世界に魔法をばらすまで (チーズグレープ饅)
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小学生時代
将来の夢:世界平和


 どこからが現実で、どこまでが現実か。

 なんて少しばかり哲学的なことを考えるのは、本当なら中学生くらいになってからだろう。思春期とかいう奴だ。

 私は十ウン年も前、高校と一緒にそういう青春っぽいのは卒業したはずなのだけれど、何の因果かここ数年、再び哲学的な何がしかを考えなければならない状況に陥っている。

 歩いている途中で位置がずれてしまった赤いランドセルを、信号待ちで立ち止まったついでに背負いなおした。

 頭脳は大人で体は子ども。私はいわゆる二度目の人生を送っている。現在の私は坂本春香、小学一年生だ。

「強くてニューゲーム。ただし配役は村人A、みたいな」

「え、ゲームの話ですか?」

 私の呟きに疑問を挟んできたのは、隣を歩いていた女の子だ。彼女の名前は葉加瀬聡美。私は彼女と一緒に図書館島へ向かう途中なのである。

「惜しい、ゲームじゃなくて漫画の話」

「ニューゲームって言ってたのに漫画なんですか」

 意味が分からない、という風に首を振られてしまった。もちろん、意味が分かられるはずも無いのだけれど。

 前世の記憶がある。

 その記憶を信じるなら、今私が生きているのは漫画として描かれていた世界。

 どこからが現実で、どこまでが現実か。

「魔法先生ネギま!」の世界で何が現実かを考えることになるとは、なんとも皮肉のきいた話だ。私の場合は、原作よりもさらに一段階メタに飛ばなければいけないけれど。

 

 

 図書館に着いてしまえば、私と葉加瀬さんは基本的に別行動だ。

 同じ机に座りはするけれど、読んでいる本のジャンルは全然違うし、会話もほとんどない。何しろ彼女はばりばりの理系で、私はどちらかと言えば文系だからだ。

 書棚の間をうろうろして、何を読もうかさんざん迷った挙句に、館系の推理小説を持って戻ってくると、葉加瀬さんはすでに勉強をはじめていた。

 普通に考えれば小学校の宿題。かなり真面目な子なら予習復習、と言ったところだろうが、もちろん葉加瀬さんはこれっぽっちも普通ではない。

 彼女が開いているのは工業英検の問題集である。

 私が村人Aの気分を味わう原因の一端は、確実に葉加瀬さんにある。彼女は現時点で既に、前世で二十ウン歳の独身社会人であったらしい私よりも、高い語学力を持っている。

 保育所における同年代の子達との生活に疲れきっていた私は、小学校に入学して彼女と出会ったときに歓喜した。趣味嗜好は重なる部分の方が少なかったけれど、論理的に筋道だった会話をできる相手というのは貴重すぎた。

 それは葉加瀬さんにしても同じだったようで、私たちは休み時間や放課後を良く共に過ごすようになった。

 そうして出来た生まれ変わってはじめての友人は、異常なほどに頭が良かった。

 休み時間にラジオや時計を分解しているくらいは当たり前だったし、それをちゃんと元通り動くように組み立て直すことも出来るようだった。

 彼女が英語を勉強すると宣言したのは確か五月ごろだったと思うが、九月現在ですでに高校レベルを超えている。というか図書館にある科学論文を読みたいという理由で英語を勉強しはじめる小学生って何者よ。

 葉加瀬さんが二度目の人生を送っているお仲間さんだったとしても私は驚かない。もちろん、素で頭が良いだけなのだろうけど。

 

 

 小説の文字を追うこともせずに、私は黙々と問題集を解いていく葉加瀬さんを見る。

 別に狙っていたわけではないけれど、葉加瀬さんと交友関係を持てたのは幸いだった。彼女と一緒にいれば子どもらしくしなくて良いという精神安定の面でもそうだけれど、それ以上に原作との接点を持てたということが大きい。

 そう、私は私の目的のために、原作に介入するつもりだった。ぶっちゃけて言えば、超の計画を成功させる。

 この世界における私個人の死亡フラグは無いと言って良い。何しろ原作に登場すらしていないモブ未満の人間だ。

 ただし大前提として、この世界そのものに死亡フラグがある。

 それは今から十数年以内に起きる可能性が高い、全世界規模の戦争である。そして戦争が起きたなら、モブだとか一般人だとかの区別なく、私にも私の周囲にも被害が及ぶだろう。

 原作で未来から来た少女として描かれていた、超鈴音。

 超が過去を改変してまで捻じ曲げたかった未来において、彼女は自分の意思でなく呪紋回路を刻まれるような過酷な半生を送っていた。使うだけで体も魂も削るような代物を、おそらくは十にも満たない子どもに施すような未来。

 歴史を見れば、ニュースを見ればそこにある、なんでもない現実だと超は言っていた。それはつまり、ただの戦争なのだろう。魔法も科学も等しく兵器として使われるような、そんな未来から彼女は来たのだと、私は推測している。

 その超が計画していた全世界への魔法ばらし。それが戦争を避けることに繋がると言うのであれば、答えは一つしかない。

 前世の私が読んだ二十九冊の単行本、その最新巻でまさに進行中だった魔法世界編。そこで示唆されていた事実。作られた異界である魔法世界の崩壊と、魔法世界住人の大移動、それが戦争の引き金となるに違いない。

 何千万だか何億だかの、魔法世界の住人が、難民としてこちらの世界に出現したら。文化も技術も、姿かたちさえ異なる異界の住人が、ゲートを通ってこちらの世界に移り住もうとしたら。

 土地も無い、食料も無い、何よりも魔法世界に対する理解が無い。存在すら知らないのだから当たり前だ。その状況で、平和裏に移民が行われるなどということがあり得るだろうか。

 いや、おそらくはそこで武力的な衝突があったからこその、超の未来なのだろう。

 だからこそ、難民の発生に先んじて魔法をばらし、その混乱が収束するまで世界を管理するという超の計画は、圧倒的に被害が少ない。

 全世界の人間が魔法を認識し、魔法世界とある程度の国交を持つことができたなら。文化が違おうと、技術が違おうと、姿かたちすら違っていようと、そこで生きている人々を認識していたのなら。

 魔法世界が崩壊するときに「知るか、そこで死ね」と言えるほど人間は無情ではない。無情ではないと、超は信じた。少なくとも、世界を管理するためにこの時代に残るだろう超は、そんなことをするつもりは無かった。

 そう考えると、彼女がこの時代で作った企業体が超包子という食品関係であったことにも、その計画の一端がうかがえる。

 未来人である超鈴音は、その天才的な頭脳でもって、自らの技術的優位を保ったまま金儲けをする手段など、百でも千でも考えることができたはずだ。そこであえて「食」を手段に選んだのは、ただオーバーテクノロジーを世間に広めたくないことだけが理由だろうか。

 やがて不可避的におとずれる、世界全体の人口増加を見越していたと考えるのは、私のうがちすぎだろうか。

「坂本さん、私の顔に何かついてますか?」

 声をかけられて、私は思考の海から抜け出す。

 葉加瀬さんが英和辞典から顔を上げて、怪訝そうに私を見ていた。

「眼鏡がついてる、かな」

「普通、意図的に装着しているものをついているとは言わないと思いますが」

「ふふふ、そうかもね」

 私は思わず笑ってしまう。ああ、まったく。超の計画に協力すると言っても、所詮私は村人Aだ。

 いくら大学卒業までの学力があっても、数年ばかり事務職の経験があっても、その知能は超にも葉加瀬さんにも遠く及ばない。もちろん戦闘要員になどなれようはずもない。

 超鈴音にとって、私の存在は全くメリットにならない。

 葉加瀬さんと友達になったは良いけれど、私はどうすれば超の役に立てるのか、皆目見当がついていないのだった。

「ねえ、葉加瀬さんはどうしてそんなに勉強するの?」

「面白いから、ですね。知らないことを知るのは楽しいですし、やりたいことをどうすれば実現できるのか考えるのも好きです」

 全くもって小学一年生の回答ではない。

「逆に聞きますけれど、坂本さんはどうして勉強しているんですか? 私と同じようにアトムみたいなロボが作りたい、というわけでもないみたいですし」

 ロボが作りたい、というのは少しだけ小学生らしいけれど、夢の実現のために最新の科学論文まで読むのは明らかに常識外だ。

 それにしても、私が勉強している理由、ときたか。私は別に勉強なんてしていない。ただ前世の知識があるから、同年代よりも頭が良いというだけの話だ。

 というか、図書館に来て読んでいるのはほとんど娯楽小説、ごくたまに哲学書というラインナップで、勉強も何もあったものではない。

 それこそ、超の役に立ちたいなら、今からでも死に物狂いで勉強すれば良いのだ。どうにかして魔法関係者や裏の住人達と関わりを持って、魔法や気の扱いに習熟するよう努めれば良いのだ。

 けれど、私はそれをしていない。

 結局のところ私はいまだ、この世界が現実だと信じ切れていないのだろう。訪れるかもしれない暗い未来を、リアルなものとして認識できていないのだ。

「私が勉強する理由、か。うーん、世界平和のため、かな」

 だから、私の返答はきっと、どうしようもなく空っぽな響きがした。



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結界が厄介

 平日のスケジュールを大雑把に区切ると、学校、放課後、夜、ということになる。

 友人らしい友人が葉加瀬さんしか存在しない私だけれど、毎日放課後までべったりくっついているわけではない。私も葉加瀬さんも、一人でいることをそこまで苦に思わない性格であることが一因だろう。

 私は基本的に漫画と小説があれば幸せな人種だし、葉加瀬さんは研究(今のところはまだ勉強レベルだけど)が出来れば幸せな人だ。

 そういうわけで、一緒に図書館島へ行く日もあれば、お互い完全に別行動をとる日もある。小学生のうちからこんなにドライな付き合いで良いのだろうか。

 というか、私がいなかったら葉加瀬さんは教室で孤立していたような気がする。良くも悪くも、葉加瀬さんは頭が良すぎるのだ。孤立していることを意識もせずに、トランジスタラジオを自作している姿が目に浮かぶけれど。

 今日の葉加瀬さんは電気街になにやらのパーツを買いに行くとのことで、授業が終わるとまっすぐに帰っていった。

 こういう一人の日は大抵の場合、新古書店へでも足を向けて、立ち読みで時間を潰すのだけれど、気が向いたときは麻帆良学園都市を散策することにしている。

 街を歩いているとたまに、単車と同じくらいの速度で走る人とか、二階くらいの高さまでジャンプする人とか、異常な光景に出会うことがある。

 私はそういう現実離れした現象を見ることで、どうにかこの麻帆良が現実だと認識できないかと、涙ぐましい努力しているわけだ。本を読みたいから毎日はやらないけど。

 

 

 小学生の足で行ける範囲など、実のところそう広くはない。せいぜいが学校と駅、家を中心に半径二キロメートル四方というところだ。

 今度の誕生日に自転車を買ってくれるよう、両親に頼んでみようか。普段から我がまま一つ言わない良い子で通しているので、それくらいなら聞いてくれるかもしれない。

 とりあえずまだ一度も曲がったことのない角を適当に曲がって、はじめて通る道に入る。私にスケッチの趣味でもあればまた別の楽しみ方も出来るのだろうけれど、大抵は通学路周辺の裏道マップが少し増えるだけだ。

 ここ最近のヒットはネコ溜まりになっている路地を見つけたことと、百円で買える自動販売機を見つけたことだ。商品のラインナップは甚だ微妙だったが、将来的に綾瀬夕映と友人になれれば、役立つこともあるだろう。

 誰が飲んでるんだろう、ミートソース味のトマトジュースとか。

 気の向くままに右へ左へ曲がっていたら、良い具合に道が分からなくなってきた。世界樹を目印にすれば方角だけはいつでも分かるので、本格的に迷子になることはない。おかげで安心して探検できる。

 だいぶ歩いたからそろそろ休憩しようかと思っていたところ、都合の良いことに公園を見つけた。

 人影のない園内に入って、ベンチに腰を下ろすと、むはーと息を吐いた。前世の私だったら煙草で一服するところだ。健康と美容とお財布に悪いので、今は吸っていない。というか吸ったら大問題になる。年齢的に。

 ぼへっとした顔で空を見上げ、週刊連載漫画の展開予想(実際のところは読んだ記憶を思い出しているだけ)という不毛なことをやっていると、ランドセルを背負った女の子が公園に駆け込んできた。

 周りが見えていないのか、それとも私があまりにも風景と一体化していたからなのかは分からないが、その女の子は私に気づかないまま砂場へと飛び込んだ。そのままものすごい勢いで砂のお城とかを作り出してくれれば平和的だったのだけど、その女の子は地面をばしばし叩いたりしながら泣き出した。

「なんでだよ、おかしいのは私じゃないだろ。アニメじゃないんだから、三階から飛び降りて無傷とかありえないだろ。どうしてだよ、なんでおかしいって思わないんだよっ」

 顔は可愛いのに言葉が汚い。

 私はふと気づく。彼女はもしかして、長谷川千雨ではないだろうか。

 背格好を見る限り、私と(というよりは葉加瀬さんと)同年代。眼鏡はしていないけれど、あれは伊達だったはずだ。

 いや、それよりも何よりも、その台詞の中身が一番の根拠だ。

 前世の記憶によれば、認識阻害魔法だかなんだかいう、不思議なことを不思議だと思わなくする結界が、この麻帆良を覆っているらしかった。

 そして、長谷川千雨はそれが上手く作用しない、特異な体質の持ち主のはずだ。

 中学生の彼女はおかしなことを無視して、人と関わらないように生活していた。では、小学一年生の今の段階ではどうだろう。常識と照らし合わせて明らかに異常なことを指摘して、それを否定されるという理不尽な環境に置かれているのでは、ないだろうか。

 私は初等部一年生の、他の教室にこの少女が居なかったかを思い出そうと頭をめぐらせた。そうだよ、葉加瀬さんがいるのだから、他の原作メンバーもいるかもしれないとなぜ気づかなかったのだろう。いいんちょとか、無表情明日菜とか、そこら辺を歩いていても不思議じゃないのだ。

 ……駄目だ、まったく思い出せない。適当に学校に通っていたツケがこんなところで回ってくるとは思わなかった。

 あの子が長谷川千雨だという確信は持てなかったけれど、放っておくこともできない。

 程度は違えど、彼女は私と同じだ。普通の常識を持っていて、麻帆良という異常な環境に馴染めていない。同病相哀れむ、というと少し違うが、愚痴を聞く相手くらいにはなれるはずだ。

 私はベンチから立ち上がると、泣いている女の子に歩み寄って肩を叩いた。

「えーと、大丈夫? どこか痛いの?」

 がばっと顔を上げて、女の子はすごい形相で私をにらみつけた。

「な、なんだよ、どっから出てきたんだ」

 服の袖で乱暴に顔をぬぐうと、もう彼女は涙を流さなかった。泣いているところを他人に見せたくないのだと気づく。

「さっきからずっと、そこのベンチに」

 私は先ほどまで座っていたベンチを指差す。

 気まずい沈黙が流れた。いけない、アプローチを思い切り間違えた気がする。この女の子はとてもプライドが高い。信用していない人間に弱みを見せることを嫌い、信頼している人間には意地でも弱音を吐かないタイプだ。

「えーと、その、実はちょっと聞こえていたんだけど、三階から人が飛び降りた、とか」

 私がそう言うと、すっと女の子の目が細まった。警戒され切る前に、次の言葉を続ける。

「その人、怪我とかしなかった? 救急車とか、呼んだ方がいい?」

 私は「ごく常識的な」疑問を口にする。女の子の顔に、少しだけ赤みがさした。

「そう、そうだよな。そう思うよな普通。でも、そいつはくるって空中で回転して、すたって地面に飛び降りて、そのまますごい速度で走って行ったんだよ、信じられるか?」

 女の子は興奮して、早口でまくしたてた。

 そうだ、私がここを漫画の世界だと認識していなければきっと思っただろう疑問。それを彼女はためらわずに口にした。

 だから私は正直に答える。

「ごめん、信じられるかって聞かれたら、やっぱりそうか、って答えるよ」

「なんっ……だよ、それ」

 落胆したように、女の子が俯く。

「だって、おかしいって言っても誰もとりあってくれないし、それに似たようなのを何回も見たから」

 私が続けたのは、たぶん女の子が望んでいた言葉。自分と同じ「おかしい」を共有する言葉。でも、私はそれを否定する。

「もう、それが普通で良いかなーって思うことにした」

「はぁっ?」

 直前まで喜色を浮かべていた少女は、不満そうな叫び声を上げた。

「なんでだよ、おかしいもんはおかしいだろ」

「だって、バイクと同じ速さで走るのは変だって言ったら、それを言う私が変だって言われるんだもの。だったら『おかしいが普通』で『普通がおかしい』って思っておいた方が楽じゃないかな」

 私の言葉に、女の子は押し黙る。

 じっくり二分ほどの間のあと、女の子は何かを諦めたように顔を上げた。

「……分かった。お前は私が見てきた中でも飛びぬけて『おかしな』奴だ」

 私はにやりと笑った。

「お前じゃなくて、坂本春香だよ」

「ああ、私は長谷川千雨だ。よろしくな」

「うん、よろしく。『おかしな』長谷川さん」

 私と長谷川さんはお互いに子どもらしくない顔で笑いあった。

 考えてみれば当たり前なのだけど、「普通」は数で決まる。ここではむしろ、私や長谷川さんの方が普通じゃないのだ。

 そして、長谷川さんはそれを割り切ってしまえば、適応力は案外高い。私の記憶にある彼女は、状況証拠を重ね合わせて魔法の存在にたどり着き、それを自らの判断で納得していた。

 私のような「おかしい」ことを共有できる人間がいれば、彼女はきっと麻帆良で生活するのが格段に楽になるはずだ。もちろん、それは私にとっても同じである。

 自己紹介の後、いろいろ話を聞いてみるとどうやら同じ初等部校舎に通っているらしいので、私達はまた学校でと約束して別れた。

 

 

 私は帰路の途中、今日友人になったばかりの少女について考える。

 長谷川さんも、やはりどこか異質だ。あの理解力と論理的思考力は、小学一年生として十分に飛びぬけている。

 まあ、本当に普通の小学生だったら、まず私と語彙や思考の方向性が違いすぎて、そもそも会話がかみ合わないはずなのだ。それくらいに、私の小学生演技はなっていない。

 その異常に気づかない、気づけないのだから、長谷川さんもまた麻帆良の認識阻害結界を完全にレジスト出来ているわけではないということなのだろう。

 本当に、認識阻害魔法様々である。もしも結界が無かったら、私は親から化け物でも見るような目で見られていたかもしれない。お乳と排泄以外で泣かない赤ん坊とか、常識的に考えてありえない。

 ふと、引っかかりを覚えた。もっと早く気づいてしかるべき齟齬が、今そこにあった気がする。

 長谷川さんのレジスト能力? 違う、確かに幻覚系の魔法をレジストできない神楽坂明日菜と好対照だが、それは今のところ関係ない。

 親から化け物のように扱われる? 違う、それは異常な赤ん坊に対しては決しておかしな反応ではない。

 泣かない赤ん坊? 違う、転生して前世の記憶があるのだから当たり前だ。

 ……違う、けれど大分近い。

 何だ、何が引っかかったのだろう。

 私は歩くのも忘れて立ち止まり、考える。もっと根本的におかしなことがあるはず。それは、何だ。

 どれくらい経ったのか分からない。夕焼けに赤く染まっていた道が、薄暗くなってしまっていたことを考えたら、決して短い時間ではないはずだ。

 そして私は、気づいた。

『なんで私は転生なんて非現実的なことをこうも当たり前に受け入れているのか』

 いや、それも正しくない。私は結界によって、転生というおかしな事象を認識できなくなっている、といった方が正確だ。

 現実感が無いのもあたりまえだ。私はこの世界で生きている意味を考える、そもそもの原因から目を逸らしているのだから。たちが悪いのは、ここまで疑問の核心に近づいたはずなのに「それで何か問題があるか」と私が思ってしまっていることだ。

 一晩ぐっすり眠れば、この疑問にすら綺麗さっぱり整理をつけてしまいかねない。そんな小さい問題ではないはずなのに。

 私は道の脇に寄るとランドセルを下ろし、中からノートと筆箱を取り出した。文字として残してしまえば、こっちのものだ。

 ともすれば「別に良いか」と流しそうになる感情を理性で押さえつけて、私は気づいた疑問をノートに書き連ねていった。

 家に帰り着いたのはとっぷりと日が暮れきった後のことで、お母さんに怒られてしまった。まともに怒られたのは、生まれ変わってから初めてのことだった。



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何も無くても虚勢を張れ

 初等部に上がったときに与えられた自分の部屋を、私は気に入っていた。ベッドのシーツや机こそお母さんの趣味が反映されてピンク色とお花が乱れ飛んでいるが、本棚だけは私の領域だ。

 テストの平均点の十倍というお小遣い(当然ながら千円をキープしている)をやり繰りして少しずつ揃えた蔵書は中々のものだ。さすがに漢字の多い小説に手を出すのは早いと思われたので漫画が中心だけれど、面白い物語に貴賎は無いという主義の私にとって、それは別に恥ずかしいことではない。というか、小学生の本棚が漫画だらけで何か悪いことがあるだろうか。いやない。

 私はその自室の机に向かって、先日疑問点を書き出したノートを開いている。

「うーん、これは少し怖いかも」

 とにかく書かなければという切羽詰った意識があったせいで、筆致も行間も乱れに乱れている。しかも書かれている内容が普通に考えれば正気を疑うようなものばかりなので、ちょっとSAN値が減りそうな代物になってしまっている。

 焦っていたとはいえ、私は何を考えて「これは全部仕組まれたものだったんだよっ」とか書いたんだろう。受けを狙う余裕とか無かったはずなんだけど。まあいい、いつか清書しよう。

「春香ちゃーん、準備できたー?」

「あ、はーい、今いくー」

 部屋の外からお母さんに呼ばれ、私は声を返す。

 私は立ち上がると、ベッドに放り出してあった鞄にノートと筆箱をしまって、肩にかけた。

 今日はいつもより少しだけおしゃれをしている。今は九月だけど、まだ残暑が厳しいので、薄手の白いワンピースというシンプルな装いだ。この服は私のお気に入りである。

 生まれ変わって何に一番喜んだと言って、とんでもない癖っ毛だった髪が、さらさらのストレートになったことだろう。保育所の頃から嬉々として伸ばしていたおかげで、このワンピースと合わせるとちょっとしたお嬢様のようだ。

 かなり自画自賛っぽいけど、まあいいのだ。実際、今の方が前の私よりかわいい顔をしているのだし。

 で、おしゃれをしている理由は何かというと、今から家族でお出かけするからだ。日帰りではあるが、ちょっとしたレジャー施設を巡ったり、家族三人でご飯を食べたりするという、これまでにも何度かあった、いたって普通の休日の過ごし方である。

 いつもと違うのは、私が麻帆良の外に行きたいとお願いしたことだ。

 麻帆良学園都市は、内部でほとんどのものが完結するように作られている。初等部の遠足や宿泊学習が、学園内の合宿施設などで行われているくらいだ。

 もちろん休日を遊んで過ごすにも十分な施設が揃っているので、わざわざ遠方まで行く必要がない。

 けれど今回、私はあえて遠方へ行くことを望んだ。両親もたまには良いかとあまり疑問に思わず私の提案を容れてくれた。

 目的は単純で、麻帆良にある結界の影響下から外に出るためだ。

 原作を思い出してみれば分かるが、朝倉和美を筆頭に一般生徒へぼろぼろと魔法がばれたのは、修学旅行編が最初である。もちろん、魔法を目撃されたという理由もあるだろうが、それ以上に京都だったから、つまりは認識阻害を行う結界の外だったからということも大きいのでは無いかと私は疑っている。

 もしも麻帆良の中での出来事だったら、朝倉和美は車を吹っ飛ばしたネギをそこまで「不思議と思わず」に、空を飛ぶという決定的な証拠を押さえることも無かったのではないだろうか。

 推測でしか無いが、結界の効果はかなり高いはずだ。なにしろ転生などという飛び切りの非常識から、私は目をそらしてしまっている。

 そして同時に、結界はもう一つ重要な役割を果たしているように思う。

 例えば車を吹っ飛ばしたのが古菲であったなら、朝倉和美はいつものこととして済ませたかもしれない。それは麻帆良では日常風景の一つだからだ。

 同じく武道四天王の一角である桜咲刹那が、映画村の塀を飛び越える脚力を披露しても、彼女達は「凄い」とは思っても「異常」であるとは考えていなかったことなんかが根拠として挙げられる。

 ここから導かれるのは、受け入れてしまえば結界を出ても気にしなくなるという人間の順応性の高さだ。

 麻帆良に長く住む人は、結界が無くとも不思議を不思議と感じなくなるのだと思う。

 初等部の間は遠足までも学園内で済ませているのに、中等部では県外への修学旅行を行うというのも、十分順応しているかを確かめるためではないだろうか。

 そう考えれば、旅行の引率に魔法先生がつくのは、万が一の際にフォローするためだと推測できる。関西呪術協会とのしがらみで、本来ネギ以外の魔法先生を送り出すのはためらわれたはずの原作修学旅行において、瀬流彦先生がわざわざついていったのもそのためと考えれば納得できるのだ。

 だからこそ、今日の外出で学園の外に出ることは、意味がある。今なら、転生してしまった自分について、ちゃんと考えることができるかもしれない。

 おとなしく学園内で過ごしていたら、そのうち完全に順応して、転生したという現実から目を逸らし続けて生きるはめになりかねない。

 転生して六年。手遅れかもしれないし、そもそも推測が間違っている可能性もある。

 まあ、駄目なら駄目で、家族の団欒を楽しめばいいか。この方法では駄目だ、という情報が手に入るだけでもそれなりの価値があるわけだし。

 よし、と気合を入れて、私を待っているだろう両親の元へと駆け出した。

 

 

 レンタカーの運転席に収まっているのはお父さん。私とお母さんは後部座席に並んで座り、それぞれシートベルトを締めている。

 私の学校の話や、お母さんが見つけた近所の美味しいお店の話、お父さんは大抵笑って相槌を打つだけだが、それは単純に私とお母さんがお喋り好きだからだ。

 共働きの両親が残業で遅くなったときは違うけれど、それ以外ではほとんど毎日繰り返されてきた、日常の一幕。

 私がそれを享受できたのは、車が走り出してからほんの三十分ほどの間だけだった。

 車は高速道路に乗り、軽快に走っていく。麻帆良の結界だって、もう飛び出てしまっただろう。

 なんだ、結局何も変わらない。

 坂本春香として過ごした六年が手遅れだったのか、それとも推測が間違っていたのか。

「そろそろサービスエリアで休憩にしようか」

 運転席に座っている男の人が、そう言った。私の隣に座っている女の人も、口を開いた。

「そうね、春香ちゃんはまだおトイレ大丈夫?」

 そう言って私を見て微笑む顔は、毎日見慣れたものであるはずなのに、拭いきれない違和感に溢れていた。

 私は声を出すことも出来ずに、身を硬くする。

「……大丈夫? 春香ちゃん、真っ青よ。お父さん、次のサービスエリアに入ってちょうだい」

 心配そうな女の人の声音に、男の人が了解の意を返した。

「ああ、ちょうどすぐそこだ。長距離ドライブなんて初めてだから、酔ったのかもしれないな」

 ほどなくして車はウィンカーを出し、サービスエリアに入った。

 私は体を這い上がってくるような悪寒をこらえるのに必死で、何くれとなく声をかけてくれる二人に対して、ろくに返事もできないでいた。

 ハンドタオルなどを入れた肩掛け鞄を抱えて、車から降りた。私はまっすぐにトイレへと向かう。

 心配そうについてきた女の人に「気分が良くなったら行くから売店あたりにいて欲しい」と言って、私はトイレの個室に入った。

 しばらくの間、外からこちらを伺うような気配があった。真っ青な顔をしているらしい私を一人にして良いものか、考えているのだろう。

「大丈夫、車から降りたらだいぶ楽になったから」

 私は戸の向こうに声をかける。先ほどよりは幾分しっかりした私の声に少し安心したのか、女の人の気配は遠ざかっていった。

 気配が戻ってこないか念のために少しの時間我慢して、それからようやく、私は便器に向かって吐いた。

 

 

 ひととおり朝食を戻しきってしまうと、随分楽になった。口の中に残る酸っぱい唾液を、便器に吐き出す。

 大きな水音と共に吐き戻したものを流してしまうと、気持ちの悪さも一緒に流れてくれたような気がした。

 代わりと言ってはなんだけど、私の腹の中は安易に結界の外へ出てみようなんて考えた数日前の自分を罵ってやりたい気持ちで一杯だった。

 六年間共に暮らしたはずの両親が、全くの他人に見えた。今も、あの二人を両親であると思うのと同時に、それを否定している部分が確かに存在する。

 理性と感情で認識に差があるなんていう話ではなく、私の理性も感情も等しく、両親であると同時に他人であると判断を下しているので、混乱に拍車がかかっているのだ。

 当然だ。だって私には今の両親とは別に、二十七年分の異なる両親と暮らした記憶がある。今まで違和感無く受け入れられていたのが、むしろ不自然だ。

 ああ、そうだ、その不自然を感じさせないのが、麻帆良の結界じゃないか。私は何を今さらなことを考えているのか。

 だが、私に起こった異変がそれだけなら、ここまで動揺はしなかった。

 思い出してしまったのだ。私が、死んだときのことを。

 別にそこまで大それた事件があったわけではない。朝のラッシュ時に、何かの拍子で後ろから押され、今まさに電車が入ってこようとしていたホームに転げ落ちたというだけの話だ。

 不運な事故。そう言ってしまえば終わりの、ただそれだけの記憶。

 しかし、落ちた先で見た迫り来る列車の姿を。耳に響くどころか体を引き裂かんばかりのブレーキ音を。痛みを感じたと思う間もなく意識を刈り取られるまでの長すぎる一瞬を。

 それらを思い出して、平静でいられるわけがなかった。

 私は文字通り、生まれ変わってしまったのだ。完膚なきまでに、以前の私は死んでしまっているのだ。

 今さらながら、涙がこみ上げてきた。

 別に体が痛いわけじゃない。

 前の人生との絶望的な断絶を直視して、もう完全に「今ここに居る私」以外の私がありえないのだと気づいて、二十七年という私の――山崎郁恵の人生を証明するものが自分の記憶以外何も無いんだと分かってしまって……溢れる涙を止めることができなかった。

 だって今の私はどうしようもなく坂本春香で、それ以外の何者でもなくて、だったら山崎郁恵の記憶は一体何なのか。どうして出会ったことも無い人を、いまだ前兆さえない事件を、確かな知識として認識しているのか。

 ついさっきまで疑問に思うことすら出来なかった様々なことが、一気に浮かび上がってきて、パニックを起こしてしまっていた。

 トイレの中まで抱えてきた鞄の中にはあのノートが入っている。本当はどこか落ち着いた場所で記憶の整理と考察を行うつもりだったのだが、そんなことが出来るような精神状態ではなかった。

 私は気を落ち着けるために大きく深呼吸をしようとして、胃液の酸っぱい臭いに閉口した。

 気分的にもう一度トイレの水を流して、私は個室から出た。

 洗面台に手を伸ばすと、センサーが働いて生暖かい水が出てきた。私は水を掬いとって口の中をすすぐ。

 ついでに鞄からハンドタオルを出して、顔も洗った。

 幾分さっぱりした顔を上げて、鏡に映る自分の姿を見て、思った。

『これは誰だ』

 私の髪は頑固な癖っ毛で……いや、物心ついたときからストレートの黒髪だ。まぶただって二重であっている。決して一重まぶただったことなどなかったはずだ。眉毛を整えたこともなかったし、右目の下に泣きぼくろなど存在しなかった。それは山崎郁恵の顔だ。

 毎朝見慣れたはずの顔が、他人のものに思えた。

 鏡に向かって「お前は誰だ」と言い続けると、自分の顔がゲシュタルト崩壊するという都市伝説を思い出してぞっとする。

 今の私はそれに近い。山崎郁恵の顔こそが正しく思えて、坂本春香の顔を受け入れられていない。

 ばっと首を振って、鏡から目をそらす。自分の顔を見続けていたら、本格的にどうにかなってしまいそうだった。

 鞄の中にハンドタオルをしまって、私は鏡から逃げるようにしてトイレを出た。

 

 

 坂本春香の両親は二人とも、私がトイレから出てくるのを待っていたようだった。自動ドアをくぐって飲食コーナーへ入った私にすぐ気がついて、手を振ってきた。

 私は二人の座っているテーブルに歩み寄ると、頭を下げた。

「待たせちゃってごめんなさい。もう大丈夫」

 しかし父親は眉をひそめて私の顔を見る。

「何を言ってるんだ。まだかなり顔色が悪いじゃないか」

 母親もまた、私を安心させるように優しい声で話す。

「無理なんかしなくて良いのよ。とりあえず座りなさい」

 素直にうなずいて椅子に座ると、お父さんが缶ジュースのプルタブをあけて、私に渡してきた。

「それを飲んだら、今日はもう帰ろう。車酔いがひどいみたいなら、高速を下りたらレンタカーを返して電車で帰っても良いし」

「眠ってても良いわよ。お父さんか私がおんぶしてあげるから、ね」

 私は小さくうなずいて、缶に口をつけた。それは私の好きなミルクティーで、二人が私のために選んでくれたもので、いつもと同じ味なのにいつもより優しい甘さで……。ちゃんとトイレで止めてきたはずの涙が、またこぼれてきた。

