているところを見たのは学院長のみで、それもただ一度きりのことです。

 魔法の杖だと思ったのは、何かを撃ち出してワイバーンを一撃で爆発させて倒したという、ただそれだけの根拠によるものですな。

 ところが実際には、あの杖を『ディテクト・マジック』で調べてみても魔力は一切感知できません。

 それならば、実はマジックアイテムではなく、例えば火の秘薬から作った火薬を詰めた、炸裂弾のようなものを発射したのだとも考えられます。

 実際、あの杖の形は、メイジの杖というよりは銃や大砲の仲間だと考えたほうがまだ近いかと。

 持ち主の装いも、学院長でさえ見たこともないようなものだったということで、少なくともメイジ風ではなかったようですし……」

 

「……は、はあ、なるほど……。

 ……でも、魔力を感じないということに関しては、隠蔽してあるということも考えられませんか?

 強力なマジックアイテムでしたら、そういうものもあるでしょう?

 それに……、見かけない装いの人物だったというのなら、東方とか、離れた場所から来た方だったのかもしれません。

 そちらのメイジはこちらとは装いが違うのかもしれませんし、たとえ杖ではなかったにしても、魔法の品である可能性は……」

 

「そうですな、それはありえます。

 しかし、私としては、その可能性は低いと思っています」

 

「……なぜですか?」

 

内心の不機嫌さが僅かに表情に出ているフーケの様子にも気付かず、コルベールは説明を続けた。

こうして一旦研究や分析の話を始めると、先程まで夢中になっていた相手のこともすっかり頭からなくなるらしい。

そのあたりはやはり、生粋の研究者気質なのであろう。

 

「ミス・ロングビルは、確か土のメイジでしたな。

 ならば、あの杖の材質が、非常に珍しい金属だったことに気付かれましたか?」

 

「ええ、見た事もないような、不思議なものでしたわ」

 

「あんな珍しい金属を使って奇妙な形に作り、それをカモフラージュもしていないのではどう考えても人目を引きます。

 その事から考えるに、『破壊の杖』の製作者にはその正体を隠そうとする意図はなかったはずです。

 ですから、私はおろかオールド・オスマンでさえ看破できないほどに完璧な魔力の隠蔽を施している、というのは考えにくいことです。

 それだけのことができる製作者が本気で品物の正体を隠そうとするのならば、もっと目立たない作りにするか、そう見せかけるくらいはできたはずです」

 

一通り説明を終えたコルベールは、そこで一旦言葉を切ると、温くなったミルクティーを啜って一息入れた。

 

「………」

 

フーケはその間に、少し眉根を寄せながらじっと今の話を検討してみた。

 

駄目で元々と大した期待もせずに聞いてみた話だったが、予想外に興味深い内容である。

真偽のほどはともかく、ただの冴えない中年教師だと思っていた目の前の男のことを、多少は見直した。

 

しかし……、もし仮に、今の考察が正しいとすると……。

あの『破壊の杖』はマジックアイテムではないということで、普通の場所で高値で売るのは難しくなるだろう。

 

第一、コルベールの言うように銃や大砲の仲間なのだとすれば、そもそも弾や火薬が入っているのかどうかがわからない。

入っていなければ使えないし、仮に入っていても、一発撃てばそれまでだということになる。

いや、たとえマジックアイテムだったとしても、元々の持ち主が“2本”持っていた、という今の話からすれば、どの道使い捨てなのかもしれない。

たとえば火石などを動力としていて、それを補充すれば再利用できる、というような作りならば、かさばる本体を2つも持ち歩く必要はないはずだ。

 

してみると、使うにしろ売るにしろ、大きく価値が落ちたと言わざるを得まい。

今までにないほど高性能の武器だとすれば、分析して量産を目指すようなしかるべき相手なら、相当の高値で買ってくれるかもしれないが……。

どうにも、そこまでする気は起きない。

自分は盗賊であって戦争屋ではないし、手間や危険の度合いを考えると割が合わないだろう。

 

残念なことだが、まあそれについては今ここでどうなる問題でもない。

フーケは気持ちを切り替えて、また笑顔を浮かべた。

 

「とても興味深いお話でしたわ。

 将来ミスタ・コルベールのお傍にいられる女性は、幸せでしょうね。

 こうして、誰も知らないようなことを、たくさん教えていただけるのですから……」

 

少し夢見るような、うっとりした調子でそう言われて、コルベールはまた一瞬で真っ赤にのぼせた。

がちがちに緊張したぎこちない動作で、禿げ上がった額の額の汗をぬぐう。

それから、少しためらった後、咳払いをしてキリッとした顔を作ると、ロングビルを真っ直ぐに見つめ返した。

 

「……お、おほん。その、ミス・ロングビル。

 明日、ユルの曜日の夜に開かれる、『フリッグの舞踏会』はご存知ですかな?」

 

「……フリッグ……、ああ、ええ。

 確か、学校主催のダンスパーティでしたね。それが、どうかしまして?」

 

「ははぁ、いや、御存知ないのは当然です。貴女は、ここに来てまだ二ヶ月ほどですからな。

 その、なんてことはない、おっしゃる通り、学生たちも参加する、単なる学校行事のパーティなのですが……。

 ただ、ここでいっしょに踊ったカップルは結ばれるだとかなんとか、そんな伝説がありまして、学生たちは毎年熱心でして……、はい」

 

「……それで?」

 

フーケはにっこりと笑って、続きを促した。

 

「その……、もしよろしければ、僕と踊りませんかと……。

 いえ! けっして、その、妙な意味合いではなくてですね、はい!」

 

ますます笑みを深めて、表面上は嬉しそうに装いながらも、フーケは心中うんざりしてきていた。

 

ガキじゃあるまいし、たかが学校行事の舞踏会で一緒に踊ったくらいで結ばれるだとか……。

たかがリップサービスごときでどれだけ浮かれてるんだ、この純情ハゲは。

 

(……ま、いろいろと情報提供してもらったことだし。

 青臭い伝説だのはともかく、ダンスくらい付き合わない事もないけどね……)

 

もっとも、今夜から明日にかけてはいろいろと騒ぎが起きる予定なので、中止にならなければの話だが。

 

「まあ……。ええ、喜んで。

 舞踏会も素敵ですが、今はそれより、もっとミスタとお話がしたいですわね。

 もう片方の『守護の杖』については、どうですの?」

 

さらりと流してサンドイッチやミルクティーのお代わりなどを勧めながら、フーケは先程の話の続きを促した……。

 

 

(……ふう。結局、どれもあんまりありがたい話じゃあないね)

 

おおむね目当ての話を聞き終えたフーケは、にこやかに食後のビスケットなどをコルベールに勧めながら、内心溜息を吐いていた。

 

あの後、もう一方の杖についても色々聞いてみたのだが……。

わかったことは、そちらの方は間違いなく強力なマジックアイテムだが、使い方はやはり誰も知らないらしいということだけだった。

 

何でも、十数年前に学院長の友人であるとある遠方の地の魔道師が置いていった品なのだとか。

その人物はエルミンスターと言う名の老人らしいが、コルベールも彼について詳しいことは聞かされていないという。

そして、その老人は杖をここに置いたまま、ここ十数年あまり学院に姿を現していないらしい。

オスマンならば、あるいは使い方を知っているのかも知れないが……。

 

となるとどちらの杖も、使い方を誰か知っていそうな教師から聞き出したり、おびき寄せて使わせてみたりして知る、ということはできないわけだ。

使い方不明の杖では、いくら学院のお宝だと言っても高値で売り飛ばす事などできようはずもない。

かといって、捨て値で処分するには勿体無さすぎる。

 

(学院の教師の誰にも使い方がわからないってんじゃ、自分で調べてみるってのも難しそうだし……。

 こりゃあ、あのエロジジイから直接聞き出すしかないか)

 

まあそのあたりは、なんとか機会を見て疑われないようにやってみよう。

それよりも、そろそろ予定の時間だ……。

 

フーケは窓の外にちらりと目をやって、予定通りに事が動き出したのを確認した。

それから、未だにかちこちに緊張して赤くなったままビスケットを無闇にかじっては、咽てミルクティーで流し込んでいるコルベールの袖を引っ張る。

 

「ミスタ、あれを!」

 

「え、……っ?!」

 

注意を促されて窓の外を見たコルベールは、たちまちぎょっとした顔になった。

 

何と、いつの間にか窓の向こうに見える本塔の近くに、身の丈30メイルはあろうかという、巨大な土ゴーレムが出現していたのだ。

ゴーレムは、ゆっくりと本塔の方へ歩いて近づいていく。

 

「……あ、あれは……。学院の中であんな巨大なゴーレムを、一体誰が……」

 

コルベールはそう呟きながら、困惑気味の頭でとりとめのない思考を巡らせた。

 

ただの土ゴーレムとはいえ、あれほどの大きさは少なくともトライアングルクラスの土メイジでなければ作れないだろう。

だが生徒の中に、あんなゴーレムを作れるような優秀な土メイジがいただろうか。それとも教師の誰かだろうか。

 

いずれにせよ、学院内であんな巨大ゴーレムを作るなど非常識にもほどがある。

一体何の目的で……。

 

そこまで考えて、コルベールはハッと思い当たった。

 

本塔には、宝物庫があるではないか。そして巨大なゴーレム。

ということは……。

 

「ま、まさか、『土くれ』のフーケとかいう盗賊では……!?

 ……し、失礼しますぞ、ミス・ロングビル! あなたはここに残っていてください!」

 

そういって慌てて部屋を飛び出していくコルベールの後を、フーケも追いかける。

 

「いえ、私も学院の職員の端くれですわ! ご一緒します!」

 

口では殊勝なことを言いながらも、口元には密かに笑みを浮かべていた。

今ならコルベールは背を向けて走っているから、表情を見咎められる心配もない。

 

もちろん、あのゴーレムはフーケの事前の仕込みによるものだ。

あれだけ巨大なゴーレムは普通、術者がごく近くにいなければ作成や操作をすることはできない。

だが土の精霊力の結晶であり、永続するゴーレムやガーゴイルなどを作成する際に用いられる『土石』を使用すれば話は別だ。

フーケは小さな土石の欠片を用いることで、時限式で巨大ゴーレムが作成され、宝物庫の壁を自動的に殴るように、事前に仕込んでおいたのである。

土石は貴重なのであまり大きい物は用意できなかったが、この程度のごく単純で短時間の自動操縦ならば小さな欠片でもなんとか間に合うのだ。

 

コルベールがやっと外に飛び出したときには、ゴーレムは既に宝物庫の壁を殴り崩していた。

 

「ああ……! なんということだ、宝物庫が!

 やはり、物理的な衝撃に対する備えが十分ではなかったのか!」

 

もちろんそれを聞いたフーケは、内心で彼を嘲笑った。

 

(十分じゃないのはあんたのお頭の方さ、ハゲ頭さん。

 お利口だけど、外面も中身も抜けてるんだよ!)

 

ゴーレムが堅牢な宝物庫の壁を短時間で殴り抜けたのは、フーケの事前の仕込みによるものだった。

宝物庫の外壁は固定化で守られていて容易に変成させられないが、内側は別である。

あらかじめ宝物庫の内壁の一角にある種の酸を塗り、数日かけてゆっくりと融かして、薄く脆くしておいたのだ。

その仕込みが進むのに時間がかかったのと、休日で人が少ない方が作業がやりやすいのとで、決行を今日の『虚無の曜日』まで待ったのである。

 

もちろん宝物庫の中の杖2本は、昨夜のうちに既に盗み出し済みだ。

普段から犯行後に現場に残しているサインも、その際に事前に書き込んである。

 

だが、今ゴーレムが現れて壁をぶち抜いたのをコルベールが証言してくれれば、誰もが犯行は今日のこの時間だと思うだろう。

ゴーレムだけなら、あるいは自動操縦の可能性を推測する者もいるかもしれないが、現に宝が盗まれ、現場にサインまで残っているのだ。

 

フーケが今、この時点で犯行現場にいて、ゴーレムで壁をぶち抜いて宝物庫に押し入ったのは疑いようもない。

まさか昨夜の内に既にお宝が盗まれていたなどとは、誰も夢にも思うまい。

ましてやその犯人が、コルベールと一緒に離れた場所から“犯行の瞬間”を目撃していた、この学院長秘書だなどとは。

 

(これで私は、完璧に容疑者から外れられるってわけさ……!)

 

フーケはほくそ笑みながら、急いで宝物庫の方へ向かおうとするコルベールの後を追った。

一生懸命な彼には気の毒だが、どんなに必死に急いだところで、お宝はもうとっくに盗まれた後だ。

 

ゴーレムの方は、壁をぶち抜いた後は適当に学院外の草原のあたりまで歩いてから崩れるようにセットしてある。

仮に彼が追い付いて攻撃を加えられたとしても、その前に破壊することはまずできまい。まあ、仮にできたとしても何も困らないが。

 

「……あら?」

 

そんなことを考えていたフーケは、ふと学院の外から、ゴーレムに向かって飛んでくるものに気が付いた。

 

「あれは……、昨夜の」

 

見れば、それは昨夜、女子生徒らを乗せて学院の外に向かって飛んで行った風竜であった。

 

どうやら、あれから今まで、ずっと学院外で遊んでいたらしい。

宝物庫を襲うゴーレムを見かけていち早く事態を察し、賊を取り押さえようとしているというところか。

 

案の定、竜の背のあたりからは火球や竜巻、それに妙な爆発の呪文などが放たれたが、ゴーレムはビクともしない。

学生にしてはなかなか見事な腕前らしいが、今は自動操縦で攻撃に対応したりはできないとはいえ、30メイル級のゴーレムに対しては無力なものだ。

 

(やれやれ。まったく最近のお嬢ちゃんたちときたら、やんちゃなもんだねえ……)

 

夜遊びが過ぎる上に、無鉄砲ときた。

学生ごときが、自分の巨大ゴーレム相手に何ができる?

 

「い、いかん! 君たち、相手は凶賊だ、うかつに手を出すな!」

 

コルベールも事態に気付いたらしく、彼女らに自重するよう呼びかけている。

まあ、実際には事前のプログラム通りに動くだけの自動操縦だから攻撃されても反撃などはできないので、無茶をしようと危険はないのだが。

 

 

 

「ぜんぜん、効いてないわね……」

 

シルフィードの上で、キュルケが悔しげに呻いた。

 

彼女とタバサ、それにルイズが同時に攻撃したが、賊のものと思しき巨大ゴーレムには堪えた様子がない。

せっかく居合わせたのに残念だが、ここは教師らに任せた方がよいだろうか。

 

そう思っているところへ、ディーキンが声を掛けた。

 

「ねえ、キュルケ。今の火の球が、キュルケの一番強い魔法なの?」

 

「違うわよ。……でも、私の一番強い呪文でもあのゴーレムは焼ける気がしないわね。

 残念だけど、今の手応えでわかったわ」

 

キュルケは肩を竦めると、お手上げだと言うように手を広げてみせた。

しかし、ディーキンは首を横に振ると、ぴっと指を立てて見せる。

 

「チッ、チッ。諦めたらそこで試合終了なんだよ。

 ディーキンもお手伝いするから、キュルケはもう一回、その一番強い魔法ってやつでやってみて!」

 

「お手伝い、って……」

 

キュルケはいささか困惑した。

しかし、ディーキンの自信と信頼に満ちてきらきら光る目を見ていると、何も聞かずにやってみようという気になった。

 

「オーケー、私の一番の炎をお見舞いしてあげるわ。ディー君はそのお手伝いってやつをしっかり頼むわよ!」

 

「もちろんなの、ディーキンはいつだって期待に応えるよ!」

 

それから、ディーキンはすうっと目を閉じて精神を集中すると、キュルケに贈り物を渡すかのように腕を振り、歌うような呪文の詠唱を始めた。

甘い旋律に乗った魔力が、包み込むようにキュルケの体に纏わりつく。

 

キュルケは一瞬驚いたように目を見開いた後、自信に満ちた笑みを浮かべて呪文の詠唱を開始した……。

 

 

 

「………なっ……!?」

 

フーケは思わず、驚愕の叫びを漏らした。

 

突然、先程とは段違いの、スクウェアクラスのメイジが放ったかのような凄まじい業火が竜の背のあたりから伸びて、ゴーレムの体を包み込んだのだ。

業火に晒されて脆くなったゴーレムの体に、さらに続けて、再度竜巻が叩きつけられる。

ゴーレムは耐えきれずにバラバラに吹き飛んで、ただの土の山に変わった。

 

呆気にとられて見上げるばかりのコルベールとフーケの前に、シルフィードがゆっくりと降り立った……。

 





ハーモニック・コーラス
Harmonic Chorus /調和の合唱
系統:心術(強制)[精神作用]; 2レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(音叉)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:精神集中、術者レベル毎に1ラウンドまで(解除可)
 術者は他の呪文の使い手の呪文発動能力を向上させることができる。
この呪文の持続時間の間、対象はその術者レベルと発動するすべての呪文のセーヴ難易度とにそれぞれ+2の士気ボーナスを得る。
この呪文はバードにしか習得できない。
 本文中のキュルケは、この呪文の効力によってスクウェアクラスのメイジ並みの術者レベル(魔力)でトライアングルスペルを放ったので、フーケのゴーレムに有効打を与えられたのである。


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第四十一話 Nightwatch

 

「ウーン……、」

 

深夜のトリステイン魔法学院、本塔上部の外壁。

ディーキンは窓枠に腰かけて、先程ミス・ロングビルが応急処置として『錬金』で穴を塞いだ宝物庫の壁のあたりを見つめながら、物思いにふけっていた。

 

宝物庫を襲った巨大ゴーレムをキュルケらが破壊した、あの後。

コルベールとロングビルに合流して事情を聴き、皆で宝物庫の確認に向かったところ、残念ながらすでに宝物が盗まれていることが判明した。

また、残されていたサインから、大方の推測通り犯人は近頃世間を騒がせている『土くれ』のフーケという盗賊らしいことも分かった。

 

手分けして周囲を捜索しては見たものの、既に夜とあって暗闇に紛れて逃走したと思われる犯人を見つけ出すことはできず……。

これ以上捜索しても無駄だと判断したコルベールが、学院長に報告して翌朝緊急対策会議を開くということで方針をまとめ、ひとまず解散となったのだ。

 

その際にディーキンは、自分は夜目が利くから念の為に宝物庫の見張りをしよう、と申し出たのである。

 

当然のようにルイズも、使い魔にだけ頑張らせるわけにはいかないと一緒に見張りをすることを主張した。

しかし、実際問題としてルイズがいても役に立つわけではないので、十分睡眠をとって翌日に備えた方が有益だと説き伏せて休んでもらった。

ディーキン自身は、短時間の睡眠でもしっかりとリフレッシュできる魔法の寝袋を持っているので問題はない。

一応、朝日の上る少し前あたりの時間にはコルベールが見張りを交代してくれることになっているので、それから休めば十分だろう。

 

さて、申し出はしたものの、ディーキンは別に、盗賊が今更また戻って来るだろうなどと思っているわけではない。

翌朝の会議までにいろいろと考えをまとめて行動の方針を決め、必要な準備などを済ませておきたかったのである。

見張りは一人で静かに考えをまとめる、そのついでのようなものだ。

 

「ンー……、一体、そのフーケって人は、どうやって逃げたのかな?」

 

あの時は巨大なゴーレムに注意が引きつけられてしまい、本来ならばより重要な犯人の捕縛よりもそちらの破壊を優先してしまった。

それについては、自分たちの失態だったと思う。

 

しかし、一応宝物庫の方にも常に注意はしていたつもりなのだ。

自分たちが学院に戻ってきた時、ちょうどゴーレムが宝物庫の壁を殴り抜いたのが見えた。

理屈から考えれば、犯人が宝物庫に入り込み、宝を持って逃げ去ったのはその後のはずだ。

 

だが、自分はそういった不審な人影にはまるで気付かなかった。

現場の回りを後で調べてみたが、足跡などの痕跡は近くには見当たらなかった。

空を飛んである程度離れた場所まで逃げたとすれば、その様子が目に付かなかったというのは不自然だろう。

遥か高空から獲物の姿を捉える優れた視覚を持つシルフィードにも聞いてみたが、やはり不審な人影などには全く気付かなかったという。

 

犯人は一体、どんな方法で気付かれずに宝物庫に入り込み、そして逃げ出したのだろうか?

 

透明化の呪文?

いや、ハルケギニアではその手の呪文は一般に知られていないようだ。

第一、仮に特殊なマジックアイテムなどで透明化していたとしても、自分にはちゃんと見える。

ハルケギニアでは簡単な変装の呪文でさえ極めて高度な代物で、幻覚を作る魔法は殆ど知られていないようだから透明化も含めて幻術の線はまずあるまい。

 

変身の呪文は、ハルケギニアでは先住魔法にしかないようだ。

そうなると、フーケの正体が亜人かなにかでない限りは小さな動物などに変身して逃げたというのもありそうにない。

 

瞬間移動……これもハルケギニアでは遺失しているようだ。

そもそも瞬間移動が使えるなら、壁に穴を開ける必要自体あるまい。

エーテル界に移動しての壁抜けも、それと同じ理由からまずありえないだろう。

 

そうすると、他にはいったいどんな手が考えられるだろうか?

 

「ええと、ディーキンなら……?」

 

試しに、フーケという盗賊の立場に立って考えてみる。

もし仮に、自分がこの宝物庫から盗むとしたなら、どんな手を使うだろうか?

 

まあ普通に考えれば、おそらく《次元扉(ディメンジョン・ドア)》のような呪文で宝物庫の中へ直接瞬間移動するか。

あるいは《明滅(ブリンク)》のような呪文で宝物庫の壁を抜けるか。

いずれにせよ、そもそも穴など開けずに密かに侵入するだろう。

 

ただ丈夫な壁で囲ってあるだけで瞬間移動やエーテル界を利用しての侵入等に対する備えのまったくない宝物庫など、フェイルーンではナンセンスである。

少しばかり気の利いた術者にとっては、そんなものは何の障害にもなりはしないのだ。

 

無論、こちらの世界ではそういった呪文が知られていない以上、それは仕方のないことではある。

フーケが取った手段もそのようなものではないだろうから、今はそういった方法を考えても仕方がないだろう。

 

「じゃあ、もしも穴を開けて盗み出すとしたら……、」

 

実際にはフーケは宝物庫に穴を開けたのだから、穴を開けて盗む場合を考えよう。

ディーキンはそう呟きながら、翼を羽ばたかせて宝物庫の傍へ移動する。

そして、まだ崩れていない外壁をじっと眺めたり、こんこんと叩いたりして検分してみた。

 

見たところ、ただ分厚いだけでごく普通の石材でできた壁だ。

内部には金属なども入れられているかもしれないが、いずれにせよ破壊できないようなものではない。

先程ミス・ロングビルが壁を修繕する前に見て大体の壁の分厚さも把握している。

 

この程度の分厚さなら、エンセリックのようなアダマンティン製の武器を使って、出せる全力で叩きまくれば、おそらく1分と経たずに破壊できるはずだ。

人が寝静まった夜を狙って、《静寂(サイレンス)》の呪文で音を消して手早く作業すればどうとでもなるだろう。

 

いや、しかし、ハルケギニアにはアダマンティン製の武器はないかもしれない。

まあその場合には少々余計に時間がかかるだろうが、せいぜい十数秒程度壊れるのが遅くなるだけで大差はないだろう。

 

とはいえ、フーケのように巨大なゴーレムを使うとなるとそうもいくまい。

物凄く目立つし音や地響きの起こる範囲も大きくなり過ぎるので、たとえ深夜でも隠密な作業は不可能だろう。

まあそれでも、1分以内で作業を終えられれば、余程警戒が厳しいか運が悪くない限りはどうにか……。

 

(……ン? そういえば、あのゴーレムは壊すのにどのくらいかかってたのかな?)

 

あのゴーレムにはどのくらいの力があったのだろうかと、ディーキンはふと考えた。

 

自分がサポートしたとはいえ、キュルケの呪文とタバサの竜巻の連発であっけなく壊れたところを見ると、そんなにすごい強さがあったとも思えない。

仮に超巨大サイズのアニメイテッド・オブジェクトと同程度のパワーだったすると、数十回は殴らなければならなかったはずだ。

それだと、壊すのに数分はかかる。下手をしたら、十分以上かかるかもしれない。

 

だがコルベールによれば、彼はゴーレムの出現に気が付いてすぐに飛び出したものの、宝物庫を破られるのには間に合わなかったという。

正確なところはわからないが、その話からすればあのゴーレムは1分と経たずに宝物庫の壁を殴り壊したのではないだろうか?

 

そうすると、あのゴーレムは強さの割に異様にパワーに特化していたのか……。

あるいはフーケが事前に密かに学院に忍び込んで、人目を盗んで壁に細工でもして脆くしていたのか……。

 

「……ンー、わかんないね」

 

様々に可能性は考えられるが、今は当て推量しかできないし、あまり深く詮索してみてもしょうがないだろう。

ディーキンは頭を振って、その考えを一旦脇へ追いやった。

 

それよりも今、大事なのはフーケがどうやって逃げたかだろう。

それがわかれば、足取りを追う手掛かりになるかも知れないのだから。

 

ディーキンは頑張って、それについて色々と考えてみた。

 

この世界にどんな魔法があるのかについては、ここしばらく本を頑張って読んだりして、大体学んだつもりだ。

それらの魔法をあれこれ頭の中で組み合わせてみて、自分やシルフィードに気付かれずに手早く作業を終えて逃げ去る方法を模索する。

 

「ウウ~ン……、」

 

しかし、どうにもピンとこなかった。

 

風の奥義である『遍在』とやらだろうか?

いや、フーケは巨大ゴーレムを使うところからして『土』のメイジらしい。『風』のスクウェアスペルが使えるとは思えない。

それに第一、遍在では見つからずに跡形もなく消えることはできても、それでは宝を盗み出すことはできないではないか。

 

逃げたふりをして宝物庫のどこかに隠れ、ほとぼりが冷めてから立ち去るという手も考えてはみたが、まず無理だろう。

先程宝物庫に入った時、中に隠れている者がいる様子はなかった。みんなで手分けしてちゃんと調べたので、見落としがあったとは思えない。

扉には外から閂が掛けてあったから、内側から扉を開いて逃げることはできないし……。

 

あるいは、例えば一回限り瞬間移動ができる使い捨てのマジックアイテムとかを持っていて、宝を手にした後の帰りにはそれを使ったのだろうか?

ありえなくはないが、そういった希少なマジックアイテムの可能性まで考慮し出すと、きりがなくなってくる。

それではどうとでも考えられすぎて、調査の手掛かりにはならない。

 

「……ダメだね、やっぱり」

 

ディーキンはしばらくあれこれと考えた後、ついに諦めてそう結論した。

 

これはやはり、推測だけでは如何ともしがたい。

信頼できる結果を得るには、呪文を使って調べるべきだろう。

 

そうなると、どんな呪文を使うのがよいか?

 

真っ先に考えられるのは、《念視(スクライング)》ないしはその上位版である《上級念視(グレーター・スクライング)》であろう。

実際、ディーキンは宝物が盗まれていることが判明した際、すぐにフーケに対してそれを用いることを考えた。

フーケの姿を捉えられれば、その場に直接瞬間移動して彼または彼女を叩きのめし、宝を取り戻すことさえも可能なのだから。

 

しかし、冷静に思案した結果、それを試してみるのは翌朝以降でもよいだろうと結論したのである。

 

念視系の魔法は目標のことを詳しく知らない場合、抵抗されやすくなる。

今の場合、ディーキンはフーケのことを噂程度しか知らず、姿も見ていないので、抵抗される可能性はかなりあるだろう。

そしてもし抵抗されれば、この呪文の性質上、24時間の間は再び念視を試みることはできない。

そうでなくとも自力修得していない呪文なので、発動はマジックアイテムに頼らねばならず、そうそう何度もやり直してみるというわけにはいかないのだ。

 

そのような不確実な呪文に頼るのは、他に手がないと分かった時の最後の手段にしたい。

今は深夜なのだし、フーケだって手に入れた宝をすぐに換金するというわけにはいかないだろう。しばらくは手元に持っているはずだ。

それならば、翌朝の会議とやらの結果を待ってからでも遅くはあるまい。

 

もし、宝物の杖を事前に見たことがあれば、《物体定位(ロケート・オブジェクト)》の呪文も使えたのだが……。

見たことがない物は探せないので、どうしようもない。

 

そうなると、他には何があるか……。

 

「……ウーン。あの呪文が使えれば、間違いないんだけど……、」

 

今頭に思い描いている、あの呪文さえ使えれば。

フーケの正体も、宝物をいかにして盗み出しそして逃げたのかも、間違いなく明らかになるはずだ。

 

唯一の問題は、ディーキンは今のところその呪文を習得しておらず、発動可能なマジックアイテムも持っていないということだが……。

そうすると、ここは。

 

「……よし。ディーキンはこの機会に、ボスに連絡を取るの」

 

そろそろ落ち着いて、この世界のこともだいぶわかって来たことだし。

いい加減にボスに連絡を取り、事情を説明して協力を求め、こちらで不足したものがあれば最低限は調達できるようにもしておかねば。

翌朝の会議までに調達が間に合うかは、少し怪しいが……。

 

ディーキンはそう決心すると、本塔の最上部、誰にも見られない屋上の片隅にまで、翼を広げて飛んで行った。

そして、スクロールケースの中から一枚の巻物を取り出す。

 

「ええっと……、よし。これを使えばいいね」

 

そうひとりごちると、ディーキンは《他次元界の友(プレイナー・アライ)》の巻物を広げて、ひとつ咳払いをする。

この呪文は本来バードの用いられるものではないが、<魔法装置使用>の技能によって気合いで使うことは可能だ。

 

ディーキンは気を引き締めると、普段に似合わぬ厳かな声で、長い詠唱を開始した。

 

「《アーケイニス・ヴル…… ビアー・ケムセオー……  ア・フ・ラ、マ・ズ・ダ……》」

 

最初はゆっくりとした低い声で、歌うように。

それから進むにつれて次第にトーンが上がり、詠唱には熱が篭っていく。

 

合わせて、ディーキンの目の前の床に仄かに白く輝く召喚の魔法陣が浮かび上がり、詠唱が進むにつれて輝きを増していった。

 

「――――― 来たれ、次元の果て、永遠の楽土から! 星幽界のデーヴァ、我が友ラヴォエラ、ジラメシアよ!!」

 

10分にも及ぶ長い詠唱の果てに、叫ぶようにして最後の言葉が紡ぎだされた。

その声に呼応するように、魔法陣は眩い光を噴き上げ、その光が輝く純白の羽根の渦になって、天界からの召喚の門を形作る。

その位相門を通って、自身の名を呼ばれた眩く輝く神々しい存在が、この世界へと近づいてきた。

 

やがて姿を現したのは、身の丈2メイルを優に超える、非常に長身の美しい女性だった。

羽毛のある純白の翼を持ち、柔軟でしなやかそうなその体は、内なる力によって仄かに光り輝いている。

 

「……ディーキン? ディーキンよね、私を呼び出したのは?」

 

「オオ、そうだよ。お久し振りだね、ラヴォエラ。翼は、ちゃんと直ったの?」

 

「ええ、もうすっかりね。また会えて嬉しいわ、ディーキン。

 なんだかここは、ずいぶんと……、変わった世界みたいね。私は天界とレルムの物質界以外の世界には、あんまり行った経験がないけど……」

 

その女性は微笑んでディーキンの傍に歩み寄ると、膝をついて彼と握手をした。

 

彼女の名はラヴォエラ。

ディーキンがボスと共にアンダーダークを旅していた途中に出会った天使……、天上世界に住まうアストラル・デーヴァ(星幽界の天人)である。

 



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第四十二話 Investigation team

 

トリステイン魔法学院で『土くれ』のフーケによる盗難事件が発覚した、その翌朝。

 

緊急会議が招集されて宝物庫に集まった教師たちは、呆然としたり、慌てふためいたり、憤慨したりと、今更のように大騒ぎしていた。

犯行が休日の夜に、それもごく短時間のうちに行われたために騒動に気付かず、今朝まで事件のことを知らなかった教師も多いようだ。

 

「『土くれ』のフーケだと……。

 ええい、下賤な盗賊風情が、魔法学院にまで手を出すとは! 我々をナメくさりおってッ!」

 

「衛兵は何をしていたのだ、むざむざと賊を侵入させて、職務怠慢ではないか!」

 

「いいや、賊とはいえメイジ相手では平民の衛兵などではどうにもならんのは仕方あるまい。

 それよりも当直だ、当直の貴族は誰だったのだね?」

 

「そうだ! ……ミセス・シュヴルーズ!

 勤務表によれば、当直はあなただったのではありませんかな?」

 

皆、宝物の奪還や犯人の捕縛に向けて建設的な意見を出すでもなく、責任の所在ばかりを追及している。

その槍玉に挙げられたシュヴルーズは、青くなって震え上がった。

メイジだらけの学院に押し入る賊などいるはずがないからと当直をサボり、宝物庫が破られた時には自室でぐっすり寝ていたのである。

 

もっとも、それはたまたま昨夜が彼女の当番だったというだけの話である。

貴族である自分たちが来るはずもない賊のために夜通し窮屈で居心地の悪い詰所にいる必要などないと、大概の教師が日常的にサボっていたのだ。

その事を学院長のオールド・オスマンから指摘されると、皆きまり悪そうに押し黙った。

 

「ごほん……、まあ、そういうことじゃよ。責任の所在など追及しておっても埒が明かん。

 わしも含め、油断しておった皆の責任であるとしか言いようがないからのう。

 それよりも今話し合うべきは、フーケとやらをいかにして捕え、奪われた宝物を取り戻すかじゃよ」

 

教師たちは皆、顔を見合わせて頷くと、真剣な表情で学院長の次の言葉を待った。

オスマンは窮状を救われて感激のあまり抱きついてきたシュヴルーズをやんわりと引きはがしつつ、コルベールの方に顔を向ける。

 

「ではまず、犯行の現場に居合わせたという者たちに話を聞こうかの。

 コルベール君と……、他にも何名かが、一緒に目撃したと聞いておるが?」

 

コルベールは頷いて前に進み出ると、自分の後ろにいる者たちを示し、彼女らにも前へ出るように促した。

 

彼の後ろには、ルイズ、キュルケ、タバサが大人しく控えていた。

その更に後ろの隅っこの方では、ディーキンが宝物庫の中の品々を興味深げに端から順に眺めている。

それにシエスタも、ディーキンの隣で畏まっていた。

 

「はい。目撃したのは私と、この5名です」

 

もちろん、コルベールは平民を人間扱いしないような、傲慢で偏狭な思想の持ち主ではない。

使い魔で亜人の身であるディーキンも数に入っているのは、これまでにディーキンがコルベールに与えた印象がそれだけ強かったからであろう。

 

「それと……、ここにはおられませんが、ミス・ロングビルも一緒でした」

 

「うむ」

 

オスマンは思案気に髭を撫でながら頷いた。

 

彼の秘書であるミス・ロングビルは自発的に志願して、夜も明けきらぬうちから本件に関する聞き込み調査に出てくれているのだ。

残念ながらフーケの姿は誰も見ていないが、盗み出したお宝の奇妙な杖を2本も持っているはずだから、それは人目についているかもしれない。

そのあたりを手掛かりに、近隣の農家などを回って情報を集めよう、というのである。

 

そんな彼女の機知と行動力とには、オスマンやコルベールらも感心していた。

 

「彼女はこのような非常時でも実に仕事が的確で、行動も早いのう……。

 まだ若くて経験も浅いというのに、まったく感心なことじゃ。

 わしら教師陣も、少しは見習わねばなるまいぞ?」

 

オスマンは改めてそんな訓戒めいたことを言っておいてから、ルイズらのほうに視線を移した。

特に、ディーキンをじっと興味深げに見つめている。

その視線に気が付いたディーキンは、軽く首を傾げて曖昧な微笑みを返した。

 

「……さて。では、君らの中から誰か、詳しく説明してくれるかね?」

 

ルイズら女子生徒たちは互いに顔を見合わせると、促すようにコルベールのほうを見た。

目撃者の中には教師がいるのだから、普通に考えて彼が説明するのが一番いいのではないだろうか。

 

しかし、コルベールは肩を竦めて、小さく首を振った。

 

「いや。君たちのほうが現場により近かったし、上空から見ていたから私よりもよく分かっているだろう。

 実際のところ、私は君たちがどうやってあの巨大なゴーレムを倒したのかも、まだよくわかっていないんだよ」

 

巷で有名な盗賊の、堅固な学院の宝物庫を殴り抜いたほどのゴーレムを学生が倒したという話に、他の教師たちがざわめきだす。

オスマンも、やや意外そうに眼をしばたたかせた。

 

「……なんと。あの宝物庫を破るほどのゴーレムを、倒したというのかね。

 それは確かに、君らの方から詳しい話を聞きたいものじゃな」

 

教師一同から注目を浴びたルイズらは、しかしきまりの悪そうな様子で、また顔を見合わせた。

 

実際のところ、自分たちはたまたま学校外から帰ってきたところで事件現場に出くわしただけで、フーケの姿を見たわけでも何でもない。

こんな事態だから、正直に説明しても遅くまで夜遊びしていた件で強く咎められることはあるまいが、特に有用な情報が提供できるとも思えない。

それに、ゴーレムをどうやって破壊したのかといわれても、正確なことは……。

 

3人がそんな風に困っていると、それまで首をかしげて様子を静観していたディーキンがつと進み出た。

 

「アー、もしよかったら、ディーキンがご説明するよ」

 

一部の教師から、使い魔風情がでしゃばるな、といった非難の声が、ディーキンとその『主人』であるルイズとに向けられる。

しかし、他の教師らからこの非常時にそんなことにこだわっている場合ではないと批判されて、それらの教師たちは居心地悪そうに押し黙った。

 

ディーキンはここ数日でいろいろな教師の下へ挨拶に回ったし、授業中も他のどの生徒にも劣らず真面目に勉強していた。

また、中庭や食堂などで休み時間に演奏をしたりして、大いに人気を博してもいた。

そのため、教師らの中にもディーキンに好意的な者がすでに大勢いるのだ。

 

キュルケやタバサもまた、それに賛同する声を上げる。

 

「そうね、ディー君ならお喋りも上手だし。うまく説明してくれると思うわ」

 

「適任」

 

ゴーレムを破壊するにあたって重要なサポートをしてくれたディーキンなら、一番よくことの成り行きを把握していることだろう。

ルイズやシエスタは、立場上みだりな発言は控えているようだが、表情を見る限りではやはり賛同しているようだ。

 

「ふむ……。君たちがそう言うのなら、わしは一向に構わんよ。

 では話を頼もうかの、ディーキン君」

 

ディーキンは嬉しそうにこくこくと頷いた。

それから少しばかり芝居がかったお辞儀をすると、胸を張って、自分たちと巨大なゴーレムとの遭遇と戦闘とを、活き活きと語り始める。

 

ディーキンの言葉はただの説明に留まらず、とても鮮明なイメージと叙事詩めいた臨場感を持っていた。

ごく短い話ではあったが、皆それに惹き込まれて、熱心に聞き入っている。

腕利きのバードは、優れた記憶力と素晴らしい表現力とを兼ね備えているのだ。

 

もちろん、話の中心となるのはキュルケやタバサらの活躍である。

詩人は自分自身のことを歌うのではなく、自分が見た英雄の武勲を歌うのだから。

まあ、今は説明のために話しているのだから、自分の使った《調和の合唱(ハーモニック・コーラス)》に関しても軽くは触れたが。

 

ディーキンがその技量を揮ってキュルケやタバサらとゴーレムとの戦いを語る間、聴衆は皆、実際にその場に立っているかのような錯覚を覚えた。

彼らは風竜の背に乗って飛びまわり、巨大なゴーレムによる地面や空気の振動を感じ、その体から発する土の匂いを嗅ぐことさえできた。

吟遊詩人がその魅惑的な語りを終えると、やっと周囲に薄暗い宝物庫の壁が戻ってくる。

それでもしばらくの間は、誰もが幻想の世界の余韻に浸っているようで、しんと静まっていた。

 

ややあって、オスマンが重々しく口を開く。

 

「……うむ。大変よく分かった」

 

その途端、ようやく歌の魔力から解放されたように、皆が顔を見合わせてざわめきだした。

オスマンは顔を綻ばせて、ディーキンとルイズらの顔を順に見つめていった。

 

「いや、よいものを聞かせてもらったわい。

 昨夜の君たちの格別の働きぶりが、実によくわかった。大手柄じゃ。

 教師一同、君たちに感謝し、大変誇りに思っておるぞ」

 

「いえ、ミス・ヴァリエールの使い魔のお蔭ですわ。

 さっきの話ではずいぶん控えめでしたけど、この子がいなければどうにもならなかったんですから」

 

キュルケは誇らしげに胸を張って髪をかき上げながらも、ディーキンの手柄にも言及するのを忘れなかった。

目を細めて屈みこむと、前に立っているディーキンの頭を撫でる。

同じく先ほどの話で主役であったタバサはといえば、キュルケの言葉に同意するように小さくひとつ頷いただけで、あとは無反応であった。

 

シエスタは大人しくしながらも、自分のことのように嬉しそうに顔を輝かせている。

ルイズの方は、何とも微妙な顔をしていた。

自分の使い魔が手柄を立てたのは誇らしいが、自分はろくに役に立てなかったので、やや嫉妬めいた悔しい思いも持っているのだ。

 

当のディーキンは、褒められたり撫でられたりには目を細めてくすぐったそうにしながらも、素直に喜んでいた。

その一方で、手柄云々に関しては、申し訳なさそうに肩をすくめてはっきりと首を横に振った。

 

「いや……、ディーキンは、何も手柄は立ててないと思うの。

 みんなで頑張って戦ったのは確かだけど、フーケっていう人には逃げられたし、手がかりも何も見つけられなかったからね」

 

ゴーレムを壊したところで、術者に逃げられてしまっては何の意味もない。

昨日の戦いは確かにちょっとした物語のタネにもできるような華々しいものではあったが、実際上は完全な失敗だったと言わざるを得まい。

 

「いやいや、咄嗟の状況で最善の判断などはできなくても仕方あるまい。逃げられてしまったというのは結果論じゃ。

 思いがけず出くわした危険な賊に恐れず立ち向かった、その勇気だけでも大したものじゃよ」

 

オスマンはそう労いながらも、改めて現状を顧みて、小さく溜息を吐いた。

 

「……とはいえ、確かに今の話の中にはフーケを捕える手掛かりになりそうなものはなかったのう。

 後は、ミス・ロングビルの調査の結果を待つしかないか……」

 

(ウーン……、どうしようかな?)

 

ディーキンは教師たちが打つ手がなく困っている様子を見て、はたして今、この時点で何かするべきだろうかと考え込んだ。

 

昨夜招請して頼みごとの内容を伝え、送り出したラヴォエラはまだ戻ってはいない。

そんなに早く用件を終えて戻れるとはディーキンも思っていないし、おそらくまだ時間がかかるだろう。

 

彼女が用件を終えて戻って来てさえくれれば、間違いなく真相を明らかにして犯人を見つけ出してみせるだけの自信はある。

しかし、あまり遅くなると宝物を売却処分されてしまったりして面倒なことになるかもしれない。

成功の確証はないが、昨日検討していた《念視(スクライング)》などの手段を試してみることをここで申し出るべきだろうか……。

 

そんな風に思案を巡らしているところへ、ちょうどよくミス・ロングビルが戻ってきた。

 

「ただいま戻りましたわ」

 

「おお。ちょうど良いところに戻って来たのう、ミス・ロングビル。

 思ったより早かったが、調査はもう済んだのかね?」

 

「いえ、予定していたすべての聞き込みを終えたというわけではありませんわ。

 ですが、有力そうな情報が入りましたので、早急にお知らせしようと調査を切り上げて戻って参りましたの」

 

皆の注目が集まる中、ロングビルはその有力情報について簡潔に説明していく。

 

何でも、ここ最近、近くの森の廃屋に怪しげな人物が出入りするのを見かけたという樵がいたらしい。

その男はいつも人目をはばかるようにローブなどを着込んで顔や姿を隠しており、頻繁に小屋へ大荷物を運びいれたり、運び出したりする。

そしてそういった荷物の中には、何やら高価そうな絵画やワイン、宝飾品らしきものなどがちらりと見えたこともあった……、と。

 

「……おそらくその不審人物はフーケで、件の廃屋は一時的に盗品を隠しておくための彼の隠れ家なのではないかと。

 もしそうであれば、そこに盗み出された杖が運び込まれた可能性は高いと思いますわ」

 

「ふむ……」

 

ロングビルの話が終わると、オスマンはしばしの間、じっとその情報を検討してみた。

 

確かに、その人物は不審だ。

フーケの可能性は、かなりありそうに思える。

たとえそうではなかったとしても、別の犯罪者かも知れない。

 

(なんにせよ、調査してみるだけの価値はあるかの)

 

そう結論すると、オスマンは目を鋭くしてロングビルに尋ねた。

 

「……その場所は、ここから近いのかね?

 君か、君が話を聞いたというその樵に、そこへ案内してもらうことはできるかの?」

 

「はい、馬を飛ばせば2、3時間程度の距離かと思いますわ。

 場所は聞いておきましたので、私が案内できます」

 

「よし、それだけわかれば十分に調査できますぞ!

 学院長、すぐに王室へ報告しましょう。その場所へ衛士隊を差し向けてもらわなくては!」

 

オスマンはそう提案したコルベールに顔を向けると、目を剥いて一喝した。

 

「馬鹿者奴! 王室なぞに報告して決定を待っておっては時間がかかり過ぎるわ、その間にフーケに逃げられたらなんとする気じゃ。

 仮に助力を仰ぐにしても、せめてその場所が本当にフーケの隠れ家かどうかくらい確かめてからでなくては話にもならんわ!

 ……第一、これは魔法学院の問題じゃ。当然我らの手で解決せねばならぬ。

 身にかかる火の粉も振り払えず、安易に王室に解決を丸投げしておるようでは、貴族として面目が立たんではないか!」

 

普段の好々爺然とした姿からは想像もつかないような迫力と威厳であった。

 

学院長の宣言に教師たちが困ったように顔を見合わせたり、恥ずかしげに俯いたりする中、ルイズとシエスタは力強く頷いていた。

キュルケは少しばかり肩を竦めてから頷き、タバサは無関心そうにしながらもこくりと小さく頷く。

情報をもたらした当のロングビルは、学院長の宣言になにやら満足げに微笑んでいた。

 

ディーキンはというと、そんな皆の様子を順に見つめながらどこか楽しそうにウンウンと頷きつつ、羊皮紙にメモなどを取っていた。

後でまた、この件を歌や物語の題材にしようと思っているのであろう。

 

オスマンはひとつ咳払いをすると、皆を見渡す。

 

「……では、調査に赴く有志を募るとしよう。我こそはと思う者は、杖を掲げよ」

 

そういわれて、教師たちが困ったように顔を見合わせる中……。

 

「はいは~い、ディーキンは冒険者なの! こういうのはディーキンが行くよ!

 ええと、杖は……、これでいい? 他にも杖っぽいのは、いろいろ持ってるけど……」

 

真っ先にどこからともなく取り出した杖を目いっぱい背伸びして掲げたのは、当然のごとくディーキンであった。

 

いきなり亜人の使い魔が立候補したことに周囲の教師達が驚き、ざわめく。

中には使い魔の分際でと思っているのか、明らかに不快そうな様子の教師もいるが、先程の話の件があるので口には出さなかった。

 

そうなると当然、使い魔だけを行かせるわけにはいかぬとルイズも杖を掲げ、続いてキュルケやタバサも同行を申し出る。

さらにはシエスタも、恐縮そうにしながらも進み出て、どうか同行させてくださいと頼み込んだ。

 

そこまで話が進むと、ようやく教師の中からも声を上げる者が出てきた。

 

「あ、あなたたちは生徒ではありませんか!

 これ以上、危険なことに首を突っ込むのは止めて、教師に任せなさい!」

 

「平民が同行して何の役に立つというのかね!

 生徒や平民に任せるくらいならば、私が行こうではないか!」

 

亜人の使い魔から始まって、生徒や平民までが手を上げるのを見て、教師としての義務感に駆られたものか。

あるいは、単に参加者の数が増えてきたのでそれに勇気を得て同調したものか。

先程のディーキンの話を聞いて、魔力を増幅できるという彼の能力をあてにしている者もいるかもしれない。

 

一人、また一人と声を上げる者が増えてくるが、そこでオスマンが口を挟んだ。

 

「待ちなさい、そんなに大勢で行っても埒が明かん。

 必要以上の多人数でゾロゾロ移動しておっては何かと時間もかかり、フーケにも気取られやすくなろう。

 ここは、最初の方で名乗り出た君らに頼むこととしよう。昨夜の襲撃に居合わせた顔ぶれでもあることじゃ、丁度よかろう」

 

オスマンはそう言って、ディーキン、ルイズ、キュルケ、タバサ、シエスタ、それに案内役のロングビルの6人を指名した。

 

「馬鹿な! 平民などよりも、教師を加えるべきではありませんか!」

 

そう不平の声を上げた教師を、オスマンがじろりと睨む。

 

「そう思うならば、率先して平民よりも先に手を上げるべきではなかったかね、ギトー君?

 人の尻馬に乗って名誉のおこぼれにあずかろうなどという発想の者では、凶賊を捕縛するにあたってはいささか頼りないのう」

 

「な……、私は決して、そのような気など……!」

 

「そうかの? では、君の主張するように生徒や平民や使い魔などには任せず、一人で行ってくれるかね?」

 

そういわれると、ギトーはぐっと言葉に詰まってしまった。

 

普段教壇では『風』のスクウェアメイジとしての力量を誇り、風こそは最強の属性だと自負しているが、理論と実戦との違いくらいはわかっている。

ましてや世間を騒がす凶悪な盗賊と、実際に渡り合ってみせる自信など無かった。

実のところ、彼はオスマンの指摘したとおり、実際にフーケの巨大ゴーレムを破壊した実績のある生徒や使い魔の能力をあてにしていたのだ。

 

オスマンは鼻白んだ様子でそんなギトーから視線を外すと、ディーキンらの方に顔を向けた。

 

「我々は皆、犯罪者の捕縛などに関しては専門外じゃ。このような状況下では、教師も生徒も大して変わるまい。

 ましてや君たちは取り逃がしたとはいえ、昨夜既に賊を一度撃退しておる。後れを取ることはあるまい」

 

それからオスマンは、彼女らの能力の高さについて順番に評価していった。

 

「まず、ミス・タバサは若くしてシュヴァリエの称号を持つ騎士である」

 

この言葉には教師たちも、また彼女の親友であるキュルケも初耳だったらしく、驚いていた。

シュヴァリエは貴族の称号としては最下位だが、金では買えず、世襲もできないだけに、純粋な実力の証となるのである。

タバサ自身は特に反応もせず、無感動そうにしている。

 

「ミス・ツェルプストーは、ゲルマニアの優秀な軍人を数多く輩出した家系の出じゃ。

 彼女自身も炎の魔法の優れた使い手であることは、昨夜の活躍で十二分に証明されておるな」

 

キュルケが得意気に髪をかきあげる。

ルイズも負けじと胸を張った。

 

「ミス・ヴァリエールは、名門ヴァリエール公爵家の令嬢じゃ。

 昨夜の襲撃に際しては真っ先にゴーレムを止めようとしてくれたと聞いておる。貴族の誉れじゃ。

 しかも、その使い魔は―――」

 

それからオスマンは、ディーキンとシエスタの方に視線を移す。

 

「……もちろん、素晴らしい能力の持ち主であることは先程の話で証明されておるな。

 それにもまして、我らの誰よりも早く杖を掲げ、助力を申し出てくれた高貴な精神の持ち主であることを忘れてはならん」

 

「ンー……、エヘヘ……」

 

ディーキンは場を弁えて口は挟まないでいるものの、ベタ誉めされてもじもじと照れている。

オスマンは最後に、ディーキンの後ろの方で畏まっているシエスタに目をやった。

 

「彼女は、シエスタという名の学院のメイドじゃ。

 先日グラモン家のギーシュと決闘をして引き分けたほどの剣の使い手であることは、覚えている者もいよう。

 その時の態度も名誉に悖らぬ、実に見事なものであった。

 万が一にも生徒らの身に危険が及んだ時には、必ずや彼女らを守ってくれるものと期待しておる」

 

シエスタはそれを聞くと、ハッと顔を上げて、驚いたようにオスマンの顔を見つめた。

まさか、学院長ほどの人物が、自分のような平民の使用人の名を覚えていてくれたとは……。

 

「異論のある者、この5名よりも優れた働きができると主張する者は、前に出たまえ」

 

しばらく待って誰も名乗り出ないのを確認すると、オスマンは改めて選ばれた5人に向き直った。

 

「魔法学院は、諸君らの努力と貴族としての義務に期待する」

 

ルイズとタバサとキュルケは、真顔になって直立すると、杖にかけて誓ってから恭しく一礼した。貴族の作法なのであろう。

ディーキンは少し首を傾げたが、自分も手にした杖でその動作を真似すると、竜族の守護神であるイオに誓った。

シエスタは使用人としての作法でスカートの裾をつまんで御辞儀をすると、自分の祖先にかけて誓った。

 

オスマンはそれを見て満足そうに頷くと、ミス・ロングビルに軽く頭を下げる。

 

「では、ミス・ロングビル。この子らの案内を、よろしくお願いしよう」

 

「はい、お任せください。ところで……」

 

ミス・ロングビルこと『土くれ』のフーケは、御辞儀を返すと上目遣いにオスマンを見つめた。

心の中で、舌なめずりをしながら。

 

「ん、何かね?」

 

「いえ、出かける前に宝物の杖の使用法をお聞きできないかと思いまして。

 宝物は強力なマジックアイテムなのでしょう?

 もしフーケがその場にいて、杖を使って来たら危険ですから、使うための手順などを判別できるようにしておくべきかと。

 それに、私たちが取り戻せれば、フーケを捕縛する際に杖を役立てることもできますわ」

 

フーケはそういい終えると、期待に胸を膨らませてオスマンの返事を待った。

 

意気込んでいるガキどもには悪いが、それさえ聞き出せれば今回の仕込みの目的はこの場で達せられるのだ。

もし今この場で杖の使い方を聞き出せたなら、後はこいつらをまったく無関係の廃屋に案内して、自分の見込み違いだったということにするまでだ。

お宝はほとぼりが冷めてからゆっくりと隠し場所から回収して、換金するなり、自分の手元に置いて使うなりすればよい。

 

本物の杖は一応、事前に見繕っておいたそれとは別の小屋に隠してある。

もし仮に本命のあるそちらに案内した方が都合が良さそうな話の流れになったとしても、臨機応変に対応できる。

昨夜はゴーレムをあっさり倒されたとはいえ、それはあのゴーレムが攻撃にまったく対応も再生もできない自動操縦だったからだ。

ちゃんと自分が操作をして対応したり、不意を打ったりすれば、たかが生徒や小柄な亜人ごときを自分が始末できないはずがあるまい。

無論、自分は殺人鬼ではないから、こいつらを始末しなくても済む状況なら無理に戦うまでもない。

 

万が一話がまずい方向に進んでどうにもならなさそうになったなら、最悪、実際に一旦杖を返してやってもいいのだ。

フーケは十分すぎるほどの余裕を持って、そう考えていた。

せっかく盗み出した杖は惜しいが、自分の正体さえばれなければ大事はない。

 

(なあに、自分はまだまったく疑われちゃいないんだ。

 一度返して警戒が厳しくなったとしても、また盗み出す機会くらいどうとでもして見つけてやるさ!)

 

「うーむ……、そうじゃな……」

 

オスマンはしばし躊躇ったが、確かに杖に関する情報の有無は大きいだろう。

生徒らの身の安全が掛かっているとあっては是非もない。

じきに重々しく頷くと、口を開いて杖に関する説明を始めた……。

 

 

(よしよし……、これだけわかりゃあ、十分売り物になる。

 感謝するよ、エロジジイ!)

 

オスマンの説明を聞き終えたフーケは、内心で快哉の叫びをあげた。

 

『破壊の杖』の方は、杖のあちこちを変形させて、銃のようにして使うらしいということだった。

そうするとやはりコルベールの考えた通り、マジックアイテムではない武器の一種なのかもしれない。

 

詳細は自分にも自信が無く、危険なので、緊急事態にならない限り絶対に使おうとはしないようにと念を押されたが……。

言われずとも、フーケにも実際に使う気はない。

買い手の前で扱い方を軽く説明できる程度にだけわかれば、それで十分なのだ。

 

そして『守護の杖』の方は、なんと手に持っているだけで自分に掛けられた大概の呪文の効果を防げるのだという。

絶対に防げるわけではなく、特に腕の立つメイジの呪文は防げない事もしばしばあるらしいが、それでも十分素晴らしい能力だろう。

必ずや素晴らしい高値で売れる……、いや、自分の手元において使ってもいいかもしれない。

 

ただ残念なことには、杖には他にも何か能力があるのだがその使い方はオスマンも知らず、本来の持ち主である友人しかわからないという話だった。

その能力もわかれば天井知らずの値が付くかもしれないのに、何とも口惜しい。

 

(まあ、このエロジジイにもわからないってんじゃあ、仕方がないね……)

 

とにかく聞くべきことはこれで聞き出せたのだ、もう用は無い。

あとはこいつらを何もない偽の廃屋に案内して、結局フーケの手掛かりは掴めなかった、ということにすれば……。

 

フーケがそう考えていたところに、横合いから生徒の使い魔だという妙な亜人が口を挟んだ。

 

「ええと、宝物の使い方がわからないの?

 それだったら、もしその宝物を取り戻せたら、ディーキンが使い方を調べてあげるよ――」

 



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第四十三話 Fouquet's Tiny Hut

先程編成されたばかりの対フーケ調査隊は、早速ロングビルの案内の下、件の小屋へ赴くことになった。

 

目的はその小屋を調べ、そこが確かにフーケの隠れ家であったなら、魔法学院より奪われた2振りの杖を捜索して奪還すること。

その上でもし可能であれば、フーケを捕縛することである。

 

魔法は目的地まで温存するべきだということで、一行はオスマンが用意してくれた馬車に乗った。

万が一の際にはすぐに外に飛び出せるよう、屋根の無い荷車のような馬車である。

御者は当然、平民であり学院の使用人でもあるシエスタが進んで引き受け、他の者は荷台に揺られている。

 

早く調査を行うためにも馬車よりシルフィードに乗っていく方がいいのではという案も出たが、ロングビルはいろいろと理由を挙げてそれに反対した。

 

自分も初めて行く場所なので、ちゃんと地上から道筋に沿って辿っていかないと迷うかもしれない。

竜、特に風竜が空を飛んでいると目立つので、フーケに警戒されかねない。

ミス・タバサの風竜は幼生なので、6人もの大人数では無理ではないまでも大変だろう。

どうせ既に一晩明けているのだから今さら少しばかり急いでも大差はないだろうし、心の準備をしながらゆっくり行った方がいい……。

 

その結果、彼女の意見ももっともだということで、馬車でのんびりと行くことに決定したのだ。

ディーキン以外の使い魔は小屋の調査や盗賊の捕縛、巨大ゴーレムの相手等、想定される事態には大して役に立たないだろうということで留守番となった。

 

もちろん、学院長秘書ミス・ロングビルこと『土くれ』のフーケの本当の思惑は、説明した内容とは別のところにある。

 

最初は、学院長から杖の使い方を聞き出せさえすれば、こいつらを本物の杖の隠し場所に案内する気などなかった。

ところが学院長自身にも、杖の使い方は一部分しかわからないという。

その時奇妙な亜人の使い魔が、自分なら杖の使い方を調べられると言い出したのだ。

 

最初はこんなガキにできるわけがないと思ったが、その後の話の流れで、こいつが先日インテリジェンス・ソードの素性を調べたとかいう話が出た。

今同行している平民のメイドが持っている剣が、そのインテリジェンス・ソードだということだった。

 

よく考えてみれば、こいつはガキとはいえ未知の亜人なのだ。

ハルケギニアのメイジでは調べられない、異国から持ち込まれたと思しき杖の正体を調べることができてもおかしくはない。

そう判断したフーケは、予定を変更して、一行を本物の隠し場所へ案内することにしたのである。

 

結論から言えば、その考えは正しい。

少なくとも、ディーキンなら使用法を突き止められるだろうという点においては。

現物が手元にありさえすれば、たとえアーティファクトだとしても《伝説知識(レジェンド・ローア)》の呪文を使ってほぼ確実に使用法を判別できる。

 

(試させてみる価値はあるだろうさ……。

 なあに、杖が見つかったらうまいことその場で調べさせて、学院へ帰る前にまた奪いかえしゃあいいんだ!)

 

とはいえ、この選択によってある程度リスクが増すことは、フーケも認識している。

 

自動操縦に過ぎなかったとはいえ、昨晩自分の巨大ゴーレムを破壊してのけた連中と、下手をすれば戦いになるかもしれないのだ。

その時に備えて、馬車でゆっくりと向かう間に手の内を探ったり、打ち解けて油断を誘ったりしておくほうがいいだろう。

 

さらに、一番最悪なのは、こいつらに自分の正体を悟られた上に逃げられ、それを広められてしまうことだ。

そんな事態を避けるためにも、風竜という手強い上にいざという時には優秀な足にもなり得る使い魔には、なるべく同行してもらいたくない。

 

そういったもろもろの考えからの、この提案であった。

 

特に疑われる事も反論される事もなく、すんなりと通ったことにフーケはいささか気を良くしていた。

馬車の荷台に揺られながらそのことを思い返して、密かにほくそ笑む。

 

(ふふん……、こんなヤバい仕事を引き受けといて、ろくに危機感もない楽天的なガキどもを言いくるめるのなんざ、ちょろいもんだね。

 ま、私にとっちゃあ、いい年こいた純情ハゲや偉ぶったエロボケジジイだって大差無いんだけどさ!)

 

実際には、タバサがシルフィードを置いていくことにさほど難色を示さなかったのは、危機感の欠如からではない。

ディーキンがいれば、いざという時にはシルフィード以上に速い足を用意できることを知っていたからである。

となると、戦力にはなるが目立ちやすい巨体のシルフィードには、確かに来てもらわないほうがいいかもしれないという判断なのだ。

もちろんフーケには、そんなことは知る由もなかったが。

 

フーケは皆がくつろいだのを見計らってから、まずはしばらくの間、とりとめのない雑談をする。

その際には自分が貴族の名を無くした者であることなどもさらりと明かして、打ち解けた雰囲気を作った。

それからいよいよ、探りを入れるための本命の話を振る。

 

「……それにしても、昨夜の炎は見事なものでしたわね。

 ミス・ツェルプストーは、その若さでスクウェアクラスのメイジでいらっしゃるのですか?」

 

「えっ? ……ああ。

 ミス・ロングビルは、ディー君が話してたときには、まだ戻ってなかったんでしたっけ」

 

頭の後ろで腕を組んで外の景色などぼんやりと眺めていたキュルケは、一瞬きょとんとした後、納得がいったように頷く。

それから、悪戯っぽくディーキンの方に目をやった。

 

「ねえ、ディー君。悪いけどもう一度、ミス・ロングビルにも説明をお願いできないかしら?」

 

「オオ、お姉さんにも? もちろん、ディーキンはいつだってお話しするよ」

 

ディーキンは張り切って、もう一度昨夜の出来事を説明する。

今度は正式な会議の場ではないので、リュートの演奏なども交えて、より叙事詩めいた仕立てにしていた。

先程のもの以上に臨場感のある素晴らしい表現力の物語に、初見のロングビルはもちろんのこと、キュルケらも引き込まれて、うっとりと聞き入っていた。

 

「ミス・ヴァリエールの使い魔は、素晴らしくお話が上手ですわね。

 おかげで、よくわかりましたわ」

 

説明を聞き終えたロングビルは、他の面子と一緒に微笑んで拍手など送りながら、頭の中で考えをまとめていた。

 

なるほど、最近この使い魔が作った歌が人気だとか聞いていたが、実際にこの耳で聞いてみて納得がいった。

これほどの表現力なら、詩歌を歌わせればさぞ熱狂を呼ぶことだろう。

ぜひ聞いてみたいところではあるが……、

 

(この状況じゃ、そうもいかないね)

 

今の話によれば、優秀とはいえたかが生徒どもの攻撃が不可解にも自分のゴーレムを破壊できたのは、こいつのサポートのおかげだということだった。

おそらくは知能の高い亜人どもの使う、恐るべき『先住魔法』の一種か。なるほど、厄介なものだ。

 

だが、この亜人には杖の使い方を調べてもらわなくてはならない。

その後で杖を学院へ着くまでの間に穏便に奪い返すのは、かなり難しいだろう。

一旦返した後でまた盗み出すというのも、不可能とは思わないがまた色々と工夫せねばならず、危険で面倒だ。

 

自分は殺人鬼ではないが、こいつらを始末してお宝を確保するのが一番手っ取り早くて簡単そうなら、そうするまでのこと。

そうなると、まずはこの亜人を最初に仕留めることになるだろう。

最初にゴーレムへ有効打を与える手段を奪い、その後は自分自身がやられぬよう、また逃がさぬようにだけ気を付けて、全員始末するのだ。

自分の正体はなるべく明かさず奇襲で仕留めていきたいが、露見しても逃がさなければ問題はない……。

 

「……なあ、亜人の坊主よお。今日は、エン公はどうしたんでえ?

 おめえのしょってる、その荷物袋の中とかか?」

 

フーケが考えをまとめているところへ、シエスタの背負ったデルフリンガーが刃元の金具部分をかちゃかちゃと鳴らして口を挟んだ。

 

ルイズらはそう言われて初めて気が付いたように、ディーキンの腰を見た。確かに、彼は今、エンセリックを提げていない。

エンセリックとデルフリンガーは最近はよく一緒に置かれてお互いを話し相手にしているので、ディーキンが持ち運んでいないこともちょくちょくある。

しかし、見たところディーキンの腰だけではなく、馬車のどこにもエンセリックの姿はないようだった。

 

「ン……、ああ、エンセリックはちょっと……、その、他に用事があってね。

 今は、別の人について行ってるんだよ」

 

「あん?」

 

ディーキンが言ったことは、嘘ではない。

昨夜ラヴォエラに《次元界転移(プレイン・シフト)》でフェイルーンへ向かってもらった際、彼女に渡しておいたのである。

ラヴォエラに一通りの説明はしたものの、彼女一人でボスたちに十分な説明ができるかが不安だったからだ。

 

それに、彼女ではフェイルーンで万が一トラブルに巻き込まれたりした場合に、一人でうまく対応できるかも多少心配だった。

ラヴォエラはもちろん賢いし強いが、まだ経験の浅い若いデーヴァで、定命の者の世界には不慣れな面がある。

実際、ディーキンが最初に彼女と出会った時、彼女は初めての物質界での重要な任務に失敗して、アンダーダークのカルト教団に捕まっていたのだ。

 

まあ彼女らが出かけたすぐ後に、《送信(センディング)》でボスに彼女が行ったことを伝えて出迎えを頼んでおいたから、まず大丈夫だとは思うが。

とりあえず《送信》の呪文はちゃんと届いたし、ボスからの了解の返事も受け取った。

 

エンセリックの先日の予想が正しければ、この世界を他の世界と隔てる壁には一方通行のような性質があるのかもしれない。

その場合、出ていくことやこちらから呼ぶことはできても、外から入っては来られないという可能性もある。

だから、定期的にラヴォエラに《送信》を送り、向こうの返事を確認して、必要ならこちらから彼女を呼び戻すという段取りもしてある。

その《送信》は、アンダーダークで手に入れた一日一回限りのマジックアイテムで行っている。

したがって、もし向こうからすんなりと戻ってこられなければ、彼女に確認をとってこちらから呼び戻すのは、最短でも今日の深夜ということになる。

そういった点を考えると、残念ながら今回の探索には彼女の帰還が間に合う可能性は低いだろう。その間はエンセリックの助言も求められないわけだ。

 

(ナシーラみたいに、自分で準備して何回も唱えられれば楽だったんだけど……)

 

昨夜から、ディーキンは自分の能力の限界を痛感させられていた。

 

もし自分がナシーラのような熟達したウィザードであれば、手持ちを駆使してあれこれ工夫や手回しをするまでもなかっただろう。

ただ呪文書から必要な呪文を選び出して準備さえすれば、朝の段階でフーケの捕縛も宝の奪還も済ませてしまえたはずだ。

ボスへの連絡だって、マジックアイテムに頼ったりしなくてもどうとでもなった。

 

だが、バードには《送信》のような呪文は覚えられない。

たとえ覚えられたとしても、限られた習得枠の中で、そんな普段あまり使わないものを覚えている余裕はないだろう。

 

これまではボスなどの頼もしい仲間たちと共に行動していて、役割分担で自分に向いたことをしていたから、そう不便を覚えはしなかったのだが……。

しかし、こうして一人で何もかもやろうとすると、バードの能力の限界をまざまざと感じずにはいられなかった。

バードがいかに万能多芸だとは言っても、練達のウィザードの強大な魔法の力に比べれば、小賢しい器用貧乏の輩の域を出ない。

 

とはいえ、ディーキンは些か不便を感じはしても、とりたてて不満や不安は感じていなかった。

 

昨夜既にゴーレムを撃退したために、敵の脅威をさほど高いものとは思っていないというのもある。

だが何よりも、ボスやヴァレンらがいないとはいえ、自分の傍にはまだ頼もしい仲間たちが、英雄がいてくれるのだ。

 

ルイズやシエスタらの能力が自分自身や今までの仲間とは比較にならないほど低くて頼りにならないなどとは、ディーキンは考えない。

そんなことは、彼女らが確かに英雄の素質を持っているということに比べたら、何ら大した問題ではない。

偉大な英雄の素質こそは、どんなに強大なウィザードの魔法にも勝るものだ。

 

別に、ディーキンに客観的に他人の能力や状況を分析することができないわけではない。

ただ単に、これは彼にとっては明々白々な事実であるに過ぎない。

 

だって、英雄が盗賊に出し抜かれてそれでおしまいだなんて、そんな“偉大な物語”があるわけがないだろう?

 

「ちょっと、他の人って誰よ? あんたはまた、私に内緒で何か……、」

 

「アー……、その、ルイズには何も言ってなくて悪かったの。

 ちょっと急ぎだったから。けど、その人のことは、後で紹介できると思う」

 

昨夜、既にルイズが寝ている時に行ったので、話す暇がなかったというのは本当のことだ。

ラヴォエラのこととか、彼女に頼んでやってもらおうとしていることとか、詳しく説明し出せば長くなりそうだし。

 

それとは別に、エンターテイナーとしてはサッと説明して終わりではなく、後でゆっくり楽しんでもらいたいから、というのもある。

本物の天使であるラヴォエラに会えれば、シエスタはきっと喜ぶだろうし。

ハルケギニアでは天使は伝説上の存在とされているようだから、ルイズらだって驚いてくれることだろう。

 

だから別に、ずっと秘密にしておく気はない。ちょっと後回しにしようと思っただけである。

 

「ふうん。でもディー君、これからフーケとまた戦うかもしれないのに、武器を持ってなくて大丈夫なの?

 まあ、武器なんてものがなくても、ディー君には魔法があるでしょうけど」

 

「うーん、ディーキンは、魔法だけでいいとは思ってないけど……。

 エンセリックの他にも武器はいろいろ持ってるからね。大丈夫だと思うの」

 

ディーキンは延々細かい説明をするのは避けて大まかな説明だけで話を切り上げると、目的地に着くまでリュートの演奏でも披露しようと申し出た。

この後には大事な調査があるのだ、今は英気を養うためにも、少しばかりリラックスしておいた方がよいだろう。

 

それからしばらく、ガタゴトと揺れる馬車の荷台の上で、ディーキンの演奏する澄んだリュートの音色が心地よく響く。

皆はしばしくつろいだ気分で風景など楽しみながら、それに耳を傾けていた……。

 

 

昼間だというのに薄暗い、鬱蒼と茂った森の入り口に差し掛かったあたりで、一行は馬車を降りた。

馬を繋ぐと、小道を分け入って森の奥の方へと進んでいく。

 

危険があるかも知れないので、夜目の利くディーキンが案内役のロングビルの隣に進み出て、周囲を警戒していた。

だが、特に何事もなく、しばらく歩いた後に、一行の目の前にやや開けた場所が見えてきた。

 

魔法学院の中庭ほどの広さがある、森の中の空き地といった風情の場所で、その真ん中のあたりにぽつんと廃屋があった。

元は樵小屋か何かだったらしく、朽ち果てた炭焼き用らしき窯と、壁板が外れた物置とが隣に並んでいる。

持ち主に放棄されてから、ずいぶんと時間が経っているようだ。

 

六人は空き地に進み出たりはせず、茂みに姿を隠したまま遠目にその廃屋の様子を窺った。

 

「ンー……? なんだか、もう長いこと、誰も使ってなさそうに見えるけど……」

 

ディーキンは小声でそう呟くと、首を傾げて、小屋の周囲の地面を遠目にじーっと眺めてみた。

 

情報が正しければ、あそこはただの宝の隠し場所であって、フーケが住んでいるというわけではないのだろうが……。

それにしても、小屋の回りにも、これまで通ってきた小道にも、頻繁に人が往来しているような様子は全然見えなかった。

しかし、情報提供者である樵の話によれば、フーケかどうかは別にしても、この小屋には割と頻繁に人が出入りしているはずだ。

それに、そのことに気が付いたという目撃者である樵自身も、この周囲に頻繁に来て木を切ったりしているはずなのではないか?

 

とはいえ自分は、一月前に歩いて行ったゴブリンの後を昨日降った新雪が上に積もった状態でも辿っていけるような、並外れたレンジャーとかではない。

別に《追跡》の専門家でも何でもないのだから、ただ単に足跡などの痕跡に気が付けなかっただけなのかもしれない。

 

だが、それにしても……。

 

そもそも、樵がしょっちゅう出入りしていて頻繁に目撃されるような場所なら、仮にも世間を騒がす大怪盗が宝の隠し場所に選ぶものだろうか?

それにフーケ自身は、何度も目撃されておいて、その事に気が付いていなかったのだろうか?

 

(……ウーン……、もしかして、秘書のお姉さんは騙されたのかも?)

 

ここに着く前にはあまり深く考えていなかったが、今にして思うと何だか不自然な話だ。

もしかすると彼女は、フーケ自身が故意に流した偽情報か、もしくは単なるガセネタを掴まされたのかも知れない。

 

(でも、もう来ちゃったんだから、とりあえず調べてみるしかないね……)

 

ディーキンは自分のそんな疑問を、口には出さなかった。

 

今更この場でそんなことをああだこうだと話し合ってみても、もう手遅れだ。

この上は情報が正しいことを祈って、とにかくあの小屋を調べてみるしかないだろう。

もしガセだとわかったら、すぐに引き返してもう一度情報収集をし直すのだ。

 

とはいえ、これだけ時間が経っては、フーケはもうとっくに普通の手段では手の届かない場所に行ってしまっているかも知れない。

その場合はやはり、ラヴォエラの帰還を待つか、《念視(スクライング)》などの手を試してみるしかないか……。

 

「計画を立てる」

 

タバサがそう言ったので、ディーキンはその思案を一旦打ち切って気持ちを切り替えた。

そして、他の五人と一緒にあの小屋を調査する算段を立てはじめる。

 

「基本的には、あの中に宝があるかないかを調べるだけ。

 問題はフーケがあの中にいた場合と、調査中に戻ってきた場合」

 

タバサはちょこんと地面に正座すると、枝を使って地面に絵を描いて、自分の考えている案を説明していった。

 

まず、誰かが偵察役兼囮となり、小屋のそばに赴いて中の様子を確認する。

大勢で近づいても気取られる危険が増すだけなので、一人でよい。

その間、他の面子はサポートのために待機しつつ、外から小屋に近づいてくるものがいないかを警戒する、というものだ。

 

「もし中にフーケがいれば、状況に応じて対応する。

 奇襲して倒せそうな状況ならそうして。

 無理そうなら、うまく誘導して外に出させてから、みんなで一斉に魔法攻撃する。

 小屋の中にゴーレムを作り出せるほどの土はないから、向こうも外に出て応戦したいはず」

 

仮に巨大ゴーレムが出てきても協力して破壊できることは昨夜既に証明済みとはいえ、出させずに片を付ける方が安全だ。

 

「そうね……、単純だけど、いいんじゃないかしら。

 で、誰が偵察役をするの?」

 

「すばしっこいのがいい」

 

キュルケの問いに、タバサがそう答えた。

 

この中ですばしっこそうなのと言えば、ディーキンとタバサか。

それに、先日の決闘ではシエスタの剣さばきもなかなか鋭かったが……。

 

さて誰にするのがいいだろうかと、皆で相談を始める。

 

「それなら、ディーキンが行くよ。

 ディーキンは使い魔だし、こういうのは男が率先して引き受けるものだって、よく言うからね」

 

透明化でもしてこっそり近づけば、透明化呪文が一般的ではなく、したがってそれを看破する手段にも乏しいこの世界では、まず気取られないだろう。

そう考えての申し出だったが、タバサは首を横に振る。

 

「あなたは、フーケのゴーレムが出てきたときにそれに対抗するために必要。

 みんなから離れて偵察に行かれるのは困る」

 

「ンー……、そう?」

 

正直なところ、別に今回は、ゴーレムを倒すのが目的というわけではないし……。

何も昨夜のようにキュルケをサポートして壊してもらわなくても、あの程度の強さなら倒す方法は他にいくらでもあるだろうが……。

まあ、この一行には身体的に弱いメイジが多いのだし、確かに自分は皆から無闇に離れない方が、危険な時に助けに行けて安全かもしれない。

どうしても行きたいわけではないし、他にいい案が出れば、特に反論しなくてもよいだろう。

 

そう結論して、ディーキンはとりあえず頷いた。

 

「じゃ、じゃあ、私が行きます。

 私は平民ですし、ゴーレムが出てきても魔法で攻撃とかはできないですから……」

 

次にシエスタがそう言って立候補したが、今度はディーキンが首を横に振った。

 

「シエスタ一人だと、フーケが中にいた時に危ないと思うの。

 それに、ゴーレムは倒せなくても、みんなの護衛とか、フーケを見つけて狙撃とかしてもらうことはできるでしょ?

 シエスタは暗くても見えるんだし、隠れてるフーケを見つけるのには向いてると思うよ」

 

正直なところ、今のシエスタの力では単独行動でメイジと戦うことになるかもしれない役目は危険だとディーキンは考えていた。

今は隠密に調査をしようとしているのだから、呪歌を歌ってサポートするというわけにもいかない。

 

「私が行く」

 

続いてタバサがそう言ったが、これにはキュルケが難色を示す。

 

「待って。昨日も私一人の炎じゃゴーレムを倒し切れなかったわ、最後にあなたが竜巻で止めを刺してくれたでしょ?

 それにあなたは風メイジで、空気の動きに敏感なんだから。フーケの接近を見張る役の方が適任よ」

 

……まともに呪文が使えないルイズでは、シエスタと同様フーケに出くわした場合に危ない。

かといってまさか、進んで任務を引き受けた自分たちが、案内役として同行してもらっただけのミス・ロングビルに任せるわけにもいかない……。

 

なかなか話がまとまらず、皆が困ったように顔を見合わせる。

ディーキンはちょっと考えをまとめると、軽く手を上げて皆の注意を引いた。

 

「ええと、ちょっといい?」

 

「何よ?」

 

「ディーキンは閃いたの。

 ディーキンは自分が行けばいいとは思うけど、確かにみんなの傍を離れないで守るのも大事だね。

 なら、小屋を調べてくれる別の人手を用意すればいいんだよ」

 

皆がそれを聞いて首を傾げる。

 

「……その、それは、ゴーレムなどを使って、ということでしょうか?

 残念ですがゴーレムでは宝物を識別できませんし、密かに調査などをするのにも向いていませんから……」

 

「人手って、まさか、誰かを雇ってやらせるとかいうんじゃないでしょうね?

 これは私たちが引き受けた仕事なのよ、無関係の誰かに危険を押し付けるなんて、冗談じゃないわ!」

 

ロングビルとルイズの反論に、ディーキンは首を振った。

 

「ゴーレムを使うわけじゃないの。

 その、他の人に任せるっていうのはそうだけど、無関係な人に危ないことをやらせようっていうわけじゃないよ。

 ディーキンはそんなことをするつもりはないの」

 

ディーキンはそういうと、万が一にも小屋から見られたり聞かれたりしないよう、不審そうに顔を見合わせる皆を連れて、少し離れた場所に移動した。

それから、呪文構成要素ポーチの中から小さな鞄とろうそくを取り出してしっかりと片手に握ると、朗々と響く声で呪文の詠唱を始める。

 

内心ではこの後の仲間たちの反応を予想して、少しわくわくしていた。

別に真面目な探索でお遊びをしようというわけではなく、実際に有効だと信じているからこの呪文を使うのだが……、でもきっと、皆驚くに違いない。

楽しくやることと真面目にやることとは、必ずしも相反するものではないのだ。

 

「《サーリル、ベンスヴェルク・アイスク――――》」

 

詠唱と共に、鞄とろうそくを握ったままの手を、複雑に宙に踊らせる。

それに伴い、火のついていないはずのろうそくからは幻のような炎が、鞄からは鱗粉のような輝く粉が舞い散り、魔法陣のようなものを形作っていく。

 

ルイズらはただじっと、それに見入っていた。

 

「《……ビアー・ケムセオー……、アシアー! クア・エラドリン!》」

 

数秒間の詠唱の後に最後の一言、招来したい存在の種族名を唱えて、焦点具を持った手を高く掲げる。

同時に《怪物招来(サモン・モンスター)》の呪文が完成し、ディーキンの目の前に魔法陣が浮かび上がった。

そこへきらめく燐光と共に理想郷の高貴な存在のエネルギーが招来され、瞬時に実体化する。

しかも、同時に3体も。

 

別に1体だけでもよかったのだが、使用した呪文のレベルの都合上、数が多くなったのである。

 

「……よ、妖精!?」

 

その姿を見たルイズが、思わずそう叫ぶ。

他の皆も、呆気にとられたり驚いたりした様子で、食い入るように招来された存在たちを見つめていた。

 

招来された3体は、すべて同種の存在であった。

それらは、ややいかがわしい趣の色鮮やかな衣類に身を包んだ、優雅で愛らしい女性の姿をしていた。

そのほっそりとした、尖った長い耳を持つ姿は、ハルケギニアで最も恐れられる亜人であるエルフにも似ている。

 

だが、エルフであろうはずはなかった。

 

その背丈はディーキンよりもなお小さく、僅かに60サントほどしかないのだ。

それに何よりも、肩からは蜻蛉と蝶の特徴を混ぜ合わせたような、透き通って煌めく、薄く長い翼が生えている。

 

その姿は、まさしく御伽噺に出てくるような妖精の類としか思えない。

しかるにハルケギニアでは、精霊は存在するが、妖精は伝説上の存在とされているのだ。

ルイズらが驚くのも無理はなかった。

 

ディーキンは皆の反応を一通り眺めて、くっくっと、満足そうに含み笑いをした。

 

「違うの、この人たちは――」

 

「あら私たちは妖精(フェイ)じゃないわ」

「もちろんエルフでもないわよ?」

「私たちはクア、エラドリンなの。よろしくね!」

 

ディーキンの紹介を待たずに、その妖精のような女性、クア・エラドリンたちは、楽しげな笑みを浮かべて口々にそう自己紹介をした。

そうして、きらきら輝くぼさぼさの短い銀髪を指で弄くりながら、くるくると落ち着きなく皆の間を飛び回っている。

 

「……アー、ウン。そうなんだよ……」

 

最後に胸を張って紹介しようとしたところで本人たちに先を越され、少しばかり当ての外れたディーキンは、ちょっと残念そうに肩を竦めた……。

 




プレイン・シフト
Plane Shift /次元界転移
系統:召喚術(瞬間移動); 7レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(対応する次元界毎に決まった種類や形の、小さな二股の金属棒)
距離:接触
持続時間:瞬間
 術者は自分自身や、互いに手をつないだ同意するクリーチャー8体までを、他の次元界へ転移させる。
この呪文では到着地点を正確に定めることはできず、意図した目的地から5~500(5d100)マイル離れた地点へ現れることになる。
なお、この呪文はクレリックにとっては5レベルだが、ウィザードやソーサラーにとっては7レベルの呪文である。
 アストラル・デーヴァはこの呪文と同等の効果の疑似呪文能力を回数無制限で使用できるため、本編でディーキンはラヴォエラを連絡役に立てた。
疑似呪文能力には焦点具も不要なため、ハルケギニアに対応する金属棒を彼女のために用意してやる必要もない。
ただし、この呪文だけでは目的地からは外れるし、またアストラル・デーヴァには人探しをしたり瞬間移動をしたりする能力はない。
そのため、同時に後述の《送信(センディング)》で仲間に彼女の出迎えを頼んだのである。

センディング
Sending /送信
系統:力術; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(短い良質の銅線1本)
距離:本文参照
持続時間:本文参照
 術者は自分のよく知っている特定のクリーチャーに、相手がどこに居ようとも日本語にして75字以内の伝言を送り、即座に返信を受け取る。
対象は術者のことを知っていれば、誰がメッセージを送ってきたのかに気が付く。
対象のクリーチャーが術者と同じ次元界にいない場合にはメッセージが届かないことがあるが、その可能性は通常は5%だけである。
ただし、その次元界の局地的な状況によっては、その確率が更に悪化する可能性もある。
なお、この呪文はクレリックにとっては4レベルだが、ウィザードやソーサラーにとっては5レベルの呪文である。
 ディーキンがボスに連絡を取るだけならこの呪文ですぐに可能なのだが、短いメッセージしか送れないため、詳しい状況の説明には向いていない。
また、マジックアイテム頼りでしか使用できないので、続けて何度も発動することもできない。
そのため、この呪文はラヴォエラを使者に立てる際の簡易連絡に使用し、詳細説明は彼女とエンセリックに任せたのである。
 なお、本作のディーキンは一日一回この呪文を発動できる、メッセンジャー・メダリオンと呼ばれる魔法のネックレスを持っている設定になっている。
これはサプリメント「アンダーダーク」に掲載されているマジックアイテムで、価格は10,000gp(金貨1万枚)である。

サモン・モンスターⅠ~Ⅸ
Summon Monster Ⅰ~Ⅸ /怪物招来1~9
系統:召喚術(招来)[可変(本文参照)]; 1~9レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(小さな鞄と小さなろうそく)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に1ラウンド(解除可)
 術者は他次元界のクリーチャーを1体招来する。そのクリーチャーは術者の指定した地点に現れ、術者の命令に従って即座に行動する。
招来されたクリーチャーは、特に指示が無ければ術者の敵を最善を尽くして攻撃する。意志疎通が図れるなら、他の行動を指示することもできる。
なお、この呪文によって呼び出されるのはクリーチャーのエネルギーが実体化したもので、殺されてもそのクリーチャーの本体が実際に死ぬわけではない。
ハルケギニアの呪文でいえば偏在のようなものであり、たとえ殺されても本体はまったくの無傷である(多少の不快感は感じるだろうが)。
 この呪文には1レベル~9レベルまでのバージョンがあり、それぞれのレベル毎に招来可能なクリーチャーのリストがある。
また、本来のリストより1レベル低いリストのクリーチャーを1d3体招来するか、それより低いリストのクリーチャーを1d4+1体招来することも選択できる。
本編でディーキンが呼び出したクア・エラドリンは3レベルのリストにあるクリーチャーで、より高レベルの呪文で招来したので複数体出現したのである。
 この呪文を[悪][善][秩序][混沌][地][水][火][風]のクリーチャーを招来するために使用すると、招来呪文はそのタイプの呪文になる。
例えば、クア・エラドリンは[善][混沌]のクリーチャーなので、それを招来したサモン・モンスターは[善、混沌]の副種別の呪文である。


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第四十四話 Suspicion

「待って。……それじゃあ、あの小屋をこっそり調べてきてもらえる?

 中に誰かいるかどうかと、その人が悪者かどうか、あと宝物みたいなのや魔法の品物がないかとか……」

 

ディーキンは、口々に質問を浴びせて来ようとする仲間たちとはしゃぎまわるクア・エラドリンたちとを手で制すと、そう指示を出した。

 

《怪物招来(サモン・モンスター)》の持続時間は短いのだ。

もたもたしていたら、何もしてもらわないうちに効果が切れてしまう。

 

「ははあ、偵察ね。オーケー、任せて!」

「こっそり……ってことは、みんなとお喋りできないのね。つまんないな~」

「なになに、あなたたちって義賊? それとも悪者退治の最中とか?」

 

妖精めいた少女たちは、無邪気に笑ってはしゃぎ続けながらも従順に指示に従い、早速偵察の準備を始めた。

くるくると飛び回る彼女たちの体が仄かに発光し始めたかと思うと、瞬く間に透き通った色とりどりの光の球体状に、その姿を変える。

 

『偵察だから、もっと光の量を落とさなきゃね』

『向こうに着いたら役割分担しましょ、私は魔法の品物を探すわ』

『みんな、しーっ! 静かにしなきゃ、こっそり探せないでしょ』

 

そんなことを話しながら体から発する光の量を落していくと、非実体の形態に変化した彼女らはほとんど目に見えなくなった。

おしゃべりを中断すると、そのまま音もなく飛行して、小屋の方へと向かって行く。

 

ディーキンはその様子を見守りながら、満足そうに頷いた。

 

クア・エラドリンにはさほどの強さはないが、無邪気でおしゃべり好きな性格に反して、非常に優れた隠密性を有している。

彼女らは非実体の光球形態をとることができ、その状態ではほとんど目には見えないし、音も立てない。

それでいて馬と同じくらい速く、完璧な飛行機動性で飛び回って移動し、壁などの固体を自由に通り抜けて進むこともできるのだ。

 

しかも《魔法の感知(ディテクト・マジック)》や《悪の感知(ディテクト・イーヴル)》の疑似呪文能力を自在に使える。

それらの能力で、小屋に入る前に中の様子をある程度探ることもできるだろう。

 

よって偵察役には、まさにうってつけの人材であるといえよう。

召喚しておける時間は2分弱ほどだが、3人がかりで小屋ひとつざっと調べる程度ならそれで十分に過ぎるはずだ。

 

「ちょ……、ちょっとディーキン、あの子たちは一体……、」

 

「待ってルイズ、今は調査の時間なの。お話は後だよ。

 偵察役が行ったの。みんな打ち合わせ通り、周りを警戒して!」

 

ディーキンが小さいが鋭い声でそう注意すると、みんなはっと我に返った。

慌てて散開すると、めいめい小屋の様子を窺いやすい茂みに身を隠しながら、周囲を警戒する。

 

ディーキンは仲間たちが散らばっていく前に、抜け目なく全員に対して《伝言(メッセージ)》の呪文を発動しておいた。

これがあれば、離れて散開していても密かに連絡を取り合うことができる。

 

 

 

適当な茂みに身を隠しながら、フーケはいささか混乱気味の頭で思い悩んでいた。

 

学生どもなど、トライアングルだろうがシュヴァリエだろうが百戦錬磨のメイジである自分の敵ではない。

この間はドットクラスの学生相手に決闘で勝ったようだが、平民の使用人など問題外である。

 

亜人の使い魔は風変りな先住魔法を使ったり、詩歌や器楽の優れた才能を持っていたりはするようだが、所詮はガキだろう。

他の奴らと連携したり小細工をしたりする暇もなく叩き潰せば、どうとでもなる。

 

―――ついさっきまでは、確かにそう思っていたのだが。

 

あの亜人、今度はこともなげに、伝説の妖精みたいな連中を召喚して使役するわけのわからない呪文を使って見せやがった。

ただのガキにしては、いくら何でも並外れた技や呪文が次々に飛び出してきすぎてやしないだろうか?

 

(もしかしてあの亜人、下手に手出ししたらヤバい奴なんじゃないだろうね)

 

エルフや吸血鬼のように、見た目によらない強さや危険さを持つ亜人というのはいるものだ。

本人はコボルドだといっているそうだがこちらで見られるコボルドとは明らかに別の種族だし、強さも同程度とは限らない。

 

とはいえ、どんな変わった技や魔法を持ち合わせていようが、使う間もなく叩き潰せば問題ないはずだ。

 

その考えは変わってはいない、変わってはいないが……。

相手があまりに予測し難い存在で、正体や手の内がまるで見通せないことが、フーケの胸中に一抹の不安を生じさせていた。

 

(……この場でこいつらを始末するほうが楽か、それとも一旦返して盗み直すほうが安全か……)

 

実に難しくかつ重要な問題で、悩ましい。

 

とはいえ、今の段階ではいくら考えてみても、正確なところがわかるはずもないのも確かだ。

今後の状況の推移を見て臨機応変に対応するしかないと腹をくくって、フーケは気を引き締め直した。

 

(なあに、腕が立とうがなんだろうが、結局このガキどもはみんな私を疑っちゃいない。

 ちょろい連中さ、ヘタを踏まなきゃなんとでもなるよ!)

 

とにかく今は、あの亜人のガキが宝物の使い道をちゃんと調べられることを祈っておこう。

ここまで面倒なことをしておいて、結局収穫なしだったというのではたまらない……。

 

 

 

(もしフーケがいたら、今度こそ私が捕まえてやるわ!)

 

小屋に比較的近い茂みに隠れながら、ルイズはその胸の内で熱意の火をめらめらと燃やしていた。

彼女は正直なところ、昨夜からいささかフラストレーションが溜まっているのだ。

 

フーケの巨大ゴーレムを撃退するのに、自分がまるで役に立てなかったことは悔しかった。

そのゴーレムを破壊するのに、まがりなりにも自分の使い魔であるディーキンが主人を差し置いてキュルケと協力したことも不満だった。

今朝の会議でも、自分よりディーキンのほうが断然目立っていたし、有力な情報を持ってきたのはミス・ロングビルだった。

 

ルイズは何も、ことさらに他人の功績を妬んだり、僻んだりしているわけではない。

ただ、メイジなのに魔法が使えないという劣等感はある。

ディーキンやエンセリックの助力によって自分の力の性質はある程度分かってきたとはいえ、長年抱いてきたその思いはやはり根強く残っているのだ。

だからこそ、自分も貴族らしく働きたい、周囲の者の役に立って認められるようになりたいという気持ちは人一倍強かった。

 

それにディーキンによれば、彼の慕う“ボス”という男は、偉大な業績を遺した英雄なのだという。

 

そんなに詳しく聞いたわけではないが、今まで聞いた限りの話では、その人物は平民の戦士なのだろう。

平民の戦士に一体どれほどの力があるというのか、そんなに大きな功績がたてられるものなのかと、いささか胡散臭くも思った。

でも、少なくとも人格的には、きっと尊敬できるような人物なのだろう。

その人の話をする時、ディーキンはいつも、心底憧れているといった様子で目を煌めかせているから。

 

(私だって、やってみせるんだから……)

 

ルイズには、今でもディーキンが自分にちゃんと敬意を払って、尊重してくれていることはわかっている。

今回の件で役に立てなかっただとか、そんなことでディーキンが失望したりしないのも理解している。

だが主人としては、その男には負けたくない、自分の使い魔から自分もそれ以上に認められたい、という気持ちは当然ある。

 

そうでなくとも、貴族としては、力や働きにおいても、精神性の面においても、平民に劣るわけにはいかない。

何も平民を見下しているからではなく、それが貴族として、高貴な地位に立ち他人を導いていくべき者としての、当然の義務だと彼女は信じている。

 

ましてや、自分の両親は……、特に母親は、生ける伝説とまで謳われたほどの力を持ち、数々の偉大な功績を遺した英雄なのだ。

その両親の名にかけても、平民の英雄に後れを取るわけにはいかないと息巻いていた。

 

(あんたの“ボス”がどれほどの人なのかは知らないけど、私だって……!)

 

自分の価値を証明する機会を渇望するルイズは、フーケがここに姿を現してくれることを期待していた。

 

 

 

しばし緊張した時間が流れたが、それもそう長くは続かなかった。

ものの1分も経つか経たないかのうちに、小屋へ向かったクア・エラドリンたちがディーキンの下へ戻ってくる。

そうして、口々に報告した。

 

『中には、だぁれもいないわよ?』

『全然使ってる様子が無いの。あ、でも、一度くらいは誰か入ったみたいね』

『そうそう、すごい宝物が置いてあったものね!』

 

「オオ……、そうなの?」

 

とディーキンは意外さ半分、喜び半分のといった感じの声を上げた。

てっきりこの小屋は外れかと思っていたが、どうやら本当にフーケの宝の隠し場所だったらしい。

 

「ええと、じゃあもう少し詳しく話してくれる?」

 

ディーキンがそう促すと、3人はまた口々に、思いつくままにいろいろな報告を始めた。

 

『チェストの中に杖があって、魔力を感知したらすごい眩しかったのよ! あんなのは初めてだわ』

『それに、魔力はなかったけど、なんだか変な形の珍しい金属の棒みたいなのもあったわね』

『他にはガラクタばっかり! ぜんぜん手入れされて無いし。本当、ほこりがついて洋服が汚れちゃうような格好で入らなくてよかった!』

 

「ふうん……?」

 

ディーキンはそれを聞いて、不思議そうに首を傾げた。

その杖と金属の棒みたいなものは、おそらく学院から盗み出されたというお宝だろう。

しかし、ミス・ロングビルが樵から聞いた話によれば、フーケは日常的にこの小屋に盗んだ宝物を隠しているらしいとのことだったが……。

 

(他の宝物は、もうみんな売りに出しちゃったのかな?)

 

だとしても、ろくに出入りした様子がなかったというのはやはり妙な話だ。

 

あるいはフーケはこの小屋を利用していることを悟られないために、毎回巧みに痕跡を消しているのだろうか?

それほど用心深い者が、樵に何度も目撃されたことに気が付かないなんてあり得るのだろうか?

 

「ンー……、ねえ、小屋の中には何か罠みたいなものはなかった?

 扉とか、床とか、杖の置き場所とかに……」

 

なんだかよくわからないがとにかく不審な状況なので、念を入れてそう質問してみる。

 

『ええ? さあ……、私、罠には詳しくないから』

『私たち、この格好だと扉とか箱とか通り抜けちゃうから、普通の罠はあっても引っかからないもんね』

『まあ、魔法の罠はないんじゃない? あの杖以外からは魔力とか感じなかったし』

 

「うーん、そうだよね……」

 

ディーキンは顔をしかめて、ちょっと頬を掻きながら考え込んだ。

何か不自然なのは間違いないが、どうにもよくわからない。

 

自分たちは、何か大事なことを見落としてでもいるのだろうか。

だとしたら、本当は一体何に警戒するべきなのか?

 

『―――調査の結果は?』

 

その時、やや離れた茂みに隠れていたタバサから、風に乗せてそんな質問の言葉が運ばれてきた。

 

ディーキンははっとなって、少し首を振ると思案を打ち切った。

 

とにかく、お宝は見つかったのだ。

あれこれ細かいことを考えるのは、回収を済ませてからでもいいだろう。

 

念のため、罠がないかなどはこちらでも調べてからにするとして……。

その前に、ひとまずこのおしゃべりで陽気な少女たちには、もう帰ってもらってもいいだろう。

どうせ持続時間もそろそろ切れるのだし、これ以上いてもらう用事もあるまい。

 

そう考え、丁重にお辞儀をして礼を言うと、彼女らに別れを告げた。

 

「アア、ディーキンはあんたたちに感謝するよ。

 来てくれてありがとう。もう、帰ってもらっても大丈夫なの」

 

『あらもう? せっかく物質界に来たのに、残念ね~』

『また呼んでね、きっとよ!』

『じゃ、バ~イ!』

 

少女たちは口々に別れを告げると、ぱあっと細かな光の粒子状になって、跡形もなく消え去った。

 

「もちろんなの。じゃあね、お姉さんたち」

 

まあ彼女たちのほうがディーキンより年下という可能性も微粒子レベルで存在しているかもしれないが、こまけぇこたぁいいんだよ。

 

ディーキンはそうしてクア・エラドリンたちを帰還させると、ひとまず全員に、彼女らの調査結果を説明することにした。

小さな声で囁き、先程かけた《伝言》の呪文を介して仲間たちにメッセージを送る。

 

「―――ええと、みんな聞こえる?

 とられた宝物は中にあったみたいだよ。でも、フーケはいないみたいだね。

 ディーキンが罠がないか確かめてから小屋の中の宝物を回収するから、みんなはそのまま見張りを続けていてほしいの。

 ……聞こえてたら、小さい声で返事をして。ディーキンには、それでわかるからね」

 

『……あなたは、罠を調べることもできるの?』

 

他の面々からはすぐに了解の返事が返ってきたが、タバサだけは好奇心をそそられたのか、そう質問してきた。

 

「もちろん。ディーキンには自信が……、まあ、その、ちょっとはあるの、たぶん。

 なんせコボルドは、罠に詳しい種族だからね!」

 

『……そう。じゃあ、任せる』

 

コボルドが罠に詳しい種族だというのは、本当のことである。

 

腕力と耐久力に劣る小柄なコボルドは、身を守るのには主に姑息な策略や、数の力、魔法の力、そして罠の力に頼るのだ。

種族の守り神であるカートゥルマクも罠を好み、それを使うことを大いに奨励している。

だから、コボルドの部族には罠作りを専門にするエキスパートが大勢いるし、その洞窟は大抵、大量のトラップで守られている。

特にガラクタ同然の材料から罠を組み上げる手腕においては、おそらくコボルドに勝る種族はないだろう。

 

もっとも、ディーキンは特に罠作りや罠外しの専門家というわけではない。

前の主人の下では最初コボルドの族長になるための教育を受けていたから、いちおう若干の知識や訓練は与えられてはいる。

待ち伏せを仕掛けたり、防御陣地を築いたり、的確に罠を張ったりしてコボルドの民を守る方法は、族長が知っておかなければならないことなのだ。

とはいえ、それは随分と昔のことだし、当時は族長になどなりたくもなかったから、やる気もさっぱり起きなかった。

純粋に技量だけを頼りに罠を見つけようとするには、自分の力量は何とも頼りないものでしかない。

 

だがそれは、様々な工夫や魔法の力で、ある程度は補うことができよう。

罠の有無を確認する手順については、コボルドの洞窟で学んだことのほかに、冒険者としての活動中にも色々と先人の知恵的なものを学習しているのだ。

ディーキンは一応周囲を警戒しながら茂みから出て、ささっと素早く小屋の傍へ近づいた。

 

まず、小屋の外周をぐるっと回って角度を変えながら、《魔法の感知》で内部の魔力をくまなく確認してみる。

結果は先程のクアたちの報告にあったとおり、強烈な魔力の反応がひとつあっただけで、その他の魔力源はなかった。

 

これでひとまず、魔法的な罠が無いことは確かめられたわけだ。

それにしても、この反応からすると『守護の杖』とやらはデルフリンガーと同じで、エピック級のマジックアイテムかアーティファクトらしい。

まあ、相当な伝統のある魔法学院の秘宝だというのだから、そのくらいな物であってもおかしくはないだろうが。

 

次に、機械的な罠の有無を調べにかかろう。

荷物袋から変わったデザインのコンパスを取り出すと、合言葉を唱えて起動させる。

針がくるくると回転し始めると同時に体に魔法的な力が浸透してきて、ディーキンは自分の中である種の感覚が冴え渡っていくのを感じた。

 

これでディーキンは、しばらくの間は本職のローグにも引けを取らないほどに確かな精度で罠を発見できるようになった。

 

この『商人のコンパス』は、アンダーダークで呪いに囚われたアヴァリエル(有翼エルフ)の国を探索したときに手に入れた、ユニークな魔法の品である。

合言葉を唱えて起動させることで、一日に数回、使用者に《罠発見(ファインド・トラップス)》の呪文と同様の恩恵を与えてくれるという優れ物なのだ。

 

これは、本来は強欲だったのが呪いにかかって性格が反転し、財産をすべて手放そうとしていたアヴァリエルの商人から譲り受けた貴重な品だ。

後にその呪いは解けたものの、彼らはすぐにアンダーダークを去っていってしまったため、今日まで返却の機会が無かった。

そのため、今でもディーキンが預かって有効に活用している。

 

ディーキンは早速荷物袋からレンズを取り出すと、それを使って注意深く扉の周囲を調べ始めた。

 

十分な時間をかけて小屋の周辺や扉に罠が無さそうなのを確認すると、念には念を入れて扉からいったん離れる。

それから、毎朝影術の《従者の群れ(サーヴァント・ホード)》で作成している『見えざる従者』たちのうちの一体に命じて、扉を開けさせた。

 

これなら、万が一見落としがあって何か罠が発動しても、まず自分は巻き込まれずに済むわけだ。

 

幸い見落としは無かったようで、何事もなく扉が開いた。

さらに続けて、従者たちに命じてそこらに転がっている手頃な大きさの岩を小屋の中まで押して運ばせ、一通り中を転がして回らせる。

 

人間の体重と同じくらいの重量の岩を小屋の中に転がさせても、何も罠が発動しないことを確かめてから、ディーキンはようやく小屋の中に入った。

 

 

 

「………」

 

タバサは、ディーキンが入念な調査をしている様子を、やや離れた場所からじっと観察していた。

 

彼が何をしているのかすべてわかったわけではないが、どうやら自分の技術と魔法と、それにいろいろな道具などを組み合わせて活用しているようだ。

しかもそれを過信せずに、たとえ見落としがあっても可能な限りリスクを避けられるような工夫もしているらしい。

その姿は慎重だが自信にあふれていて、こうした仕事に手慣れていることを感じさせた。

 

(私には、あんなことはできない)

 

魔法の罠の有無を『ディテクト・マジック』で調べることはできる。

だが、機械的な罠に関する知識や経験はほとんどない。

以前にある任務で、狩人の作った罠を少し見たりいじったりしたことがある程度だ。

せいぜい、不自然な様子が無いどうかをざっと目で見て、素人判断するくらいしかできまい。

しかも自分は視力が悪いので、細かい部分を目視で詳しく調べるのは得意とは言えない。

 

何分、命がけの戦いにいつ身を投じねばならないかわからないような生活をしているのだ、限られた時間で学べることには限界がある。

自分はメイジだから、強くなる上では魔法の力とそれを活用する腕とを磨く方が賢明で、そういったことに詳しくないのは仕方がない。

別に出来ないからと言って何でもないし、これまでは意識したことさえなかったのだが……。

 

(どうして、あの子には……)

 

タバサはまた、自分の心に何か暗く不快な感情が滲み出してくるのを感じていた。

 

(……いけない)

 

だが、それに深く身を委ねるほど彼女は衝動的でも賤しくもない。

すぐにそんな考えを振り払って、気持ちを切り替える。

 

今は、目の前の任務に集中しよう。

自分はいつも、そうして生き抜いてきたのだから。

 

 

 

「あらあら、タバサったら、こんな時でも熱心にディー君を見つめて……」

「ミ、ミス・タバサは、先生をそういう意味で見ているのではないと思います、けど……」

 

キュルケとシエスタは、小声でそんなことを言いながら、少し大きめの茂みに2人で揃って身を隠していた。

ちなみにこの2人が一緒なのは、ある程度小屋の傍にあって身を隠すのに適当な茂みの数が足りなかったからである。

 

キュルケは小屋の中にフーケがいないと聞いて少し気が抜けたのか、のんびりした様子でタバサの方など微笑ましく見つめている。

シエスタは生真面目にクロスボウなど構えて周囲を警戒し続けていたのだが、そう言われると気になるのかタバサやディーキンの方に目が行っていた。

 

確かに、さっきからタバサはじいっとディーキンが作業する様子を見つめている。

なにかに執心しているようにも、見えなくはない。

 

(ま、まさか本当に、ミス・タバサは、先生に……?)

 

別に、ミス・タバサが先生に対してどんな感情を持っていようと、自分が口を挟む筋合いではない。

自分はあくまで彼に敬慕の念を抱いているのであって、交際に口出しなど畏れ多いことである。

そう思ってはいるのだが、何故かどうにも気持ちがそわそわして、落ち着かなかった。

 

キュルケはそんなシエスタの様子を、タバサの方を見つめながらも楽しそうに横目で窺う。

 

(この子も面白い子よねえ。平民なのにギーシュと決闘をして勝っちゃうし。

 かと思ったら、ディー君を先生とか言って、こんなところにまでついて回って……。

 一体、何の先生だっていうのかしら?)

 

こんな任務の最中に緊張感のない態度だと怒ったり呆れたりする者もいるだろうが、キュルケは自分の感情に素直なだけなのである。

ルイズやシエスタのように常に生真面目に堅苦しい態度をとってことに当たるのは、彼女の性に合わない。

命のかかった任務であろうと余裕を持って楽しんでこなす方が性に合っているし、リラックスして臨んだ方が実力も発揮できるタイプなのだ。

 

キュルケはこれで、キュルケなりに真面目にやっているつもりなのであった。

まあ、既にフーケやお宝のことよりも、自分の好きな色恋沙汰の話の方に主要な関心が移っているのは否定できなかったが。

 

(実際のところ、この子はディー君と、どういう関係なのかしらね?)

 

 

 

ディーキンは小屋に入ると、内部を念入りにレンズで調べて、チェストなどに罠が無いことを確認していった。

ついでに、誰かが頻繁にここに出入りした形跡があるかどうかも、注意して見ていく。

 

(ウーン……、やっぱり、よく使われてるような様子はないね)

 

情報通りに宝物がこの小屋に隠されていた一方で、情報とは違って最近頻繁に小屋が使用されていると思しき形跡はなかった。

 

何とも奇妙な話だが、それにどういう意味があるのかはさっぱりわからない。

まあひとまず、今はおいておいて、後でルイズたちにも意見を求めてみよう。

 

そうして、いよいよ宝物を回収するべくチェストを順に開いてみた。

 

最初に見つけたのは、奇妙な形をした、杖なのかどうかもよく分からない棒状の代物だった。

来る前に聞いた話からすると、きっとこれが『破壊の杖』なのだろう。

チェストから取り出してみたとき、予想したよりずっと軽くて少し驚いた。

 

宝のひとつを回収したことを《伝言》で皆に伝えると、続けてもう片方の杖が入っていると思しきチェストを開いてみる。

 

その中には、印形やルーンが無数に彫り込まれた、木製の長杖が入っていた。

おそらくこれが『守護の杖』なのだろう。

そしてまず間違いなく、これが強烈な魔力の発生源だ。

 

(……ンン? なんか、どこかで見たか聞いたかしたような杖だけど……)

 

ディーキンは首を傾げると、杖をひっくり返して調べ回しながら、少しの間記憶を探ってみた。

じきに思い当たって、はっと目を見開く。

 

「オオ……!?」

 

まさか、これは名高い『あの』杖か?

 

いや、間違いあるまい。

見た目は自分が知っている通りだし、魔力の強さも本物だ。

 

しかしなぜ、この杖がこんなところに……?

 

(確かおじいさんは、友だちが置いていったって言ってたけど……)

 

そうするとその人物は、自分と同じようにレルムの世界から来た者なのだろうか?

それとも、たまたま太古の昔にこの世界にもたらされたか何かしたこの杖を持っていただけなのだろうか……?

 

そんな風にあれこれ考え込んでいた時、小屋の入り口に誰か人の来た気配がした。

 

「! ……誰?」

 

外でみんなが見張っているからまさかフーケではないとは思うが、一応警戒して扉の方から飛び退いて身構えると、外の人物を誰何した。

同時に『見えざる従者』たちに指示を出し、扉に内側からつっかい棒をかませて押さえておかせる。

 

「私ですわ。宝が見つかったと聞いて、学院長秘書として確認に参りましたの」

 

その声を聞いたディーキンは小さく息を吐いて緊張を解くと、従者たちに扉を開けさせて彼女を迎え入れた。

そして、先程見つけた2本の杖を差し出す。

 

「どうも、ロングビルお姉さん。

 宝物の杖は、ほら、両方ともここにあるよ」

 

杖をちらりと見て、ロングビルはにっこりと微笑んだ。

 

「まあ、無事に見つかってよかったわ」

 

「………? そうだね」

 

ディーキンは、そんな彼女の態度に妙な違和感を感じて、不思議そうに首をひねった。

 

昨夜からの彼女の苦労が報われて、こうして無事に目的の宝物を発見できたのだ。

これで学院長秘書としての面目も立つし、格段の働きを認められて、おそらく褒賞も出るだろう。

 

それにしては、なんだか興奮とか喜びとかの反応が薄すぎやしないか?

 

こういう場合、歓喜して杖に飛びついて、確かに本物かどうかをひっくり返して念入りに調べ回すというのが普通の反応じゃないだろうか。

なのに彼女はちらっと見ただけで、杖に手を伸ばそうともしないのだ。

 

(お姉さんは見つかった杖が本物かどうか、確認しにここに入って来たんじゃないの?)

 

杖をちらりと見ただけで、本物かどうかわかるとでもいうのだろうか。

それとも、ただ事務的にやっているだけで実はこの探索にあんまり気のりもしていなかったのだろうか。

これまではあまりそんな風には見えなかったが……。

 

そんなディーキンの疑念をよそに、ロングビルが彼を促す。

 

「さあ、使い魔さん。あなたにはその杖の使い方を調べられるのでしょう?

 さっそく、やってみてくださいな」

 

「えっ?」

 

それを聞いて、ディーキンはますます困惑した。

 

確かにさっき調べようとは申し出たが、こんな場所で今発見したばかりの杖をいきなり調べ始めろというのか?

冒険者なら、手に入れた宝物の鑑定などは冒険が終わってからゆっくりとやるのが普通なのだが……。

 

「……ええと、ロングビルお姉さん?

 学院に持って帰ってからでもいいんじゃないかな、調べてる間にフーケが戻ってくるかもしれないよ?」

 

「いえ、いえ。確かに、フーケがいつここに戻ってくるかもしれませんわね。

 だからこそ、今すぐに調べるべきなのですわ。疲れているでしょうし、申し訳ありませんけれど」

 

それからロングビルは、順を追って自分の考えを説明していった。

 

宝はこうして回収できたが、もうひとつの目的であるフーケの捕縛も果たしたい。

今学院に帰ったら、フーケを待ち伏せしてとらえる絶好の機会を逸してしまうかもしれない。

なぜなら、ここは宝の隠し場所なのだから、いずれ遠からずフーケは戻ってくるだろう。

その時に宝がなくなっているのに気が付いたら、隠し場所が露見したとわかって、ここには二度と戻ってこなくなるはずだ。

 

「……ですから、このままこの周辺に網を張って、フーケが現れるまで待ち伏せしましょう。

 その時に、杖の使い方が分かっていれば頼もしい戦力になります。

 実はさっき外で軽い打ち合わせをしまして、すでにあなたの主人であるミス・ヴァリエールたちも賛成してくれているのです。

 杖を調べている間は、彼女たちがフーケの接近を見張っていてくれますわ」

 

「アア、なるほど。そうだね……」

 

ディーキンはあいまいな返事を返しつつ、いろいろと考えを巡らした。

 

確かに、今の話は筋が通っているようには思える。

しかし、さっき彼女が宝を見たときの不自然な反応がどうにも引っかかった。

 

この小屋の状況が、情報提供者である樵の話とは不自然に食い違っているという件もそうだ。

そういえば、その樵とやらの話を持ってきたのも、このミス・ロングビルだったか……。

 

(まさか、この人が……?)

 

彼女がフーケ、もしくはその内通者ということはありえないか?

ディーキンは、昨夜の襲撃から始まるこれまでの経緯を今一度を思い返してみた。

 

(……うーん)

 

ひとたび疑念を持って考え始めてみると、その可能性は十分にあるということがすぐにわかった。

 

昨夜、巨大ゴーレムによって宝物庫の壁が不自然なほどの短時間のうちに崩されたこと。

内部に入り込んでいた彼女なら、壁に細工をすることは容易かっただろう。

宝物庫内のメッセージは、事件後宝物庫内に調べに入った時に人目を盗んで書いたか、あるいは事前にもう書いてあったのかもしれない。

 

彼女が巨大ゴーレムが宝物庫を襲ったときにコルベールと一緒にいたという事実は、完全なアリバイとはいいがたい。

ディーキンが現在までに知る限りの知識でも、この世界の魔法やマジックアイテムをうまく組み合わせて事前に細工をしておけば何とかできるだろう。

冒険者は、往々にしてそういった類の工夫を凝らすやり方には詳しい。メイジの怪盗も、大概そうだろう。

それに、たとえ彼女自身のアリバイが本物だったとしても、彼女がフーケ本人ではなく内通者なのだという可能性は依然として残っている。

 

彼女はいろいろと理屈をこねて、ここにシルフィードに乗って来るのを渋っていた。

あの時は彼女の意見にも一理あると思って特に疑念も持たなかったが、疑ってかかるのならば戦力や機動力を削ぐためとみることも可能だろう。

 

目撃者の樵の話とこの小屋の様子には、いささかつじつまの合わない部分があるという点。

実はそんな目撃者など最初からいなくて、話がまったくのでっち上げだったと考えればおかしくはなくなる。

 

宝を発見した時の反応が薄かったのは、最初からそこにあることを知っていたから。

相手がたかが使い魔、亜人の子ども(実際はそうではないけれど)だと思って、つい芝居が手抜きになっていたのかもしれない。

 

わざわざ盗み出した杖のある場所に案内したのは……、

今の彼女の要求や先ほどの会議で彼女の質問した内容から考えると、杖の完全な使い方を調べさせるためか?

 

(ウーン、でも、そうだとは限らないし……)

 

確かに彼女を疑う要素は十分にあるが、それは彼女が犯人だという証拠ではない。

疑い始めれば誰でも怪しく思えてくるものだし、それらは単なる偶然、自分の邪推で、実は潔白なのかもしれない。

 

調べようと思えば、たとえばシエスタに頼んで、あるいは自分で、彼女に《悪の感知》を試してみることはできる。

しかし悪だからと言って必ずしも犯罪者だということにはならないし、逆に悪ではない犯罪者などもいる。

この状況では、やってみたところであまり役には立たないだろう。

 

《思考の感知(ディテクト・ソウツ)》で彼女の思考を読んでみれば、あるいはわかるかもしれない。

だが、もしも呪文が抵抗されたら、問題が起きるだろう。

思考を探る魔法はハルケギニアでは知られていないようだが、抵抗されれば少なくとも、何か魔法を掛けられたくらいのことはわかるはずだ。

 

そうでなくとも、罪があると確定しているわけでもない相手の思考をむやみに探るのは、あまり褒められたことではあるまい。

相手の目の前で悪意だの思考だのを探る呪文を唱えるというのは、お前を疑っているぞと宣言するようなものだ。

疑って調べ回しておいて、もしも相手が潔白だったら、大変な失礼にあたる。

 

なによりも、疑わしい態度はあるにせよ、ディーキンの目にはロングビルがそれほど悪い人物のようには見えなかった。

少なくとも、今の時点では嫌いな人だとはいえない。そして、この冒険に同行してくれた大切な仲間でもある。

無闇に嫌疑をかけて問い詰めたり、疑って調べ回したりは、感情的にもあまりしたくはない。

 

「……どうしました?」

 

「……アア、いや。ディーキンは、ちょっと別のどうでもいい考え事をしてたんだよ。

 ずいぶん待たせたみたいだね、ディーキンはあんたにお詫びするよ」

 

ロングビルがなかなか動かないディーキンをいぶかしんで声をかけてきたので、すぐにそう返事をすると無邪気そうな微笑みを取り繕った。

 

ルイズらに自分の考えを伝えて相談したいとも思ったが、この状況ではちょっと難しそうである。

何か理由をでっち上げてこの場を離れるのは疑われる危険があるし、《伝言》の呪文ではロングビル自身にも話が伝わってしまう。

それにルイズやシエスタは隠し事が下手そうだ、教えたらきっと顔や態度に出るだろう。

 

本当なら慎重に考えてから行動を決めたいところではあるが、ロングビルに自分の疑念を悟られてはまずい。

もし本当に彼女が犯人だとすると、提案をむやみに拒絶したりあまり長々と考え込む様子を見せたりすれば、警戒を強められてしまう。

 

ディーキンは、こちらでは『守護の杖』と呼ばれている『魔道師の杖(スタッフ・オヴ・ザ・マギ)』にちらりと目をやった。

 

この強力なアーティファクトの使い方を彼女に教えるべきか否か。

この場で彼女を問い詰めたり調べたりするべきか否か。

 

エンセリックも今はいないし、ここは自分の判断でどうするかを早急に決断しなければ……。

 




エラドリン:
 善の副種別を持つ来訪者たちの総称をセレスチャルといい、その中でも「混沌にして善」の属性を代表するセレスチャルがエラドリンである。
彼らは高貴で情熱的、自由奔放で陽気であり、全次元界で歓びを広めるとともに、悪、特に圧政には断固として立ち向かっている。
エラドリンは他のセレスチャルに負けず劣らず美しいが、秩序にして善のアルコンのような荘厳な美しさと比べると、いささか野性味を帯びている。
多くの種があり、その外見は概して定命のエルフや妖精(フェイ)に似ているが、そういった種族よりもずっと逞しく見える。
 エラドリンにはモーウェルという名の女王がおり、彼女は“星界の宮廷”と呼ばれる疑似次元界から臣下のエラドリンたちを統括している。
彼女には複数の男女から成る愛する配偶者たちがおり、それらの配偶者たちが評議員として彼女をサポートしている。
 すべてのエラドリンは電気や石化の効果に対して完全な耐性があり、火や冷気による攻撃に対してもかなりの抵抗力を持っている。
また、言語を持つすべてのクリーチャーの言葉を理解し、対話することができる生来の超常能力を常時稼働で身に帯びている。

クア・エラドリン:
 最も小さなエラドリンであるクアは、スプライト(小妖精)に似ている。
クアは笑うために存在しているかのようで、星空の下で楽しく踊り、戯れ、暢気に浮かれ騒ぐ放浪生活を体現している。
その終わりのない戯れと常軌を逸したユーモアを容認できるのであれば、彼女らは優れた斥候といえる。
 クアは非実体状態の光の球の形態をとることができる。この形態では魔力を帯びていない通常の物理攻撃を受け付けず、物質を透過する。
また、[力場]以外による攻撃であれば、たとえ魔法や魔力を帯びた武器などによるものであっても50%の確率でダメージを無視できる。
 クアは自身やその周囲にいる者に対する精神への制御や憑依の試みを妨げ、悪の存在の攻撃を逸らす防護の場を常に体から発散している。
いざという時には、必中の魔法の矢を放ったり、弱い相手を眠らせるなどの疑似呪文能力を使って戦うこともできる。
その他、悪の存在や魔力源を感知したり、自在に動かせる光源を飛ばしたり、不可視状態の相手を仄かな光で縁取ったりといった小細工も駆使できる。
しかし肉体的には大変脆弱なので、可能な限り物理戦闘は避けて、もっと大きくて強いセレスチャルを探し出して友人になろうと試みる方が好みである。

ファインド・トラップス
Find Traps /罠発見
系統:占術; 2レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:自身
持続時間:術者レベル毎に1分
 術者は罠の働きに関する直観的な洞察力を得て、まるでローグ(盗賊)ででもあるかのように<捜索>判定で罠を発見することができるようになる。
加えて、術者は呪文の効果中に罠を発見するために行なった<捜索>判定に、術者レベルの半分(最大+10)に等しい洞察ボーナスを得る。
ただしこの呪文では発見した罠を無力化するための能力は得られないので、そのためには別に方法を考える必要がある。
この呪文は本来はクレリックが使用するもので、バードの呪文ではない。
 ディーキンが作中で使用した『商人のコンパス』はNWNに登場したアイテムで、起動するとこの呪文の効果を使用者に与えてくれるというものである。
なお、NWNではファインド・トラップスは自分の近くにある罠を自動的に解除するという呪文になっているが、本作ではD&D3.5版の効果に合わせている。


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第四十五話 Honesty and dishonesty

「ええと、この……『守護の杖』、っていうのの使い方だったね。

 この杖はディーキンがいた所ではすごく有名だから、調べなくてもちゃんと知ってるよ」

 

ディーキンは方針を決めると、こちらでは呼び名の違う『魔道師の杖(スタッフ・オヴ・ザ・マギ)』を手に取ってしげしげと眺めながらそう伝えた。

それを聞いたロングビルは驚いたような様子を見せながらも、ならば早く使い方をと急かす。

 

「いいよ。じゃあ、上手くいくかわからないけど、ちょっと使ってみるね……」

 

他人の物をやたらに使っていいものかとも思ったが、この杖の機能はすべて使っても減らないものか、再チャージが可能なものだ。

ひとつだけ使うと取り返しのつかない機能があるが、それ以外ならまあ構うまい。

 

とはいえ今のところは、彼女にすべての機能を教えるつもりもないが。

 

ディーキンはこほん、と咳払いをすると、偉大な魔道師になったつもりで厳かに杖を掲げた。

精神を集中し、自分にはこの杖を使いこなす能力があるのだということを、自分自身に強く言い聞かせる。

 

この『魔道師の杖』は定命の存在には作成することのできないアーティファクトであるが、呪文解放型のアイテムであるスタッフの一種でもある。

そして呪文解放型のアイテムから呪文を解き放つには、その中に蓄えられている呪文を発動可能なクラスを持つ者でなくてはならないのだ。

 

しかるに今ディーキンが使用しようと試みている呪文は、本来のバードの呪文リストの中には無い。

そこでディーキンは、<魔法装置使用>の技能を用いて杖に呪文を解放させようとしているのである。

これは運と強固な人格だけを頼りにして魔法の品をいわば騙し、強引にその力を引き出させるための技術だ。

ハルケギニアでは知られていないようだが、フェイルーンにおいては主にローグやバードなどがこの技能を習得していることが多い。

 

それにしても……。

 

この希少な杖は、今やマギ(魔道師)はおろかアークマギ(大魔道師)でさえ、所有することを生涯夢見てついに叶わぬ者が多いのだという。

それをよりにもよって専業のメイジですらないバードなどが手にし、こんな乱暴な方法で使うとは、何とも言えぬ話である。

フェイルーンのメイジがこのことを知ったら、いったい何というだろうか。

 

ディーキンはふとそんなことを考えて、少し苦笑してしまった。

が、気が散っていては成功が覚束ないので、すぐに気を取り直して杖の使用に集中する。

 

まずは、チャージを消費しない比較的弱い能力から。

 

「《リトリックス》!」

 

コマンドワードを唱えて杖の先端をロングビルに差し向けると、一瞬だけ白い光の帯が輪を描くようにして彼女の周りを包み、そして消えた。

 

「……い、今のは、一体?

 何も、変わったところは、ないみたいですけど……、」

 

何が起こったのかわからず、戸惑った様子で自分の体を見回すロングビル。

ディーキンはにっと微笑むと、懐から普段は羊皮紙を削るために使っている小さなナイフを取り出した。

 

「ええと、今のは《魔道師の鎧(メイジ・アーマー)》っていう呪文なの。

 目に見えないヨロイで、体を守るんだよ」

 

この呪文は不可視だが実体をもつ力場の鎧で対象のクリーチャーを包み込み、守るというものだ。

 

ごく初級の呪文であり、防御効果も平凡なチェイン・シャツやハイドアーマーと同程度で、そこまで高くはない。

しかし重量が皆無で体の動きを一切妨げず、持続時間も長いので、動作要素を妨げてしまう鎧を着込めない多くのメイジに常用されている。

モンクのように鎧を着られない戦闘者にとっても有用であり、鎧の着用が不適切な場所での護身用等で普通の戦士にも利用されることはしばしばある。

 

このようにフェイルーンでは広く普及している防御用の呪文なのだが、どうもハルケギニアには類似の呪文はないようだ。

ハルケギニアのメイジは事前に防御や強化の呪文をかけておくのではなく、主にその場で風の防壁を張ったり体を硬化させたりして攻撃を防ぐらしい。

 

ディーキンは軽い説明を終えると、ロングビルにナイフを手渡して、自分で確かめてみるように促した。

 

「身を守る呪文……、ですか?」

 

ロングビルは少し躊躇したが、恐る恐るナイフの刃を自分の肌にあてて、ゆっくりと力を込めて押してみる。

だが、まるで硬くなめした分厚い革鎧を押しているかのような感覚に遮られて刃が沈まず、肌を傷つけることはなかった。

素手で刃をぎゅっと握ってみたり、少し勢いをつけて振り下ろしてみたり、包丁のように引いてみたりもしたが、やはり傷はつかない。

 

「ね、大丈夫でしょ?」

 

「……本当……。これは、確かに『守護の杖』ですわね」

 

オスマンが言及していた呪文を防ぐ効果に加えて、武器を防ぐ鎧のようなものを生み出す力もあるとは。

確かに“守護”の名にふさわしい逸品だ。

 

ロングビルの嬉しそうな表情をちらりと観察してから、ディーキンは咳払いをした。

 

「オホン。じゃあ、次の効果を説明するよ」

 

「え? ……ま、まだ何かあるのですか?」

 

「そうだよ。この杖はすごくいろいろなことができるからね」

 

ロングビルの驚き半分、喜び半分といった表情を密かに窺いながら、ディーキンはまた杖を掲げた。

今度は、チャージを消費する呪文をひとつ、使用してみせよう。

 

「《ドルラス》!」

 

コマンドワードを唱えると同時に、小屋の側面の壁に向けて杖を振る。

途端に、壁が音もなくぱっくりと開き、瞬時に外に通じる通路が出来上がった。

 

学院長秘書ミス・ロングビルこと『土くれ』のフーケは、驚きに目を見張った。

 

壁に穴を開けるだけなら自分も得意だが、これは明らかに『錬金』ではない。

壁を別の材質に変えて崩したのではなく、どうやったのかはわからないが、壁を消滅させてきれいな出口を作りやがった。

 

(こ、これは……!)

 

これはもしや、今後の仕事にものすごく便利な能力なのじゃないだろうか?

フーケは、思いがけぬ朗報で期待に胸を膨らませた。

 

「す、すごい呪文ですわね……。

 その、これは……、どんな壁にでも穴を開けられるのでしょうか?」

 

「まあ、大抵はね」

 

「その、たとえば金属の壁でも、魔法で固定化された壁でも?」

 

「……ン~、そうだね……」

 

ディーキンはちょっと考え込むような仕草をしながら、さりげなくロングビルの様子を観察する。

 

彼女に少し鎌をかける意味も込めて、今の《壁抜け(パスウォール)》の呪文をお披露目してみたのだが……。

そうしたら案の定、普通に考えてフーケとの戦いには役立ちそうもない壁抜けの呪文に、露骨な関心を示している。

 

これはもう、どう考えてみても怪しいと言わざるを得ない。

だが、いかに怪しいとはいっても、依然としてそれは疑惑であって、確定ではない。

 

彼女が白か黒かは、この小屋を出て他のメンバーと合流する前にはっきりさせておかなくては。

もし潔白だったら彼女に不快な思いをさせてしまうことにはなるが、この状況では致し方ない。

 

ディーキンは静かに杖を置くと、真剣な顔をしてロングビルの方をじっと見上げた。

 

「ねえ、ロングビルお姉さん」

 

「はい?」

 

「ディーキンはこんなことを言うのはとっても失礼だとは思うんだけど……。

 後で殴ってもいいから、ちょっとだけ聞いてほしいの。

 実はね、ディーキンはさっきから、もしかしたらお姉さんがフーケだったりしないかなって思ってるんだよ」

 

フーケはその唐突な言葉に、ぎょっとして目を見開いた。

それまでは期待と興奮とで若干紅潮していた顔の色が、たちまち青ざめていく。

 

「!! ……な、何故、そんな……?」

 

かろうじてそんな言葉を喉から絞り出したロングビルに、ディーキンは心底申し訳ないといった様子で深々と頭を下げる。

それから、自分がそのような疑いを持つに至った理由を、包み隠さずに一から説明していった。

 

――もちろん、この選択は有利不利という面から見れば、まったく賢明とはいえない。

 

もし本当に彼女がフーケであるならば、自分の疑念に相手がまったく気付かずに油断しきっているという有利な状況を、自ら手放したことになる。

しかも、自分の疑念を明かすことで、一触即発の極めて危険な状況を招いてしまう危険性も高い。

 

ここは自分の考えを隠し通して何食わぬ顔でいたほうが安全だし、尻尾も掴みやすいだろう。

手段を問わないなら、密かにロングビルの思考を読むなり、心術で操って自白させるなりすれば、もっと話が早い。

 

勿論そんなことは、ディーキンも十分承知している。

だが、やっぱり性に合わない。

下手に隠し立てなどせずに、こうして疑っているなりに誠心誠意正面から相手に向き合うほうが気が楽だ。

ボスでもきっとそうすることだろう。

 

今ここには、自分と彼女の2人しかいない。

仮に彼女が真犯人でも、自分が疑いを暴露したことで他の仲間が人質に取られるなどの危険に晒される心配は、当面はない。

そして場合によっては、犯罪を止める約束と引き換えに彼女の正体を自分の胸の内にだけ秘めておくというような提案をすることもできる。

 

先程はできることならルイズらに相談したいとも思っていたが、今考えるとそれは必ずしもよい方法では無いかもしれない。

別に仲間を頼りにしていないからではなく、彼女らの立場を考えた上でのことだ。

もしパラディンであるシエスタや貴族としての責務があるルイズらに知らせれば、立場上、彼女らはフーケを捕らえないわけにはいかない。

そして彼女を司法機関に突き出し、おそらくは死刑確定であるとわかり切った裁判にかけざるを得ないだろう。

 

そうなってしまえば平民でしかないシエスタや所詮は学生の身であるルイズらがいくら口添えしてみたところで、フーケの命を救えはしまい。

それが本当に望ましい、最良の結末だとはとても思えない。

もしロングビルが本当にフーケだったとしたら、フーケによる被害を終わらせ、かつフーケの命をも救うという選択ができるのは今しかない。

少なくとも、ディーキンにはそう思えた。

 

それら諸々の理由から、ディーキンは今、この場で彼女と向き合うことに決めたのだ。

 

 

 

(……ちっ。このガキ、変わった特技があるだけなのかと思ったら、案外鋭いじゃないか。

 もしかしたら、見た目ほどは子どもじゃないのかもしれないね……)

 

先程は突然のことで一瞬目の前が真っ暗になったような気がしたフーケだったが、ディーキンの話を聞いているうちに少し落ち着きを取り戻した。

むしろディーキンの方が、彼女が気を落ち着けて話をできるよう言葉遣いや話の筋道などを考慮して丁寧に話を進めたからという面もあるのだが。

 

(ふん……。だけど、黙っときゃあ私を不意打ちでもできたかも知れないものを。

 わざわざ教えるなんて、こいつはとんだ間抜けさ!)

 

まあ、あのエロボケじじいや純情ハゲよりは手強い。

だが、やはり愚か者は愚か者。

せっかくの値千金の気付きを無駄にして、自らの優位をドブに捨てるとは。

 

正面から話せば何とかなるだろうという、思慮の浅い甘い考えか?

それとも、自分の素晴らしい気付きをひけらかしたいという、子どもじみた自己顕示欲か?

 

いずれにせよ確かなのは、所詮ガキはガキだったということだ。

屋内で近距離からこうして向き合っていては打つ手がないとでも思っているのかも知れないが、こっちだって保険くらいは掛けてある。

自分もいささか油断していたが、おかげで助かった。

 

ディーキンが丁寧に説明を続けている間に、フーケはこの状況を打破するための行動計画をまとめていた。

 

 

 

「――――そういうわけで、ディーキンは今、お姉さんへの疑いが捨てきれなくて。

 それで、その、すごく失礼だとは思うんだけど。

 呪文でお姉さんが嘘をついていないかどうか調べる方法があるの、ちょっとだけ調べさせてもらえない?

 後で何か、お詫びはするから……」

 

フーケが内心で自分を嘲り、始末する計略を巡らしていることに果たして気が付いているのかどうか。

ディーキンは一通りの説明を終えると、そう頼んで深々と頭を下げた。

 

「……ええ、そうですね……。

 なるほど、言われてみれば疑われるのももっともですわ――――」

 

そう答えつつ、宝物の2振りの杖をさりげなく自分の後ろの方へ押しやった。

その事を不審に思われぬよう、すぐに自分の杖もポケットから取り出してそれらの杖と並べて置くと、ディーキンの方へ向き直る。

抵抗の意志が無いことを示すための所作の一環と見せかけたわけだ。

 

「わかりました……、どんな呪文かは知りませんが、どうぞ試してみてくださいな?」

 

そう言うとすっと姿勢を低くして、取り調べを待つ罪人のようにディーキンの前で大人しく膝をつき、頭を垂れた。

 

「オオ、本当にいいの?

 ありがとう、ディーキンは寛大なお姉さんに感謝するよ!」

 

やや身構えていたディーキンはあっさり受け入れられたのが少し意外だったのが、しばし目をぱちぱちさせていた。

が、すぐに気を取り直してもう一度深々とお辞儀をすると、早速準備に取り掛かる。

 

実際にはこの姿勢は、予備の杖を抜く動作を不審がられぬよう誤魔化すため、しおらしく頭を垂れて見せたのは、表情や唇の動きを観察されぬため――。

フーケはディーキンから見えぬ死角で、密かに太腿のガーターベルトに仕込んだ予備の杖を手に取った。

そして、気付かれぬよう伏せた顔の下で小さく唇を動かし、呪文を紡ぎ上げる。

 

(………今だ!)

 

呪文を掛けるのに必要な道具でもあるのか、背負い袋から何かを取り出そうとしてディーキンが自分から視線を外した隙にフーケは行動を起こした。

 

ディーキンに見えないよう素早く利き腕と逆の手で予備の杖を抜いて小さく振り、呪文を解放。

唱えたのは『念力』の呪文、それで先程後ろに置いた自分の本来の杖を引き寄せ、空いている利き腕で掴む。

 

それにしても、何故予備の杖ではなく、本来の杖が必要なのか?

 

それは、この中にディーキンを始末するべき事態が起きた時に備えて、小屋に入る前にあらかじめ唱えておいた必殺の呪文が蓄えてあるからだ。

ハルケギニアの系統魔法では、あらかじめ詠唱を済ませた魔法を即座に発動させずに待機させておくことができる。

フェイルーンの呪文にも、唱えた後チャージ消費までそのまま保持しておける種類の物があるが、それと同じようなものだ。

ただし系統魔法は、たとえ事前に唱えておいたにせよ、その杖が無ければ発動させることはできない。

 

もちろん本来の杖を机に置いたりしなければ予備の杖を使う手間も無かったが、これには狙いがある。

目の前のディーキンを安心させ、油断させるためなのは勿論だが、それ以外にもフーケにはもうひとつ気がかりなことがあったのだ。

 

それは、使い魔との感覚共有によって、彼の主であるルイズにこの一件が伝わっているのではないかということ。

感覚共有は、常時作動しているわけではない。だが今は非常時であり、ルイズが頻繁に使い魔の様子を見ていることは十分に考えられた。

だから、フーケはディーキンの目を通して見ているかもしれぬルイズの疑いを晴らすことも意識していた。

今は杖を持っていない状態であり、不審な動作も無かったのだから、結局ロングビルはフーケではなかったのだ……、と印象付けようとしたのだ。

 

実際にはディーキンはルイズと正規の契約をしていないからそんな心配はないのだが、それはフーケには知る由もない。

 

本命の杖を手にしたフーケは、ディーキンがまだ荷物袋の方に気を取られている間に、素早く蓄えておいた呪文を解き放った。

と同時に、小さく後ろへ跳ねるようにして飛ぶ。

 

「んっ? ……!?」

 

なにか不自然さを感じたのか、ふっと顔を上げたディーキンの目が驚きに見開かれる。

次の瞬間、小屋の天井を打ち破って、ディーキンの上に土混じりの巨大な鋼鉄の拳が降ってきた!

 

突然の強襲に、ディーキンは目の前が真っ暗になった。

 

 

 

「……!? 危ない!!」

 

「え? ……きゃ、きゃああああああ!? ディーキン、ディーキン!?」

 

「せ、先生!? ……ミス・ロングビル!」

 

「そ、そんな、いったい、フーケはどこから……!?」

 

ルイズらは、杖を調べている間はフーケの接近を見張ってくれるようにとロングビルから強く頼まれ、散開して主に外の方向に気を配っていた。

そのため、小屋のすぐ横に唐突に出現した巨大なゴーレムに気付いて、警告を発するのが遅れたのだ。

鋼鉄と化した拳が小屋を叩き潰す直前にタバサが気付いていつにない大声で警告を発したが、ゴーレムの攻撃を避けるには遅すぎたようだ。

 

ルイズとシエスタは恐怖に顔を歪め、半ば狂乱したような状態で自分の身も顧みず小屋の方へ駆け寄る。

キュルケは悲痛な顔をしながらも、フーケの姿を見つけようと必死に周囲を見渡した。

タバサもキュルケの傍に寄ると、いつもの鉄面皮を僅かに歪ませながらも、ゴーレムの動向を警戒し続けた。

 

「あ、危ないです! みなさん、逃げてっ!!」

 

宝物の杖を2本も抱えたロングビルが、必死な様子で小屋の窓から飛び出すと近づいてくるルイズとシエスタに警告を発した。

 

「ミ、ミス・ロングビル! 無事だったんですか!! ディーキンは……、」

 

それを見て皆が喜び、僅かに安堵したのもつかの間。

続いてディーキンが飛び出してくることはなく、ロングビルが小屋から飛び出した直後にゴーレムは崩れ落ちて、ただの土の塊になった。

そうしてできた大量の土砂が雪崩れ落ち、ルイズとシエスタの目の前で、完全に小屋を埋め尽くす。

 

2人の悲痛な絶叫が、あたりに響いた。

 




<魔法装置使用(USE MAGIC DEVICE)>:
この技能の判定に成功すれば、本来ならば使用条件を満たしていない魔法の品を強引に使用することができるようになる。関係能力値は魅力。
たとえば魔法の使い手ではない者がワンドやスクロールを使用したり、善属性でなければ起動できない聖具を悪属性の者が使用したりできる。
能力値不足で使えないアイテムを使うために高い能力値があるかのように装ったり、本来は特定の種族やクラスでないと使えない品を使うこともできる。
ハルケギニアでいえば、廉価版ミョズニトニルンのような真似ができると思えばよい。
ただし、最も簡単なワンドの使用等であってもそれなりの達成値が要求されるので、技能レベルが低いうちはなかなか成功しない。

マギ(魔道師)、アークマギ(大魔道師):
D&Dの第3.0版以前、AD&D1st時代の用語で、マギは16Lv以上、アークマギは18Lv以上のウィザードのことを指す。
ディーキンはウィザードではないので、いくら強かろうとそう呼ばれることはない。

メイジ・アーマー
Mage Armor /魔道師の鎧
系統:召喚術(創造)[力場]; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(保存処理を施した革一切れ)
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に1時間(解除可)
 不可視だが実体のある力場が呪文の対象を取り巻き、アーマー・クラスに+4の鎧ボーナスを与える。
この鎧には防具による判定ペナルティも秘術呪文失敗率もなく、移動速度も低下しない。
また、力場でできているため、普通の鎧を素通りしてしまう幽霊等の非実体クリーチャーの攻撃に対しても有効である。
 この呪文はその名の通りウィザードやソーサラーの呪文であり、バードの呪文ではない。

パスウォール
Passwall /壁抜け
系統:変成術; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(ゴマひとつまみ)
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に1時間(解除可)
 術者は木製の壁、漆喰壁、石壁を通り抜ける通路を作り出す。金属その他の、それより硬い材質の壁を通り抜ける通路を作ることはできない。
この通路の奥行きは10フィート+術者レベルが9レベルを超える3レベルごとに5フィートである(ただし最大でも18レベル時の25フィート)。
パスウォール呪文を何回か使用することで、非常に厚い壁に穴を開ける連続した通路を作り出すこともできる。
呪文の持続時間が終了すると、その通路の中にいたクリーチャーは最寄りの出口へと排出される。
誰かがパスウォールを解呪したり、術者が解除した場合、通路の中にいたクリーチャーはその時点で開いているうちの遠い方の出口から外に排出される。
 この呪文はウィザードやソーサラーの呪文であり、バードの呪文ではない。


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第四十六話 Capture

目の前でディーキンを中に残したまま、小屋が大量の土砂に埋もれてしまった。

 

駆け寄ったシエスタは半狂乱になって泣き叫びながら、土砂を素手で掘り起こそうとする。

ルイズは放心して膝をついていたが、そんなシエスタの姿を見て我に帰り、自分も杖を手に取って何か呪文を唱えようとした。

 

しかし、そこで先ほど自身も間一髪小屋から飛び出してきたばかりのロングビルが、鋭く声を上げる。

 

「待って下さい、2人とも!

 お気持ちは分かりますが、まだどこか近くに、これをしでかしたフーケがいるのですよ。

 そんなことをしていては、私たちまで攻撃されて潰されてしまいます!」

 

ロングビルの指摘に2人は一瞬はっとして顔を上げ、周囲を見回した。

しかし、どうしても小屋の方を気にせずにはいられない。

 

「でっ、でも! 先生が……!」

 

「私のパートナーが、ディーキンがこの下にいるんですよ! このまま放っておいたら……!」

 

涙ぐんで訴える2人に対して、ロングビルは自分を指差してみせた。

 

「私がこの土砂を取り除けて、ミス・ヴァリエールの使い魔を助け出してみせますわ。

 私とて土メイジのはしくれです、どうか任せて下さい。

 あなた方は、その間周囲の警戒を……、『今度こそは』絶対にフーケを近付けないように見張っていてください!」

 

毅然とした態度を装って、そう提案する。

抜け目なく、今度こそは、の部分を若干強調することも忘れない。

先ほど見張りを引き受けたにもかかわらず、フーケの接近を見逃したことに対して彼女らが抱いているであろう罪悪感を刺激しようというのだ。

 

目論見通り、それを聞いたルイズは俯いてぎゅっと唇を噛み、ややあって涙を拭うと、顔を上げて力強く頷いた。

 

「っ……、わかりました! 今度こそ、絶対にフーケを見つけ出して、倒してみせます!

 ミス・ロングビル、どうか、私の……使い魔を、よろしくお願いします!」

 

ルイズはそう言ってひとつ大きくお辞儀をすると、まだ見ぬフーケへの敵意を瞳に燃やしながら、きっと森の方を睨む。

シエスタも同じように頷き、表情を引き締めると、クロスボウを構えてルイズの側へ移動した。

 

キュルケとタバサもお互いに頷き合うと、2人が向かったのとは違う方向へ、それぞれ散ってフーケの捜索を開始しようとする。

 

(よしよし……、どいつもこいつもちょろいもんだね)

 

ロングビルは内心でほくそ笑んだ。

 

この反応からすれば、どうやらあの使い魔の主人であるルイズとかいう小娘は、小屋の中のやり取りを見てはいなかったようだ。

依然として誰にも不信感は持たれてはいないようだし、万事問題なく進んでいる。

まったく、揃いも揃って騙されやすいお人よしどもだ。

 

もっとも、その人の良さと騙されやすさのおかげであの使い魔は命を落としたが、こいつらは助かるかもしれない。

 

予定ではこの後、ガキどもがみんな小屋の回りから見えなくなってから、次の行動を開始するつもりだ。

総員で周囲を捜索していたにも関わらず、またいつの間にか小屋の跡地に出現したゴーレムによって自分が襲撃されたことにして姿をくらますのだ。

ガキどもが駆け付けた時にはすでにゴーレムは消えて、盗賊フーケも秘書ロングビルも消息不明になっている、という寸法である。

その後は、必死の調査を続けるも手掛かりはなく、事件は迷宮入りというわけだ。

自分は見つからないように、ほとぼりが冷めるまでトリステインから離れて他所で仕事を続ければいい。

 

こいつらからは疑われてもいないようだから、予定通りに上手くいけば殺す必要はない。

おそらく使い魔だけ死なせて結局何の役にも立たなかったという無力感に、長く苛まれることにはなろうが……。

 

(……ふん)

 

彼女自身も、別段恨みがあるわけでもない純真な使い魔や少女たちに対する先ほどのからの仕打ちには、若干の後ろめたさを感じないでもなかった。

が、自分には赤の他人の命や痛みなどを気にしている余裕などないのだ。連中が間抜けなお人好しで、そのくせ要らないことにばかり鋭いのが悪い。

そう言い聞かせて、些細な感傷はさっさと頭から追い払った。もう随分と長くこの稼業を続けているのだから、今更というものだ。

 

フーケは今後の予定を頭の中で復習しながら、ルイズらが森の奥へ駆けだして行くのをじっと見送った。

そうして彼女らが見えなくなってから、次の準備に取り掛かる。

 

まずは宝物の杖を抱えて、小屋からゴーレム作成の呪文が届くギリギリ限界の位置にまで遠ざかり、手近の木陰に身を潜めた。

そして、ゴーレム作成の呪文を唱えて巨大な土ゴーレムを再び小屋のあった場所に作り出そうとした、ところで。

 

「……んっ?」

 

ふと、小さく囁く声のような妙な音を聞いた気がして、出所を探ろうと背後を振り返る。

フーケは少し離れた場所にその声の主の姿を認めると、愕然として目を大きく見開いた。

 

「……ひっ!? な、なっ……!?」

 

思わず怯えたような、呻くような声を喉から漏らして、二、三歩あとじさった。

それも無理もあるまい。

 

視線の先には、先程確かに自分が殺して埋めたはずの、あの亜人の使い魔が立っていたのだから。

 

(……ば、ばっ、ばば、馬鹿な!?

 私は確かに、こいつを潰して、小屋ごと土砂に埋め殺したはず……、い、いや、それよりも、埋まった筈なのにどうして後ろに……!?!?)

 

ディーキンもまったくの無傷というわけではなく、泥まみれで、体のところどころに鱗が裂ける裂傷を負って血が滲んでいる。

しかし、どう見ても致命傷となるような深手ではない。自分の体より大きいゴーレムの鋼鉄の拳に潰されたとはとても思えない軽傷だった。

本人も傷を気にした様子もなく、こちらをじっと見つめながら、手に巻物を持って呪文らしき文句を紡いでいる。

 

混乱したまま反射的に杖をそちらに向けようとしたが、すでに手遅れだ。

その瞬間、ディーキンがフーケの額を指さすような動作と同時に、詠唱を完成させた。

 

「―――《キアルズ・マンスレック》」

 

フーケの頭の中にその言葉が、やけに大きく響く。

 

その途端、彼女の体は動かなくなった。

自分の意思に反して金縛りになったのではなく、抵抗しようという意思そのものが突然、抜け落ちたようになくなったのだ。

それどころかすべての思考がきれいさっぱり消えうせ、ただ目の前のディーキンを虚ろな目で見つめるばかり。

 

「……おほん。やあ、さっきの攻撃で、お姉さんに怪我がなくてよかったよ。

 さっき呪文をかけていいって言ってくれてたから、いきなりで申し訳ないけど、かけさせてもらったからね。

 それで、ええと……、もしあんたがフーケだったらその杖を……、いや、服以外のあんたの持ち物を、全部ディーキンに渡して。

 アア、別にあんたがフーケでも危害を加える気はないし、泥棒をしようってわけでもないからね?

 もし誤解だったらすぐに呪文は解くし、持ち物も後でちゃんと返すの」

 

一瞬、その言葉に抵抗しようという考えが頭をかすめたが、それは弱弱しい囁きでしかなかった。

今や、まるで頭の中に直接響いているように感じられる目の前の亜人の声のほうが、ずっと重々しく強い影響力を持っていた。

 

フーケはすぐに手にした杖と宝物の2本の杖、それに隠し持った予備の杖を差し出し、それから自分の体のあちこちを探った。

いざというときのためにいつも隠し持っている短剣や、土石等の魔法の品々を片っ端から取り出して、躊躇なくディーキンに手渡していく。

 

その中には、しかるべき調査に回せば自分の犯行を立証する決め手となりうる、過去の盗品も含まれていた。

 

「ンー、やっぱりお姉さんがフーケだったみたいだね……。

 残念だけど、しょうがないね。じゃあね、これから、してほしいことを言うから――――」

 

彼女はもはや、自分自身の瞳の中に囚われて己の体が演じる劇をぼんやりと見つめる、観客のようなものだった。

欲望も理性も抜け落ちた真っ白な頭の中を、目の前の亜人の言葉だけが何度も反復して、埋め尽くしていく。

虚ろな心は、その指示と自分自身の考えとの区別をつけることもできず、ただ唯一与えられた行動の指針に唯々諾々と従うのみ……。

 

 

『……アー、みんな、聞こえる? 心配かけてごめんなの、ディーキンは無事だよ』

 

森の奥を懸命に捜索していたルイズらの耳に、まだ機能している《伝言(メッセージ)》の呪文を介して、馴染みの声が響いた。

それを聞いたルイズらの動きが、ぴたりと止まる。次いで、歓喜の声が上がった。

 

「ディ……、ディーキン!」

 

「先生!」

 

「ディー君! 無事だったのね!」

 

「……よかった。怪我は?」

 

『うん、ロングビルお姉さんのおかげで大したことないよ。みんな、一回戻ってきてくれる?』

 

安堵の笑みや喜びの涙などを浮かべながら、森の奥から急いで仲間たちが駆け戻ってくる。

ディーキンはどこかぼんやりした様子のロングビルの傍に立って、そんな仲間たちに、にこやかに大きく手を振った。

 

「大丈夫!? 怪我をしてるじゃない、早く治療しなきゃ……!」

 

「ふえぇ……、先生、無事でよかった……。

 ミス・ロングビル、本当にありがとうございます!」

 

ルイズはいち早く彼の元へ駆け寄って涙を浮かべながら泥で汚れるのも構わずその小さな体を抱きしめたり、怪我の心配をしたりする。

シエスタも嬉し泣きしながら、反応の薄いロングビルに礼を言ってお辞儀をしたりしている。

 

少し遅れたキュルケは、微笑ましげにそれを見守りながら、あなたも行ったら? などと傍らのタバサをけしかける。

そのタバサはといえば、ほっとしたような気配を見せながらも、何か思うところがあるのか、しばらくじっとディーキンの姿を見つめていた。

 

「みんな、心配してくれてありがとう。

 ディーキンはすごく申し訳ないし、うれしいよ。でも、本当に大したことはないからね……」

 

ディーキン自身はといえば、皆を安心させるようににこやかな笑みを浮かべながらも……。

内心ではルイズやシエスタがあまり泣くので、少し後ろめたいような、申し訳ないような気分になっていた。

 

実は、彼は上空から先ほどからの一部始終をちゃんと見ていたのである。

ルイズやシエスタが潰れた小屋に自分の名を呼びながら駆け寄るところも、フーケが皆を言いくるめて小屋から離れさせたところも。

 

ディーキンが先ほど、思いがけない強襲で完全に不意を打たれ、ゴーレムの拳をモロにくらったのは事実である。

それなのに生きていたのには、別に何の裏もない。

ただ単に、彼がその程度では死なないくらいに丈夫だというだけのことだ。

一般人なら叩き潰されて即死だっただろうが、高レベルの冒険者にとってはあんな拳の2発や3発では、致命傷には程遠い。

実際、今ディーキンの手にしている『破壊の杖』ことM72ロケットランチャーでさえも、単発では到底エピック級の冒険者は殺し得ないだろう。

 

とはいえ、傷が浅かったにせよ、ディーキンは拳の重量を押しのけて脱出する前に、大量の土砂に埋められてしまった。

それがなぜ、上空から姿を現したのか?

 

それは、簡単にいえば魔法の力によるものだ。

 

ディーキンは事態を把握すると、まずは自前の爪で土砂をかき分けてある程度のスペースを確保し、口の中に入った泥を吐き出した。

それから《次元扉(ディメンジョン・ドア)》の呪文を使って、上空へ百フィートほど瞬間移動し、土砂から逃れたのである。

多少時間をかければそのまま土を掘って脱出することもできなくはなかっただろうが、一刻も早くロングビルの動向を確認したかったのだ。

いくら杖を置くなどの小細工を弄したところで、あまりにできすぎたタイミングでのこの強襲には疑いを増さざるを得なかった。

 

その後は、上空からひどく取り乱して心配している仲間たちを見て、すぐにでも降りて行って無事を知らせたい、とは思ったが……。

しかしロングビルへの疑惑にここではっきりとケリをつけておかなくては、今度は他の仲間まで危険にさらされかねない。

そう考え、心苦しいながらもすぐには出ていかず、透明化してそのままロングビルの動向を見張り続けたのである。

 

案の定その後もロングビルは人払いをしたり、こそこそと森の奥に隠れてゴーレムを作り出そうとしたりと、怪しい行動をとり続けた。

そこでもうこれ以上静観する必要はなしと判断し、フーケの背後へこっそりと接近して呪文をかけたというわけである。

 

かけた呪文は、《人物支配(ドミネイト・パースン)》である。

先程の小屋の中では、《嘘発見(ディサーン・ライズ)》を使うだけで済まそうと思っていたのだが……。

いきなり小屋の外からゴーレムで強襲してくるような相手では、しっかり行動を束縛しておかないと危険だろう。

 

まあとにかく、ちょっと面倒はあったが、幸い自分が軽く負傷しただけでみんな無事だったわけだし、これで一区切りついただろう。

 

ディーキンがそう考えてほっと一息ついているところへ、タバサがつと歩み出た。

別にキュルケにけしかけられたからというわけでもないだろうが、彼女はそのままディーキンの傍へ寄って、傷の具合を間近で観察する。

 

……ゴーレムに潰されたにしては軽傷だが、おそらくどうにか、直撃は免れたのだろう。

とはいえ、それでもあちこちに小さな裂傷があるし、そこから鱗の下の肉が覗いて血が滲んでいる。

体中に土がついているし、ここは感染症を避けるためにも、早く手当てをした方がいいはずだ。

 

「私が治す。動かないで」

 

ハルケギニアのメイジには、『ヒーリング』と呼ばれる水系統の回復魔法がある。

 

熟達すれば切断された四肢をつなげることも可能だが、そこまでできるのはスクウェアクラスの水メイジくらいのものだ。

並みのメイジでは完全に治せるのは掠り傷などの軽傷だけで、ある程度深い傷を治すには『水』の秘薬が必要になる。

命に係わるほどの重傷では秘薬を用いても完全に治すことは難しく、命に別状がないところまで治癒させた後は、自然回復を待つ形になることも多い。

 

とはいえ、タバサは学院では屈指のトライアングルクラスのメイジであり、水も二番目に得意な系統である。

このくらいの傷なら、精神力はかなり使うがなんとか秘薬なしでも塞げるだろう、と考えたのだ。

 

いや、本当に大したことないから……、と遠慮するディーキンをよそに、タバサは呪文を唱えた。

 

「イル・ウォータル・デル……」

 

しかし、呪文を完成させても、傷が思うように塞がらない。

タバサは僅かに首をかしげてさらに精神力を注ぎ込み、呪文の力を強めてもう一度やってみた。

それでもやはり、傷はほとんど癒えた様子もない。

 

「……ごめんなさい、私では無理。

 学院へ戻って秘薬を買って、教師に頼んで」

 

タバサはやや怪訝そうな、悔しげな様子で、ほんの少し顔をしかめた。

思ったほど自分には『水』の力がないのか……、これでは自分の精神力が尽きるまでやっても、この傷は治せそうにない。

 

実はこれは、タバサの実力が低いからではなく、ディーキンの生命力が見た目からは想像もできないほどに高いせいなのである。

 

ディーキンは外見上は軽傷を負っているだけに見えるが、これでも巨大ゴーレムの拳をモロに直撃された上に生き埋めになっている。

彼が失った生命力は、ごく平凡な一般人なら軽く2回は死ねるほどの量であり、それが彼にとっては浅手に過ぎないというだけのことなのだ。

一般人の軽い怪我を治す程度の治癒呪文では焼け石に水で、ろくな効果が見られないのは当然といえよう。

 

「ありがとうなの、タバサ。

 でも、全然そんな必要はないよ、そこまで気を使ってもらわなくても……」

 

ディーキンはお辞儀をしてそういったが、誰もかれもが口々に自分の身を案じてくる。

ルイズなど、すぐに水の秘薬をありったけ買ってあげるからとかなんとか、えらく大げさなことを言っていた。

 

「ンー……、ええと、心配してくれてありがとう……」

 

ディーキンは頬をかいてそう礼を言いながらも、内心少し困っていた。

 

大事な使い魔だからというのもあるのだろうが、冒険生活になど縁のない貴族の令嬢には、この程度でも酷い重傷に見えるらしい。

自分としてはこの程度の怪我くらい、一晩ゆっくり寝て休んだら魔法をかけるまでもなく全快するだろうと思っているのだが……。

 

しかし、先程はフーケを捕らえるためとはいえ余分に長く心配させてしまったのだし、これ以上余計な心配をさせたくはない。

それにこのままだと、秘薬を買うとか言っている。そんな余計な費用をかけさせるわけにもいくまい。

こうなったら、自分で魔法を使ってさっさと治すとしよう。

 

「わかったの、だけどみんなに迷惑はかけられないよ。

 ディーキンは自分でなんとかできるから、ちょっと離れてて……」

 

そう言って案じる皆を離れさせると、先程と同じように、呪文構成要素ポーチの中から小さな鞄とろうそくを取り出した。

そしてまた、朗々と響く声で呪文を詠唱しながら手を複雑に宙に躍らせ、《怪物招来(サモン・モンスター)》の呪文を紡いでいく。

 

それを見て、ルイズらは不思議そうに首を傾げた。

一体あの小妖精のような少女たちをまた呼び出して、何をしようというのだろうか?

 

「《サーリル、ベンスヴェルク・アイスク……、ビアー・ケムセオー……、

  アシアー! ブララニ・エラドリン!》」

 

数秒間の詠唱の後に、最後の一言に前回とは違う名を唱えて、焦点具を持った手を高く掲げる。

呪文が完成し、ディーキンの目の前にほのかに輝く魔法陣が浮かび上がった。

そこへ理想郷の高貴な存在のエネルギーが招来され、青白く煌めく旋風となって渦を巻いて集まり、瞬く間に実体化した。

 

それは、ゆったりとしたチュニックを身に帯び、美しく輝く曲刀と弓を身に帯びた男だった。

どこか中性的で整った端正な顔立ちと、落ち着き払った優雅な態度。

それとは裏腹に、肩幅が広く、鍛え上げられた逞しい身体。

落雷色の白銀の長髪を風に靡かせ、その目には不思議な、鮮やかな色彩が渦巻いている。

 

しかし、何よりもルイズらが注意を引かれたのは、そのとがった耳だった。

この姿は、まさに、話に聞く……。

 

「エ、エルフ!?」

 

この呪文を披露するのは2回目であるにもかかわらず、先ほどクア・エラドリンを見た時以上の驚きの声が上がった。

皆の声の調子には、若干の怯えさえ混じっている。

 

それも、無理はないだろう。

 

ここハルケギニアにおいて、エルフは“最強の妖魔”として広く畏怖されているのだ。

人間の文明圏の東方に広がる砂漠に暮らす、長命の種族。

人間の何倍もの歴史と文明とを誇る、強力な先住魔法の使い手にして、恐るべき戦士として。

 

彼らの住む土地にはブリミル教における聖地が含まれているため、かつてはその地を奪取せんと、幾度となく軍が編成されたという。

だが、彼らの数の十倍以上の兵を繰り出してようやく勝てるかどうかといった有様で、到底成功の見込みはなく、いつしか派兵は打ち切られた。

ここ数百年というもの、彼らに手を出そうとする愚か者はなく、今ではその恐ろしさにまつわる噂や伝説が一人歩きしている。

 

ディーキンはそういったこの地の事情を思い出して、ちょっと苦笑した。

確かに、ここの人々から見るとエラドリンは大概エルフみたいなものかもしれない。

フェイルーンの感覚では、エラドリンはエルフに似ているが、もっと頑強で強い天界の種族、といった感じだ。

 

さておき召喚された男は、少女たちの警戒した様子を見て、怪訝そうに眉をひそめる。

それから、身に覚えのない非友好的な反応に少々気分を害したと見えて、小さく鼻を鳴らすと自分の召喚者であるディーキンの方へ向き直った。

 

「エルフではないよ、御嬢さん方。私はブララニ、エラドリンだ。

 君らが何を警戒しているのかは知らんがね。

 ……して、わが召喚者よ、今日はいかなるご用件かな?」

 

ディーキンは腕を広げて、自分の怪我を負った体を示して見せた。

 

「見ての通りなの。面倒をかけて申し訳ないけど、ディーキンを治してくれる?」

 

「心得た」

 

ブララニは短く率直に答え、屈みこんでディーキンの肩に手を置くと、目を閉じて精神を集中させた。

その身に備わった疑似呪文能力が呼び起こされ、暖かい純白の治癒の光が掌から溢れ出す。

光はディーキンの体のあちこちの傷口を包むと、たちまち塞いでいった。

 

それを見たルイズらは、驚きに目を見張った。

先ほど、タバサの治癒がまるで効かなかった傷口を、秘薬も使わずに瞬く間に塞いだのだ。

 

一回では完全に傷が塞がりきらなかったため、ブララニはもう一度同じ能力を使って、ディーキンの体の傷を完全に治癒させた。

ディーキンはせっかくだからと、その後ついでに突風を吹かせてもらい、全身に付着していた土を吹き飛ばしてきれいにしてもらった。

 

「他には、何か?」

 

「いや、もう十分なの。ありがとう、ディーキンは感謝するよ」

 

「そうか。できれば今度は、戦いのために呼ばれたいものだな」

 

ディーキンが深々とお辞儀をして礼を述べると、ブララニは会釈を返して、そのまま姿を消した。

 

ルイズらは驚きのあまりディーキンの傷が癒えたことに安堵するのも忘れて、しばし呆然として立ち尽くしていた。

ただタバサだけは、何か思うところがあるのか、杖をぐっと握りしめて、ディーキンの方を見つめていた。

 

 

 

(…………)

 

フーケは、ぼうっとした顔で、どこか遠くの景色を見るように、一連の出来事を眺めていた。

 

虚ろな頭には驚きや怯えのような感情は湧き起こってはこなかったが、それでも周囲の出来事は正しく認識している。

現実感のないぼんやりした頭で、フーケは他人事のように、自分は選択を過ったのだと悟っていた。

 

巨大なゴーレムに叩き潰されても平然としている、異常な頑健さといい。

伝説の妖精やエルフに酷似した強力な魔力を持つ亜人を召喚して使役する、わけの分からない術といい。

そして今、自分を支配している、この得体のしれない精神制御の魔法といい……。

 

自分は甘かった、見た目に騙されていた。

こいつはエルフ以上の、とんでもないバケモノだ。始末しようなど、論外だった。

一切手出しをせず、関わり合いにならず、素直に宝物を返して次の機会を待つべきだったのだ。

 

霞がかったような頭に、僅かに後悔の念がよぎる。

だが、もう手遅れだ。今の自分には何もできない。

 

今は、他のガキどもが戻って来る前に、こいつが言ってくれた言葉だけが頼りだった。

 

『心配しないで、お姉さん。

 ディーキンはあんたを、死刑にさせるようなことはしないからね』

 

とはいえ、どこまでそんな約束が信用できるものか。

 

結果的にはまるで堪えていなかったとはいえ、自分はついさっき、こいつを潰して殺そうとしたのだ。

たとえ本当に命だけは助けてくれるとしても、自分を殺そうとした相手に、そんなに寛大になってくれるとは思えない。

自分がフーケだと露見したとき、その場で引き裂かれなかっただけでもありがたいくらいだろう。

 

(ごめんよ、テファ……。私は、帰れないかも……)

 

心の奥でそんな詫びの言葉を呟いて溜息を吐きながら、フーケは自分の体が指示に従って動くのを、どこか遠くの景色のように眺めていた。

ディーキンはフーケと口裏を合わせて他の探索隊の面々を説得し、宝物を回収して一旦学院へ戻るように話をまとめた……。

 




ディメンジョン・ドア
Dimension Door /次元扉
系統:召喚術(瞬間移動); 4レベル呪文
構成要素:音声
距離:遠距離(400フィート+1術者レベル毎に40フィート)
持続時間:瞬間
 術者は自分自身を距離内の任意の場所へと瞬時に、正確に転送する。その場所を思い浮かべるか、方向と距離を指定すればよい。
この際、自分の最大荷重を超えない重量であれば、所持品を一緒に運ぶことができる。
また、サイズが中型以下の同意するクリーチャーとその所持品を、術者レベル3レベルごとに1体ぶんまで一緒に運ぶこともできる。
大型クリーチャー1体は中型クリーチャー2体相当、超大型クリーチャー1体は大型クリーチャー2体相当である。
 すでに固体が占めている場所に到着した(いわゆる「いしのなかにいる」状態になった)場合、転送されたクリーチャーは1d6点のダメージを受ける。
その後、意図した出現場所から100フィート以内にある、適切な表面の上の何もないランダムな場所に放り出される。
100フィート以内に開けた場所が無ければ、より大きなダメージを受けた上で、1,000フィート以内の開けた場所に飛ばされる。
1,000フィート以内にも開けた場所が無い場合には、さらに大きなダメージを受けた上で、呪文は単に失敗する。
 敵の懐に一瞬にして斬り込んだり、逆に敵に囲まれた状態から逃走したり、ダンジョンの奥からのリレミト的な用法に使ったりと、大変便利な呪文である。
また、この呪文の構成要素は音声のみなので、縛り上げられるなどして体が動かない場合でも、口が自由ならば唱えることができる。

ドミネイト・パースン
Dominate Person /人物支配
系統:心術(強制); 4レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に1日
 術者は対象の人型生物の精神との間にテレパシー的なつながりを作り出し、その行動を制御できる。
一度制御が確立してしまえば、術者が対象と同じ次元界にいる限り、対象を制御できる距離は無限であり、直接姿が見えている必要もない。
術者と対象が同じ言語を知っているなら、術者は相手を、相手の能力の範囲内でおおむね自分の望む通りに行動させることができる。
同じ言語を1つも知らないなら、ごく初歩的な命令を与えることしかできない。
術者は呪文に精神を集中することで、対象がすべての知覚を用いて感じ取り、解釈した感覚を受け取ることができる。
その場にいるかのように直接見聞きできるというわけではないが、それでも何が起こっているのかについて、かなりの情報を得ることができる。
ただし、術者と対象がこのテレパシー的なつながりを通して、直接意思疎通ができるわけではない。
 対象は日々の生存に必要なもの(睡眠、食事など)を除く他のありとあらゆる活動に優先して、術者からの命令を遂行しようと試み続ける。
このように活動パターンが狭まるため、難易度15に対する<真意看破>判定に成功した者は、対象の行動が心術効果の影響下にあると知ることができる。
 自分の本性に反する行動をするように強制された対象は、+2のボーナスを得て、改めてセーヴィング・スローを行なうことができる。
また、この呪文の支配下にあっても、明らかに自殺的な命令は実行されない。
たとえば、中身が青酸カリだと対象自身が知っている飲料を飲ませたり、酸のプールに飛び込ませたりすることはできない。
しかし、中身が毒だとはっきり知らない飲み物を飲ませたり、酸の溜まった落とし穴が隠してある通路を歩かせることはできるだろう。
 なお、これはバードにとっては4レベルだが、ウィザードやソーサラーにとっては5レベルの呪文である。

ブララニ・エラドリン:
 エラドリンの中の一種族である彼らは、心臓の鼓動の一回一回に至るまで、栄光と褪めること無き情熱でできていると言われている。
彼らは砂漠の遊牧民に似ており、聖なる力を持つシミターとコンポジット・ロングボウを巧みに使いこなす。
また、攻撃、治癒、戦闘補助、行動妨害、精神籠絡などの数々の疑似呪文能力をも扱える、優秀な魔法戦士である。
 彼らの体は冷たい鉄(D&D世界に存在する特殊な材質で、普通の鉄とは異なる)製の武器や悪しき力を帯びた武器でなければ容易には傷つかない。
また、生来の呪文抵抗力によって、弱い呪文を水のように弾く。
さらに、ブララニは本来の姿に加えて竜巻の形態を取ることができ、その形態では高速・高機動で飛行し、突風の攻撃を仕掛けることができる。
彼らの戦闘力はクアとは比較にならないほど高く、ほとんどの人間の及ばない域にあるが、それでもエラドリンの中では比較的弱い部類である。
 ブララニは、サモン・モンスターⅥの呪文で招来することができる。


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第四十七話 Confession

ディーキンは、宝物である2振りの杖を取り戻し、さらに下手人である『土くれ』のフーケをも密かに捕えたので、学院への帰還を皆に提案した。

 

最初ルイズらは、フーケを捕えずに帰還することにかなり難色を示し、捜索を続けたがっていた。

ディーキンの負傷も癒えたのだし、このまま戻ればフーケを捕えられる見込みはなくなりそうだし、もっと粘るべきではないかというのだ。

だが、ディーキンは譲らず、丁寧に彼女らを説き伏せていった。

実際のところ同行者のミス・ロングビルこそがフーケであり、それを捕えた以上は、ここで待っていても何の意味もないのだから。

 

ディーキンはまず、先ほどの強襲以降姿を見せていないフーケは多勢に無勢とみて宝物の奪還を諦め、すでに立ち去った可能性が高いと指摘した。

ここで諦め悪く網を張ってもたもた留まっていれば、立ち去ったフーケが準備を整えて戻ってきて、更なる危険に晒される可能性もある。

しかもフーケは先ほど、“何故か”見張りがいるにもかかわらず奇襲を成功させた。

その手口がわからない以上、ここで戦おうとするのは危険で、もう一度同じように襲われれば、今度こそ犠牲者を出す恐れもある。

 

「もともと、宝物を取り返すのが一番の仕事だよね?

 今はそれを確実に成功させるべきだと思うの。遅くなったら、先生たちも心配するでしょ?」

 

さらに続けて、自分もさっきの攻撃で“大分”消耗したので、遭遇しても万全の状態で戦えず危険だと話す。

 

「私もそう思います。大分精神力を使いましたので……」

 

どこかぼんやりしたような表情のロングビルも、そう言って同調した。

 

これは現在の彼女の“主人”であるディーキンからの指示によるものだが、まんざら嘘というわけでもない。

実際昨夜からあちこち駆け回ったり、策略を練ったり、呪文を使ったり、その甲斐もなく敗北して操られたりで、彼女は心身ともにかなり疲弊していた。

また、精神に制御を受けてややぼうっとした様子が、意図せずして消耗しているという本人の話に説得力を持たせていた。

 

結局、タバサやキュルケがもっともな意見だとして帰還賛成に流れたことで、ルイズやシエスタも渋々了解した。

 

「わかりました……。けど、盗みや人殺しを平気でするような悪党を捕まえられないなんて、悔しいです……!」

 

「貴族として、盗賊なんかに背を見せるのは嫌だけど……。仕方ないわ……」

 

悔しげにしているシエスタや、未練がましそうなルイズの姿を見て、ディーキンはいくらか罪悪感を覚えた。

しかし、事実を話せばフーケは間違いなく牢獄へ送られて死刑だろう。彼女の命を救うためには、申し訳ないがやむを得まい。

 

ルイズやシエスタに満足してもらうために、偽のフーケをでっち上げて戦いを演出し、退治したことにしたらどうかというのも、考えてはみた。

地の精霊(アース・エレメンタル)あたりを召喚してゴーレムに見せかけ、フーケ役も別に用意して芝居をさせれば、どうにかなりそうには思える。

 

だが、それはかなり難しそうだし、途中で失敗したらなんでこんな真似をしたのかと皆から不信感を持たれてしまいかねない。

それに、退治してもいないフーケをでっちあげで倒したことにして、褒賞をせしめるというわけにもいくまい。

自分の実力を超えた敵を倒せたと錯覚させるのも、長い目で見ればかえってためにならない。

 

何よりも、今そんなことをしなくても、ルイズらは近い将来、必ずやもっと大きなことをやり遂げられる人たちだとディーキンは信じている。

だというのに、真の英雄たちをそんな要らぬ気遣い、思い上がった欺瞞で、ほんの一時だけ満足させるなど、本当にやるべきことではないはずだ。

 

「ありがとう、ディーキンは意見を聞いてもらえたことに感謝するよ」

 

捜索隊は、結局2振りの宝物の杖だけを取り返し、フーケの捕縛はあきらめて学院への帰途に就いた。

せめてものお詫びにと思ったのか、ディーキンは帰りの馬車のなかでルイズらのリクエストを代わる代わる聞いて、演奏を披露し続けていた……。

 

 

しばし穏やかな時を過ごしたのちに、馬車は何事もなく学院に到着した。

一行は早速、学院長室に赴いて、事の次第を報告する。

 

その前にディーキンは、ロングビルの腕を引いて、こっそりと何事か耳打ちしていた。

 

「……うむ、全員無事でよかった。まずそれが、何よりの朗報じゃ。

 それに、よくぞ学院の宝物を、2つとも取り返してきてくれた。教師一同を代表して、君たちの素晴らしい働きに感謝するぞ。

 このような素晴らしい生徒が……、それに校務員や使用人、使い魔がいるということは、当学院の誇りである!」

 

一通りの報告を聞いた学院長が顔をほころばせて力強く労いの言葉をかけると、皆、誇らしげに胸を張って一礼した。

オスマンは、一人ずつ順に頭を撫でていく。

 

「……もしフーケを捕縛していれば、王宮へ爵位や勲章の申請をすることもできたのだが。

 しかし、それは所詮、結果論じゃ。賊を捕えられなかったからと言って、君らの名誉ある行動の価値がいささかも減ずるわけではない。

 それに見合うだけの十分な報奨とは言えまいが、学院から後日、君たち全員に薄謝を進呈しよう」

 

恩賞の沙汰に、少女たちは皆、程度の差こそあれ嬉しそうな顔をする。

ディーキンもまた、満足そうにウンウンと頷いた。他人からの評価の証として与えられる金銭は、殊に嬉しいものだ。

 

ただ一人、先程から妙に反応の薄いロングビルをしげしげと見つめて、オスマンは首を傾げる。

 

「ミス・ロングビル、どうかされたのですか?」

 

同席していたミスタ・コルベールが、心配そうに尋ねた。

 

「……ええ。申し訳ないのですが、私、大分疲れたものですから。

 できれば退席して、部屋で休みたいのですが……」

 

「おお……、そうか、それはそうじゃろうな。君は今朝から、ずっと働き通してくれておったのだからのう。

 いや、すまなかった、大変な苦労を掛けたわい。今日の残りは特別休暇にしておくから、どうかゆっくりと休んでくれ」

 

ミス・ロングビルは、軽く会釈して早々に部屋から出ていった。

オスマンはそれを見送ると、皆の方へ向き直って、ぽんぽんと手を打った。

 

「さて、君らも疲れたろう。今日は授業や仕事はよいから、湯でも浴びてしばらくゆっくりしなさい。

 だが、今夜は『フリッグの舞踏会』じゃ。こうして無事に宝物も戻ってきたことだし、予定通りに執り行おうぞ。

 今夜の主役は何と言っても君らじゃからな、夜には是非とも参加して、英気を養ってくれ」

 

「まあ、そうでしたわね! フーケの騒ぎで忘れておりましたわ!」

 

キュルケはぱっと顔を輝かせると、タバサの背を押しつつ、いそいそと部屋から出ていった。親友をつきあわせて、早速支度に取り掛かる気らしい。

シエスタもまた、深々とお辞儀をすると、部屋から出ていった。

ルイズもディーキンを連れて退出しようとしたが、ディーキンは首を横に振った。

 

「ディーキンはね、ちょっとおじいさんに宝物を調べた説明をしたりとかの用事があるの。

 悪いけど、ルイズは先に戻って休んでてくれないかな?」

 

ルイズはやや不満そうだったが、そういえばディーキンは、確かに宝物の使い方だかの調査をしていたのだった。

奪還の功労者とはいえ、一介の生徒である自分が同席して、一緒に話を聞かせろというわけにもいくまい。

 

「仕方ないわね……、わかったわ、でも舞踏会には出なさいよ!」

 

「もちろんなの。ありがとう、ルイズ」

 

言われずとも、バードとしては、せっかくの舞踏会に顔を出さないなどということは有り得ない。

たとえ断られようとも、頼み込んででも参加させてもらうつもりだった。

 

ルイズが教師らに御辞儀をして部屋を出ていくと、オスマンとコルベールは、ディーキンの方に向き直った。

取り返された『破壊の杖』と『守護の杖』が、学院長の机の上に並べられている。

 

「ふむ、それで……、君はこの『守護の杖』の使い方を調べた、ということであったが。

 調べてみて、何かわかったのかね?」

 

「うん。その杖はね、ディーキンのいた世界じゃ、すごーく有名だよ!」

 

ディーキンはそれから、『守護の杖』について自分が知っていることを、順々に説明していった。

 

まず、この杖の本当の名前が、『魔道師の杖(スタッフ・オヴ・ザ・マギ)』であること。

それから、手に握っているだけで弱い呪文の影響を受けない『呪文抵抗力』が得られるのに加えて、複数の呪文の発動ができること。

発動する呪文の種類によっては、杖に蓄えられた『チャージ』を消費すること。

呪文抵抗力をわざと下げることで、所有者に向けられた魔法を吸収して再チャージができること。

ただし、発動にはそれらの呪文を習得できるクラスの者である必要があり、そうではないこの世界のメイジには残念ながら使用できないこと。

チャージが限界値を超えたり、所有者が杖をへし折ったりすると、内部に蓄えられた魔力が全開放されて、次元をも歪める大爆発を引き起こすこと……。

 

さらに実演として、許可を得ていくつかの、チャージを消費しない下位の呪文を使用してみせた。

 

特に、《人物拡大(エンラージ・パースン)》を使用してコルベールの身長を2倍にしてやった時などは、2人とも非常に驚いた様子だった。

フェイルーンでは冒険者等が頻繁に利用するごく低レベルの呪文なのだが、ハルケギニアの系統魔法には似たようなものが存在しないらしい。

 

「いやはや、なんともすさまじい品ですな、これは!」

 

「うむ……。流石に、あやつが遺していった品だけのことはあるのう……」

 

興奮するコルベールと、重々しく頷いて、何事か考え込んでいるオスマン。

ディーキンはそんな2人の様子を見比べながら、小屋でこの杖を見た時から疑問に思っていたことを尋ねてみた。

 

「ええと、オスマンおじいさん? もしよかったら、聞きたいんだけど……。

 この杖を遺していった人っていうのは、誰なのかな?」

 

「む? ああ……、そうじゃな。

 この機会に話しておくべきじゃろう、君も知っておる者かもしれんからの」

 

オスマンの言葉に、ディーキンは不思議そうに首を傾げた。

 

「この間の話し合いで君の口からその名が出た時には、まったく驚いたわい。

 二十年ばかり前を最後に、この杖を置いていったきり姿を現さんわしの友人の名がの。

 この杖の持ち主の名は、エルミンスターじゃ」

 

「……へっ? エルミンスター?」

 

ディーキンは思いがけないところでその名を聞いて、目をぱちぱちさせた。

 

「そうじゃ。君は、彼のことを知っておるのか?

 わしはずっと、あやつが何故姿を現さなくなったのか、気にかかっておってのう……。

 もし何か知っておるのであれば、教えてはくれまいかな」

 

オスマンはそれから、自分とエルミンスターとのかかわりに関する話をかいつまんで説明し始めた。

 

要するに、エルミンスターの方がある時急に姿を現して、自分は遠く離れた世界から来たメイジだと言ったらしい。

オスマンはいろいろあって彼と茶飲み友達になり、それから、たまに向こうからやって来ては、また唐突に帰ることが幾度かあった。

彼は別に自分が何の目的で来たとも言わなかったが、何か調べ物をしているらしく、よく図書館を借りたり、どこかに出かけたりしていたという。

宝物庫で件の『破壊の杖』を、興味深そうに調べていたこともあった。

 

だが、彼はもう二十年ばかり、姿を現していないそうだ。

 

「……ええと、その。知ってるのかっていわれれば、知ってるの。

 でも、個人的に知り合いかっていう意味なら、そうじゃないよ」

 

エルミンスターは、大いなる魔法使いとして広くその名を知られた、フェイルーンでも屈指の有名人だ。

何もディーキンのようなバードでなくたって、子どもでも名前を知っていて不思議ではない。

そういう意味で知っているのであって、個人的に面識があるわけではないのだ。

 

ディーキンはその事を、オスマンに説明した。

 

「ただ、エルミンスターだったら心配しなくても、今でも元気にしてるはずだよ?

 彼が死んだっていう話は、全然聞かないからね」

 

「そうか……。あやつは、君のいたところではそんなに有名なメイジだったのか。

 まあ、元からどこに住んでおるかも知らぬし、たまに向こうから、ひょっこり訪ねてくるだけだったんじゃがの。

 とにかく、今でも元気だというのであれば安心じゃな。

 だが、そうであればなぜ、この杖をここに置いたまま、急にばったりと足が途絶えたのか……」

 

「……うーん。二十年くらい前から、ここに来なくなったんだね?」

 

ディーキンはオスマンがほっとしながらも悩んでいるのを見て、自分も何か思いつくことはないかと、知恵を絞って考えてみた。

二十年ほど前、二十年程前といえば……。

 

(……“災厄の時”……?)

 

そのあたりの時期のフェイルーン側の大事件といえば、何といってもそれだろう。

 

フェイルーンのほぼすべての神がその座を追われ、魔法を司る女神であるミストラが一度滅びて、あらゆる魔法の力が混乱していた時期だ。

そういえばエルミンスターは、ミストラ女神とは特殊な結び付きのある人物であり、この一件にも深く関与していたと聞く。

 

たとえば、こういう筋書きはどうだろうか?

 

エルミンスターは、ある時何かのきっかけでこの世界に来る方法を知り、たまに訪れては、オスマンと友好を深めたりしていた。

だが、“災厄の時”の魔法の力の混乱と、その後の再編によって、以前には通じた方法が使えなくなり、この世界へ来ることができなくなってしまった……。

 

(……ウーン、ありえるかも……)

 

とはいえ、それは考え得る可能性であって、確証はない。

 

仮にそうだとしても、エルミンスターはそもそも何の目的でこの世界に足を運んだり、『魔道師の杖』を置いていったりしたのだろう。

この世界に来ていたこと自体は単なる観光程度のものだったのかも知れないが、杖を置いていったのは解せない。

彼ほどのメイジにとっても、この杖は作成不可能、容易には手に入らない貴重品のはずだ。

 

(もしかして、ミストラと何か関係があるとか?)

 

フェイルーンの魔法の女神ミストラは“災厄の時”に一度滅び、現在では代替わりして、新たな女性がその名と地位を継いでいる。

 

しかし、先代のミストラは、実は“災厄の時”のような致命的な事態の訪れを以前から予感し、それに備えていたのだ、とも噂されている。

エルミンスターのような英雄も、実はその計画の一環として、ミストラ自らの介入によって生み出されたものだというのだ。

だとすれば、ハルケギニアへエルミンスターを来訪させたのも、先代のミストラの計画によるものだとは考えられないだろうか?

 

今まで見聞きした限りでは、この世界はフェイルーンのみならず多くの次元界を揺るがした“災厄の時”にも、特に影響は受けなかったようだ。

そしてまた、フェイルーンとは随分と異なる魔法体系の独自に発展した地でもある。

それでいて、フェイルーンの魔法もすべて、同じ性能で問題なく使えるのだ。

 

魔法が混乱したときの避難場所として、新たな魔法の研究場所として等、魔法を司る神格にとっては、利用する方法はいろいろと考えられるだろう。

この世界の奇妙な性質や独立性自体が、ミストラないしは太古の他の神格の介入によって調整されたものだということも考えられる。

人間にとっては希少極まりない『魔道師の杖』のようなアーティファクトも、神であるミストラにとっては必要に応じて用意するなど容易いはずだ。

 

しかるにミストラが策謀虚しく滅びて代替わりしたときに、その計画は自然に消滅し、エルミンスターがここに来る理由も無くなったのかも知れない……。

 

だがまあ、すべては憶測でしかないし、ここでいくら考えていても、確かなことがわかるわけでもない。

もし本当にミストラに関わりがあるのだとすれば、なおさらのことだろう。定命の存在に神の計画の全貌など、正確に把握できようはずもないのだから。

 

一応、後でエンセリックが戻ってきたら話しておこうと決めると、ディーキンは首を振って思案を打ち切った。

 

「……まあ、エルミンスターのことはよく分からないけど。

 ディーキンも、彼にはちょっと会いたいと思ったことがあるからね。もし今度会うことがあったら、聞いてみるの」

 

ディーキンがそう言うと、オスマンは興味深そうに身を乗り出して、ディーキンを見つめた。

 

「ほう? 君はエルミンスターに会うあてがあるのかね?」

 

「ンー、まあ、帰るのは問題なさそうだって、この間調べて分かったし。

 エルミンスターは有名な人だから、会おうと思えば会えないことはないと思うの。

 アア……、でもルイズの使い魔をする約束だから、すぐには無理だね」

 

ディーキンはちょっと首を傾げてそう言うと、ぴっと指を立てて見せた。

 

「とにかく、その杖はすごーく貴重な物なの。友だちの持ち物なら、なおさらだね。

 おじいさんの恩人の形見だっていうもう片方の杖と一緒に、大事にしてあげたらいいと思うよ」

 

三十年前にオスマンが『破壊の杖』の元の持ち主によって救われたという話は、今朝その使用法を説明してもらった時に、一緒に聞いている。

 

「……うむ。まったく、その通りじゃな。

 いや、よくぞ我が友、エルミンスターのことを教えてくれた。長年の胸のつかえが下りた気分じゃ、改めて礼を言うぞ」

 

顔を綻ばせて頭を下げるオスマンに会釈を返すと、色々と話を聞きたそうなコルベールにまた今度と約束をして、部屋を辞した。

舞踏会の前に、もうひとつ済ませておかなくてはならない用事があるのだ。

 

 

ディーキンは真っ直ぐにミス・ロングビルこと『土くれ』のフーケの私室へ向かうと、ドアをコンコンとノックした。

 

「おねえさん、ディーキンだよ。開けて」

 

すぐにかちゃりと音を立ててドアが開かれ、フーケが顔を覗かせた。

 

彼女は未だに外出した時の格好のままで、汚れた服を着替えもしていなかった。

何故ならば部屋に戻るやいなや、すぐにディーキンが事前に指示していた仕事に取り掛かったからだ。

今の彼女にとってはその命令こそが最優先であって、自分の服装などという些事にはまるで気が回らないのであった。

 

「頼んでおいたのは、書き上がった?」

 

「ああ……。ここに」

 

問いかけに対して、フーケは頷くと、文章が書き連ねられた紙の束を差し出した。

口調が何やらいつもと変わっているが、多分これが地なのだろう。

ディーキンは目を通して、内容を確認していく。

 

「フンフン……、お姉さんは、字が上手だね……」

 

内容は、フーケの本名や生い立ち、盗賊となるまでの経緯、盗みを働く理由などに関する供述書である。

成る程、上品な字を書くと思ったが、育ちがかなりよいらしい。

今は取り潰されたアルビオンの名家の貴族の生まれで、盗みを働く理由は自身の生活と、貴族社会への恨みと、身内や孤児を養うため。

文末には、『以上、告白します。マチルダ・オブ・サウスゴータ』というサインが入っていた。

 

最後まで読むと、ディーキンはその書類を丁寧に束ねて、誰にも読まれないように荷物の奥へ仕舞い込んだ。

 

「よく分かったの。ありがとう、お姉さん。

 いろいろと事情があるのはわかったよ、無理に書かせて申し訳ないの。

 教えてもらったからには、ディーキンは絶対、あんたに悪いようにはしないって約束するね」

 

ディーキンは正直なところ、この書面を書くよう指示したときには、かなりの抵抗があるのではないかと思っていた。

最悪術が破れるかもしれないと覚悟して、その場合の行動も考えていたのだが、意外にも彼女はまるで抵抗せずに指示を受け容れた。

 

フーケとしては、既にどうあがいても逃げられる状況と相手ではなく、逆らうだけ自分の立場が悪くなるだけだと理解しているのだ。

それでも精一杯の抵抗として、指示されたとおり自分のことは隠さずに書いたが、できる限り同情を引けそうな文面にして。

自分自身のことではない、匿っている『身内』の詳細、それが元大公家の娘のハーフエルフであることなどには、触れないでおいた。

 

もっとも、司法機関にあの供述書が渡って自分の家系が取り潰された理由等を詳細に調べられだせば、遠からず露見してしまうだろうが……。

 

こいつが自分のことを知って、これからどうするつもりなのか。

基本的にはお人好しなガキに見えるが、油断ならない相手でもあるのは身に染みている。

第一人間ではないのだから、どういう判断を下すものかがまったく読めない。

 

(……結局、こいつが本当に悪いようにはしないでいてくれるのを、期待するしかないか……)

 

そんなフーケの苦悩をよそに、ディーキンは会釈すると荷物袋の中から、瓶を一本取りだした。

美しい赤色をした、ワインの瓶だった。

 

「申し訳ないけど、もうしばらく術はかけたままにしておくからね。

 今日はもう服を着替えて、お風呂にでも入って、ゆっくり休んで。

 ……これは、良かったら飲んでみて。美味しいお酒だよ」

 

今の状態のフーケを舞踏会に参加させて大勢の人目に晒せば、不信感を招く元になるかもしれない。

ハルケギニアにも、ある種の人の精神を操る呪文や薬は存在するのだ。

せっかくの舞踏会に参加できないお詫びも兼ねて、せめてできる限り寛いで休んでほしいという気遣いから、フェイルーンの珍しい酒を進呈したのである。

 

ちなみにこれは“ガーネット・ワイン”といって、ドワーフが高山で採れる葡萄から造った、一瓶で金貨90枚もする高価な酒だ。

辛口だが飲みやすく、風味を利かせるために、本物のガーネットの粉末が混ぜ込まれているという。

たぶん、『土』のメイジには相性もいいのではないだろうか。

 

「ああ、そうするよ……」

 

「アー……、そうして。

 じゃあね。もしかしたら、後で舞踏会の料理とかお酒とか、持ってこれるかも……」

 

命令に忠実に、早速服を脱ぎだしたフーケに失礼にならないよう、ディーキンは慌ててそう言って。

ワインの瓶を置くと、回れ右して部屋を出ていった……。

 




エンラージ・パースン
Enlarge Person /人物拡大
系統:変成術; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(鉄粉ひとつまみ)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に1分(解除可)
 対象の人型生物1体を直ちに拡大し、身長を2倍、体重を8倍にする。
それによってクリーチャーのサイズ分類は1段階大きなものとなり、間合いや接敵面もそれに伴って大きくなる。
また、目標は筋力に+2のボーナス、敏捷力に-2、攻撃ロールとアーマー・クラスに-1のペナルティを受ける。
クリーチャーが着用または運搬しているすべての装備もこの呪文によって一緒に拡大され、それに伴って武器のダメージなども増加する。
この呪文の効果はパーマネンシイ呪文によって永続化することができる。
 近接戦闘を行うファイターなどを強化するために低レベルからよく使用される、非常にポピュラーな定番呪文のひとつである。
なお、この呪文はウィザードやソーサラーの呪文であり、バードの呪文ではない。


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第四十八話 Happy dance

アルヴィースの食堂の上階は、大きなホールになっている。

トリステイン魔法学院の春の恒例行事、女神フリッグの名を冠する舞踏会は、そこで行われていた。

 

楽士たちの奏でる美しい音色が静かに響く中で、美しく着飾った男女がそこかしこで談笑しては、曲に合わせて手を取り合って踊っている。

2つの月の明かりがバルコニーからホールにまで届き、蝋燭の揺らめく明かりと絡み合って、彼らの姿を照らし出す。

 

何とも美しく、幻想的な雰囲気であった。

 

「オオ、いい感じなの。みんなも、すごーく楽しんでるみたいだね」

 

ディーキンはと言えば、何やらタキシードっぽいもの一式をビシッと着込み、胸元にでっかい蝶ネクタイを飾って、えへんと胸をそらしていた。

本人は紳士っぽくしているつもりなのかもしれないが、なにやら滑稽で愛嬌があってかわいらしい。

楽士たちの演奏には加わらず、一参加者として生徒らに交じっている。

バードとしては参戦したいところなのだが、既に楽士たちがいる以上、無闇に出しゃばるのも彼らに失礼かと自重したのだ。

 

ちなみに、ディーキンは別に自分の体に合う正装一式を荷物袋に入れて持ち歩いていたわけではなく、魔法で用意したのである。

《洋服店の衣装箱(クロウジャーズ・クロゼット)》という呪文をもってすれば、金額制限の範囲内でなら、どんな衣装でも思いのままに作れるのだ。

別に《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ)》による変装で済ませてもいいのだが、ただの幻覚では他人は騙せても自分自身の気が乗らない。

せっかくのお祭り騒ぎなのだからなるべくきちんとやりたいというのが、ディーキンなりのこだわりである。

 

ディーキンには既に仲の良い教師や生徒らが大勢おり、また今回のフーケ騒動の貢献者でもあるため、特に参加を咎められることもなかった。

いろいろな人と談笑をしたり、食事を給仕らに頼んで取ってもらったり、音楽に合わせた即興の一人用ダンスを披露してみせたりして、大いに楽しむ。

ダンスは専門外とはいえ、たしなみ程度に踊れるだけの教師や生徒らに、感嘆の溜息を吐かせるだけの腕前はあるのだ。

 

もっとも、背が低すぎるので、誰かとペアで踊ることはなかったが……。

 

 

 

「あなたも食べてばかりいないで、ディー君のところに行ってくればいいのに?」

 

ディーキンの様子を微笑ましく見つめながら、そういって親友をけしかけているのは、例によってキュルケである。

彼女は艶やかなドレスに身を包み、他のどの女子よりも大勢の男子生徒に取り巻かれていた。まさに今日の主役といった風情である。

もっとも今日に限らず、彼女はこの手のイベントの時は、概ねいつでもこんな感じだったが。

 

タバサの方はといえば、誰の傍にもよらず、キュルケ以外には先程から話した相手さえもいない。

品の良い黒いパーティドレスに身を包んで、愛用の大きな杖を傍らに置いたまま、一人黙々とテーブルの上の食事を平らげていた。

彼女は小柄で細い体に似合わず非常に食欲旺盛だが、机や服を汚すような食べ方は絶対にしないあたり、見る者が見れば育ちの良さは窺えるだろう。

 

タバサはキュルケの勧めを聞いて、食事の手を一旦止める。

そして、今はコルベール教師と話し込んでいるディーキンの方を、ちらりと見た。

 

ミスタ・コルベールは、何を思ったかロールした金髪のカツラや装飾過剰なローブなどでゴテゴテに着飾っており、周囲の失笑を買っていた。

どうも本人は、秘書のミス・ロングビルが目当てでおめかしに気合いを入れたつもりらしい。

そういえば、フーケのゴーレムが宝物庫を襲った晩も確か、似たような恰好でロングビルと一緒にいた気がする。

 

あいにくと彼女は昼間の仕事で疲れたのか舞踏会に姿を見せておらず、その事で先程まではいささか落ち込んだ様子であったが……。

ディーキンと話しているうちに元気を取り戻したらしく、今は目を輝かせて何やら知的な会話に夢中になっている。

その内容に興味を惹かれたのか、周囲には勉学熱心な数人の生徒らが集まって話に耳を傾けたり、質問を挟んだりしていた。

 

タバサは一瞬、自分もあの話の輪の中に入って会話に参加してみたい、という衝動に駆られた。

だが、自分はそんな目立つ真似をするべきではないとすぐにそれを振り払い、僅かに首を横に振って、短く返答する。

 

「後で」

 

キュルケはその返事を聞くと、目を細めて得心したようにうんうんと頷いた。

 

「ははあ、後でねえ……。

 そうよね、よく考えたら、今は人が多すぎるものねえ……」

 

彼女は一人でそう納得すると、親友の肩に腕を回して頬にひとつ接吻をしてから、取り巻きを連れて去っていった。

タバサは心なしかじとっとした目でそれを見送ると、食事を再開する。

 

自分の用件は、キュルケの考えているようなことではない。

とはいえ、人が多いときでは都合が悪い内容だということは確かだった。

 

 

 

「先生、貴族の方々からも、すごく人気があるんですね……」

 

パーティ会場の隅の方に控えめに佇むシエスタは、敬慕する亜人の様子を遠くから見つめて、そう嘆息した。

彼女は、本日の功労者の一人なのだから給仕ではなく参加者として出席しろとマルトーやオスマンから強く勧められて、それに従ったのだが……。

先程まではディーキンの傍にくっついて回っていたが、彼があんまり頻繁に大勢の教師や生徒に取り巻かれるので恐縮して、会場の隅に退散したのであった。

 

なお、その理屈で行くとデルフリンガーも参加した一人だとシエスタは考えているので、場違いなのを承知で背負って来ていた。

よく話し相手になっているエンセリックも今は留守だし、一人で置いてきたらかわいそうだ、という思いもあった。

 

ゆえに今の彼女は、メイド服を着て背中にはデルフリンガーを背負った、いささか場違いな格好である。

給仕ではなく参加者なのになぜメイド服のままなのかはごく単純な理由で、彼女は貴族の舞踏会に出られるような立派なドレスなど持っていなかったからだ。

もし事前に彼女がディーキンに相談していたら、きっとシエスタの分の衣装も彼が呪文で作っていただろうが、今更どうしようもない。

 

さっきまで大きな剣を背負ってディーキンの後について回っていた様子は、まるで彼の専属の護衛メイドか何かみたいな感じであった。

大きな剣を持ったメイドさんである。つまりはメイドさんと大きな剣である。

だからどうした、と言われても困るが。

 

「そうだなあ。まあ、今回の件でも実際になんか仕事したのはあの坊主と、後は秘書の姉ちゃんだけみてえなもんだしな。

 そりゃあ人気もでるだろ……、って、」

 

内心気に病んでいたことを言われてしょんぼりした様子のシエスタを見て、デルフリンガーは慌てて付け加えた。

 

「ああ、いや! 別に、おめえを責めてるわけじゃねえんだからな?」

 

「……そうですよね。せっかく先生からデルフさんを紹介していただいたのに……。

 今日は、何の仕事もできなくて。すみません……」

 

「いやいや、だから気にすんなって!

 あの亜人の坊主はえらく強えしよ、そりゃあんなのと一緒に行けば、そういうこともあらあな。

 俺はおめえに毎日訓練で使ってもらえて、それなりに満足してるよ。

 最近は鞘に収めたっきり、何ヵ月も使わねえ、手入れもしねえってろくでなしどもが多いみてえだからな!」

 

「……ええと、ありがとうございます。そう言ってもらえると、嬉しいです」

 

そう言われて急にぱっと気が晴れるというものでもなかったが、シエスタはとりあえず微笑みを浮かべて、気遣ってもらった礼を言った。

 

勧められて参加はしたものの、今回の件で自分が何ら貢献できたわけではないことは、よく分かっている。

それなのに、ただ同行しただけで主賓だなどといわれても、何だか申し訳ないような気がするばかり。

所詮は平民ゆえに主賓などとは名ばかりで、使用人仲間も仕事で忙しいために、ほとんど人が寄ってこないのはかえってありがたかった。

 

彼女は、ディーキンが他の人々との話を一段落させてルイズの元へ向かうのを見ると、自分もそちらの方へ足を運んだ……。

 

 

 

「ずいぶん楽しんでいるみたいね」

 

ルイズは、ようやく他の生徒や教師らの相手を終えて自分の元へてくてくと寄ってきたディーキンに、つまらなさそうにそう声を掛けた。

 

彼女は長い桃色がかった髪をバレッタにまとめ、やや胸元の開いた白いパーティドレスに身を包んでいた。

腕は肘まである長い白手袋に包まれており、ルイズの高貴な印象を際立たせている。

 

「うん。ここは、みんないい人ばかりだからね!」

 

ディーキンはにっと笑って、大きく頷いた。

 

いくら功績があったとはいえ、コボルドを同じパーティの席に上げて、こんなにちやほやしてくれるなんて。

ここの人たちはなんと心が広いのだろうかと、改めて感動することしきりである。

 

「ルイズは、あんまり楽しくないの?

 主役なんだから、キュルケみたいに踊ったり、お話したりしたほうが、みんな喜んでくれると思うのに」

 

ルイズの元へは、当初その美貌に惹かれた男子生徒らが集まって、盛んに彼女にダンスを申し込んでいた。

その中には、マリコルヌという少年などの、普段はルイズをからかったり侮蔑したりしている同級生も数名含まれていた。

だが、ルイズはそれらをすべて、すげなく断ってしまったのである。

どうやら目が無さそうだとわかると、貴族である彼らは体面やプライドを傷つけられるのを嫌って、彼女に申し込むのをやめた。

 

ならば話から入って親しくなってやろうと考えたのか、盗賊から宝物を奪い返した功績を称えたり、武勇伝を聞かせてくれと頼んだりする者もいた。

しかしルイズは、武勇伝なら私のパートナーに聞いたほうがいいと素っ気なく答えて、それ以上の話を拒絶したのである。

その後は、一人でワインをちびちび傾けたり、食事を摘まんだりしながら、ディーキンの楽しんでいる様子をぼんやりと見守っていたのだ。

 

「……だって、私は何もしていないじゃない。

 フーケを捕まえられたわけでもないし、あんたが殴られたときだって、何もできなかったのよ。

 それで主役気取りで楽しんでいられるほど、私はあつかましくないわ。

 ツェルプストーは、どうだか知らないけど……」

 

少し沈んだ様子でそう言いながら、ルイズはキュルケの方をちらりと窺った。

彼女はいつものように女王然として、取り巻きを連れてパーティの主役らしく振る舞っている。

 

ルイズは鼻白んだような顔をして小さく鼻を鳴らすと、ぷいと顔を背けた。

 

自分だって何の貢献をしたわけでもないだろうに、臆面もなく主役面をしていられるなんて。

ゲルマニアの成り上がり者は、やっぱり恥知らずだ。

 

「……その、でも、ミス・ツェルプストーは先日、宝物庫を襲ったゴーレムを倒すのに貢献されましたし。

 ミス・ヴァリエールも、あのゴーレムを攻撃するのに協力されていたじゃないですか。

 それに比べたら、私などは、本当に何もしていませんから……」

 

いつの間にやら傍にやって来ていたシエスタが、会釈をしておずおずと口を挟んだ。

 

「ふん……。お世辞なんかいいのよ。私の爆発は、ぜんぜん効いてなかったわ。

 何もしてないのと変わらないじゃない。私なんか居なくたって、あのゴーレムは倒せたんだから」

 

「い、いえ、そのようなことは……」

 

自嘲気味に笑ってちょっとやさぐれたような様子を見せるルイズと、なんとかフォローしようとおろおろするシエスタ。

 

「……ンー、」

 

ディーキンはそんな2人の様子をじいっと見つめると、少し首を傾げた。

 

「ルイズもシエスタも、すごく責任感があって立派な人だと思うの。

 でも……、ディーキンは、2人の考えにはいくつか反対したいところがあるの」

 

怪訝そうな、戸惑ったような目を向ける2人に、ディーキンはぴっと指を立てて見せると、自論を語り始めた。

 

「ええとね。まず、ディーキンは、キュルケは素敵な人だと思うの。

 それは、この間ゴーレムを倒したとかじゃなくて、今、みんなの期待に応えているからね。

 ほら、みんな楽しそうにしているでしょ?」

 

ディーキンはそう言って、キュルケの周りにいる人々に注意を向けるよう2人を促した。

 

なるほど、キュルケの周りにいる者たちは、誰もが皆、楽しげにしている。

ちょっと媚態を向けられてのぼせ上ったり、ダンスに付き合ってもらえて有頂天になったりしている男子生徒たち。

彼女が聴衆にせがまれて語る手柄話は、多分に誇張が混じっており、生真面目なルイズやシエスタにとっては眉をひそめたくなるような代物だった。

しかし周りの者たちは、皆、目を輝かせて聞き入っていた。

 

「今日、別に大したことをしてないのは、ディーキンも同じなの。だってゴーレムに潰されて、みんなに心配をかけただけでしょ?

 でも、英雄を期待している人たちの前では、もっと楽しい話をするの。

 ディーキンは嘘つきじゃないけど、ただ、みんなに喜んでもらいたいと思うからね」

 

ディーキンが控えめにそう話すのを聞くと、シエスタは素直なもので、感心したような顔をして頷いた。

しかしルイズは、むっとした様子で腰に手を当てる。

 

「そりゃ、あんたは詩人だから、そういうものかもしれないけど……。

 キュルケはそんなつもりじゃないわよ。あいつは、いっつも男漁りをしてる色ボケで、そのくせ飽きたら見向きもしないで捨ててるんだから。

 みんなを喜ばせてやろうなんて気のある女じゃないわ。あれはただ、調子に乗って自分の手柄を吹聴してるだけよ!」

 

確かにディーキンのおかげで彼女とも一緒に出かけたりして、少しは仲良くなったというか、よい部分も見えてはきたのだが……。

先祖代々の敵対関係とこれまでの不仲、それに根本的な性向の違いからくる反感は、そうあっさりと消えるものではない。

 

ついでに言うなら、ルイズはディーキンが初対面の時からずっと、キュルケの言動を過剰に好意的に解釈しているように思えるのが気に入らなかった。

そんな殊勝な考えなど、あの節操なしにあるはずがないのに。

仮にも自分のパートナーだというのに、どれだけあの女に肩入れするのか。

 

「ン~……、もしかしたら、ルイズの言う通りなのかもしれないね」

 

ディーキンは、それについては譲歩した。

 

確かにキュルケは根は善良だとは思うが、周囲の者を傷つけないようにいつも配慮している、というわけではなさそうだ。

彼女には自分の見たいように物事を見て、都合の悪いことはすぐに忘れるという面もあるように思える。

今だって、自分の楽しみのためにしているだけで、周りの者を楽しませてやろうとしているというわけではないのかもしれない。

 

しかし、それならそうでもいいじゃないかとディーキンは思う。

人間というのは、百点か零点かというような極端なものではないだろう。

 

「それでも、キュルケの周りにいる人たちが今、楽しんでるのは間違いないと思うの。

 いつもがどうだろうと、自分も楽しんで周りの人も一緒に楽しめるんだったら、キュルケが今してるのは、いいことだよ」

 

ルイズはまだ何か言おうとしたが、ディーキンはそれを止めて、彼女に質問した。

 

「それに、ルイズは、自分は何もしてないっていうけど……。

 でもディーキンが行くって言ったときに、自分から進んで名乗り出てくれたでしょ?

 だったら、たとえ結果的には役に立たなかったとしても、行こうとしなかった人たちよりは自分は偉いって思わない?」

 

「そ、それは、まあ……」

 

「でしょ? けど、あの時に名乗り出なかった人たちも、みんな楽しそうにパーティに参加してるよ?」

 

ディーキンはそう言って、そういった教師の一人であるギトーの方を指で示した。

正確には、一応遅れて名乗り出はしたものの、オスマンから頼りないと駄目出しをされて学校に残ったわけだが。

 

彼は酒が回った赤い顔で目についた生徒に次々に絡み、いつも以上に滔々と風属性最強説を披露しては、うんざりした顔をされている。

フーケ討伐に二の足を踏んで屈辱を味わったせいで、酒を飲んで管を巻きたい気分なのだろう。

とはいえ、いつもは陰気で冷たい雰囲気のギトーの珍しい一面が見れたためか、生徒らも大概苦笑こそすれど、本気で嫌がっている感じではなかった。

 

「ディーキンは別に、あの人たちが悪いとか、恥知らずだとは全然思わないの。

 パーティっていうのは特別なお祝いなの、参加している人には誰にだって楽しむ権利があるはずだよ。

 だからルイズにもシエスタにも、あの人たちと同じくらいにいばって今日のパーティを楽しむ権利は、絶対にあるんだよ」

 

「……その、そうかもしれません。いえ、そうだと思います。でも……、」

 

おずおずと遠慮がちに何か言おうとするシエスタを遮り、ディーキンは顔をしかめてさらに言葉を続けた。

 

「それにね、2人とも。何もできなかったから偉くないなんて、そんなのは間違いだよ。

 冒険者っていうのはね、仲間がみんな協力したから成功できたんだって、そう考えるものなの。

 誰が一番活躍したとか、お前は今日は活躍しなかったから取り分なしだとか……、そんなことを言ってたら、いつまでも仲良しでいられないでしょ?

 わかる? ねえ、わかる?」

 

ディーキンはちょっと据わった目でそう言うと、通りかかった給仕からワイングラスを受け取って、一気に飲み干した。

そして、返事に困った様子で顔を見合わせるルイズとシエスタに向けて、さらに話し続ける。

 

「ディーキンなんかね、冒険者になったばかりの時にボスにそんなこと言われてたら、とっくの昔に一文無しで冒険者を廃業してるはずだよ。

 ルイズやシエスタは、ディーキンがもし今日、役に立たなかったら、責めてたの? そうじゃないでしょ?」

 

「おっ、その通りだぜ! 娘っ子、おめえの先生の言うとおりだ。

 おめえはまだまだ駆け出しなんだし、成功するのはこれからだぜ。今日役に立ったとか立たなかったとかで落ち込む必要はねえ。

 さすがに坊主はよくわかってるぜ。強ええだけじゃなく、なかなかどうして経験も豊富らしいな?」

 

口を挟んだデルフリンガーに、ディーキンはエヘンと胸を張って見せた。

 

「でしょ? ディーキンは冒険者の中でも最高にベテランなの!

 ……ああ、いや、その、かなり……、割と……、どちらかといえばベテラン、かもしれない可能性はあるってくらいかな……?」

 

それから、気を取り直すように咳払いをすると、さらにぐぐっと背伸びをして。

 

「っていうか……、ディーキンは今日は、主役ってことなの!

 オホン、そのディーキンが、2人にもっと楽しんでほしいって言ってるんだよ。

 もし2人が主役なら、堂々と楽しむべきなの。そうじゃないっていうなら、脇役はディーキンの言うことを聞くの。

 なんて言っても、今日のディーキンはとっても偉い役なんだからね!」

 

びしっ、と自分たちの方に指を突きつけてそう宣言するディーキンを見て、ルイズとシエスタはつい失笑した。

 

ウロコに覆われているので最初はよくわからなかったが、よく見ると彼はあちこちで酒を勧められたせいか、ほろ酔い加減になっているようだ。

どうりで、さっきからよく人の言葉を遮ってまで弁舌を振るい続けたり、いつもにもまして雄弁だと思った。

 

「はいはい、わかったわ。あんたの言う通りよ。

 ……けど、ダンスの相手はさっきみんな断っちゃったし、そうでなくてもあいつらとはあんまり、踊りたい気分じゃないのよ。

 私にだって、パーティを楽しむために相手を選ぶ権利はあるんだから。そうでしょ?」

 

「ン~……、」

 

ルイズにそう言われて、ディーキンは首を傾けて考え込む。

当のルイズ本人は何か言われるのを待たずに、すっと自分のパートナーに近づいて屈み込み、顔の高さを合わせた。

 

きょとんとしたディーキンに微笑みかけると、ルイズは両手でスカートの裾を持ち上げて、丁寧に一礼する。

それから、わずかに顔を赤らめて咳払いをすると、すっと手を差した。

 

「小さなジェントルマン。仲間のよしみで、わたくしと一曲、踊ってくださいませんこと?」

 

ディーキンはちょっと目をしばたたかせると、困った風に頬をかいた。

 

「……その、すごくうれしいけど。

 ディーキンはおチビだから、ルイズとペアで踊るのは、難しいかもしれないよ?」

 

「もう……、あんたは歌も踊りも、得意なんでしょ。

 何かほら、適当な方法を考えなさいよ」

 

「ウーン、そう言われても……」

 

ディーキンがちょっと悩んでいると、シエスタも同じように脇から進み出て、ルイズと並ぶように屈んで一礼した。

 

「その、先生。ミス・ヴァリエールの後で、私とも踊っていただけませんか?

 貴族の方々に申し込むわけにはいきませんし、使用人仲間はみんな仕事で忙しいですから……」

 

頬を赤らめてそう言うシエスタをルイズは横目でじろっと睨んだが、文句を言うような不作法はしなかった。

 

「オオ、シエスタも?

 でも、主役なのに使用人だから貴族と踊れないなんて、ヘンな話だとは思うけど……、」

 

ディーキンはそこで何か閃いたのか、ちょっと待ってねと断ってから、タバサとキュルケにも声を掛けて引っ張ってきた。

 

「じゃあね、この全員で、輪になって踊ればいいと思うの!

 みんながずっと、仲良しでいられるようにね。

 この舞踏会で一緒に踊った人たちは、結ばれるって言われてるんでしょ?」

 

大人と子供のように身長差が大きい組み合わせでは、ペアでのダンスは難しいが、手をつないで輪になって踊るのならば問題はない。

このくらいは今日の主役としての権利だと決めて、さっそく楽士たちに合いそうな音楽をリクエストすると、彼女たちと手をつないで踊り始める。

 

最初は少し不満そうにしていたルイズや恐縮そうにしていたシエスタも、しばらく踊るうちに楽しげな様子になっていった。

キュルケはもとより、タバサでさえも、相変わらずの無表情ながらどこか楽しげに見える。

不参加のミス・ロングビルを除く今日の主役全員が輪になって楽しげに踊っているのを、他の参加者たちも食事やおしゃべりを止めて見守った。

 

やがて誘われたように、一人、また一人と願い出て踊りの輪に加わる人数が増えていき、しまいには会場のほぼ全員が輪に加わっていた。

 

「もっと、もっと。こういうのは、気にしないで大勢でやった方が楽しいよ!」

 

ディーキンが提案し、責任者のオスマンがそれを快諾したことで、最後には楽士や使用人までもが、一時仕事の手を止めて踊りの輪に加わった。

楽士らの演奏はディーキンが、《動く楽器(アニメイト・インストゥルメント)》などの呪文も駆使して引き継ぐ。

そろそろお開きも近いのだから、このくらいは出しゃばっても罰は当たるまい。

 

「こいつはおでれーた。てーしたもんだ!

 亜人が仕切って、貴族も平民もみんなを輪になって踊らせるダンスパーティなんざ、初めて見たぜ!」

 

デルフリンガーがかたかたと鞘を鳴らして、楽しげにはしゃいでいる。

パーティの夜はそうして、楽しく、和やかに更けて行った……。

 




クロウジャーズ・クロゼット
Clothier's Closet /洋服店の衣装箱
系統:召喚術(創造); 2レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(100gp以上の価値がある宝石1つ)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に1時間
 術者は、合計で100gpまでの範囲で好きな種類の衣服を、何人分でも自由に創造することができる。
呪文の持続時間の間、術者の選択した2つの直立した壁の間に棒と必要な数のハンガーとが出現し、衣類はそこに掛けられた状態で出てくる。
作り出された衣類はあらゆる点で通常の品物と同様であり、魔法のオーラを放射しない。
この呪文の持続時間が終了すると、棒とハンガーとは消えるが、作り出した衣類はそのまま残る。
 この呪文はエベロンと呼ばれるフェイルーンとは別のD&D背景世界に属する呪文だが、ディーキンは何らかの経路で流入してきた知識を得たのであろう。
エベロン特有の“ドラゴンマーク”と呼ばれるものともつながりがある呪文なのだが、それはディーキンには関係の無い話である。
 残念ながら、この呪文が掲載されているエベロン関連のサプリメントは、現時点では日本語未訳となっている。
 余談だが、この呪文はウィザード/ソーサラーの呪文リストにも含まれているので、シャドウ・カンジュレーションでの効果模倣ができる。


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Second chapter: New adventure in Halkeginia
第四十九話 Amnesty and retaliation


ここは学院長秘書ミス・ロングビルこと、『土くれ』のフーケの私室。

部屋の主であるフーケの前には今、彼女の“主人”であるディーキンと、上司であるオスマンが立っていた。

 

フーケは先程ディーキンが出ていってから、酒を飲む許可が出たのをいい事に、彼のおいていったワインばかりか自室の酒もだいぶ乾した。

その中には、彼女自身が盗み出した高価な年代物なども含まれていた。

操られているとはいっても潜在意識下での不安や精神的な疲労は強く、飲んでいいといわれれば飲まずにはいられなかったのだ。

 

そうして床に空き瓶を散乱させ、机に突っ伏してぐったりしていた時に、部屋の戸がノックされた。

 

……そろそろ、舞踏会もお開きになっている頃だ。

そういえば食事や酒を持ってこようとか言っていたし、余り物でも持って私の“主人”が戻ってきたのだろう……。

 

フーケはそう考えて、ふらつく足で立ち上がると、部屋の戸を開けた。

 

そこに立っていたのは、案の定食事や酒瓶などをまとめた大きな包みを頭の上に乗せたディーキン。

だがそれだけではなく、彼の隣には、いささか複雑そうな顔をした学院長オールド・オスマンもいたのである。

 

フーケはオスマンのその表情を一目見て、彼が既に自分の正体をディーキンから聞かされているのだと悟った。

 

(やれやれ、これのどこが悪いようにはしないってんだい。

 私もいよいよ、年貢の納め時か……)

 

精神制御を受けた上にアルコールの回った頭には、感情の荒波が押し寄せることもなく。

彼女は他人事のように、ぼんやりとそう考えていた。

 

「ええと、お姉さん。何か羽織った方がいいと思うよ?」

 

ディーキンはそういうと、『見えざる従者』にベッドの脇に置かれていたガウンを持って来させて、フーケに差し出した。

 

今のフーケは、汚れた服を脱ぎ棄てて薄布の寝間着姿になっている。

最低限の生存本能と命令の遂行以外の欲求がほとんど欠落している以上、その振る舞いにいささかの不自然さが生じるのは避けがたい。

いくら酔っているにせよ、妙齢の女性がそんな格好のままで平然と来訪者に応対し、胸元を隠そうとすらしていないのだ。

観察力の鋭い者ならば、少し注意して見ればすぐに何かがおかしいと気が付くだろう。

 

うっすらと紅色に染まったフーケの白い肌は豊かな色香を湛え、茫洋としたその表情はあまりにも無防備である。

普段から彼女にセクハラを仕掛けているオスマンはしかし、そのあられもない姿に気が付くとすぐ顔を逸らして、ガウンを着るのを待った。

ちらちらと横目で様子を窺う、というような無粋な真似も一切しない。

女好きとはいえ、自分の意志で抵抗もできないような状態の相手に手を出すほど下衆ではないらしい。

 

「ふうむ、ミス・ロングビル、……ひとまず今まで通りそう呼ばせてもらうが……、大分飲んでおるようじゃな。

 ちと大事な話があるのじゃが、ちゃんと聞けるかね?」

 

オスマンは穏やかな声でそういうと、ガウンを羽織ったフーケを促して座らせ、自分も彼女と向かい合う席についた。

ディーキンは、立ったまま脇の方に控えている。

 

「さて、事情はここにおるディーキン君から聞いたが……。

 君の今後の処遇について、わしと彼とで話し合った結論を説明しよう」

 

オスマンは咳払いをすると、フーケの顔をじっと見て、言葉を続けた。

 

「本来ならば当然犯罪者として捕え、裁判にかけるべきところではあるが、彼がそれはやめてほしいと申し出てくれておる。

 君を裁判にかけて処刑や禁固刑などにすれば、罪のない君の身内や孤児までが路頭に迷うことになろう。

 わしも、それは望むところではない。君には随分と、世話にもなっておるしの」

 

未だに精神を掌握されているフーケは、無表情なままでその言葉を聞いていた。内心で、何を思っているのかは分からない。

 

「……とはいえ、いうまでもなく盗賊などを続けることを見逃すわけにはゆかぬ。

 だが、残念ながら学院の秘書の役職では、遠方にいる大勢の子を養えるほどの給金を出すのも難しかろう。

 かといってただ野に放り出せば、君は金を稼ぐために早晩盗賊に戻るか、それ以上にも悪い仕事に手を染めざるを得なくなるであろうな」

 

そこで一旦言葉を切ると、オスマンは促すようにディーキンの方に目をやった。

ディーキンが頷いて、フーケの傍にとことこと進み出る。

 

「オホン……。そこで、ディーキンの出番なの。

 ディーキンはあんたが盗賊の仕事を辞めてくれるなら、代わりに必要なだけのお金を稼げる仕事を紹介するよ。

 もちろん、あんたのことを死刑にする人たちに引き渡したりもしないの。どう?」

 

ディーキンはそう言って、じっとフーケの顔を見つめながら……。

彼女に施した《人物支配(ドミネイト・パースン)》の術を、解除してやった。

術の影響を受けたままでは彼女自身の正しい意思で判断を下すことはできないだろうから、当然のことだ。

 

フーケは二、三度まばたきをしたり、首を傾げたりして怪訝そうにしていたが……。

じきに自分が術から解放されていることを悟って、はっとした顔になった。

 

今まで術を掛けたままにしておいたのは、彼女が説明を終える前に自棄を起こして逃げようとしたり飛び掛かってきたりしないためだ。

彼女の杖はまだこちらが預かったままだし、既に学院長にも事情を伝え、彼女自身が書いた告白書まで押さえてある。

一旦こちらの提案を聞けば彼女も冷静になり、およそ事態を改善できる見込みのない無謀な行為に及んだりはしないであろう。

 

さておきフーケは、一時の戸惑いから回復すると、胡乱げな目をしてディーキンを睨んだ。

酒の回った頭を、一生懸命に働かせながら。

 

「……あんた、一体何を考えてるんだい?」

 

一方ディーキンは、それを聞くときょとんとして首を傾げた。

 

「ええと……、何をって、今言った通りだよ。

 ディーキンはあんたが盗賊の仕事を止めてくれるなら、代わりに――――」

 

「はっ、あんたを潰そうとした私の命を取るどころか、金になる仕事を紹介するだって?

 そりゃまた、何ともうまい話だね。酔い過ぎて、私の耳がおかしくなってるんでなけりゃあさ!」

 

フーケはディーキンの言葉を遮ると、肩を竦めて鼻を鳴らした。

そんな都合のいい話を素直に信じられるほど、恵まれた人生は送っていない。

 

「それが、君の地かね? ……ううむ、こりゃまた、見事に騙されておったのう……」

 

あの時居酒屋で尻を撫でても怒らなかったのも、わしに取り入って学院へ潜り込むための芝居だったというわけか……、

などとしかめ面で呟くオスマンの方に、冷たい一瞥をくれてから。

フーケはディーキンの方に向き直って足を組むと、不敵な笑みを浮かべて彼を見下ろした。

 

今の彼女の立場からすれば、相当に豪胆な態度だといえるだろう。

 

彼女とて元は高貴な貴族の生まれであり、堕ちぶれて歪んでいるとはいえ、相応のプライドがあるのだ。

我が身可愛さに人に卑屈に媚びへつらったり、顔色を窺ったりするのは、まっぴらごめんだった。

 

まあ、酔っているのでその影響も多少はあるのだろうが。

 

「……で、本当のところは一体何が望みなんだい。その仕事とやらで、私に何をさせるつもりさ?

 どうせこっちは受けるしかないんだ。さっさと教えてくれてもいいだろ、亜人の坊や」

 

ディーキンはちょっとむっとしたような顔をして、フーケを見上げる。

 

「坊やじゃないの、ディーキンはとっくに、ちゃんとした大人のコボルドだよ!

 ……ンー、やって欲しいことはね、お姉さんに何ができるのかにもよるけど……」

 

フーケは、胡散臭そうな、怪訝そうな目でディーキンを見つめた。

 

「何ができるかって?

 ふん……、まさか居酒屋で働いてた経験を活かして夜の仕事をやれなんてわけじゃないだろうね、大人の亜人さん。

 盗賊の経験を活かして、何か大きな金になるような、ヤバい仕事をさせようってつもりかい?

 お宝探しとか、情報収集とか、スパイの真似事とか……」

 

フーケの問いに首を横に振って少し考えると、言葉を続けた。

 

「そんなのじゃないよ、ええとね。

 たとえば、歌とか、踊りとか、楽器の演奏とか……。

 ディーキンが聞きたいのは、お姉さんはそういうのができるか、ってことなの」

 

 

「………はあ。あんた、本気で言ってるのかい?」

 

「もちろんなの。ディーキンはしらたまさんと同じくらい真剣に、あんたを勧誘してるよ」

 

「知らないよ、そんな名前。……ったく、」

 

ディーキンの話を一通り聞き終えたフーケは、大きな溜息を吐いた。

 

彼の提案は、要するに「今自分が働かせてもらっている、『魅惑の妖精』亭という居酒屋で一緒に仕事をしないか」というものだった。

最初フーケは、所詮は世間知らずな亜人かと、その提案を一笑に付そうとした。

居酒屋で働いていた経験もある彼女には、そんな仕事で大勢の孤児を養うだけの仕送りができるはずがないと考えたのだ。

 

ところが彼が言うには、その居酒屋は客層がよく、給仕をしている少女たちは、非常に高額のチップをもらっているのだという。

まあ所詮はチップ、高いと言ってもたかが知れているだろう、と最初は思ったのだが……。

なんとその店でトップの人気を誇る少女などは、繁盛期にはものの一週間で百エキューを優に超えるチップを稼げると自慢しているらしい。

 

最下級の貴族であるシュヴァリエに与えられる年金は、おおよそ五百エキューほど。

自給自足の農村部などは別として、必要品を店で購入する生活を送っている市民ならば、一人あたり年間百二十エキューほどは必要になる。

平民の一家四人が、まずまず不自由なく暮らせる額だ。領地を持たない、下級貴族の収入はそんなものである。

だというのに、かきいれ時とはいえものの一週間で、それもチップだけで百エキュー以上も稼げるとは。

それなら確かに盗みなしでも、どうにか孤児たちを養えるだけの収入が得られるかもしれない。

自分が勤務していた大衆向けの安酒屋とは、えらい違いであった。

 

ディーキンはさらに、自分は毎日店で働いているわけではないが、出勤したときは主に詩歌などの芸を披露して、相応に人気を博している。

自分が店に出る日には、一緒に歌や演奏や、演劇などの芸を客に披露しないか、とも持ちかけた。

 

「お姉さんは貴族だったんだから、きっと楽器とかダンスとかもいくらかはできるでしょ?

 それにきれいだし、演技力やアドリブも凄いと思うの。ディーキンも小屋ではすっかり騙されて、ゴーレムに一発殴られたからね。

 あんたならきっとチップがいっぱいもらえると思うし、ディーキンと芸をしたら、もっと大人気になって、もっともっとお金を稼げるよ!

 もちろん、スカロンさんに頼んでみないとわからないけど、あの人なら駄目だとは言わないはずなの」

 

さらに、万が一上手く軌道に乗らなくてお金が不足するようなら多少は援助もできるといって、手持ちの金を見せてくれた。

金貨に延べ棒に宝石類などで、数千エキュー分は軽くあった。

フーケは当然驚いたが、よく考えてみれば、確かにこいつならそのくらいの金は稼げそうだとじきに納得した。

 

「わしも、なかなかよい話だと思うぞ。君がいなくなるのは寂しいが、酒場で給仕をするのなら、飲むついでに顔を見に行けるしの」

 

そんなことを言うオスマンの方を半目で見てから、フーケはどうしたものかと考え始めた。

 

命を助けるからには相応の条件を突き付けるつもりだとばかり思っていたが、どうもこいつらの様子から見て、冗談ではないらしい。

自分を殺そうとした、それも異種族に対して、よくもまあそんな態度が取れるものだと、安堵するよりも先に呆れた。

こいつは底抜けに人がいいのか、無邪気なのか、脳天気なのか……。

まあ亜人だから、人間とはそもそも考え方も違うのかもしれないが。

 

だとしても、学院長までがそれを承認しているあたりが、輪をかけて不思議だった。

こいつはたかが生徒の使い魔だ。それがなぜ、犯罪者を自分の判断で見逃すなどという戯言を認められているのか。

エルフもかくやというほどの力を持っているのは先に見たが、その力を背景に圧力をかけている、というわけでもなさそうだし……。

 

本当に、こいつは一体、何者なのだろうか?

 

(……まあ、考えても仕方ないか)

 

フーケは頭を振って、そんな答えの出ない疑問を一旦振り払った。

 

どの道、自分には受け入れる以外に道はなさそうだ。

こいつらの態度からして、断ったからと言って今更やはり官憲に突き出すなどと言われるとは思えないが、心証は悪くなるだろう。

断った後のアテがあるわけでもないし、それに話を聞く限りでは、条件も悪くない。

 

酒場で客の気を引くのには慣れている。別に今更、大した苦痛とも思わない。

この亜人の詩歌の腕前が素晴らしいのは知っている。一緒に芸をやればその演奏を傍で聞けるし、きっと金にもなる。

盗みを止めねばならないのは痛手だし、もう貴族どもを悔しがらせてやれないのは残念だ。

しかし、とりあえず安全で落ち着いた暮らしができて、それでいて当面必要な金も手に入るのならば……。

 

「分かったよ、なかなかいい話じゃないか。その仕事、受けるよ」

 

「オオ、受けてくれるの? どうもありがとう、ディーキンはお姉さんに感謝するよ」

 

嬉しそうに頭を下げるディーキンに、フーケは苦笑した。

どう考えても望外の扱いを受けているのはこちらの方だというのに、感謝とは。

一体どこまでお人好しな考え方をしているのか。

 

「こちらこそ、私のようなものに寛大な処置を頂き、感謝します。

 ディーキンさん、それに、オールド・オスマン」

 

フーケは言葉遣いを丁寧にすると、2人に礼儀に則って御辞儀をする。

 

秘書ミス・ロングビルの覆面を被り直したというわけではなく、貴族マチルダ・オブ・サウスゴータとして感謝したつもりだった。

まだ何も裏が無いと完全に信じたわけではないが、これだけ寛大な処置を受けたのだから、とりあえず礼は言っておかねばならないだろう。

 

その後は、ディーキンとオスマンとマチルダとで部屋の机を囲み、ささやかな宴が催されることになった。

 

ディーキンもオスマンも、決してマチルダの過去の行いに言及して咎めたり、何か探りを入れたりするような無粋なことはせず。

純粋に舞踏会に参加できなかった彼女を楽しませようと、たわいのない笑い話をしたり、互いに歌やダンスを披露したり。

 

そうして、終始和やかな雰囲気で、夜は更けていった……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

舞踏会の片付けも終わり、皆が寝静まった真夜中の学院。

 

タバサは一人とぼとぼと、2つの月の明かりに照らされながら、中庭を歩いていた。

いつも通り無表情ではあったが、どこか沈んだような、それでいて、内に何か激しいものを秘めているような、そんな様子であった。

 

ディーキンは舞踏会が終わる頃、参加できなかったミス・ロングビルのために、食事などを届けて様子を見てくると言い出した。

ルイズらも同行を申し出たのだが、彼は明日も授業があるし、もう遅いから自分だけで、と断ったのである。

 

さて、タバサは当然、それを聞いて、ディーキンに密かに声を掛けるよい機会だと思った。

だからディーキンが出ていった後、自分も早々にルイズらと別れると、彼の後を追ってロングビルの私室の方に向かった。

彼には是非、聞いておきたいことがあったからだ。

 

タバサがディーキンを発見したとき、彼はいつの間にかオールド・オスマンと合流して、物陰で何か話していた。

流石に学院長と話している最中に割り込むわけにもいかず、彼女は足を止めて待った。

 

だが、途中で何か様子がおかしいことに気が付いた。

 

その時、オスマンはディーキンから受け取ったらしい羊皮紙の束を読んでいたが、ただならぬ厳しい顔付きをしていたのだ。

そして、2人で手近の空き教室に入っていったきり、しばらく出てこなかった。

 

タバサは少しためらったが、好奇心が勝り、そっと部屋の傍に寄って聞き耳を立ててみた。

そして優秀な風メイジである彼女には、部屋の中での2人の会話の大筋を、しっかりと聞き取ることができた……。

 

(……私には、わからない)

 

今、タバサの胸の中には、もやもやとした不快な感情が渦巻いていた。

 

自分を殺そうとした相手を、法律違反を犯してまで許すなど。

どんな事情があったか知らないが、そのために非の無い他人を殺していいわけがない。

同情の余地はあろうとも、そこまでして助ける必要がどこにあるというのか?

 

(彼は、甘すぎる)

 

彼女は、身内に対する復讐心で動いている。

 

タバサの叔父は魔法が使えず、優秀な弟に対する憎悪と王の座に対する欲望から、彼女の父を殺した。

しかもタバサの母を薬で廃人にし、それを人質に、彼女に従姉妹が命じる気まぐれの“任務”に命がけで従うことを強要しているのだ。

少なくとも、タバサはそう信じている。

 

彼女にとって、叔父は絶対に許すことのできない相手だった。

フーケだって、貴族社会に対する復讐心で動いていると言うではないか。

 

別にタバサには、フーケが処刑になろうがなるまいが、正直言ってどうでもよかった。

自分と無関係な盗賊の運命などに、そこまで興味はない。だから今立ち聞きしたことを、誰かに密告するようなつもりもない。

だが、逆恨みで貴族全般に牙をむくような凶賊に過剰な情けをかけたところで、いつかは裏切られるに決まっているとは思う。

そんなに世の中は甘くはないのだ。優しくさえすればきっと改心するだろうなんて、幼稚な子供の幻想に過ぎない。

 

なのに、あの亜人ときたら……。

 

(あれは、現実が見えていない、ただの子ども―――)

 

……いや、だが。

本当に、そうなのだろうか?

 

彼は、自分も気付けていなかったフーケの正体に気が付いていたのだ。

しかもそれを、未知の魔法を用いたとはいえ自分たちに気付かれる事もなく、一人だけで密かに捕えていた。

先日シルフィードを助けに向かった時も、武器屋などでも、ずいぶん慣れた様子を見せていた。

 

世間知らずな亜人の子だなどと、いまさら本気で信じられるわけがない。

それは、自分を騙しているだけだ。

 

しかも、学院でももっとも人生経験豊かな学院長までが、彼の提案を肯定していた。

 

結局彼には、自分にはまだ見えていないことが見えているのかもしれない。

彼は私よりもいろいろなものが見えていて、賢くて、強い―――。

 

「……違う」

 

タバサは僅かに顔を歪め、その考えを振り払うように首を振ると、そう呟いた。

今の彼女の顔には、キュルケでさえこれまで見たことないくらい、内心の感情がありありと浮き出ていた。

 

彼は鋭く、機知に富み、賢い。それは認めねばならない。

だが無垢で、単純で、すぐに人を信じる甘い面をたびたび見せる。

いくら頭が良くても、そんな純粋な者は、それこそ冒険生活などで生き延びれるとは思えない。

なのに彼は、仲間と共にあちこちを旅してきたという。そして、こうして生きている。

 

何から何まで理にかなっていないように、タバサには思えた。

タバサにとって、無垢さや純粋さは、賢明さや生存の才とは両立しないものなのだ。

それは、自分がガリアの公女シャルロットから『雪風』のタバサになった最初の任務の時に、ある女性から教わったことだった。

 

強さとは、本来は長期間の積み重ねで鍛えるもの。日々の鍛錬の積み重ねがものを言う。

数多くの犠牲を払い、命懸けの実戦を潜り抜ける過酷な日々を送ることだけが、そんな年季の差を埋め合わせてくれる。

彼女自身、強く賢くなるために、そして生き延びるために、僅かな期間の間に驚くほどの早さで、それらを犠牲にしてきたのだ。

 

純粋さ、朗らかさ、平和な日々、満ち足りた生活………。

他にも沢山、もっと沢山。

 

自分が生き延びるために支払わなければならなかった、そんな数多くの代償を、彼は一度も支払ったことなどないように見える。

どこまでも明るく、社交的で、親切で……、今の自分とは正反対だ。

純粋な者が嫌いだというのではないけれど、そんな者が自分よりも賢く、強いなどとは、信じられない。信じたくない。

 

しかも、彼は心底憧れる“英雄”に出会ったのだ、という。そのお陰で、今の自分があるのだと。

自分だって、そんな“英雄”に救われたかった。御伽噺の『イーヴァルディ』のような勇者が自分の元にも来てくれたら、と思っていた。

どうして、彼にばかり。

 

――――もちろん、タバサの中の冷静な部分は、そんなことを考えても埒もないのだと理解している。

ディーキンには何の非があるわけでもないことも、わかっている。

所詮、こんなものはただの醜い妬み、僻みの類ではないか。

彼には恩義もある。そんな相手に対してこんな感情を抱くなんて、貴族にあるまじき賤しい心根……。

 

それでも、どうしても認めたくなかったのだ。

 

彼を見ていると、自分の歩んできたタバサとしての人生を、否定されているようで。

なのに、彼の傍は居心地がよくて、暖かくて。

それに身を委ねきれば、自分はきっと弱くなって……、今までの辛苦も、無駄になってしまいそうで。

 

同じ友人でも、キュルケに対してはこんな気持ちになったことはなかった。

 

キュルケ自身に聞けばきっと、それは私はあなたと同じ女で、彼は男だからよ、とでもいうのだろうが……。

彼女とは、以前に軽い手合わせをした時は互角だったけれど、結局は命懸けの実戦でなら絶対に負けない自信があるのだ。

知識でもずっと上なつもりだ。負けている部分もあるけれど、それは彼女の方が年上なのだから、ある程度は仕方がないだろうとも思う。

 

では彼には、自分は勝てるのだろうか。

 

彼は、生まれつき強い亜人なのかとも思ったけれど、そんなことはないという。むしろコボルドは人間よりも弱い種族だと。

シルフィードと同じく、見た目に反して年長なのかとも思った。けれど、はっきりした年齢は覚えていないが多分大差ないだろうという。

 

自分は、希代の天才メイジと言われた父の子で、父譲りの才があると言われてきた。

事実、これまで同年代の子の誰にも、引けを取ったことはない。

相手は人間ではなく亜人だとはいえ、そういう意味でも、負けたくはなかった。

 

(私は、彼よりも強いはず……!)

 

タバサは自分にそういい聞かせると、父の形見の杖をぐっと握りしめた。

 

こうなったら、明日の朝にでも、彼に一度、勝負を申し込んでやろう。

渋るようなら、脅すようで嫌だが、フーケの話を立ち聞きしたことを仄めかしでもすればいい。彼から話を聞き出すのは、その後だ。

そうだ、負けた方は勝った方の要求をひとつ聞くこと、とでも言ってやれば、頼みごとだってしやすくなるだろう……。

 

頭の中でそんな考えを弄びながら、タバサはひとまず自室の方へ戻っていった。

今の自分が、彼女の従姉妹であるイザベラがしばしば向けてくるのとよく似た目をしていることに、タバサは気が付いているのだろうか。

 

そして、そんなタバサの姿を、ガリアからの伝令である一羽の大烏が、暗闇の中からじっと見つめていた……。

 



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第五十話 Observation

フリッグの舞踏会から、一夜明けた朝。

 

「♪ フンフンフ~ン、フンフン不運~~! イェイ!」

 

ディーキンは楽しげに鼻歌など歌いながら、洗濯物の籠を頭に載せて洗い場へ向かっていた。

ここ最近、忙しいが退屈しない充実した日々が続いているので、今日もまた何があるか楽しみだった。

 

昨夜フーケとしばし歓談した後、ディーキンは彼女にスカロンへの紹介状を書いてから部屋を辞し、ルイズの元へ戻って休んだ。

ラヴォエラへの連絡は、既に夜も遅いので翌朝に回すことにしたのである。

とりあえずシエスタといつも通り稽古を終えた後に、問題が無いようなら彼女を呼び戻して、ついでにみんなに紹介を……。

 

「……ン?」

 

頭の中でそんな風に色々と今日の予定を組みながら洗い場に到着したディーキンは、少し予想外な人物を見かけて、首を傾けた。

 

シエスタがいるのは、これはいつも通りだが……、彼女から少し離れた場所にタバサが立って、こちらを見ているのだ。

雰囲気から察するに、どうも彼女は自分が来るのを待っていたようだった。

 

「先生、おはようございます。

 その、ミス・タバサが、先生にお話があると……」

 

シエスタはそう言うと、話の邪魔にならないよう、2人に御辞儀をしてから少し席を外した。

ディーキンは目をしばたたかせて、近づいてきたタバサに向き合う。

 

「……ええと。おはようなの、タバサ。お話っていうのは、何なのかな?」

 

「あなたに、頼みがある」

 

じっとこちらを見つめるタバサは、何やらいつもにも増して表情が硬いように思えた。

 

「私と、勝負して欲しい」

 

「勝負?」

 

それを聞いたディーキンは、少し顔をしかめて、首を傾げた。

 

「……ええと、ゲームとかかな?

 ディーキンはゲームが大好きなの、ウルルポットがとりわけ得意だよ!

 石積み遊びとか、“親父の骨”とかでもいいけどね」

 

タバサの用件がそんなゲームの勝負などではないだろうことは無論感じとっていたが、ディーキンはあえてそう言ってみた。

 

ちなみに、ウルルポットというのはウルフレンドとかいう異世界のコボルドが遊ぶと言うゲームである。

裏面にドラゴンの絵が描かれたカードを伏せて他のカードと重ならないようにしながらかき混ぜ、その場所を当てるというものだ。

石積み遊びは、これまた別のフォーセリアという異世界のコボルドがするという遊びだ。

完成すると世界が滅びるとかいう物騒な迷信もあるが、まあどうということもない単純なパズルのようなものである。

最後の“親父の骨”はフェイルーンの一般的な遊戯で、鶏などの骨を積んで行う将棋崩しのようなゲームだ。

 

「違う」

 

タバサはそんなゲームの提案に乗って来ることもなく、素っ気なく首を振った。

 

「タバサは、ゲームは嫌いなの? 苦手とか?」

 

「嫌いじゃない。興味も、自信もある」

 

そう答えると、杖を持ち上げてディーキンの顔をじっと見つめる。

 

「……でも、また今度」

 

「ええと、じゃあ、つまり……。

 その、この間シエスタがやってた、決闘……みたいなことを、するの?」

 

タバサがこくりと頷くのを見て、ディーキンは困ったような顔をした。

 

実際、ディーキンはいささか困惑していた。

一体なぜまた急にそんなことを言われたのか、まるで心当たりがないのだ。

 

彼女は年齢に見合わぬ実力の持ち主で、その実力を証立てる爵位も持っているという。

そういった者の中ではたまに見かけるいわゆる戦闘マニアで、強い相手と見れば挑みたくなる性質なのだろうか。

けれど、あまりそんな風には見えない。第一今まで何も言ってこなかったのに、なぜ今になって。

 

あるいは、昨日のフーケとの一件で、こちらを強いと見たのだろうか。

正直なところ、不覚をとって一発殴られただけで、少なくとも彼女の見ている前ではいい面は何も無かったように思うのだが……。

 

タバサはディーキンのそんな様子をじっと見て、僅かに首を傾げた。

 

「嫌?」

 

「ンー……、そうだね。

 だって、ディーキンにはタバサと戦う理由なんてないもの」

 

シエスタに稽古をつけるのと、タバサと戦うのとでは、また違うのだ。

稽古でならともかく、仲間と訳も分からずに戦って痛い目にあわせるなんて、控えめに言ってもあまり気が進まない。

もちろん、自分が痛い目にあって喜ぶような趣味もない。

 

「どうしてもっていうのなら、ディーキンはお付き合いするけど……。

 タバサはどうして、ディーキンと勝負がしたいの?」

 

上目遣いにじっと顔を見つめられてそう問われると、タバサは僅かに顔を曇らせた。

どうしても勝負がしたい理由は何かと言われても、タバサ自身にも完全に明確な説明はできないのだ。

 

いや、大体のところはわかっている。

だが、それを口に出して認めるのは嫌だった。

ましてや、面と向かって人に伝えるなんて、とてもできない……。

 

「……あなたの実力を知りたい。私と、どちらが強いのか」

 

タバサはそう言って、自分とディーキンとを誤魔化した。

嘘ではないが、明らかに真実とは程遠い答えだった。

 

その答えを聞いたディーキンは、釈然としない様子で顔をしかめると、首を振った。

 

「ねえタバサ、前にも言ったけど、冒険者は役割分担をするのが大事なんだよ。

 みんな自分のできることで、チームに貢献するの。

 一人で戦った時にどっちが強いかなんて、比べても仕方がないし、状況によっても違ってくるし……」

 

「そんなことは、分かっている」

 

タバサはそんなディーキンの一般論を、そう言って遮った。

珍しく苛立った様子で、語気もやや強い。

 

そんな理屈は、タバサ自身にも十分にわかっている。

たとえ自分が彼に勝ったところで、彼には自分にできない様々なことができるという事実は、否定しようがない。

単に正面からの一騎打ちで自分の方が強いと証明したところで、それに何の意味がある?

 

それでも、わかっていても納得できないことがあるから、こうして理不尽を承知で挑んでいるのだ。

 

「……私は、ずっと一人で戦ってきた。

 だから、一対一で戦った時の強さに興味があるのは当然」

 

迷いを断ち切るように、きっぱりとそう答える。

 

(要は、私が彼に勝てばいいのだ)

 

タバサは、自分にそう言い聞かせた。

 

自分の方が強いとわかれば、恩義のある彼に対して劣等感を抱くことで、自分自身を貶めることもなくなるだろう。

それですべてが解決するわけではないが、いくらかの気持ちの整理はつくはずだ。

 

自分はこれまでも、幾度とない困難や苦境を、結局は勝つことによって乗り越えてきたのだ。

今回も同じこと。多少、理不尽に思われようと構わない。

今はただ、勝てばいい。

 

「駄目?」

 

「ウーン……、」

 

ディーキンは言葉を濁して、しばし考え込んだ。

 

タバサに何か秘めた強い感情があるらしいことは見て取れたが、それを問い詰めるのは憚られる。

もちろん、呪文で心を読むなんてのは論外だ。

是非とも勝負をしたいと言うからには、やはり受けるしかないのだろう。

 

お互いにあまり怪我などをしないで済めばいいのだが……。

何やら非常に真剣な思いがあるようだし、適当にやったり、わざと負けたりなどというわけにもいくまい。

 

「……わかったの。

 じゃあ、どこか迷惑にならないところで……」

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

しばしの後、学院の近くの森にあるやや開けた場所に移って、タバサとディーキンは向かい合った。

両者の間の距離は、おおよそ十五メイル程。

立会い人としてシエスタが、やや距離を置いた場所から2人を見守っている。

 

(きゅ、急に、先生とミス・タバサが勝負だなんて……)

 

シエスタはやや困惑しながら2人の身を案じていたが、同時に勝負の行方に少なからぬ興味も持っていた。

一体、タバサとディーキンのどちらの方が、より強いのだろうか?

 

「合図を」

 

「あ……、は、はい!」

 

そう促されて、シエスタは慌てて右手を掲げると、2人の様子を交互に窺った。

 

タバサは、愛用の長杖を構えて、やや姿勢を低くしている。

彼女の並々ならぬ魔力がオーラとなって、周囲に陽炎のように漂っていた。

これは真剣勝負とはいえ殺し合いではないというのに、まるで冷徹なアサシンのような鋭い雰囲気だ。

 

一方ディーキンの方は、武器は持たずに大きめの盾を左手に構えている。

やや困ったような顔で対戦相手の方を見つめるその姿からは、怯えや気負いは感じられない。

タバサの鋭く冷徹なオーラに対峙してなお、良くも悪くもいつも通りといった雰囲気だった。

 

とにかく、両者ともに戦いに臨む準備は整っているようだ。

シエスタはそれを確認すると、一度深呼吸をしてから、右手をさっと振り下ろした。

 

「―――― はじめ!」

 

「デル・ウィンデ」

 

開始の宣言とほぼ同時に、タバサは呪文を詠唱し、横へ飛びながら杖をディーキンの方に差し向けて先制攻撃を仕掛けた。

可能な限り唇の動きを読ませないように小さく、そして敵よりも素早く詠唱し、攻撃の軌道を読みにくくするために移動しながら放つ。

幾多の修練と死闘を経て鍛え上げられた、実戦的な戦い方だった。

 

放ったのは『風』一つのドットスペル、『エア・カッター』。

不可視の鋭い風の刃を放つ、火系統と並んで戦闘を得意とする風系統の攻撃呪文の基本である。

最初は軽い切り傷を負わせる程度の威力しかなく、この呪文を覚えたての幼いメイジが、虫や小動物に放って虐める姿がよく見られる。

長じるにしたがって威力は向上し、ライン以上のメイジが用いれば人間のような大きな生物に対しても十分な殺傷力を持つのだ。

 

通常、殺し合いではない試合でこのような殺傷力のある呪文を使うのが危険なことは、タバサも承知していた。

しかし、彼は昨日のゴーレムとの一件を見てもなかなか頑丈なようだし、鎧もしっかり着込んでおり、自前の鱗もある。

優れた治癒能力を持つエルフのような存在も、召喚できる。

ならば多少のことは大丈夫だろう、むしろある程度強い呪文でなければ倒すには至らない、と考えたのである。

 

「オォ……、」

 

しかるにディーキンはタバサのその詠唱の所作を見逃さず、唱えた呪文の正体も的確に識別していた。

この世界の呪文についての連日の勉学と、冒険生活で鍛えられた目の良さの賜物である。

 

風の刃を飛ばす魔法というのはフェイルーンではあまり見たことが無いので、その点でもかなり印象に残っていた。

竜巻や突風で敵を吹き飛ばす魔法なら、フェイルーンにも存在するのだが……。

そもそも風なんかでどうやって刃を作るのか、ディーキンには本を読んでも今ひとつピンとこなかった。

 

だがいずれにせよ、これはほぼ不可視とはいえ、実体のある刃を飛ばす呪文であるらしい。

ゆえに火球などとは違い、鎧や盾、外皮等で防ぐこともできるようだ。

 

「よっ……、と」

 

ディーキンはタバサの杖の向きと空気の僅かな揺らぎを注視して刃の飛来する軌道を見切ると、そちらへさっと盾を向けて攻撃を弾いた。

タバサの風の刃は普通の革鎧や鎖帷子程度なら軽く斬り裂けるほどに鋭いのだが、魔法で強化された盾には傷ひとつない。

 

しかしタバサも、今更その程度のことで動じはしない。

今度は後ろに飛んで距離を離しながら、立て続けに呪文を詠唱する。

 

強力な呪文には長い詠唱が必要なため、安全に詠唱を完成できるだけの距離を離さなければ使えない。

ゆえに、まずは短い詠唱で放てるごく弱い呪文で牽制して距離を稼ぎつつ、あわよくば仕留められればそれでよし。

それが駄目でも、十分な距離を確保し次第、より強力な呪文を使って片をつけるつもりなのだ。

 

「ラナ・デル・ウィンデ」

 

空気を固めて敵を打ち倒す不可視の鎚とする攻撃呪文、『エア・ハンマー』だ。

風の刃と同様に不可視で回避は困難であり、衝撃で敵を大きく吹き飛ばして体勢を崩させることができる。

開かない扉を強引に打ち破ったりするのにも使うことができ、それ単体では殺傷力はないものの、実用性の高い呪文であるといえよう。

 

「オオ! ……っと、」

 

ディーキンは此度もタバサの放った呪文の正体を見抜くと、咄嗟にぐっと姿勢を低くした。

そのまま地面を蹴って跳躍し、翼を広げると、余裕を持って先程まで自分の立っていた地点を通り抜けていく風の鎚を回避する。

 

この世界の呪文は、どうも全般的にフェイルーンの呪文に比べて有効射程が短いし、速度も遅い気がする。

広範囲を薙ぎ払うタイプの呪文はいざ知らず、単体を狙う類の呪文ならば、二十メイルも距離を離せば概ね余裕で回避できそうだった。

フェイルーンの呪文の中には、数百メイルも離れた地点にでもほぼ瞬間的に着弾し、回避が非常に困難なものがザラにあるのだ。

 

(このまま、タバサの攻撃を避け続ければいいかな?)

 

ディーキンは自分の眼下を通り過ぎていく風の流れを肌で感じながら、そんなことを考えた。

 

どうやったらお互いあまり傷つかずに戦いを終えられるか悩んで、タバサの攻撃をかわしても攻め込むのは躊躇していたのだが。

この調子なら、ひたすら回避し続けるのも、そう難しくはないかもしれない。

タバサの精神力が尽きるまで、このまま耐えられれば……。

 

(………ンッ?)

 

そんな考え事で一瞬タバサから注意が逸れていた間に、彼女はまた別の呪文を詠唱し始めていた。

ディーキンは注意を彼女の方に戻し、口の僅かな動きや動作から次の呪文を識別すると、ぎょっとして目を見開いた。

 

次に飛んでくる呪文は、『ウィンド・ブレイク』。

広範囲を風で薙ぎ払い、対峙する敵を大きく吹き飛ばす呪文である。

効果範囲が広いがゆえに回避は難しく、しかも空中では踏ん張りがきかない。

 

慌てて地面に降りようとしたが、間に合わなかった。

 

「オオオォ……、ッ!?」

 

体を叩きつける猛烈な突風に、ディーキンは思わず腕で顔を庇って、目を閉じた。

 

腕や翼をたたんでできる限り突風を受ける面積を減らし、それが通り過ぎると、今度は逆に翼を広げてブレーキを掛けようとする。

その甲斐あってか、どうにか勢いよく吹き飛ばされるのは免れ、僅かな後退のみでその場にとどまることができた。

ディーキンは小さく溜息を吐くと、首を振って地面に降り立った。

 

(……強い……!)

 

タバサはディーキンが再三の攻撃を凌ぎ切ったのを見て、杖を握る手にぎりぎりと、痛いほど力を込めていた。

 

まだ系統魔法に接して日が浅いはずなのに、自分の高速詠唱を看破し、不可視の風の刃や鎚を見事にかわしてみせた。

しかもあれほど小柄な体格で、しかも宙に浮いていたにも関わらず、屈強な大男さえも吹き飛ばす『ウィンド・ブレイク』に耐え切るとは。

 

そう言えば、武器屋では両手持ちの大斧をこともなげに片手で持ち上げていた。

外見に反して、恐ろしい怪力の持ち主ということか。

 

ならば次は、どんな攻撃が考えられる?

 

風で体を絡め取り、操るか。

地面に霜を走らせ、足を凍りつかせて動きを封じるか。

それとも、『眠りの雲』を使って眠らせるか。

 

いや、いっそ、もっと殺傷力の高い呪文を使うべきだろうか。

 

とにかく、負けたくない。

彼は強い。だから負けないためには、もっと強い攻撃を使わなければ。遠慮などしている場合ではない。

向こうはまだ手も出してこないのだし、遠慮しているかも知れない。

でも、構うものか。

試合と言ってもこれは真剣勝負だ。遠慮してくれなんて頼んでいないのだし、する方が悪い。

彼なら、ちょっとくらい、きっと大丈夫だろう……。

 

タバサは次第に、任務で敵に対峙している時のように、とにかく目の前の相手を倒すことだけを考え始めていた。

 

 

やや離れた場所から、食い入るようにそんなタバサとディーキンとの熱戦の様子を見守るシエスタ。

 

その少し後方にある樹の枝に、一羽の大烏がとまって、彼女と同じ方向を見つめていた。

シエスタも、戦いを続ける2人も、その存在には気が付いていない。

 

それは昨夜学院に到着した、ガリアからの伝令であった。

普段ならばただちにタバサに任務を伝えるはずのそれは、なぜか任務の通達を先送りにして、2人の戦う様子を見守っていた。

 

(何やら、普段とは小娘の様子が違うなぁと思って、しばらく様子を見てみたが……。

 こいつは大した収穫だぁ、上手くすればオレの大手柄に化けるかもなぁ……!)

 

大烏は、内心でそのような考えをめぐらすと、くっくっと声を押し殺して嘲るような含み笑いをした……。

 



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第五十一話 Unhealthy romantic obsession

決闘開始直後のタバサからの『ウィンド・ブレイク』を耐えて、地に降り立ったディーキン。

 

対峙する両者の間の距離は、今はおよそ二十メイル程か。

マジックアイテムによって常時移動力を倍加させているディーキンならば、全力で疾走すれば二秒と経たずに詰められる距離だった。

しかし、一足飛びに踏み込んで間髪をいれずに攻撃するには、やや離れ過ぎている。

この間合いならば、ディーキンが踏み込んで近接攻撃に移る前に、タバサもなにがしかの対応をできるはずだ。

 

一方で、この距離からではタバサが何か攻撃呪文を放っても、ディーキンならばそれが着弾する前に余裕を持って回避してしまうだろう。

広範囲に影響を及ぼす強力な攻撃呪文ならば別だろうが、そのような呪文は詠唱に時間がかかる。

この程度の距離では、果たしてディーキンが踏み込んで来る前に放てるかどうか怪しいところだ。

 

そうなると一見、この距離ではお互いに決め手を欠き、有利不利は無さそうに思えるが……。

実際は、さにあらず。

 

(このままの間合いで、戦い続けてはいけない)

 

タバサは、そのことを既に、はっきりと認識していた。

 

長期戦になっても、今のところ呪文を使っていないディーキンが消耗するのは、体力のみである。

しかし、自分は攻撃するにも防御するにも呪文に頼らねばならず精神力を消耗する上に、体力でもまず間違いなく彼より劣っているのだ。

このまま長引けば、こちらの方がジリ貧になるのは火を見るよりも明らかだった。

 

ハルケギニアのメイジ同士での戦いでは、普通、呪文には呪文で対抗する。

敵の攻撃呪文をこちらの攻撃呪文で相殺したり、防壁を張って防いだり、逸らしたり。

あるいは飛び上がって避けたり、といった具合だ。

 

初っ端の二、三度の呪文攻撃で簡単に勝てると思っていたわけではないが、向こうが何ら呪文も使わずに凌いだのは想定外である。

このままこちらばかりが立て続けに攻撃呪文を唱えていたら、あっという間に精神力が枯渇してしまう。

ゆえに最初の一連の攻撃が失敗した後はそれ以上強引に攻めようとはせず、相手の出方を窺いながら次の手を思案していた。

 

「……ン~」

 

一方で、ディーキンの方もまた、今後の戦い方を検討していた。

 

先程はこのままかわし続けるだけでもいいかと考えたが、『ウィンド・ブレイク』の時は少し危なかった。

もし耐え切れずに吹き飛ばされていたら、次はもっと強力な呪文で、体勢を立て直す間もなく追撃を受けていたかもしれない。

 

やはり防戦一方ではなく、こちらからも仕掛けた方がよさそうだ。

なぜか自分と戦うことを強く望んでいるらしいタバサも、その方が納得してくれるだろう。

 

と、なると……。

 

「よーし、今度はディーキンの方もお返しをするよ!」

 

ディーキンはそう宣言すると、腕をタバサの方へ突き出して動かし、呪文を唱え始めた。

 

タバサは咄嗟に姿勢を低くして身構え、同時に自分も素早く呪文を唱える。

相手にわざわざこれから呪文を使うと宣言されて、その完成を棒立ちで待ってやるほどお人よしではない。

 

タバサはディーキンの呪文が完成するより先に、ほぼ一瞬にして詠唱を完成させると、彼めがけて実体化した魔法の矢を放った。

 

彼女の使用した呪文は、『マジックアロー』だ。

ごく低級の攻撃呪文だが、単純でクセが無いために扱いやすく、威力もなかなか侮れない。

短い詠唱で放てるがゆえに早撃ちをしたい状況にも適しており、つい先日の傭兵崩れの女頭目との、決闘もどきの際にも使用している。

 

しかし、ディーキンは動じる事もなく盾を持った方の腕を無造作に振るって、飛来した矢を過たずに弾き落とした。

 

「……っ、」

 

タバサはそれを見て、すぐに自分の失策を悟った。

相手の呪文の完成を妨害することを狙い、とにかく素早く放てる攻撃呪文を使ったのだが……。

 

冷静に考えれば、先程は不可視の風の刃ですら防いだディーキンにとって、一直線に飛んでくる矢などを防ぐのに難はなかったのである。

ディーキンとて、わざわざ呪文の使用を宣言した以上、何がしかの妨害が入ることは想定していたに違いない。

長々と考える時間が無かったとはいえ、明らかに選択ミスであった。

 

彼女は一瞬、悔しげに唇を噛んだが、すぐに気持ちを切り替えて、ディーキンの使用した呪文に対処しようとそちらへ注意を向け直した。

 

「《バーアリ・ミトネーク》」

 

ディーキンはタバサの妨害によって詠唱を乱す事もなく、一瞬後には呪文を完成させた。

 

彼が突き出した腕の前方に、直径それぞれ三十サントほどの、四つの白熱して輝く光球が出現する。

光球は、すぐさま互いに絡み合うように複雑に旋回しながら、タバサに向かって飛んでいった。

 

タバサはそれを冷静に観察して、これはどのような攻撃か、どう対処すればよいかを、素早く検討した。

 

白熱した球体を放つということは、おそらく系統魔法でいえば『火』にあたる攻撃呪文だろうか。

ならば、自分の系統である『風』で吹き飛ばすことができるはずだ。

同時にその風にディーキンを巻き込むようにすれば、吹き飛ばせないまでも不意をついて多少の隙を作れるかもしれない。

 

タバサはそう考え、少し横へ飛んで、ディーキンを同時に巻き込めるような角度へ移動する。

そうしてから、迫りくる一団の光球に向けて『ウィンド・ブレイク』を放った。

 

だが光球は、放たれた風の影響をまるで受けず、そのままタバサに向けて進み続けた。

 

「…………!」

 

後方のディーキンはというと、姿勢を低くしてぐっと踏ん張り、突風に吹き飛ばされるのを防いだ。

 

どうやら、攻撃が来ることを読んでいたようだ。

先程は空中でさえ踏みとどまれたのだから、不意を撃たれなければ耐えるのに難はない。

 

タバサはまたしてもあてが外れたことに落胆する余裕もなく、慌てて後方に飛び退き、光球から離れようとする。

 

だが、普通に走って逃れようにも、向こうの方が早い。

結局、『フライ』を唱えて空中に逃げた。

立て続けに精神の消耗を強いられるのは辛いが、かといって攻撃を受けるわけにもいかない。

 

しかし、光球はそのまま飛び去ることなく、彼女の努力を嘲笑うかのように軌道を修正して、空中に逃げたタバサを追いかけ続けた。

 

(……まだ、追ってくる……!?)

 

ということは、この呪文には火系統のラインスペル『フレイム・ボール』のように、目標をある程度追尾する性能があるのだろうか。

それとも、術者であるディーキン自身がこの光球を制御して、こちらを追わせているのだろうか。

 

わからないが、いずれにせよ厄介な代物らしい……。

 

 

シエスタは、はらはらしながらタバサとディーキンの戦いの様子を見守っていた。

 

お互いに攻撃呪文の激しい応酬をしているようだが、当たって酷い怪我などしないだろうか。

2人とも分別のある人たちなのだから、気を付けてはいると思うが……。

 

それにしても、どうしてミス・タバサは急に先生と戦いたいなどと言い出したのだろう。

まさか、ミス・ツェルプストーが言っていたように、本当に2人は……。

 

そんな風に考えていたところで、ふと後ろの方で耳障りな声を聞いた気がして、シエスタははっとそちらに注意を向けた。

 

(……あら?)

 

彼女はその声の主を確認すると、きょとんとして首を傾げた。

少し後ろの木に、大きな烏が一羽、とまっていたのである。

声だと思ったものは、どうやら烏の鳴き声だったらしい。

 

だがシエスタは、何となくその烏が気になった。

 

烏などどこにでもいるといえばいるが、この魔法学院ではあまり見かけないのである。

生徒らの使い魔の中には猛獣や幻獣の類もたくさんいるので、おそらくそれを怖れて近寄ってこないのであろう。

 

それに、この辺りに生息している烏よりも一回り大きく、よく見ると種類がちょっと違うようだ。

一体、どこからやってきたのだろう?

誰か生徒の使い魔だろうかとも考えたが、こんな烏をこれまでに見た覚えはない。

 

烏はシエスタが自分を見ていることには気付かず、じいっと戦いの様子を見守っているようだった。

野生動物が、激しい戦いに驚いて逃げるでもなく、じっとそれを観察しているようなのも不思議に思えた。

 

だが、そんな些細なことをあまり気にしていてもしょうがないだろう。

シエスタはすぐにそれらの疑問を頭の隅へ追いやると、2人の戦いに注意を戻した……。

 

 

タバサは光球から若干の距離を稼ぐと一旦地に降りて、試しに今度は氷の矢を一本、光球に向かって放ってみた。

白熱しているように見えるので、氷をぶつければ相殺できるかもしれないと考えたのである。

 

だが、その読みはまたしても外れた。

氷の矢は光球と互いに何の影響も与えあわず、素通りして地面に突き刺さっただけだったのである。

タバサは内心の落胆を押し隠して、再び宙に飛んだ。

 

そうして空中を飛んで光球から離れながらも、タバサの頭をふと疑問がよぎった。

 

(この攻撃は、当たったらどんな効果があるの?)

 

吹き付ける突風にも影響を受けず、氷をぶつけても少しも融かさずに素通りする。

かなりの速度で飛来してくるが、風の流れを乱しているような様子もない。

まるで実体が無いかのようだが、そのようなものが人間に当たって、一体どんな害を与えるというのだろう?

 

最初は『火』系統の魔法と似たような攻撃かと思ったが、明らかに性質が異なる。

もしや、物体ではなく精神に働きかけたり、生体の機能に影響を与えたりするような、『水』系統に似た攻撃なのだろうか。

外見はあまりそれらしくないが……。

 

タバサはそこまで考えたところで、小さく首を振るとその思考を振り払った。

今は、そんなことを詮索してみても仕方がない。

 

(それよりも、戦いに集中)

 

明らかな事実だけを見て言えば、この光球の速度はどうやら、並みの人間が走るよりは少し早い程度のようだ。

ならば、こうして『フライ』で逃げていれば、自分の速さなら追いつかれることはなさそうだった。

 

この光球の呪文も、まさか永久に効果が続くわけではあるまい。

このまま、断続的に『フライ』や『レビテーション』などを使って逃げ続け、呪文が力を失うのを待つか……。

 

タバサが飛びながら、そう考えているところへ。

今度はディーキン本人が、何かをベルトポーチから取り出して、彼女に向けて投げつけてきた。

 

(!! しまった……!)

 

予想以上に厄介な光球への対処に神経を集中させたり、考えごとに気を取られるあまり、彼に対する注意と牽制を怠っていた。

光球がこちらを追尾している間にも、彼の方は自由に動けたのか……!

 

投げられたのは、なにか煌めく小さな、礫のようなものだった。

飛来する礫の狙いは正確だ。タバサは咄嗟に杖を振るって、風の防壁を張った。

 

ギリギリのところで呪文が完成し、その礫の軌道を逸らして、彼女の体に当たるのを防ぐ。

 

しかし、そのために『フライ』の効果が解けてしまった。

この呪文は、他の呪文と同時には使用できないのである。

 

背後からは白熱した四つの光球が迫ってきている。

タバサは今から『フライ』を再度詠唱しても間に合わないと判断し、そのまま重力に身を委ねて落下することで光球群を避けた。

地面に激突する寸前に『レビテーション』を詠唱して落下の勢いを殺し、ふわりと着地する。

 

どうにか難を逃れたが、安堵している暇はない。

タバサはすぐに顔を上げると、再び自分目がけて襲ってくる光球の軌道を見切ろうとした。

 

が……、しかし。

光球は、タバサの方へ互いに絡み合いながら降下してくる途中で、不意に消え去った。

 

「ンー……、時間切れ、みたいだね」

 

ディーキンがそういうのを聞くと、タバサは視線を彼の方に向け直しながら、小さく溜息を吐いた。

 

どのような攻撃だったのかは分からないが、とにかく、どうにか凌ぎ切れたようだ。

逃げ続けるのに精神力を割と消費してしまったが、仕方あるまい。

 

タバサはディーキンに今の攻撃の正体を質問したい衝動に駆られたが、今は戦いの最中なのを思い出してぐっと堪える。

 

(敵に教えてもらおうなんて、甘え以外の何物でもない)

 

そう自分に言い聞かせて、気を引き締め直した。

 

とにかく、結局避け続ける以外に対処法を見いだせなかった今の呪文は厄介だ。

彼にあれをもう一度使う余力があるのかどうかなどはわからないが、ここは楽観視はせず、使えるものと想定する。

となれば、あの呪文をどうにかして使わせないようにするか、あるいは、使われても有効に働かないような状況を作る必要があるだろう。

 

それならば……。

 

(今度は、こちらの番……!)

 

タバサは素早く作戦をまとめると、ぐっと杖を握り直して姿勢を低くし……。

次の瞬間、ディーキンの方ではなく周囲を囲む森の方へとへ駆けだして、木々の間にその身を滑り込ませた。

 

「……オオ……?」

 

ディーキンは、タバサのその意外な行動に、いささか虚を突かれた。

 

実際、先程と同じ《踊る灯(ダンシング・ライツ)》の呪文を今まさにもう一度唱えようとしていたところだったのである。

それによる、更なるタバサの精神力の消耗を誘おうとして。

 

実のところ、ディーキンがタバサに向けて放った白熱光球には、当たったところで何の害もない。

《踊る灯》は、単に自由に動かせる灯りを作り出すだけの、最下級の呪文のひとつである。

 

ディーキンは、この世界の魔法については既にかなりの勉強を済ませている。

その一方で、タバサはディーキンに何ができるかを殆ど知らない。

実際にディーキンが使った呪文を見ても、その性質を短い戦闘の中で正しく把握することは困難だろう。

 

ディーキンは彼女のその無知を利用して、精神力を無為に消耗させようと狙ったのである。

正体不明の呪文を放たれれば、タバサはとにかくそれに対処しようと様々な行動を試さざるを得ないだろう、と踏んだのだ。

本当にタバサに当ててしまえば、その時点で何の害もないということがばれるので、不審がられない程度に時折加減して操作してさえいた。

 

単なる灯から真剣に逃げ惑うタバサの姿は、彼女には申し訳ないことだが、呪文の正体を知る者からすればいささか滑稽であった。

正しく知識の有無こそが、戦闘においては大きくものを言うのだ。

 

また、途中でディーキン自身が彼女に投げつけた煌めく礫も、実際には何の害もないものだった。

たまたまベルトポーチの中に入っていたビー玉を一個、投げただけである。

 

ビー玉は遊びの他にも、床に置いて傾斜の度合いを確かめたり、たくさん撒いて足止めに使ったりできる、冒険者の便利な小道具なのだ。

危険な品かも知れないと危惧したタバサが、咄嗟に呪文で防ぐのを狙ったのである。

第一本当に害のある代物を彼女に投げつけて、万一かわし損ねて痛い目にでも合わせたら自分も嫌である。

 

結果的に、最初級の呪文一発とビー玉一個の消費だけで、タバサに随分呪文を無駄打ちさせることに成功した。

 

まだばれてはいないようだし、ここはもう一回同じ手で……、と、思っていたのだが。

流石に、そんな単純な手が何度も通じるほど甘い相手ではなかったようだ。

 

(ウーン……、タバサは木の間を走り回って姿を隠しながら、こっちを攻撃してくるつもりかな?)

 

これでは木々が遮蔽になって彼女の位置が正確に把握できず、《踊る灯》に彼女を上手く追わせることはできない。

それでいて向こうは様々な角度から、思いもよらぬタイミングでこちらを攻撃できる……。

 

ちょうどそう考えていたところで、案の定、タバサからの攻撃が襲ってきた。

 

 

シエスタはタバサが森の中に隠れたのを見て、見る位置を変えようとそちらの方に足を向けた。

その時、先程の大烏が先に目の前を横切って、そちらの方へ向かって行くのが見えた。

 

(……また?)

 

なにかがおかしい。

あの烏は変だ。

 

明らかに戦いの様子を見ているような、あの動き……。

それに、今目の端に見えたあの烏の表情、あれは笑っていなかったか。

錯覚かも知れないが、確かに嘴の端が、不自然に歪んでいるように見えた。

 

何故か、酷く嫌な印象を与える笑みだった。

何かを嘲笑っているような、そんな悪意が感じられる気さえした。

 

(気のせいかもしれない、けど……)

 

シエスタは密かに、その烏の動向を見張ることにした。

 

どうしてなのか、自分でも上手く説明はできないのだが……。

敬愛する“先生”の試合以上に、今はそちらの方が気になり始めていた。

 

 

ディーキンの周りの空気が急に冷えた。

たちまち水蒸気が凍りついて、ずらりと周囲を取り囲んだ、何十本もの氷柱の矢を形成する。

 

タバサが使った呪文は、『水』、『風』、『風』の攻撃呪文、『ウィンディ・アイシクル』であった。

水が一つと風の二乗、二つの系統が絡み合った強力なトライアングルスペルであり、タバサの最も得意とする攻撃呪文でもある。

 

「オオ……!?」

 

同時に、タバサの姿が左手側の木の陰にちらりと見えた。

 

が、すぐに移動して、また木々の間に姿を消す。

音や気配も、巧みに隠していた。

成程、あれでは、普通の人間ではまず奇襲されるだろう。

その後に反撃しようとしても、その時にはもう彼女は姿を隠した後で、大まかな位置しか掴めまい。

 

だが、ディーキンにはドラゴン・ディサイプルとしての訓練によって得た、鋭い五感による“非視覚的感知”の能力が備わっているのだ。

タバサが攻撃のために遮蔽物の陰から一瞬顔を出したその瞬間には、ディーキンは彼女の所在に気が付いていた。

ゆえに、直後の攻撃に不意を撃たれて慌てふためくこともなく、冷静に対処できた。

 

ディーキンは咄嗟に飛び退いて一本の大きな木を背にし、背後からの攻撃を封じると、急所を盾や腕などで覆った。

 

これだけの数の氷柱では、回避を試みても何本かはかわし損ねてしまうかもしれない。

そのかわし損ねた攻撃が運悪く鎧や鱗の薄い急所にでも当たれば、かえって痛い目にあうだろう。

ならば思い切って、最初から防御を固めて受ける気で行く方がよい、と判断したのである。

 

タバサの攻撃と同時になにか反撃を投じることも考えたが、ディーキンは自分の刹那の判断力を、それほど信頼してはいなかった。

よく考えもせずに咄嗟に迂闊な攻撃を放って、彼女を傷つけては拙い。

これは実戦ではないのだし、ひとまずは彼女の攻撃に対処してその動向を窺い、よく検討してからにしようと結論した。

 

彼が防御態勢を取った、その一瞬後には、氷の矢が四方八方からディーキン目がけて降り注いだ。

ディーキンはしっかり体を縮めてぐっと力を入れ、攻撃に備える。

 

「ンン~……!」

 

氷の矢が次々と体に当たり、連続的に不快な衝撃がディーキンを襲う。

 

しかし、「痛い」と感じるほどのものはなかった。

盾や鎧に当たった物は勿論、鱗に当たった物も角度が悪かったり威力が足りていなかったりで、肉まで通ることはなかったようだ。

鱗に多少の傷はついているかも知れないが、この程度ならかすり傷の内にも入らない。

 

ディーキンの読み通り、あれだけ多くの氷柱を作っている関係上、一本一本の威力はさほど高くはなかったようだ。

この程度ならごく普通の金属鎧程度でも、特に薄い個所に当たらなければ貫かれることはないだろう。

 

攻撃が終わると、ディーキンはほっと息を吐いて盾をおろし、体を一度大きく震わせてひとりごちた。

 

「ウーン……、ちょっと体が冷えたかな。

 ご主人様の洞窟や、あのさむーい、カニアほどじゃないけどね」

 

タバサは木の陰から、悔しげに眉根を寄せながら、その様子をじっと窺っていた。

 

思っていた以上に、彼の全身を覆う鱗は硬いようだ。

実体のある風の刃や氷の矢を使った攻撃を得意とするタバサにとって、その威力を削いでしまう頑丈な外皮を持つ敵は相性が悪い。

 

普段のタバサは、一発一発の威力よりも、手数で勝負することの方が多い。

威力そのものは低くとも、真正面からの対峙を避けて暗殺者のように相手の隙をつくことで、一瞬で勝負をつけてきた。

小さく軽い体から言っても、魔法に対する生来の適性から言っても、そのような戦い方が向いているのだ。

 

ところが、ディーキンは自分の利点も、こちらの戦い方も、ちゃんと心得ているようだ。

その証拠に急所だけを守り、後は自分の防具や外皮を信頼して当たるに任せていた。

この分では、自分の精神力が尽きるまで『ウィンディ・アイシクル』を撃っても、彼を倒しきることはできまい。

 

それ以上に驚くべきは、木々の陰に隠れながら奇襲を仕掛けたつもりが、完全に対応されていたこと……。

自分も『風』のメイジとして空気の流れや微かな音を捉える鋭い知覚力を持っていると自負しているが、彼も感覚は相当に鋭いらしい。

 

(もっと、別の攻撃が要る)

 

タバサはその後もディーキンに自分の位置を掴ませまいと木々の間を素早く移動しながら、様々な呪文で攻撃を試みてみた。

 

まずは、『眠りの雲(スリープ・クラウド)』を放つ。

ディーキンの頭の周りを、呪文によって変成させられた大気中の水による、青白い雲が取り巻いた。

この雲は、僅かでもそれを吸った生物に猛烈な眠気を引き起こさせるのだ。

 

しかしディーキンは少し首を傾げただけで、襲ってくる眠気に耐えようとする様子さえもない。

 

それは当然のことで、フェイルーンの竜族には、眠りをもたらす魔法的な効果に対する完全耐性があるのだ。

タバサはまた知識の欠如によって、自分の精神力を無駄にしてしまったのである。

普段彼女はその事を認識し、任務の相手に対する文献調査なども怠らないのであるが、ディーキンに関しては調べようがなかった。

 

彼女はさらに続けて、不可視の風の縄や地面に走らせた霜の蔦などを用いて、ディーキンの動きを封じようとした。

 

しかし、ディーキンはそれらの束縛を難なくかわすか、たとえ受けてもすぐに振り解いてしまう。

元々これらの呪文はあまり強いものではなく、油断している人間に対して使われる程度の代物であり、明らかに力不足だった。

 

そうした幾度かの失敗を経て、タバサはさらに、悔しさを募らせていた。

 

(遊ばれている……!)

 

ディーキンはこれまでの攻撃で、不意を撃たれて受けてたじろぐ様子を見せることはなかった。

明らかに、こちらの位置をある程度は掴んでいるはずだ。もしかしたら、正確に把握してさえいるのかも知れない。

 

なのに、先程から何も、反撃を仕掛けてこないのである。

 

相変わらず戦闘開始時のまま、少し困ったような顔をしているだけだ。

もっと言えば、普段通りだ。殺気はおろか、戦いに臨んでいるという雰囲気自体が無い。

 

攻撃を仕掛けてきたのは、先程のあの追尾する光球と、投げつけてきた礫一回きり……。

いや、そもそもあれらさえも、本当に害のある“攻撃”だったのだろうか?

 

もちろん、ディーキンには実際には何も悪意はないのだろうし、おそらくは別に、こちらの力を侮っているわけでもないのだろう。

ただ、彼にとってはこれはあくまでも“友人”との手合せであり、相手を傷つけずに終わりたいと思っているだけなのだ。

こちらがいくら刃を向けても、彼が向け返してくるのはいつも通りの平静で友好的な反応と、気遣いだけ……。

 

これでは、自分はまるで、道化ではないか。

 

(許せない……!)

 

こんな惨めなことは、許せない。

私をただ、“友人”としてしか扱わないつもりなら、どうしてでも扱いを変えさせてみせる。

 

自分だけが、彼に害意を向けて無理矢理要求に従わせる賤しい人間で、彼の方は、いつも通りのきれいなままだなんて。

そんな惨めなことは、嫌だ。耐えられない。どんな逆境に耐えるよりも、もっと辛い。

 

もっと、彼にも、自分に対して違う何かを向けてほしい。

誰にでも向けるような親しみや温かさだけではなく、特別な何かを。

 

それが敵意でも、攻撃でも、憎悪でもいい。

キュルケの思っているようなものでなくても、いい。

 

(彼にも、私に、付き合わさせてみせる……!)

 

今のタバサは、その『雪風』の二つ名に似合わない、感情を露わにした表情をしていた。

憎悪と切なさとのまじりあったような、ひどく歪んで醜い、それでいて、奇妙な美しさのある顔つき……。

 

彼女がそんな顔を見せるとは、キュルケでも、他の誰でも、想像だにしないことだっただろう。

 

 

木の上から一部始終を眺めていた大烏は、残忍な嘲笑が零れるのをこらえきれなかった。

クックッ、と鳥の声帯で、低い鳴き声を漏らす。

 

先程の、ただの灯に怯えて逃げ惑う、滑稽な姿も愉快だった。

あの愚かな王女気取りの傀儡娘に克明に教えてやったら、さぞや喜んで、褒美を弾んでくれることだろう。

宝石や金貨は今のところ自分にはさほどの使い道はないが、資源として蓄えておくのは悪くない。

 

だが、何よりもあの娘、王女気取り曰く“人形七号”、それ自体が素晴らしい。

 

普段は仮面を被ったように無表情を通してはいるが、今のあの無様な表情を見れば、内面の歪みはもはや瞭然ではないか。

ここ三、四年ばかりの恨み募る過酷な生活が、あの娘の中には既に重くこびり付いているのだ。

 

これは、上司へ報告して僅かな手柄に変えるには、あまりに勿体ない。

 

あの娘に上手く取り入ってその内心を吐露させ、それに見合う餌を提示して。

自由意志を持つ人間から、本当の人形に……、自分の玩具にしてやろう。

さすれば、半端な良心と憎悪で味付けされたその魂には、さぞや価値がある事だろう。手駒としても、使えるかもしれぬ。

 

(あの魂ひとつで、オレの昇進が買えるかもしれねぇ……!)

 

残忍な皮算用に夢中になり、愉悦に浸る大烏。

彼の中では既に、タバサは自分に約束された正式な報奨のための、生贄にしか過ぎなかった。

 

だが、少し離れた場所からシエスタがじっとその様子を窺っていることには、彼も気が付いてはいなかった。

 




ダンシング・ライツ
Dancing Lights /踊る灯
系統:力術[光]; 0レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:中距離(100フィート+1術者レベル毎に10フィート)
持続時間:1分(解除可)
 術者は以下の中から選んだいずれか1つのバージョンの、自在に動かすことのできる光を作り出す。
最大4つまでのランタンか松明に似た光か、最大4つまでの白熱した光の球体か、かすかに光るおぼろげな人型をした光のいずれかである。
ダンシング・ライツで作り出した光は、互いに半径10フィートの範囲内に留まらねばならない。
それ以外の点では術者の望む通りに移動させることができ、精神集中なども不要である。
これらの光は毎ラウンド、100フィートまで移動させられる。術者と光との間隔が呪文の距離を超えた場合、光は消えてしまう。
 持続時間は短いが、同時に自在に動かせる複数の光源を出すこともできるため、動き回る敵を照らし出したい際などに何かと重宝する。
 この呪文は、パーマネンシイの呪文で永続化させることができる。

非視覚的感知(Blindsense):
 微かな音や匂い、地面の振動などの各種の手掛かりから、視覚に頼らずに周囲のクリーチャーの存在に気が付く鋭い知覚能力。
所有者は<視認>や<聞き耳>の判定を行わなくても、有効距離内に居て効果線が通っているクリーチャーの存在に気付き、位置を特定できる。
透明化していようと、背後に居ようと、サイレンスなどの呪文で音を消していようと、一切関係ない。
 感知の及ぶ距離は所有者によって様々だが、ディーキンのそれは有効距離60フィート(約18メートル)である。

D&Dの竜について:
 D&Dの世界で竜の種別を持つクリーチャーは、有効距離60フィートの暗視、および夜目の能力を持つ。
暗視は完全な暗闇でも白黒の視界で物を見る能力、夜目は薄暗い中でも人間の2倍の距離まで、色や細部の識別を含めて見える能力である。
 また、麻痺の効果や魔法的な睡眠をもたらす効果に対しては完全耐性がある。


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第五十二話 Self-hatred

タバサが木々の陰に身を隠しながらディーキンに対して激しい感情の炎を燃やしていた、ちょうどその時。

 

「……っ、そこの烏! こちらを向きなさい!」

 

やや離れた場所にいたシエスタが、突然鋭い声を上げた。

 

一体何事かと、ディーキンもタバサも、思わずそちらに注意を向ける。

見れば、シエスタはどうやら、木の上にとまっている一羽の烏を厳しい目で睨みつけているようだ。

彼女は懐から取り出した果物ナイフをいつでも投げつけられるように烏に向けて構えながら、もう一方の手をデルフにかけていた。

 

傍から見れば、正気を疑われそうな奇行だろう。

 

「……?」

 

さすがのディーキンも、彼女が一体何をしているのかすぐには理解できず、きょとんとする。

 

タバサもまた、一瞬怪訝そうに眉根を寄せた。

しかし、彼女はじきに我に返ると、ディーキンがシエスタの方に明らかに気を取られていることに着目した。

 

(好機)

 

もっと余裕のある精神状態の時の彼女なら、暗黙の了解の上での一時休戦として、ディーキンが自分に注意を戻すまで待っただろう。

これは所詮は試合であって、ルール無用の殺し合いとは違うのだから。

 

だが、今のタバサは“任務”に臨んでいる時と同様に、いやある意味ではそれ以上にも、勝つことに執着していた。

それにディーキンが、自分との真剣勝負よりもシエスタの些細な奇行の方に注意を惹かれているのも、気にいらなかった。

 

戦いの最中に、余所事に気を取られている方が悪いのだ。

彼女は自分にそう言い聞かせると、今まで以上に強力な攻撃呪文の詠唱を始めた。

 

用いる呪文は『ライトニング・クラウド』である。

 

単体目標に対する電撃を放つこの呪文は、これまでに用いた風の刃や氷柱の矢のように防具や外皮で防ぐことはできない。

一旦距離内の目標に放たれれば、ほぼ瞬時に着弾する雷の速度ゆえに、回避することもまず不可能である。

 

本来ならば、試合で用いるには危険過ぎる代物だ。

 

電撃は体のどこに当てても全身へ通電するため、風の刃などのように急所を外して狙うということはできない。

殺傷力も高く、並みの人間に放てばまず致命傷。即死することも珍しくはないのだ。

 

しかし、ディーキンの体の頑丈さから言って、死ぬことはまずないとタバサは考えていた。

それどころか、さらなる追撃が必要だとさえ踏んでいた。

 

(彼が電撃で動けなくなったら、『ジャベリン』で足を狙う……!)

 

それは、先程の『ウィンディ・アイシクル』とは段違いに威力のある、一本の太く長い氷槍を放つ呪文だ。

並みの金属鎧程度なら、胴体ごと貫けるだけの威力がある。

痺れてガード体勢が取れないうちにそれを叩き込んで足を砕き、勝負を決めるのだ。

 

この時、もしもタバサが本当に冷静だったなら……。

そのような危険な攻撃を仕掛けようなどとは、決して考えなかっただろう。

 

仮にディーキンが彼女の想定よりも頑丈でなかったなら、電撃が致命傷を与えてしまうかもしれないのだ。

その後の追撃にしても、足を砕こうなどというのはやりすぎだろう。

実戦ならばいざ知らず、友人同士の試合でやるような攻撃ではないはずだ。

たとえ無事だったにしても、そんな攻撃をした自分のことを、後で彼は何と思うだろうか?

 

結局、今のタバサは勝利に執着して焦るあまりに、しっかりと後先を考えられなくなっていたのだった。

 

 

 

(なんだぁ? この女ぁ……!)

 

大烏は、自身の栄光に満ちた未来絵図の妄想に耽っていたところを突然邪魔されて、イラつきながらも眼下のシエスタに注意を向けた。

 

よりにもよって、劣等な世界の、下賤な人間の、卑しい端女ごときが。

近未来の万物の支配者、アスモデウスをも平伏させるであろう者、この大悪魔ジェベラットに対して……。

 

(……んぁ?)

 

ジェべラットはそうして妄想の続きに浸りながらシエスタを睨んでいるうちに、ふと妙なことに気が付いた。

 

目の前の女の、ただの黒髪とは一線を画する、金属的な光沢の髪。

それに輝くような白い肌に、黒真珠のような瞳の奥の煌めき。

先程までは別段注意も払っていなかったが、よく見るとただの人間とは少し違うような……。

 

(なんだぁ、こいつ……?)

 

彼は、胡乱げに顔をしかめてシエスタの顔を注視し、こいつは何者かとしばし考え込む。

そして突然、答えに思い当たると、ぎょっとして目を見開いた。

 

(な、なんで天界の下僕が、こんなところにいやがるんだ!?)

 

シエスタは要求通り自分の方を向いた烏に対して、一旦手に構えたナイフを下し、デルフから手を離した。

そして、じっと烏の方を見つめたまま、言葉を続ける。

 

「……言葉がわかるのなら、ここへ来た目的を答えてください。

 私には、あなたの悪意はわかっています。なぜ、あのお二人を見て嗤ったのですか?」

 

語気はやや穏やかになったものの、その顔つきは厳しいままだった。

 

彼女は先程、パラディンとして授かった《悪の感知(ディテクト・イーヴル)》の能力を、初めて試してみたのだ。

その結果は、あの不審な烏が“悪しき者”だと告げていた。

 

動物の属性が『悪』であることは、通常ありえない。

彼らは普通、『真なる中立』の属性だ。動物には物の善悪や、秩序と混沌の区別を判断する能力などはないからである。

つまり、あの烏はただの動物などではない、ということになる。

 

そして何よりも、パラディンはいついかなる時でも、その力の及ぶ限り悪に立ち向かうものなのだ。

 

(……畜生、セレスティアの搾りカスみてえな雌犬の分際が、偉そうにしやがって……!)

 

ジェベラットは、内心で忌々しげに悪態をついた。

 

だが、彼は感情のままシエスタに襲い掛かるほど愚かではない。

思いもかけぬ邪魔者への憎悪と苛立ちとを募らせる一方で、この状況でどう行動すべきかを、冷静に考えてもいた。

 

目の前の、おそらくはパラディンであろう女の強さのほどはわからない。

しかし、正面から戦って勝てるかといわれれば、正直なところあまり自信はなかった。

忌々しいことだが、自分の力は戦闘能力という面では大したものではないのだ。

 

ましてやここで正体を明かして戦えば、近くにいるコボルドや人形娘も、おそらくは介入してくるだろう。

それでは到底、勝ち目はなくなるし、彼らを利用する計画も台無しだ。

 

ゆえにジェベラットは、直ちに撤退することを決断した。

 

ここで死んで、地獄に送り返されてはたまらない。せっかくの美味しい狩場を、こんなことで手放せるものか。

このような馬鹿げた、ささやかな偶然ごときで、自分が躓くわけにはいかないのだ。

 

絶対に生き延びて、こいつらの情報を自分の手柄に変えてやろう。

なあに、逃げるだけならどうとでもなるだろう。

相手はたかが、脆弱なアアシマールのパラディン一人だ……。

 

「どうしたんですか、答えてください。

 それとも、話せないのですか。それなら……、」

 

ジェベラットはシエスタの言葉など無視してじっと精神を集中させ、自分の内に備わった魔法的な力を呼び起こす。

 

次の瞬間には、彼の姿はふっと掻き消えて、目には見えなくなった。

 

「……あっ!? ま、待ちなさい!」

 

シエスタは慌ててナイフを構え直すと、見えない相手が先程までいた枝のあたりへ投げつけた。

 

しかし、刃物は虚しく空を切る。

彼女がナイフを投げた時には、ジェベラットはとうに枝を蹴って飛び立っていたのだ。

 

「っ、……どこに!?」

 

シエスタは懸命に顔を上げて空を見回したが、まるで何も見えはしない。

そんな彼女を嘲笑うかのように、カアカアという烏のしゃがれた鳴き声が、上空から響いた。

 

もしここにクロスボウがあれば、シエスタは無駄を承知で、矢弾が尽きるまで盲滅法、空中へ向けて撃っていただろう。

だが彼女は、パラディンだとはいえ、普段はあくまでも学院のメイドでしかないのである。

そんな物騒なものを、日常的に持ち歩いたりはしていなかった。

 

(くっ……!)

 

何もできない己が身の無力さに、シエスタは歯噛みをした。

だがこのまま、不審かつ邪悪な存在をみすみす学院から逃すわけにはいかない。

 

やむなく決闘中の2人に協力を求めようと振り向く。

しかし、その時には既に、2人はシエスタの言葉を待つまでもなく、それぞれの行動を起こしていた……。

 

 

 

タバサは木の陰で密かに『ライトニング・クラウド』の呪文の詠唱を終えると、ディーキンの様子をもう一度確認した。

彼は相変わらず、烏に話し掛けるという奇行を続けているシエスタの方に注意を向けたままだ。

 

「……っ、」

 

タバサはその端正な顔を、僅かながら悔しげに歪めた。

 

私との勝負の最中だと言うのに、そんなにもそのメイドの様子が気になるのか。

私などは取るに足らない、問題にもならない相手だとでもいうのか。

 

彼女は内に激しい感情を秘めながらも、慎重に息を潜めて、じっとディーキンの動向を窺った。

 

ディーキンはシエスタが烏に向けて悪意云々と言ったあたりで、困惑したように首を傾げる。

そして、荷物袋に盾を持っていない方の手を入れて、何かを取り出そうとした。

 

(今……!)

 

タバサはディーキンの両手が完全に塞がった、その瞬間を見逃さなかった。

すかさず攻撃しようと、木の陰から飛び出す。

 

「……ン」

 

ディーキンは非視覚的感知の能力によって、タバサが木の陰から顔を出した瞬間には彼女の所在に気が付いていた。

 

しかしちょっと小首を傾げただけで、タバサの方に注意を向けることはなく。

そのまま荷物袋をいじりながら、シエスタの方を観察し続けていた。

 

別に、ディーキンはタバサを侮ったり軽んじたりしているからそんな態度を取ったわけではない。

むしろ、彼女を信頼しているからこそだといえる。

 

タバサとの一件はあくまでも試合だが、シエスタの方はもしかしたら、もっと重大な事態かも知れないのだ。

と、なれば、当然そちらの方が優先されるべきだろう。

 

こんなアクシデントが起きたのだし、きっと察しのいいタバサなら、暗黙の了解で戦いは一時中断にしてくれるはずだ……。

ディーキンは、そのように考えていたのである。

 

だが実際には、タバサは今、目の前の戦いのことしか頭になかった。

今の彼女にとっては、シエスタや烏のことなどは二の次三の次であり、ほとんど眼中にない。

 

タバサは躊躇せずに杖をディーキンの方に差し向け、あらかじめ唱えておいた『ライトニング・クラウド』の呪文を解き放った。

 

途端にタバサの頭上の空気が急速に冷えはじめ、ちくちくと彼女の肌を刺す。

空気が震え、大きく弾けると同時に、タバサの周辺から発生した稲妻がディーキンに向けて走った。

 

「……えっ?」

 

空気中に作られた小規模な雷雲に導かれた電撃は、直前にやや驚いたような顔で振り向いたディーキンの体を直撃し、全身へ通電した。

彼の全身を覆うウロコの間に、バチバチと激しく火花が散る。

 

「オオォ……、ッ!?」

 

ディーキンは全身に走る不快な刺激に、顔をしかめる。

 

しかし、ダメージ自体は大したものではなかった。

一般人ならばほぼ確実に死ぬだろうが、ディーキンにはこれよりももっと強烈な電気を喰らった経験はいくらでもある。

 

だがそれは、タバサも事前にある程度は予想していたことだ。

 

彼女はディーキンが倒れないのを見ても動じることなく、速やかに次の呪文を唱え始める。

予定通り、『ジャベリン』を近距離から足へ放ってやるつもりだった。

体が痺れて上手く動かない間に、自分の足よりも太い氷槍を間近から受ければ、流石に彼とて……。

 

「……!?」

 

そう考えていたタバサは、しかし、次の瞬間、彼女の想定をも超える、信じがたい反応を目の当たりにした。

 

ディーキンは全く痺れなど感じさせない動作で、荷物袋の中から小さな弓と矢を取り出したのである。

しかもあろうことか、それをタバサに向けて構えるでもなく、彼女を無視するかのように、またシエスタの方に視線を戻した。

 

おまけに、弓を構える邪魔になるからか、それまでタバサからの攻撃を防ぐのに使っていた大盾を外し始めた。

タバサが今、目と鼻の先にいるというのに。

 

(……そこまで……!!)

 

そこまで、それほどまでに自分を馬鹿にするのか。

許せない、絶対に。

 

心が猛り狂う冷たい氷嵐で満ち、感情の高ぶりが、タバサの魔力をより高めていく。

タバサは、一層目を鋭く、冷たくすると、内心の激情を押し隠して淡々と詠唱を続けた。

 

「……ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ ハガラース……」

 

彼女は詠唱に合わせて杖を回転させ、それに伴って身体の周りを大蛇のごとく巨大な氷の槍が回り始める。

槍は回転するうちに膨らみ、どんどんと太く、鋭く、冷たい青の輝きを増していく……。

 

その時、ディーキンがやや首をかしげると、突然ひょいとタバサの方を振り向いた。

 

「ねえ、タバサ。悪いけど、ちょっとだけ戦いの続きは待ってほしいの。

 今はシエスタの方が、何だか気になるからね」

 

ディーキンは、タバサに向かってふるふると首を振ってそう頼むと、ひとつお辞儀をして、またシエスタの方に目を向け直した。

目の前で剣呑な氷の槍が回転している最中だというのに、まったくいつも通りの様子だった。

 

タバサは、その時間近でディーキンの瞳を見つめ……。

そこに宿る感情の正体を悟ると、愕然とした。

 

今まさに、並みの人間なら命を奪われかねないような呪文で不意討ちを受けた直後だと言うのに。

目の前で、それにもまして強力な攻撃を仕掛けられようとしているのに。

 

そこには敵意も憎悪も、侮蔑も警戒もなかったのである。

ディーキンの瞳の奥にあるのは、ただ、いつもとまったく変わらない信愛の感情だけだった。

 

タバサは、今度こそはっきりと悟った。

 

彼がまるで無警戒に盾をしまい込んだのも、こちらに背を向けたのも、自分を侮っているからなどでは決してなかったのだ。

彼はただ、自分を、心から友人として信頼してくれているのだ。

先の不意打ちも、彼はただ、態度で休戦の意志を示したつもりが意思疎通に不具合があったのだ、程度にしか思っていないのだろう。

こちらが彼の意志を無視して攻撃したなどとは、少しも疑ってさえいない……。

 

(……私、は……)

 

タバサは、完成した『ジャベリン』を杖の先に纏わりつかせたまま、呆然として立ちすくんだ。

怒りも憎しみも一瞬で吹き飛び、どうしたらいいか、自分がどうしたいのか、わからなくなってしまったのだった。

 

“だから、なんだ?

 彼が自分のことを信頼しているから、それがなんだというのだ?”

 

戦いは非情、油断する方が悪いのだと、自分はこれまでの戦いで嫌というほど学んだではないか。

何を躊躇う必要があろうか。

この甘い、おめでたい亜人にも、自分が否応なく味わわされてきた現実の厳しさを叩き込んでやればいいのだ。

あの一点の曇りもない脳天気な笑顔を、今度こそ崩してやりたい……。

 

タバサの心の一部には、確かにそう唆す昏い感情があった。

 

しかし、タバサにはその声に従って杖を振り下ろすことが、どうしてもできなかった。

彼女の脳裏を、今は亡き、愛する父の面影がよぎる。

 

(……父さま……)

 

タバサの父であり現ガリア国王ジョゼフの弟であったオルレアン大公シャルルは、信頼していた兄に裏切られて殺された。

 

(父さまは、伯父を心から信頼していた……)

 

なのに、伯父は恥知らずにもその信頼を裏切って、父を暗殺した。

才能あふれる弟への嫉妬と、王座への欲望がその動機だった。少なくとも、タバサはそう信じている。

 

……では。今自分が、ディーキンに対してしようと思ったことは何だ?

 

自分は、彼に身勝手な妬みや僻み、歪んだ執着を抱くあまり、彼からの信頼を無視して背後から攻撃したいと考えたではないか。

しかも、死んでも構わないというほど、本気で攻撃しようとしたではないか。

足を狙おうという考えさえ、最後の瞬間には吹き飛んでしまっていた。

そのままいけば、心臓や首筋を狙っていたかもしれない。

 

聡明なタバサには、その事がはっきりと認識できた。

そして、それを自分の中で適当に誤魔化して済ませてしまうことができないほどには、彼女は高潔だった。

杖を握る手が、微かに震える。

 

今、自分のしようとしたことは、あの恥知らずな伯父が父に対してしたことと、一体どれほど違うというのか……。

 

(……自分も、父さまや母さまの仇である、あの伯父や従姉妹と同じ。

 私にも、あの恥知らずな、ケダモノの血が流れている……)

 

これまでずっと目をつぶってきた、否定しようとしてきたその事実を、タバサは今、痛感せずにはいられなかった。

 

タバサは自分の中のその黒い心そのものに対して、今はっきりと向き合った。

そのことは、命懸けの任務の最中にあっても久しく感じたことのなかったある種の恐怖にも似た感情を、彼女に覚えさせた。

今のタバサにとっては、これまでの任務で出会ってきたどんな怪物よりも、自分自身が恐ろしかった。

 

 

 

一方、シエスタの方に視線を向け続けていたディーキンは、そのようなタバサの内心の葛藤に気が付くことはなかった。

しばし眺めているうちに、烏の方にはっきりとした変化が見え、ディーキンは目を見開く。

 

じっと枝にとまっていた烏の姿が、急激に透き通り始めたのである。

 

(オオ……!?)

 

ディーキンには、その烏が《不可視化(インヴィジビリティ)》の疑似呪文能力を使ったのだということがわかった。

しかし、ディーキンにはその烏の姿が、半透明に浮かび上がって見えていた。

これは永続化してある、《不可視視認(シー・インヴィジビリティ)》の効力である。

 

烏はそのまま枝から飛び立ったが、シエスタに自分の姿が見えていないのに安心したのか、なかなか逃げていこうとしない。

そこらを飛び回りながら、彼女を小馬鹿にしたようにしゃがれ声で鳴きはじめた。

 

さてどうしたものかと、ディーキンは素早く考えをめぐらせる。

 

このような能力を持つ以上、この烏が普通の動物でないのはもはや疑いようもない。

しかも、シエスタは悪の存在だと言っていた。

パラディンがそう言うのだから、間違いないだろう。

 

ならば正体はわからないが、すぐに弓で射殺してしまうべきだろうか?

 

しかし……、パラディンであるシエスタには、自分の手で悪を討ちたいという思いがあるはずだ。

敵の強さにもよるが、自分だけで片付けてしまうのは彼女に申し訳ない気がした。

 

それに、正体がわからない以上は、捕まえて訊問してみる方がいいかもしれない。

 

(ウーン、上手く捕まえられるかな……?)

 

ディーキンはひとまず方針を決めると、弓を片手に持ち直し、空いた手でもう一度荷物を探って、『足止め袋』をひとつ取り出した。

そうしてから、すっかり油断しきって空を悠々と飛んでいる烏の方へ、翼を広げて飛び立つ。

 

 

 

(………はっ?)

 

油断しきっていたうえに、シエスタの方にばかり注意が向いていたジェベラットは、ディーキンの接近に気付くのが遅れた。

もっとも、仮に事前に気が付いていたとしても、ディーキンの方が飛ぶのは早い。

 

(こ、このトカゲ野郎……、俺が見えてやがるのか!?)

 

タバサを軽くあしらうのを見てはいたが、たかがコボルド、物質界の弱小な種族だと、心のどこかで油断していた。

慌てて身を翻そうとしたが、既に手遅れだ。

 

ディーキンの投げた袋がジェベラットに直撃して破れ、内部に詰まっていた粘性の高い錬金術物質が彼の、烏の体を絡め取る。

ジェベラットは必死にもがいたが、空気に触れてたちまち強靭な弾性を帯びたネバネバからは逃れられない。

 

翼の自由を奪われて、彼は地面に落下した。

 

「先生!」

 

そこへ、シエスタが歓声を上げて駆け寄る。

 

「ち、畜生! この、掃き溜めみてえな世界で生まれた、レムレーの素どもがぁ……!

 手前らなんぞ、俺が栄光を掴む役に立たねえならラルヴァにでも食われやがれってんだ!!」

 

ジェベラットは必死に体を起こしながら、もはやこれまでと覚悟して、透明化も変身も解除してシエスタを迎え討とうとした。

同時に、それまでは心中に留めていた口汚い罵りの言葉を、金切り声で早口に喚き散らす。

 

「!?」

 

ディーキンはその姿を確認すると、ぎょっとして目を見開いた。

 

ディーキンよりも一回り以上小さい、まるで血のような暗赤色をした体。

革のような質感の、蝙蝠めいた翼。

毒を滴らせる、蠍のような棘の生えた尻尾。

そしてねじまがった鋭い角の生えたその姿は、小さいが悪魔めいている。

 

いや、正しく悪魔なのだ。

 

地獄帰りのディーキンにとっては、何度となく見た姿。

間違いなく、九層地獄の狡猾なデヴィル、インプの姿であった。

 

だが、一体何故?

どうして、バートルのデヴィルがこの世界に……?

 

「来るなら来てみやがれ、てめえをバートルへ案内してやるぜ、この―――― ゲブァ!?」

 

駆け寄るシエスタを睨み据えて喚き散らすインプのジェベラットは、突如横から飛来した、太い氷槍に胴体を貫かれた。

我に返ったタバサが、状況を把握できないながらもとにかくディーキンを援護しようとして、準備していた氷槍を放ったのだった。

 

「……ア、待っ―――」

 

はっと我に返ったディーキンが、とにかく情報を引き出すために生かして捕えようと制止するが、時すでに遅し。

胴体を貫かれてもがき苦しむ小悪魔は、直後にシエスタの『悪を討つ一撃』によって止めを刺され、故郷の地獄へと還っていった。

 

死体はすぐに煙を上げて溶けはじめ、数分後には泡立つ汚泥の水たまりに変わってしまった。

これでは、屍から残留思念などを読み取ることも不可能だ。

 

その後には、インプが持参していた、タバサに対する出頭命令書だけが残っていた……。

 




シー・インヴィジビリティ
See Invisibility /不可視視認
系統:占術; 3レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(滑石と銀粉)
距離:自身
持続時間:術者レベル毎に10分
 術者は自分の視覚範囲内にあるすべての不可視状態の物体や存在を、エーテル状態のものも含めて、視認することができるようになる。
そうしたクリーチャーは、術者にとっては半透明の姿になって見える。
可視状態のクリーチャー、不可視状態のクリーチャー、エーテル状態のクリーチャーの違いは、簡単に識別することができる。
 この呪文では幻術を見破ったり、物体を透かして見たりすることはできない。
単に隠れていたり、遮蔽物などによって視認困難であったり、その他の理由で見るのが難しいクリーチャーを発見することもできない。
 シー・インヴィジビリティは、パーマネンシイ呪文によって永続化できる。
 なお、これはバードにとっては3レベルだが、ウィザードやソーサラーにとっては2レベルの呪文である。

足止め袋:
 ネバネバした粘性の高い錬金術物質が詰まった袋。
この物質は空気に触れるとたちまち強靭な弾性のある物質に変わるので、敵に投げつければ移動を封じ、身動きを妨げることができる。
D&Dの錬金術アイテムは基本的に魔法のアイテムよりも効力が弱いが、その中では比較的よく使われる品である。

デヴィル(悪魔):
 デヴィルは『秩序にして悪』の属性を持つ来訪者の代表格とされる、九層地獄バートル出身のフィーンドである。
彼らは生前に『秩序にして悪』の行為を成して地獄に堕ちた魂から造られ、功績に応じて昇進していく。
デヴィルの社会は厳格な階級社会であり、弱者は虐げられ、個性などというものは無慈悲に踏みにじられ、上位者への反抗は許されない。
 バートルにはその名の通り九つの階層があり、各階層にはそれを統治するアークデヴィル(大悪魔)がいる。
地獄の究極の支配者は、第九階層ネッソスのアークデヴィル・アスモデウスであり、神々ですらも彼の力を怖れているといわれる。
 なお、かつてディーキンたちが戦ったメフィストフェレスは、第八階層カニアのアークデヴィルである。

インプ:
 インプはごく下級のデヴィルであり、体が小さく脆弱だが、狡猾である。
しばしば地獄に魂を売り渡した、もしくはいずれ売り渡すであろう定命の存在に相談役や密偵として仕えるべく、地獄から派遣される。
 彼らは1つないしは2つの動物の姿を取ることができ、人間ほどもある大蜘蛛や、大烏、鼠、猪などがその典型例である。
また、精神を集中するだけで自由に透明化したり、善の存在や魔力を発するものを感知したりすることができる。
人間などの耳にいかがわしい示唆を吹き込み、よからぬ方向へ行動を誘導するという能力もある。
さらには週に一回程度だが、地獄の偉大な存在にいくつかの質問をして、助言を求めることができる力も持っている。
 その他にも様々な能力を持ってはいるが、肉体的には非常に脆弱なため、戦力としては大したことはない。
とはいえ、そこらの一般人やごく平凡な傭兵程度ならば、戦う気になれば返り討ちにすることができるくらいの力はある。

悪を討つ一撃(Smite Evil):
 パラディンは1日1回、邪悪な存在に対してより命中精度と威力を高めた近接攻撃を行うことができる。
パラディンのクラスレベルが上がっていくにしたがって、1日に悪を討つ一撃を使用できる回数と威力は向上していく。


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第五十三話 Understudy

 

「……せ、先生。こ、この生き物は一体、なんなのでしょうか……?」

 

シエスタは、自分が斬り捨てた小悪魔が悪臭を放ちながら泡立つ汚泥に変わっていくのを見て、口元を押さえた。

 

やや顔が青ざめているのは、邪悪な生き物とはいえ、初めて知的な生命体を自らの手で斬り殺したというショックからなのだろう。

先程はパラディンとしての正義感とセレスチャルの血に突き動かされていたのだろうが、彼女とてうら若い少女。

一時の興奮が収まれば、自分の行いの結果を見ていささか動揺するのも致し方あるまい。

 

「インプっていう種類の悪魔だよ。名前まではわからないけどね」

 

ディーキンは短くそう答えると、インプの唯一の所持品であったらしい、地面に残されていた書簡を拾い上げた。

この悪魔の出自についてなにか手掛かりがあるかも知れないと、広げて読んでみる。

 

ところが、そこにはハルケギニアの言葉で短く、『出頭せよ』と書かれていただけであった。

 

それ以外にはなにも……、差出人の名も、宛先さえも書かれていない。

魔法が掛かっていて文章を隠しているとか、炙り出しとか、そんな仕掛けもなさそうだった。

 

これを運んでいたインプは、少なくとも人間と同程度には知恵のある、狡猾なデヴィルだ。

おそらくは自分の上にいる誰かに運搬を命じられ、直接その相手の元へ届ける予定だったので、宛先などは不要だったのだろう。

あるいは、万が一書簡が誰かの手に渡った時のための用心で、わざと最小限の情報しか書かなかったのかもしれない。

 

ディーキンは手紙を見て困ったように顔をしかめ、首を傾げる。

 

「ウーン……?」

 

それでもなにか手掛かりはないか、推理できることはないかと、一生懸命に頭をひねった。

虫眼鏡まで取り出して、手紙のあちこちを穴が開くほど熱心に調べ回す。

 

インプがこの学院内にいたということは、おそらく差出人ないしは受取人は、学院内の人物ということだ。

つまり、ここには悪魔となんらかの関わりがある人物がいるのだということになる。

 

それは決して放置しておくことのできない、重大な問題だ。

地獄で数多くのデヴィルと戦ってきたディーキンには、その事がよく分かっていた。

 

とはいえ、この手紙をいくら調べてみても、考えてみても、やはり何もわかりそうにはなかった。

なにがしかの呪文を上手く使えば、突き止められるかもしれないが……。

 

「ン~……、ねえ、シエスタ。

 この手紙を見て、何かわかることはないかな?」

 

ディーキンはとりあえず、何か他の手を考える前に、シエスタにも手紙を見せてみた。

この世界へ来てからまだ日が浅い自分にはわからないことでも、彼女なら気が付くかもしれないと思ったのだ。

 

「え? はい、ええと……、」

 

シエスタは手紙を受け取り、ひっくり返して眺めたり、手触りを確かめたりと、丁寧に調べてみた。

 

「……そうですね、字は綺麗で学がある感じですから、差し出し人は貴族の方ではないでしょうか。

 紙はすごく上質みたいですけど、この辺で使われているのとは、ちょっと違う感じです。

 もしかしたら、外国からの手紙なのかも……」

 

貴族の学院で働いてきた経験などを活かして、自分なりに推理したことを伝える。

 

「ふうん? 外国の、貴族の人……、」

 

ディーキンはそれを聞いて、タバサにも尋ねてみようと思いついた。

彼女は博識だし、確か外国からの留学生だったはずだ。

 

「ねえ、タバサ――――」

 

早速彼女の方を振り向いたディーキンは、しかしその姿を見て、困惑したように途中で言葉を止めた。

 

いつもは無表情なタバサの顔が、僅かに、しかしはっきりと、苦しげに歪んでいた。

顔は青く、何かに怯えているようにさえ見える。

 

ディーキンはまるでわけがわからなかったが、とにかくタバサの元へ駆け寄ると、心配そうに、その顔を覗き込んだ。

 

「どうしたの、タバサ。なんだか、すごく辛そうだけど……」

 

「……別に、なんでも」

 

タバサはさっとディーキンから顔を逸らすと、短くそう答えた。

 

彼女は先程しようとした許されざる行為のこと、自分が抱いていた不当な感情のことを、洗いざらい彼に告白して詫びたいと思った。

けれど、そんな醜い自分のことを、彼には知られたくないとも思った。

 

それに、ディーキンの顔にはっきりと自分を気遣う思いが表れているのを見るのも、辛かった。

彼に気遣われ、好意を向けられると、余計に自分が惨めになるような思いがした。

 

もちろん、彼が悪いのではない。

 

彼の裏表のない善意に対して、こんな身勝手な苛立ちが湧いてくること自体が、己の賤しさの証明のようなものだ。

何もかも、自分が悪いのだ。自分が弱いのが。賤しい人間なのが。ちっぽけな人間なのが……。

 

タバサは、表情にこそ出さなかったが、泣きたいような気持ちになっていた。

 

自分ではどうしようもない劣等感や、ジェラシーに苛まれるというのは、こんなにも辛いものだったのか。

本で読むのと実際に経験してみるのとでは、大違いだった。

己の感情をはっきり自覚した今となっては、もはや自分を誤魔化すこともかなわない。

 

「……そうなの? それなら、いいんだけど……」

 

ディーキンはそんなタバサの態度に困惑したが、どうやらあまり触れてほしくなさそうな雰囲気だ、とは察した。

さっさと話題を変えることにして、手にした手紙を遠慮がちに差し出す。

 

「もし今、大丈夫なら、この手紙を見てくれる?

 さっきの悪魔が持ってたんだけど、タバサには何か、わかることはないかな?」

 

タバサはすぐに話題が変わった事に安堵したような思いで手紙を受け取ると、開いて目を通した。

 

「…………!」

 

途端に、それまではどこか怯えたような、弱弱しいものだった彼女の目に、諸々の感情がこもった強い光が宿る。

 

下から彼女の顔を覗き込んでいたディーキンは、その様子をはっきりと見た。

驚きと困惑とで、目を見開く。

 

この反応からすると、彼女はこの手紙のことを間違いなく知っている。おそらくは、彼女宛の手紙なのだろう。

だが、それならば彼女は、デヴィルと何か関わりがあるとでもいうのか?

そんなはずはない、とは思うが……。

 

「……ねえ、それはタバサ宛ての手紙なの?」

 

「そう」

 

タバサは短くそう答えると、踵を返して歩き出そうとする。

 

呼出された以上、早急に向かわねばならない。

まだ早朝なので、シルフィードのねぐらまで直接足を運ぶつもりだった。

 

ディーキンはその様子をしばらくじっと見ていたが、やがてとことこと彼女の後を追った。

シエスタも、慌てて後に続く。

 

「ねえタバサ、出かけるの? さっきの勝負の続きはいいの?」

 

「今度」

 

短くそう答える間も足を止めようとせず、2人の方を見ようともせずに、タバサは進んでいく。

先程までとは一変したタバサの態度に、ディーキンは少し考え込む。

 

「……ン~。もしかして、これから何かお仕事に行くの?」

 

その言葉に、タバサの足がぴたりと止まった。

 

「……どうして?」

 

「ええと。タバサは、自分の国でシュヴァリエとかいう騎士の身分をもらってるんでしょ?

 出頭しろって書いてあったから、そのお仕事かなって……」

 

タバサはその返事に内心で小さく安堵すると、再び歩き出した。

 

相変わらず鋭い洞察力だが、自分の素性についてまで知られているわけではなかったようだ。

もちろん話してもいないことが知られようはずもないのだが、彼ならばもしかして、と思ってしまう。

 

「そう、だから出かける。ついてこないで」

 

「ウーン……、なんで?

 ディーキンは、タバサについていきたいんだけど……」

 

ディーキンには、ついていきたい理由がいくらでもあった。

 

タバサはさっきの自分との戦いで、精神力をだいぶ消耗しているはずだ。

その状態で、もしかすれば大きな危険が伴うものであるかもしれない任務に赴こうとしている。

向こうから挑んできた勝負だとはいえ、消耗の原因が自分にもある以上は、手助けをするのが筋というものだろう。

 

むろん、そんな話を抜きにしても、友人なのだから手伝いたい。

詩人として彼女に英雄の素質があると見込んだからには、その活躍も見届けたい。

冒険者としても、新しい冒険にはぜひ参加してみたい。

 

そして何よりも、デヴィルがこの一件に関わっている疑いが濃厚である以上、彼女を一人で行かせるなど絶対にありえない。

 

その一方で、タバサには、来てほしくない理由がいくらでもあった。

 

ただ、それをすべてディーキンに説明することは、彼女にはできなかった。

事情的にも、心情的にも。

 

「……これは、故国から直接頼まれた事だから。

 よその国の無関係な者に、ついてきてもらうのは困る」

 

「ン~、でもディーキンは、よその国の人じゃないし、人間でもないよ?

 なんだったら、ルイズとかには仕事の内容は話さないって、誓ってもいいの」

 

先程からルイズに相談もせずに決闘をした上、今度は別の生徒に同行し、しかもその仕事内容も報告はできない……。

それは、使い魔の身としては、主人に対する背信行為だともいえるだろう。

 

しかしディーキンは、ルイズならば事情を説明すれば必ずわかってくれるはずだと確信していた。

むしろ、危険に向かう友人を助けようともせずに見送るなど、その方が彼女に対して顔向けができないというものだ。

決闘の件に関しては、まだ寝ている彼女を起こすのは気が引けたとはいえ、後で詫びておかねばなるまいが。

 

「危険な仕事。友人は巻き込めない」

 

「だったら、友人ならなおさらついていかなくちゃいけないと思うの。

 ディーキンは役に立てるつもりだし、友だちのためならそんなことは恐れないよ。

 この間も、そうだったでしょ?」

 

タバサはぴたりと足を止めると、軽く俯いた。

ややあって、

 

「……私には、もうそんな資格がない。

 それに、ついてきても、あなたが期待しているようなものは見せられない」

 

「……へっ?」

 

ディーキンは、突然そんなことを言われて、きょとんとする。

 

タバサは、ディーキンの方へ向き直った。

顔を俯けたままで、少し沈み込んだ様子だった。

 

「一緒に来て、あなたが見ることになるのは……、英雄の姿なんかじゃない。

 私は、これまでの任務中に、何度も恥を忍ばされたり、躊躇もせずに相手を殺したりしてきた。

 そんな姿を、人に……、友人に見せたいとは、思わない」

 

タバサとて、年頃の少女なのである。

自分が殺しをする姿や、従姉妹や伯父からの屈辱的な命令に逆らえずに恥辱を耐え忍ぶ姿などを、人に見られたいわけもない。

 

いや、これまでならば、そんなことはもう今更だと思って、大して気にもしなかっただろう。

 

しかし、先ほどディーキンのまるで悪意のない眼に向き合ってから、とうに凍り付いたと思った感情がよみがえってきたのだ。

自分がこれまでの日々に酷く汚れてしまったことを悟って、消え入ってしまいたいほど恥ずかしくなった。

 

もうこれ以上、自分の醜い姿を晒しものにしたくなかった。

特に、ディーキンに対しては……。

 

「だから、ついて来ないで。お願い」

 

先ほどは、無条件に自分を信頼してくれる彼を、自分と同じように汚そうとしてしまった。

今のタバサは、そのことに酷い罪悪感を感じ、これ以上少しでもそんなことをするのは許されない、と感じていたのである。

 

彼には、いつまでも無垢であってほしい。

もう、薄汚れた自分の手で、彼を捕まえようなどとは思うまい。

自分はただ、遠くから見ていることさえできれば、それで……。

 

タバサはそれきり、困惑した様子のディーキンの返事も待たずに踵を返すと、足早に去って行く。

 

「……うーん?」

 

ディーキンはしばらく、困ったように眉根を寄せていた。

が、じきに呆気にとられるシエスタにいくつかの頼みごとをすると、急いでタバサの後を追った。

 

 

「ちょっと待って、タバサ」

 

森の中で叩き起こされてぶつくさ文句を言うシルフィードに、タバサが今まさに乗ろうとしていたところで、ディーキンが追いつく。

 

「……どうして、ついてきたの」

 

タバサはしかし、非難がましい声に反して、それほど困惑してはいなかった。

こうなるかもしれないとはある程度、予想はしていたのである。

 

なんにせよ、彼がどうあってもついてくるつもりなのであれば、もうどうしようもない。

彼には例の、素晴らしい速さで空を駆ける、魔法の馬があるのだから。

 

シルフィードが全力で彼をまこうとしてくれたならあるいは、と言ったところだが……。

 

「きゅい! お兄さま、いいところに来てくださったのね。

 お姉さまはこれから大変なお仕事なの、お兄さまにも手伝ってほしいのね!」

 

……予想通りの反応だった。

先日初めてこの子を任務に連れて行った時も、事情を知るや、友人たちにも話して手伝ってもらうべきだと主張してきたのである。

 

これでは、彼をまくことなどとても不可能だ。

弁舌優れた彼と議論を続けて、説き伏せられるとも思えない。

 

ならば、不可能なことにこれ以上時間や体力や、ただでさえ消耗している精神力を費やしている余裕はあるまい。

 

「……わかった。ついてきて」

 

自分の願いを無視されたことは腹立たしいし、彼に醜いものを見せなくてはならないのは、悲しい。

だがそれでいて、自分が彼の好意を無下にしたにもかかわらず来てくれたことが、確かに嬉しくもあった。

 

「乗って」

 

しかしディーキンはすぐには乗らず、小さく咳払いをすると、懐から巻物を一枚取り出した。

 

「オホン……、その前に。

 ちょっと、やっておかないといけないことがあるんだよ。アア、すぐに済むから……」

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

「まったくもう……」

 

ルイズは、ひどく不機嫌そうにぶつぶつと呟きながら、内心の苛立ちを抑えていた。

彼女は、先程シエスタが扉をノックする音で目が醒め、彼女から今朝起きたことの成り行きを聞いたのだ。

 

ディーキンが、今朝早くにタバサから勝負を挑まれたこと。

その途中で、彼女に故国から仕事の依頼が来たこと(悪魔云々は話が面倒になるので伏せるようにと、ディーキンが指示した)。

タバサは精神力を消耗していたし、命に関わる仕事だからということで、その手伝いに出かけたこと……。

 

「先生は、その、主人であるミス・ヴァリエールには大変申し訳ないと、詫びておられました。

 それで、せめて自分がいない間の代役を、後でよこすからと……」

 

シエスタは、おずおずとそういって、頼まれた言伝を終えた。

それからディーキンの代わりにと、ルイズの着替えなどを手伝い始める。

 

本当を言えば、シエスタもぜひとも2人についていきたかったのである。

悪魔と戦うことは、パラディンとして、天上の血を引く者としての務めであるから。

 

だがディーキンは、彼女に学院に残るようにと言った。

 

学院内に入り込んだ悪魔が、あのインプ一匹だけとは限らない。

それに裏で手を引いている者が、インプが死んだことを悟ったなら、また新手を遣わしてくる可能性もある。

だから、事情を知っていて悪の存在を感知できるシエスタには、自分が不在の間学院に残って注意深く目を光らせていてほしい。

そう、頼んだのである。

 

それ以上に、状況が分からない以上、現時点でのシエスタの実力では危険が大きすぎる、という思いもディーキンにはあった。

万が一ガリアの上層部全体に既に悪魔の手が回っているなどという最悪の事態になっていたら、今すぐに正面切って戦うというのは無謀だ。

そういった場合、パラディンは嘘がつけず、悪を見逃せないので、彼女がいるとむしろ拙いことになってしまうかもしれない。

 

もちろん彼女の前では、それを口には出さなかったが。

 

「……代役って、何よ? 使い魔の代役なんて聞いたこともないわよ?」

 

「さ、さあ……、先生は、私が見ればわかる、と言わ―――」

 

シエスタは話しながらふと窓の外を見て、何者かが空を飛んでこちらに近づいてくるのを見た。

そして、急に呆気にとられたような面持ちになって、固まった。

 

「なによ、シエスタ。急に―――」

 

彼女の見ている方に目をやったルイズは、ぎょっとして目を見開いた。

 

「……よ、翼人!?」

 

「い、いえ、違います。あれは……、」

 

シエスタは、感極まったような様子で、胸元に手をやった。

 

「あれは……、あれは、天使様、ですわ。

 間違いありません……!」

 

窓の外から近づいてきたのは、ディーキンが今し方タバサに待ってもらって再召喚した、アストラル・デーヴァのラヴォエラであった。

 

自分の留守の間の代役として、また学院側に万一の事態が起きた時のための、備えとして。

彼女に頼み込んで、もう一仕事、してもらうことにしたのである。

 

本来なら、想定される相手は悪魔であるのだから、天使である彼女の方にこそタバサに同行してもらればいいのかもしれないが……。

純粋なる善の存在であり、かつ世俗での経験の浅いラヴォエラでは、シエスタ以上に拙い事態を招きかねないことをディーキンは危惧した。

下手をすれば、彼我の戦力差も考えずに、悪魔の本拠地に向かって猪突猛進でもしていきかねない。

 

もちろん彼女の前では、それを口には出さなかったが。

 

それに、同行できないことで不満を抱いているであろうシエスタも、憧れの天使としばらく一緒に居られるとなれば、喜んでくれるだろう。

ルイズやキュルケらにも後でラヴォエラのことを紹介する予定だったし、しばらくゆっくりしていってもらうのは丁度いい。

 

ついでにいえば、自分がタバサに同行しないことには、彼女の英雄譚を見届けることができない。

タバサ自身が何と言おうと、彼女には偉大な英雄の素質があることを、ディーキンは疑ってはいなかった。

せっかくの彼女の活躍がまた見られるかもしれない機会を、逃したくはない。

 

そういった諸々の理由から、ディーキンはラヴォエラを学院に残して、あえて自分がタバサの方についていくことにしたのであった。

 



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第五十四話 Story of poet

「……はぁ、天使って、本当にいたのねえ。

 この前もシエスタが天使の血を引いているとかディー君から聞いたけど、正直言って眉唾だと思ってたわ」

 

騒ぎを聞きつけてルイズの部屋に押し掛けたキュルケは、簡単に事のあらましを説明してもらうと、そう言って感嘆の溜息を吐いた。

ルイズも珍しく、キュルケの来訪に嫌そうな顔をするでもなく、同意の頷きを返す。

 

この前は2人とも、シエスタは実は天使などという御伽噺の中の存在ではなく、亜人の血でも引いているのではないかと疑っていた。

だが、ラヴォエラを目の前で見てみると、確かにこれは翼人などではなく天使だと信じざるを得なかった。

 

別に、2人が実際に翼人を見たことがあるというわけではない。

それでも、ラヴォエラが単なる亜人とは明らかに異なる存在であることくらいは分かった。

 

まず、身長が明らかに違う。

翼人は人間とほぼ同程度の背丈だが、ラヴォエラは2メイルを優に超すほどの長身だった。

 

しかも彼女は、自分の美貌や肉体に絶対の自信を持つキュルケでさえ認めざるを得ないほど、美しい顔立ちとしなやかな肉体を持っている。

エルフも美男美女揃いとは聞くが、彼女からは何か、ただ美しいというのとは違う、この世ならざる高貴さのようなものが感じられるのだ。

 

そして何よりも、ラヴォエラの体はその内なる力によって清浄な光を放ち、仄かに輝いていた。

そんな亜人がいるとは思えない。

 

「そうなの? じゃあ、私と同じね。

 私も初めて物質界に来るまでは、あなたたちみたいな地上の人間のことは、お伽噺の中の遠い存在みたいに感じていたのよ。

 天上のランタン・アルコンや英霊の人たちが、元は地上の別の生き物だったなんて、すごく不思議だったわ。

 私も、遠い昔には地上の人間の魂だったことがあるのかしら……」

 

ラヴォエラはシエスタが用意してくれた茶菓子などをつまみながらそう言って、楽しげに目を輝かせると朗らかに笑った。

彼女はまだ経験の浅い若いデーヴァであり、目新しい地上の世界やそこに住む人々に、とても惹かれているのだ。

 

ルイズらは最初、相手が天使ということでどう対応していいものか分からず、いささか緊張気味だった。

しかし、人間とさほど変わらずごく親しみやすい彼女の雰囲気や態度を見て、程なく打ち解けたようだ。

 

シエスタも、最初は非常に恭しい態度だったのだが、ラヴォエラが困惑しているのを見て、普通の貴族に対するのと同程度の対応に改めた。

以前にディーキンから、天使は崇拝されることを求めないものだ、と聞いたのを思い出したのであろう。

 

「あの……、ええと。アルコンとか英霊っていうのも、すごく気になるけど……。

 あ、あなたは、ディーキンとは、その……、どういう関係なの?」

 

ルイズはしばらくもじもじと躊躇った後、そう切り出した。

 

そりゃあ、自分の使い魔がいきなり代役とかいって天使を連れてきたりしたら、気になって当然だろう。

自分の使い魔は、天使などという存在と、一体どういった関係にあるのか。

 

ラヴォエラは、ちょっと決まりが悪そうに自分の翼を弄りながら、その質問に答える。

 

「ええ、彼は……、私の恩人の一人よ。

 以前、初めての地上での任務に……、その、失敗して。

 悪者に捕まってしまったところを、彼と、彼の仲間たちが助けてくれたの」

 

「へえ……。天使でも、失敗したりやられちゃったりすることってあるのね」

 

キュルケが悪気なくそう言うと、ラヴォエラは若干拗ねたように頬を膨らませた。

 

「わかってるわよ、あの時の私って本当に未熟で、惨めな失敗者だったわ。

 けど……、自分のメイスもこうしてちゃんと取り返したし、翼だってもう元通りに治ったんだし。

 ディーキンたちと一緒に、あの後すごくたくさんの悪をやっつけて……、そこは立派にやったつもりなんだから!」

 

その反応に、キュルケは肩を竦めて苦笑する。

 

「ごめんなさい、別にあなたを責めようとか、そんなつもりはないのよ。

 ただ、私は天使って、もっとこう……、なんていうか。人間っぽくない感じかなって、思ってたもんだから」

 

そこで、シエスタが口を挟んだ。

 

「あの、天使の方が捕まってしまうような相手って、何者なのですか?

 先生は、そんな相手とも戦われたんですか?」

 

その質問に、ルイズとキュルケも興味を惹かれたようにラヴォエラの方を見つめた。

 

彼女が実際にどれほど強いのかは知らないが、天使だというからには相当の実力者ではあるのだろう。

そんな存在が不覚をとる相手とは、一体何者なのか?

そして、それほどの相手に対して立ち向かえるほど、ディーキンや彼の仲間たちは強いのか?

 

「ああ、それは……、えっと、ちょっと待って。

 天上では、見ない相手だから、名前が……。でも今、思い出すから……」

 

ラヴォエラは頭に手を当てて、しばらく記憶を探る。

 

「……そう、思い出したわ!