 慌てたように私を気遣う二人に、首を振る。

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 口に出すことはできない謝罪。

 ただの女の子でなくて、ごめんなさい。純粋なかわいい娘でなくて、ごめんなさい。前世の記憶なんていうわけの分からないものに振り回されていて、ごめんなさい。

 もう今朝までの能天気な私に戻れなくて、ごめんなさい。

 京都で魔法の存在を知った朝倉和美は、麻帆良へ戻ってもそのことを認識し続けていた。結界の中で魔法の存在を明かされた早乙女ハルナは、ちゃんとそれを理解していた。

 麻帆良の結界は超常現象に対する認識のハードルを上げるものであって、その閾値を越えてしまえば問題なく認識できるようになる類のものなのだろう。超が使おうとした強制認識魔法の逆である。

 だからたぶん、麻帆良へ戻っても私の認識は戻らない。

 六年一緒に暮らした、この優しい人達を、心の底から親だと思うことは、もうできない。

 車に戻ったあとも私は思い出したように涙をこぼして、いつの間にか泣きつかれて眠っていたらしい。

 目が覚めたら、ベッドの上だった。

 山崎郁恵と私の記憶の混濁は、自室の天井にまで及んでいた。瞬間、頭をよぎったフレーズに受けて笑ってしまい、意外と余裕のある自分に安心した。

 たぶん、明日からはもっと本気になれる。

 私は自分の余裕を確認するかのように、口を開いた。

「知らない天井だ……なんつって」

 空元気でも、元気は元気だ。



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ネギま! 対策ノート

 あの日から(覚悟が足りないままに現実を認識してげろげろ戻してから)半年が経った。

 春休みも今日で終わり。明日からの私は小学二年生である。

 うっかりと現実を認識した私がこの半年何をしていたかというと、魔法の勉強でも武術の鍛錬でも人脈作りでもない。ただ普通に学校へ行って、葉加瀬さんの実験に付き合わされたり、長谷川さんと愚痴を言い合ったりして過ごしていた。

 ただそれだけのことが、恐ろしく難しかった。

 私が全力で取り組んだのは、坂本春香として違和感無く生活できるようにすることで、それ以外をする余裕などほとんど無かった。

 最初は本当に大変だった。とにかく何をするにも違和感が付きまとったし、それは日を重ねるごとに慣れるどころかむしろ増大するような有様だった。

 もっとも難儀したのは突然意識することになった「山崎郁恵の身体感覚」との混乱である。

 ふとした拍子に「なぜこんなに視点が低いのだろう」という思いが浮かんでしまう。歩幅も手の長さも山崎郁恵であったころとは違うため、目測を誤ることがたびたびあった。

 おかげで何も無いところで突然転ぶとか、よくお茶碗をひっくり返すとかいう、微塵も欲していない属性まで得てしまった。ドジっ子は愛でるものであって自分がなるものじゃない。

 原作ではネギをはじめとしていろんな人が体のサイズを変えていたけれど、あのメルモちゃんキャンディーはそこら辺の身体感覚のズレも補正してくれていたのだろうか。身体年齢を変えることが目的の魔法薬だから、そういう補正効果がついていた可能性を否定しきれない。

 というか、そうでなかったら私の順応性が低すぎるということになるので、是非とも身体感覚補正効果はついていて欲しい。長谷川さんなんて小さくなってすぐにコスプレを楽しむ余裕があったというのに。

 もう一点、大きな問題として、自分や両親を山崎郁恵の感覚で見てしまうことが挙げられた。

 常にというわけではなかったが、例えばお風呂でシャンプーを洗い流して目を開けたとき、例えば朝起きて歯を磨いているとき、なんで坂本春香が映っているのだろうと、鏡の中の坂本春香が不思議そうな顔をすることがあるのだ。次の瞬間には自分の矛盾した認識に青ざめることになるのだが、あれは恐怖以外のなにものでもない。

 一時期などは日が落ちて暗くなった後の窓ガラスに映る自分を見るのすら怖くて、ノイローゼ気味になったこともあった。

 両親についてはそこまで根の深い混乱はなかった。他人に見えてしまうと言っても、親しい人であると見るのはそう難しくなかった。孤児となってしまった幼い自分を引き取って育ててくれた義理の親である、などとわざと認識を誤魔化してみる作戦もそれなりに上手くいった。

 だからこの件については、間違いなく私と血縁関係のある二人を、そういう風に見てしまう罪悪感が最大の敵だったといえる。

 ともあれ、それもこれも今ではかなり折り合いをつけることができるようになった。割り切ったと言ってしまうと少し悲しいものがあるが、恐怖や罪悪感で眠れないということも、もうほとんどない。

 そして私は今、坂本春香に慣れることと並行して設定した、ほとんど唯一と言える目的のために、電車に揺られている。

 電車の目的地は、麻帆良と隣の市の境にある駅だ。

 子ども料金で往復四二○円の位置にあるそこは、麻帆良結界の外だ(と思う)。

 今さら結界の外に出ることに意味はないけれど、これは私なりの儀式のようなものである。

 私は月に一度、第一日曜日にその駅のそばにある公園で、原作知識の整理と考察を行うことにしていた。

 幸いなことにというか不幸なことにというか、前世の記憶は私の頭にしっかりこびりついていて、原作を思い出す作業に不自由はしなかった。

 いっそ時間と共に風化してくれれば、私はもっと楽に生きることができただろう。

 ぼんやりと眺めていた窓の外を流れる景色が、少しずつゆっくりになっていった。続いて、次の駅が近いというアナウンスが車内に流れる。

 私は鞄の紐を肩にかけると、座席から立ち上がった。

 

 

 木陰になるベンチを選んで、腰を下ろす。ちょうど桜が見ごろな時期だけれど、残念なことに、駅からほど近いこの公園に桜は植えられていない。

 まあ、もしも桜があったら、花見をしている人が多くて、こうしてベンチに座ることも出来なかっただろう。

 私は鞄からノートを出して広げる。開いたページには今後の展望などが書かれている。

 自分が自分であることに慣れる、という第一目標はおおよそ果たされたと思う。四月ということで区切りも良いし、そろそろ新しいアプローチを始めても良いタイミングかもしれない。

 今一度、自分の行動方針を考えてみることにする。

 まず、私の設定した最終目標は「魔法世界の消滅によって発生する難民問題と、それに伴って起こると予測される旧世界住民と魔法世界住民の武力的衝突を回避する」ことだ。主に私と家族、友人たちの安全と平穏のために。

 難民発生によって武力衝突が起こるという予想は、超の行動や背景から推測したものだ。

 超はネギに「十年前の父の死」や「六年前の村の惨劇」を回避したいと思ったことはないかとたずねている。

 これは超にも当てはめられる論法で、比較的過酷だったという彼女の半生に起きた事件を回避するだけなら、長くとも十数年を遡れば事足りるはずなのである。

 百年もの時間を跳躍し、歴史を変える必要などないのだ。そんなに長いスパンで、しかも世界中に魔法をばらすなどという未曾有のテロを起こしたら、世界のあり様までが変わってしまいかねない。

 だから、逆に考える。超は「世界のあり様を変えたかったのだ」と、そう考える。

 単行本にのっていた超のプロフィールの中で、強烈な印象を残している項目がある。それは嫌いなものの欄に書かれていた三つの言葉。

 戦争。憎悪の連鎖。大国による世界一極支配。

 彼女は航時機(カシオペア)という反則アイテムを使って、今後百年の間に起こる、この三つを回避したかったのではないだろうか。

 魔法世界の消滅が戦争や憎悪の連鎖に繋がる原因として考えられるのは、難民の居住地である。

 ある少年漫画で「国とはそこに住む人である」という場面があった。だが、人だけがいても住むべき「そこ」が無ければ、やはり国は成り立たないのだ。

 原作の中には既に、住む場所を追われた難民が数多く発生した事件が起こっている。旧オスティア領の落下と、それに伴う国の崩壊である。

 結果どうなったかと言えば、紅き翼を含めた多数の魔法使いが十年近くかけての戦後復興を行った後でも、旧オスティア領民の多くは未だ奴隷階級であるとして描かれていた。

 隣国として存在したオスティアの崩壊においてすら、そうなるのだ。魔法世界の全住人が難民となったなら、ゲートを通って突如現れた「国土を不当に占拠した正体不明の集団」に対して旧世界の各国家が一つ残らず穏当な対応をするとは、到底思えない。

 そして、鎮圧に向かった軍の銃弾によって、抵抗した難民達の魔法によって、血が流れてしまったなら、もう止めることはできないだろう。憎悪の連鎖は、きっとそこから始まってしまう。

 魔法世界の消滅に対する方策として原作で示唆されているのは、オスティア総督の計画、フェイトの計画、そして超の計画の三つ。一応、ネギたちが物語的必然として発見するだろう四つ目の方法もあると思われる。

 順に計画の内容を考えてみる。

 

 

 オスティア総督の計画については、まだ概要のみしか明かされていない。六千七百万人の魔法市民を救うという、それだけしか分からない。

 けれど私は確信を持って言える。これは彼が選んだ人間だけを救う計画だ。

 メガロメセンブリアの人口が既に五千万人。ヘラス帝国や旧オスティア領民、学術都市アリアドネーをはじめとする大小さまざまな勢力の人口を全てあわせて、千七百万人しかいないわけがない。そしてオスティア総督は亜人を中心に構成されたヘラス帝国を障害であると言い切ってもいる。

 彼の計画は、亜人を見捨てることが前提となっている可能性が非常に高い。

 それに、現時点では六千七百万人の難民を旧世界でどう扱うかについて言及されていないのが減点対象だ。例えばだけれど、彼の計画が成功した結果が、超のいた未来であるという仮定も成り立ってしまうのである。

 

 

 次に、フェイトの計画についてだ。これはそのまま造物主、完全なる世界の計画とも言えるだろう。

 私はこれを、大を救うために小を殺す、そういう計画だと推測している。

 フェイトの目的は世界を救うこと。そのために取った手段は、二十年前においては大規模魔力消失現象の発動。そして魔法世界編においてはゲートポートの破壊。

 ゲートの破壊は下準備で、最終的には大規模魔力消失現象を引き起こすつもりだろう。

 魔法世界が魔法によって作られた異界であるのなら、魔力消失現象が魔法世界全土を包んだとき、それは異界そのものの消失を意味すると思われる。

 そして、旧世界の人間を必要以上に攻撃しないというフェイトの態度は、それなりに一貫している。例外はゲートポートでのネギに対する攻撃だが、あれはネギがフェイトの存在に気づいたから、つまりはゲート破壊という彼らの目的に立ちはだかったからだと考えられる。

 宮崎のどかのアーティファクト、いどのえにっきで心を読まれたフェイトが旧世界のことを「現実世界」と表現していたことなどから推測して、フェイトにとって魔法世界は「現実と呼ぶに値しない」ものである可能性が高い。つまり、彼らが救う世界とは旧世界のみのことを指していると考えられる。

 だとすれば、彼らがゲートを壊した理由は現実世界との移動手段をなくすことで、魔法世界住人を逃がさないため、ではないだろうか。

 旧オスティア領のゲートを残しているのは、現実世界出身の人間のために脱出経路を残しているともとれる。

 さすがにそこまで行くと希望的観測が過ぎるけれど、どちらにしても彼らの計画が成功した場合、そもそも難民が発生しない。なにしろ魔法世界と一緒に消え去ってしまうのだ。

 また、現実世界出身の人間はこちらにも戸籍があるはずなので、難民になることもない。

 

 

 最後に、超の計画である。

 これはつまり、ずるしてたくさん助ける計画だ。

 短期的な手段については、既に全貌が明かされている。

 全世界に魔法や超常現象を信じるハードルを下げる、強制認識魔法をかけ、ネット上の情報操作によって魔法の存在をばらし、そして知ろうとするものは魔法世界の存在にまでたどり着くことが出来るような情報源を用意する。

 この情報源については綾瀬夕映のアーティファクト「世界図絵」に近いものがあると思うのだが、今は考えなくて良いだろう。

 そして中期的な展開として、計画発動から半年後には魔法世界の存在は公然の事実になるとガンドルフィーニ先生は推測していた。

 この計画の良いところは、計画成功時点では未だ難民が発生していないというところにある。

 魔法世界の消滅前に、旧世界との交流があれば、難民は正体不明の集団ではなくなる。少なくとも、旧世界側は問答無用で排除という選択肢を選びにくくなるし、魔法世界側からも難民受け入れに関する根回しを行うことができる。

 それでも発生すると思われる「政治的軍事的に致命的な不測の事態」については、監視して調整する技術と財力を用意したと超は発言している。

 他二つと比べると、その被害の少なさは頭一つ抜けている。

 さらに副次効果として、魔法技術による世界福祉への協力体制を得ることもできる。

 ここから先は推測を超えて妄想の域に入るが、長期的な落としどころとして、超の用意した技術による火星のテラ・フォーミング前倒しと魔法世界住人の殖民あたりが計画されていても、私は驚かない。

 

 

 私は細かい文字の連なるノートから顔を上げて、一度深呼吸した。

 以上のことから考えて、私が目的達成のために取る手段は「超の計画への加担」となる。さすがに、自分本位な目的のために、魔法世界そのものや亜人種を見捨てるほどの覚悟は持っていない。

 ここまで考えて、ようやくスタートライン。私はまだ、その手段の詳細を詰め切れていない。今日はその詳細を考えるのが主目的だ。

 とりあえず、何か飲み物でも買ってきて、一息いれることにしよう。

 私はノートを鞄にしまい、ベンチから立ち上がった。



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「私の現実」をちゃんと見ること

 買ってきたミルクティーを一口飲むと、ベンチの上に置いた。缶がすこしへこんでいるのは、戻ってくる途中で転んだからだ。炭酸ものを買わなくて良かった。

 私は再びノートを開く。

 ひとくちに超の計画へ加担すると言っても、アプローチの方法は幾つか考えられる。

 一つ、超陣営に加わって計画の準備を手伝い、学園側の妨害に対抗する。

 二つ、学園側の足を引っ張るお荷物になる。

 三つ、どちらにも関わらず、超側が有利に、学園側が不利になるよう立ち回る。

 今のところ思いついたのはこの三つだ。

 

 

 真っ先に浮かんだのはやはり、超の味方になることだった。単純ではあるが、理に適っている。

 しかし同時に、三つの中で最も効果が薄いのもこの選択肢であるように思う。正直なところ、私が味方になって役に立つ状況というのが全く想像できない。

 まず、学園祭最終日を考えてみる。攻防がロボット兵団VS麻帆良生という大規模戦闘になる以上、その時点で私一人程度の戦力は有意な差とならない。

 そこで役に立つには、ヒーローユニットとして活動していた魔法先生や魔法生徒を退場させられるほどの戦闘力が求められる。

 しかし当然ではあるが、戦力としてみた場合の私はロボット兵以下だ。

 特殊弾頭を有効に扱えれば、格上の相手を戦闘不能にすることも可能ではあるだろう。事実、長距離からの狙撃という相性抜群の方法で、龍宮真名は多数の魔法先生、生徒を三時間先へ飛ばすことに成功していた。

 とは言え、学園祭までの残り時間を全て鍛錬につぎ込んだとして、あのレベルまで到達するのがほぼ不可能であることもまた確かなのだ。

 気が扱えれば、魔法が扱えれば、銃器が扱えればそれで強くなれるというわけではない。

 正しく鍛錬を積んだ才能ある武人の姿が古菲や桜咲刹那クラスであるなら、正しく鍛錬を積んだ普通の人の姿はまほら武道会の予選落ちクラスだろう。つまり本選で解説をしていた豪徳寺薫のような人達である。

 せっかくの未来知識と準備期間を使って手に入れるのが中途半端な戦闘力では、リソースをただ無駄にしているだけだ。

 ならば頭を使って戦えば良いわけだが、超と葉加瀬さんという麻帆良でもトップレベルの頭脳を補助するには、私ではあまりにも力不足である。

 電脳のフィールドには絡繰茶々丸がいるし、そもそも私みたいな「表計算ソフトを使って事務書類が作れます」というレベルでは話にならない。

 一般人代表とも言える四葉五月を手伝って、超包子でアルバイトすることを考えなくもなかったが、あまり意味があるとも思えない。それに、超包子という巨大企業の運営において、超が有能な人材を雇っていないわけがない。社会人五年生程度だった私が大きな力になれる部署など存在しないだろう。

 それでは超が四葉五月に超包子を託す必要も無さそうに見えるが、そうではない。

 超が評価したのは、エヴァンジェリンをして本物と言わしめたものに違いない。それは四葉五月の人格そのものだ。原作登場人物の中でその点において彼女と並ぶことができるのは、ジャック・ラカンくらいのものだろう。

 経営については超自身が選んだ有能な者に任せ、その上で四葉五月をトップに据えておけば、超包子の経営理念(世界のすべてに肉まんを!)がぶれることはないと、超は判断したに違いない。

 そう考えればやはり、超包子においても私の存在は大きな効果を発揮することはない。

 小さくため息をつく。私程度が発見してフォロー出来るような大きな穴を、超鈴音という天才が残しているわけもないのだった。そんな穴があれば、原作で魔法先生やネギ達にそこを突かれて、計画はもっと簡単に崩壊していたはずだ。

 とりあえず、超がやってくる中等部一年まで猶予はある。理数系への適正がないのは前世の学校生活から明らかだけれど、まかりまちがって武道の才能が無いとも限らない。それ一本に絞るのはまずいが、体を鍛えるという選択肢は残しておいても良いだろう。

 少なくとも、百メートル走るだけで息切れしたような前世の体力では問題外なのは確かだ。

 私はノートに「日常的に体を鍛えること(運動部に入ると良いかも?)」とメモを残しておくことにした。

 

 

 続いて二つ目。逆転の発想だ。

 私が戦力的に役に立たないどころかマイナスですらあることを逆手に取る。しかも、ただでさえお荷物であるのに加えて、そのお荷物が意識して迷惑をかけるよう動くのだから、効果はより高いだろう。

 ただし、これは満たさなければならない前提条件がかなり厳しい。

 魔法生徒として学園側に雇われているか、ネギパーティの一員として魔法に関わるか、そのどちらかが必須の条件となるのだ。

 まず前者はほぼ不可能だろう。

 麻帆良は一般人が魔法に関わってしまわないように、管理されている。以前長谷川さんにも言ったけれど、ここは「普通がおかしい」で「おかしいが普通」となる環境なのだ。古菲や長瀬楓のような、魔法は知らないが一般人とも言い難いレベルの人間をわざわざ集めている節があるのも、その一環と言える。

 環境そのものという一つ目の障害を越え、結界による認識阻害という二つ目のハードルを越え、それでも魔法の存在に気づいて彼らに近づけば、記憶を消されるという結果が待っている。

 はっきり言って絶望的だ。しかし、手が無いわけではない。

 原作で掛け値なしの一般人が魔法と関われていたのは、超とネギの周辺だけである。

 これは超の有能さと共に、ネギパーティーの優遇っぷりを示しているようにも見えるが、実はそうでもないと私は思っている。

 学園祭時点の第一次ネギパーティーを見てみれば分かるが、その中で掛け値なしの一般人と言えるのは綾瀬夕映、宮崎のどか、早乙女ハルナの図書館組だけなのだ。そして、ネギパーティーではないが朝倉和美もまた一般人で魔法を知っていた者の一人である。

 この四人から文化祭の土壇場で明かされた早乙女ハルナを除けば、共通しているのは京都で関西呪術協会のごたごたに巻き込まれた面子だということが分かる。

 しかし、疑問もある。

 なぜ彼女達は特例的に魔法を知ったままでいられたのか。学園側にばれていなかったからだとは思えない。

 あの件を直接収束に導いたのは増援として送り込まれたエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだが、その指示を出し、手配を行った(不眠不休で書類に判子を押し続けた)のは学園長だ。そして、事件後には娘婿である青山詠春から、顛末を報告されてもいただろう。

 学園長は複数の一般人が魔法に関わったことを、間違いなく知っていたはずなのだ。

 逆に言えば、本来は魔法の存在を秘匿され、守られるべき立場である彼女達を、ネギの(つまりは学園側の)不手際によって被害者として巻き込んでしまった。学園側が彼女達に対する負い目を持ってしまったともとれる。

 つまり、事情を説明して謝罪を行い、記憶を消して全て忘れるという対処法の存在を提示する、真っ当な手順を踏む必要が出てきたのだと思う。その上で、彼女達はそれを拒否した。結果、彼女達は魔法に関わり続けることができた、のではないだろうか。

 古菲や長瀬楓の場合はもっと単純だ。彼女達はもともと裏の世界に近い人間なわけで、秘匿するよりもむしろ引き込んだ方が得と言える、有能な人材と判断されたのだろう。

 早乙女ハルナが文化祭後に記憶を消されなかったのは古菲達の事情に近いと思われる。彼女は超の計画を止める手伝いをすることで、自身の有能さを示したわけだ。

 要は、学園長は一般人に魔法がばれていることまで全て把握済みで黙認していたと、そう考えれば納得がいく。

 これらの事例から考えて、一般人である私が魔法に関わるには「魔法がらみの事件に被害者として巻き込まれる」のが一番手っ取り早い。

 ……なし。これはなし。できれば怪我とかはあんまりしたくない。そう、それにこれはあくまで推測。実はやっぱりサウザンドマスターの息子というネームバリューが大きかっただけで、さくっと記憶を消されたりする可能性もあるのだ。だからこの線はなし、ということで。

 私はノートの計画案にバッテンマークをつけた。

 比較的安全な方法としては、京都で一緒に巻き込まれるというのがあるが、そもそも3-Aに所属していなければ不可能だ。

 そう、ネギパーティーに加わるというもう一つの手段も、クラス編成という高すぎる壁に阻まれてしまう。

 あれだけ作為的に集められた(ように見える)クラスメンバーが変更されるとは考え難い。一般人枠がないわけではないが、原作で明かされていなかっただけで物凄い裏設定を持っている可能性は十分ある。ザジ・レイニーデイ辺りはあからさまに怪しい。

 さっきの体を鍛える計画とも繋がる部分があるけれど、少しでも身体能力を高くして、学園側にアピールするくらいしか出来ないだろう。

 上手く1-Aに、そしてネギパーティーに潜り込むことさえ出来れば、この計画はかなり現実味を帯びてくる。

 八日後の世界に飛ばされた時に、彼らの行動を五分でも十分でも遅らせることができれば、ぎりぎりのタイミングで世界樹の光は消え、過去には戻れなくなるはずだ。

 ネギ達に味方だと信用されていればいるほど、土壇場での裏切りは効果がある。例えば龍宮真名に狙撃されている中、ネギに抱きついて行動を止めることだって出来るだろう。

 あわよくば、裏切りという未知の経験によって、ネギの心を折ることが出来るかもしれない。

 まあ、ここら辺は取らぬ狸の皮算用だ。もしも1-Aにクラス分けされたなら、そのあとで詳細を詰めれば良い。

 

 

 そして三つ目。二番目の実現性が低い以上、この作戦を取る可能性が最も高い。それに、他の二つと違って、明日からでもはじめることが出来る。なにより、上手く決まったときの効果が大きいのもこの案だ。

 例えば学園祭の最終日、長谷川さんが絡繰茶々丸に電子戦を挑まなければ、超側による結界機能の掌握に抵抗し、復旧することなど出来なかっただろう。それはつまり、世界樹前広場が迅速に制圧されるということであり、超の元へネギがたどり着くより先に勝負が決まる可能性が出てくるということでもある。

 そしてこの結果を導くのはかなり簡単で、まほら武道会の間、友人である私が長谷川さんと一緒に学園祭を観光しているだけで良い。

 長谷川さんが魔法の実在に気付くきっかけは消失し、ネギ・スプリングフィールドと行動を共にすることも無くなるだろう。

 他にも例えば、宮崎のどかが図書館前の階段で転びかけたとき、手を引いて助けられる位置に私がいれば、彼女がネギに恋心を抱くタイミングを遅らせられるかもしれない。修学旅行で彼女達がネギについていかなければ、近衛木乃香誘拐や関西呪術協会襲撃事件に関わることもなくなり、ネギパーティーに図書館組が加入しない可能性がでてくる。

 それは屋根の上での綾瀬夕映とネギとの対話がなくなるという結果を生む。ネギの覚悟が中途半端なままであれば、超と相対したときに揺れぬ強さを得ることは適わない。

 宮崎のどかが特殊弾頭による銃撃からネギを救わなければ、航時機(カシオペア)の使用可能回数が一回減る。

 最後の最後になっても、那波千鶴が望遠鏡で超を探すことを妨害すれば、それだけで大きな時間的猶予を超に渡すことができるだろう。

 原作知識をフルに活用すれば、ネギを勝利に導いた要因となるフラグを、潰していくことが出来る。一つや二つ失敗したとしても、潰せるフラグは無数にある。

 何より、これらフラグ潰しの最大の利点は、学園側から見ても超側から見ても、私が超の計画に加担していると分からないことだ。

 超を手伝う上で最も注意しなければならないのは、超の計画を知っていることが学園側にばれ、私の知る限りの情報を、魔法なり尋問なりで聞き出されてしまうことだ。

 私が能動的に魔法と関わろうとすれば、その危険性は常につきまとう。

 この作戦ならば、その危険はかなり軽減される。なにしろ、私のやることは原作登場人物と交友関係を持つだけなのだから。

 ノートに「友達になってフラグを潰す」とメモを取る。潰せそうなフラグの書き出しは、また今度することにしよう。

 

 

 番外として「全てが私の妄想なので準備など無駄である」可能性を否定しきれないけれど、それこそ考えるだけ無駄だろう。

 少なくとも、現在連載中の週刊漫画が記憶と同じ展開で進んでいるので、私の知識については一定以上の信頼を置いても良いはずだ。

 もう一つ、「超に私の前世をばらす」というのも考えたが、これは却下だ。信じてもらえる保障がないし、何より未来人とか魔法とかが私の妄想だった場合、大変恥ずかしい思いをすることになる。

 そう、忘れてはいけないのが「私自身がちゃんと幸せに生活すること」なのだ。

 生傷が絶えないような修行をして両親に余計な心配をかけるとか、前世が魔法がと奇行に走って精神病院へさようならとか、そういうのはいただけない。

 ここがどれだけ漫画の世界であるように思えても「思っている我」がある以上、私はここで生きているということなのだから。

 アルビレオ・イマがアーティファクトで再現したナギ・スプリングフィールドは本物と言えるのか。絡繰茶々丸が仮契約できた意味とは何なのか。作られた異界の先住民である亜人とは何なのか。

 原作でもきっと、同じ問いかけがされていた。

 私は、坂本春香としての生を楽しむことをやめたくない。山崎郁恵という「誰か」の記憶に振り回されるだけなんてまっぴらだ。

 ノートをぱたりと閉じる。

 明日から、二年生。まずは友達作りをはじめよう。

 私は立ち上がり、握りこぶしを作って気合を入れると、駅へ向かって歩き出した。……一口だけ飲んで放置していたミルクティーを取りに戻ってくるはめになるとは思いもせずに。



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きっと明日に続く道

 始業式の翌日。私はがっくりと肩を落としながら図書館島をあとにした。

 図書館探検部への入部を断られたのである。

 ラペリングや罠の発見、回避などと言った特殊技能を修得でき、ある程度の体力を要求される上に本まで読めるという、趣味と実益を兼ねられる部活動なのだが、中等部以上でないと入れないのだそうだ。

 年齢制限では仕方ないので、そちらは進学するまで我慢するしかないだろう。となると、運動部系で何か選ぶのが妥当なところか。

 友達を作ろう、と一念発起したはずの私がなぜ部活動探しをしているのかと言えば、クラス替えがなかったからだ。

 原作で一年生時から一度もクラス替えが行われた形跡がないのを不思議に思っていたのだけど、まさか初等部までそうだったとは。

 クラス内での私はほぼ葉加瀬さんとセット扱いで、頭は良いけど変な子というポジションが定着してしまっており、今さら他のグループへ入っていくのは難しい。そういうわけで、私は新たな出会いと体力向上を目的に、部活動を始めることにしたのだ。

 図書館島から伸びる橋を渡って、構内を歩いていると、正面から長谷川さんがやってきた。

「坂本じゃないか。どうしたんだ、こんなところで」

 よっ、と片手を上げてくる長谷川さんは快活で、原作のように地味であろうとする志向は感じられない。学園祭編以降で良く描かれるようになった、素の長谷川さんに近い気がする。

 私と長谷川さんの関係は良好だ。まともな感覚を共有できる唯一の同士である。

「ちょっと夢破れてきたところ」

「なんだそれ。目をつけてた本が先に借りられてたとかか?」

 長谷川さんは私の歩いてきた方向に浮かぶ図書館島を見た。

「図書館がらみなとこまでは当たり。図書館探検部に入れるのは中等部からなんだってさ」

 私が答えると、長谷川さんは少し意外そうな顔をした。

「あんな得体の知れない部に入るつもりだったのか? どう考えてもおかしいだろ、なんで図書館にトラップとか迷宮とかがあるんだよ。ゲームか、っての」

「その分、見たこと無いような本も多いじゃない。ちゃんと出版されてるのか怪しい感じの奴」

 一般生徒に開放されている地上階ですら、背表紙にバーコードの記載されていない本などざらに出てくる。ここ最近は、報道部から発行された新聞のバックナンバーがお気に入りだ。B級臭さの溢れる記事ほど、実は本当なのかもしれないと思いながら読むと、なかなか面白い。

 深い階層に行けば本物の魔道書まで出てくるのだから、読書家として興味を惹かれないわけが無い。

「趣味のことになると見境ねーな。はあ、葉加瀬とつるめる坂本をまともだと思ってた私が馬鹿だったよ」

 やれやれといった感じで、長谷川さんが肩をすくめる。

 実のところ、葉加瀬さんはちょっとした有名人だ。少なくとも、他のクラスである長谷川さんが名前を知っているくらいには。

 彼女は麻帆良大学工学部あてに、在籍する教授が書いた論文について、引き続き研究が必要としていた部分に対する疑問点と自分なりの考察、及びそれを検証するための実験方法などをまとめて送るという離れ業をやってのけたのだ。葉加瀬さんがちゃんとした設備を持っていれば、実測データも付属させたに違いない。数日後には初等部へその教授から名指しで問い合わせが入り、職員室が大騒ぎになっていた。

 ホームルームで先生に褒められていた葉加瀬さんは、かなり嬉しそうだった。あれはたぶん、褒められたことよりも、研究室へ顔を出しても良いというお墨付きを貰えたことに喜んでいたように思う。

 他のクラスメイト達はそれがどれだけ凄いことなのか、今ひとつ分かっていなかったみたいだけれど、授業が終わると意気揚々と大学校舎へ向かう葉加瀬さんが「自分達と違う」ことは分かったらしい。そういう匂いに、子供はかなり敏感だ。

「私なんて葉加瀬さんと比べたら普通だと思うけどな。試しにどんなこと書いたのか読ませてもらったけど、ちんぷんかんぷんだったし」

 いや、本当に。緒言からして専門用語が満載で、文字としては読めても意味が分からない。数式とかが出てきたらもう読むことすらできない。何この記号、呪文? の世界だった。

「読もうと思える時点でありえねー。だいたい、前に坂本が持ってた分厚い本だって、漢字だらけで私には読めなかったじゃないか」

 そんなことあったっけ。あ、近代文学全集を読んでたときか。あれは確かに、今の長谷川さんで読めるわけがない。

「そりゃあ、私は本が好きだから。葉加瀬さんもロボットが好きだから科学が得意なのかもね」

「ロボ好き……。頭が良いんだか悪いんだかわかんないな、それ」

「本人はアトムみたいなロボットを作るんだって言ってたよ」

 長谷川さんが乾いた笑いを漏らす。それ、普通の小学二年生にできる笑い方じゃないからね。言わないけど。

「アトムかよ。まあ、モビルスーツを作るとか言わないだけマシなのかも知れないけどさ」

 そこでさらっとモビルスーツが出てくるあたり、既におたく趣味の片鱗が見え隠れしている。まあ、小学生が漫画やアニメを見ていてもおかしなところはないのだけど。

 今くらいの時期に早乙女ハルナと出会っていれば、長谷川さんはもっとオープンな感じのおたくになっていたのかもしれない。あー、でも中二病を強制スキップさせられて高二病にならざるを得なかった原作の長谷川さんだとそうでもないのかな。

 私達はそうやって他愛もない話をしながら、構内を歩く。そこまで遅い時間ではないけれど、なんとなく駅のほうへと向かうルートだった。

「そういえば、長谷川さんなら知ってるかな」

「何を?」

「初等部の部活動を調べたいんだけど。今日みたいに無駄足になったら悔しいし」

 分からないなら分からないで、明日にでも職員室へ聞きに行こうと思う。

「あー、それは知らないな。ここって無駄に部活動が多いから。ほら、高等部なんか写真部が二つあったりするだろ」

 それは知らなかった。もう一つは光画部だとか言い出したら笑う。麻帆良の生徒ならノリで作っていそうな気もするけど。

「でも、学園のホームページなら載ってるんじゃないか? まあ、あの情報量の中から探すのは骨かも知れないけど」

「なるほど」

 その発想はなかった。

「家に帰ったら調べてみるね」

「ん、坂本は自分のPC持ってるのか?」

 長谷川さんが羨ましそうな顔をする。

「ううん、お父さんの」

「はは、だろーな」

「っていう触れ込みで我が家にやってきたんだけど、一年経った今では使ってるの私だけだね」

 私の台詞に長谷川さんが、くわっと目を見開いた。

「なんだそれ、ずるいだろ! 私なんか中等部に行くまで我慢しろ、って言われてるから放課後に図書館で触るくらいしかできないのにっ」

 いや、ずるいとか言われても。

「えーと、五ヵ年計画でお年玉を貯めて自力で買うとか」

「それだと買えるの六年生の冬だろ、意味ねーよ。くそー、私も自分のPC欲しいなあ」

 一応、今でも名目上はお父さんのなんだけどね。休日明けとかに履歴を見ると、たまにえっちぃサイトが残っていたりするし。見なかったことにして履歴をクリアしてあげるのが娘心というものだ。

 その後も長谷川さんはずるい、羨ましい、と連呼していたのだが、今週の土曜にでも遊びに来て触って行けば良いと言ったら機嫌が直った。喜色を満面に浮かべる長谷川さんは、とてもかわいらしい。

 そういえば、長谷川さんのトレードマークとも言える地味眼鏡は、このまま行くと登場しないんじゃないだろうか。あれってたぶん、表情と本音を隠している、無言の意思表示みたいなものだと思うんだけど、今のくるくると表情を変える長谷川さんには必要ない気がする。

 うーん、眼鏡は眼鏡で好きだったんだけどなあ。ちょっと残念だ。

 

 

 リビングに据えられたPCの前に座り、キーボードをカタカタと叩いて麻帆良学園を検索してみる。検索結果の一番上に、公式ページが出てきた。

「うわあ、センスは悪くないけどごちゃごちゃしてる」

 長谷川さんが「情報量が多い」と評した理由がわかった。気を遣って作ってあるのは分かるのだけど、いかんせん学校数が多すぎる。

 校名が表示し切れなくて画面をスクロールさせないといけないってどういうことだろう。

 どうにかこうにか私の通っている本校女子初等部を探し出して、部活動の一覧を表示した。

 水泳、新体操、バレーボールなんていう女の子っぽいのから、中国武術研究会の初等部支部まで幅広い。

 どうにも根がインドア派なので、文化系の中に体を動かせそうなの無いかなあ、と探してしまう。演劇部なんかは割と体力勝負な気がする。でも恥ずかしいから無しかな。

 各部活動のページを行きつ戻りつして、活動内容の説明や活動風景の写真に目を通していく。

 今のところ、候補になりそうなのは陸上部と中国武術研究会だ。さんぽ部があったら是非入りたかったのだけど、残念ながらなかった。

 もしかして長瀬楓が創設者だったりするんだろうか。だとすると、活動内容がとてもハードそうだ。馬鹿話をしながらぶらぶらしてるだけでは、あんな身体能力はつかないと思う。にこにこ笑顔でぷち忍者修行とかやっていたに違いない。

 かちかちとマウスを操作しながら、痛いのはいやだからやっぱり陸上部かな、なんて考えていると、ふと目に留まった写真があった。

 お料理研究会の活動風景を写したそれは、高等部の部員が初等部の子達に料理を教えているというものだった。

 それだけなら別にそこまで注目しなかったのだけど、左の端っこに写っている女の子が気になったのだ。黒目がちな瞳と黒い髪、少しふっくらした体型の女の子だった。

 容貌が特別整っているわけではない。けれど、自身が作っている料理にただ向き合う真摯な表情を見ていると、ふっと心が軽くなるような気がした。

 もしもこの子が四葉五月なら、長谷川さん、葉加瀬さんに続いて三人目の原作キャラだ。あ、いや学園長先生も入学式で見ているから、四人目か。

 原作とかいうのが私の妄想でないと証明する手段は、現時点ではほぼ無いと言って良い。長谷川さんが名乗る前から名前を予想できた、というのは一つの証拠ではあるけれど、二つ隣のクラスである彼女のことを無意識下で覚えていた可能性を否定できない。

 こうやって、原作キャラっぽい人を見つけると、ほっとしてしまう。私は精神異常者ではないと、安心してしまう。実際のところ、全て私の妄想だった方が世界は平和なのだろうけれど、それとこれとはまた少しばかり話が別だ。

 確かめたいと、そう思う。

 かといって、お料理研究会に入部してしまうと、私の目標である体力づくりが達成されない。兼部というのもありかもしれないけど……とりあえず保留ということで。

 めぼしい部活動の紹介に目を通して、一息をついた。

 そういえば、世界樹の発光周期を研究してるクラブだかサークルだかが無かっただろうか。

 私はトップページに戻って、麻帆良大学の紹介ページを開いた。

 いくつかのリンクを経由して、私はそれを発見した。世界樹をこよなく愛する会。原作にも出ていた、世界樹の発光光度をグラフ化したものが載っている。

 ……これは、使えるかもしれない。

 世界樹の大発光が一年早まるという情報を、超は学園祭間際で掴んでいたはずだ。だからこそ偵察を強行して、魔法先生達に追われることになった。追われた結果、ネギに助けられ、その礼として航時機(カシオペア)の譲渡を行っている。

 当然の保険として、航時機には時限式の罠が仕掛けられていた(原作ではこの罠で、ネギ達は八日後の世界に飛ばされていた)が、結果だけを見ればそのせいで作戦の概要を学園側に知られてしまったとも言える。

 しかし、このグラフを活用すれば、航時機の譲渡自体を阻止できるかもしれない。

 例年平均というラインがある以上は、二十二年周期の大発光時でなくともデータを取っているということだ。

 毎年の発光量の推移を使って、牽強付会でもなんでも、とにかく「世界樹の大発光が一年早まるんだよっ!」という噂を早期にばら撒くことができれば良い。世界樹の魔力を利用しようと考えている超は、その噂が眉唾であっても確認くらいはするだろう。

 超側に余裕を持って調査する時間さえあれば、魔法先生達に追われるフラグは潰すことができる。それは連鎖的にネギの手に航時機が渡ることを防ぐ結果に繋がるはずだ。

 そうなれば、航時機による予備動作不要の空間跳躍と擬似時間停止の前に太刀打ちできる者はほとんどいない。高畑先生がぶれることのない覚悟を決めていれば分からないが、計画の概要を知ることのできた原作でさえ彼の心は揺らいでいた。

 ならば、航時機譲渡のフラグを潰すことができれば、超に負けの目はない。

 今後の学園生活の優先順位が切り替わる。体を鍛えるのも良い。原作キャラと接触するのも良い。だがそれよりも優先して、勉強を頑張る必要が出てきた。

 世界樹をこよなく愛する会は麻帆良大学のサークルだ。超が量子力学研究会に所属できたように、葉加瀬さんがロボット工学研究会に所属できたように、私が世界樹をこよなく愛する会に所属することを許されるだけの学力を身につけねばならない。

 頬が熱くなるのを感じる。

 友達を作るとか、体を鍛えるとかいった漠然としたものではなく、明確に分かりやすい中期目標を設定できたことに興奮していた。

 とりあえずは、塾だろうか。生徒全員の足並みを揃えなければならない小学校と違って、課題をこなしさえすればどんどん難しい範囲へ進んでくれる塾は、それなりにある。

 いきなり高校の問題を解くわけにはいかないが、塾という学力を高める場で、段階を踏んで問題を解いていくなら、そこまでおかしなけれどとではないはずだ。

 葉加瀬さんという前例もあるし、異常に頭の良い子供という扱いに収まってくれると思う。

「春香ちゃーん、ご飯よー」

「あ、はーい」

 キッチンの方へ返事をして、私はパソコンの電源を落とした。

 タイミングの良いことに、今日は両親が共に揃っている。さっそく、塾に通いたいと頼んでみることにしよう。



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それなりに優雅な黄金週間

 最近、新事実が判明した。

 私の両親の年齢が思っていたよりもかなり上だった。二人とも四十五歳だそうだ。ということはお母さんが私を産んだの三十八歳? 初産でそれってかなり高齢だと思う。

 二人が私を猫かわいがりする理由の一端が分かった。

 国語の宿題で「自分の家族」というテーマの作文が出たから調べてみたのだけど、これはなかなか驚きだった。だって二人ともかなり若く見える。三十台前半でも十分通用するんじゃないだろうか。

 まあそっちは付加情報みたいなもので、本命の情報は両親共に魔法先生である可能性が消えたことだ。どうやらお父さんは普通のサラリーマンで、お母さんは学園の給食関係の仕事をしているらしい。

 二人とも麻帆良の出身で、高校の同級生だったのだそうだ。恋愛結婚かー、いいなあ。

 とにかくこれで、ある日突然両親から魔法のことを打ち明けられるとかいう展開は無くなった。この期に及んで魔法使いになりたいとは思わないけれど、残念じゃなかったと言えば嘘になる。火よ灯れ、くらいは使ってみたかった。

 それはそれとして、ゴールデンウィーク最終日というこのタイミングで、遊びにも出かけず学園まで足を伸ばしたのには理由がある。

 ゴールデンウィーク中は、世界樹前広場でお料理研究会が屋台を出しているという話をお母さんから聞いたのだ。

 青く晴れた五月の空に、私の心は自然と軽くなる。陸上部に入って体力がついてきたからなのか、思わず走り出したくなってしまう陽気だった。本当に走ると汗をかいてしまうから、やらないけど。

 階段を登った先の広場では、壁を背に半円を描くようにして、大小さまざまな屋台が出されていた。中央部はテーブルと椅子が並べられていて、飲食スペースになっている。

 麻帆良では定番の待ち合わせスポットの一つだけあって、人出も結構ある。行列ができているのは、大学部が出しているお店だろうか。

 去年の文化祭で、お料理研究会の実力は良く分かっていたので、思わずそちらへ寄って行きそうになったけれど、今日の目標はそっちじゃない。

 私は首をめぐらせて、初等部が出している屋台を探した。大玉たこ焼き、英国風本格サンドウィッチ、どんどん焼き、シシカバブ、メキシコの味・タコス……どれも違うな。えーと、本家モダン焼きと元祖広島風お好み焼きの屋台を並べで出店しているのは何かのギャグなんだろうか。

 ……あった。

 その場で作って失敗しました、というのを防ぐためなのだろう。初等部が出しているのは「手作りパンのお店」という手書きの看板がかわいい屋台だった。

 売り切ったら終わりだからなのか、店番の人数も少ない。お金の管理のためにいるのだろう大人の女性と、私と同じくらいの年の子が二人で、合計三人だけだ。当番制なのかもしれない。

 もしも当番制なのだとしたら、今日の私は運が良い。あわよくばとは思っていたが、店番に立っている内の一人は、以前写真で見たことのある四葉五月っぽい女の子だった。

 私が屋台に寄っていくと、店番の三人がいらっしゃいませ、と笑顔を見せてくれた。私も思わず笑顔を返してしまう。

 初等部の手作りパンは、結構順調に売れているみたいだった。最初にどれくらい用意したのかは分からないけれど、パンを並べてある四角いケースは、もう底が見えている。屋台の奥には、空になったケースが幾つか積んであった。どうやら、今並んでいるもので最後のようだ。

 午前中のうちに買いに来て良かった。もう少ししてお昼時になっていたら、売り切れていたかもしれない。

 それにしても、初等部が作ったという癖に、どれもやたらと美味しそうだ。目移りしてしまう。

「えっと、どれが美味しいかな?」

 聞いてみることにした。私よりも少し背の高い女の子が、自信満々という風に一つのパンを指差した。

「これ、これ私が作ったの。オススメ!」

 衣の感じからすると、一度揚げてあるみたいだ。カレーパンだろうか。

 私はもう一人の、黒目がちな女の子に目を向けた。

 女の子はにこりと微笑んで、どれも美味しいですよ、と言ってくれた。どれも美味しそうだから悩んでいるのに。

「じゃあ、これと……」

 私は背の高い女の子が作ったという揚げパンを手に取った。

「あなたが作ったのは、どれ?」

 問いかけると、黒目がちな女の子は少し頬を染めながら、これですと一つのパンを示した。私は迷わずそれを取る。

「これの、二つ貰います」

「二つだと、三百円ね」

 それまで私達のやりとりを微笑ましそうに見ていた女の人が、金額を教えてくれた。

 私は財布から百円玉を三枚取り出して、背の高い女の子に渡した。

「ありがとうございますっ」

 その元気一杯な声に、少し気圧されてしまう。

 黒目がちな女の子が、袋はいりますか? と聞いてきた。

「そこで食べてくから、いいよ」

 広場の飲食スペースを指で示す。女の子は笑顔になって、お買い上げありがとうございました、と頭をさげた。

 屋台から離れると、後ろから「やったねー!」と元気の良い声がした。こっそり振り向いてみると、店番をしていた三人が互いの手を打ち合わせて喜んでいた。

 ま、眩しい。若いって、もうそれだけでかわいさが溢れ出してるんだものなあ。

 っとと、いけない、いけない。また山崎郁恵の意識に引っ張られていた。私だって小学二年生だ。さっきのお姉さんに、若いって良いわあ、って思われる側なのだ。

 

 

 お昼が近づいて来たからか、世界樹前広場はだいぶ混みはじめていた。行列のできている屋台も三つくらいに増えている。

 私は人の増えてきた屋台前のスペースをどうにか抜け出して、比較的すいている飲食スペースにたどり着いた。

 あいているテーブルはまだ結構ある。ここでお昼ごはんを買って、食べるのはまた別のところ、という人が意外と多いのだろうか。歩きながら食べるのかもしれない。

 私は椅子に腰を下ろして、ふうと息をはいた。身長が低いので、どうしても人ごみは苦手だ。息苦しいし、人を避けていると方向もすぐに見失ってしまう。

 とりあえず、パンは胸に抱え込んで死守した。

 テーブルに二つのパンを並べて、どっちから食べようか悩む。二つとも美味しそうなのだ。ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な、と指で交互に数えたら、揚げパンになった。

 それにしても、ゴールデンウィークに入ってからは、ここ一ヶ月の真面目っぷりを放り投げる勢いで遊んだなあ。葉加瀬さんの作ったお茶汲みロボットのいれたコーヒーを飲ませてもらったし(ものすごく苦かった)、長谷川さんと一緒に買い物へも行った。家族旅行も楽しかったし、最終日の今日はこうして優雅にパンなど食べている。

 たまには息抜きも必要だから、まあ良いだろう。それに、山崎郁恵の場合はゴールデンウィークは田植えを手伝っている記憶しかないので、のんびりとしたお休みは新鮮だ。

 塾の勉強は順調で、夏休みに入る前には、小学校の範囲を終えられそうだ。とっくに理解している単純な計算問題のドリルを延々と解き続けるのがあそこまで苦痛だとは思ってなかったけど。

 陸上部の方は、まだまだこれからだ。ほとんどはストレッチと走りこみである。体のできていない初等部のうちは、無理な筋肉トレーニングなどは行わない方針らしい。短距離で早く走るためのフォームとかを教えてもらえるのは、なかなか楽しい。

 あと、驚いたことが一つ。筋肉痛にならないのだ。調べてみたところ、回復が早いから無茶なことをしない限りは翌日まで残らないのだそうだ。子どもってすごい。

 もう一つ、やたらと足の速い子がいるなあと思っていたら、春日美空だった。春日さんは本当に楽しそうに走る。走るのが好きなのだなあというのが良く分かる笑顔で、とても眩しい。

 そんなことを考えながらもぐもぐと口を動かしていたら、揚げパンを食べ終わってしまった。予想に反して、カレーパンではなくてアンパンだった。どちらかというとアンドーナツと言った方が近いのかもしれない。とても美味しかったです、ごちそうさま。

 もう一つのパンに手を伸ばそうかとしたところで、お隣に座って良いですか? と声をかけられた。相席が必要なくらい混んできたのかと顔を上げると、先ほどの黒目がちな女の子が立っていた。

「さっきのパン屋さんの……休憩中? もちろんいいよ。どうせ一人だし」

 席をすすめると、おかげさまで完売しました。ありがとうございます、と返された。そんなに礼儀正しくされると照れてしまう。

 勝手にくすぐったい気分になっていた私の前に、すっとお茶の入った紙コップが差し出された。どれかの屋台から買ってきたのだろうか。

「これ私に?」

 訪ねると、こくりとうなずかれた。さやかさんのも私のも甘いパンだから飲み物があった方が良いと思って、と彼女は言う。

「それでわざわざ……。うわ、ありがとう」

 こんな邪気の無い好意を向けられてしまうと、お幾らですかとは聞けない。というか、ここでお金のことを持ち出す奴は人情というものを解していないと思う。

 機会を作って、別の形でお礼を返そう。

 湯気を立てる紙コップを両手で包むように持って、一口すする。

「――良い匂い」

 煎茶、なのだろうか。詳しくないのでよく分からないけれど、日本茶独特の香りがある。口の中に残っていたあんこの甘さが、柔らかく溶けた。

 私はもう一口お茶をすすってから、カップを置く。

 改めて、もう一つのパンを手に取った。包装を破る。

「えっと、いただきます」

 ぺこりと女の子に頭を下げてしまう。なんというか、作った人の前で食べるのって、こう、緊張する。お母さんのご飯ならそんなことないのに。

 ぱくりと一口。

「あ、おいしい」

 思わず口をついた私の言葉に、女の子がふわりと笑った。

 いや、本当においしい。ただのクリームパンなんだけど、パンとクリームの甘さのバランス? みたいなのが……だめだ、私は料理漫画の登場人物にはなれない。

 そのままぱくぱくぱくと食べきってしまって、お茶をずずず、と一口。

「おいしかったです。ごちそうさまでした」

 手を合わせて言うと、お粗末さまでしたと返事があった。

 美味しいと言ってもらえるのが一番嬉しいですと、にこにこと笑う女の子。そういえば、まだ名前を聞いていない。というか、こんな癒しオーラの持ち主が何人もいるわけないとは思うのだけど。

「私、坂本春香です。本校女子初等部の、二年C組。陸上部」

 ものすごく散文的な自己紹介になってしまった。

「えっと、あなたは?」

 予想通り、彼女は四葉五月と名乗った。クラスはJ組らしい。遠いなあ。

 学園祭でも屋台は出すのかとか、一人でも簡単に作れるお菓子のレシピとか、いろいろ聞いているうちに、ずいぶん時間が経ってしまった。

 そろそろ片づけがはじまるからと立ち上がる四葉さんを見送った。なんでも、片づけが終わったら打ち上げパーティーをするのだそうだ。料理はもちろん自分達で作るらしい。なんというか、本当にお料理が好きな集団なのだなあと感心してしまう。

 だいぶ人の少なくなった屋台の方へ歩いていく四葉さんの背中を見ながら、ぐっと伸びをする。

 お休みは今日で終わりだ。明日からまた、頑張ろう。さすがにそろそろ、三桁のかけ算からは卒業したいところだけど。



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アブラゼミは見た

 部活動からの帰り道、ジリジリとうるさいアブラゼミの鳴き声を跳ね除けるかのように、あっはっはっはと春日さんは笑いながら歩いている。その斜め後ろを、私は俯き気味でついていく。

「そんなに笑わないでよ、春日さん」

「いや、あまりに見事なこけっぷりだったからさー。思い出すとどうしても……」

 春日さんはそう言いながらもまた、ぶふっと噴出している。

 陸上部で五十メートルのタイムを計測していたとき、ゴール直前で思い切りすっ転んだのである。スピードがのっていたせいで、大車輪と言っても間違いではないような転び方になってしまった。私が漫画のキャラなら「ぷぺらっ」とか奇声を上げていたに違いない。

「うう、まだあちこち痛いしさあ」

「まあまあ、捻挫とかしなくて良かったじゃん」

 ポジティブに慰めてくれるのは嬉しいけど、それならせめて笑いをおさめてからにして欲しい。

 ストレッチをちゃんとやっていたおかげか、それとも転び方が良かったのか、大きな怪我をしなかったのは、春日さんの言うとおり幸運だった。世界観的にギャグキャラ補正がかかりつつあるとかで無いことを祈る。

 しかし、最近あまり転ばなくなってきていたから油断していた。障害走とかの選手になってしまわないよう気をつけよう。さすがにハードルの目前で転んだら大惨事になる。

 うだるような暑さの中、春日さんは肩口まである髪を揺らしながら、元気良く歩いていく。この後は教会に行くそうだから、駅まで一緒に行けるわけではない。

 そう、春日さんというとベリーショートなイメージがあったのだけど、普通に髪が長い。私が春日さんに気づかなかったのは、この髪型の違いが大きい。実のところ、彼女はすぐ隣のクラスにいたのだ。

 子どもの頃からずっと同じ髪型なわけがないと、なんで思いつかなかったのだろう。伸ばすのは時間がかかるけど、切ったり結んだりは簡単にできるのだ。

 事実、私も陸上部に出るときは髪をポニーテールになるよう結っている。大河内アキラと髪型がかぶってしまうので、何か別の結び方を考えたい。

「お?」

 私の二歩ほど前を歩いていた春日さんが、何かに反応して声を上げた。知り合いでも見つけたのか、ぶんぶんと手を振りながら走り出す。

「ちょ、ちょっと」

 慌てて追いかけようと、私も走り出そうとしたのだけど、その時くらりと視界が揺れた。

 貧血起こしてぶっ倒れたときの感覚に近い。あ、やばい、と思ったときには、もう視界が暗転していた。

 

 

 覚醒して最初に気づいたのは、額に乗る冷たい何かの感触だった。次いで、春日さんの声が耳に飛び込んできた。

「ほーらー、大丈夫だったっしょ!」

 ベンチの上に横たえられていたらしい体を起こすと、額から濡らしたハンカチが落ちてきた。青いチェック柄の男物だ。

 私の目が覚めたことに気づいたのか、糸目の男の人に食って掛かっていた春日さんが、こっちに寄ってきた。

「あ、気がついた? どっか痛いとことかない?」

 心配そうに問いかけてくる春日さん。部活で転んだときもそうだった。大丈夫と分かった後は笑い飛ばしていたが、最初は普通に心配してくれた。

 糸目の男の人も一緒に近寄ってきた。黒いズボンに白のカッターシャツという学生服姿で、年齢はたぶん高校生くらいだ。

「びっくりしたよ。美空ちゃんの後ろで急にばったり倒れるんだから。日射病か貧血だと思うけど、大丈夫かい?」

 私に視線の高さを合わせるためか、わざわざしゃがんで聞いてくる男の人。私は恐縮してぺこりと頭を下げた。

「すみません、ご迷惑をおかけしまして。ハンカチまで借りちゃって、ありがとうございます」

 額から落ちた後、膝のあたりにのったままになっていたハンカチを拾い上げた。

「当然のことをしたまでですよ、お嬢さん。それと、そのハンカチは僕のじゃなくて先生のなんだ」

 そう言って、私の後ろを示す男の人。私が寝かされていたベンチの裏にもう一人、白いスーツ姿の眼鏡をかけた男の人が立っていた。ずっといたんだろうか、全然気づかなかった。

「瀬流彦くんがセンセーまで連れてくるしさー、そんな大事なわけないのにー」

 春日さんが嘆息して呟く。なんと、糸目の人は瀬流彦先生だったらしい。そうか、年代的には高校生でもおかしくない。まだ先生じゃなかったのか。

 その瀬流彦さんが、慌てたように春日さんの発言をフォローする。

「それは美空ちゃんに陸上部で転んだばっかりって聞いたから。もしも頭とか打ってたら、時間差で倒れるのは本当に危ないんだよ。保健室まで行くことないって言うから、丁度巡回してた高畑先生に頼ったんじゃないか」

 さらに驚きの事実だ。スーツの人は高畑先生なのだそうだ。なんなんだろう、この原作キャラの大判振る舞いは。

 アスファルトの上で気を失ったのに擦り傷とかできていないのだけど、もしかして魔法で治してくれたりしたんだろうか。

 私はベンチから立ち上がって、高畑先生へ向き直る。

「どうもありがとうございました」

 改めて、頭を下げる。ハンカチは……どうしよう、洗って返した方が良いのかな。

 そんな私の逡巡に気づいたのか、高畑先生は小さく笑うと、すっとかがんで私の手からハンカチを取り上げた。

「どういたしまして。ふらつくとか、頭がぼんやりするとかいうことはないかい?」

 瀬流彦さんといい高畑先生といい、魔法使いは紳士たれという不文律でもあるんだろうか。小学生の女の子に対する態度じゃないと思う。

「大丈夫です。お手数おかけしました」

「こういうのも広域指導員の仕事だからね。気にしなくていいよ。それにしても、君は礼儀正しいね」

 高畑先生の言葉に瀬流彦さんが笑いながら同意する。

「本当に。美空ちゃんと同じ年とは思えないよ。爪の垢を煎じて飲ませてもらったらどうかおわっ」

 おお、春日さんの飛び膝蹴りが決まった。ベンチを使っての二段ジャンプとは言え、さすがの跳躍力である。パンツ見えるよ。

 しかし、確かに小学生にしては礼儀正しすぎたかもしれない。いや、倒れたところを介抱してくれたみたいだし、ちゃんとお礼を言うのが間違っていたとは思わないけど。

 えーっと、小学生らしい反応って、どういうことをすれば良いんだろう。

「広域指導員の高畑先生って言うと……デスメガネの人ですか?」

 ちょっとミーハーな雰囲気を出してみる。私の言葉に、高畑先生が少し意外そうな顔をした。

「それは確かに僕のあだ名の一つだけど、よく知ってたね。そういう風に呼ばれるのは高校や大学に行ったときくらいなのに」

 しまった、そうか。基本的に馬鹿騒ぎを鎮圧するときの異名だから、大きな問題が起こらない初等部には浸透していないのも道理だ。あれ、でも確か……。

「報道部の新聞に載ってましたよ?」

 ロングショットではあったけど、ばっちり写真つきで。確か去年の秋ごろだったと思うけど。

「ああ、あの記事か……。報道部の子が嬉々として一部くれたよ。それにしても、新聞なんか読むのかい?」

 高畑先生が苦笑する。春日さんがベンチの上で胸を張った。

「春香は頭いいからね。難しい本とかもすらすら読むし」

「それ美空ちゃんがいばることじゃないよね」

「もー、瀬流彦くんは余計なことばっかり言うなあ。ほら、足は私のほうが速いじゃん」

「それ今は関係ないよね」

 ……なんというか、春日さんと瀬流彦さんはいいコンビだ。原作では全然からみが無かったけど、魔法つながりで結構仲が良かったのかもしれない。

 高畑先生が腕時計に目をやって、声を上げた。

「おっと、もうこんな時間か。僕はそろそろ行くよ。じゃあ、美空君と坂本君、二人とも気をつけて帰るんだよ」

 七月だからまだ日は高いが、教師としては常套句なのだろう。私も春日さんも、素直にわかりましたと返事をした。

「僕も行こうかな。坂本さん、じゃあね。美空ちゃん、院長によろしく」

 高畑先生と瀬流彦さんは、並んで去っていった。

 私は去り際の台詞が気になって、春日さんに問いかける。

「院長によろしく、って?」

「ああ、瀬流彦くんもちょっと前まで同じ施設に居たから。今でもたまに遊びに来るよ」

「へー」

 意外なつながり、でもないのか。どちらも魔法生徒だし、大戦で両親を失った子供を集めた施設という可能性も考えられる。本人の資質もあるのだろうけど、孤児だという春日さんの笑顔に陰はない。きっと良い所なのだろう。

「いっつも私のことからかってくるんだよねー、その分蹴っ飛ばしてるけど」

 くっくっく、と笑う春日さん。

「ふーん」

 気に食わない、みたいな言い回しだけど、その割には瀬流彦さんを見つけたとき、手を振りながら駆け寄っていったよね。結構気に入ってるでしょ。言わないけど。

 倒れたことも忘れて、少し愉快な気分で歩き出した私の背に、春日さんの声がかかる。

「春香、鞄を忘れてるよ」

「おおう。どうりで体が軽いと思ったっ」

 ランドセルは、私が寝かされていたベンチの隅にちょこんと置いてあった。

 このなんでも置き忘れる癖は、どうにかしないとなあ、と思う。気をつけたところで忘れるものは忘れるんだけど。

「春香って頭いいけど、ときどきドジだよね」

 よく転ぶし、と言いながら春日さんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 うーん、不本意だ。現在の目標は雪広あやかみたいな文武両道な女の子なのになあ。




Arcadia様掲載時とは、春日美空、瀬流彦まわりの設定が若干異なります。


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【番外】 アブラゼミが見たもの

「はあ。この女の子が、ですか」

 瀬流彦は高畑から渡された写真に目を細めた。元から細い目が糸のようになる。

 写真は本校女子初等部の生徒名簿からとってきたものらしく、正面を向いた女の子が写っている。長い髪を後ろに垂らした少女の胸辺りに、坂本春香と名前が印字してある。

 麻帆良学園の魔法生徒である瀬流彦だが、今日の仕事にはあまり乗り気でない。小学生の女の子が写っている写真を見つめる図は危なすぎるので、人払いの結界構築からは手を抜いていないが。

「そうだよ。精神操作を受けている可能性がある。本人が工作員という線はないから、その点は安心してくれていい」

「いや、精神操作だってありえませんよ。美空ちゃんと同い年じゃないですか」

 瀬流彦は自身の良く知る、魔法使い見習いの女の子を思い浮かべる。時折ものすごくませたことを言うが、基本的にはやはり子どもだ。幼いと言ってもいい。

 しかし、瀬流彦の対面に立つ高畑は真面目な顔を崩さない。写真と一緒に渡された、何枚かの書類を示す。

「その報告書に書いてあるとおり、坂本春香は毎月の第一日曜日になると、一人で麻帆良の外まで出向いている。もう一年近く続いている習慣とのことらしいが、そこで何者かと接触している可能性は否定できない」

「遠くの友達に会いに行ってるだけかもしれないじゃないですか。まさか……尾行とかしたんですか?」

 こんな幼い少女を? と、幾分非難のこもった視線で、瀬流彦は高畑を見る。

「いや、危険だからね。せいぜい麻帆良中央駅までだそうだよ」

「危険って、そんな」

 高畑は年に何度も海外出張を行い、各地の紛争地帯へと出向いている。その口から語られる危険が、どういう類のものなのか。それくらいは瀬流彦にも分かる。

 その表情に気づいたのか、高畑が苦笑をもらす。

「ああ、尾行した人がじゃないよ。麻帆良の魔法先生の質はそこまで低くない。危険なのは、坂本春香の方だ」

 それは、余計に笑えない。高畑の表情も元の真面目なものに戻っている。

「本当に精神操作を受けていたら、尾行がばれた時点で人質に取られるだろうね。操られている彼女が、自分の首にナイフでも押し付けるだけで良い」

 重苦しい沈黙。瀬流彦としてはそんな馬鹿なと笑い飛ばしたかったが、高畑は真剣だ。

「経歴の怪しい人間くらい、麻帆良にはいくらでもいる。僕だってそうだ。代わりに、そういう人は自衛の手段も持っている。それに、麻帆良がどういうところかを知っているから限度を超えた無茶はしないし、できない。

 本当に危険なのは、何も知らない一般人が巻き込まれているときだ。僕達には彼らを守る責任がある。たぶん大丈夫だろうで、見過ごすことはできないんだよ」

 真剣な表情を緩めて、高畑は笑う。 

「麻帆良の冗談みたいな平和を保つには、過敏なほどで丁度良い。今回も無駄骨だったと、愚痴りあうくらいが一番なんだよ、瀬流彦君」

 それは騒動の原因を笑いながらぶっ飛ばす、デスメガネの微笑みだった。

「分かりました。真面目にやりますよ。この写真の子が暗示や魔法で操られていないか、それを調べれば良いわけですね」

 瀬流彦は防御と補助に特化した魔法使いだ。魔法先生の多くは武闘派で、そういう繊細な作業ができる者は少ない。弐集院や明石といった、補助向きの魔法先生の体があかない場合、こうして瀬流彦にお鉢が回ってくる。

「よろしく頼むよ。今日は陸上部の練習があるから、グラウンドから駅の方に抜ける道で待っていようか」

「え、美空ちゃんと同じ部なんですかこの子」

 高畑がため息をついた。教師としての表情が顔に浮かぶ。

「それも資料に書いてあるからね。時間はまだあるから、ちゃんと目を通しておくこと」

 瀬流彦は小さく肩をすくめた。確かに、今のは自分が悪い。

「はい、わかりました。高畑先生」

 

 

 アブラゼミの鳴き声がいい加減うっとうしくなってきたころ、道の向こうから女の子が二人歩いてきた。一人は今日の目標である、坂本春香だ。その二、三歩先を歩いてくる少女が、自分の良く知る女の子だと気づいて、瀬流彦は思わず口を開いた。

「げ、美空ちゃん」

 その時点で二人とも眠らせてしまえば面倒は無かったのだろうが、瀬流彦は背後の高畑にどうしようかと視線を送った。そのわずかな躊躇いが、春日美空に気づかれてしまうだけの時間を作ってしまう。

 瀬流彦の姿をみとめた美空が、ぱっと笑顔をみせた。手を振りながらこちらへ駆け寄ってくる。

「坂本君だけで良い、眠らせてくれ」

「はい」

 短く答え、瀬流彦は無詠唱で魔法を発動させた。次いで、周辺に張っておいた人払いの結界を起動する。意識を失った坂本の上体がぐらりと揺れ、倒れこみそうになる。その体がアスファルトの地面に衝突する直前、高畑が瞬動で近づいて坂本を抱え上げた。

 前方にいたはずなのに突然背後に現れた高畑と、意識を失っているらしい坂本という状況に頭が追いつかず、美空は困惑顔で瀬流彦に視線を送ってきている。

 まだ魔法生徒でこそないが、美空は魔法の存在を知っている。瀬流彦と高畑という魔法関係者を見た直後に、自分と坂本の意識が同時に失われたとなれば、絶対に怪しむだろう。それならば、最初から事情を説明してしまった方がいい。

 高畑がそう判断したのは瀬流彦にも理解できていたが、果たして説明して分かってもらえるだろうか。友達を疑っているとか普通に怒るよなあと、今から憂鬱になってしまう瀬流彦だった。

 

 

「……ほら、シロだったじゃないですか」

 瀬流彦は認識阻害の魔法を展開したまま、高畑に愚痴をこぼす。隣を歩いていた高畑は笑いながら、瀬流彦の肩を叩いた。

「ははは、出る前に言っていたとおりになったね。良かった、良かった」

 坂本春香に魔力の残滓や、暗示をかけられた形跡は見られなかった。もちろん、薬物の使用も確認されなかった。

「なんでか分からないけど、美空ちゃんに白玉あんみつを奢ることになっちゃいましたし……」

 案の定怒り出した美空を説得している内に、いつの間にかそういうことになっていたのだ。

 その上、瀬流彦達の調査結果がシロだったものだから、やっぱり大丈夫だったと美空に食って掛かられてしまった。あのタイミングで坂本の目が覚めてくれなかったら、今度はパフェか何かをご馳走することにされていただろう。