 ヴィクススラという名の、邪悪な竜不死王(ドラコリッチ)に率いられた、吸血鬼(ヴァンパイア)の教団よ」

 

それを聞いたルイズらは、一様にぎょっとしたような顔になった。

ドラコリッチとやらは知らないが、もう片方の名称には彼女らも聞き覚えがある。

 

「き、吸血鬼の……」

 

「教団?」

 

吸血鬼は、ハルケギニアでも広く知られ、恐れられている存在である。

 

単純な力なら、巨体を誇るトロル鬼やオーク鬼のほうが上回るし、先住魔法の使い手としてなら、エルフのほうが勝っている。

だが吸血鬼は、外見上人間と見分けがつかない。

陽の光を浴びれば肌が焼けるが、吸血に用いる牙は普段は引っ込めておくことができる。

しかも人間の血を食料とするために、別に人間と関わる必要性のない巨人やエルフとは違い、頻繁に人を襲う。

それらの特徴から、“最悪の妖魔”とまで呼ばれているのだ。

 

もっとも、当のルイズらにも、またラヴォエラにも、今は知る由もないことではあるが……。

ルイズらの想像しているハルケギニアの吸血鬼と、フェイルーンの同名のそれとは、明らかに別種の存在であった。

 

フェイルーンの吸血鬼は妖魔ではなく、死体が新たな負の生命力を得て甦った、アンデッドと呼ばれる自然ならざる活動体の一種だ。

フェイルーンでは、そもそも妖魔という概念は一般には使われていない。

そしてハルケギニアでは逆に、アンデッドという概念は知られていないのである。

 

ただ、どちらの世界においても吸血鬼は非常に恐れられる、強大な存在であるという点では共通していた。

 

「ええ、そうよ。ああ、情けないけど、私一人で倒すには強すぎる相手だったの……。

 任務と関係のない、そんな連中のところになんか、迷いこまなければよかったんだけど……。

 でも、最後にはみんなに協力してもらって邪悪を滅ぼせたのだから、よかったと言うべきなのかしら?」

 

ラヴォエラが若干きまり悪そうにそう言うのを聞いて、ルイズらは顔を見合わせた。

吸血鬼の教団などというものは聞いた事もないが、天使である彼女がまさか、嘘をついているとも思えない。

 

「そ、その……。教団って、どのくらいの吸血鬼がいたの?」

 

ルイズの問いに、ラヴォエラはまた考え込んだ。

 

「さあ……、数えてはいなかったけど、何十人かはいたと思うわ。

 それに、相手は吸血鬼だけではなかったの。

 あいつらは、捕まえた私から血を抜いて、それをエネルギーに利用して……、骨のゴーレムを、たくさん作りだしていたのよ!

 他にも、従僕や護衛の魔物がたくさんいたわ。それに、ドロウも何人かいたかしら……」

 

「ドロウ?」

 

「ええ。知らないの? 地下に住んでいる、肌の黒いエルフよ。

 ロルスという邪悪な女神を崇めていて、地上に住む親戚のエルフたちとも敵対しているらしいわ」

 

「…………」

 

予想を遥かに超える話を聞かされて、ルイズらはしばし、呆然としていた。

 

何十人の吸血鬼と、たくさんのゴーレムに、その他の怪物。

さらには“最強の妖魔”とされるエルフさえ恐れるという、黒い肌のエルフ。

そして、何者かは知らないがそれらすべてを束ねる、ドラコリッチとかいう化物……。

 

「そ、そんなとんでもない連中を相手に戦えるほど、ディー君の仲間の人たちは強かったの?」

 

キュルケの言葉に、ルイズははっと我に返った。

 

「そ……、そうよ! ディーキンの“ボス”って、剣で戦う戦士なんでしょ?

 そんなので、それだけの連中を相手になんて……」

 

他の仲間のことはあまりよくは知らないが、チームのリーダー役がディーキンの“ボス”だったということは聞いている。

ハルケギニアの常識から言って、剣で戦う戦士などがリーダーを務めるチームが、そんなに強いとは信じがたかった。

 

しかし、ラヴォエラはあっさりとキュルケの問いに頷きを返す。

 

「ええ。ディーキンの仲間はみんな、本当に強かったわ。天上でも、あんなに強い人は少ないでしょうね。

 並み居る邪悪の軍勢をものともせず、相手がゴーレムでもドラゴンでも武器ひとつで正面から戦って、堂々と討ち倒してしまうのよ!」

 

まるで自分のことのように誇らしげに彼らの武勲を語るラヴォエラの笑顔を見て、ルイズらは言葉を失った。

 

もし、本当にそんなことができるとしたら、まるで御伽噺の『イーヴァルディの勇者』ではないか。

あるいは、かつて『烈風』と呼ばれた自分の母親のような、“伝説級”の英雄か。

 

これまではてっきり、ディーキンが憧れから過大評価をしているのだろうとばかり思っていたが……。

 

「それに、なにも彼の仲間たちだけじゃなくて……。

 ディーキンだって、強かったわよ?」

 

ラヴォエラのその言葉にまた3人の少女たちは我に返って、今度はディーキンのことを代わる代わる尋ね出した。

ラヴォエラには隠す理由もなく、ディーキンが話しても信じてもらえまいと思って伏せていた叙事詩的な冒険行の話を、色々と語っていく。

 

どうやら今日は、彼女らが朝食を食べるのは、だいぶ遅れそうだった……。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

ラヴォエラがルイズらを相手に、ディーキンの華々しい武勲を語っていたのと、ちょうど同じ頃。

 

ガリアへと向かうシルフィードの背の上で、ディーキンは何事かをじっと考え込んでいた。

ちなみに、ラヴォエラから返却してもらったエンセリックは、今は他に仲間たちから用意してもらった品物類と一緒に荷物袋の中である。

 

やがて意を決したように顔を上げると、前の方で本を開いているタバサに声を掛けた。

 

「ねえ、タバサ」

 

「……何?」

 

タバサは読んでいた本を閉じると、ディーキンの方に向き直った。

 

彼女にしては、相当に珍しいことだ。

普通なら完全に無視するか、本も姿勢もそのままで返事だけするかだった。

 

先程の決闘の折の一件で落ち込んで、いささかしおらしい態度になっているのだろう。

もちろん、相手がディーキンだから、というのも大きいだろうが。

 

「…………」

 

タバサはちらちらと顔を上げてディーキンの方を見たり、また顔を伏せたりを繰り返しながら、彼の話を待った。

 

今は彼の顔を見るだけでも辛い気持ちになるが、その一方で、彼と話をしたいとも思う。

彼は、先程のことで私に何か、説諭でもするつもりなのだろうか。

それとも、目的地までの慰みにまた何か、物語や歌でも披露してくれるつもりなのだろうか。

あるいは、先程の天使とか、彼女から渡された品物等について、何か解説でも……。

 

「ええと、その……。タバサはさっき、自分は英雄じゃないから、恥ずかしいところは見られたくないって……、言ってたよね?」

 

ディーキンは、何か困ったような様子でもじもじとリュートの弦を弄りながら、ためらいがちに話し始めた。

 

「ディーキンは、決してタバサに嫌な思いをさせたいわけじゃないし、女の子に恥をかかせたいとも思わないの。

 でも……、タバサに今、ついていかないわけにはいかないんだよ」

 

デヴィルが関わっているかもしれぬ以上、タバサを一人で行かせることは、絶対にできなかった。

 

それは、彼女の実力を信じていないからではない。

ただ、誰であろうと悪魔の誘惑に絶対に屈しない人間などはいないし、一人では彼らとは戦えないと知っているだけなのだ。

タバサがもし、デヴィルと戦うことになったなら、自分の力は必ずや役に立つはずだ。

 

とはいえ、タバサの望まぬ同行を強引に認めさせたことは、いささか申し訳ないとは思う。

 

なにか、その埋め合わせをしたかった。

そして、自分なりに一生懸命考えた結論は……。

 

「だから、ディーキンは自分がまず先に、恥ずかしい話をしようかと思うの。

 おチビのディーキンが昔、どんなに情けないことをやっちゃったか、ってことをね」

 

「……あなたの、昔の話……?」

 

「そうなの。ディーキンは昔、ぜんぜんダメな、ちっぽけなただのコボルドだったよ。

 でも、今は英雄の仲間で、ちゃんと冒険者としてやれてるの。

 それを聞いてもらえば、きっとタバサは、自分のことなんかちっとも恥ずかしくないって、そう思えるはずだよ」

 

「…………」

 

内心、そういう問題ではないとは思いながらも、タバサはその話の内容が気になった。

 

「きゅいきゅい! お兄さまの昔のお話? しかも恥ずかしいやつ?

 すごく聞いてみたいのね! 聞かせて聞かせて!!」

 

2人を背に乗せたシルフィードも、話の内容を聞きつけて口を挟んできた。

ディーキンは、決まり悪そうに頬を掻く。

 

「イルクも聞くの? ウウン……、ええと。

 じゃあ、まず、ディーキンがコボルドの洞窟に居て、前の“ご主人様”から最初に呼び出された時の話をするよ……」

 

それからディーキンは、昔の自分のことを語り始めた。

 

コボルドの洞窟で、他の大勢のコボルドたちと一緒に生まれたこと。

仲間たちの気性に馴染めず、臆病で怠け者の落ちこぼれだと思われていたこと。

ある日、部族の主人である白竜のタイモファラールの目に留まって、急に呼び出されたこと。

恐ろしさのあまり、彼が指一本でも動かす度に何度も地面に這い蹲って許しを請い、終いには耳元で怒鳴られて失神したこと。

そして、どうにかまともに彼と話せるようになるや、族長にするために魔法や何かの訓練をさせられたこと……。

 

「ディーキンがちっちゃいとき、よくネザー山脈のオークが、コボルドの洞穴を襲撃してたの。

 それで前のご主人様は、腹を立てて……。オークを追っ払える、偉大なコボルドの魔法使いを育てることにしたんだね」

 

成程、小柄なコボルドがオーク鬼のような相手を追い払うには、魔法を使えなければ無理だろう。

オーク鬼は、訓練を積んだ人間の戦士5人分とも言われる力を持っているのだから。

タバサはそう考えた。

 

実際には、フェイルーンのオークはハルケギニアのオーク鬼とは別の種族である。

 

ハルケギニアのオーク鬼は、身の丈は2メイル、体重は標準の人間の優に5倍はあり、知能が低い野蛮な人食いの亜人である。

対してフェイルーンのオークは、身長、体重共に屈強な人間と大差ない程度で、人間との混血も可能である。

概して野蛮で攻撃的な種族ではあるが、部族単位で父系制の文明社会を築いており、ごく稀に近隣の人間と友好的な関係を結ぶ場合もある。

 

「おチビのディーキンは、あんまりいい生徒じゃなかったよ……。やるべきことには、熱心じゃなかったの。

 でも、読書は好きだったけどね。前のご主人様の本は、みんな読んじゃったよ。

 いろんな場所の、話や絵がのってる本だったの!」

 

ディーキンはその時に読んだ本から、自分が生まれてからずっと過ごしてきた洞窟の外にも、世界があることを知った。

コボルドの仲間が教えてくれる以外の見方で、世界を見ることも知った。そして、コボルドが他の種族からは、どう思われているのかも。

 

そして何よりも、偉大な英雄の物語の数々に、心を惹かれた。

 

「次にオークが襲撃してきたとき、ディーキンは前のご主人様に、魔法を習得してもいないのに戦わされたんだよ。

 でもディーキンは、務めを果たさなかったよ。他のコボルドが殺されてる間、たるの中に隠れてたんだ……」

 

タバサは、それを聞いて内心、とても驚いた。

 

この、何事にも物怖じしない亜人が。異種族である人間ともすぐに親しみ、危険を冒して助けようとする亜人が。

同族が殺されているときに、自分の務めを放り捨てて、逃げ隠れしていたとは。

 

だが、そんなものなのかも知れない。

 

自分も、最初の任務の時は……。

失敗すれば自分ばかりか母までも破滅することになるというのに、怯えて逃げ惑うばかりであった。

追い詰められた時、最後まで戦おうともせずに、諦めて死の安らぎに逃げようとした。

その時に、自分を助けて戦うことを教えてくれた女性、狩人のジルと出会っていなかったら、今の自分はなかったのだ。

 

そう考えると、ディーキンに対して抱いていた劣等感や胸の痛みが、少し和らいだ。

代わりに、幾許かの共感と親しみを覚える。

彼も、自分と同じように苦しんだことがあったのか、と。

 

「後でその事を知った、生き残った仲間は、怒って……。

 ディーキンに、死ねって言ったの」

 

仲間たちが怒ったのも、当然だろうとは思う。

 

あの時自分が隠れたのは、死ぬのが怖かったからだ。それは、否定できない。

大体、魔法も覚えていない自分がただ義務感に駆られて仲間の指揮をとっても、何の役にも立たない。無駄死にだ。

 

だが、それだけが理由でもなかった。

 

自分は、主人の元で初めて本を読んだ。コボルドの世界の外に、もっと大きな世界があることを知った。

その世界を何も知らないまま、暗い洞窟で死ぬのかと思うと、やりきれない気持ちになった。

外の世界には、“本当の英雄”がいることを、せっかく本で知ったのに。自分には、彼らと会う機会もないのか。

そして、自分自身が英雄になる機会も、ないのか。

 

それに、コボルドの神カートゥルマクが説く教え、彼が約束する来世での栄光。

そんなものは、他の種族にとっては何の魅力もないことも知った。

カートゥルマクは、コボルドはひたすら部族のために働き、ドラゴンに奉仕し、他の種族から略奪して生涯を送れという。

 

今、自分たちが戦っているオークとてそうだ。

彼らの神グルームシュの教えの、なんと野蛮で身勝手な事か。

グルームシュは、オークに自分たちの正当な所有物、すなわち世界のおよそありとあらゆるものを、力づくで奪い取れという。

 

自分は、偽りの名誉を掲げる野蛮な自分の種族のために、偽りの名誉を掲げる野蛮な敵の種族と戦い、真実の欠片もなく死んでいくのか。

それが、本当に正しいことだろうか?

 

そんなはずはないと思った。

どうせ死ぬのなら、そんなことのために戦って死ぬよりは、戦わずに殺される方がましだと思った。

だから、後で仲間や主人に殺されるであろうことがわかっていても、戦えなかったのである。

 

それでいて、洞窟の外に逃げ出すほどの勇気もなかった。

とどのつまりは、やはり自分は臆病だったのだろう。

 

「……でもね、前のご主人様は、死ぬなっていってくれたんだ。

 隠れるとは、ディーキンは頭がいいけど勇敢じゃない。ディーキンは、族長には向かないけど、面白いってさ。

 それで、ご主人様はディーキンを魔法使いにするのはやめにして、バードにすることにしたんだよ」

 

まったく、恥ずかしい話だとは思う。

親しい相手にでなければ、とても話せやしない。

 

それでも、これは自分にとっては忘れられない、とても大切な出来事だった。

 

結局、あの時自分の取った行動が、今の自分の人生を決めたのだから。

あの時、諦めて流れに身を任せていれば、自分は戦いで死に、形ばかりの名誉を与えられて、すぐに忘れ去られていただろう。

タイモファラールがその行動を認めてくれていなければ、バードになる事もなかったはずだ。

 

「……。私も、最初は逃げた。

 あなたにばかり話させるのは、不公平」

 

タバサは、一度も誰にも話したことの無かった自分の最初の任務の話を、なぜかディーキンに聞かせたくなっていた。

もちろん、母のことなど、まだ伏せておきたい部分は端折ることになるだろうが。

ディーキンもシルフィードも、興味深そうに耳を傾ける。

 

そういえば朝食を用意していなかったと彼らが気付くのは、まだだいぶ先のことになりそうだった……。

 



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第五十五話 Naughty game

タバサの故郷ガリアは、トリステインの南西に位置しているハルケギニア一の大国だ。

 

王都リュティスは、トリステインとの国境から、おおよそ千リーグほど離れた内陸部に位置している。

人口約三十万人にものぼる、ハルケギニアにおいても最大の都市だ。

そのリュティスの東側の郊外には、ガリア王家の人々が住まう壮麗な宮殿群、ヴェルサルテイルがあった。

タバサはいつも、そのヴェルサルテイルの中の小宮殿、プチ・トロワに赴いて、従姉妹のイザベラ王女から任務の指示を受けている。

 

「……あの人形娘は、まだなのかしらね?」

 

薄桃色の壁の美しいこの小宮殿の中の豪奢な一室で、イザベラは呼びつけたタバサの訪れを、今や遅しと待っていた。

腰の上まで伸びた美しい青色の長髪と碧眼が美しい娘であったが、そんな美点を意地の悪そうな目つきと苛立った態度が台無しにしている。

 

イザベラは、現国王ジョゼフ一世の娘だが、政治の表舞台からは縁遠い。

彼女は名目上タバサが所属する『ガリア北花壇警護騎士団』の騎士団長ということになっており、他の公職には就いていなかった。

 

この騎士団は、ヴェルサルテイル北側の花壇の警護役と銘打たれている。

だが、実際には日の当たらない宮殿の北側には花壇など存在しない。

その実態は、ガリア王家の汚れ仕事を一手に引き受ける名誉とは無縁の闇の騎士団なのである。

 

そのため華やかな表舞台で脚光を浴びる他の花壇騎士団とは違い、表向きには存在すら伏せられていた。

構成員同士の横のつながりもほとんどなく、タバサも自分とイザベラ以外の騎士団のメンバーのことはろくに知らない。

それだけ秘密主義で、謎めいた影の組織なのだ。

 

華やかな表舞台から遠ざけられ、そんな汚れ仕事の処理を行わされていることに、イザベラは至って不満であった。

 

おまけに今回は、また虐めてやろうと楽しみにして呼び出しをかけた従姉妹の到着が、かなり遅れている。

これは連絡役のインプが自分の興味にかまけて任務の伝達を遅らせたのが原因なのだが、そんな事情は彼女の知った事ではなかった。

 

「も、もうそろそろかと……」

 

召使の少女は機嫌を悪くしている主に恐れをなして、ベッドの傍に控えたまま、がたがたと震えていた。

イザベラがちらりとそちらの方に目を向けると、ひっ! と小さな悲鳴を上げそうになったのを、必死に呑みこむ。

 

そんな怯えた哀れな従僕の姿を見て、イザベラは多少溜飲を下げた。

 

イザベラは王族であるにもかかわらず、魔法の才能に乏しい。

彼女自身は、父に似たせいだと思っている。父のジョゼフは、魔法がまったく使えず、『無能王』と陰口を叩かれているのだ。

一方で、死んだ叔父のオルレアン公シャルルや、その娘であるシャルロット(タバサ)は魔法の才に恵まれている。

 

そう言った事情によって、イザベラは昔から強い劣等感、コンプレックスを抱いてきたのだ。

 

私を憎むならそうするがいい。だが、王族である私に、敬意を払わないことは許せぬ。

いいや、心から敬意を抱けぬというのなら、それでもよかろう。私が無能だと思うのならば、好きなように嗤え。

いずれ、必ずや思い知らせてくれる。愚民どもはただ、私を怖れよ。

 

父が国王となり、権力を恣にして以来、イザベラの行動は日を追うごとにますます傲慢でヒステリックになっていった。

そうして魔法を使えぬ平民の従者たちが自分の一挙手一投足に怯え、恐る恐る顔色を窺ってくるときにこそ、彼女は昏い満足感を覚える。

 

イザベラは、今では恐怖と敬意とを、殆ど区別もしていなかった。

 

「ふん……。退屈しのぎに、ゲームでもしようか?」

 

そういって、ベッドに寝そべったまま自分の杖を持ち上げる。

その瞬間の召使の少女の恐怖の表情を存分に堪能してから、軽く振って、テーブルの上のカードの束を引き寄せた。

 

「このカードは、最近つくらせた特注品でね。中には、一枚だけ表が赤い札が混じってるのさ」

 

イザベラはカードの束を広げて少女に見せてやった。

少女は内心ほっと安堵して、これ以上不興を買わないようにと、滑稽なほど必死になってまじまじとカードの束を見つめる。

 

なるほど、白磁のような美しい純白のカードの中に、一枚だけ血のような赤一色の札が混じっていた。

 

「私がこの札を裏返して重ならないように掻き混ぜるから、お前が赤い札の場所を当てるんだ。

 どうだい、平民でもわかる簡単な遊びだろう?」

 

「かしこまりました、それではお相手を……」

 

御辞儀をしてベッドの傍に椅子と机とを運ぼうとした少女を手で制して、イザベラはにやりと唇を歪める。

彼女には、この気弱な少女をそう簡単に恐怖から解放してやる気などなかった。

 

「ノーレートのゲームじゃつまらない。賭けをしようじゃないか」

 

召使はそれを聞いてさっと青ざめ、またがたがたと震えだした。

イザベラは、たまらないといった笑みを浮かべ、ちろりと舌で唇をなぞると、そんな召使の頬を杖の先で嬲る。

 

「そうね……。私が負けたら、金貨を百枚やろう」

 

平民にとっては、何ヵ月分もの給料に匹敵するほどの大金である。

そんな破格の報奨を聞いても、召使の少女は喜ぶどころかますますひどく震えあがって、血の気の失せた顔になっていく。

 

「でも、お前が負けたら……、代わりに、左手の指を四本もらうよ。親指は残しといてやる」

 

それを聞いた少女は、恐怖のあまり白目をむいて卒倒する。

 

ちょうどその時、呼び出しの衛士がイザベラに駆け寄ると、何事か耳打ちした。

つまらなそうに、イザベラは鼻を鳴らす。

 

「ふん、お預けか……。まあいいわ、入らせなさい」

 

衛士は頷いて倒れた少女を運び出し、それと入れ替わりに、タバサが入ってきた。

ディーキンは、同行していない。

 

むろん、彼が公然とタバサに同行して、ガリア国内でも秘密とされている北花壇騎士団の任務の詳細を聞くことなど許されるはずもない。

たとえ彼が外国の貴族の使い魔でなくても、また未知の亜人でなくても、それは無理な相談だった。

 

ディーキンとしても、タバサに同行はしたものの、一緒に宮殿へ向かう気はなかった。

まだこの王宮にデヴィルがはびこっていると決まったわけでもないし、今回いきなり正面から踏み込んで行こうという気はない。

無論、事態が急変すれば話は別だが。

 

それに、たとえ魔法によって変装や透明化をしても、仮にデヴィルが中で目を光らせているのならば正体が露見する恐れは十分にある。

ハルケギニア人にとっては未知の代物である自分の呪文も、デヴィルにとっては使い古された手口に過ぎないのだ。

なにがしかの呪文によって内部の様子を覗き見ることも、同様の理由で非常に危険であった。

 

ゆえにディーキンは、タバサに万が一の時のための非常用のアイテムを1つ2つ渡すと、宮殿の外で一旦彼女と別れた。

仕事は手伝うが、任務の受領には普段通りタバサ一人で行く方がかえって安全だろう、と考えたのだ。

内部の様子に何か不自然が無かったかなど、後で彼女から話を聞くつもりだった。

 

一応、タバサにも事前に任務の手紙を運んでいたのが悪魔の一種であることを伝え、気を付けるようにと注意を促してはおいた。

だが彼女には、事の重大さは今ひとつよく伝わらなかったようだ。

 

異界の悪魔などというのが本当かどうかは知らないが、いずれにせよその悪魔とやらは既に死んだのだし。

伯父にしろ従姉妹にしろ、気紛れで道楽趣味なのだ。どうせまたどこかから、変わった生物を手に入れてきたという程度のことだろう……。

タバサはその程度に考えて、あまり事態を深刻にとらえてはいなかった。

 

ディーキンが学院で召喚して見せた天使、アストラル・デーヴァに対しては、彼女も少なからず驚き、とても気にしていたのだが。

それに比べると、悪魔だと言われても、ちっぽけなインプに対してあまり脅威を感じられないのは無理もあるまい。

悪魔とやらは少し変わった妖魔のようなものだろう、くらいの感覚でしかないのかもしれない。

 

その楽観的な認識は、明らかに彼女の無知からくるものだ。

しかしディーキンは、今はそれを無理に正そうとはしなかった。

 

タバサがあまり身構え過ぎて態度に不自然さが表れれば、かえって不審に思われてしまうかもしれない。

いくら彼女がポーカーフェイスであっても、デヴィルというのは人間の心の中を見通す達人なのである。

ゆえに、彼女が普段通りの平静さを維持できるよう、そのまま行かせた方がよいと判断したのだ。

 

さておき、イザベラはやってきたタバサの様子をじっくりと眺めた。

 

いつもの、何を考えているのかわからない無表情。自分と同じ、青い髪に瞳。

背丈は、自分より頭二つ分は小さかった。だが、その小さな身体が秘めた魔力は、自分よりも数段上……。

 

その事を思って、イザベラは小さく歯噛みをした。

 

その魔力のおかげで、タバサこそが真の“王女の器”だと見なしている侍女や召使たちは少なくない。

魔力が乏しいというただ一事のために、自分の他の能力は軽んじられている。

しかも、あいつは他の従者と違って私を怖れず、媚びもしない。つまり、敬意を表さない。

 

その事が、どうにも腹に据えかねた。

 

何としてでも、あの少しの乱れもない澄ました無表情を歪ませてやりたい。

その余裕を繕った無表情ごとプライドを粉砕して、自分と同じ劣等感と屈辱とを味わわせてやりたい。

そう思って、これまでに何度も困難な任務をあてがってきた。だが、タバサは少しの怯えた様子もなく、淡々と成功させてきた。

 

だが今回の任務は、ただ腕が立つだけではどうにもならぬ類のもので、いささか面白いことになるかもしれぬ。

イザベラはその事を思い出して、にんまりとした笑みを浮かべた。

 

「ずいぶん遅かったわね。まあいいさ、今回の……、」

 

早速任務の説明をしようとして、ふと手元のカードに目を落とす。

そうだ、本命のお愉しみの前に。あの召使を相手に試してみようとしていたあれを使って、こいつを……。

 

「……今回の、任務の前に。

 まずは予行演習として、私とゲームをしようじゃないか?」

 

タバサは、小さく首を傾げた。

そんなことを言われても、自分はまだ任務の内容に目を通してもいないのだ。

 

しかし、イザベラはお構いなしにカードの束を広げて見せると、先程召使の少女にしたのと同じ説明を、タバサにもしてやった。

それから、任務の内容に関しても、かいつまんだ説明をする。

 

リュティスの繁華街のひとつ、ベルクート街にある裏の賭博場で、最近問題が起きているらしい。

そこへ通った貴族の多くが、連日負け続け、大金を巻き上げられている。

にもかかわらず、彼らはまるで腑抜けのように、何かに憑かれたかのように賭場に通い続け、家族の嘆きにも耳を貸さないのだという。

 

「ま、私は別に、ギャンブル狂いの馬鹿どもなんか知ったこっちゃないんだけどね。

 このままじゃあ財産をみんな使い潰されてしまう、助けてくれって訴えが、そいつらの家族から寄せられてるそうだ。

 軍警を使って店を取り潰したっていいんだが、そうなったら恥をかいちまう貴族が何人もいるんでね。

 儲けるからくりをきっちり暴いた上で、不正な行為であれば場合によっては胴元を始末、最低でも捕縛して連れてくることが任務だよ」

 

「…………」

 

タバサは僅かに眉根を寄せて、じっと考え込んだ。

 

なるほど、亜人や怪物の類を相手にするのとはまた勝手が違う、厄介な任務だ。

幸いギャンブルに関してはそれなりに腕に覚えはあるつもりだが、相手は本職の胴元。

果たして、上手くやれるかどうか……。

 

イザベラはそんなタバサの様子を見て、にっと唇の端を持ち上げる。

それから先程のカードの束を机の上に広げて、その脇に金貨の詰まった財布を放った。

 

「……そこで、予行演習ってわけだ。

 その財布の中身は軍資金さ、金貨で百枚ほど入ってる。もうお前のものだよ。

 何も賭けないんじゃ真剣になれないだろうから、私に勝てればさらに軍資金が増える、負ければ減るってことにしよう。

 ひとまずゲーム一回あたり、金貨十枚で。どう、受ける?」

 

タバサは少し考えて、頷いた。

 

イザベラは満足そうに目を細めると、金貨を十枚机の上に積んで早速ゲームに入ろうとする。

しかしそこで、タバサが待ったをかけた。

 

「ゲームの前に、カードと机を調べる。それと、腕まくり」

 

その要求を聞いたイザベラは、苛立った様子を見せるでもなく、鷹揚に頷いた。

 

「慎重だねえ、結構結構。そうでなくちゃね。

 ついでに、お互いに杖も置いておこうじゃないか。妙な真似ができないようにね?」

 

タバサは念入りに札を調べ、何も魔力のない普通のカードであること、目印などもついていないことを確認した。

それから、お互いに杖を置き、袖をまくって、何も仕込んでいないことを確認する。

 

「これでいいかい? じゃあ、いくよ……」

 

イザベラは裏向きに伏せたカードの中の一枚をめくり、それが赤の札であることをタバサに確認させた。

それから札を元に戻し、札同士が重なり合わないように気を付けながら、高速でかき混ぜ始める。

 

タバサはその動きを、じっと目で追った。

 

思いのほかしなやかで素早い指使いだったが、最初から指定されている一枚のカードの行方を見失うほどではない。

これは子供向けのごく簡単なゲームだろうな、と彼女は思った。

なぜ、この意地悪な従姉妹が自分に対してそんな簡単なゲームで勝負を挑んで来たのかは不思議だったが……。

 

やがて、イザベラがカードを混ぜるのを止めて、タバサの方に挑戦的な目を向けた。

 

「……さあ、どれが赤い札だい?」

 

タバサは迷うことなく、一枚のカードを指差した。

 

イザベラはにやりと笑って、そのカードを摘まんでひっくり返す……。

と、その表面は、純白だった。はずれである。

 

「あっはは、残念だったねえ! こんなことじゃあ、今回の任務の成功なんか覚束ないだろうねえ!」

 

イザベラは高らかに嘲笑うと、財布から金貨を十枚抜き取り、タバサの頬を小突き回した。

 

タバサは、僅かに顔をしかめる。

表情にこそその程度の変化しか表さなかったが、内心ではかなり愕然としていた。

 

(……何故?)

 

自分は、確かに赤のカードの行方を目で追えていたはず。なのに何故?

 

すり替え? いや、混ぜている最中のカードの行方は目で追っていたし、ひっくり返す時も不審な動作は無かった。

第一、彼女にプロのギャンブラーやマジシャンのような、<手先の早業>が使えるとはとても思えない。

 

魔法の仕掛けなどが札にないのは事前に確かめたし、杖は持っていない。

なにか隠し持っていたマジックアイテムを使ったとか、そんな不審な動作も、見た限りでは無かった。

 

では、一体……。

 

「どうだい、もう一回やってみるかい?」

 

「……やる」

 

タバサは、ぐっと内心の動揺を押し殺して、そう答えた。

 

こんなことではとても任務に成功できない。どんな仕掛けなのか見当もつかないが、絶対に見破ってみせる。

そんな決意を固めて。彼女は何気に、負けず嫌いなのだ。

 

「今度は、私が混ぜる側」

 

「いいとも。ゆっくり混ぜなよ」

 

タバサはカードを表がえして赤い札の所在を探し、それをイザベラに見せて伏せ直してから、真剣に混ぜ始めた。

イザベラは余裕の態度で、その様子を頬杖などつきながらじっと見守る。

 

やがて、タバサは札のシャッフルを終えて顔を上げると、イザベラの方を窺った。

 

「……どれ?」

 

「そうねえ。どれを選ぶかねえ……」

 

イザベラは余裕ぶって一枚一枚カードを指でトントンと叩いては、どれを選ぶか検討しているような様子を見せた。

カードを叩いた時のこちらの表情で正解を見分けようとしているのかと疑い、タバサはいつも以上にポーカーフェイスに努める。

 

「ま、あんたは正解の札を必死に目で追うなんてせせこましいことをやろうとしてしくじったようだけど。

 私は王族だから、自然と勝っちまうようにできてるのさ。王の強運が付いてるからねえ……」

 

そんなふざけたことを言いながら、ようやく一枚の札を選んで指でつまむ。

 

よし、あの札ははずれだ。タバサは勝利を確信した。

正解の札の場所は、自分でちゃんと覚えている。

 

ところが、表がえされた札は、赤一色の札だった。あたりである。

イザベラはまた高らかに笑って、タバサの方の財布から金貨を十枚抜き取った。

 

(……!? そんなはず……!)

 

タバサは急いで、自分が記憶していた正解のはずの札をめくってみる。

もしこれが正解なら、正解が二枚あったことになる。何かの手段ですり替えを行った証拠だ。

 

ところが、その札は純白だった。

 

タバサは表情こそ変えないままだったが、呆然としてしまった。

一体、なぜ?

わからない。どうして……。

 

タバサはその後もイザベラと何度かに渡って勝負を行ってみたが、すべて負けた。

なにかの種があるのか、それともただ自分が弱いだけなのか。それさえもわからないまま、支度金を何十枚も減らしてしまった。

 

「……ああ、お前が弱いのはよく分かったよ、七号。

 名残惜しいけど、もうここらで終わりだ。任務に取り掛かる前に、支度金を使い潰されちゃたまらないからね。

 もっとも、こんな体たらくじゃあ成功は期待できそうもないけどねえ!」

 

イザベラはそう言い放つと、勝負を打ち切った。

 

「賭博場では、ド・サリヴァン伯爵家の次女、マルグリットと名乗っておきな。

 そうそう。賭場で準備金があまったり金を儲けたりしたら、自分のものにして構わないよ。

 ただし、金が不足してもそれ以上は用意立てないからね。その時は芸でも体でも何でも売って、埋め合わせることだね。

 ……ま、残りそれっぽっちの金でせいぜい頑張りな、賢いエレーヌちゃん!」

 

イザベラは嘲るようにそう言い放ち、最後にあえて、昔使っていた呼び名でタバサに呼びかけた。

タバサは俯いて軽く唇を噛むと、残りわずかな金貨の入った財布を手に取る。

 

先だってはディーキンに手も足も出ず、ひどく無様な醜態を露呈した。

今度は、これまで歯牙にもかけたことのなかった従姉妹にまで負けた。

こんなことで、自分はいつか、母を救えるのだろうか。父の仇を、討てるのだろうか。

 

イザベラは僅かに、しかしはっきりと表情に表れたタバサの屈辱感を存分に愉しむと、改めて彼女に退室を促した……。

 

 

タバサが去った後、イザベラはうきうきと弾むような足取りで、供の者も連れずに、宮殿のとある一室に向かっていた。

とある人物に、事態の報告をするためだった。

 

彼女は来客用の部屋の前で足を止めると、コンコンと扉をノックする。

 

「……誰だ?」

 

「私よ。報告したいことがあるのだけど?」

 

「ああ、イザベラか。……よかろう、入れ」

 

素っ気なく、尊大でさえある物言いだった。

だが、このプチ・トロワの主であるイザベラは、それを咎めもせず、手ずから扉を開けて中に入っていく。

 

部屋の中には、宮殿内の他のどの部屋にもまして、豪奢で退廃的な空間が形成されていた。

 

赤と金の美しいカーテンが壁に掛けられ、優美だが退廃的なデザインの絵画や彫像が、室内のあちこちに飾られている。

机や椅子にはすべて滑らかな黒い布が被せられており、高級そうな、時にはおぞましいような品々が、それらの上に散らばっていた。

年代物のワインが入った細い瓶に、優美な水晶のゴブレット、宝石や金箔で飾られた人型生物の頭蓋骨がいくつか……。

 

部屋の奥の方にある、非常に大きい豪奢に飾り立てられたベッドの上に、部屋の主が横たわって寛いでいた。

 

彼の周囲には、半裸の女性たちが何人か、疲弊しきった様子でぐったりと横たわっている。

ベッドの横には翡翠製の香炉があり、酩酊感を覚えさせる麻薬めいた香を、室内に炊き込めていた。

 

まるで虎のような頭部を持つ、屈強な体躯の男だった。

虎のような毛皮に覆われた体を半ば肌蹴た豪奢な衣装に包み、気だるげに寝そべって、顔だけをイザベラの方に向けていた。

よく見ると、男の掌は異様であった。人間ならば手の甲にあたる場所に手の平があり、指も外側に丸まっているのだ。

 

この亜人めいた奇怪な容貌の男は、実際にはラークシャサと呼ばれる来訪者の一種だった。

 

イザベラは男の不遜な態度に腹を立てた様子もなく、そちらの方に歩み寄っていった。

この男には、恩義がある。自分が求めてやまなかった“力”を与えてくれたのだ。

それは今のところ、大して強いものではなかったが、しかし他人の持たない特別なものだった。

 

イザベラは香の匂いにあてられたものか、少し頬など染めながら、他の女を押しのけて男の横に寄り添うようにすると、自分も寛いだ。

そうしてから、先程のタバサとの会合について、男に話し始める。

 

「さっき、面白いことがあってね……。

 あんたの教えてくれた呪文のお陰で、あの人形娘をへこましてやれたのさ!」

 

男は、イザベラが《奇術(プレスティディジテイション)》を上手く利用してタバサを出し抜いた手柄話を、黙って聞いてやった。

 

イザベラがゲームに使ったあのカードの束は、実は元々全部純白のカードだったのだ。

彼女はカードを伏せたまま、表面を《奇術》の効果で赤く染めたり、元に戻したりして、正解の札を好きなように変更していたのである。

 

男はその長話が終わると、待ちかねたように質問をした。

 

「……それは、よかったな。お前はかしこいぞ。

 だが、ジェベラットはどうしたのだ?」

 

「ん? ……ああ、あのインプとかいうやつかい?

 そういえば、まだ戻ってこないね。大方どこかで道草でも食ってるのか、帰り道で獣かなんかにでも襲われたのかじゃない?」

 

「お前の従姉妹に、殺されたなどということは?」

 

「さあ、そんな様子はなかったけどね……。あんな間抜けな子が、あいつの変装に気付くわけがないさ。

 そんな事よりもさ、他にも傑作だったことが……、」

 

イザベラはその事にはさして関心も無いらしく、すぐにまた自分の手柄と、タバサの滑稽な姿に関する話に戻っていった。

 

(むう……)

 

男は、イザベラの背中などを労うように撫でながらも、頭の中ではインプの事について考えを巡らしていた。

 

インプはデヴィルの中では雑魚だが、そうそう通りすがりの獣などにやられるほど、愚かでも非力でもないはずだ。

イザベラはそんな様子はなかったといっていたが、あのタバサとかいう娘が関与している可能性はある。

自分も同席して、彼女の思考を探っておけばよかっただろうか。まあ、今さら考えたところでどうにもならないが。

 

もしもそうだとすれば、今後はあの娘の動向にはより注意が必要になるだろうが……。

 

(……ふん。明確な事実ではない以上、報告の義務はないか)

 

男は、デヴィルと同様「秩序にして悪」の性質に属する来訪者の一種だが、デヴィルに好意など抱いていなかった。

ラークシャサという種族は、自分たち以外の種族に召使以上の地位が相応しいなどとは、欠片も思っていないのだ。

 

「……そうだな。まあ調査の必要があるほどの大事でもあるまい。

 上には、あのインプは学院への任務の途中、不用意に使い魔か野生の幻獣に近づきすぎて殺されたものと思われる、とでも報告しておけ」

 

あの娘は、上手くすれば不快なデヴィルどもを排除するために役立つかもしれぬ。

この、イザベラという娘と同様に。

そうすれば、自分にとってこの国は、もっと居心地のいいものになるだろう。

 

そう結論した男は、あえてことを大事にせず、握りつぶすことを選択したのだった。

 




ラークシャサ:
 ラークシャサは秩序にして悪の性質に属する来訪者だが、現世に定住する邪悪な侵略者でもある。
まさに悪の体現者だというものもおり、これ以上に悪意ある存在は滅多にいないとされる。
ラークシャサは、自らの血統を誇り、他の種族を蔑み、あらゆる宗教を軽蔑している。
また、大変な贅沢好きである彼らは常に豪華な衣装を身にまとい、贅沢で冒涜的、かつ退廃的な暮らしを送っている。
 ラークシャサの体つきは人間に似ているが、頭部は虎のそれであり、体表も毛皮に覆われている。
人間なら手の甲にあたる場所に手の平があるのが特徴だが、それで手先の器用さが損なわれることはない。
彼らは生来の強力な魔術師でもあり、その屈強そうな半人半獣の姿に反して、近接戦闘は下品であるといって嫌っている。
どんな人型生物の姿にも化けられる上に<変装>と<はったり>の技能に長け、しかも他者の思考を読むことができるという偽りの達人である。
また、呪文に対しても武器に対しても強い耐性があり、聖別された刺突武器によってでなければ、容易に致命傷を負うことはない。
 彼らには黒豹の頭を持ち武器を用いるナズサルーン種、強力な魔術を用い不死者を操るアクチャザール種など、いくつかの亜種族がいる。
 一説によれば、ラークシャサは神々に敵対する不死の悪霊であり、たとえ肉体を滅ぼされても、いつの日か転生して甦るのだという。
地球でも、古代インドにおいては彼ら受肉した悪霊たちが蔓延っていたとされている。



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第五十六話 Little kiss

ガリアの首都リュティスの繁華街のひとつ、東西に延びたベルクート街。

 

そこには、貴族や上級市民たちがやってくる高級店が並んでいた。

仕立て屋、宿屋、宝石店、リストランテ……。

宵闇がすっかり辺りを包んだこの時間、通りは護衛と召使を引き連れた貴婦人や、刺激を求める貴族青年など、様々な人々で賑わっている。

 

そんな中、一風変わったいでたちをした一行がいた。

タバサとディーキンと、そして人間に化けたシルフィードである。

 

「きゅい! お兄さまもお姉さまも、なんだかとってもかわいいのね!」

 

シルフィードがそう言ってはしゃぐ。

 

ディーキンは、例によって《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ))》を使って、愛らしい貴族の少年の姿に変装していた。

 

タバサはといえば、最近ガリアの貴婦人の間で流行っている男装姿に着替えていた。

さすがに、魔法学院の制服姿のままで賭場に行くわけにはいかない。

青い乗馬服に、膝丈のブーツ。そして大きなシルクハットを着込み、大きな杖を背中に背負って、タバサは黙々と歩く。

子供のような身体つきのタバサがそんな格好をしていると、まるで美しい少年のように見えた。

 

この衣装はディーキンが《洋服店の衣装箱(クロウジャーズ・クロゼット)》の呪文を模倣して、彼女の要望に従って用意したものだ。

 

タバサは本当を言えば、あまり何でもかんでもディーキンに頼って、これ以上迷惑をかけたくはなかった。

だが、実家に適当な衣服を取りに行くのには時間がかかる。それに今はまだ、ディーキンをそこに連れて行きたくはない。

かといって、ただでさえ軍資金を減らしてしまっているのに、店で服などを買う余裕はない。

 

だから、恥を忍んでまたディーキンの好意に甘えることにしたのである。

 

「そう? エッヘッヘ……、ディーキンは照れるの。

 イルクも、きれいだと思うよ!」

 

シルフィードは人間の姿に化けて白いお仕着せを着込み、革靴を履き、腰には剣などを下げていた。

 

もちろんこの衣類も、同じようにディーキンが呪文で用意したものだった。

剣も、彼が荷物袋の中からひっぱり出したものだ。

 

彼女はよく貴族の使用人に化けさせられるのだが、今は夜分遅くなので、護衛役も兼ねているという設定で剣を持たされているのだった。

外見は長身でスタイルのよい端正な面立ちの女性なので、黙っていれば凛々しく見える。

 

「きゅい? うれしいのね!

 ほーめらーれたーほーめらーれたー、お兄さまにほーめらーれたー……」

 

シルフィードは嬉しげにきゅいきゅいわめきながら、あたりをぴょこぴょこととびはねた。

外見と挙動とのギャップがひどい。

護衛がそんななので、道行く人々からは気の毒そうな目で見られている。

 

まあ、貴族とはいえ年端もいかぬ子供が2人に、頼りになりそうもない召使兼護衛が1人。

そんな一行が夜の繁華街を歩いているのだから、シルフィードの奇行を抜きにしても、妙な目で見られるのは無理もない。

 

タバサはそんな周囲の視線を気にした様子もなく、通りをすたすたと歩き続けた。

 

彼女の少し後ろの方では、ディーキンがシルフィードに今回の任務内容の簡単な説明などをしながら、ついてきている。

タバサは、どうせあなたには理解できないから、と素っ気なく切り捨てて、ちゃんと教えてやろうともしなかったのだが……。

シルフィードが自分の頭を馬鹿にするなとうるさくわめきだしたので、ディーキンが仲裁して優しく説明をしているという次第だった。

 

「お兄さまはお優しいのね。それに比べて、お姉さまはいじわるなのね。

 本当はお優しいけど、いじわるなのね。シルフィ勉強したのね、そういうのを『つんでれ』っていうのね!」

 

耳聡くそれを聞き咎めたタバサが、杖でぽかぽかとシルフィードの頭を叩いた。

 

「きぃい! お姉さま、痛いのね!

 ほら、そんな風に暴力的になるのもつんでれの証拠だって聞……、きゅい、きゅいい~!」

 

要らんことを言っては、ますますぽかぽかされるシルフィード。

漫才のようなやり取りを続ける主従をきょとんとして眺めつつ、ディーキンは首を傾げた。

 

「……アー、そうなの? ウーン、ディーキンの聞いた話では、ツンデレっていうのは……。

 もっとツリ目な感じで、頭が桃色っぽい感じの人かと思ってたよ」

 

たとえば、ルイズとかルイズとかルイズとか。

あとルイズとか、ついでにルイズとか。

 

まあ、それはさておき。

 

そんな暢気な雑談を楽しみながらも、ディーキンは先程タバサから聞いた話を、頭の中で思い返していた。

宮殿内の様子に以前と変わったところは特になかったと、彼女はそう言っていたが……。

 

ならば、あのインプは自分と同じようにたまたまこの世界に呼び出されただけで、別段背後に陰謀などはなかったのかもしれない。

あるいは、大昔に作られた何かのマジックアイテム等を用いて、偶然呼び出されただけだったとか。

 

そうであれば実に幸いで、それに越したことはない。

もちろん、デヴィルの狡猾さを考えれば、そう簡単に尻尾を出さないようにしている可能性も十分にある。

今後もタバサの周辺には、気を配っておく必要はあるだろう。

 

実際には、プチ・トロワはそこに棲みついたラークシャサ等の存在によって、既に秩序にして悪の穢れを受けつつある。

少なくとも、その直接の影響下にあるイザベラは、以前にも増して横暴で残忍な性質を身に付け出していた。

 

しかし、秩序にして悪とは、いわば圧政と抑圧の属性。

宮殿の主であったイザベラ自身が元からかなり横暴な君主であったために、タバサははっきりした変化を感じなかったのだ。

多少なりと普段以上の不快感を感じることがあったにせよ、彼女はそれをイザベラに後れを取った自分への悔しさのため、と解釈していた。

 

なおタバサは、悔しさと羞恥心から、またそれが重要情報だとは考えなかったことから、博打でイザベラに大負けしたことは話さなかった。

もっとも、話したところで何がどうなったというわけでもないだろう。

話を聞いただけで《奇術(プレスティディジテイション)》を用いたトリックだと断定することなど、ディーキンにも不可能なことだ。

 

そうこうしているうちに、一行は目的の場所に着いた。

 

外観は、宝石店である。禁じられている高レートの賭博を提供しているため、堂々と看板を掲げるわけにはいかないのだ。

ガラスケースに収められた煌びやかな宝石類を見て大はしゃぎするシルフィードをよそに、タバサはさっさと店の奥に進んでいく。

 

最奥にある展示用のブルーダイヤを買いたいと告げ、法外な金額を提示する店員に対して、手付けに銅貨を3枚渡す。

そうしてイザベラから受け取った任務の書簡に書かれていた通りの手順を踏むと、店員は一行を奥の間から地下カジノへと案内してくれた。

 

階段を降りたところにある入り口脇のカウンターで、タバサは受付の執事に要請されて杖を預けた。

カジノ内で熱くなった貴族が揉め事を起こしたり、魔法で不正行為を働いたりするのを防ぐためだ。

 

ディーキンも貴族に化けているので、当然杖を渡すように言われた。

想定していなかったので、ちょっと焦る。

とっさに何かワンドでも取り出して渡そうかと思ったが、そこにタバサが口を挟んだ。

 

「この子は、まだ杖の契約を済ませていない」

 

それを聞くと、執事はあっさりと納得した。

 

メイジは物心つくころにいろいろな杖を握らされて、呪文が上手く唱えられる、相性の良い杖を“契約”を通じて探し出すのだ。

何日もかけて祈りの言葉と共に呪文を唱え続け、自分の体の一部のように思えてきて初めて、呪文が成功するようになる。

 

それはまだ幼く、十分な分別のない年齢の子供がやり遂げるには難しい作業だ。

それに善悪の区別もろくにつかないような幼い子に杖を与えては、どんな問題を起こすかも知れない。

ディーキンはタバサよりもかなり背が低く、小さな子供に見えるので、未契約というのは十分にあり得る話だった。

 

「ああ、それは失礼いたしました。

 では、結構です。当カジノで、ゆっくりとお楽しみください」

 

執事はそう言って笑顔で一礼すると、ドアマンに命じて入り口の大きな扉を開かせた。

同時に、中から眩い光と、人々の喧騒と、酒やパイプ煙草の匂いとが、どっと溢れてくる。

 

眩しさの苦手なディーキンは少し顔をしかめながらも、これから始まる風変りな仕事のことを思って胸を躍らせていた。

 

さあ、自分はギャンブルにはさして詳しくもないが、どうやってタバサの役に立てるだろうか。

まずは店の様子を注意深く観察するか、それとも実際に賭け事をやってみるか、客や従業員の噂話に耳をそばだてるか……。

 

「あら、新顔さんね……。随分小さい子たちですこと」

 

ディーキンの思案をよそに、接客担当らしい、きわどい衣装に身を包んだ女性が、さっそく入り口をくぐった一行に近づいてきた。

 

その女性の流れるような長髪は烏の濡れ羽色で、唇はふっくらとして鮮やかな紅色。

艶やかで健康的なブロンズに輝く肌には、シミひとつない。

引き締まるべきところは引き締まり、出るべきところは出ている、完璧な均整を保ったプロポーションだった。

 

彼女は、同性のタバサでさえ思わず目を奪われ、息を呑むような、妖しい色香に満ち溢れていた。

しかも決して下品な色気ではなく、物腰はまるで王族のように優雅で、少女のような可憐さをも同時に感じさせる。

 

「地下の社交場、人々の終の安息の場……。

 地上に降りたささやかな天国、“魔悦の園”へようこそ―――」

 

女性は艶やかな唇を優雅に持ち上げて微笑みながらそう言うと、熱っぽい目で一行を品定めするように順に見つめていった。

タバサが気にいったのか、ねっとりと絡み付くような視線を彼女に送りながらしなだれかかる。

 

「……あら、女の子ですのね。あんまりかわいいものだから、男の子かと……」

 

そういいながらも、女はタバサの首をかき抱く。

 

「でも。わたくしは、どちらでもよろしくってよ―――」

 

そう言って、接吻を求めるようにふっくらした唇をすぼめると、顔を近づけてきた。

 

「っ……、」

 

タバサはぞくりとした感覚を覚えて、うろたえたように身じろぎをした。

 

キュルケにもよく似たような事をされてはいるのだが、彼女のは冗談半分だし、友愛を込めたものである。

それに対して、何というのか、この女性からは……。感じられる“本気さ”が、まったく違うのだ。

 

しかし、女性の妖しい色香にあてられたのか、拒まねばという意志に反して、体が思うように動いてくれない。

ほとんど抵抗らしい抵抗もできず、真っ赤な唇が近づいてくるのをただ呆然と見つめていた。

 

だが、その時。

 

ディーキンが、その女性の服の裾をぐいぐいと強めに引っ張って注意を引いた。

ぴたりと女性の動きが止まり、少し苛立ったように眉を顰めてディーキンの方を振り返る。

 

「ちょっと、おばさん!

 そんなのだめだよ、お姉ちゃんにキスしていいのはディーだけなの!」

 

腰に手を当てると、むくれたように頬を膨らませてぷんすかして見せる。

 

「絶対にだめ、めっ!」

 

小さな少年の姿に化けているので、実に愛らしい仕草であった。

事態に気付いた幾人かの周囲の客たちも、微笑ましげにその様子を見つめている。

 

もちろん、これはお芝居である。

優しくてかっこいいお姉ちゃんが大好きな幼い弟という設定で演じてみせたわけで、一流のバードにとっては造作もないことだった。

 

タバサははっと我に返ると、そそくさと女性の腕の中から逃れて、ディーキンの後ろへ移動する。

 

腕の中の獲物を取り逃がした女性は、一瞬憎々しげにディーキンを睨んだ。

だが、周囲の客たちの反応から言ってもこの場でこれ以上無理押しはできないと判断したのか、すぐにまたにっこりとした笑顔を取り繕う。

 

「まあ、それは失礼しましたわ。ディー君……で、いいのかしら。

 それではお二方とも、どうぞごゆっくりと愉しんでいってくださいな。

 そうそう、当店では慎重を期すために、お客様のお名前を伺っておりますの。オーナーのギルモアには、私の方から伝えておきますわ」

 

そう言ってタバサらの名前を聞いて紙にひかえると、優雅に一礼して、奥へ下がっていく。

タバサはその女性が完全に立ち去るのを、じっと警戒したまま、目で追って確認した。

 

恐ろしいほどに、蠱惑的な女性だった。

もしや、客たちが皆憑かれたようにここに通うというのは、あの女性のせいなのかとさえ思えた。

 

もっとも、それだけでは客がみな賭博に負け続け、それでも大金をつぎ込み続けるという理由は説明できない。

いくらなんでも、勝ち分をすべてあの女性に貢いでいる、などというわけでもないだろうし……。

 

だが、それを本格的に調査するのは、後で実際に賭博をしてイカサマがないかなどを確認しながらの話だ。

今はその前に、まずするべきことがある。

 

彼女はそう考えてディーキンの方に向き直ると、丁重に頭を下げた。

 

「……ありがとう」

 

ディーキンは軽く首を振って無邪気そうな笑顔を浮かべると、こちらも会釈を返した。

 

「どういたしまして。でも、さっきはタバサが、杖のことでディーキンを助けてくれたからね。

 お互い様なの、そうでしょ?」

 

タバサは微かに笑みを浮かべると、少し頬を染めて、ディーキンの傍に屈み込む。

彼の背中に腕を回してそっと抱き締めると……、軽く、唇の傍に、ついばむような接吻をした。

 

「オオ?」

 

「お礼……」

 

それだけ言うと、さっと立ち上がって彼に背を向けて、急ぎ足に賭博場の方へ向かう。

するべきことは、これで済んだ。

 

いつまでもくっついていたら、自分の心臓の鼓動が早まっているのを、彼に聞かれてしまうかもしれない。

どうしてか、それは嫌だった。

タバサは歩きながら、なぜかひどく火照って緩んだ自分の頬を、手で押さえた。

今、鏡を見たくないと思った。

 

「……お、お兄さま。いつの間にお姉さまと、そんな関係になってたのね!?

 き、キスはお姉さまにしか許さないですって! きゅいきゅい、きゅいい~、大胆なのね~!!」

 

しばらく呆気にとられていたシルフィードが、きゅいきゅいきゅいきゅいと、興奮して大騒ぎを始める。

 

「いや、その……。あれは、お芝居なんだよ」

 

「きゅいい? ……そんなわけないのね、いまさら何恥ずかしがってるのね!

 お姉さまがお兄さまに今、自分からキスをなさったのを見たのね!」

 

「いや、ええと……。それは、たぶん―――」

 

ディーキンはその後、周囲の目を気にしながらシルフィードを納得させるのに、かなりの苦労をさせられた……。

 



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第五十七話 Casino

「きゅいきゅい! お姉さま、すごい!」

 

「うん。タバ―― お姉ちゃんは、なんでも上手だね!」

 

シルフィードとディーキンが、タバサのサイコロ賭博の様子を見て喜んでいた。

3つのサイコロを振って目の大小を当てる単純なゲームなのだが、タバサは今のところ大勝ちしている。

 

タバサは最初、慎重に一枚ずつチップを張って、シューターの癖をじっくりと観察していた。

シルフィードはタバサが負けるたびに毎回大げさに心配していたが、ディーキンは興味深そうに見守り続けた。

 

彼女はやがて、ときおり高額のチップを張るようになった。

そしてそういう時には、毎回必ず勝った。

 

とはいえ、タバサは仲間たちから褒めそやされても無表情なまま、淡々としていた。

 

「……それほどでもない」

 

そういって、謙虚なナイトのような姿勢を崩さない。

実際、先だってはイザベラに大負けしたのを内緒にしているので、彼女としてはあまり褒められるとかえって少し後ろめたかった。

 

大体にして、なんでも上手だというなら当のディーキンのほうがよっぽどそうじゃないかとタバサは思っている。

呪文ひとつで妖精やエルフにも似た驚くような生き物を召喚し、竜に化け、恐ろしく速い馬を作り、立派な衣装まで仕立てられるのだから。

 

彼の、自分自身の能力に対する評価が低すぎるのだ。

そう考えると、タバサはなんだか、ひどく歯痒いような思いがした。

 

(どうしてあなたは、いつも私を尊敬したような目で見てくるの……)

 

私の心を、こんなにも打ちのめしたくせに。

 

私はあなたから、そんな目で見られたいんじゃない。

あなた自身に、もっと自分はすごい人なんだと、わからせてあげたい。

きっと、あなたこそは、私の……。

 

そこまで考えて、タバサははっと我に返った。

 

これではいけない。

今は、勝負に集中しなくては。

 

 

 

一方ディーキンは、彼女の才覚に素直に感嘆していた。

 

自分にはぜんぜんわからなかったが、彼女はきっと、この短時間でなんらかのシューターの癖を見つけたのだろう。

その癖が出て目を読めるときを狙って、大きく張って稼いでいるのだ。

それにしても、貴族である彼女が一体いつ、どうやって、本職のシューターをも出し抜けるような賭博の技術を身につけたのだろうか?

 

(タバサが嫌そうじゃなかったら、今度聞いてみようかな……)

 

そんなことを考えている間にも、タバサはどんどんと勝ちを積もらせてゆく。

 

小負けと大勝ちを繰り返し、いつの間にか当初の軍資金を百倍以上にも増やしていた。

彼女の前には今や数千エキュー分のチップが積み上げられ、周囲には大勢のギャラリーが集まっている。

 

ディーキンはそれをみて少し考えると、そっとその場を離れた。

 

今回の仕事は、この賭場が儲ける仕組みに不正がないかどうかを確かめることだ。

タバサの活躍を見て感心しているだけ、というわけにはいかない。

 

ディーキンは、博打に関しては大して詳しくもない。

見たところ、タバサの方がずっと上手のようだ。

ここでゲーム自体に不正があるかどうかを見抜くのは彼女に任せることにして、自分はそれ以外の面から検討してみるほうがよいだろう。

 

もちろん、博打というのはすべからく胴元が儲かるようにできているもので、それ自体は別に不正ではない。

博打は慈善事業ではないのだ、胴元に金が入らなければ賭場は潰れる。

その通常の範囲を明らかに超える、不当としかいいようのない行為があるかどうかが問題なのである。

 

さておき、普通にゲームを提供していても無難に問題なく儲けられる胴元には、普通はイカサマを試みる必要などないはずだ。

店の側がイカサマを行って荒稼ぎをすれば、じきに負けの込んだ客から不正を疑われ始めるのは避けられない。

それでは、たとえどのようなイカサマかまでは露見しなかったとしても、遠からず客は離れていってしまうことだろう。

無論万が一にも露見してしまったなら、その時点でアウトである。

ゆえに通常、危険を冒してまでイカサマをするほどのメリットがないのだ。

 

イカサマをするのは、大抵は客の側である。

確率的に不利な立場である以上、真正直にゲームをやっていては、長期的には勝ちの目はないからだ。

 

それでもあえて、店の側が不正行為をするとしたら……。

 

店が相当切羽詰った状況に追い込まれていて、とにかく当座の金を大至急掻き集めねばならない場合などだろうか?

しかし、見たところこの店はかなり繁盛しているようで、そんな状況には見えない。

 

あるいは、始めから長期間の経営を考えずに、短期間のうちに稼げるだけ稼いで姿をくらますつもりでいるのだろうか?

それならば、ありえるかもしれない。

 

いや、それ以前に、話によると多くの客が負け続けで不正を疑われるレベルなのにもかかわらず、客は通い続けているのだという。

だとしたら、単にイカサマをしているというだけでは説明が付きにくいが……。

 

まあ何にせよ、推測だけでは埒があかない。

まずは何かしらの手掛かりを探し出してそれを手繰り、実際の証拠を掴むことだろう。

 

「ンー……、」

 

ディーキンはあちこちをゆっくりと歩きながら、人々の様子や場の雰囲気などを、ひそかに観察していった。

 

あちこちの卓に熱くなっている客がいて、舌打ち、文句、罵声、怒号等が、頻繁に飛び交っていた。

カードを床に叩きつけたり、地団太を踏んだり、自棄になって酒を煽ったりする者たち。

床は散乱した破れかけのカードやこぼれた酒で、ところどころ汚れている。

 

時折、ちょっとした諍いが起こって掴み合いの喧嘩をしそうになる客などもいた。

切れ長の目と銀の長髪を持つ、目端の利きそうな美男子の店員が素早く仲裁に入って、引き離す。

 

まあ、こういった博打の場ではよく見られる光景だともいえようが……。

ディーキンは、奇妙な違和感を覚えた。

 

ここは本来ならば、貴族や金持ちの商人などが出入りしている、かなり客層のよい高級カジノのはずだ。

それにしては、なんというか、こう……、雰囲気が、“混沌とし過ぎている”のだ。

これではまるで、ごろつきどもがたむろする、場末の賭場のようだ。

 

さらに注意深く客の様子を窺うと、一部の客の奇妙な動向が目に留まった。

 

大勝ちした一部の客が、悔しげな他の客を尻目に、ふらふらと店の奥へ向かっていくのである。

それらの客の中には、男もいれば女もいた。若い淑女もいれば、初老の紳士もいた。

だが、みな一様に、夢見るようにうっとりとして、上気した顔をしていた。

 

(やっぱり、あの女の人なのかな……?)

 

ディーキンの頭には、最初にこの店に入った時に声を掛けてきた、あの異様に蠱惑的な雰囲気を纏った女性のことが思い浮かんだ。

仮に、あの女性が何らかの方法で、客を虜にして勝ち分を巻き上げているのだとすれば?

 

もちろん、異性ないしは同性を誘惑して金を貢がせること自体は、倫理的な是非はさておいても、不正な行為であるとまではいえない。

しかし、普通ならいくら魅力的な相手であっても、勝ち分を毎回すべて貢いでしまうとは考え難い。

もしも魔法的な手段を用いて人々を虜にしたのだとすれば、それはあきらかに不当な手段での稼ぎといえよう。

 

十分な証拠もなく早々に容疑をかけて取り調べるのは憚られたので、先程は何もしなかった。

だが、こうして調べてみると、やはりあの女性が疑わしいと言わざるを得ない。

 

こうなれば、彼らが向かって行く扉の先、この店の奥の方の部屋に何があるのかを、確認してみなくてはなるまい……。

 

「失礼いたします」

 

ディーキンがそんな風に思案していると、突然声を掛けられた。

 

顔を上げてみると、声の主は先程喧嘩を仲裁していた給仕の男であった。

香水のよい匂いを漂わせ、整った魅力的な顔に愛想笑いを浮かべている。

 

「お客様のお相手がかりを務めさせていただいている、トマと申します。どうぞお見知りおきを。

 何かお飲みになりますか、ディーキンス様?」

 

長い銀髪をかきあげると、切れ長の目が現れた。まるでナイフのような鋭い視線だが、同時に人懐っこい光をも含んでいる。

先程の女性には遥かに及ばないものの、なかなかに魅力的な雰囲気の男であった。

 

なお、ディーキンスというのは、もちろんディーキンが先程カジノ側に伝えた偽名である。

ディーキンでは今ひとつ貴族っぽくないので、ちょっとだけ長めの名前に変えたのだ。

 

ちなみにタバサは、ド・サリヴァン伯爵家の次女、マルグリットと名乗っている。

ディーキンスは、彼女の弟という設定だ。

 

シルフィードはというと、伯爵家の侍女、シルフィと名乗っている。

少しだけ短く縮めたのは、ディーキンとは逆に平民風の名前にするためだ。

 

「オオ、ありがとうなの。

 ウーン、じゃあ、お兄さんのお勧めをもらえる?」

 

「かしこまりました、少々お待ちを……」

 

トマと名乗った給仕は、頭を下げてカウンターの向こうに行くと、ややあってお盆に飲食物を乗せて戻ってきた。

 

温めたミルクに、柔らかめのビスケットが2枚。それと、氷砂糖の欠片がいくつか添えてある。

相手が小さな子どもに見えるので、それに合いそうなものを見繕って来たのであろう。

本当はスパークリング・ワインでも試してみたかったのだが、そんなことを言っては疑われるので、口には出さないでおいた。

 

ディーキンはお礼を言って受け取ると、傍の席に座って行儀よく食べ始める。

トマは、隣の席に腰かけてその様子をじっと見守りながら、小さな声で話しかけてきた。

 

「その、失礼とは存じますが。

 ディーキンス様とご一緒にいらっしゃった、あちらのお嬢様は……」

 

「ン? マルグリットお姉ちゃんのこと?」

 

「ええ。その……、ディーキンス様とは、髪の色などが違っておられるようですね。

 もしや、他所から養子に来られたのですか?」

 

ディーキンは、その質問を聞いてちょっと首を傾げた。

 

こういった類の質問は、人間の間では確か、かなり不躾な部類にはいるものだったような気がする。

おそらくディーキンがほんの小さな子どもなので、非礼を咎められることもあるまいと考えたのだろうが……。

 

だがそれにしても、平民が、それも接客係ともあろう者が、貴族に対してそんな質問をするものだろうか?

 

見れば、目の前のトマという男は申し訳なさそうな、居心地悪そうな様子を見せている。

今の質問がいささか不躾なものだとは、自分でも思っているらしい。

 

ならば、それでもあえて聞かねばならないほど、その質問が大事だということなのだろうか。

もしや今回の任務とも、何か関係が……?

 

(ウーン……)

 

ディーキンは、何と答えてよいものか迷った。

 

しかし、もし仮に任務の内容とも関係のある事であれば、あまり長々と考え込んで不自然に思われるのも拙いかもしれない。

とにかく何か答えようと口を開き掛けた、ちょうどその時。

 

「ええい、これで今日はもう三百エキューも負けた!

 イカサマではないのかッ!?」

 

少し離れたテーブルで、顔を真っ赤にした中年の貴族が、拳を振り上げて騒ぎ始めた。

 

マントの作りから見て、領地を持たない貴族のようだ。

おそらくは下級の官吏かなにかだろうと、ディーキンは最近学んだ知識に照らし合わせて判断した。

 

「お、お客様……。このテーブルは、最低賭け金五エキューからの、高額ルーレットでございます。

 お気の毒ではございますが、運が向かなければそう言うこともあるかと……」

 

担当のシューターがしどろもどろになりながらも、理を説いて宥めようとする。

が、その貴族はなかなか納得しない。

 

「やかましい、わしはこの間も百エキュー近く負けたのだ!

 貴様では話にならん、支配人を呼べッ!」

 

トマは顔をしかめ、ディーキンに向かって頭を下げると、席を立ってそちらの方へ仲裁に向かおうとする。

しかし、奥の扉が開いたのを見て、その足が止まった。

 

そこから出てきたのは、支配人……ではなく。

カジノで最初に出会った、あのひどく蠱惑的な女性であったのだ。

 

「あらあら、お客様。私どもの店に、何か御不満でも?

 支配人は、今とてもお忙しいので……。私が、お話を伺いますわよ」

 

女性は目を細めて、騒ぎを起こした貴族の方へ歩み寄っていく。

 

「何をぬかすか、この平民ふぜ――――」

 

貴族はいきり立って怒鳴り付けようと振り向いたが、彼女の姿を見た途端に呆然として動きを止めた。

女性は、そんな貴族に媚びるような目を向けながら、甘えるようにもたれかかって、耳元で囁く。

 

「まだお話があるのなら、さあ……。

 どうぞ、奥の部屋で、私と御一緒に――」

 

「……あ? あ、あ――――」

 

貴族はまるで腑抜けのようになり、女性に支えられるようにして、一緒にふらふらと奥の間へ向かっていく。

多くの客から妬ましげな視線を浴びているが、そんな事には気付きもしない。

 

「――あら、先程のお嬢様。

 随分と、勝っておられるようですわね……」

 

女性は去り際にタバサに目を止めると、にっこりと妖しげに微笑んだ。

それから、そのテーブルのシューターの耳元で何事か囁いて、彼を奥に去らせる。

 

「申し訳ありませんが、このテーブルはシューターが疲れている様子ですし、もうお開きとさせていただきますわね。

 そろそろ小さな賭け額にも飽きた頃でしょうし、この方の後ででも、私がお相手いたしますわ。

 夜は、まだこれからですものね。そうでしょう……?」

 

また、あのねっとりと絡み付くような目でタバサを見ながら、そう提案する。

 

オーナーの意向を伺いもせず、一介の接客係が勝手にシューターに指示を出し、そんなことを取り決める。

越権行為とも思われる振る舞いだったが、誰も咎め立てをするものはいなかった。

 

「……続ける」

 

タバサは、彼女の顔を魅入られたようにじっと見つめたまま、そう言って頷いた。

 

シルフィードも、傍でぽかんと口を開いている。

どうやら、この女性の魅力は、種族を問わず通じるものであるらしい。

 

(ふうん……)

 

ディーキンは一人平然として、そんな周囲の様子を観察しながら、ちらりと横のトマに視線を走らせた。

 

彼もまた、件の女性の虜になっている様子だった。

しかし一方で、タバサの方をちらちらと、何やら心配げに窺っているのも見て取れた。

 

「それでは、しばらく寛いでお待ちくださいな。

 トマ。この方たちに、休むための席を用意して差し上げなさい」

 

女性はトマにそう命じると、腑抜けのようになった貴族を伴って、再び奥の方へと消えていく。

 

ディーキンは周囲の目を気にしながら、懐から何やら宝石らしきものを取り出して顔のあたりに持って来ると、その後ろ姿を見送った。

やがて、彼女の姿が完全に見えなくなると宝石を懐へしまい直し、俯いてじっと何事かを考え始める。

 

その顔つきは、普段の彼からは想像できないほどに深刻そうで、険しかった。

 

 

休憩するために一行に用意されたのは、非常に豪奢な寝室であった。

 

入り口の扉は、美しい半裸の妖精達の姿が精緻に彫り込まれた、薔薇色の大理石でできていた。

中には紫の天蓋を備えた大きなベッドがあり、退廃的なほど美しい装飾の施された、各種の調度品類が備えられている。

床には、官能的なほどに心地よい肌触りの絨毯が敷かれ、壁には、何やら艶やかな場面を描いた美しい絵画やタペストリが飾られている。

 

タバサはカジノ側の人間が立ち去ったのを確認すると、早速ディーキンと意見の交換を始めた。

ちなみに、シルフィードはこの部屋の豪奢な内装に興味津々の様子で、きゅいきゅいとはしゃぎながらあちこちを見て回っている。

 

「……あの女性は、確かに怪しい。

 でも、ただ誘惑するだけで、誰からでも勝ち分をぜんぶ巻き上げられるとは思えない」

 

「うーん……、そうかもね」

 

ディーキンは実のところ、必ずしもそうでもないだろうとは思っていた。

しかし、あえてタバサにはまだ自分の考えや気付きを伝えないことにして、首肯しておく。

 

「それでタバサは、何か手がかりを見つけたの?」

 

タバサは、首を横に振った。

 

「まだ、何も。でも、あの人はこれから私と博打をするといっている。

 絶対に勝つ自信があるのなら、そこに何か仕掛けがあるはず。それを、見破ればいい」

 

おそらく、その仕組みと彼女自身の魅力を用いた誘惑とを組み合わせて客から金を搾り取っているのだろうと、タバサは推測していた。

自分の考えを話し終えると、ディーキンの意見を伺うように、じっと彼の顔を見つめる。

 

内心、彼からもっと良い提案か有用な助言でも出てこないだろうかと、少し期待しているのだ。

正直なところ、今言ったとおりにうまくやれるかどうかについて、彼女自身もそこまで自信を持っているわけではなかった。

 

先ほどのサイコロ賭博での大勝は、シューターの癖を見切ったのと、運とが半分ずつだ。

おそらく、普段からはイカサマはしていないのであろう。

一応、文句を言い出した客は一人いたが、おそらくは単に本人の運が悪かっただけなのかもしれない。

 

あの女性は、賭け金を上げてこれから自分と勝負をしようと言っていた。

おそらくは、その勝負で勝つための『仕組み』を解禁してくるはず。次からが、いよいよ本番となる。

 

だが、いったいどのような手を使ってくるのかについては、まだ何の手掛かりもないのだ。

いささか自信が持てず、不安を覚えるのも、無理はなかった。

心理的にいえば、亜人なり幻獣なりを相手にただ死力を尽くして戦えばよい普段の任務の方が、ずっとやりやすくて楽に感じられる。

 

「やっぱり、人間の最大の敵は人間……」

 

タバサが物思いに耽りながらそう呟くのを聞いて、ディーキンは内心で少し苦笑した。

いかにも人間らしい物言いだなあ、と思ったからである。

 

人間は、疑いようもなく、自分たちこそがもっとも優れた種族だと考えているだろう。

彼らは、エルフやドラゴンや、天使や悪魔などの強さ、優秀さを認めはするかもしれない。

だが、それでも間違いなく、人間こそが世界の主人公だと考えている。

タバサの今の発言は、無意識のうちに人間の優位性を信じているからこそ出てきた言葉だ、とディーキンには思えたのだ。

 

まあ、別に人間に限らず、大方の知的種族はそうなのだろうが。

自分たちの上に異種族であるドラゴンを置く、コボルドのような種族の方が変わっているのだということは、ディーキンにもわかっていた。

 

それにしても、彼女の今の発言は、別の意味でも皮肉なものだといえよう。

だって、今回の敵は……。

 

そこまで考えて、ディーキンは思考を打ち切った。

 

それをタバサに伝えるのは、まだ早い。

彼女には、しばらく普通に勝負をしていてもらおう。

自分にはその間に、やっておかなければならないことがあるのだから。

 

「わかったの。じゃあタバサは、休憩が済んだらあのお姉さんと勝負をしていて。

 ディーキンはその間に、ちょっとあのトマっていうお兄さんと、お話とか勝負とかをしてみたいからね―――」

 



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第五十八話 Please kiss me

 

休憩を終えたタバサは、一人カジノへと戻って、あの蠱惑的な女性と対峙した。

 

「お早いお戻りで、嬉しいわ。

 さあ、夜はこれから。私と共に、愉しい一時を過ごしましょう……」

 

女性は目を細めてタバサを見つめると、そう言って真っ赤な舌でちろりと唇をなぞる。

そうしてから、テーブルへつくようにと彼女を促した。

 

タバサは少しだけ考えてから、頷いて席に着く。

念のため、背中から覗かれることが無いように壁側の椅子を選んだ。

 

場所を変えるように要求するべきだろうかとも少し考えたが、それではこちらが不正行為を疑っていると相手に教えるようなものだろう。

あくまでも、向こうの勝つからくりを暴くことが、今回の任務なのだ。

警戒されて、イカサマの使用を差し控えられてしまうようなことになっては元も子もない。

 

幸い、相手が指定してきたのはシューターが退出して空いたテーブル、つまりは先程と同じ場所だった。

ここならば、先刻の勝負最中に既に仕掛けが無いことを十分確認している。

仮に自分が席を外している間に何か仕込まれていたとしても、変化に気が付けるだろう。

 

「では、ゲームを始めましょう。『サンク』のルールは、ご存じね?」

 

女性は、そう言ってカードの束が入った小さな箱をタバサの前に向かって滑らせた。

タバサは頷いて、その箱を手に取る。

 

サンクとは、それぞれに1から13までの数字が割り振られた土・水・火・風の4属性の札を用いて行う、カード・ゲームである。

ワイルド・カードとして1枚の虚無の札を混ぜることもあるが、このカジノでは使用していないようだ。

各参加者に5枚の手札が配られ、それを好きな枚数だけ山札と交換して、出来上がった組み合わせの強さを競う。

ハルケギニアでは平民にも貴族にも広く親しまれている、ごく一般的な遊戯であった。

 

タバサは、カードの箱をじっと観察してみた。

 

真新しい箱で、まだ封も切られていない新品だった。

封を切ってカードを取り出すと、イカサマを真剣に疑っていると悟られない程度に、ざっと広げて観察してみる。

もしマジック・アイテムだとしたら、『ディテクト・マジック』を使わずとも、タバサほどの使い手ともなれば僅かな魔力を感じるものだ。

だが、魔法がかかっているようには感じられなかった。

カードは確かにきれいな新品で、傷や印、その他の怪しい特徴も見当たらない。

 

それから顔を上げて、女性の姿を観察してみる。

 

彼女は露出の多い衣装を着て、ネックレスなどの装身具をいろいろと身に帯びていた。

あれらの中のどれかが、マジック・アイテムだという可能性はある。

それらを使用するような不自然な動作や合言葉には、念のため注意を払っておく必要はあるだろう。

女性以外の周囲の従業員や客の中には、今のところ不自然な行動などは見受けられなかった。

 

素早くそこまで確認し終えると、タバサはカードの束を女性に返そうとした。

が、女性は微笑んで、それを押し留める。

 

「当店では、公平さを期すために、カードを切る役はそちらにお任せしておりますの。

 お嬢様はそんなことをお考えにはならないでしょうけれど……、先程騒がれた方のような、面倒なお客様もおられますもの。

 どうぞ、好きなようにカードを切ってくださいな」

 

タバサはそれを聞くと、ほんの僅かに眉根を寄せた。

 

この女性も、その他の従業員も、誰を杖を持っていないので、魔法を使った不正行為はまずなさそうだ。

それでいて、こちらにカードを切らせるということは、素早い<手先の早業>などを用いたイカサマでもないということか。

なにか珍しいマジック・アイテムなどを使った不正という線は、一応まだ残ってはいるが……。

 

それとも、この店が儲ける仕組みは、実はゲームでのイカサマなどではないのだろうか?

 

そういえば、ディーキンはあの部屋にもうしばらく残るといって、この場について来てはくれなかった。

それを聞いた時には……、なぜか、自分でも不思議なくらいに、がっかりしたものだ。

 

だが、冷静に考えれば妙な話である。

 

彼は、肝心な時に意味もなく仲間を放っておくような人ではない。今更、そんなことを疑いはしない。

それにシルフィードにも、まだ自分と残って欲しいといって、引きとめていた。

そして、向こうに戻ったらあのトマという名の給仕を呼んでくれるようにと、自分に頼んだ。

 

タバサは、その給仕の姿を頭の中で思い浮かべてみた。

 

目の前の女性に意識が惹き付けられていたせいもあってあまり注意していなかったが、今思うと、なんとなく気になる人物だった。

どこかで見たような……、でも、思い出せない。

 

ディーキンの考えでは、目の前の蠱惑的な女性やこのカジノよりも、あの給仕や奥の部屋こそが重要なのだろうか。

今自分が追っている線は、見当はずれなものなのだろうか。

だとしても、それならばなぜ、そのことを私に教えてくれないのだろう……。

 

そう考えるとタバサは、何だか少し寂しくなった。

しかし、すぐに気を取り直す。

 

(彼には、何か狙いがあるはず……)

 

ディーキンが、意味もなく仲間に対して情報を伏せるとは思えない。

彼が自分に教えなかったことや、シルフィードを引き留めたことには、必ずや何か意味があるはずだ。

 

ならば、彼のすることを詮索するよりも……。

 

(私は今、自分にできることをするべきだ)

 

タバサはそう結論すると、迷いを振り払ってカードを切り始めた。

 

(あの人は、私が何をしても疑うことなく信じ続けてくれた。

 だから、私も何があろうとあの人を信じ続けるのだ)

 

それは、タバサの誓いであった。

 

 

そうして2人が勝負を始めてから、しばしの時が過ぎた。

 

今や、タバサは追い詰められていた。

表情こそまったく変わらないものの、その額には、うっすらと汗がにじんでいる。

 

相手の女性は愉しげな笑みを浮かべて、そんなタバサの苦境を眺めていた。

 

この女性は別に、高度な技巧を駆使するわけでも、不自然な行動をとるわけでもなかった。少なくとも、タバサの見た限りでは。

双方の手役に不自然な偏りがあったりするわけでもなく、見たところ何も、イカサマと疑えるような要素などはない。

 

ただ、相手の手の強弱の見極めや、勝負の駆け引きが、恐ろしく巧みなのである。

 

タバサがここぞという時に密かに大きく張ろうとしても、一切乗ってこない。

こちらにどんなチャンス手が入ってもすぐに降りられてしまい、僅かな参加料だけしか得ることができない。

それでいて、自分の方が少しでもこちらより強い手を持っている時にはその事を的確に見抜き、機を逃さずに勝ちに来るのだ。

 

(まるで、こちらの手や考えを、完全に見通されているかのよう……)

 

手札を何かの方法で覗かれているのではないかとも疑ったが、背後は壁で、自分の手札を覗ける位置には誰もいない。

周囲にサインを送るなどの疑わしい行為をしている者も、特に見当たらない。

 

それでも手札を自分の体に押し付けたり、一瞬だけ見てすぐに伏せたりなど、いろいろ工夫をしてみたが、状況に変化はなかった。

僅かな表情や気配の乱れを見抜かれるのかと、普段以上にポーカーフェイスにも努めてみたが、やはり効果はない。

 

この女性は何かイカサマをしていて、それを見抜けないのだろうか。

それとも、ただ私が弱いだけなのか……。

 

まるで何も判断が付かず、思考がぐるぐると渦を巻く。

そうこうしているうちにもじりじりとチップは減り続け、とうとう手持ちは、僅か数枚になってしまった。

 

「あらあら、大分お手持ちが少なくなったようですわね。

 それではもう、お嬢様が逆転されることはないでしょうねえ……」

 

「…………」

 

女性の声には、僅かに嘲笑するような響きがあった。

タバサはイザベラに大敗したときのことを思い出して、悔しさのあまり小さく唇を噛む。

 

周囲には大勢のギャラリーが集まって勝負を見物していたが、何人かがもう勝負はついたと見切りをつけて、去っていこうとする。

しかし、他の観客はむしろ、一層期待を増したような顔で見物を続けている。

 

女性は、そんな観客たちを一瞥してからタバサの方に視線を戻すと、艶やかな唇を歪めてにやりとした笑みを浮かべた。

 

「見物のお客様方も、退屈なされている御様子で……。

 そこでひとつ、皆様に余興を提供する意味でも、お嬢様に逆転の機会を差し上げる意味でも、よい提案があるのですけれど――」

 

立ち去ろうとしていた観客たちが、おや? と足を止める。

 

「――お嬢様のお召し物をカタにチップをお貸しする、というのはどうかしら?」

 

一瞬、場が静かになる。

 

次いで大きな野次と歓声、拍手喝采。

そして、ごく僅かな怒りの声が上がった。

 

(私が負けたら、この場で服を脱げというの……!?)

 

タバサは、屈辱のあまり俯いて微かに身を震わせながら、テーブルの下でぐっと拳を握りしめた。

しかしそこで、ふと考えつく。

 

もしかしたら、この女は負債を負わせた客の服を半強制的に脱がせて、何かしようというつもりなのだろうか。

タバサは自分がそんな、これまでに数回しか手に取ったことのない、いかがわしい趣向の本で読んだような真似をされることを想像した。

 

たとえば、相手を蹂躙し、屈服させ、虜にして……、二度と自分から離れていけなくするような、そういった類の行為……。

 

任務で命の危険をも顧みずに戦うことには慣れていても、タバサもやはりうら若い少女である。

怒りでかあっと熱くなっていた頭が、今度は怖気で急速に冷えていく。

 

そういえば、周囲の客たちの中にはこのことを知っていたように、最初からにやついた笑みを浮かべている者が何人も混じっている。

つまり、こんなことがこのカジノでは、頻繁に行われているということだ。

 

タバサは、自分はいつの間にかとんでもなく危険な状況に置かれているのではないか、と悟った。

 

それがわかった以上は、もう勝負を切り上げてこの場を去るべきだろうか?

いや、しかし……、それは結局、ただの推測だ。

それが事実かどうかを確認するまでは、帰るわけにはいかない。

 

けれど、杖も持っていない今の自分が、そんな状況に身を置かれたら……。

 

果たして、私は無事に、ここから帰れるのだろうか。

これまでの自分のままで。

 

そんな彼女の怯えをも、見ぬいているのか。

目の前の女性は魅惑的な微笑みを浮かべながらも、目には獲物を狙う猛禽のような残忍な光を輝かせて、タバサを見つめた。

 

「そうねえ……。お召し物ひとつにつき、チップ100枚分でしたら、お嬢様にも失礼にならないかしら。

 そのくらいの額ならまだ、そちらに逆転の目もありますでしょうしね。

 もしお嫌でしたら、お引き取り戴くしかありませんけれど?」

 

「……」

 

タバサは、すぐには返事ができなかった。

命を失うことはこれまで何度も覚悟してきたが、こんな状況に立たされる自分を想像したことはない。

 

「ふふふ……」

 

そうして、獲物を追い詰め、たっぷりとその怯えを味わった上で。

今度は甘やかな声で、“助け舟”を出してやった。

 

もちろん、本当にタバサを思いやっての事などではない。

彼女の弱みに付け込んで、さらに危険な末路へと誘うためである。

 

たとえそれが奴隷船だと知っていても、溺死寸前の者にはすがる以外の道はないであろう。

 

「……まあ、貴族のお嬢様ですもの。そんな恥ずかしい真似はお嫌で当然ね。

 私も無理にとは言いませんわ、実を言えば、他にもっといい方法がありますのよ――」

 

それを聞いたタバサは、顔を上げて女性の方を窺った。

女性は微笑むと、手を伸ばして戯れるようにタバサの頬に触れ、ゆっくりと愛撫していく。

 

「ぁ……」

 

タバサは、思わず妙な声を漏らした。

 

女性の指が触れるたびに緊張にこわばる筋肉がほぐされて、鳥肌が立ってゆくのを感じる。

優しく触れるその指先から、この美しく蠱惑的な女性の魅力が余すところなく、みだらなまでに伝わってくるのだ。

 

もちろん、親友のキュルケも美しいし、魅力的な女性である。

母様も。それにルイズや、シエスタも。

 

だが、この女性のそれは、そういった尋常な美しさや魅力とは、まるで別物だった。

これこそが真の魔法なのではないかとさえ……、自然の理を超えているのではないかとさえ、思えてくる。

 

自分が男でないことが惜しい、などという考えまでが脳裏をよぎった。

それを認識したとき、タバサは陶酔と空恐ろしさとの入り混じったような、名状しがたい感情に襲われた。

そのようなことなどはこれまでに一度もなかったし、自分がそんな気になるなどと、ほんの僅かに想像した事さえもないというのに。

 

霞がかったような頭の中で、手遅れにならないうちに振り払えと、微かに理性の声が命じている。

だが、体は麻痺したように動かない。

最初に入り口で、この女性にしなだれかかられた時と同じだった。

 

もしかしたら、服を脱がされるまでもなく、自分は既に、この女性の虜にされているのではないか……。

 

「――こういうのはどうでしょう。

 あなたの……、御令弟様にしか許したことがないという、その唇をかけていただくというのは?」

 

それを聞いたタバサは、はっとして、僅かに顔を引き攣らせた。

突然頭の中にかかった靄が吹き散らされたように、正常な思考が戻ってくる。

 

「愚かしいとお思いでしょうけれど、殿方というのは往々にして、そういった見世物を好まれるものでしてね。

 あまりお安くしてはお嬢様に失礼ですから、チップ500枚分ではいかがかしら?」

 

「……」

 

「結局は、皆にとって得な話だと思いますわよ。

 与えたところで、減るものでもありませんでしょう……、ねえ?」

 

それを聞いたタバサは俯いたまま、ぐっと固く手を握りしめた。

顔が、僅かに朱に染まっていく。

 

この女は、一体私を何だと思っているのだ。

そんなことはできない、絶対に。

 

不埒にも唇にまで触れてこようとした指を強く叩いて振り払うと、タバサはきっぱりとした声で答えた。

 

「断る。服でいい」

 

それを聞いた女性は、少しばかり驚いたような様子で、不機嫌そうに眉をひそめる。

 

「……あら、そうですか。

 それは残念ねえ、こんなにいい提案を断られるなんて……」

 

タバサは努めて気持ちを落ち着かせると、自分に言い聞かせた。

 

大丈夫だ、ここにはディーキンも、シルフィードもいてくれている。

彼らがいれば、こんな連中に自分が思い通りにされることなど、決してないはずだ。

自分には選択の余地はない、どちらかを受けなければ、これ以上調査を続けられなくなるのだから。

 

「続ける」

 

一層興奮を増した観客たちの見守る中、服をカタに借りたチップを手元に積んで、タバサはゲームを再開した。

しかし、何ら勝つための足掛かりを掴めていない以上、不利な状況は変わらない。

 

あっという間に負債がチップ100枚分に達し、靴を片方脱いだ。

次に、もう片方の靴を。蝶ネクタイを。靴下を。

上着を、シャツを、ズボンを……。

 

そうしてタバサは、今やレースのついたシュミーズ姿になってしまった。

これを取られれば、後は下着一枚きりである。

 

「ふふ……。よい眺めで、お客様も喜んでおられますわ。

 ここまで身を張って、当店の経営にご協力いただいたこと、感謝いたしませんとね」

 

「……っ!」

 

「ですが、いつでも、唇のほうも受け付けますわよ。

 寒々しい恰好をなさって、そろそろ脱ぐのもお辛いでしょう?」

 

嘲るような笑みを浮かべる女性と、囃し立てる周囲の観客たち。

激しい怒りと悔しさ、それに恥辱の念によって、タバサの薄い胸はしきりに上下していた。

 

「どうです、次は唇を……」

 

「断る」

 

タバサは、顔を上げて正面からきっと相手をにらみつけながら、そう答えた。

 

(許せない)

 

この女が。

一瞬でも、そんな下種の見てくればかりの美しさの虜になった自分が。

 

たとえ、この場で裸に剥かれたとしても。

この女にだけは、そんなことを絶対に許してやるものか。

 

 

 

(……この、小便臭えクソガキが……!)

 

タバサの相手である女性、リスディスは、表面上は余裕のある蠱惑的な笑みを維持しながらも、その胸中では酷い悪態をついていた。

実のところ、先ほどからずっとである。

思った以上に粘るタバサに対して、内心苛立ちを募らせ続けていたのだった。

 

(こっちが体裁を気にして、ちょっとばかり遊んでやってりゃあ、いい気になりやがって……!)

 

あたしがその気になりゃあ、てめえなんざ一瞬で堕とせるんだよ。

大体、《思考の感知(ディテクト・ソウツ)》で心を読まれてることにも気付かない間抜けが、あたしに勝てるわきゃあねえだろうが。

 

さっきトマを呼び出した残りの2人が、何とかしてくれるとでも思ってんのか?

この底抜けの馬鹿どもが、あの色男はとっくの昔に《怪物魅惑(チャーム・モンスター)》に捕まってあたしの虜さ。

そうでなくてもあの野郎の恩人の腐れ×××なオーナーはこっちの掌の中だ、口を割れるわけがねえ。

いくら粘っても無駄なことさ、あいつにはあたしがてめえを堕とすまで、せいぜい連中との話を長引かせて時間を稼げと命じてあるんだ。

 

クソ意地を張ってねえで、てめえはさっさと泣きを入れて、売女らしく唇を売ればいいんだよ。

いいや、売女なんて上等なもんじゃあない。

今までの連中と同じで、てめえもじきにそっちから舌を垂らして、愛玩を請い願うようになるってのに。

肥溜めみてえな世界で生まれた卑しいメス犬の分際で、主人の手を叩きやがった。

 

考えているうちに、リスディスの胸中でどす黒い怒りと欲望とが急激に渦をまいて膨れ上がり、今にも破裂して噴き出しそうになってきた。

 

どんなにこのガキががんばっても、どうせあといくらもたたないうちに服が尽き、唇を賭けざるをえなくなるのだ。

こいつがどんなに反抗的だろうが、所詮は一時の儚い抵抗にしか過ぎない。

何の問題もない、何も、焦る必要はない……。

 

そんな理性の訴えも虚しく、燃え上がった怒りは、すでに彼女の分別を失わせかけていた。

 

もう、待てない。待てるものか。

 

こいつの身も心も今すぐ自分のものにして、甘美な精気を啜ってやる。

足元に這い蹲らせて、泣いて詫びさせてやる。

鞭を懇願させて、局部という局部を針で飾り、全身の皮を剥ぎとってやる。

すべての尊厳を剥ぎ取って、あたしの機嫌を窺うためなら親兄弟だろうが見ず知らずの他人だろうが悦んで殺すブタにしてやる。

100回も狂わせてから嬲り殺して奈落に堕とし、“魔悦の園”シェンディラヴリで永遠に魂を苛んでやる。

てめえは永遠に、あたしの慰みモノだ。

 

今、決めた。そう決まった。

 

リスディスは、これでも決して愚か者ではない。

むしろ、並の人間を凌ぐ優れた頭脳を持ち合わせているといえよう。

 

現にこれまでは先を見据え、我慢強く振舞い続けていた。

自分の正体を隠し通し、この地下カジノをまんまと掌中に収めて、日夜退廃と堕落の宴を繰り広げてきたのだ。

 

だが、所詮彼女は混沌と邪悪の渦巻く奈落界アビスから来た来訪者であるデーモン(魔鬼)の一員。

タナーリ(魔族)と分類されるデーモン群の一種である、サキュバス(淫魔)なのである。

その癇癪を起こしやすく気紛れで、破壊と流血を好む本性は、いつまでも抑えきれるものではない。

膨れ上がる欲望を半端にしか満たさずに行儀よく振る舞う日々は、彼女の中に欲求不満を募らせて、その忍耐力を奪っていた。

 

そこへきて、本来ならば自分の玩具でしかないはずの弱く卑しい人間の女ごときが、ひどく反抗的な態度を見せたのだ。

 

それは、意志の弱い人間を容易く虜にすることに慣れきっていた彼女には耐えがたく不快な出来事であった。

生じた苛立ちはたちまち膨れ上がり、彼女の理性の枷を根こそぎ吹き飛ばしてしまったのである。

 

彼女は先ほどからずっとタバサの思考を読み、その手の内を見通すとともに、王宮から調査に来た騎士であることも既に把握していた。

それをこちらの傀儡にして疑いの矛先をかわすとともに、王宮内にまで影響力を広げようという計画を練ってもいた。

 

だが、そのことさえも、とうに頭の中からは消えていた。

 

悠長に堕落してゆくさまを味わうような“高尚な”趣向や、まどろっこしい権謀術数なんぞ、もうやっていられるものか。

お上品な真似は胸糞悪いデヴィルどもにでも任せときゃあいいんだ、あたしの性には合わねえ……!

 

「ああ、ご立派ですわ……。でも、もう意地を張る必要もないのよ……。

 だって、そうでしょう? こんな公衆の面前で、貴族のご令嬢が裸身を晒すなんて、結局は耐えられないでしょう?」

 

邪悪な女性は、今や砕け散った分別の残滓でしかない笑みを顔に貼り付かせ、混沌と邪悪の衝動が命じるままに“力”を解き放った。

目標は、目の前のおろかな人間の小娘だ。

 

「ですから、さあ……。

 『私にその唇を、差し出しなさい』!」

 

最後の言葉を言い放った瞬間、リスディスの大きく見開かれた目が、その邪悪な力で一瞬熾のように赤く輝いた。

同時に、強力な《示唆(サジェスチョン)》の魔力がタバサを襲う。

 

「――ぅ……?」

 

タバサの口から戸惑ったような小さな呻きが漏れ、次いでその目がたちまち虚ろになって、視線が宙をさまよった……。

 





ディテクト・ソウツ
Detect Thoughts /思考の感知
系統:占術[精神作用]; 2レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(銅貨1枚)
距離:60フィート、中心角90度の円錐形の放射範囲
持続時間:精神集中の限り、最大で術者レベル毎に1分(途中解除可能)
 術者は範囲内にいる者の、表面的な思考を感知できる。
明らかになる情報の量は、術者がどれだけ長い間、特定の範囲や対象を観察するかによる。
1ラウンド目には、【知力】が1以上で意識のあるクリーチャーの思考の存在の有無が分かる。
2ラウンド目には、思考している精神の数と、それぞれの【知力】の値がわかる。
この際あまりにも高い(26以上かつ、術者より10以上高い)【知力】の持ち主を感知すると、術者はしばし朦朧としてしまう。
3ラウンド目には、効果範囲内のいずれかの精神の表面的な思考を読むことができる。
目標が意志セーヴに成功した場合、その対象の思考は読むことができない。
 術者は、毎ラウンド体の向きを変えたり移動したりして、調べる範囲を変えてもよい。
この呪文の効果範囲はある程度の障壁を通り抜けることができ、木の扉や土壁、薄い鉄板程度であれば、効果範囲はその背後まで貫通する。
したがって、この呪文によって部屋の中に思考する者がいるかどうかを、扉越しに調べたりすることもできる。

チャーム・モンスター
Charm Monster /怪物魅惑
系統:心術(魅惑)[精神作用]; 3レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に1日
 対象に、術者を信頼できる友人や仲間であると思わせ、態度を「友好的」に変化させる。
対象は術者の言葉や行動を最も好意的な見方で解釈してくれるが、術者の操り人形となるわけではない。
自殺的な要求は拒否されるし、友人の頼みでも普通はしないような行動をさせることは難しい。
 そのクリーチャーが術者やその仲間によって現在脅かされている最中であるなら、セーヴには+5のボーナスが付く。
また、術者やその仲間であることが明白なものが対象に危害を加えたならば、術は即座に解けてしまう。
 なお、これはバードにとっては3レベルだが、ウィザードやソーサラーにとっては4レベルの呪文である。

サジェスチョン
Suggestion /示唆
系統:心術(強制)[言語依存、精神作用]; 2レベル呪文
構成要素:音声、物質(蛇の舌と、蜂の巣ひとかけらか甘い油ひとしずく)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に1時間、もしくは行動が完了するまでの、どちらか早い方
 術者は、どのように行動すべきかを(1、2文以内で)示唆することで、目標クリーチャーの行動に影響を与える。
示唆する内容は、その行動がもっともらしく聞こえるような形で告げてやらねばならない。
示唆の内容が非常にもっともらしければ、DMの判断で相手のセーヴにペナルティが付くこともある。
 明らかに相手の害となるような提案は、この呪文の効果を自動的に無効化する。
ただし、「あの酸の池のように見えるものは実は温泉だ、飛び込めば気持ちがいいぞ」というように唆して、結果的に害することはできる。
盗賊に対して、「俺を攻撃するより一緒に他所の宝の山を探しに行かないか」と提案して、一時的な味方にすることなどもできる。
高貴な騎士に対して、「次に出会った物乞いに慈悲を示してあなたの馬を与えるべきですよ」と吹き込むこともできる。
したがって、やり方次第で非常に活用できる範囲の広い、強力な呪文だといえる。
 なお、これはバードにとっては2レベルだが、ウィザードやソーサラーにとっては3レベルの呪文である。

サキュバス(淫魔):
 混沌にして悪の次元界である奈落界アビスに棲まう来訪者、デーモン(魔鬼)の一種族。
副種別としてはタナーリ(魔族。最も数の多い一般的なデーモンで、アビスの支配者。残虐さと悪と罪との体現者)に属する。
その姿は非常に美しい人間の女性に似ているが、曲がりくねった長い尻尾や小さい角、蝙蝠のような翼などといった、魔物の特徴も備える。
デーモン全体としては比較的下位の部類に属するが、それにもかかわらず、非常に危険な存在である。
 サキュバスは、定命の者を誘惑して、堕落と破滅に誘う事を生きがいとしている。
その【魅力】は平均値で26にもなるが、これは恐ろしいほどに、超自然的なまでに魅力的であることを意味する。
人間の魅力平均値は10~11、生まれつきの上限値は18である。
自然そのものが肉体的な美をまとって顕現したとされるニンフでさえ、魅力平均値は19にとどまる。
呪文やマジック・アイテムによる強化を抜きにすれば、その魅力値はディーキン以上である。
 彼女らは、情欲に関するある種の行為を行うか、もしくはキスをすることによって、犠牲者から生命力を奪い取れる。
この生命力奪取は、負のレベル(犠牲者を弱体化させ、ウィザードリィでいうところのレベルドレインを引き起こす危険がある)を与える。
また、どんな人型生物の姿にでも化け、あらゆる言語を話すことができる生来の魔法的な能力を持っており、さまざまな種族を誘惑できる。
実際にはテレパシーによって意思を疎通することもできるのだが、正体を明かさないためにも、普段は口を使って話す。
対象の思考を読んだり、魅惑したり、その意思を捻じ曲げたりすることができるさまざまな精神系の擬似呪文能力も備えている。
これらの能力の使用には不自然な動作も音声も必要ないため、非常に見破りにくい。
加えて、肉体的にはさして強くはないものの、深刻な危険に晒されるとエーテル界に移動したり、瞬間移動したりして難を逃れてしまう。
非常時にはヴロックと呼ばれるより強力なデーモンのアビスからの招来を試みることもできるが、これは必ずしも成功するとは限らない。
 その体は冷たい鉄製の武器か善の力を帯びた武器によってでなければ容易に傷つかず、しかも弱い呪文を水のように弾く。
それに加えて毒と電気に対する完全耐性があり、酸と火と冷気に対してもかなりの耐性を有している。
また、見た目に反して外皮も強靭で、プレートメイル以上のアーマー・クラスを持つ。
 彼女らはその性質上、概して知能が高いにもかかわらず粗暴かつ直接的な傾向があるデーモン類には珍しく、頻繁に策略を用いる。
しかし、やはり混沌にして悪の性質を持つがゆえに衝動的で忍耐力に欠けるため、ごく短期的な計画にとどまることが多い。


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第五十九話 Self-centered

サキュバスのリスディスが放った《示唆(サジェスチョン)》の魔力がタバサを襲い、その考えを捻じ曲げようとする。

 

「――ぅ……?」

 

タバサの目が途端に虚ろになり、宙を泳いだ。

 

「ふふ……」

 

さあ、これで今度こそ、こいつの唇を奪うことができるのだ。

 

(メス犬の分際で上品ぶって、散々に焦らせやがって……!)

 

まずはその若々しい精気を乾涸びる寸前まで、存分に吸い上げてやろう。

それから連れの2人も籠絡して、互いに背信と背徳の限りを尽くさせ、その魂を奈落に堕としてやるのだ。

 

リスディスは心の中で舌なめずりをしながら、そんな算段を立て始めた。

だが、次の瞬間。

 

「――――嫌。絶対に嫌!」

 

タバサの目に元の輝きが戻り、きっぱりと要求を拒絶した。

同時に目の前の女性が自分に対して何らかの魔力を使ったことを悟り、飛び退くようにして席を立つ。

 

彼女はその強固な意志力で、《示唆》の影響を寸前ではねのけたのだ。

 

「な……!?」

 

リスディスは、驚愕に思わず声を漏らして、席から立ち上がった。

 

まさか、こんな卑しい小娘などに、自分の術が破られるとは。

《思考の感知(ディテクト・ソウツ)》によって思考は容易く読めたというのに……。

それほどまでに、唇を奪われることには抵抗があったということか?

 

ああ、自分はなんという軽率なことをしたのだろう!

 

呪文や疑似呪文能力は、抵抗に成功した者には何らかの術を掛けられたことがわかるものだ。

しかも相手に呼びかけねばならない《示唆》は、万が一抵抗されれば術の出所が自分だということまで明確に悟られてしまう。

そんなことは、十分に心得ていたはずなのに。

折角これまで我慢に我慢を重ねて積み重ねてきたものを、一時の衝動で台無しにしてしまうとは……。

 

リスディスの顔が、怒りと後悔とで歪む。

しかし、周囲の観客たちがまだまったく事情を把握してはいないことに気が付くと、いくらか冷静さを取り戻した。

 

(……いいや、まだ取り返しはつくさ……!)

 

冷静に考えればこいつは今、杖も持っていない無力なガキなのだ。

 

所詮この小娘は、一度かろうじて自分の術に打ち勝っただけに過ぎない。

こいつが逃げる前に《怪物魅惑(チャーム・モンスター)》の術を使って心を捕らえ、捕獲して屈服させれば済むことだ。

 

たとえ再び耐えたとしても、その抵抗が崩れるまで、何度でも術をかけ続けてやる。

この場で騒いだところで何がどうなるわけでもあるまい、周りのおろかな観客どもは大方こっちの味方なのだから。

 

 

リスディスはそう考えて、タバサに対して魅了の“力”を呼び起こそうとした。

しかし、そこへ。

 

「――この化け物がッ!

 お嬢様に、それ以上狼藉を働くな!」

 

脇の方から、怒気を孕んだ鋭い声とともに、2本のナイフが飛来した。

ナイフは狙い過たず、リスディスに襲いかかる。

 

「なっ!?」

 

リスディスはとっさに腕で1本のナイフを叩き落したが、もう一本のナイフが剥き出しの脇腹に当たった。

突然の凶行に、観客たちから悲鳴が上がる。

 

だが、じきに観客の1人が、妙なことに気が付いた。

 

「……な、なんだ?

 あ、あの女、血が出ていないぞ?」

 

「え? ……そ、そういえば、確かに……」

 

高速で飛んできたナイフを払い落とした華奢な腕にも、確かにナイフが直撃したはずの艶やかな肌にも……。

リスディスの体には、出血はおろか、かすり傷ひとつついてはいなかったのである。

 

(し、しまった!)

 

自分の正体がただの人間ではないと明かしてしまいかねない失態に気がついたが、もはや後の祭りだ。

 

(畜生……!)

 

一体どこのどいつが、こんな真似をしやがったんだ。

リスディスは怒りに顔を歪めて、ナイフの飛来した方を振り返った。

 

「……え?」

 

そこには、鋭い目つきをした厳しい表情の若い男……給仕のトマが立っていた。

 

つい今しがた、奥への扉から出て来たらしい。

タバサとの勝負に気を取られていて、気が付いていなかったのだ。

 

(ばっ、馬鹿な、なんでこいつが!?)

 

リスディスは、驚きに目を見開いた。

 

あの男は、確かに自分の術の虜になっていたはずだ。

それがどうして、私を攻撃することができる?

 

自然に術が解けるには早すぎる、最後に術を掛けたのは、確か……。

 

「お姉様、これを!」

 

そうこう考えているうちに、また別の場所で声が上がった。

はっとして、声の方を振り返る。

 

そこにはいつの間にか、シルフィードが姿を現していた。

 

しかもどうやったのか、受付に預けていたはずのタバサの杖を持ってきたらしい。

自分の方に向かって放られたそれを、タバサは素早くキャッチして身構えた。

 

「ぐ……!」

 

おのれ、どいつもこいつも。

リスディスは美しい顔を無残に歪めて、ぎりぎりと歯軋りをした。

 

だが、明らかに状況が不利になってきたことは、認めざるを得なかった。

 

自分は戦いが得手ではない、さすがに脆弱な人間ごときにはそうそう後れを取るつもりはないが……。

とはいえ、3人を相手にして勝てるかどうかは少々心もとない。

それに、たとえ勝てたところでその様子をここにいる観客どもに見られては、自分の正体が人間ではないことが露見してしまう。

 

残念だがこうなった以上は、もはや事態を収拾するのは困難であろう。

このカジノはもう、放棄するしかない。

 

リスディスは煮え滾る怒りを押し殺してそう心に決めると、すぐにこの場から逃げるための算段を立てはじめた。

 

サキュバスである彼女は、念じるだけで《上級瞬間移動(グレーター・テレポート)》の疑似呪文能力を使えるのである。

幾十人に囲まれていようとまるで問題にもならない、造作もなく逃走できる。

 

先に奥の間の方へ行って、持ち出すべき物を急いで回収してからどこか遠くへ逃げ出そう。

ついでに口封じのためにも、憂さ晴らしの意味でも、奥の間に待機させている傀儡どもを残らず処分してやる。

いずれ必ずやどこかで再起して、今日の復讐をしてみせる。

その時には、こいつらにも自分が味わった万倍の屈辱を味わわせてくれよう。

 

素早く考えをまとめたリスディスは、早速瞬間移動の“力”を呼び起こそうとする。

だが、そうは問屋が卸さなかった。

 

「《ビルズリクァス・トレスクリー 》!」

 

突然、呪文を紡ぐ声と共にどこからか放たれた緑色の光線が、リスディスの体に命中したのだ。

 

邪悪な女性は、一瞬にして全身を煌めくエメラルド色の場に包まれる。

彼女が呼び起こそうとした《上級瞬間移動》の魔力はその場に阻まれて、効果を表すことなく消散した。

 

(な……!?)

 

これは、次元間の移動を阻む秘術呪文ではないか。

なぜ、このような高度な呪文を使える者が、こんな世界のこんな場所などにいるのだ?

 

リスディスはひどく狼狽しながら、光線の飛来した方に目を向けた。

 

「……遅くなって本当にゴメンなの、タバサ。

 やいこら、タバサにこんなことをするなんて、ディーキンはあんたが気にいらないの!」

 

そこには、使用済みのスクロールを手近な机の上に放り捨てたディーキンが、腰に手を当ててぷんすかしていた。

 

(あ、あんな小さなガキが……?)

 

リスディスはようやく、自分の方がいつの間にか絡め取られて、追い詰められていたことを悟った。

屈辱のあまり、腸が煮えくり返る。

 

だが、まだ諦めはしない。

 

「……こ、これはどういうことですの!?

 いかに私のような端女に対してとはいえ、このような振る舞いを!」

 

怯えて引き攣った顔を装って、助けを求めるように近くの観客に縋り付こうとする。

 

ここは何とか観客どもを味方につけて、とにかくこの場から逃れるのだ。

最悪こいつらを盾に使ってでも、連中の攻撃を凌げれば……。

 

だがそこで、すかさずトマが警告の叫びを発した。

 

「騙されてはいけません、その女の正体はおぞましい怪物なのだ!

 皆様もご覧になったでしょう、私のナイフを受けても血の一滴さえ流さなかったのを!」

 

観客たちはその言葉に、互いに戸惑ったように顔を見合わせた。

縋りつかれそうになっていた客は、慌てて後ずさって、リスディスから離れる。

 

(……っ! この、裏切り者のクソ野郎が!)

 

リスディスは現在、既に深く自分の虜になっている者たちを、奥の間の方に移動させてしまっていた。

それはこの後“新しい玩具”を3人加え次第、さっそく退廃的な宴を催そうというつもりだったからだが、それが仇となった。

彼らがいれば、テレパシーで自分の盾になるよう指示して、なんとかこの場を切り抜けられたかもしれないというのに。

 

彼女は、憎々しげにトマを睨んだ。

そして、他人に聞かれぬよう、口には出さずにテレパシーで彼に言葉を送り、恫喝しようとする。

 

『てめえ、トマ! 恩人のギルモアがどうなってもいいってのか!?』

 

それに対して、トマは憎悪のこもった険しい視線で彼女を睨み返し、同じように頭の中で思い浮かべることで返答を返した。

 

『よくもぬけぬけと! ディーキンス様がお前の術を解いてくださった後、私はあの方と一緒に奥の間を調べたのだ!

 路頭に迷っていた私を拾ってくださったギルモア様を、よくも……!』

 

それを聞いたリスディスは悔しげに顔を歪めると、ぎりぎりと歯軋りをした。

ちくしょうめ、もうバレていたのか。

 

彼女は最初にギルモアという名のカジノのオーナーを意のままの操り人形とした時には、彼を生かしておくつもりだった。

表向きは彼を支配者としたまま、その陰に隠れていた方が都合がいいと考えたからだ。

 

だが、彼女はその衝動的な性質から、ある夜に少々いきすぎた行為をして、オーナーを死なせてしまったのである。

 

その後は彼の死体を奥の間の一室に隠し、その変身の能力や読心や魅惑の術を駆使して、彼がまだ生きていると周囲に思わせ続けていた。

それがよりにもよって、この男に露見してしまうとは。

使用人の中でも抜きんでて優秀であるがゆえに、生命力を奪いもせず利用し続けていたこの男に……。

 

そこへ、さらなる追い討ちがかかった。

 

「《レキッブ・ボーア》!」

 

ディーキンがどこからか、宝石で飾られた美しい金細工の豪奢な手鏡を取り出した。

それを邪悪な女性のほうへ向けて、素早く呪文を紡ぐ。

 

「!? ぎっ……、」

 

リスディスは突然自分を襲った呪文の効力に必死に抵抗しようとしたが、まるで波に洗われる砂の城のようなものだった。

ディーキンの強力な魔力は、彼女の呪文抵抗力を容易く突き崩して、その効力を発揮する。

 

鏡の中に映し出された優美な姿が、呪文の完成とともにみるみる醜く歪んでいった。

醜く捻じ曲がった蝙蝠の翼が衣類を破きながら背中から生え出し、脚には獣毛が生えだして山羊のような蹄に変わる。

口の端からは伸びた犬歯が剥き出しになり、汚れた唾液を滴らせた。

 

そして彼女自身の体もまた、鏡の姿と同様に捻れて変形し、野獣の様相を呈していた。

ディーキンの放った《内なる美(イナー・ビューティー)》の呪文が、邪なサキュバスの本性を暴き出したのである。

 

観客はその光景にパニックとなり、一斉に悲鳴を上げて逃げ惑う。

ごく近くでその変容を目撃したものなどは、腰を抜かして必死にはいずりながら、おぞましさのあまり嘔吐していた。

 

(ま、まさか……、噛ませ犬は、あたしの方だったってのか?)

 

リスディスは、愕然とした。

そんなはずがなかった。物質界の下賤な種族の者どもに、魔族であるこの自分が。

 

あまりの事態に一瞬取るべき行動を見失い、棒立ちとなる。

その時、冷たい怒りを全身に漲らせたタバサが、呪文を完成させた。

 

「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ……!」

 

逃げ惑う客たちが放り捨てたグラスから零れた酒が、詠唱に応じて多数の氷の矢を形成した。

タバサが杖を振ると共に、それらが四方八方からリスディスに襲い掛かる。

 

「――――はっ!?」

 

我に返ったリスディスは慌てて身をかわそうとするが、《内なる美》の呪文によって捻くれた体は、いつものように敏捷に動いてくれない。

避け損ねた矢が、次々とその身に食い込んだ。

 

「ぐ……!」

 

リスディスの口から、苦痛の呻きが漏れる。

 

見た目に似合わず強靱な魔族の身体ゆえ、一本一本の矢は大して深くは刺さっていない。

人間相手ならば開いた傷口へ更に凍傷を負わせるであろう氷柱の冷気も、どうということはない。

 

だが、幾本もの矢が全身のあちこちに突き立っては、流石に軽傷とはいえなかった。

 

「覚悟しろ、この化物め!」

 

そこへ、怒りに燃え立つトマが、手に短剣を握って突っ込んできた。

 

「……この畜生共が! 調子に乗るんじゃねぇ!」

 

リスディスは苦痛を憤激に変えて駆け寄ってくるトマを迎え討ち、彼の頭上へ爪を振り下ろした。

 

トマはその鋭い爪に肩の肉を僅かに裂かれながらも、辛うじて直撃を避け、体当たりするように懐へ飛び込んだ。

そのままの勢いで、邪悪な魔族の腹に深く短剣を突き立てる。

 

「がぁ……、っ!?」

 

リスディスは、激痛に目を見開いた。

 

ただの鋼の短剣では、これほど深く自分の身体を抉れるはずがない。

この刃は、“冷たい鉄”でできている。

この世界では使われていないと思っていたのに……。

 

さてはこれも、あのガキの仕業か。

リスディスは、憎悪に燃え立つ瞳でディーキンを睨んだ。

 

あの野郎、高度な呪文を使うあたり、見た目通りのガキじゃあないに違いない。

最初からこっちの正体をわかっていて、あたしを騙しやがったのか?

 

(馬鹿にしやがって……!)

 

怒りのあまり、見るも無残に形相を歪めて、リスディスはがちがちと歯を鳴らした。

 

この状況ではどうあがこうと、もう自分は助かるまい。

間もなく自分はこいつらに殺されて、奈落へと送り返される。

 

ならばどうする、せめて今自分を刺した、目の前のトマだけでも殺すか?

今一度爪を振り下ろせば、こいつ一人くらいなら引き裂いて道連れにできるかもしれない。

 

しかし、リスディスはその考えには満足しなかった。

 

(嫌だよ、こいつだけだなんて……!)

 

あたしはもっともっと、このカスどもを殺したいんだ。

そのためにこそ我慢して行儀よくしてきたってのに、あと一人しかやれないなんて、そんなのありかよ。

あたしを刺しやがったこのトマも、手を叩きやがったあの小娘も。コケにしてくれたあのガキも、馬鹿そうな使用人の女も。

この場にいる間抜けな観客どもも、みんな、みんな殺してやる。

 

最後を悟った今、リスディスは、これまで押さえてきた殺害欲を一気に噴出させていた。

 

奈落の卑劣な魔族どもにとっては、すべての物事は己を中心に回っている。

それ以外のものは、彼らにとっては意味がないのだ。

全員が究極の利己主義者であり、しかも残忍極まりないその欲求は、他者を痛めつけることでこそ満たされる。

物質界で弱き者どもの間を闊歩し、何の恨みもない連中を苛み、不幸と絶望の底に落す時間が、魔族にとってどれほど甘美であることか。

 

その悦びの時が、理不尽にも、あと僅かで終わりになろうとしている。

ならば、この世界など滅びてしまえばよい。

 

実際、そうできる力さえあれば、躊躇せずに今すぐに実行に移しただろう。

自分が楽しめない世界など、リスディスにとっては価値がないのだ。

 

だが、それだけの力は彼女にはない。

ならば次善の方法は、一人でも多く殺すことだ。

そのためには……。

 

「……」

 

リスディスは成功を祈りながら、精神を遠い故郷の奈落界へ送り、他の魔族との交信を試み始めた。

 

数秒後に、その成果が表れた。

カジノの入り口近くに不浄な炎で縁取られた扉が現れ、それをくぐって新たなデーモンが出現する。

 

それは、大きな人間とハゲワシとを掛け合わせたような姿のデーモンだった。

逞しく引き締まった四肢は小さな灰色の羽毛で覆われ、長い首の先にはハゲワシのような頭がついている。

羽毛に覆われた翼はとても大きい。

 

ヴロックと呼ばれる、サキュバスよりも遥かに強靭な、奈落の飛行強襲兵である。

 

(よし……!)

 

リスディスは試みが成功したことで、ようやく幾許か溜飲を下げて、しばし暗い愉悦に浸った。

 

ざまあみやがれ、愚かな人間どもが。

これでヴロックが、てめえらを一人残らず引き裂いてくれるだろうさ。

 

ああ、お上品な真似などさっさとやめて、もっと早くこうしていればよかった。

これから起こる血塗れの惨劇を自分の目で見届けられないことが、つくづく口惜しい……。

 

そう、悔やみながら。

 

次の瞬間にはもう、胸を裂くように斬り上げられたトマの短剣と、背から貫通したタバサの氷柱とによって、リスディスは絶命していた。

激痛で目の前が真っ赤になり、ぐるぐると世界が回ったかと思った途端に、リスディスの魂は高速で奈落に引き戻されていく。

抜け殻となった彼女の肉体はその場に頽れ、瞬く間に悪臭を放ちながら腐り落ちて、骨だけになっていった……。

 




グレーター・テレポート
Teleport, Greater /上級瞬間移動
系統:召喚術(瞬間移動); 7レベル呪文
構成要素:音声
距離:自身および接触
持続時間:瞬間
 この呪文は術者およびその所持品と、人数制限の範囲内での同意するクリーチャーを、指定した場所へと瞬時に転送する。
距離の制限はないが、目標の地点を見たことがあるか、正確な描写を入手していなくてはならない。
この呪文では、他の次元界に移動することはできない。
 来訪者の中には擬似呪文能力としてこの呪文の効果を使えるものも多いが、大抵は自分自身とその所持品しか運ぶことができない。

ディメンジョナル・アンカー
Dimensional Anchor /次元界移動拘束
系統:防御術; 4レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:中距離(100フィート+1術者レベル毎に10フィート)
持続時間:術者レベル毎に1分
 術者は手から緑色の光線を放ち、命中した対象はこの呪文の持続時間の間、他の次元界に移動することがまったくできなくなる。
瞬間移動系の呪文は移動時にアストラル界と呼ばれる次元界を経由するため、瞬間移動も封じられる。

イナー・ビューティー
Inner Beauty /内なる美
系統:変成術; 4レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(500gp以上の価値がある手鏡)
距離:長距離(400フィート+1術者レベル毎に40フィート)
持続時間:術者レベル毎に10分
 術者は対象の物理的な外見を、その人格や倫理観を反映するものに変化させることで、対象の真の美、もしくは真の醜さを明らかにする。
この呪文は正体を偽装している悪の存在を暴き出すとともに弱体化させ、善の存在に対して使用すれば強化呪文にもなる。
 対象が悪の場合、その体や顔が捻じ曲がって獣のようなおぞましい姿となり、【敏捷力】と【魅力】に-4のペナルティを受ける。
さらに、この変化の瞬間を15フィート以内で目撃した者は、1d4ラウンドの間吐き気がする状態になる。
対象が善の場合、その体や顔が愛らしく美しく優雅になり、【敏捷力】と【魅力】に+4の清浄ボーナスを得る。
さらに、この変化の瞬間を15フィート以内で目撃した者は、1ラウンドの間朦朧状態になる。
対象が善でも悪でもない場合には、この呪文は効果がない。
 この呪文はバードにしか習得することができない。


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第六十話 Confidence

「ひぃぃ! ばっ、化け物!」

 

「きゃああぁぁぁ!?」

 

突如現れた身の丈2メイル半はあろうかという異形の魔物を見て、一斉に悲鳴を上げて逃げ惑う一般客たち。

ヴロックのヘルマスはそんな連中を塵を見るような目で見下ろしながらも、やや怪訝そうに首を傾げた。

 

(はて……、ワシを呼び出したあの小娘は、どこにいる?)

 

彼がサキュバスのリスディスの召喚に応じるのは、これが初めてではない。

物質界の脆弱な者どもを殺戮する機会を待ちわびる彼にとって、彼女は“お得意様”の一人なのだ。

 

しかし今回は、いつもならばすぐにあるはずの、彼女からのテレパシーでの指示がない。

 

それに、こんな人込みの中にいきなり召喚するのも、これまでの彼女の流儀からは外れているように思えた。

あの美しい毒蛇は、もっと巧妙で陰湿な、ヘルマスの嗜好から言えばいささかじれったくて回りくどいやり方を好んでいたはずだ。

 

(面倒なことを抜きにして今すぐ皆殺しにさせてくれるというのならば、有り難いことなのだがな)

 

ヘルマスはひとまずその大きな翼を窮屈そうに広げて飛び立つと、客たちが逃げ出そうとしている扉の前に降り立った。

そうして獲物どもの退路を塞いでから、ゆっくりと首を巡らせて、召喚者の姿を探し始める。

 

ついでに人間どもへの挨拶代わりに、体を震わせて体表から胞子を噴出させてやった。

やっと扉に辿り着いたと思った瞬間、突如目の前に降り立った怪物から逃げ出すのが遅れた2人の客が、その胞子の雲に包まれる。

 

「……ひっ、ひぃぃいい! な、なんだこいつはぁぁ!?」

 

「いやあぁあ! 助けて、誰か助けてぇぇ!!」

 

胞子はたちまち彼らの体の奥へ食い込み、根付いて、芽を吹き始めた。

皮膚を食い破ってあちこちから醜い緑色の蔦が生え出し、彼らの体を覆っていく。

その光景に対する恐怖と激痛とで2人の客は半狂乱になり、血まみれになりながら床をのたうち回った。

 

その悲痛な絶叫も、奈落の魔族にとっては耳に心地の良い音楽のようなものだ。

気分よく召喚者の姿を探していたヘルマスは、血に塗れた短剣を携えたまま、呆然とこちらを見ている若い人間の足元で目を留めた。

 

(……ヌッ?)

 

そこには、急速に腐敗して融けてゆく、異形の躯が転がっていた。

何があったのか、酷く歪んで獣じみた様相を呈している上に氷柱が体を貫き、刃物で無残に切り裂かれている。

 

それでも、かろうじてサキュバスの屍だとわかった。

 

(あの小娘めが、やられたというのか?)

 

そう察したヘルマスの胸中で、急に怒りが湧き上がり、膨れ上がっていった。

 

もちろん、殺されたサキュバスに対する仲間意識などからではない。

人間ごときに後れを取った負け犬なぞ、ヘルマスの知ったことではなかった。

しかし、彼女が殺されて奈落へと送り返されたことで、自分が脆弱な物質界の住人を虐殺する機会がひとつ失われたことになる。

 

そうして腸を煮えくり返らせていたところへ、追い打ちをかけるように、肌に何か不快な衝撃を受けた。

痛みはなかったが、どうやら攻撃をされたらしい。

 

ヘルマスは真っ赤に燃えた目で、じろりとそちらのほうを睨んだ。

 

「……ひっ!」

 

睨まれた男は、発砲したばかりの拳銃を握ったままがたがたと震え出した。

この中年の商人は、護身用に隠し持っていたゲルマニア製の新型銃を取り出して怪物の脇腹に打ち込んだのだ。

だが、あろうことかその怪物の身体には、かすり傷ひとつついてはいない。

 

慌てて踵を返して逃げ出そうとしたところで、その小太りの体がふわりと宙に浮いた。

 

「な……、なんだぁ!?」

 

じたばたともがくが、足が床に届かないのでどうにもならない。

ヴロックの使った《念動力(テレキネシス)》の魔力が、男を捕えたのだ。

 

ヘルマスがごみを投げ捨てるかのようにぶんと腕を振ると、男は勢いよく投げ飛ばされた。

そのままバーのカウンターを越えて戸棚に叩き付けられ、食器の破片や刃物が降り注いで、全身にひどい傷を負う。

 

「うぎゃあぁぁ! 痛い、痛いぃぃ!!」

 

血だらけになって悲鳴を上げながらのたうち回る男の姿を見ているうちに、ヘルマスの気分はあっさりと晴れていった。

 

まあ、先のことは先のことだ。

それよりも今ならば、小賢しい召喚者によって制限されることもなく、存分に殺戮を愉しめるではないか。

今見えている範囲だけでも数十人はかたい、陶酔するまで血の美酒を啜ることができるだろう。

 

だが、すぐに皆殺しにしてもつまらない。

その気になれば1~2秒に1人のペースででもやれるのだし、時間はまだまだ、たっぷりとあるのだから。

 

まずはこやつらを存分に嬲り、悲鳴と命乞いの大合唱を奏でさせてからだ。

 

 

 

「みんな、そいつに手を出さないで! 早く離れて!」

 

ディーキンはそう周囲の客に呼びかけながら、慌てて先ほど胞子にやられた犠牲者の元へ駆け寄ろうとした。

 

戸棚に叩き付けられた男はかなりの怪我を負ったようだが、早急に救わなくてはならないのはむしろ胞子を受けた2人の方だ。

ヴロックの胞子は、取り除かなければじわじわと成長してダメージを与え続けるのだ。

今はまだ大丈夫でも、放っておいたら致命傷になる。

 

内心では、招来の機会を与えずに先ほどのサキュバスを仕留めることができなかったことを悔やんでいた。

 

予定では、透明化して斬り殺せる間合いまで近づき、問答無用で一気に仕留めようと考えていたのである。

ディーキンの近接戦闘能力なら、サキュバスなどものの数秒で、ほぼ確実に屠れる。

そうしていれば、《次元界移動拘束(ディメンジョナル・アンカー)》のスクロールを消費する必要もなかっただろう。

 

しかし、タバサとサキュバスの周囲には予想以上に多くの観客がいて、密かに接近するのは難しかった。

おまけにタバサが辱めを受けているのを見て逆上したトマが、先走って攻撃してしまったのである。

 

そうなった以上、こちらが悪役に仕立てられたりサキュバスが逃走したりする前に、なんとか事態を収拾する必要があった。

そこで敵の逃走手段を封じ、本性を暴いてこちらの正当性を証立てた上で仕留めるという方針に急遽切り替えたのだが……。

結果的にはそれが敵に招来の猶予を与えることになり、無関係の客たちまで危険に晒すことになってしまったのである。

 

だからといって、トマを責めることはできない。

 

タバサと彼とは昔馴染みで、主従の間柄でもあったと先ほど既に聞いていた。

男として女性が、それも親しい女性が下劣な怪物から辱めを受けているのを見れば、義憤に駆られるのは当然であろう。

多くの人間の文化圏では、特に女性にとっては、公の場で肌を晒すことが非常に屈辱的なことだというのはディーキンも知っている。

 

むしろ自分のほうにこそ非がある、ともディーキンは思っていた。

 

ディーキンはサキュバスの正体を見抜いた時、すぐに倒すのではなく、他にもデーモンがいないかなどのより詳細な情報の把握を優先した。

そうでなければ、思わぬ落とし穴に嵌ることにもなりかねないと考えたからだ。

だからタバサがサキュバスの相手をしてくれている間にトマの術を解き、事情を聴きだした上で、奥の部屋を調べていたのだ。

敵の正体を伝えなかったのは、もちろんサキュバスに読心の能力があることを知っていたからである。

 

だが、まさか彼女が奥の間へ連れ込まれる前に、衆人環視の中でこのような辱めを受けるなどとは考えてもみなかった。

結果として彼女に屈辱的な思いをさせてしまった上に、このように危険な事態を招くことになったのだ。

これは明らかに、自分の責任である。

 

不幸中の幸いというべきか、あのヴロックはどうやら客たちを逃がさないために当面は扉の前に居座り続けるつもりらしい。

だがもし気が変わって、客たちの真っただ中に飛び込んで鉤爪や嘴を使い始めたら、数十秒とたたぬうちに死体の山ができあがることだろう。

 

なんとしてでも、これ以上の惨事は防がなくては……。

 

 

 

「ギキィィィ……、」

 

ヘルマスは、自分の足元でのたうつ2人を救おうと駆け寄ってくるディーキンを嘲笑った。

嘴を醜くゆがめて、金属が擦れ合うような不快な鳴き声を漏らす。

 

(なんとバカな小僧だ、気でも違ったか。それとも、目が見えぬとでもいうのか?

 餓鬼の分際で、このワシからこ奴らを救えるつもりか!)

 

ディーキンが既にぐったりしている女性の元に手を伸ばそうとした瞬間、ヘルマスは無造作に、右足で彼を蹴りつけた。

鋼板をも引き裂ける鋭い鉤爪が、ディーキンの喉笛に迫る。

 

だが、ディーキンはそれを自分の手で押さえるようにして難なく掻い潜ると、女性をさっと抱き抱えた。

そのままもう一人の男性の方に、跳ぶようにして移動する。

 

(……何ぃ!?)

 

ヘルマスは、ただの無謀な子どもと思っていたディーキンの予想外の動きに驚いた。

だが、次の瞬間には自分めがけて2本の短剣が飛んできたために、注意がそちらに逸れた。

 

煩げに腕を一振りしてまとめて叩き落とすと、攻撃者の方を睨む。

 

「くっ……!」

 

目を向けられたトマは、それに臆することなく真っ向から睨み返しながらも、悔しげに顔をゆがめた。

 

足元に駆け寄るディーキンに魔物の注意が逸れたと思った瞬間を狙って、2本の短剣を投げつけたのだが……。

魔物は予想以上に素早く反応して、簡単にそれを叩き落してしまったのだ。

恩人であるディーキンの無事にはほっとしたが、これでもう、自分には手持ちの武器がない。

 

もっとも、どのみち彼の攻撃では、当たったところでろくな効果は望めなかっただろう。

単なるナイフや拳銃程度の武器では、その分厚い外皮とダメージ減少能力の前にはほとんど歯が立たないのである。

事前に対サキュバス用にとディーキンが渡していた“冷たい鉄”製の短剣も、ヴロック相手にはとりたてて有効な武器ではないのだ。

 

(たかが血の詰まった肉袋の分際で、うっとおしい奴ばらが……)

 

ヘルマスは苛立たしげにトマの方を見やる。

次いで足元にもちらりと目をやって、どうしたものかと考えた。

 

本当ならば今すぐに飛んで行ってあの男を八つ裂きにし、腸を食いちぎって殺してやりたいところだが……。

しかし今、この扉の前から離れて、せっかくの獲物どもを逃がすリスクを負うのは面白くない。

小賢しい真似をしてくれた報いを存分に味わわせてやりたいところだが、まあ他にも獲物はいくらもいるのだし、こだわることもあるまい。

 

足元の小僧と残り2人は、後回しでもよかろう。

あの餓鬼はどうやら、見た目とは少々違う相手のようだが……。

どうせいくら頑張ったところで、自分の胞子が既に体内を食い荒らし始めている以上は、あの連中は助からぬ。

必死に救おうと手当をしてもどうにもならぬという無力感を存分に味わわせてから、じっくりと嬲り殺しにしてやるのも一興だ。

 

そう結論したヘルマスは、先程の客に対してしたのと同様に、トマに対しても《念動力》で攻撃をかけることにした。

 

(ちと味気ないが、貴様はこれでも食らっておけ!)

 

精神を集中させ、内なる“力”を呼び起こす。

 

ただそれだけで、トマ自身が先程サキュバスに対して投げたナイフや、散乱した瓶やフォークなどが、ふわりと浮かび上がる。

気分的に声を出したり腕を振るったりすることはあるが、本来疑似呪文能力にはなんの詠唱も動作も必要ないのだ。

 

それらの即席の矢弾は、次の瞬間、ヘルマスの意志に従って四方八方からトマに襲い掛かった。

トマは寸前で気が付いて慌てて身をかわそうとするが、周囲全方向からの攻撃は避けきれるものではない。

 

それらの矢弾が彼を襲おうとした、まさにその瞬間。

突然屋内には似つかわしくない突風が吹きつけ、攻撃の軌道を逸らして、彼の身を守った。

 

「ぐ……っ!」

 

だが、屋内ゆえに『風』の魔法が十全な威力を発揮しきれなかったのか。

一陣の突風が過ぎ去った後、逸らし損ねた一本のナイフがトマの左腕に浅く突き刺さっていた。

 

先程のサキュバスとの戦いでも肩に傷を受けていた彼は、苦痛に呻いてその場に膝を落とす。

 

「トーマス!」

 

先程の突風を吹かせたタバサが、トマの本当の名を呼んで彼の下に駆け寄った。

彼女は既に、その給仕が子どもの頃に自分とよく遊んでくれていた、兄のようだった年上の使用人であることに気が付いていた。

 

懐かしい思い出が胸をよぎったが、今は昔話に興じていられるような状況ではない。

 

「すぐに手当てを」

 

傍に駆けつけると、怪物の視界に入らないように彼を机の陰に引き寄せて、『水』の治癒魔法をかけようとする。

しかし、トーマスは無理に笑顔を浮かべると、それを手で制した。

 

「私のような者のことを覚えていてくださって光栄です、シャルロットお嬢様。

 ですが私は大丈夫です、それよりもディーキンス様を。

 あの化物を相手に、お一人では……」

 

タバサはそう言われて、はっとした。

 

そうだ、彼を手伝わなくては。

他の客たちを助けようとして、今も頑張っているはずだ。

相手が何者であれ、あの人だけに危険な仕事をさせておくことはできない。

 

トーマスの方は、もう大丈夫だ。命に関わるほどの怪我ではない。

 

「わかった、あなたはここで待っていて」

 

「そうなのね、お姉さま。

 早くこれを着て、お兄さまのお手伝いをするのね!」

 

そういって先程脱いだシャツやマントを運んできてくれたシルフィードに対して、タバサは首を横に振った。

 

「そんな暇はない」

 

確かに今のシュミーズ姿のままでいることは恥ずかしいが、物事には優先順位というものがある。

彼女の気遣いは嬉しいが、トーマスを助けるためならまだしも、着替えなどをするために行動を遅らせるわけにはいかない。

 

結局、あの女の正体……自分にはいまだによく分かっていないが、何かの怪物……を暴いて、実質的に片を付けてくれたのはあの人だった。

トーマスがこうして自分の元に来てくれたのも、きっと彼のお陰なのに違いない。

本来ならば、これは自分の任務だというのに、だ。

 

(また、あの人に大きな借りができた……)

 

だからこそ、このまま彼の世話になりっぱなしでいたくない。

なんとかして、彼の力になりたい。

本来ならば自分の力など、必要ないのだとしても……。

 

タバサはそんな決意を胸に、ぐっと杖を握り直して立ち上がった。

 

 

 

一方、何らかの邪魔が入ったためにトーマスを仕留め損ねたヘルマスは、苛立たしげに舌打ちをした。

 

だが、さらに追撃をかけようかと思った、その時。

自分が目を逸らしていた隙に、足元でディーキンが妙な動きをしていたのに気がついた。

いつのまにか荷物を探って取り出したらしい小瓶の中の液体を、ぐったりした女性の全身にふりかけていたのだ。

 

彼女の全身に絡みついた醜い蔦は、その液体に塗れるや否や、急速に枯れて崩れ去っていった。

 

(こやつ……!)

 

まさか、聖別された水によって自分の胞子を取り払えるということを知っていたとは。

 

一時的に助け出されるくらいどうでもよいといえばよいのだが、だからといってこのままみすみす取り逃がすのは面白くない。

ヘルマスはディーキンが助け出したばかりの女性と、もう一人の男とに止めを刺すべく、両足の鉤爪で2人を踏み躙ってやろうと考えた。

 

しかし、彼がまさに2人の胸を押し潰そうとして足を持ち上げた、その瞬間。

 

「《ソード・オヴ・カフレイ》!」

 

ディーキンは彼らの手をしっかりと握って、すばやく《次元扉(ディメンジョン・ドア)》の呪文を完成させた。

 

「……タバサ、ディーキンはすぐに戻るから!

 だからちょっとの間だけ、こいつの相手をお願いするよ!」

 

最後にディーキンがそう言った、その直後に3人の姿は空間に開いた輝く扉の奥に飲み込まれて、その場から消え去った。

 

ディーキンとしては、本当は逃げ出したりせずに、この場で直ちにヴロックを片付けたかった。

しかし、その間にヴロックが倒れている2人の方を目標にする可能性も高く、危険が大きい。まずは、無関係の客の命を救うのが最優先だ。

ゆえに、一刻を争う状態の女性の方を聖水で治療した後、2人を連れて一旦退くことを決断したのである。

場所を変えて残る男性の方からも胞子を取り払い、彼らに最低限の治療を施して、命の危険が無くなり次第すぐに戻って来るつもりだった。

 

ディーキンはこの事態の責任が自分にあるとは思っていても、だから自分一人で戦うべきだ、などとは決して考えない。

 

そんな独り善がりな責任の取り方をしようとすれば、往々にして余計に事態を悪化させ、かえって仲間に迷惑を掛けることになる。

もちろん、タバサらに負担をかけることに対して、心苦しい思いはある。

だが、互いに支え合うのが仲間だ。自分は自分の責任を果たし、その間、他の仕事については仲間を信頼する。それが冒険者というものだ。

 

ヘルマスは、驚きと困惑とで3人がいた辺りをまじまじと見つめながら、しばし物思いに耽っていた。

 

(あの小僧……)

 

ワシの能力の性質を知っておる上に、《次元扉》の呪文まで扱えるほどの術者であったのか。

さてはあ奴も、リスディスめを仕留めたらしい先ほどの男の仲間か?

確かに先程の男だけでは、あの小娘を屠るにはいささか力不足のように思えたが……。

 

そう考えていた時、ふと妙な気配を感じた。

 

(ぬ?)

 

怪訝に思って顔を上げると、長い杖を持った、小柄な薄着の少女の姿が目に入る。

 

その少女は、次の瞬間杖の先に絡み付かせた槍のような氷柱を、こちらに向かって放ってきた。

ヘルマスは咄嗟に体を捻って、その攻撃を間一髪で避ける。

氷柱は背後の扉に命中して、その表面を大きくへこませた。

 

(小癪な……!)

 

今の攻撃が何かは分からなかったが、おそらくは秘術呪文の使い手か。

さては先程、ナイフ使いの男を仕留めようとした時に邪魔を入れたのも、この小娘だったのか。

 

ならば、どこへ消えたのかわからぬ小僧は後回しだ。

 

(貴様から先に、八つ裂きにしてくれるわ!)

 

ヘルマスは嘴の端を歪めて、タバサの方へ向き直った。

 

 

 

攻撃を避けられたにもかかわらず、タバサの気分はむしろ高揚していた。

 

(あの人は、私に“お願いする”と言ってくれた)

 

別に、勇気を鼓舞する詩を歌われたわけではない。励まされたのですらない。

ただ一言、そういわれただけなのだが。

 

正直なところ、彼は自分の力など、必要としていないのではないかと思っていたのだ。

だが、彼は私にこの場を頼むと言ってくれた。

彼は私を信頼してくれていたのだ。気持ちの面だけではなく、力の面でも。

 

ならば、私はそれに答えるまでだ。

 

敵は謎めいた術を使う、正体不明の魔物だ。果たして自分が勝てる相手かどうかも分からない。

そんな状況であるにもかかわらず、タバサはかすかな笑みを浮かべてさえいた。

 

恐怖はない。かといって、これまでそうしてきたように、心を雪風で凍てつかせているわけでもない。

 

ただ、不思議と高揚しているのだ。状況を考えれば、不謹慎なほどに。

タバサが任務の時にそんな気分になったことは、これまで一度もなかった……。

 




テレキネシス
Telekinesis /念動力
系統:変成術; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:長距離(400フィート+1術者レベル毎に40フィート)
持続時間:精神集中の限り(最大で術者レベル毎に1ラウンドまで)、または瞬間
 術者は精神集中することで、物体やクリーチャーを動かすことができる。
選択したバージョンによって、術者は穏やかで持続的な力を及ぼすことも、一瞬荒々しく押す力を1回だけ及ぼすこともできる。
 持続的な力は、術者レベル毎に25ポンド、最大で375ポンドまでの物体を、1ラウンドあたり20フィートまでの速度で動かすことができる。
クリーチャーは自分の所持している物体に対する効果を、意志セーヴに成功することや呪文抵抗で無効化できる。
このバージョンは術者レベル毎に1ラウンドまで持続するが、術者が精神集中を解けば切れてしまう。
対象の物体を片手で扱っているかのようにレバーやロープを引っ張ったり、鍵を回したり、物体を回転させたりすることもできる。
ただし結び目をほどくなどの細かい作業をする場合には、【知力】判定が必要となる。
また、敵に対して持続的な力を使うことで、突き飛ばし、武器落とし、組みつき(押さえ込みを含む)、足払いを試みることもできる。
 術者は一度に呪文のすべての力を使って、術者レベル毎に1つ、最大で15個までのクリーチャーや物体を目標に対して投げることもできる。
術者は術者レベル毎に25ポンド(最大で15レベル時の375ポンド)までの合計重量を投げつけることができる。
目標に与えられるダメージは、どんな形状や密度の物体を投げるかによって変わってくる。
アイテムを目標に命中させるためには、術者は攻撃ロールに成功しなければならない。
呪文の重量制限内ならばクリーチャーを投げつけることもできるが、クリーチャーは意志セーヴに成功すれば効果を無効化できる。
 要するに、ス○ーウォーズのジェダイやシスが使うフォースのような真似ができる呪文だと思えばよいだろう。


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第六十一話 Demon slayers

招来されたヴロックとタバサとが、雑然としたカジノ場の中で、若干の距離を置いて対峙した。

 

最初に放った氷の槍を避けられたタバサは、すぐさま次の呪文の詠唱にかかろうとする。

今度は、比較的詠唱が短くて済み、かつほとんど不可視で回避の困難な空気の鎚、『エア・ハンマー』を放つつもりだった。

それで魔物の体勢を崩させて、更なる追撃に繋げようというのだ。

 

だが、タバサが連続で攻撃をかけるよりも、ヴロックが内なる“力”を呼び起こす方が早かった。

 

奈落の魔物が内在する魔力を高め、解き放つと同時に、その姿が何重にもぶれる。

僅か一瞬のうちに、ヴロックはその数を7体にも増やしていた。

 

「……!!」

 

それを見たタバサは、驚愕に目を見開いた。

 

離れた場所に身を潜めていたメイジの一人もまた、その光景を見て、悲鳴のような声を上げる。

 

「へっ、遍在!? ……し、しかも、6体も同時に!」

 

『ユビキタス(遍在)』の呪文は、『風』系統のスクウェア・スペルだ。

ひとつひとつが意思と力とを持つ、自身の分身体を作り出す。

 

その強力さゆえに、風のメイジが己の系統こそ最強であると主張する際にしばしば引き合いに出す、奥義とも呼ぶべき呪文である。

だが、強力であるぶん負担も大きく、長時間・長距離の維持や、多数の同時使用は難度も消耗も飛躍的に増す。

通常はごく近距離で一度に1~2体、余程腕の立つ術者が数ヵ月かけて蓄えた精神力を放出しても、せいぜい4~5体が関の山だ。

 

それを、こともあろうに、一度に6体とは……。

自分たちの扱う系統魔法を遥かに超えた所業を見て、メイジが悲鳴を上げるのも無理からぬことだといえよう。

かの悪名高いエルフたちでさえ、果たしてそれほどの真似ができるものかどうか。

 

(気圧されては、駄目)

 

相手の強さがどうであろうと、自分は戦うしかないのだ。

心を乱したままでは、それこそ勝てない。

 

タバサは内心の動揺を努めて押さえると、完成した『エア・ハンマー』をその中の一体に向けて放った。

 

「ラナ・デル・ウィンデ」

 

杖から放たれた不可視の空気の鎚は、狙い違わず目標を捕える。

 

だが、その途端に『エア・ハンマー』に打たれた魔物の姿は、ふっと掻き消えてしまった。

どうやら本体ではなかったらしい。

 

「「「「「「キシシシシ……、シャアアァァ!!」」」」」」

 

残る6体の魔物たちは一斉に身を震わせ、タバサに向けて嘲笑うような鳴き声を上げる。

 

しかし、優秀な風のメイジとしての鋭い知覚力と観察力とを備えたタバサは、それを見て妙なことに気が付いた。

 

(動きが、まったく同じ……?)

 

遍在は、それぞれが個別の意志を持ち、独立して動ける分身体のはずだ。

しかるに6体の魔物はすべてがまったく同一の動きをしており、声までもがまったく同じように重なっていた。

 

それに注意深く風の動きを探ってみると、巨体の魔物が6体も近くに寄り集まっているにしては、空気の動きの乱れが妙に少ない。

 

『エア・ハンマー』を受けただけであっけなく消滅してしまったのも、妙だ。

たしかに遍在も、概ね風によって構成されているために、見た目よりも実体は希薄である。

ある意味では風船のようなもので、本体に比べればかなり脆い。

だが、それにしても、殺傷力のほとんどない『エア・ハンマー』を一回受けただけで消え去ってしまうほどに脆くはないはずだ。

 

(あの分身は、遍在とは性質がまるで違うということ?)

 

そんな疑念を抱いていたところに、ヴロックからの反撃が飛んできた。

《念動力(テレキネシス)》の能力によって、カジノ内の食器や酒瓶、テーブルなどが、四方八方からタバサ目がけて襲いかかる。

 

「デル・ハガラース」

 

タバサは襲い来る攻撃に備えて素早く『ライトネス(軽量)』の呪文を唱え、身を軽くした。

そうして縦横無尽に動き回って攻撃を回避し、避けきれないものはさっと物陰へ滑り込んで、遮蔽物を盾にしてかわしていく。

 

ある時はまるでバネ仕掛けの人形のように跳ね、ある時は綿埃のようにふわりふわりと舞う。

それでも避けきれないと見れば素早く杖を振り、突風で攻撃の軌道を逸らす。

体術と魔法との、見事な組み合わせであった。

 

そうして避けながらも、タバサはヴロックの作った分身の性質を、冷静に分析していく。

 

(攻撃の数は、増えていない)

 

先ほどトーマスに仕掛けた攻撃と、飛来してくる物の数はほとんど変わらなかった。

6体も存在しているのだから、もしも遍在と同様にそれぞれが攻撃を仕掛けられるのなら、到底かわしきれない数になっているはずだ。

 

と、いうことは……。

あれらの分身体は、風の動きを乱すこともないほどに非常に希薄で脆く、攻撃もできないということだろうか?

もしもそうであるのならば、そこまで恐れることはないだろう。

 

とはいっても、敵の本体がどれかを見極められないために、攻撃を無駄打ちさせられてしまうのは厄介だ。

風の動きだけを頼りにしてタバサに分かるのは、ある程度離れている敵の大まかな位置程度である。

ごく近くに寄り集まっている6体の魔物のうち一体どれが本物なのかを、戦いながら正確に断定する、などということはできないのだ。

 

であるならば、まとめて始末すればよいのだが……。

しかし、複数の攻撃を同時に放つタイプの呪文は総じて比較的高レベルであり、相応に長めの詠唱時間を必要とする。

敵の攻撃を回避するためにも呪文を必要としている現状では、そのための余裕がない。

 

そうなると、一体一体始末していくしかないことになるが……。

果たして敵の分身体をすべて始末するまで、自分は持ちこたえられるのだろうか。

一度でもまともに攻撃を喰らってしまったら、それまでだ。

体力と体格に劣る自分では、些細なミスでも容易に致命傷を受けてしまう。

 

自分の置かれている状況が依然としてかなり不利であることに、タバサは内心焦りを覚えていた。

ただディーキンが戻ってくるまで持ちこたえればいい、それが自分の役目だ、という考えは彼女の頭にはなかった。

一人で戦うことに慣れているゆえに失念しているのか、あるいは彼に頼らず自分で何とかしてみせたいという、無意識の対抗心からか……。

 

タバサは剥き出しの左脚をナイフに掠められながらも、反撃に氷の矢を一本飛ばして、またひとつ分身体を消した。

 

 

 

一方でヴロックのヘルマスも、内心苛立ちを募らせつつあった。

 

(小娘が……!)

 

あの小娘は、小癪にもこちらの《念動力》による再三の攻撃を凌いでいる。

しかも、《鏡像(ミラー・イメージ)》の守りも何体か消された。

 

まったくもって、腹立たしい限りだった。

この扉を封鎖することなどもう止めて、すぐにでも飛びかかっていって引き裂いてやろうかという誘惑にかられる。

 

実際のところ、ヴロックは何度でも、それも何らの消耗もなく、《念動力》や《鏡像》の疑似呪文能力を使うことができる。

だから、一方的に体力や精神力を消耗しているタバサのほうが明らかに不利な立場であり、状況は別段悪くはない。

焦らずにこのまま持久戦に持ち込んでも、じきにタバサが疲れ切ってミスを犯し、打ち倒されるだろう。

 

しかし、殺害欲を満たしたくてうずうずしている今のヘルマスにとっては、たかが数十秒であれ、おあずけを食らうのは我慢ならなかった。

 

この場を離れずに、さっさとあの餓鬼を片付ける方法はないものか。

そう思案を巡らせるヘルマスは、ふと、タバサの持っている杖に着目した。

 

あの小娘は、自分の知らぬ奇妙な呪文を使うようだが……。

見たところではどうもあの杖が、焦点具として必須なのではないか。

少なくとも、これまで呪文を使う際には、常にあれを振るっていた。

 

《念動力》で物を投げつけても呪文で対応されてしまい、なかなか直撃させられないが、その呪文が使えなければ……?

 

(試してみる価値はあろうて)

 

ヘルマスはにやりと嘴の端をゆがめると、次の《念動力》の狙いを決めた。

 

 

 

「……!?」

 

タバサは、突然自分の携える杖に、もぎ取るように横へ引っ張る力がかかったことに意表を突かれた。

 

相手の動向には常に注意を払っていたし、死角から急に物品が飛んで来ないかを警戒して、空気の流れの変化にも気を配っていた。

また、先ほど銃を発砲した客がされたように、自分自身の体を持ち上げてどこかに叩きつけられそうになったらどうするかも想定していた。

だが、迂闊にも杖の方を狙われる可能性は、考えから抜け落ちていたのである。

 

もっとも、考えていたところでどうにもならなかったかもしれない。

 

物品を飛ばしてこられたなら、避けるなり風で軌道をそらすなりして対処ができる。

自分の体をどこかに叩きつけられそうになっても、『念力』で止めるなり風のクッションを作るなりで対応はできるだろう。

しかし、呪文を使うために必要な肝心の杖そのものをもぎ取られそうになったら、どうすることもできない。

風の防御は不可視の力を遮る役には立たないし、念力で対抗しようにも、それに必要な杖自体を引っ張られていては難しい。

せいぜい意志力で呪文の効果をはねのけるか、自分の頼りない腕力で抵抗するくらいしかないだろう。

系統魔法の『念力』でも同じような事ができなくはないのだが……、射程距離や精度、即効性等の関係で、あまり実戦的ではないのだ。

 

(杖を取られたら、終わり……!)

 

杖が無ければ自分に勝ち目はない。父様の形見でもあるこの大切な杖を、あんな化物に奪われてなるものか。

タバサは自分にそう言い聞かせて必死に精神を集中し、杖を握る手に一層力を込めて、呪文の効果を振り払おうとした。

 

時間にすれば僅か一秒にも満たぬ攻防だったが、タバサにはひどく長く感じられた。

 

やがて、杖に絡み付いた不可視の力は急にほどけて離れていった。

どうやら耐え抜くことができたらしい。

 

タバサはほっとして息をつく暇もなく、直ちに反撃のための呪文を紡ぎ始めた。

今ならば、飛来物を逸らしたり身を軽くして攻撃を避けたりするための、防御用の呪文を紡ぐ必要はない。

絶好の攻撃の機会が訪れたのだ、逃すわけにはいかない。

 

「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ……!」

 

呪文の完成と共に多数の氷の矢が四方八方に散らばり、5体の魔物めがけて周囲から殺到する。

タバサお得意の、『ウィンディ・アイシクル』だった。

 

「「「「「……グオォオォォッ!?」」」」」

 

突然の反撃に、ヴロックは怒りと驚きとが入り混じったような唸り声を上げた。

無数の氷の矢が、僅かな間、水蒸気の煙幕を作り出す。

 

それが晴れた後には……。

 

元通り一体だけになった魔物が、目に怒りを湛えて佇んでいた。

《鏡像》の疑似呪文能力によって作り出された幻影の分身体は、今の攻撃によってすべて破壊されたのである。

 

「……」

 

しかし、それを見てもタバサの表情にはさしたる快哉の色もない。

確かに分身体を取り除くことには成功したものの、一緒に攻撃に巻き込まれた本体はまったくの無傷だったからだ。

気を緩めることなく、ぐっと杖を構え直す。

 

タバサはそうして相手の動向に注意を払いながらも、頭の中では次の手を検討していた。

 

どうやらあの魔物の外皮は、予想以上に頑強なようだ。

一本一本の矢の威力が低い『ウィンディ・アイシクル』では、急所にでも当てない限り効果は期待できないだろう。

しかし、急所を正確に狙うとなると遠距離からでは厳しいが、あの魔物はどうみても接近戦を仕掛けるには危険そうだ。

 

(次は、『ライトニング・クラウド』? それとも、『ジャベリン』?)

 

それらの呪文は『ウィンディ・アイシクル』とは違って単発だが、急所を狙わずとも高い威力がある。

普段の自分は手数で押すことが多いが、現状では一撃の威力が重要だ。

分身体をすべて消滅させた今ならば、狙いをつける上での問題はないだろうが……。

 

問題は、はたしてあの魔物が今一度長い詠唱の機会を与えてくれるかということだ。

 

 

 

(糞餓鬼めが、ワシにどこまで楯突くか……!!)

 

ヘルマスは、胸中に怒りを煮え滾らせていた。

 

目の前の小娘は、生意気にも自分の術に抵抗してみせた上に、反撃まで浴びせてきたのだ。

たとえ害はなかったにせよ、許しがたい態度だった。

 

もう、我慢がならぬ。他の連中のことなど後回しだ。

今すぐあの小娘の腸を引き裂いて喰らい、その血で羽根を洗ってくれよう。

たかが人間の分際で、偉大なる魔族である自分に対して分を弁えぬ反抗をしたことを、奈落に堕ちてから後悔するがよい。

 

『ワシはお前を殺すぞ、小娘!

 殺して、その柔らかい腸を喰らい尽くしてくれる!』

 

ヘルマスはその恐ろしい宣言を、タバサの心の中に直接送り込んだ。

殺す前に、彼女をより怯えさせようとしてのことだった。

 

ヴロックには、サキュバスとは違い、どんな言語でも話すことができるような能力はない。

だがテレパシーの能力によって、何らかの言語を有するいかなるクリーチャーとでも、意志の疎通を図ることができるのだ。

 

 

 

タバサは突然自分の中に響いた不快な金切り声に、一瞬たじろぐ。

 

しかし、いつまでもそれについて考え込んでいるような余裕はなかった。

その次の瞬間には、翼を広げたヘルマスが自分の方に向かって猛然と突っ込んできたからだ。

 

とっさに杖を振るい、『エア・ハンマー』を叩きつけて魔物を迎撃しようとする。

 

だが、それは誤った選択だった。

風の鎚は魔物の体表に触れるや否や、何の衝撃も与えずに形を失って流れ去ってしまったのである。

 

「!?」

 

タバサはヴロックの持つ、生来の呪文抵抗力を克服するのに失敗したのだ。

しかし彼女は、目の前の魔物がそんな能力を持つことなど知らない。

そのため、風の鎚をかわすでもなく、受けて堪えるでもなく、まったく何の影響も受けずに突進してくるヴロックに驚愕した。

 

咄嗟に飛び退いて爪をかわそうとするが、『ライトネス』の呪文無しでは素早い一撃を避けきれない。

 

剣呑な鉤爪によって、腹部を掠められた。

魔物の宣言通りに腸を引き出されるまではいかなかったが、シュミーズが裂けて血が噴き出す。

 

「っ……!」

 

タバサは片腕で腹を押さえ、痛みに顔をしかめながらも、必死に杖を構えた。

どうにかして、体勢を立て直さなくては。

だが、眼前に迫ったこの恐るべき魔物から、今更逃れられるだろうか。

 

ヴロックの背後では、状況を見守っていた客たちが早速扉へ殺到して、逃げ出そうとしている。

 

タバサとしては、別に彼らを不人情だ不道徳だと責めようとは思わなかった。

居てくれたところで役に立つとも思わないし、むしろさっさと逃げてくれた方が守る負担が掛からないのでありがたい。

 

タバサは、このような窮地にあってさえも、他人を頼みにしてはいないのだった。

 

『終わりだ、小娘!

 お前の魂なぞ、永遠に奈落で苦しむがいいわ!』

 

勝ち誇ったような言葉をタバサに送りながら、ヘルマスは両腕を広げて彼女に躍り掛かろうとする。

その四肢すべての鉤爪と嘴とによる多重攻撃にかかれば、タバサのか細い体など、ものの数秒で完全に引き裂かれてしまうだろう。

 

だが、そうはならなかった。

 

突然横合いから皮袋のようなものが飛来し、ヘルマスの頭部に命中して弾ける。

真っ赤な液体が流れ出して、彼の目に鼻に降りかかった。

 

「ギィッ!?」

 

完全な目潰しにはならなかったものの、視覚と嗅覚とに唐突にノイズが混じり、不快な痛みが走る。

ヘルマスは呻き、手で顔を擦って液体を落としながら、皮袋の飛んできた方を睨んだ。

 

そこには、シルフィードに肩を支えられながら立つ、トーマスの姿があった。

 

「怪物め、お嬢様に手はかけさせん……!」

 

「そうなのね、お姉さまから離れるのね!」

 

タバサは、ヴロックの注意が一瞬自分から逸れた、その好機を的確にとらえた。

 

今のうちに逃げる? いや、それでは事態は何も変わらない。

反撃をして、この怪物を倒さなくては。

 

(ありがとう、トーマス、シルフィード……)

 

自分に思いがけない救いの手を差し伸べてくれた2人に、心の中で感謝しながら。

タバサは、速やかに身を捻って呪文を唱えた。

 

「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ」

 

唱えた呪文は、先程と同じ『ウィンディ・アイシクル』だった。

だが、今度は空気中の水蒸気を凝固させるのではない。

 

呪文が完成すると同時に、ヘルマスの顔にこびり付いた手品用の血糊の水分が瞬時に氷結して、複数の氷の矢に姿を変えた。

何本もの真っ赤な矢が至近距離から魔物の顔に襲い掛かり、目や鼻孔の周囲をずたずたに裂いていく。

 

「ギャアァアァァ!?」

 

奈落の強大な魔物は、紛れもない苦痛の叫びを上げた。

怪物自身のおぞましいほどにどす黒い血液が噴き出して、その顔を再び濡らしていく。

 

魔物は悶えながらも、盲滅法に腕を振り回した。

タバサは魔物から飛び退いて、距離を取るようにしながらその腕を掻い潜る。

だが、鋭い鉤爪が一度、右肩を掠めた。

 

シュミーズの肩紐が切れ、激痛が走って血が溢れ出す。

タバサはそれを庇う様子も見せなかった。

自分のことに構っていては、反撃の好機を逃してしまうことになる。

 

タバサは気力を振り絞ってもう一度杖を振り、更なる追撃をかけた。

絶叫する怪物の嘴の奥にある、汚らしい唾液らしき液体を鋭い氷の矢に変えて、喉の奥へと飛び込ませる。

 

氷の矢が喉を貫くか、内臓をずたずたに切り裂くかすれば、いかな怪物とて生きてはいられまい。

ヴロックは痙攣するように身を震わせ、その嘴の奥からどす黒い血がごぼごぼと溢れだしてきた。

 

(勝った……)

 

タバサはそう確信すると、ようやく張り詰めていた気を緩め、床にへたり込んだ。

 

同時に、それまでは戦いの高揚で半ば麻痺していた痛覚が悲鳴を上げ始めて、一瞬気が遠くなりかける。

魔法の助けを借りたとはいえ激しく動き回った肉体的な疲労、そして精神的な消耗。

脚、肩、そして腹に受けた傷も決して浅いものではなく、無残に裂けた薄手の衣服に血が滲んでいた。

 

しかし、直後にそんな彼女の目を一瞬で覚まさせる凄まじい怒号が、心の中に響き渡った。

 

『ヴオォォオオオオオォオオオ!!!!!』

 

それはヴロックからのテレパシーだったが、もはや声ですらない。

タバサでさえ思わず身を竦ませ、全身の血が凍りつくような思いを味わう、純然たる怒りと憎悪の雄叫びだった。

 

「そ、んな……」

 

一旦安堵して気を緩めてしまったタバサは、即座に反撃の気力を奮い起こすことができなかった。

彼女らしからぬ呆然とした呟きを漏らして、目の前の魔物を見上げる。

 

ヴロックの目は半ば潰れかかり、怒りに歪んだ顔はあちこちずたずたに裂けて、どす黒い血がこびりついている。

砕けた氷の矢の破片を吐き捨てる嘴は憎々しげに歪み、その奥からはごぼごぼと黒い血を溢れさせている。

だが、それほど傷つきながらも、巨体に漲る生命力は依然として衰えた様子もなく、煮え滾る怒りに身を震わせていた。

 

オーク鬼やミノタウロスのような、彼女の常識の範囲内にある頑強な生物であれば、先程の攻撃で仕留められていただろう。

だが、異界の生物の超常的なまでの生命力とダメージ減少能力との前には、今一歩及ばなかったのだ。

 

 

 

ヘルマスは怒りに身を震わせながら、タバサの方にじりじりと歩み寄っていく。

 

八つ裂きにしても飽き足らぬ小娘だったが、その涼しげな顔に初めて浮かんだ明らかな恐怖の感情を味わうのは心地よかった。

それが幾許かは受けた苦痛を和らげてくれたが、こいつが自分に対して犯した、万死に値する罪の償いにはならない。

 

こいつは嬲り苛み、喉が潰れるまで命乞いの悲鳴を上げさせてから叩き殺してやろうと既に決めている。

それからゆっくりと柔らかい肉と腸を喰らい、血を飲んでこの傷の痛みを癒すのだ。

 

そんなおぞましくも甘美な計画を思い描いてタバサににじり寄るヘルマスの前に、突然邪魔者が飛び込んできた。

 

タバサよりもずっと小柄な人間の少年のようで、一見ひどく頼りなく見えるそれは、もちろんディーキンだった。

《次元扉(ディメンジョン・ドア)》の呪文を使って帰還すると、即座に駆け出して、ヴロックとタバサの間に割って入ったのだ。

 

「遅くなってごめんなの、タバサ。みんな。

 ……やいこら、あんたの相手は今からディーキンがするの!」

 

「ふうむ、異界の来訪者ですか。なかなか斬り裂き甲斐がありそうな相手で。

 しっかりと握って振り回してくださいよ、コボルド君」

 

ディーキンが携えたエンセリック(今は長剣の姿をしている)が、暢気そうにそんな注文をつけた。

《清浄なる鞘(セイクリッド・スキャバード)》による祝福の効果で、今は漆黒の刀身から仄かに清浄な白い輝きを放っている。

 

(先程の小僧か……、どいつもこいつも、愚か者どもが!)

 

貴様らはただ我ら魔族に弄ばれ、殺されるだけが運命の家畜でしかないというのに。

それが身の程も弁えず、偉大なる自分の邪魔立てをするから、なおさら苦しんで死んでゆくことになるのだ。

 

ヘルマスは激情にまかせて、邪魔者に踊り掛かった。

ディーキンもまた両手でエンセリックを構え、ヴロックに飛び掛かるようにして迎え撃つ。

 

そうして両者が交錯する瞬間、ヘルマスは初めて、間近でディーキンの目を見た。

 

(……!?)

 

それまでは何も知らぬ、無邪気で無力な小僧としか見えなかった少年の目。

その瞳の中に燃える怒りの光。魔族のそれとはまったく違う、他人のために燃え上がった炎の輝き。

それが、まるで自分への確実な破滅の宣告であるかのように思われた。

 

ヘルマスの中に沸き上がっていた憎悪と怒りが、瞬時に凍りつくような恐怖と困惑にとって代わる。

 

(馬鹿な……!)

 

千数百年もの間奈落の闇に潜み、脆弱な種族の血肉を存分に喰らってきた、このヘルマスが。

こんな幾十年も生きておらぬような、物質界の下等な種族の、ちっぽけな餓鬼から。

まるで死王魔族(バロール)や赤死鬼王(モリデウス)に対峙した時の如き、威圧感を感じるなどとは……。

 

 

 

「ディーキン……」

 

杖にすがりつくようにしてどうにか立ち上がろうとしていたタバサは、彼の姿を認めるとか細い声を漏らした。

 

胸中では、安堵と不安の入り混じったような、複雑な思いが渦巻いていた。

彼の強さは理解しているが、はたしてあの常軌を逸した魔物と戦って、無事でいられるのだろうか。

 

(あの人を、手伝わなくては)

 

そう思って杖を構え直すタバサは、その時ディーキンと魔物とがお互いに飛び掛かり合い、交錯したのを見た。

 

ほぼ同時に繰り出された魔物の両脚の鉤爪を掻い潜り、右脚を蹴るようにして懐へ飛び込む。

その勢いのまま胸板に剣を深く埋め、そこに振るわれた両腕の鉤爪を剣を軸に回転するようにして避ける。

そうして虚しく交差した腕を、胸板から引き抜いた剣を目にもとまらぬ速さで振るって叩き斬った。

最後の反撃として繰り出された嘴も足で蹴り上げて軌道を逸らし、逆にその小さな口を大きく開いて、剥き出しになった喉笛に食らいつく。

 

タバサにかろうじて追えたのは魔物とディーキンの身のこなしだけで、素早く振るわれた剣閃は見切れなかった。

 

呆然と見守る彼女の目の前で、両腕を失った魔物はひゅうひゅうと喉を鳴らし、嘴からごぼりと血を溢れさせて、仰向けに倒れる。

自分に起きた運命が信じられないと、その驚愕にゆがんだ顔が物語っていた。

 

ヴロックの屍はそのまま、霞のように薄れて消えていった。

物質界へ送り込まれた活動体がすべての生命力を失ったことで、招来の効力が切れたのである。

奈落にあるヘルマスの本体は何の害も受けてはいないが、少なくとも敗北感や恐怖を味わわせることはできたであろう。

 

「なんだ、もう終わりですか。思ったより斬り応えのない輩でした」

 

そう言ってぼやくエンセリックを鞘に納めると、ディーキンはタバサに向かって頭を下げる。

それから、すぐに残る負傷者の手当てに向かっていった。

 

「……すごい……」

 

タバサはぽつりと呟いて、そんなディーキンの姿をただじっと見つめていた。

自分が、自分たちがあれだけ手こずった怪物を、彼はただの数秒で仕留めてしまったのだ。

 

少し前までの自分なら、劣等感や悔しさで心をかき乱されていただろう。

今でも、そんな気持ちがまるで無いわけではない。

それでも、タバサがディーキンを見る目は、この短期間の間に随分と変わっていた。

 

まるで、彼自身が語る、物語の中の英雄のように。

あの『イーヴァルディの勇者』のように。

彼はあの恐ろしい魔物をこともなげに倒して、自分を助けてくれたのだった。

 




ミラー・イメージ
Mirror Image /鏡像
系統:幻術(虚像); 2レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:自身(本文参照)
持続時間:術者レベル毎に1分
 術者は自分そっくりの虚像を、自分の周囲5フィート以内に1d4+術者レベル3レベル毎に1体(ただし最大で8体まで)作り出す。
虚像は術者の行動をそっくりに真似、術者と同じ音を出すので、視聴覚によっては本物と虚像とを識別することはできない。
術者は虚像と混ざり合ったり、互いに通り抜け合ったりすることで、いずれが本物かを一旦見破った敵をも再び混乱させることができる。
虚像はそれをターゲットとした攻撃が命中すれば消滅するが、範囲攻撃に巻き込まれても消滅しない。

ブレス・ウェポン
Bless Weapon /武器祝福
系統:変成術; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に1分
 この呪文は1つの武器を、悪の存在に対して正確無比な一撃を与えられるようにする。
悪の属性を持つクリーチャーに対して使用する際、対象の武器は善の属性を持つ魔法の武器であるものとして扱われる。
また、この武器による悪の属性を持つ敵に対するクリティカル・ヒット・ロールはすべて自動的に成功する。
ただし、クリティカルに関する他の魔法的な能力を既に持っている武器に対しては、この最後の効果は適用されない。
 この呪文は、パラディンにしか使うことができない。
 ディーキンが所持している《清浄なる鞘》は、収めた武器に合言葉でこの呪文の効果を与える鞘である。
鞘には武器を清潔かつ鋭利に保つ効果もあり、剣でも斧でも、双頭武器でも、どんな武器にでも合うようにその形を変えられる。
値段は4400gp(金貨4400枚)で、マジックアイテムとしては高価な部類ではない。

ヴロック(凶鳥魔族):
 サキュバスと同様、奈落界アビスに棲まうデーモンの一種族で、副種別としてはタナーリに属する。
鉤爪の生えた逞しい四肢と羽毛に覆われた大きな翼、ハゲタカの頭を持ち、身の丈は8フィートもあって、鳥人めいた姿をしている。
並みの人間以上に知的ではあるが凶暴で戦闘好きであり、より強力なデーモンに衛兵や戦場における飛行強襲兵として仕えることが多い。
 その体は善の属性を持つ武器によってでなければ容易に傷つかず、呪文抵抗力によって弱い呪文を水のように弾く。
加えてサキュバスと同様の耐性やテレパシーの能力も持っている(これらは一部の例外を除いてすべてのタナーリに共通した特徴である)。
数種類の有用な疑似呪文能力を持ち、おぞましい胞子をまきちらして周囲の者を殺害し、聞く者を朦朧化させる絶叫を上げる。
しかし、最も恐るべきは翼や瞬間移動を用いたその機動力と、強靱な五体から繰り出される近接攻撃であろう。
また、3体以上で手をつないで3ラウンドの間特殊な踊りを行うと、周囲30フィートを薙ぎ払う強烈な衝撃波を発生させることができる。
危機的な状況に際しては、アビスから同族や下位のデーモンの招来を試みることもできるが、成功率はあまり高くはない。
なお、招来された存在は自身の招来能力を使ったり、瞬間移動をしたりすることはできない。
 彼らはデーモン全体としては中の下程度の強さだが、およそ尋常な人間の太刀打ちできる相手ではない。
平凡な傭兵などでは、数十人でまとめてかかっても返り討ちにされるのが関の山である。
 ヴロックは、サモン・モンスターⅧの呪文で招来することができる。


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第六十二話 Sneaking visit

 

ヴロックを倒した後もなおしばらく、ディーキンらは事態の収拾のために忙しく働かねばならなかった。

 

まず、事態を目撃した店内の客に対するフォローが早急に必要だった。

客にはタバサが自分のシュヴァリエの身分を明かし、王宮の命令でこの店に潜む怪物の調査をしていたのだ、という旨の説明をする。

 

使用人にはトーマスがオーナーの死を伝え、店の蓄えの中から幾許かの退職金を渡してやった。

残りの金は、おそらく後日王宮を通して、客たちに返金されることになるだろう。

 

そうして無関係な者たちをさっさと帰らせ、店を封鎖してから、次にこの惨事の後片付けに取りかかった。

 

最初に、タバサが仕事の完了を報告する際の証拠品とするため、骨と化したサキュバスの亡骸を回収する。

その際にディーキンはサキュバスの所持品を検分し、マジック・アイテムの類については戦利品としてもらっておいた。

それ以外の装飾品等は、店の売上金と一緒に後で王宮へ提出することにしてタバサに委ねる。

 

ディーキンはこの店にデーモンがいたことで、ますますガリアの王宮内にはデヴィルが入り込んでいるのでは、という疑いを強めていた。

デヴィルとデーモンは悪の頂点の座を争う宿敵同士であり、遥かな太古から血で血を洗うような争いを続けているのだ。

この店にデーモンがいることを知っていて排除させようとしたのだ、と考えてもおかしくはない。

 

仮にそうでないとしても、デーモンが遺していった品々をそのまま王宮に委ねてしまうのはよくないだろう。

不適当な人物の手に渡れば、どんな不幸の種になるか分かったものではない。

金は客たちに返金しなくてはならないが、不穏当な物品は引き渡さずにこちらで持っておくか、内密に処分してしまった方がいいはずだ。

 

それから、続けて奥の方の片付けに取り掛かった。

 

カジノの奥にあったいくつかの部屋の様子は、デーモンが美しい見てくれの下に隠していた、腐敗と堕落とを如実に表していた。

ある部屋には、退廃的・嗜虐的な娯楽に使うための器具や薬品、性的な征服を通して得たおぞましい戦利品のコレクション等が並んでいた。

ディーキンはそれらの物品をざっと検分し、明らかにいかがわしい物、悪の穢れを受けているような物はすべて処分していった。

そうではない物で利用できそうなごく一部の品物は、回収して持っておくことにする。

 

どこから調達したのか、『苦薬』と呼ばれる麻薬を抽出するための大がかりな機材が設置された部屋もあった。

激しい苦痛に苛まれている犠牲者から魔法的に抽出されるこの悪しき物質は、使用者に強烈な幸福感を与える極めて中毒性の高い麻薬だ。

当然、作成済みの薬と機材の類はすべて完全に破壊して、残骸まで含めて念入りに処分しておいた。

 

完全にデーモンに屈服して傀儡となった人々が、爛れた行為を行われるために一時的に拘束されている、牢獄のような部屋もあった。

あのサキュバスは、おそらくこれらの虜にした者や攫ってきた者を拷問にかけて、悪しき麻薬を作りだしていたのだろう。

囚われていた犠牲者の中には、件の麻薬に対する中毒症状を呈している者も何人かいた。

ディーキンは詮索されぬよう彼らに目隠しをした上で、招来呪文を用いて呼び出した来訪者に頼み、簡単な治療を施してやった。

その様子を見たほかの3人、特にタバサは、非常に興味を惹かれた様子だったが……。

 

最奥の倉庫は、特に悲惨な様相を呈していた。

 

そこには、わけのわからない体液に塗れたり、無残に痛めつけられたりした屍が、何体も押し込まれていたのだ。

おそらくはサキュバスが欲求不満を解消するために攫ってきた不幸な孤児や浮浪者、旅人等であろう。

カジノのオーナーであったというギルモアの遺体も、それらの屍に交じって転がっていた。

 

トーマスはその腐りかけた遺体の傍に跪いて手を握ると、静かに涙を流しながら彼らに詫びて、死者の魂の安息を祈っていた。

このカジノの店員として、責任を感じているのであろう。

ディーキンらもまた彼に倣って、しばし哀れな犠牲者たちのために祈った。

 

 

 

そうしてすべての部屋からデーモンの遺していった穢れの痕跡を完全に始末し終わったころには、既に夜明けが近い時間になっていた。

さすがに皆かなり疲れていたが、誰一人としてこの忌まわしい場所で一眠りしたいなどという者はいなかった。

 

用件が済み次第足早に店を後にすると、最後に全員で郊外の人気のない丘に、犠牲者たちの遺体や遺品を埋葬しに向かった。

ディーキンはバードとして、犠牲者たちのために鎮魂歌を奏で、いつになく厳粛な調子で祈りの言葉を朗誦した。

 

 

 

 

 公正なるティールよ

 慈悲深きマイリーキーよ

 温かきラサンダーよ

 

 すべての善なる人の神々よ、どうか彼らを天上から見守りたまえ

 御使いを遣わし、導きを与えたまえ

 哀れな御魂が、死後もデーモンによって悩まされぬように

 デヴィルが彼らを誑かさぬように

 

 いと高く高潔なる御方、白金のバハムートよ

 その輝ける翼に乗せて、御魂を浄土に疾く運び賜われ――――

 

 ……

 

 

 

 

ディーキンはさらに、呪文でランタン・アルコン(燈火の聖霊)を呼んで、死者たちのために祈ってもらった。

 

招来された4体のアルコンは、呪文の効力が切れるまでの間ずっとその暖かな輝きで墓標を照らし、柔らかく音楽的な声で歌ってくれた。

その行為に、実際に何らかの効力があるというわけではない。

だが、天上界から聖霊がやってきて導いてくれたのだと思えば、犠牲者たちの御魂も少しは慰められるだろう。

 

この手の呪文に馴染みのないトーマスらは、驚きと感嘆の念を持って、その様子を見守っていた。

 

 

 

それを終えると、タバサは休む前に、王宮への報告をさっさと済ませてしまうことにした。

 

プチ・トロワへ赴き、ディーキンやトーマスのことは伏せて、正体不明の魔物が人々を誑かしていたのを始末したことを伝える。

それから、カジノで回収した金品や、これまでの勝ち金を預けてあるシレ銀行の鍵などを引き渡した。

 

イザベラはそれについて、特に詮索はしてこなかった。

 

実を言えば、彼女は既にカジノで騒動があったことについて、ある程度の報告は受けていたのである。

その内容は「カジノに現れた魔物と子供が戦った」「少年が魔物を始末した」というようなもので、タバサの報告と矛盾はしていなかった。

タバサ自身子供のような容姿であるし、男装もしていたので、ディーキンに関する話もタバサのものと混同されていたのだ。

仮にタバサ以外にも戦った者がいたという情報が流れていたとしても、カジノには貴族もいたのだからその中の誰かだと思った程度だろう。

 

そんなわけで、イザベラには特にタバサの報告を疑うべき理由もなかったのだ。

従姉妹が成功したのは面白くはなかったが、まあ自分は先だってその優秀な従姉妹にも勝ったのだと思えば、逆に優越感を感じられる。

それに時刻もまだ早朝なので、彼女を嬲って愉しむよりも、もう少し寝ていたかったというのもあるだろう。

 

イザベラの背後にいるラークシャサも、別段深く探りを入れようとは考えなかった。

 

この度の任務は、元々デヴィル側からの要請であった。

カジノにデーモンが潜伏している可能性があるのでそれを探らせ、可能ならば排除させろと言って来たのだ。

大方、邪魔者を始末した上で、そいつが築いたカジノをそっくり頂き、自分たちで利用しようという腹積もりだったのだろう。

 

だが、魔物騒動が起こったのでは店には当分客が寄り付かなくなり、そのまま利用するのは困難になったはずだ。

デヴィルどもの目論見が外れるのは彼にとっては愉快なことだったし、こちらの役目は果たしたのだから文句を言われる筋合いもない。

そうである以上、この上自主的に何かしてやる気などは毛頭なかった。

 

そうして、イザベラへの報告は特に問題もなく、ごくあっさりと済んだ。

 

 

 

当面の用件をすべて終えると、一行はようやく人心地がついた。

元の姿に戻ったシルフィードと一旦別れると、残った3人は休息のために、適当な宿で部屋を取る。

 

それから、眠る前に同じ部屋に集まって、トーマスの今後の身の振り方について相談をした。

 

「ねえ、トーマスさん。もしよかったら、トリステインに来ない?

 あんたは手品が上手なんでしょ、それにナイフ投げとかもできるみたいだし、ハンサムだよね。

 だからきっと、『魅惑の妖精』亭でディーキンと一緒に仕事をしたら、すごーく人気が出ると思うんだよ!

 タバサも今はその近くの学校に通ってるから、お互いに会いに行きやすいしね」

 

「私も……、そうしてくれると嬉しい」

 

「……何から何までお世話になりましたのに、なおそのように気遣っていただいて……。

 ありがとうございます、シャルロットお嬢様、ディーキンス様。いえ、ディーキンさん、でしたね」

 

トーマスは2人からの提案に控えめな笑みを浮かべると、深々とお辞儀をした。

 

ディーキンもシルフィードも、既にタバサからの信頼厚い彼に対しては正体を明かしていた。

しかし、彼は相手が貴族であろうと平民であろうと、あるいは亜人であろうと、それだけで態度を変えたりはしない主義のようだ。

 

もちろんディーキンとしては大変に嬉しいことであり、彼に対する敬意を新たにしていた。

シエスタの時と同様、様付けで呼ぶのは止めてほしいとだけは頼んでおいたが。

 

「私には、もはや身内もありません。かつて仕えたシャルル様にも、ギルモア様にも、とうとう何のご恩返しもできずじまいです。

 大恩を受けたあなたと懐かしいシャルロットお嬢様のお役に立てるのであれば、喜んでまいりましょう」

 

それを聞いたタバサは僅かに、しかしはっきりと、嬉しそうな笑みを浮かべた。

懐かしい使用人に再会できたためか、普段よりも表情が柔らかい。

 

それから、トーマスとタバサはしばらくの間、思い出話などに花を咲かせて旧交を温めた。

 

ディーキンは彼らの話の邪魔をしないように静かに耳をそばだてて、様々な情報を知った。

タバサの本名がシャルロットといい、オルレアン家なる、非常に身分の高い貴族家の出であるらしいこと。

そのオルレアン家は、何らかの陰謀に巻き込まれて没落したらしいこと。

それにタバサとトーマスとの関係とか、昔遊んだ時の思い出話とか、その他にも色々な細かいことを……。

 

2人には積もる話があったし、ディーキンにとっても彼らの話は興味深かった。

とはいえ、今日はみな疲れている。

ある程度話して一区切りつくと、続きはまた翌日にして解散し、一行は各々の部屋に引き取って寝ることになった。

 

 

 

「ンー……、今日も楽しかったの」

 

ディーキンは自分にあてがわれた部屋に入ると、大きく伸びをした。

今日もまた、いろいろなことがあった。

 

犠牲者のことや、デヴィルの件などを考えれば、楽しかった、などというのは不謹慎だという者もいるかもしれない。

 

しかし、そんなことを言っていたらこの世の中は何ひとつ楽しむには値しなくなってしまうのだ、とディーキンは考えている。

コボルドの部族の洞窟で過ごした日々は辛く、恐ろしいものだった。

それでも時には楽しいこともあったし、多くの役に立つ教訓を学びもした。

 

今日のことも、それと同じだ。

初めて学院から大きく離れて別の国を見たし、トーマスという新しい友人とも知り合えた。

そしてデーモンを打ち倒して、その悪事を終わらせることもできた。

 

哀しいことがあったからと言って、良いことの方を喜んではいけないなどとは思わない。

 

とにかくここへ来てから、毎日が刺激的で、退屈しない日々が続いている。

ディーキンは、明日が来るのが心から楽しみだった。

 

自前の魔法の寝袋で眠るのが一番快適ではあるだろうが、せっかくなのであえて宿のベッドに横になってみた。

 

安めの宿なのでそんなに柔らかいわけでもなかったし、寝ている間にウロコや翼などで傷めないように気をつけもしなくてはならない。

しかし、何でも新しい物は試してみたいというのがディーキンの性分である。

 

「そういえば、ルイズはどうしてるかな……」

 

使い魔の仕事はラヴォエラに頼んで来たし、何も心配はいらないだろう。

だが、仮にも“主人”である彼女を放って、勝手に出てきたのは申し訳なかったと思っている。

それにラヴォエラにも、あまり長い間仕事を押し付けておくわけにもいくまい。

 

この国の上層部にデヴィルが入り込んでいるかも知れないというのは不安だが、現状では踏み入った調査をするのも難しそうだ。

任務とやらも終わったことだし、今はひとまず学院に戻ろう。

それからみんなに、念のためデヴィルに関する説明をして、注意を促しておこう。

タバサには、今後の『任務』の時には自分を必ず同行させてくれるように頼んでおいて。

 

それから……。

 

「ウーン、あとは……。

 みんなに何か、お土産でも買って帰ろうかな?」

 

ベッドに寝転がって少しうとうとしながらそんな風に考えていたとき、部屋のドアがコンコンとノックされた。

ディーキンはベッドの上で身を起こして、ちょっと首を傾げると、外の人物に向かって呼びかける。

 

「誰? ディーキンに用事なの?」

 

返事の代わりにドアが僅かに軋んで開き、ノックの主が姿を現した。

 

「……タバサ?」

 

彼女はカジノで着ていた男装とヴロックに破かれたシュミーズとを脱ぎ捨てて、下着の上から宿に備え付けのナイトウェアを着ていた。

貴族が着るにしては質素なものだったし、若干ぶかぶかだったが、タバサは別に気にした様子もなかった。

窮屈な男装や、学院の制服で寝るよりはいいと思ったのだろう。

 

「もう少し、話したいことがある。……いい?」

 

ディーキンは、やや不思議そうに目をしばたたかせた。

 

話があるのなら、さっきトーマスと一緒にいた時にすればよかっただろうに。

何か、話し忘れたことでもあったのだろうか。

 

なんにせよ、別段断る理由もないので素直に頷く。

タバサはとことこと部屋に入って来ると、ベッドの脇、ディーキンの横の方に正座した。

そうすると、ベッドの上にいるディーキンよりも、いくらか目の高さが低くなる。

 

他人と同じベッドの上にずかずかと登っていかないのは、まあ当然のことだが……。

ディーキンにはそればかりではなく、何かあえてタバサが、自分をより低い位置に置こうとしているかのように思えた。

ゆえに、少し迷ったが、あえてベッドから降りずに彼女と応対することにした。

 

彼女はそのまましばらく、押し黙ったままだった。

どこかそわそわした様子でじっと俯き、時折ディーキンの方を上目遣いに見たりする。

なにか思い悩んでいるらしいことは察せられたので、ディーキンは彼女が話し出すまで、急かさずに待つことにした。

 

やがて、タバサは顔を上げてじっとディーキンの方を見つめると、重い口を開いた。

 

「……今日は、ありがとう」

 

「どういたしまして。でも、ディーキンはそんな、大したことはしてないと思うの。

 それに、タバサにもずいぶん、危険なことをお願いしたりもしたし……」

 

「元々は私の仕事、私が危険を冒すのは当然。

 あなたがいなかったら、私はどうなっていたかわからない。

 それに、トーマスも助けてくれた……」

 

タバサは自分の杖を捧げるように持って、深々と頭を下げた。

それから、またしばらく押し黙ってしまう。

 

彼女は、ここまで来たものの、どうしても話す決心がつかずに悩んでいた。

 

どんな任務でも恐れずためらわないタバサにも、躊躇することはあるのだ。

自分がこれからしようとしている頼み事は、聞き入れればガリア王家を敵に回しかねない危険なことだから。

 

そうであっても、彼が決して断らないであろうことはよく分かっていた。

彼なら、物語の中の英雄のように自分を救ってくれたこの人なら。

 

だからこそ躊躇するのだ。

ここまで世話になっているこの人に、この上そんなことを頼んでもよいものかと。

 

これが自分一人のためのことなら、決して頼まないだろう。

だがこれは、大切な身内のためでもあるのだ。

 

それでも後ろめたさを感じて、なかなか切り出すことができないでいた。

 

(……ウーン)

 

ディーキンはどうしても決心がつかない様子のタバサを見て、内心で考え込んだ。

 

思うに、彼女には何か、自分に持ちかけたい頼みごとでもあるのだろう。

しかし、明らかに躊躇っている様子だ。

 

彼女の性格からして、おそらくは危険なことなのでこちらの身を案じているか、あまりに図々しいとでも思って遠慮しているのか……。

 

もちろん自分はそんなことを気にしないが、こちらから遠慮なく話せなどといっても逆効果でしかないだろう。

ここは大人しく、彼女が話す気になるまで待つことにしよう。

そう、思っていたのだが……。

 

この分では、こちらからなんとかして水を向けた方がいいかもしれない。

ディーキンはひとつ咳払いをしてタバサの注意を引くと、じっと彼女の顔を見つめて、真面目な調子で話し始めた。

 

「オホン……。ねえ、タバサ。

 タバサは、もしかしてディーキンのことを信じてくれてないの?」

 

「! ……そんなことは、ない」

 

「うん、タバサにそんなつもりがあるなんて思わないよ。

 でも、ディーキンは冒険者なの。冒険者の間で信頼するっていうのは、危険を分かち合ってくれることだよ。

 ボスがよく、そう言ってるの」

 

「……」

 

ディーキンはベッドから降りると、押し黙ったタバサの手を取った。

そうしてから、無邪気そうな笑顔を浮かべて見せる。

 

「だから、タバサがディーキンを信じてくれるなら、ちゃんと話してほしいの。

 どんな危険なことでも、大変なことでもね。

 それともタバサは、ディーキンがタバサに隠し事をしてても、それを話してほしいとも思ってくれないの?」

 

――そんな調子で、しばらく<交渉>を続けた結果。

タバサはようやく、ディーキンに自分の望みを打ち明けることを決心してくれたようだった。

 

「……わかった。だけど、その前にひとつ教えてほしい。

 その答え次第では、私の頼み事は意味がなくなる。その時は、このことは忘れると約束して」

 

「ンー、そう? わかったの。

 ディーキンはボスに誓って、頑張って忘れるの。自分に催眠術とか記憶を消す呪文とかを掛けてでも」

 

微かに頬を染めたタバサは、深々と頭を下げてひとつ深呼吸をすると、質問を始めた。

彼の言う催眠術や記憶を消す呪文とやらにも興味はあったが、そんなことを聞くのはまた今度だ。

 

「……質問は、あなたがカジノで私や客の傷を治す時に呼びだした、亜人のこと」

 

「亜人? ……アア、ケルヴィダルのこと?

 あの人たちは、亜人じゃなくてガーディナルっていうんだよ。ラヴォエラみたいな天使に近い種族らしいの」

 

ガーディナルは天上の諸次元界に住まい、中立にして善の属性を代表する、獣人めいた姿をしたセレスチャルの一種別である。

ケルヴィダルは山羊のような角や蹄を持つ、サテュロスに似た姿をしたガーディナルの一種だ。

 

タバサはあの獣人めいた姿をした存在が天使の仲間だと聞いて、少なからず興味を惹かれた。

だが、今聞きたいのは種族に関する話ではない。

 

「……そのケルヴィダルというのは、麻薬の中毒になった人でさえ癒していた。

 どんな毒でも、治すことができる?」

 

タバサの望みは勿論、叔父によって自分の母が飲まされ、正気を失わされた毒の効力を消し去って、彼女を救うことだ。

これまでどんな水の秘薬を用いても、母の陥った狂気を癒すことはできなかった。

 

だが、フーケとの一件の際にディーキンは、ブララニとかいう名のエルフめいた姿の存在を呼び出した。

それが自分の治癒魔法がまるで効かなかった傷をたちまち塞いだのを見たとき、タバサは一抹の希望を抱いたのである。

 

その希望は、先程カジノでディーキンが呼び出したまた別種の獣人めいた存在、ケルヴィダルの力を見て、ますます高まった。

それはただ触れただけで自分が魔物から受けた深手をたちまち塞ぎ、麻薬中毒に苦しむ患者をも癒してみせたのである。

 

果たしてディーキンの答えは、タバサの望み通りのものだった。

彼はあっさりと首肯して、何でもないことのように言った。

 

「うん、できると思うよ。

 ケルヴィダルはどんな毒でも病気でも、ただ角で触るだけで治してくれるの」

 





苦薬(液状の苦痛):
 特別な呪文やアイテムを使用することで、苦悶する犠牲者から苦痛の本質を抽出したもの。
見た目はねっとりして赤みがかった液体であり、摂取した者にしばらくの間激しい悦びを感じさせ、より魅力的にする。
 しかしながら、この悪しき物質は通常の麻薬を遥かに超える極めて高い中毒性を持ち、その禁断症状は言語を絶する苦しみである。
悪の属性を持つ来訪者たちは、この物質を熱心に追い求めているという。

ティール、マイリーキー、ラサンダー、バハムート:
 いずれもD&Dの神格。
 ティールは「秩序にして善」の上級神。地球の北欧神話体系からフェイルーンにやってきた戦神で、“もぐり”の神々の一柱である。
 マイリーキーは「中立にして善」の中級神。森の守護者で、かの名高いドリッズト・ドゥアーデンの信仰する女神としても有名である。
 ラサンダーは「中立にして善」の上級神。太陽神で、若々しい活力と創造性、新たな誕生を祝福する強大な神格である。
 バハムートは「秩序にして善」の下級神。プラティナム・ドラゴン(白金竜)と呼ばれ、善属性の竜族の神格を代表する高潔な神である。

アルコン:
 アルコンは「秩序にして善」の属性を代表する来訪者の一種別である。
外見は天使のような者や獣人のような者、光球状の者など様々だが、いずれも荘厳な美を感じさせる。
 ランタン・アルコンは死せる義人の魂が生まれ変わった最低次のアルコンであり、進化すればより偉大なアルコンになれるという。
 なお、グノーシス主義におけるアルコンは低級な霊的存在であり、蒙昧にして傲慢な偽神だが、D&Dのアルコンは純粋に善の存在である。

ガーディナル:
 ガーディナルは「中立にして善」の属性を代表する来訪者の一種別である。
いずれも獣と人との特徴を併せ持った姿をしているが、同じような姿をしたある種の亜人や獣人よりも、遥かに高貴に感じられる。
 彼らはとても親切で、言葉を持たぬ獣とも意志を疎通させることができ、触れただけで傷ついた者を癒す力を持っている。


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第六十三話 Three Lazy Orcs

 

ディーキンはタバサから彼女の願いと大まかな事のあらましとを聞くと、あっさりと助力を承諾した。

 

タバサに深々と頭を下げられて、忠実な従者のような礼をとられたのにはいささか困ったが……。

ひとまず頭を上げてもらい、一眠りして体を休めた後、トーマスやシルフィードも含めて全員で彼女の実家へ向かおう、と取り決めた。

 

そうしてから、ディーキンは寝る前に、事前にいろいろと現地での方針を練っておこうとタバサに提案する。

 

力を貸すこと自体には何のためらいもないが、頼まれた仕事の重大性について軽く考えているわけではない。

下手なことをすれば、タバサやその母親をはじめ、自分の周囲にいる人々の身の安全が脅かされることになるかもしれないのだ。

となれば、そうそう暢気に構えているわけにもいくまい。

 

彼女が同意してくれたので、早速確認しておきたいことを順に質問し始めた。

 

「ええと、タバサのお屋敷には、今は見張りとかはいるの?」

 

「いない」

 

「じゃあ、スパイが紛れ込んでたりとかは?」

 

「しない。家には今、母様の他には昔からの執事が一人いるだけ。

 彼の忠義は保証する」

 

「ンー……、魔法で監視とかもされてない?」

 

「ない」

 

タバサはディーキンのそれらの質問に、明確に即答した。

自分の家のことなのだから、変化があれば気付かないはずがない、という自信を持っているのだろう。

 

それから続けて、自分の意見を述べた。

 

「……だから、あなたが母を救ってくれても、それがすぐに王家に知られることはないはず。

 私はすぐに母と執事のペルスランとを、どこか安全な場所に連れていく。

 危険なお願い。だけど、母さえ救ってさえくれればそれ以上はあなたたちに迷惑が掛からないように、なんとかしてみる……」

 

「ウーン……」

 

ディーキンは、しばし眉根を寄せて考え込んだ。

 

タバサは優秀なメイジであり、その見る目は十分に信頼のおけるものだ。

彼女がそう言うのなら、本当に監視はされていないのかもしれない。

 

しかし……、絶対にそうだと断言できるものだろうか?

 

いかにタバサが優秀でも、彼女にとってフェイルーンの技術が未知のものであり、しばしば想定外であることは既に実証されている。

ハルケギニアには存在しないフェイルーンの呪文を用いた監視には、彼女も気が付けないかもしれない。

そして、ガリア王家内部にデヴィルが存在している疑いがある以上、そういった呪文が用いられている可能性は十分にあるのだ。

 

たとえそうでなくとも、ハルケギニア有数の伝統と力を持つというガリア王家に、どんな未知の魔法技術があるかわかったものではない。

タバサにも、そしてディーキンにも気がつけないような代物が存在していたとしても、何ら不思議ではないはずだ。

 

それに、本当に監視の目などは無く、すぐには露見しないとしても、流石に定期的な視察くらいはしているだろう。

となれば、タバサの母が正気に戻ったり館からいなくなったりすれば、即時ではないにせよ、遠からず露見することは避けられない。

それどころか、フェイルーンの呪文を向こうが使える可能性を考慮するならば……。

どこへ隠れたとしても、《念視(スクライング)》や《クリーチャー定位(ロケート・クリーチャー)》で見つかってしまう恐れがある。

タバサも、それに彼女の母親や身の回りの人間も、だ。

 

気が付いた時点で、誰がやったのかということをガリア王家は調査し始めるだろう。

真っ先に嫌疑をかけられるのは、当然ながらタバサのはずだ。

それを逃れるには、彼女自身も学院から姿を消して、どこかに身を隠しでもするしかない。

あるいは、ガリアからの刺客を真っ向から迎え撃つかだが、いずれにせよ非常に危険が大きいと言わざるを得ない。

 

タバサとて、それは承知の上であろう。

 

その上で、周囲の者に迷惑が掛からないように「なんとかする」と言っているわけだが……。

それは自信というよりは、強がり、ないしは悲壮な決意だという方が近いだろう。

とにかく母を救えさえすれば、その後は自分は父の仇と刺し違えてでも、とでも思っているのか?

 

いずれにせよ、ディーキンにとってはタバサの案をそのまま素直に受け入れるのは危険なように思えた。

自分が頑張って対処法を用意することもできなくはあるまいが、様々なマジックアイテムこそあれど、バードの身では少々心もとない。

現在ではサブライム・コードになるために、より深く魔法の勉強をしている最中とはいえ。

 

最悪、ボスたちに助力を求めるなどして、なんとかできないこともないだろうが……。

 

「……ねえエンセリック、あんたも聞いてたでしょ。どんなことに気を付けておいたらいいと思う?」

 

何かと愚痴の多い元魔術師にも話を振ってみた。

また文句を言われることだろうが、大事なことなのだから相談相手は多いほうがいい。

 

「あー、そうですね。いざという時に備えて私の手入れをもっと頻繁にすることをお勧めします。

 あと、戦いのときはしっかり握って、思い切り振り回してくださいね」

 

「ンー、そう? ありがとう、じゃあそうするよ」

 

「どういたしまして、それでは――」

 

そんなとぼけたやり取りをしただけで終わりにしようとする漆黒の剣を、タバサが黙って杖で小突いた。

 

「……何をするのですか、お嬢さん」

 

「真面目な話」

 

「私は真面目に言ったつもりですが……。

 やれやれ、どいつもこいつも、どうして剣なんかに有益な助言ができると思うんですかね?」

 

エンセリックはひとつ溜息を吐いた後、投げやり気味に付け加えた。

 

「……そうですねえ、ダークパワーの宿っていそうな黒っぽい剣の私なんかに聞くよりも、神様にでもお伺いしたらどうですか?

 あなた方のやることが上手くいきそうかどうか、神様に神託でもなんでもお頼みになればいいでしょう!」

 

それを聞いたタバサは、むっとしたように僅かに顔をしかめた。

こっちは真剣だというのに、またふざけたことを……、と思ったのだ。

 

しかし、ディーキンの方は得心がいったような顔で頷いた。

 

「オオ……、確かにそうなの。

 こういう場合はまず、神様に聞いてみるのもいいかもしれないね」

 

「そうでしょう。どんなにくそったれな神でも、剣よりはマシですよ。おそらくはね」

 

いささか困惑したような様子を見せるタバサをよそに、ディーキンはスクロールケースを探り始めた。

すぐに一枚の巻物を取り出すと、集中しやすいように一旦タバサの傍から離れてそれを広げ、長い詠唱を始める。

 

「《アルラウ・ゼド・ディーキン……、ルエズ・デルファウリ・デルファウルト・イオ――》」

 

「……彼は、何を?」

 

タバサは途方に暮れて、エンセリックに説明を求めた。

 

「はあ……、さっきの話を聞いておられなかったのですか、お嬢さん?

 言ったでしょう、神託ですよ。あの詠唱からすると、どうやら相手は竜族の主神、イオのようですね」

 

「神託……」

 

そう呟くと、タバサはじいっとディーキンの様子を見つめた。

 

どう見ても彼が詠唱に集中する様子は真剣そのもので、声をかけることも憚られる。

目の前の漆黒の剣も、答えるのも面倒そうなやる気のない態度ではあるが、嘘や冗談を言っているようには思えなかった。

しかし……。

 

「……本当に、そんなことが?」

 

タバサは半信半疑といった様子で、ディーキンとエンセリックとを交互に見つめた。

 

ハルケギニアでは始祖ブリミルに対する信仰が盛んだが、司祭が始祖から力を授かるというようなことはない。

魔法を使う司祭はいる。だが、それはその司祭がメイジだからであって、彼らの魔法は系統魔法とまったく同じものである。

始祖のお言葉を聞いたと主張する者は時折出るが、それが真剣に受け取られることは滅多にない。

 

彼女は、ディーキンのすることはもちろん信頼している。

しかし、タバサのこれまでの常識では、神託に基づいて行動するなどというのは茶葉占いや星座占いの結果を信じるのと同じようなものだ。

気休め以上のなにかではなく、そんなことに大事の方針を真剣に託そうなどというのは、およそ馬鹿げた話だった。

 

「まあ……、確かにあなたがたのお国では、そういうことがないというのは伺いましたがね……」

 

エンセリックは、うんざりしたような様子で溜息を吐いた。

 

フェイルーンにおいては、敬虔なるクレリックが神から力や言葉を授かれることは子どもでも知っている常識である。

そんなことを一から説明するのは、実に面倒だった。

 

「彼が神の眷属たる天使を呼び出して頼みごとを聞いてもらったことは、すでにあなたも知っているでしょうに。

 天使を呼べるのならば、神託を授かることもできるとは思いませんか?」

 

「…………」

 

ここへ来る前に学院で見たラヴォエラのことを思い出して、タバサは押し黙った。

そう言われてみれば、確かにその通りだが……。

 

「まあ、論より証拠です。いいから黙って見ておいでなさい、あと数分もあれば済みますよ」

 

タバサは少し考えた後、黙って頷いて一旦自分の疑問を引っ込め、ディーキンの詠唱を見守ることにした。

 

「《――ルエズ・ガルア・ズガ……、シーイール・ディア!》」

 

ディーキンが10分にも及ぶ長い詠唱の最後の音節を紡ぐと同時に、スクロールの文字が一瞬強く輝き、煙を残して消滅する。

その芳しい香の匂いのする煙を吸い込んだディーキンはしばし入神状態となり、神との精神的な交信が形成された。

 

神の存在を感じたディーキンがスクロールから顔を上げると、目の前には雲突くばかりに大きな竜の影が姿を現していた。

正確に言えば、それは彼の心の中にのみ存在するものであったが、決してただの幻覚ではなかった。

その影は、巨竜かと思えば次の瞬間には細身の翼竜のそれとなり、ふと気がつけば猫のように小さな妖精竜のシルエットに変わっている。

 

これこそすべての竜族の相を持ち、それを守護するとされる偉大なる竜族の主神、イオの顕現に間違いなかった。

いつの間にか周囲も安宿の部屋ではなくなり、眩い財宝に覆い尽くされた、竜族の宝物庫に変わっている。

 

ディーキンは再び顔を伏せると、まずは感謝の意を伝えた。

 

『調和の竜、大いなる永遠の転輪、影を呑む者……、一にして九なる竜族の創造主、偉大なるイオよ。

 この度の呼びかけに答えてくれたことに、ディーキンは感謝してるの』

 

イオの影は、時に重々しく低く響き、時に子どものように高くなる奇妙な声で、それに答える。

 

『我が一族の末子よ、愛おしき者よ。

 仰々しい挨拶をするには及ばぬぞ、汝の得意ではなかろう。

 早々に願いを言うがよい、あまり長くはそなたに時間を割いておられぬのでな』

 

ディーキンはちょっとお辞儀をすると、目当ての質問を神に伝えた。

 

『ディーキンはこれからタバサと一緒にお屋敷に行って、タバサのお母さんを助けようと思うの。

 それって上手くいくかな、どんなことに気をつけたらいいと思うか教えて』

 

それを聞いたイオの影は、心なしか、少し笑ったように思えた。

ややあって、回答が伝えられる。

 

『――――いかな人間の王とて、地獄の悪魔とて、どうして竜族の宝物庫に及ぶほどの守りを成し得ようか。

 竜族の詩人たる汝は既に、十分な対策を知っておるはずだ。

 ……そうよな、さしあたっては赤竜フィロッキパイロンの宝を奪わんとした、不埒なる三匹のオークの逸話を思い出すがよいぞ――――』

 

それで、神との交信は終わりだった。

ディーキンは目の前のイオの影が薄らぎ、その存在が急速に自分の精神から離れて行くのを感じた。

 

次の瞬間にはもう、神の影はすっかり消え失せて、ディーキンは元の部屋の中で白紙になったスクロールを握りしめていた。

 

「どうやら、終わりのようですね。

 《神託(ディヴィネーション)》の首尾はどうでしたか?」

 

もう声をかけてよいものかどうかと迷うタバサの横で、エンセリックが先に質問をした。

 

「うん……。イオは、ちゃんと答えてくれたの。

 ディーキンたちは、『赤竜と三匹のオーク』のお話を参考にしたらいいってさ」

 

その後の寝るまでの時間は、概ねディーキンがタバサらにその物語を披露して、解釈について考えることに費やされた。

 

 

 

 

 あるところに、三匹のぐうたらオークの兄弟がいた

 母さんオークは無駄飯食いの三匹をとうとう家から叩き出して、自活しろと言った

 

 三匹の兄弟は、不満たらたら

 けれど手柄を立てれば自分たちも見直されると考えた兄弟は、大胆な計画を立てた

 なんと近隣で有名な赤竜のフィロッキパイロンの巣穴から、宝物を盗んでこようっていうのさ

 

 最初に一番上のお兄さんオークが、ドラゴンが熊を食べに出かけた隙に、巣穴に忍び込んだ

 彼はこう考えた。「盗んじまえばお終いさ。見られなきゃ、誰が取ったかなんてわかりっこないもんな」

 彼はでっかい宝石のたくさんついた像を盗み出して、うんしょうんしょと引っ張っていった

 

 けれどドラゴンは戻ってすぐに、像がなくなっていることに気が付いた

 彼は怒って巣を飛び出すと、空の上からあたり一帯を見回した

 そうして重たい像を一生懸命運んでいるオークに気がつくと、一飲みに食べてしまった

 

 次に次男のオークが、フィロッキパイロンが生意気な真鍮竜を追いかけている隙に、巣穴に忍び込んでいった

 彼はこう考えた。「兄貴はデカすぎるのを盗んだからばれたんだ。ちっこいのを盗めばいい」

 そこで小さな宝石や金貨を宝の山のあちこちからちまちまあつめてポケットをいっぱいにし、巣穴を悠々と立ち去った

 

 けれど何日か経ってから宝物を数え直したドラゴンは、数が足りないのにちゃんと気が付いた

 とても怒った彼は呪文を使って、すぐになくなった宝物の場所を探し出した

 こうして次男も、ドラゴンに引き裂かれて食べられてしまった

 

 最後に三男のオークが、慎重にフィロッキパイロンのことを調べ上げた

 彼はこう考えた。「疑われたらおしまいだ。幸いあいつは目ざとく宝を集めてるが、その価値には詳しくないらしい」

 そこで仲間に芸術品の精巧なレプリカをいくつか作ってもらった彼は、ドラゴンの巣穴に忍び込んで、そいつを本物と取り換えた

 

 ドラゴンは数が変わっていないので、本物の宝が偽物と変わった事には気が付かなかった

 けれど何年も何年も経って、もう安心と思った彼は、酒を飲んだ夜にそのことをぺらぺらと自慢してしまった

 彼の成功をねたむ告げ口オークが、そのことをこっそりドラゴンに教えた

 火山みたいにおこったドラゴンは、三男のいるオークの集落にやってくると、みんなまとめて焼き殺して食べてしまった

 

 こうして結局、三人の兄弟も、母さんオークも、告げ口オークも、みんないなくなってしまったんだってさ

 

 ……

 

 





ディヴィネーション
Divination /神託
系統:占術; 4レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(香とその神に相応しい捧げものを最低25gp分)
距離:自身
持続時間:瞬間
 術者はこれから1週間以内に達成しようとする目的や起きる出来事、活動等について神に質問をし、有益な助言を得ることができる。
ただし、術者の属するパーティがその情報に従って行動しなかった場合には状況が変化し、神託が役に立たなくなる可能性もある。
この呪文で得られる助言は短いフレーズ1つだけの簡潔なものか、もしくは謎めいた詩や言葉にならない前兆のような形をとる。
 助言の内容が正しい可能性は、基本的には70%+術者レベルごとに1%(最大で90%)である。
ダイス・ロールの結果失敗したとしても、術者には呪文が失敗したということはわかる。
ただし、誤情報を与えるような何らかの特殊な魔術等が働いている場合は除く。
 この呪文を同じ内容に関して何度も試みたとしても、得られる結果は最初に試みた時と同じになる。


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第六十四話 Disgrace mark

 

一通りの話し合いを終えた後、ディーキンはさらにもう少し作業をした。

 

まず、《神託(ディヴィネーション)》で得た情報について皆と話し合い解釈して立てた、いくつかの仮説を確認する必要があった。

そのためにもう一度スクロールケースを探り、今度は《交神(コミューン)》の呪文を使用する。

 

この呪文を用いれば複数の質問に対して神から明確な回答を得られるが、その質問は原則二択で答えられるような形でなくてはならない。

したがって、まずは《神託》でヒントを得た後に、それに基づいて、質問するべき事項をいくつかに絞り込んだのである。

タバサは《神託》の時と同様やや不審そうにはしていたが、ディーキンのすることなのだから確かだろう、と納得してくれたようだ。

 

その質問の結果に基づいて、タバサと別れた後にディーキンは再度考えをまとめ、さらにいくつかの仕込みをした。

そうしてから、ディーキンはようやく寝床に入った。

 

ひと眠りして目を覚ました後、タバサとディーキンはトーマスにも事情を説明した。

それから軽く食事をしてシルフィードと合流した一行は、竜の姿に戻った彼女の背に乗って、一路ラグドリアンへと向かう。

ラグドリアン湖はガリアとトリステインの国境沿いに広がる、ハルケギニア随一の名勝と名高い大きな湖だ。

その一帯は古くから、ガリア王家の直轄領になっているのである。

 

しばらくの空の旅の後に、その美しい湖が見えてきた。

タバサはシルフィードに指示すると、ひとつの大きな屋敷の前に彼女を降り立たせる。

 

そこが、彼女の実家だった。

旧い、立派なつくりの大名邸である。

門に刻まれた紋章は交差した二本の杖、そして“さらに先へ”と書かれた銘。

それはまごうことなき、ガリア王家の紋章であった。

タバサの父、オルレアン大公シャルルは先王の第二王子であったのだから当然のことだ。

 

しかし、その紋章には大きな罰点の不名誉印が刻まれている。

それはこの家の者が、王族でありながら現在はその権利を剥奪されている、ということを意味していた。

 

トーマスはしばし沈痛な面持ちでその紋章を見つめながら、かつて仕えた名家の没落を悲しんでいた。

ディーキンもまたじっとその紋章を見つめて、先刻タバサから聞かされた彼女の身の上話を思い返していた。

 

タバサの祖父が命を落とした後、王位を継いだのは先王の長男であり、タバサの伯父でもあるジョゼフだった。

長男が王位を継ぐのは通例に倣えば当然のことであり、本来何も怪しむべき点はない。

しかし、国内の多くの貴族は、その決定に戸惑いを見せたという。

 

長男のジョゼフは貴族の証である魔法もまともに使えず、そのため陰で嘲笑され、暗愚と揶揄されていた男だった。

対して、タバサの父でもある次男のシャルルは若くして四系統すべてに精通し、頭脳も明晰で人柄も良く、多くの者から慕われていた。

そのため多くの者は、先王は後継として第二王子の方を選ぶに違いないと思っていたのである。

 

この意外な決定に、不信感を露わにする貴族も多かった。

しかもその後、まもなくして、彼らの疑いを決定的にするような事件が起こった。

先王の死から僅か十日ばかりの後に、シャルルは暗殺されたのである。

それもジョゼフに招かれて参加した狩猟会の途中に、魔法ではなく、下賤な毒矢で射抜かれて命を落としたのだった。

 

当然シャルル派の貴族たちはジョゼフによる謀殺であることを確信し、怒りの声を上げた。

しかしタバサによれば、彼らは反乱の企てをタバサの母であるオルレアン公夫人に持ちかけたものの、彼女は応じなかったという。

 

夫に続いて自分と娘もジョゼフによって呼び出された時、彼女は娘が飲まされようとした毒の杯をその手からもぎ取って、自ら仰いだ。

夫人は、国を二つに割って戦を起こすようなことは望まず、ただ一人残された娘の身の安全だけを願ったのである。

その結果、彼女は謎めいた毒の効力によって心を壊され、今も屋敷の寝床に伏せたまま、悪夢の中を彷徨い続けている。

 

そしてタバサは、その夫人の嘆願によって命だけは助けられたものの、身分を剥奪され、危険な任務を押し付けられることになった。

断ることはできない、そうすれば自分と母との身の破滅を招くだけだから……。

 

その話をタバサから聞かされた時のディーキンの率直な感想は、人間の貴族もドロウみたいなことをするんだな、というものだった。

典型的なドロウの社会、たとえばアンダーダークの大都市メンゾベランザンなどでは、そうした家系内での争いは日常茶飯事なのである。

 

ドロウたちの崇める主神ロルスは、『デーモンウェブ・ピット(蜘蛛の巣地獄)』と呼ばれる次元界を治める女神だ。

その教義は極めて女尊男卑的なもので、ロルスに仕える司祭は必ず女性でなければならず、彼女らは女神によって互いに争わせられる。

ロルスは忠義よりも野心を好み、他のいかなる神格にもまして、自身に仕える者たちを永遠の試練にあわせようとするのだ。

彼女は自分に仕える者たちが男を女と対等の存在と見たり、慈悲や愛情、平和を求める心などを抱くことを一切許容しない。

そうして男たちが踏みつけられ生贄に捧げられる様を見て、また強者が弱者を間引く果てない裏切りの連鎖を見て、狂える女神は狂喜する。

 

ロルスに仕える尼僧たちは一人の例外もなく、位階を登るには目上の者を後ろから刺すしかないと心得ている。

もちろん、目下の者が同じことを自分にしかけてこないはずはないことも。

しかもそのような狂った教義の毒は、尼僧のみならずドロウの社会全体を蝕んでいる。

覇権を求めて互いに争い合うのは、尼僧でない女たちの間でも、身分の卑しい男どもの間でも変わらないのだ。

 

家族の間でさえ、それは同じだ。

ドロウの親子の間には愛情などはなく、互いに不快な競争相手であり、家系が滅びぬために許容している必要悪でしかない。

妹はその地位を上げるために、姉を謀殺しようとする。

長姉は母長の力が衰えて家系の権力が衰退する前に代替わりをしようと、母親の背中を刺す機会を窺う。

そして、自分自身がそうやって支配権をもぎ取ってきた母親は、娘たちが自分の命を狙わぬはずがないことをよく心得ている。

もちろん、父や息子たちの間にも、まったく同じことが言える。

 

かの名高いドリッズト・ドゥアーデンの物語でもその旨は語られていたし、仲間のナシーラもいろいろと昔の話を聞かせてくれた。

彼女は元々、今は滅びてしまったメンゾベランザンのとある貴族家の末娘だったのだ。

 

家系の支配権を握るために母や姉たちを排除する計略を弄んだことは、彼女自身にも一度ならずあったという。

ナシーラがそれを実行に移さなかったのは、彼女が弱かったからでも善良だったからでもなく、ただ自分が魔術師だからというだけだった。

ドロウ社会の支配階級は尼僧であり、魔術師が公然とその上に立つことは許されないのである。

仮に家系内の敵をすべて打ち破れたとしても、他の家系から睨まれては生き残るのは難しいからという、ただの打算と妥協の結果だ。

 

彼女らの基準から見れば、タバサの語った境遇ですら、十分に恵まれている部類に入るのだろう。

ドリッズトは父親のザクネイフィンという男からは愛され、心を通わせていたそうだが、それは極めて稀な幸運だったらしい。

事実、母親の方とは対立し、家系を捨てて決別した後には命を狙われたことも度々あったという。

両親から愛されて育つことなど、ドロウにとっては贅沢極まる夢物語なのだ。

 

当のディーキン自身とて、別段幸福な境遇で育ったわけではない。

幼少期から主人や仲間たち、あるいは異種族に命を脅かされたことは数知れないし、特に家族から愛されて育ったというわけでもない。

 

というよりも、そもそもコボルドは、親子関係も含めて家族という間柄をほとんど重要視していないのである。

ディーキンにも、おばあちゃんと呼んでそれなりに慕っていたコボルドはいた。

だが、彼女は部族で子育てを生業としていた年配者だったために皆からそう呼ばれていただけで、ディーキンの実祖母ではない。

ディーキンは自分の兄弟姉妹が誰なのかも明確には知らないし、それどころか両親が誰かということさえも、はっきりとは知らないのだ。

もしかしたらディーキン自身にも息子や娘がいるかもしれないが、それさえも確実には分からない。

 

一応、コボルドには、自分と血縁の近い個体を嗅ぎわける嗅覚は備わっている。

だから、誰が自分の家族なのかといったことは、ディーキンにも一応推定することくらいはできる。

しかし、実際のところその感覚は、単に近親間での意図せぬ交配を避けるために備わっているというだけなのだ。

普通のコボルドにはそれを使って家族を捜し、絆を育もうなどという気はさらさらない。

 

一般的にコボルドは繁殖期に複数の異性とつがい、その結果として産み落とされた卵はすべて同じ孵化場に集められる。

どの個体から生まれたコボルドもみなそこで孵化し、同じ部族の一員となるのである。

コボルドは“部族”の単位で生活する種族であり、“家族”という単位はほとんど意識に上ることさえないのだ。

 

そうした習慣についてディーキン自身にはあまり思い入れはないが、そうはいってもそれを当然とする環境で育ってきたのも事実である。

人間のような種族が持つ“家族愛”というものには好い印象は持っているものの、正直あまり実感はわかなかった。

 

だからといって、タバサの苦しみを軽んじる気などはもちろんディーキンにはない。

家族との愛情を育んだ経験こそないが、好きな人を理不尽に失う悲しみや怒りならばよく知っている。

互いに愛し愛されていたからこそ、両親を襲った不幸に強く心を痛め、憤りを感じるのは当然なのだということは理解できる。

 

(ウーン……、ナシーラがタバサの話を聞いたら、なんていうかな?)

 

彼女は今はドロウの善なる女神イーリストレイイーの教えに感銘を受け、過去の生き方を捨てて同族たちを救おうと頑張っている。

とはいえ、冷酷な魔術師にして暗殺者であった頃の習慣や考え方も根強く残っているのだ。

 

彼女はタバサに同情し、同族たちと同じように、その不幸な境遇や憎しみの檻から救い出してやろうとするのだろうか。

それとも、大して過酷でもない環境で悲壮ぶる小娘だと冷たく笑って、厳しく突き放すのだろうか。

いずれにせよ、彼女ならばタバサに、なにがしかのよい影響を与えてはくれるのではないだろうか。

 

一度会って話をしてもらいたいものだとは思ったが、彼女は今、アンダーダークと地上とを往復して忙しく活動する日々を送っている。

大した用件でもないのに、おいそれと呼びつけるわけにはいくまい。

ディーキンは小さく頭を振ってとりとめのない考えを振り払うと、門をくぐって家へと向かうタバサの後を追った。

 

タバサが帰還しても、当然ながら出迎えはなかった。

彼女は事前に帰省する旨を伝えていないし、現在この屋敷には正気を失った彼女の母と、ただ一人残った忠実な老僕しかいないのだから。

 

それでもトーマスがかつての使用人としての忠義を示し、彼女のために進み出て呼び鈴を鳴らそうとした。

しかし、タバサはそれを手で制すと、自ら家の扉を開けて、客人たちを中に招き入れる。

 

この時、ディーキンは魔法による監視や見張りの存在の心配はしていなかった。

昨夜の《交神》による質問の中のひとつで、この館には現時点では恒久的な監視や見張りが存在しないことは既に確認済みだった。

 

ややあって姿を現した執事のペルスランにタバサが事情を説明すると、一行は屋敷の客間へと案内された。

 

ディーキンが《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ)》を外して本来の姿を晒すと、最初は非常に驚かれたが……。

タバサとトーマスの説明でじきに納得すると、正体が亜人だからこそ治療の成功を期待できると思ったのか、老僕は目を輝かせた。

 

ペルスランは居間で寛いだ一行にワインや菓子を勧めながら、恭しく礼をする。

トーマスとディーキンも、それぞれに挨拶を返した。

 

「いやはや! このペルスラン、もう何年もの間、これほど嬉しい日はございませんでした。

 お嬢さまのおっしゃるとおり、奥さまが本当に治られるのならば……。

 いや、たとえそれが叶わなかったとしても、お嬢さまが昔懐かしいあのトーマスと、お友達とを連れてこられただけでも!」

 

「ありがとうございます、ペルスランさま。

 同じガリアの空の下に住みながら、長い間ご無沙汰をいたしました」

 

「はじめまして、おじいさん。

 そうだよ、ディーキンはディーキン、詩人で冒険者で、タバサの友達だよ」

 

一通りの挨拶や四方山話などが済むと、タバサはディーキンを促して、いよいよ母親の元へ案内しようとする。

しかし、ディーキンはそれを手で制すると、ペルスランの方へ向き直った。

 

「すぐにお母さんを治しに行ってあげたいけど、ちょっと待ってね。

 ええと、ペルスランさん。ちょっと、お願いしたいことがあるんだけど……」

 

「は……、なんでございましょうか?

 費用や礼金のことでしたら、当家にはもはや財貨もあまり残されてはおりませぬが、可能な限り」

 

「イヤ、それはいいの。お金は、ちょっとはかかるかもしれないけど、どうか気にしないで」

 

そうしてひとつ咳払いをすると、ディーキンは奇妙な要求を伝えた。

 

「ディーキンが欲しいのはね、おじいさんの―――」

 





コミューン
Commune /交神
系統:占術; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作、信仰、経験(100XP)、物質(聖水ないしは邪水と香)
距離:自身
持続時間:瞬間
 術者は自分の神格、ないしはその代理人と交信し、単純な「然り」か「否」で答えられる質問をすることができる。
一言だけの回答では誤解や神格の利害に反する結果を招きかねない場合には、代わりに短文での回答が与えられる場合もある。
 行なえる質問の数は術者レベル毎に1つまでであり、与えられる解答は、質問をされた存在の知識の及ぶ限りでは正しいものである。
神格と言えど必ずしも全知ではないが、他の神格やそれに準じるほど強大な存在が故意に隠蔽している事柄以外は大概わかると思ってよい。
もし質問の答えがわからない場合には、「定かならず」という回答を与えられる。


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第六十五話 Nursing care

ディーキンは、怪訝そうにしながらも自分の要求を聞き届けてくれた老僕に礼を言うと、いよいよタバサと共に夫人の元へ向かうことにした。

トーマスもまた2人に同行を申し出たが、タバサは首を横に振る。

 

「あなたが会っても無駄。

 今の母さまには、あなたのことはきっとわからない」

 

「……ですが!

 そうだとしても、私にも奥様のために何か、少しでもできることがあれば……」

 

「駄目」

 

タバサは食い下がるトーマスに対してきっぱりと拒絶の意志を示すと、再び首を横に振った。

 

「あなたにまで、母さまのあんな姿は見せたくない。

 母さまも、元に戻った時にあなたに見られていたとわかったら、きっと嫌だと思う」

 

それから、悲しそうに項垂れるトーマスの手をそっと取るとほんの僅かに、しかしはっきりと微笑んで見せた。

 

「ごめんなさい、でも、母さまが元に戻られたら、その時にこそ会ってあげてほしい。

 ペルスランやあなたが今でも傍にいてくれていると知ったら、きっと喜ばれるはずだから……」

 

「お嬢様……」

 

トーマスは感極まったのか少し涙ぐむと、タバサの手を握り返して力強く頷いた。

 

「……わかりました。このトーマス、無力ではありますが、せめて始祖にご加護をお祈りしております」

 

それから、ディーキンの方にも向き直って深々と御辞儀をする。

 

「どうかお嬢様と奥様のことをよろしくお願いいたします、ディーキンさん」

 

ディーキンは2人のやり取りをじっと見て、嬉しそうに目を細めたり、さらさらとメモをとったり、していたが……。

トーマスに頭を下げられると、手を止めてしっかりと頷いた。

 

「もちろんなの。ディーキンは、いつだって全力を尽くすよ!」

 

 

 

ディーキンはタバサに先導されて、彼女の母が寝かされている部屋へと向かっていた。

 

人がいないのだから当たり前だが、どこもかしこもシーンと静まり返って薄暗い。

それでも、埃が積もったり蜘蛛の巣が張ったりしているような場所はなく、手入れが行き届いて綺麗なものだった。

この屋敷を管理する使用人が今はたった一人しかおらず、しかもそれが年老いた執事であるという点を考えれば、これは大したことだろう。

あのペルスランという老僕の誠実さと、この家系に対する忠義の高さとがうかがわれた。

 

やがて、タバサは屋敷の最奥にある部屋の扉の前で足を止めた。

 

一応コンコンと扉をノックしてみたが、返事はない。

いつものことだ。

タバサは構わずに、扉を開けて中に入った。

 

「……アー、勝手に開けちゃって、申し訳ないの。

 ディーキンはちょっとだけ、奥さんのお部屋にお邪魔するね?」

 

少し首をかしげたディーキンは、そう言って頭を下げておいてから、タバサに続いて中に入った。

室内にいるという哀れな夫人をおびえさせないために、あらかじめ《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ)》を被り直しておく。

 

部屋は、広々として立派なつくりだった。

 

元々はおそらく、貴人の私室らしい豪奢な内装の部屋だったのであろう。

だが、今となっては煌びやかな調度品も、柔らかいカーペットも、美麗なタペストリもない。

古びて傷んだベッドと、椅子とテーブル以外には家具のひとつもなく、なまじ大きい分だけ余計に殺風景だった。

心を壊したこの部屋の主が暴れて痛めてしまうのを懸念して、殆ど物を置かないようにしてあるのだ。

季節は春とはいえ湖から吹く風は冷たいので、この部屋の主の体に障らぬようにとの配慮から窓も閉め切られ、カーテンが引かれている。

そのために室内は薄暗く、空気が重苦しく淀んでいるように感じられた。

 

この部屋の主であるタバサの母親、オルレアン公夫人は、ベッドの片隅にうずくまっていた。

 

壊された心を蝕む悪夢からくる心労のためなのか、あるいはそれと併せて病などにも侵されているのか、彼女はひどくやつれていた。

タバサと同じ鮮やかな青髪は、手入れもされずに痛んで伸び放題で、まるで幽鬼のようだ。

娘の年ごろから見ても実年齢はおそらく三十代の後半程度なのだろうが、たっぷり二十は老けて見える。

それでもなお、元はさぞや気品のある美しい女性だったのだろうという面影が、微かに見て取れた。

 

夫人はまるで乳飲み子のように、抱えた人形をぎゅっと抱きしめて、おびえた目で闖入者たちの方を見つめている。

彼女はやがて、わななく声で問いかけた。

 

「……だれ?」

 

タバサはすっと彼女に近づくと、深々と頭を下げる。

 

「ただいま帰りました、母さま」

 

しかし狂気に侵された夫人は、彼女のことを自分の娘だと認めることはなかった。

目を爛々と光らせて、刺々しく吐き捨てる。

 

「下がりなさい、この無礼者が!」

 

実の母からそのような言葉を浴びせられても、タバサは身じろぎもせずに、黙って頭を垂れ続けた。

内心でどれだけ傷ついていようと、それを顔に表すことはない。

 

「わかっているわ、王家の回し者でしょう。わたしから、シャルロットを奪おうというのね?

 誰があなたがたに、可愛いシャルロットを渡すものですか!」

 

夫人はそう言って、抱きしめた人形にしきりに、愛おしげに頬擦りをした。

毒薬によって心を病んだ彼女は、その人形を自分の娘であるシャルロットだと思い込んでいるのだった。

 

元々は彼女自身が娘に買い与えたもので、幼い頃のシャルロットはそれにタバサという名前を付けて、妹のように可愛がっていたものだ。

その名前が、現在本物のシャルロットが名乗っている、タバサという偽名の由来なのである。

何度も何度もそのようにして頬を擦りつけられたのであろう人形の顔は今や摩耗して破れ、綿がはみ出ていた。

 

「………」

 

タバサはゆっくりと顔を上げると、悲しげな笑みを浮かべた。

 

それは、母の前でのみ見せる表情だった。

母が心を病んでから随分と長い間、それだけが彼女の唯一の表情だったのだ。

キュルケと友人になってからは多少なりとも感情を顔に表すこともあったが、それもごく稀な出来事でしかなかった。

 

しかし、ディーキンと知り合ってからは色々とあって、タバサも僅かながら表情を崩すことが多くなってきた。

そして今日は、もし予定通りに事が運んだならば、彼女にとって最高の日となるはずだった。

 

(きっと、うまくいく……)

 

そうなってくれれば、こんな表情を浮かべるのもきっと最後になることだろう。

そのことを思うと、タバサの胸を満たす悲しみは消え、代わりに期待と不安とが入り混じった感情が胸中に渦巻いた。

 

この人なら、きっと母さまを救ってくれる。

私の勇者に、なってくれる。

 

タバサは不安を打ち消すように自分にそう言い聞かせると、すっと後ろに下がって、ディーキンの傍らに並んだ。

それからもう一度、頭を深々と下げる。

 

「母さまを救ってくれる、勇者をお連れしました。もう、悪夢も終わります。

 あなたの夫を殺し、あなたをこのようにした者どもの首も、いずれ私がここに並べてごらんにいれます――――」

 

タバサから紹介されたディーキンはしかし、その言葉を聞いてやや顔をしかめると、じっと夫人の方を見つめた。

今のは少々、不穏当な発言であるように思えたのだ。

 

ディーキンの懸念したとおり、夫人は実娘のその言葉を聞いても喜ぶどころか、一層敵意を強めたように見えた。

彼女は砕けた心の理解の及ぶ範囲で、今でも必死に、自分と娘に纏わり憑く実体のない悪夢と戦い続けているのだった。

 

「ああ、おそろしいことを……、この子がいずれ王位を狙うだろうなどと、誰がそのようなことを!?

 あの呪われた舌の、薄汚い宮廷雀たちにはもううんざり! わたしたちはただ、静かに暮らしたいだけなのに……。

 下がりなさい! 下がれ!!」

 

夫人は金切り声をあげると、実の娘にテーブルの上のグラスを掴んで投げつけた。

 

タバサはそれを、避けようともしなかった。

ただ黙って、自分のために心を壊した母からの暴行を受け入れようとする。

 

しかし、投げられたグラスがタバサの頭に当たる前に、ディーキンがぴょんと彼女の前に飛び出した。

彼はそれを器用に空中でキャッチすると、床に降り立つ。

 

「はい。いい道具を、どうもありがとう」

 

ディーキンはなおも怯えて喚き続ける夫人ににっこりと微笑みかけると、グラスを掲げてちょこんと頭を下げた。

それから、そのグラスを使って、即興の芸を披露し始める。

 

くるくると体の周りを回しながら、別の手持ちのグラスも一緒に取り出して、お手玉のようにして遊んでみせたり。

それらのグラスを楽器に仕立てて、簡単な音楽を演奏して見せたり。

さいころなどの小さな小物をどこからともなく取り出したり、そうかと思えばぱっと消してみせたり……。

 

トーマスなどと比べれば技術的には拙いが、ディーキン自身の話術や見せ方の上手さと相まって、余興として十分に楽しめるものだった。

しばらくそんな芸を見せた後、一区切りしたあたりでディーキンは御辞儀をすると、グラスをテーブルの上に返却した。

 

「どう? さっきはちょっと、こっちのお姉ちゃんが怖がらせてごめんなさいなの。

 ディーキンたちはただちょっと、お姉さんと娘さんのために、いろいろな芸を見せに来たんだよ!」

 

(彼は、一体何を?)

 

タバサは、早速治療に取り掛かるのかと思いきや、唐突に芸などを始めたディーキンを、しばし戸惑ったように見つめていた。

だが、ふと自分の母親の方に注意を向けると、唖然とした。

 

これまで、人が現れればきまって怯え、人形をしっかりと抱き締めて、出ていけと叫ぶばかりだった母が。

誰であれ近づいたりすれば、金切り声をあげて暴れ始める母が……。

ぼうっとした様子ではあったが、途中からディーキンの芸を黙って、じっと見つめだしたのだ。

笑顔や拍手、賞賛の言葉こそなかったけれど、グラスを返すために彼がベッドの脇のテーブルに近寄ったときにも怯えることはなかった。

 

タバサのそんな驚きをよそに、ディーキンはテーブルの傍で、しげしげと夫人の顔を見つめていた。

 

「ンー……、お姉さんはきれいな人だね。

 でも、ちょっと髪とかが傷んでるみたいだよ。この部屋って、鏡はないの?」

 

そんなことをいいながら、さっと手鏡を取り出して、夫人に自分の顔を見させてやる。

《内なる美(イナー・ビューティー)》の呪文焦点具に使用している高価な品で、高貴な身分の女性が使っても恥ずかしくない代物だ。

 

夫人は、鏡に映る自身のやつれた顔を、黙ってぼんやりと見つめた。

ディーキンはその様子をしげしげと観察してから、おもむろに声をかける。

 

「ねえお姉さん。ディーキンは芸人だから、お芝居の扮装に必要なお化粧とか髪の手入れにも詳しいんだよ。

 よかったら、お姉さんの髪も手入れしてあげるの。きっと、すごくきれいになると思うな!」

 

無邪気そうにそう言ってから、ディーキンは夫人の様子をじっと観察して、怯えたり拒絶したりする気配がないのを確かめた。

それから、断りを入れた後にベッドの上にのぼり、彼女の手を引いてゆっくりとそこから降りさせて、椅子に座らせる。

 

「ウーン……。ねえタバサ、もっと大きな鏡はないかな?

 ちっちゃな手鏡だと、お姉さんに自分のきれいな姿をちゃんと見てもらえないからね!

 アア、それと、ディーキンが乗るための踏み台も、あると嬉しいんだけど……」

 

タバサは自分の母親と同じくらいぼうっとした様子でディーキンのすることを眺めていたが、そう声をかけられて、はっと我に返った。

夫人に頭を下げて一旦部屋から退出すると、すぐに手近の別室から、姿見と踏み台とを運んでくる。

 

タバサには、ディーキンがどうしてさっさと魔法を使って母の治療をせずに、こんなことをし始めたのかはよくわからない。

実の娘である自分を差し置いて、心を失った母に受け入れられているらしい様子にも、心中穏やかでない部分はある。

それでも、母の様子がこれまでになく穏やかなのは確かで、希望に胸が膨らむ思いがした。

 

(今は、あの人を信じよう)

 

質問などは、すべてが済んでからゆっくりとすればいいのだ。

タバサは、そう自分に言い聞かせた。

 

「ありがとうなの。じゃあ、今からディーキンは、お姉さんの美容師だからね!」

 

ディーキンはタバサが運んできてくれた踏み台に登ると、早速夫人の髪の手入れに取り掛かった。

 

迂闊に鋏などの刃物を見せては夫人が怯えて暴れるかもしれないので、とりあえず髪は切らずに櫛で梳っていく。

その際に細かい枝毛などは、密かに自前の鋭い爪の先で挟んで、ちょいちょいと切っておいた。

それから、ディーキン愛用のビターリーフ・オイルを香油として塗って、束ねて整える。

 

ディーキンの見立てでは、夫人の様子からしてなんとなくだが、彼女がその香油の匂いに若干心を動かされているように感じられた。

 

コボルドが身嗜みを整えるのに使うこのオイルの匂いは、はしばみ草というこちらの世界の食品に似ているのだが……。

そのあたりになにか、昔を思い起こさせるような部分でもあったのだろうか?

たとえば、彼女の好物だったとか。

 

(ンー……、まあ、今は関係ないかな?)

 

ディーキンはひとまず深く詮索するのは避けて、続けて彼女の顔に化粧を施してやることにした。

冒険者用の変装用具セットの中から化粧品類を取り出して、夫人の顔にあれこれと塗ったり、白粉をはたいたりしていく。

 

他人の、それも人間の女性の髪や顔の手入れなどをするのはさすがに初めてだったが、なかなか上手くやれていた。

《なんでも屋》としての器用さと、《即興曲(インプロヴィゼイション)》の呪文の恩恵。そしてディーキンの基本能力それ自体の高さ。

それらを組み合わせてやれば、このくらいは朝飯前なのである。

 

もちろん、呪文を使うところを見られれば、彼女に警戒されてしまう恐れがあった。

だが、ディーキンほどの術者ともなれば、そうそう気付かれずに呪文を発動する術くらいは心得ているものだ。

 

そうして一通り手入れをすませた頃には、夫人は見違えるほど美しくなっていた。

以前よりも髪が伸び、頬がこけ、皺も増えてはいるものの、かつてのオルレアン公夫人を思わせる姿であった。

 

その上にさらに《内なる美》の呪文を掛けることも考えたが、呪文の影響に晒された彼女を怯えさせる恐れがあるので、当面は差し控えた。

いくら呪文の発動自体は悟られずに行なえても、他者にかける呪文では抵抗されて気付かれる可能性があり、よりリスクが高まる。

 

「へっへっ。お姉さん、すごくきれいになったの。どう?」

 

ディーキンは大きな姿見を夫人の目の前まで動かして、自分の姿をしっかりと見させてやった。

 

夫人はしばらく、ぼうっと鏡に映った自分の姿に見入っていたが……。

やがて微かながら、確かに笑みを浮かべた。

 

「……! 母さま?」

 

それを見たタバサは、母が正気に戻ったのかと慌てて傍に駆け寄り、彼女に呼びかけてみる。

 

しかし、夫人は実の娘が近寄ってきたのに気が付くと、怯えたように身を竦ませてしまった。

それでも、いつものように、叫んだり暴れたりすることはなかったが……。

 

「ねえタバサ、申し訳ないとは思うけど、あんまり焦らないで。

 それに、お姉さんを怖がらせちゃダメだよ?」

 

ディーキンはそういうと、怯えた夫人の肩を優しくたたいて大丈夫だと宥めながら、仕上げに爪の手入れをしてやった。

小さいとはいえ刃物を使って切るので、夫人の緊張を解いてからと思い、最後に回したのである。

 

短く切った後、仕上げに自分も爪の手入れに使っているやすりで軽く磨いて手入れを終えると、ディーキンは台から降りて御辞儀をした。

今切ったばかりの爪や枝毛などをしっかりと小袋に入れて保管し、退出する。

 

「それじゃ、ディーキンとタバサは一度失礼するね。

 今度またお邪魔して別の芸をお見せするから待ってて、お姉さん」

 

 

 

「……ありがとう」

 

ひとまず休憩のために手近の空き部屋に入って椅子に腰を下ろすと、タバサはディーキンに深々と頭を下げてお礼を言った。

タバサの正面の席にちょこんと座ったディーキンは、きょとんとして首を傾げる。

 

「ン? ディーキンはまだ、お母さんの治療も何もしてないよ?」

 

「毒を飲んでから、母さまがあんなに穏やかだったことはない。

 それに、母さまは綺麗になって、笑っていた……」

 

母が、満面の笑みではなくても、微かにでも笑顔を浮かべたことなど、心を失ってから一度でもあっただろうか。

少なくとも自分は見たことがない。

 

(そう言えば、自分もこの人と話すようになってから、少し笑えるようになった気がする)

 

彼の『主人』であるルイズも、最近は不機嫌そうな刺々しい態度を取ることが、めっきり減ったように思える。

きっと彼には、周りの者の気持ちを和ませ、心を開かせる力があるのだろう。

それが、心を失ったはずの母にさえ通じたということなのか。

 

これまでどんな魔法をもってしても元に戻せなかった母の心を、僅かにでも癒したとするなら。

それはある意味では、魔法よりも強い力だとさえいえるのかもしれない。

 

それにしても、まだよく分からない点も多い。

タバサはひとまず礼を言い終えると、今度は先程から疑問に思っていた事柄について質問してみた。

 

どうして、すぐに治療をせずに、手品師や美容師の真似事をしただけで部屋を出たのか。

どうして、自分でさえ受け入れてくれない母に、彼は受け入れられたのか。

どうして、……。

 

ディーキンは少し考えると、それらの疑問に対して順に答えていった。

 

「ええと、まず、タバサのお母さんに怖がられないようにお話した、っていうことについてだけど……。

 ディーキンは普通に、相手を怖がらせないようにするにはどうしたらいいかなって考えて、反応とかをみながらやってただけだよ。

 別に何も、特別なことはしてないの」

 

「でも……」

 

母さまは、私のことは怖がる。

実の娘である私を受け容れてくれないのに、どうして初対面であるあなたを。

 

タバサは胸の中にもやもやした激しい気持ちを抱えたまま、問い詰めるような、訴えかけるような目で、ディーキンを見つめた。

そのことを直接口に出せなかったのは、先日身勝手な嫉妬で彼を傷つけたことを恥じているからだ。

 

ディーキンはちょっと首を傾げてから、遠慮がちに口を開く。

 

「ウーン……、たぶん、タバサの場合はお母さんに話しかける、そのやり方があんまりよくなかったんじゃないかな?

 ディーキンが見た感じではそう思った、っていうだけだけど……」

 

「……私のやり方が、よくない?」

 

「そうなの。ええと、たとえば……、お母さんは今、タバサが自分の子どもだってことが分からなくなってるんでしょ?

 つまり、見ず知らずの人が突然部屋に入ってきたってことなの。

 なのに、その知らない人からいきなり『母さま』なんて呼ばれたら、びっくりしちゃうんじゃないかな。

 それに『あなたの前に首を並べにくる』とか、そんなことを言われたら誰だって怖いでしょ?」

 

「……」

 

「それから、お母さんは、ええと……。『宮廷雀にはうんざり』だとか、そんなふうなことを言ってたよね。

 それはきっと、周りの人たちに裏切られて毒を飲まされたからそう思ってるんだと思うの。

 だから、なんていうか“貴族やその取り巻きを思わせる”ような態度で話しかけたら、余計に警戒するんじゃないかな、って」

 

タバサやペルスランを受け容れないのも、きっと彼女らが夫人を高貴な身分の貴族として扱うせいだろう。

ディーキンはそう思ったから、夫人の前ではそういう堅苦しい礼儀作法とは程遠い、いつも通りの人懐っこい話し方をしていたのだ。

 

「あとは、きっと暴れるせいでちゃんとお世話ができなかったんだと思うけど、すごくぼろぼろの格好だったよね。

 物を置いておいたら危ないからだとは思うけど、家具とかも全然なかったし、薄暗いし……。

 そんな酷い恰好のままで、あの部屋にずっといさせられたから、余計に“自分は酷い扱いを受けてる”って思ったんじゃないかな?」

 

だから、ディーキンはまずは芸を見せて彼女の警戒を解き、姿見を部屋に運ばせて、髪などの手入れをしたのである。

グラスを正確に狙った場所へ投げられるくらいには自由に体も動くのに、ベッドに寝たきりにさせられている様子なのも気になった。

ゆえに手を引いてベッドから降りさせ、自分の脚で椅子まで歩いて座るように誘導した。

ただ独り善がりに自分の世話を押し付けるのではなく、夫人の反応を見て喜んでいるかどうかを確かめながら、色々と試行錯誤したのだ。

その結果、久し振りに人間らしい扱いを受けられたと感じた夫人は、気持ちを解して笑顔を見せてくれた。

 

少なくともディーキン自身が理解している限りでは、さっきやったのはただそれだけのことである。

 

「タバサは、優しい人だよ。さっきも、トーマスさんのことを思いやってるのがすごく伝わってきたの。

 ペルスランさんも、こんな広いお屋敷に一人で頑張って、きっと真面目でいい人なんだと思う。

 でも、2人とも昔のお母さんのことをよく知ってるから、逆に今のお母さんのことをちゃんと見れてないところもあるんじゃないかな?」

 

在りし日のオルレアン公夫人は、優しく美しく、聡明な人物であったという。

心を病んでやつれきった現在の姿からでも、その面影が窺えたくらいだ。

だからこそ、かつての彼女をよく知っている2人には、今の彼女の姿を認められないところがあるのだろう。

心のどこかで、おかしくなってしまった今の夫人には何もわからない、何をしても無駄だと思い込んでしまっているのだ。

それゆえ毒の影響を取り除くことだけが重要で唯一の解決策だと考え、今の彼女に快適に過ごしてもらおうという配慮に欠けている……。

彼女の身の安全には配慮しながらも、居心地の良さや精神的な健康は重視していないあの私室の様子を見て、ディーキンにはそう思えた。

 

対してディーキンは、かつての夫人の姿については何も知らない。

知っているのは、毒で判断力を失ったために周りのものすべてに怯えながらも、なおも娘のために懸命に敵の影と戦おうとする女性の姿。

哀れな中にも気高い強さを保っている、現在の彼女の姿だけだ。

夫人の思考力が完全に失われていないことも、ただ虚心に彼女の様子を観察すれば明らかだった。

判断力や認識力に欠陥こそあれど、ちゃんとした言葉を話しているし、誰かが部屋に入ったこともわかっていたのだから。

 

タバサやペルスランは今の夫人の状態を受け容れられないから、今でも彼女のことを母と呼び、公爵夫人として扱った。

現在の彼女の理解や気持ちを考えてそれに合わせようとはせず、ただ彼女の身の安全だけを第一に考えた。

一方ディーキンは、今の夫人の状態をそのまま受け容れた。

彼女に何がわかって何がわからないのか、どんな気持ちなのかを理解しようと努めた。

同じように心から夫人のことを思いやって行動した両者の間になにか違いがあるとしたなら、それは技術とかの問題ではなくその点だろう。

 

ディーキンはその事を、タバサになるべく詳しく、丁寧に説明してやった。

 

「……そう。そうなのかも、しれない……」

 

タバサはディーキンの説明を聞くと、しばらくじっと俯いて物思いに沈んだ後、ぽつりとそういった。

 

確かに、言われてみれば自分たちの母への対応には、いささか問題があったように思う。

今の母にはどうせ何もまともにはわからないのだと、高をくくっている部分もあったかもしれない。

指摘されてみれば単純なことだが、自分もペルスランもそんな世話には不慣れで、周りに助言をしてくれる人物も誰もいなかった。

そのために、長い間思い至らなかったのだ。

 

ただでさえ毒に苦しめられている母に、杜撰な扱いをしてなおさら辛い思いをさせていたのかと思うと、胸が締め付けられる。

もっと早く気づいていれば、自分にも母の苦しみを和らげてあげることができたかもしれないのに……。

 

ディーキンはタバサの沈み込んだ様子を見て少々居心地悪そうにした後、体を伸ばして慰めるようにポンポンと彼女の頭を撫でた。

 

「その、タバサもこれからお母さんのために、何かしてあげたらいいんじゃないかな。

 お母さんを治すにはまだもう少し、時間がかかるからね」

 

「……? 時間が、かかる?」

 

タバサはそれを聞くと、顔を上げて不思議そうに目をしばたたかせた。

 

毒の治療は、あの奇妙な姿をした亜人だか天使だかを呼び出して、角で触れてもらうだけで終わりではないのか?

そういえば、それについての質問にはまだ答えてもらっていなかった……。

 

しかし、タバサがもう一度それについて質問する前に、ディーキンが彼女の疑問に対する説明を始めた。

 

「アア、いや。治療自体はきっと、すぐ終わると思うの。

 だけど、お母さんを治す前に、治った後のための“身代わり”を用意しておかないとね。

 それには少し、時間がかかるんだよ」

 

そう言いながら、ディーキンは机の上に、それに必要となるはずのいくつかの品物を並べ始めた。

 

それは、先程ペルスランに対して奇妙な要求をして譲り受けた、彼の爪や髪の毛が入った小袋。

今しがた夫人の世話を見たついでに手に入れた、彼女の爪や枝毛の入った小袋。

 

そして、インク瓶に似た形状をした、奇妙な小さいボトルであった……。

 




インプロヴィゼイション
Improvisation /即興曲
系統:変成術; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(一対のさいころ)
距離:自身
持続時間:術者レベル毎に1ラウンド
 術者は運命の流れを自分の方に引き寄せ、流動的な“幸運プール”を利用できるようになる。
ゲーム上ではこの“幸運プール”は様々な作業の成功率を上げるために、自由に使えるボーナス・ポイントの形をとる。
プールの総量は術者レベル毎に2ポイントであり、自身の攻撃ロール、技能判定、能力値判定の結果を向上させるために任意に使用できる。
ただし1つの判定に与えられる幸運ボーナスの上限は、術者レベルの半分までである。
使用したポイントはプールから消え、呪文の持続時間が過ぎた時点でまだポイントが残っているなら、残量はすべて失われる。
 たとえば、20レベルバードがこの呪文を使用したとすると、最初の“幸運プール”は40ポイントである。
続く20ラウンドの間、このバードは各種の判定にポイントが許す限りの範囲で、最大で+10までの幸運ボーナスを得ることができる。
それは攻撃の命中判定でも、扉を打ち破るための【筋力】判定でも、あるいは<魔法装置使用>や<はったり>などの技能判定でも構わない。
 この呪文はバード専用である。


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第六十六話 Shop in a Bottle

「身代わり……」

 

タバサは、ディーキンの言葉に僅かに首を傾けて、しばし考え込んだ。

だが、じきに思い至る。

 

「あの御伽噺?」

 

「そうなの。神様のお話によると、身代わりがあればしばらくはばれずに済むみたいだからね!」

 

タバサはやや当惑げに、机の上の品々とディーキンの顔とを、交互に見詰めた。

彼には、これらの品物から本人の身代わりとなるような何かを作り出せる能力もあるのだろうか。

 

そのような用途に用いられそうなもので、タバサの知識の範囲内で真っ先に思いあたるのは、スキルニルと呼ばれる魔法人形だった。

血を一滴垂らすだけでその者と寸分たがわぬ姿に化け、魔法的なものを除けば殆どの能力をも複写することができる、という代物だ。

 

非常に有用なマジックアイテムだといえるが、製法は既に遺失しており、新たに作られることはない。

だが、古い遺跡から見つかることは稀にあるし、伝統ある王家や貴族家の中にはこの品を所蔵しているところもある。

古代の王の中には多数のスキルニルを用いた戦争ごっこに興じていた者が何人もいたらしく、ある程度の数は現存しているのだ。

彼がスキルニルと似たような品を所有している、もしくはその作り方を知っているとしても、さほど不思議ではないだろう。

 

(そのために、爪や髪の毛を……?)

 

血の代わりに爪や髪の毛を用いて本人そっくりに化ける魔法人形、というのはありえそうに思えた。

 

ただ、スキルニルは一度作れば永続的に動き続けられる、というような代物ではない。

動かすための燃料として、製作時に『土』の精霊力の結晶である“土石”が組み込んであるのだ。

当然、力の強いスキルニルほど燃料切れも早くなる。

メイジが自分の魔力を注ぎ込んで維持することもできるが、その場合は操作する者が常に傍に居なくてはならない。

したがって、永続的な身代わりとして用いるのには向いていないといえる。

 

その他には、精巧に作られたガーゴイルでも、同様の役目がこなせるかもしれない。

ハルケギニアにおけるガーゴイルは、傍で操作せずともある程度の自由意志を持ち、自律的に動けるゴーレムの仲間だ。

 

優秀な『土』の使い手であれば、外見が人間とそっくりなガーゴイルを作ることも可能だろう。

作成時に自分の精神力を注ぎ込むだけではなく、土石を用いることで、稼働時間を延ばすことができる。

スキルニルのように元となった人間の技能を再現するのに力を消費しなくてよい分、長持ちさせることができよう。

ただ動いて話せる程度で、何も特殊な能力を持たないものであれば、大きめの土石を用いれば数十年でも稼働させ続けられるかもしれない。

彼はそういった、ガーゴイルに相当するようなものを作ろうとしているのだろうか?

 

それも、あり得なくはないかもしれない。

彼の用いる、ハルケギニアの常識を遥かに逸脱した呪文やマジック・アイテムの数々には、既に何度も驚かされてきたのだから……。

 

そこまで考えて、タバサは小さく溜息を吐いた。

 

(……きっと、考えても無駄)

 

これまで、彼は常に自分の予想を裏切り続けてきたではないか。

ならば結局のところ、こんな推測の試みは虚しいものでしかないのではないだろうか?

これまでに私の得てきた知識や常識は彼には通用しないと、既に十分証明されているのだから……。

 

タバサはそう結論してあれこれ考えるのを止めると、素直にディーキンのすることを見守ろうと決めた。

 

母の命運がかかっているというのに不謹慎だとは思うが、なんとなくワクワクする。

そういえば幼いころ、トーマスが手品を披露してくれる前にも、こんな気持ちになったものだった。

 

(それが、彼の狙い?)

 

ふと、そんな考えが頭を掠めた。

昨夜は彼と一緒に話し合ったものだが、こんなことをする予定だとは聞かされていない。

 

情報はぎりぎりまで味方にも伏せておいた方が安全だというような、慎重な思惑もあったのかもしれない。

しかしどちらかというと、内緒にしておいてびっくりさせようという子どもっぽい悪戯心の方が彼には似合うような気がした。

もしくは、その両方なのかもしれないが……。

 

いずれにせよ、私のためを思ってのことで、悪意に基づく行為でないことだけは確かだろう。

そう考えると、タバサは妙に嬉しいような気分になって、微かに口元を緩めた。

 

そんな彼女の思惑をよそに、ディーキンは机に並べた品物の中から、まずは小さなボトルを手に取った。

それから、部屋の天井にちらりと目をやる。

 

「……ウン、この高さなら問題ないね」

 

ディーキンはそう呟くと、手の中のボトルを大事そうに握りしめて、目を細めた。

 

これは、ラヴォエラがボスから預かってきてくれた品物の中に入っていたものである。

最初それを見た時は驚いて、これは何かの間違いで混ざったのだろう、早く送り返さなくては、と思った。

極めて貴重な物だし、自分が用意してくれるように頼んだ品々の中には入っていなかったからだ。

 

しかし、ラヴォエラはボスがディーキンのことを案じてそれを渡すように言ったのだ、と言った。

大きく文化の違う異界で、これがあれば非常に有用なはずだから、と。

ボスは他にも、旅の間に手に入れた貴重なマジック・アイテム類をいくつも、ラヴォエラに託して贈ってくれていた。

 

断りもいれずに突然旅に出た自分のために、ここまでしてくれるとは。

ボスの寛大な気遣いに、ディーキンは改めて感動した。

 

ディーキンはしみじみとその事を思い返しながら、勿体ぶった仕草でひとつ咳払いをする。

そして、おもむろにボトルをこすり始めた。

 

その動作に応じて、たちまちボトルが彼の手の中で振動しはじめる。

あわせてボトルの口から、煙がもくもくと立ち上りだした。

 

それを見て、タバサは咄嗟に杖を握り直した。

が、ディーキンが落ち着いた様子なのを確認すると、すぐに警戒を解く。

 

(これは一体、何?)

 

タバサがそんな内心の疑問を口にするより先に、変化が起こった。

立ち上った煙がぐるぐると渦を巻いて集まり、ぼんやりとした人型の形状を取り始めたのだ。

 

やがて煙が晴れると、その中からひとつの人影が現れた。

 

「……!」

 

それを見たタバサは、驚きで僅かに目を見開いた。

 

その人物は、立派な口髭と長い顎鬚を生やし、肌浅黒く頑強な体つきをした、中年の男性のような姿をしていた。

頭にはターバンを巻いており、エキゾチックな衣類や、高価そうな装身具類を身につけている。

 

そこまでなら、ロバ・アル・カリイエ(東方)のどこかの地方からやってきた貴人か富商だとでも言えば通りそうな身なりだった。

しかしながら、この人物の背丈は見上げるように高く、タバサの優に2倍はある。

明らかに、普通の人間ではない。人種の違いや個体差などで説明のつく範囲を超えていた。

 

「巨人……?」

 

その男はタバサの呟きを聞き咎めると、哀れむような目で彼女を見下ろした。

 

『私はジャイアントなどではないぞ、定命の者よ。

 お前の無知の程度を推し量って、それを私に対する侮辱であると捉えることは差し控えるがな』

 

穏やかな調子だが、大きく轟くような声が、タバサの頭上から降り注いできた。

いや、それは実際には、彼女の頭の中に直接響いたのである。

 

巨大な人影は、それからディーキンの方にも目をやると、勿体ぶった仕草で2人に向かって御辞儀をした。

次いでその声が、2人の頭の中に轟く。

 

『そちらのコボルドには改めて言うまでもないだろうが、名乗らせて頂こうか。

 私はヴォルカリオン・アーセティス、王家の血をひく有力なジンだ。

 ジンは誇り高き魔人(ジンニー)の一種族であり、決して野卑な巨人(ジャイアント)の仲間ではないということも付け加えておこう』

 

「お久し振りなの、ジンのおじさん。

 じゃあディーキンも、言うまでもないだろうけど名乗っておくね。

 ディーキンはディーキン、竜族の血を引く愉快な詩人のコボルドで、バードで、冒険者で、今は使い魔もやってるよ」

 

「……私は……、タバサ。『雪風』のタバサ。

 貴族で、メイジをやっている」

 

ディーキンが丁寧にお辞儀を返したのを見て、タバサも慌てて自己紹介をして頭を下げた。

それから顔を上げると、またまじまじと目の前の巨大な人物を見つめる。

 

「魔人……の、王族?」

 

いわゆる“高貴な魔人”に関する御伽噺ならば、ハルケギニアにもある。

もちろんタバサは、今の今まで魔人が実在するなどとは思っても見なかったが。

それらは、古い壺の蓋を開けたり、指輪やランプをこすったりすると、中から出てきて……。

 

(そして、願いを……)

 

そんなことを考えていたところへ、またヴォルカリオンから声が送られてきた。

 

『ふむ。王族だというのは、誤解を招く恐れがあるかもしれんな。ジンであれば誰でも、何らかの形で王家の血筋をひいているものだ。

 私の家系はとても尊敬されているのは確かだが、権力の座からは遠いのだ。

 ジンの社会における私の地位をお前たちの階級社会に当てはめてあらわすなら、私は貴族の類ではない』

 

それから、咳払いをして付け加える。

 

『……それと、新顔のお嬢さんのためにあらかじめ言っておくが。

 私は、定命の存在の3つの《望み(ウィッシュ)》を叶えるようなことはせんからな!』

 

いままさにそんな期待を少しばかりしていたタバサは、思わず僅かに顔をしかめた。

ヴォルカリオンはそれを見ると、腕組みをして小さく鼻を鳴らす。

 

『ふん、おまえたち定命の者は妙な先入観から、我々に会えばいつでも願いを叶えてもらえるはずだと信じているようだがな……。

 残念だろうが、そう都合よくはいかんぞ。

 第一、どうして我々が出会ったばかりの他人の願いを、さしたる理由もなく気前よく叶えてやらねばならんと思うのだ?

 私としても、いちいち初対面の相手から願いを言われるのにはもううんざりしておる!』

 

「……」

 

タバサは、少しばかりばつの悪い思いがしてヴォルカリオンから顔を逸らすと、問い掛けるようにディーキンの方を見つめた。

願いを叶えてもらうためにこの魔人を呼んだのではないとするなら、一体何のために?

 

ディーキンはタバサの視線に対して少し悪戯っぽい笑みを返すと、ヴォルカリオンの方に向き直った。

 

「それで、ヴォルカリオンさん。

 これからはディーキンとも取引をしてくれるっていうのは、本当なの?」

 

ヴォルカリオンはその問いに対して、鷹揚に頷いた。

 

『コボルドという種族が、尊敬を受けるようなものではないということは知っておる。

 長年商人として活動をしてきた私としても、正直に言ってコボルドの顧客というのは初めてなのだ。

 だが、ドロウどもから私の召喚の瓶を取り戻してくれた解放者であり、今や良き顧客でもあるあの“カニアの英雄”の紹介とあればな。

 ……ああ、もちろんお前に渡した瓶の代わりに、彼にもすぐに新しい瓶を用意する手筈になっておるから、心配は無用だぞ』

 

それを聞いて、ディーキンは嬉しそうにうんうんと頷いた。

自分がこの瓶を預かったせいでボスに迷惑がかかるのではないかと思っていたが、そうでないのなら一安心だ。

 

しかも、自分とボスの両方がヴォルカリオンを呼び出せるということになれば、彼に伝言などを頼むこともできるだろう。

そうすれば、今後は連絡をとろうと思うたびにラヴォエラを召喚したりする必要もなくなるはず……。

 

そう考えていたところへ、タバサが口を挟んだ。

 

「……商人?」

 

どうやら今のヴォルカリオンのテレパシーは、彼女にも送られていたようだ。

ヴォルカリオンは、ひとつ頷いてそれに答えた。

 

『いかにも。私は、強力で貴重なアイテムを扱っている次元間商人でな。

 様々な世界を歩き回り、すばらしい品々を有り余るほど集めて、厳選した少数の客に売っているのだ。

 顧客は、商品を見たい時にはいつでも召喚の瓶をこすって、私をどこの世界からでも呼び出してよいということに取り決めてある』

 

タバサはそれを聞くと、首を傾げて考え込んだ。

 

つまり、この魔人は目の前の瓶の中に入っていたのではなく、どこかの世界からこの瓶で召喚されているということか。

それにしても……。

 

「魔人も、お金を使うの?」

 

タバサの素朴な問いに、ヴォルカリオンは少し首を傾けた。

 

『ふむ……。使うことがあるのかと問われれば、その通りだと答えるしかないな。

 我ら魔人も、時と場合によってはお前たち定命の種族と同様、金を使って取引をすることはある』

 

それから、口髭を弄りながら付け加える。

 

『ただ、私の商売に関して言えば、金自体よりもそれが象徴するものをより重視している。

 ゴールドは定命の者にとって貴重で、手放すには犠牲が伴う。

 つまり私の扱う品物には価値があるから、買うには代償を伴うということで――』

 

そこで少しの間言葉を止めて、適切な説明の仕方を考え込んだ。

 

『――言うなれば、金を渡せば犠牲の価値、おまえたちにとっての価値が、私へと移ることになるのだ。

 とても複雑な話だから、完全に理解してもらえると思ってはいないがな』

 

「えーと。とにかく、必要なお金を払えば、普通のお店と同じに商品が買えるってことだよね?」

 

ディーキンが横から口を挟んで、簡潔にまとめた。

 

『まあ、そういうことになるな。

 結局のところ、お前たちにとって重要なことは、アイテムの値段は私が決めるのであって交渉の余地はないということだけだろう』

 

「わかったの、ディーキンはあんたから値切ろうとは思わないよ。ボスだって、値切ったりはしないからね」

 

『よろしい。それから、わかっているだろうが、私が呼び出しに応じるのは最大で1日に3回までだ。

 その回数以内なら、私がその時点でどの次元界のどんな場所を探検していようと、瓶を使えば呼びかけには一瞬で応えよう』

 

「大丈夫、ディーキンはしっかり覚えてるよ」

 

『後は……、くれぐれも私の瓶を、不埒な輩に奪われないように気を付けてもらいたい。

 ハラスターのような不注意な顧客は、もう御免こうむりたいのでな!』

 

この“ジンのボトル”は、元々はかのアンダーマウンテンの大魔道師、ハラスターが所有していたものである。

 

ヴォルカリオンは他次元界から商品を呼び出すことができ、瓶を使うことで彼を召喚して、それらの在庫を見せてもらうことができるのだ。

ボスは、ディーキンらと共にアンダーマウンテンを旅していた時に、倒したドロウの一人がこの瓶を所有しているのを発見した。

おそらく、ドロウたちがハラスターを捕えた時に、彼から奪い取ったのであろう。

 

ヴォルカリオンは顧客にする気もないドロウたちからしつこく瓶を使って呼び出されていたらしく、解放したことに大変感謝していた。

その返礼として、彼はボスを自分の顧客の一人に加えたのである。

 

わざわざ他次元界からやって来てくれる手間賃を取られているのか、彼の店の品物は概して相場より高めだし、買い取りは安めだ。

それでも、ヴォルカリオンは瓶をこすりさえすればほとんどどこにでもやって来てくれるので、商品の売買に大変役立ってくれた。

アンダーマウンテンでも、アンダーダークでも、九層地獄でも、ボスは幾度となく彼の店の世話になっていたものである。

 

『ハラスターがあれほど不注意だとわかっていれば、召喚の瓶を作ることに絶対に同意しなかったのだがな……。

 だが、“カニアの英雄”は良い客だ。彼との取引では、私も相当な利益を上げることができたよ。

 彼からは、ハラスターが死蔵していた貴重な宝物や、九層地獄下層部の珍品なども、数多く仕入れることができたからな』

 

ヴォルカリオンは満足そうに顎鬚をさすりながら、目を細めた。

 

『お前も、そうなってくれるものと期待しているぞ。

 この物質界のことは私も知らなかった、まだ足を運んだことがない地だからな。

 他の世界では見られぬような品物が見つかれば、私の店にどんどん売りに出してくれ。高値で買い取ろう』

 

「オオ、それは嬉しいの。

 じゃあさっそく、こっちの世界で見つけたものがいくつかあるんだけど……」

 

ディーキンは背負い袋の中から、先だってカジノで回収した品物をいろいろと取り出し始めた。

それらの中には、フェイルーンにはない、この世界で作られた器具や薬品、マジック・アイテムなどの類が含まれている。

 

タバサは得心がいった思いで、その作業の様子を眺めていた。

なるほど、彼がこの魔人を呼び出したのは不用品を売却し、身代わりを作るだのといった作業に必要な品物を買い入れるためか。

 

「……私も、何か用意してくる」

 

タバサはそう言って小さく頭を下げると、部屋の外へ向かおうとした。

ペルスランに事情を伝えて、この屋敷の中から金になりそうなものを集めてこようというのだ。

 

彼は自分や母のために力を貸してくれているのだから、必要な費用はこちらも可能な限り捻出するべきだろう。

それにあのカジノでも、彼はデーモンとやらと戦うために、巻物などを消費した様子だった。

おそらくその分を買い足す必要もあるのだろうし、あれも自分の仕事を手伝ってくれた結果なのだから、こちらが負担するべきだ。

 

王族の権利を剥奪されて以来、この屋敷にはそれほど大したものは残っていない。

残ったものにも祖先から受け継いだ縁のある品々が多く、本来ならば売り払ったりするべきではない。

 

しかし、この人の力になるため、母を救うための手助けとするためならば、きっと祖先たちも許してくれることだろう……。

 

「ンー……、」

 

ディーキンはタバサを止めるべきだろうかと、少し悩んだ。

 

確かにこのところ、普段ならば仲間に任せているような事でも自分でこなさねばならなくなったこともあって、出費はかさんではいる。

とはいえ、まだまだ余裕はあるし、金欠で困っているというほどではない。

だから、タバサに無理に金を捻出してもらう必要は、ないといえばないのだが……。

 

しかし彼女の気持ちを考えれば、自分も母親のために何かしたいと思うのは当然だろう。

無理に引き留めても、かえって彼女の思いを無下にすることになる。

そう思ったディーキンは、素直に申し出に甘えることにしてタバサを見送った。

 

それから、ヴォルカリオンの方へ向き直る。

 

「それじゃ、タバサが用意してくれてる間に、在庫を見せてもらえる?」

 

『もちろんだ。ただし、金を払うまでは手を触れないようにな』

 

ヴォルカリオンがそう言って、さっと手を一振りすると、たちまち周囲の様子が一変した。

がらんとした室内が、どこからともなく出現した、眩いばかりの魔法の品々で埋め尽くされたのだ。

 

展示棚に広げられた数々のスクロールに、戸棚に並べられた色とりどりのポーション。

かさ立てのような容器に詰め込まれたロッド、ワンド、スタッフ。

鎧掛けには大小さまざまな鎧が飾られ、台の上には手入れの良い武器がずらりと陳列してある。

他にも、外套、籠手、手袋、長靴、魔除け、首飾り、指輪、鞘、聖句箱などなど、あらゆる種類の魔法の品々が揃っていた。

 

ボスがこの店で売買を行うのを何度も目撃していたので、ディーキンにとっては既に見慣れた光景だ。

最初の時には、目を丸くしてはしゃいだものだったが。

 

(イヒヒ……、タバサが戻ってきたら、驚いてくれるかな?)

 

そんな悪戯っぽい思いを胸に、ディーキンはゆっくりと品物を見て回った。

 

まずは、タバサの母親や執事のペルスランの身代わりを作るため、《似姿(シミュレイクラム)》の呪文が必要になる。

とはいえ、最低でも2人分で2回使う必要があるわけだが、はたして在庫があるだろうか。

もしも足りなければ、《望み》か《奇跡(ミラクル)》あたりで代用することも考えねばなるまい。

あるいは、必要な呪文を使ってくれそうな来訪者を招請するか、だ。

 

それに、いずれ身代わりがばれた時に見つからないようにするための方策も、できれば用意しておきたい。

理想は露見するほどの時間が経つ前に、この問題の根を絶ってしまえることだが……。

 

あとは、これまでに消費したスクロールなども買い足しておかねばなるまい。

これからデヴィルを相手にすることも予測される以上、《次元界移動拘束(ディメンジョナル・アンカー)》などの呪文は必須だ。

 

(ええと、他に必要そうなのは……。手持ちのお金は足りるかな?)

 

ディーキンは、入用な品物を優先度順にさらさらと羊皮紙に書き出しながら、費用の計算をしていった……。

 




ジンニー(魔人):
 ジンニーは地水火風の元素界に住む精霊めいた来訪者であり、いくつかの種族がある。
風のジン、火のイフリート、水のマリード、地のダオ、そして物質界に住み四元素すべてから成るジャーンである。
彼らの一部には、御伽噺に語られるように、定命の存在の願いを叶える力を持っている者もいる。

ジン(風の魔人):
 風の元素界に住むジンは、混沌にして善の気性を持つジンニーである。彼らは自在に空を飛び回り、その身を竜巻やガスに変じられる。
また、透明化したり、幻覚を作り出したり、飲食物やワインを生み出したりすることができる。
永続する植物性の物質を無から作り出したり、一時的になら宝石や貴金属等の様々な品物を作り出したりすることもできる。
 彼らの100人に1人は“高貴なるジン”であり、同族以外の存在の3つの《望み》を叶えてやることができる力がある。
ただし、一般的に彼らがそうするのは、誰かに捕えられて解放と引き換えに奉仕を約束した場合だけである。

ジンのボトル:
 NWNに登場する、特殊なマジック・アイテム。
使用することでほぼどんな場所でもジンの次元間商人であるヴォルカリオンを召喚し、商品の売買をすることができる。
ヴォルカリオンがしてくれるのは基本的には商取引だけで、戦闘への参加などはしてくれない。


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第六十七話 Happy dream

 

タバサがディーキンらを連れてオルレアンの屋敷へ戻ってから、2日目の晩のこと。

屋敷の最奥、オルレアン公夫人の部屋では、最後の仕込みが行われていた。

 

「じゃあ、申し訳ないけどあんたはいつもベッドの上に居て、おかしくなったままのフリをしててね。

 それと何かあったら、すぐにディーキンに連絡を入れて。わかった?」

 

「はい、心得ておりますわ」

 

先刻やっと完成した《似姿(シミュレイクラム)》のオルレアン公夫人が、ディーキンの指示に従順に頷く。

ディーキンはウンウンと頷くと、続けてもう一体のシミュレイクラムにも指示を伝えた。

 

「それから、あんたはこの人の世話をするフリを続けて。屋敷の掃除とかも、これまでどおりにちゃんとしてね」

 

「はい、しかと心得ました」

 

ペルスランのシミュレイクラムも、畏まってお辞儀をする。

 

これらの似姿は、粗雑な型どりをした雪や氷の像に本人の体の一部を入れ、影術による半実体の幻影を重ねて作られた複製品だ。

像を製作するにあたってはタバサにも協力を要請して、一体あたり半日以上の時間を費やして作った力作である。

2体とも本物そっくりで、本物の着衣を譲り受けて着込んでおり、ちょっとした知り合い程度ではまず見分けがつかないだろうと思われた。

 

夫人の方のシミュレイクラムには、必要があればすぐにディーキンに連絡を入れられるような細工もしておいた。

これで、万が一査察などの結果偽装が露見したとしても、直ちにその事を知って対策を取ることができるだろう。

 

「……うん。これで、しばらくは大丈夫だと思うの」

 

ディーキンは満足そうに笑みを浮かべて仲間たちの方を振り向くと、丸々一昼夜以上にも渡った作業の完了した旨を伝えた。

 

「ありがとうございます。あなたには何から何まで、よくしていただきました。

 この御恩はいずれ必ずお返しします。杖に誓って……」

 

先程治療を受けて正気を取り戻した本物のオルレアン公夫人は、ディーキンに対して臣下のように恭しく跪いて、礼を述べた。

まだ頬などはこけたままだったが、その目にはすっかり知性と生気の輝きが戻っている。

 

彼女にしがみ付くようにして寄り添っていた、嬉し泣きに泣き腫らした赤い目をしたタバサも、母親に倣った。

そして主らの後ろに控えた、ペルスランとトーマスも。

 

「えーと……。別に、冒険者仲間とかでは普通のことだからね。

 あんまり気をつかわないで?」

 

ディーキンは、ちょっと困ったように頭を掻いた。

 

もちろん、彼女らが本心から感謝してくれているのはわかるし、それは嬉しい。

それに、貴族として払わねばならぬ礼儀というものがあるのだということもわかる。

だが正直に言って、このくらいであまり大げさなお礼をされても逆に居心地が悪いのだ。

 

それは、他人からそんな態度で接された経験がろくにないから、というのもある。

しかしそうでなくとも、冒険者内では心を病んだら治してもらうとかは、ごく普通のことなのである。

 

ディーキンとしては、できれば今回かかった経費を負担してもらえると嬉しいな、という程度の気持ちだった。

その経費にしても、タバサが屋敷の骨董品等をヴォルカリオンに売りに出して、いくらかは既に負担してくれている。

売ったのが大切な先祖伝来の品々であっただろうことなども鑑みれば、これ以上何かしてもらうのはかえって申し訳ないくらいだ。

 

シルフィードだけはそんな堅苦しい人間の作法には従わず、代わりにそこらをぴょこぴょこと跳ねまわって喜びを体で表していた。

そういう自然な感謝の方が、ディーキンとしても気が楽だった。

 

「きゅいきゅい! お姉さまのお母さまがよくなられて、良かったのね。

 これからはお姉さまも、危ないことなんかせずに、心安らかにお過ごしになれるわ!」

 

「…………」

 

礼を終えて、改めて母に寄り添い直したタバサは、自分の使い魔のそんな様子を温かい目で見つめながらも……。

心の中では、そうはいかないのだ、と考えていた。

 

自分は、母とペルスラン、それにトーマスの当面の住処と安全を確保したら、また元通りの生活に戻らなくてはならない。

ガリアからの呼び出しにも今まで通り応じて、危険な任務もこなしていかなくてはならないのだ。

 

今、急に自分が生活の仕方を変えて、王家からの呼び出しにも応じなくなれば、敵に異変を知らせるようなものである。

一度ガリア王家に自分の叛逆を悟られたら、いつまでも逃げおおせられるとは思えないし、周囲の人々にも危険が及ぶだろう。

せっかくのディーキンの配慮も、すべて無駄になってしまう。

 

できることならこの懐かしい人たちと共に、また退屈なほどに穏やかで幸福な、昔のような日々を過ごしていきたかった。

だが、ままならぬことである。

 

母は救ったが、父の復讐はまだ終わってはいない。

それに、一度冷徹な戦いの世界に慣れた自分が、いまさら何も知らなかった小娘の頃の生活に、完全に戻ることなどできようか。

自分はもう、子どもではないのだ。

 

(でも……)

 

でも、もう少しは、この安らぎに身を委ねていてもいいだろう。

母の腕を甘えるように抱き寄せ、母から優しく抱き返される幸せをしみじみと噛みしめながら、タバサはそう考えた。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

――――タバサは、ラグドリアンの湖畔に立つ屋敷の中庭で、家族と一緒に和やかな時を過ごしていた。

 

優しい父と母がテーブルを囲み、楽しげに料理を摘みながら談笑している。

そしてタバサ自身は、いやシャルロットは、二人に見守られるようにして、人形の『タバサ』を相手に絵本を読んで聞かせていた。

 

絵本のタイトルは『イーヴァルディの勇者』、ハルケギニアでも一番ポピュラーな英雄譚だった。

幼い頃、母はむずかる自分を寝かしつけるために、枕元でよく本を読んでくれたものである。

自分は特にこの本が大好きで、何度も何度もせがんで読んでもらった覚えがあった。

 

そのうちに興味は別のものに移り、読んでもらうことも、自分で開くこともなくなった。

だが、自分に読書の楽しみを最初に教えてくれたのは、この『イーヴァルディの勇者』だったといっていい。

この本を読むのは、もう何年振りだろう。

 

(何年振り?)

 

シャルロットはそこで、はたと気が付いた。

 

(これは、夢)

 

ああ、そうか。

自分は今、夢を見ているのだ。

今の自分は、もう家族と幸せに暮らしていた幼い少女ではないのだった。

 

そう気がついて、改めて自分の姿を見てみると、もう自分はシャルロットではなかった。

トリステイン魔法学院の制服に身を包んだ、『雪風』のタバサがそこにいた。

 

顔を上げると、傍らにはもはや人形はなく、机を囲む両親の姿ももうなかった。

 

そうだ、あんな風に温かい笑顔を浮かべる父は、もうどこにもいない。

そして母も、あの恐ろしい毒杯を口にして……。

 

(……?)

 

いや、違う。

なにかがおかしい。

 

自分の手の中には、まだ『イーヴァルディの勇者』の本があった。

『雪風』のタバサは、こんな本は読まない。

 

けれど、確かに読まないのだろうか。

自分がこの本を読むのは、本当に何年か振りだっただろうか。

 

いいや、つい最近にも読んだことがあったはずだ。

あれは一体、どこでだったか……?

 

(あれは……)

 

確か、そう、この屋敷で。

母さまに……。

 

「まあシャルロット。ずっと一人で本を読んでいたの?」

 

背後から、懐かしい声がした。

 

振り向くと、そこにいたのは確かに母だった。

屋敷から今出て来たばかりで、先程よりも少し年を重ねてやつれたようには見えるけれど、変わらぬ温和な笑顔を浮かべていた。

 

「母さま……」

 

「そんな風に一人で寂しそうにしていないで、もうすぐお友達が来るのでしょう。

 ふふ、それとも、男の子のことでも考えていたのかしら?」

 

そうだ、自分は母を治療してもらうために、“あの人”と一緒にこの屋敷へきたのだった。

そして治療の準備が整うまでの間、あの人の作業の手伝いをする合間に、母にこの絵本を読んで聞かせたのだった。

それで母が元に戻ることはなかったけれど、話を聞いている間は終始穏やかで、読み終わったときには、私に笑顔を向けてくれさえした。

 

その後、あの人は母をすっかり治してくれて、今ではまた、こうして笑顔を……。

 

「奥さま、お嬢様のお友達の方々がお見えになりました」

 

執事のペルスランが屋敷の奥から姿を現し、そう言って頭を下げた。

傍らには、トーマスも一緒にいる。

2人とも、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

 

「今日はお嬢さまとお友達とのパーティのために、とっておきの手品を用意して参りましたよ」

 

その時、中庭にシルフィードが降り立った。

 

「お姉さまのお友達を連れてきたのね!」

 

自慢げにそう言う使い魔の顎を優しく撫でてやると、シルフィードは嬉しそうにきゅいきゅいと鳴いて、目を細めた。

次いでシルフィードの背から、学院の仲間たちが次々と姿を現す。

 

ルイズやシエスタが、花束や菓子の包みを渡してくれた。

キュルケが、いつものようににっこりと笑って、自分を抱きしめてくれた。

タバサは、自分の心の中が氷が解けたように暖かくなってゆくのを感じた。

 

そしていつの間にか、“あの人”がやって来ていた。

 

「お招きにあずかって、ディーキンは本当に光栄に思ってるの」

 

傍らの、先程まで人形を座らせていた椅子に座って、タバサの顔をじっと見上げている。

タバサははにかんだ笑みを浮かべて、彼から目を逸らした。

 

抱えていた『イーヴァルディの勇者』の絵本が、手からすべり落ちた。

 

そして、ささやかなお茶会が始まった。

学院の友人たちが和やかに談笑し、母とペルスランが傍らで見守る。

トーマスが手品を、ディーキンが歌と物語を披露する。

 

どこまでも優しく、温かい夢が続いていった。

 

(私は、仕えるべき勇者を見つけたのだろうか)

 

椅子の上に立ち上がるようにしてリュートを鳴らし、勇ましい英雄の物語を語るディーキンの姿を見つめながら、タバサはふとそう思った。

 

だがそう思ったことは、実のところ、これが初めてではないのかもしれない。

思えばタバサは何度も、彼こそが自分にとっての『イーヴァルディ』なのではないかと、心のどこかで考えていたような気がした。

 

彼に一方的に戦いを挑み、そして過ちに気が付いた時に。

あの恐ろしいデーモンに追い詰められ、そして救われた時に。

彼が心を病んだ母を笑わせ、そして癒してくれた時に……。

 

幼い頃のタバサは、何度も夢見た。自分を助けてくれる勇者が、いつか現れないだろうか、と。

タバサは勇者ではなく、勇者に助けられる姫になりたいと願っていた。

自分の手を引いて、幸せながらも退屈な日常から自分を連れ出してくれる勇者をこそ、かつてのタバサは求めていたのだ。

 

ならば、今の自分も心のどこかで、かつてと同じことを夢想していたのだろうか。

退屈な日常からではなく、過酷な運命から、自分を救い出してくれる勇者を求めていたのだろうか。

 

そんな勇者の幻想を求めるのではなく、自ら戦わなければならないことを、自分は知った。

自分が『雪風』のタバサになったあの日に、今は亡き一人の狩人の女性が、その事を自分に教えてくれた。

それでも、心のどこかでは、未だにそんな弱い幻想、姫願望を……。

 

自分をじっと見つめるタバサの視線に気が付いたのか、ディーキンは彼女の方に顔を向けた。

にっこりと笑い返すと、演奏を終えて楽器を置き、とことこと近寄ってくる。

 

「ねえタバサ、もしかして待ちきれないの?

 だったらそろそろ出かけるの!」

 

拍手をしようとしていたタバサは、まじまじとディーキンを見つめ返す。

 

「……出かける?」

 

「そうなの。無限の彼方へ、さあ行くの!」

 

ディーキンはタバサの手を取って、屋敷の外の方へ向けてくいくいと引っ張った。

 

「む、無限の彼方……?」

 

タバサはわけがわからなかったが、所謂“もののたとえ”なのだろう、と判断した。

 

「その、何を……しに?」

 

「ンー? そりゃもちろん、タバサが望んでることだよ!」

 

「私の、望んでいること……」

 

タバサは少し考えた。

 

「……、父さまの復讐をしに行く、ということ?」

 

それを聞いたディーキンは、ぴたりと足を止めると、顔をしかめてふるふると首を横に振った。

 

「復讐? タバサは英雄なの!

 英雄は、ただの復讐なんかには興味ないの!」

 

「でも、私は」

 

「デモもストもないの。ディーキンたちは、もっと英雄らしいことをしに行くんだよ!」

 

「英雄らしいことって……」

 

タバサは、また考え込んだ。

ふと、先程取り落とした、『イーヴァルディの勇者』のことを思い出す。

 

「……悪い竜を退治する、とか?」

 

「オオ、それはなかなかいいね。

 ンー……、でもディーキンは、竜を退治するより、竜とお話をして仲良くなって、改心させる英雄の方が好きかな」

 

それから、少し首を傾けて。

 

「ええと、例えば……。ここにはほら、タバサのお父さんがまだいないじゃない。

 お父さんを探して連れ帰りに行くっていうのは、どうかな?

 叔父さんを殺すよりは、いいんじゃない?」

 

タバサはそれを聞いて顔を曇らせると、首を横に振った。

 

「……それは、無理」

 

「お母さんは戻ってきたのに?」

 

「無理」

 

ディーキンは、また目を閉じてかぶりを振った。

 

「無理だとか無駄だとか言った言葉は聞き飽きたし、そんなの英雄には関係ないの。

 やるか、やらないかなの。無理っていうのはないんだよ!」

 

タバサは困惑した様子で、まじまじとディーキンの顔を見つめた。

自信に満ちて、きらきらと輝く目……。

 

「……本当に?」

 

「輝いた瞳には不可能がないの。

 みんながついててくれれば、英雄にはなんだってできるの!」

 

ディーキンは、タバサの後ろを指差した。

そこには、いつの間にかすっかり出かける準備を整えたキュルケたちの姿があった。

誰の顔にも、疑いのない自信に満ちた、明るい笑顔が浮かんでいる。

 

それを見ていると、本当に何でもできそうな気がしてきた。

この人と、この温かい人たちと、一緒なら……。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

「――――さま。お姉さまってば、居眠りしてらっしゃるの?」

 

シルフィードの声で、タバサははっと目を覚ました。

体を起こしてきょろきょろと周りを見回すと、そこはオルレアンの屋敷の中庭ではなく、雲海を下に見下ろす遥かな上空だった。

 

寝惚けた頭が、冷たい夜風で急速に覚醒していく。

 

「大分お疲れみたい、大丈夫なのね?」

 

「大丈夫」

 

心配そうなシルフィードにそう返事をして、気遣いのお礼にぽんぽんと背を撫でてやった。

 

タバサは屋敷でディーキンたちと一旦別れ、今は一人シルフィードに乗って、トリステインへと帰る途上だった。

作業の手伝いや母の世話等でろくに寝ていなかったため、ついうとうととシルフィードの背で微睡んでいたのだ。

 

シルフィードに母やペルスランなどが乗っているところを見られて疑いを持たれないようにと、念には念を入れて別行動にしたのである。

ディーキンは今、見つからぬよう慎重に他の皆を連れて、トリステインへと戻っているはずだ。

 

母とペルスラン、そしてトーマスには、ひとまず『魅惑の妖精』亭へ行ってもらうことにしている。

スカロンやジェシカは間違いなく協力してくれるし、絶対に他言したりはしないということは、ディーキンが力強く保証した。

もしかしたら、いずれキュルケなどにも協力を仰いで、また別の場所へ移ってもらうことになるかもしれないが……。

できれば、会いに行きやすいように学院から近い場所の方が、タバサとしても嬉しかった。

あの店なら学院からもそう遠くないし、身を隠すのにも好都合であろう。

 

自分も早く向こうで母たちと合流して、店のオーナーであるスカロン氏へお願いをして、手配を済ませよう。

それから学院へ戻って、欠席の件を教師たちに謝罪して、ディーキンの『主人』であるルイズにも、謝っておかなくては……。

 

それにしても、おかしな夢を見たものだ。

タバサは、思わず苦笑した。

 

(不愉快な夢では、なかったけど)

 

むしろ、とても温かい気持ちになれる夢だった。

後半は何だかおかしな話の流れになっていたけど、何だかつい、わくわくしてしまった。

姫君として勇者の訪れを待っているよりも、彼と、仲間たちと一緒に冒険をして回る方が、もっと素敵なことかもしれないと思えた。

 

(そんな日がいつか来てくれたら、いいな……)

 

タバサは、素直にそう思った。

 

けれど、いつまでも夢にばかりかまけているわけにもいかない。

タバサは気持ちを切り替えて、今度は母のことを考えた。

 

今後の安全などについて不安はまだあるけれど、母が元に戻ってくれたことが、まず何よりも嬉しい。

それに、心を壊した母が、最後に絵本を読んだ時に笑顔を見せてくれたことも嬉しかった。

母を癒したのは結局ディーキンだったが、自分も作業の手伝いはできたし、少しは母のために役に立てたと感じた。

 

(そういえば……)

 

タバサはそこでふと、母に絵本を読んでいた時に起きた、妙な出来事を思い出した。

 

 

 

タバサはディーキンの助言を考慮して、無理に娘として接するのを止め、母を穏やかな気持ちにする方法はないかと頑張って考えてみた。

いろいろ考えた末に、かつて母がよく読み聞かせてくれた『イーヴァルディの勇者』を読んでみよう、と思いついたのである。

 

そうして、母が自分にしてくれたように穏やかな調子で本を読み聞かせているうちに、彼女の様子に変化が現れた。

腕の中の人形と自分とを、困惑したように交互に見比べ始めたのだ。

 

もしかして、人形ではなく自分の方が娘かもしれないと、認識しつつあるのではないか。

そんな期待を抱いたタバサは、思い切って彼女に今一度、「母さま」と呼びかけてみることにした。

じきにディーキンが治療してくれるとはいえ、やはり自分の力で母にできる限りよくしたい、認められたいという思いは強かったのだ。

 

結果、母は、これまでのように怯えたり喚いたりはしなかったものの、妙な反応をした。

タバサの言葉にしばらくぼうっとした後、ふいに体を震わせて、ぽつりと呟いたのだ。

 

『……ジョゼット? ジョゼットなの? おお、なんということ……』

 

そして、手で顔を覆って泣き始めてしまった。

タバサは困惑して、一生懸命なだめてはみたが、泣き疲れて眠るまで手の施しようがなかった。

 

 

 

(ジョゼットとは、一体誰のことなのだろう?)

 

考えてみても、思い当たる相手はいない。

タバサは、答えの出ない問いに頭を悩ませながらも、トリステインへの帰路を急いだ……。

 





シミュレイクラム
Simulacrum /似姿
系統:幻術(操影); 7レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(雪か氷でできた対象の像と対象の体の一部、似姿のヒット・ダイス(HD)ごとに100gpの価値のあるルビーの粉末)、経験(似姿のHDごとに100XP、ただし最低でも1000XP)
距離:0フィート
持続時間:瞬間
 シミュレイクラムはどんなクリーチャーであれ、そのクリーチャーにそっくりな幻を作り出す。
複製されたクリーチャーは半ば実在のものであり、氷と雪から作り出される。
複製はオリジナルとまったく同じように見えるが、この似姿は、本物の持つレベルもしくはHDの半分しか持たない。
そしてそのレベルもしくはHDに対応するヒット・ポイント(hp)、特技、技能ランク、クリーチャーの特殊能力を持つ。
術者は、自分の術者レベルの2倍より高いレベルもしくはHDを持つクリーチャーの似姿を作り出すことはできない。
術者は似姿がどれくらい本物に似ているか決めるため、呪文発動時に<変装>判定を行なわなければならない。
 この似姿は常に術者の完全な命令下にあるが、テレパシー的な接続は存在しないので、他の何らかの方法で命令しなければならない。
似姿はそれ以上強力になる能力を持たず、レベルや能力を成長させることはできない。
hpが0になったり破壊されたりすれば、似姿は雪に戻り、即座に融けて無に帰す。減少したhpは、研究室で作業をすれば修復できる。


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第六十八話 Duel again

「はあ……」

 

ある日の夕方、トリステイン魔法学院の自室で、ルイズは溜息を吐いていた。

ルイズの『使い魔』であるディーキンが、彼女の知らぬ間にタバサと一緒に出かけてから、もう3日以上も経っている。

 

無断で勝手な行動をとったことについては、何かと事情もあり、ディーキンにも考えあってのことだと、不承不承認めてはいる。

そもそも彼は自分の正式な使い魔ではないのだから、という思いもあった。

 

時間についても、異国であるガリアへ赴き、そこでタバサと一緒に何らかの任務を引き受ける以上は相応にかかるだろうと理解している。

まず3日や4日はかかって当然だし、仕事の内容いかんによっては、一週間以上かかったとしてもおかしくはない。

 

とはいえルイズは、一刻も早くディーキンに戻って来てもらいたいものだと思っていた。

彼が留守の間に、彼女の方でもいろいろと面倒な問題が持ち上がっていたのだ。

 

「どうかしたの、ルイズ。溜息を吐いて……。

 人間の身体のことはよく分からないけど、どこか具合が悪いのかしら?」

 

問題の大きな原因である天使(エンジェル)、『使い魔代理』のラヴォエラが、彼女の気も知らずに的外れなことを言ってくる。

心底心配そうに優しく自分の背中をさする彼女を、ルイズは肩越しに軽く睨んだ。

 

(あんたのせいで気苦労してるのに決まってるでしょ!)

 

……と、言いたいのは山々だが、そう言ってみたところで彼女に通じるとは思えない。

そのことは、この数日でルイズにも身に染みてよく分かっていた。

 

別に、ラヴォエラの使い魔としての働きぶりが悪かったわけではない。

彼女は引き受けた仕事を、いつでも真摯に務めてくれた。

ルイズの同行させたいところにはどこにでもついて来てくれたし、頼めば何でもちゃんとしてくれたのである。

天使にこんなことを頼んでいいのだろうかと、ルイズの方がかえって躊躇するような雑務でも、嫌な顔ひとつせずに引き受けてくれた。

 

ただ、ラヴォエラは何といっても天使であった。

 

天使はその魂の隅々まで完璧に善に染まった存在であり、決して嘘をついたり、相手を騙したり、盗みを働いたりはしない。

そのように高潔で信が置けるがゆえに、経験豊かな天使は極めて優れた交渉役ともなり得る。

だが、生憎とラヴォエラはまるで経験不足な若い天使で、人間の社会の常識にも酷く疎く、あまり融通も利かなかった。

 

その点において、彼女はディーキンとは大きく違っていたのである……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

ルイズが初めて使い魔の代理としてラヴォエラを伴って食堂へ行ったとき、当然ながらその主従は、周囲の注目を集めた。

 

一応、ラヴォエラは「天使だなんていったら騒ぎになって面倒なだけだから」とルイズに頼まれて、人間のメイドの姿に変装していた。

周りの人間を欺くのか、と難色を示すラヴォエラを説得するのに多少の時間はかかったが、シエスタも手伝ってくれたのでどうにかなった。

アアシマールのシエスタには、天使の考え方と人間の考え方の両方がよく分かるため、交渉役には最適だったのである。

 

とはいえ、それで周囲の注目を一切受けずに済むかといえば、当然ながらそんなことにはならない。

使い魔の代理などという話は前代未聞だし、それが通常使い魔になるとは考えられない人間となれば、尚更のことである。

 

ルイズもそのくらいは勿論承知していたが、それでも天使だなどと、普通に考えて荒唐無稽なことをいうよりはマシだろう、と思っていた。

いっそしばらくの間使い魔を連れて歩かないのはどうかとも考えたが、その場合でもどうせ遠からず詮索は受けるだろう。

ディーキンはあちこちで顔を売って人気者になっているので、いなくなれば理由を聞かれないはずがない。

ゆえに、いっそ天使だという一点のみを伏せて、ディーキンはしばらく出かけていて彼女が使い魔代理だと正直に言う方がいいと結論した。

せっかく代理をよこしてくれたのに部屋に閉じ込めておくというのも、ディーキンとラヴォエラに申し訳ないことだろうし。

 

結果として、周囲から注がれる好奇の視線の中でルイズはかなり居心地の悪い思いをしたが、そればかりでは済まなかった。

それらの視線の中には、非常に意地の悪い性質のものも、いくつか含まれていたのである。

 

それは、生徒らの中でも殊更強くルイズを蔑み、長い間嗤いものにし続けてきた連中からのものであった。

最近彼女が召喚した奇妙な亜人の使い魔がやけに人気者な上、ルイズの評判も上がったために手を出しにくく、不満を募らせていたのだ。

その使い魔が今はおらず、代わりにやってきた代理とやらはどう見ても平民の使用人。

となれば、これは彼らにとって絶好の機会であった。

 

「やれやれ、あの使い魔にはとうとう逃げられたらしいね。

 まあ、『ゼロ』にしてはよく持ったじゃないか!

 おまけに、その代わりに平民のメイドを使い魔だなどと言い張って持ち出す度胸には恐れ入ったよ!」

 

と、挑発の口火を切ったのはヴィリエ・ド・ロレーヌ。

ルイズの同級生であり、『風』系統の高名なメイジを何人も輩出した名家の出身で、自身も風のライン・メイジだ。

その事を傲慢なまでに誇り、家格や実力で劣る他者を蔑む態度が鼻につく男子生徒だった。

 

「そうそう、大したもんじゃないか!

 さては例の盗賊退治の時のお手柄も、実はその話術の成果かい?」

 

「その口の上手さなら、将来はさぞやいい政治屋になれるぜ!」

 

何名かの意地の悪い生徒がロレーヌに追随するように声を上げて、ルイズを囃し立てる。

 

「あんたたちがそう思うのは自由よ」

 

ルイズは半目で彼らを睨むと、さらりとそう返しただけで、後は無視を決め込んだ。

 

こと風においては間違いなく当代最強のメイジを身内に持つルイズからしてみれば、ロレーヌの増上慢はむしろ滑稽なだけであった。

おまけにこの男は、入学直後に自分よりも秀でた風の使い手であるタバサに決闘を挑んで無様に返り討ちに遭い、学院中に恥を晒している。

そんなわけで、ルイズは彼からの嘲りなど、ほとんど意に介したこともないのである。

 

しかし、彼女の傍に控えている使い魔代理は、そうはいかなかった。

ラヴォエラはロレーヌの言葉を聞いて不審そうに首を傾げると、彼の傍に歩み寄って話しかけた。

 

「ねえ、あなた、どうしてそんなことを言うのかしら?

 私は確かにディーキンから代理を頼まれてここに来たのだし、彼はルイズから逃げ出したりなんかしないわ」

 

ルイズと、少し離れたところで給仕をしていたシエスタとが、ぎょっとして彼女の方に目をやる。

キュルケは逆に、これはまた面白いことが起きそうだと目を細めていた。

 

案の定、ただの平民だと思い込んでいたラヴォエラからの思いもよらぬ反論に、ロレーヌはたちまち憤慨し始めた。

 

「平民ごときが貴族に対して、何だその態度は!

 さすがにゼロの雇った平民だけあって、常識もゼロだと見えるな!」

 

しかし、人間の社会自体に疎い、ましてやハルケギニアのそれなどまったく知らないラヴォエラは、ますます困惑するばかりだった。

 

「ええと……、その、つまり、私の態度がいけなかったのね?

 じゃあ、どういう話し方で、あなたにルイズが嘘を言っていないとわかってもらえばよかったのかしら?」

 

ラヴォエラはむしろ、穏やかに話を進めたいと思って純粋に質問をしただけだったのだが……。

ロレーヌには、この非常識な言動は明らかな挑発か侮辱だとしか思われなかった。

 

「……どこまでもそうして舐めた態度をとるつもりか。

 いいだろう、そういうつもりならば、望み通りお前に礼儀を教授してやろう!」

 

ラヴォエラに対して杖を突き付けるロレーヌの前に、慌ててシエスタが割って入った。

 

「お、お待ちください、貴族様!

 その、この方は、まだこの辺りに不慣れなもので……、」

 

しかしながら、シエスタが出て来たことは、かえってロレーヌの怒りの炎に油を注ぐ結果となった。

彼は、平民の分際で先日ギーシュとの決闘に勝ったこのメイドのことも、内心気にいらないと思っていたのだ。

厳密に言えば引き分けということになってはいるが、実質的にはシエスタの勝ちであることにはギーシュ自身も含めて誰も異論はなかった。

 

「ふん、最近は生意気な使用人が増えているようじゃあないか!

 メイド風情が、たかだかドットのメイジにまぐれ勝ちしたくらいで調子に乗るなよ。

 この際、あの不甲斐ないギーシュに変わって僕が、お前にもついでに……」

 

「待ちたまえ!」

 

そこで、今度はギーシュが席から立って、ヴィリエに薔薇の杖を突き付けた。

 

その目には、爛々と怒りの炎が燃えている。

先の決闘以降、ギーシュはシエスタに対して、身分の差を超えた敬意を示すようになっていた。

 

「ロレーヌ、これ以上その女性と僕とを侮辱する気ならば、僕も君の相手になるぞ!」

 

「……ちっ。平民などに肩入れを……」

 

ロレーヌは忌々しげにギーシュを見て、舌打ちをした。

 

たかがドット・メイジのギーシュなどに負ける気はないが、そのギーシュを負かしたメイドと一緒となると、少々面倒かも知れない。

万が一にも負けたくはない、一年の時のような恥をかかされるのだけは嫌だった。

 

しかしそこで、先程ロレーヌに同調してルイズを囃し立てていた生徒らが立ち上がった。

 

「ロレーヌ、相手の人数が多いようじゃないか。僕も加勢しよう」

 

「それなら、僕も参戦させてもらおうかな」

 

ロレーヌは彼らと、にやりと意地の悪い笑みを交わした。

彼らはいずれもロレーヌの悪友で、それぞれ火のライン・メイジと、土のドット・メイジだった。

 

「よおし、これで3対3ってわけだ。公平だし、文句はないよなあ?」

 

同じ土メイジ同士でギーシュを足止めしている間に、殺傷力に優れる風と火の呪文でメイド2人を始末する。

その後は、3対1でギーシュを滅多打ちにしてやるまでだ。

これなら負けるはずがない。

 

「ま、待ってください。私たちは決して、貴族様に挑もうなどとは……」

 

「ちょっと待ちなさいよ、ロレーヌ! 決闘は禁止でしょう!」

 

シエスタとルイズが、それぞれ声を上げる。

 

彼女らは、なんとか問題を大きくせずに事を収めたいと願っていた。

しかしそこで、ラヴォエラの鋭い声が上がった。

 

「いいでしょう、邪悪な者たちめ!

 あらぬ言いがかりで他人を傷つけようというのなら、私があなたたちを成敗してあげるわ!」

 

見れば、先程の穏やかな様子とはうって変わって、鋭く吊り上った目でロレーヌたちを睨み、彼らに指をビシッと突き付けている。

 

これではもう、到底決闘は避けられそうにもない。

ルイズは、なんで来て早々こんな面倒なことを起こしてくれるんだという気持ちで頭を抱えていた。

 

一方シエスタは、天使という存在についてより詳しく理解しているがゆえに、ルイズよりもなお一層危機感を募らせていた。

なんとか穏健に対処してくれるよう、彼女を説得しなくてはという焦りで、額に冷や汗をかいている。

 

ラヴォエラは明らかに、あまりに悪意のあるロレーヌらの態度を見て、彼らに《悪の感知(ディテクト・イーヴル)》を試したのであろう。

そうしておそらくは、彼らが悪の存在であることを確かめてしまったのだ。

力の及ぶ限り悪しき者と戦い、それを打ち倒すことは天使の重要な務めのひとつであると、シエスタはよく知っていた……。

 



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第六十九話 Sigh

「それじゃ、僕らはヴェストリの広場で待ってるぞ。今さら逃げようなんて思うなよ!」

 

ロレーヌらがそう言い捨ててヴェストリの広場へ向かって行った後、シエスタはあわててラヴォエラの元へ駆けつけた。

決闘の準備をすると言い訳をしてから、彼女をルイズと一緒に自分の部屋へ引っ張り込んで説得にかかる。

 

もちろん、ラヴォエラが負ける心配などはまったくしていない。

そうではなく、彼女がロレーヌたちを悪だからといってあまり手酷く成敗しすぎるのではないか、ということが心配なのだ。

天使は基本的には慈悲深い存在だが、一度悪しき者への怒りを燃え上がらせれば容赦なき破壊の化身ともなる。

自分よりも色濃く天使の血を引く祖母を間近で見て育ったシエスタは、その事をよく知っていた。

 

相手は悪しき心の持ち主であり、実際にも悪意ある行動をとって、他人の心身を傷つけようとしたのである。

パラディンであるシエスタとしても、善悪という面から見れば懲らしめられるのは当然だとは思う。

しかしながら法や秩序という面から見ると、当然ながら悪人を懲らしめてはい一件落着、というわけにはいかないのだ。

まあ、ラヴォエラの態度にも問題はあったとはいえ、向こうから挑んできた以上は返り討ちにしても咎められることはないだろうが……。

貴族相手に重傷を負わせたり死に至らしめたりすれば、さすがにそうもいくまい。

天使であるラヴォエラ自身はそんなお咎めなど気にもしないだろうが、ルイズらに迷惑がかかる。

 

だから、なんとか穏便に事を運んでくれるように説得をしなくてはならない。

ディーキンがいればきっと簡単に彼女を納得させてくれたのだろうが、今は留守を任された自分がどうにかしなくては……。

 

ルイズにはシエスタほどの危機感はなかったが、とはいえなるべく穏便に事を運んでくれるようラヴォエラを説得したいとは思っていた。

メイジ3人を相手に遠慮なく戦ったりしたら、正体がただの平民などではないことが知られてしまうだろう。

そうなれば、『使い魔でもない危険な亜人を学院に連れ込んだ』と非難されるかもしれない。

彼女は天使だなどという、戯言めいた説明がそう簡単に通るとも思えないし。

 

しかし、やってみるとこれがなかなか大変だった。

 

「シエスタ、あなたはパラディンなのでしょう?

 どうして、悪人を懲らしめるのがいけないなんていうの?」

 

「いえ、その。いけないというわけではないんです。

 ですが、なんといいますか、人間の社会の規律的な問題がですね……」

 

「向こうから戦いを挑んできたのに、立ち向かってはいけないの?」

 

「け、決闘はこの学院じゃ禁止されているのよ!」

 

シエスタとルイズの説明に、ラヴォエラはまばたきをして首を傾げた。

 

「よくわからないけど……。

 では、あの人たちをどこかに訴えて、法的に有罪にして処罰してもらえばいいのかしら?」

 

「あ……、いえ、あの方々は貴族でいらっしゃいますから。

 たぶん、訴えても有罪にはならないかと……」

 

シエスタが困ったような顔をしてそう言うと、ラヴォエラは美しい眉を吊り上げて憤慨した。

 

「まあ、なんて邪悪な! ここでは悪意をもって無辜の人々の心身を傷つけようとした者が、罪に問われずにのさばるというの!?」

 

「じゃ、邪悪って……。それは思うところは私にもあるけど、ちょっと言いすぎじゃない?」

 

ルイズはラヴォエラのナイーブな反応に戸惑いながらも、なんとか穏便に対処する必要性を彼女に分かってもらおうとした。

 

「その……、なんていうかあいつらは、私たちの社会では高い身分にあるのよ。

 あいつらがやられるのには同情しないけど、あなたがあまりひどく痛めつけると、ディーキンにも迷惑がかかるだろうし……」

 

「そんなことないわ。ディーキンは英雄だもの、悪人を懲らしめる時に、そんなリスクは気にしないわ」

 

ディーキンのことを信頼しきった真っ直ぐな目でそう言い切るラヴォエラを見て、ルイズは顔をしかめた。

 

「あ、あなたがあんまり派手に暴れるとね、私にも体面とかが……」

 

ラヴォエラはそれを聞いて、不思議そうに質問をした。

 

「ルイズは、善を成すことよりも自分の体面を保つことのほうが大事なの?

 あなたは善い人のはずよ、どうしてそんな利己的なことを?」

 

人間のような種族の不完全さにまだ不慣れな天使である彼女には、ルイズの訴えは理解しがたいものだったようだ。

 

純粋なる善の存在である天使は、善のためなら自分の不利益など気にしないのが当たり前だし、裏表のある態度などもまず取らない。

善行をするにあたっては、その見返りはおろか、感謝の言葉ひとつ期待する事もない。

そして俗世に疎い彼女は、天使でなくとも善に属する者はすべからくそうであって、それが普通のことだと思っているのだ。

おまけに彼女が一番よく知っている人間はディーキンのボスで、パラディンである彼は、そんな彼女の考えを滅多に裏切らない人物だった。

 

経験を積んだ天使の中には、善を成す時ですら悪から離れられない定命の民の賤しい性質を知って、すっかり失望してしまう者もいる。

そのような者は、冷たく超然とした態度を持って、それらの種族と接するようになる。

人間のような種族の間でしばしば語られる、“高潔だが傲慢で冷酷な天使”のイメージは、主としてそうした者たちが形作ったものだ。

 

一方で、その不完全な性質の中に、自分たちのような完全性とはまた違う種類の高潔な精神を認めるようになる者もいる。

そのような者は、時に躓き迷いながらも懸命に正しい道を歩もうとする力弱い種族に敬意を覚え、時には深い愛情を抱くようになる。

シエスタのようなアアシマールも、そうして地上の種族に惹かれた心優しき天使を祖として生まれたものなのだ。

 

ラヴォエラは、今のところそのどちらでもないといえるだろう。

 

地上に来て初めての任務で希代の英雄に救われた彼女が、この後人間に失望するようになることはまずあるまい。

かといって、彼女はまだ定命の種族に対して深い愛情を抱けるほどに彼らのことをよく理解しているというわけでもなかった。

若々しい好奇心と生まれ持った熱意の赴くままに、世界と向き合い出したばかりの段階なのだ。

 

「……う、う~」

 

責めるでもなく、ただ純粋な問いを投げてくるラヴォエラに、ルイズは何を言っていいのやらわからなくなってしまった。

そんな彼女の代わりに、天使というものについてよりよく理解しているシエスタが口を挟む。

 

「その、つまりですね。確かに悪を懲らしめるのは大切ですが、迷惑が掛かる人もでてきますよね?

 もちろん、先生やミス・ヴァリエールは必要な犠牲であれば受け容れてくださるとは思いますが、それがなければもっと善いでしょう?」

 

「うーん……。それは、そのとおりね」

 

「ですよね! ミス・ヴァリエールが言われたかったのは、そういう、もっと良いやり方があるということなんですよ!」

 

ようやく手掛かりをつかんだと見たシエスタは、その線で一生懸命に説明を続けた。

 

確かにあの貴族たちは今は悪意に満ちているが、人間なのだから良心もあるはずだし、まだ若い。

少しだけ懲らしめた後は説得して正しい道に引き戻す方が、ただ徹底的に叩きのめして終わるよりもずっといいはずだ。

悪人のまま死ねばその魂は地獄や奈落で苦しむが、改心すれば浄土で永久の安らぎを得られるのだから……。

 

「ラヴォエラさんなら、きっとできると思うんです!

 先生も、『悪い竜を倒す英雄より、友だちになって悪事を止めさせる英雄の方がもっと偉い』っておっしゃってましたわ!」

 

熱意を込めてそう言うと、ラヴォエラはあっさり納得したらしく、目をきらきらさせていた。

 

「そう……そうよね! さすがはパラディンね、あなたのお陰で目が醒めたわ!

 私、頑張ってあの子たちを正しい道に引き戻してみせるわね!」

 

まったくもって、単純なものである。

 

シエスタは、これで最悪の事態は避けられただろうと、ほっと溜息を吐いた。

世慣れていない天使の心を動かすには、利害だの体面だのを説くよりもこういう話の方がいいはずだという考えは当たっていたようだ。

 

「おい、いつまで準備に時間をかけてるんだ。

 なにをブツブツ喋ってるのか知らんが、そろそろ出てこいよ!」

 

部屋の外で、見張りのために残ったロレーヌの悪友の一人が乱暴にドアを叩いて声をかけてきた。

 

「もちろんよ、善を成すのは早いほどいいものね。今いくわ!」

 

そう言って勇んで部屋の外に向かおうとするラヴォエラに、ルイズが慌てて釘を刺した。

 

「シ、シエスタの話でわかってくれたとは思うけど、あんまり派手なことはしないでよ。

 あなたがすごいのは今朝の話でちゃんと理解してるから、天使の力を見せびらかすみたいな戦い方はしないでちょうだい。

 出来るだけ平民の戦士みたいな戦い方で……、相手に怪我をさせないで、なるべく目立たずに勝ってよね!」

 

その言葉を聞いたラヴォエラは、また不思議そうに首を傾げた。

 

「もちろんよ。私、自分の生まれつきの力を見せびらかしたいなんて、思ったこともないわ。

 ねえ、私って、そんなことで威張るなんていう傲慢の罪に塗れるようなことをするほど、悪い人に見えるのかしら?」

 

そういって、腰に差した鎚鉾を示す。

これで戦うから安心して、ということだろう。

 

「ご、傲慢の罪……?

 い、いや、分かってればいいのよ!」

 

いちいち大げさなことを真顔で、いたって自然に口にするラヴォエラに、ルイズは何だかまた不安になってきた。

善良で清らかなのはわかるが、どうも天使の感覚というのは人間のそれとは相当にずれがあるらしい。

 

(この天使に任せといて、本当に大丈夫なのかしら……?)

 

とはいえ、シエスタとギーシュだけでメイジを3人も相手にするのは難しいだろうし、彼女以外に頼れる相手もいない。

キュルケは手出しをする気は無さそうだったし、自分が名乗りを上げたところで勝つのは難しかっただろう。

ルイズは胸に一抹の不安を抱えながらも、それ以上どうする術もなく、ラヴォエラとシエスタの後に続いて決闘の場へ向かった……。

 

 

結論から言えば、ラヴォエラは確かに約束を守った。

彼女は変身を解いて天使の正体を現しはしなかったし、ロレーヌらをこっぴどく痛めつけたりも、派手な魔法を放ったりもしなかった。

 

でも目立った。

異常なほど目立った。

 

ラヴォエラはまず、決闘が始まるや否やロレーヌら3人に説教を始めた。

悪事を行なえば魂が永遠の救済から外れるだの、善行を成せば必ずや報いがあるだの……。

 

平民がメイジを相手に怯える様子もなく、いきなり説教である。

初っ端から物凄く目立っていた。

 

当然ながら、ロレーヌらがそれで感動して戦いを止めたりなどしようはずもない。

ロレーヌはまた挑発か侮辱の類だと解釈して激昂し、残る2人は怖じ気づいた平民の命乞い代わりの戯言だと考えて嘲った。

そして、ロレーヌの『エア・カッター』と、彼の悪友の『ファイアー・ボール』が、返答の代わりにラヴォエラを目がけて飛んできた。

 

ラヴォエラはそれらの攻撃を避ける間もなく、まともに食らったように見えた。

しかし、彼女の身体に当たる寸前に、呪文はまるで水滴のように弾けて掻き消えてしまったのである。

 

ロレーヌらは驚愕して、さらに『ウィンド・ブレイク』、『エア・ハンマー』、『フレイム・ボール』などの攻撃呪文を乱発した。

だがそれらの呪文も、ことごとくラヴォエラの身体を傷つけることなく、霧散して消えていく。

彼女の持つ生来の超常能力、《防御のオーラ》によるものであった。

 

そこへ、残る1人が作り出した3体の青銅製のゴーレムが向かってきた。

ギーシュのワルキューレよりも出せる数は少ないようだが、身長2メイル以上もある屈強な男の姿をしている。

呪文は効かずともゴーレムの拳ならばあるいは、と望みをかけたのであろう。

 

ギーシュがワルキューレを作り出して食い止めようとするよりも先に、ラヴォエラが自分から進んでそちらの方へ向かって行った。

相手がゴーレムならば武器を使って戦う限りは遠慮なくやっていいだろうと、張り切って自前のメイスを構える。

 

振るわれたゴーレムの腕を掻い潜り、懐へ素早く飛び込んだ彼女は、その得物を思いきり叩き込んだ。

ゴシャア! ……と金属が潰れる大きな音が響き、ゴーレムの巨体が一撃でひしゃげて吹き飛んでいく。

 

ごく平凡な体躯の人間の女性の外見からは、信じられないようなパワーであった。

アストラル・デーヴァの筋力はライオン以上で、どんな姿に変身していようともその身体能力は変わらないのである。

 

彼女はそのまま素早く残り2体のゴーレムにも飛び掛かって立て続けにメイスを振るい、ほんの数秒の間に粉砕して土に還してしまった。

 

自分たちの呪文がことごとく通じず、ゴーレムも粉砕されたのを目の当たりにしたロレーヌらは、完全に怯えきって戦意を喪失した。

ラヴォエラは確かに約束の通り、相手を痛めつけることなく勝ったのである。

シエスタとギーシュは殆ど呆気にとられていただけで、何をする暇も、またその必要もなかった。

 

さて、その一部始終を見ていた観客たちは、当然のごとくざわざわと騒ぎ始めた。

 

「……お、おい。あの子に当たった呪文が全部消えてったぞ、一体どうなってんだ?」

「ルーンを唱えてる様子はないし、杖も持ってない……。まさか、先住魔法か?」

「で、でも。確か先住魔法だって、詠唱や身振りは必要だって……」

「おまけになんだよ、あのパワーは。武器の達人だとかそういう問題じゃねえぞ、オーク鬼かよ!」

「あのメイド、実はエルフの魔法戦士とかなんじゃないのか!?」

 

ルイズは、それを見て頭を抱えた。

 

おそらく彼女としては、『約束通り武器だけで戦ったし傷つけずに勝ったわ、目立ってないでしょ?』というつもりなのだろうが……。

もうどうしようもないくらいデタラメに目立っている。絶対後で事情聴取される。

お前のような平民がいるか!

 

そんな周囲の騒ぎや嘆きを他所に、キュルケただ一人だけが、楽しげに眼を細めて拍手を送っていた……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

(元はといえば、あの時あんたが目立ちまくったのが、今回の問題の始まりだったのよ……)

 

ルイズは事の経緯を思い返しながら、心配そうに背中をさすってくるラヴォエラをじとっとした目で睨んだ。

 

あの決闘の後、当然の成り行きとして教師に呼び出され、オールド・オスマンの前で事情を説明し……。

とりあえず、エルフの魔法戦士などという剣呑な存在でないことだけは皆の前で学院長に保証してもらい、どうにか騒ぎは収まった。

ではなんなのか、という話については、学院長が『まあ、天使のようなモノかのう?』などと冗談めかして誤魔化していた。

 

ラヴォエラは決闘の後、宣言通りにロレーヌらを改心させようと頻繁に彼らについて回り、説法などを聞かせているようだ。

今のところは“バケモノめいた恐ろしい相手”に付きまとわれて生きた心地もしないようで、改心どころではなさそうだが。

 

シエスタの使用人仲間の間では、ラヴォエラは『我らの天使』で通っている。

怪我人や病人が出た時に治してやったり、永久に燃え続ける炎のような灯りをプレゼントしたりした結果、そう呼ばれるようになったのだ。

どうせ人外の力を持っていることは知られてしまったのだから、正体はともかく力は今更隠してもしょうがないと、ルイズも容認していた。

 

そんな感じで、決闘以降はどうにか大きな騒ぎもなく過ぎて来たのだが……。

 

しかし、やはり目立ち過ぎてどこかから情報が広まっていたものか、つい先程王都の方から手紙が届いた。

その手紙の内容が、今し方ルイズに溜息をつかせた悩みの源だった。

 

 

 

『ルイズへ

 

 今度の虚無の曜日にそちらへ行きます。

 その時に、あなたの召喚したという亜人だか天使だかを私に見せなさい。

 

 エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエール』

 

 

 

王都トリスタニアの王立魔法研究所で、研究員として働いている上の姉が来るというのである。

ルイズは、昔から何かと厳しい上の姉のことが苦手だった。

 

エレオノールがやってきたときに、ディーキンが戻って来ていてくれさえすれば、問題はないだろうと思えた。

あの子なら、きっとうまくやってくれるはずだ。

 

しかし、その時にディーキンがまだ戻っていなくて、ラヴォエラが彼女と会ったら……。

何か問題が起こりそうな気しかしない。

 

(ディーキン、早く戻って来なさいよお……)

 

ルイズはもう一度溜息を吐くと、ベッドに突っ伏して枕に顔を埋めた。

 

結論から言えば、ルイズの望み通り、ディーキンは翌日にはルイズの元へ帰ってきた。

しかしながら、ラヴォエラはディーキンと入れ替わりですぐに元の世界へ戻るということは拒否した。

ロレーヌらを改心させないうちは還るわけにはいかない、というのである。

 

かくして、ラヴォエラはこの後もなおしばらくの間、ハルケギニアに留まる事になったのだった……。

 




《防御のオーラ(Protective Aura)》:
 エンジェルが常時身に纏っている、自分や仲間を守る周囲半径20フィートの超常の力の場。
悪の存在による攻撃に対して、このオーラの範囲内にいる者はACに+4の反発ボーナスとセーヴィング・スローに+4の抵抗ボーナスを得る。
また、範囲内にいる者に対する魅惑や強制の精神作用効果、および憑依の試みは自動的に妨げられる。
善ではない招来された存在は、このオーラに守られた者から攻撃されない限り、オーラの範囲内に入り込むことができない。
加えて、このオーラの範囲内や範囲内にいる者に影響を及ぼそうとする、呪文レベルが3レベル以下のすべての呪文は無効化される。
 このオーラは解呪され得るが、エンジェルは自身の次のターンに、ただそうしようと思うだけで即座に再稼働させることができる。


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第七十話 Affection

ここは、トリステインの王都・トリスタニアの王立魔法研究所(アカデミー)の一室。

ルイズの姉・エレオノールは、研究用のフラスコに入れた紅茶が沸くのを待ちながら、いらいらしたように机を指先で叩いていた。

 

彼女が苛立っているのは、最近態度が気に入らない婚約者のせいでもなければ、上から命じられた退屈な研究もどきの作業のせいでもない。

末の妹が召喚したという使い魔に関して、外部から入ってきた情報が問題なのだった。

 

「まったく、亜人だか天使だか知らないけれど……」

 

どうしてそんな重要な話を、さっさと自分に知らせなかったのか。

ようやく魔法が成功して使い魔が召喚できたというその一事だけでも、最も傍にいる身内の自分に知らせてきてもよさそうなものだ。

ましてや、そんな変わった使い魔が召喚されたなどという重要事を知らせようともせぬとは。

 

「この私に恥をかかせるつもりなのかしらね、あのおちびは……!」

 

普段研究に没頭していて市井の話には疎い部類の自分の耳にまで、その噂が届いてきた、ということは……。

王宮の中にも、もう既に知っている者がいるかもしれない。

ここは調査の命令が王宮側から来るよりも先に、自分の方でさっさと済ませておくべきだろう。

いざ問い合わせが来たときに、身内の使い魔に関してなにも把握していませんでしたなどというのでは、恥晒しもいいところだ。

 

(それに……)

 

あまつさえ、妹やその使い魔を妙な事に利用されでもしては、という心配もあった。

 

なんでもアンリエッタ王女は、近いうちにゲルマニアとの同盟のため、かの国の皇帝の元へ嫁ぐ予定になっていると聞く。

よりにもよってあんな野蛮な成り上がり者どもの国へ、伝統あるトリステインの王族が……、という思いはエレオノールにもあった。

だが、様々な状況を考えればいたしかたのないことらしいとも理解している。

 

浮遊大陸の『白の国』アルビオンでは、レコン・キスタと名乗る勢力が王権の打倒とハルケギニアの統一を宣言して革命を起こしている。

そして、既にアルビオンの王家を追い詰め、勝利を目前にしているのだという。

 

彼らの掲げる大義から推して、アルビオンを制圧した後には地上にある他の国家にも、遅かれ早かれ牙を向けてくるだろう。

その時に、真っ先に目標になるであろう至近の国はこのトリステインだ。

そして、小国に過ぎぬトリステイン一国の戦力では、到底アルビオン王家を滅ぼせるほどの戦力を持つ相手に太刀打ちできる見込みはない。

だから、そうなる前に王女を嫁がせることで、強い力を持つゲルマニアと軍事同盟を結んでおく必要がある、というわけだ。

 

聞くところによると、レコン・キスタの首魁であるクロムウェルとかいう男は、伝説の『虚無』の使い手だと主張しているのだという。

そのことが、王権の打倒という不遜な行いをするにあたって、彼らが掲げる大義名分のひとつであるらしい。

始祖が用いたという伝説の虚無が使える以上、始祖が認めているのは遠い末裔でしかない王族ではなく自分たちなのである、ということか。

にわかには信じ難い話だが、それで大勢の者がついてくるということは、その男は確かに虚無だと思えるような力を持っているのだろうか?

 

そのあたりの事情が、エレオノールの不安をなおさら強めているのだった。

 

「……天使、ねえ」

 

エレオノールはそう呟いて、壁にかけられた一枚の絵を眺めた。

 

それは、ハルケギニアの大地に降臨する始祖と、それを支える天使たちの姿を描いた宗教画だった。

始祖ブリミルにまつわる神話の一場面、『始祖の降臨』を描いたものだ。

 

「天使は神の御遣いであり、天より降臨した我らの始祖を導き、守護した存在……。本当なのかしらね?」

 

神話の真偽はともかくとしても、もし仮に、天使が今現在このトリステインに降臨しているということになれば。

それは、始祖の加護が今もなお王権の側にあるということの、強力な証拠となり得るのではないか?

 

ならば、もしもルイズの呼び出したという天使が、『本物』だったならば。

あるいはそうでなくとも、少なくとも本物だと言い張れそうな程度に珍しく強力な能力を持つ、亜人か何かの類であったならば……。

この切羽詰った状況で、王宮の者たちがそれを利用せずに、ルイズとその使い魔を放っておくなどということがあり得るのだろうか?

 

それは、ある意味では歓迎すべきことなのかもしれない。

 

レコン・キスタを打倒し、このトリステイン王国の命脈を保つことは、言うまでもなくエレオノールとて大いに望んでいる。

長年魔法を使えず、蔑まれ続けてきた末の妹にとっても、大きなチャンスだといえるかもしれない。

 

だが、そのために大事な妹を戦争沙汰に巻き込み、危険な目に遭わせることになるかもしれぬとなれば……。

そうそう安易に、肯定することはできなかった。

 

「はあ……、まったく、あの子はいくつになっても世話が焼けるんだから」

 

エレオノールはひとつ溜息を吐くと、ぶつぶつと愚痴をこぼした。

 

普段は厳しい態度で接してはいるが、エレオノールは自分なりに妹たちのことを大切にしているのである。

魔法の研究者としての道を志したのも、元々は上の妹の病弱さと下の妹の魔法が使えないのを何とかしてやりたいと思ってのことだった。

 

幸いにして、今、姫殿下と枢機卿は、皇帝を訪問するためにゲルマニアへと赴いているはずだ。

王宮でも最重要の人物であるこの2人の耳には、今回の話はまだ入ってはいまい。

 

とにかく、虚無の曜日になって仕事から解放され次第、まずは研究員としてではなく姉としてルイズを訪問する。

そうして自分の目で真偽のほどを確かめ、状況を判断することが先決だろう。

その結果が何でもなければそれでよし、もしそうでなければ、それから改めて王宮への報告をどうするかなどといったことを検討しよう。

 

エレオノールはそう結論すると、丁度沸いた紅茶を携え、気持ちを切り替えて仕事に戻っていった……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

ディーキンとタバサが学院に帰還した、その日の夜。

 

学院の授業が終わると、ルイズ、キュルケ、タバサ、シエスタは揃って王都へ出かけ、『魅惑の妖精』亭の一室に集まった。

もちろん、今回の件について情報を交換し合い、共通理解を図るためだ。

オルレアン公夫人も同席している。

 

ちなみに、ラヴォエラは学院で留守番である。

今頃はまた、ロレーヌらに説法を聞かせてでもいることだろう。

 

ディーキンはといえば、ルイズから席を外す許可を得て、久し振りに酒場の方で詩歌などを披露していた。

かねてからの約束通り、学院長秘書あらため“新入りのきれいな大妖精さん”のミス・ロングビルと共演して大盛況を博しているようだ。

なんだか面白そうだと興味を持ったシルフィードも、人間に化けてそのお手伝いしていた。

 

ルイズらは、ロングビルが学院長秘書という立派な役職を捨て、このようないかがわしい趣の酒場で働き出したことに驚いていたが……。

きっと詮索してはいけない事情があるに違いない、と解釈して、それについて本人に問い質すようなことはしなかった。

タバサだけはその事情を立ち聞きして知っていたのだが、元より彼女が口外などしようはずもない。

 

トーマスはディーキンに勧められたとおり、早速ディーキンの演劇の幕間に手品の披露をしている。

ディーキンやロングビルが助手を務めて、客からの評判も上々のようだ。

 

ペルスランは、酒場で一般の客に交じって飲んでいる。

長年ただ一人で仕事をし続けてきたのだから、今夜くらいは仕事から離れてくつろいでほしいと夫人から勧められたのだった。

 

「ふうん、まさかあなたが、ガリアの王族だったなんてね。

 それに、よく何日も外出してたのには、そんな事情があったなんて……」

 

タバサの境遇を聞いたキュルケは、感心したようにそういうと、うんうんと頷いた。

シエスタは、流石は私の先生だと、ディーキンの功績に感動しているようだ。

 

ルイズはといえば、まずタバサの身分に驚き、次いでその話に心を動かされ。

それから、自分のパートナーであるディーキンの功績が誇らしいような、立場がないような、複雑な気持ちになり……、と忙しかった。

 

「……でも、それはまあ、無理に聞く気はなかったけれど。

 私にこれまでなんにも教えてくれなかっただなんて、水臭いわね」

 

「ごめんなさい」

 

「別に、謝らなくてもいいけど……」

 

キュルケは、母親の傍らでしおらしく頭を垂れるタバサの姿を、微笑ましげに眺めやった。

 

(この私にも内緒にしていたことを、ディー君には教えるだなんてね)

 

それはもちろん、彼が母親を治せる手段を持っていたから、というのもあるだろうが……。

それにしても、一年ほどの付き合いになる自分にも教えなかったことを、この内向的な友人が一月にも満たない付き合いの男に教えるとは。

 

おまけにタバサの彼に対する雰囲気が、出かける前とは明らかに違っている。

 

もちろんそれについても、母親を救ってくれた恩人に対して態度が変わるのは当たり前だろう、ともいえるが……。

何というか、距離が近くなった感じがする。しかも時々、ちらちらと彼の方の様子を窺っている。

 

この、他の人間すべてに対して無関心なように見えた友人が、だ。

 

(これは微熱なんてもんじゃないわ、相当ぞっこん惚れ込んでるわね)

 

と、キュルケは以前からの確信をより確かなものにしていた。

 

タバサの親友と自負している身としては、自分を差し置いて、といった悔しさのようなものも少しはある。

だが、タバサやディーキンを見守る目はあくまで優しい。

 

キュルケは、振る舞いこそ奔放とはいえ、大切な友人の幸せを心から祝福できる人間なのだった。

 

「シャルロットに知らない間にこんなに大勢お友達ができていたなんて、嬉しいわ。

 皆さん、どうかこれからも、娘のことをよろしくお願いします」

 

オルレアン公夫人が微笑んで頭を下げる。

 

「ええ、もちろん」

 

「はい、御夫人。こちらこそ、光栄ですわ」

 

キュルケは朗らかに会釈し、ルイズは丁寧に一礼して、その言葉に応える。

 

「わ、私のような平民が、王族の方からそのような……」

 

自分に対してまで頭を下げられたことに、シエスタが恐縮してその十倍くらいぺこぺこと頭を下げ返した。

 

それを見てルイズは苦笑し、キュルケはからからと笑う。

タバサも、微かに顔を綻ばせていた。

 

5人の女性たちはそのまま、しばし和やかに歓談して時を過ごした。

 

 

「それにしても、酷いわね!

 王族ともあろう者が、身内に対してそんな仕打ちをするなんて……」

 

ルイズが紅茶とクッキーをつまみながら、ぷんすかと腹を立てた様子でそういった。

だいぶ打ち解けてきて、話題がそういったデリケートな内容に及んだのだ。

 

キュルケも、それに同調する。

 

「まったくね……。

 しかも、そんな仕打ちをしておきながら、面倒事が起こるたびに始末を押し付けるだなんて!」

 

普段は悠然とした微笑みを湛えている顔に、その系統に相応しい炎のような怒りの色が浮かんでいた。

そこでシエスタが、努めて明るい声で口を挟んだ。

 

「でも、先生のお陰でこうして夫人もお元気になられましたし。

 これでもう、シャルロット様が危険なお仕事をされる必要もないですわ!」

 

シエスタも、もちろん少なからぬ義憤を感じてはいる。

だが、せっかくの和やかな雰囲気を壊して、ようやく元に戻ったばかりの夫人に早々にまた辛い思いをさせるのもどうか、と思ったのだ。

 

しかし、それを聞いたタバサは、静かに首を横に振った。

 

「そうはいかない。私が命令に従わなくなれば、王室から疑いがかかる」

 

タバサは、何か言いたそうな曇った顔で自分を見つめてくる傍らの母に対して心苦しく思いながらも……。

半ば決別するようにきっぱりと、深々と頭を下げた。

 

「申し訳ありません、母さま。

 ですが、王室の敵どもを討たない限り、いつまた私や母さまの身が脅かされるかもしれません。

 シャルロットは、父さまの仇を討つまでは戦い続けると、杖に誓いを立てました」

 

「シャルロット……」

 

オルレアン公夫人はそれを聞くと、悲しげに呻いて首を横に振った。

そして、愛娘の体をぎゅっと抱き寄せる。

 

「いいえ、復讐などを考えてはなりませぬ。

 私は母として、あなたが国を2つに割きかねない戦いを起こすところなど、見たくはありません」

 

「母さま……」

 

「そもそも、シャルルがジョゼフ殿下に討たれたなどという証拠がどこにあるのです?」

 

「……え?」

 

タバサは、思いがけない言葉に、戸惑ったように母を見上げた。

 

「いえ、仮にシャルルが、間違いなくジョゼフ殿下に討たれたものだとしても……。

 あの人にもその原因が、罪がなかったなどと申せましょうか」

 

そうしてオルレアン公夫人は、タバサがこれまで思ってもみなかったような話を語り始めたのだった……。

 



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第七十一話 Ambivalence

 

オルレアン公夫人の語った話は、タバサにとっては大きなショックだった。

伯父への復讐心を燃やすにあたって、自分がこれまで信じてきた前提には、大きな誤りがあると伝えられたのだ。

 

ジョゼフは、父であるオルレアン大公に家族を殺すと脅迫することによって、王位を諦めるよう迫った。

そして、優秀で人望の厚い弟に託された王の座を簒奪した。

その後、脅迫が明るみにでることを恐れたジョゼフの手の者によって父は暗殺され、大公家は反逆者の汚名を着せられた……。

 

これまでタバサはそうに違いないと確信してきたし、シャルル派の貴族たちのほとんどもそれを信じているはずだ。

 

だが、母によれば、ジョゼフは王位の簒奪などしてはいないのだという。

 

「葬儀の後にリュティス大司教が読み上げた遺言の中で、先王はジョゼフ殿下を次の国王に指名していました。

 それだけでなく、私はシャルル自身の口からはっきりと聞いたのです。『父上は崩御の間際に、後継者を兄上に決められたよ』と」

 

「そんな、はず……! 伯父にやましいことがないのなら、どうして父さまが……」

 

必死の面持ちでそう問い掛けてくる娘の頭を優しく撫ぜながら、夫人はそっと首を横に振った。

 

「それは、私にもわかりません。

 ジョゼフ殿下……、いえ、ジョゼフ陛下が、本当にシャルルを暗殺したのかどうかということも――――」

 

夫人は一旦言葉を切ると顔を伏せて、悲しげに溜息を吐いた。

 

「それに……、反逆者と呼ばれるに値するような咎が、シャルルにまったく無かったかどうかということさえも、です」

 

「え……?」

 

タバサは、一瞬意味が分からずに目をしばたたかせ……、次いで、耳を疑った。

父が、あの優しく誰からも認められ慕われていた父が、本当に反逆者なのかもしれないと?