「所持品の検査もできれば万全だったんだけどね」

「魔力感知には何も引っかかりませんでしたよ。というか、さすがに鞄の中まで漁っていたら、二度と美空ちゃんに口をきいてもらえませんよ、僕は」

 調査を行う瀬流彦達を、美空はじと目で見ていた。高校生である瀬流彦でさえ割り切れないものを感じているのだ。小学生の美空に魔法使いとしての分別を期待するのは無茶というものだろう。

 坂本春香自身に危険がおよぶ可能性があるということを、どうにか納得してくれただけでも御の字である。

「それにしても、毎月麻帆良の外に行く小学生がいる、なんていう地味な情報をよく掴めましたね」

 瀬流彦は報告書に目を通していたときから感じていた疑問を口にする。麻帆良という学園都市の規模を考えれば、重箱の隅もいいところだ。

「ああ、なんでも来年あたりに学園長のお孫さんが転校してくるらしくてね。本校の初等部だけ丁寧に洗いなおしたんだそうだよ」

「それは親馬鹿……じゃないな、じじ馬鹿が発端ってことですか?」

 出発前の高畑の言葉を覚えているだけに、建前と本音の差にがっくりきてしまう瀬流彦だった。

「学園長がじじ馬鹿なのは否定しないけど、それだけじゃない。お孫さんは関西呪術協会会長の一人娘でもある。国内の魔法関係者の中では、間違いなく重要人物だ。職権濫用と言われるようなものではないよ」

 そしてもう一つ、これは瀬流彦の知らないことだが、神楽坂明日菜の存在もある。彼女が黄昏の姫巫女と同一人物であることを知る者は、学園長と高畑を含めても麻帆良内に五人といない。

 だが、その存在が持つ意味の大きさは、学園長の孫の比ではない。

 彼女が麻帆良に移り住んでから、まだ二年も経っていないのだ。何かと理由をつけて女子初等部内の動きを探ることは、決して大げさな対応ではない。

「まあ、結果を見ればいつもどおり杞憂だったというだけのことだよ。ちょっと変わった子ではあったけどね」

「ああ、本当に頭が良いみたいですね。塾では中学生レベルの授業を受けてるとか書いてありませんでしたっけ」

 瀬流彦は報告書の内容を思い出しながら言う。

「そうだね。瀬流彦君が僕の名前を呼んだときに少し反応してたから妙だと思っていたんだけど、まさかデスメガネなんてあだ名を知っているとは……」

 いやいや、と高畑が苦笑する。初対面のはずの相手がこちらを知っているということに少し警戒したのだが、警戒した結果が学内新聞で見ましたでは、間抜けという他ない。

「ん……しまったな。まさかこんな初歩的なミスをするなんて」

 初対面というキーワードで自身のミスに気づいた高畑の呟きに、瀬流彦が怪訝そうな顔をした。

「いや、名乗られていないのに名前を呼んでしまったなと思ってね」

「あっ」

 瀬流彦も気づいた。美空は「春香」と呼んでいたのに、瀬流彦も高畑も「坂本」と苗字を呼んでしまっている。

「……たぶん、気づかないですよ。そんな細かいこと。小学生ですし」

「頭の良い子だって、瀬流彦君も言っていたじゃないか。『たぶん大丈夫』を基準にしちゃいけないよ」

 しばしの思案のあと、高畑は申し訳無さそうな表情で瀬流彦を見た。

「悪いんだけど、美空君にフォローをお願いしておいてくれないかな。坂本君に聞かれたら、自分が名前を教えたと言ってくれるように」

「はあ、まあ、良いですけど」

 それくらいの頼みなら、美空は簡単に引き受けてくれるだろう。パフェじゃなくてコンビニのケーキとかで勘弁してもらえないかなあと、瀬流彦はかわいい妹分の姿を思い出した。

 



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知性のありか

「ちょっと、坂本さん。しゃきっとしてください。やる気が足りませんよ」

 ペンを握り締めたまま机に突っ伏す私に、葉加瀬さんの叱咤が飛ぶ。

「やる気はね、あるの。無いのはね、理解力。ほら私まだ三年生だし」

「確かに小学生には難しい内容ですけど、それはまず前提条件が間違っています」

 普通の三年生は高校レベルの数学を勉強しようとはしません、と葉加瀬さんは言う。ごもっともです。

 正直なところ、甘かった。高校の文理選択でここまで学ぶ内容が変わるなんて思ってもいなかったのだ。山崎郁恵の知識は文系に偏っているので、これまではとんとん拍子に進んでいた勉強がかなりペースダウンしてしまった。

「世界樹をこよなく愛する会に入りたいなら、最低でも化学、生物、植物学に数学と気象学あたりを修めていないと話になりませんよ。欲を言えば物理学や材料工学、歴史や民俗学だって……。世界樹について調査を行うためには、多岐に渡る総合的な学力を要求されるんです。分かってますか?」

「あ、最後の二つは得意だよ」

 私は机から顔を上げて宣言した。

 葉加瀬さんは額に手を当ててため息をつくと、椅子から立ち上がった。

「研究がありますので失礼します」

「ごめん、ごめんって。頑張るから見捨てないで」

 慌てて私がすがりつくと、葉加瀬さんはもう一度ため息をついて席に戻ってくれた。

 暇なときで良いから勉強を見て欲しいと頼んできた生徒の態度がこれでは、葉加瀬さんが呆れるのも無理はないだろう。

「坂本さんの場合、頭は決して悪くありません。私が言うのもなんですけど、小学生としては破格です。ただ絶望的なほど理数系に向いていないです。数式を見たら眠くなるってどういう症状ですか」

「面目ないです」

 私は素直に頭を下げる。たぶん葉加瀬さんみたいなタイプからすると、私の詰まっているようなところは「なんで分からないのか分からない」レベルの話に違いない。図書館での勉強会はこれで三度目だが、よく付き合ってくれるものだ。

「学園史編纂室に入りたいという目標なら話は簡単だったんですけど……。たぶん坂本さんは自力で必要学力まで到達したと思います」

「学園祭の時に見た世界樹の発光が忘れられなくてさ。もっと知りたい、って思っちゃったんだよね」

 と、いうことになっている。

 一応、半分くらいは本当だ。あの巨大な木の全体がぼんやりと淡く光るという神秘性は、ちょっと言葉にできない。特殊なヒカリゴケの一種ということになっているけれど、私の知識が正しければ、あれは世界樹の中に蓄えられている魔力なのだ。山崎郁恵の人生経験の中には存在しない現象。私が興奮するのも仕方ない。

 世界樹は、世界に十二箇所あるパワースポットの一つ。私の記憶ではそう言われていた。私は十二、という数字にどうしても引っかかりを覚えてしまう。

 旧世界と魔法世界を繋ぐゲートポートの数もまた、十二なのだ。十一個はフェイト・アーウェルンクスによって破壊され、最後の一つは崩落したオスティアにあった。この数字の一致は偶然なのだろうか。

 学園祭編の最後、超が未来へ帰る場所として選んだ倒壊した立石群は、イギリスのゲートポートに似てはいなかっただろうか。

「坂本さん、大丈夫ですか?」

「あっ、ごめん。ぼーっとしてた」

 葉加瀬さんの声で我にかえる。全然関係のないところに思考を飛ばしていた。こういうことは、麻帆良の中ではあまり考えないようにしていたのに。

「頑張ると言ったそばからぼーっとするとは、なかなかチャレンジャーですね」

 ふふふふふ、と葉加瀬さんが低く笑う。眼鏡がきらりと光った。

「そんな坂本さんにはこれ。薬学部のお姉さんがくれた、試作栄養ドリンクをプレゼントします」

 鞄の中から、手のひらサイズの茶色い小瓶を取り出す葉加瀬さん。

「いやおかしいでしょ。なんで栄養ドリンクにドクロマークがプリントされてるのっ」

「眠気を滅殺してくれるそうですよ?」

「字面が不穏当すぎる……」

 せめて打破とかそういうレベルで満足しておいて欲しい。

「大丈夫です。飲んだあとの経過はちゃんと記録してお姉さんにお渡ししますから」

「明らかに被検体扱いだよね、それ」

「あれ、分かりましたか?」

「分からいでかっ」

 そうやってしばらく分かりやすい茶番を繰り広げていたが、ふと我に返った。ここは図書館である。静かに利用するのがマナーであることを、私達はようやく思い出したので、今さらながら声を落とした。

 周りを見回してみたが、幸いなことに司書や図書委員の人が睨んでいるということはなかった。広々とした図書館に感謝である。

「まあ、なんだかんだ言いましたが、たぶん大丈夫ですよ。目標があり、学ぶ意欲があるなら、大体の努力は実を結びます。二、三年計画で地道に頑張りましょう」

 葉加瀬さんは苦笑しながら私を慰めてくれた。

「うん、頑張る」

 つまりは、高校で三年かけて学ぶことを、放課後の時間を利用して三年かけて学ぶというだけの話だ。自分の平凡さにちょっとため息が出そうになるけれど、大事なのはモチベーションを失わないことだ。

 私が考えつくことのできたフラグ潰しの中で、実現する手段があり、最も効果が高いのは航時機の譲渡阻止だ。勉強が難しいから、なんていう理由で諦めることはしたくない。

 成果が出なくても腐らずに続けること。簡単なようで難しいことだが、息抜きしたり誤魔化したりしながら、どうにか続けていきたいものだ。

「葉加瀬さんの方はどう? 研究は順調かな」

 勉強を見て欲しいと頼んだのは私だが、そのせいで絡繰茶々丸が完成しませんでした、では本末転倒である。

「ハード面、制御面で言うなら、技術的にはほぼ完成しつつありますよ。オートバランサーに歩行制御、手腕部マニピュレータを含めた関節可動なんかは、工学部内でも随分研究が進められていましたし」

 水を向けてみると、葉加瀬さんは大雑把な概要をすらすらと説明してくれた。詳しいことを語らないのは、それなりに守秘の必要があるからなのか、それとも言っても私が分からないからなのか。葉加瀬さんは相手が理解していなくても嬉々として説明するタイプなので、たぶん前者だろう。

 というか、概要でさえ良く分からない。光学認識による動体の三次元座標割り出しとパターンマッチングが云々とか言っているけど、それはデジカメの顔認識機能とどれくらい技術レベルが違うのだろうか。

「ともあれ、最終的なネックとなるのはロボットの動作を統括するAIと、動力関係でしょうね。動力については最悪有線というのもありかもしれませんが、知性を持つAIの開発となると……」

 読書好き、ことに濫読の気がある人はたいていの場合、雑学王としてのスキルも磨かれる。私も文系ではあるものの、SF用語の基礎知識程度は持っている。

「何かで読んだことあるよ。チューリングテストとかいうのがあるんだっけ?」

 私の質問に対して、葉加瀬さんは難しい表情を返す。

「そうですね。ローブナー賞の設立もあって、最近はそちらの研究も盛り上がりを見せていますけれど、私はチューリングテスト自体にはあまり重きを置いていないんですよ」

「どういうこと?」

 チューリングテストは確か、人間とAIに対してノンジャンルの質問を投げかけ、その返答からどちらがAIなのかを判別できるか、というものだったはずだ。私からしてみると、人間と区別がつかないレベルのAIを開発する上で、避けては通れないテストという気がする。

「十分なデータベースと大量の条件分岐があればパスできるというのもありますが、それ以上に、人間の知性と機械の知性は異なるものだと考えているからです」

 葉加瀬さんは小さな顎に手を当てて、しばし黙考したあと、私にも分かりやすい例えを出してきた。

「坂本さんは神林長平の『戦闘妖精・雪風』を読んだことはありますか?」

「あるよー。っていうか葉加瀬さんが読んでたことに驚きだけど」

 娯楽小説も読むんだ、葉加瀬さん。

「未来が知りたければ漫画を読めばいい、という言葉はひとつの真理だと思いますよ。まあ、それはそれとして、読んだことがあるなら話は早いです。雪風に搭載されていたAIや、基地の管理システム、あれらはチューリングテストに合格できると思いますか?」

「……できないね」

 葉加瀬さんの言わんとすることが分かった。雪風の作中、人間の登場人物とAIが会話するシーンは何度もあったが、あの無機質なまでに合理的な受け答えで人間と誤認するかと言われれば、たぶんしない。けれど、彼らに知性が無かったかと言われると、それもまた否だ。

「数理的な演算を正確に高速で行うことができ、世界を物理的な情報のみで把握する知性が、人間と同じになるわけもないと、私は思います。チューリングテストをクリアするテクニックには、わざと間違えて人間と誤認させることすら含まれるんですよ。それは、何かずれていると思いませんか。――私は確認したいんです。論理的思考を可能とする学習型AIを、アンドロイドやガイノイドといった『人に近い形体』のハードに組み込み、人間的な倫理や教育を与え、その結果生まれてくる知性がどういうものなのか、実験したいんです。価値判断基準はどうなるのか。嗜好や感情は発生するのか。人間的な知性と機械的な知性の関わりはどうなるのか。私は知りたいんです。ですから、最初から人の模倣を目標としたAIを作ることに、私はあまり価値を感じません」

 ああ、だからか、と私は思う。

 私の知る物語で葉加瀬さんが茶々丸に対して敬語を使わなかったのは、それが自身の製作物だからという理由以上に、自分達が一から育てた人格(ではなく、知格というべきか)だからということがあったのだろう。葉加瀬さんがどこまで意識していたのかは分からないけれど、それはどこか母性に近いものがあると思う。

「うん、だいたい分かった」

 私はうなずく。彼女の作りたいロボットがどういうものなのか、なんとなく見えてきた。

「葉加瀬さんって、結構ロマンチストだ」

 実験と言い、確認と言い、研究と言うが、彼女の興味は未だ存在しない機械の知性がどういうものなのか知りたいという、その一点にある。

 数多くの創作者が想像して作り上げてきた機械の心を巡るお話と、実際にどうなのかを作って確かめる彼女の行動に、私は違いを見出すことができない。根源にあるのは同じ衝動に見えるのだ。

 私が笑いながら言った台詞に、葉加瀬さんは顔を赤くした。

「科学に魂を売った私がロマンチストなわけないでしょう。私は徹底的なリアリストなんですよ」

 こういうとき、私はどうしても頬が緩んでしまう。実際の葉加瀬さんの思いがどうであれ、照れてるなあ、かわいいなあと微笑ましく思ってしまう気持ちを止められない。

「もう、何を笑っているんですか。休憩は終わりです。教科書を開いてください。ほら、早く」

「はーい、分かりました」

 なかなか笑いをおさめることはできなさそうだけれど、代わりに眠くなることもなさそうだ。真面目に勉強するので、その辺りで勘弁してもらえないだろうか、葉加瀬先生。



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【エイプリルフール番外】 こんな展開はいやだ

 麻帆良祭最終日、超の計画を阻止するために行動を開始したネギパーティーは、窮地に立たされていた。主戦場となっている六つの魔力溜まりのひとつ、世界樹前広場へと向かう途中、龍宮真名からの狙撃を受けたのである。

 その射線から隠れるために入った車両ごと、三時間先へ飛ばされるところだったが、これはネギの機転によってどうにか回避された。

 しかし、状況はわずかも改善されてはいない。

 真名はこちらの射程外に陣取ったままであり、一方的にネギパーティーへ攻撃を仕掛けることができる状況だ。ネギをかばった宮崎のどかが、強制的に舞台から退場させられたのは、ほんの数秒前の話である。

 もちろん、ネギの持つ航時機を使えばのどかを助けることはできた。だが、可能であることとやっていいこととは違う。一週間という長時間の跳躍により、航時機は不調をきたしてしまっている。

 あと何度の跳躍に耐えられるか分からない。この状況では、航時機の温存こそが優先される事項である。同じ航時機使いである超鈴音には、航時機なしでは対抗できないのだ。

 それは同時に、ネギさえこの状況から脱出させることができれば良いということでもある。

 この場で唯一、真名と対等の戦力と言える長瀬楓は、そこまでを瞬時に検討した。当然、ネギが航時機を使用すれば圧倒できるだろうが、それでは本末転倒だ。

「長瀬さん」

 背後から声がかかる。綾瀬夕映、長谷川千雨と並び、ネギパーティーの参謀役と言える、坂本春香のものだ。

 楓は真名への警戒を解かぬまま、小さく頷いた。春香も自分と同じ結論に達したらしい。

 ここは任せて先に行け、というやつだ。楓ならば確実に、数分は真名を足止めできる。

 その数分で距離を詰められれば真名の負け、詰められなければ真名の勝ちだ。

 この特殊弾頭と真名の組み合わせは、まずい。ある意味で航時機を使用する超よりも厄介だ。最悪、相打ちであっても戦力の差し引きで楓の勝ちと言える。

「足止めをお願い」

「承知、でござる」

 予想通りの台詞に、楓は短く答えを返す。

「これを使ってちょうだい」

 そんな言葉と一緒に春香から差し出されたものを、楓は真名から視線を外さぬままに受け取った。

 受け取ってしまった。

 春香が素早く飛び退いた次の瞬間、低い擦過音と共に楓の眼前が暗転する。

「なっ……」

「楓さんっ!」

 絶句した楓を救出したのは、残り使用回数あとわずかとなっている、ネギの航時機だった。ネギもまた、この状況を抜けるには楓の力が必要であると判断していたのだ。

 今のは特殊弾頭によって発生する時間跳躍の結界。馬鹿な、真名のライフルからは目を離さなかった。だとするならば……。

「散るでござるっ」

 楓は瞬時に判断をくだし、指示を出した。自身も立っていた場所から距離をとる。

 しかし、とっさに反応することができたのはネギと古菲だけであった。二度の擦過音と共に、二つの黒球が出現する。とらわれているのは、綾瀬夕映と早乙女ハルナだ。

 二つの黒球の間に、坂本春香が歪んだ笑みを浮かべて立っていた。

「くっ」

 予想外の事態に置かれながらも、楓は冷静さを失ってはいなかった。この状況で、真名が追撃を行わないわけがない。

「拙者は真名を抑えるでござる! あとは……」

 最後まで言うことはできなかった。真名のライフルから放たれた銃弾に、虚空瞬動での回避を余儀なくされたのだ。

 楓はそのまま、真名への突撃を開始した。

 

 

「あー、惜しい。長瀬さんの無力化ができてたら、龍宮さん無双だったのに。航時機を一回使ってくれたから、無駄ってわけじゃないけど」

 坂本春香が、あまり残念そうでもなくそう言った。

 同時に、どういうことなのですかー、などと黒球の中でわめいていた夕映達が消失する。三時間後に飛ばされたのだ。

「坂本さん……?」

 ネギは何がなんだか分からないというように、困惑した顔をする。いや、ネギもまた天才と称されている一人だ。何が起こったかは十分に理解している。ただ、信じられなかったのだ。

「まあ、言うまでもないと思うけど、種明かしですね。ネギ先生」

 来たれ、と呟いた春香の手に、小さな手鏡が出現する。

 アーティファクト「秘密の秘密の魔法の鏡」は、キーワードを唱えることで自身の姿を変えることができる魔法道具だ。それは修学旅行のときに春香とネギが仮契約を行った証でもある。

「ラ・ミパス・ラ・ミパス・ル・ル・ル……」

 変身を解除するキーワード。瞬間、春香の体が光に包まれ、その衣装が変わる。

 白と黒の単純な二色からなるワンピース。そして、胸元には超包子の三文字。

「裏切者、という奴なわけだ。ごめんね。古さん、ネギ先生」

「う、嘘アル。春香は学園祭が始まてから、いつもネギ坊主のそばにいたヨ!」

 古菲は怒ったように言う。

 確かに春香は、ネギと常に一緒にいたから、超から接触を受ける機会など無かった。だからそれは、前提が間違っている。

「学園祭中に仲間になったわけじゃないよ。私は最初から、超さんの味方だった」

「最初……から」

 ネギが小さく呟く。

「そう、最初から。学園祭の前から、修学旅行の前から、ネギ先生が赴任してくる前から、超鈴音が麻帆良に現れたそのときから、ずっとです」

 ネギと共に過ごした半年を否定しつくす言葉を、春香は微笑さえ浮かべながら言った。

 ぎりっと音がしたのは、古菲が歯を強くかみ締めたからだ。古菲の精神面は、決して弱くない。超の計画を止めることを決意した今、そのことに迷いはない。けれど、たった今まで味方であったはずの者の裏切りには、憤りとためらいを隠すことができなかった。

「超さんに協力する理由を、聞いても良いですか」

 しかしネギは、強い意思を目に宿したままで、春香に問いかけた。

「あー、また誤算。私の裏切りに先生の心が折れてくれれば楽だったんだけど。信頼関係が弱かったかなあ」

「そんなことを聞いているんじゃ、ありません!」

 はぐらかすような春香の物言いに、ネギが声を荒げた。その気勢に押されて、春香の肩が怯えたように揺れた。

 はっきり言って、春香は隙だらけだ。古菲もネギも、やろうと思えば二秒とかからずに制圧できる。いつでも無力化できるからこそ、ネギはまず春香から情報を引き出そうとする。

「龍宮さんが協力する理由と同じ、高畑先生がためらった理由と同じ、ですよ。少なくとも私は、魔法の存在なんてとっととばれた方が世界のためだと思った、そういうことです」

 実のところ、この時点で春香が自分に課した役割は九割がた達成されている。そう、綾瀬夕映とネギの会話を発生させなかった。それだけでも十分なのである。

 だから、会話を引き延ばしての足止めは、余禄のようなものだ。むしろ、余計な情報を与えてうっかり覚悟を決められてしまう前に、切り上げる必要がある。春香が左手を握りこもうとしたところで、ネギが声を発した。

「……分かりました。そこから先を教えては、くれないんですね」

 ネギが言ったそこから先とは、超が回避しようとした未来に何があるのか、だろう。もちろん、春香にはそれを教えるつもりは微塵もない。

「ではせめて、超さんの居場所を教えてもらいます」

 言葉と同時に、ネギの姿が消えた。いや、春香には消えたようにしか見えなかったというだけの話で、古菲にはしっかりと見えていた。

 気がついたときには、春香は右手を後ろに取られて、地面に押し倒されていた。右手に持っていた手鏡が、音を立てて地面に落ちる。

「お見事、です。私なんかの稚拙な引き伸ばし工作に付き合ってくれるのはなんでかと思ってたけど、そういうことか」

 春香が軽口を叩くと、極められた腕がぎりっと締め上げられた。

「痛い痛い痛い痛い痛い」

「超さんは、どこですか」

 ネギの声が春香に降ってくる。地面に押し付けられているので、その表情が怒っているのか、悲しそうなのか、見ることはできない。

 痛い、痛いと言い続ける春香に、腕を極めるネギの力が緩んだ。それ以外を喋らないのでは、尋問の意味がない。

「超さんは、どこですか」

 同じ台詞が、同じ口調で問われる。

 一般人に毛が生えた程度の春香に対して、少しの容赦もない。いや、もしかしたらそうでもしないと、涙が溢れそうなのを堪えられないのかもしれなかった。

 でも、と春香は口を開く。

「こういうの、迂闊って言うんですよ」

 言い始める前には、すでに左手を強く握りこんでいた。ぱきりと音がして、手の中の特殊弾頭が割れる。

 楓を、夕映を、ハルナを包んだ黒球が、春香を包む。当然、春香を押さえつけていたネギもろとも、だ。

 春香の視界が暗転した瞬間、背中にかかっていたネギの重みが消えた。航時機で脱出したのだ。

 暗い視界の中、春香は体を起こす。

 戸惑ったような顔の古菲と、泣きそうな顔をしたネギが立っていた。

 春香は小さく笑うと、満足そうに目を閉じた。

「二回、か。まあ私にしては上々かな。あとでね。古さん、ネギ先せ」

 最後まで言い切ることなく、春香はその空間から消失した。

 本来いないはずの人間がもたらしたものが、この後の物語にどう影響を与えたか、それを知るには、あと三時間ほど時が必要だった。

 

 

 ぱちりと、私は目を開けた。見慣れた天井、冷たい空気、カーテンの隙間から差し込む朝の光。

「い、いまどき夢オチ……」

 私は布団の中で脱力する。なんなんだ、あのアーティファクトは。変身するときは「テクニカル・マジック・マイ・コンパクト」とでもいうんだろうか。長谷川さんや早乙女ハルナが突っ込みをいれること間違いなしだ。

 しかもこれ、実は初夢とかいう奴ではないだろうか。

 初夢は正夢って言うけど、普通その年のことを見るもんじゃないかな。それに富士も鷹も茄子も出てくれなかったし。

 あ、龍宮真名が鷹の目ってことでどうだろう。駄目か。

 というか、最終決戦にもつれ込んでいる時点で、私の作戦が失敗しまくってるじゃないか。正夢になられたら、困る。

 一九九八年、正月二日。私の目覚めはいつもどおり、低血圧とは無縁のすっきりとしたものだった。まあ、心の中はげんなりと言った感じだったけれど。




Arcadia様への投稿時は2010年4月1日で、流行の嘘予告とやらをやってみたかったのだと記憶しています。


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早すぎる第三種接近遭遇

 初等部最終学年である六年生になってから、私はどこかそわそわしていた。特に冬の足音が聞こえてきた最近は、その傾向が強かったと言える。

 別に、焦っていたわけではない。

 二年生のときに立てた中期目標は、それなりに達成されている。苦手だった理数系分野の勉強もおおむね終わり、葉加瀬さんのツテを頼って、世界樹をこよなく愛する会の人との顔合わせも済んでいる。時期的なキリがいいとのことで、中等部に進学したらサークル活動への参加許可を取ってくれると、会長さんからの確約も得た。

 友人も増えた。というか、知り合えそうな場所を選んでうろうろしていたのだから、半分以上は反則みたいなものだけど。もちろん、長瀬楓や綾瀬夕映、ザジ・レイニーデイなど、どうやらまだ麻帆良に来ていないっぽい人もいるし、神楽坂明日菜や近衛木乃香の様に、所在は分かっていても知り合うことができなかった人もいるが、それは仕方ないことだろう。

 では、私がいったい何にそわそわしていたかというと、簡単な話、そろそろ超鈴音が麻帆良に現れるのではないかと思っていたからだ。

 麻帆良に現れる以前の超の足取りはまったく不明(当たり前だ、この時代にいないのだから)と高畑先生が言っていた覚えがあるけれど、それは二〇〇一年三月以前、という意味ではないはずだ。

 絡繰茶々丸の完成が来年の一月、起動が四月だったはずなので、つまりそれ以前に超はこの時代に跳躍してきていると思うのだ。魔法と科学を融合させた動力炉とか、エヴァンジェリンの従者にさせるとか、そういうのは葉加瀬さんのみでは達成のしようがない。

 というか、戸籍の偽造とか入学手続きとかがあるはずだから、そっちの方面から考えても、時間移動が三月末ぎりぎりということはないと思っていた。

 もちろん、超が中等部入学前に麻帆良へやってきたからといって、軽々しく接触をとる予定はなかった。そもそも、私の立てた作戦は超と私が無関係であること、私が掛け値なしの一般人であることを前提としているので、考えるまでもない話だ。

 考えるまでもない話の、はずだった。

 体育用具室のちょっとかび臭いマットに寝かされて気を失っている、シニヨンで髪をお団子にまとめた女の子。作戦の第一段階に音を立ててヒビが入った。関わってしまった、思いっきり。

 

 

 十二月一日の放課後、ちょっと困ったことになったので力を貸してほしいと、そのような内容のメールが四葉さんから届いた。

 呼び出された場所が体育用具室だったのは少し不思議だったけれど、例えば捨て猫を拾ってしまってそこで保護しているとか、四葉さんならいかにもありそうな話だと思った。

 まさか、人間を拾って保護してるなんて、思わないでしょ、普通。

 ばっくんばっくんと五月蝿い心臓をなんとかなだめて、私は四葉さんに事情を尋ねた。とにかく、現状を確認しないことには動きようがない。

 さすがの四葉さんも混乱しているのか、なかなか要領を得ない説明だったけれど、聞きだした話をまとめると次のようになる。

 校舎の陰にうずくまっていた女の子がいたので、心配で声をかけた。具合が悪そうだったし怪我もしていたので、先生を呼ぼうかと聞くと、先生も医者も呼ばないで欲しいと頼まれた。そのまま四葉さんの前から去ろうとした女の子は、立ち上がって数歩進んだところで倒れて気を失ってしまった。仕方ないので病院でも保健室でもなくて、人を寝かせられるマットのある体育用具室に運び込んだ。毛布とか包帯とかを用意したいけれど、この子を一人にはできなかったので私にメールを打った。

 薄暗い体育倉庫の中、真面目な表情で状況を説明する四葉さんに対して、私が得た感想は「尋常じゃない」だった。

 今さらながら、エヴァンジェリンが四葉さんを本物と称した理由の一端に触れた気がする。

 具合の悪そうな女の子に声をかける。その子を助けるという判断を行う。そこまでなら、麻帆良の初等部に通う子の大半がすると思う。麻帆良生のパーソナリティは基本的に、優しくておせっかいだ。当たり前だからこそ得難いその資質を、この学園都市では多くの人が普通に持っている。

 けれど、実際に意識を失ってしまった人を目の前にして、医者も教師もまずいという相手の言葉が「どこまで本気だったか」をはかり取れる人が、どれだけいるだろうか。その上で、助けたいという自分の意思と病院はまずいという相手の意思を比べて、どちらも立てた判断を下せる小学生が、いるだろうか。たぶん、大人でもそれができる人はほとんどいないだろう。いや、大人であればこそ、自分の判断を優先させる人も多い気がする。

「……分かった。保健室に行って、必要なものを取ってくればいいかな。それとも、私がここに残ってこの子を見てようか?」

 私がそう言うと、ほっとしたように四葉さんは表情を崩した。保健室に連れて行こうと私が言い出したら、説得するつもりだったのだろう。

 短い相談の末、私が居残りで、四葉さんが必要なものの確保に動くことになった。

 体育用具室に残された私は、とりあえず超鈴音(だろう、ほぼ確実に)の様子を調べる。超包子というプリントこそないけれど、服装は学園祭編で着ていた強化服とやらに似ている。四葉さんが怪我をしていると言ったのを気にしていたのだが、どうやら大きな怪我はないようだ。打撲っぽいあざや切り傷、擦り傷。痛そうではあるけど、障害走の途中で転んだときの私とそう大差ないと思う。

 では意識を失っているのは何故なのか、ということになるが、これはおそらく航時機を使ったことによる魔力の枯渇が原因だろう。

 世界樹の魔力が消えかけていたということも勘定に入れなければならないが、ネギは一週間の跳躍でさえ体調を崩していた。

 超は基本的に航時機内部に溜め込まれた魔力を使っていたようだったが、なにしろ百年単位の時間跳躍だ。体にどれくらいの負担がかかるものなのか、私には分からない。貯めた魔力では足りなくて、自身の魔力が無理やり引き出されるくらいのことは、あってもおかしくない。そして、超にとって魔力を行使するということは、呪紋回路を使うことと同じ意味のはずだ。

 負担を少なくするために二十二年ずつ跳んできたのだとしても、跳躍時間が長いという点は同じだ。……いや、小分けに跳んだら発光の周期がずれていることに気づけただろうから、やはり百年単位で一気に跳んだのだろう。

 とりあえず、私にできることは、今のところ何もない。手当てをしようにも、それは四葉さんが救急セットを持ってきた後の話だ。

 ただ、体育用具室の中はお世辞にも温かいとは言えないので、上着を脱いで超にかけた。四葉さんのと合わせて二枚だから、多少はあったかいんじゃないだろうか。

 超の寝息は、乱れることもなく、穏やかだ。たぶん、休みさえすれば目を覚ます、と、思う。

 本当は、誰か医学的な知識のある人に診せたいのだけれど、ぱっと思いつく中で、学園側と無関係でその手の知識があるのは、東洋医学研究会の会長だった超くらいだ。その本人が眠っているわけだから、どうしようもない。

 あ、でも、葉加瀬さんなら多少は知識があるかもしれない。ガイノイドを作る研究をしていたのだから、人体の構造について、多少なりとも勉強をしているんじゃないだろうか。内科よりは外科に偏っていそうだけど、私よりはましだと思う。

 しばらく待っても意識が戻らないようなら、四葉さんに相談してみることにしよう。

 

 

 長く待つこともなく、四葉さんは毛布と救急箱を持って戻ってきた。私にそれを渡すと、何か温かいものを用意してくると言って、再び用具室を出て行った。

 私が怪我の応急手当てを終えて超に毛布をかけ、上着を着なおした辺りで、四葉さんは大振りな水筒を二本とマグカップを三つ持って帰って来た。

 中身を聞いてみると、甘めのホットミルクと即席のコンソメスープだそうだ。即席と言っておきながらインスタントではない辺り、さすがは四葉さんと言ったところだろうか。手際がいいなあ。

 とりあえずの手当てを終えたことと、私が見た限りではしばらくしたら目を覚ましそうだということを四葉さんに伝える。ついでに、人の体に詳しそうな友人がいるから、不安ならその人を呼ぶということも一緒に話す。

 四葉さんは私の言葉に安心したのか、表情を緩める。超の寝顔が穏やかなのもあって、少し二人で様子を見てみることになった。

 私はコンソメスープを、四葉さんはホットミルクをカップに入れて、ようやく人心地がついた形になる。せっかくなので、ちょっと疑問に思っていたことを聞いてみることにした。

「そういえば、今さらって感じだけど、なんで私を呼んだの?」

 気を失っている女の子を一人にできないという気遣いは分かるけれど、そこで私を呼んだ理由がわからない。本来の流れでも同様の事態が発生したのだとすると、ここに呼ばれたのは私以外の誰かか、あるいは誰も呼ばずに四葉さんが一人で対処したかのどちらかのはずだ。

 四葉さんは少し考えるようにしてから、同級生の中で一番しっかりしてるから、と答えてくれた。

 なるほど、確かにそういう基準で選ぶなら私になってしまうだろう。医者や先生が駄目ということは、大人に知られたくないということだ。私がいなかったら、お料理研究会の先輩を頼っていたのかもしれない。

 まあ、まともな小学生の中で一番しっかりしているのは、間違いなく私の前で穏やかな笑顔を浮かべている四葉さんなのだけれども。

 私達はそんなことを話しながら、超が目を覚ますのを待った。春日さんに部活を休む旨をメールしたり、帰るのが少し遅くなるかもしれないと家に電話をしたりしていると、三十分ほどはすぐに経過した。超が倒れてからだと、一時間くらいは経っているんだろうか。

 携帯電話の時計を確認してみると、現在時刻は十六時過ぎ。あと一時間くらいは大丈夫だろうけど、それより遅くなってしまうと、宿直の先生か用務員さんが鍵をかけにくるかもしれない。

「四葉さん、ここに居られるのはあと一時間くらいだと思うんだけど、どこか移動できるところに心当たりとかないかな。この子、訳有りっぽいんだよね?」

 ぱっと良い場所が思いつけなかったので、四葉さんに話を振ってみる。先生とかがいなくて、雨風がしのげるところ、という条件だと公園のトイレくらいしか出てこなかった。

 四葉さんは小さく首を振って、すみません、思いつかないです、と言った。けれど、その後で目に力を込めて、いざとなったら自分の家に連れて行く、と続けた。

 見ず知らずの行き倒れを拾って自分の家に連れて帰る人って本当に存在するんだ、と私はなんだか感動してしまった。いや、感動している場合じゃないんだけど。四葉さんのご両親とか説得しないといけないし、移動中は先生に見つからないようにしないといけないしで、困難な道であることに変わりはない。

「心遣いはありがたいが、その必要はないヨ」

 突然会話に割り込んできた声に、私はびっくりして振り返る。いつから気がついていたのか、超鈴音はマットからゆっくりと体を起こす。

 四葉さんも驚いていたようだったが、目が覚めたんですね、良かったと、すぐに微笑みをこぼす。

 超はそんな四葉さんに視線を向けると、あまり表情を変えずに言った。

「迷惑をかけてしまたようネ。それにどうやら、先生達にも知らせないでいてくれたようダ。恩に着るヨ」

 頼まれましたから、とそんな言葉を笑って言える四葉さんは、やはり強いのだと思う。

 四葉さんは水筒を手にとって、三つ目のマグカップにホットミルクを注いだ。温まりますよ、と差し出されたそれを、超は素直に受け取った後で床に置く。

「ありがとう。落ち着いたら頂くヨ」

 その態度にちょっとした引っ掛かりを感じて、私は心の中で首をひねる。そして、一つのことに思い当たった。

 こちらを警戒している?