 

「……どうして!? 父さまには、反逆をするような理由なんて……!」

 

「あの人は、王の座を欲しがっていました。

 それも以前から、ずっと。渇望しているといってよいほどに……」

 

「……! そんな……」

 

タバサは顔を歪めて、いやいやをするように首を振った。

聡い彼女には、この話の先がなんとなく見えてきたのだ。

 

娘のそんな姿を見て、夫人も辛そうに首を振って少し躊躇ったが、先を続けた。

 

「……あの人の名誉のためにも黙っておこうと考えていましたが、そうもいかないようです。

 シャルルは王に選ばれたいがために、自分の評価を少しでも高めようと、ひたすらに魔法の腕を磨いていました。

 まっとうな努力をするだけではなく、いろいろと怪しげな薬や儀式にまで手を出したり、古代の魔法具を求めたりもしていたようです。

 それに人脈やお金を使って根回しをして、大臣たちを味方につけたり。

 家臣たちをたきつけて、ジョゼフ殿下の評判を貶めるように画策したり……」

 

タバサは、俯いて苦痛に耐えるようにぎゅっと目を瞑り、何かを否定するように首を横に振っていた。

 

彼女ももう、子どもではない。

どんなに非の打ちどころのないように見える人間でも、御伽噺の中の英雄や聖者とは違うのだということくらいはわかっている。

けれど、あの優しい父が、思い出の中でいつまでも清らかだった父が、実は権力の座に執着していたのかと思うと……。

 

それでも、耳を塞ぐことはしなかった。

自分が聞いておかなければならない話であることはわかっていたから。

 

「私にも話してはくれませんでしたが、何やらいかがわしい者たちとも、ずいぶんと付き合いがあったようですし……。

 あの人が実際に反乱の相談をしていたとしても、不思議には思いません。

 事実、あの人が亡くなった後、あの人を立てる大勢の貴族たちが早々に私の元へ押しかけて、決起を促してきました。

 シャルルが関知していたかどうかまではわかりませんが、少なくとも彼らは先王の崩御の直後から既に挙兵の準備をしていたのでしょう」

 

夫人はそこで、困惑したように顔を見合わせているルイズらの方に向けて、少し頭を下げた。

それから、改めて体を震わせている愛娘の方に向きあう。

 

「シャルロット……。もし、あなたがジョゼフ陛下を討つなどということをすれば、私たちの母国はどうなるのです。

 今のガリアの情勢を、はっきりとは知りませぬ。ですが、国が2つに割れ、多くの血が流れることは間違いないでしょう。

 私は、それを避けるためにあの毒杯をあおいだのですよ?」

 

タバサは、はっと顔を上げて、母を見つめた。

 

「私はシャルルにも、平和と、私たち家族皆の安らぎを大切に考えてくれるようにと願いました。

 でも、あの人は王の座を諦めてはくれなかった。

 シャルロット、あなたまであの人の後を追うようなことをしないで。復讐など考えず、私と静かに暮らしましょう」

 

「母さま……」

 

静かに泣く母に抱きしめられたまま、タバサはしばらくの間、ただ呆然と立ち尽くしていた……。

 

 

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酒場での講演を終えたディーキンは、ルイズらの待つ部屋へ戻ると、事の次第を聞かされた。

 

オルレアン公夫人は席を外し、トーマスやペルスランと別室で話をしている。

忠実な従者たちにも、事の成り行きを自分の口から伝えておかなくては、という考えからだ。

 

シルフィードはたらふく飲み食いして、暢気に酒場で居眠りしていた。

 

「うーん……、ディーキンにはあんまり難しいことはよくわからないけど、わかったよ。

 それで、タバサはどうするつもりなの?」

 

ひととおりの話を聞き終えたディーキンは首を傾げて、俯いて物思いに沈んでいるタバサにそう問い掛けた。

 

「……私は……」

 

「タバサ、その、あなたのお父さまの方にも非があったかもしれないっていうのは、私も信じたくないことだけど……。

 復讐は何も生まないし、夫人の言われたとおりだわ。親子2人で、静かに暮らすべきよ」

 

ルイズが口を挟んで、そう提言する。

 

「もしもあなたがそれを望むのなら、ゲルマニアの私の屋敷の方に来てくれれば、お母さまもあなたも安全に匿ってあげられるけど……」

 

キュルケはルイズの提案に沿ってそういいながらも、必ずしも賛成ではない様子だった。

 

ルイズの言葉は正論かも知れないが、綺麗事だ。

そんな綺麗事で、簡単に復讐の炎が鎮まるものなら世話はないだろう。

 

確かに夫人の言葉には考えさせられる点はあった。

だが、どんな事情があったにせよ、タバサの父を殺したのがジョゼフなら仇であることには変わりないのだ。

仮にそうでなくとも、タバサの母親に心を壊す薬を飲ませ、姪であるタバサに危険な任務を押し付けたのは間違いない事実ではないか。

向こうに非がないなどと、どうして言える?

なのに大切な親友が、そんな目に遭わされた恨みも晴らせずに、連中の目を怖れてこそこそと隠れ続けながら生きることになるなんて!

 

夫人の願いを無下にしたくはないものの、その辺りがキュルケにはどうにも納得できなかった。

 

「その、ミス・タバサが私的な復讐をされるのには賛成できませんけど、悪には報いがあるべきです。

 本当のことを確かめて、罰されるべきところがあるなら、法に則って罰を受けるか、贖罪を果たされるべきだと思います。

 難しいことだとは思いますけど……」

 

シエスタは遠慮がちに、しかしはっきりした意志を込めてそう提言すると、ディーキンの方を見た。

 

彼女は、できればタバサには母親と静かに暮らしてもらって、自分たちでそれを成すことはできないか、と考えていた。

ガリアの国王を相手に一介の平民が、なにを夢のようなことをと誰でもいうだろう。

しかしディーキンやラヴォエラが協力してくれるのなら、きっとできるはずだとシエスタは信じている。

 

よしんばそうでなくても、パラディンにとっては、目標の困難さはそれを成すことを断念する言い訳にはならないのだ。

 

「私は……、わからない。どうしたらいいのか……」

 

皆の視線が注がれる中、タバサは珍しく、そんな弱音のような事を口にした。

それから、ちらりとディーキンの方を窺う。

 

「……あなたは、どう思うの?」

 

この人は、私が復讐心に駆られて人を殺すところを見たら、どう思うのだろうか。

人に頼って匿ってもらい、ひたすら隠れ続ける安息への逃避の道を選んだら、どう思うのだろうか。

 

そして、もしこの人に失望され、軽蔑の目で見られでもしたら、私は何を思うのだろうか。

 

今まで誰も頼らずにやってきた自分が、そんな人の顔色を窺うような気持ちを抱いていることに、タバサは愕然とした。

急に自分がひどく弱く、頼りなくなってしまったように感じる。

 

ちょうどその時にディーキンと視線が合って、タバサは慌てて目を逸らした。

 

「ンー……、どうしたらいいかって聞かれても、本当のことがまだよくわかってないから何とも言えないの」

 

ディーキンはそう答えた後、なぜか少し躊躇してから付け加えた。

 

「うーん、ただ……。ディーキンも昔、ママの復讐をしたことがあるからね。

 だから、タバサが相手をものすごく憎くて、復讐を諦められないっていう気持ちはよくわかるよ」

 

ディーキンの口から出た思いがけない言葉に、しばらくの間、皆戸惑ったように顔を見合わせた。

この人懐っこい亜人は、憎しみだの復讐だのとはまったく無縁な、天真爛漫な存在だとばかり思っていたのだ。

 

「ちょ、ちょっとディーキン。それって本当?

 あんたが昔、母親の復讐をしたなんて話、ぜんぜん聞いてないわよ?」

 

ルイズが全員を代表してそう質問した。

 

「本当なの。ディーキンは嘘なんてつかないの。でも、ディーキンのお母さんのことじゃないよ?」

 

「え、だって……。あんた今、ママって言ったじゃない」

 

「えーと……、だから、ママはママなの。お母さんじゃないよ。

 ルイズは、耳の調子が悪いの?」

 

「……?」

 

「ママはね、ディーキンが昔立ち寄った村の酒場の、太った女主人なの。

 村人が彼女のことを“ママ”って呼んでたから、ディーキンもそう呼んでたんだ」

 

「あ、ああ……。なんだ、そういうことね」

 

得心がいって頷くルイズをよそに、ディーキンはしみじみと、その時のことを思い返していた。

 

クロマティック・ドラゴンの間には、“血のごとき甘み、火炎のごとき手ごたえ、金よりも珍しきこの遊び”という言い回しがある。

ディーキンは長い間その言葉の意味がよくわからなかったが、あの時、初めてわかった。

その言い回しが表わすもの……、噴き上がるように熱く、それでいて冷血で甘い復讐の味というものを、初めて実感したのだ。

 

「ディーキンはそのとき、実際に冒険をするために雇われたの。初めて、一人だけでね。

 あんまり楽しいお話じゃないけど……、聞いてもらえる?」

 

ディーキンはそう言うと、珍しくリュートを手に取らず、芝居がかった演出も無しに、話をし始めた。

 

ボスとの最初の旅は、最終的には世界の危機を救うまでのものになった。

それだけの旅に同行したにもかかわらず、ディーキンは自分がまだ冒険者ではないことを、彼と別れて痛感した。

あの時の自分はまだ、『ボスのお供』に過ぎなかった。

一人では、何もできなかったのだ。

 

比べれば、これからする話はまったく大したものではない。

色々と辛いこともあったし、今思い返せば恥ずかしいこともしていた。

成し遂げたこともごく小さなものでしかなく、自慢げに語れるような手柄話ではない。

だから、リュートの演奏付きの叙事詩形式で語るようなこともしない。

 

それでも、あれこそが正真正銘、自分の初めての『冒険者』としての仕事だったことは確かだ――――。

 



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第七十二話 First time adventure

 

「あれは……ボスとした最初の冒険が終わって、彼と別れた後だから……。

 まだ、ウォーターディープに着く前のことだね」

 

ディーキンはルイズらの聞き入る中で、静かに自分の『冒険者としての最初の仕事』の話を語り始めた。

 

「旅行中に夜になって、小さな人間の村へ着いたの。

 その時、ディーキンはとてもお腹がすいてたから、その村に入ったんだ――――」

 

 

 

-----------------------------------

 

 

 

「ううう……」

 

ディーキンは崖の上からその小さな村の灯りを眺めながら、もうずいぶん長いこと躊躇していた。

 

まるで神経質な鼠のように、不安げに何度も、きょろきょろと周囲を窺っている。

まだ決心が固まらないうちに村の人間に見つからないか、心配なのだ。

 

少し前までは、こうじゃなかった。

あの“ボス”と共に偉大な冒険を終えて、少しく自信を持っていたものだった。

もう少し堂々と、人間の前に出ていってみたことも何度もある。

 

けれど、彼と別れて一人で旅をしてみて分かった。

英雄なのは、あくまでもボスだったのだ。

自分は決して英雄でもなければ、強くもなかった。

 

人間の前に出ていっては追い回される、そんな経験を何度もした。

逃げずにあくまで粘ってみようという根性も、彼らに対抗しようという勇気も、自分には出せはしなかった。

そのせいで、この頃は挑戦してみようとする気持ちからして、すっかり挫けてきていたのだ。

 

けれど、自分の小さな胃袋がまたグーグーと鳴って、しまいにきりきりと痛んでくるに及んで、ディーキンもついに覚悟を決めた。

 

「このままじゃ、飢え死にしちゃうし……。

 ディーキンは、行くしかないってことだよね……」

 

前の夜に、大きなクマに荷物を荒らされて、とっておいた食べ物をみんな食べられてしまったのだ。

レンジャーでもない自分が、この寒い季節に野外での狩りや採集だけで凌ぐのは、土台無理な相談だった。

 

実際には、本気を出せば自分でも、クマくらいは追い払うことができたかもしれない。

でも竦み上がってしまって、とても立ち向かう勇気はなかったのだ。

 

食べ物を取られた仕返しくらいで、悪気もないただの動物を傷つけたり殺したりする気が起きなかった、というのもある。

だがどちらかといえば、そのことを言い訳にして自分を正当化していた、というほうがより正しいだろう。

 

「……アア、ディーキンはどうして、食べ物を作る呪文を覚えておかなかったのかな……」

 

《お祭りの御馳走(フェスティヴァル・フィースト)》の呪文かなにかを自分が使えれば、こんなことをしなくても済んだのに……。

ふとそう考えて、自分の挑戦心がすっかり萎えてしまっているのを改めて自覚する。

ディーキンは、ひどい自己嫌悪に襲われた。

 

自分は、ボスやご主人様がいなくてはなんにもできない、まったくの弱虫だ。

 

とにかくひたすら頭を下げて回って、余り物の一皿でももらえれば恩の字だ。

それが駄目なら、家畜の餌のいなご豆でもなんでもいい。

食べ物さえもらえればすぐに村から出て行くと言おう、馬小屋でもいいから寝かせてくれとまでは求めるまい。

 

ディーキンは頭の中で何度も頼み方を検討し直しながら、おずおずと村の方へ降りていった……。

 

 

 

-----------------------------------

 

 

 

「それで……。ディーキンはおそるおそる酒場の扉から中をのぞいて、食べ物をなにかくれないかって聞いたの。

 そしたら、太った人間の女の人が顔を出して、『いいけど、そんな寒いとこにいないで入りなよ』って言ってくれたんだ!」

 

ディーキンはどこか遠くを見るような目をして、しみじみとその女性のことを話し始めた。

 

「本当に変だったよ。ディーキンはおかしな気持ちだったの。

 だって、ディーキンを中へ入れてくれて、たくさん食べさせてくれて、部屋まで用意してくれたんだもの。

 たぶん、彼女はコボルドを見たことがなかったし、いろんなお客の相手をしてきたからかな……。

 とにかく、ディーキンのことをあんまり奇妙だとは思わなかったみたい」

 

「へえ、ディー君は運が良かったのね」

 

「うん。ディーキンはママみたいな人に会えて、とても運が良かったよ!

 後から酒場に入ってきた人は頭にきてたけど、太った女主人が話して、その場を収めてくれたんだ。

 ママがディーキンのことを、『何言ってんだい、この子は紳士だよ。紳士に失礼じゃないか』って言ったんで、みんな落ち着いたの」

 

その時の気持ちを思い出して、ディーキンは照れたように頬を掻いた。

 

「ディーキンは初めてそんな風に言われて、すごくくすぐったい感じだったな……。

 ママは1人で宿を経営してたんで、ディーキンは1週間程泊まって仕事を手伝ったんだ。

 彼女はディーキンに親切にしてくれて……、『息子のことを思い出すよ』って言ってくれたの」

 

ディーキンが幸せそうに“ママ”の事を話すのを聞いているうちに、ルイズはふと、下の優しい姉のことを思い浮かべた。

 

「ふうん。いい人に会えて、よかったじゃない」

 

「うん、とってもね。ディーキンは、そのまま留まって、ママを手伝おうかとさえ思ったよ。

 英雄にはなれなくなるけど、それでもいいかなって……」

 

そう出来ていたら、自分は今頃、その小さな村の酒場のちょっとした名物にでもおさまっていたかもしれない。

それはそれで悪くない人生だったに違いないと、今でも思う。

 

嬉しそうに話していたディーキンは、そこで急に、話すのをやめて黙り込んだ。

しばらくして、俯いたままぽつりと呟く。

 

「……でも……、それは叶わなかった」

 

ぽろぽろと涙が溢れてディーキンの顔をつたい落ちるのを見て、ルイズらは皆びっくりした。

彼が泣くなんて、想像もできなかったのだ。

 

「ある晩、オオカミが……、村にやってきたの。

 ママは……、その時、外にいて……。

 オオカミに、殺されちゃった……」

 

ディーキンは声を絞り出すようにしてそう言うと、ようやく自分が泣いていることに気がついて、ぐしぐしと頬を拭った。

 

残念ながら当時のディーキンには、女主人を生き返らせる手段は何もなかったのである。

もちろん、蘇生の秘跡を行なえるような司祭も、その小さな村にはいなかった。

 

「ディーキンは、その時眠ってたの。

 ママが外にいることなんか、ちっとも知らなかった……」

 

まだ少し震える声で、ディーキンは話を続ける。

 

「……最初、村の人たちは、ディーキンがママを殺したんじゃないかって思ったの。

 でも近くでよく見たらオオカミのしわざだってわかって、村長は『オオカミを殺しにいった者に金を出そう』って提案したんだ。

 だけど、村人は誰も買って出なかった。オオカミは大きいし危険だってね。……だから、ディーキンが志願したの」

 

ディーキンの声は、最後の方になるにつれて、次第に強張っていった。

 

戸惑いながらも、ディーキンを慰めようと彼の頭に手を伸ばしかけていたルイズは、その顔を見て……。

ぎょっとして、凍りついたように動きを止めた。

 

他の皆もまた、ディーキンの表情に気がつくと、ひどく衝撃を受けた。

その時のディーキンの顔は、まぎれもない怒りと憎悪の感情に歪んでいたのである。

 

「悲しかったけど、怒りもあったの。ママがあんな死に方をするなんて、許せない!

 だからオオカミの洞窟をみつけて……、一匹残らず、皆殺しにしたんだ!」

 

 

 

-----------------------------------

 

 

 

――――あそこだ。

 

ディーキンは、いつになく険しい目で、岩肌にぽっかりと空いた洞窟の入り口を睨んだ。

怒りのあまり、先程ママの遺体を目にした時の胸の潰れそうな悲しみや引き裂かれるような絶望は、すっかり心から消えていた。

 

「あそこにいるやつらに、ママを殺した報いを受けさせてやる……!」

 

憎々しげにそう吐き捨てると、真っ直ぐに洞窟へ向かう。

村に入る時に感じていたようなためらいや恐怖は、今は微塵も無かった。

 

ディーキンは明かりもつけずに、躊躇なく暗い洞窟の奥へと突き進んでいった。

暗視能力を持つコボルドには、そんなものは要らないのだ。

 

おそらく、夜目が効き、嗅覚も鋭いオオカミたちは、自分の侵入をすぐに察知するだろう。

縄張りへの侵入者を排除しようと、集団でこちらを取り囲んでくるだろう。

 

だが、それがなんだ?

 

あちらから向かってくるのなら、皆殺しにするのには好都合ではないか。

ただ、それだけのことだ。

 

ただの動物であるオオカミには、ものの善悪を判断するような能力はないのだ。

別に悪気があって彼女を殺したわけではないだろう。

この寒い季節で、彼らとて生き延びるために必死だったのに違いない。

 

だが、だからどうしたというのだ?

 

奴らが自分の恩人を殺した仇であることにはなんの違いもないではないか。

悪気の有無など、こちらの知った事か!

 

(……きた……!)

 

怒りのためかいつになく研ぎ澄まされた五感は、暗視の範囲にオオカミを捕えるよりも先に、その接近を感知した。

いくつもの唸り声、足音、獣の匂いが、洞窟の岩肌の向こうから迫ってくる。

 

怒りに歯を食いしばり、憎しみに目を吊り上げる。

武器のスピア(槍)を握る手に、力がこもる。

 

距離を保ってまずは飛び道具で攻撃しようとか、呪文を使おうとか、まきびしを撒いておこうとか……。

そんな理性的な思考は、感情の爆発の前に一切消し飛んでいた。

 

ややあって、ついに最初のオオカミが曲がり角から姿を現したとき、ディーキンは雄叫びを上げて突進した。

 

 

「ウォォオオオオォォッ!!」

 

まったく隠密性などを考慮しない、その突然の怒号に晒されたオオカミは一瞬怯んで立ち竦んだ。

そして、体勢を整え直して迎え撃つ間も、かわす間もなく、次の瞬間にはもう脳天を串刺しに刺し貫かれて絶命していた。

 

ディーキンの怒りがそのまま形となったような、まさに会心の一撃だった。

 

しかし、もちろんオオカミは、その一匹だけではない。

後続のオオカミたちは、先手の一頭がいきなり突き殺されたことに多少は怯んだようだが、さすがに野生の獣である。

すぐに気を取り直して散開し、ディーキンが死体から槍を引き抜くころには、すっかり彼を包囲し終えていた。

 

先程屠ったのはどうやら一番の下っ端ゆえに先頭を歩かされていた奴らしく、残りのオオカミどもはどいつもこいつもそれより大きかった。

だがそれを見ても、ディーキンの心に恐怖心はいささかも沸き起こってこない。

 

それどころか、ますます怒りと憎悪で心が煮え滾り、血が沸き立っているかのように体が熱くなってくる。

 

(この、ちっぽけで下等なケダモノどもめ!)

 

なぜか、そんな思いが心をよぎった。

少なくとも、ディーキンより小さなオオカミなどは一匹もいないというのに。

 

オオカミたちの数は、全部で十匹以上。

彼らは唸り声を上げながら包囲の輪をじりじりと狭め……、ついに一斉に飛び掛かってきた。

 

ディーキンは、すかさず正面から来る一頭の前に槍を突き出し、突進してきたところを串刺しにして迎撃してやった。

肩のあたりを貫かれて苦しんでいるオオカミをそのまま堅い岩の床に叩きつけて槍を捻り、止めを刺す。

 

その間に四方から、残りのオオカミたちが襲い掛かってきた。

 

ごく柔らかいコボルドのウロコやなめし革の鎧程度では、オオカミの鋭い牙を完全には防ぎきれない。

体に一頭のオオカミの牙が食い込み、鈍く熱い痛みが走った。

 

だがその痛みも、今のディーキンを怯ませる役には立たない。

ただ、煮え滾る怒りの炎に油を注いだだけだ。

 

ディーキンは完全にオオカミの体を貫いた槍を抜くのは諦めて手放し、代わりに腰からショート・ソード(小剣)を引き抜いた。

それで、自分の腰の辺りに噛み付いているオオカミの頭を力任せに突き刺す。

 

しかし、コボルドの非力ゆえに一撃ではそのオオカミは死なず、痛みに身悶えしながらもさらに激しく食らいついてきた。

 

「ぎっ……!」

 

ディーキンは敵に対する憎しみと、自分の非力さに対する苛立ちとで唸った。

 

そのオオカミの頭から剣を抜き、角度を変えて今度は顔の正面から二度突き込んで止めを刺し、自分から引きはがした。

その間に、また残りのオオカミたちが食いついてくる。

ディーキンはその攻撃を受けて傷つきながらも、一匹ずつ血にぬめる小剣で仕留めていった。

 

しかし、残りのオオカミの数がついに4匹にまで減った時。

一体のオオカミがディーキンの足に食いつき、そのままバランスを崩させて、地面に引き倒すことに成功した。

 

起き上がる間もなく、それとはまた別のオオカミがディーキンの上に飛び乗って、押さえつけてくる。

獣の熱い吐息と滴る涎に、ディーキンは顔をしかめた。

そのオオカミの牙が自分の喉笛に食らいつくのを、間一髪小剣を間に差し込んで阻止し、そのまま喉の奥を貫いてやった。

 

死んだオオカミの重たい屍を押しのけた瞬間、息つく間もなく今度は足を噛んだオオカミが自分の上にのしかかってきた。

しかもその拍子に、オオカミの喉の奥から溢れ出してきた大量の血で手が滑り、小剣を手放してしまう。

新しくダガー(短剣)を抜こうにも、体勢が悪い上にオオカミに押さえ込まれていた。

 

ディーキンがその時に感じたのは、恐怖でも絶望でもなく、ただより一層の怒りと憎しみだけだった。

そのオオカミの欲望にぎらつく目を、憎しみを込めて真っ向から睨み返してやる。

 

「グルルウゥ、……!?」

 

口の端から涎をこぼしながら、興奮して狂ったように唸っていたオオカミは、その途端に怯えたように身じろぎした。

まるで、ドラゴンにでも睨まれたかのように。

 

慌ててディーキンの上から降りて逃げようとしたが、ディーキンはそいつの首に腕を回して、ぎりぎりと締め上げた。

 

「……ディーキンは、すごく怒ってるの。

 たぶん、あんたを締め殺してやりたいんだよ……!」

 

しかし、コボルドの細腕では、なかなか絞め殺すことができない。

ディーキンは口を大きく開くと、そのオオカミの喉笛にくらいつき、力の限り噛みしめて、牙を深く深く埋めてやった。

オオカミはごぼごぼと血の泡を吹きながら、しばらく身悶えしていたが、やがて動かなくなる。

 

そいつの死体を放り捨てて起き上がると、勝てぬと悟った残る2匹がキャンキャンと情けなく鳴いて踵を返し、逃げ出そうとした。

 

「逃げるな! このちっぽけな犬コロめ!」

 

ディーキンは無意識にそう吠えて、懐から短剣を抜くとそのうちの一頭に投げつけた。

 

「ギャンッ!?」

 

短剣は狙い違わず、そいつの後ろ脚を捕えて切断した。

不具となったオオカミの哀れな苦鳴が響く。

 

ディーキンは脚を失って悶え苦しむそのオオカミに歩み寄ると、新しい短剣を引き抜いて止めを刺した。

それから、最後の一頭を追って洞窟の外へ向かった。

戦いの興奮が少しく引いて、麻痺していた痛みが全身を苛み、失血で傷口が冷えてきていたが、足取りはまだしっかりしている。

 

洞窟から出て周囲を見渡すと、遠くのほうに、慌てて崖を逃げ下ってゆくのが見えた。

ディーキンは冷たい目で、黙ってその無様な負け犬の姿を見据えると、ゆっくりとクロスボウを取り出してボルトを装填し……。

 

 

 

-----------------------------------

 

 

 

あの時の気持ちを思い出すと、ディーキンは今でも体が震える。

 

身を引き裂かれるような絶望と悲しみ。

煮え滾るような怒りと憎しみ。

初めて自分一人の力で冒険をやり抜いたという、達成感と喜び。

 

そして……、そればかりではない。

 

間違いなくあの時の自分は、獣どもの血と臓腑に塗れて、邪悪な衝動、昏い愉悦と興奮を覚えていた。

その証拠に、あの日を境に自分は赤竜になる夢を見るようになり、ドラゴン・ディサイプルとしての修行を考えるようになった。

体の中に眠っていた、地上で最も邪悪な竜族の血が目覚め始めたのだ。

 

「あの時のディーキンは、ぜんぜん弱くて。牙がいっぱい体に食い込んで、あやうく死にかかったけど……。

 それでも、ディーキンはオオカミをみんな殺して、気分がよかったよ。

 ママの復讐をして、真の冒険者になったと思ったの。村長も、約束通りに報酬を支払ってくれたもの」

 

「……っ、」

 

一瞬、ディーキンの顔が怒り狂う獰猛な火竜か、冷酷な爬虫類のそれのように見えて、タバサは我知らず身を竦ませた。

 

そんな表情を彼が浮かべていることが、信じられない。

その表情は自分に向けられたものではないとはわかっているのに、なぜかひどく怖かった。

命懸けの任務でさえ、怯える事など滅多にないこの自分が……。

 

もしもそれが自分に向けられたものだったら、私は絶望のあまり、引き裂かれるより先に死んでしまうのではないか。

そんな愚にもつかないような考えさえ、心をよぎる。

 

(私も、復讐のことを考えている時は、あんな顔をしているの?)

 

だとしたら、その顔を彼にも見られていたことになる。

そう考えると、ひどい自己嫌悪に襲われた。

 

「今思うと、そんなことで偉いことをしたつもりになってたなんて、恥ずかしいけどね……。

 ディーキンは、ルイズたちにだから話したの。みんなには、内緒にしといて」

 

ディーキンはそう言って、きまり悪そうに頬を掻いた。

 

幸いにも、その後ほどなくしてディーキンは、ウォーターディープでボスと再会することができた。

そのとき、ディーキンはこの初めての冒険の話を彼にも聞かせた。

少しばかり手柄顔をして、自慢げに。

 

彼は、自分が復讐の念に駆られて悪でも何でもない動物たちを虐殺したことを少しも責めなかった。

感心しないというような態度さえ見せなかった。

ただ、ママのことを悼み、よく頑張ったなと言って、自分を労ってくれた。

 

しかし、また彼と旅をして、彼を傍で見るうちに、自然と自分の憎悪に駆られた復讐の行為は誤っていたと悟るようになったのだ。

 

別に、あのオオカミたちを殺したこと自体が誤っていたとは思わない。

人間を襲って味を占めた彼らは、また別の村人を襲う可能性も高かっただろうから。

 

だが、ボスなら決して、憎悪に駆られてそれをしはしないだろう。

彼が自分の憎悪のために復讐に走るなど、到底考えられない。

自分は彼に憧れていたはずなのに、殺し合いなど好きではなかったはずなのに、どうしてあんなことをしてしまったのか……。

 

あの時ほど、自分が英雄の器ではないと痛感したことはなかった。

彼の高潔な生き方に再び接することができなければ、いずれは邪悪な赤竜の血の衝動に飲まれて墜ちてしまっていたかもしれない。

 

それでもなお、たとえ英雄にはなれなくても、自分は旅を続けたいと思った。

自分は詩人であり、冒険者であるから。

そう思えたあの時に初めて、自分は本当の意味で『冒険者』になったのかも知れないな、とふと思った。

 

「その……、それで、その後は、どうなったのですか?」

 

シエスタが、おずおずと質問した。

 

「うん……。その後、ディーキンは村を出て、ウォーターディープに向かったの。

 オオカミを殺したからって、村人がディーキンのことを本当に信頼してくれるわけじゃないもの。

 それに、もうママもいないしね……」

 

彼女のいない村は、それまでのように温かくは感じられなかった。

あの村は、既に自分の居場所ではなくなっていたのだ。

 

「彼女のことで、ディーキンはボスを思い出したの……。ボスがいなくて、あれほど寂しいと思ったことはなかったよ。

 いい仲間が一緒じゃないと、旅はとっても大変なんだってことがわかったの。

 それは、ディーキン自身が努力しないってことじゃないけどね」

 

だから、今のタバサにもきっといい仲間が傍にいてやることが必要なのだと、ディーキンはそう信じていた。

 

ただ、それを口には出さなかった。

あの時のボスも、きっとそうだったに違いないから――――。

 





フェスティヴァル・フィースト
Festival Feast /お祭りの御馳走
系統:召喚術(創造); 2レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:2時間
 術者は、良質な食糧およびエール、ビール、ワインなどの酒類を創造する。
この呪文によって作り出された酒によって、酩酊状態の悪影響が出ることはない。
なお、創造される飲食物の量は術者レベル毎に人間1人の1日分相当であるが、呪文の持続時間内に消費されなければ駄目になってしまう。


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第七十三話 For tomorrow

「ふうん。ディー君にもそんな経験があったのね。

 ちょっと意外だけど、熱くなれる男の子って素敵だと思うわ」

 

そんな場違いに暢気な感想を漏らすキュルケを軽く睨んでから、ルイズは困ったように眉根を寄せてディーキンを見つめた。

 

「その……、あんたの経験したことはわかったし、私には、なんて言っていいのかわからないけど。

 それじゃディーキンは、タバサが復讐を続けるべきだと思うの?」

 

ルイズとしては、何があろうと友人が身内と血で血を洗うような復讐を繰り広げるところなど見たくはなかった。

もちろん、その結果起こるであろう国家規模の戦争などは言うにも及ばない。

 

ディーキンなら、大切な自分のパートナーなら、きっとそれに賛同してくれると思っていたのだが……。

自分の経験から復讐に駆り立てられる気持ちもわかるといわれてしまうと、そんな経験のないルイズとしては言葉に詰まってしまった。

絶対に賛成ではないが、軽々しく否定するのもなんだか申し訳ないような気分になる。

 

「イヤ、ディーキンは別に賛成とか反対とかってわけじゃないの。

 思うに、復讐をどうするかとかを決めるより先に、まずはもっと詳しく調べてみるのが最初なんじゃないかな?」

 

「もっと……詳しく?」

 

そう聞き返してきたタバサの顔を見つめて、ディーキンは頷く。

 

「そうなの。つまり……、タバサのお父さんや伯父さんが、実際にどんなことを考えて、何をやってたのかとかをね。

 よくわからないのに決めつけて行動をしたら、取り返しがつかなくなるってこともあるでしょ?」

 

そう言ってから、ふと何かを思いついたように、リュートを手に取った。

 

「ええと、なんだかお話ばかりしちゃってるけど……。

 ディーキンはひとつ、そういう事に関するお話を知ってるから、それをお聞かせしたいと思うの」

 

「え、また別のお話をされるのですか?」

 

話を終えたばかりのディーキンに、気を利かせて飲み物などを運んできたシエスタが、首を傾げた。

 

「そうなの。でも、今度はちっぽけなディーキンのみっともない体験談じゃないよ。ディーキンの昔のご主人様が大好きなお話。

 バードは、いろんな説話なんかをお聞かせするのも仕事だからね。昔よくご主人様に聞かせてたの。

 ディーキンは、あんまり好きってわけじゃないけど……」

 

「あんたの、昔の主人が好きだった話?」

 

ディーキンはルイズに頷き返すと、ちらりと周囲の反応を窺った。

どうやら皆、聞くことに異議は無さそうだと確認すると、咳払いをして演奏を交えながら語り始める。

 

「――――これは、遠い遠い、人間の王国の話なの。

 そこには人間の王様がいたみたいだから、人間の王国って呼んでるんだけどね」

 

「とにかく、その国には王様を良く思わない人が大勢いて、その人たちが反乱を起こしたけど、王が彼らのリーダーを捕まえたの。

 彼は、王様の従兄弟の貴族で、ええと……、名前を忘れちゃったけど、ジョージってことにしといて」

 

「王様は怒って、反逆者の名前をぜんぶ吐かせるために、彼を拷問しろって命令したの……。

 卑劣で残忍な拷問執行人は、彼の足の指を切り落としたの」

 

「すごい痛みだったけど、彼は名前を言わなかった。

 そこで、今度は指を切り落としたの。彼は金切り声を上げたけど、やっぱり同志の名前は言わなかった。

 そこで、次は鼻を切り落とした。でも彼は話さなかった。

 そこで、次は耳を切り落とした、その次は足を、それから、手を……」

 

そこまで話して、残酷な拷問の話にルイズやシエスタが顔をしかめているのを見て取ると、ディーキンは肩を竦めた。

 

「……アア、ディーキンもその気持ちはよくわかるよ。

 だけど、前のご主人様はこんな趣向の話が好きだったの。信じられないよね?」

 

「あなたの主人は、悪意のあるドラゴンだったと聞いた」

 

タバサの言葉に、ディーキンは首肯した。

 

「そうなの。ご主人様は他にも、無力な乙女がドラゴンに食われるって話とか。

 英雄がそれを止めようとするけど、やっぱり食われるって話とか。

 勇敢な女騎士を倒して蹂躙して、屈服させて、助けに来た彼女の婚約者の前でいろいろして、最後は2人とも食べちゃうって話とか……」

 

「ふーん、なかなかいい趣味の御仁だったようね。

 その最後のやつとか、今度私の部屋で聞かせてくれないかしら。

 タバサも一緒に、どう?」

 

「……いい」

 

キュルケはむしろ楽しそうにそんなことを言って、ルイズにぎゃあぎゃあ文句を喚かれていた。

タバサやシエスタは、顔を赤くしている。

 

ディーキンは咳払いをして、話を戻した。

 

「エヘン。とにかく、彼は……。

 ええと、彼の名前はなんだっけ。ラローシュだったかな?」

 

「ジョージ」

 

タバサが律儀に訂正する。

 

「そうそう、ジョージは……、どれだけ痛めつけられても、話さなかったの。

 そこでようやく王様は、彼に一目置いたんだよ。勇敢だ、って。

 彼のことを褒めて、反逆者ではあるがこれ以上苦しませないため、拷問をやめて一思いに殺してやるようにと命じたの」

 

「当然ね。それが、誇り高い貴族に対する扱いというものだわ」

 

少し胸を張ってそう言うルイズに、しかしディーキンは、いかにも悲しそうに軽く首を振って見せた。

 

「ああ、でも、それは間違いだったの……。

 王様は、彼が本当に望んでいることが何かをわかってなかったし、ジョージも話せなかったんだよ」

 

怪訝そうにするルイズたちに対して、ディーキンは話を続けた。

 

「執行人が手斧を振りかざすと、ジョージは大声で叫んだの、『やめろ! 話すから!』って。

 でも時すでに遅く……、手斧は振られて、彼は息絶えたの」

 

「…………」

 

「つまり、ジョージはただただ、殺されたくない一心で黙ってたの。

 話したらそれきり殺されてしまうんだってよくわかってて、どんな痛みよりも死ぬ方が嫌だったんだね。

 王様は彼のことを尊敬して、慈悲をかけてやろうとしたんだけど……、かえって彼の、一番望まないことをしてしまったんだよ」

 

何とも言えない顔をしている一同に向かって、ディーキンは質問した。

 

「この話の教訓は、何か分かる?」

 

顔を見合わせるルイズらに、ディーキンは指をぴっと立てて、先を続ける。

 

「わからない? つまり……。

 『相手が怖じけづく前に、手斧でぶっ殺すのはNG』ってことなの」

 

「……は?」

 

「うーん……、いや、ディーキンの言い方が悪かったかもね……」

 

聞いて損したわ、というような顔つきになったルイズを見て、ディーキンは言い方を考え直した。

 

「……ええと、つまり。ディーキンが、何を言いたかったかっていうと。

 本当に相手のことがわかってないうちは、どうするのが正しいかも判断できないってことなの。

 このお話の王様みたいに、相手のことをよく知りもしないで、思い込みでうっかり殺しちゃってからじゃいろいろ手遅れでしょ?

 死んだら生きられないし、相手に何か話そうと思っても、生き返らせない限りはどうにもならなくなるからね」

 

(……生き返らせる?)

 

タバサは、ディーキンの話し方に妙な引っ掛かりを覚えた。

生き返らせない限り? そんなことは、そもそもできないではないか。

 

(それとも……)

 

そこまで考えて、タバサははっとして頭を振ると、その思考を打ち消した。

 

自分は先日、シルフィードの上で見た温かくも奇妙な夢を思い出して、あらぬ期待を抱いているのだ。

 

彼は確かに、私の勇者かもしれない。

でも、ここは現実だ。御伽噺の世界ではない。

 

(夢を、見過ぎてはいけない)

 

「まあ、その妙な例え話はともかくとして。

 それは、その通りでしょうね」

 

タバサの思惑をよそに、ルイズが頷いた。

 

「でしょ? だから、タバサはもっと詳しいことがわかるまで、様子を見るのがいいんじゃないかな。

 復讐をするとかしないとかの前に、まずはもっと情報を集めるの。

 冒険に出る前に情報を集めるっていうのは、冒険者の間でも基本だからね!」

 

そこへ、気を取り直したタバサが口を挟んだ。

 

「……あなたのいうことは、もっともなことだと思う。

 だけど、どうやって調べるの?」

 

正しい知識を得ることが重要だというのは、暇さえあれば書物に目を通しているタバサにもよくわかる。

 

しかし、そうはいっても……。

母から聞いた話以外で、当時の父や伯父がどう考えてどう行動していたかなどを、果たして詳しく調べることができるだろうか。

 

当人たちに聞こうにも、父の方は既に死んでしまっているし、伯父から話を聞くことなどできようはずもない。

当時父の周囲にいた取り巻きたちを調べ上げて、話を聞きに行くという手もあるかもしれない。

しかし、それには時間もかなりかかるだろうし、第一彼らが潰えた反乱の目論見などを、いまさら正直に話してくれるものだろうか?

 

「そうだね。まず、タバサのお父さんがその頃に書いたものとか、何かお屋敷の方には残ってないの?」

 

「……わからない。処分されていなければ、父の私室にあるかもしれない」

 

「だったら、もしかしたらその中に手掛かりがあるかもしれないの。

 タバサのお母さんからもう何日か、聞けそうなことを聞いてみてから、一度調べに戻ったらどうかな」

 

「わかった」

 

タバサはそう答えながらも、大したものは見つかるまいと考えていた。

 

反乱の疑いをかけられた父の私物や何かは、既に王宮側が一通り確認し、めぼしいものは回収してしまっているはずだ。

いまさら自分たちが調べ直しても、何も残ってはいないのではないか。

そうでなくとも、仮に反乱などを企てていたとしたら、あの賢明な父が私室にその明白な証拠などを残してはおくまい。

 

「あとは……。うーん、ディーキンの方にも、いろいろと考えはあるの。

 でも、上手くいくかどうか、ちょっと考えてみてからだね」

 

真っ先に思い浮かんだのは、それこそタバサの父親を生き返らせて、彼の口から直接聞いたらどうか、ということであった。

 

死者の……、それも何年も前に死んだ者の蘇生など、ハルケギニアでは思いもよらぬことだろうが、フェイルーンではそうでもないのだ。

そうすれば確実に真相がわかるだろうし、タバサやオルレアン公夫人、ペルスランやトーマスらだって喜ぶのではないか。

 

生き返った後の政治的な問題等はいろいろとあるかもしれないが、将来の心配を言い訳にして目先の正しい行動をしないのは英雄ではない。

少なくとも、ディーキンはそう考えているし、“ボス”だってきっと同意してくれるはずだ。

 

しかし、ディーキンはそれとはまったく別の理由から、その案を実行するのは現時点では難しいだろう、と考えていた。

 

(タバサのお父さんが、ちゃんと生き返って来てくれればいいんだけどね……)

 

以前に自分が死んだ時のことを思い返す。

 

これまでにずいぶん死んだことがあるが、その度に何やらいろいろと奇妙な経験をしたものだ。

生き返ると死んでいた間のことは大概ぼんやりとしか思い出せなくなるのだが、はっきり覚えていることもいくらかはある――――。

 

 

 

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一番最初に死んだときは、いつの間にか暗い洞窟の中にいて、目の前にコボルドの神・カートゥルマクが立っていた。

彼は何やら自分に対して説諭とも謝罪ともとれるような謎めいた事を述べた上で、元の場所に戻してくれた。

 

今となっては、邪悪な神であるカートゥルマクが、自身の教義に従わない者に対してそのようなことをしてくれるとは思えないが……。

あれは本物ではなく、自分の心が生み出した幻だったのだろうか?

 

 

 

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アンダーダークでメフィストフェレスになすすべもなく殺された時には、気がつくと楽園にいて、天使に取り囲まれていた。

彼らはずいぶんとディーキンのことが気に入ったようで、ちやほやしてずっとそこにいるように勧めてくれた。

 

だが、元の世界にいるボスのことが心配でたまらなかったディーキンは、とてもそんな気持ちになれなかった。

 

『ディーキンが天国になんていられるわけないの。早くあっちに戻して!』

 

そんなことを言っていつまでもじたばた暴れているうちに、ようやくボスが呼び戻してくれて生き返れた。

まあ、暖かい天国から没シュートされて一転カニアの氷結地獄に行かされたのは、暴れたせいで天罰が当たったというわけではあるまい。

 

 

 

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真っ暗な中で、なんだかよくわからない怒ったような男性の声が聞こえてきたこともあった。

 

『ジーザス! ファック! 半分以上残ってたディーキンのヒットポイントが、ファッ糞ドロウの急所攻撃であっという間に溶けちまった!

 ま た ロードしてアンダーダークに潜り直しか!

 まるで巨大な犬のクソだ、バッファローの下痢便を耳から流し込まれる方がマシだ!』

 

……そうしてなにがなんだかわからないうちに、強い力でずりずりと引きずり戻されるようにして生き返った。

 

 

 

-----------------------------------

 

 

 

――――ただ、いずれにしても。

 

いざ生き返るその時には、苦しく長い旅をしたような感覚を覚えた、という点では共通していた。

物質界の側で見れば蘇生はごく短時間のうちに終わるが、時間の感覚の異なる霊魂にとってはそうではないのだ。

 

生きている者なら、おおよそ誰しもが死にたくないと思うのは当然だ。

これまでのすべてに別れを告げて、生から死へ移行することは辛く苦しい経験であるに違いないと、誰もが教わらずとも感じている。

 

ならば、死者が懐かしい現世へ生き返れることを喜ばないはずがあろうか……と、考えるのは早計というものだ。

 

生から死へ移行するのが苦しいのと同様に、死から生へと移行することもまた苦しいことを、死者は直観的に感じとるものだ。

そして何度も生き返った経験のあるディーキンは、それが事実であることを身をもって知っている。

それどころか、後者の方が自然な世界の理に反している分、より一層苦しくさえあるのだ。

 

はたしてそれほどの苦しみに耐えてまで彼らが生き返りたいと思ってくれるか、というのが問題なのである。

死んでも成し遂げたいほどの目標を持っている生者が少ないのと同様、生き返ってでも成し遂げたいほどの未練がある死者も少ないものだ。

 

死んでから長い時間の経っている死者であれば、なおさらのことである。

時間が経つほどに死後の世界にも慣れていき、現世への執着も次第に薄まってくるのが普通だからだ。

 

何百年も前の英雄を蘇生させて助力を求めようといった試みは、そのために失敗することが多い。

過去の偉大な人物は、現在のことは現在の人々に委ねるべきだと考えているのである。

また、場合によっては死者の魂が既に分解されていたり、転生していたりするケースもあり、その可能性も時間が経つほどに高まる。

 

加えて、下位の蘇生呪文による復活は、上位の呪文によるそれよりもより一層苦しいものになる。

非常な苦しみを伴うがゆえに、生き返る際に力の一部分を失ってしまうことになるのだ。

そう言った力の喪失を引き起こさない、比較的苦しみを伴わぬ“完全な”復活は、最も強力な呪文によってのみ成し遂げられる。

 

死者の魂には事前に自分を生き返らせようとしている者の名前や属性がわかるし、その復活がどのくらい苦しいものになるかも概ねわかる。

そして死者の側が拒否すれば、どれほど強い力を持つ術者であろうと、蘇生の試みは決して成功させられない。

 

もし死者の意志に反して生き返らせるなどということができるのならば、世の中はとんでもないことになってしまうだろう。

たとえば、邪悪な支配者は既に死んだ敵でも生き返らせて捕え、満足して飽くまで、殺しては生き返らせて拷問し続けられるのだから……。

そのような死者の意思を無視した蘇生を行なえるほどの力を持つのは、神格だけなのだ。

 

そういった諸々の条件を踏まえた上で、ディーキンがシャルル大公を復活させようとした場合の成功率を考えると……。

 

普通に判断して、復活してきてくれる可能性は相当に低そうだと言わざるを得まい。

 

既に死んでから数年が経過しているというのに、いまさら苦しい思いをしてまで生き返りたいと思ってくれるかどうかがまず問題だ。

仮に彼が評判通りの善い人物で、何処かの天上の世界で安らぎを得ているのならば、なおさら生き返る気がしないだろう。

セレスチャルか何かの来訪者に、既に転生してしまっているという可能性もある。

 

おまけにいくら属性が善であっても、名前も知らないどこかの亜人に生き返らされるなんて、何があるか分からなくて応じる気になれまい。

無論、実の娘であるタバサや、妻であるオルレアン公夫人が蘇生を試みれば別だろう。

だが、彼女らには蘇生呪文を自力で唱えることも、スクロールやスタッフ等のマジックアイテムから発動することもできない。

 

そして蘇生の呪文は、世界の大きな法則に介入するがゆえに、神格に助力を願うにあたって捧げなければならない対価が非常に高い。

低レベルの蘇生呪文である《死者の復活(レイズ・デッド)》でさえ、5000gpもするダイヤモンドが必要になるのだ。

ディーキンの場合はスクロール等で使うので、実際にダイヤを用意するわけではないが、費用は自分で唱える場合以上にかかる。

 

かくも望みが薄いのでは、さすがに、僅かな可能性にかけて試してみようかという気にはなれなかった。

それでもいよいよとなれば、やってみるしかないかもしれないが……。

 

(やっぱり、タバサのお屋敷とかを調べるのが先だね)

 

現地で《伝説知識(レジェンド・ローア)》の呪文を使えば、何かわかるかもしれない。

調べたい場所はたくさんある、タバサの父の私室、彼が暗殺された現場、先王が遺言を残したという臨終の床……。

 

そして今、自分の荷物の中には、フーケ騒動の時に最後の切り札として使うつもりでボスから送ってもらったスクロールも入っている。

これを使えば、過去に何があったのかをより詳しく調べることも可能だ。

 

ただ、一枚しかないので使いどころをよく考えなくてはならない。

最悪の場合にはヴォルカリオンから買い足すこともできるかもしれないが、これはかなり高価で希少な品なのだ。

自分の所持金は無尽蔵にあるわけではない。

一体何を調べるのに使うのが最善か、それを見極めるためにもしっかり情報を集めなくては。

 

(それに、ボスに頼んでナシーラに連絡が取れれば、タバサのお父さんのこともなんとかなるかも……)

 

彼女はアンダーダークの大都市メンゾベランザンの魔法院(ソーセレイ)で修業した高位のウィザードで、多彩な呪文を心得ている。

その中には、ドロウ秘蔵の呪文書に記載されている、希少で強力な呪文も含まれているのだ。

 

特に、以前に“ママ”の魂が幸せかどうかを確かめるために、ナシーラに頼んで使ってもらったあの呪文。

あれがあれば、タバサの父親のこともなんとかなるかもしれない。

 

(なんにしても、明日からいろいろ調べたり、準備をしたりしなくちゃね)

 

それに、せっかくボスに頼んで必要になりそうな本や機材なども送ってもらったことだし。

そろそろ腰を落ち着けて、サブライム・コードとしての本格的な訓練にも取り掛かりたいのだが……。

 

(……やることがいっぱいあるね。

 ウーン、ウォーターディープにいた時より忙しいかも……)

 

ディーキンはひとまず考えを打ち切ると、今夜の集まりをお開きにして、ルイズらと共に学院に戻って休むことにした。

 



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第七十四話 Who are you ?

「ねえルイズ。明日、ルイズのお姉さんと会った後で、ちょっとお出かけしない?」

 

いよいよエレオノールがやってくるという『虚無の曜日』を翌日に控えた、ある日の朝。

ディーキンはルイズに、唐突にそんなことを聞いた。

 

「いいけど……。お出かけって、またあの酒場かしら?」

 

「イヤ、そうじゃないの。大体準備ができたから、そろそろタバサのお屋敷を調べに行こうと思うんだよ。

 できるだけ大勢で調べた方が、見落としがないでしょ?」

 

「え? ……ちょ、ちょっと待ってよ。タバサのお屋敷って、ガリアにあるんでしょ?

 遠すぎるわ! 虚無の曜日だけじゃなくてその翌日か、もしかしたらさらに次の日まで潰れるわ。

 授業を休まなきゃならなくなるじゃないの!」

 

それを聞いたディーキンは、首を傾げた。

 

「ンー……、そうだよ? だから、今日のうちに先生たちにお休みをもらうことを伝えておいたらいいと思うの。

 タバサも、先生たちに伝えてるかどうかはわからないけど、仕事が入ったときにはよく学校を休んでるって聞いてるの。

 それともルイズは、タバサのお手伝いをすることよりも、授業に出ることの方が大事なの?」

 

「い、いえ。そういうわけじゃないんだけど……」

 

ルイズはそう言いながらも、困ったように顔をしかめた。

 

たしかに、友人が深刻な問題を抱えている時に手助けをすることは当然で、ルイズにはそれを嫌がる気持ちなどはない。

しかし、実技が壊滅状態のルイズとしては、授業の出席点を失うことは大きな痛手だった。

 

タバサの抱えている問題の深刻さからいって、本来ならば自分の単位くらいで渋るべきではない、というのはその通りだし。

さすがに一日や二日授業を休んだくらいで、即留年などにはならないだろう、とも思うのだが……。

 

(万が一にも留年なんかしたら、公爵家の恥よ……。エレオノールお姉さまに、なんて言われるか。

 いや、その前に、母さまに殺されるわ!)

 

想像しただけで、体が震える。

 

さておき、ルイズがそうして渋っている様子なのを見て、ディーキンは思案を巡らせた。

 

なぜかは知らないが、どうもルイズは授業を休むのは非常に嫌らしい。

しかし、ルイズは自分だけが置いていかれるというのもまた嫌がるに違いない、とディーキンは確信していた。

この間も彼女を置いて、タバサと一緒に出掛けたばかりだし。

 

とはいえ、週に一日しか休日の無い学生である彼女に、授業を休ませないでガリアまで同行させるとなると……。

虚無の曜日前日の夕方、授業終了後から出かけて、虚無の曜日丸一日を使って調べてすぐ学院に戻る、というくらいしかなさそうだ。

しかも、今週はルイズの姉が訪ねてくる予定が入っているから、来週末まで待たなくてはならない。

 

早く調査を進めたいこの時に、そんなに遅れるわけにはいかない。

屋敷の方に置いてきたシミュレイクラムたちに連絡を取って調査させる、という方法もないではないが……。

それでは、調査の精度などの面で不安が残る。

 

つまらない見落としのせいで、致命的なミスを犯すようなことにはなりたくない。

ちゃんと現地へ行って、時間に余裕を持って調べたい。

と、なると……。

 

また費用がかさんでしまうが、“アレ”を使うしかないか。

まあ、使った方が調査もいくらか早く進むのだから、無駄遣いというほどのことでもないだろう。

ディーキンはそう結論を出すと、なにやら押し黙って震えているルイズに声をかけた。

 

「わかったの。じゃあ、さっき言ったことは忘れて?

 ディーキンは、ルイズが授業を休まなくて済むようにやり方を変えるよ」

 

「……え?」

 

「ルイズは、今夜は何か予定はあるの?」

 

「今夜……? い、いえ。別に無いわ。

 いつも通り、勉強とか、調べものとか……、あとは、あの『爆発』の練習とかをするくらいだと思う」

 

ルイズは、あの爆発が魔法ではなく温存魔力特技のような超常能力の一種であると教えられてから、練習の仕方を少し変えていた。

爆発が起こらないようにしようとするのではなく、規模や発生個所を的確にコントロールできるように頑張っているのだ。

杖を持たずに無詠唱で起こせる爆発となれば、使い方によっては有用な武器になる事に、ルイズもすぐに気が付いた。

 

魔法の練習に関しては、残念ながら、どうもハルケギニアの既知の魔法を使うのは現状では無理なのではないかとエンセリックに言われた。

不本意ではあるが、せっかくディーキンやエンセリックが頑張って調べてくれたことなのだから、受け容れて今後に活かすつもりだ。

なので、普通の練習は一旦中止して、代わりに図書館で何か自分の適性に関する手掛かりがないか本を調べてみたりしている。

 

虚無の曜日にエレオノールに会ったら、そのあたりの事も話さねばなるまい。

どんな反応をされるか想像がつかず不安ではあるが、かといって身内に対していつまでも伏せておくわけにもいかないだろう。

 

「じゃあ、今日ルイズの授業が終わったらすぐに出かけて、明日ルイズのお姉さんが来る前に戻るの。

 ディーキンは、ルイズが授業をしてる間に他のみんなにも声をかけておくよ!」

 

「……はあ? ちょ、ちょっと、なに言ってるのよ!

 今日の夕方にガリアへ出かけて、明日の午前中までに調べ終わって戻るだなんて、時間の余裕がなさすぎるじゃないの!」

 

正確にどれだけの時間がかかるかまでは、もちろんルイズにもわからない。

だが、タバサのシルフィードや、ディーキンのあの空を飛ぶ馬に乗って出かけるにしても……。

ガリアまでとなれば、往復するのが精一杯ではなかろうか。下手をすれば、それすら間に合わないかもしれない。

少なくとも、ゆっくり調査などをしている余裕があるとはルイズには思えなかった。

 

しかし。

 

「そこんとこは大丈夫なの、ディーキンにはちゃんとあてがあるの。

 とにかく、ディーキンを信じてくれるなら、今日の授業が終わったら出かけられるように準備をしておいて!」

 

ディーキンは意味ありげな笑みを浮かべると、胸を張ってそう請け合ったのである。

 

 

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その日の授業が終わるとすぐに、調査に参加する面々は事前にディーキンが伝えた場所に集合した。

 

参加するのはもちろんディーキン、タバサ、ルイズ。それにキュルケとシエスタである。

加えて、屋敷に詳しいペルスランやトーマス、オルレアン公夫人も、簡単な変装を行った上で集まって来ていた。

シルフィードがディーキンからお使いを頼まれて、彼らを連れてきたのだ。

 

待ち合わせ場所は、シルフィードが魔法学院近くの森の中に作ったねぐらであった。

オルレアン公夫人らを学院内にまで来させるわけにはいかない。

 

そのシルフィード自身も、人間に化けて服を着込み、参加メンバーに加わっている。

彼女の正体が風韻竜であることは、ルイズらが信頼に足ると確信したタバサの許可を得て、ここに集まった皆には既に明かされていた。

 

「きゅいきゅい、きょうはシルフィは、長いこと飛ばなくてもいいのね。

 お姉さまと楽してお出かけ、たのしーいなー……♪」

 

妙な即興歌を歌ってぴょこぴょこ跳ね回り、タバサに杖でどつかれるその姿を見て、場は和やかになった。

 

「それで、ディー君は今日は、どんなサプライズを用意してくれてるのかしら?」

 

「もったいぶってないで、風竜よりも速くガリアまで行ける方法とやらをそろそろ教えなさいよ!」

 

キュルケとルイズに促されて、ディーキンは咳払いをする。

それから、おもむろにスクロールを一枚取り出した。

 

「オホン……。それじゃみんな、こっちへ来て、ディーキンの体に手を置いて?」

 

不可解な要求に皆が顔を見合わせて戸惑っているのをよそに、タバサはすぐにディーキンの傍に屈みこんで、彼の腰に手を回した。

慌ててルイズも傍によって、しっかりと手をつなぐ。

キュルケは楽しそうにディーキンの腕をとり、シエスタはおずおずと背中に体を寄せ……。

残りの者たちも、めいめい手を伸ばして彼の体のそこここに触れる。

 

小さな体のあちこちへ大勢にひっつかれて、ディーキンはちょっとくすぐったそうに目を細めた。

一度深呼吸して精神を集中し直し、スクロールを開いて読み始める。

 

「2つの点は1つに。星幽界の守護者よ、我らをかの地と導きたまえ。

 ……《ジェニルト・フランナー》!」

 

《上級瞬間移動(グレーター・テレポート)》の呪文が完成すると同時に、極彩色に瞬く扉が空間に出現して、一行を呑みこんだ。

呪文の魔力は一瞬にして物質界の距離を飛び越え、術者とその仲間たちの存在を遠く離れた地点に移送する――――。

 

 

 

――――次の瞬間にはもう、一行は元の森の中ではなく、何処かの薄暗い屋内に立っていた。

呆然として周囲を見回すルイズらの腕の中からするりと抜けだして、ディーキンが宣言する。

 

「はい、ガリアに着いたよ?

 ここはもう、タバサのお屋敷の中なの」

 

そうしてから、白紙になったスクロールをくるくると丸めて荷物袋の中へ突っ込んだ。

出来れば、帰りはのんびりシルフィードに乗って帰れるだけの時間があるといいな、と考えながら。

往復で2枚もスクロールを使ったのでは、さすがに出費が激しい。

 

それともいっそ、何度でもテレポートができるようなマジックアイテムを、ヴォルカリオンの店で買うべきか?

 

「えっ? ……こ、ここがもうガリアなのですか?」

 

「まさか、いくらなんでも……」

 

「……間違いない。ここは、確かにラグドリアンにある私の実家」

 

戸惑うシエスタとキュルケに、タバサがぽつりとそう呟いた。

彼女もまた信じ難いような気分ではあったが、自分の家を見間違えようはずもない。

 

「ディーキン……。あんたって、一体何者?」

 

ルイズは、まじまじと自分のパートナーを見つめながらそう問い掛けた。

それは、この場にいる誰もが当然抱いている疑問でもあった。

 

これまでに彼が見せたいろいろな呪文にも、少なからず驚かされてはきた。

しかし、召喚の呪文とか、変装の呪文とか、治療の呪文とかいったものは、系統魔法や先住魔法にも似たようなものはある。

もし仮に、彼が魔法で風竜の十倍も速く飛んでみせたとしても、ここまでは驚かなかっただろう。

それらは所詮、既存の系統魔法や先住魔法の能力の延長線上にあるものに過ぎないのだ。

 

だが、今回のこの呪文は……。

一瞬にして空間を飛び越える呪文などというものは、彼女らの知る範囲の魔法では到底考えられなかった。

 

そんなことができるのなら、分厚い城壁も、魔法の防壁も、まったく何の役にも立たないことになるのではないか。

城郭の奥へ身を隠した王の元へ瞬時に移動し、殺害して、また瞬時に逃げることもできてしまうということになるではないか。

堅牢な宝物庫の奥の宝も、どうぞご自由にお持ちくださいと野晒しにしてあるも同然だし、各種の完全犯罪を成し遂げるのもわけはない。

 

そんなことになれば、ハルケギニアの様々な秩序や常識が、根底から覆ってしまいかねないだろう。

かくも常識外れの能力をこともなげに披露してみせた彼は、一体何者だというのか?

そういえば、メイジ3人をあっけなく蹴散らして見せたあの天使のラヴォエラでさえ、彼はとても強いと言っていた……。

 

皆からの視線を浴びたディーキンは、不思議そうに首を傾げた。

 

「ええと……、ルイズは、ディーキンのことを忘れちゃったの?

 ディーキンはディーキンだよ。

 フェイルーンからきたコボルドのバードで、冒険者で……、今は、ルイズの使い魔もしているよ」

 

ディーキンは皆の顔を見つめ返して、いつも通りにそう答えた……。

 



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第七十五話 Familiar of the Void

ルイズらから《上級瞬間移動(グレーター・テレポート)》の件で質問攻めにされたディーキンは、いささか困惑していた。

 

この世界では瞬間移動系の呪文が一般に知られていないということは把握していたので、きっと驚いてくれるだろうとは踏んでいた。

だが、調査に入る前のちょっとしたサプライズ程度のつもりで、悪戯心以上のものはなかったのである。

それゆえに、予想外の反響の大きさに少々戸惑ったのだ。

 

(ウーン、でも……)

 

確かに冷静に考えてみると、瞬間移動の呪文が無いということは、瞬間移動に対する防御呪文の類も当然無いということだ。

そうした世界において瞬間移動ができることがどれほどの強みになるかを考えれば、皆の反応もそう過剰だとは言えないのかもしれない。

窃盗でも暗殺でも破壊工作でも、何でもやりたい放題で、露見する心配もほとんどないだろう。

 

そういえばフーケ騒動のときにもそのことはちょっと考えてみてはいたのだが、すっかり頭から抜け落ちていた。

自分の世界の常識から外れたことというのは、やはり本当の意味で理解するのはなかなか難しいものだ。

 

「ええと……。ディーキンは本当に、そんなに大したことはしてないんだよ……」

 

ディーキンはとりあえず、そう言って皆を落ち着かせながら、ひとつひとつ質問に答えて説明していった。

 

まず、フェイルーンでは瞬間移動の呪文は、ある程度高等ではあるもののごく一般的なものだということ。

一般的であるがゆえに、当然そういった呪文に対する防御法や対処法も確立されていて、重要な施設などでは対策がなされていること。

そして、先ほどの呪文はスクロールから発動したものなので、自力で使えるわけではないということ、などなど……。

 

そういった話を聞いた一同は、しきりに感心したり、驚いたりしていた。

 

「はあ……、ディー君の住んでたところって、スゴいのねえ。

 きっとこっちよりも、ずいぶん魔法が発達してるところなんでしょうね?」

 

もしかしたらあの恐ろしいエルフたちよりもなお優れているのでは、とキュルケは考えた。

 

先住魔法は強大だが、その原理は精霊の力を借りることによるものだ。

いかに強力な精霊といえども、空間を飛び越えて移動するなどということが出来るとは思えない。

 

しかし、ディーキンははっきりと首を横に振った。

 

「イヤ、そんなことはないの。むしろこっちの方が、魔法がずっとたくさん使われてると思うよ。

 ……ねえ、あんたもそう思うでしょ?」

 

「ん? ……まあ、そうでしょうね」

 

ディーキンから唐突に話を振られたエンセリックは、特にひねくれてみせるでもなく、素直に同意した。

 

「フェイルーンの一般的な人間の社会では、魔法はごく限られた一部の民のものです。

 一般人は、少なくとも日常的には、ほとんど恩恵にあずかってはいませんよ。

 ウィザードやソーサラーの数にしても、こちらのメイジの数に比べればごく僅かなものですからね。

 魔法の社会への普及度においても、その使い手の数においても、こちらの方がずっと勝っていることでしょう」

 

「……そ、そうなんですか?

 でも、あのラヴォエラさんのような、天使様もおられるところなのに……」

 

シエスタが疑問を口にする。

 

「いえ。彼女のようなセレスチャルは、魔法による召喚に応じた場合以外では物質界には滅多に姿を見せません。

 そういった異次元界の存在と頻繁に関わりを持てるのも、やはりごく一部の者だけです。

 一般人のほとんどは、天使にも悪魔にも、エレメンタルにも、まず生涯一度も出会うことさえありませんよ」

 

「まあ……、つまりその亜人の坊主は、元いた世界でも大したやつだってことなんだろ。エン公よ」

 

シエスタの背負っているデルフリンガーが口を挟んだ。

 

「そう言うことになりますかね、デル公君」

 

「だろうな。そりゃあ仮にも、俺の相棒の先生だしな!

 そんだけ力があって、『虚無』みてえな力まで使えるんだからよ。

 大したことないなんてわけがねえやな!」

 

なぜか嬉しそうに、かちゃかちゃと金具を鳴らしてまくしたてる彼のその発言を、ルイズが耳聡く聞きとがめた。

 

「……ちょ、ちょっと待ちなさいよ。今なんて言ったの?

 確か、『虚無』がどうとか……」

 

「ん? ……ああ、俺もさっきおめえらと瞬間移動したときに思い出したんだけどよ。

 ブリミルも、たまにああいう呪文使ってたんだよな」

 

「し、始祖と同じ呪文って……、そんな、まさか!」

 

「まさかも何もねえよ、本当のことだぜ。ああいうのは『虚無』以外の四系統や、先住じゃ無理だな。

 ……そうそう、それにおめえの使ってる、あの爆発みてえなやつもだぜ」

 

 

 

――――その発言の後は、当然のように大騒ぎ(主に騒いでいたのはルイズだが)となり。

 

しばらく皆であれこれ話し合ったり、情報交換をしたりすることになった。

といっても、実質的に話し合いに参加できるような情報を持っているのは、ディーキン、エンセリック、デルフリンガーの3者のみ。

後の者は、おおむね彼らの話を聞いているだけだった。

 

「なるほど、デル公君の今覚えている限りの、『虚無』の呪文の話から判断するに……。

 私どもの世界における、テレポートやゲート、ディスペル・マジックや、ディスインテグレイト……。

 それにメジャー・イメージやプログラムド・アムニージアなどの呪文も、『虚無』とやらに分類されるようですね。

 もちろん、他にもたくさんあるかもしれませんがね」

 

「ほほう? エン公や亜人の坊主のいた世界じゃ、『虚無』の呪文はそんなふうに呼ばれてんのか?」

 

「ええ。しかし、フェイルーンではそれらは特にその他の呪文との違いはなく、ごく一般的なものです。

 系統も召喚術、防御術、変成術、幻術、心術など、多岐にわたっています。

 レベルについても、とても高いものからごく低いものまで、様々なようですね」

 

「なんとまあ……、『虚無』の使い手が珍しくもねえってのかい?

 こりゃまた、おでれーたぜ!」

 

「まあ……、もちろん、性質が同質であっても、規模やレベルの点で差異はあるかもしれませんがね。

 ブリミルなる人物が、君の言うように一軍をも壊滅させるほどの規模の術をも扱ったというのなら、エピック級かも知れません。

 それに、驚いたのはお互いさまというものですよ。

 こちらでは物質の組成を恒久的に組み替え得るような高等呪文が、非常にありふれていて基本的なものだというのですからね!」

 

「あん? 『錬金』とかのことか?

 おめえらのいたとこじゃあ、使ってねえってのか?」

 

「うん。前にも話し合ったけど、こっちの世界とフェイルーンとは、何千年か前までは行き来があったと思うの。

 別れた後で、魔法の体系が変わっていったんじゃないかな?」

 

「そうらしく思えますね。ただ、こちらの方で重要な呪文がいくつも『虚無』に組み入れられて失伝した理由は不明です。

 同様に、『錬金』のような高度だったはずの呪文を、低レベルのものにすることに成功した理由もね……」

 

エンセリックは、話を続けながら思案を巡らせていた。

そこへ、黙って聞いていたタバサが口を挟む。

 

「……逆の可能性は?」

 

「うん? なんですか、賢いお嬢さん」

 

「逆。私たちの方が元で、それがあなたたちの方に行って変化した。

 そういう可能性は、無い?」

 

「ええ、もっともな疑問ですね。

 ……ですが結論からいえば、双方に言い伝えられている歴史を考慮すると、おそらくそれはないかと思いますよ」

 

「歴史?」

 

「ふむ、ああ……。

 そういうのは私よりも君の方が専門でしょう、任せますよ」

 

首を傾げる周囲の面々に対して、説明を面倒がったエンセリックから話を振られたディーキンが、代わって話をしていった。

 

「ええと……、こっちでは、ブリミルっていう人が今いるメイジの始祖なんでしょ?

 確か、六千年くらい前の人だったよね」

 

「ええ、そうですわ。その始祖の血を引く子たちが興したのが、ガリアやアルビオンなどの諸国家なのです」

 

ディーキンはオルレアン公夫人のその言葉にひとつ頷きを返すと、説明を続けた。

 

「うん……。だけど、フェイルーンで最初に魔法の力で栄えた王国は、それよりもっと、ずっと古いっていわれてるの」

 

「始祖よりも古いって……、どのくらいよ?」

 

「ウーン、細かいことまでは、わからないんだけど……。

 ええと、『ネザリル』っていう、人間の支配する魔法の帝国ができたのが、たしか一万年とちょっと前だよ。

 それで、その王国は何千年も続いて……、だけど結局は滅びたの。それが、今から千何百年か前のことだ、って言われてる」

 

「そ、そんなに!?」

 

驚きに目を見開くルイズに、軽く頷いて見せる。

 

「うん。……だけど、それはまだ“人間の”国の話なの。

 エルフは、ネザリルの魔術師たちは最初に、何もかも自分たちから学んだって言ってるんだ」

 

「エルフから人間が? まさか!」

 

キュルケは、信じられないというように声を上げた。

 

他の面々も、おおむね同じ気持ちのようだ。

エルフを恐れ、何千年にもわたって敵対しているハルケギニア人の常識からすれば、確かに信じがたいことなのであろう。

 

「もちろん、本当にそうなのかはわからないけど……。

 エルフの王国がネザリルのできるよりずうっと前からあった、って言うのは本当のことなの。

 少なくとも二万五千年くらい前には、もうエルフたちの繁栄は始まってたんだって。

 大勢のエルフの魔術師たちが集まって、大陸を分裂させるくらいすごい魔法を使ったりしたこともあったそうなの」

 

「……に、二万五千年……」

 

あまりにスケールの大きい話に、一同は驚いたり困惑したりした様子で、互いに顔を見合わせている。

タバサだけは、いつもの無表情のままだったが。

 

「だけど、彼らもやっぱり、一番最初に繁栄した種族っていうわけじゃないんだよ。

 それ以前に……、記録に残ってる限りでは世界で最初に繁栄していた種族のことを、『創造種』っていうの。

 彼らの繁栄したのが、三万年から四万年くらい前のことで……、それより前には世界はとても寒くて、氷で覆われていたらしいんだって」

 

そこでエンセリックが口を挟んで、皆の注意を元の話に引き戻した。

 

「ああ、そのあたりで結構ですよ。よい講義を、どうもありがとう。

 今は歴史に深入りするのはほどほどにしておくとして、まあとにかく、そういうわけです。

 ですので、六千年ほどの歴史だというこちらの魔法文明の方が先にあったと考えるのは論理的に無理だということですね」

 

「わかった」

 

タバサが納得して頷いたのを見てから、エンセリックは話を続けた。

 

「それで、先程の話の続きに戻りますが……。

 より根本的な疑問としては、なぜ魔法体系の分類を五大元素に分けるように変更したのか……。

 それはあるいは、元からこの地にその分類に基づく元素への親和性を持つ、貴族の血統が根付いていたからなのか。

 だとすれば『虚無』が失われたのは、ここではその素養を持つ者が生まれることが稀だったからという、ただそれだけの理由なのか?」

 

半ば皆に説明するような、半ば独り言を呟くような調子で語っていたエンセリックは、そこでしばし言葉を切った。

次いで、ひとつ溜息を吐く。

 

「……しかし、こんな分析はまるで的外れなものなのかもしれません。

 いかんせん、情報が足りませんからね」

 

「ンー、そうだね……。デルフは、他には何か覚えてないの?」

 

「すまねえ。忘れた」

 

「まあ、私どもの世界の方でも、“災厄の時”などで大分変化は起こりましたからね……。

 こちらでも何かあったのだろうとは思えますが、今のところは情報がろくにありませんから、何かあったのだろうと推測するのみです。

 ……現在のところでは、わかるのはこのくらいまでですかね?」

 

ディーキンはエンセリックの出した結論に同意するように頷くと、そこで、じっと聞き入っているルイズの方に顔を向けた。

 

「アア、ところで、さっきのデルフの話からすると……。

 ルイズは、『虚無』の属性のメイジだってことになるのかな?」

 

「……っ、」

 

突然そんな話をされたルイズは、息を呑んで使い魔の顔をまじまじと見つめ返し……。

次いで、意見を伺うように、エンセリックとデルフリンガーの方に目を向けた。

 

「ええ、それらしく思えますね。事実、お嬢さんに召喚された君自身が、『虚無』と呼ばれているのと同種の力を使えるのですからね。

 メイジに相応しい使い魔が呼ばれるという、こちらの原則にも合います。どうです、デル公君?」

 

「ああ、間違いねえと思うぜ。武器屋で坊主が俺を持った時、なんか変な感じがしたしよ。

 ガンダールヴじゃなくても、『虚無』の担い手に召喚された使い魔だったから、そんな風に感じたんだろうな」

 

2振りの剣たちは、ディーキンの推測をごくあっさりと肯定した。

 

「そうね、ルイズが伝説の系統だなんて、ちょっと驚きだけど。

 言われてみると、納得がいくことが多いわ」

 

キュルケもそう言って、うんうんと頷く。

タバサは何か思うところでもあるのか、じっとルイズとディーキンとを見比べていたが、その考えに反対だというわけではないようだ。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ、いきなりそんなことを言われても!」

 

「そうですね……。あなたはトリステインの名門、ヴァリエール公爵家の御令嬢なのでしょう?

 ならば、王家の血を引く者。『虚無』の素養が開花しても、不思議ではありませんね」

 

オルレアン公夫人もまた、そう意見を述べた。

しかし、当のルイズ自身は、まだ納得がいっていないらしい様子をしていた。

 

「私は……、その、変わった素質はあるにしても……。

 未だに『ゼロ』のルイズなのよ? それが、急に始祖の系統だなんて……」

 

そんな考えをすること自体が自惚れているような、畏れ多いような気がして、ルイズは眉根を寄せた。

そこにエンセリックが、特に深刻そうでもないのんびりした調子で口を挟んだ。

 

「お嬢さん。まず、先程も言ったとおり、こちらの『虚無』とやらは……。

 少なくとも力の種別としては、私どもの世界の方では、特に変わった代物というわけでもないのですよ。

 ですから私としては、特に自惚れる必要も卑下する必要も無いかと思いますがね。

 伝説だの始祖だのと、あまり気負われなくともよいでしょう」

 

ディーキンも、頷いて同意を示した。

 

「そうなの。別にルイズが何の系統でも、ディーキンがルイズの使い魔をやってることには関係ないの。

 それに、もし本当にそうだとしたら、ルイズが魔法を使うには『虚無』について調べればいいってことになるからね。

 どうすればいいか分かったってことは、一歩進んだってことでしょ? それはいいことだよ」

 

「…………そ、そうね」

 

他人事だと思って気楽な事を……、という気持ちもあったが。

周囲の皆が自分を見る目が、本当にいつも通りで何も変わらないのを見ていると、ルイズも次第に落ち着いてきた。

 

冷静に考えてみれば、まだ自分が『虚無』だと決まったわけでもないのだし。

仮にそうだとしても、その呪文の唱え方がわかったわけでもない。

現状では特に何かが変わるわけでもないのだから、確かに狼狽する必要も舞い上がる必要も無いだろう。

 

「わかったわ、本当かどうかはわからないけど、とりあえず、ありがとう。

 ……じゃあディーキン、タバサの方の用事が終わり次第いろいろと調べてみるんだから、協力をお願いね。

 あんたたちの世界の『虚無』にあたる呪文のこととかも、後で聞かせなさいよ!」

 

そう言って笑顔を見せたルイズに、ディーキンはにっと笑い返した。

 

「もちろんなの、ディーキンは期待に応えるよ!」

 

それから、ひとつ付け加える。

 

「……アア、その情報のことだけど。ディーキンには『虚無』について、ひとつ知ってることがあるよ。

 ディーキンのいたところでも、フェイルーンとは別の大陸では、5つの元素に分けて魔法を分類してるそうなの。

 そこには、“ヴォイド・ディサイプル”っていう、『虚無』を専門に使うメイジもいるんだって」

 

皆の注目が集まる中で、ディーキンは荷物袋の中から、一冊の古い、比較的薄い本を取り出した。

 

「この前ラヴォエラに頼んで、ボスからそのカラ・トゥアっていうところについて書いてある本を送ってもらったの。

 あんまり詳しいことまでは書いてなかったけど……、今度、もっといろいろ調べられないか聞いてみるね」

 

それから、ディーキンは本を開いて、『虚無』について触れている部分を、詩を吟じるようにして読み上げていった。

 

 

 

 

 世界を形作る元素の力は4つ、地・水・火・風である

 

 されどそれらには含まれず、何も形作らずして形作るもの、見えずして存在するもの……

 最も強く、最も制御することの難しき力、“第5の元素”がある

 

 第5の元素とは、すなわち『虚無』である

 

 それは、他の元素の間にあってそれらを結びつけている力である

 ゆえに実体は無く、何も形作ることはできず

 しかして確かに存在しており、他の元素が何物かを形作るにあたっては不可欠のものなのである

 

 それは、たとえるならば一曲の歌の、音符と音符の間にある空白に似ている

 音符は、地・水・火・風の各元素であり、その間に『虚無』がある

 ひとつの音と、次の音の間には何もない……では、その空白部分は不必要なのであろうか?

 

 もちろん否である

 その空白こそがそれぞれの音にリズムを与え、単なる音を妙なる調べと成すのに不可欠なものだからだ

 

 この力を修めんとする者は、『虚無』と他のすべての物との関わりを理解し、その関係を感じ取るべし

 さすれば、物と物との間にある距離や時間、個々の形などというものは、取るに足らぬものだと悟るであろう

 

 …………

 

 

 

 

「……虚無……」

 

無意識にそう呟きながら、タバサはようやく得心がいったような思いがしていた。

 

ああ、そうか。

だから、あの人はルイズの使い魔だったのだ。

 

伝説の『虚無』がそのようなものであるならば、そして、ルイズがその担い手であるのならば。

確かに詩人であり、人を動かす力に長けたディーキンは、それに相応しい存在だろう。

 

しかし同時に、少し寂しいような気持ちもあった。

 

もちろん、ディーキンを自分にとっての勇者だとも感じているタバサには、今更彼が自分の使い魔だったなら、などと望む気持ちはない。

仕えるべき勇者を使い魔にしたいだなんて、そんなことをどうして思えようか。

けれども、それでもルイズと彼の間には確かに絆があって、自分との間には何も無いのだと改めて感じさせられると……。

彼自身はそんなことを気にしないと確信しているにしても、なんだか無性に寂しかった。

 

それに、彼の世界では珍しくないことであるにもせよ、伝説の系統の使い魔で、しかも自分自身でもそれと同じような力を使えるだなんて。

近くにいるのに、なんだか遠く高い、手の届かない存在になってしまうような気がした。

少し前までは、自分の力や知識には、確かな自信があったのに……。

今では、何だかひどく自分が頼りなく無知な、小さな存在になってしまったように思えてくる。

 

(私には……。彼に相応しいようなものは、何もないのではないか)

 

そんな願望を持つこと自体が、勇者に対する不敬だとしても。

 



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第七十六話 Hidden text

ディーキンの呪文や『虚無』云々に関する話が一区切りつくと、一行は早速手分けをして、本題であるタバサの屋敷の捜索にとりかかった。

 

調べるのは、主に王の座を狙っていたというシャルル大公の遺した身の回りの品々。

当時の彼やジョゼフ王などの動向を詳しく知る手掛かりとなりそうなものを、くまなく探してまわる予定なのだ。

 

一行は、ディーキン、ルイズ、タバサの3人組と、シエスタ、オルレアン公夫人、ペルスランの3人組。

そしてキュルケ、トーマス、シルフィードの3人組の、計3チームに分かれて捜索している。

同じ場所を複数の目で3回に渡ってチェックすることで、見落としを防ごうというわけだ。

どのチームにも、屋敷内に詳しい者と、まったく知らないために先入観無く見れる者とを最低1人ずつは組み入れてある。

 

ディーキンらのチームは今、シャルル大公の私室のひとつを調べているところだった。

 

「どう、ディーキン。何か見つかった?」

 

「ンー……、こっちの引き出しには……、古いペンとか、インクの瓶とか、栞とか……。

 あんまり物が入ってないみたい。ルイズの方は?」

 

「こっちも似たようなものね。ここの棚には、古い絵本とかが並べてあるだけみたいよ。

 これって、タバサが小さい頃に読んでいたものかしら?」

 

「多分、そう」

 

荷物入れ用の箱……古い時代の魔法の品で、内部が見た目よりずっと大きい……を調べていたタバサが、短く答えた。

中にめぼしいものが無いのを確認すると、立ち上がってそちらの棚の方へ行き、そこに並んでいる本を懐かしそうに眺める。

 

棚に並んでいるのは、本当に小さな時に読んでもらっていた絵本ばかりだった。

自分が手に取らなくなった後でも、父は愛娘の思い出の品として、大切に私室に保管しておいてくれていたのだろう。

 

隅の方に、幼い頃に一度読んだきり手に取ろうとしなかったおばけの絵本が何冊かあるのを見つけて、タバサは内心で苦笑した。

小さい頃の自分は、幽霊や何かが酷く苦手で、ベッドの下やクローゼットの奥から怪物が出てこないかと本気で心配していたものだった。

 

そんなタバサの懐古の想いをよそに、ディーキンもまた興味深そうにとことこと棚の方に近寄って、そのおばけの絵本を開いてみていた。

子ども向けのものであれ、バードとしてまだ見ぬ異世界の物語に関心を持つのは当然のことである。

 

「ウン……? 『イーヴァルディの勇者』は、ドラゴンだけじゃなくて幽霊も退治したの?」

 

「本によって違う。人気がある話だから、いろいろなバリエーションがある」

 

タバサはそう説明しながら、自分もその本を覗きこんでみた。

 

この『イーヴァルディの勇者』シリーズは、ハルケギニアでは最もポピュラーな英雄譚だ。

イーヴァルディと呼ばれる勇者が剣と槍を用いて戦い、竜や悪魔、亜人に怪物……、実に様々な敵を打ち倒していく。

せいぜいその程度の基本の骨組みがあるだけで、これといった原典は存在しないため、筋書きも登場人物も、作品形態も、千差万別なのだ。

イーヴァルディにしても、男だったり女だったり、神の息子だったり妻だったり、ただの人だったりと、物によってコロコロ変わる。

そういう実にいい加減な物語群なのだが、そこがまた気楽に楽しめる人気の秘訣なのだろう。

主人公がメイジではないので平民に人気のあるシリーズなのだが、幼い頃は自分も大好きだったものだ。

 

若い男性のイーヴァルディが、攫われた娘への僅かな恩義を返すために竜に挑む、という物語の絵本が特にお気に入りだった。

おそらくは最も有名で典型的な筋書きのもので、ディーキンが読んだか聞いたかして知ったのも多分それなのだろう。

最初に読書の楽しみを教えてくれたのがその本だったこともあって、今でもよく覚えている。

いつか、自分も竜に囚われた少女になって、素敵な勇者に救い出されたいと、今思えば赤面するようなことを夢想していたものだった。

 

そんなことを懐かしく思い返しながら、タバサはそっとディーキンの傍に寄り添うようにして、本を眺めつづけていた。

 

イーヴァルディが古の墓所に潜む悪霊を退治する、という物語だ。

おそらくは自分が好きなイーヴァルディのシリーズだからと思って、両親が買い求めてくれたのだろう。

だが、おばけが出てくる時点で、幼い臆病な少女にはダメだったわけだ。

今見てみると怪談でもなんでもないのだが、一体当時の自分は何を怖がっていたのか……、こうして振り返ってみると、気恥ずかしい。

 

「オオッ……、イーヴァルディは悪霊に憑りつかれた少女を前にして、あえて剣を捨てたの!

 一体この後、どうするつもりなのかな……?」

 

おそらくは幼い頃のタバサと同じくらい幼気に目を輝かせながら本をめくる、竜にして勇者である若き亜人の少年。

 

「うーん……、殴って気絶させるとかかしら?」

 

彼のパートナーであるところのルイズも、その様子を見て微笑ましく思ったのか。

あるいはタバサと距離が近い睦まじい様子に、少しばかり嫉妬心でも起こしたものか……。

いつの間にか作業を中断して、彼の後ろから本を覗き込んでいた。

 

ルイズはそこで、ふと何かに気付いたように首を傾げた。

 

「……あれ? この絵本、ページが片面なのね」

 

イーヴァルディ(この物語では妙齢の女性だった)と少女が対峙する場面と、ついに悪霊を放逐して2人が抱擁を交わす場面。

それらのページの裏面に、何も書かれていないことに気が付いたのだ。

 

「ンー、そういえば……」

 

ディーキンはぱらぱらと本をめくって、前の部分のページも見直してみた。

物語に集中していたのであまり気にしていなかったが、確かにこの本はページの片面しか使っていないようだ。

ずいぶんと珍しい作りの本である。

 

「もしかして、読みながら何かメモとかを取れるようにわざと空けてあるのかな?」

 

「……違うと思う」

 

じっとその空白のページを見つめていたタバサは、ふと思いついて棚から他の絵本も抜き出し、次々に開いてみた。

案の定、すべてではないものの、片面しか使っていない絵本が何冊も見つかる。

 

小さい頃、それらの絵本の白紙部分に落書きをしようとした覚えがある。

ディーキンが考えたように、自分もこれは書き込みをするためのスペースだろうと解釈したのだ。

だが父は、『本に字を書いてはいけないよ、大切に扱いなさい』と窘めて、空白部分に何かを書くことを禁止した。

 

当時は同じような作りの絵本を何冊も見ていたので、そういうものなのだと思って特に疑問にも感じなかったが……。

今になって思い返してみると、何だかおかしな話だ。

これまでに数え切れないほどの本を読んできたが、ページの片面しか使ってない本など、他ではまずお目にかかったことがない。

 

タバサは2人が見守る中で、それらの白紙のページの表面を、穴が開くほど注意深く見つめた。

それから目を閉じて繊細な指先に感覚を集中すると、全体をゆっくりとなぞってみる……。

すると案の定、字を書いた跡のような微細なへこみがあちこちにあるのが感じられた。

 

「……なにか、書いてある」

 

タバサは杖を振って、『ディテクト・マジック』でその本を調べてみた。

 

娘のための本を届けさせるついでに、その中に秘密の文書を仕込ませるというのが父のやり方だったのだとしたら……。

これらの絵本の妙な作りも、白紙のページに字を書かないようにと指示したことも、納得できる。

 

だが今度は、当てが外れた。

それらの白紙のページからは、怪しい魔力などは感知することができなかったのである。

 

「ウーン。ひょっとしたら、魔法じゃないのかもね……」

 

魔法で見えない字を書くことは可能だろうが、これほど魔法がありふれた世界ではそういった手法はむしろ見破られやすいはずだ。

タバサが真っ先にその可能性を想定したことからもわかる。

ならば、メイジである貴族にとっては疎いであろう、魔法を使わない技術を用いる方が安全性が高いかもしれない。

 

「魔法じゃないって……、魔法を使わないで白紙のページに何かを隠す事なんてできるの?」

 

ディーキンはルイズの疑問に軽く頷きを返すと、ベルトポーチから火おこし棒とろうそくを取り出した。

 

「こっちではどうかはわからないけど、フェイルーンではノームの発明家や錬金術師がいろんな道具を作ってるの。

 どんなものが使われてるのかわからないから、いろいろ試してみるね……」

 

そういいながら、傍にある柱に火おこし棒をこすりつけて発火させると、ろうそくに火をともし。

それを注意深く本に近づけて、引火しないように気をつけながら白紙のページを炙ってみた。

 

ディーキンは、これらの本にはフェイルーンでいう“消えるインク”のようなものが使われているのではないだろうかと考えたのだ。

書いた後で時間が経過するとひとりでに消えて、熱を加えるとまた見えるようになるという特殊なインクである。

 

もちろん炙り出し以外にも、日光に晒すとか、水に浸すとか、特殊な薬剤を塗るとか、いろいろな変種が考えられる。

上手くいかなければ、それらを順々に試してみるつもりだったのだが……。

どうやら最初ので正解だったらしく、火で炙り始めるとすぐに、白紙だったページにおぼろげな文字が浮かび上がってきた。

 

ルイズはその様子を見て、目を丸くしていた。

 

「これって、魔法じゃないの? 魔法を使わずに、こんなものが作れるのね……」

 

タバサはいつもの無表情を変えなかったが、興味はあるようでじっと見入っている。

 

「本で読んだことがある。実際に見るのは、初めて」

 

なるほど、父はこのようにして誰かから情報を受けとっていたのか。

 

途中で誰かに見られる心配が少ないし、万が一疑われてもインクは非魔法の品だから魔法感知には引っかからず、露見しにくい。

読み終わった後は、『錬金』でインクを加熱前の状態に戻せば紙は元の白紙になり、ただの絵本として疑われずに保管しておけるわけだ。

紙には一切影響を与えずにインクだけを綺麗に元に戻すことは並のメイジには困難だが、父の技量ならば造作もないことだろう。

 

「上手くいったみたいだね……。じゃあルイズ、タバサ。

 ディーキンは他の本も調べてみるから、ちょっと手伝ってくれる?」

 

3人はそれから、棚にある本を手分けして調べ始めた。

 

ディーキンが《見えざる従者(アンシーン・サーヴァント)》に指示を出し、次々と棚から本を出させて、白紙部分を火で炙らせていく。

そうして浮かび上がってきた文字を、3人は代わる代わる読んで、内容を各自でメモなどに取ってまとめていった。

 

 

「……ふう。大体、こんなものかしら?」

 

あらかたの本を調べ終わって、3人はようやく一息入れることにした。

 

ディーキンが手近の戸棚からカップを取りだし、手持ちの金属瓶からとっておきの熱い砂糖入りの紅茶を注いで、みんなに配る。

それからお茶請けに、乾し果物やナッツも少し皿に盛って差し出した。

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとう。……甘くて、おいしいわね」

 

「感謝」

 

実際には、ルイズらが普段学院で飲んでいるものとは比べるべくもないごく平凡な紅茶と、冒険者用の保存食でしかないのだが。

一仕事終えて体や頭が疲れたところに甘く温かいものを飲み食いすれば、なんであれ満たされるものだ。

 

そうして人心地がついたところで、3人はゆるゆると調査の結果について話し合いを始めた。

 

「なんだか、タバサのお父さんはあちこちの遺跡について調べてたみたいだね」

 

この部屋にあった絵本には、シャルル大公が謀反や陰謀を企てていたと直接的に窺わせるような内容は何も書かれていなかった。

確かに、ここにある情報はタバサがまだ絵本を読んでいた頃のものなのだから、大公が死ぬ何年も前のはず。

その頃はまだ、謀反の企てなどを本格的に取り交わすような段階ではなかっただろう。

 

書かれていたのは、主として各地の遺跡でこのような発見があった、というような報告らしきもの。

大公はなぜか、ハルケギニアのあちこちにある古い時代の遺跡を密かに調査させ、こんな秘密の方法で連絡を受け取っていたらしい。

おそらくこちらの方からも、報告の結果を受けて、調査団に何らかの手段で指示を送っていたのだろうが……。

 

「……父さまは勉強熱心で、いろいろな研究に関心をもってはいた。

 でも、どうしてこんな隠すようなことをする必要があったのかは、わからない」

 

「そうね。それに、伝説の『虚無』に関する情報が見つかった……、とか書かれた本もあったわ」

 

先程自分が『虚無』かもしれないと聞かされたばかりのルイズには、その部分が特に印象に残っていたのである。

 

「大公は、失われた『虚無』について調べておられたのかしら?

 だけど、どうして……」

 

「ウーン……、ねえ、タバサのお父さんって、すごい魔法使いだった人なんでしょ?

 もしかして、自分が『虚無』を使おうと思ってたとかは考えられない?」

 

ディーキンに意見を求められて、タバサはじっと考え込んだ。

 

確かに、父は希代の天才と謳われ、若くして四系統すべてに精通したメイジだった。

そして、自分の考えていたよりもずっと野心家で、魔力を高めようと陰で必死に努力を重ねていたという。

それならば、伝説の『虚無』をと望んでいたとしても、不思議ではないかもしれない。

 

「……それは、ありえるかもしれない。ただ……」

 

ただ、それをなぜ隠す必要があるのかという点がやはり釈然としない、とタバサは説明した。

 

何せ父は、希代の天才と謳われていたという点を差し引いても、始祖ブリミルに連なる王族なのだ。

『虚無』の研究を行っても不自然ではないし、非難されるようないわれもないはず。

ロマリアの宗教庁も『虚無』の研究をしているというから、もしかしてそのあたりから何か言ってはくるかもしれないが……。

こんなスパイめいた真似をしてまで、徹底的に情報を隠蔽して隠れて調査をするほどの理由にはならないだろう。

 

3人が考え込んでいると、唐突にエンセリックが口を挟んだ。

 

「失礼、意見をよろしいですか?」

 

「もちろん」

 

「では……、あなたのお父上が『虚無』とやらを周囲に知らせず密かに研究されていた動機について、ということでしたが。

 あなたの伯父上、つまりはお父上の兄君が、『虚無』なのではないかと疑っていたからである……、というのはどうでしょうか?」

 

エンセリックにそう指摘されて、3人ははっとして顔を見合わせた。

 

確かに、ジョゼフ王はその優秀な血筋にもかかわらず魔法がほとんど使えないために、無能王と揶揄されているという。

それは、現に『虚無』ではないかと考えられているルイズにもそっくりそのまま当てはまる特徴だ。

ならば確かに、ジョゼフもまた『虚無』であると考えられないこともないだろう。

 

そして、シャルル大公は優秀なメイジであり、聡明な人物であり……、何よりも、ジョゼフの実の弟なのだ。

常に身近に接してきた兄が、実は無能なメイジではなくむしろ伝説の系統の担い手なのではないかと、気が付いたとしてもおかしくはない。

 

そのことは、次の王の座を狙う彼にとってはゆゆしき問題であろう。

兄が自分の系統に気付かぬうちに、自らも『虚無』を習得したいと考えたのか、あるいは『虚無』への対抗策を探ろうと考えたのか……。

いずれにせよ、『虚無』について探る一方で、その探っているという情報さえも兄に伝わらぬよう伏せたいと考えるのは当然だ。

 

「どうです、あなたとしてはどう思われますか?」

 

エンセリックにそう問い掛けられたタバサは、俯いてやや顔をしかめた。

 

「…………」

 

タバサとしては、父がそのような姑息ともいえる行動をとっていたとは、あまり思いたくはなかった。

だが、そう考えれば一応、話のつじつまが合うのも確かだ。

 

「……それも、ありえるかもしれない。でも……」

 

今のところはすべて憶測の域を出ないことで、証拠は何もない。

そう続けようとしたところで、突然キュルケが部屋の中に駆け込んできた。

 

それを見て、ルイズが顔をしかめる。

 

「ちょっとキュルケ、そんなに急いでどうしたのよ?」

 

「やっと見つけたわ! ディー君、タバサ、ルイズ、ちょっと来て。

 そんなに本を散らかして、何をしてるのかは知らないけど。

 こっちでちょっと面白いものを見つけたから、あなたたちにも調べてみてほしいのよ!」

 




火おこし棒:
 <製作:錬金術>技能で作成することができる特殊なアイテムで、ざらざらした表面にこすり付けると火がつく短い棒。
要するに、ロウマッチのようなものである。


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第七十七話 Hidden doors

 

ディーキン、ルイズ、タバサの3人は、調べた本を手早く元に戻すと、キュルケたちが発見したというものを検分しに向かった。

道中で、お互いが発見したものやそれを見つけるに至った経緯についての情報交換をする。

 

「ふうん……、タバサのお父様はそんな手の込んだことをしてまで、隠れて遺跡の捜索を?

 それは、確かに妙な話ね……。『虚無』かあ、ありえそうね」

 

そう言いながら、キュルケが詳しく説明してくれたところによると……。

 

彼女らのチームが発見したのは、いわゆる“隠し通路”のようなものらしい。

 

 

 

キュルケらがある客間を調べている最中に、トーマスは唐突に留め金を外すようにして、ある戸棚の横の金具をずらした。

そして、キュルケとシルフィードの目の前で、その戸棚を横にスライドさせてみせた。

 

その奥には、ほとんど空っぽではあったが、小さな隠し部屋があった。

彼は懐かしそうな目をしながら説明してくれた。

 

「驚かれましたか。このお屋敷には、こういった隠し部屋や秘密の収納スペースがいくつもあるのですよ。

 時代のある建物で、優秀な固定化が施されているがために建て直しの必要もなかったことから、多くは忘れられているようですがね」

 

腕白な少年だった頃からこの屋敷に住んでいた彼は、あちこちを探検して回っていた時、偶然にこれを発見したのだ。

それからは宝探し気分でわくわくしながら屋敷中を調べて回り、他にもいくつかの隠し部屋や秘密の引き出しなどを見つけ出した。

 

いずれも使われなくなって久しいらしく、残念ながら宝などは見つからなかったが……。

彼はそれらの存在を自分だけの秘密にしておいて、タバサとの追いかけっこや手品のタネなどに活用していたのだ、という。

 

 

 

「……そんなの、聞いてない」

 

何回やっても彼に勝てない、タネを見抜けないと、当時はずいぶんと悔しい思いをさせられたものだったが……。

まさか、そんなものを使っていただなんて。

 

「ずるい」

 

タバサが少しばかり不機嫌そうな様子でそう呟いたのを聞いて、キュルケは苦笑した。

 

この小さな友人は、その寡黙で淡泊そうな態度に似合わず、なかなかに負けず嫌いなところがあるのだ。

だからきっと、昔もむきになって彼に勝とうと頑張っていたのだろう。

それが今になって事実を知らされて、そんなインチキで昔の自分は悔しい思いをさせられたのか、と根に持っているに違いない。

 

しかし、トーマスはトーマスで、優秀なタバサに追いつかれまいとして一生懸命だったという。

 

『僭越ながら当時の私は、お嬢さまに年下の兄弟に対するような想いを持っておりましたから。

 ずっと尊敬され続ける兄の立場でありたいと、今思えば畏れ多いことを考えて……。

 それで、お嬢様は優秀な方でしたので、少しくらいずるをしてでも絶対に後れは取るまいと、幼稚な意地を張ってしまって……』

 

彼は、お嬢さまには内緒にしてくださいね、と、少しきまり悪そうに微笑みながら、そうこぼしていた。

 

平民とはいえ、実に精悍で、かつ可愛らしいところもあるいい男だった。

彼がタバサの兄上なら、婿にすれば自分はタバサのお姉さんになるわけよねー、などと、しばしたわいのない妄想をしたものである。

 

「まあまあ……、ほんの子どもの頃の話じゃないの。

 それに、あなただってこの屋敷にずっと住んでたけど知らなかったようなものを見つけた、その観察力はすごいじゃない。

 おまけに小さい子がそんな大発見をしたら、普通は自慢して回りたくもなるでしょうに。

 それをずっと秘密にできたってのも、それだけでなかなか大したものよ?」

 

「……そうかもしれない」

 

親友に諭されてそう認めながらも、タバサはまだ少しぶすっとした様子だった。

 

キュルケはそんな親友の頭を撫でながら、しばし感慨に浸った。

 

(この子が、こんなに素直に感情を表に出して見せるようになるなんてね……)

 

まだ親しくし始めて間もないルイズあたりから見ると、これまで通りの無表情で大差ないようにしか感じないのだろうが。

彼女を知って長いキュルケから見れば、少し前からは想像もできないほど情動を素直に表に出すようになっている。

 

父親が思っていたような人物ではないかもしれないと知って落ち込むのではないかとも案じていたのだが、どうやら大丈夫のようだ。

内心複雑なものは当然あるのだろうが、今は孤独に戦っていた以前とは違い、周囲に多くの人がいてくれるからだろう。

 

「……で、さっきの話に戻るけど。

 そのトーマスの話を聞いて、私はぴんときたわけよ。

 タバサのお父上の秘密が今でもまだこの屋敷内に残ってるとするなら、そういう場所に違いない、ってね」

 

それらの場所は、おそらく非常時の避難場所や隠し財産の保管庫などとして、過去の屋敷の主たちが用意したものであろう。

シャルル大公は屋敷の正当な継承者であり、トーマスと同様に幼い頃からこの場所に親しんで、隅々まで知り尽くしてもいたはずだ。

ならば、今ではほとんど知る者がいない隠し部屋や秘密の収納場所のことも、把握していた可能性は高い。

 

トーマスが知っている限りの隠し部屋や収納スペースには、当時からめぼしいものは何もなかった、とのことだが。

それは大公がその場所のことをちゃんと知っていて、価値のあるものはみな他所に移してしまったからだ、とも考えられる。

 

それに少年時代のトーマスとて、貴族の私室などの一部の場所には、おいそれと立ち入ることはできなかったはずだ。

もしかしたらそういった場所には、トーマスもまだ発見していない更なる秘密の小部屋や物置などが存在しているかも知れない。

 

「そういうわけで、私たちがまず調べるべきは、そういったものの有無だって思ったのよね。

 それで、シエスタたちのチームと一回合流して。屋敷に詳しいタバサのお母上やペルスランに、何か知らないかを聞いてみたの……」

 

 

 

キュルケに質問された2人は、しばらく考え込んでいたが……。

やがて、ペルスランが答えた。

 

「もし……、仮に、そういったものがあるのだとすれば。

 それはあるいは、私どもが立ち入りを禁じられていた、旦那様の私室のどれかにあるのではないかと……。

 旦那様は生前、研究中の魔法の実験器具などがあって危ないからと、いくつかの部屋に関しては片付けは無用と命じられていました。

 常に鍵がかかっておりましたので、旦那様の他は、もちろんトーマスも含めて、誰も中には入っていなかったはずです。

 今に至るまで私は、お言いつけを守って、それらの部屋の中には入ってみてはおりません」

 

「それよ! その場所を調べる許可を頂けるかしら?」

 

キュルケがそう頼むと、オルレアン公夫人は頷いて許可を出してくれた。

立ち入りを禁じた張本人である大公の亡き今、許可を出す権利はその妻である彼女にある。

 

そこで、キュルケらは早速、全員でもってその立ち入り禁止だったという場所を調べに向かったのである。

 

かつてはそれらの部屋は、優秀なメイジであったシャルル大公自身の手による『ロック』の呪文で守られていたという。

だが、大公の死後に立ち入り調査を行った王宮の手の者によって既に解除されていたものか、今では中に入るのに何の障害も無かった。

 

そこは確かに、魔法の研究用の実験室や、その関係の器具や書類を保管しておく専用の書斎等であったようだった。

 

しかし、薬品棚にも器具庫にも、書棚にも実験用テーブルにも、今ではほとんど何も物は残っていなかった。

おそらく大公の実験成果や有用な魔法道具類は、すべて王宮側が差し押さえて持ち去ってしまったのだろう。

 

「無駄足だったかしらね……」

 

長年人が立ち入っていなかったせいでひどく埃っぽい机の上を指でなぞって跡をつけながら、キュルケは退屈そうにぼやいた。

せっかくいいアイディアが浮かんだと思ったが、この部屋は完全に物色され尽くしているようだ。

これでは、たとえ隠し扉や秘密の引き出しなどがあったとしても、そこもとうに荒らされているかも知れない。

 

「それでも、一応は調べてみるべきかしら。埃まみれになりそうで、嫌だけど」

 

キュルケが憂鬱そうに呟いた時、オルレアン公夫人が進み出た。

 

「いえ、隠れた空間があるかどうかくらいでしたら。あなたたちにご迷惑をかけなくとも、私が……」

 

夫人はそう言って杖を振ると、部屋の中にほんの微かな、風の流れを巻き起こした。

それから目を閉じて、部屋の中をゆっくりと、壁に沿って歩き始める。

 

それを見て、キュルケは彼女が何をしようとしているのかを理解した。

 

隠れた空間がどこかにあれば、その空間につながる微細な隙間に風が入り込み、僅かなりとも不自然な大気の流れが起こるはず。

部屋の中に魔法で風の流れを起こすことで、それを感知しようというのだろう。

また、たとえそのような隙間が完全に密閉されていて、風の流れに変化が起こらないとしても……。

部屋の中を歩いて、その振動の伝わり方、足音の響き方を調べることでも、未知の空間が壁の奥にあるかどうかがわかるはずだ。

 

もっとも、そんな微妙な空気の流れや、建物を伝わる振動の違和感などを感知するのは、並みのメイジには到底不可能なことだ。

相当に優れた『風』や『土』の使い手だけが、そういったものを捉えられるほどに鋭敏な感覚を備えている。

 

夫人には、そのいずれをも捉えられるという、確固たる自信があるのだろう。

 

(さすがに、タバサの母親だけのことはあるわね……)

 

キュルケ自身、若くしてトライアングル・クラスとなった、優れた才覚を持つメイジではある。

 

しかし、彼女には今のところ、『火』以外の呪文を使うことがほとんどできない。

元々彼女は新興国であるゲルマニアの貴族であり、血統という点では王族であるルイズやタバサに劣っている。

そういった先天的な才能の差を埋め、メイジとしてのランクをいち早く上げるために、己の系統一本に絞って訓練してきたことの代償だ。

 

もっとも、キュルケは自分の系統に確固たる自信を持っており、他系統が扱えないことに劣等感を覚えたことはなかった。

タバサのようにより多芸なメイジと比べても、自分の方が劣っていると感じたことはないのだ。

 

自分は『火』なら同年代の誰にも負けないし、それだけでどんな相手とでも渡り合ってみせる。

事実、以前にタバサと手合せをした時も、魔力では互角だった。

数多くの修羅場をくぐってきたという彼女にも、自分は少なくとも、得意分野で戦えば引けを取らなかったのだ。

それに、自分にはメイジとしての能力だけではなく、男たちを虜にする色香もあるし、社交面や商業の分野での才能もある。

 

一方で、タバサにはそういったものはないだろうが、ひたすら本を読んで蓄えた膨大な知識がある。

だから、彼女に勝っているとは思わないが、負けているとも思わない。

ただ得意な分野が異なるだけだ。

 

(まっ、私にもああいうことができれば便利だとは思うけどね……。

 人間には向き不向きってもんがあるし、無い物ねだりをしても仕方がないわ。お任せしときましょ)

 

さておき、念入りに部屋の中を検分した夫人は、ひとつの本棚の前で足を止めた。

 

「……この棚の奥に、何か隠れた空間があるのを感じますわ」

 

 

 

「オオ、そんな風に大勢で協力して見つけ出したんだね?

 やっぱり、みんなを連れてきてよかったよ。

 頼もしい仲間がいないと、冒険ってうまくいかないものなの!」

 

本当に嬉しそうにそういうディーキンの方を見て、キュルケも微笑んだ。

 

「そうよね。ディー君が誘ってくれたおかげで、私もタバサの役に立てて嬉しいわ」

 

自分の得意な分野で仲間たちに貢献して、代わりに苦手な分野では、それが得意な他の仲間に頼ればいい……。

ディーキンと同じく、キュルケも素直にそう考えることのできる人物だった。

少し前までの一人で何でもやろうとしていたタバサとは逆で、冒険者向きな性格だと言えるだろう。

 

「ふうん……、それで、あんたたちはその研究室で隠し部屋だか隠し倉庫だかを発見した、ってわけね。

 私たちを呼んだのは、一緒に調べてみてくれってこと?」

 

そんなルイズの問いに、キュルケは肩を竦めた。

 

「さあ、それが問題なのよね……。

 実を言うと、一緒に調べる前にちょっと問題があって、あなたたちの力を借りたいの。

 場所はわかったけど、まだ中には入れてないのよね」

 

 

 

隠し部屋の位置を特定したキュルケらは、しかしそこを開く方法について頭を悩ませていた。

 

まずは『ディテクト・マジック』をかけてみたが、反応はなかったので、魔法の仕掛けではないようだ。

おそらくは機械式の仕掛けで、トーマスが見せてくれた隠し部屋と同じく、どこかに扉を開く機構が隠されているのだろう……。

 

そこまでは予想がついたものの、肝心のその仕掛けが一向に見つからなかった。

隠し部屋があるという本棚の近くを念入りに調べてみたが、何も発見することはできなかったのである。

 

「もしかしたら、扉を開く仕掛けは用心のために、どこか遠くに離して作ってあるのかも……」

 

キュルケはそう予想したが、では一体どこかといわれると、何もわからなかった。

一行の中に、そんな複雑な機構に詳しい者は誰もいない。

 

「場所はわかってるんだし、いっそ奥に入るために、この本棚を壊してしまいましょうか?」

 

そう提案してもみたが、それには夫人が難色を示した。

 

「……夫は、慎重な人でした。そんな乱暴な侵入には、なにか対策をしているかも知れません。

 そうでなくても、中にあるのが何かわからないのですから、あまり乱暴な事をしては台無しになってしまうかも……」

 

「うーん、それもそうか……」

 

そんな風にみんなで頭を悩ませていたところで、今度はシルフィードとシエスタが声を上げた。

 

「きゅい、シルフィにはよくわかんないけど、それならお姉さまをお呼びして聞いてみたらいいんじゃないのね?

 お姉さまはこのお屋敷に長いこと暮らしておられたんですもの、何か閃かれるかも知れないわ!」

 

「その……、先生にもお話ししてみてはどうでしょうか?

 先生はあちこちを冒険してこられた方ですし、たくさんのことができるみたいですから……。

 もしかしたら、どうにかしてくださるかも」

 

 

 

「……ってことで、あなたたちを呼んだわけよ」

 

ちょうど事の次第を説明し終えたあたりで問題の研究室に着き、キュルケはディーキンらを、件の本棚の前に案内した。

近くにはトーマスらもいて、部屋のあちこちをまだ調べている最中だった。

 

ディーキンはその前に、研究室の床に描かれた消えかけた魔法陣の痕のようなものに目を止めて、少し考え込んでいた。

だが、じきに切り上げてキュルケの後に続いた。

 

「さあ、何かできそうだったら、ちょっと調べてみてくれないかしら?」

 

「…………」

 

キュルケに促されて、タバサは部屋のあちこちを見渡しながら考え込んだ。

 

この部屋には、小さい頃に父に何度か入れてもらった覚えがある。

とはいえ、当然その時は隠し扉など開いてはいなかったわけで、面白い試作の魔法の道具や演示実験を父に見せてもらった程度だ。

扉を開くための手掛かりになりそうなことを知らないか、などと言われても……。

 

そう思っていたところで、ディーキンがとことこと本棚の前に進み出た。

 

「ここに、扉があるんだね?

 それだけわかってれば大丈夫なの、ディーキンが開け方を調べてみるよ!」

 

あっさりとそう言って荷物袋の中から細いワンドを一本取り出すと、皆が見守る中で扉に向けて振り、一言呪文を唱えた。

 

「《エンタヒック・イフニリー》」

 

そして、しばらく精神を集中して、じっと本棚の方を見つめる……。

すると《隠し扉の感知(ディテクト・シークレット・ドアーズ)》の効果で、たちどころに隠し扉の開き方が頭の中に浮かんできた。

 

ディーキンはそれから、おもむろに翼を羽ばたかせて天井の近くに浮き上がると、一本の柱の傍に近づいた。

その柱の上端近くについている目立たない燭台の影に、隠し扉を作動させるためのトリガーとなる金具が取り付けられていた。

この金具はメイジならば『フライ』の呪文で傍に行って簡単に動かせるが、下からでは柱と燭台の影になって見えないようになっている。

存在を知らない者には、まず見つけられないだろう。

 

ディーキンがその金具に手をかけて左に回すと、本棚が鈍い音を立てて横にスライドしていった。

奥には、地下へと続く暗い階段が伸びている。

 

「さっすが! ディー君は頼りになるわねー」

 

ハルケギニアでは未知の呪文であったが、キュルケにはもはやいちいち呪文の原理などを問いただす気も無いようだ。

そういうものだとして受け入れているらしい。

 

「それじゃ早速、レッツ・ラ・ゴーと行こうじゃないの!」

 

そういって階段に踏み込もうとするキュルケの腕を、タバサが掴んで引き留めた。

 

「待って」

 

「……タバサ? どうかしたの?」

 

「奥に、まだ何があるかわからない」

 

タバサには、以前にこの部屋に来た時、ガーゴイルやゴーレムのような魔法生物らしきものを見かけた覚えがあった。

用心深く賢明な父のことだ、それらの守護者を隠し扉のさらに奥に配置しているくらいのことは、いかにもありえそうに思えた。

 

「あまり大勢で行かない方がいいかもしれない。

 特に、戦う力のない者には、部屋の外に残ってもらった方がいい」

 

 

 

一行は、この中では近接戦闘に最も長けていると思われるディーキンを先頭に、注意深くゆっくりと階段を下りていった。

各自が光源を持ち、周囲に警戒を払っている。

 

タバサの進言を容れて、シルフィード、ペルスラン、トーマス、それにオルレアン公夫人は、部屋の外に残る事となった。

夫人は娘の身を案じてついていきたがったのだが、タバサ自身が病み上がりの母親の身を案じ、説得して残ってもらうことにしたのである。

それに、夫人はメイジとしての技量は高いが、こういった調査や戦いなどには慣れていない。

トーマスには、彼らの護衛を頼んでおいた。

 

「……この通路は、なんなのかしらね。ただの隠し部屋用のスペースにしては、あんまり道が長すぎるわ。

 避難用の抜け道と、隠し部屋を兼ねたようなものかしら?

 いえ、随分幅の広い通路だし、もしかしたら兵隊を移動させるために使ったとか……」

 

曲がりくねった階段を降り、湿っぽい土のにおいがする通路を進みながら、キュルケがそんな意見を呟いた。

暗くてじめじめした通路だが、狭苦しくはなく、むしろ意外なほどに広い。

あの屋敷の地下に、まさかこんなに広い空洞があったなどとは、実に意外だった。

 

「そうかも……」

 

タバサが短く応じる。

彼女も、自分の長年暮らしてきた屋敷の地下にこんな秘密の通路があるなどとは露知らなかった。

 

「……オ、扉があるよ」

 

先頭を行くディーキンの目に、通路の行き止まりにある大きい重たそうな金属の扉が見えた。

扉にはガリアの紋章である、交差した二本の杖が描かれている。

扉の先は、どこに通じているのだろうか?

 

早速扉に手をかけて開こうとしたのは、ディーキンにしては不用意な行動だっただろう。

 

その途端に、どこからともなく重苦しい低い声が響いた。

 

『――――合言葉は?』

 

「……えっ?」

 

ディーキンは、突然そんなことを聞かれてひどく狼狽した。

 

合言葉? そんなものは知らない。

さすがに、この場で即座にそれを調べられそうな方法なども、思いつかない。

思い切り泡を食ってしまって、咄嗟に答えた。

 

「アー……、その、合言葉?

 ええと、ディーキンは、その、ちょっと調べに戻っちゃ、ダメ……かな?」

 

「今のは正しい合言葉じゃないわね」

 

キュルケがディーキンをじとっとした目で見ながら、胸の谷間から杖を引き抜いて、想定される面倒な事態に備えた。

まあ、自分だって合言葉などわからないのだし、やむを得ないが……。

 

『――――正しい合言葉が、言えぬのであれば』

 

重苦しく響く声がそう言うのを聞いて、ディーキンはいっそう焦って言葉を続けた。

 

「アア、待って、待って!

 ディーキンは思い出したの、ええと、たぶん……」

 

僅かな間があって。

 

「……ダ、ダブルゼータはおおまぬけ! ……とかじゃない、かな? きっと……」

 

「絶対違う」

 

タバサは淡々とした調子でそう言うと、杖を構えて散開し、周囲を警戒する。

案の定、扉からは無慈悲な答えが返ってきた。

 

『――――侵入者には、死を!』

 

「……うう、ディーキンは申し訳ないの……」

 

ディーキンも駄目そうなのを確認すると、いささかしょんぼりした様子ながら、扉の前から飛び退いてエンセリックを構える。

 

「し、仕方ないですよ、先生。落ち込まないでください!」

 

「まあ、合言葉なんて言われてもわかるわけないけど……。

 それにしてももうちょっと、それらしい言葉がありそうなもんじゃないの?」

 

シエスタとルイズもそれぞれに広がって、周囲を警戒する。

 

次の瞬間、通路のあちこちの壁面が崩れ、その中に潜んでいた恐ろしい守護者たちが一行に襲い掛かってきた!

 





ディテクト・シークレット・ドアーズ
Detect Secret Doors /隠し扉の感知
系統:占術; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:60フィート、中心角90度の円錐形の放射範囲
持続時間:精神集中の限り、最大で術者レベル毎に1分(途中解除可能)
 術者は呪文の有効範囲内にある、秘密の扉や区画、物入れなどを感知することができる。
この呪文で感知できるのは発見されないことを目的に作られたものだけで、荷箱の下にあるだけの普通の落とし戸などは感知できない。
 明らかになる情報の量は、術者がどれだけ長い間、特定の範囲や対象を観察するかによる。
1ラウンド目の観察では範囲内に隠し扉が存在するかしないかがわかり、2ラウンド目ではその数とそれぞれの位置がわかる。
そして3ラウンド目以降には、術者が詳しく調べた特定の隠し扉ひとつのメカニズムか作動方法がわかる。
 術者は毎ラウンド向きを変えたり移動したりして、新しい範囲を調べても構わない。
木の扉や土壁、薄い鉄板程度の障壁であれば、この呪文の効果範囲はその背後まで貫通して調べることができる。


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第七十八話 Guardians

 

ディーキンが適切な合言葉を言えなかったことで、この隠し通路の防衛システムが動き出したらしい。

これまでに歩いてきた背後の地下通路のあちこちの壁面が崩れ、その奥から続々とガーディアンたちが姿を現し始めた。

 

それは、実にさまざまな姿形をした守護者群だった。

翼の生えた悪魔型の石像のようなもの、金属の鎧を着た人間のようなもの、ライオンを象った石膏像のようなもの……。

 

その数は見える範囲だけでも二十体は下らず、通路の端から端まで広がって封鎖するようにしながら、こちらへ向かって前進してくる。

正面はしっかりと閉ざされた重い金属の扉で行き止まり、そして背後の通路には守護者の一群。

どうやら侵入者の退路を断って、確実に仕留める算段のようだ。

 

「あ、あれは……、ゴーレム、でしょうか?」

 

シエスタがそれらの守護者たちの姿を見て、戸惑ったようにそう呟いた。

彼女はメイジではないので、さほど魔法に詳しいわけではない。

 

「違うわ。きっとガーゴイルよ」

 

ルイズがそう説明する。

 

「ガーゴイル?」

 

「そう。ゴーレムなんかと違って、自立した意志で動く魔法人形のことね。

 ほら、学院の食堂の周りにも、夜になると踊り出す小さな像がいくつも立っているでしょう?

 あれはアルヴィーっていう小さなガーゴイルの一種よ」

 

作り出したメイジが常に操りつづけなければならないゴーレムと違い、ガーゴイルは擬似的な意志でを持ち、自立して動く。

それだけに通常はかなりの魔力を必要とするものなのだが……、これらはおそらく、土石かなにかを動力として組み込まれているのだろう。

そこに込められた魔力を使って、合言葉を言えない侵入者が現れると自動的に起動するように仕掛けられていたのだ。

 

「もう! こっちには大公殿の可愛い愛娘がいるってのに、容赦ないわね!」

 

キュルケがそんな抗議めいたことを言いながら、杖を構えた。

まあ、この防衛システムを用意したのであろうシャルル大公自身も、まさか娘がそれに襲われる日が来ようとは想像もしなかっただろうが。

 

「うー、ディーキンはタバサのお父さんにも申し訳ないの……」

 

いつもよりちょっとばかりネガティブになったディーキンが、ぼそぼそと懺悔している。

 

頑張って慣れないことをやってはみたものの、やはり本職のローグのようなわけにはいかなかったようだ。

そういえば、仲間の中で自分よりもずっと罠に詳しいナシーラが以前に話していたことが、今更ながらに思い出される。

 

『隠し扉を見つけたからと言って、すぐに飛びついて開けるのは素人よ。

 ドロウなら、“罠は嵌りやすいところに仕掛けるものだ、隠してある扉に仕込んだりはしないだろう”という思い込みの裏をかくわ。

 単純な例としては、隠し扉の奥はただの行き止まりの小部屋で毒ガスが充満していたり、守護者が配置してあったりね』

 

そう、《隠し扉の探知(ディテクト・シークレット・ドアーズ)》の呪文では、そういったものの存在までは発見できないのである。

 

(ああ、もうちょっとちゃんとナシーラの言ったことを覚えておけばよかったの……)

 

そうすれば、何かしらやりようはあっただろうに。

 

しかし、この状況でくよくよと失敗を悔やんでいるわけにはいかない。

ディーキンは気持ちを切り替えると、その小さな体を屈めるようにして仲間たちの間をすり抜け、最後尾へ移動し始めた。

このメンバーの中では前線要員である自分は、背後の敵を迎え撃つために最後尾に回らなくてはいけない。

 

その際に、自分の次に扉に近い位置にいたタバサに一言かけておいた。

 

「タバサ、ディーキンはあっちから来る敵を食い止めるから、一応扉の方にも気を付けておいて。

 もしかしたら、奥からまだ何か出てきたりするかも知れないからね!」

 

その間に、ディーキンよりも後ろに並んでいたシエスタは一足早く最後尾に、つまりは敵に対する最前列に移動していた。

そこでデルフリンガーを構え、他の仲間たちを庇うようにして立ちはだかる。

 

「ここはとにかく、相手が遠いうちにみんなで火力を叩き込んで一気に押し切るしかないわ。

 逃げ場がない以上、ここまで殺到してこられたらこっちの負けよ!」

 

キュルケはそう叫ぶと、早速呪文を詠唱し始めた。

 

頑強なガーゴイルの集団に逃げ場も無い袋小路で懐まで斬り込んでこられたら、自分たちメイジではまずひとたまりもあるまい。

しかも通路は幅が広く、前線に立つのがシエスタだけではとてもすべての敵を食い止めきれないだろう。

ディーキンもじきに駆けつけてくるだろうが、2人がかりでも厳しいはずだ。

 

タバサの魔法で敵を吹き飛ばして時間を稼ぎつつ戦う、というのもあまり期待はできそうにない。

こんな空気の淀んだ地下では、『風』の魔法は十分な力を発揮できないのだ。

この場に『土』のメイジがいれば、ゴーレムなりを出して敵を食い止める前線要員を増やすという手もあるのだが……。

 

「おい相棒、来るぜ!」

 

デルフリンガーが警告を発する。

ガーゴイルたちの中でも最もこちらに近い壁面から出現し、しかも動きの速いライオン型の像が一体、先走って飛び掛かってきたのだ。

 

シエスタは緊張した面持ちで剣を握る手にぐっと力を込め、姿勢を低くした。

 

さすがに真物のライオンほどに速くはないようだが、代わりに痛みも恐怖も知らない頑丈な魔法人形である。

果たして、自分の力で太刀打ちできるものかどうか……。

 

そうして対峙する両者の間の距離が、2メイル足らずにまで縮まった時。

そのガーゴイルは突然、爆発に巻き込まれて吹っ飛んだ。

 

「……やったわ! 今よ!」

 

そう快哉の声を上げたのは、もちろんルイズである。

 

自分の爆発が実は呪文ではないと知ったルイズは、ディーキンやエンセリックに助言を求めつつ、自分なりにその扱いを練習していた。

その結果、自分の爆発にはいくつかの明白な利点があることに気が付いたのである。

杖も詠唱も不要であるがゆえに、有効範囲や威力がそこそこあるのに大半の呪文よりも素早く攻撃できることもそのひとつだ。

 

シエスタは突然の爆発に面食らっていたが、ルイズの声ではっと我に返ると、吹き飛んだガーゴイルが立ち上がる前に素早く斬り付けた。

ルイズの爆発で既に全身にひびが入っていたライオンは、シエスタの剣で容赦なく頭部を割られて完全にその動きを止める。

 

しかし、ほっとしている暇はなかった。

すぐにまた、新手が迫ってくる。

 

次の相手は金属鎧を着て剣を持った人間型のガーゴイルと、悪魔を象った魔除けの石像のような姿のガーゴイルだ。

 

シエスタがそちらに向き直るか直らないかのうちに、今度は後方のキュルケとタバサから呪文が飛んだ。

キュルケの『フレイム・ボール』が、今にもシエスタに噛み付かんとしていた悪魔型のガーゴイルの口に飛び込み、その頭部を融解させる。

それとほぼ同時に、タバサの放った『ジャベリン』が金属鎧ごと人間型のガーゴイルの胸を撃ち抜き、そのまま凍結させて破壊した。

 

通路の奥から、今度は十数体ものガーゴイルの戦列が迫ってきている。敵の本隊のようだ。

 

その時ディーキンが、仲間たちの足元をすり抜けるようにして最後尾に到着した。

心強い増援の到着である。

 

しかし、他の仲間たちの後方からの援護は、すぐには期待できない。

キュルケやタバサの強力な呪文は立て続けには使えないし、ルイズの爆発も一度に巻き込めるのはせいぜい2、3体がいいところだろう。

しかも前線の味方が一旦接敵して戦い始めたら、仲間を巻き込みかねない彼女の爆発は迂闊には放てなくなる。

 

すなわち、前線のシエスタとディーキンだけで残りのガーゴイルを何とかしなくてはならないのだ。

最低でも、ある程度の間は食い止めておかなくてはならない。

 

「先生、ご一緒します……!」

 

なんとしてでもやり遂げてみせるという決意を固めた面持ちでそう言うシエスタを、ディーキンが手で制した。

 

「うん。でもシエスタ、最初はちょっと、ディーキンの後ろに下がってて……」

 

そう言いながら、ちらりと通路の壁や床に目を走らせた。

それらがすべて石造りなのを改めて確認すると、ひとつ深呼吸をしてから、敵の戦列を見据えて大きく口を開く。

 

次の瞬間、開かれた口の奥から凄まじい熱量の紅蓮の炎が噴き出して通路を覆い尽くし、迫りくるガーゴイルの群れを丸ごと呑み込んだ。

 

「「「「……!?」」」」

 

その光景を見た少女らは、みな一様に目を丸くした。

 

彼女らは、ディーキンがドラゴンの血を引いているとは聞いていたものの、彼がブレスを噴くところはまだ見たことがなかったのである。

人間よりもずっと小さいその体から、火竜のブレスもかくやというほどの多量の炎が突然噴き出したのだから、そりゃあ驚く。

 

だが、いつまでも目を見開いているわけにはいかなかった。

限られた地下通路の空間の中で炸裂した高熱の炎が巻き起こす突風が襲ってきたからだ。

淀んだ地下通路の空気を吹き飛ばす、まるで砂漠に吹くシロッコ(熱風)のような熱い風に、少女らは思わず腕で目を庇った。

 

(こりゃ、すごいわ)

 

キュルケは炎の熱気とまぶしさに目を細めながら、内心で感嘆していた。

 

これだけの威力でこの効果範囲の広さ、じっくりと時間をかけて唱えた自分の全力のトライアングル・スペルでも果たして及ぶかどうか。

しかも、これは呪文ではなくブレスなのだ。詠唱に時間をかけることなく、瞬時に放つことができる……。

 

(この子がまさか、ここまでとはねえ……)

 

キュルケは顔に吹き付ける熱風以上に、胸の奥に疼くような微熱を感じた。

 

まさかトカゲめいた姿の幼げな亜人に対してそんなことがあろうなどとは思いもしなかったが、不思議とすんなり受け入れられた。

こういった相手は自分も初めてだが、それだけにぞくぞくするような背徳感を感じるし……。

何としてでも蕩かせてやりたいと、狩人としての血も疼く。

 

彼がタバサの想い人でさえなければ、今夜にでも部屋に誘ってみるところなのに、何とも惜しいことである。

 

(……ま、結局あの子には先見の明があったってことかしらね。

 男の見立てで私が後れを取るだなんて、さすがは私の親友じゃあないの)

 

悔しさ半分、微笑ましさ半分といった感じで、キュルケはそんなことを考えていた。

 

まだ戦いの際中だというのに、なんとも緊張感のないことではある。

だがディーキンのブレスを目の当たりにしたキュルケは、もう戦いは終わったも同然であることを確信していた。

 

通路を覆っていた炎が晴れると、案の定そこにいたガーゴイルどもはもうきれいに片付いてしまっていた。

 

高熱で表面が溶けて若干変形した床のあちこちに、融解しかけた魔法人形達の残骸が転がっている。

それらの残骸の位置や、床や壁のダメージから見るに、ディーキンのブレスは10メイル近い距離までの通路全体を焼いたらしい。

身の丈1メイルあるかないかの体から噴いたにしては、驚異的な効果範囲の広さだといえよう。

 

それでも、ブレスの届かなかった遠方に、まだ4体ばかりのガーゴイルが残っていた。

人型をした青銅甲冑が2体に、狼型の真鍮像が2体。

 

感情の無い魔法人形であるがゆえに、仲間たちが一瞬にして壊滅状態になった事にも動じてはいない。

後者はこちらに向かって勢いよく駆け出し、前者は腕にセットされたクロスボウを用いて遠間から太矢を放ってきた。

 

だがキュルケも感じた通り、もはや勝負はついたも同然だった。

 

放たれた太矢は、キュルケの火球とタバサの氷の矢が危なげなく撃ち落とす。

狼たちは例によってルイズの爆発で出ばなをくじかれ、怯んだ隙に斬りかかったシエスタとディーキンの刃によってあっさりと葬られた。

 

最後に残った甲冑たちは、今一度攻撃しようとクロスボウを装填し直している。

ディーキンは一気に間合いを詰めて斬り倒そうかと一瞬考えたが、今は迂闊に味方から離れない方がいいかもしれないと思い直す。

代わりにそちらに向かって手をかざすと、素早く呪文を唱えた。

 

「《スジャッチ・クサーウーウク……、アトナズ・ハトブ・ユーベラキャル!》」

 

甲冑たちが太矢を放つよりも早く、呪文は完成した。

 

ディーキンの周囲に一瞬朧な影のようなものが湧き上がり、次の瞬間にはそれらが凝集して、幾本もの魔法の矢を形成していた。

鮮やかな緑色をした5本の強酸の矢は、ディーキンが軽く手を捻ると2体の甲冑めがけて高速で襲い掛かる。

影術によって模倣した、《元素の投げ矢(エレメンタル・ダート)》の呪文であった。

放つものこそ違えど、タバサの『ウィンディ・アイシクル』にどこか似たような攻撃である。

 

右の甲冑に2本、左の甲冑に3本。

 

矢は的確にガーゴイルたちの体を捉え、硬い金属の体のあちこちをたちまち溶解させて、床に崩れ落ちさせていく。

そこに駄目押しとして、太矢を迎撃するつもりで用意していたキュルケとタバサの呪文が叩き込まれ、ガーゴイルたちは完全に粉砕された。

 

一時は危機的な状況に陥ったかと思われたが、終わってみれば誰一人怪我をすることも無く、余裕の勝利であった。

 

 

 

当面の敵を退けると、ディーキンはまず真っ先に、自分の失策についてみんなに謝った。

 

とはいえ、元よりルイズらには、特に彼を責めようなどという気はなかった。

いきなり合言葉なんて言われてもわからないのが当然だし、そうそう咄嗟に適切な対処などができるものでもないだろう。

 

「私たちだって気付いてなかったんだし……、誰がやってもあんたと同じような結果だったと思うわ。

 だから別に気にしなくても、これから気を付けてくれればそれでいいから」

 

彼のパートナーであるルイズがそう言い、他の皆もそれを首肯したことで、その話はお終いになった。

 

「ディーキンはみんなの広い心に感謝するの。これからはもっと、気を付けるようにするよ」

 

最後にしっかりお礼を言って頭を下げると、調査を再開する。

 

問題の扉は、まだしっかりと閉ざされたままだった。

魔法の鍵かなにかがかかっているようだし、なかなかに大きくて頑丈そうだが……。

おそらく扉を閉ざしている呪文を解呪するか、扉を力任せに打ち破るなり破壊するなりして通ることはできるだろう。

 

(でも、気を付けてやらないとね……)

 

フーケ騒動の時にも用いた『商人のコンパス』を使って調査した結果では、罠は無さそうだった。

 

だが、守護者の有無まではわからない。

扉を開けた途端、奥から第二陣の守護者が飛び出して奇襲してくる、という可能性も無きにしも非ずだ。

 

ディーキンは熟慮した結果、まずは仲間たちを扉から離れさせることにした。

先程ガーゴイルたちを始末した通路の後方のあたりは既に安全が確保されているとみてよいだろうから、そこまで下がってもらう。

それから、自分もそれよりは若干手前なくらいの位置まで下がる。

 

これなら、扉を開けた時に中から守護者なり毒ガスなりが出てきても、自分が対応したり仲間たちが逃げたりできる距離的な余裕がある。

 

残る問題は、扉を誰が開けるかということだ。

魔法の鍵がかかっているようだが、《見えざる従者(アンシーン・サーバント)》では力任せに打ち破れるほどのパワーはない。

もちろん、まずは魔法の鍵を解呪した上で従者たちにやらせる、という手もあるだろうが……。

 

ここは用心に用心を重ね、《怪物招来(サモン・モンスター)》を使おう。

そうすれば、扉を打ち破る要員と前線要員の両方を同時に用意することができる。

 

そう決めたディーキンは、早速呪文を唱えて何か適当な、力のありそうなモンスターを招来することにした……。

 

 

「……ディー君もまた、ずいぶんゴツいのを呼び出したわね。まあ、今更驚きはしないけど……」

 

キュルケが離れた場所から様子を見守りつつ、苦笑気味にそんな感想を漏らした。

 

「せ、先生、天使様だけじゃなくて、あんな生き物も使役されるんですね……」

 

「……蟲」

 

「うう……、な、なんでまた、あんな気色悪いものを使うのよ!」

 

他の少女らもまた、口々にそんなことを呟いている。

 

「うん? 一番でっかくて、扉とかをぶっ壊すのに向いてそうだからなの。

 それに、もし奥から敵とかが出てきても、体が大きいから食い止めてくれるでしょ?」

 

ディーキンが律儀にそう説明した。

 

「そ、そりゃあそうかも知れないけど……。

 なにもム、ムカデとかじゃなくてもいいでしょうに! もっと他に、手頃なのはなかったの!?」

 

そう、彼が召喚したのは……、体長が優に10メイル、いや20メイルもあろうかという、巨大なムカデであった。

より正確に言えば、アナーキック種モンストラス・センチピード(無秩序の巨大ムカデ)である。

 

混沌のクリーチャーだけあって、体を覆う甲殻の表面はぼこぼこしてしみだらけで、普通のムカデ以上に実に気色悪い姿形をしている。

うら若い少女であるルイズが抗議するのも、無理はあるまい。

 

そいつはとぐろを巻くようにして、窮屈そうに扉の前に陣取っていた。

 

「アア、ルイズは嫌な気分なの? 申し訳ないの。

 でもちょっとだけ我慢してくれないかな、仕事が終わったらすぐに戻ってもらうからね」

 

ディーキンは少し申し訳なさそうにそう言うと、早速そいつに扉を打ち破るように身振りで指示を伝えた。

ムカデの方も狭苦しい場所に呼び出されて居心地が悪いだろうし、お互いにさっさと用件を済ませるに限るだろう。

 

指示に従い、異次元からやってきたそのムカデは、扉に巨体をガンガンと叩きつけて打ち破ろうとした。

大きな音と振動が、地下通路に響き渡る。

 

何度目かの挑戦で、ついに扉を閉ざしていた魔力はその物理的な衝撃に屈した。

大きな音を立てて扉が打ち破られ、内側に向かって勢いよく開く。

 

――――その、次の瞬間。

 

扉の奥から、先程のディーキンのブレスもかくやというほどの猛烈なエネルギーが放たれた。

それはムカデの体を中心に炸裂し、目もくらむような閃光と共に、一瞬にしてその巨体を呑みこんでしまったのである……。

 





ディーキンのブレス:
 ハーフドラゴンのブレスの効果範囲は、60フィートの直線状か30フィートの扇形(中心角は90度)のどちらかで、種類によって異なる。
ディーキンの場合はレッド・ドラゴンの血を引いているので、後者の範囲に[火]のダメージを及ぼすブレスを吐くことになる。
ダメージは親にあたるドラゴンの種類に関わらず、一律6d8点(M72ロケットランチャーの4/5程度の威力)である。

エレメンタル・ダート
Elemental Dart /元素の投げ矢
系統:召喚術(創造); 2レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:中距離(100フィート+1術者レベル毎に10フィート)
持続時間:瞬間
 術者は[酸][冷気][電気][火]のうち、呪文発動時に選択したエネルギーの投げ矢を創造し、敵を攻撃する。
この矢の数は最初は1本だが、術者レベルが3レベルを超える2レベル毎に1本ずつ増える(最大は11レベル時点での5本)。
矢による遠隔接触攻撃が命中した目標は、1本につき術者レベル毎に1点(最大10点)+1d6点の、選択されたエネルギーのダメージを受ける。
ただし、頑健セーヴに成功した目標に対してはダメージが半減する。
複数の矢がある場合、術者はそれぞれで別の目標を狙っても、あるいは同一の目標を狙っても構わない。
 この呪文の出展は、『Dragonlance Campaign Setting』(ドラゴンランス関連のサプリメント、未訳)である。
 バードの呪文リストには含まれていないが、シャドウ・カンジュレーションでの効果模倣ならばバードにも使用できる。

アナーキック種クリーチャー:
 混沌の次元界に住むクリーチャー。物質界の生物に似ているが、より未完成でみすぼらしい外見をしている。
一説によれば、彼らは忘れ去られた創造主の最初の試作品であり、泡立つ混沌の次元界に捨てられた現在の生物の原型なのだという。
若干のエネルギー抵抗や高速治癒、「秩序を撃つ一撃」などの能力を持ち合わせている。
 なお、通常サモン・モンスターで呼び出せるのはフィーンディッシュ種のモンストラス・センチピードである。
しかし未訳のあるサプリメントに、フィーンディッシュ種のクリーチャーをまとめてこの種に代替することが可能である旨が記されている。
フィーンディッシュ種は悪の属性を持つクリーチャーであり、本作のディーキンは使う気が毛頭ないためこちらに代替しているという設定。


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第七十九話 Shields

 

モンストラス・センチピードの巨体を一瞬でズタズタにしたエネルギーの炸裂に、驚愕して目を見開く少女達。

そんな中で、ディーキンは冷静に皆に行動を指示した。

 

「みんな、下がって!」

 

今回はこのような事態が起こるかも知れないことをあらかじめ想定していたので、動揺は少ない。

皆を庇うようにして前に出ながら、さっと右の手を差し伸ばして、素早くコマンド・ワードを唱える。

 

「《ドゥーズ・ダイ・ジェダーク 》」

 

右手の指に嵌めた『指揮官の指輪(コマンダーズ・リング)』の機能のひとつが、合言葉によって起動した。

目に見えない《力場の壁(ウォール・オヴ・フォース)》が自分たちと敵との間に形成されて、通路をそこで完全に封鎖する。

 

(これでよし、と)

 

これで、扉の奥にいるのが何者であろうと、ひとまずは安全だろう。

力場の壁はまず破壊されないし、解呪も効かない。

たとえ《分解(ディスインテグレイト)》のような攻撃を使われても、壊れるのは壁だけで、こちらに被害が来る前に対処し直せる。

 

そうして当面の安全を確保したところで、落ち着いて考えをまとめ始めた。

 

(今の攻撃は、一体何なのかな……?)

 

ディーキンには、今の攻撃が何なのかがはっきりとはわからなかった。

 

もちろん、呪文か何かの超常のエネルギーの炸裂であったのは間違いないだろう。

だが、ムカデの巨体に遮られて扉の向こうが見えていなかったというのもあって、詳細までは把握できなかったのである。

 

ただ、炸裂した力がひとつではなかったのは間違いない。

 

ほぼ同時に着弾はしたものの、明らかに複数の種類の異なるエネルギーだった。

炎、電撃、それに凄まじい旋風のようなもの……。

 

ディーキンの思案をよそに、背後ではキュルケとタバサが、険しい面持ちで杖を構えていた。

 

「今のは間違いなく呪文ね。まさか、奥にメイジが何人もいるってことかしら?」

 

「それも、スクウェア・クラス」

 

ルイズもまた、信じられないというように頭を振っている。

 

「た、確かに、今のは『カッター・トルネード』だったし、後のは『ファイア・ストーム』や『ライトニング』みたいだったけど……。

 でも、まさかこんな場所で、そんなことなんて……!」

 

それを聞いたシエスタとディーキンは、困惑したように3人を見つめた。

 

「そ、それは本当ですか?」

 

「ウーン……。絶対に、間違いないの?」

 

非メイジであり魔術には詳しくないシエスタと、本で熱心に学んだとはいえ実際に見た呪文の数はまだ限られているディーキン。

2人には、彼女らが正しいのかどうかの判断がつかなかった。

 

もし仮に呪文を詠唱しているところを見ていれば、本で得た知識と照らし合わせてディーキンにも判断することができただろうが……。

 

「少なくとも、『カッター・トルネード』は間違いないと思うわ……、私、何度も見たことがあるんだから」

 

「火のメイジとして、『ファイア・ストーム』については保証してもいいわね」

 

「『ライトニング』は私も使える。間違いない」

 

3人が各々自信を持って断言するのを聞いて、ディーキンはまた考え込んだ。

 

この秘密の通路には、最近誰かが入ったような形跡はまったくなかった。

それなのに奥に凄腕のメイジが、それも何人もいるなどというのは、おおよそ考え難いことだが……。

すると、これは一体、どういうことなのか?

 

ディーキンはその答えを確かめようと、不可視の壁の向こう、扉の奥の方に目を凝らした。

 

ムカデは強力な呪文の三重爆撃でずたずたに切り裂かれ、焼かれて、たちまち“絶命”した。

さすがにその巨体が完全に粉々になったわけではなかったが、召喚対象が倒れた時点で招来呪文の効果は切れた。

ムカデの姿は急速に薄れて消えていき……、その向こうにある、開け放たれた扉の先が見えてくる。

 

そこには、先程の呪文を放ったと思しき3体の影が佇んでいた。

 

(ン? あれは……)

 

その姿形を見て、ディーキンはきょとんとして目をしばたたかせる。

 

それらは、少なくとも外見的には先程のガーゴイルたちよりもずっと簡素で不格好な、いかにもという感じの魔法人形だった。

大きさ3メイル弱ほどの木製の棒人形に石製の手足を取り付け、武骨な鉄製の鎧兜を着せたような姿をしている。

 

一方で、それを見たルイズはさらに驚愕していた。

 

「ゴ、ゴーレム……? まさか、そんなはずは……!」

 

キュルケとタバサも、困惑した面持ちで顔を見合わせている。

 

「あいつらも、ゴーレムじゃなくてガーゴイルかもしれないけどね……。

 けど、どっちにしろ……、ねえ?」

 

「ありえない。ゴーレムであれガーゴイルであれ、魔法を使うことなんてできないはず」

 

優秀な土メイジならば、人間と見分けがつかないほど精巧なガーゴイルを製作することもできる。

 

だが、どんなに精巧なものであろうと、魔法を使えるようにはならないはずなのだ。

ルイズもキュルケも、博識なタバサでさえも、魔法が使えるゴーレムやガーゴイルがいるなどという話はこれまで聞いたことがなかった。

 

しかし、そこでディーキンが首を横に振った。

 

「イヤ、あれはたぶん、魔法を『使った』わけじゃないの。

 あらかじめ溜め込んどいた魔法を、『解放した』ってだけだと思う」

 

「え……?」

 

それを聞いたメイジの少女らが、呆気にとられた様子で彼の方を見つめた。

シエスタもまた、戸惑った様子で問い掛ける。

 

「せ、先生? あの人形がなんなのか、御存知なのですか?」

 

「うーん……、ディーキンの考えが間違ってなかったら、だけどね」

 

そう言って頷くと、3体の魔法人形の方に目を向け直す。

 

そいつらは事前に受けていた命令に従って侵入者を排除するべく、ズンズンと歩み寄ってきた。

それを見て、キュルケらも慌てて杖を構え直す。

 

「気になるけど、ディー君の話を聞くのは後ね!

 また魔法を使われる前に、こいつらをなんとかしないと……」

 

そう言って呪文を唱え始めようとする一行を、ディーキンが手で制した。

 

「その必要はないよ、ディーキンの考えが正しかったら、あいつらはもう魔法は使えないからね。

 あいつらが一度に溜め込んでおける魔法は、一発だけなんだ。

 もしそれが間違ってたとしても、『壁』を張っといたから急がなくても大丈夫だと思うし……、第一、攻撃してもそこで止まっちゃうの」

 

「……へっ?」

 

「ちょっと、わけがわからないわよ! ちゃんと説明――――」

 

ルイズの言葉が終わるか終らないかのうちに、先頭の魔法人形が不可視の壁にぶつかって、ガツンと大きな音を立てた。

 

そいつはしばらくの間、強引に前進し続けようとしたが、できなかった。

後続の連中も、そこでつっかえて止まる。

 

ややあってようやくそこに見えない壁があることを理解すると、彼らは手探りでそれを迂回しようとし始めた。

だが、その壁は通路全体を封鎖しているため、それは不可能である。

 

すると今度は、それを拳でガンガンと殴りつけて破壊しようと試みだした。

しかし、それも無意味なことだ。

そこに張られている不可視の力場から成る壁は無限大の強度を持ち、いくら殴ろうと絶対に破壊は不可能なのだから。

 

それでも、彼らは事前に与えられていた命令に従って敵を排除するために、目の前の壁を空しく殴り続ける。

ディーキンは彼らが障壁を突破できないのを確認すると、仲間たちに簡単な解説をした。

 

「こいつらは、たぶん『盾なる従者(シールド・ガーディアン)』だと思う。

 ディーキンのいたところで使われてる、ゴーレムとかの仲間なの。

 こいつは魔法をひとつだけ溜め込んでおいて、必要なときに解放することができるんだよ」

 

先程こいつらが解き放ったのは高レベルのハルケギニア・メイジの呪文だというから、おそらく術者はシャルル大公自身だろう。

彼が製法を研究して自作したのか、それとも探索した遺跡でたまたま見つけただけなのかまではわからないが……。

ガーゴイルの集団によって退路を断たれた侵入者たちが慌てて扉に殺到しても、こいつらの呪文でまとめてお陀仏、という段取りか。

 

開幕早々に3体すべての呪文をぶっ放すのはいささか極端な気もするが、隙を突かれる前に一気に片を付けるのには有効なのだろう。

こいつらはハルケギニアのガーゴイルと違って、主人の細かな命令無しではあまり複雑な戦い方はできないのだ。

それに、ちらりと見えている様子からすると、どうやら扉の向こうは部屋になっているようだ。

室内の貴重品を損壊させないためにも、呪文は敵が部屋の外にいるうちにすべて使うようにと指示してあったのかも知れない。

 

ディーキンはそれからすぐに、今後の行動方針を思案し始めた。

 

あまりのんびりとはしていられない。

いくら《力場の壁》が無敵だといっても、《永続化(パーマネンシィ)》をかけていない以上は持続時間には限りがあるのだ。

効果が切れる前に、こいつらをどう処理するか決断しなくてはならない。

 

もちろん、その気になれば3体やそこらのシールド・ガーディアンを破壊するなど、ディーキンには造作もないことだ。

連中が呪文を撃ち尽くしている以上、ルイズらには離れていてもらえば危険が及ぶこともまずないだろう。

 

ただ、それはいかにも惜しいような気がした。

 

こいつらは高価で希少、かつ有能な守護者となってくれる優れた人造なのだ。

単純に叩き壊してしまうよりも、なんとか手に入れることができれば戦力の増強になるはず。

ディーキン自身にとってはさほど魅力的なものでもないが、近接戦闘能力に劣るルイズらに使ってもらえば……。

 

手に入れられるかどうかはわからない。

だが、試みてみるだけの価値はあるはずだ。

 

そう結論すると、ディーキンはそのための段取りを手早く頭の中でまとめ、仲間らに今後の行動について説明し始めた……。

 

 

仲間たちの賛同を得ると、ディーキンは早速行動に移ることにした。

 

まずは全員で手をつなぎ、《次元扉(ディメンジョン・ドア)》の呪文を唱えて、先程ムカデが打ち破った扉の向こうへ瞬間移動する。

次に、シールド・ガーディアンたちに気付かれる前に、キュルケとタバサが素早く『念力』を唱えて扉を閉めた。

 

さらにキュルケが『ロック』をかけて扉を施錠し、タバサが先程ムカデが打ち破った際にできた扉の隙間をがっちりと凍りつかせて固める。

駄目押しに、ディーキンが床に楔を打ち込み、ロープをかけるなどして、より一層開きにくくした。

 

じきにシールド・ガーディアンたちがガンガンと扉を殴りつける音が響き始めたが、そう簡単に打ち破れはしないだろう。

侵入者に備えるために分厚く頑丈に作られた金属の扉は容易に破壊できないだろうし、これだけ入念に固めれば打ち破るのも難しいはずだ。

 

これで、奥を調査するための時間は十分に稼げる。

 

タバサは、扉を殴りつけるやかましい騒音を消すために『サイレント』の呪文を唱えた。

音がしなくなったので、念のため見張りをシエスタに任せておく。

彼女は魔法関係の知識には疎いので、調査は他の者の方が適任だろう。

 

もし仮に調査の済まないうちに扉が破られそうになったなら……。

その時は、扉の前に《石の壁(ウォール・オヴ・ストーン)》でも張って時間を稼げばよいだろう。

別に今のうちに張っておいてもいいといえばいいのだが、この呪文で出した壁は永久に残って消せないから、後の処理が面倒になるのだ。

必要がなさそうなら張らない方がよいだろうから、今のところは控えておくことにした。

 

そこまでしてから、ようやく皆は安心して周囲の調査に取り掛かり始めた。

 

当初の目的である、シャルル大公の立てていたという計画に関わるような品物を探すのは勿論だが……。

ディーキンがそれ以外に是非見つけ出したいと思っているのは、あのシールド・ガーディアンたちと結び付けられたアミュレットであった。

 

もちろんアミュレットがここにあるという保証はないのだが、ディーキンはその可能性はかなり高いと考えていた。

 

アミュレットが誰かに奪われたり破壊されたりしたら、大変に困ったことになる。

かといって、あまり込み入った場所に隠すと取り出すのも面倒だろう。

となれば、彼ら自身が守護しているこの場所に置いておくのが、安全さと利用しやすさの両方の面から見ておそらく最も都合がいいはずだ。

本人が常に持ち歩くという手もあるが、シャルル大公が死んだ時にそういったものを身につけていたという話は聞かない。

 

あれらの人造はそれを所有しているものを主と見なし、その命令に従うので、それさえあれば彼らを味方につけることができる。

本来の所有者であるシャルル大公も、ただ壊すよりも実の娘であるタバサが有効に利用してくれる方が喜ぶことだろう。

 

(ウーン……、どこに置いてありそうかな?)

 

さておき、ちょっと周囲を見わたしてみた感じでは……。

どうやらここは、魔法の研究施設兼、秘密の書斎兼、重要な品物の保管庫、といったような場所であるらしかった。

 

広い室内に、何体もの作りかけのガーゴイルみたいなものが放置されている。

それに、棚に並ぶ奇妙な道具や薬品や装置の類、本棚にずらりと並ぶ書物に、机に散乱する記録用紙の束……。

奥の方には扉がひとつあって、その先は本来はどこかへ続く抜け道だったようだが、通れないように埋められて封鎖されていた。

 

察するに、元々はここは遥か昔の館の主が作った、大人数の兵を密かに移動させるための地下通路かなにかだったのだろう。

シャルル大公が後にそれを作りかえて、自分だけの秘密の部屋にしたものだと思われた。

おそらくこの場所の存在は、大公本人以外には誰も知らなかったのではないか。

 

実際、室内には貴重そうな物品が大量に残っており、大公の死後に誰かが何かを持ち出したような形跡はまったくなかった。

希代のメイジだったという彼ならば、土魔法を使ったりガーゴイルに手伝わせたりすれば一人でも十分に改装のための作業をできたはずだ。

ハルケギニアには、土系統のスクウェア・メイジたちが岩から街ひとつを丸々削り出して作ったという事例もあるくらいである。

 

「すごい……」

 

タバサは室内を調べながら、亡き父の能力の素晴らしさに感嘆していた。

 

父は、不世出の天才だった。

十歳の時にはもう銀を錬金することができたし、複数の系統に精通していたと聞く。

 

自分には、いまだにできない。

土系統は得手ではなく、貴金属の錬金ができるまでには至っていない。

メイジとしてのランクも、トライアングルどまりだ。

何年も、命懸けの任務に身を投じてきたというのに。

 

それでも同年代の誰にも引けを取ると思ったことはないが、父と比べると自分の非才さを痛感させられる。

覚えたての手品まがいの呪文を父に披露して得意になっていた、昔の自分が恥ずかしい。

 

だが母も言っていたとおり、父はただの天才ではなかったようだ。

その動機が何であれ、多大な努力を重ねてもいたのだ。

 

数々の学術書、遺跡から出土した古い時代の品々や書物に、その調査結果をまとめた記録用紙の山、作成途中の魔法人形……。

公務に追われる多忙な日々を過ごしながらも、父はこれほど勉学や研究に励んでいたのか。

こんな秘密の場所で行っていたのだから仕方ないが、娘である自分でさえまったく知らなかった。

 

「本当にすごいわ……」

 

研究者である上の姉がこの部屋を見たらなんというだろう、と考えながら、ルイズはあちこちを調べて回った。

自分もかなり勉強しているつもりではあるが、何なのかよくわからない品物や内容を理解できない文書がずいぶんある。

 

「閉まってる箱とかは無闇に開けないで、ディー君に回した方がいいかもね。まだ罠とかがあるかもしれないし。

 私たちにはよくわからないものも、ディー君やエンセリックなら知ってるかもしれないしね」

 

キュルケはそんなことをいいながら、高価そうな遺跡の出土品などを検分している。

 

この部屋には、おそらく学術的に貴重な物が多々あるのだろうし、金銭的にも価値のある品物が眠っていそうだった。

没落しているオルレアン家にとっては、そういった意味でもありがたい発見になるかも知れない。

 

「うん、変わったものを見つけたらちょっと見せて。

 ディーキンも、わからないものがあったらみんなに見てもらうからね――――」

 

そう言いながら、ディーキンはまた《隠し扉の感知(ディテクト・シークレット・ドアーズ)》の呪文で室内をざっと調べてみた。

ガーディアンを操作するアミュレットのような重要なものは、秘密の引き出しにでもしまってあるかもしれないと思ったのだ。

 

「……んっ?」

 

ひとつ反応があったので、ディーキンはそちらの方に歩み寄った。

 

保存食やワインの入った木箱をずらし、その下の床を丁寧に虫眼鏡で調べると、ほとんど気付かないような切れ目がある。

そこに爪をひっかけて、秘密の落し戸を開ける……。

 

「オオ……! あった、あったよ!」

 

ディーキンが嬉しそうにはしゃいで、中に収められていた品物をひっぱり出した。

 

お目当ての、シールド・ガーディアンを制御するための首飾り型のアミュレットが3つ。

それに、他にもいくつかの装飾品や宝石、護符などがしまってあった。

どうやら、隠し金庫だったようだ。

 

ディーキンは他の品物を、それが収められていた箱ごと目の色を変えているキュルケらに引き渡して見立てを任せた。

それから3つのアミュレットを首にかけ、扉を殴っているシールド・ガーディアンたちに攻撃を止めるよう命令する。

忠実な守護者たちはすぐに新しい主の命に従い、扉を殴りつけるのを中止した。

 

「これで、もう心配はないね」

 

貴重なシールド・ガーディアンを3体も手に入れられたディーキンは、さすがにほくほくした顔をする。

 

さて、いつまでも浮かれていないで他の場所の調査に向かおうとして……。

そこでふと、ナシーラの言葉を思い出した。

 

『秘密の空間の奥にもうひとつ秘密を隠しておくというのも、ごくありふれた手法ね。

 人は一旦秘密を見抜いたと判断したら、それ以上は調べようとしない。

 そういった心理の隙を突くのよ』

 

(ウーン……、そうだね)

 

滅多なことはないとは思うが、念には念を入れておいて悪いこともないだろう。

そう思って、先程の隠し扉をもう一度調べてみた。

 

すると……。

 

「……オ?」

 

驚いたことに、もうひとつ隠し扉の反応があった。

 

いささかできすぎているくらいだが、やはり仲間の助言には耳を傾けておくものだ。

この場にいないナシーラに心の中で感謝しながら、ディーキンは落し戸の底に手を伸ばし、もうひとつ隠されていた秘密の扉を探り当てた。

 

さあ、この奥には何があるのだろう。

最初の落し戸の中に隠されていた宝物を囮にしてまで隠すほどの価値のある品とは、一体何なのか……?

 

ディーキンは、内心とてもわくわくしながら隠し戸を開いてみた。

 

その中にあったのは、目もくらむような眩い輝きを放つ財宝……。

ではなく、一冊の古びた本と記録用紙の束の入った箱、それに奇妙な皮紙の束を綴った文書のようだった。

 

(……?)

 

なんだろう、これは。

ディーキンは仲間たちが先程見つけた宝物を熱心に調べているのを確認して、まずは自分で読んでみようとそれらを手に取った……。

 

 

「……ねえみんな、ここで調べてたら時間がすごくかかるよ。

 とりあえずあるものを運び出して、残りを調べるのは後回しでもいいんじゃないかな?」

 

ディーキンは仲間たちが宝物の検分を終えたのを見計らって、そう提案した。

 

ルイズらにも、特に異論はなかった。

エレオノールの来訪の予定もあることだし、早めに学院に戻った方がよいだろう。

運搬は、いましがた手に入れたばかりのシールド・ガーディアンたちの手を借りれば、ごく短時間で済むはずだ。

 

「ディー君、お手柄よ!

 さっきのお宝は魔法の品物を抜きにしても、宝石とかだけでまず十万エキューはくだらないわ!

 きっと大公が、オルレアン家の家宝の一部を隠しておいたのね!」

 

興奮して目を輝かせるキュルケににこやかに応対しながらも、ディーキンはまったく別のことを考えていた。

十万エキューだろうが百万エキューだろうが、そんなものはその後に見つけたものに比べればどうでもよい。

 

それらは、まだ皆にはその発見を知らせないまま、今はディーキンの背負い袋の中に収められている。

 

一体、皆にはどう話せばよいだろう。

それとも、いっそ彼女らに対しては隠しておくべきなのだろうか……。

 

ひとつは、遺跡から出土したものらしい、始祖ブリミルの時代にさかのぼる『虚無』関係の書物。

それも、どうやら呪文などについても詳しく記されているもので、ルイズにとって重要な品になるはずだった。

 

そして、シャルル大公がその書物について調べ、解読や分析、考察を進めた研究記録。

その中には彼の兄、ジョゼフが『虚無』ではないかという彼自身の考えや、そのことに対する彼の想いなども含まれているようだった。

これもルイズにとっては実に貴重なものになるだろうが、タバサにとっては彼女の知らない父の一面を見せることになるだろう。

 

だが、そのいずれも、最後のひとつに比べれば大したものではない。

 

さっさと品物を運び出そうと提案したのも、それに関わる何かが部屋の中で見つかり、皆の目に触れるのではないかと恐れてのことだった。

ディーキンは主としてそれをどう扱うべきか、特にタバサや彼女の母に対してなんといえばよいのかと、ひどく悩んでいた……。

 





指揮官の指輪(コマンダーズ・リング):
 フェイルーンにある魔法の指輪のひとつ。コアミア軍に使わせるために、コアミアのウォー・ウィザードたちが作っているという。
この指輪は、着用者に+2の抵抗ボーナスと、アーマークラスに対する+2の反発ボーナスとを与える。
また、合言葉によって落下速度を緩めたり、鍵を開けたり、明かりを灯したり、力場の壁を張ったりといった疑似呪文能力を使える。
さまざまなマジックアイテムの中でも、かなり強力で高価な部類である。

シールド・ガーディアン(盾なる守護者):
 身長約9フィート、体重1,200ポンド強の人造クリーチャーの一種で、主にボディガードとして主人の身を守る。
作成時に特定の魔法のアミュレットと結び付けられ、その所有者の命令に従うが、戦闘や単純な肉体労働以外のことは不得手である。
彼らはアミュレットの着用者が同じ次元界にいる限りどれほど遠くにいても発見でき、呼ばれればその元に駆けつけてくる。
彼らは傍にいる主人の身を的確に守るし、主人が受けるはずだったダメージの半分を肩代わりする能力も持っている。
しかも高速治癒能力を持っているため、ダメージを受けても完全に破壊されない限りは自動的に再生していく。
また、他のクリーチャーが自分に向けて発動した4レベル以下の呪文1つを蓄積し、指示にしたがって発動することもできる。
 シールド・ガーディアンは喋ることはできないが、どんな言語で下された命令も理解できる。
購入しようとする場合の市場価格は120,000gp(金貨120000枚)、製作にかかる費用はその半分である。


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第八十話 Faustian Pacts

秘密の地下通路の捜索を終えた一行は、その後ほどなくして学院へ帰還することにした。

既に十分な収穫があったのだし、翌日にはルイズの上の姉がやってくる予定になっているということもある。

今日は早めに帰って休み、見つけたものを調べるのは学院に戻ってから落ち着いた環境でゆっくりとすればよいだろう、という判断だ。

 

ディーキンは見つけたもののうち、書類やその他細々したものは自分の荷物袋に仕舞い込んで持っていくことにした。

それ以外の重たくかさばる物は、シルフィードに積み込んで運んでもらうことにする。

屋敷に残っていた使用人用の魔法の荷物入れなども活用すると、めぼしいものは大方積み込んで持ち帰ることができそうだった。

そうして準備を済ませると、一行はシルフィードとディーキンの用意した幽体馬とで学院に向けて出発した。

 

その途上で、ディーキンはいつになく難しい顔をして、エンセリックと共に屋敷で発見した研究記録の束を調べていた。

別の乗騎に乗っている他の仲間たちとは大分距離が離れているので、話を聞かれる心配はなかった。

シエスタに頼んで、デルフリンガーも相談役として借り受けている。

 

「ねえ、デルフ、エンセリック。あんたたちは、ここに書いてあることについてどう思うの?

 タバサのお父さんは、自分のお兄さんが『虚無』じゃないかって思ってたみたいだけど……」

 

ディーキンは、2振りの剣に意見を求めてみた。

 

「そうだなあ……。ジョゼフとかいうやつに実際に会ったことはねえから、確かなことはわからねえ。

 けど、そこに書いてあることが本当なら、確かにそいつは『虚無』っぽいかもな」

 

「私には『虚無』とやらのことはわかりませんから、何とも。

 ただ、この記録を書いたシャルルという人が並大抵の人物ではなかったことは確かですね。

 そのシャルルが劣等感を抱くほどの兄だというのなら、ジョゼフとやらも凡庸な人物ではないのは間違いないでしょうね」

 

「ウーン……、」

 

隠し戸のさらに奥に隠されていた、シャルル大公の研究記録……。

そこには、彼の進めていた調査・研究や、考察などに関して、順を追ったかなり詳しい記述が残されていた。

 

それによれば、シャルル大公は希代の天才メイジと呼ばれながらも、以前から兄ジョゼフへの劣等感に苛まれていたらしい。

 

他の者たちがどれほど兄を暗愚だと揶揄しようと、実の弟である彼は兄の優秀さに気付いていたのだ。

魔法は使えずとも、ジョゼフには優れた頭脳があり、王としての才能があった。

昔から、一緒に遊んでいても、一緒に学んでいても、自分が兄に勝っていると思えたのはただ魔法の腕前だけだった。

 

そして、実の父である当時のガリア国王も、おそらくは2人の息子たちの能力についてよく知っていただろう。

慣習から言っても、順当にいけば王に選ばれるのは兄のほうに違いないことをシャルルは理解していた。

 

だから彼は、幼い頃から一心に努力を重ね、特に自分の長所である魔法の腕前を磨いてきた。

周囲の者たちにも常に如才のない態度を示して、着実に評価を高めてきた。

 

そこまでなら、兄への対抗意識、競争心を持っていたというだけのことであって、別に不健全な話ではないだろう。

事実、最初の頃はシャルル大公はまっとうに努力をしていただけだった。

嫉妬深くはあったかもしれないが、非難されるようなことをしてはいなかったのだ。

 

しかし、自分の魔力を高めようと魔法の研究を続けていくうちに、雲行きが怪しくなってきた。

古の昔に失われた『虚無』について調べていたシャルル大公は、兄こそがその担い手なのではないかと疑い始めたのである。

 

もし、兄が始祖と同じ『虚無』を扱える素質の持ち主だったとしたら……。

自分が誇りにしてきた希代の魔法の腕前も、伝説の復活という輝きの前に完全に霞んでしまうことになる。

次の王になるという自分の望みがかなうことも、まずなくなるだろう。

 

その頃から、シャルル大公には焦燥が見え始めたようだ。

 

各地の遺跡を密かに調査させ、そこから見つけ出した古の魔法、特に『虚無』に関する調査・研究に熱心に取り組み続けた。

しかし、調査を進めれば進めるほど、兄こそが『虚無』に違いないという確信はますます強まるばかりだった。

 

彼はその事を兄に知られまいと、自分の研究や調査の内容に関しては一切外に漏らさず、厳重に秘密を守るようにした。

そうしながら、さらに深く『虚無』について調べ続けた。

自分にも王家の血は流れているのだから、なんとか『虚無』を扱えるようにならないものか、と考えたのだ。

それさえできれば、伝説を復活させた功績は、兄ではなく自分のものになる。

 

また、その頃からシャルル大公は、自分の評価を少しでも高めようと、あまり感心できない手段も取るようになっていったようだ。

裏金を渡したり裏取引を持ちかけたりして、より多くの家臣を味方に付けようとしたり。

兄の悪評を吹聴させて、評判を貶めさせたり……。

 

彼は、幼い頃から望んできた王の座を得ることにそれだけ執着していたのだろう。

あるいは、そうすることでずっと抱いてきた劣等感を振り払い、自分が兄よりも優れていることを証明したかったのか。

 

だが彼は、道を踏み外し始めたにもせよ、ただ姑息なだけの男ではなかった。

賞賛されるべき才能と努力の男であったことは疑いない。

長年の調査の結果、ついに『虚無』の呪文にまで辿り着いたのだ。

 

彼が始祖ブリミルに縁のある場所と伝えられる遺跡から発見したのは、太古の時代のものと思しき白紙の書物だった。

普通ならば、ただ古いことしか取り柄のないゴミだとして片付けるところだろう。

長年『虚無』を研究してきたシャルルだからこそ、その重要性に気がついたのだといえる。

 

彼は、使い道の分からないガラクタのように見えるものが始祖の秘宝として各地の王家に伝えられていることを知っていた。

ガリアに伝わる『始祖の香炉』も、その手の秘宝のひとつだ。

そして、トリステイン王家に現存する始祖ブリミルが記述したという古書、『始祖の祈祷書』は、これと同じく白紙の書物だという。

 

シャルルは以前から、始祖がそれらに『虚無』の秘密を隠して子孫たちに遺したのではないか、という仮説を立てていた。

とはいえ、各国の秘宝である以上は、持ち出して調査するわけにもいかなかったのだ。

 

もしもこの白紙の書物が何らかの理由で失われた『虚無』の秘宝、もしくはその試作品か何かであったなら……。

シャルルはそう期待して、入念な分析を行ってみた。

 

「《秘密のページ(シークレット・ページ)》のような呪文の存在は忘れ去られ、《魔法解呪(ディスペル・マジック)》すらも無い。

 そのような状況で、彼はこの本の秘密に気が付き、しかもある程度の内容の解読にまでこぎ付けたのですから。

 相当な注意力と努力が無ければ成し得なかったことでしょう、大したものですよ」

 

今は亡きシャルル大公を賞賛するエンセリックに頷いて同意を示しながら、ディーキンは件の本を開いてみた。

 

二重の隠し戸に大切に保管されていたこの本は、『虚無』の担い手が開いた場合のみ内容が読めるような仕掛けになっているらしい。

しかしシャルル大公は、研究を重ねて隠された文面を少しずつ解き明かしていたようだ。

一緒に見つかった研究記録の束には、既にいくつかの『虚無』の呪文が解読され書き留められていた。

 

「うん、向こうに戻ったら、ルイズにこの本と、こっちの記録の束を読んでもらって……。

 明日来るっていうお姉さんにも、一緒に見てもらうのがいいかな?」

 

自分の妹が伝説の系統だなどと聞かされて、その女性がどんな反応をするかまでは、もちろんディーキンにはわからない。

だが、別に身内に隠さなくてはならないような理由もないだろう。

 

それはさておき、シャルル大公の方はといえば……。

ついに伝説の『虚無』の呪文までも発見し、研究が順調であるにも関わらず、ますます焦燥を深めていたらしい。

 

というのは、研究すればするほど、『虚無』は自分にはどうしても使えなさそうだということが明らかになっていったからだった。

他の系統魔法と『虚無』には大きな違いがあって、何度詠唱を試みても無駄だった。

それにそもそも、完全な形で『虚無』を扱うには、自分の精神力ではまるで足りないらしいのである。

 

だが、シャルル大公は不屈の精神の持ち主だった。

 

それでも諦めず……、ならばかつて『虚無』によって作られた魔法の品を扱うことで同等の力を行使できないか、と考えた。

遺跡の探索を続けさせ、使い方の遺失した古い時代のマジックアイテムを大量に運び込んで研究し始めたのだ。

地下の研究室には、そうして見つかったたくさんの魔法具が並んでいた。

 

その中には、スキルニルなどのハルケギニアのマジックアイテムに混じって、フェイルーンの物と同じスクロールやワンドなどもあった。

それにポーションや、指輪やアミュレットなどの各種装備品に、もっと珍しい品々まで、多種多様だった。

もちろん、先程手に入れたシールド・ガーディアンのアミュレットもそのひとつだ。

 

そうした品の中には、古すぎて魔力が綻んだのか、あるいは事故で破損したのか、既に魔力を失ってしまっているものもあったが……。

それにしても、なかなか大した収穫だったといえるだろう。

 

「始祖ブリミルの時代にはこの世界と私たちの世界につながりがあったという仮説が、これでほぼ確実になったわけですね。

 ……しかし、どうやらシャルル大公は、あまり芳しくないものまで見つけてしまったようで。

 とても優秀だったためにその使い方まで理解できてしまったというのが、またいけなかったのでしょうね」

 

どうやらシャルル大公は、研究を続ける中で、他次元界のクリーチャーを召喚する魔法の品を見つけ出したらしい。

研究から、『虚無』の呪文には他の次元界に門をつなげたり、そこから生物を呼び出したりするものがあると既に知っていた彼は……。

その扱い方を見つけることでこそ『虚無』と同等の力が手に入ると信じ、それを熱心に研究し始めたのである。

 

そうして努力を重ねた末に、彼はついにその品を使いこなすことに成功した。

しかし、彼がそれを使って最初に呼び出すことに成功したのは……。

よりにもよって、九層地獄界のデヴィルだったのである。

 

「これで、現在のガリアにはデヴィルが巣食っているであろうことは、ほぼ確実になりました。

 そして、その最初の出所が誰だったのかも、また明らかになったわけです」

 

「……俺にゃあ、悪魔だののことはよくわからんがよ。

 それにしてもまあ、あの小さい娘っ子には話しにくいことになったみてえだわな」

 

「うん……」

 

ディーキンが、顔をしかめて頷いた。

 

彼は二重の隠し戸の最奥から見つけた文書を広げて、今一度目を通し直してみた。

最初に読んだときは目を疑ったが、残念ながら何度読み返してみても、内容に変わりはない。

 

それは、奇妙な皮紙の束を綴った文書であった。

 

実のところ、材質は羊の皮ではない。

仔牛の皮とか、竜の皮とかいったものでもない。

 

それは、人型生物の皮であった。

おそらくは人間か、あるいはエルフか……。

処女か、それとも赤子か……。

 

その内容は、多数の仰々しい約定の事項がびっしりと書き連ねられたもので……。

要約すれば、ある見返りの提供と引き換えに、自身の永遠の魂を対価として差し出すという契約書であった。

最後のページの末尾にある署名欄には、契約者自身の血で書き入れられたサインがある。

 

“シャルル・ド・オルレアン”

 

そこにははっきりと、そう記されていた。

何度見直してみても、九層地獄バートルのデヴィルが用意した『売魂契約』の書面に間違いなかった。

 

このようなことを、彼の妻であるオルレアン夫人や娘であるタバサに、一体どう伝えたらよいものか。

 

いや彼女らへの対応だけではない、デヴィルがこの世界に間違いなくいるというのなら、それに気付いた自分は一体どう行動したらよい?

こうなった以上、フェイルーンの仲間たちにも協力を求めるべきだろうか。

ルイズらには、どこまで協力を求めてよいものか。

それに、シャルル大公の兄である現国王のジョゼフは、一体どこまでこの件に関わっているのか……。

 

ディーキンはあれこれと思いを巡らせながら、学院への帰路を急いだ……。

 




売魂契約:
 読んで字のごとく、デヴィルが提供する何らかの見返りと引き換えに、死後に自分の魂をそのデヴィルに引き渡すという契約のこと。
富でも、地位でも、権力でも、名声でも、異性でも……、デヴィルは定命の者が欲しがりそうなものは何でも与えてくれる。
 彼らが提示する報酬はかくも魅力的だが、その結末の悲惨さは常に報酬の魅力を上回る。
地獄に落ちた魂は言語を絶する拷問を受けて、デヴィルが活動するために必要な信仰エネルギーを最後の一滴まで搾り取られるのだ。
その後、生前のすべての尊厳・技能・記憶を失って絞りカスとなった魂は、精神を持たない最下級のデヴィル・レムレーに形質変化される。
 レムレーのほとんどは捨て駒として使い捨てられるが、運が良い一握りの者は、生き延びてより高位のデヴィルに“昇格”する。
生前己の世界でどれほど優秀だったり地位の高かったりした者であろうと、レムレーのままで終わる可能性が非常に高い。
しかし大半の悪人は、自分は悪魔と友好を結んでいるから地獄でも特別扱いを受けられるだろう、すぐに昇格できるだろうと自惚れている。
そもそもそう思っているからこそ、悪魔に魂を売り渡すなどという無謀で愚かな行為を選択したのである。
 最終的に地獄に堕ちた人間のそんな思い上がりを嘲り、身の程を教えてやることは、デヴィルにとっては結構な喜びである。


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第八十一話 Epic spells

 

学院への帰路の途中で、一行は人里離れた草原に立ち寄った。

 

ディーキンがルイズに、シャルル大公の解析した『虚無』の呪文の書かれた研究レポートを渡したからだ。

ルイズは夢中になって読み耽り、学院に帰る間も惜しんで、早速それらの呪文を試してみたいと意気込んで申し出てきたのである。

 

ディーキンはまた、隠し戸の中にあった『虚無』の秘宝である本そのものの方もルイズに渡してみた。

しかしながら彼女が開いてみても、やはり中身は白紙のままで、読むことはできなかった。

 

レポートに記されていた分析によると、読むためには担い手であること以外にも、鍵となる別の秘宝が必要だと推測されるらしい。

大公の考えでは、それは各王家に伝わる『四の系統』の指輪なのではないか、ということだった。

残念ながら、それに代わるような秘宝までは遺跡からは発見されなかったようだ。

 

「王家の秘宝じゃ、私なんかにはとても手が出せないわ……」

 

ルイズがそうぼやく。

 

しかし、すぐに気持ちを切り替えた。

始祖の遺したという本を読めなかったのは残念だが、まあ仕方がない。

とりあえず、大公が既に解析を終えていた『虚無』の呪文2つは手に入れることができたのだ。

 

今はまず、それを試してみたかった。

 

 

 

他の同行者たちが明かりを携えて遠巻きに見守る中、ルイズはひとつ深呼吸をして精神を集中させた。

そうしてから、夜の闇に包まれた広い草原に向けておもむろに杖を差し出すと、覚えたての呪文を詠唱し始める。

 

ようやく、自分の系統の呪文を唱えることができる……。

 

そのことに先程まではひどく興奮していたというのに、今は不思議なほど落ち着いていた。

読んだばかりの長い呪文のルーンがはっきりと頭に浮かび、まるで何度も交わした挨拶のように滑らかに口をついて出てくる。

 

ルイズにはその呪文の調べが、まるで昔聞いた子守歌のように懐かしく。

そしてディーキンの聞かせてくれる歌のように親しみ深く、感じられた。

 

「《……エオルー・スーヌ・フィル・ヤルンサクサ――》」

 

ルイズの中を、何か懐かしい感覚を覚えるリズムがめぐっていく。

それは、彼女の使い魔……いやパートナーであるディーキンの奏でる歌や唱える呪文にも、どこか似ていた。

 

呪文を詠唱するたびに、そのリズムはよりは強くうねっていき、神経はより鋭く研ぎ澄まされていく。

草原に吹き渡る風の音や虫の鳴き声のような辺りの雑音は、そのうねりにかき消され、一切耳に入らなくなっていく……。

 

自分の系統を唱えるメイジは、体の中で何かが生まれ、行き先を求めて回転していくような感じを覚えるという。

だとしたら、これこそが話に聞いたその感覚なのであろう。

 

「《――オス・スーヌ・ウリュ・ル・ラド……》」

 

体の中に、次第、次第に大きな波が生まれ、育っていく。

いずれその波が体の中に納まりきらなくなり、行き先を求めて暴れだすであろうことを、ルイズは感じ取っていた。

 

しかしそこで、シエスタの背負ったデルフリンガーが口を挟んだ。

 

「娘っ子、そこまでだ! 今はそれ以上魔力を練り上げる必要はねえ、詠唱を止めて解放しろ!」

 

それは鋭く、危機感を感じさせる叫びだった。

皆が、はっとしてそちらに目を向ける。

 

「《……ベオーズス・ユル・スヴュエル・カノ・オシェラ――》」

 

しかし、ルイズは意に介した様子もなく、そのままのペースでゆっくりと詠唱を続けている。

集中するあまり、周りの声がまったく頭に入っていないのだ。

 

そこで、デルフの警告を真剣なものだと理解したディーキンが、素早く行動した。

 

「ルイズ。何か危なそうだから、そこで『詠唱を止めて』」

 

「――う、」

 

ディーキンが魔力を込めてそう要求すると、ルイズの目が一瞬虚ろになり、たちまち詠唱が止まった。

いくら耳の右から左に抜けているといっても、耳栓をしているわけではないから音自体は聞こえているはずだ。

ならば、《示唆(サジェスチョン)》の魔力は届く道理である。

 

しかし、ルイズの中に渦巻いた魔力の流れは、詠唱を止めても納まることはなかった。

彼女の体の中で今にも弾けそうなほどに強くうねり、暴れ狂っている。

 

(どこかに、解放しないと)

 

ルイズはそう感じて、杖を振り下ろす先を求め……。

そこで、初めて気が付いた。

己の中に渦巻く魔力の、あまりの強大さに。

 

もっと早く詠唱を中断するべきだったのだ、これでは強すぎる。

迂闊な場所に解き放てば、無用な破壊を撒き散らし、皆をも巻き込んでしまうだろう。

 

(ど、どうすれば……?)

 

渦巻く魔力は今にも溢れ出しそうで、あまり悩んでいられる時間もない。

ルイズは咄嗟の判断で、前方の草原の上空、虚空の一点に向けて杖を振り下ろした。

 

その刹那、一行が携帯していた光源とは比較にもならない、まるで小型の太陽のような閃光がそこから膨れ上がった。

夜の闇が完全に吹き飛ばされ、一瞬、辺り一帯が真昼のように明るくなる。

 

「な、何なのよ、これは!?」

 

「オオォォ……、」

 

「……!」

 

「ま、眩しいっ……、」

 

まるで太陽を直視したかのような眩しさに、一行は咄嗟に腕で顔を庇って目を瞑る。

 

ややあって目を開けると、眼前の草原がいたるところ燃え上がっていた。

上空で炸裂した光の球は地上の草原にまで膨れ上がり、かなりの広範囲にわたって草木を炎上させたのである。

 

『虚無』の呪文の初歩の初歩の初歩、『エクスプロージョン』の威力であった。

 

「……すごい」

 

タバサは、思わずそう呟いた。

 

詠唱にはかなりの時間がかかるようだが、これほどの広範囲にわたって威力を発揮するとは。

しかも、不完全な詠唱でこれなのだ。

これが完全な詠唱となれば、どれほどの範囲でどれほどの威力になるのか、見当もつかない。

それ以前に、詠唱を中断しても呪文が効果を発揮するということ自体も驚きだが……。

 

タバサはそこで、目の前の草原が燃えていることを思い出して、思考を中断した。

 

(燃え広がったら、大変)

 

考えるのは後回しにして、ここは風と水の呪文を使える自分が率先して消火をしなければ。

自分の考え事や、ルイズが次の呪文を試すのは、その後にするべきだ。

 

 

 

「あれが『虚無』……、さすがに伝説の系統だけありますわ。

 この目で見ることができて、光栄でした」

 

一通りあたりの消火が済んでとりあえず落ち着くと、オルレアン公夫人がそういって頭を下げた。

ちなみに、ルイズの『エクスプロージョン』で起こった火を消し止めたのは、主にタバサと彼女である。

 

「いえ、こちらこそ誉ある王族の方の立会いを頂いて光栄です。

 それに、後始末にまで力を貸していただいて……」

 

キュルケもまた、頷いて同意する。

 

「そうね、とんでもない力なのはよくわかったわ。

 さすがはヴァリエール家の娘、といったところかしら」

 

「……褒めても何も出ないわよ、キュルケ」

 

「あら、むしろこっちからお祝いをあげてもいいくらいだと思ってるのに……」

 

ディーキンもまた、満面の笑みを浮かべて、うんうんと頷いていた。

 

「おめでとうなの、ルイズ。

 やっぱり、ルイズはすごい英雄になれる人だね!」

 

彼が腰に帯びたエンセリックも、それに同意する。

 

「ええ、本当に驚きました。まさに叙事詩的な呪文ですね」

 

先程の爆発が、あれで不完全なものだというのなら……。

完全な一撃はおそらくフェイルーンでいえば9レベルの、いやエピック級の呪文にも相当するだろう。

そんな強力な呪文をごくレベルの低いうちから扱えるとは、実に稀有な才能だといえる。

 

詠唱を短く切ることで威力を加減して放てるというのも便利だ。

フェイルーンにも状況に応じて詠唱にかける時間を変えられるチャネル系の呪文があるが、それ以上に融通が利きそうである。

むしろ、注ぎ込むパワーの消費量を増やすことで効果を増幅させられるサイオニック能力にも近いか……?

 

「ありがとう、ディーキン、エンセリック。

 でも、私がこうして『虚無』の呪文を使えるようになったのも、みんなのお陰よ。

 あなたたちには、特に感謝してるわ。タバサのお父様にも……」

 

ルイズはそう言って軽く頭を下げると、はにかんだように微笑んだ。

 

自分がこうして温かい仲間に囲まれて素直に笑えるようになったのもディーキンのお陰だと、心の中で付け加える。

少し前までは、こんなことは考えもしなかった。

 

ルイズは地面に座り込んで、ディーキンの差し出してくれた砂糖入りの熱い紅茶などを飲みながら、仲間たちからの賞賛の声に応じていく。

精神力を消費して大分疲労してはいたが、それは満足感に包まれた、心地よい疲労だった。

 

そうして皆が口々にルイズに言葉をかけていった後、最後にデルフリンガーが口を開いた。

 

「……娘っ子、実際に使ってみて感じたと思うが、『虚無』はそりゃあ恐ろしく強力なもんだ。

 その分危険も大きいし、精神力の消耗もデカい。

 せっかく喜んでるところに野暮は言いたくねえが、扱いには気をつけろよ?」

 

そう忠告してから、付け加える。

 

「……本当なら、必要になるまで呪文は見つからねえように仕掛けられてるはずなんだけどな。

 先に呪文を2つも覚えちまったのが、幸か不幸かはわからねえが……。

 少なくとも、今の一発で大分精神力の無駄遣いをしちまったのは勿体なかったな」

 

それを聞いて、ルイズは顔をしかめた。

 

「……わかってるわよ、『虚無』の力が迂闊に使っていいものじゃないことは感じたわ。

 初めてだから、ちょっと加減がわからなかっただけなんだから。

 それに精神力なら、しばらく寝て休めばすぐにまた溜まるじゃない」

 

普通の系統魔法による消耗なら、何日か寝て休めば大体回復するものだ。

同じ呪文である以上は『虚無』だって変わらないだろう、とルイズは考えていた。

 

しかし、デルフリンガーからは否定的な答えが返ってくる。

 

「いや、『虚無』の場合はそうことは単純じゃねえんだな。

 普通の系統魔法だって、スクウェア・スペルなんかには一月がかりで精神力を溜めとかなきゃいけねえものもあるだろ?」

 

「あ……」

 

ルイズは、そう言われて何かに気が付いたように目を見開いた。

 

そう、たとえば金の錬金や、遍在の複数同時・長時間維持などの強力な呪文の使用は、甚大な精神力の消耗を引き起こす。

そのため、数週間から数か月の単位で精神力を貯蓄しておかなければならない場合もあるのだ。

 

そして、先程使った『エクスプロージョン』は、これまでに見たどんな呪文よりも膨大な魔力を解き放っていた。

そうなると……。

 

「気付いたみてえだな。そうさ、モノや大きさにもよるが、『虚無』は大概系統魔法の比じゃねえくらい精神力を消耗する。

 おめえはこれまで魔法が使えなかったんだから、十数年分もの精神力の蓄えがあるだろうさ。

 けどよ、今みてえにデカいのを無駄に使いまくってたら、あっという間にその蓄えも底をつくぜ?」

 

「……ちょ、ちょっと待ってよ!

 じゃあ、せっかく『虚無』を覚えたのに、私は呪文を使えないってこと?」

 

ルイズが慌てて問い質した。

これで名実ともに『ゼロ』の汚名を返上できると思っていたのに、人前で使ってみせられないというのでは……。

 

「いや、使うなとまでは言ってねえよ。ただ、下手な使い方はするなってことだ。

 今やったみてえに詠唱を途中で切れば、出力を小出しにして消費を抑えることもできるんだからな。

 今回のはちょっと詠唱が長すぎだ、『エクスプロージョン』ならあの半分でも十分にそこらの系統魔法以上の威力が出る。

 よっぽど大勢と戦うのでもなけりゃあそれで十分なはずだぜ」

 

「そ、そうなんだ……」

 

「ああ。あとは……、そうだな。

 自分の系統に目覚めたんだからよ、コモン・マジックくらいなら使えるようになってると思うぜ?」

 

「ほ、本当!?」

 

試しにいくつかのコモン・マジックを唱えてみると、確かに成功するようになっている。

ルイズは目を輝かせて喜んだ。

 

ようやく、長年望んでいた、普通の呪文を普通に使えるメイジになることができたのだ。

普段使えるのがコモンと小出しの『虚無』だけとはいえ、これで『ゼロ』の汚名は返上できる。

 

自分がちゃんと魔法を使えるようになって、しかもそれが伝説の系統だったと知れば、家族も喜んでくれることだろう。

明日やってくる姉にも、堂々と説明することができる。

 

「まあ、コモンくらいなら大した消耗じゃねえから、普段から使ってても構わねえがな……。

 『虚無』の方は本当に必要な時だけ小出しで使って、いざという時にデカいのを使えるようになるべく精神力を温存しときな。

 ここぞという大舞台で使ってこそ、『虚無』はその本領を発揮する」

 

「わかったわ!」

 

「……でも、『虚無』だなんていったら騒ぎになるでしょうし、公にするのは慎重にした方がいいかもしれないわね」

 

ルイズがかなり浮かれているのを見て、キュルケが忠告するようにそう口を挟んだ。

 

なにせ、『虚無』という看板には絶大な利用価値がある。

長年失われてきた系統の復活となれば、研究対象にしようとする向きもあるだろう。

先程の呪文の並外れた効果を見る限り、いずれは実際に戦場などでその能力を活用することも求められるはずだ。

 

それが最終的にルイズにとって幸となるか不幸となるかはまだわからないが、決断は慎重にした方がいいだろう。

浮かれて安易に公開してしまっては取り返しがつかない。

 

「ディー君は、どう思うかしら?」

 

ルイズがむっとした顔になったのを見たキュルケは、感情的な反発を招くのを避けるためにディーキンに話を振ってみた。

彼からの説得が一番ルイズに対して通りやすいのは明白だ。

 

ディーキンは少し考えると、軽く頷きを返した。

 

「ウーン、そうだね。ディーキンには、こっちの人間の世界のことはあんまりよくわからないけど……。

 まずは明日来るルイズのお姉さんとか、オスマンおじいさんとかに話して、相談してみたらいいんじゃないかな?

 みんなに教えるのはいつでもできるし、慎重にして悪いこともないと思うからね」

 

他の面々も、概ねその意見に賛成なようだった。

 

「うー、……そうね」

 

これまで自分を見下してきた者たちを見返してやりたい思いのあるルイズとしては、『虚無』の公開を見合わせるのは多少不満だった。

とはいえ、言われてみればもっともなことでもあるので、不承不承同意する。

 

「……それじゃ、もうひとつの『虚無』の呪文の方を試してみるわ。

 力加減の調節も覚えておきたいしね――――」

 

 

 

ルイズは皆が見守る中で、再び焼け跡の残る草原に向き合うと、精神を集中して呪文を唱え始めた。

 

彼女が次に試そうとしているのは、『虚無』の呪文の初歩の初歩。

幻影を作り出す、『イリュージョン』の呪文である。

 

描きたい光景を、心に思い描くべし。

強く望むならば詠唱者は、空をも作り出すであろう。

……と、研究レポートには記されていた。

 

(心に強く、思い描ける光景……)

 

ルイズは少し考えると、幼い頃に慣れ親しんだ屋敷の中庭の光景を思い浮かべることにした。

今でもはっきりと全容を脳裏に思い描くことができる。

あの場所の光景なら、きっと上手に再現することができるだろう。

 

呪文を紡ぎながら、ルイズは自分の中に渦巻いていく魔力の量を慎重に推し量った。

作り出す幻覚があまり大規模なものでなければ、そこまで多量の精神力を消費する必要は無いはずだ。

己の感覚を信じて、これで十分な量の魔力が練り上げられたと思ったところで杖を振り下ろす。

 

すると、荒れた草原の上に、陽炎のように幻影が描かれ始めた。

 

迷宮のような植え込み、咲き乱れる花々、小鳥の集う石のアーチやベンチに、小舟の浮かぶ池……。

突然蜃気楼のように現れたそれらの美しい光景は、いずれも現実の存在感を伴って見るものの心を惹き付けた。

 

「す、すごい……」

 

シエスタは呆然とその光景に見入っていた。

 

「ほう、これは《幻の地形(ハリューサナトリ・テレイン)》や《蜃気楼奥義(ミラージュ・アーケイナ)》に似ていますね。

 しかし先程の呪文の例からすると、より広範囲に用いることもできるのでしょうかね……」

 

エンセリックは、思案げにそう呟いた。

 

先程の『エクスプロージョン』が圧倒的に広範囲を破壊してみせたのと比べると、此度の呪文は既知のそれとの乖離があまりない。

そのため、今度はそこまで驚いてはいなかった。

 

「そうだね。でも、この呪文は地形とか建物だけじゃなくて、人の幻覚も作れるみたいだよ。

 どっちかっていうと、《音なき幻像(サイレント・イメージ)》とかの方が近いのかも……」

 

ディーキンはそちらの方に目をやりながら、自分の意見を述べる。

 

ベンチや小舟の傍には、幾人かの男女が寛いでいる姿までが再現されていたのだ。

おそらくはルイズの両親と姉たちなのであろうが、羽根つきの帽子を被った青年の姿も見えた。

 

ルイズは自分の作り出したものであるにもかかわらず、その青年の姿を目にすると恥ずかしげに頬を染めていた。

それを見て、キュルケが俄然関心を示す。

 

「あら、なになに? そこの美青年は、あんたの昔のボーイフレンドか何かなのかしら?

 恋しくて、つい彼の幻影を作っちゃったの?」

 

「う、うるさいわね。そんなんじゃないわよ!」

 

ルイズはキュルケの詮索に、顔を真っ赤にしてぎゃあぎゃあいっている。

ディーキンがそこへ、横合いから質問を挟んだ。

 

「ねえルイズ、明日来るお姉さんっていうのは、こっちのルイズに似てる人なの?」

 

「あ……、違うわ。それは、ちぃ姉さ……カトレア姉さまよ。

 明日来るのは、こっちのエレオノール姉さまの方。

 これは私が小さい頃の光景だから、今はもう少し年上なんだけどね」

 

「ふうん……」

 

ディーキンはそれらの人物の幻影と、中庭の幻影とを注意深くゆっくりと眺めて回った。

 

先程の爆発に比べると驚嘆の度合いは低いが、落ち着いて眺めてみると、かなり精巧な幻影で感心させられる。

バードとしては、大いに興味深い呪文だった。

軍隊を吹っ飛ばす呪文より、同じだけの数の人を感嘆させられる呪文の方がディーキンにとってはより英雄的で価値のあるものなのだ。

ボスだって、きっと同意見だろう。

 

ひとしきり見て満足げにうんうんと頷くと、ルイズに提案する。

 

「ねえルイズ、ディーキンも幻術は使えるから……。

 明日ルイズのお姉さんが来たら、2人で一緒に、何か幻術のショーを見せてあげない?

 この呪文なら、きっとすごく人を楽しませることができると思うんだよ!」

 



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第八十二話 Chorus

「むむむ……」

 

ルイズの上の姉であるエレオノールは、唸っていた。

いつも不機嫌そうに吊り上った目をさらに険しく吊り上げ、眉根を寄せて、端正な顔立ちを歪めている。

 

それを見て、ルイズは不安にかられた。

彼女は昔から、気が強く厳しいこの上の姉が苦手であった。

 

「あ、あの……、姉さま?

 私と使い魔のことでなにか、その……」

 

「黙ってなさい、ちびルイズ!

 私が今、考え事をしてるのがわからないのかしら?」

 

エレオノールは、おずおずと声をかけてきたルイズにぴしゃりとそういって黙らせた。

ついでに、彼女の頬を容赦なくぎりぎりとつねり上げる。

 

「あ、あいだだだ……、す、すびばぜん……」

 

涙目になった妹を睨みながら、エレオノールは今日入ってきた多くの情報を頭の中で検討し直した。

 

ルイズらは事前にオスマンにも事情を説明して相談した結果、エレオノールには『虚無』や使い魔のことを伝えることにしたのである。

公にするかどうかは慎重に考えるとしても、信頼できる身内には早めに打ち明けて情報を共有した方がいい、という考えからだ。

大体、今ではだいぶ打ち解けてきたとはいえ、宿敵であるツェルプストー家のキュルケにも知られている情報なのである。

それを大事な身内には教えないだなんてことは、ルイズ的には有り得ない話だった。

とはいえ勿論、タバサに関わる話などのたとえ身内といえども容易に明かすわけにはいかない幾つかの内容は伏せた上で、だったが。

 

まず、エレオノールが噂に聞いたラヴォエラは、実際にはルイズの使い魔ではないこと。

本当の使い魔はディーキンという名の遠方から来た珍しい亜人であり、ラヴォエラは彼が召喚したものだということ。

その亜人に天使が召喚できるのは、彼が『虚無』の使い魔であり、始祖と同質の力を扱えるからだということ。

そのような亜人を召喚できたルイズ自身の系統もまた、『虚無』だと考えられること。

級友であるガリアからの留学生(タバサの身の上については当然伏せた)が持っていた書物に目を通している最中にそれに気が付いたこと。

そして、既にその書物から『虚無』の呪文を習得し、ようやく魔法が使えるようになったこと……。

 

それらの情報を、エレオノールは既にかいつまんで伝えられていた。

 

(この子が、あの伝説の『虚無』だったですって?

 まさか、そんなことは……)

 

エレオノールは心の中でそう呟きながらも、それが事実かもしれないことを認めないわけにはいかなかった。

 

優秀な血筋を引く大公家の生まれでありながら、どうしても魔法が成功しなかった理由についてもそれで説明がつく。

言われてみれば、手がかりは常に目の前にあったわけだ。

さすがに落ちこぼれが始祖の系統かもしれないだなどと、そんな飛躍した発想は出てこなくても仕方なかったとは思うが……。

この子の使い魔が天使だという噂話を聞いた時点でもなお、その可能性に思い至らなかったのは迂闊だった。

確かに、本当に始祖の伝説に出てくる天使を呼び出したというのなら、系統も始祖と同じというのは大いにあり得ることだっただろう。

 

自分の妹がようやく魔法を使えるようになり、しかもそれが伝説の系統だった……。

 

もちろん、事実であれば姉として嬉しくないわけがないし、誇らしい。

だが、彼女がこれからどんな扱いを受けるかと思うと、心配にもなってくる。

 

それに、なんだか悔しい思いもあった。

 

(この子の実の姉で、アカデミーの主席研究員でもある私が気付かなかったことを。

 いくら一心同体の使い魔だとはいえ、よりにもよってこんな亜人が……)

 

そう思いながら、エレオノールはディーキンの方に視線を移した。

丁度ディーキンもエレオノールとルイズの方を困ったような顔で見つめていたので、目が合う。

 

「アー、ええと……、エレオノールお姉さん。

 ルイズが痛そうにしてるよ、そろそろやめてあげてくれないかな?」

 

目が合ったのをきっかけに、ディーキンがそんな提案をした。

彼の傍にいるラヴォエラもその言葉に同意するように頷き、次いで天使らしい潔癖さから、眉根を寄せて苦言を呈した。

 

「ねえ、あなた。自分の妹に、なぜ暴力を?

 あなたが考え事をしていることは、彼女を傷つける理由にはならないのではないかしら」

 

「…………」

 

エレオノールは、そんな2人を半目でじろっと睨んだ。

が、しかし。

 

「……まあ、いいでしょう」

 

結局、彼女は不機嫌そうにしながらも、素直にルイズの頬から手を離したのだった。

 

彼女は貴族としての名誉や体面を非常に重んじる性質だし、気位も高い。

ゆえに、そのような要求や苦言を平民ないしは下位の貴族からされたとしても、普通は無視するだけだ。

しかし、彼女にはまたアカデミーの研究者としての合理的な一面もあり、物の道理がわからぬ人物ではなかった。

 

亜人だの天使だのにとっては、平民も貴族も同じ人間でしかないことだろう。

そんな相手に対して、貴族とはこういうものだなどと声高に主張しても無意味だというくらいのことは彼女も理解している。

それに、他に考えたいことがある時に、ごたごたと言い争うような重要事でもなかった。

 

なお、エレオノールとルイズ、ディーキンとラヴォエラ、それにデルフリンガーとエンセリック以外の者は、ここには同席していない。

 

宿敵であるツェルプストー家のキュルケがいては、エレオノールの機嫌が悪くなり、話がややこしくなるばかりだろうし……。

シエスタのような平民が同席するのも、貴族としての体面や作法にこだわるエレオノールはいい顔をするまい。

タバサらにしても、今は難しい立場でもあることだし、無闇に顔を見せないほうが無難なはずだ。

 

エレオノールは当然、話に出てきた『虚無』関係の書物を見たがったし、その留学生に会わせなさい、とも言ってきた。

 

しかし、書物を見せればそれを書いたのが今は亡きガリアのシャルル大公であることを悟られてしまいかねない。

そこからタバサが彼の娘であることなどに思い至られては、困ったことになる。

 

そこでディーキンは、まずその書物を発見・解読した人物は留学生の身内だが今は故人である、という部分だけを正直に伝えた。

その上で、留学生自身は何も知らないし今は出掛けていていないとか、これ以上関わりたくないといわれているとか……。

いろいろと理由をつけて、当面は無理そうだとエレオノールに納得させ、断念してもらったのである。

いかに気位が高く頑固なエレオノールでも、ずば抜けた<交渉>の腕前を持つディーキンにかかっては言いくるめられざるを得なかった。

 

「とりあえず、そちらの話は分かったわ」

 

ややあって、エレオノールが眼鏡を指で掛けなおしながらそう切り出した。

 

「……けれど、聞いてすぐに『はい、そうですか』と受け容れられる内容ではないわね」

 

確かに、ルイズが『虚無』である可能性は十分にあるとは認めた。

とはいえ、まだそれが事実だと確信できたわけではないのだ。

 

それに、目の前にいるラヴォエラにしても、確かにただの翼人もどきの亜人などではないだろうことは感じ取れるが……。

本当に天使などという浮世離れした存在であるかどうか、はっきりしたというわけではない。

 

「なんですって? どうして、あなたは実の妹の話を疑ったりなどするの?」

 

エレオノールの言葉を聞いたラヴォエラは、たちまち怪訝そうに顔をしかめた。

 

「私は嘘なんてついたりはしないわ。

 それに、彼女が嘘をついていないことも、私が保証――――」

 

「アア……、ちょっと待って、ラヴォエラ」

 

エレオノールの発言を咎めようとするラヴォエラの言葉を、ディーキンが慌てて制する。

 

「嘘をついてるわけじゃなくても、勘違いってこともあるでしょ?

 エレオノールお姉さんが慎重に正しいことを判断しようとしてるのは、人を疑うとかの悪い考えからじゃないと思うよ」

 

まあ、現実的に考えて……。『自分は伝説の再来です』とか、『実は私は天使です』とか……。

あるいは、『俺、さっきそこでドラゴン倒してきたし』とかいう人がいたら?

 

普通はまず疑って、証拠はあるのかと聞くだろう。

誰だってそうするだろうし、自分だってそうする。

 

だから、お前は実の妹の話を信じないのか、などと咎めるにはあたるまい。

倫理的には信じるべきなのかもしれないが、現実的には内容の如何を問わず信じるというわけにはなかなかいかないものだ。

人間は天使のような純粋な善の存在ではないし、邪悪や嘘を一目で見抜くような超常の力を有しているというわけでもないのだから。

 

それから、ディーキンはエレオノールの方に向き直った。

 

「もちろん、ディーキンはお姉さんに納得してもらえるように、証拠をお見せするつもりなの。

 人目につかないところでやりたいから、ちょっとついてきてもらえるかな?」

 

百聞は一見にしかず、ともいう。

昨夜ルイズの呪文を見た仲間たちが確かにこれは伝説の系統だと一目で信じたように、実際の例を見せるのが一番だろう。

 

それに、その方が、バードである自分としても楽しいというものだ……。

 

 

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お披露目はトリステイン魔法学院の一角にある、多目的ホール的な場所を借りて行われることになった。

 

屋外の人気のない場所へ移動することも考えたが、時間がかかる上に昨夜と違い今は日中、誰にも見られないという確証はない。

その点、密閉された屋内であれば、貸し切りにして締め切っておけば誰にも見られる心配がないというわけだ。

 

もちろんディーキンとしても、こういう舞台でお披露目をする方が見せ場という感じがして好みに合うというのもあるが。

 

「さてさて、この年になってこうも目新しいものが見れるとは……。

 実に楽しみなことじゃな」

 

客席の前の方では学院の長、オールド・オスマンが、口髭を捻りながら楽しそうにしている。

 

学院の場所を借りる以上は当然彼の許可を得る必要があったし、学院の代表として立会うということで同席してもらう運びになったのだ。

学院長が同席していれば、強引な傾向のある姉とてさすがにそうそう無茶は言えないだろう、というルイズの思惑もあった。

 

「まったくです! 伝説の復活に天使の降臨、それに『虚無』の使い魔である未知の亜人の技とは……。

 いやはや、楽しみで震えが止まりませんな!」

 

コルベールもまた、今や遅しと舞台の方に注目しながら、彼の傍でわくわくと目を輝かせていた。

 

彼が信頼できる人物であり問題はないというオスマンの保証の下、本人の強い希望もあって立会いを認められたのである。

元々彼はディーキンの召喚時にも立ち会った人物であるし、ルイズらにもあまり抵抗はなかった。

 

「……まったく、何でこんな芝居がかったことを……」

 

エレオノールはといえば、むっつりとした顔でぶつぶつ文句を言っていた。

委細逃さず見届けて、必要に応じて質問や指示を出すために、記録用紙とペンを片手に最前列の席に陣取っている。

 

どうもあの亜人の使い魔はこういった趣向が好きらしいが、ルイズが文句も言わずにそれに付き合っているのが意外といえば意外だった。

友人もほとんどなかったあの子のことだから、ようやくできた使い魔を猫かわいがりしているのか。

それとも……。

 

(まあ、今はそんな詮索をしている時ではないわね)

 

それよりも、『虚無』云々の見極めの方が先だ。

エレオノールは雑念を振り払うと、ルイズらが舞台に姿を現すのを待った。

 

 

 

「さあて、ディー君は今日は何を見せてくれる気かしらね?」

 

「……」

 

「わかりませんけど、先生のことですからきっと何か楽しいものですよね!」

 

上階部分の奥の方の客席では、キュルケ、タバサ、シエスタらが、こそこそと様子を窺っていた。

 

面倒事を避けるために堂々と同席するわけにはいかなかったものの、せっかくのお披露目には是非立ち合いたい。

そう言うことで、ディーキンらとの相談の結果、下の客席からは見えないこの場所で見物させてもらうという運びになったのだった。

舞台からはちょっと遠いが、まあ仕方がない。

 

「そうね、ディー君も『虚無』みたいなことができるわけだし、もしかしたらルイズと共演とか……、あら?」

 

いささかわくわくしながら、シエスタと小声で囁きを交わしていたキュルケだったが。

ふと、タバサがどこか浮かない顔をしているのに気がついて首を傾げた。

 

「あなた、どうかしたの?」

 

「……別に」

 

「……ははあ。もしかして、あなたもディー君と共演したかったとか?」

 

「別に」

 

タバサは本を広げて顔を隠すと、ぷいとそっぽを向く。

キュルケは苦笑しながらも、親友のそんな振る舞いを微笑ましく感じて、ぽんぽんと頭を撫でてやった。

 

「そうね、ディー君に今度何か一緒にやろうって頼んでみましょうよ。あの酒場とかで。

 その時は、私もご一緒していいかしら……?」

 

 

 

そうこうしているうちに、舞台上にディーキンらが姿を現して、ルイズやラヴォエラの能力に関するお披露目が始まった。

もちろん、司会進行役はディーキンが大張り切りで務めている。

 

最初はまず、ラヴォエラからだった。

 

彼女は最初、天使の力は善を成すためのものであって見世物ではないと、いささか不服そうにしていたのだが……。

例によってディーキンが彼女を説き伏せて、エレオノールの探究心に答えるためにもここはしばらく協力しようという同意を取り付けた。

 

さて、とはいえ、何を見せれば彼女が『天使』だという証になるのか?

 

難しいところだが、尋常の系統魔法や先住魔法では説明がつかないような能力を見せれば納得しやすいのではないか。

そう考えたディーキンは、ラヴォエラにハルケギニアではあまり見かけないような能力をいくつか披露してもらった。

エレオノールや、時折はコルベールなどが、合間に質問や要求を挟んだり、検証作業に加わったり……、といった感じで進行していく。

 

例えば、呪文も唱えずにただ精神を集中しただけで、自分の姿を透明にする能力。

同様に精神を集中しただけで、人間、エルフ、コボルド、オークなど、どんな人型生物の姿にでもなれる能力。

永遠に燃え続ける熱のない炎を作り出す能力。

自分に向けられたいかなる下級の呪文をも掻き消して無効化する防御のオーラ。

燃え盛る石炭を素手で掴もうとも、鋭い刃を素手で握りしめようとも、少しの火傷も傷も負わないエネルギー抵抗やダメージ減少の能力。

対峙した者の話すどんな些細な嘘であろうとも、すべてを見破る能力。

そして、既にかけられている呪文を解呪したり相殺したりするという、伝説の『虚無』を思わせるような能力……。

 

「……確かに、あなたはただの亜人とは思えないわね。

 系統魔法ではないし、かといって私の知る限りでは先住魔法にもないような能力がいくつも……」

 

「素晴らしい! この熱のない炎はなんなのですか、私にも作れますかな!?」

 

「ええと、私のは生まれついての能力だから、魔法の使い手のことはあまりよくわからないけど……。

 同じような呪文をウィザードやソーサラーも使う、とは聞いているわ」

 

エレオノールが記録を取りながら顔をしかめて考え込んでいる横で、コルベールが目をかがやかせてはしゃいでいる。

どちらも研究者的な人物には違いないが、毛色はだいぶ違うらしい。

ラヴォエラはといえば、コルベールの質問にいちいち律儀に受け答えしていた。

 

「……聞いてみたいことはまだ山のようにあるけど、ひとまずはこのくらいで置いておきましょう。

 そろそろ、あなたの『虚無』とやらを見せてもらおうかしら?」

 

一区切りついた辺りで、エレオノールがそう言ってルイズの方に目をやった。

 

「は、はい!」

 

ルイズは背筋をしゃんと伸ばして、即座に返事をした。

それから、心の中で段取りを今一度確認する。

 

自分が『イリュージョン』の呪文を使ってある風景を生み出し、ディーキンがそれに合わせて演出を加える……。

事前に彼から舞台で見せようと提案されたのは、そういった内容だった。

それ以上の詳しいことは何も話してくれず、ただ自信ありげに胸を張って、任せてくれと請け合った。

 

仮にも自分は主人なんだから、もう少し詳しく教えてくれてもいいだろうという不満や、本当に上手くいくのかと不安な思いも当然あった。

 

しかし、ディーキンは別に悪意から隠し立てをしているのではなく、ただエンターテイナーとして事前にネタを明かしたくないだけなのだ。

ルイズにも、そのあたりのことはだんだんとわかって来ていた。

 

(あんたを信じてやれば、大丈夫なのよね?)

 

確認するようにちらりとディーキンの方を窺うと、自信に満ちた無邪気そうな笑みがかえってくる。

すると、幼い頃からずっと叱られ通しで苦手な上の姉の前で呪文を披露することに対する不安がすっと薄れ、気持ちが落ち着いてきた。

 

「……すぅ――――」

 

ルイズはひとつ深呼吸をすると、ゆっくりと杖を持ち上げて、呪文を詠唱し始める……。

 

見事な集中力で朗々と『虚無』の長い詠唱を紡ぎ上げていく彼女の姿を、姉や教師たちは固唾を飲んで見守った。

やがて呪文が完成すると、とある風景が、大きなホールの舞台の上に再現された。

 

「えっ……?」

 

それを見たエレオノールが思わず、彼女らしからぬ素っ頓狂な声を漏らす。

 

この学院の卒業生である彼女も、よく見知った眺めだったからだ。

ルイズの呪文で再現されたそれは、魔法学院の教室内、教壇周辺の光景だったのである。

 

エレオノールは一瞬、自分が学生として教室の席に座り、授業前に教師がやって来るのを待っているような錯覚に囚われた……。

 

 

 

「何度見てもすごい魔法ね……」

 

キュルケはそう呟きながらも、少し意外な気持ちがしていた。

 

確かにこれでも十分すごい呪文だということは伝わるだろうが、少々地味なのではないか?

何も、同じ建物の中にある教室の風景でなくてもいいだろうに。

昨夜のヴァリエールの屋敷の光景の方がずっと綺麗だし、演出としてもよいのでは……。

 

(それともディー君には、何か考えが?)

 

キュルケが訝しんでいると、ディーキンがとことこと幻の教壇の前に立ち、咳払いをして胸を張りながら、小ぶりな杖を取り出した。

それはまるで、音楽の指揮棒のようだった。

 

それから、芝居がかった仕草で御辞儀をして、話し始める。

 

「オホン……、それではみなさん、さっそく今日の授業をはじめるの。

 まず、一緒に合唱をしましょう。

 ラララァ~~、きれいな花嫁さんがやってきた……♪」

 

よく響く声で歌いながら、杖を降り出す。

 

「……ちょっと、ルイズの使い魔。おかしな遊びをしていないで、私の……」

 

質問に答えろ、とエレオノールが続けようとしたところで。

後ろの方の席で、ディーキンに合わせて歌う美しい女性の歌声が響いた。

 

「ラララ、ララ……、素敵な花婿さんが出迎えた……♪」

 

「……!?」

 

エレオノールは一瞬驚いて固まった後、はっと我に返って、目を吊り上げた。

 

このホールの座席には、私と教師2人の他には誰もいなかったはず。

誰が勝手に入り込んだのか?

 

エレオノールは、闖入者を怒鳴り付けようとしてそちらの方を振り向き……。

今度こそ、唖然として固まった。

 

歌っていたのはなんと、彼女の上の妹であるカトレアだったのである。

 

ただ、成熟した女性である現在よりも大分幼い……、今のルイズと同じくらいの年頃の姿をしていた。

そして、今のルイズと同じように、魔法学院の制服に身を包んでいた。

幼い頃から体が弱く、ヴァリエールの領地から出たことのない彼女が、一度も身を包んだことのない制服を……。

 

彼女は歌いながら、エレオノールの方を見つめて柔らかく微笑んでいた。

 

「か、カトレア? あなた、どうして……」

 

……いや、落ち着け。

 

本物のわけがないではないか。

第一、今のカトレアよりもずっと幼い姿をしている。

 

これもルイズの呪文で作られた、おそらくは幻の一種か。

いや、状況から考えるとむしろ、今出しゃばってきたあちらの使い魔の方の?

しかし、ルイズと違って、呪文を唱えているようなそぶりは……。

 

さまざまな考えが、エレオノールの頭の中をぐるぐると渦巻く。

 

その時、少し離れた場所で、また別の歌声が響いた。

皆が呆気にとられているうちに、次々と、新しい歌い手がホールのあちこちに姿を現していく。

 

その中には、ギーシュやモンモランシーといった、現在の学院の知己の姿があった。

やはり制服に身を包んだ、ルイズの旧知の青年もいた。

なぜか同じように制服に身を包んだ、トーマスの姿もあった。美形な彼は、貴族の中に紛れても違和感がない。

先日辞めた学院の元秘書、ミス・ロングビルの姿もあった。

授業参観にでもやってきたのか、ルイズの両親までもが、後ろの方に立って歌っていた。

そして終いには、美しい天使が数人、光の中から姿を現してホールに降り立ち、一緒に歌い始めた。

 

いくつもの幻の歌い手が奏でる歌声が重なり合い、いつしか美しい合唱になっていった……。

 

 

 

「こ、これは……、なんと?」

 

「ほう……」

 

コルベールやオスマンも、目を丸くしている。

 

ディーキンは彼らの様子に気が付くと、そちらの方にぴっと杖を向けた。

それから、生徒に注意する教師のような調子で話しかける。

 

「こら、そこの2人! サボってないで合唱に参加しなさいなの!」

 

「……へっ?」

 

「む……、わしらも歌うのかね? あまり自信がないが……」

 

「自信があるとかないとかじゃないの、合唱はみんなでつくるもんなの。

 ほら、早く!」

 

「は、はあ……、では」

 

「……ほっほ、もっともじゃな。教師がサボっておっては示しがつかんか。

 では、久し振りに喉を鳴らしてみるとしようかの」

 

やや困惑しつつも、楽しげに合唱に加わっていく2人。

 

「ほら、ルイズも、エレオノールお姉さんも、歌って?」

 

「ちょ、ちょっと。私は……」

 

「な、何を……」

 

「カトレアお姉さんも歌ってるでしょ? 一緒に歌って、ほら!」

 

場の雰囲気と、ノリノリなディーキンの勢いに流されたというのも、多分にあったが……。

姉妹であるカトレアがこちらに微笑みかけながら元気に歌っている姿を見た2人は、戸惑いながらも結局合唱に参加することになった。

 

ラヴォエラも、頼まれるまでもなく喜んで合唱に加わって、幻の天使たちと一緒に歌っていた。

彼女は音楽も大好きなのだ。

 

 

 

「ほらタバサ、シエスタ! 私たちも歌いましょう!」

 

興奮気味のキュルケが、2人の手を引く。

 

「で、でも。私たちは、隠れている最中ですし……」

 

「大丈夫よ、今なら私たちの姿もギーシュやモンモランシーと同じ、生徒の幻の一部ってことになるわ。

 むしろ、ディー君はその辺も考えてこういう演出にしたんじゃない?」

 

彼は舞踏会のときも、みんなで踊ろうと提案していた。

友人に隠れてこそこそ見ることを要求するよりも、堂々と参加してくれる方を本当は望んでいるであろうことは明らかだ。

 

「……私は、いい」

 

「何言ってるの、あなたもディー君の演出に協力したいでしょ?

 ほら、早く!」

 

キュルケは半ば強引に、シエスタとタバサの手を引いて、合唱に加わった。

いざ歌い始めると2人とも、目を輝かせて熱心に参加していたが。

 

 

 

そうして、『天使』と『虚無』のお披露目会は、大盛況のうちに幕を閉じたのだった……。

 




アストラル・デーヴァ(星幽界の天人):
 エンジェルの一種であるアストラル・デーヴァはより下位の善の存在を支援し、特に善属性の次元間旅行者を守護する役割を担っている。
彼女らには作中でも見せたように非常に多岐にわたる強力な能力があり、余程強力な悪の存在以外には後れを取ることはない。
いかなる毒や病、負傷でも癒せるし、ただの一言で己よりも弱い善ならざる者を打ちのめす『聖なる言葉』を何度でも使える。
聖なる力を呼び降ろして悪を打ち砕き、そのメイスによる強烈な打撃を受ければ巨人ですら朦朧として前後不覚に陥るだろう。
 アストラル・デーヴァを味方として使用する場合、その能力は20レベルの冒険者に相当すると評価されている。

パーシステント・イメージ
Persistent Image /自動虚像
系統:幻術(虚像); 5レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(羊毛少しと、砂数粒)
距離:長距離(400フィート+1術者レベル毎に40フィート)
持続時間:術者レベル毎に1分(解除可)
 この呪文は、術者の思い描いた物体、クリーチャー、力場の視覚的な幻影を作り出す。
さらに、この虚像は視覚だけでなく、聴覚、嗅覚、温度の要素をも含んでいるし、虚像に意味のある言葉を喋らせることもできる。
つまり、美しい音色を奏でるオルゴールの虚像を生み出せるし、美味そうな匂いのする御馳走の虚像も作り出せる。
近寄れないほどに熱いと感じられる炎の壁の虚像なども生み出せるのである。
ただし、いかなる幻覚を作ったのであれ、それで実際にダメージを与えることはできない。
 また、この虚像は効果の大きさの制限内であれば動かすことができ、術者の決めた筋書きに従って振る舞う。
例えば口論し合う酔っぱらいの一団の虚像を生み出し、次第に口論が白熱してついには殴り合いを始めるように設定することも可能である。
効果の大きさの制限は、「一辺が10フィートの立方体の区画4つ+術者レベル毎に1つ分」である。
呪文の距離内であれば、効果範囲は自由に配置することができる。


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第八十三話 Everyday affairs

 

お披露目会が大盛況のうちに幕を閉じた、その後。

エレオノールは、くれぐれも『虚無』やなにかのことをみだりに外に漏らさぬようにと指示した上で、ひとまずアカデミーへ帰って行った。

 

彼女は半ば強制的に合唱に参加させられたことに後から赤面してはいたが、ディーキンやルイズへのお咎めなどはなかった。

最終的には楽しんで活き活きと歌っている姿を見られた手前、怒るわけにもいかなかったというのもあるだろう。

しかしそれ以上に、今日の体験は彼女にとって決して不快なものではなく、むしろ生涯忘れられぬ楽しい思い出になったとさえいえた。

気恥ずかしくてそのことを表立っては認められなかったが、咎めだてなどできようはずもない。

 

さておき、彼女は実家に連絡を取って両親に事情を伝え、彼らと相談した上で今後の方針を決めるつもりでいた。

それにはどうしても、ある程度の時間がかかる。

 

よって、それから数日の間、ディーキンは特に大事もなく充実した時間を過ごすことができた。

 

夜には『魅惑の妖精』亭へ赴き、ジェシカら店の女の子たちや客人たちと楽しい時を過ごしたり、以前の約束通りフーケと共演してみたり。

朝昼にはルイズの授業につきあったり、シエスタと訓練をしたり、キュルケに誘われて彼女やタバサと過ごしたり。

それらの合間には、生徒や教師、使用人や他の使い魔らとの親交を深めたり……。

 

もちろんガリアの関連の事柄にも対処しなくてはならないのだが、デヴィル絡みとなると準備不足で迂闊に動くわけにはいかない。

 

ひとまずはフェイルーンの仲間たちと連絡を取り合いながら、今後のために勉強や訓練をしたり、いろいろな調べ物をしたりしておいた。

いよいよという時のために、今のうちに備えを万全にしておくのだ。

無論、デヴィルを相手にして、絶対磐石の備えなどというものはありえないのだが……。

 

 

 

そんな、ある日の朝。

 

ルイズ、キュルケ、タバサ、ディーキンは、教室で授業が始まるのを待ちながら、仲間内で雑談をしていた。

 

「……そういえばディーキン。あんたの修行だか勉強だかは、上手くいってるの?」

 

自分のパートナーに、ふとそんな質問をするルイズ。

 

ディーキンは最近、オールド・オスマンに頼み込んで、自分の作業をするために学院の一室を借りている。

そこで、サブライム・コード(崇高なる和音)とやらになるための勉強や訓練をしたり、必要な物を作ったりしているらしいのだ。

 

ディーキンはよくぞ聞いてくれたとばかりに、ドンと胸を叩いた。

 

「フフン、もちろんなの。ディーキンはもう、ただのディーキンじゃないの!

 今のディーキンは、さしずめ……」

 

「……ズーパーディーキン?」

 

タバサが、いつぞやにシルフィードを助けに行った時に小さなドラゴンに変身した彼の名乗りを思い出して、そう聞いた。

そんな呼び名を初めて聞くルイズとキュルケは、揃って首を傾げている。

 

「エッヘッヘ……」

 

ディーキンは勿体ぶって、チッチッと指を振って見せた。

 

「ディーキンはもう、ズーパーディーキンの枠にすらとどまらないの。

 今のディーキンはさしずめ、ズーパーウルトラデラックスパネェディーキンといったところなの!」

 

自信満々に胸を張りながら、そんな珍妙極まりないネーミングを口にするディーキン。

それを聞いたルイズとキュルケは、何とも言えない表情で顔を見合わせた。

 

「……は、はあ?」

 

「そ、そうなの。よかったわね……」

 

一方、タバサはというと。

 

「カッコいい……」

 

そんなことを呟きながら、一人目を輝かせていた。

心なしか、頬まで若干紅潮している。

 

ルイズとキュルケは、内心でそれにツッコミを入れたり、苦笑いをしたりしていた。

 

(ディーキンは人間じゃないからってことで納得するとしても……。

 あんたは一体、どんなセンスしてるのよ!)

 

(この子、こんな感性の子だったっけ?

 まあ、これが惚れた弱みってやつなのかしらねえ……)

 

ちなみにタバサのネーミングセンスは元々、架空の必殺技に『最強呪文・風棍棒』などと命名したりする程度である。

 

「ま、まあいいわ。つまりは、上手くいってるってことね?

 それで、一体……」

 

一体、そのサブライム・コードとやらになって、どんなことができるようになったのよ?

 

そう聞こうとしたルイズだったが、そこでちょうど教室の扉が開いて教師が入ってきた。

本時の授業は『風』の魔法についてで、教師はミスタ・ギトーである。

長い黒髪に漆黒のマントをまとった不気味な姿と冷たい雰囲気、そして尊大な態度から、まだ若いのに生徒たちには人気がない。

 

それまでは歓談していた生徒らも、ギトーが入って来るや静まり返って、そそくさと席に着いていく。

ルイズらも、会話を中断せざるを得なかった。

 

「それでは、授業を始める」

 

教室中が静まり返った様子を満足げに見つめながら、ギトーは淡々とした調子で授業を始めた。。

 

「知っての通り、私の二つ名は『疾風』……、『疾風』のギトーだ。

 ところで、最強の系統は何か知っているかね? ミス・ツェルプストー」

 

質問を振られたキュルケが、首を傾げる。

 

「それは……、まあ、やっぱり、『虚無』なんじゃないですか?」

 

ルイズの方を意味ありげにちらりと窺いながら、キュルケはとりあえずそう答えておいた。

 

大抵のメイジは皆、自分の系統にこそ絶対の自信と誇りを持っているものだ。

だからこそ、四属性の間の最強・最優秀の議論というのは、互いに一歩も譲らない不毛な水掛け論に終わることが多い。

キュルケとてその例外ではなく、個人的には自分の系統である『火』を最強として推したい気持ちはあった。

 

それに対して、伝説の『虚無』こそが四属性に優越する最強の系統だというのは、メイジの間ではごく一般的な見解である。

だからキュルケの回答は、ごく無難なものだといえた。

それに彼女は、実際に先日その目で『虚無』を見て、確かに最強と呼ぶにふさわしい系統だと実感してもいた。

だからといって、自分の『火』がそれに必ずしも劣っているとは思わないのだが……。

 

しかし、そのキュルケの回答を聞いたギトーは、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

 

あまりほめられた態度とは言えないだろう。

特に、教師としては。

 

「ツェルプストー、私は伝説の話をしているわけではない。現実的な答えを聞いているのだ」

 

それを聞いたキュルケもまた、肩を竦めて小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、小声で密かに呟いた。

 

「現実的じゃないですって? いやねえ、何も知らない人は……」

 

それから、顔を上げて真っ直ぐにギトーを見つめ返すと、自信を持って答える。

向こうがそう来るのなら、遠慮する必要もあるまい。

 

「それなら、『火』に決まっていますわ」

 

「ほほう? どうして、そう思うのかね?」

 

「すべてを燃やしつくせるのは、炎と情熱だからです。『攻撃は最大の防御』だといいますでしょう?

 最強の破壊力を持つ『火』こそが、それをもっともよく実践できる系統なのですわ」

 

「残念ながら、その見解は正しくない」

 

ギトーはそう言うと、悠然と腰に差した杖を引き抜いた。

 

「それを、今から説明してみせよう。

 試みにこの私に君の得意な『火』の魔法をぶつけてみたまえ、ツェルプストー」

 

キュルケは、むっとしてギトーを見据えた。

こう挑発的な言動を取られて黙っていられるほど、彼女は大人しい性質ではなかった。

 

心配して何か口を挟もうかとしたディーキンを、手で制する。

 

「火傷じゃ、すみませんことよ。よろしくて?」

 

「一向にかまわんよ、本気でかかってきたまえ。

 さもなければ、その有名なツェルプストー家の赤毛は飾りかと嗤われることになる」

 

「…………」

 

キュルケは真顔になると、胸の谷間から杖を引き抜いて呪文を唱え始めた。

 

差し出した右手の上に炎の玉が現れ、キュルケが呪文を詠唱するにしたがって膨れ上がっていく。

他の生徒たちが、慌てて机の下に隠れた。

 

(ウーン?)

 

ディーキンはその呪文を見て、実戦で使うにはちょっと詠唱に時間がかかり過ぎているな、と思った。

 

(威力は、ありそうだけど……)

 

キュルケは詠唱に時間をかけることで威力を高めているわけだが、あまり実戦的だとは思えなかった。

実際の戦闘においては、コンマ一秒でも早く撃つことが多くの場面で重要になる。

時間をかけるほど相手に先を越される可能性も高くなるし、こちらの攻撃に対処する時間の余裕を与えてしまうことにもなるからだ。

 

もちろん状況にもよるし、これは実戦ではなく授業なのだから、別に構わないのだが……。

 

そうこう考えている間にも、火球は徐々に膨張し続け、既に直径一メイルほどの大きさにもなっていた。

キュルケは右の手首をくるりとひねって一旦胸元にひきつけると、火球をギトー目がけて勢いよく押し出すようにして撃ち放つ。

 

しかし、ギトーはそれを避ける様子も見せずに、ただ無造作に杖を振るった。

 

「……っ!」

 

たちまち烈風が吹き荒れ、一瞬にして炎の玉を掻き消した上に、その向こうにいたキュルケまでも吹っ飛ばす。

 

その展開を十分に予想していたタバサは、杖を軽く振って彼女が床に転がるのを防いでやった。

まあ、さすがに生徒に大怪我をさせるような撃ち方はしていないようで、手を出さなくても大事には至らなかっただろうが。

 

「『攻撃は最大の防御』か、まさにその通りだ。

 もっとも、それを実践できるのは君の『火』ではなく、私の『風』のようだが」

 

口元に含み笑いを浮かべて自分を見下し、悠然とそう言い放つギトーに対して、キュルケは不満そうに両手を広げてみせた。

ギトーはそれを無視して、講釈を続ける。

 

「さて諸君、今の実戦を通して、『風』が最強たる所以はわかってもらえたことだろう。

 目に見えぬ『風』は、見えずとも諸君らを守る盾となり、必要とあらば敵を吹き飛ばす矛ともなるのだ。

 すべてを吹き飛ばす『風』の前では、『火』も『水』も『土』も、おそらくは『虚無』でさえも、立つことすらできまい」

 

自系統の自慢を得々と続けるギトーに、多くの生徒らは目をつけられない程度に真面目な態度を装いながらも、内心うんざりしてきていた。

特に『風』以外の系統の生徒は、少なからぬ反感も抱いている。

 

一方ディーキンは、興味深く授業を拝聴していた。

確かに尊大であまり好ましい性格の教師ではないようだが、腕は相応にあるようだし、いろいろな呪文の実演も見せてくれる。

 

もし本当に『虚無』に属する魔法を見せてあげたら、この人はどういう反応をしてくれるのだろうか、などと想像してみたりもした。

たとえば、どんな『風』でも吹っ飛ばない熱のある炎の幻とか、魔法を掻き消してしまう解呪の爆発とか……。

 

好奇心はあったが、もちろん実際にやってみたりはしない。

そんなことをして人目を引くのも、ギトーの名誉を傷つけて恨みを買うのも、およそ馬鹿げたことだ。良識と品性にももとる。

 

「さて。もう一つ、『風』が最強たる所以を見せよう」

 

生徒らの不満そうな様子を気にかけるでもなく、ギトーはなおも話を続けた。

勿体ぶった調子で杖を真っ直ぐに立てると、呪文を詠唱し始める。

 

「ユビキタス・デル・ウィンデ……」

 

(オオ、『ユビキタス(遍在)』だね?)

 

ディーキンはその詠唱から、いち早く呪文の正体を察した。

 

ひとつひとつが意思と力とを持ち、呪文を唱えることもできる自身の分身体を作り出す、『風』系統のスクウェア・スペル……。

同系統の奥義とも呼ぶべき呪文なのだと、本には書かれていた。

確かに読んだ限りでは、フェイルーンでも滅多に見ないような強力な呪文らしく思える。

もちろん消耗は大きいらしいが、それに見合う以上の代物だといえよう。

 

知識としては本を読んで既に知ってはいるが、実際に目にするのは初めてだ。

特に、使用者の少ない高等な呪文を目にできる機会は貴重である。

 

ディーキンは期待に目を輝かせて、わくわくしながら呪文の完成を待つ。

 

しかし、残念ながらそれを見ることは叶わなかった。

間の悪い時に入ってきたハゲのせいである。

 

「ミスタ・ギトー! 失礼しますぞ!」

 

いつぞやのフーケ騒動の夜と同じようにド派手な格好をしたコルベールが突然教室に入ってくると、そのまま授業を中断させる。

彼はそれから、歓声を上げて沸き立つ生徒らに、その理由を説明し始めた。

 

なんでも今日、この王国の姫君であるアンリエッタ姫殿下が、ゲルマニア訪問からの帰りにこの魔法学院に行幸なされるのだそうだ。

そのため急遽本日の授業を中止して、歓迎式典の準備にあたるのだという。

それを聞いた生徒たちは、浮かれていたのもどこへやら、にわかにざわめいて緊張した面持ちになった。

 

「ウー……、」

 

王族なら以前にもアヴァリエルの王国で有翼エルフの女王様を見たし、フォーミアンの女王に会ったこともあるし。

歓迎といっても、さすがに亜人の自分に演奏とかさせてくれることはないだろうし……。

別にお姫様とかいいからさっきの呪文みせてよ、というのがディーキンの正直な感想であった。

 

とはいえ、まあ、文句を言っても始まらないのはわかってはいるのだが。

 

どうせ自分がいてもやることはないのなら、その時間を調査や訓練にあてようか、とも少し考えてみた。

しかしディーキンとしては、サブライム・コードの訓練を始めたからといって、バードであることを捨てる気はさらさらない。

せっかくのパーティに参加しないというのは、バードとしての本分に反する。

 

よって、ここは気持ちを切り替えて、ルイズらと共に式典とやらに参加してみようと決めた。

 

 

 

魔法学院に続く街道を、聖獣ユニコーンに引かれた王家の馬車が静々と進んでいた。

その四方を、王室直属の近衛隊である、漆黒のマントを身に帯びた魔法衛士隊の面々が固めている。

 

馬車の中には、トリステインの王女であるアンリエッタが座っていた。

今年で十七歳になる、瑞々しく美しい美少女である。

その可憐な美貌のためもあって国民からの人気は高いが、今のところ政治的な実権はない。

 

その隣には、王国の政治を一手に握るマザリーニ枢機卿の姿もある。

彼は今年で四十だが、トリステインの内政・外交を一手に引き受ける激務のためにやせ細り、年齢より十も老けて見えた。

国民からはあまり人気がないが、この国の実質的な最高権力者ともいえる人物である。

 

アンリエッタは水晶の付いた美しい杖を手の中で弄りながら、落ち着かなげにそわそわしている。

 

「枢機卿、魔法学院にはまだ着かないのかしら?」

 

尋ねられて、マザリーニは顔をしかめた。

 

「これでその質問はもう七回目ですな、殿下。

 どうしてもといわれるなら外にいる衛士隊の者に尋ねてみてもよいですが、まだしばらくはかかりましょうな」

 

それから、目を細めて注意する。

 

「件の噂話が気になっておられるのであれば、あまり期待をし過ぎぬことですな。

 根も葉もない噂話が流れるのは、よくあることです。

 それに、どんなに気が急かれてもそのことを尋ねに行くことができるのは式典が済んだ後ですからな」

 

「そのくらい、わたくしだってわかっています」

 

アンリエッタは、不機嫌そうに眉をひそめて頷いた。

 

「……ですが、アルビオンの可哀想な王様に害を成そうとする者たちに始祖の罰がくだらないはずがないとも、わたくしは信じています。

 それに、血のつながる王族の人たちを始祖がお守りくださらないはずもありません。

 ええ、そうですとも! ですから……」

 

「ですから、天使の噂話は本当のことだと?

 アルビオンの阿呆どもに天罰を下し、自分たち始祖の末裔を苦境から救い出してくれるに違いない、というのですな」

 

マザリーニは、アンリエッタの言葉の先を越すと、首を横に振った。

 

「そうであれば大変に結構なことですな、私もそうなるようにと始祖に願っております。

 天使とやらに会いに行くときは御一緒もいたしますし、必要ならば平伏して頼み込むこともしましょう。

 ですが、残念ながらそうでなかったときのために、より現実的な事柄に目を向けておくことも王族の務めというものですぞ!」

 

「現実、ですか……」

 

アンリエッタは、悲しそうに顔を伏せて溜息をついた。

この溜息も、今日はもう十四回めにもなる。

 

「さよう。私とて、殿下の心に沿わぬことをお頼みするのは本意ではありませぬ。

 しかし、これも王族の務め。同盟のため、どうあれゲルマニアへ嫁がれることは決まったものと考えておいていただきたい!」

 

「……夢を見るくらい、よいではないですか」

 

「街娘ならば。ですが王族たるもの、国民が安らかに眠れぬうちは寝こけている暇などありませぬ」

 

マザリーニはきっぱりとそう言うと、ふと思いついたように付け足した。

 

「とはいえ……。天使が枕元を守ってくれるのであれば、それでもよいかもしれませんな?」

 

皮肉っぽいその物言いに、アンリエッタはつまらなさそうに窓の外を眺めた。

 

そうした2人のやりとりとはかかわりなく、王女の乗る馬車は民衆の歓声を受けながら、ゆっくりと魔法学院の方へ向かっていく。

そしてそんな馬車を守る一団の中は、怪しげに目を輝かせる青年が一人、混じっていた……。

 



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第八十四話 Welcome ceremony

 

いよいよ、王女の一行が魔法学院の正門に到着した。

整列してそれを待ちわびていた生徒たちが一斉に杖を掲げ、召使いたちは馬車から学院本塔の玄関まで鮮やかな赤色の絨毯を敷き詰める。

 

「トリステイン王国王女、アンリエッタ姫殿下のご到着ーーッ!!」

 

呼び出しの衛士が王女の到着を高らかに告げると、馬車の扉が開いてまずは枢機卿のマザリーニが、次いで彼に手を取られたアンリエッタ王女が姿を現した。

彼女の姿を見た生徒たちから一斉に歓声があがり、王女はにっこりと微笑みながら優雅に手を振ってそれに答える。

 

「あれが噂のトリステインの王女? ふーん……」

 

キュルケは他の生徒らのやや後方のあたりから、つまらなさそうに歓迎式典の様子を眺めていた。

 

「……まあ、どうってこともないわね」

 

他国からの留学生である彼女は、他の生徒らとは違ってこの国の王族の来訪にも大して興味は持っていなかった。

 

そもそも、あのアンリエッタ姫は近々母国ゲルマニアの皇帝に嫁ぐらしいと噂されているのだ。

それは明らかに、今やアルビオン王国を滅ぼさんとしている革命勢力に対抗するための政略結婚であろう。

歴史と伝統はあれども実力のないトリステインは、その始祖に連なる誇り高い血筋を対価として、新興国家のゲルマニアに庇護を求めたというわけだ。

 

そんな衰えた、今や半ば母国ゲルマニアの従属国のような小国の姫君にお目通りすることなどは、彼女にとっては別段名誉でもなんでもないのだった。

 

(どっちかっていえば、あちらのお方の方が気になるわね)

 

キュルケは姫君から視線を外すと、今度は彼女の傍にいる枢機卿のマザリーニの方をぼんやりと見つめてみた。

 

なんでも元々はロマリア出身の他国者で、平民の血が混じっているとかいう噂もあるらしく、姫君と違って民衆からの人気はあまりない。

それどころか、彼の姿を見るや否やあからさまに鼻を鳴らしている者さえいた。

いくらなんでも自国の重鎮相手に無礼が過ぎないかとも思うのだが、本人は慣れているのか気にかけた様子もない。度量の大きい人物なのであろう。

その人気の無さにもかかわらず宰相の地位にあるあたり、有能であるということはもとより疑う余地もない。

飾り物の姫君よりはずっと、キュルケの関心を惹き付ける人物だと言えた。

 

とはいえ……。

 

「……もう少し色気のある御仁なら、ねえ?」

 

残念ながら、枢機卿は中身はともかく見た目は萎びていて、華も何もない。

 

ゆえに、彼にしても惚れっぽいキュルケが本気で執心するような手合いではないのだった。

もちろん彼女には、見てくれだけではなく人の中身を愛する面もある。

だから、深く知り合えばまた話は違ってくるかもしれないが……、そんな機会などあるはずもない。

 

そんなわけで、キュルケは結局、枢機卿からも視線を外した。

退屈な思いで、傍らの友人たちの方に目を向ける。

 

歓迎式典など無視して静かに読書をしているタバサは、まあいつも通りとして。

まるきり興味の無い彼女らとは対照的に、ディーキンは目を輝かせて見入っていた。

 

「オォー。きらきらしてて、いかにもお姫様って感じだね!」

 

なんというか、いかにもドラゴンに誘拐されたり、それで勇者に助け出されてお城に帰る途中で宿に泊まったり……。

あるいは女騎士と一緒に悪党に捕まったりとかしそうな人だなあ、とディーキンは考えていた。

 

さっきはせっかくの授業が中断されてしまってちょっと不機嫌だったが、こうして実際に英雄物語にでも出てきそうな感じのお姫様を見ると、なんだかわくわくする。

容姿や物腰だけ見ても、確かに可憐で優雅で、貴族・平民の別を問わず人気があるというのも頷ける話だった。

 

なお、ディーキンは《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ)》を使っていつものメイジの少年の姿に化けている。

その姿で、他国の留学生であるキュルケやタバサとともに、他の生徒らの少し後ろのあたりから式典に参列していた。

さすがに、王女の出迎えに得体の知れない亜人がいたのでは問題にされるかもしれないからだ。

知らない者が見れば、生徒の弟が何か用事があって学院に来て、たまたま王女の行幸があったので見物させてもらっているのだとでも考えるだろう。

 

「英雄があんなお姫様を助けたりしたら、きっとカッコいいだろうね。

 ねえ、タバサもそう思わない?」

 

ディーキンは、自分と同じく英雄譚が好きそうなタバサに話を振ってみた。

せっかくの華やかな式典だというのに、彼女は先ほどから興味なさそうに本を広げたままなのだ。

 

しかしタバサは、ちらりとアンリエッタ王女の姿を見たきりで、本を広げたままそっぽを向いてしまった。

 

「知らない」

 

(あらあら?)

 

キュルケは先程までの退屈な気持ちから一転して、興味深そうに親友たちの様子を観察し始めた。

 

一見、いつもどおりの無愛想さだが、心なしか態度がとげとげしいのだ。

なんだかまるで、拗ねてでもいるように……。

ディーキンは彼女の傍で、困ったように目をしばたたかせている。

 

キュルケはにやにやしながらディーキンの傍で腰をかがめて、彼にそっと耳打ちした。

 

「あらあら、だめよディー君? 女の前で別の女を褒めるときは、もっと気をつけないと……」

 

それから、体を起こしてタバサの頭をぽんぽんと撫でてやる。

 

「そうねえ、いかにも王女様って感じの方みたいね。

 だけどそれは、王女様らしいってだけで……、魅力的ってことならタバサのほうが断然上よ。

 ね、ディー君?」

 

あ、もちろん私もだけど。と、最後に付け加える。

 

話を振られたディーキンは一瞬、きょとんとして首を傾げたが……。

少し考えると、にっこりして頷いた。

 

「うん、そうだね。ディーキンはそう思うよ」

 

「……お世辞は、いい」

 

タバサは本から顔を上げようともせず、つまらなさそうにそう呟いた。

 

自分の目から見ても、アンリエッタ王女は瑞々しく華やかで、文句なく美しかった。

そして、王族として周囲の者に対して魅力的に、社交的に振舞っている。

同じ王女でも、自分の従姉妹のイザベラなどとは雲泥の差だろう。少なくとも、外面の良さでは。

 

対して自分は、着ているものも地味だし、化粧もしないし、めがねをかけているし……。

無愛想で、無口で、愛想のひとつも振りまけない。

体つきにしても数年前からまるで成長する兆しもなく、子供のように貧相なままだ。

 

誰が見たって、向こうのほうが魅力的に決まっているのだ。

あからさまなお世辞など嬉しくもない。

 

ディーキンは、それを聞いてまた首を傾げる。

 

「ンー……? ディーキンは、お世辞なんか言ってないよ?」

 

「嘘」

 

「ディーキンは嘘なんかつかないの。

 だって、ディーキンはまだあの人のことをちょっと見ただけで、きれいでお姫様らしいっていう以外はぜんぜん知らないからね。

 でも、タバサや、キュルケのことはよく知ってるの。とっても素敵な人だって」

 

「……」

 

タバサは返事も返さずに本を広げたままだったが、目だけはディーキンの方をちらちらと窺っている。

そんな、もっと詳しく聞かせて、と言わんばかりの様子を見て、キュルケの笑みが深くなる。

 

ディーキンがタバサの態度をどう解釈したものかはわからないが、彼はそれには言及せずに、そのまま話を続けた。

 

「たとえば、タバサはすごくおかあさん思いな人だし。文句も言わずに一人でがんばれる人だし。

 とっても強いし。きれいでクールで、かっこいい感じだし。

 勉強家で、物知りで、友達思いで、自分の苦労とか危険とかをいやがらない人で……」

 

「……。そんなこと、ないから……」

 

「そんな風に自分のことを自慢しないでいられる、飾らないで、黙ってすごいことをやれる人なの。

 塔とか洞窟とかの中で出番が来るまでじっと待ってるだけのお姫様とは違う、本当の『ヒロイン』って感じの人なの。

 ディーキンはタバサの傍にいられて、すごく嬉しいんだよ!」

 

ディーキンは自分のことのように誇らしげに、滔々と友人の美点を数え上げていく。

 

「……し、知らない……」

 

タバサは、仄かに紅潮した頬を誤魔化すように、大きく広げた本の中に顔を伏せて覆い隠してしまった。

 

大層愛らしい少年の姿に化けたディーキンが、きらきらと目を輝かせて真っ直ぐにこちらを見上げながら手放しで賞賛してくれているのだから、そりゃあ照れる。

でも、どうせなら変装などしていない元の姿で自分を見つめながら褒めてほしかったな、とタバサはふと考えた。

 

そんな自分の思考に気がつくとますます頬が赤くなり、彼女は一層強く本に顔を押し付けた。

端から見たら、本の上に突っ伏して居眠りでもしてるのか、それとも爆笑しそうなのを堪えてでもいるのか、といった感じである。

 

ディーキンはといえば、そんなタバサの様子をきょとんとした顔で見て、心配そうに背中をさすりながら具合でも悪いのかと聞いてみたりしている。

そしてキュルケは、そんな2人の様子を少しばかり苦笑しながら見守っていた。

 

(まったく、ディー君は素直で正直なんだから……)

 

こういうときくらい、お世辞でももっと色気のある褒め方をしてくれてもいいだろうに。

いつもは何かと鋭い彼にしては、察しの悪いことだが……。

まあタバサのそれは、人間の女性が爬虫類めいた亜人に対して抱く感情としては極めて異例な部類であるだろうし、悟れなくても仕方がないか。

 

(でもまあ、タバサも喜んでるみたいだし。今のところはこのくらいでもいいのかしらね?)

 

自分なら種族差という大きな障害がある以上、多少強引にでも関係を変えるためにさっさと部屋に連れ込んでもっと積極的にアタックするだろう。

が……、こと男女の間柄に関しては初心であろうタバサにそうしろと嗾けるのは、まだまだ早いのかもしれない。

 

とはいえ、あまりもたもたしていては先を越されてしまうのではないか、という懸念もあった。

 

(見たところ、あのメイドのシエスタもかなりディー君にべったりで怪しい感じだし。

 それにもしかしたら、ルイズも……)

 

学院のメイドであるシエスタは歓迎式典のための準備に駆り出されていて、今この場にはいない。

ルイズはすぐ近くで他の生徒に混じって並んでいるとはいえ、彼女もトリステインの貴族である以上、王女の方に注意を向けているはずで関与はしてこれないだろう。

 

(せっかくの好機なんだから、もうちょっと大胆にいっても罰は当たらないわよ?)

 

せめて褒めてくれたお礼とか言って、キスのひとつくらいもしてみなさいよ。女は度胸よタバサ。

と、キュルケは胸中で親友をせっついていた。

 

いっそ押し倒せといいたいところだが、まあさすがにタバサにはこんな場所でそんなことができるはずもないだろうし。

自分ならやるけど。

だって、お互いに声を押し殺して気付かれないようにとか、興奮するじゃない?

 

などとやきもきしながらも若干変態的なことを妄想していたキュルケは、ふとルイズが今、何をしているのかが気になった。

 

最近あまり癇癪を起さなくなってはきたが、それでも自分のパートナーがこうしてタバサといちゃついているのに気が付いていれば、式典の終わった後で文句のひとつも言ってくるかもしれない。

その時はまた、上手く宥めてくれるようにディーキンに頼んでおかなくては……。

 

キュルケがそんなことを考えながら、ルイズの方に目を向けると。

 

(……あら?)

 

真面目なルイズのことだから、大方しゃんと立って王女の一行を見つめているか……。

ディーキンとタバサの様子に気が付いていれば、そちらの方を不機嫌そうにちらちらと窺いながらもやはり黙って立っているか、といったところだろうと思っていたのだが。

 

どうも、様子がおかしい。

 

ルイズは何故か顔を赤らめて、ぼんやりと王女らの方を見つめていた。

彼女にしては、ずいぶんと珍しい表情である。

まるで恋する乙女のようだった。

 

しかし、ルイズには同性愛の傾向は無かったはずだし、いくらきれいだろうと王女を眺めてうっとりしているなどということはあるまい。

すると一体、誰を見ているのだろう?

王女の他にいるのは、あの萎びた枢機卿と、それから王女を護衛する魔法衛視隊の面々だが……。

 

キュルケは、ルイズの視線の向いている先を確かめてみた。

そしてその正体に気付くと、自分も頬を赤らめる。

 

(あら……、いい男じゃないの!)

 

そこにあったのは、見事な羽帽子をかぶった、凛々しい貴族の姿であった。

 

彼は鷲の頭と獅子の胴体を持った優美で屈強な幻獣、グリフォンに跨っている。

まだ若々しいが、立ち位置などから察するに、どうやら王女を護衛している部隊の隊長であるらしい。

若くしてそのような重責を任せられているからには、相当の実力者なのであろう。

 

つまりは外見も実力も、まず申し分のない男だということだ。

王女と枢機卿にばかり注意がいっていて、こんないい男の存在を見逃していたとは迂闊だった。

 

最近はあまりいい相手がいなくて、しばらく男を部屋に呼んでいないし。

これは親友の恋の行方ばかり応援している場合じゃなくなったかもしれないわね、とキュルケは内心でほくそ笑む。

 

彼女は、その男がルイズやディーキンが先日作り出した幻覚の中に出てきた青年の成長した姿だとは気が付かなかった。

まあ、口髭などを蓄えたために当時とは大分見た目が変わっているので、無理もあるまい。

 

そんなこんなで、一部の者たちの胸中に若干の想いを残しはしたものの、歓迎式典はとりたてて大事もなく終了したのだった。

 

 

場所は変わって、ここはトリステイン魔法学院の学院長室。

 

学院長オールド・オスマンは、式典の終わった後、アンリエッタ王女とマザリーニ枢機卿を部屋に迎えて接待していた。

先日辞めることになったミス・ロングビルに代わる秘書がまだ見つかっていないので、学院長が手ずからお茶を淹れて、茶菓子と共に2人に差し出す。

 

「急なことで大したもてなしもできませんが、どうかゆっくりと寛いで、ゲルマニア訪問の疲れを癒していってくだされ」

 

「いやいや、結構なおもてなしで……」

 

「ありがとうございます、オールド・オスマン」

 

2人は各々礼を言って茶を口に運び、一息つく。

それから互いに顔を見合わせて頷き合うと、枢機卿の方から、さっそく今回の訪問の本題を切り出した。

 

「……ところで、学院長殿。こちらの方には、最近天使が降臨したという噂が流れておるようですが……」

 

マザリーニは、いかにも気のない様子だった。

 

天使だなどと、どうせ期待するだけ無駄というものだろう。

ならばさっさと終わらせて、城に戻ったほうがよい。

自分には片付けなければならない職務が、他にいくらでもあるのだから。

 

それを聞いたオスマンはしかし、ぴくりと片眉を動かした。

 

(さてさて、どう説明したものかのう……。それとも、誤魔化すか……?)

 

いずれにせよ、これは面倒なことになったかもしれぬ。

齢三百歳とも言われる偉大なメイジは、ゆっくりと髭をさすりながら、返答について考えをめぐらせた……。

 



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第八十五話 Welcome party

「天使……とな。はてさて、確かに当学院では最近、そのような噂が流れておるようですのう……」

 

学院長オールド・オスマンは、長い白髭をさすりながらゆっくりと頷いた。

 

「……しかし、よもや日々の政務に忙しいお二方が、そのような噂話を聞いたと言うだけで当学院にわざわざ足を運ばれたという訳でもありますまいな?」

 

アンリエッタ王女とマザリーニ枢機卿との顔を交互に見つめながら、さりげなく質問をして探りを入れてみる。

 

仮に2人が本当にゲルマニア帰りに学院へ何気なく巡幸に立ち寄っただけで、この質問が純粋に興味本位のものであるならば、適当にごまかしてもなんとかなるだろうと思えた。

しかし、もしもこちらの方が本来の目的で、巡幸がついでだったとするならば……。

 

はたして、アンリエッタ王女は首を横に振った。

 

「いいえ、オールド・オスマン。この際、何もかも正直に申し上げますわ。

 私は、その天使にお会いしたいのです」

 

マザリーニもそっけなく頷いて、彼女の言葉を肯定する。

 

「さよう……、まことにお恥ずかしい話だが。

 トリステインが現在アルビオンのけしからぬ革命家気取りどもによって苦しい立場に置かれていることは、あなたもご存じだろう。

 それゆえに我々は今、真剣に始祖の助けを必要としているのだよ」

 

枢機卿はそう言ってから一息おいて、最後に付け加えた。

 

「とはいえ……、もちろん天恵がないのであれば、諦めて人事を尽くすより他にないでしょうがな」

 

「ははあ、なるほど……」

 

オスマンはそういって頷きを返しながら、胸の内で思案を巡らせていた。

 

確かに天使は神の御遣いとして始祖ブリミルがハルケギニアの地へ降臨するのを見守り、支えた存在とされている。

そうであるならば、今まさに窮地に陥っている始祖の末裔たちを救いにきてくれるのではないかと、希望をかけているというわけか。

 

(さて……、どうしたものかの?)

 

オスマンは、どのように返答したものかと悩んだ。

 

確かに、ここにはラヴォエラという名で呼ばれる天使が滞在している。

あいにくと彼女は始祖ブリミルとは縁もゆかりもなさそうだが、しかし人助けを頼めば、快く力を貸してくれそうな人物ではある。

 

しかし……、はたしてそれを、正直に伝えてよいものかどうか。

 

(姫殿下が天使に求めそうなのは……。

 アルビオンに向かって始祖の加護は未だ王室の側にありと示し、革命軍を叩き潰してアルビオン王家を救って欲しい、とでもいったところか?)

 

確かに天使は伝説上の存在なわけだから、それだけの力を持っている可能性も絶対にないとは言い切れまい。

 

だが、ごく当たり前に考えれば、それはいささか望み過ぎというものであろう。

仮に天使とやらに最強の妖魔と呼ばれるエルフの数倍の力があるものとしても、単身で数万の軍勢を打ち破って戦に勝つことなどおよそできようはずもない。

 

とはいえ、世間知らずな姫殿下はいざ知らず、枢機卿ともあろう者ならば無論そのくらいのことは分かっていよう。

そうなると、より現実的な線としては……。

 

(敵軍の前で天使の存在を示してその大義を揺るがせ、アルビオン王家の亡命を助けて欲しい、といったあたりが妥当か?)

 

単身で軍の打倒はできずとも、確かに天使だと思える存在が王家を助けたとなれば、始祖の加護は自分たちの側にあると主張しているレコン・キスタ革命軍の大義は根底から揺らぐことになる。

 

しかもそうなれば、滅びかかっているアルビオン王家の亡命者を受け入れて助けてやるだけの価値もでてこようというものだ。

現状では内憂も払えぬような衰えた王家の生き残りなどは受け容れたところで厄介事の種にしかなるまいが、そのような状況になれば話は俄然変わってくるだろう。

 

(……ふむ。始祖の導きによって難を逃れたアルビオンの王家とトリステインの王家とが、手を取り合って反乱者どもに挑む、か……)

 

なかなか悪くない筋書だ。

 

もしそうなれば、敵軍の士気は目に見えて衰え、自軍のそれは大いに高まるはず。

姫殿下にしても、縁戚関係にあるアルビオン王家をなんとかして救ってやりたいと考えていることだろうし……。

 

(といってもまあ、鳥の骨の方はそもそも、最初からあまり本気で期待してはおらんようだがの)

 

確かに、天使だのなんだのと突拍子もない、都合のいい噂話を、一国の国政を担う枢機卿ともあろうものがそうそう信じられるものではあるまい。

それがごく当たり前の、現実的な判断というものであろう。

 

もっとも今回ばかりは、その都合のいい夢想の方が正しかったというわけだが……。

 

「……こちらの事情はそういったわけで、わかっていただけたかと思うが。

 それで、実際のところはどうなのですかな?」

 

考え込んでなかなか答えを返してこないオスマンに、枢機卿が訝しげな様子で声をかけた。

 

「ん? ああ……、失礼。

 よい陽気なのでな、ついうとうととしておりましたわい。ほっほ……」

 

とぼけて暢気そうにそう返しながらも、オスマンは忙しく頭を働かせていた。

あまり長く引き延ばして、変に勘繰られるのも拙い。

 

勿論オスマンとて、革命軍によってアルビオンが滅ぼされ、トリステインが追い詰められることなどを望んではいない。

もしもあの天使が本当に彼らの期待通りの活躍をしてくれるのならば、それはそれで結構なことである。

 

しかし、とはいえ……。

2人らをあの純粋で隠しごとをしようとしない天使などに会わせようものなら、彼女の口から何が漏れるか知れたものではない。

 

ことによっては、この学院には天使ばかりかそれを召喚した未知の亜人がいることや、その亜人の召喚者が名門ヴァリエール家の末娘であること……。

それにその末娘であるルイズの系統が『虚無』であることまでも、王宮の内部に知れわたってしまうかもしれない。

 

そのようなことになれば、「我が国には始祖の御使いたる天使と、始祖の再来たる『虚無』の担い手がいる!」などと調子に乗った王室の取り巻きのボンクラどもが、有頂天になって何をしでかすことか。

下手をすれば、かえってこの国が戦争に巻き込まれるきっかけを作ってしまうようなことになるかもしれない。

 

そうなると兵力不足のトリステインのこと、メイジの数を増やすために学徒動員の声がかかって、若い生徒らの多くが戦場で若い命を散らす、などということにも……。

 

(……そのような事態は、なんとしても避けなくてはならん)

 

そういうことになると王室は決まって、非常事態だからとか、大義がどうのとか、責任がどうのとか、今は戦う以外に道はないのだとか……。

あれやこれやとご立派な理屈を並べ立てて、批判や反論を許さないのである。

もうずいぶんと長いこと人生を歩んできたオールド・オスマンには、何度か覚えがあった。

 

だが、そんなものはくそくらえである。

 

オスマンにとっては、貴族としての戦場での名誉だのなんだのといったことや王室のありがたい理屈よりも、生徒たちの方がずっと大事だった。

この学院のかわいい教え子たちに、どうして人を殺して自分も死んで来いなどといえようか。

 

それに、迂闊なことをしてルイズが戦場に駆り出されるような事態にでもなれば、エレオノールをはじめヴァリエール家の者たちから恨みを買うことにもなりかねないのだし。

 

(うーむ……)

 

となるとここはひとつ、天使など知らぬ存ぜぬ、単なる噂話だろうと、とぼけ通して帰ってもらうべきだろうか?

 

しかしオスマンはすぐに、それはあまり良い考えではないだろうと思い直した。

確かにそれで、この場はしのげるかもしれない。

だが、既に天使の噂話がかなり広まってしまっている以上は、いつまでも隠しおおせるとは思えない。

 

いざ露見すれば、「アルビオンとトリステインの危機だというのになぜ姫殿下に嘘をつき、事実を隠していたのか」と、問い詰められることは避けられまい。

そうなれば、最悪自分は反逆者扱いされてしまうかもしれないし、長期的に見れば事態がますます悪い方向にも進みかねない。

 

となると、結局教えるしかなさそうだが……、さて。

 

オスマンは、とりあえずラヴォエラにいきなり会わせるのは避けたほうがよいだろうと考えた。

彼女の方はこのハルケギニアの事情に疎いし、王女らの方では天使という存在に対する幻想が先立っている。

下手をすれば話がとんでもない方向に広がっていきかねず、危険だと思えた。

それにオスマン自身、彼女がどういった存在なのか本当によく知っているわけではないのだ。

 

元を辿っていくならば、ラヴォエラはディーキンが召喚した存在であり、そのディーキンはルイズが召喚したものである。

となると、まずは大本である彼女に話を持っていくというのも、またひとつの筋の通ったやり方として考えられるが……。

 

それもまた、大いに危険なことだと思われた。

 

ルイズはトリステインの貴族であり、王室には忠義を尽くさねばならない立場にあるのだ。

それに、長年魔法が使えずに悩んでいたところへ、先日『虚無』という伝説の系統に目覚めたばかりときている。

迂闊にそのことを漏らすなと先日彼女の姉からも釘を刺されたばかりではあるが、とはいえ彼女はまだ若いし、貴族としての自負心も強い。

王女と枢機卿が自ら足を運んで助けを求めにきたとなれば、舞い上がって自分の力のことを明かし、それを王室のために捧げようなどと言ってしまうことも十分考えられる。

とにかく、現状では王宮の連中に天使だの『虚無』だのといったことをあまり不用意に漏らして、下手に刺激したくはなかった。

 

そうなると、そのあたりの事情を理解してくれて、うまく話をまとめてくれそうなのは……。

 

(やはり、彼しかおらんかの……)

 

オスマンはそこまで考えて、不意におかしな気分になった。

 

よりにもよって、得体の知れない亜人の使い魔などを王女に会わせるとは!

よく知らないものが聞けば、いくらなんでもおふざけが過ぎる、貴人に対する侮辱だと責められてもおかしくない。

 

(……ほっほ。いやはや、我ながらありえん選択をしておるものよのう……)

 

いまさらながら、客観的に見た自分の選択の珍妙さに気がついて苦笑する。

 

確かに、彼は容姿といい立場といい、普通に考えれば王女や枢機卿などといった面々に会わせるのにはまったくふさわしくないといえるだろう。

ところが、3人の中で一番安心して任せられる、こちらの考えを理解してうまく話を運んでくれそうだと思えるのは断然彼だというのだから、なんとも奇妙なことだった。

 

「……オールド・オスマン? どうしたのですか?」

 

アンリエッタ王女が、一向に話の続きをせずに妙な表情を浮かべているオスマンに、怪訝そうに声をかけた。

 

「ん……。おお、これは失礼しましたわい。

 いやはや、年をとると、考えをまとめて口に出すのにまで時間がかかるようになりましてな――――」

 

オスマンはそれから2人に、天使にすぐ会えるかどうかはわからないが、まずは自分が話を伺ってきましょう、と伝えた。

それを聞いたマザリーニは、いささか驚いた顔をしていたが……。

 

オスマンはそうして2人を待たせて退出すると、その足でディーキンがいそうな場所を探し始めた。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

その夜、アンリエッタ王女とマザリーニ枢機卿は、オスマンに連れられて学院の一角にある部屋に向かった。

ディーキンがいろいろな作業をするために、学院側から借りている部屋だ。

 

夜まで待ったのは、内密な話になるだろうからなるべく人目に付きにくいようにしたい、ということで双方の意見が一致したからである。

 

「オールド・オスマン。本当に、こちらの方に、その……、天使を呼び出したという方が?」

 

王女は、自分を案内してくれたオールド・オスマンの方を振り返って確認した。

その表情や声には、幾分当惑したような様子が感じられる。

 

「そのはずですな、彼はこちらで待つと言っておったので」

 

オスマンは、そういって頷いた。

 

そこは学院内でもごくみすぼらしい、使用人用の区画にある部屋だった。

 

作業の内容によっては部屋が汚れたり傷ついたりするかもしれないので豪奢な内装などは無用で、ある程度の広ささえあればそれでいい……とディーキンが注文したので、この部屋になったのである。

そのような事情を知らない王女からすれば、天使を呼び出すような『偉大な存在』には到底似つかわしくないと思うのも無理はあるまい。

 

オスマンは昼間の内にディーキンに話を通して、天使を召喚したのが自分であることは明かしてくれて構わない、という返事を既に受けていた。

あとは、向こうからの質問や要望にはこちらの方で考えて、その都度臨機応変に、いいと思うように対応してみるから……というのだ。

それ以上の細かな打ち合わせや取り決めなどは何もしていなかったが、オスマンは彼を信頼して任せようと決めていた。

 

「ふむ、謙虚な方なのでしょうな?」

 

マザリーニはそうひとりごちた。

聖人はあえて、貧しき者たちと共に荒ら屋に住まうという。

 

「何はともあれ、話してみぬことには……」

 

進み出て扉をノックすると、すぐに中から返事が返ってくる。

 

「アア、いらっしゃい。今開けるから、ちょっと待っててね……」

 

ややあって扉が開き、ディーキンが姿を現した。

客人たちにぺこりと御辞儀をする。

 

「お待たせして申し訳ないの、ディーキンはお客さんが来てくれてうれしいよ」

 

しかし、オスマン以外の客人は、彼の姿を見てたじろいだ。

 

「えっ……?」

 

「む……」

 

なにせ、人懐っこい奇妙な話し方をする上に、幼児のごとく小さいトカゲめいた姿の亜人である。

 

あまりにも意外で頼りになりそうもない相手が出て来たことに、アンリエッタはぎょっとした顔になった。

マザリーニもまた、眉を顰めてディーキンの姿を見つめている。

そんな2人の様子を後ろから眺めながら、オスマンは内心少し面白がっていた。

 

ディーキンは客人たちの困惑した様子を見て、ちょっと首を傾げる。

 

「ンー……、どうしたの? 入らないの?

 アア、もしかして、ディーキンの態度がお気に召さなかったとか?」

 

もちろん、自分の外見に困惑したという部分も大きいのであろうことくらいは承知している。

あらかじめ呪文で変装なり変身なりをしておくことも考えたが、それはやめにした。

そう言うごまかしは、後で露見した時にかえって印象を悪くしたり疑いを持たれたりする原因になりかねない。

 

要は、見た目が天使みたいな愛らしい少年でなくても、ちっちゃなトカゲの亜人だって捨てたもんじゃないということをわかってもらえばいいのだ。

 

ディーキンはコホンと咳払いをすると、その場に跪いて深々と頭を下げた。

そうして顔を伏せたまま、唐突に恭しい態度と口調になって、畏まった歓待の口上を述べていく。

 

「これは、大変失礼をいたしました。ようこそ、姫殿下、枢機卿猊下。

 今宵、高貴なる御二方にこうしてお運びいただきましたこと、ディーキン・スケイルシンガーはまことに光栄にございます――――」

 

ディーキンのそんな振る舞いを見て、オスマンは思わず吹き出しそうになった。

 

相手が一国の王女ともなれば、普通の者ならば緊張して、とにかく歓心を買いたい、不興を買いたくないと、何度も受け答えのシミュレーションや挨拶の練習をして備えておくところだろう。

あるいは権威に反発して、必要以上にぶっきらぼうで不敬な態度を取るような若者も、中にはいるかもしれない。

 

しかし彼ときたら、まるで気負いもなく普段通りといった感じではないか!

まあ、彼は人間ではないのだから、相手が王女だろうが侍女だろうが大して気負いも思うところもないのは当然なのかもしれないが……。

 

案の定、王女はどう反応してよいものかわからずにきょとんとしている。

 

「え? そ、その……」

 

枢機卿もしばし目を丸くしていたが、じきに立ち直るとディーキンの前に進み出て御辞儀を返した。

 

「おほん……。丁重なご挨拶、痛み入る。

 だが、本来頭を下げて頼みごとをせねばならんのはこちらの方なのです」

 

「はい、枢機卿猊下。願わくば、どうか、お訊ねすることをお許しくださいますよう――――」

 

ディーキンはまだ恭しい態度を維持したまま、顔を上げることなく、むしろますます深く頭を下げて尋ねた。

 

「姫殿下、並びに枢機卿猊下。

 今宵、わたくしはなにゆえに、かくも高貴なる方々の御来訪を賜るような光栄にあずかれたのでございましょうか?」

 

当然ながらディーキンは、こんな口調にはまったく慣れていないのだが……。

すらすらとよどみなく話している。

 

昔竜の主人に仕えていて、目上の者に対して這いつくばるのには慣れているから……というのもあるが、ディーキンはなにせ優秀なバードである。

要するに、お芝居の演技のつもりでやればいいだけなのだった。

 

ちなみに作法に関しては、主にアンダーダーク滞在中にナシーラから教わったドロウ社会のそれを参考にしている。

かの社会では、身分に劣る者は勝る者の前では決して許しなく顔を上げてはならないのだという。

ドロウの社会は野蛮で無慈悲な社会だが、外見的にはエルフの一族らしく洗練されているので、通じる部分も多いだろうと思ったのだ。

 

素直にここトリステインの宮廷作法に従うのが一番良いのかもしれないが、さすがにこちらに来て間もないので、しっかりとは把握していなかった。

まあ、なにせ自分は『異郷から来た亜人』なのだから、多少奇妙な部分があっても大目に見てもらえることだろう。

 

「あ……、ええ」

 

アンリエッタは我に返ると、こほん、と小さく咳ばらいをした。

それから、ドレスの裾を少し持ち上げて、ディーキンに向かって丁寧に頭を下げる。

 

「その……、大変失礼いたしました。

 紳士でいらっしゃるのですね、亜人のお方」

 

トリステインの宮廷における作法とはいろいろと異なってはいたが、明らかに礼儀正しくしようとしているのはわかる。

 

見たこともない異様な外見に思わず怯んでしまったが、マザリーニも言ったように、頼みごとがあるのはこちらの方ではないか。

まあ、この小さな亜人に、それを叶えるだけの力が本当にあるのかどうかは疑わしく思えるが……。

だからといって、相手が失礼のないようにしているというのにこちらが非礼を働くなどという法はあるまい。

 

「どうぞ、そんなに畏まらずに。お顔を上げてくださいな、ジェントルマン」

 

そう言ってディーキンの傍に跪くと、彼に向けてすっと左手を差し出した。

 

ディーキンはそれを聞いて顔を上げると、にっとした無邪気そうな笑みを浮かべてアンリエッタの顔を正面から見つめた。

それから、彼女の手を取ってぶんぶんと元気に握手する。

 

「あっ……?」

 

アンリエッタは、予想外な行動をされてまた少し驚いていた。

 

貴族なら、こういう時は恭しく手を取って手の甲に軽く接吻してから、そろそろと顔を上げて立ち上がるものだ。

しかし、ディーキンはハルケギニア人でもなければ人間でもないのだから、そんな作法は知らない。

 

というよりも、彼は今しがた『畏まらずに』といわれたのを言葉通りに受け取って、普段の態度に戻してよいものと解釈していた。

堅苦しいお芝居を続けるのも別に苦ではないし、それで相手に対して礼儀正しく振る舞うことになるのならそうする。

とはいえ、人と付き合う時にはなるべく自然体で振る舞いたいと思っているので、アンリエッタが畏まらなくていいと言ってくれたのはありがたかった。

 

「ありがとう、枢機卿のおじさんもお姫さまもいい人なの。

 それじゃ、どうぞ部屋に入って。

 お食事も用意してあるから、よかったら食べながらお話を聞かせてくれる?」

 

ディーキンはまだ少し困惑気味な2人の背を押すようにして、室内へ案内した。

微笑ましげに目を細めたオスマンが、その後に続く。

 

「……まあ!」

 

「ほう……」

 

「なんと」

 

勧められるままに室内へ入って、そこに広がる光景を見た3人から、またしても感嘆の溜息が漏れた。

 

部屋の作り自体は、ただ広いというだけでごく簡素なものでしかなかった。

しかし、そこにはどんな貴族の邸宅にも存在し得ない天上の歓待が用意されていたのだ。

 

軽く20人近くは座れそうなほど大きなテーブルと、そのまわりにずらりと並べられた椅子。

いずれも見事な彫刻や彫金、素晴らしい宝石、豪奢な絹などで美しく飾り立てられており、比べれば王宮の晩餐会用の品々でさえ見劣りするほどだった。

しかもそのテーブルの上には、これまた王族でさえ見とれてしまうような美酒美食の類が溢れんばかりに用意されている。

その傍らには給仕のお仕着せに身を包んだ女性が一人、行儀よく控えていた。

これがまた、貴族の一員だといっても通りそうなほどに凛々しく美しい、神々しささえ感じさせるような雰囲気を醸し出した少女である。

おまけに周囲の空間には、やわらかな温かみのある輝きを放ついくつかの不思議な光球がゆっくりと漂い、どこからともなく澄んだ音楽的な音色が流れている。

 

もちろんこれらはすべて、ディーキンが《英雄達の饗宴(ヒーローズ・フィースト)》の呪文や、幻術系統の呪文などを用いて用意したものである。

贅を尽くした御馳走と室内の神秘的な雰囲気とが相俟って、王女らにはまるで自分たちが天上界の神格・英霊たちが楽しむ饗宴の席にでも来たかのように感じられた。

さらに食事中には、部屋の主であるディーキン自身が楽器を手に取って美しい音楽を奏で、それに合わせて素晴らしい英雄の物語を歌った。

 

アンリエッタははじめ、ディーキンの姿に戸惑い、いささか失望を感じていた。

そんな彼女も、この幻想的な室内で寛ぎ、この世のものとも思えぬ最高の美食に舌鼓をうち、ネクタル(神酒)のような美酒を味わううちに、すっかり考えを変えていた。

現実主義者で、この度の訪問には初めから消極的だったマザリーニでさえも信じる気になった。

 

目の前のこの亜人には、確かに天上界の諸力と通じられるような何かがあるに違いない、と――――。

 



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第八十六話 Where you are ?

「……もう! 隊長どのは、こんな夜中にどこへ出かけたっていうのよ?」

 

 キュルケは魔法学院の廊下を歩きながら、ぶつぶつと不機嫌そうにぼやいていた。

 

 日中の歓迎式典で久し振りに口説き甲斐のありそうなよい男を見かけたキュルケは、王女の一行が今夜は学院に滞在すると知ってさっそくアプローチをかけに行ったのだ。

 まずはシエスタに会って王女の一行が学院のどのあたりに滞在しているかを尋ね、次にその場所で適当に目についた王女の従者を捕まえて、昼間自分が見染めた男についてさらに詳しいことを聞き出す。

 その結果、件の男が魔法衛士隊の中でも特に枢機卿の覚えめでたいグリフォン隊の隊長でワルドという名の子爵であることと、彼の滞在している部屋がどこであるかということが分かったので、張り切って訪問していった。

 が……、こんな夜中だというのにその隊長どのはあてがわれた部屋にはおらず、近くの部屋の者に聞いてみてもどこに行ったかは知らないといわれた、というわけである。

 

「まさか、誰かに先を越されたってことはないでしょうね……」

 

 キュルケは眉根を寄せて、悔しげに爪を噛んだ。

 

 この国の貴族たちはおおむね情熱よりも体裁を優先するお上品な者たちばかりだが、何せ相手は王室付きの魔法衛士隊の隊長。

 あのルイズまでも頬を染めて見入っていたようだったし、この機会にアプローチしようと考えていたのは自分だけではなかったということは十分にありうる。

 

 もしくはその逆で、あの隊長どのの方から誰か適当な女を見繕ってその部屋に転がり込んだのか。

 あれだけの美丈夫で才能も地位もある男らしいのだから、旅先で見目の良い使用人なり下級貴族なりの女と後腐れなく一夜を共にするくらいは慣れたものかもしれない。

 

「……ふん、面白いじゃないの」

 

 キュルケは気を取り直すと、不敵に微笑んで胸を張った。

 

 このキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーが、先を越されたくらいのことで諦めるものか。

 どっちから声をかけたのだか知らないが、そんな女よりも自分の方がいいと思い知らせてやる。

 

「さあて……、そうなるとまずは、どうやってあの隊長どのの居場所を探すかよね?」

 

 片っ端から生徒や教師や使用人の部屋を調べて回るというのもひとつの方法だろうが、時間がかかる。

 キュルケとしては手っ取り早く行き先を突き止めて、さっさとそこへ乗り込んでいきたかった。

 しかし、そんなうまい方法は……。

 

 キュルケはそこまで考えて、ふと閃いた。

 

「そうだわ! ディー君なら……」

 

 彼なら、きっと何とかしてくれるのではないか。

 別に確証はなかったが、最近キュルケは大抵のことなら彼に頼めばなんとかなりそうだと思えてきていた。

 仮に無理でも、自分の情熱のほどを訴えて頼めばあの人のいい子のことだ、たぶんなにがしかの方法で手伝ってはくれることだろう。

 

「ええと、この時間にディー君がいそうなのは……?」

 

 シエスタの部屋には、さっき行った時はいなかった。

 そうなると、彼のパートナーであるルイズの部屋か、懇意にしているタバサの部屋、というのが一番ありそうか。

 

 この時間帯には王都の『魅惑の妖精』亭へ出かけていることもあるが、彼はあそこに行くときには大抵自分たちにも声をかける。

 特に、母親があそこで世話になっているタバサにはまず必ず同行しないかを訪ねるはずだ。

 

「……となると。最初にまずタバサの部屋をチェックして、それからルイズの部屋ね!」

 

 そうと決まれば善は急げだ。

 キュルケは勇んで、タバサの部屋へ向かって駆け出していった……。

 

 

「ディー君、ルイズー」

 

 キュルケがコンコンとルイズの部屋の戸をノックした。

 

 彼女の後ろには、タバサもいる。

 せっかく行くんだからあんたも来なさいよと、キュルケが先に部屋を訪れた折に誘い出したのである。

 タバサは別段抵抗するでもなく、素直についてきていた。

 

 しばらく待ったが、返事はない。キュルケは顔をしかめた。

 

「留守かしら?」

 

 しかし、彼女がノブに手をかけて回すと扉はあっさりと開いた。

 部屋の中を覗き込むと、確かにディーキンはいないようだったが、ルイズはベッドに腰掛けて枕を抱いている。

 

「なによ、いるんなら返事くらいしなさいな」

 

 キュルケはずかずかと部屋の中に上がり込んで、ルイズに文句を言った。

 

 が……、どうも様子がおかしい。

 ルイズは枕を抱いてぼやーっとしたままで、キュルケが部屋に入って来ても、目の前でひらひらと手を振ってみても、反応がない。

 まるで心ここに在らずといった感じだった。

 

「この子、どうしたのかしら?」

 

 タバサはちょっと首を傾げると、小声でルーンを呟いて軽く杖を振った。

 光の粉が杖から飛び出してルイズの体に降りかかるが、特に反応は見られない。

 

「……魔法の影響はないみたい」

 

「じゃあ、単にぼけっとしてるってことね。……ちょっと、ルイズー!」

 

 キュルケがルイズの肩を掴んで激しく揺さぶる。

 それでもなお反応しない彼女に対して、タバサが『レビテーション』をかけてベッドの上でポンポンと激しく跳ねさせてやると、ようやくルイズは我に返った。

 

「……な、何よあんたたち。人の部屋に、黙って……」

 

 キュルケはそれを聞いて鼻を鳴らすと、腰に手を当ててルイズを見下ろした。

 

「何言ってんの、何度も声をかけたしノックもちゃんとしたわよ。

 あんた、その調子じゃ部屋に鼓笛隊を引き連れた泥棒が入って、目の前で根こそぎ家具を運び出そうが気が付かないわね」

 

「あの人は、どこ?」

 

 タバサは2人が言い合いを始める前に、さっさと用件を切り出した。

 

「……は? あの人、って……」

 

「ディーキン」

 

「え? ディーキンなら、そこに……。あ、あれ?」

 

 ルイズはそう言われて初めて、ディーキンがいつの間にか部屋からいなくなっていることに気が付いた。

 慌ててきょろきょろとそこらを見回し始めるルイズの様子を見て、キュルケが呆れたように肩を竦める。

 

「何をぼんやり考えてたのかは知らないけど、出ていったのにも気が付かないなんて。それでよく彼のパートナーが務まるわね?」

 

「う、うるさいわね! もう、何も言わないで出かけるなんて……」

 

「彼が言ったのをあなたが聞いていなかっただけなのは確定的に明らか」

 

 タバサにまで冷ややかな調子でそう指摘され、ルイズは頬を染めて口篭もってしまった。

 

「……う、うー……」

 

 確かに、幼い頃の憧れの相手に思いがけず再会してぼんやりと物思いに耽ってしまっていたとはいえ、パートナーが出かけたのにも気付かないとはメイジとして不覚と言わざるを得ない。

 タバサも言うとおり、ディーキンはおそらくどこに出かけるとかちゃんと説明してから出ていったに違いない。

 自分はそれに上の空で生返事でも返していたのだろうが……さっぱり覚えていなかった。

 

 良くも悪くもひとつのことに集中し始めると他のことが目に入らなくなるのが、長時間の詠唱のために多大な集中力を要求される『虚無』のメイジとしてのルイズの素質ゆえ、やむを得ない面もあるのだが……。

 

「あ……、ひょっとして、オールド・オスマンから借りたっていう部屋で作業でもしてるんじゃないかしら?」

 

 ルイズはふと、ディーキンがそんなことを話していたのを思い出した。

 タバサの屋敷から回収してきたものやなにかを保管したり、いろいろな品物を作ったり、訓練をしたりするのに自分用の部屋が必要だから貸してもらったのだ、と。

 

 しかし、その部屋は使用人の住む区画にあり、貴族であるルイズらはそのあたりの間取りについて詳しくない。

 闇雲に探し回るよりは、シエスタに聞く方が早いだろう。彼女ならきっと場所を知っているはずだ。

 

 そう結論した3人は、ひとまずシエスタと合流して案内してもらおうと決め、ルイズの部屋を出ていった……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 さて、その頃のディーキンの方はというと。

 演奏や食事が一段落して、アンリエッタらが自分たちの望みについてディーキンに一通りの説明をしているところだった。

 

「ンー……、お姫さまたちの頼みたいことはわかったよ。

 つまり、あんたたちは天使に力を貸してもらって、その……アルビオンっていう国の王様と戦争をしている敵の軍隊をやっつけたい、ってことなんだね?」

 

 客人たちに食後の菓子などを勧めながら、ディーキンはそれまでの話を簡潔にまとめて確認を取る。

 

「ええ、そうなのです」

 

 アンリエッタは、そういって頷いた。

 

「オールド・オスマンから、あなたは天使様と親交のある方だと伺っていますわ。

 私にも、先程からの歓待の素晴らしさを見て、あなたがただの亜人ではないことはよくわかりました」

 

 食卓に並んだ美酒美食は、単に豪勢なだけではなく、口にするたびに不可思議な活力が体にみなぎって来るかのように感じられた。

 それらはまるで戦乙女のような凛々しく美しい給仕と相まって、ヴァルハラで英霊たちが囲むという饗宴を王女らに思い起こさせ、それを用意したディーキンが天上の諸力と通じていると信じさせるに十分なものだった。

 加えてディーキン自身の弾き語りも王宮の宮廷音楽家たちのそれにもまして素晴らしいもので、彼が只者ではないと思わせるのに一役買っていた。

 

「どうか、あなたの方から天使様に、お口添えをいただけますよう……」

 

 アンリエッタはディーキンに向かって丁重に頭を下げた。

 枢機卿のマザリーニもまた、彼女にならう。

 

 ディーキンはしかし、2人のそんな恭しい態度を見て、困ったように目を泳がせた。

 

「……アー、なんていうか、その、そんなに……改まらないで?

 ディーキンは、なんだか恥ずかしいの」

 

 見下されずに敬意を払ってもらえることはもちろん嬉しいのだが、あまり丁重過ぎてもかえって困惑してしまう。

 いくらなんでも、コボルドにそんな扱いが相応しいとは思っていなかった。

 

 それに、はたして本当に彼女らの期待に添えるかどうかも、まだわからないのだ。

 ディーキンは小さく咳払いをすると、慎重に言葉を選びながら話し始めた。

 

「ええと……、ディーキンは、お願いしてみるのは構わないよ。

 だけど天使の人たちは、その……たぶんだけど、そんなことはしてくれないんじゃないかな?」

 

「え?」

 

 それを聞いたアンリエッタは、意外そうに目をしばたたかせた。

 彼女の後ろでは、マザリーニも顔をしかめている。

 

「……それはまた、なぜですかな。

 天使といえどもやはり、1人や2人で戦の趨勢を変えるような力は持っていないということかね?」

 

「アア、いや、そういうことじゃないの」

 

 ディーキンはふるふると首を横に振った。

 

 確かに、ラヴォエラのようなごく一般的なデーヴァ(天人)にはそれほどの力はまずないだろう。

 しかし、天使の中にはプラネター(惑星の使者)やソーラー(太陽の使者)のように、彼女よりも遥かに大きな力を持つ者たちもいる。

 何よりも、この世界の住人は天使をはじめとする来訪者の存在を知らず、したがってその能力も知らないはずだ。

 そのあたりの事情を考えれば、高位のセレスチャルやフィーンドならば、やり方次第では単身で軍隊にだって対抗できるかもしれない。

 

 とはいえ実際のところ、力があるかないかなどということは、天使が手を貸してくれるかどうかという点についてだけ言えば何の問題にもならないだろう。

 善の大義に完全にその身を捧げている彼らが、力不足を言い訳にして助力の嘆願を拒むことなどありえないからだ。

 善なる者を見捨てるという悪を犯すことよりも自分が死ぬことの方を怖れる天使がいるなどというのは、林檎が空に向かって落ちるよりもありそうにない話である。

 たとえ最弱の天使であろうとも、支えるべき大義のためならば躊躇することなくその身を捧げるものだ。

 

 しかるにディーキンが今の場合に問題だと考えているのは、まさにその“大義”という部分なのだった。

 

「つまり……、天使っていうのは、善いことをするのが仕事な人たちなんだよ。

 けど、相手の軍隊を皆殺しにするなんていうのは、あんまり善いことだとは思えないからね。

 だからきっと、そんなことを頼んでもだめだと思うの」

 

 善なる者といえど、必ずしも暴力と無縁ではいられない。

 ディーキン自身、これまでに多くの敵と戦い、それを打ち倒して……つまりは、殺してきた。

 それは確かだ。

 

 しかし、フェイルーンでは善の名において揮われる暴力は、少なくとも“大義”を持たなくてはならない。

 

 大義とはすなわち、その力は原則として悪に対して揮われるものであり、またその悪による犠牲を食い止めるために必要なものでなくてはならない、ということである。

 ただの利害のために揮われる暴力や、相手が悪であるという以外に何の理由もない暴力、もしくは復讐のための暴力といったようなものは、決して善の名の元に正当化されることはない。

 

 そのような観点から見た場合、同じ種族同士での殺し合いなど、どう控えめに見ても大義のある正しい行為だとは思えない。

 天使たちに『自分たちの側に味方して敵方の軍隊を皆殺しにしてください』などと頼んでみたところで、憤然と拒否された上に猛烈な説教を食らわされるのがオチだろう。

 純粋な善の使徒である彼らがそんな行為にさしたる理由もなく同意するわけがないし、ディーキンだって嫌である。

 

 とはいえ自分たちも、アンダーダークではドロウ同士の戦争に巻き込まれてその内の一方の側に味方したし、その際には天使であるラヴォエラも個人的にとはいえ加勢してくれた。

 だがそれは、味方した側がただ自由を得てアンダーダークから地上へ逃れることだけを望む善神イーリストレイイーの信徒たちであり、相手はそんな無害な者たちに対して大悪魔メフィストフェレスの力を背景にビホルダーやイリシッド、アンデッドの教団までも味方に付け、一方的な蹂躙を繰り広げようとする暴君の軍勢であったからだ。

 絵に描いたような“善と悪の戦い”は、フェイルーンではさして珍しいものでもないのである。

 

 しかし、善神の啓示も悪神の誘惑も届くことはなく、天使も悪魔も伝説の彼方の存在となっているこのハルケギニアでは、おそらくそうではないのではないか。

 人間という種族は特に善にも悪にも偏っているわけではないし、純粋な善、純粋な悪の存在の影響を受けることのないこの世界では、片方の軍だけがほとんど完全な善や悪だというような事態は考えにくい気がする。

 悪かどうかもわからず、縁もゆかりもない見知らぬ相手を殺しに行くだなんて、少なくともディーキンにとっては狂気の沙汰だとしか言いようがなかった。

 

「……む……」

 

 ディーキンの返事を聞いたマザリーニは、眉根を寄せて黙り込んでしまった。

 しかし、アンリエッタは納得がいかない様子である。

 

「なぜですか! だって、反乱を起こしたのは彼らのほうなのですよ?」

 

 眉をひそめてそう言い放つと、椅子から立ち上がってディーキンの方を真っ直ぐに見据えた。

 

「なにも悪いことをしていないかわいそうな王様に暴力を振るって、始祖から続く王権を力づくで奪い取ろうとしている不埒な者たち!

 それを成敗して戦争を終わらせることが、どうして善いことではないなどというのですか?」

 

「ンー……」

 

 ディーキンは困ったように首を傾げながら、アンリエッタの方を見つめ返して質問に答えた。

 

「……だって、ディーキンは相手の人たちからはまだ話を聞いてないんだもの。

 お姫さまの言い分だけを聞いてそっちが悪いんだって決め付けるなんて、ええと……革命軍? とかいうのの人たちに、失礼じゃない?」

 

「なっ……」

 

 アンリエッタはしばし絶句して、次いでさっと頬を紅潮させた。

 

「あ、あなたは……、わたくしが、でたらめを言っているとでもいうつもりなのですか!」

 

 王族である彼女には、そんな物言いをされた経験などなかった。

 自分は仮にも伝統あるトリステインの王族なのだ、面と向かってそんな侮辱をされては黙っていられない。

 

「アア、いや! そんなつもりじゃないの!」

 

 ディーキンはびくっとして、慌ててぺこぺこと頭を下げると申し訳なさそうな声で弁解し始める。

 昔の経験から、怒られるのはやはり苦手だった。

 

「その、ディーキンは……、お姫さまに申し訳なかったの。

 ディーキンには、あんたに失礼なことをいう気なんて少しもなかったんだよ。

 だけどその、やっぱり、他の人にも失礼をするわけにはいかないし……、これは、大事な話だと思うから……」

 

 なるほど姫殿下の説明を聞いている限りでは、アルビオンの王族に対して最初に攻撃を仕掛けたのは革命軍とかいう連中の方らしい。

 だとすれば確かに、そいつらは何もしていない王族に突如反旗を翻し、いわれのない暴力を揮って、権力を力づくで奪おうとしている悪漢どもの集まりであるかのように思える。

 

 しかし、彼女はアルビオン王家の血縁であるから身内として、もしくは王族同士の付き合いの関係から味方をしたいという心情もおそらくはあるはずだ。

 あるいはアルビオンの王族が悪政を敷いていて、前々から民衆の不満が募っており、反乱が起こったのは必然であったのかもしれない。

 聞くところによれば反乱軍は数万を数える軍勢だというのだから、少なくとも現王家を倒して新しい体制を打ち立てたいという者がそれだけ多かったということは確かなのではないか。

 

 なんにせよ、自分は革命軍が攻撃を仕掛けた理由に正当性があるかないか、それ以前の状況はどうだったのかといったようなことを自信を持って判断できるほどには、ここの人間たちの事情をよく知らないのである。

 だというのに、一方の話だけを鵜呑みにしてそちらの側に加担し、もう一方の側を壊滅させるなどという真似ができるはずもないだろう。

 まあもちろん、仮にそんなことができるほどの力が自分にあったとしても、という話だが。

 

「あ……、その……」

 

 キャンキャンと子犬の鳴くような声で哀れっぽく訴えるディーキンを見て、今度はアンリエッタの方が困惑する。

 

 もし口応えでもしてこようものなら、あるいは型通りの謝罪でも返そうものなら、アンリエッタは憤然毅然、冷然とした態度を取り続けたことだろう。

 だが、宮廷作法に基づいた形ばかりの謝罪などではないごく自然で素直な態度で、しかも子どもっぽく怯えたような様子で謝られてしまうと、どうしていいものかわからなかった。

 こんな小さな子がぺこぺこと謝っているのに冷淡な態度を取るなど後ろめたくてできたものではないし、かといって宮廷作法に則って鷹揚に赦す旨を伝えるというのも、なんだか場違いな気がするし……。

 

「……その、わたくしを疑われたのでないというのなら、それでいいのですよ。

 どうぞ、顔を上げてくださいな?」

 

 アンリエッタは居心地悪そうに視線を泳がせながら、そう伝えた。

 

「……オオ、ディーキンの失礼を許してくれるの?

 ありがとう、ディーキンは感謝するの。お姫さまはすごくいい人だよ!」

 

「い、いえ……そんなことは」

 

 アンリエッタは、ぱっと顔を輝かせて満面の笑みを向けてくるディーキンから視線を逸らした。

 王族としていろいろな相手に応対することにも、民衆にいい顔をしてみせることにも慣れているはずなのだが、どうもこの子と話していると調子が狂う。

 

 そんな彼女に代わって、マザリーニが小さく咳払いをして話を戻した。

 

「……ああ、いいかな。先程、君は姫殿下を疑っているわけではないが、革命軍の連中の言い分も聞かねばならない、といったか。

 そうでなければ、天使も納得してくれるはずがない、と……」

 

「そうなの」

 

「なるほど、もっともな言い分だと思う。しかし、現実的には連中から話を聞くことは難しいだろう。

 それに、聞くところによればレコン・キスタと名乗る革命軍の者どもは、オーク鬼やトロル鬼、オグル鬼といった野蛮な亜人とも結んでおるらしい」

 

 それらはいずれも人間を愉しんで虐殺し、その肉を喰らう残忍で邪な種族である。

 人間という種族全体の敵と言ってもいいような連中で、枢機卿に言わせればそんな者たちと手を組む組織がまともなはずがなかった。

 ハルケギニアの大半の人間も同じ意見だろう。

 

「……そのことは、天使が奴らと戦ってくれる理由にはならないかね?」

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 その頃、ルイズらをディーキンの部屋へ案内していたシエスタは、ふと使用人の区画には場違いな人物を見つけて首を傾げた。

 

「……あら? ミスタ・グラモン、どうしてここに?」

 

「おや、ミス・シエスタじゃないか!」

 

 ギーシュがシエスタに気がついて、丁寧に挨拶した。

 先の決闘以来、ギーシュはシエスタには貴族の令嬢に対するのと同等の敬意を払って接している。

 

「ギーシュ! あんた、何でこんなとこにいるのよ?」

 

「モンモランシーにフラれたもんだから、平民の女の子にでも手を出すつもりなのかしら?」

 

 ルイズとキュルケにそんなことを言われて、ギーシュは少しむっとしたように薔薇の造花を弄くった。

 

「ぼくがそんなことをするものか。……ここに来たのは、アンリエッタ姫殿下の姿を見かけたからさ」

 

「え? 姫さま?」

 

 ギーシュはうっとりしながら頷くと、芝居がかった調子で話を続けた。

 

「ああ、薔薇のように麗しいそのお姿を、ぼくはたまたま外でお見かけしたんだが……。

 学院長や枢機卿と一緒にどこに行かれるのかと思って見ていたらこんなところへ向かわれるものだからね、気になるだろう?」

 

「で、後をつけたってわけね?」

 

「ああ。でも、なんてことだ! 見失ってしまって……。

 それで今は、どこに行かれたのかとこのあたりを見て回っているところってわけさ」

 

「ふーん、姫殿下がこんなところに、ねえ……」

 

「あんたの見間違いじゃないの?」

 

 キュルケは気のない調子で、ルイズは疑わしそうな様子でそういった。

 シエスタは、思いがけない名前にきょとんとしている。

 タバサは何も言わなかったが、アンリエッタの名が出てきた途端に本のページをめくる手が止まった。

 

「とんでもない、ぼくがあの麗しいお姿を見紛うものか!

 ……それよりも、君たちこそなんでこんなところにいるんだね?」

 

 ルイズらはギーシュにディーキンを探しているのだという旨を簡単に伝えると、彼も連れて行くことにした。

 キュルケも人探しを頼む予定だったので、ならばついでに姫殿下のことも彼に捜してもらえばいいだろう、というわけである。

 

 そうして、一行はディーキンとアンリエッタらのいる部屋の方へ向かったのだった……。

 



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第八十七話 Misunderstanding

(ふむ、鳥の骨はそう来たか)

 

 オスマンは、先程から3人のやりとりを食卓の端についたまま黙って見守っていた。

 王女らとの話し合いはディーキンに一任したので、話があまり不穏当な方向に流れていきでもしない限り口を差し挟む気もない。

 そんなわけで、役得として卓上に用意された豪奢な天上の美味を味わいながら、のんびりと傍観しているというわけだ。

 

(さて……、彼はどう答えるかのう?)

 

 オスマンの注目する中、ディーキンは少し考えると、こほんと咳払いをしてから口を開いた。

 

「アー、なるほど……。つまり、枢機卿のおじさんは相手の軍隊がオークみたいなのと手を組んでるから、悪い奴らに間違いないっていうんだね?」

 

 マザリーニが頷くのを見ると、ディーキンは黙ってリュートを手に取った。

 それから、何をする気かと不思議そうにしている一同ににっとした笑みを向けて、話を続ける。

 

「ウーン、そうかもしれないね。……でも、あんたたちは、“ヒューマンの王スレイと、オークの王グレイとの戦いの話”を知ってる?」

 

 ディーキンはそこで一旦言葉を切り、同席している3人の顔を見渡して誰も知らない様子なのを確認すると、うんうんと頷いた。

 

「それじゃあ……、ディーキンは、バードだからね。

 じれったいかもしれないけど、どうか答えを出す前にちょっとだけその話を聞いてもらえないかな?」

 

 回りくどいようだが、このようにことあるごとに物語を引用して語るというのが、多くのバードの用いる流儀なのだ。

 なぜならば、知性ある生き物の多くは今現在の一個人の意見として語られた話よりも過去の先例を重んじ、歴史や訓話に価値を見出すものだから。

 

 もちろん、そのようにしてバードが語る話が常に実話だとは限らない。

 多分に脚色が入っている場合もあるし、時にはまったくのフィクション、その場限りのでっち上げである場合もある。

 しかしながら、そんなものは相手にバレなければ結局のところは同じことなのだ。

 なぜならば、自分の意見がどんなものであれ、それを肯定するように思える先例は無限に等しい過去の歴史を漁ればいくらでも、いかようにでも見つけられるのは明白だから。

 

 人々の心を動かすにあたって必要なのは“現実”ではなく、“真実”なのだ。

 バードの詩は、時として現実以上の真実である。

 その雄弁なる言葉は言魂となり、彼らの語る素晴らしいフィクションは、ありふれた現実よりも強く人々の心を揺り動かすことができるのだ。

 もちろん、両者が一致するのならばそれはより素晴らしいことだし、そんな偉大な物語に出会えることを望むが故に、多くのバードは旅をすることを好むのだが。

 

「オホン……。それではまず、物語の始まりは――――」

 

 コンコン。

 

 ディーキンが物語をはじめようとしたちょうどその時、誰かが部屋の戸をノックする音が響いた。

 次いで、部屋の外からシエスタの声が響く。

 

「失礼します。先生、いらっしゃいますか?」

 

 部屋の中の全員がぎくっとして、一斉に息を殺した。

 アンリエッタが咄嗟に扉の傍にさっと近寄ると、杖を振って小声で『ロック』の呪文を唱え、鍵をかけた。

 

 先生……ということは、オールド・オスマンに用があって来た学院の生徒なのだろう。

 学院長がここにいるということがなぜ分かったのかは知らないが、よりにもよって内密な話の最中に、なんと間の悪いことか――――。

 

 

 

「……おられないのでしょうか?」

 

 しばらく待っても返事がないのを見るとシエスタは首を傾げて、とりあえず扉を開けてみようとした。

 が、鍵がかかっているようで、開かない。

 

「ここにもいないみたいね」

 

 肩を竦めるキュルケ。

 だがしかし、タバサは首を振ってきっぱりと言い切った。

 

「いる」

 

「え? なんでよ?」

 

「さっき、部屋の中から話し声がしていた」

 

 優秀な『風』のメイジであるタバサは、自分の耳に確かな自信を持っていた。

 それを聞いた一行は、思わず顔を見合わせる。

 

 そうなるとディーキンは、自分たちに対して居留守を使っているということになるが……。

 一体何のために、彼がそんなことをしているというのか?

 

 ルイズはむっとした様子で、どんどんと扉を叩いた。

 

「ちょっと、それってどういうこと? ディーキン、いるんなら開けなさいよ!」

 

 だが、やはり返事はない。

 

「一体、どういうつもり……」

 

 ますます苛立つルイズだったが、その内にだんだん心配になってきた。

 彼の性格からいって、中にいるのに返事もせずに自分達を締め出すなんてことは普通なら考えられないのではないか?

 

「……まさか、部屋の中で何かトラブルでも起きてるんじゃないでしょうね……」

 

 まさかとは思うが、ここ最近のタバサの実家での出来事などを考えると絶対にないとも言い切れない。

 

「ありうるわね。ここは、無理にでも入ってみましょう」

 

 キュルケはそう言うと、胸の狭間から杖を引き抜いて、扉に『アンロック』をかけた。

 が……。

 

「……効かないですって?」

 

 キュルケはアンリエッタと同じトライアングル・クラスのメイジであり、彼女の施した『ロック』だけならば破れる可能性は十分にあっただろう。

 しかし、扉の向こうでは既にオスマンがアンリエッタに続いて動き、扉に『ロック』を重ね掛けしていたのである。

 学院長の魔力に対しては、さすがにキュルケも歯が立たない。

 

 オスマンらはこのまま扉の奥で息を潜め、ルイズらが諦めて去るのを待つ方針だった。

 しかし、この防御策が結局は裏目に出てしまう。

 

 タバサはキュルケに続いてさっと杖を振ると、扉に対して『ディテクト・マジック』を唱えた。

 その反応を見た彼女は僅かに驚いたように目を見開き、次いで鋭く細めて、杖をぎゅっと握り直した。

 

「……『ロック』が掛かっている。それも、とても強い」

 

「あの亜人君が、留守の間に泥棒が入らないようにと掛けておいたんじゃないのかい?」

 

 やや戸惑ったようなギーシュの提言を、タバサは首を横に振って否定した。

 

 確かに、ディーキンにも扉に鍵をかける呪文は使えるかもしれない。

 だが、今の『ディテクト・マジック』の反応を見る限り、この扉に施されているのは系統魔法の『ロック』で間違いないはずなのだ。

 しかるに彼に系統魔法は扱えない……、つまりこの扉を閉ざしたのは、彼ではないということになる。

 

 しかも、感知できた魔力は非常に強力なものだった。

 スクウェア・メイジの中にもこれほどの魔力の持ち主は滅多にいないだろう。

 

 実を言えばタバサは、ギーシュの話を聞いた時からディーキンはもしやアンリエッタ王女と一緒にいるのでは、と何となく疑っていた。

 昼間にディーキンが彼女を褒めるのを聞いていた彼女としては、好奇心の強い彼のこと、この機会に彼女と話をしてみたいと思ったとしても不思議はないと考えたのだ。

 それならそれで問題はないわけで、本来は邪魔立てするべきでもないのだろうが……、タバサにとってはあまり面白い話ではない。

 もし本当に彼がアンリエッタと一緒にいたなら自分も乱入してやろうか、彼は拒みはしないだろうし……というようなぼんやりした考えは、先程から持っていた。

 

 しかしこの状況を見ると、どうもそうではなさそうだと考えざるを得ない。

 

 いかに優れた血筋を持つ王家の末裔だとはいえ、先程この扉から感じた老成された強大な魔力が、よもや飾り物と揶揄されている年若い温室育ちのアンリエッタ王女のものだとは思われない。

 ならば、この部屋の奥にいるであろうその強大なメイジは一体何者なのか。

 そいつはことによるとガリアの手の者で、ディーキンやアンリエッタ王女に何かをしたのかもしれない。

 私のことで、あの人に手を出させるものか……!

 

 そんな考えに至ったタバサは、躊躇なく次の行動に移った。

 素早く杖を振って呪文を唱え、扉に向かって容赦なく『エア・ハンマー』の呪文を叩きつける。

 

「ラナ・デル・ウィンデ……!」

 

 ほぼ同時に、ルイズも呪文を詠唱していた。

 『エクスプロージョン』のごく最初の部分だけを詠唱し、扉に杖を差し向ける。

 

「《エオルー・スーヌ・フィル……!》」

 

 これだけの詠唱でも、扉の鍵を吹き飛ばしてこじ開けるには十分な威力となるはずだ。

 彼は私のパートナーだ、タバサに後れは取れない。

 もし本当に危険に晒されているというのなら、私が助けなくてどうするのか……!

 

 

 

「アー、ちょっとちょっと! 待って待ってタバサ、ルイズ、ディーキンは別に――――」

 

 扉の向こうでタバサらが何をしようとしているか察したディーキンは、慌てて制止の声を上げた。

 オスマンもぎょっとして、咄嗟に扉へ『硬化』を施し、打ち破られるのを止めようとする。

 

 だが、既に手遅れだ。

 

 一旦詠唱に入ってしまったルイズは呪文に完全に集中するので、扉を隔てた向こうのディーキンの声など聞こえない。

 タバサには聞こえてはいたが、彼女もやはり攻撃を中止する気はなかった。敵がなんらかの方法でディーキンの声を真似ているか、彼を操って喋らせているだけかも知れないからだ。

 命懸けの任務を潜り抜けてきた彼女としては、間違っていたとしても壊した扉は後で直せばいいだけで、最悪の事態に備える方が優先だと考えるのは当然である。

 

 ディーキンの名誉のために一応言っておくならば、彼はここへ来る前にちゃんとルイズには適当な、嘘ではないがオスマンに頼まれた肝心な部分は伏せた説明をして、自分を探しに来ないように頼んでおいたのである。

 タバサやキュルケにしても、自分を探すならまずルイズの部屋に先に行くはずだからその時彼女から話をしてもらえるだろう、と踏んでいたのだ。

 ルイズが何やら上の空なのはもちろんわかってはいたが、まさか何ひとつ話した内容を覚えていないなどとは想定外だった。

 没頭すると周りのことが一切見えなくなる彼女の集中力を甘く見ていたといわざるを得ない。

 

 それでも、もしシエスタが扉をノックした時点でディーキンが居留守など使わずに中にいることを明かし、何か適当な理由を述べて部屋に入らないでくれるよう頼んでいたならば、彼女らを納得させることはできただろう。

 予想外の来訪にびっくりして思わず居留守を使ってしまったこと、その方針で通そうとしたために制止の声を上げるのが遅れたことが致命的な失策だった。

 アンリエッタやオスマンの『ロック』も、耳聡く異常事態に敏感なタバサが同行していたのが仇となって逆効果になってしまった。

 いろいろな関係者たちのさまざまな選択や偶然が、よくない方向に噛み合ってしまった結果だと言うしかあるまい。

 

 そうして2人の攻撃呪文が、扉へ炸裂する。

 

 オスマンが不十分ながらも『硬化』を施した扉は、タバサの『エア・ハンマー』にはかろうじて耐えた。

 しかし、ルイズの『エクスプロージョン』の前には歯が立たない。

 扉の中央部が眩く輝いて爆裂し、大穴が開くとともに爆風が室内の者たちを襲った。

 

「きゃああぁぁ!」

 

「うおおぉっ!?」

 

 アンリエッタとマザリーニが、突然の爆風に悲鳴を上げる。

 それでも、慌てて2人の前に飛び出したディーキンと咄嗟に扉の前に風の防護壁を張ったオスマンのお陰で、怪我はせずに済んだ。

 

「ディー君、大丈夫なの!?」

 

 杖を構えたルイズが、タバサ、キュルケ……。

 それにデルフリンガーを構えたシエスタと、ワルキューレを呼び出したギーシュが次々と部屋の中に飛び込んできた。

 

「……馬鹿者どもが! 一体何を考えてこんなことをしたんじゃ!?」

 

 オスマンが彼らを一喝する。

 

「へっ? オ、オールド・オスマン、どうして……」

 

 先頭に立って飛び込んできたキュルケが、きょとんとした。

 

「な、何をするのですっ……、不埒者ども!」

 

 アンリエッタ王女も、こほこほと軽く咽ながらも侵入者たちを睨み据える。

 

「……!? こっ、こここ、この方は……!」

 

 キュルケを庇うように前に飛び出そうとしたシエスタは、アンリエッタと目が合ってさっと青ざめる。

 慌てて剣を収めると、床に平伏した。

 

「ひ、姫殿下!?」

 

 ルイズ、ギーシュも慌てて膝をつく。

 

「え……。ル、ルイズ・フランソワーズ? どうしてここに……」

 

 アンリエッタが昔馴染みの顔を認めて、目を丸くした。

 一人タバサだけが無表情で佇んだまま大騒ぎする面々の様子をじっと観察し、言い訳するようにぽつりと呟いた。

 

「……扉をやったのは、ルイズだから」

 

 

「ほ、本当に申し訳ありません! なんとお詫びをしてよいか!」

 

 こうなっては仕方がないと判断したオスマンやディーキンから一通りの事情を聞かされたルイズらは、思いっ切り床に平伏してアンリエッタらに謝っていた。

 

「い、いえ。そういうことなら仕方がありませんわ、ルイズ。

 使い魔とメイジは一心同体、その身を案じるのは当然のことですから……」

 

 アンリエッタは咳払いをして鷹揚に頷き、ルイズらを許して頭を上げるように言った。

 それから旧友との再会を喜んで、昔の話などを少しかわした。

 彼女とルイズとは幼い頃に共に遊んだ仲であり、身分の違いなどをあまり意識していなかった当時は菓子の取り合いや掴み合いの喧嘩などもやらかしていたのである。

 もっとも、マザリーニらが傍にいるので少女同士の気兼ねのない昔話とはいかず、ごく穏やかな内容の話にとどまったが。

 

 そうして歓談しながら、アンリエッタはルイズにそっと囁きかける。

 

「……ところで。彼があなたの使い魔だというのなら、あなたの方からもお願いしてはもらえないかしら?

 彼の助力が得られるかどうかに、トリステインの命運がかかっているかも知れないのですから……」

 

 アンリエッタにとっては、旧友が今まさに頼みごとをしている相手の主人だったというのは、僥倖に相違なかった。

 彼女としては、なんとしてもアルビオンで窮地に陥っている王族を……特に、将来の誓いを交わし合ったウェールズ皇太子を救いたい一心であった。

 そのためには、天使の力を借りて革命軍を打ち破らねばならぬ。トリステインには、アルビオンに対抗できるような戦力はないのだから。

 たとえそれが成らなかったとしても、最悪でもゲルマニアとの同盟を脅かしかねない手紙……ウェールズにかつて渡した恋文をどうにかしなくてはならない。

 せめて、戦時下のアルビオンへその旨を伝えに行く使者の役目だけでも買ってはもらえまいか。

 浅ましいようだが、できることなら枢機卿には内緒で……。

 

 ルイズはちょっと困った様子を見せながらも頷いて、ディーキンの方に向き直った。

 実際のところ彼は自分の正式な使い魔ではないので、戦争中の国に行けなどと命令できるような立場ではない。

 しかし、かつてのお友だちであり忠義を誓うべき主君であるアンリエッタの力にはなりたかったし、説得を試みるくらいならば構うまい。

 

「ねえディーキン。姫さまのお力になれないっていうのはどういうことなの?

 慎重になるのはわからないでもないけど、相手は野蛮なオークだのを味方につけてまで王室を潰そうとしているのよ!

 どう考えたって悪党じゃないの」

 

「ンー……、そうなのかもね」

 

 ディーキンはそう認めてひとつ頷いてから、付け加えた。

 

「でも、その中にはディーキンがいるかもしれないの」

 

 ルイズは訝しげに顔をしかめた。

 

「どういう意味よ? あんたはここにいるじゃない!」

 

「ディーキンが初めてボスと出会ったのは、人間の村を襲撃するコボルドの部隊に加わったときだったってことは話したかな」

 

「……」

 

「ディーキンは人間を襲いたくはなかったよ。でも、ご主人様の命令で一緒に行かなきゃいけなかった。

 革命軍にも、オークのディーキンや巨人のディーキンや……、もしかしたら人間のディーキンだって、いるかもしれないでしょ?」

 

 ルイズは困ったように視線を泳がせた。

 

「……そ、そんなの、滅多にいるもんじゃないでしょ?

 敵の軍隊は何千何万といるのよ、少しくらいは仕方がないじゃない……」

 

「そうだね、戦争ではたくさん人が死ぬから、少しくらいのことを気にしていたらどうにもならないかもしれない。

 その考えが絶対に間違ってるとは、ディーキンも思わないの。

 ……でも、コボルドは大抵悪者だから少しくらいの間違いは仕方ないってボスが思って、全部のコボルドを斬って回ってたら、ディーキンはここにいなかったんだよ?」

 

「う……」

 

「ルイズたちの考えもわかるの。だけど、ディーキンがオークや巨人なんて少しくらいは仕方がないって考えるのは、ボスから受けた恩を裏切ることだって思う」

 

 ディーキンはルイズだけではなく、その場にいる全員に聞かせるようにして自分の考えを説明していった。

 彼の話し方はあくまでも穏やかで少しも攻撃的ではなかったが、それでいて断固として動かない意志を感じさせるものだった。

 

「それに、アー……、お姫さまたちにはさっき話しかけてたけど。

 せっかくだから、“ヒューマンの王スレイと、オークの王グレイとの戦いの話”を聞いてもらえるかな?」

 

 誰からも異論が出ず、皆の注目が自分に集まったのを確認すると、ディーキンは改めてリュートを手に取った……。

 



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第八十八話 Eye of Gruumsh

 ディーキンがゆっくりと詩歌を吟じ始め、他の皆はそれに耳を傾けた。

 それは、人間とオークという2つの種族の、2人の王にまつわる物語だった。

 

 

 

 

 遥かなる時 遥かな処

 

 これは人間の英雄王スレイと、オークの征服者グレイとの物語

 

 一人は民草の祝福を受けて生まれた正当の王位継承者で、一人は誰にも望まれずに生まれて反逆者として成り上がった無頼漢

 一人は美しく寛大で、一人は醜く狭量

 一人は己の種族を護り抜こうとし、一人は他の種族への侵略を試みる

 

 …………

 

 

 

 

 最初に語られたのは、人間の王スレイの物語。

 

 彼は王族の嫡子として生まれ、幼い頃から賢明で勇敢な子として皆に愛され、長じて王位を継いでからは民の尊敬を集めたという。

 彼の聡明さや優しさ、賢明さなどをあらわす小さなエピソードをいくつか挟んだのちに、物語はいよいよ佳境に入る。

 辺境に住まう野蛮なオークの部族が集結しつつあり、彼の治める国に攻め入ろうとしていることが明らかになるのだ。

 その数はあまりにも多く、到底自身の国の兵力だけでは太刀打ちできないという報告を受けたスレイ王は、近隣に住まう異種族たちと協力してこの脅威にあたるしかないと決断する。

 

「そこで彼は、近くの森に住むエルフたちと、山脈の大坑道に住むドワーフたちの代表者を招いて、協力を呼びかけたの。『我々は普段は離れて暮らしているが、今こそ護るべき民のために団結しなくてはならない』んだって」

 

 ディーキンがその部分まで語ると、聴衆がやや戸惑った様子で、まさかエルフと協力するなんてことが、とか、ドワーフってなんだい、とかいった疑問を口にし始める。

 

 ディーキンはそれに対して、小休止を兼ねて簡単な説明を挟んだ。

 ハルケギニアと違い、彼の故郷ではドロウなどの一部の亜種族を除けばエルフは基本的には人間と敵対してはいないこと。

 ドワーフとは、その質実剛健で頑固な性格と職人としての技量、屈強な戦士としての能力、そして比類なき酒量で知られる亜人の一種であるということ、などを。

 

 そうして大まかな事を理解してもらった上で、話を続けた。

 

「……それで結局、エルフの代表者もドワーフの代表者も、話し合いの末に協力してオークたちと戦うことに同意したの。エルフ族の代表者エルリーフはよく考えてスレイ王の言い分には理があることを認めたし、ドワーフ族の代表者サンダーヘッドは、彼の裏表のない誠実な態度を気にいったんだって」

 

 それから、スレイ王はエルフ族の主神コアロン・ラレシアンの叡智を讃え、エルリーフはドワーフ族の主神モラディンの不屈の意志を讃え、サンダーヘッドは人間の崇める太陽神ラサンダーの若々しい挑戦心を讃えた。

 最後に『今度は戦場で御一緒しよう』と言って握手を交わすと、彼らは別れてそれぞれの種族の元へ帰っていった。

 

 この話が伝わると、3つの種族の友好をもって国を守り抜こうとする英雄王、賢王としてスレイの名を連呼する民の声は鳴り止まず、国内の吟遊詩人たちはその偉業を讃える歌を連日歌い続けたという……。

 

 ディーキンの歌を交えた弾き語りの巧みさもあって、聴衆はみな詩歌の世界にのめり込んでいた。

 特にルイズやアンリエッタなどは、我が事のように誇らしげな顔をしてスレイ王の偉業に聞き入っている。

 確かに彼は、彼女らが思い描く“民を導きその尊敬を受ける誇り高い貴族”として理想的な存在であろう。

 

 ディーキンは皆のそんな様子を確認して、しばらく余韻に浸ってもらった後に、物語の続きを再開した。

 ここで大団円として物語を結ぶこともできるのだが、それではこの物語のもう一人の主役について語ることができない。

 

「……3つの種族の同盟を成立させられてスレイ王はほっとしたし、人間たちはみんな、王様の成功を聞いてとっても沸き立ったの」

 

 しかし、人間との同盟に賛同したはずのエルリーフやサンダーヘッドは、どこか浮かない様子だった。

 なぜなら彼らには、不安があったからだ。

 

 スレイは確かに善き王であり、紛うことなき英雄だと認めた。

 だが、それはあくまでも一個人としてはの話であり、人間には強欲な連中の多いことも彼らはよく知っていた。

 人間よりも遥かに長い寿命を持つエルフやドワーフからすれば、ほんの数年、数十年の間にころころと立場を変えたり、先代の約束など自分の知ったことではないという態度を取ったりする人間というのは、しばしばとても不実な連中に見えるのだ。

 

 彼らは同盟交渉の済んだ後、別れてそれぞれの種族の元へ戻る前に言葉を交わす。

 

 

 

 

『こうしてオークどもの脅威が持ち上がってくる前には、大勢の人間どもがわしらから坑道を奪おうと画策しておった。今は手を取り合っていても、戦が終わって落ち着けばじきにまたああだこうだと理屈をつけて坑道と宝石を自分たちのものにしようとしてくることだろう。お前さん方も気をつけておくがいい』

 

『そうだろうな。彼ら人間の寿命は短く、友情も恩義も忘れ去るのが早いからな』

 

『うむ……、あのスレイ王が存命の間はもつものとしても、百年後までの安泰は期待できまいよ。“知り合いと友人には百年の違いあり”というのがわしらの信条なのだがな』

 

『ああ。彼らは昔から、我らから森を奪うことも同じように正当化してきた。彼らはいつでも、人口が増えて食べていけないからやむを得ないのだ、などと弁明してこちらを泣き落とそうとしてくるのだ。もし断るなら、そちらの方が不人情な冷血漢だぞと言わんばかりの態度でな』

 

『こちらも同じよ。やつらはな、はっきりとした契約を結んで一部を与える代わりに残りには手を出さないと誓約させても、数十年も経たぬうちに代替わりだかなんだかで権利者の変更があったから以前の契約は改めねばならないなどと主張しては、じりじりと自分たちの取り分を増やそうとしてきおるのだ。ごく短い間だけなら連中も約束を守ることが多いが、少し長い期間となるとまるで信用できた試しがない!』

 

『やれやれ。ドロウのような忌まわしい地下世界の者どもはいざ知らず、この地上で人間ほど誠実ぶって厚顔無恥になれる連中というのも滅多にいないだろうな』

 

『そうだろうとも。同じ恥知らずでも、自分には少しも良識など無いことを隠そうとせんオークどもとはそこが違っておる』

 

『まったくだ。……だが、問答無用で襲ってくるオークと、くどくどと言い訳を捏ね回す人間のどちらかだと言われれば、人間が勝つ方がまだましだと言わざるを得ないがな』

 

『そうだな。まあ、わしらはせいぜい、事あるごとに今日のことを人間たちに思い出させるように努めるとしよう。連中にもいくらかは恥を知る心があるなら、少しは“盟友”に対して遠慮をするようになるだろうさ』

 

 …………

 

 

 

 

 エルフとドワーフの代表者が人間を評するそんな話を幕間代わりに挟んだ後、ディーキンの話はいよいよ、もう一人の主役であるグレイの方に移っていった。

 

「……グレイは、ある地方のオークたちを支配した王さま。だけど、最初から王だったわけじゃなかったの」

 

 グレイと呼ばれるそのオークにまつわる物語は、まず彼がオークの支配する地方の片隅で、貧しい農民として生活しているところから始まった。

 

 本来フェイルーンのオークには、土地を耕す者など滅多にいない。彼らは力を尊ぶ種族であり、ほぼ全員が暴力に頼って生きているのだ。

 戦って勝てば、勝者は敗者に所有するだけの価値がないと見なしたもの……つまりは自分が欲しいと思うものほぼすべてを、奪っていくことが許されている。

 食物が欲しければ誰かから奪い取ればいいのであり、土地を耕して汗を流すなどは戦う勇気もない軟弱者のすることだと考えられていた。

 

 それでもグレイが農民だったのは、昔その地を治めていたあるオーク王がいちいち略奪をせずに自分の望むときに作物を口にしたいなどと気まぐれを起こして、部下のうちで特に弱い者たちから武器を取り上げ、代わりに鍬と鋤を押しつけてその役目を強要したからであった。

 やがてその王はより力のある新たな王に取って代わられたが、新しい王たちは誰一人として、わざわざ卑しい農奴を解放してやろうなどと考えてはくれなかった。

 彼は、そんな落ちぶれたオークの家系の息子として生まれたのである。

 グレイなどという、およそオークらしからぬひ弱な人間のような名を与えられたのもそのためだった。

 

 力を尊ぶオークの社会は基本的に男尊女卑であり、女は男に劣らぬ能力があるということを証明できない限り、せいぜい価値のある所有物としか見なされない。

 そして卑しい農奴でしかないグレイの父には女を戦って勝ち取ることなどできようはずもなく、ただ土地を耕す希少なオークの家系を絶えさせないためだけに皆が欲しがらないオークの女を押し付けられて、その女がグレイを産んだのである。

 そんなグレイの母は当然のように器量も性格も最悪の一言で、他人には媚び諂う一方で夫のことは悪し様に罵り、僅かな彼の稼ぎを使い込んで手に入れた安酒をがぶ飲みしては息子を虐待した。

 

 もともと耕すことなど想定されていなかったオークの土地は荒れ果ててやせ細っており、作物の実りも悪い。

 大した量の食料生産もできず、他のオークたちから役立たずめと蔑まれ、同年代の子どもたちには虐められ、家族にも愛されず、孤独でひもじい思いをしながら生きていく……。

 グレイは次第に、そんな生活に耐えられなくなってきた。

 

「『他の皆にはできて、俺にだけできないなんてことがあるものか。グルームシュの名にかけて、俺にだって戦って奪い取れるものはあるはずだ』 ……彼はそう考えて、それを探したの」

 

 常に他人の顔色を窺いながら時にはこっそりと物をくすねたりもして生きてきたグレイには、自然と人を見る目が備わってきていた。

 

 彼が目をつけたのは、いつも仲間の後ろから自分を虐めているオークの少年だった。

 その少年はグレイと同年代だったが、自分の方が痩せていることを除けば体格でも勝っているし、オークの中では気が弱い奴だということも見抜いていた。

 

(あいつになら、一対一で戦えば負けはしない)

 

 グレイはそう確信して密かに復讐の機会を窺い続け、ついにその時が来る。

 

 彼はその少年が一人で路地裏をうろついている時にばったりと出くわし、袋小路へと追いつめて、自分に手出しをしたら後で仲間がだまっていないぞという必死の脅し文句も無視して散々に痛めつけた。

 殴られて腫れ上がった顔で情けなく命乞いをする少年を見下ろして、生まれて初めて味わった優越感と幸福感。それに酔ったグレイは、つい行き過ぎて彼を殺してしまう。

 いや、たとえそうでなくとも、仲間たちに告げ口をされて後日復讐を受けること避けるためには殺す以外にはなかっただろう。

 

 初めて己の手で人を殺したグレイはしばらくは目の前の光景が現実とは信じられず、次いで自分がしたことと、これからどうなるかを思って今更ながらひどく怯えた。

 だが、ややあって気を取り直した彼は、こうなった以上はどうにでもなれだと腹を据えた。

 

(とにかくこいつはおれを虐めた、おれより弱いのにだ。だからその報いを受けたんだ。グルームシュの教義に従えば、死んだこいつが弱いのが悪かったというだけのことじゃないか)

 

 嫌われ者の自分の言い分が通るかどうかはわからない。

 だが、とにかく事情を聞かれたら堂々とそう言ってやるぞと思った。

 

 ディーキンはそこで一旦話を止め、グルームシュというのはオーク族の主神であり、他の種族と絶えず戦って世界のすべてを奪い取ることをオークに要求する神であるということを注釈してから、続きを話した。

 

「……それで、グレイはその後すぐに殺しをしたのが見つかって、殺気立ったオークたちに取り囲まれたの」

 

 けれど彼は、先に決心したとおり堂々と自分に過ちのないことを主張した。

 自分より遥かに年長で大柄な大人たちに取り囲まれながらのその見事な態度に一人のグルームシュの司祭が感じ入り、今にもその場でグレイを殺そうかとしていた群衆を説得して彼を助けてくれた。

 

 部族の指導者たちはその司祭から事情を聞いて話し合った結果、グレイに“グルームシュに己の力を証明して無罪を勝ち取る機会を与える”ことに決めた。

 

 それはつまり、オークの支配する土地の外へ赴いて他の種族から十分な価値のある物を奪い取り、戻って来てグルームシュに捧げることで贖罪に変えよということであった。

 もちろん、見知らぬ土地、敵だらけの土地で単身でそのような任務を成し遂げることは極めて困難で、同様の処分を受けた者の大半は逃げたのか死んだのか、二度と戻ってこない。

 

(要するに、処刑が追放刑に変わったということだ)

 

 グレイはそう理解して黙ってそれを受け入れると、僅かな荷物をまとめて生まれ育った土地を離れた。

 

 もともと侮蔑と虐待しか受けてこなかった故郷に、さしたる未練もなかった。

 それに、一時は興奮し優越感に酔ったものの、同族の少年を殺し、目の前でその命が消えていくのを見たときのあの感覚……。

 故郷に残ってオーク同士で殺し合い、あんな恐ろしい思いをまた味わうのはできれば避けたいとも思った。

 

 僅か一日分の食料しか持って出ることを許されなかったグレイは不慣れな野外でたびたび飢えに苦しんだが、元より故郷でも満腹するまで食べられたことなどほとんどなかったのだ。

 試行錯誤して野外での生き抜き方を少しずつ身につけながら放浪の旅を続けるうちに、次第に逞しく成長していった彼は、ついに人間の土地へ辿り着く。

 

「彼はそこで人間の畑を見つけて、何か食べられるかもしれないと足を向けてみて……。そこにオークの土地では考えられないくらい豊かな作物が育っているのを見て、とても驚いたの」

 

 これほど豊かな作物を、どうやったら実らせられるというのか。

 土地の肥え方の差もあるだろうが、そればかりではないはずだ。

 

 思えば自分は農民だと言っても、ただただ無闇に土を掘っては種をまくばかりだった。

 農業を広く行っている人間にはやり方に関するもっと優れた知識があるに違いない、とグレイは悟った。

 

(これだ。これこそ、真に価値のあるものだ)

 

 グレイは、そう確信した。

 

 これだけの価値がある知識を持ちかえれば、仲間たちも自分のことを認めて受け入れてくれるかもしれぬ。

 自分の家族も、これ以上皆から馬鹿にされて苦労をしなくて済むようになるかもしれぬ。

 なればこそ、この知識を人間から学び取って帰らねばならぬ――――。

 

「……だけど、彼は上手くできなかったんだ」

 

 そこからしばらくの間、人間に受け入れられようとするグレイの半ば滑稽で、しかし物悲しい奮闘ぶりが語られた。

 ディーキンにとっては他人事ではないような話で、そこには彼自身の強い思いも籠もっていた。

 

 一番最初にグレイが農夫たちの前に友好をあらわすような仕草や微笑みと共に姿を現したときは、彼らはまるで豚か猪と屈強な原始人が混ざり合ったようなグレイの姿とその剥き出しの犬歯を見ただけで、悲鳴を上げて逃げ惑った。

 彼のとったオークの友好を求める仕草にしても、人間の目にはまるで威嚇でもしているようにしか見えなかった。

 慌てて追いかけて事情を伝えようとしたグレイは、人間を追い回す危険な亜人として近隣の農民たちに総出で鍬や鋤を持ち出されて威嚇され、這う這うの体で逃げ出すしかなかった。

 

 最初の失敗の落胆からなんとか立ち直ったグレイは、今度は教えを乞うのだから礼儀として贈り物を持っていこう、そうすればこちらが友好を求めていることが彼らにも分かるに違いない、と思いついた。

 そこで、グレイは近くの森で一日中頑張って狩りをして、よく肥えた兎や鳥を何羽も仕留めた。

 彼自身腹が空いていてその獲物を食べてしまいたかったのを我慢して用意したもので、自分に当然の権利のある貴重な獲物を譲り渡すというこの明白な表敬の行為によって必ずや誠意が伝わるはずだと思った。

 ところが農民たちは、仕留めたばかりの血塗れの獲物をぶら下げて近づいてくる彼の姿により一層恐怖と嫌悪感を露わにして逃げ惑い、武器を取って追い払おうとした。

 不慣れな人間の言葉でどうにか弁解しようとするも、誰も話を聞いてもくれず、またしてもグレイは失意のうちに逃げ出すことになる。

 

 グレイは人間は力よりも知恵に敬意を表するものだという話を思い出し、今度は理を説いて人間を説き伏せられないかと考えた。

 自分に農業の仕方を伝えてくれれば、そしてそれが自分の仲間たちの間にも広まれば、オークが人間から略奪をおこなうことは減るはずでお互いの利益になるじゃないか。

 人間が自分の聞いたような理知的な種族なのならば、武器を向けられても手向かわずに根気強くそういった明白な利点を論じれば、きっとわかってくれるはずだ。

 けれど、どうやって話を聞いてもらったらよいのだろうか……。

 

 彼は何度も場所を変え、相手を変え、細かな方法を工夫しては挑戦し、その度に挫折し続けた。

 その都度、彼は落ち込み、それでもまた立ち上がった。

 

 今度こそはわかってもらえるまで退かないぞと決意を固めたグレイは、話の分かる相手を求めて、今までで一番偉そうな人間を探した。

 そういった人物は大概他の人よりも聞く耳があるものだ、自分だって部族の指導者の裁定のお陰で追放刑で済んだのだから。

 グレイはそこに最後の望みをかけて、とても立派な身形をして何人も護衛を連れた人間の貴族に目をつけた。

 その貴族もこれまでの相手と同じように、グレイの姿を見るや護衛をけしかけて彼を殺させようとした。

 グレイは手向かわずに降伏の姿勢を示して必死に自分の考えを説明したが、相手は嫌悪感に顔をしかめ、さっさとこの汚らしい生き物を始末しろと言ったきりだった。

 

 どんなに彼が頑張っても、哀れっぽく訴えても、そいつはまともにグレイの方を見ようともせずに汚物でも見るような目で見下してくる。

 グレイを取り囲む護衛たちも冷笑を浮かべて彼の愚かしさを嘲笑い、臆病なオークの命乞い代わりの戯言と罵り、小突き回し、蹴り飛ばし、用意したささやかな贈り物を踏み躙り、唾を吐きかけた。

 彼らは、人間が豚と取引できるか、何を教えたところで豚などに理解できるものかとまで言った。

 散々罵った後、ついに彼らは何の手向かいもせずに地面に這いつくばっているグレイ相手に剣を振り上げて殺そうとした。

 

 それを見上げるグレイの心は、にわかに湧き上がってきた絶望と怒りで塗りつぶされた。

 

(何が理知的な種族だ)

 

 俺は奴らに頭も下げた、狩りの獲物も与えた、考えられる限りの礼を尽くした。

 それで、奴らが俺に何をしてくれたか。

 俺の誠意を踏み躙り、尊厳を汚し、命まで奪おうとしているではないか。

 

 グルームシュの教えの通りだった、人間はこのように恥知らずな振る舞いをして、自分たちオークのものを奪っていったに違いない。

 だからオークは略奪せねば生きるもままならぬ荒れ果てた貧しい地に住み、彼らは豊かな地で怠惰に傲慢に暮らしているのだ。

 

 その時、グレイの頭の中で声が聞こえた。

 

“殺せ!”

 

 それは自分の心の声だったか、それともオークの主神グルームシュからの啓示だったのか。

 いずれにせよ、グレイはそれに逆らおうとは思わなかった。

 

 自分は故郷を発つ前に同族だって殺したのだ、今更こんな畜生どもを殺すのに何を躊躇うことがある。

 こいつらはいくら礼を尽くそうとも道理に訴えようとも、端からこちらを馬鹿にして何も与える気がない、強欲な猿どもではないか。

 

 なら、奪い取るしかない。

 

 こいつらの土地を奪え、知識を奪え、尊厳を奪え。そして、命を奪え。

 それは元々、すべてオークのものだったのだ。強靭なオークが、ひ弱い哀れな種族どもに持っておくことを許してやっていたものだ。

 それをいい事に人間が……、エルフが、ドワーフが。

 余所者どもがこぞってつけあがるというのなら、奪い返すのだ!