 超のいた未来というのがどういう状況なのかは想像するしかないけれど、初対面の人間が出してきたものを飲めない程度に荒んでいた可能性は、十分ある。私の予想通りに、超がこの時代に跳躍してきたばかりだとするなら、現代の常識ではなく、未来の常識を基準に行動していても、不思議ではない。

「なんにしても、大事無いみたいで良かったよ。あ、四葉さん、おかわり貰うね」

 私はコンソメスープを自分のマグカップに注ぎ足して、ずず、と一口すする。

「あ、こっちはコンソメスープ。しょっぱい系のが好きなら、私の飲みさしで良ければ進呈するけど?」

 問いかけると、超の目がすっと細くなった。ありゃ、見透かされてしまっただろうか。

 いや、でもさ。四葉さんは掛け値なしの善意で動いてるのに、そういう態度をとられてしまうと、ちょっと悲しいのだ。たとえ四葉さんが気にしなくても、私が気にする。だって、超をどうこうするつもりなら、寝ているうちにどうにでもできていたんだから、少しくらい四葉さんを信用してくれてもいいと思う。

「そうネ、甘いのよりは塩辛い方が好みヨ。一口頂いてもいいカナ?」

「別に全部飲んじゃってもいいよ。私はそっちのホットミルクでもいいし」

 言いながら、マグカップを手渡す。四葉さんの作ったホットミルクだ。それはもう甘さが絶妙なことになっていると思って間違いない。視線で超に許可を取り、ホットミルクを自分の側に引き寄せる。

 コンソメスープを一口すすった超は、口の端を持ち上げて小さく笑った。

「おいしい、ネ」

 ありがとうございます、と四葉さんが笑う。

「私は超、超鈴音ヨ。私を助けてくれた二人の名前を教えてもらえるカ?」

 四葉五月です、と私の隣であっさり名乗る四葉さん。この状況で名前を言わないというのも変な話なので、私も名乗る。

「坂本春香です。えーと、よろしく、超さん」

 よろしくお願いします、と言いながら、四葉さんもぺこりと頭を下げた。

 私が四葉さんに敵わないと思ってしまうのは、今この状況に至っても「なぜ」を超さんに問わずにいられるそのメンタルだ。なぜ怪我をしているのか、なぜ倒れたのか、なぜ医者や教師に知らせてはいけないのか、私に事前知識が無ければ確実に問い質したであろう事柄を、問わない。

 相手が訳有りで、なおかつその訳に踏み込んで欲しくはないだろうことを、無意識にか意識的にか、察してしまえる。そして相手の事情を慮って、実際に踏み込まないでいられる。これはもう、才能と言ってしまって良いだろう。

 痛むところはありませんか、と超さんに問いかけるその横顔にはひとかけらの打算もない。

「痛いカと言われると怪我してるトコロは全部痛いけどネ。問題ナイヨ。ちょと派手に転んだだけダヨ」

 いやあ、冗談にしても転んだは無いんじゃないかな。そんな怪我するほど派手に転ぶ人なんて……。

 坂本さんみたいですね、という四葉さんの発言に撃沈する私。うんそうだね、私はよく転んで怪我してるね。これでも最近は背が伸びてきたから転ぶ頻度減ったんだよ?

 ちょっと情けなくなった気持ちを誤魔化すために、ホットミルクを一口飲む。あ、おいし。

「ふふ、改めて礼を言わせて貰うヨ。四葉サン、坂本サン、ありがとう」

「いやいやいや、私は四葉さんに呼ばれてここで見てただけだし、気にしないでよ」

 というか、本来私はここにいないはずの人間なのだ。予定も大幅に狂ってしまった。たぶん、魔法先生達がちゃんと調査すれば、超鈴音との第一遭遇者が四葉さんと私であることまではばれてしまうんじゃないだろうか。

 けれど、四葉さんが安心したというように笑っているのを見ると、それはそれで仕方ないかと思えてしまう。だいたい、四葉さんと友人になりたいと思ったのは私の方なのだし。

 まあ、とりあえず、超さんの体については大丈夫なようだ。どうやら本当に魔力が枯渇していたか何かだったらしい。ならばせめて、私はさっさとこの場を退散するべきだろう。

 超さんとの接点は、少なければ少ないほどいい。第一遭遇者というだけなら、心優しい女の子二人で済ませてもらえるだろう。

 私は少し冷めたホットミルクを一息に飲み干すと、カップを置いた。

「超さんも気がついたみたいだし、時間も遅くなってきたし、私は先に帰るね。あ、毛布と救急箱、返しておこうか?」

 薄情なことを言っているのは自覚していたので、せめて後片付けを申し出てみたが、さらりと断られた。四葉さんが言うには、どちらもお料理研究会の備品らしい。救急箱はともかく、毛布なんて何に使うんだろうか。

 では、と立ち上がり、用具室を出ようとしたところで、一つだけ聞いておかねばならないことがあると気づいた。振り返り、超さんの顔をみる。

「家出か何か知らないけど、泊まるところは確保してあるんだよね?」

 野宿、とか言われたらさすがに見過ごせない。いくら麻帆良の中とはいえ、女の子がそんなことをしては駄目だ。そのときは仕方ないから、私の家か四葉さんの家に強制連行させてもらう。ウチの両親なら、友達だと言えば一日くらい余裕で泊まらせてくれると思う。

 しかし、そんな私の気遣いに、超さんは苦笑する。

「家出ではナイヨ。来年度からここの中等部に通うから、その下見ネ。ちゃんと準備してきているから、安心ヨ?」

 準備、というのが何を指すのかは分からないけれど、アテがないというわけでもなさそうだ。なら、まあ、大丈夫か。そもそも、時間跳躍後の身の処し方を超が計画していない訳がないのだから、この問いは余計であった気もする。

 でも、計画していない訳がないのに、いきなり体育用具室でぶっ倒れていたりするものだから、ちょっと心配になったのだ。百年単位の跳躍なんて実験できるわけが無いから、仕方ない部分もあるのだろうけど。

「そっか。うん、安心した。じゃあ超さん、中等部ではよろしく。私も四葉さんも、同級生だよ。四葉さん、また明日ね」

 私は軽く手を振って、体育用具室を後にした。

 外に出てみると、あたりはすっかり暗くなってしまっていた。さすがに冬は日が落ちるのが早い。

 麻帆良のあたりは雪が積もるということは滅多にないが、その代わり、冬の乾いた風は刺すように冷たい。

 思わず首をすくめて背中が丸くなってしまうけれど、私は気を取り直して背筋を伸ばした。超さんが来た。まだ物語の開始は遠いけれど、ここが一つの区切りであることに違いは無い。

 一ヶ月もして年が明ければ、絡繰茶々丸が完成する。そして四月になればついに中等部だ。ネギが麻帆良に来る前の下準備が重要な私の作戦では、主要メンバーが勢ぞろいするこれからこそが本番と言える。

 気合を入れるつもりで、ぱん、とほっぺたを両手で叩いてみた。北風で冷えたほっぺたは、予想していたよりもじんじん痛かったけれど、その分しっかりと気合が入った気がした。



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悪ノリは計画的に

 冬休みが明けて、約二週間ぶりに会った葉加瀬さんは、ちょっと引くくらいテンションが高かった。

 放課後になったので、図書館にでも行こうかと歩いていた私を呼び止めた葉加瀬さんは、眼鏡の奥の目を不気味に光らせて、うふふふふと笑っていた。はっきり言って怖い。

「ちょっと、ちょっと聞いてくださいよ。実はですね……ふふふ、いえ、さすがにこれは坂本さんが相手であっても教えることはできませんね! 秘密です。ふふふふ……」

 などと供述しており、他人に言えない秘密を抱え込んでしまったことは明白なのだが、葉加瀬さん本人は滅茶苦茶幸せそうだ。目の下の隈を見る限り、睡眠不足によるナチュラルハイも手伝っていそうだけれど。

 というか、教えられないのなら最初から呼び止めなければいいのに。私でなかったら気になって問い質すと思うよ。言わないけど。

 山崎郁恵の知識と照らし合わせて考えるなら、これはおそらく、絡繰茶々丸の完成による喜びと、魔法という新たな研究テーマと出会った嬉しさとがない交ぜになっているものだろう。

 去年、体育用具室で別れてから超さんと出会うことは一度もなかったが、どうやら裏では着々と計画を進行していたらしい。

 最低でも、衣食住の確保、エヴァンジェリンとの関係構築、葉加瀬さん(あるいは麻帆良大学工学部)とのコンタクト、絡繰茶々丸の製作協力と、これだけのことをやっている。

 いや、有能すぎるでしょ。コネもツテもない百年前の世界にやって来て、まだ一ヶ月しか経っていないというのに。

 しかも、これらとは別に戸籍の偽造や中等部への入学手続き、超包子立ち上げのための資金繰りなども行っているはずだ。もちろん、現代の世界情勢や麻帆良内部に対する情報の収集も並行しているだろう。

 全盛期の某野球選手ではないけれど、行動を羅列するだけでも超さんの半端なさが分かるというものだ。

「では、坂本さん。訳が分からないお話に付き合わせてすみませんでした。私は研究がありますので失礼します」

 そして一方的にまくし立てた後、物凄くイイ笑顔で去っていく葉加瀬さんには、呆れを通り越して感心さえしてしまう。私が混乱することを分かってて話していたのか。まあ、それくらい嬉しかったってことなんだろうけど。

 科学の基本は客観性と再現性と普遍性……で合ってたっけ。とにかく、それっぽい何かだ。そして、葉加瀬さんが出会った魔法という事象は、既存の自然科学とは全く様相を異にしながら、その三つを全て満たしている。

 つまり「魔法は科学という概念で記述できる」のだ。科学の徒として生きる葉加瀬さんが、踊りあがって喜ぶのも無理はない。近い将来に魔法工学とでもいうべき分野が開拓されるとしたら、葉加瀬さんは間違いなくその第一人者になるだろう。

 そんなわけで、気持ちは分からないでもない。ただやっぱり、あそこまでこちらとテンションの落差があると、疲れる。

 とりあえず、ずんずんと遠ざかっていく葉加瀬さんの後姿に、がんばれーと手を振っておくことにした。二週間くらいしたら気も落ち着いて、元に戻るだろう。たぶん。

 

 

 葉加瀬さんにごっそり気力を持っていかれた後、当初の目的どおり、私は図書館島を目指して歩いていた。

 今日は、宮崎さんはどちらの図書館にいるだろうか。私はもっぱら図書館島を利用しているが、宮崎さんは初等部の図書館を利用していることの方が多い。

 読書好きなはずの宮崎さんとなかなか知り合えなかったのは不思議に思っていたのだが、分かってみれば当たり前の理由だった。五年生のとき、長谷川さんに「たまにはこっちの図書館に付き合え」と引っ張って行かれなければ、未だに出会ってさえいなかったかもしれない。

「お、坂本。あけおめー」

「あけおめー。って、さすがに今さらすぎるし、メールでも言ったじゃない」

 横合いから声をかけてきたのは、私と宮崎さんが出会うきっかけをくれた、長谷川さんだった。

「気分だよ、気分。図書館島に行くのか?」

「うん、そうだよ。……って、あれ?」

 隣に並んで歩き出した長谷川さんの顔に違和感。私の方が五センチ近く背が低いのは、以前からだ。それじゃない、地味眼鏡だ。地味眼鏡が登場した。

 私の視線が眼鏡に注がれているのに気づいたのか、長谷川さんはにやりと笑う。

「ただのイメージチェンジだよ。伊達だけどな」

 その笑顔はかわいらしくも格好いいのだけど、実のところ、その眼鏡をかけた理由に心当たりがある。

 五ヵ年計画で貯めたお年玉で「念願のノートパソコンを手に入れたぞ」なんてメールを私に送らなければ、死亡フラグも立たなかっただろうに。少なくとも一ヶ月くらいは気づかなかったはずだ。

「長谷川さん、ちょっとこっちに来て」

 くい、と手を引っ張って、あまり人の来ない校舎の裏手へ長谷川さんを連れ込む。

「急になんだよ、図書館に行くんじゃなかったのか?」

 不思議そうな顔をする長谷川さんに、複雑な視線を向ける。警戒心など微塵もない表情。もしかしたら、私が今から言うことは、友情を壊してしまうのかもしれない。でも、黙っていたら、それがばれた時に関係修復不可能なほどの禍根を残すだろう。

「とあるゲーム風に言うなら、悪い知らせと、比較的良くない知らせがあるんだけど、どっちから聞きたい?」

「もっとマシな二択にしてくれよ……。聞かなきゃ駄目なのか?」

 長谷川さんは嫌そうに顔をしかめる。

「聞かなかったら、後で知ったとき烈火のごとく怒ると思うよ。長谷川さんが」

「私がかよ。えーと、じゃあ悪い知らせから」

 小さくうなずいて、私は口を開く。

「中等部に進学したら、私は麻帆良的な意味での普通な人になると思う」

 長谷川さんが視線で私に続きを促す。

「ここ四、五年ほど、塾でものすごーく勉強を頑張っててね。四月からは、大学部のサークルに参加許可が貰えるの。ある意味、葉加瀬さんのお仲間になる、のかな」

 頭の良さには月とスッポンほどの差があるけどね、と誤魔化すように笑ってみる。

 はぁーっ、という大きなため息は、長谷川さんのものだ。額に手を当てて首を振っている。

「……バカ。坂本が私とかと比べて異常に頭が良いことくらい、ずっと前から知ってたよ。今さらそんなことくらいで怒るか」

 ちょ、ちょっと、やめて欲しい。不覚にもうるっと来た。本命である次に行く前のクッションとして、どっちを選んでもこっちの話からにしようとか思っていた打算まみれな私になんてことを言ってくれるのか。

「ほら、次。比較的良くない方もさっさと言え。またくだらないことだったら、それこそ怒るからな」

「うん、えっと、その、できれば怒らないでね?」

「くだらないことだったら怒るっての。ほら」

 上目遣い攻撃は不発に終わった。私が佐々木さんくらいのナチュラルボーンキレイカワイイだったら効果があったんだろうか。いや、それはそれで長谷川さんの神経を逆なでしそうだ。私の基準からすると長谷川さんも十分以上にかわいいのだけど。

「……ホームページ。ネットアイドル。ちうの部屋」

 ぼそっと三つの言葉を呟く。変化は劇的だった。

「っちょ、おま、ふざけんな、どこで知った! な、なん? あ、うえええええ?」

 長谷川さんがぶっ壊れた。顔を真っ赤にして、わたわたと手足を振り回す。

 まあ、開設から一週間も経っていない小規模サイトがいきなり身内バレしたら、こうなっても仕方ない。

「ごめん、落ち着いて。いやもう、ほんと、ごめんって。大丈夫、かわいく撮れてたよ」

 パソコン買ったよメールが来てから、毎日のように「ちうの部屋」で検索かけてたなんて言えようはずもない。四日目にしてランキングサイトが引っかかったときは、自分でやっておいてなんだけど「あちゃー」という感じだった。

「なんで、どうして……」

 長谷川さんは頭を抱えてぶつぶつと呟いている。重症だ。全面的に私のせいなんだけどね。

 でも、サイトのことを知っていると明かすなら、早い方がいいと思ったのだ。長谷川さんがどっぷりのめり込む前に、ナンバーワンネットアイドルとしての地位に固執する前に明かさないと、傷は深くなるばかりだ。

 とりあえず、何故知っているのかという問いに対して用意しておいた答えを返す。

「山崎郁恵」

 私が出した名前に、長谷川さんがぴくりと反応する。

「あれ、私」

「あれ坂本かよっ! 意味わかんねーよ、何いきなり相互リンクとか申し込んできてるんだよ、ホクホク顔でメール返しちゃっただろうが、馬鹿かお前!」

 長谷川さんは一息に叫んで、ぜえぜえと肩で息をついている。

 うん、物凄く丁寧なメールが返ってきた。文面の端々から長谷川さんが喜んでいるのがありありと伝わってくる、そんなメール。キャラ作るならあっちの方がいいと思う。

 でも、いくら人の来ないところとは言え、あんまり大声を出すと周りに聞こえるよ。ちうの部屋、というサイト名さえ出さなければ問題ないけど。

 山崎郁恵というのは、二年ほど前に立ち上げた、おたく系書評サイトで使っているハンドルネームである。私ではなく、山崎郁恵の言葉をどこかに吐き出したくて作ったものなのだが、長谷川さんのサイトを見つけたときに、丁度良いから相互リンクを申し込んでおいたのだ。ちなみに、ヒット数はしょぼしょぼである。

 これで私達はお互いに、自サイトの身内バレという秘密を共有する仲だ。いや、恥ずかしさでは長谷川さんの方がかなり上だろうけど。

「坂本、おまえ、悪い知らせと比較的良くない知らせ、じゃないだろ。どうでもいい知らせととんでもない知らせの間違いだろ、明らかに」

 長谷川さんは少し涙目だ。

「うっかり見つけちゃったことを言っておかないと、後でもっと怒るかなーと思って。大丈夫、他の誰にも言わないから」

「当たり前だっ! ……いいや、安心できない。そうだな。坂本には誰にもバラさないという証を立ててもらおう」

 地味な眼鏡の向こうで、長谷川さんの目に狂気の光が灯ったのを確かに見た。

 

 

 はなはだ不本意、というか私的に黒歴史確定なのだけど、数日後の話だ。

 更新されたちうの部屋の写真の中に、地味眼鏡を装着してアニメキャラの衣装に身を包んだ私が、ちうと並んで写っているものが一枚、混じりこむことになった。

 長谷川さんのコメントは「おともだちのいくちゃんと二人でポーズ☆」だった。死にたい。

「ねえ、絶対言わないから、あれ消してよ。他のことなら大体なんでもするからさあ」

 その次の日、そんな台詞で懇願してみたのだが、長谷川さんは、にいっと笑って一言だけ返してきた。

「却下」

 悪夢だ。



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疾走する少女とへたれな糸目

 まだまだ寒い日が続く二月も、半ばを過ぎた。来週からは卒業式の練習とかが始まるらしい。クラス内では寄せ書きの台紙が回されているし、少しずつ初等部生活の終わりが近づいてきているのを感じる。

 大半がそのまま中等部に進学するとはいえ、他の学校へ行くという人だって決して少ないわけではない。麻帆良内に限っても、中学校は幾つもあるのだ。

 そうでなくとも、六年間変わらなかったクラスメイトと別れることになるのは確かだ。いつもは賑やかな初等部校舎が、どこか湿っぽい空気に包まれていると感じるのは、一等騒がしいはずの六年生が大人しくなっているせいかもしれない。

 クラスの中に親しい友人が葉加瀬さんしかいない私でさえ、少しばかりしんみりとした気分になっている。

 クラス内では浮き気味だった葉加瀬さんや私を、クラスメイト達はなんだかんだありながらも受け入れてくれていた。授業で分からないことがあれば「春香ちゃん教えてー」なんて言ってきたし、葉加瀬さんが新しい発明を披露すれば、一緒に驚いたり笑ったりしていた。

 振り返ってみれば、なかなか楽しい六年だったと思う。

「春香じゃん。やほー」

 湿っぽい空気など微塵も感じさせない、からっとした声に、私は振り向いた。

 ぶんぶんと手を振ってくる、黒いシスター服に身を包んだ女の子が、一瞬誰なのか分からず、私は眉を寄せた。

「お? そっか。この格好はじめてだっけ。私、私」

 女の子が口の部分を覆っていた布をぐいっとどかした。

「あ、春日さんか」

 考えてみれば、シスター服を着るような知り合いは彼女しかいない。いや、長谷川さんも着るかもしれないけれど、その格好でこんなところを歩いてはいないだろう。

「そゆこと。シスター・シャークティにお使い頼まれてさー。今から中等部の方まで行かなきゃいけないんだよね」

 着替える前に言ってくれればいいのにー、と春日さんはぼやいている。

 確かに、構内をシスター服で練り歩くのは、少し嫌かもしれない。宗教と縁の薄い生活をしていると、半分コスプレみたいなものだし。

「特にこのベールがさー、結構ぴっちりしてるから窮屈なわけよ」

 などと言いながら、春日さんはばさりとベールを取った。

「えぇっ、髪切っちゃったの?」

 ベールの下から現れたのは、後ろから見たら男の子と間違いかねないくらいのベリーショートである。私は思わず、驚いた声を上げてしまった。

 いや、いずれ髪を切るのだろうと知ってはいたけれど、この数年間ずっとセミロングな春日さんを見ていたから、なんとも違和感があるのだ。

「いやー、ちょっと気分を変えたかったからばっさり行ったんだけどさー。院長先生は泣くわ、シスター・シャークティは怒るわで大変だったよ」

「ばっさり行ったって、もしかして自分で切ったの?」

 春日さんはへへへ、と笑いながら答える。

「そうそう、こないだの土曜日にね。床に新聞紙をひいて、こうハサミで、てやっ、ってさ」

「そりゃ泣くし怒るだろうよ」

 後頭部のあたりに手を持っていって髪を切るジェスチャーをした春日さんに、私は嘆息する。

 髪質も良かったのに、もったいない。

「見つかった直後に美容院に引きずっていかれたからね。さらに家に帰ってから説教の上、高校卒業まで大人しくしてるって約束までさせられちゃった」

 ああ、卒業までおしとやかにする、っていう春日さんのパーソナリティと真っ向から衝突する約束事は、そういう経緯で決まったのか。でも、中等部からは寮生活になるから監視の目が届かないと思う。私の記憶においてもメッキは剥がれきっていたわけだし。

「別に髪くらい自分の好きに切っていいじゃんねえ」

「いやあ、今回ばかりはシスター達の味方するよ、私は」

 髪は女の命って言葉を知らんのか、春日さんは。たとえ知っていても思い立ったが吉日とばかりに、笑いながらばっさり行きそうだけど。

「もー、みんなして同じこと言うんだもんなあ」

「みんな、って?」

「クラスの友達とか、瀬流彦く……先生とかっ」

 そう言うと、春日さんは自分で窮屈だと評したベールを被りなおしてしまった。どうやら髪については各方面から散々言われたらしい。

 あまり触れて欲しくなさそうだったので、話題を変えることにする。

「あはは、短いのも似合ってるよ。それはそうと、先生ってどういうこと?」

 いつだったか春日さんに聞いた話から計算すると、瀬流彦さんは大学を今年卒業するはずなので、まだ先生ではないと思うのだけど。家庭教師でもしてもらっていたのか、それとも麻帆良中等部の教師として就職が決まったのを教えてもらったんだろうか。

「……ああ、四月から女子中等部の先生なんだって。ふん、鼻の下伸ばしちゃってさあ」

 さらに不機嫌な感じの反応が返ってきてしまった。話題転換失敗。

 ええと、本当に鼻の下が伸びてたかどうかは置いておいて、だ。仲の良かったお兄さんが女子校の先生になるって、そんなに嫌なものだろうか。……あー、ちょっと嫌かもしれない。周り中が女の子なわけだし、瀬流彦さんの性格だと「これからは先生って呼ばなきゃ駄目だよ」とか言っていそうだ。あの糸目め、春日さんのほのかな憧れ的な何かをもうちょっと汲み取ってくれてもいいだろうに。

「はい、この話は終わり、終わり。んじゃ、私はお使いしなきゃだから、またね」

 びしっ、と手を挙げて別れを告げると、春日さんは物凄いスピードで中等部校舎の方へ走っていった。後ろに砂煙がたってるんだけど、あれってやっぱり魔力で強化してたりするんだろうか。スカートで全力疾走は、あんまりお勧めできないな。足が見える、足が。

 それにしても、迂闊だった。髪型を変えたら、褒めて欲しいよなあ、女の子だもん。しかもどうやら、瀬流彦さんまで髪を切ったのはもったいない的な発言をしたらしいし。そりゃあ機嫌も悪くなろうというものだ。

「あっ」

 一つの可能性に気づいて、声を上げる。

 そうか。春日さんが学園祭編で、神楽坂明日菜と高畑先生のデートの尾行に付き合っていたのは、好奇心以上に、自分と瀬流彦さんを重ねていたから、だったのだろうか。実のところ春日さんは、雪広さんと並ぶくらい、神楽坂明日菜の告白を応援していたのかもしれない。

 って、飛躍しすぎかな。何より、人の色恋を勘繰るのは、あまり褒められたことではない。勘繰るの大好きだけど。早乙女さんみたいなラブ臭レーダー、私にもついていたら良かったのに。

 

 

 ラブ臭と言えば、カモが作っていた好感度表。あれ、実際のところかなりの凶悪アイテムだ。超家の家系図に匹敵する。精度がどの程度のものかは分からないけれど、あれを実際に好意を持っている人間の前でちらつかせるという行動自体が、ほとんど悪魔の所業である。

 オコジョ妖精はケット・シーと並ぶ由緒正しい使い魔とか言われていたけど、むしろレッドキャップとかと並べるべきじゃないだろうか。いや、カモを一般的なオコジョ妖精と並べるのが間違っているのか。

 そんなことを考えながら駅に向かって歩いていると、ベンチに座ってたそがれている糸目を発見した。……いけない、春日さんの件で瀬流彦さんを見る目がちょっと厳しめになっている。

 春日さんからちょくちょく話を聞いてはいたけれど、直接会うのは何年か前に貧血で倒れたのを介抱してもらって以来だ。

 挨拶くらいした方がいいのだろうか。でも、ちらっと会話しただけの女子のことなど、普通に忘れている気もする。というか、私なら忘れる。

 三秒ほど悩んでから、さっくり無視して通り過ぎようとしたのだけれど、向こうから声をかけてきた。

「こんにちは。美空ちゃんの友達の、ええと……春香ちゃん、で合ってたっけ」

「はい、そうです。こんにちは、瀬流彦さん。いつぞやはお世話になりました」

 とりあえず当たり障りのない挨拶を返して、ぺこりと頭を下げた。

「相変わらず、礼儀正しい子だね。というか、よく覚えてたね。会ったのはもう、四年くらい前じゃなかったっけ」

 瀬流彦さんが、はははと笑う。少し苦笑が混じっていた気もする。

 そんなこと言ったら、瀬流彦さんこそ良く覚えていたものだ。特に小学二年生と六年生なんて、同じ人物だと見分けるのも大変だと思うのだけど。背の低い私でさえ、ここ数年で十五センチ以上は伸びている。

「記憶力には自身があるんです」

 これはそれなりに本当だ。暗記系の問題は得意である。

「それで、わざわざ私に声をかけたということは、何か用があるんですよね?」

「あ、そうそう。美空ちゃん、見なかった? 教会の方に行ってみたんだけど、誰もいなかったんだよね」

 まあ、そんなところだろう。はっきり言って、それ以外で瀬流彦さんが私に接触する理由なんて思いつかない。

「春日さんなら、さっき会いましたよ。初等部の講堂裏あたりです。シスター・シャークティに頼まれて、中等部までお使いだって言って走っていきましたけど」

 私が答えると、瀬流彦さんはベンチから立ち上がった。

「ありがとう。あの子が本気で走ってたら追いつける気がしないけど、とりあえず行ってみるよ」

「……何かあったんですか?」

 瀬流彦さんの表情は読みにくいけれど、少なくともベンチに座ってたそがれるくらいには、困っていたはずだ。

「なんだか、怒らせちゃったみたいでね。謝ろうと思って」

 とりあえず、春日さんが不機嫌になっているのを分かる程度には、心の機微が分かるらしい。私は瀬流彦さんの人物評価を少しだけ上方修正した。そうか、謝るつもりで会いに行ったのに、相手がいなかったら、そりゃあたそがれもする。

「先週の半ばくらいから、避けられてるんだよね」

 先週の半ばから? おかしい、タイミングが合わない。

 春日さんが髪の毛を切ったのは土曜日。つまり三日前なわけで、それでは瀬流彦さんに「新しい髪型を褒めてもらえなかったから」怒っているという私の予想とは合致しない。先週半ばから瀬流彦さんを避ける理由にならないのだ。

「つかぬことをお伺いしますけど、何を謝りにいくんですか?」

 さすがにこの質問は踏み込みすぎだろうか。ほとんど初対面の私に教えてくれるとは思えない。しかし、予想に反して瀬流彦さんは答えを返した。

「いや、それが僕にも良く分からないんだよ。いきなり『瀬流彦くんのバーカ、あほ!』ってメールが来ただけ。昨日なんとか見つけたときは髪がすっごく短くなってたし、顔を合わせるなり逃げ出すし、メールには返事しないしで……春香ちゃん、なにかアドバイスくれない?」

 な、情けない。小学生の女子に聞くことだろうか。大学生でしょう、あなた。

 それにしても、春日さんの行動は不可解だ。瀬流彦さんの言い分を百パーセント信じるわけではないけれど、少なくとも明確なきっかけになるような事件は無いように思える。

「瀬流彦さんは来年度から先生になると聞きましたけど『中等部に行ったら僕のことはちゃんと先生って呼ばなきゃ駄目だよ』って言い聞かせた、とかありませんよね?」

「あー、似たようなことは言ったかも。でも、去年の十二月くらいだよ。というか、今の僕の真似?」

 これでもない、か。うーん、なんだろう。先週の半ば、半ばか……。

「あ」

「あ?」

「チョコ、貰いました? 春日さんから」

 先週の水曜日は、バレンタインデーだ。あまりにも私にとって価値の無い日だから、すっかり忘れていた。女子校のバレンタインほど不毛なものもないと思う。

「そういえば、今年はもらってないな」

 今年は? 今年は、って言ったよ、この糸目。何それ、大事件じゃない。毎年チョコくれてた女の子が今年になっていきなりくれないとか、思いっきりフラグ折れてるじゃない。春日さんは髪を切ってるし、あー、あー、あーもう。ちょっとこの人、本当に先生になる気だろうか。いくらなんでも察しが悪すぎだ。朴念仁にもほどがある。

 ってか私も馬鹿だよ。もっと早く気づこうよ。春日さんの反応、いつもと違って微妙に変だったじゃない。いやもう、春日さんが髪を切るイベントは確定事項だと思ってたから理由までは気が回らなかったとか、言い訳になってしまうだろうか。言い訳だね、確実に。

「瀬流彦さん」

 にっこりと微笑む。額に青筋が浮かんでいたり、ごごごごご、って感じで背後にオーラとか出てたりするかもしれないけど、意地でもにっこりと微笑む。

「大学で彼女ができたんだか、どこの馬の骨とも分からぬ女の子からチョコをもらってでれでれしてたんだか知りませんけど、春日さんに思いっきりばれていますんで、とっとと会いに行って全力で土下座をかましてきてください」

「は」

「ああ、いえ、取り乱しました。すみません。彼女ができたのなら、しばらく春日さんの前に姿を現さないでください。現在特定の女性に好意を抱いていないのなら、春日さんのために、今すぐ、全速力で追いかけて、自身の非を全面的に認めた上で、なぜ怒っているのかの理由を聞いてみてください。おそらく、些細な誤解か何かです。お引止めしてすみませんでした」

「はあ」

 全然わかってなさそうな顔でうなずく瀬流彦さん。

「今すぐ、と私は言いました」

「りょ、了解!」

 言葉と共に駆け出す瀬流彦さん。あの人、本当に将来凄腕の結界魔法使いになるんだろうか。すくなくとも学園祭編では、かなり格好良さげな防御陣を展開していたのだけど。さりげなく龍宮真名の狙撃も乗り切って、超さんとネギの最終決戦まで生き残っていたし。

 とりあえず、私も完全に分かった訳じゃないけど、大枠は掴めた、と思う。

 バレンタイン当日、瀬流彦さんにチョコを渡しに行く春日さん。他の女の人と仲良さげな雰囲気になっている瀬流彦さん。それを思いっきり目撃してチョコも渡さず逃げ去る春日さん。と、たぶんそんな感じだと思う。

 髪をばっさり切るくらい、失恋を確信するような何がしかもあったと考えるべきだけど、それが何かまでは分からない。

 まあ、瀬流彦さんは中等部の方に向かって走って行ったから、お付き合いしている女性は、とりあえずいないのだろう。

 仲直りできるかどうかは、春日さんの素直さと、瀬流彦さんの真剣さにかかっているわけだけど……。

 うーん、冷静に考えてみると、今のはちょっと暴走だったかもしれない。

 これで春日さんが怒っている理由が全然違うものだったら(例えば瀬流彦さんが春日さんのプリンを食べた、とかだったら)この後、瀬流彦さんはとても面白いことになってしまうと思う。

 まあ、そのときは、私なんかに声をかけた、自分の不運を呪ってほしい。ごめんね、瀬流彦さん。




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【番外】 甘いものとスパイスと、それからすてきなもの全部

 坂本春香の前から、半ば逃げ出すような形で去ってきた美空は、二百メートルほど走った辺りで速度を緩めた。

 最初のうちは、それなりにいつもどおりだったと思うけれど、最後辺りは自分らしくなかったかもしれないと、美空は考える。不審に思われなかっただろうか。

 今さら考えても仕方ないと頭を切り替えて、美空は中等部校舎へ向けて、普通に歩き出した。

 麻帆良中等部魔法生徒としての研修を受けてくること。

 初等部の卒業が近づいてきた今日、美空がシスター・シャークティに命じられたのは、それだけだった。いつもは真面目にやりなさいと細かくチェックしてくる教会の掃除も免除である。

 その代わりに、今から二時間ほど、耳にタコができるくらい聞かされた立派な魔法使いになるための心得だとか、魔法生徒として活動するときの問題解決手順だとか、そういうことをみっちりと詰め込まれるわけだ。

 面倒くさいという点では、美空にとってどちらもあまり変わらない。

 ただ、瀬流彦も同じように魔法先生としての研修を受ける可能性がある。中等部校舎になんて行ったら、ばったりと顔を会わせることになるかもしれない。会うの、嫌だなあ、と美空は思う。

『美空ちゃんは妹みたいなものですよ』

 先週の水曜日、瀬流彦が笑いながら言っていた台詞を思い返す。

 別に、それくらい美空にも分かっていた。

 バレンタインのチョコは毎年渡していたけれど、それ以外ではいつも無理やりおごらせたり、からかってくるのを蹴っ飛ばしたりしていた。向こうは大学生で、こっちは小学生。女の子として見てくれる要素があったとは思っていない。好きだなんて言ったことはないし、そもそも恋愛感情として好きなのかも、美空には分からない。

 けれど、それでも、源しずなだかいう美人な先生と並んで歩いているのを見たときは、なんだか無性に腹が立った。高畑先生から聞いていると、自分のことを話題にされたのを、妹みたいという一言で否定されたときは、……胸が痛かった。

 妹と言われて美空が連想するのは、自身の仮契約相手であるココネだ。美空と同じ施設で暮らし、シスター・シャークティに師事する、まさに妹弟子だが、魔法の技術は一年もしない内に追い抜かれた。

 適正の問題もあって、仮契約ではココネがマスター、美空が従者という形になりはした。だが、美空にとってココネはかわいい妹分である。

 美空がココネに向ける親愛の情。瀬流彦が自分に向けるものがそれと同じなのだと考えると、嫌だった。美空が欲しいのはそれではなく、もっと異なる関係だった。

 妹という言葉が問題外という言葉と同じに思えて、美空は瀬流彦に会うこともせずにその場を立ち去った。

「あー、もう、春香のせいだかんねっ」

 吹っ切るために髪を切ったのに、髪を切ったことを話題に出されると、瀬流彦のことを思い出してしまう。悪循環もいいところだった。

『うわ、美空ちゃん髪切ったのか。そこまで短いと、男の子みたいだなあ』

 つい昨日、瀬流彦に言われたことを反芻する。

 男の子みたい。

 だったら美空は、「妹みたい」から違うものになったのだろうか。なら、その方がいい。妹だと思われるくらいなら、男の子だと思われた方が、いい。

 頭ではそう思ったはずなのに、体は勝手に瀬流彦から逃げ出した。

 知らず、うつむき気味になって歩いていた美空の耳に、良く知った声が届いた。

「あ、いた! 美空ちゃーん」

 その声を自分が聞き間違えるはずもない。振り向きもせず、美空は駆け出した。

「っちょ、どうして逃げるの」

 瀬流彦の気配が、後方にある。向こうも美空と同じように、走っているようだ。

 美空が得意な魔法は大別して二つ。いたずらに使える魔法と、身体強化の魔法だ。走るのが好きな美空は、より速く走ることができる身体強化もまた好きだった。

 それでもやはり、大人と子どもではコンパスが違う。瀬流彦だって、身体強化の魔法は使えるのだ。

 美空の背後でごめんとか僕が悪かったとか言っている声が、少しずつ近くなってくる。じりじりと、距離が詰まるのを感じた。

 

 

 走って、走って、美空は中等部校舎の裏手にある雑木林に突入した。人目の無い場所に到着してしまえば、美空の勝ちだ。

「来たれ」

 力ある言葉と共に召喚された靴型のアーティファクトが、美空の足を覆う。これでもう、誰も自分に追いつけない。

 一歩目でトップスピードに達し、二歩目で跳躍、三歩目からは既に、美空は木の枝の上を走っていた。

 自分の絶対的な有利を確信した美空は、そこではじめてちらりと後ろを振り返った。

 瀬流彦の息は既に上がっていた。雑木林にたどり着くまで、優に一キロは走っている。普段そこまで運動をしてはいないだろう瀬流彦が全力で走り続けるには、楽な距離とは言えない。

 それでも、瀬流彦は美空を追いかけるのをやめない。

 なんで追ってくるのだろう。なんで謝ってくるのだろう。どうせ、美空が何に怒っているのかも分かっていないくせに。

 美空は前に視線を戻して、さらに瀬流彦から距離をとろうと脚に力を込めた。

 次の枝に向かって跳んだ瞬間、ばふんと何も無い空中にとらわれた。

「なっ?」

 美空の眼前に展開されたのは、ただの防壁用魔法陣だ。本来、衝撃を緩和するために使うそれを、美空の進行妨害に使ったのだと理解する。

 空中で速度を殺された美空は、三メートル近い高さから落下した。美空は箒が無ければ飛べない。

 地面に、ぶつかる?

 美空は思わず目を閉じた。

「風よ!」

 瀬流彦の鋭い声と共に、風に包まれた美空の体が宙に浮いた。

「……あ」

 ふわり、と優しく着地した美空が目を開くと、肩で息をしている瀬流彦が立っていた。

「まっ……たく、さすがに、速いよ。……は、ふぅ。でも、追いついた」

 瀬流彦が、糸のように細い目をさらに細くして笑う。

 膝をついて座りこんでいる美空と視線を合わせるみたいにして、瀬流彦はしゃがんだ。

「ごめんね、美空ちゃん。全部、僕が悪い」

「何がっ……」

 何が悪いというのだろう。美空自身、もうぐちゃぐちゃになって何に怒っているのか分からないというのに、瀬流彦は何に謝るというのだろう。

「美空ちゃんが、なんで怒ってるのか、分かってあげられなくて、ごめん。いつの間にか怒らせちゃってたことに、気づいてあげられなくて、ごめん。ね」

 瀬流彦の大きな手が、美空の頭に載せられた。ゆっくりと優しく、なでられる。

 ぼろりと、涙がこぼれた。美空の胸の中に押しとどめられていた何かが、音を立てて決壊したような気がした。

「い、妹じゃ、ない」

 美空は搾り出すようにして声を上げた。

「男の子じゃ、ない。わた、私、女の子だよっ……」

 そこまでしか言えなかった。それ以上は言葉にならなかった。あとはもう、幼稚園の子どもに戻ったみたいに、わんわんと泣くことしかできなかった。

「……そっか、そうだね。男の子みたいだなんて言って、ごめん。美空ちゃんがこんなにかわいい女の子になってるって、気づいてあげられなくて、ごめんね」

 瀬流彦は、何度も謝りながら、美空の頭をなで続ける。

「う、あ……」

 言葉が出てこなくて、美空は泣きながら首を振った。

 もういいのだ。そんなに謝らなくてもいいのだ。美空が勝手に怒っただけなのだから。妹でも仕方ないのに、それで満足できなかっただけなのだから。こんなに美空を優しく扱うことなんて、せずとも良いのだ。

 けれど瀬流彦は、日が暮れてもずっと、美空が泣き止むまでずっと、隣にいてくれたのだった。

 

 

 この件を経て、美空と瀬流彦の関係が大きく変わったかと言えば、別にそんなことはない。

 瀬流彦は相変わらず、美空をからかうことをやめなかったし、美空はそれに対してキックという報復を欠かさなかった。ことある毎に、美空は瀬流彦に甘味をおごらせたし、瀬流彦は薄い財布にため息をつきながらもそれを受け入れた。

 ただ、一週間遅れで瀬流彦にチョコレートを渡した美空は、また髪を伸ばし始めた。

 瀬流彦も、誰かに美空のことをたずねられたときは「かわいい女の子ですよ」と返すようになった。

 それからまったくの余談として。

 魔法生徒の研修をすっぽかした美空はシスター・シャークティに。一般人の目に触れかねないところで魔法を使った瀬流彦は高畑先生と学園長に。それぞれこっぴどく説教されたのだった。




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【資料】 対策ノート(三十二ページから三十五ページ)

本編だけ読んでも話が通じるように書くつもりですので、読み飛ばしても問題ありません。


(ページ全体にわたって、何度も書き直した跡が残っている)

 

書き直した日 2001/03/13 十二歳の誕生日

 

A組の人達

 

相坂さよ

 中等部3-Aの教室にいるはず。学園祭のときに行ってみたけど、そもそも私に見えるわけが無かった。

 

明石さん

 運動会の百メートル走で同じ組になった。結果、惨敗。春日さんに勝とうとは思わないけど、明石さんにまで……。

 ライバル宣言をしてはみたけど、今日までの戦績は全敗中。無意識に魔力で身体強化とかしてないよね?

 

朝倉和美

 報道部の新聞に記事を書いてるのを発見。どうやら共学の小学校にいるようだ。

 わざわざ会いに行くというわけにもいかないので、中等部まで保留。

 

綾瀬夕映

 麻帆良にいない、のかな? 初等部図書館に入り浸っている宮崎さんが会ったことないみたいだし。

 他の小学校なのかもしれない。

 

和泉亜子

 サッカー部の練習グラウンドとか探してみたけどいないっぽい。

 もしかしたら怪我で入院、リハビリ中とかなのかもしれない。わかんないけど。

 

大河内さん

 夏休み中、学校のプールへ遊びに行ったら物凄く気持ちよさそうに泳いでた。せっかくなので潜水のコツを教えてもらった。

 一緒にいると和む。

 髪型が被るので、大河内さんと会うときは後ろで三つ編みにすることにしている。

 

柿崎さん

 某デパートのバーゲンセールで、一つのバッグを奪い合った敵。周りのお姉さん達が引いていたのが印象的。釘宮さんが仲裁してくれなかったら、バッグが壊れていたかもしれない。

 というか、奪い合っている最中は、まさか相手が柿崎さんだとは思ってなかったんだけど。

 服の裾の詰め方とかを教えてくれた。デザインは気に入ってもサイズの関係で諦めていた服を買えるようになった。今は感謝している。

 

神楽坂明日菜

 雪広さんの話に度々登場する。でも会えない。

 縁がないんだろうか。

 

春日さん

 陸上部仲間。

 どうも瀬流彦さんに対して憧れというかほのかな恋心というか、なんか乙女ちっくな感情を抱いているくさい。私もラブ臭レーダーが欲しい。

 最近、髪を切った。瀬流彦さんのせいで。とりあえず、仲直りはしたみたいだ。

 ココネとはもう仮契約済みなんだろうか、不明。

 

絡繰茶々丸

 葉加瀬さんの反応を見る限りでは、完成したみたいだ。

 今は最終調整中、なのかな。

 

古菲

 学園祭のとき、中国武術研究会の演舞とかを見に行ったけど、出ていなかった。

 まだ故郷にいるんだろうか。

 

釘宮さん

 バーゲン会場で同じ品物を取り合っていた私と柿崎さんの争いを止めてくれた恩人。

 牛丼に玉子は贅沢か否かを論じ合った仲。

 最近、紅しょうがの良さに目覚めたと言っていたので、紅しょうが丼まで行ったら邪道だよと釘を刺しておいた。

 

近衛木乃香

 もう麻帆良にいると思うんだけど、会えない。どこだ。

 神楽坂明日菜と近衛木乃香は割と一緒にいるイメージがあるので、どちらかと仲良くなれればもう片方とも知り合えそうなんだけど……。

 

早乙女さん

 某ショッピングビル十二階のイベント会場で行われていた即売会にて発見。既に売る側にいるとは思わなかったよ。

 今のところ親御さんと同じサークルにいるけど、中等部に行ったら独立するそうだ。おたくエリートにも程がある。

 マイナーカプ友の会を結成。会員三名。(私、早乙女さん、早乙女さんのお母さん)

 

桜咲刹那

 まだ麻帆良にいないみたい。確か中等部からの護衛だったはずだ。

 

佐々木さん

 早朝ランニングをしていたら、前を走っているのが佐々木さんだった。

 新体操の大会は何回か応援に行った。十分うまいと思うんだけど、なかなか賞につながらない。麻帆良出身者にハンデとかつけてないよね?

 

椎名桜子

 雪広さんと同じクラスにいる、はず。なぜか会えない。美味しいケーキ屋さんとかも巡ってみたりしたんだけど。

 持ち前の幸運で、私という疫病神を回避しているんだろうか。誰が疫病神か。

 

龍宮真名

 龍宮神社へ初詣に行ったとき、巫女服で破魔矢とかを売っている、それっぽい人を見かけた。人ごみが凄くて近寄れなかったけど。

 そのくせ、学園内では見かけない。お正月だけ里帰りしてるんだろうか。

 それ以外のときは外国にいる可能性が大。

 

超さん

 昨年末、魔力切れか何かで倒れていたのを四葉さんと一緒に介抱した。中学三年の学園祭まで面識すら無いのが理想的だったんだけど、まあ仕方ない。

 その後は一度も見かけていない。どこに潜伏しているのか見当もつかない。探すつもりもないけど。

 とりあえず葉加瀬さんとは既に接触があったみたいだ。

 

長瀬楓

 見当たらない。さすが忍者。原作では全然忍んでなかったけど。

 まだ麻帆良に来ていないのかもしれない。

 

千鶴さん

 初等部各クラスの委員長が集まる話し合いに出席していた。先生視点では私、雪広さんと同じく手のかからない組扱いなのか、トリオを組まされた後は放置されることが多かった。

 割と仲良くなった頃に、なんで名前で呼んでくれないのかと怒られた。怒るとすごくこわい。

 

鳴滝風香

 少なくとも女子初等部にはいない。全校集会のとき最前列にいなかったから、たぶん間違いない。

 他の小学校にいるんじゃないかな。

 

鳴滝史伽

 姉に同じ。

 同学年にあの身長の子がいたら分かるはずだから、他の小学校なんだと思う。

 

葉加瀬さん

 同じクラスの友達。

 昔は割と普通だったのに、工学部の研究室に顔を出すようになったあたりからマッドっぽさが顔を出し始めた。

 絶対、大学のエキセントリックな人達の影響だ。本人の資質もあるとは思うけどさ。

 最近テンションがやたらと高い。寝不足になってるみたいだけど、もう少し体を大事にして欲しい。

 

長谷川さん

 麻帆良駅近くの公園で出会った。愚痴友達、みたいな感じ。

 先日、ついにネットアイドルへの道を歩みだした。あの写真消してくれないかな、無理かな。

 私に知られているからか、ネット上でのキャラ作りが結構まとも。ぴょんとか言ってない。日記とコラムが普通に面白い。

 

エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル

 学園祭で出店を回ってみた感じだと、女子中等部にいないような気がする。サボってるだけという気もする。

 高畑先生と同級生だったことがあるという話だから、麻帆良内の中学校を三年毎に転々としているのかもしれない。

 

宮崎さん

 長谷川さんに連れて行かれた初等部図書館で遭遇。かぎばあさんシリーズを読んでいた。いい趣味だ。

 本ならなんでも読むみたいだけど、ファンタジーと恋愛ものが特に好きらしい。

 漫画も読むらしいので、そのうち辺境警備とかSo What? あたりを貸そうと思う。

 

村上さん

 学園祭のとき、演劇部の舞台で村人A(Bかもしれない)をやっていた。微妙に親近感。

 出待ちして、偶然を装いつつ知り合った。なんだかナンパ男の手口みたいだ。

 そばかすを気にしているみたいだったので、お肌の手入れについて相談に乗ったりしている。将来的には化粧で隠せる部分もあるけど、やっぱり気になるよね。

 

雪広さん

 初等部各クラスの委員長が集まる話し合いで隣の席になった。小学生離れした有能さ。

 委員会の先生の指示で、雪広さん、千鶴さん、私のセットで組まされることが多い。完全に手のかからない組を作りたかったのだと思われる。三人をそれぞれ別のグループのまとめ役として放り込んだ方が効率良かったと思うよ、先生。

 たまに神楽坂明日菜のことを愚痴るというか自慢してくる。

 

四葉さん

 お料理研究会の出店で店番をしていた。心のオアシス。

 たまにお菓子の作り方を教えてもらったりする。なんで同じレシピで作っているのにあんなに味が変わるんだろうか。

 超さんと知り合うきっかけを作ってしまってくれた。まあ、私の自業自得か。

 

ザジ・レイニーデイ

 不明。

 現時点で旧世界にちゃんと存在しているのかすら不明。実は召喚された悪魔です、とか言われても信じる。

 とりあえずサーカスにはいなかった。

 

 

その他面識を持った人

 

高畑先生

 報道部の新聞に度々取り上げられている。

 貧血で倒れたところを介抱してもらった。結局あれ以来一度も遭遇していない。

 

瀬流彦さん

 へたれ。



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中学生時代
賑やかで騒がしい日々のはじまり


 女子中等部入学式前日。私は寮の入り口で渡された部屋割表にしたがって、あてがわれた自室へと向かう。宅急便で送った荷物は、既に運び込まれているそうだ。

 同室となるルームメイトは、もう到着しているとのこと。荷解きなどで差し当たって使いそうなものを入れた、大き目のボストンバッグを肩にかけて、階段を上る。気を抜くと乾いた笑いが漏れ出てしまいそうなので、注意しなければならない。

 部屋割表と言ったが、実はその左にもう三文字くっついている。印字してある文字を正確に読めば「1-A部屋割表」である。

 何度読んでも変わらない。どうやら私は本当に、1-Aにクラス編成されてしまったようだ。

 誤算、というほどではない。可能性としては考慮していた。違うクラスに所属している場合と比べて、できること、できないことの基準が、大幅に変わったというだけの話だ。

 ただ、順当に行けば私は他のクラスになるだろうと思っていただけに、予想外ではある。A組は私の記憶よりも一人増えて、三十二人のクラスとなった。

 陸上部での成績は平々凡々としたものだったので、これは大学のサークルに参加できるだけの学力を持ったのが原因と考えればいいのだろうか。もしくは、超さんとの第一遭遇者であることがばれたのかもしれない。

 学園側が現時点で把握していそうな超さんのパーソナリティとしては、背後関係と経歴不明、エヴァンジェリンと接触を取っている(つまり魔法の存在を知っている)、絡繰茶々丸製作に関わることができるほどの頭脳を持っている、あたりだろうか。あ、そういえば屋台超包子の開店について、新聞に広告が打たれていた。これだけあれば、既に要注意生徒としてマークされていてもおかしくない。というか、マークされているからこそ、高畑先生が担任するクラスにいれられたのだろう。

 その超さんとの第一遭遇者である四葉さんと私を、関係あるか分からないけど、とりあえず一緒に監視するから放り込んでおけ、みたいな感じでA組に所属させたという可能性は、十分ある。

 初等部卒業を期に対策ノートを処分しておいて本当に良かった。寮生活になったら相部屋の人に見られるかもしれないよね、という軽い気持ちだったのだが、もしも私まで監視対象になっているのだとしたら、大正解である。春休み中に五日間かけて、ちまちまとノートを燃やしてはトイレに流した甲斐があったというものだ。

 まあ、お父さんが灰皿とライターどこだー、とか言って探してたけど、少しくらい禁煙した方が体にいいから、何の問題も無い。

「おっとと、この部屋だ」

 考えごとをしながら歩いていたせいで、危うく通り過ぎるところだった。

 部屋の鍵はもらっているから、さくっと開けてもいいのだけど、先に来ているというルームメイトが、人に見られるとまずいものを広げている可能性がある。

 私はコンコンコンと扉をノックした。案の定、部屋の中からばさばさと何かをしまう音がする。

「私ー、入るよー」

 物音がある程度おさまったのを見計らって声をかけ、鍵を開けて部屋に入った。

 あまり広いとは言えない部屋の中央で、段ボールにもたれかかって力尽きている女の子が一人。

「おどろかすなよ。寮母さんかと思っただろ」

「ちゃんと隠し終わるまで待ったじゃない。廊下から見えるとまずいんでしょ」

「お気遣いありがとよ。まあ、とりあえず、一年間よろしくな、坂本」

「うん、よろしく。長谷川さん」

 部屋割表を見る限り、一年どころか三年間よろしくすることになりそうだったけど。覚えのある組み合わせがちらほらあったから。

 

 

「まあなあ、実際のところ同室が坂本で良かったよ。コレ、隠す必要ないし」

 段ボールだらけの部屋では腰を落ち着けることもできないので、私達はさっそく荷解きにかかっている。せっせと作業をしていると、長谷川さんがそんなことを言った。

「同室が誰になるか分からないのに、荷物の中に入れてきたわけ? ソレ」

 コレとかソレとか言っているのは、もちろん長谷川さんのコスプレ衣装のことである。

「家に置いてきて親に見つかったら首吊りものだろ」

「あー、それはそうだね」

 私の覚えている限りでは、長谷川さんの部屋にルームメイトの影は無かったが、あれは一人部屋であったか、二人部屋であってもその存在を無視できる相手だったと予想される。例えば、相坂さよやエヴァンジェリン、絡繰茶々丸といった、寮で生活する必要がない面々である。

 ちなみに例として挙げたこの三人、エヴァンジェリンと絡繰茶々丸が同室、相坂さよはザジ・レイニーデイと同室と部屋割り表には書いてある。空き部屋の無駄遣いという気がしてならない。

 たぶん、私がいなかったら、この内の誰かが長谷川さんの同室になっていたんじゃないだろうか。

「そうそう、坂本のサイズに合わせて作ったのが何着かあるけど……」

「着ないからね」

「掲示板にも『いくちゃんとまた一緒に撮らないの?』っていう書込みがちらほら」

「絶対に着ないからね」

「ダチョウ倶楽部っていう芸人グループがあってな」

「フリじゃないからね」

 な、何を考えているのか、長谷川さんは。性格がまるくなったのはいいとしても、自分のサイトに他の人間の写真を進んで載せようとするほどまるくなる必要ないのに。まったくないのに。

「はは、冗談だよ、冗談」

 長谷川さんは笑いながら(でも目がマジだ)手に持っていた衣装をクローゼットにしまった。

 そこで手を止めた長谷川さんは、じっと私を見た。

「な、なに。コスプレはしないからね」

「いや、そうじゃなくてさ。なんていうか、自然に笑うようになったよなー、と思って」

「……え?」

 予想外の台詞に、反応が遅れる。

 笑うようになった? 私が? 長谷川さんがじゃなくて? あ、いや、今の長谷川さんは他人に対して線を引いていた時期がほとんどないのか。

 そんなことを考えた私の心を読んだように、長谷川さんが言葉を続ける。

「坂本って昔から、一線引いて付き合ってる部分があっただろ? ここ一年くらいはそういう壁がなくなってきた気がするんだよな」

 こういうことを面と向かって言える程度にはな、と長谷川さんは笑った。

「変に悟ったような顔してるより、今のほうがいい感じだと思うぞ、私は」

 そう言ったあと、長谷川さんは急に顔を赤くして、ぶんぶんと手を振り始めた。

「なし、今のなし。すげー恥ずいこと言った。忘れろ」

「いやー、ばっちり心の映像メディアに記録したけどね」

 消せ、削除しろ、と騒ぎだす長谷川さん。割とうっかり属性が高い気がする。

 それにしても、良く見てるよなー、人のこと。時期までばっちり当ててくるのが凄い。

 この六年間で、友人が増えた。付き合いを持つことで、知識として最初からあった「漫画のキャラクター」から「一人の友達」へと関係が変わっていったのは確かだ。けれどどこかに、作為があって交友を持ったのだという後ろめたさがあった。

 そんな私の態度を「なんで名前で呼んでくれないのか」という言葉にして怒ってくれたのが千鶴さんだ。ちょうど、一年ほど前の話になる。

「ちょっとね、心境の変化があったんだよ」

 起こるかもしれない戦争を回避する。そのために関わりを持った人達。場合によっては、信頼を裏切るようなことをしなければならない人達。それが本当に友人と言えるのか、悩んだことがある。後ろめたく無いと言えば、嘘になる。

 けれど、私の側にいる人達を、戦火になんか晒したくないという気持ちも、本当なのだ。最初は私と両親、それから葉加瀬さんくらいだった。でも、今はもっとたくさん、戦火から遠ざけたい人がいる。その人達を友人と言っては、いけないだろうか。

「へえ、どんな変化か聞いてもいいのか?」

 もちろん、その問いに答えられるはずはない。私は自然になったと言われた笑みを浮かべる。

「それは秘密だよ。千雨さん」

「てめ、そういう不意打ちは……なしだろ」

 千雨さんは少し顔を赤くしてそっぽを向いた。面倒見がいいくせにちょっと照れ屋。私の友達は、そういう人だ。

「さ、もうひと頑張りしようか。目標は三時までに荷物の整理を終えること、かな」

 すぐ隣から、ふん、という鼻を鳴らしたような返事があった。

 

 

 三時十五分、目標を少しオーバーしたけれど、部屋の片付けは終了した。これで明日までの間に、とり急いでやらなければならないことは無くなったと言える。

「なんか飲み物でも買いに行こうか」

「おー、そうするか。確か生協があるんだっけか」

「来る途中で見たような見なかったような。寮母さんに聞けば教えてくれるんじゃ……」

 コンコン、とノックの音が私の台詞をさえぎった。

 隠さなきゃいけないものはあるかと、千雨さんに視線で問いかける。反応を見る限り、特に無いみたいだったので、はーい、と返事をした。

「今あけるから待ってねー」

 腰掛けていたベッドから立ち上がり、小走りでドアに駆け寄る。

「入学おめでとうパーティーのお誘いに来たよー!」

 ドアを開けるなり、そんな台詞と共に女の子が飛び込んできた。

「佐々木さん?」

「まき絵じゃねーか」

「千雨ちゃんと春香ちゃん! この部屋だったんだー」

 ぱっと佐々木さんの顔が明るくなった。いや、誰の部屋なのか確認してからノックしようよ。いくらこの階にいるのがA組だけだからって。

 というか……。

「佐々木さんと知り合いだったんだ?」

「初等部で同じクラスだ。春香の方こそ知り合いだったのか?」

「早朝ランニングを一緒する仲だよ。ねー」

 話を振ると、佐々木さんが目を白黒させて頷いた。

「う、うん。そうだけど……私としては二人が仲よさそうなことにびっくりなんだけど」

 そりゃ確かに。

 三人がそれぞれ面識あるのに、それをお互い知らないとか、なかなか混乱する状況だ。まあ、新しいクラスになったのだから、それなりにあり得る話だとは思う。過半数のA組クラスメイトと交友のある私のせいで、状況の混乱に拍車がかかりそうだけど。

「それで、パーティーって?」

「あ、そうそう。部屋の片付けが済んだから、同室になった亜子ちゃんって子と生協までおやつ買いに行ったの。そしたら、なんかA組の子がちょうどたくさんいて、せっかくだからみんな呼んでお茶会しようか、って」

 なるほど、荷物整理を終えたあとの行動パターンは、どこの部屋も似たり寄ったりだったらしい。

「二人とも来る? 会費はお一人様五百円ということにしますわ、って仕切ってる人が言ってたけど」

 ああ、うん、その口調だけで誰が仕切ってるのかわかったよ。仕切りたがりというよりは、リーダー気質なのだろう。雪広さんが噛んでいるのなら、買い出しから何から、滞りなく準備が進んでいるに違いない。

「私は参加しようと思うけど、千雨さんはどうする?」

「もちろん、行くよ。どんな奴がいるのか見たいしな」

 千雨さんが「もちろん」と言ったことに思わず微笑む。きっと、山崎郁恵の知る千雨さんだったら、同じイベントがあっても参加しなかったんじゃないだろうか。

 変に悟ったような顔してるより、今のほうがいい感じ。……うん、私もそう思うよ、千雨さん。

「おっけー、二人とも参加ね」

 そう言って、佐々木さんは携帯電話を操作しはじめた。参加者が増えるたび、メールで買出し班に連絡を入れているのだろう。集まったはいいけど食べ物が足りませんでした、では面白くない。おそらく、これも雪広さんの指示だ。

「声かけとか、手伝った方がいか?」

 千雨さんが問うと、佐々木さんはくりっとした目を瞬かせた。

「んー、亜子ちゃんが反対回りで声かけてるから、そろそろ終わるんじゃないかな。私の担当、あと二部屋だし。そのまま会場に向かっちゃっていいよ」

 お祭り騒ぎの準備だけはやたらと手際がいいのは、この頃からのようだ。A組としてはまだ一度も集合したことがないのに、ものすごいチームワークである。ぱっと思いつくだけでも、場所の確保と買出し、声かけで三つの班に分かれているはずだ。

「そういえば、会場ってどこなの? 寮の談話室とか借りたのかな」

「あ、えーとね。超さん? っていう子がスペースを貸してくれるんだって。なんか、今度開店する屋台の試運転にちょうどいいって言ってた」

 超さんまで噛んでいたのか。そりゃあ手際がいいわけだ。買出し組に雪広さん、場所の準備に超さん(と四葉さんもかな)が回っているなら、私が口を挟むようなことは残っていない。

「分かった。じゃあ、私達は準備したら寮の前にいるから、一緒に行こうか」

「待っててくれるの? じゃ、特急であと二つ回ってくるから、ちょっと待っててねっ」

 言葉どおり、佐々木さんは特急で部屋を飛び出していった。

「……なあ、非常識にもそれなりに慣れてきたつもりだったけどさ。屋台って中学生が経営できるもんなのか?」

 半ば呆れたような口調の千雨さんに、私は肩をすくめた。

「うーん、それは難しい質問だね。とりあえず、報道部の新聞に広告が打ってあったから、情報に間違いはないだろう、ってことくらいしか言えないかな。超包子っていう屋台が明後日に開店するらしいから、たぶんそれのことだよ」

「あー、超って言ってたもんなあ。屋台ってところも符合するし……なんなんだよ、この学園は」

 この場合、規格外なのは学園じゃなくて超さんな気もするけどね。屋台の開店資金なんて、どうやって工面したのだろうか。

 千雨さんは、ふっと皮肉っぽく笑った。

「ま、いつものことか」

「うん。いつものことだね」

 誰が参加するかにもよるけど、パーティーでは「いつものこと」のオンパレードになりそうな気がするよ。がんばれ、千雨さん。愚痴はいくらでも聞くからね。



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【番外】 お茶会うろうろ

  ◆ 千雨の誤算

 

 乾杯が終わると、自己紹介もなしでいきなり立食パーティーへと突入したお茶会は、早くも混沌とした様相を呈してきている。

 広場に出されたテーブルの上に、所狭しと並べられている飲み物とお菓子。そこまでは千雨の想定内だったが、試運転という言葉どおりに屋台から料理が出てきたのには驚いた。本当に会費は五百円で良かったのだろうか。

 おおっ、というどよめきの上がった方を向いてみれば、色黒の少女が中身の入ったペットボトルでジャグリングを披露していた。三つくらいならともかく、五つまでいくと、かくし芸の範囲を超えているような気がしないでもない。

 高校生か大学生にしか見えない奴とか、反対に小学校の低学年にしか見えないちんまい双子とか、なぜかお茶会に竹刀袋を持ち込んでる奴とか、突っ込みどころが多すぎる。

 乾杯から十五分も経っていないのに、千雨はげっそりと気疲れしていた。常識って奴はとことん自分を嫌っているらしい。

 その気疲れを共有できる貴重な友人はと言えば、「知った顔が多いから挨拶してくる」と言って、喧騒の中へ分け入っていった。

 視線を巡らせて姿を探してみると、乾杯の音頭を取っていた雪広とかいう女子のところで談笑しているのを発見した。

 千雨は小さく笑いを漏らす。

「いい顔してるじゃねーか」

 社交的な割に、いつもどこか一歩引いたところのある友人のことを、千雨はそれとなく気にかけていた。最近はそうでもなくなったけれど、一時期は自分と葉加瀬くらいしか友人がいないんじゃないかと心配したこともある。けれど、先ほど自室で見せた笑顔や、今の表情を見た感じ、それも杞憂だったようだ。