 

 グレイは振り下ろされた刃を掴むと弾かれたように立ち上がり、事態が呑み込めずに呆然としている兵士の喉笛を食い破った。

 慌てて剣を構えようとする兵士たちの首を、手を、脚を、激怒の咆哮を上げながら枯れ枝のように薙ぎ払っていく。

 最後に、腰を抜かして情けなく這いずって逃げようとしていた貴族の首を骨が折れるまで絞めて殺すと、グレイは彼らの首を畑の稲穂のように狩り取って集め始めた。

 

 そうしていくつもの人間の首と、自分の内に目覚めた彼らへの憎悪とを手土産として、グレイはついに二度と戻らないだろうと思っていた故郷へと帰っていった。

 忌まわしい人間の土地にこれ以上留まるくらいならば、荒れ果てた故郷の方がよほどましだった。

 

(この地にはもう戻らない、オークの手にこの地を奪い取るのでない限りは)

 

 グレイはグルームシュに、そう誓いを立てた。

 

 故郷の者たちは皆、グレイの手土産を見て彼を賞賛し、罪を許すばかりか農夫の身分から解放して兵士の仲間入りをさせようと言った。

 しかし今やグレイは、もっと上を目指すつもりだった。

 この部族の頂点に立ち、近隣の他の部族をもまとめ、あの傲慢な人間どもの土地に攻め入るのだ。

 

 グレイは以前に自分を救ってくれた司祭に自ら志願して、“グルームシュの眼(アイ・オヴ・グルームシュ)”となるための辛く苦しい訓練を受け始める。

 長い訓練の日々に耐え抜き、想像を絶する苦痛にも耐え抜いて一言も上げずに自らの片目を抉り出すことで最終試練に合格した彼は、部族の尊敬を一身に集める英雄、新しい部族の長となった。

 

 そしてついに、今や彼の最も信頼する片腕となった司祭、ヴォルガフと共に近隣の諸部族の協力を取り付けることで十分な戦力を揃えた彼は、忌まわしい思い出のある人間の土地に攻め入って征服することを決断する――――。

 

 

 

「ディーキンも、これまでずいぶんたくさん人間に追っかけまわされたよ。グレイみたいにいろいろ試してもみたんだけど、ぜんぜんわかってもらえなくて……」

 

 ディーキンは長い話を終えて、一息つきながらそう言った。

 

 これからいよいよ戦争が始まるというところでまだ話の続きはあったが、今はそこまで語る必要はあるまい。

 ルイズらの様子を見る限りではかなり熱中してくれているようだし、思ってくれているところもあるようなので、いずれまた機会はあるかもしれないが……。

 

「でも、人間なんて悪いやつに決まってるとは思わないの。ボスやルイズみたいな人たちにも、いっぱい会ったからね!」

 

「グレイは、そんな人間には出会えなかった」

 

 嬉しそうに言うディーキンの顔をじっと見つめながら、タバサがぽつりと呟いた。

 

「……あなたがいいたいのは、そういうこと?」

 

 ディーキンが頷きを返した。

 

 自分は最初にボスに出会ったから、人間全体に絶望するということがなかったのだ。

 けれど、もしもそんな出会いがなくて最初からグレイのような目に遭っていたら、彼と同じだったかもしれない。

 

 生まれ故郷であるコボルドの洞窟に帰り、部族をまとめて軍隊組織として訓練し、人間に敵対する……。

 そんな自分の姿は、今となっては想像することも難しい。

 けれど、絶対になかったともまた言い切れない。

 

「……だからね、ディーキンはお姫さまたちのお手伝いはしたいけど、軍隊と戦いにはいかないよ。お話になら行くつもりなの。もしかしたら、グレイみたいな人にだって会えるかもしれないからね!」

 




アイ・オヴ・グルームシュ(Eye of Gruumsh、グルームシュの眼):
 D&Dの上級クラスの一種。オークまたはハーフオークのみがなることができる(それ以外の種族でこのクラスになった者がいるという、眉唾物な噂はあるが)。
太古の昔の叙事詩的な戦において、オークの主神グルームシュはエルフの主神コアロン・ラレシアンに左目を貫かれて失ったとされている。
このクラスを志す者たちはオーク・ダブル・アックスの扱いに熟達した上で、自らの信奉する神の失われた目を補うために己の右目を儀式的に抉り出して捧げることでその資格を得る。
その儀式の最中に一言でも苦痛の呻きを漏らしたならば試練は失敗し、その者は二度とこのクラスになることはできなくなるという。
その過酷な試練のゆえに、それを潜り抜けてこのクラスになった者はあらゆるオーク、ハーフオークから畏れ敬われる。
 アイ・オヴ・グルームシュは自身が強靱であるだけではなく、己の命令に従うすべてのオーク、ハーフオークを強くすることができる能力を持っている。
熟達したアイ・オヴ・グルームシュはその失った目で自身の死ぬ瞬間を予見しているといわれ、来るべき死を既に覚悟してそれに備えている彼らは恐れることを知らずに戦う。


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第八十九話 Getting ready to go

「枢機卿。……あの子に任せてしまって、本当によかったのかしら?」

 

「情けないことですが……、私にもあの亜人の少年は測りかねますな、姫殿下」

 

 ディーキンとの対話が終わった後、アンリエッタとマザリーニは学院で用意された部屋への帰路に着きながら顔を見合わせていた。

 ディーキンやルイズらとは話をした場所でそのまま別れ、途中まで送ってくれたオールド・オスマンとも部屋のある建物の入り口で別れ、今は2人だけである。

 

 戦争真っ最中のアルビオンへ赴き、オーク鬼やトロル鬼などの亜人が混ざっているような革命軍と話をしてきたいだなどと、彼の提案はおよそ正気の沙汰とも思われなかった。

 もちろん、彼女らとてその困難についてはディーキンに重ね重ね指摘し、思い止まらせようと説得した。

 しかし、ディーキンの意志は固いようだった。

 

 

 …………

 

『君のしてくれた話にはなるほど教訓的な部分があるし感じるところもあったが、オーク鬼のような亜人と話し合おうというのはやはり現実的に考えて困難過ぎるのではないかね』

 

『そうだね、難しいと思うよ。でも、あんたたちは天使やディーキンが何万の軍隊を相手に戦って勝てるって期待してたんでしょ? それだって、物凄く難しいことなんじゃないかな』

 

『む……』

 

『同じ難しいことなら、何万人も殺すよりは戦いを止めてそれ以上死人が出ないようにする方がずっとやりがいがあると思うよ。何万人の軍隊と戦って勝つことはできても、説得して戦いを止めさせることはできないってあんたたちが思うのには、何か理由があるの?』

 

『で、でも! どうやって、戦争中の敵軍の間を抜けて話し合いに行けるというのですか?』

 

『戦争中の敵軍を全部倒すよりは、こっそり間をすり抜けていく方が普通は楽だと思うの。ええと、透明になるとか、変装するとか……、向こうに着いてから状況を見て考えるよ』

 

『だ、第一あなたは、こう言ってはなんですが、どこの誰ともしれぬ亜人なのですよ。反乱軍の指導者どもがまともに応じてくれるわけがありません!』

 

『ンー、この国で一番偉い人たちが、こうしてお話に来てくれたのに? 反乱軍の人たちっていうのは、そんなにものすごく偉いの?』

 

『……仮に話し合いができたとしても、革命軍の者どもは既に勝利を手中に収めたも同然の状態だ。勝利の甘露を間もなく味わえるという、そんな状態からいまさら軍を退いてくれようはずがない』

 

『ありえないくらい難しいのはわかるの。でも、何か交渉できるような方法があるかもしれない。それはここにいても分からないから、向こうに行って探してみたいんだよ』

 

『しかし。情けない話だが我々としては天使に、ひいては天使につながりがあるという君に希望を託すしかない状態なのだ。それを、無駄死にに行くような……』

 

『ディーキンがもし何の役にも立たずに死んでも、少なくとも枢機卿のおじさんやお姫さまにとっては痛くもかゆくもないでしょ。駄目で元々だし、何の関係もない亜人が死んだだけだもの。軍隊と戦おうとして失敗して死ぬのも、お話に行こうとして失敗して死ぬのも、そんなに違わないんじゃないかな?』

 

『……そう言われてしまうと、我々としても元より虫のいい頼みで返す言葉もない。だが、私たちにはこの国のためにできる限りよい道を選ぶ義務がある。せっかくの天使が、君と共に無謀な話し合いに行って死ぬのを黙って見ているわけにはいかないのだ』

 

『ウーン……、わかったの。枢機卿のおじさんたちにも大事なものがあるんだものね。じゃあ、あんたたちの言う天使のラヴォエラにはここに残ってもらうことにするよ』

 

『……何?』

 

『もしディーキンが行ったきりずーっと音沙汰無しだったら、ラヴォエラに頼んでみて。軍隊と戦ってくれるかはわからないけど、事情を説明してちゃんと頼めば、何か手伝ってはくれると思うの。おじさんたちは、いい人みたいだからね!』

 

『て、天使を連れていかない……? まさか、あなた一人でそんな無謀な試みをするというのですか?』

 

『そのつもりだよ。もともとディーキンが勝手に決めたことだし、ラヴォエラにはこっちで改心させたい人とかもいるみたいだし、ついてきてなんてお願いするのは気が引けるからね』

 

『……わ、わかりません! 何のために、あなたはそんなに危険な事を?』

 

『だって、ディーキンはずっと、こっちでもすごい冒険がしたいって思ってたもの。こんな素敵な話を持ってきてもらって、ディーキンはお姫さまたちにとっても感謝してるの』

 

 …………

 

 

「……ああまで言われてしまっては、元より空手で他に策もなくただ縋りに行った我々としてはどうにもなりますまい」

 

「そうですねわね……」

 

 あの若々しい情熱にきらきら輝く目、それに理論的であるかどうかといったこととは無関係に不思議なほどの説得力を感じさせる、本物の自信に満ちた言葉。

 後から思い返せば自分でも不思議なほどに、彼らはあっさりと説き伏せられてしまっていた。もしかしたらこの亜人なら、本当にそんな奇跡のようなことをやってのけてくれるのではないかとさえ思った。

 これまで大勢の国民を相手に王族として振る舞うことに慣れていたアンリエッタも、国政を一手に担ってきた海千山千のマザリーニも、ディーキンのような人物に出会ったのは初めてだった。それは単に、彼が亜人だからというようなことではないだろう。

 

 とはいえ、こうして部屋を出てしばらく経ってからあらためて考えてみると、やはり不安を感じる。

 

(天使に頼むはずでいたのに、気がつけばあんな小さな亜人の子に頼んでしまうなんて……)

 

 だが、いまさらどうしようもない。

 こうなった以上は彼に任せて、もし駄目であれば……もしもも何も駄目に決まっている、とは理屈では思うのだが……提案に従って、ラヴォエラとかいう名の天使に改めて頼んでみるしかない。

 その時には彼の教えてくれた天使の性質とやらも考慮に入れて、話のもっていき方を慎重に考えておかなくてはなるまい。

 

(せめて、ウェールズ様が亡命してくださればいいのだけど)

 

 アンリエッタはディーキンを戦うよう説き伏せることは断念せざるを得なかったものの、その後にあらためて、アルビオンに着いたら敵と話をしに行く前にまず王家の側に亡命を勧めに行ってくれないかとは頼んでおいた。

 ディーキンが人の命を助けることならと快諾したので、マザリーニも内心では亡国の王族などを助けてもあまりメリットがないとは思っているかもしれないが、特に文句は口にしなかった。

 

 誇り高いアルビオンの王族は自分たちだけが逃げるを良しとせずに国と共に滅ぶ道を選ぶかもしれないが、少なくとも恋文を返してくれるように伝えることはできる。

 彼に渡した恋文……その中で彼女は始祖に愛を誓っており、それは婚姻の際の誓いでなければならないためにゲルマニア皇帝との婚姻を行なえば重婚の罪を犯すことになってしまう……が敵方の手に渡って白日の下に晒されてしまえば、ゲルマニアとの同盟も御破算になりかねず、いよいよトリステインは窮地に陥る。

 そうなってからではいくら天使の助力が得られたとしてももう手遅れかもしれないのだから、そこは手を打っておかなくてはならない。

 とはいえ、それでもマザリーニらに正直に打ち明けられないあたりはアンリエッタの小狡いところだった。まあ、恋の話など気恥ずかしいという乙女心もあるのだろうが。

 

 彼女はウェールズにあてた紹介の手紙の中に亡命の勧めと共に密かに恋文のことを書き添えると、封をしてディーキンに託した。

 さらに亜人であるディーキンが身の証を立てるためのさらなる証拠の品として、王家に伝わる“水のルビー”をも彼に渡そうとしたのだが、それは枢機卿が慌てて止めた。

 いくらなんでも、無事に戻ってくる可能性の低い使者に代々伝わる王家の秘宝を託させるわけにはいかない。

 

 その時のことを思い出して、マザリーニはあらためて溜息を吐いた。

 

「……まさか、それがあんな結果になってしまうとは……」

 

 

 …………

 

『姫殿下、それはなりませんぞ。“水のルビー”は王家の秘宝、たとえ王族と言えども軽々しく譲渡してよいようなものではありませぬ』

 

『命懸けの任務に赴いてくれようという者に渡すのが、どうして軽々しいのですか! 指輪で国は救えませんわ!』

 

『いや、しかしですな……!』

 

『心配いりませんわ、姫殿下、枢機卿猊下。私が一緒に参ります、ウェールズ様とは幼少のみぎりに面識もあるのですから、きっとわかってくださることでしょう』

 

『まあ、ルイズ! 無理よ、貴族と王党派が争いを繰り広げているアルビオンに赴くなんて!』

 

『何をおっしゃいます! たとえ地獄の釜の中だろうが、竜のあぎとの中だろうが、このトリステインと姫さまの御為とあらば。それに、自分のパートナーだけを危険な場所へ行かせて平気でいられるメイジなど、メイジではありませんわ!』

 

『姫殿下! このギーシュ・ド・グラモンにも、是非ともその困難な任務を共にするようにと仰せつけください!』

 

『私も行く』

 

『面白そうじゃないの。私も行くわ』

 

『わ、私も、どうか連れて行ってください!』

 

 …………

 

 

「別に指輪のことは関係ありませんわ。彼女たちは、何があっても彼と一緒に行くと言った事でしょう。うらやましいわ、あんなにたくさんの親しいお友だちがいるなんて」

 

 アンリエッタは、心からそう思っている様子だった。

 王族である彼女には身近に心を許せるこれといった友人もいないから、なおさらそう感じるのだろう。

 

 指輪の方はその後にディーキンの提案に従って、『いささかなりとも忠義に報いる意志を示すために』ということで、今晩だけルイズらに貸し与えられる運びとなった。

 明朝の出発の前に一旦返還されることになっているが、もしも今回の任務が成功したならあらためて譲渡しようとアンリエッタは既に決めていた。

 それは間違いなく国宝を譲るに値する、いやそれ以上の偉業なのだから、その時はマザリーニといえど文句は言わないはずだ。

 

「それは、そうかもしれませんが……」

 

 枢機卿は、苦々しげな顔で頷いた。

 姫殿下も彼らと同じように若いからいささか感じ入るところもあるのだろうが、まったく人の気も知らずに暢気なものだ。

 

 ディーキンの言っていた通り、彼はマザリーニらにとっては結局は単なる亜人であって、最悪アルビオンで死んでも何も害はなかった。

 しかし、彼と同行しようと名乗り出た者たちは違う。

 どこの誰ともしれぬ留学生のタバサや平民のシエスタはともかく、大貴族ヴァリエール家の令嬢であるルイズや、これから同盟を結ばんとしている帝政ゲルマニアの有力貴族家の令嬢であるキュルケ、それにグラモン元帥の息子であるギーシュ……。

 彼女らを無謀な試みに同行させて死なせたとあっては、大きな非難を浴びることになりかねない。

 

 よってマザリーニや、彼女らの身柄を預かっている学院の責任者であるオスマンは、しきりに思いとどまるよう説得したのだが……。

 いくら年配者が理を説いてみたところで、ディーキンの姿勢に感化されて火がついてしまったらしい若者たちの情熱を押さえようとすることは虚しい試みでしかなかった。

 

“貴族として、仲間が死地に赴くというのに自分たちだけが安全な場所にいられるか”

 

 ルイズらはみな、揃ってそう主張した。

 

 使い魔だけを死地に送って自分がここに残ったりなどすればそれこそ母に殺される、軍人として国のために戦った両親は自分の決断をきっとわかってくれるだろう、とルイズは言った。

 タバサの実家に行く際には単位の事などを気にしていた彼女だったが、さすがに母国の危機、姫殿下の頼み、パートナーの出征となれば話は違う。

 第一、この場にはオールド・オスマンもいるわけだから、彼のお墨付きをもらえば単位の心配などしなくてもよいだろうし。

 

 同様にギーシュは、軍人としてもレディーを守る薔薇としても行かないわけにはいかない、それこそ父上に顔向けができない、と言った。

 

 キュルケは、自分は情熱と友人のために動くのであって元よりトリステインの貴族ではないのだから指図は受けないし、火のメイジは戦場に惹かれるものだと言った。

 

 ディーキンにしても……彼はオスマンからルイズらには今回の件について知らせないでくれるよう頼まれてはいたのだが……戦場で仲間たちと危険を共有するのは冒険者として当然のことであるから、彼女らの申し出を歓迎こそすれ拒むつもりはないようだった。

 

 オスマンはそんな彼女らの主張やディーキンの姿勢に少しばかり恨めしそうな顔をしてはいたが、今回の事態は成り行き上止むを得なかったことでもあり、元より度量の大きい泰然とした人物。

 まあ本人たちがそう望むのでは仕方がない、後で保護者から文句が来たとしてもそう言ってやるしかなかろう、と割とあっさり腹を括ったようだった。

 

 マザリーニとしては胃の痛い話ではあったが……考えてみれば元々は、天使に頼るなどというのは馬鹿げた話で一切期待できぬと思いながらここへ来たのだ。

 それが思いもかけぬことに希望が少しは持てそうな展開になってきたのだから、そのくらいのリスクは甘んじて受け入れねばならないのかもしれない。

 まったく無関係な天使だの亜人だのにだけ危険を背負わせようというのがそもそも虫が良すぎたのだからと自分に言い聞かせて、しぶしぶ受け入れた。

 

「……まあ、杖は既に振られたのです。我々は我々のするべきことをしながら、待つしかありませんな」

 

「ええ……」

 

 不安な思いはどうしても拭えなかったが、2人はそう言って頷きあうと、それぞれにあてがわれた部屋の前で別れようとした。

 しかしそこへ、廊下の曲がり角から別の人影が姿を現す。

 

「夜分に失礼いたします、姫殿下、枢機卿猊下」

 

 そう言って片膝をついたそれは、美しい羽根帽子を被った長身の貴族だった。

 まだ若いようだが立派な長い口髭を蓄えており、精悍で隙の無さそうな佇まいをしている。

 

「あなたは、確か……」

 

 アンリエッタは首を傾げて、記憶の糸を手繰った。

 

「……魔法剣士のリカルド、だったかしら?」

 

「いえ、彼は魔法衛士のワルド子爵でございます。姫殿下」

 

 マザリーニが眉をひそめて訂正する。

 

「まあ、そうでしたか。ごめんなさい、間違えてしまって。思い出したわ、昼間、わたくしに花を取ってきてくださったわね」

 

 ワルド子爵は名前を覚えてもらえていなかったことに気分を害した様子も無く、恭しく頭を下げた。

 

「はい、姫殿下。私は殿下をお守りする魔法衛士隊、グリフォン隊隊長のワルドでございます。……恐れながら、夜分にお出かけになっている姿を目にいたしましたので、これまで遠巻きに護衛をいたしておりました」

 

 それを聞いたアンリエッタは、目を丸くした。

 

「護衛を? 今までずっと、わたくしたちに付いてきていたというのですか?」

 

「はい」

 

「まあ! まったく気が付かなかったわ!」

 

 マザリーニが、満足そうに頷いた。

 

「さすがだな、子爵。君ほどの『風』の使い手は、かの『白の国』アルビオンにもそうはおるまい……」

 

 そう言ったマザリーニの頭に、ある考えが閃いた。

 天使とつながりのあるところなどからいっても、あの亜人はおそらく見た目に似合わぬ力の持ち主ではあるのだろうが、とはいえその実力は未知数だ。

 ましてやその天使をともなわずに行くとなると、同行者は学生ばかりでメイジとはいえ足手まといになりかねないし、平民までいるし、戦力的に十分なのかどうかにはいささか不安がある。

 

(この男をこちら側の代表として、目付も兼ねて同行させられぬか)

 

 そんなマザリーニの考えをよそに、アンリエッタはワルドと会話を続けていた。

 

「それにしても、ワルドという地名にはなにか聞き覚えがありますわ」

 

「ラ・ヴァリエール公爵領の近くにある土地です」

 

「ヴァリエール領の近く……。そうなると、あなたの家系はヴァリエール家と親交があるのですか?」

 

「はい。ヴァリエール家の三女とは、幼少の頃によく遊んだ仲でした。親同士の口約束ではありますが、婚約もいたしました。懐かしい思い出です」

 

「まあ、ルイズとあなたが……」

 

 驚いたように目をしばたたかせたアンリエッタの頭にも、ある考えが閃いた。

 

(ルイズの婚約者なら、あの子たちと同行してくれないかしら?)

 

 戦力は、多いに越したことはない。

 ルイズらはみなお友だち同士であんなに熱心に同行しようとしていたのだから、婚約者ならなおのことではないか。

 

 アンリエッタとマザリーニは、互いに顔を見合わせて同じことを考えているらしいのを確かめ合うと、ワルドに事の次第を伝えてアルビオンへの旅路に同行するようにと命じた……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 話し合いが終わって解散した後、オスマン、アンリエッタ、マザリーニ、それに事情をよく知らないギーシュを除く一行は、ルイズの部屋に一旦集合し直した。

 明日から重大かつ困難な任務に赴くのだし、またしばらく学院を留守にするわけだから、事前にもう少し話し合っておこうというのだ。

 

「シルフィードには、こっちに残ってもらおうと思う」

 

 タバサはそう提案した。

 移動のための足はディーキンも用意できるので、彼女に付いてきてもらうメリットはあまりない。

 むしろ自分たちが留守の間に学院側と王都の酒場とを行き来するための足として残ってもらい、何か起きた時のために備えてもらう方がよいだろう。

 彼女だけではいざという時の判断力などに不安があるが、オルレアン公夫人やラヴォエラなど他の面々に助言を求めるよう言い聞かせておけば問題はあるまい。

 たぶん自分もついていきたいと言ってごねるだろうが、毎晩スカロン氏の酒場を見回りに行くついでにそこで料理を好きなだけ食べさせてもらえるとでも言ってやれば納得するはずだ。

 

「そうね、フレイムもついてきてもらうのは難しいだろうし、こっちに残すわ」

 

 キュルケはそう言って、親友の提案に同意した。

 オルレアン公夫人とトーマスに、ラヴォエラ、そしてシルフィードとフレイム。

 これなら留守中に万が一何かが起きたとしても十分な戦力のはずだ。

 

「うん。じゃあ、ディーキンはこれから酒場に行って、スカロンさんたちに事情を話しておくよ。ロングビルさんも一緒だし心配はないと思うけど、何かあったら連絡が取れるようにはしておくの」

 

 ディーキンもそう言って頷いた。

 念のため、非常時にこちらへ連絡を入れられるようなマジックアイテムをオルレアン公夫人に渡しておけば万全だろう。

 連絡が入ったら、即座に瞬間移動して彼女の元へ戻ればよい。

 

 アルビオンへ行く前に占術で情報を集めることや、アルビオンの王族に呪文を駆使して直接連絡を取ることなども考えてみたが……。

 まずは自分たちの目で確かめてからだろうと考えて、ひとまず保留にした。

 呪文で突然連絡を入れようとしても上手くいくかわからないし、上手くいったとして信用してもらえるかもわからない。

 ましてや、顔も会わせずに呪文での通話だけで亡命するよう口説き落とすとか、そんなことはまずできまい。

 占術にしても、まったく情報がない現状で試みてもあまりいい結果にはなるまい。

 何を調べればよいのか、ある程度自らの目で見て情報を集めてこそ、占術での調査もより詳細な結果を得られるものだ。

 冒険者としても、現地に足を運ぶのは基本である。

 家から一歩も出ずに問題を解決しよう、なんてわけにはいかない。

 

 そんな調子で一通り留守中の対応などを決め終えると、ディーキンはアンリエッタから借り受けた“水のルビー”とタバサの実家から持ち出した『虚無』関係の書物とを取り出して、ルイズに差し出した。

 

「それじゃルイズ、この指輪を試してみてくれる?」

 

 シャルル大公の遺した分析が正しければ、『虚無』の担い手であるルイズが王家の秘宝であるこの指輪をはめて書物を手に取れば、中身を読むことができるはずだ。

 ルイズは緊張した面持ちで指輪をはめると、おそるおそる本のページを開いていった。

 

 その瞬間、ルイズの手の中にあったその2つが輝きだし、全員がそれに注目する。

 光の中に浮き上がった古代のルーン文字……それはルイズ自身にしか見えなかったが……を、彼女はどきどきしながら読み進めていった。

 

「『序文。これより我が知りし真理をこの書に記す。この世のすべての物質は小さな粒より為る。四の系統はその小さな粒に干渉し、影響を与え、かつ変化せしめる呪文なり。その四つの系統は、『火』『水』『風』『土』と為す』……」

 

 もどかしい気持ちで、ルイズはページをめくった。

 

「……『神は我にさらなる力を与えられた。四の系統が影響を与えし小さな粒は、さらに小さな粒より為る。神が我に与えしその系統は、四の何れにも属せず。我が系統はさらなる小さき粒に干渉し、影響を与え、かつ変化せしめる呪文なり』……」

 

 どうやら序文には呪文に関する基本的な解説が載っているようだ。

 確かに、先日ディーキンが聞かせてくれたカラ・トゥアとやらの教えともかなり似通った部分がある。

 知的好奇心を疼かせながら、ルイズは読み進めていった。

 

「……『選ばれし読み手は“四の系統”の指輪をはめよ。 されば、この書は開かれん。ブリミル・ル・ルミル・ユル・ヴィリ・ヴェー・ヴァルトリ』」

 

 序文を読み終えると、ルイズは顔をしかめた。

 この注意書き自体選ばれし読み手が指輪をはめていないと読めないのだから、今さら言うまでもないことで無意味な記述なのではないか……と思ったのだ。

 

 まあ、そのあたりは分かり切ったことであっても一応書いておくべき前置きというやつなのだろう。

 そう考えて納得すると、気を取り直して先を読んでいった。

 序文も興味深い内容ではあったが、やはり何と言っても『虚無』の呪文の方が気になる。

 

 しかし……。

 

「……何よ、『初歩の初歩の初歩』のエクスプロージョンしか読めないわ。あとは白紙のままじゃないの!」

 

 ルイズが文句を言うのを聞いて、デルフリンガーが口を挟んだ。

 

「注意書きにあっただろ、娘っ子。『虚無』は危険だから、ブリミルも用心深くしてるのさ。読めねえ部分の呪文は、まだお前さんにゃ必要がねえってこった。必要な時には読めるようになる」

 

 それを聞いて、ルイズは不満そうにぶつぶつ言いながら本を閉じた。

 

「必要があればっていったって、この指輪は明日には返さなきゃいけないのに……」

 

 キュルケが肩を竦めてフォローした。

 

「そう落ち込むことはないわよ、これから会いに行くアルビオンの王族だって指輪を持ってるはずだわ」

 

 戦場でなら新しい呪文も必要になるかも知れないし、滅亡寸前の王国なのだから大切な他国からの使者が求めれば国宝だのなんだのと勿体をつけずに貸してくれるかもしれない。

 もしかしたら、反乱軍の手に渡るくらいならと譲渡してくれるようなことだってあるかもしれないではないか。

 

「うん、呪文っていうのはそんなにすぐに幾つも覚えられるものじゃないしね。向こうにいったら、王様とかにも聞いてみるの」

 

 ディーキンもそう言って、ルイズを宥めた。

 

 後はいろいろな細かい話をまとめると、皆は解散して明日に備えることになった。

 ディーキンはまだいくらか仕事があったので、十分な睡眠をとるために寝床に入ったルイズと別れると、まずは事前に話し合ったとおり王都の酒場に向かってオルレアン公夫人らに事情を伝えることにした。魔法の寝袋があるので、睡眠時間は最小限で十分なのだ。

 そういえば、以前に読んだフーケの告白書によれば、彼女は本名を『マチルダ・オブ・サウスゴータ』といってアルビオンの名家の出とのことだった。

 もしかしたら何か有益な情報を教えてくれるかもしれないから、彼女にも話を聞いてみよう。

 

 ディーキンはそうして夜通し忙しく動き回り、いよいよ旅立ちの時となった……。

 



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第九十話 Departure

 王女らと会談し、皆でアルビオンへ行くことを取り決めた翌日の早朝。

 王都へ出かけていろいろな用件を済ませた後、向こうで夜を明かしたディーキンは戻ってくるとさっそく同行者たちを起こして回り、一緒に朝食を摂ろうと呼びかけていく。

 

「アルビオンは遠いんでしょ、ちゃんと食べておかないと体が持たないの。ディーキンが用意するからね」

 

 そう言って、《英雄達の饗宴(ヒーローズ・フィースト)》の呪文で用意した豪華な食事の席に皆を座らせた。

 普段なら朝はあまり食べない者でさえもこの魔法の美食にはとめどなく食欲を刺激されると見えて、最初はあまり乗り気ではなかった面々も一口食べるや目を輝かせてがつがつと腹に収め始める。

 特にギーシュなどは、ワルキューレのごとく美しい給仕に神酒にも似た極上の葡萄酒を注いでもらって、いたく感激しているようだった。

 

「うまい! こんなものを用意できるなんて、まったく君は大した使い魔だな! もちろん、一番かわいらしいのはぼくのヴェルダンデだが……」

 

 そんなことを言いながら、ジャイアントモールの使い魔にも食事を分けてやっている。

 女性陣は食事中だというのに構わず土まみれの巨大モグラに頬擦りしているギーシュに呆れたり、少しばかり顔をしかめたりしていたが、彼はまったく気にしていないようだ。

 自分の愛しい使い魔は絶対に汚くなんかないという贔屓目なのだろうが、その内食事を口移しでもし始めるんじゃないかと思うほどの溺愛ぶりだった。

 

(……まあ、あれでまんざら中身のない男ってわけでもないんだけどね)

 

 モンモランシーはその辺を気にいってるのかしらね、などと呟きながらも、キュルケも肉などを自分の使い魔のフレイムに与えていた。

 フレイムは、常に高熱で消毒されてるから汚くないのである……少なくとも、主人として彼を可愛がっているキュルケの見解としては。

 

 ディーキンはというと、にこにこしながら屈みこんで、竜語でヴェルダンデとおしゃべりをしている。

 使い魔はみな召喚時に竜語の会話能力を与えられているので、ディーキンは折を見て他の使い魔たちとも話をしたり、歌を聞かせてあげたりして、今では学院の大半の使い魔と親しくなっていた。

 

『ヴェルダンデも、こういう料理したのを食べるんだね?』

 

『むぐむぐ……。ああ、普通の人間の食事はあんまり食べないが、こりゃうまい! よく太った極上のどばどばミミズにもひけをとらない味だね!』

 

『オオ、そうなの? じゃあ、これからも機会があったら御馳走するよ!』

 

『そいつはありがたい。……ところで、シルフィードはまだ寝てるのかな。あの大食いが食べに来ないなんてね』

 

『ああ。シルフィードなら今はお出かけしてるんだよ』

 

 ディーキンはヴェルダンデに、簡単に事の成り行きを説明してやった。

 シルフィードは今、王都の『魅惑の妖精』亭に行っているのだ。

 

『つまり、ご主人様と視界を共有できる俺とあいつとが交代で向こうとこっちとに滞在してだな。定期的に状況をチェックするようにしてもらえば、万が一非常事態が起きてもディーキンの呪文で戻って素早く対応することができるってわけだぜ』

 

 肉を平らげたフレイムがとことこと寄ってきて、話に加わった。

 

『へえ、いろいろと考えてるんだね』

 

 しきりにすりすりしてくるギーシュに心地よさそうに頬擦りを返しながら、ヴェルダンデは考え込んだ。

 

『……うーん、ぼくも手伝いたいんだが。しかし、ギーシュさまにもついていきたいしなあ……』

 

『気にすることはないぜ。お前は可愛がってくれるご主人と一緒に出掛けてこいよ』

 

 フレイムの言葉に、ディーキンも同意して頷いた。

 現状でこちらに残る面子は十分数が足りているだろうと思うし、それにヴェルダンデの主人であるギーシュは先日から他の面々が関わってきたタバサ関連の事情などを知らないのだ。

 ヴェルダンデを残らせて見張り役に加えれば、彼を通してタバサの母の姿や彼女の居場所などを見られてしまう可能性がある。

 もちろんギーシュは十分信頼できる人物ではあるが、そうはいっても知るだけでも危険が及ぶ可能性が多少なりとも増す危険な情報を、現状無関係の人間にまで無闇に拡げる必要もあるまい。

 

「……そうだ、ぼくはヴェルダンデをこの旅に連れて行きたいんだが」

 

 そんな話をしていた丁度その時、ギーシュが提案をした。

 

「無理」

 

「空の上のアルビオンに行くのに、モグラなんか連れていけるわけがないでしょ」

 

 タバサとキュルケに即座に却下されてがっくりと項垂れるギーシュだったが、ディーキンは彼の肩を持った。

 

「空を飛ぶのは魔法とかでできるけど、地面を掘って進むっていうのは魔法でも難しいの。ヴェルダンデは、いざという時に役に立ってくれるかも知れないよ?」

 

「そんなこと言ったって……。どうやってモグラをアルビオンまで連れて行くのよ?」

 

 ルイズが顔をしかめてそう言うと、ヴェルダンデが口をもぐもぐさせて、何やら抗議するように鳴き声を上げた。

 ディーキンはそれを聞いてうんうんと頷くと、他の面々に通訳してやる。

 

「ヴェルダンデは、地面を掘って馬にだってついていってみせるってさ。ラ・ロシェールの港町まで行けば、そこからアルビオンまでは飛行船に乗れるんでしょ?」

 

 ディーキンらはラ・ロシェールと呼ばれる空の港町までは馬で行き、そこからアルビオンに向かう飛行船に乗る予定だった。

 

 もちろん今回の冒険行は、アルビオン王家が相当追いつめられているらしいということもあり、急ぐべき旅である。

 空中に浮かぶアルビオンへ直接向かうのは、まったく経験のないディーキンらでは困難かつ危険と思われるので無理はできないにしても、せめてラ・ロシェールまではドラゴンなり幽体馬なりに乗った方が早くつけるだろう。

 実際ディーキンも、最初は王都で翌日の朝一番にラ・ロシェールへ向かってくれる竜籠を手配してくれるよう、ロングビルかスカロンに頼んでおこうと考えていた。

 

 しかしアルビオン出身のロングビルはディーキンの話を聞くと、ラ・ロシェールからの船は毎日出ているわけではなく、飛行船の燃料である『風石』を節約するためにアルビオンが街に近づく日を選んで数日おきに運航しているのだと教えてくれた。

 そして2つの月が重なる『スヴェル』の月夜の翌日、つまりは明後日がアルビオンがラ・ロシェールに最接近する日なので、その日はほぼ確実に船が出るらしい。

 

『逆に言えばその日の前後1~2日はまず船が出ないから、無闇に急いでみたところで街で足止めを食うだけだよ。馬で無理なく行けばラ・ロシェールには2日目に到着できて、そこで一泊した翌朝には船に乗れるさ』

 

 現地に詳しい人物からの助言なので、ディーキンも素直にそれを受け入れることにした。

 

 以前に彼女は向こうに身内を残していると聞いていたので、きっと心配しているだろうと思い、自分たちと一緒にアルビオンへ行きたくはないかとも聞いてみた。

 しかしロングビルは肩をすくめて、止めておくと言った。

 

『父を殺して家名を奪ったアルビオンの王族どもに会ったら、きっと叩き潰してやりたくなるだろうからね。あんたには恩があることだし、連中を助けようってのをとやかく言う気はないけど、手助けはお断りだよ』

 

 ディーキンは何か説得なりをするべきかと少し考えたが、結局は彼女の気持ちを尊重することにした。

 復讐は善の行いではないが、彼女が心を改めるにはまだ時間も必要だろう。

 今はこの店で、新しい暮らしを心穏やかに送り続けてもらうのが一番かもしれない。

 

 ならばせめて彼女の身内を危険なアルビオンから脱出させてここへ連れてこようかとも提案してみたが、それも断られた。

 自分の身内はハーフエルフで素性が知られれば殺されてしまいかねない、だから向こうでも人目を避けて隠れ住んでいるのであって、こんな王都の真っただ中へ連れてくることは危険過ぎてできない、というのだ。

 

 タバサの母親たちのようにしばらくは素性を隠して生活したらとも言ってみたが、それもだめだと言う。

 なんでも、彼女は現在幼い孤児たちを引き取って一緒に暮らしており、逃げるのならその子たちも連れてこなくてはならないらしい。

 

『住む場所や金はなんとかしてやれるにしても、なにせまだ年端もいかない分別の足りない子どもらだからね……。こんなところへ連れてきてうっかり他人の前で口を滑らせられでもしたら困るのさ。わかるだろう?』

 

 ロングビルはそう言うと、自嘲気味に笑った。

 

 ディーキンはじっと考えてみて、とりあえずその場でロングビルにあれこれ言うのは避けて、わかったとだけ言って頷いておいた。

 だが、もし必要になった時のためにと彼女を説き伏せて、その身内である彼女の義理の妹……ティファニアの住んでいる場所だけは聞き出しておいた。

 アルビオンの戦いを止めることに全力を傾け、それが成功すれば、彼女の身内たちもひとまずは安全になるだろう。

 しかし先々のことを考えればやはり早いうちに何とかしておかなくてはならないはずで、そのことも向こうへつくまでの間に考えておこうと、ディーキンは内心で決めていた。

 

(うーん……。ハーフエルフなんて、ウォーターディープでは珍しくもないんだけど……)

 

 ここではコボルドの自分がこうして人間に混じって生活できているのに、ハーフエルフのようにフェイルーンでは広く市民権を得ている種族は畏れられ殺害対象とされるなんて、なんとも奇妙な話だった。

 もちろん、アンダーダークのドロウやイリシッドの都市も地上の都市とはまったく違っていたし、場所が違えば習慣も違うのは当然ではあるのだろうが……。

 

 ディーキンは頭を振ると、とりあえずとりとめのない考えを脇に置いて自分の分の食事を平らげた。

 それから、自分は指輪の返却と出発の挨拶をしてから行くから食事が終わり次第外に出て馬の用意をしておいてほしい、あと自分の分の馬は要らないからと仲間たちに言い置いて、学院長室へ向かった。

 

 

「……ウーン……」

 

 指輪を返却し、出発の挨拶を終え……、用件を済ませて学院長室を出たディーキンは、出発の餞別にとオスマンから渡された品を手に持って唸っていた。

 

 それは、『魔道師の杖(スタッフ・オヴ・ザ・マギ)』。

 かの名高いエルミンスターが置いていったという、先日取り返してきた学院の宝物だった。

 まさかこれほど貴重な品を、無事に戻ってこられるかどうかも分からない冒険行に赴こうという自分たちに託すとは!

 

 ディーキンはもちろんびっくりして、固辞しようとしたのだが……。

 

『大切な生徒らがこれほどの大事に赴こうという時に役立てんで、何のための宝か! ……それにの、ここ二十年ばかりの間でその杖を十分に扱えたのは君だけじゃ。つまり、君が無事に帰ってこねばその杖もろくに扱えんガラクタになり下がる。ならば君が生還する確率を上げるためにも持って行って使うのが至当というものじゃ、違うかな?』

 

 オスマンは理路整然とそう言って、いいから持っていきなさいと手を振った。

 いくら自分には大した使い道がない品だとはいえ、フェイルーンでは国宝級かそれ以上というこの希少なアーティファクトにまったく執着した様子もないのはさすがと言うべきか。

 

 こんな責任重大なものを預けられてしまうと、ますますサブライム・コードの訓練を始めてよかったと思えてくる。

 まあ、ウィザードでない以上はリリック・ソーマタージだろうがサブライム・コードだろうが、フォクルーカン・ライアリストだろうが、これほどのアーティファクトを所持するのに分相応だとは到底思えないが……。

 それでもただのバードよりは、多少はマシというものだろう。

 

 まあとにかく……責任の重みに緊張はするが、非常に有益な品であることもまた間違いない。

 託された以上は、取扱いには十分に気を付けつつも存分に活用するとしよう。

 

「おじいさんの言うとおり、使わなきゃ預けてもらった意味がないからね―――ー」

 

 ディーキンは人目がないのを確認すると、早速杖を握りしめてコマンドワードを唱えた……。

 

 

「……うん?」

 

 ディーキンが庭で馬の準備をしている仲間たちの元へ戻ると、人が一人増えていた。

 羽根帽子を被った、精悍な髭面の青年……。

 

(アア、この人が魔法衛士隊の隊長さんだね)

 

 先程学院長室で、アンリエッタとマザリーニから魔法衛士隊・グリフォン隊の隊長を同行させることにしたという話は聞いていた。

 ぶっちゃけオスマンに渡された杖の方が気になり過ぎて、その時はあんまり意識していなかったのだが……。

 

 ルイズは何やら頬を染め、もじもじしながらその男の傍に寄り添っていた。いつになく妙な態度だ。

 キュルケはそんなルイズの様子を横目に見ながら、何だか白けたような、つまらなさそうな顔で、爪などを弄っている。

 タバサは男など気にせず本を読んでいて、ディーキンが姿を現したときだけ顔を上げてそちらの方を見た。

 シエスタは唯一の平民として、忙しく皆が乗っていく馬の用意をして働いている。

 ギーシュはというと、彼女に敬意を払う一人の男として、進んでシエスタの仕事の手伝いをしていた。

 

 当の魔法衛士隊の男は、ディーキンがやってきたのに気が付くと彼の方に近づいて、気さくな感じで声をかけた。

 

「やあ、君がルイズの使い魔かい? 亜人とは珍しいな」

 

 ディーキンは男に丁寧にお辞儀をして、いつも通り挨拶をする。

 

「はじめまして、ディーキンはディーキンだよ。コボルドの詩人で冒険者、そしてルイズの使い魔をやってるの」

 

 男の方も帽子を取って、軽く挨拶を返した。

 

「女王陛下の魔法衛士隊、グリフォン隊隊長のワルド子爵だ。君は優秀な使い魔だそうだね、ぼくの婚約者がお世話になっているよ」

 

「どういたしましてなの。 ……ン、婚約者?」

 

「ああ。知らなかったのかい?」

 

 そう言うと、ワルドはルイズの肩にそっと手を置いた。

 ルイズはいっそう頬を赤くして、もじもじしている。

 

「オー……、そうだったの? 初めて知ったよ」

 

 ディーキンは目をぱちぱちさせて、首を傾げた。

 そう言えばこの間ルイズが作った幻覚の中にいた美青年に似ているようだ、あれは昔のこの男の姿なのだろう。

 人間の婚約なる制度には知識はあれど馴染みはないので、今ひとつピンとこなかったが……。

 

「さて、メンバーもそろったことだし、馬の準備もできたようだね」

 

 ワルドが口笛を吹くと、朝靄の中から一頭の幻獣が現れる。

 鷲の上半身に獅子の下半身という雄々しい姿形をしたそれは、グリフォンであった。

 フェイルーンにも同名でほぼ同じ姿をした魔獣がおり、召喚呪文の類で呼び出すこともできるので、ディーキンにも馴染みがある。

 ワルドはひらりとその背に飛び乗るとルイズを手招きし、彼女を抱きかかえるようにして一緒に跨らせた。

 

「では諸君! 出撃だ!」

 

 ワルドが杖を掲げてそう宣言し、グリフォンを駆け出させる。

 ギーシュがいささか感動したような面持ちでその後に続き、キュルケ、タバサ、シエスタも順々に出発した。

 ディーキンはというと馬には跨らず、自前の翼を羽ばたかせて飛び立った。

 そうしてタバサらの馬の速度に合わせて飛びながら、こっちを置いていきそうなほどやや過剰に速い速度で先頭を飛んでゆくワルドのグリフォンをじっと見つめる。

 

 頭の中では、つい先程オスマンから借り受けた杖を使って召喚したセレスチャルに頼んで使ってもらった、《神託(ディヴィネーション)》の文言について考えを巡らせていた。

 

(神託で気をつけろって言ってたのは、あの人のことなのかな……?)

 




サブライム・コード(崇高なる和音):
 バード系の上級クラスのひとつ。音楽と魔術を根を同じくする同一のものとみなし、歌のもたらす直観と天文学の数理的な知識とを等しく学ぶことで、時の曙に聞くことができたという伝説の創造の歌へ到る術を追い求める学徒たち。通常のバードより遥かに強力な呪文や呪歌を習得することができる。数あるバード系上級クラスの中でも実用性が高く、呪文能力を高めることにおいてはトップクラス。

リリック・ソーマタージ(歌う魔術師):
 バード系の上級クラスのひとつ。自らの魔術と音楽を共鳴させて和音となし、双方の効果を強くする術を学んだ者たち。バードよりも呪文能力を高めることに重点を置き、ウィザードやソーサラーの魔術も一部習得することができる。サブライム・コードよりも低レベルのうちからなることができるという利点があり、同様に実用性の高いクラスとみなされている。

フォクルーカン・ライアリスト(フォクルーカンの竪琴弾き):
 バード系の上級クラスのひとつ。極めて優れた人物だけがなることができるとされ、バードの知識、呪歌、秘術呪文に、ドルイドとしての信仰呪文、さらには剣技にまで長けるという超々万能型のクラスであり、極めれば文句なく強い。ただし前提条件が非常に厳しく、このクラスになって十分に能力を高めるまでの道のりが遠いのが難点。


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第九十一話 Along the way

 

「一体、何時間走り続ける気なんだ……」

 

 走る馬にぐったりともたれながらも、気力を振り絞って手綱だけはしっかりと握りつつ、ギーシュはぼやいた。

 魔法学院を出発して以来、ワルドは自分のグリフォンを全力ではないにせよかなりの勢いで飛ばせっぱなしなのである。

 

 元々グリフォンの方が馬よりも速い上に、空を飛べるのだから地形の影響も無視できる。

 したがってギーシュをはじめとする地上の同行者たちは、彼に付いていくためにかなり馬を急がせて無理をさせねばならなかった。

 もちろんディーキンは彼にロングビルから聞いた事柄を説明し、急いでもラ・ロシェールで足止めを食うだけだからもう少しペースを落としたら、と何度か提言したのだが……。

 彼はしばらくの間はわかったといっていくらか速度を落とすものの、いくらも経たないうちにまた元のペースに戻ってしまうのだ。

 

 とはいえ今の自分は国の一大事を担っているのだ、やたらに弱音を吐くわけにはいかない。

 それに、同じように馬で走っている少女らがいるというのに男の自分が真っ先に音を上げるわけにはいかないではないか。

 そう自分に言い聞かせて、ギーシュは頑張った。

 

 頑張ったのだが……。

 

 もう何時間経過したことか、乗っている馬の方がすっかりへたばってしまって途中の駅で2回も交換していた。

 これまでもたびたび遠乗りはしてきたが、こんなにも長い間休みなしで走り続けたことはない。

 だというのに、同行者たちはいまだに誰も、休憩しようとも言い出さないのである。

 

(どうなってるんだ、みんな化け物か。……それとも、ぼくが情けない男なだけなのか? くそっ……!)

 

 シエスタはさすがに自分のワルキューレを斬り倒したほどの使い手なだけあって鍛えられているようで、たまに息をついて額の汗をぬぐったりはしているがへばった様子はない。

 キュルケは……、ギーシュとしては正直彼女はわがままで気まぐれな女性という印象があったのだが、意外なことに走り通しさせられていることに文句も言わずにいる。

 とはいえ、たまにタバサに頼んで簡単な治癒の水魔法をかけてもらい、疲労を軽減してはいるようだったが。

 意外なことに、小柄な体格の上に本ばかり読んでいて体を鍛えているとも思えないタバサは、汗こそかいてはいるもののいつも通りの涼しげな顔でついてきていた。

 もしかしたら使うところが見えなかっただけで彼女もたまに自分に水魔法をかけたりしているのかもしれないが、それにしても……。

 

 ギーシュは自分もタバサに頼んで水魔法をかけてもらいたいとは思ったが、彼女は特に親しくもないどころかほとんど口をきいたこともない相手なので二の足を踏んでいた。

 それに、彼女のような小さな少女に泣きつくだなんて、自らを女性を守る薔薇の棘と自負している身としてはなんとも情けない気がしてなおさら言い出せない。

 

(ああ、ぼくにも水魔法が使えたらなあ……)

 

 いや、それよりも、愛しのモンモランシーが一緒にいてくれたら。

 彼女ならきっと、情けないわねと文句を言いながらも、優しく自分を癒やしてくれるに違いないのに。

 しかし彼女とはあの決闘騒ぎ以来、未だに関係を完全には修復できておらず……。

 

 そんなことを考えているうちにどんどん気分が沈んできて疲労感もどっと増し、いよいよ音を上げそうになったとき。

 

「……あの、ミスタ・グラモン。お疲れのようですが、大丈夫ですか?」

 

 しんがりを務めていたシエスタがギーシュの側に馬を寄せて、心配そうに声をかけた。

 

「も、もちろんさ。貴族たるもの大切な任務の折にこの程度で休んではいられないよ、ミス・シエスタ」

 

 ギーシュは慌てて体を起こすと、無理に背筋を伸ばして平気そうな顔を装う。

 これ幸いと休憩を提案すればよさそうなものなのだが、彼はいつだって、特に女の子の前では見栄を張りたい少年なのである。

 

 シエスタは目をしばたたかせてそんなギーシュの顔をじっと見つめ……、やがて、感心した様子で頷いた。

 

「ミスタ・グラモンは、やっぱり高貴な方ですね」

 

「え? はは、高貴だなんて大袈裟な……。貴族として当然の振る舞いというものさ」

 

 一瞬きょとんとした後で照れ笑いをしながらそういったギーシュに、シエスタはまじめな顔をして首を横に振った。

 

「謙遜されることはないです。ミスタはトリステインやアルビオンを救う使命のために、自分の辛さを隠して嘘をついていらっしゃいますわ。自分の利欲のためではないそのような嘘をつけることは、高貴ではないですか」

 

 シエスタはギーシュの嘘を見栄からくるものではなく、無欲さと自己犠牲の精神の表れと受け取ったようだ。

 いかにもパラディンらしいものの見方だといえよう。

 

「い、いやあ……。貴族なら誰だって、そのくらい……」

 

「それなら、貴族の方はみんな高貴なんですね。でも、それでミスタの振る舞いの価値が減ることにはなりませんわ」

 

 シエスタは微笑むと馬の上からぐっと手を伸ばして、僅かに顔を赤らめたギーシュの二の腕に優しく触れる。

 

「私にも、なにかお手伝いをさせてください――」

 

「ミ、ミス。何を?」

 

 ギーシュは戸惑ったような声を上げたが、じきにシエスタの手から、なにか温かいものが体に流れ込んでくるような感じのすることに気がついた。

 それに伴って疲労がはっきりと分かるほどに和らぎ、活力が湧いてくる。

 

 シエスタは数秒ほどそうしてから、今度は彼の乗る馬にも同じように手を当てて……、それから、元通りにゆっくりと馬を離れさせた。

 馬もギーシュと同じく、シエスタに触れられると目に見えて元気を取り戻したようだった。

 

 ギーシュは疲れが和らいだのを喜ぶことも忘れて、目を丸くしてシエスタの方を見つめる。

 

(いったい、今のは何だったんだ。ミス・シエスタは、ぼくに何をしてくれたんだ?)

 

 まさか、彼女はメイジだったのか?

 だが彼女は、杖らしきものは何も持っていないし、呪文を唱えた様子もなかった。

 それにさっきの感覚は、なんというか、モンモランシーが以前に何度かかけてくれた水魔法の感じとは違っていたような……。

 

 自分が疲れ切り、モンモランシーのことを思って落ち込んでいたちょうどその時に、彼女は優しい言葉をかけてくれた。

 そして、あの不思議な力……。

 

(ミス・シエスタこそ、もっとも高貴な女性だ)

 

 彼女こそ、本物のワルキューレだ。

 いや、むしろ天使だという方が合っているかも知れない。

 

 ギーシュは少々オーバーなほどに感動して、そんなことまで考え始めていた。

 まあ、まったくの間違いとも言い切れないのだが……。

 

 そう考えていたちょうどその時、今度は背中にこつん、となにか堅いものが当てられた。

 そこから、馴染みのある水魔法の『治癒』の効力が流れ込んできて、体の疲れがさらに軽減される。

 

「……お、おっ? モ、モンモランシー!?」

 

 もちろん彼女が今ここにいるはずもないのだが、ぎくりとして反射的にそう言ってしまう。

 ちょっと前までしみじみと思い浮かべて恋しがっていた彼女の事などすっかり忘れて、今度はうっとりとシエスタのことを考えていたので、何となく後ろめたかったのである。

 それにモンモランシーは、あれでかなりのやきもち焼きなのだ。

 

「違う」

 

「この子があのモンモランシーに見えたっていうのなら、あんた相当に疲れてるわね」

 

 シエスタとのやりとりの様子からギーシュが相当疲れているらしいことを察し、今さらながら彼の方に馬を寄せて杖を伸ばし、水魔法をかけてやったのは言うまでもなくタバサであった。

 キュルケも彼女の横に並走していて、呆れたようにギーシュの方を見ている。

 

「疲れてるなら、早めに言って」

 

「そうよ、あんたに途中でぶっ倒れられでもしたら余計に迷惑だわ。今さら変に格好をつけてみたって、私たちはあんたが背伸びする気取り屋なんだってことはよおくわかってるわよ?」

 

「せっ、背伸びする気取り屋とはなんだ! ぼくはだね……」

 

 抗議しようとするギーシュに向けて、キュルケは肩をすくめてからかうような笑みを浮かべた。

 

「別に無理しなくたって、あんたはそのままでも割といい男よ? もっとありのままの自分でぶつかった方が、きっとモンモランシーにも気に入られるわ」

 

 あの子の予約済みじゃなきゃ一度くらい部屋に呼んであげてもいいんだけどねえ? ……などと、ついでに悪戯っぽく付け加える。

 

「な、なっ……。か、勘違いしないでくれ、予約済みなどと、彼女とはそんな……」

 

「あら。それって、私の部屋に呼んで欲しいってことかしら?」

 

「そ、そんなことは言っていない!」

 

「ふうん……。それって、私は一緒に寝たくなるような魅力のない女ってことかしら。女性に対してあんまり失礼じゃありませんこと、ジェントルマン?」

 

「い、いや、それは、そういうわけではなく……」

 

 キュルケはそんな感じで、顔を赤くしながらしどろもどろにあれこれ弁明するギーシュを流し目を送ったりしなを作ったりしてさんざんにからかってやった。

 

「……ま、冗談はおいといて。すっかり元気になったみたいじゃないの、それじゃあ一緒にもうひとがんばりしましょ?」

 

「疲れたら、すぐ呼ぶ」

 

 2人は最後にそう言って、一緒に彼から離れていった。

 

「……あ、ありがとう、レディ達……」

 

 ギーシュは、先ほどまで疲れ切って落ち込んでいた心身が嘘のように軽くなったのに気が付いていた。

 正直なところ、これまでタバサやキュルケにはあまり良い印象を持っていなかったのだが、その印象はこの短時間でがらりと変わった。

 

(ああ、この旅の仲間はみんな温かい人ばかりだなあ……)

 

 これから危険な戦地へ赴くにもかかわらず、ギーシュは自分は幸福者だと、心からそう思った。

 なんかもうモンモランシーのこととかすっかり頭の中から飛んでいるようだが、旅が終わって学院へ帰ったら元に戻るだろう、きっと。

 

 

 

「それにしても、ディー君は全然こっちに来ないわね。グリフォンの方を気にしてるみたいだけど……」

 

 キュルケは汗を拭きながら、上空に目をやった。

 あいも変わらずワルドは自分の愛騎を快速で飛ばせ続けており、ディーキンは自前の翼で、その後ろに少し離れてついていっている。

 馬でも交換しなくてはいけなくなっているくらいだというのに、2人ともえらくタフである……ワルドに関しては、本人よりもグリフォンを褒めるべきなのだろうが。

 

 まあそれはいいとしても、ディーキンが出発してからほとんど下の方に降りてこないのが、キュルケには少し意外だった。

 この間のフーケ騒動の時も、彼は馬車の中でよく話したり音楽をやったりして皆を和ませていたのに。

 

「……あの男がいきなり出てきて、婚約者だとか言ってルイズにべったりなのが気にいらないのかしら? ディー君も、かわいい嫉妬くらいはすることもあるでしょうし……」

 

 キュルケが首を傾げてそう呟くと、タバサが口を挟んだ。

 

「違う。あの人には、何か考えがあるはず」

 

 その言葉の調子が何やらむっつりしたような、自分に言い聞かせているような感じに思えて、キュルケは思わずくすりと笑った。

 

(この子が、こんなやきもきした様子を見せるなんてね)

 

 少し前までは、考えられもしなかったことである。

 

 まあ、それはさておいて……。

 実際のところ、確かにディーキンはルイズの方を不自然に気にし過ぎているように思える。

 タバサの言うように、何か理由があるのだろうか?

 

(……ま、あんな男が自分の主人と一緒にいたんじゃ、心配するのも無理はないかしら?)

 

 今朝あの男が同行者として姿を現したときには、昨夜アタックしようと考えていたのもあって意気込んで誘惑してみたものだが……。

 まったく自分になびかない上にルイズの婚約者だと聞かされ、何よりも近くで見るとその瞳の奥の光が妙に冷たいことに気がついて、すっかり興味が失せてしまったのである。

 

 ルイズと昔婚約したという頃には、あの男ももっと優しい目をしていたのだろうか。

 あるいは今でも、あの男はルイズに対してならばもっと違う目を向けるのだろうか。

 そこまではキュルケにも何とも言えないが、ディーキンもあの男の快活そうで如才のない態度と不釣り合いな笑っていない冷たい目に気がついていたのだとしたら、そんな男が主人に近づくのに危機感を覚えるのはわからないでもない。

 

 まあなんにせよ、詮索は気が向いたら後でいくらでもできるだろう。

 キュルケはそう結論してとりとめのない思考を追い払うと、馬を走らせるのに気持ちを集中し直した。

 今はさっさとラ・ロシェールへ着きたいものだ、いくらタバサに疲労を軽減してもらっているとはいえ、このままでは集中が切れてそのうち馬から落ちてしまいそうである……。

 

 

「……ちょっとワルド、速すぎない? ディーキンはともかく、下のみんなは水魔法に頼らなきゃいけないくらい疲れてるみたいよ」

 

 ワルドに抱かれるようにして彼の前の方に座ったルイズが、肩越しに下の様子を心配そうに……そして少しばかり羨ましそうに見ながら、そういった。

 最初のうちはルイズはワルドに対して丁重な口調で接していたのだが、彼が他人行儀なのは止めてほしいと頼んできたのもあって、飛びながら雑談を交わすうちに今のくだけた口調に変わっていた。

 

 ワルドはルイズの提言を受けて下で労い合いながら走っているギーシュらの様子を窺ったが、グリフォンの速度を落とす気配はない。

 

「もし彼らが途中でへばるようなら、置いていけばいい」

 

 ルイズはワルドの返事を聞くと、怪訝そうに眉をひそめた。

 

「そんなわけにはいかないわ、みんな仲間なのよ」

 

「しかし、ラ・ロシェールまでは止まらずに行きたいんだが……」

 

「無理よ、馬だと普通は二日はかかる距離なのよ。それに、そんなに無理をしてまで急がなくていいってディーキンも言ってたじゃない」

 

 ワルドは翼を羽ばたかせてついてくる小さな亜人の姿をちらりと見て肩を竦めると、諭すように言った。

 

「ルイズ、これは大切な任務だ。使用人を連れていかなければ、なんて贅沢をいうわけにはいかない。和やかな旅行気分でいてついてこれない者も置いていくしかないし、途中で何があって予定が狂うかわからないのだから急げるときは急いでおいた方がいい。それに、見たところ彼は亜人で、しかも子どもじゃないか。こういってはなんだが、人間の街に関する彼の情報が間違っていないとも限らないだろう?」

 

 それを聞いたルイズは、少しむっとした様子で首を振った。

 

「別に、シエスタは使用人として連れて行くわけじゃないわ。彼女も立候補者よ。それに、あなたは私の仲間たちがどれだけ頼りになるか知らないんだわ」

 

 特に、ディーキンのことはね。とルイズが付け加えたのを聞いて首を傾げると、ワルドは手綱を握った手でルイズの肩をそっと抱いた。

 

「……そうか、ルイズ。君は自分の仲間や使い魔をずいぶんと信頼しているんだね、メイジの鑑だ。しかし、どんなに信頼できる者であっても間違いや失敗がないとは言えないよ。ぼくとしては、万が一ということもないようにしておきたいんだ」

 

「そ、それはまあ、そうかもしれないけど……」

 

 ワルドに肩を抱かれながら、ルイズは困ったように俯いた。

 

 確かに貴族としては万全を期して、余裕があろうがなかろうが、自分たちの身を顧みずに生真面目に急ぎ続けるべきなのかもしれない。

 しかし、フーケ騒動の時、ディーキンは道中娯楽や雑談で場を和やかにして、仲間たちをリラックスさせていた。

 無用に気を張り詰めすぎても、肝心な時に疲れ切ってかえって上手くいかないのではないか。

 ここ最近の経験からルイズはそう思ったが、確かにワルドの意見にも一理ある。

 それに彼は自分よりもずっと経験豊かな魔法衛士隊の隊長なのだから、あまり強く反論もできまい。

 

 そう自分に言い聞かせては見たものの……、やはり、どうにも納得がいかない。

 仲間たちがついてこれなくてもいいだなんて、ディーキンなら絶対にそんなことは言わないだろうに……。

 そんな風に思っていると、ワルドが自分の肩を抱いたまま、朗らかに笑いながら話しかけてきた。

 

「はは……、すまない、厳しいことばかり言って。僕のことを嫌いになっていなければいいんだが」

 

「そんなことくらいで、嫌いになるわけないでしょ」

 

 ルイズは少し照れたように笑いながら、肩を竦めてそう答えた。

 

 確かに、ルイズにとって彼は、ちょっと意見を違えたくらいで嫌いになってしまうような相手ではなかった。

 幼い頃に両親に叱られて、隠れて泣いていた自分をいつも迎えに来てくれた優しい人。

 憧れの人で、家族の一員みたいなものだった。

 そして彼の言うとおり、親同士の決めた婚約者……その意味は、当時はまだよくわかってはいなかったが……でもあったのだ。

 

「そうかい? 昔のきみは僕がちょっと注意したりすると、すぐに拗ねて嫌いだっていったよ」

 

「私はもう、そんなすぐに拗ねるような小さい子じゃないのよ」

 

 ルイズは頬を膨らませて抗議した。

 

「僕にとっては、未だに小さな女の子だよ」

 

 ワルドはそれから、懐かしそうに自分のことを語り始めた。

 

 父がランスの戦で戦死してから、すぐに領地と爵位を相続して街へ出たこと。

 立派な貴族になろうと魔法衛士隊で苦労して、若くして隊長の地位にまで上り詰めたこと。

 そして、その間も婚約者であるルイズの事はずっと忘れておらず、いつか迎えに来ようと思っていたこと……。

 

「まさか、冗談でしょう? 私みたいなちっぽけな婚約者を相手にしなくても、今のあなたは魔法衛士隊の隊長なんだから他にいくらでも――――」

 

 困惑してそう言ったルイズに対して首を横に振ると、ワルドは静かに語り続ける。

 

「この旅はいい機会だ。なに、しばらく一緒に旅を続ければ、またあの懐かしい気持ちになってくれると信じているよ」

 

「……」

 

 ルイズはどう答えていいのかもわからず、押し黙ったままワルドの腕の中で身じろぎをした。

 

 十年も前に別れて以来、ワルドにはほとんど会うこともなく、彼はとうに遠い思い出の中の憧れの人になっていた。

 実際、先日ふと思い浮かべた幼い頃の屋敷の様子を『幻覚』として再現するまでは、ほとんど思い出すことも無かったのである。

 ところが昨日思いもかけずに彼の姿を見かけたものだから、激しく動揺して半日もぼうっと物思いに耽ってしまったのだ。

 

(私は、ワルドのことを好きなのかしら……?)

 

 嫌いでないのは間違いない。

 だが、結婚したいほど好きなのかと言われると……。

 昔のいい思い出だったはずの人からいきなり婚約者だ結婚だなんて言われても、正直言って実感が湧かず、よくわからなかった。

 

(だけど、何もこんな時に言わなくてもいいじゃない)

 

 さっきは、和やかな旅行気分でいる下の仲間たちは置いていかれても仕方ない、大事な任務だから余裕があっても急がなきゃいけない、なんて言っていたくせに。

 当の自分はこの旅がいい機会だなどと言って、旅行気分でのんびりと婚約者を口説くだなんて、魔法衛士隊の隊長ともあろう者がそんな事でいいのだろうか。

 それほど自分を特別に大事に思ってくれているのだという好意的な解釈もできなくはないが、どうにもそんな風には思えなかった。

 

「……はあ……」

 

 幼い頃に憧れていた婚約者の腕の中だというのに、なんだか居心地が悪い。

 できることなら自分も好きな馬に乗って、ディーキンやシエスタらと労い合いながら和やかな旅をしたいものだ、と思った。

 

 

 

(ちっ……。学生と平民の割には、ずいぶんと頑張ってついてくるものだな)

 

 表向きはルイズと和やかに話しながらも、ワルドは内心で舌打ちをしていた。

 

 彼からしてみれば、この旅には自分とルイズさえいれば十分だった。

 下を走っている同行者は、実戦経験などないであろう学生メイジが3人と、あろうことか平民のメイドが1人である。

 どう考えても戦場などには連れていくだけ足手まといでしかあるまい、邪魔だ。

 ルイズの使い魔だという亜人には興味はあるが……、所詮は子供とはいえ僅かなりとも不確定要素になる可能性がある以上、それもいなければいないにこしたことはない。

 

 グリフォンを飛ばせば途中で疲れ切って次々に脱落していくだろうと思っていたのだが、予想外に粘る。

 平民も含め、誰一人脱落しないとは……。

 

(まあいい、こういう時のために雇っておいた連中がいるさ)

 

 平民とはいえ戦いに慣れた傭兵どもである、学生メイジの2、3人程度を屠るのはわけもあるまい。

 ついでに連中を退けてみせれば、ルイズから自分への好感度も上がるというものだろう。

 

 使い魔の亜人まで屠れるかどうかはわからないが、もし屠れたならそれまでのこと。

 平民の傭兵ごときに歯が立たない“伝説”に用はない。

 逆に勝てるようならば、その力は後々こちらの役に立てられるかもしれぬ……。

 

(さっさと脱落しておけば、死なずに済んだものを!)

 

 ワルドは身の程も弁えずに戦場にいこうなどと考えた下の同行者たちに、嘲りと憐れみの入り混じったような視線をちらりと向けた。

 

 そろそろラ・ロシェールが近い。

 その直前のあたりで、ようやく着いたと気が緩んだところを夜陰に紛れて襲いかからせる手はずだ。

 あの無邪気な学生どもの命も、あと僅かである……。

 

 

(ウーン……)

 

 ディーキンは前方を飛ぶグリフォンの様子を窺いながら、周囲の警戒をしつつ空を飛んでいた。

 

 彼が道中で下へ降りていってタバサらと話したりしなかったのは、ルイズを抱きかかえているワルドが要警戒対象かもしれないという《神託》を事前に受けていたので念のため様子を窺い続けていたのと、周囲の様子に目を光らせていたのとのためである。

 特に暗くなってきてからは暗視と夜目の利く自分があたりをしっかりと警戒しておかなくてはいけないということは、冒険者としての経験から彼にはよくわかっていた。

 

 幸い道中では何も起きることはなく、そろそろラ・ロシェールが見えてきた。

 月夜に浮かぶ険しい岩山の中を縫うようにして進むと、峡谷に挟まれるようにして街があった。

 街道沿いに、岩をうがって造られたと思しき建物が並んでいる……。

 

「……!」

 

 その時ディーキンは、前方に不審な様子があるのに気が付いた。

 

「みんな、止まって!」

 

 鋭く警告を発すると、素早く弓を抜き、矢をつがえて、右手前の崖の上の方に向けて立て続けに放っていく。

 

「ぎゃっ!」「げっ!?」「な、何だぁ?!」

 

 矢の放たれたあたりから、次々に男たちの悲鳴が上がった。

 ワルドの雇った手勢である彼らはそこで奇襲をかけようと待ち伏せをしていたのだが、夜目の利くディーキンが奇襲が開始されるよりも先にその姿を発見したのだ。

 

 一手遅れて、彼らの方からもギーシュらの乗る馬に向けて松明が何本か投げられ、それを目印に矢が放たれる。

 空中にいるディーキンやワルドのグリフォンにも、矢が射かけられた。

 

 だが、奇襲の目論見が崩れた時点で傭兵たちに勝ち目はなかった。

 タバサは警告を受けるや即座に迎撃の準備に入っていたし、フーケの騒動やタバサの屋敷での探索から経験を積んでいた他の少女らもそれに僅かに遅れただけでほとんど遅滞なく対応していた。

 最も経験のないギーシュでさえ、彼女らの冷静な対応を見て落ち着いたのか、パニックに陥ることなくそれに続いた。

 

 ギーシュのワルキューレが壁となって矢から地上の仲間たちの身を守り、タバサの風が上空にいるディーキンを狙う矢を反らす。

 キュルケの炎弾が崖の上にめくら撃ちで飛び込んで牽制すると同時に明かりとなって傭兵たちの所在を照らし出し、そこへルイズの爆発と、シエスタの装填したクロスボウの矢、それにディーキンの更なる矢弾が撃ちこまれる……。

 

 そうして大した時間も経たずに、傭兵たちは無力化された。

 ワルドが状況を見定めて介入するだけの暇も無く、ルイズらの側には怪我人は1人も出ずに済んだ。

 傭兵たちの側も、殺さずに無力化するだけの余裕がルイズらにあったために腕や足をやられた程度で死人は出ていなかった。

 

 

 

(ええい、なんという不甲斐のない! 高い前払い金を受け取っておきながら、揃いも揃って屑どもが……!)

 

 ワルドは同行者たちの手並みに感心したというような風を装いながらも、内心では傭兵たちをこっぴどく罵っていたが、単に彼らが情けないというだけではないこともまた認めざるを得なかった。

 

 この連中はただの学生メイジや平民のメイドではない、どこで経験を積んだのか知らないが妙に戦い慣れしている。

 それに、あの亜人の使い魔……。

 

(弓矢という“武器”をあれほど巧みに扱うということは、奴はやはり『ガンダールヴ』! 勇猛果敢な神の盾、か……)

 

 所詮は学生や平民に、亜人で伝説の使い魔だとはいえ子供……自分の敵ではないが。

 とはいえ、油断のならぬ相手にも違いない。

 

 傭兵たちは最初はただの物取りだと主張していたが、例によってディーキンが<交渉>にあたり、じきに仮面をつけたメイジに雇われて自分たちを狙ったということを聞き出した。

 ワルドは自分たちには任務があるのだから捨て置こうと言ってはみたものの、ラ・ロシェールの街は目の前だしまだ時間にも余裕はあるのだからそこまで連行して官憲に引き渡せばいいだろうということで他の全員の意見が一致したため、しぶしぶ同意する。

 もちろん重要な話など雇われの傭兵風情に漏らしてはいないが、とはいえ連中が官憲に尋問されて更なる情報が引き出されるのはあまり望ましいことではなかった。

 

 これは思ったよりも面倒なことになったかもしれぬと、ワルドは密かに舌打ちをした……。

 





癒しの手(Lay On Hands):
 2レベル以上かつ、【魅力】が12以上あるパラディンは、超常の力によって自分や他人の傷を接触しただけで癒したり、疲れを取り除いたりすることができる。高レベルであるほど、また【魅力】が高いほど、1日あたりに回復できるヒット・ポイントの総量が多くなる。この能力はアンデッド・クリーチャーにダメージを与えるために使うこともできる。


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第九十二話 Love me

 一行はラ・ロシェールにつくと、さっそく衛士の詰め所へ向かって、先刻襲撃してきた狼藉者どもを事情を話して引き渡した。

 その際に一応、今夜はアルビオンへ向かう船は出ないだろうかとも問い合わせてみたが、事前にロングビルから聞いていた情報が正しかったということが確認できただけだった。

 やはり、今日明日はアルビオンへ向かう船は出ないのだという。

 

 明後日までアルビオンに向かえない以上、今夜と明日とはこの街でゆっくりと疲れを癒やして英気を養っておこうということで、一行は宿を探すことにした。

 幸いなことに十分な空き部屋のある宿がすぐに見つかったので、そこに部屋を取ることに決める。

 だが、その店……『女神の杵』亭と呼ばれる、貴族向けの高級宿……の非常に豪奢な内装を見て、平民であるシエスタは気後れしたようだった。

 

「わ、私にはこんな高級なところはもったいないです。お金もあんまりないですし。私は、もっと安いところで……」

 

 なんでしたら馬小屋でもかまいませんから、というシエスタの言葉を受けて、ワルドが頷いた。

 

「ふむ、もっともだ。では、君にはよそで泊まってもらうことにしよう」

 

 一般的な貴族の感覚からしてみれば、平民が貴族用の宿に泊まるのを辞退するのは当然のことだった。それにワルドにとって彼女はまったく関心外の存在であって、どこに泊まろうと知ったことではない。

 しかし、それには彼とシエスタ以外の全員が反対した。

 

「ワルド……。いくら相手が平民だからって、本気で『馬小屋に泊まる』なんていってる女の子を引き留めもせずに出て行かせる気なの?」

 

「子爵。レディーに、それもミス・シエスタのような女性に粗末な寝屋をあてがうくらいなら、ぼくが部屋を譲ってそこへ泊まりましょう」

 

「イヤ、2人ともここに泊まった方がいいんじゃないかな。ディーキンたちは誰かに狙われてるみたいなんだから、分かれたりしないでみんなで固まってた方がいいでしょ?」

 

「ディー君の言うとおりだわ。なによ、あなたの宿代くらい、心配しなくても私が持ってあげるわよ」

 

「一緒に命をかけた仲に、貴族も平民もない」

 

 皆の言葉を聞いて、シエスタは感動したような面持ちになった。

 

「み、皆さん……。ありがとうございます!」

 

「……はは、そうか。いや、これはまったくだ。すまない、どうやら僕の配慮が足りなかったようだね――」

 

 ワルドは朗らかに笑って皆に同意しはしたものの、内心ではやや困惑していた。

 

(こいつらは、なぜ平民のメイドなどをここまで厚遇しているのだ? 揃いも揃って……)

 

 最初はてっきり、戦場へ向かうというのに日常の感覚が抜けないお気楽な学生貴族どもが、身の回りの世話をさせるために学院のメイドを連れてきたのだとばかり思っていた。

 しかし、道中でルイズは使用人として連れてきたのではないといって否定し、今もまたこうして妙に良い扱いを受けている様子だ。

 

 もちろん貴族と平民といえども、長年にわたって家族同然のつきあいであるとか、個人的な恩義があるなどで、身分の差を超えて親しくしているというケースはままある。

 だが、誰か一人だけというのならともかく、全員が全員そうだというのが解せない。

 

(そういえば、あの青髪の小娘が先程、一緒に命をかけた仲だとか言っていたか……)

 

 もしや、こいつらが学生やメイドの割に妙に戦い慣れしていることとも何か関係があるのだろうか?

 

(……ふん。まあ、どうでもいいがな)

 

 ワルドは少し思案を巡らせてみたものの、じきに無用な詮索だと結論した。

 気にはなるが、使用人と学生どもとの内輪の事情など、結局は自分には無関係なことでしかないのだ。

 あとで機会があればルイズから聞き出しておく程度でよかろうと考えをまとめると、小さく咳払いをして気を取り直し、宿の部屋割りを提案する。

 

「では、全員で泊まるということで、2人部屋を3つ取ることにしよう。キュルケとタバサ、ギーシュと使い魔君が相部屋だ。婚約者のルイズと僕が同室、あとはメイドの君が一人部屋で……」

 

 その言葉を聞いて、ルイズがぎょっとしたような顔で彼の方を向いた。

 

「ちょ、ちょっと、ワルド? 私とあなたが同室なんて、その……。結婚してもいないのに、ダメよ!」

 

 ワルドは首を振って、ルイズを見つめる。

 

「大事な話があるんだ。2人きりで話したい」

 

「……だ、だって――」

 

 そりゃあ、あなたは私の憧れの人だったし、小さい頃には親同士の約束で婚約もしていたかもしれないけど……。

 もう小さな子どもでもないのに、同室で寝るだなんてできるわけがないでしょう。

 だって、私とあなたとは十年も会わずにいて、今日の朝になってようやく再会したばかりじゃないの。

 

 ルイズがそう反論しようと口を開き掛けたところに、ディーキンが横槍を入れた。

 

「ンー、ワルドお兄さん?」

 

 話に割り込まれたワルドは、やや不機嫌そうに顔をしかめる。

 

「……なんだね、使い魔君」

 

「ええと、ディーキンには、人間の婚約者とかのことはよくわからないけど……。さっきのみんな同じ宿にしようっていうのは、敵が来るかもしれないから用心のためにってことなの。だから2人よりも、もっと大勢で同じ部屋に泊まった方がいいんじゃないかな?」

 

 冒険者は普通性別などをあまり意識せず、あらかじめ危険が予想される場合にはとにかく夜寝るときには単独でいることは避けて、なるべく大勢で固まっておくというのが一般的である。交代で見張りを立てることも多い。

 傭兵を雇ってこちらを襲撃させるような敵がいることが分かった以上、2人ずつという少人数に分かれてしまうのでは心もとない。

 ましてやシエスタが一人部屋だというのでは、彼女を同じ宿にしてもらった意味がほとんどないではないか。

 

 それに口には出さなかったが、危険な相手かも知れないワルドをルイズと2人だけで一晩同じ部屋にいさせるというのも、ディーキンとしては当然避けたいところであった。

 まあ、彼女1人を害したところで今回の任務を阻止できるわけでもないし、尻尾を出してしまうことにもなる。

 だからたとえワルドが黒だったとしてもルイズが部屋で襲われるとはあまり思ってはいないが……、たとえそうであるにしても、一応の警戒は必要だろう。

 

「確かに、寝るときにはできるだけ大勢でいた方がいい。全員で一部屋でも私は構わない」

 

 タバサがディーキンに同意してそう言うと、キュルケも皮肉っぽい笑みを浮かべて肩を竦めながら賛意を示した。

 

「そうよね、私も別に構わないけど。まあさすがに男女は分けるにしても、大部屋2つでいいんじゃない? 何かは知りませんけれど、お国のための大事な任務の最中でも2人きりで話さなきゃいけないような私事が隊長殿にあるっていうのなら、店に頼んでその時だけ別の空き部屋を貸してもらえば済むことだわ」

 

 ワルドは顔をしかめて同行者たちの様子を窺ってみたが、自分の提案に賛成してくれそうな者がいないのを見てとるとしぶしぶ頷いた。

 

「……そうか、ではそうしよう。大部屋を2部屋とって男女で分かれる。それとは別に空き部屋をひとつ借りるから、ルイズは後でそこへ来てほしい」

 

「ええ、それなら……」

 

 単に話をするだけなら断る理由も無いので、今度はルイズも素直に頷く。

 

 それから全員で軽い食事をとり、それが済んでワルドとルイズが連れ立って上にいくのを確認すると、ディーキンは念のために話の間部屋の前で見張りをしておくといって後に続いた。その際、タバサとキュルケにも同行を頼んでおく。

 シエスタとギーシュ、それについ先程街へ到着して主と再会したヴェルダンデには、万が一襲撃があった場合に備えて他の客や店員たちと一緒に下の酒場にいてもらうことにした。その間は酒場のマスターや客たちからアルビオンの情勢に関する情報収集などをできる範囲でしておいてもらえば、無駄がなくて済むことだろう。借りた部屋に行って寝るのは、メンバーが戻って来て合流してからだ。

 幸いこの宿は主として貴族の客を相手にしているので使い魔の類も部屋に入れてよいとのことで、溺愛するヴェルダンデとも一緒に寝られるとあってギーシュは喜んでいた。

 

 

 しばしの後、ワルドらの入った部屋の前で、ディーキン、タバサ、キュルケの3人は筆談をしていた。

 耳の良い『風』のメイジであるワルドに、万が一にも聞かれないためである。

 

“確かにあの男は怪しい”

 

“同感ね”

 

“うーん、2人もそう思うの?”

 

 ディーキンは、『もしかするとワルドは敵かもしれない』という情報を早めに仲間と共有しておく必要を感じて、一番話が通りやすそうなキュルケとタバサに声をかけたのだが……。

 そのことを持ち出してみると、どうやら彼女らの方もすでにワルドに疑念を抱いていたらしいことが分かった。

 

 この旅に行くことは昨夜決まったばかりだというのに、敵がこちらの行き先に傭兵を雇って待ち伏せさせていたというのが普通に考えておかしい、と2人は気付いたのだ。

 そんなに早く情報が漏れているということは、トリステイン宮廷の内部、それも王女に同行して学院にきた者たちの中に敵の内通者がいる可能性が高い。

 してみると、王女自身と彼女に付き添って話を持ち込んできた枢機卿はまあ違うだろうから、最も怪しいのは当日の朝になって急に自分たちに同行することが決まった魔法衛士隊の隊長殿である。

 

“オオ……、そうだね。2人は頭いいの”

 

 ディーキンは彼女らの考察を聞いて感嘆しきりだった。

 占術に頼らなければ、自分は現時点でワルドをさして疑わしいとは思っていなかったに違いない。それに比べて、彼女らの洞察力はまったく鋭いものだ。

 

“それほどでもない”

 

“そうそう。別に、あの男が気に入らなかったから注意してただけよ、私たちは”

 

 そう、根本的なことを言えば、ワルドの朗らかな態度とは不釣り合いな冷たい目や同行者に対する配慮の欠片もない旅路での飛ばし方などが彼に対する心証をすこぶる悪くさせたことが、彼女らに疑いを抱かせたそもそものきっかけだったのだ。

 キュルケは元よりタバサにしても、ルイズとのおしゃべりにばかりかまけて女性も混じっている地上の同行者たちをろくに気遣いもせず、半日も馬で走らせ続けるような男に対しては不愉快にもなろうというものである。

 誰だって、好意を持っている相手のことはあまり疑おうとは思わないし、逆に嫌いな相手のことは必要以上に粗探しをしたくなるだろう。

 魔法衛士隊の隊長ともあろうものが、つい先程実際に襲われ、宿決めの件でもディーキンが夜襲の危険性を指摘したばかりだというのに、それをまるで考慮してないように部屋割りでシエスタを一人部屋にしようとしたり、ルイズと相部屋で大事な話をしたいなどと場違いなことを言い出したりするあたりも気に食わなかった。

 まるで夜襲を手助けするかのような、あるいは今夜は夜襲などないのだと“知っている”かのような態度ではないか……。

 

 結局のところ、ワルドは表面上はいい顔をしてはいたものの、実際は他人に対する気遣いなどない男だということをその振る舞いで露呈させてしまっていたのである。

 利己的な悪人が利他的な善人を装おうとしてみても、付け焼刃では言動や態度の端々から本性がにじみ出て、なかなか上手くはいかないものなのだ。

 

 3人はそうしてお互いのワルドに対する疑念を確認し合うと、これからの行動方針について相談していった。

 

 とりあえず、疑わしくはあるものの彼が黒だと確定されたわけでもないし、仮にもルイズの婚約者だというのだから、現状では3人で協力してそれとなく見張っておくに留めようということでほどなく意見がまとまった。

 他の3人にはこのことについては当面伝えないでおこうというのも、同時に取り決める。

 ルイズに対して確定してもいない婚約者への疑念などを伝えるのははばかられるし、彼女は隠し事も苦手そうである。

 ギーシュについても同様だ。信頼はおける男だと思うが、やはり隠し事が得意そうには見えない。

 

 シエスタは……、彼女はパラディンなのだから、同行者があるいは敵であり悪であるかも知れない、などということはむやみに知らせない方がいいだろう。

 そんな疑念を伝えれば彼女は《悪の感知(ディテクト・イーヴル)》を用いてその事を確認しないわけにはいかなくなるだろうし、そうすると話が早いといえば早いものの、一触即発の事態を招きかねない。

 パラディンは改悛に向けて努力している者や、改心させるためにあえて同道させている者を別とすれば、悪だと知っている相手と仲間として同行することは戒律上許されないのだ。

 それに、仮に彼女に調べてもらった結果ワルドが悪だったとしても、それで彼が利己的で信頼できない相手だとはわかるだろうが、確実に敵だと決まるわけではない。悪人ではあっても今回の任務に関しては別に裏表はなく、味方には違いないかもしれないのだ。

 逆に言うと、仮に彼が悪ではなかったとしても、だからといって間違いなく味方だとも限らないのである。中立の属性の犯罪者や革命家などいくらでもいるのだから。

 したがって、彼女に調べてもらって一安心というわけにはいかない以上、伝えても事態をややこしくするだけであまり意味があるまい。

 

 ディーキンはそれから、明日の間にこの街で情報収集をしておきたいからその時には協力をして欲しいと2人に頼んでおいた。

 本当なら今夜のうちから酒場などを渡り歩いて行うつもりでいたのだが、襲撃の件などを考え、今夜は警戒に努めて明日に回すことにしたのである。

 彼女らはすぐに快諾してくれた。

 

“私は、いつでもあなたの力になる”“2人のお邪魔でなければ、もちろんご一緒したいわね”

 

 そんなこんなで話し合っておくべきことがあらかた済むと、3人は下から持ってきた飲食物などを軽くつまみながら、ルイズらが部屋から出てくるのを待った。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 一時的に借りた2人部屋に入ると、ワルドはルイズと向かい合って机につき、まずはワインを勧めた。

 2人に、と言って陶器のグラスを掲げたワルドに、ルイズは微かに顔をしかめたものの黙ってグラスを差し出して乾杯に応じる。

 

「しかし、ずいぶんと大変な仕事を申し出たそうだね。姫殿下は、最低限ウェールズ皇太子へ手紙を届ければよい、とは言っておられたが」

 

「……ええ、そうね。とても難しいことでしょうね……」

 

 確かに、冷静に考えてみればおよそ無茶苦茶な話だった。

 余所者がもはや戦の趨勢が決したアルビオンの戦場へ向かい、情勢を確かめた上で両軍に戦争を終わらせるために何ができるのかを模索するだなどと。

 それでも、ディーキンの自信に満ちた……というか、楽しみだというように顔を輝かせたあの姿を見ていると、彼ならなんとかしてくれそうな気がしてしまう。

 戦争のなんたるかもしらない世間知らずな子供が夢を見ているだけ、と彼を召喚したばかりの頃の自分なら思ったかもしれないが……。

 

「いや、誰にでも言えることじゃないよ。さすがは僕の婚約者だ」

 

 そう言われて、ルイズは内心で苦笑した。

 どうやらワルドは、この仕事を申し出たのは自分だと思っているらしい。

 一瞬誤解を訂正しようかとも思ったが、少し考えて、まあいいか、と思い直した。

 経緯の説明が面倒だし、第一使い魔の亜人がそんなことを言い出したなどと説明しても、信じてもらえるかどうか。

 彼に黙っておいたからと言って、別にディーキンの手柄を横取りするようなことになるわけでもあるまい。

 

 そうして俯き加減で押し黙ったまま、少し微笑んだような顔をしているルイズを、ワルドは興味深そうに見つめた。

 

「誇らしいだろうね……いくらか妥協する必要は出てくるだろうし、危険も大きいが。大丈夫、きっとなにがしかの成果を上げて戻れるさ。なにせ、僕がついているんだから」

 

「そうね、あなたは昔からとても頼もしかったものね。それに、私の仲間たちもいるもの。きっと何かができるわ」

 

 ルイズは顔を上げると、そう言って力強く頷いた。

 ワルドも表向きは朗らかな顔で頷き返す……が、内心では少々顔をしかめていた。

 

(また仲間たち、か。ずいぶんとあの連中を信頼しているようだな)

 

 かつてはすっかり自分に懐いて依存していた彼女のこと、すぐになびかせられると思っていたのだが、どうも反応が鈍い。

 離れていた期間が長いのもあるだろうが、どうやらあの仲間たち……特に使い魔であるあの『ガンダールヴ』に対する信頼が大きな原因のひとつだと思えた。

 今は仲間や使い魔を頼れるから、自分に依存する必要性を感じなくなったというわけだろう。

 

 確かにただのガキどもではないようだが、しかし、所詮はできもしない夢物語を抱いて戦場へ向かおうなどという幼く愚かな子供たちだ。

 あんな平民の傭兵どもを追い散らした程度で、これから向かう本当の戦場でどれほど役に立つというのか。

 ここはひとつ、仲間らへのその盲信を改めさせ、魔法衛士隊の隊長というずっと確かな実力を持つ自分に頼るように仕向けてやる必要があるかもしれない。

 

(そのためには、あんなザコの傭兵どもではない、本当に強い相手を用意してやる必要があるか……)

 

 そんな思案を巡らせてしばし黙り込んでいたワルドに対して、ルイズが首を傾げた。

 

「どうしたの、ワルド。大事な話があるんでしょう? 何?」

 

「ああ……。いや、すまない。その、ちょっと……昔のことを思い出していたんだよ」

 

 我に返ったワルドは、咳払いをしてそう取り繕うと、遠くを見るような目になって話を始めた。

 

「きみも覚えているかな、あの日の約束を。ほら、きみのお屋敷の中庭で……」

 

「あの、池に浮かんだ小船のこと? ええ、もちろん覚えているわ」

 

 ワルドは頷いて先を続ける。

 

「きみは、ご両親に怒られたあと、よくあそこでいじけていたな。いつもお姉さんと魔法の才能を比べられて、出来が悪いなどと言われていたが……。僕は、それは間違いだとずっと思っていたよ」

 

「そんなお世辞を、今さら言わないでよ。意地悪ね」

 

 ルイズはちょっと顔をしかめて、頬を膨らませる。

 

「いや、違うんだルイズ。お世辞なんかじゃない。きみは失敗ばかりしていたけれど、誰にもないオーラを放っていた。魅力といってもいい。それはきみが、他人にはない特別な力を持っているからさ」

 

「……まさか」

 

「いや、まさかじゃない。僕だって並みのメイジじゃないつもりだ、だからわかる。今日、ますますそのことを確信したよ」

 

 最初はただの気楽な昔話やお世辞だと思っていたが、ワルドは妙に熱っぽく、力を込めて話してくる。

 そのことにいささか困惑するルイズをよそに、ワルドは話し続けた。

 

「たとえば……、そう、きみの使い魔だ」

 

「ディーキンのこと?」

 

「そうだ。彼はほんの子供の亜人なのに、傭兵たちと戦っていた時には実に巧みに武器を使っていただろう? あれで確信したよ、彼は伝説の使い魔だと」

 

「で、伝説の使い魔……?」

 

 ルイズは本気で困惑し始めた。

 ワルドは一体、何を言っているのだろう?

 

「そうとも。彼は左手に手袋をして手の甲を隠していたが……。きっとあそこに使い魔のルーンがあるはずだ、違うかい?」

 

「え? ……え、ええ。確か」

 

 学院に来た当初は確かに自分が使い魔であると周囲に印象付けるために隠さないようにしていたのだが、既に十分自分が使い魔だということは納得してもらえただろうと判断したディーキンは、最近は左手にグラヴをつけるようになっていた。

 左手に刻んだ《秘術印(アーケイン・マーク)》はそろそろ薄れかかってきているし、そのグラヴはマジックアイテムの一種なので特に外す必要がなくなればできるだけ身に着けておきたい、ということらしい。

 

(やはりな)

 

 うまくルイズから聞き出してやった、これでもう間違いはないと確信して、ワルドはひそかにほくそ笑んだ。

 

 ルイズにその件について話すかどうかは少し考えたが……、彼女に対する自分の評価を教えておくことは、こちらが彼女を真剣に求めているということを納得させるためには有益なはずだ。

 ならば、そのくらいのことは今ここで明かしておいても構うまい。

 

「それこそが『ガンダールヴ』の印だ。始祖ブリミルが用いたという、伝説の使い魔さ!」

 

「は、はあ?」

 

 重大発表をしたつもりのワルドの意気込みに相反して、ルイズは怪訝そうに顔をしかめて思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。

 

 本当に、一体何を言い出すのか。

 正規の契約をしていない以上、彼は本当は使い魔ですらないのだから伝説も何もないのだ。

 左手のルーンだってディーキン自身が模造した偽物である、それが『ガンダールヴ』の印なわけがない。

 

「……あの、ワルド。あなた、疲れてるんじゃないの?」

 

 心配げにそう聞いてみたルイズに対して、ワルドは自信に満ちた様子で答えを返した。

 

「とんでもない、僕には確信があるんだ。誰もが持てる使い魔じゃない、きみはそれだけの力を持ったメイジなんだよ。いずれは、それこそ始祖ブリミルのように、歴史に名を残す偉大なメイジになるはずだ。僕はそう予感している」

 

「…………」

 

 自分の話に夢中になるあまり、処置なしだというように呆れて頭を振ったルイズの様子にも気付いていないのか、ワルドは熱っぽい口調で話し続ける。

 

「この任務が終わったら、僕と結婚しようルイズ」

 

「へ? ……え、ええ!?」

 

 唐突なプロポーズに、ルイズは思わずぎょっとして目を見開いた。

 

「ずっとほったらかしだったことは謝るよ。婚約者だなんて言えた義理じゃないこともわかってる。でもルイズ、僕にはきみが必要なんだ。僕は魔法衛士隊の隊長で終わるつもりはない。いずれは一国を……、いや、このハルケギニアを動かすような貴族になりたい。だから……」

 

「……ワルド……」

 

 なんだかわけのわからない話の後に来たものだから面食らってしまったが、ワルドが真剣なのはわかる。

 これは自分も真面目に考えなければ失礼だと、ルイズは考え込んだ。

 

 彼は……今し方はなんだかわけのわからないことを言い出しもしたけれど、そりゃあ優しくて凛々しいとは自分でも思う。

 ずっと憧れていた相手でもある。とっくに婚約など無かったことになっているだろうと思っていたのに、ずっと忘れていなかった、結婚してくれと言われれば、それは嬉しくないわけじゃない。

 

 だが、どうにも今のルイズにはワルドと結婚するという気にはなれなかった。

 

 結婚など全然考えていなかった上に、彼とは長い間離れていたこともあってまず実感が湧かない。

 それに、今のルイズはパートナーであるディーキンや、ようやくできた友人たちと共に過ごす日々に、これまでにない喜びを感じていた。

 まだまだ大切な仲間たちと共に日々を過ごしていきたい、ワルドと結婚して、彼と2人で向き合う生活に入りたくはない。

 

 自分はまだ大人じゃない、だから今はまだ結婚相手よりも友人たちの方が大切なのだ、と彼女は思った。

 

 それに実際のところ、幼い頃には彼に憧れていたルイズでさえ、キュルケやタバサほどではないにせよ現在のワルドの言動にはしっくりこないものを覚え、どうにも今の彼の姿は昔のワルドと重ならない、今でも優しいし凛々しいはずなのに、なんだか親しめない……と無意識のうちに感じ始めていたのだ。

 熟達したバードのような演技の達人や、上級デヴィルのごとき偽装の巧者のそれと比べれば、ワルドの仮面は所詮は狭い宮廷社会の中のみで磨いたものである。

 上位の貴族や王族に取り入るといったようなごく限定された環境には上手く適応しているのだろうが、それ以外の状況で使おうとすればたちまちメッキがはがれる程度の素人芸でしかなかった。

 それでも、ディーキンを召喚する以前の、友人も無く劣等生として一人きりで周囲からの蔑みに耐えていた頃の彼女であれば、ワルドの態度に違和感を覚えることなく昔と同じように彼になびいていたかもしれないが……。

 

「……その、わたしはまだ、あなたに釣り合うような立派なメイジじゃないわ。もっと修行をして、いつか立派な魔法使いになって……。父上と母上に、みんなに、認めてもらえるようになりたいのよ」

 

 ルイズは言葉を探しながらそう言うと、顔を上げてワルドを真っ直ぐに見つめた。

 

「だから、それまでは結婚は考えていないの。ごめんなさい」

 

「そうか……。もしや、きみの心の中には誰かが住み始めたのかな?」

 

 そう言われて、ルイズは慌てて首を横に振った。

 

「あ、いえ……。そんなことはないわ、そういうことじゃないのよ! ただ、今はまだ結婚は早いと思うから……」

 

 ワルドはしばし探るような目でルイズを見つめたが、どうやら嘘は無さそうだと納得した。

 同行者のギーシュという少年あたりが相手なのかとも考えたが、確かにこれまでの彼女の態度を見ていると、あの少年を特別に気にしている風ではない。むしろ、他の仲間たちよりも若干ぞんざいな扱いをしている節さえある。

 あのディーキンという少年には特に信頼を寄せている様子だが、自分の使い魔であることを考えれば当然のことだろう。さすがに、あんなトカゲめいた姿の亜人が相手だなどということはあるまい。

 

「……わかった。取り消そう。今、返事をくれとは言わないよ。でも、この旅が終わったら、きっときみの気持ちは僕にかたむくはずさ。きみはまだ早いと言うが、もう十六だ。結婚してもおかしくない。恋をして、自分のことは自分で決められる年齢なのだから……」

 

 ワルドは表向きは潔い好青年の顔を保ったままそう言いながら、心中ではこの旅の間にルイズの関心を自分に惹き付ける策を練っていた。

 まずは他の仲間たちが頼りにならんということを見せてやるべきだなと、先程少々弄んだ考えを再び検討し始める。

 

 結局のところ、ワルドは己の野心のためにルイズの力が必要だと言うだけで、彼女を愛しているわけではない。

 彼はルイズの力だけしか見ていないのだ。ディーキンの表面的な力にばかり目が行って彼の本当の姿が見えていないのと同じように、現在のルイズの姿が見えていない。

 ゆえに、昔のように彼女に接すれば、そして昔のように自分が、自分だけが頼りになる存在だということを示せば、以前の彼女がそうだったのと同じように自分に懐くと思っているのだった。

 

 そうして話を終えた2人は、仲間たちと合流するべく部屋を後にした……。

 



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第九十三話 You are Gandálfr, right ?

 

 ラ・ロシェールに着いた翌日の朝。

 

「ンー……、よく寝たの」

 

 ディーキンはさすがに冒険者らしく、朝早くすっきりと目を覚ました。

 昨日の長旅の疲れもまったく残っていない。

 それから、まだ寝ている同行者たちを起こさないようにそっと部屋を抜け出すと、昨日ワルドが借りた部屋に向かった。

 

 ディーキンはその空き部屋で、ジンの商人・ヴォルカリオンを呼び出して買い物をしたり、フェイルーンの仲間たちと連絡を取ったりなど、必要な作業をてきぱきとこなしていった。

 ギーシュやワルドに見られると説明が面倒だし、特にワルドには今のところあまりいろいろな事を知られたくなかったので、場所を変えたのである。

 せっかく余分に借りた部屋なのだから、出来る限り有効に活用させてもらおうというわけだ。

 

 そうして当面の仕事を早朝のうちにすませてしまうと、ディーキンは最後に《英雄達の饗宴(ヒーローズ・フィースト)》の呪文を使って、御馳走の並んだ食卓を用意し始めた。

 有益な恩恵を与えてくれるこの食事は旅の間常に食べるようにしておきたいが、まさか下の階にある酒場で自前の料理をずらずらと並べるわけにもいかないので、この部屋へ皆を集めて食べようと考えたのだ。

 

「……あれ?」

 

 呪文も完成して食卓の用意が整ったところで、さて皆を起こそうかと部屋を出たディーキンは、何やらあたりをきょろきょろと窺いながら廊下を歩いているワルドの姿に気が付いた。

 ワルドの方でもすぐにディーキンの姿をみとめてそちらへ近づいていくと、にこやかな顔で挨拶をする。

 

「おはよう、使い魔君。捜したよ、昨日借りた部屋を見てみたかったのかい?」

 

「おはようなの、ワルドお兄さん。ディーキンはね、あの部屋にみんなの朝ごはんを用意しておいたんだ」

 

 ディーキンは元気よく挨拶を返すとそう伝えて、自分は他の皆を呼んでくるからよければ先に食べていてくれと勧めた。

 ワルドは確かに疑わしい相手ではあるが、黒だと確定しないうちは動向に注意はするものの、基本的には仲間として接するつもりでいる。

 仲間である以上、一人だけ食事に招かないなどという法はないだろう。

 

「用意がいいね、ありがたくいただくとしよう。ああ、ところで……」

 

 ワルドはにっこりと微笑むと、他の皆を起こしに行こうとするディーキンを呼び止めた。

 

「きみは、伝説の使い魔である『ガンダールヴ』なんだろう?」

 

「……へっ?」

 

 ディーキンは一瞬、ワルドが何を言っているのか分からずにきょとんとした。

 それから、ちょっと考えて問い返す。

 

「ええと、『ガンダールヴ』っていうのは、その……。ブリミルっていう人の、使い魔のこと……だよね?」

 

「そうだよ。我々の偉大なる始祖、ブリミルに仕えたという四人の使い魔の一人だ。君はその『ガンダールヴ』なのだろう?」

 

 ワルドの確信を持った様子とは対照的に、ディーキンは何がなんだか分からず、困ったように頬を掻いた。

 

「アー……、ワルドさん? ディーキンが思うに、あんたはなにか、とてつもない勘違いをしてるんじゃないかと思うんだけど……」

 

 そう言ってはみたものの、ワルドの確信は揺るがないようだった。

 

「いやいや、隠さなくともいいよ。ああ、それとも、本当に知らなかったのかな?」

 

 彼は口の端に薄い笑みを浮かべて、肩をすくめる。

 

「ルイズから聞いたんだが、君の使い魔のルーンは左手の甲にあるのだろう? それこそが、伝説の『ガンダールヴ』の証なのだよ」

 

「…………」

 

 ディーキンは無理にそれ以上ワルドの言い分を否定しようとはせずに、自信ありげな彼の顔を黙ってじいっと見つめた。

 ややあって、口を開く。

 

「……ウーン。でも、左手にルーンのある使い魔なんて大勢いるんじゃないかと思うんだけど。あんたはなんで、ディーキンがその『ガンダールヴ』だって思ったの?」

 

 そう問われたワルドは、ちょっと困ったように首をかしげた。

 

「……ああ。それはその、あれだ……。僕は歴史と強者に興味があってね。自然と、最強のメイジであった始祖ブリミルとその使い魔については、王立図書館などでよく勉強していたんだよ」

 

「オオ、王立図書館? ディーキンも見てみたいの、学院の図書館よりも、もっといっぱい本があるかな?」

 

「はは、それはどうかわからないが……。君は、小さいのに勉強熱心なことだな」

 

 本の方に気を惹かれた様子で目を輝かせるディーキンを見て、ワルドは上手く誤魔化せたなと目を細めて小さく頷く。

 

「……で、君の昨夜の戦いぶりを見て思い当たったのさ。これこそあらゆる武器を使いこなして敵と対峙し、主を守ったというあの『ガンダールヴ』に違いない、とね」

 

「アア、なるほど……。わかったの」

 

 ディーキンはこくりと頷きながらそう言ったものの、内心ではまったく納得してはいなかった。

 明らかにワルドが言い訳をして誤魔化そうとしたらしいのも見て取れたが、それ以外にも彼の言い分には不自然な点が多すぎる。

 

 亜人が武器を少々上手く使ってみせた程度のことで伝説の使い魔だなどとは、あまりにも発想が飛躍しすぎてはいないか。

 自分が大きな人間にとってはいかにも貧弱そうで、武器の扱いなどできなさそうに見えるというのは、ちょっと不本意ではあるがまあ理解はできる。

 それが予想外に武器を上手に扱ったものだから、以前に勉強した『ガンダールヴ』をふと思い浮かべた……というところまでは、ありえなくはないかもしれない。

 しかし、あるいはそうなのではないかと考えるくらいはあるにしても、そうに違いないと断定するのには根拠が薄弱すぎるだろう。

 なのにどうして、『君はもしかしたらガンダールヴなのではないか』という質問形ではなく、『君はガンダールヴなんだろう』という断定形で話し始めたのか?

 

 実際には、ディーキンは契約を結んでいない以上正式な使い魔ではないからその推測は誤りなわけだが、まったくの的外れでもない。

 召喚者であるルイズが始祖ブリミルと同様の『虚無』の使い手であるという、奇妙な共通点があるのだ。

 件の系統が長年に渡って失われた伝説の系統とされていることを思えば偶然の一致というには出来過ぎており、そのあたりがまた解せなかった。

 この男はどうして、そんな中途半端な誤りを犯したのだろうか?

 

 いずれにせよ、傭兵と戦うところを見て初めてそうかもしれないと思ったなどというのは嘘に違いない。

 それ以外にも、明らかに何らかの根拠を掴んでいるのだ。

 それは一体なんなのか……。

 

(……ウーン。もしかして、デルフとか?)

 

 ディーキンは、かつてその伝説の使い魔の手に握られていたという意思を持つ剣のことを思い浮かべた。

 もしもワルドが何らかの書物などであの剣のことを知っていて、見てそれだと気付いていたのだとしたら、その持ち主が『ガンダールヴ』だと推測する根拠になるだろうか?

 

 しかし、それはまずないだろうな、とディーキンは思い直した。

 

 あの剣はシエスタに渡し、彼女がずっと背負っていたのだから、まずそれをディーキンと結びつける理由がない。

 それに、傭兵との戦いのときでもシエスタが使ったのはクロスボウだけで、あの剣は一度もワルドの前では抜かれていないのだ。

 道中でもずっとグリフォンに跨ったままルイズとだけ話していたこの男が、鞘に納められたままのデルフリンガーの正体に気付いて目をつけていたとは思えない。

 

(ええと、じゃあ……。他に、考えられるのは……)

 

 しかし、ワルドが話を続けてきたので、それ以上その場で考えをまとめる余裕はなかった。

 

「それで、だ。その伝説の実力がどれほどのものかを、ちょっと知りたいと思ってね。手合わせ願いたい」

 

「へっ? ……ええと、あんたとディーキンとが……手合わせ?」

 

 ディーキンがきょとんとしているのを見て、ワルドはにやっと笑うと、自分の腰に差した杖をぽんぽんと叩いて見せた。

 

「そうだ。つまり、これさ。あまり堅苦しくない言い方をすれば、殴りっこ、とでもいうのかな?」

 

「アー……」

 

 ディーキンは困ったように頬を掻いて、さてどうしたものかと考え込んだ。

 タバサに挑まれた時と同じで、やりたいかやりたくないかと言われればもちろん後者であるのだが……。

 

「……その、また今度、戻って来てからじゃ駄目かな? 今は大事な頼まれごとの最中だし、余計な怪我をするようなことはしない方がいいんじゃないの?」

 

 とりあえず無難にそう言っては見たものの、ワルドは首を振って豪快に笑ってみせた。

 

「心配することはない、ちょっとした手合せだよ。どっちも大怪我なんてしないし、今日は休みじゃないか。休む時間はたっぷりあるさ。……それとも、おじけづいたのかい?」

 

 挑発するようなワルドの物言いに、ディーキンは反論するでもなく素直に頷く。

 

「もちろんなの。あんたは強そうだし……、ディーキンは、痛いのは好きじゃないもの」

 

 ディーキンが気弱そうに肩をすくめてそう言うのを聞いて、ワルドは拍子抜けした様子で顔をしかめた。

 

「……伝説ともあろう者が、ずいぶんと弱気なことを言うじゃないか。それでよく、ルイズの使い魔が務まるね?」

 

「イヤ、ディーキンは大事な時にはちゃんとルイズのために戦うよ。でも、今は……」

 

「いやいや、今だからこそ必要なことさ! つまり……、そう、実力だ。同行者として、互いに実力を知っておくことはいざという時のために大切だろう? まさにその、大事な時のためだ!」

 

 ワルドはやや強い口調で、そう主張した。

 彼としては、まずルイズの前でこの使い魔を負かして見せることが大事だった。

 どうせ今はルイズも見てはいないのだし多少強引に説き伏せることになっても構わない、まずは勝負の場に引き出すことだ。

 

「……それにね、僕としては、婚約者の使い魔である君が本当に頼れるものかどうかを確かめたくなったのだよ。使い魔君、さあ、君にいざという時に本当にルイズを守って戦う勇気があるのなら、今僕と戦いたまえ!」

 

 ディーキンは、ワルドの挑戦的な物言いを聞きながら顔をしかめた。

 言葉だけを聞いていると婚約者を案じて使い魔に勇ましく対抗心を燃やす男と言った風情なのだが、どうも本気でそう思っているのか疑わしい。

 こうして正面から話し込んでみると、キュルケの言ったとおりだということがよく分かった。

 熱のこもった言葉とは裏腹に、この男の目はまるでブラックドラゴンの瞳のように冷たいままなのだ。

 敵かどうかはまだわからないが、少なくとも善人だとは思えない。

 

 とはいえ、このまま断り続けても承服してくれそうにないので、仕方なく曖昧に頷いた。

 

「わかったの、考えておくよ。……でも、とにかく食事が終わってからにして欲しいの。せっかく用意したのが駄目になっちゃうし、食べてからの方が力も出るでしょ?」

 

「よし、いいとも。それでは、食事の後に中庭でやろう。ここはかつてアルビオンからの侵攻に備えるための砦だったからね、練兵場があるんだ」

 

 ワルドは、これで話がまとまったと満足していた。

 もとよりルイズの前で使い魔の頼りにならぬことを示してやるために持ちかけた話なのだ、彼女が起きてきて食事をとってからでなんら問題はない。

 多少は実力を警戒していたが、痛いから手合せは嫌だなどと泣き言を吐いてみっともなく自己弁護をする意気地のない亜人の子供に過ぎないとわかったからには、伝説であろうが取るに足らぬ。

 

 ディーキンは頷いてワルドと別れると、今度こそ皆を起こしに向かった……。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

「ふーん……。それはまた、妙な話ねえ?」

 

 話を聞いたキュルケが、髪の毛を指先で弄びながら呟いた。

 皆を起こして回った後、ディーキンは適当な理由をでっち上げて他の者たちを先に行かせ、キュルケとタバサだけに残ってもらって先程の件を手短に伝えたのだ。

 

「ねえ、2人はどうして、あの人がそんな勘違いをしたんだと思う?」

 

 ディーキンに問われて、しばらくじっと考え込んでいたタバサが顔を上げた。

 

「……あの男は、ルイズが『虚無』だと知っていたのかもしれない。だから、あなたを『ガンダールヴ』だと思い込んだ」

 

 それを聞いて、キュルケも思案気に頷く。

 

「ああ、そうね……。小さい頃のルイズと知り合いだったそうだし、あの子についていろいろ調べてみてその事に気付いた、ってのはありえるかもしれないわ」

 

「オオ、なるほど……。そうだね、そうかもしれないの」

 

 ディーキンは、2人の考察に感心したように頷いた。

 確かに、昨日会ったばかりのワルドが自分のことを詳しく知っていたというのは有り得そうにもないが、昔のルイズについてはよく知っていたはずだ。

 となると、その関係からルイズの使い魔を務める自分を『虚無の使い魔』だと考え、たまたま武器を使ったところを見たことから『ガンダールヴ』だと推測したというのは筋が通っている。

 やはり、頼れる仲間がいて何でも相談できるというのはいいものだ。

 

「ええと、そうだとすると……。あの人は、ルイズの力を狙ってるとか? 別に、こっちの邪魔をしようとしてる敵とかじゃないってことなのかな?」

 

 こちらの世界では伝説とされる『虚無』の力を求めてルイズに近づいた、というのなら話は分かる。

 その場合、単にこの旅をきっかけに彼女の気を惹こうとしているだけだから任務の成否に関心がないのだ、ということで昨夜の不審な態度の説明もつくだろう。

 

「ふんっ……。つまりはあの子の力が欲しくて、今さらになって婚約者面して擦り寄ってきたってことかしら? やっぱり、ろくでもない男ね!」

 

 ディーキンの推測を聞いて、キュルケは嫌悪感も露わに吐き捨てた。

 仮にあの男が敵でなかったにしても、少なくとも『虚無』の力について気が付いていたというのなら、それを知っていながら落ちこぼれ扱いされて苦しむルイズに何も教えずにずっと放っておいたのは確かだ。

 それでルイズを愛しているだなどと、どの面を下げてそんなことが言えるのだろうか。

 

 とはいえ……、もちろんそんな利己心しかない男にルイズに近づいてほしくはないのだが、もしそれだけだとすれば不快な男ではあるが敵というほどのものではない、ということになろう。

 

「そうとも限らない。敵でもあるかもしれない」

 

 立腹する親友とは対照的に、タバサはいつも通り淡々とそう指摘して、注意を促した。

 

「アルビオンの首魁も、自分は『虚無』だと主張している。それが本当であの男がアルビオンの手の者なら、2人の共通点に気が付いたからこそルイズが『虚無』だと思った、ということも考えられる」

 

「ウーン、そうか……そうだね……」

 

「いずれにしろ推測、今はまだ断定できない。……それよりも、そろそろ食事に行くべき」

 

 タバサはそう話をまとめると、立ち上がって部屋の外へ向かった。

 いい加減に食事に行かなくてはならない、あまり遅れればワルドに何か勘ぐられないとも限らないのだから。

 まあ、単純にお腹が空いたのでさっさと食べたかった、というのもあるが。

 

「アア、そうだね。食事が消えちゃったら困るの」

 

 ディーキンもそう言って、キュルケを促して急いで食事に向かうことにした。

 ワルドに勘ぐられるからということもあるが、さっさと食べないと《英雄達の饗宴》の呪文の時間切れで食事が消えてしまうのである。

 

 

「それで……。結局ディー君は、あの男に挑まれたっていう手合せだかを受ける気なのかしら?」

 

 キュルケも2人に続きながら、ふと思い出したようにそう質問した。

 

「私としては、あの男がルイズの前で見事に負かされて大恥をかくところとか見てみたいものだけど、ねえ?」

 

 タバサはそれを聞くと僅かに眉をひそめて、意地の悪い笑みを浮かべながらディーキンをけしかけようとする親友に注意した。

 

「敵の可能性が高いものに、手の内を見せるのは得策でない」

 

 ディーキンには、こちらの世界で知られていない未知の呪文や予想外の能力を持っているという大きな強みがある。

 また、相手が今のところかなりこちらのことを見下しているらしいということも有利な点のひとつだ。

 タバサとしても正直、ワルドがディーキンに打ち負かされるところを見られたら爽快だろうなとは思うが、くだらない手合わせなどで彼の手の内を公開し、相手に警戒させてしまうのは馬鹿げたことである。

 

 だからといって、ディーキンにわざと負けてほしくもない。

 彼があんな不愉快な男に負けるなんて、たとえお芝居でもそんなところは見たくない。

 そんなことを、するくらいなら……。

 

「……どうしても相手が戦いたがるのなら、代わりに私がやってもいい」

 

 タバサは、そう提案してみた。

 それによって自分が見た目ほど無力でないことは知られてしまうが、代わりに自分を要警戒対象だと感じさせることで、ディーキンから相手の注意を逸らせることができるかもしれない。

 そうすれば、彼にとっては有利になろうというものだ。

 

 あの不快な男を自分の手で負かしてやりたいという気持ちも、ちょっぴりある。

 昨日は黙って走り続けたが、決して不満に思っていなかったわけでも疲れていなかったわけでもないのだ。

 相手は魔法衛士隊の隊長でおそらくはスクウェアクラスなのだろうが、自分はまだトライアングルとはいえ北花壇騎士として数々の汚れ仕事をこなしてきた。

 お行儀のいい戦いしか経験していないような王宮務めの魔法衛士などに、それもこちらを見くびって油断しきった愚か者などに負けるつもりはない。

 ……本当は勝たない方がいいのかもしれないが、何気にタバサはかなりの負けず嫌いなのだった。

 

「そうだね。ディーキンは、いろいろ考えてみたんだけど――――」

 

 そう前置きして、ディーキンは自分の考えを口にした……。

 



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第九十四話 Overweening

 しばしの後、食事を終えた一行は宿の中庭に集まった。

 

 かつては貴族たちが集まって王族の閲兵を受けたという練兵場だったらしいが、今ではただの物置き場となっているようだ。

 樽や空き箱が乱雑に積み上げられ、かつての栄華の名残を僅かに留める石製の旗立て台が苔むして佇んでいる。

 

「亜人の君にはわからんだろうが、かのフィリップ三世の治下にはここでよく貴族が決闘したものさ」

 

 一行を案内してきたワルドが、自分のすぐ後ろに続くディーキンにそんな講釈を垂れた。

 

「オオ、そうなの?」

 

 こんな忘れ去られたような場所の歴史についてまで詳しく知っているということは、ワルドは本当に書物などを読んで知識を集めるのが好きなのかもしれない。

 まあ、ただ単に以前にもこの宿に泊まったことがあってその時に宿側の紹介で知ったとか、先輩の貴族に昔語りを聞かされたとかしただけなのかもしれないが。

 

「ええと……、フィリップ三世っていうのは確か、今のお姫様のおじいさんのこと……だよね?」

 

 少し首を傾げて記憶を手繰りながら、そう確認した。

 こちらに来てからまだそれほど日は経っていないが、勉強は既にかなりしている。

 ディーキンはバードであるから、物語や歴史についても当然学んでいた。

 

「ほう、よく知ってるね」

 

 ワルドが、やや意外そうに目を丸くして頷く。

 

「そうだとも、偉大な国王だった……。そして、古き良き時代だった。王がまだ力を持ち、貴族たちがそれに従った時代……、貴族が貴族らしかった時代さ」

 

「うん、その頃のいろんな英雄の物語があるんだよね。ええと、『烈風』カリンの話とか?」

 

 やや芝居がかった調子で感慨深そうに講釈を続けるワルドに、ディーキンが頷きながら相槌を打つ。

 ルイズはその名を聞いてぴくりと眉を持ち上げたが、特に何も言わなかった。

 

「その通り。かの時代には、名誉と誇りをかけて僕たち貴族は魔法を唱えあっていた。様々な物語で、そう語られている」

 

 ワルドはそこで一旦言葉を切ってディーキンの方を見ると、ちょっと皮肉っぽく笑いながら肩を竦めた。

 

「……でも、実際はくだらないことで杖を抜きあったものさ。そう、例えば女を取り合ったりね」

 

「フウン……、そうなの?」

 

 ディーキンはじっとワルドの方を見つめ返して、首を傾げた。

 この男はいかにも忠義篤い貴族のような顔をしているが、今の話からすると現在では王には力がなく、貴族の忠誠も王の元にはないと考えているようだ。

 そして表情や声色などから察するに、それをとりたてて遺憾に思っているような様子もない。

 

 しかも、婚約者の使い魔が本当に彼女を守れるような存在なのかを確かめたいなどと言い出すわりには、女性を巡っての決闘は『くだらないこと』だという。

 ディーキンはバードとして、異性のために命を懸けて戦った者たちの勇ましい物語や美しい物語、悲恋の物語などをいくつも知っていた。

 まあ確かに、戦いで勝つことと女性の心を掴むこととは別問題だろう。だが少なくとも、真剣な想いを胸に抱いて命がけで戦った者たちのことをくだらないとは思わない。

 本気で愛する女性がいる男ならば、そのために決闘することをくだらないだなどと、一言で切って捨てられるものだろうか。

 彼は本当に、表向きの態度で表しているほどにルイズを愛しているのだろうか?

 

 そうしたディーキンの疑念も知らず、ワルドは彼に立ち止まっておくよう手で示しながら、ゆっくりと距離を離していった。

 

「さて……。なるほど君は勉強熱心のようだが、しかし使い魔の本分は主を守ることだ。その腕前の方はどうかな?」

 

 余裕ぶってそんなことを言いながら、おおむね二十歩ほどの距離を開けて立ち止まる。

 

「距離はこんなものでいいか。それでは介添え人もいることだし、そろそろ始めよう」

 

 そう宣言していよいよ手合せを始めようかとするワルドに、ルイズが苦言を呈した。

 

「……ねえ、ワルド。ディーキン。さっきも言ったけど、何もこんな時に手合せなんかしなくてもいいんじゃないの?」

 

 彼女は先程の食事時にこの手合わせの話を聞いた際にも、今はそんなことをしている場合じゃないし止めておいたら、と言って反対したのだ。

 

「はは、そうだろうね。……でも、貴族というやつはやっかいでね。強いか弱いか、それが気になると確かめずにはいられないのさ。特に、それが婚約者の使い魔となるとね」

 

「……」

 

 ルイズはワルドの返事を聞くと、顔をしかめた。

 つまりは婚約者……彼から気軽にそう呼ばれることには少し戸惑っているが……の使い魔が頼りになるものかどうか確かめたい、ということか。

 想ってもらえて嬉しいような、勝手な熱を吹かないでくれと抗議したくなるような、なんともむずがゆい気分だった。

 

 とはいえ、おそらく動機がそれだけではないことはルイズも察していた。

 昨夜はディーキンが伝説の使い魔だなどと突拍子もないことを言い出したので面食らったが、どうもこの調子だと未だに、本気でそう信じているらしい。

 彼が伝説の使い魔だからその力を確かめてみたい、とでも考えているのだろう。

 

 取り決めで秘密にすることになっているから、彼はそもそも自分の使い魔ではなく、当然伝説の使い魔などでもありえないのだと伝えることができないのがもどかしかった。

 

「ウーン、ディーキンは痛いのはあんまり好きじゃないけど……。ワルドお兄さんがやってみたいっていうからね、お付き合いしようと思うの」

 

 ディーキンはいろいろと考えた結果、ワルドの手合せの申し込みをそのまま素直に受けようと決めたのである。

 

 もちろん、ディーキンはワルドとは違って、彼と自分のどちらが強いかなどということに興味はない。

 個々の強さなどよりも、仲間全体としての強さのほうが冒険者にとっては重要だからである。

 そもそも強さなんてものはその時の状況によっても変わるものだ、いくらファイターが正面切っての戦いでは強いと言っても、全員がファイターなどというパーティではまともに冒険はできないだろう。

 まあ……世の中は広いので、そんな試みに愚かと知りつつ挑戦するような強者たちもどこかにはいるのかもしれないが。

 

 ともかく、タバサが自分が代わってもよいと申し出てくれもしたし、実際シエスタとギーシュの時のように彼女とワルドの決闘を横で見て歌にでもまとめる方がよほど自分の好みには合っていた。

 しかしながら現在の状況から判断すると、彼女に任せるというのはどうにもあまりよい方法だとは思えなかった。

 仮にそうしたとすれば、なぜ無関係な少女が横からしゃしゃり出てきたのかとワルドに訝られるだろう。

 彼が味方で純粋に手合わせを望んでいるだけだったなら不満や不信感を抱かれる元になろうし、敵だとしても不自然に思われてかえって勘ぐられる結果になりかねない。

 そうでなくとも、自分の気が進まないことを友人に押し付けるなどというのはあまり褒められたものではあるまい。

 

 もし仮にワルドが特に敵というほどのものではなく純粋に手合わせを望んでいるだけか、もしくは単にルイズに対する下心があるだけなのならば……。

 その場合は、特に手合わせを拒否し続ける必要もないだろう。

 彼がルイズに自分の頼りになるところをアピールしたり、使い魔の頼りなさを見せつけたりしたいとでも思っているのなら、この方法は的外れだと断言できる。

 自分が勝とうが負けようが、そんなことでルイズが仲間に幻滅したりワルドを今より高く買ったりすることはありえない。

 ただその場合には、昨日の傭兵を雇った敵が別にいることになるのでそれに対する備えという意味ではいくらか体力などを消耗するであろうから若干不利益にはなるが、まあ許容できないほどのものではあるまい。

 

 逆に、ワルドが懸念する通り本当に敵だったとすれば……。

 さすがに手合わせ中の事故にかこつけて殺すなどといったあからさまな行為にまでは及ぶまいが、こちらの実力を探ろうという程度の狙いはあるのかもしれない。

 しかし、逆にこちらもワルドの手の内を多少なりと探ることはできるし、上手くすればこちらの戦力について誤解を与えることもできるだろう。

 それに彼が敵であればどの道この後も様々な手を打って来るに相違なく、今回の提案を断固として拒否してみたところで、根本的な解決にはなっていない。

 

 以上のようにいろいろなケースについて総合的に考えてみると、彼が敵だった場合でもそうでなかった場合でも、手合わせをあくまで拒否し続けるメリットはほとんどないように思えた。

 戦い方に多少気を配る必要はあるだろうが、素直に受けておけばまず大きな問題はないだろう。

 多数のメイジを擁する魔法国家において王族を守る衛士隊長だというからには強いのだろうし、大した必要もないのに痛い目に遭うのは嫌なのだが、それはもう仕方あるまい。

 

「もう……」

 

 ルイズはディーキンにそう言われてもまだ納得がいかないようで、むっつりしている。

 今日は休日だとはいえ、仮にも大事な任務の最中なのにそんなことで体力を使ったり、あまつさえ怪我をしたりするのは彼女にはおよそ馬鹿げたことに思えたのだ。

 とはいえ彼が自分の正式な使い魔ではない以上、本人がやってもいいというのなら中止をそれ以上強く要求するわけにもいかなかった。

 

「その代わり、試合が終わったらここで決闘したって言う人たちの話を聞かせてくれる? ディーキンはそういうのが好きだよ!」

 

「はは、いいとも。まあ、大した話はないがね。……それでは、他の皆は離れていてくれ」

 

 わくわくと目を輝かせながらねだるディーキンに対して薄い笑みを浮かべると、ワルドは軽く頷きながら腰から杖を引き抜いた。

 短めの細剣(レイピア)のような形状をした鉄拵えの杖は普通のメイジのそれとは一線を画しており、いかにも軍人らしい。

 

 それを受けて、他の者たちは試合の邪魔にならないように中庭の端の方へ離れていく。

 ディーキンも戦いに備えて、荷物袋の中から六尺棒(クォータースタッフ)を取り出そうとした。

 

「……ン?」

 

 その時、タバサが後からくいくいとディーキンの腕を引いた。

 ディーキンが振り返ると、彼女はかがみ込んで顔の高さを合わせ、彼の耳元で小さく呟くように声をかける。

 

「がんばって。まけないで……」

 

「ア……、ありがとうなの。ディーキンはがんばるよ!」

 

 にっと笑ったディーキンに小さく頷くと、タバサは黙ってくるりときびすを返した。

 そのままとことことキュルケたちの元に歩いて行き、彼女らと一緒に観戦する態勢に入る。

 

 

 

「タバサ、何かディー君に作戦でもあげてたの?」

 

 キュルケの問いに首を振ると、タバサは独り言のようにぽつりと呟いた。

 

「おねがい。……と、おまじない……」

 

 それを耳聡く聞きとめたキュルケは、にやにやしながらタバサを後ろから抱き締めた。

 

「ははあ、おまじないねえ? あなたみたいなお姫様の応援を受けたからには、ディー君の勝ちは決まったようなものよね!」

 

 僅かに頬を赤らめながら親友にうりうりと弄られているタバサをよそに、ギーシュはシエスタと勝敗の行方について話し合っていた。

 

「やれやれ。彼がどのくらい強いのかは知らないが魔法衛士隊はメイジの中でもエリート揃い、ましてや子爵はその隊長だ。到底勝負にはならないだろうに、どうして子爵は手合わせをしたいなんて言い出したんだろうね?」

 

「それは……そうかもしれません。けど、私は先生なら、きっと引けは取られないと思いますわ!」

 

「まさか! 彼はまだ、ほんの子どもじゃないか。そりゃあ、変わった先住魔法を使えるようだし、武器もかなり扱えるようだが、さすがに戦闘訓練を積んだ魔法衛士には……」

 

 ギーシュとシエスタがそんな風に議論していたところへ、タバサを抱きかかえながら運んできたキュルケが口を挟んだ。

 

「そういえばあなたは、ディー君が戦うところは見たことがないんだっけ。きっと面白いものが見られるわよ」

 

「キュルケ、君まで? まさかそんな、冗談だろう……」

 

「……」

 

 タバサは仲間たちのそんな気楽な会話を聞きながら、先ほどの『おねがい』について少し後悔していた。

 

 ディーキンに負けないでほしいというのは、結局のところ自分の願いであって彼のためを思って出た言葉ではなかったかもしれない。

 自分は彼の負けるところなど見たくないが、彼自身にはおそらく、そんなこだわりはないのではないだろうか。

 ならばワルドの警戒を解くためにも、不審に思われない程度に適当に戦って負けてしまったほうが賢明だったのではないか。

 なのにあんなことを頼んだら、彼の性格ではせっかく仲間に応援してもらったのだから多少不利益になっても勝たなくては、と思ってしまうかもしれない。

 実際、勝つと明言こそしなかったものの、がんばるとは言ってくれていたし……。

 

「あら、じゃあ賭けてみる? 私はディー君が勝つ方に5エキューね。シエスタは?」

 

「え? ……あ、その。も、もちろん私は、先生が勝たれるって信じていますけど、賭け事はちょっと……」

 

「私もそんな賭けはしないわよ、もう! とにかく、早く終わって欲しいものだわ……」

 

 申し訳なさそうに辞退するシエスタと、一人楽しげにしているキュルケを白い目で睨むルイズ。

 彼女らの方をぼんやり眺めながら、タバサは今、くよくよと悩んでも仕方がないと思い直した。

 

 もう言ってしまったものは、今さら仕方あるまい。

 それよりも、とりあえず今、やるべきことは。

 

「……私も、あの人が勝つ方に10エキューで」

 

 この機会に金を稼いでおくことだった。

 

 だって、宿代もかかるし。

 新しい本も、買いたいし。

 

 

 

 そんな仲間たちの楽しげな会話をよそに、ディーキンは今度こそ六尺棒を構えてワルドと向き合った。

 

 魔力も何もなく、武器というよりは雑多な用途に使う道具のようなものだったが、大事な仕事の最中に手合わせなどで大怪我をしかねない刃物をやたらに振り回すものでもあるまい。

 もちろん、メインウェポンを抜かないことで手の内を隠すという意味合いも多少ある。

 この手のいわゆる棍のような武器は普段あまり使わないが、不信感を持たれないであろう程度には自在に扱えるつもりだ。

 

 タバサの懸念は実のところまったくの杞憂で、わざとワルドに負けておこうなどという気はディーキンには元々なかった。

 向こうは自分のことを『ガンダールヴ』とやらだと信じているようなので、その誤解を保つべく呪文や呪歌などは使わずに武器だけを駆使してそれらしく戦うつもりでいたのだ。

 相手に万が一にも不信感を持たれないためにも、その制限の範囲内では真面目に勝負したほうがよいだろう。

 

 ワルドもまた、杖を前方に突き出して構えをとった。

 

「さあ、全力で来たまえ」

 

 ワルドは幼児のごとく小柄な相手を見下しながら、余裕たっぷりにそう宣言する。

 

(ウーン……)

 

 さてこの人は、フェイルーンでいうとどのようなクラスに相当する相手なのだろうか、とディーキンは考えてみた。

 先手を打とうとするでもなく距離を取ろうとするでもなく、わざわざ相手の攻撃を待ち受けて武器で斬り結ぶつもりらしい。

 こちらを侮っているというのもあるのだろうが、武器での戦いにもかなりの自信をもっているようだ。

 

 同じ武闘派のメイジであるタバサは、積極的に武器で斬り結ぼうとはせず、素早く動き回って相手との距離を保ちながら呪文で急所を突こうとする戦い方だった。

 体格的な違いもあるだろうが、進んで武器で挑んでくるということは彼女よりも武器を用いた近接戦を得意にしているのだろうか。

 だとすれば、ダスクブレード(黄昏の剣)やへクスブレード(呪詛剣士)のようなものだろうか?

 もしそうだとすると、仮に互いの技量が同程度であったなら、バードが呪歌も用いずに武器対武器での戦闘をするのは非常に分が悪い。

 もちろん、ワルドがどの程度本気で戦うつもりでいるのかにもよるが……。

 

「どうした、来ないのか? いいだろう、君に仕掛ける踏ん切りがつかないのであれば、ではこちらからいこう!」

 

 構えたままなかなかかかってこない相手に痺れを切らしたのか、ワルドはそう宣言すると姿勢を低くして一直線にディーキンに飛び掛かっていった。

 真っ直ぐに狙い定めて、細剣杖で突きを繰り出す。

 ディーキンはその一撃を棍ではねあげて反らしたが、それを十分に予測していたワルドは次の瞬間には頭上で武器をくるりとひねって敵に向け直し、激しく突き下ろしてきた。

 

 それは力強く、訓練に訓練を重ねて洗練された完璧な動きだった。

 しかるにその攻撃を向けられたディーキンは、いささか拍子抜けしたような思いを抱いていた。

 ワルドの攻撃はごく初歩的な手順で、あまりにも基本に忠実すぎたのだ。

 

(ディーキンを油断させておいて、隙を突くつもりかも……)

 

 そう考えて慎重に判断を保留すると、上からの攻撃を棍をひねって逆側の端で受け流した後に安易に反撃に出るのを避け、一旦飛び退いて距離を置いた。

 

 ワルドは相手を逃すまいと追いすがり、さらに何発かの突きを繰り出す。

 そのいずれもが、ただ基本をしっかりと押さえたというだけの、独自性も何もないありきたりで素直すぎる攻撃だった。

 ディーキンは反撃に転じることこそなかったが、棍を巧みに操ってそれらを危なげなく防いでいく。

 

 罠ではなく、正しくこれが目の前の相手の武器の技量なのだということをディーキンが確信できるまで、そう時間はかからなかった。

 

 この男の近接戦闘技術は、メイジとして見れば確かにかなりのものだろう。

 少なくとも昨夜襲ってきたようなありきたりの傭兵程度の相手であれば、魔法を使わずとも問題になるまい。

 並みの傭兵が1回斬り付けてくる間にこの男ならそれを避けた上で2発は突きを叩き込み返すことができるだろう、そのくらいには実力が違っている。

 この世界では魔法が重要視され、戦士の能力が総じて低いらしいということも考え合わせれば、トップレベルでさえあるかもしれない。

 

 しかし、ディーキンにはこの男が2度突きを繰り出す間に3回は斬り付けることができる自信があったし、ボスやヴァレンならば少なくとも4回はいけるだろうと思えた。

 なかなかの武器の妙技であり、素人同然の相手ならば多少パワーやスピードで後れを取っていても容易くいなして手玉に取れるだけの腕前はあろうが、逆に言えばただそれだけなのだ。

 確かに十分に訓練を積んだ完璧な動きではあるが、あくまでも基本をしっかり修めたというレベルでの完璧だった。

 

 前線で敵と斬り結ぶ役目は概ねボスやヴァレンが引き受けてくれていたので、ディーキンはたまに敵の数が多すぎる時に余った相手と後衛を守って打ち合う程度だったが、それでもこの男よりも腕の立つ戦士と戦った経験は幾度もあった。

 一例をあげるなら、アンダーダークで戦ったドロウ軍の精鋭兵たちである。

 以前はその地の貴族であったという仲間のナシーラによれば、ドロウの大都市メンゾベランザンで戦士を志す貴族の子息は、まず各貴族家お抱えの剣匠(ソードマスター)の元で20歳まで厳しい訓練を受けるらしい。

 その後、白兵院(メイレイ・マグセア)と呼ばれる戦士学校に入学して10年の間休みなく鍛えられ続け、30歳にしてようやく一人前の戦士として卒業し、それぞれの能力に応じた地位に就くのだという。

 むろん、入学した生徒の一部は過酷な訓練の過程で見込みなしとして放校になったり、競い合う級友たちからの謀殺などによって卒業の前に命を落としたりするのだ。

 かの名高いドロウの英雄ドリッズト・ドゥアーデンはかつてその学院を主席で卒業したというが、たとえ末席での卒業者であっても並みの人間の傭兵など及びもつかないほど洗練された技量を有しているであろうことは疑いようもない。

 

 どうやらワルドは、ダスクブレードやへクスブレードというよりはむしろウォーメイジ(戦の魔道師)あたりに近いタイプのようだ、とディーキンは踏んだ。

 

 主力はあくまでも魔法であり、近接戦の技術はそれで相手を倒すためというよりは、距離を詰められた時に攻撃を避けつつ詠唱を完成させたり敵をいなして間合いを取ったりするためだけのものだろう。

 剣と魔法との融合による互いの高め合いなどという境地にはほど遠く、単なる戦場での必要性から魔法が武器に対して示した冷たい妥協、冷ややかな敬意。その域に留まっており、それ以上の特別な戦闘技術などを習得しているわけではない。

 革鎧の隙間を狙ったごく軽い突きなどを時折交えてくるあたりからも、明らかに武器を用いた実戦経験が足りていないのが察せられた。

 そのような突きは肉が柔らかいためにごく軽く当てるだけでも容易に怯ませられる人間などに対する牽制に適したもので、全身を硬い鱗に覆われたディーキンのような相手に対して用いても威力不足で効果が期待できない代物なのだ。

 同じ人間相手の訓練はよく積んでいるのだろうが、亜人や幻獣などの類に出会ったときにわざわざ武器で攻撃することはまずないだろうから、相手の性質に応じて臨機応変に戦い方を変えるなどということにはおそらくあまり馴染みがないに違いない。

 

 この程度の技術でわざわざ自分から武器戦闘に持ち込むということは、あくまでも手合わせだからということもあろうが、とどのつまりはこちらを完全に見くびっているのだろう。

 もしもワルドが敵なのだとすればそれは結構なことではあるし、他人から侮られるのにも慣れてはいるが、そうはいってもやはり少しはむっとした。

 

 一方で、対戦相手であるワルドの方も、僅かながら焦りと苛立ちとを覚え始めていた。

 

(く……! さすがは『ガンダールヴ』といったところか!)

 

 手合わせとして不自然のない程度の範囲で魔法を交えて戦ってもよいが、武器対武器の戦闘でも自分の方がずっと強いことを示せればいうことはない。

 いかに伝説とはいえ所詮は小さな亜人の子供、使い魔として得た高い能力があるにもせよ技術は甘く荒いことだろう。

 ゆえに、修練に修練を重ねて洗練された自分の剣技をもってすれば容易く手玉に取れるはずだ……。

 

 そう思って、ワルドは先程から自分が知る限りの様々な型の攻撃を駆使して打ち込み、突き、払い、相手の守りを崩そうとしてきた。

 だが、これが一向に功を奏さないのだ。

 

 敵の技巧が思ったよりも高い上に、試合前の気弱な発言の割にはこちらの攻撃に怯えている様子もない。

 おまけにこれまで戦ったことがないほど小柄な体格の相手で、実際に立ち合ってみると想像以上に戦いにくかった。

 

 もう諦めて、魔法を使ってさっさと片をつけてしまおうか?

 

 いや、それも癪だ。

 それに、剣で敵わぬものだから魔法に頼ったなどと、ルイズから思われてもつまらない。

 

(向こうは先程から一切反撃もせずに守りに徹している、俺に奴の守りが打ち破れんのはそのために過ぎん!)

 

 攻撃をしてくれば、その時に必ずや隙が生じるはずだ。

 そこを突くことで現状を打開してやろうと、ワルドは一旦飛び退いてディーキンを挑発してみた。

 

「どうした使い魔君、防戦一方かね? 伝説の名が泣くぞ、遠慮なく反撃してきたまえ!」

 

「ン……、わかったの」

 

 ちょうど少しばかりいらだっていたディーキンは、素直に頷いてその誘いに乗ることにした。

 どの道、いつまでも守ってばかりはいられないのだ。

 反撃して魔法も使わせれば、相手の実力をまたいくらか計ることができるだろう。

 

「いくよ!」

 

 棍を構え直して少し姿勢を低くすると、ディーキンは一気に飛び出してワルド目がけて打ち掛かった。

 一足飛びに間合いを詰めて棍を下から振るい、ワルドの頭に叩きつけようとする。

 

(ふん、扱いやすい子供だ)

 

 ワルドは内心でほくそ笑むと、杖を持ち上げてディーキンの攻撃を正面から受け止めようとした。

 その後、棍を上方に逸らして隙だらけになった胴体に蹴りを叩き込み、地面に転がしてやった上で杖を返して突き下ろすつもりだった。

 

「……ぐぅっ!?」

 

 だが、その小柄な体格からは想像もできないほど重い一撃に、ワルドは思わず顔をしかめた。

 腕に渾身の力を込めて、かろうじて杖を弾かれずに受けきるのが精一杯で、蹴りを出して反撃に転じる余裕などない。

 

「ぬう、……っ、うぉぉっ!?」

 

 ディーキンはワルドに最初の一撃を受け止められるや、すかさず体をひねって棍の逆側で足元に向けて追撃を繰り出していた。

 腕の痺れを堪えながら、ワルドは間一髪その一撃をかわして後ろに飛び退く。

 だがディーキンは、さらにそれを追うように片手に棍を握り直して思い切り体を伸ばし、ワルドの胴体目がけて突きを叩き込んだ。

 

「がっ!!」

 

 その3撃目を避けきれずにもろに食らったワルドは、悶絶してよろめく。

 

 しかし、さすがは魔法衛士隊の隊長というべきか。

 ディーキンが突き出した棍を手元に引き寄せて握り直し、更に追撃をかけようとした時には、既に苦痛をこらえて呪文を完成させていた。

 今まさに自分へかかって来ようとする相手の目の前で素早く横薙ぎに杖を振り、『ウインド・ブレイク』を炸裂させる。

 その突風をまともに受けて、ディーキンは後方へ吹き飛ばされた。

 

「オオ……」

 

 咄嗟に翼を広げてブレーキをかけ、数メートルの後退で踏み止まったものの、さすがに魔法の腕前は確かなものだとディーキンは内心で納得していた。

 この詠唱の速さは、明らかに先日対戦したタバサの最速の詠唱と同等か、それよりもなお上でさえあるかも知れない。

 となると、この男はフェイルーンでいうところの《呪文高速化(クイックン・スペル)》や《即時呪文高速化(サドン・クイックン)》のような技術を習得しているのだろうか……。

 

 ディーキンは知らないことだったが、事実ワルドの持つ『閃光』の二つ名は、その詠唱速度の速さを讃えて贈られたものだった。

 

 ワルドは敵が押し退けられている間にどうにか攻撃のダメージからは立ち直ったものの、精神的なショックは肉体的なダメージなどよりもはるかに大きかった。

 魔法衛士隊の隊長を務めるこの自分が、伝説とはいえたかが亜人の子供ごときに、ほんの数秒の一連の攻撃で魔法を“使わせられた”のである。

 それもただの呪文ではなく、『閃光』の二つ名で讃えられ、誇りとしている奥の手の『高速詠唱』をだ。

 もしそうしなければ、あのまま打ち倒されてしまっていたに違いない。

 

(おのれ、『ガンダールヴ』……!)

 

 この屈辱は、いずれ必ず倍にして返してやるぞ。

 ワルドはそう心に決めると心中の怒りと屈辱とを努めて押し隠し、不敵な笑みを繕ってみせながら羽根帽子を被り直した。

 

「……どうやら僕は、君を侮っていたようだね。君のその武器の腕前に敬意を表して、僕もここからはメイジとして魔法を使わさせてもらうとしよう」

 

「わかったの。じゃあ、まだやるってことなんだね?」

 

 先程攻撃を受けた彼の身を案じて念のために聞いただけだったのだが、屈辱に心をかき乱されているワルドにはそれが自分に対する嘲りのように思えたらしく、目に僅かに怒りの色を浮かべた。

 

「当然だ、あの程度で勝ち誇らないでもらおう。僕たち魔法衛士隊の本領はこれからだよ、使い魔君」

 

 ディーキンは黙って頷くと、あらためて棍を構え直した。

 戦いは、まだまだこれからのようだ……。

 




ダスクブレード(黄昏の剣):
 太古のエルフの呪文発動技術の学び手であるダスクブレードは、戦士の技術と秘術呪文の発動を組み合わせたクラスである。彼らは鎧を着たままでも問題なく秘術呪文を発動することができ、剣で攻撃しながらその剣に込めた呪文を同時に敵に叩き込むことができる能力を習得している。武器戦闘から呪文発動に切り替える必要もなく、双方を同時に行なうことができるダスクブレードは極めて優れた魔法戦士と言える。彼らの技術の源流はエルフにあるが、今日ではいかなる種族の者でもこのクラスになることができる。

へクスブレード(呪詛剣士):
 ヘクスブレードは武芸と秘術の双方の威力を組み合せて用いるクラスである。剣を巧みに扱い、敵に呪いをかける能力を持ち、多少ながら呪文を唱えることができ、使い魔も持てる多芸な魔法戦士である。独立独歩で利己的な者が多く、善属性の者がなることはできない。

ウォーメイジ(戦の魔道師):
 ウィザードやソーサラーよりも戦闘に特化し、戦場で役立つような呪文ばかりを重点的に習得する術者クラス。体の丈夫さや武器の扱いの巧みさはウィザードなどよりは多少マシという程度だが、鎧を着たまま問題なく呪文を発動できるよう特別な訓練を受けている。また、腕が上がるにつれて呪文の威力や範囲、射程距離などを強化できる特技を会得していく。

《呪文高速化(Quicken Spell)》:
 読んで字のごとく、呪文の発動時間を短縮し、一瞬念じるだけで即座に発動できるようにする特技。攻撃や移動などの他の動作を交えながらでも呪文を使用でき、別の呪文と同時に二連発で使用することすら可能。ただし、高速化するためには元の呪文よりかなり高レベルのスロットを必要とする。

《即時呪文高速化(Sudden Quicken)》:
 高レベルのスロットを要求することなく、自分の好きな呪文を必要な時に即座に高速化して発動できるようにする特技。その代わり、1日につき1回しか使えない。


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第九十五話 Conceit

「ほら! やっぱり、先生はすごいでしょう?」

 

 試合を見守っていたシエスタが、きらきらと目を輝かせながらギーシュにそう言った。

 

 対戦相手であるワルドの技量も、シエスタから見れば十分に素晴らしいものだった。

 しかるにディーキンはその守りをほんの数手の攻めだけで打ち崩して、容易く相手を追い込んでみせたのである。

 それほどの戦士が仮にも自分の先生をしてくれているのだと思うと、自然と誇らしさが募ってくる。

 

 然るに話を振られたギーシュの方は、釈然としないように首をかしげていた。

 

「……そうかい? 彼はずっと防戦一方だったじゃないか。確かにうまく反撃を決めたようだが、それは子爵が子供相手だからと思って、わざわざ攻撃を中断して退くことで彼にもチャンスをくれたからじゃないかな?」

 

 武器を用いた近接戦闘に関しては、彼はほとんど素人に近い。

 そんな彼の目からすれば、ワルドの矢継ぎ早の突きをいなしながら相手の実力を推し量っていたディーキンは、攻められっぱなしで反撃もままならないでいるように見えたのだ。

 与えられた機会を活かして見事に一撃決めてみせたのは認めるが、純粋な実力という点ではやはり子爵の方が上なのではないだろうか、と思っていた。

 さすがに、ワルドの方がずっと格上に決まっているだろうという先入観は、そう易々とは覆らないようだ。

 

 ただ、そのギーシュも、『馬小屋に泊まろうとするレディーを引き止めもせずに平気で送り出すような無神経な男が、相手が子供だからなんて配慮を本当にするかな?』……とは思っていた。

 それゆえの、釈然としない様子なのである。

 

(むしろ、過剰に余裕ぶって見せようとして不覚を取ったってとこかもしれないな……)

 

 思えば自分も大概調子に乗ったり気取ったりするところがあるので、身につまされることではあった。

 

「……ま、もう少し見てればあなたにも分かるわよ」

 

 キュルケは肩をすくめながらギーシュにそう言って、戦っている2人の方に注意を戻した。

 

 彼女としてもギーシュと同様、武器戦闘に関しては大したことはわからない。

 しかしながら、どちらの方が優勢でどちらの方が追い込まれているのかについては、両者の姿を窺ってみれば一目瞭然だった。

 ワルドの方が平然を装おうとしながらも抑えきれない屈辱を滲み出させているのに対して、ディーキンの方はいつもと変わらず、むしろ対戦相手に対してやや遠慮したような様子さえ見られるのだ。

 

(要するに、役者が違うってことよね)

 

 キュルケはあっさりとそう結論した。

 彼女からしてみれば魔法衛士隊の隊長だの亜人の子供だのはどうでもいいとまではいわないにしても些末なことで、男ってのは要するにいい男かそうでないかである。

 その観点からして、現在のキュルケの評価では、

 

ディーキン>>>>ギーシュ>>(越えられない壁)>>ワルド

 

 ……くらいの開きがあった。

 言い換えると、ディーキンはタバサのいい人でなければ種族差というハンデを考慮しても自分からアプローチをかけたい相手、ギーシュは暇であるか向こうから誘われるかすれば遊んでみてもいい相手、ワルドは必要がなければ話もしない相手である。

 素直に正直に燃え盛る明るい情熱の炎こそが、彼女を最も惹きつけるものなのだ。何事にも熱のない冷え切った男や、毒々しく昏い情念の火を燻らせているような男は好かない。

 

「……」

 

 タバサは何もコメントせずに、黙って試合の様子を見つめている。

 

 戦いの世界に身を置いてきた者として、もちろんタバサにはディーキンとワルドのどちらの方が武器戦闘で勝るのかは見れば分かる。

 むしろそんなことは見る前から分かっていたというべきだろう、ガリアの地下カジノで強靭なヴロックを一瞬の交錯の間に斬り捨てて見せたディーキンの姿を彼女は目の当たりにしたのだから。

 魔法の合間に武術も学んでいるという程度の魔法衛士が、武器だけで太刀打ちできるような相手でないのは明白だった。

 

 彼女が案じているのは、やり過ぎて相手の警戒を大きく強める結果にならないか、ということである。

 感情的にはむしろ快勝してみせてほしいと思っているので、複雑な気分なのだが……。

 

「ああ、もう……。まだ続ける気なの?」

 

 ルイズは不服そうに顔をしかめたままで、戦いの行方を見守っていた。

 

 彼女にもワルドとディーキンのどちらが上かといったようなことは、あまりよくはわからなかった。

 わからなかったが、油断であれ何であれ、先程ディーキンの仕掛けた攻撃がワルドの胴体に直撃したのは確かなはずだ。

 

「棒じゃなくて槍か何かだったら大怪我じゃないの! あれで勝負ありでもいいでしょうに……」

 

 魔法衛士隊の本領はこれからだとかなんとか言っているが、実戦だったらその本領とやらを見せる間もなく終わっていた男が偉そうに講釈を垂れる場面ではないだろうと、心の中でワルドに毒づく。

 

 とにかく、本当に大怪我をしないうちに早く終わって欲しいものだった。

 ディーキンが強力な治癒の力を持つ亜人だか天使だかを召喚できることも知ってはいるが、こんなくだらない手合わせでそんな大袈裟な呪文まで使う破目になるのは、ますますもって馬鹿馬鹿しい話ではないか。

 いっそさっきの一撃が決まった時点で立会人として終了を宣言すればよかったのかもしれないが、もたもたしている間に機会を逃してしまったのである。

 今度終わらせられそうな場面がきたら躊躇なく勝負ありにしてやろうと、ルイズは心に決めた。

 

 

 

「……さて、仕切り直しといこうか」

 

 軽く深呼吸をして気持ちを落ち着けると、ワルドはそう宣言した。

 同時に飛び退って間合いを開き、杖を長く前方に突き出す。

 重心は退避に備えて後ろに置き、ディーキンの攻撃に備えながら呪文を詠唱し始めた。

 

 ディーキンはそれを見ると、踏み込んでワルドに打ち掛かるのではなく、逆に自分も軽く飛び退いて間合いをさらに離した。

 彼の呪文をもう少し見てみたいというのもあったが、先程の詠唱の速さからするとこの距離では完成前に妨害するのは難しそうだったからだ。

 ならば焦って飛び掛かっていって至近距離から呪文で撃墜される危険を冒すよりも、まずは余裕を持って呪文を回避できるだけの距離を置こうという判断である。

 

 ワルドの詠唱から察するに、唱えているのは『エア・ハンマー』のようだ。

 タバサと手合わせをした時の経験から、それがある程度の距離があれば十分に回避できる呪文であることをディーキンは学んでいた。

 

「――ラナ・デル・ウィンデ!」

 

 案の定、ワルドの差し向けた杖の先から不可視の空気の鎚が飛んでくる。

 タバサと戦った時は上空に逃げたところに『ウィンド・ブレイク』を飛ばされたので、今度は素早く右斜め前に跳躍して避けた。

 直後にそのまま地面を蹴って方向転換し、呪文を放った後のワルド目がけて打ち掛かる。

 

 だがワルドの方も、初弾が避けられる程度のことは十分に想定していた。

 自信家の彼といえども、さすがに武器の技巧や膂力において後れを取ることは先の打ち合いで悟っており、もはやまともに斬り結ぶつもりはなかった。

 事前に備えていたとおり背後に飛んで真正面からの打ち合いを避けつつ、杖を使って攻撃をいなしていく。

 そうしながらも、同時に小声で次の呪文を紡いでいった。

 

「デル・イル・ソル・ラ……」

 

 魔法衛士隊のメイジは、ただ魔法を唱えるだけではない。杖を剣のように扱いつつその動きの中に詠唱に必要な動作を織り込み、呪文を完成させる技法を学んでいる。

 それは敵を牽制しながら呪文を紡ぐことで詠唱時の隙を突かれることを防ぐという、実戦的な詠唱法なのだ。

 軍人としてはごく基本的な技能だが、ワルドは自分が特にその技術に練達していると自負していた。高速詠唱に次ぐ、彼の自慢の技といったところである。

 

(今のうちにせいぜい調子に乗って、嵩にかかって攻め立ててくるがいい、『ガンダールヴ』!)

 

 多少知恵が回るにしても所詮はトカゲめいた姿の下等な亜人、系統魔法の知識はあったとしても本や周囲の学生メイジどもから得た物が関の山だろう。

 さすがに、初見でこんな高度な軍人の技法までは見切れまい。

 勝利を確信して武器を振り上げたところに、至近距離から呪文を叩き込んでやる。

 

 無様な敵の姿を思い描いて、ワルドは微かに唇の端を歪めた。

 

 だが当のディーキンの方では、敵が何をしているかは百も承知だった。

 ワルドがやっているのは、要するにフェイルーンでいうところの〈防御的発動〉の一種だからである。

 練度には当然個人差があるが、やり方自体はウィザードでもソーサラーでもクレリックでも、もちろんバードでも、術者なら誰でも知っている程度のものだ。

 冒険者であれば特に、敵の攻撃に晒されながら呪文を唱えねばならなくなった時などにごく頻繁に用いる技術だと言えた。

 

 さてどうしたものかと、ディーキンは素早く思案を巡らせた。

 

 これは手合わせなのだから、さすがに殺傷力の高い呪文や『遍在』のような消耗の大きい高度な呪文を使う気はワルドにもあるまい。

 となると、相手の手の内で今回見られそうなものはもう大体見たといえるかもしれない。

 ならば、いたずらに消耗したり手の内を知られたりするのを避けるためにも、ここは早めに勝負を終わらせるべきだろう。

 

 ワルドが詠唱の隙を無くそうと繰り返しているごく弱い牽制の突きなど、鎧と鱗とに守られた自分の身体ならば多少当たったところでどうということもないはずだ。

 突いてくるのに合わせて体当たりでも繰り出し、体勢を崩させて詠唱を阻止した上で、組み倒して降参に追い込むという方法も考えられる。

 しかし、妨害に失敗すればゼロ距離で呪文を叩き込まれることになるだろうから、それには若干の危険を伴うかもしれない。

 

 あまり長々と迷っている時間はない。

 ディーキンは手早くひとつの計画をまとめると、実行のタイミングを計った。

 

(……ウーン、でも、ディーキンにうまくやれるかな?)

 

 いくらか不安はあったものの、そうこうしているうちにワルドの詠唱が完成し、後は呪文を解き放つばかりとなる。

 いまさら変更はできない、ディーキンはままよとばかりに大きく棍を振り被った。

 

(もらった!)

 

 ワルドは心中で快哉を叫んで、突っ込んでくる相手に至近距離から『エア・ハンマー』を叩きつける。

 

「オオッ……!?」

 

 ディーキンは驚いたように目を見開き、咄嗟にその攻撃を受け止めようとするかのように左手で棍を突き出しつつ、後方に跳んで体をひねった。

 しかし魔法による強化も施されていない木の棒など、呪文を防ぐ役には立たない。

 直撃はかろうじて免れたものの、空気の鎚が棍を手から弾き飛ばし、余波を受けた体は大きく背後にのけ反った。

 

(フン、所詮はこんなものか。メッキがはがれたな、『ガンダールヴ』!)

 

 ワルドは勝利を確信して、丸腰となった相手に更に追撃を加えようと杖を振り上げた。

 武器を失った以上は勝負あっただろうが、自分の受けた屈辱に対して十分な返礼をせずに終わらせる気はなかったのだ。

 これは真剣勝負という体裁なのだから、降伏を促す前にもう1、2発くらいは叩き込んでも咎められまい。

 

 だがその時、鋭い風切音と共に振り上げた腕に衝撃が走り、ワルドの杖が弾き飛ばされた。

 ガランガランと大きな音を立てて、地面に鉄拵えの杖が転がる。

 

「……なっ!?」

 

 一瞬遅れて事態を理解し、ワルドは驚愕に目を見開いた。

 

 いつの間にか、ディーキンの右手には鞭(ウィップ)が握られていた。

 大きくのけ反った体の後ろで鞭を引き抜くと、無防備に振り上げられた杖を目がけて素早く振るったのだ。

 

 ディーキンはもちろん、武器を失ったと見せかけて相手の油断を誘うために棍は最初から捨てるつもりで、あらかじめ片手に持ち替えていたのである。

 もし仮にこの攻撃が失敗したとしても、元より棍などあってもなくても大した違いはない。

 そのまま鞭で戦い続けることも別の武器を抜くこともできるのだから、さしたる問題ではなかった。

 

「くっ……!」

 

 ワルドは一瞬杖を拾い上げようかとも考えたが、敵は鞭が届く程度の距離……つまりは一足でこちらに斬り込める間合いにいるのだ。

 目の前でかがみ込めば、致命的に大きな隙を晒すことになるだろう。

 そう判断して後方に大きく跳んで間合いを離し、ブーツの内部にある隠し鞘から予備の杖を取り出そうとした。

 

 ディーキンはそんなワルドを追う代わりに、ルイズの方にちらりと何か言いたげな目を向けた。

 彼女が早く勝負を終わらせたいと思っていることは、試合前の苦言や不服そうな表情から見ても明らかだったからだ。

 

 ルイズははっと気が付くと、慌てて手を挙げて宣言した。

 

「そこまでよ! 両方とも武器を落としたんだから、手合わせはここまでとするわ!」

 

「ン、わかったの。ありがとう、ワルドお兄さん」

 

 ディーキンはすかさずそう言って、鞭をしまうと行儀良くワルドに向かってお辞儀をした。

 立会人と対戦相手が両方とも終了に同意している以上、ワルドに不満があったとしても無理押しして続けさせるわけにはいくまい。武器を収めて戦意のないことを示した相手に仕掛けたりすれば、それこそ非難を受けることになる。

 

「……ああ、ありがとう。いい勝負だったよ」

 

 ワルドは渋面をしながらも、杖を抜くのを見合わせて立ち上がると、そう言って軽く礼を返した。

 

「お兄さんも杖を落としたけど、先に武器を落としたのはこっちだし、鞭を使ったりもしたからディーキンの負けなのかな?」

 

 そもそも棍しか使わないなどとは言ってないのだから何も問題はないだろうが、こちらの負けか良くても引き分けだったと認めることで、最後に少々油断しなければ勝てていたと思ってもらうことが狙いなのだ。

 呪文が来るのを事前に見抜きながら完成する前に妨害したり間合いを置いて回避したりするのではなく、あえて完成後に相打ち狙いで仕掛けたのもそのためである。

 試合前にタバサから負けないでとは応援されたが、まあ仮に裁定がこちらの負けと言うことになったとしても、彼女なら実質的には負けではなかったということくらいは理解してくれるだろう。

 

「ははは……、いや、僕も油断していたよ。確かに、君が頼りにならない使い魔だとは言えないな」

 

 ワルドは朗らかな笑顔と鷹揚な態度とを装って言葉を続けた。

 

「まあ、2つの武器を使ってはいけないなどとは取り決めてなかったのだから、ここは引き分けとしておくべきだろうね」

 

 ここで自分の勝ちを主張するのは大人げなく見える、という打算からだろう。

 それでも、引き分けと『しておく』だなどと、相手に譲ってそうしてやったのだというようなニュアンスを含ませずにはいられなかったようだが。

 

 そうして手合わせを終えると、ワルドは同行者たちに軽く挨拶をして一足先に中庭から去って行った。

 

 

 

「あーあ、ギーシュから15エキューせしめそこねたみたいね?」

 

「……あの人が引き分けにすると決めたのなら、それでいい」

 

 ワルドが去り、他の同行者らも中庭から出ていった後で、事情を知る者同士が話をしていた。

 元々冗談半分で言ったことだったので、キュルケとしては実のところ儲け損なったことなどはほとんど気にしていない。

 タバサは割と本気だったらしく、言葉とは裏腹にちょっぴり惜しそうにしていたが。

 

「まあ、あの男の手の内もいろいろ分かったしね」

 

 キュルケがそう言うと、タバサも頷いた。

 

 ごく短い時間の手合わせだったが、ワルドについては割と情報が得られたといえるだろう。

 彼の近接戦の技量のほども見たし、呪文を使うところも見られた。

 高速詠唱を得意としているらしいこと、牽制を行いながら呪文を詠唱する技術に通じているらしいこともわかった。

 

 キュルケやタバサ程のメイジともなれば、実戦で呪文を使うところを見れば相手の系統や力量は概ね察せられる。

 ワルドは九割九分、『風』系統のスクウェア・メイジである。

 まあ、その程度のことは本人に直接尋ねても教えてくれるかもしれないが、敵かも知れない相手の虚偽の可能性のある自己申告と実際に見て確かめたのとではまた違う。

 系統とランクがわかれば、使ってきそうな呪文の見当も大体つけられるというものだ。

 

 タバサの目には、ワルドの素直な動き方から彼がガリア北花壇騎士団ほどに実戦本位な鍛え方はしておらず、良くも悪くも正統派な騎士らしい訓練を受けたのであろうことも見て取れた。

 試合終了の直前に、彼がブーツから何かを……おそらくは予備の杖を、取り出そうとしていたことも。

 

 おそらくその程度のことにはディーキンも概ね気が付いているだろうが、一応後でルイズらのいない間を見計らってもう一度情報交換をしておこうと最後に確認すると、2人も中庭を後にした。

 

 

「くそっ……! 俺としたことが、下らぬミスを……!」

 

 ワルドは一人で部屋に戻ると、悔しげに顔を歪めた。

 

 あらゆる武器を使いこなすという『ガンダールヴ』が相手であることを忘れ、ただ1つの武器を打ち落としただけで油断したのが自分のミスであることは彼も理解していた。

 逆に言えば、その油断さえなければ勝てるはずの勝負だったとも信じていたのだが。

 

「……まあ、しかし、奴の手の内は概ねわかった。良しとしておくか……」

 

 その程度のミスだと考えているものだから、自然と反省も希薄になる。

 

 ワルドとしては、演じた失態よりもむしろ得た成果の方が大きいと思っていた。

 傭兵たちを倒した弓矢に加えて、手合わせで使ったクォータースタッフとウィップの存在と、その技量のほどを知ったのだ。

 特に奥の手である隠し武器のウィップの存在を知ったのが大きい、仮に奴と戦うことになっても不意を打たれずに済む、と。

 別に奥の手なんてほどのものではないのだが、そんなことはワルドには知る由もない。

 

 相手は武器を使うことで知られた『ガンダールヴ』だと思い込んでいたので、ワルドは魔法については特に警戒していなかった。

 一応、人語を解する亜人と言うことで使用する可能性がないとは言えないくらいには考えていたが、手合わせで使う様子もなかったことでその疑いはほぼ解けた。

 大体、エルフしかり吸血鬼しかり、知能の高い亜人というのは概ね人間に近い姿をしているものだ。

 動物が混じったような姿をしているオーク鬼やコボルド、ミノタウロスなどは知能が低い膂力頼みの野蛮な亜人である。

 その観点からいけば、下等な爬虫類との混血のような姿をした亜人の、あまつさえ子供では、多少賢しい部類ではあるようだが高度な術など用いられようはずがない。

 

 ワルドはつまり、最初からディーキンをそのようなもの……未熟な子供であり、畜生めいた種族の一員であり、人間よりも根本的に劣等なものとして見ているのである。

 ずば抜けて賢い子供を見ても、大抵の大人は感心はするかもしれないが対等な相手だとまでは認めないだろう。騎士は優れた軍馬を愛するかもしれないが、自分と同格だとまでは考えない。それらと同じようなものなのだ。

 だから、ディーキンがいかに分別のある意見を述べようと、手合わせで実力を示そうと、せいぜい『下等な亜人にしては意外な一面もあるのだな』という程度のことで、前提が覆されるまでには至らなかった。

 ルイズを取り込むことによって有益な家畜として一緒に飼えるならよし、さもなければ殺処分するだけのことだ。そしてそれは造作もなくできることだ……と、端から決めてかかっている。

 

 もっというなら、ワルドの認識では貴族だけが第一級の人間であって、シエスタのような平民は役畜か、せいぜいが二級市民であった。

 さらにいえば、自分はその貴族の中でも一等優秀な存在だと思っていて、それよりも劣等と見なした貴族、例えばルイズのような相手を利用することにも良心の呵責を覚えてはいなかった。

 ワルドは利己的な男であり、利己心とは結局のところ、他人よりも自分が優先されるべき者であり重要な者であるはずだ、自分の考えや行動は概ねが正しく肯定されるべきものだ、という自惚れである。

 彼の目には、そうした自分自身に対する盲信と他人に対する過小評価、そして事実誤認の思い込みのために、最初からフィルターがかかってしまっている。

 そのために、虚心で見れば明白なはずの目の前の事実が歪んでよく見えなくなっているのだった。

 ディーキンをはじめとした同行者たちのことを未だに軽んじているのも、先程の手合わせで自分の力と使い魔の無力とを示そうという計画が失敗したにもかかわらず未だに最終的にはルイズの心を掴めると信じて疑っていないのも、とどのつまりはそのためなのである。

 

(奴は所詮、武器使いに過ぎんのだ。手合わせと実戦とは違う……!)

 

 その力量が伝説通り千の雑兵を蹴散らし、並みのメイジを破れるほどのものだとしても、自分は並みのメイジではない。

 今回の手合わせのように正面から斬り合うことを避け、遠間から殺傷力の高い呪文を食らわせてやれば手も足も出まい。

 平民の用いる飛び道具などで反撃したところで、『風』のメイジである自分に矢は届かぬ。

 最強の『遍在』と風をまとわせた刃とをもって数人がかりで攻め立てるなら、近接戦で斬り殺すことすら不可能ではないはずだ。

 

 よしんば相手が先住魔法の使い手だったとしても、よほどの強者が自分の得意とするフィールドに陣取っているのでもない限りは負けはしない、とも考えていた。

 それが翼人であれ、吸血鬼であれ、コボルド・シャーマンであれ……、たとえ最強の亜人と目されるエルフであっても、長老格ならいざ知らず、並みの使い手には遅れを取らないはずだ、と。

 先住魔法は、その地の精霊と契約することで最大の効力を発揮する魔法体系なのだ。

 自分の馴染み深い土地を守るときにこそその真価を発揮するもので、先住魔法の最強の使い手と目されるエルフたちの守る聖地がこれまで一度も落とされなかったのはそのためである。

 初めて訪れる地ではその本領を発揮できないのだから、仮に手合わせでは用いなかっただけで実は使えるのだとしても、さほど恐れることはないだろう。

 

 それらの考えは、大概の場合においては正しいのかもしれない。

 とはいえ、自分の想定外の事態など起こるはずがないと頭から決めてかかっているということは否めまい。

 これもまた己の見識に対する自惚れのなせる業である。

 

「……だが、甘く見れば痛い目に遭いかねん相手であることも確かだな。他の連中も、そこそこ厄介そうではある……」

 

 ワルドはそうひとりごちると、今後の計画を練り始めた。

 

 自分自身はルイズらといることでアリバイを作りつつ、『遍在』を用いてこの街の傭兵を片っ端から、雇えるだけ雇い、今夜のうちにもこの宿を襲撃させよう。

 傭兵どもにやられるようならそれでよし、うまくいかなくとも足止め役として一部の者を残らせ、その間に船を強引に出航させてしまえば邪魔な同行者を減らすことができる。

 

 大筋を立案すると、さてこれで行けるだろうか、と頭の中で検討してみた。

 

 あまりに自身の能力を過信し、他者のそれを過小評価しすぎているとはいっても、ワルドにまるで判断力が欠如しているというわけではないのだ。

 彼は彼なりに、慎重に計画を練って十分な備えをしておこうとは思っていた。

 

「上手くいく、とは思うが……」

 

 しかしなんといっても、今回の件には自身の将来の栄光がかかっているのだ。

 万が一にもしくじるわけにはいかないのだから、ここは万全を期するためにも、何かもう一手打っておくべきかもしれない。

 

「……あの連中に借りを作るのは気が進まんが、仕方ないな……」

 

 自分だけでは万に一つ不覚を取る可能性があることを認め、助勢を求めることを決断すると、ワルドは早速『遍在』を作り出して計画のための手配に向かわせた……。

 




〈防御的発動(Casting on the Defensive)〉:
 通常、呪文の発動時には隙ができ、その際に敵の間合いに入っていれば攻撃(機会攻撃)を受けることになる。その攻撃でダメージを負った場合、〈精神集中〉判定(受けたダメージが大きいほど、また発動しようとしている呪文が高レベルであるほど難易度が高くなる)に失敗すれば発動しようとした呪文を失ってしまうことになる。
 〈防御的発動〉は同時に牽制を行なったり意識の一部で防御に集中したりしながら呪文を発動することでそのような隙を無くす戦闘オプションで、これを行なえば機会攻撃を誘発せずに済む。ただし、首尾よくやり遂げるためには〈精神集中〉判定(発動しようとする呪文が高レベルであるほど難易度が高くなる)が必要となり、失敗したなら呪文は発動せずに失われてしまう。
 その性質上〈精神集中〉技能がある程度高くならないと安定して成功させるのは難しいが、試みること自体には特殊な能力などは不要で、どんなに駆け出しの術者であっても可能である。


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第九十六話 Ubiquitous

「ちっ……」

 

 ワルドの『遍在』は、ラ・ロシェールのスラムを歩きながら、不快そうに舌打ちした。

 ここはいつ来ても、ごみとアルコールと安煙草の臭いがする。

 もちろん彼自身はつい先程作り出されたばかりで実際にはここに来るのは初めてなのだが、創造された時点での本体の記憶を有しているのだった。

 

 こんな屑どもの吹きだまりのような場所はできれば避けたいところだが、この街に拠点を構える革命軍関連組織の連絡役は、いつもこの場所で待つことになっているのだ。

 拠点の場所を教えてくれれば直接足を運ぶのだが、この街の連中はひどく用心深いらしくワルドのような他所者にはそれを明かそうとしないのである。

 それどころかどうやら拠点の場所自体も、用心のために定期的に変えているらしかった。

 

「どうしようもなく臆病な連中だな」

 

 ワルドは侮蔑心もあらわにそう吐き捨てた。

 

 彼の考えでは実力のある者はそれ相応の振る舞いをするべきで、慎重になることはあっても過剰に臆病になるものではない。

 したがってこの街にいるのは、大方が士気や実力の不足から戦場へお呼びのかからない組織の下っ端、ごくごく下等な連中であろうと踏んでいた。

 事実、ここにいる連中はアルビオンの戦場から逃げてきた傭兵や亡命者、それに街のスラムにたむろする貧民などを相手に麻薬を流すといったような、賤しくいかがわしい商売を行っているようだ。

 それが本業か、あるいは軍から命じられた諜報活動の傍らに利益を貪るために行っている副業かは知らぬが、いずれにせよ下賎の所業には相違あるまい。

 

 その下等な連中のおかげで、自分までこんな臭い場所へ足を運ばねばならぬ羽目になっているのだからいまいましい話だった。

 変装用に持ち歩いている白い仮面をつけていれば多少は臭いを防ぐ役にも立っただろうが、昨日捕まった傭兵どもの口からその容貌は衛視に漏れてしまっているので、さすがに同じ変装のままというわけにはいかない。

 結局、今は適当に調達したみすぼらしいフード付きの長衣を着込んで即席の変装をしていた。

 変装手段としてはスクウェア・スペルである『フェイス・チェンジ』を用いればより確実なのだが、高度な呪文ゆえに消耗が大きく、この程度の用事で使いたくはない。

 

 さっさと用事を済ませておさらばしようと、急ぎ足で取り決め通りの場所……スラムの十字路へ向かうと、そこには薄汚れた格好で壁に寄り掛かった男がいた。

 あたりには他に人影は見えないので、この男が今回の連絡役らしい。

 

「……」

 

 その男はワルドに気が付くと、ゆっくりと顔を上げた。

 ボロに身を包んだ麻薬の売人といった風情の男なのだが、僅かに見えるフードの奥の顔立ちは貴族でもまれに見るほど端正である。

 

 ワルドも黙って自分のフードをずらし、相手に顔を見せてやった。

 

 だが、男はじっとこちらを見ているだけで、自分から口を開く様子はない。

 以前にも顔を合わせた覚えがある男でこちらのことは十分に知っているはずなのだが……外見だけではあてにならないから取り決め通りの合言葉を言え、ということか。

 

(貴様らのような三下ごときが、慎重なのも大概にするがいい!)

 

 ワルドはうんざりして、内心でそう悪態をついた。

 麻薬などをさばいている以上用心深くなるのはまあ理解できるが、まったくもって仰々しいことである。

 

(ごろつきも同然の末端構成員の分際で、そんな手の込んだ罠を誰かに仕掛けられるとでも思っているのか?)

 

 よっぽどはっきり口に出してそう言ってやろうかとも思ったが、これから手を借りる相手の機嫌を無駄に損ねてもいいことはない。

 ワルドは心中の侮蔑を努めて押し隠して、小声で男と雑談のような合言葉を交わし始めた。

 

「……どこかで、『鴉が鳴いた』ようだな」

 

「ほう、聞こえなかったな。何度鳴いたんだ?」

 

「『2度』だ」

 

「そうか、何を狙ってこんなところへ来たのだろうな?」

 

「昔から、『鴉は死者の魂に群がる』と言うではないか。大方、俺と貴様の魂を狙っているのだろうさ」

 

 面倒な一連のやりとりを終えると、男は小さく頷いて壁から身を起こした。

 

「それは剣呑なことだな。見つからぬよう隠れるとするか?」

 

「ああ……」

 

 ワルドは肩をすくめると、フードをかぶり直して男の後に続いた。

 

(まるで子供の暗号ごっこだ。こんな下等な連中といつまでも付き合っているようでは、俺も革命軍の中での出世など到底望めんな……)

 

 なんとしてもルイズと彼女が回収しようとしている手紙とを手中にし、あわよくば王党派の重要人物の首級をあげて手柄を立て、早急に革命軍の中でもっと上の地位に昇らねばならない。

 そのためにこそ、不本意だが今は彼らの助力が必要なのである。

 

 ワルドが自分にそう言い聞かせて黙ってついていくと、男は手近のボロ屋に入り、奥の階段から地下へと向かっていった。

 地下室はごく僅かな家具が置かれているだけの殺風景な場所で、変わっていることといっては古びたコート掛けの上に大鴉がじっととまっていることくらいだった。

 

(奴の使い魔か)

 

 以前に会ったときもそうだったが、この男は目の前の相手が貴族であることを重々承知していながら萎縮した様子もなく、畏敬の念を示す気配もない。

 その賤しい役職や身形などからして貴族だとも思えないが、妙に整った容貌と不敬な態度はただの平民には似つかわしくないものだ。

 そのあたりから推して、おそらくは没落した家系のメイジなのであろうとワルドはあたりをつけていた。

 

 ワルドを中に招き入れて扉を閉めると、男は前置きもせずに不機嫌そうに話し始めた。

 

「……子爵。なぜ我々に無断で、街の外で傭兵などを使って騒ぎを起こした?」

 

 遠慮なくさっさと椅子に腰を下ろしたワルドが、肩をすくめる。

 

「ずいぶんと耳が早いな?」

 

「街の傭兵どもや衛視どもの動きくらいは把握していて当然だろう。胡散臭い仮面の扮装などせずとも我々に仲介を頼めば済んだものを、なぜそうしなかったのかと聞いている」

 

「ふん、貴様らはいわゆる慎重派で、行動が遅かろう? 急な用向きだったのでこちらで手配したのだ。それに、わざわざ頼むほどのことでもあるまいと思ったのでな……」

 

 ワルドの悪びれた風もない返事を聞いた男は、いらいらしたように部屋の中を繰り返し歩き回り始めた。

 ややあって、口を開く。

 

「……それで、結局うまくいかずに我々に話を持ってきたというわけか?」

 

 不躾に咎め立てるような物言いに対して、ワルドは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 たかだかこんな連絡役の没落メイジごときにいちいち揶揄されるいわれはない、とでも思っているのだろう。

 その不遜な態度を見て、男はますますいらだちを募らせていた。

 

(貴様は、自分がどういう立ち位置にいるかわかっているのか?)

 

 革命軍側からすれば、ワルドはトリステイン王国内部に潜り込んだスパイ、しかも国の重鎮の傍近くにあって信頼まで得ているというかなり貴重な人材である。

 なればこそ僅かでも疑いを招くような不自然な行動は慎み、情報だけを送って実働はすべてこちらに任せておけばいいものを。

 今回のように関係のない仕事にまで手を伸ばして、不用意に出しゃばってこられては困るのだった。

 

 この男は、確かに有能な駒には違いない。

 だが、なまじ優秀なために与えられた駒の役割だけをただ黙々と果たし続けることに満足せず、他のことにまで手を伸ばして分相応以上の野心を抱いているようだ。

 その目的は直接的には革命軍内での評価を高めることによる地位の向上なのだろうが、背後にはあるいはもっと個人的な目的が隠れているのではないか……。

 

「……まあいい。それでお前の言う急な用向きというのはなんだ、子爵」

 

 連絡役は首を振って詮索を打ち切ると、ワルドの向かいの席に腰を下ろしてそう尋ねた。

 不満は多々あったが、いつまでこうしていても埒があかない。

 

「ああ。それなのだが、一昨日の夜にアンリエッタ王女とマザリーニ枢機卿から特別な任務が与えられてな――」

 

 ワルドは一昨日からの事の次第を、かいつまんで説明していく。

 もっとも、ルイズの『虚無』に関係したことについては触れずにおいた。

 彼はそれを革命軍には引き渡さず、籠絡して自分の手中に収めた後は重要な場面が来るまで秘蔵しておくつもりでいるのだ。

 

「――そう言うわけだ。この好機を逃す手はないことは、貴様にも分かるだろう?」

 

「……ふむ」

 

「俺はこのまま奴らに同行し、手紙を奪うとともに状況に応じて王族らの暗殺や、王城内への軍の引き入れなどの工作を行うつもりだ。だが、同行者の戦力が思ったよりも多いのでな……」

 

「アルビオンへ向かう前にそれを削いでおきたい、ということか」

 

「そうだ。明日出立の予定になっているが、ただの傭兵どもではどうも用が足らんようだ。今夜中に十分な戦力を集めて襲撃を手配してくれれば、俺はそれを食い止めるためと称して同行者の大半をここへ残らせるように話を運ぶ」

 

「……なるほどな……」

 

 連絡役はひとつ頷くと、思案顔でワルドの話を検討し始めた。

 

 確かに、それはなかなかうまい話が転がり込んできてくれたものだ。

 アルビオンの王家はどうあれ早晩落ちるだろうが、ワルドの工作で被害がより少なく速やかに陥落させられるなら無論その方がよい。

 トリステインとゲルマニアの同盟を破談に追い込めるかもしれぬ手紙というのもなかなか魅力的だし、それ以外の使い道が見出せる可能性もある。

 しかもワルドは正式な任務を受けて赴くわけだから、うまく作り話をこしらえて誤魔化してやれば、以後もスパイとしてトリステイン宮廷の内部に留まり続けることは十分可能だろう……。

 

 どうするかは自分が決定することではないが、上に通してやるだけの価値がある話には違いない。

 

「わかった、その話はひとまず“卿”のお耳には入れておこう。あのお方がお認めになったなら、夜までにはなにがしかの戦力を手配して連絡を入れてやろう」

 

「……どうせなら、この機会に俺が直接貴様らの上役に会って話を通すわけにはいかんのか?」

 

 この街の連中はその賤業から推して概ねが末端の下級構成員に違いなかろうが、とはいえここはアルビオンと下界との交通の要でもある。

 ならば、おそらく彼らを取り仕切っている“卿”と呼ばれる上役はそれなりの人物であるはずだ。

 まだ名前は知らないが、察するに王族を見限って革命軍についたアルビオンの上級貴族といったところなのではないか。

 これまでは相手の方が会おうとしてくれなかったが、今はこちらの手元にうまい話があり、向こうも一枚噛んで容易くそのおこぼれにあずかれるという状況である。

 この機会に知り合っておくことは、お互いにとって不利益ではあるまい……。

 

 そのように考えてのワルドの提案だったが、連絡役の男はちょっと眉を動かしただけで、にべもなく頭を振った。

 

(遥かな高座におわすあのお方が、なんで貴様のような地を這うウジ虫にお会いになるか)

 

 連絡役は心の中でそう嘲笑っていた。

 だがもちろん、口や態度にそれを表すことはしない。

 

「お前の話は魅力的だが、卿は用心深く検討した上で行動されるお方だ。取り次いだところで今すぐに会うことは承諾されまい。しかし、お前が拝謁を求めていたことは伝えておこう」

 

「そうか……」

 

 ワルドは俯いて、思わず口元に浮かんできた苦笑いを隠した。

 この街の連中がいちいち七面倒くさい形式にこだわったり分不相応に用心を示したりするのは、どうやらその上役の影響らしい。

 

(拝謁を許すだなどと、王族気取りか。小心者の分際で、自尊心だけは強いらしいな!)

 

 それなりの人物なのだろうと思ったが、この分では家格が高いだけの臆病者でしかないのかもしれぬ。

 そのせいでこのような、重要と言えば重要だがアルビオンの戦場からは離れた僻地へ追いやられたか、もしくは戦火を怖れて自分からそう志願したのか。

 いずれにせよ、慎重が過ぎて降ってわいた好機を自ら掴みに出てくる勇気もないのではおよそ出世のできる人物ではない。

 自分は兵を動かす許可を出しただけで実働はすべて部下がしたというのでは、上から得られる評価もたかが知れているだろうに……。

 

(その程度の人間なら、面識ができなくても惜しくはない)

 

 ワルドはそう結論すると、頷いて立ち上がった。

 

「よし。……では、街の傭兵どもは俺の方で手配しておこう。貴様らには、それ以外の戦力を用意してもらおうか」

 

 それを聞いた連絡役は、たちまち眉をひそめる。

 

「いや、待て。手配はすべてこちらでする、疑いを招くような行為は慎め。街でお前と人相風体の似た男が傭兵を募集して回っていたなどと、夜になる前に同行する連中の耳に入ったらなんとするつもりだ」

 

「……そこまで慎重になることも無いと思うがな。そのようなこと、せいぜい万に一つだろう?」

 

 連絡役はそれを聞いてかぶりを振った。

 

「子爵、例えば失火は万に一つしか起こらぬことだ。人生で一度あるかないかだろう。にもかかわらず、人間はみな寝る前に火元を確かめるべきだという。それは、失火が生涯に一度たりとも起こってはならぬことだからだ。違うか?」

 

 ワルドはその教師めいた訓戒に軽蔑したように小さく鼻を鳴らしたが、結局、肩をすくめて頷いた。

 

「わかったよ、ここでは貴様らの細心なやり方に従おう。では俺は、夜までのんびりさせてもらうぞ。滞在している場所はいつもと同じだからな――」

 

 そう言ったのを最後に、ワルドの姿は不意に薄れ始めて、すうっとかき消えた。

 同時に、地下室だというのに一陣の風が吹き抜ける。

 

「む……?」

 

 連絡役の男は、それを見て怪訝そうに顔をしかめる。

 

 風が止んだ後、ワルドの立っていた場所には彼がまとっていた薄汚れたローブだけが残っていた。

 どうやら『遍在』の呪文を解除したらしいと、男は一瞬遅れて理解する。

 他の着衣や所持品のように見えた物は実際にはすべて呪文によって創造された体の一部で、このローブだけが後から羽織ったものだったのだろう。

 

 確かに用が済んだ以上はこの場で消してしまう方が地下室から出て帰っていく姿を目撃される心配がないのでよいだろうが、そこまで用心深い男ではあるまい。

 大方高度な呪文を使っていたことを誇示して、自分の方が上なのだと示そうとしたといったところだろうか。

 

「……自信があるのは、結構なことだがな」

 

 連絡役のクロトートは、溜息を吐いた。

 

 あの男は確かに高い実力の持ち主ではあるのだろうが、どうも半端な計画や自己顕示欲などに基づいて行動するところがあるようだ。

 そのせいで、こちらの緻密な計画にまで支障を及ぼされなければよいが。

 ああいった手合いは本来ならば味方よりもむしろ獲物として歓迎したいところだが、多少の問題はあるにもせよ有用な駒である者を許可なく餌食として潰したりすれば上からの不興を買うことになるだろう。

 

 とにかく、あの男の要請を上に伝えてこなくてはなるまい。

 この後の予定が少々あったのだが、それは部下に任せておくことにしよう。

 

「イガーム」

 

「キキ……」

 

 名前を呼ぶと、コート掛けの上にとまっていた大鴉はすぐに鳴き声で返事をして彼の下にやってきた。

 クロトートは懐から小さな紙包みを取り出して、イガームに差し出す。

 

「俺は出かけるが、今日は傭兵崩れのボックに薬を届けてやる約束になっている。それを奴の家まで運んでやれ、場所はわかるな?」

 

 大鴉は頷いて、嘴でその包みを受け取った。

 クロトートは愉しげに口元を歪めて、部下に注意を与える。

 

「いつもより濃く作ってある、さぞや喜ぶことだろう。運ぶのが遅れて、痺れを切らした奴が自分で取りに来たのでは困るぞ。十字路に死体が転がっては少々面倒だからな」

 

 イガームもまた、嘴を歪めていやらしい笑みを浮かべて見せた。

 つまり、あの男はとうとう金が尽きて、薬と引き換えに魂を売ることに昨日のうちに同意していたというわけか。

 魂を刈り取る準備ができたならできる限り早期に収穫するのは当然である、魂が地獄に到着しないうちは手柄にはならないし、最悪の場合は後日獲物が改心して地獄行きを免れてしまう可能性すらあるのだから。

 

 これでまたクロトートの手柄が増え、部下である自分にも僅かながら功績の分け前が入ってくるのだ。

 自分があの男を堕とせればなおよかったが、しかし手柄を横取りするような真似をして上司の不興を買えば、かえって悪い結果を招いたかもしれない。

 いつか完全に寝首を掻ける用意が整うまでは、与えられた指示をきっちりとこなせるだけの能力は示しつつも、しかし己の地位を脅かすほどの能力や野心はないと上司に思わせておくのが最上だとイガームは理解していた。

 本来のインプ形態に戻る機会もろくになく、四六時中こんな畜生の姿をしていなくてはならない今の任務にはいささか不満はあったが、将来の出世が掛かっていることを思えば何ほどのことでもない。

 

 もちろんクロトートの方でも、表向きに示しているほど小さな野心しか持っていない部下などいないことはよく知っており、そのことを努々忘れてはならないと常日頃から自分に言い聞かせている。

 彼は短い留守の間にも部下に勝手な行動を取られぬようにと、その他いくつかの細々とした指示を与えていった。

 そうしていよいよ出かける準備が整うと、この機会に一緒に渡しておきたい報告書類などを鞄にまとめ、出口へは向かわずに目を閉じてじっと精神を集中させる……。

 

 次の瞬間、彼の姿はふっとかき消えた。

 その様子は先程ワルドの『遍在』が消えたのにも似ていたが、クロトートは分身体を消したのではない。

 

 内在する魔力を呼び起こすことで、空間を飛び越えたのだった。

 

 

 クロトートは澄み切った銀色の空と明滅する色彩の渦とが彩るアストラル界を通り抜け、物質界の距離を一瞬にして詰めると、自らの上司が現在滞在している拠点の前に到着した。

 

 頑丈な砦のような構造をしているこの拠点は、もちろんラ・ロシェールの街中にあるわけではない。

 ラ・ロシェールに駐留している部隊の指揮官である“卿”は普段はこのような離れた場所にいて、直接的な監視や活動については信任した部下に権限を委譲しているのだ。

 普段から頻繁に定命の存在に関わり合うような卑賤な行為は、矮小な者の義務なのである。

 

 クロトートは砦の入り口で、先程自身がワルドに対して要求したものよりもさらに複雑で緻密な手続きによって入念に身元を確かめられた後に中に入った。

 ようやく人目を気にする必要のない安全な砦の中に入ったことで一息つくと、まとっていた《変装(ディスガイズ・セルフ)》の効果を脱ぎ捨てる。

 人間の姿に偽ったままで貴人の目の前に出ることは無礼にあたるし、こちらの方が自分も落ち着くからだ。

 

 彼の本来の姿は全体的には依然として美しい人間のそれに似ていたが、犬歯は鋭く尖ってきらきらと光り、額からは小さな角が2本生えて、脚の先端は大きな割れた蹄になっていた。

 尻からは真紅の鱗で覆われた、先端が二股に分かれた尾が生えていて、蛇のようにシュルシュルと蠢いている。

 身にまとっていたぼろぼろの長衣は消え失せて、今では退廃的なまでに美しい装身具で飾り立てられた、豪奢な廷臣の衣装を優雅に着こなしていた。

 陰謀を張り巡らせて人々を堕落させ、その魂を刈り集めることから収穫者(ハーヴェスター)の名で呼ばれているデヴィル、ファルズゴンがその正体である。

 

 クロトートは許可が下りて謁見の間に通されると、上司の前に平伏した。

 

「感謝いたします。永久に滅ぶことなき鉄の都において、その名を知らぬものなき高貴なる卿が、卑賤なる私めの請願をお聞き届けくださり、永劫なるお時間の幾許かをお与えくださったことに対して――」

 

「よい」

 

 複雑な地獄の作法に基づいて上位者に対する長い挨拶を続けようとする部下を、卿は短く制した。

 

「大凡の事情は既に聞いた。急ぎの用件なのであれば挨拶はよい。顔を上げて話せ」

 

「はっ……」

 

 クロトートは畏まった様子で顔を上げると、上司の姿を見つめた。

 

 ワルドはこの人物のことを勇気のない臆病者と評したが、もしも間近で姿を見れば、すぐにその考えを改めたことだろう。

 彼は豪奢な衣装を身にまとい、立ち居振る舞いは正しく王族のように威風堂々としていて、一言も発さずとも自身が最も優れた存在だと言う自負を全身で示しているかのようだった。

 手には王錫のような長い槌鉾状の杖を握っており、鋼のような暗い色合いの長身で逞しいその体つきを見ただけで、この人物が優れた戦士であることは一目瞭然である。

 全体的には整った容貌をした壮年の男性のようではあるが、彼の頭部に生えた一対の小さな角と燃えるような赤い瞳がその本性が魔物であることを示していた。

 

「それでは、申し上げます……。つまらぬ人間の話でお耳を汚し、ご不快を与えることを今しばらくお許しください、ディス・パテル卿」

 



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第九十七話 Narcotic

 ガデルは、ごく典型的な傭兵だった。

 

 つまりは金大事、命大事で、雇い主に対する忠誠心はビスケットのように薄いというタイプである。

 先日まではアルビオンで王党派に雇われていたが、もはや彼らに勝ち目がないと悟るとあっさり見捨てて逃走を決め込んだ。

 それでも革命軍側に寝返らないだけ、彼なりに雇い主への礼は尽くしたつもりだった。

 手遅れになる前にラ・ロシェールまで運んでくれる船がつかまえられたのは、まったく運が良かったといえるだろう。

 そのおかげで、こうして無事に命が助かったわけである。

 

 しかし、ガデルはアルビオンでの戦いで左肩に負傷を負っていた。

 追い詰められた王党派には平民の傭兵などに手厚い治療を施せる余裕があるはずもなく、魔法を用いない気休め程度の応急手当しか受けられなかった。

 幸い不具になるほどの傷ではなかったようだが、なかなか完治せずに今でもまだずきずきと鈍く痛んでいる。

 一応は自腹を切ってメイジに治療を頼もうともしてみたが、戦時ゆえに腕のいいメイジは軒並み戦場へかり出されてしまっており、まだ未熟なメイジが乏しい薬を用いて行う治療には気休め程度の効果しかなかった。

 割に合わないので、結局は自然治癒に任せるしかないと諦めたのである。

 

 ラ・ロシェールへ逃れた後、ガデルは肩の痛みを紛らわすために連日酒場に入り浸り、素面に戻った後は主として戦場での死体剥ぎで得た手持ちの金の残りを数えては将来に不安を覚え、その憂さを忘れるためにますます酒量が増える、という悪循環に陥っていた。

 要するに、一介の傭兵の末路としてはごくごくありがちなルートを順当に辿りつつあったわけである。

 

 だがそんなある日、ガデルの運命を大きく変える出来事が起こった。

 

 同じ傭兵仲間のボックという男が、『痛みによく効くから一度試してみろ』と言って青みがかった妙な薬を勧めてきたのだ。

 ただで一服くれたので、胡散臭いとは思いながらも試してみると、これが本当によく効いた。

 薬が効いている間の何時間かだけだったが、頻繁に疼いていた肩の痛みが嘘のように無くなって、久し振りに穏やかで幸せな気分で眠ることができたのである。

 それからは、ボックに代金を支払って定期的に薬を調達してもらうようになった。

 彼はその薬のことをアルビオンの革命軍から手に入れた“天使のミルク”だとかなんとか言っていたが、ガデルとしてはそれが実際によく効くということだけが大事だった。

 薬の代金はメイジに治療を頼む際に必要になる水の秘薬と比べればそれほど高くもなく、傷が完治して痛みが引くまでの間使い続けても問題はあるまいと、最初のうちはそう思っていた。

 

 しかし、しばらく経ってからどうも雲行きが怪しくなってきたことに気が付いた。

 

 この薬は痛みを抑えてよい気分にしてはくれるが、傷の治りを早めてくれるようなものではない上に副作用が強いらしいのだ。

 薬が効いている時はいいのだが、効果が切れると肩の痛みは尚更酷くなるし、頭はぼうっとするし、しまいには体が衰えてきているのか唇が青みがかってきた。

 おまけに、これ以上使わない方がいいかも知れないとは思いながらも効果が切れた時の疼くような体の痛みに耐えかねて、むしろ日を追うごとに使用する頻度が増えつつあった。

 

 ボックもこちらのそんな弱みに気が付いているのか、仕入れ先が値上げをしただの品薄になってきているだのと理由をつけては、じわじわと要求する額を増やしてきていた。

 このままいけば、いつまでもずるずると使い続けているうちに手持ちの金が底をついてしまいかねないような状況だった。

 

 そんな時、久し振りに仕事の口が舞い込んできた。

 そうする理由は話してもらえなかったが、ラ・ロシェールへ向かってくる学生メイジの一団を待ち伏せて奇襲しろという依頼内容だった。

 雇い主は白い仮面で顔を隠した胡散臭いメイジだったが支払いの方は気前がよく、報酬の半分以上を前金でポンと渡してくれた。

 自分以外にも何人もの傭兵が同時に雇われており、相手がメイジとはいえまだ子供ばかりでこちらがこれだけの人数で奇襲を仕掛けられるのであれば、さほど難しい仕事ではないだろうと思えた。

 子供を理由も知らずに殺すのは気分がいいとは言えないが、元よりこちらは利益第一の傭兵生活であり、金のためならば是非もない。

 

(まとまった金が入れば、当面は薬の代金の心配をしなくて済むってもんだ)

 

 いや、それよりもこの機会にどうにかして腕のいいメイジを探し、稼いだ金を積んで傷をきれいさっぱり治してもらおう。

 そうすれば、ボックに毎日薬代を搾り取られながら体を衰えさせていく日々ともおさらばだ。

 そのように考えたガデルは、傷の痛みを薬で抑えて仕事に臨み、他の傭兵たちと共にラ・ロシェールの近郊で待ち伏せをしたのである。

 

 しかし世の中はそう甘くはなかったようで、ターゲットに指定された学生メイジの一団は想定していたよりも遥かに強かった。

 おそらくは、アルビオンの戦場でガデルが出会ったどの敵部隊よりも上だっただろう。

 あっさりと待ち伏せを見抜かれて逆に先制攻撃をかけられてしまい、まともに反撃する暇もなく全員叩き伏せられるという憂き目にあったのである。

 情けないことではあるが、あまりにもあっけなくやられてしまったために相手の側にはこちらを殺さずに捕縛する余裕があったのが、せめてもの救いだった。

 

 最初に先制攻撃をかけてきた奇妙な子供らしき亜人に襲撃の理由について尋ねられたガデルらは、頑張って黙秘しようとするでもなくすぐに依頼の件について白状した。

 所詮は金だけの関係であるし、むしろこんな手強い相手だなどと伝えてもくれなかった雇い主を張り倒して恨み言のひとつもいってやりたい気分だった彼らとしては、無理をして忠義を尽くす必要性も感じなかったのである。

 

 その後は、ありがたいことに簡単な怪我の手当てだけはしてもらえて、衛視の詰所へ連行となった。

 反抗的な態度さえ取らなければ、おそらくは数日の禁固程度で済ませてもらえるだろう。

 なにせこの街には現在アルビオンへ行き来する気性の荒い傭兵たちが沢山いるので、酒場での乱闘や刃傷沙汰などは日常茶飯事なのだ。

 ラ・ロシェールに駐留するごく少人数の衛視は街中の問題に対応するだけでも手一杯なのに、街の外で起きた騒ぎでわざわざ他所へ護送して裁判にかけ、正式な刑を執行するなどという面倒な手続きはまず取るまい……。

 ガデルとしては、とにかくそう期待するしかなかった。

 

 その晩は牢の中で粗末な毛布にくるまって横になったが、左肩の負傷に加えて先程の襲撃でメイジの炎を受けて火傷した右腕がずきずきと痛み、なかなか寝付けない。

 牢の中では薬も使えないし、まさか薬を取って来てくれなどと衛視に泣きつくわけにもいかず、我慢するより他になかった。

 そんな風にしていると、ネガティブな考えが次から次へと頭に浮かんでくるものである。

 

(……牢に入れられるのは数日で済むとしても、罰金くらいは取られるかもしれねえ……)

 

 そうなると、ただでさえ乏しくなってきている手持ちの金がまた減ってしまうことになるわけだ。

 金が尽きて薬が買えなくなり、その時に肩や腕の怪我もまだ治っていないとなったら、もう傭兵は廃業するしかない。

 仮にそうなったとして、これから先自分のような学もなく実績もない根無し草に、一体どんな仕事ができるだろうか。

 それどころか、考えにくいことではあるが、万が一このまま刑務所に送られでもしたら……。

 いや、こんな屑など刑務所へ送るのも面倒だからと、内密にすっぱりと死刑にされてしまうようなことだって考えられなくは……。

 

 そうして際限なく悲観的な考えに囚われていき、ガデルはこの晩、とても惨めな思いをして過ごした。

 その翌日になってまた自分の運命が大きく変わる出来事が起きようなどとは、この時の彼には想像もできなかった。

 

 

 

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 ワルドとの戦いが終わった少し後で、ディーキンは予定通り、キュルケに同行を頼んで街中へ情報収集に出かけることにした。

 こういった情報収集はもちろんバードの得意とするところだが彼女も色気などを使って男の口を軽くするのが巧いので、2人で協力すればより早く作業が進むだろうし見落としも防げるというわけだ。

 

 タバサは無口で聞き込み役に向いているとは言えそうもないので、その間ルイズらの傍に残って念のためワルドの動向や敵の襲撃などに警戒しておく役を務めてもらうことにした。

 同行したそうな様子を見せてはいたが、ルイズらが事情を知らない以上は備えのために残る者も必要なのでやむを得ない。

 退屈しないように『ウルルポット』や『スリードラゴン・アンティ』などの手持ちのゲーム類を渡して、よければみんなで遊んでいてくれと言い添えておいた。

 彼女はギャンブルやゲームの類が得手なようだから、まあきっとギーシュあたりからかっぱぐとかして楽しくやることだろう……。

 

 さておき、昨夜の襲撃を手配した者がどこで目を光らせているかもわからないので、念のために変装もしていくことにする。

 別に聞き込みをしているのを知られたからといってどうということもないといえばいえるのだが、要らぬちょっかいや詮索を受けたくはないのだ。

 キュルケはディーキンから借りた《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ)》を被って、踊り子めいた衣装を身にまとったメイジの女芸人に扮装した。

 豊かな肢体を持つ美しい若い女性なのは元と同じだが、オリーブ色の肌と黒髪で容貌が大きく変わっている。

 ディーキンは彼女の護衛役を務める使い魔ということにするために、《自己変身(オルター・セルフ)》の呪文を使って幼生体の火竜の姿に化けた。

 シルフィードよりはずっと小さいが、幼生体とはいえキュルケの本来の使い魔であるフレイムと大差ないくらいの大きさはある。

 

 ラ・ロシェールは小さな街だがアルビオンと下界とをつなぐ港町であるがゆえに酒場や旅籠、商店の類がたくさんあるし、旅人も常に大勢いる。

 変装をした2人は、とりあえずそれらの店のいくつかを順に回って情報を集めていくことにした……。

 

 

「まあ、これで大体めぼしい情報は集まったんじゃないかしら?」

 

「ンー、そうだね……」

 

 キュルケの問いかけに、ディーキンは何事か思案しながら曖昧に頷きを返した。

 

 数時間ばかりを情報収集に費やした2人は、人目のないところで元に戻ると、適当な飲食店の片隅で遅めの昼食をとっていた。

 そこらの酒場などは昼間から既に満員だったが、ここは女性向けの店であり食事時からずれていることもあって、客はほとんどいない。

 一息つくという意味でも、話の内容を聞かれる心配がないという意味でもありがたかった。

 

「……それにしても、戦争中じゃしょうがないでしょうけど柄の悪い街ね。アルコールと脂の匂いが体に染みつきそうだったわ!」

 

 キュルケは桃りんごのタルトをつつきながら、先程の聞き込みの様子を思い出してぶつぶつと文句を言った。

 

 平民向けの酒場や旅籠はどこもかしこも、野卑な傭兵たちかさもなければ失意のどん底といった風情の亡命者たちで満員。

 煙草の煙がもうもうと立ち込める中で真昼間から酒を浴びるように飲んで騒ぐか潰れるかしている客が、どの店にも決まって数人かそれ以上いるという始末だった。

 キュルケはそんな連中にも嫌な顔をすることなく愛想と色気を振りまいて上手くあしらいつつ望む情報を引き出していたが、だからといって不快感を感じなかったわけではない。

 うるさく騒ぐ男や欲望丸出しの下品な男にはそれなりに慣れているのだが、どうもこの街の連中には何か……説明はし難いのだがそういったありきたりな連中とはまた違う、奇妙に不愉快な感じを受けるところがあった。

 

 それは、あるいはただのごろつきと戦場の炎や死に慣れきった連中との違いというものなのだろうか、とキュルケはふと思った。

 自分も本物の戦場に身を置いた経験があるわけではないので、想像しかできないのだが……。

 

(そういえば、ディー君は戦争も経験したことがあるって言ってたわね)

 

 なんでもドロウというエルフの亜種族同士の戦いに、吸血鬼やその他の危険な種族も混ざり合った地下世界の戦争だったという。

 何万人という人間同士が戦うハルケギニアの戦争と比べると人数的な規模はずっと小さいのだろうが、エルフや吸血鬼と言えばハルケギニアでは最強・最悪と名高い亜人種である。

 雰囲気はだいぶ違うのだろうが、危険さという意味では決して引けを取らないのではあるまいか。

 

 なら、彼に聞いてみれば何か意見を述べてくれるかもしれない。

 そう思って、キュルケは自分の感じた不快感についてディーキンに話してみた。

 

「それは、ディーキンも感じたの。でもそれは、ただ戦争に行ったからとか、それだけとは違うと思うな」

 

「ふうん……。じゃあ、どうしてなのかしら?」

 

 何か心当たりがあるのかと問い掛けるキュルケに、ディーキンは小さく頷いた。

 

「うん。あの人たちの中には、お酒や煙草よりももっと悪いものの中毒になった人が混じってたの。他の人たちにも、たぶんいろいろ悪いことをしてる人が多いのかもしれない」

 

 自分たちが通常以上の不快感を感じたのは、つまりは戦時中の不安などから酒を飲んで騒いでいるというだけではないそう言った連中の放つ退廃的な気配をなんとなく肌で感じたからなのだろう。

 それを聞いて、キュルケは不審そうに眉をひそめた。

 

「もっと悪いもの……って、麻薬とか? どうしてわかったの。誰かがこっそり吸ってたのが見えた?」

 

 キュルケは質問しながら、自分でももう一度先程回った酒場や旅籠の様子を思い出してみた。

 

 自分はディーキンと一緒に簡単な芸をしたり、彼から借りた楽器を弾いたり、踊りをして見せたりしながら客たちや店主から話を聞いていたのだが、そのような所作をしている者には気付かなかった。

 もっとも、その間単なる使い魔だと思われているのを利用してとがめられる心配もなく店内の者たちの様子をじっくりと観察したり、内輪の話に耳を傾けたりしていたディーキンならば、自分の見落とした何かに気が付いていたとしてもおかしくはないだろう。

 

「イヤ、そうじゃないよ。お客さんの中に、唇の青い人が何人か混じってたでしょ?」

 

「え? ……ああ、そういえば……」

 

 言われてみると、確かに程度の差こそあれ唇が青く汚れたような色をしている客が何人もいたような気がする。

 その時は、単に健康を害しているのだろうくらいにしか思わなかった。

 そのような客の多くは昼間から酒をぐいぐいと飲んで騒いでいる連中の仲間だったし、そんな不健全な生活を続けていれば体が衰えて当然である。

 

「あれは、サニッシュの中毒になってる人の特徴なの。……もしかしたら、こっちの方では名前が違うのかも知れないけど」

 

 キュルケがきょとんとしているのを見て、ディーキンはその麻薬について簡単な説明をしていった。

 

 サニッシュは狼の乳から抽出した青みがかった液体と砂漠の植物を粉にしたものとから作られる麻薬で、フェイルーンの麻薬常習者たちの間では非常に人気がある。

 それというのも、この麻薬は服用することで数時間の間続く幸福感をもたらしてくれるために何度も繰り返し使用したくなり、しかも副作用として判断力が鈍る効果があるせいで中毒者はその危険性について深く考えることが難しくなるのだ。

 中毒者は使用を続けるうちにどんどんと判断力を蝕まれていき、やがては薬を買う金を得るためなどで犯罪に躊躇なく手を染めるようになって、社会の腐敗を招く。

 使うことによって数時間の間苦痛を感じなくなる効果もあるために、慢性的な体の痛みを抱えた者などに痛み止めと偽って処方して中毒者にしてしまうような悪質な例もあるという。

 よほど長期間にわたって常用し続けない限りは致命的なほど高い副作用が発生しないがゆえに、中毒者がずっと使用し続けて継続的に利益をもたらしてくれるということから売人にとっても好都合な代物である。

 この麻薬の常用者は唇が恒久的に青く汚れるために簡単に見分けがつくが、特に地位のある者の中には、紅を塗ったり変装用のマジックアイテムを用いたりしてその事実を隠そうとする者も多い……。

 

「……そんな感じの麻薬なんだけど、キュルケは知らない?」

 

 キュルケは少し考えて、首を振る。

 

「うーん、狼の乳から作る麻薬なんて聞いたこともないわねえ。水の秘薬から作るものや、植物や茸を栽培して作るものはあるけど……」

 

「フウン……」

 

 その返答を聞いて、ディーキンはじっと考え込んだ。

 

 キュルケは特に麻薬に詳しいわけではないだろうから、ただ単にこちらにも同じようなものはあるが彼女が知らなかったというだけの可能性もある。

 あるいは、自分もこっちのことにはあまり詳しくないのだから、一見するとサニッシュの中毒症状に似ているが別の何かによるものだということもあり得なくはない。

 

 しかし、もしもそうではないとしたら?

 

 あれがサニッシュの中毒症状に間違いなくて、しかもサニッシュの製法は本来この世界では知られていないものだったとしたら、それを持ちこんだのは自分と同じようにこの世界の外から来た何者かであるのかもしれない。

 そして現時点で自分の知る限りでは、長年に渡って神話や物語の中の存在でしかないと思われていたというデーモンやデヴィルなどの来訪者が最近になってこの世界に姿を見せ始めている。

 現に、オルレアン公シャルルが数年前にデヴィルをその手で召喚したという記録がラグドリアンの彼の館に残っていた。

 娘であるタバサには伝えにくいことだが、彼によって召喚されたデヴィルがそのままこの世界に留まり続けたのだとすれば、おそらくはそれがきっかけとなって……。

 

 だが、今問題なのは連中がこの世界にやってきたきっかけではない。

 大事なのはそいつらとこの街に流れている麻薬との間に関係があるのかどうか、さらに言えば自分たちがこれから向かうアルビオンの革命軍とも関係があるのかどうか、である。

 

 普通に考えれば、仮に麻薬をもたらしたのがデーモンやデヴィルだったとしても、そいつらが革命軍ともつながりがあるなどと考えるのはいささか発想が飛躍しているということになるだろう。

 しかしディーキンには、先程の聞き込みでもうひとつ気になっていたことがあった。

 

「……ねえキュルケ。さっき、アルビオンから逃げてきたって言う傭兵の人たちが、『革命軍には天使が味方してる』って言ってたよね?」

 

「え? ……ええ、そんなことも言ってたわね」

 

 唐突に違う話題を振られたことにキュルケは少々戸惑ったが、もちろんそのことは覚えている。

 

 一度は王族側に雇われたものの明らかに不利とみて逃走を決め込み、このラ・ロシェールまで逃れてきたという傭兵たちが酒場などにはずいぶんたくさんいた。

 それらの傭兵たちから話を聞いてみると、革命軍側には亜人や巨人の類ばかりでなく天使までもが味方していた、と証言する者が何人もいたのだ。

 

「もちろん、本物なんかじゃないでしょうけど……」

 

 自分自身が本物の天使をこの目で見ていることを考えると少々奇妙な感じはしたが、先日ディーキンが王女や枢機卿に対して説明していたように、天使が人間の戦争に手を貸すなどとは思えない。

 命のかかった戦場では真偽の怪しい噂話が飛び交うなど日常茶飯事だろうから、そういったものの一種だろうとキュルケは判断した。

 あるいは、革命軍が亜人の類を味方につけているという話からすると、翼人か何かをそのように誤認したのかもしれない。

 革命軍が自分たちの側にこそ神と始祖の加護があるのだと見せつけるために、故意に行った偽装工作だということも考えられる。

 

 実際、傭兵たちの中にもキュルケと同じような見解のものは大勢いた。

 

『いいかい、神が戦場でお救いくださるのは、何もできずに泣いている無力な幼子の御霊だけさ。革命軍だろうが王党派だろうが、人殺しを助けに天使がわざわざ降臨するかよ。それこそ罰当たりってもんだぜ!』

 

『そうそう。馬鹿馬鹿しいぜ、亜人の先住魔法ってやつだろうよ。革命軍に雇われた翼人か何かさ!』

 

 しかし実際にその目で見たという者の中には、あれは間違いなく天使だ、亜人などではなかったと強く主張する者もいたのである。

 

『いいや、俺は神の奇跡ってやつをこの目で見たんだ。殺気だって斬り付けようとしてた王党派の忠実な兵士が、天使が優しく微笑んだだけで剣を捨てて足元に跪いたんだぜ。それに矢が当たっても、呪文を喰らっても効きやしねえ。炎の矢を雨みてえに降らせてくるんだ』

 

『ふん、実際に見てねえ奴にはわからんだろうさ。あいつらは呪文なんかひとつも唱えてやしなかったぜ。メイジや亜人の魔法とは全然違うんだよ。だから俺はさっさと王党派を見限ったんだ、神様に楯突いてどうなるもんじゃねえ……』

 

 そんな彼らの話の内容を思い出しながら、ディーキンは頷いた。

 

「うん。ディーキンも、天使とは違うと思う……」

 

 それはむしろ、天使ではなく悪魔か魔神のようなフィーンドかもしれない、とディーキンは思っていた。

 

 あの傭兵たちが話していたような“奇跡”は、少しばかり気の利いたフィーンドであれば容易に成し遂げられる範囲のことである。

 そう言った連中の中には外見を天使のように偽装できる者もいるし、それは決して珍しいというほどに稀な能力ではない。

 それどころか、本来の外見のままでも十分に天使だと言い張れるような者さえ存在しているのだ。

 そしてアルビオンの革命軍にデーモンかデヴィルが加わっているとするのならば、アルビオンへ向かうための空の玄関口にあたるこの街に麻薬を広めたのもそいつらかもしれない、と推測するのは理にかなっているといえるだろう。

 

 ディーキンはそういった自分の考えの道筋を、かいつまんでキュルケに説明していった。

 

「……だから、ディーキンは残りの時間でその麻薬の行方を追ってみようかと思うんだけど、どうかな?」

 

 予想が当たっていれば、麻薬の筋を辿っていくことでその背後にいる者の正体がもっとよくわかってくるかもしれない。

 その情報は、アルビオンへ渡った後の行動方針を決める上でも大いに役立つ可能性がある。

 それに昨日傭兵を雇って自分たちを襲撃させた黒幕も、そいつらとつながっているかも知れないのだ……。

 

「ふうん、そうね。それはいい考えかも知れないわ……」

 

 キュルケはディーキンの意見を聞くと、感心したように頷いた。

 だがすぐに、ちょっと首を傾げて言い添える。

 

「……でも、残りの時間はあと少ししかないわ。麻薬組織の全貌を掴むなんてとても無理でしょうし、大したことは調べられないんじゃないかしら?」

 

 自分たちがこの街から出立するのは、明日の早朝の予定である。

 もちろんそれまでの間ずっと調査をしていられるというわけでもなく、明日に備えて睡眠もとらなくてはならないし、夜には警戒のために仲間全員で宿に集まっていなくてはならない。

 そうなると、調査に使える時間はあと半日もあるまい。

 

 そんな僅かな時間でどこまで調査を行えるかは、いささか疑問だった。

 それに可能だったとしても、麻薬組織と関わり合いになりかねないような危険を冒してまで行うほどの価値があるだろうか?

 

「ンー、そうだね。でも、ディーキンは残りの時間で調べられるだけは頑張ってみようと思うの」

 

 任務のためにも、また仲間のためにも、情報は得られるときにできる限り得ておきたかった。

 それに、麻薬が蔓延しており、かつまたフィーンドまで関わっているかも知れないという疑惑のあるこの街の現状は到底望ましいものとは思えない。

 少なくともボスならば、決して自分には関わりのないことだし時間もないからなどといって見過ごしたりはしないだろう。

 任務を放棄することはできないにせよ、時間の許す限りは調査して、何か自分に役立てることがないか考えてみるはずだ。

 

 熱意に満ちてきらきらと輝くディーキンの目が真っ直ぐに自分に向けられているのを見て、キュルケはほう、と溜息を吐いた。

 

 幼い頃、つい手を伸ばして触れて見たくなるような、うっとりするほど美しい炎にずっと見入っていた経験がある。

 いくら望んでも火傷をするので触れることも叶わず、もどかしい思いもあった。

 だがそれ以上に、ただそこに、望むものの傍にいられるだけで幸せだった。

 ショーケースの向こうに飾られている高価な品物を見つめて長い間立ち尽くしている平民の子の姿を見て、ああ、あの子も自分と同じだと親近感を覚えたこともある。

 

 彼の目を見つめていると、あの時に味わったのと似た気持ちが湧き上がってくるのだ。

 

 それは一時の微熱に突き動かされて口説き落とし、手に入れてきた男たちに対するものとはまったく違っている。

 微かな熱は掌に包み込まねば十分に感じとることができないが、素直に燃え上がる美しい情熱の炎は触れなくても伝わる心地よい熱を感じられるものなのだ。

 もちろん、火傷をすることも恐れずに抱き締めて疼くような熱い痛みに身を焦がすのも、きっと甘美には違いないだろうけれど……。

 

「わかったわ。ディー君がそう言うのなら、出来るところまでやってみましょう?」

 

 キュルケは真っ直ぐにディーキンを見つめ返して微笑みを浮かべると、そう言って頷いた。

 それから、もう一言言い添える。

 

「……でも、その前にタバサと合流して交代した方がよさそうね。あの子もディー君に協力したいでしょうし、酒場で聞き込むならともかく、そういう調査は私よりあの子の方が上手かもしれないわ……」

 

 このまま彼のすることを見守っていたいのは山々だったが、そろそろ大切な親友と代わってあげた方がよさそうだ、いろいろと。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 その頃、昨日牢にとらえられたガデルはとある人物の訪問を受けていた。

 やや太った温厚そうな、商人めいた外見のその男にガデルは見覚えはなかったが、相手の方では自分のことをよく知っているようだった。

 

「君のことは、ボックからよく聞いているよ」

 

 男はそう切り出すと、衛視にガデルと一対一で話したいと言って牢から連れ出し、一緒に面会室へ移動した。

 衛視が拒否しなかったところからすると、どうやらこの男は連中を買収か何かしているらしい。

 面会室へ移動すると、男は早速本題を切り出した。

 

「ボックに例の薬を下ろしているのは私だ。彼はまた他所へ仕事に行かねばならなくなったので、これからは私が直接君と取引をしよう」

 

 そう言うと、男はお近づきの印だと言って、一服分の薬をただでガデルに差し出した。

 傷の痛みに加えて禁断症状で全身が軋みを上げていたガデルは、男の意図などに考えを巡らせる余裕もなく大喜びで薬を服用する。

 サニッシュがガデルの体に回り、彼が幸福感を味わい始めたのを確認すると、商人は話を続けた。

 

「さて、私は君をここから出してあげることができる。今夜にもそうしよう。その代わり、ここを出たらすぐに仕事にかかってもらいたい。昨日君たちを倒してここに押し込んだ連中をもう一度襲うのだ、奴らは今この街の宿に泊まっている」

 

 薬による幸福感に浸ってはいたが、ガデルはそれを聞くとさすがに顔をしかめた。

 この街の中で騒ぎを起こすことについては目の前の男が衛視たちを買収しているのだとしても、あの連中ともう一度戦えと言われて勝てる気はまったくしない。

 ガデルがその事を正直に伝えると、商人はにこやかに頷いた。

 

「ああ、敵は強いらしいね。もちろんそのことは考えてあるとも。今度は、以前よりももっと多く君たちの仲間を用意したんだ。それに、高名な傭兵も雇ってある。君も聞いたことがあるのではないかな、『白炎』のメンヌヴィルという名を?」

 

 その名を耳にすると、ガデルは目を見開いた。

 

 もちろん聞いたことがある、メンヌヴィルは貴族崩れの傭兵メイジで、その『火』の腕前は凄まじいものだという。

 だがそれ以上に、炎を異様なほどに愛し狂ったように見境なく焼きまくることで恐れられている男でもある。

 それほどの男が味方につくというのなら確かに勝てるかもしれないが、正直言って敵はもちろん味方としても決して歓迎したい手合いではなかった。

 臨時で組んだだけの平民の傭兵など、ちょっと機嫌を損ねただけで骨まで焼かれかねない……。

 

 もしもこの仕事を断ったらどうなるのかとガデルが聞くと、商人は朗らかに笑った。

 

「おいおい、そんなあり得もしないことを考えさせないでくれよ。もしもこの仕事を引き受けて成功させてくれれば、この牢からは出られるし報酬はたっぷりと得られるし、例の薬だって君には手頃な特別価格で提供させてもらえるじゃないか。まさか断って、それをすべておじゃんにするなんて馬鹿なことはいわないだろう?」

 

 確かに、選択の余地はないようだった。

 ガデルが承諾すると、商人は時間になったら出しに来てやると言って簡単な手はずを伝え、手つけとしてもう一服分の薬を持たせてから彼を檻に戻らせた……。

 

 

「さて、これで既に7件めか。順調だ」

 

 幻術による商人の変装を身にまとったクロトートは、人目のないところまで来ると満足そうにそうひとりごちた。

 

 麻薬漬けの連中というのは実に便利なもので、ただ金や魂の収入源となるだけでなく、いざという時にはこうして容易くいうことを聞かせられる。

 嫌ならもう薬を売らないぞ、といってやればそれでいいのだ。

 もちろん今回声をかけている傭兵たちの全員が麻薬中毒者だというわけではないのだが、安価に戦力の水増しがしたい時にはああいう手合いはちょうどいい。

 

「次は……ザルツの傭兵団に声をかけてやるか。上手くいけば一度に4、5人は取り込めるだろうしな――」

 

 クロトートは手早く考えをまとめると、引き続いて次の戦力の調達に向かった……。

 




サニッシュ:
 D&Dの追加ソースブック、「Book of Vile Darkness」(和訳は「不浄なる暗黒の書」。成人読者向け)に記載されている麻薬の一種。その効果や特徴については、作中でディーキンが説明したとおりである。


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第九十八話 Interrogation

 2人からこれまでの顛末を聞いたタバサは、キュルケと交代することをすぐに承諾した。

 彼女はシエスタとヴェルダンデを除く同行者らと一緒にテーブルを囲んでゲームに熱中している最中だったようだが、さすがに優先順位はきっちりとつけているらしい。

 

 彼女の無表情な顔が心なしか活き活きとして見えるのは、助力を求められたのが嬉しかったのか。

 それとも、机に突っ伏して真っ白になっているギーシュや渋い顔をしているルイズ、仏頂面で腕組みしているワルドと何か関係があるのだろうか。

 シエスタは困った様子でそんな卓の状況を見守っており、ヴェルダンデは鼻面を擦りつけてぐったりした主を慰めようとしていた。

 

(結局、15エキューなんてもんじゃないくらい勝ったみたいね)

 

 キュルケはそう結論して苦笑いした。

 この荒稼ぎぶりは、朝の勝負で稼ぎ損なったのと午前中の仕事に同行できなかったこととのうさ晴らしだろうか。

 もっとも、別にそんなことがなくても遠慮なく勝つタイプのような気もするが。

 

 ギーシュなどは、タバサがこれで抜けると言うとあからさまにほっとした顔をしていた。

 ルイズの方は逆に、「ちょっと、勝ち逃げはずるいわよ!」などと息巻いて文句を言っている。

 どうやら一度博打を始めると熱くなり、引き際を見失って全額とかすタイプのようだ。

 

「まあまあ、今度は私が入るわよ」

 

 そう言ってルイズを宥めながら、キュルケはタバサと交代で卓についた。

 この後の調査に同行できないのは残念だが、2人でいろいろと上手くやって欲しいものだ、と思いながら……。

 

 

「……調べるあては、あるの?」

 

 てくてくと迷いなく歩いて行くディーキンにとりあえず後続していたタバサは、首をかしげてそう尋ねた。

 

 酒場で見たという中毒者を適当に言いくるめて人目のない場所へ連れ出し、締め上げるなり呪文をかけるなりして知っていることを聞き出すとかだろうか。

 夜までの間に早急に調べるとなるとそうそう悠長なことをしている余裕はないし、それが一番わかりやすくて手っ取り早そうに思える。

 

「うん。ええと、昨日捕まえた傭兵の人たちがいるでしょ?」

 

 タバサが頷くのを見て、ディーキンは説明を続けた。

 

「あの中にも中毒っぽい人がいたから、まずはその人に聞いてみようかと思うんだけど、どうかな?」

 

 すでに捕縛済みの相手のほうが立場が弱くて簡単に口を割ってくれそうだし、彼らを雇った者と麻薬を流している組織の間につながりがあるかなども聞き出せるかもしれない。

 衛視たちにもう少しこちらで尋問をしてみたいと交渉すれば、おそらく許可は簡単に得られるだろう。

 何せこちらは彼らに襲撃を受けた被害者であり捕縛の功労者でもあるし、同行するタバサは貴族の上にシュヴァリエの称号も持っているのだから。

 

 もちろん、いざとなれば呪文で思考を読むとか、魅惑あるいは強制して話させるといったような方法もある。

 だが、みだりに人の心を覗いたりいじくったりするのはあまり褒められたことではない。

 人は概して己の精神への不躾な干渉を大変な不快や屈辱だと感じるもので、恨みを買う原因にもなる。

 昨夜少し話してみた感じでは決して交渉の通じないような相手ではなさそうだし、できれば普通の話し合いで教えてもらいたかった。

 

「わかった」

 

 タバサとしてもその案に文句はなかったので、素直に頷くと2人で詰め所のほうへ向かった。

 

 

 

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 商人らしき男の申し出を受け入れて牢の中で夜が来るのを待っていたガデルは、数時間とたたないうちにまた別の客人から面会を受けた。

 今度は、昨夜自分を負かした連中だった。

 真っ先に先制攻撃をかけてきた小柄なトカゲめいた姿の亜人と、珍しいほど鮮やかな青髪をした貴族の小娘だ。

 

(一体、何をしに来やがったんだ?)

 

 ガデルは困惑と不安の入り混じったような思いで、そう訝った。

 自分たちが襲撃を仕掛けた理由については既に正直に伝えたはずだし、他に隠していたことなどない。

 なのに自分だけを指名して連れ出し、面会室でもう一度話を聞きたいというのである。

 

 まさかあの商人か自分の他に雇われた誰かが口を滑らせて、今夜の襲撃の予定が事前にバレてしまったのか?

 情報漏れがあったにしても早すぎるし、そんなことはまずなかろうとは思うのだが……。

 

 とはいえ、万が一既にバレているのであれば、自分が心配したところで今さらどうしようもない。

 露見はしていないという前提の下で行動する以外にないだろう。

 ガデルは怪しまれないようになるべく平然とした態度を保とうと努めながら、2人に従っておとなしく面会室へと向かった。

 

 

 ガデルをつれて面会室の中に入ると、タバサはすぐに扉を閉めて部屋の中を調べ、覗き穴などの類がないことを確認した。

 その上で、『ディテクト・マジック』で室内に魔法の目や耳がないことも確かめ、さらに風を操って内部の音が外に漏れぬように細工をするほどの用心を見せる。

 

 衛視たちには立会いや見張りなどは不要と伝えはしたが、職業的な義務感や好奇心に駆られてこっそり中の様子を窺おうとする者がいないとも限らない。

 もちろん、音を漏らさないようにしておいてこの男に拷問や脅迫を加えようなどとまでは思ってはいない。

 だが、それでも相手の対応次第ではやむを得ず多少荒っぽい手段を取る必要性に迫られるかもしれないし、ディーキンが何がしかの呪文を使いたがる可能性もあるだろう。

 そんなところを覗き見や立ち聞きなどされて、余計な面倒に巻き込まれたくはなかった。

 

 まあ、この用心を見た相手の傭兵がこれはやばい尋問をされるのではないかと不安がって口を割りやすくなるかもしれない、という考えも一応はある。

 つまり厳密に言えば脅迫する意図がないとはいえないことになるわけだが……、なにせ向こうは昨夜こっちの命を狙ってきた男なのだ。

 このくらいは許容範囲だろう、というのがタバサの見解である。

 ディーキンの方はあまり相手を怯えさせるようなことはしたくなかったのだが、外部へ情報が漏れるのを防ぐことは是非とも必要だったので仕方がないこととして受け入れていた。

 

 案の定、タバサが何をしているかを見て取ったガデルは露骨に不安がってそわそわし始めた。

 ディーキンはそんなガデルの正面に座ると、心配そうに首をかしげる。

 

「ええと、昨日の火傷は大丈夫? 痛んだり膿んだりはしてない? それに、ちゃんとした食事は出てるのかな……」

 

 昨夜、この男がキュルケに負わされた火傷の応急手当をしてやったのは彼なのだ。

 ガデルが用心深そうに相手の顔色を窺いながら大丈夫だと答えると、ディーキンは頷いて話を続けた。

 

「それはよかったの。でも、あんたはずいぶん唇が青いよ。薬が切れて、体が痛んだりはしてないの?」

 

 それを聞いたガデルは、露骨にぎょっとして目を見開いた。

 

 どうしてこの亜人がそのことを知っているのだ、やはり襲撃の約束をした件がどこかから漏れていたのか。

 だとすれば、自分だけをここに呼び出したのは締め上げてその情報を吐かせるためか。

 

 もし隠したりすれば……、いや、たとえ洗いざらい吐いたとしても、こちらは事実連中を襲おうとしていたわけだから、相手の機嫌次第で殺されてしまう恐れは十分にある。

 尋問中に逆上して襲ってきたのでやむなく始末したのだとでも連れの貴族の娘が説明すれば、おそらく衛視どもはこいつらを罪に問うことさえするまい。

 連中が先程の雇い主に買収されているにしても、せいぜい事後にこのようなことがあったと報告する程度で終わりだろう。

 なにせこちらはただの平民の罪人であるのに対して、向こうは貴族であり捕縛の功労者なのだ……。

 

 ガデルは急激に気分が悪くなり、頭がくらくらして目の前が暗くなってきた。

 

「……あの、どうしたの? すごく顔色が悪いよ。ディーキンは何か、あんたにひどいこと言った?」

 

 ディーキンはそんなガデルの様子をびっくりしたように見つめて、本当に心配そうな顔をして彼の背中をさすってやった。

 なにせ彼は、目の前の男が今夜また自分たちを襲撃する計画に加わっているなどとは知らないのだ。

 もちろん麻薬の件をこちらが知っていることを伝えれば相手がいくらか驚きや不安を感じるかもしれないとは思っていたが、ここまで過剰な反応があるとは予想していなかった。

 

「ええと、あんたが麻薬を使ってたことなら、別に誰かに話したりする気はないからね。ディーキンはあんたと話がしたいだけなの、あんたにひどいことをする気なんてないよ……」

 

 

 ディーキンはなんとかガデルを宥めて落ち着かせ、自分たちには彼を害する意図など決してないことを納得させた。

 それから、彼がサニッシュを使うに至った経緯などの事情をゆっくりと話してもらうことにした。

 

 先程の怯えようから見て、“こちらが重要だと考えている情報”は問い質せばすぐに得られそうではあった。

 だが、先程の彼の不自然なまでに取り乱した態度からして、話し込めば案外こちらの知らない情報が色々と出てくるかもしれない。

 なによりも、いろいろな職業・境遇の人の身の上話というのはしばしば新しい発見があったり、これまで気付いていなかった物の見方があることを認識できたりして興味深く楽しいものだということをディーキンはよく知っていた。

 

 薬に判断力を蝕まれているとはいえ、ガデルも愚かな男ではない。

 襲撃の件が漏れたわけではなく相手の側には害意がないのだということを理解すると、ここは下手に隠し立てをして心証を損ねない方が得だと考えておとなしく話し始める。

 途中でディーキンやタバサから質問を挟まれた時も……さすがにその後別の依頼人に雇われてまたディーキンらを襲撃する約束をしたことは伏せておいたが、それ以外は下手に隠し事などせずに正直に答えていった。

 

 アルビオンで肩に傷を負い、それが未だに痛むことを傭兵仲間にこぼしたところ、よく効く痛み止めだと言われて薬をもらったこと。

 仲間はその薬のことをアルビオンの天使が与えてくれる“天使のミルク”だとか言っていて、それは眉唾だとは思ったが本当によく効くので使うようになったこと。

 自分はずっと薬をその傭兵仲間から買っていて、そいつが誰から仕入れているのかは知らないこと。

 麻薬だなどとは知らなかった……いや、途中からは薄々気がついてはいたが、傷が痛むので使うのを止められなかったし、間違いなく麻薬だということは今聞かされるまで知らなかったこと。

 サニッシュという名前だということも、副作用で唇が青く汚れるというのも初耳で、単に自分の体が弱っているせいで血の気がなくなったという程度のことだと思っていたこと。

 たびたび薬を使うので金が乏しくなり、そこへ胡散臭いが金払いはいい仮面のメイジから仕事の依頼があったので、悪いとは思ったがあんたたちを襲うことにしたこと。

 そいつから成功報酬が入ったら、腕のいいメイジに金を積んで傷を治してもらい、自分から金を搾り取っていく薬や傭兵仲間と縁を切ろうと思っていたこと……。

 

(麻薬だってんじゃあ、傷が治っても止められるかはわからなかったがな……)

 

 話しながら、ガデルは内心でそう自嘲していた。

 

 自分はどの道、破滅を免れ得ないのではないだろうか。

 そもそも、この手強く用心深い連中相手に今夜の襲撃が上手くいくかどうかからして怪しいものだ。

 仮に首尾よくいって、幾ばくかの報酬を得てこの牢を出られたとしたところで、その後で自分に一体何が残るのか。

 間違いなく麻薬とわかった以上はボックともあの商人とも縁を切らなければ身の破滅になるが、一日二日あの薬を摂取しないだけでも耐えがたく体が痛んでくるあたりからすれば、既に中毒もだいぶ進んでいるのだろう。

 弱みを握られている以上は、あの商人がそう易々と自分を解放してくれるとも思えない。

 仮に連中の手を逃れ、禁断症状にも耐えて薬をやめられたとしたところで、アルビオンで受けた傷もまだ癒えておらず寄る辺のない身ひとつの自分には今後の生活の見通しも立てられないのだ。

 

 お先真っ暗の自分の人生を思って自暴自棄になりかかっているガデルの様子をじっと見て、ディーキンは少し考え込んだ。

 

「ンー……。つまり、あんたは騙されて薬を始めたんだ。傷が治ったら、薬を止めようとも思ってたんだね?」

 

 ガデルが力なく頷くのを見て、ディーキンも頷きを返すとぴっと指を立てて提案した。

 

「じゃあ、こういうのはどう? ディーキンはあんたの肩の傷を治して、麻薬の中毒も治してあげるよ。……ええと、その、先住魔法ってやつでね?」

 

 一瞬言われたことが理解できず、ガデルはまじまじとディーキンの顔を見つめた。

 タバサもディーキンの方を見て、首を傾げた。

 ディーキンはガデルの顔を真っ直ぐに見つめ返して、言葉を続ける。

 

「その代わりにもう薬を使うのは止めて、それからあんたにそれを売った傭兵仲間の住んでいるところも教えてくれないかな。アア、それと、先住魔法っていうと怖がる人が多いみたいだから、ディーキンがやったことは内緒にしといてほしいんだけど……」

 

(……俺の傷と中毒を治してくれるだって?)

 

 それは自棄を起こしかけていたガデルにとっては願っても無い申し出だったが、喜びよりもむしろ困惑の方が大きかった。

 

 傷はまだしも、麻薬中毒なんてものが本当に呪文で治せるのだろうか。

 確かにこの亜人は頭はいいようだが、高度な水系統の先住魔法が使えるということなのか。

 いや、そうだとしても、なんでそんな交換条件を持ち出す必要がある?

 こいつらはただ教えろと要求するだけでいいはずだ、なにせこっちはただの囚人で、逆らえるわけもないのだから……。

 

 半信半疑ながらも、もちろんそうしてくれるのならと言って頷いたガデルを見て、ディーキンはにっと笑みを浮かべると手をさしだして彼と握手した。

 その上で、タバサにもう一度誰かが部屋の外で見たりしていないか確認をしてもらってから、左手をガデルの方にすっとさしのばすようにしてコマンドワードを唱え始める。

 

「来たれ、天界の伝令、祝福の運び手、煌めきの聖象……、《ビアー・ケムセオー・ホリファント!》」

 

 合言葉と共にディーキンの左手にはめられた手袋が一瞬金の閃光を放ち、《怪物招来(サモン・モンスター)》の呪文が解放された。

 

 この手袋は、『投射の手袋(キャスティング・グローヴ)』という名のマジックアイテムである。

 手に持った物品を内部に収納したりまた取り出したりすることができ、しかもその収納した物品がワンドやスタッフなどのマジックアイテム類であれば、しまったままでも手に持っているのと同じように使用することができるという優れものなのだ。

 ディーキンは先日学院で『魔道師の杖(スタッフ・オヴ・ザ・マギ)』を預かった時に、この手袋の中から普段収納しているアイテムを取り出して背負い袋に移し、代わりにその貴重なアーティファクトを入れておいたのである。

 そうすれば盗まれたり破壊されたりする心配がほぼなくなるし、使用するのにも便利だからだ。

 今回解放したサモン・モンスターの呪文も、このスタッフ・オヴ・ザ・マギのチャージを消費して発動したものだった。

 

 ディーキンとガデルの間に魔法陣が浮かび上がり、黄金色の煌めきと共に招来された天上界の高貴な存在が実体化する。

 

 ガデルは呆気にとられたようにその、彼にとっては非現実的な光景に見入っていた。

 タバサはさすがに慣れたものでもう驚いたりはしなかったが、今回招来された存在は初めて見るもので、ちょっと意外性のある姿をしていたので首を傾げた。

 

 そのクリーチャーは、金色の毛皮を持つ小さな……ディーキンよりもなお小さな、身の丈60サントほどしかないような象だった。

 背中には白い輝きを放つ薄く長い昆虫の羽根のような翼が生えていて、それをぱたぱたと羽ばたかせつつ空中をゆっくりと旋回している。

 その毛皮はかすかにきらきらと輝き、瞳の中には虹色の光が踊っている。

 高貴な美しさとかわいらしさと、それにコミカルさとが混ざり合ったような、なんとも奇妙な姿だった……。

 

「はじめまして、ホリファントさん。さっそくだけど、この人の体をすっかり治してあげてほしいの」

 

『オーケー、お安い御用さ』

 

 招来されたホリファントはディーキンの要請にテレパシーで返答すると、まだ目を丸くしているガデルにその鼻で触れて《大治癒(ヒール)》の疑似呪文能力を投射した……。

 

 

 その後、ヒールの効果によって麻薬の中毒症状からすっかり解放され、肩に食い込んだままだった銃弾の破片も取り除かれて完全に傷が癒えたガデルは、久し振りに晴れ晴れとした気分になって未来への希望を取り戻すことができた。

 彼にとって最近はずっと最悪な日々が続いていたが、今日は間違いなくこれまでの人生で最良の日だった。

 

 ガデルは典型的な利己の傭兵ではあったが、とはいえまるで人情に欠けた男というわけでもない。

 単に情報を聞き出すための必要性という範囲を超えて自分を救ってくれたこの温情に、彼は深く感謝していた。

 ガデルは約束した傭兵仲間のボックの家の場所だけでなく、自分に先程依頼を持ち込んできた商人のこと、その男の立てている襲撃計画のこと、そしてここの衛視らもおそらくはその男に買収されていることもディーキンらに伝えていった。

 それから、懐に隠していた残り一服分の、もはや自分には必要なくなった薬の包みを彼らに差し出す。

 ディーキンはその包みを改めて、間違いなく薬がサニッシュであることを確認することができた。

 

 大分時間はかかったが、期待していた以上にさまざまな情報を得ることができたことにディーキンは満足していた。

 あとは、立ち去る前に後片付けをしなくてはならない。

 彼が麻薬中毒から解放されたことを悟られないようにと、ディーキンは冒険者用の変装セットを使ってガデルの顔に化粧を施し、依然として顔色が悪く唇が青ざめているように見せかけた。

 それから、衛視たちに探りを入れられた場合に何と答えるかについても、タバサの助言も交えて口裏を合わせておく。

 

 そうして必要なことがすべて済むと、ディーキンとタバサはガデルに情報の礼を言ってお暇することにした。

 ガデルは、「今夜ここから解放されたら襲撃には加わらずに密かにこの街から逃げることにする、この恩は決して忘れない」と繰り返し感謝の言葉を述べた。

 彼らはそうして、昨夜は命の取り合いをした相手だとは思えないほど友好的に、互いに満足して別れることができた……。

 




ヒール
Heal /大治癒
系統:召喚術(治癒); 6レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:接触
持続時間:瞬間
 クリーチャー1体の体を正のエネルギーで満たし、病気や傷をぬぐい去る。この呪文は対象のダメージを大きく回復させるとともに、幻惑、混乱、知能低下、聴覚喪失、毒、能力値ダメージ、吐き気、発狂、病気、疲労、不調、盲目、朦朧などの不利な状態全般を回復させる。また、アンデッドに対して使用した場合には逆に大きなダメージを与える。
麻薬の中毒者に対して使用した場合には、対象は中毒状態から脱するとともに、それまでに中毒によって受けていた能力値ダメージもすべて回復する。

ホリファント:
 善の属性を持つ来訪者・セレスチャルの一種で、サモン・モンスター8の呪文で招来することができる。ちなみにスタッフ・オヴ・ザ・マギには、3チャージを消費することでより上位のサモン・モンスター9の呪文を発動できる機能が備わっている。
ヒールなどの疑似呪文能力をもっている上に低レベルの呪文を受け付けない防御の場で身を守っており、鼻からトランペット状に大音響を叩きつけることで敵を麻痺させられるなどの各種の強力な特殊能力を有している。
また、必要であれば普段の小柄な姿から直立したマストドンのような大型の形態に変化し、近接戦闘で獰猛に戦うこともできる。


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第九十九話 Deadman's house

 

「……どうするの?」

 

 詰め所から出た後、ひとまず人気のない場所へ移動してから、タバサはディーキンに端的に質問した。

 

 手元にはこの街で流通している麻薬の現物があり、それを売っていたという傭兵の住処も突き止めた。

 敵が傭兵を雇って今夜自分たちの借りている宿へ襲撃をかける計画を立てていること、そいつらが麻薬組織とつながりがあるらしいこともわかった。

 自分たちが動くのを阻止したがるということは、おそらくそいつらはアルビオンの反乱軍とも関係しているはずだ。

 それを踏まえた上で、この後どう動くべきか、ということである。

 

 ディーキンはタバサと向き合い、首をかしげて考え込んだ。

 

「ウーン、そうだね……。ディーキンにもこうしたらっていう考えはあるけど、タバサはどう思ってるの?」 

 

 そこで2人は、それからしばらく互いに意見を出し合ってみた。

 一方がなにがしかの案を提示し、もう一方がそれに対して難点を指摘したり、改善案を出したりする。

 

 ガデルから聞いたボックという傭兵の家へ行き、彼を問い詰めてどこで麻薬を仕入れているのか聞き出すというのが、まず一番順当な流れとして考えられる。

 順繰りに糸をたどっていけば、いずれは麻薬組織の黒幕の元まで辿り着くだろう。

 ボックは他所へ仕事に行かねばならなくなったらしいとか言う話だったが、それがアルビオンならば船は明日まで出ないのだから、まだこの街にいるはずだ。

 

 ただ、自分たちは明日出立する予定で、既にかなり時間を使っている。

 夜には襲撃があるというのだから、その前に他の仲間たちの元へ戻らなくてはならない。

 順々に糸を手繰っていっても、今夜の襲撃の前に大本へ辿り着いて潰すというようなことまではまず無理だろう。

 

 では、今夜の襲撃にガデルを加わらせるために彼を解放しにくるであろう件の商人を待ち伏せして捕らえるというのはどうだろうか?

 傭兵たちを集めて指示を出している人物を捕らえれば、襲撃の予定を中止させられるかもしれない。

 ボックとかいう傭兵に麻薬を売ったのがその人物だというのならば、おそらくはかなり詳しい事情も知っているはずだ。

 

 しかし、やってくるのがその商人本人だとは限らない。

 何も知らない雇われ者か下っ端の使い走りをよこすかもしれないし、そもそも誰も来ないかもしれないのだ。

 既に商人から買収されていると思われる衛視の誰かが時間になったら牢を開けてガデルを逃がし、彼に集合場所を伝えるだけ、ということも十分考えられる。

 仮にその買収された衛視を突き止めて締め上げたとしても、おそらくガデルから聞いたのと大差ない程度のことしか知らない可能性が高い。

 それに、ガデルによれば前回よりもさらに多くの傭兵を集める予定だという話だったが、まさかその商人一人でそれだけの数を手配して回っているわけでもあるまい。

 他にも襲撃計画を指揮する人員は当然いるだろうし、商人が途中で姿を消してもおそらくは残りの連中が指示を出して計画を実行させるはずで、襲撃全体を阻止できる望みは薄い。

 せいぜい、商人が担当している分の傭兵が動員できずに襲撃の人数がいくらか減るという程度が関の山だろう。

 

 敵が来るというのなら正面から迎え撃つまでだ、という考え方もあるだろう。

 こうして事前に敵の段取りを察知した以上は、あらかじめ迎え撃つ準備を整えておき、逆に奇襲するつもりでいる相手の不意を打つことだってできるのだ。

 返り討ちにして締め上げ、敵の情報を吐かせた上で後顧の憂いを絶って悠々とアルビオンへ渡ればいい。

 

 だが、その場合はおそらく同じ宿に泊まっている無関係な他の宿泊客たちを襲撃に巻き込んでしまうことになる。

 もちろん他人の迷惑を顧みずに襲撃してくる連中がそもそも悪いのだが、こちらにしてもわかっていて何も対策を取らないのは問題だ。

 

 ならば襲撃を避けるために、明日を待たずにすぐアルビオンへ出立するというのはどうか。

 通常の船は明日にならないと出ないが、今からでも港へ行って停泊している船の持ち主に金を積んで頼み込めば、おそらくなんとかなるかもしれない。

 

 とはいえ、そうすれば本当に宿の客を巻き込まずに済むのかというのはいささか疑問だった。

 敵の側はこちらが既に発ったのを知らずにそのまま宿を襲撃するかもしれないし、そうなれば結局は同じことになる。

 それに、ワルドが敵の内通者だという疑いもまだ晴れてはいないのだ。

 彼が今回の襲撃を手配した連中と通じているのであれば、予定をどう変更してみたところですべて敵側に筒抜けとなるであろう。

 その場合は宿の客を巻き込むことは避けられるかもしれないが、こちらが襲撃を受けること自体は避けられない。

 こちらが掴んだ予定通りに敵の襲撃が行われればそれに備えておけるのに、計画が変更されて予期せぬタイミングで仕掛けられたのではかえって不利になってしまう。

 

「ンー……。やっぱり、まずはボックっていう人のところへ行ってみるしかないんじゃないかな?」

 

 一通りの意見が出尽くしたあたりで、ディーキンはそう結論した。

 

 大本の組織までは至れなかったにせよ、糸を手繰ってこの街で麻薬を取り引きしている連中だけでも発見して潰しておけば当面の流通は食い止められるかもしれない。

 その後のことは、何もすべて自分たちだけでやらなくてはならないということもないだろう。

 後日手に入れた薬のサンプルを持参してアンリエッタ王女やマザリーニ枢機卿に説明し、トリステイン国内での取り締まりを強化してもらえば麻薬の件についてはなんとかなるはずだ。

 

 今夜の襲撃に関しても、この街で傭兵を動かしている商人やその他の連中を可能な限り糸を手繰って発見し事前に取り押さえてしまえば、あるいは防げるかも知れない。

 首尾よくいけばそれに越したことはないし、もし駄目そうならば襲撃の時間近くになったら宿の周辺を警戒してこちらから先に襲撃者たちを発見し、無関係な人々を巻き込まずに倒せばよい。

 なんにせよ、単に時間までのんびりと宿で待ち構えるだけというよりはいくらかましだろう。

 

「あなたが決めたのなら、私はそれに従う」

 

 タバサはまるで彼の従者のように従順な態度で頷いた。

 

 方針が決まった以上、タイムリミットまで時間がないのだから迅速に動かなければならない。

 2人は早速、ボックの家があるというスラムのほうへ足を向けた……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 ガデルから聞いた場所に向かった2人は、そこで思いがけない事態に遭遇した。

 なぜか、件の家の入り口に衛視が立っているのだ。

 

「アー……、こんにちは、衛視さん。ディーキンたちは観光で散歩してるんだけど、あんたはこんなところで何をしてるの?」

 

 昨夜傭兵たちを引き渡しに行った際に顔を合わせた衛視だったので、ディーキンはとりあえず通りすがりを装って話しかけ、事情を聞きだそうとしてみた。

 衛視は一瞬胡散臭そうな目をしたものの、友好的で人懐っこい態度が功を奏したのか、あるいは貴族であるタバサが一緒にいたからか、会釈をして質問に答えてくれた。

 

「この家で、人が死んでいると隣人から通報があったのですよ。まあ卒中か何かでしょうな、身よりもない傭兵崩れです。いずれ埋葬屋が来て死体を運び出し共同墓地へ埋めますが、それまでけしからぬ盗人などが入り込まぬよう見張っておるのです」

 

 それを聞いて、タバサとディーキンは思わず顔を見合わせた。

 

 このタイミングで、訪ねようとしていた男が死ぬとは。

 果たしてこれはただの偶然だろうか、あるいは先程の会見の情報が漏れていたのでは……。

 

(だとしたら、口封じのために……?)

 

 しかし、監視の目がないことは重々確かめたのだからそれはまずないだろうと、タバサは考え直した。

 

 それにガデルによれば、彼をスカウトに来た商人は「ボックが来れなくなったのでこれからは自分が取り引きをする」といったらしい。

 その言葉から考えるに、ボックはその時点で既に死んでいたか、少なくとも死ぬことは確定していたと見るほうが自然だ。

 ガデルが嘘をついてこちらをはめようとしたという考え方もできなくはないが、先程彼がディーキンに感謝していた様子はとても演技だとは思えなかった。

 第一、こっちを騙す気ならそもそもボックの本当の家を教えた上で彼を殺すなどという回りくどい真似をする必要はあるまい。

 偽の場所に向かわせて、そこで待ち伏せでも仕掛けたほうがよっぽど効果的なはずだ。

 彼はこちらとは直接関係のない組織内の内輪もめか何かで処分されたか、もしくは単に麻薬を吸いすぎて死んだとかで、それが偶然自分たちの訪問と重なっただけと考えていいだろう。

 

 それにしても、こちらにとっては実に不運で間の悪い偶然である。

 手繰ろうとしていた手掛かりの糸が切れてしまったことを思って、タバサは僅かに顔をしかめた。

 

 ディーキンは少し考え込むと、荷物の中からリュートを取り出す。

 

「それはお気の毒なの。できれば、その亡くなった人のために家の中で鎮魂歌を弾かせてもらえないかな? ディーキンはこれでも、ちょっとした詩人なんだよ」

 

「……私からもお願いする」

 

 胸を張るディーキンを見て、タバサもそう口添えをした。

 

 なるほど、彼は何か手掛かりが残っていないか家の中を調べてみるつもりらしい。

 現実の人間は月並みな小説の登場人物とは違うのだから、そう都合よく黒幕の居場所がわかるようなメモや日記を書き残したりしているものでもあるまいが、とはいえ可能性はゼロではない。

 まだいくらか時間はあるのだし、試してみる価値はあるだろう。

 

 衛視は渋い顔をしたが、少し考えた後で頷いた。

 ただし、自分もその間は同席させてもらうという条件付きでだ。

 

「その、貴族の方に無礼かとは思いますし、もちろんあなた方が何かを盗むなどとは思っていません。ですが、これも務めの上のことですので……」

 

 恐縮したように頭を下げる衛士を見て、タバサは困ったことになったと思った。

 麻薬商人に買収された疑いが強いことからこの街の衛視は腐敗した連中ばかりなのかと思っていたが、少なくともこの衛視はかなり職務に忠実で真面目な人物らしい。

 

 それは結構なことには違いないのだが、今の場合は困る。

 家の中にいる間中横にくっつかれていたのでは、ろくな調査はできまい。

 とはいえ、演奏に立ち会うななどと要求すれば、余計に疑われるに決まっているし……。

 

(……どうするの?)

 

 タバサは目で問い掛けるようにして、交渉の得意な同行者の方を窺ってみた。

 しかし、意外なことにディーキンはあっさりと頷いて、衛視の提示した条件を受け入れたのである。

 

「もちろん。じゃあ、中に案内してくれる?」

 

 その言葉を受けて衛視は先に立って2人を先導したが、実際のところはごく小さな家なので案内などは不要だった。

 

 傭兵のボックは、彼の私室で椅子から転げ落ちたような状態で死んでいた。

 舌を垂らし、赤黒く変色した凄まじい形相であった。

 唇は一見したところ、青く汚れてはいないようだったが……。

 

 タバサとディーキンはそんな屍を目の前にしても平気だったが、衛視は顔色が悪く、目を背けてなるべく死体を見ないようにしている。

 まだ若く、こんな現場には不慣れであるらしい。

 外の扉の前で見張っていたのも、おそらく死体のある家の中になるべく入りたくなかったためだろうか。

 それでもディーキンらが入る時には同行したあたり、やはり生真面目な性格なのだろう。

 

「ん……」

 

 ディーキンはまず、死体の前で手を組んで、しばし黙祷を捧げた。

 それから、手を伸ばしてそっと目を閉じさせ、舌をしまって口を閉じさせてやる……。

 

 その時、こっそりと唇の端のあたりを掠めるようにしてこすってみた。

 すると案の定、色が剥げてうっすらと青みがかった地肌が露わになる。

 

 この男がサニッシュを売るだけでなく、自分でも使っていたことは明らかだった。

 気取られないように、普段は化粧をしていたらしい。

 

(でも、サニッシュでこんな死に方はしないはずだけど……)

 

 ディーキンの知る限り、サニッシュの副作用は体に致命的なものではない。

 仮に誤って過量を摂取したとしても、そうそう死に至るようなものではないはずなのだ。

 してみると、この男は普通に麻薬を摂取していて過ちで死んだのではなく、誰かに何らかの方法で殺されたのだろうか。

 

 それを調べるには明らかにもっと別の調査が必要で、そのためには部外者に監視されていてはまずかった。

 だがもちろん、そんなことはどうとでもなる。

 

「じゃあ、演奏するね。あ、タバサは歌が外に聞こえないようにして。近所の人がなんだろうって思うかもしれないから――」

 

 ディーキンはそれからしばらく、荘厳な鎮魂歌を奏でた。

 その不思議なほど澄んだ美しい響きに、ただ厳粛な気持ちで死者を悼むという以上に、衛視やタバサは惹き込まれていく。

 

 一区切りつくと、ディーキンは衛視にふと思いついたように提案をした。

 

「――あ、衛視さん。もうちょっと演奏とかお祈りとかを続けたいんだけど、もしも外に演奏が聞こえてたら誰かが覗き込んで来るかもしれないから……『家の外に立って、ディーキンたちが出るまで誰も入ってこないように見張っていて』くれないかな?」

 

 ディーキンは演奏を交えながら、気取られることなく衛視に《示唆(サジェスチョン)》の効果を投げかけた。

 

「あ……、そうですね。外に漏れ聞こえていたら、何事かと思って人が集まって来るかもしれません。では、私は見張りを……」

 

 衛視はあっさりと示唆された行動を受け入れて、部屋から出ていった。

 

 正面から呪文を使えば万が一抵抗された場合に、あるいは呪文の効果が切れた後に厄介なことになる可能性があるが、これならばまず問題は起こるまい。

 普通に説得して衛視を説き伏せることも不可能ではなかっただろうが、呪文によって行動を限定しておけばなかなか出てこないことや家の中を引っ掻き回す音がすることを不審がって中を覗くなどということはありえなくなるので、この方が確実である。

 

 これで、呪文の効果が切れるか自分たちが外に出るかするまでは、衛視がここに戻ってくる心配はないわけだ。

 

「……お見事」

 

 衛兵が出ていってしまうと、タバサは呟くようにそう言って、ディーキンの手並みを賞賛した。

 彼は普段は控えめな機知を示す程度でそこまで並外れて鋭敏な方だとも思えないのだが、こういう時の手並みはいつもスマートだ。

 自分では、とてもこうはいかない。

 

「手分けして調べる」

 

 タバサはそう言って、さっそく手近な戸棚などを調べにかかろうとした。

 彼女としては何か手がかりが残っていないかどうかこの家の中を片っ端から調べて回るつもりだったし、ディーキンもそのつもりで中に入れてもらったのだろうと考えていた。

 

 しかし、ディーキンは首を横に振ってタバサを引き止めた。

 

「待って、闇雲に探してもなかなか見つからないと思うの。まず、この人に聞いてから何を調べるべきか考えた方がいいんじゃないかな?」

 

 そう言って横たわる死体を示すディーキンを見て、タバサは困惑した。

 

 一体、何を言っているのか。

 死人にいまさら何を、どうやって聞くというのだ。

 それとも、彼が言っているのは何かの比喩なのだろうか……?

 

「……どういうこと?」

 

 さっぱりわからずに、屍とディーキンとを交互に見比べるタバサ。

 

 ディーキンはそれに答える代わりに、荷物の中からワンドを一本取り出した。

 金管楽器のような真鍮色をした杖で、先端が少し膨らんでいる。

 

「見てて」

 

 そう言って短杖の先端を横たわっているボックの骸に向け、コマンドワードを唱えた。

 

「《レンシスジ・ダウター・ロークス》……」

 

 合言葉を唱え終わると、喇叭から音が飛び出すように広がった杖の先端から魔力の輝きが流れ出し、屍の体に浸透していく。

 ややあって魔力の輝きが消えると、なんと、死体がかっと目を見開いたではないか!

 

「……っ!?」

 

 多少のことでは動じぬタバサも、目を疑うような光景に思わずびくりと身を震わせた。

 

 目を開いたにもかかわらず、それが屍であることは依然として明らかだった。

 その眼球は濁っていて何も映しておらず、焦点もあっていない。

 まるで、幼い頃に読んで眠れなくなった恐怖物語に出てきた、恐ろしい幽霊のようだった。

 

 そいつは……ボックの屍は、焦点の合わぬ目を虚空に向けたままで、唇を震わせながら虚ろな声で話し始めた。

 

 

 

「――――俺は見た……。燻る葉巻、歪む光景、嘲笑う悪魔の鴉……」

 

「……俺の望み。悪魔どもへ復讐し、故郷の家族に連絡と詫びを……」

 

「……薬に浸した葉巻を吸った。いつもより濃くて、何かが混じってた。すぐに投げ捨てたが、心臓が痛んで、気が遠く……」

 

「……吸ったのは俺だが、死ぬ気はなかった。渡したのは、鴉だ。悪魔の使い魔、悪魔の鴉……」

 

「……俺は、悪魔に魂を売った。やつらはすぐに、俺の魂を欲しがったんだ。あの鴉が、そう言っていた――――」

 

 

 

 ディーキンとタバサは、すぐに屍の語った情報に基づいて調査を開始した。

 

 彼が投げ捨てたという葉巻は燃え尽きてしまったのか、それとも“悪魔の鴉”とやらが持ち去ってしまったのか見つからなかったが、床から燃え殻と思われる灰などをいくらか掻き集めることができた。

 それに対して《毒の感知(ディテクト・ポイズン)》を発動したところ、濃密なサニッシュに加えてモーデインと呼ばれる別種の麻薬が混入していた痕跡が確認されたのである。

 

 モーデインは希少な薬草の葉から作られる美しい幻視を体験させてくれる麻薬で、サニッシュよりも遥かに強力で致死的な代物だ。

 通常は粉にしたものを使って淹れた茶の、その蒸気だけを吸入することで使用する。

 粉や茶を直接摂取したりすれば、過剰摂取によってモーデインは致死性の猛毒となるのだ。

 

 おそらくボックはサニッシュに加えてモーデインの粉末が混入させられた葉巻をそれと知らずに火をつけて吸い、過剰摂取によって絶命したに違いない。

 そして、やはり麻薬を流していたのは悪魔……デヴィルらしいということも、わかった。

 悪魔の鴉というのが何かは不明だが、鴉に姿を変えられる小型の悪魔だとすればインプやスピナゴンなどが考えられる。

 麻薬を与えて堕落させ、魂を売る約束をさせた上でわざと致死量の麻薬を与えて死に至らしめたというわけだ。

 死の間際にそのことを本人に伝えたのは、悪魔らしい残虐さから……といったところだろうか?

 

 ディーキンは他にも必要なことをいろいろと調べた上で、いくつかの品物……調査の役に立ちそうなものや、部外者の目に触れさせてはまずそうなもの……をこっそり回収して、荷物袋の中に仕舞い込んだ。

 最後に、家探しをしている時に見つけた彼の実家の場所がわかるメモ書きを机の中のわかりやすい場所にしまっておいた上で、去り際に表の衛視にもうひとつ示唆を吹き込んでおいてやる。

 

「身寄りが本当にないかどうか、『すぐに机の中とかを調べてみて、家族がいたら事情を伝えて残っている財産だけでも渡してあげるように』するのがいいよね?」

 

 これで、ボックの死に際の望みはいくらかなりとも叶えられることだろう。

 勝手に家の中を調べたり死体に呪文を掛けたりさせてもらったせめてものお礼だった。

 

 そうしてするべきことをすべて済ませると、ディーキンとタバサは急いでこの場所を後にして、次の行動にとりかかった……。

 





レヴァリ
Reveille /死人に口あり(起床喇叭)
系統:死霊術[言語依存]; 2レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:接触
持続時間:5ラウンド
 術者は、死後3日以内のクリーチャーの死体1つに、死に至る経緯に関する情報を死体の母国語で簡潔に語らせる。
この呪文は死体に残った記憶の痕跡を読み取るのであって、死者の霊魂を呼び戻したり死体をアンデッド化したりするわけではない。
 最初のラウンドに、死体は最後に見たものについて説明する。
2ラウンド目に、死体は最後の望みについて語る。
3ラウンド目に、死体は自分がどのような攻撃で殺されたのかについて語る。
4ラウンド目に、死体は誰が自分を殺したのかについて語る。
5ラウンド目に、死体は自分が殺された理由について、自分がこうだと信じるところを語る。
 なお、この呪文はバード専用である。

ディテクト・ポイズン
Detect Poison /毒の感知
系統:占術; 0レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:瞬間
 術者はクリーチャー1体、物体1つ、あるいは効果範囲1つが毒に侵されているかどうか、もしくは毒を持っているかどうかを知ることができる。
難易度20の【判断力】判定、ないしは〈製作:錬金術〉判定に成功すれば、毒の正確な種類を判別することもできる。


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第百話 Devil's castle

 なんとしても、今夜の襲撃が起きる前にこの街のデヴィルだけはすべて排除してしまわなくてはならない。

 

 ボックの死体がデヴィルのことを口にした時点で、ディーキンはそう心に誓っていた。

 デヴィルの存在は、襲撃の危険度を飛躍的に増大させる。

 アンリエッタ王女らに事情を伝えてこの街の治安を強化してもらう際にも、まず間違いなく障害となるだろう。

 

 それだけでなく、襲撃を後ろで指揮しているであろうデヴィルに自分や仲間たちの戦うところを見られてしまう可能性がある、ということが実にまずい。

 

 もしも奴らが、自分がフェイルーンの呪文を使うところや、ルイズがこちらの系統魔法には無い謎の爆発などを扱うところを見たとしたら、一体何が起こるか?

 疑いようも無く、連中はその意味にすぐに気が付くだろう。

 つまり、異世界の存在を召喚できる『虚無』の使い手がそこにいるのだということを。

 彼ら自身、タバサの父が古代のマジックアイテムを用いることで発動させた『虚無』の魔法でこの世界へやってきたはずだからだ。

 こちらの世界では『虚無』以外のメイジは異世界からの召喚術を使えず、そのようなものが存在することすら知らないということを、未だに連中がつきとめていないなどとはまず考えにくい。

 

 ただ、おそらく彼らはまだ、『虚無』の使い手を見つけてはいない……。

 あるいは見つけていたとしても、その使い手はまだ異世界からの召喚をいつでも行なえるような呪文を習得していない、とディーキンは考えている。

 

 もしも彼らが既にそのような術者を見つけて手駒にしてしまっており、いくらでもバートルから仲間を呼び寄せられるような状態になっているとしたら、おそらくもっと大々的に活動してハルケギニアの大部分を掌握しにかかっていることだろう。

 この世界には大勢のメイジがおり、フェイルーンより技術的に進歩している面や、より広範に魔法が用いられている分野も多々ある。

 だから必ずしも戦力的にフェイルーンの人間より劣るということはないだろうが、しかしこちらでは『虚無』に分類されたのであろう多くの呪文の知識が失われていることもまた確かだ。

 その点が、既にその事を把握していると思われるデヴィルたちと戦う上では致命的になる。

 したがって、デヴィルはまだ今のところ、十分な数の仲間をいつでもバートルから呼び寄せられるというような状態にはなっていないと考えられるのだ。

 同様の理由で、バートルへの恒久的なポータルを築けるような能力を持つデヴィルもまだこの世界には来ていないはずである。

 もっとも、デヴィルの強欲さと計算高さとを考えれば、可能であっても手柄を独占したいがために故郷の仲間たちを呼ぶことを渋っているのだという可能性もあるが……。

 

 なんにせよ、一体どれだけの数がいてどこに本拠を構えているのかもまだわかっていないうちからデヴィルに目をつけられたのではたまらない。

 自分はまだなんとかできるかもしれないが、デヴィルの手口に疎い仲間たちの身が非常に危うくなる。

 特に『虚無』の使い手であるルイズは、それと知られてしまえばどんな手段を使ってでも確保するべき対象として四六時中狙われるようなことにもなりかねないのだ。

 今のところルイズはまだ異世界へのゲートを開くような呪文を習得してはいないが、この先どうなるかはわからない。

 多少強引にでも連れ去ってしまえば、彼女を意のままに操ることなどは少々気の利いたデヴィルであればいとも容易いことだろう。

 だからこそ、そのような情報を知られて背後に控えているであろう組織に持ち帰られる前に、どうしても現在この街にいるデヴィルだけは片付けてしまわねばならないのだ。

 

 無論、既に知られてしまっているという可能性もなくはない。

 なくはないが、おそらくその可能性は低いだろう。

 もしそれを知っていたなら、狡猾なデヴィルがボックの死体をそのまま放置するとは思えないからだ。

 この世界では死体から情報を得る呪文は一般的には知られていないようだが、デヴィルは当然その存在を知っているし、『虚無』の使い手が近くにいると知ればそのような呪文を用いられる可能性を想定するはずである。

 

 ワルドが疑いどおり敵の内通者だったとすれば非常にまずいことになっているかもしれないわけだが、しかし彼はこれまでの態度からするとこちらのことをかなり侮っているようだ。

 仮に彼が敵方であっても、これまでの経緯を既に事細かにデヴィルに報告してしまっているというようなことはまずないだろう。

 むしろ、組織の黒幕がデヴィルだということ自体知らないかもしれない。

 なんにせよ、朝方の手合わせであまり彼にこちらの手の内を見せないようにしておいたことは幸いだった。

 

 もしも連中がこちらの世界にはフェイルーンと同種のコボルドはいないということを既に把握していたとしたら、自分の姿を見られるだけでも大変まずいことになる。

 だが、それもまずあるまい……自分がそのことを知っているのはたまたまコボルドだからであって、異世界の来訪者であるデヴィルは物質界のちっぽけな種族の存在の有無など、おそらくろくに気に留めてはいないはずだ。

 とはいえもちろん、なるべく見られないように努めるに越したことはないが。

 呪文で姿を変えておくという手もあるだろうが、その手の幻術がこちらの世界ではかなり高等な呪文だということを考えると、見抜かれた時にはかえって不審に思われて注意を引いてしまう結果になる可能性もある。

 

 だがなんにせよ、まずはデヴィルがどこにいるかを突き止めなくては話にならないだろう。

 しかも、もうあまり時間は残されていないのだ……。

 

(……ウーン、どうしよう?)

 

 ボックの死体が語った情報、そして彼の家を捜索して得た情報だけでは、この街でデヴィルが拠点に使っている場所のことはわからなかった。

 ごく一般的なデヴィルの用心深さの程度から推し量って、どうにかしてボックの死体にさらに詳しい情報を聞いてみたとしても、そもそもその場所を知らされていない可能性が高い。

 

 では、どうするか?

 

 密かに聞き込みを進めて不審人物に関する情報などを集め、地道に絞り込んでいくという方法を取るには明らかに時間が足りない。

 残された時間内に正確に敵の居場所を突き止めるには、やはり占術呪文を用いる以外にないかもしれない。

 そうなると考えられるのは、《物体定位 ( ロケート・ オブジェクト ) 》か《クリーチャー定位 ( ロケート・ クリーチャー ) 》あたりだが……。

 

 前者の呪文を用いる場合には、一体何を探せば良いかというのが問題になってくる。

 

 今のところ確実にデヴィルがその住処に蓄えていそうなものとしては、麻薬のサニッシュが考えられるが……。

 しかし、この街には麻薬中毒者が他にもいるだろうし、そう言った人々の家にもサニッシュは置いてあるだろうから、確実にデヴィルの住処を探し当てられるという保証はない。

 

 ならば、同じ麻薬でもモーデインのほうを探すというのはどうか?

 モーデインはボックを始末するために使われた。

 デヴィルがこの麻薬を売るのではなく殺害用に使っているのだとするなら、彼らの住処にはおそらくあるだろうが、普通の中毒者の家には存在しないはずだ。

 

 だが、ロケート・オブジェクトの呪文は他の多くの探知呪文がそうであるのと同じように、鉛によって遮られてしまう。

 

 そのことを当然知っているデヴィルたちは、使用するとき以外は麻薬を内側に鉛の箔を貼ったケースに保管しているかもしれず、その場合にはこの呪文は役に立たないことになる。

 別に大した手間になるわけでも高度な呪文や技術を要するわけでもないのだから、その程度の用心をしている可能性は大いにあるだろう。

 

 となると、後者のロケート・クリーチャーの方が確実か。

 

 しかしこちらの場合でも、やはりどんなクリーチャーを指定して探せば良いのかというのが問題になってくるだろう。

 この呪文では探知する特定の個体、または少なくとも特定の種類を指定する必要がある。

 たとえば“ライオン”なら探せるが、“動物”では大まかすぎて探せないのだ。

 

 しかるに、存在する敵の種類を識別できそうな手がかりは、ボックが死ぬ前に“悪魔の鴉”を見たということだけである……。

 

(ムムム……)

 

 ディーキンは、じっくりと考えてみた。

 

 魂を売ったというボックの証言から、実はデヴィルではなくデーモンであるなどの可能性はほぼ排除される。

 売魂契約を結ぶという手段を行使するのは主に秩序にして悪のデヴィルであり、混沌にして悪のデーモンはそのようなまどろっこしい手段はまず取らない。

 大体、契約を結ぶなどと言うのは秩序の行為であって、混沌の理念に反するのだ。

 

 したがってまず、相手がデヴィルであるのはほぼ確定とみて……。

 鴉のような小さい動物に化けるデヴィルは、おそらくインプかスピナゴンだろう。

 

 一体、どちらが正解なのか?

 

 もちろん推測しかできないのだから、確かなことはわからない。

 わからないが、これまでに書物から得た知識や以前バートルを訪れたときに現地で得た知識などを総合して考え合わせてみると、おそらく前者なのではないだろうか。

 

 スピナゴンは最下級デヴィルの一種であり、精神をほとんど持ち合わせていない憐れなレムレーや懲罰の苦痛に塗れた惨めなヌッペリボーよりは僅かに上という程度の雑兵にすぎないのだ。

 彼らは概して知能が低く愚かな傾向があるため、人間を誘惑して魂を売らせるなどといういささか“知的な”仕事に関わらせるには向いていないはずである。

 それに、彼らの変身は幻覚をまとうだけで肉体自体を変化させることはできないので、鴉などの普通の動物に化けても知能の低さも相まってちょっとしたことで不信感を招きやすいという点でもインプより劣っている。

 インプと違って、疑似呪文能力で透明化することもできない。

 

 対してインプはといえば、単純な強さだけで言えばおそらくスピナゴンよりも弱いだろう。

 しかし、十分に知的で狡猾なデヴィルであり、バートルにおける地位の高さでは彼らの方が数段上だと聞いている。

 彼らは売魂契約の直接交渉を行うことは許可されていない下級デヴィルだが、そのような契約を結べるより身分の高いデヴィルの元で働き、獲物を堕落させる手助けをすることはままあるという。

 

 となると、まずはインプだと仮定してロケート・クリーチャーで調べてみるというのが妥当だろうか。

 この呪文には流れる水で遮られてしまうという欠点もあるが、幸い山間にあるこのラ・ロシェールの街中では川などの流水がある場所はまず見かけない。

 それで引っかからなければ、今度はスピナゴンでやり直してみるしかあるまい。

 アイテムの消費が馬鹿にならないが、どうしても見つけなくてはならないのだからやむを得ない……。

 

(でも、まずは聞き込みが先かな?)

 

 ロケート・クリーチャーを最終的には使うことになるのだとしても、まずは調べる場所をできるだけ絞り込んだ方がいいだろう。

 この手の占術は、なるべく探す対象の近くで行った方が目的のものまで辿り着きやすいのである。

 

 このラ・ロシェールの街中では、鴉を見た覚えがない。

 もちろん、ここへきてまだ2日目だからはっきりしたことは断定できないが、岩から削り出された山間の街であるここには鴉の類がほとんどやってこないのではないかと思える。

 もしそうだとすれば、この街中で見かけられる鴉はつまり、デヴィルが姿を変えたものだということになるはずだ。

 

 仮に捜しているデヴィルが日常的に鴉の姿でいることが多いのだとすれば、そいつの住処や取引場所などの周辺で住民が目撃していることは十分考えられるし、この辺りでは鴉が珍しいのであれば記憶にも残りやすいだろう。

 相手がインプだとすれば、インプは個体ごとに決まった1つか2つの形態しかとることができないので、その時々で違う動物の姿になるというわけにはいくまい。

 インプは透明化の能力をもっているので常時それを使っていれば目撃されずに済むが、いくらなんでもそこまで用心深いことは稀だろうし、仮にそうであってもたまには気を抜いてしまうこともあるはずだ。

 

 麻薬取引をしていた不審な男について聞き出すのは難しいだろうが、鴉をこの辺で見たかどうか、見たのはどこか、という程度なら世間話のふりでもして聞き出すのはそう難しくない。

 数人聞き込んでみて駄目そうなら、諦めて呪文を試してみればいいだろう。

 

 ディーキンは考えをまとめると、自分の立てた方針についてタバサに説明して意見を求めた。

 

「いいと思う。……手分け、する?」

 

 タバサの問いかけに、ディーキンは首を横に振る。

 

 手分けをしてもタバサはあまり聞き出すのが上手だとは思えないし、そもそも自分だって貴族が傍にいなければ不審な亜人扱いで警戒されてしまうだろう。

 合流する手間もかかるし、ここは2人で行動し続ける方が効率がいいはずだ。

 

「わかった」

 

 2人は近くでたむろって話しているスラムの住人の一団を見つけると、さっそく聞き込みを始めることにした……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 インプのイガームは、ボックに薬を届けて彼の死を見届けた後、ずっと大鴉の形態を取ったまま十字路近辺の家の屋根に留まっていた。

 

 彼の上司であるクロトートが外出しているので、客が薬が欲しくなったなどで急にこの待ち合わせ場所へやってきた場合に備えて見張りをしているのである。

 とはいえ、未だにそのような予定外の客人は一人も来ていない。

 単に鴉に変装するだけではなく透明化もしておいてもいいのだが、定期的に透明化の力を呼び起こし直すのは面倒くさいし、うっかり効果を切らせた場合に急に何もないところから現れたりぱっと姿を消したりするところを誰かに目撃されてしまえばかえって怪しまれる。

 

(まったく、暇な仕事だぜ。コート掛けの上よりゃいいがな)

 

 イガームは時折鴉らしく鳴き声などを上げながら毛づくろいをしており、いささか退屈してはいたが、同時に満足してもいた。

 ボックが死に、その魂がバートルに引き渡されることでクロトートの手柄が増えて分け前にあずかれるだけでなく、今夜行われる襲撃の指揮にも一枚噛ませてもらえることになっているのだ。

 この街を担当するデヴィルが現在自分とクロトートしかおらず手が足りないからだが、たかだか人間の傭兵どもとはいえ指揮を執る側に回れるというのは、自分のような下級デヴィルにとってはなかなか得難い大役だった。

 

「キキキ……」

 

 昼間のボックの死に様を思い出す度に、思わず嘴の端が歪んでしゃがれた鳴き声が漏れる。

 

 あの男が死ぬ前に自分が騙されていたこと、薬の虜となって生前に成した悪事の数々のこと、その報いとしてこれから地獄へ行くのだということを教えてやったのは、実のところイガームの独断であった。

 とはいえクロトートも、そうする事を禁じてはいなかった。

 イガームがするであろうことを想像できなかったわけでもあるまい、事実上の黙認である。

 

 もちろん、ボックが絶望に歪んだ顔でのたうちまわって苦悶しながら死んでゆく様を見てみたい、というデヴィルらしい残酷趣味は動機のひとつだった。

 実際、イガームはその後何度もボックの死に様を思い起こしてみたし、その度に胸中は昏い愉悦で満たされた。

 しかし、そういった感情的なものとはまた別に、利己心から来る強い動機もあった。

 イガームは、これから地獄に送られるボックの魂をあわよくば“アナグノリシス”の状態に堕とせないか、と目論んだのである。

 

 まあそう都合よくいくわけでもない、まず滅多に成功するものではないが、万が一首尾よくいっていたら……。

 奴を堕落させて魂を売らせるように仕向けたのはクロトートの手柄だが、アナグノリシスに陥らせたという手柄は自分のものになる。

 アナグノリシス状態の魂にはとても高い価値があるのだ。

 

(そうすれば、俺もついに昇進できるかも知れねえ!)

 

 それこそ、イガームが長年に渡って切望し続けて来たことだった。

 今の矮小なインプの形態を脱ぎ捨てて、新しいより強大な形態を手に入れるのだ……。

 

「……ギッ?」

 

 栄光に包まれた将来の空想に耽っていたイガームは、ふと何かの気配を感じた気がして、周囲に首を巡らせてみた。

 

 だが、何も不審なものは見えず、これといって妙な物音なども聞こえない。

 気のせいだったかと思って視線を下の方に戻したところで、路地裏からクロトートが姿を現したのが目に入った。

 

(やっと襲撃の手はずが整ったのか、いよいよだな)

 

 イガームはさらなる手柄への期待に胸を膨らませながら翼を広げると、クロトートとの距離が近くなり過ぎて目撃した者に関係を疑われないように気を配りつつ、彼の後に続いて拠点へと戻っていった。

 

 

 クロトートはまず先に拠点の地下室へ入り、少し後にイガームが戻ってくるのを待って扉を閉めた。

 

「……?」

 

 その時、少し違和感を感じた。

 周囲を見るが、何もおかしなものは見当たらず、奇妙な音もしてはいない。

 しかし……。

 

「ボス、襲撃の手はずを教えてください」

 

 イガームは扉が閉められたので元の姿に戻って一息つきながら、クロトートの小脇に抱えられたこの街の地図に目をやった。

 いくつかの地点に印がついているようで、おそらく襲撃する宿や待ち伏せる場所を記してあるのだろう。

 だが、詳しいことは説明を聞かなければわからない。

 

「待て」

 

 クロトートは、急かすイガームを手で制した。

 

「話を始める前に、この部屋をお前の《魔法の感知(ディテクト・マジック)》で調べろ。この世界にも魔法の目や耳はあるらしい、念のためにな」

 

 ファルズゴンの方がインプよりも上位のデヴィルとはいえ、ディテクト・マジックの疑似呪文能力はファルズゴンにはないので頼まねばならないのだ。

 

「へえ……」

 

 イガームが若干面倒そうにしながらも頷いて、精神を集中して魔法の力を呼び起こそうとした、その瞬間。

 

 前触れもなく、突如虚空から放たれた緑色の光線がクロトートの体に命中した。

 デヴィルの全身が、煌めくエメラルド色の網に絡め取られる。

 

「……なに!?」

 

「ギッ!?」

 

 光線の発射源……それまで何もなかった空間から、突然2人の男女が姿を現した。

 いうまでもなく、ディーキンとタバサである。

 

 イガームによって自分たちの存在が暴かれる前にと、ディーキンが咄嗟に《次元界移動拘束(ディメンジョナル・アンカー)》の呪文を用いてクロトートを攻撃したために《不可視球(インヴィジビリティ・スフィアー)》の効果が破れたのだ。

 ちなみにファルズゴンの正体は、不可視になって隠れている間にカジノでサキュバスの正体を見破る時にも用いた《看破の宝石(ジェム・オヴ・シーイング)》を通して見ることで看破したのである。

 

 幸い鴉に化けていたインプはそこまで慎重な性格でもなかったようで、聞き込みの結果よく鴉を見かけるという十字路を教えてもらうことができ、そこであっさりと発見した。

 その後は《看破の宝石》を用いて間違いなくデヴィルであることを確かめた上で、不可視化してしばらく動向を探っているうちに移動しだしたので尾行した結果、こうしてアジトまで辿り着けたのだ。

 もちろん、単に姿を隠すだけでなく音も立てずにここまで尾行してこれたのは、タバサが空気の流れを操って雑音の発生を防いでくれたおかげだ。

 とはいえやはり完璧とまではいかなかったのか、多少の不信感を持たれてはいたようだが。

 

「残念だけど、これまでだね。タバサ!」

 

 “守られし罪人”であるファルズゴンを攻撃したことによる若干の不快感を感じながらも、ディーキンはタバサに呼びかけた。

 できればもう少し連中の話を聞いていたかったのだが、とにかく《上級瞬間移動(グレーター・テレポート)》の疑似呪文能力を持つファルズゴンを逃がさずに済んだことで最悪の事態は避けられたはずだ。

 

 もしもファルズゴンが口に出して会話せずにテレパシーで指示を出し、インプがそれを受けて密かにディテクト・マジックを試み、結果をテレパシーで返信していたなら……。

 その場合には、ディーキンは自分たちの存在がばれたことにすぐには気が付かずに対処が遅れ、致命的な事態を招いていたかもしれない。

 おそらくは人間とやりとりすることが多い仕事についているためにテレパシーではなく口で会話する習慣がついていて、つい最後の用心を怠ったのだろう。

 そういう意味では、相手のミスという幸運にも助けられた。

 ディーキンはそのことをきちんと認識し、次に同じようなことをする機会があったなら……あってほしくはないが、もう少し用心しなくてはなるまいと反省していた。

 

「……」

 

 タバサは無言で頷きを返し、杖をぐっと握りしめながら、敵を逃がさないよう閉まった扉の前に移動する。

 

 2体のデヴィルたちも素早く事態を見て取ると、身を守る態勢を整えた。

 いよいよ、この街の命運をかけた地下の戦いが始まろうとしている……。

 




ロケート・オブジェクト
Locate Object /物体定位
系統:占術; 2レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(二股になった小枝)
距離:長距離(400フィート+1術者レベル毎に40フィート)
持続時間:術者レベル毎に1分
 術者は自分がよく知っているか、はっきりと視覚的に思い描ける物体の方向を感知できる。
一般的なアイテムの種類(たとえば椅子、植木鉢、羽根ペンなど)を指定して探した場合、そうしたアイテムが距離内に複数あるなら、最も近くにあるものの場所が分かる。
特定のアイテムを見つけようとする場合にはそのアイテム特有の正確な精神的イメージが必要であり、そのイメージが実際の物体に充分近いものでなければ呪文は失敗する。
術者は自分が直接観察したことがあるのでない限り、唯一無二のアイテムを指定することはできない。また、クリーチャーを探すことはできない。
 この呪文は薄い鉛の層によって遮断される。また、ポリモーフ・エニイ・オブジェクトによって物体の姿が変化させられている場合には、この呪文は欺かれてしまう。

ロケート・クリーチャー
Locate Creature /クリーチャー定位
系統:占術; 4レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(ブラックハウンドの毛皮一切れ)
距離:長距離(400フィート+1術者レベル毎に40フィート)
持続時間:術者レベル毎に10分
 ロケート・オブジェクトと同様だが、この呪文を使えば術者は自分の知っているクリーチャーの位置を知ることができる。
特定の個人または特定の種類(人間とかユニコーンなど)を指定して探すことができるが、大まかな種類(人型生物とか動物など)を指定して見つけることはできない。
クリーチャーの種類を指定して探す場合、術者は少なくとも一度は近くでその種のクリーチャーを見たことがなければならない。
 術者はゆっくりと向きを変え、呪文の距離内に探しているクリーチャーがいれば、その方向を向いた時にそちらにいるのだということがわかる。
また、そのクリーチャーが動いていれば、移動している方向も知ることができる。
この呪文では物体を探知することはできない。
 流れる水はこの呪文を遮断する。また、ポリモーフ系の呪文によってクリーチャーの姿が変化させられている場合には、この呪文は欺かれてしまう。

インヴィジビリティ・スフィアー
Invisibility Sphere /不可視球
系統:幻術(幻覚); 3レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(1本のまつ毛をゴムに封入したもの)
距離:接触したクリーチャーを中心にした半径10フィートの放射
持続時間:術者レベル毎に1分
 インヴィジビリティと同様だが、この呪文は呪文の発動時に受け手から10フィート以内にいた全クリーチャーを不可視状態とする。
効果の中心点は受け手とともに動き、この呪文が作用している者たちにはお互いの姿および自分の姿が見える。
この呪文の作用を受けているクリーチャーが効果範囲外に出た場合には目に見えるようになるが、呪文の発動より後に効果範囲に入ったクリーチャーが不可視状態となることはない。
作用を受けているクリーチャーのうち、中心となる受け手以外のものが攻撃を行なえば、そのクリーチャーの不可視化だけが無効化される。
受け手本人が攻撃を行なえば、インヴィジビリティ・スフィアーの呪文自体が終了する。

看破の宝石(ジェム・オヴ・シーイング):
 この宝石を通して見ることで、あらゆるものの真の姿を見抜くトゥルー・シーイングの呪文と同じ効果が得られる。
すなわち、使用者は通常の闇と魔法の闇を見通し、魔法によって隠された隠し扉などに気が付き、不可視状態のクリーチャーを見ることができ、あらゆる幻術を看破し、変身・変化・変成させられたものの真の姿を見抜く。また、エーテル界にいる存在を見ることもできる。
ただし、魔法によらない通常の変装を見破ったり、単に障害物の陰に隠れただけのものを見つけ出したりする能力はない。
この宝石を使えるのは1日につき30分までで、使用時間は連続している必要はない。価格は75000gp(金貨75000枚)。

ファルズゴン(ハーヴェスター・デヴィル、収穫者悪魔):
 ファルズゴンは魅惑的な陰謀を張り巡らせる伝説の存在であり、人々を密かに誘惑し、社会を転覆させようと目論むデヴィルである。定命の存在に売魂契約にサインさせることで、魂を収穫する専門家だ。
彼らは神々とデヴィルとの間で取り交わされた奇妙な契約によって守られているため、自分から攻撃しない限りは定命の存在からの攻撃を受けない。意志力によってこの防御を強引に突破し彼らに攻撃を加えたものは、以後1分間の間すべてのセーヴに-2のペナルティーを受ける。これは違反者に対して多元宇宙そのものが与える罰であるため、何人たりとも抵抗することはできない。
ファルズゴンはまた、自らの属性を隠蔽する超常的な能力を持っており、呪文をもってしても彼らを悪であると看破することは難しい。

アナグノリシス(発見的再認):
 地獄堕ちの運命を免れるには悲劇的なほど手遅れな時点で悔い改めた魂の陥る精神状態のことを指す。
彼らの魂はバートルに至るとアンデッドのスペクターになって永遠に嘆き悲しみながら地獄を彷徨い、稀にバートルを訪れた定命の者を見つけると哀れっぽくむせび泣きながらその腕に抱き締めて生命力を奪い取ろうとする。
これらのクリーチャーが流す涙や泣き叫ぶ声は、普通の地獄堕ちになった魂から搾り取れる量よりも遥かに大量の信仰エネルギーを放つ。
すべてのアークデヴィルの中でもディスパテル大公だけが、アナグノリシスに陥った魂の放つこれらの信仰エネルギーを集めて利用する神秘的な手法を知っているといわれている。


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第百一話 Devil killer

 

「おのれ……!」

 

「クソが!」

 

 ファルズゴンのクロトートとインプのイガームとは、悪態をつきながらも素早く敵を迎え撃とうとした。

 両者とも2人の敵から離れるように飛び退いて散開すると、精神を集中させて己の内から魔力を引き出していく。

 

 次の瞬間、イガームの姿はふっとかき消え、クロトートの方はなんと6体にも分身した。

 それぞれ《不可視化(インヴィジビリティ)》と《鏡像(ミラー・イメージ)》の疑似呪文能力である。

 

「……!」

 

 タバサはそれを見てほんのわずかに眉をひそめたが、動揺はしていなかった。

 同様の手管は、学院に姿を見せた別のインプや地下カジノで遭遇したヴロックなども使っていたからだ。

 

 敵の正体と能力を既に把握しているディーキンの方も、もちろん動揺はしていない。

 しかし、どちらの敵に向かうべきかで少し迷った。

 

 強さで言えばファルズゴンの方が上だが、不可視化したインプをタバサに任せるのは危険かもしれない。

 姿が見えないとはいえ彼女がそうそうインプなどにやられたりはしないと思うが、正確な場所をつかめない以上扉をすり抜けられて外に逃れられてしまう可能性はあるだろう。

 万が一にもここで取り逃して、背後の組織に情報を持ち帰られるわけにはいくまい。

 

 素早く結論を出すと、ディーキンは扉の前に陣取ったタバサに指示を飛ばしつつエンセリックを抜いてインプに飛びかかってゆく。

 

「タバサ、まずは扉をしっかり閉めておいて!」

 

 

 

「ち……」

 

 クロトートはハーフドラゴン・ハーフコボルドの魔法戦士らしき男がまっすぐにイガームの方へ向かっていくのを見て舌打ちしたが、すぐにタバサの方へ注意を向け直した。

 コボルドは概して脆弱な種族だが、あの男は初手で自分の防護を貫いて攻撃しこちらの逃走手段を封じたことからするとなかなかの手練れらしい。

 そんな相手に襲われた部下が助かるなどとは微塵も思っておらず、既に完全に見捨てていた。

 

(それよりも、奴が襲われている隙にどうにかしてこの場を逃れることだ!)

 

 そのためには、扉の前に陣取っている相手の方を速やかに排除しなくてはならない。

 

 こちらは、見たところではどうやらこの世界の貴族らしい。

 一見するとずいぶんと貧弱そうな小娘だったが、連れのコボルドの腕前からすると油断はできぬ。

 クロトートは膿汁に濡れた短剣の鞘に手をかけながら、ディーキンの指示を受けたタバサが扉を閉ざしてしまう前に……あるいは扉を閉ざそうとしている隙に、始末できぬものかと考えた。

 

 だが、タバサの行動は素早かった。

 

 彼女はクロトートがダガーを抜くよりも早く、素早く呪文を紡いで扉に『ロック』をかけた。

 そのまま間髪をいれずに跳ねて飛び上がると、クロトートから距離を取って杖を構え直し、敵を迎え撃つ態勢を整える。

 

(く……)

 

 クロトートはその様子を見て顔をしかめたが、闇雲な攻撃に出るのは避けて次の手を考えた。

 

 やはり、こいつもかなり手強そうだ。

 少なくとも、一手や二手で排除できる相手ではあるまい。

 自分がこの小娘を仕留める前にイガームは始末されてしまうだろうし、その後二対一の状況になっては勝ち目はない。

 

 そうなると、どうにかして敵の手をすり抜けて逃げ出す以外にはないわけだが……。

 呪文で扉を閉ざされてしまったのが痛い。

 扉を閉ざした呪文それ自体は自前の疑似呪文能力で解呪することが可能だが、その間敵が指をくわえて見ていてくれるわけでもあるまい。

 

(……どうする……?)

 

「ギャアァァァッ!!」

 

 クロトートがそうして急いで考えをまとめている時に、耳障りなうめき声がした。

 顔をしかめてちらりとそちらに目を向けると、インプの姿は見えないものの件のコボルドが虚空に刃を振り下ろしており、そこからどす黒い血が噴き出している。

 おそらく、あの敵には透明化したイガームの姿がはっきりと見えているのだろう。

 

(役立たずめ)

 

 クロトートは一片の哀れみもなく内心でそう吐き捨てたが、見ればコボルドは自分の方へすぐに踵を返すのではなく、その場で再度剣を振り上げようとしていた。

 さすがに一太刀で完全に仕留めきるには至らなかったようだ。

 噴き出す血の量から見ておそらく次の攻撃をイガームが生き延びることはあるまいが、逆に言えばあと一手の猶予はあるということ……。

 

(その一手で、この状況をどう覆すか?)

 

 それができれば、自分にもまだ助かる望みはある。

 

 自前のダガーや《ヴァンパイアの接触(ヴァンピリック・タッチ)》の疑似呪文能力による攻撃では、目の前の娘を一撃で仕留めうるとは思われない。

 よしんばそれができたとしたところで、その後に扉の封印を解いて逃げ出すまでの間に、イガームをとどめたコボルドに背後から襲われるのがおちだ。

 

(ならば……、この小娘を手駒にかえるしかあるまいな)

 

 目の前の敵を殺すのではなく、味方につけてもう一人の敵の足止めをさせるのだ。

 その隙に扉を開いて逃げ出す以外に、この窮地を脱する手段はない。

 クロトートにはチャームやドミネイトの能力はないが、ちょうどそのような用途に役立ちそうな代物を懐にひとつ持っていた。

 

 とはいえ、敵の手強さの度合いからいって上手くいく見込みは薄いだろうということは彼も認識している。

 

 しかし、文字通り地獄の生存競争を生き抜いてきたクロトートには諦めるつもりなど毛頭なかった。

 命惜しさに降伏して敵にむざむざ情報を引き渡すなど、その後に待ち受けるバートルの懲罰のことを思えば問題外だ。

 百回狂ってなお終わらぬほどの永く苦しい拷問の果てに、すべての尊厳と功績を剥ぎ取られて惨めなヌッペリボーの身に堕とされるくらいならば、この場で討ち取られる方が何万倍もましというもの……。

 

(なに、この程度の窮地など、俺は飽きるほど乗り越えてきたではないか!)

 

 その自分が、今さらこんな辺境世界の定命者ごときに躓かされてたまるものか。

 クロトートは自分にそう言い聞かせると、懐に潜ませていた薬瓶を密かに手にとって仕掛けるタイミングを慎重に窺いながらタバサの方に向かっていった……。

 

 

 

 6体のクロトートと対峙するタバサには、動揺はなかった。

 

 先程武器を抜こうとしていたあたりからすると、敵は近接戦を挑んでくるタイプだろうか。

 それならば、そこそこの広さがあるこの室内でなら、安全な距離を保ち続けながら戦うことはおそらくそう難しくはない。

 

 クロトートが短剣に添えたのとは逆の手で何かを取り出したのも、タバサは見逃さなかった。

 見たところ、小さな瓶のようなものだったが……。

 

「…………」

 

 形状からすれば、自分で飲むかもしくはこちらに向かって投げつけるかして使うものだろう。

 おそらくは目潰し、ないしは毒か酸のようなものだろうか。

 もしくは、何らかの魔法のポーションだということも考えられる。

 

 タバサは詠唱を悟られぬように、姿勢を低くしてさりげなく口元を隠しながら呪文を紡いだ。

 氷の刃を浮かべたり杖にまとわせたりすれば攻撃の準備をしていることは明らかになってしまうので、風の刃を使うことを選択する。

 

 もしも自分で飲むのなら、そのときに隙が生じるはずだ。

 それに合わせて打ち込める限りの風の刃を放ち、本体を捕らえられればそれでよし、そうでなくとも分身体を何体か減らすことができるだろう。

 こちらに向けて投げるのなら、なお好都合である。

 投げようとする瓶の軌道からどれが本体なのかを見抜くことができようから、その個体に向けてすべての風の刃を集中させればよい。

 ついでに瓶の方もそれらの刃のうちの一本で迎撃して、逆に中の液体を向こうに浴びせてやる。

 

 しかし、敵は瓶を掌の内側に隠したまま、こちらに向けて駆け出してきた。

 

(至近距離で叩きつけるつもり?)

 

 それはいかにも無謀な戦い方だと思えた。

 だが、こちらとしてもすでに攻撃呪文を準備し終わっているので、それを解放しなければ別の呪文を唱えて宙に逃げることはできない。

 

 タバサは咄嗟に迫ってくる敵の像のいくつかに用意した風の刃を放つと同時に、後ろに跳んでできる限り距離を離そうとした。

 しかし……。

 

「……!?」

 

 なぜか、敵に対して呪文を解き放つことができなかった。

 杖を振り下ろそうとした腕が、まるで目に見えない何らかの力に押さえつけられたように動かない。

 それはファルズゴンの身を守る、“守られし罪人”の能力によるものだった。

 ディーキンはファルズゴンの正体を事前に看破してはいたが、敵がこちらの存在を疑って部屋を調べようとしたために直ちに戦闘に突入してしまい、その能力について彼女に伝えておくだけの時間的な余裕がなかったのだ。

 

 予想もしなかった事態にタバサは狼狽し、次の行動に移るのが遅れた。

 

 以前にカジノで戦ったヴロックがそうだったように、敵が呪文に耐えるかもしれないという程度のことは彼女も想定していた。

 その場合でも、風の刃を当てれば一瞬動きを鈍らせる程度の効き目はあろうから、素早く飛び退けば瓶を回避できる程度の距離は離せるという読みだった。

 だがまさか、何の動作もなしで攻撃すること自体が阻止されるなどとは思いもしなかったのだ。

 

 迫ってくる敵の姿にはっと我に返って後ろに跳び退いたものの、タイミングの遅れに加えて呪文による補助なしの状況では攻撃を回避するのに十分な距離を置けない。

 近距離から投げつけられた小瓶を避けきれず、咄嗟に杖で防ぐのが精一杯だった。

 薄く脆い硝子は堅い木製の杖に当たってあっけなく砕け、タバサは飛び散った内部の液体をもろに浴びてしまう。

 

(しまった……!)

 

 

 

 タバサが薬瓶の中身を浴びたのを見て、クロトートはどうやらうまくいったとほくそ笑んだ。 

 

 薬瓶の中に入っていたのは、この世界の水魔法とやらによって作られたポーションをアレンジしたものであった。

 ベースにしたのはなんでも禁制品の『惚れ薬』とやらで、似たようなものは他の世界にもあるがこちらのそれはかなり効力が強く、しかも飲用させると長期に渡って体内に残留して効果を発揮し続けられるようだ。

 その効力に目をつけたデヴィルが研究、改変し、持続時間は短くなるものの、皮膚や粘膜からの接触でも体に吸収されて効果を発揮するようにした代物である。

 これでこの小娘は効果の続く限り盲目的に自分を愛し、害しようとするものはたとえ仲間であろうとも全力で阻止してくれることだろう。

 

 先ほどのコボルドに破られた“守られし罪人”の能力が、目の前の小娘に対して有効に働くかどうかは賭けだった。

 しかし、たとえ守りを貫かれて攻撃されたとしても、クロトートはそれを甘んじて受けて強引にでも瓶の中身を浴びせてやる覚悟でいたのである。

 一発くらいならまず耐えられるだろうし、最終的な敗北に至らぬ手傷などデヴィルにとっては重要な問題ではない。

 

「『やめろ』! 俺を生かしておけば、………ウギャアアァァァッ!!!」

 

 背後からイガームの断末魔の絶叫らしき声が響いてきたが、クロトートはもはやそちらに見向きもしなかった。

 おそらくは切羽詰まって《示唆(サジェスチョン)》の能力でコボルドの攻撃を止めようとしてしくじったのだろう、双方の実力の差を考えれば当然の結果だ。

 

(まあ、そんなことはどうでもよいがな)

 

 とにかく最低限の時間稼ぎの役には立ったのだし、インプごときにそれ以上は望めようはずもない。

 バートルへ帰還した折には、失態の弁護くらいはしてやろうか。

 その時自分が暇で、気が向いたならだが。

 

 後はこの小娘が、あのコボルドの魔法戦士から自分の背を守ってくれるはずだ。

 貧弱なインプなどよりもよほど頼れる手駒だろう。

 これでどうにか、こちらにも望みが出てきたというもの……。

 

(俺が逃げる間しっかりと盾になってくれよ、お嬢さん!)

 

 クロトートは心の中でそう呼びかけながら、速やかにタバサの脇をすり抜けて扉に向かおうとする。

 背後のコボルド相手にこの手駒がどれだけ持ちこたえられるものかわからないのだから、もたもたしている余裕はなかった。

 

 だが、その時。

 

「……うっ!?」

 

 飛んできた液体から顔をかばいながら、クロトートの方を睨みつけるタバサと目が合った。

 その視線には強い敵意とわずかな怒りが篭っており、自分のとりこになどなっていないのは一目瞭然だった。

 

(こ、この小娘! まさか、毒か精神作用の効力に対する耐性を事前に得ていたのか……、あのコボルドの仕業か!)

 

 この世界のメイジにはその手の防御呪文がないと思って油断していたが、あのコボルドは明らかに自分たちと同じ世界に通じる者らしい。

 あわてて体をひねって飛び退こうとしたが、それよりも早く杖が振るわれた。

 

 先程クロトートの身を護ってくれた“守られし罪人”の契約は、彼が瓶を投げつけてタバサに攻撃を加えたことによって無効になっており、もはや彼女の手をとどめるものはない。

 しかも投げられた瓶の飛んできた方向から、6体の内のどれが本物であるのかもタバサには既にはっきりとわかっていた。

 杖の先から数本の風の刃が解き放たれ、至近距離からクロトートの体をずたずたに切り刻んでいく。

 

 どす黒い悪魔の血が噴き出し、風に舞って飛び散った。

 

「ぐ、おぉオォォッ!!」

 

 激痛と自らの計略が破れた屈辱とのために激昂したクロトートが咆え、目の前のタバサに掴みかかった。

 怒りで我を忘れているとはいえ、その動きは獣のように素早い。

 

「……」

 

 タバサは今朝ディーキンと戦っていたワルド子爵以上に鋭いその動きを見て、掴みかかってくる敵の腕はこの距離からでは自分には躱しえないことを瞬時に悟る。

 

 しかし、彼女に動揺はなかった。

 今しがたは不覚を取ってしまったが、しかし幸い浴びせられた液体によって目が見えなくなるとか、皮膚がただれたり傷んだりとかいった害が起きている様子はなかった。

 微かに甘い香りがしているからただの水ではないのだろうが、強酸などの類でもなかったようだ。

 おそらくは、たまたま懐に入っていた香水かなにかを即興で目潰しとして利用しただけか。

 

(なら、大事ない)

 

 敵が掴みかかってこちらを押し倒すつもりであれ、絞め殺すつもりであれ……その前に片をつけるまでだ。

 タバサは杖を持っている腕や喉を掴まれないためにほんのわずかだけ身をひねりながら、淡々と呪文を唱えていった。

 

 クロトートの腕が、タバサの左肩を荒々しく捕える。

 

「死ね、小娘ッ!!」

 

 疑似呪文能力によって死霊術の力を帯びた掌が、さながら吸血鬼の牙のごとくタバサの生命力を貪ってクロトートに注ぎ込んでいった。

 

 だが、タバサは自分の身体を蝕むおぞましい死の霊気にも怯まずに呪文を完成させた。

 それに応じて、彼女の体に浴びせられた薬瓶の中身とクロトートの体から噴き出した血液との中に含まれた水分が凝固していく。

 たちまち複数の鋭い氷の槍が形作られ、四方八方からデヴィルの体を串刺しにした。

 

「……ばかな!」

 

 その攻撃の威力は、奪い取ったばかりの幾許かの生命力によって相殺できる範囲を優に超えている。

 幾本もの氷の槍が致命的に体中に食い込むのを感じて、クロトートは抗議の呻きを上げた。

 

 せっかく、獲物に満ちた楽園のような世界にやってこれたというのに。

 出世の種が、そこらにいくらでも転がっているというのに……。

 

(それなのになぜ、この俺がこんなところで躓かねばならぬのだ?)

 

 クロトートは顔を歪めて怨嗟の唸りを上げ、心の中で呪うべき幾人もの相手を思い浮かべた。

 

 いまいましい目の前の小娘と、背後のコボルドを。

 無能なイガームを。

 この街にろくな人員をよこしてくれなかった上司のデヴィルたちを。

 そして、不用意な計画を立てて禍を持ち込んだワルドを……。

 

 上司も部下も、仲間も敵も、およそありとあらゆるものに自分の現在陥っている苦境の責任を押し付け、非難し、罵った。

 

 それも、ほんの数秒後には背後からディーキンに背骨を断ち割られて終わりとなった。

 肉体が滅ぶとともに、クロトートの魂は速やかに物質界から引き離されていく。

 彼の魂はこれから九十九年の間アストラル界をさまよった後に、故郷である九層地獄へと帰還する定めなのだ。

 

 最後の瞬間にクロトートが願ったのは、帰還の折には降格されるほどの罪を問われずに済むように、そして九十九年の間に自分の名が完全に忘却されて出世の道が断たれてしまわぬように、ということだった――――。

 

 

 

「……。ふ、ぅ……」

 

 クロトートが完全に死んだのを確認すると、タバサは先程捕まえられた肩のあたりを押さえて力なく膝を落とす。

 一旦戦いの高揚が去ってしまうと、体が酷く冷えて怠く、力が入らなかった。

 

「タバサ、大丈夫?」

 

 ディーキンが心配そうに近づいて、顔を覗き込む。

 

「大丈夫……。怪我はない、疲れただけ……」

 

 タバサはそう言って首を振ったが、その動きは弱弱しい。

 元より彼女は耐久力のある方ではないので、先程の《ヴァンパイアの接触》による消耗がかなり堪えているのだった。

 ディーキンはすぐに《怪物招来(サモン・モンスター)》の呪文で治癒の能力を持つクリーチャーを招来し、奪われた彼女の生命力を癒してもらった。

 

「ありがとう……いつも」

 

 タバサが、微かに顔を綻ばせて礼を言う。

 

 その前に彼女が浴びせられた液体のことも気になっていたが、タバサは「なんともない、ただの目潰しだと思う」と言って首を振った。

 ディーキンも一応確認してみたが、確かに浴びたあたりの皮膚は何ともないし、液体もタバサが氷の槍を作ったことで既に蒸発して消えていたので、問題はなさそうだと納得した。

 もしかすると皮膚に触れただけで効果を発揮する毒か何かだったのかもしれないが、そうだとしても朝食べた《英雄達の饗宴(ヒーローズ・フィースト)》の恩恵がまだあったので影響は受けなかっただろう。

 

 実際のところ、液体に解けてすでに皮膚から吸収された分については確かに無効化されたものの、呪文で完全に水分を飛ばしてしまったために乾燥して吸収されなかった薬の成分が、まだタバサの体のあちこちにかなりの量付着している。

 水魔法のポーションに用いられている精霊の体の一部などの魔法的な成分は、単に水分を飛ばしただけで消えてなくなるようなものではないのだ。

 もっとも今の2人には、まだそれを知る由もなかったのだが……。

 

 さておき、ディーキンとタバサはそれから手分けして室内の捜索などを行い、麻薬類が収められていた鉛張りの箱やその他のいかがわしい品々、ちょっとした貨幣や財宝にマジックアイテムなどを発見した。

 クロトートが持っていた地図には、襲撃に際して傭兵たちを集合させる予定だったらしい宿周辺のポイントにも印がつけられていた。

 この2人を始末したことで傭兵たちを集合させるものがいなくなり、襲撃自体が中止される可能性も高いが、念のため今夜はそれらの地点を交代でどこかから見張っておけばいいだろう。

 いくらかの物は戦利品として懐に収め、残りはしかるべきところに回収させるための証拠品としてそのまま残しておくことにする。

 

 ただ、連中の背後にあると思われる組織に関する手掛かりは、残念ながら見つからなかった。

 まあディーキンとしても、それは仕方がないことだろうと諦めている。

 ファルズゴンは回数無制限で《上級瞬間移動(グレーター・テレポート)》を使えるので、必要なやりとりはすべて本拠地まで瞬間移動して行えばいいから、およそこんな場所に手掛かりなど残しているはずがないのだ。

 

 デヴィルを捕えて聞き出せばよかったのではないかと思う向きもあるかもしれないが、鋼の意志力を持っている上に一瞬の隙で瞬間移動や透明化をして逃れかねないデヴィルを生かして捕縛し口を割らせるというのは、あまり現実的ではない上に非常に危険である。

 だからこそ、捕縛しようなどという色気を出さずに即座に止めを刺すことにしたのだ。

 また、デヴィルのような来訪者をドミネイトするには非常に高レベルの呪文が必要になるし、確実に効くわけでもない。

 殺しておいて死体から話を聞こうにも、《死者との会話(スピーク・ウィズ・デッド)》の呪文は発動するのに10分の時間がかかるのに対してデヴィルの屍は死ぬと数分以内に溶解して消滅してしまう……。

 

 したがって、背後の組織に関する詳細な情報を得るのは現状ではかなり難しそうだと言わざるを得なかった。

 

 組織に深く関わっていそうな人間を誰か探し出して捕まえて聞き出す、あるいは最悪その死体から聞き出すというのが、一番現実的な方法だろうか?

 アルビオンの反乱軍とやらがデヴィルと関わっているのだとしたら、例えば首魁のクロムウェルとかいう男に……。

 

(それは今夜、見張りとかしながら考えようかな?)

 

 それよりもまずは、せっかくこの街のデヴィルを始末したのだから、連中の背後の組織が事態に気付いて後任を手配する前に早急に手を打たねばならない。

 この街の衛視は誰が買収されているかもわからないし、ワルド子爵も信用できないので、アンリエッタ王女らに直接話を通す方がよいだろう。

 

 しかし、アルビオンへの旅が終わって戻ってから報告するのでは何日後か何週間後になるかもわからないし、明らかに遅すぎる。

 王女らはもう城に帰っているかもしれないが、ここは一旦学院に戻ってオスマンにでも事情を伝え、王城への連絡と手配を頼んでおくというのがいいだろう。

 もちろん、馬で戻るのでは時間がかかるし、そんなことをすればワルドにも事情を説明しなくてはならなくなるので、《瞬間移動(テレポート)》の呪文で素早く往復するのだ。

 

 そういった案をタバサに提案して同意を得ると、ディーキンはすぐに、彼女と一緒に学院へ瞬間移動することにした。

 

「早速、訓練したことが役に立つの!」

 

 ディーキンはこちらで自分が果たすべき役割を考慮し、サブライム・コードとしての修行の過程で《瞬間移動》の呪文を習得しておいたのである。

 先程ファルズゴンに放った、《次元界移動拘束(ディメンジョナル・アンカー)》の呪文も同様。

 デヴィルやデーモンなどの来訪者を相手にしなくてはならないとなれば、それらの呪文は自力で扱えるようにしておいた方がよいと判断したのだ。

 

「2つの点は1つに。星幽界の守護者よ――」

 

 タバサの手をしっかりと握って覚えたての呪文を唱え、ディーキンは昨日後にしたばかりの学院長の私室へ瞬間移動した……。

 





ヴァンピリック・タッチ
Vampiric Touch /ヴァンパイアの接触
系統:死霊術; 3レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:接触
持続時間:瞬間
 術者は敵に接触することで術者レベル2レベルごとに1d6(最大10d6)ポイントのダメージを与え、なおかつ自分が与えたダメージに等しい一時的ヒット・ポイントを得る。
ただし、術者は対象のその時点でのヒット・ポイント+10点(対象を死亡させるのに充分なダメージ)までの一時的ヒット・ポイントしか得ることはできない。
この一時的ヒット・ポイントは1時間後に消える。


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第百二話 Guilty

(ええい……、一体何をやっているのだ、あの連絡係の男は!)

 

 ワルドは『女神の杵』亭の2階で、窓から一人外の様子を窺いながら苛立っていた。

 

 既に日は沈み、スヴェルの月夜が訪れている。

 夜空に星が瞬き始め、赤い月が白い月の後ろに隠れて、ひとつとなった月が青白く輝いているのだ。

 

 だというのに、夜までには戦力を手配して連絡を入れるといっていたあの男からの報告が、一向にやってこないではないか。

 

 階下では今しも同行者たちが酒場に揃ってくつろぎ、気を緩めているところだ。

 まさに今こそが、襲撃の絶好の機会だというのに……。

 

「いい加減な輩め!」

 

 この計画の重要性については既に十分説明してやっただろうに。

 落ちぶれた貴族崩れごときが、自分に待ちぼうけを食わせるとはいい度胸ではないか。

 

 いっそ自分一人でやってやるか、ともワルドは考えた。

 これまでに蓄えた精神力をかなり消耗することにはなるが、遍在の3~4人も使えば同行者の数を削るための戦力としては十分だろうと踏んでいた。

 

 しかし、さすがに同じような姿のメイジ数人が同時に襲撃すれば、遍在を用いていることが露見してしまいかねない。

 そうすると、体格などが似ているということで自分に嫌疑の目が向くことも無いとは言えまい。

 そういった諸々の事柄を考え合わせると、やはり自分だけでやるというのはいささか難しいように思われた。

 

「……ちっ」

 

 なんにせよ、もう待てない。

 

 一体何をしているのか、もう一度こちらから出向いて確かめてやる。

 もし仮に、大口を叩いておいてまだ戦力が揃っていないのでだんまりを決め込んでいるなどということであればただではおかぬ。

 

(その時は、貴様の首が飛ぶことになると思え!)

 

 ワルドは軽く周囲に人気がないことを確認すると遍在を作りだし、変装用に適当に用意したフード付きのローブを身に付けさせた上で、窓から外に送り出した。

 

 どこかで梟の鳴く声がする。

 急がなくてはならない。

 遍在は、正しく風のような速さで夜の街を走って行った……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 しばらくの後、遍在は昼間に連絡役が案内してくれた建物へ辿り着いた。

 入り口をノックも無しに通り抜けて奥の様子を窺うと、地下の方からかすかに明かりが漏れている。

 

「あの馬鹿め……!」

 

 ワルドの遍在は、顔をしかめて悪態をついた。

 

 やはり、いまだにこんなところに留まって悠長に構えていたのか。

 あれだけ説明したにもかかわらずことの重要性が理解できていないのか、それともこの自分を他所者だからと思って虚仮にしているのか?

 

(いずれにせよ、許してはおけん)

 

 遍在は細剣状の杖を引き抜くと、足音を殺してゆっくりと地下へ降りていった。

 

 奴に杖を突きつけて申し開きをさせ、その内容如何によってはすぐにでも始末してくれる。

 自分にとって何の役にも立たぬ輩であるなら、生かしておく必要もない。

 使い魔の鴉共々始末した後は、適当に室内を物色しておけば近隣のごろつきにでも殺されたのだと思われるだろう。

 

 ワルドはそこでふと何かの気配を感じたような気がして足を止め、背後を振り返ってみた。

 

 だが、何も不審な様子は見えない。

 気のせいだったかと思い直して、階下の方へ向き直る。

 

 地下の扉の前まで辿り着くと、遍在はひとつ深呼吸をしてから明かりの漏れている扉を一気に体当たりするようにして押し開き、部屋の中へ飛び込んだ。

 部屋の中でのんびり構えているであろうクロトートに不意打ちで杖を突き付け、恫喝してやるつもりだったのである。

 

「む……?」

 

 だが、部屋の中にはランプに灯こそ燈っているものの、誰もいなかった。

 ただ、床の上に嫌な臭いを放つ汚らしい泥の水たまりと、それに浸かったひどく破れて傷んだ豪奢な衣服の残骸があるばかりだ。

 ワルドには知る由もなかったが、先に死んだクロトートとイガームのなれの果てである。

 

 怪訝に思った遍在がもっとよく調べてみようとしてその水たまりの方へ向かった、そのとき。

 背後の扉が突然がちゃりとしまり、次いで鍵のかかったような音がした。

 

「なっ!?」

 

 遍在は慌てて扉に飛びつき、引っ張ってみた。

 だが、やはり開かない。

 杖を振って『アンロック』をかけてみても、攻撃呪文で叩き壊そうとしてみても、扉はびくともしない。

 

「おっ、おのれ……!!」

 

 彼は今や、逃げ道のない地下室に完全に閉じ込められてしまったのであった。

 

 

「……ふう、やれやれだね」

 

 ワルドの遍在をあっさりと閉じ込めた張本人、かつての怪盗『土くれ』のフーケにしてミス・ロングビルことマチルダ・オブ・サウスゴータは、扉の外でほっと息を吐いていた。

 

 彼女はあらかじめディーキンから預けられた透明化の指輪を使って、この建物にやってくる者を見張っていたのである。

 与えられた役割は、誰かが来たら他の見張りやディーキンらにその旨の連絡を入れるというものだった。

 だが、ワルドの遍在が自分の存在に気付かずに地下へ向かったことから好機を見てとり、もう一働きしてやろうという気になったのだ。

 

 フーケは遍在が完全に地下室へ入ったのを見届けると、扉を閉めて『ロック』をかけた上に、外側から『錬金』で作った石や金属で何重にも固めてやった。

 たとえスクウェア・メイジであろうが、『風』では『土』の莫大な質量を吹き飛ばすことは容易でない。

 ましてや、空気の流れが淀んでいるために風の力が格段に弱まるこんな建物の深部ではなおさらのことである。

 

 これで、あの遍在が自力で内部から脱出することはまず不可能だ。

 

(後は、あの子たちの方がうまくやるだろうさ)

 

 そう考えていた時、背後から声が掛けられた。

 

「ミス・ロングビル。大丈夫でしたか?」

 

「……!?」

 

 不意を突かれたフーケは、ぎょっとして後ろを振り向いた。

 心配そうな顔をしたコルベールが、いつの間にか彼女のすぐ後ろのあたりに立っていた。

 

(い、いつの間に……?)

 

 一仕事終えたばかりで少々気が緩んでいたことは否定できないし、彼の方も敵であろう男が入った建物内へ侵入するのだから注意深く足音を殺そうとしてはいただろう。

 だが、たとえそうであったにしても、この自分がこれほど近づかれるまで気配を察知できなかったとは……。

 

 彼女がここに来たのは自ら名乗りを上げたからだが、コルベールはオスマンの推薦だった。

 

 オスマンは今宵、『魅惑の妖精』亭で楽しく夜を過ごそうとコルベールを誘い、ちょうど学院とそちらの間を往復することになっていたシルフィードの背に乗せてもらって彼と共に店に足を運んでいた。

 そこへ、学院でオスマンが出かけていることを聞いたディーキンとタバサが現れ、事情を話して助力を求めてきたのである。

 

 話を聞いたオスマンはすぐに承諾し、ちょうど王都に来ていたこともあるし、直ちに王城へ足を運んで王女らに伝えようと約束した。

 しかし、話を聞いたアンリエッタやマザリーニが迅速に手配を済ませてくれて、用意された人員が火竜なりヒポグリフなりでラ・ロシェールへ向かったとしても、到着は早くて明日になるだろう。

 それまでの間、発見した敵のアジトを監視しておく要員が必要だった。

 それに、今夜敵の襲撃がないかどうかを見張るためにも、できればもう少し人手があるとありがたいのだとディーキンは説明した。

 

 同席してその話を聞いていたフーケは、ならば自分がと名乗りを上げ、店長のスカロンに数日の休暇をもらってディーキンらに協力することにした。

 一度は捨て去ったとはいえアルビオンを生まれ故郷とする彼女としては、その故郷が悪魔だの麻薬だのに汚染されようとしていると聞いてはいささか思うところもあったのだ。

 

 とはいえ、信頼できる身分や権威の後ろ盾を持たないフーケでは、アジトの監視や封鎖をやるにしても、現地の衛視や後々派遣されてくる王城からの人員に対して説明などしなくてはならなくなったときに面倒なことになる可能性がある。

 

 そこで、コルベールもぜひ一緒に連れて行くようにとオスマンが提案した。

 その場に動かせる人員が彼しかいなかったというのもあるのだろうが、フーケにとっては少々意外な人選であった。

 コルベール自身もあまり気乗りがしない様子だったが、教え子たちやミス・ロングビルの身を守るためなら、といって承諾した。

 

(学院長のジジイも妙に推してたし、ただの研究バカってわけじゃなさそうだね……)

 

 だがまあ、本人はそれについてあまり触れたそうな様子ではないし、なんにせよ今詮索することでもあるまい。

 それに、あまり詮索されたくないのはこちらとて同じなのだ。

 

 フーケはすぐにミス・ロングビルとしての表情に戻って、コルベールに微笑みかけた。

 

「ええ、見ての通り大丈夫です。敵の遍在はこの奥へ閉じ込めておきましたわ」

 

「そうですか。いや、お手柄ですな! 駆けつけるのが遅れて申し訳ない……」

 

「いいえ、ミスタは街中を回っておられたのですもの。急いで来てくださったのはわかっています」

 

 見張りの役割分担として、フーケは主にこのアジトを見張ってやってくる者がいないかを確認する役を担当し、コルベールの方はデヴィルが持っていた地図に記された地点に傭兵たちが集まっている様子がないかをさりげなく巡回して確かめる役を担当していた。

 ワルドの遍在が宿を出た直後に2人には連絡が届いていたが、遍在は風のような速さでまっすぐアジトに向かってきたので、その時の位置次第で到着が多少遅れてしまうのはやむを得ないだろう。

 

 ちなみに、その連絡要員としての役割を果たしてくれたのは、ディーキンが昼間に交渉した傭兵のガデルだった。

 彼は『女神の杵』亭近隣の目立たない高台に陣取り、ワルドの遍在が宿から出ていったことや、今のところ周辺で不自然に人が集まっている様子はないことなどを、他の見張りに逐一知らせていたのだ。

 

 ガデルは襲撃の直前に牢から出される手はずになっていたのだが、手引きをするはずだったクロトートは先刻ディーキンらが倒してしまったので、このままではせっかく貴重な情報を提供して改心を誓ってくれた彼が捕まったままになってしまう。

 それが気がかりだったディーキンは、タバサに《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ)》を貸して適当に悪者っぽい雰囲気の女性の姿(どことなくフーケに似ていた)に変装してもらい、詰所へ向かってもらったのである。

 

 彼女が当直の衛視に昼間の商人の代理だと伝えると、案の定その男は事前に買収済みだったようで、すんなりとガデルの牢の鍵を渡してくれた。

 タバサはその衛視を問答無用で風の鎚で昏倒させ、牢から出したガデルに手伝ってもらってふん縛ると、そのまま彼の代わりに牢の中へ閉じ込めておいた。

 あとは、学院から来てくれているコルベールを介して明朝他の衛視らがやってきたときに事情を説明し、王城から増援が駆けつけ次第そちらに引き渡すように取り計らっておけば問題ないだろう。

 

 その後、牢から出たガデルに逃げる前にもう一仕事頼めないかと持ちかけると、彼は快く承諾してくれたのである。

 

「い、いやあ、恐縮ですな。……それでは、私は念のために宿の方へ向かってみましょう。遍在をやられた件の魔法衛士隊長とやらが、生徒らに対してどんな暴挙に出るかもしれませんからな!」

 

 いまだにロングビルの正体がフーケだと知らないコルベールは、相変わらず彼女の些細な言動にもいちいち顔を赤くしていた。

 

 アルビオンへ向かう前に、ワルドに対する疑念にも片をつけてしまうべきだろう。

 身内に敵かもしれない者を抱えて、その動向に常に注意しながらデヴィルとも渡り合うなどという危険なことはできないのだ。

 彼が味方ならば信頼して緊密な連携を築いていかなくてはならないし、敵ならば排除しておかなくてはなるまい。

 そう結論したディーキンは、ガデルに対してワルドの動向を特に気を付けて見張ってくれるようにと頼んでおいたのである。

 もしもデヴィルたちが予定していた今夜の襲撃と彼に何らかの関係があるのなら、おそらく予定通りに事態が運んでいないとわかった時点でワルドは何がしかの動きを見せるはずだ。

 彼自身、もしくは彼の作った遍在が、今夜宿を離れてデヴィルたちのアジトや襲撃予定地点を探るような動きを見せたなら、黒だと断定して間違いあるまい。

 

 ワルドが宿を出た直後に聞いた梟の鳴き声のような音は、ガデルが虚空に向けて放った『シグナル・アロー』によるものだったのだ。

 堅い岩から削り出された上に周辺を山に囲まれたこの街の中では、特に今のように空気が澄んで雑音の少ない夜中には音は実に遠くまでよく響き、離れた場所にいるフーケやコルベールにも事態の進行を速やかに知らせてくれた。

 

「ええ。私もご一緒しますわ。こちらは、しばらくなら放っておいても大丈夫でしょうし……」

 

 まあ、私たちが行くまでもないだろうけどね。

 と、フーケは心の中で付け足した。

 

 彼女は、怪盗として世間を騒がせていた自分をあっさりと捕縛してみせた亜人の少年の姿を思い浮かべていた。

 あの子は自分のゴーレムに潰された上に土の下に生き埋めになったにも関わらず、いつの間にかそこから脱出していてこちらの背後を取ってみせたのである。

 魔法衛士様だかなんだか知らないが、ろくな警戒もせずに地下室に閉じ込められてしまうような間抜けの敵う相手でないのは確かだ。

 

 それから、思い出したようにディーキンから渡されたマジックアイテムを取りだし、彼に《送信(センディング)》の呪文で事態の成り行きを伝えておいた……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

(これは一体、どういうことなのだ!)

 

 いまだに事態を把握していないワルドは、宿の一室で事の成り行きに困惑していた。

 様々な憶測が脳裏をよぎる。

 

(まさか、あの連絡係どもが俺を裏切って罠にはめようとしているのか? いや、しかし……)

 

 そんなことをして、連中に何か得があるとも思われない。

 

 では、誰か敵にアジトが潰されでもしたのか。

 無きにしも非ずだが、しかし、一体なぜ、どうやって自分の遍在の不意を打ったのだ?

 

「……もう一度遍在を送ってみるか、それとも――」

 

 ワルドが思わずそう声に出して呟いたちょうどその時、こんこんと扉がノックされた。

 

「……なんだね?」

 

 思案の邪魔だとわずらわしく思いはしたが、同行者の誰かだとすれば返事をしないわけにもいくまい。

 続けて、今は忙しいので後にしてくれと言おうとしたその時、扉が開いた。

 

「アー、ちょっとお邪魔するの」

 

 ディーキンが扉の影からひょっこりと顔を出して、軽く会釈をするとてくてく部屋に入ってきた。

 その後ろから、タバサとキュルケも続く。

 

(許可も得ずに、下等な亜人や小娘どもが不作法な真似を……!)

 

 俺は今、取り込み中なのだ。

 ワルドは内心で悪態をつきながら、出ていくように注意しようと口を開きかけた。

 

 だが、そこで異様な気配に気が付く。

 

 一見すると3人ともそれほど普段と変わりがないのだが、雰囲気が……特に女性2人のそれが、張り詰めているように感じられるのだ。

 おまけにキュルケは普段は胸の間に収めている杖を手に持っていて、部屋に入るなりこっそりと扉に『ロック』をかけた上に、それが済んだ後でも杖をしまおうとしない。

 タバサは小さく杖を振って風の流れを操作し、部屋の外に音や声が漏れないようにしている。

 

「……なんだい。どうかしたのかね?」

 

 ワルドは、いかにも作り物めいた笑みを浮かべてそう尋ねた。

 

「それは、そちらがよくご存知じゃないかしら?」

 

 キュルケは今や少しの遠慮もなく、小馬鹿にしたような笑みを浮かべてそう言いながら、タバサと共に窓側にゆっくりと移動した。

 ディーキンは扉側に留まったままで、一歩前に進み出てじいっとワルドを見つめながら口を開いた。

 

「あんたはなんで、この街に麻薬を流してる人たちの住処を知ってたの?」

 

「なんのことかな?」

 

 とぼけてみせるワルドに構わず、ディーキンは言葉を続けた。

 

「ええとね。もう、麻薬を流してたところは潰したし、今夜の襲撃もないと思うの。それで……あんたは昔、ルイズの婚約者だったんでしょ? だから、できれば降参してほしいんだけど……」

 

「杖を渡して」

 

「大人しく諦めてくれれば、ルイズに免じて姫殿下に口添えしてさしあげますわよ?」

 

 3人からそう呼びかけられて、ワルドは朗らかに笑った。

 

「ははは……。いや、君らは何か、勘違いをしているらしいね――」

 

 そうとも、とんでもない勘違いだ。

 

 俺が貴様らのような女子供相手に降参するなどと、本気で思っているのか?

 確かに、まさか露見するなどとは思わなかった、どうやって探り出したのかは知らんが大したものだ。

 しかし、この街の無能で臆病な末端構成員どもを始末した程度で自分も追いつめたつもりなのなら、思い上がりも甚だしい。

 

(もっと穏便な手段で事を運んでやるつもりだったのが、予定が変わったというだけのことだ!)

 

 こうなればこの場で貴様らを皆殺しにし、ルイズを攫うまでのこと。

 この旅を通してルイズの心を自分に傾け、進んで協力するようにもっていくつもりだったが、どの道女を言いなりにする手段などいくらでもある。

 禁制の薬か水魔法でも使ってやればそれで済むのだ。

 

「いいとも。それで気が済むのなら、ぼくの杖はしばらく君らに預けておこう。大事にしてくれよ?」

 

 おどけたように手を広げてから、腰の剣杖を鞘ごと抜いて床に放る。

 タバサは速やかに『レビテーション』を使ってそれを回収しながら、ワルドに釘を刺した。

 

「ブーツにあるのも」

 

「はは、これは参ったな……」

 

 そこまで気付いていたとは、油断のならないことだ。

 だが……。

 

(それならこんな生温い降伏勧告などせずに、俺を不意打ちするべきだったな!)

 

 ワルドは屈みこんでブーツの杖を抜くふりをしながら足に力を込め、タバサの引き寄せた武器をディーキンが受け取ったその瞬間に、不意に横跳びに跳躍してソファーの影に滑り込んだ。

 

「……ウル・カーノっ!」

 

 キュルケが咄嗟に『ファイアー・ボール』を放ったが、『風』のメイジであるワルドの動きはさすがに素早い。

 間に合わず、火球はソファーに命中した。

 

「はっ!」

 

 ワルドが嘲りながら、ソファーの影でブーツから引き抜いた予備の杖を横薙ぎに振るう。

 

「オオ……」

 

「きゃあっ!?」

 

「……!」

 

 途端に『ウィンド・ブレイク』の烈風が巻き起こってキュルケを壁に叩きつけ、同時に火のついたソファーをはじめ、花瓶や彫刻など、室内の調度類が乱舞してディーキンらを襲った。

 タバサは風を操って仲間たちの身を守ったが、その間にワルドは杖を構えて距離を取り、すっかり戦闘の態勢を整えていた。

 

「さて、君らの慧眼に敬意を表して、こちらも本気を出そう。なぜ『風』の魔法が最強と呼ばれるのか、その所以をご教授しよう――」

 




シグナル・アロー(合図の矢):
 D&D第3版のサプリメント、『武器・装備ガイド』に記載の特殊な武器のひとつ。
マジックアイテムの類ではなく、射出すると鳥の鳴き声に似た音が出るように特別に設計された矢である。
エルフの弓師は、鷹の声、梟の声などの細かな音の差異により、異なる合図を密かに味方に伝えることができるようにこの矢を作るという。


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第百三話 Miscalculation

「まったく、レディをいきなり壁に叩きつけるだなんて……」

 

 キュルケは顔をしかめながら立ち上がったが、すぐに余裕に満ちた笑みを取り戻した。

 

 突風で壁に叩きつけられはしたが、所詮は態勢を整えるために高速詠唱で放たれた呪文であって敵を倒すことを目的にしたものではない。

 タバサが咄嗟に風を操って衝撃を和らげてくれたのもあって、大したダメージは受けなかったようだ。

 

「ルイズをたぶらかそうって割には女の扱いがなってませんわね、子爵殿?」

 

 そう揶揄されたワルドは、芝居がかった様子で手を広げながら唇をゆがめた。

 

「なに、ルイズのことは悪いようにはせんよ。何せ僕は、彼女と共に世界を手にするつもりなのだからね」

 

「……無理」

 

 タバサは冷たい目でワルドを見ながら頭を振った。

 

 この男は、おそらくルイズの『虚無』と、自分の力や才覚とをあてにしているのだろう。

 しかし、数千年前の伝説ひとつで一介の小国の衛視隊長が手に入れられるほど、世界とは安いものだろうか。

 少なくともタバサの感覚では、ほとんど妄想狂の域だとしか思われなかった。

 

「はは、無理などではないさ……。まあ、俗人の君らにはわかるまい」

 

 哀れむように彼女を見下して嗤うワルドの言葉を聞き流しながら、タバサは周囲の様子に素早く目を走らせて状況を確認した。

 戦いになった場合は主にディーキンがワルドと対峙し、自分たちは逃げられないように退路を断つという打ち合わせだったが、万が一の事態に備えておくに越したことはあるまい。

 

 ここは貴族向けの豪奢な宿の一室で、しかも大人数用の部屋だということもあって、広さにはかなりの余裕があった。

 これだけの広さがあればさほど空気も淀まず、大きく風魔法の力が落ちることはあるまい。

 まったく支障なく飛び回れるというほどではないが、『風』のメイジが得意とする機動力を生かした戦い方もそれなりにはできる。

 つまり、自分の力はそれほど制限されないが、それは相手のワルドの方も同様だということである。

 室内ゆえに可燃物が多く、『火』のメイジであるキュルケにとっては戦いにくいはずだ。

 ディーキンにしても、オルレアンの屋敷で見せた強力な炎のブレスはこんなところで吐くわけにはいくまい。

 ワルドを取り逃がさないために彼が黒だと確定した時点で直ちに踏み込んだわけだが、総合的に見て戦闘時の有利不利という点ではむしろこちらの方が不利益の大きい場所かもしれない。

 その程度のディスアドバンテージでディーキンが遅れを取りはしないだろうが、とはいえ相手にも相応の実力があるのは確かだし、何であれ油断は禁物なのだからひとまず頭の片隅に置いて用心はしておこう、と思った。

 

 そして、タバサがそんな分析を進めている間にも、ワルドは得々として話し続けている。

 

「……そちらこそ、3人がかりでなら僕に勝てるなどと言うのは甘い考えだよ。君らの命などどうでも良かったのだが、気付かれた以上は始末しておくしかないだろう?」

 

 この状況でも追い詰められているなどとは思ってもいないあたり、よほど自分の実力に自信があるらしい。

 

 惜しむらくは、この世に強者が自分しかいないかのように考えている視野の狭さであろうか。

 世界を手にするなどという大言を軽々しく口にできるのも、まだ見ぬ世界にも自分の想定以上の相手などいないと頭から決めつけているためか。

 

「特にお前は惜しいな、『ガンダールヴ』! 要らぬ詮索などしなければ、ルイズと一緒に長く飼ってやることもできたものを……」

 

「……ウーン?」

 

 ワルドから名指しされたディーキンは、首を傾げながら一歩前に進み出た。

 

「ええと、ちょっといい? 世界を手にするとかっていうのは、つまり……。あんたはやっぱり『レコン・キスタ』とかいうのの仲間ってことなんだよね?」

 

 最終的に戦いになるにしても、その前になるべく引き出せる情報は引き出しておきたい、と考えての質問だった。

 もちろんこの状況では話など無視して攻撃してくるかもしれないが、先程からキュルケやタバサとやり取りしていたあたりこの男は話好きというか自己顕示欲の強いタイプのようだから、応じてくれる可能性も無きにしも非ずだろう。

 

「そうとも、今さら言うまでもあるまい? いかにも僕は、アルビオンの貴族派『レコン・キスタ』の一員だ」

 

 案の定、ワルドは答えを返してくれた。

 さすがに警戒はしているようで杖を構えて相手側の動向に注意を払いながらだったが、こちらとしては今のところ話を続けて隙を突こうという狙いではない。

 ワルドがいつ話を打ち切って仕掛けてくるかもしれないので、こちらも不意打ちには気を付けておこう。

 

「要するに、大それた夢を見てご自分の国を捨てた反乱者ね」

 

 キュルケの皮肉めいた物言いを、ワルドは鼻で笑った。

 

「反乱だなどと近視眼的な見方はやめてもらおう。そも、始祖の時代の栄光を取り戻す気概すらない堕落した今の王族どもこそが始祖に対する反逆者なのだ」

 

 ワルドのその言葉を聞いて、今度はキュルケが鼻を鳴らす番だった。

 

 始祖の時代だの栄光だのといかにもトリステイン貴族らしく気取ったことをおっしゃっているようだけど、やってることは要するにただ革命軍に便乗して利益をせしめようってだけじゃないの。

 しかもずっと放っておいた大昔の婚約者をいまさら頼って、騙くらかして利用することでのし上がろうだなんて、ご立派な志ですこと。

 

 そんな彼女の内心の侮蔑など意に介さず、ワルドは自分に酔ったように、半ば演説めいた解説を続けていた。

 

「我々はこのハルケギニアの将来を憂い、国境を越えてつながった貴族の連盟さ。腐敗した王族を取り除き、ハルケギニアを再びひとつにし、始祖ブリミルの光臨せし『聖地』を取り戻すために……!」

 

「アー、ちょっといい?」

 

 ディーキンが手を上げて、ワルドの物言いを遮った。

 

「……ふん、なんだね? 何か言いたい事でもあるのなら最後に聞いてやろうか、『ガンダールヴ』」

 

「ディーキンはその、ガンダールヴっていうのじゃないけど――」

 

 そう断ってから、言葉を選んで話し始める。

 

「ディーキンは、あんたのことはよく知らないよ。……でも、世界のことなら、たぶんあんたよりは知ってると思うの」

 

「ほう?」

 

 ワルドは嘲るように唇を歪めたが、それは事実なのだ。

 ディーキンはまだ若いが、それでも冒険者として既に様々な場所を、異なる次元界も含めて旅してきたのである。

 トリステイン国内からろくに出たこともないであろうワルドよりは、間違いなく広い世界を見ているはずだった。

 

「世界はものすごーく広くて、大きくて……、驚くようなことがいくつもあるの。あんたの手はディーキンよりは大きいかもしれないけど、世界はもっと、ずーっと大きいよ。それをみんな手の中に収めるだなんて、無理だと思うな」

 

「ふん、何を今さら……。言っただろう、俗人には僕のことはわからぬと。ましてや、賤しい亜人などにはな!」

 

「じゃあ、仮に手に入るとして、あんたはそれで何をしたいの?」

 

「……何?」

 

「だって、世界中のお金を手に入れてもそれを使い切る事なんてできないし、世界中の本を手に入れてもそれを読み尽くすことができないの。世界中の道を手に入れても歩き尽くせないし、世界中の料理を食べ切ることもできないし。世界中の人をお辞儀させても、一人一人に挨拶して回ることさえできないでしょ? なのに、何のために世界をぜんぶ手に入れる必要があるのかがディーキンにはよくわからないよ」

 

 ディーキンは心底不思議そうに、首を傾げながらそう言った。

 

 デーモンは世界のすべてを破壊したいと思っているし、デヴィルは世界のすべてを支配したいと思っている。

 いずれも完全な悪の存在であり、しかもそれを成し遂げ得るほどの力がある連中だ。

 しかし、人間には全世界など手に余るし、そもそも必要もないだろう。

 人間という種族が往々にして、世界のすべてが自分たちのためにあるかのように考えていることは否定できないが……。

 

「……」

 

「そんなことをするより、ディーキンの仲間にならない?」

 

「……何だと?」

 

「そうすれば、ディーキンは仲間になってくれたあんたの事を物語に書いて、歌にもしてあげる。かっこいいやつだよ」

 

 そういって、にっと笑って見せた。

 

「ディーキンはあちこちでその物語を歌って、本を配るの。あんたの名前を世界中の人が、この世界の外の人だってずーっと後の時代の人だって知ることになるの。ワルドって人はすごい英雄なんだ、ってね」

 

 偉大な英雄の名は、その英雄が死んだずっと後の時代でも、英雄が一生の間に出会ったよりも遥かに多くの人々から称えられ続ける。

 頭を押さえつけて他人を平伏させた者が本当に尊敬されることはないが、英雄の物語を聞いた人々は心からその英雄に憧れを抱いてくれるのだ。

 

「そっちの方が絶対に得なの、ディーキンは保証す、……オォッ!?」

 

 まだ話している途中にワルドが無言で杖を振り、風の刃を飛ばしてきた。

 ディーキンは、あわてて横に転がるようにしてその刃をかわす。

 

「……子供の戯言に付き合ったのが馬鹿だったな。僕の目的をお前が知る必要はないし、そのおめでたい頭では理解もできまい」

 

 ワルドが苛立ったように顔をしかめてそう吐き捨てた。

 余裕ぶって相手を見下すような態度が崩れたあたり、今のディーキンの言葉は彼の精神を逆撫でしてしまったようだ。

 

 そんな変化があったということは、まるで思うところがなかったわけでもないのだろうな、とタバサは思った。

 

 思えば、自分も以前ディーキンに決闘を挑んで精神的に打ちのめされるまでは、その言葉や態度に折に触れて身勝手な苛立ちを感じていたものだった。

 過酷な環境で鍛え抜いた自分の力に絶対の自信があって、彼の存在や言動はそれを否定するもののように思えたから。

 そう考えると、目の前の男と少し前の自分には似た面もあるのかもしれない。

 別に親近感などは感じないし、不愉快かつ不本意なことではあったが。

 この男は自分の大切な友人の信頼を平気で裏切って利用しようとする恥知らずであり、今また大切な恩人の好意に侮蔑と暴力とで答えた憎むべき敵でしかないのだ。

 

「……そうなの? 残念だけど、じゃあ、仕方ないかな……」

 

 顔をしかめて本当に残念そうにしているディーキンの姿を不快そうに睨んで、ワルドは頭を振った。

 

「話はもう終わりだ、貴様らを片付けて階下のルイズを連れていかせてもらおう!」

 

 きっぱりとそう言って杖を突きだし、呪文を唱え始める。

 

「ユビキタス・デル・ウィンデ……」

 

 タバサは、その呪文の正体にすぐに気が付いた。

 風系統の誇る奥義、『遍在』だ。

 詠唱を阻止しようとタバサとキュルケがすかさず風の刃や魔法の矢を繰り出したが、ワルドはそれらをまるで軽業師のようにひらりひらりとかわしながら、着実に呪文を完成させていく。

 

(阻止しきれない……!)

 

 タバサは歯噛みした。

 今は3対1の状況だが、作り出される遍在の数によってはこちらの方が数の上で不利になってしまう。

 

 ディーキンはしかし、その様子を冷静に窺いながら、自分も呪文を紡いでいた。

 

「《ジクマダー・アーケイニス・ジェンニルト》……」

 

 確かに、この男の<防御的発動>の技術は大したものだ。

 しかし、この世界の呪文については十分予習しておいたし、風の遍在を使われた場合の対処法も既に考えてあった。

 

(『ガンダールヴ』が、呪文だと? 先住魔法を使えたのか?)

 

 ワルドは困惑したが、詠唱を止めることはなかった。

 いかに先住魔法と言っても、愚かな亜人の子に使えるレベルならたかが知れていよう。

 我が『風』の系統を最強たらしめるこの奥義に対抗できるはずがない。

 

 そしてついに、ワルドの呪文が完成する。

 

 それと同時に彼の体はいきなり分身し始め、本体も含めて合計4体ものワルドがその場に出現した。

 ディーキン、キュルケ、タバサをそれぞれ相手取っても、まだ1体余る計算だ。

 これで負ける道理はないとワルドは唇を歪め、タバサとキュルケは思った以上の数の遍在が出現したことに若干の焦りを覚えた。

 

 しかしその直後に、ディーキンの呪文も完成した。

 

 部屋の中で不可視の魔力が炸裂し、4体のワルドたちをまとめて呑みこんだ。

 たちまち遍在の体を構成する魔法の糸がほつれ、ばらばらに解かれていく。

 一瞬後には3体の遍在はすべて元の風に戻り、涼風となって部屋を吹き抜けて消えていった。

 

 これこそがハルケギニアにおいては『虚無』に分類されるであろう呪文のひとつ、《上級魔法解呪(グレーター・ディスペル・マジック)》である。

 

「なっ!?」

 

 ただ一人残った本体のワルドが、驚愕に目を見開いた。

 彼は何が起こったのかもわからぬ間に遍在3体を掻き消されてしまい、それに注ぎ込んだ多大な精神力を失ったのである……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 ――……ピィ~~ッ……――

 

 

 

「あの音は……」

 

「む……」

 

 その頃、ラ・ロシェールの街中を『女神の杵』亭へと急ぎ足で向かうロングビルとコルベールは、その途中で鳥の鳴くような音が響くのを聞いていた。

 

 それは、見張りにあたってくれているガデルという傭兵からの合図だった。

 音の種類と聞こえてきた方向からすると、どうやら先程後にしてきたアジトの方に傭兵が向かっているらしい。

 おそらく、いつまでたっても連絡がないことに痺れを切らした傭兵たちが様子を見に動いたといったところだろうか。

 アジトの場所を知っているとすれば、敵の組織に直接仕えている精鋭とかなのかもしれない。

 

 2人は思わず顔を見合わせた。

 

 ワルドとかいう衛士隊長が学生たちに対して何をしでかすかは心配だが、かといってアジトの方に向かった傭兵を無視すれば、せっかく閉じ込めた遍在を解放されてしまう危険がある。

 そうなれば、事の次第を聞いた傭兵たちが遍在と組んで何をしでかすかわかったものではない。

 

「……無視するわけには参りませんわ。私が戻って様子を見てまいりますから、ミスタ・コルベールは先に生徒たちの元へ行っていてくださいな」

 

「ミス・ロングビル! しかし、あなただけでは……!」

 

「大丈夫です。様子を見て厳しそうなら、私一人で無理はいたしませんわ。それに、これを借りていますから、むしろ一人の方が上手くやれるかと……」

 

 ロングビルは、ディーキンから借りた不可視化の魔力を持つ指輪を示して微笑んでみせた。

 

 

 しばらくの後、狡猾な傭兵が相手では危険過ぎると言って渋るコルベールを説き伏せて、ロングビルはアジトの方へと引き返した。

 

(ただの教師じゃあないようだけどね……。あんたみたいなハゲ親父にいちいち心配してもらうほど、この『土くれ』のフーケも落ちぶれちゃいないさ!)

 

 心の中でそう言ってほくそ笑む彼女は、既にかつての怪盗の顔に戻っていた。

 

 敵の傭兵たちは、まだ来てはいないようだ。

 フーケは指輪の魔力を起動した後、念のためにアジトの傍にある別の建物の柱の影へ隠れた。

 今宵はスヴェルの月夜で明るいが、『暗視』の呪文も一応使っておく。

 

 優秀な『土』のメイジである彼女には、傭兵たちが姿を現す前に地面の振動で彼らの接近してくることがわかっていた。

 その数は、十名弱……。

 中にメイジが含まれているとしても、不意打ちをかければ仕留められない数ではないはずだ。

 

 ややあって、危険な雰囲気をまとった男たちの一団が姿を現した。

 

 全員がひどく汚れた革製のコートを身にまとっており、周囲を圧する剣呑な雰囲気を発している。

 おそらくはコートの下に各々の獲物を隠し持っているのだろう。

 歴戦の傭兵団、と言った感じだった。

 

 特に、先頭を歩むリーダーらしき男が目を引いた。

 

 それは筋骨隆々とした体格と、顔の左半分を覆う火傷の跡が特徴的な男だった。

 白髪で、顔立ちからすれば歳は四十ほどかと見えるが、鍛えぬかれた肉体は年齢を感じさせない。

 腰に鉄の杖を下げているところからすると、この男はメイジらしい。

 その杖がまた飾り気も何もない鉄製の杭のような武骨な代物で、おまけに気泡だらけで表面があばたのようになったひどい出来のものだったが、何か禍々しい雰囲気を放っていた。

 

(こいつだけじゃなく、もしかしたら全員がメイジなのかも知れないね……)

 

 だとしたら厄介なことになったと、フーケは顔をしかめた。

 仕掛けるには危険過ぎる。

 かといって放っておけば、傭兵メイジの一団はわけもなく地下に閉じ込めた遍在を解放してしまうだろう。

 

(いっそ、こいつらが全員中に入ったのを見届けてから岩ゴーレムで建物ごとぶっ潰してやろうか?)

 

 フーケが柱の陰に隠れたままそう思案していると、突然先頭の男が彼女の方を向いた。

 

 彼女は咄嗟に息を殺して体を堅くし、完全に身動きを止めた。

 透明化していても、微かな気配を感じ取るくらいのことはあり得るだろう。

 優秀な『土』のメイジは地面の振動を敏感に感じるし、『風』のメイジならば空気の流れで周囲の様子をおおまかに把握できる。

 実際、先刻地下に閉じ込めた遍在も一度は彼女の気配に気が付いたと見えて足を止め、振り返った。

 

(なあに、このままじっとしてれば、さっきの遍在と同じで気のせいだったかと思うはずさ!)

 

 それに最悪気取られても、すぐさま逃げだせば姿が見えず、正確な位置のわからない相手を追うことはできまい。

 フーケはそう考えたが、次の瞬間あることに気が付いてぎょっとした。

 自分の方を向いた男の眼球が、完全に白濁していることに。

 

「これはこれは、なんとも焼き甲斐のありそうないい女だな。それで隠れているつもりか?」

 

 男はいやらしく唇を歪めると、嘲るような声を上げて杖を引き抜いた……。

 




ディスペル・マジック
Dispel Magic /魔法解呪
系統:防御術; 3レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:中距離(100フィート+1術者レベル毎に10フィート)
持続時間:瞬間
 術者はこの呪文によって現在継続中の他の呪文を終了させたり、魔法のアイテムの魔法能力を一時的に抑止したりできる。
術者はディスペル・マジックを1つの目標だけに対して使うことも、半径20フィート以内の空間にあるすべてのものに対して作用させることもできる。
また、他の呪文の使い手の呪文に合わせて放つことで、その呪文を相殺しようとすることもできる。
 作中でディーキンが使用した《上級魔法解呪(グレーター・ディスペル・マジック)》はこの呪文の上位版で解呪判定の達成上限値がより高く、また呪いなどの類も解呪することができる。


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第百四話 You don't know, Wardes

「……ガ、『ガンダールヴ』! 貴様、一体何をした!?」

 

 狼狽と怒りで顔を歪めるワルドに対して、ディーキンは小さく肩をすくめた。

 この男はいつも、戦っている相手に今使った技が何か教えてくれなどと頼んでいるのだろうか?

 

 しかしながら、実際のところそれについては少々悩ましい問題があることにディーキンは気が付いていた。

 敵だから教える必要はないと突っぱねるのも、完全にだんまりを決め込むのも簡単なことだが、それが最善の選択かは微妙なのである。

 

 ルイズが『虚無』であることに自力で辿り着いたのだとすれば、この男の洞察力には侮れないものがあるはずだ。

 そして、先程使った呪文はまさにその『虚無』に分類されるであろう代物なのである。

 何も教えずにおいて、下手に勘ぐられるのは避けたかった。

 

 かといって、教えることもまた避けたい理由がある。

 普段なら軽く説明するくらい別に構わないのだが、その内容が後でデヴィルにも伝わる可能性を考えれば、ここは些細な情報であっても漏らさずにおきたい。

 

 ディーキンとしては、できればワルドを殺さずに捕らえたかった。

 ルイズのこともあるし、情報を後でもう少し聞き出すこともできるかもしれない。何よりも、生きていればフーケの時のように改心を勧めることもできるのだから。

 しかし生かしておくと言うことは必然的に後日逃走されるかもしれないという危険を犯すことでもあるし、ワルドがデヴィルとどの程度深く関わった人物なのかにもよるが、脱走の手引きをする者、ないしは暗殺者が送られてくる可能性も否定できない。

 だから、どう転ぶかわからない今の段階ではあまり知られてまずい情報を与えたくはないのだ。

 

 教えるべきか、教えざるべきか。

 

 先程ディスペルを使わなければそんなことを悩まなくても済んだのだが、『遍在』は間違いなく厄介な呪文で、即座に消し去っておかないと面倒なことになりかねないためにやむを得なかったのである。

 まず普通にワルドを倒し、それから《記憶修正(モディファイ・メモリー)》でディスペルの呪文を見た記憶を消して偽の記憶と差し替えておくという方法も考えてみた。

 それで概ね問題はないと思うのだが、後々呪文が解呪される危険もゼロではない。

 万が一そうなれば、わざわざ記憶を消すような真似をしたことによって逆にそこに何か重要な秘密があるのだと教えてしまう結果になる。

 

(ここは、あの人が誤解するように話をもってくのがいいかな?)

 

 そう考えをまとめたディーキンは、ものは試しとひとつ即興の芝居を打ってみることにした。

 バードとしても、その方がやりがいがあるというものである。

 仮に失敗しても後から《記憶修正》をかけることはできるのだし、上手くいけば両方の手段を併用することによってより盤石に秘密を保つことができるだろう。

 

「おほん……」

 

 ディーキンは勿体ぶった様子で咳払いをすると、普段とはまったく違う重々しい口調で話し始めた。

 

「……子爵よ。いかに君の『風』の腕前が優れていようとも、所詮は一介の人間の業だ。大いなる精霊にとっては、それを鎮めるなど造作も無いことだとは思わぬか?」

 

 遍在3体をかき消した未知の呪文に驚いていたところに、この突然の態度の変化である。

 キュルケとタバサもいささかきょとんとしていた。

 

 当のワルドはといえば、顔をしかめてディーキンを睨みつけている。

 

「精霊だと? 貴様ごときが……!」

 

 こんなトカゲもどきの低級な亜人の子供が、そんな高度な先住魔法を扱えるというのか?

 そうした疑念のこもったワルドの視線に対して、ディーキンは黙って頭を振った。

 

「低級な亜人の子供ごときがと、そう思っているのか? 君にとっては、目に見えるものがすべてなのか? ……ならば、見せてやろう」

 

 そう言いながら、今は小型サイズ用のロングソードの形態をとっているエンセリックをゆっくりと鞘から抜いて、ワルドの方に向ける。

 

「……おのれ!」

 

 ディーキンのその言葉を侮蔑と捉えたワルドは、屈辱に顔をかっと赤らめながら次の呪文を唱え始めた。

 切り札の遍在が通じなかったにもかかわらず、降伏するという選択はまるで頭にないようだ。

 あまりにも自分に自信がありすぎて事ここに至ってもなお勝機が無くなったことを認められないのか、あるいはそんなみっともない真似をすることはプライドが許さないのだろうか。

 

 いや、先程の降伏の勧めを手酷く蹴ってしまっている以上、今さら投降したところで助けてもらえるわけがないと考えているのかもしれない。

 確かに捕縛されてトリステイン本国へ送られたところで、誰か取りなしてくれる者でもいない限りはいずれすべての地位と名誉と財産を剥ぎ取られた上での死罪となることはまず間違いないだろう。

 それならば、戦って切り抜けられることに賭けたほうがましだと判断したとしても無理はない。

 

 実際には、少なくともディーキンとしては、事ここに至ってもまだワルドの降伏を受け入れるのにやぶさかではなかった。

 彼に本当に投降する気があるのなら、命を助けるために力を尽くして弁護してやるつもりである。

 だが、今一度口に出してそうするように勧めるということはしなかった。

 この状況でそんな提案をして向こうが受け入れたとしても、それは実質的には降参しないと殺すぞと脅して従わせたようなものだ。

 自ら心を改めてくれたのならともかく、強要して口先だけの降伏などをさせることに意味はない。

 人が本当に改心するのには相応の時間がかかるものだ。

 

 ワルドが得意の高速詠唱で瞬く間に呪文を完成させると、杖が青白く輝いて細かく振動し始める。

 

 使ったのは『エア・ニードル』と呼ばれる、渦巻く風の刃を杖にまとわせる呪文だった。

 偵察に用いたものも合わせて4体もの遍在を同時に使用したために相当量の精神力を空費してしまったので、今後のことも考えれば攻撃呪文を無闇に連発するわけにはいかないのだ。

 それゆえ近接戦の技量では遅れを取ることは承知の上で、あえて少ない消耗で長く使い続けられる武器強化の呪文を選択したのであろう。

 

「我が『風』は鉄をも断つ! なまくらな剣などで受けることはできぬぞ!」

 

 ワルドの言葉は、決して虚勢ではない。この風の刃は、ごく平凡な作りの剣ならば打ち合わせてそのまま断ち切れるほどの切れ味をもっている。

 迂闊に斬り結ぶこともできぬその威力でもって、彼我の技量の差を埋め合わせようというのだった。

 

 ディーキンはワルドのその言葉を聞いても特に脅威には感じなかったが、ああなるほど、と得心していた。

 

 今朝の手合わせで、彼は表皮の硬い相手や重厚な防具をまとった相手にはろくに効果がなさそうな軽い突きを牽制に使っていた。

 その時は単純にメイジゆえに近接戦の経験が不足しているのだろうと考えていたが、今思えば実戦ではあのような武器強化の呪文を用いるからというのもあるのだろう。

 確かに鉄でも切れるほど鋭い風の刃をまとった杖なら、ごく軽い突きであっても大抵の敵には打撃を通せるはずだ。

 

「私をなまくら呼ばわりとは、聞き捨てなりませんね?」

 

 それまで静かにしていたエンセリックが、抗議の声を上げる。

 

「ここはひとつ、そうではないことをあの男にわからせてやってくれませんかね? コ、……ああ、失礼。ええと――」

 

 いつものようにコボルド君と呼ぼうとして、言い直した。

 

「――偉大なる“鱗をもつ歌い手”殿?」

 

 なにやら芝居がかった真似をしようとしているのを察して、エンセリックなりにそれに合わせてやろうと思ったらしい。

 

「言われずとも。“聡明なりし”エンセリック殿」

 

 ディーキンは、彼を仰々しく胸の前に構えて軽く一礼しながらそれに答えた。

 まるで、貴族が決闘をするときのような作法である。

 一体彼は何をやろうとしているのだろうかと、キュルケとタバサは思わず顔を見合わせた。

 

(インテリジェンスソードか……!)

 

 珍しい代物だったが、そのことは今は関係ない。

 問題なのは、それが明らかに魔法のかかった武器であるということだ。

 自分の『エア・ニードル』の刃をも受けることができる強度があるとすれば、接近戦での勝ち目は薄くなるだろう。

 

 しかし、今さらそんなことを言ってみたところでどうにもならないし、ましてや敵はただの亜人の子ではないようなことをほのめかしてさえいるのだ。

 その真偽のほどは不明だが、少なくとも自分の遍在を容易く消滅させてみせたのは事実である。

 たとえ精神力が不足していなくとも、距離を置いて敵に呪文を詠唱する余裕を与えてしまう戦い方ではますます勝ち目が薄くなるかもしれない。

 

 ここは敵に呪文を使う隙を与えぬよう間合いを詰めて斬り合いながら、隙を見て至近距離から呪文を叩き込んでやるしかあるまい。

 とにかくこいつを片付けることだ、そうすれば残りの2人は所詮は学生メイジ、余力で始末できるだろう。

 最悪精神力が残っていなかったとしても、杖一本ででも突き殺してみせる。

 

(やられはせん! 俺はこんなつまらぬところで、貴様らごときにやられはせんぞ!)

 

 ワルドはもちろん一礼したりなどはせず、風の刃をまとった杖を構えて真っ直ぐにディーキンに躍りかかっていった。

 反撃の隙を与えまいと、素早い突きを連続して繰り出す。

 

 ディーキンはそれらの突きをあるものはかわし、あるものはエンセリックで受け流し、あるいは自分からも軽く剣を突き出して牽制することで、余裕を持っていなしていった。

 もちろん、受け流す際に鋭い風をまとったワルドの杖と触れても、アダマンティン製の上に高レベルの強化が施されているエンセリックはその程度のことで傷んだりはしない。

 

(く……、やはり接近戦では敵わぬか。しかし……!)

 

 杖による攻撃は、敵を仕留められずとも反撃を押さえ込めさえすれば上等だ。

 本命はあくまでも高速詠唱を用いた近距離からの呪文攻撃である。

 

 そう考えてディーキンの反撃に、特に鞭が飛んでこないかなどに注意を払いながら呪文を使うタイミングを見計らっていたワルドは、ふと妙なことに気が付いた。

 

 ディーキンの動作、体捌きや剣の動きには、斬り合うためのものではないある種の規則性を持った動きが混じっている。

 その口元は小さく動き、密かに何かの言葉を紡いでいる。

 

「《サーク・シア・アードン》……」

 

(な……!?)

 

 ワルドは目を見開いた。

 トリステインの魔法衛士隊で教えているものとは型は異なっているが、それは間違いなく詠唱時の隙を消すための実戦的な詠唱技法であるに違いなかったからだ。

 こんな亜人が、まさかこれほど洗練された高度な詠唱技術まで有していようとは……。

 

(……いっ、いかん!)

 

 このままでは、完成した呪文を至近距離から叩き込まれるのはこちらの方になってしまう。

 ワルドは咄嗟に飛び退くと、高速詠唱で瞬時に『ウインド・ブレイク』を完成させ、横薙ぎに杖を振るって解き放った。

 敵の詠唱を阻止しつつ、あわよくば体勢を崩させて隙を作る狙いだった。

 

 しかし、ディーキンの呪文はそれよりも一瞬早く完成していた。

 

 呪文が完成するや、ディーキンの体は突然眩い輝きを放ち始め、みるみる大きく膨らんでいった。

 短詠唱で放たれた『ウインド・ブレイク』の突風には、大きく膨れ上がったその体を吹き飛ばせるほどの威力はない。

 風は障壁にぶつかったように押し返され、逆に術者であるワルド自身が吹き飛ばされそうになった。

 

「ぐぅっ……!?」

 

 思わず腕で顔を庇い、身を低くして踏み止まる。

 風が過ぎ去ってもう一度顔を上げた時、ワルドは目の前の光景に頭が真っ白になった。

 

 キュルケやタバサも概ね彼と同じようなもので、目を丸くしてディーキンの方を見つめている。

 彼の姿は、ほんの数秒足らずの間にとてつもない変化を遂げていた。

 

 それは、ワルドら3人がこれまで一度も見たことのない、しかし紛うことなきドラゴンの威容であった。

 大きさは大体シルフィードと同程度でドラゴンとしては小さく、この大きな部屋の中に収まるサイズである。

 しかしその姿は、身の丈20メイル近い最大級の火竜ですら到底及ばぬほどに、誇り高く威風堂々として見えた。

 

 全身は黄金色にきらめき、まるで金属製の彫像のよう。

 その体を覆う鱗はすべて完璧に整った形をしていて、まるで白熱したプラチナのように輝いている。

 眼前のワルドを冷たく見下ろす、その融けた金属のような美しい瞳もまた然り。

 

 これこそが、天上界にあってその身に光輝をまとう最も輝かしく高潔な竜族、レイディアント・ドラゴン(輝ける竜)の姿であった。

 

「――子爵よ。お前がその目で見たものを信じるのならば、今のこの姿を見るがいい。我が鱗は徳と高潔をあらわす白金の輝きに彩られ、この身は天上の光輝によって祝福されている」

 

 ゆっくりと口を開いたディーキンの声は……体がかくも完全に形を変えているのだから至極当然のことではあるが……これまでとはまったく変わっていた。

 低く静かに響き、しかし天雷のように鳴り渡る。

 深い威厳のある声だった。

 

「……だが、気性の荒さは竜族のままだ。お前は私の怒りに挑戦した、受けて立たねばなるまい。さあ、覚悟を決めて向かってくるがいい」

 

「い、韻竜か……」

 

 ワルドは目の前の竜の顔を呆然と見上げながら、ようやく絞り出したような声でそう呻いた。

 頭の中を、ぐるぐると思考が駆け巡る。

 

 まさか、ただの低級なトカゲだとばかり思っていた亜人の正体が韻竜だったとは。

 だが、それでこいつが妙に高度な知識や技術を持っていることも、高等な先住魔法を使いこなしたことも説明がつく。

 火竜にも風竜にも、ハルケギニアで知られている他のどの竜にも似ていないが、それはルイズが『虚無』の系統であるがゆえなのだろう。

 この姿といい、自分が手も足も出ないほどの力といい、竜族の中でも相当に高等な種族であるに違いない。

 大きさからするとまだ竜としては幼いようだが、亜人の姿の時の妙に子供じみた口調は偽装でないとすればそのためか……。

 

 彼は『目の前の相手の正体は韻竜である』という新情報を、すぐに事実として受け入れていた。

 

 それは、ディーキンの読み通りの展開だった。

 短い付き合いだが、この男が自分の実力に自信を持っていてとてもプライドが高いことや、自分たちのことをかなり見下していることは肌で感じられる。

 そんな低級な相手に負けたと思うよりも、最強を誇るドラゴンに負けたと思う方が受け入れやすいのは当然だろう。

 人はしばしば不快な真実よりも甘美な嘘を好み、分別が願望に打ち負かされればどんなに洞察力のある人間でも騙されやすくなるものだ。

 

「……せっかく話を合わせてあげたのに、私にその男の腸を突き刺す機会を与えてくれないとは。君も思ったより恩知らずですね……」

 

 変身の時に放り出したエンセリックが、足元でぶつぶつと恨めしげな文句を吐いていた。

 悪いことをしたかなとはディーキンも思ったが、しかし彼自身が“鱗をもつ歌い手”などといったものだから、それに該当してかつワルドが負けても納得しそうな対象としてはドラゴンしかなかったのである。

 そうでなければ、こちらで大変恐れられているらしいエルフになるとかの選択肢もないではなかったのだが。

 まあ、彼には後で謝っておくとして……。

 

「どうした、子爵。来ないのなら、こちらからいくぞ」

 

「はっ!?」

 

 ディーキンの声で我に返ったワルドは、あわてて杖を構え直すと素早く呪文を唱えて風の刃を放った。

 これほど巨体の相手には、さすがに近接戦では渡り合えない。

 

 しかし、ディーキンは自分の喉元に向かってきたその攻撃を無造作に腕で打ち払った。

 きらびやかな鱗には、傷ひとつついた様子もない。

 

「お前は、そのような貧弱な魔法で私を攻撃することを選んだのか? 今度は別の玩具を投じてみよ、死を免れぬ愚か者!」

 

「……ぐっ」

 

 冷たい罵声と共に横薙ぎに振るわれた爪の一撃を間一髪でかわしながら、ワルドは思わず歯噛みした。

 

 室内で、しかもこれだけ大きな相手と対峙していては、詠唱の長い呪文を安全に唱えられるだけの間合いは離すことができない。

 かといって残り少ない精神力で短詠唱で放てる程度の呪文では、最上の板金鎧よりも遥かに硬いドラゴンの鱗を突き通すことはできそうもない。

 つまり……、認めたくないことだが、もはや勝てないということだ。

 

「ちぃっ!」

 

 ワルドは悔しさに舌打ちすると、もはやこれまでと踵を返し、かくなる上はなんとか女学生2人を突破して窓から逃走しようとそちらの方へ注意を向けた。

 

 だが、今さらそんなことが出来ようはずもない。

 しばらくは事の成り行きに呆然としていた2人もとうに我に返っており、もはや打つ手のなくなったであろうワルドが逃走に切り替えた場合に備えていた。

 

 ワルドが窓へ向かって一歩踏み出すか出さないかのうちに、タバサの風の刃とキュルケの火球が彼を襲う。

 あわてて飛び退いて、かろうじてそれを避けたのも束の間のこと。

 背後から振るわれたディーキンの丸太のように太い尾の一撃がついにワルドの背を捉え、彼の意識をあっさりと刈り取った……。

 

 

 戦いが終わって、3人は手分けをして後始末にかかっていた。

 ワルドが当分目を覚まさないようにした上で縛り上げておいたり、宿側に適当な理由をでっち上げて破損した備品などの弁償をしたり。

 

 当然、タバサやキュルケの興味はディーキンが先程使った呪文に向いており、作業をしながらいろいろと質問をしたりもした。

 

「ディー君があんなに大きな竜にも変身できるなんて驚いたわ。……まさか、本当に韻竜ってわけじゃないんでしょ?」

 

「もちろん、ディーキンはディーキンだよ。あれは、最近勉強して覚えた《変身(ポリモーフ)》って呪文なの」

 

 ディーキンは、ちょっと得意そうに胸を張ってそう説明した。

 ドラゴンに一方ならず憧れるディーキンにとっては、この呪文を習得できたことはサブライム・コードの訓練を積んで一番良かったと思えたことのひとつだった。

 

「……『遍在』を消したのは?」

 

「あれはディスペルっていって、魔法を解除する呪文だよ」

 

「魔法を解除って……、すごいわね。それって無敵なんじゃないの?」

 

「そうでもないよ。消せない呪文っていうのもあるし、呪文でもう起きちゃったことまで元に戻るわけじゃないからね」

 

 話しながら、ディーキンは忘れずにワルドに《記憶修正》の呪文もかけておいた。

 この呪文で修正できるのは1回あたり5分までだが、先程の戦いは5分もかからなかったので、戦闘中に起きた出来事についてはすべて忘れさせて偽の記憶を擦り込んでおくことができる。

 とりあえず、普通に不意打ち気味に攻撃されて不覚を取ったということにでもしておけばいいだろう。

 万が一後々呪文が解呪されて記憶が戻るようなことがあっても、自分が絶滅したと思われている希少な韻竜であることを隠すために見たことを忘れさせたのだと思うはずだ。

 

 タバサは作業が概ね終わりに近づいてきたあたりで、なんとなく窓の外に注意を向けてみた。

 

 そういえば、ワルドの乗騎であるグリフォンがまだ残っていた。

 主の危機を察知して窓から飛び込んでくるような事もないとは言い切れないから、一応注意はしておくべきだろう。

 

 それに、外に出ている他の面子はどうしているだろうか。

 自分たち以外の同行者たち……ルイズ、シエスタ、ギーシュには、今夜傭兵たちの襲撃があるかも知れない旨を伝えて外の見回りに行ってもらっている。

 先に見張りを引き受けてくれているコルベールとロングビル、それに傭兵のガデルだけでは十分でないと思ったからというよりは、ワルドの件をルイズに知られてショックを受けさせたくなかったからだった。

 もちろん、いずれは知らせなくてはならなくなるだろうが……あるいは、最後まで知らせずにワルドは戦死したとでも伝えておく方が親切なのだろうか。

 婚約者など持ったことのないタバサには、わかりかねることだった。

 

「……」

 

 ここから見えるはずもないが、彼女が今どのあたりにいるだろうかと何の気なしに街の方へ視線を向けてみたタバサは、そこで初めて異変に気が付いた。

 

(あれは……。まさか、燃えている?)

 

 遠くに見える街の一角が。

 すべて岩でできているはずの、ラ・ロシェールの建物が。

 夜の闇の中で、これまでに見たこともないような禍々しい白い炎を噴いて燃え上がっていた……。

 




モディファイ・メモリー
Modify Memory /記憶修正
系統:心術(強制)[精神作用]; 4レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:永続
 術者は対象の精神に入り込み、最大5分間分までその記憶を修正する。
体験した記憶の抹消や修正をしたり、細部まで完全に思い出させたり、実際には無かった偽の記憶を植え付けたりできる。
この呪文によって他の精神に作用する呪文の効果を無効化することはできない。
呪文の発動には1ラウンドかかり、その後対象の記憶のうち修正したいと望む記憶を視覚化するために更に修正したい記憶の時間量に等しい時間を費やす必要がある。
術者との友好的な出会いの偽記憶を植え付ける、上司から受けた命令の細部を変更する、目撃したことを忘れさせるなどがこの呪文の使用例である。
ただし修正した記憶が対象の性向に反していたり道理に合わなさすぎる場合、飲み過ぎたか悪夢でも見たのだろうなどと解釈して片づけられてしまうこともあり得る。
術者自身に対して使用し、解呪されない限り永遠に忘れないように記憶を焼き付けたり、不快な記憶を消去したりすることもできる。
 なお、この呪文はバード専用である。

ポリモーフ
Polymorph /変身
系統:変成術(ポリモーフ); 4レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(からっぽの繭)
距離:接触した、同意する生きているクリーチャー
持続時間:術者レベル毎に1分
 オルター・セルフと同様だが、術者は自分自身ないしは同意する対象を別の生きているクリーチャーの姿へと変える。
変身できるのは対象と同じ種別の生物か、異形、巨人、植物、人怪、動物、粘体、人型生物、フェイ、魔獣、蟲、竜のいずれかである。
この呪文で変身すると、対象はまるで一晩の間十分な休息を取ったかのように失ったヒット・ポイントを回復する。
また、対象は変身した生物の【筋力】【敏捷力】【耐久力】を得るが、自分自身の【知力】【判断力】【魅力】を保持する。
対象は変身後の姿が持つ変則的な攻撃能力(毒など)も得ることができるが、超常的な能力(疑似呪文能力、高速治癒など)を得ることはできない。

レイディアント・ドラゴン(輝ける竜):
 プレイナー・ドラゴン(次元竜)と呼ばれる、物質界以外の世界に住む真竜たちの一種族。天上の次元界に住まう秩序にして善の属性を持つドラゴンであり、その堂々たる姿は眩いまでの光を帯びて輝いている。彼らは際立った義しさと、悪を滅ぼすことへの専心ぶりで名高い。作中でディーキンがこのドラゴンに変身することを選択したのは、とにかく見た目が立派で、一目で偉大な存在だと感じさせるに足る十分な威厳のある姿をしているからだと思われる。


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第百五話 Pyromania

(くっ……! こうなりゃ、逃げるが勝ちだね!)

 

 目の前の男の異様な容貌と自分の存在が見抜かれたこととに一瞬度肝を抜かれたフーケだったが、さすがに場数を踏んでいるだけあって立ち直りは早かった。

 聴覚か嗅覚か、一体どんな感覚に頼っているのかは知らないが、視覚を持たない以上は透明化で騙せないのは当然だ。

 敵の中にまさかこんな男がいるとは思いもよらぬ不運だったが、こうなった以上は逃げるのみだと即座に決断し、杖を構えて呪文を詠唱し始めた。

 

 フーケは目の前の男たちと自分との間に『錬金』で石壁を立てて射線を遮り、その隙に走り去るつもりだった。

 距離を取る時間を数秒も稼げればそれで十分、ごく薄い壁で構わない。

 とにかく、敵の攻撃よりも早く作り出すことだ。

 

 彼女が壁を完成させるのと、目の前の男が無造作に振った鉄杭のような杖から炎が飛び出したのとは、ほぼ同時だった。

 

 どうにか間に合ったと、フーケはわずかに安堵した。

 見たこともないような奇妙で禍々しい白色の炎だったが、とにかく相手が火の使い手らしいのは不幸中の幸いだ。

 攻撃力に優れる火の系統だが、土系統の生成した鉱物や金属を焼き融かすには、炉で金属を加工するのと同じようにどうしてもある程度の時間がかかる……。

 

 そう思った直後に、またしても彼女の想定を超える出来事が目の前で起こった。

 

「……ひッ!?」

 

 薄いとはいえ強固な石製であるはずの壁が一瞬にして白い炎のうねりに飲まれ、まるで飴細工のように融けたのだ。

 フーケはこれまでに、これほどの威力を持つ炎を短時間の詠唱で繰り出せる者は見たことがなかった。

 火竜のブレスもかくやと思わせるほどの、恐ろしいまでの熱量である。

 

 冗談じゃない。

 まさか、こんな化け物が相手だとは。

 

 こうなればとにかく全力で逃げて距離を離すしかないと、フーケは踵を返して走り出した。

 

「おやおや、かくれんぼの次は鬼ごっこのお誘いか?」

 

 盲目のメイジ……『白炎』のメンヌヴィルと呼ばれる伝説的な傭兵……は、フーケの逃げていく方向をその見えぬ目で正確に追って、にやりと嘲笑った。

 

 並外れた『火』の使い手であるこの男は、温度に対して極めて優れた感覚を持っている。

 さすがに視覚に比べれば把握できる距離は短いものの、温度の変化によって敵の正確な位置を把握できるばかりか、個体の識別をすることもできるのだ。

 それどころか、ほんのわずかな体温の変化によって大まかな感情の動きを読み取ることさえ可能なのである。

 

「悪いが、生憎とこっちは目が悪いもんでよ。そういう遊びはしんどくてなあ――」

 

 メンヌヴィルがフーケの逃げていった方向を顎で示すと、側にいた別の傭兵が頷いてコートの中から杖を取りだし、そちらのほうへ向けて軽く振った。

 

「……っ!」

 

 たちまち強烈な突風が吹いて逃げ去ろうとするフーケの背を捉え、彼女を地面に転がす。

 メンヌヴィルは熱感知の有効範囲の外から弓矢などで攻撃された場合や、せっかくの獲物が自分の捕捉できない範囲に逃げていこうとした場合などに備えて、戦場では常にそうした問題を防ぐのが得手な他系統のメイジと共に行動しているのだった。

 その異常な性格のためにおよそ他人と上手くやっていくのが得意ではなく、またそうしたいと望んでもいないこの男が結構な人数の仲間を引き連れているのはそのためである。

 もちろん同行する仲間たちの方では、この伝説的とまで謳われた練達の傭兵と組んでいることで安全と名声と利益とがもたらされることを期待しているのだ。

 

 地面に転がされたフーケは、苦痛に顔を歪めながらも必死に杖を振って呪文を唱える。

 それに応じて、無数の石礫がメンヌヴィルらの足下から飛び出した。

 

「ぎゃあぁ!!」

 

 フーケを地面に転がしたことですっかり油断していた風メイジの傭兵は、全身を石礫に打たれて苦痛にうめきながら地面を転げまわった。

 

 しかし、地面が弾ける前のわずかな温度の変化で攻撃が来ることを察知していたメンヌヴィルは、石礫を受けるよりも早く手に持った武骨な鉄の杭を動かしていた。

 杖から白い炎が噴き出して彼の体を守るように包み、襲い掛かる石礫をすべて着弾する前に焼き尽くしてしまう。

 

「今度はおはじきか。可愛いもんだな」

 

 わめきながら地面を転げまわっている情けない部下には一瞥もくれることなく、嘲りながらフーケの方へ悠然と歩み寄っていく。

 

「……はっ、可愛いだって? こないだまで勤めてた職場のエロジジイを思い出すね……」

 

 フーケは追い詰められてはいたが、不敵に唇を歪めてみせた。

 そうしながら、右手に握った杖は動かさず、背後に回した左手でそっと隠し持った予備の杖を抜く。

 

 この転倒した状態から立ち上がって逃げようとしても、今さら間に合うものではない。

 もはや、逃れるには何とかして目の前の男を倒す以外になく、それには引きつけての不意打ちしかあるまい。

 

「エロジジイ? ははあ、尻でも触られてたのか?」

 

「まあ、そんなとこさ。……どうやら逃げられそうもないし、あんたも好色な口だってんなら、好きにしなよ」

 

 意気消沈したような、媚びるような口調でそう言うと、降参の意志を示すように右手の杖を相手の足元に転がした。

 そうしながら俯いて自然に口元を隠し、気取られぬよう密かに呪文を紡いでいく。

 

 さあ、馬鹿面を晒して近づいてこい。

 私にそのおぞましい手をかけようとした瞬間に、横合いから岩の拳で吹き飛ばして脳漿をぶちまけさせてやる。

 

「ははあ、そいつは魅力的なお誘いだな。かくれんぼだのおはじきだの、ガキのお遊戯よりもずっと楽しそうだ」

 

 狙った通り、盲目の傭兵はいやらしい笑みを浮かべながら近づいてくる。

 フーケは杖を握った左手にぐっと力を込めながらも、努めて目の前の男に対する嫌悪感を押し隠してタイミングを見計らった。

 

(あと2歩……、1歩――)

 

 今だ。

 

 メンヌヴィルと自分との距離があと2メイルも無くなった時、フーケは初めて行動に移った。

 左手に持った杖を素早く、すぐ横の建物を示すように振り、そこから岩の拳を生成して目の前の男を殴って吹き飛ばさせるつもりだった。

 

「はっ!」

 

 だが、フーケが杖を振るうよりも一瞬早く、メンヌヴィルが鼻で笑って彼女と同じ方向に杖を振った。

 杖の先から白い炎の奔流が噴き出して生成しかかった岩の拳に絡み付き、土台にあたる建物ごと融かして焼き始める。

 小さいとはいえ、本来可燃性ではないはずの岩づくりの建造物が、たちまち炎に包まれていった。

 

「……あ……、あ……?」

 

 建物があちらこちらから白い火を噴き出すのを、フーケは呆然と見つめるしかなかった。

 あの中に、住人はいたのだろうか。

 いたとしても、寝入っていて悲鳴を上げる間もなかったかも知れない。

 

「せっかく興が乗ってきたってのに、今さら人形遊びなんてつまらんことは止すんだな。お前の幼稚ないたずらの試みは、すべてお前自身の体温の変化が教えてくれたぞ」

 

 メンヌヴィルは傍らで炎上する建物の方を見向きもせずにそう吐き捨てると、その鉄の杭のような杖の先端で呆然としたままのフーケの左手の甲を突き刺した。

 

「あ、ぎ……っ!」

 

 突き刺された手の甲から血が噴き出し、激痛が走る。

 フーケは反射的に体を捩って逃れようとしたが、杭が左手をしっかりと押さえているために苦痛が増しただけだ。

 

 しかも、焼けつくような痛みとおぞましい寒気が突き刺された左手の甲から全身に広がり、体中の筋肉が軋んでいつもより身動きが鈍くなっているようだった。

 杖に毒などが塗られているようには見えなかったが、傷の痛みだけによるものとも思われない。

 

「こっちの、大人の遊びの方がずっといいだろう? こう見えても、俺は女をひいひい鳴かせるのは得意でなあ……」

 

 にたにたと笑いながら、メンヌヴィルは杖をそのままぐりぐりと捻る。

 

「ぎ、ぃ……、い……っ!」

 

 杖を持つ手を押さえられてしまっていては、さすがの彼女にも何もできない。

 フーケは苦痛に顔を歪め、身を震わせて痛みに呻いた。

 

「この感触も、そしてお前の鳴き声も、悪くはない。が……」

 

 メンヌヴィルは彼女の呻く声をまるで上等な音楽でも堪能するようにたっぷりと味わった後、フーケの杖を手の届かないところに蹴り転がしてから杭を引き抜いた。

 

「あくまで前菜だな。いよいよこれからが、本番のお愉しみといったところだ」

 

「う、ぅ……」

 

 なんとか身を起こして反撃するなり逃げ出すなりせねばとは思えど、傷の痛みと全身に回った毒素と思しきもののせいで、体がまるでいうことを聞かない。

 自分はこのまま、こんな男に汚されてしまうのか。

 フーケは地面に転がったまま、憎しみのこもった、しかし力のない視線をメンヌヴィルに向けた。

 

 しかし、そんな彼女の目に映ったのは……。

 自分の体に不躾に伸ばされる汚らしい男の腕ではなく、先端に白い炎の揺らめく鉄の杭だった。

 

「嗅ぎたい」

 

「え……?」

 

「お前の焼ける香りが、嗅ぎたい」

 

 フーケは目の前の男の顔を呆然と見つめ、そこにみなぎっているのがただの獣欲などではなく、異常な欲望と狂気であることに初めて気が付いた。

 生まれてこの方数えるほどしか感じたことのない純粋な恐怖の念が湧き起こり、全身が震える。

 

「い、いや……」

 

 地面に伏したまま、まるで少女のような呟きを漏らしながら必死に地面を這って後じさりしようとするフーケの姿をその見えぬ目で見て、メンヌヴィルはたまらぬと言うように一層狂気じみた笑みを浮かべた。

 

「お前の恐怖が手に取るようにわかるぞ。今お前を焼けば、その香りは極上の恍惚と絶頂感をもたらしてくれることだろうな!」

 

 メンヌヴィルの連れの傭兵たちは、その様子を後ろから見物しながらにやにやと笑っていた。

 

 既に透明化の効果は切れ、フーケの姿は彼らにも見えている。

 こんないい女を存分に味わいもせずにただ殺してしまうのは勿体ないとは思うのだが、この異常な嗜好のパイロマニアは男が手を出した後の女は香りが落ちるといって自分の気にいった獲物への手出しを禁じているのだ。

 そのあたりはいささか不満ではあったが、この傭兵にくっついていけば戦場でくいっぱぐれる心配はない。

 それに、手出し厳禁なのは残念だが、見世物としてはなかなか面白いのも確かだった。

 

 メンヌヴィルの杖の先から炎が噴き上がり、自分を包み込まんとして向かってくる。

 フーケは、観念してぎゅっと目を瞑った。

 

(ごめんよ、テファ……)

 

 しかし次の瞬間、メンヌヴィルの炎は突如割り込んできた別の炎によって押し戻され、霧散していった。

 いつまでたっても最期が訪れないことにようやく気が付いたフーケが、恐る恐る目を開けると……。

 

「……ミ、ミスタ?」

 

 目の前には、杖を構えて自分を庇うように立つコルベールの姿があった。

 彼は生徒たちを助けに、酒場に向かったはずなのに……。

 

「彼女から離れろ、狼藉者」

 

 硬い表情のまま、コルベールは呟いた。

 

 その直後、新たな敵の出現に気付き、杖を抜いて加勢に向かおうとしたメンヌヴィルの部下たちは、突如別方向から襲ってきた攻撃に不意打ちを食らってうろたえた。

 呪文らしき爆発、クロスボウの矢、それに、青銅の投槍……。

 

「ミス・ロングビル! 大丈夫ですか?」

 

 駆けつけて傭兵たちと交戦を始めた一団は、ルイズ、シエスタ、それにギーシュだった。

 

 彼女らは街中を見回っている最中に、コルベールとばったり出会ったのである。

 日中に麻薬を流している組織のアジトを見つけたこと、援軍としてロングビルとコルベールにやってきてもらったことは、既にディーキンらからかいつまんで聞かされていた。

 立ち話をしていた時に建物が白い炎を噴き上げる様子が目に入り、これは一大事だとこうして全員で駆けつけてきた、というわけだ。

 

 一方、コルベールと対峙したメンヌヴィルは、何かに気が付いたようにはっと目を見開いた。

 背後で始まった乱闘のことなど、比喩的な意味でも文字通りの意味でも、まるで眼中にないようだった。

 

「お前は……! おお、お前は、お前は!」

 

 メンヌヴィルは歓喜に顔を輝かせて、別人のごとくはしゃぎだした。

 

「捜し求めた温度ではないか! お前は、お前はコルベールだ、そうだろう? 懐かしい、あのコルベールの声ではないか!」

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「あれは……、誰かが戦ってる?」

 

 タバサに促されて街の方を見たキュルケは、目を丸くした。

 

 街の一角で次々に禍々しい白い炎が噴き上がり、鮮やかな赤い炎が踊っている。

 白い炎などこれまでに見たことがない。

 そしてもう一方の赤い炎、あれほど見事な火は自分にも扱えまい。

 

「一体、誰が……?」

 

「わからない。でも、街には今、ルイズたちもいるはず」

 

 タバサはそう言うと、すぐに様子を見に行くべきだと提案しようとしてディーキンの方を見た。

 そして、彼の様子がおかしいことに気が付く。

 

「……あれは……」

 

 ディーキンは遠くで踊る炎を、いつになく厳しい目でじっと見つめていた。

 ややあって、キュルケとタバサの方に向き直る。

 

「悪いけど、ディーキンはあそこに行かなきゃならないの。誰か、ワルドさんを見張ってて!」

 

 そう言って、返事も待たずに窓から飛び出し、真っ直ぐにそちらの方へ向かって行った。

 

 ディーキンには、街中で踊る炎の正体に心当たりがあった。

 正確には、白い方の炎の正体に。

 なぜならその炎を、以前にも見たことがあったから。

 

 それはあらゆる世界で最も熱い炎よりもなお熱く、白熱光を発して燃え、最も硬い物質でさえ焼き尽くすことができる炎。

 溶鋼を素手で取り扱い、マグマのプールを楽しむサラマンダーやファイア・エレメンタルなどの火の元素界の生物でさえ、その炎には耐えられない。

 それどころか、多元宇宙で一般に知られているいかなる生物であっても抵抗することはできないのだという。

 

 炎にして炎ならざる、九層地獄バートルの底から生み出された不浄のエネルギー。

 “地獄の業火”が、その正体である。

 




ゲヘナ産モルグス鉄:
 永遠に荒涼たる苦界ゲヘナの険しい山々においてのみ産出するという火山性の鉱物。現地に住むユーゴロスと呼ばれるフィーンドがしばしば採掘する。鍛造に適しておらず、これを用いて作られた武器は表面が気泡だらけであばたのようになり、普通の鋼で作られた武器より切れ味が鈍く強度も脆くなってしまう。しかしながらモルグス鉄には血液中に急激に溶け込む猛毒が含まれているため、これで作られた武器には天然の毒性が備わる。作中でメンヌヴィルが持っている杖は、この金属でできている。

地獄の業火(ヘルファイアー):
 かつてディーキンやボスが戦ったアークデヴィル・メフィストフェレスが作り出した、極めて熱い地獄のエネルギー。普通の火には完全耐性がある生物であってもこのエネルギーには抵抗できず、火の精霊ですら焼かれてしまう。白熱光を放って燃えるのが特徴。


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第百六話 Hellfire Halkeginia Mage

 普段の温厚で気弱そうな様子とはまったく違う、何か得体の知れぬ凄絶な気配を発して目の前の相手をにらみつけるコルベール。

 目が見えぬとはいえ、そんな敵と対峙して怯えるどころか、感極まったように手を広げて喜びを表すメンヌヴィル。

 

 2人のただならぬ様子に思わず戦いの手を止めて何事かと聞き入る皆の前で、メンヌヴィルは狂笑しながら滔々と語り始めた。

 自分とコルベールとが二十年前、下級貴族から成る汚れ仕事を行う特殊部隊、“魔法研究所実験小隊”に所属していたこと。

 コルベールは同部隊の隊長であり、『炎蛇』と呼ばれた強靱にして無情な炎の使い手であったこと。

 疫病の広まった村を焼けという任務を受けたとき、老人や女子供でも容赦なく焼き殺していくその姿を見てすっかり彼に惚れ込み、彼のようになりたいと思ったこと……。

 

「実はあのダングルテールとかって村は、疫病でも何でもなかったらしいがな。ロマリアの要請を受けてそこに潜伏した新教徒を狩り出さなきゃならなくなったんで、そのための口実だったとか……。はははは、まったく傑作だ!」

 

 コルベールの後ろでうずくまったままのフーケは、あまりに意外な話にただ呆然として彼の背中を見上げていた。

 自分もいろいろと紆余曲折のあった身だが、まさか妙な研究に熱を上げるばかりの昼行灯だと思っていたこの中年教師に、そんな凄絶な過去があったとは。

 ギーシュやシエスタもどう反応していいのかわからず、ただ困惑して顔を見合わせた。

 ルイズにとっては、特に衝撃の大きな話だったようだ。

 昔のこととはいえ、自分が忠実に仕える母国がまさかそんな非道なことを、それも現在では実の姉のエレオノールが所属している魔法研究所(アカデミー)で行っていたなんて……。

 

「隊長殿が本当に俺が惚れ込むだけの器か確かめてやりたくてなあ! だから俺はあの時貴様を襲って、その結果がこれだった。ずっと礼が言いたかったんだ! ようやく見つかったよ、こんなに嬉しいことはないぞ!」

 

 焼けただれて白濁した自分の両目を示しながら、狂喜してわめき続けるメンヌヴィル。

 

 対峙するコルベールの顔は、そんな話を聞くうちにますます暗い影に覆われていった。

 しかし、彼が単に過去のことを思い出して落ち込んでいるのではないことは、離れた場所から彼の様子を窺うルイズらにも感じ取れた。

 今の彼は、何か……説明し難い恐ろしい気配、いわば鬼気とでも言うようなものを発しているのだ。

 

 コルベールは突然、無造作に杖を横に向けた。

 その先端から巨大な炎の蛇が躍り出て、この隙に不意打ちを仕掛けてやろうと密かに仲間の影で呪文を紡いでいた一人の傭兵メイジの杖にかぶりついた。

 一瞬にして杖を燃やし尽くされたその傭兵が、熱さに悲鳴を上げる。

 はっと我に返ったルイズがそいつの足下に素早く小規模な爆発を起こして追い打ちをかけ、吹き飛ばして昏倒させた。

 

「なあ、ミス・ヴァリエール」

 

 コルベールは笑みを浮かべて、ルイズの方に顔を向けた。

 その二つ名である蛇を思わせるような、感情のない冷たい笑みだった。

 だが、かみ締めた唇の端からは炎のような血が流れて、その顎を赤く彩っている。

 それはぞっとするような姿だと言えたが、ルイズは不思議と彼のことを恐ろしいとは感じなかった。

 

「君は、学業優秀な生徒だったね。ひとつ『火』の系統の特徴を、このわたしに開帳してくれないかね?」

 

 ルイズは困惑しながらも、半ば反射的に答えた。

 

「……は、はい。情熱と破壊が『火』系統の本領であると、よく言われています」

 

「うむ……。情熱はともかくとしても、『火』が司るものが破壊だけでは寂しいと……私は二十年間、ずっとそう思ってきた」

 

 コルベールは、少しだけいつもの穏やかな顔に戻って頷いた。

 

「……だが、君の言うことが真実だろう」

 

「ミスタ……」

 

 その寂しげな声にルイズは、またギーシュやシエスタも、そしてフーケも、胸が締め付けられるような思いがした。

 

 彼はおそらく、過去の行いについてずっと苦悩してきたのだろう。

 これまでにもたびたび、彼が授業中に『火』を使った妙な発明品を嬉しそうに披露するのを見た。

 ほとんどの生徒は退屈な思いでそれを聞いて、役にも立たない趣味にばかり熱中する変わり者でうだつの上がらない教師だと内心で小馬鹿にしていた。

 ディーキンだけは、まるでノームの発明品のようで素敵だとか言って、彼の研究室にも顔を出して話をしたりしていたようだったが……。

 今にして思えば、破壊や殺戮ではない『火』の使い方を見つけることこそが、彼の贖罪だったのだろうか。

 

 そんな彼女らの思いをよそに、メンヌヴィルはより一層おかしそうに嗤いだした。

 

「なんだ? 隊長殿は今は教師なのか! うわははは、ははははは……ッ!!」

 

 コルベールの苦悩など、二十年前から白く濁ったきりの彼の瞳には映ってはいない。

 彼が見ているのは、その心の中にある過去のコルベールの姿。

 かつて憧れ、そして挑んで敗れ去った、冷血な『炎蛇』の姿だけだった。

 

「これ以上おかしいことはないなあ、おい? 一体貴様が何を教えるのだ、殺しのやり方か? そりゃあいい、お行儀のいい貴族の作法などよりもよっぽど役に立つことだろうな! お堅いトリステインの教育も、最近はなかなか実用的でリベラルになったと見える!」

 

 愉快そうにまくしたてるメンヌヴィルの言葉が届いているのかいないのか、コルベールはまた元の感情のない暗い顔に戻って俯いていた。

 ややあって、口を開く。

 

「真実を知って、私はあの村の人々を焼いたことを後悔した。だから軍を辞め、もう魔法で人を殺すまいと誓いを立てたのだ。だが……」

 

 苦々しさの滲んだ、自分に言い聞かせようとするかのような声だった。

 

「……だが、それでもお前だけは、あの村で殺しておくべきだったのかも知れんな。副長」

 

 そういって顔を上げたコルベールの目には、強い意志の炎が燃えていた。

 

 実験小隊時代に犯した数々の非道な行いについては一時たりとも忘れたことはないが、学院で過ごすうちに新たな生き甲斐を見つけられたことも確かだった。

 最初は贖罪のための研究だったが、やがてそれが心から好きになり、今では魔法でしかできないことを誰でも使えるような技術に還元するという大きな目標ができた。

 教職について生徒たちを教え、同僚たちと交わるうちに、周囲の人々のことを大切に思うようになった。

 そうしてできた守るべき対象が、今こうして過去の罪によって傷付けられようとしている。

 だからこそ、コルベールは葛藤を振り捨て、あえて戒めを破って今一度戦いのために己の炎を用いる覚悟を決めたのである。

 

「もちろん、そうだろうとも。あの日に俺を殺しておけば、貴様もここで死ぬことはなかっただろうからなあ……」

 

 メンヌヴィルはおぞましく歪んだ笑みを浮かべながら、毒に塗れた異界の金属でできた杖を握って、呪文を唱え始めた。

 

 二十年前、自分の炎は未熟だったがゆえに敗れた。

 だが、今は違う。

 

 今の自分には、あの頃よりも何倍も強力に磨き上げた、この魔力と技術がある。 

 光と影の生み出す幻に容易く欺かれる貧弱な目などよりもずっと頼りになる、この熱感知能力がある。

 そして、何よりも悪魔から貰い受けた、この“地獄の業火”があるのだ。

 負ける要素など、何ひとつとしてない。

 

 メンヌヴィルは、自分の選択をまったく後悔してはいなかった。

 コルベールに挑んで両目を失ったことも、貴族の名を捨てたことも、そして悪魔と取引をしたことも、何ひとつとして。

 今さら、自分の魂を待ち受ける運命に興味などない。興味があるのは、ただ己が炎によって焼かれた獲物が最後に放つ芳しい香りだけだ。

 ようやく長年待ち望んだ至高の香りを嗅げる瞬間がきたことを思って、メンヌヴィルは興奮のあまり体を震わせた。

 

「……ふははははははッ! さあ、貴様の燃え尽きる香りを嗅がせろ!!」

 

 叫びながら振るった杖の先から、ホーミングする炎の球が飛び出してコルベールに襲い掛かる。

 コルベールはその攻撃を命中する寸前に横に跳んでかわしながら、同時にルイズらと対峙している傭兵メイジたちに対して炎の鞭を放って攻撃を仕掛けた。

 一人がその炎で腕ごと杖を焼かれて、悲鳴を上げる。

 

「君たちは、ミス・ロングビルを連れて逃げなさい! ここは私が引き受ける!」

 

 これ以上周囲の人間を危険に晒すまいとして、コルベールがそう呼びかけた。

 

 しかし……、さすがの彼も、これだけの数の実戦慣れしたメイジを相手に一人で戦うのは無謀である。

 傭兵の一人がすかさず反撃して、何本もの氷の矢をコルベールに向けて放った。

 その攻撃は杖から放った細い炎の鞭で絡め取って迎撃したものの、そこへ再度放たれたメンヌヴィルの炎球が迫る。

 

「……ぐうっ!」

 

 咄嗟に地面に転がってかわそうとしたが、完全には避けきれず左腕をわずかに焼かれた。

 

「うはははは! どうした隊長殿、ガキどもの相手で平和ボケしたか! そんな役立たずどもをかばっていられる状況か!?」

 

 コルベールがまだ立ち上がらないうちに、メンヌヴィルはさらに立て続けに容赦なく追撃の炎球を放った。

 どうにか迎撃しようとコルベールが杖を構え直そうとした、その瞬間……。

 

「させません!」

 

 シエスタが鋭く叫びながら、デルフリンガーを構えて素早く彼とメンヌヴィルとの間に割って入った。

 

「や、やめなさい! どくんだ!!」

 

 コルベールは驚きに目を見開いて、シエスタを制止しようとした。

 平民である彼女には、あの炎球を防ぐ術はない。

 二、三発も直撃を受ければ、間違いなく全身が消し炭になってしまう。

 

 しかし、彼の言葉が終わるか終らないかのうちに、シエスタは襲い来る炎球を薙ぎ払うように大きくデルフリンガーを振るった。

 薙ぎ払われた炎球は、たちまちその刀身に吸い込まれて消滅していく。

 デルフリンガーに呪文のエネルギーを吸収し無効化する能力があることは、既にディーキンが《伝説知識(レジェンド・ローア)》の呪文を用いて突き止めていたのだ。

 

「へへっ。相棒は『ガンダールヴ』じゃあねえが、間違いなく立派な英雄になれるぜ!」

 

 デルフリンガーが、満足したようにそう言った。

 

 自分の能力を知っていたとはいえ、彼女がそれを実戦で使うのは今回が初めてである。

 万が一にもしくじれば間違いなく致命傷をもたらすであろうメイジの呪文の前に飛び出していくことは、並大抵の勇気でできることではないだろう。

 

「……なんと。その剣には、そんな能力があったのか……」

 

「ミスタ・コルベール。どうか、命を捨てるようなことはなさらないでください。私たちも一緒に戦います!」

 

 シエスタはコルベールの顔を真っ直ぐに見つめて、懇願するようにそう呼びかけた。

 それから、負傷して苦しんでいるフーケの元へ駆け寄り『癒やしの手』で治療を施しながら、彼女を抱きかかえて安全な場所へ避難させにかかる。

 

 ギーシュとルイズもまた、残りの傭兵たちがメンヌヴィルに加勢できないように協力して彼らと戦いながら、シエスタに同調した。

 

「そうですよ。昔がどうだったのか知りませんが、今のあなたは僕らの先生で、傷ついたレディーを守るために戦っている。立派な紳士だ」

 

「ディーキンも昔、過ちを犯したことがあると言っていましたわ。でも彼は今、私の大事なパートナーです。……だから、誰かがもし昔のことで先生を責めたとしても、私は先生の味方をしますから」

 

 そうして話しながらも、2人はしっかりと連携して、手練れの傭兵たちにも後れを取らずに戦っていた。

 

 ギーシュはワルキューレたちを敵の攻撃に対する防衛役に使い、自分は下手に攻撃せずにやられたワルキューレを補充したり状況に応じて指示を変えたりして、とにかく敵に突破されないようにすることに専念していた。

 そうして彼が守りを固めておくことで、ルイズの方は攻撃に専念することができるのだ。

 絶えず攻撃を加えることによって敵の体勢を崩し、数を減らしていけば、敵の攻めの手が緩んで守ることもそれだけ容易くなる。

 彼女の爆発は風の障壁などでは防御することができず、しかも詠唱無しで予想もしていない地点に突如発生するので、手練れの傭兵と言えども初見では対応することが難しいのだ。

 

 もちろんルイズには、切り札として高威力・広範囲のエクスプロージョンもある。

 だが、防衛役のワルキューレは数こそ多いものの一体一体はあまり強力ではなく、上位のメイジであれば何体かまとめて始末したりすることもできる程度の強さである。

 詠唱の長いエクスプロージョンを使おうとするとその間に守りを抜かれてしまう可能性があるので、それよりも弱い爆発でこまめに敵の体勢を崩させながら戦う方がよい、と彼女は判断したのだ。

 強力だが詠唱が長い魔法よりも、威力は低くとも素早く放って先手を取れる魔法の方が、往々にして実戦で役に立ったりするものである。

 

「君たち……」

 

 困惑したように、生徒らの戦う様子を見つめるコルベール。

 メンヌヴィルは、コルベールのそうした姿をおかしそうに嘲笑った。

 

「こりゃあ面白い! 二十年の隊長殿は無愛想だったが、しばらく見ない間にずいぶんとまた、部下の手懐け方が上手くなったようじゃないか?」

 

 かくいうメンヌヴィル自身は、自分の仲間たちのことなどどうでもよかった。

 ルイズらによって一人、また一人と倒されていっているが、所詮は利害だけで結び付いた間柄であり、戦場で身を守るための肉壁にすぎないのだ。

 あの程度の連中など、アルビオンの戦場へ戻ればいくらでも代わりが見つかることだろう。

 

「……あの子たちは部下ではない。私の、生徒だ」

 

 コルベールはまた元の無表情に戻って、そんなメンヌヴィルを冷たい目で見つめた。

 

 彼女らがここで戦うと決めたのは、決して命令に従ってではない。あくまでも己の意志で、そうすることを決めたのである。

 自分の人生にいくらかでも誇れるものがあるとすれば、それは大切な生徒たちをおいて他にはない。

 

(あの子らの未来のためにも、この男だけは私が倒さねばならん)

 

 そう決意を固めて杖を握り直すと、コルベールは敵の攻撃を防いだり杖を焼いたりするだけの受け身の戦い方をやめて、初めて積極的な攻撃に転じた。

 突き出した杖の先から何発もの火球が立て続けに飛び出し、様々な軌道にホーミングしながら、メンヌヴィルを目がけて襲い掛かる。

 

「ふはは、ようやくやる気を出してくれたか? 嬉しいぞ、そうこなくてはな!」

 

 メンヌヴィルは愉快そうに笑いながら、自分も炎を放って応戦する。

 たちまち、鮮やかな赤い炎と禍々しい白い炎とが飛び交い絡み合う、激しい炎熱戦が始まった。

 

 2人は夜の街中を右に左に走って絶えず移動しながら、互いの『火』の技をぶつけ合う。

 立て続けに放たれる小さな火球、複雑な軌道でホーミングする大型の炎球、大蛇のようにうねる赤い巨大な炎柱に、おびただしい量の白い火炎の放射……。

 まさに、魔力・技量ともに並々ならぬ練達のメイジ同士の戦いだった。

 

 しかし……、明らかに、コルベールの方が押されている。

 

 今は夜とはいえ空には雲はなく、スヴェルの月夜の重なり合った満月の輝きが周囲を煌々と照らしてくれているので、視界にはさほど問題はない。

 つまり、視力に頼らずとも戦えるというメンヌヴィルの大きな利点は、今のところそれほど活かされてはいないのだが……。

 それでもなお、コルベールの方が不利なのは否定しようがなかった。

 

 技量においては、2人に大きな差はないかもしれない。

 だが、呪文の威力が違うのだ。

 

「くは、くははははは! どうした隊長殿、さっきの勢いは!! 『炎蛇』ともあろうものが、防戦一方ではないか!?」

 

 哄笑とともにメンヌヴィルの放った白い炎球が、相殺しようとコルベールが放った赤い炎球と空中でぶつかり合う。

 かろうじて迎撃はできたものの、メンヌヴィルの炎球の方が威力で勝っているために、弾けて散った炎の雨はコルベールの側だけに降り注いだ。

 

「くっ……!」

 

 肌を焼く熱い痛みと、思った以上の敵の手強さとに、コルベールが小さく呻く。

 

 目の前の男は、二十年前には自分の敵ではなかった。

 しかし、自分はその後戦うことを止め、ずっと教育と研究だけに力を傾けてきたのだ。

 こと戦闘能力という面では、いささか衰えたであろうことは否めない。

 逆にこの男は、視力を失ったという大きなハンデも克服して、ますます過酷な戦いの中に身を投じ続けてきたのだろう。

 

 だから、彼我の力量の差などとうに消えてなくなり、逆に水をあけられていたとしてもそれは無理からぬことなのかもしれないが……。

 だが、それにしても、明らかにメンヌヴィルの呪文の威力は常軌を逸していた。

 おそらくはこれまでにコルベールが出会ってきた、どんな『火』のスクウェアメイジをも超えているだろう。

 

 一般的に言って、系統魔法では強力な呪文を用いようとすれば詠唱もそれだけ長くなる傾向にある。

 もちろん、素早く強力な呪文を放てる『高速詠唱』という技法もあるのだが、単発ならともかくそうそう連続して使える技ではない。

 威力にしても、術者のメイジとしてのランクによっても大きく変わってはくるが、たとえば素早く何発も連射できるようなドット・スペルの火球に持たせられる火力にはどうしても限界があるものだ。

 ところが目の前の男は、その限界を明らかに超えた威力の呪文を素早く立て続けに放ってくるので、正面からの撃ち合いでは到底対等に渡り合うことができないのである。

 

 かの『烈風』カリンのような伝説級のメイジであれば、また話は違うかもしれない。

 しかし、コルベールの知る二十年前のこの男は間違いなく優秀ではあったものの、そこまで常識外れな魔力の持ち主ではなかったはずだ。

 

「どうした隊長? 貴様、昔より弱くなったか? それとも、俺が強くなり過ぎたのか? ……ふは、ふははははは!!」

 

 優越感に酔ったように、メンヌヴィルが嗤い続けている。

 

 その焼けた魚の目のように白濁した眼球から、歪められた唇の端から、そして体のあちらこちらから、肉の焼け焦げるような嫌な香りと共に細い煙の筋が立ち上っていた。

 彼はまだ、コルベールの攻撃をまともに受けたりはしていないはずなのに。

 まるで自分自身の炎で体が内側から燻ぶってでもいるかのようなそのありさまを見て、コルベールは顔をしかめた。

 

「……副長、お前が使っているのはただの炎ではないな?」

 

「ほう、さすがだな。隊長殿には、違いがわかってもらえるか!」

 

 メンヌヴィルが、嬉しそうに手を広げる。

 コルベールはそれとは対照的に厳しい表情のままで、さらに質問を続けた。

 

「邪悪な炎だ。どこで身につけた?」

 

「邪悪? 邪悪と来たか! ふはははは!! 素晴らしい、素晴らしいぞ隊長! さすがは俺の惚れこんだ男だ、そこまでわかるのか!!」

 

 メンヌヴィルは心底楽しそうに笑いながら、その質問に答える。

 

「悪魔だよ! 悪魔が俺にこの力を授けてくれたのさ!」

 

「……何だと?」

 

「ははは! 突然何を言い出すのかと思ってるんだな? 無理もない、だがすべて本当のことさ」

 

 メンヌヴィルはそこで、少し真面目な顔つきになった。

 

「……隊長殿、あんたの炎は俺が知る限り最高だったよ。だが、知ってるか? 悪魔どもは人間の炎では焼けんのだ」

 

 もしこの場にディーキンがいれば、直ちにメンヌヴィルの言っていることを事実だと認めただろう。

 フェイルーンにおけるもっとも一般的な悪魔の種別、“バーテズゥ”には、総じて火と毒に対する完全耐性が備わっている。

 溶鉱炉へ投げ込まれようと、マグマの海に沈められようと、びくともしないのである。

 先程倒されたクロトートが自分自身が影響されることを怖れずに惚れ薬の毒をタバサに浴びせることができたのも、その完全耐性のおかげなのだ。

 

「それを知って俺は思ったのさ、もっと強い炎が欲しいと。土も風も水も……同じ火も、天地の狭間にあるすべてを焼ける炎が欲しい。いや、神や悪魔でさえも焼ける炎が欲しい、とな!」

 

 そういいながら、メンヌヴィルは無造作に杖を振るった。

 禍々しくうごめく白い炎の鞭が杖から飛び出し、コルベールの体を捕えようとする。

 コルベールもほぼ同時に自分の杖を振るい、大蛇のような赤い炎の鞭を放って迎え撃とうとした。

 

 赤と白の炎が絡まり合って拮抗したのは、ほんの一瞬のこと。

 すぐにメンヌヴィルの炎がコルベールのそれをばらばらに砕き散らし、押し負けた側の術者に向かって踊り掛かった。

 

 彼我の魔法の威力差を十分に承知していたコルベールは、すぐさま横に転がってその攻撃を避けようとする。

 だが、素早く柔軟にしなる炎の鞭はわずかに彼の左足の端を捕えた。

 

「っ、ぐぅっ……!」

 

 左足を焼かれたコルベールが、苦痛に顔を歪める。

 

 メンヌヴィルはその焼けた肉が発する香りを恍惚として吸い込みながら、ベルトに挿したスキットルを手に取って一口つけた。

 そうすると、彼の体から立ち上る煙の筋がいくつか消えていく。

 どうやら中身は酒ではなく、何か治療の効果がある魔法薬の類らしかった。

 

「――ふう。ありがたい薬だが、いつ飲んでも不味いな」

 

 一息ついてから、メンヌヴィルはおもむろにその鉄杭のような杖を頭上に持ち上げる。

 毒素を分泌する異界の金属でできた鋭い先端に、禍々しい白い炎が点った。

 

「さあて……、その足ではもう逃げることはできんぞ、隊長殿。この杖を突き刺して、貴様を内側からじっくりと焼き焦がしてやる。最高の炎の使い手が焼ける香りは、さぞや素晴らしかろうな!」

 

 メンヌヴィルは狂気じみた笑みを浮かべて、ゆっくりとコルベールの方に近づいていく。

 コルベールは地面に屈み込んだまま、逃げようとするでもなく、その様子をただ無表情に見つめていた。

 

「ぬっ!?」

 

 そこで突然、メンヌヴィルがばっと横に跳び退いた。

 彼の持つ鋭い熱感知知覚が、足元で奇妙なエネルギーが高まっていくのを感じ取ったのである。

 

 一瞬遅れて、先程まで彼の立っていたあたりの地面に小さな爆発が起こった。

 

「……ちっ。まったく、うっとおしいガキどもだな?」

 

 メンヌヴィルが鬱陶しそうに顔をしかめて、ちらりと後ろの方に顔を向けた。

 コルベールもはっとして、そちらの方に注意を向ける。

 

「ば、爆発が起こる前にかわすなんて……?」

 

「この化物め! ぼくとワルキューレが貴様の相手をしてやる、ミスタ・コルベールから離れろ!」

 

「……あなたからは、恐ろしい悪の気配を感じます。降参しないなら、容赦はしません!」

 

 そこには、杖を振り下ろしたまま驚愕したように目を見開いているルイズと、彼女を庇うようにその前に立って薔薇の造花の杖をメンヌヴィルに向けているギーシュ、そしてフーケを退避させて戻ってきたらしいシエスタの姿があった。

 

 コルベールとメンヌヴィルとが死闘を繰り広げている間に、彼女らの方でも傭兵たちとの激しい戦いがあったようだ。

 メンヌヴィル以外の傭兵はみな、既に地面に倒れ伏している。

 とはいえ彼女らの方も無傷ではなく、全員体のあちこちに風の刃で負ったと思しい浅い切り傷や、石礫か何かが当たってできたものらしい打ち身、炎で服が焦がされた跡などがあった。

 ギーシュの前に展開しているワルキューレの数も、3体にまで減っている。

 

「い、いかん! 逃げるんだ! 君たちでは、この男には……!!」

 

「悪いが、俺は美味いものから口に運ぶ主義でな。貴様らを賞味するのは後だ!」

 

 なんとか阻止しようと咄嗟にコルベールが放った小さな火球を杖を持っているのとは逆側の腕でこともなげに払いのけながら、メンヌヴィルは無造作に杖を振るって、何発もの炎の弾をルイズらに向けて撃ち出した。

 

 シエスタがすかさず前に飛び出し、デルフリンガーでそれらの炎弾を防ごうとする。

 しかしメンヌヴィルの方でも、先程の一件で既にその奇妙なインテリジェンスソードに呪文を吸収する能力があることは承知していた。

 

「……きゃああっ!?」

 

 デルフリンガーの刀身が先頭の炎弾を薙ごうとした刹那、その炎の弾は突然爆発した。

 メンヌヴィルが持ち前の並外れた熱感知知覚を用いて精確にタイミングを見計らい、吸収される直前に炸裂させたのだ。

 弾けて全方位に散った衝撃と熱は吸収しきれず、シエスタの体勢を崩させる。

 

 そこへさらに別の炎弾がもう一発、彼女の腹の直前で弾けて追い打ちをかけ、シエスタを一瞬で完全に地面に打ち倒してしまった。

 

「相棒!」

 

「シエスタっ!」

 

 デルフリンガーの叫びとルイズの悲鳴が重なる。

 

「ミ、ミス・シエスタ! ……おのれ、貴様ッ!!」

 

 ギーシュが激昂して、3体のワルキューレをメンヌヴィルに向けて突撃させようとした。

 

 しかし、メンヌヴィルの放った炎弾は2発だけではない。

 残る炎弾は恐ろしいほどのコントロールでそれらの青銅ゴーレムの間を難なくすり抜け、背後の術者とルイズとに襲い掛かった。

 

「ぐあっ!?」

 

「ぎゃっ!!」

 

 シエスタと同じく至近距離から弾けた炎弾の爆風をもろに食らって、2人ともあっけなく打ち倒されてしまう。

 

(くそっ……、悔しいが、実力があまりにも違いすぎる……)

 

 薄れゆく意識の中で、突撃させたワルキューレたちが白炎に飲まれてたちまち熔鉱に変わっていくのを見ながら。

 ギーシュはそんな、無念の思いを噛みしめていた。

 

「……やれやれ、この程度のガキどもを相手に全滅とは。どこまでも使えん連中だな、後でまとめて焼いてやるか……なあ、隊長殿!」

 

 メンヌヴィルは、これ以上の攻撃を阻止しようと傷んだ足を引きずりながら掴みかかってきたコルベールを杖で打ち倒し、突き刺してぐりぐりと傷口を抉りながら、そう言って嘲った。

 

「ぐぅ、う……っ!」

 

 コルベールは痛みと体を蝕む毒素の寒気を堪えながら、目の前の男がもはや完全に人間を捨て、魔物へと変貌してしまっていることを悟っていた。

 

 コルベールやキュルケのような優秀な『火』のメイジには、ある程度の高熱への耐性は備わっている。

 だがそれは、常人なら汗が噴き出してくるような蒸し暑い作業場などでも快適に過ごせる、という程度のものでしかない。

 ドット・スペルとはいえ、トライアングルクラスのメイジが扱う炎を受けて無傷で済むはずがないのだ。

 なのに、確かに自分の火球を受けたはずのこの男の腕には火傷ひとつない。

 人間とは到底思えなかった。

 

「……それにしても。あんなガキどもによってたかって庇われ、無様に俺にしがみ付き、あげくこうして地面に転がされるとは。俺は貴様を買い被り過ぎていたのかもしれんな?」

 

 メンヌヴィルは鼻を鳴らして、なおもコルベールの傷口を抉りながら少しずつ炎を送り込んで焼き焦がしていった。

 

「まあいいさ。今の俺にはより高い目標ができたからな! この俺の炎で、神や悪魔でさえ焼き尽くしてやる。手始めに、まずは貴様を焼いて地獄への灯火にしてくれるわ!!」

 

「…………」

 

 コルベールはそんなメンヌヴィルの口舌に応じるでも、苦痛の呻きを上げるでもなく、俯いて押し黙っている。

 しかし、その手にはしっかりと杖が握られており、俯いて隠した口元では密かに呟くようにして呪文が紡がれていた。

 

 先程までは、激しく戦い合いながらも、誓いを破ってこの男を殺めることに心のどこかで抵抗があった。

 だが、この男はもはや人間ではなく、心身ともに魔物の類と化してしまっているのだ。

 今ここで自分が殺さなければ、この男は自分の大切な生徒らを焼き、学院の仲間たちを焼き、無関係な人々を焼き、世界のすべてを焼こうとするだろう。

 

(二十年前に魔物だった自分と、今、魔物に成り果ててしまったこの男とを、共にこの場で葬ろう)

 

 コルベールは、そう覚悟を決めていた。

 その意志の強さが毒素に対する抵抗力をもたらしてくれたのか、メンヌヴィルがついに嬲るのをやめて杖を引き抜いた時、コルベールの体はまだ動かせなくなってはいなかった。

 最後に杖を一度振る力が残っていれば、それで十分。

 

「……さあて、これ以上刺して焼く前に死んでもつまらん。そろそろ、俺の“地獄の業火”の出番だ」

 

 メンヌヴィルはそう言ってコルベールの体から鉄杭を引き抜き、高く掲げると、呪文を紡ぎ始めた。

 詠唱に従って、巨大な白炎の柱が彼の周囲に立ち上がる。

 その炎は彼自身の肌にもまとわりつき、皮膚を焦がしていたが、メンヌヴィルはまるで動じた様子もない。

 

 メンヌヴィルは炎に蝕まれた体を癒すために、また一口スキットルの中身をあおった。

 そのポーションもまた、杖や“地獄の業火”と同じく、デヴィルが彼に与えてくれたものだった。

 

「隊長殿の最後には、せめて俺の最高の炎をくれてやるよ。先に地獄で待っていろ、俺もじきに行ってやるからな」

 

 そう言って、ついに詠唱を完成させようとした、その時。

 

「いいや、メンヌヴィル君。地獄へは、一緒に行こうじゃないか」

 

 コルベールが顔を上げて穏やかにそう言うと、素早く杖を振って、小さな火炎の弾を上空に向けて撃ち出した。

 

「……なんだ? 不意打ちかと思えば、あらぬ方向へ撃ちおって! もっとも、俺に対して放ったところで容易に迎撃――――」

 

 メンヌヴィルが怪訝そうに呟いた次の瞬間、やや上空でその火炎の弾が突如爆発した。

 その小さな爆発は、見る間に大きく膨れ上がっていく。

 

 それは『火』、『火』、『土』の組み合わせから成る、『爆炎』と呼ばれる一撃必殺の殺傷力を持つトライアングル・スペルだった。

 空気中の水蒸気を『錬金』によって気化した燃料油に変え、空気と混ぜ合わせたところに点火して巨大な火球を作り出す。

 その火球はあたりの酸素を燃やし尽くし、効果範囲内の生き物をすべて窒息死させるのだ。

 

(馬鹿な!)

 

 メンヌヴィルは目を見開いた。

 

 通常、この呪文は開けた場所で自分自身が巻き込まれないような位置取りをしてから使うか、もしくは最低でも、巻き込まれても即座に口を塞ぐことで凌げる程度の余裕のある距離を置いて使わなくてはならない。

 距離が近すぎると、呪文詠唱後即座に口を押さえて息を止めたとしても防ぎきれずに肺の中の酸素を根こそぎ持っていかれてしまい、呪文の効果が切れて再度呼吸が可能になる前に術者自身も死んでしまうことになるのだ。

 だというのに、コルベールが放った場所は自分たちの真上で、しかも炸裂した場所は火球の熱気が直接肌を焼くほどの近距離である。

 

 この距離では、間違いなく自分も死ぬ。

 熱射によって焼け死ぬか、そうならなかったとしても窒息して死ぬことになる。

 

(俺を道連れにしようというのか、隊長!)

 

 眩い火球の光に照らされ、肌を焼かれながらゆっくりと崩れ落ちていくコルベールの姿を熱感知知覚で感じ取りながら、メンヌヴィルは心の中でそう叫んだ。

 当然ながら答えはなく、自身もたちまち窒息して、苦悶しながら地面に転がる。

 

 コルベールは確実にメンヌヴィルを仕留めるために、出来る限り『爆炎』を近い距離で使う必要があった。

 また、あまり上空へ放ったり他の場所に向けて放ったりすれば効果範囲が広がり、離れた場所に転がっているルイズらや、既に倒されている他の傭兵たちまで巻き込んでしまう恐れがあった。

 それゆえに、自身も巻き込まれることを承知の上で、近距離で炸裂させるしかなかったのである。

 

『どうか、命を捨てるようなことはなさらないでください』

 

 そんな先程のシエスタの言葉が、火傷と窒息で朦朧とするコルベールの脳裏をかすめた。

 だが、彼には他にどうすることもできなかったのだ。

 

(君の真心を裏切ることになって、すまない)

 

 そう心の中で詫びながら、ついに彼が意識を失おうとした、その時……。

 

「ミスタ……っ!」

 

 突然、横合いから走り込んできた漆黒の影があった。

 

 それは、狼のような形をした岩のゴーレムと、その上にぐったりともたれかかるようにして乗ったフーケであった。

 一度はシエスタに運び去られた彼女だったが、命の恩人があの恐ろしい男と戦っているというのに、自分だけ先に安全な場所へ避難していられるような女ではない。

 どうにか獣型のゴーレムを作って動かぬ体をそれに跨らせ、こうして駆けつけてきたのだった。

 

 フーケは状況を見て取ると、上空の『爆炎』とメンヌヴィルの周囲に今だ消えずに残っている白炎の柱とに皮膚が焦がされるのも構わず、真っ直ぐにコルベールの傍にゴーレムを突っ込ませた。

 そうして彼の体に覆い被さるようにして飛び降りると、唇を重ねて口移しに酸素を送り込みながら、震える手で杖を振る。

 それに応じて乗ってきたゴーレムの体が変形してドーム状になり、コルベールとフーケの体を完全に包み込んで、それ以上の熱射から2人を守った。

 

(……はっ、最後までガキと女に助けられるとは本当に腑抜けたものだな、隊長!)

 

 地面に倒れたまま、一部始終を徐々に霞んでゆく知覚で把握したメンヌヴィルは、苦悶の中にも嘲りの笑みを浮かべた。

 

 貴様は生き延びられるかも知れんが、炎の使い手として勝ったのは俺だ。

 ガキや女がいなければ、俺はとうに貴様を殺していたのだ。

 その体の燃え尽きる香りを嗅げなかったのは残念だが、まあいいだろう。

 

(結局のところ、最高の炎の使い手は貴様ではなく俺だったのだからな!)

 

 自分の魂が地獄で焼かれる時には、最高の炎使いの焼ける香りというものを存分に堪能させてもらうとしよう。

 まだこの世で楽しみたいことはあったが、まあ、悪くない人生だった。

 

 メンヌヴィルは最後に、自分と契約を結んだ大悪魔に呼びかけた。

 

(ディスパテルよ、俺の魂を手に入れて満足しているか?)

 

 俺は、あんたの与えてくれた力に満足しているぞ。

 

 ――そうしてついに彼の意識は途絶え、その魂は悪魔の手に委ねられた。

 

 

 

 ディーキンが大慌てで駆けつけて満身創痍の仲間たちの救護に取り掛かったのは、このすぐ後のことだった……。

 




ヘルファイアー・ウォーロック(地獄の業火の妖術師):
 D&Dの上級クラスの一種で、地獄の業火を用いて自分の力を強化する術をマスターしたウォーロック(魔法に似た超常の能力を使う妖術師)のこと。
 この上級クラスが記載されているサプリメントにはキャンペーンによってはこれを呪文の使い手に類似の能力を持たせる上級クラスに変更してもよいという記述があり、本作におけるメンヌヴィルは、ハルケギニア・メイジの能力を地獄の業火で強化する類似の上級クラスを取得しているという扱いになっている。
 地獄の業火の力は使用者をも蝕み、使用する度に【耐久力】ダメージを与える。そのため、能力値ダメージを治癒できるレッサー・レストレーションと呼ばれる呪文のワンドを携帯するヘルファイアー・ウォーロックは多いという。作中でメンヌヴィルが持っていたスキットルの中身は、同呪文のポーションを濃縮して何回分もまとめて詰めたようなものである。


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第百七話 Palpitation

 

 迅速な治療を施したおかげで、傭兵たちと戦った一行はみな満身創痍だったにもかかわらず、じきに全快することができた。

 

 そうして一息つくと、ディーキンは彼女らと互いの情報を交換し合った上で、今後の方針を検討した。

 ワルドは事の成り行きを報告するために急遽グリフォンを飛ばして王宮へ戻ったのだと偽ったが、フーケとコルベールにだけは後でこっそりと事実を伝えておいた。

 彼のグリフォンは、今頃はタバサらが眠らせてひとまずルイズらに見つからないような場所に閉じ込めているはずだ。

 王宮からの増援が到着し次第事情を話して主と共にそちらへ引き渡すように、また彼らの早計な処分などはしないようにと、合わせてお願いしておく。

 

「……君たちは、表に出てこない方がいいだろう。予定通り、明日の朝一番の船でアルビオンへ向かいなさい」

 

 コルベールは、一通りの状況を把握した上でそう助言した。

 もちろん手柄を独り占めしようなどというわけではなく、彼らの身を案じてのことだ。

 

 戦いの間は恐れをなして息を潜めていたらしい街の住人たちも、ちらほらと様子を窺いに集まってきている。

 元気を取り戻したフーケが、それらの人々に適当な説明をして誤魔化しては追い払っていた。

 衛視たちもやってきたが、コルベールの身分を伝えて明日王宮から人員がやって来るからと説明し、ひとまずは帰ってもらう。

 

 ディーキンや生徒らがこれ以上この街に残って事態に関わっていれば、非常に人目を引くことになるだろう。

 そうなれば、一連の事件の裏にいると思われる悪魔どもとやらも彼らに目を付けて、深く詮索し始める可能性が高まるはずだ。

 事前にディーキンからもある程度の説明は受けていたが、先程のメンヌヴィルの異常な力を見て、コルベールにはそれがいかに危険な事態であるかということが今ではよく理解できていた。

 

「明日になれば、王宮からの増援も到着するはずだ。それまでの間この街の衛視たちに事情を説明して、捕縛した生き残りの傭兵たちの見張りをする程度のことなら、私とミス・ロングビルだけでも問題はないよ」

 

 デヴィルが本格的な調査に乗り出した段階で、この街に留まって事態の収拾にあたっているのは自分と王宮から派遣された人員だけであることが望ましい。

 そうすれば、おそらく連中はこの街の麻薬関係の情報が漏れていて以前から王宮の内偵が入っていたか、手柄を立てようと焦った魔法衛士隊長が何らかのへまをして尻尾を掴まれたのだ、と判断するだろう。

 なぜ魔法学院の職員がこのような仕事に関わっているのかと疑われるかもしれないが、そうすれば疑惑の目は生徒たちから離れて自分の方に向けられることになる。

 国の秘密部隊として汚れ仕事を行っていたという過去の汚点も、今はかえって好都合だ。

 その事実に仮にデヴィルらが辿りつけたとしても、それは自分がここにいることに関する一見説得力のある誤った仮説を彼らに提供することになるだけだから。

 生徒らはたまたまその時入った任務でこの場に居合わせただけであり、あるいは少し助力もしたかもしれないが取り立てて重要なはたらきをしたわけではない、と思わせられれば言うことはない。

 

 ディーキンは少し考えてから、その提案に賛同した。

 

 もちろん、デヴィルの注意を引きつけることでコルベールらの身に危険が及ばないだろうかという懸念がないわけではない。

 しかし、密かに広めていた麻薬のことが知られ、トリステインの王宮までも介入してきたとなれば、おそらくデヴィルはこの街の奪還を当面は諦めるのではないかと思えた。

 デヴィルが受けた屈辱を忘れることは決してないが、しかし彼らは計算高い現実主義者でもあるのだ。

 これ以上執着しても採算がとれず、得るものよりも失うものが大きいと判断したときには、彼らは常に撤退する。

 

 そうして意見がまとまると、ディーキンは一旦宿の方へ戻ってタバサらにも事情を伝え、こちらの方に連れてきた。

 助力してくれた傭兵のガデルには厚く礼を述べた上で、多少の礼金を持たせて仕事から解放する。

 他にもまだいろいろとやるべきことがあって、ディーキンはそれからしばらくは忙しく働いた……。

 

 

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 当面の作業を終えた一行は、ディーキンとタバサだけを後に残してひとまず『女神の杵』亭に集合すると、ささやかな労いの宴を設けることにした。

 先程激しい戦いをした面々に今夜はゆっくりと休んでもらうため、コルベールらの部屋もここで借りることにする。

 傷は完全に治ったとはいえ、精神的な疲労も癒さなくてはならないだろう。

 

 まずないだろうとは思うが、万が一さらに街中で何かの事態が起きた場合に備えて、宴の間とこの後朝になるまでの間はディーキンとタバサが交代で見張りを行うことに決めてある。

 件のアジトの地下室に閉じ込め直しておいた、傭兵たちとワルドの監視役も兼ねてのことだ。

 翌朝になったら、コルベールとフーケに後を引き継いでルイズらと合流し、アルビオンに向けて出発する予定である。

 

(最近、どうもいい男に縁がないみたいねえ)

 

 キュルケは、目の前でコルベールとロングビルとがいちゃいちゃ……というほどでもないが、これまでよりもかなり親しげにしている様子を微笑ましげに眺めながら、ぼんやりとそう考えていた。

 

「ミスタ、アルビオンのエールはお口に合いませんか? でしたら、ウイスキーはいかがでしょう。これなど、向こうの貴族がよろこんで口にするものですわよ」

 

「い、いやあ、僕はもうすっかり酔っぱらってますから、これ以上はいけません。は、は……」

 

「あら、ミス・ヴァリエールの使い魔の方が『お酒はあとで抜いてあげるから、明日のことは心配しないでいくらでも酔っぱらってきてね』と言ってたじゃありませんか。せっかくの御厚意なのですから、ぜひもう少し――」

 

 コルベールは最初こそやや暗い様子ではあったが、皆の感謝の言葉を受けて宴に付き合ううちに元気を取り戻したようで今では、少なくとも表面上はすっかり普段の調子に戻っていた。

 ロングビルの方はといえば、これまでコルベールに対しては主に社交辞令で接していたのが、もっと真心のある好意的な態度に変わったようだった。

 聞いたところによれば、先程街中であった戦いでは互いに命を救い合った仲だというから、まあ当然のことかもしれないが……。

 

 キュルケは、これまでは同じ『火』系統のメイジだとは思えない冴えない容貌と気弱な性格の男だと、コルベールのことを内心小馬鹿にしていた。

 だが、遠目にも彼が使った見事な赤い炎の乱舞には惹き込まれたし、ルイズらを守ろうとして過去に因縁のあった傭兵と命懸けで戦い抜いたという話も聞いて、いささか微熱が高まるのを感じた。

 一旦そのように見方が変わってみると、彼のあの純朴な態度もどこか微笑ましく、好ましく思えてくる。

 そりゃあ外見はいいとは言い難いが、それを言うなら今のところキュルケの中で一番評価が高い男であるディーキンなど爬虫類なのだから、中身がいいとわかれば見た目はさして気にはならない。

 少なくとも、名前は同じジャンでも見てくれがいいだけで中身はそれこそ冷血な蛇めいている魔法衛士隊の隊長などよりはずっとよさそうな男だ。

 

 だが、今はロングビルが彼の傍にくっついている。

 それは色恋沙汰ではなくて感謝の念というものなのかもしれないが、さすがにこの状況で命の恩人同士の間に割り込んでいって口説こうなどという気にはなれなかった。

 かといって後日に回すにしても、自分はこれからアルビオンへ行かなければならないのだし。

 元よりコルベールの方では彼女に対して好意を持っているようだった上に、これからしばらくはこの街に留まって2人で事後の処理に当たることになるらしいから、その間に仲がより発展することも大いにありえそうである。

 

 そうなると、いい男だとは思うものの、口説くタイミングを逃してしまったかもしれない。

 ロングビルではなく自分がその戦いの場に居合わせていたらまた違ったのかもしれないが、まあこればかりは巡り合わせが悪かったと思って諦めるしかないだろう。

 

(……ま、絶対にチャンスがないと決まったわけでもないし。アルビオンから帰ってきて機会があったら……ね)

 

 そう結論して、別の方に注意を向けてみる。

 

 ギーシュは、シエスタと楽しく飲み交わしながら愛しのヴェルダンデを存分になでなでできてご満悦のようだ。

 シエスタもギーシュの相手はやぶさかではないようで、にこやかに受け答えしている。

 しかし、時折ちょっと物足りなさそうな顔をしているのは、せっかくの宴なのにこの場に仲間が全員そろっていないから、特にディーキンがいないからなのだろう。

 それが恋愛感情に結びつくようなものなのかどうかまでは不明だが、彼女がディーキンのことを『先生』と呼んで慕っていることは秘密でもなんでもなかった。

 デルフリンガーも、時折かちゃかちゃと鞘を鳴らして彼女らの話に加わっている。

 

 そして最後に、一人だけ話の輪からちょっと離れて、好物のクックベリーパイをつつきながらぼんやりしているルイズの姿が目に入った。

 何やら物思いに耽っているようで、たまに誰かに話しかけられても生返事である。

 その態度からは、わずかに不機嫌そうな様子も見て取れる。

 さては、あの婚約者気取りが自分を置いて挨拶もしないで出ていった(と、彼女には伝えてある)ことを気にしているのだな、とキュルケは思った。

 

(あんな男のことは、さっさと忘れるのが一番だろうけど)

 

 とはいえ、なかなかそうもいかないものだろうし。

 ここは同じ余り者のよしみで、ひとつ慰めの言葉でもかけておいてやろうか。

 

「ルイズ、どうしたの? がんばって戦ったんだからお腹が空いてないわけないでしょうに、好物のパイが全然減ってないわよ? それとも、要らないところにお肉がつかないように夜食を控えてるのかしらね」

 

 胸の脂肪の塊を強調するように腕を組みながらそんなことを言ってきたキュルケの方を、ルイズはじとっとした目で睨んだ。

 

「違うわよ。ちょっと、ぼーっとしてただけなんだから」

 

 そう言って、パイを切り分けるともぐもぐと頬張り始める。

 キュルケはその様子を眺めながら、自分は鶏肉のワイン蒸しを切り分けて口に運びつつ、言葉を続けた。

 

「ふーん。じゃあ、あの子爵殿のことでも考えてたの? あなたに別れの挨拶も無しでいなくなるなんて、婚約者相手に随分薄情よねえ?」

 

 自分たちでぶちのめしておいてそんなことを言うのもなんだが、本人は挨拶無しでいなくなるより遥かに酷いことを企てていたわけだから、気の毒だとは思わない。

 しかし、ルイズはキュルケの予想に反して首を横に振った。

 

「別に。麻薬組織をみつけたんだもの、挨拶なんかより一刻も早く王宮へ報告する方が大事でしょ。私たちがさっき戦った傭兵だってそいつらの仲間なんだろうし、恐ろしい連中だと痛感したわ。ワルドの判断と素早い行動は立派なものよ」

 

 ルイズの態度には、嘘をついたり強がったりしている様子がまったくない。

 

 実際、ルイズはワルドのことはほとんど気にしていなかった。

 キュルケには知る由もないことだったが、そもそもルイズは彼の求婚を昨夜のうちに一度蹴っているわけで、婚約の件はそれで一旦棚上げになったものと認識しているし、ワルドもそれを受け入れてくれたものと信じている。

 それになんだか彼と昔ほど親しめなくて落ち着かなかったこともあり、帰ってくれてむしろほっとしているくらいだった。

 いずれまた落ち着いてからゆっくりと会って旧交を温められれば、とは思っているのだが。

 

「そう? ……まあ、そうかもね」

 

 キュルケは意外さと嬉しさが半々といった様子で、曖昧に頷いた。

 なんだか予想が外れてしまったが、まああの男に対して未練や執着があまりないのであれば、それはそれで結構なことだ。

 しかしそうなると、ルイズはいったい何を物思いに耽っているのだろうか?

 

 そこでキュルケは、ルイズが何やらちょっとばかり羨ましそうな顔でギーシュとヴェルダンデの方を見ているのに気がついて、ようやく思い当たった。

 

(ああ……、ディー君がここにいないのが不満だったのね)

 

 敵を倒したのはコルベールだったらしいが、ディーキンもそのすぐ後に駆け付けてみんなの怪我を治したというし、彼が使い魔としての務めを果たしていないなどというわけにはいくまい。

 昼間から聞き込みをして歩いて、麻薬組織のアジトを突き止めて、その上今も宴の最中なのに見張りを買って出るんだから、文句のつけようのない働きぶりである。

 ルイズを差し置いてタバサと一番よく行動しているのも、こういう仕事では彼女が最も役に立ちそうなのは確かなのだから、任務の重要性も合わせて考えれば当然のことだ。

 したがって理屈の上では不満をこぼすべき状況ではないのは理解しているはずだし、事実不平を口にしたりはしていないのだが、感情的にはやはり満足していない部分もあるのだろう。

 

 彼女は元々、嫉妬心や独占欲が強い性質だった。

 ディーキンが召喚されてからあまり癇癪を起こさなくなってきたので印象が薄れてはいたが、とはいえやはりその性質がすっかり消えてなくなってしまったわけではないはずだ。

 自分は命懸けで戦ったばかりなのだから、パートナーである彼にはもう少し傍にいて褒めたり労ったりしてほしかった、ということか。

 

 キュルケはそれで腑に落ちると同時に、すっかり安心した。

 ワルドが出ていったことには不満はないが、ディーキンが朝までここにいないのは不満だということは、要するにルイズのあの婚約者気取りに対する感情はその程度だということだ。

 

「ディー君なら、きっと朝までにはあなたたちの活躍の武勇譚でもこしらえてきてアルビオンへの道中で聞かせてくれるわよ。だからそんなにふくれっ面をしないの」

 

 キュルケが目を細めて、ぽんぽんとルイズの頭を叩いた。

 ルイズがそれに対して何か言い返そうとした時、横の方でギーシュが突然、テーブルを叩いて立ち上がった。

 何事かと、キュルケとルイズがそちらの方に目を向ける。

 

「ミス・シエスタ! ……ぼくぁだね! ほんとうに、ほんとうに、浮気なんかしちゃあいないんだ!」

 

 ギーシュは注目が集まっていることに気付いた様子もなく、ワインの瓶を片手に真っ赤な顔で、シエスタ相手にろれつの回っていない弁舌をふるい始めた。

 

 飲み始めた時にはまだ朝食べた《英雄達の饗宴(ヒーローズ・フィースト)》の効果が残っていたので、それがしばらくは酒毒を打ち消して酔い潰れることを防いでくれていたのだが……。

 途中から効果が切れて、それまで平気だったので同じ調子で飲み続けていたらたちまち深酔いしてしまった、というわけである。

 

「ケティとは手を握っただけだし、他の子とも遠乗りに行ったりとか、それだけなのにぃ……。なんでぇ、モンモランシーには、わからんのでしょうねぇー!!」

 

 最後の方で突然、傍らの巨大モグラの上に突っ伏してさめざめと泣き出した。

 どうやら、泣き上戸らしい。

 

 対するシエスタはというと、こちらも頬がすっかり赤らんでいた。

 おまけに、何だか目が据わっている。

 

「ミスタ・グラモン! この場におられないミス・モンモランシのことを悪く言うなんて何事ですか。感心しませんわ。悪です、邪悪です。男らしくないです。好きなら、あなたのことが好きだからここまでするんだ、ってところを見せておあげなさいっ……、ひっく」

 

 説教じみたことを言いながら、シエスタはずかずかとギーシュに詰め寄った。

 どうやら、彼女には酒乱の気があるらしい。

 

「そうして、ひっく。ヴェルダンデさんにしてあげてるみたいに、すればいいじゃないですか。だきついて、ぎゅっとして。あなたがすきだよー、って……」

 

 言いながら、シエスタもギーシュが抱き着いているのとは逆側に腕を回してしがみ付いた。

 挟み込まれたヴェルダンデは、ちょっと迷惑そうにしている。

 

 2人がそのまま酔い潰れて寝入ってしまったので、キュルケはやれやれというような顔をしながらシエスタを部屋まで『念力』で運んでやることにした。

 ギーシュの方は、ヴェルダンデが運んでくれることだろう。

 

 運ばれる途中で寝惚け半分にシエスタが呟いた一言は、聞かなかったことにしておいた。

 

「ひっく、私だって……。先生が喜ばれるのなら、なんでもしてさしあげるんですからね。ただ、どうすれば喜ばれるのかが、わかんないだけで――」

 

 

 

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 その頃、ディーキンは件のアジトの地上階にあたるボロ屋の中で、朝までにやっておくべきことをもう一度検討し直していた。

 

 ワルドと傭兵たちは全員気絶させ、杖や武器を取り上げ、束縛した上で地下室の方に閉じ込めてある。

 先にフーケが閉じ込めたワルドの遍在は、本体が気絶して精神力が尽きたためか、あるいは空気の淀んだ地下室にいたためか、既に消滅してしまっていた。

 おそらく彼らは朝まで目を覚まさないだろうし、仮に目覚めたとしても杖もなしでフーケが作った頑丈な壁を破壊して外に逃れることはまず不可能だろう。

 したがって、内部に閉じ込めた者に対してはほぼ警戒の必要はない。

 

 連中を放り込んで封鎖する前に地下室には《警報(アラーム)》の呪文をかけておいたので、仮に瞬間移動などの手段で外部から直接そこへ入り込む者がいたとしても、ディーキンにはちゃんと感知することができる。

 後は、地上階にも同様に《警報》をかけておけば、それで朝までの見張りとしては十分だろう。

 となると、この建物内部に留まるよりも街中全体の動向を把握できるような場所へ移動して、不審な集団がどこかに集まっていないかなどに注意しておくほうがよさそうだ。

 

 それに適した場所は、フーケが事前に助言してくれていた。

 街の中心付近にある岩造りの教会の鐘楼にいれば、高い所から周囲全方向の様子を見渡せる上に大きな鐘や柱の陰に姿を隠すこともでき、外から見られる心配はほとんどないらしい。

 そんな場所のことを知っているのは、おそらく彼女がアルビオンの出身だからというだけではなく、以前にこの街でも“仕事”をしたことがあるからだろうと思われた。

 今は関係のないことなので、特に詮索はしていないが。

 

 後は、この建物を封鎖してから朝までそちらの方でタバサと交代で街中の見張りをしていればいい。

 どちらか片方が起きておいて、万が一何か異常事態が発生したときには横で寝ているもう一方を起こし、ルイズらへの連絡に向かってもらう、という段取りで十分だろう。

 

(でも、その前に……)

 

 ディーキンはちらりと、部屋の隅で布を被せられているメンヌヴィルの屍に目を向けた。

 その傍らには、彼の持っていた禍々しい杖がへし折られて置いてある。

 

(あの人に、話を聞いておかないと)

 

 物質界には存在しないモルグス鉄製の杖を持っていたこと、そして“地獄の業火”を用いていたことから、この男がデヴィルと深く関わっていたことは明白だ。

 まさかこんな敵がやって来るとは思わず、手助けに来てくれたコルベールやフーケ、それに見回りをしてくれていたルイズらに大変な危険を冒させてしまったことは、非常に申し訳なく思っている。

 

 しかしながら、デヴィルと深い縁があったと思われる人物に、アルビオンに向かう前にこうして巡り会えたのは僥倖だった。

 最初に街中で“地獄の業火”が燃えているのを見た時には、カンビオンの地獄の業火使いかヘルファイアー・エンジンでもやってきたのかと思ったのだが、まさか人間の使い手だったとは。

 コルベールはこの男を窒息死させたので、死体はほとんど傷ついておらず、十分に《死者との会話(スピーク・ウィズ・デッド)》の呪文を使って情報を聞き出すことが可能な状態にある。

 

 しかし、問題がひとつあった。

 

 人間の身で“地獄の業火”を使いこなすには、かなりの力量が必要だ。

 つまりこの男は、生前は相当な使い手だったはず。

 そうなると、手持ちのスクロールから<魔法装置使用>の技能を用いて《死者との会話》を発動したとしても、それが抵抗されてしまうことは十分に考えられる。

 そして抵抗された場合、次に同じ呪文を試みることができるのは一週間後になってしまうのだ。

 

「ウーン……」

 

 ここは、何とかして少しでも成功率を高める方法を検討すべきだろう。

 それに、聞くことができる質問の数は限られているのだから、何を尋ねるべきかも事前によく考えておかなくては……。

 

 

 

 タバサは、メンヌヴィルの遺体の方を見ながら何やら考え込んでいるディーキンの様子を、建物の入り口近くに腰を下ろしたままじっと見つめていた。

 いつもは白いその頬が、ほんのりと赤らんでいる。

 

「…………」

 

 なにかがおかしい。

 

 彼の方を見ていてどうする?

 自分は、あの人が考え事をしている間、外の様子に気を配っていなくてはならないのだ。

 今夜はもう襲撃などはないとは思うが、絶対とは言い切れないのだから。

 

 タバサは頭を振って自分にそう言い聞かせると、ディーキンの顔から視線を外して外に注意を向けようとした。

 

 しかし、なぜかそれができない。

 心臓がいつもよりも少し大きく、早く鼓動を打っているのに気が付いた。

 ぐっと胸を押さえてみるが、動悸は収まらない。

 

 その時、ディーキンが唐突に顔を上げてタバサの方に向き直ると、彼女に声をかけた。

 

「ねえ、タバサ」

 

「はいっ」

 

 突然彼と目が合ったタバサは、反射的にびくっとして、そう返事をした。

 別にやましいことをしていたわけでもないのに、なぜかどきどきして、一層鼓動が激しくなる。

 

(……?)

 

 ディーキンは、妙な違和感を覚えた。

 

 もちろん、声をかけられて「はい」というのは別におかしな返事ではないが、何だかあまり彼女らしくないような気がしたのだ。

 普段の彼女なら黙ってこっちを見つめ返して話の続きを待つか、「何?」とでも言いそうなものなのだが。

 それに、何か面食らったような反応だったが……、考え事でもしていたのだろうか?

 

 とはいえ、別に根掘り葉掘り聞かなければならないようなことでもないので、深くは考えずにそのまま話を続けた。

 

「ディーキンはこれから、ちょっとジンのおじさんを呼んで、何かいいものがないか聞いてみようかと思ってるんだけど……。いい?」

 

「……いい」

 

 なんだ、そんなことか……と、タバサは軽くがっかりした。

 しかしすぐに、そんな自分の感情に困惑する。

 

 がっかり? どうして?

 今の会話のどこに、そんな要素があった?

 

 自分の感情に対して困惑していたタバサは、ふと、ディーキンが首を傾げてこちらの方を見ていることに気が付いた。

 ディーキンはそれから、とことこと部屋を回って、戸や窓の状態を確認し始める。

 タバサははっとして、慌てて手伝いに加わった。

 

 さっきから、自分はおかしい。

 外の警戒を怠ってぼうっとしていたこともそうだし、どうして彼の言葉を聞いた時点で、万が一にも人に見られないよう施錠に抜かりがないかを確かめて回るべきだということに気が回らなかったのか。

 

「……ねえタバサ、もしかして疲れてるの?」

 

 タバサの隣で背伸びして窓の確認をしながら、ディーキンが少し心配げにそう尋ねる。

 

 彼女は今朝、《英雄達の饗宴》を食べたのだから、病気にかかったということはないだろうが……。

 心身の疲労で集中力が落ちて、頭が回らなくなってきているのだろうか?

 思えば昨日は半日も馬で走りどおしだったし、今日もいろいろと調査して回ったりワルドと戦ったりしたのだから、疲れがたまっていても不思議ではない。

 

「……そうかもしれない」

「じゃあ、見張りはキュルケに代わってもらって、ゆっくり休んだほうがいいんじゃないかな? それとも、治療の魔法をかけてみる?」

 

「いい。大丈夫」

 

 タバサは強く首を振って、きっぱりとそう答えた。

 

 他の誰かにこの役目を奪われるのは、絶対に嫌だった。

 それに、心配してくれるのは嬉しいけれど、彼に迷惑をかけたくはない。

 確かになにかおかしいような気はするが、病気などではないのは自分ではっきりとわかる。

 

「ウーン、そう? ……じゃあ、せめて最初の見張りはディーキンがやるから、タバサはその間は休んでて。とっておきの魔法の寝袋があるからね、それで少し寝たらよくなると思うの」

 

「……うん。ありがとう……」

 

 タバサは何やらはにかんだように、ほんの少しだが朱に染まった頬を緩めた。

 

 施錠の確認が終わると、ディーキンはジンを呼び出すために部屋の中央あたりに移動する。

 タバサは、半ば無意識にその後へついて行った。

 とはいえ本来なら、念のために窓か扉の傍に残って、外から人の気配が近づいてこないかを確認し続けるべきであろう。

 彼女がそうしなかったのは、なるべく彼と離れたくないという情動の結果なのだ。

 

 時間が経って《英雄達の饗宴》の効果が切れたことで、クロトートとの戦いの折に体に浴びせられた惚れ薬の残留成分が徐々にタバサの体に浸透し、今になって効果をあらわし始めたのである……。

 





スピーク・ウィズ・デッド
Speak with Dead /死者との会話
系統:死霊術[言語依存]; 3レベル呪文
構成要素:音声、動作、信仰焦点具
距離:10フィート
持続時間:術者レベル毎に1分
 術者は対象となった死体に一時的に知性と生命のようなものを与え、自分の出す質問に答えさせることができる。
回答するのはあくまでも死体であって、死者の魂ではない。
可能な質問の数は術者レベル2レベル毎に1つまでであり、死体はその体に蓄えられている、生前にそのクリーチャーが記憶していた知識に基づいて回答する。
この呪文はほとんど損傷がない死体に対してでなければまともに働かず、アンデッド化されたことのある死体に対しては作用しない。
また、死体は生前に知っていた言語しか理解できないし、口がなければ回答を返すことはできない。
この呪文は、1週間以内にスピーク・ウィズ・デッドの対象となったことがある死体に対して用いても効果がない。
死体が黙秘したり嘘をついたりすることはないが、生前のクリーチャーの属性が術者とは違うものであった場合には、呪文に抵抗するために意志セーヴを行うことができる。

アラーム
Alarm /警報
系統:防御術 ; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(とても小さなベルと、非常に細い銀の針金)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に2時間
 術者は、空間上の1点を中心とした半径20フィートの空間に魔法的な警報装置を仕掛けることができる。
持続時間の間、サイズ分類が超小型(猫ほどの大きさ)以上のクリーチャーが警戒範囲に侵入ないしは接触する度に、警報が発せられる。
ただし、そのクリーチャーが発動時に術者の決めた合言葉を口にした場合には、警報が鳴ることはない。
発せられる警報は、有効範囲1マイルで術者だけが受け取る精神的なもの(これが発せられた場合、術者は睡眠中であっても目覚める)か、周囲60フィート以内に鳴り響く音声的なもののどちらかで、発動時に選択する。
エーテル状態やアストラル状態のクリーチャーはアラームを作動させることはないが、このようなクリーチャーの侵入に対しても反応するより上位の呪文も存在している。
 アラームは、パーマネンシィの呪文で永続化させることができる。


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第百八話 The deceased speaks

「……ってことなんだけど、何か役に立つ商品はないかな?」

 

『ふうむ……』

 

 ディーキンが一通りの説明を終えると、召喚に応じて現れたジンの商人・ヴォルカリオンは、口髭を弄りながら少し考えて返事をした。

 

『そうだな……、《死者との会話(スピーク・ウィズ・デッド)》のスクロールならば手持ちの商品の中にあるが。抵抗をしにくいよう特別に強力化したものなどはなかったな』

 

「やっぱり?」

 

 ディーキンは少しがっかりしたが、まあ当然だろうなとも思った。

 あるいはと思って尋ねてはみたものの、そんな特別な品物は普通特注して作ってもらうものであって、普段から店に置いてあるなんてことはまずないだろう。

 やはり、そうそう都合よくはいかないものだ。

 

 ヴォルカリオンはそんなディーキンの様子を見てわずかに笑みを浮かべると、話を続けた。

 

『……しかし、抵抗されにくいようにということであれば《限られた望み(リミテッド・ウィッシュ)》を用いればよかろう? スクロールが入用なら、何枚か在庫はあるぞ』

 

「ウーン、それしかないのかな……」

 

 ディーキンは、顔をしかめて考え込んだ。

 

 確かに、《限られた望み》はほとんどどんな効果でも作り出すことができる万能の呪文だ。

 メンヌヴィルの屍の抵抗力を削ぐためにあらかじめ《限られた望み》を用いてから《死者との会話》をかければ、成功の確率はかなり上がるだろう。

 さらに、《死者との会話》の呪文自体も《限られた望み》によって再現すれば、抵抗はより一層困難になる。

 

 ただし、強力な呪文であるがゆえに《限られた望み》のスクロールはかなり値が張る。

 もちろんその程度の金が現時点で出せないというわけではないが、この調子で支出を続けていたら遠からず資金が枯渇してしまいそうで今後のことが不安なのだ。

 いくらか収入も入ってきてはいるが、それでも明らかに赤字である。

 これからもことあるごとにさまざまなアイテムを用意しなくてはならなくなりそうだし、なるべく出費は押さえたかった。

 それにヴォルカリオンの店の在庫だって無限ではないわけで、金があっても品物がなければ買うことはできないのだ。

 いざという時に頼れる《限られた望み》のスクロールをやたらに使っては、後々困ったことになるかもしれない。

 

 やはり、バード一人であれもこれもというのは無理があるのだろう。

 サブライム・コードの訓練を始めたくらいでは、到底追いつきそうもなかった。

 ここにボスやリヌやナシーラがいてくれればと切に思うが、向こうの仲間たちにもそれぞれの仕事があるのだから、無闇に呼びつけるわけにはいかない。

 

 来訪者を招請するにしても、その度に費用がかかってしまうことは変わらない。

 ここはいっそ、強力なウィザードやクレリックのシミュレイクラムでも作っておくべきだろうか?

 破損すると修理が大変なので戦力として使うのは難しいが、無償で働いてくれる便利屋としては有用だろう。

 それこそナシーラやリヌに許可を得て髪の毛なりを貰い受ければ、作るのはこっちでもできるわけだし……。

 

(ンー……)

 

 まあ、それは検討しておく価値はありそうだが、今すぐにできることでもない。

 今はまず、メンヌヴィルの屍から話を聞き出すことを考えるのが先だ。

 

 そんな風に考え込んでいると、ヴォルカリオンがまた声をかけてきた。

 正確には、声ではなくテレパシーなのだが。

 

『どうした、なにか悩む事でもあるのか?』

 

 ディーキンはそこで、自分の悩みを正直に打ち明けてみた。

 ヴォルカリオンは話を聞き終わると、鷹揚に頷く。

 

『なるほど、確かにお前は最近、消耗品をよく買い足してくれているな。こちらとしては商売繁盛でありがたいことだが、この調子ではいずれそちらの金が続かなくなる、か……』

 

 彼は少し考えると、懐から小さな箱を取り出した。

 

『……では、そんなお前にこの商品を勧めよう。つい先日入荷した一点しかない希少品だが、お前は常連だからな』

 

 そう言って箱を開き、中のものをディーキンに見せる。

 

 そこには、美しい指輪が収められていた。

 リング部分はミスラルでできており、そこに小さな宝石が3つ嵌っている。

 宝石はいずれもブラックオニキスだったが、魔力の輝きが宿って内側から赤く光っており、やや暗い色合いのルビーのようにも見えた。

 

「ええと……、これは、どういうものなの?」

 

 ディーキンは首を傾げた。

 デザインは有名な《3つの願いの指輪(リング・オヴ・スリー・ウィッシズ)》に少し似ているようだが、明らかに別物である。

 

『この品の来歴や因縁に関して詳しく説明すれば、長い物語となるだろう。しかし、それはお前には関係のないことだから、必要な部分だけをかいつまんで話すとしよう』

 

 ヴォルカリオンはそう前置きをすると、やや勿体ぶった様子で説明を始めた。

 

 要約すると、彼には長きに渡る因縁のある不快な商売敵がいたらしい。

 それは彼と同じジンニーの一族で、地の元素界に住んでいるダオと呼ばれる種族の鼻持ちならない商人なのだという。

 ギルゾンという名のその男とヴォルカリオンとは、先日ついに対決して雌雄を決したのである。

 

『……むろん、私が勝って奴を捕えたのだがな。商人と呼ぶのもおこがましいあの不愉快な奴隷使いは、ついに解放の代償として自ら奉仕する立場となることに同意し、その結果がこの指輪というわけだ』

 

「オオ……。ってことは、それは御伽噺に出てくるみたいなやつだね!」

 

 ディーキンはきらきらした目で、小箱の中の指輪を見つめた。

 

『さよう。この指輪に結び付けられておるギルゾンの力は、1日につき3回まで、持ち主の《限られた望み》を叶えてくれることだろう』

 

 こういった品こそが、お前たち定命の存在が概して我々ジンニーに妙な先入観を持っておる元凶なのだろうがな……と、ヴォルカリオンは苦笑気味に付け加えた。

 

『……まあ、それは今は置いておくとしよう。さて、この品はお前の食指を動かしたかな?』

 

「もちろん。それがあれば便利だね。……でも、きっとすごーく高いでしょ?」

 

 ウィザードやクレリックが仲間にいない環境では、このようなアイテムの恩恵は特に大きいことだろう。

 問題があるとすれば、それは値段がいかほどかということだ。

 1日あたりの回数制限があるとはいえ、《限られた望み》を無限に使用し続けられるアイテムともなれば、まず1回使いきりのスクロールの数十倍は下るまい。

 金貨にして二十万枚、あるいは三十万枚くらいだろうか?

 そのくらいならば、少し無理をしてでも買いの品だとは思うのだが……。

 

 そんなディーキンの悩みを知ってか知らずか、ヴォルカリオンは目を細めて小さく首を振った。

 

『お前にとってはそう高くもないと保証しよう。確かに、この指輪は定命の存在にとっては計り知れない値打ちがある。だが、ジンである私にとっては無用のものだからな』

 

 ジンニーの中には、さまざまな物語で語られるように他人の願いを叶える力を持つ者たちがいる。

 しかし、その力は自分自身のためには使えない。

 より正確には、同じジンニーのためには使えないという決まりがあるのだ。

 つまりヴォルカリオンにとっては、この指輪は勝利の記念品だという以外には換金することでしか役に立たないアイテムなのである。

 

『さらに、私はギルゾンに対して奉仕の期限を千一の夜が過ぎ去るまでと言ってある。したがって、この指輪は永久に使えるわけではないのだ。そのあたりも考慮して、そうだな……』

 

 少し考えてヴォルカリオンが提示した額は、確かにこのクラスの商品としては破格の安さだった。

 加えて、もしも千一夜が過ぎる前にこの指輪が無用になったのなら、その時点で返却してくれれば残った日数に応じた額を払い戻そうとまで言ってくれた。

 

「……本当に、そんなに安くていいの?」

 

『うむ、お前の困惑はわかる。この指輪なら、今言った額の3倍で買い取る客を見つけることも難しくはなかろう』

 

 ヴォルカリオンはきょとんとしているディーキンに対して頷きながら、言葉を続けた。

 

『……しかし、私は金にさえなれば誰に何を売ってもよいという低俗な商人ではない。客が品物を選ぶように、私は客を選ぶ。そしてお前は、私が選んだ上客の一人なのだ』

 

「ディーキンが? ……アア、その……、エヘヘ」

 

 照れたように頭をかきながら笑うディーキン。

 相手は商人なのだからお世辞混じりだろうとは思っているものの、褒められるとやはり嬉しいのである。

 

「ありがとうなの、ヴォルカリオンさん。じゃあ、その指輪をもらえる? お金は、ええと――」

 

 ディーキンは自分の荷物袋の中身をひっくり返して、現金や宝石、貴金属のインゴット、それに換金してもよさそうな品物などを引っ張り出した。

 それらを一通り検討した上で、いくつかの品の換金と支払いを済ませると、詳しい使用方法の説明と共に指輪を受け取る。

 

 礼を言って取引の終了を伝えると、ヴォルカリオンは挨拶をして消えようとした。

 が、ふと思い出したように懐から一巻きのスクロールを取り出す。

 

『そうそう、忘れるところであった。お前の仲間から預かりものがある、以前に頼まれたものだそうだが』

 

「オオ、ナシーラが用意してくれたんだね!」

 

 ディーキンが嬉しそうに頭を下げてそれを受け取ると、ヴォルカリオンは今度こそ別れの挨拶を済ませて、自らの故郷である風の次元界へと還っていった……。

 

 

 

 そうして交渉が進められている間、惚れ薬の効力に侵されているタバサはただぼうっとその様子を、より正確にはディーキンの様子を見つめ続けていた。

 ディーキンはヴォルカリオンとのやりとりに集中していて、彼女の方にはまったく注意を向けていない。

 

「…………」

 

 タバサはわずかに嫉妬めいた感情を覚えたが、さすがにそれが理不尽なものであることは理解していた。

 そして、そんな気持ちが湧き起こってくるのはどういった状態の時なのかも、博学な彼女は多くの本で読んで知っていた。

 

 これまでに一度も、そんな感情を持ったことはなかった。

 だから、最初はわからなかったのだ。

 いや、今にして思えば、これまでにも幾度か同じような気持ちを覚えていたのかもしれない。

 これほど激しくはなかったから、気付かなかったというだけで。

 

(……恋、を、しているとき……)

 

 しかし、タバサはその気付きを、自分の中のそんな感情を、なんとかして否定しようとした。

 無理に視線をディーキンから外すと、微かに潤んだ目を伏せて軽く頭を振り、心の中で自らに言い聞かせる。

 

(私はきっと、勘違いをしているのだ)

 

 互いにあまりにもかけ離れた異種族だから恋愛などありえない、相手が受け入れてくれるわけもなければうまくいくわけもない、というごく常識的な判断もある。

 明らかに禁忌である、といったような倫理観もある。

 

 しかしそれ以上に、タバサにとってディーキンはまず何よりも、多大な恩義を受けた相手なのだ。

 

 以前には、彼こそが遠い昔に憧れていた自分の勇者なのではないかと思ったこともあった。

 今では、間違いなくそうだったのだと確信するまでになっている。

 

 自分は生涯をかけてでも母を悪夢から救い出し、父の仇を討つのだと誓っていた。

 彼はその母を救ってくれたのだから、いくらかなりとも恩義に報いるために生涯を通して従者として仕えようと既に決めている。

 もっとも、ディーキン自身は自分に対して友人や仲間であってくれること以外に何も望んでいないのは明らかだから、彼の前で跪いてそう誓いを立てるようなことはしていなかった。

 従者というものは、仕える主を困らせるべきではないのだ。

 ただ、シャルロット・エレーヌ・オルレアンは、父から譲り受けた杖にかけて、そうすることを自らに誓ったのである。

 

 もし仮に、万が一、ディーキンの方からタバサに求愛するようなことがあったとすれば……。

 その時には、タバサはなんの抵抗もなくそれに答えられるだろう。

 個人的な感情などを一切抜きにしてただ恩義の大きさだけで考えても、自分自身を与えることでいくらかでも彼に報いることができるのであれば、彼女にはそれを断るべき理由は何もない。

 もちろん他に想いを寄せる異性でもいたなら彼女も苦悩するだろうが、今のところタバサにはそのような相手はいないし、欲しいと思ったこともなかった。

 

 しかし、実際にはそのようなことはありえない。

 人間である自分などが言い寄ったりしたら、彼を困らせてしまうことになるに決まっているのだ。

 

(これ以上、あの人に迷惑をかけようというの?)

 

 タバサは自分自身を叱り、戒めようとした。

 

 騎士に対して従者が擬似的な恋愛感情を抱くのはよくあることだと、以前に読んだ本にも書かれていたではないか。

 自分の場合も、大方そんなことに過ぎないはずだ。

 あるいは、憧れの勇者に対する幼な恋とか、恋に恋をしているとか、そういったことで――。

 

「ねえタバサ、ちょっといいかな?」

 

「――っ!」

 

 目の前の明白な事実を否定して、無理に別の答えを探そうとする……。

 そんな虚しい試みは、結局は彼からの言葉がけひとつで頭から吹き飛んでしまった。

 

 言葉をかけられただけで、どきりと心臓が跳ねあがる。

 顔を上げて彼と目と目が合った途端に、あらゆるものが急激に色彩を失っていった。

 最後には、灰色の世界をバックに鮮やかに浮かび上がるディーキンの姿だけしか見えなくなる。

 

 タバサは、凍りついたように動けなかった。

 

「……どう、したの?」

 

 震える声を絞り出すようにして、ようやくのことでそう尋ねる。

 

「うん、さっきのヴォルカリオンさんとの話は聞いてたでしょ? ディーキンはこれから、この指輪を使ってあの人の死体にいろいろ話を聞いてみようと思ってるんだけど……」

 

 そう言いながら、さっそく自分の指に通してみた指輪と部屋の隅で布を被っているメンヌヴィルの死体とを、交互に示した。

 

「ディーキンにも自分なりの考えはあるけど、なにか意見がないかなあと思って。ねえ、タバサはどんなことを聞いたらいいと思う?」

 

 タバサは促されるままにそれらを見つめながら、蕩けたようになっている頭でぼんやりと考えてみた。

 

 指輪……。

 きれいな指輪……なのだと、思う。

 今はただ彼の姿だけが鮮やかで、まるで色褪せて見えるから、よくわからないけれど。

 

 死体……。

 そう、キュルケたちと戦ったという男の死体だ。

 

 それに話を聞くというのは……、そうか、昼間に傭兵の屍に話をさせたのと同じような呪文を使うつもりなのか。

 その質問の内容を一緒に考えてほしいとこの人が言うのならば、自分は、頑張って力にならなければ。

 

 だけど、そのこととあの指輪との間に、どんな関係が……。

 

「……あ」

 

 そこまで考えたところで、タバサは自分が先程のヴォルカリオンとディーキンとの会話の内容をろくに覚えてもいないことに気が付き、愕然とした。

 

(そんな、はずは……)

 

 彼女は、自分がどんなに熱心に本を読んでいようとも同時に周囲の出来事にも油断なく注意を払うことができるのを知っていた。

 それは生来の素質と、過酷な任務を生き延びるための訓練とによるものだ。

 その自分がこんなにも不注意になるだなんて、いや、ただひとつのことしか考えられなくなるだなんて、とても信じられなかった。

 

 いつの間にか弱くなっている自分が、変わっていく自分自身が恐ろしくて、タバサは我知らず身を震わせた。

 

「……アー。もしかして、おじさんはタバサには話を送ってなかったのかな?」

 

 ディーキンは、タバサが黙り込んだまま困惑しているような様子を見て、ヴォルカリオンのテレパシーが彼女には送られていなかったものと解釈した。

 

 もちろん、実際にはそんなことはない。

 ヴォルカリオンはタバサにもちゃんとテレパシーで話の内容を送っていたのだが、彼女の側がディーキンの声以外をまともに聞いていなかっただけのことである。

 

「……そうかもしれない。ごめんなさい……」

 

 タバサはそう言って、顔を伏せた。

 

 もちろん彼女自身はディーキンの解釈が誤っていることを知っていたが、自分が警戒も何もしておらずまるで上の空だったことを正直に伝えたくはなかったのだ。

 そんなことは決してないとは知っているけれど、万が一彼に失望したような目で見られでもしたら、きっと胸が張り裂けてしまう。

 

「イヤ、聞いてなかったんじゃしょうがないの。じゃあ、最初から説明するね」

 

 ディーキンの説明に、タバサは今度こそ一言一句聞き逃すまいと熱心に耳を傾けた……。

 

 

 やろうとしていることの説明と話し合いを終え、解答の流れに応じていくつかの質問のパターンを事前にまとめておいてから、ディーキンはいよいよ作業に取り掛かった。

 もちろん抵抗を抜けなければそこで終了だったわけだが、《限られた望み》の恩恵もあって《死者との会話》は首尾よく成功した。

 

 指輪の《限られた望み》によって再現した《死者との会話》で尋ねることができる質問の数は、最大で9つまでだ。

 ディーキンは慎重に言葉を選びながら、質問を投げかけていった。

 

 

 

「お前はどうやって“地獄の業火”の使い方を学んだのか?」

 ……

「デヴィルと契約を交わすことで」

 

 

「レコン・キスタの背後にはデヴィルがいるのか?」

 ……

「いる」

 

 

「それらのデヴィルは、ガリアと何らかのつながりがあるのか?」

 ……

「わからない」

 

 

「お前はこの街にどんな敵がいるかを事前に聞かされていたか?」

 ……

「学生メイジの一団とその使い魔と聞いていた。コルベールや連れの女がいることは知らなかった」

 

 

「お前の知る限りで、レコン・キスタの背後にいるデヴィルの狙いは何か?」

 ……

「ブリミルの御使いと称して旧来の王族を打倒し、成り替わって崇拝を集めようとしている」

 

 

「レコン・キスタの首魁であるクロムウェルはデヴィルなのか?」

 ……

「わからないが、おそらくデヴィルではない」

 

 

「デヴィルはどのような手段でこの世界に来ているのか?」

 ……

「わからない」

 

 

「お前が知る限りで、この世界に来ているもっとも強力なデヴィルは何か?」

 ……

「自分が契約したアークデヴィル」

 

 

「そのアークデヴィルの名前は?」

 ……

「ディスパテル」

 

 




リミテッド・ウィッシュ
Limited Wish /限られた望み
系統:共通呪文 ; 7レベル呪文
構成要素:音声、動作、経験(300XP)
距離:可変
持続時間:可変
 この強大な呪文を用いることによって、術者はほとんどどんな種類の効果でも作り出すことができる。
リミテッド・ウィッシュは、それが術者にとっての禁止系統でなければ6レベル以下のウィザード/ソーサラー呪文か、5レベル以下のあらゆる呪文を再現できる。
もしくは、術者にとっての禁止系統も含む5レベル以下のウィザード/ソーサラー呪文か、4レベル以下のあらゆる呪文を再現できる。
リミテッド・ウィッシュによって再現した呪文のセーヴ難易度は、元が何レベルの呪文であっても7レベル呪文のものになる。
300XPを超える経験点消費のある呪文や、1000gpを超える価格の物質構成要素を必要とする呪文を再現する場合には、術者はそれらのコストを支払わなければならない。
術者はまた、他の多くの呪文の有害な効果を取り除いて元の状態に戻すこともできる。
さらに、それらと同程度までの強力さであれば、それ以外のいかなる効果でも望むままに持たせることができる。
たとえば、誰かが行う次の攻撃を自動的に成功させるとか、誰かが行う次のセーヴィング・スローに-7のペナルティを課すなどである。

ダオ:
 地の元素界に住むジンニーの一種族。人間に似た姿だが筋肉質でずんぐりむっくりとした体格をしており、それでいて普通の人間だといっても通らないくらいに背が高い。彼らは往々にして流れるような絹のローブを身にまとい、宝石で身を飾っている。地の元素界は陸上というものがない一面が土や岩盤に覆い尽くされた地中のみの世界であり、彼らはそこに広大な洞窟網を構え、奴隷たちを酷使して、貴重な宝石を掘り出しては交易を行なっている。ダオは悪の性質を持つジンニーであり、他人はすべて自分自身と同じくらい信用できないと考えている。彼らは大地を操作する術と幻術の達人であり、ジンニー以外の存在のある程度までの望みを1日につき3回かなえてやる力も持っている。

リング・オヴ・ギルゾン(ギルゾンの指輪):
 本作品オリジナルのマジックアイテム。ギルゾンという名前のダオの力が結び付けられており、ジンニーでない者がこの指輪をはめて願い事を心に思い浮かべて念じれば、1日につき3回までリミテッド・ウィッシュを使用することができる。この指輪の力はギルゾンから引き出しているものなので、術者レベルやセーヴ難易度はダオの疑似呪文能力に準じる(術者レベル19、セーヴ難易度19)。ジンニーでない者がこの指輪を1000と1日の間所有すると、ギルゾンは奉仕の義務から解放されるため、指輪は力を失う。
 なお、マジックアイテムの価格算出式に従えばこの指輪の値段は非エピック級の範疇にどうにか収まる程度であり、ディーキンほど高レベルの冒険者にとってはそこまで強力な品物ではない。


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第百九話 Lovesickness

 

 ディーキンはメンヌヴィルの屍への質問を終えると、難しい顔をしてしばらく考え込んでいた。

 

 が、ややあって立ち上がると、死体を部屋の隅に押しやって元通り布を被せた上で、凍らせて保存してくれるようにとタバサに頼んだ。

 もしかしたら、一週間かそれ以上経った後にまた聞きたいことが出てくるかもしれないからだ。

 この街を発つ前に、コルベールらにも埋葬や焼却をしないで保管しておいてくれるようにお願いしておかなくてはなるまい。

 

「ありがとう。それじゃ、ええと……。そろそろロングビルさんが教えてくれたところに行って、見張りをするの」

 

 作業が済むと、ディーキンはそう言って荷物をまとめ直し、最後に《警報(アラーム)》の呪文を部屋にかけておいてから予定の場所へ向かった。

 タバサも、彼が出た後に扉に『ロック』を施してから急いでその後に続く。

 

 

 

 教会の鐘楼は思った以上に大きく、2人が滞在するのにも不都合はなさそうだった。

 重なり合った月の明るい光に照らされて、街中の様子もよく見える。

 

 ディーキンは《奇術(プレスティディジテイション)》の呪文を使って溜まっていた埃などを片付けると、荷物袋の中から寝袋を引っ張り出してタバサに渡した。

 

「じゃあ、ディーキンが最初に見張ってるからね。タバサは、よかったらこれを使って休んで」

 

 この《ヒューワードの元気の出る携帯用寝具(ヒューワーズ・フォーティファイイング・ベッドロール)》を使えば、睡眠は1時間でも十分に足りるはずだ。

 しかし、タバサはなんだか疲れているようだし、大事を取って2~3時間ほど休んでもらってもいいかな、とディーキンは考えていた。

 自分はいろいろと考えておきたいこともあるし、そう疲れてもいないから睡眠時間は多少少なくても大丈夫だろう。

 

「……うん」

 

 タバサはなにやら恥ずかしげに頬を赤らめながらおずおずと寝袋を受け取って、その中にしっかりと包まった。

 この寝袋は魔法の品なので、サイズは使用者に合わせて自動的に調整される。

 そのため、ディーキンよりもずっと身長の高い彼女の体にもぴったりと合っていた。

 

(私が寝るまでの間、あなたの歌かお話を聞きたい)

 

 どきどきして寝付けそうにもなかったタバサは、もう少しでそう頼みそうになった。

 だが、今は見張りの最中なのだから、そんな頼み事は非常識というものだ。

 タバサは自分にそう言い聞かせて無理に我慢すると、体を丸めて、やわらかい寝袋に顔を押し付ける。

 

 そうすると、寝具に染み付いたディーキンの匂いがした。

 彼が使っているビターリーフ・オイルの、はしばみ草に似た清涼な香り。

 それに、彼自身の体臭が混じっている。

 硫黄の匂いにも似ているが、決して悪臭ではなかった。

 青々とした新鮮な木々に囲まれた温かい山奥の秘湯かなにかのような、どこか優しく懐かしい感じのする香りだ。

 

 頭がぼうっとして、夢見心地になる。

 そんな自分に戸惑う気持ちも、こんなのはおかしいという理性の訴えも、とうに蕩けて形を失っていた。

 不壊の氷像だと信じていた自分は、『雪風』のタバサは、結局は薄い霜に包まれていただけの生身の少女でしかなかったのか。

 それも今となっては、どうでもよかった。

 ただ、寝具にしっかりと包まったまま、この一時の幸福感に身を委ねる。

 

 そうしているうちに、彼女の意識はいつしか本当の眠りの中へと堕ちていった……。

 

 

 

(ン……。寝たみたいだね)

 

 ディーキンは他のさまざまな事柄に気を取られていたので、タバサの様子がただ疲れているだけにしてはどうもおかしいということには気が付かなかった。

 とはいえ仮に気が付いていたとしても、さすがに彼女が自分に懸想しているのだなどということまでは想定できようはずもなかったが。

 

 さておき、少々体調が悪そうに見えたタバサが穏やかな寝息を立て始めたことに安心して、ディーキンは自分の思索に戻った。

 考えていたのは、先ほど《死者との会話(スピーク・ウィズ・デッド)》で聞き出した内容についてである。

 メンヌヴィルの屍が語ったところによれば、この世界にはなんとディスパテル大公爵が……地獄第二階層の支配者たるアークデヴィルが、やってきているのだという。

 

 言うまでもなく、それは極めて重大な事態だった。

 とはいえ、それが果たして事実なのかどうかについては疑問の余地がある。

 屍はあくまでもメンヌヴィルという男が生前に認識していた内容を話しただけであって、そこには彼の誤認が含まれている可能性もあるのだから。

 

 ディーキンがそのように懐疑的でいるのは、主としてディスパテルという大悪魔の性質について彼が聞いていた知識と、屍から聞き出した情報とが大きく食い違っているからなのだ。

 

「どんな本にも、ディスパテルっていうのはものすごーく慎重な悪魔だって書いてあったけど……」

 

 バートルの第二階層・ディスは、階層のほぼ全体がひとつの都市によって占められている。

 ひとつの世界全体にも匹敵するありえないほどの大きさを誇るその都市は、階層そのものと同じディスの名を頂いており、ディスパテルはその地の絶対的な支配者なのだ。

 彼はそこに難攻不落の鉄の城砦を構えており、地獄の支配者であるアスモデウスからの呼び出しがない限りは決して外に出ることはない、と聞いている。

 

 そうでなくても、神格だのアークフィーンドだのが自分の統治する世界を留守にしてまで別の世界に出かけるなどということはそれだけで大事件であり、およそ考えにくいのだ。

 先日戦ったメフィストフェレスは自らウォーターディープに侵攻してきたが、彼はアークデヴィルの中でもずば抜けて大胆で挑戦的な人物として知られている。

 対してディスパテルは、アークデヴィルの中でも極めつけの慎重派なのだと、彼について書かれたどの本にもそういった旨の記述があった。

 そんな男が、いかに魅力的で獲物にあふれているにしても、未知の物質界であるハルケギニアに自ら足を踏み入れたりするものだろうか?

 

 それに、いかにあのメンヌヴィルという男が優秀であったとしても、大悪魔ともあろうものがただ一人の人間の前に直接姿を現して自ら交渉したなどというのは非常に疑わしい。

 そのようなことは、普通はもっと格下のデヴィルがする仕事なはずだ。

 アークデヴィルともあろう者は、地獄の権力闘争だとか、奈落界のデーモンの軍勢ないしは天上界の神々やセレスチャルの軍勢との戦いだとかいった、より大きな事柄に主たる興味を向けているものだろう。

 

 よって、メンヌヴィルが出会った悪魔は実際にはおそらくディスパテル本人ではなかったに違いない、とディーキンは考えた。

 まったく無関係の下級デヴィルがアークデヴィルの名を僭称するような不敬を働くとは思えないが、許可を得た代理人であればその限りではあるまい。

 その場合、代理人としてもっともありえそうなのは……。

 

「……アスペクト(具現)、かな?」

 

 アスペクトとは、神格、ないしはアークフィーンドやセレスチャル・パラゴンのようなそれに迫るほど強大な存在が、自身の生命力のごく一部を分割したものだ。

 オリジナルのパワーがあまりにも大きいので、彼らの生命力のほんの断片でさえ、実体を持つ生きたクリーチャーと化すのである。

 

 アスペクトは、神格がしばしば作成するより強力なアヴァター(化身)とは違って、オリジナルの拡張体ではない。

 本体はアスペクトの眼を通して物を見ることはできないのだ。

 しかしながら、アスペクトを破壊したとしてもオリジナルが直接的に傷つくことはない。

 そのあたりは、ハルケギニアのメイジが使う『遍在』と似ているといえよう。

 それらは本体とは別個の自我と知性、意志を持っているが、本体の意向に忠実で、最も信頼のおける代理人となるのである。

 

 アスペクトは所詮はオリジナルの蒼白なる影にしか過ぎないのだが、それでも定命の存在の基準からすれば極めて強大な存在だといえる。

 個体差もあるが、特に強力なものであればひとつの世界全体を支配するような計画に自身の代理人として派遣するのにも十分なだけの強さを備えているはずだ。

 

「ウーン……」

 

 とはいえ、それはあくまでも自分の推測に過ぎない。

 これは非常に重要な事項だから、確認を取っておかなくてはなるまい。

 おそらく、《交神(コミューン)》を使えばこの世界にアークデヴィルの本体がいるかいないかくらいはわかるだろう。

 

 ディーキンはさっそく調べようかと、先ほど手に入れたばかりの指輪に目をやった。

 が、そこに宿った魔力の輝きが残りひとつなのを見て、想い直す。

 

 よく考えてみれば、焦って調べてみたところでどの道今すぐに何かができるわけではないのだ。

 それならば、いざという時のためにこの指輪の本日分の使用回数残り1回分はとっておいたほうがよいだろう。

 もちろん手持ちのスクロールを使うなどの別の手段はまだいくらでもあるが、この指輪には自分以外にも使えるという利点がある。

 見張りを交代するときにタバサに渡しておけば、万が一緊急の事態が起こった時に彼女の役に立ってくれるかもしれないのだから。

 

(とりあえず、そんなところでいいかな?)

 

 仮に予想通りこの世界に来ているのがアスペクトなどの偽者に過ぎなかったとしても、背後で糸を引いているのがアークデヴィルだということはほぼ確実だろう。

 だが、それだけの大物を相手にしなくてはならないにしてはディーキンは割と落ち着いていた。

 既に同じアークデヴィルのメフィストフェレスと渡り合った経験があるわけだから、いまさらそんなに取り乱したりはしないのだ。

 

 だからといって、もちろん油断などのできる相手ではないのは言うまでもない。

 フェイルーンにいるボスやその他の仲間たちにも、後ほど判明した事実をまとめて連絡を入れ、いざという時にはすぐに助力を仰げるように態勢を整えておかなくてはなるまい。

 

 相手がアークデヴィルだとわかった以上はすぐにでも援軍を呼ぶのが本来は妥当なのだろうが、そういうわけにも行かない事情があった。

 フェイルーンの仲間たちは各々がみな優れた冒険者であり、したがってディーキンが取り組んでいるのと同等か、それ以上にも困難な使命に従事することを常に求められているのだ。

 

 たとえばドロウのナシーラは、残忍な同族たちから逃れて地上で生きようとする女神イーリストレイイーの信徒たちを導くという使命にその身を捧げている。

 先日、とうとう長きに渡る女神ロルスの不在が終わったらしいという情報も流れており、彼女の任務はより一層危険なものになっていた。

 以前よりさらに強大な力を得て戻ってきた蜘蛛の女神は、長年の敵であったイーリストレイイーをついに滅ぼしにかかるのではないかという噂までもが囁かれているのだ。

 ナシーラは、同族たちを救うとともにそのような試みを阻止しようと、ボスやヴァレンとも協力してできる限りのことをしているという。

 

 彼女はそんな忙しい使命の傍らで、勝手に異世界に出かけていった自分の頼んだスクロールまで用意して送ってくれたわけで……。

 しばらくは割とのんびり楽しんでいられたこちらとしては、いささか後ろめたい気もしていた。

 よほどの緊急事態でも起きない限り、この上自分の仕事をほったらかしてこちらに来てくれなどと頼めようはずがない。

 

「ンー……」

 

 そういえばその受け取ったスクロールのこともあったな、とディーキンは思い出した。

 

 それは、ナシーラがドロウの大都市メンゾベランザンにある魔法院(ソーセレイ)に所属していたときに、密かに書き写したという希少な呪文が収められたスクロールである。

 名前を指定することで、特定の死者の魂を呼び出して接触することができるというものだ。

 

 なんでも元々は、“顔なき導師”とかいうおぞましく顔が潰れた正体不明の魔法院の教官が所有していた呪文だったらしい。

 もっとも彼が開発したというわけではなく、地上に住む人間の魔術師から盗み取られたものが売りに出ていたのを魔法院の手先が密かに購入して図書室に収めたのであり、彼はそれを翻訳したに過ぎない。

 一般的なドロウの階層社会では、死者の領域と関わるのは権力の頂点に立つロルスの尼僧の役目とされている。

 魔術師がその領分を侵すのは分を弁えぬ越権行為とみなされるため、このような呪文が表立って研究されることはまずない。

 それだからこそ、ナシーラは危険を冒してでも密かに手に入れておくだけの価値を感じたのだ。

 その教官はある時急に職を辞して自分の貴族家へと戻り、その後程なくして死体となって発見されたそうだ。

 何があったのかは推測の域を出ないのだが、どうもかの有名なドロウの英雄ドリッズトの所属していた家系、ドゥアーデン家との抗争で命を落としたのではないかと考えられている。

 ドリッズトが自分の家系を捨ててアンダーダークへと出奔したのはそれとほぼ同時期だったそうだが、何らかの関連があったのかは定かではないという……。

 

 ディーキンは以前に同じ呪文のスクロールを作ってもらい、死んだ“ママ”の魂を呼び出したことがある。

 その結果、彼女とまた言葉を交わすことができ、今では天上の次元界で幸せに暮らしているのだということも知った。

 彼女の無残な最期についてはずっと心を痛めていたのだが、それを確かめられたことで気持ちがずいぶんと楽になって、ナシーラにはとても感謝している。

 

 以前には、これが手元に届き次第、タバサの父親の魂をもしも既に分解されたり転生してしまっていたりしなければ呼び出して妻や娘と再会させてあげようと思っていたのだが……。

 彼がデヴィルと売魂契約を結んでいたことがわかった以上、その計画は見直さなくてはなるまい。

 迂闊に呼び出したりしたら悲惨なことになりかねないし、タバサらにもショックを与えてしまうことになるだろうから。

 いずれは使うことになるかもしれないが、それはよく事態を見極めた上で、今こそその時だという確信が持ててからでなくてはならない。

 

「ええと、それから。後は……」

 

 ディーキンはその後も交代の時間になるまで、見張りの傍ら他のいろいろな事柄について検討しながら時を過ごした……。

 

 

「タバサ、体は大丈夫なの?」

 

 目が覚めると、ディーキンは心配そうに私の顔を覗き込んで、そう尋ねてくれた。

 

 最初は、夢の続きかと思っていた。

 私は、寝袋の中でもこの人の夢を見ていたのだ。

 

 彼の出てくる夢を見たこと自体は、これまでにも何度もある。

 ディーキンが母を救ってくれてからというもの、自分は母が心を壊したあの日の夢を見てうなされることがなくなり、それと入れ替わるようにして時折彼が夢の中に姿を現すようになったのだ。

 けれど、それは想い人とのロマンスを夢見るというような種類のものではなかった。

 そこにはもう死んでしまった祖父や父もいて、戻ってきてくれた母もいて、ペルスランやトーマスもいた。

 キュルケやシルフィードや、ルイズやシエスタ、大勢の大切な友人たちもいた。

 ディーキンはいつも彼らの輪の中で楽しげに笑いながら歌ったり踊ったりしていて、自分にも一緒にしようと誘ってくれる。

 そこでは、自分も彼らと同じように明るく朗らかに笑うことができて……。

 そんな、どこまでも暖かくて穏やかな時が続く幸せな夢だった。

 

 それに対して、つい先程まで見ていた夢には彼だけが出てきた。

 その変化の原因が自分の気持ちの推移にあるであろうことは、疑う余地もない。

 

 きっと私の顔は、いつもの蒼白から熱病にでも罹ったような赤色に変わっているのだろう。

 だけど、私が侵されているのは、熱病ではなく……。

 

(恋の病……)

 

 自分でも不思議なほど素直に、そう認めることができた。

 そのことに気付いて、ますます熱っぽく頬が火照っていくのを感じる。

 今の私の顔は、きっと林檎のように真っ赤に違いない。

 

 そんな顔をこの人に見られていることを思うと、恥ずかしさのあまり寝袋にもう一度顔をうずめたくなる。

 でも、そうしてしまったら、彼の顔が見られない……。

 

「見張りはこのままディーキンがやっておくから、朝まで寝てたほうがいいよ」

 

「大丈夫、病気じゃないから。たぶん、寝袋に熱がこもって、体が火照っただけ……」

 

 私は首を横に振ってそんな嘘をつくと、寝袋から這い出した。

 

「……さっきみたいに竜の姿になって、私を乗せて飛んでほしい。夜風に当たったら、きっとすぐによくなる」

 

 衝動的に、そんなあつかましいことを頼んでしまう。

 寝る前にはどうにか我慢できたというのに。

 先程見た、彼のあの美しく大きい立派なドラゴンの姿がふと頭をよぎったのだ。

 

 そんなつまらないことのために魔法を使わせた上に、疲れているに違いない彼の睡眠時間を奪おうだなんて。

 それに、いくら深夜だからといって、そんな目立つ姿で街の上を飛ぶのは……。

 

 けれど、やっぱり取り消そうかと思う間もなく、彼は笑顔で頷き返してくれていた。

 

「うん。それでタバサが元気になるんだったら、喜んで」

 

 

 

 しばらくの後、私は彼の背に跨って、ラ・ロシェールの上空を飛んでいた。

 さすがにワルド子爵と戦った時のあの姿では目立ち過ぎるということで、彼は今度は夜の闇にまぎれるようなもっと地味な体の色をしたドラゴンの姿になっている。

 

 シルフィードほどに速くはないけれど、力強い飛び方。

 その大きな背中は、自分の使い魔のそれと比べるとずっと逞しく感じられた。

 

「…………」

 

 ゆっくりと体を前に傾け、広いその背中にもたれるようにして全身を委ねる。

 そうすると、ふわふわとした幸福感と高揚感が全身を包んだ。

 

 うっとりする。

 

 いつまでも、こうしていたいと思う。

 

「は、ぁ……」

 

 思わず、小さな溜息が漏れる。

 それと同時に自分で出した声の熱っぽさに気が付いて、私は身をすくませた。

 この人に聞かれて、不審に思われたかもしれない。

 

 ああ、それにしても。

 いったいどうして私は、急に彼の愛情がほしいなんて思うようになってしまったのだろう?

 

 今にして思えば、以前から彼に対して愛情を抱いてはいたのだろうけれど、それは穏やかな微風のようなものだった。

 傍にいて親愛の情を向けられていれば、それで十分満たされていた。

 それが急に、何の前触れもなく、荒れ狂う竜巻に変わってしまったのだ。

 

(でも、幸せ……)

 

 本で読んで、身を焦がすような恋愛というものになんとなく憧れたことくらいは自分にもある。

 けれど、実際に体験してみると、本で得た知識など何の備えにもならなかった。

 今の自分は、仮にそんな気の迷いはなかったことにしてあげようかと神様に言われたとしても、決して受け入れないだろう。

 長い間復讐の想いだけを胸に灰色の世界を生きてきた自分にとって、この熱情はあまりにも素敵過ぎて、いまさらそれを取り上げられるなんて耐えられそうもない。

 時にそれが熱すぎて焼け付くような苦しみを味わうことがあったとしても、胸を冷え切った虚ろなものに戻されるよりはずっといい……。

 

 そんなことを考えていたちょうどその時、彼が首を巡らしてこちらのほうを向いたので、私は心臓が止まりそうになった。

 

「ねえタバサ、あんまり長いこと飛んでると体が冷えるでしょ? そろそろ戻ったほうがいいんじゃないかな?」

 

 どうやら、不審に思われたりはしていなかったらしい。

 私はほっとして頷いた。

 もっとこの時間が続いてほしかったけれど、これ以上長引けば、それこそ不審に思われてしまいそうだったから……。

 

 

 

 教会の鐘楼に戻って私を下ろすと、彼は元の姿に戻った。

 そうして、私の横に座る。

 

 先程のドラゴンの姿も頼もしく美しかったけれど、この姿が一番彼らしいと改めて思う。

 

「まだ顔が赤いよ。本当に、大丈夫なの?」

 

 とっくに交代の時間は過ぎているのに、彼は睡眠をとろうとするでもなく、私の心配をし続けてくれている。

 彼は強情な女に苛立って、問答無用で治療の呪文を掛けてさっさと寝袋に潜り込んだりしない。

 この人のために平静を装わなくてはと思いながらも、むしろ喜びでますます顔が火照ってくるのを私は感じていた。

 

 ディーキン、あなたは私に好意を持ってくれている。

 それは、よくわかるの。

 ただ、その好意が、何かのきっかけで愛に変わってくれさえしたら……。

 

(そんなことが、本当にあり得るとでも?)

 

 私の中の冷静な部分が、愚かな自分の妄想を冷たく否定した。

 高揚して膨らんでいた気持ちが、たちまち萎む。

 

 彼が私に好意を持っているから、だから何だというのだ。

 それが恋愛とはまったく違う種類のものだということは、よくわかっている。

 いかにお互いに命をかけられるほどの好意を抱いていようとも、キュルケと私とが恋に落ちることはない。

 彼の場合も、つまりはそれと同じこと……。

 

(でも……)

 

 それでも、自分の中の愚かな部分は弱弱しい抗議の声を上げ続けていた。

 

 彼がわたしを好きになることなんてあり得ないというのなら、逆だってそうではないか。

 でも、私は彼を好きになった。好きになれた……。

 

(私に訪れたこの奇跡のような変化が、彼にも起こってくれるかもしれない)

 

 可能性はある。

 この世には、どんなことでも起こり得るのだ。

 

 現に、自分には起こった。

 他でもないこの人が、奇跡は存在し、私にも訪れるのだと信じさせてくれたのだ。

 初めて私を完膚なきまでに打ち負かし、私と母とを救い、愛情などとは無縁だと信じていた自分の心に情熱を吹き込んだこの人が……。

 

 しかし、冷静な部分の自分はどこまでも厳しかった。

 

(なら、その奇跡を信じて彼に告白する勇気が、あなたにあるとでもいうの?)

 

 愚かな部分の自分は、それだけで打ちのめされたように押し黙ってしまう。

 

 あるわけがない。

 命をかけて戦える勇気はあっても、そんなことをできる勇気は私にはない。

 もしも千にひとつか万にひとつかもわからない奇跡を頼りに、彼に自分の愛情を告白などしたら、一体何が起こるだろう?

 

「……」

 

 したくもない想像が、山ほど頭を駆け巡った。

 

 一番ありそうなのは、友人として言ったのだとしか思ってもらえないことだろう。

 勇気を出して伝えたこちらの感情に気付いてももらえずに、いつも通りの笑顔で「ディーキンも好きだよ」などと返された時のことを想像するだけで、胸が締め付けられるような思いがした。

 

 ではもし、食い下がって自分の気持ちを説明し、わかってもらったとしたら、その時の彼の反応は?

 呆気にとられたような顔、なにか気の迷いにでも囚われているのかと心配するような顔、落ち着いて応対しようとしながらも困惑と生理的な嫌悪感を隠しきれない顔……。

 あり得そうな彼の反応をいろいろと思い浮かべてみるだけで、失望と絶望で胸が潰れそうになり、吐き気がこみあげてくる。

 

 このままでも、自分は彼に間違いなく好意を持たれていて、友人としてならずっと傍にいることができるのだ。

 それ以上を求めて心が悲鳴を上げ始めたにしても、今のよい関係を危険に晒してまで……。

 

「…………」

 

 どこまでも冷静で臆病な自分に嫌悪感を覚えながら、ふと上を見上げると、教会の鐘が目に入った。

 ああ、始祖の名の下に結ばれる2人を祝福して鳴らされるこの鐘が、自分たちのための音色を奏でてくれたら――――。

 

 

 

「……ねえ、大丈夫なの? ぼーっとしてる?」

 

 ディーキンにまじまじと顔を見つめられて、タバサははっと我に返った。

 

「大丈夫、心配はないから。だから、あなたはもう休んで……」

 

 心の中を見通されるのではないかと不安になって、タバサはじっと見つめてくるディーキンから無理に目を逸らした。

 ディーキンは少し詮索するように彼女の方を見ていたが、疲れている様子なのに無理に問い詰めるべきではないと思ったのか、じきに頷きを返す。

 

「わかったの、じゃあディーキンは休むよ。でも、もし具合が悪くなったら無理をしないで、これを使って?」

 

 そう言って自分の指に嵌めていた《ギルゾンの指輪》を外すと、タバサに渡した。

 それから、おやすみを言って寝袋に潜り込む。

 

 

 

「…………」

 

 タバサは、手渡された指輪をじっと見つめてみた。

 

 これは、指にはめて願いごとを心に念じるだけで使えるのだという。

 つまり、自分の願いも叶えてくれる……。

 

 ディーキンの方を見ると、彼は既に寝袋の中ですやすやと寝息を立てていた。

 あんなに穏やかに眠れるのは、間違いなく見張りについた自分のことを信頼してくれているからだ。

 けれど、愛ではない……。

 

 タバサは掌に載せた指輪をそっと摘まみ上げると、反対側の指に通してみた。

 それから、赤く輝く指輪の宝石に触れるようにして震える両手の指を組み合わせ、祈りを捧げるように目を閉じる。

 

(私、の……願い、は――――)

 





ナシーラの用意したスクロール:
 日本語訳もされている有名な「ダークエルフ物語」に登場した呪文が書かれているもの。作中では死んだドロウの魂を呼び出して情報を得るために用いられたが、そのドロウの魂を捕えて懲罰を与えていたヨックロール(ロルスに侍女として仕えるデーモンの一種)が姿を現して妨害したために目的は果たせなかった。
 正式な呪文の名称は不明で、あるいは単にプレイナー・バインディング系の呪文か何かなのかもしれないが、本作ではそれとは別のより珍しく特殊性の高い呪文であるものとして扱っている。

ロルスの不在:
 ドロウの主神である女神ロルスが一時期姿を消して、尼僧たちの祈りに応えなくなったという事件。尼僧たちが力を失っていたこの期間にはさまざまな内乱が起こったり、女神が滅ぼされたのではないかという推測が飛び交ったりもしたが、結局ロルスはしばらくの後により強大な女神となって戻ってきた。


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第百十話 Agony

 

 御伽噺の中に出てくるような魔法の指輪を細い指で押さえながら、タバサは喘いだ。

 この指輪が、もしかしたら私の望みをかなえてくれるかもしれない……。

 

 組み合わせた指が、小刻みに震えている。

 気が遠くなりそうなほどの興奮が、体の中に渦巻いている。

 

『この人に、私を愛させてください』

 

 心の底から、そう望んでいた。

 それこそ、熱情のあまりからからに喉が渇ききって、臓腑が焼け爛れてしまいそうなほどに。

 

 ……なのに、どうして?

 

「…………」

 

 自分の中の何かが、そう願うことを止めていた。

 タバサは困惑しながらも、その理由を探ろうとする。

 

(願いを、かなえてくれる指輪……)

 

 少し前までの自分なら、こんなものを手に入れたら、望むことは決まっていただろう。

 どうか母の心を元通りに直してほしい、と。

 

 なのに、今では自分自身の願望を満たすためにその魔法を使おうとしているのだ。

 それも、その母を救ってくれた恩人の心を、本人の意思を無視して変えようなどとして……。

 

「あ……」

 

 そのことを認識すると、タバサは愕然とした。

 

 それまで思考の大半を占めていた身を焦がすような熱情も、一瞬でどこかにいってしまう。

 代わりに、自分自身に対する恐ろしさ、嫌悪感、情けなさ……、そんな感情が混じり合って噴き出してきた。

 

「……っ!」

 

 思わずしゃくりあげそうになって目を閉じ、組んだ掌を解いて、両手で顔を覆った。

 

 私は、なんてみすぼらしくなってしまったのだろう。

 邪魔だからというだけの理由で母の心を壊したあの叔父と、想い人の口から否という言葉を聞くのが耐えられないからというだけの理由で彼の心を捻じ曲げようとした先程の自分とが、どれほど違うというのか。

 

 これでは、身勝手な対抗意識を持って彼に戦いを挑み、傷つけようとしたあの時と同じだ。

 いや、それよりもなおひどい。

 もう少しで、自分は取り返しがつかないほどに堕落してしまうところだった。

 

 タバサはしばらくそのまま顔を押さえていたが、やがて心の中で両親に懺悔し、そして祈った。

 

(父さま、母さま……)

 

 どうかシャルロットを、もう一度昔のように正しく導いてください。

 私の弱い心が道を踏み外さないように、お守りください。

 

 それから震える手で指輪を外すと、あえてディーキンの姿を見ないようにして、彼の寝袋の傍にそっと置いた。

 本当は二度とこんな衝動を感じないように、その誘惑をかろうじて退けることのできた今のうちに指輪を壊してしまいたいくらいだった。

 だが、これはディーキンの所有物であり大切なものなのだから、そんなわけにはいかない。

 

 それが済むと、タバサはディーキンからなるべく距離を置くようにして努めて心を鎮めながら、見張りを始めた……。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「…………」

 

 ディスパテルはその頃、ハルケギニア某所に設けられた秘密の城塞の中で玉座に体を埋めながら、先程の部下からの報告について思案を巡らせていた。

 正確にはディスパテル本体の上級アスペクトであり、本体は第二階層ディスの鉄の塔を離れてはいないのだが。

 

『ラ・ロシェールのクロトートとメンヌヴィルからの報告が、予定の時刻を過ぎても届いておりません』

 

 その報告の意味するところは、おそらく2人とも、連れていた部下共々死んだということだろう。

 秩序の来訪者であるデヴィルが、理由もなく報告を怠ることなどありえない。

 メンヌヴィルについては単に捕えられただけの可能性もなくはないが、クロトートは一瞬念じるだけで瞬間移動できる能力を持っているのだから、捕えられて脱出できずにいるとは考えにくい。

 人間相手と思って油断し、撤退のタイミングを誤ったのだろうか。

 してみると、あの男はなかなか有能な方だと思っていたのだが、見込み違いだったか。

 

 それにしても、あのメンヌヴィルまでが後れを取ったというのはいささか意外だった。

 人間としては稀に見る力を持ち、いささか狂的な部分はあるものの、信頼のおける戦力だったのだが。

 

(あの有用な手駒を失ったとは、残念なことよ)

 

 とはいえ、もちろん埋め合わせの効かないほどの損失ではない。

 ディスパテルが行動を起こすに際して、複数の予備計画を持っていないなどということは絶対にないのだ。

 

 それに、メンヌヴィルは確かに優秀な力の持ち主だったが、いささか破壊的過ぎた。

 現在進めている、自分達をブリミルとやらの神聖な御使いだと信じさせる計画においては、味方側にあのような男が存在することは信憑性を損なう要因にもなりかねない。

 そのため使いどころがやや難しく、しかるにあの男は暴れ回り、焼いて回らずにはいられない性情の持ち主だったので、少々持て余していたことも確かだ。

 

(まあ、厄介払いして魂を収穫するいい機会だったと思っておけばよかろう)

 

 あっさりとそう割り切ると、今後の行動の検討にかかる。

 

 ひとまず、クロトートとメンヌヴィルを始末したのが何者か、情報を集めておく必要はあろう。

 件の子爵とやらが連れていた学生や使い魔がやったのか、あるいは他に何者かが介入したのか。

 クロトートに話を持ち込んできた子爵自身が実は二重スパイでこちらを裏切っていた、というような可能性もなくはない。

 

 場合によってはマークしておく、刺客を差し向けて報復するなどの必要も出てくるかもしれない。

 麻薬ルートも、潰されたりしたのでなければ誰か代員をやって維持しなくてはなるまい。

 もしくは、面倒なことになっているようならひとまずラ・ロシェールからは手を引いて、本命であるアルビオンの方に注力するか。

 こちらの世界での人員は未だ豊富とは言えぬのだし、街ひとつにあまり多くの人手をさくわけにはゆかぬ。

 

 ディスパテルは細かく計画をまとめると、従者を呼び出して指示を伝えた。

 それが済むと一息ついて、窓の傍でプレゲトスの火葡萄で作った年代物のワインを開けながら、この物質界の美しい月が輝くのを眺める。

 

「ハルケギニア、か……」

 

 いささか奇妙な理をもっているようだが、素晴らしく獲物に溢れた魅力的な世界だ。

 何よりも、ここには油断のならぬ競争相手のデヴィルも、面倒な介入をしてくるセレスチャルや神々も、不快なデーモンの群れもいない。

 

 ディスパテルはそこでふと“盟友”であるメフィストフェレスのことを思い浮かべて、皮肉っぽく口を歪めた。

 このアスペクトは固有の自我を持つ存在であり、厳密にはディスパテル本人ではない。

 しかし、本体の基本的な記憶や性質を受け継いでおり、自身と本体とを事実上同一の存在と見なす分身のようなものだった。

 

(君がこの世界のことを知れば、さぞや無念がることだろうな)

 

 長年に渡るディスパテルの同盟者であるメフィストフェレスは、先日フェイルーンの物質界において大胆不敵な計画を立てていた。

 その世界を丸ごと九層地獄バートルに引きずり込み、第十階層として取り込むという計画だ。

 それにより、第九階層の支配者であるアスモデウスよりもさらに深い層の支配者となることで、地獄の王の座を奪い取ろうと考えていたのである。

 

 だが、その計画は結局、当地の英雄たちの妨害を受けて失敗した。

 メフィストフェレスは苦い敗北を味わわされた上に第八階層のカニアに送還されてしまい、当面の間は物質界に赴くことはできなくなったのだ。

 

 ハルケギニアにおけるディスパテルの計画は、それほどに劇的なものではなく、より長期的な計画に基づいたものだった。

 しかし、いずれにせよ、やがてはこの世界を手中に収めるつもりでいる。

 

(君の大胆な行動力にはいつも敬服しているよ。しかし、率先して危険に飛び込んでくれる君の影で最後に勝利を得るのは、やはり私の方なのだ)

 

 この世界で得た力をもって、ディスパテルはついに地獄への堕天以来永劫の長きに渡って自分に命令し続けてきたアスモデウスを屈服させ、下賤なデーモンの群れを放逐する。

 そして天上界に攻め入り、遥かな昔に自分達をその地から追放した神々とセレスチャルの軍勢をも滅ぼすのだ。

 

(待っているがいい、アスモデウスよ。そして、天上の神々よ――)

 

 その日のことを思って昏い愉悦に浸りながら、ディスパテルは重なり合った月に向かって掲げたグラスをゆっくりと傾けた……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

「……っう……、っ――」

 

 タバサはぎゅっと自分の胸を押さえて、苦しげな、それでいてどこか熱っぽい喘ぎを漏らした。

 

 彼女は、ひどく苦しんでいた。

 あらゆる意味で、夜明けは遥かに遠いように感じられる。

 それまでの間、自分の気持ちに正直になれ、誇りや倫理観なんか捨ててしまえと、事あるごとにそそのかしてくる欲望を抑え続けることはできそうもなかった。

 

 一度は罪悪感によって追い払われたはずの熱情は、隙あらばまた胸の中に入り込もうとあらゆる方向から絶えず押し寄せ続けてきたのだ。

 その圧力で心の薄い隔壁はひどい軋みを上げ、今にも崩壊しそうになっている。

 もはや、何よりも大切にしてきた両親のことを思い浮かべてさえ、その衝動はほとんど弱まらなくなっていた。

 

(……こんなのは、違う……)

 

 やはりなにかがおかしいと、僅かに残った理性が必死に叫んでいる。

 

 自分がこの人のことを好きなのは、それはいい。

 急にその気持ちが大きく膨れ上がったことは不思議だけれど、決して嫌ではないし、後悔もしていない。

 亜人などを相手にとか、そんなことを言う者には言わせておけばいいのだ。

 自分はこの感情を抱いたことを誰に嗤われようと、責められようと、恥ずべきところなど少しもないと胸を張っていることができる。

 だって、彼は私の勇者なのだから。

 

 だが、愛情を得るためなら彼自身の意志を捻じ曲げてもいい、両親に顔向けできないような卑しむべき行為に手を染めても構わない、などと自分が考え出したのは、絶対におかしい。

 それも、少し頭を掠めるくらいならまだしも、抑制できないほどにその衝動が膨れ上がってくるなんて……。

 

 タバサは、普通の貴族なら眉をひそめて避けるような様々な所業にも、任務の関係で手を染めてきた。

 従姉妹の気紛れで残飯を口にさせられようと、足元に這いつくばらせられようと、母のため、そして復讐のためだと自分に言い聞かせて、黙って耐えてきた。

 けれど、それでも譲れない一線が確かにあった。

 両親の名誉を傷つけるようなことは決してしようとはしなかったし、2人のことを悪しざまに言う輩に対しては決闘を挑むことも辞さなかったものだ。

 

(いくら恋に目が眩んだからといって、私がこんな考え方をするようになるはずがない……!)

 

 だが、それとは別に、自分自身のもののような、それでいてまるで別人のもののような、奇妙に甘ったるい声もまた頭の中に響いていた。

 

『別に、何もおかしくない。本にも、恋は盲目的なものだと書いてあった。私もそうなっただけのこと。人はいつまでも、両親の教えた道に従って生きるわけでもない』

 

(そんなはず……)

 

『あなたは真実から目を背けたいだけ。倫理や誇りの定義なんか、時代や場所によっていくらでも変わることをあなたは知っているはず。そんなはかないものはさっさと捨てて、何よりも貴重な人を手に入れればいい』

 

(だめ……)

 

『望みのない恋をいつまでも続けたいの? 彼があなたに告白してくれることはないし、あなたにも彼に告白する勇気はない。したところで、受け入れられる望みはない。わかりきっている。なら、獣も同然のやり方でもいい、機会がこの手をすり抜けてしまわないうちに……』

 

 甘やかな声はどんどんと饒舌になり、それに反して理性の声は弱く短く、途切れがちになっていた。

 しかし、タバサはなおも抗った。

 

(……うるさい! うるさい、うるさいっ!! 黙って! 黙れっ……!!)

 

『…………』

 

 普段の彼女らしからぬ、理屈も何もないまるで幼子の駄々のような絶叫を心の中で張り上げると、ようやくその得体の知れない声は静まってくれた。

 

「……。は、ぁ……」

 

 だが、それは一時の勝利に過ぎない。

 じきにまた同じ声が自分を誘惑し始めるであろうことを、タバサはもうよくわかっていた。

 

 その声は、ある程度までは彼女の内から出た部分もあったのかもしれない。

 しかし最大の要因は、やはり先刻戦ったデヴィルのクロトートが彼女に浴びせた惚れ薬の作用だったのだ。

 

 クロトートは、その薬を浴びせたほとんど直後にタバサを自分の虜にすることができ、しかも仲間に対して牙を剥かせられるものと想定してそれを使用していた。

 だが、普通はいかに相手を魅惑しても、それは自分と相手との関係を変えるだけで相手と他人との関係を変えるものではないため、本来の仲間を裏切らせたり攻撃させたりすることは単に魅惑するだけでは難しいのだ。

 それを可能にするために、クロトートはハルケギニアの惚れ薬の成分にさらにある種の毒素を混ぜ込んで、効果をより悪質な方向に強めていた。

 定命の存在の持つ判断力や道徳観を衰えさせるという効果を持つ毒素だ。

 いうなれば、魅惑の呪文と《道徳崩壊(モラリティ・アンダン)》の呪文とを同時にかけるようなものである。

 

 タバサは魅惑の効果の方には、その対象がディーキンだったこともあって簡単に侵されてしまったものの、既存の道徳観を捨てさせようとする効果の方には強く抵抗していた。

 とはいえ、毒が回るにつれて彼女の判断力は低下し、感情はより不安定になり、その抵抗力は確実に衰えてきつつある。

 全身に浴びた毒素を洗い流してしまえば少なくともそれ以上の状態の悪化は防げるだろうが、激しい感情を抑えるのに精一杯の今のタバサが自らの置かれている状況に気が付くことはまずあるまい。

 

「…………」

 

 次にまた同じ衝動が襲ってきたら、そのときにも抗えるものかどうか、タバサにはまるで自信がなかった。

 けれど、それに屈してしまうことは決してあってはならない、許されないことだ。

 

 タバサはなけなしの理性をかき集めると、この状況に対処する方法を熱っぽくてうまく回らなくなってきた頭で必死に考えた。

 このまま自分一人でいては、朝までもたないのは目に見えている。

 

 なら、見張りを放棄してでも宿に戻って、キュルケと一緒にいたら?

 

 いや、それは駄目だ。彼女は間違いなく自分の様子がおかしいことに気付いて、何があったのか探ろうとするだろう。

 親友に私の気持ちを悟られて、応援するわよとか言われてしまったら、もうだめ。

 この感情を承認されたら、きっとそれが免罪符になって、それこそ抑制が効かなくなってしまう……。

 

 では、あの指輪をもう一度手にとって、この感情を沈めてくれるように願ったら?

 

 それこそ馬鹿げている。自分を騙そうとしている。

 今の私が指輪を手にしたら、違う願い事をしようとしてしまうに決まっているのだ。

 

(他のこと……。今の私に、できること……)

 

 タバサは、ひとつの行動を思い浮かべた。

 

 それを実行に移すのは恥ずかしい、そしてどうなるかと思うと恐ろしい。

 しかし、これ以上自分を抑えておけない今、問題を解決してくれる方法はもうそれしかないように思えた。

 このままでは私は駄目になってしまうのだと自分に言い聞かせ、意を決してディーキンの方に向き直ると、寝息を立てる彼に向かっておずおずと震える手を伸ばした。

 

 途中、先程置いた指輪が目に入り、それを手に取りたいという強い衝動が湧き起こる。

 しかし、彼に触れたいという別の欲求の方をあえて強く意識することで、なんとかそれを振り払った。

 

「……っ」

 

 ディーキンの鱗に覆われた腕に手を触れた途端、タバサは焼けつくような熱さを感じた。

 もっと触れたいという衝動が、激しく全身を貫く。

 それを努めて抑制して、震える手で彼の体をそっと揺さぶった。

 

「――――ンァ? ……ファァ、アー……」

 

 ディーキンは目を覚ますと、寝惚け眼をごしごしこすりながら寝袋から這い出し、大口をあけて体を伸ばした。

 

「……タバサ、どうしたの? なにかあった?」

 

 そういって不思議そうにこちらを見つめてきた彼と目が合った途端、タバサはこれから自分がしようとしていることの結果を思って、恐ろしさに身を震わせた。

 やっぱり、やめておけばよかっただろうか……。

 

 だが、もう遅い、遅すぎる。

 私は疲れて休んでいる彼を、こちらの都合だけで起こしてしまった。

 正直に話す以外に、どうやってその言い訳ができる?

 

 指輪に手を伸ばすことは呪われた行いであり、手を伸ばさずに耐えることも、逃げ出すこともできないとわかった以上、とるべき行動はそれだけだ。

 その結果がどうなろうとも、誘惑に負ける前に自分の手で決着をつけてしまうしか、あの呪わしい声を永遠に黙らせる方法はない。

 

「起こしてしまって、ごめんなさい……」

 

 タバサは潤んだ目を隠すように顔を伏せると、掠れた声でそう言って詫びた。

 

「……どうしても、あなたに伝えておきたいことがあった。どうか、気を悪くしないで、聞いてほしい」

 

「……なに?」

 

 ディーキンはその言葉に籠もった深刻さを感じ取って居住まいを正すと、話の続きを待った。

 

「ディーキン、私は……」

 

 タバサは目を閉じて一度深呼吸をすると、覚悟を決めて顔を上げ、ディーキンの顔を真っ直ぐに見つめる。

 

「……私は、あなたの……、あなたの、側に……、ずっと……、ずっといたいと、思っているの……」

 

 その声はかすれて震え、ためらいがちにたびたび途切れている。

 普段は白い彼女の肌は、夜でもわかるほどはっきりと紅色に上気している。

 こちらを見つめる眼鏡の奥の瞳が、熱っぽく潤んでいる。

 

 そのただならぬ様子にディーキンは戸惑ったが、一体何が起きているのか、状況がよくわからなかった。

 言葉の内容は、もちろん嬉しいのだが……。

 

「その、ありがとうなの。ディーキンはそんな風に思ってもらえて、感謝してるよ。でも……」

 

「ちがうの……」

 

 首を傾げながらもとにかく嬉しいことを伝え、なぜ今その話をしたのか聞こうとした彼の言葉を、ふるふると首を振ってタバサが遮った。

 それから顔を伏せて、ぽつぽつと言葉を続ける。

 

「ずっと、というのは、本当に、ずっと……。朝も夜も、今日も明日も……。一年後も、十年後であっても……」

 

「……えっ?」

 

「あなたがいつか、来たところに帰るのなら、私もついていきたい……。そこが、知らない世界でもいい。暗い洞窟の中でもいい。あなたの傍にいられるのなら、私はきっと、後悔はしない……」

 

「……タバサ?」

 

 ディーキンは、いつになく熱っぽく、それでいてどこかしおらしく話を続けるタバサを、目を丸くしてまじまじと見つめた。

 

 ええと、この様子はもしかして、本とかで読んだ……。

 いや、でもまさか、そんなことなんて?

 

「……でも、それでも、ひとつだけ……、怖いことがあるの」

 

 そう言ってもう一度顔を上げたタバサの表情には、キュルケならずとも感じ取れるほどに、そして普段の彼女を知るものであれば間違いなく驚くであろうほどに、内心の不安がはっきりと表れていた。

 その目は、今にも涙がこぼれ落ちそうなほどに潤んで揺れ動いている。

 

「あなたには……、そのうちに、きっと、恋人ができる……」

 

 タバサは、話しながら顔をくしゃくしゃに歪めた。

 

 感情がこんなにも露わに顔に出るのは、何年ぶりのことだろう。

 そんな機能はもう衰えきってしまっているものと、自分でもそう思っていたのに。

 

「その、きれいなコボルドの恋人と、仲良くして……、いつか、結婚して。……それを、側で見ることになると思うと、……辛いの……」

 

 一息ごとに、血を吐くような思いをしている。

 心臓が口から、張り裂けた自分の心と一緒に飛び出してきそうになっている。

 

 それでも、震える声を懸命に絞り出すようにして、話を続けた。

 

「……私、その時が来るのが、怖くて、苦しくて……。だって、私は人間だから……。何も、何もできないから……」

 

「…………タ、バサ?」

 

 ディーキンは呆気にとられたように目を丸くして、これまでに見たこともないほど潤んだ彼女の目を見つめ返した。

 こんな顔をした女性に正面から見つめられたことは、今までに一度もなかった。

 

 さすがに、これはもう疑いようもない。

 疑いようもないけれど、それでもとても信じられない。

 それもまさか、人間の女性からだなんて……。

 

「…………」

 

 タバサは絶句したディーキンの表情をじっと見つめて、そこに表れている感情を読み取ろうとした。

 

 彼女がそこから見て取れたのは、ただ純粋な驚きだけだった。

 嫌悪感や、怯え、拒絶……。何よりも恐れていたそのような反応は、一切ない。

 

 それがわかると、タバサは心の底から喜び、そして安堵した。

 そうして、不安に張り詰めていた気が緩んだことで、彼女の不安定に揺れ動く感情はついに限界を迎えた。

 

「ディーキン……」

 

 タバサは突然ディーキンに倒れ込むようにして抱き付くと、彼の小さな体に腕を回して、しっかりと抱き締めた。

 想い人をその腕に抱いた喜びからか、目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

 

「わたし……、あなたが好きなの……。だいすき……」

 





モラリティ・アンダン
Morality Undone /道徳崩壊
系統:心術[悪、精神作用]; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(細かく砕かれた聖印)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に10分
 この呪文は、犠牲者の属性の善-悪軸を一時的に悪側に変化させる。
秩序-混沌軸や基本的な人間関係などは変化しないが、犠牲者は新たに得た利己的で残忍な価値観に基づいて行動し始める。
そのため、犠牲者は友人から密かに貴重品を盗んだり、呪文をかけて自分に都合よく操ろうとしたり、なんらかの利益になると思えば攻撃することさえあるかもしれない。
 この呪文は、チャームやサジェスチョン、ドミネイトなどの呪文によっても本来ならば侵させることのできない一線を根本的に変えてしまうので、そのような呪文とあわせて用いると特に効果的である。


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第百十一話 Promise

 タバサはディーキンの小さな体にしっかりと腕を回し、包み込むようにして自分の体を押し付けた。

 二度と離さないといわんばかりに、その華奢な腕で出せる精一杯に、強く。

 

 それと同時に、普段は決して手放そうとしない長い杖が彼女の手から離れ、カランと乾いた音を立てて地面に転がった。

 

(彼の体が、私の腕の中にある)

 

 そう実感すると、たとえようもない幸福感に包まれて、歓喜の涙がとめどなく流れてくる。

 

 普段の彼女ならば、衝動よりも自制心の方を重んじただろう。

 しかし、今のタバサは忌まわしい誘惑と戦うのにあまりにも精力を傾け過ぎて、堕落につながるとは思わない欲望にまで逆らう気にはならなかった。

 呪わしく甘美な堕落の道への誘惑を振り切ることができ、当面の不安からも解放された今、タバサはそれにためらうことなく身を委ねた。

 

 ディーキンの体に顔を押し付けて、どこか懐かしく優しげな彼の匂いを胸いっぱいに吸い込み、多幸感にどっぷりと浸る。

 陰惨だった過去も、将来への不安も、もうどこにもない。

 温かく大きな喜びが、この一時だけは彼女のすべてを塗り潰してしまったのだ。

 やわな素肌が硬い鱗に強く押し当てられ、擦り付けられて痛みを訴えていたが、今はそれさえも甘美なものに感じられた。

 

(もしも、彼の方から抱きしめ返してもらうことが出来たなら、私はどれほど満たされるだろう)

 

 タバサは、そのために体がどんなに傷つくことになろうとも、ディーキンともっと体を密着させたかった。

 もどかしさに突き動かされるように、彼女はディーキンの首筋に柔らかい唇を押し当てた。

 鱗の端でやわらかい唇が傷ついても気にも留めずに、そのまま幾度となく、情熱的な接吻を繰り返す……。

 

 

 

「……? ??」

 

 ディーキンはタバサに突然抱きしめられ、体を擦り寄せられて、目を白黒させていた。

 彼には人間の女性に対する嫌悪感などはないので、生理的に受け付けないと言うことはないが……さりとて、もちろん性的に惹かれるということもなかった。

 

 正直なところ、すっかり混乱してしまって、何がどうなっているのかいまだによくわからない。

 しかし、いきなり何をするのだと質問したり、腕を振り払ったりしたら、彼女をひどく悲しませてしまうのではないだろうかと思った。

 理由はどうあれ、今のタバサがとても感傷的になっていることは明らかだ。

 さすがに異種族の恋愛感情にかかわることとなると、正確に反応を推し量れる自信などはないのだが……。

 

(ウーン……?)

 

 ディーキンはひとまず何も言わずに、自分にしがみつくタバサの背を、しばらくの間優しくなだめるように撫で続けた。

 そうすることで、感情を昂ぶらせている彼女を落ち着かせようとするだけでなく、自分自身の考えをまとめる時間も稼ぎたかった。

 

 もし仮に、相手がシエスタだったなら、ディーキンはここまで驚きはしなかっただろう。

 なぜなら彼女は、セレスチャルの血を引いているからだ。

 

 セレスチャルは、ほとんどどんな種族に対してでも愛情を抱きうる。

 彼らは肉体などという魂の入れ物の外見に左右されることなく、魂そのものの美しさを真っ直ぐに見つめることができるのだ。

 そして、とても魔法的な種族なので、様々な次元界に存在するほとんどすべての種族との間に子を成すことができる。

 物質界の数多くの種族の中にハーフセレスチャルが、そしてその末裔であるシエスタのようなアアシマールが存在することが、そうした事実の何よりの証である。

 

 では、人間であるタバサの場合はどうだろう。

 

 人間は赤子を胎で育てる哺乳類であり、コボルドは卵を産む爬虫類だ。

 交配は魔法の助けを借りでもしない限り成立せず、姿形もまるで違うので、互いに性的に惹き付けられることがあるとは思えない。

 とはいえ、彼女が以前から自分に対して親しみと好意とを示してくれていたことは疑いない。

 その好意の中に今彼女が見せているような深い愛情が隠れていたということも、考えてみれば確かにありえなくはないのかも知れない。

 人間のような種族がコボルドに対してというのは想像したこともなかったが、愛のあり方は人それぞれなのだし……。

 

 だが、いくらなんでも変化が急激過ぎるような気がした。

 今日の昼間、一緒に行動していたときには、そんな気配はまるで感じなかったのだ。

 それがどうしてほんの数時間の間に、寝ている相手を起こしてでも今すぐに伝えずにはいられないと思うほど激しい感情になったのか。

 今、タバサが見せているのは、果たして本当に彼女自身の自然な感情なのだろうか?

 

 もしかして目の前の女性はタバサではなく、彼女に化けた偽者なのではないかという考えも、一瞬頭をよぎった。

 相手を問わず誘惑して絡み付き堕落と破滅に追い込もうとする、サキュバスとか、リリトゥとか、エリニュスとか、ブラキナとか言った種類のフィーンドが化けているのでは?

 その他にも、ドッペルゲンガーやその亜種族とか、マローグリムとか、変身能力をもつクリーチャーはいくらでもいるのだし……。

 

 とはいえ今の状況から考えると、それはあまりありそうにもない。

 寝ていたとはいえ、自分はずっと彼女の傍にいたのだ。

 様子が妙なのは確かだが、かといって目の前のタバサが偽者だとは思えないし、自分の気付かぬ間に入れ替わったとも考えにくかった。

 

(……ンー、……)

 

 ディーキンは結局、もしかしたら彼女は何らかの心術の影響を受けているのではないだろうか、という考えに至った。

 少なくとも、偽者に入れ換わられたというよりはまだありえそうな話に思える。

 

 だがそうだとしたら、いったいいつの間にどこで、そして誰からそんなものを受けたのか。

 

 まさか、デヴィルの仕業ではあるまい。

 彼女を自分に惚れさせたりしても、連中に何か得があるとは思えない。

 とはいえ、それ以外に思い当たることもないし……。

 

(……イヤ、考えるのは後回しだよ!)

 

 自分の首に柔らかな唇がしきりに押し付けられるのを感じて、ディーキンは今は悠長に考え込んでいる場合ではないと思い至った。

 

 もしもこれがタバサの本当の意思によるものでないのなら、すぐにやめさせるべきだろう。

 自分の知る限りでは、一般的に人間にとってこういった行為をすることは、コボルドが同じような行為をすることよりもはるかに重大な意味を持っているはずだ。

 友人として、彼女が後になってから深く傷つくような事態は、なんとしても避けなくてはならない。

 

 だから……。

 

「タバサ、ちょっと待って!」

 

 ディーキンはタバサの腕からするりと脱け出すと、彼女の体を乱暴にならないように気をつけながらも、しっかりと地面に押さえつけた。

 

 常に《移動の自由(フリーダム・オヴ・ムーヴメント)》の効果を与えてくれる装備品を身に着けているので、いかにタバサが一心にしがみついてこようともすり抜けるのは容易いことだ。

 もちろん腕力にものを言わせて力任せに振り解くことも造作なくできただろうが、それでは彼女の腕を痛めてしまう。

 

 

 

「あ……」

 

 しっかりと抱き締めていたはずの相手が突然腕をすり抜けて、次の瞬間には自分の方が押し倒されていたことに、タバサは小さな驚きの声を上げた。

 

 次いで、その後に続く行為を想像して、タバサの頬が紅色に染まった。

 心臓が激しく脈打ち、薄い胸は普段の彼女なら一顧だにしないであろう愚かしい期待で膨らんで、せわしく上下する。

 

 しかしディーキンは、すぐにタバサの上から降りると、そんな彼女の様子をじっと見つめながら真面目な調子で話し始めた。

 

「急に、ごめんなの。でも、ディーキンはどうしても、タバサに言っておきたいことと、確かめておきたいことがあったから……」

 

「……何?」

 

 タバサは体を起こして、ディーキンと向かい合って座った。

 彼の真剣な様子を感じ取って、タバサもいくらかは普段の平静さを取り戻したようだ。

 

 胸の高鳴りも徐々に収まり、代わりに不安な気持ちがじわじわとその胸中に湧き上がってきて、嫌な想像が次々と頭に浮かびだした。

 

 やっぱり、こんなことは嫌だったのだろうか?

 彼は優しい人だから、私を傷つけないように努めて不快さを態度に表すまいとしていただけだったのではないか。

 

 だとしたら、これから穏やかに私を説得して、諦めさせようというのだろうか。

 

 でも、それは無理だ。

 この人は他人を説き伏せるのが上手だけれど、私のこの気持ちは、説得などで変わるものじゃない。

 私自身が何度もそうしようとして、そんな試みは無益だと思い知ったのだから。

 

 では、言葉では無理だとわかったら、そのときこの人はどうするのだろう?

 

 きっぱりと私を拒絶して、今後は距離を置いて近づかないようにしようとするだろうか。

 それとも、フーケを捕まえるときに使ったような魔法をかけて、私を操って心を変えさせてしまうつもりなのか……。

 

(……っ!)

 

 その恐ろしい想像に、恐れを知らないはずだった『雪風』のタバサは、心の底から怯えた。

 

 彼に拒絶されて、目も合わせないような態度を取られることは、考えるだけでも身を切られるように辛い。

 けれど、その原因であるこの感情を取り除かれてしまうことが、それ以上に恐ろしかった。

 この気持ちは何があっても……たとえ彼に拒絶されても変わることはないと、自信を持って言える。

 けれど……、魔法を使われたら、変わってしまうのかもしれない。

 

 今までの経験からすると、この人はここぞというときには想像もしないようなやり方を使ってこちらを驚かせて、大抵のことは思い通りにしてしまう。

 そんな彼の手腕を見ることは、いつも楽しみだった。

 だけど、今回だけは……。

 

 そんなタバサの内心はさておき、彼女が不安な気持ちでいることはディーキンにも伝わった。

 それゆえに、彼は慎重に言葉を選びながら話を進めることにした。

 

「ええと……、ディーキンはね、タバサみたいな素敵な人に好きだって言ってもらえて、本当にすごく嬉しいよ。そんなことを言ってもらえるとはぜんぜん思ってなくて、驚いたけど、感謝してる。それを、まず言いたかったの」

 

 まずは笑顔でそういって、軽くタバサを抱きしめる。

 そうすると、一度は曇った彼女の顔がぱっと輝いて、熱心に抱きしめ返してきた。

 

 ディーキンはしばらくそうしてから体を離すと、また真面目な目で真っ直ぐにタバサの顔を見つめた。

 

「……それでね。嬉しいんだけど、タバサが本当に後悔しないのか、向こう見ずなことをしてないのか、それが気になってるの」

 

「後悔は、絶対にしない」

 

 タバサはそれには自信があるようで、目をそらさずにはっきりとそう答えた。

 ディーキンは、それを見て小さく頷く。

 

「うん、タバサが本当にそう思ってるのはわかるの。でも、間違いないのかどうか、確かめさせてくれる?」

 

「確かめる……?」

 

 タバサはディーキンの意図がつかめずに、鸚鵡返しに呟いた。

 

(確かめるって、何を、どうやって?)

 

 もしかして、彼は普段は優しいけれど、ベッドの中ではとんでもなく意地悪になったりするのだろうか?

 そんな男が出てくる小説を、以前に読んだ覚えがある。

 愛し合うときに、相手をいじめたり痛めつけたりする趣味でもあって、私がそれを受け入れられるか確かめたいとでも言うのだろうか。

 

(それとも、その逆……)

 

 すっかり恋の熱で頭が沸き立った彼女は、馬鹿馬鹿しいほど色惚けした発想をしていた。

 

「うん。ええと、タバサの気持ちを疑うみたいで、失礼だと思われるかもしれないんだけど……。ディーキンは、タバサが何か魔法とかにかかったりしてないかってことだけ、確かめておきたいんだよ」

 

 それを聞くと、タバサはきょとんとして、不思議そうに目をしばたたかせた。

 それから、すっかり判断力の鈍った頭でぼんやりと考えてみる。

 

 魔法って、私が魔法にかかっているというの?

 あなたは、私のこの気持ちはそのせいだろうと考えているの?

 

 まさか。

 

 だって、何も心当たりなんかない。

 あなたも知っているでしょう、私はあなたとずっと一緒にいたのだから。

 そんな魔法をかけられたりした、覚えは……。

 

「……あ……」

 

 タバサは、はっとした。

 

(悪魔と戦ったときに浴びせられた、あの液体……)

 

 あれがたとえば水魔法の惚れ薬か、でなければ彼のいた世界にあるそれに類似した魔法薬だったとすれば?

 

 精霊の体の一部を触媒にして水魔法で作られた惚れ薬は効力がとても強く、盲目的な愛情を抱かせることができると聞く。

 普通は経口摂取するものらしいが、血管への注入とか、体表や粘膜からの吸収とか、気化させての吸引などで効果を発揮するような変種も、もしかしたら作れるかもしれない。

 浴びた直後には何も効果がなかったので、ただの目潰しだと判断して水分を飛ばしただけで済ませたが、それだと成分は残ったままのはず……。

 

「……」

 

 タバサは、呆然とした。

 

 ありえる。

 

 でも、まさか。

 

 いまさら、そんなことって……。

 

「何か、心当たりがあるの?」

 

 ディーキンはタバサの様子の変化を目ざとく見咎めて、そう尋ねた。

 

 タバサは彼から目をそらし、一瞬、このことは言わずにおこうかとも考えた。

 だが、そんな見え透いた嘘が彼に通用するとも思えない。

 結局、小さく頷いて、ぽつぽつと答えた。

 

「……ある。アジトで悪魔が投げてきた、あの液体。……本当にそうかは、わからない、けど……」

 

「ア……」

 

 ディーキンも、はっとした顔になった。

 

 そうだった、何も起きていないように見えたので、それで安心してあのことはすっかり忘れてしまっていた。

 だが既に、《英雄達の饗宴(ヒーローズ・フィースト)》の効果は切れているのだ。

 あれが毒だったとすれば、効果があるうちに体に吸収された分は無効化されたはずだが、もしも薬品の成分がまだタバサの体の表面に残っていたとしたら……。

 それがじわじわと効果を表し始め、今になって影響が目に見え出したということは、ありえない話ではない。

 

 目の前で見ていたにもかかわらず、自分はなんと迂闊だったのだろう。

 

「……そうだね、そうかもしれない。ごめんなさい、ディーキンはもっと注意深くするべきだったよ」

 

「あなたは悪くない」

 

 謝るディーキンに、タバサがそう言って首を振る。

 

「ありがとうなの。……じゃあ、とにかく、呪文をかけるよ。ええと、毒の効果を消すのと、毒のせいで起きた被害を治すのと、それから」

 

「いい」

 

 さっそく呪文の準備にかかろうかとしたディーキンに、タバサはぽつりとそう言った。

 

「……へっ?」

 

「私は……このままでいい」

 

 顔を伏せながらも、しかしきっぱりとそう言ったタバサを、ディーキンはきょとんとした目で見つめた。

 

「イヤ、そんなわけにはいかないでしょ?」

 

「……どうして?」

 

「どうして、って……」

 

 ディーキンは、困ったように頭を掻いた。

 タバサは俯いたまま、ぽつぽつと言葉を紡いだ。

 

「私は、今の自分が好き。たとえそれが薬のせいでも。でも……」

 

 彼女はそこでいったん言葉を切ると、顔を上げてディーキンの姿をじっと見つめた。

 

「あなたは……、私に好かれるのは、迷惑?」

 

 その顔は辛そうに歪み、目はひどく潤んでいて、今にも泣きだしそうに見えた。

 そんな彼女の様子を見て、ディーキンはおろおろする。

 

「ご、ごめんなの。もしかしてディーキンは、タバサに考えなしに、ひどいことを言ったかな……」

 

 タバサは目の端に涙をためて、黙って首を横に振った。

 

「いい。受け入れてもらえなくて、当然だと思う。ただ……」

 

 自分の今の感情が、事実あの時浴びた薬の影響なのかどうかは、よくわからない。

 けれど、彼が真っ先にその可能性を疑ったということは……。

 やっぱり、私みたいな異種族の女を色恋沙汰の相手にするだなんて、彼にとってはありえないことなのだろう。

 

 そんなのは、最初からわかりきっていたことじゃないか。

 

 なのに、どうしようもなく辛くて、悲しくて……。

 絶望のあまり、胸が潰れそうになった。

 

「……ただ、あなたが……。本気にしても、くれない、のが……、悲しく、て……」

 

 タバサの顔がくしゃくしゃに歪んで、潤んだ目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

 それを隠すように両手で顔を覆って、嗚咽混じりの声を漏らす。

 

「お願い……、もう、迷惑は、かけないから。だから、私から、この気持ちだけは、奪わない、で……、っ……、うぅぅ……!」

 

 タバサは、まるで幼い子どもの頃のように泣きながら、そうせがんだ。

 

 今の彼女は、ごく平凡な同年代の少女と同じかそれ以上にも、感情を素直に表に出している。

 それは胸を焦がす恋の炎のためでもあり、また体を蝕み続ける毒素によって判断力が著しく弱まっていたせいでもあった。

 

 ディーキンはしばし言葉を失って、まじまじとそんなタバサの姿を見つめた。

 

 やっぱり、彼女は明らかにおかしくなっている。

 単に恋の熱に浮かされたというだけで、彼女のような女性がこんなにも感情的に不安定になったりはしないだろう。

 なら、彼女がなんと言おうとも無視して治療してしまえば、それでいいのかもしれない。

 今は泣いていても、元に戻ればきっとすぐに落ち着いてくれる。

 

 しかし……、本当に、それでよいのだろうか。

 たとえ今のタバサが心に変調をきたしていようとも、そのおかしくなった範囲の中で真剣に訴えているのは間違いないのだ。

 このままでいたいという彼女の訴えを無視して、自分の選んだ解決法を一方的に押し付けることが、果たしてよい行いだと言えるのか。

 

 自分たちは、もっと時間をかけて話し合うべきなんじゃないだろうか?

 

「……ありがとう。ディーキンは、もっと真剣にタバサの気持ちを受け止めなきゃいけなかったね。どんなに本気で言ってくれてるのか、すごくよくわかったよ」

 

 ディーキンは心をこめてそういうと、ちょっと背伸びをして、タバサの頬に口を触れさせた。

 それから、彼女の手をそっと、両手で包み込むようにして握る。

 

「本当はね、ディーキンもこんなことを言わなきゃよかったのにって、ちょっと思ってるんだよ。タバサが差し出してくれてるものに、飛びついたらよかったのにって……」

 

「え……?」

 

 タバサは顔を上げて、問いかけるように、ディーキンをぼうっと見つめた。

 ディーキンはにっこりと微笑んで、そんな彼女の顔を見つめ返す。

 

「でも……、ディーキンは、タバサの前でいやしい男にはなりたくないの。もしも今のタバサの気持ちが薬のせいだったら、薬の効き目は、いつかなくなっちゃうでしょ? そのときになって、お互いに後悔の残るような終わり方はしたくない」

 

「……それは……」

 

 タバサの瞳が揺れた。

 

 確かに、仮にあれがハルケギニアの惚れ薬と同じような種類のものだったとしたら、その効果は永続的なものではない。

 摂取量や個人の体質の違いなどにもよるが、長くてもせいぜい一年かそのくらいだと言われている。

 

 そうなると、あくまで解除を拒んで、今のこの夢にすがりついたとしても……。

 やはり、夢はいつかは醒めねばならないのだろう。

 

「……だけど、薬のせいなんかじゃない可能性もあるよね? その時は、ディーキンはタバサの気持ちにちゃんと応えるって約束する。ディーキンも、そうだったら本当に嬉しいな」

 

 ディーキンは決して、タバサを丸め込むために口からでまかせを言っているというわけではない。

 

 身体的には、もちろん人間の女性に惹きつけられることはないが、精神的なものはそれとはまた別なのだ。

 異性からこんなにも純粋な愛情をぶつけられた経験はこれまでになかったし、それを嬉しいと思う気持ち、相手を愛おしく思う気持ち、このまま黙って彼女を受け入れてしまいたいという気持ちは、大なり小なりある。

 今のタバサは間違いなくおかしくなっていると判断しながらも、これが彼女の本心であってくれないだろうかと心のどこかで願う気持ちも、本当にある。

 

 ただ、そのような正しくない行為から得た利益を心から喜んで受け入れることはできないし、ボスや仲間たちにも顔向けができない、という気持ちのほうがより強いだけだ。

 

「……本当? 本当にあなたは、そう思ってくれるの?」

 

 すがるような目で自分を見つめてくるタバサの手を、ディーキンはもう一度、力強く握り直した。

 

「もちろん。ディーキンは、こんな時に嘘をついたり、冗談を言ったりはしないよ」

 

 タバサの目を真っ直ぐに見つめながら、ディーキンは言葉を続けた。

 

「それで、もし……、今のタバサの気持ちが、薬のせいだったら。その時は、ディーキンはがんばって、もっといい男になるよ。いつか、薬の力なんかなくても、タバサの心をつかめるくらいにね」

 

「……!」

 

「ディーキンは約束する。だから、タバサにも約束して欲しいの。その時はもう一度、今度こそ本当に好きだって、言ってくれる?」

 

 タバサは、夢を見ているようなぼうっとした心持ちのまま、ディーキンの姿を見つめた。

 

 いつも真っ直ぐで曇りがなく、情熱と希望に満ちて遥か遠くを見ている瞳が、今は自分の方に向けられている。

 自分を言いくるめるためにその場限りのでまかせを言っているのだと疑うには、綺麗すぎる目だった。

 

 タバサはまたぽろぽろと涙をこぼしたが、今度はその目も顔も、歓喜に輝いていた。

 

「うん……。約束、する」

 

 彼女は最後にもう一度ディーキンを腕に抱いて、そっと口付けをした。

 

 彼は照れてもじもじしながらも、嬉しそうに頬を緩めて、自分の方からも軽くお返しをしてくれた。

 その様子には、芝居がかったところも、嫌がる様子も、まったく感じられない。

 

 それを確かめることができれば、もう十分だった。

 タバサは薬の影響を取り除く治療を受けることに、心から同意した。

 

 

 

 ……もちろん、薬の影響から解放された彼女はそれまでの行動や妄想の数々を思い出してしばらく悶絶することになるのだが、それはまた後ほどの話である。

 




フリーダム・オヴ・ムーヴメント
Freedom of Movement /移動の自由
系統:防御術; 4レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(革紐。腕、またはそれに相当する付属肢の周りに結ぶ)
距離:自身あるいは接触
持続時間:術者レベル毎に10分
 この呪文の恩恵を受けたものは、持続時間中、普通なら移動を阻害するような呪文や効果の影響下にあっても、通常通り移動し攻撃することができるようになる。
そうした呪文や効果にはウェブ、スロー、ソリッド・フォッグ、麻痺などが含まれる。
持続時間中、対象への組みつきの判定は全て自動的に失敗する。
また、対象は組みつきや押さえ込みから逃れるための<脱出術>判定に自動的に成功する。
この呪文はまた、対象に水中でも通常通り移動し、攻撃することができる能力も与えてくれる。
アックスやソードのような斬撃武器、フレイルやハンマーやメイスのような殴打武器でも、投擲するのではなく手に持って振るう限りは通常通りに攻撃できるようにしてくれる。
ただし、この呪文だけでは水中での呼吸能力までは得られない。


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第百十二話 My own question

 惚れ薬の一件がひとまず解決した後、タバサは『フライ』の呪文を唱えて『女神の杵』亭へ向かった。

 薬の症状はディーキンの処置によって消えたものの、まだ体表には毒素が残っているかも知れないので、宿の浴場にある湯船に浸かって洗い流してしまうためだ。

 

「…………」

 

 なるべく思い出さないようにしようとはしているのだが、先程までの自分の行為がどうしても頭に焼きついて離れてくれず、相変わらずその頬は赤かった。

 

 ディーキンの治療によって正気に戻った時、その場にいるのが自分だけだったなら、地面をのた打ち回って悶絶していたかもしれない。

 恥ずかしくて彼とまともに目が合わせられず、すぐにでもそこから逃げ出したかった。

 しかし、自分のことで思い悩む前にまずは迷惑をかけたディーキンの足元に身を投げ出して謝るのが筋というものではないかと、回復した彼女の良識が命じたのである。

 

 もちろんディーキンは何も迷惑なことなどなかったといい、後の見張りは自分がやっておくから念のため宿へ戻って体を洗って休んだら、と彼女に勧めた。

 平静な状態でその場にいられなかったタバサは彼のその申し出に飛びついて、そうして今に至るというわけである。

 

 

 

 宿に着いたタバサは、まずは借りている部屋に向かった。

 できれば誰とも顔を合わせたくなかったのだが、着ている服にも毒が浸み込んでいるかもしれない以上、着替えはどうしても必要だった。

 

 寝ている同行者たちを起こさないよう静かに出入りするつもりだったが、やはり精神的な疲弊のせいで注意が甘くなっていたものか。

 荷物の中から着替えを取って、さて部屋を出ようかとしたあたりで、キュルケが目を覚ましてしまった。

 

「ん、……あら、タバサ?」

 

 起こしてしまった以上は仕方がないので、タバサは彼女のほうを振り向いた。

 おそらく戻ってきた理由について何か聞かれるだろうが、適当な説明をして出て行けばいいだろう。

 

 しかし、タバサと目が合った途端、それまで眠そうなぼんやりした顔をしていたキュルケはあんぐりと口をあけて、目を見開いた。

 ややあって、今度はにやにやした顔になると、寝床から出てタバサの傍にやってくる。

 

「何?」

 

「驚いたわ、さっきまでお楽しみだったみたいじゃないの。あなたもなかなかやるわねえ」

 

「……意味がわからない」

 

 タバサは内心ぎくりとしながらも、努めて平静を装ってそう答えた。

 

「あなたねえ……、今の自分の格好に気が付いてないの? 説得力がないわよ、説得力が」

 

 キュルケは呆れたように肩をすくめると、手近の机の上に置いてあった手鏡をタバサに差し出す。

 タバサは、そこに移った自分の姿を見て愕然とした。

 

(これが、私?)

 

 鏡の中には、いつもの落ち着き払った無表情の少女とは似ても似つかない姿があった。

 

 頬は上気しているし、目は赤くなっているし、唇は腫れている。

 着衣は、あちこちにしわが寄って乱れている。

 しかも肌のところどころに、戦いで付いた傷跡とは明らかに違う、甘やかな痛みを連想させる赤い筋が残っている……。

 

「…………」

 

 冷静に考えてみれば、鎖帷子のように硬い鱗で覆われた体に力いっぱい抱きついたり、体を擦り付けたり、唇を押し当てたりしていたら、そりゃあこんな風にもなるだろう。

 しかし、あの後ディーキンがいろいろと呪文を使ったりして治療してくれていた間に、そんな痕跡はもうすっかり消えてしまったものと思い込んでいた。

 いや、薬の効果に侵されていたときには恋情で、それが解けた後には恥ずかしさで頭が一杯だったために、今の今までまるっきりそんなことには気が回っていなかったというほうが正しいだろうか。

 

「どう、わかった? 今のあなたは、どう見ても恋人のベッドから這い出したばかりの姿よ。男と激しく抱き合ったり、何度も口付けを交わしたりした女のそれね……」

 

 キュルケは勝ち誇ったようにそういいながら、鏡に気を取られているタバサの背後に回ると、逃げ出さないようにしっかりと抱きしめた。

 

「さあ、隠さずに教えなさいな。その格好からすると、ディー君はああ見えてなかなか激しい男だったみたいじゃないの。それとも、実は激しかったのはあなたの方だとか?」

 

「違う。違うから」

 

 タバサはかあっと顔を赤くすると、彼女から逃げ出そうとしてじたばたともがいた。

 

「あら、あんまり騒ぐとルイズたちまで起きちゃうわよ? まあ、あなたがみんなにも惚気て回りたいっていうのなら、話は別だけど」

 

「……!」

 

 タバサはキュルケにそう指摘されて、観念したように大人しくなった。

 他の同行者たちにまで今の自分の格好を見られて、あれこれと詮索されたのではたまらない。

 

「……わかった、浴場で話す。でも、絶対に秘密にして」

 

 

 ここハルケギニアでは、平民はサウナ風呂に入って水で汗を流すのが一般的だが、貴族には湯船に浸かる習慣があった。

 トリステインの魔法学院にも、使用人用のサウナ小屋とは別に、学生や教師が使用するプールのように広い大理石の浴場がある。

 

 貴族御用達の宿である『女神の杵』亭にも、当然ながら宿泊客用の大浴場が用意されていた。

 温泉から湯を引いた、ごつごつした石でできた趣のある広い湯船である。

 ここは24時間いつでも入浴することができるのだが、さすがにこんな時間には他の利用者はいないようだった。

 

 タバサは湯を汲んで入念に自分の体を洗い流してから湯船に浸かり、同行してきたキュルケにぽつぽつと事情を説明していった。

 

「はあ……、惚れ薬、ねえ」

 

 キュルケは興味深そうに話を聞き終えると、にやっと笑った。

 

「私もその場にいたかったわね。ディー君の胸で素直に泣くあなたは、どんなにか可愛かったでしょうに」

 

「……」

 

 タバサは微かに頬を赤らめてキュルケを軽く睨むと、杖でぽかりと彼女の頭を叩いた。

 たとえ入浴する時でも、用心深い彼女は杖を手放さないのだ。

 

 常に携行するにはこのような長杖よりもキュルケやルイズも使っているような短杖の方が便利なのだが、彼女はこの杖にこだわっている。

 それはこの杖が先祖から代々受け継がれた優れた逸品であり、長年愛用して扱い慣れた最も自分に合ったものであるからだった。

 持ち運びの容易さよりも、いざという時に最大のパフォーマンスを発揮できることの方が生き残るためには大切だ。

 それに何よりも、これは今は亡き父から譲り受けた、大切な形見でもある。

 

 そんな大切な杖を、あの忌まわしい毒に侵されていた先程の自分は、知らぬ間に放り出してしまっていたわけだが……。

 

「あいたた、照れちゃって。……まあ、ディー君と仲が深まったようでよかったじゃないの」

 

「よくない。あの人に、迷惑をかけた」

 

「あら。だって、ディー君も嬉しいって言ってくれたんでしょう?」

 

「……気を遣わせた」

 

 かたくななタバサの態度を見て、キュルケは苦笑した。

 ディーキンとの約束のくだりを話していた時の目の輝きと上気した頬からして、彼女の本心は明白だ。

 

(まったく、素直じゃないわねえ)

 

 あの子が気遣いだけでそう言ったわけじゃないって、そうであってほしいって、あなただって思っているんでしょうに。

 だけど初心だから、自分がそんな期待をしているって認められないのね。

 

「あなたらしくて、微笑ましいけど……」

 

 キュルケは先程運んだシエスタの呟きを思い出して、一言忠告しておくことにした。

 彼女とも親しくはしているが、なんといってもタバサは親友である。

 

「どうやらあの子に気があるのは、あなただけでもないみたいだし。いつまでもそんな遠慮した態度だと、せっかく掴みかけた男を取り逃がすかもしれないわよ?」

 

 それを聞いたタバサの眉がぴくりと動いたのを、キュルケは見逃さなかった。

 

「……誰のこと?」

 

「さあ? それは秘密よ」

 

 キュルケはタバサが不満そうに軽く睨んでくるのを、にやにやと意地悪そうに微笑みながら受け止めた。

 

「ほら! 今、危機感を感じてたみたいじゃないの。もう明らかね」

 

「……何ひとつ明らかじゃない」

 

 キュルケはどこまでも意固地な親友の返答を聞いて、肩をすくめた。

 

「まったく……、もうっ」

 

 相手のために何ができるだろうかとか、迷惑にならないだろうかとか、そんなことをいつまでもうじうじ思い悩んでいると臆病になって、恋の熱も逃げてしまうのだ。

 小賢しい思慮分別だの保身だののために真剣に恋に向き合えなくなるなんて、自分の気持ちと好きになった相手に対する冒涜である。

 好きならまずは押し倒して口説き落とし、細かいことはそれから考えろというのが、キュルケの恋愛持論であった。

 

(トリステインの気取り屋たちといい、あなたといい、ちょっとお堅すぎるのよね)

 

 もっとも彼女自身は、そうやって自分の気持ちをよく確かめる間もなく性急に行動するせいか、恋の微熱が冷めるのも早い。

 

 キュルケはとうの昔にそんな自分のあり方を受け入れ、ずっと続く恋にいつか巡り合いたいとは思いながらも、それを一時の微熱であり娯楽であるものと割り切ってもいた。

 別にディーキンとタバサにそのうち別れてほしいとか思ってるわけではないが、あまり深刻に考えていない面は確かにある。

 永続的なものだとは思っていないからこそ、異種族同士だとかいったこともさしたる問題とは考えておらず、ちょっと背徳的で刺激的な冒険くらいにみなしているところがあるのだった。

 

 そうやって親友が男をとっかえひっかえする姿を近くで見ていたタバサとしては、彼女の言葉を鵜呑みにはできないのも無理からぬこと。

 彼女は、以前に恋をしたらどうかとタバサに勧めた時に、こんなことを言ったものだった。

 

『恋はいいわよぉ。なにせわくわくして、どきどきして、時には夜も眠れなかったりしてね。それで、相手を夢中にさせて、いらなくなったらポイ、ってね!』

 

 言うまでもなく、タバサはディーキンと恋仲になるというような話を、そのように軽々しくは取り扱えない。

 大体、彼はただ好きな相手というだけではなく、生涯仕えると誓った大恩人であり、自分の勇者だと信じ敬っている相手でもあるのだから、そんな扱いは不敬にもほどがある。

 

 たとえそうでなくても、キュルケが勧めてくるような“恋”など、タバサにはとても無理だ。

 愛情深く気品のある両親から大切にされて育った彼女にとっては、恋や愛とは原則として生涯続くべきものである。

 もちろん、そうでない例も多いということを博識なタバサは様々な書物などを読んで知っているし、そういったことを必ずしも否定しているわけでもない。

 今のキュルケのような生き方に対する憧れも、ないわけではない。

 だがそれでも、自分自身の幼い頃の体験から、いつまでも愛し合う夫婦、慈しまれる子供、幸せな家庭こそが本来あるべき理想的な姿だと、心の深い部分では信じている。

 したがって、永遠に続かないことを前提にした交際や情交などを、気軽に楽しめるようなタイプでは根本的にないのだった。

 

 それにタバサは、この親友が男の扱いについて詳しいのは確かであるにしても、はたして自負しているほどに恋に詳しいかどうかは疑問だとも思っている。

 キュルケは、実のところ正真正銘の大恋愛と呼べるようなものを経験したことはまだないのではないか。

 彼女の場合、ちょっと素敵な異性に惹かれただけですぐに恋だと考えて性急に深い仲になろうとするから、大きく育っていない愛情が激しい扱いに耐えかねて萎れてしまうに違いない。

 

(いつか本当に深く愛せる相手に巡り合ったなら、あなたもきっと、それ以外の男と付き合おうとは考えなくなるはず)

 

 一見奔放に見える彼女だが、実のところ愛してもいない相手と寝床を共にするような女性では決してないことを、タバサは知っていた。

 彼女はいつだって、その時点では本当に愛しているのだろう。

 ただ、その情熱が一時的なものか、長続きするものかを、ちゃんと見極めることができていないのだ。

 

「……ま、いいわ。とにかく、せっかくディー君が振り向いてくれたんだから、あなたはそれとしっかり向き合わなきゃ駄目よ。約束したんでしょ?」

 

 そんな親友の内心など露知らず、キュルケは最後にそう釘を刺すと、ひらひらと手を振って先に風呂から上がっていった。

 部屋に戻って、朝までもう一眠りするのだろう。

 

 

 

「ふう……」

 

 ようやく一人になったタバサは、小さく溜息をつくと、あらためて今日の出来事を思い返してみた。

 

 赤面せずにはいられないような行動を、たくさんしてしまった。

 大切な恩人にも、また迷惑をかけた。

 

 それでも、恥ずかしくていられない気持ちと同じくらい強く、嬉しい気持ちもあるのはなぜだろう?

 忌まわしい衝動を自分に吹き込もうとしたあの薬を、強く憎む気になれないのはなぜ?

 

「……薬の影響の、名残?」

 

 タバサは気持ちを落ち着かせるために目を閉じて、大切な杖を握りしめてみた。

 だが、目蓋の裏に先程のディーキンの姿がちらつき、彼の声が頭の中に響いて、余計に胸の高鳴りが大きくなる。

 

「…………」

 

 タバサは気持ちを落ち着けるのを諦めて、軽く湯船に身を沈めると、自分の唇をそっとなぞってみた。

 

 そこには、熱い感触がまだ残っている。

 自分が彼の肌に、そして唇に押し当て、彼がそれに答えてくれた部分が、未だに焼けつくような痛みにも似た熱さを放っていた。

 この痛みは、明らかにただ唇が痛んで腫れているからというだけではあるまい。

 

 それを意識したとき、顔がかあっと熱くなったのは、羞恥心のためか、喜びのためか。

 はたしてどちらの感情の方が、より強かったのだろうか……。

 

「私、は……」

 

 やっぱり、キュルケの感じていたとおり、彼のことが元から好きだったんだろうか?

 

 薬の影響はなくなったはずなのに、自分の胸の内は、以前のように冷えたものには戻らなかった。

 もちろん、先程のように激しく不安定な、荒波のような揺れ動きはない。

 それでも、彼のことを意識すると、僅かに胸が締め付けられるような、高揚するような……、確かな感情の揺らぎが起こるのを感じる。

 

 自分を説き伏せるための言葉だとしても、あるいは気遣いから出た言葉だとしても、彼が約束してくれたのは確かだ。

 それに、彼はあんな状況で口から出まかせを言うような人ではないはず。

 だから、今でも好きなのであれば……。

 

「……焦っては、駄目」

 

 タバサは、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

 

 単に、薬の影響があまりに強かったから、その時の感覚がまだ残っているだけなのかもしれない。

 あるいは、薬の影響下でしてしまった行為の恥ずかしさを忘れようとして、彼に本当に恋慕したように思い込んでいるのかもしれない。

 無意識にそんな思い込みをした女性の話を、本で読んだ覚えがある。

 

 いずれにせよ、早計な結論を下しては駄目だ。

 

 今すぐにでも、もう一度彼のところに戻って話をしてみたい。

 その胸にもう一度飛び込んでみて、今度はどう感じるか、自分の気持ちを確かめてみたい……。

 そんな想いも、ないわけではない。

 キュルケの思わせぶりな言葉も、まったく気にならないといえば嘘になる。

 だが、今しばらくは時間を置いて気持ちが落ち着くのを待ち、はっきりと自分の想いを確かめてからでなくては、彼に対して失礼というものだろう。

 

 それで、もし……。

 それでも間違いがないと確信できたなら、その時は……。

 

(その時こそは、私はもう迷わない)

 

 タバサは何かに誓いを立てるように、ぎゅっと自分の胸元を押さえながらそう考えた。

 それから、静かに湯船から上がってもう一度体を流すと、浴場を後にしてパジャマに着替え、自分も寝床に入ったのだった。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「ウーン……」

 

 その頃ディーキンは、ぼんやりと見張りをしていた。

 

 おそらく今夜はもう何も起こらないだろうが、それにしても注意力が散漫になっている。

 睡眠時間は少々足りていないが、先程のタバサとのやりとりですっかり眼が冴えてしまったので、別に眠いというわけではない。

 ではなぜ注意力が散漫なのかと言えば、考え事をしているからだ。

 

 その考え事の内容はというと、それはやはり、先程のタバサとのやりとりについてであった。

 

 もちろんあれは薬のせいだったのだから、もう気にしなくてもよいのだろうが……。

 異性からあんな風に情熱的に愛情を告白されたのも、それに真剣に答えようとしたのも、どちらも初めてのことだったのだから、そう簡単に忘れることはできない。

 自分の発言を今思い返すとなんだか無性に恥ずかしかったり、でも真剣に答えたんだから恥じるところなんかなにもないと胸を張るべきなんじゃないかと思ったりと、どうにも複雑な気持ちだった。

 

(ンー、タバサとディーキンが、かあ……)

 

 人間と、コボルド。

 

 そんなことは、およそ考えてみたこともなかったが。

 実際のところ、はたしてどんなものなのだろうかと、ディーキンは自分なりに真面目に検討してみた。

 

 

 

 フェイルーンのコボルドは概して野蛮な種族だと言われるが、決して愛情に欠けているわけではない。

 

 彼らは何よりも自分たちの種族の幼子を愛し、それを育むことに大きな力を注いでいる。

 若者たちの歩むべき人生の手本として扱われることこそが、成人したコボルドにとって望みうる最高の名誉であるとされているほどだ。

 コボルドには自分の種族と部族とをより大きく発展させたいという強い衝動があり、それに貢献できるものを何よりも愛している。

 だから、子供の次に彼らが愛しているのは仕事である。

 

 その一方で、個人と個人の間の愛情、すなわち友愛とか恋愛とかいったものは、確かにあまり重んじられてはいない。

 

 コボルドは秩序だった全体主義的な種族であり、大半のコボルドは他の特定の個人との間にどんな種類の強い絆も築くことのないまま、それでも十分に満足してその一生を終えることができるのだ。

 コボルドは自分の属する部族全体を、そして種族全体を重んじているが、それに属する個人のことはほとんど重要視していない。

 山さえ存在し続けるのなら大事はないのであって、それを構成する砂の一粒一粒になど、誰がいちいち注意を払おうか?

 

 そうはいっても、彼らにももちろん個人的な愛情を覚えることはあるし、異性に惹きつけられもする。

 しかし、その衝動には概して種の保存と繁栄という、本能的な義務感が伴っている。

 それに従って彼らは定期的に交配し、その際には出産を確実なものとするために、男女双方のコボルドができるだけ多くの異性と交わろうとするのだ。

 そこには個人の感情など必要ないし、事実コボルドは人間のような種族とは違って、異性間の交配と個人的な愛情とをことさらに結びつけて考えたりはしない。

 一緒に交配を行うのは、一緒に食事をしたり一緒に仕事をしたりするのと同じ程度の感覚でしかないのだ。

 

 ただ、ごくまれに真に愛情と呼びうるようなものが生じた場合には、それが友愛であれ恋愛であれ、穏やかながらも強く深いものになる傾向がある。

 そう言うとコボルドのような野蛮な種族がと他種族は懐疑的な目で見ることが多いが、それは事実であるし、特に不思議なことでもない。

 政略結婚だとか、義理の上での付き合いだとかいったような概念とはほとんど無縁であるコボルドが、打算でそんな結びつきを求めることはまずないからだ。

 別段必要とされない絆をあえて求めるからには、その愛情は当然それだけ強く深いものでなくてはならないし、交配などの本能的な欲求とは結びついていないのだから、精神的で純粋なものになるのも自然なことである。

 

 一般的にコボルドの恋愛感情は、同じ職場で働く2人の間に生じることが多い。

 他のコボルドに愛着を覚えたコボルドは、まずは相互に敬意を表し合い、部族のために共に働いて生産性を高めようとする。

 同じ仕事に就いているコボルドは頻繁に顔を合わせるので、互いに一緒に働く方が一人でするよりもよさそうだと気が付きやすいのだ。

 そうして頻繁に共同作業をしているうちに、次第に愛情が深まっていくのである。

 コボルドは何と言っても勤勉で仕事を愛しているから、職場が違うと深い仲になる機会はほとんどない。

 

 確かな愛情の存在を認め合った男女は、最終的には互いに奉仕し合い世話をし合う、互いの“選ばれたもの”になる、という宣誓をすることで、人間などの種族でいうところの夫婦となる。

 

 ただしそういった宣誓をしても、どちらの性別も交配本能によって依然として支配されているために、互いに長期間離れているとそれらの影響に屈する可能性が高い。

 とはいえ、交配はコボルドにとって感情的な価値をほとんど持っていないので、そのような婚外交渉がカップルの間に摩擦を生じさせることはない。

 もっというなら、コボルドはお互いの間に確かな愛情があるのであれば、他の誰かとも同じような関係を持っていてもあまり問題だとは考えないので、一夫一婦制といったような概念もほとんどない。

 

 

 

 ディーキンは自由と個性とを重んじており、一般的なコボルドの社会にはついに馴染めなかった異端児であるが、そんな彼もやはり、種族の習慣や考え方と完全に無縁ではなかった。

 

 だから、タバサが思い悩んでいた自分と彼とは異種族だというようなことは、ディーキンの側にとっては実のところ、さほど大きな問題ではない。

 コボルドは元より繁殖のために伴侶を求めるわけではないのだから、彼からしてみれば好意を持った相手が異種族であっても……、もちろん風変わりだとは思うものの、本質的にはさして重要なことではないのだ。

 

 大切なのはあくまでも、そこに確かな愛情があるのかどうか、である。

 

(でも……、タバサはそうは考えないよね、きっと)

 

 正直なところ、人間の社会のそういった面については自分とは関係のないことだと思っていたので、未だによく理解できていない部分もあるし、あまり詳しいとも言えない。

 それでも、一般的な人間の社会では伴侶を得ることと繁殖をすることとが強く結びついているのだということくらいは、ディーキンも学んで知っていた。

 

 人間は妊娠期間が長期に渡り、母体への負担も大きく、しかも一度に生まれる赤子は普通は一人だけだ。

 そうなると、短期間でたくさんの卵を産めるコボルドとは違って、誰とでも気安く交わったりはしないのも当然のことだろう。

 人間が出産目的で交配する相手は普通は伴侶に選んだ特定の異性だけで、したがって人間にとっては、伴侶を得ることと赤子を得ることとの間には強い結びつきがある。

 伴侶を得るということはコボルドの社会では一種の贅沢なのだが、どうやら人間の社会では義務に近い感覚でとらえられているようだ。

 実際は必ずしもそうではないだろうが、伴侶を迎えて初めて一人前だというような考え方も根強くあるらしい。

 

 さらに、多くの社会では一夫一婦制で、生涯で一人の異性しか伴侶に選ばないケースが大半であるのだという。

 そうなると自分を相手に選ぶということは、タバサにとっては非常に重大な決断であっただろうことが容易に想像できる……。

 

「……アア、ディーキンはなんで、こんなことを考えてるのかな……?」

 

 あれは結局薬のせいだったんだから、こんなことを考えていても仕方がないだろうに。

 薬の影響から脱した後でなお、彼女がそんな道を選ぶとは思えない。

 彼女はおそらく、しばらくして落ち着いてから、あの夜に約束したことは薬のせいなので忘れてほしいと言ってくるに違いない。

 

 とはいえ万が一の場合には、彼女とそのあたりのことも含めて、よく話し合う必要が出てくるだろう。

 そうならなければいいような、そうなってほしいような……なんとも妙な気分だった。

 

(……えーと。とにかく、いつまでもそのことばっかり考えてないで、他のことも考えないとね)

 

 ディーキンはなんだか気恥ずかしくなってきたのもあって、ひとまずその考えは打ち切ることにした。

 気持ちを切り替えて、今度はアルビオンへ渡った後のことや、デヴィルの脅威にどう対抗するべきかといったような事柄についても検討していく。

 

 朝になったら、一般の客船に乗ってアルビオンへ向かう、というのが当初の計画だったが……。

 街中で聞いて回った情報では、アルビオンの王党派は相当切羽詰まった状況に追い込まれているらしいし、一刻も早く向かった方がいいかもしれない。

 今、自分の手元には《限られた望み(リミテッド・ウィッシュ)》の指輪がある。

 これを使えば、これまでは費用対効果の関係などで気軽に使うわけにはいかなかった呪文もアイテムを消費せずに使えるから、上手くやれば直接アルビオンへ乗り込むことも可能だろう。

 もしも既に自分たちがデヴィルに警戒されているとしたら、客船に乗っていけば乗客にまで迷惑がかかるかもしれないし、危険も増える。

 検討してみる価値はあるかもしれない。

 

 タバサの話によると、どうも彼女が浴びた薬はこの世界の惚れ薬を元にしたものではないかということだった。

 そうだとすると、デヴィルはこの世界のマジックアイテムをよく研究し、有用なものを取り入れたり改変して用いたりするような段階にまでなっているのだ。

 どれほどの戦力があるのかわからないが、少なくとも自分たちだけで正面から全面対決などをして勝てるとは思えない。

 アンリエッタ王女らとも知り合えたのだから、こちらも国を味方につけてデヴィルらの情報を伝え、対策を助言などして戦力を整えた上での対決という手もないではないが、大規模な戦力のぶつかり合いを選択すれば犠牲は大きくなる。

 敵の頭を直接たたくか、何とかしてデヴィルをこの世界から追い出す方法がないかなどを検討するか……、とにかく慎重に、そしていざ行動に移すと決めた時には迅速にやらねばなるまい。

 なんにせよ、アルビオンでももっと情報を集めなくては。

 

 

 

 ――そんな風にあれやこれやと考え込んでいるうちに、夜は明けていった……。

 

 

 



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第百十三話 Blind obedience

 惚れ薬の騒動があった夜が明けた、翌日の朝。

 旅の一行は、『女神の杵』亭の大部屋に全員で集まって《英雄達の饗宴(ヒーローズ・フィースト)》による朝食に舌鼓を打ちながら、今後の行動について打ち合わせを行っていた。

 

 その席では、まず第一にタバサに皆の注目が集まった。

 彼女がなぜか普段の学生服ではなく、簡素ながらも品の良い小奇麗な私服を着て出席したからである。

 別にそのくらい大したことではないといえばないのだが、同行者の多くは、これまで彼女が私服を着ている姿などは見たことがなかった。

 彼女は寝るときにパジャマを着たり、学校行事の舞踏会でドレスを着たりしていたほかは、どんな時でも制服を着ていたはずだ。

 

 そのことについて質問された彼女は、簡潔に答えた。

 

「出かけたり見張りをしたりして汚れたから、着替えた」

 

 まあ、嘘というわけではないのだが……。

 実際のところは、制服にはまだ惚れ薬の成分が残っている恐れがあるので念のために後日しっかりとクリーニングするまでは着ないようにして、必要になった場合に備えて持ってきていたこの服を着ることにしたのである。

 もちろん学院の方に予備の制服は何着か持っているが、この旅には持ってきていなかった。

 同じ服を何着も持っていくよりも、状況に応じて違う格好に着替えられる方が有用だろうと考えていたからだ。

 

 キュルケは何をどう解釈したものか、「そりゃあ、お洒落な格好をしたくもなるわよねえ」などと親友の耳元で囁いてにやにやしていた。

 

 薬のことはあなたも知っているはずだろうと、タバサは彼女を軽く睨んだ。

 だが、自分がこの服に着替えてからしばらく鏡の前に座って、服装に似合う髪型を試行錯誤していたのを思い出すと、きまり悪そうにぷいと視線を逸らせる。

 結局は、髪が短すぎてどうやってもちっともきれいに見えないので馬鹿馬鹿しくなり、「そもそも頭髪なんてものを持たない種族が、人間の髪型なんかを気にするわけがない」と割り切っていつも通りにしておいたのだが。

 

「タバサ、きれいだね。すごくよく似合ってるの」

 

「……! ありがとう……」

 

 ディーキンに賞賛の言葉をかけられた彼女は、たちまち頬を微かに染めてはにかんだ。

 といっても、キュルケには見て取れる、という程度の変化だったが。

 

(ほんと、わっかりやすい子だわ~)

 

 キュルケは、そんな2人の様子を脇のほうから微笑ましげに見つめていた……。

 

 

「……それで、聞いた話では、王様たちの軍隊はニューカッスルっていうところで包囲されて苦戦してるらしいの。だから手遅れになる前に、まずはそっちに行かなきゃいけないと思うんだけど……」

 

 ディーキンは食事を摂りながら、そう言ってフーケの方を向いた。

 

「ロングビルお姉さんは、そこまでどういったら一番よさそうか、わかる?」

 

「ええ、おそらく」

 

 話を振られたフーケは、ひとつ頷くとアルビオンの地図に指を走らせながら説明していった。

 

「船はスカボローの港につきますから、こちらの方に進んでいけば近いですわね。馬で一日と言ったところでしょうか。ただ……」

 

「ただ……なんですか?」

 

 言い淀んだフーケに、ルイズが尋ねる。

 

「はい。港町はおそらくスカボローも含めてすべて反乱軍が押さえているでしょうし、ニューカッスルの城は大陸から突き出た岬の突端にありますから、どうやってもそこを包囲している軍の陣中を突破していかなくてはならなくなるかと」

 

 それを聞いた全員が、難しい顔をして考え込んだ。

 

「ううむ、それは難しそうだな……。時間をかけて、なんとか敵の薄いところを探して……」

 

「ですが、ミスタ・グラモン。アルビオン軍が既に岬の端まで追い詰められているのであれば、一刻の猶予もない状態のはずです。急がないと手遅れになります!」

 

「そうね。それに、包囲の薄い場所なんて都合よく見つかるものかしら。闇討ちに気を付けながら、包囲戦をなんとかすり抜けるしかないわ。反乱軍も、他国の貴族に公然と手出しはできないはずよ」

 

 ギーシュ、シエスタ、ルイズが、口々に意見を出していく。

 しかし、コルベールやキュルケは難色を示した。

 

「危険過ぎる。殺気だった敵兵は、相手の身分など気にも留めずに襲い掛かって来るかもしれん。戦場は、理性を狂気が圧倒するところだ」

 

「他国の貴族だろうが、王族だろうが、殺して埋めてしまえばそれきりだもの。あてにはならないわよ」

 

 そこで、それまでじっと聞いていたタバサが口を開いた。

 

「……あなたには、なにか考えがある?」

 

 そう言って、ディーキンの方を見やる。

 おそらく彼には、今回もなにがしかの手があるのだろうと信じていた。

 

「ウーン、気付かれずにお城まで行くことは、できなくはないと思うけど……」

 

 ディーキンはちょっと首を傾げて考え込んだ。

 

「……でも、それで本当に安全かどうかは、ちょっと心配かな」

 

 例えば、全員で透明化して空を飛んでいくとか、影界を通っていくとか、敵の囲みをすり抜ける方法はいろいろと考えられるだろう。

 ただ、敵の軍隊にデヴィルが混ざっているとすれば、そのような手段を用いても看破される恐れはゼロではない。

 自分一人で行くならまだしも、人数が多くなればそれだけ誰かが見つかるリスクは高まる。

 

 それよりも、先程の見張りの間に考えていた、船を使わずに直接目的地へ行く方法を本格的に検討すべきかもしれない。

 

「ねえ、ロングビルお姉さん」

 

「はい?」

 

「お姉さんは、ニューカッスルのお城に行ったことはあるの?」

 

「え? ……ええ。ありますが……」

 

「じゃあ、そのお城についてもう少し詳しく教えてほしいの。それと、もしかしてその場所の様子を描いた絵とか、最近までその場所にあった物とかがあったら、それも貸してもらえない?」

 

 ディーキンは、《限られた望み(リミテッド・ウィッシュ)》の指輪を用いて《場所の念視(スクライ・ロケーション)》の呪文を再現し、しかる後に念視したニューカッスル城へ向けて直接《瞬間移動(テレポート)》の呪文で飛ぶのがおそらく最善だと考えたのである。

 ウェールズ皇太子か誰か、その場にいるであろう人物を《念視(スクライング)》して瞬間移動するという方法もあるが、話に聞いた程度で特によく知らない人物が相手では、呪文が抵抗されて失敗してしまう可能性が高くなる。

 それに比べて場所に対する念視は、事前にある程度詳しく聞いておいたり、その場所に由来する何らかの物品を用意したりしておけば、失敗の可能性を限りなく低くすることができるのだ。

 

 ディーキンは怪訝そうにしている同行者たちに、自分が試みようとしていることを詳しく説明していった。

 事前に呪文の性質について知らなければ、成功率を上げるために有用な情報や物品を、不必要だろうと判断されて省かれてしまう恐れがあるからだ。

 

「相変わらず、便利な呪文が次々に出てくるのね」

 

 私もそのうち同じような呪文が使えるようになったりするのかしら、などとルイズが呟く。

 

「なるほど……。それでしたら、役に立ちそうなものに心当たりがありますわ」

 

 フーケはそういって席を立つと、早速その品物を用意しに出かけていった……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 一方その頃、浮遊大陸アルビオンにある貴族連合『レコン・キスタ』の司令部では、総司令官クロムウェルが連絡士官から戦況についての報告を受けていた。

 

 クロムウェルは年のころ三十代の半ばで、丸い球帽をかぶり、緑色のローブとマントとを身に着けていた。

 高いわし鼻と理知的そうな碧眼をもち、帽子の裾からはカールした金髪が覗いている。

 一見すると、司令官というよりは聖職者のような雰囲気だった。

 

 それもそのはずで、この男はつい数年前までは、平民出身の地方の一司教にしか過ぎなかったのである。

 この場に居並ぶ誰よりも……、それこそ、扉に控えた衛士よりも、なお身分が下だったのだ。

 

「閣下、先程ニューカッスル方面軍より連絡が入りました。明日の正午に攻城を開始する旨、確かに王党派の者どもに伝達したとのことであります!」

 

 それを聞いたクロムウェルは、感極まったように手を打ち合わせて、椅子から立ち上がった。

 

「そうか、そうか! 明日は記念すべき日になるだろう。ついに我らレコン・キスタは、堕落した王族に代わってこのアルビオンを治め、聖地の奪還へ向けた本格的な一歩を踏み出すことになるのだ!」

 

 クロムウェルがそう宣言して拳を振り上げると、その場に居並ぶ将兵たちがどっと歓呼の声を上げる。

 

「革命万歳!」

 

「神聖アルビオン共和国万歳!」

 

「新たなる我らの皇帝、クロムウェル閣下万歳ッ!」

 

「始祖に栄光あれ!」

 

 …………

 

 ……

 

「うむ、うむ。なんとも素晴らしく、そして輝かしい日だ!」

 

 クロムウェルはにっこりと笑って満足げに頷き、自分の座る高座の傍らに控えた女性たちに目をやった。

 

 その女性たちの体はまるで彫像のように均整のとれた堂々たるもので、露出の多い衣服と部分鎧とを身にまとっている。

 その隙間から見える肢体は逞しく、それでいて美しく透き通った肌には染みひとつない。

 背中からは純白の羽毛に覆われた大きな翼が生えているが、非人間的なその特徴でさえ、彼女らの美しさをまったく損なってはいない。

 単なる翼人だなどとは思えず、まるでヴァルハラの戦乙女か神の御遣いである天使かと思わせるような姿であった。

 

 事実、彼女らは自分たちのことを、聖戦のために始祖より選ばれたクロムウェルの元に遣わされた天使であると主張している。

 実際にその姿を見、その不可思議な力の一端に触れた将兵たちは、多くが最初の懐疑的な態度を改め、今では彼女らの言葉を真実であると信じていた。

 彼女らの後見を受けたクロムウェルこそが、始祖に祝福された真の『虚無』の使い手であるということも、同様に。

 

「彼らのこの姿を御覧になって、聖地奪還の使命を託された始祖ブリミルも、さぞやお喜びのことでありましょうな?」

 

 玉座の左右に立つ2人の女性は、彼の問いかけに対して魅惑的な笑みで答えた。

 それから、芝居がかった調子で口々に、うっとりするような甘い祝福の言葉を述べていく。

 

「愛おしく頼もしきクロムウェルよ。そして、勇ましき兵たちよ。我らの主は、もちろん、あなた方の行いに大変満足しておられますよ」

 

「その通りです。主は、いずれ必ずや、その行いに相応しい報いをあなた方にお与えになることでしょうね」

 

 それを聞いて、将兵の歓呼の声がまた一段と大きくなった。

 

「光栄です、天使たちよ」

 

 クロムウェルがかしこまって2人に御辞儀をすると、玉座の背後に影のように控えていた別の女性が、ごく短く事務的に祝辞を述べた。

 

「おめでとうございます、閣下」

 

「おお、ありがとう。ミス・シェフィールド」

 

 それは冷たい妙な雰囲気を漂わせた、二十代半ばぐらいの女性であった。

 細い、ぴったりとした黒いコートを身にまとっているが、このあたりでは見慣れぬ奇妙な出で立ちだ。

 司令官の傍らに控えているあたりからすればそれなりの地位にある人物なのだろうが、貴族の地位を表わすマントを身につけていない。

 

 このシェフィールドと呼ばれる女性は、いつの頃からかクロムウェルの傍に付き添い、彼の秘書として働いていた。

 だが、彼女の出自については、将兵たちの誰も確かなことは知らない。

 正体不明の、謎めいた女性であった。

 

「では、あなた方の活躍を見届けるために、決戦の折には私どもも戦場へ赴くといたしましょう」

 

「あるいは敵軍の中にも、最期を目前にして我らに従う道を選ぼうとする者がいるやもしれませんからね」

 

 天使たちはそう言って高座の傍を離れると、将兵たちの前に降り立った。

 そして、厳かに宣言する。

 

「我らが主の意志に従う、勇猛にして賢明なる兵たちよ。我らはあなた方と共にあります。信心深き者の前では、我らは常に、優しい守護者として振る舞うことでしょう!」

 

「そして、正しき道から外れた王族、主を信じぬ者たち。彼らの前では、我ら御遣いは炎の目をした破壊者として現れ、終わることのない血の渇きと死とをもたらすことでしょう!」

 

 おお、と、将兵たちの間から畏怖の声が漏れる。

 

「さあ。あなた方は明日、我らと共に不信心者どもを滅ぼすのです!」

 

「しかる後に、我ら御遣いは、あなた方忠良なる民の魂を余すことなく我らが主の元へといざないましょう!」

 

 天使の鼓舞と約束の言葉を受けて、再び熱狂的な歓呼の声が謁見の間に轟いた……。

 

 

「忌々しい……」

 

 誰の目もない私室に引き上げたシェフィールドは、憎々しげに顔を歪めながらそう吐き捨てた。

 

 シェフィールドは、あの連中が天使などではなく、その正体は悪魔……、デヴィルであるということを知っていた。

 なぜなら彼女の正体は、レコン・キスタの革命を密かに仕組んだガリア王ジョゼフの使い魔であり、あらゆるマジック・アイテムの性質を理解してその性能を最大限に引き出せる『神の頭脳』ことミョズニトニルンなのである。

 ジョゼフこそが真の『虚無』の担い手であり、クロムウェルはただ、司教時代に見せていたその優れた演説の才を買われて彼に選ばれた傀儡に過ぎない。

 クロムウェルが時折立てる優れた作戦も、彼が『虚無』と称して揮う力も、すべてはジョゼフが忠実な腹心であるシェフィールドを介して彼に授けたもの、ないしはあの偽天使どもの発案によるものだった。

 レコン・キスタの背後には神の加護などなく、あるのは彼女の主君の気紛れと悪魔の陰謀だけである。

 

 とはいえ、そんな紛い物の天使ととるに足らぬ傀儡に従った愚かな神軍気取りどもの行く末などは、彼女にとってはどうでもよいこと。

 彼女が苛立っているのはただ、愛する主君であるガリア王ジョゼフの身を案じてのことだった。

 

 心を震わせるような余興を求める彼の望みを叶えてやろうと、彼女はこれまでずっと、彼に献身的に尽くし続けてきた。

 ジョゼフにまとわり憑くデヴィルたちについても、その存在を不快には感じていたものの、彼らの提供するものが主を喜ばせているからこそ許容した。

 彼女の愛する主君は、どれだけ多くの人が死ぬところを想像しようと、世界が破滅するところを思い浮かべようと、自分は何の感慨も抱けぬと常々こぼしている。

 彼にとっては、悪魔によって世界が滅びようと、自分の魂が破滅しようと、大した問題ではないのだろう。

 主にとってデヴィルどもはいささかでも心を震わせてくれるかもしれない様々な娯楽を提供してくれる便利屋であり、一方で連中にとって主は有能かつ稀に見るほど都合のよい駒であるのに違いない。

 ジョゼフもそんなことは百も承知の上で、ただ、いくらかでも虚ろな心を刺激してくれる危険なゲームとしてそれを楽しんでいるのだ。

 

 そしてシェフィールド自身も、主と同様、他の人間や世界のことなどは、正直言ってどうでもよかった。

 たった一人を除いては、だが。

 

 デヴィルがアルビオンの王族やレコン・キスタの連中を破滅させようが、トリステインやゲルマニアを滅ぼそうが、シェフィールドの知ったことではない。

 それどころか、現在彼女が仕えているガリアを滅亡させようと、生まれ故郷である東方(ロバ・アル・カリイエ)の地を侵略しようと、それでも許容できぬというほどのことはないのだ。

 彼女は愛する人に必要とされてその傍にずっといられさえすれば、あるいはいつか彼の喜びのために一命を捧げる事が出来さえすれば、ただそれだけで幸せなのだった。

 

 事程左様に、召喚されてジョゼフと唇を重ねて以来、シェフィールドは彼のいかなる指示にも喜んで従い、盲従と言ってよいほどに尽くしてきた。

 そんな彼女だったが、最近になって、はたして本当にこのままでよいのだろうかと折に触れて疑念を抱くようになっている。

 といっても、主に対する彼女の愛情は強まりこそすれ、いささかも薄れたことはない。

 ただ、いかにジョゼフが優秀であり、かつ連中の力を必要としていようとも、それでもガリアに巣食うデヴィルどもはあまりにも危険過ぎる存在なのではないかと思い始めたのだ。

 

 主であるジョゼフは、そしてデヴィルたちは、彼女の能力を強く必要としている。

 古い時代の遺跡から発見されるマジック・アイテムの中には、既にこの世界では使い手が失われた、彼女でなければ扱えないような品がたくさんあったからだ。

 シェフィールドは主の求めに応じて頻繁にそれらの品々を使い、異界からさらに多くのデヴィルやその仲間を呼び込んだり、必要な魔法儀式の手助けをしたりなどしてきた。

 その過程で手にした道具から得た知識によって、彼女はこの世界の外に広がる多くの世界の存在を知り、同時に、自分たちが付き合っている連中がいかに危険な存在であるかということを深く理解していったのである。

 

 しかし……。

 

(だからといって、どうすれば?)

 

 そのことを自分の主に伝えたところで、おそらく彼は笑って流すだけだろう。

 

 それは彼が愚かさゆえにデヴィルを軽んじるからではなく、自分の保身に何の興味も持っていないからだ。

 しかし、シェフィールドにとってはそれこそがまさに最大の関心事だといってもよかった。

 奴らがやがてジョゼフを破滅させ、自分から永久に奪い去ってしまうのではないかということだけが、彼女の強く危惧することなのだ。

 

 このまま協力を続け、奴らが一層その力を増していけば、遠からず自分やジョゼフの協力を必要としなくなる時が来るだろう。

 そうなってしまえば、やがて訪れるであろう破滅を避ける術はない。

 

 かといって面と向かって協力を拒んだりすれば、無用になった自分が直ちに始末されることになるだけだ。

 ミョズニトニルンの力は強力なものだが、奴ら全員に自分一人だけで対抗などできようはずもない。

 レコン・キスタの将兵の前に頻繁に姿を見せる先程の堕天使(エリニュス)などよりも、遥かに強力なデヴィルが背後にまだ大勢控えているのだ。

 

 自分がデヴィルどもと戦って殺されれば、ジョゼフがその死を悼み、奴らを憎んで、協力するのを止めてくれるのではないだろうか……、という甘い期待も、一瞬心をよぎった。

 だが、現実的に考えれば、そんなことは望めそうもない。

 

(……私が死んでも、ジョゼフ様は奴らの求めに応じて、新たな『ミョズニトニルン』を召喚するだけだろう……)

 

 ジョゼフに対しては自分が一方的に盲従しているだけで、彼は自分を愛してくれてはいない。

 悲しいことだが、それははっきりとわかる。

 自分の命では、彼の心を揺さぶることはできないのだ。

 

(では、どうしたらいい?)

 

 主であるジョゼフは自分の考えに賛同してくれないだろうから、彼には黙って独断で行う以外にない。

 しかし、デヴィルの排除は自分一人では不可能だ。

 

 そうなると、信頼がおけてかつ有能な味方が不可欠だが、そんなものに心当たりはなかった。

 シェフィールドは生まれ故郷では神官の家の娘だったが、遠い異国の地まで来て自分のために協力してくれるようなつてはない。

 内乱の憂いを抱えたガリア国内にも、愚か者の巣窟であるレコン・キスタにも、信頼のおける人材を求めることはできない。

 大体、シェフィールド自身がジョゼフ以外の者のことはどうでもよいし信頼もしていないのだから、およそそんな都合のいい相手を見つけられるわけがないのだ。

 

 それに、デヴィルを排除するだけではせいぜい一時的な解決にしかならない。

 

 ジョゼフは自分の心を震わせるためなら、何を生贄に捧げても構わないと思っている。

 その行動は、時が経つにつれてますます危険なものになりつつあった。

 このままではたとえデヴィルのことが解決しても、いずれは彼が別の危険なものに手を出して、自ら破滅に向かうのは避けられまい。

 

 問題を根本的に解決するには、やはりジョゼフをなんとかして翻意させる以外にはないだろう。

 しかし、その方法は、シェフィールドにもまるでわからなかった。

 

 心を震わせてくれるなにかさえ見つかれば、きっと彼は満足して、今のような破滅的な振る舞いを止めてくれるはずだ。

 だが、一体何であれば彼の心を震わせうるというのか。

 惚れ薬などを用いて一時的に、偽りの情熱を心に吹き込むことでは、彼が満足してくれないのはわかっている。

 そして、真の情熱を呼び覚ます方法となると、まったく見当もつかなかった。

 

 弟のシャルル公を嫉妬のあまりに殺してしまったことを、彼はずっと後悔しているのだ。

 愛する弟のいない世界には、きっと彼の心を震わせられるものはないのだろう。

 シェフィールドは、ジョゼフの愛情を唯一注がれていたというその男のことが、心底妬ましかった。

 

「……本当に、忌々しいわ……」

 

 結局、何ら有効な解決策を見いだせぬまま、シェフィールドは憂鬱な気分でソファーに深く体を沈めた……。

 

 




エリニュス(堕天使):
 エリニュスは同じバーテズゥであっても、地獄に堕ちた定命の存在の魂から生まれた他のデヴィルとは根本的に異なる存在である。
彼女らはかつては上方次元界のエンジェルであったが悪に堕落し、フィーンドに成り果てた堕天使たちの子孫なのだ。
エリニュスは他のデヴィルとは異なり、人間にとっても魅力的に見える非常に美しい姿をしているし、天使に間違われやすいというその特徴を恥ずかしげもなく利用してのける。
その容貌は大変に美しいが、彼女らは単なる誘惑者に留まらず優秀な戦士でもあり、縦横無尽に瞬間移動して敵を翻弄しながら炎の弓をもってその頭上に燃え盛る矢の雨を降らせることで悪名高い。


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第百十四話 Suicide corps

 

 フーケは盗賊時代に取り引きのあった、この街で馴染みの商人の元へ足を運んだ。

 いささかいかがわしい商売をしてはいるものの、取り引き相手に対してはそれなりに誠実な人物である。

 この男の店でなら、ディーキンが求めたような品が手に入るかもしれない。

 

 まだ早朝で店は開いていなかったが、フーケは表沙汰にできない取引をする者用の裏口から入って、寝ている商人を叩き起こした。

 

「誰だい、こんな時間に、……おや、これは姐さんか。へへ、最近はとんとお見限りでしたね?」

 

「ちょっと仕事を変えたもんでね。朝っぱらから悪いけど、急ぎで買いたいたいものがあるんだよ。今回は不法な品ってわけじゃないんだけど、きっと在庫があると思ってね」

 

「はあ。……で、どういったもので?」

 

 フーケは、まずはアルビオンの岬に立つニューカッスル城を描いたものを、と注文した。

 

 観光客向けの表の商店には、アルビオンの名勝を描いた絵画やパンフレットがいくつも並べてあったから、これはわけもなく手に入った。

 ディーキンによれば実物に近いほどよいらしいので、記憶に照らし合わせてなるべく写実的に描いてあるものを選んで購入する。

 

 それから、もしあればニューカッスル城の一部だとか、近郊で取れた鉱石だとか、何らかのゆかりのある品物を、とも注文した。

 

 普通に考えれば、そんなものが都合よく置いてあるものか、となるだろう。

 だが、王党派の軍が最後に追い詰められるのがニューカッスル城であろう事くらいは、優れた情報網を持っているこの男ならある程度前から予想できていたはずなのだ。

 

「なにせ、数千年続いたアルビオンの王族が最後に追い詰められて玉砕する予定の城なんだ。あんたのことだから、アルビオンまで渡る勇気はないけど話の種はほしいって物見遊山の客に売る用に、今のうちから何か用意してあるんじゃないかい?」

 

 そう問われると、男はにやりと笑った。

 

「へえ、ご慧眼で。姐さんにゃあ敵いませんね。そっちでも商売をする御予定なら、在庫をいくらかお分けしましょうか?」

 

「いや、そういうんじゃないよ。単に知り合いから頼まれたんでね。1つ2つあれば、それで間に合うさ」

 

 

「……というわけで、こちらがニューカッスル城の城壁の一部分ですわ。以前にアルビオンへ渡る傭兵に頼んで、いくらかの謝礼と引き換えにとって来てもらったものだとか」

 

 宿に戻ったフーケは、盗賊時代からの縁などは伏せた上でかいつまんで事情を説明すると、購入してきたいくつかの岩片を差し出した。

 しかし、ルイズやキュルケは、疑わしそうな目でそれらを見つめる。

 

「その、ミス・ロングビル。これは、確かに本物なんですか? 私には、ただの瓦礫にしか見えませんけど……」

 

「そうね、あなたを疑うわけじゃありませんけど。こんな土産物なんて、わざわざアルビオンから持ってきた本物じゃなくて、大概そのあたりで適当に拾った石ころだったりするんじゃありません?」

 

 他の同行者たちも、半信半疑と言った様子である。

 だが、フーケは動じた様子もなく、首を横に振ってはっきりと答えた。

 

「ええ、皆様が疑問を持たれるのももっともなことだと思いますわ。ですが、これが確かにニューカッスル城の破片だということは、私が自信を持って保証します」

 

 それから、なぜそんなに自信があるのかと問いたげな同行者たちに、その根拠について説明していく。

 

「私は、これでも『土』のメイジの端くれです。そして、アルビオンの出身でもあります。これが故郷の石かどうかはもちろん、アルビオンの中でもどのあたりで採れたものかということについても、かなりの自信をもって断定できますわ」

 

「ミス・ロングビルには、そこまではっきりとわかるのですか?」

 

 同じ土メイジであるギーシュが、驚き半分、尊敬半分といった様子でそう聞いた。

 

「いえ、大したことではありません。アルビオンの石には大きな特徴がありますから。特にニューカッスルのあたりでは顕著ですので、大雑把なことでしたら、土メイジでなくても分かるかと……」

 

 フーケはそう言うと、机の上に置かれた破片を手に取って、持ってみろと言うようにルイズらの方に差し出した。

 勧められるままに石を手にしたルイズは、おや、というように首を傾げる。

 

「あれ? すごく軽い……」

 

 同じように石を持ってみたキュルケも、不思議そうに2、3度まばたきをした。

 

「ほんとう、まるで軽石みたいね。どう見ても、ぎっしり詰まった重そうな石なのに」

 

 次いで石を手にしたタバサは、すぐにその理由に気が付いた。

 なんといっても、彼女は優秀な『風』のメイジである。

 

「ただの石じゃない。『風石』が混じっている」

 

 風石とは元素の力が固まってできた『精霊石』の一種で、その名のとおり風の力が固まった石だ。

 船がこれを用いて空に浮かぶことから、ハルケギニアでは重要な産業資源となっている。

 

「その通りです。アルビオンの地盤には大量の風石が含まれていて、それが生み出す浮力によって大陸全体が浮かんでいるのです。鉱脈でなくとも、普通の岩の中にさえ、その成分が若干混じっているほどですわ」

 

 フーケは指先で石の破片を弄びながら、説明をしていく。

 

「特に、ニューカッスルの付近では含有量が多くなっていて……。かの城が岬の突端という一見不安定そうな場所に長年安定して立っていられるのも、城塞を築く鉱物に多く含まれている風石の成分が生み出す浮力のおかげなのです」

 

「なるほど。それで、地上で拾ったただの瓦礫とは簡単に区別がつけられるのですな?」

 

 フーケは、彼に向かってにっこりと微笑んだ。

 

「ええ、ミスタ・コルベール。わざわざ地上でこんな手の込んだ偽物を作るくらいなら、現地へ行って拾ってくる方がずっと早くて安上がりですからね」

 

 一同は彼女の説明を聞いて、得心が行ったように頷いた。

 それから、シエスタがこれほど現地に詳しいのだから同行してはいただけないかとも提案したが、フーケは自嘲気味に笑って、首を横に振った。

 

「いいえ、私がニューカッスルへ同行したりすれば、王族を殺しにきた刺客だと疑われかねませんわ。それに、私が実際にそうしないという、確かな自信もありませんから」

 

 それを聞いて、他の同行者たちは互いに顔を見合わせる。

 彼女が貴族の身分を失っていることから察するに、アルビオンの王族との間に何かひどい衝突があったのだろうが、安易に尋ねられるような話ではあるまい。

 

「イヤ、お姉さんはそんなことはしないと思うよ。王様たちがどうするのかは、ディーキンにはわからないけど……」

 

 この中では唯一、彼女の事情を詳しく知っているディーキンは、そう言って少し考え込んだ。

 

 自分では王族に会ったら手を出しかねないと言ってはいるが、彼女が本当にそのような衝動的な復讐に走るなどとは、ディーキンには思えなかった。

 目的のためには盗みはおろか殺人も辞さないこの女性は、多少は改心したにしても未だ善人だとはいえまいが、しかし愚かではない。

 だからこそ、続ける必要がないとわかったらあっさりと盗賊稼業から足を洗ったのではないか。

 王族殺しなどをやって、もし露見したら身の破滅になること、そして動機や状況などを踏まえれば露見しないはずがないことは、よくわかっているはずだ。

 

 とはいえ、確かに彼女にもいろいろと事情があり、思うところもあるのだろうし……。

 それになんといっても、向こうは危険な戦場である。

 現地に詳しい人物がいてくれれば心強いものの、同行を無理強いするというわけにはいくまい。

 

 しかし、アルビオンの王族に対してわだかまりがあるのなら、なおさら一緒に来てどうなるにせよ自分の目で見届けるほうが、後々心残りがないのではないかという気もするのだ。

 

 ディーキンはそのことを、率直に彼女に尋ねてみた。

 もちろん、心から嫌なのだとすれば強要する気はないが、行きたいのは山々だが状況を考えて遠慮しているということなのであれば力になれるだろう。

 

「なんだったら、《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ)》を貸すよ。もしばれても、お姉さんのことはディーキンがちゃんと王様に説明するの。こう見えても、ディーキンは説得には自信があるんだよ。……その、割と……、いや、ちょっとはね?」

 

「……ですが。こちらでもまだ、王宮から派遣された人員への引き継ぎなどの仕事がありますし……」

 

 フーケはそう言ってなおも渋ったが、今度は明らかに迷っている様子が見て取れる。

 それを感じ取って、他の同行者たちも彼女に同行を勧め始めた。

 

「なあに、そのくらいの仕事は私一人でもできますぞ!」

 

「あら。ディー君の呪文で一瞬でアルビオンに行けるのなら、みんなで説明してさっさと引き継ぎを済ませてからミスタもご一緒しません? 王宮からの人員は午前中には着く予定なんでしょう、大した時間のロスにはなりませんわ」

 

「そうね、ワルドも帰っちゃったし。私たちみたいな学生ばっかりで戦場に来たって言うよりも、大人が一緒のほうが、アルビオンの人たちにも信用されやすいと思うわ」

 

 フーケには故郷やそこにいる家族を案じる気持ちがあったし、アルビオンという国家そのものの運命にも、複雑な胸中ながらやはり強い関心があった。

 コルベールには、戦場へは二度と行きたくはなかったものの、教師として生徒を守りたい気持ちやロングビルの身を案じる想いがあった。

 

 ゆえに、そうして口々に口説かれた結果、やはり2人とも同行しようということで、ほどなく話はまとまった。

 

 ディーキンとしても少々睡眠が足りていなかったので、出発が少し延びるのであればその間は休んでおくことができるから、呪文スロットの回復などの点から見ても都合がよかった。

 ちょっと申し訳ないが、ここは引き継ぎなどの仕事は任せておいて、もう少し寝させてもらうことにしよう……。

 

「じゃあみんな、また後でなの。おやすみ」

 

 

 

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 今や風前の灯火となったアルビオンの王党派が立てこもる最後の拠点、ニューカッスル城の近郊。

 そこには、明日の攻撃に備えるレコン・キスタ軍の大規模な野営地が展開されていた。

 

 広い範囲に渡って粗末なテントが何百となく点在し、大きな天幕や土魔法で築かれた即席の兵舎も並んでいる。

 兵士の数は外に見えているだけでも数百はくだらず、全体では数千か、あるいは数万か。

 それに大きな攻城兵器や、たくさんの荷馬車や使役獣、加えて亜人や巨人が我が物顔で歩き回る姿までもが見受けられる。

 

 その様子を、やや離れた場所に身を潜めながら、睨むように見据える一団がいた。

 このまま座して死を待つくらいならばと、自ら志願した者たちによって結成された、王党派の決死隊である。

 敵の監視部隊の目をやっとのことで逃れて城を抜け出し、どうにかこの敵陣地まで辿り着けたのだ。

 

 とはいえ、その数はわずか数十人であり、正面切っての対決ではとても勝負になるものではない。

 だから、彼らは狙うべき目標と時とを、慎重に見定めていた。

 今さらどうあがいても勝利はありえまいが、せめて一矢報いようとして。

 

(我らに挙げ得る最高の成果は、まあ、この敵部隊の司令官を討ち取ることだろうな……)

 

 決死隊を率いるマーティン・ヘイウッド卿は、敵の陣地をじっくりと検分しながらそう考えた。

 この部隊の司令官を、そして少しでも高い地位にありそうな者をできる限り討ち取り、指揮系統の混乱を図るのだ。

 

 とはいえ、今さら指揮官が一人死んだくらいで、反乱軍が通達してきた明日の総攻撃が中止になるようなことはほとんど期待できない。

 おそらくは代任を立てて予定通りに攻撃が行われるだろう、延期されることさえ望み薄だ。

 これだけの大軍勢で残り三百名足らずの敵軍を攻め落とすだけの仕事など、どんな凡将にでもできるのだから。

 

 それでも、出来ることはそのくらいだった。

 

 反乱軍の首魁であるクロムウェルの首を挙げられればいうことはないのだが、あの男は現在この野営地にはいるまい。

 おそらくは安全な距離を置いて後方で待機し、すべてが終わってから悠々とやって来るだろうから、その首をとりに行くことなどはとてもできた話ではない。

 今の自分たちにできる、最善を尽くすしかないのだ。

 

(どうあれ、始祖の名を騙り王族を貶めんとする者どもに、黙って屈するわけにはゆかぬ!)

 

 ヘイウッドは、レコン・キスタが神の意志に従う神軍だなどとも、天使だと称する連中が本物だとも、少しも信じてはいなかった。

 奴らは友軍の兵士たちの前ではいい顔をして見せているのかも知れないが、自分たちに対しては野蛮な亜人どもと連れ立って、慈悲の欠片も感じられぬ苛烈で残忍な攻撃を仕掛けてくるではないか。

 あんな連中は天使でも何でもない、大方性質の悪い亜人か、さもなければ悪魔に違いない。

 

(……だというのに、そんな奴らにこれほどまでに多くの味方がつくなどとは!)

 

 この戦争が始まって以来、数多くの同士が王族を捨て、敵軍の側に寝返っていた。

 その中には、裏切るなどと夢にも思わなかったような忠臣や、共に王族に尽くそうと誓い合った旧友もいたのだ。

 今、ここに至っても、とても信じられない思いでいる。

 

 ヘイウッドは彼らの胸倉を掴んで、なぜ王家を、自分たち同胞を見捨てたのかと、問い詰めてやりたい気持ちでいっぱいだった。

 だが、その機会はもはや永久にあるまい。

 

 それと同じほどに信じられないのが、この部隊の司令官を務めている“あの”人物だ……。

 

「隊長、どうします?」

 

 部下の一人が話しかけてきて、ヘイウッドは我に返った。

 

「……そうだな」

 

 この部隊の司令官がいるであろう建物は、既に目星がついていた。

 しかし、軽度に要塞化された兵舎へこの人数で正面から突っ込んでも、成功の見込みは万に一つもあるまい。

 ここは、司令官が閲兵か何かのために外に出たタイミングを見計らって襲い掛かるしかない。

 

 ヘイウッドは考えをまとめると、部下の兵士たちに作戦を伝達し、その機会が訪れる時をじっと待った……。

 

 そしてついに、絶好の機会が訪れた。

 クロムウェルの元から王党派を攻め落とす“栄光の時”に立ち会うために派遣された部隊が到着し、それを出迎えるために司令官が兵舎から姿を現したのだ。

 

 到着した部隊も、司令官の引き連れている部下も、ごく少人数。

 仕掛けるならば、今しかない。

 

 既に命はないものと覚悟している決死隊の決断と行動は素早かった。

 彼らの身にまとう防具は風石の成分を含む希少な『アルビオン産軽量鉄』でできており、ほとんど動きを妨げることも、音を立てることもないのだ。

 気付かれずに近づける限界まで物陰を伝って隠密に移動し、歓迎の挨拶のために注意が散漫になっている敵部隊にマスケット銃の一斉射撃で先制攻撃を浴びせた後、司令官の首を狙って一斉に突撃した。

 

 

 

「……敵襲か」

 

 一斉射撃で多くの負傷者を出し、慌てて迎撃の態勢を整える近衛たち。

 それをよそに、ニューカッスル方面軍の司令官は、至って落ち着いた様子だった。

 

 司令官は美しい銀髪を持つ精悍な顔つきをした青年で、白銀の鎧を身にまとっている。

 これほどの部隊を指揮するには、あまりにも若すぎるように見えた。

 しかし、この男の指揮に表立って異議を唱えるものは、レコン・キスタにはほとんど誰もいない。

 

 なぜなら、この男こそはアルビオンの伝説的な名将、『ル・ウール侯』に他ならないからだ。

 ル・ウールは既に歴史書の上の人物だったが、その姿は数多くの肖像画で、今なお多くの貴族に知られていた。

 彼の容姿は、まさに肖像画に描かれた若き日の姿、そのままだったのである。

 

 もちろん、自分が遥か昔に死んだ名将その人だなどと言ってみたところで、普通ならばそんな戯言は通るまい。

 ただ単に顔が似ているだけか、さもなければ風魔法の『フェイス・チェンジ』か何かを使っているのだと見なされるだろう。

 

 しかし、レコン・キスタ軍の士官たちは、クロムウェルが『虚無』と称する力で屍を甦らせるのをその目で見たのだ。

 彼が、もしくは彼を後見しているという始祖や神が、過去の英雄をも全盛期の姿で地上に生き返らせたのだと考えることは、不可能ではなかった。

 そして偉大な名将がその名声から期待されるとおりの連戦連勝をしていく姿はレコン・キスタの兵たちを熱狂させ、神の加護がまさに自分たちと共にあるのだと強く信じさせた。

 

 言うまでもなく、王党派をはじめレコン・キスタ外の者の多くは、これを過去の英雄の名を騙る不敬極まりない詐術の類だと見なしているのだが。

 

「司令、お怪我を……」

 

 言われて初めて気が付いたかのように、ル・ウールは自分の左腕を見た。

 鎧の隙間に当たったらしく、弾丸が食い込んでいる。

 

「何も問題はないよ、気にするな。それよりも、早く敵を討ち取って、他の負傷者を見てあげなさい」

 

 ル・ウールは、その部下に同性ですら思わず見とれるような魅惑的な微笑みを向けてやると、自分の傷口に指を押し込んで無造作に弾丸を抜き取った。

 その傷口は、たちまちのうちに塞がってゆく。

 

「おおっ……!」

 

 周囲の部下たちは、感嘆したようにその光景を見つめていた。

 

「見ての通りだよ、僕には始祖の加護があるんだ。さあ、君たちは君たちの仕事をしてくれ」

 

「……はっ!」

 

(ふん、最後の悪あがきというわけか)

 

 敵の迎撃に向かう部下たちを見送りながら、ひしゃげた弾丸を地面に投げ捨てて、ル・ウールは密かに皮肉っぽく口元を歪めた。

 

 自分を仕留めようとしたのであろう敵の一斉射撃は、わずか数人の兵を撃ち倒しただけで失敗に終わった。

 あの愚直な連中が態勢を立て直して盾となってくれている今、もはや自分に攻撃を届かせることはできない。

 周囲の亜人や兵士どもも、じきに事態に気が付いて駆けつけてくることだろう。

 

(物足りぬ余興だったな)

 

 ル・ウールがそう考えた時、彼の脳裏に、先程到着したばかりの2人のエリニュスからのテレパシーが送られてきた。

 

『いえ、まだもう少しは楽しめそうですわ』

 

『鼠がもう一匹、噛み付こうと機を窺っておりますので』

 

 

 

(すまぬ、同胞たちよ……)

 

 正面から突っ込んだ仲間たちが次々に打ち取られていく様子を見送りながら、ヘイウッドは敵の背後に回り込み、司令官の首を討ち取る機を窺っていた。

 

 彼は今、『不可視のマント』を身にまとっている。

 被ると誰からも姿を見られなくなる魔法のマントであり、彼の先祖が神から命じられた重要な任務を果たすために与えられたという、代々伝わる家宝であった。

 もっとも、同様の品はガリアなど他国の古い貴族家のいくつかにも伝わっていると聞くから、本当に神から与えられた品なのかどうかは眉唾物だ。

 実際は失われた古代の製法、ないしは先住魔法などで作られた、ただのマジック・アイテムなのかもしれないが……。

 

(だとしても、貴様らのような神の名を騙る連中を討つのには相応しかろう!)

 

 ヘイウッドの祖先は、かつて本物のル・ウールと肩を並べて戦場で戦ったこともあるのだ。

 王家の忠臣であったというル・ウール侯が、反乱軍などに加担するものか。

 目の前の偽者の首だけは、何としても彼の盟友であった祖先に代わって、自分のこの手で討ってみせる。

 

 やがて、近衛がみな正面攻撃を仕掛けた仲間たちを討つために前進し、司令官の傍を守るものがいなくなった。

 

 ヘイウッドはすかさず杖を抜くと、音もなくル・ウールに向けて突進する。

 彼はアルビオン王党派の生き残りの中でも、屈指の実力を持つ風メイジであった。

 その行動は素早く、誰一人として異変に気が付いた様子はない。

 

(とった!)

 

 ル・ウールの首を風の刃で跳ね飛ばそうとしたその瞬間、ヘイウッドは背後から飛んできたロープに絡め取られ、地面に転がった。

 立ち上がろうとする間もなく、次いで飛来した燃え盛る数本の矢が彼の胸板を貫く。

 

「が……っ!?」

 

 目の前が真っ赤になった。

 必死に首を巡らせて周囲の様子を窺うと、いつの間にか、背後の空に、翼を持つ2人の女性が浮かんでいた。

 

「不意打ちを仕掛けようとは、いかにも堕落した王族の手先らしい賤しい考えですね」

 

「そのような卑劣な行い、神が見逃すとでも思ったのですか?」

 

 偽の天使が、口々にそう言った。

 その姿は戦乙女か天使かと思うような美しいものだが、死にゆくヘイウッドに向けられた目に宿る悪意に満ちた輝きと、冷酷な笑みとがその本性を雄弁に物語っている。

 

 エリニュスには、いかなる幻術をも看破する《真実の目(トゥルー・シーイング)》の魔力が常に備わっており、『不可視のマント』は役に立たなかった。

 彼女らは前方の司令官のみに注意を集中しているヘイウッドの背後に瞬間移動し、彼が仕掛けようとして隙だらけになったタイミングに合わせて自在に操れる投げ縄で絡め取った後に、炎の矢で射抜いたのだった。

 

 隊長が倒れる様を目の当たりにした決死隊は、無念の思いを抱いたまま、程なくして全員が討ち取られた。

 そうして戦いの終わりを見届けたル・ウールは、場違いににこやかな表情を浮かべて、虫の息のヘイウッドの傍に歩み寄る。

 

「残念だったね。君も貴族なら、名前を聞いておこうか?」

 

 彼の杖を取り上げて背後に投げ捨ててから、屈み込んで耳を寄せた。

 

「ほら、喋れるかい?」

 

「……ま」

 

「ま? なんだい、マイケル? それとも、マーティンかな?」

 

「――待っていたぞ、この時をッ!」

 

 ヘイウッドは、突然ばっと跳ね起きると、未だにロープに絡め取られたままの体でル・ウールに組み付いた。

 

 死にかけの体にはほとんど力が残っていなかったが、一瞬でも捕えられればそれで十分。

 すかさず火打ち石で作られた奥歯の義歯を噛み砕き、その内部に仕込んでおいた、残りわずかな『火』の秘薬を高密度に詰め込んで作った爆薬に着火する。

 

 眩い炎の爆発が起こり、2人の体を巻き込んだ。

 

「し、司令ッ!?」

 

 部下たちが目を見開いて絶叫する。

 爆発はごく小規模なものだったが、至近距離で巻き込まれれば普通の人間が無事で済むとは思えない。

 

 しかし……。

 

「言っただろう、僕には始祖の加護があると。君たちは、それを信じないのかい?」

 

 爆発が収まった時、そこには頭部のほとんどを失ったヘイウッドの無残な屍と、それを抱きかかえたまま相変わらずの笑みを浮かべた無傷のル・ウールが立っていたのだった……。

 



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第百十五話 Another world

 

 王宮からの人員が到着し、引き継ぎもそろそろ終わりそうな見通しがついたところで、ルイズとタバサは仮眠をとっているディーキンを起こしに向かった。

 前者は形の上ではディーキンの主人なのだからまあ当然であり、後者は無口なために引き継ぎの説明要員としては役に立っていなかったのもあってなんとなくついてきたのである。

 

「ディーキン、そろそろ時間よ?」

 

 ルイズはドアをノックしてそう声をかけてから、部屋の戸を開けた。

 

 しかし、ディーキンはまだ眠っている。

 彼にしては珍しいことだが、やはり寝不足だったのだろう。

 普段なら、冒険中は眠る前にアイテムから《油断なきまどろみ(ヴィジラント・スランバー)》の呪文を発動して事あればすぐに目覚められるようにしておくのだが、今回は屋内での短時間の仮眠ゆえに使っていない。

 

「……ウ、ウ~……」

 

 おまけに、寝苦しいのか、悪い夢でも見てうなされているのか、何やら寝床の中で顔をしかめて小さく唸っていた。

 

 ルイズとタバサは顔を見合わせて首を傾げると、彼の傍に近づいて揺り起こそうとする。

 その時、ディーキンがぽつりと寝言を呟いた。

 

「……ウーン、その、ルイズ……、ごめんなの――」

 

 それを聞いたルイズは、一瞬きょとんとした顔をして、次いで僅かに頬を染めてぷんすかしてみせた。

 

「ちょ、ちょっと。何を夢に見てるのよ……、もうっ!」

 

 大事なパートナーが自分のことを夢に見ているのかと思うと少し嬉しいような気もするのだが、側にいるタバサにもそれを聞かれたと思うと何だか気恥ずかしかった。

 別に自分の寝言でもないし、やましいことがあるわけでもないのだから、本来は気にする必要のないことなのではあるが。

 

 タバサの方はといえば、微かに眉をひそめて、やや曇った顔になっていたが……。

 

(人は、いろいろな夢を見るもの。何の意味もない夢だって多い)

 

 彼の夢に今、たまたまルイズが出てきていようと、大したことじゃない。

 そう自分に言い聞かせて、ともすれば愚かな感情が湧きだして来ようとするのを努めて抑制した。

 

 2人の女性たちの反応はさておき、当のディーキンはといえば、寝床の中で奇妙な夢を見ていた。

 彼にとっては、ちょっとした悪夢だと言えよう……。

 

 

 

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 ディーキンは暗い中でどことも知れぬ場所に立っており、目の前にはルイズが立って彼と向かい合っている。

 

 だが、何やら彼女の態度がおかしい。

 顔が赤くてもじもじしていて、挙動不審だった。

 

『い、いいのかしら、ホイホイ召喚されちゃって! 私は、呼び出されたのが同性だろうと、ショタっ子やおじいちゃんだろうと、異種族だろうと……。いえ、剣だのの無機物相手でさえ、お構いなしに惚れ倒す“二次”ルイズなのよ!』

 

「……アー、その……、ええと?」

 

 さっぱり意味が分からなかったが、そんなことを言いながらじりじりにじり寄ってくるのがなんだか怖かったので、ディーキンは思わず後ずさった。

 そうした態度が彼女のお気に召さなかったらしく、ルイズは腰に手を当ててぷんすかしながら、またぞろ意味不明な物言いを始める。

 

『な、なによぅ……、私に召喚されたくせに! やっぱり、しょっちゅう別の世界の血を引いてることになって設定がよりどりみどりに変わるシエスタとか、任務の関係で絡んだり恩を売ったりしやすくて話のわかるタバサの方がいいっていうのね!?』

 

「イヤ、あの……。ディーキンが、ずっとルイズの傍にいるわけにはいかなかったのは、申し訳ないとは思ってるけど……」

 

『い、いいわよ、別にっ! 私には、他にもあっちこっちから来た使い魔がいっぱいいるもん! あんた一人くらい、どうにでも好きにすればいいのよっ……!』

 

「エエ……?」

 

『で、でも……。……いなくなったらやだ。……なにしてもいいけど、それだけは、ダメなんだからあっ……!』

 

「…………」

 

 夢なのは間違いないが、一体なんでまた自分はこんな珍妙な夢を見ているのかと、ディーキンは本気で悩んでいた。

 

 夜の妖婆(ナイト・ハグ)にでも憑かれたのではないかとさえ思ったが、それならもっとわかりやすい悪夢を見そうなものだ。

 目の前のルイズらしき女性は、ひたすら顔を赤くしたり、わめいたり、乗馬用の鞭を振り回したり、かと思うと唐突に泣いたりデレデレしてみたりと、そんな態度を彼女から取られた覚えのないディーキンにはまったく理解不能な行動を延々と続けていた。

 

 あるいは、自分はルイズに対して心のどこかで引け目を感じているのだろうか?

 

 自分は、この世界に来た時に彼女の使い魔として仕事をすると約束した。

 決して、その約束を破ったわけではない。

 彼女に対してはずっと誠実であったつもりだし、『虚無』のことなどでもできる限り力になろうとしてきたはずだ。

 しかし、いろいろと事情があってやむを得なかったのではあるが、ルイズの元を離れてタバサと行動を共にしたり、シエスタに稽古をつけるのに時間を割いたりすることも多かった。

 それに加えてつい先程は、タバサと、薬のせいとはいえあんなことがあったわけだし……。

 決してルイズを軽んじてはいないが、かといって他の仲間より優先しているというわけでもなく、そのことに対して自分の中でいくらか後ろめたい気持ちがあるのかもしれない。

 

 だとしても、“二次”がどうのとかいう話はまったく意味不明だったが。

 そのあたりはもしかしたら、バードとしてあちこちから仕入れたもののほとんど忘れ去っているトリビアルな知識だの異世界の知識だのが、無意識下から出てきてごちゃまぜになってでもいるのか?

 

 なんにせよ、早く目が覚めてほしいものである……。

 

 

 

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「ほら! ディーキン、もう出発よ、起きなさいよっ……!」

 

 やや赤らんだ頬を膨らませながら、ルイズはディーキンの上から毛布を剥ぎ取って、少し乱暴に彼の体を揺さぶった。

 

「ウウ……、ンン……?」

 

 ディーキンは寝床から体を起こして、寝惚け眼でルイズの方を見つめ……。

 夢の中に出てきたのと同じような少しぷんすかした様子の彼女の姿に、ぎくっとして寝床から飛びだした。

 

「きゃっ……! ちょ、ちょっと。何よ、急に跳ね起きたりして。びっくりするじゃないの!」

 

「……ル、ルイズ?」

 

 ディーキンはしばらく、どぎまぎしたような様子でルイズとタバサの姿を見比べていたが……。

 やがて、どうやら夢の続きではなさそうだとわかって、ばつが悪そうに頭を掻いた。

 

「アー、その……、ごめんなの。おはよう、ルイズ。タバサも」

 

「まったく、もう。……ほら、どんな夢を見てたのか知らないけど、もう出発の時間よ。早くしないと、お昼になっちゃうわよ?」

 

 ディーキンは頷いて、先導するルイズに後続した。

 もう少し使い魔らしいことができるように、何か考えておかないといけないかなあ、などと思いながら……。

 

 

 

 タバサは、そんなディーキンの様子を見て、下腹部に鈍い痛みを感じていた。

 どぎまぎした様子でルイズの方を見つめたり、きまりが悪そうにルイズと自分とを見比べたりする姿を見ていると、彼はやはり何かルイズに関係した、深い感情的な意味のある夢を見ていたのではないかと思わざるを得なかった。

 

(私と……、あんなことがあったばかり、なのに?)

 

 もちろん、ルイズが彼の主人であることはわかっている。

 

 2人の間に特別の絆があるのは当然だし、彼に彼女を見捨ててくれなどと言うつもりもない。

 メイジと使い魔との間にある絆に、他人が割り込んでよいものではないのだ。

 自分だって、誰から要求されようとも決してシルフィードを見捨てたりはしないだろう。

 

 それでも、彼女は不安とも寂しさとも嫉妬ともつかない、なにか愚かしい感情を覚えずにはいられなかった。

 

 たとえ普通ならば関わり合うことのない異種族同士であろうとも、使い魔の契約だけは両者を確かに、そして永遠に結びつけるのだ。

 ルイズと彼との間には、双方の命のある限り永遠に切れることのない、そのつながりがある。

 不安定で儚い感情の結び付きや口約束などではなく、自分と彼との間には決して結ばれることのない、確かな実体のある絆が。

 

 そして、その契約を結んだ時に、2人は口付けも交したはずだ。

 たとえ、それがただの儀式の一環であるにしても。

 自分よりも先に、ルイズは、彼と……。

 

「…………」

 

 とはいえ、もちろんタバサは、そんなことを口に出したり、あからさまに態度に表したりするような女性ではなかった。

 これから危険な戦場へ向かうのだから、いつまでも愚かな感傷に浸ってはいられない。

 彼女は静かに深呼吸をして気持ちを切り替えると、ルイズに先導されるディーキンの後ろにぴったりとくっついて、一緒に仲間たちの元へ向かった。

 

 実際には、ルイズとディーキンとは正式に使い魔の契約を結んではいなかった。

 それこそ、タバサが先程儚いものだと感じた口約束によって、正確にはその背景にある互いへの信頼によって結びついた仲なのだが、彼女はまだそのことを知らない……。

 

 

 移動には、特に予期せぬ問題などは生じなかった。

 

 ディーキンは、首尾よく《場所の念視(スクライ・ロケーション)》の呪文を再現してニューカッスル城を念視し、城壁のすぐ傍へと全員を連れて瞬間移動した。

 その際には城を見張っているかもしれぬレコン・キスタ側の兵に転移した瞬間を見咎められないよう、念のため《不可視球(インヴィジビリティ・スフィアー)》を用いて全員を透明化させておいた。

 フーケは、マチルダ・オブ・サウスゴータ時代の自分を知っている者にいらぬ嫌疑をかけられて仲間に迷惑をかけないように、ディーキンの勧めどおり《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ)》を用いて別の適当な女性の姿に変装している。

 

 到着後は速やかに城門へ移動し、見張りについていた兵士たちに事情を説明して取り次ぎを願い出た。

 もちろん、彼らが心術などの影響下にないこと、デヴィルか何かが変身した偽者でないこと、魔法的な感知器官で見張られたりしていないことは、声をかける前にあらかじめざっと確認をしておいた。

 兵士といっても、その半数以上はメイジのようだったが。

 おそらく平民の兵は、そのほとんどが既に敗北の決まった王党派を見限ったか、あるいは後衛のメイジを守るために率先して前線に立ったがゆえに戦死したのであろう。

 

 その際には、「トリステインの大使がどうやってここまできたのか」という当然の質問をされたが、そこは概ね正直に答えておいた。

 つまり、フーケに帽子を貸したディーキンは本来の姿で同行していたので、ルイズの使い魔であるこの亜人が特殊な魔法を使って見張りの目をかいくぐったのだ、と説明したのである。

 兵士たちはいささか疑わしそうにしていたが、ディーキンが透明化の指輪を使って実際に目の前で姿を消して見せると、ひとまず納得してくれた様子だった。

 

「失礼いたしました。他国に、まだ我々の味方をしてくれる貴族がいようなどとは思いもせず……」

 

 感極まったように兵士たちは敬礼し、そのうちの一人が城内へと、この思いもよらぬ来客の訪れを告げに向かった。

 

 しばらくして、パリ―と名乗る年老いたメイジが奥の方から姿を現す。

 ウェールズ・テューダー皇太子の侍従だということだった。

 変装したフーケが彼の姿を見てやや複雑そうに顔をしかめていたあたりからすると、知っている人物なのであろう。

 

 パリーは深々と頭を下げると、話し始めた。

 

「このような危険な場所にお運び頂き、感謝の言葉もありません。……しかし、ウェールズ殿下は今、敵の補給路を断つために軍艦に乗り込んでおられまして」

 

「軍艦で、補給路を? ……失礼だけど、完全に包囲されちゃってるみたいなのに、そんなことができるのかしら?」

 

 キュルケが、無遠慮にそんな疑問を口にした。

 パリーはさして気にした様子もなく、むしろ誇らしげに頷いた。

 

「さよう。確かに、我らは包囲されておりますが……、しかし、大陸の下側から雲海に紛れて反乱軍どもに見つからぬよう航行することくらいは、王立空軍の航海士にとっては造作もないことですぞ」

 

「オオー……、そうなの?」

 

 ディーキンは雲のただ中を空飛ぶ船が往くさまを思い浮かべて、非常時でやむを得なかったとはいえ、飛行船に乗れなかったのは残念だったなあ、と考えた。

 飛行する船はフェイルーンでも皆無ではないがかなり珍しく、これまで乗ったことはないので、是非一度体験して見たかったのだが。

 

 それにしても、気付かれずに城から出ていける船を持っているのに、包囲されたこの場所に留まっているということは……。

 王党派の人々はもはや逃げても行く場所もなく、生き恥を晒すだけだとでも考えて、この場で玉砕する覚悟を既に決めているということなのだろうか。

 その選択に賛成ではないが、とはいえそうであるならば、単に亡命を勧めるなどしても効果は無さそうだ。

 

 ディーキンの思案をよそに、パリーは話を続けた。

 

「陛下がお会いしてご用件を伺えればよいのですが、ご高齢でお体の調子も優れませんので……。つきましては、ウェールズ殿下が戻られるまでは、どうかお待ちいただきたい」

 

 一行が承諾すると、パリーは先頭に立ってルイズらを城内へ案内した。

 一応、兵士も同行したが、ほんの2人だけだ。

 ずいぶんと簡単に信頼してくれたものだが、既に敗北が確定した自分たちに今さらこんな手の込んだ謀略を仕掛けてもくるまい、と考えているのだろうか。

 あるいは、念入りに見張ろうにも、それに割けるだけの兵の余裕すらないというのもあるのかもしれない。

 

(……落ちぶれたもんだね……)

 

 フーケは、かつては豪奢だったニューカッスルの城内ががらんとしているのを、複雑な思いで眺めた。

 金に換えられるようなものは、みな放出してしまったのであろう。

 アルビオンの王家は父を殺し、家名を奪った憎むべき存在であったが、仇を討つ気も失せるような哀れな衰退ぶりであった。

 

 パリーが一行を案内した部屋も、客間とは思えぬほどに殺風景だった。

 質素なソファーと椅子が何脚か、地味なタペストリー、それに水差しとビスケットの箱が乗った大きな机があるだけだ。

 

「叛徒どもは明日の正午に総攻撃をかけると予告してまいりましたが、当日の朝に女子供を乗せて巡洋艦がここを離れることになっておりますので、あなた方もそれに乗られるとよいでしょう。できれば、その者達だけでもトリステインの方で亡命者として受け入れていただければありがたいが……」

 

 一行を部屋の中に通しながらパリーがそう言ったのを聞いて、ルイズらの顔が曇った。

 

「その……、王軍に勝ち目はないのですか?」

 

 ギーシュの質問に、パリーはあっさりと頷いた。

 

「ありませぬな。今朝のうちに出ていった決死隊の者たちも戻らず、我らはついに残り三百名足らず。対する叛徒どもは、総勢五万は下らぬ。真の忠臣は死など恐れぬということを奴らに知らしめてやる以外に、できることがありましょうか」

 

 それを聞いて、ギーシュは青くなった。

 ルイズは唇を噛んでしばし俯き、それからぐっと顔を上げて、熱っぽく説いた。

 

「それなら……、勝ち目がないのなら、あなたたちもトリステインへ亡命を!」

 

 しかし、パリーは顔色も変えずに、首を横に振った。

 同行している2人の兵士たちも同様だった。

 

「はるばる来ていただいた大使殿には申し訳ないが、それはできませんな」

 

「なぜですか!」

 

「既に、どれほどの同胞が勇ましく散っていったことか。今さら我らだけが、ましてや自分のような老骨が、おめおめと生き残るわけにはまいらぬ。それに、ジェームズ陛下も、ウェールズ殿下も、決して亡命などなさらぬでしょう。この戦いが始まって以来、同胞と信じた大勢の者達が王家を裏切ってきたのです。最後に残った我々が、どうして忠義を尽くさず、お2人を見捨てて逃げられようか?」

 

「……ですが! 私のような平民が口を出す事ではないかもしれませんが、それでも……!」

 

「お止めなさい。無意味ですわ」

 

 シエスタがたまりかねたように横から口を出そうとするのを、フーケがやや冷たく制した。

 

「ウーン……、そうだね。ディーキンにも意見はあるけど。でも、話は、皇子様が戻って来てからの方がいいんじゃないかな?」

 

 ディーキンがそう言うのを聞いて、シエスタやルイズは、渋々ながら一旦引き下がった。

 

「では、失礼いたします。今夜はささやかながら祝宴が催されますので、是非ともご出席くださいませ」

 

 パリーはひとまずの話が済むと会釈して退出したが、一応の見張りとして2人の兵士はその場に残っていた。

 ディーキンは椅子にちょこんと腰かけると、彼らに話をせがんだ。

 

「それで、よければちょっと、待ってる間に話を聞かせてほしいんだけど……」

 

 こちらの状況とか、敵軍にデヴィルらしきものがいないかとか、聞いておきたいことはいくらでもある。

 そうして、ウェールズが夕方近くになって戻ってくるまでの間に、ディーキンは彼らからさまざまなことを聞き出した……。

 





ヴィジラント・スランバー
Vigilant Slumber /油断なきまどろみ
系統:占術; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:自身
持続時間:12時間または目覚めるまで
 術者は発動時に、自分が自動的に目を覚ます特定の状況を定める。
たとえば、「サイズが仔猫大以上の生物が10フィート以内に近づいたら」とか、「月が天頂に差し掛かったら」とかいった具合である。
ただし、指定する状況は術者が普通に目を覚ましていれば気付くことができるようなものでなくてはならない。
つまり、「1000マイル離れた城からドラゴンが飛びたったら」とか、「目に見えない敵が10フィート以内に接近して来たら」とかいったものは不可である。
指定した状況が起こった時には術者は即座に、完全に頭のはっきりした状態で目が覚め、すぐに行動することができる。


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第百十六話 Preparation

 

「フウン……。じゃあ、やっぱり、反乱軍には……“天使”がいるんだね?」

 

 ディーキンは、2人の兵士(名前はベンノとアルバン)からさまざまな情報を聞き出していった。

 最初は未知の亜人だということでいささか警戒していた彼らも、人懐っこく危険さを感じさせないディーキンの様子にすぐに態度を和らげたようだ。

 

 話はお互いの身の上話などの雑談から、現在のアルビオンの情勢、戦況、そして具体的な敵の構成や戦力……と進んでいった。

 

「そんな、天使様がそんなことをなさるはずがありませんわ! 偽者です、絶対に!」

 

 自分が使用人の身であることも忘れて、シエスタはひどく憤慨した。

 それを気にした様子もなく、ベンノとアルバンは自嘲気味に笑う。

 

「いや、俺たちも最初はもちろんそう思ったさ。どうせ変わり種の翼人かなんかに違いない、ってね」

 

「けど、実際に見てみると……、あれは本物じゃないかと思わざるを得ないんだよな。天使が敵に回ったなんて思いたくはないけど」

 

「少なくとも、亜人なんかじゃあないね。連中にはオーク鬼だのの亜人も大勢味方についてるけど、そいつらとは全然違うんだよ。単に強いとか、そういうことじゃなくて」

 

「うん。エルフや吸血鬼にだって、あんなことができるとは思えないな……」

 

 彼らの言葉を聞いて、ルイズらは顔を見合わせた。

 最後まで王党派に残った忠実な兵士たちがそういうのなら、相応の根拠があるのだろうが……。

 

「具体的に、どういうところを見てそう思われたのかしら?」

 

 キュルケが質問すると、彼らはそれぞれ、自分たちがこれまでに戦場で目撃したり話に聞いたりした“天使”の力を説明してくれた。

 その中には、既にラ・ロシェールの酒場で聞いたのと同じ情報も含まれていたが、初めて聞く話もあった。

 

 

 

 奴らは、魔法とは違う不思議な力を持っている。

 

 手を差し伸べただけで、あるいはただ微笑んで見つめただけで、呪文を唱えた様子もないのにまるで神罰のように不気味な闇の雲が沸き起こり、それに捕らえられた味方は体から血を噴き出してばたばたと倒れていく。

 今まさに殺気だって斬り付けようとしていた味方の兵士が、天使が優しく微笑んだだけで剣を捨ててその足元に跪く。

 正面にいたかと思えば、突然ふっと姿を消して次の瞬間にはこちらの背後に回りこみ、銃などでは狙いをつけることさえままならない。

 戦場を縦横無尽に飛び回りながら、上空から燃え盛る炎の矢を雨のように降らせてくる。

 

 奴らは、まるで不死身のようだ。

 

 時折かろうじて1、2本の矢が当たっても、ろくに傷ついた様子もない。

 それどころか、メイジの放つ魔法が当たっても、ほとんどは水のように受け流されてしまうのだ。

 アルバンは、以前に上官のスクウェア・メイジが放った、石ゴーレムでさえ融かす業火の渦に奴らが巻き込まれるのを見た。

 しかし、その上官は反撃として放たれた燃える矢に胸を射抜かれて死に、業火が消えた時にも天使の体には火傷のひとつさえもなかった。

 そのさまは、天界の炎の中から生まれたという天使だとしか思えなかった。

 

 奴らには、あるいはその加護を受けているクロムウェルには、死者さえも甦らせ、人々を変節させて味方に引き入れる恐ろしい力がある。

 

 射殺したアルバンの上官の遺体を、奴らは運び去っていった。

 それから一週間経つか経たないかの後に、確かに死んだはずのその上官は無事な姿で敵軍に加わっており、迷う様子もなく、かつての味方と戦っていた。

 上官はかつては忠実な王家の家臣だった、生き返らせてくれた恩義があるにしてもとても信じられない。

 そのようにして敵軍についた懐かしい人々の呼びかけに応じて、大勢の味方がためらいながらも下っていき、彼らもまたいくらも経たないうちに平然としてかつての仲間や王家に刃を向けるようになった。

 さらには、敵軍を現在指揮している将軍は遥か昔に死んだアルビオンの伝説的な名将『ル・ウール侯』であると名乗っており、姿形もそっくりで、その名声のとおりに連戦連勝している……。

 

 奴らは、自分たちのような敵に対しては、より恐ろしい姿をした悪魔を差し向けてくることもある。

 

 天使は、「神の御遣いは信心深き者の前には優しい羊飼いや天使の姿となって現れ、不信心者の前では恐ろしい炎の目をした巨人や悪魔の姿になる」と言う聖典の言葉をよく引用している。

 実際に奴らは亜人や巨人などの醜い連中をよく前線に押し出してくるが、その中にひときわおぞましい、見たこともない奴らが混じっていることがある。

 そいつらは単に未知の亜人なのかもしれないが、天使たちと同じように不思議な力を使ってくる。

 たとえば、人間のような手を持ち非常に醜い顔をした狼のような魔物や、禍々しい鋸刃の武器を携える魔物、骸骨と蠍の合いの子のような奇怪な魔物、ほとんど姿の見えない獅子のような姿をした魔物……。

 その多くは姿を消して回り込んだり、一瞬で空間を飛び越えたりして、直接こちらの後衛に斬り込んでくる。

 そのため前衛の兵士やゴーレムが護衛の役に立たず、銃士やメイジがやられて態勢が崩れたところに残りの亜人や巨人、そして後続する反乱軍の兵士たちに突っ込んでこられて戦線が崩壊してしまう。

 そうした怪物どもの群れを率いているのは、ひときわおぞましい、昆虫と人間の合いの子のような姿をした魔物だ……。

 

 

 

「ふうん……。じゃあ、どうしてあなたたちはこっちに残ったのかしら。相手は、本当に神様の軍隊かもしれないって思ってるんでしょ?」

 

 そんなキュルケの率直な疑問に、兵士たちは顔を見合わせて肩をすくめた。

 

「そりゃあ、俺たちは坊さんじゃない。兵士だから……なあ?」

 

「そうそう。俺らは別に神様や始祖に忠誠を誓ってるわけじゃない、国王陛下に仕えてるんだ。当たり前だろ? それに、あいつらの側についたら俺も平気で昔の仲間をぶっ殺せるようになるのかと思うと、ぞっとしないね」

 

「ああ、仲間を殺して天使に楽園へ連れてってもらうくらいなら、仲間と一緒に地獄行きのほうがましだよ。他のみんなも、そう思ってると信じてたんだが……」

 

「いや、絶対にそう思ってたさ。それがころっと変わっちまうから恐ろしい、いや、おぞましいよ」

 

「どうか俺の元には天使を遣わされませんようにって、それこそ神様にお祈りするしかないな。はは……」

 

 彼らは明らかに、死ぬことよりも自分もまた他の仲間たちと同じように変わり果てるのではないかという、そのことのほうをより恐れているようだった。

 それでも、王家への忠誠のためか、あるいは既に散っていった仲間たちへの義理立てのためか、戦いを放棄して逃げ出すという選択肢はないらしい。

 

 

 

 そうして一通りの話を聞き終わった頃になって、召使いらしい女性が昼食を運んできた。

 保存食で作られたもののようだったが、しっかりと料理されていて、来客へのもてなしの心が感じられる。

 

 このような場所に今なお留まっているところからすれば、王党派の生き残りの妻か、あるいは妹などの身内であろうか。

 でなければ、既に死んでしまった夫なり兄なりの同僚たちのために、たとえ身命が危うくともぎりぎりまで残って尽くそうと決意しているのかもしれない。

 きっと、この城内に残ったすべての人々には、物語に歌われるに相応しいだけのドラマがあることだろう。

 

 不躾でなければ、それをできる限り聞いて書き残し、語り残したいものだとディーキンは思った。

 そして、出来ることならばその最後が無念の全滅となることは避けたい。

 悲劇の英雄というものもいることはもちろん知っているが、ディーキンはハッピーエンドの方が断然好みだし、素晴らしい英雄にはそれこそが相応しいと強く信じていた。

 

「お食事をありがとうなの。ディーキンは、お返しにあんたたちに料理を作るよ!」

 

 ディーキンは女性に礼を言って少し待たせると、《英雄達の饗宴(ヒーローズ・フィースト)》の呪文を唱えた。

 突然現れた御馳走に、その女性と2人の兵士は目を丸くする。

 

「よかったら、あんたたちで他の人たちにもこの食事を分けてきてあげて。きっと、美味しいと思うの。大丈夫、ディーキンたちはこの部屋で静かに待ってるからね」

 

 そう提案された女性は、戸惑いながらも軽く毒見をして、その味に感激した様子だった。

 そして、2人の兵士たちと手分けをして、乗せられる限りの御馳走を台車に乗せて運び出していく。

 

 本来なら兵士たちは見張り役としてこの場に残らねばならないのだろうが、話をしているうちに客人たちのことはすっかり信用していたし、元より今さら陰謀などあってもなくても大差はないのだ。

 一応、皇子が戻ってきてお会いになるまではこの部屋にいてくださいとだけ言い置いて、食事を配る手伝いに出ていった。

 職務怠慢と言えないこともないが、生死を共にした仲間たちと一緒に生きていられる時間があとわずかなのならば、残り少ない食事時くらいは皆と歓談して過ごしたい、という気持ちもあるのだろう。

 

 一人で一人前分を食べないとこの呪文の恩恵は得られないのだが、単に美食として味わうだけなら、大勢で分け合うこともできる。

 食事は二十人前分近くもあるから、少しずつ分け合うなら、三百人全員の口にも入るはずだ。

 

 

 

 そうして、部屋の中にいるのが仲間たちだけになると、ルイズらは早速仕入れた情報を元に今後の打ち合わせを始めた。

 用意してもらった昼食の方も、ありがたくいただくことにする。

 

「あの人たちが死ぬのを黙って見ていられないわ。何とか、逃げるように説得しなくちゃ」

 

 ルイズはそう強く主張し、シエスタやギーシュも同調した。

 しかし他の同行者らは、感情的には同意するものの、現実的に考えてそれは難しいのではないか……、と考えているようだった。

 

「無理よ。あの人たちの顔を見たでしょ? 明日死ぬっていうのに、よく楽しそうに笑ってたわ。もう覚悟は決まってるのよ」

 

 キュルケがそう言って首を振ると、タバサも本を広げたまま、小さく頷いた。

 

「船で補給路を断ちに出て行けるのに、その船で逃げようとしないということは、逃げる意思がないということ。もう死ぬ覚悟が決まっている者に、死ぬから逃げようと言っても無駄」

 

 それを聞いて、ギーシュはううむ、と唸った。

 

「命を惜しむな、名を惜しめ、というのは、貴族のあり方としてもっともなことだが……。しかし、彼らの中には平民の兵だって混じっているようじゃないか。せめて彼らは、逃げたって……」

 

「いや、ミスタ・グラモン。彼らは名を惜しんでいるわけではないよ。私にも覚えがあるが……戦友たちが次々と死んでいく戦場に身を置いていると、人は死に慣れてくる。そして、次は自分の番だということを抵抗なく受け入れるようになってくるのだ。むしろ、自分だけが生き残ることを申し訳なく思うようになる。それはどこの国の人でも、平民でも貴族でも、変わるまい」

 

「そうでしょうね。パリー侍従長は、女子供は最後に船で逃がすとおっしゃっていましたが、従わずに兵たちと運命を共にすると言い張る人も出てくるでしょう。時には、皆で死ねるということが、自分だけが生き残るということよりも甘美に思えるものですから……」

 

 年長者であるコルベールとロングビルが冷静にそう語るのを聞いて、シエスタは身を乗り出した。

 

「そんな! 皆さんは、あの方々が命を落とされてもいいというのですか? あんな、いい方々が……!」

 

「まさか。そりゃあ、私たちだって嫌よ。ただ、説得の方法が思いつかないってだけ」

 

 キュルケは肩をすくめて、あなたもそうでしょうというように、タバサの方に目を向ける。

 タバサはもう一度こくりと頷いて、同意を示した。

 

 生きることを諦めるというのは、タバサも決して賛成ではなかった。

 かつて、祖父が父が次々と死に、母が心を壊され、自らも過酷な任務を課せられた時、絶望して生きるのを諦めそうになったことがある。

 そんな自分を甘えていると叱りつけ、戦い方を教えてくれたのは、ジルという狩人だった。

 彼女に出会わなければ、自分はあの森でただ無為に命を散らし、母を救うことも、ディーキンに出会うこともなかっただろう。

 

 一緒にいたのはほんのわずかな間だったが、タバサにとってジルは、返しきれないほどの恩義のある大切な人物だった。

 彼女が自分にしてくれたのと同じように、自分もこの城の人々を説き伏せようとするべきなのか?

 

 しかし……、この城の人々はあの時の自分のように、甘えてこの世から逃げようとしているわけではない。

 彼らは、最後まで戦おうとしている。ただ、その戦いに勝ち目がまったくないというだけだ。

 確かに、自分もあの時、最初は勝ち目がまったくないと思ったキメラドラゴンに勝てた。けれど、三百人で五万の大軍に勝つというのはそれとはわけが違う。

 戦わずに、誇りを捨ててでも生き延びろと説得することなどできそうにもないし、そうするべきなのかどうかもよくわからなかった。

 

 いずれにせよ、ろくに喋れもしない自分には、他人を上手く説得することなど出来やしない。

 せめて彼らと一緒に戦おうにも、自分にはそこまでするほどの理由がないし、ここで死ぬわけにもいかないのだ。

 どうしようもなかった。

 

(でも……)

 

 タバサは、ディーキンの方にちらりと目を向けた。

 

 あのジルと同じ、自分の大切な恩人。

 そして、私の勇者。

 

 自分のできることを探すためにここへ来ると、最初にアンリエッタ王女に申し出たのも彼だった。

 いわば、この旅の主務者である。

 

「……あなたには、何か考えがある?」

 

 全員の注目が集まる中、話を振られたディーキンはしばらくじっと考え込んだ後、曖昧に頷いた。

 

「ウーン……。もちろんディーキンも、ここの人たちに死んでほしくないって思ってるよ……」

 

「そ、そうですよね! 先生は、みなさんを説得してくださるんですか?」

 

 シエスタが目を輝かせてそう尋ねると、ディーキンは困ったように頬を掻いた。

 

「もしかしたら、そうなるかもしれないけど。……でも、まずはもうちょっといろいろ調べてみて、それからどうするか考えた方がいいんじゃないかな? 敵の攻撃まで、まだあと一日くらいはあるみたいだし……」

 

 ディーキンは実際、先程からいろいろなやり方を頭の中で検討してみていた。

 

 例えば、ジェームズ国王やウェールズ皇太子を説得するなら、同じ国のトップであり、ウェールズと懇意にしているらしい気配もあるアンリエッタ王女やマザリーニらをこの場に連れてきて、直接話し合わせるという手もある。

 明日にも陥落しようかという城に他国の王女や枢機卿を連れ込むなど本来ならとんでもないことだろうが、《瞬間移動(テレポート)》の呪文を使えば、行き来するのは別に難しいことでもない。

 説得に応じなかったにしても、アルビオン側が避難民の受け入れを申し入れたり、最後の別れを交したりするだけでも意義はあるだろう。

 

 単に彼らを生き残らせるだけなら、魅了とか支配とか、もしくは腹を殴るとかして、無理矢理連れ帰るということもまあ出来なくはない。

 あるいは、《次元門(ゲート)》の呪文を使ってこの城の全員をどこか安全な場所に避難させるとかいったことも、不可能ではあるまい。

 

 しかし、敵の軍にデヴィルがいて、自分たちを神の軍勢だと信じさせているという話が本当ならば……。

 なんとかしてそのデヴィルたちを排除し、反乱軍の兵士たちに彼らが騙されていたことをわからせてやることが必要だろう。

 

 アルビオンにおいて対立する王党派を完全に打ち破ってしまえば、デヴィルらはますますその勢力を増し、反乱軍の兵たちは彼らに熱狂的に従い続けるはずだ。

 そうなれば、地獄に堕ちる不幸な魂を大量に産み出すことになってしまう。

 それを防ぐためには、王党派の人々にここで最後まで戦い抜いて死ぬのではなく、なんとしても生き残ってこの国から悪魔を一掃するために戦い続けることが必要なのだとわかってもらわねばならないのだ。

 

「ディーキンは、皇太子さんと話をして敵のことをいろいろ調べてくる許可をもらったら、実際に見に行ってみようかと思ってるの。五万人もいる相手の軍隊を全部倒すのは無理だろうし、そんなひどいことはしてほしくもないけど、デヴィルとかの悪い奴らを倒すくらいだったらなんとかなるかもしれないからね」

 

 そのためには、話で聞いた情報だけでなく、実際に現地を見ることがどうしても必要だった。

 当面排除するべき敵の数や、その内訳を詳しく知らなければ、どうにもならない。

 

「まさか、敵の軍隊の真っただ中に行って調べてくるっていうの? いくらなんでも、無茶よ!」

 

「あなたが行くなら、私も行く」

 

「あ……。わ、私も、先生にお供します!」

 

 少女たちが口々に言うのを、ディーキンは小さく首を振って制した。

 

「それは、その時になったらまた考えるけど……。でも、今回はディーキンが一人で行った方がいいかなって思ってるの。人数が多すぎると、それだけ見つかりやすくなっちゃうからね」

 

 実際ルイズらでは、おそらく敵の陣地へ潜入して見つからないように行動するのはとても難しいだろうと、ディーキンは考えていた。

 何せ、敵の数は五万だというのだから。密度にもよるが、それだけ多くの目を欺いて、最後まで誰にも見つからないのは至難の業だ。

 その点ディーキンなら、透明化その他の呪文や技能、技術の類を駆使して何とかうまくやってのけられるかもしれないし、万が一見つかってしまった場合に速やかに逃亡するのも、一人の方がやりやすい。

 敵方には幻術の類を容易く看破するエリニュスなどの相手もいるらしいので、それに見つからないようにだけ気を付けて行動すれば、なんとかなるのではないか……。

 

 そう考えながら、ディーキンはヴォルカリオンを召喚するためのボトルを机の上に置いた。

 

「万が一、ディーキンが戻れなくなるようなことがあったら、これを使って。ジンのおじさんに、ボスに連絡を取るように言って?」

 

 しかし、ディーキンの提案を聞いた少女らは、ものすごい剣幕で彼に詰め寄った。

 

「ちょ、ちょっと、ディーキン! 待ちなさい、あなたは私のパートナーなのよ、あなただけを行かせるわけにはいかないわ!」

 

「……私を置いていくつもりなら、あなたを行かせない」

 

「先生、悪魔と戦うのに、私に残れと言うのですか!? 仲間がいなくてはなにもできないとおっしゃったのは、先生ではありませんか!」

 

 少女たちに断固として拒否されて、ディーキンは困ったように身をすくめた。

 

 ディーキンとしては、捕縛されたり最悪死んだりするようなことがあっても、ボスに連絡を取れば助け出すなり生き返らせるなりしてくれるだろう、と信じているのだが……。

 ハルケギニアの感覚では死んだらそこで終わりなのであって、死ぬ危険がある任務に一人で行かせるなど、少女らが認められないのも無理のないことであった。

 

「アー、その……。ごめんなの。ありがとう、ディーキンはすごくうれしいな。そのことは、もう一回、よく考えてみるよ……」

 

 ディーキンは、彼女らには何をしてもらえばいいだろうかということを考えながら、ひとまず情報で聞き出して存在することが予想されるデヴィルの姿や能力について、仲間たちに説明していった。

 同行してもらうのならばなおのこと、連中の能力については知っておいてもらわなくてはならない。

 

 エリニュス、バーゲスト、バルバズゥ、オシュルス、ベゼキラ……、そして、ゲルゴン。

 それに、ラ・ロシェールで見かけた、ファルズゴンやインプ、さらには、“地獄の業火”の使い手についても。

 

 死んだはずの人間が生き返ったとか、歴史上の人物が将軍になっているとかいうのは、いくつかの可能性が考えられるが……。

 残念ながら、手持ちの情報だけでは絞り込むことはできなかった。

 あるいは、フェイルーンの魔法ではなく、こちらの先住魔法とかの類によるものだという可能性もあるだろう。

 

 

 

「ちょ、ちょっと。デヴィルには火が効かない、ですって? じゃあ、私はどうしたらいいの?」

 

「ふむ……。そうなると、ミス・ツェルプストーや私は、『マジックアロー』などの呪文で戦うしかないか……」

 

「お、おいおい、待ってくれ! ばらばらにしても死なない奴もいるって、本当かい? 聖なる攻撃なら殺せる、って……、聖なる攻撃ってのは、そりゃ一体、何なんだ!?」

 

「わ、私の『悪を討つ一撃』なら、効くでしょうか?」

 

「……呪文は、効かないこともある? カジノで戦った悪魔と、同じ?」

 

「ゴーレムを前面に展開しても、一瞬で背後に回ってくるのですか……厄介ですわね」

 

「目に見えない敵なんて、どうやって戦ったらいいのよ!?」

 

 

「ウーン、そういう相手は、ディーキンに任せてもらえたらいいと思う。でも、やり方次第だと思うの。たとえば――」

 

 

 

 そうして、あれこれと説明をしたり、質問に答えたりしているうちに、時間は過ぎていき……。

 一、二時間ばかりが経った頃に、いよいよウェールズ皇太子が帰還したと連絡が入った。

 



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第百十七話 Loyal retainer

「アルビオン王国皇太子、ウェールズ・テューダーだ。トリステインよりの大使の方々、ニューカッスル城へようこそ」

 

 帰還したウェールズ皇太子は、ルイズらにあてがわれた客室へ自ら足を運び、思いがけない他国からの大使を手を広げて歓迎した。

 

「滅亡を目前にした我々が、まだ他国から見限られていなかったとは嬉しい限りだよ。本来なら、もっと早く父が挨拶に来るべきだったのだが……、臣下の者たちが、万が一の事態を恐れたのだろう。このような危地へ足を運んでくれた大使の方々に、大変失礼をした」

 

「恐れ入ります、ウェールズ殿下。トリステイン王国ラ・ヴァリエール公爵家の三女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールにございます……」

 

 アルビオンへ赴くことを最初に申し出たのはディーキンなのだが、なにぶん彼は異種族である。

 ゆえに、トリステインの大貴族家の一員であり、幼少期にはウェールズとも多少の面識があったルイズが、ひとまずは一行を代表して話すことになった。

 

「まずは、殿下にあてて、姫さまから手紙を託っております」

 

 ウェールズはルイズから手渡されたアンリエッタ王女の密書に愛おしげに接吻してから開くと、真剣な顔つきで読んでいく。

 しばらくして手紙から顔を上げたウェールズは、ぽつりと呟いた。

 

「そうか、アンリエッタは……、私の可愛い……従妹は、結婚することになったのか……」

 

 そう言ったときの彼の顔はひどく物憂げに曇っていたが、それも一時のこと。

 すぐに微笑みを浮かべて、大きく頷いた。

 

「うむ、ありがとう。姫は以前に受け取ったある手紙を返して欲しいと、私に伝えている。大切な手紙だが、もちろん姫が望むなら、そのようにしよう」

 

 

 

 それから、ウェールズは城の一番高い天守の一角にある、王子の部屋とは思えないほど質素な自室へとルイズらを案内した。

 

 部屋には装飾品の類などはほとんどなく、寝床や机も実に粗末なもので、ただその机の中にしまわれていた宝石の散りばめられた小さな宝箱だけが、唯一残された価値ある品のようだった。

 ウェールズはその箱の鍵を開けると、何度も読み返されて既にぼろぼろになっている手紙に接吻してもう一度だけ読み返してから、丁寧にたたんでルイズに手渡す。

 ルイズはそれを、深々と頭を下げて受け取った。

 

 その時の皇太子の様子と、そして宝箱の内側に描かれていたアンリエッタ王女の肖像画とを見て、一行は概ねの事情を察した。

 おそらく、ウェールズとアンリエッタとは、密かに想い合う仲であったに違いない。

 

 してみると、間もなくゲルマニアの皇帝に嫁ぐという段になって彼女が返却を求めた手紙というのは、その秘めた愛情を明らかにしてしまうような代物なのだろうか?

 それが表沙汰になることでこの度の同盟に不都合が生じる可能性を、アンリエッタは恐れているのか。

 同盟はゲルマニア側にとっても望ましいものだろうから、手紙一通で同盟破棄などということはそうそうないとは思うのだが……、とはいえ明らかな落ち度や弱味があったことを知られれば、トリステイン側の立場がいくらか悪くなるくらいのことは覚悟せねばならないだろう。

 

「姫からいただいた手紙は、このとおり、確かに返却したよ。既に聞いたかとは思うが、明日の朝になれば、非戦闘員を乗せて『イーグル』号がここを出港する。それに乗って、トリステインに手紙を持ち帰りなさい」

 

 その言葉を聞いて、一行は顔を見合わせる。

 

 ルイズはそれから、遠まわしに言葉を選びながらも、皆を代表して質問した。

 殿下と姫君とは恋仲であるのか、だとすればこの手紙の中身は恋文なのではないか、と。 

 ウェールズは言うべきかどうか少し悩んだ風だったが、結局は首肯した。

 

「君の考えているとおりだ。確かにこれは、恋文と呼ばれるような種類のものだよ。彼女はこの中で、始祖ブリミルの名において、永遠の愛を私に誓っている。確かに、彼女がゲルマニアの皇室に嫁ぐことになった以上は、これは人目に触れては拙いものだな」

 

(ははあ、なるほどね)

 

 キュルケは、それを聞いて得心がいった。

 

 ハルケギニアでは、メイジが始祖に誓う愛は、原則として婚姻の際の誓いでなければならない。

 ましてや、それが一国を代表する王族であるならば、なおさらのことだ。

 まだ若いアンリエッタ王女が情熱に流されて不用意にしたものであるにもせよ、始祖に永遠の愛を誓った上で別の男性と結ばれるのなら、形の上では重婚の罪を犯したということになってしまう。

 

 アンリエッタは政治的には無力な存在だが、その美しさと寛大で清楚なイメージから国民の間では人気があり、トリステインの象徴的な存在になっているという。

 そんな彼女が、実は重婚の罪を犯していたのだとなれば、それは大きなスキャンダルであり、人気と信望の失墜につながりかねない。

 となれば、反乱軍とそれを操る偽りの天使たちは、喜んでその件を世間に公表して王族の罪状に付け加えることだろう。

 アルビオンのみならず、トリステインの王族もかくも不道徳で退廃し堕落しているのは明白である。ゆえに始祖は彼らを見限ったのであり、速やかに滅ぼされねばならないのだ、と。

 キュルケの母国であるゲルマニアは新興の国家で、その皇帝は始祖に連なる王族の血筋ではない。

 その皇帝がアンリエッタとの婚姻で求めているものは、明らかに始祖に連なる由緒正しい血筋と、彼女の人気なのである。

 もしも反乱軍の言い分が世間の支持を集め、アンリエッタとその血筋がもはや敬意を集めず、益よりも害をもたらすものだとなれば、同盟する価値などないに等しくなるだろう。

 

 それに、アンリエッタと婚姻すればゲルマニアの皇室も旧来の王族が犯した重婚の罪に加担したことになり、反乱軍がゲルマニアを標的とする大義名分を与えてしまうことにつながる。

 そのような理由はいずれにせよどうとでもでっち上げられるものだろうが、とはいえ当面の危機を回避するために、ゲルマニアがトリステインとの同盟を考え直す可能性もないとはいえない。

 レコン・キスタの当面の標的がトリステインだとなれば、わざわざ戦力の足しにならない弱小国と同盟して自分たちまで戦火に巻き込まれることはない、と判断するかもしれないのだ。

 

(いえ、それどころか。むしろレコン・キスタと同盟する方が得だとか、考え出すかもしれないわね……)

 

 ゲルマニアを統治する皇帝は始祖に連なる王族ではないがゆえに、レコン・キスタとも同盟を結び得る余地がある。

 しかし、反乱軍の背後にいるのが始祖や神などではなく、人間すべてを獲物としか思っていない悪魔であるとなれば、その選択は最悪の結果を招くことだろう。

 

 キュルケはこれまで、母国ゲルマニアにはレコン・キスタなどに後れを取らないだけの戦力が十分にあると信じてきた。

 しかし、未知の能力を持ち、文字通り悪魔的に狡猾な異世界からの侵略者が背後で糸を引いているとなれば、そうそう楽観はできない。

 ディーキンから連中の恐ろしさについていくらかなりとも教わった今、キュルケはこのアルビオンでデヴィルの目論見が打ち砕かれねば祖国の命運もどうなるかわからぬ、という危機感を抱き始めていた。

 

(……とはいえ、アルビオンの王党派はこの状態じゃあ、もうどうにもなりそうにないし……)

 

 どうにかして彼らを説得できて亡命させられたとしても、あるいは説得できずにこのまま玉砕させてしまったとしても、いずれにせよ、このアルビオンが反乱軍とデヴィルの手に堕ちるのは避けられないだろう。

 

 ディーキンがアンリエッタやマザリーニと連絡を取って、トリステインの軍隊をこの城に援軍に来させるようなことが……さすがにまず無理だろうし彼がそんなことをするとも思えないが……、仮にできたものとして。

 それでも、敵が屈強な亜人や巨人、それにハルケギニア人にとっては未知の能力を持つ異世界の怪物までもを含む数万に及ぶ軍勢だというのでは、勝ち目があるとは思えない。

 かの『烈風』カリンがいた頃ならばいざ知らず、今のトリステインの軍隊はキュルケの知る限りでは数も少なく、精強だともとても言えないものだ。

 

(そうなると、私たちが今、ここでできる最善のことは……何かしらね?)

 

 キュルケのそんな思惑をよそに、ルイズは熱っぽい口調で、ウェールズに亡命を勧め始めていた。

 

「殿下、姫さまからは手紙をお渡しするだけでなく、亡命をお勧めするようにとも託っております。マザリーニ枢機卿も、受け入れを認めてくれています。どうか非戦闘員の方だけではなく、この城の全員で、私たちと共にトリステインへいらしてくださいませ!」

 

 ウェールズは、それを聞いて意外そうに目を丸くした。

 

「枢機卿どのも? ……では、あの手紙の末尾で亡命を勧めていたのは、アンリエッタの独断ではなかったのか……?」

 

「はい! この、ディーキンが……、私のパートナーが、お二人を説得してくれたのです!」

 

 ルイズは誇らしげに胸を張って、ディーキンのことを紹介した。

 

 皆の注目が集まる中、ディーキンは一歩進み出ると、にっと笑って行儀よくお辞儀をする。

 話し方の方は、いつも通りだったが。

 

「はじめまして、王子さま。ディーキンはディーキン、コボルドの詩人で、冒険者で、ルイズの使い魔で、一緒にここへ来たみんなの友達だよ。よろしくお願いするの」

 

「……ああ、ラ・ヴァリエール嬢の使い魔か、亜人とは珍しいな。先住魔法の優秀な使い手で、ここまでやってくるのにも多大な貢献をしたと聞いているよ。あまり、コボルドには見えないが……」

 

 ウェールズは、いささか堅い調子で会釈を返した。

 他の面々に向けたような鷹揚な笑みがなかったのは、敵軍に亜人が多く加わっているために若干不信感を感じているのかもしれない。

 

「ンー、よく言われるの。遠くから来たから、このあたりのコボルドとはだいぶ違うみたいだね。でも、悪いことをしたりする気はないから、どうかディーキンを殺さないで?」

 

 ディーキンは特に気にした様子もなくそう言うと、少し雑談を持ちかけてみた。

 

「ねえねえ、コボルドの洞窟には王子さまっていうのはいなかったよ。人間の国では、王子さまっていうのは、次に王さまになる人のことなんでしょ?」

 

「うん? ……ああ、基本的にはそういうことだよ」

 

「その王子さまは、どうやって選ばれるものなの? 人気がある人を、みんなで選んだりとか?」

 

 詩人としてさまざまな物語に通じているディーキンは、もちろん多くの人間の王国では国王が世襲制であること、ハルケギニアの国々も大凡がそうであることくらいは既に知っている。

 しかし、当事者である王族自身の口から、一度直接話を聞いてみたかったのだ。

 

「いや。それは大抵、最初から決まっているね。王族の長男として生まれたならば、まず他に選択肢はないよ」

 

「フウン、そうなの? それって、困ったりはしないのかな。ええと……」

 

 ディーキンはそこで首を傾げて、ちょっと考え込んだ。

 

「……つまり、たとえばウェールズさんは……、実はパン屋になりたかったりとかは、しなかったの?」

 

 ウェールズは一瞬きょとんとして、それから面白そうに笑い出した。

 

「ははは、面白いことを聞くんだね! そうだな、パン屋になりたいとは思わなかったが。船で雲海を旅していて、あまり気持ちがよいので、船乗りとして人生を送れたらと思ったことは何度もあるよ」

 

「やっぱり? 王さまの子どもが次の王さまになりたがるとは限らないし、向いてないってこともあるよね。えらくなりたい人は、他にもたくさんいるだろうし……。なのに、どうして人間は、最初から次の王さまを決めておくのかな?」

 

「ちょ、ちょっと、ディーキン!」

 

 それはまったくあてつけがましい調子などはない、子どもじみた素朴な疑問のようではあったが、下手をすれば不躾で非礼だととられかねない内容にルイズが慌てる。

 しかし、ウェールズの方は話しているうちにすっかり安心して打ち解けたようで、相好を崩して朗らかに笑った。

 

「はは……、いや、なるほど。考えさせられる内容だね。……そうだな、後継者争いなどが起こらないように、かな? 君の言うとおり、権力を求める人間は大勢いる。不満も少なからず出るだろうが、一握りの権力者のために代替わりのたびに血腥い争いが起こることは、なんとしても避けたいものだからな」

 

「オオ、なるほど……。それじゃ、後継者があらかじめ決まってるから、人間はあんまり王さまの座をかけて戦ったりはしないんだね?」

 

 もちろん、必ずしもそうではないらしいということも、本を読んだり物語を聞いたりして知ってはいる。

 現在この国が巻き込まれている反乱軍とやらとの戦争も、背後にいるデヴィルの思惑についてはいざ知らず、とどのつまりは王族から権力の座を奪い取ろうとする連中との戦いだろう。

 

 しかしディーキンとしては、当事者である王族自身の口から、彼らとしてはどう思っているのか、実態はどうなのかということを直接聞いてみたかった。

 不躾かとは彼自身思わないでもなかったが、たとえそうであっても敗戦を目前にした今こそが聞くべき時だと感じたのだ。

 明日にも滅ぶ王家なればこそ、率直で正直な意見を聞かせてくれるのではないか?