 坂本春香に対して他に思うところがあるとすれば、自分の顔にコンプレックスでも持っているんじゃないか、ということだろうか。

 春香は昔から、鏡や写真を避けるようなそぶりを見せることの多い奴だった。そこに自分が写りこむのを見たくない、とでもいう風に。

 千雨の目から見ると、春香の容姿は十分に整っていると言える。少なくとも、平凡な顔の自分よりもかわいいと評価している。

 しっかりと着飾らせて、いろんな人に褒められれば、そんなコンプレックスも無くなるんじゃないかと考えたこともある。本来、データを自分が持っておいて「ばらしたらばら撒く」とでも言っておけばいいだけの彼女のコスプレ写真を、わざわざサイトに公開したのは、そういう思惑が絡んでいた。

 掲示板でもなかなか評判が良かったので、この作戦は継続する予定だ。既に衣装も何着か用意してある。そのうち、即売会のコスプレ会場にも連れて行こうとか思っている千雨である。

 もちろん、春香が一緒なら二人で一組のキャラをやりやすくなるな、という打算も入ってはいるが。

 まあ、それらはこれから先の話だ。今は千雨自身もお茶会を楽しもうと思う。

「さって、いろいろ声かけて回ってみるかな」

 部屋割り表の名前を見る限り、知り合いはまき絵と春香だけのようだった。今日はとりあえず、どんな奴がいるのかを見て回ろうと、千雨は歩き出した。

 今しがた屋台から出てきた肉まんに群がっている集団へでも声をかけてみようか、と考えて顔を向ける。すると、ちょうど横の方から歩いてきた眼鏡の少女と目があった。

 こんなところで会うはずがない人物の登場に、千雨は思わず口を開いた。

「げっ、パル!」

 しまった、と思ったが、口走ってしまった言葉は戻らない。

 眼鏡の少女は、首をかしげ、それから何かに思い当たったというように顔を輝かせた。

「あーっ、誰かと思ったらちうちゃ……」

 みなまで言わせず、千雨は駆け寄って少女の口をふさいだ。顔をぐいっと近づけて、少女にだけ聞こえるように声を出す。

「ここでその呼び方するんじゃねえ。本名は長谷川千雨だ。いいな?」

 相手がこくこくと頷いたのを見て、千雨は口をふさいでいた手を離した。少女もまた、千雨にだけ聞こえる声で返答する。

「千雨ちゃん、『隠れ』だったんだ。眼鏡かけてるから一瞬わかんなかったよ。あ、私もパルはペンネーム。ハルナって呼んでちょーだい。早乙女ハルナ」

 パル……いや、早乙女ハルナと出会ったのは、千雨が隣の市で行われた即売会に遠征したときの話だ。

「こんなことにならないように、わざわざ遠くの会場まで行ったってのに……」

「縁があったもんは仕方ないねえ」

 ハルナはけらけらと笑う。千雨と違いダメージが薄そうなのは、隠れではなくオープンなおたくだからだろう。

「あ、あのー、ハルナちゃん……」

「おおっと。ごめん、のどか。忘れてた」

 出会うなり顔をつき合わせて内緒話を始めた二人の隣で、おろおろとしていた前髪の長い少女が、ハルナに声をかけた。というか、千雨はその存在に今の今まで気がついていなかった。

「えーと、こちらは即ば……痛っ。じゃないや、えー、本屋さんで知り合った友達」

 即売会とか口走りかけたハルナに、千雨は肘鉄で突っ込みをいれた。隠れだって言ってるだろうが。

「長谷川千雨だ。よろしくな」

「み、宮崎のどかです。あのっ、長谷川さんも、本が好きなんですか?」

 引っ込み思案そうな外見に反して、宮崎のどかは積極的に話題を振ってきた。

「ああ、割と何でも読むぞ。推理ものでもSFでも」

 ライトノベルと言わなかったのは、隠れおたくの矜持と言ったところである。実際、千雨はライトノベルばかりを読んでいるわけではないので、嘘をついてはいない。

 その返答で、ぱっとのどかの雰囲気が明るくなった。前髪に隠れて分かりづらいが、口元にも笑みが浮かんでいる。

「それじゃあ、今度の新入生向け説明会、一緒に図書館探検部へ行きませんか? 中、高、大の合同クラブで、図書館島の本をたくさん読めるみたいですよ」

 図書館探検部、という言葉に、千雨の笑顔がぴくりと引きつる。それはその昔、千雨が「得体の知れない」と評した部活である。

「い、いや、私は面倒くさいから部活に入るつもりはあんまり……」

 あいまいに断ろうとする千雨の態度に、ハルナの目がぎゅぴーんと光った。

「えー、いーじゃん。一緒に行こうよー。ね、ちうちゃ……おっとと、千雨ちゃん。部活入らないよりも入った方が楽しいって」

 千雨の前にとんでもなくあくどい笑みを浮かべた悪魔が現れた。名前はパル。

「てめー、ろくな死に方しねえぞ」

 握られてはいけない人間に弱みを握られてしまったことを、千雨ははっきりと理解した。この女は締め切りに間に合わないとかいう事態に追い込まれたら、この件をちらつかせてベタ塗り、トーン張りといったアシ要員として千雨を呼び出すに違いない。

 おたくの仁義くらいはわきまえているだろうから、本当にばらすことはしないと信じたいが、こういうものは「ばらされるかもしれない」と千雨に思わせた時点で勝ちなのである。

「……分かった、見学にはついていくよ」

 意地でも入部はするものか、と思う千雨だったが、ハルナと千雨の間に交わされた心理戦に全く気づいていない、のどかの純粋な喜びようを見て、早くも意思が揺らぐのを感じる。

 年齢の割にしっかりしているつもりの千雨だが、自分は意外と押しに弱いのかもしれないと、自己評価を改めざるを得なかった。

 

 

  ◆ 主従ふたり

 

 閑静な森林に佇むログハウスの中、絡繰茶々丸は主の読書の邪魔にならぬよう控えていた。主はと言えば、長椅子へ優雅に腰掛けて、分厚い本へと目を落としている。

 まるでそこに居ないものであるかのように、気配を放たずに立っていた茶々丸の目が、すっと細まる。

「マスター」

「どうした?」

 茶々丸の呼びかけに対し、エヴァンジェリンは本から目を離さずに答えてくる。

「ハカセ達から連絡が入っています。入学おめでとうパーティーというものを行うそうですが、参加されますか?」

 エヴァンジェリンはふむとひとつ頷いて、大儀そうに本から視線を上げた。

「行かん。どうせ明日になれば顔をあわせる。じじいとの契約は問題が起こった際のフォローだ。仲良しこよしは性に合わんし、するつもりもない」

「わかりました。断りの連絡をいれておきます」

 再び本に目を落とそうとしたエヴァンジェリンは、思い出したように顔を上げた。

「ああ、茶々丸は行きたければ行ってもいいぞ? 確か超鈴音とは屋台を手伝うと契約しているんだろう」

 自由にして良いという主の許可に、茶々丸は短く沈黙した。

「……いえ、人手は足りているようですので、こちらにいます」

「そうか、好きにしろ」

 その短いやり取りだけで、お茶会の話題から興味を失ったのか、エヴァンジェリンは再び本に視線を戻した。

 茶々丸もまた、つい数分前と同じように、主の後ろで静かに佇む。意識させること無く側に控え、必要とあれば即座に応えられる状態を保つこと。茶々丸は自身が計算してはじき出した行動の優先順位に、忠実に従った。

 

 

  ◆ 近寄り難い雰囲気

 

 龍宮真名は、自分達の立つ一角が、周りの喧騒から隔離されていることを自覚していた。その原因がすぐ隣に立っている少女だということも分かっていたので、声をかける。

「桜咲、そうぴりぴりとするな。付近に不審な気配がないことくらい、お前なら分かるだろう」

 そう言って、手近にあったワッフルを手にとって口にする。ほう、これはなかなかうまい、などと思っていると、結構な間を置いて返答があった。

「……分かってはいる」

 その硬い口調に、龍宮は肩をすくめた。つい先日、学園長室で引き合わされたばかりの少女の姿を眺める。

 腕が立つことは、その立ち居振る舞いを見るだけで分かる。接近戦でなら、確実に桜咲の方に分があるだろう。もちろん、接近戦に持ち込ませず、接近されたとしても距離を取り直して制圧する術を、龍宮はいくらでも持っている。実際にどちらが勝つかはやってみなければ分からない、といったところだが、そもそも役割を同じくする者なので戦う必要などない。彼女が信頼に足るほど強いということだけ分かっていれば十分だ。

 しかし、その態度はいただけない。

 いくら強くとも、気負いすぎては初動が遅れる。四六時中気を張っていては、いざというときに集中力が持たない。その程度のことが分からない実力ではないはずなのに、桜咲は今もぴりぴりとした気配を発し続けている。

 その視線を追った先には、長い黒髪の少女。学園長の孫である近衛木乃香だ。

 学園に雇われている形になる龍宮と違い、桜咲はあの少女の個人的な護衛、ということらしい。学園の仕事も手伝うという話だが、それも間接的にあの少女を護ることに繋がるから、なのだろう。

 私情の入った護衛は、扱いにくい。

 時折、近衛がこちらに視線をよこしてくるが、その気配を察知すると桜咲はふいっと別のところへ顔を向ける。そして近衛は少しばかり寂しそうな顔をして、また視線を外す。そうすると、桜咲はまた近衛を目で追いはじめる。

「処置なし、だな」

 個人の護衛をするなら、本来なら側にいた方が護りやすいはずだ。あえて非効率を選ぶのは、護衛対象に通常の学園生活を送らせつつも護りきる自信があるからか、それとも単純に近寄りづらい事情があるからなのか……。

 まあ、桜咲レベルの使い手ともなれば「体が勝手に動く」範囲であっても想定される程度の脅威は撃退できるだろうと龍宮は判断する。それに、麻帆良で生活していれば、こちらの流儀も少しずつ分かってくるはずだ。ちょうどいい力の入れ具合を、じき見つけ出すに違いない。

「私は他のところを回ってくる。ここにいては友人を作ることもできなさそうだ」

 冗談めかして言ってみたが、桜咲からは小さくうなずきが返ってきただけだった。

 再び小さく肩をすくめた後、龍宮は頭を切り替えて、学園側から渡されたA組生徒達のプロフィールを思い浮かべる。そうだな、長瀬楓というのを探してみるかと考えて、龍宮は喧騒の続く会場を歩き出した。

 世界の表裏を問わず戦場に出続けた龍宮だが、さすがに忍者というものにはお目にかかったことがない。どのような人物なのか、少々興味があった。

 龍宮がわずかなりとも抱いていた忍者に対する幻想が、完膚なきまでに打ち砕かれるのは、もう二分ほど先の話である。

 

 

  ◆ 巨頭そろい踏み

 

 まったくもうと、雪広あやかは大きくため息をついた。その視線の先には、手を振りながら大河内アキラという少女のもとへ走っていく小さな背中がある。あやかよりも二回りは低い身長の癖に、妙に大人びた雰囲気を持つその女の子は、あやかの友人の一人である。

「春香さん、なんですって?」

 背後から問われ、あやかは振り向く。このお茶会の買出しを手伝ってくれた那波千鶴が立っていた。

「相変わらずですわ。『足が出てるみたいだったら私も少し出そうか?』なんて言ってきましたから、レシートを突きつけてやりましたわ」

 ふん、と鼻を鳴らしたあやかに、千鶴はあらあらと微笑む。

 一年A組三十二人中、参加者二十六名。集まった会費は一万三千円。そして生協で用意してきたものの総額は、超包子へ提供した材料類も含めて一万三千と十六円だ。委員会の予算と違って来期への繰越などは存在しないので、十六円程度は誤差のうちだ。もしも春香が八円出すとか言っていたらぶん投げていたところである。いや、もちろん本当に投げるつもりはないけれど。

「あの子はたまに、私がお金持ちだということを忘れているんじゃないかと思いますわ」

「ふふふ、春香さんらしいわね」

 まあ、実際のところ、あやかはちゃんと分かっている。坂本春香は「雪広あやかがお金持ちだと知っている」からこそ、こういう時にあやかがお金を出してしまうことを好まないのだ。春香は以前から、そういう面倒くさいところを気にする少女だった。

 いつだったか「雪広さんじゃなきゃ出来ないことなら遠慮せずに頼むよ?」などと嘯いていたが、今のところ頼まれたのはプリントを教室まで運ぶのを手伝って欲しいとか、検算が合わないから雪広さんもやってみて欲しいとか、それこそ誰にでもできそうなことばかりだ。

 春香とは五年生、六年生と、千鶴ともどもクラス委員会で額をつき合わせてきた仲だ。たまに、同じ年とは思えないほどしっかりしていると感じることがあるけれど、普段の行動を見ていると実は抜けているところも多い、というのがあやかの評価である。

「まあ今回の場合、ガス代を含めた光熱費なんかは超さんが負担することになってしまいましたけれど……」

「それは別に気にする事ではないヨ。この人数相手に屋台が問題なく回ることを確認できたしネ」

 噂をすれば影と言ったところか、あやかの呟きに答えたのは、お茶会のスペース確保に尽力してくれた超鈴音である。

「超さん。場所の提供だけでなく、美味しいお料理までいただけて、感謝していますわ」

「本当に、今度レシピを教えて欲しいくらい」

「フフフ、その点について礼を言われるべきは五月ダヨ。料理の腕では全然敵わないネ」

 超は穏やかに微笑む。

「那波サンも、レシピが欲しいなら五月に頼めば良いネ。たぶん喜んで教えてくれると思うヨ」

 そう言って超が視線を送った先では、調理服を着た四葉五月が、屋台の炊事場から出てくるところだった。何人かのクラスメイトに囲まれて、「お嫁にきてー」などと言われている。

「とりあえず、用意してもらた食材については、全部調理が終わたヨ。点心を主にして作たつもりだが……夕飯は食べられないかもしれないネ?」

 あやか達の視線の向こう、A組のみんなは思い思いに飲んだり食べたりしている。どうやら会費の五百円以外にも、自腹を切ってサンドイッチやおにぎりを持ち込んできた人がいるらしく、買出し時には用意していなかった食料までが溢れている。

 なるほどその手があったかとあやかは感心する。きっちり会費を徴収した上で、「自分が食べたいもの」を好意で持ち込む分には、ありだ。今度こういう会をするときは、自分も真似しようと心に決めたあやかである。

 日の光がちょうど顔にあたっているのか、眩しそうに目を細めていた超が、小さく笑った。

「こんなにも能天気で子どもみたいな人達ばかりだと、調子が狂てしまうヨ。本当に明日から中学生になると分かているのカ?」

「能天気ということは否定しませんわ。でも、子どもみたいなのは仕方ないですわよ? 何しろほんのニ、三週間前までは、みなさんランドセルを背負っていらしたのですから」

 あやかが答えると、超が胡乱な表情をする。

「フム、ランドセルを……ネ。それはそれで信じられないモノがあるネ」

 その視線の先にあるのは那波千鶴、の主に胸。

「ああ、確かにそうですわね」

 あやかも超に倣って千鶴を見る。一五七センチという、小学生にしてはかなり高身長のあやかと比べても、千鶴の身長はさらに十センチ以上高い。

「私に何か言いたいことでもあるのかしら」

「い、イヤ、なんでもナイヨ?」

「そうそう、なんでもありませんわ」

 千鶴の問いかけで、同時に目を逸らす超とあやか。笑っているのに物凄い威圧感だ。

「暗くなる前にはお開きにしないといけませんから、片付けは五時ごろからはじめますわ。それまでは特にやることもありませんし、私達もお茶会を楽しみましょうか」

 誤魔化すように早口でまくしたてるあやかに、超があわせた。

「了解したネ。古が何か面白そうなコトをやているから、そちらを見てくるとするヨ」

 いたずらっぽく笑うと、超は会場の中心の方へと歩いていった。そちらでは古菲という留学生と、長瀬楓という少女が組み手らしきものをしているところだった。武道の心得があるあやかの目から見ても、組み手のレベルは恐ろしく高い。

 超の後ろ姿を見送って、あやかはふと気づく。体よく生贄にされてしまった形である。恐る恐る振り向くと、そこには笑顔のままの那波千鶴が立っていた。

「さ、あやか。私に何か言いたいことがあるのよね?」

 助けを求めて周囲に視線を投げる。髪の短いシスター服の少女(確か春日美空という名前だったはずだ)と目が合った。が、するっと視線を逸らされた。

 あやかの目の前が、絶望とかそんな感じのもので真っ暗になった。

 後日、春日美空が雪広あやかに「あのときは見捨ててごめん」と謝っている姿が見られたという話である。



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何を信じればいいのか……

 入学式を終えた私達は、高畑先生に連れられて、ぞろぞろとA組へ移動した。昨日のうちに用意してあったのか、教室の黒板には大きく座席表が書かれていた。

 一年A組の座席数は、六列五行の三十席と、その右後方に二席を付け加えた、合計三十二席である。さて私の席はというと、右後方で飛び出している二席の左側だ。

 私は自分の席と定められた机に近づいて、おっかなびっくりお隣さんに声をかける。

「えーと、マクダウェルさん。昨日のお茶会は来てなかったよね。坂本春香です、よろしく」

 そう、私の隣の席はマクダウェルさんなのである。にっこりと笑いかけてみたは良いけれど、笑い返してくれるかも、なんて期待をしてはいけない。

 案の定、マクダウェルさんは冷たい視線で私を一瞥した。

「ああ、よろしく」

 それだけ言うと、私の存在など無いものであるかのように、ふいっと視線を黒板の方へやってしまう。いや、私なんかに興味ないのはわかるけど、もう少し社交性とかそういうのを持ってほしいなー、と思わないでもなかったり。

 ここで「スカしてるんじゃないわよ」とでも言って突っかかれば、一昔前の青春映画風になるのだけど、もちろんそんなことをするつもりはない。

 私は小さく苦笑して、マクダウェルさんの隣の椅子に腰を下ろした。

 座席配置を考えると改めて、私は異物なのだということが分かる。誰がどこに座っていたかなど、さすがに覚えていないが(せいぜい朝倉さんの隣は相坂さよ、みたいな限定的なものだ)この位置は、本来あるはずだった配置にプラスして、空いている席に私を押し込んだ形だと考えれば納得がいく。

 前の席は明石さん。私の顔を見ると、にっと笑みを浮かべてきた。運動会での徒競走、球技大会でのバドミントン、昨日のお茶会での肉まん争奪戦と何度も戦い、そして戦った数だけ負けてきた私ではあるが、運動神経と身長(あと将来的には胸のサイズ)以外で負けるつもりはない。少なくとも、中学校レベルの授業なら私の圧勝だ。にやり、と笑い返しておくことにする。

 左斜め前に座っているのは千雨さんだ。部屋が同じで席も近いとは、なんとも縁のある話だと思う。

 さらにその左隣には綾瀬夕映の姿も見えるが、無表情すぎて何を考えているのか分からない。やっぱり、世界なんてみんなくだらない、と思っているのだろうか。昨日のお茶会にも参加していなかったようだし。

 世界はくだらなくなんかない、と言いたいところだけど、それは口先だけで言ってもしょうがないことだ。宮崎さんが、これから時間をかけて伝えていくのだろう。

 そして右斜め前の席は絡繰茶々丸。私周辺の座席事情としては、こんなところだ。

「絡繰さんも、よろしくね」

 そう声をかけると、わざわざ体ごと振り向いて、丁寧にお辞儀を返してくれた。

「こちらこそ、よろしくお願いします。坂本さん」

「ちょっとちょっと、なんで私には『にやっ』って笑うだけで、絡繰さんにはよろしくなわけ……なんで拍手してんの?」

 明石さんが私と絡繰さんのほのぼの空間に割り込んできた。

「うーん、絡繰さんとはこれから友達になる予定だけど、明石さんは既に好敵手と書いてトモと読む関係だから?」

「だから? じゃないって、意味わかんないよ」

 ちなみに、拍手したのは純粋に感心したからだ。葉加瀬さんが狂喜乱舞するのも分かる。絡繰さんの態度は、外見がちょっとメカっぽいところを除けば、人間としてほとんど違和感がない。

 機械の隣人。その言葉が持つ浪漫は、魔法と比べてもまったく遜色がない。許されるのならば、葉加瀬さんに抱きついて「やったじゃん!」と叫びたいくらいだ。葉加瀬さんは、ずっと追い求めていた「機械の知性」という夢への第一歩を踏み出したのだから。

 私がひとりで感動している間に、絡繰さんも視線を前方に戻していた。主従揃って、淡白なことである。

「よし、みんな席に着いたかな。それじゃあ最初のホームルームをはじめる。とりあえずは自己紹介から、かな」

 教卓に立った高畑先生の言葉に、おーっという歓声が応えた。本当に、ノリの良さは折り紙つきのクラスになりそうだ。

 

 

 ホームルームは滞りなく進行した。いや、何か盛り上がるタイミングがあるたびに歓声が上がるのを滞りなくと言い切れるあたり、私も随分と麻帆良に毒されている。普通に考えれば学級崩壊もいいところだ。諌める立場にあるはずの高畑先生がにこにこわらっているだけなのも理由の一端を担っていると思う。

 数々の馬鹿騒ぎを鎮圧してきたデスメガネにとっては、この程度のことは笑って済ませられるレベルだということなのかもしれない。事実、時間的にはむしろ余裕のある進行だから侮れない。

「えーと次は……このクラスの委員長を決めないといけないんだけど、立候補はあるかな。自薦、他薦、どっちでもいいよ」

 そういえばまだ決めていなかった。まあ決めるまでもないから忘れていたというのが正確なところである。

 高畑先生の言葉に反応して、はーいと元気良く手を挙げたのは、すぐ前の席の明石さんだ。高畑先生に指されて立ち上がるとき、私を見てにやりと笑ったようだった。

「坂本さんがいいと思いまーす」

 予想外の台詞に、盛大に噴出す私。

「ちょっと待ったあ!」

「おーっとここでちょっと待ったコールだ!」

 ばん、と机をぶっ叩いて立ち上がったのは椎名さん。続いての台詞は朝倉さんだが……その合いの手は中学生が入れられるものじゃないと思うんだけど。

 いや、突っ込むべきはそんなところじゃない。A組の委員長って言ったら雪広さんでしょ? なぜここで私の名前が出てくるのか。

 混乱する私をよそに、椎名さんが口を開く。

「クラス委員長だったらいいんちょ……じゃないや。雪広さんを推薦するよ!」

 そうそう。よく言ってくれた椎名さん。もしもここで雪広さんが委員長にならなかったら、えーと、どうなるんだろう。想定外すぎてよく分からない。

 まず、クラスの皆が雪広さんを委員長って呼ばなくなるよね。他には、超さんのお別れ会とか、ネギの歓迎会とかの進行に問題が出るかもしれない、のかな?

「何しろ雪広さんには小学校のころ、一年生から六年生までずっと委員長だった経験があるからね。いいんちょ、ってあだ名で呼ばれてるくらいだよ」

「何をー、ウチの春香だって四年生から三年間ずっと委員長やってたから、経験なら申し分ないよっ。ね、春香」

 話を私に振ってくる明石さん。いやちょっと待って。今いろいろ考えてるから。というか、「ウチの」って言ってるけど、私と明石さん、初等部では違うクラスだったよね?

 それはそれとして、今この場で「雪広さんでなく私が委員長になったらどうなるか」をちゃんと考えることなどできないのは確かだ。ならばいっそ、本来の流れから外れない展開になってくれた方がいい。

「明石さんが推してくれるのは嬉しいけど、雪広さんの方が委員長として相応しいと思うから、私は辞退しようかなー、なんて」

 そう発言すると、えー、という声が教室内からちらほらと上がった。明石さんはともかくとして、早乙女さんとか朝倉さんは、対決してくれた方が面白かったのに、みたいな態度が見え見えだ。

「昨日の入学おめでとうパーティーだって、発案は誰か分からないけど、企画から準備、予算のやりくりとか片付けの段取りまで、スムーズに進行したのは雪広さんの力が大きいと思うよ」

 と、私は雪広さんを推す。教室内に、そうだねえ、と私の発言に同意する空気が流れる。現時点ですでに実績を持っているから、雪広さんを推すのは簡単なことだ。

 すると、椎名さんの隣に座っていた雪広さんがおもむろに立ち上がった。

「そういうことを言うなら、私も坂本さんはクラスのまとめ役を十分にまっとうできると思いますわ。昨日のお茶会でも、後片付けの際には率先して動き、みんなを良くまとめていましたもの。それに現状、クラスメイトの個性を良く把握しているという点で、坂本さんはこのクラスで一番ですわ」

 雪広さんの台詞に、あー確かに、とうなずく教室の面々。しまった、交友関係の広さがあだになったか。

 しかし雪広さん、委員長であることにこだわりとかは特に持ってなかったんだね。私以外の委員長など認めませんわー、みたいに言ってくれたら楽だったのに。くう、節度のあるお嬢様なのは素晴らしいけど、今ばっかりは少し恨めしい。

 雪広さんの意見に流されないよう、私は口を開く。

「初等部までの委員長と中等部からの委員長は求められる役割が違ってくるよね。先生の指示をクラス内に過不足なる伝えることと、クラス内の意見を統一して学校側に持っていくこと。個性が強い人が集まってるからこそ、明確な方向性を持たせられるだけの牽引力がある雪広さんの方が委員長に向いていると思う」

「それは委員長をリーダーと見るか議長と見るかで変わってきますわよね。自身の意見に固執することなく、話し合いの場から一歩引いた視点でみんなの発言をとりまとめる技能については、坂本さんの方が長けていると思いますけれど」

 推薦者をそっちのけで始まった私と雪広さんの舌戦は、ぱん、と高畑先生が手を打ち鳴らして止めた。

「はい、それじゃあ応援演説はこれくらいにして、決めてしまおうか。雪広君も坂本君も、お互い相手に譲ってもいいという主張のようだから、辞退はなし。普通に投票で決めることにするけど、無記名の方がいいなら紙を用意しようか?」

 むむ、本当はクラス内の意見をもっと雪広さん寄りに傾けたかったのだけれど、明石さんと椎名さんも立ったまま所在なげにしていたし、いいタイミングだったとは言える。

 そこら辺は雪広さんも同じなのか、あっさりと引いた。

「分かりました。時間ももったいないですし、私は挙手でいいですわ」

 とだけ言って、席につく雪広さん。つられるように、隣で立っていた椎名さんも座る。

「はい、分かりました。私も挙手で問題ありません」

 私と明石さんも同じように腰を下ろした。

 あとは皆に期待するしかない。今のやり取りから考えてどっちが委員長に向いているか分かってくれたか、とかそういうことではなく、私が委員長をやりたくないらしい、というサインに気づき、それを汲んでくれる友情にだ。

 カツカツと音を鳴らして黒板に書かれた名前は二つ。出席番号順ということか、高畑先生がまず私の名前を挙げる。

「では、委員長は坂本君がいいという人、手を挙げて」

 はいっ、と元気良く手を挙げたのは、明石さんだ。そのほかにも雪広さんとか四葉さんとかが手を挙げている。だからやりたくないんだってば。

「……七、八、九。決まったみたいだけど一応聞いておこうかな。委員長は雪広さんがいいという人、手を挙げて」

 私は安心して、ふうと息を吐きながら手を挙げた。危なかった。いや、危なかったのかどうかも分からないというのが正しいか。まさかこんな全然関係ないところでずれそうになるなんて、考えてもいなかったのだし。

「それじゃあ、A組の委員長は二十二票で雪広君、ということで決定かな」

 高畑先生がそう言って、赤チョークで雪広さんの名前の上に丸を書いた。

「選ばれたからには、期待に応えられるよう頑張りますわ」

 雪広さんがうなずきながら言った。私はぱちぱちぱちと拍手をする。まあ、歓声にまぎれてほとんど聞こえなかったと思うけど。

 とりあえず、今回は上手く事なきを得た。けれど、私の見通しがかなり甘かったのは確かだろう。今のところ、ただA組のみんなと仲良くなっただけなのに、すでに予想外の影響が出てしまっている。

 よくよく考えてみれば、超さんの介抱役として四葉さんに呼ばれたことや、私がA組に所属していることだって、どこにどんな影響を及ぼしているものやら分からないのである。迂闊だった。けれど今さら取り返しもつかない。

 偶発的な事態については、これから何度も対処していかなければならないだろう。

 それでも、人の意思が大きく介在している件については、そこまで不安に思わなくてもいいはずだ。それは例えばネギが父親を追いかけることだったり、超さんが歴史を変えようとすることだったりという目標設定についてである。

 振ったサイコロの出目は、私が存在することで変わるかもしれない。けれど、それで双六のゴールが変わるわけではない。どんな双六を用意するかは、個人の意思によるものだ。

 だから私は、グラ賽を用意することや、他人の双六のマス目に書いてあるものを書き換える作業にだけ腐心すればいいはずだ。

 

 

 なんてことを思っていたのだが、その考えが既に甘いということに気づかされたのは、その夜のことである。

 大浴場から帰ってくると、千雨さんが少し暗い雰囲気をかもし出していた。いや、思い出してみれば昨日の夜もそんな感じだったかもしれない。

「いいお湯だったよー。でも広すぎて落ち着かないよね、ここのお風呂」

 私はそんな台詞とともに部屋に入った。ベッドに腰掛けていた千雨さんが、真剣な表情で私を見た。

「ちょっと話がある。聞いてくれ」

「え、うん、分かった」

 私はお風呂セットと着替えを自分のスペースに置いて、部屋に備え付けてあった座卓の前に座る。

 千雨さんもベッドから立ち上がり、私の向かいに腰を下ろした。

「実は……そうだな、悪い知らせと比較的良くない知らせがある」

「その出だしはあんまり歓迎したくないなあ。私に前科があるだけに」

 この時点では、私はまだ気楽に笑っていた。ほんの数十秒後に爆弾が落とされるなんて思ってもいなかった。

「まあ聞け。私だって謝る用意くらいはしてる」

「あ、やっぱり私も関係ある話なんだ」

「そうでなかったら、こんな言い方はしないって」

 ははは、と千雨さんが乾いた笑いを漏らす。

「本当はジャブの方から行きたい所だが、時系列順に並べた方が分かりやすいから、同時に言うぞ?」

「了解、それなりに覚悟したよ」

「ウチのクラスのハルナって分かるか? 早乙女ハルナな。あいつに私の趣味がばれた。ついでにサイトもばれてるっぽい」

 早っ、早いな。もうばれたのか。っていうか、私が知ってる限りだと明確にばれてたのってカモネギコンビくらいじゃなかったっけ? いや、まって。今それ以上に聞き捨てならないことを言った気が。

「サイトも、ばれた?」

「ばれてるみたいだな。で、それを黙ってる代わりにって交換条件で、図書館探検部に入ることになった。これで私も変な集団の仲間入りだな」

「は……」

 絶句、である。

 あまりに私生活側に寄った問題と、計画側に寄った問題が同時に発生したせいで、頭の処理が追いつかなかったのだ。

 私生活側は、あの写真の存在を早乙女さんが知ってしまったということ。眼鏡をかけただけの私の変装なんて、早乙女さんはあっさり見破るに違いない。

 計画側としては、千雨さんが図書館探検部に所属してしまうことによって起こるだろう、これからの展開に対する影響が大きすぎること。ちょっと想像してみただけでも、その変化は雪広さんが委員長と呼ばれない、なんていう小さなものとは比べ物にならない。

 この二つを同レベルで扱うのは間違っていると分かっている。理性的には後者を優先して対処しなければならない。でも、感情的には前者の方が大問題なのだ。「いくちゃん」と私が同一人物であると早乙女さんが気づいたのなら、からかわれないわけがない。

「いや、え、ちょっと待ってよ」

「すまん。クラスの連中、ってか春香と私の共通の知人に対してサイトがばれるってことを全然考えてなかった」

 千雨さんが頭をさげる。

 潔いのはとても良いことだ。私もまさかこんな簡単にばれるとは思っていなかった。というか、早乙女さんと千雨さんの接点はどこにあったというのか。

「私のときと同じ手は、使えない、よね」

「そうだな。ハルナは完全にオープンなおたくだし、コスプレ自体も抵抗無くこなしてた」

「ああ、うん。そういえば売り子してるときコスプレしてたわ」

 ん? 今の話の流れで行くと、千雨さんと早乙女さんはそっち系のイベントで会ったことがあるということになるんだけど。

「千雨さん、即売会に参加してたの?」

「知り合いに会わないように隣の市で何度かな。パルとはそこで会った。春香もか?」

「私はこっちのだけどね。あー、そっか。『ちう』としてが先だったのか。そりゃ仕方ないよ」

 仕方ないっていうか、完全に私が原因だ。眼鏡がなくても人前に出られるのだから、即売会に参加するフラグが立っていてもおかしくない。

「いや、それでも、悪い。ごめん。いろいろ考えが浅かった」

 そう言って、千雨さんはもう一度頭をさげた。

 違う。考えが浅かったのは、私だ。千雨さんの性格が丸くなるということについて、ちゃんと考えていなかったのは、私だ。

「いいよ、謝らなくても。うん、もう、仕方ないって。それにほら、今は使えないけど、私は早乙女さんの初期作品をがっちり確保してるから、将来的には十分武器になるって」

「え、えげつないことをさらっと言うな、お前」

 黒歴史の恐ろしさは、おたく歴の長い人ほど身に染みて分かる問題だと思う。千雨さん、気づいてないかもしれないけど、ちうの部屋だって例外じゃないんだよ。言わないけど。

 私はちょっと悪い笑みを浮かべる。千雨さんは少し引き気味である。

 私の考えが浅かったのは確かだ。でも……でもだ。千雨さんが丸くならなければ良かったとは、思いたくない。

 起こってしまったことは、仕方ない。そう考えるのが、たぶん一番いい。だってそう考えなければ……合理的に考えてしまうのならば、千雨さんは孤独だった方が良かったという結論になる。

 これからネギと関わるまでの中等部の三年間。ここに至るまでの初等部の六年間。自分の感性を否定され続けて、常識を否定され続けて、人と関わることに臆病になって、いつもシニカルな態度で世界を斜めに見るような千雨さんの方が良かったとは、思いたくない。そう考えるくらいには、私は千雨さんと関わってしまった。

「ね、それよりもさ。図書館探検部の説明会って、今日の放課後にあったんだよね。宮崎さんも行くって言ってたけど、他には誰かいた?」

 私は気持ちを切り替えるように、ことさら明るく聞いた。

 もしも近衛さんや綾瀬さんが説明会にいなかったら、それもまた大問題なのだ。昨日までなら、そんなことを心配したりしなかった。私の関わっていないところは、私の知る物語と同じ流れを辿るものだと思っていた。

 でも、そうじゃない。

 関わっていないつもりでも、私の起こしたアクションがどんな影響を及ぼしているかわからない。

「あ、ああ。えーと、説明会には他にもA組の奴がいたよ。私の隣の席の、綾瀬っていうちっこいのとか、近衛っていう関西弁の奴とかな。あとは春香も言ってた宮崎か」

 その台詞を聞いて、千雨さんに気づかれないよう小さく息をはいた。とりあえず、メンバーについては千雨さんが増えた、という変化だけでいいようだ。交友関係がどう変わっていくかは、かなり未知数だけど。

 千雨さんへの魔法ばれは、場合によっては修学旅行時点まで前倒しになるかもしれない。

 でも、防ぐ方法はある。朝倉さんの行動をおさえることができれば、その後のイベントも連鎖的に止めることができるはずだ。それができなくても、夜の争奪戦や、翌日の自由行動などを妨害できれば、大きく展開が変わる。

 ……展開が変わったら、どうなるのだろう。

 私の表情が、固まる。

「ん、どうした?」

 千雨さんが不思議に思ったのか、そうたずねてくる。

 私は取り繕うようにして笑みを浮かべた。

「ああ、いや、ちょっと考え事。なんか、私も交換条件を突きつけられそうだなーって。今のうちに少し探りを入れてくるね」

 そう答えて立ち上がり、私は部屋を出た。

 ぱたり、と後ろ手でドアを閉め、大きく息を吐いた。

 展開を変えたら、どうなるのだろう。

 私は今まで、超さんの計画を成功させることだけ考えていた。宮崎さんや綾瀬さんに魔法のことがばれなければ、超さんが勝つ確率はぐっと上がるとは思う。

 でも、綾瀬さんが援軍を呼ばなかったら、どうなる? 長瀬さんたちが来なくても、近衛さんはちゃんと救出されるのか? マクダウェルさんの到着まで、粘ることはできるのか? もしも近衛さんとネギが仮契約を行えなかったら、石化は誰が治す?