 

「うむ……。いや、それがなかなか、そう上手くいかない場合もあってね……」

 

 ウェールズは決まり悪そうに頬をかくと、自嘲気味に肩をすくめた。

 

 タバサも、少し顔をしかめて俯いている。

 彼女の場合、まさにその後継者の座を争って父と叔父とが水面下で争っており、父はどうやらその結果として命を落としたらしいのだから、ディーキンのごく単純な問いも浅からず胸に刺さっていた。

 

 結局、ウェールズはその質問に明確には答えず、手を広げて朗らかに笑ってみせた。

 

「……いや、君のような亜人が、一体どうやってアンリエッタや枢機卿どのを説き伏せたのかと思っていたが。どうやら私も、さっそく君にやられそうになっているらしいな! 我々アルビオンの王族にも、君のように自然に人を惹き付けられる素養があったなら、このような惨めな今日を迎えることもなかったろうに!」

 

 うやむやに誤魔化されたようにも思ったが、ディーキンはそれ以上追及するのは止めて、礼を言うように頭を下げた。

 

「ウーン……、それって、ほめてくれてるの? ありがとうなの、でもディーキンは、王子さまもきっと好かれそうな人だと思うけど」

 

「ありがとう。私としても、ついこの間までは、臣下たちからそれなりには好かれているつもりだったのだがね……。こうまで人心が離れ、反乱軍の数が数万にも及んだ今となっては、それは虚しい独り善がりだったのだと思わざるを得ないよ」

 

 そう言って、ウェールズは少しばかり寂しげに微笑む。

 それから、亡命の受け入れについては父の耳にも入れるべきだろう、と提案した。

 父は体調が優れないので、謁見の間ではなく私室の寝床で話すことを許してほしいと断ってから、今度はジェームズ一世の元に向かう。

 

 

 ベッドの上で体を起こした老齢の国王、ジェームズ一世は、話を聞くとしばし俯いて黙考した。

 傍らには、息子のウェールズが寄り添っている。

 

「……もはや内憂を払えもせぬ我が王家に対して、なおもそのように寛大な申し出をいただいたことについては、感謝の言葉もない」

 

 ややあって、国王は深々と頭を下げると、重々しく口を開いた。

 

「今日まで我らに付き従ってきてくれた忠実な家臣たちには、さっそく今宵の宴の場でその事を伝え、暇を与えるとしよう。彼らが貴国に亡命した折には、何卒厚く遇してやっていただけるよう、お願い申し上げる」

 

 それを聞いて、少し離れた場所に跪いていたルイズがおずおずと尋ねる。

 

「その、恐れながら……。陛下と、ウェールズ殿下は?」

 

 ジェームズはそんなルイズを優しい目で見つめながら、静かに、しかしきっぱりと答えた。

 

「このウェールズと同じく、朕もこのアルビオンの王族として、若い頃より空船の指揮を執ってまいった。朕はまがりなりにもこのアルビオンという空を往く船の長であり、船長は己が一命をかけて預かった船の沈む時には責任をとって運命を共にするものである」

 

 次いで、傍らの息子のほうに視線を移す。

 

「ウェールズよ、お前には本国艦隊司令長官として、最後に残った『イーグル』号に乗って亡命する民を導き、大使の方々をトリステインまで送り届ける務めを与える」

 

 ウェールズは、はっとして顔を上げた。

 

「何を言われます、父上。私も、この国の王族として……」

 

「王族としてここで死ぬのは、朕一人で十分だ。残った民に責任を持つこともまた、王族としての務めのうちである。怠ることは許さぬ。その後は、滅びた国の王族などもはや何者でもないゆえ、朕はお前にも暇を与える。『イーグル』号は、亡命を受け入れてもらうせめてもの対価として、この城に残った僅かばかりの財貨と共にトリステインへ寄贈せよ」

 

 ジェームズは国王らしく、反論を許さない態度でそう命じた。

 しかしその裏には、おそらく父親として、息子の命を救おうとする思いもあるのだろう。

 

「しかし、父上!」

 

「ウェールズよ、今日まで皇太子の重責を負ってくれたこと、まことに大儀であった。王位を譲ることでそれに報いられなかったのは、残念でならぬ。せめてこの先は、自分の思うように生きよ」

 

「父上!」

 

「陛下!」

 

「レコン・キスタの次の標的は、おそらく貴国であろう。朕は、一足先に始祖の元へ赴いて此度の戦について問い質し、このような戦は止めさせるようにと進言いたそう。……今更、見捨てられた不肖の末裔の言葉などが聞き入れてもらえるかはわからぬが、な」

 

 ウェールズはなおも反論しようとし、ルイズも非礼を承知の上で口を挟もうとした。

 

 シエスタも、身分の違いを十分に承知しながらも、思わず声を上げそうになった。

 彼女には、王族の立場や考えのことはわからない。

 それでも、あるいは無礼極まりない発言かもしれなくても、他国の迷惑になれないのなら自分の故郷のタルブへいらっしゃらないか、と提案しようとする。

 

 しかし、彼女らよりも先にすっと立ちあがって、冷たい声を上げた者がいた。

 フーケである。

 

「……陛下」

 

 肉親のウェールズや、口々に思いとどまるよう説得しようとしていた少女らとは明らかに温度差のある声に注意を引かれて、ジェームズが彼女の方に目を向ける。

 フーケは、一国の王に対して顔を伏せることもせず、睨むように冷たい視線を返した。

 

「……何かな、大使殿」

 

 不敬極まりない態度ではあったが、ジェームズは今さらそんなことを咎めようとはせず、静かに尋ねる。

 おそらく、何としても自分を亡命させるために、このような時でもなければ王族に対して口にすることが許されぬような厳しい非難や叱責の言葉が飛んでくるものと予想していた。

 

「この上、亡命して命を長らえよなどと説得はしてくれるな」

 

 民を護ることもできなかった名ばかりの王族の分際で何をおこがましいことをと嗤われるのも、命懸けでここまでやってきた自分たちの努力を無駄にするつもりかと罵倒されるのも、今となっては致し方のないこと。

 たとえそうであってもやはり自分はここに残り、勝てずともせめて勇気と名誉が未だハルケギニアの王家にはあることを反乱軍どもに、そして奴らに組する“天使”どもが本物であるというのなら、始祖に対しても示してから散らねばならぬ。

 たとえ無駄死にと言われようとも、それこそが内憂を払えもしなかった王家に、最後に課せられた義務というものである。

 

 幸い、息子のウェールズはまだ若く、知恵も力もある。

 侵略の口実となることを承知の上で、それ以上の働きをしてみせると割り切ってトリステインの力になろうとするか、あるいはすべての地位をなげうって野に下り身を隠すか、どうとでも自分で判断して新しい人生をやり直せよう。

 だが、役にも立たぬ老齢の自分が、この上亡命などしてみたところでどうなろうか。

 仮にも自分は、一国の王なのだ。

 国が残るのならば恥を忍んで他国の世話になってもよいが、もはや滅亡を避けられぬと決まった以上は生き残る気もなかった。

 

「ご心配なく。そんな気は、まったくありませんわ」

 

 フーケは冷たい笑みを浮かべると、首を横に振った。

 

「陛下が死なれるのは、どうぞお好きなように。ですが、陛下がここに残る限り、今日まで従った臣下の方々も、大半が亡命せずに残ることでしょう。私としては、それをよく御承知のはずの陛下が、なお亡命しないのはどういうおつもりなのかを伺いたいだけです」

 

「ミ、ミス・ロングビル、それは……」

 

 皮肉めいて冷たい声の調子と無礼な質問の内容に、傍らのコルベールが慌てて、小声で彼女を制止しようとする。

 しかし、フーケはそちらにちらりと目を向けて小さく首を横に振ると、つかつかと王の傍に歩み寄った。

 それまでは静かに後ろの方に控えていただけだった彼女の突然の行動に、他の同行者たちも呆気にとられて見守るばかり。

 

(ウーン……)

 

 唯一、彼女の素性について概ねのことを知っているディーキンは、それを見て少し顔をしかめたが、何も言わなかった。

 

 このまま彼女を放っておけば、あるいは大使としての信頼を損ねることになるかもしれない。

 しかし、フーケにも複雑な事情があり、おそらく感極まって言わずにはいられないことがあるのだろうし、ここは仲間である彼女を信じてその意志を尊重しようと思った。

 たとえその結果として揉め事が起こるとしても、その時は誠心誠意、説得に努めるしかあるまい。

 

「彼らを犬死にに導こうというのですか? それとも、陛下は殉死を望んでおられるのですか? 忠良な臣下に陛下の与えられる恩賜が死であることは、よく存じておりますが……」

 

 王は言葉を失い、目を見開いて、まじまじとフーケの姿を見つめた。

 代わりに、傍らのウェールズがさっと顔を赤くして杖を引き抜き、彼女に突き付ける。

 

「うぬ、黙っておれば! 陛下に対してなんたる無礼、なんたる侮辱! 女性といえど、大使殿といえど許せぬ! 直ちに陛下から離れて、頭を下げたまえ!」

 

 フーケは怯えた様子もなく、じろりとウェールズの方を睨んだ。

 それから、何も言わずにゆっくりと、髪留めに偽装した《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ)》を外す。

 

 途端に幻覚が消え失せて、美しい緑の髪を持つ本来の姿が露わになった。

 

「お、お……?」

 

「なっ!?」

 

 目の前の女性の突然の変貌に、王と皇太子とが揃って驚きの声を上げる。

 それは、単純な驚きの声だった。

 すぐに彼女のことを思い出した2人は、今度は大きく目を見開いて、愕然とする。

 しばらくの間、重苦しい沈黙が続いた。

 

 ややあって、王がぽつりと呟いた。

 

「……マチルダ・オブ・サウスゴータ……、か……」

 

「サウスゴータの名は、陛下が剥奪されたものであることをお忘れですか」

 

 マチルダの声は、どこまでも無感動で冷たかった。

 家名も家族も、富も領地も、住む家や名誉ですらも奪った男が相手であることを考えれば、そう冷たい態度とも言えないだろうが。

 ウェールズは、彼女の一挙手一投足に注意を払いながらも、事情を知るがゆえに、それ以上その態度を咎めることはできなかった。

 

「……では、マチルダよ。朕の首を、獲りにまいったのか?」

 

「明日には落ちる首などに、危険を冒してまで求める価値がありましょうか」

 

「ならば、我らの無様を嗤いに来たか……?」

 

 マチルダは、今度は返事もせずに、冷たい目で寝床の王を見下ろした。

 しばらくして、口を開く。

 

「……父は、陛下への恨み言などは、最後まで一言も口にいたしませんでした。王族の方々はエルフを憎み恐れる臣下たちの声に押され、王国を維持するために止むを得ず苛烈な処置に及ばれたのだと、そう信じておりました」

 

 王弟で財務監督官でもあったモード大公は、目の前のジェームズ一世に隠してエルフを愛妾とし、娘までも産ませていた。

 エルフといえばハルケギニアでは最強の亜人として悪名高い、始祖の代からの仇敵である。

 ある時それが国王に知られてしまい、母子の追放の命令も拒否したため、投獄されて殺されたのである。

 

 マチルダは、モード大公の直臣であるサウスゴータ地方の太守の娘だった。

 サウスゴータ家は大公家への忠誠心から辛うじて難を逃れたエルフの母子を自らの領地に匿ったが、それが露見したために国王により家名を取り潰され、エルフの母親も、マチルダ以外の家族も、みな殺された。

 マチルダは大公の遺児であり、妹のように可愛がってきたハーフエルフのティファニアだけをかろうじて救い出し、今もサウスゴータ地方のウェストウッド村に他の孤児たちと共に匿って、生活費の仕送りを続けているのだ。

 

「……その王国が、あれから四年でもう、滅びようとしている。そして、父が信じたアルビオンの王族は既に勝利を諦め、滅亡を受け入れようとしている……」

 

 マチルダは、憎々しげに目を細めた。

 

「サウスゴータ地方も、反乱軍の手によって荒らされていると聞きました。では、私の家族は、あの時巻き込まれた領民たちは、みな無駄死にだったということなのでしょうか?」

 

「……」

 

 黙って俯く王に対して、マチルダは更に容赦なく言葉を続けた。

 

「その上、王国の民のためではなく、王族の意地のためにここで死ぬ、そのために父のような忠臣をみな殉死させようとおっしゃるのですね。父がここにいたならば、必ずや、王族らしからぬ振る舞いだと諫言したことでしょう」

 

「……ああ、そうであろうな……」

 

 そなたの父は貴族の鑑であった、とジェームズ一世は言おうとした。

 だが、どうあれ彼を処刑してその名誉を奪った自分が口にしてよい言葉ではないと、思い止まる。

 

「私には、陛下の命運にも、トリステインの意向にも、関心はありません。ただ、かつての母国と領民のために、亡き父に代わってここに来ただけです。陛下はあくまでも、ここで死ぬと言い張るのですか」

 

 マチルダの糾弾を受けて、王はベッドの上で力なく俯いたまま、じっと押し黙っていた。

 

「……朕は、始祖の名を貶めぬため、王国を乱れさせぬためと信じて、我が弟とその愛妾、そしてエルフの血を引く娘を殺す命を下した。だが程なくして反乱が起こり、重鎮たちは、朕のその決断を賞賛していた者たちまでも、次々に反乱軍に寝返っていった……」

 

 しばらくして、掠れた声でぽつぽつと呟くように話し始めた王は、これまで以上に老け込み、やつれて疲れ切ったように見えた。

 

「大公を、そして太守を裁かねば、こうまで臣下の人望を手放すこともなかったかも知れぬ。反乱軍に組する“天使”は、エルフだというだけの理由で身内を殺したことを、我ら王族の罪のひとつとして数えていた。その言葉を証明するように、彼らは亜人どもとさえも手を組み、我らは同じ人間にすらも見限られ続けた。……すべては、朕の力量の不足と、不徳のいたすところであろう……」

 

 そうして、冷たい視線を向けてくるマチルダに、力なく微笑み返した。

 

「……そなたの申す通りだ。今さら、朕には失われる矜持もなかった。臣下を救うために共に亡命し、もはや何者でもないただの老人として、恥を晒すのも仕方のないこと。トリステインからの申し出に、従うことにしよう。……ウェールズも、それでよいな?」

 

 ウェールズは、沈痛な面持ちで頷いた。

 

「……はい。陛下の、ご命令であれば……」

 

 マチルダはそれを聞くと、さっさと踵を返して、元通りコルベールの横に戻っていった。

 彼女は、もちろんアルビオンの王族には恨みを抱いている。

 しかし、この城には古い顔見知りや、両親の友人が、まだ大勢残っていた。

 彼らには死んでほしくはなかったし、それに先程王にも言ったとおり、父が生きていたならば必ずや皆を助けようとしたに違いないのだ。

 

 ルイズ、シエスタ、ギーシュは、何とも言えない気持ちになりながらも、一方でほっと胸を撫で下ろしていた。

 もはやアルビオンの敗北を回避できず、戦争を止められないのは残念だが、ミス・ロングビルのおかげでとりあえず姫さまからの依頼は達成できたし、何よりも彼らを見殺しにしなくて済んだのだ。

 

 しかし、そこでディーキンが手と声を上げた。

 

「アー、ちょっと待って!」

 

 全員の注目が、彼に集まる。

 

「最後は逃げないといけないかもしれないけど、明日の戦いで勝てないって決めつけるのは早いって、ディーキンは思うの」

 

 もちろん、今し方のフーケの説得には感謝しているし、自分もこの城の人々の命は救いたい。

 しかし同時に、何も知らずに天使だと信じた悪魔の意向に従うことで、その魔手に掛かろうとしている反乱軍の兵たちも救いたかった。

 

 そのためには、ただこの城から逃げ去るのではいけない。

 それでは、連中は堕落した王族は命惜しさに逃げ出したのだと喧伝し、ますます熱狂的な支持を集めることだろう。

 そのために何をしたらいいだろうかと、ディーキンはずっと考えをまとめていたのだ。

 

「……ディーキン君、それは無理だ。我々とて、敗北を前提の戦いなど情けないとは思うが、敵の数は我が方の百倍以上なのだよ。一人で百人を倒しても、まだ足りない計算なのだ」

 

 ウェールズは首を振ってそう言ったが、ディーキンもまた首を振ってそれに答えた。

 

「イヤ、ディーキンも本当に敵が何万人もいるなら、どうしようもないと思うよ。でも、自分たちに命令してるのが天使じゃなくて悪魔だってことがわかれば、きっと、向こうにつくのを止める人が多いんじゃないかな?」

 

 つまり、敵軍の中に混じっているデヴィルを、他の兵士たちの前で化けの皮を剥がした上で始末してやればいい。

 おそらくデヴィルの数はごく少ないはずで、自分たちの信念が間違っていたとわかった上に指導者を失えば、反乱軍の兵士たちは浮足立ち、戦意を失うことだろう。

 上手くやれれば、あるいはこちら側につく兵士もあらわれてくれるかもしれない。

 

「……亜人よ、何故、奴らが天使ではないと? 我々も最初は無論そう思い、大勢の者が化けの皮を剥がそうとしたが、誰も成功しなかった。奴らは、結果をもって自分たちの主張を証明したのだ。残念だが……」

 

「それは、天使っていうのがどういうものか、知らないでやろうとしたからじゃないかな。ディーキンはちゃんと知ってるから、何とかできると思うの」

 

 信仰を利用して兵を操るということは有効な手段だろうが、その信仰の誤りを明白に暴露された時にたちまち支持を失うという危険もはらんでいる。

 これまでは、彼らの正体を知るものがいなかったがゆえにそれを暴かれる心配もなかっただろうが、今はその正体を知っている自分たちがここにいるのだ。

 

 ディーキンが王と皇太子から訝しげな目を向けられるのを見て、キュルケらが口添えをした。

 

「その子が言ってるのは、本当のことですわ」

 

「そう。彼は、天使を呼び出せる」

 

「そ、そうです! 私たちは、先生が本物の天使様を呼び出されるのを、見たことがありますから!」

 

 ディーキンは困惑したような王族2人の様子を見て、少し首を傾げた。

 

 実際に、やって見せた方がいいだろうか。

 デヴィルと戦う際には人手が足りないので、どの道何かを呼び出して、助力してもらうことになるかもしれないのだし……。

 



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第百十八話 Companion

 

(ウーン……)

 

 ディーキンは、さてどうしたものかと考え込んだ。

 

 確かに、シエスタらの期待しているとおり、ここでウェールズらに本物の天使を呼び出してみせることは可能だ。

 借り受けた『魔道師の杖(スタッフ・オヴ・ザ・マギ)』を使えば、モヴァニック・デーヴァやモナディック・デーヴァを招来できるし、再チャージ可能なアーティファクトを用いるので、リソースの消費もほとんどなくて済む。

 ただ、招来したのが確かに天使かという証明は、ごく短時間の招来だけでは難しいかも知れない。

 

(なら、天使よりも悪魔のほうを呼んでみせるのはどうかな?)

 

 敵軍に加わっているのと同じデヴィルを招来して見せれば、彼らには一見してそれと分かるはずだし、こちらが敵の正体や能力について知っているという何よりの証にもなる。

 敵が神の使いだと主張している連中は、実は地獄の悪魔なのだと、わかりやすく説明することができよう。

 

 唯一の問題は、デヴィルのような悪属性の来訪者を招来することはそれ自体が悪の行為であり、するべきではないということだ。

 この場にマルコンヴォーカー(悪しき存在を呼び出す者)でもいてくれたら、問題はなかったのだが……。

 

「……よーし。それじゃディーキンは、反乱軍の人たちが神さまの使いだっていってるやつを呼び出してみせるよ。王子さまたちも、きっと見たことがあるんじゃないかと思うの」

 

 ディーキンは少し考えた後に、小さく頷いてそう言った。

 

 ここはひとつ、厳密には本物ではないが、《影の召喚術(シャドウ・カンジュレーション)》を用いて紛い物のデヴィルを作り出してみせるとしよう。

 偽のデヴィルを作る力の源はあくまで影であるから、それならば悪しき源から力を引き出す行為にはならない。紛い物の天使を作るのが善の行為にはならないのと同じことだ。

 この影術で作り出せるデヴィルは最下級のレムレーくらいだが、敵軍にバルバズゥ(鬚悪魔)などのデヴィルが加わっているのであれば、おそらくウェールズらも招来されるところを見たことがあるだろう。

 

「《スジャッチ・クサーウーウク……、ビアー・ケムセオー・レムレー!》」

 

 呪文が完成すると、一瞬周囲から影が湧きあがってディーキンの前に集まったように見えた。

 次の瞬間にはそこに血のように赤く輝く魔法陣が形成され、ぶるぶると震えるおぞましい肉塊のような生物が、地面から染み出すようにして姿を現す。

 

「……! こ、これは……。確かに、戦場で見たことがあるぞ」

 

 戦場で部下たちを率いて戦ってきたウェールズには、その姿に見覚えがあった。

 これまでに何度も、敵の攻撃の先陣を切って捨て駒のように集団で向かってきたり、混戦となったときにどこからともなく湧き出して集団でこちらの部隊を分断したりしてきた、おぞましい化け物だ。

 

 他の怪物どもと比べればそれほど手強い相手ではないが、見た目よりも頑強で、剣で切ったり銃弾を浴びせたり、弱い呪文で攻撃したりしてもなかなか倒れない。

 そのため、本来ならばもっと強力な敵に対して使いたい強力な呪文や砲弾をしばしば消耗させられてしまうのだ。

 反乱軍の連中は“不信心者を地獄へ導く御使い”だとかいっていたが……。

 

「ディーキンのいたところでは、こうやって誰でも呪文で呼び出せるようなものなの。神さまのお使いなんかじゃなくてもね」

 

 ディーキンはそれから、招来したモンスターが命令に従うことを示すためにいくつか簡単な指示を出して動かして見せながら、レムレーの能力や正体について説明していった。

 

 レムレーにはダメージ・リダクションと呼ばれる能力があり、善の属性を帯びている武器や銀製の武器以外による物理攻撃は威力を減じられてしまうため、それを知らない者には実際以上に頑強に見えることがよくある。

 また、火による攻撃はまったく受け付けないし、それ以外のさまざまなエネルギーに対してもかなりの耐性があるため、呪文による攻撃に対しても同じことが言える。

 その正体は地獄に堕ちた悪人の魂が作り変えられた最下級のデヴィルであり、神の使いでもなんでもない……。

 

 実際に目の前で操ってみせたことが効いたのか、これまでの戦いで見てきた敵の能力と説明の内容が合致するからか、あるいはルイズたちも事実だと保証してくれているからか。

 ウェールズらは、ディーキンの説明を意外にすんなりと信用してくれているようだった。

 これなら敵軍に加わっていると予想される他の連中についても話してよさそうだと判断したディーキンは、そのまま次々に説明をしていった。

 

 敵軍が天使として頂いている存在が、実際にはエリニュスと呼ばれるデヴィルであろうこと。

 そいつらが神罰を下す御使いと称しているおぞましい怪物どもも、すべてデヴィル、ないしはその他のフィーンドであろうこと。

 デヴィルは神の使いなどではなく、その目的は人間を破滅させて魂を地獄に堕とすことであり、始祖云々などというのはおそらくそのための方便に違いないこと……。

 

 そうして一通りの説明を終えると、国王は寝床の上でぽつりと呟いた。

 

「……では、あの連中は天使などではなく、悪魔だったというのか。この国は、悪魔にとり憑かれたのだと……」

 

 もはやこれまで、明日には潔く勇気ある死に様を見せるのみだと悲壮な決意を固めていたところに、突然の亡命の申し出があった。

 かつて名誉を奪った臣下の娘が目の前に現れて、残った忠臣たちのために恥を忍んで生き延びようと涙を飲んだところで、今また重大な新事実が判明したのである。

 次々と変わってゆく事態に、どう考えてよいものかと困惑するのも無理のないことだろう。

 

 それはおそらく、息子のウェールズも同じこと。

 その胸中では複雑な思いが渦巻いており、考えをまとめかねているに違いなかった。

 

 自分たちは決して神や始祖に見限られたわけではなかったのだということを、喜べばいいのか。

 悪魔などに目をつけられてしまったことを、嘆けばいいのか。

 臣民たちもおそらくは悪魔の姦計に絡めとられたのであり、必ずしも自らの意思で裏切ったわけではなかったのかもしれない。

 それは安堵するべきことなのか、それとも憂うべきこと、憤るべきことなのか……。

 

「……あまり突然で、正直なところ、まだどう考えていいのかさえ分からない。だが、教えてくれたことに感謝するよ」

 

 ウェールズはとにかく、そう言ってディーキンに頭を下げた。

 物思いに沈んでいたジェームズも、我に返ってそれに倣う。

 

「うむ……、彼奴らが正真正銘の悪魔だというのであれば、なんとしてでも勝たねばならぬ。ならぬが……」

 

「ディーキン君、君は我々にここで踏みとどまって圧倒的な数の敵と戦い、しかも玉砕せずに戦果を挙げて生き残れと要求しているわけだ」

 

 敵軍全体ではたしてどれだけの数の悪魔がいるのかは分からないが、10や20ではないことは確かだ。

 その正体や能力が明らかになったからと言って、明日の戦いで数万の熱狂した敵軍の陰に隠れてくるであろうそいつらの正体を暴いた上で始末するなどということが、この城に残ったわずかな戦力でできるだろうか?

 

「情けないとは思うが、君のもたらしてくれた情報があっても、私にはとても上手くやれる自信はない。他力本願なようだが、君には何か勝算があるのか?」

 

「ンー、一応は。相手の数とか種類とかを、もう少しちゃんと調べないと、はっきりとは言えないけど……」

 

 ディーキンは少し首をかしげてからそう言って頷くと、全員の注目が集まる中で、その方針について説明をしていった。

 

「ええとね。まず、こっちも天使を呼ぼうかと思うの」

 

「何? つまり、こちらも君が呼んだ偽者の天使を立てて、連中が特別ではないことを示そうというのか?」

 

「ううん。デヴィルの化けた偽者じゃなくて、本当のエンジェルを呼ぶの。本物と比べてみれば、これは偽者だっていうのがよくわかるでしょ?」

 

「じゃあ、ディー君はラヴォエラをここに呼ぶつもりなの? ……でも、それで上手くいくかしら?」

 

 キュルケが、横からそう疑問を呈した。

 

 確かに彼女には、一目でただの亜人ではないと納得させられるだけの雰囲気や力はありそうだが……。

 しかし、どうも若々しく純粋というか、世間知らずで猪突猛進なところがあって、敵に悪魔がいるなどと聞いたら作戦も聞かないうちに飛び出していきそうな感じがするので、そのあたりが少々不安だった。

 

 ディーキンはちょっと考えて、首を横に振った。

 

「イヤ、ラヴォエラには向こうに残ってもらうって、枢機卿のおじさんたちとも約束したからね」

 

 彼としても、ラヴォエラのことを信頼してはいるのだが、確かに彼女には定命の世界に不慣れで経験が不足している面があることは否定できない。

 今回のような仕事ではいろいろと思慮深さや慎重さも求められるだろうし、そういった面で少々不安だった。

 それに彼女一人では、あまり大勢のデヴィルを相手に戦うことはできまい。

 アストラル・デーヴァは平均的なエリニュスよりは強いはずだが、そこまで飛び抜けた力を持っているというわけではないのだ。

 

 まとまった数のセレスチャルの部隊を呼び寄せることができればいいのだが、そこまで多くの資産やスクロールの備蓄はないので、ここは量ではなく質で勝負するべきだろう。

 高レベルの冒険者は、しばしばわずか数人のパーティでもって、戦争の勝敗を左右するほどの大活躍をすることができる。

 それと同じで、数は少なくとも強力なセレスチャルを招請すれば……。

 

「ディーキンには、他にも天使の知り合いがいるから、今度はその人に頼んでみることにするよ」

 

 そう言いながら、ディーキンはウェールズのほうにじっと目を向けた。

 

「……なんだい?」

 

「ええと。ちょっと、言いにくいお願いなんだけど」

 

「何かは知らないが、遠慮なく言ってくれ。君には大きな恩義があるし、本当に天使が我らを助けてくれるのならば惜しむものなどないよ」

 

「じゃあね。その、天使の人たちは、いいことのために働くのはもちろん大好きだけど。他にも仕事があるから、どうしてもただで働くわけにはいかないってこともあるの……」

 

 ディーキンはそう言いながら、ウェールズの顔から、彼の手に視線を落とす。

 彼はそこに、アンリエッタがしていたものと対になる『風のルビー』があることに既に気が付いていた。

 

 これは彼ら自身の国を救うための戦いでもあるのだから、そのくらいの支払いを求めても強欲だということにはならないだろう。

 天使を招請するための対価として、あれを正式に貰い受けることができないだろうか?

 とはいえもちろん、実際には指輪を金銭に換えて天使への支払いに使おうというわけではない。

 始祖の指輪を所有できれば手元にある書物と合わせてルイズのために非常に役に立つだろうし、この戦いの役に立つような呪文が新しく見つかる事だってあるかもしれない。

 

 その視線に気が付いたウェールズは、ちらりと寝床の父のほうを窺い、彼が頷いたのを見ると躊躇することなく指輪を抜き取ってディーキンに差し出した。

 

「この指輪は国宝のひとつだが、国自体がなくなろうかという危機に際して惜しむようなものではない。もしも足りないようなら、他にもこの城に残っているものは何でも好きに使ってもらって構わないよ」

 

「ありがとうなの。ディーキンは、期待にこたえられるように努力するよ!」

 

 指輪をルイズに預けながらにっこりと笑ってそう言うと、ディーキンはさっそく招請の準備に取り掛かった。

 スクロールケースから《上級他次元界の友(グレーター・プレイナー・アライ)》の巻物を取り出して、邪魔が入らないように皆から少し離れた場所へ移動すると、厳かな調子で詠唱を始める。

 この呪文の発動には、ごく短時間の招来を行なう《怪物招来(サモン・モンスター)》などよりもずっと時間がかかるのだ。

 

「《アーケイニス・ヴル…… ビアー・ケムセオー……  ヴァル・ナ、ミト・ラ……》」

 

 最初はゆっくりとした低い声で、歌うように。

 それから進むにつれて次第にトーンが上がり、詠唱には熱が篭っていく。

 

 やがてディーキンの目の前の床に仄かに輝く美しい黄金や白金の色をした召喚の魔法陣が浮かび上がり、幾重にも連なってその輝きを増していった。

 周囲の者たちも、何が起こるのかと固唾を飲んで見守る。

 

「―――― 忍耐強き者よ。眠り続け、そして目覚めた者よ。我が友セレスファーよ……。願わくば、永遠の楽土より今、この場所へ!」

 

 10分にも及ぶ長い詠唱の果てに、強く呼びかけるような声で、最後の言葉が紡ぎだされた。

 その声に呼応するように、魔法陣は眩い光を噴き上げ、その光が輝く金属光沢を帯びた羽根の渦になって、天界からの召喚の門を形作る。

 その位相門の奥から自身の名を呼ばれた神々しい存在がこの世界へと近づいてくるとともに、ひときわ美しいエメラルド色の光が溢れ出して部屋を満たした。

 

「ううっ……!?」

 

「ま、眩しいっ……!?」

 

 じっと見つめ続けるにはあまりに力強く神々しいその光に、召喚に携わるディーキン以外の者たちは、反射的に目を瞑って頭を伏せる。

 

 やがて光の量が弱まり、ばさりという羽音がして、異世界から呼ばれた存在がこの場に降り立った。

 同時に、静かで力強い声が元の明るさを取り戻した部屋の中に響く。

 

「この再会を感謝しよう、我がかけがえのない恩人よ。そして新しく出会う人々よ、はじめまして。ここは聞いたこともない世界のようだが、多元宇宙は広いからな。奇跡のようなこの出会いが、互いにとって喜ばしいものとなりますように」

 

 その声にようやく細めた目を開いて顔を上げ、召喚された存在を目にしたルイズらは、思わず恍惚とした溜息をこぼした。

 

「……ああ」

 

 直視できぬほどの眩い輝きこそ収まったものの、その姿はあまりに力強く、そして神々しい。

 あのラヴォエラにも一目で天使だと信じさせるに足るこの世ならざる高貴さが感じられたが、この天使はさらにその上を行っていた。

 

 身の丈は2メイル半を優に超えており、その体はゆったりした純白の長衣と、象眼の施された黄金色の鎧とで覆われている。

 その隙間から見える均整のとれた筋肉質な肉体は滑らかなエメラルドの色合いをしており、フルフェイスの兜の奥に見える目はサファイアのような青い輝きを放っている。

 背には純白の羽毛のある翼を持ち、その体全体が神聖さを感じさせる美しい光に包まれていた。

 

「お、お……!」

 

 アルビオンの王族たちも、これこそが真の天使だということを直ちに確信した。

 これまでは反乱軍が掲げていた“天使”も、敵ながらあるいは本物なのかもしれぬとも思えていたが、今目の前にいる存在に比べれば凡庸もよいところだ。

 一点の曇りもなく美しく思えるエリニュスの肌や翼も、本物の天使のそれと比べてみれば血の色が浸み込んで汚れ、輝きがくすんでいることは一目瞭然であった。

 

 ディーキンだけは、畏敬の念に打たれるでもなく、いつも通りの調子でにこやかにその天使に話しかけた。

 

「お久しぶりなの。あんたは何だか、前より格好よく見えるよ。ねえ、その素敵な鎧や兜は、エリュシオンかセレスティアで売ってるの? ディーキンが着られるサイズのもあるかな?」

 

 この天使は、以前にディーキンがボスと共に九層地獄を旅していた時、そこで出会った『眠れる者』と呼ばれるプラネターだ。

 彼は自分の魂と結び付けられた真の想い人を探すために、その女性との出会いが約束された場所でずっと眠りながら待ち続けていたが、ボスの働きによってついに念願かなって、その女性が何者であるかを知ることができたのだった。

 心からボスとその仲間たちに感謝しながら、彼は地獄を後にして自分の家のあるエリュシオンの楽土に帰っていったのだが、今回はその時の縁を頼みにこうして呼び出させてもらったというわけである。

 

「いや、これは前から持っていたものだよ。ずいぶん長い間仕事を休んでエリュシオンを留守にしてしまったが、またフィーンドと戦う役目に戻るために武装しているのだ」

 

 眠れる者は律儀にそう答えると、ちょっと首を傾げた。

 

「……今回私を呼び出したのは、そのためなのか? 君が同じものを欲しいというのなら、以前にこれを作ってくれたハンマー・アルコンの鎧鍛冶に頼んでみるが」

 

「アア、イヤ、そうじゃないの。実はね――」

 

 ディーキンはそれから、これまでのいろいろな事情をかいつまんで説明していった。

 人間の戦いに通常セレスチャルが介入しないことは知っているが、敵軍の背後にデヴィルがいるとわかった今こそ彼の助力を必要としているということを伝え、協力してくれないかとお願いする。

 

「せっかく、その。好きな人を見つけたあんたを、呼び出したりして申し訳ないんだけど……」

 

 ディーキンが申し訳なさそうにそう言うと、眠れる者は困惑したように小さく首を振った。

 

「……申し訳ない? なぜ? 友よ、正しいことをするのを後ろめたく思うべきではない。私は愛する人と出会えるときをずっと待っていて、君たちのおかげでそれが叶った。今しばらくの間、また待つことはできる。運命がどんなに虚ろでも、心は既に満たされているよ」

 

 それから、アルビオンの王族たちの方に向き直る。

 

「この地からデヴィルどもの脅威を取り除くために、私にできることがあるならもちろん協力しよう。邪悪と向き合う君たちを、神が祝福しますように」

 

「おお、感謝いたします、天使殿……」

 

 感極まったように震える声でそう言いながら、跪いて敬虔に首を垂れる父子の姿を見て、しかしプラネターはまた困惑したようだった。

 

「私に頭を下げないでくれないか? そんな態度を示されると落ち着かないのだ。悪と戦う機会を与えられたことを感謝するのは私の方だし、今日までここで邪悪と戦い続けたのは君たちだろう。やってきたばかりの私が敬われる理由はないはずだ」

 

「しかし、神と始祖の御使いである天使のお方に……」

 

「すまないが、私は君たちの始祖のことは知らないよ。善を祝う方法は千差万別だ、一つとは限らない。私は偉大な栄光に仕える天使だ。私に価値を見出すならば、私よりも高貴な愛や美があることも知るといい」

 

「恐れながら、国王陛下。本当の天使というのは、崇拝を求めるものではないそうですわよ?」

 

 キュルケが横からそう口を挟むと、すっと前の方に進み出た。

 

「はじめまして、美しい方。私はキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。二つ名は『微熱』、ディーキンの友人ですわ。これから共に戦う戦友になるのですから、よろしければキュルケと呼んでくださいな」

 

 そう言って差し出した手を、眠れる者はしっかりと握った。

 

「よろしく、キュルケ。私のことは、ただプラネターと呼んでくれ。君のような勇敢な女性がこの場にいたことは、デヴィルどもにとってはまことに不運だったな」

 

 それを見て、他の仲間たちも次々と彼の傍に集まり、順番に自己紹介をしては握手を求めた。

 最後に、互いに顔を見合わせて苦笑した王族の父子が挨拶をした。

 

「ウェールズ・テューダーだ。確かに、共に戦う戦友に天使も人間もないな。よろしくお願いするよ」

 

「ウェールズの父、ジェームズです。後ほど宴の席を設けることになっておるので、そこでこの城に残った臣下の者たちにも挨拶をしてやってくださらぬか」

 

 眠れる者が快く承諾してくれたところで、ディーキンが今後の打ち合わせをすることを提案した。

 

 何せ、決戦は明日の正午だというのだから、敵をどう迎え撃つか決断して準備を整えるのに、あまり時間の猶予はない。

 今夜は宴の席を設けるとのことだったが、明日玉砕して終わりならいざ知らず、勝つつもりで戦うのであればただ楽しく騒いで終わりというわけにはいくまい。

 事前に自分たちで大筋の流れを決定しておき、宴の場で兵士たちをもう一度勝つ気で戦ってくれるよう鼓舞するとともに、翌日の作戦を伝達してやらなくてはならないだろう。

 それに眠れる者には、この世界の魔法や兵器、この世界特有の種族などについても、できる限りのことを説明しておかなくてはならない。

 

 全員がそれに同意してくれたので、さっそく全員で寝室の机を囲んで、話し合いが始まった。

 

 

「軍隊にいるそんなに強くないデヴィルとかは、この城の兵士の人たちに倒してほしいの。敵の兵士はなるべく狙わないで、フィーンドだけを狙うようにして」

 

「私が前に出て戦うのではないのか?」

 

「最初からあんたが出ていったら、きっと後ろの方にいる連中は逃げ出して、上の方にいるもっと強いデヴィルに報告して態勢を立て直そうとするよ。明日の戦いが終わった後でばれるのは仕方ないけど、それまではなるべくこっちのことを知らせない方がいいんじゃないかな?」

 

「なるほど。だが、定命の兵士はセレスチャルではないのだから、フィーンドと戦うに際しては武器に善の属性を与えねば効果は期待できないだろう。それはどうするのだ?」

 

「ンー、そうだね。……シエスタにお願いするのは、どうかな?」

 

「……え、ええ!? 先生、私にできることなら何でもしますけど。でも私には、そんな力は……」

 

「イヤ、《武器祝福(ブレス・ウェポン)》のワンドをあげるから、兵士の人たちの武器にそれを使ってくれればいいの。使い方は後で教えるから。十人くらいで銃で狙い撃つとかすれば、弱いデヴィルやバーゲストくらいなら、きっと倒せるはずだよ」

 

「うむ、ある程度持ちこたえて偽者の“天使”とやらを前線の方に引っ張り出さないことには、化けの皮を剥がすも何もないだろう。最初から前に出てきてくれれば、話は早いが……」

 

「問題は、敵の数だね。申し訳ないが、一体どのくらいいるのか、正確なところがわからないんだ」

 

 ウェールズにそう言われて、ディーキンは考え込んだ。

 

「ウーン……。やっぱり、今日のうちに一回敵の軍隊を調べて来た方がいいんじゃないかな。デヴィルとかの大体の数がわからないと、作戦も立てにくいから……」

 

「駄目」

 

 ディーキンの提案を、タバサが即座に止める。

 

「ねえタバサ、ディーキンは別に死にに行こうっていうんじゃないよ。なんとかやれると思ってるから……」

 

「あなたはこの作戦の中核。万が一のことがあったら、たとえあなたの仲間が助けに来てくれるとしても明日の戦いにはきっと間に合わない。負けてもいいのでないなら、そんな危険は冒させられない」

 

「……ウーン」

 

 それは筋の通った理由のようだったので、ディーキンも考え込んだ。

 確かに、連絡を受けたボスが助けに来てくれるにしても、明日の戦いには間に合わないかもしれない。

 ここにいる眠れる者が助けてくれるかもしれないが、彼にまで何かあったら、それこそどうにもならなくなってしまうし……。

 

 では、どうしたらいいだろうか?

 

 直接潜入せずに《詮索する目(プライング・アイズ)》のような呪文を使うという手もあるが、いくら小さくて発見されにくいとはいってもさすがに数万の目が光っている場所へ十数個の魔法的感知器官を送り込んだら、そのうちのどれかが見つかってしまう危険は高い。

 デヴィルにそのことが伝わったら、自分たちの世界の呪文を使う何者かが敵の中にいるとばれてしまう。

 

 タバサやフーケ、コルベールなども腕利きではあるが、デヴィルを含む数万の軍勢の目が光っているただ中へ偵察に行ってもらうのはさすがに危険が大きすぎるだろう。

 それに第一、彼女らはデヴィルに詳しくないから、その数の把握と言われてもどれがデヴィルでその名前がなんであるかを判別することからして難しいはずだ。

 結局、ある程度知識を持っていて偵察に行けそうなのは、この場では自分と、あとは眠れる者しかいないわけだが……。

 

「ふむ。私がやってもいいのだが……、生憎と、あまり隠密行動は得意ではないんだ。誰か得意そうなものを、呪文で呼んでみるか?」

 

「ンー……」

 

 ディーキンは少し悩んだが、結局それが一番いいかもしれないな、と結論した。

 眠れる者に頼んで呪文を使ってもらい、誰か隠密行動が得意な別のセレスチャルをこちらに呼んでもらうのだ。

 ちょっと他力本願なようだし無関係な者を巻き込むのも後ろめたいが、セレスチャルならばデヴィルとの戦いには喜んで協力してくれることだろう。

 

 あと問題があるとすれば、そのセレスチャルの知識や技量が確かなものかどうかということだ。

 人格的に信頼がおけるのはセレスチャルならば当たり前のことだが、それと能力面とはまた別の問題である。

 見つからずに無事、正確な情報を携えて戻って来られるだけの者でなくてはいけない。

 

 クア・エラドリンやルピナル・ガーディナルなど、隠密行動が得意な者はセレスチャルには大勢いる。

 とはいえ、個人的に知っていて間違いのないセレスチャルとなると、ラヴォエラと眠れる者の他にはいない。

 眠れる者の方で誰かよい人物に心当たりがあるなら、彼に任せようか……。

 

(……あ)

 

 ディーキンはそこでふと、ある人物のことを思い出した。

 

 そういえば、今なら分かる。

 あの人の正体はセレスチャルだったのだと。

 能力的にも間違いはないが、ただ、問題があるとすれば……。

 

「ねえ、プラネター。ディーキンはよさそうな人を、一人だけ知ってるんだけど……」

 

「何か問題があるのか?」

 

「うん。残念だけど、その人の名前を知らないんだよ」

 

 特定の個体を特に指定して招請を求めるには、その相手の名前を知らなくてはならないのである。

 

「……でも、どんなことをした人かはわかるの。もしかしてあんたが、その人の名前を知ってるかもしれないと思って」

 

 ディーキンはそう前置きしてから、その人物について説明を始めた。

 以前、ボスと出会うよりももっと前に、ただ一度だけ会って話したことのある人なのだ。

 

「ええとね。その人は、『英雄王スレイと、征服者グレイの物語』を最初に歌った人なの。昔はエルフで、今はたぶん、エラドリンになってて……」

 





デーヴァ(天人):
 デーヴァは善の来訪者であるエンジェルの中で最も一般的で数が多い者たちであり、悪と戦う兵卒にあたる。
モヴァニック・デーヴァ、モナディック・デーヴァ、アストラル・デーヴァなどの種類があるが、いずれも美しい翼を背中に持つ凛々しい人間のような姿をしている。
彼らはしばしば善の勢力によって召喚されることや、祝福されし神々の先触れとなることで、多元宇宙のさまざまな戦闘に関与する。
虚飾は嫌っているが、物質界に赴く際には死すべき存在の習慣を考慮して、簡単な腰布や衣類を身にまとっていくことが多い。
デーヴァは天上語(セレスチャル)、地獄語(インファーナル)、竜語(ドラコニック)を話すが、タンズの生得能力によって言語を持つすべてのクリーチャーと意思の疎通が可能である。

マルコンヴォーカー(悪しき存在を呼び出す者):
 デーモンやデヴィルなど、下方次元界の呪うべき存在とあえて契約を交わして巧みに騙すことで、悪に対して悪をぶつけようとする召喚術の使い手。
通常、悪の存在を召喚する行為は術者自身も悪に染まってしまう危険をはらんでいるが、マルコンヴォーカーはそのような行為を日常的に行っても自身の属性が変化する恐れがない。
彼らは人々から遠からぬ堕落と破滅への道を歩む無謀な愚か者と見られながらも、あえて悪との危険な騙し合いを続けようとする、善なる無頼の上級クラスである。

レムレー:
 レムレーは地獄に落ちた悪の魂が責め苛まれ、何もかもを搾り取られた末に転生させられた最下級のデヴィルであり、苦痛と憎悪に満たされて震えるおぞましい肉塊である。
前世の記憶も精神もほとんど持ち合わせていないが、より上位のデヴィルからの命令には忠実に従う。
デヴィルに共通する抵抗力や耐性に加えて、知性を持たないがゆえに精神に作用する呪文や効果にも完全耐性があり、また若干のダメージ減少能力も持ち合わせているため、並みの人間の兵士となら正面から戦えば勝てるくらいの強さはある。
他の者よりも優れた能力を持っているか、あるいは単に運がよかったためにある程度の期間生き延びられたごく一握りのレムレーは、上司の目に留まることでより上位のデヴィルに“昇格”することがある。

バルバズゥ(ビアデッド・デヴィル、鬚悪魔):
 バルバズゥは地獄の軍隊においては軍曹のような地位にある下級デヴィルであり、レムレーの雑兵を従えて敵と戦う突撃兵である。
知力こそ低いものの、彼らには回数無制限でグレーター・テレポートを使用する能力があり、前線の防衛役を飛び越えて直接敵の本陣へ斬り込んでゆくことができる。
彼らの持つおぞましい鋸歯の薙刀でつけられた傷は自然には塞がらず、適切な治癒を受けるか死ぬまで流血し続ける。
また、その名前の由来となっている汚らしく硬い顎鬚によって傷つけられた者は、極めて自然治癒しにくい“悪魔風邪”と呼ばれる病に感染してしまうことがある。
1日につき1回、最低でも2体、最大で20体までのレムレーか、同じバルバズゥ1体のどちらかを地獄から招来する能力も持っているが、これは常に成功するとは限らない。

プラネター(惑星の使者):
 プラネターはエンジェルの中でも強大な存在であり、セレスチャルの軍隊を率いてフィーンドと戦う天界の将軍である。
無数の魔法的な力を持ち、最高レベルのクレリック呪文をも使いこなす彼らはしかし、強力な魔法の大剣を振りかざして近接戦闘にも進んでその身を投じる。
プラネターは2メートル半を優に超える長身で、エメラルド色に輝く肌と、白い羽毛のある翼を持っている。
彼らはいかに巧妙な偽りや幻覚であろうとも一目見ただけで看破することができ、悪の属性を帯びた武器か悪の副種別を持つ呪文による攻撃以外では決して致命傷を負うことはないとされる。


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第百十九話 Ancient heroes

 ディーキンはいかにして、『英雄王スレイと、征服者グレイの物語』を最初に歌ったというエラドリンと知り合ったのか?

 これは、彼がまだボスと出会う以前の物語である……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「フンフンフ~ン♪ ディーキンは、エラくて、カッコいい~。オオ~~♪」

 

 ディーキンは得意げに鼻歌など歌いながら、主人であるホワイト・ドラゴンのタイモファラールの帰りを待っていた。

 ここはとある人間の町から少し離れたところにある静かな森の外れで、危険な獣の類もいない。

 

 タイモファラールはたまに人間の姿に化けて、その町に下りていくのだ。

 人間どもの様子を窺いにいくのだとか言っているが、主目的は大好物である『足元をすくわれるワイヴァーン』亭のミートパイを食べることなのをディーキンはちゃんと知っていた。

 今日はたぶん、上機嫌な主人が持ってきてくれた土産の一切れくらいにはありつきながら、歌を一、二曲披露して帰るだけで済むだろう。

 彼の機嫌が悪いときには生きた心地もしないのだが、今日は楽な日になりそうだった。

 

 そうでなくても、最近のディーキンは自分にかなり自信が出てきていて、気分のいい日が多いのだが。

 

 ディーキンもいよいよコボルドの繁殖活動などに携われる、いわゆる一人前と認められる年齢になったので、先日久し振りに主人の住む洞窟の最下層から部族の仲間が住んでいる上層部のほうに戻ってみたのだ。

 そこでタイモファラールの持つ本を読んで学んだ歌や物語を披露してみせたところ、コボルドの女の子たちから「ディーキンはいい声で歌うし話も面白い」と大層持て囃されて、ひっきりなしに相手をするよう求められたのである。

 部族には他にバードがいないので物珍しかったというのもあるだろうが、女の子たちからちやほやされるのは気分がよかった。

 

 もっとも、男たちからはこれまで通り「お前は臆病なでぶのコボルドでいい加減な奴だ」といわれて、概して評判が悪かった。

 勤勉を旨とする一般的なコボルドからしてみれば、ディーキンはろくに自分の務めも果たさずに遊び歩いているとしか思われなかったし、おまけに部族のために戦う勇気もないときている。

 そのくせなぜか、コボルドが崇拝するドラゴンの主からは妙に気に入られている上、若造の分際で女たちからもやたらと人気だとあっては、妬まれるのも無理はなかった。

 部族の族長からも、よく不愉快そうな目で睨まれたり、凄まれたりする。

 

 だが、ディーキン自身は、そんな妬みなどはほとんど気にも留めていなかった。

 

 族長なんて大して主人に気に入られてもいないし、どうせ1、2年くらいで死んで次の者に替わるのだ。

 どうあれ部族の皆が崇拝しているタイモファラールが常に傍に置きたがっているのは自分であって、その他のコボルドなどは月に一回も面会できればいいくらいである。

 主人の機嫌の悪いときに会いに行かせたりすれば、怒りを買って拝謁した者も自分もまとめて殺されてしまいかねないから、面会の責任者である“飛び跳ね匠”はそう簡単に主の下へ行く許可を出さないのだ。

 

『今度、ご主人様の機嫌がいいときに、あんたの頼みを伝えておいてあげようか?』

 

 ちょっとそう言ってやるだけで、普段はいやな目で睨んでくる連中も、喜んでディーキンにすりよってくるのだった。

 自分がとてももてる男に、その上コボルドとして望みうる最高の地位を射止めた男になったような気がして、ディーキンはすっかり有頂天になっていた。

 そのままいけば、死ぬまでドラゴンに傍仕えする取るに足りないちっぽけな詩人のままで、その一生を終えていたかもしれない。

 

 けれどこの日、彼の生き方を大きく変える運命的な出会いがあったのである。

 

 

 

 ――……♪

 

 

 

「……ウン?」

 

 気分よく鼻歌を歌っていたディーキンは、ふと、自分の歌とは違う音楽を聞いたような気がした。

 

 耳を澄ませてみると、確かに空耳ではなく、森の奥のほうから澄んだ竪琴の音色が微かに聞こえてくる。

 こんなところで誰が弾いているのだろうとディーキンは首を傾げたが、弾いているのが何者であれコボルドがその前に姿を現すのは利口なことではないだろうし、もしかすれば音色で惑わして犠牲者を誘い寄せるような危険な魔物の類かも知れない。

 しかし、あまりにもその音がきれいだったので深く考えるよりも先に足が動き、彼はふらふらと、誘われるように森の奥へ入っていった。

 

 

 しばらく歩いていくと、音の源はすぐに見つかった。

 森の奥のやや開けた場所にある苔生した岩に腰かけて、とても美しい面立ちのエルフが目を閉じたまま、静かに八本の弦を持つ竪琴を奏でている。

 ディーキンはその女性を一目見ただけで、ぽかんと口を開けてその場に立ち尽くした。

 

(なんてキレイな人なんだろう)

 

 種族の差を超えて、ディーキンは素直にそう感じた。

 エルフとコボルドとは、決して仲のいい間柄とは言えない。

 けれど、目の前のエルフが自分に気が付く前にこの場を去るべきだという考えは、少しも思い浮かばなかった。

 

 その女性はすらりと背が高く、しみひとつない美しい肌は仄かに黄金色に輝いており、薄汚れた旅人の装いをしているにも関わらず貴族然とした雰囲気が感じられる。

 そして彼女の奏でる竪琴の音色もまた、その容姿に負けず劣らず美しいものだった。

 結局、演奏が終わってそのエルフが目を開け、明るい紫の瞳でディーキンの方を見て首を傾げるまで、彼はその場に立ち尽くしていた。

 

「はじめまして、同業の方ですね。お耳汚しをしました」

 

 彼女のその声も、思わずうっとりするような、不思議なほど澄んだ音楽的なものだった。

 

「……?」

 

 ディーキンの抱えたリュートを見た女性が立ち上がって頭を下げた時、彼はしばらくの間、彼女が自分に対して声をかけているのだということに気付かなかった。

 他の種族がコボルドにそんな丁重な挨拶をするなんて思わなかったし、誰からであれ、そんなに丁寧に接された経験はなかったから。

 

 ややあって、ようやく気が付いたディーキンははっとしてぺこぺこ頭を下げると、目を輝かせてその女性を見つめながら熱っぽい口調で話しかけた。

 

「ァ……、アア! その、はじめましてなの、きれいなエルフのお姉さん。ディーキンはディーキン、コボルドの詩人だよ。お姉さんも、詩人なんだね?」

 

「はじめまして、ディーキン。ええ、そうですよ」

 

「すごく上手だね! ディーキンもいつか、あんたみたいに弾けるようになるかな?」

 

「まあ、ありがとう。ええ、それはなんとも。あなたの腕前を、まだ拝見していないのですから……」

 

 エルフは微笑んでそう言うと、ディーキンのほうに向かって歩み寄り、先程自分が座っていた場所を手で示した。

 自分の代わりにそこに座って、何か聞かせてくれないかということらしい。

 

 とてもきれいで歌の上手なエルフから求められたことで、ディーキンの胸は高鳴った。

 

「わかったの! ディーキンはあんたほど弾くのは上手くないけど、お話には自信があるよ!」

 

 彼女ほどに上手くは弾けないのは分かっていたが、話には自信がある。

 これまでに自分の弾き語りを聞いてくれた人は、主人もコボルドの女の子たちも、おおむね皆満足してくれたのだから。

 知っている中で一番カッコいい物語を聞かせてあげて、素敵だと言ってもらおうと思った。

 自分以外の詩人と初めてまともな出会いをし、しかもそれがとても美しい人だとあって、ディーキンは張り切っていた。

 

 ディーキンはお辞儀をして席に着くと、さっそくリュートを弾きながら物語を始める。

 それは、人間とオークという2つの種族の、2人の王にまつわる物語だった。

 

 

 

 

 むかしむかし、あるところに、スレイという偉大な人間の英雄がいた

 

 彼はみんなに望まれて生まれた王さま

 エルフよりも美しく、ドワーフよりも頑丈

 誰からも好かれていて、彼もみんなのことが好き

 

 別のあるところに、グレイというオークがいた

 

 誰にも望まれてもいないのに生まれてきた農民の子ども

 ゴブリンよりも醜くて、ノームよりもいい加減

 誰からも嫌われていて、何もかもを憎んでいた

 

 …………

 

 

 

 

 やがて、粗暴なオークの部族を力でまとめ上げて人間の土地への侵略と略奪を開始したグレイに対し、スレイはエルフやドワーフといった異種族と手を組んで対抗する。

 力だけに頼ったオークの群れは、強固な同盟を結んだ三つの種族の連合軍によって打ち破られ、スレイは千年に一人の偉大な英雄と讃えられるのだ。

 典型的な勧善懲悪の英雄譚であり、小さな子供から大人まで楽しめる、分かりやすく爽快な筋書きが魅力の作品である。

 当時のディーキンの部族はオークの襲撃にたびたび苦しめられていたこともあり、主役側をコボルドとドラゴンの同盟軍に変えたバージョンは、概してディーキンを嫌っている男性のコボルドたちの間でも好評だった。

 

 ただ、何度もこの歌を歌っているディーキン自身にも、少しばかりひっかかっている疑問点があった。

 

 どうしてこの物語は、『スレイとグレイの物語』なのか?

 

 話の中で、グレイは単なる悪役であり、スレイによって退治される側なのだ。

 それが題名で主役と名を連ねているというのは、なんだか妙に扱いが大きいような感じがした。

 些細なことではあったが、何度も何度もこの物語を披露しているうちに、次第にしっくりこない印象を受けるようになってきたのである。

 

「……そうして、平和が訪れたの。めでたし、めでたし――――」

 

 なんにせよ、歌い終わったときにディーキンは、自分でも上手くやれたと思った。

 いつになく熱を入れて歌えたし、ミスもなかった。

 あるいは、これまでで最高の出来映えだったかもしれない。

 

 なのに……。

 

「ありがとう。とても熱のこもった、真っ直ぐで素敵な歌でした。あなたの歌には熱意がありますから、きっと上達できると思います」

 

 自分の歌を聞いてくれたエルフの反応に、ディーキンは納得がいかなかった。

 

 確かに褒めてくれているし、魅力的な微笑みを浮かべてくれているし、きちんと批評をして、自分の手を握ってくれてもいる。

 決して、その態度に心がこもっていないなどとは思わない。

 だが、彼女からはこれまでに同じ歌を聞いてくれたコボルドたちのように、熱狂したり、夢中になったり、芯から心を揺さぶられたという様子が感じられないのだ。

 

 どうしても気になって、ディーキンはその点を問い質した。

 詩人として観客に文句をつけるべきではないのはわかっていたが、聞かずにはいられなかったのである。

 

 エルフはしばらく目を閉じて考えた後、ディーキンをじっと見つめて、逆に質問した。

 

「――その答えを聞いて、あなたは後悔しないでしょうか?」

 

 ディーキンは、それを聞いてきょとんとする。

 

「ンー……? そんなの、ディーキンは答えを知らないから、聞いてみないと分からないの。試しに聞かせてみて、それから考えるから」

 

 エルフはちょっと首を傾げて微笑むと、もう一度、自分の竪琴を手に取った。

 

「それもそうですね。……では、聞いてください」

 

 彼女は優雅に一礼すると、ディーキンに代わって腰かけて竪琴を弾きながら、澄んだ力強い声で歌い始める。

 

 

 

 

 遥かなる時 遥かな処

 

 これは人間の英雄王スレイと、オークの征服者グレイとの物語

 

 一人は民草の祝福を受けて生まれた正当の王位継承者で、一人は誰にも望まれずに生まれて反逆者として成り上がった無頼漢

 一人は美しく寛大で、一人は醜く狭量

 一人は己の種族を護り抜こうとし、一人は他の種族への侵略を試みる

 

 ただひとつの共通点は、いずれ劣らぬ英雄である事――

 

 …………

 

 

 

 

 構成こそ大きく違っていたものの、それは間違いなく、『スレイとグレイの物語』だった。

 歌が始まった瞬間からディーキンは激しい衝撃を受けて、ぽかんと口を開けたまま、我を忘れて聞き入っていた。

 

 ドラゴンの主人が耳元で怒鳴った時にも劣らぬほどに、深く強く心を揺さぶる澄んだ力強い声。

 人の指先が奏でるものとは思えない、流れるような美しい旋律。

 すべてにおいて、自分を圧倒する……いや、比較すること自体がおこがましいと言わざるを得ない、想像もつかないほどに感動に満ちた歌だった。

 

 自分のそれは所詮、耳に心地よい一時の慰み、すぐに忘れ去られるはかない娯楽の域を出ない。

 今の今まで、音楽とはそういうものだと思っていた。

 しかるにこの女性の語る物語は、聞き終わっても永久に心に残る、偉大な業だ。

 英雄王スレイと征服者グレイとがついに対面して言葉と刃とを交える最高潮の場面に差し掛かったとき、ディーキンは自分がその戦場に立って、実際に目の前で二人の戦いを目にしているかのような錯覚を覚えた。

 あれこそが本物の歌の魔法だと、後になって思った。

 

「……そうして、二人の戦いは終わった。彼らの物語がさまざまな種族の人々によって永く語り継がれ、やがて伝説となり、神話となるまでも残らんことを――――」

 

 歌が終わって女性が頭を下げても、ディーキンはしばらくの間歌の世界から抜けられず、身を震わせて余韻に浸っていた。

 やがてはっと我に返ると、興奮して激しく拍手をしてから彼女に飛びついて、勢い込んで尋ね始める。

 

「すごい! すごいの!! ねえ、どうやったらディーキンも、あんたみたいに歌えるの?」

 

 突然しがみつかれた女性のほうは、きょとんとした顔で、じっと彼を見下ろした。

 

「……後悔はしていないようですね。よかった」

 

 やがて、小さくそう呟いて微笑むと、やんわりとディーキンを引き剥がす。

 それから、屈み込むようにして彼と目の高さを合わせながら、申し訳なさそうな様子で首を振った。

 

「残念ですが、それは難しいでしょうね。私とあなたとでは、身体のつくりが大きく違っていますから」

 

 ディーキンはそれを聞くと、むう、と顔をしかめた。

 

 確かに、彼女は自分とは種族も性別も違う。

 どんなに技量を高めようと、肉体的にどうしても出ない声というものはあるだろう。

 

 しかし、自分が聞いているのは、そういうことではないのだ。

 

「たぶん、声とか腕前とかだけの問題じゃないんだよ。あんたの歌の方が、ずっと……ずっと、感動的なの。ねえ、どこに、そんな素敵な物語の書いてある本があったの? それがあれば、ディーキンにもそんな歌が歌えるかも」

 

「いいえ、本ではありません」

 

「じゃあ……、その歌は、誰かから教えてもらったの? ディーキンに足りないのは、今のご主人様よりももっとすごい話を知ってる人なの?」

 

 ディーキンがそう聞くと、エルフは微笑ましいものを見るような目をして、ディーキンの肩にそっと手を置いた。

 

「そうではありません。確かに、あなたには技術の面でも知識の面でも、まだまだ学ぶべきことは多いでしょう。……ですが、それらの面でいつか私よりも勝ったとしても、あなたにはこの歌を私と同じように歌うことはできませんよ」

 

 なんだか子ども扱いされたような気がして、ディーキンは不服そうに口を尖らせた。

 自分はもう子どもではなく、肉体的にも、またコボルドの社会習慣の上でも、既に一人前になっているのだ。

 そりゃあ十歳にも満たない自分は、百歳を超えるくらいでようやく一端の大人扱いされるというエルフから見れば、まだまだ幼いのかもしれないが……。

 

「どうして? あんたは、ディーキンには何が足りないっていうの?」

 

 内心の不満が現れて、やや刺々しく追及するような調子になったディーキンの態度を咎めるでもなく、女性はごくあっさりと答えた。

 

「簡単なことです。私はあの時そこにいて、あなたはいなかった。足りないものがあるとすれば、その事実だけです」

 

「……? あの時とか、そこっていうのは、なんのこと?」

 

「ええ、つまり……。人間を中心とした異種族連合軍と、オークの多部族連合軍との戦いのあった、あの日に。私は従軍詩人として、人間側の軍に加わっていたのです」

 

 女性は、まるで昨日のことでも話すかのような調子でそう言った。

 そう言われてもディーキンはしばらくきょとんとしていたが、ようやくその言葉の内容を呑み込むと、目を丸くする。

 そんな彼の反応を気にした様子もなく、彼女はそのまま淡々と話し続けた。

 

「あの『スレイとグレイの物語』を初めて歌ったのは、この私なのですよ。あなたは本の中の作り話として、文字と挿絵に基づいて歌い、私はこの目で見た事実として、自分の記憶と感情に基づいて歌った。その違いでしょう」

 

 ディーキンはぽかんとして目と口とを大きく開けたまま、まじまじと目の前の女性の姿を見つめた。

 そういえば、名前も語らずにさらりと流されるだけだけれど、戦いのときにスレイの傍に付き従った一行の中にはエルフの詩人が混じっていたという。

 

 確かに、エルフはドラゴンほどではなくとも、コボルドよりもずっと長生きだ。

 しかし、本の中に出てくる物語が事実に基づいたもので、それを実際に体験してきた人がどこかにいるのだというようなことは、考えてみたこともなかった。

 これまでのディーキンにとって、英雄や冒険はあくまでも、現実離れした本の中の創作として楽しむものだった。

 なのに突然、そんな物語の中の登場人物が、目の前に姿を現したのである。

 

(この人は、本物のスレイやグレイを見たことがあるっていうの?)

 

 世界のどこかに、新しい勇者の訪れを待つ冒険の舞台が本当にあって、それまでは平凡な人だったどこかの誰かが、いつの日かそれに挑んで英雄になる……。

 そんなことは、これまで想像してみたこともなかった。

 

 だとすれば、確かに彼女と自分の間には、埋めることのできない違いがあるのだ。

 この女性は、叙事詩の現実を知っている。

 物語に登場する両軍の人々の志し、覚悟、興奮……、そして、戦いの勇壮さも凄惨さも、その顛末も、すべてを実際に見て知っている。

 紙の上に書かれた、一方的で現実離れした勧善懲悪の物語としてしか知らない自分では、勝てるわけがなかった。

 

 同じ詩人であっても、彼女と自分との間には果てしない距離がある。

 彼女はただ歌うだけでなく、自らも歌われるもの……叙事詩の中に生きる英雄だ。

 それに比べて、自分は……。

 

 そんな風にディーキンが考えていたとき、目の前の女性の傍に、突然いくつかの美しく輝く光の球体が現れた。

 それらが女性の周りを飛びながら、どこからともなく響く不思議な声で何事か話しかけると、女性は小さく頷いて立ち上がる。

 

「さて。残念ですが、ここでの用事は終わったので、私はそろそろ行かなければなりません。さようなら、快いコボルドの詩人よ。またいつかお会いしましょう」

 

「……エ? ァ、待っ――」

 

 女性に別れの挨拶として手を握られたディーキンは、はっと我に返って引き止めようとしたが、すでに遅かった。

 彼女も、その周りを飛んでいた不思議な光の球体も、一瞬のうちにどこへともなく姿を消してしまった。

 

 一人、森の中に取り残されたディーキンは、呆然として立ちすくんだ。

 

 あのエルフは一体、何者だったのだろう。

 もしかして、あれは夢だったのではないだろうか。

 あるいは、戯れに自分をからかったフェイか何かだったのか。

 

 そうしてしばらく物思いに耽っていたディーキンだったが、ふと、主人が戻る前に元の場所に帰らなければまずいことに思い至ると、慌てて来た道を引き返し始めた。

 自分がまだ彼女の名前も聞いていなかったことに思い至ったのは、その道中でのことだった……。

 

 

 ディーキンがようやく元の場所に帰り着いてから程なくして、タイモファラールが戻ってきた。

 

 案の定、彼は美味しいものを食べられたことで上機嫌だった。

 タイモファラールが土産にと持ってきてくれたミートパイの残りを感謝していただきながら、ディーキンは彼の求めに応じて、人間の乙女が生贄としてドラゴンに捧げられる物語の弾き語りを披露する。

 主人は面白そうに聞いてくれたが、先程の女性の歌を思い出して、ディーキンは微妙な気分になった。

 このような歌を仲間たちの前で披露して、ちやほやされて得意げになるだなんてことは、二度とできそうになかった。

 

「……ねえ、ご主人様」

 

「なんだ? 新しい本の催促なら、もう少し待っておれ。この町で売っている本は、高……いや、品揃えが悪いのでな」

 

 迂闊に商品が高いだなどということは自分の財産の少なさを認めているようなもので、ドラゴンとしての沽券に関わるとタイモファラールは考えているのだ。

 まだそんなに年寄りなわけでもないのにわざわざ老人の姿に化けてみたりとか、彼はかなりの見栄っ張りなのである。

 もっとも、それは多くのドラゴンに共通の性質であって、別にタイモファラールだけが殊更にそうだというわけではなかった。

 

「そうじゃないの。ディーキンは……。本で読んだところに、行けるようになるかな?」

 

 ディーキンは思い切って、そう尋ねてみた。

 

 これまでにない質問に、人間の老人の姿をしたタイモファラールは、しばし怪訝そうに眉をひそめる。

 だが、じきににやりとした笑みを浮かべると、曖昧に頷いた。

 

「ああ。お前が……、ドラゴンにでもなれれば、な」

 

「……そんなのは無理だよ」

 

 タイモファラールは、しょんぼりした従者の顔を見て面白そうに笑いながら、こう言った。

 

「そうだな、今は。だが、ちっぽけなディーキンよ。いずれ、おまえが自由になる道が、たったひとつだけあることがわかるだろう」

 

 

 

 今ならば、あの時の主人の言葉の意味が分かるような気がする。

 ディーキンがドラゴンになるとは、すなわちドラゴンのように勇敢になって、強くなって、自分の望みのために戦えるようになることだ。

 つまり、ディーキン自身に離れる勇気が持てて初めて自立する準備ができるのだと、彼は言いたかったのではないだろうか。

 

 後にボスと出会ったときに、ディーキンはついにその機会を見つけた。

 これからは本を読んで歌うだけではなく、自分の物語を進んでいってそれを歌おうと、そう決めたのだ。

 

 あの時の出会いは、後の自分の運命を大きく変えた、その最初のきっかけだったのかもしれない。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「……へえ、なんだか素敵な話ね」

 

「私も、そんな方に出会えたら感激です!」

 

 ルイズとシエスタはディーキンの話が気に入ったようで、目を輝かせている。

 キュルケやギーシュなど、他の面々も概ね同じように興味深そうにしていた。

 タバサだけはなんとなく不満なようで微かに眉をひそめていたが、とはいえもちろんこの状況で文句などを口にするはずもなく、黙って状況を見守っている。

 

「なるほど、話はわかった」

 

 ディーキンの大筋の説明を聞き終えると、眠れる者はひとつ大きく頷いた。

 

「君が出会ったのは、『星界の竪琴』ウィルブレースに違いあるまい。エラドリンの宮廷によって定命の英雄から選ばれた、ごく若い竪琴弾きのトゥラニ・エラドリンだと聞いている。個人的な面識はないので応じてもらえるかどうかはわからないが、君が推薦するのならば呼んでみても構わない」

 

「オオ! じゃあ、申し訳ないけどお願いできる? 必要な報酬とかは、ディーキンの方でなんとかするから」

 

 確かな腕前を持ち、経験も積んでいる彼女は、目の前の戦いを切り抜けるための戦力として期待できる。

 それに個人的なことではあるが、あの女性とまた再会できるというのも、ディーキンにとってはもちろん嬉しいことだった。

 

 

 

「……エルフ、か。朕に、エルフに救われる資格があるなどとも思えぬが……」

 

 ジェームズ国王は胸中複雑そうではあるが、小さな声でぽつりと自嘲気味に呟いただけで、反対の声を上げたりはしなかった。

 今はいかなる恥を忍んでも悪魔どもを討ち、この国を救わねばならぬ時なのだから。

 

 

 

 そうして、様々な思いを胸に抱いた皆の見守る中で、眠れる者は召喚のための呪文を唱え始めた……。

 



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第百二十話 Mystic shadow

 

 眠れる者が呪文を唱え終わると異世界からのゲートが開き、しばらくして強大な存在が近づいてくる気配が感じられた。

 

 妖精の輪のような形をした転移門の周りをちらちらと瞬く多彩の輝きが彩りはじめ、紫に煌く鱗粉のような光の粒がその奥の方から溢れ出してくる。

 眠れる者自身が招請されたときの荘厳な光景とはまた異なるが、幻想的な美しい眺めだった。

 どうやら『星界の竪琴』ウィルブレースは、彼の招請に応じてくれたようだ。

 

 やがて、紫の煌きがひとつのところに集まって仄かに輝く大きな球体状になったかと思うと、いつの間にかその場所に、この世のものとも思えぬほど美しいエルフのような姿をした女性が佇んでいた。

 

 彼女は背がすらりと高く、神秘的な黄金色の輝きをその身に帯びていて、瞳の色は明るい紫色。

 常に色合いを変化させながら尽きることなく湧き出ては流れ落ちる星のような不思議な輝きに彩られた、豪奢なローブを羽織っている。

 そしてその手には、貴金属で作られた美しく上品な八弦の竪琴を携えていた。

 

「――――この度は、お招きに預かりまして光栄です。詩人ウィルブレース、参上いたしました」

 

 女性は、まずは周囲に対して優雅にお辞儀をして、音楽的な美しい声でそう挨拶をする。

 ディーキンには、彼女が間違いなく昔出会った“エルフの女詩人”であることが、一目でわかった。

 

 懐かしさと嬉しさが込み上げてきて、一瞬昔のように彼女に飛びついていきたくなったが、そこはぐっと我慢した。

 彼女を召喚したのはあくまでも眠れる者であって、当然ながら彼がまず第一に彼女と話し、用件を伝えて交渉する権利を有しているのだ。

 それを差し置いて自分が出て行くのは、二人に対して失礼と言うものだろう。

 

 それに、もしかしたら彼女は自分のことなどすっかり忘れているかもしれないという不安もあった。

 自分にとっては特別な出会いでも、彼女にとってはただ変わり者の未熟なコボルドの詩人とたまたま遭遇してほんの少し話したというだけの、取るに足りない出来事だったはずだ。

 眠れる者に召喚を任せたのも、単にアイテムなどの消費を抑えたかったからというだけでなく、エンジェルである彼のほうがコボルドの自分よりも信頼性が高く、召喚に応じてくれる見込みが高いだろうという考えがあったからである。

 

「はじめまして、かつて『眠れる者』と呼ばれた忍耐強く高貴な愛を知るお方よ。あなたのような方からお声をいただいたことは、嬉しい驚きです。御身の上に、エリュシオンの永久なる平穏がありますように」

 

 女性はゆっくりと周囲の様子を確認すると、にっこりと微笑んで、自分の召喚者に向けて会釈をした。

 彼女の所作や声には、それがどんなに些細なものであっても、そのすべてに定命のいかなる貴族や王族とも比較できない犯しがたい気品のようなものが感じられる。

 

 眠れる者はそれに対してやや意外そうに首を傾げながらも、丁重に挨拶を返した。

 

「御身の上にこそ平穏あれ、ウィルブレースどの。……地獄の底でずいぶんと長い間眠り続けていたのだから、私の名など天界ではとうに忘れられたものと思っていたが。あなたのような若いセレスチャルが、私のことを知っているのか?」

 

「まあ。あなたのようなご高名な方のことを、詩人である私が知らないはずはないでしょう?」

 

 ウィルブレースは口に手を当てて、楽しげに笑った。

 それから、叙事詩の一節をそらんじるような調子で、言葉を続ける。

 

「かつて永遠の楽土であるエリュシオンの地を後にし、ただ一人の愛すべき人を求めて、過酷なるバートルの地獄界へ向かった天使がいた。彼はあらゆる場所に関する質問に答えられるという古バートリアンに出会い、いつか真なる想い人と出会える場所を尋ね、その時がたとえ幾星霜の後であろうとも待とうと決意すると、カニアの門で眠り続けた……」

 

 ディーキンは、うんうんと頷いた。

 まるでロマンチックなおとぎ話のような内容だが、それが事実であることを、ディーキンは目の前の眠れる者本人にバートルで出会って知っている。

 

「……まだほんの小娘だった頃には、自分があなたの想い人であったらと夢見たこともありました。けれど、当時の私にとってはあくまでもあなたは物語の中の存在で、別の世界の住人でしたわ」

 

 そう言いながら、ウィルブレースは今度はディーキンのほうを見て、優雅にお辞儀をした。

 

「その方と、今、こうして出会うことができた。きっと、あなたが彼と私を引き合わせる機会を作ってくれたのでしょうね。こうしてまたお目にかかれて光栄です、ディーキン」

 

 ディーキンはぱっと顔を輝かせて、てってと彼女の傍に駆け寄った。

 

「オオ……、覚えててくれたんだね、お姉さん。久し振りなの、ディーキンはまたあえて嬉しいよ!」

 

「ええ、お久し振りです。……もちろん覚えていますけれど、そうでなくてもあなたの名前は最近よく耳にいたしますわ」

 

 そういわれてきょとんとしているディーキンの顔を見て、ウィルブレースはまた楽しげにくすくすと笑う。

 

「今のあなたは、ご自分で思っているほど無名ではありませんよ。地獄帰りの勇者たち、カニアに降り立った一群の光明、大悪魔をも退けた真の英雄の一団……」

 

 歌うようにそう言いながら、ディーキンの傍にかがみこむと彼の手をそっと握った。

 彼女の声は、まるで生きた音楽のように流れ、弾み、常に耳に心地よい。

 

「その一人は、鱗を持つ小さな歌い手……、英雄ディーキン、あなたのことです。かの大悪魔メフィストフェレスをレルムから退けたことが、いかに大きな偉業か。私たちエラドリンに、それがわからないはずはないでしょう?」

 

 ウィルブレースの言葉を聞いて、ルイズら同行者たちは様々な思いを胸に、互いに顔を見合わせた。

 彼の冒険の話は、度々聞いてはいたが……。

 

 ディーキンはそれに対して、照れくさそうに首を振る。

 

「イヤ、そんなでもないの。ディーキンはがんばったけど、大して役には立てなかったよ。ボスがいなかったら、あいつらと戦おうだなんて思いもしなかっただろうし……」

 

「ええ、あなたがそういうのは当然ですね。英雄は自分のことを誇らず、詩人は自分を称える歌を歌わないもの……」

 

 ウィルブレースはそう言ってにっこりと微笑むと、身を起こして、今度は周囲にいる他の人々の様子を窺う。

 そのほとんどは人間のようだが、彼女にとっては見慣れない人種だった。

 そもそもこの場所自体、どこかの物質界のようではあるものの、初めて訪れる世界である。

 

(感嘆、警戒、困惑、……敵意?)

 

 さまざまな感情がそれらの人々から自分に向けられているのを感じ取って、ウィルブレースは首を傾げた。

 それから、改めて自分の召喚者である眠れる者のほうへ向き直る。

 

「どうやら、私をあまり歓迎してはくださらない方もいらっしゃるようですが……。この度の召喚は、どのようなご用向きなのでしょう?」

 

 

「……なるほど、状況は一通りは理解いたしました」

 

 眠れる者やディーキンが中心となってした説明を聞き終えると、ウィルブレースは大きく頷いた。

 

 この世界の特殊性についても、そしてそこにやってきたデヴィルがいかに危険な存在であるかも、彼女にはよくわかった。

 こちらではエルフと人間とが敵対していると言う歴史的経緯についてもディーキンが軽く触れたので、あまり友好的でない人間が周囲にいる理由についても納得がいった。

 それとは違う理由でこちらを警戒している者も混じっているような気がしたのだが、深く問い詰めることはしないでおく。

 

「デヴィルは、我らエラドリンにとっても大敵。何処の世界においても、彼らと戦う機会を与えられて拒む理由などありません。私にできることがあれば、喜んでご協力いたしますわ」

 

「ありがとうなの、お姉さん。お礼は、何をあげたらいいかな?」

 

 ディーキンはぺこりと頭を下げると、そう尋ねた。

 

「見返りなどは無用……と、申し上げたいところですが。私としては、是非とも求めたいものが――」

 

「待ってくれ、これは本来我々アルビオンの民の戦いなのだから、報酬はこちらで支払おう。残ったものは少ないが、もし足りないようなら、戦いが終わった後まで待ってもらえれば必ず満足のいくものを用意する」

 

 横合いからそう申し出たウェールズに対して、ウィルブレースはにこやかに微笑んで首を振った。

 

「いえ、財貨の類ではありません。求めたいのは、私にあなた方の武勲を近くで見届けさせてほしいということです。そして、それを歌にして様々な場所で語ることを許していただけませんか?」

 

「……歌?」

 

「ええ。まだ顛末はわかりませんが、きっと素晴らしい物語になる。もちろん、今回の件のほとぼりが冷めるまでは公開を控えますが……いけませんか?」

 

「アー、ディーキンもそれは歌わせてもらうつもりだったけど……いいかな?」

 

 至って真面目な様子の詩人2人を見て、ウェールズ皇太子とジェームズ王は困惑したように顔を見合わせた。

 

「……ああ。それは、もちろんだが……。命がけの仕事になるというのに、本当にそんなことを?」

 

「そんなこと? 本物の英雄の物語に間近で接する機会は、どんな財貨にも換えられるものではありません。その本当の価値は、詩人でなければ分からないものかもしれませんが」

 

「そうそう、そうなの。こっちがお礼をしてもいいくらいだよね!」

 

 ディーキンはしきりにうんうんと頷いて、同意を示した。

 

 自分だって、ボスともう一度大冒険の旅に出られるのであれば、たとえそれがどんなに危険なものであっても、全財産をはたいてもその機会を買うだけの価値はあると考えるだろう。

 本物の冒険を目の当たりにすること、自分もその中に加われることが、どんなに素晴らしいか……実際に体験してみなくてはわかるものではないが。

 そのことを知るきっかけを与えてくれたのは今目の前にいる先達の詩人で、実際にそれを実感させてくれたのがボスだったわけだ。

 

 それでもなお納得のいかなさそうな様子でいるウェールズらに対して、ウィルブレースは話を続けた。

 

「それに、もしお金が欲しいと思ったなら、その歌を代価と引き換えに披露したり本にまとめたりして稼げばよいのです。もし必要でしたら、私はその歌ひとつでこのお城を丸ごと買い取れるくらい稼いでみせますわ」

 

「……城を……、このニューカッスルは小城だとはいえ、歌で買い取る、と?」

 

「む……」

 

 彼女の言葉にどう反応してよいものか困った様子で、アルビオンの王族たちは顔をしかめていた。

 

 それは一体、金なしの王族だと同情されているのか、見下されているのか。

 あるいは、詩人としての気概を見せようという大言壮語なのか……。

 

 二人とも、明らかに自分の今の言葉を本気にしていないようなのを見てとると、ウィルブレースは肩をすくめた。

 

「……ご納得いただけていない様子ですね。働きに対して正当な対価を支払わなければ、というのは高貴な義務感かとは思いますが……」

 

 彼らが自分たちのことを見くびられた、哀れまれたと感じたのであろうことは理解できるが、彼女からすればその反応こそが、詩人に対する過小評価というものだった。

 そこで、ディーキンがくいくいとウィルブレースの袖を引っ張る。

 

「ねえ、お姉さん。今夜、明日の戦いに備えて打ち合わせを兼ねてパーティをするらしいの。そのときに、一緒にこの城のみんなに歌を聞かせてあげたらどうかな?」

 

 彼からそう提案されて、彼女は二つ返事で快諾した。

 要は、本物の英雄の歌にどれだけの価値があるのか、詩人として自分たちが観客に証明すればいいのだ。

 

 そうして必要な話が済むと、ウィルブレースは竪琴をおいて立ち上がった。

 

「では、私が当面するべき仕事は、敵陣の視察を行って戦力の把握をすること……ですね。早速向かいましょう、今夜の宴には間に合わせなければ――」

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

(……あれか)

 

 目的の場所であるレコン・キスタ軍の野営地の傍に到達すると、ウィルブレースはしばらくの間、さてどのようにとりかかろうか……と考えを巡らせた。

 

 現在の彼女は、空中に浮かぶ直径2メイルあまりの虹色の光を放つ球体の姿をとっている。

 すべてのエラドリンはヒューマノイド形態のほかに、このような別の形態をもうひとつの真の姿として有しているのだ。

 この形態は非実体なので、彼女が故意に音を立てようと思わない限りは完全に無音で移動することができるし、その際に地面を振動させたり空気の流れを乱したりすることもない。

 

 ウィルブレースはさらに、《上級不可視化(グレーター・インヴィジビリティ)》の擬似呪文能力を常に維持するように気をつけていた。

 これで彼女は姿が見えず、音も立てず、その他の存在を示す手がかりもほとんど残さないため、まず見つかる心配はない。

 

 ただし、周囲に《真実の目(トゥルー・シーイング)》を持つデヴィルがいないかだけには気をつけておかなくてはならなかった。

 エリニュスなどの一部のフィーンドが有する《真実の目》の能力は、いかなる幻術をも即座に見破るので、《上級不可視化》も役には立たないのだ。

 もっとも、《真実の目》にも120フィートの有効距離があり、それを超えて離れていれば効力は及ばなくなる。

 ウィルブレースはその効果範囲をよく把握している……なぜなら彼女自身も常時稼動の《真実の目》の能力を持っており、自分のそれが働く距離が、すなわち相手の同じ能力が働く間合いでもあるからだ。

 

 非実体ゆえに固体を通り抜けられるし、《上級瞬間移動(グレーター・テレポート)》の能力もあるので、出会い頭にいきなり発見されたのでなければ袋小路に追い詰められるなどの心配もまずない。

 無制限に使える多種多様な擬似呪文能力を惜しげなく活用できるのが、彼女のような強力な来訪者の強みだった。

 

(…………)

 

 とはいえ、自分は初めて訪れるこの世界のことをよく知らないのだから、それで本当に万全かどうかは保証の限りではない。

 必要だと思われることはディーキンらが教えてはくれたが、ごく短時間の話だったし、十分に伝え切れなかったことや伝え忘れたこともないとは限るまい。

 

 この世界に詳しい人物にガイドをしてもらうのはどうか、という考えもあった。

 実際、ウェールズ皇太子や、タバサという青い髪をした少女は、自分も同行しようかと進んで申し出てくれた。

 しかし、そうすると自分ひとりのときほど自由に動き回れないし、発見される可能性もぐっと高くなるので、熟慮した後に丁重に断ったのである。

 彼らには城内に残っていてもらい、必要に応じてこちらが助力を求めに戻るほうがよいだろう。

 

 その際、ウィルブレースはタバサの目に一種の対抗意識のような感情が宿っているのを感じ取って、彼女が自分に対して警戒心をもっている様子だった理由を概ね理解したが……、まあそれは、今は関係のないことである。

 

(ひとつひとつ、片付けていくしかない)

 

 慣れない世界で不安はあるとはいえ、いつまでも思い悩み続けていても埒があかない。

 後は行動あるのみだと決めて、ウィルブレースはまず上空へ向かい、レコン・キスタ陣営を空から概観してみることにした。

 

 

 思ったとおり、空中には気を抜いてぼんやりと哨戒している竜騎士や小さなデヴィルがごく稀に、まばらに飛び回っている程度で、ほとんど見つかる心配はなかった。

 いまさら敵襲があるなどとは思ってもいない適当な哨戒などで、不可視かつ非実体の存在が見つかるわけがない。

 ウィルブレースは着々と敵陣の偵察を進めていった。

 

 空には、竜の一種らしき生物に跨った人間の騎兵が、外に見えているだけで十数人。

 そして、デヴィルの一種であるスピナゴンやアビシャイが、同じく数体ずつ。

 

 地上には、見慣れぬ巨人が三十近くと、やはり見慣れぬ亜人が百以上。

 それにバルバズゥが十数体ほどと、デヴィルではないがやはりフィーンドであるバーゲストがほぼ同数。

 苦界と呼ばれるゲヘナの次元界から屍を喰らって強大化するために物質界へやってくるバーゲストにとっては、戦場は理想的な食餌の場なのだろう。

 人間の兵は優に千を超え、おそらく屋内にはさらにその数倍の人数がいるだろうと思われた。

 

 フィーンドどもの姿を認めると、ウィルブレースは奴らを今すぐに斬り捨てて回りたいという強い衝動を感じた。

 

 だが、それを努めて抑える。

 自分が今ここで戦って、仮にこの場にいるデヴィルをすべて倒せたとしても、それだけでは連中の罠にかかった人間たちを真に解放することにはならないのだ。

 彼ら自身に自分たちの信仰の誤りを自覚させなければ、その魂が死後に九層地獄界に囚われてしまうことにもなりかねない。

 

(この戦いの中心となるべきなのは、私ではないのだから)

 

 自分にそう言い聞かせて心を鎮めると、敵の数や姿、陣地内の建物やテントの配置などを、念入りに頭に叩き込んでいった。

 

 それが済むと、ウィルブレースはひとまずここまでの情報を持って、一度帰還して仲間と話し合おうと考えた。

 時間を無駄にしないよう、すぐに精神を集中して、己の内から《上級瞬間移動》の力を呼び起こす……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「……ディーキン君、天使殿。本当に、あの女性に任せておいて大丈夫なものなのかね?」

 

 私室に引き上げてウィルブレースの出立を見送ってから、ウェールズはそわそわと落ち着きがなかった。

 

 今さら、エルフ……現在はエラドリンだとかいうことだったが、今ひとつよくわからないしまあ似たようなものなのだろう……の力を借りることをどうこうなどと言うつもりはない。

 己の国を自らの手で守りきることもできない王族には、助力に文句をつける権利も、この上失うような面目もありはしない。

 だが、いかに経験が豊かであろうとも、最強の亜人と名高いエルフであろうとも、単身で万の軍勢がひしめく敵陣へ赴いて、無事に戻ってこられる保証などあるものだろうか。

 失敗する可能性が高く、仮に無事に戻ってこられたとしても十分な成果をあげられるとは限らないとみるのが、まず尋常な判断というものではあるまいか。

 

 なのに、ディーキンも眠れる者も、彼女の成功をまったく疑ってはいないようなのだ。

 特にディーキンは、ずいぶんと彼女を信頼してその力をあてにしている様子だが……、彼が実際にウィルブレースに会うのはこれが二度目でごく短時間歌を聞かせあって話をしただけというのだから、本当に優れた能力を持っているのかどうかなどわからないではないか?

 

 そんなウェールズに対して、ディーキンと眠れる者は、案ずるには及ばないと請け合った。

 

「ディーキンは、あの人のことはいろんな本を読んだり話を聞いたりして調べたから、よく知ってるよ。それに、お話に出てくる以上の人だってことも、実際に会ってよくわかってるもの」

 

「私は彼女個人のことはさほどよく知らないが、トゥラニ・エラドリンは思慮深く力に溢れたセレスチャルだ。その上に私の友も彼女の能力について請け合うというのなら、疑う理由はないだろう」

 

 信頼に満ちて熱っぽく語る二人とは対照的に、ロングビルは素っ気なく頷いた。

 

「いずれにせよ、ここに残った私たちには当面できることはありませんわ。お二方を信じて、あの女性が戻ってきたときにすぐ動けるよう身を休めながら待機しておくのが最善でしょう?」

 

 彼女からそう言われて、ウェールズは不承不承頷いて椅子に腰を下ろしたものの、やはり落ち着かない様子だった。

 今朝までは玉砕の覚悟を決めて泰然としていたが、それが急に勝つため、生き延びるために戦うとなると、圧倒的不利な状況下で指導者たる王族の身としては、やはり一分一秒を惜しんで何かしていなくてはならないような気分になるのだろう。

 

 ルイズら他の同行者たちも、明日の戦いを前になにかできることはないものかと、程度の差こそあれやはり多少落ち着かない素振りを見せていた。

 

 タバサだけは、いつも通り本を開いて静かに読んでいる……ようには見えるが、内面はやはり、普段ほど落ち着いてはいなかった。

 もっとも、明日の戦いの準備について考えていたわけではない。

 ウィルブレースが今、敵陣へ赴いて活躍をしているというのなら、自分も何か役に立ってみせたいという一種の対抗意識めいたものがあったのである。

 もちろん、そんな子供じみた感情を、あからさまに口に出したり態度に表したりするようなことはなかったが……。

 

 

 

 そうしているうちに、不意に部屋の中央部に魔力の輝きが現れる。

 そして、皆の視線がそちらへ向くか向かないかのうちに、先刻レコン・キスタの陣営へ向かって出発したはずの吟遊詩人がそこに戻って来ていた。

 

「なっ……!?」

 

 この手の現象に不慣れなウェールズは驚愕して目を見開いたが、多少の経験があるルイズらはそれほどでもなく、何が起こったのかをすぐに把握した。

 ディーキンと同じように、この女性も瞬間移動の術を用いたに違いない。

 

「失礼します。上空から見て敵の布陣がある程度わかりましたので、お伝えして助言をいただければと思いまして……」

 

 そう言いながらウィルブレースが軽く手をかざすと、部屋の中に先程彼女が見た敵陣の建物や地形が、本物そっくりのミニチュアの立体映像となって浮かび上がった。

 彼女が持つ疑似呪文能力の一種、《上級幻像(メジャー・イメージ)》によるものである。

 

「フンフン……」

 

 またしても呆気にとられているウェールズをよそに、ディーキンは紙を取り出してさらさらとメモを取り始めた。

 

「敵軍はこのように陣を構えておりましたが、私はこのあたりの軍隊の作法に不慣れなもので。兵舎や武器、食料の備蓄のありそうな場所など推測がつくようでしたら、わかる範囲で構いませんので教えていただけませんか? それと……」

 

 ディーキンが一通りメモを取り終えるのを待って、ウィルブレースはまた別の幻像を作り出す。

 今度は、先程彼女が見たが正体のつかめなかった生物……ハルケギニアのオーク鬼やトロール鬼、オグル鬼などの亜人、巨人の像である。

 似た名前の生物はフェイルーンなどにも住んでいるが、能力や外観の面で差異があるのだ。

 

 仰天したり、感嘆したりしてそれらの像に見入る人々をよそに、ウィルブレースは話を続けた。

 

「これらは、敵陣に加わっていましたが私には見覚えのないものでした。この世界特有の生物かと思いますが、名称や能力についてご存知でしたらご教授ください。外に見えた限りでのそれぞれの数は……」

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 当面必要な話を済ませると、ウィルブレースはまた《上級瞬間移動》でレコン・キスタの陣へと戻っていった。

 

(さて、次は武器庫へ向かってみるか。ウェールズ皇太子の読みでは、おそらくあの建物だろうということだったが……)

 

 あからさまに敵に攻撃を加えることはできないにせよ、味方が数で大幅に劣る以上は、明日の戦いに備えて今のうちから多少の仕込みをしておく必要はあるだろう。

 非実体の形態を取れば、壁をすり抜けて建物の内部へ入り込むことなどは造作もない。

 こちらの世界では銃器をかなり大規模に使っているらしいから、弾薬や火薬の類をいくらか失敬して、味方の陣へ持ち帰っておくのもいいかもしれない。

 備蓄してある場所へ入り込めたら、あとは必要なものを抱えて、テレポートで何度か往復すればいいだけのことだ。

 

 そうして、エラドリンの中でも最強の力を持つ妖精王、トゥラニ・エラドリンのウィルブレースは、その持てる能力を遺憾なく発揮して様々な情報収集と工作とを行っていった……。

 



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第百二十一話 Lady consort

 

 ウィルブレースが武器庫に置かれていた樽をひとつ抱えてまた瞬間移動で帰還してくると、その場にいた皆が彼女の周囲に集まった。

 

「失礼します。これの中身は、銃器などに用いる火薬ではないかと思うのですが……合っていますか?」

 

 コルベールが検分して、中身は火の秘薬から作られた火薬に間違いないことを確認すると、ウェールズが顔を輝かせる。

 

「ありがたい、火薬はこのところずっと不足していたのだよ」

 

「そうですか。こちらの方では、銃器がかなり大規模に用いられているようですね。……では、明日の戦いに備えて、もう少し持って来ましょう。弾薬や砲弾らしきものもありましたので、それも。他にも、武器や鎧などの備品で不足しているものがあればお申し付けください」

 

 そう言って、てきぱきと敵陣と城内とを往復しては大量の武器弾薬をこともなげに掠め取ってくるウィルブレースの手際に、ルイズらはみな舌を巻いた。

 彼女は私物として、懐に折り畳んだ《携帯用の穴(ポータブル・ホール)》と呼ばれるマジックアイテムを所持していたので、その中へ大量に詰め込んではどんどん運び出してきたのだ。

 

「オオ、さすが、お姉さんはすごいの。……ウーン、でも、盗みがあったのがばれたら困らないかな?」

 

 ディーキンは彼女の手際を賞賛しながらも、そう言ってちょっと首を傾げた。

 盗みが露見すれば、いったい誰がどうやって陣中から大量の武器弾薬を気付かれずに持ち去ったのかという話になり、デヴィルらが瞬間移動の使い手が敵側に存在する可能性を疑い出さないとも限らない。

 

「おそらく、大丈夫と思います。これらは普段使われていない予備の備蓄のようで、建物の奥まった場所にしまってありましたから。中身を抜いた空箱だけ元通りに戻しておけば、今日明日の内に露見するということはまずないでしょう。逆に、兵舎や天幕の中ですぐに持ち出して使えるよう準備されているものは、気付かれずに盗み出すことは困難ですね。おそらく、明日の戦いに用いられるのでしょうが……」

 

「ううむ。さすがに、向こうの武器を全部奪い取るというようなわけにはいかないのか」

 

 ギーシュは火薬樽の中を覗き込みながら、そう言って顔をしかめた。

 

 まあ、何千何万の兵が使う武器弾薬のすべてを彼女一人で一昼夜のうちに奪い去るなどということは、そりゃあ不可能だろう。

 途中で絶対に気付かれるだろうし、よしんばそうならなかったとしても、量的にも無理があるはずだ。

 大型のカタパルトや大砲なんかも、たくさんあることだろうし……。

 

「ならば、奪いきれない火薬は火をつけて回って吹き飛ばしてしまうというのは? 武器や兵器の類がなくなれば平民の兵は無力化します、敵の戦力を大幅に削げるかと」

 

 ロングビルが、横合いからそう提案した。

 平民の兵を軽んじるメイジは多いが、呪文の詠唱中に身を守ってくれる前衛の兵がいなければ、メイジもその能力を十全には発揮できないのだ。

 数を揃えた矢や銃弾の一斉射撃は、強靭な亜人や巨人の類をも仕留めうる侮れない戦力にもなる。

 

 おまけに大砲やカタパルトも使えないとなれば、城攻めには苦労するはずだ。

 それらの兵器に代わる火力となりうるのはメイジの呪文だが、城壁を突き崩すほどの強力な呪文は詠唱に時間がかかるし、射程もそう長くはない。

 既に勝ちが決まったも同然の戦でこのままいけば間もなく勝利の美酒と栄光が味わえるはずの貴族たちが、満足な護衛や砲撃の援護もなしで前線に出てきて命の危うい城攻めを行うというのは、相当な勇気がいる行為であろう。

 あるいは膂力に優れる巨人や亜人の類を前に押し出して攻撃させようとするかもしれないが、そういったでかぶつは前線に出れば銃弾や砲弾のいい的になるのだ。

 ろくな武器もなくなった兵からそんなことを強要され続ければ、元より気性が荒く人間を見下す傾向の強い連中のこと、激昂して反乱を起こす可能性も無きにしもあらずである。

 

 しかし、ウィルブレースはあまりよい顔をしなかった。

 

「いい作戦だと思いますが……、爆発や火災によって犠牲となる者が、大勢出るのではないでしょうか?」

 

 純粋に敵の戦力を削ぐだけの目的ならそれはなおさら結構なことだろうが、ウィルブレースはできる限りフィーンド以外を殺害するのは避けたかった。

 彼女はあくまでもデヴィルの謀略から人々を救うことに同意したのであって、殺し合いに手を貸そうというわけではない。

 火薬や銃弾を奪ってきたのも、それをフィーンドと戦うのに用いるためであって、人間たちに同族の兵を撃たせるためではないのだ。

 

「そりゃあ、犠牲者は出るでしょうよ。明日の戦いでも、ね。お気持ちは分かりますけど、あなただって戦場のことはよくご存知なんでしょう?」

 

 キュルケは、そう言って肩をすくめた。

 彼女としても、もちろん敵側の人間を殺さずに済むならそれに越したことはないとは思っているが、戦争で一人も殺さずに勝つなどというのはおよそ非現実的な話だ。

 味方の犠牲を減らすために敵の戦力を削ぐ過程で多少の死者が出たとしても、それは当然のことであり、仕方がないことだろう。

 

 ウィルブレースはにっこりと微笑んで、そんなキュルケの顔を真っ直ぐに見つめた。

 それは、特にそのケはない上に場慣れしているはずの彼女でさえ思わずどきりとして、いくらか敗北感を味わわされるほどに魅力的な微笑みだった。

 

「ええ、よく知っています。戦場には残酷な現実があることを。そして、その上でなお理想を追う意思を持ってこそ現状を覆す英雄が現れ、奇跡が起こるのだということも、私はこの目で見てきました」

 

 そう話した上で、ウィルブレースはさらに付け加えた。

 

「それに、善悪の面を抜きにしても、それでどの程度有利になるかには疑問があります。吹き飛ばしてしまえばその武器が使えないことは誰の目にも明らかで、そうなれば敵方もそれに頼らない戦術を新たに組み直すか、態勢を立て直すかして明日の戦いに臨むはず……」

 

 たとえば、焼け残った武器をかき集め、足りない分は土メイジが錬金した即席の武器を兵たちに配布して戦わせるといったことができるだろう。

 もちろん、そうして補充した武器は、二度と放火などされないよう厳重に見張られるはずだ。

 敵方はこちらより数で圧倒的に勝っているのだから、多少火力が落ちたとしても、その程度では決定的に有利とはなるまい。

 

「何よりも、向こうにも私と同じようにテレポートで物資を輸送出来るデヴィルが、それも複数いることを忘れてはならないでしょう」

 

 回数無制限で瞬間移動を行うことのできるデヴィルがいれば、後方にある別のレコン・キスタの拠点から武器や兵器を取り寄せて損失分を埋め合わせることは十分にできよう。

 さらに、状況からみて敵方にも瞬間移動を行える者が存在するのではないか、と気付かれてしまう恐れもあるのだ。

 そうして警戒を強められては、かえって不利になる可能性すらある。

 

「……ですが、武器が使えるつもりで陣形を組み、戦場に臨んで初めてそれが役立たずだとわかったなら? 咄嗟に態勢を立て直すことは遥かに難しく、動揺も大きくなるはずです。そのようにしては、どうでしょうか」

 

 ウィルブレースがそう言うと、他の面々は首を傾げた。

 

「……つまり、敵方の武器をそれとわからぬように役立たずにする、と? そんなことが可能なのか?」

 

 ウェールズの問いに、ウィルブレースはあっさりと頷きを返す。

 

「どの程度上手くいくかまではわかりません。しかし、私の裁量で行う許可をいただけるのでしたら何とかやってみて、数時間ほどで結果をご報告いたしますが……」

 

 他に取るべき策もない以上、ウェールズらには同意して頭を下げるしかなかった……。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 ウィルブレースは敵陣に戻ると、まずは姿を隠したままで、明日の戦いに備えて用意されていた大砲のところへ移動した。

 そして、自分の体が非実体であることを利用してその内部へ入り込み、内側から直接構造を確認していく。

 

 彼女は特に火器に詳しいわけではなかったが、豊富な知識と、それを最大限に活かすための並外れて優れた知力、判断力を持っている。

 大砲の基本的な作りは、すぐに把握できた。

 

(よし。ここを、少々弄れば……)

 

 ウィルブレースは《物体変身(ポリモーフ・エニィ・オブジェクト)》の疑似呪文能力を用いて大砲の内部に細工を施し、外見上は何の変化もないままで使用することができない状態に変えてやった。

 

 一旦やり方がわかってしまえば、あとは同じことを繰り返すだけだ。

 ウィルブレースはてきぱきと動いて並んでいる大砲に次々に細工を加え、使用不能の状態にしていった。

 カタパルトや投石機などの他の大型の兵器類にも、それぞれにうまく機能しなくなるような細工を施していってやる。

 相当な数があったが、最初にどこをどう弄ればいいのかさえ確認してしまえば、後はそれぞれに対して数秒で発動できる疑似呪文能力を一回使うだけの作業で済んだ。

 

 空を飛ぶ飛行船の類もあるということだったが、このあたりには姿が見えなかった。

 明日の戦いには使わないつもりなのか、でなければ今は停泊に適した別の場所に泊めてあって、戦いの始まる頃に投入して空から地上へ向かう退路を断つつもりなのかもしれない。

 そうなると、今日のうちに細工をしておくのは難しそうだが……。

 

(数はせいぜい数隻から十数隻だろう。もし明日の戦いで姿が見えたら、私たちで何とかするか)

 

 ディーキンや眠れる者が乗り込んで、内部から制圧する。

 もしくは、自分が乗り込んで、《物体変身》で重要部分の材質を変化させるなどして航行不能の状態に追い込む。

 内部の敵の戦力次第だが、瞬間移動で乗り込む分には対空射撃も関係ないのだし、まあできないこともあるまい。

 それに、こちらには元より退避する予定はなく城に閉じこもって守るつもりなのだから、飛行船からの砲撃その他の攻撃が嫌がらせ以上の害にならないようなら放っておいてもよい。

 

 竜騎士などの空を飛ぶ敵もいるが、数は少ないようだから大きな害にはなるまい。

 いかに強力な幻獣といえども、堅牢な城へ少数で正面から攻めたのでは対空射撃のいい的になるだけだ。

 もし手強いようなら、船と同様、自分たちが何とかすればいいだろう。

 

(本当に厄介なのはデヴィルだが……。少数のスピナゴンやアビシャイ程度なら、なんとかなるか……)

 

 そうして考えが一段落すると、ウィルブレースは次の案件に移った。

 

(では、兵士たちの手持ちのマスケット銃はどうする?)

 

 おそらく数百……、いや、数千丁はあるだろう。

 さすがに数が多すぎるので、そのすべてに細工をして回るというのは難しそうだ。

 それに、大砲と違って比較的容易にぶっ放せる代物だから、かなりの人数が戦場へ向かう前に念のため試し撃ちをしてみるということが十分考えられる。

 

『あれ、俺の銃が使えないぞ?』

『なに、お前もか』

『こっちもだ、一体どうなってるんだ?』

 

 ――そんなことになったら、何か異常な事態が起こっていると気付かれてしまうだろう。

 

 そうなると、さて。どうしたものか?

 

(……後が続かぬよう、予備の弾薬を奪っておくか……)

 

 兵の数が多いということは、消費する弾や火薬の量もそれだけ多くなるということだ。

 それぞれの兵が携行している銃や弾薬には細工できないとしても、必要になって初めて開封されるのであろう火薬樽や弾薬箱の中身に細工をしておくことはできる。

 そうすれば、敵は交戦を開始していくらも経たぬうちに弾薬が打ち止めになるはずだ。

 こちらは籠城しているのだから、大砲などの攻城兵器さえなくなれば、それまでの間持ちこたえるくらいのことは十分にできよう。

 

 ウィルブレースはそう決めると、まずは明日の戦いに使用するらしい物資を詰め込んだ荷車の中から、銃弾が入っている弾薬箱を積んだものを探した。

 非実体の体を箱の中に直接突っ込んで、片っ端から中身を確認していく。

 

(これだな)

 

 程なくして、ウィルブレースは小さな金属の球がぎっしりと詰め込まれた木箱がたくさん積まれた荷車を発見した。

 

 彼女は《物体変身》の疑似呪文能力で《金属を木に(トランスミュート・メタル・トゥ・ウッド)》の呪文の効果を再現し、木箱の中にあった金属球をすべて軽い木製の弾に変えてやった。

 矢ならともかく、球形をした小さな弾丸は木製では軽すぎて空気抵抗のためにろくに飛ばず、たとえ飛んだとしてもまともな殺傷力はなくなって武器としての用を成すまい。

 

(よし、あとは火薬の方もどうにかしておこう)

 

 フェイルーンのスモークパウダーなどもそうなのだが、この世界の火薬も硫黄からメイジが魔法的な製法を用いて作ったものであり、魔力を帯びているがゆえに《物体変身》の効果を受け付けない。

 

 しかし、何も火薬そのものを変化させなくても、使えなくすることはいくらでもできるのだ。

 ウィルブレースは火薬樽を構成している内側の木片の一部分に術をかけ、大量のコールタールや膠、漆、脂などの有機性の物質に変えて、樽の内部にぎっしりと詰め込んでおいた。

 樽を開けてみたら中の火薬には得体の知れないどろどろした不純物が混じっていたというのでは、とても使う気にはなれないだろうし、実際使いものになるまい。

 この世界の土メイジには『錬金』という高性能な変成術があるらしいが、粉末状の火薬に混ざり込んでしまった不純物だけをすべてきれいに取り除くなどということが難なく出来ようとは、さすがに思われない。

 元となった木片よりも体積を大幅に増やしたので《物体変身》の効果は永続しないが、数日かそれ以上は持つだろうし、戦いは明日なのだからそれで十分だ。

 

(これで敵側の火器、兵器の類は、大部分が潰れたはず……)

 

 こちらの軍は先程奪った武器弾薬も補充して十分に武装しているのだから、槍や弓矢だけでは、いかに大群とはいえ堅固な城を落とすことは困難だろう。

 このままでは容易に城を落とせないとわかれば、デヴィルの指揮官である堕天使たちはどうするだろうか?

 安全策を取って、一旦退いて武器弾薬を補充し、態勢を立て直そうとする可能性ももちろんある。

 しかし、神の御遣いとしての体裁と求心力を維持し続けたい側としては、一時的にせよ兵たちの前で無様に退却する、というのは面白くあるまい。

 おそらく、戦況を打開するために多少の危険を押してでも、自ら前線へと赴いてくるはずだ。

 その時こそが、奴らの化けの皮を剥がす好機となる。

 

 とはいえ、それはすべてがこちらの狙い通りにいった場合のことである。

 戦いは、特に軍隊同士がぶつかり合う大人数の戦いなどというものは、何が起こるかわからないものだ。

 こちらの想定どおりにことが運ばなかった場合や、急に状況が変わった場合にどう対応するか。

 仲間たちにも後で自分がしたことを説明し、入念に打ち合わせをしておかなくては……。

 

(……むっ?)

 

 ウィルブレースがそんな風に考えていた時、突然、周囲に角笛の音のようなものが響き渡った。

 

 何かあったか、まさか自分が見つかったわけではあるまいなと一瞬わずかに焦ったが、その響きがまだ消えないうちにあちこちの兵舎や天幕から兵たちがぞろぞろと姿を現し、陣地の一角へ向かい始める。

 

 どうやら、集会かなにかの合図だったらしい。

 大方、明日の戦いを前に司令官が演説をしたり、ちょっとした宴でも催したりして、兵たちの士気を高めておこうというのだろう。

 彼らの表情や足取り、向かっていく先に準備されている品々などから、ウィルブレースはそう判断した。

 

 なんにせよ、こちらにとっても好都合である。

 兵たちの大半が出払っている間にもう少しいろいろな仕込みをすることもできようし、何よりも、一堂に会した者たちを詳しく観察する機会ができたのだから。

 ウィルブレースは周囲の目を警戒しながらも、密かに兵たちの後に続いて、集会の場へ向かった……。

 

 

「君たちこそ、正しく真の始祖の民というに相応しい」

 

 やや高くなった台から、司令官の『ル・ウール侯』が整列した兵たちに賞賛の言葉を与えている。

 なにがしかの魔法で声を増幅しているらしく、その声は遠くまでよく響く。

 彼に従う2人の“天使”は、祝福するように微笑んで兵たちを見下ろしながら、彼らの上空をゆっくりと旋回していた。

 

「明日の戦いで、君たちはついにかつての誤った忠誠を完全に正し、真の主に永遠に仕えることとなるだろう。私は、主の元へ戻ったときに、君たちの行いを余さずお伝えすることを約束しよう!」

 

 多くの兵士が、上官のその言葉に歓声を上げる。

 上空にいるエリニュスたちに発見されないようやや離れた位置から様子を見つめながらも、ウィルブレースは内心少なからず憤っていた。

 

(かつての主を裏切らせ、偽の大義に仕えさせることで兵たちを地獄の主の元へ送り、あわよくばナルズゴンにでも変えようというのか?)

 

 ナルズゴンとは、悪しき主君や堕落した大義に盲目的に仕えることによって、結果的に大いなる悪に加担した者たちの魂から生み出されるデヴィルである。

 自らの邪悪さゆえの報いを受けて永遠の盲従を運命付けられた彼らは、悪なりに高潔な戦士であり、卑劣な陰謀よりも直接行動と勇気に重きを置いている。

 ひとたび忠誠を誓ったナルズゴンは二心を抱くことなくその約束を守り通すため、アークデヴィルたちはそれらの地獄の旗手を一騎でも多く配下に抱えることを切望しているという。

 

 今すぐに斬り殺してやりたいところだが、そこはぐっと我慢して、ウィルブレースはこの場で確認しておかねばならないことを考えた。

 

(……何はなくとも、まずはあの司令官の正体か)

 

 デヴィルに誑かされたか、もしくは憑依でもされたかしただけの、ただの人間だという可能性もゼロではない。

 しかし、事前にウェールズらから聞いた話からすると、どうもそうではなさそうだった。

 あの男は既に死んだアルビオンの英雄『ル・ウール侯』なる人物にそっくりで、本人も神の奇跡によって甦ったと主張しているらしい。

 

 蘇生魔法では本人の同意なく死者を復活させることはできないし、まさか英雄と呼ばれるような人物が自らの意思でデヴィルに加担することを選んだはずはあるまい。

 そうなると、アンデッドの類だろうか?

 ただ、ここ数日以内に死んで屍が残っている人物ならともかく、かなり昔に死んで既に骨になっている人物を生前の姿そのままのアンデッドにすることは、不可能ではないが難しいだろう。

 多少の演技力と十分な能力があれば、デヴィル自身、ないしはドッペルゲンガーのような種族が成りすますということも可能なはずだ。

 

 いずれにせよ、適切な対策を立てるためにも、正体は確実に確かめておかなくてはならない。

 重要なことだけに、後ほど危険を冒してでも司令部らしき建物の中へ潜入して調べてこねばならないかと思っていたところだ。

 この場で調べることにも危険はもちろんあるが、好機を逃すべきではない。

 

 ウィルブレースは、上空にいるエリニュスたちの《真実の目》の範囲に入らないよう気を付けながら司令官の背後に回り込み、自分の《真実の目》の効果範囲に収まるまで、ゆっくりと彼に近づいていった。

 そうしてその正体を確認すると、直ちにその場を離れて、次の行動を検討した。

 

(……デヴィルの正体を明かせば、こちらについてくれそうな指揮官はいるか?)

 

 今、正体を確認することで、あの司令官とは和解はありえず、完全に排除してしまわなくてはならないことがわかった。

 

 そうなると、明日の戦いで敵方の司令官や“天使”たちの正体を暴き、フィーンドどもを軒並み始末できたとして、その後に残された混乱して途方に暮れているであろう兵たちをまとめてくれる者が必要になる。

 指揮権を引き継ぎ、反乱軍をまとめなおして、王党派へ降伏するように事を運んでくれるだけの能力と、身分と、志のある人物が。

 

(この場で目星をつけておいて、後ほど密かにウェールズ皇太子と共に話をすることはできないだろうか?)

 

 司令官から少し離れた場所に、人間の士官らしい人物が並んでいるのが見える。

 自分にわかるのは悪の属性かどうかくらいで細かい人柄などまではわからないが、後でまたウェールズらに姿を再現して見せれば知っている人物がいるかもしれない。

 それにもしかしたら、中にはあの司令官と同じような者も混ざっているかもしれないし、それも確認しておくべきだろう。

 

 ウィルブレースは司令官の演説が終わらない間にと、細心の注意を払いながらも急いで士官たちの姿を一通り確認していった。

 それが済むと、今度はそれ以外の兵たちのうち、気になった者だけをざっと傍で確認し、人気のなくなった兵舎などを回って若干の仕込みを済ませる。

 

(よし……、これでいい)

 

 自分が今日ここでするべきことは、これで一通り済んだはずだ。

 帰還してウェールズ皇太子やディーキンらと打ち合わせをして、その結果次第ではまだもう少し戻ってくる必要があるかもしれないが、ひとまずは引き上げよう。

 

 欲をかいて長居し過ぎても大した成果は上がらないだろうし、ぼろが出る危険が増すばかりである。

 ウィルブレースは冷静で思慮深くはあるが、衝動的な混沌にして善の気質を持つエラドリンであることもまた間違いないし、彼女自身そのことをよく知っていた。

 いつまでも不快なフィーンドどもの傍にいて、剣を叩きつけたい衝動を我慢し続けられるかどうか自信がない。

 

(さあ、今日はもう引き上げて、気持ちを切り替えて。今夜の宴を精一杯楽しめるものにしましょう)

 

 宴のことを考えると、気持ちが華やかになった。

 明日に大変な戦いが控えているとしても、だからといって今日を楽しんではいけない理由にはならない。

 バードなら、人々の前では常に楽観的で希望を与えられるような態度を心掛けるべきだ。

 

 今夜はどうやってみんなを楽しませようか、ディーキンらとどんなふうに共演できるだろうか。

 ウィルブレースはそんな風に楽しい宴の時に思いを馳せながら、敵陣を後にしたのだった……。

 





《携帯用の穴(ポータブル・ホール)》:
 フェイズ・スパイダーの糸とエーテルの繊維と星の光を織って作った、異次元空間に通じる円形の布。折りたたんだ状態ではハンカチほどの大きさしかないが、何かの表面の上に広げると直径6フィート、深さ10フィートの異次元空間につながり、内部に物を収納しておくことができる。どれだけ多くの物を収納しても、布の重量が増えることはない。

ポリモーフ・エニィ・オブジェクト
Polymorph Any Object /物体変身
系統:変成術(ポリモーフ); 8レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(水銀、ゴム、煙)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:本文参照
 この呪文は対象の物体ないしはクリーチャーを他のものに変化させることができる。生物を無生物に変えたり、逆に無生物を生物に変えたりすることさえ可能である。
呪文の持続時間は、本来の状態から変化後の状態になるのにどれだけ激しい変化があったかによる。
動物・植物・鉱物などの界が同じかどうか、哺乳類・菌類・金属などの網が同じかどうか、サイズ分類が変化していないか、変化先と変化前のものには関連があるか、変化によって知力が上昇していないか、などが持続時間に影響してくる。
たとえば、小石を人間に変えるのであれば効果は20分しか持続しないが、人形を人間に変える場合には持続時間は1時間になり、もしもその人形が人間大のマネキンであれば持続時間は3時間にまで伸びる。ネズミを人間に変える場合は効果は1週間持続し、人間をネズミに変える場合には効果は永続である。
呪文の対象は変身先の姿が持つ【知力】を得る。また、対象が【判断力】や【魅力】を持たない物体である場合には、それも変身先の姿と同じになる。
銅、銀、宝石、絹、黄金、白金、ミスラル、アダマンティンなどの素材自体の価値が高い物質や、魔法のアイテムをこの呪文で作り出すことはできない。
魔法のアイテムに対しては、この呪文は作用しない。
 この呪文はベイルフル・ポリモーフ(対象の生物を無害な小動物などに変える)、ポリモーフ(対象の生物を一時的に変身させる)、ストーン・トゥ・フレッシュ(石製の対象を肉に変える)、フレッシュ・トゥ・ストーン(生身の対象を石化させる)、トランスミュート・マッド・トゥ・ロック(効果範囲内の泥を石に変える)、トランスミュート・メタル・トゥ・ウッド(効果範囲内の金属を木に変える)、トランスミュート・ロック・トゥ・マッド(効果範囲内の石を泥に変える)の各呪文の効果を再現するために使用することもできる。
 トゥラニ・エラドリンは、この高レベルの呪文を疑似呪文能力として、回数無制限で使用することができる。


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第百二十二話 A great speech

 

 その夜、ニューカッスル城のホールでは、予定通りに宴が催された。

 最後の時を目前に控えながらも今宵の宴を楽しみにしていた兵や貴族たちは、乏しくなった礼服やドレス、装身具の類を棚の奥から引っ張り出して平和だった頃のように精一杯華やかに着飾ると、張り切って会場へ向かった。

 

 しかし、いざ宴の場に足を踏み入れてみると、彼らは予想もしなかった光景を目の当たりにして、非常に驚かされることになったのである。

 

 まず、ここ最近ずっと量も乏しく味も単調な保存食料を食んできた彼らにとっては、眩暈がするほどに素晴らしい料理の数々が、食卓にそれこそ山のように積まれていた。

 それは、この日のために貯蔵庫の奥に大切にとっておかれた食材がすべて放出されて調理されたにしても、あまりにも豪華すぎた。

 もちろんディーキンと眠れる者が《英雄達の饗宴(ヒーローズ・フィースト)》の呪文を使って作り出したのであるが、さらに明日の戦いに備えて、彼らはウィルブレースが工作を進めていた間に追加で何種類かの下級のセレスチャルを招請していた。

 そうしてやってきた者たちのうちでモヴァニック・デーヴァと呼ばれるセレスチャルが、疑似呪文能力の《食料と水の創造(クリエイト・フード・アンド・ウォーター)》を使って、テーブルのまだ空きのあった部分もすべて、食べきれないほどの料理を生み出して埋め尽くしてくれたのである。

 

 さらに、戦のために金に換えられるものはほとんどすべて手放してしまい、がらんとして飾り気のなくなっていたはずのホールは、城内に残った宝飾品の類を掻き集めて飾ったにしてもいささか美しすぎる様相に様変わりしていた。

 幻想的な美しさをもつ多彩の明かりがいくつも灯され、煌びやかな貴金属や宝石があちこちを飾っている。

 それもまた、セレスチャルたちが疑似呪文能力を用いることで、様々な光源や幻影を生み出して作り上げてくれたものであった。

 

 もちろん、招請されたセレスチャルたちの煌びやかな姿それ自体も、人々を驚かせ、感銘を与えた。

 しかし、敵方にも天使だと名乗る連中が組している以上は警戒心をあらわにする者も多かったし、またウィルブレースなどの一部のセレスチャルは、ハルケギニアでは最強の亜人として恐れられるエルフに酷似した姿をしている。

 そのため、彼らが疑念を解消して一緒に宴を楽しむには、主君による説明を待たねばならなかった。

 

 そのジェームズ一世は、ホールに据えられた簡易な玉座の上で、臣下たちが集まってくるのを静かに見守っていた。

 やがて全員が集合したのを確認すると、彼は頷いて、ゆっくりと玉座から立ちあがった。

 集まった人々は一斉に直立して、王の言葉を待つ。

 

「……諸君。この場に集まる、忠勇なる臣下の諸君よ。今宵はめでたい宴であるが、その前に、少しだけ話させてくれぬか。いくらか、説明せねばならぬこともあろう」

 

 ジェームズ一世は、近年になく威厳のあるしっかりとした様子で、息子であるウェールズ皇太子の助けを借りずにぴんと背筋を伸ばして一人で立っていた。

 そのこともまた人々を驚かせ、そして喜ばせた。

 老齢の国王はこの度の戦のことなどもあって心身ともにすっかり弱っており、近頃では歩くのにもウェールズ皇太子の助けを借りねばならないような状態だったからだ。

 

 国王がこうして元気そうな姿を見せていられるのは、ディーキンらが事前に《英雄達の饗宴》の料理を食べさせるなどして精力を増強したからである。

 もちろん、もはや自国の滅亡が決まって共に滅びるのみだと思っていたところにかつて追放したサウスゴータ家の娘が戻ってきて叱咤され、その上に国を救えるかもしれぬ一筋の希望の光が差し込んで、なんとしてももうひと頑張りしなければと精神的に奮い立った、ということも大きいだろう。

 老いた国王が息子のウェールズと共に再び戦線の指揮をとれるとなれば、皆の士気も大いに上がるはずだった。

 

「明日、このニューカッスルの城に控える我ら王軍に対して総攻撃を行う旨を反乱軍『レコン・キスタ』の者どもが伝えてきたことは、誰もが知っていよう。この無能な王に、諸君らは今日までよく従い、よく戦ってくれた。卿らに勝る勇士があるとすれば、既に死んだ諸君の同胞、ヴァルハラの英霊たちだけであろう。……厚く、礼を述べる」

 

 国王は一人一人の臣下の顔を順に見つめながら、わずかに微笑んで頭を下げた。

 

「……だが、卿らの数はもはや三百あまり。敵の数は、その百倍以上と推定される。明日の朝、巡洋艦『イーグル』号が女子供を乗せてここを離れるが、ここにおられる友好国トリステインからの使者の方々は、女子供に限らず亡命を受け入れる用意があると言われた」

 

 臣下たちは何も言わずに、じっと国王の方を見つめている。

 国王も、真っ直ぐに彼らと向き合った。

 

「ゆえに朕は、諸君らに暇を与えることにする。地上で新たな人生を見つけようと志す者には、朕からトリステインの王族への推薦状を書こう。誰であれ、遠慮は要らぬ。決して咎めはせぬ。そうした者を、残る者が侮蔑することも許さぬ。皆で祝福をもって送り出そうではないか。……さあ、希望する者は、手を挙げよ」

 

 …………。

 

 しかし、しばらく待ってみても、誰の手も挙がることはなかった。

 ややあって、一人の貴族が声を上げる。

 

「陛下! この場に集まった勇士の中には、そのようなことのために挙げる手を持っている者はおりませんぞ。杖を握る手、銃の引き金を引く手、味方の肩を支える手はありましょう。ですが、陛下にそんなつまらぬことでお時間を取らせるような、けしからぬ手などはありませぬ」

 

 その勇ましい言葉に、男も女も、貴族も平民も、ホールに集まった皆が同調した。

 

「おやおや、今宵の陛下はずいぶんとお元気なご様子ですが、そのような異国風の冗談までも! これは頼もしいですな!」

 

「その調子で、ウェールズ殿下と共に明日の指揮もお願いいたしますぞ! 我らは、『全軍前へ! ヴァルハラまで、このまま突き進め!』 ……そういった命令をいただけるように、期待しております!」

 

 そうして豪快に笑う臣下たちの姿を見て、老王はわずかに目頭を押さえる。

 それから、重々しく頷くと、片手にグラスを持ち、もう一方の手で杖を高く掲げた。

 

「……よかろう、皆の気持ちはしかと受け取った。では、明日はこの王に続くがよい! レコン・キスタの叛徒どもの目を覚まさせ、この国を悪魔どもの手から取り戻し、生きて再び共に祝杯を挙げることを、今ここで誓い合おうではないか!」

 

 どっと歓声が上がり、ホールのあちこちで祝杯が挙げられた。

 彼らはもちろん、心からそうしていたのだが……、その一方で、今の国王の宣言にやや違和感を感じた者も多かった。

 

 叛徒どもを打ち倒すのではなく、目を覚まさせるとは?

 それに、悪魔どもとは一体、何のことだろうか。

 全員勇ましく戦ってヴァルハラで再会しようというのではなく、生きて祝杯を挙げようというのは……。

 

 その疑問に答えるように、歓声が収まるのを待って、国王が話を続けた。

 

「諸君は、おそらく明日の戦いに勝ち目はないものと思っていよう。天使ですら敵に回った今、残された道は我らが真の勇士であることを天上におわす神と始祖に示して、潔く散ることのみだ、と……」

 

 そういいながら、後ろの方に控えていたルイズら、トリステインからの使者たちを傍に招いた。

 彼女らの傍らには、ウェールズ皇太子も付き添っている。

 

「……朕も、こちらにおられる使者の方々に話を伺うまでは、そう思っておった。しかし、今は違う。我らの敵は、謀られただけの我らの同胞たちでも、亜人たちでもない。天使を騙るおぞましい悪魔どもなのである!」

 

「いかにも! それを知った以上は、この愛する祖国をこれ以上奴らに穢させぬために、我らは泥を啜ってでも生き延び、そして勝たねばならぬ!」

 

 ウェールズが父に続いて高らかにそう宣言すると、再びどっと歓声が上がった。

 

 彼らの中にも、姿形や能力がどうあれ、こんな所業をする奴らが天使などであるものかと考えている者は少なからずいた。

 それゆえ、まだ事の成り行きが完全に分かったわけではなくとも、敵は天使でなく悪魔であると主君が断じたことは彼らにとっては待ち望んだ、歓迎すべきことだったのである。

 つい先日まで、国王はあるいは本当に自分たちは神と始祖に見限られたのかもしれぬと諦観した様子を見せており、皇太子も常に勇ましく戦い続けながらも内心では少なからずそんな父の言葉に同意している風だっただけに、なおさらのことだった。

 

「こうして皆が賛同してくれているのを見て、陛下も私も、大変に嬉しく思う。君たちは、当世無双の勇士である。その勇士が三百人もいる以上、五万やそこらの有象無象などは元より取るに足らぬが……」

 

 ウェールズは歓声が少し収まるのを待ってから話を続けて、今度はルイズらトリステインからの使者たちの方を示した。

 それから、会場の隅の方に控えているセレスチャルたちも。

 

「……それに加えて、明日の戦いにはここにおられる方々も参戦してくださることになっているのだ。もはや、何ひとつ恐れることはないと言ってよいであろう!」

 

 ウェールズは杖を高く掲げて、そう宣言した。

 しかし、今度は歓声は上がらず、臣下たちは困惑したように顔を見合わせた。

 

「恐れながら、殿下。他国からの大使の方々を、かくも危険な戦いに付き合わせることはいかがなものでありましょうか。皆さまには亡命する女子供たちと共に、トリステインへ戻っていただくべきかと」

 

 一人の年老いたメイジ、侍従のパリーが、進み出てそう進言した。

 他の臣下たちも、概ねそれに賛同している様子だった。

 気構えはともかくとして、現実的に勝ち目のない戦いに、どうして無関係な他国からの使者を付き合わせることができようか?

 

 しかし、ウェールズはその忠実なる従者の顔を優しく見つめながら、首を横に振った。

 

「違う、違うのだよ、パリー。……私も、最初はそう思っていた。しかし、この方々の話を聞いて、これはもはや我らだけの戦いではないと気付いたのだ」

 

 そこで、ルイズが皆を代表して一歩進み出ると、お辞儀をして口を開いた。

 

「殿下のおっしゃる通りです。私はトリステインの貴族ですが、反乱軍がアルビオンを支配すれば、次は私たちの番ではありませんか。決して対岸の火事ではないのです。私たちも一緒に戦います!」

 

 続いてギーシュが、キュルケが、タバサが、そしてコルベールとシエスタが、進み出た。

 

「ぼ、ぼくはトリステインの元帥の息子です! 名誉ある戦いを前にして、命を惜しんで逃げ帰るはずがありません!」

 

「ゲルマニアの女は、いい男に背を向けて逃げ帰ったりはしないものですわ。こちらの、ガリアの友人も。ね?」

 

「……そうかも」

 

「私は二度と戦いのために魔法を使いたくはなかったのだが……、大切な生徒たちが戦うのなら、是非もありませんな」

 

「わ、私は平民ですが、悪と戦う気持ちでは決して負けないつもりですから!」

 

 他国から来た、まだ若い大使たちの勇ましい言葉に、臣下らがおおっ、と沸き立った。

 それを見計らって、ディーキンとウィルブレースも彼女らの横に進み出る。

 

「ディーキンも頑張るの。ディーキンはルイズの使い魔だし、あんたたちみたいな英雄と一緒に戦いたいし。それに、デヴィルが勝って困るのは人間だけじゃないからね」

 

「私は、つい先ほどこちらに呼ばれたばかりですが。こうして誉なる勇士の方々と共に、善のために戦えることは光栄です。この出会いに感謝しています」

 

 また歓声が上がったが、今度はまばらだった。

 半分ほどの人々は、戸惑ったように顔を見合わせたり、不審げに顔をしかめたりしている。

 

 そうした人々を代表するように、一人の年配の貴族が国王の前に進み出た。

 

「陛下。恐れながら、他国の方々からの申し出には感謝の言葉もありませんが、こちらの方々のような亜人の助力を受けるというのはいかがなものでありましょうか」

 

 率直な物言いに、人々がざわめいた。

 

 しかし、当のディーキンやウィルブレースはうろたえていなかった。

 そのような意見が出るのは、むしろ当然のことである。

 反対意見を述べた貴族を狭量だなどと言って非難する気もない、内心同じ思いを抱いている者は他にも大勢いるに違いないのだ。

 

 この場の雰囲気に流されずに主君の決定に表立って異を唱えるというのは、むしろ勇気の要ることだろう。

 

「そなたの案じておるのは、敵側と同じように亜人と手を結ぶこと、ことに始祖の大敵であるエルフの助力を受けることで、勝敗に関わらず後に非難を受けるのではないかということであろう。違うか?」

 

「は……」

 

 その貴族は、跪いて深々と頭を下げた。

 

 彼には、わずかな数の援軍が加わってくれたくらいのことでは、たとえそれがエルフであれなんであれ、今さら戦の趨勢を覆せるとは思われなかった。

 そうなると、最後の時になってエルフと手を結んだ不心得者という汚名を残すだけのこととなるのではないか。

 よしんば勝てたとしても、ロマリアをはじめとして多方面からの非難を受けることは免れまい。

 

 それに、国王や皇太子の態度が昨日までとは明らかに変わっていること、様々な奇妙な出来事を目にしたこともあって、突然やってきた“協力者”たちに対していささか不信感を抱いている部分もあった。

 それは、反乱軍の連中にとって、今さら自分たちに謀るほどの価値があろうとも思えない。

 だからといって、エルフをはじめ得体の知れない亜人たちや、その者どもと友好的な関係にあるらしい使者を全面的に信頼して、明日の戦いを共にしてもよいものであろうか?

 

「我らには援助を拒む余裕などないことも、勇士の方々に対する大変な非礼となることも、十分に承知しております。しかし……」

 

「みなまで申すな」

 

 国王が手を上げて、続きを制した。

 

「諸君らからそのような意見が出るのは、まことに無理もないことである。朕も昨日までであれば、そのように考えたであろう」

 

 そう言ってから、ちらりと、使者の中で一人だけ後ろのほうに控えていた女性の方に目を向ける。

 その女性は小さく頷くと、無言ですっと前に進み出た。

 

「……しかし。今日、朕は考えを改めたのだ。皆も、この女性に覚えがあるかもしれぬ――」

 

 ジェームズが目で促すと、女性は黙って、それまで身に着けていた髪飾りを外した。

 同時に幻覚が破れて、外された髪飾りは直ちに《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ)》に戻り、女性も本来の姿を現す。

 

 その姿を見て、何人かの臣下が、はっと目を見開いた。

 彼女が、かつて貴族の地位を剥奪された名家・サウスゴータ家の娘であることに気が付いたのだ。

 

 そんな旧知の人々に対して何も言わずに目礼した後、黙って佇んでいる彼女に代わって、国王が重々しく口を開いた。

 

「この女性は、かつて朕が罪を問うて処刑した我が弟、モード大公の直臣であったサウスゴータ家の令嬢だ。滅亡を目前にした祖国に、彼女はこうして戻ってきてくれた。無論、無慈悲な仕打ちをした我が王家などのためにではない。諸君らかつての朋友たちのため、故郷のため、そしてこの世界のためにだ。……真の貴族の誇りは、愚かな王などに剥奪できるものではなかったのだ」

 

 そういって、国王は彼女に向って深々と頭を下げた。

 

「朕は誤っておった。なればこそ、今この時に、その過ちを繰り返すことだけは避けたいと思う。……この期に及んでなお、我らに味方してくれようというこの者たちに、いかなる裏がありえようか。余人が、ロマリアの宗教家どもが何と言おうと構わぬ。異国人であるから、平民であるから、亜人であるから、仇であるから。そういって彼らの真心を拒絶することが、果たして始祖の御心に適うことであろうか?」

 

「私も、陛下と同じ気持ちだ。……さあ、皆、この人々を見よ!」

 

 ウェールズ皇太子が父の横に進み出て、ルイズら使者たちの方を示した。

 

「国の違い、身分の違い、種族の違いが、いかに取るに足らぬものか。私は今日、心から悟ったぞ。彼女らの目に宿る志は、我らのそれと何の違いもない。諸君らにもわかってもらえるものと思う」

 

 そう言いながら、ウェールズは酒盃を手に取って、高々と掲げた。

 

「明日の戦い、この方々と共に戦うことに異存のない者は、さあ。こうして駆けつけてくれた兄弟たちを歓迎して、もう一度杯を掲げようではないか!」

 

 一瞬の沈黙の後、これまででも一番大きな歓声が響いた。

 

 王家を、サウスゴータ家を、アルビオンを、トリステインを、ゲルマニアを、ガリアを……。

 ハルケギニアのあらゆるものを称えて盃を掲げる人々の声が、ホールに満ち溢れた。

 

 

 

(……ふん、さすがは王族だ。民衆を煽動するのは上手いこった)

 

 当のマチルダは、人々の歓呼の声を表向きにこやかな笑みを浮かべて受け止めてはいたものの、内心ではいささか冷めた思いを抱いていた。

 理由はどうあれ、忠臣だった父を死に追いやり、自分からそれまでの人生を奪い取って路頭に迷わせた王家のパフォーマンスのために、いまさら担ぎ出されることなどが愉快であろうはずもなかった。

 

 それでも彼女が黙って付き合っているのは、ひとつには故郷を救うためであり、もうひとつには亡き父のためだった。

 いまさら貴族に戻ることに興味はないし、ましてやアルビオンの王族に臣従する気などさらさらないが、それでも王家からの公式な謝罪を受け、家系の名誉を回復されることは、父の魂に対する慰めにはなるはずだ。

 

 それに、このまま人々の熱狂に乗って上手く話が運べば義理の妹であるハーフエルフのティファニアも、王家の一員として正式に受け入れられるかもしれない。

 普段の自分ならそんな幻想は抱かなかっただろうが、一度は犯罪者として世間を騒がしていた自分が、こうして英雄扱いを受けているくらいなのだ。

 永年に渡る種族的な対立も、このような奇跡の起こる場所では、あるいは克服できるかもしれぬ。

 現に、エルフとしか思えないような姿の亜人や、得体の知れない爬虫類めいた亜人でさえ、目の前でこうして受け入れられているのだから。

 

 あの子が王族として人々から相応しい祝福を受け、胸を張って人前に出られる日が来るのなら……。

 

(それなら、私は王の臣下に戻らされようが、客寄せのパンダにされようが……。いくらでもつきあってやるさ)

 

 

 

(オオー……、すごいの)

 

 ディーキンはというと、その様子をあとで歌にしようと羊皮紙に書き留めながら、しきりに感心していた。

 さすがは王族、二人とも人の心を掴むのが巧みである。

 もちろん彼らは本心から言ってくれていたのだろうが、同じ内容を話すのでも、雰囲気作りや言い回しが下手ではなかなかこうはいくまい。

 

 ディーキンやウィルブレースも事前に、話のもっていき方に関して打ち合わせというか、ざっとした意見は述べていた。

 だが、ほとんどすべては臣下たちの反応に合わせた国王と皇太子のアドリブである。

 バードとして、ぜひとも演劇の舞台で共演してみたくなるくらいの、素晴らしい演説だった。

 

「あの人たちが王様や王子様でなかったら、いい詩人になれるのにね」

 

「ええ、本当に」

 

 彼の隣にいたウィルブレースも、にっこりと笑ってそれに同意した。

 

(あのスレイ王も、人々の心を掴むのが巧みだった……)

 

 オーク王グレイと戦った人間の王、スレイには、善良である一方で策略に長けた面もあった。

 それは決して、彼の備えていた数々の美徳を損なうような性質のものではなかったけれど、人々の心を掴み、煽動する術に長けていたのは確かだった。

 

 なんにせよ、国王と皇太子の働きかけによって、味方に受け入れてもらうことには成功した。

 あとは、明日の戦いで彼らが自分たちの指示する戦い方に従ってくれるかどうか、真に戦うべき相手である悪魔との戦いに注意を向けてくれるかどうかが問題となる。

 

「私たちも、負けてはいられませんね」

 

 

 

 ややあってホールの歓声が一区切りつくと、国王は咳払いをした。

 

「……さて、諸君。本来ならば、今宵はよく飲み、食べ、踊り、楽しもうと言いたいところだったが。我らは死ぬためにではなく、勝つために戦うゆえ、明日の戦いに備えて度を過ごすわけにはゆかぬ。だが、嬉しいことに、新しい兄弟たちがそれに代わる娯楽を提供しようと申し出てくれておる!」

 

「こちらの二人は、いずれも遥か彼方の地を旅してきた、卓越した詩人であると聞いている。皆が夕餉を楽しんでいる間に、様々な物語を語り聞かせてくれるそうだ」

 

 ウェールズの紹介を受けて、ディーキンとウィルブレースは進み出て一礼すると、気を引き締めて、ホールに設けられた舞台の上に登った。

 さあ、ここからがいよいよ、自分たちバードの仕事だ……。

 





モヴァニック・デーヴァ(物質界の天人):
 物質界と、それと結びついた正のエネルギー界、負のエネルギー界を守護する天使。
エンジェルとしてはあまり強力な存在ではないが、多くの定命の存在が住む物質界と直接関わる彼らの行動範囲は広く、その活動は天界の諸勢力が死すべき存在の抱えている問題を把握する上で大いに役立っているという。
天界の歩兵である彼らは本来の姿では細身で機敏であり、純白の翼に乳白色の肌と銀の髪、銀の瞳をしているが、定命の存在に混じって平和に過ごすときには人型生物の形態を取ることを好む。
彼らは最弱のデーヴァであるが、それでも定命の存在には奇跡としか思えないような能力を数多く備えている。
たとえば、彼らはクリエイト・フード・アンド・ウォーター(術者が選択した薄味ながらも栄養満点の簡単な料理と新鮮な水とを創り出す呪文)の疑似呪文能力を回数無制限で使用することができるため、必要となればたった一人で数千人分の食料を賄うことができるのである。
モヴァニック・デーヴァは自然界の住民と生来親しく、魔法的な強制を受けているのでもない限りは、通常の動物や植物は彼らを決して攻撃しようとしない。
また、愛用する炎をまとった剣を用いて、飛び道具や呪文による攻撃を受け流して無効化しようとすることもできる。
モヴァニック・デーヴァは、サモン・モンスターⅦの呪文で短時間招来するか、プレイナー・アライやプレイナー・バインディングなどの呪文である程度の期間にわたって招請することができる。

クリエイト・フード・アンド・ウォーター
Create Food and Water /食料と水の創造
系統:召喚術(創造); 3レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:24時間(本文参照)
 この呪文は、何もないところから術者が選んだ何か簡素な食事(味こそ薄いが栄養は満点)を生み出すという奇跡を起こすことができる。
創り出せる食事と水の量は、術者レベルごとに3人の人間、ないしは1頭の馬を丸一日飲食させるのに十分なほどである。
生み出された食料は24時間後に腐敗し、食べられなくなってしまうが、ピュアリファイ・フード・アンド・ドリンク呪文をかければさらに24時間鮮度を保つことができる。
この呪文で作られた水は清浄な雨水と同じであり、食料と違って悪くなることはない。
 余談だが、この呪文は一度の使用で相当に大量の食糧を創り出す(たとえば、20レベルの術者なら60人分の食料と水を創り出す)ため、かつては非常時に重し代わりにしたり、通路を食料で埋めて塞ぐなどといった奇抜な使い方をするプレイヤーも多々見られたという。


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第百二十三話 Priam's visit

「神聖アルビオン万歳!」

「クロムウェル閣下に勝利の栄光あれ!」

「今宵、始祖の祝福は確実に我らにあるだろうな。はは!」

「堕落した王族はもうおしまいだ、これよりは神が遣わされた天使に従う、真実の時代が始まる」

「まったく愉快だ! ……どうしたボーウッド、君ももっと飲みたまえ。このロマリアの十五年物は、実に素晴らしいぞ?」

 

「……ああ」

 

 気のない返事をして酒盃を受けながら、司令部の中に設けられた前線とは思えぬほど退廃的なまでに豪奢な宴席で浮かれ騒ぐ同僚たちを、サー・ヘンリ・ボーウッドは内心不快な思いで眺めやっていた。

 

(明日は決戦の日だというのに、これが将たる者の姿か?)

 

 確かに、こちらは屈強な亜人や幻獣に“神の御遣い”をも含む総勢数万の大軍勢であるのに対して、敵の残存部隊は多くとも五百名を超えぬ程度であろうと見積もられている。

 どうあれ負ける恐れなどないとは、ボーウッド自身も思っている。

 だが、たとえそうであろうとも、これでは外にいる兵たちに対して示しがつかぬではないか。

 

 とはいえ、反乱軍レコン・キスタの規律が、ことさらに乱れているというわけではない。

 むしろその逆で、軍は“天使”の指導の下、厳しい規則で律されているのだ。

 規則に違反したものは見逃されず、公然とした侮辱や鞭打ち、次の会合への参加禁止などの罰を与えられ、兵たちはみなそれを恐れて規則と上司の命令に忠実に従う。

 

 そのため一見すると、よく統制された秩序だった軍隊であるように思える。

 しかし、上位の一握りの士官は部下たちが厳守しなくてはならない規則に従わずともよく、一般の兵たちが楽しむことを禁じられている娯楽に耽ることも許されているのである。

 

 今、自分たちの目の前に並んでいる豪勢な酒や食事にしても、一般の兵にはたとえ宴の時であれ、決して口にできないものであった。

 普通ならば後ろ指を差されるかもしれないが、なにせ神の御遣いが公認しているのだから、それは上位者のもつ正当な権利だということになっている。

 反論するものは、神と始祖の意思に逆らおうとする反逆者とされ、厳しい罰を受けるのだ。

 兵たちはそれを恐れ、羨み、自分たちもいつか昇進してそんな身分になりたいものだといって野心を燃やしている。

 

 ボーウッドは、そのようなやり方で軍の規律を保つことにはどうしても賛成できなかった。

 

 現実にはなかなかそうはいかないことも多いが、上官は部下たちと同じものを食べ、同じ場所で同じ時間に寝起きし、生死を共にすることが理想だと信じていた。

 それでこそ、兵たちも将を尊敬し、進んでその命に従ってくれるのではないか。

 上官からの罰を恐れるがゆえに不本意な命令にも黙って従い、その結果として兵が死んだとすれば、それは上官が殺したも同然である。

 

 だが、そうした考えを表立って口にすることはできない。

 

(そんなことをすれば、神の意思に逆らって個人の意見を皆に押し付けようとする不穏分子とみなされ、投獄されてしまうことにもなりかねぬ……)

 

 彼は心情的には、実のところ王党派でさえあった。

 軍人は政治に関与すべきではないという信念を持つがゆえに、上官であった艦隊司令が反乱軍側についた時にやむなくレコン・キスタ側の艦長として革命戦争に参加したのである。

 そんな内心をいつ競争相手を蹴落とそうと目論む同僚たちに見透かされてあの天使たちに密告されるか、そうなったら一体どうなることかと思うと、正直生きた心地もしない。

 

 洗脳されたとしか思えぬ寝返りをした敵側の兵たちのように、今の自分の信念を奪われて反乱軍の忠実な走狗にされてしまうようなことになるのではないか。

 戦場で命を落とすことは恐れないが、自分が自分でなくなるのかと思うと恐ろしくてならない。

 それに、獄中で不名誉な死を迎えて身内や部下たちにまで責が及ぶような事態になることだけは避けたかった。

 

 表情に不満を表すことでさえ危険だったが、生粋の軍人気質である彼は命令に異を唱えることこそせぬものの、腹芸に長けてはいない。

 先程の年代物の葡萄酒のせいで、なおさら自制心が弱まってきたように感じる。

 確かに美味だが、麻薬的なまでに酔いの回りやすい酒だった。

 警戒心の緩むこのような場を利用して軍内部の不平分子を炙りだすために、本当に何か薬が混ぜてあったのかもしれない。

 

 このまま、この不快な宴の席にいては危うい。

 何か適当な理由をつけて、早いうちに自室へ退散するべきかもしれぬ……。

 

 ぼんやりとそう考えていたとき、後ろの方から声がかけられた。

 

「どうやら疲れているようだな、ボーウッド君」

 

「……! はっ、無様な姿を晒して申し訳ありませんでした、ホーキンス将軍!」

 

 振り返ってその声の主を確認したボーウッドは、さっと席から立つと、姿勢を正して敬礼した。

 周囲の同僚たちも、慌ててホーキンスに倣う。

 このレコン・キスタでは、たとえ宴の席であろうとも原則として無礼講などというものはなく、上官に対する礼儀を欠けば懲罰を受けることになりかねないのだ。

 

 美しい銀白の髪と髭を持つこの将軍は歴戦の軍人であり、伝説の名将『ル・ウール侯』であると名乗る青年が現れるまでは、レコン・キスタ軍でも最も有力な将軍であった。

 

 身分の違いを厳格にする天使たちの方針によって、この宴席では上位の士官ほどより高価な馳走と酒の並ぶ、一層豪奢な席に座っている。

 ボーウッドらよりもさらに上位の士官である彼は、もっと離れた上席の方で飲んでいたはずだ。

 それがなぜ、席を立ってここにやってきたのだろうか?

 

「いや、構わぬ。実は私も、年のせいかこの賑やかな場に少々疲れておってな。明日に備えて、これで失礼させてもらおうと思う」

 

 ホーキンスは、そう言って鷹揚に頷いた。

 

「……とは申せ、せっかくの宴だ。ボーウッド君、君もそろそろ休むのであれば、その前に私の部屋で少々寝酒に付き合ってはくれぬかな?」

 

 

 自室にボーウッドを招きいれたホーキンスは、入り口の戸を閉めるとすぐに『ディテクト・マジック』を唱えて部屋のどこにも魔法的な感知器官が仕掛けられていないことを確認し、窓に歩み寄ってカーテンもすべて閉めていった。

 その際に、野外で飲んでいる兵たちの姿がちらりと目に入ると、自嘲気味に笑う。

 

「できることなら、あの兵たちに混じって飲みたいものだな」

 

 以前のアルビオン軍なら宴の折には上司も部下も同じ席で飲めたのだが、今日の宴ではル・ウール候と天使たちの最初の演説だけが全体で、後は兵たちは外へ、士官は中へ分かれねばならなかった。

 

「それは、我が軍の現在の方針に反します」

 

 ボーウッドは軍の規律に基づいてそう注意を促したが、内心では同じ思いを抱いていた。

 そんな彼の気持ちを見透かしたように、ホーキンスが笑う。

 

「そうだな。だが、君の気持ちには反していないはずだ。もう少し、いわゆるポーカーフェイスというものに努めねば、いずれ身に危険が及ぶぞ?」

 

「……ご厚意、感謝いたします」

 

 これ以上隠しても無駄であり、またその必要もないと判断すると、ボーウッドはほっと溜息を吐いて頭を下げた。

 一瞬ひやりとしたが、どうやらまずい相手に露見したわけではなかったらしい。

 

「なに、私も愚痴の相手が欲しかっただけだ。最近では、安心して話し合える相手もろくにおらんのでな」

 

 ホーキンスはそう言って、レコン・キスタに所属した後に『身分にふさわしい品』として押し付けられた退廃的なまでに美しい調度品をうっとおしげに机の上から取り払うと、戸棚の奥から簡素な木製のカップを2つと安っぽい酒瓶を取り出してそこに置いた。

 それから、会場を出る前に寝酒のつまみとして適当に調達してきた料理の皿をひとつ、その横に並べる。

 

 二人は、酒杯に酒を満たし、呪文で作り出した清水を注いで割った。

 それから、無言で乾杯をしてぐっとあおる。

 

「将軍が、このような酒を愛飲しておられるとは知りませんでした」

 

 一息ついて、ボーウッドは正直にそう感想を述べた。

 明らかに安物の、かなり強い蒸留酒だった。

 

「名家の出の貴族には似合わん、かね? 初めて中隊を任された若造だった頃に、副長を務めていた平民出の下士官が勧めてくれたのだよ。がちがちに緊張しておった小僧に、戦場の不安を忘れられるからと言ってな」

 

 懐かしげに目を細めて、もう一杯注ぐ。

 

「本物の自信に溢れた魅力的な男で、父の次に頼もしく見えた。戦争が終わったら自分のところへ来ないかと誘ってみたが、断られたよ。戦が終われば武器を置き、家族と一緒に畑仕事をして暮らすのだと言っておった。……羨ましかった。いつか自分もあんな自由な男に、できることなら英雄になれたらと……」

 

「私にも似たような相手がおりました。祖父の代に貴族の名を失ったというメイジでしたが、勇ましさで優る者は隊におりませんでした。砲弾が我が隊から50メイルばかり離れた場所に落ちた時、真っ先に逃げ出したのは彼を平民と蔑んでいた若手の貴族士官たちでしたよ」

 

 二人はそうして、しばし楽しげに語り合った。

 安心して酔えるというのはいいものだな、と思った。

 

 そうしながら、皿の料理をつまむ。

 料理を運んできたメイドの説明によれば、地上の軍隊が砲台を運ばせるのに用いている大きな陸亀の血に食欲を増進させるゲルマニア産の苔からとった香料を混ぜてゼラチンで固め、ガリアベリーのジュースをかけて味を調えた料理だとのことだった。

 

「……どうせならこんな豚どもの食い物よりも、保存食の干し肉か塩漬け肉でもあればよかったのだが。生憎と、ここには酒しかなくてな」

 

 確かに、ボーウッドもホーキンスも初めて食べる珍しい料理だったし、味も悪くはなかった。

 しかし、空の上のアルビオンに住む人間がわざわざ地上から運ばせて食べるようなものではなかろうと二人とも思っていた。

 つまるところ、味がどうのというよりもただ珍しいだけの素材を料理人の腕とソースの味で食べさせているのであって、金に飽かせた貴族の退廃的な娯楽だとしか言いようがない。

 

 これに限らず、今夜の宴で出た料理の多くがそのような類のものだったし、酒もあちらこちらから集めた飲み慣れない年代物の銘酒ばかりだった。

 そんな珍味よりもむしろ食べ慣れたアルビオンの風土料理と新鮮な麦酒が欲しかったが、富貴な身分の者はそれにふさわしいものを嗜むべきだというのが天使の方針なのだ。

 おまけに、満腹するとメイドの持つ銀の容器に吐いてまで食べ続けようとする士官もいた。

 

 貴様らは軍人か、それとも肥え太った豚か。

 そんなことをするくらいなら、余っている食事を兵たちに分けてやればよいものを。

 ……と、二人とも思っていたのだが、それは天使たちから言わせれば『上に立つものらしからぬ振る舞い』であるらしい。

 

 上下の関係をはっきりさせて規律を保つためには、そういった『気まぐれに飴を与える』ような行いは慎まねばならない。

 そして、規律を乱した者には決して目こぼしなどをしてはならず、厳罰で臨まねばならない。

 それでこそ秩序を保ち、部下の向上心を高めることになる、というのだ。

 

「理屈としてはわかるが、賛成はできんな。君もそうだろう?」

 

「ええ……」

 

 ホーキンスは、元々はアルビオン国王ジェームズ一世の、モード大公の醜聞がらみの苛烈な処置に反感を抱いてレコン・キスタに参戦したのである。

 

 サウスゴータ家の太守をはじめとして、かの事件の折に処罰を受けた者たちの中には、ホーキンスの古くからの戦友が大勢含まれていた。

 彼らは決して王家に弓を引いたわけではなく、ただ忠義の形が多数派の貴族たちとは違っていただけなのだ。

 だというのに、ろくな申し開きの機会もなく、武人として戦場で散る機会も与えられず、不名誉のうちに死んでいった。

 それゆえに、彼は命令に忠実な軍人としての誇りをあえて捨て、叛徒として軍を率いる決意をしたのである。

 王家を滅ぼそうというつもりまではなかったが、誰かが抗議をして、死んでいった者たちの名誉を回復せねばならないのだと思っていた。

 

 しかし、王権への無条件服従を否定して旗を揚げたはずのレコン・キスタは今、神の御遣いという、それとは別の権威に対する無条件服従を要求している。

 

 慈悲を否定し、強さを崇拝した厳格な支配。聖地奪還を大義に掲げることでハルケギニア全土を支配することを正当化し、旧来の体制を否定して自分たちと同じやり方を押し付けようとする拡張主義的な思想。

 下位の兵たちには画一的な歯車であることを要求し、官僚的な厳密さと過酷な懲罰でそれを維持する一方で、ごく一部の支配者は例外とされ、贅の限りを尽くしているのだ。

 まるで、性質の悪い虎を追い払うためにドラゴンを頼ったら、追い払った後もそのまま居座られてもっと酷い暴君になったようなものだった。

 

「……しかし、それが神の意思であり、これからの正しい思想になるというのだからな。それを理解できず順応できぬ私は、王族が滅びた後にほどなく淘汰される、もはや用のない古い人間なのかもしれんな……」

 

 そう言って苦々しげに顔をしかめるホーキンスに何といったものかと、ボーウッドはしばし迷った。

 慰めるべきなのか、ならば自分もそうなるだろうとでもいうべきなのか?

 

 しかし、すぐに事態が変わって、それを考える必要はなくなった。

 

 

 

「いかなる神の意思でもありません。また、神の意思であれ、あなたがたに従う義務はありません。誰もが自由な意思を持ち、他の誰かを害さない限り、それに従って生きることを認められるべきです」

 

「その通りだ。秩序は人のためにある、人が秩序のために潰されるようなことはあってはならない」

 

 

 

「……!?」

 

 突然、不思議なほど澄んだ声が部屋の隅から聞こえてきて、二人は背筋が凍るような思いをした。

 心地よい酔いも、一瞬でどこかへ吹き飛んでしまった。

 確かに監視されていないことは確認したはずだが、まさか、天使がどこかで目を光らせていたのか?

 

 しかし、そちらの方へ振り向いた二人は、それすらも超える想定外の光景に呆然として立ちすくんだ。

 そこにはいつの間にか、四人もの者が立っていたのである。

 

 まず、先程の声を発したと思われる、息をのむほど美しいエルフの女性と、あの天使たちがみすぼらしく思えるほど神々しい、見上げるようなエメラルドの長身を黄金色の鎧に包んだ天使がいた。

 それから、フードを目深に被って顔を隠した、緑色の髪をした女性がいた。

 そして、最後に……。

 

「久しいね、ホーキンス将軍。それに、ボーウッド君も」

 

「……で、殿下……ッ!」

 

 アルビオン王国皇太子、ウェールズ・テューダーであった。

 

「……な。なぜ、殿下がこのような場所に!? ここは敵中ですぞ!」

 

 心の中では王党派であるボーウッドは、現在の自分の立場も忘れて思わず跪きながらそう言った。

 

「古い物語の中に、我が子の躯を取り戻すために単身で敵陣へ赴いた王の話があるだろう?」

 

 ウェールズは微笑んでそう言いながら、すっと手を差し出してボーウッドを立たせた。

 

「民に対して忠実な優れた将には、我が子の躯にも劣らぬ価値があるさ。私はかの王ほどには豪胆ではないから、天使の護衛付きだがね」

 

 ウェールズがそうしてボーウッドと話している間に、フードを被った女性はすっとホーキンスの方へ歩み寄り、膝をついた。

 それから、フードを外して穏やかな調子で彼に話しかける。

 

「お久し振りです、サー・ホーキンス。私のことを覚えておいででしょうか」

 

 ホーキンスは、はっとした。

 彼は昔、戦友の屋敷を尋ねた折に、彼女には何度も会っていた。

 

「君は、サウスゴータの小さなお嬢さん……、いや、ミス・マチルダではないか!」

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「……それで、ライアはホリーダガーをついに見つけて、人間たちとうまくやっていけるようになったの。めでたし、めでたし」

 

 またひとつ話を終えて観衆からの拍手に応えながら、ディーキンは満足感に浸っていた。

 ただ、不安なこともいくらかあった。

 もちろんそれは、先刻そろそろよさそうだからと当分の間話のつなぎを自分にまかせて舞台を降りたウィルブレースと、その同行者らのことである。

 

(……ンー。今頃、向こうのほうは上手くいってるかな?)

 

 心配ではあったし、その場に自分が立ち会えないことが残念でもあった。

 が、しかし。今の自分の役目はウィルブレースが戻ってくるまでこの舞台で歌を披露し、人間以外の仲間と協力して戦うことに対する人々の抵抗感を払拭して、信頼を得られるように努めることである。

 まあ、先ほどのウェールズ皇太子の演説は素晴らしいものだったし、それにウィルブレースもついているのだからまず大丈夫だろう。

 眠れる者にも、向こうが天使だと信じている連中が本物の天使とどれほどかけ離れているかをわかりやすく示すために同行してもらったことだし、訪問する予定のホーキンスという将軍とフーケは昔馴染みの間柄だともいうし。

 

 さて、次は何の話をしようかと、ディーキンは少し考えた。

 

 今は、亜人に共感してもらえるよう、異種族を中心とした物語を主に歌っているところである。

 エルフの血を引きながら人間の中で暮らした闇の竜騎士ライアの話を今したから、それに続けてまたエルフの話がいいだろうか。

 ハルケギニアではエルフと人間の対立は遥か昔からのもので根深いようだから、エルフも人間もそう変わらないとわかってもらうにはもうひとつ話が欲しいところだ。

 

(じゃあ、そろそろあれを歌おうかな?)

 

 詩人は自分のことをあまり歌ったりはしない、ましてや自分を物語の主役にして歌うような、そんな無粋な真似はまずしない。

 ディーキンにしても、自分自身のことはボスの歌に彼のお供としておまけでちょっと出す程度である。

 

 だから、彼女のことはこちらで歌って観客たちに聞かせてやるのがいいだろう。

 そうすれば、本人が戻ってきた後で、その話を聞く人々の気持ちもまた違ってくるだろうから。

 

「それじゃ、次は……、ウィルブレースのお姉さんの話をするよ。あの人は立派な詩人だし、それにすごい英雄だからね。ぜひ知っておいてほしいの――――」

 



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第百二十四話 The story of elves and orcs

「それじゃ、ディーキンの聞いた限りでだけど、ウィルブレースのお姉さんのことをお話しするよ」

 

 ディーキンは一礼すると、リュートを手に弾き語りを始めた。

 

 聴衆は、彼の周りに集まってその物語に聞き入る。

 始祖から続くエルフへの遺恨もあって、兵士たちの多くは先程の演説には感嘆したもののまだ彼女には不信感を抱いていたが、それはそれとして話の内容には大いに関心があった。

 一体あのエルフは何者で、どうして他の……天使?……たちとともに、我々に加勢してくれようというのか?

 

 

 

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 ウィルブレースは、元は定命のエルフであった。

 彼女は当時から英雄の物語を歌うことを特に好み、しばしば故郷の森を離れては、さまざまな土地を旅して歩いていた。

 

 それはレルムのエルフにとっては、特に珍しいことではなかった。

 エルフという種族は生来混沌と善の気質を持ち、個人の自由を重んじるものだ。

 やりたいことは人それぞれであり、他人の権利を侵害しない限りは、自分のそれが妨げられることもない。

 

 何といってもエルフは長命な種族であり、時間はたっぷりとあるのだから、彼らはどんなことであっても大抵はまず自分でやってみようとする。

 例えば、もしあるエルフが新しい家を建てたいと思えば、人間のように専門の大工に頼んだりはせず、以前に家を建てたことのある別のエルフに助言を求めながら自ら設計し、材料を集めて、たとえ何年かかろうとも自分の手で作るのである。

 そうして経験を積むことで、成長したエルフは概ね誰でも、自分の面倒を一通り自分で見ることができるようになる。

 誰であれまずまず食べられる程度の料理を作れるし、服を縫えるし、剣や弓を扱えるし、ちょっとした工作や芸術作品の創作をすることもできる。

 そして、様々な経験を積む中で特に面白いと感じた事柄があれば、以降はその分野に自分の時間を費やすことに決めるのだ。

 エルフには、魔法の研究や剣の修練に何十年ものめり込み続ける者もいれば、美しい芸術品の創作に没頭する者もおり、美味しい食事を作ることに大いなる喜びを見出す者もいる。

 そうして自分の関心のある分野に打ち込むことを通して、共同体に何らかの形で貢献できるのであれば、料理人や職人の道を選んだエルフが魔術師や戦士になったエルフよりも敬意を払われないなどということはない。

 

 ウィルブレースの場合も、彼女が特に興味を感じたのが旅や音楽、そして数々の美しい物語だというだけのことだった。

 彼女は各地を旅して回り、様々な歌や物語を集めて、故郷に帰ったときにそれを皆に披露したり本に書き残したりすることで共同体に貢献する道を選んだのである。

 

 その当然の結果として、彼女はエルフ以外の異種族ともよく付き合ってきた。

 中でも人間と言う種族は特に数が多く、必然的に付き合う機会も多くなった。

 彼らは順応性に富み、多種多様で、エルフにはめったに見られないほど生きることに熱心なものたちが多い。

 特に、その歌の情熱的なことと、ウィルブレースが題材として好む英雄を数多く輩出することとが、彼女を強く惹き付けた。

 

 その一方で、人間には彼女が顔をしかめずにはいられないような振る舞いも多くあった。

 彼らは平気で森を伐採し、土地を酷使し、汚れた水を川に海に垂れ流し、鳥獣や魚を乱獲する。

 そのように資源を浪費し続けて、はたして国土が長期的に自分たちの文明を支えられるだろうかということに気を配る様子もない。

 

 とはいえ、人間がそんな短慮な行動をする理由は、彼女にも概ねわかっていた。

 長命なエルフは、そんなことをすれば後々困るのは自分だということをよくわかっているから大地の良き執事たらんと心掛けているが、人間は短命ゆえに目先のことしか考えられないのであろう。

 後に荒れ切った国土を前に嘆くことになるのは子や孫の世代であり、責任を問うべきものは既にこの世を去ってしまっているのだ。

 

 そのようなことは憤慨するべき悲劇としか言いようがないが、理屈としてはわかる。

 短命な種族が短期的な視点しか持ちえず、軽挙妄動に走りやすいのは、ある程度までは止むを得まい。

 けれども、彼女が人間という種族に対して一番困惑していたのは、同族同士で相争おうというその野蛮な性癖であった。

 

 れっきとした文明種族らしき者たちが、なぜ同族に対してかくも甚だしい略奪行為を働こうとするのだろうか。

 エルフはもちろん、ドワーフも、ノームも、ハーフリングも、決してそんなことはしない。

 主要な文明種族とみなされている者たちの中では、ただ人間だけが、いつまで経っても血腥い同族殺しを止めようとしないのである。

 

(およそつまらぬとしか言いようのない理由で殺し合いをすることにかけては、人間はオークにも匹敵するほど酷い。では、我々エルフは人間とは親しく交わることもあるのに、オークとは常に殺し合う仲なのはなぜだろうか?)

 

 ウィルブレースはあるとき、ふとそう考えた。

 

 その疑問はずっと頭を離れず、ついに彼女は、自分の目でその理由を確かめてこようと心に決めた。

 そんな思いを抱えたままでは、オーク退治の武勲や人間の英雄の物語を歌う時にも、そこに自分自身の強い感情を込めることができなくなってしまう。

 彼女は旅の支度を整えると、親しいエルフたちに今度はオークの土地へ足を運ぶつもりだと言って、別れの挨拶をして回った。

 

 もちろん、誰もが驚いてその理由を尋ねたが、ウィルブレースは特段隠し立てなどはせずに、その都度正直に自分の思いを説明した。

 自分は人間の土地はたくさん回ってきたが、オークの土地へはまだ行ったことがない。

 両方の種族を実際に近くで見て知らなくては彼らの共通点や相違点を心から理解したと感じることはできないだろうし、それでは彼らに関係した物語をよい出来で歌うこともできないだろうから、それが不満なのだと。

 

 両親をはじめ多くのエルフは、それを聞くと当然ながら顔をしかめて、危険すぎるといった。

 何といってもエルフとオークとは仇敵の間柄であり、大抵のオークはエルフを見かけたらすぐにでも殺そうとするのだから。

 連中のことなどそんな危険を冒してまで知るほどのことではないだろうと、彼女を諫めて引き留めようとした。

 

 しかし、ウィルブレースは皆の気遣いに感謝しながらも、自分の決意を翻すことはなかった。

 古きエルフの格言は、『過ちを犯さぬ者は大成しない』と教えている。

 彼女の決意が固いことを知ると、最終的には身内も含めて誰もがその決断を尊重し、無事を祈って旅立ちを見送ってくれた。

 

 人間のような種族ならば親はなんとしてでも引きとめようとするものかもしれないが、エルフの親は、成人した子供の世話をいつまでも焼き続けたりはしない。

 彼らは老化による衰えとはほとんど無縁の種族で、最後まで自分の面倒は自分で見られるから、子が年老いた親の世話をすることもほとんどない。

 それゆえにエルフが個人主義で情愛の薄い種族だと誤解している者は多いが、決してそうではない。

 エルフは何よりも個人の自由を重んじており、自立した大人はみな自分の道を自分で選ぶ権利を持っている。

 親は、いつか必ずまた戻ってきて一緒の時間を過ごせることを信じて、快く送り出すという形で我が子に対する愛情を示す。

 子は、その信頼に応えてたくさんの土産話とともに何ヶ月か、何年か、何十年かの後に約束通り戻ってくることで、親に対する愛情を証立てるのだ。

 

 ウィルブレースはこれまでの何回もの旅で常に信頼され、その信頼にいつも応えてきた。

 今度もまた、必ずそうするつもりだった。

 

 

 ウィルブレースは強力な魔法の品を用意し、それを用いてオークの姿に変身すると、さっそく彼らの土地へ向かって出発した。

 彼女はまずオークの各部族の集落を旅して回り、酒場などを訪れて詩人たちの歌や物語を聴いて回ることにした。

 オークの集落はエルフのそれとは比較にならないほど乱雑で粗暴な雰囲気だったが、ウィルブレースは異文化に接するのには慣れていた。

 

 初めて聞くオークの詩人たちの歌は、エルフのそれとはまるで違っていた。

 まるで殴打武器で戦ってでもいるかのようなドラムの乱打や、怒号のような荒々しい歌声。

 原始的で粗野だが、激しい感情のうねりをそのまま表現したような、素朴で情熱的なその音楽には独特の魅力もある。

 筋書きのある物語の場合、その内容は、いかに他の種族が卑怯な手を使って本来オークのものであった数々の財宝や土地を奪っていったか、といった内容のものが多かった。

 過去のオークたちの異種族や同族の他部族に対する野蛮で残忍な征服を、誇らしげに語っているものもあった。

 

 なるほど、オークと人間には共通点が多いといえよう。

 いずれもエルフやドワーフなどと比べて寿命はずっと短く、それ故に無鉄砲で情熱的である。

 多産で、自己中心的で、自制心がなく、命を軽視し……、それゆえに、往々にしてそれと知りながらも、自ら破局へ進んでいってしまう種族。

 

(では、人間とオークとの間には、どこにそれほど大きな違いがあるのだろうか?)

 

 もちろん、彼女は思想家や哲学者が似たような疑問について書き記した、何十通りもの解答を知識として知ってはいた。

 だが、それで自分が納得できるかどうかはまた別の問題なのだ。

 本で読んだ答えで満足するくらいなら、最初からこんな危険なことをしたりはしない。

 

 ウィルブレースは、焦ってはいなかった。

 

 エルフにとっては、ひとつの仕事を終えるのにかかる時間が五ヶ月でも、五年でも、いや五十年でも、それは大した問題ではない。

 自分で納得できたと思うまで、いくらでも時間をかければよいのだ。

 

 

 

 そんなある日、ウィルブレースは酒場で、それまでに見たのとはかなり雰囲気の違うオークの詩人に出会った。

 どうやら極度に視力が弱いらしく、杖を突いて手探りをしながらゆっくりと歩いている。

 

(この男は、もしかしたら腕利きの詩人かもしれない)

 

 ウィルブレースは、なんとはなしにそう思った。

 

 一応、根拠はあった。

 過酷なオークの社会では、通常、無力な不具者には居場所はないはずだからだ。

 先天的に障害があったのであればまず成人まで生きられないだろうし、後天的に障害を負った場合でも、せいぜい下等な奴隷として生き延びさせてもらえればよい方だろう。

 それがまっとうに詩人として暮らしを立てているのだとすれば、それだけその腕前が認められているということなのではないだろうか?

 

 その男は店主の助けを借りてカウンターの上に腰掛けると、軽く会釈をしただけで、何の挨拶も前置きもなしに演奏を始めた。

 

 彼が携えていたのは、オークの間ではやや珍しい弦楽器だった。

 弦が三本しかないギターで、ウィルブレース自身が愛用する八弦の竪琴とはずいぶんと違っている。

 ごく簡単な作りで、繊細で華やかな音は出ないが体に響くような強く低い音が鳴り、それが彼らの素朴な音楽にはよく合っていた。

 

 最初の歌は、神々の降臨からグルームシュとコアロンの争いまでの経緯を題材にした、オークという種族そのものの始まりにまつわる創世神話だった。

 

 オークの間では極めて一般的な物語で、ウィルブレースも既に他のオークの詩人が歌うのを何回も聞いたことがあった。

 その物語は、グルームシュの教義にもかかわる重要なものなのだ。

 

 

 

 時の始まりよりもさらに前に、まず原初の神々が虚無の中から生まれ出たという。

 

 彼らは皆、等しく宇宙の力に恵まれていた。

 そして、最初にしておそらくは最後であろうほどの協調性を発揮し、力を合わせて物質とエネルギーとを分かち、空と大地と海とを分かち……、そうして少しずつ、諸世界を創造していった。

 それが済むと、神々はそれぞれが森羅万象のさまざまな面を管轄するのだと言い張り、権限をめぐって争い始めた。

 

 オークの主張するところでは、グルームシュは神々の中でも最も強大な存在で、したがってその時に最も大きな取り分を得る権利があったのだという。

 しかし、神々の中でも特に姑息なコアロンの率いるセルダリンと称する神々は結託して共謀し、他の者たちが争っている隙に豊かな森林の領域を自分たちのものとして掠め取っていってしまった。

 それを見たモラディンやヤンダーラ、ガールといった他の神々も次々に彼らと示し合わせて、山岳、丘陵、地下などを分割して自分たちの領域とした。

 そのためグルームシュが気が付いた時には、すでに世界にはどこにも良い場所が残っておらず、彼はその器に見合わない、他に望む者とてなかった荒れた土地しか手にすることができなかったのである。

 

 グルームシュは怒り、ならばこの手で己の領域を作ってやろうとコアロンの統べる森林から木々を引き抜くと、それを使って大地に壮大な要塞を打ち立てた。

 それは、かの神に対する明らかな挑戦であった。

 どちらが優れた領域を持つにふさわしいか、戦って雌雄を決しようという挑戦だ。

 

 しかし、あくまでも姑息で臆病なコアロンはその挑戦に応じようとせず、遠くから矢を雨のように射かけてせっかく築いたグルームシュの要塞を撃ち崩し、彼の体をさんざんに痛めつけた。

 憤激したグルームシュはコアロンに突撃し、両者はついにぶつかり合って、一昼夜にもわたってできたばかりの世界を揺るがしながら激しく戦った。

 グルームシュは力では優っていたにもかかわらず、セルダリンの他の神が卑劣にも横槍を入れてコアロンに助力したために、最後の最後に逆転されて片目を失ってしまった。

 

 この時に二柱の神々が流した血から、屈強で勇猛なオークと細身で姑息なエルフとが生まれたのだという。

 ゆえに、二つの種族の対立は、両種族の創造の時点で既に始まっていた。

 オークの歴史は不当に扱われ続けてきた悲しい歴史である、他のどの種族よりも強いのに卑怯な計略のために破れ続け、立派な王も戦士もみな死んでいった。

 だからグルームシュの子である我らオークは、いつか卑劣な他の種族に自分たちの神が受けた苦痛と屈辱の報いを受けさせ、正当な所有物を奪い返す権利と義務とを負っているのだ……と、オークたちの創世神話は結んでいる。

 

 

 

 今、歌われている物語も、筋書きはそれと変わらなかった。

 ただ、歌い方がかなり違っている。

 

 これまでにウィルブレースが聞いてきたオークの詩人の歌は、詩人自身が歌の世界に飲まれていた。

 他の種族を心から憎悪して激しい感情をぶつけて歌ってはいるが、実際に見たわけでもない神話の世界を一方的な視点で語っていて、いかにも作り物めいて薄っぺらい感じがした。

 同じオークならいざ知らず、エルフである彼女が感情移入できるようなものではなかった。

 

 対してこの詩人は、自分の感情を強く面には出さず、かなり客観的な立場で歌っていた。

 グルームシュがコアロンの行為に怒ったという事実を語っても、詩人自身がグルームシュと共に怒ることはない。

 それでいて、気のない薄っぺらいぼやけた歌い方というわけでもない。

 自分もその場に立って、神々の争いをこの目で見ているような、不思議なほどの臨場感があった。

 

(おそらく、この男は自ら戦場に立ったことがあって、その経験に基づいて歌っているのだ。それで目を傷めて、引退して詩人になったのかもしれない)

 

 ウィルブレースは歌を聴きながら、そう思った。

 本物の戦場では卑怯だのなんだのといっている暇はない、誰もが命がけで、ただ全力で戦うだけだ。

 戦場を知らず、本当のエルフを見たこともない、グルームシュの司祭の唱えるお題目を頭から信じているただの酒場の詩人にはこんな歌い方はできないだろう。

 形だけは真似られても、より深い部分で模倣のできないものが確かにある。

 

 酒場のオークたちは、誰もが詩人の演奏に陶酔していた。

 全体がひとつの感情にまとまり、物語の世界にどっぷりと入り込んでいる。

 

 ウィルブレース自身も、彼らの感情のうねりの影響を受け始めていた。

 彼女はオークの物語に感情移入している自分にふと気が付くと、いささか当惑したものの、それ以上に感嘆した。

 やはり、この男は素晴らしい腕前の詩人だったのだ。

 

(オークたちの主張はさておくとしても、同じ題材を扱うエルフの創世神話も大筋の内容は変わらないし、ある意味では似たようなものだ)

 

 世界のすべてが自分たちのものだ、他の種族はみな弱く卑劣だと決め付けるオークの主張は、他の大方の種族が顔をしかめるか、嘲って一笑に付すかするだけのものだろう。

 しかし、さまざまな種族の物語に詳しいウィルブレースとしては、オークの視野の狭さを哀れみこそすれ、侮蔑する気にはならない。

 オークたちの傲慢さや狭量さは否定のできないものだが、立場や見解の違いというものもあろうし、そうした主張をするのはオークばかりではなく、彼らはただそれを無分別なまでに率直に公言しているだけに過ぎないことを彼女は理解していた。

 

 実のところ、彼女自身が属しているエルフという種族も、心の中では自分たちこそが最も優れていると考えているという点では同じなのだ。

 

 コアロンがグルームシュの片目を奪ったことは、エルフも認めている。

 ただし、エルフの物語では争いを避けて団結した自分たちの神々の聡明さを称え、グルームシュはその利己心と視野の狭さのゆえによい領域を得られなかったのだとしている。

 グルームシュはあろうことかそれを逆恨みして他の神々の領域を侵害したことで、反撃を受けて不具となる当然の報いを受けたのだと。

 また、その戦いの際にコアロンも負傷し、流れ落ちた彼の血とのちに彼の妻となったセイハニーンの涙の混ざった土とが合わさって、この世のものとも思えぬほど優美な種族であるエルフが生まれたのだという。

 多くのエルフはそれゆえに、自分たちは獣じみたオークよりも生まれついて優れた存在なのだと強く信じているし、オークはオークで自分たちの主神を傷つけ不具にしたコアロンとその民であるエルフに対して強い憎悪の念を抱いており、他のいかなる種族よりも頻繁に戦争を挑んでくるというわけだ。

 さらに言えば、同じエルフの伝説では人間などの他の種族は神々がエルフの主神コアロンの最初の創造を真似て作り出した少々みすぼらしいまがい物で、それゆえに他の種族はエルフほど長命でも優雅でもなく、洗練されてもいないのだとされている。

 そのため、エルフはオークに限らず他の大抵の種族についても、概ね礼儀正しくは接するものの内心ではいくらか見下している節がある。

 

 とはいえ、それはあくまでも一般的にはという話であるし、大抵のエルフはコアロンの血を引いているというだけで他種族に対して絶対の優越が保証されていると思うほどには愚かでも自惚れ屋でもないのだが。

 長命なエルフは一般的に、自分たちの神話を持ち出して相手の種族のそれを否定するような、そんな無作法な真似は控えている。

 なんといっても恨みや反感は永く残るものであるから、何百年も生きるような種族としては、他人とはなるべく反目しないようにしておいたほうが賢明なのだ。

 

 もちろんエルフとオークだけではなく、他の大抵の種族にも似たような、自分たちの種族こそ最優秀だと主張する類の創造神話がある。

 

 たとえばハーフリングは、自分たちの主神ヤンダーラは人間の適応力とエルフの自由さとドワーフの勤勉さとオークの勇猛さといったように、既存のさまざまな種族のいいとこどりをしてハーフリングを作ったのだと考えている。

 だから自分たちは最初に生まれた種族ではないが、もっとも出来のいい種族なのだ、というわけだ。

 

 とはいえ、種族によってそうした自惚れの度合いにはかなりの差があるようには思える。

 自分たちよりもドラゴンのほうが優れていると認めているコボルドのような変り種がいる一方で、人間やオークの増上慢にはおよそ限りがない。

 世界は自分たちの種族を中心に回っていると、心の底から信じているようなのだ。

 

 しかし、それは決定的に大きな違いだと言えるほどのものだろうか?

 

(では、どこにそれほど大きな違いがあるのだろう? オークと人間との間には。あるいは、我々エルフと他の種族との間には……)

 

 しかし、そこで二曲目の演奏が始まったので、ウィルブレースは注意をそちらに戻した。

 オークらしく活力に溢れた詩人は、休憩も取らずに今夜の演目を最後まで歌い切るつもりのようだった。

 

 それ以降の物語は、すべてさまざまなオークの英雄たちの叙事詩だった。

 

 もっともウィルブレースの感覚では、彼らは強大な征服者ではあっても英雄とは言い難い。

 彼らは力で他人を屈服させることでのみ成り上がり、力を失えば求心力も失われてしまうからだ。

 ただ強いだけの野獣を、英雄と称えたりはするまい。

 

 オークの物語では、どんな征服者も概ね悲惨な最後を迎える。

 衰えた征服者、敗北した征服者は容赦なく叩き出され、あるいは殺されるのだ。

 勇壮な戦い、成功、容赦のない征服行……、やがて来る敗北、裏切り、避けられぬ死……。

 

 いずれも凄絶な、あるいは悲しい物語ばかりだったが、最初の創世神話と同じ素晴らしい出来で、観客は皆熱狂していた。

 それらの物語を聞いていると、不思議とウィルブレースも、オークの征服者たちに親近感がわいてきた。

 この詩人は他のオークの詩人とは違い、他の種族を悪役として扱き下ろし、思い切り残虐に痛めつけることでオークの側を立派に見せようとするのではなくて、その生き様をありのままに謳っていた。

 そこには近視眼的な彼らの悲しさや滑稽さと共に、ある種の美しさがあった。

 エルフの間にはめったに見られないほど強い、生きることへの時に空回りしたり、暴走したりする熱意と活力とが感じられるのだ。

 それは、人間という種族からもしばしば感じた特徴だった。

 

(確かに、オークは人間と似ているな)

 

 物語がすべて終わると、観客たちはみな、詩人の帽子にわずかばかりの銅貨を投げ入れた。

 

 ウィルブレースもそれに倣って、銀貨を一枚投げ入れた。

 本当は金貨か白金貨を入れたいくらいだったが、それでは周りのオークから不信感を持たれてしまう。

 

 

 

 その夜、彼女は自分の借りた部屋へ戻った詩人を密かに訪ねていった。

 どうしても、彼から直接話を聞いてみたかったのだ。

 

「失礼。さっきの客だが、あんたの歌がとても気に入ったんだ。ちょっと、あんたと話をさせてもらってもいいかな?」

 

「その声は、さっき銀貨をくれたやつだな。別に構わんが、疲れたから今夜はもう歌わんぞ」

 

「ああ、もちろん。歌はまた今度でいいさ、一緒に酒でも飲もう。疲れた喉を潤すのにいいだろう?」

 

 そういうと詩人は頷いて、部屋の戸を開けてくれた。

 

 意外なほどすんなりと許可が出たことを、ウィルブレースは少々意外に思った。

 表情などを見る限りでは、別に酒につられたわけでもないようだ。

 目がいささか不自由とはいえ、いざとなれば身を守る力には自信があるのか、あるいはバードとして人を見極める目には自信があるのだろうか。

 

「ありがとう。まあ、まずは一杯やろう」

 

 そのオークの酒は強い蒸留酒でエルフである彼女の口には合わなかったが、こちらは話を聞く側なのだから我慢して付き合わねばなるまい。

 先程、歌の出来に対して不当に少ない額のおひねりしか出せなかったことへの埋め合わせの意味もあった。

 

 なお、ウィルブレースが男っぽい喋り方をしているのは、彼女が男性のオークの姿に変身しているからである。

 

 力がものをいうオークの社会には明らかに男尊女卑的な傾向があり、女性はせいぜい二級市民で、悪ければ家畜か男の勲章程度の価値の所有物扱いをされることも珍しくない。

 よって、男性の姿の方が何かと便利なのだ。

 

 中身がエルフかつ同性なので普通の粗暴なオークの男よりも好ましい雰囲気を感じるのか、酒場などでよく女性のオークが寄ってくるのには少々悩まされていたが。

 

 ウィルブレースは用意しておいた酒とつまみものを並べると、礼儀としてオークの神を称える言葉を述べながら杯を掲げた。

 

「グルームシュの武勇に」

 

「ああ。コアロンの竪琴にもな」

 

「……なんだと?」

 

 ウィルブレースはぎくりとしたが、努めて平静を装った。

 

「おい、なぜエルフの神を称える必要がある? お前、グルームシュの怒りを買いたいのか?」

 

 詩人はそれを聞くと、ひとつ鼻を鳴らして含み笑いをした。

 

「エルフにグルームシュを称えさせた褒美で、帳消しになるだろうさ。そもそもグルームシュが、片方しかない目でいちいち俺などのことを見張っているほど暇だったらの話だがな」

 

「……。なぜ?」

 

 ウィルブレースは困惑して、そう尋ねた。

 

「俺にはお前の格好はよく見えないが、声は確かにオークだ。だが、喋り方でわかる。お前たちの種族の発音の仕方は、戦場でよく知っている。オークには、そんな歌うような話し方をするやつはいない。それに、行儀もよすぎる。不具の詩人の部屋にいちいち許可を取ってから入り、土産の酒を並べるオークがいるか」

 

「盗みをはたらきに来たか、酒に毒を入れたとは思わないか?」

 

「それこそエルフの発想だな。オークはそんな行儀のいい奪い方はしない、ものもいわずに押し入って殴り殺す。そんな相手は、もう何人も返り討ちにしているが」

 

 連中から奪った金の方が歌って得る収入より多いくらいだといって、詩人はまた笑った。

 それが冗談かどうかは判断がつかなかったが、ウィルブレースも笑った。

 

「……なるほど、私が間抜けだったのかもしれないが、あんたの観察力には恐れ入ったよ。だが、なぜというのは、『なぜ分かったのか』だけじゃない。『なぜエルフだと思っているのに話をしてくれる気になったのか』もだ。他の連中にそのことを伝えて殺してしまえば手柄になる、褒美がもらえるとは思わないのか?」

 

「お前の考え方は骨の髄までエルフ的だな。同じ手柄を立てれば、誰でも同じ報いが得られるものと考えている。オークのやり方は違う、不具の詩人など名誉に値せん。どうせ手柄は取り上げられるし、褒美は仮にもらえたとしても、せいぜい酒代にもならんびた銭がいいところだ」

 

「だが、オークは単にエルフを殺せるというだけでも、喜んでそうするのが普通ではないのか?」

 

「そうとも。だが、俺が普通でなきゃいかん理由でもあるのか? エルフがオークの歌や話を聞きたがるのが普通だとも思えんが」

 

「…………」

 

「いいか、俺は詩人だ。みんなが俺の歌を聞いて、英雄のことを知るだろう。そいつらが俺の代わりにどこかで英雄を見て、その話を持ち帰る。俺がそれを聞いて、新しい歌を作って、またみんなに聞かせるんだ。俺が誰かを殺す必要がどこにある?」

 

 詩人はそう言ってぐいと酒をあおると、簡単に自分の身の上話をして聞かせた。

 

 かつて従軍詩人として、他の種族と戦ったこと。

 目をやられて死を待つばかりの自分を救ってくれたのが、敵であるはずのドワーフの神官だったこと。

 相手の姿を見れなくなって初めて、オーク以外の種族はすべて卑劣な略奪者だとするそれまで教えられ信じてきた大義に疑念を抱いたこと……。

 

「グルームシュは、片目をなくしたときに恐れをなして逃げ出した。それでもう片方の目が残ったから、その目でエルフが死ぬところを見たいと思って、オークをたきつけて殺しに行かせようとしている。俺は両目が悪いから、お前が死んでもその様子を見れない。お前を殺しても意味がないのだ。グルームシュも踏み止まって両目をなくすまで戦っていたら、コアロンとて彼の強さを認めざるをえなかっただろうな」

 

 ウィルブレースはじっと詩人の顔を見つめながら、彼の話に耳を傾けていた。

 そうして間違いなく信頼できそうな相手だとわかると、部屋の戸をしっかりと閉めてから自分の正体を明かして、騙そうとした非礼を詫びた。

 オークの集落の中で変身を解くことは危険であったが、尊敬すべき相手を騙し続けるのは彼女の流儀ではない。

 

 詩人はエルフだということは既に確信していたものの、まさか女性だとは思わなかったようで、いくらか驚いていた。

 

「……それで、どうしてエルフがオークの歌を知りたがる?」

 

 その問いかけに、自分の抱いているささやかな疑問を解消するためだと正直に理由を話して聞かせると、詩人は愉快そうに笑った。

 

「エルフは、少なくとも女のエルフは、オークよりもよほど無鉄砲らしい」

 

「いいえ、時間が余っていて、なんでもやってみたがるだけなのよ。それで、あなたはどう思うかしら?」

 

「オークも他の種族も、大して変わらん。だが、他の目明きの連中はそうは思ってくれん。オークもエルフも、ドワーフも人間も、それ以外の誰もな。だから俺は、自分に見えたことを歌うことにした。別に他の誰かを否定しようってわけじゃない、ただ感じたことを話したいだけだ。俺にはエルフほど時間が余ってないから、それが終生の仕事になるだろう」

 

 ウィルブレースは少し考えると、目の悪い詩人にもよく見えるように近寄って、上目遣いに彼の顔を覗き込んだ。

 彼の考えに完全に共感できたわけではないが、もう少し共に時間を過ごすことは間違いなく有益であると思えた。

 

「では、しばらくその仕事に同行させていただいてもいいかしら? 私も詩人なの。邪魔にはならないわ」

 

 

 

 

 ――その晩、二人は同じ部屋で夜を明かした。

 そしてあくる朝になると、連れ立って旅に出たのだった。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

(まったく、ころころ変わってわっかりやすいわ~)

 

 キュルケは歌に耳を傾けながら、時折タバサの表情の変化を盗み見てにやにやしていた。

 といっても、ころころ変わってるように見えるのはタバサと親しくしているわずかな者だけで、普通の者には無表情のまま大して何も変化してないように見えるだろうが。

 

 ディーキンが楽しげにウィルブレースのことを話すのを聞いている間は、不安そうな顔や、複雑そうな顔や、不機嫌そうな顔や、悲しそうな顔をしていた。

 が、最後にオークの詩人と彼女が懇意になったのを彼が話している様子を見ると、露骨にほっとしたような顔になった。

 他の男と仲良くなるくだりをああも楽しげに話せるところから見て、彼のウィルブレースに対する感情はあくまでも憧れや親しみであるということがわかったからだろう。

 

(最初から火を見るより明らかなんだから、いつまでも小難しいことを考えてないで今夜あたり夜這いでもすればいいのよ)

 

 明日は大事な決戦なのにとか、ここにいる者もどれだけ死ぬかもしれないのに不謹慎だとか、そんなことを言う者もいるだろうが……。

 それはそれ、これはこれだ。

 恋はすべてに優先する、何者にも遠慮は無用だというのが、キュルケの信条である。

 

 方向性は違えど、あるいは自分もタバサに劣らないくらいに舞台の上の小さな詩人にまいっているのかもしれないな、とも思った。

 自分だけではなく、ルイズやシエスタも……、いや、もしかしたら、ここにいる全員が。

 

 なにせ明日は、こちらの百倍以上の数の敵と戦おうというのである。

 普通に考えて逃げなきゃ死ぬが、いまだに城に留まっている。

 死ぬ義理も義務もないのにそんなことをするのは、自殺志願者か発狂者か、さもなければ危機感ゼロの馬鹿だというのが、まず正常な判断であろう。

 なのに、まるきり死ぬ気がしてないようで、こんな風に楽しんでいるというのだから。

 

 どんなに燃えるような恋をした男が相手でも、そこまで信頼はできないだろう。

 一緒に死ぬ覚悟はできても、勝つと信じることはできまい。

 

(それが詩人の力ってものかしら。それとも、英雄の力?)

 

 そんな風にキュルケが考えていた時、もう一人の詩人にして英雄が、ようやく会場に戻ってきた。

 

 

 

 演奏が一段落するのを待って舞台に上がったウィルブレースは、群衆の自分を見る目が出かける前と変わっていることに気が付いて首を傾げる。

 彼女はディーキンからこれまでの話の流れを聞くと、肩を竦めて彼の後を引き継いだ。

 

「彼が、私のことを何か大袈裟に話し過ぎたのでなければよいのですが」

 

 ウィルブレースはそう前置きをしてから、オークの詩人としばらくの間旅を続けて、ついに彼と共にエルフの集落へ帰った後のことを話し始めた……。

 



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第百二十五話 Fool's pride

 

「……ううむ……」

「……」

 

 突然の来訪者たちが帰った後で取り残されたボーウッドとホーキンスは、それぞれの物思いに耽った。

 顔を突き合わせてはいるものの互いに押し黙ったままで、時々思い出したように酒を啜っている。

 

“レコン・キスタの背後にいるのは、天使ではなく悪魔である”

 

 ウェールズ皇太子は、先程ホーキンスとボーウッドにそう伝えた。

 そして、自分をこの場に連れてきてくれた供の者たちこそが真の天使であり、戦わねばならない相手は互いの軍ではなく悪魔どもなのだと説いた。

 

『君たちは忠義ある軍人だ。今さら、我々の側に寝返れなどというつもりはない。ただ、明日の戦いで我々は必ず“何か”を起こしてみせる。その時、自分たちが本当にするべきことは何なのかを、今の話を踏まえた上でよく考えておいてもらいたいのだ』

 

 それだけのことを誠意を込めて頼んだ後、明日はきっとまた戦場で会おうと言い残して、王子と供の者たちは去っていった。

 反逆して王党派に寝返れ、といったようなことは要求されなかった。

 

 

(……私は……、どうしたらいい?)

 

 ボーウッドは、心の中で何度も自問自答していた。

 

 彼は元より心情としては王党派だったが、軍人は政治に関与せず、上官の命令に服従するべきだと信じている。

 しかし、皇太子からの直接の頼みを受けた場合には、そして自分たちの背後にいるのが実は悪魔だなどと聞かされた場合にはどうするべきかなど、考えてみたこともない。

 

 だが、そうはいっても……。

 

 レコン・キスタの後ろ盾になっているあの“天使”たちが実は悪魔などとは、あまりにも突拍子のない話だ。

 とはいえ確かに、言われてみれば心当たりはないでもないのだが……。

 皇太子が連れていた連中にしても、只者ではないことは間違いないが、あちらが本物の天使だというのは果たして本当だろうか。

 

(それに、実際問題として、自分に何が出来るというのだ?)

 

 この状況で仮に、自分たちが王党派につくなどといっても、部下の兵たちは承知するまい。

 もしも王党派が独力で戦況をひっくり返せるとでもいうのなら、そのときにはなるべく多くの兵たちをまとめて投降させることくらいは出来るだろうが……。

 いかに天使だとしても、追い詰められた王党派に今さら何が出来るのか想像もつかない。

 

 想像もつかないが、皇太子らが明日の戦いで何かを企てているのは確かなようだ。

 王族への忠誠よりも軍人としての義務を重んじるなら、そのことを上に報告するべきなのかもしれない。

 だが、皇太子はそのような報告をされるかもしれないことを承知の上で、あえて信頼して情報を明かし、何も強要せずに去っていったのだ。

 今は敵である自分たちのことをそれだけ信頼してくれたことは、武人としても無下にするわけにはいかない。

 

 

(……どうしたものかな……)

 

 ホーキンスは、押し黙ったままじっくりと考え込んでいた。

 

 彼は武人の誇りを重んじる古強者であり、モード大公への処罰がらみでアルビオンの王族に対する反感を抱いて革命軍に参加したのだ。

 とはいえ、今のレコン・キスタの方針にはそれ以上に問題を感じていたし、皇太子自らが危険を冒して敵陣にまで足を運んできたということには彼もボーウッドと同じく心を動かされた。

 

 しかし、その方針がいささか気に入らぬとはいえ、それでも今の自分はレコン・キスタの将なのである。

 組織の方針などとは関係なく、戦場で生死を共にした戦友たちが、この軍には大勢いるのだ。

 いうまでもなく、彼らを裏切るわけにはいかない。

 まあ皇太子にしても、現在の戦況を鑑みれば至極当然のこととはいえ、自分たちに寝返れなどとは要求しては来なかったわけだが……。

 

(ならば皇太子は先程の訪問で、我々に何を期待している?)

 

 当面の問題として、王党派は何よりもまず明日の、普通に考えればもはや絶望的な決戦を乗り切らねばならないはずだ。

 普通に考えて、数万対数百ではどうなるものではない。

 天使がいようと英雄がいようと、わずかな人数の強者だけでは、数に飲まれて味方が壊滅することを防ぎきれるものではあるまい。

 それなのに、皇太子は敵将がレコン・キスタの一軍を連れて寝返ってくれるという儚い望みに縋りに来たのでも、敵将の暗殺を企てて来たのでもなかった。

 

(と、すれば、こちらに頼らずにどうにかするあてがあるとしか思えぬが……)

 

 だとすれば、それは何なのか。

 そして、仮に彼らの考えていることの見当が付いたとしたら、自分はどうする気なのか。

 それを上の者たちに報告するのか、それとも……。

 

 

 そんな風に二人が悩んでいると、突然、部屋の戸がコンコンとノックされた。

 

 

「……!」

 

 ボーウッドは予想外のことに、思わず良からぬ事態を想像してぎくりと体を強張らせた。

 

「む……、誰だね。危急の事態でもあったのか?」

 

 ホーキンスは慌てず騒がず、直ちにボーウッドに声を出さないよう身振りで指示して机の上のものを片付けにかかりながら、ドアの向こうにそう声をかける。

 鍵はちゃんとかかっているので、突然戸が開く心配などはない。

 ずいぶんと場慣れしたその対応を見て気持ちを落ち着かせながら、将軍はどうやら下士官時代に晩酌の仕方と共に夜更かしの誤魔化し方も教わられたらしいなと、ボーウッドは内心で苦笑していた。

 

 ノックをしたのは、どうやら若い伝令兵のようだった。

 なかなか見どころのある誠実で利発な若者で、二人とも声を覚えている。

 

「お休みのところすみません、将軍。ですが、先程ル・ウール侯が明日の決戦に備えて、新たに着任した士官の紹介を将校の方々にされまして……。将軍にもぜひにと」

 

 それを聞いた二人は、不快そうにしかめた顔を見合わせた。

 こんな夜中に呼び出すというのも非常識な話だが、何よりも考え事に没頭して気持ちが乱れている最中だし、いささか酒も入っているというのに、油断ならない他の将校や悪魔かもしれないという連中の前に顔を出したくはない。

 

「……ああ、どうしてもということであれば行くが、明日ではならんのかね。いささか寝惚けておるし、すぐに上官の前に出ていけるような恰好ではないのだが」

「はあ、是非にと仰せです……が、もう眠っておられて寝言らしき声しか聞こえなかったというのであれば、私にはいかんともしがたいことですね」

 

 それを聞いて、二人はほっと頬を緩めた。

 

「そうか。ではこれも寝言で聞くのだが、その士官というのは誰だね?」

「は……」

 

 扉の向こうで、伝令兵はしばらくためらうように押し黙っていた。

 ややあって、少し震えた声で答える。

 

「……その、ヘイウッド卿、マーティン・ヘイウッド卿です。昼間の戦いで戦死なされた、敵将の。部下の兵たちも一緒です」

 

 単に、死者が蘇ったことに怯えて震えているのではなく、何かもっと激しい感情を押し殺しているようだった。

 

 ホーキンスとボーウッドは、それを聞いて目を見開いた。

 レコン・キスタの指導者クロムウェルは、これまでもたびたび確かに死んだはずの敵方の兵を『虚無』の呪文と称する力で蘇らせ、味方に引き入れてきた。

 蘇った敵兵たちはみな口を揃えて、その偉大な力に触れてレコン・キスタの側に神の加護のあることを確信したといい、忠実な味方となった。

 

 だが、よりにもよって、あのヘイウッド卿を!

 

「……よく教えてくれた。忙しいのだろうから引き留めたくはないが、もう少しだけ教えてくれ」

「はっ……」

「君は伝令役として、会場の隅に控えていたはずだな。君の目から見てヘイウッド卿らは、レコン・キスタに忠実そうだったか?」

「……はい。まるで、人が変わられたように」

「王党派と戦うことに、躊躇いはなさそうだったのか?」

「明日の戦いではこれまでの“過ち”の償いとして自分が先陣を切り、敵の士気を挫いて見せようと約束なさいました」

「……それを聞いて、他の将校らの反応は?」

「大歓声が上がりました。みな、赤らんだ顔で杯を掲げて、クロムウェル閣下と神を称えて愉快そうに笑って……。いえ、中には戸惑っている様子の方もおられましたが……」

「会場の空気にあてられたのか、そうでなくても、とても異議を唱えることなどできた雰囲気ではなかったのだな?」

「私には、そう感じられました」

 

 彼らは王党派のために生還期し難い攻撃を仕掛け、全員が玉砕したという。

 ル・ウール候を道連れにしようと自ら爆薬を噛んだヘイウッド卿の散り様は忠烈の極み、騎士冥利な最後だと、ホーキンスもボーウッドも深く胸を打たれたものだった。

 それがどうして、一日も経たぬうちにレコン・キスタに寝返るものか。

 

 この素晴らしい力こそが『虚無』であり、神の加護の証である。あの世では敵も味方もなく、誰もが友人になれる。だから、今は躊躇わず戦いなさい……。

 クロムウェルと天使たちは、そう主張している。

 一聞すると素晴らしいお題目のように聞こえるが、今こそはっきりと確信した。

 神の友愛どころか、人の尊厳を冒し、意思を無視して傀儡に仕立てる悪魔の力だったのだ。

 他の将校たちも、既に多くがその力に魅入られて、実際に使われたのではないにしても悪魔の虜になろうとしている。

 

「ありがとう、もう戻りなさい。ただ、明日の戦いでは君に何か頼みたいことができるかもしれん。なるべく、私のそばにいるようにしてくれ」

「はっ、失礼します」

 

 そうして伝令兵が扉の前から去ると、ホーキンスとボーウッドは互いの気持ちを確かめるように目を見交わして、しっかりと頷き合った。

 今のうちに何とかしなくては、王党派も貴族派もなく、アルビオンそのものに未来はない。

 

 ヘイウッド卿率いる決死隊の特攻は、直接的には反乱軍を操るル・ウール候と“天使”たちには何の打撃も与えられなかった。

 しかし、彼らの死とその“復活”が、結局はレコン・キスタの名将二人を動かす決定打となったのだった……。

 

 

「そうか、ホーキンス将軍とボーウッド君はもう寝ていたか。それは残念だね」

 

 伝令兵からの報告を受けた『ル・ウール候』は、そう言って何も気にしていないように朗らかに笑った。

 

 その背後には“天使”ことエリニュスが一人、近衛兵のように控えている。

 兵士が立ち去ると、ル・ウール候は皮肉っぽく唇を歪めて、ちらりと彼女の方を見た。

 

「どう思うね?」

 

 すぐに、テレパシーで返事が返ってくる。

 

『あの兵士ですか? 嘘をついているように見受けられました』

 

 ル・ウール候は、満足したように頷いた。

 多少利発な程度の兵士の嘘などを見抜けぬ自分ではないが、念のために部下の意見も求めておきたかったのだ。

 

「私もそう感じたよ。どうやらあの二人は出席を嫌ったらしい」

『単に眠かっただけでは?』

「さて。見たところ、生真面目な連中のようだからなあ」

『確かに……』

 

 エリニュスは目を細めた。

 人間を堕落させる職務に携わるデヴィルは、当然ながらその性質を見立てることにかけては優れた目を持っている。

 

『では、奴らは我々が上に立っているのを嫌っているのでしょうか。それとも、あの連中を蘇らせて仲間に引き入れたことを? 手柄を争う敵が増えますからね』

 

 ル・ウール候は、エリニュスのそんな意見を聞いて、馬鹿にしたように鼻で笑った。

 

「君は、オファリオンで何を教わった。余程無能な教官にあたったのか、それとも居眠りでもしていたのかね?」

『……』

「やれやれ。利害ではなく、定命の種族の情というやつだよ。大方、同族が“崇高な”最期を遂げたのに傀儡として利用される、というあたりが気に入らんのだろうさ」

『……はあ? 同族もなにも、奴らは敵軍の兵ではありませんか』

 

 くっくっ、とル・ウール候は含み笑いをした。

 今度は目の前のエリニュスではなく、しばしば感傷的になり、利害も分からなくなる人間の性質を嘲っているのだった。

 

「そういうものらしいのさ。奴らはデーモンなみに短慮だ、とでも思っておくがいい」

 

 デヴィルは考え、複雑な陰謀を練り上げ、再び考え……、そうして最大の好機に至って、初めて行動を起こす。

 上司の背中にナイフを突き立て終わって初めて、自らの野望の真の大きさを明らかにするのだ。

 一方でデーモンは衝動に従って行動し、長期的な野望を持つ者でさえ、一時の激情のためにしばしばそれをかなぐり捨ててしまう。

 人間もそうだ。

 それが欲望のためか、情愛のためかなど、デヴィルにとってはどうでもよいこと。

 

『……なるほど。それで、どうされます?』

「何も。楽なものだとはいえ明日には決戦が控えているのだ、こんな時に罪を問い質して戦力を減らすこともあるまいよ。ひとまず王党派を滅ぼせば、連中も勝利の美酒に酔って利害を見つめ直し、つまらぬ感傷を手放すかもしれんしな」

『もし、そうならなければ……』

「地上へ侵攻するまで、しばらくは将兵は不要になる。狡兎死して走狗煮らる、というわけだ」

 

 二人はにやりと笑って頷き合うと、それきりで次の用件に移った。

 善良なる愚か者の始末などは、明日でも明後日でも遅すぎることはない、と考えていた。

 

 

 デーモンは善を憎み、善良な者は見つけ次第滅ぼそうとする。

 一方でデヴィルは、善良な者たちの行動を軽蔑しながら面白がって眺めている。

 自分たちの障害になるまでは、の話だが。

 邪魔立てをされると、取るに足らない愚か者に蹴躓かされたと激怒して、復讐心を燃え立たせる。

 

 狡猾なデヴィルの弱点のひとつは、彼らが完全な悪であり、人間のような不完全な種族の情というものを実感せず経験や知識でしかとらえられないために、しばしば軽んじすぎることなのである……。

 





オファリオン:
 アークデヴィル・バールゼブルが統治するバートルの第七階層、マラドミニに存在する都市の名前。
デヴィルたちはここに定命の種族の都市を精巧に再現し、クレリックの会合やエルフの王族の集会などさまざまな政治活動を正確にシミュレートして、物質界へ魂を堕落させに赴く者に経験を積ませている。
時には実際に定命の存在が連れ込まれて参加させられることもある、本格的な訓練である。
優秀な成績を収めたデヴィルは実際に現地へ派遣されるのに対し、失敗したものはチャンスを失い、最悪の場合は降格されてしまう。


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第百二十六話 Mutual aid

 明日の戦いに備えるために惜しまれながらも大盛況を博した宴を切り上げた後で、ウィルブレースらセレスチャルは皇太子と兵たちとを伴って、城内を検分して回っていた。

 

「こちらは寡兵ですから、城内に侵入されればおしまいです。攻撃だけでなく、守備も重視しなければ」

 

 ウィルブレースが自身の過去の戦争経験などを踏まえた上で、そう意見を述べる。

 これは玉砕してよい戦いではない、つい先刻までは明日の戦いで果てるつもりでいた兵たちにも、生き残ってもらわなければならない。

 

「夜のうちに銃眼の位置を変えておきましょう。これまで使っていたものは塞いで、別の場所に。新しい銃眼を《蜃気楼奥義(ミラージュ・アーケイナ)》などの呪文で隠せば、敵はまず以前の銃眼の場所を狙い、新しい銃眼からの攻撃に対しては無防備になるはずです」

 

 聞いたところでは、ハルケギニアの『土』メイジにはそういった、ちょっとした改築作業などが容易に出来るらしい。

 自分も《物体変身(ポリモーフ・エニィ・オブジェクト)》の疑似呪文能力を使えば手伝うことができるだろうから、明日に響かない範囲で協力してもらい、手分けして素早く済ませてしまえばよいだろう。

 

「……その、《蜃気楼奥義》というのは?」

 

 ウェールズが首を傾げて、そう質問した。

 

「幻覚を生み出す魔法です。城の上に幻覚の城を重ねて、以前と変わりがないように見せかけておくのです。幻覚であることを知っているこちらの兵には向こう側が透けて見えますが、敵側からはこちらが見えません」

「なんと、そんなことも出来るのか……」

 

 皇太子は顔をしかめると、小さく溜息を吐いた。

 敵側の悪魔どもにも同じようなことが可能な者がいるのだとすれば、それを知らずに戦っているこちらが勝てぬのも道理だ。

 

「……なるほど。当面はそうして凌ぎ、敵が異常に気付いたころには既に君の策によって乏しくなった火薬や弾丸が尽きている、というわけだな」

「ええ。新しい銃眼はなるべく高い場所につけましょう。高所からの狙撃の方が有利ですし、それに敵側に《真実の目(トゥルー・シーイング)》などの持ち主が混じっていても、有効距離に入らなければ看破はされませんから。秘密の通路や非常用の出口、それに罠なども、いくらか用意して隠しておくと効果的でしょうね」

 

 それから、ウィルブレースは『眠れる者』が新たに招請したセレスチャルたちがそれぞれ受け持つ場所を決めていった。

 もちろん戦闘中は必要に応じて各自で判断して動いてもらうが、原則として受け持ちの場所に留まり、負傷兵の看護やハルケギニアで知られていない敵が出現した場合の対処法の指示などに携わってもらうのだ。

 

「それから、常に各部署の間で連絡が取れるように、《レアリーのテレパシー結合(レアリーズ・テレパシック・ボンド)》も指揮官に配っておかなければ。一箇所たりとも破られるわけには行きません。おそらく、ディーキンが用意してくれるでしょう」

「……あなた方の使う魔法については、後で紙にでも書いてまとめて教えてもらわないとな」

 

 苦笑するウェールズに、ウィルブレースはにっこりと笑みを浮かべて見せた。

 

「ええ、こちらの魔法についても詳しく説明していただけるのなら。大変興味がありますし、情報交換を密にすれば、新しい有効な戦法がまだ考え付くかもしれません」

 

 そう言いながら、次の作業に取り掛かる。

 別行動をとっているディーキンたちのほうの首尾はどうだろうか、と考えながら……。

 

 

 

「オオ、これってブリミルさんの像だよね?」

 

 何かまだ明日の戦いに使えそうなものはないかと仲間たちと共に城内を物色していたディーキンは、礼拝堂で始祖ブリミルの大きな像を見つけて、嬉しそうに目を輝かせた。

 なお、現地に詳しいフーケと頼れる大人のコルベールには、別行動で頑張ってもらっている。

 

「これは、何かに使えそうだよ」

「この始祖の像を、戦いで使おうってことかい? ……それは、ちょっとバチ当たりなんじゃないか?」

「何いってるのよ、悪魔を追っ払ってブリミルの子孫を助けるために使うんでしょ? お喜びになることはあっても、怒ったりなさるはずがないじゃないの」

 

 キュルケにそう言われて、まあそれもそうかなとギーシュも納得する。

 ルイズもいくらか不満そうな顔をしてはいたが、強いて反対はしなかった。

 

「まあ、事態が事態だし……。でも、一体何に使う気なのよ?」

「それは、ウィルブレースのお姉さんとか、王子さまたちとも相談して考えてみないとだけど……。もしかしたら、ルイズにも手伝ってもらいたいことができるかもしれないの」

「……え、私に?」

 

 思いがけず協力を求められて、ルイズがきょとんとした。

 

「そうなの。ルイズは、すごい魔法が使えるでしょ? それを見せてあげたら、きっとレコン・キスタの人たちも、自分たちに偉そうに命令してくるデヴィルよりすごいって思うんじゃないかな」

 

 ルイズの『虚無』は、全力で用いれば極めて広範囲に影響を及ぼせる。

 デヴィルらにはなるべくその存在を知られたくはないのだが、ここぞという場面では切り札となるはずだ。

 

「……ダメ?」

「な、なにを言ってるのよ。パートナーに協力を求められて、断るメイジなんているはずがないじゃないの。私に任せておきなさい!」

 

 ディーキンやウィルブレースばかりが動き回っている中、蚊帳の外に置かれた感じで内心やや不満を覚えていたルイズは、俄然張り切ってぐっと胸を張ってみせる。

 

「それじゃ、私たちは明日の戦いで何をしたらいいかしら?」

 

 キュルケはそう尋ねてみた。

 

 ルイズ以外の面々は、みな相応に腕は立つとはいえ、特筆するほど変わった能力などは持っていない。

 城を守るアルビオンの勇士たちに混じってただ一介の兵として戦うようにと言われるなら、それはそれでやぶさかではないし、一人一人の兵の働きを軽んじる気も毛頭ない。

 ないが、明日の戦の立役者になるであろう人物を近くで見てきた身としては、何か変わった仕事を任されないものかと期待する気持ちもあった。

 

「ええと。キュルケたちには城のいろんな場所を守ってもらって、起きたことをディーキンに伝えてもらえたら嬉しいの」

 

 デヴィルのやり口すべてについて兵たちにあらかじめ周知徹底しておくなどというのは到底不可能だし、自分自身まったく予想していなかった事態が起こる可能性も十分にある。

 そういったときに、城全体の状態を把握してどう対処するべきか判断するのは、この世界とフェイルーンの両方についてある程度以上詳しく把握している自分が最も適任だろうということで、ウィルブレースや国王、皇太子らとも意見がまとまっている。

 もちろん、全体への正式な命令は自分の意見を伝えた上でアルビオンの王族に下してもらうことになるだろうが、指示を仰ぐ前に素早くこちらの判断を現場に伝えてくれる仲間たちが要所要所にいてくれたら、とても心強いはずだ。

 

 ディーキンは明日の戦いでは、《レアリーのテレパシー結合》をここにいる仲間たちとつなげておくつもりだった。

 

 別に、この城の士官たちを頼りにしていないわけではない。

 だが、起こっている事態を的確に伝えてもらうのにも、対処法を確実に伝えるのにも、初対面のアルビオンの指揮官よりも気心の知れた彼女らの方がうまくいくことだろう。

 もちろん、仲間たちに非常事態が起こったときには確実に把握して助けに行きたいから、という個人的な理由もあるが。

 

「わかりました。明日の戦いでは、私、先生の目になってみせます!」

 

 シエスタは、誇らしげにぐっと背を伸ばしてそう言った。

 それから、ちょっと迷ったような様子を見せた後で、おずおずと質問する。

 

「……その、明日の戦いでしっかり働くには、相手のことをできるだけよく知っておいた方がいいですよね……。それで、先生に、少し質問をしたいのですけど……」

「もちろんなの。何?」

「ええと、昼間の話にあった、生き返って悪魔の仲間になったという方々の正体は、何なのでしょう。……悪魔の偽装、でしょうか?」

 

 昼間に兵士から聞きだした話では、敵軍には寝返った味方ばかりか、死んだはずの味方までもが加わって平然とこちらに杖を向けてくるのだという。

 それも一人や二人ではないらしい。

 おまけに、そのような裏切り者は不死の力を授かっていて、斬っても撃ってもすぐに傷が塞がり死なないのだとか。

 

 ディーキンは敵軍に加わっていると思われる悪魔や、その能力についてはざっと話してくれた。

 しかし、その中には生き返って敵軍に加わったという兵たちに関する説明はなかったように記憶している。

 

「ウーン……、それが実は、ちょっとよくわからないんだよ……」

 

 ディーキンは、困ったように首を傾げて考え込んだ。

 

 敵を寝返らせることは、呪文なり超常能力なりでドミネイトでもすれば、まあできないことはないだろう。

 だが、死人を不死身の兵として蘇らせるとなると、かなり厄介な問題になってくる。

 そのようなことの出来そうなデヴィル、ないしは他のモンスターには、今ひとつ心当たりがなかった。

 ごく少人数なら呪文などを使って何とかなるかもしれないが、かなりの人数がそのようにして敵軍に加わっているらしい。

 

 もっとも単純なのは変身の能力を持つデヴィル自身が化けることで、ある種のエネルギー耐性やダメージ減少能力などを利用すれば、不死身に見せられないこともない。

 デヴィルの多くは普通の兵士が振るう普通の武器ではろくに傷つけられないし、炎を浴びてもまったく傷つかないのだ。

 しかし、姿形は似せられても、他人の記憶を読み取って本人そっくりに振る舞うなどといった能力はデヴィルにはないはずである。

 見ず知らずの他人ならともかく、よく見知っている戦友たちを騙しきれるものだろうか。

 

 フェイルーンには、ディープスポーンというモンスターもいる。

 一つ目の巨大な球体からたくさんの触手が生えているおぞましい姿をしているが知能は高く、自身が喰らった生物の模造品を生み出して使役するのだ。

 しかし、彼らが模造生物を生み出せる速度はそれほど速くないはずだし、同じ悪の生物とはいえデヴィルとは特に接点などなく、協力関係にあるとはあまり思えない。

 それに、生み出された模造生物は不死の力など持ってはいない。

 

 では、ヴァンパイアなどのアンデッドという線はどうだろうか。

 フェイルーンのヴァンパイアは殺害した生物を、自分の同族に作り変えて隷属させることができる。

 彼らは傷を高速で塞ぐ能力や、倒されてもしばらくの後に復活する能力など、不死身と思えるような力も持っている。

 しかし、彼らは太陽の下に出られない。

 だから、他の兵に混じって軍隊で戦うことなどできるはずがないのだ。

 ワイトなどの日光に弱くなくてかつ仲間を増やせるアンデッドも存在はするが、外見がかなり歪んでしまい、生前の人格や能力も失われるのが普通である。

 

 ならば、ドッペルゲンガーやその亜種族というのは?

 彼らは本物そっくりに変身するだけで能力の模倣はできないし、もちろん不死身でもない。

 それに、たくさんの偽者を作るには、数を揃えるのも大変だろう。

 

 少々変わったところでは、ミラー・メフィットなどというものもいる。

 この珍しい来訪者は、以前にタバサの母親らの偽物を造り出すときに用いた、《似姿(シミュレイクラム)》の擬似呪文能力を発動できるのだ。

 だが、作られた似姿は本物よりも弱く脆いもので、やはり不死身になるという部分の説明がつかない。

 

 ディーキンは他にもいろいろと考えてみたが、いずれも今ひとつしっくりこなかった。

 

 そうなると、あるいはフェイルーンの側のものではないのかもしれない。

 デヴィルたちはこちらに来てかなりの期間がたっているはずだし、実利を重んじる合理主義者だ。

 有用なものを見つければ、積極的に取り入れるだろう。

 

「……ねえ、ハルケギニアの魔法とか生き物で、そういうことができるやつはないの?」

 

 ディーキンは、仲間たちにそう尋ねてみた。

 皇太子やアルビオンの兵たちが気付かないくらいだから、おそらく一般的なものではないのだろう。

 だが、博識なタバサなどには、あるいは何か心当たりがあるかもしれない。

 

「…………」

 

 ディーキンに頼られたから、というわけでもあるまいが、タバサは真剣に考え込んだ。

 

 ハルケギニアの吸血鬼はグールを作ることができるが、一人につき一体だけだ。

 大勢の蘇った兵士を抱えるには相当数の吸血鬼と手を組まなくてはならず、現実的だとは思えない。

 そうなると……。

 

 ややあって、あまり自信がなさそうに、思いあたったことを口にする。

 

「……ひとつには、クロムウェルが本当に虚無の使い手で、私たちの知らない呪文を使っている、ということが考えられる。もしそうでないとしたら、心を操ったり傷を治したりするのは、『水』以外には考えられない」

 

 それを聞いて、ルイズとキュルケが首を傾げた。

 

「そりゃあ、確かに水の領分だろうけど……。でも、死人を生き返らせたり不死身にしたりするほど強力な水の魔法なんて、聞いたこともないわよ?」

「そうね。もしそんなものがあったら、これまでにも戦争の時に使われているはずだわ」

 

 タバサは二人の反論に対して、小さく頷いた。

 

「系統魔法では、確かにありえない。でも先住魔法なら、あるいは」

 

 クロムウェルは本当に虚無の使い手で、ルイズとは違う何か強力な呪文を習得している。

 あるいは、強力な先住魔法の使い手である。

 

 そのどちらの方がよりありえそうなのかは、タバサにもわからなかった。

 ただ、あくまでもひとつの可能性として考えついた、というだけである。

 

 実際にはどちらも間違っているのだが、そんなことはタバサにも、この場にいる他の誰にも知る由のないことである。

 

「思い出した! 確かに、そりゃあありえるぜ」

 

 そのとき、シエスタの背負っているデルフが、唐突に声を上げた。

 全員の注目が、彼に集まる。

 

「あー、いや、昔そんな感じのを見たことがあってよ。俺と同じ、先住の魔法で動いてるやつさ。ブリミルも、あれには手を焼いてたもんだぜ」

「ああ。そういえば、君は始祖の使い魔に持たれた剣でしたね」

 

 最近デルフと仲良くしているエンセリックが、口を挟んだ。

 

 一体何の話をしているんだ、といった感じのギーシュには、ディーキンがかいつまんで説明をする。

 まあ彼には話しておいてもいいだろう。

 

「ふうん……。じゃあ、虚無って線はないと思っていいのかしら?」

「あたりめーだろ、死人を生き返らせるなんてのは虚無の領分じゃねえよ。命を与えるとか、心を操るとかは、どう考えたって水だぜ」

 

 まあ、記憶を消す術とかは、虚無にもあるけどよ……と付け足したデルフの言葉をよそに、キュルケが首を傾げた。

 

「でも、変ねえ。水の力なら、『火』には弱いんじゃないかしら?」

 

 キュルケは誇り高い火の使い手として、自系統の優位性についてはかなり詳しく知っていた。

 

 水系統は生物の体内の水の流れを司り、それを通して心や体を操ったり、傷の治癒を促進したりする。

 それゆえに、火に焼かれて水分を失った肉体組織を修復させるのは難しいはずなのだ。

 たとえば、ガラスの破片が突き刺さった眼球は腕のいいメイジなら元に戻せないこともないが、先日戦ったメンヌヴィルのように火に焼かれた場合はまず無理である。

 

「そりゃあそうだ。よっぽど強力な水の力で動いてても、火で焼けばまず再生はできないはずだぜ。もっとも、ブリミルが戦った連中は精霊に頼んで雨を降らせたり、水の膜で体を守ったり、その辺も対策してたけどよ」

「戦場では、火こそが主役よ。呪文だけじゃなく、火薬や銃弾も飛び交うわ。高熱に弱いなら、すぐに不死身のメッキがはがれそうなものだけど?」

 

 昼間の兵たちは、蘇った兵士は斬っても撃っても死なずたちまち傷が塞がっていく、不死身としか思えない、と証言していた。

 しかし、火に弱いのであれば、高熱の銃弾を至近距離から撃ちこまれたり火メイジの呪文を受けたりしたときには傷が癒えないか、少なくとも治りが遅くなるといったくらいの反応はあるだろうし、そのことにこれまで誰も気が付かなかったとはちょっと考えにくい。

 もしも水の膜で体を守ったりしていたならば、対抗できるかどうかはまた別の問題として、それこそ火が弱点なのではないかと誰でも思い至るだろう。

 なのに、そのような話は一切出なかったのだ。

 

「それなら、ディーキンの来たところの呪文とかで何とかできると思うの」

 

 今度はデルフに代わって、ディーキンがそう返事をした。

 

 水の膜などの目に見える形ではなく、高熱から身を守る術はフェイルーンにはいくらもある。

 たとえば、ごく初歩的な《エネルギーへの抵抗力(レジスト・エナジー)》の呪文をかけておくだけでもいいだろう。

 そうしておけば、戦場でちょっとばかり火を浴びた程度ではまず傷つくことはあるまい。

 敵に存分に不死身ぶりを見せつけた後は、メッキがはがれる前に後方に下がってしまえばよいのだ。

 

 デルフの見立てが正しければ、要するに蘇ったという兵たちは、水の精霊力とやらで仮初の命を吹き込んだアンデッドの亜種のようなものか。

 炎以外の攻撃では永続的なダメージを受けない再生能力を持っていて、そこにエネルギー耐性を与える呪文なり装備品なりで弱点対策をしてあるのだろう。

 ディーキンはその推測を、確実とは言えないがと前置きをした上で、仲間たちに伝えておいた。

 

「死者をそんな風に冒涜するなんて……。それが本当なら、許せません! 何としてもクロムウェルを征伐して、その方々を解放しなければ!」

「…………」

 

 義憤に燃えるシエスタをよそに、タバサはじっと考え込んでいた。

 

 炎でしか倒せない敵が、炎を防ぐ呪文で身を守っている。

 それが本当だとしたら、ちょっと聞いた感じでは無敵のようにも思えるが……。

 

「……もし会ったら、どうやって倒せばいい?」

 

 ディーキンの方を見て、そう尋ねる。

 しかし、彼が返事をする前にデルフが答えた。

 

「そこの嬢ちゃんに呪文を使わせりゃあいいさ、ブリミルはちゃんと対策を見つけたんだ。今は読めんかもしれんが、呪文書に書いてあるはずだぜ?」

 

 ルイズの手元には今、タバサの屋敷で発見した古代の呪文書に加えて、ウェールズから拝領した『風のルビー』がある。

 必要な時に指輪をはめてページをめくれば、呪文は見つかるだろう。

 

「何よ。どんな呪文なのかくらい、もったいぶらずに教えなさいよ!」

 

 そう問い詰められたデルフが、明かした呪文は……。

 

(……あら? それって、ディー君が『遍在』を消すのに使ってたやつじゃない?)

(ンー。そうみたい)

 

 どうやらそれは、防御術の基本にして奥義たる『解呪(ディスペル)』の呪文に他ならないようだった。

 なるほど、生前の知識や知能を保ったまま術者に絶対服従し、しかも再生能力を持つという強力な傀儡にも、『解呪』されるだけで倒れてしまうという大きな弱点があるわけか。

 それが確かなら、もはや恐るるに足らずといえよう。

 

 とはいえ、考えておくべき問題はまだまだいくらでもある。

 

「ええと。それじゃあ次は、ヴォルカリオンさんを呼び出して。必要なものを買い揃えておかないと……」

 

 

 

 ――そうして、夜は更けていった……。

 




ミラージュ・アーケイナ
Mirage Arcana /蜃気楼奥義
系統:幻術; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:長距離(400フィート+術者レベル毎に40フィート)
持続時間:精神集中+術者レベル毎に1時間
 術者はこの呪文によってどんな範囲内でもまったく別の地形であるかのように見せかけることができる。
この幻術には聴覚、視覚、触覚、嗅覚の要素が含まれる。つまり、海辺の景色を作るときには、波の音、砂を踏む感触、潮の香りも同時に再現できる。
効果範囲は、術者レベル毎に一辺20フィートの立方体の区画1個ぶんである。
この呪文は自然の地形のみならず、建物の外見を変えたり、何もないところに建物を加えたりすることもできる。
クリーチャーを直接変装させたり、隠したり、追加したりすることはできないが、効果範囲内にいるクリーチャーは現実の地形の中で隠れるように、幻の中に隠れることができる。

レアリーズ・テレパシック・ボンド
Rary's Telepathic Bond /レアリーのテレパシー結合
系統:占術; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(異なる2種類のクリーチャーの卵のかけら2つ)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に10分(解除可)
 術者は自分と何体かの同意するクリーチャー間をテレパシーによって結合する。
一度の呪文で結合できるのは、術者自身および術者レベル3レベル毎に1体までの同意するクリーチャーである。
リンク内の各クリーチャーは同じリンクの中にいる他のすべてのクリーチャーと結合されており、どの言語を話すかに関係なくテレパシーによる意思の疎通が可能である。
一度リンクが結ばれたなら、この呪文は同じ次元界の中にいる限り、どれだけ距離があろうと機能する。
術者は、望むなら形成するリンクから自分を除外することもできる。
テレパシック・ボンドはパーマネンシイ呪文で永続化することができるが、パーマネンシイを1回使用するごとに2体のクリーチャーだけを結合することができる。
 なお、レアリーというのはこの呪文を開発した人物の名前である。

レジスト・エナジー
Resist Energy /エネルギーへの抵抗力
系統:防御術; 2レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に10分
 この防御術はクリーチャー1体に対して、術者が選択したエネルギー5種類([音波][酸][電気][火][冷気])のうち1つに対する限定的な保護を与える。
対象は選択したタイプのエネルギーに対する抵抗10を得る。
すなわち、対象がそうしたダメージを受けるたびに、そのダメージはそのクリーチャーのヒット・ポイントに適用される前に10ポイント差し引かれる。
なお、一例として炎によるダメージについて言えば、体の一部に着火した程度であれば毎ラウンド1d6ポイントのダメージを受けるに留まる(つまり、この呪文で守られていれば燃えている松明を素手で掴むなどしてもまったく傷つく恐れはない)。
エネルギーに対する抵抗の値は術者レベル7レベルで20ポイントに、11レベルで最大の30ポイントに上昇する。
この呪文は、対象の装備品も同様に守ってくれる。


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第百二十七話 Giant anxiety

 いよいよ、アルビオンの王党派と、反乱軍レコン・キスタとの決戦の日がやってきた。

 

 レコン・キスタの陣営に設けられた大きな天幕の中で、トロール鬼たちは早朝から戦の準備に取り掛かっていた。

 トロール鬼は身の丈5メイルにも及ぶ大型の亜人で、ハルケギニアではこうした巨大な亜人種は俗に巨人とも呼ばれている。

 フェイルーンに生息する同名の巨人よりもかなり大型だが、しかしそちらとは違って、火や酸で焼かれない限り肉片となっても再生するような不死身さは持っていない。

 

 ディーキンは以前に本で勉強したときに、彼らはおそらく元はフェイルーンのトロルと同じだったが、互いに棲む土地が分かれたあとで異なる環境に適応して分化した種族なのではないか、と推測していた。

 フェイルーンの中だけを見ても、トロルには水棲のスクラグやウォー・トロル、フォレスト・トロル、ケイブ・トロルなどといった、複数の亜種族が存在している。

 そういった亜種族の中には、ハルケギニアのトロール鬼にも劣らぬほど大型のマウンテン・トロルや、全身が水晶のような鉱物質でできているクリスタライン・トロルなどの、元のトロルから非常に大きくかけ離れて見えるものもいるのだ。

 

 それはさておいて、このトロール鬼たちは普段はアルビオン北部の高地地方(ハイランド)に棲んでいる。

 言うまでもなく、彼らにとっては人間同士の戦などは本来どうでもいいことでしかなかった。

 それがなぜ反乱軍について戦争に参加したのかといえば、ただ単に、彼らが十分な食料や酒、武具や財貨などの報酬を約束してくれたからである。

 ついでにいえば、そうすることで“偉大な自分たちを差し置いて低地にはびこる生意気なちびども”を思う存分叩き潰せる絶好の機会が得られるから、というのもあったが。

 

「きょうのたたかいで、てきはぜんめつらしいぞ」

「つまらねえ。せっかくきたんだから、もっとぶったたかせろってんだ」

 

「おまえたち、そうぼやくな」

 

 粗野な巨人の言語でブツブツと文句を言っている血気盛んな若者たちを、やや落ち着きのある年長のトロール鬼が諫めた。

 集落に留まっている族長に代わって、今回の戦いに参加した仲間をまとめている若頭役だ。

 これまでにも何度もこうした戦いに参加したことのあるベテランで、若者たちからも大いに信頼されている。

 

「このたたかいが終われば、てんしが約そくしたうまい肉と酒が手に入る。それでのみ明かすことを考えろ。いま、たのしめるだけたのしんで、また次のたたかいをまつんだ」

「でも、かしら。つぎのたたかい、いつだ?」

「それはわからん。わからんが、そんなに先じゃないのはたしかだ」

「ほんとうか?」

「ああ。かずだけは多いちびどものなかでも、人げんはとくになかま殺しがすきらしいからな」

 

 それを聞いたトロール鬼たちは、巨大なふいごが上下するかのような音や、ごろごろいう海鳴りのような音を響かせて、各々愉快そうに笑った。

 

 連中は考えなしに数を増やしては、狭すぎる、食い物がないと不平を言って殺しあう。

 それでちょっと減りすぎると、産めよ増やせよと言っては、また増える。

 人間よりもかなり寿命の長い巨人族の目から見れば、彼らは頻繁にそんなことを繰り返してばかりいた。

 

 なんとも馬鹿馬鹿しい、不毛な話だった。

 

 小賢しいふりをして気取ってはいるが、人間なんて結局はイナゴか何かと変わりゃあしないのだろう。

 いずれ同族同士の殺しあいでくたばるやつらなら、代わりにこっちがちょいと潰して遊んだって、何も悪いことはあるまい。

 実際、仲間殺しをやりたがる連中は、そのことに感謝して謝礼まで差し出してくれるではないか。

 

「よおし。とにかくきょうのたたかいで、たっぷりぶっつぶしとこう」

「てきのかず、あとちょっとだ。さっさとのりこもうぜ」

「まて、急ぐと人げんのまほうにやられることがある。こういうときは他のやつらがたおれてから、少しおくれてのりこむといいんだ。さいしょに死ぬやくは、人げんどもと同じ、ちびのオークどもにでもやらせておけ」

「そうなのか? それじゃあ……」

 

 そんな風にわいわいと話し合っていた、ちょうどその時。

 突然、不思議なほど澄んだ声が、少し離れた場所から聞こえてきた。

 

 

 

「――おまえたちは、今日の戦いが上手くいくものだと、本当にそう思っているのか?」

 

 

 

 それは、彼らがこれまでに聞いたこともないほどに洗練された、滑らかなトロール語だった。

 はっとしてその声の方を振り向いたトロール鬼たちは、ぎょっとして目を見開いた。

 

 いつの間に現れたのか、そこには見知らぬ巨人が立っていた。

 大きさは自分たちと同じほどだったが、薄い青色の瞳と頭髪をもち、肌は雪のように白い。

 筋骨たくましい、整った体格をした男だった。

 その姿は力強く美しく、威圧感がありながらも、奇妙に幻想的だった。

 

「もう一度聞こう。本当に、そう思っているのか?」

 

 声は間違いなく、その男から発せられていた。

 

「……な。なんだ、あんたは?」

 

 若頭はその男の方に武器を突き付けながら、つっかえつっかえ声を絞り出すようにして、ようやくのことでそう尋ねた。

 

「わからぬのか、偉大なるヨトゥンヘイムの民の末裔よ!」

 

 男は首を振って、憤慨するような、嘆息するような声でそれに答えた。

 

「ならば、これを見るがよい。これでもなお、わからぬというか?」

 

 そういうと、男の全身がぽうっと青白い仄かな光を放ち始める。

 

 途端に、周囲を幻想的な光景が包み込んだ。

 熱のない不思議な炎が縦横に走り、集まって一匹の巨大な蛇の姿になったかと思うと、その蛇は自分の尾を咥えてくるくると回り、灰色の猫に変じて消え去る。

 大きな角杯が宙に浮かび、そこから大量の清水があふれ出す……。

 

 その光景に呆然と見入っていた巨人たちの中で、ある者がはっと気が付いて、震える声で尋ねた。

 

「……も、もしかして。あんた、ウートガルザか?」

 

 ハルケギニアの先住民族である亜人たちは、総じて“大いなる意思”と呼ばれるものを崇めている。

 それは定命の者に理解できるような人格を持つ神ではなく、この世界に普遍的に満ちている精霊力の源であり、全ての運命や事象を司る根源的な存在だとされている。

 しかし、トロール鬼をはじめとする大型の亜人はその多くが魔法の力よりも肉体の力に頼る種族であるため、大いなる意思への信仰はあまり盛んではなかった。

 その代わりに、彼らは自分たちに似た姿をした独自の大いなる神々を頂き、熱心に崇拝している。

 

 ウートガルザは、そうした神々の一柱だった。

 奸智を誇り、幻術を得意とするとされる、霜の巨人族の偉大な王である。

 最初に彼を頂いた霜の巨人たちがハルケギニアから姿を消してしまった今でも、トロール鬼の一族はこの神を熱心に崇拝していた。

 

「左様。無論、神ご自身ではないが。汝ら大いなる民の約束の地に座するユミルの裔、王の中の王ウートガルザに代わって、我はそなたらを諫めに参ったのである!」

 

 男は満足したようにそう言うと、幻を消し去った。

 巨人たちが、あわててその前に跪く。

 

 ウートガルザの眷属と名乗る男は、そんな彼らに厳かな態度で警告と助言とを与えた。

 

 その内容は、要約すれば、このまま戦い続ければ自分たちの身に危険が及ぶだろうというものだった。

 お前たちは用済みになり次第、後ろから撃たれるだろう、というのだ。

 

「この度の人間の軍は、これまでにないほど大規模で、お前たち全員を殺せる。戦いが終われば、今のうちに始末しておいた方が安全だと思うだろう。その後は、ハイランドにあるお前たちの集落も攻め滅ぼしておこうという腹だ。ゆえに、戦いが終わらぬ今のうちに戦線を離れ、集落の守りを固めよ」

 

 しかし、そのような忠告を受けたトロール鬼たちは、困ったように顔を見合わせた。

 

「……どうした、不服か?」

 

 神の使いからそんな不審げな問いかけを受けても、恐縮そうにするばかりで誰も口を開こうとしない。

 やがて、若頭がやむなくといった様子で、彼らを代表して答えた。

 

「人げんがどうかんがえてるかはわからない。でも、あいつらにも神のつかいがいる。てんしたち、おれたちにみかえりを約そくした。うそついたとはおもえない」

 

 若頭の言葉に同意してうんうんと頷く巨人たちを、ウートガルザの使いはじっと見つめた。

 ややあって、口を開く。

 

「……お前たちのいう連中が、真に人間どもの神の使いだとしよう。なぜ、人間の神がお前たちに良くしてくれるはずだと信じているのだ?」

 

 そう問われて、トロール鬼たちは困惑した様子だった。

 なぜと問われて改めて考えてみると、確かな理由は彼らにも説明できなかった。

 

「……うまく、せつめいできない。でも、あいつらは信ようできる……」

「ああ、やさしいやつらだからな」

「きっと、うそつかない。やくそく、まもるはずだ」

 

 ウートガルザの使いは、それを見て小さく首を振った。

 それから、ゆっくりと彼らに向けて手をかざす。

 

「なるほど、事情はわかった。ならば、まずはお前たちを解放してやらねばならんな……」

 

 

 ウートガルザの使いは用件を済ますと、どこへともなく消え去ってしまった。

 

「なあ、かしら。きょうのたたかい、どうするんだ?」

「……」

「かんがえるまでもねえ! おれたち、あくまにだまされてたんだぞ!」

 

 一人のトロール鬼が憤慨したようにそう唸ると、他の者たちからも同意の声が上がった。

 

 先程、ウートガルザの使いが手をかざして彼らに目に見えない不思議な力を浴びせると、精神を包み込んでいた魅了の力は跡形もなく溶けて消え去った。

 神の使いはそれから、正気に戻ったトロール鬼たちに、「人間の軍についている連中は悪魔で、その力で彼らの精神に好意を植えつけ、疑問を持たず裏切らないように仕向けていたのだ」と明かした。

 その上で、彼は憤慨する巨人たちをなだめながら、今後とるべき行動についても助言してくれた。

 

 

 

『この戦いで、悪魔どもに騙された人間どもはいずれ、お前たちに戦線に出て敵の守りを崩せと持ちかけてくるだろう。応じるふりをして逃げ出し、集落へ帰るのだ。お前たちが無事に逃げおおせるよう、ウートガルザの知略にかけて、我が人間たちの銃や大砲を役立たずにしておいてやろう』

 

『悪魔の軍が勝てば大変なことになるだろうが、助力をするかどうかはお前たち次第だ。くれぐれも、怒りに任せて恨みを晴らそうなどとしてはならん。敵は数が多すぎる、命を第一にしろ』

 

『兵器が使えなくなれば、あるいは相手の軍が勝つかもしれん。もしそうなったなら、その時は勝ち残った敵方の軍の人間どもと和平を結べ。むやみに小さきものどもと争わぬようにすれば、お前たちの一族もしばらくは安泰だ』

 

 

 

 後に残された若頭は、それらの言葉についてじっと考え込んでいた。

 

「……おい、かしら?」

「かしら。これ、かみのおつげだ。かんがえるまでもない、いうとおりにしたほうがいい。でないと、ウートガルザのばつが……」

 

「ああ、いま考えてる! だから、だまってちょっとまってろ」

 

 若頭はきっぱりとそう言って、部下たちを黙らせた。

 

 確かに先程のあの巨人は、神の使いとしか思えなかった。

 この人間どもの軍に悪魔がいるというのなら、トロール鬼の元にも巨人の神の使いが来ても不思議ではないかもしれない。

 自分たちを悪魔とやらの罠から解放してくれたことについても、大いに感謝している。

 

 しかし彼は、神に従えば必ずしも戦に勝てるというものではない、と考えていた。

 部族の呪い師が受け取った“神の言葉”に従って人間を襲いに行き、失敗して帰ってこなかった同族を何人も見てきたからである。

 それゆえに、神のお告げだという先入観を努めて排除して、先程の啓示の内容を吟味しようとしているのだ。

 

(……たしかに、この軍の人げんどもは、用ずみになればおれたちを殺す気かもしれん)

 

 この戦いに加わった仲間たちの中には、とにかく戦えればいいという考えで、人間の軍がどんな大義名分を掲げているのかさえろくに知らない者もいる。

 しかし、若頭は仲間を率いる責任感もあり、そういった情報も何かの役に立つかもしれないと考えてちゃんと調べてきていた。

 自分たちが参加しているこのレコン・キスタという連中は、人間の王に対して反乱した兵士たちで、今ある人間の国をすべて潰してハルケギニアを統一してやるなどと言って頑張っているらしい。

 

 普通は、人間どもなんて怖くはない。

 あのちびどもは普段、ずっと大きいこちらのことを恐れていて、襲われもしないのにわざわざ手を出しては来ない。

 しかし、恐れているということはつまり、できればいなくなってくれたら嬉しいと思っているということでもある。

 それに、なんといっても奴らは、同族殺しも平気でやれる連中だ。

 

 ハルケギニア中の国の同族と戦争して殺そうとしている連中が悪魔とやらにそそのかされ、こうして異種族の自分たちを十分殺せるだけの数を揃えたら、そうしない理由があるだろうか?

 今は役に立つから撃たないだろうが、戦いが終われば別に、自分たちはいなくなってもよくなるわけで……。

 

「……よし、決まった」

 

 自分は仲間たちが無事に帰れるように族長から命じられて責任を負っているわけだし、それより何より自分自身の命が惜しい。

 今日の戦いはよほど気を付けてなりゆきを見ておかねばなるまいが、ひとまず腹は決まった。

 

「とりあえず、あやしまれないよう、たたかいには出るぞ。みんな、人げんどもには何もなかったような、しらないかおをしていろ」

「おれ、はらたつの、かおにでるぞ。きっと、ウーウーうなる。ばれないか?」

「だいじょうぶ、人げんはたいていまぬけだ。おれらのことを、じぶんたちよりもバカでなにも考えてないと思ってる。巨じんが顔をしかめて気げんわるそうにしてるのは、いつものことだ。なぐらなきゃそれでいい、たぶんバレない」

 

 巨人は数が少ないので人間のように役割分担した複雑な社会を形成せず、多くはごく素朴な狩猟採集生活を営んでいる。

 さほど複雑な概念を表す言葉を必要としないので言語は素朴だし、喉が太く低い声で、牙などが邪魔になって発音もぎこちない。

 そのために、大抵の人間は巨人を愚かだと考えるものだ。

 

 しかし、実際には彼らの頭の回転は、決して人間と比べてそこまで鈍いわけではない。

 

 少なくとも若頭は、自分がそこらの大抵の人間よりも馬鹿だとはまったく思っていなかった。

 その自分の判断に素直に従ってくれる、周りの仲間たちもだ。

 学はなくとも機転はそれなりに利くし、物の道理だってちゃんとわかっている。

 

 自分の経験からいって人間というのものは大概、特に偉ぶっているやつほどそうらしいが、無駄に小難しく物を考えればそれで賢いと思っている間抜けなのである。

 ちょっとばかり筆算が早かろうが、三角測量とやらができようが、自分の家系図を十何代もさかのぼって暗誦してみせられようが、そんなことが本当に賢いという証拠にはなるまいに。

 

「あくまどもには、なるべく近よるな。気づかれるかもしれん。もし近くにきたら、なるべくこれまでと同じようなかおをしておくんだ」

「わかった。はらたつけど、がまんする」

「そうしろ。それでもし、ウートガルザのつかいがいったようなことがおこったら、その時はいわれたとおりにするぞ」

 

 

 

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 そのころ、王党派の陣地に戻ったウィルブレースは、情報提供者に礼を言っていた。

 

「上手くいったと思います。ありがとうございます、タバサさん」

「タバサでいい」

 

 もちろん、先程トロール鬼たちの前に現れた男の正体はウートガルザの眷属などではなく、《物体変身(ポリモーフ・エニィ・オブジェクト)》の能力を用いて霜の巨人(フロスト・ジャイアント)の姿に変身したウィルブレースその人であった。

 彼女はその後、同様に軍に加わっている巨人族であるオグル鬼たちの元も同じように訪れて、彼らにも戦線を離れるように促しておいた。

 

 この世界の巨人たちが崇める神の名前や彼らの習慣については、博識なタバサが事前に彼女に教えていたのである。

 エラドリンには常時稼働の《言語会話(タンズ)》の能力があるので、会話には何の支障もなかった。

 あとは、呪文と違って発声や身振りなしで突如幻像を出現させることのできる《上級幻像(メジャー・イメージ)》の疑似呪文能力と、彼女の持つ優れた演技力とを駆使したわけである。

 デヴィルが彼らを心術などで操っている可能性も想定していたが、それも問題なく解呪できた。

 連中はこの世界には解呪を使える者がいないから安心だと思って、保険のつもりで魅了をかけておいたのだろうが、万全の手を打ったつもりがかえって裏目ということもある。

 実害があろうとなかろうと、勝手に心を弄くられて喜ぶ者はいないのだ。

 

 彼らの元を訪問するべきかどうかは、情報が洩れる可能性なども考えて、少し迷ったのだが……。

 この戦いを切り抜けるため、そして亜人と人間双方の犠牲を少しでも減らすためにはやはり話をしなくてはならないと判断して、決戦当日の朝に決行した。

 前日のうちに行っておくよりは、デヴィルに気取られる恐れも少ないだろう。

 

(これで彼らが戦線から離れてくれれば、お互いに犠牲も減り、戦いもだいぶ楽になるのだが……)

 

 ウィルブレースがそんな風に物思いに耽っていたところに、ディーキンがやってきた。

 

「お帰りなさいなの。こっちの準備はだいたい終わったと思うけど、お姉さんのほうは?」

「ええ、こちらも……終わったと思います」

「そうなの? 何かまだ、ディーキンがお手伝いできることはない?」

「そうですね……」

 

 二人は普段よりもやや堅い笑みを浮かべて、顔を見合わせる。

 お互いに、相手の気持ちはわかっていた。

 

 これから大きな戦いが始まるとわかっている時に特有の、落ち着かない、不安と高揚が入り混じったような感覚。

 ディーキンはこれまでに何度か、ウィルブレースは数え切れないほどの回数、同じ気持ちを経験していた。

 ただ待つしかないこの時間は長く感じられ、何度味わっても慣れることがない。

 特に、冒険者仲間だけではなく非常に多くの者が巻き込まれる戦争となると、一層不安が大きかった。

 残念ながら、いかに万全を尽くそうとも人は死に、悲劇は起こるものだ。

 それでもその度に、あるいはもっと自分にできたことがあったのではないかと、胸を締め付けられるような気分になる。

 

 タバサにも、何となく二人の胸中は想像できた。

 

 一人で戦うことにはずっと前に慣れてしまって、もう恐ろしくはなかった。

 なのに、一緒に戦う仲間が傍にいてくれることは頼もしいはずなのに、一人で戦うよりもずっと不安になる。

 ディーキンは……、彼は、大丈夫だろうけれど。

 キュルケに万が一のことがあったら、自分はきっと泣いてしまう。

 

(この人を……、二人を、私より先に死なせることはない)

 

 タバサは杖を握る手にぎゅっと力を籠め、静かに目を閉じて、そう誓いを立てた。

 

 三人はそれから、誰が言いだすともなく連れ立って、もう一度城内の人員配置、仕掛けた策、それらを改めて一通り見直すことにした。

 何かしていた方が、気が楽だった。

 戦いが始まったあとに全員が取るべき行動の確認を再三済ませ、ウィルブレースが行ったこと、ディーキンの行ったこと、その他大勢の人々が行ったことをもう一度順々に指折り確認して、何も抜けのないことを確かめた。

 

「……問題はありませんね」

「ウーン……、そうみたい」

「そろそろ、持ち場についた方がいい」

 

 もう、することはない。

 この城にいる誰もが、自分にできることはすべてやったつもりだった。

 

 あとはただ、そのときを待つのみ……。

 



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第百二十八話 Puppets and humans

 レコン・キスタからニューカッスル城への最初の攻撃は、マーティン・ヘイウッド卿ら、反乱軍に取り込まれた元王党派の勇士たちによる説得から始まった。

 反乱軍の先陣に立った彼らが、『風』の魔法によって増幅された声で、城に立てこもる王族や王党派の生き残りに対する呼びかけを行ったのである。

 

 曰く、我らは真の神の力に触れて心を改めた、一度は逆らった我々を許して迎え入れてくれたレコン・キスタにこそ正義がある。

 堕落した王族よ、これ以上罪を重ねるな。

 降伏して城を明け渡せば、神の慈悲によって臣下たちの命は助かり、お前たちにも贖罪の機会が与えられることだろう。

 我らは仮にもかつての主君や友であった者たちと戦うことを決して望んではいない、……云々。

 

 つい昨日、生還期し難い任務を進んで引き受け、城を出た彼ら。

 忠義の鏡のようだった彼らが、一夜明ければ忠実な敵軍の臣下として前線に立っている。

 レコン・キスタ側としては、その現実を突きつけられた王党派の士気が萎えること、あわよくば戦わずして城を奪えることを期待したのであろう。

 玉砕を覚悟した兵たちの士気は高く、普通に攻めれば城を落とすにはそれなりの戦力を消耗することが考えられるから、無駄な出費は抑えるに越したことがないというわけだ。

 

 だが、王党派の者たちは、ディーキンらの説明によって既に事実を知っていた。

 彼らは自分たちの意志で裏切ったのではなく、死者の尊厳などはなんとも思わぬ悪魔どもによって、死後にその躯までも利用されているに過ぎないのだということを。

 

 かつての戦友や臣下、部下や上司に、場合によっては兄弟や父、息子や夫に、そのような扱いをされたのだ。

 哀れな傀儡たちによる説得は、これまでになく激しく王党派の義憤を燃え立たせる結果となった。

 

「許さん! こんな真似をした悪魔どもに一太刀浴びせるまでは、俺は死なんぞ!」

「ああ、死んであんな姿にされるくらいなら、俺は躯など残らなくていい。最後は爆薬を抱いて、敵を道連れに吹き飛んでやろう!」

 

「……あなたがたの怒りは、まことにごもっともです。しかし、憎悪に依って敵と戦ってはなりませんぞ」

 

 憤る兵たちのもとに先日招請されたセレスチャルが姿を現し、静かになだめる。

 不人情とも思えるほど冷静な言葉だが、しかしその声の調子には、心からの哀悼の気持ちがこもっていた。

 

 彼はまるで直立した熊のような姿をしているが、眼鏡をかけた青い澄んだ目には深い知性の輝きが宿っており、ルーンの刺繍されたローブを身にまとっている。

 しかも、その手には分厚い魔法書を携えていた。

 ガーディナルと総称される獣めいた姿をしたセレスチャルの一種別に属する、ウルシナルと呼ばれる種族である。

 

「ましてや、玉砕などしてはなりません。哀れみをもって戦うのです。去っていった魂のために祈りましょう、その残滓を躯から解き放つときにも。あなたがたが勝って生き残らなければ、誰が彼らを弔えるのです?」

 

 そう言って兵たちを落ち着かせながら、ワンドを振って、彼らに呪文によるバフ(強化)を施してゆく。

 そのワンドはディーキンが今日の戦いに備えて、ジンの商人から購入したものだった。

 ウルシナルはセレスチャルの中でも類稀なる魔法の使い手として名高く、今回の戦いでは主に必要に応じて各所を回りながら秘術呪文で味方を支援する役目を負っている。

 

 彼に限らず疑似呪文能力で自由に瞬間移動のできるセレスチャルたちは、原則として各自の持ち場は決まっているが、危急の用事がないときには頻繁に各所を回って何か問題がないか確認しつつ兵たちを激励することにしていた。

 そうすることで、兵たちは頼もしい味方が何か問題があればすぐに駆けつけてくれるという心強さを感じ、動揺することなく敵と戦えるのだ。

 

 

 

「……どう思われる? ここは、無視しておくべきなのだろうか……」

 

 ウェールズは城外から降伏を呼び掛けてくるかつての臣下たちの姿を見守りながら、やや後ろの方に控えるウィルブレースに、静かにそう問いかけた。

 一見すると冷静に見えるが、その声はかすかに震えているし、目には激しい感情が見て取れる。

 彼の傍では、父であるジェームズ一世も、沈痛な面持ちで顔を伏せていた。

 

 なんといってもヘイウッド卿は古くから王家に仕えてきた貴族であり、かつてウェールズに戦い方を指導してくれた教官の一人だったのだ。

 もちろん、他の者たちもみな、アルビオンの王族が何よりも誇るべき忠臣たちであった。

 その尊厳を踏みにじるような扱いを、許しておけるはずがない。

 

 できることなら今すぐ彼らを討ち取ることで邪な術から解放し、その躯を弔ってやりたかった。

 しかし、感情的になって戦うべきではないこともわかっている。

 敵の狙いの第一はこちらの士気を挫くことにあるのだろうが、こちらが激昂してどうせ玉砕は免れぬのだからと堅牢な城の守りを捨て、無謀な攻勢に出るようならそれもそれでよしと考えるだろう。

 野戦になってしまえば、数で圧倒的に劣るこちらには太刀打ちする術などないのだ。

 かといって、何もしないで無視を決め込んでいれば、兵たちの中には耐えかねて飛び出してしまう者なども出るかもしれない……。

 

 王族である彼が自ら決断を下すのではなくウィルブレースに意見を求めたのは、一つには彼女を信頼しているから、そしてもう一つには、今の自分が冷静でないことを自覚しているからなのだった。

 

「……そう、ですね――」

 

 ウィルブレースはしばし目を伏せて、努めて気持ちを落ち着けながら思案を巡らせた。

 

 彼らは普通に戦うだけでは倒せない、再生能力を持つ厄介な敵らしいと聞いている。

 そのような敵に対しては個別に対応せねばならないが、一旦戦いが始まれば、乱戦の最中であちこちに注意を払うのは容易ではない。

 できることなら今のうちに、まとめて討ち取っておきたいところだ。

 ディーキンからの情報によると、彼らはこちらの『水』の魔法で動いている可能性が高く、それを解呪すれば倒せるだろうとのことだったが……。

 

 そのとき、後方で俯いていた国王が、何かを決意したような表情で、ぐっと顔を上げた。

 

「ウェールズよ、何も迷うことはない。ここは、我らが――」

 

 それとほぼ同時に、ディーキンからウィルブレースに、《レアリーのテレパシー結合(レアリーズ・テレパシック・ボンド)》を通して連絡が入る。

 

『ウィルブレースお姉さん。ルイズならあの人たちをまとめて倒せるって、デルフが言ってるよ!』

 

 

 

 ディーキンはそのとき、城内の別の場所で、自分の出番に備えて待機していた。

 

 彼の傍らでは、シエスタの携えるデルフから助言を受けたルイズが大急ぎで始祖の魔法書をめくり、新しい『虚無』の呪文を読み込んでいる。

 彼女が指にはめた“風のルビー”と魔法書のページとが白い輝きを放ち、防御系魔法の基本にして奥義たる『ディスペル』の呪文が、白紙の上に新たに姿を現したのだ。

 それこそが『水』の先住魔法によって操られた死人との戦いでの切り札になると、デルフは昨夜のうちにそう話していた。

 

 もっとも、ディスペル系統の呪文はディーキンも使えるし、セレスチャルの中にもそういった能力を持つものはいる。

 とはいえ、敵の数はかなり多い……、おそらくはこちらに降伏勧告をさせるために、これまでの戦いで討ち取られて敵側の傀儡として蘇らされた者たち全員が集められたのだろう。

 一度に全員を倒すのはやや難しいかもしれないし、手間取っているうちに後方のデヴィルたちに事態を悟られるような危険はなるべく避けたい。

 

 その点、ルイズの『虚無』ならば、確実に敵の傀儡を全員巻き込んで一度に倒すことができるだろうと思えた。

 

 これまでにディーキンが見てきた限りでは、『虚無』が優れているのは、なんといっても非常に広範囲にまとめて効果を及ぼせるという点だ。

 長い詠唱を要するために一対一の戦いで用いるにはまったく不向きだが、広範囲に作用して一撃で戦況を変化させうるそれは、まさに戦場で用いるのに特化したような代物だった。

 事実、デルフによれば、始祖ブリミルは『虚無』の呪文の多くをエルフたちとの戦の中で編み出していったのだという。

 ただ、それだけ強力であるがゆえになるべく力を温存してここぞという時に使ってもらいたいというのもまた事実で、今が使うべき時なのかは判断に迷うところだが……。

 

 そこへ、ウィルブレースからテレパシーによる返事が返ってきた。

 

『ディーキン、今の話をもう少し詳しく聞かせてください。陛下や皇太子にも別のお考えがあるようで、情報の交換が必要です』

 

 

「どうした、堕落した王族どもよ! 城に閉じこもったまま震えているのか。そんなに自分たちの命を惜しんで、臣下たちを道連れにするつもりなのか!」

 

 城外では昨日死んだはずのマーティン・ヘイウッド卿が、風魔法によって増幅させた声で王族をしきりに詰っていた。

 昨日までの彼とまったく変わらない外見……、いや、むしろ肌は以前よりさらに瑞々しくなり、活力に溢れているようにさえ見える。

 だが、たとえそうであっても、それはかつて王家の最大の忠臣の一人であった彼を知る者にとっては別人としか思えないような姿に違いなかった。

 

 それも当然のことで、彼らは“アンドバリの指輪”と呼ばれる旧き『水』の力を宿した伝説のマジックアイテムによって偽りの命を吹き込まれ、反乱軍の首魁・クロムウェルの操り人形に成り果てているのだった。

 指輪は元々はタバサの実家からほど近いラグドリアン湖の底で水の精霊に守られていたのだが、それをガリア王ジョゼフの腹心であるシェフィールドらが掠め取ってクロムウェルに与えたのだ。

 そのために水の精霊は奪われた指輪を見つけ出そうとして湖を増水させはじめ、周囲に被害を及ぼしつつあったが、それは今は関係のないことである。

 

 アンドバリの指輪で蘇った死者は、かつての姿と技能、そして記憶をそのまま留めている。

 彼らはかつての自分が何者であったかを知っているが、しかし、それはまるで関心のない絵画をただぼんやりと眺めているような遠い感覚でしかない。

 傀儡となった者たちの心には主である指輪の所有者に対する服従以外のいかなる欲求もなく、他のすべては現在無関係なのだ。

 

「王族どもよ、それほどまでに命が惜しいのなら――」

「……かつての哀れな忠臣たちよ。もう止めよ。それ以上、虚ろな声で鳴かずともよい」

 

 突然城内から響いた声に、後方で待機していたレコン・キスタの兵たちははっとして、互いに顔を見合わせた。

 

 ヘイウッド卿ら傀儡たちには何の感慨もなかったが、その声がかつての主君であるジェームズ一世のものだということはわかったので、呼びかけを一旦止めた。

 返答の内容を確かめねばならないと、クロムウェルの代理である軍の司令官に命じられていたからだ。

 

「痛々しくて、余はもはや聞いてもおられぬ。我らアルビオンの王族が力及ばなかったがゆえに、卿らをそのような姿にしてしまったのだ」

「然り。この上は我らの手で解放することで、せめてもの詫びとするのみだ。アルビオンの王族が、臣下の陰に隠れているだけの臆病者ではないことを見せてやろう!」

 

 王に続いて、ウェールズ皇太子の声も響く。

 それに続いて、城壁を『フライ』の呪文で飛び越えて彼らが姿を現したとき、レコン・キスタの誰もが己の目を疑った。

 

 王族である彼らが、自ら城を出て率先して前線で戦おうというのか?

 彼らが連れている従者は、侍従のパリーを始め、古くからの忠臣を主とするわずか数名のメイジだけだった。

 しかも、ジェームズ一世は老齢で弱っており、とても戦えるような体ではなかったはずだ。

 事実、城壁を飛び越えるときでさえ侍従のパリーに掴まっており、まともに呪文を唱えることさえできないのではないかと思えた。

 

 レコン・キスタの兵たちは、ざわざわと憶測を囁き交わし合った。

 

 よもや本物ではないだろう、影武者がいたのだろうか?

 いや、もはや玉砕を避けられぬと覚悟し、残る兵たちの指揮を放棄してでも真っ先に戦って散ろうというのではないか?

 

 それとも、もしかしたら。

 いやいや、あるいは……。

 

 

 

 レコン・キスタの兵たちは、攻撃を受けないよう城壁からまだ大分距離を置いて布陣していた。

 彼らの動揺をよそに、一同を代表してウェールズが反乱軍の先頭に立っているヘイウッド卿らと離れて向かい合い、ぐっと胸を張って宣言する。

 

「さあ、哀れなるかつての友たちよ。始祖が真に我らを見限ったのか、それともレコン・キスタこそが幻に踊らされているのか。我らの戦いが、それを明らかにしてくれるだろう!」

「後に控えるレコン・キスタの有象無象どもよ! 戦士としての誇りがいささかなりともあるならば、この戦いに手を出してはならぬぞ!」

 

 続いてパリーが、敵軍を睨んでそう声を張り上げた。

 老齢の身とは思えぬ、力強い声だった。

 ジェームズ一世も、先程まで弱々しくパリーに掴まっていたのが嘘のようにぐっと背を伸ばして一人で立ち、堂々と敵を見据えている。

 

「……しばし待たれよ」

 

 ヘイウッド卿はいささかの感慨も見せずにそう言うと、後方に控える司令官の『ル・ウール候』に指示を仰ぐように伝令を出した。

 

 別段、かつての主君をその手で討ち取るのを躊躇ったわけではない。

 指輪の傀儡と成り果てた者たちの心にはいささかの揺らぎもなく、そんな気持ちは微塵もありはしない。

 ただ、ウェールズらの挑戦を受けるべきか、突っぱねて問答無用で討ち取るべきかは、傀儡に過ぎぬ彼らの判断するべき事柄ではなかったのだ。

 

 

「……ほう、王族どもが挑戦を?」

 

 ル・ウール候は、報告を聞くといつものように穏やかで魅惑的な微笑みを浮かべた。

 内心では、愚かなことをと彼らの行いを嘲笑っていたが。

 

 報告によれば、国王らはわずか数人の供しか連れておらず、しかもその多くは古くからの忠臣で老齢の身だという。

 対してヘイウッド卿らはその数倍の人数であり、各々が腕利きのメイジなのだ。

 しかも、彼らの弱点を補うために、少々の火では堪えぬようあらかじめ対策も施してある。

 

「堕ちた王族が自暴自棄となって、せめて華々しく散ろうというのだね。望みどおりにして差し上げるのがよかろう」

 

 ここは突っぱねて心の狭さを見せるよりも快く応じて正面から堂々と戦ってやればよい、結果は見えているのだから。

 最後は華々しく戦って散ろうなどというのは、所詮は何の益もない自己満足に過ぎない。

 この勝利を見れば、兵どもは我らの正しさをますます確信することだろう。

 背後のニューカッスル城も、主君らが討ち取られれば、あるいは観念して開城するやもしれぬ。

 

 人間の『覚悟』など、デヴィルにとっては甘いデザートのようなものなのだ。

 

 

 

「始祖ブリミルよ、どうかジェームズ陛下とウェールズ殿下とをお守りください……」

 

 ルイズは、城壁の奥から遠く彼らの姿を見つめながら、指輪をはめた手を組み、魔法書を膝において、始祖に祈った。

 今は、祈る以外にできることがないのが悔しかった。

 自分の『虚無』は、彼らがこれから戦わねばならぬ敵を打ち倒せるはずだったのだ。

 

 だが、彼らと戦うのは自分たちでなければならぬと、ジェームズ、ウェールズが強く望んだのである。

 それは決して、玉砕を覚悟したからでも、怒りに駆られたからでもない。

 勝つためにこそ行くのであり、勝算があるからこその行動なのだと、二人は言っていた。

 最後まで忠義を尽くしてくれた臣下たちに対する王族としての義務であり、このような非道で姑息な手で勝利を得ることはできないとレコン・キスタの兵たちに知らせてやらねばならないのだと。

 

『君の力がどのようなものであれ、この後のために取っておいてもらいたい。まずは我々この国の王族が、レコン・キスタに冷や水を浴びせてくるよ』

 

 そしてディーキンやウィルブレースも、その意思を支持したのだ。

 ルイズとしては、この後のためなのだからと自分に言い聞かせて、納得するしかなかった。

 

 だが、彼らに万が一のことがあったらどうしよう、王族である彼らが命を落とすようなことになったら取り返しがつかないではないかと思うと、不安にもなる。

 城内に残る他の兵たちも、みな同じ気持ちだろう。

 主君が戦っているというのに、自分たちは手出しをできないというのだから。

 

「ミス・ヴァリエール、大丈夫ですわ。きっと」

 

 シエスタが、そう言ってそっとルイズの肩に手を置き、彼女を慰めようとした。

 

「始祖が、必ずやあの方々をお守りくださいます。それに今は、頼もしい方もお傍についておられるのですから……」

 




ウルシナル・ガーディナル:
 身の丈2メートル半ほどの直立した熊のような姿をしたセレスチャルであり、慈悲深く賢い。
彼らは多くのセレスチャルと同様に多彩な疑似呪文能力を備えているが、それとは別に12レベルのウィザードとして本物の呪文を発動することもできる、真の魔法の使い手である。
ウルシナルは学者にして哲学者であり、故郷であるエリュシオンの次元界ではガーディナルの指導者であるレオナル(獅子に似た姿をしたセレスチャル)たちに助言者として仕えているが、彼ら自身の力もレオナルに引けをとらないものがある。
 ウルシナルはサモン・モンスターⅨの呪文で招来することもできるが、招来呪文の持続時間はごく短い。
本文中の個体はプレイナー・アライ系の呪文によって招請されたものである。

招来と招請の違い:
 召喚術によって招来されたクリーチャーはヒット・ポイントが0以下になれば消滅するが実際に死ぬわけではなく、24時間で姿を取り戻して本来いた場所に送り返される。
そのため、多くのクリーチャーは招来には比較的気軽に応じる。その間は召喚者のほとんどの命令に服従し、自殺的な要求にも従う。
ただし、招来されているクリーチャーはその間自分自身の生得の招来能力を用いることができず、経験点消費のある呪文やそれに相当する疑似呪文能力を使用することはいかなる場合でも拒否する。
クリーチャーを招来する呪文や能力の持続時間は、大抵の場合はごく短い。
 対して招請呪文は、クリーチャーを実際に呼び寄せる。そのクリーチャーは持っているすべての能力を使うことができるが、殺されれば本当に死んでしまう。
そのため、大抵のクリーチャーは招請に応じることには慎重になり、明らかに自殺的な要求には通常は応じない。また、ほとんどの場合に奉仕の見返りとして何らかの報酬を要求する。
招請されたクリーチャーは交わされた契約を果たすまでの間留まり、その後元居た場所に帰還する。


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第百二十九話 Kings and their ministers

 ヘイウッド卿をはじめとする“アンドバリの指輪”の傀儡たちは、ル・ウール侯からの指示を受けて、決闘に応じることを承諾した。

 

 浮遊大陸アルビオンの岬の突端に位置するニューカッスル城へは、一方向からしか道が通っていない。

 そのただ一つの経路に密集して押し寄せているレコン・キスタの軍の先頭に、やや突出して数十人の傀儡たちが並んだ。

 そこからいくらかの距離を置いて、ニューカッスル城の城壁を背にアルビオンの王族二人と数人の供の者たちとが堂々と立ち、彼らに対峙する。

 

「頃合いを見計らって、城内から合図のラッパを吹かせる手筈になっている。その音が響いた時が戦いの始まりだ」

 

 ウェールズがそう提案し、傀儡たちも特に異を唱えるでもなく承諾する。

 城外の者たちも城内の者たちも、みな固唾を飲んで、間もなく始まるであろう戦いの時を待った。

 

 ややあって、城内から空気を震わせる大きなラッパの音が響く。

 

 それと同時に、傀儡たちは素早く行動に移った。

 一部の者たちが杖に『ブレイド』や『エア・ニードル』をまとわせて敵に突撃し、他の者たちは左右に散開して、『エア・カッター』や『マジックアロー』などの攻撃呪文を後方から放つ。

 

 ここは人数の優位を活かして正面から一気に攻め潰すのが最善だと、彼らは生前の知識に基づいて判断したのである。

 敵側は数の上で圧倒的に劣り、小細工などを弄する暇さえ与えねば勝利は確実だ。

 直接斬り込んでくる腕利きの戦士たちと、様々な角度からほぼ同時に飛来する複数の攻撃呪文。

 十人にも満たない人数で、そのすべてに対処しきることは到底できまい。

 

 敵が動くのとほぼ同時に、王党派の勇士たちもまた動いていた。

 

 パリーら比較的老齢の忠臣たちは、国王と皇太子とを守るように彼らの周りに留まり、杖を抜いて飛来する攻撃呪文を迎撃にかかった。

 彼らに守られながら、王族の父子は互いの杖を重ね合わせるように高く掲げて、呪文を詠唱し始める。

 一行の中では若手の部類に属する者たちが、剣状の杖を手に彼らの前に進み出て、斬り込んでくる敵を迎え撃とうとした。

 

 しかし、迎撃しようと進み出た者たちに対して、突撃してくる敵の数は倍近くもいる。

 

 心を失っているにもかかわらず……、いやむしろ、心をかき乱す様々な雑念が消えてただ一つの目的のみのために動いているが故にこそ、指輪の傀儡たちの動きは生前にも劣らず洗練されており、連携も巧みだった。

 こちらを迎撃しようとしている敵に、それぞれ一人ずつがあたって抑え込む。

 その隙に残った者が突破して後方の老臣どもを斬り刻んでしまえば、守る者のいなくなった王族二人も終わりだ。

 彼らは素早くそう計画を立て、遅滞なく役割分担して行動に移った。

 

 ――しかし。

 

 双方の戦士たちが斬り結ぼうとしたまさにその時、狭い範囲に集中した彼ら全員を巻き込んで、どこからともなく不可視の『解呪』の力が炸裂した。

 その瞬間に、傀儡たちを操る魔力の糸がぷっつりと切れ、彼らの意識と共にその偽りの命も途切れる。

 

 直後に彼らの体を眼前の勇士たちの放った刃が斬り裂き、剣杖が貫いていたが、ただの屍に戻った傀儡たちはもはや何も感じることはなかった。

 

「……お、おおっ!?」

 

 戦いの推移を見守っていたレコン・キスタ陣営の兵たちが、どっとざわめく。

 

 それは無理もあるまい、数で圧倒的に勝り、勝利はまず確実かと見えたこちらの戦士たちが、一瞬の交錯の間に全員敵の刃に貫かれて地面に崩れ落ちたのだから。

 まるで、かつての仲間を斬る寸前に自ら動きを止めて、無抵抗で貫かれたように彼らには見えた。

 しかも、これまでは傷つき倒れてもすぐに立ち上がり、不死身かと思えた者たちが、それきり起き上がってこようとしない。

 中には敵に斬られる前から既に地面に崩れ落ちそうになっている者もいたのだが、いくらか不自然を感じた程度の者はいたにせよ、何が起こったのかはっきりと気付けた兵はいなかったようだ。

 

 別段彼らの目が節穴なわけではなく、それは至極当然のことであった。

 

 ハルケギニアにおいてディスペル系の呪文は知られておらず、炸裂した力は不可視であり、しかも彼らはかなりの距離を置いて見ていたのだ。

 おまけに使われたのは呪文ではなく、詠唱も動作もなく放たれる擬似呪文能力であった。

 何十何百の兵がその場面を目撃していようとも、誰一人として何が起きたのかなど気付けようはずがない。

 

(……よし)

 

 傀儡たちを指輪の支配から解放した張本人であるウィルブレースは、ほっと胸を撫で下ろしていた。

 

 彼女はあらかじめ《物体変身(ポリモーフ・エニィ・オブジェクト)》を自分にかけて人間の姿に化けており、念のためフードを目深に被った上で、パリーらに混じって一行に加わっていたのだった。

 そして、何が起きたのか気取られないよう、また一度にまとめて倒せるように、敵をこちらの勇士たちと斬り結ぶ直前まで引きつけてから解呪の力を放ったのである。

 敵が《魔法解呪(ディスペル・マジック)》に弱いということは聞いていたものの、実際に試すのは初めてだったので本当に効くのか、効くとしても全員を一度に倒せるのかやや不安があったのだが、どうやら上手くいったようだ。

 

 だが、斬り掛かってきた戦士たちは倒したとはいえ、まだその後方から放たれた攻撃呪文群が残っている。

 

 王党派のメイジたちが『アイス・ウォール』などの防御呪文を用いて呪文詠唱中の王族を守ろうとしているが、所詮は多勢に無勢。

 短い詠唱で放てるドット・レベルの呪文ばかりだとはいえ、自分たちの数倍の数のメイジが一斉に放った攻撃は、到底防ぎきれるものではあるまい。

 彼らを包み込む防護膜に攻撃呪文が次々に炸裂して唸りをあげる様子を見て、レコン・キスタの兵たちは勝利を確信した。

 

 しかし……。

 

 一連の攻撃が炸裂し終わり、視界を遮る呪文の残滓が消え失せたとき。

 そこには王党派の勇士たち全員が、依然として無傷のままで、堂々と立っていたのである。

 

 これもまた、ウィルブレースの仕業だった。

 彼女はウェールズらの傍に留まることで、彼らを自分の《防御のオーラ》の範囲内に収め、防ぎきれなかった攻撃呪文から守っていたのである。

 

「なっ……!?」

 

「おお!」

 

 レコン・キスタの兵たちはみな自分の目を疑い、王城に残った兵たちは一斉に大きな歓声をあげた。

 

 呪文がオーラによってかき消されるところは、他のメイジたちが周囲に作り出した様々な防護膜が覆い隠してくれていた。

 それゆえ遠目に見ている兵たちには、防護膜がすべての呪文を防ぎきったように見えたのである。

 数の上で圧倒的に劣る、しかも老齢のメイジたちがそれを成し遂げたのだという思いは、彼らの心を強く揺さぶった。

 

 そして、その驚きも冷めやらぬうちに、更なる衝撃が彼らを襲った。

 詠唱を続ける二人の王族の体から、突如として凄まじい魔力が湧き出してきたのだ。

 

 父であるジェームズ王が『火』の三乗、そして息子であるウェールズ皇太子が『風』の三乗。

 両者の詠唱は干渉しあい、巨大に膨れ上がる。

 先程防がれた呪文の多段攻撃も、それを防いだ防護膜も、まるで比較にならぬほどの巨大な凄まじい炎の竜巻が、彼らの周りをうねり始めた。

 二つのトライアングルが絡み合い、竜巻の中で炎が巨大な六芒星を描く。

 

 残った傀儡たちはその呪文を阻止しようとさらに攻撃呪文を繰り出したが、もはやパリーらが防ぐまでもなく、彼らの周囲を守るように渦巻く竜巻にあっけなくかき消されてしまう。

 まるで、勢いよく燃え立つ暖炉の火に水滴を散らすようなものだった。

 この凄まじい炎の竜巻をまともに受けたなら、監視塔や小さな砦程度は衝撃でたちまち崩れ、そこから侵入した業火に内部のものすべてが焼き尽くされることだろう。

 

「な。なんだ、ありゃあ!?」

「……ま、まさか。あれはまさか、噂に聞く……!?」

 

 そう、まさにこれこそが、王家にのみ許された切り札である『ヘクサゴン・スペル』に違いなかった。

 

 通常は、このように完全に息の合った詠唱を行って複数のメイジが呪文を合体させるなどということはまずできない。

 しかし選ばれし王家の血筋が、それも互いに気心の知れた父子の絆が、それを可能にしている。

 古くより伝わる秘伝の技ではあったが、実際に用いられることはごく稀であり、その存在すら知らない者、単なる噂話に過ぎないと考える者も多い。

 半ば伝説と化していたその呪文が、今こうして、目の前に姿を現したのである。

 

 レコン・キスタ陣営の将兵たちは、その恐るべき光景に戦慄を覚えた。

 同時に、あの蘇った勇士たちが不死身であり、無敵であり、必勝であるという安心感も、畏怖の念も、兵たちの中から急速に消え失せていった。

 それ以上の大いなる伝説の力を、彼らは今、こうして目の当たりにしたのだから……。

 

(まだ、倒れるわけにはゆかぬ……!)

 

 事前にディーキンらの呪文による強化を受けてもなお、呪文の反動で老いた身体のあちこちが軋み、悲鳴を上げていた。

 無理もない、この合体呪文は非常に難度が高く、王族の中にも編むことができぬ者が多いのだ。

 事実、彼自身も若い頃に父と訓練した時ですら、成功させるのが難しかった。

 

 それでも、ジェームズ一世は歯を食いしばって詠唱を続けた。

 アルビオンの国王として、たとえ体が千切れ飛ぼうともこの呪文だけは成功させる覚悟だった。

 

「……さらばだ、かつて忠臣であり、友であったものたちよ」

「先に待っていてくれ、余も遠からず逝こう。いずれまた、ヴァルハラで会おうぞ……!」

 

 ウェールズ、ジェームズは、最後にそう言葉をかけると、ついに完成したヘクサゴン・スペルを解き放った。

 まるで、ニューカッスル城の前に巨大な赤い塔が出現したかのようだ。

 炎の塔は激しく唸りを上げてうねり渦巻きながら、眼前の敵すべてを呑み込まんと、驚くほど速く襲い掛かっていく。

 

 傀儡たちはある程度散開していたが、その巨大な塔には間違いなく彼ら全員を巻き込むだけの大きさがあった。

 ニューカッスル城のある岬の先端へ向かうほどに細くなっていく一本の経路の上では横に避けられるような余裕はなく、呪文で宙へ逃げたとしても木の葉のように竜巻に吸い込まれるだろう。

 そして背後には、互いに押し退けあうようにしながら慌てて後退していくレコン・キスタの兵たちがいる。

 

 それでも、心を失った傀儡たちは指輪の命令に従って最後まで戦い続けた。

 ある者は竜巻を相殺しようと時間の許す限りで最強の攻撃呪文を放ち、またある者は風や土を使って防護膜を張ろうとする。

 

 もちろん、いずれも無駄な抵抗でしかなかった。

 

 放たれた『ジャベリン』は渦巻く炎に触れることすらできずに一瞬で蒸発し、『アイス・ストーム』は竜巻に吹き散らされて消えた。

 傀儡たちは弱点である火を防ぐためにあらかじめデヴィルらの呪文によってある程度の抵抗を付与されていたが、そんなものはいささかの役にも立つまい。

 紙の盾で銃弾を防ごうとしたり、水で濡らしたシーツを頭から被っただけでドラゴンのブレスを受けたりするようなものだ。

 ドットやラインの火ならばともかく、これほど凄まじい業火に対しては、完全耐性でない抵抗などはまるで意味を成さない。

 

 あらゆる呪文による防護が一瞬で吹き飛び、傀儡たちは次々に竜巻に呑み込まれて宙に巻き上げられた。

 体のあちこちが裂け、千切れ、炎が全身を包んで傷口から体内を焼き尽くしていく……。

 

(……お見事です、陛下。殿下も、強くなられましたな)

 

 死の間際、指輪に結び付けられた魔力の糸がヘクサゴン・スペルの炎によって焼き切られたのか、一瞬だけ心を取り戻したヘイウッド卿がわずかに微笑んだ。

 苦痛はなかった。

 彼にとっては、己の身を包む業火は自らの罪業を焼き尽くし、苦役から解放して天へ向かわせてくれる煉獄の清めの炎であり、祝福だった。

 

(今のお二人ならば、もはや、悪魔どもなどは、取るに足らぬ――)

 

 そこまで考えた時、ヘイウッド卿の肉体はついに焼き尽くされ、アルビオンの地表から消滅した。

 そしてその魂は、主君らの勝利を確信しながら、来世へと旅立っていった。

 

 

 

「……!? 何なのだ、あれは?」

 

 勝ちは決まっているようなものなのだから無駄に前線に出てわずかでも危険を冒すこともあるまいと、ル・ウール侯は後方でゆったりと決着がつくのを待っていた。

 そんな彼も、後陣からでもはっきりと見えるほど巨大な炎の竜巻が発生したことには、さすがに驚愕して思わず声をあげる。

 この伝説の名将がそのように動揺する姿を目にするのも、レコン・キスタの将兵にとっては初めてのことだった。

 

 周囲の将が、おそらくあれは王家に伝わるヘクサゴン・スペルであろうと、彼に進言する。

 

「ヘクサゴン・スペル―― ふうむ……」

 

 ル・ウールは鸚鵡返しにそう呟きながら、記憶を手繰った。

 そういえば、確かにこの世界の王族にのみ伝わる、そんな名称の特殊な詠唱法があると本で読んだような覚えがあるが……。

 

(よもや、これほどの威力だったとはな)

 

 文献には、ヘクサゴン・スペルは使い手によっては、また組み合わせる呪文の選択によっては、城ですら一撃で吹き飛ばしうるほどの威力にもなると書かれていた。

 その時は、古い書物の中の話ゆえに多分に大袈裟に書かれているのだろうと適当に読み飛ばしていたが、こうして実際に目の当たりにすると、それほど誇張されてもいなかったのかもしれぬと思える。

 この分では、あの傀儡どもは敗れてしまったかもしれない。

 

(忌々しいな……、まったく、ぞくぞくするほどに忌々しい!)

 

 ル・ウールは、自分の算段を狂わされたことに、少なからず憤慨していた。

 しかし同時に、それ以上の期待に胸を膨らませてもいた。

 

 これは、あの王族どもをなんとしても傀儡に変えねばなるまい。

 これほどの破壊力を持つ呪文を扱えるとなれば、戦略兵器として今後予想される戦いでも大いに役立つはずである。

 それだけの手駒を引き入れたとなれば、自分の功績もいや増すというものだ。

 

 伝令によって傀儡たちの敗北が伝えられた時には、ル・ウールは既にいつもの余裕を取り戻しており、穏やかな笑みを浮かべていた。

 

「なるほど、堕ちたとはいえ彼らは“英雄”のようだ。なればこそ、改心して従ってもらわねばなるまいね?」

 

 彼は、英雄を多少苛立たしく危険であり、いずれは有用な駒となり、最後には自分に手柄を運んできてくれるものとして捉えていた。

 

 

 

 ウィルブレースは、何か眩しいものでも見るかのように、神々しい瞬間に立ち会っているかのように、杖を下ろして黙祷を捧げる勇士たちを見つめていた。

 

(本物の英雄がいるときには、詩人はいつも脇役に過ぎない)

 

 詩人はせいぜいその真似事をして、間をつなぐだけだ。

 

 自分がいなくても、結局のところ彼らは勝ったことだろうと、ウィルブレースは確信していた。

 前衛を務めた勇士たちは、たとえ自分自身の体を刃の前に投げ出してでも、王たちが切り札を用意するまで敵の突破を食い止めたようとしたことだろう。

 後衛の老臣たちも、防ぎきれなかった呪文を自らの身で受けてでも、主君らを守ろうとしたはずだ。

 自分がいたことで犠牲が増えるのを防げたことは事実だろうが、たとえいなくても、最後にはやはり彼らは勝っただろう。

 

 同様に、ディーキンらの伝えた情報のおかげで彼らは敵とどう戦えばよいかがわかり、そのお陰で勝てたのだということも、確かに事実ではあろう。

 だが、実際に命をかけて戦い、そして勝ったのが彼ら自身だということも、また事実なのだ。

 

「……勝負はついた! レコン・キスタよ、この結果を見た上でなお我らと戦おうというのか、よく考えよ!」

 

 パリーは風魔法で増幅した声でレコン・キスタの兵たちにそう呼びかけると、今にも崩れ落ちそうになっている王に手を貸しながら、城内へと戻った。

 

 ウェールズやウィルブレース、その他のメイジたちも、後に続く。

 敵兵は少なからず混乱しており、帰り際に撃たれる心配などはまずなかった。

 よしんば撃たれたとしても、敵側は先程のヘクサゴン・スペルを避けるために後退して大きく距離が開いているため、十分に防ぐことができただろう。

 

(私は今、詩人としてこの場に立っているのだ。英雄の介添え人として、彼らの武勲を見届けるものとして) 

 

 この戦いが終わったら、また新しい英雄の歌を作らなくてはなるまい。

 それは、とても嬉しいことだった。

 

 ウィルブレースは、英雄を希望であり、やがて憧れとなり神話となる、永遠の友であるものとして捉えていた。

 



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第百三十話 Warriors

 不死身であるはずだった蘇りし勇士たちの、あっけない敗北。

 そして、始祖の加護を失ったはずの王族が、その始祖によって授けられた奥義であるヘクサゴン・スペルを用いたこと。

 目の前で展開されたそれらの光景に、レコン・キスタの兵たちは少なからず動揺していた。

 

 一方で、ニューカッスル城を守る王党派の兵たちの士気は最高に高まっていた。

 自分たちの従う王と皇太子が自ら先陣を切り、伝説の奥義でもって見事な勝利を収めて見せたのだから、それは当然だろう。

 今ならば、押し寄せる敵が数万であろうが、数十万であろうが、臆することなく戦い抜けるはずだ。

 

 それでも、もちろん反乱軍の側が降伏や停戦を申し出ることなどはありえなかった。

 

 こちらの軍勢が数万を数えるのに対して、敵はわずかに数百なのだ。

 勝利を目前にしているというのに、どうして戦いを放棄する必要があろう。

 今さら予想外の敗戦が少々起こった程度のことで、大勢に影響があるはずがない。

 

 あるはずがない、のだが……。

 そうは言っても、士気は大きく衰えていた。

 

 少し前までは落城寸前のニューカッスル城への一番乗りを目指して率先して城門へ突撃していきたがる兵も少なからずいたのだが、今は誰も先陣を切りたいとは思わなかった。

 もしまたあのヘクサゴン・スペルが飛んでこようものなら、最前線に出ている兵には逃げる暇はあるまい。

 もう少しで勝利の美酒が味わえると期待していた時に、どうやら無事に家族の下へ帰れそうだと安堵していた時に、命を捨てに行きたがる兵などそうそういるはずがないのだ。

 

「どうした? あの者たちは、一度は神に歯向かった身ゆえに加護が薄かったのだろう。君たちは違うはずだ。さあ、勝利を信じるなら戦いたまえ!」

 

 それでも、指揮官であるル・ウール候からのそんな激励を受けて、将官は兵たちに開戦の命令を下した。

 この伝説に名を残す名将の指揮の下で、これまで彼らは連戦連勝を続けてきたのだから。

 

 兵たちは戸惑いながらも、その命に従って攻撃を開始する。

 彼らはまず、遠距離から大砲などの攻城兵器を用いて砲撃を仕掛け、城壁を崩そうとした。

 どこかに穴を開けることができれば、先程の恐ろしい炎の竜巻が飛んでくる前に、そこから一気に突入できるだろうというわけだ。

 

 しかし、攻城兵器のうちで城のごく近くまで進めてあったものは、先程のヘクサゴン・スペルに破壊されてしまっていた。

 そして、敵の射程範囲に入っていることが証明されたその位置まで、進んでもう一度大砲を運ぼうとする将兵はいなかったのである。

 

 そんな腰の引けた戦い方は、まずはウィルブレースの事前の仕込みによって敵の弾薬が枯渇するまでの間耐え凌ごうと考えている王党派にとっては好都合だった。

 明らかに遠すぎる間合いからの威力の衰えた砲撃では、そうそう堅固な城壁を破れるものではない。

 ニューカッスルを守る守備兵たちは、数の上では劣勢と言えども、ウィルブレースが運び込んでくれた豊富な弾薬を用いて十分に応戦することができた。

 

 ディーキンが渡したワンドを用いて、ウルシナル・ガーディナルが事前に《矢弾よりの保護(プロテクション・フロム・アローズ)》を施してくれていたため、多少砲弾の破片などを受けても兵たちは倒れない。

 防護を貫かれて手傷を負った兵が出ると、その者は後退して別の兵が代わりに配置につき、負傷者はセレスチャルの手当てを受けた。

 味方にはウィルブレースをはじめとして、回数無制限でキュア系の疑似呪文能力を用いることができるセレスチャルが含まれているため、死にさえしなければ何度でも全快して戦線に復帰することができるのだ。

 

「皆さん、大丈夫ですか!?」

 

 シエスタはそんな兵士たちの間を忙しく動き回り、時には彼らに代わって銃を手に銃眼についたりしながら、セレスチャルらと共に励ましの言葉をかけている。

 パラディンである彼女は時にはディーキンの渡したワンドを振るなどして治療や強化の仕事にも携わっており、何か神々しいオーラを身にまとっているようで傍にいるだけで不思議と勇気が湧いてくることなどもあって、平民であるにもかかわらず大いに敬意を払われていた。

 

 他のメンバーも、自分たちにできる限りのことをして、精一杯戦った。

 

 ディーキンやウィルブレース、眠れる者といった強力なメンバーは、城の内外を巡回し、緊急時にはテレパシーなどで連絡を受けて急行して、空から襲ってくる竜騎兵や、遊撃兵らしき上位のフィーンドなどといった、強力な敵の出現に対処した。

 そう言った連中に内部から守りを打ち崩されたり、王族の暗殺を謀られたりしてはたまったものではないから、どうしても警戒しておく必要があったのだ。

 

 ギーシュやロングビルのゴーレムは兵たちに混じって、武器を手に銃眼についた。

 射撃の精度では多少劣るかもしれないが、被弾を恐れずに済むため、死傷者を出さないことを最優先にしている兵たちよりも身を乗り出して効果的に攻撃できる。

 

 コルベール、キュルケ、タバサは、兵たちの傍に立って、主に飛来する弾丸や飛散する破片から呪文で味方を守った。

 また、招請されたセレスチャルたちは敵集団の中で特に優先的に狙うべき目標がいないか気を配り、たまにバーゲストや下級のデヴィルといったフィーンドが前線に姿を見せると、素早く指示を出してそちらへ火力を集中させるようにした。

 

 特に、コルベールの働きは目覚ましかった。

 

 一度、勇気を奮い起こした敵方のメイジが集団で前に出てこようとした時に、彼はロングビルに協力してもらって昨夜のうちに作っておいた兵器を発射したのである。

 それは彼自身が発明し、『空飛ぶヘビくん』と命名した画期的な代物であった。

 前方に『ディテクト・マジック』を発信する魔法装置を取りつけ、燃える火薬で推進する鉄の火矢である。

 おおよその目標地点を定めて発射すると、あとはその周囲で呪文が詠唱された際の魔力を捉えて誘導されるように仕組んであるのだ。

 

 数発立て続けに打ち込んだそのミサイル弾は敵方のメイジの杖を、それも強い魔力を持つ高ランクのメイジのものから先に、的確に狙い撃った。

 その精度にディーキンらは感嘆し、アルビオンの兵たちもみな舌を巻く。

 彼はメイジとして、また戦士として極めて優秀なばかりか、非常に優れた発明の才をも備えているようだ。

 もちろん、昨夜一晩だけで作れた数には限りがあり、そうそう何度も行える攻撃ではないのだが、その一度の攻撃だけで敵方の戦力をかなり削いだのは間違いなかった。

 堅固な城壁に語るに足るほどの打撃を与えるには少なくともトライアングル以上のメイジでなくてはならず、ドットやラインのメイジでは幾十人集まっても城壁を崩せるものではないから、敵メイジの集団のうち上位数名の戦闘力を奪えただけでも上々の成果である。

 それ以上に、これまでに経験したことのない未知の兵器であっという間に複数人のメイジが杖を奪われたことは、敵方の戦意と勇気を萎えさせたはずだ。

 

 それらに加えて、敵の攻撃目標にされやすい銃眼の配置を事前に変えておいたり、それを幻覚で隠しておいたりといった細かな仕込みも功を奏したようで、犠牲者が出ることもなく戦線は維持されていた。

 そうして耐え凌いでいるうちに、狙い通りレコン・キスタ側の弾薬は底を突きだしたようで、攻撃の手は次第に鈍くなってきた……。

 

 

「……火薬や火砲が使えなくなった、だと?」

 

「は、はっ。……開封した火薬樽に、不純物が混入していた痕跡が!」

「遠投投石機、弩砲、大砲等の兵器類の動作不良に関する報告が、前線の各所から相次いでおります」

「竜騎兵も、数騎が犠牲に。物資が枯渇していると見られていた敵方に予想外に多くの火砲が残されていたこともあり、このままでは城壁の突破は……」

 

 前線の将兵たちから次々と寄せられる報告に、ル・ウールは顔をしかめていた。

 

(一部ならばともかく、多くの場所で、それもこのような重要な決戦の最中に問題が発生するとは?)

 

 偶然とは到底考えられない、何らかの工作をされたに違いない。

 

 だが、いったい誰が、いつの間にそのような真似を。

 内部からの裏切り者か、それとも外部からの侵入者なのか。

 

 あの信用ならぬユーゴロスの傭兵どもが、もしや裏切ったのだろうか。

 連中の派遣した遊撃兵が城に攻撃をかけているはずだが、成果が上がったという報告がいまだに届いていない。

 しかし、この状況で、敵方につく利益があるとも思えないが……。

 

 ヘイウッド卿らは先日、透明化して軍内部に潜入し、自分に直接攻撃をかけてきた。

 彼ら以外にも、王党派の潜入工作員がいたのだろうか。

 だが、指輪の傀儡となった彼らに聞いた限りでは、そんな計画があったという話は出てこなかった。

 

 あるいは、同じデヴィルの中に、自分を陥れようと謀った者がいるのかもしれない。

 それが最も可能性が高そうにも思える。

 思えば、完全に追い詰められて打つ手なしと見えた王党派の連中が、突然ヘクサゴン・スペルなどを持ち出してきたことも不自然だ。

 

(もしや、私を失脚させようとして情報を流した者が、内部に……)

 

「――司令? いかがいたしますか?」

 

 猜疑心にかられていたル・ウールは、部下の問いかけで我に返り、それを問うのは後だと思い直した。

 

(どうあれ、まずは目の前の戦いに勝たねばならぬ)

 

 一旦退くということも考えたが、前々から既に、今日のうちに王党派を落とすと宣言してしまっているのだ。

 それができずに無様に撤退したとなれば、兵どもの士気にかかわるし、自分たちが神の使いであることを疑いだす者も出てくることだろう。

 

 そのことが元で上から責任を問われる破目になるなどという事態は、なんとしても避けたかった。

 自分を陥れて失脚させようとしている者がいるのであれば、なおさらのことだ。

 そいつの期待通りになど、断じてなってやるものか。

 

「……そうだね。我が軍は少々苦境に陥っているようだ。おそらくは、神が君たちの信仰を試されているのだろう」

 

 ル・ウールは内心の不快さを押し殺して、精一杯いつも通りの穏やかな顔を繕いながら、そう言った。

 

「なればこそ、どうあってもあの城は落とさねばなるまいよ。諦めて引き下がるわけにはいかない」

 

 その答えを聞いて、将官たちは顔を見合わせる。

 そんな中で、ホーキンス将軍が率先して進み出ると意見を述べた。

 

「……はい。しかし、大砲が使えぬのでは、あの城壁を打ち破ることは難しいかと。まだ穴も開いておらぬ城壁に向けて突撃せよと、兵たちに命じるわけにはいきませぬ」

 

 それを聞いて、他の者たちも同意の声を上げる。

 

「そうです、敵の的になりにいけというようなものです」

「呪文で城壁を攻撃させるにいたしましても、同じことで。それに、なにぶん先程のヘクサゴン・スペルや何かを見て、誰もが少なからず怯えておりますゆえ」

 

 ル・ウールはにこやかな顔をして頷きながら、どうしたものかと考えていた。

 

「もちろん。私も無理を言う気はないよ、信仰とは死にに行くことではない。たとえ、死後に神の御許に召されるにしてもね……」

 

 この将官どもの言うことは、まあもっともだ。

 数を頼んで攻めるよう強要すればやってやれぬことはないだろうが、犠牲も増えるし、そうして信望を失えば後々に障りが出かねない。

 

 ならばクロムウェルらの控える後方の軍に使いをやって、新しい弾薬や攻城兵器類を補給してもらうという手もあろう。

 しかし、これほど圧倒的な状況で背後の味方に助けを求めるというのもためらわれる。

 それでは、自分の能力にケチをつける機会を与えるようなものではないか。

 後方の連中の中に自分を陥れようとした者がいるのだとすれば、それこそそいつの思う壺というものだ。

 

(ここは、火器などに頼らずとも戦える戦力を投入するべきだろう)

 

 そう判断すると、ル・ウールは巨人たちに前線で城壁を攻撃させるようにと指図した。

 トロール鬼やオグル鬼の投石ならば、多少時間をかければ十分に城壁を打ち崩せることだろう。

 

 ユーゴロスの傭兵など、フィーンドの部隊を投入してもいいのだが……。

 先程の竜巻を見た後では、利己的で保身に長けた連中のこと、率先して前線に立つなどという仕事は引き受けたがるまい。

 そして、自分たちデヴィルの部隊は、被害を受ける可能性を考えれば消耗させたくない。

 

 こういったときにこそ、消耗しても痛くない愚か者の部隊というのは重宝なのだ。

 

 

(……来たか!)

 

 伝令兵から城壁を攻撃せよとの指示を伝えられたトロール鬼の若頭は、ウートガルザの使いが伝えた時がやってきたのを悟った。

 レコン・キスタの兵たちが大砲などの兵器による攻撃をできなくなったらしいことは、先程から見て取れていた。

 

「ああ。わかったと、伝えろ」

 

 そう言って伝令兵を追い払うと、若頭は仲間たちと顔を見合わせて頷き合う。

 

 次の瞬間、トロール鬼の集団は命令通り城壁へ向かう代わりに一斉に踵を返し、戦場から逃走し始めた。

 やや遅れて、オグル鬼の集団も同じように戦線を離れ始める。

 

 突然戦線放棄して、足元の人間を構わず蹴散らしながら逃げだした巨人たちを見て、レコン・キスタの兵たちは肝を潰した。

 

「……? な、どこへ行く、巨人ども! 止まれ、止まらんか!!」

 

 傍にいた将官が杖を振り回しながらそう叫んだが、巨人たちは目もくれない。

 制止しようにも、敵に弾を撃つための火薬すら尽きかけている彼らにはどうする術もなく、指をくわえて見送るしかなかった。

 

 図体の大きな巨人たちの逃げ出す様は、かなり離れた場所からでも、嫌でも目につく。

 味方の頼れる戦力が離脱したことでレコン・キスタの兵たちの士気がまた下がったが、その様子を見ていたのは人間の兵だけではなかった。

 

「……おい、巨人の連中が逃げ出したぞ?」

「人間どもも、さっきから大砲を撃たない。何かおかしくないか?」

 

 オーク鬼たちが、顔を見合わせてひそひそと話し合う。

 

 彼らは元々、戦場で得られる略奪品や、食料……つまりは、敵味方の軍の屍……が目当てで参戦していたのだ。

 人間同士の殺し合いや大義名分なんて、知ったことじゃない。

 雲行きが怪しいとなれば、レコン・キスタに忠義を尽くす気なぞは毛頭なかった。

 

「残りは、あの小さな城だけだ。どうせ、中にある宝なんて、たかがしれてるぞ」

「巨人がいなくなったら、次は俺たちに突撃しろと言い出すに決まってる。さっきの竜巻が、また来るかもしれねえ」

「前の城を襲うよりも、今なら後ろの陣地には留守番の兵もほとんどいないはずだぜ。取れるものを取って、今のうちにおさらばした方がいいんじゃねえか?」

「こいつらには敵に撃つ弾もないんだ。今なら、後ろから撃たれる心配もないぜ」

 

 オーク鬼たちの決断は、早かった。

 

 彼らは人間の兵のように、大義名分やバカげた名誉などに縛られていない。

 戦わねばならない時には実に勇敢に戦うが、今は明らかに彼らにとってはそんな時ではなかったのだ。

 

 

「どういうことだ、巨人どもが逃げ出していくではないか! どうなっているのだ!?」

「オーク鬼どもの戦列まで崩れ出したぞ!」

「恐れをなしたのか、ええい! 図体ばかりでかい臆病者どもが!」

 

「まあ、落ち着きたまえ、諸君」

 

 予想外の事態にうろたえたり、激高したりする将軍たちを、ル・ウールが常と変わらぬ微笑を浮かべて宥める。

 もっとも、内心は、そう穏やかではなかったが。

 

「ここは、彼女に巨人たちを諭してもらおうではないか。天使の言葉が、彼らに勇気を取り戻させてくれるさ」

 

 そう言いながら、ル・ウールは鋭い視線を傍らのエリニュスに向けた。

 表情はにこやかなままだったが、その目は怒りと憎悪の感情によって、昏く燻っている。

 

「……だろう?」

 

 その言葉には、微かに脅しめいた響きがあった。

 それと同時に、他の将官たちに聞かれぬよう、テレパシーで彼女だけに命令を送る。

 

『早く行って、奴らを制止してくるのだ! お前の指示なら、奴らは聞くはずだろう!』

 

 ぎすぎすした荒々しい声が、脳裏に直接響いた。

 

 その目と声には、もしこの事態を収拾できなければお前の責任を問うぞという、はっきりした脅しが込められていた。

 あの巨人たちが間違いなく指示に従うよう、保険としてチャームをかけたのは彼女なのである。

 

 上司は、部下にあたるデヴィルを好きなように降格させられる。

 そのことを考えて堕天使は震え上がり、慌てて深々と頭を下げると、返事を返す。

 

『か、畏まりました! 直ちに参ります!』

 

 ル・ウールは鋭い目で、急いで飛んで行くそのエリニュスの背中を睨み付けた。

 無能者め、と口の中で小さく毒づく。

 彼にはまた、あるいはこの部下こそが自分を失脚させようとして今回の事態を仕組んだ張本人なのではないか、という疑いもあった。

 

(どちらにせよ、大して変わりはせぬがな……)

 

 あのエリニュスが反逆者なのであれ、反逆的無能者なのであれ、結果は同じこと。

 そうでないというのなら、それを証明してみせるがいい。

 

 デヴィルにとって、世界は自分を中心に回っている。

 自分に不都合なことが起きるのは、すべて自分以外の誰かの謀りごとのせいだ。

 デヴィルは、失敗を認めようとしない。

 完璧に有能なはずの自分が失敗するのは、いつだって、自分以外の誰かの責任なのである……。

 




プロテクション・フロム・アローズ
Protection from Arrows /矢弾よりの保護
系統:防御術; 2レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(海亀か陸亀の甲羅ひとかけら)
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に1時間、あるいはチャージ消費まで
 この呪文によって守られたクリーチャーは、遠隔武器への抵抗力を得る。
対象は遠隔武器に対する“ダメージ減少10/魔法(魔力を帯びていない遠隔武器から受けるダメージを10点軽減する)”を得る。
これだけのダメージ減少があれば、ごく普通の矢などは急所にあたらない限りまず弾き返してしまう。
合計で術者レベルごとに10(最大100)ポイントのダメージを防いでしまうと、この呪文はチャージ消費される。


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第百三十一話 Watch and decision

 ル・ウール候と配下の堕天使たちが徐々に焦りを覚えだしていた、ちょうどその頃。

 城外で手をこまねいているレコン・キスタの本隊を尻目に、ニューカッスル城の城壁の内側に瞬間移動して姿を現したフィーンドの一団がいた。

 

「……ふん、苦戦のようだな……。デヴィルどもめ、存外に不甲斐ないわ!」

 

 一団の指揮官らしき魔物が、城壁を挟んでの攻防の様子をちらりと眺めやって、そう嘲った。

 

 身の丈2メイル半にも届こうかという屈強そうな体に、蝙蝠のような大きな翼と鋭い爪をもつ四本の腕を生やしたフィーンドだ。

 禍々しい大戦斧を携えており、犬のような形をした頭からは山羊のものに似た角が生えている。

 デヴィルとはまた異なるユーゴロスと呼ばれる種別に属するフィーンドで、ニュカロスという名の種族だった。

 

 彼らはデヴィルによって雇われた、フィーンドの傭兵団である。

 

 秩序にも混沌にも偏らない純粋な悪の属性を代表するこのユーゴロスというフィーンドたちは、その有能さでも不実さでも実に悪名高い下方次元界きっての傭兵種族なのだ。

 節操なく誰にでも雇われるし、利益次第で以前の雇い主も現在の雇い主も平然と裏切る連中なのだが、それでも彼らの助力を求める者は後を絶たない。

 あまり多くの同族を関わらせることでこの世界で勝ち獲れる旨みが減るのを嫌ったデヴィルたちは、自分たちの権力争いとは無縁なこの異種族のフィーンドどもを戦力として招き入れたのである。

 

(まあいい、それだけこちらの手柄が増える。それに、定命の者どもを引き裂く愉しみも増えるというものよ!)

 

 今日行われる最後の襲撃に備えて事前に城壁の内側の様子を調べておいたお陰で、自分たちは瞬間移動で難なく敵の懐に入り込むことができた。

 敵の兵どもは城壁の外側から来る敵にばかり注意が向いていて、まだこちらに気がついてはいるまい。

 

 ニュカロスの遊撃隊長は、部下たちの心にテレパシーで命令を送った。

 

『このまま扉や窓から城内各所へ雪崩れ込み、片端から敵を刻み殺せ! 手傷を負った者は、各自の判断で本隊の元まで退いていい!』

 

 適当に暴れて敵の戦力と士気を削いでやれば、それで十分だ。

 手土産に敵の首を十か二十もぶら下げて帰れば、臆病なレコン・キスタとやらの兵士たちも勇気を取り戻すことだろう。

 その後はデヴィルどもの采配に任せて、愚かな人間どもが同族殺しの虐殺をする様子でも見物していればいい。

 

「ギギ!」

「キキキ、ギィィ……!」

 

 指示を受けた配下のフィーンドたちは、興奮してカチカチと顎を鳴らした。

 彼らの姿は六本の四肢をもつ直立した人間大の昆虫のようで、ぎらぎらと輝く赤い目を持ち、手には剣呑そうな三叉鉾と鋼鉄製の大盾を携えている。

 その体を覆う外骨格は、なまじの甲冑などよりもよほど分厚く頑丈そうだ。

 

 彼らはメゾロスと呼ばれる、ユーゴロスの軍団の歩兵たちである。

 総勢で半ダースにも満たない小戦隊だったが、彼らだけでも並みの人間の歩兵など、何百人いようと容易く蹴散らすことができるのだ。

 

(突入後の手応え次第では、撤退せずにそのまま王族どもの首級をあげてやろう)

 

 ニュカロスは十分な余裕をもって、そう考えていた。

 

 そうすればなおのこと手間が省けるし、大手柄ということで、自分の取り分も増えるというものだろう。

 今日までに戦ってみた限りでは、自分たちフィーンドに関する知識もなく対抗策もろくに知らぬ異世界の定命者どもは、実にたやすく殺せる相手だった。

 先程見た『ヘクサゴン・スペル』とやらは確かにすさまじい威力だったが、放つまでにはかなりの時間がかかるようだ。

 詠唱を始めたら、すかさず瞬間移動で懐へ斬り込み、完成する前に刻み殺すだけのこと。

 もっとも、自分たちの城の中ではそもそもあんな大規模な攻撃呪文を放つわけにはいくまいが。

 彼奴らの死体を持ち帰ってやれば、件の『アンドバリの指輪』とやらで操る素晴らしい手駒を手中に収められたデヴィルどもも喜ぶはずだ。

 

『さあ、いくぞ!』

 

 これから始まる殺戮の宴とその後に待つ戦功に思いを馳せながら、あらためてそう指示を出した、その直後。

 ガカカッ、という雷鳴と閃光が迸り、ニュカロスは突然、体を貫く凄まじい衝撃に襲われた。

 

「!?!? ……ごっ……!」

 

 何だ。

 一体、何が起きたのだ?

 

 彼が、その疑問の答えを理解することはなかった。

 ニュカロスの体は直後に真っ二つに立ち割られて、そのまま意識と生命を失ってしまったからだ。

 

 最後に彼が見たものは、どこから現れたのか、セレスチャル特有の眩い光輝と青白い雷の名残を身にまとって遠間から冷然とこちらを見据える忌まわしくも美しいエラドリンの姿と。

 自分の体を真っ二つに立ち割った漆黒の刀身を握って生き残りの部下どもに飛び掛かっていく、翼の生えたちっぽけなコボルドの姿だった。

 

 

 一方で、レコン・キスタ軍の戦線から少し離れて、じっと戦いの推移を窺っているまた別のフィーンドの一団がいた。

 

「……どうも、先程からこちらの旗色が悪いようですな」

 

 ついに巨人やオーク鬼たちの軍勢が遁走を始めたのを見て、そのうちの一人がそう呟いた。

 

 それはジャッカルの頭をもち、魔術師風のローブに身を包んだ獣人といった感じの姿をしたフィーンドだった。

 その姿は王党派の軍に組しているガーディナルたちにも似ているが、瞳の邪悪な輝きと狡猾そうな顔つきは、彼らとは似ても似つかない。

 強力なユーゴロスの一種で、アルカナロスと呼ばれる種族の者だ。

 

「いかがいたしますか?」

 

 アルカナロスはそう言って、傍らの男にちらりと目をやった。

 そいつは精悍そうな顔つきをした人間の士官のようだったが、多くのユーゴロスに取り巻かれて指揮官めいた振る舞いをしていることからも明らかなように、それが真の姿ではない。

 彼の名はソウルカイティオン、この傭兵団の団長を務めるウルトロロスである。

 

「…………」

 

 ソウルカイティオンは、副官のその問い掛けに対して、押し黙ったままじっと考え込んだ。

 少し前までは、デヴィル軍の勝利はほぼ確実と思っていたのだが。

 先程、巨大な炎の竜巻に連中の傀儡どもが呑まれたあたりから、急に雲行きが怪しくなってきたようだ。

 

 あの竜巻自体は、自分たちにとっては、そこまで恐れるようなものではない。

 発動までにはある程度時間がかかるようだし、巨大な竜巻が立ち上るところは一見してわかるので不意に撃たれる心配もない。

 事前に来ることさえわかっていれば、瞬間移動なりで避けるのは造作もないし、発動自体を阻止することもさほど難しくはないだろうと思えた。

 しかし、少数の強敵と戦うには向かなくとも、雑兵が大半を占める戦場で用いるには間違いなく効果的だろう。

 事実、こちらの陣営の兵たちは明らかにあの攻撃がまたくることを恐れて腰が引けているようだ。

 聞けば、あれはヘクサゴン・スペルとかいうこちらの世界では王権の象徴のような呪文らしいから、そのことによる心理的な影響も大きいのだろうが。

 

 おまけに、先程城内へ襲撃に向かった別働隊からは、一向に音沙汰がない。

 別働隊を率いるニュカロスのヴァールバレクシウスは、やや功を急ぎ過ぎるきらいはあるが、決して愚かでも無謀でもない。

 あの種族の例に漏れず、敵を強襲して反撃を受ける前に退くのが実に巧みで、これまでに数々の戦功をあげてきた男なのだ。

 

(それが、逃げ出す暇もなくやられたということだろうか)

 

 別働隊の人数はほんの数名だったが、たとえ手柄を焦って深入りしすぎたのにもせよ、いずれもそこらの人間風情にそうそう遅れをとるような連中ではない。

 むしろ、相手が人間の雑兵なら、何十人を同時に相手取っても十分勝てる者ばかりである。

 それに一旦敵の城内に飛び込んでしまえば、あまり強力な呪文や兵器の類もそうそう使えはすまい。

 あの別働隊だけで城内に残っている敵兵全員と戦ってもおそらくは勝てるだろうと踏んでいただけに、にわかには信じ難い結果であった。

 

(つまりは、それだけ予想外の事態が起こっている、ということなのだろう)

 

 とはいえ、依然としてこちらの軍が戦力で圧倒的に勝っていることは事実であり、勝利まで後一歩の状況で手を引くというのはいかにも惜しい。

 だが、欲に引きずられて引き際を誤るような愚かなことは、決してあってはならぬ。

 

 少考の後に、ソウルカイティオンは命令を下した。

 

「我々はまだ、戦場から撤退はしない。しかし、率先して戦線に加わることもしない。当面は、このまま事態を静観するのだ」

 

 状況の見極めが付くまでは、可能な限り戦闘を避ける。

 デヴィルどもはこちらの消極的な態度に対して苦言を呈してくるだろうが、気にすることはない。

 多少不愉快であろうとも、結局のところ打算的なあの連中には、頼れる者の少ない異界の地で有用な手駒を切り捨てることなどはできないのだ。

 

「それは、あの城が落ちることが確実となるまでは、ですな?」

 

 確認するような副官の言葉に、ソウルカイティオンは頷きを返した。

 

 これ以上の犠牲を払ってまで、自分たちの手であの城を落とそうとすることはない。

 それよりも、最小限の危険でできる限り美味しいところだけを掠め取る算段を立てておくべきだろう。

 

「あるいは、この戦に勝ち目がなくなったことが明白となるまでは、だな」

 

 それも決してありえないことではなさそうだと、彼は考え始めていた……。

 

 

「止まりなさい、止まれ! 我が友、巨人たちよ!」

 

 遁走するトロール鬼たちの顔の前に突然瞬間移動をしてきたエリニュスが現れて、余裕なく叫ぶようにしてそう呼びかけた。

 

 若頭はそれを見ると、さっと腕を横に伸ばして、素直に仲間たちを立ち止まらせる。

 それから、いかにも申し訳なさそうに頭を垂れた。

 もちろん実際には、顔を子細に覗きこまれて魅了の術が解けていることを悟られるのを恐れたゆえだ。

 

「ああ、天使か……すまない。おれたち、ちょっと、にげることにした」

「なぜ逃げるのです? いま、少しばかり相手が押し返した程度のことで。あなたたちの力があれば、負けることなどありますまいに!」

 

(なに、言いやがる! おれらをバカにしてこきつかった、このいかさまあくまめ!)

 

 若頭は、そんな目の前の天使もどきに対する怒りを努めて抑えて、ぽつぽつと返事をした。

 気取られて、また怪しげな術をかけられてはたまらない。

 

「その……、じつは、おれたちの神から、おつげがあった」

「……神から?」

 

 それまでは焦りと苛立ちで今にも金切り声をあげそうだったエリニュスの声が、怪訝そうな調子に変わる。

 

「そうだ。これ、見てくれ。その、しょうこだ」

 

 若頭はそう言って、ぐっと握った右手を無造作に天使の前に差し出し、ゆっくりと掌を上に受けて開いていく。

 エリニュスは注意を惹かれ、体をそちらの方に近づけて、掌を覗き込む。

 

 そのために、いつの間にか自分の背後に回っていた他の巨人たちの行動に気が付くのが遅れた。

 

「……、はっ!?」

 

 不審な気配を感じてぱっと顔をあげたときには、既に遅かった。

 背後から振るわれた巨大なメイスに激しく打ち据えられ、エリニュスは体を折って悶絶した。

 いかにデヴィルがダメージ減少能力をもつとはいえ、身の丈5メイルにも及ぶ巨人の膂力でもって振るわれた武器の一撃をまともに食らったのではたまらない。

 

「……なっ、なに……を……!」

 

 抗議するエリニュスを、背後から若頭の手が捕まえ、地面に叩きつけた。

 振り返ってその怒りに燃える瞳を真正面から見た時、エリニュスは初めて自分の術が破れていることに気が付いた。

 

(一体なぜ、いつの間に、誰が?)

 

 呆然としてそう考えたが、答えなどわかるはずもない。

 トロール鬼たちはそのまま起き上がる暇も与えずに、怒りに任せた罵声を浴びせながら、エリニュスの体を滅多打ちにした。

 

「てめえのははおやは、くさいくつしたでもかんでやがれ!」

「この、ラクダのよだれやろうめ!」

「オークとぶたのションベンからうまれた、こえだめもぐりのモグラおんなめ!」

 

 態勢を崩していてその攻撃を避けることもままならず、集中するだけの余裕も与えられぬ度重なる苦痛と衝撃の前に、疑似呪文能力で瞬間移動して逃げ出すこともできない。

 

「やっ、や、め……っ!」

 

 エリニュスは、かすれる声でそう抗議の叫びを上げた。

 それは巨人たちに対してか、あるいは突然自分に降りかかった理不尽な運命に対してか。

 

 いずれにせよ、その抗議が聞き入れられることはなかった。

 

 巨人たちのあまりに凄まじい暴行を目の当たりにしては、レコン・キスタの兵たちもただ遠巻きに見守るばかりで、誰も“天使”を助けに行こうとはしない。

 ましてや、怒り狂う巨人たちの中から“仲間”を助け出してやろうなどという、セレスチャルかぶれのようなデヴィルがいようはずもない。

 エリニュスはあっという間に絶命し、それでもなお振るわれる武器によって、その屍は無残に叩き潰された。

 魂はバートルへと送還されるが、物質界で死亡したデヴィルが再び故郷でその肉体を取り戻すことができるのは九十九年も先のことだ。

 

 そうしてようやく気が済むと、トロール鬼たちは遁走を再開し、戦場から離れていった。

 今度は、誰一人としてそれを止める者はない。

 

「……う……」

 

 巨人たちがいなくなってしまった後で、ようやくのことで恐る恐る“天使”の様子を見に行った兵士たちは、皆口を押えて顔を背けた。

 

 もちろん彼らとて、戦場で無残な屍は見慣れている。

 どんなに勇敢な者も、気のいい者も、死ねば腐り果てて見る影もない姿を晒すのだと知ってはいる。

 だが、それでもなおその屍はあまりにも異様で汚らしく、到底天使などという高貴な存在のものだとは思えなかったのだ。

 

 エリニュスの惨たらしく潰れた屍は、彼らの見守る中でみるみる溶解し、悪臭を放つ泡立つ濁った緑色の泥溜まりのようになっていった……。

 

 

 城内へ侵入してこようとしたユーゴロスの一団をディーキンらと協力して仕留め終えたウィルブレースは、ほっと息を吐いて、城外の様子を確認してみた。

 先程の戦いの様子を目撃した兵たちは、一層興奮の度を増してますます士気が高まっているようだが、浮かれてばかりもいられない。

 

 どうやら事前に施しておいた様々な仕込みは概ね功を奏したようで、巨人や亜人の集団は、既に戦場を離れ出している。

 人間の兵たちも、これまでにない事態に戸惑い、浮足立っているようだ。

 

「今が好機でしょう。敵に、立て直す機会を与えてはなりません」

「ウン、ディーキンもそう思うよ」

 

 ディーキンもまた、頷いてそれに同意した。

 

 今は味方は興奮し敵は戸惑っているが、バードなら当然知っているように、観客の感情の昂りは永久に続くものではないのだ。

 敵方が神の加護を疑い、味方がそれを確信している今こそが、この戦いを決定づける切り札を出すべき時だろう。

 それに、戦いを長引かせずに終わらせられれば、それだけ敵味方の犠牲も少なくなるのだから。

 

「それじゃ、ディーキンはルイズのところに行くよ!」

「それでは、私も配置につきます。また後で。お互いに、作戦の成功を祈りましょう?」

 




ユーゴロス:
 中立にして悪の属性をもつフィーンドの一種別。混沌に汚染されたデーモンや秩序に偏ったデヴィルとはまた違う、最も純粋な悪の属性を代表する来訪者である。
彼らは絶望の支配する灰色の荒野ハデスの次元界を故郷とするが、現在では永遠に荒涼たる苦界ゲヘナの方を本拠地として活動している。
すべての次元界を通じてもおそらく最も強欲で自己中心的な存在だと言われる彼らは、しばしばデーモンやデヴィルなどに傭兵として仕えるが、その不実さゆえに利益次第では平然と主人も仲間も裏切る。
公式にユーゴロスを率いているのは、ゲヘナの活火山の間を歩き回る巨大都市“這い回る都”を居城とする『ゲヘナ大将軍』と呼ばれる一体のウルトロロスであるが、彼の影響が及ぶ範囲にいないユーゴロスは好きなように振る舞っている。
 彼らはどんな姿をしていても周囲に硫黄の匂いを漂わせており、本来の姿をしている時には意識してそうしないようにしていなければかすかな灰の痕跡を残していくと言われる。
テレパシーであらゆる言語を持つ生物と意思疎通ができるにもかかわらず、地獄語(インファーナル。デヴィルの言語)、奈落語(アビサル。デーモンの言語)、それに竜語までも習得している結構なマルチリンガルでもある。

ニュカロス:
 ニュカロスは、ユーゴロスの軍隊において精鋭騎兵の役割を果たすフィーンドである。
その爪でつけられた傷は適切な治癒をされない限り塞がらず、ずっと流血が続いて犠牲者を死に至らしめる。
彼らは疑似呪文能力を用いて不可視状態となり、急降下して四本の爪やグレートアックスで敵を引き裂いては反撃を受ける前に瞬間移動して逃げ去る一撃離脱の奇襲を得意とし、その手腕を自ら誇っている。

メゾロス:
 ユーゴロスの軍隊の最も一般的な歩兵であるこのフィーンドは、戦闘以外のことはほとんど何もわからないが、戦いにかけては恐るべき手腕を発揮する。
彼らは瞬間移動で戦場に現れ、《殺戮の雲(クラウドキル)》の疑似呪文能力を放って敵の雑兵を皆殺しにし、強敵を弱らせたのちに、トライデントを構えて突撃する。
魔法でバフをかけている敵に対しては、数体が《解呪(ディスペル・マジック)》の疑似呪文能力で範囲解呪を放つ。
戦況が不利となれば、再び瞬間移動して退却する。
 ディーキンとウィルブレースが相手だったのでその能力をいかんなく発揮することもできなかったが、ニュカロスもメゾロスも作中で語られた通り、ほんの数体でも容易に数百人規模の人間の軍勢を瓦解させうるだけの能力を持ったフィーンドである。
なお作中では喋らなかったが、実際には知能こそ平均的な人間よりかなり低いものの、ユーゴロスの解説にある通り複数の言語をちゃんと話すことができる。


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第百三十二話 Wrath of God

 遁走する巨人どもを引き止めに行ったエリニュスが無惨にも叩き殺されたという報告を受けて、ル・ウールは腸が煮え繰り返る思いだった。

 

(図体ばかりの屑どもが、いずれ皆殺しにしてやる!)

 

 むろん、表面上は少々顔をしかめている程度で、平静な態度を装い続けてはいるのだが……。

 内心では、少しばかり情勢が悪くなった程度のことで逃げ出した(ル・ウールにはそうとしか思えなかった)臆病で愚かな巨人や亜人どもを罵倒し、延々と呪いの言葉を吐き続けた。

 

 貴様らなど、這いずり回るラルヴァにでもなってしまえばいい。

 蛆虫に体を齧られる、メインにでもなってしまえばいい。

 卑しいバーゲストどもに貪り食われて、魂の滓にでもなってしまえばいい。

 バートルの主アスモデウスよ、どうか彼奴らの魂を受け取りたまえ、そして踵で踏み潰したまえ。

 

 それに、そんな連中の手綱を取る役目ひとつ満足にこなせずに勝手に死んでいった、無能な部下に対しても。

 肝心なときに突然訪れた、不都合な運命に対しても……。

 要するに、自分にとって都合の悪いすべてのものに対して、ル・ウールは怒っていた。

 自己中心的なフィーンドの、このような状況下での態度としては、ごくごく典型的なものである。

 

 ル・ウールの傍に控える将官たちもまた、ひどく動揺していた。

 

「し、司令。このままでは、戦況は悪くなるばかりです。兵どもの士気も……」

 

「我々は、どうすればよいのですか?」

 

「どうかご指示を!」

 

 彼らとて本来は決してそう臆病でも無能でもないのだが、“天使”ら上位者たちの能力のみに頼り切ってきた怠惰な日々が、彼らから精神的なたくましさをすっかり奪ってしまっていた。

 なんら有効な手立てを講じるでも行動を起こすでもなく、ただただうろたえて、これまで全幅の信頼を寄せ続けてきた指揮官からの指示を待つばかりである。

 

「ええい! うろたえるな、小僧ども!」

 

 そう一喝したのは、年配のホーキンス将軍だった。

 その場にいたものは全員、はっとしてそちらの方を見る。

 

「各々方、少し落ち着かれよ。将たるものがそう取り乱しては、それこそ兵士たちの士気に関わるぞ」

 

 ホーキンスのその言葉に、少し離れた場所で黙って事の成り行きを見守っていたサー・ヘンリ・ボーウッドもまた、同調するように頷いた。

 

「……ふむ。その通りだね」

 

 取り乱したところのない彼らのその態度を見ていくらか気を取り直したル・ウールは、頭の中であらためて情報を整理して、現状にどう対応するべきかを考え始めた。

 

(とにかく、今は目の前の状況を何とかすることだな)

 

 陥落寸前の敵に対して投入して、まかり間違って砲撃などで沈められるのも惜しいと後方に下げておいた飛行船になら、まだ使える大砲が残っているだろうか?

 もしあれば、空からの砲撃によって城壁を破壊させられるかもしれない。

 ちょうどそこにいることだし、優秀な艦隊の戦術指揮官として知られるヘンリ・ボーウッドに、指揮をとるように命じるか。

 

 とはいえ、この期に及んでそんなものを、あまりあてにはできないだろう。

 何者かは知らないが、ここまで入念な仕込みを行ってきた敵が、制空権を握るための重要な戦力に対して何も細工をしていないとは考えにくい。

 それに、仮に万が一無事だったとしても、上空からの砲撃だけでは城は落とせない。

 砲撃で城壁を破れても、その後はどうしても制圧のために地上の戦力を城へ向かわせなくてはならないのだ。

 飛行船を降下させて城に乗り込もうなどとすれば、対空砲火のいい的になるだけだし、制圧に十分な人数を飛行船だけから城内まで無事に乗り込ませることはまずできまい。

 

(それでも、敵に多少なりと威圧感を与え、注意を引き付ける役にくらいは立とうか)

 

 飛行船を捨て駒のように使用するのは惜しいが、こうなっては犠牲が増えることなどにいつまでもこだわってはいられない。

 腹立たしい限りだが、今が非常事態だということは認めざるを得ない。

 

 かくなる上は、こちらの総力をもって、あの城壁を破ってくれよう。

 

 どうあれ、ひとたび城内へ雪崩れ込んでしまいさえすれば、残りわずか数百名ばかりの敵勢には成す術などないのだ。

 いかに火器の類が使えなくなろうとも、また愚かな巨人や亜人や、あてにならぬ他種族のフィーンドどもがいなくなろうとも、こちらにはまだ圧倒的な数の優位があり、自分たちデヴィルの部隊も残っている。

 兵士どもは腰が引けているようだが、こちらが叱咤激励して強く命令してやれば、突撃せざるを得まい。

 それで多少信望が傷つくことになろうとも、最終的に勝てさえすれば、後からどうとでも取り返しは付く。

 

(戦況が再びこちらの有利に傾けば、あの日和見主義のユーゴロスの傭兵どもも何食わぬ顔で戻ってくることだろうしな……)

 

 どうせ空とぼけたふてぶてしい態度をとるだろうが、それでも、短期間とはいえ戦場から姿をくらませた埋め合わせとして、制圧戦では多少の危険をおしてしっかり働けと要求することくらいはできよう。

 

 とにかく勝てば、大凡の問題はそれで解決する。

 ここまでの多少の失態も、手柄で帳消しになっておつりがくるというものだ。

 

「敵も、陥落前の最後の輝きを見せようとしているらしいね。よろしい、それでは我々のほうも……」

 

 しかし、ル・ウールが周囲の将官たちに指示を与えようとするよりも先に、城壁の前のほうで異変が起こった。

 

 突如として眩い多彩の光の柱がそこに生じ、荘厳な歌声のような音色が、あたりに鳴り響いたのである。

 腰が引けてなかなか城壁の近くへ攻め寄せられずにいたレコン・キスタの兵たちは、その光景を見ておおっ、と息を呑んだ。

 呆然として見上げるものもいれば、また何か、先ほどの『ヘクサゴン・スペル』のような恐ろしい攻撃が来るのではないかと想像して浮足立つものもいた。

 

 そして、その光が消えた時……。

 そこには何か神々しい雰囲気を漂わせる、巨人のように大きな人物が姿を現していた。

 

 その途端に、兵たちの動揺がより一層大きくなった。

 

 姿を現した人物は、どんな巨人よりもはるかに大きく、ニューカッスル城の傍に展開したレコン・キスタ陣営のどこからでもその姿を見ることができた。

 しかし、単純にあまりの大きさに驚いた、というわけではない。

 美しいローブに身を包み、深くフードを被り込んでいるその人物の顔や体を直接見ることはできない。

 それでも、その姿は、誰にとっても見間違えようのないものだったからだ。

 

「あ、あれは……、なんだ?」

 

 前線から遠く離れた司令部からその光景を見ながら、ル・ウールは怪訝そうに呟いた。

 それを聞いて、ホーキンスは一瞬だが、侮蔑と嫌悪感の籠った目を密かに、その司令官の方へ向ける。

 

(貴様は『あの人物』を見て、それが誰だかすぐにわからんというのか?)

 

 ハルケギニア人であるならば、その姿は幼い頃から、幾度となく見てきたはずだ。

 見慣れた者ならば、それぞれに多少の違いはあるにもせよ、多くのイコンに共通の印象的な特徴は見間違えようはずがない。

 

(やはり、皇太子の言われた通りであったな)

 

 こやつはかの伝説の名将、ル・ウール侯などではない。

 それどころか、人間ですらない。

 昔日の英雄の名を騙る、異界から来たおぞましい悪魔なのだ。

 

「し、始祖ブリミル……」

 

「……む」

 

 別の士官が震える声で呟いたのを聞いて、ようやくル・ウールも気が付いた。

 以前にさしたる興味もなくちらりと見ただけだったが、確かにこの世界の人間どもに崇められている『始祖』とやらは、あんな姿をしていたような気がする。

 

(だが、まさか、本物ではあるまい)

 

 ならば、あれは何なのか。

 

 それらしく外見を装った巨人にしては、あまりにも大きすぎる。

 たとえティタンであっても、普通はあれほど大きくはない。

 となると、幻術だろうか。

 しかし、あのような大規模で真に迫った幻覚を、元よりそう言った呪文が乏しいらしいこの世界で……?

 

 

 

「始祖ブリミルよ。どうかご容赦と、できればお力添えを……」

 

 ルイズは、礼拝堂にあった始祖ブリミルの像を元に自らが生み出した幻影を見ながら、ふうっと溜息を吐いて、そんな懺悔と祈りの言葉を口にした。

 始祖の名と姿を騙るなど、我ながら罰当たりなことをしているものだ。

 

「大丈夫なの、ブリミルさんはいい人なんでしょ?」

 

「そりゃ、まあ。たぶん……」

 

 傍らのディーキンの言葉に、ルイズは曖昧に頷いた。

 

 実際のところ、始祖がどのような人物であったのかは何も伝わってないに等しいので、よくわからない。

 自分たちの太祖であり、今も聖者として神格化され称えられている人なのだから、きっといい人に違いないとは思うのだが。

 

「あとで、ディーキンもおわびしとくの。そのためには、まず勝たなきゃいけないでしょ?」

 

「……そうね。まずは、外の悪魔たちを叩きのめさないといけないわ」

 

 確かに、何といっても今は非常事態なのである。

 ハルケギニアの王族はブリミルの直系なのだから、子孫を救うためであれば、きっと始祖も許してくれることだろう。

 今はまず、勝たなければ話にならない。

 

 ルイズは気を取り直すと、頼りになるパートナーの見守りの下で、術の維持に集中することにした。

 この後の演出については、バードであるディーキンが状況を見つつ臨機応変に変更したり、他の仲間たちがサポートをしたりしてくれることになっている。

 

「そうそう、そうなの」

 

 ディーキンも、うんうんと頷いた。

 

 それに、これは始祖ブリミルの用いたという『虚無』の力によるものなのだから、ある意味始祖の奇跡であるには違いない。

 幻影を生み出すだけならディーキンか誰かセレスチャルが《自動虚像(パーシステント・イメージ)》あたりを用いてもよいのだが、ルイズの『虚無』ほど広範囲に真に迫った長持ちする幻影を生み出すことは非常に難しい。

 しかも、ルイズはハルケギニア人で、礼拝堂などで始祖の姿には昔から慣れ親しんでいるから、同じハルケギニア人の目から見たときにより違和感のないブリミルの姿を作り出すことが期待できる。

 演出については、バードであるディーキンが傍にいて、状況に応じて臨機応変にアドバイスを出したりすることで補強できる。

 したがって、仮にデヴィルの側が同じように幻影を作り出して対抗しようとしてきたとしても、その規模や精巧さでこちらの方がずっと説得力があるだろう。

 

 まさに、『虚無』であるルイズと、そのパートナーであるディーキンだからこそ務められる役目なのだ。

 

 それに、他にもさまざまな、頼れる仲間たちがサポートしてくれることになっている。

 彼らの方もきっと上手くやってくれるだろうと思いながら、ディーキンは状況の変化に注意深く目を配っていた……。

 

 

 

『――人の子らよ。我が地上に遺した、愛しき者たちよ』

 

 呆然と立ちすくむレコン・キスタの兵たちの上に、穏やかながらも重々しく轟くように響く声で、ブリミルの幻影が語りかけた。

 畏怖の念にうたれ、ひざを落とす者。青ざめて震えながら、ただ幻影を見上げる者。

 反応はさまざまだったが、多くの将兵はすっかり戦意を喪失していた。

 

『なぜ、互いに争うのだ。お前たちは、兄弟ではないか』

 

 その諌めるような言葉に、将兵たちはますます畏まって身を縮める。

 

 ル・ウールは、何を愚かしいことを、あんなものはまやかしに過ぎぬと声を上げて、人間どもを嗾けようとした。

 だが、周囲の将兵らの様子を見ると顔を歪めながら、一旦は出かけたその言葉を飲み込む。

 

 始祖の遺した奥義であるらしい『ヘクサゴン・スペル』とやらの出現と、不死のはずだった蘇りし勇士たちのあっけない敗北に始まって。

 これまでと違い思うように勝てぬ戦、不可解な火器と兵器類の異常。

 巨人や亜人の逃亡、それを制止しようとした“天使”の無様で惨たらしい死に様……。

 そして今、王族を見捨てて自分たちの側に祝福を与えてくれているのだとずっと言われ続けていたブリミルその人までもがこうして降臨し、自分たちの行いを責めているのだ。

 

 人間の将兵たちは、今や自分の方をかえりみず、あの始祖とやらの方にばかり目と心を向けているではないか。

 連中が自らの誤りを半ば以上確信し、後悔の念に打たれているのは明らかだ。

 この状況で迂闊に声など上げようものなら、逆に自分のほうが引き裂かれかねないという懸念があった。

 

(ええい、忌々しい!)

 

 ル・ウールは心中で、どこまでも愚かで単純な人間どもを、声を極めて罵った。

 

 しかし、いつまでそんなことをしていても、事態が何か好転するわけでもないこともわかっていた。

 ほんの少し苛立ちが収まると、この状況でどうするべきかを考え始める。

 

 今のうちに、自分だけ瞬間移動で逃走するか?

 

 ありえない、この状況で戦線を放棄してそんなことをすれば、処刑か降格は絶対に免れない。

 降格されるくらいなら永遠の滅びを迎えたほうがまだましだというのが大凡のデヴィルの見解であり、ル・ウールも例外ではなかった。

 昇格によって思うままに権威を振るい、それまで対等だった同僚に靴を舐めさせるのがデヴィルの無上の喜びであり、その逆の立場に甘んじることは魂までも引き千切られそうなほどの恥辱なのだ。

 

 ならば、この愚かしい人間どもをどうにかなだめて軍をまとめ、いったん退いて体勢を立て直すか。

 

 そのほうが、まだ望みがありそうに思えた。

 あのブリミルとやらが何を言う気か知らぬが、その間に手近にいる高位の将官どもだけでも自分の魔力で魅惑しておけば、少なくとも味方に襲われる危険はあるまい。

 本来ならなるべく心服させて自発的に従わせるほうが上策であり、あまり大規模に心術を用いてそれだけを頼りに部下を従えるなどは術が解れたときのことを考えれば下策なのだが、非常時ゆえやむを得ない。

 魅惑しても無条件で命を失うような危険を冒させたり信念に反する行動をとらせたりできるわけではないが、説得が通りやすくはなる。

 

 幸い、自分の魅惑の力は身振りも発声も必要としない擬似呪文能力によるものだ。

 始祖とやらの姿と声に気をとられているあの愚かな連中に、密かにかけてゆくにはもってこいである。

 

(……よし、それでいくことにしよう)

 

 あとは……、あの巨大なブリミルとやらの姿が幻術か、そうでなくとも何かの魔法によるものであれば、解呪することができるかもしれない。

 こちらの力でそれをかき消すことができれば、あれが神の御技などではなくまやかしに過ぎぬという証になり、兵どもの信望を再びこちらの手に取り戻すことも容易になる。

 一時の強烈な宗教的畏怖などは、あの姿さえ消えればじきに薄れていくだろう。

 事前にそれを成功させ、その後、魅惑した上官どもを説き伏せて命令を下させれば、多少の脱走者は出るかも知れないが、多くの兵どもはまたこちらの命に従うようになるはずだ。

 

 ル・ウールはそう判断すると、まだ生き残っているもう一人のエリニュスに、あの巨大な始祖の正体を見極めてくるようにとテレパシーで命令を下した。

 彼女らには常時稼動の《真実の目(トゥルー・シーイング)》の能力が備わっているので、どれほど巧妙な幻術であろうとも、その有効距離内にまで近づけば看破することができる。

 しくじらぬためにもまずは正体を確実に見極めて、それに合わせた対策を立てようと考えたのだ。

 

『は……。かしこまりました』

 

 指示を受けたエリニュスは、テレパシーでそう返事をすると、しぶしぶ前線に向かって瞬間移動した。

 本当はこの状況でそんなあからさまに危険そうな場所に行きたくはなかったのだが、上官からの命令には逆らえない。

 

 

 

『……我は本来ならば、もはや地上に干渉してはならぬ身。だが、愛しき子らが互いに殺し合おうとするのを、悪魔の手にかかろうとするのを、これ以上見過ごしてはおられぬ』

 

 エリニュスは、厳かな声で兵士に呼びかけ続ける像のはるか上空に姿を現した。

 ここならば、そうそう見つかるものではあるまいと考えたのである。

 

「ふん、白々しいことを……」

 

 彼女は自分たちの欺瞞工作を棚に上げて、眼下に見える『始祖』の演説を鼻で笑った。

 

 あとは、《真実の目》の降下範囲まで慎重に高度を下げていき、あれの正体を見極め次第、瞬間移動で後方に戻ればよい。

 十中八九幻術であろうが、間違いなくそうだと確認だけすれば、自分の仕事は終わりだ。

 その後は誰か、解呪の使える者を連れてくることになるだろう。

 

 エリニュスは、敵城からの攻撃に注意しながら、ゆっくりと降下を始めた。

 

 しかし、あと百フィートばかり降下すればよいというあたりに来たとき、突如として眼下に見える始祖ブリミルの体、その頭頂部あたりから緑色の光線が放たれた。

 

「っ!?」

 

 予想もしていなかった事態に、避ける暇もなかった。

 その光線が命中するや、堕天使の全身がたちまち煌めくエメラルド色の網に絡め取られる。

 

「こ、これは……!」

 

 エリニュスは、にわかに焦った。

 それは、次元間の移動を封じる《次元界移動拘束(ディメンジョナル・アンカー)》の網であったからだ。

 これでは、退却時にアストラル界を経由する必要のある瞬間移動を行うことはできない。

 

 この呪文を撃ったのは誰か、その相手に備えなくてはと考える暇もなく、続けてブリミルの幻像の中から、一人のセレスチャルが飛び出してきた。

 

「不肖の従姉妹よ! 天界山セレスティアの七つの輝きにかけて、お前の罪が焼き清められる時が来たのだ!」

 

 厳かに響く天上語でそう宣告したのは、あの『眠れる者』であった。

 

 彼はデヴィルからの妨害に備えるため、あらかじめ始祖の幻像の中に隠れて周囲の様子を警戒しており、エリニュスの接近にはとうに気がついていたのである。

 プラネターにはエリニュスと同様に常時稼動の《真実の目》の能力が備わっているため、その効果範囲内にある幻影は視界の妨げとはならない。

 そのため、エリニュスが十分に接近してブリミル像は幻影であるということを見抜くよりも一瞬早く、《真実の目》よりも長い有効射程を持つ《次元界移動拘束》の呪文で先手をうつことができたのだ。

 

 これで敵の逃走手段は封じた。

 あとは、討ち倒すのみ。

 

「ひ……!」

 

 美しいエメラルドの体に黄金の鎧と眩い天上の光輝をまとい、デヴィルにとって致命的な善の力を放つ大剣を振りかざして、猛然と向かってくる天使の姿。

 フルフェイスの兜の奥では、こちらに向けられたサファイアの瞳が義憤に燃え立って、ひときわ鋭い輝きを放っている。

 それを見て、エリニュスの顔が恐怖に歪んだ。

 

 あわてて迎え撃とうと炎の矢をつがえるが、逃走手段を封じられた時点で、既に彼女の運命は決まっていた。

 将軍として強大な天軍を率いる『惑星の使者』は、みすぼらしく穢れた一介の堕天使などの力でどうにかできるような相手ではない……。

 

 

 

「……お、おおぉぉっ!?」

 

 固唾を呑んで巨大な始祖の姿を見上げていたレコン・キスタの兵たちは、突然断末魔の悲鳴とともに上空から降ってきた屍と、その後を追うように降臨した天使の姿とにどよめいた。

 

 屍は、彼らがこれまでずっと従ってきた“天使”のものだった。

 全身の数箇所を、特に肩口から腹にかけてを無残に斬り裂かれて、半ば両断されかかったような無残な姿。

 その顔は、苦痛と憎悪のためにひどく歪んで、半ば獣じみてさえいる。

 死者に対して酷なようではあるが、生前身にまとっていた美も、神聖な雰囲気も、そのために台無しになってしまっていた。

 

 比べて、その後に降臨した天使の神々しさは、より一層際立って感じられた。

 とはいえ、仮に生前の“天使”たちと並べてみたとしても、こちらの方がはるかに勝っているであろうことは疑いない。

 本物の天使のそれと実際に比較してみれば、彼女らの美も神秘的な雰囲気も、途端に色あせてくすんだ、凡庸極まりないものだったと思えてくる。

 

「…………」

 

 降り立った『眠れる者』は、何も言わずに大剣を地に突き立てて、ただじっとレコン・キスタの兵たちのほうを見つめる。

 彼の代わりに、背後のブリミル像が話を続けた。

 

『……我が父の怒りが、お前たちの上に降り注がぬうちに。子らよ、互いに矛を収め、悪魔に背を向けて、再び手を取り合う道を選べ!』

 

 その時、まさしく神の不興を現すかのように一天にわかにかき曇り、上空に強い風が吹き荒れ始めた。

 

 実はこれも、『眠れる者』が事前に使用しておいた《天候制御(コントロール・ウェザー)》の呪文による演出だった。

 始祖ブリミルの幻影による説法に更なる説得力を持たせるとともに、もしも敵が飛行船などを本格的に繰り出してこようとした場合、上空を大荒れにして航行不能にするという狙いがある。

 もし万が一、どうしても敵を降伏に追い込めなかった場合には、豪雨や竜巻を発生させることで野外に展開する敵軍を強制的に撤退させることも考えている。

 もちろんそうすれば敵兵に少なからぬ犠牲が出るだろうから、あくまでも最後の手段ということになるが。

 

 

 

「これまでだ。撤退する」

 

 降臨したセレスチャルの姿を確認したユーゴロス傭兵団の長ソウルカイティオンは、ほんの少し顔をしかめただけで特に動揺した様子もなく、直ちにそう指示を下した。

 

 部下たちは全員、何の異論も差し挟まずにそれに従う。

 どうやら戦は負けの気配が濃厚だし、セレスチャルがフィーンドの姿を確認すれば、それがデヴィルであれユーゴロスであれ滅ぼそうとしないわけがない。

 この戦場が惜しくないわけではないが、欲に流されて命を失うなど馬鹿のすることだ。

 自分たちはそういう馬鹿から利益を掠め取ればいいのであって、儲けの機会も殺戮の機会も、またいくらでもやってくる。

 

 始祖ブリミルの幻像が城壁前に姿を現したあたりから、既にその準備に入っていた彼らが立ち去るのは早かった。

 

 その後を追うように、半ばゴブリン、半ば狼に似たフィーンドであるバーゲストたちも、互いに顔を見合わせると次々に戦場から去っていく。

 苦界ゲヘナを故郷とする彼らは、より強大になるために血肉と魂を貪り食らう機会を求めて物質界にやってくる種族である。

 いくらでも獲物が得られる環境に惹かれてデヴィルの軍に参加しただけであって、天上界の強大なセレスチャルなどを相手にする気はさらさらなかった。

 

 

 

(馬鹿な! なんだ、この事態は! いったい、何がどうなっているのだ!?)

 

 ル・ウールは、激しい怒りと困惑に拳を握り締めていた。

 

 ほんの少し前までは、戦いとも呼べぬ楽な仕事、愉快な娯楽のはずだった。

 それがなぜ、こんなことになっている。

 

 遠目にははっきりとは見えないが、始祖とやらの前に立っているのは、あれは確かにセレスチャルではないか。

 まさか、本当に始祖ブリミルとやらがこの世界を見守る神格になっていて、我らの侵攻に対してその眷属を遣わしてきたとでもいうのか。

 それとも件の『虚無』とやらか、あるいは我らをこの世界に呼び出したような召喚者が、他にもいたのか……。

 

(だとしても、なぜこれまで影も形もなかった連中が、よりにもよってこんな日に姿を現してくるのだ!)

 

 誰も彼もが自分を陥れようとして、共謀してこんな運命を仕組んだのに違いない。

 ル・ウールは胸中であらゆるものを疑い、呪い、罵った。

 

 互いに謀略を仕掛けあうことが当然であり、あらゆる影に悪意と裏切りの潜んでいる社会で過ごすデヴィルたちは、多かれ少なかれ偏執狂である。

 偶然などありえない、いやあるかもしれないが、自分の身の回りではまず決して起こらない、すべては仕組まれた悪意の産物に違いない。

 そして彼らには、その悪意とは自分より劣等で、それによる恐れや妬みに突き動かされた他人が、つまりは自分以外のすべての存在のうちの誰かもしくは全員が、自分に対して仕掛けたものではないかとまず疑う傾向がある。

 自分にとって都合の悪いすべての運命は、自分以外の誰かの無能さ、ないしは策略によるものに違いないと彼らは考える。

 それは、デヴィルという種族がもつ自らの優秀さに対する確信と、あらゆる他者を見下す思い上がりと、そして悪意に満ちた利己的な性質とが混ざり合って生み出す、避けがたい性向なのだ。

 

 ある程度経験を積んだデヴィルならば、当然、自身のそのような衝動が往々にして不利益をもたらすことを知り、それを抑制する術を身に着けている。

 とはいえ、感情が昂ぶってくると、そうした本質的な傾向はどうしても、抑えがたく顔を覗かせてくるものだ。

 

(……落ち着け……)

 

 周囲の将官たちがもはや声も出さず、青ざめた顔でこちらのほうを窺っているのを見たル・ウールは、その怒りを努めて抑え込み、平静を保とうとした。

 

 詮索をするのは後にして、今はこの状況に対処するほうが先だ。

 このまま何も手を打たずにいれば、それこそ兵たちに八つ裂きにでもされてしまいかねない。

 

(この状況で使える手駒は、何が残っている?)

 

 人間の兵たちは、もはやそのほとんどが戦力として使い物にならないのは明らかだった。

 巨人や亜人の類は、事前の説得によって、あるいは戦況を見限ったことによって、そのほとんどが既に逃亡してしまっている。

 ユーゴロスやバーゲストなど傭兵フィーンドどもの部隊も、この思わしくない状況の急変をすばやく見て取ったか、さっさと雇い主を見捨ててどこへともなく姿をくらましたようだ。

 

 つまり、現状まともな働きの期待できる戦力は、ごく少数のデヴィルの部隊のみである。

 そのうち、側近のエリニュス二名は、既に死亡している。

 

 それでも、退却は依然としてありえない選択肢だった。

 セレスチャルの出現などの予想外の事態が起こったという『言い訳』は、数万の戦力を率いながら何の成果も挙げられず、その貴重な戦力を半壊させてしまったという失態を正当化するには弱すぎる。

 

 と、なれば……。

 

(要するに、戦って勝つしかないのだ)

 

 こうして総指揮官の役目を任されてはいるが、ル・ウールはどちらかといえば戦闘向きのデヴィルではなく、誘惑や交渉、演技などに長けた社交タイプのデヴィルであった。

 つまり、兵どもを熱狂させる看板として選ばれたわけである。

 いざとなればそれなりに戦えもするが、積極的に前線に出たいとは思っていない。

 ましてや、デヴィルにとって致命的な善の属性を帯びた武器を振るうセレスチャルがいるようなところへなど。

 

 しかし、こうなってはもはや四の五の言ってはいられなかった。

 

“真に神の軍ならば、破れるわけがない”

 

 それはこちらも、敵の側も同じこと。

 敗れてしまえばすべては戯言、説得力は大きく落ちるだろう。

 

 勝ってあの城を落とせば、『ヘクサゴン・スペル』や、もしかすれば『虚無』などの土産も持ち帰れる。

 セレスチャルどもの出所を確認できれば、それも価値ある情報になる。

 将兵どもからの信望も、概ね元に戻るだろう。

 それでこそ、失った戦力に見合うだけの手柄になろうというものだ。

 

 勝てば、すべて解決するのだ。

 

「……どうやら、信仰の足らぬ兵たちに、神の加護が真にあるのはどちらの側か示さねばならぬらしいね。かくなるうえは私が神兵たちを率い、あの城門へ向かって雌雄を決するとしよう」

 

 ル・ウールは立ち上がってそう宣言すると、生き残りのデヴィルの元へ向かった。

 

 あのセレスチャルがどれほど強力か、城内にまだ何人のセレスチャルが控えているかは知らぬが、こちらには相当数のデヴィルがいる。

 その中には、ゲルゴンをはじめ、強大なセレスチャルどもとも十分に渡り合えるだけの力を持つ士官も含まれている。

 ル・ウールは自分に、大丈夫だと言い聞かせた。

 

 それに、どうせ今日で決着がつくのだから一度試しておこうかと持ってこさせた新兵器もある。

 それが期待通りの働きをしてくれれば、生半なセレスチャルの五人や十人など……。

 

 

 

「……さて。我らにもそろそろ、決断せねばならぬ時がやってきたようだな」

 

 ル・ウールの姿が消えると、ホーキンスは動揺しているばかりの他の将軍らを見回しながら、ただ一人落ち着いた様子でそう切り出した。

 少し離れた場所ではボーウッドが周囲を警戒し、風の流れなどにも注意して、隠れて聞き耳を立てている者がいないことを確認している。

 

「け、決断、とは?」

 

 将軍たちが、不安そうに顔を見合わせる。

 

「我らは大地の深き恵みを知りながらも、あえて主君と共に頼るものとてない虚空に生きることを選んだ、誇り高き高祖の血を引くアルビオンの武人ではないか。貴殿らは両親から、その心意気を教わってこなかったのか?」

 

 その言葉に、皆がはっとしたような顔になる。

 

「いや、貴殿らも初めは、その信念に従って王家に背く道を選んだのであろう。自分も同じだ……」

 

 我々アルビオンの貴族は大地に依らず、自らの身ひとつを頼りに生きるもの。

 何処の地を目指すも、何者に従って飛ぶも、己の意思で決める鳥。

 だからこそ、我らは大地のわずかな起伏にさえ煩わされる地上の民よりも真っ直ぐに己が道を進み、それでいて自ら選び取ったその忠誠は、あらかじめ定められたひとつの地に根を張る民にも増して深く長くなるのだ……と、古来よりアルビオンの貴族はそう誇っている。

 

 無論、実際にはアルビオンの貴族も他国の貴族も、さほど変わりはないかもしれぬ。

 その身は自由には程遠く、結局は生まれた狭い浮島の地と境遇に、大地の民にも増して狭苦しく束縛された身でさえあるかもしれぬ。

 それでも、心構えとしてはそうあるべきだと、常に教えられてきたのだ。

 

「……しかし、状況が変わった。明らかにな」

 

 そう言って、ホーキンスは他の将軍たちの顔を順に見つめた。

 

 少し前までなら、こんな話をすればただ一笑に付されるのみならず、間違いなく命取りになったであろう。

 今でも、彼らがどのような結論を出すかはわからない。

 ホーキンスにとって、これは正しく命をかけた発言であった。

 

「ゆえに、信の置けぬ主導者にこのまま従って飛び続け、もろともに地に墜ちるか。それとも自らの意思と判断で、恥を忍び、正しいと思える航路に軌道を戻すのか。今こそが再び決断するべき時だと言っておるのだ!」

 




コントロール・ウェザー
Control Weather /天候制御
系統:変成術; 7レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:2マイル
持続時間:4d12時間
 術者は、自分の周囲半径2マイル以内の天候を、自分の選択したものに変化させることが出来る。
戦場で用いれば、籠城側が延々と長雨を降らせ続け、野営側を苦境に陥れて撤退せざるを得ない状況に追い込むことも、敵陣に竜巻を荒れ狂わせることさえも可能となるだろう。
ただし、現在いる地域の気候や季節によって、選択できる天候は異なる。
典型的なものは以下の通り。

春:竜巻、雷雨、みぞれを伴う嵐、暑天
夏:豪雨、熱波、ひょうを伴う嵐
秋:暑天、寒天、濃霧、みぞれ
冬:凍寒、吹雪、雪解け
晩秋:台風級の風、時ならぬ春(沿岸地域のみ)

術者は風向きや風力など、天候の大まかな傾向を制御できるが、落雷地点や竜巻の進路といった個々の現象の詳細な制御まではできない。
天候が術者の選択したものに完全に変化するまでには10分の時間がかかる。
持続時間内であれば、術者は別の天候を指定し直すこともできる。
この呪文はまた、気象現象を発生させるだけでなく取り除くこともできる。
 この呪文はウィザード/ソーサラー、クレリック、ドルイド、および風の領域の呪文リストに存在するが、ドルイドが使用する場合には特に強い効果を発揮する。
術者がドルイドである場合、呪文の持続時間は2倍になり、有効範囲は半径3マイルとなる。


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第百三十三話 The Chosen Ones

「やれやれ。こんな場所で、セレスチャルどもの相手をすることになろうとは……」

 

 ル・ウールから協力の要請を受けた昆虫めいたデヴィルの戦闘指揮官、ゲルゴン(氷悪魔)のオルニガザールは、カチカチと顎を鳴らした。

 彼は、『流血戦争』の戦場で士官とて参戦した経験をもつ歴戦のデヴィルである。

 

(第千七百五十二次アヴェルヌス防衛戦以来だな。いや、ハデス遠征の折にも、セレスチャルの小部隊と遭遇したか……。あれは、第何次だったか……)

 

 デヴィルにも、互いに謀略を仕掛け合いながら物質界から口先三寸で魂をかき集める『魂の収穫者』とは別に、最前線で直接の暴力をもって敵と戦う『軍人』がいる。

 秩序にして悪の属性を代表する来訪者であるデヴィルは、同じ悪のフィーンドであっても混沌にして悪の属性であるデーモン、特にその中でも大多数を占めるタナーリと呼ばれる種別の者たちとは、神話の時代から不倶戴天の仇敵同士なのだ。

 彼らは気が遠くなるほどの昔から『流血戦争』と呼ばれる次元界規模の血みどろの戦いを繰り広げ続けており、数多の階層が連なる奈落界アビスの底から無尽蔵に湧き出す秩序なきデーモンの群れの数の暴虐に対して、九層地獄バートルのデヴィル軍はよく組織された軍隊の洗練された戦術をもって対抗している。

 デヴィルの軍人とは、主としてその戦いに従事し、奈落界アビスへの侵攻ないしは敵の侵攻からの地獄の防衛を担当する者たちである。

 

「勝算のほどは?」

 

 全身を蜘蛛の巣が張った古びた甲冑で包んだ、ブエロザ(鋼鉄悪魔)がそう尋ねた。

 一見すると人間のようにも見えるが、その身を包む甲冑は体の一部であり、決して外れることはない。

 

 彼は恐れを知らぬ戦士ではあるが、まだセレスチャルと戦った経験はなく、いささか緊張しているように見えた。

 セレスチャルがバートルに攻め入ってくることや、彼らの住まう上方次元界への遠征が行われることなども皆無ではないが、デーモンと戦うのに比べればかなり稀なことだ。

 善の敵は悪であるが、悪にとって最大の敵は善ではなく、むしろ別の悪なのである。

 善は利他的であるがゆえに自ら進んで他者に害を及ぼそうとはしないが、悪は利己的であるがゆえに互いに争い合うものだ。

 

 物質界の戦など、見渡す限りの地平を血で染める流血戦争のそれに比べれば、なんであれ少々派手なお遊戯程度のものに過ぎない。

 当然の結果としていささかたるんでいた、そこへいきなりセレスチャルなどという噂でしか聞いたことのない強敵が出てきたのだから、恐れ知らずのデヴィルといえども少しばかり不安になるのは無理もないことだろう。

 セレスチャルたちの振るう善の属性を帯びた武器は、デヴィルのような悪のフィーンドに対して威力を増し、しばしば彼らの持つダメージ減少能力をも無効化する致命的なものである。

 オルニガザール自身も含めて、デヴィルの中には普通の武器や呪文では決して致命傷を負わない擬似的な無敵性を備えた者も珍しくないが、善の属性を帯びた武器による攻撃はそのような者にとってさえも致命的だ。

 つまり、セレスチャルと戦うということは、普通の戦いではほぼ死ぬ恐れのないデヴィルにとっても命がけの行為なのである。

 

「さあなあ……。あの総指揮官殿は今のところ、敵の数も戦力も背後関係もわからんというのだからな。なんとも言えまいが?」

 

 オルニガザールは肩をすくめて、部下の問いかけに皮肉っぽくそう答えた。

 

 収穫者は、自分たちの集める魂のエネルギーがなければ戦う以外に能のない野卑な軍人どもは速やかにひからびて死ぬしかないのだと言って、前線で戦う彼らのことを嘲っている。

 軍人は、誇り高き戦士である我らが戦わなければ収穫者どもはデーモンやセレスチャルの軍勢に引き裂かれてそれ以上に速やかに死ぬであろうと言って、後方で社会戦に興じる彼らのことを嘲り返している。

 決して友好的な間柄ではないが、共に地獄の社会に組み込まれた歯車であり、上からの命令があれば協力するのみだった。

 

「では、我らとしては最良の備えであたる以外の方法はありませんか」

 

「左様。いつでもそうだがな」

 

「最良の兵士は、常に命令に従うのみです」

 

 横からそう口を挟んだのは、棘だらけの黒い鎧に身を包んだ、地獄の騎士ナルズゴンである。

 こちらも一見すると人間の騎士のように見えるが、バイザーの下に隠れた顔はまるで幽鬼のごとく悲痛に歪んだままの状態で固まっている。

 

 彼は戦いに備えて、鼻腔から炎と煙を吐く猛々しい愛騎、悪夢の馬ナイトメアに入念な手入れをしていた。

 

「たとえ敗れようとも、我らの死によってバートルは栄光を得るでありましょう」

 

 オルニガザールはそんな部下の言葉に対して軽く頷いたものの、カチカチと顎を鳴らして皮肉げな含み笑いをもらしていた。

 建前としては確かにそういうことになっているかも知れないが、愚かしい忠誠心に縛られたナルズゴンどもはいざ知らず、地獄そのもののために死のうという気など大半のデヴィルには微塵もありはしない。

 

(我らがバートルのためにあるのではない。バートルが俺のためにあるのだ)

 

 デヴィルにとって、秩序とは常に自分自身のためにあるものだ。

 それを盾にして己の立場を守り、他人に自分のために死ぬよう強要できるということが、秩序の存在意義なのである。

 

 まあ、それはさておき……。

 

「……そうだな。連中の武器は、タナーリどものそれよりも痛いが。それは、向こうにとっても同じことだ」

 

 セレスチャルの攻撃がデヴィルにとって致命的であるというのならば、逆もまた然り。

 邪悪な力に満ちたデヴィルの肉体やその振るう武器は、通常の攻撃に対しては高い耐性をもつセレスチャルにも容易に深手を与えられるのである。

 また、一部のデヴィルと同様にある種のセレスチャルは通常の攻撃では決して死ぬことがなく、悪の属性を帯びた呪文か武器によってのみ滅ぼすことができるのだ。

 

「だから、怯えず、積極的に攻撃を当てに行くことだな。万が一ここで死んでも、アヴェルヌスの戦場に戻るだけのこと。挽回の機会はまた来ると、そう心得よ」

 

 オルニガザールは部下たちに、ひとまずそう助言をしておいた。

 もちろん彼らのことを慮って言っているのではなく、戦場で前線に飛び出し盾となるはずの連中がしっかり働いてくれないと、自分が困るからだが。

 

 とはいえ、別に口から出まかせを言っているわけでもない。

 

 物質界で人間を獲物とするル・ウールにとっては物質界で死亡し、バートルに九十九年間『幽閉』されることは大問題だろうが、軍人である彼らは別に物質界などに行けなくても、流血戦争でバートルの第一階層アヴェルヌスの守備部隊に加わって戦えばよいだけのこと。

 故郷であるバートルの戦いで死亡すればそれきり復活できなくなるのだから、流血戦争の戦線で戦うよりも幾分か気楽なくらいだった。

 無論、オルニガザールやその部下たちとて、この戦いで敗北してバートルに送還されれば、デヴィルが死以上におそれる降格処分を受けてしまう危険はゼロではない。

 しかし、あくまでも一戦士としてこの場にいるに過ぎない彼らが問われる責任はおそらく総指揮官であるル・ウールよりもずっと軽く、そこまでの罰を受ける可能性は低かった。

 

「はっ!」

 

「バートルのために!」

 

 部下たちも、上官が取り乱した様子を見せないので、いくらか安心したようだった。

 

 いかにして横暴な上官の背中を刺してやろうかと常に考えている収穫者に比べれば、軍人のデヴィルは上官に忠実に従い、頼りにしていることが多い。

 単純に、戦場では味方の背中を刺すような余裕はないことが多く、それよりも協力し合う方が大抵の場合は利益になるというだけのことだが。

 敬意などはあったとしても薄っぺらなもので、どんな部下であれ、尊敬する上官にとって代われる機会があるなら喜んでそうするだろう。

 有能な上官についていけば部下は生き延びられる可能性、出世できる可能性が高くなり、上官はついてくる部下が多ければ、いざという時に使える肉壁が増えるのだ……。

 

 

 

 ややあって、ざわめくレコン・キスタの兵たちを分けて、ル・ウールに率いられたデヴィルたちの一団が姿を現した。

 

『始祖の名を騙る者どもよ。諸君らが真に神の加護を信ずるならば、さあ、我らと堂々と勝負したまえ!』

 

 ル・ウールは城門からやや距離を置いたところで立ち止まると、手近の風のメイジに命じて声を増幅させ、城内に向けてそう呼ばわった。

 

「……そこで、しばし待たれよ」

 

 『眠れる者』はひとまずそう答えて、城内からの指示を待つ。

 

「デヴィルがたくさんいるの。それに……あれは、ええと。ゴーレムかな?」

 

 ディーキンは、敵の一団の姿を城内から観察して、少し首をかしげた。

 

 そいつは王者のような衣装に身を包み、額に小さな角が生えた凛々しくたくましい、しかしどこか恐ろしげな長髪の人間のような造形をしているが、そのすべてが鈍く光る金属でできていた。

 身の丈は五メイル近くもあろうか、先ほど逃げ去っていったトロール鬼やオグル鬼などの巨人族にも匹敵するほどの体躯である。

 その背中にはこれまた金属製の、飛行する役には立ちそうもない飾りの翼が生えており、天使もしくは堕天使めいた姿をしている。

 

 九層地獄で数多のデヴィルと戦ってきたディーキンには、大方の敵の正体は判別できたが、そのゴーレムらしき相手だけは見覚えがなかった。

 

『どうやら、少数の精鋭部隊で雌雄を決する気のようですね……。勝つことで現状を打開しようというのでしょう』

 

 ウィルブレースがそう意見を述べる。

 彼女は今、ディーキンとは別の場所でこの状況を窺っているが、《レアリーのテレパシー結合(レアリーズ・テレパシック・ボンド)》を介して彼とも意思を疎通させているのだ。

 

 しかし、ウィルブレースもまた、そのゴーレムらしきものの正体についてはよくわからないようだった。

 博識なバード二人の知識にないということは、一般的にフェイルーンやバートルなどで使われているような人造ではないのだろうか。

 

『ただ、あの姿はバートルの第二階層ディスの支配者、アークデヴィル・ディスパテルのそれにどこか似ていますね。そのあたりからすると、デヴィルの作ったものには違いなさそうですが……』

 

 ディーキンも彼女の言葉を聞いて、ああ、そういえばと思い出した。

 これまでに読んだデヴィルにまつわる本の挿絵や、バートルを旅したときに目にした彫像などでは、確かにディスパテルというアークデヴィルはあんな感じの姿をしていた気がする。

 そうなると、これらのデヴィルたちの背後にいるのは、ディスパテルだということだろうか。

 

「でも、バートルではあんなゴーレムは見なかったよ。メイジと協力して作ったのかな?」

 

 そう呟きながらルイズのほうをちょっと窺ってみたが、彼女も確かにゴーレムだと思うとは言ったものの、詳しいことはわからないようだった。

 そもそも、この世界のゴーレムの出来やデザインは作成する個々のメイジの能力によって千差万別であり、一見しただけで能力などの詳細を識別することは非常に難しいのである。

 

「とりあえず、呪文ひとつで即席に作ったものじゃないわね。そこまで大きくはないけどデザインは精巧だし、その辺の土や石から作ったようにも見えないし。あらかじめ用意してあったものだと思うわ」

 

『そうですね、動きも非常に滑らかです。土系統のスクウェア・メイジが作ったのかもしれません。おそらく、動力として土石かなにかが組み込んでありますね』

 

 土系統の優秀なメイジであるマチルダも、テレパシー越しにルイズの見解に同意する。

 

 つまり、腕利きのメイジが惜しまずにコストと時間を費やして作成したものであり、それ相応に手強いだろう。

 なにかギミックや特殊な能力も、備えているかもしれない。

 人間の兵たちはほとんど戦意を喪失してしまったようだが、あらかじめ作成して内部に動力源を組み込み、作成者から自立して行動できるようにしてあったゴーレム、ないしはガーゴイルならば、命令さえ与えられれば動揺や躊躇など一切なく戦うはずである。

 

『なんであれ、挑戦された以上は早めに返事をしなくてはならないだろう。こちらも神の加護を謳った以上は、ここは堂々と受けて立つ以外にないと思うが……』

 

 ウェールズ皇太子が、そう意見を述べる。

 彼は実質的な王党派の総指揮官であり、父王と共に最終的な決定を下す立場にあるが、レコン・キスタに与する悪魔たちに関することは、それに詳しいディーキンやセレスチャルらの判断を重んじるつもりだった。

 

「ウーン……」

 

 ディーキンは、眉根を寄せて悩んだ。

 彼としても、基本的にはウェールズの意見に賛成ではあるのだが……。

 

 進み出てきたデヴィルらの数は、ここから見える限りでは三十体そこそこといったところ。

 これだけの大軍勢なのだから、それで従軍しているデヴィルすべてというわけではないかもしれないが……、ウィルブレースの言ったとおり、少数精鋭で片をつけるつもりなのだろうか。

 

 あの“ル・ウール候”だと名乗っている指揮官の他には、ゲルゴン、オシュルス、ブエロザ、キュトンに、ナイトメアに騎乗したナルズゴンがそれぞれ一体ずつ。

 バルバズゥが四体に、八体編成のメレゴンの歩兵小隊が一部隊。彼らの周囲を飛び回るスピナゴンが四体。

 ここからでは見えないが、《真実の目》で戦場を見ている『眠れる者』からの情報によれば、獣めいた姿をした不可視のデヴィルであるベゼキラも二体、加わっているらしい。

 それに、ヘルハウンドが六体……そのうちの一体は、大柄なネシアン・ウォーハウンドだ。

 そして件の大きなゴーレムらしきものが彼らの群れの中央に陣取っていて、それですべてのようだった。

 

 まだどこかに隠れたデヴィルがいる可能性は否定できないが、いたとしてもせいぜい一体から数体増えるだけだろう。

 上級のデヴィルも含まれているが、最上級というほどのものはいない。

 戦力的に未知数なあのゴーレムを除けば、まず問題なく勝てるだろうとは思う。

 もちろん、同じ種類のデヴィルであってもレベルが高く平均よりはるかに強い個体がいないわけではないから、絶対とまでは言い切れないが。

 

 とはいえ問題は、犠牲を出さずに勝てるかどうか、である。

 

『ここは、こちらも少数精鋭で行きましょう』

 

 ウィルブレースが、そう提案する。

 

『敵は数が多い。それに対してこちらも数で対抗すれば混戦となり、犠牲を出さずに勝つことはできないでしょう』

 

 ディーキンと『眠れる者』も、その意見に賛成だった。

 

「ウン……、そうだね。ディーキンも、それがいいと思うの」

 

『それで構わない。では、私と君たち二人の三人で、連中の相手をしようか?』

 

 その言葉を聞いた他の者たちが、驚いたような顔をする。

 とはいえ、大半のメンバーはテレパシー越しに話していて、顔を合わせてはいないのだが。

 

『本気か!? 相手の数は三十はくだらない。それも、恐ろしい悪魔どもだ!』

 

 これまでずっと軍を率いて戦ってきたウェールズには、すべてではないものの、城壁の外に見えている悪魔たちの姿に見覚えがあった。

 いずれも、ごく少数の部隊でその何十倍もの数の王党派の兵たちを蹴散らしてきたバケモノばかりだ。

 中でも、古びた甲冑に全身を包んだ戦士や、黒い鎧を身にまとって恐ろしい漆黒の馬のような幻獣に跨る騎士、蠍の尾をもつおぞましい骸骨のような姿をした悪魔などの士官らしき連中は、いずれも熟練のメイジや戦士たちを次々と討ち取っていった恐るべき手練れである。

 

「そうよ、あんたたちが強いのは知ってるけど、自分の力を過信するのは危険だわ。相手が何十人なんだから、こっちも同じくらいの数で戦ったってちっとも卑怯じゃないし、あんたたちが呼んでくれた天使がここにはたくさんいるじゃないの!」

 

 ルイズもそう言ってウェールズに同調するが、ディーキンは首を横に振った。

 

 招請したセレスチャルたちはみな喜んで戦ってはくれるだろうが、さしたる報酬も求めずに異世界の戦いに加わってくれた有志の彼らを、危険の大きな戦いに加わらせて死なせるようなことはしたくない。

 アルビオンの兵士たちも、相手が誰であれ恐れずに戦ってはくれるだろうが、デヴィルを相手にどこまで歯が立つかはわからない。

 ウィルブレースらセレスチャルも、ディーキンも、もちろん危機的な状況に陥った仲間を見捨てることなどはできない。

 だが、敵の数が多いだけに全力で戦わねばならない状況ですべての味方に気を配って常にカバーできるようにしておくということは難しく、それを無理にしようとすれば、かえって仲間全体が危険に晒されることになる。

 

 別に自分たちの力を過信しているわけではなく、ディーキンも、もちろんウィルブレースや『眠れる者』も、危険な戦いになるかもしれないことはわかっている。

 それだからこそ、口に出してそう言うことははばかられるが、戦力よりもむしろ足手まといになる公算の高い者は参加させない方がいい……。

 

『……と、いうことなのです』

 

 ウィルブレースも概ね、ディーキンと同じ考えだった。

 そんなわけで、彼女が失礼にならないように言葉を選びながら、手短に皆に説明していった。

 

 感情的なことや、本当に三人だけで勝てるのかといった不安など、さまざまな要素が絡み合って、誰もが完全に納得したというわけにはいかないようだったが……。

 この戦いにおけるウィルブレースの功績は非常に大きなもので、悪魔についても、おそらくこの城にいる他の誰よりも詳しい。

 その彼女自身が三人でよいというのであれば、不承不承ながらも受け入れるしかなかった。

 

 しかし、そこであえて声を上げる者がいた。

 

『私もいく』

 

 横からテレパシーを割り込ませてそう申し出たのは、タバサである。

 

『あなたたちは、悪魔には詳しいかもしれない。でも、私たちの魔法に詳しくはないはず。あのゴーレムが、悪魔の技だけで作られたものでないのなら……』

 

 それなら、ハルケギニアのメイジの技やそれに関する知識が、この戦いで役に立つこともあるかもしれない。

 と、いうのが、彼女の挙げた理由だった。

 

「ええと、タバサ……。その通りかもしれないし、気持ちは嬉しいけど。でも、それは……」

 

 それは、城内から様子を見ていてもらって、必要があればテレパシーを通して伝えてもらうことでもなんとかなるだろう。

 確かに間近で直接見る方が見落としや情報の遅滞はないだろうが、危険を冒すに見合うほどのメリットが得られる可能性は低い。

 百歩譲って仮にそうしてもらうとしても、それなら土系統のマチルダの方がゴーレムについてはより詳しいのではないか。

 

 ディーキンがそう反論をしようとした、そのとき。

 

「連れて行って」

 

 テレパシー越しではない声が聞こえてきて、はっとして振り返ると、いつの間にかタバサがそこに来ていた。

 

「タ、タバサ? あなた、なんでここに……」

 

 戦いはいま小休止中だとはいえ、どうして自分の担当する持ち場を離れて、こちらにきたのか。

 そんな疑問を顔に浮かべて戸惑っているルイズを尻目に、タバサは小走りに駆け寄ってきてディーキンの傍に屈み込むと、彼の手を握った。

 

 ちなみに、行きたそうにそわそわうずうずしていたタバサを嗾けて、彼女にしては大胆なこんな行動に走らせたのは、例によって親友のキュルケである。

 

「私も、あなたと一緒に戦いたい。お願い」

 

「タバサ?」

 

 ディーキンとルイズの主従は、そろって目を丸くしていた。

 

 いつも冷静でむしろ無気力にも思える彼女らしからぬ、感情的、衝動的としか思えないような行動。

 熱っぽく訴えるようなその目と声……。

 

「……だめ?」

 

「……ン。いや、そんな。ディーキンは、もちろんタバサがいてくれたら、すごく心強いよ」

 

 そう言ってにっこりとタバサの手を握り返しながら、テレパシーで事情をさっと説明して、ウィルブレースと『眠れる者』に了解を求める。

 

『まあ、素敵ですね!』

 

『想い人を待つ辛さは私もよく知っている。彼女がそう思い、君にそれに応える気があるのなら、誰にもそれを遮る権利などないはずだ』

 

 二人は当然のように、快く受け入れてくれた。

 

 

 

「……うー……」

 

 すっかり蚊帳の外なルイズは、最近はほとんど感じなくなっていたもやもやするような思いを久し振りに味わっていた。

 自分も行きたかったが、ここで始祖の幻影を維持し、状況の変化があった場合にはそれに対応するという仕事がある以上、そういうわけにもいかない。

 

 なによ、なんであんたがいきなり出てくるの。

 そりゃあ、別にこの子を独占しようだとか、行動に口出ししようだとか、そんな気はないけど。

 けどこの子は、ディーキンは私のパートナーなんだから、そのことを忘れないでよね!

 

 

 

 そんな不服げな彼女をよそに、ディーキンはひとまず話がまとまると、コホンと咳払いをする。

 

「アー、ええと……。戦いを手伝ってくれて、ありがとうなの。でも、きっと危険な戦いになると思うから。タバサにもちょっと、準備をしてもらっていいかな?」

 



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第百三十四話 Each one's thought

 前線に出て門前に立ちはだかる敵の正体を見極めたオルニガザールは、心の中で舌打ちをした。

 

(ええい、クソが! よりにもよって、“緑ハゲ”が相手か!)

 

 それは、デヴィルの『軍人』たちの間で、『眠れる者』のようなプラネターのことを指すのに使われるスラングであった。

 彼らがエメラルド色の体色をしており、髪の毛などの体毛が生えていないことからだ。

 プラネターは天上の次元界で将軍の役割を務めているため、セレスチャルの中でもデヴィルやデーモンのようなフィーンドと交戦する機会が比較的多い。

 

 なんにせよ、オルニガザールがこれまでに遭遇したことのあるセレスチャルの中では、プラネターはおよそ最悪の部類に入る相手である。

 それほど強力な存在が、一体なぜここにいるのか。

 デヴィルだけではなく、どこぞの善の神々もこの世界に介入を始めたとでも言うのか?

 

(あるいは、何者かが呼び出したのか……? それは、件の『虚無』とやらか?)

 

 ……しかし、そんな詮索は自分のような軍人の仕事ではないし、後回しだ。

 今はまず、目の前の敵にどう対処するかである。

 流血戦争の戦場なら、こんな難敵の相手は部下に押し付けて自分はそいつらが刻み殺されている間に後退するか、さもなければより強力なコルヌゴンやピット・フィーンドにでも任せておきたいところだが……。

 

(今この場では、そういうわけにもいくまいな)

 

 そんなわけで、ル・ウールの挑戦に対する敵からの返事を待つ間に、オルニガザールは頭の中であれこれと作戦を立てていた。

 

 流血戦争の戦場における常套手段として、“イヌ”どもと“まとめ売り”どもをありったけ突撃させて足止めにするか?

 いや、別に使い捨てのヘルハウンドやメレゴンがどれだけ死のうが知ったことではないが、そんなザコではまず足止めどころか肉壁にもなるまい。

 プラネターは実に強大な信仰呪文の使い手で、必要とあれば《奇跡(ミラクル)》で神格による助力を請うことさえ許されているのだ。

 呪文ひとつで一掃された上に、とばっちりがこちらにまで飛んでくるのがおちだろう。

 

(それに、敵があの“緑ハゲ”だけということもないだろう……)

 

 セレスチャルどもがこちらの挑戦を拒むはずもないが、そうすると城内から更なる援軍が現れるはずである。

 よしんば仮にセレスチャルがあの緑ハゲ一体だけだったとしても、先立って木偶どもを『ヘクサゴン・スペル』とやらで消し飛ばした王族やその護衛どもが、奴一人に丸投げして城の奥で震えているだけなどということはあるまい。

 

 数合わせの連中には、そちらの相手をさせておくのがいいか。

 しかし、そうなると結局、あの緑ハゲの相手は自分と、少しは役に立ちそうな一握りの精鋭の部下どもだけで行うほかないということに……。

 

(チッ……)

 

 オルニガザールは内心で舌打ちをしながら、戦列の中央に陣取る“新兵器”に目をやった。

 身の丈十二フィートはある自分よりもさらに一回りかそれ以上も大きいそれは、バートルにおける自分たちの主、ディスパテル大公爵がまだ天界にいた頃の姿を模しているのだという。

 

 秩序だった計算ずくの戦いを旨とするデヴィルとしては、本来不確定な要素に頼るのは好ましくない。

 ましてやそれが、いけ好かない『魂の収穫者』どもの用意したものとあってはなおさらのことだ。

 だが、どうにもこのままでは分が悪そうに思えるし、デヴィルは実利を重んじる合理主義者だった。

 

(こうなればこの新兵器とやらも、前情報どおりの性能を発揮できることを期待して戦術に組み込むしかあるまいな)

 

 オルニガザールはそう結論を出すと、他にまだどんな敵が出てくるかはわからないものの、ひとまずプラネターへの対策を中心とした戦術を組み立てて部下たちにテレパシーで指示を与え始めた。

 そんな彼らの様子を、『眠れる者』は厳しい目をしながらも、ただじっと佇んで見守っていた。

 

 

 

「……待たせたな。どうやら他の者たちも準備は整ったようだ、挑戦を受けよう」

 

 ややあって、『眠れる者』は口を開くと、重々しくそう宣言する。

 

 それと同時に、ニューカッスル城の城壁を超えて二つの輝く姿が空中から城門の前、『眠れる者』の傍に降り立つ。

 いかにもバードらしい劇的な演出に、両軍の兵士たちからからおおっというどよめきの声が上がった。

 

「この者たちと私とで、お前たちの相手をする。異存はあるか?」

 

「ふむ……」

 

 部隊を率いるル・ウールは、新手の姿をじっくりと検分した。

 

 新たに姿を現した輝く姿のうちのひとつは、鼻先から尻尾の先までの全長が三十フィートはあろうかというドラゴンだった。

 全身は黄金色にきらめき、まるで金属製の彫像のよう。

 体を覆う鱗はすべて完璧に整った形をしていて、白熱したプラチナのごとく眩く輝いている。

 そしてその背中には、鎧のような光輝を身にまとって剣杖を手にした、細身の青年……あるいは女性だろうか……が、跨っていた。

 つまりは、俗にいう竜騎兵、ドラゴンライダーというものであろう。

 黒いマントを羽織り、騎士らしい制服に身を包み、顔の下半分だけを鉄の仮面で覆っている。

 羽飾りのついた帽子の下からは、その恐ろしげな装いにはいささか不似合いな、ウェーブがかった美しい桃色の長髪が流れていた。

 

 もうひとつの姿の方は、淡い虹色の光を放つ直径八フィートほどのきらめく球体だ。

 姿形だけを見ると下級のセレスチャルであるランタン・アルコンにも似ているが、それよりもかなり大きいし、放つ光の色合いも違っている。

 

 いずれもル・ウールの知識にはない相手だったが、流血戦争の戦場に立ってデーモンらを相手取ることもない彼は、ドラゴンにせよ自分たちデヴィル以外の来訪者にせよ、元よりあまり詳しくはなかった。

 

「……いいだろう。君らの勇気とその輝かしい上辺の姿が本物かどうか、すぐに明らかになることだろう」

 

 ややあってそう言うと、余裕ぶって鷹揚に頷いた。

 彼は自分を殺し得る手段を持たない人間の特攻に対しては悠然と構えていられても、本当に命の危険がある状況に自らの身を晒すことには慣れていない。

 それゆえにセレスチャルを相手の前線に立つことには内心かなりの不安があったが、思ったよりも敵の数が少なく、自分の盾となってくれる部下の数がそれよりも遥かに多いことを知って、いくらか安堵したのである。

 

 しかし、少し離れた場所でじっと敵の姿を観察するオルニガザールは、それほど状況を楽観視はしていなかった。

 

 どちらかといえば、比較的弱いセレスチャルが五、六人ばかり出てきてくれることを彼は期待していた。

 それならば想定の範囲内であり、流血戦争でデーモンどもを相手取るのとほぼ同じような感覚で、対策も立てやすい。

 だというのに、実際に出てきたのはまるで予想外の相手ではないか。

 

(……あのドラゴンは、この世界の種族か? どうも、そういった感じはせんが……。それに、乗っているのは人間のように見えるが、あれも姿を変えたセレスチャルなのか?)

 

 オルニガザールもル・ウールと同様、ドラゴンについては特に詳しくはなかった。

 バートルやそれにほど近い下方次元界に住むステュクス・ドラゴンやラスト・ドラゴン、パイロクラスティック・ドラゴンなどといった種族ならばいくらか見たことはあるが、それ以外の次元界や物質界に住むドラゴンについては流血戦争の戦場となるような次元界に姿を現すことは稀で、ほとんど知らない。

 目の前にいるのが天界山セレスティアの次元界に住む高貴なる竜、レイディアント・ドラゴンの比較的若い個体であるということは彼の知識にない。

 ましてや、そのレイディアント・ドラゴンが本物ではなくハーフドラゴン・ハーフコボルド(ディーキン)が姿を変えたものであることや、その背に跨っているのは《変装帽子(ハット・オブ・ディスガイズ)》で外見を変えてはいるもののセレスチャルではなく正真正銘の人間(タバサ)であるということなど知る由もなかった。

 

 なお、タバサが変装をしているのは、デヴィルとガリアに何らかのつながりがあることをほぼ確実と見ているディーキンが念のためにそうしてくれるようにと頼んだからである。

 上位のデヴィルの中にはタバサのことを知っている者がいないとも限らないし、彼女に目をつけられたりしてはたまらない。

 もっとも、彼女にこの姿に変装してもらっている理由は、他にもあるのだが……。

 ディーキンもウィルブレースに頼んでワルド戦でも使用したレイディアント・ドラゴンの姿に変身させてもらい、この姿では使用できない装備品の一部を、戦闘前のバフをかけるのと合わせてタバサに回した。

 

 もう一方のセレスチャルについても、これまたオルニガザールには見たことのない種族だった。

 ウィルブレースのようなトゥラニ・エラドリンは、一般に隠棲した生活を送っている。

 故郷の次元界である気高き緑の大地アルボレアの深い森の奥から姿を現すことは滅多になく、流血戦争の戦場で姿を見かけないのは当然のことだ。

 ましてや、いかにもエラドリンらしい人型の形態ではなく光球状の形態をとっていたのでは、仮に話に聞いたことくらいはあったにしても、実際に見てそれと識別することは難しいだろう。

 

 もしもこの場に《真実の目(トゥルー・シーイング)》の能力をもつエリニュスが生き残っていたなら、一見してディーキンやタバサの正体も、ウィルブレースの別形態についても見抜くことができたであろうが、従軍した二名ともが既に倒されてしまっていた。

 

(……チッ、どいつもこいつも)

 

 使えない連中に内心で悪態を吐きながら、思案を巡らせる。

 

 デヴィルの中でもそれなりに経験豊富な軍人であるはずの自分が見たことのない種族だということは、およそ戦闘には向いていない非好戦的なタイプのセレスチャルなのだろうか?

 しかし、そんな弱小なセレスチャルが、わざわざこんな場に呼ばれるものだろうか?

 

(どうにも、気に入らんな……)

 

 明らかに不十分な情報に基づいて判断を下さねばならないこの状況に、オルニガザールはいらついていた。

 

 流血戦争の戦場では、完璧だったはずの計画が圧倒的なデーモンの大軍勢の前に脆くも瓦解してしまうということがしばしばある。

 そんな戦いの前に感じるのとよく似た、どうにも不快な、不吉な予感がする。

 

 とはいえ、いまさら文句を言ってみても始まらない。

 

(ええい、愚直なナルズゴンどもではないが!)

 

 こうなれば、後は自分の立てた戦術を信じて、黙って戦うのみだ。

 

 オルニガザールはテレパシーを通じて、主要な部下たちと最終的な打ち合わせを行った。

 それを受けて、新兵器の近くにいたオシュルスが密かに、小声でその剣呑なゴーレムに行動の指示を与えていく……。

 

 

 

 前線に出て目の前のセレスチャルらに意識を集中していたデヴィルたちは、人間の兵たちの間で起きているざわめきには気付かなかった。

 

「あ、あれは……」

 

 ニューカッスル城の中でも、そしてレコン・キスタ陣営の中でも、齢五十近い、あるいはそれ以上の古参兵たちが、輝く竜に跨る騎士の姿を見て驚嘆に目を見開いていた。

 特にレコン・キスタ陣営の者たちは、怯えて声ばかりか、体まで震えている。

 

 レコン・キスタの指揮官であるル・ウール侯も伝説的な名将だが、彼はかなり過去の人物であり、肖像画以外で実際に目にしたことのある者はこの世にいない。

 もしいるとすれば、長命で知られるエルフくらいのものであろう。

 それに対して、城門の前で今まさにそのル・ウール侯と対峙している騎士は遥かに記憶に新しい伝説であり、実際にその姿を見たことのある者がまだ大勢残っていた。

 

「ど、どうしたんです、准尉殿?」

 

「……ま、間違いない。あれは烈風、『烈風』カリンだ! 昔、地上の戦で見たことがある……!」

 

 その名を聞いた途端、他の兵たちも同様に驚嘆と畏怖の表情を浮かべた。

 そう言われてみれば、確かに伝え聞く姿と一致するし、肖像画などに描かれている姿ともよく似ている。

 

 それは三十年ほど前にトリステインの魔法衛士隊長を務めていたという、伝説の騎士。

 かの王国で、いや、あるいは歴史上で最強かもしれぬほどの『風』の使い手。

 反乱軍をただ一人で鎮圧し、ドラゴンの群れを屠り、エルフであれ吸血鬼であれその前に立ちはだかることはかなわなかったという。

 恥ずべきことではあるが、風の王国と呼ばれるこのアルビオンの歴史においても、それほどの使い手はただ一人として記録されていない。

 こと風においてはあるいは始祖ブリミルその人さえ上回るかもしれぬと言われながらも、若くして引退しその姿を消した謎めいた人物である。

 顔を隠していたこととその端正な容貌から、あるいは男装の麗人ではなかったかとも噂されているが、定かではない。

 

 それが今、始祖ブリミルと天使たちと共に、ニューカッスル城の前に立ちはだかっている……。

 

「……い、いや、まさか! いくらなんでも、もういい年のはずです。見た感じかなり若いじゃありませんか、本物ってことはあるまい!」

 

「そ、そうそう。それに、『烈風』カリンは竜騎士じゃなくて、マンティコア隊じゃありませんでしたかね?」

 

 若い兵たちは口々にそう言って無理に笑ったが、その笑みは引きつっていた。

 

 考えてみれば、トリステインとアルビオンの王族は以前から懇意であり、この窮状を見かねた伝説の英雄が今一度立ち上がってかの国からやってきたとしても、そう驚くことではないかもしれない。

 それに、自軍を遠い昔に死んだはずの英雄が指揮し、死人が蘇って従軍している今、それ以上の奇跡を見せ始めた敵軍の側に三十年前の英雄が光り輝くドラゴンに跨って昔日のままの姿で天より降臨したからといって、そんなことはありえぬと言い切れようか。

 

 准尉は押し黙って俯いていたが、やがてぽつりと呟いた。

 

「……そうだな。だが、あれが本物かどうかは、すぐにわかるだろう」

 

 あれが本物であれば、必ずや“烈風”を起こすはずだ。

 姿形は偽れても、伝説となったその力までは、模倣のしようがない。

 あの力が三十年の時を経て今一度この場に現れるのであれば、誰もが信じざるを得なくなるだろう。

 

(その時は、降伏する以外あるまいな)

 

 天使であれ悪魔であれ、あの生ける伝説を敵に回して勝てるはずなどないのだから……。

 

 

 

 ルイズは内心はらはらしたり、微妙な気分になったりしながら、事の成り行きを見守っていた。

 なにせ伝説の『烈風』カリンとは、彼女の母の若き日の姿なのである。

 

 確かに、勇者や英雄の話を好むディーキンを喜ばせてやろうと、「実は私の母さまは」と、話したことはあった。

 その時に、大喜びで無邪気げに聞いているディーキンの姿を見てちょっと得意になったルイズは、サービスで以前に見せてもらった母の姿を『イリュージョン』で再現して見せてやったりもした。

 しかしまさか、それをこんな場所で利用されるとは……。

 

「……こんなことが母さまの耳に入ったら、なんて言われるかしら……」

 

 アルビオンを救うためなのだし、ディーキンにも自分にも決して否はないとは思うが、なにぶん母は規律にやかましく厳しい、というか恐ろしい人なのである。

 勝手に名前を利用させてもらったことで、機嫌を損ねたりしないといいのだが。

 

「……ま、まあ、空の上のアルビオンでのことだし。黙ってれば、母さまの耳には入らないわよね?」

 

 それに、ディーキンならたとえ母さまが怒っても、説得とか音楽とかで言いくるめてくれそうな気がしないでもないし……。

 

 ルイズはそう自分に言い聞かせて、気持ちを切り替えようとして。

 そこでふと、その頼れる自分のパートナーと、それに引っ付いている少女のことを思い浮かべた。

 

 下の方を見ると、母さまに化けたタバサとディーキンがべったりしている。

 というか、タバサがディーキンに跨っている。

 

(でで、デート気分か!)

 

 ルイズの口の端がひくひくした。

 ああもう、べたべたするんじゃないわよ、いやらしいわね!

 

 いや、別にタバサはディーキンがドラゴンに化けてるから、その上に乗っかっているだけなのだけど。

 なんとなく、そんな気がしたのである。

 

 っていうか、後で私も乗せなさいよ。

 そんなことができるなんて聞いてないし、何でパートナーの私よりもタバサが先に乗ってるのよ。

 まったくもう……。

 

 

 

 ルイズにいささかじとっとした目で見られ、兵士たちから口々に噂されている張本人であるところのタバサはしかし、そんなことには気付いた様子もなく。

 レイディアント・ドラゴンの姿になったディーキンの大きな背にそっと手を這わせながら、ほうっとため息を吐いていた。

 

(……なんだか、どきどきする……)

 

 母を取り戻したにせよ、戦いの日々を受け入れて凍てついた心がすぐに融けることはないし、融けたとしても、昔のままでは決してない。

 あの頃の、無垢で、無知で、無力な少女に戻れるわけでは、戻ってしまうわけではない……。

 

 それと同じことで、きっかけはどうあれ一度変わってしまったらもう、以前の自分には戻れないのだ。

 

 薬の影響は消えても、一度相手を魅力的だと感じてしまった、求めてしまった、その事実も記憶も消えてなくなることはなかった。

 あのラ・ロシェールの夜に彼に身をすり寄せたときに覚えた渇望、焼け付くような胸の疼きは、いまだに鮮明に思い起こすことができる。

 そうするたびに、喉や肌が微かにまた、じりじりと焼かれるかのような感覚を覚えた。

 

 あんなことがなかったら、たとえキュルケに嗾けられたにしても衝動的に飛び出して、今こうしてこの場にいるなんてことはなかったのではないだろうか。

 以前の自分からは、とても考えられないような行動だから。

 こうして、あのときよりもずっと大きく、なお分厚くたくましくなった彼の背中に手を這わせていると、なおさらに……。

 

 ぼうっとしてそんなとりとめのないことを考えていたタバサは、そこでふと我に返った。

 

(一体、何を考えているの?)

 

 戦いを前にこんな他所事を考えているなどというのは、これまでの自分には絶対にありえなかったことだ。

 

 大体、ディーキンに頼まれはしたけれど、かの『烈風』の真似事などが果たして自分にできるものなのだろうか?

 確かに同じ風系統のメイジではあるが、自分はまだトライアングル・クラスなのである。

 トライアングルの風を、これが伝説だなどと言って持ち出したりするのは、水たまりを海だと言い張るようなものだ。

 以前にフーケのゴーレムと戦った時、ディーキンはキュルケをサポートして呪文の威力を上げていた。

 けれど、せいぜいトライアングルの炎が、並みのスクウェア程度に強くなっただけ。

 自分の魔力はキュルケと大差ないのだから、仮にあの時と同じことをしても、やはり同様に並みのスクウェア・メイジと並ぶかどうかといった程度だろう。

 伝説の風だと言い張るには、無理がありすぎる。

 

 いや、それ以前にまず、圧倒的に数で優る強大な悪魔たちを相手に、果たして勝てるものか?

 もしかしたら、数分後には最後の時が訪れるかもしれないのだ。

 

 それなのに……。

 

(私、ぜんぜん心配してない)

 

 そのことを考えると、タバサはなんだかおかしくなって、口の端にかすかな笑みを浮かべた。

 

 だって、自分はディーキンの手伝いがしたい一心で、ここに来たのではなかったのか?

 でも、いざこうしてみると、彼が負ける心配など少しもしていない。

 不謹慎だ、自分の心が弱くなったのではないか、などと自省してみようともしたが、どうしても本心からそんな気分になることはできなかった。

 

 だって、自分はいま、ディーキンに『乗っかっている』のだから。

 いろいろな意味で。

 

(世界に、これよりも安らげる場所があるだろうか)

 

 ……そんな馬鹿げた考えが浮かんでくるあたり、確かに自分は浮ついているのだろうけれど。

 

 戦いを前にしてこんなに心に余裕があるなんて、初めてのことではないだろうか。

 あの、冷たく張り詰めた『雪風』は、一体どこへ行ってしまったのやら……。

 

『ごめんなさい。私、気が抜けてるみたい』

 

 ディーキンにそんなテレパシーを送ると、彼の方も気楽そうな返事を返してきた。

 

『よかった。タバサが心配してないなら、ディーキンも安心していられるよ』

 

 きちんと作戦を立てて真剣に戦う、それはもちろんのことだが、必ずしもくそ真面目にしていればいいというものではない。

 ある種のデヴィルみたいに絶えず偏執的にそわそわしていても、かえって実力が発揮できないものである。

 

 

 

 なにはともあれ、いよいよ決戦の時だ……。

 



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第百三十五話 Premature victory

 

(最初の数秒が勝負になる)

 

 決戦を目前に控えて、オルニガザールはそう判断していた。

 強大な呪文の使い手を相手にする場合、勝負の趨勢は瞬く間に決まってしまうことが多い。

 大抵は完勝か完敗、そのどちらかだ。

 

 作戦としては、まず雑兵どもは適当に突撃させ、敵の目と攻撃を引き付けるおとりに使う。

 その間にめぼしい戦力になる者たちは、雑兵どもと共に攻撃に巻き込まれぬようテレポート、もしくは散開して、敵を包囲するような配置につく。

 そして雑兵どもの背後から、“新兵器”に敵全員を巻き込むようにブレスを吐かせるのだ。

 

(立ち上がりで連中が悠長に構えているようであれば、こちらが勝てる。そうでなくても相手の意表を突き、先手を打てれば、勝機は十分にある)

 

 前情報のとおりならば、あのゴーレムのブレスには、強力なセレスチャルにも十分な打撃を加えられるだけの威力があるはずだ。

 雑兵どもなどは、立ち上がりで敵の攻撃を引き付けておく的にさえなれば、後はセレスチャルどもの最初の一撃で壊滅しようと、背後からゴーレムのブレスに蒸発させられようと一向に構わない。

 その後はゴーレムに突撃させ、自分たちも加わって、敵が痛手から立ち直らぬうちに擬似呪文能力と近接戦闘の一斉攻撃で畳み掛ける予定である。

 

(理想的には、それで連中に考える間を与えず押し切りたいところだが……。敵が粘るようであれば、あるいは初撃が功を奏さぬようであれば、後は臨機応変に相手の出方や能力を見ながら対応する以外にないな……)

 

 無論、その場合は既にどうあがいても勝ち目がなくなっている可能性の方が高いかもしれないが、今からそんなことを言ってみても始まらない。

 オルニガザールはひとまず、主戦力となる部下たちにテレパシーで呼びかけて、最終的な行動の確認をしていった。

 

『かしこまりました、バートルのために!』

 

『ディスの鉄塔に鎮座まします、我らが主ディスパテル卿のために。彼奴らの首を捧げましょうぞ』

 

『そして我らは、ルビーより美しく甘い天上の血を啜る幸運に預かれるというわけですな。キキキ』

 

 次々に返ってくる部下たちの返答からは、彼らの士気が衰えていないことが感じられる。

 オルニガザールはそのことに、いくらか安堵を覚えた。

 

『よし。誰一人として出遅れるなよ』

 

 戦闘に向けて全体の隊形を整えながらゴーレムをさりげなく、比較的密集している敵方全員を呑み込めるようじりじりと前の方に移動させておく。

 だが、この時点で既に計画に綻びが生じているということには、さすがの彼も気付いてはいなかった……。

 

 

『……と、いうことだ。敵は初手で、こちらを包囲する計画のようだな』

 

 デヴィルが今まさに確認している計画の概要を、『眠れる者』がこちらもテレパシーを使って、仲間たちに説明していく。

 

 オルニガザールと部下たちの会話は、彼が密かに使用した《テレパシー盗聴(テレパシー・タップ)》の成聖呪文によって筒抜けになっていたのである。

 長年に渡って想い人をバートルで待ち続けた彼は、何事においてもあらかじめ入念な計画を立てるデヴィルのやり方を熟知しているのだ。

 愚かな雑兵のメレゴンやスピナゴンなどはいざ知らず、知性に優れるゲルゴンら上位のデヴィルが、突然セレスチャルとの戦いという予定外の事態に巻き込まれて事前に戦術を話し合わないはずがない。

 よって、これから戦わねばならない相手が目の前に出揃った時点で必ずやテレパシーによる作戦の立案が行われると踏み、山を張ってこの呪文を使用しておいたのだ。

 

 もちろん、成聖呪文は悪の術者が使えるものではないため、逆にデヴィルらによってこちらの会話が盗聴されるという心配はなかった。

 

『ウーン……。つまり、あのゴーレムはブレスを吐くの?』

 

 ディーキンはじいっと敵方のゴーレムを観察して、小さく首を傾げた。

 

 ブレスを吐くゴーレムというのは、普通のアイアンゴーレムなどもそうだし、それ自体は特に珍しくもないのだが……。

 よくよく見れば、装甲の隙間からちらちらと、不気味な白い輝きが漏れ出しているのがわかる。

 それに、デヴィルが製作に関係しているらしいことからすると……。

 

『ねえ? もしかして、あれは……』

 

 ディーキンからの問いかけに、ウィルブレースも肯定の意を返してきた。

 

『ええ、おそらくは。あの白くまがまがしい炎の輝き……、あれは“地獄の業火”に間違いないでしょうね』

 

 それは、魂さえも凍てつくという地獄で最も寒冷なカニアの地で生み出された、あらゆる世界で最も熱い炎よりもなお熱く、火の精霊も魂ですらも焼き尽くす白い炎である。

 

『やっぱり、お姉さんもそう思う?』

 

 するとあれは、地獄の業火を体内に宿す強力な人造、『ヘルファイアー・エンジン(地獄の業火の兵器)』の亜種のようなものなのだろうか。

 ディーキンはバートルで、何度かその強大な人造と戦った経験があった。

 デザインはかなり異なっているが、おそらくは天使らしく見せかけるために、わざとそう作ったのだろう。

 

『……ですが、奴らはディスパテル大公爵の配下なのでしょう?』

 

『ああ、先ほど、ディスパテルを主と呼んだデヴィルがいた。まず間違いないだろう』

 

『そうなると、少し妙ですね。地獄の業火のマスターであるアークデヴィルは、メフィストフェレスのはずですが……』

 

 かつてディーキンがボスや仲間たちと共に戦ったカニアの大公、メフィストフェレスこそが、地獄の業火を作った張本人であることはよく知られている。

 それ以外のアークデヴィルが、果たしてヘルファイアー・エンジンを組み立てられるほどの技術を有しているものだろうか。

 

 そこで、黙って聞いていたタバサが口を挟んだ。

 

『もしかしたら、レコン・キスタのメイジに協力させて作ったのかもしれない』

 

 ラ・ロシェールでも、反乱軍の派遣した傭兵たちの中に、その地獄の業火とやらを使う男が混ざっていたと聞いている。

 つまり、どんな力なのか詳しいことは知らないが、この世界のメイジにも習得し得るものだということだ。

 火系統や土系統の優秀なメイジをある程度の数揃えて技術を学ばせ、研究させて組み立てさせたのかもしれない。

 

『……そうなのかもしれませんね……』

 

 そう答えながらも、ウィルブレースは釈然としないものを感じていた。

 

 ディーキンによれば、デヴィルがこの世界に来てから、おそらくまだ二、三年程度だろうという。

 彼らにとってはまったく未知の世界であるこの物質界について学び、環境に慣れ、土台を整えて研究に取り掛かり、人材を集めだすまでにもかなりの時間を要しただろう。

 この世界のメイジたちにできることをあまり詳しく知っているわけではないが、それにしても地獄の業火などという極めて扱いの難しいエネルギーを内包する人造を、早々に組み立てられるようになるとは思えなかった。

 

(それが可能だったとすれば、彼らが味方につけた人物の中には余程に優秀な、あるいは特異な能力をもつ人物がいたのか?)

 

 それに、豊富な資金、資源、人材を十分に用意し使用できる環境も必要だろう。

 ディーキンは、デヴィルの背後にはもしかしたら大国がついているかもしれないのだといっていたが、さもありなんといったところか……。

 

「……では、そろそろ始めようか? そちらが怖気づいたのでなければね」

 

 テレパシーであれこれと話し合っていたところに敵将のル・ウールがそう呼びかけてきたので、ディーキンらはひとまず考えるのを切り上げた。

 詮索は後回しにして、今はまず、目の前の敵を倒さなくてはならない。

 

『じゃあ、とりあえずあのゴーレムは、ディーキンが何とかするよ』

 

 ヘルファイアー・エンジンはまともに戦えば上位のセレスチャルたちですら命がけとなるほどの強敵であり、それを好き勝手に暴れまわらせておけば被害は甚大なものとなるだろう。

 自分のもつ炎に対する耐性も地獄の業火を防ぐ役には立たないし、あんな熱いブレスだの拳だのを食らう危険は二度と冒したくないのだが、仲間たちの身を守るためであれば是非もなかった。

 

「承知した」

 

 そんな『眠れる者』の返事は、ディーキンとル・ウールの両方に向けられたものだった。

 

「よし。……そうだな、先だってこの場所で行われた決闘の合図は、そちらの城内からだった。今度はこちらの陣から、開始のラッパを吹かせようか?」

 

 ル・ウールのその提案をディーキンらが承諾すると、両陣営の戦士たちは戦いに備えて各々が身構えた。

 レコン・キスタ軍の兵たちも、ニューカッスル城の兵たちも、みな静まり返って、固唾を飲んで戦いの行方を見守る……。

 

 

 

 しばしの沈黙ののちに、ついに開戦を告げる大きなラッパの音が鳴り響いた。

 

 

 

 それと同時に、ル・ウールを初めとするデヴィルらは、事前の打ち合わせ通りの行動に移ろうとした。

 ある者は突撃しようとし、ある者は散開しようとし、またある者は、超常の力を引き出そうと精神を集中させる。

 そして彼らの背後から、デヴィルの新兵器であるところのゴーレム『ヘルファイアー・ヨルムンガンド(地獄の業火の精霊巨人)』が前進し、白熱した口を大きく開き始めた。

 

 ディーキンらの側もまた、素早く行動を開始した。

 『眠れる者』は精神を集中させて詠唱を初め、ディーキンとウィルブレースも各々、予定している行動に取り掛かる。

 

 しかし、その場にいる誰よりも素早く行動したのは、タバサであった。

 

 風系統のメイジには身のこなしの軽さ、素早さを誇る者が多いが、タバサはその中でもとりわけ素早い部類に属していた。

 しかも今は、ディーキンから一時的に借りた装備品や事前に城内のセレスチャルらにかけてもらった《戦闘準備(コンバット・レディネス)》などの強化魔法のおかげで、その敏速さになお一層の磨きがかかっているのだ。

 彼女が愛用の長い杖……今は《変装帽子(ハット・オブ・ディスガイズ)》の効果で、細身の剣杖のように見えているが……を敵陣に向けて素早く振り下ろすと同時に、事前に既に詠唱を終えてその杖の中に蓄えておいた呪文が解き放たれる。

 

「ぬうっ!?」

 

「ぐ、これは……」

 

 たちまちデヴィルらの周囲の空気が渦を巻き始め、彼らの動きを妨げだした。

 それは『ストーム』と呼ばれる風の渦を作り出すごく単純な呪文であったが、その風力はかなりのものだ。

 しかも、タバサはかなりの精神力を注ぎ込んで効果範囲を目いっぱいに広げていたため、すべてのデヴィルが一度にまとめてその渦の中に捕えられた。

 

 しかし……。

 

「……ふん、小賢しい! こんな涼風ごときで!」

 

 雑兵のスピナゴンやメレゴン、ヘル・ハウンドなどの多くは立ち往生しているようだが、より上位のデヴィルたちには大した効果はないようだ。

 何体かのデヴィルは、構わずそのまま擬似呪文能力を発動させて姿を消した。

 もちろん、巨体とそれに相応しい膂力を誇るゴーレムの動きも、ほとんど鈍ってはいない。

 

 だがもちろん、そんなことはあらかじめ想定済みだ。

 姿を消したデヴィルらがどのあたりに瞬間移動したのかということも、事前に彼らの立てていた作戦からわかっている。

 

「《リリルグ・スアコー・ボーンズビィ》」

 

 続けて、『眠れる者』が呪文を完成させる。

 

 途端に、風の勢いが急激に、それまでとは比較にならぬほどに激しさを増した。

 渦巻く強風は暴風となり、台風となり、ついには竜巻となって、ディーキンらの周囲を守るように渦巻き始めた。

 自然の諸力を制御する信仰呪文《風の制御(コントロール・ウィンズ)》が、タバサの巻き起こした風の威力をさらに強め、荒れ狂う竜巻を呼び起こしたのだ。

 

「!!?」

 

「う、うおぉぉおっ!?」

 

 上位のデヴィルらもこれには耐え切れず、たちまち宙に吹き飛ばされた。

 まだ行動を完成させていなかった者たちも既に終えた者たちも同様に、まるで木の葉のようにすさまじい渦の中に巻き上げられ、翻弄される。

 

 同じ周囲を取り囲むにしても、もしも上位のデヴィルらがディーキンたちのすぐ近くに瞬間移動して近接戦を挑んできていたならば、味方も巻き込まれてしまう恐れがあるためにすべてを一網打尽にすることはできなかっただろう。

 それどころか、比較的脆いタバサなどを狙われたなら深刻な被害が出たかも知れず、それを癒したり庇ったりするために他の敵に対応するのが遅れれば、混戦となった可能性もある。

 率先して危険を冒すことを嫌ってまずはゴーレムのブレスを使うことにし、それに巻き込まれないために距離を置いて包囲しようとしたこと、しかもその作戦が筒抜けとなってしまっていたことが仇になったのだ。

 

 それを待っていたウィルブレースが、竜巻に沿うようにしてくるくると宙に浮き上がった。

 そうして、竜巻のなかに巻き上げられまとめられたデヴィルらに対して、滝のように流れる電撃を次々と浴びせていく。

 トゥラニ・エラドリンのもつ、強力な《連鎖電撃(チェイン・ライトニング)》の擬似呪文能力である。

 

 さまざまなエネルギーに対して優れた抵抗力をもつデヴィルであるが、電気に対する耐性は備わっていない。

 おまけに彼女らの使うそれは通常のウィザードが唱える《連鎖電撃》よりも遥かに威力が高く、しかもフィーンドに対してはさらに威力を増すように『浄化』されているのだ。

 

「ぐげっ!!」

 

「ギッ!」

 

「ウギャアァァッ!?」

 

 強烈な電撃に体を貫かれたデヴィルらが、次々と断末魔の悲鳴を上げる。

 もっとも、ごうごうと爆音を立てて荒れ狂う剛風のために、その声は周囲にはまったく聞こえることはなかったが……。

 

 

 

「……お、おぉぉっ!?」

 

「あ、あれが、伝説の『烈風』なのか……。なんと恐ろしい、聞きしに勝る!」

 

 レコン・キスタの兵たちは、一瞬にして自軍の“天使”たちを残らず飲み込んでしまったすさまじい竜巻を見て、強い畏怖の念と興奮とを覚えていた。

 あの伝説の英雄が今、こうして実際に自分たちの目の前に姿を現しているのだ。

 

「うむ……」

 

 しかし、三十年前に本物の烈風を見た古参の准尉は、それほど興奮した様子はなかった。

 

 確かに、かの『烈風』以外の誰にも、あれほどの竜巻は起こせまい。

 だが、自分が思い出を美化しすぎているのでなければ、過去に見たそれと比べるといささかスケールダウンしているように思えた。

 それを補うためなのか、ただの『ストーム』ではなく複数の系統を組み合わせて用いているようで、竜巻のあちこちで激しい稲光が走っているのが見える。

 ある意味では進歩したとも言えるだろうが、昔日の『烈風』は他の系統などに頼らず、風だけでどんな相手でも吹き飛ばして見せたものだった。

 

「……あの『烈風』も、さすがにいささか年老いたと見えるな……」

 

 彼がぽつりと呟いたその言葉に、兵士たちは青ざめて顔を見合わせた。

 

(あれで、全盛期よりも衰えていると?)

 

 だとすれば、不死身の兵だ天使の兵だと舞い上がっていた自分たちは、とんだ道化、井の中の蛙だったというわけだ。

 つい昨日までは無敵と信じていた連中も、あれほどの英雄を前にしてはただのまがい物、とるに足らぬ子供だましの力でしかない。

 

 目前に見えたと思ったレコン・キスタの勝利など、所詮は儚いうたかたの夢でしかなかったのだ……。

 

 

 

(ぐおおぉぉっ!? な、なんだこれは、どうなっているのだ!?)

 

 ル・ウールは逆巻く竜巻の渦中でなすすべもなく翻弄され、焦っていた。

 予想外の攻撃を受け、一体何が起こったのかさえ完全には理解できていなかったが、自分が危機的な状況にいることは間違いない。

 

 超常的な強靭さと再生能力を備えたその体はいかな烈風を受けようとも致命傷を負うことこそなかったが、とはいえ早くここから脱出しなくては、程なくセレスチャルどもにとどめを刺されることは目に見えている。

 だが、体が宙に浮いていてはどんなに膂力があっても踏ん張りは効かないし、こんな風の中では飛ぶこともまともにできようはずがない。

 瞬間移動で脱け出そうにも、擬似呪文能力の使用には精神を集中させる必要がある。

 絶え間なくぎしぎしと体がきしみ、もみくちゃにされている今のような状況では、まともに使用できるかどうか怪しいものだ。

 

(だ……だが! こちらにはまだ、あの“新兵器”があるッ!)

 

 ル・ウールは、必死の思いで下のほうに目を向けた。

 

 ヘルファイアー・ヨルムンガンドはアルビオン産軽量鉄を使用しているためにオリジナルのヘルファイアー・エンジンよりもかなり軽いが、それでも超大型の鉄製のゴーレムであることに違いはない。

 烈風に耐えるために体を折り曲げ、かがみ込んで地面を掴み、半ば打ち倒されたような態勢になってはいるものの、さすがに吹き飛ばされてはいなかった。

 ギシギシと体を軋ませながらも敵の方に顔を向け、事前に与えられた命令通りに地獄の業火のブレスを吐こうとしている。

 それがいまいましい敵どもを残らず焼き払ってくれることを、ル・ウールは願った。

 

 しかし、それに対処するために、まだ行動を起こしていない輝く竜……ディーキンが控えている。

 

 ついに、宙を舞うデヴィルどもの下でかろうじて踏み止まっていたまがまがしい天使めいたデザインのゴーレムの口が、異様に大きくぱかっと開いた。

 その奥から、まるでマグネシウムを燃やしたようなまばゆい白い、炎の奔流が噴き出す。

 それは大きく拡がり、一瞬にして竜巻の渦の中心、安全な“目”の部分に密集していたディーキンら全員を覆い尽くした。

 

(く……くく!)

 

 ル・ウールは、にやりと唇を歪めた。

 

 脆弱な人間など一瞬にして骨まで蒸発するような、超々高熱のブレスにまともに呑まれたのだ。

 ドラゴンに跨った人間のメイジはもちろんのこと、セレスチャルどもやあのドラゴンも、まず無事では済むまい。

 

 しかし、閃光が消えたその奥から先ほどとまったく変わらぬ無傷の敵が現れたのを見ると、彼の笑みは一瞬にして凍り付いた。

 

 ブレスが炸裂する直前に、ディーキンが指にはめた『指揮官の指輪(コマンダーズ・リング)』……魔法の指輪は着用者に合わせてその大きさを変えるので、ドラゴンの指にでもはめられるのだ……を用いて、オルレアン家の戦いでも使った《力場の壁(ウォール・オヴ・フォース)》をゴーレムと自分たちとの間に立てたのである。

 いかな地獄の業火といえども、無限の強度をもつ力場の壁を破壊することはできないのだ。

 アルビオン産軽量鉄を用いることでオリジナルよりは軽快に動けるようになっているものの、所詮はゴーレム、その動作はお世辞にも素早いとは言えない。

 あらかじめブレスが来ることを知ってさえいれば、先手を打ってそれに対処するのは造作もなかった。

 

 後は、敵と自分たちとの間に立てた壁を維持しつつ、どうやってあのゴーレムに攻撃を加えて倒すかということだが……。

 

『タバサ、あのゴーレムは冷たいのに弱いと思うの』

 

 ディーキンがテレパシーで、タバサにそう情報を送る。

 あのゴーレムの性質がヘルファイアー・エンジンとほぼ同じだとすれば、冷気に対しては脆弱なはずだった。

 

『わかった』

 

 とはいえ、竜巻の渦中にいる相手に対して、得意の『ウィンディ・アイシクル』や『ジャベリン』を叩きつけることはできない。

 氷の矢などが、あの風の中でまともに飛ばせるはずがないからだ。

 それに、正面から攻撃するには、先ほどディーキンの立てた力場の壁が邪魔になる。

 

 だが、それならそれで、他に攻撃のやりようはいくらでもあるというもの……。

 

『……手伝ってくれる?』

 

『もちろんなの!』

 

 ディーキンは力強く頷くと、いつもより低く重々しいドラゴンの声で、フーケのゴーレムを破壊するときにも用いた《調和の合唱(ハーモニック・コーラス)》の詠歌を歌い始めた。

 あの時はキュルケをサポートしたが、今度はタバサとの共同作業である。

 

 旋律に乗ったディーキンの魔力が自分の体を包み込むのを感じたタバサは、ほんの少し目を細めて、かすかな笑みを口元に浮かべた。

 杖を指揮棒のようにすっと掲げて宙に躍らせながら、彼と合唱するようにして、自分も呪文を唱え始める。

 

「ラグーズ・ウォータル・デル・ウィンデ」

 

 ゴーレムのいるあたりを中心に、凍てつく冷気と氷の粒を発生させて、既にある竜巻の中に織り込んでいく。

 普通の人間ならば巻き込まれればたちまち肌が裂けて傷口から体の芯まで凍結し、十秒ともたずに死に至るであろうほどのすさまじい冷気の渦が、ゴーレムの周囲に吹き荒れた。

 

 ヘルファイアー・ヨルムンガンドの強固な体は打ち付ける氷の礫にはびくともしなかったが、なにせ体内に常軌を逸した超々高熱を封じ込めているのだ。

 外部の急激な温度低下と内部に封じ込められた自らの熱との板挟みにあって装甲が脆くなったところに、ゴーレム自身が吹き荒ぶ烈風に抗って無理に動こうと自ら体に負荷をかけ続けているのだからたまらない。

 ほどなくして、その体を覆う分厚い装甲板がみしみしと軋みを上げ始めた。

 

『オオ。さすがはタバサなの、バッチリ効いてるみたいだよ!』

 

『……このままいけば、倒せる』

 

 タバサは、そう判断した。

 

 あのゴーレムはこうして竜巻で身動きを妨げたまま、力場の壁でブレス攻撃を防ぎつつ氷雪嵐で弱らせていけば、時間の問題で破壊できるだろう。

 他のデヴィルらは竜巻によって残らず宙に巻き上げられ、身動きもままならぬ状態だ。

 超常的な強靭さや再生能力を備える連中は竜巻だけでは倒せないだろうが、そのためにウィルブレースが竜巻の周囲を飛び回りながら、内部に捕えられたデヴィルたちに電撃を浴びせてくれている。

 彼女が仕留めきれないうちにどうにかして渦中から逃れてくる者もいるかもしれないが、そういった連中には他の面子で対応して、その都度撃破していけばよい。

 もちろん気を抜いていい相手ではないが、それでも下手なことさえしなければ、大勢は概ね決したと言えそうだった。

 

 しかし、自分の背後に姿なき凶手が迫りつつあることに、彼女はまだ気が付いていなかった……。

 





成聖魔法:
 術者が払う犠牲(一時的な能力値ダメージから、術者自身の生命まで)からその力を引き出す、強力な呪文の体系を指す言葉。
悪の術者は、たとえ魔法のアイテムを使用したとしても成聖呪文を発動することができない。
ウィザードやドルイドなどが成聖呪文を使う場合はあらかじめ準備しておかなくてはならないが、クレリックだけはいつでも自分の準備した別の呪文のスロットを成聖呪文に置き換えて任意発動することができる。

テレパシー・タップ
Telepathy Tap /テレパシー盗聴
系統:占術; 3レベル成聖呪文
構成要素:犠牲(1d3ポイントの一時的【筋力】ダメージ)
距離:自身
持続時間:術者レベル毎に1ラウンド
 術者は、自身を中心とする半径が術者レベル×10フィートの効果範囲内で他のクリーチャーが行うテレパシーによる会話を盗み聞くことができる。
この呪文には動作要素も音声要素もないために周囲で見ている者は呪文が使われたことにまず気付けないし、盗み聞かれている者が抵抗を試みることもできないため、盗聴に気付く手段はほとんどない。
ただし、マインド・ブランクの呪文で守られているクリーチャーの行うテレパシー会話は盗み聞きできない。
 デヴィルやデーモンなどのフィーンドはよくテレパシーによって仲間内だけで密かに情報をやり取りするため、この成聖呪文はそれに対抗することを意図していると思われる。

コンバット・レディネス
Combat Readiness /戦闘準備
系統:占術; 1レベル呪文
構成要素:音声
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に1分
 この呪文の目標となったクリーチャーは、イニシアチブ判定(D&Dの戦闘では、この判定結果が大きかったものから順に行動する)に対して術者レベル3レベル毎に+1(ただし最小でも+1、最大で+6)の洞察ボーナスを得る。
また、この目標を挟撃している相手は、通常なら得られる攻撃ロールへのボーナスを得られない。
これは主として戦闘が予想される場合にあらかじめかけておき、イニシアチブ判定で優位に立つことで、敵に対して先手を打つための呪文である。

コントロール・ウィンズ
Control Winds /風の制御
系統:変成術[風]; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:術者レベル毎に40フィート
持続時間:術者レベル毎に10分
 術者は、術者レベル毎に半径40フィート、高さ40フィートまでの円筒形の範囲内に吹く風の力を変化させ、風力を増減させたり、風の吹く方向や吹き方を変えさせたりすることができる。
十分な術者レベルがあれば、そよ風を竜巻にしたり、逆に竜巻を鎮めてそよ風にしたりすることができる。
呪文の持続時間内であれば、風の吹き方を最初に指定したものから呪文の力の許す範囲内で変更することもできる。
望むなら、術者は効果範囲の中心に直径80フィートまでの風の穏やかな“目”を作ることもできる。
 竜巻(時速175マイル以上の風速)を吹かせた場合、効果範囲内にある補強構造のないあらゆる建物は破壊され、木々は根元から倒される。
範囲内では飛び道具は攻城兵器も含めてすべて使用不能になり、火は消え、吹きすさぶ暴風以外の音はまったく聞こえなくなって会話は不可能となる。
難易度30の頑健セーヴに失敗した大型以下のサイズのクリーチャーは竜巻に巻き上げられ、それ以上の大きさのクリーチャーであってもまともな身動きは取れなくなってしまう。


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第百三十六話 One settlement

(練達の魔術師よ、我が剣でその首貰い受けるぞ!)

 

 タバサらの背後に迫る姿なき凶手の正体は、《エーテル化(イセリアルネス)》の能力によってエーテル状態になったナイトメアと、その忠実な愛騎の背に跨る地獄の騎士ナルズゴンであった。

 

 他の者たちは、事前に瞬間移動によって立ち位置を変えていた者も含めて全員が荒れ狂う竜巻に呑み込まれてしまったが、竜巻が発生する直前に物質界と並存するエーテル界へ移動していた彼らだけはその影響を受けなかったのだ。

 他の者たちはみな敵に翻弄されるばかりの状態になってしまい、戦況は既に敗色が濃厚だったが、忠烈果敢なナルズゴンには退却という選択肢はなかった。

 

『一足飛びに奴の背に斬り付けられる距離まで移動したところで、物質界へ戻れ。共に攻撃を加えて、反撃の暇を与えずにあのか細い体を貫いてくれようぞ』

 

 頼れる愛騎に、そう命令を下す。

 

 特に知識を誇るタイプのデヴィルでもないナルズゴンには今起こっている事態が完全に把握できているわけではなかったが、どうあれあのドラゴンに跨った魔術師がこの竜巻を起こしている張本人なのは間違いないと思えた。

 ならば、自分が今ここでこやつの息の根を止めれば、他の者たちを解放できるかもしれない。

 他に現状を打開する方策も思いつかない以上、忠実な兵はそれを成すのみである。

 

 だが、そんな彼らの前に『眠れる者』が立ち塞がった。

 

「フィーンドどもよ、姿を現すがいい。お前たちがそこにいるのはわかっているぞ」

 

 常に《真実の目(トゥルー・シーイング)》の魔力を帯びている彼の目には、エーテル界に存在する者の姿もはっきりと見えているのだ。

 奇襲の目論見が破れたと知ったナルズゴンはしかし、さしたる狼狽も見せずに素直に物質界へ戻った。

 

「よかろう。相手を所望なら、貴様の首から先に叩き落としてくれる!」

 

 剣を掲げて軽く一礼しながらそう宣言すると、速やかに目の前の天使に向けて斬りかかっていく。

 彼の忠実な乗騎も、鼻腔から噴煙を噴き出し、燃え上がる蹄を振り上げて、恐れた様子も見せずに主と共に突撃していった。

 

 しかし、突撃を迎え撃った『眠れる者』はナイトメアの蹄を難なくかわし、ナルズゴンの振り下ろした剣も己の大剣で軽く弾き返すと、馬上の騎士の懐へ飛び込んでその胸板へ叩きつけるように大剣を振るった。

 ナルズゴンは咄嗟にわずかに身を引くことでかろうじて致命傷を避けたが、棘だらけの鎧が光り輝く刃によって紙のように裂かれ、どす黒い血が溢れ出す。

 

「ぐぅっ……!」

 

 剣では勝てぬと判断したナルズゴンは、咄嗟に武器を持っていないほうの手を突き出した。

 普通の人間ならば一舐めで瞬時に黒焦げにする《灼熱の光線(スコーチング・レイ)》が二条、その掌から至近の敵に向けて立て続けに放たれる。

 

 だが、熱線は彼のエメラルド色の肌に触れることさえできず、その身を包む防御のオーラによって水のように受け流されてしまった。

 

 にもかかわらず、『眠れる者』は顔をしかめた。

 突然どこからともなく濃密な霧が発生して、周囲を覆ったのだ。

 もちろん、いくら中央の“目”の部分は風が穏やかだとは言っても、すぐ周囲に竜巻が荒れ狂っているような状況で突然に濃霧が発生するなど自然現象ではありえないことだろう。

 

(これは、《濃霧(フォッグ・クラウド)》の呪文か?)

 

 だが、目の前のフィーンドたちが何かした様子はなかった。

 では一体、誰が発生させたのか……。

 

「……む」

 

 予想外の事態に気を取られて注意が散漫になったことと、霧によって視界がぼやけたこととのために、回避が遅れる。

 ナイトメアの燃え盛る蹄が彼の頬をかすめ、ルビーのように輝く鮮血が滴った。

 

 

 

 タバサもまた、突然周囲が濃密な霧に覆われたことに戸惑っていた。

 

(これは、敵の攻撃?)

 

 だとすれば、毒が含まれている可能性もある。

 そうなると、なるべく吸い込まないように気を付けながら、早く風で吹き払ってしまわなくては。

 

 タバサがそう考えて杖を握り直し、風を吹かせる呪文を唱えようとした、次の瞬間。

 

「……!?」

 

 彼女は突然周囲に不自然な空気の流れを感受して、大きく目を見開いた。

 

「エ……?」

 

 ほぼ同時に、ディーキンも異変に気が付く。

 それまではタバサの他に誰もいなかったはずの自分の背の上、彼女のすぐ背後の空間に、別の気配が唐突に現れたのである。

 

 

 

(もらったぞ、小賢しいメイジが!)

 

 周囲に霧を満たして『眠れる者』らの視界を奪い、その後瞬間移動によってタバサの背後を取ったのは、まるで影から削り出されたような黒く朧な人影であった。

 ドガイと呼ばれる、バートルきっての暗殺者デヴィルである。

 

 件の『ヘクサゴン・スペル』を使った王族二人がまた出てくることを想定して、奇襲をかけるために待機していたのだ。

 彼らの呪文の完成を妨げ、暗殺し、その屍を“蘇生”させて利用するために。

 残念ながらその予想は外れたものの、他のデヴィルらから距離を置いて隠れ潜んでいたのが幸いして竜巻に巻き込まれずに済み、こうして襲撃をかける機会を窺っていたというわけである。

 

(まあ、あのナルズゴンと二人がかりで挟撃できるのが理想的だったがな……)

 

 とはいえ所詮は下級デヴィル、邪魔立てされぬようセレスチャルを引き付けられただけでも上出来だろう。

 今頃はもう死んでいるかもしれぬが、自分の知ったことではない。

 今更このメイジを討ち取ったところでこの戦いに勝てるかどうかは怪しいとは思うが、それも知ったことではない。

 そんなことは前線指揮官のオルニガザールや、あの総司令官の不手際だ。

 あくまでも暗殺者である自分は、こいつの屍を持ち帰りさえすればそれで十分である。

 

 別に一人でも、こうして瞬間移動で瞬時に背後を取り、呪文を唱える間を与えずに刺し殺してしまえば問題はない。

 ろくな防具も身にまとっていなメイジの命など、不意の一撃で抉り取れるだろう。

 乗騎のドラゴンも自分の背に乗っている者を払い落とすには手間取るだろうから、襲われる前に屍を抱えてさっさと離脱してしまえばよいのだ。

 

 ドガイは一息に心臓を串刺しにせんと、タバサの背後から冷たい鉄製の長剣で突きかかった。

 

(……うっ!?)

 

 しかし、急速に間合いを詰めて心臓に刃を食い込ませようとした瞬間、それまでは自身の発生させた濃霧によって緩和されていた、タバサが身にまとう鎧状の光輝によって目が眩んだ。

 この戦いに臨む前に城内のウルシナルが施してくれた《輝く鎧(ルーマナス・アーマー)》の効果である。

 

 加えて、空気の流れの変化を鋭敏に捉えるタバサはドガイが背後に現れた直後にその存在に気付き、背後から刃が迫ってくるのを感じて、咄嗟に倒れこむようにして身をかがめていた。

 そのため、突き出した刃は彼女の背をわずかにかすめただけで急所を外れる。

 

(ちっ。だが……)

 

 紙一重で致命傷を避けられたとしても、刃には必殺を期すために強力なデスブレード毒が塗ってある。

 ひとかすりでもすれば、定命の存在にとっては致命的なはずだ。

 

「……なに?」

 

 しかし、あと一撃追撃をかけて確実なとどめを刺そうとドガイが刃を返したその時、タバサが体を捩るようにして彼のほうに顔を向けた。

 毒による耐え難い苦痛に苛まれている様子も死の影が迫っている様子も微塵もない、平然とした表情と冷たい眼差しをしている。

 

「ラナ・デル・ウィンデ」

 

 タバサは苦痛によって集中を乱すこともなく、速やかに使用する呪文を切り替えて詠唱を終えると、杖をドガイの胸に押し付けるようにして『エア・ハンマー』を叩き込んだ。

 

「ぐぅ……!」

 

 至近距離からの強烈な衝撃に、ドガイはたまらず吹き飛ばされて、ドラゴンの背から地面に落ちる。

 急いで立ち上がろうとしながらはっとして顔を上げると、目の奥に怒りの炎を燃やしながら自分を見下ろしているドラゴンの姿が目に入った。

 

「ぐぼっ!?」

 

 瞬間移動で逃れる暇もなかった。

 横合いから振るわれた丸太のような太い尻尾の一撃によってドガイは周囲に渦巻く竜巻の中まで吹っ飛ばされ、暴風に巻き上げられて姿を消す。

 

『タバサ、大丈夫? 怪我してない?』

 

 心配そうなディーキンの呼びかけに、タバサは即答した。

 

『平気。かすっただけ』

 

 刃が背中をかすめたときに鋭い痛みはあったし、それなりに派手に血も出たようだったが、決して深手ではないのは経験からわかる。

 おそらく傷自体は皮一枚切れた程度だろう、戦いが終わってから手当てをすればそれで十分だ。

 

『ごめんなの。もうちょっと早く、何とかできればよかったんだけど……』

 

『違う、あなたのおかげで助かった』

 

 自分が今の攻撃で深手を負わなかったのは、明らかにレコン・キスタ軍の攻撃が始まる前に彼の用意してくれた《英雄達の饗宴(ヒーローズ・フィースト)》を食べて、その恩恵を受けていたおかげだ。

 おかげで刃に塗られていた毒(タバサはドガイを吹き飛ばす直前に、その剣に何らかの毒物らしき液体が塗布されているのを見た)は効果がなかったし、ダメージもそれによって得た一時的ヒット・ポイントによって大半が相殺されたのだから。

 もちろん、それ以外にも城内のセレスチャルたちからいくつかバフをかけてもらっていたおかげもあるが、それらの仲間たちが今この場にいるのも、元はといえば彼の力によるものである。

 

(この人に助けられたのは、これで何回目だろうか)

 

 タバサはしかし、ともすれば感傷に浸りそうになる気持ちを努めて抑えて小さく首を振ると、周囲を確認した。

 まだ、戦いは終わっていない。

 他にも伏兵はいるかもしれないし、竜巻の中から敵が抜けだして襲ってこないとも限らない。

 

 しかし、特に問題となりそうなことは見当たらなかった。

 

 タバサがあらためて風を起こして霧を吹き払ってみると、少し離れた場所にナルズゴンとナイトメアの屍が転がり、その傍に『眠れる者』が立っているのが見えた。

 彼は頬に浅手を負っているようだが、大したことはないだろう。

 

 上の方では、光球形態をとったウィルブレースが絶え間なく電撃を放ってデヴィルらを焼き払っているのが見える。

 先ほどディーキンに吹っ飛ばされて巻き上げられていったドガイも、早々にとどめを刺されていた。

 

 正面の方では、ゴーレムが氷嵐に苛まれて体を軋ませながら、這いずるようにしてこちらに近づいてくる。

 しかし、ゴーレムとこちらとの間には《力場の壁(ウォール・オブ・フォース)》が立ちはだかっているので、真っ直ぐにここまでたどり着くことは不可能だ。

 魔法に関する知識などないゴーレムは、おそらく壁にぶつかるとどうにかして壊そうとひたすら殴りつけ、どうしても破壊不可能だとわかってから、やっと迂回しようとするだろう。

 だがもちろん、竜巻に打ち倒されて這いずりながらそれだけのことをやり終える遥か前に、氷嵐によって完全に破壊されてしまうはずだ……。

 

 

 

「……、…………!!」

 

 ごうごうと渦巻く竜巻の中で、ル・ウールは頼みのヘルファイアー・ヨルムンガンドに行動変更の指示を与えようと、必死に声を張り上げていた。

 

 壁を迂回するように角度を変えて、もう一度ブレスを吐け。

 それから、破壊されないうちにとにかく、この竜巻から脱出しろ……。

 

 だが、それらの言葉は唸りを上げる風音にすべてかき消されてしまい、ゴーレムまではどうやっても届かない。

 デヴィルはテレパシーを使うことができるのだが、知性を持たず言語を話せないゴーレムは口頭による命令しか理解できず、テレパシーでは指示を与えられないのだ。

 

 そうこうしている内に、ゴーレムの体は逆巻く氷嵐によってますます軋み、ついには装甲がひび割れて、隙間から眩い白色光と蒸気が噴き出し始めた。

 

(い、いかん! このままでは……)

 

 ヘルファイアー・ヨルムンガンドは、ベースとなったヘルファイアー・エンジンと同じく、特殊な処理を施した装甲の内部に動力源となる超高エネルギーの地獄の業火を凝縮して閉じ込めている。

 その装甲が破壊されてしまえば、内部のエネルギーが一気に噴き出して大爆発を起こすのだ。

 巻き込まれれば、ひとたまりもない。

 

(……こっ、こうなれば、とにかくこの場を脱出するのが先だ!)

 

 上級デヴィルの精神集中力をもってすれば、荒れ狂う竜巻の渦中でも疑似呪文能力を使用することは、やや難しいが不可能というほどではない。

 

 頼みの綱であったゴーレムはもう駄目だし、部下どももまるで役に立たない。

 自分自身でも、あのドラゴンやそれに跨ったメイジを篭絡できないものかとどうにか精神を集中させて《怪物魅惑(チャーム・モンスター)》の疑似呪文能力を試したりもしてみたのだが、効果はなかった。

 おそらく、精神に作用する効果から身を守るための呪文かアイテムか、何らかの手段を事前に講じてあるのだろう。

 もちろんセレスチャルどもには試してみるまでもなく効くはずがないし、誘惑や堕落の術が効かないとあっては自分にできることはほとんどない……。

 

 忌々しいが、この戦いはもう負けだ。

 

 ひとまず敗戦の責任は、想定外のセレスチャルどもの存在と、あとは爆発に巻き込まれて全滅するであろう役立たずの部下どもに、特に前線指揮官のオルニガザールあたりにできる限り負わせられるよう、言い訳を考えておくとして。

 あとは、何か少しでも埋め合わせとなる手柄を立てられる、別の方法を探すしかない。

 

 ル・ウールがそう結論し、努めて精神を集中させて、どうにか離れた場所へ瞬間移動しようとしたちょうどその時。

 ウィルブレースから放たれた電撃が、彼の体を捕らえた。

 

「ぐ、ぐあぁぁあぁっ!?」

 

 彼の立場と状況からいってある程度は仕方なかっただろうが、逃走の決断があまりにも遅すぎたのである。

 苛烈な電撃が一瞬にして頭の先から爪先まで突き抜けてその体を焼き尽くし、たちまちに意識と命とを刈り取った。

 

 それと同時に、英雄“ル・ウール侯”への偽装が解けて、デヴィルがその本来の姿を現す。

 

 整った容姿であることは変わらないものの、身長は5フィートほどにまで縮み、性別さえ変化していた。

 青白い皮膚、赤い髪、黒い目。

 背中には革のような黒い翼が生えている、堕天使めいた姿だった。

 

 エリニュス(堕天使)の昇格した存在である、ブラキナ(快楽悪魔、プレジャー・デヴィル)と呼ばれるデヴィルであった。

 

 

 

 ウィルブレースはデヴィルの総指揮官が息絶えてその魂がバートルへ送還されていったのを確認すると、その一撃を最後に、ディーキンらの元へ戻っていった。

 

 竜巻の中で息絶えた“ル・ウール侯”……本名は、もはや知りようもないが……の正体は、おそらく離れた場所で見守っているレコン・キスタの兵たちには確認できなかったことだろう。

 英雄の名を騙り、上辺の美しさを誇っていた欺瞞に満ちたデヴィル化けの皮を、彼らの目の前で剥がしてやれなかったことは残念だが……。

 

(しかし、もはやその必要もないだろう)

 

 上空から見ていたウィルブレースには、レコン・キスタの陣地で騒ぎが起こっていることがわかった。

 反乱軍に属する人間の将兵たち、少なくともその一部がついに決起して、後方にまだ残っているデヴィルや不死の傀儡たちに対して攻撃を加え始めたのだ。

 

 ホーキンスやボーウッドの説得を受けて改心したのか、それとも自らの意思によってか。

 あるいは、件の『烈風』の力に恐れをなしたのか、単にもはや勝ち目はないと見て保身に走っただけなのかもしれない。

 理由はさまざまだろうが、いずれにせよ彼らが完全な決着を見る前に自らの意思でデヴィルどもと袂を分かち、それと戦うことを決めてくれただけでも嬉しく思う。

 

(これで、当面の戦いは終わった)

 

 人間は、ひとまずデヴィルどもを退けたのだ。

 

 

「ちっ……」

 

 その様子を遥か離れた場所からじっと窺いながら、オルニガザールはいまいましげにカチカチと顎を鳴らした。

 

 竜巻に自軍の兵たちが全員呑まれた時点で彼我の戦力の圧倒的な差を悟った彼は、手遅れになる前に速やかに瞬間移動して戦場の外へ逃れていたのである。

 それでも完全には間に合わず、ウィルブレースの電撃を受けて青白い外骨格の一部が醜く黒く焼け爛れ、剥がれ落ちかかっていた。

 善の属性を帯びた攻撃でつけられた傷はデヴィルの再生能力をもってしても塞がらず、筋肉が引きつってずきずきと痛む。

 

「……まあいい。今は祝福しておいてやろう、人間どもよ」

 

 この傷は、敗戦の釈明をする上では自分が確かに戦闘に加わって負傷を顧みずに戦ったのだということ、敵には圧倒的な戦力があってどうにもならなかったのだということの証になってくれるだろう。

 その折には、敗戦の主たる責任は総指揮官どのに被ってもらうことにしようか。

 別に嘘ではないし、処刑ないしは降格が確定的な無能者がずいぶんと後になってバートルに帰還してから弁明してみたところで信用されまいから、好都合というものだ。

 まあ、篭絡専門の素人に指揮をとらせたから負けたのだなどと本気で言う気はない、いかんせん相手が悪かったのは間違いないのだが、責任は転嫁できるところへ押し付けておくに限る。

 

 確かに連中は強かったが、自分がレコン・キスタの本陣営にいる上官の元へ敵の情報を持ち帰れば、対策は立てられよう。

 それで失態を帳消しにできるほどではあるまいが、挽回の機会くらいは与えてもらえることだろう。

 自分としても、今日の屈辱とこの傷の礼はいずれ、是非ともしてやりたいものだ。

 

(せいぜい、露の間の勝利に酔い痴れておくことだ)

 

 心の中でそう嘲ると、オルニガザールは事態を報告し、受けた傷を癒すために、戦場を後にした……。

 

 

 ウィルブレースが地上にいるディーキンらと合流した、その直後。

 ついにヘルファイアー・ヨルムンガンドの強固な装甲が氷嵐に耐えかねて弾け、その内側から眩い閃光が炸裂した。

 

「………!!」「ギャイィィイン!?」「ヴぢうッ!」

 

 未だ竜巻の中で生存していたわずかなデヴィルやヘルハウンドらも、その白い爆発に呑まれて断末魔の叫びを上げながら、次々に消滅していった。

 皮肉にも、彼らの持ち出してきた頼みの新兵器が、彼ら自身を最終的に全滅させることになったわけである。

 

「お、おおおぉっ!?」

 

「こ、これは……!?」

 

 デヴィルが、そして天使や『烈風』らが白い閃光に呑まれたのを見て、両軍の兵士たちが目を見開いた。

 

 しかし、その閃光が、そして逆巻く竜巻が消え去ったとき。

 そこには、なんら変わらぬ姿で立っている天使、ドラゴン、『烈風』、そして始祖の姿があった。

 偽りの“天使”たちも、その恐ろしい戦争兵器も、すべて姿を消していた。

 

 無論、ブリミルは幻影なのでどんな攻撃にも影響は受けないし、ディーキンらは全員《力場の壁》を盾にして地獄の業火の爆発から身を守ったのである。

 

『……我が子らよ。地上に遺した、愛おしい者たちよ』

 

 ブリミルの幻影が、両軍の兵士たちに重々しく呼びかける。

 

『誇るがよい。お前たちの勝利だ!』

 

 それに合わせて、タバサが杖を、『眠れる者』が剣を、誇らしげに宙に突き上げた。

 ウィルブレースが虹色の輝きをまといながらくるくるとドラゴンの姿をしたディーキンの周りを旋回し、ディーキンは雄々しく翼を広げて天を仰ぐと高らかに咆哮を上げる。

 

「……う、うおぉぉぉっ!!」

 

「始祖万歳! アルビオン万歳ッ!」

 

 歓声がどちらの軍からともなく沸き起こり、いつまでもずっと続いた……。

 




フォッグ・クラウド
Fog Cloud /濃霧
系統:召喚術(創造); 2レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:中距離(100フィート+術者レベル毎に10フィート)
持続時間:術者レベル毎に10分
 術者の指定した地点から濃密な霧が発生し、半径20フィート、高さ20フィートの範囲に拡散する。
霧の中では5フィートよりも遠くにあるものはまったく見えなくなる。
 この呪文による霧は軟風なら4ラウンド、疾風なら1ラウンドで拭き散らすことができる。
この呪文は水中では働かない。

ルーマナス・アーマー
Luminous Armor /輝く鎧
系統:防御術; 2レベル成聖呪文
構成要素:犠牲(1d2ポイントの一時的【筋力】ダメージ)
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に1時間(解除可)
 この呪文はその対象となった者を、フル・プレートの形をしたちらつく光の防御オーラで包む。
対象はブレストプレート相当の利益(AC+5)を得るが、この防御オーラには重量はなく、対象の動きをまったく妨げない。
なお、この呪文の対象は善のクリーチャーでなければならない。
この防御オーラはデイライトの呪文と同等の光を放ち、2レベル以下の[闇]呪文を相殺する。
また、非常に眩しいので、対象に対して行われる近接攻撃は-4のペナルティを受ける。
 なお、より上位の4レベルの成聖呪文として、フル・プレート相当の利益(AC+8)を与えるグレーター・ルーマナス・アーマーの呪文がある。

ドガイ(アサシン・デヴィル、暗殺者悪魔):
 上級デヴィルの一種。
灰色の肌をした屈強な人間のような体躯をしているが、その顔は赤く輝く小さな目やわずかな鼻の痕跡らしきものがあるだけでのっぺりとしており、白い歯を剥き出しにした邪悪に歪んだ笑みが張り付いている。
瞬間移動能力や霧を発生させる能力、透明化する能力などをもち、疑似視覚によって目で見ずとも獲物の位置を知ることができる。
彼らはバートルの歪んだ法によって公式な処罰を受ける恐れなく他のデヴィルの暗殺を請け負うことが許されている、生来の暗殺者である。
そのような特権をもつ彼らのバートルの階層社会における地位はかなり高く、ゲルゴンやブラキナよりも上であるが、暗殺者であるために他のデヴィルと依頼者や標的以外の関わりをもつことは少なく、下位のデヴィルに命令を下すような立場になることは滅多にない。
暗殺能力に特化していることもあってか地位の高さの割には脅威度は低めで、ブラキナと同値の11である。
アークデヴィルの中でも特に偏執的に用心深いことで知られているディスパテルは、自身の安全のために多くのドガイを配下においているという。

ブラキナ(プレジャー・デヴィル、快楽悪魔):
 上級デヴィルの一種。
堕落したセレスチャルの末裔であるエリニュスが昇格し、誘惑者としての能力をより一層伸ばす方向に特化した種族で、高潔なる者を堕落させることをその使命とする。
そのため多くの者は物質界に住み、日常的に変身して正体を隠している。
彼女らは触れただけで獲物の意思を破壊する猛毒を分泌し、疑似呪文能力によって獲物を魅惑し、道徳観を崩壊させ、魂すらも奪うことができる。
性別も種族も関係なく、どんなものでもためらわずに誘惑し、肉体的な快楽を約束することで定命の存在の弱い意思をたやすく挫いて悪に染め上げる専門家である。
ピット・フィーンドやアークデヴィルはブラキナを慰みものとして手に入れては使い捨てるので、彼女らはその主人との肉欲的な関係を避けるためならどんな任務でも喜んで引き受けるという。
脅威度は11だが、バートルの階層社会における身分は脅威度13のゲルゴンよりもひとつ上である。
バートルでは基本的には脅威度が高い強力なデヴィルほど上位の身分なのだが、脅威度5のバルバズゥよりも脅威度2のインプの方が上の階級であるなど、例外はしばしば見受けられる。
 戦闘派のデヴィルではないものの、知力が高く交渉やはったり、演技等に長けているので、作中ではその点を買われて“ル・ウール侯”に成りすまし、軍の指揮をとっていた。

ゲルゴン(アイス・デヴィル、氷悪魔):
 上級デヴィルの一種。
青白い体色をした二足歩行の昆虫のような姿をしており、身長は約12フィートもある。
全身から弱小な敵を恐慌状態に陥れるオーラを発し、致死的な冷気をまとった鋭い槍や棘だらけの尾の一撃は、傷つけられた者の動きを著しく鈍らせる。
その異様な外見にもかかわらず知力も非常に高く、手にした鋭い槍や棘だらけの尾、力強い顎による打撃に加えて、飛行・瞬間移動・幻影・冷気による障壁や範囲攻撃などの多彩な疑似呪文能力を駆使して戦う。
善の属性を帯びた呪文か武器による攻撃でなければ決して致命傷を負わず、それ以外のいかなる負傷も高速で再生してしまう。
地獄においてもその能力は高く評価されており、彼らが部下を率いる士官以外の役職に就いていることはまずない。
脅威度は13。

ヘルファイアー・エンジン(地獄の業火の機械):
 デヴィルによって作られた人造兵器であり、ゴーレムの一種。
あらゆる耐性を無視する高威力の地獄の業火のブレスを吐いて敵を蒸発させ、地獄の業火の熱を帯びた拳で敵を焼きながら粉砕する。
どうにかして破壊したとしても、最後に大爆発を起こして周囲の者を道連れにする。
脅威度は19と、最上級のデヴィルであるピット・フィーンドにも迫るほど高い値である。


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第百三十七話 After the fight……

「か……、勝った? 終わった、のか?」

 

 ギーシュは、安堵のあまり腰が抜けてその場にへたり込んだ。

 現実のものとも思えないすさまじい竜巻や爆発の飛び交う戦いが終わって、仲間たちが誇らしげに勝利を宣言するのを呆然と見ていた彼も、兵士たちが歓声をあげるのを聞いてようやく実感がわいてきたようだ。

 

 武人として命よりも名を惜しむ覚悟で戦いに臨みはしたものの、いかんせん初めて実戦に出たまだ年端もいかぬ少年である。

 

「やった! 勝ちました、先生たちが勝ちましたよ!」

 

 一方で、シエスタは興奮で頬を紅潮させながら、周囲の兵士たちと手を取り合って喜んでいる。

 

「ね、先生はすごいでしょう?」

 

「……ああ、そうだね。でも、君もすごいよ」

 

 彼女に手をとられて、ギーシュは喜びと恥じらいの両方のために頬を赤らめた。

 自分はこんなに緊張して、銃弾が近くの城壁に当たるたびにがくがく震えていたというのに、彼女は恐れた様子など少しも見せなかった。

 自分は戦いが終わった途端に体の力が抜けてへたり込んでしまったというののに、彼女は活力に満ち溢れて、心から笑っている。

 

 彼女は戦いの最中には兵士たちの間を駆け回り、励まし、手伝い、怪我人が出ればそれに代わって持ち場についた。

 その勇敢さときたらどうだ。

 

「いや、君だけじゃない。ここにいる人たちはみんな、すごい人ばかりだ……」

 

 決闘に進み出たディーキンやタバサ、天使たちはもちろんだが、他の兵士たちもだ。

 貴族であれ平民であれ、誰もが恐れることなく戦った。

 たとえ銃眼から入ってきた流れ弾で負傷しても、交代して治療を受けたあとは恐れずにまた戦線に戻って自分の持ち場を守り抜いた。

 

 銃弾が近くの城壁に当たった音を聞いただけですくみあがっていた自分には、とてもそんなことはできそうにない。

 正直なところ、ここにいるミス・シエスタが度々やってきて励ましてくれなかったら、最後まで戦い抜けたかどうかさえ怪しい。

 自分はワルキューレを操って銃眼につかせたり雑務をさせたりしただけで、兵士たちよりもずっと安全な後ろの方にいたのに、体はがくがく震えていた。

 

「そうですね。でも、ミスタ・グラモンも誰にも劣らず勇敢でしたわ」

 

 シエスタは、そう言ってにっこりと微笑んだ。

 

「……へっ?」

 

 きょとんとしたギーシュに、シエスタは彼の手をそっと両手で包んで、話を続けた。

 

 自分は、彼の誇り高さを身をもって知っている。

 そんな人が傍で戦っていてくれるから、自分も以前の決闘のときのように、それに負けずにがんばろうと思えたのだ、と。

 

「……いや、そんな。お世辞はいいよ。君は少しも怖がってなんかいなかったじゃないか。情けないようだがぼくなんて、正直足が震えて……」

 

「怖いのに、それを我慢して戦えることが勇気なのだと思います」

 

 シエスタは、心を込めてそう言った。

 

 同じ状況に身を置くのでも、その人の力や立場によって、奮い起こさなくてはならない勇気の大きさは違ってくる。

 彼は、タバサやキュルケほど強くはないし、戦いの経験もろくにない。

 この国の兵士たちのように、自分だけ逃げるわけにはいかない、母国のために戦わなくてはならないというほど強い責任や使命を感じる立場でもない。

 戦わずにトリステインへ帰っても誰にも非難されないし、むしろそれが賢明な行動であるはずなのだ。

 

「ミスタ・グラモンは、それでも他の人たちのためにここに留まって戦われたのですから、誇るべきだと思いますわ」

 

 自分の場合は、天上界のセレスチャルの血を引いているし、召命を受けたパラディンでもある。

 それが邪悪と戦い抜かなければならないという使命感と、恐れを感じることのない勇気を与えてくれるのだ。

 

 シエスタはそのことを誇りにしているが、それをもって優越感を覚えるということはない。

 もし自分が、そのようなものがないただの人間の村娘だったなら、きっとこの場にはいないはずだとわかっているから。

 だから彼女は、ギーシュの勇気を心から賞賛するのである。

 

 まあ、なんだかギーシュがちょっとメランコリックになっているように見えたので、元気づけようと従姉妹のジェシカから教わった、「男はちょっとおだてたり手作り弁当渡したり軽く慰撫したりするくらいで舞い上がるんだから。安上がりに喜んでくれて助かるわよ」というのを参考にしてみたところもあるが。

 

 彼女はその手管で、男たちからちょっとばかりチップをたくさん貢いでもらっているようだが……。

 ジェシカとて、自分と違って秩序にはあまり関心はないもののセレスチャルの血を引く善良な娘なのであるから、あくまでも大勢の人たちに罪なく喜んでもらいたいだけでお金が儲かるのはそのついでなのである。

 たぶん。

 

「そうですとも。我々にとって、あなたがたが地上から加勢に駆けつけてくださったことがどれほど心強かったことか」

 

「ぼっちゃんのゴーレムのおかげで、人手の足りないのがずいぶん助かりましたぜ? 弾を運んでもらったり銃撃戦に加わってもらったり」

 

「そうそう。平民の自分らよりは、断然役に立ってましたって!」

 

 他の兵士たちも、口々に彼の協力に感謝し、肩を叩き、賞賛してくれる。

 

「い、いやあ……そんな。そうかな、恐縮です……」

 

 口々に褒め称えられて、ギーシュはますます赤くなるのだった。

 

 武人として華々しく戦場で活躍し、誉れを受ける日を待ち望んでいたはずなのに。

 いざその時が来ると自分の身には余る栄誉だと感じて萎縮してしまうのだから、まったく不思議なものである……。

 

 

 

「……ん。そろそろ、始祖には気の利いたお言葉でも残してご退場いただいていいんじゃないかしら? 劇的な演出はもう十分だし、あんまり長い間残しておいてボロが出ても困るでしょ」

 

 キュルケが、城外の様子を見守りながら指示を出す。

 

 ルイズはいくらか不機嫌そうにしながらも、テレパシー越しにディーキンの了解を取った上で、言われたとおりにした。

 もちろん戦いに勝ったことは嬉しいし、自分でもこんなときにこんなことを考えて不機嫌そうにしているのはどうかとは思うのだが。

 それでもごく個人的な理由から、彼女はなんとなく気持ちがすっきりしなかった。

 

「何であんたが……」

 

 当面の仕事を終えたルイズが不満そうにぶつぶつ言うのを聞いて、キュルケは呆れたように軽く肩をすくめた。

 

「何でって、さっきも言ったでしょ。ディー君に頼まれたからじゃないの」

 

 ディーキンは、ルイズの芸術的なセンスやアドリブ力がいまひとつであることを踏まえて、自分がこの場を離れるにあたって演出担当の代役を誰かに頼んだほうがよいと考えたのだ。

 戦いながら次の演出のことも考えて、テレパシー越しに指示を送るなどという忙しいことをやって、それで集中力を欠いたがために肝心の戦闘でミスを犯したというのでは元も子もない。

 自分やウィルブレースがいない状況で、身近な仲間の中でそれを一番上手くやってくれそうなのはキュルケだった、というわけである。

 

 先ほどディーキンらが勝利を収めた直後のブリミルの台詞も、キュルケが考えたものだった。

 両軍の兵士たちが大いに沸いているのを見れば、彼女の演出が及第点以上のものであることはルイズも認めざるを得ない。

 

「そんなことはわかってるわよ。そうじゃなくて、……うー……」

 

 なんといっても、その代役が、よりにもよってヴァリエール家の不倶戴天の宿敵であるツェルプストーの娘ときている。

 キュルケ自身のことは今では仲間として認めているのだが、それでも先祖代々の対立を聞かされ続けて育った身としては、心穏やかでない部分はあった。

 そりゃあディーキンにとっては、彼女もシエスタやギーシュと同じ仲間の一人でしかないのだろうが。

 

 いや、それより何より……。

 

(ディーキン、あんたは私のパートナーをやるって約束でしょ!)

 

 何でそれが、私にキュルケを押しつけて、自分はタバサと出ていくのか。

 

 いや、もちろん状況が状況だからというのはわかるのだが、それにしたって、そんなことをしたのは今回が初めてではない。

 思えば彼女とは前にも、シルフィードを助けるためだとかで一緒に出かけたり、何日も留守にしてガリアまで一緒に旅をしたり……。

 

(なな、なんだか私よりも、あの子の方が優先されてない?)

 

 そんな風にむっつりしたり、赤くなったり、ぷんすかしたり、コロコロ表情が変わるルイズを、キュルケは面白そうに眺めていた。

 が、やがて、ぽんぽんと彼女の肩を叩きながら、なだめるように声をかける。

 

「そんなにふてくされなくてもいいじゃないの。ディー君は、ちゃんとあんたのために気を使ってるでしょうに」

 

 たとえば、ガリアへタバサと一緒に出かけたときにはラヴォエラに代理を務めてくれるよう手配していたし、今回もちゃんと自分に交代を頼んでいった。

 ルイズのことを忘れずに毎回きちんと考えていってくれているのだから、彼女をないがしろにしているとはいえまい。

 まあ、パートナーなのだから自分を最優先にして欲しい、同じ代理を立てるならタバサの方にそれをあてがえばいいじゃないか、という気持ちはわからないでもないが……。

 

「私なら、フレイムに気になる子でもできたなら、自分の用事を頼むのは控えてなるべくその子と過ごさせてあげるようにするわよ?」

 

 まあ、どちらかといえば、気にしているのは今のところ、ディーキンよりもむしろタバサの方だろうが。

 

「へ? ……きき、気になる子って……」

 

「タバサに決まってるじゃないの」

 

 ルイズはそれを聞いて、たちまちかーっと顔を赤くした。

 

「ななな何を!? あああんた、色ボケにもほどがあるわよ!?」

 

 なにせディーキンは、子供みたいにちっちゃい亜人なのである。

 しかも、哺乳類ですらないトカゲの亜人なのである。

 

 いくらなんでも、倒錯的に過ぎる。

 

「あら、ご挨拶ねえ」

 

 私がボケてるんじゃなくて、あんたがニブいんでしょうに。

 キュルケは心の中でそう言って肩をすくめたが、それからちょっと小首をかしげた。

 

 タバサの色恋沙汰については、キュルケとしては大歓迎であった。

 

 彼女は、親友が長年そういった話にはまるで縁がなかっただけに、いつかろくでもない男にころっと騙されて、その初心さゆえに酷く傷つくなんてことになりはしないかとずっと心配していたのだ。

 それゆえ、早めに毒にも薬にもならなさそうな無難そうな男でもあてがって微熱のひとつでも、などと折に触れて何かと気を回したりしたものだったが……。

 相手がディーキンなら、結果的にはそれよりもずっとよかったと言えるだろう。

 なんといっても彼は紳士だから、どんな結果になるとしてもタバサを酷く傷つけたりすることは決してないはずだ。

 

 ただ、強いて問題があるとすれば、相手の方にその気かあるかどうかということである。

 

(私の見た感じ、今のところはディー君の方があの子を気にしてるかどうかは微妙みたいだけど……)

 

 どちらかといえば、大事な仲間から気にされているから、自分もそれになるべく答えようと気を使っている、という感じかもしれない。

 が、もちろん、今はまだ、というだけのことだ。

 

(そんなもの、あなたならこれからの押し次第でどうにでもなるわよね?)

 

 見る目のない学院の男子生徒どもは鼻も引っ掛けようとしないが、親友は自分とほとんど同じくらいいい女なのである。

 その魅力は、たとえ異種族だろうが、わかるものにはわかるはずだ。

 

 キュルケに言わせれば、恋はすべてに優先する。

 障害は、乗り越えるためにある。

 年齢の差があろうが、身分の違いがあろうが、性別が同じだろうが、異種族だろうが、彼女もちだろうが、妻子もちだろうが、つまるところはだからどうしたなのである。

 

 下の方で大きなドラゴンの姿になった彼の背中にぴったりと寄り添っている親友の姿を微笑ましげに眺めながら、キュルケは心の中で彼女に呼びかけた。

 

(ねえタバサ、ディー君の背中は居心地がいいんでしょうけど、男の紳士的な態度にいつまでも甘えてちゃだめよ?)

 

 キュルケの恋愛持論は、いたって肉食獣的なものである。

 

 とにかく、まずは押し倒せ。

 押し倒すには相手がデカ過ぎるかも知れないが、とにかく押してから考えろ。

 逆に押し倒されても、それはそれだ。

 

 男が女を強引に剥こうとするように、男の紳士的な態度なんかこっちから剥ぎ取ってケダモノに変えてやるのが女の甲斐性ってものである。

 そうしておいてから、いきり立った男を巧みに手懐けて、躾けてやるのが面白い。

 まだ経験はないけれど、もしも相手が自分の思った以上の男だったなら、逆に蹂躙されるのもそれはそれできっと刺激的なのだろう。

 とにかく自分から積極的にアタックしないと、もたもたしているうちにすっかり骨抜きにされて相手の言いなりになってしまうのがおちだから、なにはなくともまずはグイグイ押すべきなのである。

 それができないというのは、慎ましいのではなくて自分に言い訳をして臆病になっているだけなのだ。

 あるいは、そこまでするほどの情熱がないのか。

 

 どちらにせよ、女として恋と情熱に対して誠実になれないのは恥ずべきことだと思う。

 許されないことならば、なおさら燃え上がるではないか。

 いいから、マグネットみたいにくっつけ。

 

(……ま、あなたなら大丈夫でしょうけどね)

 

 自分の親友は一見無気力で無感動そうに見えるが、その氷の中に熱い情熱を隠していることをキュルケは知っている。

 だから、そんなに心配してあれこれ口を出すこともないのだろう。

 

 とりあえず今は、それよりも……。

 

「はーん? ってことは、あなたはもしもディー君からプロポーズをされても、お断りするわけね?」

 

「んな!?」

 

「ま、そんなことあるわけないでしょうけどね。なんにせよ、それなら遠慮することもないみたいだし。最近は微熱が足りないから、タバサの次は私が行こうかしら?」

 

 もちろんそれは冗談だが、最近微熱が足りていないというのは事実である。

 

 ディーキンが来てからというもの、彼にあれこれと付き合っている方がなにかと楽しくて刺激に不足しなかったので、久しく男には手を出していないのだ。

 とはいえ、今後はタバサのために遠慮しなくてはいけないことも出てくるかもしれないし、そろそろまた男を見繕うのもいいだろう。

 ディーキンはタバサに、ミスタ・コルベールはミス・ロングビルに先を越されたが、幸いここには学院のモヤシどもよりもよっぽどいい男が選り取り見取りなことだし。

 

 戦の終わった後には出生率が上がるとよく言われる。

 死ぬ覚悟を固めていたところに望外の勝利を得たのだから、みんなほっと気が抜けることであろう。

 そこへ声をかけて口説いてやれば、コロッとなびく男は多いに違いない。

 

(戦勝パーティかなにかあるでしょうし、そこで粉をかけて二、三人ほどゲットしておこうかしらね)

 

「……@▼×△□◆ηΣ~~!!」

 

 キュルケがそんな風にぼんやりと算段を立てていたところに、ルイズがさくらんぼみたいに真っ赤な顔になって、腕をぶんぶん振りながらわけのわからぬことをわめき散らす。

 それからしばらくの間、キュルケは彼女をたっぷりとからかって楽しんだのだった……。

 

 

「……報告は、以上であります」

 

 レコン・キスタの本営へ帰還したオルニガザールは、負傷した体もそのままに上官の前に直行し、平伏して事の次第を報告した。

 

 危険な戦場に立っていた時よりも、居心地のいいこの部屋にいる今の方がむしろ委縮している。

 ここへ来る前は割と楽観的でいられたのだが、さすがに直属の上官である最上級デヴィルに任務の失敗を報告する段になると、いささかの不安を感じずにはいられないのだ。

 

(俺に非はないのだ)

 

 オルニガザールはじっと顔を伏せながら、自分にそう言い聞かせた。

 

 とはいえ、バートルの裁きは慈悲深くもなければ公正でもない。

 上官の怒りを買えば、実際に非があるかないかなど問題にされないことはよくわかっていた。

 

「ははーん……。なるほどねぇ……」

 

 報告を受けた当の上官は気怠げにそう呟くと、肥満した体をぐったりと寝椅子に預けた。

 そうしながら、逃げ帰ってきた部下の顔をじろりとねめつける。

 

「敵軍に予想外の戦力とセレスチャルの参戦があって、従軍したデヴィルは軒並み全滅……。試作段階の新兵器は大破……。ユーゴロスやバーゲスト、巨人に亜人どもは散り散りになって遁走……。おまけに人間の兵どもは、大半が敵側に帰順したかもしれない……と」

 

「その責任があるとすれば、総指揮官に」

 

「おや? お前にも、多少の指揮権はあったはずではなかったかな」

 

 冷ややかにそう言われて、オルニガザールはますます深く顔を伏せた。

 

「それほどの失態を犯して、よく逃げ帰ってこれたものだねえ……。その勇気を、戦場で発揮することはできなかったものなのかねぇ……」

 

「私は、力の及ぶ限り戦ったつもりでおります。ですが、敵わぬことは明白ゆえ、せめて情報を持ち帰らねばと」

 

「ふーん……?」

 

 上官は気のない返事をしながらもぞもぞと手を動かし、手近の机の上にある容器から、そこに詰め込まれた雀のように小さなデヴィル、アイペロボスをひとつつまみ上げようとした。

 そいつは悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、シュッと伸びた真っ赤な爪が素早く取り押さえる。

 そのまま口の中に放り込んでぷちりと噛みつぶしてやると、断末魔の金切り声と共に血が噴き出して、彼の耳と舌とを悦ばせた。

 

 パエリリオンのマラダラームはげっぷをして汚らしい黄緑色の蒸気を吐き出すと、満足そうに肥大した疣だらけの腹をさする。

 それから少しだけ姿勢を正すと、改めてオルニガザールの方に向き直った。

 

「……まあ、いいだろう。今日中に、正式な報告書を作成するように。ご苦労だったね」

 

「はっ!」

 

 ひとまず退出の許可が出たことに、オルニガザールはほっと胸をなでおろす。

 今日中に仔細な報告書を何十枚も書かねばならないのだと思うと気が滅入るが、書き方を工夫して、全責任を死んだ総司令官に押し付けるようさりげなく誇張しておかねば。

 

 だが、彼が立ち上がろうとしたところで、マラダラームは大きく裂けた口をにやりと歪めて思い出したように付け加えた。

 

「ああ、そうだ。ひどい怪我じゃないか、まずは地下牢に行きたまえ。ペイン・デヴィルどもに、そこで君を治療するようにと言ってあるからね」

 

「……。ありがたき幸せ」

 

 そう答えながらも、オルニガザールは心の中で呻いていた。

 

(よりにもよって、あの拷問マニアどもの“手当て”だと?)

 

 俺に、自分の職業を盾に失態を犯した上位デヴィルを公然と嬲り苛み、すべての尊厳と力をはぎ取って惨めなヌッペリボーに変えてしまう、あの賤しいエクスクルシアーク(拷問長)どもの世話になれというのか。

 連中のもっている治癒の能力など、本来捕虜をより長く痛めつけるためだけにあるものではないか。

 

(まさか、治療にかこつけて奴らに俺を拷問させ、失態の責任を取らせる気なのではあるまいな?)

 

 一瞬そう疑ったが、さすがにそれはなかろうと思い直す。

 この異界の地では、軍勢の指揮を執れる上位デヴィルは貴重な存在だ。

 多くの手勢を失ったばかりの今、まだ使える手駒を無駄に潰してしまうことはあるまい。

 

 とはいえ、明らかに悪意のある命令だ。

 いささかの苦痛や屈辱の伴うことくらいは覚悟しておかねばなるまい。

 酷い苦痛の伴う不快な治療を与えられるのか、それとも永遠に消えることのない醜い傷跡を残されるのか……。

 

(いずれにせよ、その代償は必ずあの連中に償わせてやる)

 

 あの忌々しい人間と、ドラゴンと、天使どもすべてに、俺の味わった苦痛や屈辱を何十倍にもして与えてやる。

 ペイン・デヴィルどもが俺の甲殻に永遠に消えない疵をつけるなら、奴らの魂にはその百倍も深く、癒せぬ傷を刻み込んでくれる。

 

 新たな復讐心を燃え立たせながら、オルニガザールは静かに部屋を後にした。

 

 

 

「……急に、なにやら不愉快な事態になってきたじゃないかね?」

 

 彼が出て行ってしまってから、マラダラームは一転して不快そうに顔をしかめて次のアイペロボスを口に放り込みながら、部屋の隅のほうに立っている女性に目を向けた。

 退廃しきったデヴィルの悪臭が立ち込めるこの場には似つかわしくないその美女は、ガリア王ジョゼフの使い魔、シェフィールドである。

 

「ええ、確かに」

 

 シェフィールドは、そっけなくそう答えた。

 

「これは、秘密裏にガリアへ、多少援助を求めなくてはならないかもしれないねえ。ヘルファイアー・ヨルムンガンドの生産を急いでもらって……」

 

「では、後ほど私の方からジョゼフ様に申し上げておきますわ」

 

 レコン・キスタの活動を影で取り仕切る目の前の不快なデヴィルの話に調子を合わせて受け答えしながらも、シェフィールドは心の中ではまったく別のことを考えていた。

 

(セレスチャル、だって?)

 

 デヴィルについて学んだときに、その連中についても知識は得ている。

 遥かな太古から、デヴィルやデーモンのようなフィーンドと戦い続けている天上界の来訪者だと。

 つまり、そいつらにはデヴィルどもと戦う理由があるし、対抗できるだけの力も十分にあるということになる。

 

 ならば、連中の力を借りれば、ガリアからデヴィルどもを一掃できるのではないだろうか?

 

 予想外の出現で十分な対策が取れなかったとはいえ、一度はデヴィルを退けて圧倒的に劣勢だった王党派の軍を救ったことからも、その力の程は十分証明されたといえるだろう。

 対策をしっかりと整えられれば多勢に無勢、最終的な勝利を得ることは難しいかもしれない。

 しかし、自分が密かに協力してこちらの情報を伝えるなり、何がしかの助力を行えば話は変わってくるはずだ。

 

(いや……しかし……)

 

 それで仮にデヴィルどもを駆逐できたとして、その後はどうなる?

 

 セレスチャルは、フィーンドに限らずあらゆる悪と断固として戦うという。

 そして、自分やジョゼフはその利己的な動機と周囲を省みない行動から、間違いなく悪に分類されるであろう。

 事情を伝えればデヴィルと戦ってはくれるだろうが、その後で自分たちが見逃されるとは思えない。

 連中は物の善悪や真偽を見抜くのに長けているというから、適当な嘘でごまかし続けられるとも思えない。

 

 シェフィールドにとっては、それでは意味がなかった。

 最終的にジョゼフが救われて、自分とずっと一緒にいてくれるのでなければ無意味だ。

 それでも、彼女はようやく見えかけた希望を簡単にはあきらめなかった。

 

(そもそも、そのセレスチャルどもはどうやってこの世界に来たのか。異世界から来訪者を呼び寄せられるのは、この世界では『虚無』以外にはありえない)

 

 ならば、セレスチャルの背後には必ずや『虚無』の召喚者がいるはずだ。

 そいつの協力を、どうにかしてとりつければいい。

 その者を介して、自分たちには手を出さないという保障つきでセレスチャルを動かさせるのである。

 

 問題は、そいつがどうすれば動いてくれるのかだ。

 まだどんな人物かまったくわからないのだから、現状ではなんともいえない。

 

(なんらかの交換条件を出して交渉するべきなのか。それとも脅迫か、洗脳か)

 

 まずはその者の正体を探り出し、どういった人物なのか見極めることが先決だろう。

 だが、デヴィルどもや自分の主も、遅かれ早かれ間違いなくそいつに対してリアクションを起こすはずだ。

 

(どうにかして、その前に接触しなくては……)

 




アイペロボス:
 一体一体は雀のように小さく、単体ではおよそなんの脅威にもならない弱体なデヴィルの一種。
より大きく力のあるフィーンドは、これらの微小なデヴィルを珍味とみなしている。
しかしながら、多数のアイペロボスが群れを成してスウォームとなれば恐ろしい力を発揮し、より大型のデヴィルに対して報復を遂げることもしばしばあるという。

パエリリオン(コラプション・デヴィル、堕落悪魔):
 パエリリオンは上級デヴィルの中でも得に高位の部類に属し、最上級のピット・フィーンドに次ぐ地位にある。
その外見は、簡単に言えば「厚化粧して娼婦の服を着たジャバ・ザ・ハット」みたいな感じである。
その装いから女性と考えられることもあるが、実際にはパエリリオンは両性具有体であり、性別はない。
彼らは地獄の都市の中心に住み、美味な肉や魂を食らって肥え太り、自身の肥大した体から滴り落ちる有毒の油で汚れた水の風呂に浸かって、入念に身繕いをする。
もちろん彼らは怠惰で退廃的なだけではなく、高い実力と知性の持ち主でもある。
全次元界に広大なスパイ網を張り巡らし、さまざまな秘密情報を集めては、定命の存在や他のデヴィルを脅迫して自分の利権をいや増している。
肉体的にはピット・フィーンドと比べればだいぶ脆弱で、進んで前線に出てくるようなタイプのデヴィルではない。
しかしながらいざ戦場に顔を出すと決めたときには、アンティライフ・シェルの擬似呪文能力で敵の接近を防ぎつつ、部下どもの背後から無尽蔵に使用できるメテオ・スウォームの疑似呪文能力を乱れ撃って、単身で何百何千という敵兵を容易に屍の山に変えることができる。
脅威度は18。

エクスクルシアーク(ペイン・デヴィル、苦痛悪魔):
 下級デヴィルの一種。
その外見は、体毛のまったくない、青白いが屈強な人間に似ている。顔を棘や角が生えた黒い仮面で覆い、不気味な革鎧と仕事中の肉屋を思わせる血塗れの革エプロンを身に着けて、棘だらけのフレイルを持っている。
彼らは拷問の技をもって地獄に堕ちた魂や懲罰を受ける他のデヴィルを嬲り苛み、最後にはあらゆる力と尊厳を剥ぎ取ってしまう地獄の拷問吏である。
その不快な役職のために、他の大部分のデヴィルは彼らのことを恐れ、嫌悪している。特に、同じように犠牲者に苦痛を与える仕事を任されるキュトンとは危険なライバル関係にある。
それほど強力な部類のデヴィルではないものの、彼らは常に強烈な苦痛のオーラを発しているため、他の者はその傍に寄っただけで苦痛に苛まれる。また、他の者に苦痛を与えることによって、自身の力をより一層高めることができる。
彼らはまた、デヴィルには珍しくキュア系の疑似呪文能力を持ち、自他の傷を癒すことができるが、この能力が主として犠牲者の苦痛を与えられる時間をさらに引き延ばすために使用されることは言うまでもない。
脅威度は7。


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第百三十八話 Electric Angel

「バードって、あちこちに変わった知り合いがいるものなのねえ……」

 

 キュルケはグラスを片手にステージ上の歌い手をぼんやりと眺めながら、そんな感想を漏らした。

 

 ここニューカッスル城で、レコン・キスタと、いや、それを誑かし操っていたデヴィルたちとの決戦があった日から、既にかなりの日数が過ぎていた。

 まあ、学院長の許可を得たうえで教師の同伴付きで来ているのだから、早く帰らなくてはならないという焦りなどはないが。

 

 戦いが終わっても、アルビオンの人々は連日、忙しそうに働いていた。

 ホーキンス将軍の率いるレコン・キスタ軍がどのように意見をまとめて降伏してきたか、ジェームズ王ら王党派の指導者たちがどのような条件を出してそれを受け入れたのか……。

 そういったやり取りは余所者であるキュルケらの直接関与するところではなかったし、きっとうんざりするようなあれやこれやの駆け引きや約束事があったのであろうが、詳しいことは何も知らない。

 とにかく、ディーキンやウィルブレースらの事前の説得もあって、王族と王党派の兵士たちは降伏してきた万を超える元レコン・キスタの兵士たちを平和裏に、厳しい扱いをすることもなく快く迎え入れたのである。

 彼らはそのまま王党派に帰属することとなったが、このニューカッスル城は小城であり、それだけの兵を長期間留め置けるだけの場所も食料もない。

 今は彼らが侵攻時に築いた野営地にそのまま留まってもらっているが、近いうちに新たな拠点に場所を移す必要があった。

 

 そんなわけで、今宵は戦勝祝いとニューカッスル城との別れを兼ねて、この城での最後の宴が催されているというわけだ。

 

 

 

 澄んだきれいな歌声が、パーティ会場となったホールに響いている。

 素直になれない少女が、想いを寄せる男の子を自分だけの王子さまだといい、お姫さまとして扱ってほしいと訴えるその歌に、聴衆はみんなうっとりと聞き入っている。

 

 歌い手は変わった色合いの長髪をツインテールにした美少女で、外見からすると、年のころはルイズと同じくらいだろうか。

 なんでも「『カガク』の限界を超えてやってきました」だとかよくわからないことを言っていたが……。

 とにかく、ウィルブレースが以前にどこぞの異世界で知り合った子だそうで、彼女がここに連れてきたのである。

 たびたびエキゾチックな衣装への早着替えを披露したり、ステージに幻想的な灯りや背景などを作り出したりしているところからすると、おそらく彼女もまた、未知の魔法の使い手なのであろう。

 

 どうやら腕利きのバードの間では知る人ぞ知る有名人らしく、ディーキンなどは彼女の名前を聞くやきらきらと目を輝かせて、ぜひとも自分の本にサインをしてくれと頼み込んだ。

 おまけにそれを、「すごいの! ミクさんの直筆サイン入りのディーキンの新作本だよ! オークションなら軽く『ヒャクマンドル』以上はつくよ! 絶対売らないけど!」……などと、興奮の極みでわけのわからないことを言いながらルイズだのタバサだのに見せつけるものだから、さすがの彼女らもちょっとだけ引いていた。

 

「今夜は、あなたは歌われないのかしら?」

 

 キュルケは先程から気になっていたことを、傍にいるウィルブレースに尋ねてみた。

 

 こんな絶好の舞台なのに、戦の前に素晴らしい歌や物語を披露して大盛況を博した彼女は、いまだにステージに上がっていない。

 それどころか、つい今しがたどこからともなくふらりと現れるまでは、会場に顔も見せなかった。

 

「レコン・キスタの野営地のほうへ慰問に行ってるのは、知っていますけど。こっちには出なくてもいいの?」

 

 歌は素敵だし、十分に賑やかで楽しいパーティではあるものの、ディーキンやルイズ、タバサもそちらのほうに出掛けてしまったので、キュルケはいつもの面子がいなくて少しばかり物足りない思いをしていた。

 会場内の男たちを物色しようにも、今はみんなステージの歌のほうに夢中だし。

 シエスタとギーシュは残っていたが、彼女らも二人してステージの歌を楽しんでいるようだ。

 

「ええ。向こうの方で、十分に歌っていますから」

 

 ウィルブレースはスターレーズン……レンバスなどと同じく古来よりエルフの間に伝わっている、口に含むとたちまち瑞々しさを取り戻す携行食であり御馳走でもある希少な乾果……をつまみながら、にっこりと微笑んだ。

 

 ここではなく野営地で歌うことを選択したのは、宴の最中とはいえいつまたデヴィルが手を出してくるかわからぬので、目を光らせるためというのもあるが……。

 なによりもバードとして、投降してきた元レコン・キスタ兵の慰問と精神のケアに努めたいと思っているからである。

 なにしろ彼らは、それまで自分たちは神軍であると信じ、天使の加護を受けていると信じ切っていたのだ。

 それが突然すべて間違いだった、自分たちは悪魔に騙されていたのだと知ったのだから、ショックを受けている者は多いことだろう。

 ホーキンス将軍が生き残りのデヴィルどもを自分たちの手で掃討し、王党派へ投降すると命令を下したときに、レコン・キスタ軍の中に残っていた『不死の兵』たちはデヴィル側について戦ったのだという。

 本当に生き返ったのだと信じていた戦友が、何の躊躇もなく自分たちに刃を向けてくるのを見たときに、そしてそんな戦友の姿をした傀儡を自らの手で討ち取らねばならなくなったときに、兵士たちがどれほど悲痛な思いをしたかは察するに余りある。

 

 そんな彼らの心痛を、自分たちの歌や物語でいくらかなりとも慰めたい。

 王党派の兵士たちも、自分たちセレスチャルも、彼らのことを少しも悪く思ってなどいないのだと伝えたいのである。

 

「ですから、今日はこちらの方は彼女に任せます。私やディーキンの歌は、今宵でなくとも、いずれまたお聞かせする機会もあることでしょう」

 

 とはいえ、こちらの会場の方にもデヴィルが手を出してくるかもしれないので、彼らの存在を見抜き得る誰かが定期的に目を配っておく必要はある。

 そんなわけで、ウィルブレースは自分の手が空いた折に、少しの間見回りに戻ってきたのだった。

 

「なるほどねえ……」

 

 キュルケは、自分も向こうに行けばよかったかな、とちょっと思った。

 こっちのほうがいい男を物色できるだろうと思ったのだが、慰問を通してムードを作るというのも悪くない。

 あちらは兵士たちの数も多いことだし……。

 

「……でも、あの子はさっきから交代もなしでずっと歌いどおしよ。疲れちゃわないかしら。レパートリーだって、限りがあるんじゃない?」

 

「心配はいりません。彼女は決して疲れませんし、レパートリーは……、正確には知りませんが、数十万曲はあるのではないかと」

 

 それに、必要であれば仲間たちを呼ぶこともできるはずだ。

 金色の髪の幼げな少年少女とか、桃色の髪の彼女よりも大人びた女性の歌い手とか。

 

「数十万!? ……いや、まさか。大げさに言ってるんでしょう?」

 

 そんなにたくさんの曲を、一人の人間が覚えておけるとはキュルケには思えなかった。

 まして、自分たちと大差ない程度の年齢の少女では、それだけの曲を頭に入れるだけの時間もあろうはずがない。

 

「いえいえ。彼女はたとえ何百万曲、何千万曲でも覚えておいて、いつでも歌いこなすことができるし、何億という場所に同時に存在して歌うこともできるのです。私も詳しくは知りませんが、そういうものだそうですよ」

 

「へえ……、すごい人なのねえ」

 

「ええ。バードとしての対抗意識はないわけではありませんが、彼女と注目を争う気はありませんよ。向こうの会場のことがなければ、私もここで最後まで聞いていきたい」

 

 そんなキュルケらの会話などとは関係なく、ステージの上の彼女はまた新しい歌に取り掛かっていた。

 今度は、自分が歌うことが好きなのは、あなたが喜んでくれるからだ、あなたが愛を教えてくれたからだ……と歌っている。

 

「じゃあやっぱり、あの子もあなたたちと同じ天使の仲間なのかしら。見た目どおりの年じゃないってこと?」

 

「いえ、そうではないのですが。何者なのかと言われると……」

 

 ウィルブレースは少しの間、困ったように眉根を寄せて考え込んでいた。

 

「……そうですね。元々は、何者でもありません。彼女は、実体を持たない想像の産物だったそうです」

 

「へっ?」

 

 キュルケがきょとんとする。

 それから、ステージの上で歌っている少女の姿を見た。

 

「……よくわからないわ。実体がないとか、想像の産物とか。だって、そこにいるじゃないの」

 

 活き活きとした表情、澄んだ弾むような歌声。

 歌いながら、くるくると踊る姿。

 間違いなく、生きて動いている。

 

 ディーキンやルイズが魔法で真に迫った幻覚を作り出せることも知ってはいるが、彼女がそのような虚像だとはとても思えなかった。

 

「ええ、今の彼女は確かに実在しています。生きて動いていますね。……でも、最初からそうだったわけではない」

 

 ウィルブレースは、キュルケにわかりやすいように言葉を選んで、彼女自身の理解している範囲で説明していった。

 

「この多元宇宙のさまざまな世界には、たくさんの神々がいます。そして神になるには、信望者たちから崇拝され、その想いの力……信仰エネルギーを一定の臨界量以上集めることが必要になります。そうして神になった者の中には、元々はただの人間だった者はもちろんこと、最初は存在してすらいなかった者もいるのです……」

 

 例えば、木の枝で編んだ人形に名前を付け、崇拝する部族がどこかの地にあったとする。

 部族が勢力を伸ばし、その神の偶像を崇める者が増え、やがて信仰エネルギーが臨界量に達したならば、彼らの崇める神は多元宇宙の中のどこかの次元界にそれを注ぎ込まれて実在化するのである。

 

「彼女は、元々はある世界において『カガク』という技術体系を用いて作られた、歌を歌わせるための一種のプログラムを擬人化した想像上の存在だったと聞きます。しかし、その歌声に魅了される者が増えていき、彼らの想いの力が集まることで、やがて多元宇宙の片隅に『電子の歌姫』と呼ばれる存在として実体化し、あらゆる場所に偏在できるようになったのですよ」

 

 それを聞いて、キュルケはさすがに驚いたようで、目を丸くしていた。

 

「じゃ、じゃあ。あの子って、……神さまなの?」

 

 確かに、何千万曲も記憶しておけるとか、何億の場所に同時に偏在できるとか、そんなすごい能力があるのなら、それは神の領域だと言えるかもしれないが。

 

「いえ、違います。彼女に向けられる人々の想いは、神に対する崇拝とはまた少し違ってはいますから。ですが、その熱心な想いの力が彼女を実体化させたという点で、原理としては同じですね」

 

 元々は実体のない、強いて言えばそのベースになるのは人格を持たない人造の一種だったらしいが、現在の実体化した彼女は分類としてはセレスチャルやフィーンドと同じ来訪者の一種だと言えるだろう。

 実際、数の上から言えば、彼女には既に神格になれてもおかしくないくらいにたくさんの熱心なファンがあちこちにいるはずだ。

 何百万……、いや何千万か、それ以上かもしれない。

 

「はあー……」

 

 キュルケは、あまりスケールの大きな話に、ほうっと溜息を吐いた。

 ディーキンやウィルブレースも、ハルケギニアのどんな宮廷の詩人たちでも到底及ばないくらいに素晴らしい歌い手だと思ったが、上には上がいるということか。

 

 

 

 このマジカルな世界での初ステージで、アルビオンの新たなミライを願って尽きることなく活き活きと歌い続ける少女の姿を見つめながら、ウィルブレースは頭の中で今のキュルケと話した内容を思い返していた。

 

(そう……、信仰エネルギーだ)

 

 それが、デヴィルどもの狙いなのかもしれない。

 

 そもそも、この世界の人々から発せられた想い、信仰のエネルギーは、一体どこへ行くのだろうか?

 

 ウィルブレースが見た限りでは、それはどこにも行っていないように思えた。

 この地では、六千年もの間、始祖ブリミルという人物がメイジを中心に多くの人々からの信仰を集めているという。

 先日の戦の折にルイズが作り出したブリミルの幻影を見たときの人々の反応からすれば、その信仰は決して浅いものではないようだ。

 だというのに、どうしてブリミルは真の神格にならないのか?

 本来ならばとうの昔に、本人の魂であれ、信者たちの作り出した偶像であれ、いずこかに人々の信仰の力が注がれて、ブリミルという名の神格が顕現していてもいいはずだろう。

 

 彼に限らず、この世界には神格が不在だ。

 神格から授けられる信仰呪文の使い手がまったくいないことから、それは明らかである。

 おそらく、この世界には神格の介入や信仰エネルギーの出入りを妨げる、何らかの障壁のようなものがあるのだろう。

 どのような意図で誰が築いたものかはまだわからないが、明らかにこの物質界を他の次元界の影響を受けずに独立させておくためのものだ。

 

 しかし、その崇拝の対象が世界の壁の内側に現れたなら。

 あるいは、信仰エネルギーが通過できる、恒久的なゲートを築くことができたなら……。

 それまではどこにも注がれることのなかった信仰エネルギーを、世界ひとつ分、すべて独占することができるだろう。

 

(デヴィルどもは、この世界におけるブリミルの信仰を歪めようとしていた)

 

 この世界に姿を現したデヴィルは、バートルの第二階層ディスの支配者、アークデヴィル・ディスパテル大公に仕えているようだ。

 そのディスには、『神の道』と呼ばれる場所がある。

 崇拝者たちから発せられた信仰エネルギーが集まり、新たな秩序にして悪の神格が生まれる地だ。

 誕生したばかりの神々、引退したかつての神々、そして神にならんと志す者たちが軒を連ねているところでもある。

 

(では、ディスパテルは自分に都合のいい存在になるよう歪めた教義で新たな邪神として神の道にブリミルを顕現させ、それと同盟するつもりか?)

 

 しかし、いかに生みの親であるとしても、秩序にして悪の神格が大人しくいつまでもデヴィルと同盟を結び続けるだろうか。

 それにぽっと出の同盟者などを、偏執狂的なあのアークデヴィルがどこまで信頼するだろうか。

 

 あるいは……。

 あの地獄の業火を使うゴーレムの姿が、明らかにディスパテル本人を模していたことからすれば……。

 

(自らがその信仰エネルギーの受け手となり、アークデヴィルとしての自分とディスパテルの名を捨てて、新たな神ブリミルとして神位を得ようというのか?)

 

 アークデヴィルは神に最も近い存在のひとつであるが、神そのものではない。

 同僚を出し抜いて神位に到達することができれば、対等の立場での権力争いは終わり、圧倒的に優位な立場に立つことができるだろう。

 

 神となってアスモデウスに挑戦し、バートルの王の座を奪い取る。

 あるいは、他のデヴィルらとは袂を分かち、自分を頂点にする神としての権力体制を新たに築き上げる……。

 

(その方が、可能性は高そうに思える)

 

 だとすれば、アルビオンにおけるデヴィルの目論見は、前回の敗戦で大きく挫かれたはずだ。

 兵力は大幅に減り、その主張の正当性も疑わしくなった。

 将来的に信仰エネルギーを注いでくれるであろう対象は、少なくともこのアルビオンでは激減したのだ。

 

(それでも、まだ油断はできない)

 

 ディーキンの考えが正しいとすれば、デヴィルの背後にはまだ、ガリアという大国が控えているかもしれない。

 それに、兵力を大きく減らしたとはいえ、レコン・キスタがこれまでの戦いで支配下においたアルビオンの多くの街や都市がまだ解放されないまま残っている。

 デヴィルはそれらの土地の住人たちの間に堕落を広めたり、麻薬や退廃的な娯楽を提供したりして、それによって魂を売ることに同意させたり、偽りの教義を浸透させようとしたりしているかもしれないのだ。

 

(だから少しでも早く、デヴィルどもを完全な撤退に追い込まなくては)

 

 ウィルブレースはそう決意を固めながら、人々から望まれるままに、ただひたすらに歌い踊り続ける少女に目を向けた。

 

(新たな神は、彼女のように人々に望まれて生まれるべきだ。人々を騙すことで生まれ、信徒たちに圧制を強いる神など、決して増えてはならない)

 

 それは混沌と善の来訪者であるエラドリンとしての、またバードとしての、彼女の信念であった。

 

 

 

「……それでは、これで失礼します」

 

 ややあって、ウィルブレースはそう言って席を立った。

 が、去り際にふと思い出したように、悪戯っぽく笑って付け加える。

 

「キュルケ、あなたは素敵な人を物色しているのですか?」

 

「え? ……ええ、わかるかしら。でも、今はみんな、彼女の歌に夢中みたいだものねえ……」

 

 キュルケは、そう言って肩を竦めた。

 もちろん彼女自身も楽しんでいるのだが、ちょっとあてが外れたような気はしている。

 

 ウィルブレースは小さく頷くと、急にがらりと口調を変えて、キュルケに提案した。

 

「なら、私と賭けをしないかしら? 今夜の宴の終わりまでに、どちらがより素敵な人を捕まえられるかというのはどう?」

 

「へっ……?」

 

 それまでは礼儀正しい、行儀のいい女性と思っていたウィルブレースからそんなことを言われるとは思っていなかったキュルケは、一瞬きょとんとする。

 しかし、すぐに気を取り直して、挑戦的な笑みを浮かべた。

 

「……あら、お忙しいんじゃなかったのかしら。それに、天使さまがそんなことをしてもいいの?」

 

「そのくらいの時間は取れるわ。それに、私は天使ではないの。自由を愛する、楽しいことが大好きなエラドリン」

 

 もちろんデヴィルとの戦いはまだまだ終わっていない、気は抜けない。

 でも、だからといって、ずっとしかめ面をしていなくてはならないということはないはずだ。

 楽しめる時には楽しんで、英気を養うことも大切である。

 

 それに、キュルケがちょっと刺激が足りなさそうな顔をしていたので、彼女を楽しませたいという思いもあった。

 そんなわけで、彼女が嬉しそうににやりと笑みを深めたのを見て、ウィルブレースは満足を覚えた。

 

「あはは、あなたって、思ってたよりもずっと面白いじゃないの! もちろん、受けて立つわよ? ……あ、ディー君とかいうのは無しね」

 

「決まりね。ええ、もちろん。じゃあ、また後で会いましょう」

 

 

 

 キュルケらのやり取りをよそに、ステージで少女は一心に歌う。

 神さまなんかにはもうなれなくてもいい、ただ自分が歌い人が喜んでくれる、それがすべてだ……と歌う少女の背からは、その歌詞に反していつの間にか輝く白い翼が生えている。

 まるで、神か天使のように。

 

 観客たちの大きなどよめきと歓声が、ホールに響いた。

 



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第百三十九話 Puppet regime

 アルビオンの首都ロンディニウムにある、王城ハヴィランド宮殿。

 その一角にある名高い純白の広間・ホワイトホールに、いま、レコン・キスタの将官達が集っていた。

 

 円卓を囲んで座る十余名の高官達は、みな一様に重苦しい表情をしている。

 

「我らは、ニューカッスル城へ差し向けた主力部隊の大半を失いました。天使軍は壊滅、巨人や亜人の群れは壊走。数万を数えた兵の半数以上は、降伏して王党派に帰属したようです。それ以外の兵はほとんどが戦死、もしくは散り散りに遁走したと思われます。その中で我が軍に帰参したものは、わずか二千名足らず……」

 

 一人の将軍が、憔悴しきった顔でそう報告をする。

 彼はまだ年若く、つい先日までならばこの最高会議に顔を出すことなどは遠い夢でしかなかった。

 

 その夢がかなった今は、だが、少しも嬉しそうな顔ではない。

 蘇った伝説の名将ル・ウール侯や老練なホーキンス将軍をはじめとする上位の将軍達の多くが戦死、もしくは敵側に帰順してしまった上、ニューカッスルの攻城戦における大敗を知って姿をくらませた将官も相次いだために、席が回ってきたに過ぎないのだから。

 むしろ、自分も早く逃げておけばよかったのにと後悔しているくらいだった。

 

「軍の士気は、日に日に落ちてゆく一方です。どうやら残存する兵の多くも、既に先の敗戦を知っているようで。持ち場を放棄して姿をくらませる兵が相次いでいるとの報告が上がっております。先日は、一隊が丸々離反するという事件も起こりました」

 

「ニューカッスルへの侵攻軍に同行していた艦隊も、旗艦レキシントン号を含め全艦が失われました。完全に破壊された艦もあるでしょうが、その多くは鹵獲されたか、乗員が艦ごと投降して敵に引き渡したとみたほうがよいでしょう。その他の兵器も、武器弾薬や食料もです。すなわち我らは数と物量の上での優位を失い、制空権も失ったのです」

 

「我ら神聖アルビオン共和国の統治下にある複数の集落で、暴動や不服従が起こっています。どうやら各地を回って王党派の勝利を伝え広め、我らの非を鳴らしている詩人や演説家がいるようです。無論敵側の工作でしょうが、中には駐屯している兵どもまでが市民達に同調し、あるいは数の上での不利と士気の低下のために任務を放棄して、王党派に完全に帰順した都市も既に……」

 

 次々に、暗い報告がされていく。

 

 高官達は押し黙ったまま、互いに顔を見合わせた。

 まるで、この中の何人が明日もまだこの場に姿を見せるのだろうかと、それぞれの顔色を窺ってでもいるかのようだ。

 

 彼らはそれから、座の中心に控えた神聖アルビオン共和国議会議長にして初代アルビオン皇帝であるクロムウェルに、非難するような目を向けた。

 

「……報告によれば、ニューカッスル城には始祖が降臨し、王党派に味方したという噂が流れておるそうですが?」

 

「そうらしいな」

 

 クロムウェルはしかし、そんな視線にも動じずに涼しい顔をしたままで、責めるような口調での問いかけにも鷹揚に頷いて見せた。

 

「愚かなことだ、そのようなことがあるはずがない」

 

 そんな彼の態度に不快感を覚えた高官達は、いきり立って口々に言い募る。

 

「ただの偽りだというのか! であれば、なぜ百倍以上の兵力を持っていながら、我ら『神軍』が敗れたのですかな?」

 

「そうです。逃げ帰ってきた兵どもによれば、敵軍が始祖の加護を受けているという証は他にもあったそうですな。かの『ヘクサゴン・スペル』に始まって、天使の降臨、さらにはかの『烈風』までもが、数十年の時を経て再び姿を現したそうではないか!」

 

「失礼ながら、閣下の『虚無』によって蘇った兵士達も、天使達も、敵軍の前には無力だったらしいですが……」

 

 皇帝に対してあまりに無遠慮で不敬な態度だといえたが、それこそが彼の権威が既に半ば以上崩壊し、風前の灯火になっていると誰もが思っている証だった。

 

 別段クロムウェルに敗戦の責任があるというわけでもないのだろうが、そうであっても彼は始祖の加護は我らにあると保証し続け、レコン・キスタの将兵たちをここまで導いてきた張本人。

 それが突然すべてひっくり返り、天国から地獄へ突き落されたような状況になったことについて、説明と責任を求めたくもなる。

 

「ミス・シェフィールド」

 

 クロムウェルから声をかけられて、それまでは秘書として彼の背後に黙って控えていたシェフィールドが、頷いてすっと進み出る。

 彼女は羊皮紙に目を通しながら、よく通る声で説明を始めた。

 

「状況から判断して、おそらく敵方にも『虚無』の使い手がいると思われます。それゆえ、閣下の力に対抗できたのです。始祖の似姿や蘇った英雄なども、それによって作り出されたものかと」

 

 その報告を聞いて、将官達の間に動揺が広がった。

 クロムウェルは彼らをなだめるように手を広げて、にっこりと微笑んだ。

 

「驚くことはない、彼らは腐っても始祖の血族ゆえ、そういうこともあるだろう。思わぬ不覚をとったが、要は、どちらにより強い加護があるかを示せば良いのだ」

 

「どちらにより強い加護があるか、ですと?」

 

 それなら、現状で既に答えは出ているようなものではないのかと言いたげな険しい表情で、高官達がクロムウェルを睨む。

 

 彼の動じない態度は、自軍が優勢の時にはいかにも頼もしく、超然とした力の使い手らしく感じられたものだ。

 しかし、こうして追い詰められた今となっては、状況を理解していない世間知らずな僧職あがりゆえの楽観的態度、現実が見えていない悠長な理想論者のそれだとしか思えなかった。

 

「さよう、次の戦で勝てばよい」

 

 それでも、あくまでも悠然とした態度を崩さない皇帝のその言葉に、参謀本部の将軍も覚悟を決めたような顔で頷くと、立ち上がって自分の意見を述べた。

 

「我らは数の優位を失いましたが、それでもここロンディニウムには、まだ万を超す兵がおります。敵軍の兵は総勢でその三、四倍はおりましょうが、大半は我が軍から投降して間もない兵ばかりで、忠義や士気など不十分な点も多いはず。こちらに勝ち目がないというほどではありません」

 

 どうあれレコン・キスタの側について戦うと決め、これだけの地位を与えられた以上は、いまさら投降するわけにもいかない。

 状況ははっきりと悪いが、それでも勝利を得るために最善を尽くすつもりだった。

 

「ここは閣下に兵たちを鼓舞していただき、早期に残存部隊をまとめ、主力軍を編成し直して再度決戦を挑むべきかと」

 

 しかし、クロムウェルは首を横に振った。

 

「いいや。主力軍はまだ、ロンディニウムから動かさぬ」

 

「閣下、我らには時間の余裕はないのです。このまま手をこまねいていれば士気も兵力もじりじりと削られるばかりで、領地も次々と失っていくことになりましょう。座して敗北を待つおつもりですか?」

 

 まして、時間が経てば静観を決め込んでいた地上の国々も、どうやら楽に勝てる戦だと見て王族側を助けることで戦後に見返りを得ようと参戦を表明してくるかもしれないのだ。

 ここはどうにかして敵軍に手痛い打撃を与え返し、こちらがそう容易くは敗北しないということを王党派に、また民衆や他国に対しても示さねばならない。

 

 クロムウェルは、再び首を横に振った。

 

「領地は取られても構わぬ。その前に、住民たちから食料を取り上げて、駐屯部隊を撤退させるのだ。敵は占領した都市で兵糧の補給を行うどころか、その都度少ない食料を住民たちに与えねばならぬはめになるだろう。足止めとしては効果的だ」

 

 将軍はそれを聞いて驚き、次いで、不快そうに顔をしかめた。

 

 確かに、アルビオンの王族達は自国の民衆を見捨てるわけにはいかず、施しを行い、軍の侵攻は遅れるであろうが……。

 元は聖職者であるとも思えぬ非人道的な策だ。

 それに、そんなことをして勝ったとしても、民からの深い恨みを買うだろう。

 その後の統治に重大な悪影響を及ぼすはずだが、そういったことは考慮していないのだろうか。

 

(まさか、民が餓死しても『虚無』で蘇らせればよい、民の心も『虚無』で操ればよい、とでも思っているのではあるまいな?)

 

 自国の皇帝に対する嫌悪感を胸中で膨らませている将軍の様子など気にした風もなく、クロムウェルは得々と演説を続けた。

 

「ついでに、余が水源に『虚無』の罠を仕掛けてやるとしよう。いささか面白いことになる、なまじ防衛戦を行うよりも効果があるかもしれぬ」

 

 そう言いながら、自分の手にはめた指輪を弄る。

 

「……ですが、時間を稼いでどうされるおつもりなのです。その後、このロンディニウムで籠城戦を行うのですか。各地から接収した兵糧を運び込んで?」

 

 将軍は不快なのを押し殺して、そう質問した。

 

 皇帝はそんな部下に対して、わずかに肩を竦めて微笑みを浮かべて見せる。

 その場違いで顔に張り付いたような笑みを見ていると気分が悪くなってくるので、将軍はさりげなく顔を伏せた。

 

「なに、余も現状の残存兵力で敵を倒せるとは思っておらぬ。時間を稼げば……」

 

 クロムウェルはそこで一度言葉を切って席から立ち上がると、勿体ぶって手を大きく拡げながら先を続ける。

 

「……交差する二本の杖が到着し、余の『虚無』とともに、つかの間の勝利に驕り高ぶる王族どもに、そしてそんな者どもに誑かされた愚か者どもに鉄槌を下すことになるのだ!」

 

 その場にいた者たちは、一瞬、その言葉の意味を計りかねた。

 しかし、じきに一人、また一人と彼の言わんとするところを察して、会場にざわめきが広がっていった。

 

 交差する二本の杖。

 それは、ハルケギニアでも随一の大国、ガリア王国の紋章である。

 

「では、ガリアが我らの側に立って参戦するというのですか!?」

 

「ガリアが味方につけば、怖れるものなどない!」

 

 クロムウェルはにわかに沸き立った高官達に対して、口髭を弄りながら少し小首を傾げて微笑みかけた。

 

「そこまでは申しておらぬ。いや、なに、ことは高度な外交機密であるのだよ……」

 

「……」

 

 会場の興奮をよそに、参謀本部の将軍はじっと俯いて、今の話を検討してみた。

 

(ハルケギニアの王制に叛旗を翻すことを宣言した我らに、ガリアの王政府が味方するだと?)

 

 一体いかなる理由で、そのようなことがあり得るのだろうか。

 にわかには信じがたいが、しかし、仮にも皇帝ともあろうものが、まさかその場しのぎで口から出まかせを言っているというわけでもあるまい。

 

 確かに大国ガリアが味方に付くというのならば、たとえ直接兵を派遣してくれるわけでなくとも、艦隊を見せつけて敵軍を牽制してくれる程度でも、状況は激変するはずだ。

 こちらから離反しようとする者は激減し、考え直して敵軍から戻ってくる者は増えるだろう。

 ゲルマニアやトリステインといった他国も、ガリアが敵側についているとあっては、迂闊に介入するわけにはいかなくなる。

 

「……かしこまりました」

 

 未だに半信半疑ではあるが、それが事実ならば、確かにガリアの助力を待つのが最善であろう。

 

「それは、まことに明るい知らせですな。外交機密では、民や兵どもに知らせてやれぬのが残念ですが」

 

 

「はっ、はあ、は、ぁー……」

 

 会議を終えた後、クロムウェルは元は王の寝室であった巨大な個室で、頭を押さえながらぐったりと椅子にもたれていた。

 不安げに歪んだ顔を汗が伝い、体は小刻みにかたかたと震えている。

 

 先ほど将軍はこの皇帝の冷血であることを嫌悪したが、それは正しくない。

 民に対して冷血なのではなく、何も考えていないのだ。

 彼はただの傀儡であって、ただ言われたとおりに喋っているだけであって、本当のところは自分の心配だけで手一杯なのだった。

 

「ご苦労さま。今日はいつもほどは会場を熱狂させていなかったわね、司教殿?」

 

 その傍に立ったシェフィールドが、以前の役職名でクロムウェルに呼び掛けた。

 会議の時の慇懃で忠実そうな様子とはうって変わって、彼のことを冷たく見下している。

 

「は、はっ……。もも、申し訳ありません!」

 

 クロムウェルは椅子から転げ落ちるようにして、シェフィールドの足元に跪いた。

 恐怖に震えるその姿には先ほど見せていた余裕や威厳はどこにもなく、ただの小心なやせ男であった。

 

「別に、責めているわけではないわ」

 

 シェフィールドは、そっけなくそう言った。

 

 この男は、ただ司教時代に見せていたその優れた演説の才を見込まれて、彼女の主であるガリア王ジョゼフから選ばれた傀儡に過ぎない。

 王になってみたいという、酒の席での戯言を叶えてやる形で、この男をアルビオンの皇帝にしてやることにしたのだ。

 望み通り王になれたのはもちろんのこと、彼がかつて些細なことからアルビオンの王族に恥をかかされたと感じ、恨みに思っていたこともあって、貴族たちをまとめて王族に復讐することも存分に愉しんでいたようだった。

 

 だが、所詮は小物。

 状況が急変し、このままでは王党派に敗北して間違いなく惨たらしい処刑が待っていると思うと、恐怖に体が震えて歯の根も合わないらしい。

 それでも、舞台に立てば威厳のある態度を繕って、難なく芝居をこなせるその役者ぶりだけは大したものだったが。

 

「私はこれから、あなたが部下どもに約束した罠を仕掛けなくてはならないわ。『アンドバリの指輪』を」

 

 クロムウェルは恐る恐る指輪を外して、シェフィールドに手渡した。

 

 彼がシェフィールドに指示されて『虚無』と称している、死者に偽りの生命を与えて蘇らせる力は、実際にはこの魔法の指輪によるものだった。

 シェフィールドがガリアの魔法騎士と共にラグドリアン湖へ赴き、そこに住まう水の精霊から奪ったのだ。

 正体は先住の『水』の力の結晶であり、『風石』などと同じくこの世界を司る力の源から生じた雫だが、その中でも非常に強く秘めた魔力が凝縮されてできている、先住の秘宝とでも呼ぶべきものである。

 

 シェフィールドはそれを受け取ると、さっさときびすを返して出ていこうとした。

 そこに、クロムウェルが縋りつく。

 

「おお、お待ちを! ミス、ミス・シェフィールド! あ、あのお方は、あのお方は本当に、この忌まわしい国に兵をよこしてくださるのでしょうか! 新兵器や、天使の兵の増援部隊は!?」

 

「ええ、来るでしょう……おそらくは」

 

 シェフィールドはそのうっとおしいやせ男を振り払うと、いかにも面倒そうに答えた。

 

 もちろん、主であるジョゼフの気まぐれさを考えれば確約はできないし、その兵が彼を助けるためのものであるという保証などなおさらないが、そんなことは彼女の知ったことではない。

 ジョゼフ以外の相手など、彼女にとってはどうでもよいのだった。

 

「お、お待ちを、ミス! せめて、せめてガリアが兵をよこしてくれるという、確実な保証を……!!」

 

 シェフィールドは嫌悪感に顔をしかめて、ゴミを見るような目で肩越しにクロムウェルを睨んだ。

 

 一瞬、甘えるなとでも言って、蹴り転がしてやろうかと思ったが……。

 しかし、お飾りの皇帝があまり精神不安定になって、兵どもの前で情けない振る舞いをしてしまっても困ると思い直す。

 

 こんな男のために、ほんのわずかでも貴重な秘宝を使ってやるのはもったいないのだが、まあ仕方あるまい。

 

「……確実な保証? お前が欲しいのは、安心だろう」

 

 シェフィールドは冷たい声でそう言いながら、アンドバリの指輪を手でつまんだ。

 彼女の額にあるルーンが輝き、光が溢れ出す。

 それから体をかがめてクロムウェルの顎を掴み、強引に上向かせると、怯えたような顔をしているそのやせ男の額に指輪の石をそっと押し当てた。

 

「……ほ、ほぉお、おおぉおおぉぉ……!?」

 

 がくがくと、電流でも流されたかのようにクロムウェルは震えた。

 そのままぐるんと白目を剥いて、床の上に崩れ落ちる。

 

「目が覚めたときには、不安は消えている。お前はもう、何も恐れない。最後まで夢を見たまま、踊り続けなさい」

 

 シェフィールドは命令でもするかのように床に伸びた男にそう言い放つと、今度こそ部屋を後にした。

 

 死者に生命を吹き込むことなど、この指輪の機能のひとつに過ぎない。

 本来、『水』の力は生命体の組成を司るものである。

 死者に生命を吹き込むことも、傷を癒すことも、身体能力を高めることも、体という器に宿っている心を操ることもできる。

 メイジですらないクロムウェルには教えられた一種類の使い方しかできなかったが、『神の頭脳』たるミョズニトニルンならばこの指輪の力を最大限に引き出すことができるのだった。

 

 もちろん、この指輪を使えば先ほどの会議でクロムウェルに指示して言わせたように、水源に罠を仕掛けることなどもできるし、後々やるかもしれないが……。

 今のところは、それはしばらくの間城を留守にして出掛けるための口実だった。

 密かに調査を進め、誰が『虚無』なのかを突き止めて、接触を計るのだ。

 

(天使の目を欺くことは魔法の変装でも難しいと聞くが、しかし、わざわざ危険を冒してニューカッスル城へ潜入しなくとも、この指輪を使えば安全に楽に情報を引き出すことができる。兵士を傀儡に仕立てて、より詳しい情報を集めさせてくることもできる)

 

 そして、聞き出した後でその記憶を消しておけば、証拠もまず残らない。

 

 事前に入ってきた情報によれば、王党派は近日中にニューカッスル城を引き払う予定で、その前に戦勝の宴を催すらしい。

 その騒ぎに紛れて、単独行動している適当な兵士を捕まえて調査していくのは、いともたやすいことだろう……。

 



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第百四十話 Promiscuity

(こちらも、向こうにも劣らず賑やかだ)

 

 キュルケと別れて元レコン・キスタの野営地に戻ってきたウィルブレースは、会場の盛況な様子を見て顔を綻ばせた。

 どうやら自分が留守の間にも、仲間たちはしっかりと観客を楽しませ続けてくれていたようだ。

 

 今夜のためにこの野営地に即席でしつらえられた複数の野外ステージの上では、フィーア・エラドリンなどの芸能の心得があるセレスチャルたちが、思い思いに美しい歌声を響かせたり、弾き語りをしたり、踊りその他の芸を披露したりしている。

 なにせ、ニューカッスル城と違ってここには万を超す兵士たちがいるのだから、ひとつのステージだけではとても足りないのだ。

 ステージに立つような心得のない者たちも、巡回を兼ねて会場を回りながら兵士たちと語り合ったり、説法を聞かせたりと、彼らの憂いを取り除き、より良い道へ進ませるためにそれぞれにできることを頑張っていた。

 

 セレスチャルに限らず、中には兵士たち自らが代わる代わる舞台に立っては、同僚たちから囃し立てられたり拍手を送られたりして盛り上がっているステージもあった。

 楽器を演奏する者、美声を披露する者。コメディーをやる者に、奇術めいた魔法の技を見せる者。

 酔いも手伝っているのか、「今後の我らの心得」だのについて仲間たちに力強く高説を垂れている者もあった。

 

 かと思えば、ニューカッスル城で今も歌い続けてくれているあのツインテールの少女の仲間たちが、素晴らしい歌声を響かせて周囲の観客たちを魅了しているステージもあった。

 ある舞台では、ルイズとよく似た桃色の長い髪と真っ白な肌に、彼女とは違う青い瞳と豊かな胸をもつ、少し長身の大人びた女性が、くるくると回りながら胸に深く響くきれいな声で歌っている。

 別の舞台では、黄色い髪とエメラルドグリーンの瞳をもつ幼げな少女が、彼女とよく似た容姿の双子めいた少年と共に、ぴょんぴょんと跳ねるように活発に動き回りながら元気な声で歌っている……。

 

 ウィルブレースはそういったさまざまな舞台を眺めやってにっこりと微笑むと、しばし目を閉じて、セルダリンと呼ばれるエルフ・パンテオンの永久に若々しい神々の中でも最年少とされる神格、アロバル・ロルフィリルに小声で祈りを捧げた。

 

「陽気なるアロバルよ。どうか夜が明けるまで、この喧噪を絶やしたもうな。我らに、同胞を覆う気苦労の外套を取り除けさせたまえ――」

 

 彼はお祭り騒ぎと歓喜と、ちょっとした楽しい魔術とを司る、快活な青年神だ。

 

 彼女はそれから、周囲の様子を見物しながら、ゆっくりと自分に割り当てられたステージの方に戻っていく。

 そちらの方では、ディーキン、タバサ、ルイズが、自分がいない間も頑張ってくれているはずだ。

 

 

 さすがに腕利きのバードらしく、ディーキンの舞台は特に人気のステージのひとつのようで、その周囲にはかなりの人だかりができていた。

 

 今はなにやら、どこぞの世界の勇者の戦いについて熱っぽく語っているようだ。

 話の合間に、いつの間にやら親しくなったらしい観客のメイジに作ってもらったゴーレムを相手に、技の実演までして魅せている。

 

「……で、そこで! ついに、ずっと耐え続けてきた彼の、改心の一撃が決まったんだよ!」

 

 そう言いながら、よくしなるゴーレムの長い腕をかいくぐって、ディーキンがその懐に飛び込んでいく。

 まずは下から打ち、敵の意識と防御をそちらに向けさせてから、今度は逆の腕を大きく伸ばして、自分よりもずっと背の高い相手に獲物を捕らえるアロワナのごとく勢いよく飛びかかった。

 

 鋭い爪が無防備な側頭部に食い込み、頭部が半壊した金属製のゴーレムは一撃でぶっ倒れる。

 

「その名も、『ドラゴンフィッシュ・ブロー』なの!」

 

 兵士たちは熱狂して、おおっと感嘆の声を上げ、拍手喝采を送った。

 まあ、彼の場合は拳ではなく爪を使っているから『ドラゴンフィッシュ・クロー』と言うべきだろうし、ドラゴンフィッシュではなく本物のドラゴンなのであるが。

 

(クライマックスまで、あと少しか)

 

 ウィルブレースも知っている話だったので、今やっているところが一区切りつくまでの時間は概ね予想できた。

 なので、舞台に戻るのはそれからにしようと考える。

 

 舞台裏の方からは、ちらちらとルイズとタバサの姿が覗いている。

 

「特等席ですね」

 

 ウィルブレースは、微笑ましげに頬を緩めた。

 

 自分が出ていく前には、彼女らは舞台でディーキンと共演したり、彼の助手を務めたりしていた。

 タバサはディーキンの手伝いがしたいからと自主的に申し出たのだが、彼女に妙な対抗心を燃やしているらしいルイズの方は、タバサが行くならディーキンのパートナーである自分ももちろん行くわといった感じで、半ば以上その場の勢いで名乗り出てついてきたのである。

 どうやら、今やっている話には彼女らのサポートが必要ないので、休憩がてらディーキンの話に聞き耳を立てているらしい。

 

 もちろん彼女らには、演芸の心得などはろくにありもしない。

 ルイズはおそらく舞台に上がればかちこちになってしまってなにもできないだろうし、仮にあがらなかったとしても、元より歌も踊りも楽器演奏も心得がない。

 タバサはタバサで、まあ舞台でも平然としていることはできるだろうが、いかんせん平然とし過ぎていて、技術の有無をさておいても観客を沸かせるというようなことはやはりできそうもない少女である。

 しかしながら、腕のいいバードが《技量の共有(シェア・タレンツ)》や《結合した才能(コンバインド・タレント)》、《弟子(プロテジェイ)》などの呪文を用いれば話は別で、たとえ仲間がズブの素人であろうとも、一時的に自分の技量の一部を貸し与えて頼れる共演者に変えることができるのだ。

 言うまでもなく、衆目に晒されても怯えたりあがったりしないような自信や勇気を与えることもまた、バードの十八番である。

 

 そんなわけで、二人とも今夜はディーキンやウィルブレースの密かなサポートを受けながら、彼らと一緒に舞台に上がっていたのだった。

 とはいえ、呪文の持続する時間には限りがあるので、やはり公演のメインはディーキンとウィルブレースであり、彼女らは時々加わるだけだったが。

 それ以外の時間には、呪文できれいな幻覚だの美しい音色だの舞台を覆う涼しげな霧だのを作り出して演出をしてもらったり、ナレーションをしてもらったりと、裏方の仕事をお願いしていた。

 

「さて……」

 

 舞台に戻ったら、次は自分の番になるだろう。

 どんな歌を歌うべきだろうか。

 

 ディーキンが今している話は、才能では明らかに劣る若者が強大な敵に挑むという筋書きである。

 若者はついに力及ばず破れるが、人々は彼に、勝者に対する以上の惜しみない賞賛を贈るのだ。

 力や才気が及ばずとも、誰もが英雄になりうるのだという、可能性を示すような物語である。

 

 戦に敗れ、道を誤っていたことを知り、さらには並の人間の及ばぬ数々の存在を目の当たりにしたことで意気消沈しているであろう彼らを勇気づけたいというのが、この物語を選んだディーキンの願いであるはずだ。

 

(ならば、自分もそれに続くように、彼らに新たな意気込みと強い気持ちを与えられるような物語を歌うべきだろう)

 

 そうこう考えているうちに、ついにディーキンの物語が終わった。

 惜しみない賞賛の声と拍手が響く中で、ウィルブレースはそっと、裏手側からステージに戻っていった。

 

 

 

「……お帰りなさい」

 

 観客と共に、目を潤ませながら拍手を送っていたタバサは、戻ってきたウィルブレースに気付いて短く挨拶をした。

 ルイズも遅れて気が付き、慌ててそれに倣う。

 

「遅くなって、申し訳ありません。ディーキンがよければ、交代しましょう」

 

「ええ。……それで、なにかお手伝いすることはあるかしら?」

 

 ルイズが軽く頷きながら、少し緊張したような、それでいて不安げではなく、どこか自信に満ちて期待にきらめいているような目でそう尋ねた。

 

 彼女は、ここに来た直後はあまりの大人数に完全に気圧されてしまい、タバサに妙な対抗意識を燃やして深く考えもせずに名乗り出たことを心底後悔していた。

 実際、やっぱりやめておくわと、ディーキンに言いさえした。

 

 しかし、彼はそんな怖気づいたルイズを励まして、ぜひ一緒に舞台に上がろうと熱心に勧めたのである。

 

『ディーキンも、最初は不安だったの。でも、こういうのってすっごく楽しいんだよ! だから、ルイズも一緒にやって。やらないと、きっと後悔するよ?』

 

 彼はそれから、他所の舞台で次々とステージに上がっては素人芸を披露している、兵士たちの姿を見るように促した。

 

 その中には、ルイズと同じメイジの姿もあった。

 上手な者もいれば下手な者もいるが、みんな同じように楽しげに演じて、観客もそれを喜んで見ていた。

 

『ほら、みんなやってるの。ディーキンがちゃんとお手伝いするから上手にできるはずだけど、お祭りだから、別にできなくたって関係ないの。ルイズも、あんな風にやってみればいいんだよ!』

 

 大切なパートナーから、心底楽しげな笑顔でそう勧められてはルイズも拒み切れず、しぶしぶステージに上がったのだが……。

 熱気に包まれながら歌っていると、じきに気分が高揚してきて、まさに彼の言ったとおりだったとわかった。

 

 ずっと嫌な注目や侮蔑の視線ばかりを向けられるか、さもなければまるで見向きもされない『ゼロ』だった自分が、こんなに大勢から熱っぽい視線を浴びで、喝采を受けるなんて。

 こんな気分が味わえるのなら、自分もバードの勉強をしてみようかとさえ思った。

 そればかりか、注目されるわけではない裏方の仕事でも、やはり楽しかった。

 たとえ裏方でも、ディーキンは感謝してくれるし、みんなが自分のおかげで喜んでくれているのだから。

 

 初めて魔法が使えるようになった時の喜びとも、また違う。

 この達成感と高揚感は、つい先日の戦いで、始祖の幻影を作り出して勝利に貢献したときの、あの気持ちにも似ている。

 貴族として、誇り高く戦場で戦うことが名誉であることはもちろん知っていたが、舞台で歌う芸人や裏方にもそれと同じような喜びがあることに、ルイズは驚いた。

 平民の芸人がするようなそんな仕事は、賤業とは言わぬまでも程度の低いものだという気持ちが、ずっと心のどこかにあったから。

 

 貴族として、平民とは一線を引いて付き合うべきだとずっと思っていたし、今も思っている。

 それでも、みんなと一緒に分け隔てなく楽しむということは、否定のしようもなく素晴らしかった。

 

(ディーキン、あんたはいつも舞台の上で、こんな気持ちを味わっていたの?)

 

 ならば、彼が強い力や多彩な才能を持ちながら、誇らしげに胸を張って、自分は詩人だと名乗ることも頷ける。

 大勢の人を楽しませることは、大勢の人を救うことと同じく、高貴な仕事だと感じられる。

 今、自分が彼と同じ舞台に立って、彼と同じ気持ちを感じているのだと思うと、ルイズは自分が確かにディーキンのパートナーだという気がして、なおさら気分が浮き立った。

 

 ただ、タバサも一緒だというのが……、理論上は大勢の仲間と一緒であることを喜ぶべきだとは思うものの……、微妙に気に入らないような気が、しなくもない。

 

(あんたも、私と同じ気持ちなのかしら?)

 

 ルイズは心の中でそう呟いて、ちらりと彼女の方を窺ってみた。

 

 そのタバサは、ウィルブレースに軽く挨拶したきり、こちらの方はもう見向きもしない。

 かといって、楽しそうな観客の姿を見ているというのでもない。

 いまだに観客からの拍手に応えたり、握手したり、おひねりをもらったりして、楽しげに舞台を動き回っているディーキンの方だけを、ただじっと見つめているのだ。

 一見いつもと変わらぬ無表情ながらも、その白い頬は微かに上気しており、眠たそうな瞳は、眼鏡の奥で熱っぽくきらめいていた。

 

 少し前までの彼女なら、こういった空き時間には決まって肌身離さず持ち歩いているなにがしかの本を開いて、黙々と読んでいたものだが。

 彼女がここに持ち込んだ数冊の本は、今は他の荷物と一緒に、舞台裏の隅の方に置かれたきりになっていた。

 

「…………」

 

 彼女もまた、間違いなく気分が高揚しているのだろう。

 けれど、そこにある熱が自分のそれとはまた少し違うことは、ルイズにもわかった。

 

 なるほど、キュルケの言ったことは正しいのかもしれない。

 自分はディーキンと同じ方向を見たいと思っているが、彼女はおそらく、ディーキン自身を見たいと思っているのだ。

 

(ふふ、不健全だわ! わわわ私よりも年下なくせに、そんなマニアックな……!)

 

「素敵ですよね」

 

 かーっと頭に血が昇りそうになったとき、ウィルブレースが身をかがめて、ルイズの耳に小声でそう囁いた。

 彼女もまたタバサの横顔を見つめて、微笑ましげに顔を綻ばせている。

 

「……す、素敵って。なな何を……」

 

「天使と人間の恋愛なら、みんなロマンチックだと言ってくれますよ。ドラゴンと人間ではいけない理由でもあるのですか?」

 

 どうやら、ルイズの内心を見抜いているらしい。

 

「ド、ドラゴンったって。だってその、ディーキンは……」

 

 すごくちっちゃいし。

 ドラゴンっていうか、トカゲみたいに見えるし。

 

(サイズも種族も違い過ぎるわ! 恋愛ったって、ききキスくらいならまだしも抱きしめ合ったりとか、せせセ……、その、アレとか、どうすんのよ現実的に考えて!?)

 

「恋愛は自由ではありませんか。……でも、もちろん、あなたがどんな考えを持つかも自由ですよ?」

 

 ウィルブレースはくすくすと面白そうに笑うと、頭の中で軽くパニックになっているらしいルイズの頬にかるく接吻をする。

 

「ふぇ!?」

 

 混乱しているところにさらに追い打ちを食らって、ルイズは顔が真っ赤になった。

 目がぐるぐるして、口をぱくぱくさせている。

 

 ウィルブレースはそんな彼女の頭をそっと撫でると、竪琴を手に立ち上がった。

 

「……では、二人がゆっくりできるように、そろそろ変わるとしましょうか。あなたも、ぜひ私の歌を聞いてくださいね?」

 

 どうやら、観客たちと今の彼女らの双方に聞かせるのにふさわしい物語は、これで決まったようだ。

 かのオークの王グレイと、人間の王スレイの決戦について歌うのがよいだろう……。

 

 

 

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 一方その頃、ニューカッスル城からやや離れた人目の届かない岩陰に身を隠しながら、シェフィールドはしかめっ面をしていた。

 予定通り、用足しや酔い覚ましその他の理由で会場を離れた兵士らを数名捕まえて『アンドバリの指輪』で操り、会場内の情報を引き出したまではいいものの……。

 

「……さっぱり状況がわからないわね」

 

 兵士たちの言うことが、どうにも要領を得ないのである。

 ある者は『ステージで大宇宙歌姫天使が歌っている……ミクちゃん最高~!』とうっとりした顔で言い、別の者は『途中から参戦した、歌う生首……いや、“まんじゅう”とかいうものだと言っていたか……棒歌ロイド……』などと意味不明なことを言う。

 

(……幻覚や変身魔法の類を使って、正体を隠したり数を水増ししてみせている? 情報を隠蔽するのではなく、ノイズを増やして何が重要で本質的な情報かを掴めなくする作戦か……)

 

 だとすれば、なかなか上手い手である。

 確かに、数万という兵士を抱えては、情報の漏洩を完全に防ぐのは不可能だろう。

 ならば隠そうとするのではなく、多くのノイズの混ざった情報をあえて開けっ広げに公開することで、敵を攪乱しようということか。

 

「どうするか……」

 

 もちろん、ノイズの混じった表面的な見せかけを無視して、こちらの知りたい情報を調べてくるようにと指示して捕らえた兵士たちを操ったまま会場に戻らせるということもできる。

 

 しかし、操られた人間はどうしても、挙動が不自然になるものだ。

 それを会場内にいるであろうセレスチャルに見咎められるかもしれないし、たとえ気付かなかったとしても、セレスチャルの中には傍に寄っただけで精神操作の術を無効化してしまう《対悪防御円(マジック・サークル・アゲンスト・イーヴル)》という呪文の効果を常に身にまとっている者もいるらしい。

 術が破られて正気に返った兵士たちから事情を知り、調査待ちをしている自分の元へセレスチャルが押し掛けてくるなどということにならないとも限らないので、それなりにリスクが伴う。

 

 結局、現在の会場内の様子からでは判断ができないと、シェフィールドは結論を出した。

 戦場で目撃されたという『烈風』の情報や姿形も、変身していたものかもしれないからあてにはならないだろう。

 

(何かもっと、別の手がかりを考えるのだ)

 

 シェフィールドは、しばらくじっと思案を巡らせた。

 そして、ひとつのことに思い至る。

 

(そもそも、『虚無』の使い手はどこからやってきたのか。王党派の反撃が最後の最後になってからだったことを考えると、最初から王党派にいたというわけではあるまい)

 

 始祖に連なる王族の血を引くものでなければ『虚無』には覚醒できないはずだが、追い詰められたアルビオンの王族どもが土壇場で『虚無』の使い手として覚醒したという可能性はない。

 彼らは普通の系統魔法を使うメイジだったと聞いている、『虚無』の使い手であれば系統魔法は扱えないはずなのだ。

 

「……決戦の日の少し前に、敗色濃厚であるにもかかわらず城に新しくやってきた者はいなかったか? 他国からの使者か、兵士か、傭兵か。どんなものでもいい、もしいたとしたら、そいつらの姿形や名前、知っていることを思い出せる限りすべて教えろ」

 

 シェフィールドは、兵士たちにそう質問をした。

 そして、確かにそのような、年端もいかぬ学生や教師たちからなる風変わりな使者の一団がいたことを聞き出したのである。

 

(トリステインからの使者か……)

 

 トリステインは始祖の時代より続く歴史と伝統のある国家であり、『虚無』の力を発現させる者が現れても不思議ではない。

 

 そういえば、敗戦の報告に気を取られ、忙殺されてほとんど注意していなかったが、その少し前にラ・ロシェールで何やら問題があったという情報が入ってきていた。

 デヴィルたちが直接対応したようなのでシェフィールドは詳しいことは知らなかったが、どうやらあの街に駐留しているデヴィルらが殺されたらしいのだ。

 

(まず、間違いないな)

 

 これで目星はついた。

 

 あとは、そいつらの名前や外見、出自などを調べて、そこから『虚無』を発現させうる家系の者を絞り込んでいけばよいのだ。

 間違いのないようトリステイン内部の間者などにも連絡を取って慎重に調べさせるとしても、数日以内には特定できることだろう……。

 




アロバル・ロルフィリル:
 エルフ・パンテオンの一柱である、混沌にして善の半神。
 飲めや歌えの大騒ぎ、快楽主義、その他ありとあらゆる不行跡を権能とする。
 明日は今日よりも大きな可能性に満ちている、エルフには時間はたっぷりとあるのだからあくせくすることはない、常に今日を楽しめというのが、彼の説くところである。


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第百四十一話 Sometimes the story of the past

「次は、とあるエルフの詩人と、彼女が仕えた王にまつわるお話をいたしましょう」

 

 ディーキンと交代でステージに戻ったウィルブレースが一礼してそう言うと、それまでの活劇で盛り上がっていた観客たちはまた新たな興味を惹かれたようだった。

 

 彼女自身は人間にとって友好的な存在であるようだが、とはいえエルフはハルケギニアでは最強の妖魔といわれる存在である。

 それほどの力の持ち主が仕える王とは、一体いかなる者なのか。

 始祖の時代より敵視し続けてきた相手ではあるが、実際のところハルケギニアの民の大半は、エルフの実態についてほとんど知らなかった。

 彼らの社会は議会制らしいという話を聞いたことのある者もいたが、そうだとしてもやはり、多くの人間の国家と同じように王がいる地域もあるということなのだろうか……。

 

 そんな具合で、最初は高度な社会の仕組みや偉大な王にまつわる逸話が始まるものと期待していた聴衆たちはしかし、まったく予想外の話を聞くことになった。

 

「その王の名は、グレイ。農民の身分から成り上がり、いくつもの部族をまとめて人間に戦いを挑んだ、野蛮なるオークの王でありました――――」

 

 

 

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 遥かな時、遥かな所。

 グレイと呼ばれる強力なオークの指導者が諸部族をまとめて、人間の土地への大侵攻を企てたことがあった。

 

 かつてないほど大規模なその侵攻の企てを事前に察知し、自分たちだけでは対抗できないと判断した人間の王・スレイは、近隣に住むエルフやドワーフら、友好種族とも手を組んで対抗するべきだと判断する。

 どちらの種族も、その同盟の提案を受け入れた。

 最も数の多い人間が倒れれば、より小規模な数のエルフやドワーフも、必ずやその後を追うことになるからだ。

 

「同盟の受諾に感謝いたしますぞ。ついては、まずは戦いへの備えですな。そのために、オークどもの内情を探る、有能な偵察も派遣したいところです」

 

「生憎だが、わしらドワーフはいくらでも踏み止まって戦いはするが、スパイのような真似には向かんぞ」

 

 会議の中で、スレイ王とドワーフの代表者であるサンダーヘッドはそう言って、エルフの代表者エルリーフのほうを見た。

 エルフには、そのような隠密の技や魔術に優れた人材が数多くいることが知られていたからである。

 

「……さて。そのような危険な任務を果せるだけの能力を備え、かつ引き受けようとする意思をもつ者が、果たして近隣の集落にいるかどうか……」

 

 エルリーフは、肩をすくめてそう言った。

 

 人間やドワーフと違い、エルフは指導者や王族の命令に無条件で絶対服従などはしないのだ。

 エルフはなによりも自由を、つまりは個人の選択する権利を重んじている。

 指導者であれそれ以外の誰かであれ、他人に何かを頼んでみることはできるが、それを引き受けるかどうかはあくまでも頼まれた本人の自由意思に任されるのである。

 

 王家にあたるものは存在するが、他の多くの種族の通例とは異なり、王位は必ずしも親から子に受け継がれるものではない。

 そういった共同体の指導者は通常、口頭での投票によって選ばれる。

 また、退位するのもそう珍しいことではなく、単に現状に飽きたからという理由で別の適任者にその座を譲る決定をすることもままあるほどだ。

 指導者の権力自体がその程度のものであるから、後継者の座を巡って激しい争いが起こるなどということもまずない。

 国王の座を巡って骨肉の争いを繰り広げるなど、エルフからしてみれば到底理解しがたい、まるで安っぽいバッジやちょっとしたおもちゃを手に入れるために本気で兄弟と殴り合う稚児のような振る舞いだった。

 

 特に従う義務などを負っていない以上、あまりに危険な頼み事は相当な理由がなければ引き受けてもらえない可能性が高い。

 仇敵の間へ潜入して情報を集めるような危険極まりない任務を無事に果せるだけの能力と、引き受ける意思の両方を備えた人材を早急に見つけるとなると、かなり難しい相談ではないだろうか?

 

(……いや、一人いたな)

 

 彼はそこで、かつて『オークと人間との違いは何か』という自らの疑問を解消するためだけに仇敵であるオークの姿に扮し、彼らの集落を渡り歩いて無事に帰還してきた女性の詩人がいることを思い出した。

 

 旅先で出会ったミルグという名のオークの詩人を伴って帰還した彼女は、集めてきた彼らの物語をエルフの間で披露して回り、今では風変わりな詩人としてちょっとした有名人になっていた。

 敵対する種族の物語ばかりだとはいえ、同族にも受けが良くなるように彼女が上手に構成し直したことと、エルフたちの生来の自由な気質もあって、大好評とまではいかなかったものの評判は悪くなかった。

 

「彼女ならば、その任務を引き受けてくれるかも知れない」

 

 エルリーフからそう推薦を受けたスレイは、彼女に協力の打診をした。

 詩人はそれを承諾し、今一度仇敵の種族にその姿を変えて、オークの土地へ向かうこととなる……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「……ねえ? あの人のいう詩人って……」

 

 ウィルブレースの話に耳を傾けていたルイズが、小声でそう言いながら、ちらりとディーキンの方を見た。

 彼はそれを受けて、にっこりと笑いながら頷いてみせる。

 

「うん。もちろん、ウィルブレースお姉さんのことなの」

 

 彼から少しだけ離れて隣に座っているタバサも、その言葉に納得したように小さく頷いた。

 

 つまり、この話は実質的に、この間ニューカッスル城でディーキンと彼女が話してくれた物語の続きのようなものか。

 彼女は今回の歌の中で自分の名を出さず、ただエルフの詩人であるとだけ語っているが、それはおそらく当事者だと宣伝する気がないからなのだろう。

 

 そんな彼女らをよそに、ウィルブレースは話を続ける。

 聴衆たちの概ねは、予想もしない話の流れに戸惑いながらも、それだけに続きが気になるようで、一心に聞き入っていた。

 

「彼女は最終的に、再びオークの姿となり、志願兵兼従軍詩人として、グレイの軍へ潜り込むことになりました」

 

 もちろん、それまでの間にも、いくつもの物語にして歌えるほどのさまざまな紆余曲折はあったのだが。

 今歌いたいのは、自分が主役の物語ではない。

 この物語にはその性質上彼女自身も登場はするが、歌いたいのはあくまでも、出会った人々の物語なのである。

 

「オークの多くが、野蛮で利己的な人々であることは否定のしようもありません。ですが、役目の上とはいえ、傍にいて親しんでいれば、優れたところも見えてまいります――――」

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 ウィルブレースがオークという種族について何よりも魅力的に感じていたのは、彼らのもつ生きることへの活力であった。

 

 寿命の長いエルフは、目の前の機会を何度も見送る。

 同じ機会はまたやってくる、焦ることはない、じっくり時間をかけようと思っているからだ。

 

 対して、オークの寿命はわずか50年もない。

 だから彼らは性急で、貪欲で、正直になる。

 浅ましい振る舞いだと軽蔑する者は多いし、それも無理もないことだが、よりたくさんの食べ物を、権力を、女を得るために、彼らは積極的に行動する。

 優勢なときはかさにかかり、劣勢となれば我先に逃げ出すのも、自分に素直なればこそだ。

 エルフの間では滅多に見られないほどのなりふり構わぬ生きることへの熱心さを、誰もがもっているのだ。

 

 惜しむらくは、その活力が長くは続かないことだろうか。

 勢いよく燃える蝋燭は、燃え尽きるのも早い。

 

 実際、先に彼女が知り合っていたオークの詩人・ミルグは、今回の旅には同行しなかった。

 オークである彼が同族たちと内通するのではないかと懸念した同盟軍が、目が悪いからとかもう高齢だからとか適当な理由をつけて、任務に同行することを許可しなかったということもある。

 しかし、彼らをなんとか説得してみようとウィルブレースが申し出たのを、ミルグは無理をすることはないと言って断ったのだ。

 

『どうせ、またひとつオークに圧制者の盛衰にまつわるありふれた物語が増えるだけだ。今さら、無理に見に行くこともなかろう』

 

 それを聞いて、彼女は悲しくなった。

 

 ウィルブレースが今でも彼と出会った頃と変わらない若々しい活力に満ちているのに対して、彼は既にかなり年老いていた。

 昔ほどの体力も、気力もなくなって、もう以前のように旅に惹かれなくなっているのだろう。

 

 若い頃に冒険者たちの生活に興味を持ち、彼らと共に旅をしたドラゴンにまつわる、比較的有名な物語がある。

 ドラゴンはいくつかの素晴らしい冒険をしたが、その後別の事柄に興味が移り、しばらくの間仲間たちと別れてそちらの探求に取り組む。

 それが一区切りしてまた仲間たちの元に戻ってみると、彼らのうち二人は既に冒険中に命を落としており、残る者たちも引退して別の仕事に就いていて、もう冒険をするには年をとりすぎていた、というのだ。

 エルフやドラゴンのように長命で気の長い種族には、実際にそのようなことがままある。

 

(だからこそ、私が行かなくては)

 

 長命の種族の中には、己の長すぎる生に倦み疲れてしまうものも多い。

 しかし、自然と調和して生きるエルフは世界を深く愛しており、倦怠などというものとはほとんど無縁だ。

 

 人間などの種族は、成長すればただ無邪気に野山を駆け回ることに飽きて、兄弟と先を争って競争することに喜びを見出し始める。

 そして、いつかはそれにも飽きて疲れ切り、走ること自体を止めてしまう。

 一方でエルフは、ただ大地を踏みしめて朝露を足に受けながら歩くたびに、初めてそれを体験した時と少しも変わらぬ喜びを感じ続けることができる。

 朝日の昇る姿や鳥たちの鳴き声は何百年聞いても新鮮で飽きることがなく、長く離れていた友人や家族との絆も昼に夜に新たになって、いつまでも色褪せることはないのだ。

 魂の自由を重んじるがゆえに、自分と他人とは違うことも自然に受け入れており、あえて人と同じ方向に走って速さを競ってみることはあっても、他人を蹴落としてまでそのレースに勝とうなどとはしない。

 たとえ自分が人より遅くても、自分だけの目標に向けてただ一人で走れば一番になれるのだから。

 

 パートナーと別れねばならないのは、悲しいことだった。

 しかし、永遠に若々しいエルフにはそれを克服して、また新しい挑戦に臨めるだけの活力がある。

 件の物語のドラゴンも、仲間たちと自分との違いを認識して一度は大きなショックを受けるものの、ほどなく立ち直って自分の道に戻っていくのである。

 

(ゆっくりと長く燃える蝋燭である私の務めは、短く激しくその時代を彩る華々しい彼ら短命な種族の火が、誤った方向に燃え広がらないようにすることではないだろうか)

 

 彼女はいつか、そう考えるようになっていた。

 

 かつての旅や、その後も続いたミルグとの交流を今も大切に思っている詩人が人間の頼みを聞き入れたのは、ただオークたちの動向を彼らに伝えて手助けをするためだけではなかった。

 同盟軍を戦に備えさせるためにその仕事を務める一方で、できることなら、なるべく流血なく事前に争いを収められないものかと思っていた。

 そのために、自分にできることを探してみるつもりだった。

 

 つまるところ、人間やオークとはやや違う形ではあるが、彼女もやはり齢を重ねたのであろう。

 活力や気概を失ってこそいないが、今度は以前のように無知な者としてではなく、既にある程度よく知っている者としての立場から、世界に挑戦しようと思っていたのだ……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「……そうして、またオークの男に姿を変えた彼女は、彼らの軍に混じってそこで歌い続け、兵士たちから人気を博しました」

 

 その頃の知人たちの名前や顔を、ウィルブレースは今でも鮮明に思い出すことができる。

 

 たとえば、昔の戦の手柄を誇大に話す老兵、『年寄三本指』のゴーガ。

 仕事柄、誰よりも大きく発達した右腕が自慢の兵卒ブロッゾ。

 いつも皆から馬鹿にされて、オークらしからぬほどうじうじと卑屈にしていた新兵の“便所掃除屋”(残念ながら、誰も彼のことを本名では呼ばなかった)。

 自分の所属していた部隊で恐れられていた軍曹、『鉛のブレード・ベアラー』ハイネケン……。

 

 もちろん、多くの者は邪悪で愚かでいけ好かない、とにかく底意地の悪い男や横暴な威張り屋だった。

 それでも、役目上とはいえ付き合いを続けているうちにそれなりに打ち解けてくると、なかなか楽しい人物だとわかる者もいた。

 

(でも、みんな死んでしまった。名を遺すこともなく……)

 

 誰もかれもが、それこそ普段は臆病者と嗤われた者であっても、最後には揃って勇敢に戦い、そして死んでいったのである。

 

 彼らのことも話したいとは思うけれど、無名の存在であった以上、歌の中でもほとんど触れることはない。

 詩人とはいえ、やはり自分の見聞きしたことのすべてを語ることはできないのだ。

 

 やや切なくそう考えたときに、自分の歌を目を輝かせて聞きながら熱心にメモを取っているコボルドの詩人の姿を認めて、ウィルブレースはわずかに頬を緩めた。

 

(いつか、あなたには話しておこう)

 

 彼なら、歌うには冗長すぎる細かな話でも、本にまとめてくれることだろう。

 そうすれば、彼らも報われるというものだ。

 

 忘れ去られた兵士たちの魂の平穏を祈って、短く祈りを捧げてから、ウィルブレースは話の続きに戻った。

 

「彼女はたくさんのオークと知り合い、やがてついに、グレイ王の目にもとまりました――――」

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「お前は腕のいい詩人だそうだな。兵どもが、ずいぶんと褒めていたぞ」

 

「光栄です、王よ」

 

 グレイ王の私室に召し出されたウィルブレースは、畏まった様子で深々と頭を下げた。

 もちろん、演技であったが。

 

「今日はひとつ、俺にも何か聞かせてもらおうか」

 

 グレイはそう言うと、『クラッグ』と呼ばれるオークの酒を手ずから酒杯に注いで、詩人の前にぐいと突き出した。

 代金の前払いがわりに、ということだろう。

 

「は……」

 

 並みの兵士ではまず口にできないような上等な代物なのであろうが、いずれにせよウィルブレースとしては有難迷惑であった。

 クラッグはひどく強い酒である上に、オークやゴブリンにとっては美味だが、それ以外の種族にとってはとても飲めたものではないすさまじい味がするのだ。

 この大事な時にアルコールを体に入れたくはないし、思わず顔をしかめてしまったりして不審に思われても困る。

 

 結局、酒が入っては舌がうまく回らないので後でいただきましょうと言い訳をして、杯には口をつけずにギターを手に取った。

 

「では、今宵はかのグランダル王の物語を――――」

 

 ウィルブレースはそう前置きをしてから、数百年ばかり前の、有名なオーク王にまつわる悲劇的な物語を歌い始めた。

 

 

 グランダルは獰猛なオークの征服王であり、決断力もあり、恐れを知らず、他の大抵の者よりも賢かった。

 

 彼は長年に渡って多くの部族を吸収しては軍勢を大きくしていき、最終的に数千の兵から成る、オークとしてはかなり大規模な軍隊を組織するまでに至る。

 それに加えて多くの寵姫と数人の息子を抱えて、彼は栄光に包まれた壮年期の終わりに差し掛かった。

 

(もうすぐ成年に達した息子たちが、俺の玉座に挑戦してくるだろうな)

 

 ある時そう考えた彼は、ふと、ある恐怖の念に襲われた。

 それは、彼がそれまでに感じたことのない種類の、真の恐怖だった。

 

 無論、子供たちの挑戦を受ける準備はいつでもできている。

 だが、自分もいつかは年老いて成り上がりの息子の誰かに敗れ、死ぬ時が来るのだ。

 その後、分別のない息子たちは権力を巡って、互いに争い合うに違いない。

 そうなれば、自分がせっかくこれまで築き上げてきたものもたちまち瓦解して水泡に帰するであろう。

 それこそが、グランダルの恐れたことだった。

 

(それを避けるには、もっと大きな土地が必要だ)

 

 彼は最後の仕事として、自分がこれまでに征服してきた山岳地帯から降りて、南の低地を手に入れる計画を立てた。

 それが首尾よくいけば、これまでになく広い土地にオークの帝国を築くことができ、息子たちそれぞれに十分な広さの領土を与えることができるだろう。

 そうすれば、自分の偉業も後々まで残せるのだ。

 

 だが、彼の息子たちの多くは父のその無謀とも思える、危険な征服計画に不満を抱いた。

 

 オークの主神グルームシュは、この世のすべては元々オークのものであり、他の種族の手から取り戻さねばならぬのだと教えている。

 だが、現実的なオークならば、それが自分の存命中には到底成し遂げられそうもない大望であることも理解しているものだ。

 彼らは、父はグルームシュの御許に召される前にあの世で神の歓心を買えるだけの遺産を手にしたくて、そのために息子である自分たちの命を犠牲にしようとしているのではないかと疑った。

 あるいは、この度の父の戦がこれまでのような貪欲さと勇猛さからではなく、恐怖を発端として計画されたものであることも、無意識に感じとっていたのかもしれない。

 

 絶対的な恐怖の対象であったあの父も、ついに老いたのだ。

 彼の長男は、その機会を逃さなかった。

 

(俺が王の座を手にできる機会が、とうとうやってきたぞ!)

 

 うまくいけば、領土も、財宝も、老いた父にはもう必要のないあの豊満な寵姫たちの肉体も……、すべてが自分のものになる。

 

 

「……その後、父を殺され強引に部族を併合された恨みを抱いていた寵姫の一人を抱き込んだ長男の計略によって、ついにグランダルは命を落としました。彼女の寝室で毒酒を飲まされ、体の自由が利かなくなった王は、息子によって心臓に剣を突き立てられて死んだのです……」

 

 ウィルブレースは歌いながら、グレイの反応を窺っていた。

 もちろんこのような歌を選んだのは、権力の儚さ、争いの虚しさなどをいくらかでもオーク王の心に感じさせることができればと思ってのことだったが、あるいは彼の機嫌を損ねてしまうかもしれないと恐れてもいたのだ。

 

 しかし、彼は静かに酒杯を傾けながら、じっと歌に聞き入っている様子だった。

 熱心に聞いているようだし、その目にはわずかに興奮したような輝きもあったが、それ以上の感情はうかがえない。

 はたして、彼はこの歌を、どう感じているのだろうか……。

 

「……グランダルの恐れたとおり、彼の死後、息子たちは権力を巡って対立し、それに寵姫や部下たちの思惑も絡み合って、ほどなくしてオークは再び多くの部族に分かれて争い合うようになりました。彼の最後の征服行は成らず覇道は潰え、その名も忘れ去られてしまいました。今では、グランダル王にまつわる逸話は、ただこれだけが残っています――――」

 

 そうして歌が終わると、グレイ王はゆったりと拍手を送った。

 

「いい歌だった。だが、ひとつ聞きたいことがある」

 

「なんでしょうか、王よ」

 

「お前はグランダルの衰えや、息子どもの無分別や、寵姫の卑劣な計略を歌う時に、少しも怒っていなかったな?」

 

「…………」

 

「他の詩人はみな、怒りながら歌う。自分の感情のままに、エルフに、ドワーフに、人間に、さまざまなものに対して怒り、聞いている者の怒りをも湧き立たせていく。それが歌というものではないのか。お前はなぜ、歌に怒りを込めないのだ?」

 

 ウィルブレースは、どう答えるべきか迷った。

 安全を考えるなら、ここは無難な返答を返して誤魔化しておくべきだろうか。

 

 だが、それではこのオーク王の心に切り込んでいくことはできまい。

 心に深く訴えることができなければ、彼を動かすことなどは到底不可能だ。

 

 結局、思い切って正直に答えることにした。

 

「……それは。私には、そういったことが誤りではないかと思えるからです、王よ」

 





オークの酒『クラッグ』:
 D&Dのサプリメント、「武器・装備ガイド」で紹介されている酒の一種。
オークやゴブリンの間で人気のあるとても強い蒸留酒だが、それ以外の種族の者にとってはすさまじい味がする。
オーク、ハーフオーク、ゴブリン、ホブゴブリン以外の者がこれを飲むと、頑健セーヴに成功しない限り吐き気がする状態になる。


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第百四十二話 Orcish Heroes

 

「まさかエルフが、オークの王に仕えていたなんてね……」

 

 ルイズはそうひとりごちながら、甘い飲み物のグラスに口をつけた。

 

 彼女が人間の王スレイが率いる他種族の同盟軍と、オークの王グレイが率いるオーク軍との戦いに当事者として参戦していたという話は、ディーキンからも聞いている。

 しかし、よもやスパイとしてグレイを傍で見ていたとは。

 そうなると、同盟軍とオークとの戦いの物語はもちろん、以前にディーキンが歌ってくれた若い頃のグレイの物語も、元々は彼女が本人から直接聞いたものを歌にして広めたということだろうか。

 

 美しく賢いエルフの女性が醜い腕力自慢のオークの男に従う話などというと、なにかいかがわしい本とかを想像してしまうが……。

 

「……でも。本当に仕えていたわけじゃなくて、あくまでもスパイだったわけでしょう?」

 

 そう尋ねられると、彼女のパートナーは意味ありげなにやっとした笑みを浮かべて、ちっちっと指を振ってみせる。

 

「それだけだったら、わざわざずっと後まで彼のことを歌い続けたりはしないでしょ?」

 

 そして、自分と一緒に、静かに話の続きを聞くようにと促した。

 

「あわてないで、もう少しお姉さんの歌を聞いてれば、きっとわかるよ……」

 

 それから、どんなことがあったのかを。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「誤り、だと?」

 

「はい。詩人は伝道者や演説家ではないのですから、物語を歌いはしても、それを聞いてどう感じるかは聴衆に任せておくべきです。王の言われるような歌い手は、偉大な物語を歌うことよりも、自分の怒りを周囲に押し付けることを優先しておるような気がするのです」

 

「面白いことを言うな。敵への怒りを掻き立ててやることが、なぜ悪いのだ。その方が、兵どもも戦場で、一層勇敢に戦えるではないか」

 

「いえ、決して悪いなどとは申しません。ただ、詩人の振る舞いではないと思うだけです」

 

 グレイは詩人が真顔でそう言うのを聞いて、面白そうに笑った。

 

「小難しいことを考えるものだな。だが、なかなか面白い奴だ、気に入ったぞ」

 

 彼は自分の片腕である司祭のヴォルガフにここへ来るように言えと命じてから、もういいぞと手を振って、ウィルブレースに退出を促した。

 

「今度また、なにか聞かせてもらおうか」

 

「は……。今宵はさしたる芸も披露できず、失礼いたしました」

 

 ウィルブレースは、不味いのを我慢してクラッグの入った酒杯を一息に飲み干すと、グレイの部屋を後にした。

 

 

 

 彼女はその後も、たびたび王の下へ招かれ、信頼を得ていった。

 

 そうするうちに、彼のことも詳しく知るようになった。

 彼がオークの中でもひときわ賤しく貧しい、農民の生まれであったこと。

 一度は罪を犯して故郷を追われ、さまよう先で見た人間の農場の豊かなことに感銘を受けたこと。

 その技術を故郷へ持ち帰りたいものだと思い、友好的に接しようと努力したにもかかわらず、人間は初めから自分を見下して拒絶し続けたこと……。

 

 最終的に、彼は自分が礼を尽くそうとしているにもかかわらず嘲って剣を向けてきた数人の人間を殺害し、人間への失望と憎悪の念と共に、その者どもの首を手土産として部族の元へ戻ることを許された。

 その後、グルームシュ司祭のヴォルガフが彼を王として立てよとの神託を受けて後援者となり、自ら片目を捨ててアイ・オヴ・グルームシュと呼ばれる選ばれた戦士となったグレイは、短期間のうちにオークの諸部族をまとめる王にまでのし上がったのだという。

 

「わかるか、人間どもは世界のすべてが自分のためにあると思っている。異種族はすべて、自分たちより下等だと決めつけている。連中はいくら礼を尽くされようと、下手に出られようと、ますます相手のことを見下して下げた頭を踏みつけるだけなのだ」

 

 もちろん、それはオークも同じこと。

 だからこそ、どちらが正しいかはどちらが強いかで決まるのだと、グレイは言った。

 

「お前は、それでも敵への怒りを掻き立てるのは嫌らしいな。まあ、強要はせん。それは俺とヴォルガフの仕事だ、お前は歌っていればよい」

 

「恐れ入ります」

 

 ウィルブレースは、彼の憎悪が深く、もはや二度と人間に頭を下げる気がないであろうことを感じ取った。

 

 それでも、彼には理知的な面も確かにあることもわかった。

 戦うことの不利益の大きさと、戦わないことの利とを納得させられればあるいは、という希望もまだ捨てていなかった。

 

 

 

「……グレイよ。あなたが王となったのは、確かに司祭ヴォルガフ殿の言われるように天命であるのかも知れませんが。詩人としての私の立場から申し上げれば、それは同時に、繰り返す歴史の必然でもあるのです」

 

 ウィルブレースはある夜、思い切ってそう切り出してみた。

 

「ほう。お前は、またぞろ小難しいことを言い始めたな。どういう意味だ?」

 

 ウィルブレースはそこで、これまでにもたびたび歌ってきた、数々のオークの征服王たちにまつわる物語について、改めて言及した。

 それらはいずれも勇壮で残忍な戦いによって掴み取った栄光と、それに続く避けられぬ敗北、そして裏切りを繰り返す、凄惨で陰鬱な歴史ばかりだった。

 

 抑圧され困窮した時代に強大な征服者が立ち上がると、オークたちはそれに熱狂的に従い、勇敢に戦う。

 だが、勝利が続き、栄光に酔うと、オークの軍勢は弱くなる。

 どんなに強い王も、やがてみな敗れ、あるいは衰えて、最後は敵の手にかかるか、部下や身内に裏切られて命を落とすかなのだった。

 

「王も、これまでのところ、明らかにそれらの征服王たちと同じ道を歩まれているようであります。繰り返されてきた歴史のことを、私が知っていてグルームシュ神が知らぬはずはありませぬ。それを承知の上で、神は司祭殿にあなたを王として立てよとの神託を下されたのでありましょう」

 

 多産ゆえに人口が膨れ上がりすぎれば、概して痩せた土地に住み農作業などもろくにしないオークとしては、同族同士で殺し合うか、他種族に戦いを挑むかするより他にはなくなる。

 他の土地を奪い取るか、戦で数を減らすか。

 どちらにしてもそれによって、種としての生き残りの道が開けるのだ。

 

 その証拠に、オークの人口が膨れ上がり、困窮が耐え難いほどになった時期には、決まって大きな戦いが起こっている。

 典型的にはまず同族同士の大規模な殺し合いが起こり、次にその結果統合された軍勢を率いての、他種族への戦が始まるのである。

 

「ゆえに、グルームシュ神はそろそろまた他種族との戦いが必要だと、そう判断したのではないでしょうか」

 

 話しながらもウィルブレースは、少なからず緊張していた。

 これまでに十分王からの信頼と好意は得ていると判断した上でのことだったが、もしもその見立てが誤っていれば、機嫌を損ねた王に死を宣告されるかもしれぬ。

 

 しかし彼は、話を聞き終えると意外にも愉快そうに笑った。

 

「なるほどな。俺は、勝てば作られた英雄として死後にグルームシュの傍近くに座る権利を与えられるが、負ければ奴の慰みのために潰される、都合のいい道具だというわけか?」

 

「いえ、もちろん、私には神の考えはわかりかねますが。ただ詩人としての知識からは、そうも考えられるかと……」

 

「ふん。グルームシュも、存外敗北主義者なのだな」

 

 グレイはいかにも軽蔑したように、鼻を鳴らした。

 

「大地のすべてはオークのものだと教えておきながら、初めから敗北を考えに入れているとはな!」

 

「まあ。現実として、常勝というわけにはいっておりませんからな。神としては個々の定命者の小競り合いなど些事で、最終的にオークが勝ち残ればよいのでしょう。大望は大望として、まずは……」

 

「そんなことはどうでもいい。面白い話だが、俺は気長な神の考えなど知らんし、もう死んだ昔の連中のことも知らん。それで結局、お前は何を言いたいのだ?」

 

「はい……」

 

 ウィルブレースは、ひと呼吸おいて気持ちを落ち着けてから、自分の提案を口にした。

 

 この申し出こそ、最も自分の首を危うくするかもしれぬものだ。

 それを覚悟した上での話だった。

 

「……王がこのまま人間どもと戦えば、おそれながら過去の征服王と同じ道を辿られるやもしれません。人間どもは姑息で恥を知らぬ連中かもしれませんが、それ故に侮れません。エルフどもやドワーフと組む可能性もありますし、実際に過去の例ではそのような連合軍に敗れた征服王もありました。負けるとは申しませんが、必ず勝つとも申せぬかと……」

 

「それで? やつらも、こちらが軍を集めていることはもう知っていよう。国境近くでは、既に小競り合いも起こっていると聞く。俺に、いまさらやつらに頭を下げて和解しろとでもいう気か?」

 

「いえ、王は人間どもに頭を下げられる必要などはございません。やつらとて、これだけの軍との戦いはできることなら避けたいと思っているはず。私は、詩人として各地を回り、連中との話し方も多少は心得ております。なんであれば、私にお任せいただければ、必ずやこちらに有利な条件で話をまとめてみせましょう」

 

「ふん? 詩人の身で、自分を使者として売り込もうというのか?」

 

「はい。図々しい奴よとお思いでしょうが、もしも失敗したならば、生きて王の前に戻りはしませぬ。和平の条件として、たとえば王が最初に求めておられたという、農耕技術の提供を要求することもできましょう。連中は血が流れず懐も痛まない知識の提供で済むなら御の字と思うはずです。それを元に土地を肥やし、収穫を増やせば、数十年の後には我らもより豊かになり、さらに力を蓄えられていましょう。戦いを挑むのは、それからでも遅くはありません」

 

 もちろん、実際にはウィルブレースは、数十年後にも戦いなどを起こさせる気はなかった。

 オークたちも、ある程度の豊かさを得て現状でそこそこ満足できるという状態になれば、もう無理に他種族に戦いを挑もうとも思わなくなるだろうと踏んだのだ。

 

 しかしグレイは、手を振ってそんなウィルブレースの話を遮った。

 

「興味はないな。俺はいま、戦って勝つ。人間どもにも、エルフどもやドワーフどもにも勝つ。勝ってすべてを手に入れる、それだけだ」

 

「ですが……」

 

「どうも詩人というものは、古い話を集めている間に、だらだらと長く生きるエルフどものような心持ちになってくるらしいな?」

 

「!」

 

 ウィルブレースは、まさか正体を見透かされたのかと思って、一瞬どきりとした。

 しかし、グレイは皮肉っぽい笑みを浮かべながら、そのまま話を続けた。

 

「お前は人間どもを、エルフやドワーフどもも納得させられると思っているのかもしれんが、同族を納得させられないことを忘れているようだ。戦に逸った兵どもが、いまさら戦いを止めて解散するなどと言って納得するとでも思うのか。数十年も待てと言って通ると思うか」

 

「…………」

 

「自分が生きている間に得られない実りなど、オークにとっては無意味ではないか。それこそ、俺は平和などを求める惰弱な裏切り者として、誰かに背中から刺されることになるだろうな。その後は他の誰かが軍をまとめ直し、和平の合意などさっさと破棄して人間どもに戦いを挑む。お前が言う神だか歴史の必然だかがどうかは知らぬが、少なくともオークはいま、間違いなく戦いを求めているのだ!」

 

「は……、差し出がましいことを申しました。どうかお忘れください」

 

「構わん、なかなか興味深い話ではあったぞ。また聞かせよ」

 

 そう言って手を振るグレイに一礼して、ウィルブレースは彼の前から辞した。

 彼を説得できないことを悟って、無念の気持ちを抱きながら……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「……詩人は結局、グレイ王の説得を諦め、以降はオークたちの動向を同盟軍に伝える本来の任務に専念することにしました」

 

 グレイの信頼を得て、彼の人柄にも詳しく触れた上でのそのような背信行為を、心苦しく思わなかったわけではない。

 それでも、ウィルブレースには同盟軍のために動く以外の選択肢はなかった。

 オークの勝利は、すなわちエルフの友人たちや、人間、ドワーフの惨たらしい虐殺を意味する。

 

 同盟軍の指導者であるスレイ王は、彼女からの報告には必ず自ら目を通し、それに基づいて対策を練った。

 また、エルフの集落に留まっていた彼女の友人であるオーク詩人のミルグにも、他の者たちの反対を退けて自ら丁重に接し、たびたびオークの戦術について教わったり、意見を仰いだりしていた。

 彼は、人を見る目のある優秀な指導者だった。

 

「同盟軍は三つの種族からさまざまな技能を持つ優秀な兵を揃え、指導者も優れていました。さらに、情報的な優位も得ていました」

 

 両軍の内情を詳しく知る者には、戦う前から勝敗は見えていると感じられた。

 ある程度の犠牲は払わねばなるまいが、最終的な同盟軍の勝利はゆるぎないものだ。

 ウィルブレース自身も、そう思っていた。

 

「そうしてついに、決戦の日はやってまいりました――――」

 

 

 

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 典型的なオーク軍には、陣形などというものはない。

 大多数の兵たちはあまりに混沌としており、敵を見れば血気に逸ってどんどん攻撃をかけていくので、最初それらしいものを組んではいても、すぐに崩れてしまうのだ。

 

 しかし、グレイの軍は違った。

 グルームシュに認められた恐れを知らぬ指導者、アイ・オヴ・グルームシュである彼の命に、兵たちはきっちりと従った。

 そうすることで、彼らは更なる力を得られるのだ。

 

 一方で、スレイの率いる同盟軍もしっかりと組織されて、規律だった動きを見せた。

 エルフやドワーフの部隊は数こそ少ないが、兵たちはみな精鋭揃いだった。

 

 戦いは最初、予想に反するまとまった動きと予想以上の勢いのあるオーク軍に同盟軍が不意を打たれ、彼らの方が優勢と見えた。

 しかし、その後同盟軍が立て直すと、一進一退の攻防を見せ始める。

 そしてやがて、情報的な優位と魔法を始めとする多種多様な技能に基づく搦め手によって、同盟軍が次第に勝勢になっていった。

 

 オークの軍勢は、優勢なときは強い。

 しかし、自分たちが劣勢だとわかれば総崩れとなり、我先に逃げ出す。

 混沌にして悪のオークたちには忠義もなにもあったものではなく、王は結局のところその強さで部下たちを従えているに過ぎないからだ。

 王の方が敵より弱いと感じれば、兵たちはそれ以上従おうなどとはしない。

 

 

 

「ええい、踏み止まれ! 止まらんのなら、斬り捨てるぞ!」

 

 グレイは斧を振りかざして兵たちを叱咤したが、その刃が届かぬ範囲にいる兵たちを留めることはできなかった。

 敗走する兵たちは堰の切れた堤防から溢れ出す水のようなもので、一旦決壊が始まったらそれを元に戻すことはできない。

 

 彼の腹心であるヴォルガフは、どうか御身の眷属と御使いとを援軍として遣わしたまえと必死にグルームシュに呼び掛けているが、もはやどうにもならないだろう。

 いまさら一体や二体の来訪者が来たところでどうなるものでもないし、敗北寸前の僕のためにそれ以上の奇跡をかの邪神が起こしてくれるとも思えない。

 

(これで、あなたも過去の征服王たちに名を連ねることになるのだ)

 

 ウィルブレースは、心の中でグレイにそう呼びかけた。

 

 後方とはいえここは戦場であり、もう姿をくらましていてしかるべきだったが、ウィルブレースは従軍詩人として、いまだに彼の傍に留まっていた。

 それがなぜなのかは、彼女自身にも正確にはわかっていなかった。

 あるいは、仮初とはいえ仕えた相手に可能な範囲で忠義を尽くしたい、そのためにこの征服王の戦いの結末をできる限り最後まで見届けて、歌に遺そうと思ったのかもしれない。

 

 それでも、さすがにもう立ち去らなくてはならない時が来た。

 

 オークの姿をしている今の自分は、同盟軍の兵たちに見つかれば斬られてしまう。

 グレイがこの後、この場で最後まで戦って死ぬのか、逃げ去って裏切り者に殺されるのか、それは後で兵士たちの口から聞くことにしよう。

 ウィルブレースはそう考え、この場から立ち去るために、懐に忍ばせていた逃走用のスクロールに手を伸ばそうとした。

 

 しかしその時、グレイがウィルブレースの方を振り向いてこちらへ来いと手招きをした。

 彼女は少し躊躇したものの、逃走を少し先に延ばすことにして、それに従った。

 

「詩人よ。いつぞやのお前の話からすると、グルームシュめは敵があまり多勢なので、もはや勝ちは期待できぬと見切ったらしいな」

 

「…………」

 

「これで、俺の天命とやらは終わったのか?」

 

 ウィルブレースが返事に迷っていると、グレイはにやりと笑った。

 

「よし。ならば、これからどう行動するかで、ようやく俺の価値が決まるというわけだな」

 

「これから?」

 

 彼女は、不審そうに顔をしかめた。

 最後が目前に迫ったこの状況で、一体何をしようというのか。

 

「お前は自分の感情を交えずに、自分に見えたままの物語を歌って聞かせるのだろう?」

 

 グレイはそう言って少しだけ彼女から離れると、大きく手を広げた。

 その顔には敗北を目前にした絶望や怒りではなく、不敵な笑みが浮かんでいる。

 

「ならば、俺が何者かをしかと見ておくがいい。俺の名が歌の中にどのように残るべきかを、これからお前が判断するのだ」

 

 そこへ、青ざめた顔をした彼の腹心の一人がやってくる。

 

「グレイ王、敵が迫っております。早く後退せねば!」

 

「いいや、俺は逃げはせん」

 

「しかし、逃げねば死にますぞ!」

 

「逃げてどうなるというのだ。負け犬を故郷の連中が温かく迎え入れてくれるとでも思うか。グルームシュが、死後にその魂をひねり潰さないとでも思うのか?」

 

 グレイはそう言うと、周囲のオークたちに大きな声を上げて呼びかけた。

 

「いいか、奴らは俺の肉を引き裂き、骨を砕くだろう。だが、心を折ることはできん。奴らが俺たちの弱さを証明するか、俺たちが奴らの弱さを証明するかだ!」

 

「何が俺たちだ! そんなことは、あんたが一人でやればいいだろう!」

 

 兵の一人が、悲鳴のような声を上げた。

 それに同調する声が、あちこちで上がる。

 

「あんたが弱いから、この戦はもう負けなんだ!」

 

「グルームシュの怒りはあんた一人で引き受けな、何なら俺らが、今すぐ神の元へ送ってやろうか?」

 

 しかし、グレイは少しもうろたえず、かえって罵声を上げる連中を見下して不敵に嘲った。

 

「いま、俺を殺さぬほうが得だぞ。貴様らのような腑抜けどもに、殺せるとしての話だがな。俺は、これから奴らと戦って死ぬのだ。お前たちはその間に逃げ帰って、王が無能だったから負けたのだとでも故郷の連中に弁明するがいい。それで通ると……信じるならな!」

 

 そう言って、背後からナイフを突き立てようと忍び寄っていた一人の小兵の頭を、振り向きざまに拳で一撃のもとに叩き潰した。

 その光景に、王を弱いと非難する声がぴたりと止む。

 

「逃げに逃げて、人生の最後まで逃げて、最後にはグルームシュの前に引き出され、その魂を踏み潰されるのが貴様らの望みか?」

 

 そう言ってみなの顔を見渡してから、グレイは抉り取った右目に手を当てて、天を仰いだ。

 

「俺はごめんだ。どう生きても、せいぜい残り数十年の命ではないか。グルームシュはコアロンに片目を潰されたときに恐れをなして逃げたというが、俺は逃げん。死んで奴の前に引き出されたときにこう言ってやるのだ、貴様は俺より強いかも知れんが、俺の方が貴様よりも勇敢だったとな!」

 

 その勇ましい言葉に、兵たちがざわめく。

 彼らの目に、勇気と希望の火が再び燃え始めるのを、ウィルブレースはその目で見た。

 

 グレイはみなに見えるように、手にした斧をぐっと突き上げた。

 

「俺は誓う。俺の肉が土に還って、人間どもの土地を呪うことを。俺の魂はグルームシュの元へ向かう、何も恐れることなく。そして……」

 

 そこで、彼はウィルブレースの方を振り向いて、その肩に手を置いた。

 

「そして、俺の名は、貴様に委ねよう。詩人よ、オーク一の歌い手よ。貴様は何があろうとも生き残って、俺の戦いぶりを後々まで語り残すのだ」

 

 彼の言葉に感じ入った一人の戦士が、自分の斧を突き上げて宣言する。

 

「王よ、俺も踏み止まって戦うぞ。このロングモーンの名も、歌に遺してもらわねばな!」

 

 その感激は瞬く間に周囲の兵士たちの間に拡がり、彼らは我も我もと武器を突き上げては、名乗りを上げていった。

 

「このヘニンガーは、死ぬまでに人間どもの首を五つは上げてみせるぞ!」

 

「はん、たったの五つか! このモルツは、もう討ち取った二つと合わせて、十はとってみせるわ!」

 

「どうあれ、人間どもの心胆をだれよりも寒からしめるのは、このハートランドだ!」

 

「ぬかせ! このハイネケンこそが……」

 

 最後まで勇ましく戦い、後世まで詩人に歌われる。

 我らの肉は呪いとなって地に蔓延り、魂は天に、名は歌の中に生きる。

 

「…………」

 

 ウィルブレースは、呆然と立ち尽くしたまま、その光景を眺めていた。

 

 オークが、敗北の決まった指導者の下に留まり、最後まで忠義を尽くして戦い抜くなど、聞いたこともない。

 いや、個人としてはそのような者もいるだろうが、しかしこの数は異常だった。

 

(どうみても数十人はいる。いや、百人以上いるかもしれない)

 

 彼らはみな、王と運命を共にしようというのか?

 

 しかも、その目の光が尋常ではない。

 死を目前に控えているというのに、みな一様に活力に満ちた、希望に燃えるような目だった。

 

 確かにアイ・オヴ・グルームシュにはその命令に従う兵士たちに力を与える能力が備わってはいるが、明らかにそんな域を超えている。

 

(これは、英雄の目だ)

 

 ウィルブレースはこのとき、初めて戦の勝敗に関する不安を覚えた。

 百人の英雄に対して、その数十倍程度の数の同盟軍の兵士たちで、はたして勝ちを得ることができるのだろうか……?

 

(いや……、今なら、グレイの命は私の手の届くところにあるではないか)

 

 今、ここで彼を討ち取れば、この勢いは留められるかもしれない。

 

(私がやらなくては。今それができるのは、私しかいないのだ)

 

 ウィルブレースはそう自分に言い聞かせると、ギターの中に隠したインストゥルメント・ブレードの留め金にそっと、震える手を伸ばした。

 





インストゥルメント・ブレード:
 D&Dのサプリメント、「無頼大全」で紹介されている武器の一種。
弦楽器や管楽器の細長い部分に隠す仕込み武器で、留め金を外すと細い刃が飛び出すようになっている。
インストゥルメント・ブレードはダガーとして扱われる。


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第百四十三話 Beyond the Legend

(殺さなくてはならない)

 

 そんな自分の思いに反して、ウィルブレースの体は凍り付いたように立ち尽くしたままで、なかなか動こうとしなかった。

 

 もちろん、たとえ不意を討ったにしても、楽器の中に隠せるような小さな刃ひとつで自分がこの強大なオーク王を倒せるかどうかは疑わしい。

 仮に成功したにしても、その後、周囲のオーク兵たちが怒り狂って踊り掛かってくるだろう。

 いかに多くの将兵たちの命を救うためとはいえ、あまりにも分の悪い賭けであり自殺行為でもあるのだから、躊躇するのは当然だった。

 

 しかし、自分の体が動こうとしないのはそんな理由だけではないことは、彼女にもわかっていた。

 おそらくは詩人として、また仮初とはいえこの王に仕えた身として、彼の言葉通り、この戦いを最後まで見届けたいという思いが……。

 

(何を、馬鹿なことを!)

 

 同族を含む、大勢の命が自分の手にかかっているというのに。

 

 ウィルブレースは、何度も何度も、自分にそう言い聞かせた。

 だがどれだけ自分を叱りつけても、その声はまるでどこか遠くから響いているようで、体はどうしても動こうとはしなかった。

 

 

 

 そしてついに、最後の戦いが始まった。

 

 グレイに鼓舞されたオークの戦士たちは、みな一歩も引かずに戦った。

 敵の攻撃を避けようとさえせずに、相手が斬り掛かってくるのに合わせて相討ち狙いで攻撃を繰り出し、それで傷ついても構わず戦い続け、自分が死ぬまでに一人でも多くの敵を倒そうとする。

 その恐ろしい戦いぶりに、勝勢であるはずの同盟軍の兵たちの方がたじろいだ。

 既に九割九分まで勝利を得た同盟軍の兵士たちは、臆病になるとは言わぬまでもやはり命を惜しむ。

 どうにか生きて家族の元へ帰れる、勝利の美酒を味わえるという気持ちを一度抱いた兵は、こんなところで命を落としてそれをふいにしたくないと思う。

 それに対して、敵はもはや何も恐れていないのだから、勢いが違った。

 オークの兵は一人倒れるまでに、同盟軍の兵をその数倍か、もしかすれば十倍以上も道連れにしていた。

 しかも、遠くから彼らの轟く雄叫びを聞き、その血腥く勇猛な戦いぶりを見たオークの兵たちの一部が勇気を取り戻して引き返し、グレイの部隊に加わってきさえした。

 そのために、幾度となく攻撃を繰り返してもオークの数は一向に減らず、同盟軍の兵たちは疲弊するばかりだった。

 

 そうするうちに、彼らの奮戦ぶりを見てグルームシュ神までが興味を取り戻したのか、ヴォルガフら司祭たちの呼びかけに答えて、悪の来訪者が少数ながら戦場に姿を見せ始めた。

 グルームシュの眷属であるフレイムブラザー・サラマンダーが炎の門を通って火の精霊界から次々に出現し、さらにはヘズロウと呼ばれる強力なデーモンまでもが、奈落界から空間の裂け目を通って顕現してくる。

 おぞましい魔物の姿とその恐ろしい強さとを目の当たりにして、兵士たちはたじろいだ。

 

「い、異界の魔物どもだ!」

 

 では、もしや自分たちが先ほどから戦っている悪鬼どもの群れも、こいつらと同じバケモノだったのではないか。

 そうでなければ、これほど獰猛に戦い続けられるものだろうか……。

 

 そんな疑念にとりつかれて多くの兵士たちが恐慌をきたし、浮足立っていた。

 

 

 

「……どうやら、あのオークの王は相当な英雄であるらしい」

 

 戦場に踏みとどまったまま、幾度にもわたる兵士たちの突撃や矢の雨にもまったく動じず崩れないオーク王の部隊を見つめて、スレイがそう呟く。

 

「何を寝ぼけたことを。スレイ王よ、オークどもに英雄などおらん!」

 

「サンダーヘッドよ。では君は、一人の英雄も輩出できぬ烏合の衆のために、我らがこうして同盟を組まねばならなかったというのか?」

 

 エルフの代表であるエルリーフにそうたしなめられると、サンダーヘッドはむっつりと不服そうにしながらも口をつぐんだ。

 

「この戦に志願した兵たちはみな、優れた勇士ばかりだ。そんな烏合の衆が相手なら、彼らがあれほど苦戦するはずはない。彼ら自身の名誉にもかかわることだ」

 

 エルリーフの言葉に、スレイはじっと前線の様子を見つめたまま、静かに頷いた。

 

「……オークの王ばかりではなく、彼に率いられた全員が、死を恐れぬ勇士の一団と化しているようだ。このまま戦い続ければ、勝利を収めるまでに兵の半数が犠牲となるやもしれん」

 

「仮に、それほどの命を失ったとすれば、はたしてそれが勝ちと呼べるのであろうか?」

 

「無論、違う」

 

 スレイはエルリーフの問いかけにきっぱりとそう返事をすると、剣の柄に手をかけて振り向いた。

 

「だが、今さら停戦交渉に応じる相手でもないだろう。これ以上徒に犠牲を増やさせぬために、私も前線に赴こう。エルリーフ殿、サンダーヘッド殿、こちらの指揮はお二方にお任せしたい」

 

 そう言って、自身の愛馬をここへ引いてくるようにと、側近に命じる。

 彼は王であるとともに、優れた戦士でもあった。

 

 それを聞いた周囲の者たちは、当然ながらうろたえて引きとめようとする。

 

「そんな! 王が、そのような危険を冒される必要はありません」

 

「そうです。あればかりの数の敵など、もう間もなく討ち取ってごらんにいれます!」

 

 しかし、スレイの意思は固かった。

 

「私は聖騎士(パラディン)だ。自分自身を剣として敵と戦う用意は、いつでもできている。また、そうする義務があるのだ」

 

 もちろんスレイにも、自分には同時に王としての義務もあるのだということはわかっている。

 しかし、どんな立場にあろうとも、戦うべきときに戦わぬパラディンはいない。

 世俗のどんなしがらみであっても、彼らにパラディンとしての使命を忘れさせることはできないのだ。

 戦場にデーモンまでもが姿を現すのを見た以上、奴らを倒し、その魔の手から兵士たちを救うために、自ら剣を取って戦わなくてはならない。

 

 それに本当のことをいえば、スレイは子供じみた感傷だと理解しながらも、死ぬまでに一度は本物の『悪の英雄』というものと対峙してみたいと心密かに望んでいたのである。

 

 幼い頃、物語の中の善き白騎士と悪しき黒騎士との戦いに憧れた少年は、数奇な運命の導きによって自らが聖騎士となった。

 以来パラディンとして、恐ろしく強い敵とも、狡猾極まりない敵とも、幾度も戦ったことがある。

 だが、悪なりの英雄と呼べるような相手と出会えたことは、未だになかった。

 人々に望まれて王の座を継ぎ、自ら戦線に立つこともほとんどなくなった今となっては、もはやそんな機会は訪れないだろうと諦めていたが……。

 

(あの者こそは、真に悪の英雄と呼べる男に違いない)

 

 最悪自分が死んだとしても、王の勇ましい死にざまを目の当たりにすれば兵たちも奮い立ち、必ずや勝利を収めてくれることだろう。

 後のことはエルリーフとサンダーヘッドに任せておけば、まず間違いはない。

 

 だから、このくらいのことは許されてもいいではないか。

 おそらく、もう二度とはない機会なのだから。

 

 

 

 そうして、スレイ王が自ら精鋭部隊を引き連れて前線に加わると、怖気づいていた同盟軍の兵たちは勇気を取り戻し、勢いを盛り返した。

 彼の振るう輝く聖剣の刃が屈強なデーモンの体を易々と斬り裂き、エルフの魔術師たちの唱える解呪や送還の呪文によって燃え盛るサラマンダーたちが次々と消滅していくと、兵士たちの歓声が上がった。

 

 そしてついに、新たに加わるオーク兵の数よりも、倒れる数の方が目に見えて多くなり始めた。

 グレイの軍勢は、同盟軍の兵たちが新手と交代しては突撃するのを繰り返すたびに、少しずつ数を減らしていく……。

 

 

 

「スレイ王……」

 

「なに?」

 

 ウィルブレースが前線に立つ彼の姿を認めてそう呟いたのを聞いて、グレイはわずかに目を見開いた。

 

「……そうか! あの男がスレイとかいう、人間の王だったか!」

 

 そう言って振り向いた彼の顔には、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

 

「ならば不足はない。つまらぬ雑兵でなくて、よかったぞ」

 

「よかった?」

 

 それはどういうことかと不安そうな顔をするウィルブレースの疑問に、グレイが嬉々として答える。

 

「詩人よ、奴が俺の最後の相手だ。グルームシュに捧げた俺の右目には、既に見えているぞ。あの男と俺とが、相討ちになって死ぬ光景がな」

 

「……!」

 

 ウィルブレースは目を見開いて、小さく体を震わせた。

 それが本当なら、同盟軍の指導者を討ち取らせるわけにはいかない。

 

(今度こそ、どうあってもこの男をなんとかしなくては)

 

 そう自分に言い聞かせて、動かない腕を無理にギターの仕込み刃に伸ばそうとした。

 

 その時、グレイが振り向いて、自分の方を真っ直ぐに見つめた。

 ウィルブレースの体が凍り付く。

 

(ついに見抜かれたのか)

 

 しかし、グレイは予想に反して、これまでになく穏やかな調子で彼女に語りかけた。

 

「詩人よ、お前には感謝しているぞ」

 

「……え?」

 

「前々からお前の話を聞いていたおかげで、俺も覚悟を決められたのだ。過去の征服王どものように逃げて無様な最期を迎えるよりも、ここで踏み止まって戦い抜く覚悟をな」

 

 それだけ言うと、きびすを返して前線の方に向かおうとする。

 

 ウィルブレースはしばし呆然としていたが、ややあってはっと気を取り直すと、今度こそ仕込み武器を手に取ろうとした。

 それを、横から伸びてきた別のオークの腕が抑える。

 ぎくりとしてそちらの方を振り向くと、見知った顔があった。

 

「……ミルグ? どうして、ここに……」

 

 いつの間にか彼女の傍に来ていたオークの詩人は、じっと戦場のほうを見つめたまま、薄く笑った。

 

「なに。スレイ王が、俺の同行を認めてくれたのだ」

 

 戦いの光景をすべてその脳裏に焼き付けるために、一瞬でも目を離したくないのであろう。

 同盟軍は当初、不具を理由に彼の協力を断ったものの、実際には彼の目はウィルブレースの口添えもあって長年エルフの集落に滞在しながら良質な治療を受け続けられていたおかげで、この頃にはもうずいぶんと良くなっていたのである。

 

「彼はなかなかの英雄だ。ならばその英雄が容易ならぬ相手だという男も、ただの征服王ではないに違いない。そう思い直したのでな、やはり、最後の旅に出ることにしたよ」

 

 そう言う彼の顔は、活力を取り戻して、いくらか若返ったかのように見えた。

 

「ミルグ、手を離して。あの男を……」

 

「やめておけ、お前や俺の敵う相手ではないぞ。英雄が、詩人に倒されるはずもなかろう」

 

 彼は首を振って、小声でそう諫めた。

 

「でも……」

 

「詩人の役目は、見届けること、語り残すことだろう。ここで死んでは、その役目は果たせん。それにな、俺はお前に、こんなところで死んで欲しくはないのだ」

 

 彼の詩人らしからぬ節くれだった無骨な手は優しく、しかししっかりと、大切なパートナーの手を抑えていた。

 ウィルブレースは彼としばらく見つめあった後、小さく頷いて、手を下ろした。

 

「……そう、そうね……。ありがとう、ミルグ」

 

 確かに、自分がここで死ねば、歌には残らなくなってしまうだろう。

 グレイのことも、他のオーク兵たちのことも。

 そして、年老いて死期が近づいてきているミルグのことも。

 戦場に踏みとどまって戦い続けているオークたちは、おそらく全員が討ち死にする。

 同盟軍の従軍詩人はいるかもしれないが、彼らは同盟軍の側のことしか知らないのだから、自分が死んだらオークたちのことを語り残すものは誰もいなくなってしまうのだ。

 

 それに彼の言う通り、心の奥底では、自分にはグレイを殺せはしないということもわかっていた。

 実力的にも、また感情的にも。

 

 だからといって、彼のために戦うこともできはしない。

 

 結局、詩人である自分にできるのは、ただ見届けることだけなのだろう。

 見つめること、伝えることが、吟遊詩人である自分の使命なのだ。

 

「いいか、あの男が人間どもの指揮官だ。奴を討ち取るぞ! 動けるものは、俺に続いてこい!」

 

 一声そう叫んで、勇んで前線に向かっていくグレイの後姿を見つめながら、ウィルブレースは心の中で彼に呼びかけた。

 

(我が王よ、もう止めはしますまい。あなたの望まれる通り、私があなた方の武勲を見届けましょう)

 

 この戦いが終わったら、スレイの傍で彼と同盟軍の動向を見守り続けていたであろうミルグと互いの情報を交換して、この戦いの全容を歌にまとめよう。

 そして、末代まで語り遺そう。

 

 このときウィルブレースは、それを決意した。

 

 

 

 踏み止まって迎え撃つのをやめ、指揮官の首を狙って敵陣の間に斬り込んでいったわずか五十人にも満たぬオークの戦士たちは、一人、また一人と倒れていく。

 それでもなお、彼らは屈服しなかった。

 それらの勇士たちは、人間の騎兵をかき分け、斬り伏せ……、ついにグレイを、スレイの前にまでたどり着かせた。

 

 スレイは、王を逃がすために命を捨ててオーク王にくらいついていこうとする近衛兵たちを制止すると、馬から降りて彼に呼び掛けた。

 

「貴君が、オーク王グレイか」

 

 それを受けて、グレイも一旦足を止めると呼吸を整えた。

 彼は既に、満身創痍だった。

 

「そうだ。貴様は、スレイとかいう人間どもの王だそうだな?」

 

「いかにも」

 

 スレイはそこで、敬意を表すように軽く頭を下げた。

 

「私は決して悪を称揚はせぬが、勇気があることは認める。彼らをこれだけの勇士に変えたのは、貴君なのであろうな」

 

「変えたわけではない。オークにならあって当然のものを、思い出させてやっただけのことだ」

 

「そうか……。貴君が人間に生まれていれば、必ずや素晴らしい指導者になれたはずだ。私は、喜んでその下で働いたことだろうに」

 

 グレイはそれを聞いて、にやりと口を歪める。

 

「ははは! これは面白い。それで、俺をほめているつもりか。人間に生まれていればとは、いかにも貴様ららしい物言いだな。自分たちはオークよりも上等だと、信じて疑っておらんな!」

 

「…………」

 

「ならば、俺も貴様をほめてやろうではないか。実際、貴様の用兵は大したものだ。もしもオークに生まれておれば、俺よりも優れた征服王になれていたかもしれん」

 

「痛み入る。私は、そうは思わないが」

 

 グレイはそこで顔から笑みを消すと、ひとつ溜息を吐いた。

 

「……人間などとは、二度と交渉したくなかったのだが。貴様を見込んで、ひとつだけ頼みがある」

 

「なんなりと」

 

「先ほどまで俺たちのいたあたりに、オークの詩人が一人残っているはずだ。やつは非戦闘員だ。この戦いのことを歌わせるために連れてきたのだ、無事に帰してやってくれ」

 

 それを聞いて、スレイは目を細めた。

 弱者を気遣うなど、オークとしては実に珍しいことである。

 彼は農民から王に成りあがったと聞いているが、そのために非戦闘員には親身になる一面もあるのだろうか。

 

 できることなら、この男とじっくりと話し込んでみたいものだと思った。

 だが、この期に及んで、それは叶わないことだ。

 

「……心得た。私の名誉にかけて、戦いを望まぬ者を手にかけたりはしない」

 

「恩に着るぞ」

 

 グレイは屈辱に耐えるように苦々しげに唇を噛みながらも、申し訳程度に頭を下げた。

 それから、血塗れの斧を構え直す。

 

「さあ、かかってくるがいい! 礼として、即死を約束してやろうではないか。貴様は俺の道連れとなって死ぬのだ!」

 

 スレイも、一礼して聖剣を構える。

 

「私としても、貴君と相討ちなら望むところだが。そうもいくまい、王としてこの戦いの後にもまだまだ仕事が残っているのだからな!」

 

 

 そうして、ついに戦いは終わった。

 

 戦いが終わった後には、夥しい数の屍と負傷者とが残った。

 もっとも、負傷者はすべて同盟軍の兵士たちで、最後まで逃げずにグレイと共に踏み止まって戦ったオーク兵たちは全員が屍となっていた。

 どの屍も、ほとんど例外なく体中に無数の傷跡があり、それが力尽きるまでの彼らの奮戦ぶりを物語っていた。

 いずれも致命傷としか思えない傷をいくつも負っている、一体どの攻撃が最終的に命を奪ったものなのか判別がつかない躯ばかり。

 何も知らないものに見せれば、痛みを感じずに向かってくるゾンビか何かだったのだと思うことだろう。

 

 グレイの予見通り、スレイは彼と壮絶な相討ちとなって倒れた。

 もっとも、戦いが終わったのを見届けるとすぐに正体を現して駆け付けたウィルブレースとミルグ、それに従軍司祭たちの治療を受けて蘇生したのだが。

 晩年、生涯を通して最も手強かった相手は誰かと問われたスレイ先王は、若き日に奈落への遠征で戦った魔大公や七度にも渡る討伐に赴いた邪龍を差し置いて、迷うことなくオーク王グレイの名を挙げたという。

 

 グレイの屍はスレイ王の許可を得て、他のオークの勇士たちと共にウィルブレースの手によって丁重に埋葬された。

 彼の魂がどうなったのかは、わからない。

 その奮戦にもかかわらず負け犬として無慈悲なグルームシュ神の怒りを買い、その存在を消し去られてしまったのかもしれない。

 あるいは新たな姿を与えられて、今でも自分の価値を証明するために、いずこかの世界で戦い続けているのかもしれない。

 

 ミルグは、それからほどなくして永遠の眠りに就いた。

 ウィルブレースのはたらきかけもあって、彼は死の床でようやくエルフの種族全体の友に贈られる“ルアサー”の称号を認められ、その躯は森の奥に埋葬された。

 

 そして、ウィルブレースは彼と、そしてグレイとの約束を守った。

 彼女がその生涯を通して仕えた王はただ一人だけで、それはオークの農民として生まれた男だった。

 今でも彼のことを我が王と呼び、その歌を歌い広めている……。

 

 

 

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 その後、ウィルブレースは数々の冒険を経て、やがて善なる神々の目に留まり、エラドリンとして新たな生を受けた。

 多元宇宙を永遠に旅し続け、英雄達の活躍を歌い続けられるように。

 

 だが、どうあれグレイと戦おうとせず、同盟軍の兵士たちとオークたちとの殺し合いを止めるための最後の努力をしようとしなかった自分に、はたして善なるエラドリンとなる資格があるのかどうか。

 そのことはずっと悩んでいたし、今でもまだ答えは出ていない。

 

 もしも彼の魂がどこかにまだ存在していて、いつか再会することができたなら、その時こそはエラドリンとして、彼と戦わなくてはならないだろう。

 そして、グレイの物語に最後の章を加えることになるのだ。

 だが、自分はその時の来るかもしれないことを恐ろしく思っているのか、それとも待ち焦がれているのか。

 それすらも、まだよくわからなかった。

 

 それでも、確かなことはある。

 

(……我が王よ。今宵も、私は約束を果たしました。あなたがいずこかにまだ存在しておられるのでしたら、どうか彼らの顔をご覧ください)

 

 想いの限りを込めて語り終えたウィルブレースは、かつての王に心の中でそう呼びかけながら、観衆たちの顔を見渡した。

 

 静かに涙を流している者もいる。

 興奮に、顔を上気させている者もいる。

 先日の自分たちの、そして敵軍の戦いと重ね合わせて、自分たちには至らぬところがあったのではないかと恥じ入っているのだろうか。

 あるいは、一度は道を誤ったとはいえ、グレイがそうだったように敗れた後の今こそどう行動するかが問われるのだと、決意を固めたりしているのだろうか。

 

 歌から何を感じ取ったのか、その感情は人それぞれだろうが、誰もが目を輝かせているのは同じだった。

 

(あなたは、人間とは分かり合えないと言われたが。あなたの戦いは、こうして今、その人間の心をも揺さぶっているではありませんか)

 

 あの日、戦場にいたオーク軍の兵士たちも、同盟軍の兵士たちも、スレイ王や、ウィルブレース自身も……。

 種族の違い、立場の違い、何を感じ取ったかの違いはあれど、彼らと同様、みなグレイの戦いに何らかの形で心を動かされたことだけは同じだったはずだ。

 

 英雄の物語は後世に伝わり、それに心を動かされた者は、我もまた英雄たらんと思う。

 時には悪の英雄の物語から、善き英雄が生まれることもあろう。

 そうしてまた、新たな物語が生まれていく。

 何百年、何千年が、そうして積み重なってゆくのだ。

 

(あの日の戦いは、その時に戦場にいた自軍の兵士たちを英雄に変えただけではない。今もなお、明日の新しい英雄を生み出そうとしているのです)

 

 会場を見渡していたウィルブレースは、ふと、きらきらした目でこちらを見つめているコボルドの少年と、いつの間にやら彼の寄り添って、おそらく無意識にしているのだろうが、その手に自分の手を重ねながら上気した顔をこちらに向けている青髪の人間の少女の姿を認めた。

 桃色の髪をした人間の少女は、そんな二人の姿に気付いて何か言おうとしたが、思い直して赤い顔をしたままぷいとそっぽを向く。

 

 ウィルブレースは、彼女らのそんな初々しい様子を見て、くすりと顔を綻ばせた。

 

(……ほら。種族の違いなんて、結局は些細なことなのですよ)

 

 ねえ、そうでしょう、ミルグ。

 





フレイムブラザー・サラマンダー:
 火の元素界に住まう来訪者・サラマンダーの中で、最も小柄で力の弱い種族。
小規模な部族社会で生活しているが、より大柄で強いアヴェレッジ・サラマンダーやそれが成り上がったノーブル・サラマンダーからは蛮族として扱われ、しばしば彼らによって無理矢理文明化させられ、配下として働かされる。
また、より強大な来訪者であるイフリートなどの奴隷にされてしまうこともある。
しかし、力こそ劣るものの、知能の程度ではアヴェレッジ・サラマンダーにも引けを取らず、決して侮れない相手である。
 彼らはまたグルームシュの下級眷属でもあり、グルームシュ信者のレッサー・プレイナー・アライの呪文によって招請される。

ヘズロウ:
 人型のヒキガエルのような姿をした大柄なデーモン。
デーモン軍の下士官であり、隊形を監督し、戦闘中の部隊の指揮をとる。
脅威度は11で、以前にタバサらがカジノで戦ったヴロックやサキュバスなどよりもさらに一回り強力なデーモンである。
 彼らはまたグルームシュの中級眷属でもあり、グルームシュ信者のプレイナー・アライの呪文によって招請される。

ルアサー:
 エルフの種族全体に対する貢献をした異種族(もしくは、他のエルフの部族に貢献したエルフ)に与えられる称号。
エルフの友、もしくは星の友と呼ばれる。
上級クラスの一種として、D&Dのサプリンメント「自然の種族」に収録されている。


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第百四十四話 After-party

 ニューカッスル城最後の、盛大な宴の終わった夜のこと。

 タバサは元レコン・キスタの陣地から自分に与えられたニューカッスル城の部屋に戻って、寝台に横たわっていた。

 明日はこの城を発つのだから、身体を休めておかなくてはならない。

 

 どのくらい眠ったのか……。

 タバサは突然、部屋のドアがノックされたのを感じて、はっとして身体を起こした。

 

「……誰?」

 

 ノックの主は返事をする代わりに、ゆっくりとドアを開けた。

 普段ならすぐに杖を手に取って警戒を怠らないはずなのに、なぜかそうしようという考えが思い浮かばず、代わりにどきどきと胸が高鳴った。

 

「こんばんはなの」

 

 はたして、部屋の外に立っていたのはディーキンだった。

 

 タバサは反射的に、毛布を引き寄せた。

 別に、異種族である彼は、自分の、人間の女性の寝間着姿などを見ても、何とも思わないのだろうけど……。

 

「……どうしたの?」

 

 そう尋ねると、ディーキンはまたしても言葉で返事をせず、代わりにとことことベッドの傍にやってきた。

 そのままぴょんとタバサの近くに飛び乗って、腰を下ろす。

 

「こんな夜中にお邪魔して、ディーキンは申し訳ないの」

 

「いい。用事は、なに?」

 

 なにやら得体の知れない期待に胸を震わせながら、タバサは尋ねた。

 ディーキンはなぜか、照れたように頬をかきながら話し始める。

 

「うん。さっきの、ウィルブレースお姉さんの歌はよかったよね。ディーキンはすごく興奮して、目が冴えちゃって……」

 

 なんだそんなことかと、タバサは軽く落胆した。

 

 でも、確かに、彼女の歌は素晴らしかった。

 あれがただの作り話ではなく、自分で本当に経験したことだというのだから、尚更感嘆されられる。

 グレイ王、スレイ王はもちろんだが、彼女自身も、これまでにたくさんの本で読んだ壮大な叙事詩の中からそのまま出てきたような人物なのだ。

 

 ちょうど今、目の前にいる彼と同じように……。

 

 タバサはそんなことを思いながら、寝ている間外していた眼鏡をかけ直して、ディーキンのほうを見た。

 すると、同じように自分のほうをじっと見つめていた彼と目が合った。

 どきっとして、反射的に毛布をより強く引き寄せながら、顔を背けてしまう。

 

 ディーキンはほんの少し顔をしかめて、首をかしげた。

 

「……ンー。もしかして、ディーキンはあんまり、タバサのほうをじろじろ見ちゃいけなかった?」

 

「別に……、そんなこと、ない」

 

 そう、もちろん彼に対する拒絶の意思などないし、見られることにしても、理性的に嫌ったわけではない。

 ただ、なんだか無性に恥ずかしかっただけなのである。

 

「そうなの? じゃあ、どうして毛布をしっかりつかんでるの。今日は、そんなに寒くないと思うけど……」

 

「……あんまり、見せるものじゃない。見苦しいから」

 

 少しばかり言い訳がましく、タバサはそう答えた。

 慣習上、人間の女性が見苦しい寝間着姿などをむやみに人に見せるものではないというのは嘘ではないが、少し前までの彼女はおよそそんなことを気にしたためしがなかった。

 

「別に、見苦しくなんかないの。どんな格好でもタバサはきれいだし、寝る時の格好も新鮮でいいと思うの」

 

 ディーキンがにこにこしながらさらりとそう言うと、タバサは表情こそ変わらないものの、かすかに頬を染めた。

 そんな彼女の様子に気付いているのかいないのか、彼はそのまま言葉を続ける。

 

「ねえ、もっとよく見せて?」

 

 タバサは、かあっと頬が熱くなるのを感じた。

 

「……そんな、こと」

 

「ダメなの?」

 

「……」

 

 少し逡巡したものの、彼から上目遣いでじいっと見つめられてそう言われては、とても断れない。

 小さく首を振って、おそるおそる、毛布を下に置いた。

 元より、冗談ならともかく本気でそう言っているのであれば、自分は彼の頼みを断れるような立場にはないと思っているのだ。

 

 けれど、自分の今着ている寝間着なんて飾り気も色気もない、野暮ったく子供っぽいものでしかない。

 中身にしたって、異種族である彼の好みはわからないけれど、人間の女性として見た場合にはとても魅力があるとは思えない。

 もう十五歳だというのに、こんなに小さく、やせっぽちで、幼い身体つきをしているのだから。

 

 タバサは恥ずかしいのと、彼の表情を確認したくないのとで、俯いたままそわそわと落ち着かなげに体を揺さぶった。

 よく見てみたら、なんだこんなものだったのかと、彼ががっかりしなければいいのだが。

 

(せめて、服と髪を整えよう)

 

 そう思って、自分の体に手を伸ばしたとき……。

 ディーキンがベッドの上で立ち上がって、自分のすぐ前に立った。

 

 はっとして顔を上げて、彼のほうを見る。

 ディーキンは自分よりもずっと背丈が低かったが、さすがに寝台に腰を下ろしていると、立ち上がった彼を少し見上げるような形になった。

 その目に失望ではなく賞賛の色合いが浮かんでいるのを見て、少し安堵したのもつかの間のこと。

 彼の手がすっと、こちらの顔に伸びてくる。

 

「……何を?」

 

 うろたえるタバサの顔に、ディーキンの手が触れる。

 硬い鱗に包まれた冷血動物めいた姿にもかかわらず、その手は火のように熱く感じられた。

 

 実際に熱いのか、それとも自分の錯覚なのだろうか。

 

「眼鏡を外したところも、よく見せて?」

 

 答える間もなく、ディーキンはタバサの眼鏡にひょいと手をかけて、それを外させた。

 

「やっぱり、きれいだよ」

 

「……!」

 

 いつにないディーキンの行動に、タバサはしばし言葉を失って、体を震わせた。

 ややあって、少し震える声で呟く。

 

「……ないと、よく見えない」

 

 あなたの、顔が。

 でも、かけないほうが、きれいに見える?

 

「じゃあ、こうしたらいいの」

 

 ディーキンはタバサの背に無造作に腕を回すようにして、その体をぐっと引き寄せた。

 弾みで、彼女の頬が彼の胸にぽふっと埋まる。

 

「近くなら、ディーキンの顔がよく見えるでしょ?」

 

 タバサは、目を大きく見開いた。

 体が震えた。

 

「……あなた、は、歌の話を、しにきたはず……」

 

 別に今はそんな話なんてしたくもないのに、かすれた声でそう抗議する。

 頬をぴったりとくっつけたままで、彼が感じ取れたかどうかもわからないほどの、抵抗ともいえぬ形ばかりの身じろぎをする。

 

 ディーキンはそれに答える代わりに、タバサの顎に指をあてて、くいっと上向かせた。

 彼女のぼやけた視界の中に、彼の顔が大きく鮮明に飛び込んでくる。

 彼はなんだかいたずらっぽい笑みを浮かべて、その目を少し熱っぽく輝かせていた。

 それは、これまでに見たことがないような種類の輝きだった。

 

「ディーキンは、ちゃんと勉強してきたの。人間の男は、女の人の部屋に忍んで行くときには、何か別の口実を用意するものなんだよね?」

 

「……!!」

 

 その瞬間、訓練を積んで氷像のように崩れなくなったはずの、崩せなくなったはずの無表情が融けたのが、自分でもわかった。

 今の自分の顔は、りんごのように真っ赤になっているのではないだろうか。

 

「でも、ウィルブレースお姉さんのお話に感動したのは本当なの。人間でも、エルフでも、オークでも、種族の違いなんて結局関係ない、でしょ?」

 

 ディーキンはそう言いながら、今度はぐっと上からのしかかるように、タバサの体を押した。

 そっと、やさしく押しただけだったが、タバサは抵抗することができなかった。

 

「だからね。あのときの、続きをしない?」

 

 そう言われ、顎をくいとつかまれると、体が震えた。

 頭の中がぐるぐるする。

 

 あのとき?

 それって、あの、ラ・ロシェールのときのこと?

 あれの続き、って……。

 

「~~!?!?」

 

 タバサは息が止まりそうになって、思わず彼を押しのけようとした。

 

「……イヤなの?」

 

 ディーキンは首をかしげて、まじまじとタバサの顔を見つめながら、そう尋ねた。

 

 彼の顔は、なにか興味深そうな、面白がっているような感じだったが、そんなことを考えていられるような心の余裕は彼女にはなかった。

 タバサはあわてて、ぶんぶんと首を振る。

 それから、自分のそんな振る舞いが恥ずかしくなって顔を伏せようとしたが、顎を押さえられていて目を逸らすことができなかった。

 

「……あなたが、望むなら。私に、断る理由はない」

 

 かすれた声で、どうにか体面を繕ってそう返事をした。

 

「それって、答えになってないと思うの。ディーキンは、自分の望みはよくわかってるの。そうじゃなくて、タバサの望みを聞きたいんだよ」

 

「あなたの望みに沿うのが、私の望み」

 

 それを聞いたディーキンは、じいっとタバサの顔を見て、肩をすくめた。

 

「ンー……、なんだか、気のない言い方だね」

 

 そして、タバサの顎から手を離す。

 

「ぁ……」

 

「なら、その気がない人に無理は言いたくないから、やめておくよ。ディーキンは夜中にお騒がせして、申し訳なかったの」

 

 そう言って呆然とするタバサの前でぺこりと頭を下げ、体を起こそうとする。

 

「ま、……待って!」

 

 タバサは焦って、涼しげな態度をかなぐり捨て、自分からしがみついて彼を引き止める。

 にじみ出した涙に曇った彼女の目に、なんだか意地悪げな、勝ち誇ったような笑みを浮かべたディーキンの顔が映った。

 

「タバサって、嘘つきなんだね」

 

 くすくすと笑いながらそう言って、改めて指をタバサの顎に伸ばす。

 

「……あなたは、意地悪」

 

 タバサは潤んだ目で恨めしげに、軽く彼の顔をにらみながら、泣きそうな声でそう恨み言を呟く。

 でも、その言葉とは裏腹に、心の中には大きな安堵感と歓びが広がっていた。

 

 確かに、自分は嘘つきだ。

 

 彼の体が自分の上に覆いかぶさり、顔がさらに近づいてくるのが見える。

 ぎゅっと目を瞑ったが、今度はもう、抵抗はしなかった。

 タバサは口が触れ合う直前に、ついに覚悟を決めたように、自分からも顔を前に動かして――。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 目を開けると、まだあたりは薄暗かった。

 

「……ゆ、め?」

 

 タバサは少しの間ぼうっと天井を見つめてから、ゆっくりと身体を起こした。

 

 現実に唇を押し当てていたのは、いつの間にか自分の顔の上にまで引き上げていた掛け布団であったらしい。

 夢の中で毛布を引き寄せ、そして離したときに、顔の上に落としてしまったのだろう。

 どうりで、彼にしてはやわらかすぎると思った。

 

「……~~っ!」

 

 頭がはっきりして状況を理解するや、恥ずかしさと腹立たしさとがかあっとこみ上げてきた。

 タバサは罪なき布団を乱暴に引き剥がすとベッドの外に放り出し、ベッドの上で膝を抱えて、ぎゅっと唇を噛んだ。

 

 自分がこんな夢を見るようになったきっかけは、わかっている。

 あの、ラ・ロシェールでの一件が原因だ。

 あれ以来、既に何度か、似たような夢を見たことがあったから。

 

 それ以前にも、ディーキンの出てくる夢を見たことはある。

 でもそれは、決して生々しいものではなかった。

 

 例えば、在りし日の父や母、その他の友人たちと共に彼も自分と一緒にいてくれて、みんなで温かく穏やかな時を過ごす夢。

 あるいは、かつて読んだ物語の中の勇者のように、彼が自分を迎えに来て、日常からどこか非日常の世界へと連れ出してくれる夢。

 たまに少しどきどきするような内容があっても、それは露骨なものではなくて、絵本で描かれる王子さまとお姫さまのような、ロマンチックで曖昧でふわふわとしたものだった。

 

 彼がとても印象的な人物であり、自分にとっては大きな恩義のある相手で生涯仕えると決めた相手でもあることを考えれば、たまにそういった夢を見ても不思議ではないだろう。

 仕えるべき騎士と決めた相手に擬似的な恋愛感情を抱くのはよくあることだというし、自分の場合もそんなことに過ぎない。

 あるいは、恋に恋をしているのかもしれない。

 大体、なんといっても彼は異種族なのだから、それに対する感情は敬意や憧れ以上のものにはなりえない。

 タバサは知識や常識に照らし合わせて冷静にそう分析し、それを楽しい夢として受け入れはしても、自分の感情をあまり本気にして深入りしようとはしなかった。

 

 けれども最近の彼は、ただ友人とか恩人とかいっただけではなく、また騎士とか勇者とかいっただけでもなく、生身の一人の男性としても、自分の夢の中に出てくるようになったのだ。

 ロマンチックなだけではなくて生々しさもある、そんな夢を見るようになったのだ。

 そんなことは、以前には決してなかった。

 

 ラ・ロシェールでの、あの忌まわしくも忘れがたい、甘い痛みと熱を伴った夜の出来事。

 忌まわしい毒に侵されていたとはいえ、赤面せざるを得ない、恥ずべき振る舞い。

 あんな出来事がなければ、彼に対する自分の気持ちは、今でも物語の中の英雄に対するようなものだっただろう。

 異種族である彼のことを、生々しい実体のある現実の男性として意識することはなかったはずだ。

 

 タバサは幾度となく、あの夜のイメージを頭から追い払ってしまおうとした。

 けれど、脳裏に深く焼き付いているものを消せはしない。

 

 今夜見た夢は、特にひどい。

 月明りの差し込むテラスとか、舞踏会の後の散歩とか、絵本に出てくるようなロマンチックな場面ではなくて、ベッドでキスをする夢だなんて……。

 

「……あさましい」

 

 タバサは自己嫌悪に苛まれて、ぽつりとそう呟いた。

 彼は異種族だからということよりも何よりも、大恩のある相手を無意識下であってもそんな欲望の対象に見るだなんて、まだ初々しい少女である彼女にはどうにも汚らわしいことに思えたのだ。

 もちろん知識としては、たとえどんなに高潔な人であってもそのようなことはあるものなのだと知ってはいる。

 だが、自分自身がそれを経験する身になってみると、知識と感情とはまた別なのだということがよくわかった。

 

 タバサは先ほど自分が八つ当たりして放り出した布団をばつの悪い思いをしながら拾い上げると、もぞもぞとそれに包まった。

 まだ朝まで時間はあるのだから、今度こそ余計な夢を見ずに体を休めよう。

 そう、思ったのだが……。

 

(……寝付けない……)

 

 寝床の中でじっとしていると、またあれやこれやの考えが次々に頭に浮かんできて、どうにも眠気が訪れてくれる様子がなかった。

 

 タバサは仕方なく、自分に『スリープ・クラウド』の呪文をかけて眠ろうかと考えた。

 そうして、一旦は杖に手を伸ばそうとしたものの。

 

(どうして、そこまでして眠りたいの?)

 

 もしかしてそれは、またあの夢の続きが見たいから?

 

 違う、呪文で眠れば途中で目が覚めることもなく、朝まで体を休めていられるからだ。

 それだけのことで、他意はない。

 そうすれば、今度は途中で夢が終わることもなく、最後まで……。

 

「…………」

 

 タバサはまた自分自身への嫌悪感を感じてわずかに顔をしかめると、小さく溜息を吐いて、もぞもぞと寝床の中から抜け出した。

 

 今はもう眠ろうという気にはなれないし、時間はまだ早いが仕方ない、起きよう。

 けれど、部屋で本を開いていても頭に入りそうにはないし、また要らぬことを延々と考えてしまいそうだ。

 ここは外に出て早朝の澄んだ冷たい空気を吸ってくれば、少しは雑念も払われることだろう。

 

 タバサはそう考えて、着替えをして身だしなみを整えるために、壁に据え付けられた鏡の前に立った。

 その中に映る、かすかに頬を紅潮させた、熱っぽく潤んだ目をした女……。

 

「……あなたは、一体誰?」

 

 もちろん、答えはなかった。

 その女とずっと顔を突き合わせているのが嫌で、タバサは最低限の身だしなみを整えると、さっさと部屋を後にした……。

 

 

「ンー……」

 

 ディーキンは早朝のニューカッスル城内を、てくてくと歩いていた。

 見回りにあたってくれているセレスチャルの姿をたまに見かける他は、まだほとんどの者が寝ているようで、静かであった。

 

 王党派の軍は今日、ここを発って新たな拠点へ向かい、そこから最終的にはレコン・キスタの本拠地を落として、アルビオン全土の奪還を目指すことになっている。

 しばらく過ごしたここともお別れであり、もしかしたらもう二度と来ることはないかもしれない。

 そんなわけで、彼は最後のお別れにと思って、少し早く起きて改めてあちこちを見て歩いてみることにしたのであった。

 

 一通り城内を見て回った後、ディーキンは最後に礼拝堂に行くことにした。

 自分自身は別にブリミルの信徒なわけではないが、彼の像の前で改めて先日の戦いでその名を借りさせてもらったお礼とお詫びをしてから、皆の旅の無事を祈っておくというのもいいだろう。

 

 

 

(……あれ?)

 

 そうして礼拝堂に入ったディーキンは、そこに先客がいるのに気がついた。

 ブリミル像の前で、祈るように跪いているのは……。

 

「タバサ?」

 

「……!?」

 

 彼女は声をかけられた途端に、電流でも流されたみたいにびくっと体を震わせた。

 

 別に敬虔な性質でもないのだが、あてもなくそのあたりを彷徨っているうちに行きついた礼拝堂で、タバサはふと、始祖に祈りを捧げていこうかと思いついたのだった。

 そうして夢の件について懺悔していた、そこへ当のディーキン本人が現れていきなり声をかけたものだから、心臓が跳ね上がったように感じたのである。

 いつもの彼女なら誰かが近づいてくれば空気の流れからそれを感じとれるはずなのだが、今は注意が自分の内面に向いていたためかまるで気付いていなかった。

 

「……はい」

 

 それでも、努めてさりげなく返事をして立ち上がると、彼のほうに向き直った。

 

 見苦しいところは見せたくない。

 こんなことなら、もう少しちゃんと身づくろいをして来ればよかった。

 

「おはよう。……タバサも、お祈りをしてたの?」

 

 ディーキンはそう挨拶をしながらも、内心では不思議そうに首をかしげていた。

 

 タバサとしてはさりげなくしたつもりだったが、彼の目から見ると、振り向いた後の彼女のそわそわした様子はまるで悪いことをしている最中に見咎められた子供みたいだったし。

 なんだかこちらの顔を真っ直ぐに見ようとしないで、顔を伏せたままちらちらと様子を窺うようにしているし。

 とにかく、明らかに挙動不審に見えたのだった。

 

「そう」

 

 タバサはかろうじてわかるかどうかくらいに小さく頷きながら、ぽつりとそう答えた。

 それから顔を伏せたまま、逃げるように礼拝堂の外へ出ていこうとする。

 

「あ、待って」

 

 ディーキンは、そんな彼女を呼び止めた。

 彼に待てと言われて無視するわけにもいかず、タバサはぴたりと足を止める。

 

「タバサはこの後、何か用事はあるの?」

 

「……ない」

 

「じゃあ、ディーキンはここを出る前に、いろいろ見て回りたいと思ってるんだけど。一緒に、外に散歩に行かない?」

 

 この後城の外も少し見て回りたいと思っていたのだが、何か万一のことがあった場合のことも考えると、野外では二人の方が安心である。

 それよりも何よりも、一人よりも二人の方が楽しいというものだろう。

 

「…………」

 

 タバサは逡巡したものの、彼の誘いをそっけなく断って、つれない女だと思われるのは嫌だった。

 たとえ、それが事実なのだとしても。

 

 結局、こくりと頷いて、親鳥の後ろをついて歩く雛鳥よろしく、彼に従って散歩をすることにした……。

 



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第百四十五話 Eve

 タバサがベッドで、ディーキンとの甘い夢を見ていた頃のこと。

 キュルケは、自分にあてがわれた部屋でひくひくと引きつった笑みなどという彼女にしてはひどく珍しい表情を浮かべながら、目の前の相手を問い質していた。

 

「……これは一体、どういうことなのかしら?」

 

「見たとおりですが?」

 

 対照的に、ウィルブレースはしれっとした涼しげな笑みを浮かべて、そう返事をした。

 

 

 

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『夜の宴の終わりまでに、どちらがより素敵な人を捕まえられるか』

 

 ウィルブレースからそんな挑戦を持ちかけられたキュルケは、久し振りにやる気を出して男を物色していた。

 

 微熱の赴くままに男をとっかえひっかえすることに慣れている彼女としては、一晩のうちに何人もの異性に声をかけて部屋に誘い、実際に相手をするのは一番気に入った一人だけにして後はすげなく追い払うなどということは日常茶飯事である。

 とはいえ、さすがに先日一緒に命がけの戦いを勝ち抜いたばかりの勇士たちにそのような扱いをすることは、少々気が引けた。

 それに、勝負の条件はより素敵な相手を捕まえることなのだから、量よりも質が重要である。

 

 ゆえに、慎重にこれこそはという相手を一人だけ選ぼうとしていたのだが、ほとんどの参加者はステージ上で続いている緑髪の少女の歌に夢中で声をかけても気もそぞろのようだったし、まれにそうでない男がいたかと思えば既にお相手の女性がいたりで、なかなかこれという相手は決まらなかった。

 いっそウェールズ皇太子ではなどとも考えたのだが、トリステインの姫君相手に誓いを立てている彼を口説くのは、さすがに一晩では難しいだろうし……。

 

(まあ、お開きが近くなってステージの歌が終わったら、誰かに声をかけましょう)

 

 楽しい宴の続いている間はともかく、終わってしまって少し寂しくなったその後は、部屋に誘う相手が欲しくなるというものだろう。

 そう思って、その時言い寄る相手を誰にしようかと検討していた頃に、思いがけず声をかけてきた相手がいた。

 それはエルフの血でも混じっているのかと思うような細面の、それでいてたくましさも備えている青年で、キュルケも思わず軽く頬を染めるほどの美丈夫だった。

 

 こんな美形がこの会場にいただろうかと思って尋ねてみると、つい先ほど元レコン・キスタ軍の陣地の方から用向きがあってやってきて、好意でこの場に参加させてもらっているのだということだった。

 つまりは敗戦した側の人間ということだが、少し話してみた結果、キュルケはあっさりと予定を変更してその男を誘う相手にすることに決めた。

 その男はただ見た目が美しいだけでなく、快活で機知に富んでいたし、女性の扱いにも慣れているようでとても紳士的だった。

 それよりも何よりも、話している間に自分の中に微熱が灯ったのを感じたのが決定打だった。

 何といっても自分がその時恋している相手こそが、その時の自分にとっては世界一いい男に決まっているのだから。

 

 で、さっそくその男に誘いをかけて、快く受け容れられて。

 今この場にいない競争相手のことを思い浮かべて、明日顔を合わせたら大いに自慢してやろうと勝ち誇りながら、意気揚々と部屋に連れ込んでみたところ……。

 

 

 

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「……ええ、見たとおりですわね。……で! なんでまた、男に化けて私に声をかけたりなんて悪ふざけをなさったのかしら!?」

 

 ウィルブレースは向こうの会場で歌い終わった後、見目麗しい人間の青年の姿に変身してキュルケに声をかけ、彼女からこの部屋に招かれた後にそれを解いて正体を現したのであった。

 

「悪ふざけだなんて、そんな。もちろん、素敵な相手を捕まえるために決まっているではないですか。私は大真面目ですよ?」

 

 問い詰められたウィルブレースは平然とそう答えながら椅子に腰を下ろすと、会場から土産に頂いてきたシャンパンの栓を開けて、キュルケの前に置いたグラスに注いだ。

 それから、にっこりと微笑む。

 

「こうして私はあなたを、そしてあなたは私を、それぞれ捕まえたわけですね。それで、どちらの勝ちなのでしょうか?」

 

(……ぐっ……)

 

 キュルケは一瞬言葉に詰まって、苦々しげに顔をしかめた。

 

 確かに、言われてみれば「捕まえる相手が男でなければいけない」などという決まりはなかったわけだが。

 この状況で自分の勝ちだと主張すれば、相手の方がこちらよりもいい女だと認めることになり、そんなことを誇り高きツェルプストー家の娘であるこのキュルケができるはずがない。

 しかし、自分の方がいい女だと主張するならば、この勝負は彼女の勝ちとなる。

 もちろん、ここで腹を立てて彼女を追い返したりしたなら、お互いに相手を捕まえられなかったということになって、二人とも負け……。

 

(つまり、最初からそういうつもりだったわけね?)

 

 キュルケは、内心で歯噛みをした。

 この女には初めから本気で勝負をする気などなく、ただこちらをからかうだけの腹だったのか。

 まさかこの自分が、まんまとしてやられるとは。

 

 確かに宴の間は退屈しなかったし、この予想外の趣向には心から驚かされた。

 騙されたとはいえ不快なわけではない、気付かなかった自分が間抜けなのだ。

 

 だがしかし、たとえそうであっても、してやられたままで済ませるというのはツェルプストー家の女としての沽券にかかわる。

 自分に挑戦をもちかけたときには親しげなくだけた口調になっていたくせに、今はまた元のすました丁寧な調子に戻っていることも、なんとも気に食わなかった。

 

(……ふ、ふふふふ……)

 

 キュルケの心の中で、情熱の炎が急激にめらめらと燃え上がっていく。

 

 面白いじゃないの。

 大方、この後は引き分けだとでも言って穏便に終わらせるつもりなんでしょうけど、そうはいかないわ。

 

(もっと本気で、こっちの相手をせざるを得ないようにしてやるんだから)

 

 この私を、キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーを子供扱いすると、どうなるのか教えてやる。

 そんな彼女の心中に気付いているのかいないのか、ウィルブレースは沈黙を保ったままのキュルケに対して、くすりと笑って肩をすくめた。

 

「……どうやら、結論は出なさそうですね。では、今回は勝負なしということで。寝酒にそのシャンパンでも傾けて、翌朝に備えて休んでくださいな」

 

 そう言って席を立とうとするウィルブレースの手を、キュルケの腕がしっかりと押さえる。

 そのまま身を乗り出して、彼女の体をぐいと押すようにしながら、半ば威圧するように、半ば誘惑するように、その顔を間近で覗き込んだ。

 

「あら?」

 

「せっかちね。一夜も明かさずにどちらの方がいい女か結論を出すなんて、早すぎるでしょうに」

 

 そう言うキュルケの目には、いつの間にか野生の獣のごとき危険な輝きが宿っていた。

 きょとんとしたようなウィルブレースの様子を見て、にやりと不敵な笑みを浮かべる。

 

「大体、レディーの部屋に招かれて何もせず早々と帰るだなんて、失礼だとは思われませんこと? この際、まどろっこしい駆け引きはやめて、相手を情熱で焼き尽くせた方が勝ちということではどうかしら」

 

 ウィルブレースは目をしばたたかせて、小さく首をかしげた。

 

「……はあ。つまり、このまま私と夜を明かすつもりなのですか? 後悔されませんか?」

 

「後悔も何も、部屋に連れ込んだ時点で、私にそのつもりがなかったとでも思うの? そちらこそ、こんないたずらを仕掛けておきながら、心の準備ができてなかったのかしら。まあ、そんな腰抜けと夜を明かしても仕方がないし、尻尾を巻いて退散されるというのなら、それでも構いませんけれど?」

 

 キュルケは鼻を鳴らして、挑発的にそう言った。

 

 が、直後にウィルブレースの目を間近で見て、ぎくりとする。

 手酷い挑発を受けるや、彼女の目にもキュルケのそれと同じような、いやそれ以上の危険な光が宿ったからだ。

 

「まさか? まだ二十歳にもならない小娘を相手に大人気ないかと思って、逃げ道を用意してあげようとしただけよ」

 

 満面に獰猛な笑みを浮かべてがらりと口調を変えたウィルブレースが、思わず怯んだキュルケを一瞬で押し退け、逆に押さえつけるように体勢を入れ替えた。

 

 長身とはいえごく細身の体型、しかも女性であるにもかかわらず、その腕から感じられる膂力はキュルケがそれまでに寝床に誘い込んだどんな男よりも強い。

 それでいて、決して乱暴ではなく、ただ相手を押さえつけるだけでその体を傷めない手慣れたやり方。

 まるで、しなやかさと力強さとを併せ持った猫科の猛獣のようだ。

 

「でも、逃げずに噛み付いてこようというのなら、仕方がない……」

 

 目を細めてくすくすと笑いながら、からかうように、嬲るように、目の前の無力な少女の頬をなぞる。

 その振る舞いからは、自分は男も女もそれ以外もとう知り尽くしているのだといったような風格が、その目からは本物の余裕が感じられた。

 

 ぞくりとした感触が、キュルケの背筋を走り抜ける。

 

(……も、もしかして、やばい相手に喧嘩を売っちゃったかしら?)

 

 同じ野生の獣でも、自分が子猫だとしたら彼女は獅子、いやドラゴンだろう。

 百戦錬磨だなどといっても、自分は確かにまだ二十歳にもならぬ。

 これまでに相手にしてきたのはその凡そが、同じ貴族社会の軟弱で経験の浅い若者か、年配ではあっても欲望丸出しの御しやすい男ばかり。

 もちろんツェルプストー家の女として、それ以外の相手でも手玉にとれるように手ほどきを受けてはいるが、いま目の前にいるような難敵を実戦で相手にするのは初めてであった。

 

「確かに、お行儀のいい天使さまじゃないみたいね……」

 

 キュルケは緊張して思わず喉を鳴らしたが、それでも不敵な笑みを崩さなかった。

 ともすれば蛇ににらまれた蛙のように萎縮してしまいそうになる自分に、なんの、相手が手強いほど燃えるじゃないの、と言い聞かせる。

 

 とはいえ、このままでは明らかに分が悪そうだ。

 どうにかして、事前に自分の有利に持ち込む駆け引きをしなければ。

 

「……ところで。始める前に、さっきの姿に戻ってくれませんこと?」

 

 自分の頬をなぞるウィルブレースの手をぐっと押さえて、キュルケはそう提案した。

 

「あら、今の私はお嫌いかしら」

 

「まさか。でも、私はさっきのあなたをここへ誘うことに決めたのよ? もちろん中身が一番大切ですけれど、買った後でラッピングを展示してたのと別の物に変えることはクレーム案件だわ」

 

 ウィルブレースは苦笑した。

 

「買った品物を楽しむときには、ラッピングを外すのが普通だと思うけど……。まあ、いいでしょう」

 

 私はどちらでも構わないから、と言って頷くと、目を閉じて精神を集中させる。

 ほんの数秒の内に、彼女は先ほどの美青年の姿に戻った。

 

(ふふん、あっさりと挑発に乗ってくれたじゃないの)

 

 キュルケは、内心でにんまりと笑みを浮かべた。

 

 男の相手なら、手慣れたものだ。

 いくら経験が豊かだろうが、雄の体なんてのは所詮、ほんのささやかな慰撫でいとも容易く手玉にとれるたわいのないものである。

 それに、なんといっても元は女性なのだから、男の体を扱う方が不得手には違いないだろう。

 

「それじゃ、先に音を上げた方が、あなたが注いだグラスを乾すのよ。相手の勝利を称える祝杯ね!」

 

 そう宣言して、自分を床に押し付けるウィルブレースの顔にゆっくりと手を伸ばした……。

 

 

 キュルケは幽鬼のようにふらふらとテーブルに歩み寄ると、そこに置かれていたグラスを掴み取って、一言も発さずに中身をぐっとあおった。

 

「……ぷはっ! はぁ、はぁ……、はあぁー……」

 

 一気に飲み乾してようやく人心地のついた彼女は、豊かな胸を弾ませて荒い息を吐きながら、崩れ落ちるようにその場にへたり込む。

 水分を求めるあまり這いずるようにしてここまでは来たものの、一度その渇望が満たされてしまうともう体が鉛のようで一歩も動けず、足も腰もまともに立たなかった。

 その肌がひどく汗ばんで紅潮しているのは、アルコールのためではあるまい。

 

「私の勝ちのようね?」

 

 対照的に、勝負がついたと見るやさっさと元の姿に戻ったウィルブレースの方は勝ち誇った笑みを浮かべて、余裕たっぷりといった風情だった。

 肌の色艶がやや増したように思える他は、勝負前となんら変わりがない。

 

(……ぐっ……)

 

 キュルケは屈辱と羞恥で一層頬を赤らめながら、彼女の方を睨んだ。

 が、ただ見つめ返されただけでどきりとしてまともに目を合わせていられなくなり、悔しげに顔を逸らす。

 

 先ほどは彼女に完全に翻弄され、体内を荒れ狂い続けた熱のためにすっかり体が乾き切ってしまって、屈服することになるとかなんとか考える余裕もなくただ水分を求めて必死でグラスを乾してしまったのである。

 これほどまでに屈辱的、かつ刺激的な経験は初めてだった。

 相手を焼き尽くして屈服させてやるつもりが、体の芯まですっかり焦がされ、魂までも融かされそうになったのはこちらの方……。

 

(なによ、こんなの反則じゃないの)

 

 と、キュルケは内心で負け惜しみめいた愚痴を吐いた。

 

 勝負をしようにも、体格とか筋力とか器用さとかの差でこっちは完全に押さえ込まれてしまって、技巧を活かすどころか反撃することもままならないし。

 おまけに向こうの耐久力は底なしかと思うほどで、まるで疲れを知らないようだし。

 本当に、猫科の大型猛獣とでも取っ組み合っているようなものだった。

 身体の基本性能が高いということは、戦いに限らず何をするにしても圧倒的に有利なものなのだと痛感させられる。

 おかげでこちらは一方的に蹂躙されるばかりで、向こうがあえてそれを許したとき以外はろくに抵抗もできなかったのである。

 

 とはいえ、それを差し引いてみても、彼我の技量には明らかに大きな開きがあることも認めざるを得なかった。

 どうにもこうにも、自分とこの女とでは、年季も経験も違い過ぎるらしい。

 

「……ええ、そうみたいね。今夜のところは」

 

 それでも、キュルケはややあってどうにかして気持ちを切り替えると、ウィルブレースのほうを真っ直ぐ見ながら普段どおりの態度を繕った。

 素直に負けを認めて相手の足元に屈服するだなんて、誇り高きツェルプストー家の娘にはありえないのだ。

 

「初戦負けは認めますけれど。でもいずれ、このお返しはいたしますわよ?」

 

 いまだ快楽の余韻に上気したままの疲れ切った体を無理に起こし、つんとしてそう言うキュルケを見て、ウィルブレースはくすりと微笑んだ。

 それから、瞬間移動で出し抜けにキュルケの目の前に移動し、面食らった彼女の顎を指先で弄ぶ。

 

「いずれと言わず、今ではどう? 疲れや精力くらい、私がいくらでも回復させてあげるから」

 

 目を細めながらそう言うと、さっそく《重症治癒(キュア・シリアス・ウーンズ)》の疑似呪文能力を用いて彼女の全身に蓄積した非致傷ダメージを取り除き、身体の疲労を回復させてやった。

 

 高位のエラドリンであるトゥラニは、回数無制限でこの治癒能力を用いることができるのである。

 もちろん他人にかけてやるだけでなく、自分自身を回復させることだってできる。

 だから事実上、スタミナ切れはないのだった。

 

「ね。時間はあるのだし、まだまだ楽しませてあげられるわよ?」

 

 にこやかに、そう提案する。

 快く爽やかな感覚が全身に広がって、鉛のようだった体が見る間に軽くなっていったキュルケはしかし、苦々しげに視線を泳がせた。

 

「……その。それは、ちょっと……」

 

 その申し出に飛びつきたいと、間違いなく心のどこかで思ってはいた。

 

 自分の欲望に振り回されている退屈な男達とはまるで違う、自分の欲求を満たすことよりもこちらを楽しませることを第一に考えている卓越した技量をもった相手との交わりはあまりにも刺激的で、負けた悔しさにも関わらず強く心惹かれるものがあった。

 もちろん、中身が同性ということも含めて色々と思うところはあるのだが、それを差し引いても極めて魅力的な相手には違いない。

 

 でも、だからこそ、危険な相手でもある。

 このままもう一度彼女と寝床を共にしたりしたら、自分がどうなってしまうかわからない。

 

 キュルケは、それが不安でならなかった。

 あるいは、今度こそ完全に侵略され、蹂躙され、屈服させられて、意思を放棄させられてしまうかもしれない。

 彼女の求めに従順に従い、それを幸せだと感じるようになってしまう……。

 

(……っ!)

 

 そんな自分の姿を想像して、キュルケは思わず身を震わせた。

 

 恋はいい、恋の微熱は何ともいいものだ。

 わくわくして、どきどきして、夜も眠れなくなって。

 でも、自分の方が相手に完全に夢中になってしまって、首輪をはめられて意のままにされる側になるだなんて、冗談じゃない。

 ツェルプストー家の女ともあろうものがそんな惨めな負け犬のような姿を晒すことは、死よりも辛い恥辱である。

 

 彼女はこれまで男と付き合う時には、必ず自分よりも相手の方を夢中にさせるようにしてきた。

 そうして相手が完全にこちらの虜になって、ご機嫌取りにばかり精を出すようになってきたら、じきに微熱も冷めてぽいしてしまうのが常だった。

 それが彼女にとっての恋、男女の仲というものであり、つまりは気に入った相手を夢中にさせて、意のままにその手綱を取れるようになるまでの過程を楽しむゲームなのである。

 

 だから、何かしらはっきりした勝算が立てられない限り、二度と彼女と夜は共にしない。

 負けの見えたゲームをするわけにはいかない。

 とはいえ、その勝算が見えてきそうなあては、今のところ何もないが……。

 

「……そのうち、気が向いたら。そのときは、こっちからお願いするわ」

 

 苦虫を噛み潰したような顔でそう言う彼女の顔をしげしげと眺めながら、ウィルブレースは小首を傾げた。

 

「そう……」

 

 言うまでもなく、優れたバードであり善と自由の大義に仕えるエラドリンでもある彼女には、キュルケを本気で虜にして隷属させてやろうなどと言う気はこれっぽっちもない。

 確かに勝敗のある賭けなどをもちかけはしたが、それはあくまでも彼女を楽しませ、サプライズを用意するためのものであって、それ以上の何かではなかった。

 だから、勝敗などには元よりそうこだわってもいない。

 大体、色恋沙汰には本来勝ちも負けもなく、互いに対等な間柄で、相手のことを思いやって楽しみ合える関係であるのが最も望ましいだろう。

 

 しかし、キュルケにとってはそうではないのかもしれない。

 

 彼女にとって恋とは勝ち負けのあるゲームであり、相手に自分を求めさせること、自分が主導権を握って相手を操ることが勝利で、自分が相手を求めていると認めること、相手に主導されることは敗北なのであろう。

 生殺与奪の権利を相手に握られるのが嫌、相手に歓びを恵まれるのが嫌。

 歓びは自分が相手に恵んでやるもので、自分の方がそれを欲しい時には、好きなように相手から引き出すもの。

 とはいえ、別にデヴィルのように手酷く相手を支配することを求めているというわけではなく、ただ好みの問題として自分が上位に立って相手をリードできないのは嫌だというだけなのだろうが。

 

 ウィルブレースとしても、彼女の精神の自由さや、誇りの高さは好ましく感じられるものだった。

 ただ、いま少し懐を広げて、相手を対等の存在として重んじることができれば、もっと楽しく過ごせるだろうにと思う。

 

(歓喜と情熱の女神、ラスタイよ。彼女が支配することの愉悦ではなく、対等な愛情を抱き合うことの真の喜びを、いずれ見出せますように)

 

 ウィルブレースは胸の前で小さく手を組むと、自分の信仰する神の一柱に、心の中でそう祈りを捧げた。

 できることなら自分が、彼女がそれを見出すきっかけとなれればよいのだが。

 

 それから、床に散らばっていた服を《念動力(テレキネシス)》で持ち上げて運び、キュルケの肩にかけてやる。

 

「なら、いい加減にその目の毒になる形のいい胸を見せつけるのはやめてくださる? 汗もかいたことだし、湯浴みをしに行きましょうよ」

 

 

「……あら?」

 

「まあ」

 

 浴場で湯浴みを終えて、さて少しは寝ておこうかと自室に向かっていたキュルケとウィルブレースは、ふと窓の外を見て意外な人物の姿を発見した。

 

 まだ早朝だというのに、ディーキンがとことこと城外の丘を歩いている。

 そしてその後ろを、タバサが静々とついていく……。

 

「デートでしょうか」

 

「デートね」

 

「ずいぶん朝が早いですね」

 

「こんな早くから二人でいるってことは、夜になにかあったのよね?」

 

「私たちのように、ですか。さて、それはどうかわかりませんが……」

 

 二人はどちらからともなく顔を見合わせると、互いににやにやした笑みを浮かべた。

 

「ねえ、私たちも外に散歩に行きましょうよ。ディー君なら、きっといい散歩コースを知ってると思うのよね」

 

「彼の後をつけるのですか。しかし、お二方のデートの邪魔はしたくありませんね」

 

「あら、あなたなら見つからずに後をつけられるような魔法の一つや二つくらい、使えるんでしょ?」

 

「ええ、もちろん。二人の邪魔をしないためには、仕方がありませんね?」

 

 エラドリンは、人に害をもたらすような悪意のある行為はやらないが、お邪魔をせずにこっそりと楽しむのは別にいいのである。

 そんなわけで、彼女らはそのまま窓から抜け出すと、こっそりと二人の後をつけていくことにしたのだった……。

 





ラスタイ:
 D&Dのサプリメント、「高貴なる行いの書」でその存在が言及されている混沌にして善の神格。
彼女は喜び、愛、情熱の女神であり、極めて肉感的だが魅惑的でも不道徳でもない美しい女性の姿として描かれる。
その教義は対人関係の平等さに重きを置き、暴飲暴食ではない食事の楽しさ、怠慢ではない休息の楽しさ、強欲ではない贅沢の楽しさ、そして搾取ではない性交の楽しさを説く。
彼女に仕える司祭たちは教えに従って積極的に人々が愛や喜びを見つけ出す手ほどきをするため、その寺院は「飾り立てた売春宿以外の何物でもない」などといった不当な陰口を叩かれることもあるという。
ラスタイの聖印は桃で、好む武器はグラスピング・ポール(敵を傷つけずに制圧するための非殺傷性の長柄武器で、いわゆるさすまたのようなもの)。


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第百四十六話 Watching over

 

「ディーキンは、よくここで景色を眺めてたの」

 

 ニューカッスル城の傍にある小高い丘にのぼると、ディーキンはタバサに周囲を見渡すように勧めた。

 

 まだ弱い朝の日差しの中で、きらきらと輝く城の尖塔、鮮やかな緑の木々。

 なだらかな斜面を覆う緑のカーペットは、吹き抜ける風によって穏やかに波打っている。

 

「きれい……」

 

 タバサの口から、素直な感想が漏れた。

 あまり景色などを楽しむ習慣のない彼女も、その美しい眺めにしばし見とれる。

 

 ディーキンは、そんな彼女の反応を見て嬉しそうにうんうんと頷いた。

 

「でしょ? ここへ来てすぐに見つけた場所なの。天気とか時間とか風の吹き方とかでいつもちょっとずつ違うから、何回見てもいいんだよ」

 

 そう言いながら、彼は楽しげに目を輝かせる。

 

「ディーキンは、今日で最後なのがちょっと残念だな……。でも、次に行くところにも、きっときれいな場所があるよね?」

 

 その目は、目の前の景色だけでなく、どこかもっと遠くを見ているようでもあった。

 

 そんな彼の姿が、タバサにはなにか近くて遠い、眩しいものであるように感じられた。

 ここへ来て以来、ディーキンははずっと忙しそうに動き回っていたから、そんな暇はなさそうに見えたのだが。

 しかし実際には、どんなに多忙でも、過酷な戦いの最中であっても、そういったものを楽しめるだけの心のゆとりが彼にはあるようだ。

 

(この人は、これまでにどれだけたくさんの美しいものを見てきたのだろう)

 

 その目が、今は自分に向けられている。

 

 彼の目に、自分はどのように映っているのだろうか。

 この景色の何分の一かでもきれいだと、そう思ってくれているだろうか。

 

「…………」

 

 タバサは無意識に、どきどきと高鳴る自分の胸を押さえた。

 そんな彼女の様子に気付いているのかいないのか、ディーキンはふと思いついたように話題を変えた。

 

「ねえ、タバサがこれまでに見てきたことを教えてよ」

 

「……私が、見てきたこと?」

 

「そうなの。タバサは、これまでに何回も、大変な任務を引き受けて来たんでしょ?」

 

 タバサは、控えめにこくりと頷いた。

 彼自身が潜り抜けてきたという数々の冒険と比べれば、自分のそれなどはおそらく何ほどのものでもないのだろうから。

 

「それなら、きっといろいろな場所に行って、たくさんのものを見たことがあると思うの。ここみたいにきれいなところもあったでしょ、それを聞かせてくれない?」

 

 そう言われると、タバサは少し俯いて顔を曇らせた。

 

(きれいな景色……)

 

 そんなものは、父が死んだ頃以来見た覚えがない。

 

 確かに彼のいうように、任務でさまざまな場所へ赴きはした。

 でも、どの場所も記憶には残っていても、美しいものとして印象に残ってはいない。

 いつでもどこでも、考えていたのは母の心を取り戻すことと、父を殺された復讐をすることばかり。

 たまの余暇の楽しみは、しばし辛い現実から離れて大好きな本の世界に浸ることで、現実の世界は灰色に色褪せていた。

 そうでなくても、生き延びるために、そして目的を成し遂げるために、少しでも知識を身につけようと本を開いてばかりいて、景色なんてろくに見もしなかった気がする。

 

「……ごめんなさい。あまり、景色は見なかった。余裕がなかったから」

 

 自分には、彼のような心のゆとりはもてない。

 それは、いわゆる生まれつきの器の違いというものなのだろうか。

 それとも、彼が誇らしげによく話して聞かせてくれるような頼れる仲間たちが、自分にはいなかったからだろうか……。

 

 ディーキンはしかし、その返事に特に失望したふうでもなく、むしろ感心したように頷いた。

 

「ウーン、そうか。タバサはいつも真面目で一生懸命だから、わき目もふらずに頑張ってたんだね。……じゃあ今度、ディーキンと一緒に、もう一度見に行かない?」

 

「……え?」

 

「だって、せっかく行った場所なのによく覚えてないなんてもったいないと思うの。ディーキンを案内して、そこでどんなことがあったのか聞かせてくれない?」

 

 ディーキンはにこにこと、人懐っこい笑みを浮かべてタバサの顔を見つめる。

 

「図々しい頼みだって思われるかもしれないけど。ディーキンはいつか、人に話しても大丈夫になったらそれを本に書いて出版するの。『タバサの冒険』だよ。それに、昔は大変だったかもしれないけど、もう一度行ってみたらきっと懐かしいと思うの」

 

「…………」

 

 真っ直ぐに自分の顔を見つめながら、熱心にそう提案してくる彼の顔を見ているうちに、タバサは自分の心も温まってくるような感じがした。

 

 ああ、そうか。

 彼は、いつでもすごいねと言って、心から相手のことを肯定する。

 楽しいこと、美しいもの、わくわくするような何かを、どんな時でもどんな場所でも探し出そうとする。

 そしてそれを、人と共有したいと願っている……。

 

「だめ?」

 

 タバサは首を横に振って、ほんの少しだけ微笑み返した。

 

 確かに、母のため、復讐のために、あてもなく終わりも見えない灰色の日々を送る生活は概ね終わったのだ。

 任務ではなく、もう一度行ってみたら、楽しめるかもしれない。

 たとえそうでなくても、彼と一緒なら、きっとどこだって楽しいだろうけれど。

 

「私も、また行ってみたいと思う。アルビオンから戻ったら、案内する」

 

「ありがとうなの! じゃあ、もしよかったら、行く前に、特に印象に残った人のお話とかを聞かせて。ディーキンはその間に、ここで見つけたきれいな景色の見られる場所をみんな案内するよ!」

 

 そんな具合に、朗らかに歓談を続けながら、ディーキンとタバサはのんびりと散歩を続けた……。

 

 

 そんな彼らの様子を、遠くからこそこそと窺う女性が二人。

 言うまでもなく、キュルケとウィルブレースである。

 

「一体、いま何を話してるのかしら? ……ああ、もどかしいわね!」

 

 キュルケは、いささかやきもきしていた。

 

 二人ともウィルブレースの手によって透明化している上に、なるべく物陰に隠れるようにしながら数十メイルも離れて後をつけているので、感知能力に優れたタバサやディーキンにも見つかるおそれはほとんどない。

 が、しかし。

 もちろん、それだけの距離が開いている上に多少ながら風が吹くことによる雑音まで混じっているとあっては、二人がいま何を話しているのだか彼女に知る術はなかった。

 

「やっぱり、もうちょっと近づいてみようかしら……」

 

「おやめなさい、近づきすぎるのは危険ですよ。少なくともディーキンには、間違いなく見つかります」

 

 ディーキンのような、完全なドラゴンの種別を得るまでに修練を積んだドラゴン・ディサイプルの備える非視覚的感知能力の有効射程は六十フィート(約十八メートル)である。

 一歩でもその範囲内に踏み込んでしまえば、たとえ透明化していようとも、何者かがそこに存在するということに確実に気付かれる。

 

「もちろん私どもは、見つかって困るようなやましいことをしているわけでは決してないですが。お二人の邪魔をすることになりますから……」

 

 ウィルブレースはそう言うと、彼女のために、自分が聞き取れた話の内容をかいつまんで説明してやることにした。

 

「……と、いったような話をしていますね」

 

「和やかねえ。まあ、あの二人らしいといえばらしいけど……。一夜を共にした後なら、もうちょっと艶っぽい話をしててもいいでしょうに!」

 

「いいではありませんか。初心な少年少女の頃に見えていたものは真実ではないかもしれませんが、その頃にしか見えないものであることも確かです。きっと、素敵な経験になりますよ?」

 

 微笑みながら自分をなだめるようにそう言うウィルブレースに対して、キュルケはいかにも面白くなさそうな顔をする。

 

(何よ、さっきあんなことまでしたくせに、今度は年寄りみたいな口をきいて。情熱が冷めたら、私なんか子ども扱いってわけ?)

 

 まがりなりにも一度は対等の立場で競い合い、情熱を交わし合いもした相手から、そんな年長者ぶった諭すようなことを言われるのは当然面白くなかった。

 事実として彼女の方が自分よりもずっと年長で知見も遥かに上なのだと知ってはいても、いつかは自分の方が優位に立って傅かせてやろうと意趣返しの機会を窺っている身としては、少なくとも対等な立場でいたいと思うのは当たり前のことである。

 

 とはいえ、キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーともあろうものが、そんなみっともない不満を口に出せようはずもない。

 いずれその余裕を剥ぎ取って、今度こそ情熱の火で焼き尽くしてやるのだと自分に言い聞かせて、キュルケは内心の不満を努めて抑え込みながら話題を変えた。

 

「……にしても、あなた。こんなに離れてるのに、よくそんなに詳しく聞こえるものね?」

 

 やっぱりなにか魔法を使ってるのかしら、というキュルケの問いに、ウィルブレースは首を横に振る。

 

「いえ、普通に聞こえているだけです。私どもは耳がいいので」

 

 実際、トゥラニ・エラドリンの<聞き耳>能力は高く、普通の話し声くらいなら50メイルやそこら離れていても余裕で聞き取れるくらいに、彼女の耳はいいのである。

 魔法による念視などと違って、普通に聞いているだけなので対抗呪文による妨害を受けることもない。

 

 先日彼女が単身で万を超す敵がひしめくレコン・キスタ陣営に潜入し、長時間にわたる工作を無事に終えて帰還できたのも、ひとつにはこの鋭い聴覚があったからだ。

 いくら姿を消して行動していてもそれを発見しかねないような相手というのはいるものだが、事前に敵兵の存在を察知して可能な限り近づかないようにしていれば、見つかる危険は格段に減るのだから。

 

「そう……便利なものね」

 

 キュルケは、そう言って肩をすくめる。

 それから、半目でウィルブレースの方を睨んだ。

 

「これまで何を盗み聞かれてたのかと思うと、あんまりいい気分はしないわね。今度から、あなたが同じ建物にいる時にはおかしな音や声を立てないように気を付けておくわ」

 

「盗み聞きだなんて、そんな。普通にしていても聞こえてくるというだけですよ?」

 

「自然に聞こえてくるだけだとしても、こっちの秘め事まで勝手に聞かれてることに違いはないじゃないの」

 

 こっそり親友のデートを覗き見ようとしている自分のことを棚に上げてそうのたまうキュルケに、今度はウィルブレースの方が苦笑して肩をすくめる。

 

「普通の人間の感覚では、そういうものなのかもしれませんね。ですが、私にとっては本当に、ただ普通に生活していても聞こえてくるだけのことなのですから、それに文句を言われましても……」

 

 ウィルブレースは元エルフであり、エルフは個人のプライバシーは最重要事項であると考えるから、キュルケの言い分もわからないではない。

 しかし、勝手に他人の家に入ったり許可なく手を触れたりして文句を言われるのはともかく、普通にしていて聞こえてくるだけのものや野外を歩いていて普通に見えるだけのものなどに文句を言われても、それは人間が「常に目と耳を塞いで生活しろ」といわれるようなもので、ウィルブレース本人からしてみれば不当かつ不躾な要求でしかないのだ。

 もし仮に、視覚をもたないグリムロックのような種族から、「その目とやらで許可もなく人の姿をじろじろ観察するなど失礼極まりない、塞いでおいてもらいたい」などと言われたら、人間だって「そんなのは言いがかりだ、目を閉じて生活しろなんて要求する権利がそちらにあるものか」と憤慨することだろう。

 

 同じエラドリン同士で生活する場合にはそのくらい耳がいいのが普通のことだとみんな知っているし、全員が混沌と善の属性をもち、解放的で人の弱みに付け込んだりなど決してしないから、別に生活するうえで普通に立てるような物音や日常の会話などを聞かれても誰も気にしない。

 そしてエラドリンには、罪のないちょっとしたサプライズのためとかいった範囲を超えて、同族に本気で隠し事などをしなくてはならないというケース自体が滅多にない。

 善なる心には後ろ暗い隠し事などないし、自由奔放な彼らは、デートであれ睦言であれ、他人に知られても何の恥でもないと考えている。

 素直な心の赴くままに、真摯な愛情の結果として行われた行為が、どうして知られてはならぬような恥であろうか。

 それでも、ごく稀に本当に他人に聞かれては困るような話をしなくてはならなくなった場合には、近くに人のいない場所に行くなり、魔法で音を遮断するなり、自己責任で気を配るのが当然である。

 聞かれて困るような話なら、それを他人に悪気なく聞かれてしまいかねないような場所で無頓着にする方に問題があるのだ。

 

 同様のことは、他の種族にも言えるだろう。

 

 たとえば、人間も含め大概の種族は、他人の心の中を勝手に読むなど破廉恥で無礼極まりない行為だと考える。

 しかし、生来他人の心の中を読める能力をもつ一部の種族にとっては、心を読むのは見たり聞いたりすることと同じくらい自然な行為である。

 そのような種族の代表格であるイリシッド(マインド・フレイヤ―)などは、他人の心を読むこともテレパシーで会話することもできない人間のような種族を精神的な不具者であり、下等種族であると言って蔑んでいるのだ。

 とはいえ、イリシッドについて言えば彼らは邪悪極まりない種族なので、ウィルブレースとしてもその言い分を認める気はないのだが。

 

 それにディーキンも、おそらく非視覚的感知の能力を別にしても、自分と同程度のことができるくらいには耳がいいだろうとウィルブレースは考えている。

 

 周囲の危険を素早く察知することが重要な冒険者にとって、<聞き耳>はごく一般的な技能である。

 特に彼のような高レベルの冒険者であれば、トゥラニのような上位のエラドリンと比較しても、技量面では決して引けを取らないはずだ。

 もちろんウィルブレースはそのことを考慮に入れて、キュルケとはごく小さな声で密かに話しているし、音が流れにくいように彼らよりも風下の方から尾行しているし、いくつかの呪文を用いて隠密性をさらに高めてもいる。

 しかもディーキンはタバサとの会話に気を取られているし、特別に誰かいるのではないかなどと疑ってあたりを警戒しているというわけでもない。

 そういった条件の上でウィルブレースよりもかなり不利なために、彼の方では数十メートルも離れたところから尾行してくる彼女らの存在には未だ気付かずにいるのである。

 

「……そうですね。誓って言いますが、私はあなたについても、他の方々についても、大したことは何も聞いていません。もし聞いてはいけないような秘め事や大切なことが耳に入ったとしても悪用などしませんし、忘れるよう努めます。本人の前でも、何も知らないように振る舞います。お約束できるのはそのくらいです」

 

 キュルケは、それでもなお不満そうな顔で何か言いかけた。

 

 しかし、その時突然ウィルブレースが真顔になり、その目が鋭く細められた。

 その急変に戸惑う間もなく、彼女はいきなりキュルケの口を押えるとその体を抱えるようにして、手近の物陰へさっと引きずり込む。

 

「な、何を……?」

 

 突然そんな行動をされてどぎまぎするキュルケに、ウィルブレースは口の前で指をぴっと立ててみせた。

 

「……静かに」

 

 小さくそう言うと、目を閉じてじっと耳を澄ませ始める。

 その真剣な様子に、キュルケも戯れでない何かがあったのだと察して、口をつぐんだ。

 

 ややあって、ウィルブレースは目を開いた。

 

「どうやら、私などよりもっと性質の悪い覗き屋がいるようです。様子を見てきますから、あなたはしばらくここに」

 

 そう言いおくと、彼女は精神を集中させて、どこへともなく姿を消した。

 

「……なによ、もう」

 

 後に取り残されたキュルケは、彼女に力強く抱き寄せられて物陰に引き込まれたときに一瞬何か違うことを期待した自分に気が付いて、誰にともなく小さく毒づいた。

 

 

 

 ディーキンらが歩いている場所や、キュルケが潜んでいる場所からやや離れた枯れかけた木の梢に、一羽のフクロウがとまっている。

 

 時折きょろきょろと首をめぐらして、あたりに何か餌はないものかと探しているように見えた。

 一見すると、特に何の不自然もない普通の鳥である。

 しかし、近くで耳を澄ませてみれば、その体内からかすかに歯車の軋むような、奇妙な音が聞こえてくるのがわかるだろう。

 

 そいつが突然何かに引っ張られたように木の枝から落ちて、その下の方にある岩陰に引っ張り込まれた。

 

「まったく、無粋なフクロウね」

 

 あらかじめ瞬間移動してその岩陰に潜んでいたウィルブレースの念動力によって引き寄せられた梟は、たちまち彼女の手に収まる。

 ウィルブレースは直接触れてそいつが間違いなく機械であることを確認すると、引っ掴んだまま問答無用で電撃を流し込み、その機能を完全に停止させた。

 

 それから、手早く内部の構造を確認していく。

 

 中には歯車がぎっしりと詰まっていて、まるでノームの作った奇妙なからくりのようだった。

 何らかの人造には違いないだろうが、これまでに見たことのない種類のものだ。

 おそらくは、こちらの世界のメイジが作り出した代物なのだろう。

 

(我々の動向や部隊構成などに関する情報をできる限り得るために、レコン・キスタ軍の残党かデヴィルどもが放たせたものか)

 

 好奇心の赴くままに出掛けただけの散歩であっても、こうして役に立つことがあるというわけだ。

 

「さて……。私も、あまり長くデートの相手を待たせては」

 

 

 

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『まったく、無粋なフクロウね』

 

 監視用ガーゴイルのひとつから送られてくる映像が突然乱れ、そんな女の声が聞こえてきたのを最後に、完全にブラックアウトする。

 

「ち……、もう気付かれたのか」

 

 離れた場所に潜んでそれらの映像を監視していたシェフィールドは、顔をしかめた。

 

 指輪で操った兵士たちからの情報だけでは不完全ゆえ、自分自身の目で確かめるべく隠密性の高い動物に擬態した監視用ガーゴイルをニューカッスル城の周囲に放ったのだが、一昼夜ももたないとは。

 一旦存在に気付かれてしまった以上は、残りのガーゴイルも除去されてしまうのは時間の問題だろう。

 

(まあいいさ、調査の糸口は掴んだ)

 

 破壊される直前に、あのガーゴイルは早朝の散策に出たと思しき一人の少女の姿を捕らえていた。

 

 遠目にもわかる鮮やかな、特徴的な青髪。

 あれほど見事な青髪の持ち主は、それだけでガリア王家の縁者ではないかと疑うに十分。

 そして、指輪の力で操った兵士たちから得た情報によれば、ニューカッスル城における絶望的なはずの決戦を目前に控えた頃に、トリステインから一団の援軍がやってきたのだという。

 

 それらの情報と、ガリア王ジョゼフの傍近く仕えるシェフィールドの知識を組み合わせれば、あの映像に映った少女の正体は推測が付く。

 

「北花壇騎士七号、シャルロット・エレーヌ・オルレアン……」

 

 直接会ったことはないが、王弟であるオルレアン公の娘だった彼女は、現在はトリステインにある魔法学院に通っているはずだ。

 父に謀反の疑いがかけられてその身分を剥奪された後、同様に罰を受けて心を壊された母親を守るため、王女イザベラに仕える北花壇騎士として任務を遂行していると聞く。

 

(それが、なぜこんなところに来ている?)

 

 これも、イザベラの出した何らかの気まぐれな任務の一環なのだろうか。

 もしそうでないとすれば、なぜ母を守るために常に任務に備えていなければならないはずの娘が、それとは無関係なはずのこんな危険な戦地へ来ているのか。

 

 まずは、そのあたりから調べていくとしよう。

 あの娘が確かにシャルロット・エレーヌ・オルレアンだとすれば、ガリア王ジョゼフとつながる自分は、いざとなればその名を出して彼女を貴重な情報源や手駒として使うことができるかもしれぬ……。

 

 

 

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 ウィルブレースはそれから一旦キュルケの元へ戻ると、戦利品を見せて事情を伝えた。

 その際の彼女の見立てによれば、これは確かにハルケギニアのメイジが作ったもので、この世界の魔法人形(ガーゴイル)の一種であろうとのことだった。

 

「では、散歩はこれまでですね。私はこのまま、他にも同じような魔法人形が放たれていないかあたりを探しますから。あなたは城へ戻って、念のため事情を伝えておいてください」

 

 まあ、先日あれだけ派手に戦った後なのだし、この城はもうすぐ立ち去る予定なのだから、向こうが何を見たいにせよいまさら城外の監視装置からの映像くらいで大した問題になるとは思えないが。

 とはいえ、できる限り情報を漏らさないためにも、念のためこの城から全軍を移動させる前にすべて除去しておくことが望ましいだろう。

 

「わかったわ。二人のデートの続きが見れないのが残念だけど、……あ、誰かにあなたの手伝いを頼みましょうか?」

 

「そうですね。……いえ、大丈夫です。みんな準備であわただしいでしょうし、私がやっておきましょう」

 

 手の空いているセレスチャルに頼んで手分けをすれば早いには早いだろうが、そうするとあたりが騒がしくなって、ディーキンらの散歩が中断されかねない。

 ウィルブレースとしては、さして緊急の事態でもないのに、初々しい二人の大切な時間の邪魔をするようなことはしたくないのだった。

 

 

「オオ。それじゃ、その人間のお兄さんと翼人のお姉さんとは、無事に結ばれたんだね?」

 

「そう」

 

 タバサは散歩をしながら、彼にせがまれて以前に解決した翼人討伐の任務のことを話していた。

 

 森に棲む翼人たちと対立するその地の村人たちから翼人討伐の依頼が出ていたのだが、両種族の愛し合う若者たちから戦いを止めてほしいと泣きつかれて、タバサは一芝居打って彼らを和解させることにしたのである。

 幸いその試みは上手くいき、最終的に討伐の依頼は取り下げられて、彼らも無事に結ばれることができたのだった。

 

「よかったの。やっぱり、愛に種族の差なんて関係ないからね!」

 

 昨夜のウィルブレースの話もそうだが、異なる種族同士がわかり合えたという実例を聞くと、コボルドにもきっとできるだろうという気持ちになれる。

 ディーキンは、いつかは自分の部族の元に帰って、コボルドという種族を人間やエルフなどの他の知的種族と互いに尊敬し合えるような仲間の地位に押し上げてやろうという大望を抱いているのだ。

 

「……うん……」

 

 にこにこしながらそう言うディーキンに、タバサはなぜか、かすかに頬を染めながらこくりと頷いた……。

 

 

 

 そうして景色を見たりおしゃべりをしたりしながらぐるりと城の近くを一回りして、二人は出発点の近くに戻ってきた。

 

「これで、大体の場所は見たかな。そろそろ、帰ろうか?」

 

 ああ、もう終わってしまう。

 そう思うとタバサは、ぎゅっと胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

 

 けれど、そんな内心をおくびにも出さずに、従順に頷いてみせる。

 

「わかった」

 

 そうしたつもりだったが、わずかに声や表情に感情が現れていたのだろう。

 ディーキンは小さく首を傾げると、じっとタバサの方を見つめた。

 

「……まだ、どこか見たいところがあったの?」

 

 気づかわしげなそのまなざしに、タバサの胸は高鳴る。

 自分の、そんな小さな表情の変化にまで気が付いてくれるのは、キュルケと彼くらいのものだ。

 

 タバサは彼の気遣いに心を動かされて一瞬何かを言いかけたが、俯いて口ごもった。

 

「まだ時間はあるの。今日でこことはお別れなんだから、行きたいところがあるなら遠慮しないで」

 

 そう言って促すディーキンに対して、彼女はしばしの逡巡の後に意を決したように顔を上げると、自分の望みを伝えた。

 

「……最後にもう一度、礼拝堂へ」

 

 そこであなたに話しておきたいことがあるからと、タバサは真っ直ぐにディーキンの顔を見ながらそう言った。

 





<聞き耳(Listen)>:
 周囲の音を聞き取るための技能で、関係能力値は【判断力】。
音の大きさや状況に応じた特定の難易度に対して、もしくは目標の<忍び足(Move Silently)>技能の達成値に対して判定を行い、それ以上の目を出せば音を聞き取ることができる。
 たとえば、100フィート(約30メートル)離れたところで普通の大きさの声でかわされる会話を、その内容まで聞き取るための難易度は、0(会話音に気付くための基本難易度)+10(距離10フィートごとに1増加)+10(音に気付くだけでなく内容の詳細まで聞き取る)=20、となる。
これは、特に技能を持たない平均的な能力値の人間(<聞き耳>判定基準値が0)の場合には、判定の出目が10(期待値)で会話が行われていること自体はわかるものの、その詳細な内容まで聞き取れるのは出目が最高値の20の場合のみだということである。
もしも会話が小さな囁き声でかわされているなら、これにさらに+15の補正が付いて難易度は35となり、技能判定には自動成功・自動失敗はないので、素人では絶対に聞き取ることができなくなる。
 作中に登場するウィルブレースはトゥラニ・エラドリンという種族だが、平均的なトゥラニの<聞き耳>判定基準値(技能レベルに【判断力】ボーナスを足した値)は28であり、これに1d20の出目を足すので最低でも29の達成値が保証されていて、出目10では38、最高値が48となる。
したがって、30メートルも離れた場所で囁き合われている会話でもごく普通に聞き取れる彼女は、特に何も意識しなくても常に周囲でかわされる会話を盗聴し続けているようなものだと言える。

グリムロック:
 地下世界アンダーダークに主に居住する人怪の一種。
彼らは筋骨たくましい人間と同程度の体躯を有し、肌は灰色で鱗状になっており、光のない地底での生活に適応しているため眼窩は虚ろで目玉がないが、鋭い嗅覚と聴覚によって近くのものを識別できる。
イリシッド、ドロウ(ダークエルフ)、アボレスなどの自分たちを餌や奴隷にする強力かつ危険な種族に満ちた地下世界で生活してきたため、大部分のグリムロックは異種族を信用せず攻撃的で、悪属性であることが多い。
しかし、信頼できる仲間であると認めた者に対しては誠実であることが知られている。

イリシッド:
 地下世界アンダーダークに主に居住する人怪の一種。
背丈は人間と同じほどだが、その弾力のある肌は青や緑がかった色をして粘液でてらついており、膨らんだ白い眼をした四本足の蛸のような不気味な頭部をもつ。
マインド・フレイヤ―(精神を砕くもの)とも呼ばれるこのおぞましい種族は、きわめて知能が高く、心底邪悪でサディスティック、かつ合理的な利己主義者であり、闇に住むすべての者から恐れられている。
個体数こそ少ないものの個々の能力では大概のドロウなど足元にも及ばないほど強力な彼らはアンダーダークにおける支配種族のひとつであり、ドロウなどの他の有力種族とは覇権を競ったり、時には同盟したりもするが、どうあれ心の中では他の種族はすべて下等生物であり、奴隷か食料か、でなければ無用で自分たちの邪魔にしかならない屑だと見なしている。
 彼らはその触手を敵の頭部に絡みつかせることで、食料となる脳を摘出して即死させる能力をもつため、肉体的にはそこまで強靭でないにもかかわらず接近戦でも危険な相手となる。
しかし最も恐ろしいのはマインド・ブラストを始めとする各種の強力なサイオニック能力であり、それを用いて奴隷化した従者に身を守らせていることも多い。
彼らは地下共通語を話せるが、多くは音声による会話などという下等生物のするような行為を軽蔑していて、テレパシーによる意思疎通を好む。


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第百四十七話 Proclamation

 

「ねえ、タバサ。さっきからなんだかそわそわしてるけど、どうかしたの?」

 

 タバサの望みを承諾して彼女と共に礼拝堂へ向かう途中、ディーキンは彼女のなんだか落ち着かない様子が気になって、歩きながらそう尋ねてみた。

 と言ってもごくごく微妙な変化で、ディーキンとキュルケ以外には普段と変わりなく見えるだろうが。

 

「……あなたに、聞いてみたいことがあった。……でも、不躾かもしれない、から」

 

 見透かされたタバサは、しばし逡巡した後、ためらいがちにそう答えた。

 

「ディーキンは別に、タバサが不躾だなんて思わないよ。何?」

 

「……。あなたは……、恋……を、したことは?」

 

 ともすれば消え入りそうな声でそう尋ねるタバサの頬は、かすかに紅潮している。

 緊張で、喉がからからになっていた。

 

「……恋? ……アー、ええと……」

 

 ディーキンはちょっときょとんとしたように目をしばたたかせると、次いで困ったように頬を掻いて考え込む。

 しばらく悩んだ後、ディーキンは曖昧に首を横に振った。

 

「ごめん、ディーキンにはまだ、恋ってよくわからないの。でも、たぶん、……ないと思う」

 

 もちろんディーキンにも、それがタバサが期待している答えとは違うのだろうなということは何となく感じ取れたが、それでも正直に答えるしかなかった。

 嘘をついてどうなるものでもないし、彼女に対しては誠実でありたいから。

 

 卵生であり、繁殖のために特に何の感情も抱いていない複数の相手と当然のように交われるコボルドには、特定の異性だけに特別に惹かれるというような感情がそもそも薄い。

 もっと言うなら、性別を問わず特定の個人に執着すること自体が稀である。

 秩序にして悪の性質をもつコボルドの社会では、自分も他人も社会の中のひとつの歯車に過ぎず、特定の歯車を別の歯車と区別して大事にしようなどとは思わないのが当たり前なのだから。

 大半のコボルドは生涯を通して結婚しないし、それどころか友人と呼べるほどの相手さえ一人ももたないというのもごく普通のことだ。

 

 それでも、主として職場を共にする男女の間で、長い時間を共に過ごすうちに情が深まって、互いを伴侶にするという約束を交わすに至ることは稀にある。

 しかしながら、そういった場合でもコボルドは別に相手を独占しようなどとは考えない。

 たとえ婚姻を結ぼうとも両性共に依然として種族としての繁殖本能に支配されているから、婚外交渉をもつことはごく当たり前で、そのことはコボルドの夫婦間になんの摩擦も生じさせないのが普通だ。

 コボルドにとっては、特定の他人をそれ以外の者たちよりも特に大切にするなどということ自体が稀なのであって、そもそもそのような特別な感情に恋だとか友情だとかの明確な区別をつけられるほどには本人自身もよく理解していないことが多い。

 ただ、なんとなく一緒にいたい、一緒にいると楽しい、これからもずっと一緒でいたいと思い、相手もそのように思ってくれていることが確認できたなら、友人になったり婚姻を結んだりするというだけなのだ。

 ゆえに、異性間での婚姻関係といえども大抵は同性間の友情と同じか、せいぜいその延長上にあるような、穏やかな親愛程度の感情に留まる。

 

 一般的なコボルドのあり方についに馴染めなかったディーキンといえども、男女の関係について自分の生まれ育った社会の常識は根付いているし、それ以外のことは長い間知らなかった。

 それでもさまざまな書物を読んだり、伝聞を深めたりしていくうちに、ディーキンにもどうやら多くの人型種族の男女はコボルドよりもはるかに互いに執着するもののようだということがだんだんとわかってきた。

 そうなると、大抵のコボルドの夫婦が互いに抱き合っている愛情が、人間が「恋」と呼ぶものと同じかどうかは疑わしいように思える。

 ディーキンにはボスをはじめ好きな人間が大勢いるが、それはきっと「恋」というようなものとは違うのだろうし、もちろん同じコボルドに対しても「恋」などをしたことがあるとは思えなかった。

 そもそも、コボルドが「恋」のような感情を抱き得る種族なのかどうかさえ、現時点では確信をもっては語れない……。

 

「……そう」

 

 タバサは、俯いてぽつりとそう呟いた。

 その頬からは既に朱が消えて、いつも以上に白くなっていた。

 

 

 二人が散歩を終えて戻ってきた礼拝堂には、相変わらず人の気配はなかった。

 既に起きている者もいくらかはいるだろうが、もう少ししたらこの城を発たなくてはならないという日に、別段早朝から礼拝堂に来る用件もないのだろう。

 

 奥に佇む始祖ブリミル像が静かに見守る礼拝堂全体に、早朝の澄んだ、静謐な空気が満ちている。

 タバサは静かに、その像の前まで歩を進めた。

 ディーキンも彼女の後からてくてくと続きながら、彼女は一体まだ何の用事があってここにもう一度来たいと言ったのだろう、と考えていた。

 確か、自分に話があるということだったが、この場所でなくてはいけないということは……。

 

「……何か、お祈りし忘れたことがあったの?」

 

 ディーキンはちょっと口元に指をあててから、そう尋ねた。

 彼自身は、タバサに散歩の約束を取り付けた後で元々の目的だった始祖ブリミルへの祈りはちゃんと済ませてから外に出たので、改めて祈っておくようなことはない。

 

「お祈りじゃない。……懺悔」

 

「懺悔? 何か、神さまに許してもらわなきゃいけないようなことをしたの?」

 

「違う。始祖には、見守っていてもらいたいだけ」

 

 そう言って彼女は、ディーキンの方に向き直った。

 それからひとつ深呼吸をすると、膝をついて杖を置き、彼と目線の高さを合わせる。

 

「……私が許してもらわなければいけない相手は、あなた」

 

「へっ?」

 

 ディーキンは、まるで思いもかけないことを言われてきょとんとする。

 次いで、不思議そうに首を傾げた。

 

「……許してもらうって。別にディーキンは、何もタバサから悪いことなんてされてないと思うよ?」

 

 そう言われても、タバサは首を横に振る。

 それから、そっと手を組み合わせて、ぽつぽつと話し始めた。

 

「本当はもっと、ずっと前にこうするべきだった。……あなたに決闘なんかを要求してしまったあの後に、すぐにでも」

 

 けれど、突然任務の命令が来て。

 さまざまなことが立て続けに起こるうちに、なんだかうやむやに済ませてしまっていた。

 

 今更だとは、自分でも思う。

 それでも、一度ちゃんとけじめをつけておかなければ、自分は彼と真っ直ぐは向き合えない気がしたのだ。

 

「……アア。あのこと?」

 

 そういえば、前にタバサから学院の中庭で戦いを挑まれたことがあったな、とディーキンは思い出した。

 とはいえ、彼のほうでは別に、謝られるようなことがあったとは思っていない。

 

「あのことならディーキンは、別に何も気にしてないの。確かに、あのときは急に戦ってって言われてちょっと驚いたけど、特に問題はなかったよ?」

 

「問題はある。……私はあのとき、あなたに怪我をさせた」

 

「ンー……、それは、戦いなんだから仕方ないの。戦ってる最中なのに、ディーキンが他のことに気を取られてたせいだよ」

 

 あのときは、動物に化けたインプが近くで決闘の様子を観察していた。

 傍で見ていたシエスタがそれに気づき、声を上げてそいつと戦おうとしてくれたのだ。

 しかしディーキンは、突然のことでそちらの方に気を取られてしまい、そこへタバサが放った電撃を浴びたのだった。

 

「うっかりしてたのはディーキンの方なの。だから別に、タバサに落ち度はないよ」

 

 特に決闘を中断しようなどといった呼びかけもせずに他所に注意を向けていたのだから、彼女が隙ありだと判断して攻撃してきたとしても、それを非難などできようはずもない。

 

「違う。……あのとき、私は本当は攻撃を止められた」

 

 なのに、そうしなかったのだ。

 彼が注意を他所に向けていることがわかっていたのに、本当ならば当然戦いを一時中断するべきところなのに、それに構わず危険な攻撃を仕掛けたのだ。

 

「……あの時、私は……。心の底では……」

 

 俯いてぽつぽつと告解するタバサの声は、少し震えていた。

 

「……きっと、あなたに殺意さえ、もっていたと思う」

 

「エエ? まさか……」

 

 それを聞いて、ディーキンはきょとんとした。

 ややあって、少し困ったような顔をすると、首を傾げて頭に手を当てる。

 

「……えーと。ごめんなの。じゃあ、ディーキンは知らないうちに何か、タバサにひどいことしてたんだね?」

 

「違う。……ひどいのは、私のほう」

 

 タバサは、痛む胸をぐっと押さえて、先を続けた。

 

「……あのときの私は、あなたに対抗意識を持っていた。自分は優秀だと信じていた、苦労も努力もしたと思った。たくさんのものを犠牲にもした。……なのに、あなたは私よりずっと多くのものを持っていて、何も失っていないように見えたから」

 

 そんな自分の賤しい胸中を告白することは、血を吐くように辛かった。

 それでも、伝えなくてはならない。

 

「だから……ごめんなさい」

 

 タバサはそう言って顔を伏せると、同時に自分自身にも問いかけてみた。

 

(私はいま、どうして辛いと思っているの?)

 

 それは、未だに歪んだちっぽけなプライドが、心のどこかにあるからだろうか。

 そのために、自分の卑小さを認めるのが辛いからだろうか。

 

 彼の邪気のない、自分とはまるで違うきれいなきれいな笑顔を見ていると、ときどき酷く惨めな気持ちになってくることがある。

 自分は本当は、あのときから何も成長なんかしていないのではないか。

 彼に対する敬意や恋慕の情めいたものなんて、実のところは彼を自分よりも上位にあるものとして扱うことで、自らの惨めさを誤魔化すために賤しい心が造り出した偽りの感情なのではないか……。

 

(……違う)

 

 こうして口に出す前には、もしかしたらそうなのではないかという恐れがかすかにあった。

 でも、実際に彼の前で思い切って告白してみて、そうではないということがわかった。

 

 自分がいま辛いのは、自分自身の卑小さを改めて直視したことではない。

 そんな自分の醜い面を、彼に知られてしまったことが辛いのだ。

 誤魔化しではなく、今の自分は彼が優れていることを、心から受け容れられている。

 

 それがわかった以上は、迷いなく伝えられるだろう。

 

「イヤ、そんな。タバサは責任感が強いから、ちょっと考えすぎてると思うの。……それにディーキンだって、たまにはタバサをうらやんだりするよ。ええと、たとえば、この人みたいに頭のよさそうな感じになれたらいいなあとか、この人くらい背が高かったらかっこいいのになあとか……」

 

 一生懸命に話すディーキンの顔を見て、タバサはかすかに微笑んだ。

 

「ありがとう……」

 

 それから、もう一度しっかりと手を組み合わせて、一層深く、恭しいといえるような態度で頭を下げる。

 

「シルフィードも、母さまも、トーマスも、そして私自身も、あなたが助けてくれた。……もし、以前の非礼が赦されるのなら。これからの私の杖は、あなたに捧げたいと思う」

 

 それは、物語の中の英雄が退屈な日常から自分を連れ出してくれることを望んでいたかつて頃のように、幼く弱いままで憧れた相手に依存し続けたいからではない。

 恩義のために自分を犠牲にしようというのでも、ましてや、自らのちっぽけなプライドを守るための欺瞞でもない。

 ただ心から、そうしたいと思っているからだ。

 

(やっと、言えた。……言ってしまった)

 

 安堵と不安の入り混じった複雑な感情を胸に、タバサはそっとディーキンの様子を窺ってみた。

 ディーキンは、何かとても困ったような顔をして、頬を掻いている。

 どう返事をしていいかわからずに言うべき言葉を探している、といった感じだった。

 

 もちろん、それはそうだろう。

 ずっと前から心の中では彼に仕えようと既に決めていながらも、これまでそれを口に出さなかったのは、彼がそんなことを望むことは思えなかったからだ。

 これはあくまでも、自分の望みとして言わせてもらったこと。

 

 ……けれど。

 

 どうして今、言ってしまったのだろう。

 彼に余計な気遣いをさせないためにも、このことは自分の心の中だけの誓いに留めておこうと決めていたはずなのに……。

 

(そんなこと、わかりきっている)

 

 自分の中の冷静な部分が、冷たく声を上げる。

 

(あなたは、自分から彼を誘っておきながら、ここで何を話そうか迷っていた。だから、歩きながらあんな質問をして、彼のあの返事を聞いて――)

 

 タバサはぎゅっと自分の胸元を掴んで、その続きを無理に抑え込んだ。

 今は、そんなことは考えたくなかった。

 

 ディーキンは困惑した様子で、ためらいがちに話し出す。

 

「……ええと、その。タバサみたいな人からそんな風に言ってもらえて、ディーキンはすごく嬉しいの。でも正直、光栄すぎて、ちっぽけなディーキンには身にあまるよ……」

 

「そんなことない」

 

 タバサは気持ちを切り替えると、そう言って首を横に振った。

 

「あなたと共に戦ってきて、私は本当の英雄がどんなものかを知った。私こそ、あなたに比べたらちっぽけなものだったと思う」

 

「それこそ、そんなことないの。だってタバサは、一人で一生懸命に頑張ってたんでしょ。えらい人で、英雄になれる人だよ。それに、ディーキンよりもボスの方が、ずっとすごい英雄なの」

 

「あなたが言うのだから、その人は間違いなく立派な英雄なのだと思う。……でも、実際に私の前に現れた勇者はあなただった。だから私にとって、あなた以上の英雄はいない」

 

 タバサは跪いたまま、真っ直ぐにディーキンの顔を見つめる。

 

「私は永遠に、あなたに感謝する。たとえ受け容れてくれなくても、この杖も体も、あなたのためにある。始祖に誓って」

 

 ディーキンはと言えば、決まり悪そうに視線をさまよわせながら、そわそわしていた。

 

 確かに、タバサの言い分はもっともなのかもしれない。

 自分にとっても、ボスこそが最高の英雄だ。

 広い世界には、そして長い歴史の中には、彼以上の力をもつ者や、彼以上の功績を残した者も、いくらもいることだろう。

 けれど、実際に自分の前に現れて、そして自分の運命を変えてくれた最高の英雄は彼なのだ。

 かろうじてゴブリン一匹を追い払える程度のごく平凡な村の青年も、彼に助けられた村娘にとっては真の英雄であるに違いない。

 

 しかし、たとえそうではあっても、どうにも落ち着かなかった。

 別に、タバサの申し出を拒絶したいというわけではないのだが。

 

「……ウ~、その……。ありがとうなの、ディーキンはなんだか、すごく照れちゃって……。ええと、こんなとき、なんて言ったらいいのか……」

 

 賞賛の声をかけられるのは嬉しいが、コボルドは自分よりも遥かに大きく文明的な他種族から尊敬などを向けられる身分ではない。

 シエスタから先生と敬われたことはあるが、彼女は種族の差などを問題としない善なる魂をもつアアシマールである。

 人間から褒められるとか、友人として接してもらえるならまだしも、心から尊敬される、目上の相手として見られるなんてことは、およそ想像もできないことだった。

 

「……もし、私を従者として受け入れてくれるのなら。叙任の言葉を、あなたからかけてもらいたい」

 

 タバサは元々王族の血を引くものであり、誓いの言葉とか、叙任や叙勲の儀式とかいったものを尊ぶ気持ちはある。

 形式的なものにそこまでこだわるわけではないが、生涯従うと決めた相手にはできることならそのような正式な扱いを与えてほしい、という望みはあった。

 

「従者……」

 

 彼女からそう言われると、ディーキンは真顔になって考え込んだ。

 

「……アー、ディーキンは、タバサに召使いになってほしいとは思ってないんだけど……。でもタバサは、その方がいいの?」

 

「別に、無理に付き合い方を変えてほしいとは言わない。私も、これまでと同じようにあなたに接する」

 

 ただ、形だけでも認めてほしいのだと、タバサは言った。

 

「ええと、その、従者っていうのは、つまり……。これからずっと、ディーキンについてきてくれるってこと?」

 

 タバサは、ほんのかすかに頬を紅潮させながら、小さく頷いた。

 

「……でも、あなたがそうしないように命じるのなら。私の判断でどうしてもという時以外は、ついてはいかないようにする」

 

 ディーキンは、同じ高さでじっとタバサの顔を見つめて、小さく首を傾げた。

 

「アー……。でもディーキンは、いつになるかはわからないけど、そのうち故郷の部族のところへ帰って、族長になるつもりなの。ルイズから暇をもらってね」

 

「迷惑でなければ、その時もついていく」

 

「でも、すごーく遠いよ? その、タバサには、お母さんとかもいるし……」

 

「あなたは、その母さまを助けてくれた人。こちらでのことに片がついて、母さまの身が安全にさえなれば、あなたについて遠くへいっても構わない。母さまも、それに反対はされないはず」

 

 もちろん、母になかなか会えなくなるのかと思うと寂しいし、せっかくまた一緒に暮らせるようになったのに遠くへ行くことになるのを申し訳なく思う気持ちもあるが……。

 それでも、親元を離れてでも主に仕えるのが従者というものである。

 個人的な感情の問題を別にしても。

 

「コボルドは、真っ暗な洞窟に住んでるの。人間がそんなところで暮らしたらお日様の光も浴びれないし、空気も悪いし、きっと病気になるよ」

 

「なら、洞窟の近くに小屋を作ってそこに住む」

 

「みんなはタバサのことをよく思わないかもしれないし、他の人間にもなかなか会えなくなるかも……」

 

「気にしない。……あなたがいれば、私は平気」

 

 タバサはそう即答したが、はたして本当に平気かどうか、本当は自信がなかった。

 

 森だろうが、洞窟だろうが、別に構わない。

 いまさらそんなことで参るほど、やわな生き方はしてきていない。

 でも、彼が故郷に戻って同族の仲間たちに囲まれて、同じコボルドの女性といずれは寄り添って……。

 そうして幸せそうにしている姿などを見たら、ただ一人異種族の人間であるひとりぼっちの自分は、それでも耐えられるのだろうか。

 いま想像しただけでも、胸が締め付けられるような思いがするというのに。

 

 けれど、それでも、彼について行きたいと思う。

 

「……そうなの。タバサの意思は、固いんだね?」

 

 ディーキンの言葉に、タバサはこくりと頷いた。

 それを確認すると、ディーキンは真っ直ぐに背筋を伸ばしてひとつ咳払いをする。

 

「コホン……、じゃあ、ええと……。ハルケギニアでは、こういう時には杖を使うんだよね……」

 

 そう呟いて、この旅に出る前にオスマンから借り受けた『魔道師の杖(スタッフ・オヴ・ザ・マギ)』を取り出す。

 高名なアーティファクトだから、こういう儀式には相応しいのではないか、と思ったのだ。

 

 それを確認すると、タバサは跪いたまま静かに目を閉じて顔を伏せた。

 ディーキンはそんな彼女の右肩にそっと杖の先を載せると、声をいつになく厳かな調子に変えて、言葉を紡いでいく。

 自分の聞きかじりの知識に基づいた、ハルケギニア式に自己流の混ざった即興の叙任の儀式であった。

 

「……偉大なるイオの名にかけて。竜の民の子、我ディーキン・スケイルシンガーは、始祖ブリミルの見守る民の娘、シャルロット・エレーヌ・オルレアンこと『雪風』のタバサの歩む道に祝福のもたらされんことを願い、同時にその誓言を求める。我が友よ、親愛なる者よ、高潔なる魂の持ち主よ――」

 

 ディーキンはそこでちょっと言葉を切って、求めるべき誓言の文句を考えた。

 従者として従えなどと彼女に要求する気はないが、さて……。

 

「――汝は、今後も我を友とし、その高潔なる魂が命ずるところに忠誠を誓い、己の望む道を歩み続けることを誓うか?」

 

 タバサはじっと畏まったまま、いかにも彼らしい文句だと思った。

 

 自分に従者となることを求めるのではなく、あくまでも友であってほしいと言っている。

 しかし、己の魂に従えとも言ってくれている。

 つまり、自分が友であると同時に、彼の従者であることも望むなら、そのように振る舞ってもよいということだ。

 そして、もしいつかもはやそれを望まなくなったのなら、好きにやめてもよいということ……。

 

「……誓います」

 

 ディーキンは頷いて、杖でタバサの右肩を二度叩き、次に左肩を二度叩いた。

 それで、叙任の儀式は終わりだ。

 

「それじゃ、タバサはこれから自分が望む限りは、ディーキンについてきてくれるんだね。これからもよろしくなの!」

 

 手を取ってタバサを立ち上がらせると、ディーキンはにっと笑ってそう言った。

 タバサもこくりと頷いて、彼に答えるようにわずかに微笑む。

 

 完全に心が満たされたとは言えない。

 むしろ、辛いこともあった。

 でも、確かに望んでいたことのうち、ひとつは叶ったのだ。

 

 

 

「……ア、そうだ」

 

 出発の準備のために先に出ていこうとしていたディーキンは、礼拝堂の入口でふとそう言って、くるんと振り向いた。

 タバサはまだ、ブリミル像の前にいる。

 

「何?」

 

「ねえタバサ。もしよかったら、いつかディーキンに、恋ってやつを教えてよ!」

 

 そう言うと、きびすを返してとたとたと走り去っていく。

 

「……え……?」

 

 しばらくその場にじっと固まっていたタバサがどんな顔をしていたかは、ブリミルのみぞ知る。

 



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第百四十八話 Fumbling

 

「あの人形娘の居所なんて、こっちが聞きたいことよ」

 

 イザベラは、突然訪ねてきた父王の側近である女……シェフィールドの問いに、不機嫌そうにそう答えた。

 

「あの躾の悪いガーゴイルは、この間から主に断りもなく、どこぞをほっつき歩いてるみたいでね!」

 

 彼女は先日、また適当に意地の悪い任務を見繕って、タバサに使いを送った。

 が、学院やその周辺のどこにも彼女の姿が見えなかったらしく、その使いはしばらく粘ったものの、結局は諦めて虚しく戻ってきたのである。

 

 謀反の罪に問われた元王族の娘など、反乱の元になりかねないゆえ当然即刻処分すべきところ。

 それをお情けで生かしてもらっているという自分の立場を、まだよく理解していないのか。

 ましてや母を人質に取られてもいるというのに、主人に断りもなく学業もサボってどこぞへ遊びに出て、何日も連絡が取れないような状態にするとは、なかなかいい度胸である。

 

 さては、いい子ぶってすましていたあいつにも、とうとう限界が来たのか。

 実の母とはいえ、もはや重荷にしかならない壊れた女なんかもういい加減に放り出して、自由の身になりたくなったか。

 それで行方をくらまして、どこかへ逃亡を図ったのか?

 

(……ま。あのシャルロットに限って、そんなこともないだろうとは思うけど……)

 

 確かに、逆らえばオルレアン公夫人がどうなるかという脅しをかけてはいるものの、人質は無事だからこそ意味があるわけだし。

 根強く残っているであろうシャルル派の貴族を刺激することも考えると、ちょっとばかり不服従の兆しを見せたかもしれないというくらいのことで、そうそう処刑などをするわけにもいかないだろう。

 実際のところはおそらく、どうしても断り切れない付き合いとか何らかの事情があって、しばらく学院を離れているというだけのことなのだろうが……。

 

 なんにせよ、主人へ断りも入れずに勝手に連絡の取れない場所へ出かけたことに対しては、後日きちんと罰を与えてやらねばなるまい。

 それも、あの人形娘にこちらの不興をはっきりとわからせられるような、創意工夫を凝らした罰をだ。

 

「ありがとうございます、姫殿下。それでは、私はこれで」

 

 イザベラが意地の悪い考えを楽しく弄んでいるのをよそに、シェフィールドはあっさりとそう言って、軽く会釈をした。

 そのまま踵を返して出ていこうとする彼女に、イザベラがあわてて頼み込む。

 

「ちょっと! あなたから父上に言っておいてちょうだい、私だってもっと王家のお役に立ちたいんだから、いい加減にこんな陰気な仕事よりもなにか別の官職を与えてくださいって!」

 

「善処いたします。その機会があれば」

 

 シェフィールドは歩きながら軽く頷いてさらりとそう言っただけで、立ち止まろうともせずにさっさと出ていく。

 一応敬語を使ってはいるものの、その態度からは王族に対する敬意などはほとんど感じられない。

 

「……何よ、あの女は! いきなりやって来て、王女であるこの私の貴重な時間をとらせておいて!」

 

 イザベラはそうしてひとしきり癇癪を爆発させて周囲の従僕たちを震え上がらせた後、恩師であり腹心でもあるラークシャサの私室でぐちぐちと不満をぶちまけながら、この出来事について話したのだった。

 

 

(ガリア王の側近である女が、イザベラに単身で情報の提供を求めにきただと?)

 

 ラークシャサは、ひとしきり不満をぶちまけたイザベラが帰っていった後、自室で物思いに沈んでいた。

 

 そんなことは、これまでになかった。

 あるいは考えすぎかもしれぬが、デヴィルどもの動きが最近あわただしいことも併せて、何やら気にかかった。

 

(なんにせよ、自分だけが時勢から取り残され、権力の座から転げ落ちるなどと言う事態だけはなんとしても避けたいものだがな……)

 

 そのためには、もう少しイザベラを動かさねばなるまい。

 

 

 

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「やはり、シャルロット公女は学院から姿を消しているか」

 

 プチ・トロワでイザベラから情報を引き出し終えたシェフィールドは、そうひとりごちた。

 アルビオンにいた青髪の少女はやはり、彼女で間違いないのだろう。

 

「問題は、なぜそんなところに行ったのかということ……」

 

 母を人質にとられているシャルロット公女としては、学院をあまり長く留守にしてガリア側から長期間連絡が取れない状態にすることは望ましくないはずだ。

 とはいえそれだけなら、友人の頼みや学校行事等でやむなく、あるいはたまには年頃の少女らしく羽根を伸ばしたい誘惑に駆られて、ということもあるかもしれない。

 だが、母のために死ぬわけにはいかない身で、命の危険があるアルビオンの戦地へまで向かうことなどあるはずがないだろう。

 

 裏を返せば、にもかかわらずそこまでのことをしているからには、相応に大きな動機があるに違いないのだ。

 

(それは、必ずやニューカッスル城に現れたという『虚無』と関係しているはずだ。ただの偶然にしては出来過ぎている)

 

 だからこそ、それを突き止めることが重要になってくるとシェフィールドは踏んでいた。

 

 念のため、ラグドリアン湖畔にあるオルレアン公領の館へも物見のガーゴイルを飛ばして確認してみた。

 シェフィールド自身は実際に足を運んだことはないものの、聞いていた情報通り、そこには心を病んだオルレアン公夫人とただ一人残った老僕が住んでいた。

 つまり、シャルロット公女が何らかの方法で既に母を救い出したとか、別の場所に移した、ということはなさそうだった。

 

 と、なると。

 次に接触するべき相手は……。

 

 

 

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「貴様は……」

 

「レコン・キスタに身を置く者よ。それで十分でしょう、ワルド子爵」

 

 シェフィールドは、先日正体が露見してトリステインの監獄に送られたというレコン・キスタとの内通者に目を付けた。

 手元に入ってきた話によると、ラ・ロシェールでデヴィルどもが広めていた麻薬組織が壊滅したのとほぼ時を同じくして捕らえられたこの男は、トリステインからアルビオンへ向かった使者たちと同行していたらしい。

 

 もちろん、監獄へ侵入して捕縛されている彼と対面するなど、シェフィールドにとっては造作もないことだ。

 

「……わざわざこんな場所にまで来てくれるとは有り難いことだな。見ての通り、俺はしくじった。いまさら何をしに来たのだ」

 

 ワルドは、鉄格子越しにシェフィールドと話しながらも、彼女の動きに注意深く目を配っていた。

 既に内通者であることが露見し、スパイとしての価値がなくなった自分に、わざわざレコン・キスタの連中が助けをよこしてくれたと思うほどおめでたくはない。

 むしろ、余計なことをしゃべられぬために口封じの刺客を送られたのだという方があり得そうなことだ。

 

(だとしても、俺は黙って殺られはせんぞ!)

 

 杖はもちろん取り上げられてしまっているが、手の届く範囲までなんとかおびき寄せられればたかが女一人、体術だけでもどうとでもしてみせる。

 もしもこの女が牢を破る術をもってきているなら、むしろ脱獄の好機かもしれぬ……。

 

 しかし、シェフィールドはそんな彼の警戒した様子を見て、冷たく嘲った。

 

「どうやら、自惚れが過ぎる男のようね。安心するがいい、お前のような組織の末端に過ぎない内通者など、わざわざ刺客を送ってまで口を封じるほどの価値はないわ」

 

 ワルドは一瞬不快そうに顔をしかめたが、確かにもっともなことだと、警戒を緩めた。

 第一、自分の口を封じるにしては、もう既に捕まってからの時間が経ち過ぎているだろう。

 

「……ふん、そうかもしれんな。では、何の用だ?」

 

「ひとつだけ、我々にとって価値のある情報をお前はもっているはず。お前が同行していた、トリステインからアルビオンへ送られた使者の情報よ」

 

「ああ。やつらか……」

 

 ワルドは頷きながら、思案をめぐらせた。

 

 わざわざレコン・キスタ側の人間が自分にそれを聞きに来たということは、ルイズらがアルビオンで目覚ましい働きをしたということだろう。

 だとすれば、ルイズは既に『虚無』の力に十分に目覚めているということか。

 

(くそ! あのいまいましい使い魔を相手にしくじってさえいなければ、今頃は俺がその力を手中に収められていたかもしれぬものを!)

 

 ワルドはここへ送られる前にディーキンから《記憶修正(モディファイ・メモリー)》の呪文をかけられて、最後の戦いに関する記憶を改竄されている。

 そのため、偏在をあっけなくかき消されたりドラゴンに変身した彼に一蹴されたりしたことは忘れ、自分の正体に感づいた彼から不意打ち気味に攻撃されて思わぬ不覚をとったのだと思い込んでいるのだった。

 

 もっとも、ディーキンがどうこうという以前に、まず当のルイズ自身に今のところ彼を受け容れる気がまったくないことに気付いていないのは、それとは無関係であるが。

 

「では、アルビオンへ渡ったあの連中は、まだ健在なわけだな? 王党派の残党どもはどうなった、決着はついたのか?」

 

「聞いているのはこちらよ、子爵」

 

 シェフィールドは、ワルドの問いを冷たくはねつけた。

 

「……その情報を引き渡すことで、こちらの得る利益は?」

 

 答える代わりに、シェフィールドは腰から一本の短杖を引き抜くと、鉄格子越しにワルドにその青白く光る先端を突きつけた。

 彼女はメイジではないが、『ミョズニトニルン』の能力によって、ワンドに込められた呪文を解放することができる。

 

「この場で殺されない権利か」

 

 シェフィールドは鷹揚に頷いた。

 それから、おもむろに懐にもう一方の手を差し入れると、そこから取り出した一本の鍵をちらつかせる。

 

「こちらの満足がいくだけの情報が提供されれば、追加報酬を検討してもいいわ」

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

(これで、大凡の見当はついた)

 

 ワルドから話を聞き出し終えたシェフィールドは、ここまでに得た情報を総合してそう判断した。

 

「アルビオンでシャルロット公女が共にいたあの亜人は、『虚無』の使い魔……『ガンダールヴ』だったか。そして、その主人はルイズという名の、トリステインの名門ヴァリエール家の息女……」

 

 あの亜人は、その見慣れぬ姿からして、おそらくはデヴィルどもと同じく異界から来た存在。

 つまり、異界に関する知識をもっているということだ。

 

(おそらく、シャルロット公女は何かのきっかけで、ルイズという少女が『虚無』の使い手であることを知った。もしくは、その使い魔が異界の知識に通じていることを知った。そして、それがオルレアン公夫人を救ってくれるものと考えたのだ)

 

 彼女が協力する見返りとして、母を救うことを求めたのだとすれば。

 それならば、異国人の身でありながら、危険をおしてトリステインからアルビオンへの使者としての旅に同行したというのも納得がいく。

 おそらく、アルビオン王族のもつ『虚無』の秘宝、もしくは彼女の母国であるガリアのもつそれをいずれ手に入れるために力を貸してほしい、とでも言われたのだ。

 

(いずれにせよ、使える)

 

 不確定な『虚無』の使い手やその使い魔に縋らずとも、こちらで治療薬を提供すると嘯いて懐柔するか。

 あるいは、母親の安全を盾に脅すか。

 いずれせよ、既に『虚無』の使い手に近づいて、おそらくはある程度の信頼を勝ち得てもいるであろう彼女の筋から辿っていけば、こちらに有利な形で『虚無』の主従に接触することができるはずだ。

 

 なんとかうまく話をつけて、自分とジョゼフの身の安全を約束させたうえで、連中と連中が召喚したセレスチャルどもとをデヴィルにぶつけて始末させてやるのだ。

 

「他にも、使える駒は手に入ったことだしね……」

 

 自分に大人しく後続する、先ほど牢獄から連れ出してやったワルド子爵の姿を眺めやって、シェフィールドはにんまりとほくそ笑んだ。

 



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第百四十九話 Incompetence king

 

 ニューカッスル城を出て新しい拠点に移ったアルビオン王党派の軍勢は、そこから連日進撃を続け、順調に勢力を回復していった。

 

 ルイズらは学生の身でもうずいぶんと長く学院を離れていることになるが、大した問題ではなかった。

 なにせ学院長であるオールド・オスマン自身が、国の最高権力者である王女や枢機卿の求めに従うという形で彼女らの遠征を許可しているのだから。

 それに勉学の遅れに関しても、せっかく地上とアルビオンを瞬間移動で一瞬にして行き来できるセレスチャルが幾人もいるのだから、ディーキンが彼らに頼んで手の空いているときに地上と連絡を取ってもらい、定期的に課題などを持ってきてもらえるように手筈を整えた。

 まあ、生徒らが姿をくらましている同級生たちに関する噂を囁きあったり、アカデミーにいるルイズの姉が「あのおちびどもは一体どこに行ったのよ!」と問い合わせてきたりもしたが……。

 それもディーキンが、適当に誤魔化したり説得して丸め込んだりしてなんとか対処しておいた。

 

 それに、もし本当に必要となれば、ルイズらを一時的に地上に戻らせる事や、逆に地上から誰かを連れてくることだって、さほどの苦もなくできる。

 

 実際、ディーキンは一度ならず、密かにアンリエッタ王女とウェールズ皇太子とを逢引させてやったりもした。

 瞬間移動というのは、実に便利なものなのである。

 

 対するレコン・キスタ側は、侵攻を続ける王党派の軍に対して直接戦うのではなく、それまで拠点としていた各地の住民たちから食料をはじめとする物資を悉く取り上げた上で撤退するという作戦をとった。

 そうすれば王族たちは自国の民を見捨てるわけにも行かず、施しを行うことで時間をとられ、奪還した町や都市で補給を行うどころかかえって消耗することになるというわけだ。

 尋常な人間だけから成る軍隊が相手なら、それはかなり効果的なやり方だったかもしれない。

 しかし、現在の王党派には異世界の魔法を用いるディーキンと、彼が招請したセレスチャルたちの助力があった。

 

 モヴァニック・デーヴァたちは《食料と水の創造(クリエイト・フード・アンド・ウォーター)》の擬似呪文能力を用いて、無限に食料を生成することができるし、トゥラニ・エラドリンであるウィルブレースは、《物体変身(ポリモーフ・エニィ・オブジェクト)》の擬似呪文能力を使って、ただの土くれや石ころをさまざまな食材に変化させることができる。

 最下級の呪文である《奇術(プレスティディジテイション)》を用いれば食料に味付けを施して単調な食味で兵士たちに飽きが来るのを防ぐことができるし、なんであれば《上級瞬間移動(グレーター・テレポート)》の擬似呪文能力を使えるセレスチャルたちに、各地を往復して他所から必要な物資を運びこんできてもらう事だってできるのだ。

 実際ウェールズ皇太子は、ディーキンの計らいでアンリエッタ王女と対面させてもらったときに彼女やマザリーニ枢機卿と交渉して、戦の終わった後には相応の返礼を約束するという条件でのいわば信用貸しでそういった物資の補給面で協力してもらうという約束を取り付けていた。

 表立って正式な同盟を結んで大々的な輸送部隊などを組まなくても、ある程度の物資なら瞬間移動で運び込むことで裏から密かに援助することができるというわけだ。

 

 そのためレコン・キスタ側の作戦は大した成果をあげることができず、それどころか各地の民衆はそれまで自分たちの解放者を自称していたレコン・キスタの者たちの非道な振る舞いに怒り、王族たちの寛大な振る舞いに涙を流して感謝した。

 王党派への支持はいや増すばかりであり、またセレスチャルらの光輝に満ちた姿や力にも感銘を覚えて、自分もぜひ王党派の軍に加わりたいと申し出る者が各地で相次いだ。

 そうした志願兵を加えて、軍はごくわずかな時間の足止めと引き換えに、ますますその規模と士気とを増してゆく。

 

 レコン・キスタ軍の内部からも、どちらに正義があるかを考え直して、あるいはもはや勝ち目はないと悟って、武器を捨て投降してくる部隊がでてきた。

 王党派は協力者であり恩人でもあるセレスチャルらの勧めに従って、武器を捨てて帰参する者は決して処刑せずに慈悲をもって迎え入れることを公言し、少なくとも組織としてのレベルではその約束を忠実に守った。

 降伏した仲間たちがそうやって寛大に扱われていることを知れば、また別の部隊が投降してくる。

 

 誰の目にも、既にレコン・キスタの終焉は時間の問題であると見えた……。

 

 

「……あの悪魔どもは、一体今何をしておるのだ?」

 

 戦況の好転とディーキンやセレスチャルらによる看護を受けたこととでずいぶんと活力を取り戻したジェームズ王は、しかし自軍の快進撃にも関わらず、依然として険しい顔をして軍議に臨んでいた。

 

 レコン・キスタのとっている策が人間によるものなのか、背後にいるデヴィルのものなのかは不明だが、いずれにせよ裏目に出ているのは明らかだ。

 それを何も手を打たずに指を咥えて見ているような連中ではないはずなのに、ニューカッスル城での敗戦以来デヴィルどもが一向にその姿を見せてこないのが不気味だった。

 

「既にこのアルビオンの地での勝算はないと見て、手を引いたのではありませんかな?」

 

 将軍の一人がそう意見を述べたが、本人もあまり自信はなさそうだった。

 

「そうであれば、それに越したことはないが……」

 

 ウェールズが納得していないような顔でそう言いながら、父王の方をちらりと窺う。

 ジェームズは、首を横に振った。

 

「いいや。悪魔どもが完全に手を引いたというのであれば、取り残されて為す術をなくした者たちは降伏を打診してくるはずだ」

 

 少なくとも今のところ、そのような気配はない。

 レコン・キスタの指導者たちのほとんどは、領土も戦力も衰える一方で、もはや風前の灯火としか思えぬ自軍にいまだに留まり続けているのだ。

 

 もちろん、一般兵はともかく上層部の者たちは、いかに処刑を行わず慈悲深い扱いをすると約束されても、現実的にはやはり投降した後の人生がかなり厳しいものになるであろうことを案じずにはいられまいが……。

 それにしても、勝算が完全になくなったなら、投降なり自害なり、玉砕覚悟の決戦なりを考えて、何がしかの行動を起こしてもよさそうなものである。

 ところが連中はのらりくらりと戦いを避け続けながらも、降伏する気配もなく本拠地であるロンディニウムに閉じこもったままで、うんともすんとも言ってこないのだ。

 

「思うに、彼奴らにはこの期に及んでも、まだ何らかの勝算があるのだろう」

 

 だが、その勝算とは一体何なのだろうか。

 ロンディニウムへ物資や人員を溜め込んで篭城戦をするにしても、既にこちらの方が圧倒的に優位である。

 

 だが、思えば自分たちも、ニューカッスル城では圧倒的に優位な敵軍に対して奇跡的な逆転勝利を収めたのではなかったか。

 まさかとは思うが、向こうも同じようなことを狙っているのではあるまいか。

 追い詰められた状況から一発で状況をひっくり返すような、何かがあるとでもいうのだろうか……。

 

「……まさか」

 

「ううむ……、しかし……」

 

 一同は答えを見出せぬまま、不安げな様子で顔を見合わせた。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 ガリアの沿岸部にある街、サン・マロン。

 

 ここはハルケギニア随一の大国ガリアの中にあっては王都から離れた田舎の部類に入るものの、一方でガリア空海軍の一大根拠地でもあった。

 鉄塔のような飛空船の桟橋をはじめとした、さまざまな軍事関係の施設がいくつも立ち並んでいる。

 

 この街の市街地から離れた一角に、一風変わった施設があった。

 煉瓦と漆喰で造られた土台の上に木枠と帆布でくみ上げた、円柱を縦に半分に切って寝かせたような形状の建物である。

 周囲を昼夜問わず衛兵が巡回し、近郊の市民たちが容易に近づけないようにしていることから、何か重要な施設であることがうかがわれた。

 

「……おや? あれは、『シャルル・オルレアン』じゃあねえか?」

 

 一隻の巨大な船がその建物の前に建てられた鉄塔へと近づくのを見て、巡回中の衛兵の一人がそう呟いた。

 

 三年前に亡くなった王弟の名がつけられたその船は、全長百五十メイルにもなる、王室の誇るガリア最大の空戦艦である。

 もっとも、大きさでは空の大国アルビオン空軍の艦隊旗艦、『ロイヤル・ソヴリン』には及ばない。

 かの船は一時期、『レコン・キスタ』と名乗る叛徒どもの手に落ちていたときには、彼らが初めて勝利した地の名をとって『レキシントン』と改名されていた。

 だが、先日勢力を盛り返した王党派が、無事に奪還したのである。

 とはいえ、進空したのがつい最近のため、戦闘力という点では艦齢の古いロイヤル・ソヴリンよりも遥かに勝るであろうと目されていた。

 片舷だけで百二十門、合計二百四十門もの大砲を備えており、その他にも魔道具を改良した数多くの武器が備えつけられている。

 

「おい、あの旗を見ろ。王さまが乗ってなさるぞ」

 

 マストに翻る王室の座上旗を見て、衛兵は息をのんだ。

 

「ほんとだ。こんな田舎に、視察に来たのかな?」

 

「やっぱり、あの薄気味の悪い『実験農場』を、かねえ……」

 

 衛兵たちは、顔を見合わせてそう囁き合う。

 

 自分たちの守らされているこの不気味な建物の中で何が行われているのかは、彼ら自身も知らなかった。

 だが、この建物ができてからというもの、何かがおかしい。

 見慣れない怪しげな連中が、時には物語に出てくるような化物か、魔法の実験で作られた合成獣かなにかとしか思えないようなおぞましい姿をしたモノまでが、街に出入りするようになったのである。

 そして今日はついに、この国の最高権力者までがやってきたというのだから!

 

「そういえば……、ここだけの話だがな。こないだイルマンの野郎が、あそこでエルフを見たって言ってたぜ?」

 

 一人が、低い声でそう言った。

 

 他の衛兵たちは、ぎょっとした様子だった。

 エルフといえば、ここハルケギニアでは始祖と敵対した最強の妖魔として悪名高い。

 

「まさか! いくらなんでも、そりゃあほら話だろ?」

 

「そうそう、でなきゃ見間違いだぜ。あの酔いどれで老いぼれのイルマンの言うことなんざあ、あてになるものかよ」

 

「いや、そんときゃあ珍しく素面だったそうでよ。夜中に取り巻きを引き連れて『実験農場』の中に入っていった野郎は、間違いなく帽子の隙間から長い耳を覗かせてたんだって、がたがた震えながらそう言いやがるのよ……」

 

 衛兵たちがそうして話し合っているうちに、飛行船は鉄塔に取りつき、集まった基地付きの楽団が王を迎える演奏を開始した。

 

 儀杖兵が鉄塔から延びる石畳の通路の左右にずらりと並び、杖やマスケット銃を構える。

 船から延びたタラップに、堂々たる偉丈夫が姿を見せた。

 遠目にも明らかな、その鮮やかな青髪は、まごうことなきガリア王族の証だ。

 

「見ろよ、『無能王』だ」

 

 衛兵のひとりが、その様子を眺めながらぽつりとそう呟く。

 王族でありながら魔法が使えず、奇矯な行動を続ける現国王ジョゼフに対して、国民が陰で囁き合っている蔑称だった。

 

「あの王さまは、ここで一体、なにをやらせてやがるんだ?」

 

 

「焼けた金属の嫌な匂いがしますわ……。でも、ずいぶんと暑そうな場所ですのに、意外に快適な温度ですわね?」

 

 恋人に連れられて『実験農場』の中に入った、その薔薇のように美しい貴婦人は、半ば不快そうな、半ば不思議そうな表情で、きょろきょろとあたりを見回していた。

 

「ああ。それは余があなたの傍にいるからだよ、モリエール夫人」

 

 青みがかった髪と髭に彩られた整った彫刻のような面立ちに、均整のとれたがっしりとした長身。

 今年で四十五になるにもかかわらず、どう見ても三十過ぎ程度にしか見えない若々しさ。

 この美丈夫こそが、ガリアの現国王であるジョゼフであり、モリエール夫人がその胸を焦がす愛人でもあった。

 

 彼の言葉を恋人からの甘い囁きの類だと解釈した夫人は、軽く頬を染める。

 

「まあ……。そうですわね、頼もしいお方。陛下がおられれば、きっとわたくしは地獄の業火の中でも平気でしょうとも!」

 

 実際にはジョゼフの言葉は、文字通りの意味だった。

 

 彼はいま、メイジが身に着ける普通のマントの代わりに、古代の遺構から発見されたマジックアイテムのひとつである《快適な外套(クローク・オヴ・コンフォート)》と呼ばれる品を身に着けている。

 ジョゼフの使い魔である、寵愛する『ミューズ』ことミョズニトニルンのシェフィールドが見つけてきて、その主に贈ったものだ。

 この一見何の変哲もない外套を身にまとっているだけで、着用者はもちろんのことその近くにいる同行者も全員、酷暑や極寒の被害を免れて快適な体感温度で過ごすことができるのである。

 

「ほう? 本当にそう思うかね」

 

「ええ、もちろん」

 

 ジョゼフは、ふむ、と頷く。

 

「それは素敵だな。地獄の業火なら用意がある、ひとつ試してみようか」

 

 真顔でそう言ってから、きょろきょろとあたりを見渡した。

 そうして目当ての人物を見つけると、嬉しそうに手を上げて、そちらへ駆け寄っていく。

 

「おお、ビダーシャル卿! 例のものが量産に入ったらしいな?」

 

「ああ」

 

 顔を隠すようにして大きな帽子を被ったやせぎすのその人物は、そっけなくそう言って頷いた。

 相手を王とも思わぬその態度にモリエール夫人は思わず眉をひそめたが、ジョゼフは気にした様子もない。

 

 それはそうだ。

 

 ゴーレムのような疑似生命体の物言いなどに、いちいち腹を立てるメイジがいようか。

 

 この人造生命体の元となったビダーシャルという名のエルフは、異界から来た『シャイターン』どもにこの世界を侵略させるわけにはゆかぬといい、協力を求める使者として先日ガリアにやってきたのだった。

 ガリアは彼らが蛮族と呼ぶ人間たちの国家群の中では最も力をもつ存在であり、また『シャイターン』の活動する姿が目撃されたのも、その地においてのことだったからである。

 

 だが、当のガリアの国王自身が、止めるべきその『シャイターン』の活動の最大の後援者であったとは、彼にも思いもよらぬことだったようだ。

 

 不意を打って殺害した彼の屍を元に、シェフィールドが古代の遺構より発見された希少なスクロールを用いて自分に隷属する《氷の暗殺者(アイス・アサシン)》を作成し、エルフたちの間で用いられている高度な技術を提供させた。

 ついに『ヘルファイアー・ヨルムンガンド』の作成・量産が可能になったのも、その技術供与に依る部分が大きい。

 

「余のミューズがここに居らぬのが残念だ。しかしあなたがいる、モリエール夫人」

 

 ジョゼフはそう言うと、モリエール夫人の手を引いて、古代のコロシアムを思わせるような円形の造りをした場所に導いた。

 そうして、そこに用意された席に着くように促す。

 

 何が何だかさっぱりわからないものの、恋人が楽しそうにしているのと熱心に手を引かれたのが嬉しくて、モリエール夫人は言われるままに従った。

 

「さあ、スペクタクルを見せてもらおうか」

 

 ジョゼフの言葉を受けて、ビダーシャルが小さく頷く。

 

 彼が手を振って合図をすると、まずは西百合花壇騎士団の精鋭たちが作り上げた、スクウェア・クラスの土ゴーレムが三体、姿を現した。

 土ゴーレムなど別段珍しくもないが、さすがに腕利きのメイジたちが作り上げただけはある。

 高さ二十メイルはあろうかというその大きさといい、そのサイズにもかかわらず総じて鈍重なゴーレムにしてはかなり滑らかに動くことといい、見事なものだった。

 

 次いで、別の金属製のゴーレムが姿を現す。

 目や口がその体内にこもった熱のために白熱して輝く、どこか禍々しくもあるが見事なデザインの施されたゴーレムだった。

 モリエール夫人が目を疑うほどの、まるで人間のような滑らかな歩みだったが、大きさは先に現れた土ゴーレムたちに比べればずいぶんと小さくて十メイルもない。

 

「あれが、ここで私に見せたかったというものですの?」

 

「さよう。あの金属のゴーレムが、余の『ヘルファイアー・ヨルムンガンド』だ」

 

 ジョセフが誇らしげにそう答えた直後に、ゴーレムたちの戦いが始まった。

 

 金属ゴーレムを取り囲み、土ゴーレムたちが唸りを上げて拳を振り下ろす。

 だが、それをまともに受けてもヘルファイアー・ヨルムンガンドはまるで堪えた様子がない。

 逆に高熱を帯びた拳を立て続けに振るい、硬度では劣るとはいえ自分よりはるかにサイズの大きい土ゴーレムを一体、たちまち融かし砕いて土くれに還してしまった。

 さらに、なおも襲い掛かろうとする残るゴーレムたちに向けて大きく口を開き、自身の体よりもはるかに大きな白い業火のブレスを吐きかけた。

 

「ひっ!?」

 

 あまりの眩しさに、モリエール夫人は思わず手で顔を庇う。

 ややあって、おそるおそる目を開けてみると、ゴーレムたちのいたあたりには融け固まった土の塊があるばかり……。

 

 そんな信じられない光景を前にしたモリエール夫人は、完全に言葉を失った。

 しばしの沈黙のあと、やっとのことでぽつりと呟く。

 

「……陛下は、なんというモノをお作りに……」

 

「気に入ったかね? 先住と伝説、そして異界の技と魔法とが幾千年の時を経て再び巡り合ったことでもたらされた、奇跡の産物だよ。地獄の業火をその身に宿す、冥府の機械の再現品だ!」

 

「こんな怪物が十体もいれば、ハルケギニアを征服できるでしょうね」

 

「十体? ははは、少ないな。余は、この人形で騎士団を編成するつもりだよ」

 

 ジョゼフは楽しげにそう説明しながら、モリエール夫人の方を指さして、ビダーシャルになにか指示を送る。

 命令に背かぬその人造生命体はそっけなく頷くと、軽く手を振った。

 

「……え?」

 

 きょとんとするモリエール夫人のほうに向き直った地獄の業火の機械は、その白熱した口を、再び大きく開き――――。

 

 

「なんだ、骨も残らなかったではないか。地獄の業火にも平気だなどと、口先ばかりだな」

 

「……お前の、恋人ではなかったのか?」

 

「ああ。だから、多少は胸が痛むのではないかと思ったのだがな。無理だった。今回も無駄だった。どの道、向こうも地位や金が目当てだったのだろうがな。でなければ、国内外からそしられるこの『無能王』にすり寄るはずもあるまい?」

 

「私の創造主も、お前を愛しているはずだ。お前はそれも、いつか殺すつもりか」

 

「シェフィールドが? まさか。あやつは余の使い魔だ。あやつも契約に縛られて、余に忠義を尽くしているだけのことだ」

 

「そうか。殺す気がないのならば、私はそれで構わぬ」

 

 その様子を遠巻きに見つめていたデヴィルたちのくすくすという嗤い声が、闇に響く……。

 





クローク・オヴ・コンフォート(快適な外套):
 着用者、およびその周囲30フィート以内にいるすべての仲間を常にエンデュア・エレメンツの呪文で保護する魔法の外套。
保護された者は-46℃から60℃までの環境下で、一切暑さ寒さの害を受けることなく快適に過ごせる。
また、外套には着用者のセーヴィングスローに抵抗ボーナスを与える効果もある。
 冒険者にとっては人気の一品で、おそらくディーキンも一着もっているかもしれない。

アイス・アサシン
Ice Assassin /氷の暗殺者
系統:幻術(操影); 9レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(雪か氷でできた対象の像と対象の体の一部、20,000gpの価値のあるダイヤモンドの粉末)、経験(5,000xp)
距離:接触
持続時間:瞬間
 アイス・アサシンは多くの点でシミュレイクラムの強化版にあたる呪文である。
この呪文は生きて呼吸する、既存の生物のほぼ完全な複製を作り出す。
この呪文で作り出された似姿は本体がもつすべての技術、能力、記憶を有しており、常にテレパシーのリンクで結ばれている作成者の命令には絶対服従する。
ただし性格は歪んでいて、その元となったオリジナルへの強い憎悪を抱いており、オリジナルがまだ生存していてかつ作成者の命令に従っていない場合には、常にオリジナルを見つけ出して殺害しようとする。
作成者が似姿の距離一マイル以内にいない場合には、似姿は作成者の制御を離れて行動することができるようになる。
似姿はロケート・クリーチャーの呪文に相当する能力を用いて、オリジナルの居場所を探し出すことができる。
似姿は作成されたときよりも強大に成長する能力はもっておらず、負傷した場合には設備の整った実験室で修復しなければならない。


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第百五十話 Container and contents

 

「悪魔どもの後ろ盾にガリアがついているという、君の推測が正しいとすれば。やつらはのらりくらりと時間を稼がせながら、かの国の内部で新たな戦力を用意しているのではないかな?」

 

 幾度目かの軍議の席で、ウェールズ皇子は同席したディーキンの方を見ながら、そんな考えを口にした。

 

 先日の戦で、敵方は『地獄の業火』とやらを使う強力な新型のゴーレムを持ち出してきた。

 あれがガリアで作られたものだとすれば、量産した上でこちらと同じく瞬間移動などを活用することで密かにレコン・キスタの本拠地へ運び込み、戦列に加えるつもりなのではないだろうか。

 

 ニューカッスル城前の戦いでは完封できたが、それはこちらが精鋭を揃え、あらかじめ準備を整えた上でのこと。

 もしも同じものが量産され、戦場の何か所もに同時に姿を現したなら甚大な被害を生じさせ得る。

 もしかすれば、他にもさまざまな兵器を開発しているかもしれない。

 

「ウーン……。そうかもしれない、けど……」

 

 ディーキンは釈然としない様子で、首を傾げて考え込んだ。

 

 デヴィルたちの背後に大国ガリアがいるというのは、タバサの屋敷で見つけたものなどからディーキンが推測したことであり、証拠はないが彼としてはその可能性は高いと踏んでいた。

 かの国は、ハルケギニア随一の大国にして魔法技術の先進国なのだという。

 ゆえにウェールズ皇子の考えたようなことも可能かもしれないし、地獄の業火を使う強力なゴーレムが量産されれば確かに大変な脅威である。

 

 しかし、それで仮に戦況を巻き返せたとしても、デヴィルたちにどれほどの利があるだろうか。

 

 デヴィルは、同じフィーンドであってもデーモンとは違うのだ。

 もちろん、どちらも純粋な悪で、善と倫理の敵対者であるという点では同じであるが、デーモンが破壊者であるのに対して、デヴィルは圧制者である。

 前者が善の勢力と戦うのは敵を憎んでいるからだが、後者は同様に暴力を愉しむことはあっても、得るものより失うものの方が大きい時には戦わない。

 デーモンは定命の存在を破壊しつくしたいと考えているが、デヴィルは定命の存在から搾取し支配したいと思っているのだ。

 

 その観点から見れば、このアルビオンでは既に、人心はすっかり王党派の方に流れてしまっている。

 レコン・キスタは悪魔の支配下にあり、人々を解放するのではなく圧制の下に置こうとしているのだと、多くの人々が理解しつつある。

 そんな状態でさらに恐ろしい力を持ち出して一時的に持ち直したとしても、人々はますますレコン・キスタを恐れ憎むようになり、力を合わせてそれに対抗しようとするだけではあるまいか。

 魂がすっかり悪に染まって死んだ後でバートルに堕ちる状態になっているのでなければ、定命の者をいくら殺してもデヴィルにとってはせいぜい一時の娯楽にしかならず、それが彼らにとって多大な労力を費やすに見合うほどの利益だとは思われない。

 

 しかし、では他にどんなことが考えられるのかと問われれば、ディーキンにも自信をもって話せるようなことは何もなかった。

 

 現状この地でデヴィルたちが人心を掴むことは、もはや戦の勝敗に関係なく絶望的になっているように思われる。

 となれば、これ以上の消耗を避けるためにアルビオンを見限り、レコン・キスタ陣営で既に地獄堕ちが確定している者だけ殺害してさっさと兵を引くなどしていてもよさそうなものだが、いまだにそんな動きはない。

 

 さまざまな占術を用いての情報収集も定期的に試みてはいるが、結果はいまひとつ芳しくなかった。

 この種の呪文では、ある程度具体的に質問の範囲を絞り込めていない状況でただ漠然と気を付けるべきことなどを尋ねてみても、あまり有用な答えが得られることは期待できないものだ。

 

「……ええと、ガリアの方でデヴィルが何をしているか調べてもらうとか、倒してもらうとかは……、できない?」

 

 ディーキンは、同じく軍議に出席していたウィルブレースにそう尋ねてみた。

 彼女はニューカッスル城での決戦の折も、敵陣に単身潜入して数々の情報を集めたり破壊工作を行ったりして、自軍を見事勝利に導いてくれた。

 もう少し敵側の情報が得られれば、占術ももっと有効に使えるだろう。

 

 しかし、ウィルブレースは自信がなさそうな顔で首を傾げた。

 

「難しいでしょうね。私にはガリアという国での土地勘がありませんし、話を聞く限りではかなり大きな国のようですから、どこからとりかかっていいものか。他のセレスチャルに手伝ってもらうにしてもこちらでの仕事もありますし……。疑いのある場所を虱潰しにすべて調べていくには、時間も人員も足りないでしょうから」

 

 ラ・ロシェールでディーキンの得た情報によれば、デヴィルたちの背後にいるのはアークデヴィル随一の慎重派で、防御戦術の達人としても知られるディスパテル大公爵であるらしい。

 ならば、重要な施設は厳重に守られていることだろう。

 ニューカッスル城での戦いを経て、デヴィルらもセレスチャルの干渉があり得ることを想定しているはずだ。

 建物にごくありきたりな《不浄の地(アンハロウ)》の効果が定着されているだけでも、その内部の調査や破壊をすることは格段に難しくなる。

 それでもなお不測の事態が起きた場合に備えて、おそらくは予備も十分に用意してあるはずだ。

 

 それに、セレスチャル総出でガリアに向かうというわけにもいかない。

 こちらにも再びデヴィルが姿を現し、何らかの工作を仕掛けてきた場合に備えて、人員を残しておかなくてはならないのだから。

 

「そうですな。残念ながら、ガリアの国力は我が国とは比較にならぬほど大きい。仮にひとつやふたつの施設を潰せたとしても、ほどなく復旧できることでしょう」

 

「それに、確実な証拠もなく他国へ、それも同じ始祖に連なる国へ、そのような破壊工作を仕掛けるわけにはゆくまい。それこそ、取り返しのつかぬ事態を招く恐れもある」

 

 ディーキンは他の同席者たちの言葉に素直に頷くと、席に腰を下ろした。

 

 

 

 その後は他の人々の意見を大人しく拝聴する傍らで、心の中で別の案を検討していた。

 

 デヴィルがガリアの内部に根を張っているとして、レコン・キスタ陣営に密かな援助を送るには、相当の資産を動かせる立場にある者を取り込んでいなくてはならない。

 ガリアの相当な重臣か大貴族か、それともタバサの叔父だというガリア王ジョゼフ本人か。

 

 と、なれば。

 するべきことは密かに宮廷内へ潜り込み、その人物を特定して、情報を引き出すことだ。

 うまくすれば、この世界に来ているデヴィルたちの首魁だというディスパテル大公爵の居場所も突き止められるかもしれない。

 いずれにせよ、最終的にはかのアークデヴィルを倒し、この世界へデヴィルたちが流入する源を見つけ出して断ち切らねば、脅威を完全に取り除くことはできないだろうし……。

 

(でも、それをセレスチャルの人たちに頼むわけにはいかないね)

 

 先ほどはウィルブレースに頼もうかと思ったが、よく考えてみれば先のニューカッスル城での戦い以降、デヴィルらも自分たちの拠点への善の来訪者の侵入に対しては十分に備えていることだろう。

 そんな場所へ単身、ないしはごく少人数でセレスチャルが乗り込んで行くのは、あまりにも危険すぎる。

 善の来訪者は悪の巣では目立つだろうし、来訪者や招請されてやってきた存在に特有の弱点というものもあって、対策が取られやすいのだ。

 

 そんな危険極まりない敵の巣窟へ、さしたる報酬も求めずにやって来てくれた彼らを向かわせるわけにはいかない。

 

(もし必要になったら、やっぱりディーキンが行くしかない……かな?)

 

 とはいえ、単身では無理だ。

 ウィルブレースのような数々の能力を備えた強大な来訪者はいざ知らず、冒険者は一人で仕事するものではない。

 誰か、頼りになる仲間についてきてほしい。

 

 もしもその時がきたなら、自分が同行してくれるように頼むことになる相手は、おそらく……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 軍議が終わると、ディーキンはタバサとの待ち合わせ場所へ向かった。

 用事の済んだら一緒に散歩をしようと約束していたのだ。

 

「お待たせなの」

 

 彼を待つ間静かに腰を下ろして本を読んでいたタバサは、すぐにその声のした方に顔を向ける。

 

 そうしてディーキンの姿を見た彼女はしかし、わずかに目を見開くと、小さく首を傾げた。

 喋り方などから間違いなくディーキン本人だということはすぐにわかったものの、なぜか今の彼は人間のものらしき体になっていたのだ。

 その姿は幼さの残る端正な顔立ちの金髪碧眼の少年で、年のほどはタバサと同じか、それよりもやや幼いくらいだろうか。

 そういえば、ニューカッスル城を発つ前夜に催されたパーティに仲間たちと共に参加し、その後も王党派の軍がアルビオンの都市を解放した折などに時折どこからともなく姿を現しては、鏡写しのような姿をした少女と一緒に歌い踊ってくれている少年によく似ているな、とタバサは思い出した。

 

 確か、『レン』とかいう名だったはずだ。

 

 どうやら彼らは、従軍して力を貸してくれているウィルブレースらとはまた違う種類の天使であるらしく、戦いには参加せずもっぱら芸能を披露して戦火に疲れた人々を慰問することに努めている。

 今のディーキンはおそらく、その子の姿を模しているのだろう。

 

「どうして、変装しているの?」

 

「これは変装じゃないの、変身なの」

 

 ディーキンはそう言うと、タバサの手をぎゅっと握った。

 

「あ」

 

 タバサの頬が、わずかに朱に染まる。

 

 同時に、彼の言った言葉の意味も理解できた。

 握られた手から伝わってくる感触はいつもの固い鱗に包まれたそれではなく、柔らかく、温かい。

 確かにこれは、よく彼が使っている《変装帽子(ハット・オブ・ディスガイズ)》によるもののような幻覚を身に帯びただけの『変装』ではなく、シルフィードの先住魔法のように体そのものを変化させる『変身』だ。

 

「話し合いの後で、ウィルブレースお姉さんにやってもらったんだよ」

 

「……どうして」

 

 タバサは、ほんの少し手を握り返しながら、もう一度質問した。

 変装ではなく変身なのはわかったが、彼の答えはなぜそんなことをしているのかの説明にはなっていない。

 

「えっと、その……、えへへ。ディーキンは、人間の体になってみたら、タバサの気持ちがもっとよくわかるかなあって……」

 

 ディーキンは恥ずかしげにもじもじしながらそう言うと、タバサの手を取ったまま彼女の顔をちらちらと見ては、はにかむように軽く頬を染めた。

 常の彼とは少し違って見えるそんな振る舞いに、タバサの胸が高鳴る。

 

「ディーキンは、なんだか恥ずかしいの……。タバサがいつもよりきれいに見えて、どきどきするよ」

 

 同じ種族の体をもてば彼女のような美しい異性に惹かれるのは当然のことであろうし、コボルドの基準から見てもなんら恥ずかしいこともないはずなのだが。

 それでもなんだか、理屈ではなく恥ずかしい感じがするのだ。

 これが人間の感じ方というものなのだろうか、とディーキンは思った。

 

「……~~っ!」

 

 どきどきするのはこっちの方だ、とタバサは思った。

 今の自分の顔は、きっとりんごの様に真っ赤なのではないだろうか。

 

「えーと。それじゃ、散歩に行こうよ!」

 

 ディーキンは照れ隠しをするようにそう言うと、タバサの手を握ったまま駆け出した。

 

 いつもは身長差がありすぎて、小さな弟の手を握って歩くお姉さんのような状態になってしまうので、手をつないで散歩をすることはない。

 しかし今は、彼の方がタバサよりも十サント以上背が高かった。

 タバサはあわてて彼の手をしっかり握ると、頬の朱を隠すように俯いて、その後へ小走りについて行く……。

 

 

 遠くの方からこっそりと、そんな二人の様子を窺っている人影があった。

 例によって、キュルケとウィルブレースである。

 

「ディー君を人間の体にするなんて、あなたもやるじゃないの!」

 

 これならタバサも心置きなく押し倒せるってものよね、と興奮気味に言うキュルケに、ウィルブレースは苦笑して軽く首を振った。

 

「いえ、そういうつもりではありませんが……。それにしてもレン君にエスコートされてデートだなんて、羨ましい限りですね」

 

 もちろん、結果的にそうなったなら、それは結構なことではあるのだが。

 

 ニューカッスルでのデート以来、密かに二人の様子に興味をもっていたウィルブレースは、会議の後でさりげなく最近彼女とはうまくいっているのかとディーキンに尋ねてみた。

 その際に、「タバサの気持ちはなんとなくわかるし、それはすごく嬉しいんだけど。ディーキンがそれに応えられるのかわからなくて」という彼の相談を受けて、ならば一度彼女と同じ人間の体になってみてはどうか、と提案したのである。

 ほとんどあらゆる種族の姿に変身することができる能力をもち、実際に定命のエルフの身であった頃からオークの姿をはじめ、さまざまな姿をとることに慣れている彼女自身の経験を踏まえた上での助言であった。

 

「肉体の外観よりもその内にある心や魂こそが重要であるのはもちろんのことですが、それらの本質もまたそれが宿る器の影響を少なからず受けるものです。違う形の器、違う立場にある器の中から見た世界は、以前とはまるで違って見えるということも珍しくありませんから」

 

 その度に自分の知る『世界』が広がっていくのだということを、ウィルブレースはよく知っていた。

 

 種族、性別、年齢はもちろん、わずかな容姿や背丈の違いでさえも世界はがらりとその姿を変える。

 醜く粗暴なオークにとって世界はどんな場所であるのかを学び、今の半分の背丈だった頃に世界がどのように見えていたかを思い出し、巨人の目から見た世界はどんなものであるかを知る。

 すべてが新鮮で、どれだけ経験しても飽きることのない無限の世界がそこにあるのだ。

 

 人間の体をもてば、ディーキンもタバサの魅力にもっと深く気が付けるかもしれない。

 それで二人の仲が深まってくれれば、もちろんそれに越したことはない。

 だが、それとはまた別に、純粋に彼らにもっと広い世界の見方があることを伝えたいとも思う。

 バードとして、またエラドリンとして、自分の見てきた美しい世界、楽しい世界のことを、他の人々にももっと知ってほしいと望むのは至極当然のことだからだ。

 

「むしろ、彼女の魅力に気が付いて押し倒すことになるのはディーキンの方かもしれませんよ?」

 

「あのディー君が? まさか!」

 

「いえいえ。彼とて、全竜族の中で最も強欲とされるレッド・ドラゴン族の血を引く若き竜。生まれて初めて特定の異性に惹かれるようなことがあれば、その時どうなるかはわかりませんよ? もちろん、邪悪な振る舞いに堕すようなことはないでしょうが」

 

 ウィルブレースは楽しげにそう答えると、今度は悪戯っぽい目でキュルケを見つめた。

 キュルケは、反射的にどきりとする。

 

「せっかくですから、あなたも新しい世界に挑戦してみませんか? そうですね、今度はあなたの方が男性になるとか、どうでしょう」

 

 

「きれい……」

 

「でしょ? 本当にきれいだよね!」

 

 小高い丘の上から眺める風景、少し赤みがかり始めた日の光の中で夕風にそよぐ木々や花々の姿は、なんともいえず美しかった。

 まるでこの地に住まう人間たちの小競り合いなど、関係ないと言わんばかり。

 

 王党派の軍と共に新しい街に来ると、ディーキンは決まってそのあたりの美しい場所を探し、暇を見て彼女を案内した。

 

 異種族であるにもかかわらず、また王族や見目麗しく信仰の対象でもある天使までもが従軍しているにもかかわらず、ディーキンはやはり兵士たちから人気があって、多くの人々と知り合って親しげに話していた。

 もちろん作戦会議などにも頻繁に顔を出して意見を言ってくれるよう求められていたし、それでもなおしっかりと使い魔としての仕事もルイズの傍で務めていた。

 そんな中でも、必ず自分との時間をもつように努めてくれているのが、タバサにもわかった。

 

(この人が自分にしてくれているのは、気遣い)

 

 あの日の、あの礼拝堂での言葉が私にとって大切な意味をもっていたことを、わかってくれているからだ。

 彼はあの時、恋をしたことはないと言っていた。

 今もしてはいないだろう、それはよくわかる。

 

(だけど……)

 

 でも彼は、あの時、「いつか自分にも恋というものを教えてほしい」と言ってくれた。

 そして今日は、こちらの気持ちがもっとよく知りたいからと言って、自分と同じ人間の体になってみてくれた。

 

(近づこうとしてくれているんだ。私に……)

 

 そう考えると、喜びでとくとくと鼓動が高鳴って、タバサはそっと自分の胸元を押さえた。

 

「……ン?」

 

 その時、ディーキンが小さくそんな声を上げて、首を傾げた。

 

 彼の視線を追って、タバサは眼下の美しい光景の端に、幾人かの人影を見つけた。

 遥か昔に水の枯れた川の底で、編みかごを手に石を梳いている人々……。

 

「あの人たちは、何をしてるのかな?」

 

「……鉱石を探している」

 

 タバサは少しだけ不機嫌そうに顔をしかめて、そう言った。

 

 ずいぶんと離れているから、あの人々にはこちらが何をしているのかなどはわからないだろうが……。

 それでも、せっかくの二人の時間に少しばかり水を差されたような気がした。

 

「鉱石? あんなところで、何か鉱石がとれるの?」

 

「そう。昔、水が流れていたころには、川底でトパーズや猫目石がとれた」

 

 タバサは以前にアルビオンの地理に関する本を読んで、そのことを知っていた。

 今は川も枯れて、鉱石もほとんどとり尽くしたはずだ。

 

「それでも、時間があるときにはああして、残り物を少しでも漁ろうとしている」

 

 人間の欲深さには際限がない。

 地表から、そしてこの空に浮かぶ大地でも、ほとんどの貴金属を既にさらってしまった。

 この美しい自然の風景を人間の欲深さが穢しているようで、そういう意味でもいい気分はしない。

 

「オオ。タバサはやっぱり、物知りだね」

 

 ディーキンは感心したようにそう言うと、彼女とは対照的に、きらきらした目でそれらの人々の姿を見つめた。

 

「えらいねえ。ディーキンはただきれいなところだとしか思わなかったけど、もっと一生懸命探して宝石を見つけたり、みんな一生懸命に働いてるんだね!」

 

「…………」

 

「やっぱり、家族のためなのかな? それとも、自分の夢を叶えるため?」

 

 ディーキンは、遠くに小さく見えるその人々の人生に思いを馳せた。

 

 コボルドも、よく鉱山で一生懸命に働いては貴重な鉱石を掘り出す。

 そうして得た財宝は概ね崇拝するドラゴンに捧げてしまうのだが、それに比べたら家族のために、あるいは自分の夢のために働くというのは、ずっと健康的で建設的なことに思えた。

 もちろん、コボルドにもコボルドの人生があるし、それを全面的に否定するものではないのだが。

 

「……そうかもしれない」

 

「あの人たちみんなに、物語があるはずなの。それをみんな歌にできたら、きっと素敵だろうねえ」

 

 ああ、そうか、とタバサは思った。

 

 いま、彼と自分とは同じ人間の体をもち、同じ作りの目で同じ光景を見ている。

 なのに、やっぱり見えているものが違う。

 彼にとっての世界は、きっと自分のそれよりもずっと明るく色鮮やかで、楽しいところなのだろう。

 何を見ても、そこに美しさを見い出せるのだから。

 

 彼の姿が眩しく見えるのは、赤く輝き始めた夕日のためばかりではあるまい。

 

「ねえ、せっかくだからちょっとやり方を教えてもらって、あの人たちと一緒に働いてみない? きっと楽しいと思うの」

 

 ディーキンはタバサの顔を真っ直ぐに見つめながら、無邪気にそう言った。

 

 以前の自分なら、そんなことをするのは時間の無駄だと断って、本でも読んでいるだろう。

 でも……。

 

(この人がいつか恋をするとしたら。その恋はきっと、砂糖菓子のようだろう)

 

 誰のものより、きれいで甘い。

 その時、彼と同じものを味わいたいと思うなら、きっと自分も変わらなければならないのだ。

 

「わかった。私もきっと、楽しいと思う」

 

 だから、タバサは少しだけ微笑んでそう答えた。

 

 彼が自分に近づこうとしてくれているように、自分も彼に近づきたいと思う。

 その目に見えている世界が、どんなに大きくて美しい場所なのかを知りたいと思う。

 

 そして、彼の傍にいたいと思う……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 鉱石採集の仕事をしていた人々は、突然見知らぬ貴族の少女とその連れらしい少年が仕事の手伝いをしたいのでやり方を教えてほしいなどと言ってきたことに、最初は戸惑った様子だった。

 しかし、例によって人懐っこいディーキンはすぐに彼らと打ち解け、快く一緒に働くことができた。

 

 タバサが最初、あさましく欲深な人々なのではないかと感じた彼らはしかし、ディーキンの思った通り、打ち解ければ親切で楽しい人々だった。

 いつかお金をためて地上に降りて働きたいという若い女性、夕方のこの仕事でもう少し追加収入を得られれば下の子に新しい靴を買ってやるのだという壮年の男性……。

 それぞれの夢を語る彼らの目は、どれも彼ら自身の探す宝石よりももっときれいに輝いていた。

 ディーキンはおそらく、今日出会った人々のためにささやかな歌を作って、いつか酒場で歌うのだろう。

 

 そして自分も、素敵な贈り物を得ることができた。

 

 それは宝石の原石、とはいえ低質で錬金で作った紛い物にも劣る、ほとんど価値のない屑石だ。

 だがそれは、ディーキンが不慣れであろう人間の体で頑張って探し、見つけて贈ってくれたもので、彼女にとっては純金の塊よりもずっと価値のある品だった。

 タバサは手の中でかすかに輝くその小さな鉱石の欠片を愛おしげに見つめながら、弾むような気持ちで自分に与えられた部屋に戻った。

 

「……?」

 

 そうして部屋に入った彼女は、あるものに気が付いて怪訝そうに眉をひそめる。

 

 それは、ベッドの上にいる一羽のカラスだった。

 どうしてこんな場所に、鳥が入り込んでいるのだろうか。

 そう思いながらも杖を振るい、そのカラスを風で絡めとって、窓から外に逃がしてやろうとする。

 

「!?」

 

 その途端、ポンっと音がして、カラスの体が左右に割れた。

 一瞬ぎょっとしたが、よく見るとそれは精巧にできた模型であった。

 おそらく、魔法人形(ガーゴイル)の一種なのであろう。

 

 その体の中にある空洞に、手紙が入っていた。

 タバサは何か罠がないか慎重に警戒しながらその手紙を開き……、文面を読んで、眉をひそめる。

 

(ガリアからの、呼び出しの手紙……?)

 

 自分がここにいることを、どうやって知ったのだろう。

 手紙には、今夜この街にある指定の酒場に向かって、使者からの指示をあおぐようにと記されていた……。

 





アンハロウ
Unhallow /不浄の地
系統:力術[悪]; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(少なくとも(1000gp+アンハロウ化された場所に定着させる呪文のレベルごとに1000gp)の価値がある薬草、油、お香)
距離:接触
持続時間:瞬間
 特定の敷地、建物、建造物1つを不浄の土地とする。これには大きな効果が3つある。
第一に、この敷地や建造物はマジック・サークル・アゲンスト・グッド(範囲内では善属性の者による攻撃が効きにくくなり、精神制御の試みが遮断される)の効果によって守られる。
第二に、効果範囲内では、負のエネルギー放出に抵抗するための難易度は+4の清浄ボーナスを得て上昇し、正のエネルギーに抵抗する難易度は4減少する。
最後に、術者はアンハロウをかけた敷地に1つの呪文の効果を定着させることができる。この効果は、その呪文の通常の持続時間や効果や範囲に関わらず1年間持続し、敷地全域にわたって効果がある。
術者は呪文の効果がすべてのクリーチャーに及ぶことにしてもよいし、術者と信仰や属性を同じくするクリーチャーだけに及ぶことにしてもよいし、術者とは違う特定の信仰や属性のクリーチャーだけに及ぶことにしてもよい。
1年が過ぎるとこの効果は切れるが、単にアンハロウを再び発動すれば更新したり、別の効果に変更したりできる。
アンハロウをかけた敷地に定着させることのできる呪文効果にはインヴィジビリティ・パージ(透明化無効)やゾーン・オヴ・トゥルース(真実を話させる)、ディメンジョナル・アンカー(瞬間移動を封じる)などをはじめ、数多くのものがあり、この呪文をかけた範囲内で戦うならその恩恵を受けられる防御側が圧倒的に有利である。
 善の側にもハロウというほぼ同様の呪文が存在する。ハロウはアンハロウを相殺する。


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第百五十一話 Bustling bar

 

(呼び出し……)

 

 タバサはベッドに腰を下ろすと、わずかに顔をしかめてその手紙を見つめながら、じっと考えてみた。

 

 人質にとられていた母は既に救い出したとはいえ、そのことはまだ伏せておかなければ母や自分、それに仲間たちの身にも危険が及ぶ可能性がある。

 となれば、あからさまな不服従の徴を見せるわけにはいかないのだから、行かねばなるまい。

 

 それにしても、こんなところにまで呼び出しが来るとは……。

 どうやってか知らないが、自分がここにいることをガリア側は突き止めたということになる。

 当然、なぜこんな場所にいるのかと疑念を抱かれていることだろう。

 

 最悪、自分たちが母を救い出して替え玉とすり替えたことに、既に気付かれているという可能性もある。

 万が一そうだったとしたら、すぐに何らかの手を打たなくてはならない。

 

(どんな用件なのだろう)

 

 いつも通り、任務の命令が来るだけだろうか。

 それとも、すぐに連絡が取れない場所に行ったことを咎められたり、そもそもなぜそんなことをしたかと詰問されたりするのだろうか。

 

 どうも今回の呼び出しは、いつものそれとは違っているような気がする。

 普段の出頭命令はカラスとかフクロウとかハトとかいった鳥が運んでくるのだが、今回に限っておかしな魔法人形だった。

 それについては場所が場所だけに、普通の鳥ではこんな上空まで来られないから、もしくは先日その連絡役の鳥に化けていたデヴィルが死んだからというだけかもしれないが。

 待ち合わせの場所が、この街にある酒場だというのも引っかかる。

 いつもならプチ・トロワに行って、イザベラから直接命令を受け取るように言われるのだ。

 単に難儀な任務を押し付けるだけでは飽き足らないのか、自分で直接会って何かといじめてやろうとしてくるのがあの意地の悪い従姉妹の普段のやり方である。

 

 まさか王族であるイザベラがこんな場所まで来るはずもないだろうし、その酒場で待っているのは何者だろうか。

 

(みんなには黙って、一人で行くべきかもしれない)

 

 タバサは、一度はそう考えた。

 なんといっても、自分がガリアに北花壇騎士として仕えているのは個人的な問題なのだから、他の人々を面倒な事態に巻き込みたくはない。

 

 だが、それでは以前の自分と変わらないと、すぐに思い直す。

 

(私が一人で行って、もしも罠にかけられて戻れなくなるようなことがあったら。その方がずっと、みんなに迷惑をかけることになるだろう)

 

 もしも自分が戻らなければ、どんなに危険であろうとディーキンやキュルケは、それにルイズやシエスタや、おそらくはギーシュだって、きっと助けに来てくれるはずだ。

 そのことを、今の彼女は疑ってはいなかった。

 

「…………」

 

 タバサは黙って手紙を畳んで懐にしまうと、そのまま部屋を出た。

 出発の前に、相談をしておくべき相手に会うために……。

 

 

 その夜、タバサは指定された酒場に向かった。

 

 そこでは先日王党派によってレコン・キスタの、ひいてはデヴィルの統治下から開放された人々が、もはや咎められる心配もなく陽気に浮かれ騒いでいた。

 肩を組んで浮かれ騒ぐ人々、真っ赤な顔でなおもエールをあおる酔っ払いに、扇情的な衣服を身にまとった女たち……。

 

 普段のタバサならば、内心少し不快に思いながらも表情を変えず、一瞥もくれずに無視して通り過ぎるだけのところだろう。

 しかし、今日の彼女はそんな人々の様子を、むしろ好ましく思った。

 

(みんな、楽しそう)

 

 タバサは何とはなしに少し足を止めて、周囲の人々の様子を窺ってみた。

 

 かつてこの町を支配していたデヴィルの定めた規則は締め付けが厳しく、支配下にあったときは酒や煙草のような嗜好品を彼ら“賤しい身分”の民が心置きなく愉しむことを許してくれなかった。

 そのくせ身分の高い者、富のある者は、それらの賤しい身分とみなされた者たちには禁じられた娯楽に公然と耽っていたのだ。

 

 懸命に働いたところで、大半の貧しい民にはようやく生き延びられるかどうかの物しか得られず、上に立つ者はそんな民から搾取し続ける……。

 貧民がそんなどん底の暮らしから抜け出すためには、隣人を陥れてのし上がるしかなかった。

 レコン・キスタの統治者たちに媚びて賄賂を差し出したり仲間を密告したりする者は褒賞を与えられ、時には本来は特権階級のみに与えられる娯楽を一時味わうことも許された。

 そんな環境に取り巻かれていれば、大抵の人々は遅かれ早かれ誘惑に屈して堕落していく。

 そうして一度味わった甘美な麻薬の虜になった者は、それらをまた得るためにより一層熱心に仲間を蹴落とそう、自分より下にいる者からもっと搾取しようとし始めた。

 

 表面的な規律の正しさの裏に隠れた、他人を信じず互いの足元をすくおうとし続ける人々、内面の腐敗。

 根も幹も朽ち果てて洞ばかりになり、ただ見せ掛けばかりが立派な虚ろな大木。

 それこそがデヴィルの好む『秩序にして悪』の社会の在り方であることを、タバサはディーキンやセレスチャルたちの話から、またこれまでに見聞きしたことから学んでいた。

 

 思えば、先ほど散歩の途中で出会った、あの枯れた川の底でほとんどない宝石を一心に捜していた人々は、そのようなデヴィルの支配が続いていたときにもきっと同じような生活を続けていたのではないだろうか。

 生きるために必要なわずかばかりの富を他人から奪うことを良しとせず、既に枯れ果てた荒野に求めようとしたのだ。

 そんな人たちのことを、石ころまでもあさって金を探すあさましい欲深な人々だと言って笑うのは、デヴィルやそれに誑かされて堕落した人々となんら変わらないではないか。

 

(私はどうして、これまでそのことに思い至らなかったのだろう)

 

 そのことを恥ずかしく思うと同時に、遅くても気が付けてよかったとも思う。

 

 いずれにせよ、この町の人々は、先日ついにそんな束縛から解放された。

 そして、解放とともに与えられた王族の慈悲が、セレスチャルたちの説法が、そしてディーキンや『電子の歌姫』たちの歌が、彼らにもっと明るく自由で人間らしい生き方のあることを思い出させたのである。

 そのことは、今の人々の姿を見ていれば明らかだ。

 

 ある者は王族の善政や天使の威光を称えて杯を掲げ、周囲の皆もそれに倣う。

 またある者は、先日慰問の宴で聞いた歌を酔いの回った調子はずれな大声で歌い出し、周囲の者たちが笑って野次を飛ばしながらもそれに拍手を贈る。

 どの人々の顔にも、心からの喜びが満ちていた。

 

(よかった)

 

 タバサは心からそう感じて、かすかな笑みを浮かべた。

 

 こんなに明るい世界がすぐそばに広がっていたのに、自分の目にはどうして長い間、灰色の世界しか見えなかったのだろう。

 その理由は考えるまでもなく明らかで、でも、とても不思議なことだった。

 

「……!」

 

 そこまで考えたとき、カウンターに腰かけた女がちらりとこちらを見て手招きしたのに気が付いて、タバサははっと我に返った。

 

 体のラインから女性だということはわかるものの、フードを目深に被って顔を隠した怪しげな雰囲気の人物だった。

 この人物が、ガリアからの使者に間違いあるまい。

 

(……私、浮かれていた? こんなときに……)

 

 タバサは軽く唇を噛んで、これから厳しい問題に巻き込まれるかもしれないのだということさえしばし忘れてしまっていた自分を心の中で責めた。

 そして、またいつもの無表情に戻る。

 

 いかに頼もしい仲間たちが見守ってくれているとはいえ、最近の自分は緩み過ぎているようだ。

 昔の自分に戻りたいとは決して思わないが、もう少し気を引き締めなくては……。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「……それで、どうなのよディーキン。何か聞こえてるの?」

 

 ルイズが、先ほどからぴかぴか光るエキュー金貨を耳にあてたまま、じっと何かに聞き入るようにしているディーキンにしびれを切らして尋ねた。

 

 彼女は私室でディーキンと共にいたときにタバサから事の次第を伝えられて、最初は当然自分たちも同行しようかと申し出たのだが……。

 それではかえって相手に不信感を持たせるし危険だから、ということで断られた。

 そこで代わりに、タバサの身になにかあればすぐわかるようにいくつかの呪文を用いたり、非常時のための道具を持たせたりしてから、彼女を送り出したのである。

 

「ンー……」

 

 いまディーキンが耳に当てているのは、《盗み聞きの硬貨(リスニング・コイン)》の呪文で作り出した『受信側』のコインである。

 もちろん『感知側』はタバサに渡してあるのだ。

 

「もしディー君が聞きにくいようだったら、ウィルブレースを呼んできましょうか。すごく耳がいいのよ、あいつ……いえ、あの人は」

 

 一緒の部屋にいるキュルケもまた、そんなディーキンの様子を見ながらそう提案した。

 

 ディーキンはタバサに感知側のコインを渡す際に、相手から不信感を抱かれないよう、また『センス・マジック』などの感知に引っかからないように、財布の中に入れたままにしておいた方がいいと助言していた。

 だが、それでは当然、音は聞き取りにくくなるだろう。

 

「イヤ、大丈夫なの。ディーキンには、ちゃーんと聞こえてるよ」

 

 それに、よしんば聞こえなかったとしても、タバサの身にもしものことがあれば『眠れる者』が彼女にかけてくれたもうひとつの呪文、《清浄なる守護(セイクリッド・ガーディアン)》によってすぐにわかるはずだ。

 

「そう。で、何が聞こえるのよ?」

 

「ミクさんの歌だよ。アー、歌ってるのは……、どこかのおじさんみたいだけどね」

 

 でも、酔っぱらいのおじさんの歌でみんなをみくみくにするのはちょっと無理かもね、などと品評しながら。

 

「あとは、えーと。『アルビオン万歳!』とか、『久しぶりだねジェニーちゃん、前にボトルキープしてたの残ってる?』とか……」

 

「……は? 何よ、それ」

 

 ウィルブレースに負けず劣らず耳がいいディーキンには、雑多な酒場の話し声がひとつひとつしっかりと聞き分けられていた。

 先ほどからバードとして興味深く聞き入っていたのは、その歌や話の内容だったのである。

 

「つまり、他のお客さんだよ。相手の人との話は、まだ始まってないみたいだね。……ア、待って。始まったかも……」

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「あなたが、北花壇騎士のタバサ殿ね?」

 

 フードを被った女は、隣に座ったタバサにそう言って目配せをした。

 タバサはこくりと頷くと、短く尋ねる。

 

「……どうして」

 

 どうして、ここに自分がいることを知ったのか?

 どうして、今日はここに呼び出されたのか?

 

「ひとつには、今回の仕事の舞台が、このアルビオンだから」

 

 そう話しながら、女はフードをずらした。

 

 切れ長の目に、さらさらした長い黒髪。

 額には、ルーン文字が躍る。

 使者の正体は『ミョズニトニルン』のシェフィールドであった。

 

「そしてもうひとつには……、私が、イザベラ殿下の使者ではないからよ」

 

 タバサは、ぴくりと片眉を動かした。

 

「……では、ガリア王の?」

 

 指揮系統からいって、北花壇騎士団長であるイザベラ以外で自分の存在を把握しており、かつ命令を下せる立場にいるのは現ガリア国王であるジョゼフだけのはずだ。

 

「ええ……そう。私は、ジョゼフ陛下に直接お仕えしている者よ」

 

 そのこと自体は嘘ではなかったが、今回タバサと接触を計ったのはシェフィールドの独断であり、ジョゼフからは何の命令も出てはいない。

 つまり実際にはシェフィールドはタバサに命令を下せる立場にはないのだが、そうであっても彼女を従わせられるだけの甘い餌を、シェフィールドはしっかりと用意してきていた。

 あるいは少なくとも、彼女自身はそう信じていた。

 

「…………」

 

 タバサは押し黙ったまま、ぎゅっと手を握った。

 その顔は、いつもにも増して白い。

 

 これまで、ジョゼフから直接命令がきたことはなかった。

 それは伯父にとって、自分や母は既にどうでもいい存在だからであろうと思っていた。

 

 それが急に、イザベラを介さず直接使者をよこしてくるとは。

 しかも、自分がここアルビオンにいることまで、どうやってか把握している……。

 

(……大丈夫)

 

 この話の内容は既に、懐に忍ばせた硬貨の通信機を介して仲間たちの耳にも届いているはず。

 万が一、母の身に何か危険が迫っていたとしても、迅速に対応してくれるはずだ。

 

 事実、王党派の宿舎内では既にディーキンらが行動を起こし、地上に残っているオルレアン公夫人やシルフィードらになにも変わりがないことを確認していた。

 

「あら。そんなに緊張されることはないわよ、シャルロット公女」

 

 タバサの内心の動揺を見て取ったシェフィールドが、くすくすと笑ってそう言いながら、グラスに果実酒を注いで彼女に差し出した。

 

「今日は、何も強迫しようというのでも、無理難題を押し付けようというのでもないのだから」

 

 タバサは少し険しい目をして、そんなシェフィールドを睨む。

 あからさまにシャルロット“公女”などと呼んだ同じ口で強迫する気がないなどと言われても、信用できるはずがなかった。

 

「あら、そんなに睨まなくてもいいでしょうに。すべて本当のことよ?」

 

 シェフィールドは涼しげな顔でその敵意を受け流すと、わざとらしく軽く肩をすくめてみせる。

 それから、急にいかめしいほど真面目な顔になると、タバサの傍に顔を寄せて囁いた。

 

「それどころか……、もしも“私の”頼みを成功させてくれたら。個人的にあなたに、大きな報酬を用意しようと考えているわ」

 

「……あなたの?」

 

 タバサはシェフィールドから身を離しながら、怪訝そうな顔をした。

 

 この女性は、任務ではなく自分個人としての頼みをしたいと、暗にそう言っているのだろうか。

 個人的に報酬を用意するという言葉にしても、そうにおわせているように思える。

 

 それとも、こちらがそう思い込むように仕向けようとしているだけなのか?

 

「ええ、私の。素晴らしい報酬よ。それはきっと、あなたが“あの使い魔”と関わって、こんな戦地についてきてまで得ようとしたものではないかしら?」

 

「……っ!」

 

 探りを入れるような目でこちらを見ながらそう言われて、タバサは心臓を鷲掴みにされたように感じた。

 

 それって、ディーキンのことだろうか。

 いや、それ以外ありえない。

 だとしたらこの女性は、一体何を、どこまで知っているのか?

 

「……何を、言っているの」

 

 ぽつぽつと呟くような声でそうしらをきったタバサに、シェフィールドは黙って、酒場のカウンターの反対の隅の方を指さした。

 

 そちらに目をやると、そこにはいつの間にか、先ほどはいなかった人影が座っていた。

 タバサは、はっとして目を見開く。

 羽根帽子をかぶり、白い仮面を身に着けたその男は、明らかに……。

 

「……ワルド、子爵?」

 

「そう。彼からすべて聞いたわ。トリステインの使者に加わってアルビオンに渡り、その途中でスパイだった彼を捕らえたそうね」

 

 シェフィールドは、くすくすと笑みを浮かべた。

 

「心を病んだ母を抱えたあなたがそんな危険を冒してまで、ガリアからの仕事を放り出してまでアルビオンの戦地に向かう理由は、子爵を捕らえたという使い魔とその主に関係があるのでしょう?」

 

「……」

 

「『虚無』の使い手とその使い魔……、ドラゴンにしてかの『ガンダールヴ』だそうね。その力を借りられればと思ったのではなくて?」

 

 そう言いながら、シェフィールドはぴっと、タバサの目の前で指を立ててみせた。

 

「もしそうなら、私もあなたのために報酬を提供しましょう。エルフの毒をあおったあなたの母親の、その心を取り戻せる薬よ」

 

「……薬?」

 

「そう。私は東方の出身で、エルフの協力者もいるの。ジョゼフ陛下の了承を得なくても、解毒薬は私の方で間違いなく作って渡せるわ。代わりに聞いてもらいたい頼みは、ごく簡単なことよ。危険もないし別にお仲間を裏切れというつもりもない、悪い話ではないはずよ」

 

 自分の勝利を確信したように滔々と語るシェフィールドとは対照的に、タバサはいくらか落ち着きを取り戻していた。

 

 なるほど、ワルド子爵をいつの間にか脱獄までさせて、そこまで調べたのは大したものだ。

 だが、母のことはまだ露見してはいないらしい。

 それに、この女性がどうやら独断で独自の調査に基づいて動いているらしいこと、少なくとも今回の行動にはガリアの後ろ盾がないであろうこともわかってきた。

 

 倒すときでさえワルド子爵にできる限り情報を漏らさないようにしていた、ディーキンの配慮が活きている。

 その毒がワルドを介して、彼女にも回っているのだ。

 

「……話を聞かせて」

 

 それでも、タバサは冷静にそう答えた。

 

 この場で彼女らを捕らえようにも、相手がワルド子爵と実力が未知数な女性の二人なのに対してこちらは自分一人しかいないし、周囲には無関係な客が大勢いる。

 それよりも、ここはこのまま話を続けて、できる限りこの女性から情報を引き出すべきだろう。

 その頼みとやらを聞くかどうかは、それから考えればよい。

 





リスニング・コイン
Listening Coin /盗み聞きの硬貨
系統:占術[念視]; 3レベル呪文
構成要素:音声、動作、焦点具(1組の硬貨)
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に1時間
 術者は2枚の普通の硬貨を、魔法的な感知機とその受信機に変えることができる。
持続時間の間、受信側の硬貨を耳にあてることで、感知側の硬貨の近くで発生した音をその場にいるかのように聞くことができる。
感知側の硬貨が懐や財布の中などにしまわれている場合には音が聞き取りにくくなるので、<聞き耳>の難易度が5上昇する。
有効距離の制限はないが、次元の壁を隔てた場合には聞こえなくなる。
 この呪文はバード専用である。

セイクリッド・ガーディアン
Sacred Guardian /清浄なる守護
系統:占術; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作、セレスチャル([善]の副種別をもつ来訪者でないと発動できない)
距離:接触
持続時間:術者レベル毎に1日
 セレスチャルはこの呪文によって、自らが面倒を見ているクリーチャーや物体の位置や状態を監視することができる。
術者はこの呪文をかけられたクリーチャーや物体が無傷であるか、傷ついているか、瀕死であるか、気絶しているか、死んでいるあるいは破壊されているか、などのどんな状態にあるかが常にわかる。
たとえ対象がどんなに遠くにいようとも、次元の壁を隔てていようとも、この効果は有効である。
また、術者は対象のいまいる場所をたとえ見たことがなくても、その場所にテレポートしようと試みることができる。
術者が対象を念視しようとする場合、その試みは自動的に成功する(対象は抵抗を試みることができない)。
 この呪文は、かけられることに同意していないクリーチャー、およびそのようなクリーチャーが装備している物品に対しては効果がない。


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第百五十二話 A lie reveals the truth

 

「聞いた通り、話の分かる方で助かるわ」

 

 そう言って微笑むシェフィールドの顔を、タバサは無感情な目で見つめ返した。

 

「場所は?」

「あら、このままここで話すのではいけないかしら。周りの連中に聞かれてもどうせ内容はわからないのだし、人気のない場所に行くのはかえって不安ではなくて?」

 

 お互いにね、と言って目を細めるシェフィールドに対して、タバサは少し考え込んだ後、わかったと言ってこくりと頷いた。

 それから、あらためて相手の顔をじっと見つめる。

 

「……それで」

 

 それであなたの頼みとは何なのか、と目で問いかけるタバサに対して、シェフィールドは勿体ぶるように指を組んで顎の下に置いた。

 実際には単に勿体ぶっているわけではなく、頭の中でどこまで話すべきかの最終的な検討をしていたのだが。

 

 ややあって、口を開く。

 

「……頼みというのはね、あなたが付き合っているその『虚無』の主従と話させてもらいたいの。こちらの身に危害が及ばないことを、保証してもらった上でね。ああ、もちろん逆にこちらが危害を加えることもしないし、悪魔どもに情報を漏らしたりもしないから、その点は安心なさい」

「何のために?」

「王党派に味方して悪魔どもと戦っているという、天使たちの力を貸してほしいのよ。このアルビオンとあなたの祖国であるガリアから、悪魔どもを排除するためにね。その二人が呼び出したものなのでしょう?」

 

 シェフィールドは、いたって落ち着いた声で、正直に自分の目的を明かした。

 

 ディーキンのやってきた異世界には、《嘘発見(ディサーン・ライズ)》と呼ばれる虚言を看破する呪文があることを彼女は知っている。

 よって、彼と付き合いがあるはずのタバサがそのような呪文の効果を発揮できるマジックアイテムを持たされている可能性についても当然考慮し、できる限り隠し事はしない方がいいと判断したのである。

 

 そういった感知呪文を遮断する手段もあるにはあるのだが、シェフィールドは今のところ、あえて用いていない。

 なぜなら、そうやって感知を遮断すれば相手にも呪文が防がれたことがわかってしまう可能性が高いし、そうなれば信頼を得られなくなってしまうからだ。

 隠すということは、そこに知られてはまずい秘密があるのだと教えているようなものである。

 

(魔法の防御に頼るまでもなく、《嘘発見》の呪文などどうとでも誤魔化せる)

 

 なぜなら、そういった呪文はあくまでも明確な虚言を見破るだけで、すべてを話してはいないことや、巧みに言い逃れていることまで見破れるわけではないのだから。

 どうしても知られては不都合な部分だけを、そうやって適当に伏せたりぼかしたりしておけばよいのだ。

 そのような呪文に頼ってくれているならむしろ好都合で、嘘がないと『確認』した相手からの信頼を得やすくなるというものである。

 

 とはいえもちろん、タバサのバックアップにあたっているディーキンもまた、シェフィールドと同様に《嘘発見》のような呪文の限界については理解している。

 

 そのような呪文によるあてにならない情報はかえってタバサの目を曇らせることになりかねないと判断した彼は、実際には彼女にそういった呪文の効果があるマジックアイテムを持たせてはいなかった。

 呪文に頼らずとも、タバサは観察力・洞察力に優れているし、ディーキンも《盗み聞きの硬貨(リスニング・コイン)》越しに話を聞いている。

 二人がかりで普通に情報を吟味した方が、おそらくはよい結果が得られることだろう。

 

 そうは言っても、もしも相手が《巧言(グリブネス)》のような呪文を用いていたとしたら、その偽りを見抜くことは難しくなるだろうが……。

 

 その場合は、直接シェフィールドの話を聞くことができないキュルケら周囲の仲間たちの判断が助けになってくれるはずだ。

 相当無理のある話でももっともらしく感じさせることができ、二流のペテン師でさえドラゴンに自分は飛べないと信じ込ませることができるようになるとまで言われる強力な《巧言》の呪文だが、直接術者の言葉を聞いているわけではない者にまではその影響を及ぼせない。

 明らかに妙な内容の話であれば、又聞きした彼女らがきっと気付いて指摘してくれることだろう。

 

 とはいえ実際には、少なくとも今のところはシェフィールドは嘘を言っていないので、そのような用心も無用なわけだが……。

 そんなことはわからないタバサは、わずかに不審そうに顔をしかめた。

 

「……悪魔を、排除する。アルビオンと……ガリアから?」

「そうよ」

「では、ガリア王家とアルビオンのデヴィルの間には、何かつながりが」

「ええ、あるわ」

 

 シェフィールドは、あっさりとそう認めた。

 

「……」

 

 タバサが、微かに顔をしかめる。

 以前に自分への任務を伝えに来たイザベラからの使者がデヴィルであったことからして、まったく予想していなかったというわけではもちろんないのだが、それでも母国が悪魔などと関わっているなどとはっきり言われて愉快なはずもなかった。

 

「……でも、詳しいことについては、先程の私の要求をあなたが飲んでくれない限りは話せないわね。私と、私の主の身の安全を保障するとはっきり保証したうえで会談に応じてくれるのなら、その時に」

 

 シェフィールドが、そう言いかけたとき。

 

「アー、ルイズはいまいないけど。ディーキンだけでもいい?」

 

 突然、彼女のすぐ近くからそんな声が聞こえてきた。

 

「……なっ!?」

「……ディーキン?」

 

 シェフィールドもぎょっとした様子だったが、タバサも少なからず困惑したような声を漏らした。

 それはそうだろう、魔法の感知機越しに遠くで話を聞いていたはずのディーキンが、いつの間にか少し離れた席にちょこんと腰かけていたのだから。

 

(どうして、ここに来たの?)

 

 当初の予定と違う彼の行動にタバサは一瞬うろたえたが、考えてみれば向こうは既に彼やルイズの存在について知っていたわけだし。

 この上はさっさと姿を現して、直接話をした方がよいと判断しても不思議ではない。

 あるいは、相手がワルド子爵まで脱獄させていたという事で、一人そんな場にいる自分の身を案じてくれたのだろうか。

 だとすれば、気遣われて嬉しいような、もっと頼りにしてほしいような、複雑な気持ちだが……。

 

 なんであれ、信頼し仕えると決めた彼がそうするべきだと判断したのであれば、タバサに異議はなかった。

 さりげなく席を立って、彼の隣に寄り添うように移動する。

 

「……これはこれは。話が早くて助かるわ、『ガンダールヴ』」

 

 シェフィールドはすぐに立ち直ったようで、不敵な笑みを彼の方に向ける。

 

 いきなりのことだったのでさすがに一瞬は面食らったものの、この場所で待ち合わせたいと事前にタバサに通達した以上は、仲間がどこかで様子を窺っているかもしれないというくらいのことは当然想定していた。

 異世界の魔法、ないしは『虚無』には空間を飛び越えるものがあるのだから、突然現れるのもなんら不思議なことではない。

 ディーキンは人目の多い場所であることを考えて人間の姿に変装していたが、もちろんそんな程度のことで戸惑ったりもしなかった。

 

「つまり、あなたはあなたの主人から、この件に関しては任されているということでいいのかしら?」

 

 シェフィールドの問いに対して、ディーキンはこくりと頷いた。

 

「そうなの。ディーキンは、もしもお姉さんが約束通りにデヴィルを追い返すのに力を貸してくれるなら、ルイズやセレスチャルの人たちに、あんたたちを殺したり捕まえたりはしないでってお願いするよ。もちろん、ディーキンもそんなことはしないって約束するの」

「その約束が、確かに守られるという保証は?」

 

 そう聞かれて、ディーキンはンー、と考え込む。

 

「ディーキンは別に、何に誓ってもいいよ。イオでも、バハムートでも、カートゥルマクでも、ブリミルさんでもね。だけど、お姉さんが心配してるのは、ディーキンがウソつきかもしれないってことだよね?」

「あなたは正直そうには見えるけれど、初対面ですもの。特に、知恵のある韻竜で、普段から無害そうな亜人の姿を装っているような相手は油断ならないものでしょう、『ガンダールヴ』?」

 

 そう言って目を細めるシェフィールドの顔を、ディーキンは気を悪くするでもなく真っ直ぐに見つめ返した。

 実際、彼女のささやかな誤解をわざわざ訂正するような親切な真似はしていないのだから、自分がまったくの正直者だと主張するわけにもいくまい。

 

「そうかもね。でも、そんな風に用心深くしてるなら、あんたは《嘘感知》の魔法とかを使ってるんじゃないのかな?」

「ええ。でも、そういった魔法は防がれることもあるものでしょう?」

「アア、やっぱり。それなら話は早いの。要するに、ディーキンがそんなことはしてないって証明すればいいんでしょ」

 

 ディーキンはそう言ってひとつ咳ばらいをすると、わざとらしく厳かな顔を繕って、片手を上げる。

 

「オホン……。ディーキンの言うことは信じてくれていいの。なぜなら、ディーキンは生まれてこのかた、一回も嘘なんかついたことはないからね!」

 

 シェフィールドはそれを聞くと一瞬、戸惑ったような顔になった。

 だが、すぐに得心がいった。

 

(『ガンダールヴ』は今の戯言で、自分が《嘘感知》の効果を遮断するような防護策を何も取っていないと示してみせたのだ)

 

 シェフィールドは自ら認めたとおり、タバサやディーキンとは違って、着用しているマジックアイテムによっていつでも《嘘感知》の呪文の恩恵を得られるようにしていた。

 弱点もあることは重々承知しているものの、ひとつの判断材料にはなるからだ。

 完全な善であるという天使たちはともかく、『虚無』の使い手やその使い魔が嘘をつかないという保証はないのだし、自分たちの身の安全にかかわる重要な事項である以上、相手が本心からそう言っていることは可能な限りの手段を用いて確認しておかなくてはならない。

 

 先ほどディーキンが自分やジョゼフに危害を加えないと誓ったとき、その呪文は反応を示さなかった。

 しかし、その後のあからさまな嘘に対しては、直ちに頭の中に不快な警告音を鳴り響かせて、それが明らかな虚言であることを伝えてきた。

 もしも《嘘感知》の効果が遮断されているのならば、そのような現象は起こらない。

 つまり、ディーキンはわざと一度あからさまな嘘をついてみせることで《嘘感知》の効果が正常に働いていることを証明し、自分の最初の誓言が嘘ではないことを証立てたというわけである。

 

「どう、お姉さん。これで安心してくれた?」

「ええ、安心したわ」

 

 シェフィールドはそう言って軽く肩をすくめ、微笑んでみせたものの、内心ではまったく警戒を解いてはいなかった。

 確かに嘘でないのは間違いないだろうが、ワルドからの情報にもあったとおり、見た目にそぐわずかなり頭の回る使い魔らしい。

 

(話し過ぎてこちらの計画の要らぬところまで見抜かれぬよう、気をつけねばなるまい)

 

 一方ディーキンの方も、そんなシェフィールドの反応を観察していた。

 些細な表情の変化などは、さすがに音声のみの魔法の感知機越しでは捉えることができない情報だ。

 

(やっぱり、この人は何か隠してるね)

 

 シェフィールドが明らかにまだこちらを警戒している様子なのを見てとって、ディーキンはそう確信した。

 もしも彼女が正真正銘デヴィルを排除したいだけで何も裏がないのなら、同盟相手が嘘を言っていないことが確かめられたのだから、それで安心なはずである。

 

 とはいえ、デヴィルを排除したいという事自体は、おそらく嘘ではあるまい。

 虚言を見抜くような呪文に頼る者は、相手が同じ呪文を使うことも当然考えるはずで、呪文による感知にひっかかるようなあからさまにでたらめな嘘はまずつかないだろう。

 それに、こちらを騙すだけの目的でこんな場所へ足を運んで会談するというのは、リスクが高すぎる。

 

 彼女には確かに、これだけの危険を冒してでも成し遂げたい何らかの目的があるのだろう。

 ただ、それがなんなのかについては、まだすべてを正直に話してはいないに違いない。

 それを率直に尋ねるべきか、それともそ知らぬふりをしておくべきかについては、話しながら様子を見て判断していくしかないだろうが……。

 

(……ンー)

 

 ディーキンは、少し離れた場所にいるワルド子爵の様子を、ちらりと窺ってみた。

 

 彼はこちらの方を見てはいたが、態度は平静そのものだった。

 自分を一度は打ち倒して牢に送った相手が目の前にいるのだから、もう少し敵意なり憎悪なり動揺なり、なにがしかの反応があるだろう、最悪この場でひと騒動あるかもしれない、というくらいのことは覚悟していたのだが。

 自制心で内心の感情を押し殺しているのかもしれないが、それよりもこのシェフィールドという女性に何か精神的な操作でも施されたと考える方が自然か。

 

 だとすればつまり、この女性は自分の目的のために他人を操り人形にするくらいのことは平気でやる人間ということだ。

 ますます、油断はできない。

 

「マスター。カクテルの『サンセット』と、ダボフィッシュの唐揚げをお願いするの。こっちのお姉さん二人と、そっちの席のお兄さんにもあげてね?」

 

 しかし、そんな様子をおくびにも出さず。

 ディーキンはいつも通りの人懐っこいにこやかな笑みを浮かべながら、ますは飲み物と軽食を注文した……。

 





ディサーン・ライズ
Discern Lies /嘘感知
系統:占術; 4レベル呪文
構成要素:音声、動作、信仰
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:精神集中、最大で術者レベル毎に1ラウンドまで
 術者は毎ラウンド呪文の距離内にいる対象1体に精神を集中することで、意図的かつ故意の嘘をついた際に生じるオーラの乱れを感知することができる。
この呪文は真実を明らかにするわけではなく、意図せずに間違ったことを言ってもそれを指摘することはない。
また、必ずしも言い逃れを見抜くこともない。
この呪文は占術を妨害するある種の呪文などによって防ぐこともできる。
 この呪文はクレリックにとっては4レベル、パラディンにとっては3レベルの呪文である。

グリブネス
Glibness /巧言
系統:変成術; 3レベル呪文
構成要素:動作
距離:自身
持続時間:術者レベル毎に10分(解除可)
 この呪文によって術者の言葉は超常的なまでに能弁なものとなり、他者からの信用をきわめて得やすくなる。
術者は、他人に自分の言葉が真実だと信じさせるための<はったり>の判定に+30のボーナスを得ることができる。
これは、まったくのド素人でさえ世界屈指の超一流詐欺師と同等もしくはそれ以上に口が回るようになるほどのボーナスであり、この呪文の恩恵を受けた者の<はったり>は事実上ほぼ看破は不可能である。
しかも、この呪文は術者自身に作用するものであって他人にかけるものではないため、呪文に抵抗して無効化するという事もできない。
また、嘘を見破ったり、真実を話すように強要したりする呪文でさえ、その術者が(15+グリブネスをかけた術者の術者レベル)を難易度とした術者レベル判定に成功しない限りは効果を発揮しない。
直接戦闘に用いられるようなものではないが、非常に強力な呪文だと言える。
 この呪文はバード専用である。


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第百五十三話 Negotiation

 

「狂っている」

 

 酒場での軽い食事を終え、内密な話だから一応は人目を避けようということで、酒場の二階にある宿泊室に場所を移して。

 そこでシェフィールドからの話を聞き終えたタバサは、きっぱりとそう言い切った。

 

「そうね。でも、何か問題があるかしら?」

 

 敵意のこもったタバサの冷たい視線など意にも介さず、シェフィールドは平然とそう応じる。

 

 連れのワルドは、部屋の外で念のために見張りをしていた。

 彼には『アンドバリの指輪』を用いた精神制御を施してあるとはいえ、後々効果が解呪されることもあり得るので、デヴィルに知られてまずいような話の核心部分はあまり聞かせたくなかったのだ。

 

 いかにディーキンやタバサに害意のないことは既に確かめてあるにもせよ、ただ一人の護衛も離れさせて単身このような話し合いに臨むとは、並大抵の度胸ではないだろうが……。

 シェフィールド本人としては、今は可能な限り相手の疑いを取り除き、信頼を得ることこそが肝要だと考えていた。

 

「互いに利益のある取引よ。それに、私や陛下の意図がどうあれ、悪魔どもを排除するのは必要なことでしょう?」

「…………」

 

 それはその通りだし、彼女の話にはおそらく嘘はないのだろう。

 だがたとえそうではあっても、その内容は確かに狂っているとしか思えないようなものであった。

 

 一方ディーキンはといえば、彼女と違って特に不快そうではなかったものの、他人が見ても何のことだかわからない程度に話の要点をメモした羊皮紙を見直しながら、少し首を傾げて考え込んでいた。

 

「……ウーン。ええと、ディーキンはたぶん、あんたたちほどには頭が鋭敏じゃないからね! たくさん聞いたから、もう一度話を整理させてもらってもいい?」

 

 そう言ってシェフィールドの同意を得てから、これまでに聞いた話の内容をひとつひとつ確認していった。

 

 まず、彼女の主であるガリア王ジョゼフは、レコン・キスタおよびその背後にいるデヴィルたちとつながりがあり、はっきり言えばハルケギニア随一の大国であるガリアの国力をもって、密かに彼らの活動を後援しているのだという。

 その目的は、別にハルケギニア全土の王になりたいとか、そんな大層なことではない。

 ただ、心を震わすような刺激がほしいからというだけ。

 そのためだけに、この世界が異界から来た悪魔どもの手によって、古今類を見ぬほどの惨禍に巻き込まれる様子を見ようというのである。

 

 そんな話を聞かされれば、狂っていると吐き捨てるのも無理はない。

 凡そ誰であってもそう思うだろう。

 ましてやタバサは、ただでさえ伯父であるその男を、父の命を奪い母と自分を苦しめてきた仇として個人的にずっと憎んできたのだ。

 

「それで、ご主人のジョゼフさんがそうするのを、あんたは止めたいんだね?」

「そう思うのは、別に不思議なことではないでしょう?」

「でも、それは世界のためじゃない」

 

 タバサがいつになく冷ややかな調子で、そう口を挟んだ。

 シェフィールドは、あっさりと頷く。

 

「ええ。いかにあのお方の望みであっても、悪魔どもは危険すぎる。いつか、間違いなく身の破滅を招くことになるわ。ジョゼフさまご自身は、それでも構わぬとお考えでしょうけどね」

 

 もちろん、それを伏せて世界のためとかガリアのためとか、故郷や身内のためとか言っておくこともできた。

 しかし、そんな嘘をつかない方が、かえって信頼されやすいだろう。

 

「私はあなたたちに協力して、世界を危機から救う手助けをする。代わりに私は、あのお方と自分の無事を保証してもらう。何か問題があるのかしら?」

「…………」

「母国と世界との危機を目の前にして、取るに足らない自身の嫌悪感の方を優先されるなどということは、まさかないでしょうね? ガリアの王族ともあろうお方が」

「っ!」

 

 タバサは返事を返さず、代わりにほんのわずかにだが、悔しげに、憎々しげに、端正な顔を歪めた。

 よりにもよってその王族の資格をオルレアン家から剥奪した張本人であるジョゼフの手の者が、ぬけぬけとそんな正論を盾にしているのだから、それも当然だろう。

 

「……それで不十分でしたら。事が済んだ後には、あなたにガリア王の座を差し上げてもよいのですよ、シャルロット公女」

 

 そんなタバサの様子を見て、シェフィールドはやや口調を改めるとそう言った。

 それで懐柔できると思ったわけでもないが、信頼を得るためにできる限り正直に話すのはいいとして、あまり同盟する相手の憎悪を煽り立て過ぎるのも得策ではあるまい。

 

 いきなり何を言い出すのかとやや訝しげに眉をひそめたタバサに対して、言葉を続ける。

 

「ガリア王の座を失えば、ジョゼフ様もご無理はできなくなるでしょう。これまでのように権力を使って大きな災厄を振り撒くことがもうできないとわかれば、別の方法を考える以外にないはずですから。民衆にも新しい王が必要でしょうし、そうすればあなたは、正当な地位に就くことができるわけで……」

 

 順序に従えば、次の王は現王ジョゼフの娘であるイザベラなのだが、そのあたりはどうとでもなるだろう。

 彼女は魔法の才に乏しく、品位にも欠けるため人望がないのだ。

 

「興味ない」

 

 タバサはそっけなくそう言って、首を横に振った。

 

 ジョゼフのような狂人が王位から引き下ろされねばならないのは当然だろうが、自分がその後釜に座りたいとは思っていなかった。

 母からは、父も密かに伯父に嫉妬し、その座に執着していたのだと聞かされている。

 それがために、己と家族の身に悲劇を招いたのだ。

 そんな呪われた地位になど、およそ頼まれても就きたくはない。

 

 それに何よりも、国王などという体面を保たねばならぬ職務に就いたら、自分が本当に添いたい人の傍には、いられなくなってしまうだろうし……。

 

「なら、受け取られなくても結構ですわ。他の誰かが候補に立つでしょう」

「オオ、王さま?」

 

 冷めた様子のタバサとは対照的に、ディーキンは興味ありげに目を輝かせていた。

 一度は零落した少女が玉座に着くサクセスストーリーなんてのは、詩人の大好物なのである。

 とはいえもちろん、彼女に無理強いする気などはさらさらないのだが。

 

「でも、あんたとジョゼフさんとは、その後でどうするつもりなの?」

「そうね……。私が故郷である東方の国へ、あの方を連れてゆきましょう。そこで静かに暮らしながら、ゆっくりと心を揺さぶるようなものを探していただくわ。もし、どうしてもまた災厄を撒き散らしたいと仰せになったとしても、その時害を被るのは遙か遠方の国で、あなたたちに累は及ばないはずよ」

 

 それは、シェフィールドの正直な考えだった。

 

 彼女は、ただ愛するジョゼフと共にいられさえすればそれでよかった。

 できればこれ以上災厄など撒き散らさず、どこか遠方の地で、たとえば自分の故郷で二人きりで過ごせるのなら。

 それさえ叶えば、後はどうなろうと興味はない。

 

 ただしその前に、後顧の憂いとなり得るものだけは、可能な限り取り除いておきたいものだとは思っているが。

 

 デヴィルも、天使も。

 ジョゼフ以外の『虚無』の使い手や、その使い魔も。

 そして、ガリアやアルビオンそれ自体も、なくなってくれるようならば、彼女としてはそれに越したことはないのである。

 

「……ンー。ディーキンは、いい話かなと思うけど」

 

 そう言いながら、尋ねるように、傍らの少女の顔を見た。

 

「あなたがいいと思うのなら、私はそれに従う」

 

 個人的にはもちろん思うところはあるのだが、心からディーキンのことを信頼している彼女としては、彼の決定に異を唱えるつもりはなかった。

 それに、個人的な遺恨のある自分は口を開けば感情的な意見にならない自信がないし、この件に口を挟むのは相応しくないとも思う。

 

「じゃあ、ええと。オーケーだと思うの」

 

 そう言って、ひょいと手を差し出し、シェフィールドと握手を交わす。

 

「それで、ディーキンたちは何をしたらいいのかな? それにお姉さんは、どんな手助けをしてくれるの?」

「ええ。説明するわ」

 

 シェフィールドは満足したように微笑むと、グラスにワインを注いで全員に勧めながら話し始めた。

 

「あなたたちは、このアルビオンでいま勝っている。叛徒どもへの勝利は目前と、そう思っていることでしょうね」

 

 しかし、そうではないのだと彼女は言う。

 

「ガリアの方では、この戦況を打開できるような兵器がアルビオンへ送られるべく、量産体制に入っているわ。あなたたちもニューカッスルで見たのではないかしら、『ヘルファイアー・ヨルムンガンド』よ」

「あれを、たくさん作れるの?」

 

 ディーキンは、目を丸くした。

 

 彼女が話しているのは、ヘルファイアーという名称からして、ニューカッスル城前での決闘で出くわした人造のことに間違いあるまい。

 あれは明らかに九層地獄の『ヘルファイアー・エンジン』を元にした兵器らしかったが、ヘルファイアー・エンジンの製作には相当な腕前を持つ地獄の業火の使い手が必要だと聞いている。

 量産できるような代物だとは、到底思われなかった。

 

「ガリアの国力とエルフの技術、そして『ミョズニトニルン』であるこの私の能力をもってすれば、決して不可能なことではないわ」

 

 シェフィールドはそう言って目を細めると、誇らしげに、自分とジョゼフとのつながりである額のルーンを指し示す。

 

「!」

「オオ……」

 

 始祖の使い魔であるミョズニトニルンは『神の頭脳』と呼ばれ、あらゆるマジックアイテムを使いこなしたという言い伝えを、タバサとディーキンは知っていた。

 つまり、彼女はジョゼフ王の単なる側近ではなく使い魔であり、彼女の主はルイズと同じ『虚無』の使い魔ということになる。

 予想もしていなかったことというわけではないが、無造作に明かされたのはやや意外ではあった。

 

「驚くことはないでしょう、『ガンダールヴ』。容易に想像できたはずだわ」

 

 シェフィールドは、そう言って小さく肩をすくめて見せた。

 

 そう、いずれにせよ容易に想像され得ることで、明かさずともいずれ露見したであろう。

 ならば先に言っておく方が、隠し立てなどしていないという証になる。

 それに、自分が確かに戦の趨勢に影響を及ぼすような貢献ができると信じてもらうためにも、ミョズニトニルンの能力を明かす方が話が早い。

 

「アー、そうかも。……それじゃあ、えーと……、つまり。あんたの協力がないと、デヴィルはそのヘルファイアーなんとかを作ったり、動かしたりはできないってこと?」

「その通りよ」

 

 ディーキンの推測を、シェフィールドは悠然と頷いて肯定した。

 

 本来、ヘルファイアー・エンジンのボディは『冷たい鉄』と呼ばれるハルケギニアには存在しない材質で作らねばならず、あらゆるものを融かす超高熱のエネルギーを内部に封じ込めておくためには、熟達した地獄の業火の使い手による長時間の作業を必要とする。

 それをアルビオン産軽量鉄で代用し、強度の不足はエルフの技術を用いて本体に施した『反射』の効果とミョズニトニルンの力とで補い、強引に地獄の業火を内部に封入・維持しているのだ。

 

「それどころか、ゴーレムの体内に溜められた地獄の業火は、制御を失って暴走すれば自軍を壊滅させる恐ろしい爆薬となることでしょう。つまり、私が致命的なタイミングで援助を打ち切れば、間違いなくアルビオンにおける王党派の勝利は約束されることになるわ。正面からの戦いで大きな犠牲を払うことを避けられるのだから、協力の見返りとしては十分ではなくて?」

「それは……もちろんなの。ディーキンは、教えてくれたことに感謝するよ」

「どういたしまして。もちろん感謝だけではなくて、それに見合うだけの働きを、あなたたちのほうにも期待しているのだけど……」

 

 そう言って、上目遣いにディーキンらの方を見る。

 

「ウン。それでお姉さんは、ディーキンたちに何をしてほしいと思ってるの?」

「ええ。戦いに勝ってアルビオンの悪魔どもを全滅させたとしても、ガリアに残っていたのでは意味がないわ。やつらはまたじきに、新たな策を練り直すでしょう」

 

 だからディーキンとその主人、そして天使たちには、アルビオンでの決戦と並行して、ガリアに残ったデヴィルどもを一掃してほしいのだ……と、シェフィールドは言った。

 

「私が知っている限りの悪魔どもの拠点を教えましょう。それに、兵器や薬物の生産工場の位置もね。私一人ではどうにもならないけど、あなたたちが手分けをして不意討ちで一斉攻撃をかければ、壊滅させることも不可能ではないはずよ。その時に、民衆に対してジョゼフさまに退位していただくべきだと示すことができるような材料も、手に入れられることでしょう。どう?」

「……ウーン……」

 

 ディーキンは、ちょっと首をかしげて考え込んだ。

 

 はたして、そううまくいくものだろうか。

 彼女が知っている拠点や生産工場が、すべてであるという保証はない。

 いや、用心深く狡猾なデヴィルのこと、十中八九間違いなく、それ以外にも非常用の拠点を持っていることだろう。

 これまでに得た情報からすると、このハルケギニアで活動しているデヴィルたちの背後にいるのは、おそらくディスパテルと呼ばれるアークデヴィルであるらしい。

 聞いた話では、彼は偏執的なまでの慎重派として知られており、常に何種類もの予備計画や脱出ルートの確保を怠らないのだという。

 彼女は優秀な人物なのだろうが、そんなアークデヴィルの裏をかいてすべての拠点を抑えることができているとまでは、さすがに思われない。

 

 もしかしたら、この女性もその可能性には既に気が付いていて、自分たちを煽動しておとりとして利用した上に、さらに別の策を練っていたりするのかもしれないが……。

 いずれにせよ、素直にそのまま乗っかってはまずいように、ディーキンには思えた。

 

「悩むようなことかしら。お互いにとっていい話のはずよ。悪魔と戦うとなれば、天使たちも反対はしないはず。天使というのは、そういうものなのでしょう?」

 

 そう言って決断を迫るシェフィールドには、確かに別の考えがあった。

 

 たとえ、ガリアにあるすべてのデヴィルの拠点を自分が把握していないとしても、問題のないような策。

 ガリアごと、アルビオンごと、悪魔も天使もすべてを叩き潰す、恐ろしい計略が。

 

「……うん。そうだね」

 

 しばし考えた後に、ディーキンは頷いた。

 

「ただ。ひとつだけ条件っていうか、お願いがあるんだけど……」

「何かしら、『ガンダールヴ』?」

 

 シェフィールドは心の中で拳を握り締めながら、微笑んでそう尋ねる。

 だが、続くディーキンの言葉には、彼女も、そしてタバサも、耳を疑った。

 

「ディーキンはね、戦いを始める前に、一度ジョゼフさんと会ってお話がしたいと思うんだよ。どうにかしてデヴィルに気付かれずに、会わせてもらうことはできないかな?」

 





冷たい鉄:
 遥か地下深くで採掘されるこの特殊な鉄は、強度こそ通常のものと変わりないものの、フェイ(妖精)やデーモンなどの一部の存在に対しては、彼らがもつダメージ減少能力などを克服できるきわめて有効な武器となる。
 作中で言及されたヘルファイアー・エンジンを本来の製法で作るには、4000ポンドの冷たい鉄を12人のセレスチャルの血に付け、地獄にしかない硫黄と酸の希少な混合物で磨かなくてはならないとされる。
その上で、術者レベル25レベル以上の秩序にして悪の術者が最低でも80000gpの費用を掛けて組み立てねばならず、製作には鎧鍛冶や武器鍛冶の技術も必要となる、きわめて高度な人造である。


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第百五十四話 Shall we talk about days gone by

 

「……これまでの話を聞いてくれていたのかしら、『ガンダールヴ』?」

 

 一時の衝撃から立ち直ったシェフィールドは、小さくかぶりを振ってそう尋ねた。

 

「ン? もちろんなの。もう一回、確認したほうがいいかな?」

「いえ、結構よ」

 

 そう言って、こめかみのあたりを押さえながら溜息を吐く。

 

「それなら、当然わかってもらえていると思ったのだけどね……。いい? この計画は、あの方には伏せて進めていることなのよ。もちろん、今日あなたたちにこうして会うことも伝えてはいないわ。それなのに紹介するなんてことができると思って?」

 

 ディーキンは、首を横に振った。

 

「難しいのはわかるの。でもディーキンは、本人が知らないところでナイショでやってもだめだと思うな。やっぱり、ジョゼフさんに考えを変えてもらわないと、デヴィルをみんな追い払うのは無理なんじゃないかって」

 

 ジョゼフがルイズと同じ『虚無』の使い手だというのなら、彼にもルイズと同様に、異世界からの召喚の才能があるはずだ。

 

 目の前にいるシェフィールドは、見たところこの世界の人間らしい……少なくとも、雰囲気からして自分と同じフェイルーンの出身ではなさそうだ。

 が、しかし、この世界に相当数のデヴィルが既に侵入してきているという事実がある。

 いくらかは最初にデヴィルをこの世界に呼び込んだというシャルル大公によるものだったりデヴィル自身による召喚だったりいするかもしれないが、シャルル大公は『虚無』の使い手ではなかったのだからあまり大々的な召喚はできないだろうし、デヴィルは強力な超常能力や疑似呪文能力、呪文抵抗力等を備えてはいるものの、それだけに本当の魔法の使い手は多くない。

 ジョゼフ本人か、それとも彼の召喚したシェフィールドがミョズニトニルンとやらの力でマジックアイテムを使ったのかはわからないが、いずれにせよ多くのデヴィルをこちらに呼び込んだことには、何らかの形で『虚無』が関わっているに違いあるまい。

 

 デヴィルとしても、おそらくはガリアの国主であり権力を恣にできる人間だからという以外に、そういう理由もあって彼に近づいたのであろうと推測される。

 

 この世界に最初のデヴィルを呼び込んだのがジョゼフの弟でありタバサの父でもあるシャルル大公だったということは、既に突き止めてある。

 そのシャルル大公が、兄を『虚無』の使い手だと気付いていたということも。

 ならば召喚者である彼を通して、デヴィルもまたそのことを知っていたとしても、何の不思議もないだろう。

 

 ジョゼフがそうした『虚無』の使い手である以上は、たとえ今現在この世界にいるすべてのデヴィルを始末し、かつ彼を権力の座から追い落とすこともできたとしても、それで安全だとは断言できない。

 

 ジョゼフはいずれ、この世界に自力でデヴィルの大群を、あるいはそれ以上に危険な存在を呼び込めるような力に、また新たに目覚めてしまうかもしれない。

 たとえばイリシッドとか、邪神とか、あるいは『彼方』の住人とか。

 彼が淀んだ己の心を振るわせてくれるかもしれない大きな破滅をもたらしたいと望み、それに執着し続けている限りは、安心とはいえまい。

 

 逆に言えば、彼を説得できたなら、状況はかなり良くなるわけだ。

 

 デヴィルが未だにただの人間であるジョゼフやその使い魔を権力の座に留めたまま、支配もせずに自由にさせているのは、おそらく『虚無』の能力を十全に代替できるようなものを彼らがまだ手にしていないからに違いない。

 下手に精神操作などを及ぼすことによって、その貴重な才能が損なわれてしまうことを恐れているのであろう。

 つまり、少なくとも現時点ではまだ用済みではなく、失われると困る人材だと言うこと……デヴィルには彼の助力が必要だということである。

 

「だから、話し合わないとね」

「……で? 話し合いがうまくいかなかった時は、その場であのお方を始末でもするつもり?」

 

 シェフィールドはそう言って、口元に笑みを浮かべる。

 もっとも、その目は少しも笑っておらず、ディーキンを冷たく見下ろしていたが。

 

 ディーキンはそんな彼女の視線にも動じず、ふるふると首を横に振った。

 

「そんなことは絶対にしないって、ディーキンはイオとボスの名に誓って約束するよ」

 

 もちろん、事が済んだ後でジョゼフとシェフィールドとを裏切って始末してしまうなどという選択も、ディーキンにはない。

 

 倫理的な問題もあるし、それにジョゼフがデヴィルに協力し、成したことのいくらかは、彼自身の協力を得ることでしか解決できないかもしれないのだから。

 たとえば、契約者である彼だけが送還できるデヴィルの群れがどこかにいるかもしれないし、彼の意思でのみ閉鎖できるようなバートルへ続くポータルがあるかもしれない。

 

「それなら、どうやって説き伏せようというの? このままではいつか悪魔どもに寝首を掻かれる、とでも進言しようと?」

 

 シェフィールドは、そう言ってふんと鼻を鳴らした。

 

「そんなことを言ってみても、それならそれで面白いと笑われるだけよ。あの方は、この世界が破滅しかねないほどの災厄をお望みなのだと言ったはず」

 

 それが決して虚勢でも虚言でもないことは、シェフィールドにはよくわかっていた。

 

「あの方は、自分の保身など最初から考えてはおられないわ」

「今は、そうかもしれないね。でもディーキンは、最初からそうじゃなかったと思うの」

 

 ディーキンはそう言うと、タバサの方に向き直る。

 

「ねえ、タバサ」

「……何?」

「タバサなら、知ってると思うの。ジョゼフさんは、ええと、お父さんが死ぬ前は……、彼と、仲良くしていたんじゃない?」

 

 いきなりそんな話を振られて、タバサは困惑した。

 

 仲良くしていた?

 父を殺した男が、自分が殺した弟と。

 

「……」

 

 尋ねたのがディーキンでなければ、ありえないと冷たく切り捨てて終わりだっただろうが、彼には何か意図があるのだろう。

 だから、彼女も真剣に考えてみた。

 

「……仲は、良かったように見えた」

 

 ややあって、ためらいがちにぽつりとそう答える。

 

 確かに、父の死の知らせが届いたあの呪わしい日に、親シャルル派の貴族たちが伯父のジョゼフによる謀殺だと騒いでいるのを耳にするまでは、自分も父と彼の仲が悪いなどとはおよそ考えたこともなかった。

 それ以前にもそんな噂をしている人々を見たことは何度かあったが、いつもあの人たちは何も知らないのだわ、と憐れに思っていた。

 

 だって、自分は家での、本当の彼らの姿を見ていたのだから。

 

 ジョゼフはよくオルレアンの屋敷を訪れては、中庭のポーチで父とチェスを指したり、酒を飲んだり、談笑したりして、いつも和やかに過ごしていた。

 そんな彼らの姿を見て、どうして不仲であるなどと信じることができようか。

 

 けれど……。

 

「表向きは、そう見えた。今は、当時の自分に見えていたことがすべてだったとは思わない」

 

 どうあれ、彼が父を殺させたことに、疑問の余地はない。

 そうでなければ、どうして父の死後に自分たちを呼び出し、心を壊す薬を飲ませようなどとするだろうか。

 

 だからきっと、当時の自分の考えは浅く、間違っていたのだ。

 

「ウーン、そうかも……。でも、見えてたことがまるっきりの嘘だったとも、ディーキンは思わないの」

 

 だって、タバサは二人の近くで、ずっと過ごしていたのだから。

 

 思うに、彼女は当時の自分が何も知らず、無力で臆病だったがゆえに長年母を苦しませることになってしまったのだと悔やむあまり、父の死以前の自分をその生活も含めて過当に低く評価し過ぎているのではないだろうか。

 確かに当時のタバサには無知ゆえに、あるいは無垢であるがゆえに見えていなかった面もあったかもしれない。

 だがしかし、それゆえにこそ見えていたこともあったはずだと、ディーキンは思うのだ。

 

「タバサのお父さんはきっと、お兄さんのことが大好きだったはずなの。お兄さんのほうも、そうだったんじゃないかなって」

「……どうして、そんなふうに思うの」

 

 かすかに眉をひそめてそう尋ねるタバサの声は、無理もないことだろうが、少し刺々しかった。

 

 ディーキンももちろん、彼女の母であるオルレアン公夫人から、夫のシャルル大公が兄に対する劣等感を抱き、彼を出し抜いて国王の座に着くためにあらゆる手を尽くしていたという話は聞いている。

 タバサの実家に隠されていた秘密の地下室から見つけた資料も、その話を裏付けるものだった。

 シャルル大公が兄に対して抱いていた嫉妬心は、聡明さをたたえられていたという彼が悪魔との契約に手を出してしまうほどに根深いものだったのは確かだろう。

 

 にもかかわらず、ディーキンはシャルル大公が決して兄を嫌いなばかりではなかったはずだとも確信していた。

 

「だってディーキンは、タバサのお家にある、古い二段ベッドを見たもの」

「……二段ベッド……?」

「そう。昔、タバサのお父さんが、お兄さんと一緒に使ってたものなの。二人の名前が彫ってあったよ」

 

 唐突な話に少し困惑したものの、そう言えばそんなものがあったな、とタバサは思い出した。

 

 確かに、昔は二人でそこに寝ていたものだと、父からも聞いた覚えがある。

 使わなくなって一度は解体したものを王城から運び出し、オルレアンの屋敷で組み立て直して保管していたらしい。

 

「あれは、タバサのお父さんにとって大事なものだったはずなの。きっと、ジョゼフさんにとってもね」

 

 タバサの実家に滞在して彼女の母親の心を癒したり、隠された地下室を探し出したりする合間に、他にも何か手がかりがあるかもしれないという期待と純粋な好奇心とから、ディーキンは館の他の部分もいろいろと見て回っていたのである。

 そうする中で、彼はタバサの父であるオルレアン公シャルルの遺した品々を目にした。

 オルレアン家が不名誉印を受けた後にも王家に没収されなかった、他人にとってはさしたる価値もないささやかな物ばかりだったが、それらの中には彼の兄であるガリア王ジョゼフとの思い出の品と思しきものがいくつも含まれていたのだ。

 

 ディーキンはコボルドであるから、人間の使う寝床のことには詳しくはないが、それでも本来なら王族ともあろうものが二段重ねの寝台などと、そんな狭い家に住む平民のためにあるような代物を使う必要はないはずだということはわかる。

 それぞれが自分の部屋と、豪華な寝床を与えてもらえるだろう。

 

 にもかかわらず、二人は上下に連なった同じ寝床で寝ることを選んだのである。

 それもおそらく、ベッドのサイズや傷み具合、密かに二人が彫り込んだものらしい背比べの跡などからして、かなり大きくなるまでそうしていたのだ。

 そして、それを使わなくなっても捨てることなく、わざわざ城から運び出して組み立て直してまで、大切に保管していた……。

 

「お互いのことを嫌いだったなら、どうしてそんなことをするの? だからディーキンには、二人が憎み合ってたなんて信じられないな」

 

 そこでシェフィールドが、やや苛立ったような調子で口を挟んだ。

 

「……それで? ご高説は結構ですけれど、この話をする意味はあるのかしら?」

 

 そう言って首を横に振る。

 

「昔どうだったかなんてことは、今のあの方には関係ないでしょうに! どうあれ、あの方は弟君を……」

「殺したの?」

 

 ディーキンの率直な問いに対して、シェフィールドは一瞬ためらった様子でちらりとタバサの方に視線を走らせた後に、頷きを返した。

 

「ええ。当時まだ召喚されていなかった私は見てはいないけれど、否定されたことはないわ。もちろん暗殺者を派遣したのであって、ご自分の手で、というわけではないでしょうけどね」

「…………」

 

 タバサはさすがに少し顔を歪めたものの、何も言わなかった。

 

「でもそれは、王さまになるためじゃなかったんでしょ?」

 

 オルレアン公夫人は、世間が何と噂していようと先王が死の床で次の王に選んだのは長男のジョゼフであり、それがために前々から王の座に執着していた彼女の夫は激しい失望に駆られたのだ、と言っていた。

 シャルル大公自身が妻にそう話したというのだから、間違いはないだろう。

 

 だとすれば、ジョゼフには弟を殺さねばならぬ理由などはないように思える。

 

「じゃあ、どうしてなの?」

 

 単に彼が狂っているからだ、というのでは説明にならない。

 それまでは弟と仲良くしており、狂気めいたところなどなかったという兄が、どうして急にそんな狂った行動をし出したのか、ということが問題なのだ。

 

「……さあ? 私はそんなことには興味がないし、お尋ねしたことはないわね……」

 

 それは、半分は嘘だった。

 

 興味は大いにある。

 とはいえ、その理由は概ね想像がついていた。

 それを彼の口からはっきりと聞きたくはなかったので、あえて尋ねなかったのである。

 もしも聞いてしまえば、既にこの世に存在しない、壊してやりようのない相手に対する、浅ましい嫉妬の炎に焼き焦がされずにはいられないのがわかっていたから。

 

 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、ディーキンは話を続けた。

 

「ディーキンはね。きっとなにか、行き違いがあったんじゃないかなと思うんだ。そこのところを、ジョゼフさん本人から聞いてみたいんだよ」

 

 そう言って、またタバサの方を見る。

 

「ねえ、タバサはディーキンが前に話した、ええと……ほら。あの、王様と従兄弟の話を覚えてる?」

「……覚えてる」

 

 タバサは、そう言って頷いた。

 それは、母から事の真相を聞かされ、自分が復讐を続けるべきかどうかといった話になったときに、彼が聞かせてくれた物語だった。

 

 

 

------

 

 

 

 ある国の国王は、反乱の首謀者であった従兄弟を捕らえ、数々の拷問にかける。

 それでも彼は頑として、反乱に協力してくれた者たちの名を吐かない。

 

 ついに、国王はその従兄弟の勇敢さに敬意を表し、これ以上苦しませず一思いに楽にしてやるよう命じる。

 だが、処刑される寸前に、従兄弟は悲鳴を上げて命乞いをする。

 

『やめろ! 話すから!』

 

 実は、口を割ったが最後、用済みになった自分はすぐに殺されてしまうとわかっていた彼は、勇敢さではなく命惜しさのために口をつぐんでいたのである。

 

 しかし手遅れで、斧は振り下ろされ、彼は死んでしまう。

 国王は彼に敬意を示すつもりが、かえって従兄弟にとってもっとも望ましくない選択をしてしまったのである。

 

 

 

------

 

 

 

「本当に相手のことがわかっていないうちは、どうするのが正しいかも判断できない……」

「そう。それが、あの話の教訓なの」

 

 だから、軽率な判断を下す前にジョゼフ王の本当の気持ちが知りたいのだ、とディーキンは言った。

 でなければ、物語の中の二人のように、そしておそらくはジョゼフ王とシャルル大公のように、自分もまた致命的な間違いを犯してしまいかねないから。

 

「ディーキンはきっとね、話せばわかってくれる人だと思うんだよ。だって、タバサのおじさんなんでしょ?」

「希望的観測ね」

 

 対するシェフィールドの声は、どこまでも冷たい。

 タバサはいざ知らず彼女にとっては、そんな意見は所詮、世間知らずな楽天家のそれだとしか感じられなかった。

 

 こいつはドラゴンらしいから、頭はある程度回るのか知らないが、人間の世の中のことなどろくにわかりもせずに自分の能力を過大評価しているに違いないというのが、彼女の見解である。

 

「要するに、具体的な方策もなく思い込みと楽観的な見込みだけであの方と会って、成り行き任せのいきあたりばったりで話そうということでしょう。それで首尾よくいかなければすべての予定が台無しになるのだと、あなたはわかっているのかしら?」

 

 しかし、当のディーキンの側としては、最善の結果を得るにはそれより他に方法はないだろうと思っている。

 だからやるしかないというだけのことであって、この期に及んで現実的に難しいだのなんだのといった言わずもがなの話をして、悲観的になってみても仕方がない。

 

 そもそも成功率の低い試みだなんて、そんなのは地獄送りになった上で生還してアークデヴィルを倒すだとか、そういった叙事詩的な冒険行を成し遂げてきた冒険者にとっては今さらな話でしかないのだし。

 

「ねえ。お姉さんはきっと、ジョゼフさんのことが大好きなんだよね?」

 

 シェフィールドは、直球でそんなことを聞かれたことに、やや戸惑った様子を見せた。

 

「……何を今さら? もちろん、私は使い魔として、あの方には忠誠を……」

「だったら、彼に本当に幸せになってもらいたいとは思わないの?」

 

 そう言って、ディーキンは真っ直ぐにシェフィールドの顔を見上げた。

 

「お姉さんのやり方でうまくいっても、きっとジョゼフさんは満足しないと思うんだよ。もちろん、デヴィルのやり方でもね。人間や天使や、ディーキンたちを皆殺しにできたとしても……」

 

 本人の求めるものをただ請われるままに与え続けることが、必ずしも本人にとって良いというものではないだろう。

 たとえば、麻薬中毒者に好きなだけ薬物を与えるのは、助けることにはならないはずだ。

 

 大体、戦争や虐殺なんてものは要するに原始的で未熟な娯楽で、無駄に壮大で派手なだけで、大して面白くもなんともないだろうとディーキンは思っている。

 

「そこで、試しに一度、ディーキンに任せてみてほしいの。人に喜んでもらえるような娯楽を提供するのは、ディーキンのが専門だからね!」

 

 そう言って手にしたリュートを見せながら、自信ありげにぐっと胸を張る。

 

 納得してもらうためになんだかんだと細々とした理由をあげて説明はしてきたが、つまるところディーキンの最大の動機はそれであった。

 どうにかして心を震わせたいという人がいて、そのために虐殺だの何だのといった野蛮な娯楽に益もなく興じているというのなら、もっと上等な楽しみを提供しに行かずにいられようか。

 相手が犯罪者だろうが狂人だろうが、バードにとってそんなことは問題ではない。

 

「……娯楽……ね」

 

 シェフィールドは、苦々しげな顔をしながらも考え込んだ。

 

 もちろん、ジョゼフは大国ガリアの王である。

 戦争を起こすなどという狂った遊戯に興じ出したのは、その権力でもって味わえる、あらゆる娯楽にも満足できなかったからだ。

 宮廷お抱えの楽士たちが奏でる素晴らしい音楽の数々にも、ドラマチックな演劇にも、とうに飽いてしまっている。

 

 だから、普通に考えて今さら、ありきたりのつまらぬ娯楽などに心が揺さぶられようはずもない。

 ましてや人間の心についてろくに知りもせぬであろうドラゴンなどに、戦うことばかりが専門のはずの『ガンダルーヴ』などに、何を期待できようものか。

 

 ……と、頭ではそう思うものの。

 

 なぜか、このちっぽけなドラゴンの目を見て、その声を聞くと、もしかすれば何かこの状況を改善してくれるのではと期待したくなるような気持ちになる。

 魔法などは、使われていないはずなのだが。

 

(ええい、流されてどうする?)

 

 とはいえ、あまり無下に突っぱねて、同盟を拒否されても困る。

 あの方は最終的に大惨事が見られさえすればいいのであって、悪魔どもを裏切ることなどなんとも思わないはずだし。

 悪魔どもに知られぬよう、密かにこいつと会わせるくらいはどうにかなるか……。

 

 しばらく考えた後に、口を開いた。

 

「では、証拠は? 私に、あなたの見解が正しいかもしれないと納得させられるような。そして、あの方に興味を持たせて、わざわざ悪魔どもに隠して足を運ぼうと思わせられるような何かを、あなたはもちろん、この場で提示できるのでしょうね?」

 

 今度はディーキンが、少し考え込む番だった。

 

 確かに、この場ではまだ何も用意できないというのでは、ジョゼフ王を呼んできてくれればなんとかするなどと言っても説得力がないだろう。

 で、実際に何かあるのかと言われれば、あるにはある。

 オルレアン家の地下で手に入れたシャルル大公の密かな研究資料や、彼が結んだ売魂契約の書面などは、おそらくジョゼフ王が知らなかった弟の一面で、彼に足を運びたいと思わせられるであろう代物だ。

 

 しかし、それらを一時でも手放すことは、絶対に避けたかった。

 何かの間違いでデヴィル側に回収されてしまいでもしたら、非常に拙い事態になる。

 

(……ウーン、他に何か……)

 

 ディーキンはそこでふと、ある呪文のことを思い出した。

 

 それは、《水晶占いの窓の創造(クリエイト・スクライング・ウィンドウ)》と呼ばれるものだった。

 本来はフェイルーンの外にある世界の呪文であるらしく、自分も実際に使ったことはおろか、使われるのを見たことさえもない。

 ただ、バードとして伝え聞いたことがあるだけだ。

 

 それでも、その呪文が聞いたとおりの、期待通りの効果を発揮してくれたならば。

 自分の推測が本当に正しいかどうかを確認することができるし、ジョゼフ王にも間違いなく興味を持たせることができるだろう。

 

「……ウン。じゃあ、やってみるよ」

 

 ディーキンはそう言って、自分の指にはめた《ギルゾンの指輪(リング・オヴ・ギルゾン)》をそっとなぞった……。

 

 

 呪文によって出現した、モザイク模様を描くように並べられた色とりどりのガラスの中央に収まっている、小さな覗き窓。

 それを通して見える数十年前のヴェルサルテイル宮殿の一角では、二段ベッドの端に腰かけた二人の兄弟が、仲睦まじげに遊んでいた。

 

「どう? ディーキンの言ったとおりだったでしょ?」

 

 得意気に胸を張るディーキンの言葉に対して、食い入るようにその光景に見つめたまま、タバサは小さく頷いた。

 いろいろな思いで胸がいっぱいで、目が離せず、言葉が出てこない。

 

 これまでにも彼の使う魔法には幾度となく驚かされてきたが、今度はまさか、過去を見る術とは。 

 もはや、奇跡の類としか思えない。

 再び生きて動いている、それも今の自分よりも幼い頃の姿の父を見ることができようとは。

 

(うらやましい……)

 

 タバサは目の前の光景を見て、素直にそう思った。

 

 窓の向こうにいる父と伯父とは、とても心を通わせ合っているように見える。

 自分にはあんなふうに気兼ねなく遊べる、兄弟も友人もいなかった。

 トーマスのことは半ば兄のように思ってもいたが、対等の間柄として付き合うことはできなかったし、母の与えてくれた人形のタバサが一番の遊び相手だったのだ。

 

(あの二人が、どうして?)

 

 そう考えると、胸が締め付けられるようだった。

 伯父を憎い仇、狂人だと思う気持ちはどこかに消えてしまって、ただ自分もディーキンと同じように、その理由を知りたい、聞いてみたいと思った。

 

「ねえ、お姉さん。これを見せればきっと、ジョゼフさ――」

 

 タバサの反応に満足して、今度は彼女の少し後ろに立つシェフィールドの方に注意を向けたディーキンはそこで、ぎょっとして言葉を途切れさせた。

 

 彼女は己の内心を押し隠すことも忘れて、ディーキンがこれまでに一度も見たことないような表情を露わにしていたのである。

 それは、およそまっとうな善人が浮かべられるようなものではなく、かといって情愛に乏しいフィーンドやドロウのような悪の種族も、まず浮かべることのないものだった。

 

 窓の向こうの幼気な二人の少年に向けられた、おぞましいまでの情念に歪んだ顔……。

 





王様と従兄弟の話:
 本作の第七十三話で登場した話。
 なお、原作「Neverwinter Nights」の拡張版で、同じ話をディーキンがボスに聞かせるイベントがある。

クリエイト・スクライング・ウィンドウ
Create Scrying Window /水晶占いの窓の創造
系統:占術; 4レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(覗きガラスと、その周りにモザイク模様を描くように配置する98枚の色ガラス)、経験(750xp、オリジナル版では不要)
コスト:6ポイントの【判断力】ダメージと1d3ポイントの正気度(D&D版ではどちらも不要)
距離:0フィート
持続時間:永続
 この呪文はガラスに魔力を付与することで、それを過去を覗き見ることができる窓に変える。
ただしその覗き窓の中でも、時間は進み続けている。
つまり、作成した時点で「50年前の光景を映し出す」ように設定した鏡は、その一月後にもやはり“その時点から”50年前の光景を映しているのである。
鏡に映し出される場所は術者がいつでも自由に移動させることが可能であるが、移動させる距離100マイルにつき5分の時間がかかり、さらに6ポイントの【判断力】ダメージを追加で受ける。
なお、ある程度以上の【知力】をもつ者は、やや難度は高いものの、この窓によって監視されていることに気付く可能性がある。
この窓を通して、『ディテクト・マジック』および『メッセージ』の呪文を未来から過去へ、あるいは過去から未来へ向けて発動することもできる。
 この呪文は本来「コール・オブ・クトゥルフd20」に収録されているものであるが、同じd20システムを用いているD&Dのキャンペーンに取り込んで使用することもできる旨が、同ルールブックに記載されている。
主として近現代の地球に生きるコール・オブ・クトゥルフの探究者がこの呪文を用いれば正気度を失ったり能力値ダメージを受けたりすることになるが、ファンタジー世界に生きるD&Dの冒険者はもちろんこの程度の呪文を使ったくらいでいちいち発狂などせず、その代わりに経験点を消費することになる。
なお、この呪文の発動には窓の作成などで本来は1日の時間がかかるが、本文中のディーキンは指輪の『リミテッド・ウィッシュ』による効果再現を用いているため、1標準アクションで発動している。


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第百五十五話 Love is blind

 

「……え、えーと……、お姉さん?」

 

 シェフィールドのあまりに歪んだ表情を見て驚いたディーキンが、しばし逡巡したのちに、おずおずと声をかけた。

 

「その……、ディーキンは何か、気に障ることをしちゃった……かな……?」

 

 彼の顔には、ここ最近ではあまり浮かべることもなくなっていた、おどおどとした表情があらわれている。

 

 もちろん、過去のジョゼフ・シャルル兄弟の姿が映った覗き窓を見たことで、彼女が非常に強く感情を揺さぶられたのは明らかだ。

 ただ、どうしてそんな反応を示したのかがよくわからなかった。

 上機嫌でないのは確かだとしても、正確にはどんな種類の感情を、彼女が抱いているのかも。

 

 なぜならそれは、ただでさえ人間が抱くような色恋沙汰の感覚には疎いディーキンにとっては、まるきり縁のないものだったから。

 

「! ……い、いえ。特に、何もないけど?」

 

 声をかけられたシェフィールドは、はっとしてあわてて顔を逸らすと、精一杯に元の平静で感情の読めない態度を装い直した。

 だがもちろん、そんな偽装には何の効果もない。

 

「……ホントに?」

「ええ、本当よ。どうして?」

 

 自らの顔を見ることのできないシェフィールド本人だけが、覗き窓の中の光景にほんの少し気に食わないことがあっただとかいった程度では到底説明のつかない、おそろしく凄惨な表情を目の前の二人に晒してしまっていたことに気が付いていなかった。

 それ以前に、自分がそんな凄惨な表情を浮かべることがまさかあろうなどとは、彼女自身思ってもみなかったことなのであるが。

 

「ウーン……、そう?」

 

 さっきはスゴい顔をしてたけど――などと、不躾に指摘してよいものかと、ディーキンは困ったように頬を掻いた。

 

「ええ。それよりも、さっきは何の話をしていたのだったかしら。……確かに、これを見ればあの方も、心を動かされるかもしれないわね?」

 

 シェフィールドはそう言って、さっさと話題を変えようとする。

 

 ただ、本当は奇妙な異界の呪文を用いて作られたこの覗き窓をジョゼフに見せることは、彼女としてはあまり、いや、まったく気が進まなかったが。

 どうやって彼の要求を拒んだ上で納得させて協力させようかと、そんなことを考えていた。

 

 タバサはそんなシェフィールドの顔をじっと見つめていたが、やがてただ一言、ぽつりと呟いた。

 

「……。嫉妬」

 

 途端に、シェフィールドの頬にさっと赤みが差した。

 成熟した大人の女性、それも妖艶で不敵な雰囲気のある女性らしからぬ反応である。

 

「しっ……!? な、何を! 嫉妬なんてするわけがないでしょう。私は、あのお方にお仕えする身なのよ。ましてや、どうして弟ぎ」

「嘘吐き」

 

 タバサは抗議する彼女の言葉を遮るように、きっぱりとそう言い切った。

 ディーキンはといえば、きょとんとしている。

 

「エ? ……だって。タバサのお父さんは、えーと、男の人……だろうし。それにジョゼフさんとは、兄弟なんでしょ? なんで……」

「そんなこと、関係ない」

 

 それは自分の考えというようなものではなくて、単純に体験したことだった。

 前々から小説などでは、そんな話を読んだこともあったのだが。

 自分が身をもって経験することになるなんて、ほんの少し前までは想像もしていなかった。

 

 タバサはディーキンの手にするリュートに、ちらりと目をやる。

 

「本当に、好きな人がいたら。人間は誰にでも、……何にでも、嫉妬する」

 

 楽器は女性の体に似ている――とは、一体誰の言葉だっただろうか。

 

 以前に何かの本で読んだのだろうが、思い出せなかった。

 でも、その言葉を言い出した人は、きっとその楽器の持ち主に特別な感情を抱いていたに違いないと、今では思う。

 

 滑らかな輪郭のリュートは日ごと夜ごとディーキンの手の中に収まって、吸い付いたようにぴったりと、彼の体に寄り添っている。

 そして、彼の指の動きに身を震わせ、甘い音を響かせる。

 

 その度に、まるで見せつけられているかのように感じて、タバサは胸を疼かせた。

 

 それは、強烈で抗しがたい感情だった。

 自分は一体いつからこんなにも愚かしくなったのかと自虐的な思いに駆られながらも、それでも彼と出会う以前の賢しく冷たい自分に本心から戻りたいとは、決して考えられない。

 

 音楽に揺られながらうとうととしている時、あるいは一人で寝床の中にいる時、タバサはリュートになる夢を見さえした。

 彼の腕と心地よい音楽に包まれながら身を震わせて、その顔を誰よりも間近で見上げる夢――。

 

(自分のことを理性的で優秀な人間だと信じているのに、肝心な時には、ひどく情緒的で愚かな行動をしてしまう。私も、きっとこの人も)

 

 ああ、楽器にさえ嫉妬した自分が、どうして父に嫉妬する彼女を嗤えようか。

 仕えるべき相手だと決めたはずの人にどうしようもなく惹かれてしまうということにも、共感せずにはいられない。

 憎むべき仇であるはずの伯父も、この利己的極まりないと見えた女性も、結局は自分と大した違いなどないのかもしれなかった。

 

 ただし、まったく同じというわけでもないが……。

 

「ウーン……。そうなんだ……」

 

 ディーキンにはそんなタバサの胸中を知る由もなかったし、彼女の言葉を正確にはどのように捉えたのかも定かではなかったが。

 それでもその言葉には強い実感が伴っていたためか、何か思うところがあったようで、じっと考え込んでいた。

 

 それから、何を言っていいものかわからないのか、やや紅潮した苦々しい顔で口を開きかけてはまた閉じるのを繰り返しているシェフィールドの方に向き直って、頭を深々と下げる。

 

「ごめんなさいなの」

「? ……ええと。どうしてあなたが謝るのかしら、『ガンダールヴ』?」

「だって、ディーキンはさっきから、なんだかジョゼフさんのことばっかりで。お姉さんの気持ちをよくわかってなかった、きちんと考えてなかったみたいだから……」

 

 そう言って、もう一度ぺこりと頭を下げた後で、にこやかな笑みを浮かべて彼女の顔を見上げた。

 

「そういうことなら、ディーキンはジョゼフさんがお姉さんを好きになってくれるように協力するの。お姉さんがディーキンと取り引きしてデヴィルを追い払ったりする理由は、つまり、それなんだよね?」

「な、何を極端な! まさか、そんな理由だけで。私は何よりもまず、あの方の望みを叶えてさし」

「嘘吐き」

 

 タバサがまた、同じ指摘を繰り返す。

 そんな辛辣な指摘を口に出すのは賢明ではないかもしれない、黙って聞き流す方が利口かもしれないが、彼女にはそうすることができなかったのである。

 

 この女性が伯父に忠実に仕える理由は、つまるところ、そうすることで自分の方を振り向いてほしいからだ。

 自分が誰よりも役に立つと示すことで、いつまでも傍に置いてほしいからだ。

 あの覗き窓の中の、過去の伯父と父との絆を見たときの凄惨なまでに歪んだ表情から、タバサはそのことを確信していた。

 彼女が本当に伯父の忠実な臣下なのであれば、自身の望みよりも彼の望みを叶えることを第一に考えているのであれば、たとえ過去のものにもせよ主の幸福そうな姿を見て、どうしてあんな顔をするものか。

 

 自分と彼女に大した違いがないとしても、そこだけは違うはずだと、タバサは少女らしい潔癖さでそう信じていた。

 もしもそうでないとしたら、自分を許すことができない。

 

 一方ディーキンの方はといえば、彼女のようにシェフィールドの言い訳がましい言葉をとがめるでもなく、いつもの無邪気そうな笑みを浮かべて頷いていた。

 

 バードは人の心の中の醜さを暴くよりも、むしろ美しさに目を向けてそれを引き出すのが仕事だと、彼は信じている。

 といっても、普段からそんなことを意識して行動しているわけではなく、大体は生来の気質と習慣によって自然にそうしているというだけなのだが。

 

「ウン。ディーキンは、ジョゼフさんの望みも、お姉さんの望みも、みんな叶ったらいいと思うよ。それでデヴィルもいなくなって、みんなが幸せになるの。それが、偉大な物語ってものだからね!」

 

 そのためにも、やはり彼にはその覗き窓を見せてあげてほしいし、直接会って話がしたいのだと、ディーキンは改めて訴えた。

 

「ジョゼフさんはきっと、自分に何が必要か、本当にはわかってないんだよ。ディーキンには人間の恋のことはわからないけど、でも、いつまでもほしいものが手に入らないから、そのことばっかり考えてて、近くにいるきれいなお姉さんにも目を向けられないんじゃないかなって」

 

 だから、直接会って、本人と言葉を交わして、彼に何が必要なのかを一緒に考えたい。

 そうすれば、彼も、シェフィールドも、そしてアルビオンやガリア、その他のハルケギニアの人々も、みんなが幸せになれるかもしれないから。

 

 ディーキンは所詮、一介のバードであり、一人の冒険者に過ぎない。

 人間の政治や戦争のことなどは専門外で『虚無』のような大規模な影響を及ぼす力も持っていない。

 それが今起こっている、起ころうとしている惨事を食い止めるために何か大きな貢献をしようとするなら、それだけの力をもつ重要人物に直接会って、倒すとか話し合うとかする以外にないのだ。

 

 

 それで、概ねその夜の話は終わりだった。

 

 よく考えた上で、なるべく早くまた会って返事を聞かせてほしいと言い置いた上で、ディーキンとタバサは先にその場から退出した。

 全員でまとまって出ていくと、人目を引くかもしれないからだ。

 

「……どうにも、調子が狂う……」

 

 しばらくの後、話し合いを行った部屋から出て来たシェフィールドは、そうひとりごちて溜息を吐いた。

 

 好条件をぶら下げてうまく相手に合意させ、デヴィルと共倒れにさせてやろうと思っていたのに、あれよあれよという間に話が妙な方向に進んでしまった。

 ジョゼフ王との会談の場を設けたいなどと予想外な要求をされて、それをはっきりと突っぱねられなかった。

 しかも途中からは、なんだか自分もその方がいいような気がしてきたのだから、不思議なものだ。

 

(それにしても、妙なドラゴン……妙な『ガンダールヴ』だった)

 

 最も強大で獰猛な種族であり、勇猛果敢な盾であり槍であるとされる使い魔のはずなのに、まるきりそんな雰囲気がない。

 シャルロット公女にしても、もっと敵愾心を剥き出しにしてくるかと思っていたのだが、父の仇であるはずの男と話し合うというあの使い魔の方針に異議を唱えるでもなく、終始落ち着いた様子だったのが気にかかる。

 

(なんにせよ、落ち着いてもう一度、よく考えてみなくては……)

 

 シェフィールドは、そんな風にとりとめもないことを考えながら、階下に降りた。

 

「……うん?」

 

 そこで、先ほどは賑やかだった酒場の喧騒が止んでいることに、シェフィールドは気が付いた。

 

 といっても、人がいなくなったわけではない。

 みな、いつの間に姿をあらわしたものか、カウンターの上で澄んだ声で歌いながら演劇を披露する二人の女性の姿に、酒杯を傾けるのも忘れて見入っているのだった。

 

(そんなに面白いのか?)

 

 少しだけ興味を引かれたシェフィールドは、用事も済んでしまったことだからと、自分も耳を傾けていくことにした。

 

 それはしかし、彼女が想像していたのとは違って、面白い歌というようなものではなかった。

 どちらかといえば、あまり陽気な酒場には相応しくない歌のように思えた。

 なのに、誰もがその歌に引き込まれていた。

 酒場の全員が、女性たちが歌い演じる物語に合わせて目を輝かせ、潤ませ、怒り、泣き……、激しく感情を揺さぶられていた。

 

 そしてシェフィールド自身も、ほどなくして、その感情のうねりに巻き込まれていった。

 

 

 

『ああ、愛しいお方。あなたは富や名声と、この私と、どちらが大切なのですか?』

『愛しい人よ、もちろん君だ。君に決まっている』

 

『では、その楽器と私と、どちらが大切なのですか?』

 

『歌と私とでは、どちらが』

 

『旅と私とでは』

 

 ……

 

 

 

 それは、旅の吟遊詩人と、彼が立ち寄った街で出会った一人の女性との、悲恋の物語だった。

 

 二人は互いに一目で恋に落ち、激しく情熱的な愛を交わす。

 しかし、幸せは長く続かない。

 詩人は街に生きることのできない男、やがて彼の心は、再び旅の空に焦がれだす。

 

 けれども生まれてから一度も街の外に出たことさえない女性には、放浪の人生など考えられない。

 体も心も、到底その旅についてはいけない。

 女性は、どうか自分の傍に留まってくれと、一心に男をかき口説いた。

 最後まで根無し草の詩人として、誰にも看取られずに路傍に倒れるよりも、その方が彼のためにもなると信じて。

 自分が、彼の安息の地になれると信じて。

 

 男も娘のその愛情を感じるがゆえに、自分もまた娘を愛するがゆえに、ついには旅を捨てて、娘の傍に留まろうと誓いを立てる。

 

 けれど、自由な心をもつ男にとって、意に反して義務や義理のゆえに引き留められる以上の苦痛はなかった。

 翼をもがれる以上に、惨めで残酷な仕打ちはなかった。

 

 彼はやがて、廃人同然となって死んでしまう。

 

 男は最後に、自分の体を焼き、遺灰を河へ蒔いてどこかへ旅立たせてほしいと、死の床で親しかった人々に願う。

 けれど、悲しみに泣き崩れる娘は、死んでもなお、愛する男の躯を離そうとしない。

 

 その様子を見かねた人々は、ついには無理に娘を引き離し、男の体を焼いて、彼の遺言通りに遺灰を河へ蒔いてやった。

 けれども半狂乱になった娘は、あろうことかその後を追って、自分もまた河へ身を投げてしまう……。

 

 

 

『ああ! お前は、そんなにも彼を愛していながら。どうして彼のことを、それほどまでに何も知らなかったのだ?』

 

 娘の父親がそう嘆いて河のほとりで崩れ落ちる最後の場面では、酒場の者たちもみな、声をあげて泣いていた。

 

 シェフィールドでさえ、なぜか涙がこぼれるのを止められなかった。

 彼女はまだ他の客が泣いている間に静かに席を立つと、この場で唯一無感動な面持ちでいたワルドを連れて、そのまま黙って店から出て行った……。

 

 

 

 そんな彼女の姿を、カウンターの上で歌い終えた女性たちが、そっと見送る。

 二人のうちで、真っ白な肌とピンク色の長い髪、青い瞳を持つ女性の方が、これでよかったのかと問いかけるような目で、もう一人の女性を見つめた。

 

「ええ、きっと。あの方の考え方に、何か影響を及ぼせたと思います。急なお願いを聞いてくれてありがとう、ルカ」

 

 そう言って指でオーケーのサインを出しながらウインクをして見せた相方は、ディーキンらの先ほどのやり取りを遠方から盗聴していて、異世界から呼んできた歌い手仲間と共に急遽駆けつけてこの舞台を用意した張本人。

 すなわち、ウィルブレースだった。

 

 二人はそれから、しんみりとした酒場の雰囲気を明るくしてやるためにもう一度、今度は陽気な物語を歌い始めた……。

 



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第百五十六話 King, knight and dragon

 

「ジョゼフさん。ディーキンはまず、あんたが無理を聞いてここまで来てくれたことに感謝するよ」

 

 シェフィールドとの会見からしばらくの後にやって来てくれたジョゼフを出迎えたディーキンは、まずは丁重に御辞儀をした。

 

「王さまっていうのは、忙しいんでしょ?」

 

 彼はディーキンらの滞在する住居に、つまりは敵地に等しい場所に、前触れもなく唐突に姿をあらわしたのだ。

 しかも、供の一人も連れている様子はない。

 もしかしたらシェフィールドくらいはどこか近くに控えているのかもしれないが、それにしてもあまりにも大胆不敵な行動だった。

 その突拍子もない振る舞いと魔法能力の欠如のゆえに、彼は『無能王』と揶揄されているらしいが、しかし、ただ無知無策なだけの男が、こんな場所まで来られようとは思えない。

 

 実際に彼を目にしたディーキンは、態度にはあらわさないように努めているものの、いささか緊張していた。

 自分がとても無防備で危険な状況に身を晒しているような、そんな不安を覚えた。

 

 対するジョゼフのほうは、愉快そうな笑みを浮かべている。

 彼は、相手が子どもめいた小さな亜人であることも、一国の王に対するいささかなれなれしい話しかたも、そしていま自分が置かれている状況も、少しも気にしてはいないように見えた。

 

「そうでもない。公務なぞ、その気になればどうとでもなるしな。普段から期待されてない『無能王』の姿が見えなくても、誰も何とも思わんさ」

 

 もっとも、それは人間の臣下の話で、周囲のデヴィルどもの目を欺くことについては多少の面倒はあったが。

 とはいえ彼らにしても、別に四六時中こちらのことを監視しているというわけではない。

 結局のところ、悪魔というものはいかに油断なく警戒を怠っていないつもりであっても、心の中の深い部分では例外なく人間を見下し、嘲り、侮っているものなのだ。

 

「お前のくれた『あれ』は、おれにとってはどんな宝石よりも価値がある」

 

 うっとりと遠くを見るような目になったジョゼフが言及しているのは、もちろんディーキンがシェフィールドを通じて彼に届けた、『過去の覗き窓』のことだ。

 

「……たまに、美しすぎて見ていることが耐え難くなるにしてもな。あんなものをくれたからには、面会の申し入れを断るわけにはいくまいよ」

 

 ディーキンは、彼のその言葉に嘘はないと信じた。

 誠意があるというのとはまた少し違うかもしれないが、とにかく、嘘はついていないと思うのだ。

 

 実際、ジョゼフは彼との直接の面会という大胆極まりない申し入れをしたディーキン自身ですらいささか困惑するほどに、こちらの要求をすべて受け入れてくれたのである。

 デヴィルや、その他の勢力からの監視・介入を避けるために、できることならこちらの用意した一時的な異次元空間の中で会談を行いたいという要望にも、あっさりと従ってくれた。

 その中で会談をするということは、たとえ近くにシェフィールドが控えているにしても主に何が起こっているのか知るすべがなくなり、助けにも来られなくなるということを意味するはずだ。

 

 ジョゼフは用意された異次元空間の中に入ると、ためらうことなくそこにあった椅子に腰を下ろし、半ば透明な従者が運んできた上等な葡萄酒を口に運ぶ。

 彼はどうやら、自分自身の力に絶対の自信があるらしかった。

 

 ディーキンも机を挟んで彼の正面に腰を下ろすと、同じようにグラスを取って、にこやかな笑みを浮かべる。

 トカゲめいた姿にもかかわらず、どことなく愛嬌があって親しみを感じさせるその笑顔を見て、ジョゼフは感心したように頷くと楽しげに笑い返した。

 

「お前、なかなか準備がいいじゃないか。酒と親しみを込めた笑顔は、人の口を軽くするからな?」

 

 ちなみにこの異空間は、ナシーラから教わった《ロープの奇術(ロープ・トリック)》の呪文の強化版で作りだしたものだ。

 あるいは、《大魔道士モルデンカイネンの豪勢な邸宅(モルデンカイネンズ・マグニフィシャント・マンション)》の呪文の廉価版というべきか。

 

「さて、何が望みだ?」

「シェフィールドさんに伝えてもらったとおりだよ。ディーキンは、あんたと話がしてみたかったの。他には、ええと……。あんたはチェスっていうゲームが好きだって聞いたけど。話しながら、一緒にどう?」

 

 別の従者が上等なチェスのセットを運んできて机の上に置いたのを見て、ジョゼフは面白そうに肩を揺らし、目を細めた。

 

「ほう。おれの命をこの場で取る算段でもなければ、捕らえるつもりですらないというのか。望みなら、対価として大公の地位でも小国ひとつでもくれてやるものを」

 

 そうすれば、無能王がまた狂気の沙汰を起こして今度は得体のしれない亜人を重用したとか、世の中の連中は好きなように陰口をたたくだろうが。

 別に、どうでもよかった。

 

「ンー? でも、ディーキンはコボルドだからね。人間の国の王さまになっても、うまくやれるとは思えないし……」

 

 大体、人間のに限らず、ディーキンは国なんて、別にほしいとは思えなかった。

 何十万人が住んでいる国の王になったところで、その国のすべての人と話して回れるわけでもないし、そこにあるすべての本が読み尽くせるわけでもない。

 大きすぎて持て余すだけだろう。

 

「確かにな。ああ、王にはなったが。おれは毎日、退屈と絶望で死にそうだ」

 

 そう言うと、ジョゼフはつまらなさそうに肩をすくめた。

 

「それを、さて。お前は、なんとかしてくれるのかな?」

 

 皮肉っぽく唇をゆがめながら、駒を手に取る。

 

「先手はくれてやろう、お前が白を持て」

 

 

「チェスにも王の公務にも、大した差はない。チェスではおれの命令で駒が動き、駒が死ぬ。公務では人が動き、人が死ぬ。違いはそれだけだ」

 

 いささか退屈そうに、そっけない声で、ジョゼフはそう呟いた。

 

「シャルルが死んでからは、おれの相手になるやつはいなくなった。たまには悔しそうな顔をさせてやりたくて、がんばったものだ。チェスも公務も、あいつがいないとやる張り合いがない」

 

 しゃべりながらも、ろくに考えてもいないのではないかと思えるような早いペースで、次々と駒を動かしていく。

 しかも、それでいて失着がないのだ。

 今度は黒のドラゴンを動かして、敵方の白のナイトを狙ってきた。

 

 チェスと言っても、異世界……地球などで同じ名前で呼ばれているそれとは、若干駒の種類やルールなどが違っているようだ。

 

「さて、どうするね。その騎士は、かなり守りにくいのではないかな?」

「ウーン……」

 

 ディーキンはうなった。

 自分はタバサからつい最近ルールを教えてもらったばかりの初心者なので、勝てないのは当然かもしれないが、それにしてもたやすく弄ばれている。

 これまでに勝負したことがあるのは、タバサをはじめルイズやキュルケなどほんの数人だけだが、その中の誰よりも強いと感じた。

 

 ナイトを逃がせば自軍の防衛線が崩れ、蹂躙されてしまう。

 かといって、このままナイトが取られても同じことになるし、それを防いで守り切れるだけの駒もない。

 戦況は、明らかに敗勢であった。

 打開策が見つからない。

 

 ジョゼフはそんな彼の様子を見てつまらなさそうに肩をすくめると、椅子に深々と身を埋めた。

 

「他愛もないな。やはり、お前もシャルルの代わりにはならんらしい」

「そうだね。ディーキンには、家族っていうのはよくわからないけど。大切な誰かの代わりになる人なんて、いないと思うの。タバサはボスの代わりにはならないし、ボスもタバサの代わりにはならないし……」

 

 ディーキンは盤面をじいっと見つめて考え込みながら、なんとはなしにそんなことを呟いた。

 

(ほほう)

 

 ジョゼフは、耳聡くそれを聞き咎める。

 

 自分の姿を見て表情を固くしながらも、何も言わず手も出そうとはせず、相手が一人で来たのだからこちらも一対一で話したいと目の前の亜人に頼まれるままに、従順に後に残り。

 しかるに彼の背を最後まで不安げに見送っていた姪の姿を思い出して、ジョゼフは一人得心した。

 

(あのシャルロットが、こんな千載一遇の好機におれの首を狙ってこんとは、奇妙なことだと思ったが。なるほど?)

 

 両親譲りの美貌を備えた、あと数年もすればどんな男の心でも蕩かせそうな美女に育つであろう姪の姿を思い浮かべて、女の趣味とはよくわからんものだなと考えながら。

 ジョゼフはなんとはなしに、自分が入ってきた異空間の入口のあたりに目をやった。

 

 そこは大きな覗き窓のようになっていて、内部から外界の様子をうかがうことができる仕組みになっている。

 外に、いまだに自慢の弟の娘……自分の姪がたたずんで、本を開こうとするでもなく父の形見の杖を手にじっとこちらを見上げているのに気が付いて、ジョゼフは苦笑した。

 あれは、自分が出てくるのを待ち受けているのか、それとも男の帰りを待っているのか……。

 

(……まあ、考えてみれば、顔で選ばんのは当然か。生まれたときから、あのシャルルの傍にいればな)

 

 それでは他の男は皆ジャガイモにしか見えんだろうな、などと、今は亡き自分の弟に対して内心で惚気ているジョゼフをよそに。

 ディーキンはようやく手を思いついたようで、白のドラゴンをつまみ上げる。

 

「……それに、ドラゴンがナイトの代わりになるわけでも、ナイトがドラゴンの代わりになるわけでもないからね。じゃあ、ディーキンはこうしてみるよ」

 

 そう呟くと、白のドラゴンを敵方の黒のドラゴンの前に差し出すような位置へ動かした。

 

「……む?」

 

 ジョゼフはぴくりと眉を動かすと、そこで初めて、まともに時間をとって考え込んだ。

 

「どう?」

「うーむ、これは……」

 

 確かに、いかな黒のドラゴンとて、同時に2つの駒を取ることはできない。

 ドラゴンが取られれば、ナイトは助かる。

 

 だが、たかが一騎のナイトを守るために、最も強力で唯一無二の駒であるドラゴンを犠牲にしようなどとは。

 ハルケギニアのチェスにおける定跡では、およそ考えられない手だった。

 

(しかし、この場合は……)

 

 自軍のドラゴンを動かして敵方のドラゴンをとったなら、味方の駒との連携が崩れてしまう。

 その隙から生き残った白のナイトが斬り込んできて、次々と攻撃を続けて陣地を蹂躙していくだろう。

 それは逆にナイトをとり、ドラゴンを放置した場合でも同じこと。

 必ず、どちらかに隙が生じる。

 

 となると、この局面ではどちらの駒も取るわけにはいかなくなったということだ。

 

「一見捨て身の愚者のように振る舞いながら、あわよくば敵の命を狙い、結果的にはドラゴンとナイト、双方が共に生き延びられる、か……」

 

 結局、ジョゼフは一度は前に出した黒のドラゴンを、すごすごと自軍の陣地に引っ込ませることになった。

 

「お前、なかなかやるじゃないか。シャルルでも、そんな手を指したことはなかったぞ」

 

 感心したようにそう言ってから、だが、と付け加える。

 

「所詮は局地的なこと、全体としてはおれにもシャルルにも遥かに及びはせん。最終的な勝敗は覆るまい。ナイトを一騎救ってみたところで、大勢は動かせんのだからな」

「そうだね、たぶん」

 

 ディーキンはそれを素直に認めながら、じいっとジョゼフの顔を見つめた。

 

「なんだ、おれの顔になにかついているか?」

「なにも付いてないの。ただ、あんたはやっぱり、タバサのお父さん……弟さんが、大好きみたいだと思って」

 

 生きていた頃の弟の姿を覗ける鏡は喜ばれたようだし。

 さっきから、やたらと名前を引き合いに出すし……。

 

 しかし、ジョゼフはそっけなく首を横に振った。

 

「好きだったなら、この手で殺すと思うか?」

 

 猟に出かけたオルレアン公を毒矢で射抜いたのは、他でもない、ジョゼフ自身であった。

 

「ありえなくはないと思うの。ディーキンだって、時にはなんだか無性に、ボスの頭をかじりたくなってくるようなこともあるからね」

 

 彼の決定に納得がいかないときとかに、ほんの少し衝動的に感じる程度だが。

 きっと、祖先であるレッド・ドラゴンの混沌と悪の血が、秩序にして善であるパラディンへの憎悪と反発を感じさせているのだろう。

 

 ジョゼフはそんなディーキンの言葉に、自嘲するような笑みを浮かべた。

 

「無邪気なやつだな、お前は。まっすぐな目をしているじゃないか。まったく顔は違うが、どことなくシャルルに似ている。あるいは、シャルロットはそんなところを気に入ったのか?」

 

 反撃の一手を指そうとして持ち上げた駒を手の中で弄びながら、ひとりごとのようにそう呟く。

 ディーキンは、小さく首を傾げた。

 

「でも、あんたは後悔してるように見えるよ。寂しそうだからね」

「後悔か……。ああ、後悔はしているとも! そうさ、おれはあいつのことが好きだったよ。自慢の弟だものな!」

 

 ジョゼフは手を広げてそう認めたものの、その後すぐに、肩をすくめて自嘲するような笑みを浮かべた。

 

「……でもなあ。結局のところ、おれはやはり、遅かれ早かれシャルルを殺すことになったと思うのだよ」

 

 本当に、不思議なほど口が軽くなっていると、ジョゼフは感じた。

 しかし、酒に酔ったからではないし、何か薬などが混ぜてあったわけでもない……シェフィールドがあらかじめ、毒は効かないようにしてくれているのだから。

 この亜人の持つ魅力というか、漂わせている雰囲気が、自然とそうしたい気分にさせるのだろう。

 

(いいだろう、この際だ。聞かせてやろうじゃないか)

 

 自分がいかに醜く、身勝手で、理不尽な動機で、何ら非もなく兄を愛してくれていた弟を殺したのかということを。

 それで目の前のこの亜人や、シャルロットが激高して襲ってくるのなら、相手をしてやろうではないか。

 

 そう思って、ジョゼフはこれまで胸のうちに秘めてきたことを、率直に話していった。

 

「シャルル、あいつはな、本当にできたやつだった。皆が、シャルルが王になることを望んでいたさ。誰よりも魔法の才に優れていた。五歳で空を飛び、七歳で火を完全に操り、十歳の頃にはもう銀を錬金していた。そのうえ、十二歳のときには……」

 

 弟のこととなるといつも饒舌になり、誇らしげに話す自分に、ジョゼフも気付いていた。

 それはやはり、弟のことが大好きだったからだろう。

 

 なのに、殺してしまったのだ。

 

「……できないおれに対しても、いつも優しく気遣ってくれた。だがな、あいつのそんな優しさに触れるたびに、おれはどうしようもなく惨めな気持ちになった。おれが持たぬ美徳、才能をすべて兼ね備えたあいつが羨ましくてたまらなかった!」

 

 それでも、憎くはなかった。

 少なくとも、殺してしてしまうほどに憎くはなかった。

 

 あのときまでは……。

 

「病床の父が、おれたち二人を枕元に呼んで、次の王はジョゼフだと言ったとき、おれは耳を疑った。誰もが愛した次男のシャルルではなく、母でさえも暗愚と呼んだ長男のおれを王に! 嬉しかったね。そのとき、シャルルがどんな顔をしたと思う?」

 

 そんなジョゼフの問いかけに、ディーキンは少し首をかしげて考えてから答えた。

 

「ウーン。ディーキンなら、なるべく嬉しそうに笑って、『おめでとう』って言うかな?」

 

 ジョゼフは、ぴくりと眉を動かして、にいっと唇をゆがめた。

 そうして面白そうに肩を揺らしたが、しかし、ディーキンを見つめる目は笑っていない。

 

「ほう、お前もそうか。次の王にと皆から推されていたのに、悔しがるだろうなとは想像せんのか?」

「悔しいかもしれないけど、病気で倒れてるお父さんが目の前にいるんでしょ? なのに兄弟でケンカしたり、文句を言ったりして困らせたら、気の毒だと思うからね」

 

 ジョゼフは何もコメントせずに、ただじいっと、ディーキンの目を見つめた。

 こいつも弟と同じように殺してやろうか、それとも見逃してやろうかと、検討してでもいるかのようだった。

 

「……そうか。あるいはシャルルも、そんな考えだったのかもしれんな」

 

 ややあって、ジョゼフは溜息を吐きながらそう言うと、ディーキンから目を逸らす。

 

「おれは得意になって、あいつが悔しがるに違いないと思ったんだ。だが、あいつは喜んで、おれを祝福した。なんの嫉妬も、邪気も皮肉もない笑顔だった……」

 

 その時、王になったことでようやく得た優越感が、これまで以上のどん底の劣等感に変わり、嫉妬は憎悪と殺意に変わった。

 才能も美徳も、自分の持たぬものすべてを手に入れている弟の存在に、これ以上我慢ができなくなった。

 

「だから、殺したんだね?」

 

 ディーキンの問いかけは、責める調子ではなく、ただ確認するものだった。

 ジョゼフは、そっけなく頷いた。

 

「あいつは昔、おれがまだ目覚めてないだけだ、いつかすごいことができると言ったものだ。その通りだった! おれは『虚無』に目覚めた、そして悪魔と手を結び、いまや世界を舞台のチェスゲームに興じている!」

 

 手を広げてそう言ったジョゼフはしかし、何ら楽しそうな様子ではなかった。

 

「シャルルをこの手にかけたときより心が痛む日まで……、おれは世界を慰み者にして、蔑んでやるつもりだ。あいつを殺してまで得たものに、それだけの価値があったと証明するためにな」

 

 そう言って話を終えると、ディーキンのほうに目を戻す。

 

「……それで? おれをこんなところに呼びつけてまで聞いた話に、お前は満足したか? 聞けば、天使と手を組んでいるそうじゃないか。ご立派なことだ! 悪魔と結んでいるおれを、殺さなくていいのか?」

「ええと、ありがとうなの。いろいろ話してもらって、ディーキンは感謝してるよ」

 

 ディーキンはまず、そう言って、ぺこりと頭を下げた。

 

「それで、バードとして言わせてもらうと、あんたはすごい人みたいだからね。デヴィルの仲間なんかより、もっとふさわしい役柄があると思うの」

「うん?」

 

 怪訝そうな顔をしたジョゼフに、ディーキンはにやりとした笑みを浮かべて見せる。

 

「つまり、タバサやシャルルさんと同じで、英雄だよ」

 

 ディーキンはそう言って、ひょいと席から降りた。

 

「ええと、続きは後でにしていいかな。タバサが心配してると思うから、ちょっと外に戻って話してくるね。あんたは、ここで待っていてくれる?」

「なんだ、わけのわからん話をしたと思ったら。外のシャルロットと示し合わせて、おれを討つ算段か?」

 

 ディーキンは、首を横に振った。

 

「そんなことはしないって、ディーキンは約束するよ。もしもタバサがあんたを殺そうとするなら、ディーキンは止めるの」

 

 でないと、主人が好きだった話の中に出てくる、従兄弟に敬意を払うつもりで彼の意に反して処刑してしまったあの王様のように、今のジョゼフのように、後になって後悔することになるだろうから。

 

「とにかく、少しだけここで待って、外の様子を見ていてほしいの。あんたが、シャルルさんを殺したことを、後悔してるのなら」

 

 そうであることを直接会って確かめたいま、自分がやるべきことは決まった。

 ただ、タバサのことは気がかりだった。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

「…………」

 

 タバサは、ディーキンが彼女の伯父と連れ立って消えていった虚空を、じっと立ち尽くしたまま見守っていた。

 先ほどはそこに垂れ下がったロープのようなものとゆらめく光の靄があったが、彼らが行った後でそれらは消えてしまい、今は何もない。

 もちろんこちらからでは、その先にある異空間の奥を見通すこともできない。

 それでも彼女は、食い入るように見つめ続けた。

 

 やがて、虚空に再び靄とロープがあらわれ、その奥からディーキンが戻ってきたのを見て、彼女の顔がぱっと輝いた。

 

「おかえりなさい」

「ただいまなの」

 

 彼の元に駆け寄ったタバサは、伯父がいつまでも姿をあらわさないことに気付いて、首を傾げる。

 

「……ジョゼフは?」

 

 もしや、異空間の中でなにか揉め事でも起こって、彼を倒してしまったのだろうか。

 だとしたら喜ぶべきなのかどうかは、わからないが……。

 

「ジョゼフさんには、ちょっと待っていてもらってるの。彼と話す前に、タバサに聞いておきたいことがあって……」

 

 そう言うディーキンの声は、いつになく深刻そうな調子だった。

 この部屋はもちろん異空間ではないが、ここにも事前に《大魔道士モルデンカイネンの秘密の部屋(モルデンカイネンズ・プライヴェイト・サンクタム)》の呪文がかけてあり、外部に情報が洩れるおそれはない。

 

「なに?」

 

 ディーキンは、タバサの顔を真っ直ぐに見上げた。

 

「タバサは、お父さんのことが好きなんでしょ?」

 

 突然脈絡もなくそんな質問をされて、タバサはちょっと戸惑った。

 とはいえ否定する理由などないので、こくりと頷く。

 

「ディーキンには、家族ってよくわからないの。部族とか友達なら、わかるけど。でも、やっぱり、大切なものなんだよね?」

 

 タバサは頷きながらも、心の中では彼が一体どんな意図で伯父との話を中断してまで、自分にそんな質問をしに来たのだろうかと考えていた。

 

「……」

 

 まさか……。

 

『じゃあ、お父さんとディーキンとどっちが好き?』

 

 ……いやいや、さすがにそれはあるまい……。

 などと考えているうちに、ディーキンが言葉を続けた。

 

「それは、お父さんが立派な人だと思うから? それとも、どんな人でも、タバサはお父さんが好きなの?」

 

 考えてもいなかった質問に、タバサは戸惑った。

 

「どうして、そんなことを聞くの?」

「タバサのお母さんが言ってたことを、覚えてる?」

 

 そう言われてタバサは、薬の影響から逃れて心を取り戻した母が明かした話を思い返した。

 母によれば、清廉潔白で野心などとも無縁だと思っていた父は、実際には国王の座に相当に執着し、それを手に入れようと頑張っていたらしい。

 それを聞いたときには、少なからずショックだったことは否定できないが……。

 

「……わたしにとってのシャルルは、宮廷の政治闘争に関わった人ではなく、家族。父さまはいつも、わたしに優しくしてくれた。それは、なにがあっても変わらない」

 

 彼女がきっぱりとそう言うと、ディーキンは大きく頷いた。

 

「じゃあ、これを使ってみてもいい?」

 

 そう言って、懐から一枚のスクロールを取り出す。

 

 それはディーキンの仲間であるドロウ・エルフのナシーラが、かつてアンダーダークの大都市メンゾベランザンの魔法院(ソーセレイ)に所属していたころに入手したという、希少な呪文が収められた代物だった。

 ジンの商人ヴォルカリオンを介してナシーラに頼み、用意してもらったものだ。

 これを用いれば、術者が名指しで指定できる特定の死者の霊魂を一時的に他次元界から召喚し、会話や質問をすることができるというものである……。

 





《ロープの奇術(ロープ・トリック)》の呪文の強化版:
 本作オリジナルの呪文。ロープ・トリックは一時的な異次元空間を作り出す呪文だが、その空間の中にあらかじめ調度品や魔法の従者を備えておくようにしたもの。
小説『ダークエルフ物語』の作中で、ソーセレイの主席魔道士であるグロムフ・ベンレが似たような呪文を使っている。

モルデンカイネンズ・プライヴェイト・サンクタム
Mordenkainen's Private Sanctum /大魔道士モルデンカイネンの秘密の部屋
系統:防御術; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(一枚の薄い鉛と、半透明のガラス片一つと、綿布か布地の切れ端と、粉末にしたクリソライト(橄欖石))
距離:近距離(25フィート+術者レベル2レベル毎に5フィート)
持続時間:24時間(解除可)
 この呪文は術者レベル毎に一辺30フィートの立方体の区画1個分を効果範囲とすることができ、その範囲内の情報が外に漏れることを防ぐ。
対象となった区画は外から誰が覗いても、闇がかった霧しか見ることができない。
どれほど大きな音も、この範囲から外に漏れ出ることはない。
占術(念視)呪文ではこの範囲の中を知覚することはできず、この範囲の中にいる者は全員ディテクト・ソウツに対して完全耐性を有する。
パーマネンシィの呪文によって、この呪文の効果を永続化させることもできる。

死者の霊魂を召喚する呪文:
 正式な名称は不明。小説『ダークエルフ物語』の作中で、アルトン・デヴィーアと呼ばれるドロウの魔術師(故あって、既に死んだ『顔なき導師』と呼ばれるソーセレイの教官になりすましていた)が使用した呪文。
彼は母親である慈母ギナフェの霊魂を呼び出し、自分の所属していたデヴィーア家を滅ぼしたのがどこの家系なのかを聞き出そうとしていたが、ギナフェを元いた次元界から連れ出して拷問を中断させたことに怒るロルスの侍女ヨックロールの妨害を受けたために目的は果たせなかった。
アルトンはその後、別のルートから仇がドゥアーデン家であることを知って学院を去り、最終的にはかの名高いドリッズト・ドゥアーデンと戦ったものの、敗れ去って死亡している。
 なお、過去に同じ学院に所属していた経緯のあるナシーラがこの呪文を習得しているというのは本作オリジナルの設定であり、公式なものではない。


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第百五十七話 Prisoner

 

 ディーキンが以前に仲間のナシーラ(改心したドロウの女魔術師)から譲り受けたスクロールに込められているこの魔法は、本来は彼女の種族が編み出したものではなかったらしい。

 

 ドロウの主神ロルスが掲げる女尊男卑の思想が浸透したアンダーダークの大都市・メンゾベランザンの階層社会では、死者の領域を扱うのは通常、権力の頂点に位置する女神に仕える尼僧たちの役目であり、魔術師は手を出すことが禁じられている。

 だから、死んだ人間の魔道士からオークが盗み出したのを魔法院で密かに買い取ったというこの呪文も、公然と使用することはできず、長年図書室の奥深くにしまい込まれたままになっていたのだという。

 

 ところがある時、『顔なき導師』と呼ばれていた顔の溶け崩れた正体不明の魔法学院の指導教官が密かにそれを引っ張り出して、個人的に翻訳したらしい。

 その目的は定かでないが、いずれにせよその後しばらくして彼が学院を去り、自身の所属する貴族家へ戻っていった後に、書斎の整理にあたったナシーラが翻訳された書籍の写しを発見してこっそりと懐へ収めたのである。

 魔術師は、尼僧への道が閉ざされている男のドロウにとっては最高の出世コースだが、女性にとってはそうではない。

 下の妹であったがゆえにドロウ社会の女性の出世コースである尼僧への道に進めなかったナシーラだが、それでも何とかして自分の得た能力を活かし、年長の姉たちを出し抜いてやろうという野心は持っていた。

 ゆえに、尼僧の専売特許である死者の領域への干渉を可能とする呪文は、当時の彼女にとってはいずれ何かに使えるかもしれぬ魅力的なものと思えたのだ。

 

 しかし、その後ほどなくして、彼女の所属していた貴族家は大悪魔メフィストフェレスの支援を受けた野心的なドロウ・ヴァルシャレスのために滅亡した。

 ナシーラは彼女の配下となって生き延び、後に改心して善なるドロウの女神・イーリストレイイーの信徒となったために、この呪文は長い間忘れ去られたまま、彼女の魔法書の中に眠っていたのである。

 

 ディーキンは彼女と共にアンダーダークを冒険していた折、その呪文について聞かされ、興味を持った。

 ナシーラ自身にはロルスの教義に囚われて身内同士で権力闘争を繰り広げた末に死んだ負け犬の身内と話したいなどという望みはなかったようだが、ディーキンとしてはかつて困窮した自分を拾ってくれた恩人の『ママ』と、もう一度話してみたかったからだ。

 ある晩、突然に狼によって殺されてしまった彼女とは、別れの言葉さえ交わすことができなかったから。

 快く応じて呪文を使ってくれたナシーラのお陰で、ディーキンは彼女が今もあの世で幸せに暮らしているのだと知ることができ、胸のつかえが下りた。

 

 それと同じ呪文をディーキンはもう一度、今度は自分自身の手で、この異世界ハルケギニアで使おうとしている。

 以前に使ったのは、ごく個人的な用件でだった。

 だが今回は、もしかしたら自分以外にとっても、非常に重大な結果をもたらすかもしれない……。

 

 

 

「…………」

 

 ディーキンから彼が手にしているスクロールの効果について説明を受けたタバサは、押し黙ってじっとそれを見つめたまま、しばらく考え込んだ。

 

(死者の魂を、来世から呼び出す……)

 

 つまり、亡き父にもう一度、会って話すことができる。

 別れの言葉ひとつかわすこともできず、ある日いつものように出かけたきり、そのまま帰らぬ人となった父と。

 

 それはもちろん、願ってもないことではあった。

 幼い頃は幽霊の話が苦手だったこともあるが、今はどうということはない。

 ましてそれが、愛する父親であればなおさらのことだ。

 たとえどんなに恐ろしげな姿になっていたとしても、生前賤しい動機を抱いていたことがあったのだとしても、自分はそんなことで、身内に対する愛情を失くしたりはしない。

 

 けれど、ディーキンのいつになく緊張したような態度が気にかかる。

 

「……あなたは、何を心配しているの」

 

 タバサは思い切って、そう尋ねてみた。

 ディーキンは、どう言ったものかと困ったように視線を泳がせる。

 

「アー、その。それはね……」

「あなたが父さまについて何か知っているのなら、教えてほしい」

 

 タバサはそう言ってディーキンの前に屈みこむと、そっと彼の手に触れた。

 

「わたしは、あなたの言葉を信じるから」

 

 ディーキンはそんなタバサの顔をじっと見つめていたが、やがて静かにこくりと頷くと、荷物袋の中から奇妙な皮紙の束を綴った文書を取り出した。

 タバサの実家に隠されていた地下研究室の最奥から持ち出した、『売魂契約』の書面である。

 

「それは……?」

「この間、タバサの家を調べたときに見つけたの。お父さんが昔サインした、契約書だと思う」

 

 読んでみて、と言って、ディーキンはそれをタバサに手渡した――。

 

 

 

「……おい。おれは、いつまで待っていたらいいのだ?」

 

 ややあって、しびれを切らしたのかジョゼフが異次元空間から姿をあらわすと、ディーキンにそう尋ねる。

 

「お前とシャルロットの逢瀬というのも、結構な肴ではあるがな。もう、ワインも底になったぞ……?」

 

 しかし彼は、すぐに自分の姪の様子がおかしいことに気が付いて、そちらに注意を移した。

 彼女は自分の仇が姿をあらわしたことに気が付いた様子もなく、じっと手にした書面を見つめ続けているのだ。

 その顔はいつもにも増して白く、手は少し震えている。

 

「シャルロットはどうした。なんだ、あの紙束は?」

 

 異次元空間の中からは、外の様子は覗き見れるが、音までは聞こえない。

 怪訝そうなジョゼフに対して、ディーキンは黙って固まっているタバサの手から書面を抜き取ると、今度は彼にそれを差し出した。

 

「あんたも読んでみて。これは、弟さんがサインした契約書だよ」

「シャルルが……?」

 

 ジョゼフはそれを受け取ると、タバサと同じように、黙って目を通し始めた――。

 

 

 

「……確かに、シャルルの筆跡のようだ。だが、とても信じられんな」

 

 読み終えたジョゼフは、そう言って頭を振った。

 ひどく顔をしかめている。

 

「あいつが、悪魔と取引だと? 馬鹿な! それはおれの役どころだ。シャルルは、天使とでも戯れているのが相応しい男だった……」

「ディーキンも、お兄さんのあんたが言うならそうだと思うの。タバサのお父さんだしね」

 

 うんうんと頷いた後で、でも、と前置きをして付け加える。

 

「『たとえパラディンでも、聖人君子であっても、人間は完全な秩序でもなければ純然たる善でもない。だから時に不実にもなるし、堕落することもある』って。ディーキンのボスは、そう言ってたよ」

 

 そして同時に、完全な混沌でも純然たる悪でもない。

 だから誰でも誠実になれる時があるし、更生することもできるのだと。

 

 完全でも永劫でもない不完全な定命の存在であるからこそ、人は天使や悪魔にはなれないが英雄にはなることができるのだ。

 

「シャルルが誘惑に負けたというのか。あいつが、王の座にそこまで執着していたと……」

 

 ジョゼフはまた懐疑的な様子だったが、深く物思いに沈んだ。

 ややあって、顔を上げる。

 

「……それで、お前の手にしているそのスクロールはなんだ。おれに過去のシャルルの姿を映し出す窓をくれたように、それを証明して見せてくれるのか?」

 

 ディーキンはこくりと頷いた。

 

「ジョゼフさんのためだけ、っていうわけじゃないけどね」

 

 まず、自分自身が彼に会って話してみたい、という気持ちもある。

 嫉妬や焦燥感にかられていささか道を踏み外し、最後にはデヴィルの誘惑に屈したのかもしれないが、先ほどジョゼフに言ったことは決してただのリップサービスなどではない。

 周囲の多くの人間からの評価、とりわけ最も身近にいた兄や娘からのそれを聞けば、彼が真に英雄的な人物であったことは間違いないと思う。

 バードとしては、そのような人物に会ってみたくないはずがない。

 それに、タバサとのこともあるし。

 あまりよくは知らないが人間の習慣としては、『異性とつきあう』場合は両親とかに挨拶しておくのが筋だと聞いている。

 

 タバサにも……ショックを受けさせることにはなるかもしれないが、本人が嫌でなければ、父親と話す機会があればと思う。

 自分も、急に狼に殺されて別れの言葉ひとつかわせなかった『ママ』とまた話せたときは嬉しかったものだ。

 

 彼の妻であるオルレアン公夫人にも会わせてあげられればとは思うが、少なくとも今のところはまだ、ジョゼフに彼女を救い出したことは伏せておかなくてはなるまい。

 残念ながら、彼女をこの場に連れてくるわけにはいかない。

 まあ、このジョゼフという男と実際に会ってみて感じた彼の鋭敏さや性格から考えると、そのことには遠からず思い至りそうな気もするし、そうなったとしても大して気にもしなさそうな印象は受けるのだが……。

 

「……今から、これを使ってみようと思うけど」

 

 タバサはどうするかと、ディーキンは気遣わしげな様子で、彼女の反応をうかがった。

 もしも会うのが辛いようなら、退席してもらうか、こちらが場所を変えなくてはならない。

 

 しかしタバサは、顔を上げてディーキンのほうを見ると、小さく頷いた。

 

「お願いする」

 

 顔色は少し悪いものの、決然とした様子だった。

 すでに心の整理をつけて、父がどんな行いをしたのであろうと、今現在どんな状況になっているのだろうと、それと向き合う決心を固めたようだ。

 

 ディーキンも彼女に頷きを返すと、ジョゼフにもそのスクロールの効力について説明していった。

 

「シャルルの魂を呼び出す……か」

 

 彼は、その話の真偽を特に疑いはしなかった。

 既に悪魔や天使などといった異世界からの来訪者が実在することを理解しているし、死後に魂は彼らの住む地獄界や天上界といった世界へ赴くらしいということも、ぼんやりとだが聞いて知っているのだから。

 

 つまりは覗き窓の向こうに見える過去の幻影ではなく、本物のシャルルにもう一度会えるということになる。

 

 そのことを思うと、ジョゼフの心はざわめいた。

 自ら手にかけた弟以上に、彼が会いたいと思う相手はいなかった。

 

「本当にそれができて、お前がその場におれを立ち会わせてくれるというのなら、ガリアの半分でもくれてやろう。いや、全部でも構わん」

 

 ジョゼフはそう言いながら、自分の指にはまっているガリア王家の秘宝、『土のルビー』を無意識に手でなぞった。

 タバサはディーキンの後ろから、そんな伯父の姿を複雑そうな目でじっと見つめている。

 

「……まあ、おれとしては。あいつはヴァルハラかどこから呼び出されるものと思うがな」

 

 最後にジョゼフは、いささか懐疑的な顔つきをしながらそう付け加えた。

 

 もちろん、ディーキンのことをほとんど何も知らない彼と、全幅の信頼を置き、それ以上の感情も抱いているタバサとでは、反応は違って当然であろう。

 術の真偽については疑わないが、あの天使のようだったシャルルが、自分が王位を継ぐと決まったときも欠片も嫉妬した様子を見せなかった弟が、今の自分がそうであるように陰で悪魔と取引していたなどとは信じられないのだ。

 彼のそんな態度のゆえに、自分はどうしようもない劣等感に苛まれ、血を分けた実の弟に対して殺意を抱いてしまったのだから。

 ディーキンの手にしている書類の筆跡は確かにシャルルのものだが、何かの冗談か、悪魔が巧妙に偽造して仕掛けた罠の類なのではないか、と疑わずにはいられなかった。

 

「ヴァルハラっていうのはあんまりよく知らないけど、イスガルドか、エリュシオンかセレスティアみたいなところかな? ディーキンも、そうだったらそれに越したことはないと思うの」

 

 残念ながら、まずそうはならないだろうとも思っているが。

 

「それじゃあ、やってみるね……」

 

 ディーキンはまずは貴重なスクロールを机に拡げ、その後ろに燭台を置いてろうそくを灯すと、ゆっくりと深い瞑想状態に入った。

 そうしてから、朗々と呪文を詠唱していく。

 

「……《フェイ インニュアド デ・ミン デ・スル デ・ケト ……》」

 

 詠唱が続くにしたがって、ろうそくの炎の上に鈍い赤色をした不気味な球状のもやがあらわれ、膨れ上がりながら、次第にくっきりとした姿を取り始めた。

 タバサとジョゼフとは固唾をのんで、そのもやを食い入るように見つめる。

 

 一方、ディーキンは途切れることなく詠唱を続けながらも、わずかに顔をしかめた。

 予想はしていたことだが、呪文によってあらわれたもやの色が、かつて自分が『ママ』を呼び出してもらったときとは明らかに違うのだ。

 あの時はもっと美しい、清浄な純白の光がろうそくの上に浮かび上がっており、呪文が完成したときにその光の中から、エリュシオンにいた彼女の魂が姿をあらわした。

 もやの色の違いは、すなわち呪文によって対象の魂を呼び出すために一時的に開かれたゲートのつながっている先が、あの時とはまったく性質の違う別の次元界であることを意味する。

 

 やがて、ついに呪文が完成すると、もやは大きく開き、その向こうから地獄に漂う硫黄の臭気と共に、一体の人影が姿をあらわした。

 それを見た背後の二人が、目を見開いて同時に声を上げる。

 

「シャルル!」

「父さま!」

 

 彼らの声には、感動、驚き、悲痛などの感情が、複雑に混ざり合っていた。

 もやの向こうにわずかにかすんで見える、ゲートの奥のその姿は、彼と近しい存在だった二人にとっては、確かにかつてのオルレアン公シャルルのそれだと一目でわかるものだった。

 

 だが、なんと変わり果てていることだろう!

 

 四十を過ぎてなお青年のように瑞々しかった端正な顔立ちも、鮮やかな青髪も、やつれ果て、泥に塗れてひどく汚れてしまっている。

 肌はまるで黒ずんだゴムのようで生気が感じられず、顔つきは悲痛で、疲れ切ったような様子だ。

 着衣は汚れて痛み、あちこちが傷だらけで、石の床にへたり込んでいた。

 

 ディーキンには目の前の人物がシャルルであることはわからなかったが、それが『魂殻』と呼ばれている、バートルに堕とされた魂が変化して生まれ変わった存在であることはすぐにわかった。

 

『ここは……?』

 

 シャルルの魂殻は困惑した様子で、目の前に急に開けたゲートの向こうにある部屋、つまりはこちら側を見つめている。

 一体何が起こっているのか、わからない様子だった。

 

「父さま!」

 

 タバサはたまらず前に飛び出し、父に駆け寄ろうとした。

 けれど、こちらからはゲートを超えることができず、次元界の境界に遮られてしまう。

 

 ジョゼフも、同じように弟の名を呼びながら駆け寄ろうとした。

 けれど、シャルルの体にいまだに残る深い傷跡に気が付くと、はっと目を見開いて口をつぐみ、その場で足を止めてしまった。

 彼にはそれが、自分自身が放った毒矢が彼の体に突き立った跡であることがわかったのだ。

 その自分がどうして、実の娘を差し置いて弟に駆け寄ることができようか、と思ったのかもしれない。

 

 いずれにせよ、タバサにはそんな伯父の方を顧みる余裕もなく、彼女はいつになく感情をあらわにして顔をゆがめながら、一心にゲートの向こうにいる父に呼びかけ続けた。

 ディーキンもあえて父子の再会に水を差してまでそれを制止しようとはせず、彼女のすることを見守る。

 

「父さま! わたしよ! シャルロットです! わからないの!?」

『シャルロット……?』

 

 シャルルはまだ理解できないらしく、呆然として、そんな娘の姿を見つめ続けた。

 

(生前の記憶が、薄れているのかもしれない)

 

 タバサはそう考え、はやる気持ちを抑えながら、努めて冷静に、順を追って話そうとした。

 

 彼女は別に、多くを望んでいるわけではなかった。

 ただ、せめて父にこちらの近況を伝え、自分も母も元気であること、二人とも今でもあなたを愛しているということを伝えたいだけだ。

 そして、以前にどのような恥ずべき振る舞いをしたことがあったのだとしても、それを責めてなどいないことを。

 そのためにも、はっきりと自分のことを認識してほしかった。

 

「そう、シャルロット。あなたの娘です。髪は、切ったの」

 

 そう言いながら、眼鏡を外す。

 父が生きていた当時、十二歳だった頃の自分はまだ眼鏡をかけておらず、髪も伸ばしていたから。

 幸か不幸か、当時と体格はほとんど変わっていない。

 

「あなたは、ガリア王の息子でした。オルレアン公シャルルです。覚えていませんか?」

『ガリア……オルレアン……』

 

 俯いて思案に耽っていたシャルルはそこで、はっとした様子で顔を上げた。

 

『シャルロット?』

「父さま? 思い出してくださったのね!」

 

 一瞬、嬉しげに顔を輝かせたタバサだったが、父のひどく怯えたような様子に気が付いた。

 

『ああ、なんてことだ! お前は、こんなことをしてはいけなかったんだ!』

「ど、どうして?」

 

 そこで、耐えかねたようにジョゼフが駆け寄って、言葉を挟んだ。

 

「どうしたというんだ、シャルル。なぜ、お前がそんなありさまに!」

 

 シャルルは、痛々しげな顔つきをした兄の方に目を向けた。

 

『兄さん! ああ、兄さんがぼくを呼び出したのか? だめだ! やめろ、こんなことをしないでくれ! すぐにぼくを送り返してくれ!』

「いや、おれじゃない……、そんなことはどうでもいい。なぜだ? 教えてくれ!」

 

 娘や兄の質問に答える余裕もなく、シャルルは激しく頭を振って、悲鳴のような声で訴え続けた。

 

『もしできないのなら、シャルロットを連れて、すぐにこの場から……』

 

 そこまで言ったシャルルの体に、突然、背後から伸びてきた無数の鎖が絡み付き、そのまま奥の方へ引きずり込んだ。

 短い悲鳴を残して、彼の姿が赤いもやの向こうに消える。

 

「シャルル?」

「父さま!」

「シャルルさん!?」

 

 二人の身内と召喚者の叫びに応えたのは、それまでとはまったく違う声だった。

 

「愚かな定命の者どもが!」

 

 シャルルの発していた虚ろな声よりもずっと強い、邪な力を感じさせる声に、鎖のじゃらじゃらと鳴る音が混じっている。

 次いでもやの向こうから姿をあらわしたのは、二体のキュトン。

 九層地獄界において囚人を縛める、鎖の番人としての役割を持つデヴィルだった。

 

「バートルが囚人に課した幽閉を中断させ、牢獄から連れ出そうというのか? 定められた秩序に背き、我らの怒りを買いたいか!」

「こんな恐ろしい結果に、あえて挑戦するとはな! 貴様らも他の者どもと同じく、牢の住人となるがいいわ!」

 

 デヴィルどもは、口々にそう言いながら棘だらけの鎖を振り回し、ゲートを越えてこちらの世界に踏み込んできた。

 けれど、彼らの言葉など、俯いて身を震わせるタバサの耳には届いていない。

 

「――せ」

 

 わなわなと、タバサの肩が、杖を持つ手が、震えている。

 

「何ぃ?」

 

 怪訝そうにしていたデヴィルたちだったが、きっと顔をあげたタバサの目を見た途端にぎょっとして、思わず身をすくませた。

 

「返せ! 戻せ! 父さまを……!!」

 

 彼女の目には、純粋な怒りの炎が燃えていた。

 シャルルが生前に、どんな卑劣なことを考えていたかなど知らない。

 何を約束したかも関係ない。

 確かなことは、自分にとっては愛する父であるということ。

 それをあのような扱いにした者どもを、許しては置けないということだけだ。

 

 今のタバサは、ディーキンもこれまでに見たことがないほどに、いや、感情豊かな少女だったというシャルロット時代にも一度もなかったであろうほどに、激しい怒りで顔をゆがめていた。

 

「……放せぇぇっ!!!」

 

 心の底から叫びながら、大きく杖を掲げ、振り下ろす。

 

 それは、かつて『雪風』と呼ばれていた頃に心の中を冷たく吹き荒れていた静かな怒りとはまったく違うものだった。

 荒れ狂う怒りと激情が、彼女のメイジとしてのランクをさらに一段階、引き上げる。

 

「う、うぉぉおっ!?」

「ひぃぃ、なんだぁぁっ!?」

 

 これまでにないほどの数の氷の矢が瞬時に宙に現れ、見たことのない異界の呪文に戸惑うデヴィルたちを、対処する暇も与えずに串刺しにした。

 

「……」

 

 しかし、全身を刺し貫かれ、体が半ば以上ちぎれて氷結したにもかかわらず、その悪魔たちはまだぴくぴくと蠢いていた。

 タバサは怒りに任せてさらに追撃し、とどめを刺そうと杖を振り上げ……。

 

「覚えておけ、シャルロット。こいつらにはな、呪文ではとどめはさせんのだ」

 

 いつの間にか倒れたデヴィルたちの横にジョゼフがいることに気が付いて、はっとして手を止めた。

 ジョゼフは腰から銀の短剣を引き抜くと、かがみ込んで無造作に、手近にいたキュトンの心臓にそれを突き立て、首を掻き斬っていく。

 銀の刃で斬られたキュトンは、途端に黒ずんだ血の塊を吐き出して事切れる。

 

「こうして、銀製の武器を使わんとな」

 

 その時、まだ生きていたもう一体のキュトンがジョゼフの足元の鎖を操り、足首を絡めとって締め上げねじ切ろうとした。

 タバサは反射的に杖を振って、それを制止しようとしたが……。

 

「手出しは無用」

 

 確かに足首に絡み付いたはずの鎖は、気が付くと何も捕らえておらず、ジョゼフはいつのまにかそのキュトンの背後に回り込んでいた。

 はっとして振り向いたキュトンの顔面に銀の刃を突き立て、そいつにもとどめを刺す。

 息絶えたデヴィルどもは泡立って溶け崩れ、悪臭を放つ汚泥のような残骸に成り果てていった。

 

 その動きをまったく目視することも、風の動きで捉えることさえもできなかったタバサは、愕然とした。

 これこそは、『虚無』の呪文のひとつである『加速』によるものだったが、それは彼女にはわからないことだ。

 

「……アー……」

 

 二人の心情を思えば止めるわけにもいかなかったものの、ディーキンは困ったように視線をさまよわせた。

 

 キュトンどもをあっという間に倒したのは、確かに見事だったが。

 とはいえそんなことをしたからといって、デヴィルによって牢獄の奥深くに引き戻されてしまったらしいシャルルを取り返せるわけでもない。

 むしろ、面倒な恨みを買うことになってしまったかもしれない。

 はたしてもう一度彼と話すことができるだろうかと、ゲートの向こうに目をやったとき……。

 

「――それで、何かを成し遂げたつもりか?」

 

 先ほどのキュトンよりも遥かに恐ろしげな、雷鳴のように轟く威圧感のある声が、ゲートの向こうから響いてきた。

 次いで姿をあらわしたのは、ゆらめく炎のような邪悪なオーラと赤い鱗を全身にまとった、身の丈が人間の倍はあろうかという巨大な魔物だった。

 背にはコウモリのような翼が生え、長い鞭のような尻尾を生やしている。

 

 それはピット・フィーンド……時として『冥王』とも呼ばれる、九層地獄界でも最上位のデヴィルだ。

 

「地獄の秩序には傷ひとつつけることも叶わぬわ、愚かなモータルどもよ!」

 





魂殻:
 通常、バートルに堕とされた魂は、生前の姿を若干ゴムっぽくして泥で汚したような姿をしたクリーチャーに変化させられ、これを魂殻と呼ぶ。
魂殻は冷気や火への抵抗力を得るが、生前の技能や特技は何も保持していない。
また、生前に負っていたすべての傷や疾患は、そのまま保持している。
強力なデヴィルたちは、魂殻の姿をゆがめたり作り替えたりする生来の力を持っており、通常は見るからに痛々しい、人の尊厳を踏みにじるような姿に変えたり、地獄の領土に埋め込んで身の毛もよだつような芸術作品に変えたりする。
この魂殻を拷問して生前の人格を最後の一欠片まで引き剥がし、蛆に食わせて作り替えたのが、レムレーと呼ばれる最下級のデヴィルである。


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第百五十八話 Objection

 

「矮小なモータルどもよ。貴様らが終にバートルへ堕ちる日が来るまでは、これ以上我らを煩わせぬことだ!」

 

 ゲートから姿をあらわしたピット・フィーンドは、腕組みをして目の前の定命者たちを冷たく見下しながら、そう言い捨てた。

 先ほどのキュトンどものように問答無用で攻撃してこないのは、相手の力をそれなりに警戒しているからなのだろうか。

 あるいは、儚い彼女らの命などではなく、永遠の魂を手に入れる機会を窺っているからかもしれない。

 

 いずれにせよ、タバサは怯えた様子もなく一歩進み出ると、その巨大な敵を冷たく睨みつけた。

 

「父を返して。すぐに」

 

 その要求に対して、相手の側からは嘲りと蔑みに満ちた返答が返ってくる。

 

「愚かな。一連の無粋かつ不当な介入の末に、言うことがそれか。盗人猛々しいとは正にこのこと。あの囚人は元よりバートルの所有物、貴様らのものなどでは――」

 

 タバサは相手の言葉が終わるのを待たずに、無造作に杖を振った。

 一瞬のうちに複数の氷の矢が形成され、四方八方から悪魔を串刺しにせんと襲い掛かる。

 

 だが、先ほどのキュトンたちとは違ってピット・フィーンドには動じた様子もなく、それどころかかわそうとさえしない。

 

 降り注いだ氷の矢はことごとく、悪魔の体表で硝子細工のように砕け散り、蒸発していった。

 その体を覆う赤い鱗には、傷ひとつさえもついていない。

 怒りによってスクウェア・クラスにまでランクアップした彼女の魔力をもってしてもなお、強力な呪文抵抗力やダメージ減少能力によって幾重にも守られたこの恐るべきデヴィルを穿つには力が足らなかったのだ。

 

 ピット・フィーンドは依然として腕組みをしたまま、戸惑うタバサを侮蔑しきった目で見下しながら、ただ一言、何事かを呟いた。

 何とも形容のしがたい、おぞましい響きの言葉を。

 

「……!!」

 

 タバサはその言葉を聞いた途端、全身に怖気が走った。

 本当に、耳で聞いたのかさえもわからない。

 声が全身の皮膚から浸透し、骨まで軋ませながら食い込んでくるような、頭の中まで穢されるような錯覚に襲われ、意識が混濁して、数秒間は何を考えることもできなかった。

 

 がらんがらんと大きな音を立てて、大切な父の形見の杖が床に転がる。

 拾おうにも全身の筋肉が萎え、麻痺して、身動きひとつすることもできなくなっていた。

 ピット・フィーンドが放ったただ一言の《冒涜の声(ブラスフェミィ)》に打ちのめされて、タバサは恐怖に目を見開いたまま、その場に立ち尽くすしかなかった。

 

「タバサ、大丈夫!?」

 

 ディーキンが彼女に呼びかけながら、対峙する両者の間に割って入る。

 ピット・フィーンドが軽く口の端を歪めながら、今度は彼の方に手を伸ばそうとした、ところで。

 

「……ぬう?」

 

 痛みこそないものの、横合いから体に不快な衝撃を感じて、そちらの方に目を向け直した。

 

 そこには、銀の短剣を手にしたジョゼフが立っていた。

 彼はまたしても『加速』の力を使い、ディーキンも気づかぬうちに悪魔の懐へ入り込んで、その脇腹を斬り付けたのだ。

 

 しかし、ジョゼフは顔をしかめて、手にした銀刃と自分が斬り付けた箇所とを交互に見つめていた。

 短剣は硬い鱗に力任せに当てたために刃こぼれを起こし、それだけ強く叩きつけたはずの相手の体には、傷ひとつついていない。

 キュトンとは違い、ピット・フィーンドのダメージ減少能力は、善の力によって聖別されていないただの銀の刃では克服することはできないのである。

 刀身には強力な麻痺毒が塗ってあったが、これもデヴィルには通用しない。

 

「どうやら貴様には、こいつでは効かんらしいな……」

 

 そんなジョゼフの呟きに対する相手の返答は、攻撃だった。

 鋭い爪の生えた腕が目にも止まらぬ速さで振るわれ、矮小な人間の体を叩きのめそうとする。

 

「危ない、ジョゼフさん!」

 

 ディーキンが叫んだ。

 しかし、確かに相手の体を捉えたと見えた爪は、虚しく宙を薙ぐ。

 

「なんだと……?」

 

 ピット・フィーンドは呆気にとられて、自分の手を見つめた。

 

 一体、なにが起きたのか。

 瞬間移動か、それとも幻覚の類か。

 でなければ、《時間停止(タイム・ストップ)》のような……?

 

「どこへ……」

「『エオルー・スーヌ・フィル・ヤルンサクサ』……」

 

 やや離れたあたりから詠唱の呟きが聞こえてきて、ピット・フィーンドとディーキンは同時にそちらの方に目をやった。

 いつの間にかジョゼフがそこに立って、デヴィルに杖を向けているではないか。

 ディーキンは、その詠唱に聞き覚えがあった。

 

 少し焦ってデヴィルがそちらに向き直ろうとした瞬間、ジョゼフは詠唱を完成させて……より正確には、そこまでで詠唱を打ち切って、『エクスプロージョン』の威力を解き放った。

 これ以上長い詠唱を行えば破壊する範囲が広くなりすぎるし、また敵に先んじて放つのにも間に合わないからだ。

 眩い閃光が、悪魔の巨体を包み込む。

 

「オオ……!?」

 

 だが。

 

「『動くな』!」

 

 まだその光が収まらぬうちに、閃光の中から怒ったような叫びが投げかけられる。

 

「……ぐぅっ!?」

 

 今度はかわす間も、抵抗を試みる暇さえもなかった。

 その《力の言葉:朦朧(パワー・ワード・スタン)》によって、一瞬のうちにジョゼフの精神は圧倒され、意識が朦朧となって、何も考えることができなくなってしまう。

 からんと乾いた音を立てて、手から杖と短剣が滑り落ちた。

 

 閃光が収まると、そこには怒りで顔をゆがめたピット・フィーンドの巨体が、変わらずに立っていた。

 

 いや、全身に焼け爛れたような傷跡があり、鱗が剥げて痛々しい姿にはなっている。

 だがその傷跡も、見る間に塞がって、無傷の状態に戻りつつあった。

 いかにすさまじい威力を誇る『エクスプロージョン』とはいえ、善の属性を帯びた呪文ではない以上、ピット・フィーンドのような上位のデヴィルに真のダメージを負わせることはできないのだ。

 

「何かは知らぬが、モータルの分際で小賢しい真似をしおって……!」

 

 怒りに顔を歪めてジョゼフに詰め寄ろうとするピット・フィーンドの前に、ディーキンが立ち塞がった。

 手には、エンセリックが握られている。

 

「ディーキンが、あんたたちの囚人を勝手に連れ出したのは悪かった、のかもしれないけど。これ以上、二人に手は出させないの!」

「気をつけてください。この来訪者は強大で、狡猾な手管を使いますよ!」

 

 エンセリックが相変わらず言わずもがなで具体性に欠ける、役立ちそうもないアドバイスをしてきた。

 

「ディーキンは、忠告に感謝するよ」

 

 それでも、こんな時でも律儀に礼は述べておく。

 ピット・フィーンドはそんな目の前のちっぽけで奇妙な生物を胡散臭げに見下ろすと、彼に対しても《力の言葉:朦朧》の疑似呪文能力を投げかけた。

 

「『動くな』!」

 

 しかし、ディーキンはまったくその影響を受けないようで、平然としている。

 

「あんたがこれ以上手を出さないでくれるなら、そうしてもいいの」

 

 ピット・フィーンドはほんの少しだけ顔をしかめると、内心で警戒を強めた。

 

 先ほどの《冒涜の声》や今の《力の言葉:朦朧》が通じていないところを見ると、こいつはかなりの使い手かもしれない。

 他の二人にしても取るに足りない相手ではあったが、見たことのない妙な手管を使ってきた。

 いずれにせよ所詮は脆弱なモータルだが、とはいえ万が一にも痛い目を見ては馬鹿馬鹿しい。

 

 そもそも、彼には最初から、タバサらを殺す気はなかった。

 下級のデヴィルでしかないキュトンどもには、思いがけない獲物を手慰みに拷問し惨殺してやろうというくらいのつもりしかなかっただろうが、最上級デヴィルであるピット・フィーンドは違うのだ。

 彼女らが執着しているらしい先ほどの囚人を餌にうまく騙くらかすことで、新たな契約を結ばせ、その魂を手に入れることを目論んでいた。

 ひとつやふたつの魂を余分に手に入れたところで最上級デヴィルにとっては大した功績にもならないが、思いがけない気晴らしとささやかな臨時収入とを逃す手はないだろう。

 向こうから攻撃してきたので、ならばまずはこちらの力の方が上なことを見せつけてやってからと思っていたが、それは必須というわけではない。

 相手にこれ以上戦う気が無いというのならば、なおさらのことだ。

 

 ピット・フィーンドは多少のプライドの痛みと不快感とを飲み込んでそう結論すると、それまでは威嚇するように拡げていた自分の翼を閉じて体の周りに巻き付け、声の調子を努めて敵意を抑えた穏やかなものに変えた。

 

「賢明なことだ。万にひとつ、貴様らに我を倒せたとしたところで、あの囚人が解放されるわけでもないのだからな」

 

 ディーキンはこくりと頷いて、エンセリックを鞘に納める。

 

 それで外見上は気を許した風に見えたが、もちろん彼らのやり口はよくわかっていた。

 デヴィルと話すことは、デヴィルと剣を交えること以上に剣呑なのだ。

 なぜなら命だけでなく、魂までもが危険に晒されるから。

 

「では、順を追って話そうではないか。貴様らは、先ほどの囚人と言葉を交わしたかったのだな?」

「そうなの」

 

 それでも、現状では会話をする以外に更なる情報を引き出して、より良い結果につなげる道はないだろう。

 それに、口を武器にするのはデヴィルだけでなく、バードも同じことなのだ。

 

「だが、バートルの法は、囚人に面会を認めていない。あの囚人は、正当な契約に基づいて拘束されている。その拘束を不当に破り、我らのプレーンから引き離すことは認められぬ」

「シャルルが、なぜ貴様ら悪魔どもの囚人などにならねばならん! 契約とやらを交わしたからか!?」

 

 ディーキンとピット・フィーンドが話している間に、朦朧状態から立ち直ったジョゼフが険しい顔をして話に加わってきた。

 だが、力に訴えてもどうにもならぬことを悟ったか、それ以上戦おうとはしなかった。

 杖と短剣は拾い上げたものの、既に懐にしまい込んでいる。

 

「ほう。無知蒙昧なモータルが、わけもわからずにしたことかと思ったが。満更、事情を知らぬわけでもないらしいな?」

 

 ピット・フィーンドはくぐもった笑いをこぼしながら、悠然と頷いた。

 

「いかにも。あの囚人は、生前に我らの同胞と『売魂契約』を交わしている。その条項に従い、魂は死後に、我らバーテズゥのものとなる定めにある」

「では、父は……、父は、これからどうなるというの?」

 

 ようやくおぞましい麻痺の状態から脱したタバサも、ディーキンの後ろからそう口を挟んだ。

 

 杖を拾い直してデヴィルを睨みつけてはいるが、その声にも、視線にも、前ほどの強さがなく、どこか弱々しかった。

 敵のおそろしさを知ったためか、自身の無力を痛感したためか。

 あるいは、父の状態をはっきりと告げられたためか。

 

「ああ、実に哀れなことだ。残酷な運命だ……」

 

 一心に父のことを想う娘の問いに対して、デヴィルは口先だけの憐憫と邪悪な笑みと共に教えてやった。

 

 バートルに堕ちた魂殻は、あらゆる拷問を加えられて生前のすべての人格と人間性を魔力と共に搾り取られた後に、最後にその抜け殻を『処理穴』に落とされる。

 そこで体を蛆虫に貪られ、その排泄物の中から精神を持たない最下級のデヴィル・レムレーに生まれ変わるのだと。

 

「……!!」

 

 タバサの顔が怒りにさっと紅潮し、また激高して杖を振り上げそうになる。

 しかし、ディーキンがそれを抑えると、タバサの顔をじっと見つめながら、首を横に振った。

 

 彼の悲しげな目を見つめているうちに怒りがすっと引いていき、代わりに無力感に苛まれて、タバサはがっくりと杖を下ろした。

 自分の力では、この悪魔を殺すことはできない。

 よしんば仮にできたとしたところで、それがなんになるだろう。

 それで、父が解放されるわけではないのだ。

 

「……何か、できることはないのか」

 

 ジョゼフが苦しげな顔をしながら、そう尋ねた。

 

「おれはこれでも、一国の王だ。シャルルの魂を解放してやれるなら、なんでも払おうじゃないか」

 

 ピット・フィーンドがそれを受けて、にやりと口の端を歪める。

 

「そうだなあ……。囚人を想う貴様らの真心に、答えてやりたいとは思わんでもないが……」

 

 心にもないことを言いながら、さてどんな条件を突き付けてやろうかと、楽しく思案を巡らせた。

 

 幽閉の環境を多少(牢をいくらか広くするとか、天窓付きにしてやるとかいった、子供騙しの)改善するのと引き換えに、多額の金品を支払わせるか。

 貴様らが生きている間は囚人への拷問やレムレーへの変性を免除してやる代わりに、死後に魂を差し出せと要求する(たかだか数十年の免除など、デヴィルにとっては何も払ってないのと同じだし、この連中が早逝するようにはからってもよいわけだ)か。

 あるいは、こいつはどうやら善人ではないようだし、国王だというのが事実なら、あの囚人の魂ひとつと引き換えに何百何千の魂をバートルに堕とせと要求しても通るかもしれない。

 実際には、自分にあの囚人の『売魂契約』を破棄する権限はないのだが、まあそんなものはどうとでも誤魔化して反故にできるというものだ。

 

 そんな風にうきうきと考えていたとこへ、横合いからディーキンが口を挟む。

 

「ジョゼフさん。ディーキンが思うに、そんなことをする必要はないの」

「……なんだと?」

「貴様、何を言い出す。今は、その者と我が交渉をしておるのだ!」

 

 そう言って睨みつけてくるピット・フィーンドを、ディーキンは真っ向からじいっと見つめ返した。

 

「少なくとも、あんたたちには別にこっちが何も払わなくても、シャルルさんを拷問したり、レムレーにしたりはできないの。違う?」

 

 ピット・フィーンドは、虚を突かれた様子だった。

 タバサとジョゼフの目が、ディーキンに注がれる。

 

「……どうして、そんなことがわかるの?」

「根拠はあるのだろうな?」

 

 ディーキンはこくりと頷くと、そう考える理由を二人に説明していった。

 

 まず、先ほどのシャルルの姿。

 確かに汚れていたし、いくらか傷ついてもいる様子だったが、おそらくは単に幽閉されているだけで、日常的に酷い拷問を加えられているという感じではなかった。

 

 それ以前に、そもそも九層地獄に数年前に堕ちたはずの魂が、脱走したわけでもなく捕らえられたままになっているのに、いまだにレムレーに変えられていないということ自体が不自然なのだ。

 バートルは、無慈悲で効率主義の社会である。

 使える『資源』をさしたる理由もなく遊ばせておくはずはない、搾り取れるエネルギーはさっさと搾り取って、抜け殻はレムレーに変えてしまうはずだった。

 

 そして、タバサの実家で見つけた『売魂契約』に書かれていた契約の内容。

 ディーキンはシャルルを呼び出したとき、彼がまだレムレーになっていなかったことで、前々からあるいはと思っていたことを確信した。

 

「シャルルさんは確かに死んだけど、あんたたちはまだ、彼と交わした契約を果たせてないんだよ」

 

 デヴィルが、何かの利益を与えるのと引き換えに死後に魂を得るという旨の契約を交わした場合、たとえ契約者が死んだとしても、その利益を与え終えていないうちは魂を正式に手にすることはできない。

 それでは、契約が満了したとは認められないからだ。

 

「だから、今はただ契約が済むまで牢に閉じ込めておいてるだけで、彼を拷問したりレムレーにしたりすることはできないの。そうでしょ?」

「…………」

 

 ピット・フィーンドは、忌々しげに牙を剥き出して顔を歪めたが、明らかな嘘を吐くことはできなかった。

 不承不承頷いて、ディーキンのその推測を肯定する。

 

「だが、それは何の意味もないことだ!」

 

 ぴしゃりと、そう付け足した。

 

「契約が果たされるのが何年後、何十年後、何百年後であろうと、あの囚人がいずれ来る日に怯えながら無為に牢で暮らす期間が長くなるだけのこと。貴様らが新たな契約を交わして、解放してやらん限りはな!」

「シャルルさんを解放するのに、新しい契約を交わす必要なんかないの」

 

 ディーキンは胸を張って、そう断言した。

 ウィルブレースや『眠れる者』といった、デヴィルに詳しい来訪者の仲間たちとも事前に相談し、地獄の法についていろいろと確認して、このような場合にするべきことはあらかじめ打ち合わせてある。

 

「こっちは、新しい契約を結ぶんじゃなくて……、シャルルさんが交わした契約に、異議を申し立てるの!」

「異議? ……異議だと?」

 

 ピット・フィーンドは一瞬驚いたように目を見開いたものの、次いで、侮蔑の表情を浮かべて嘲り笑った。

 

「くははは、何を言い出すかと思えば。所詮は、道理を知らぬ愚か者か! よいか、モータルよ。『売魂契約』の執行に異議を申し立てることができるのは、当事者だけなのだ!」

「当事者ならいるの、ここに!」

 

 ディーキンはそう言って、タバサのほうを指し示した。

 

「……なんだと?」

「この子は、シャルルさんの娘なの。契約書で定められてる、ええと……、『受益者』ってやつなんだよ!」

 

 したがって、契約の内容に不備があるならば異議を申し立てる権利があるはずだと、ディーキンは主張した。

 それから、タバサの実家で手に入れた『売魂契約』の書面を取り出して、ピット・フィーンドにつきつける。

 

「これが契約書だよ。ディーキンはタバサの代理人として、あんたたちはここに書かれた契約内容に違反してると申し立てるの。だから、シャルルさんの魂は解放されなくちゃいけない!」

 

 ピット・フィーンドはその書面を睨みつけ、困惑して立ち尽くすタバサの顔と、自信に満ちたディーキンの顔とを交互に見つめ……。

 やがて、不承不承に頷いた。

 

「……いいだろう。ならばバートルの法廷において、あの者に公正な聴聞会を与え、裁きの場を設けてやろう」

 

 なぜならば、『原初契約』がそうするように要求しているからだ。

 秩序の存在であるデヴィルは、それに従わねばならなかった。

 

「被告人と受益者には、当事者として招かれる権利がある。それ以外で同様の権利を受けられるのは、弁護を行う代理人だけだ!」

 





ピット・フィーンド:
 九層地獄界における一般的な上級デヴィルの中では最高位に位置する存在。
赤い鱗に覆われた体、鋭い牙、コウモリのような大きな翼と長い尾を備え、身の丈は12フィートもある。
両手の爪、両の翼、尾、病毒を帯びた牙による同時攻撃は恐ろしいほどのダメージを叩き出し、数々の強力な疑似呪文能力をも備え、配下のデヴィルを招来し、銀製でかつ善の属性を帯びた武器による攻撃か、善の副種別をもつ呪文による攻撃でなければ決して真のダメージを負うことはない。
たとえ真のダメージを与えられるような攻撃手段を持っていたとしても、アメリカ陸軍第三世代主力戦車・M1エイブラムスの主砲を二、三発食らってもまず致命傷を負わないほどにヒット・ポイントも高い。
一年につき一度だけだが、《願い(ウィッシュ)》の疑似呪文能力を用いることもできる。
最も強大なピット・フィーンドは公爵の称号を持っており、さらに昇格すると唯一無二の形態をもつデヴィルになり、通常はその中からアークデヴィルが選出される。
 小説「ダークエルフ物語」の中では、『冥王』と称されていた。

ブラスフェミィ
Blasphemy /冒涜の声
系統:力術[悪、音波]; 7レベル呪文
構成要素:音声
距離:40フィート
持続時間:瞬間
 この呪文は術者を中心とした半径40フィートの拡散範囲内にいる、属性が悪でないすべてのクリーチャーに対して、さまざまな有害な効果を与える。
被害は短時間の幻惑や筋力低下、数分間の麻痺、即死などで、術者との力の差が大きいほど受ける被害は大きくなる。
加えて、術者が自身の出身次元界にいる場合、効果範囲内にいる属性が悪でない他次元界のクリーチャーは意志セーヴに失敗すると直ちに各自の出身次元界に送還されてしまう。
送還以外のすべての効果は抵抗(セーヴィング・スロー)不可である。
ただし、術者と同等以上の力(ヒット・ダイス)を持つ相手に対しては、この呪文は何の効果もない。
 ピット・フィーンドはこの呪文と同等の効果を持つ疑似呪文能力を、回数無制限で使用することができる。

パワー・ワード:スタン
Power Word Stun /力の言葉:朦朧
系統:心術(強制)[精神作用]; 8レベル呪文
構成要素:音声
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:本文参照
 術者が力ある言葉を一言呟くだけで、対象となったクリーチャーはその言葉を聞くことができるかどうかに関わらず、即座に朦朧状態となる。
朦朧状態のクリーチャーは手にしたものをすべて取り落とし、何も能動的な行動をすることができない。
この呪文の対象にできるのは現在のヒット・ポイントが150以下のクリーチャーだけであるが、対象となっている場合には抵抗(セーヴィング・スロー)の余地はなく、必ず効果を発揮する。
ヒット・ポイントが少ないクリーチャーほど、朦朧化している時間は長くなる。
 ピット・フィーンドはこの呪文と同等の効果を持つ疑似呪文能力を、回数無制限で使用することができる。

原初契約(げんしょけいやく):
 バートルの支配者であるアークデヴィル・アスモデウスと、原初の秩序の神々が交わしたとされる契約のこと。
地獄に落ちた魂の懲罰システムに関する取り決めであり、アスモデウスはその契約の抜け道を無慈悲に悪用することで、定命の存在を堕落させ魂を収穫している。
この契約の原本は、バートル、メカヌス、セレスティアという三つの秩序の次元界に存在している。


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第百五十九話 Counsel

 

 一連の思いがけない話の流れにまだ困惑を隠せないタバサとジョゼフをよそに、ディーキンはピット・フィーンドとの話を続けた。

 デヴィルとの話は誤解や曲解の余地がないように、細部まできっちりと取り決めておかねばならないのだ。

 

「ありがとうなの。それで、その裁判っていうのは、いつ、どこでやるの?」

「日時と場所は、後日こちらで決定する。決まり次第、裁判長となるデヴィルが貴様に接触して通達することとなろう」

「それは、どのくらいで決まるの? 何十年後とかは嫌だよ?」

 

 ピット・フィーンドのシェムザシアンは、ふんと鼻を鳴らしながらそっけなく答えた。

 

「それほどの時間はかからん。通例は、数日から長くとも十数日といったところだ」

 

 ディーキンは、少し考え込んでからわかったと言って頷いた。

 

「では、それで話は終わりだな……」

「アー、待った!」

 

 きびすを返そうとするシェムザシアンを、ディーキンが呼び止める。

 

「なんだ。まだ何かあるのか?」

「あるの。ディーキンたちをバートルの法廷に招待してくれるなら、そこまでの『通行許可証』を用意して?」

 

 ウィルブレースや『眠れる者』からは、デヴィルとの話がついたら必ずそう要求するようにと、事前に注意されていた。

 デヴィルには当事者からの異議申し立てがあれば裁判を開く義務があるが、出席者をそこまで転送しなくてはならない義務はないからである。

 つまり、自分たちの足で法廷まで赴くしかないわけだが、その際に通行許可証がなければバートルへの不法侵入と見なされ、バートルのあちこちをうろついているボーン・デヴィルのパトロール部隊や何かからひっきりなしに襲われることになるだろう。

 

「……いいだろう」

 

 シェムザシアンは、面白くなさそうにそう言って顔をしかめた。

 

「だが、今すぐには渡せん。我には、その権限はないのでな」

 

 これは本当のことだ。

 

 ピット・フィーンドのような上位のデヴィルならば、定命の者にバートル内の通行許可証を発行する権限はあるのだが、どんなものでも出せるというわけではない。

 通常は自身が所属している階層の、特定のルートを旅するものだけに限られる。

 しかるに、『売魂契約』に対する異議申し立ては一般的に、バートルの第四階層・プレゲトスのアブリモク市にある、ディアボリカル・コート(デヴィル裁判所)で審議されることになっている。

 第一階層のアヴェルヌスからそこまでは階層をまたぐ旅になるが、そのような移動の許可証はバートルの支配者であるアスモデウスその人の認可がなければ発行できないのだ。

 

「後日、貴様に接触した裁判長から受け取るがいい。発行の申請は出しておく」

 

 それだけ約束すると、シェムザシアンは今度こそ、ゲートを通ってバートルへ還っていった。

 

 

「タバサ、ジョゼフさん、大丈夫?」

 

 デヴィルが完全に去ったのを見届けてから、ディーキンは二人の方に向き直って、心配げに声をかけた。

 彼女らが受けたのは《冒涜の声(ブラスフェミィ)》や《力の言葉:朦朧(パワー・ワード:スタン)》だけだから、身体的には傷ついてはいないだろうが、精神的なショックを受けているかもしれない。

 

「……大丈夫」

 

 タバサは、ややあってから、ぽつりとそう答えた。

 あまりにいろいろなことが一度に起こり過ぎて、頭と感情の整理が追い付いていない様子だ。

 

 だが、ジョゼフの姿は、彼女にもまして複雑なものだった。

 思い悩んでいるような、すっきりと憑き物が落ちたような……、憤っているような、寂しがっているような……、なんとも解しがたい、奇妙な表情と様子。

 その胸中にどんな感情が渦巻き、何を考えているのか、タバサにもディーキンにもよくわからず、声をかけかねる。

 

 彼はやがて、ディーキンの方を向くと、ぼそりと呟くような声で尋ねた。

 

「……本当か?」

 

 ディーキンは困惑して、タバサと顔を見合わせる。

 

「ええと……、その。なにが?」

「すべてだ」

 

 ジョゼフは溜息を吐くと、どさりと椅子に腰を落とした。

 

「この目で見た今でも信じられん。あのシャルルが、悪魔などと……」

 

 もちろん、理屈では否定しがたい事実とわかっている。

 契約書には先ほどざっと目を通したので、弟が何を求めていたのかもわかっている。

 だが、信じられない。

 王の座を求めているような、そんな様子もなかったというのに。

 

「おれが次の王に選ばれたとき、そのことを祝福してくれたのは……、あれは、なんだったのだ。あの時お前は、本当はなにを考えていたのだ。シャルル……」

 

 タバサは、独り言のように亡き弟に問い続けるそんな伯父の姿を見て、戸惑いを隠せなかった。

 

 理屈では、父を殺した男が今さら何をと、憤って然るべき言葉であるはずだ。

 これまでずっと、復讐を胸に抱き続けてきた。

 だが、偉丈夫であるはずのその体が今はあまりにも小さく、弱々しく、寂しげに見えて、憎しみがまるで湧いてこない。

 

 そんなジョゼフの前に、ディーキンが歩み寄った。

 

「それは、ディーキンにはわからないけどね」

 

 背伸びをしてジョゼフの手を取ると、にっと笑いかける。

 

「今度、本人に聞いてみたらしいの。裁判で勝てさえすれば、ゆっくりお話しできるでしょ?」

 

 ジョゼフは少し考えて小さく頷くと、そんなディーキンの顔をじっと見つめた。

 

「そう、その裁判とやらのこともだ。地獄の裁きというのがどんなものかは知らんが、悪魔どもが契約違反をしているというのは本当なのか?」

 

 その質問に、ディーキンは首を傾げて……。

 ちょっと困った様子で、肩をすくめた。

 

「さあ? ディーキンには、わからないの」

「……なんだと?」

 

 ジョゼフは怪訝そうに眉をひそめ、タバサは驚いたように軽く目を見開いた。

 

「だってディーキンは、シャルルさんにはついさっきまで会ったこともなかったからね。デヴィルがまだ契約を果たしてないのは確かだけど、違反があるかどうかまでは知らないよ」

「では、あれははったりだったというのか? それで、どうやって裁判に勝つつもりだ?」

「本当に違反の証拠が見つかれば、それに越したことはないの。もしそうじゃなかったら、口先で勝つしかないと思う」

 

 それを聞いたタバサは戸惑いを隠せない様子で、口を挟んだ。

 

「……本当に、大丈夫なの?」

 

 本当にそんなことをしていいのかという意味合いと、本当にそんなことで勝てるのかという意味合いとが、半々だろう。

 ディーキンはしかし、そんなことは大した問題ではないというように、あっさりと頷きを返した。

 

「ウィルブレースお姉さんも言ってたの。『真偽などという形式的なことよりも、是非をこそ問うべきです』ってね。ディーキンも、そう思うよ」

 

 善と共に秩序をも重んじるパラディンならば眉をひそめそうな言葉だが、自由に重きを置くエラドリンやバードにはふさわしい。

 

 シャルルという人物は、確かに自らの自由意思でデヴィルと取引したのかもしれないし、まったく非がなかったというわけではないのだろう。

 だが、生前に多くの人から慕われ評価されていた、英雄と呼ぶに値する人物だったこともまた確かな事実であるはずなのだ。

 それを一失ありとはいえ、デヴィルなどの姦計に囚われたままにしておいてよいものか。

 

 そもそも、あちこちの世界で人を堕落させて回っては地獄堕ちの魂を増やしているデヴィルとの契約など、正当だろうが不当だろうが、破棄できるものなら破棄してしまうに越したことはない。

 

「大丈夫なの。裁判ってやつの経験はないけど……、ディーキンは絶対勝てるように、その日までにしっかりと勉強しておくから!」

 

 ぐっと胸を張って、力強くそう請け負った。

 タバサはそんな彼の顔を見つめながら少し考えて、首を横に振った。

 

「それなら、無理にあなたが受ける必要はない」

 

 父は、既に死んでしまった身なのだ。

 現在の境遇が、多分に自業自得なものであることも……、事実なのだろうし。

 

「父の弁護は、わたしがする。わたしだけが行けば、それでいい」

 

 それでもなお助けに行くとしたら、もちろんそうするつもりだが、それは当然、他の誰も巻き込まずに、身内である自分がやるべきことであるはずだった。

 

「それは、ダメなの」

 

 ディーキンは、そう言って首を横に振り返した。

 

「タバサだけでバートルに行くのは無理だよ。どうやって行ったらいいかも、向こうのことも、何も知らないでしょ?」

「……それは……」

 

 確かに、その通りだった。

 

 自分には地獄とやらに行く方法もないし、現地の地理も何も知らない。

 それ以前に、たとえ通行許可証とやらがあったとしても、相手は卑劣な悪魔どもなのだ。

 道中で何がしかの理由をつけて襲撃してくるかもしれないし、そうなったら先ほどただ一人の相手にも後れを取った自分に一体何ができるだろう。

 

 それでも……。

 

「……あなたにとっては、父は大切な人ではないはず」

 

 少なくとも、命がけで助けに行くような相手ではないだろう。

 たとえ彼であっても……、あんな恐ろしい悪魔が数知れぬほど巣食っているのであろう地獄の底へ赴けば、生きては帰れないかもしれない。

 

 彼までもが父のような変わり果てた姿にされるかもしれない、わたしの元から永久に消えていなくなってしまうかもしれないと考えると、体の震えが止まらなくなる。

 

「ンー……」

 

 ディーキンは少し考え込んでから、そっとタバサの手を取った。

 

「タバサにとって大事な人は、ディーキンにとっても大事な人に決まってるよ。ディーキンは、自分のために、タバサの大事なものを守りたいの」

 

 彼女の顔を真っ直ぐに見つめながら、きっぱりとそう言い切って。

 それから、小さく首を傾げた。

 

「……ダメ?」

 

 それらはすべて、本心から出た言葉には違いないのだが。

 こう言えばタバサを手っ取り早く黙らせられるだろう、という計算もないわけではなかった。

 

 当然ながら、ディーキンとしては何を言われようが、タバサを一人でバートルに行かせるなんてことはあり得ない。

 そして同行するなら、代理人という形でないと通行許可証は発行されないのだから、不法侵入扱いで襲われるのも上等だという覚悟で行くのでなければ、自分がシャルルの弁護をする以外にないのだ。

 他に選択肢がない以上は、長々と押し問答を続けてみても無意味である。

 

 狙い通り、タバサが顔をみるみる真っ赤にさせて俯き黙り込んだのを見て、ディーキンは胸中で密かに、ささやかな満足感を覚えた。

 

 それは、人の心を望むように動かせることに喜びを覚えるバードとしての感性のゆえか。

 あるいは、価値ある宝を所有し愛でることや、他者よりも上の立場にあることを本能的に求める、レッド・ドラゴンの血筋によるものか。

 でなければ、相手がタバサだからなのか……。

 

「だが。シャルルを救えさえすれば、代理人はお前でなくてもいいはずだな?」

 

 そこへ今度は、横合いからジョゼフが口を挟んだ。

 

「おれにやらせろ。弟に罪がないことを弁護するのは、責任から言っても、あいつを殺した者の役目であるべきだろう?」

 

 そう言って熱心にディーキンを説き伏せようとする彼の目には、真剣な色合いがあった。

 真顔に戻ってその様子をじっと見つめていたタバサが、ぽつりと呟く。

 

「……なぜ」

「ん?」

 

 振り返ったジョゼフと、彼女の目が合った。

 

「なぜ。どうして父を殺した男が、いまさらそんなことを」

 

 その声の奥には、努めて抑え込んだ様々な、複雑な感情が見え隠れしている。

 さすがのジョゼフもやや居心地が悪そうに視線をさまよわせたが、結局肩をすくめて首を横に振った。

 

「お前にはわからんさ、シャルロット。お前は昔から、あいつに似て優秀だったからな。どうしようもない劣等感に苛まれたことなど、これまで一度もないだろう?」

 

 そう言って、先ほどディーキンにも聞かせた自分の弟殺しの動機を、自嘲気味に語り始めた。

 

(ある)

 

 タバサは黙ってその話に耳を傾けながら、胸の内でそう呟いた。

 

 身近にいて、ずっとよくしてくれた人に対して、伯父が父に対してそうだったのと同じように、嫉妬と劣等感から殺意を抱いてしまったことが。

 やってしまってすぐに後悔し後悔し、後々になって、相手がどんなに大切な人だったかに気が付いたことが……。

 

(わたしにも、ある……)

 

 違いがあるとしたら、自分は手遅れになる前に止まることができ、伯父は止まれなかったということくらいか。

 

 いや、それも結果論に過ぎない。

 身勝手な動機で一方的に決闘を吹っ掛けたあの日、自分が彼に対して最後には死んでもおかしくないような攻撃を、殺意を込めた攻撃を放ってしまったことは、決して忘れることができない。

 一生後悔し続けるだろう。

 彼が死ななかったのはただ、自分がどうしようもないほどに心も力も弱く、それに対して彼は強かったからというだけのことだ。

 

 そんな自分と伯父との間に、どれほどの違いがあろうか。

 

 思えば、父も伯父に対する劣等感に苛まれていたと、母は言っていた。

 その果てに道を誤って、悪魔との契約に手を出してしまったのか。

 あの性悪な従姉妹のイザベラにしても……、事あるごとに自分を虐めようとするその動機はおそらく、嫉妬なのだろう。

 彼女は自分と比べて魔法の才に乏しく、よく足下の者たちから陰口を叩かれていたから。

 

(わたしたちが憎み合うのは、結局は近親憎悪でしかないのかもしれない)

 

 そんな思いを抱いているタバサをよそに、ジョゼフはディーキンとの交渉を続けた。

 

「なあ。悪魔との裁判がどんなものかは知らんが、シャルルにチェスで勝つほど難しいことではなかろうよ。おれはあいつのことを生まれた時から知っているから、お前よりは勝算もあるさ。信用できんというのなら、裁判で負けた時にはおれの魂もやつらのものになるという契約を交わしてもいい。もっとも、契約なぞせんでも、どのみち俺は地獄行きだとは思うがな……」

 

 ディーキンはそれでも、申し訳なさそうに首を横に振った。

 

 大国ガリアの王である彼がバートルへ赴けば、かなりの長期間に渡って姿を消すことになり、さまざまなところに影響が出るだろう。

 特に、それによってハルケギニア側のデヴィルに事態を気取られてしまうことは、非常に危険だ。

 

「どういうことだ? 気取られるもなにも、おれは既に先ほどの悪魔どもの前に姿を見せてしまっているではないか?」

「イヤ、たぶんだけど……。あいつらは、あんたのことは何も知らないと思うの。それに、この世界のこともね」

 

 シャルルの魂それ自体は、デヴィルにとってはあくまでも処分待ちで待機中の一個の魂でしかなく、交渉のカードとして使うためにとって置いているわけではないだろう。

 もしそうするつもりがあるなら、もっと早い段階でオルレアン公夫人なり、タバサなり、ジョゼフなりに接触を取って、話をもちかけているはずだ。

 

 一方、ハルケギニア側でデヴィルが進めている計画は、背後にアークデヴィルがいる非常に大がかりなものであり、その情報をただの牢番役のデヴィルに意味もなく詳細に開示するとは思えない。

 ハルケギニアは、向こうでは一般に存在すら知られていない未知の世界(ディーキンほど高レベルのバードが知らなかったことからも、それは明らかだ)なのだから、他のアークデヴィルが介入してくるのを避けて利益を独占するためにも、バートル側での情報の流出は可能な限り抑えるだろう。

 

「だから、ジョゼフさんには国に残って、デヴィルに気が付かれないようにしててほしいの」

 

 そうすることで、自分のような一介のバードにはできない仕事を果たしてほしい。

 ハルケギニア側に残っているデヴィルを裏で手を回して一掃することは、一国の王として大規模な人員や資源を動かせる彼の尽力がなければ成し得ないだろう。

 

 それに、もうひとつ。

 

「直接は行かなくても、ジョゼフさんはシャルルさんを助けられるよ。裁判までの間に、勝つための手掛かりを探してほしいの。証言とか、証拠品とか……」

 

 いみじくも彼自身が言ったとおり、自分はシャルルという人物のことをよく知らない。

 身内であるジョセフやタバサであれば、何か弁護をする際に有利となるような、自分では気付かない手がかりを集めてくることができるかもしれない。

 デヴィルのような連中が行う裁判の勝敗は、結局は法廷での口の巧みさが問題だとは思うが、証拠はないよりもあったほうがよいはずだ。

 万が一、何か決定的な契約違反の証拠でも手に入れば、必勝とは言わぬまでもかなり有利にはなるだろう。

 

「全員で協力すれば、どんな裁判にでも、デヴィルにでも、間違いなく勝てるの!」

 

 なぜなら、そうなってこそ、偉大な物語というものだから。

 ディーキンは自信たっぷりに断言すると、ぐっと胸を張ってみせた。

 





地獄の審判:
 売魂契約の条項に異議を唱えた場合に行われる裁判のルールに関しては、3.5版のサプリメント「魔物の書2:九層地獄の支配者」に記載されている。
それによると、判事は先入観を持たずに双方の言い分を聞いた上で法に則って判決する、被告人が無罪判決を受けるには「強要か強制によって契約に署名させられた」か「契約で約束されていた利益をデヴィルが与えなかった」ことを証明しなくてはならない、とある。
しかし、実際の裁判では検察官と被告弁護人が<交渉>、<知識:次元界>、<芸能:演劇>の3つの技能判定を行い、その合計値が高い方が勝訴することになっている。
一方で、どちらの言い分が本当に正しいのかや、証拠の有無などが結果に影響するかどうかについては、何も記載がない(おそらく技能判定の結果に、その重要性に応じたある程度のボーナスやペナルティーくらいはつくのではないかとは思うが)。
要するに、最終的には双方の弁舌、知識、演技力の問題なのであり、したがってディーキンのような高レベルのバードは弁護人としてうってつけだと言える。
 ちなみに、被告人が自分の弁護をしてくれる代理人を用意できなかった場合には、公選弁護人としてハーヴェスター・デヴィルかエリニュスが指名されることになっている。


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第百六十話 Gift and souvenir

 

 ディーキンらがシャルルと束の間の接触を取り、その場でバートルでの裁判の約束を取り付けてから、既に数日の時が過ぎていた。

 

「どうしても、あたしは一緒に行けないのかしら?」

「きゅい、悪魔の巣にいこうだなんて! いくらお兄さまがご一緒でも、二人だけじゃ危ないのね!」

「仮にもパートナーなのに、ディーキンと一緒に行けないだなんて……」

 

 アルビオンで王党派の拠点に留まっているキュルケやシルフィード、ルイズらは、不満と不安の入り混じった様子だった。

 

 タバサは母親やジョゼフと共に地獄の裁判で役に立つかもしれない材料を集めようとあれこれ話し合って意見を出し合ったり、それに基づいてあちらこちらを訪ね歩いたり、その合間にどこかで訓練をしたりしているようで、しょっちゅう出て行ったり戻ってきたりしている。

 ディーキンは彼女らとは別行動をとっていて、どこで何をしているのかはっきりとはわからないものの、こちらも忙しく動き回っているらしかった。

 そしてまだ、デヴィル側から裁判の日時に関する連絡はない、……と思う。

 その連絡を受け取ることになっている当のディーキンが現在アルビオンにいないので、正確なところはわからないのだが。

 

 キュルケもルイズも、当然ながらたとえそれが地獄の底であろうと、彼らと共に行ってやりたかった。

 けれども地獄の通行許可証とやらは当事者であるタバサ本人と、あと一人分しか発行されず、それはディーキンのものに既に決まっているらしい。

 さすがに、彼から取り上げるというわけにもいかないが……。

 

「なにも、悪魔の出す許可証なんて受け取らなくたって。わたしたちみんなでその地獄とやらに乗り込んで、タバサのお父上を助け出してあげるわけにはいかないのかしら」

 

 自分の『虚無』ならば、その気になれば一軍を吹き飛ばすことさえもできるはずだった。

 もちろんルイズは、そんな力を人間相手に使おうなどとは思ったこともない、それは恐ろしいことだ。

 

 けれど、相手が悪魔ならば。

 こんな時に、大切なパートナーや友人のために使わなくて、何のための力だろうか。

 

「まあ、ルイズ。あまりそう、無茶なことを言うものではありませんよ?」

 

 横合いからウィルブレースが、たしなめるようにそう口を挟んだ。

 

 彼女や眠れる者といったセレスチャルの仲間たちは、アルビオンでこれまでどおりの活動を継続していたが。

 空いた時間にはバートルの地理についてあれこれと調べたり、目的地への移動コースを検討したりと、ディーキンとタバサの旅を成功させるためにできる限りのことをしてくれているようだった。

 

「そんなことができるものなら、我々エラドリンはとっくにそうしているでしょう。ですが、残念ながら地獄のすべてを敵に回して戦うなど、到底誰にも叶わぬことなのです」

 

 たとえそれが、神々であってさえも。

 

 対立する奈落界アビスのデーモンたちに比べればはるかに小規模とはいえ、それでもデヴィルの軍勢には無限と思えるほどの数がある。

 そして、その頂点に君臨するアスモデウスは、上級神格にさえ匹敵、もしくは凌駕する実力を備えていると噂されていた。

 事実、バートルには悪竜の女王ティアマトやコボルドの主神カートゥルマクをはじめとして、セト、セコラ、ドルアーガといった高名な悪の神格の数々が領土を構えているにもかかわらず、誰一人としてデヴィルから地獄全土の支配権を奪い取ろうとはしないのだ。

 彼らでさえも、アスモデウスの力と支配に多大な敬意を払っているのだという、何よりの証である。

 

 まあ、裁判所までの道中で遭遇するすべてのデヴィルを蹴散らす程度なら、ここにいる皆で力を合わせればできるかもしれないが……。

 多大な危険を冒してまで、そんな無用な戦いをすることもないだろう。

 

「それに、せっかくの二人きりのご旅行ですし。ディーキンから彼女のお父君への、顔見せの機会でもあるのですからねえ」

 

 初心な子供でもあるまいに、友人の同行など無粋というものだろうと。

 不満げなルイズとキュルケに向けてにっこりと微笑みながら、ウィルブレースはどこか楽しげにそう付け加えた。

 

「おうよ。なあに、聞くところによると、たかだか地獄の四丁目までだそうじゃねえか。相棒のお師匠さんにとっちゃあ、ちょいと刺激的なデートコースみてーなもんだろうぜ!」

「さすがに、そこまで暢気でもないでしょうがね。まあ、感情的にあまり深刻にならないのが、あのコボルド君のスタイルのようですから」

 

 近くに置かれていたデルフリンガーとエンセリックも、さして心配した様子もなくそう言った。

 

「ええ。彼にとっては、バートルは初めてというわけでもありませんし……」

 

 まあ、極寒地獄のカニアと焦熱地獄のプレゲトスとでは、だいぶ勝手は違うだろうが。

 

「楽観的ねえ。……まあ、確かにディー君も、そんな感じのことを言いそうだけど」

 

 バードってみんなそうなのかしら、とキュルケは苦笑したものの。

 生真面目な性格でパートナーや友人の身を心から案じているルイズは、彼女らのあまりに緊張感がない態度にいささか顔をしかめた。

 

 ウィルブレースは、そんな彼女に優しげな目を向ける。

 

「……ルイズ、あなたが彼らの身を案じるのはわかりますし、その気持ちは高貴な心から生じたものです。でも、あなたのパートナーはいつも楽観的で、人生を楽しんでいます。きっと、地獄に向かう時にもそうするでしょう。あなたは彼のことを、笑って送り出してあげるべきです」

 

 なぜならば、地獄の底にさえも希望の光を灯すという偉業を成し遂げることなど、自分自身が不安に暗く塞ぎ込んでいるような者には到底叶わないから。

 極寒のカニアに送り込まれてさえも希望を失わずに前進を続け、ついには大悪魔メフィストフェレスを打ち破って地上への帰還を果たした当代の英雄を間近で見ていたディーキンにも、それがわかっているはずだ。

 

「彼らを信頼してその成功を疑わないこと、そして自らはこの地で自分の果たすべき役目を全うすること。それが、今のあなたがたにできることなのではありませんか」

「……」

 

 それでルイズも黙り込んだものの、シルフィードはまだ不満そうにしていた。

 

 果たすべき役目と言われても、自身の戦力も貴族としての伝手などもあっていろいろなことが出来得るルイズやキュルケと違い、彼女にはタバサから離れてするべきことには何も心当たりがないのだ。

 彼女は万が一にもジョゼフ、ないしはデヴィルの手の者があらわれた時に備えて、ここ最近はずっとオルレアン公夫人の傍についていたのだが……。

 それも、もうあまり必要はなくなっていた。

 

『お前の母親と会って、シャルルの件について話したい。裁判で勝つ手掛かりが、なにかつかめるかもしれんからな』

 

 ジョゼフはオルレアン公夫人が、おそらくはディーキンかその主人の介入によって、既に快復しているであろうことを見抜いていたのだ。

 そうでなかったら、どうして姪が自分との交渉を成立させたにもかかわらず、大切な自分の母親の件について一言も話題に出さないなどということがあろうか。

 率直に頼まれて、タバサは少し迷ったものの、これ以上隠してもメリットはないと考えて母に連絡を取ることにした。

 夫人は事の次第を聞くと、少し驚きはしたものの特に抵抗も示さず、彼と直接会うことを受け入れたのである。

 

 そんなわけで、シルフィードは護衛のお役目から解放されて、久しぶりに主人と再会できて喜んだのだが……。

 その直後に、近いうちに地獄に行くなどというとんでもないことを彼女から告げられて。

 ならば当然使い魔である自分も一緒にと、悪魔が恐ろしいのもこらえて食い下がったのだが、それはできないと断られてしまったのである。

 二人の逢引きの邪魔……という冗談はまあ、さておくとしても。

 いかに使い魔といっても、シルフィードの分の通行許可証は発行されないし、彼女の本来の姿は大きくて目立ってしまうにもかかわらず、その姿でないとほとんど無力である。

 よって、同行させるメリットよりも、デメリットのほうがはるかに大きいのだ。

 

「きゅい……」

 

 ああ、危ないことは嫌だけど、蚊帳の外ってのも辛いことなのね……と、シルフィードは切なげに溜息を吐いた。

 ウィルブレースは、そんな彼女ににっこりと笑いかける。

 

「ああ、シルフィード。そういえばシエスタとギーシュが、あなたに一緒に出掛けないかと言っていましたよ。地上まで連れて行ってほしいそうです」

 

 ここでの滞在がかなり長くなったのもあって、シエスタは一度学院に戻って同僚への挨拶や自室の整理などをしておきたかったし。

 久し振りに故郷のタルブ村に帰って家族に会ったり、いろいろと持ち出したりしたいものもあった。

 ギーシュは彼女に同行したがったのと、あとはできることなら久し振りにモンモランシーに会いたいと考えたのである。

 普段ならディーキンに頼んだだろうが、あいにくと彼は不在だし、いたとしても忙しい。

 

 ちなみにシルフィードの正体は、ジョゼフとも話が付いた今となってはもはやそう厳しく隠しておく必要もないだろうということで、タバサの身の回りにいる仲間たちの概ねに既に明かされていた。

 

「えー、シルフィは運び屋じゃありません。行ったり来たりは疲れるし……」

「なんでもシエスタの故郷はブドウなどの作物の出来がよくて、おいしい郷土料理もあるとかで」

「すぐに行くのね!」

 

 それであっさりと気が変わったシルフィードは、喜び勇んで飛び出して行った。

 

(本当に素直な、いい子たちだ)

 

 ウィルブレースは微笑ましくそう感じながら、自身も席を立った。

 

「さて、私もそろそろお暇します。ディーキンはまだ戻らないようですし、彼に代わって、少しあの子の様子を窺ってみませんと……」

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 その頃タバサは、ただ一人で誰もいない平原にたたずみながら、目を閉じて精神を集中させていた。

 

 ややあって、ひとつ深呼吸をしてから前方を見据える。

 その視線の先には、枯れ木が数本。

 

「…………」

 

 すっと杖を掲げると、その先が青白く輝き、彼女の周囲を無数の氷の矢が回転した。

 タバサの短い青髪が、彼女を中心に発生した竜巻と膨れ上がった魔力の波とによって激しくなびき、凄まじいスピードと威力の氷の矢が、四方八方から枯れ木を串刺しにせんと襲い掛かっていく。

 いまやスクウェア・クラスのメイジとなった彼女は、風の二乗、水の二乗の魔力を込めることで、得意とする『ウィンディ・アイシクル』の呪文をさらに強力なものに進化させたのだ。

 

 にもかかわらず、それだけでは十分でないというかのように、タバサは呪文を発動させるや一瞬の間も置かずにすぐさま姿勢を低くして横に飛びながら、再度の素早い詠唱と共に杖を横なぎに振るった。

 

「ラグーズ・ウォータル・デル・アース」

 

 途端に地面を何筋もの氷が走っていき、目の前の枯れ木すべての根元に絡み付く。

 枯れ木を生きて動く敵に見立て、その移動を封じたのだ。

 直後に、周囲から殺到した氷の矢によって串刺しにされた枯れ木たちが、崩れ落ちることも許されずに一瞬でその場に氷結する。

 

 タバサはそれでもまだ満足しないのか、地面を蹴って方向転換すると、風の呪文によって跳躍の飛距離と速度を増しながら、その木のうちの一本に猛然と向かっていった。

 

 そうしながら杖を左手に持ち替え、右手で腰に差した小剣を引き抜く。

 それはディーキンが、デヴィルと戦う場合の備えとして彼女に渡しておいたものだった。

 銀の刀身が聖なる力を帯びて、ほのかに清浄な白い輝きを放っている。

 

「っ!」

 

 小さな体ごとぶつかっていくようにして、凍り付いた木を勢いをつけて刺し貫いた。

 鋭い刃は、まるでバターでも切るかのようにたやすく氷に食い込んでいく。

 それを横に払いながら引き抜くと、木は真っ二つに折れて地面に崩れ落ち、ばらばらに砕け散る。

 

 その直後に、タバサははっと目を見開くと、杖を構えて飛び退りながら、右手のほうに向き直った。

 

「お見事です、すばらしい」

 

 いつの間にか瞬間移動してきていたのだろう、そちら側の少し離れたところにウィルブレースが立っていた。

 

「……」

 

 微笑みながら拍手を送る彼女の姿を見て、タバサは軽く息を吐いて杖を下ろす。

 

 訓練とはいえ本当に見事な戦いぶりだったといえようが、その割には本人の表情が冴えなかった。

 その様子を見て、ウィルブレースは小首を傾げる。

 

「いまの技にご不満なのですか?」

「十分とは言えない」

 

 タバサは呟くようにそう答えたきり、じっと自分の杖と、手にした剣とを見つめていた。

 胸中では、父とほんの一時再会したあの日のことを、そしてその時に出会った巨大なデヴィルのことを、思い返していた。

 

(もう一度あの悪魔と戦ったとしたら、いまの攻撃で倒せるだろうか)

 

 戦うために行くのではないとはいえ、なにせ場所は地獄であり、相手は信用のおけぬデヴィルどもなのだ。

 どこかで戦闘に巻き込まれることは十分に考えられるし、その場合、少なくともディーキンの足手まといになるわけにはいかない。

 

 考えるまでもなく、魔法では倒せないことははっきりしている。

 

 ピット・フィーンドという名前らしいあの悪魔に対しては、スクウェア・クラスに至った自分の魔力もまるで通用しなかった。

 それどころか、ジョゼフが放った『虚無』のエクスプロージョンでさえ、その命を奪うことが出来なかったのだ。

 

 だから、タバサは呪文を囮と足止めに使い、デヴィルにも通用する武器としてディーキンが渡してくれた剣を用いて普段ならば避けようとする近接戦を挑むという、新しい戦い方の訓練をしていた。

 

 自分は体格にも体力にも優れておらず、敵の一撃が致命傷になってしまう。

 接近戦で強敵と渡り合えるだけの、武器戦闘の技量もない。

 それゆえに、まずは呪文で敵の足を止め、その隙を狙ってあえて危険な突撃を敢行することで最大限に威力を高めた攻撃を見舞い、一撃で片をつけるというスタイルを考えてみた、のだが……。

 

「…………」

 

 所詮、相手は動かぬ樹木。

 はたして、あのような巨大でおそろしい悪魔を相手に、実戦で通用するものだろうか。

 一撃で致命傷を負わせられなければ、自分が死ぬだけだ。

 

 タバサは、これまでに近くで見てきた、ディーキンの剣を振るって戦う姿を思い返してみた。

 

 地下カジノでは、一瞬の交錯のうちに強靭な魔物を斬り捨てた。

 ラ・ロシェールでは、いまの自分と同じスクウェア・クラスのメイジであり、戦闘訓練も十分に受けていたはずの魔法衛士隊の隊長を、まるで歯牙にもかけなかった……。

 

(あの人と肩を並べて、他に誰の手助けも得られない地獄の底で戦っていけるだけの力が、わたしにあるのだろうか)

 

 そう自分に問いかけながら、その大切な人から贈られた手の中の小剣を、ぐっと握りしめる。

 

 自分の使う『ブレイド』の呪文にも勝る、素晴らしい切れ味の武器だった。

 こうして手に持っているだけでも、込められた強い魔力のために皮膚がちりちりする。

 

「……これ。どのくらいの値が付くものか、わかる?」

 

 気になって、目の前のウィルブレースにそう尋ねてみた。

 彼はほんのちょっとしたプレゼントという感じであっさりとこれを譲ってくれたのだが、もしかすると相当に高価なものなのではあるまいか。

 

 ウィルブレースは剣を受け取ると、それを切っ先から柄頭までしげしげと眺めてみた。

 

「いいものですね。これは、ディーキンがあなたに?」

「そう」

「なるほど……」

 

 ウィルブレースはひとつ頷いて、じっくりとそれを検分していった。

 

 ベースは高品質な錬金術銀製の小剣で、一般的な武器強化の魔力に加えて『ホーリィ』の特殊能力を付与してあるようだ。

 それに加えて、『イーヴル・アウトサイダー・ベイン』の能力まで持っている。

 

(確かにこれは、ディーキンが今回の旅に備えて、この子のために用意したものらしい)

 

 この剣ならばタバサのような非力な者が使っても、デヴィルに相当な深手を負わせることが出来るだろう。

 あのジンの次元間商人、ヴォルカリオンの店で購入したものだろうか。

 

「そうですね。まあ、大雑把に言って……。彼の故郷であるフェイルーンの市場で買うならば、金貨で数万枚、といったところでしょうか」

「……数万……」

 

 それを聞いて、タバサは安易に尋ねたりしなければよかったと後悔した。

 

 自分の現在の身分であるシュヴァリエの給金は五百エキュー、つまり、金貨にして五百枚に過ぎないのだ。

 ハルケギニアで金貨数万枚といったら、ちょっとした城が買えるような額である。

 それほどまでに高価なものを、彼はその価値には一言も言及せずにあっさりと与えてくれたのか。

 彼が見た目よりも遥かに金持ちであることは知っていたが、金銭感覚がまったく違うというのを痛感させられる。

 

 しかし、考えてみればこの世界でも、高名なメイジが鍛えた真の名剣と呼ばれるような武器ともなれば、城に匹敵するほどの値が付くとされるのだ。

 伝説の『虚無』でさえ殺せなかった悪魔を滅ぼし得るほどの武器ともなれば、そのくらいの値が付いて当然かもしれない。

 

(それを、わたしに……)

 

 ろくに剣で戦った経験もない、この自分に。

 彼の好意は嬉しいものの、これまで以上のプレッシャーを感じて、タバサは頭を抱えたくなった。

 

「……ずいぶんと、思い悩んでおられるようですね。もうすぐバートルに赴こうというのですから、いくら訓練を積んでみても不安だというのはわかりますが……」

 

 ウィルブレースはそんなタバサの顔を覗き込むようにしながら、気遣わしげに声をかけた。

 

「もしよろしければ、私が稽古のお相手を務めましょうか? おそらく、枯れ木やカカシよりは、いくらかお役に立つでしょうから」

「……。お願いする」

 

 タバサは彼女の顔を見ながら少し考えると、こくりと頷いた。

 

「では、まず何をすればいいでしょう。呪文や剣の的になるような、動き回るターゲットでも用意しましょうか?」

 

 ウィルブレースの質問に対して首を横に振ると、杖を持ち上げてみせる。

 

「できれば手合わせを。……実戦、形式で」

 

 訓練ならば、相手がいた方がいいに決まっている。

 しかも彼女は、今回想定するべき敵であるデヴィルの手口について詳しく、彼らと同じような能力を用いることもでき、その腕前のほども確か。

 より確かな強さを得なければというプレッシャーをひしひしと感じていた彼女にとっては、願ってもない相手だった。

 

「模擬戦……ですか? ええ。お望みでしたら、構いませんが……」

「感謝する」

 

 ウィルブレースは頷くと、瞬間移動で少し距離を離した。

 それから、右手をすっと差し上げると虚空から光り輝く長剣を取り出して、目の前に構えたが……。

 

「……いえ、これはやめておきましょう」

 

 この『ブリリアント・エナジー』の長剣では他の武器と斬り結ぶことができないので、武器戦闘を含めた技量を鍛えたいと思っているであろう彼女との模擬戦にはあまり向いていないだろう。

 ウィルブレースは代わりに手近にあった岩に対して《物体変身(ポリモーフ・エニイ・オブジェクト)》の疑似呪文能力を使用することで刃を潰した即席の模擬戦用ロングソードを造り上げると、片手でそれを目の前に構えて軽く一礼した。

 

「健闘を祈ります。お互いに、何かを得られる戦いでありますように」

「この杖と、そして剣にかけて」

 

 タバサも大切な杖と剣とを掲げて、それに答える。

 その挨拶を見届けてから、ウィルブレースはもう一度目礼して、戦闘の態勢に入った。

 

「では……、光り輝かぬ、いささかみすぼらしい剣にて失礼をいたしますが……」

 

 そう言って剣を八相に構えると、わずかに腰を落とす。

 

「私がかつて異世界のグランド・マスターより教わったフォーム、『アタロ』の型をご披露いたしましょうか」

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 その頃、ディーキンは久し振りに、アルビオンの仲間たちの元へ顔を出していた。

 

「おかえりなさい、ディー君。しばらく顔を見なかったけど、どこで何をしてたのかしら?」

「ただいまなの、キュルケ。ディーキンはちょっと裁判の勉強をしに、遠くの世界を覗きに行ってたんだよ」

 

 彼はそう言って、何やら奇妙な短い金属の筒が氷と一緒に詰め込まれた、ひんやりする箱をルイズらに差し出した。

 

「これ、おみやげなの。この筒の中にはね、『コーラ』っていう飲み物が入ってるんだよ。キンキンに冷えてやがるでしょ? そうしておかないと、おいしくないんだって!」

 

 できればエルミンスターが好きだと本で読んだ『マウンテンデュー』とかいう飲み物がほしかったのだが、見つからなかったのである。

 まあ容器だけなら、オスマンが昔彼からもらったというものを見せてもらったことがあるが。

 

 少しばかり自慢げに胸を張りながら説明するディーキンをよそに、彼女らはその筒を手に取ってしげしげと眺めつつ、怪訝そうに首を傾げた。

 

「変な容器ね。中に飲み物が入ってるって、どうやって開けるのかしら?」

「まわりに、なんだかおかしな文字とか記号みたいなものが、いっぱい書かれてるわねえ。でも、魔力は感じないわ。このしましまとか、何かのおまじない?」

「開けるにはこうするの。その模様は品物の値段をあらわしてて、特別な装置で読み取れるらしいんだけど……。なんで普通に値段を書いといて店の人がそれを読まないのかは、ディーキンにもよくわからないよ。もしかしたら、あっちの人たちは算数が苦手なのかも……」

 

 ディーキンはそんな調子で、(自分の理解している範囲で)簡単に説明をしてやった。

 

「ところで、二人だけなの? みんなの分を運んできたのに。早く飲まないと、おみやげが温くなっちゃうの」

 

 そうしてウィルブレースらがちょうど行き違いで出かけたところだと聞いたディーキンは、話もそこそこに残りのコーラを詰め込んだクーラーボックスを担ぐと、またとてとてと去っていった。

 

「あわただしいわねえ、ディー君も」

「こんな変なの、一体どこで買ってきたのかしら?」

 

 二人はそんな感想をもらしながら、栓を開けた缶を口に運んで……。

 

「……ぶっ!?」

 

 飲み慣れない強烈な炭酸の刺激に不意討ちを食らって、思いきりむせたのだった。

 





錬金術銀(アルケミカル・シルバー):
 主として武器の製造に用いられる、D&D世界の特殊な物質の一種。
冶金学と錬金術に関する複雑な処理を用いることで、鋼鉄に銀を接合(銀引き)したものである。
これで作られた武器は銀が含まれているために通常の鋼鉄よりもやや脆く、切れ味も鈍くなるが、ライカンスロープや一部のデヴィル、ガーディナルなどが持つダメージ減少能力や再生能力を克服することができる。

ホーリィ:
 D&D世界で魔法の武器に付与されることがある、特殊能力の一種。
この能力をもつ武器は善の属性を帯びるため、それに対応した(一部のフィーンドなどが持つ)ダメージ減少能力や再生能力を克服することができる。
さらに、この武器は悪の属性を持つすべての者に対して、2d6点の追加ダメージを与える。
悪属性の者がこの能力を付与された武器を用いようとすると、負のレベルが1レベル付いてしまう。

ベイン:
 D&D世界で魔法の武器に付与されることがある、特殊能力の一種。
この特殊能力をもつ武器は、それぞれがドラゴン・ベイン(竜殺し)、ファイアー・アウトサイダー・ベイン(火の来訪者殺し)といったように、特定の種別もしくは副種別のクリーチャーに対応している。
該当するクリーチャーに対して用いられた場合のみ、武器の有効強化ボーナスが2段階上昇すると共に、2d6点の追加ダメージを与える。

ブリリアント・エナジー:
 D&D世界で魔法の武器に付与されることがある、特殊能力の一種。
この能力を付与された武器は刀身や鏃などの主要部分が光で置き換わっており、生命のない物質を通り抜けるため、鎧や盾によるアーマー・クラスへのボーナスを無視する。
要するに某映画のライトセーバーのような外見だと思われるが、おおよそ何でも切断できるあちらとは違い、この能力をもつ武器はその性質のゆえに物体を傷つけることはできず、アンデッドや人造にもダメージを与えられない。
 なお、ウィルブレースのようなトゥラニ・エラドリンは回数無制限で一瞬のうちに+4の強化ボーナスを持つブリリント・エナジー・ホーリィ・ロングソードを作成する能力をもっているが、この武器はそれを作ったトゥラニ自身から離れると直ちに消滅する。


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第百六十一話 Holy Avenger

 

(フォーム……、『アタロ』……?)

 

 タバサは、一体何の話かと怪訝に思ったが。

 

「さあ、実戦形式なのですから、どうぞご遠慮なく。大怪我を負いかねないような攻撃を仕掛けてこられても、恨みはしません」

「……わかった」

 

 ウィルブレースからそう言われると、小さく頭を振って気持ちを切り替えた。

 

 彼女やディーキンがたまによくわからないことを口にするのは、今に始まったことではない。

 ともかく、あの構え方から察するに、剣を使った戦闘の流派とかスタイルとかのことなのだろう。

 なんであれ、その戦い方をしっかりと見極めて、そこからなにかを学び取らなくては。

 

「そちらも、遠慮はしなくていい」

 

 タバサのその申し出に、ウィルブレースはにっこりと微笑んで見せただけで、何も答えなかった。

 

 さて、現時点での互いの距離は、十五メイルかそこらは離れている。

 さすがに、一足では斬り込んで来られまい。

 この間合いを保ちながら、まずは相手の出方を窺ってみる、という手もあるが……。

 相手はディーキンと同じ異世界の術の使い手、これまでにある程度はその力を見たとはいえ、まだまだ未知の部分も多い。

 好き勝手に動かせていたのでは、何が起こるかしれない。

 ここは先に仕掛けて相手を受けに回らせ、戦いの主導権を握らなくては。

 

 一瞬でそう考えをまとめたタバサは、即座に呪文の詠唱を始めた。

 

「ラグーズ・ウォータル・イス……」

 

 敵に詠唱を気取られぬよう、杖を持つ手の動きは小さく、唇の動きも見せないようにして、言葉を紡いでいく。

 普通の貴族はまず使わない、ガリアからの任務をこなしていく中で身につけた、実戦的な詠唱法だった。

 

 対するウィルブレースは、剣を構えたまままったく動かず、一言も発さずに、ただじっとこちらを見つめたままだ。

 まずは相手の出方を窺おうというつもりなのだろうか。

 いずれにせよ、そのために長い詠唱を必要とする高レベルな呪文を準備するだけの十分な時間が得られたことは、タバサにとっては好都合だった。

 

「……イーサ・ウィンデ」

 

 呪文を完成させて杖を掲げるや、激しい渦巻く魔力と風が渦巻き、無数の矢がタバサの周囲を回転しながら放たれて、四方八方からウィルブレースめがけて襲い掛かっていく。

 さらに。

 

「ラグーズ・ウォータル・デル・アース」

 

 間を置かずにすぐさま後方に飛びながら、再度の詠唱と共に杖を振るい、地を這う氷でウィルブレースの足を捕らえようとする。

 

 要するに、先ほどの訓練で用いたのとまったく同様の仕掛けだった。

 芸はないものの、先ほどは数本の枯れ木を同時に対象にしていたのに対して、今度はただ一人の相手に向かって同じだけの攻撃が殺到するのだ。

 枯れ木と違って動き回ることができるとはいえ、到底避けきれるものではあるまい。

 

 対するウィルブレースは、さっと周囲を見回して不敵な笑みを浮かべると……。

 逃げようとするでもなく剣をその場に突き刺して、両手を大きく広げた。

 

「無限のフォースを!」

「……!!」

 

 途端に、彼女の両の掌から青白い閃光を放つ眩い電撃が迸る。

 電撃は網の目のように拡がると、今まさに彼女に向けて襲い掛かろうかとしていた周囲の氷の矢を、地を這って迫る氷床を一瞬のうちに撃ち砕き、融かし尽くした。

 

 これはもちろん、暗黒面のフォースによる電撃……などではなくて、《連鎖電撃(チェイン・ライトニング)》の疑似呪文能力によるものだ。

 

「ふっ!」

 

 ウィルブレースは軽く体をひねりながら氷の矢がなくなった方向へ跳んで、砕き切れなかった残りの攻撃を難なく避けた。

 そうしながらさきほど地面に突き刺した剣に向けて手を伸ばすと、それはふわりと浮かんで彼女の方へ向かい、再びその手の中に納まる。

 

 タバサはそれを見てかすかに顔をしかめながらも、すぐさま杖を構え直して次の詠唱に移ろうとしたが。

 ウィルブレースはそんな彼女の方に向かって、無言で軽く腕を突き出す。

 

「!?」

 

 途端に、目に見えない、恐ろしく強い力がいきなり体に掛かって、タバサは数メイルほど後方に突き飛ばされた。

 フォース・プッシュ……、ではなく、《念動力(テレキネシス)》の疑似呪文能力によるものだ。

 

 どうにか転倒を免れて体勢を立て直した彼女は、次いでウィルブレースが凄まじい早さでこちらへ跳び掛かってくるのを見て、軽く目を見開いた。

 彼女はタバサが最初の詠唱を行っていた間に精神を集中させて身体強化のフォース……、もとい、《加速(ヘイスト)》の疑似呪文能力を引き出すことで、自らの速度と跳躍距離とを大幅に増大させていたのである。

 

「っ……!」

 

 呪文を用いた回避は、間に合わない。

 タバサは反射的に背後に跳びながら、杖とは逆の手で握った剣をかざすことで、その攻撃を受けようとした。

 

 がきぃぃん、と、金属同士が打ち合う高い音が響き、手がしびれる。

 剣士ではないタバサには、巧みに衝撃を受け流せるような高い武器戦闘の技量はない。

 それでも、なんとか無傷で防ぐことができた。

 普段のように『避け』だけでなんとかしようとしていれば、かわし切れずに剣が身体を打っただろう。

 また、その場に踏みとどまったまま『受け』ようとすれば、腕力と体格の差によって体ごと弾き飛ばされるか、剣を取り落としていただろう。

 背後へ飛びながら剣をかざす、いうなれば『避け』と『受け』との併用を選択したことで、かろうじてしのぎきれたのである。

 

 しかし、タバサが剣を構え直して反撃に転じる暇もなく、ウィルブレースは初撃が防がれるやすぐさま地を蹴って別方向へ跳躍し、再び間合いを離した。

 咄嗟に逆手の杖を振って一発だけ風の刃を放ってはみたものの、まるで当たりもしない。

 ウィルブレースは着地すると、すぐさままた方向転換し、体をひねりながら跳躍して、再び攻撃に転じた。

 それを幾度となく繰り返して、絶え間なく攻め続ける。

 

 顔の横で剣を立てるように持つ『八相の構え』を起点とし、アクロバティックな跳躍や素早く変則的な動きに威嚇と牽制を織り込むことで、相手を翻弄しながら四方八方から攻撃し、その隙を突く。

 素早く飛び掛かって一撃を加えては、反撃を受ける前に再び飛び退いて、間合いを離していく……。

 このように機動的な戦い方をするのが、光の剣を武器とする異世界の騎士団が編み出した第四のフォーム、『アタロ』の型の特徴である。

 

 まあ、こんな挙動が可能になっているのは実のところ、疑似呪文能力による身体強化と、《一撃離脱(スプリング・アタック)》の特技とのおかげなのだが、どう呼称しようとそれは本人の自由というものだろう。

 

 手合わせにそんな『ごっこ遊び』のような要素を取り入れているからと言って、別にふざけているというわけではない。

 ウィルブレースは単に、真剣に戦うことと、楽しみながら戦うこととを両立させているに過ぎないのだ。

 彼女は特に好戦的なわけではないが、いざ戦うとなればそれを楽しむし、戦いに限らずどんなことであれ、できる限り楽しもうとする。

 それがどのような分野であっても、時にはお遊びの要素も含みながら模索していくことでこそ新しい有用な技術を見出せたりするものだと、彼女は自由なるエラドリンとして、そしてバードとしての精神と経験から、そう確信しているのだ。

 

 広い世の中には、たとえば昼夜を問わず飲みまくって泥酔し、その状態のまま戦うという、一見して命のやり取りを舐めているとしか思えないドランケン・マスター(酔拳使い)なる達人もいる。

 しかも彼らは、厳しい自律と修練とを自らに課すモンク(修道者)たちから派生した一派であり、まぎれもない秩序の存在なのだ。

 他の門派の禁欲的な修道者たちは、当然のごとく酔拳使いどもの一見奔放とも見える振る舞いに眉をひそめるが、それでも、彼らのもつ確かな実力までは否定できない。

 かくのごとく、必ずしも型にはまった生真面目なやり方だけが正解に通じている、というわけではないのである。

 

 

 

「っ……!」

 

 初撃の時は危うかったものの、その後はタバサも態勢を立て直しており、体術と呪文、それに剣の受けを併用した軽やかな動きで、どうにかかわし続けていた。

 

 しかし、やはり長時間の詠唱を行う余裕はなく、詠唱の短い低級スペルによる反撃では、まるで通用しない。

 かといって剣で相手の体を捉えることも、できそうになかった。

 

(……手加減されている)

 

 彼女が本当に“遠慮なく”こちらを倒す気なら、先ほどの念動力をもっと効果的に、たとえばあの地下カジノで出会った魔物のように周囲の物を投げつけたり、杖を奪おうとしたりするのに用いてもよいはずだ。

 というかそれ以前に、あのすさまじい電撃を直接こちらに浴びせれば一瞬で終わるだろう。

 使いたくても詠唱を行う隙が無くて強力な呪文を放てないこちらとは違い、彼女らの世界の呪文や疑似呪文能力とかいうものは、強力だからといって必ずしも発動に長い時間を要とするわけではないということくらいは、既に理解している。

 なのに、念動力はこちらを突き飛ばして一瞬ひるませるのに使った程度で、電撃は攻撃を防ぐのにしか用いていない。

 つまり、向こうはおそらく剣の扱いを交えた訓練をしようとしているこちらに付き合って、基本的に剣でしか攻撃しないつもりでいると見ていいだろう。

 あるいは、加減の利きにくい術で攻撃することで、こちらに大怪我を負わせるのをおそれているのかもしれない。

 

「…………」

 

 もちろん、遠慮するなというこちらの要望を無視されたこと、つまりは下に見られたことは悔しくもあった。

 だが、そんなことをいつまでもぐちぐちと考えてみても始まらない。

 

 かつてディーキンに挑んだ時、彼女は自分の中にも伯父や従姉妹が、そしておそらくは父も抱いていたのであろう感情があることを自覚した。

 自分は優秀な人間であるはずだという驕り、そしてそこからくる、より優れた者に対する嫉妬。

 己の苦難にばかり目を向けて、他人を羨み、妬み、敵視する、賤しい心が。

 そんなものは、本当に誇り高い態度だとは言えない。

 

(もっと、強くなりたい。なってみせる)

 

 嫉妬からでも、ましてや敵意や憎悪からでもなく、タバサは心からそう思った。

 

 なんとしてでも一矢報いて見せてこそ、相手の配慮に、あるいは油断に答えることになるはずだ。

 復讐のためではなく、この手合わせを受けてくれた目の前の女性のために、いつも自分のことを案じてくれる親友や、仲間たちのために。

 そして、父や、あの人のために……。

 自分は、もっともっと強くならなくてはいけない。

 

 タバサは少しでも消耗を抑えるために成果の見込めない反撃は控え、回避に専念しながら打開策を考えた。

 

(相手の方が有利な理由は?)

 

 基本能力の差とか、いろいろあるだろうが……。

 こちらが強力な呪文を練り上げるのにある程度の時間を要するのに対し、向こうはそれよりも短時間で、詠唱などを伴わずに術を編むことができる。

 こちらが回避のためにその都度術を使い、同時に二つの術を編めない以上どうしても反撃が遅れるのに対し、向こうがおそらく使っているであろう身体能力強化の術は持続的なものらしく、いちいち術を編む必要がないから、素早く攻撃し退避することができる。

 おそらくその二つが、最も大きな要因だ。

 勝つためにはまず、その差をどうにかして埋める必要があるだろう。

 

「……」

 

 ややあって、タバサはひとつの策をまとめた。

 

 

 

(先ほどから、反撃をしてこなくなったが……)

 

 ウィルブレースはもうこれで幾度繰り返したかもしれぬ交錯を経た後に、飛び退いて距離を離しながら、そう訝しんだ。

 

 彼女はメイジであるにもかかわらず、呪文を併用した素晴らしい体捌きでこちらの攻撃をかわし続けるタバサに感嘆し、次はどんな動きを見せてくれるのかと楽しみながら剣を振るい続けていた。

 そうしながら、どんな反撃が来るだろうかと期待していた。

 しかし、最初のうちこそ低級の呪文で風の刃や氷の矢を一、二度撃ち出して、距離を放そうとするこちらに追撃をかけてきたものの、それ以降は何もしかけてくる様子はない。

 強力な来訪者を相手にその程度の攻撃では、たとえ当たったところで効果は期待できないから、それに気付いて無駄な攻撃はやめにしたのかもしれないが……。

 

(しかし、諦めたわけというではなさそうだな)

 

 常日頃から無表情で感情を読みにくい少女だが、《思考の感知(ディテクト・ソウツ)》を使うまでもなく、それははっきりとわかる。

 その目には諦観などはなく、強い意思が感じられるから。

 この手練れの異世界の魔法少女が今度は何を見せてくれるのかと、ウィルブレースは内心密かにわくわくしながら、その時が来るのを待った。

 

 そうしてついに、タバサは仕掛けてきた。

 

 これまでと同じようにウィルブレースからの剣撃を防いだ後、彼女が飛び退くのに合わせて素早く呪文を唱えながら、小さく杖を振ったのだ。

 だが、振られた杖の先からは何も飛び出さず、彼女の周囲にも変化は見られない。

 ウィルブレースは一体何をしたのかと一瞬怪訝に思ったものの、その答えはすぐに分かった。

 

「……うっ!?」

 

 着地したウィルブレースの足が泥沼に変化した地面にはまり込み、再度の跳躍が妨げられる。

 タバサが滅多に用いない、『土』系統の魔法だった。

 

(なるほど、地面を泥に変えて足を捕らえることで、こちらの機動力を封じる狙いか)

 

 相手がまだ空中にいるうちにその着地点を狙うのでかわされるおそれもなく、直接敵に向けて放つ魔法ではないから呪文抵抗力によって妨げられることもない。

 いい策だといえよう。

 

 当然、動きを封じて時間を稼いだうえでまた強力な攻撃を飛ばしてくるのだろうと、ウィルブレースは身構えた。

 だが、タバサは彼女の予想とは違う行動に出る。

 杖を構えて呪文を紡ぎはするものの、それは敵を狙ったものではなかった。

 

「ユビキタス・デル・ウィンデ……」

 

 先日、スクウェア・クラスに成長したことで用いることが可能になった呪文、『偏在』。

 

 もちろん、系統魔法の四大の間に明確な優劣はないのだが、それでもこと戦闘においては、『風』の系統こそが最強だと主張するメイジは少なくはない。

 その理由はいくつかあるが、中でも大きなもののひとつは、生ける伝説とまで呼ばれたかの『烈風』カリンをはじめとして、風の系統は歴史に名を残す強大なメイジを数多く輩出してきたという事実。

 そしてもうひとつの大きな要因が、この呪文の存在である。

 

 呪文が完成すると、タバサの体は突然二重にぶれ、本体とまるで見分けのつかない精巧な分身体が出現する。

 

「……!」

 

 こちらの世界の魔法をある程度は見慣れてきたウィルブレースも、使い手の希少なこのスクウェア・スペルを実際に目にしたのは初めてだった。

 だが、知識としては聞いている。

 これはウーイァン(巫人)が用いる《身外身の法(ボディ・アウトサイド・ボディ)》と同じように実体をもつ分身を作り出す呪文で、しかも分身は呪文を発動することさえ可能だと。

 もしもフェイルーンで同様の効果をもつ呪文を開発するとしたら、おそらくエピック・レベルになるだろう。

 

(させるか!)

 

 ウィルブレースは行動を起こす暇を与えずに消し去ってしまおうと、素早く精神を集中させて《魔法解呪(ディスペル・マジック)》の疑似呪文能力を呼び起こし、偏在に向けて放つ。

 

 しかし、何も変化は見られなかった。

 

 タバサとて、これまでの経験から学んでいるのだ。

 彼女はラ・ロシェールで、自分と同じ風のスクウェア・メイジであるワルドが作り上げた四体もの偏在を、ディーキンが《上級魔法解呪(グレーター・ディスペル・マジック)》を放ってあっさりと消滅させたのを見た。

 当然、後で彼に質問して、その時に使った呪文の名前や性質についても聞かせてもらっている。

 だから、ディーキンと同じバードであるウィルブレースも同様の手口を使ってくるかもしれないというくらいのことは、あらかじめ想定していた。

 そのために、ワルドのように偏在を同時に多数作り出すのではなく一体だけに留め、代わりにその一体により強い魔力を込めることで、容易に解呪されないようにしたのである。

 

 それでも、ウィルブレースが用いたのがディーキンと同じ《上級魔法解呪》であったなら、偏在は耐え切れなかったかもしれないが……。

 トゥラニ・エラドリンのもつ疑似呪文能力は《魔法解呪》どまりであり、あまり強力な呪文を解呪するのは難しかった。

 

「……これで、手数の不利はなくなった」

 

 タバサは小さくそう呟くと、すかざず偏在と協力して反撃に転じた。

 

 今度は、片方が呪文を唱えてウィルブレースを牽制し、その隙にもう片方が強力な呪文を編んで攻撃するか、剣で斬りかかることができる。

 これまでと同様に《一撃離脱》で攻められても、攻撃されていない側のタバサが動きの隙を突くことができる。

 しかも、ウィルブレースの足はいまだに泥沼に変化した地面に埋まったままだ。

 

 一転して不利な状況に追い込まれたウィルブレースは、先ほどの自分の選択を軽く後悔していた。

 

(解呪の試みよりも先に、泥沼から脱出しておくべきだったかな?)

 

 

 

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「オオ……」

 

 その頃ディーキンは、シエスタの故郷であるタルブの村で感嘆したような声を上げながら、目の前のオブジェを見上げていた。

 

 おみやげの『コーラ』を仲間たちに届けようと、まずは地上に向かうシエスタらと合流し、せっかくだからと一緒に彼女の故郷に向かうことにして、いまはいろいろ案内してもらっているところである。

 ちなみにシルフィードはというと、シエスタはこの村に数日は滞在する予定だと聞いて、先にモンモランシーに会いたいと言ったギーシュ(と、この村のさまざまな美味しい料理や食材、それに彼女らの分のコーラ)を乗せて学院の方に向かっている。

 もしもギーシュが上手くモンモランシーを口説けたなら、そのうちに同乗して引き返してくることだろう。

 

 さて目の前のオブジェだが……、大きさは、三十フィートほどもあろうか。

 乗り物の一種のようだが、その形状は何とも形容しがたい。

 強いて言うならば翼みたいなものがくっついたカヌーか何かといったところだが、明らかに違う。

 

「先生には、これがなにかお分かりになるんですか?」

 

 シエスタは、ディーキンが非常に興味を示している様子なのを見て、不思議そうに尋ねた。

 

 自分の曽祖父は昔、この『竜の羽衣』に乗って空からタルブにやってきたと言っていたそうだが、村のみんなが内心インチキだと思っていることはわかっている。

 厳格な聖騎士であった曾祖母は、自分の前で夫を嘘吐き呼ばわりすることを決して許さなかったし、その血を引く自分の家族もそうなので、誰も自分の前で公然と口にはしないのだが。

 どう見ても飛べそうには見えないし、マジックアイテムでもないというのだから、無理もないことだ。

 

「ウーン……、これは、『ヒコーキ』ってやつだと思うの。空を飛ぶ機械らしいけど……、羽ばたき飛行機械(オーニソプター)とは、また仕組みが違うみたいだね。使い方とか、詳しいことはわからないよ」

 

 まあ、《伝説知識(レジェンド・ローア)》の呪文やなにかを駆使して調べれば、あるいはわかるかもしれないが。

 

 ディーキンはそれから、シエスタの曾祖父の墓碑や、彼の遺品も見せてもらった。

 墓碑銘は彼の故郷である異世界の文字で書かれており、誰にも読めないとのことだったが、《言語理解(コンプリヘンド・ランゲージズ)》の効果を永続化して自身に定着させているディーキンには、手を触れただけでそれを解読することができた。

 

「『海軍少尉、佐々木武雄。異界ニ眠ル』……って、書いてあるみたいだね」

 

 シエスタはそれを聞くと、少し興奮した様子で、曾祖父の遺言でそれを読めた者に『竜の羽衣』を渡すようにと言われているのだと話した。

 しかし、その後に『竜の羽衣』を陛下にお返しして欲しいというもうひとつの遺言があるという話を聞くと、ディーキンは首を横に振った。

 

「なら、ひいおじいさんはディーキンに渡したかったんじゃないと思うな。いつか同じ故郷の人が来たら、その人にあげたほうがいいよ」

 

 たとえディーキンがこの飛行機……『ゼロ戦』を使うことができて、その性能も知っていたとしても、やはり受け取らなかっただろう。

 それは明らかに故人の遺志に反することだろうし、これから向かう九層地獄で、これが役に立つとも思えない。

 いくら飛び抜けた速度で飛行できようとも、危険な稲妻や火球、そしてなによりもデヴィルが飛び交うバートルの空を飛ぶのは危険すぎるし、図体が大きくて目立ってしまう。

 それに機銃にしても、いかに威力が高くとも、再生能力のある上位のデヴィルを殺すことはできないのだから。

 

 シエスタは少し残念そうな顔をしたが、無理強いはせず、続けてすぐ隣にある曾祖母の墓を示す。

 

 天使の血を引く彼女の曾祖母は、夫よりもずっと長く生きていて、曾孫のシエスタとも面識があった。

 最後には危険な亜人にさらわれた村の少女を救い出すために老齢をおして戦い、その時の怪我がもとで亡くなったという。

 村の皆は、彼女のような素晴らしい人物には悲劇的過ぎる最後だと言って悲しむが、シエスタはそうは思わない。

 善の大義のために戦い、それを全うして命を落とすことは、パラディンにとっての本懐であるはずだから。

 

 ディーキンはそこに捧げられている剣を見ると、軽く目を見開いた。

 

「……オオ? これは……」

「ひいおばあちゃんの愛用していた剣です。いつか、この家からでも、他の誰かでも、自分と同じ聖騎士があらわれたなら、その人に使わせなさいって……」

 

 シエスタは、懐かしむような目をしながらそう説明した。

 

 ディーキンには、その剣が何であるかはすぐにわかった。

 なにせ、『ボス』も持っている武器なのだ。

 それは間違いなく、パラディンのためにある武器、『降魔の聖剣(ホーリィ・アヴェンジャー)』だった。

 

「わたしがパラディンになったことを話したら、みんな祝福してくれて。……でも、いまのわたしには、この剣はまだ重すぎると思うんです。それに、デルフもいますし」

 

 シエスタはそう言いながら、ディーキンの傍に屈みこんで、そっと彼の手を取った。

 そして、曾祖母の墓前に捧げられていた聖剣を、その手に握らせる。

 瞳が少し、潤んでいた。

 

「……本当は、先生と一緒に行きたいです。先生が悪魔の巣へ向かわれるのなら、たとえ地獄の底だろうと、ミス・タバサと同じように、わたしもそばにいたい」

 

 けれど、それが迷惑になるのなら……。

 それならば、せめてこの剣だけでも自分の代わりに、一緒に持って行ってほしい。

 そして、必ず生きて、自分の元へ持ち帰ってほしい。

 

 シエスタは、心からそう願った。

 





アタロ(Ataru):
 某超有名映画シリーズ『スター・ウォーズ』の小説における設定でジェダイやシスが用いたライトセーバーの戦闘型のひとつで、第四のフォームとされる。別名をホーク=バット戦法、またはアタル、アタール、侵略の型ともいう。
全七種の中で最もアクロバティックなフォームであり、ジェダイのグランドマスター・ヨーダとシス卿のダース・シディアスが主に使用する。
ヒットアンドアウェイという言葉がまさに当てはまるフォームで、八相の構えを起点として全身の柔軟性とフォースを使っての飛び跳ねで動き回り、全方位から相手に攻撃を行う。

一撃離脱(スプリング・アタック):
 D&Dにおける特技の一種。この特技を持つ者は(移動可能な距離の範囲内でなら)近接攻撃を行う前と後の両方で移動することができるようになり、しかも攻撃対象とした敵からの機会攻撃(移動の隙を突いた攻撃)を受けなくなる。
本作のウィルブレースの場合には、素の地上移動速度が40フィート、ヘイストによる増加分が30フィートなので、1ラウンド(6秒)に合計70フィート(21メートル強)までなら移動した上で攻撃することができる(ちなみに、移動のみに専念して全力疾走した場合には、その4倍の280フィートまで移動できる)。
よって、この特技を習得していることで、たとえば35フィート離れた場所から一足飛びに間合いを詰めて剣で切り付け、反撃を受ける前にすぐさままた同じ距離まで飛び退く、といったような動作が行えることになる。
 なお、このような目まぐるしく動き回る戦闘スタイルをもって、『アタロ』の型だとか、『ガンダールヴ』の能力によるものだとか称するのは、もちろん本人の自由である。

ドランケン・マスター(酔拳使い):
 D&Dの上級クラスの一種で、主としてモンクから派生する。
現実の酔拳使いは実際には酔っているわけではないが、彼らは本当に酒を飲み、その状態で戦う。
彼らは飲むことによって思考力の低下と引き換えに身体能力を強化することができ、さらには酒を治癒のポーションに変えたり、火を噴いたり、椅子やジョッキといったありあわせのものを一流の武器として使いこなしたりすることができる。
日がな一日泥酔しっぱなしというような状態にもかかわらず、彼らはモンクでもあるためにその属性は秩序であるが……、まあ、呑兵衛には呑兵衛なりの秩序というものがあるのだろう……おそらくは。


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第百六十二話 Transient light

 

「くぅっ……!」

 

 間一髪で巨大な氷柱をかわしたウィルブレースが、顔をしかめる。

 手合わせは、タバサが『遍在』を作り出してからは一転して、ウィルブレースの方が守勢に追い込まれていた。

 

 タバサの作戦は、数の優位を生かした役割分担だった。

 偏在と本体のうちどちらか片方が絶え間なく攻め、もう一方はひたすら敵の行動を妨害するのだ。

 泥沼となった地面から足を引き抜こうとすれば、再び固めることでそれを封じ、固まった土を砕いて脱出しようとすれば、今度は風の捕縄を絡み付かせる。

 完全に動きを封じられないようにしながらどうにか攻撃をかわすのに手一杯で、なかなか反撃に転じることができない。

 

「……ふふっ」

 

 明らかな劣勢に立たされながらも、しかしウィルブレースには、まだどこか余裕があった。

 

 対峙する相手の、これほどまでに隙のない連携を生み出せる技量の高さと、それを維持し続けられる集中力の高さ。

 まだ稚ささえ残っているような年頃でこれだけの境地に至った彼女の人生にははたしてどれほどの物語があったのだろうかと、バードらしく思いを馳せて、戦いながらも微かな笑みを浮かべられる程度には。

 

「……」

 

 一方で、圧倒的に優位に事を進めているように見えるタバサの側も、実は見た目ほどに余裕のある状況ではなかった。

 確かに押してはいるが、なかなか攻めきれない。

 

 このままずるずると長引けば、呪文を立て続けに唱えているこちらは、いずれ精神力が尽きてしまう。

 あるいは、その前に体力が尽きるかだ。

 

(そうなる前に、勝負に出なくては)

 

 そう決意したタバサは、次に仕掛ける段で行動を変えた。

 これまでは本体と分身のうち一体が攻撃、一体が行動の妨害を受け持っていたのを、双方で同時に行動を妨害するように切り替えたのだ。

 

「む、……っ!?」

 

 一体だけからの妨害はかろうじて振り払っていたウィルブレースだが、二体から同時に妨害を受けては、かわしきれない。

 絡みついてきた風の捕縄から逃れきらないうちに、今度は蜘蛛の糸がまとわりつき、さらには不可視の縄や、液状化した地面が追い打ちをかけてくる。

 振りほどくよりも早く新たな束縛が足されて、ついには完全に身動きが取れなくなった。

 

 そこへ、すかさず偏在が飛び掛かって組み付き、密着状態からウィルブレースに剣を突き立てようとする。

 

「ぐっ!」

 

 さすがのウィルブレースも少し焦った様子で、一刻も早く束縛を振りほどこう、偏在を振るい落とそうと身を捩ってもがきながら、どうにかその剣をかわすので手一杯の様子だった。

 

(上手くいった)

 

 向こうがこちらを侮って剣だけで戦おうとしている間に、素早くこの状態まで持ち込んでしまうことがタバサの狙いだった。

 

 ウィルブレースは先ほどから、念動力だの電撃だのをわざわざ手をかざしたり掲げたりしながら使っていたが、それはあくまで気分の問題であって、疑似呪文能力とやらは本来は詠唱や動作なしでも、精神を集中するだけでも発動できるのだということは、これまでの経験やディーキンから聞いた情報で知っている。

 だから、ただ捕縄を絡み付かせて身動きを封じた程度では不十分なのだということはわかっていた。

 いざとなれば彼女は、瞬間移動で逃れるなりドラゴンにでも化けて強引に束縛を引き千々るなり、どうとでも対処できるだろう。

 しかし、組み付かれて至近距離から刺殺されかかっているような状態では、さすがに精神は集中できず、疑似呪文能力とやらも使用できまいと踏んだのである。

 

 偏在が身を捨てて組み付いていても、はたしてどれだけの間、彼女の行動を封じておけるものかはわからない。

 だが、ほんの数秒もあれば、それで片はつけられよう。

 

「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ハガラース……」

 

 タバサの周りの空気が揺らいだかと思うと、一瞬のうちに凍りついた。

 凍った空気の束が、無数のヘビのように体の周りを回転し始める。

 氷と風が織り成す芸術品のような美しさを備えながらも、その実は触れたものすべてを凍らせながら引き裂いていく、おそろしい死の氷嵐だ。

 

 攻撃を行う前に、ウィルブレースの間近にいる偏在を通して一度だけ、打つ手がなければ降伏するようにと勧告はするつもりだが。

 数瞬のうちに降伏の声が無ければこれを解き放ち、最後まで組み付いたままの偏在ごと、敵を引き裂く。

 

 

 

「打つ手がなければ、降伏を」

 

 敵に逃れる隙を与えぬよう、組み付いたまま攻撃を続けながらも、タバサの偏在は短くそう申し出た。

 ウィルブレースはその攻撃を払いのけながら、間近で彼女と視線をかわす。

 

「『偏在』というものは、それぞれが意思と力を備えた存在で、本体が遠隔的な制御を行っていない時であっても己の判断で行動することができると聞きましたが……」

 

 じっと彼女の目を見たまま、ウィルブレースは呟いた。

 

「では、あなたは生きているのですか? その命はどこから来て、どこへ行くものなのでしょうか?」

 

 偏在は、この状況で一体何を言い出すのかと怪訝に思ったが。

 いずれにせよ、降伏の意思はないようだ。

 その情報を受け取った本体のタバサは、まだウィルブレースの言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼女に向けて杖を振り下ろした。

 

 それに伴って、渦巻く氷嵐の目がタバサの身体から杖に移り、次いで杖の振るわれた先、ウィルブレースのいる場所に向かって猛然と突っ込んでいく。

 

「やはり。私を抑えたまま、ここで道連れとなる気なのですね」

 

 ウィルブレースはちらりとそちらの方に目をやっただけで、また偏在の方に視線を戻した。

 

「次に同じ呪文が使われたときに、あなたはまたあらわれるのですか。それとも、それはまた別の偏在で、あなたは永久に失われてしまうのでしょうか……」

「……」

 

 何が言いたいのかと、偏在はやや苛立たしく思いながらも、相手の一挙手一投足から目を離さないようにした。

 適当に話を長引かせながら、こちらの隙を窺うつもりかもしれない。

 案の定、ウィルブレースは迫りくる脅威には目を向けず、やがてじっと目を閉じて精神を集中させながら、口の中で何事か唱え始める。

 

 その集中を妨害することで彼女の行動を潰そうと、偏在がすかさずウィルブレースの首を全力で絞め上げながら、急所へ向けて剣を振り下ろした。

 そして、驚愕に目を見開く。

 

「……、っ!?」

 

 ウィルブレースはもがこうとも、その攻撃をよけようともしなかった。

 彼女は首を絞め上げられてもびくともせず、剣はその体を覆う神秘的な防護の力……エラドリンのダメージ減少能力は、銀製の武器やホーリィの付帯能力では克服できない……によって、勢いを殺されてしまったが、それでもいくらかは食い込んで、極上の葡萄酒のような美しい赤い血を流させた。

 なのに、まるで苦痛を感じていないかのように、ウィルブレースの集中は微塵も揺らがなかったのである。

 

 わずかの乱れもなく最後まで呪文を紡ぎ終えると、ウィルブレースは破壊的な氷嵐が間近に迫る中、微笑みながら偏在の顔の手を伸ばし。

 突き飛ばそうとするのではなく、逆に彼女を抱き寄せて、頬を近づけながら囁いた。

 

「さあ、行きましょう。これが終わったら、あなたのことを話して聞かせてくださいね?」

 

 一瞬後に殺到した氷の嵐が、地をずたずたに裂きながらその場を蹂躙したときには、既に彼女らの姿はそこになかった。

 完成した《次元扉(ディメンジョン・ドア)》の呪文によって、ウィルブレースと、そして偏在のタバサとは、本体のタバサのすぐ真後ろに瞬間移動していたのである。

 

 

 

「……!」

 

 本体のタバサは、偏在を通した視点で、自分の攻撃からウィルブレースが逃れたことを知った。

 自分のすぐ真後ろ、一足で斬り付けられる間合いにまで瞬間移動で近づかれたことも。

 

 すぐに飛び退きながら振り返ったが、ウィルブレースの方はといえば急いで仕掛けるでもなく、落ち着き払って、いまだに自分に組み付いたままの偏在の頬に軽く唇を触れさせたり頭を撫でたりしながら地面に下ろしてやっていた。

 偏在はそれでも自分の役目を果たすべく健気に組み付き続けよう、攻撃を続けようとはしていたのだが、なんといっても相手は超常的な頑強さを誇る来訪者でライオンなどの猛獣にも引けを取らないだけの膂力を備えているのだから、呪文による束縛から逃れられたいま、その身ひとつではどう頑張ってみても子ども扱いの域を出ない。

 結局、ほどなくして大人しく引き下がり、本体の傍らに戻ることとなった。

 

「では、仕切り直しましょうか」

 

 ウィルブレースはそれを微笑んで見届けてから、落ち着いてまた剣を構え直す。

 

 タバサはしかし、すぐにそれに応じようとはせず。

 傍らの偏在が、彼女に代わって疑問を口にした。

 

「どうして、わたしまで連れてきた?」

 

 間の抜けた質問のような気もした。

 ごく普通に考えれば、相手にはそれだけの余裕があるということ、つまりは軽くあしらわれているということに過ぎないように思える。

 

 しかし、浅手とはいえ流血するような手傷を負っているのだ。

 いくら自分の力に自信があるにもせよ、万が一にも集中が乱れれば離脱に失敗し、攻撃をまともに受ける危険もあっただろう。

 そこまでしてやることだろうか。

 

「どうして、と言われましても……」

 

 ウィルブレースは剣を下ろすと、ちょっと困ったような顔をして考え込んだ。

 実際のところ、先ほどは時間の余裕もほとんどなかったのでそんなに深く考えてやったわけではなく、そうしたかったからだとしか説明のしようがないのだが。

 

 本来なら、最も確実な対処法は精神集中を阻害されて失敗する可能性のある呪文や疑似呪文能力を用いるのではなく、トゥラニ・エラドリンの別形態である光球の姿に変化して、真下の地面に潜ることだっただろう。

 非実体の光球は組み付かれて抑え込まれることはないし、大地という強固なガードの中に潜り込んでしまえば、どんなにすさまじい氷嵐も恐れるに足りない。

 あるいは、瞬間移動で逃げるにしても、自分だけが移動するならあえて回数制限のある呪文を消費しなくとも疑似呪文能力の《上級瞬間移動(グレーター・テレポート)》で十分だった。

 

 けれども、それでは偏在のタバサが取り残され、本体の呪文によって無残に消えてゆくことになる。

 彼女もいっしょに連れて逃げるには、《次元門》の呪文しかなかった。

 

「……あなたの英雄的な、身を捨てた戦いに感銘を受けたから、ですかね。それを無下にしたくはなかった。それと、あなたとの出会いがあれきりで終わるのが嫌でした。後であなた自身からお話を伺ってみたかった、あなたの本体からではなくて。……理由は、そんなところだと思いますよ」

 

 偏在というのがどのようなものか、ウィルブレースはまだ、正確には知らない。

 だが、いや、だからこそ、かくも英雄的な戦いをした者にそのような最期を迎えさせることは、ウィルブレースの本意ではなかったのだ。

 あるいは偏在など、単なる本体の影、ただ一時風と共にさまよいあらわれ、また消えてゆく儚い存在に過ぎないのかもしれない。

 もしそうならばなおのこと、言葉を交わして、永久に自分の心の中に、そして歌の中に留めておきたいではないか。

 

 バードがあえて危険を冒す理由など、それで十分だ。

 

「……」

 

 脇で聞いていた本体のタバサは、それを聞いて目を二、三度しばたたかせた。

 

 ああ、そうか。

 彼女の目には、あの人と同じものが見えているのか。

 

「わかった。感謝する」

「……仕切り直し」

 

 タバサの偏在と本体は頷き合うと、同時に剣と杖を構え、もはや小細工なしで、正面からウィルブレースに挑みかかった――。

 

 

 戦いが終わった後、ウィルブレースはタバサの偏在と一緒に少し辺りを散歩しながら、先だっての希望通り、彼女からいろいろと話を聞き出していた。

 

 本体はウィルブレースから《重傷治癒(キュア・シリアス・ウーンズ)》の疑似呪文能力による手当てを受けて、しばし休んでいる。

 もちろん偏在も同じように癒してやろうとしたが、通常の生命体ではないためか効果がなかった。

 本来の役目は既に終わっているのだし、あとはいくらか話をしてやってから消えるだけだから支障はないが。

 

「つまり。あなたのような『偏在』というものは、作成された時点までの本体の記憶をもっているわけですね?」

「そう」

 

 話の内容は、主として偏在の性質についてだった。

 

「では、あなたが消えた後、次に作られる偏在はあなたと同じ意思をもつものなのですか? それとも……」

「わからない。でも、本体は偏在を同時に何体ももつことができるし、それぞれの人格のようなものは、元々乏しい」

 

 偏在は作成された時点までの本体の記憶をもち、本体とのテレパシー的なつながりと、使い魔のように集中することで知覚を共有できる能力とを備えている。

 常に本体が偏在を制御し続けているわけではないが、偏在にも個別に知性と判断力があり、しかし個我は乏しく、命令がない間は自分の判断で本体が望むと思われることを最善を尽くして実行する。

 

「本体が自分の意思で偏在を消滅させた場合には、その時点までの偏在が見聞きしたすべての記憶は本体に取り込まれる。破壊された場合には、最後にテレパシーで接触した時点までの……」

 

 ウィルブレースは、説明を続ける偏在の目をしげしげと見つめた。

 

「……なにか?」

「では。あなたはやはり、本体と同じ記憶はもっていても、心はそれとは違うということなのですね?」

「わたしは本体のタバサがこれまでに何をしてきたか、その時にどう感じたかの記憶をすべて持っている。だから、彼女が何を望むかは判断できるし、その望み通りにする」

「それは記憶です。知的生命体には、『記憶』『肉体』『魂』の三つが必要だとよく言われますが、あなたが本体と共有しているのは記憶だけなのでしょう」

 

 たとえば、と、ウィルブレースは指を立ててみせた。

 

「あなたは、わたしがつい先日、ディーキンと臥所を共にしたことがあると言ったら、どう思いますか?」

 

 偏在は首をかしげて少し考え込んでから、それは本当か、と尋ねた。

 

「もし本当なら……、『タバサ』は動揺すると思う」

「でしょうね。そして、あなたは自分の持っている彼女の記憶からそう判断するだけで、自分自身がそう感じているわけではない。つまり、本体の心と、あなたの心は違うということですね」

「そう。偏在に魂はない。この世界にとって、わたしは一時的な、仮初の客に過ぎない」

 

 だから、と、偏在は続けた。

 

「特にわたしを指名して話すことに意味はない。本体のタバサと話しても変わらないし、おそらくそれ以上のものが得られる。あなたがわたしに何を期待しているにしても、それは蜃気楼か、すぐに溶けて消える氷の塊を掴もうとしているのと同じ」

 

 ウィルブレースは微笑みを浮かべて、頷いてみせた。

 

「そうかもしれません。でも、そういったものほど追い求めたくなる、つれない客の心ほど掴みたくなるのがバードというものなのですよ」

 

 偏在はそれに何か答えようとして、ふいに視線を宙にさまよわせた。

 ややあって、口を開く。

 

「……ディーキンから本体に、連絡があった。彼はこちらの世界にもう戻ってきていて、おみやげと話があるから会いたいと言っている。シルフィードを呼ぶより、あなたに頼めるなら、そのほうが早いと思う」

「おや、そうですか」

 

 おそらくは《送信(センディング)》か、永続化した《テレパシー結合(テレパシック・ボンド)》あたりによる連絡だろう。

 戻ってきたということは、いよいよデヴィルから裁判の日時に関する通達があったのか。

 そうでなくても、何かしら面白い話は聞けるに違いない。

 

「それは楽しみですね、よろこんで。……でも、戻る前にもうひとつふたつだけ、お尋ねしたいことが……」

「なに?」

 

 ウィルブレースはまず、先ほどの戦いを通じて何か得られるものはあったか、これから地獄へ向かうにあたっての自信はついたか、と尋ねた。

 偏在はそれに対して少し考え込んでから、曖昧に頷く。

 

「得られるものはあった、と思う。自信は……」

 

 それは、何とも言えない。

 

 あの後、二人がかりで剣での真っ向の勝負を挑んではみたものの、結果は完敗。

 目にも止まらないアクロバティックな動きと剣捌きに、自分たちの技量ではまったく太刀打ちできなかった。

 ワルド子爵もそうだったが、この世界でなら一流と呼ばれるくらいの剣の使い手であっても、彼女やディーキンとはまったくレベルが違うようなのだ。

 もちろん、負けたなりに学べるところはあったし、少しは善戦できた部分もあったかな、とは思う。

 だが、はたして地獄では通用するものかどうか。

 

 偏在は具体的に、先日本体が後れを取った悪魔の名前(ディーキンが教えてくれた)を挙げて、戦ったらどうなると思うかを尋ねてみた。

 

「『ピット・フィーンド』? 九層地獄界の主ともいえる者どもですね。あなたとタバサだけで、ということでしたら、戦わないようにお勧めします」

「……そう」

 

 自分でもそんなものだろうなとは思っていたが、こうはっきりと言われると、さすがに少しは落ち込む。

 

「ええ。あなたとタバサは間違いなく英雄ですが、いまの時点では、強力なデヴィルを相手にするのは難しいかもしれません。戦いに行くわけではないとはいえ、不安はあるでしょう。そこで、もうひとつの質問と、提案があるのですが……」

 

 ウィルブレースはそこで一旦言葉を切ると、偏在の顔をじいっと見つめた。

 

「まず、質問のほうなのですが。タバサは、もうディーキンと臥所を共にされましたか?」

 

 いきなりそんなことをストレートに聞かれた偏在は、まずきょとんとして。

 次いで困惑して、眉根を寄せた。

 意図はわからないが、本体のタバサはもちろんそんな質問には答えたがらないだろうから、自分も答えるわけにはいくまい。

 

 まあ、あるかないかと問われれば……。

 寝床を共にしたこと自体は、一応は『ある』のだが。

 

 ディーキンはここ最近ずっと忙しそうにしているが、父と再会し、伯父と語らったあの日の夜は、一緒にプライベートな時間を過ごすことができた。

 まだわからないことが多く、気持ちも千々に乱れているから、どうか今夜だけは傍にいて話し相手になってほしいとすがるように彼に頼み込んで部屋に招いたあの夜が最後で、その時に……。

 

「……ああ、いえ、決して興味本位ではなく。私が思うに、次の提案に関係のあることなのですよ? だって……」

 

 彼を差し置いて、自分が先にタバサと『ひとつになる』のでは、いささか失礼だろうから。

 と、ウィルブレースはそう説明した。

 

 

「なんと、コーラですか。以前に、ペプシマンがくれたものを飲んだことはあるのですが……。これは、製造元が違っているようですね?」

「そうなの。これは『コカ』ってやつだよ。ヌカじゃないからね?」

「……?」

 

 ディーキンとウィルブレースは、クーラーボックスを囲んでポテトチップスをつまみながらおみやげのコーラを飲んで、楽しく歓談していた。

 タバサは例によって話に付いて行けず、おいてけぼり気味だったが。

 

 ちなみに偏在は、ずっと出し続けておくわけにもいかないので、惜しまれながらもウィルブレースと別れの挨拶を交わした後、すでに消されている。

 

「さっきデヴィルから、裁判の日時の通達があったの。遅れないように、準備をまとめて出発しないとね」

「そうですか。それで、勝てる見通しはついたのですか?」

 

 ディーキンは、ふっふっふ、と、自信たっぷりに不敵な笑みを浮かべて見せた。

 

「大丈夫なの! ディーキンは来るべき地獄での裁判に備えて……、伝説の『ベンゴシ』に、勝ち方を教わってきたから!」

 

 そう言って、自慢げにぐっと胸を張る。

 

「ディーキンはなんと、“あの”ナルホドくんが弁護するところを、最初から終わりまでぜんぶ傍聴してきたんだよ。裁判で勝てるコツは、ばっちりつかんだの!」

 

 それを聞いたウィルブレースは、興奮した様子で目を輝かせた。

 

「それはすごい、もはや勝ったも同然ですね! ぜひ後で、詳しいお話を」

「……??」

 

 一方で、タバサは困惑するばかりだった。

 そのナルホドくんって誰だよ。

 

 ディーキンはそんな戸惑った様子のタバサの手をしっかりと握ると、唐突な行動に頬を赤らめた彼女の顔を見上げながら、熱っぽく頼み込んだ。

 

「タバサ。裁判の当日は、ディーキンの助手をよろしくお願いするの!」

 

 ディーキンが学んできた裁判で勝てるコツ、その1。

 まず最初に、超常の能力を持っていたり手品が得意だったりする、頼りになるかわいい女の子をサポート役につけておくこと。

 



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第百六十三話 Channeling

 

「じょ、助手?」

 

 私が、あなたの?

 ……と、戸惑った様子のタバサの手を、しっかりと握って。

 きらきらした目で彼女の顔を見上げながら、ディーキンは熱っぽく話を続けた。

 

「そうなの。タバサは、助手に相応しい人だと思う。それに、名前もいい感じだよ。頼りになる助手にぴったりだね!」

 

 彼が異世界で学んできた『裁判で勝つコツ』によると、裁判の際に頼れる助手の女の子は、概ね発音三つくらいの短く簡潔な名前であることが多いのである。

 たとえば、マヨイとか、ハルミとか、ミヌキとか。

 

 それからタバサとか。

 

「な、名前……?」

 

 わけがわからず困惑した彼女の様子を見て、ディーキンは目をしばたたかせて首を傾げ。

 それから、やや恥ずかしげに頬を掻いた。

 

「……ええと、ごめんなの。タバサみたいな頭のいい人には、バカバカしいって思われるかもしれないけどね。でも、ディーキンには裁判って、初めての経験だから。まずは、形から入るのも大事だと思うんだよ!」

 

 武道はまず基本の型を覚え、音楽は楽譜の通りに曲を弾き、料理の初心者は、きちんとレシピの通りに作る。

 まだ不慣れなうちから変に背伸びしてアレンジを入れようとするのは、失敗するもとだ。

 

「……」

 

 わけがわからず、本当に大丈夫なのかと不安になりもしたが。

 自分はこの人にどこまでもついていくと決めたのだし。

 これまでの経験からいっても、彼は裁判を成功に導くために、いま話している以上のことを密かに考えてくれているのだろう、きっと。

 タバサはそう結論を下して、こくりと頷いた。

 

 そんな二人をよそに、ウィルブレースはディーキンから手渡された二枚の通行許可証に、慎重に目を通していた。

 

「ふむ、裁判が行われるのは……。バートルの第四階層プレゲトスのアブリモク市にある、デヴィル裁判所の第十七法廷、……ですか」

 

 それは、概ね予想した通りだった。

 

 ウィルブレースの知識によれば、売魂契約の条項によって誤った有罪判決を受けたと主張する魂はみな、アブリモク市にある裁判所で判決を言い渡されるのだと聞いている。

 地獄のかなり奥まで入らねば辿り着けない場所で、バートル外から弁護に向かう代理人にとっては親切な立地ではないのだが。

 

 また、この通行許可証は第一階層のアヴェルヌスから階層をまたいでそこまで向かう特定の移動ルート上のみを、通行を許可する対象としているようだった。

 さらに、許可証が有効なのは裁判が行われている間とその前後の、さほど長くない期間のみ。

 それは当然のことで、デヴィルが望ましからぬ来客に対して快適な短い旅路を用意してくれるはずもないし、余所者が必要以上に長く自分たちの本拠地へ滞在していることを認めるはずもない。

 彼らは地獄の法と原初契約の条項に違反しないだけのものは用意しなくてはならないが、逆に言えばそれを満たすのに必要十分な最低限のものだけが、彼らから期待できるすべてなのだ。

 

「ウーン……。地獄の四番目の階層、っていうと……、遠いんだろうね」

 

 ディーキンは、そう言って眉根を寄せた。

 

 以前にボスや仲間たちと共にバートルの第八階層・カニアを旅したことはあるが、あの時は物質界から直接そこへ送り込まれたのであって、第一階層から順に歩いて向かったというわけではない。

 バートルのそれぞれの階層は、それだけでひとつの世界といってよいほどの大きさを誇っていると聞く。

 第一階層から第四階層までの移動はあまりにも長く、そして危険なものだろう。

 

「ええ。ですが、こちらも馬鹿正直に指示された通りのルートを移動することはありませんよ。ここは《次元門(ゲート)》を使って、直ちに目的地へ到着するべきかと」

 

 その呪文を用いれば、特定の次元界の指定した地点へ正確に通じる、一時的な門を開くことができるのだ。

 高度な呪文だが、プラネターである『眠れる者』ならば唱えることができよう。

 帰還の際も、裁判が終わり次第連絡を取ってハルケギニア側から同じように《次元門》を使ってもらい、それを通ってさっさと帰ればよい。

 

「ただ、デヴィル裁判所内部やその至近に直接他次元界から出入りしたのを見咎められるのは、あまり好ましくありません。そのような移動が許可されていないと難癖をつけられて、当局に拘束などされてはたまりませんから。帰路はともかく行きはアブリモク市の近辺につないで、そこからは直接移動するのがよいでしょうね」

 

 ウィルブレースのその提案に対して、ディーキンも同意した。

 

 もちろん、その際にはバートルに入り次第、なるべく早く通行許可証に指定されているルート上に乗って、後はそこを通っていくのが望ましいだろう。

 ルート外にいるのをデヴィルの警備隊に見咎められれば、おそらく不法侵入者扱いされる。

 地獄の法は、とにかく融通が利かないのだ。

 特に、そうすることでデヴィルの利益になる場合には。

 

 その一方で、タバサは困ったように軽く顔をしかめていた。

 

(『プレゲトス』……『アブリモク』に……、『ゲート』?)

 

 大まかな想像くらいはできるものの、ところどころに理解できない単語が混じっているせいで、正確な話の内容はさっぱりわからないのだ。

 もうすぐまったく未知の、危険極まりない世界であろう地獄とやらに踏み込もうかというのに、こんな調子で大丈夫なのだろうか。

 もちろん、同行するディーキンにはわかっているだろうが、向こうでなにか理解できないことが出てくる度に、彼に詳細な説明を求めるというわけにもいくまいし……。

 

「タバサ、あなたのご意見は?」

「……ない。わたしには、よくわからない」

 

 話を振られたタバサは小さく首を横に振ってそう答えると、ウィルブレースの方に向き直って言葉を続けた。

 

「だから、旅立つ前に先ほどあなたが提案してくれたことをお願いする」

 

 それを聞いて、ウィルブレースは嬉しそうに目を細めた。

 

「まあ。そう言っていただけて、光栄です。ええ、それが最善でしょう」

「ウン?」

 

 ディーキンが何のことかわからずに、きょとんとして首を傾げたのを見て、ウィルブレースがくすりと微笑んだ。

 

「いえ。あなたが来る少し前に、タバサと少し手合わせをさせていただいていたのですが。私にも彼女にも、お互いにまだ知らないことがたくさんあるようでしたのでね。できれば体と心とを重ね合わせて、互いのことをもっとよく知り合えれば、と思いまして――」

 

 そう言われてもすぐにはピンとこなくて、少し考え込んだが。

 ややあって思い至った。

 

「……アア。それって、もしかして『チャネリング』っていうやつのこと?」

 

 悪しきフィーンドの中には、霊体となってクリーチャーや物体に乗り移る、『憑依』と呼ばれる能力をもつ者たちが存在する。

 乗り移ったものを変質させ、支配して、自分たちの邪な目的のために利用するのだ。

 

 善なるセレスチャルにはもちろん、そのような行為は許されない。

 だが、中には憑依と類似した能力を持ち、双方が心から合意し歓迎する場合にのみ一時的に定命の存在と一体となることで、己の力を貸し与える者たちがいるという。

 セレスチャルのもつそのような能力は、一方的に相手を支配しようとするフィーンドの憑依とは区別する意味で、『チャネリング』と呼ばれている。

 自分もまだ、実際に見たことはないのだが……。

 

「ええ、そうですよ」

 

 一般的なトゥラニ・エラドリンには、チャネリングの能力はない。

 だが、ウィルブレースは元は定命の種族のバードであり、セレスチャルとなった後も地上の英雄たちの物語をその目で見届け続けたいという思いが強かったことから、自ら望んでこの能力を習得していた。

 

 とはいえ残念ながら、さすがにタバサがエラドリンである彼女を乗り移らせたままの状態でバートルに赴き、デヴィルどもの法廷に乗り込んでゆく、というわけにはいくまい。

 そのようなことをすれば、要らぬ問題を招くだけだ。

 上位のデヴィルの中には、常に《真実の目(トゥルー・シーイング)》の疑似呪文能力を発動しておくことができるような者もいる。

 チャネリングは間違いなく見抜かれて、裁判の前に放逐されてしまうだろう。

 秩序と悪の支配するバートルの地に、最も歓迎されざる混沌と善の来訪者であるエラドリンを宿主として踏み込ませたなどということが知られれば、即座に問答無用で攻撃されてしまう可能性も高い。

 

 それでも、事前にチャネリングをしておくことで互いの記憶にアクセスし合い、現地で必要になるであろう情報やデヴィルの手口に関する知識などをタバサに与えておくことはできる。

 そうすることによって、口で説明するよりも遥かに正確に、膨大な量の情報を伝えることができるだろう。

 ウィルブレースにとっても、この世界や自分と会う前のディーキンらの冒険などについて、より詳しい知識を得ることができる機会になる。

 

 タバサにとっては、これまでたびたび翻弄されてきたディーキンの世界の魔法や、そこに住む生物の持つ特殊能力などについて、詳しく知る機会になるというのもありがたかった。

 自分が彼らに対抗できないのは、力量の不足と言うこともあろうが、知識の不足による面も大きいのではないか、と常々思っていたのだ。

 だがもちろん、自分の記憶を他人に余すことなくすべて開示することになる、という点では抵抗があった。

 が、ウィルブレースが悪意のない相手であることは間違いないのだし。

 しばし考えた結果、この提案はやはり受け入れるべきだ、という結論に達したのである。

 

 ディーキンは二人からそういった説明を聞くと、非常に興奮した様子できらきらと目を輝かせながら、ぜひやるべきだとタバサに勧めた。

 

「それは、すごくいい案だよ! それをやっておけば、間違いなく裁判に勝てるの!」

 

 ディーキンが異世界で学んできた裁判で勝てるコツ、その2。

 助手による特殊な能力、例えば自分の体に他人の魂を憑依させる等の能力の使用は、裁判において大変に有効である。

 

 

「……」

 

 ウィルブレースを、己の体に憑依……もとい、チャネリングさせたタバサは、しばしぼうっと自分の手を見つめ。

 それから、ぴょんぴょんと跳ねてみたり、そのあたりの石を拾ってみたりした。

 

 信じられないほどの力が、体に漲っている。

 

 試しに軽く意識を集中させてみると、たちどころに神秘的な防護の力を持つオーラが自分の体を包んだ。

 その次の瞬間にはふっと体が消えて、50メイルも離れた場所に瞬間移動した。

 口を開くと、自分の喉から出たものとは信じられないような天上の音楽が自然に喉から流れ出して、強力な呪歌となる。

 少し離れたところにあった岩になんとなく視線を向けると、たちまち眩い稲妻が迸って、それを打ち砕く。

 手の中にある石ころに力を注ぐと、それはリスになって、自分の手から飛び出していく……。

 

 そうして一通り試してみたタバサは、内心で軽く溜息を吐いた。

 

 さっきはこんな能力をもっている相手に挑んでいたのかと思うと、自分が滑稽に思えてくる。

 これではどう頑張っても、最初から勝てる道理がなかった。

 

(それでも、手の内がわかれば)

 

 彼女に勝つのは無理でも、下級から中級程度までのデヴィルやデーモンくらいなら、やり方次第でなんとかなりそうには思えた。

 

 ついでに、『ペプシマン』とか『ナルホドくん』とかいうのが何者かについても、(それが役に立つかどうかはさておいて)ウィルブレースを通して知識を得た。

 これまでには想像もしなかったような世界があるということを知って、なんとも言えないような気分になったが。

 とにかく世界というものが、これまでの自分が知っていたよりもはるかに広いということを、はっきりと実感できたということだけは確かだ。

 

「ねえ、タバサ?」

 

 ふと見ると、何やら悪戯っぽい笑みを浮かべたディーキンが、傍に来ていた。

 

「なに?」

「前にも聞いたけど、ディーキンが筋肉モリモリマッチョマンの“ザ・ディーキネーター”って名前にしたら、どうかな。カッコいいと思わない?」

 

 タバサは首を傾げると、ウィルブレースの記憶を探って。

 

「……あすたらびすた、べいびー。それだったら、“ディートリックス”のほうが合ってると思う」

 

 ぐっと親指を立てて見せながら、そう答えた。

 ディーキンは感心した様子で、しきりに頷く。

 

「オオ、なるほど!」

「ただ。そもそもあなたには、ディーキンが一番似合っているけど……」

 

 そう付け加えながら、タバサは微かな笑みを浮かべた。

 こうして彼の話がいくらか理解できるようになったのも、自分にとっては大きな収穫に違いない……と、考えながら。

 





チャネリング:
 セレスチャルがある種の呪文や能力によって定命の存在と一時的に一体化することを、チャネリングという。
フィーンドの憑依とは違い、チャネリングはセレスチャルと定命の存在の双方が同意している場合にのみ機能し、どちらの側であってもそれを望まなくなった時点で直ちに解除できる。
セレスチャルは、属性が善でない定命の存在にはチャネリングを絶対に許可しない。
チャネリングを行っている間、対象となった定命の存在はそのセレスチャルが持つすべての技能、超常能力、疑似呪文能力を使用でき、能力値が十分に高ければセレスチャルが取得している呪文を発動することもできる。
また、チャネリングされている最中の【知力】【判断力】【魅力】は、セレスチャルのそれよりも5ポイント低い値もしくは定命の存在の本来の値の、どちらか高い方になる。


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