 私が知る物語の展開は、かなり危ういバランスの上に成り立っていたんじゃないだろうか。

 じゃあ、発端となる関西支部襲撃を起こさせないようにすればいい? できるのか、そんなこと。天ヶ崎千草の両親は、既に大戦で亡くなってしまっているはずだ。現在どこにいるのかも分からない彼女の恨みを解消する方法なんて、思い浮かばない。天ヶ崎千草が自分で用意した双六のゴールを変えることなど、できるはずがない。

 これから先、本当に覚えているとおりに展開するのかすらも不安になってくる。私のやったことは、どこまで、どのくらいの影響を与えてしまっているのだろうか。

 ああしたらこうなる、こうしたらそうなる、なんていろいろ考えたつもりでいて、その実、私は自分に都合のいい結果しか考えてはいなかったのだ。

 自分にとって望ましくない実験結果を、誤差だとか例外だとか言って処理するのは、科学的思考とはまったく縁遠いと、葉加瀬さんにも言われていたのに。

 私は六年という時間的リソースを、ただ無駄にしてしまったんじゃないだろうか。

 閉めたドアから離れて、千雨さんへの宣言どおりに、早乙女さん達の部屋へ向かう。

 どうすればいい? 何をすればいい? 考えながら歩く。考えても、いい案は思い浮かばない。いや、ここでぱっと出てくるような「いい案」とやらにすぐ飛びつくのでは、今までと変わらない。

 現時点で私の手の中にあるのは、二年とちょっとの時間的猶予。A組に所属している一般人枠としての立場。それから六年間で築いた交友関係と、高校卒業レベルの理数系学力、地方私大の国文科卒業レベルの学力くらいだ。

 この世界のことについては、各登場人物の設定と既に過去のこととなっている歴史的事実くらいしか信頼できない。もちろん、私が生まれた後に起こった事件については、例え私が関わっていなくともまるごと信じることはできないだろう。自分自身、そこまでいくと疑心暗鬼になっているとは思う。これまでが楽観的すぎたことを考えても、極端から極端に走りすぎている。けれど今さら、これから先の展開が私の記憶と同じに違いないと思いこむことなんてできなかった。

 私は本当に久しぶりに、山崎郁恵のことを頭の中で罵った。……前世の記憶なんて、無ければ良かったのに。



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凡人と天才

 早乙女さん達の部屋までは、急いで歩けば一分とかからない。そんな寮の廊下を、私はことさらゆっくり歩く。

 千雨さんに告げた目的は、別に方便だけというわけではなかった。けれどそれ以上に、考える時間が欲しかったというのが、部屋を出た理由の大部分を占めていた。

 私と「いくちゃん」が同一人物であると、早乙女さんは気づいているのか。気づいているのなら、できるだけ自分に有利な条件での口止めを。完全に私のためだけの目的だ。

 けれど。

 それをした結果が、本当に私だけの問題で済むのか、分からない。

 できるだけ何もしないように、誰とも関わらないようにしなければ、本来の流れとのずれはどんどん大きくなっていくのではないだろうか。いや、「中等部に上がるなり塞ぎこんだように人との関わりを避ける私」という存在は、それだけでもクラスメイトに影響を与えずに置かないだろう。

 動くのは怖い。でも、動かなければさらに状況が悪化するかもしれない。

 なぜ私はあんなにも気楽に動けていたのだろう。こんなにもたくさんの人と関わってしまったのだろう。

 ぐるぐると、益体もない考えが回る。だって、結局は動いても動かなくても歯車が狂っていくと目に見えているのだ。でも私は、どっちでも変わらないと笑い飛ばせるような、拠って立つものを持ち合わせてはいなかった。

「おや、坂本サン。思いつめた表情でどうかしたネ?」

 階段の方から声をかけられて、振り向く。そこには、お風呂道具を抱えた超さんが立っていた。

 

 

「適当に座ってもらって構わないヨ。今お茶をいれるから、少し待つといいネ」

 超さんの言葉にうなずいて、座卓の前に腰を下ろした。同じ二人部屋のため、左右の違い以外は自分達の部屋とほとんど変わらない間取りだ。

 私は誘われるままに、超さんの部屋へお邪魔していた。悩んでいるなら相談に乗るヨ、という言葉に釣られたわけではないし、そもそも相談できるような悩みでもない。

 ただ、彼女だけなのだ。

 この学園の中で……いや、魔法世界まで含めたこの世界で唯一、「山崎郁恵の知る物語よりも悪い未来に変えてしまう恐怖」を感じずに話せる相手。それは自ら未来を変えるために動いている超さん以外には存在しない。

「お茶と言ておきながら、買い置きしてあるのはコーヒーだけだたヨ」

 たいした時間をあけずに、超さんは戻ってきた。コトン、コトンと空のカップが二つ座卓に並べられる。そこにコーヒーパウダーがスプーンで放り込まれ、続いてポットからお湯が注がれた。

 カップの中身をくるくるとスプーンでかき混ぜた後、超さんは私を見た。

「できたヨ。インスタントで悪いケドネ」

 超さんはどちらのカップも、私の方へ押し出すことはしない。そして、超さん自身もカップを取ることはしない。

「ありがとう。いただきます」

 私がそう言って片方のカップを引き寄せると、超さんはどういたしましてと言いながらもう一つのカップを取ってコーヒーに口をつけた。

「ちょと熱いネ」

 超さんは舌を出して顔をしかめた。舌の先が少し赤くなっている。

 ここまでやられれば、流石に私にもどういうことかは分かる。この対応、去年の体育用具室でのことを受けているのだろうけど、普通にコーヒーを出してくれれば私は疑問も抱かずに飲んでいただろう。超さんが何らかの薬を盛る理由が存在しないという以上に、私にはそういうものを警戒するという危機意識がなかった。

 私も超さんに倣ってコーヒーに口をつけた。私はブラック派だが、超さんもそうだったというのは、少し意外な事実である。

「そういえば、葉加瀬さんは? まだお風呂かな」

 超さんと同室であるはずの葉加瀬さんの姿が見えないことを疑問に思い、問いかける。

「ああ、ハカセは茶々丸の調整があるから、今日は研究室の方に泊まりこむという話ヨ」

 そうか、言われてみれば、絡繰さんの起動からそんなに日が経っていない。特に、今日は集団生活というものを始めて経験させたのだから、いろいろと確認したいこともあるに違いない。

「そっかー。あんまり徹夜ばっかりするな、って超さんからも言ってやってね。葉加瀬さん、夢中になったら体力とか気にしなくなるし」

「フフ、そうだネ」

 超さんは短く答えて微笑む。そして、コーヒーを一口飲んでから、すっと目を細めた。

「やはり坂本サンは、茶々丸が人間でないと気づいているネ」

「え?」

「普通、クラスメイトを『調整』するなんて言葉、そんな簡単に流すものではないヨ」

 表情が固まる。

 迂闊で済まされるレベルではなかった。未来を変えてしまうことに怯えなくても良いということと、気を抜いて良いということは、決してイコールではない。それどころか、超さんはA組の中でも最大限に気を遣って会話しなければならない相手だったというのに。

 私は必死に頭を回転させて、この場を誤魔化す言葉を選び出した。

「え、と、それは冗談で言ってるわけ?」

「ン?」

「いやその、絡繰さん、どっから見てもロボットじゃない」

 そうだ、ここまでは明かしていい。私と千雨さんは、学園結界による認識阻害の効きが悪い。それくらいの情報、調べればすぐに分かることだし、超さんが「やはり」と言った以上、そこまでは既に掴んでいるに違いない。

 私が決して人に知られてはいけないことは二つ。

 一つ目は、私が超さんの計画について情報を持っているということ。自衛手段を持たない私は、その情報を守りきることができない。だから、超さんに味方として引き入れられてしまうという事態にも陥りたくはない。

 二つ目は、この世界のことを漫画で読んだ知識があるということ。それはこのことを知った相手の心情を慮ってということでもあるが、それ以上に私自身の心情の問題でもある。

 私は誰なのかと問われれば、坂本春香だと答える。たとえ前世の記憶があったとしても、断じて山崎郁恵ではない。けれど、漫画などという一段階メタな視点を持ち出してしまったら、相手はもう私を「漫画でこの世界を読んだことのある人間」つまりは山崎郁恵としてしか見てはくれなくなるだろう。それは、嫌なのだ。

 超さんはじっと私の目を見た後、いきなり笑い出した。

「アハハハハハ。そうダネ。確かに茶々丸はどう見てもロボだ。でも、どうせならガイノイドと言って欲しいネ」

 どうやら、ひとまずは乗り切れたらしい。私は安堵を悟られないように口を開く。

「それはロボットじゃないよアンドロイドだよ、と同じ類の主張なのかな」

「ん、どういう意味カナ?」

 どうやら超さんは少年漫画への造詣は深くないらしい。当たり前か。超さんがこの時代に来て数ヶ月、そんな娯楽に触れる時間があったとは思えない。

「いや気にしないで。漫画の話」

 私はそう言って、間を持たせるようにコーヒーを飲む。

「茶々丸は麻帆良大工学部とハカセが総力を挙げて製作したものヨ。今は実際に人の間で問題なく生活できるかのテスト中、ということになるネ」

 まさか教えてくれるとは思っていなかった情報を、超さんがさらりと明かした。またさっきと同じ様にかまかけなのかと一瞬疑ったけれど、そういう要素はなさそうに思える。

 だから私はただ素直に、今日の朝、葉加瀬さんに言いたくてしかたなかった言葉を、口にした。

「そう、か。葉加瀬さんの夢だったもんね。アトムみたいなロボットを作るって、初等部の頃からずっと言ってた。……おめでとう、って伝えておいてくれるかな。それとも、直接言ってもいいのかな」

 目を向けると、超さんはにこりと笑ってくれた。

「ハカセに直接言て欲しいヨ。きと喜ぶネ」

「うん、そうする」

 私も笑顔でうなずいた。

「そういえば、悩みについてはどうカナ。愚痴くらいなら聞くヨ? なんで茶々丸の外見を誰も不思議に思わないのかー、とかネ」

 超さんがそういって話の水を向けてきた。そういえば、相談に乗る、と誘われたのだった。

「んー、そっちの愚痴は、あんまり無いかな。もう慣れちゃったし。おかしく思う私の方がおかしいんだってさ」

「長谷川サンもいるしネ?」

 いたずらっぽく超さんが微笑んだ。やはり、知られているらしい。

「そうだね。千雨さんには、随分救われてる気がするよ」

 もしも、千雨さんがいなかったら、初等部時代の私の神経は、もっとささくれだったものになっていただろう。

 私はもう一口コーヒーを飲む。やっと、ちょうどいい温かさになってきた。

 そんな私を見て、超さんが苦笑する。

「……坂本サン、駄目だヨ。その対応では、ただアナタの異常性が際立つだけネ」

「な……」

 何を、言うのか。

 超さんの表情は穏やかだ。そこから超さんの感情を読み取ることはできない。

「話を合わせる事なんかよりも先に、聞くべき言葉があたはずヨ。長谷川サンの件だけじゃない。ハカセの件についても、そうダネ」

 言われて、気づく。違和感のないように話を繋ぐ、その行動自体が異常だ。私は、何よりも先に聞かなければならなかったのだ。

 私は震える声で超さんに問う。

「なんで……そんなことを知っているの」

「それだネ。坂本サンはもっと早くそれを聞かなければならなかた」

 そのとおりだ。なぜ絡繰さんがロボットだと知っているのか。それを葉加瀬さんが作ったと知っているのか。私と長谷川さんがこの学園の「おかしい」を共有していると知っているのか。聞かなければならなかった。

 ただ、聞いてはいけない質問でもあった。そこから超さんの陣営に引き込まれる方向へ話が進んでしまう可能性のある質問だからだ。「それはこの世界に魔法というものがあるからヨ」などと言われようものなら、私の作戦は完全に破綻する。ただ超さんの陣営にお荷物が一つ増えるだけだ。無意識に避けてしまっていた部分も、あったと思う。

 先の質問は、正しく誤魔化すために必要だったのは何か、というものだ。答えなど聞かなくても分かっている。超さんが未来人で、魔法を知っていて、葉加瀬さんを協力者として遇していて、そして目的のために学園のことを調べていたからだ。

 だから、私はいまさらにならないと聞けない質問をする。

「私の、異常性って、何?」

 認識阻害魔法の効きが悪かったかもしれない。でもそれは千雨さんも同じだ。中学生にしては頭が良いかもしれない。でもそれは葉加瀬さんも同じだ。

 こんなだまし討ちのようなやり方をもってしてまで超さんが確かめたかった、私の異常性とは、何だ。

「交友関係ヨ」

「交友……関係?」

「坂本サンを除いたA組三十一人中十五人」

 超さんが静かに言った。

「中等部入学以前に、坂本サンが面識を持ていた人数ヨ。この数字は少し、異常だネ」

「そんなの、ただの偶然……」

「麻帆良の女子初等部に生徒が何人いるか、言わないと駄目カナ。坂本サンがただ顔の広い人だたなら偶然という線もあるかもしれないガ、私の調べた限りアナタが友人と呼べるのは二十人に満たないネ。おや、さらに確率が低くなてしまたヨ」

 偶然というには、あまりに出来すぎた事実。確率的にはゼロではない。が、限りなくゼロに近い。ならばそれは、十分確認に値する異常だ。誤差や例外で処理して良いものではない。

「まあ、だからその内確認するつもりだたのヨ。こんなに早く機会が巡てくるとは思てなかたケドネ」

 そこで一度、超さんは言葉を切った。

「今度はこちらから聞く番ヨ。茶々丸がガイノイドであること、ハカセがその製作者であること、アナタと長谷川サンが非常識に敏感であること、それを私が知ているということを、自明のものとして受け答えした――坂本サン。アナタは、私の何を知ているネ?」



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嘘つきと隠し事上手

 唇を強く引き結んで、私はうつむいていた。

 どうすればいい? なんて答えればいい? 何を知っていると言えば、超さんに納得してもらえる?

 いっそ、未来を知っていると、言ってしまえばいいんじゃないかと、そんな考えが浮かぶ。ここまで疑いを持たれてしまったら、もうこれ以上隠れて動く意味はないのではないだろうか。

 でも、それはできない。そんなことを言ってしまえば、どうやってそれを知ったのかを問われないわけがない。そして私はそれに答える言葉を持っていない。

「だんまり、カナ」

 超さんに言われ、はっと顔を上げる。

「あまり賢い対応とは言えないネ。何かを知ていると言ているも同然ヨ」

 偶然だと言い張ることもできず、そして今の状況を論理的に正しく説明することもできず、けれど沈黙は何よりも雄弁に、それが異常であることを語る。

「まあ、実のところ、大枠の予想はついているヨ」

 え? と、私は目を丸くする。

 だって、私が前世の記憶を持っていて、しかもその前世がこの世界を漫画として描いていて、だからこれから起こることを知っているのだなんて、そんな突拍子もない事実でなければ、この状況は説明できない。そんなとびきり非常識な結論に、超さんはたどり着いたというのだろうか。

「偶然では片付けられない坂本サンの交友関係だけれど、それでも偶然としか言えない理由が存在するネ。坂本サンはあのクラス編成を知ることなどできなかただろうし、長谷川サンのように数年以上も前からの友人もいるヨ。なら、こう考えれば辻褄が合うネ」

 超さんは軽く目を閉じた。

 一般人としての行動範囲しか持たない私だ。学園側と繋がっている、という可能性すらないのだ。けれど、超さんの言葉によどみはない。

 ゆっくりと、超さんが目を開いた。

「プレコグニション。坂本サン、アナタは最初から、このクラス編成になることを知ていたのじゃないカナ?」

 せっかくお風呂に入ってきたというのに、背中に気持ち悪い汗が浮かぶ。呼吸が浅くなるのが分かる。けれど、それを隠すこともできない。

「な、何を言っているのかわかんないな」

「横文字は苦手カナ。未来視、あるいは予知能力。俗に超能力とも称されるそれは、九割以上の偽者と、ほんの一握りの本物の区別すらつけられず、そもそも本物がいるのかさえも分からず、進歩が止まている科学分野ヨ。坂本サンは、その本物なのだと、私は考えているネ」

 無茶だ、そんな暴論、あるわけがない。でも、限りなく正解に近い。これもかまかけなのか。それとも天才っていうのは、そういう発想の飛躍さえも味方にするものなのか。

 いや、魔法があり、占いによる擬似未来予測が可能であるのだから、その派生として超能力に関する研究が行われていてもおかしくはない。たとえ研究が行われていなくとも、その発想に至るハードルは、妄想というよりは遥かに現実に近いはずだ。

「自分でも随分なコトを言ているとは思うけどネ、そう考えないと理由が分からないヨ。あの日、体育用具室で、坂本サンがコンソメスープを毒見してから私に勧めた理由がネ」

 ガツンと、頭を殴られた気がした。

 そこ、だったのか。

 何のことはない。交友関係がどうとか、予知がどうとか、そんなのは全部理屈づけに過ぎなくて、超さんが何よりも私に注目したそもそもの発端は、そこだったのだ。

 タイミング的に考えて、おそらくはこの時代への転移直後。誰も超さんのことを知らない。魔法先生に目をつけられているという可能性すら存在しない。その状況で、ホットミルクを飲まない理由を、薬物を警戒しているからという推測に繋げる存在。そんな私を、超さんが怪しまないはずが無かったのだ。

 私のことを調べて、経歴が例えば龍宮さんのようなものだったなら、多少の不審を残しながらも超さんは納得したはずだ。偶然とは言い難いクラスメイトとの交友関係も、そうなるように仕向けた理由(例えば学園の依頼とか)を幾らでも思いつけただろう。

 でもそうではなかった。私のどこを調べても、裏の世界や魔法との繋がりが見えてくることはなく、その事実はさらに毒見という私の行為の不自然さを増す。

 差し向かいになって確かめる、なんていう暴挙に出たのは、超さんにとってもある意味手詰まりだったから、なのかもしれない。

「他人にはとても話せない秘密だということは分かるつもりヨ。でもそこを曲げて、科学の進歩のために、きりきり吐くと良いネ。そして今度的中率なんかのデータを取らせて欲しいヨ」

 冗談めかした超さんの言葉。どこまでが本音だろうか。いや、超さんはきっと、嘘をつかない。だから実験データを取りたいというのも一つの本心ではあるのだろう。彼女の場合はただ、言葉にしない秘密が多いだけだ。

「超さん」

「なにカナ」

 私とは全然違う。私は、嘘をついてばかりだ。

「実験には、協力できないよ。私にはもう、未来を視る力なんてない」

 その言葉で、超さんの表情が初めて揺れたように思う。

「超能力関係の本とか読んだことがあるなら、分かると思うけど、そういう力って子どもの頃の一時期だけ発現するっていう例が多いみたいね。私もそのクチ」

 前世のことは言えない。でも未来を知っていたということにしなければ、この場は収まらない。なら、そういうことにしてしまおう。

「最後に視えたのは、初等部の一年生くらいだったかなー。それが未来のことだって気づいたのは、何年も経ってからだったけどね」

「フム」

 超さんが小さくうなずく。

 どうなのだろう、超さんくらいになれば、相手が喋っていることが本当か嘘かなんて、表情や視線、口調から分かってしまうもの、という気もする。

 でも、ばれたって構わない。これはチャンスだ。少なくとも、私の言葉を予知という重みを持った情報として超さんに伝えることができる。

「で、その、超さん、知ってるかな。私、随分前から世界樹をこよなく愛する会に入るために勉強してて、明後日、正式に入部するんだけど」

「知ているヨ。ハカセから聞いたことがあるネ」

 裏を取るために、超さん自身の手で調べてもいるに違いない。

「もう、入る必要なくなっちゃった。直接言えるから」

 短い沈黙の後、超さんが口を開いた。

「……どういう事、カナ」

「世界樹の大発光、一年早まるよ。再来年、ニ〇〇三年の学園祭に光る」

 次の沈黙は長かった。時計の秒針が、三周くらいはしたはずだ。

「全部、知ている。そういう事だネ、春香サン」

「全部なんて、知らないよ。だってもう、私が視たのとどれだけずれてるのかも分からない」

「なるほど、塞ぎ込んでいたのはそういう理由だたカ。迂闊にも私の部屋などという場所について来たのも同じ理由カナ」

 迂闊と言われてしまった。やはり私は、危機意識というものが圧倒的に足りていないらしい。

「それにしても、困てしまたヨ」

 超さんはちっとも困っていない表情で言う。

「私には坂本サンの言葉を信じる根拠が一つも無いネ。先ほどの台詞、ただ私を焦らせようとしているだけと考えることも出来るからネ」

 その台詞には、虚を突かれた。

 確かにそうだ。私は徹頭徹尾、超さんの味方のつもりだけれど、それを証明する手段がない。私の未来予知能力という話を、眉唾であれ信じるにしても、私の告げた未来が嘘でない証拠は一切ない。

 あってもなくても無意味な情報。いや、むしろ私という不確定要素が増える分、超さんにとっては邪魔なだけだ。

 うろうろと視線をさまよわせる私を見て、超さんは小さく笑った。

「まあ良いヨ。嘘だたにしても、そういう嘘を坂本サンがついたということは本当だからネ。貴重な情報をもらた、ということにしておくヨ。何しろ……」

 超さんの顔から笑いが消える。

「坂本サンの視た未来では、負けたらしいからネ」

 その表情に私は息をのんだ。怖い。なぜあの一言から、そんなところまで分かるのか。分かってしまうのか。

 私の記憶の中では、ネギに負けることをある程度納得ずくだったようにさえ思えたのに、今の超さんにはそれが全く見えない。

 超さんはすぐに表情を戻した。苦笑を浮かべる。

「コーヒー、冷めてしまたネ。いれ直すヨ」

 そう言って立ち上がろうとする超さんを止める。

「あ、いいよ。もう、部屋に戻るから」

 私は残っていたコーヒーを飲み干して、立ち上がる。

「また気が向いたら、視たことを話して欲しいネ」

「信じないのに?」

「どこまで信じていいかを知りたいからヨ」

 座ったまま、超さんが笑う。やはり、その表情からでは、どこまで本気なのか分からない。

「そうそう、分かていると思うけれど、このことは……」

「超さん以外に言うつもりはないよ。本当は超さんにも隠してる予定だったし」

 それに、だ。

「言ったところで意味がないって、分かってるんでしょ」

 正確には、私が言ってしまっても構わない、だろうか。

 もちろんそんなことをするつもりは無いけれど、例えば私がこの足で学園長先生や高畑先生のところに押しかけて、超さんのことを言ったとしても、彼らは取り合わないだろう。現時点で超さんは何もしていないのだ。魔法と何も関わりのない私の吐く言葉を、先生達が信じる理由なんてない。

 というか、超さんがもしもそれを不味いと思っているのなら、今の段階でもっとはっきりと私に対して実力を行使しているんじゃないだろうか。いや、むしろ、実力を行使したという一事でもって、私の話に信憑性を持たせてしまう可能性を考慮しているのかもしれない。

 だからきっと、私の扱いは今のところ保留されている。あと一年、二年経って事態が差し迫ってくれば、どうなるか分からないけれど。

 今の時点ではむしろ、放置しておいた方が労力は少ないのだろう。超さんからも学園からも一般人と見られる、という作戦は失敗してしまったけれど、どちらからも警戒対象として見られることは、まだできる。

 学園側に超さんの味方だと見なされてさえいないなら、実のところ私の立ち位置は昨日までとあまり変わらないのだ。

「それじゃあ、また明日。おやすみ、超さん」

「また明日、春香サン」

 廊下に出ようとドアノブに手をかけたところで、超さんに呼び止められた。

「そういえば、相談に乗る、という約束だたネ」

 私はドアノブから手を離して振り向く。

「坂本サンが何をしても、何をしなくても変わらないヨ。私はそれを全て利用して勝つネ」

「……ありがとう、楽になった」

 私はそれだけ返して、超さんの部屋を出た。

 ぱたりと、ドアを閉める。

 結局、超さんは一度も、魔法とか学園とか、超さん自身のことについて触れなかった。私の発言をどれくらい信じていたのか、それだけでも分かるというものだ。

 私が何をしても、何をしなくても変わらない。

 超さんの言葉は、私を楽にはしてくれた。

 でもそれは、坂本春香に意味なんてないと、そういう言葉でも、あった。

 携帯電話でちらりと時間を確認して、もう今日は早乙女さんのところにはいけないななんて、そんなことを考えて誤魔化した。



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薄っぺらな自覚

 中等部に進学しておおよそ一月。ゴールデンウィークも終わり、季節はどんどん夏に向かっていく。時間はずるずると過ぎて、寮という新しい空間での生活ペースにも慣れてきた。

 私の朝はそれなりに早い。陸上部時代からの日課であるランニングのために、目覚まし時計は六時にセットしてある。雨が降っていればこれ幸いと二度寝を決め込むけれど、晴れているときはベッドから起き出し、洗顔などして身支度を整える。

 ジャージに着替えたら、腰まで伸ばしている髪をポニーテールにくくり、首にタオルを引っ掛けて部屋を出る。

 この時点では大抵、千雨さんは夢の中の住人だ。というか、遅くとも零時には寝る私と、チャットが盛り上がっていれば二時、三時まで平気で起きている千雨さんとでは、朝の時間がずれてくるのも当然と言える。

 寮の前で軽くストレッチをして体をほぐす。日によってはまき絵さんや大河内さんあたりが出てきて一緒に走ることもあるけれど、今日はどうやら私ひとりのようだ。

 携帯電話に十五分のタイマーをセットして、走り始める。最初はゆっくりとしたペースから始めて、徐々に速度を上げる。呼吸に気を遣いながら走り続けて、タイマーが鳴ったら折り返しだ。おおよそ三十分のランニングを終えて寮に戻ってきたら、呼吸が落ち着くまでまた柔軟である。

 こうやって時間を区切って走っていると、時間あたりに走る距離が少しずつ伸びているのが分かる。成長期だからとか、スタミナがついたからとかよりも、走るくらいでは滅多にバランスを崩さなくなったから、ということが理由の大部分を占めていて、少し悲しい。

 部屋に戻って、シャワーで汗を流す。走ることを日課にしているおかげか、体のラインはなかなか引き締まっている。あともう少し身長と胸が欲しいところだが、お母さんの体型を見る限り、高望みはしない方がいいだろう。あと五センチほど伸びてくれれば、身体感覚のずれはほぼ無くなるのだけど……。

 ドライヤーで髪を乾かし終わったら、ついでに三つ編みにしてしまう。ポニーテールだと大河内さんと、そのまま後ろに流すと近衛さんと髪型が被るので、最近はいつも三つ編みだ。

 この辺りでだいたい七時過ぎ。千雨さんがまだ寝ているようなら、起こすことにしている。低血圧なのか寝不足なのか、千雨さんはいつも不機嫌そうなお目覚めなのだけど、その不機嫌を人にぶつけるのは格好悪いと思っているのか、大抵はしぶしぶながらも起き出してくる。

 千雨さんが身支度を整えるのを待って、食堂に朝ごはんを食べに行く。部屋で作るという選択肢もあるけれど、準備も片付けも手間なので、休日でもない限り、ほとんどそういうことはしない。

「なんつーかなぁ」

 正面に座っている千雨さんが、納豆をかき混ぜながら口を開いた。

「最近、ふ抜けてないか?」

「ふ抜けてるって、何が?」

「春香が」

 言われて、ぼんやりと考える。確かに、ふ抜けているのかもしれない。

 入学式があった日の夜、超さんに言われた言葉。私が何をしても、何をしなくても変わらない。この一ヶ月、私はただ惰性だけで日々を過ごしていた。

「そうかもね」

 私がうなずくと、千雨さんは小さくため息をついた。

「本格的にふ抜けてるな、お前」

 だって仕方ないじゃないか。私は私なりに、いろいろやってきたつもりだった。けど、手を出せば出すほど、私が考えてもいなかった方向に話は進んで行って。私だけじゃフォローもできないところまで行ってしまっているのに、超さんはそんなの些細なことって扱いで。……だったら、ぎりぎりまで超さんの邪魔をしないようにすることが一番なんじゃないかって、そんな風に思ってしまったのだ。

「せっかく入った大学のサークルも、あんまり顔を出してないみたいだし。何がやりたいんだよ」

「何がやりたいんだろうね。そこが、分かんなくなっちゃってさ」

 私は玉子焼きを口に放り込んで咀嚼する。ここの味付けは、家のものよりも少し甘めだ。

 超さんに大発光が早まることを伝えてしまった今、私が世界樹をこよなく愛する会に残り続ける意味はない。魔法という概念を持たないあのサークルでの解析だと、世界樹に対する理解はどうしても表面的なものになる。もとより、理数系の進路に執着があるわけでもない。今年の学園祭までは籍を置いて、そこでの成果発表会が終わったら、やめてしまおうかなんて考えてもいる。

「坂本殿も、そういう悩みを持つのでござるな」

 声をかけられた方に視線をやると、朝食のトレイを持った長瀬さんがこちらに歩いてくるところだった。

「お隣、失礼するでござるよ」

 広い食堂だ。空席はまだたくさんあるが、一人で食べるのも味気ないということだろう。同じクラスや部活動の人間が集まって食べる光景は、よく見られる。

「よう長瀬。双子は一緒じゃないのか?」

「昨日、遅くまで起きていたようで、まだ寝てるでござるな」

 流石に遅刻しそうなら起こすでござるよ、と長瀬さんは言う。鳴滝姉妹と長瀬さんの関係は良好なようだ。放課後になると、三人で散歩しているのをたまに見かける。

 私は挨拶もそこそこに、長瀬さんに問いかけた。

「そういう悩み、ってどういう意味?」

「普通の中学生みたいな悩み、という意味でござるが?」

「その言い方だと私が普通じゃないみたいなんだけど……」

 じと目で睨んでやると、長瀬さんは誤魔化すようにはっはっは、と笑った。だいたい、普通の中学生じゃない度を考えるなら、長瀬さんの方がよっぽどひどい。体力測定の反復横とびで分身の術を見ることになるとは予想もしていなかった。忍ぼうよ、少しは。

「ああ、なるほど。春香には無いもんだとばかり思ってたけど、普通に思春期になっただけか」

 肩を落とす私とは裏腹に、千雨さんは納得したような口調でうなずく。

「なんか、そういう言い方されると途端に恥ずかしくなるなあ」

 私は苦笑する。思春期。確かに外からは、そういう時期にありがちな悩み事で右往左往しているように見えるのかもしれない。

 実際、超さんからしてみれば、私の行動なんてそれと大差ない扱いだろう。超さんを手伝おうと考えていたはずなのに、手伝っているのか邪魔しているのかも自分では分からないという体たらくで、実に情けない。

「何がやりたいのか分からない……。や、青春でござるなあ」

 ずず、と温かいお茶をすすりながらまったりとした表情をする長瀬さん。つい数分前までは確かに存在したはずの朝食は、すでに半分以上が長瀬さんのお腹の中に消えている。健啖というにもほどがあるレベルだ。

「それに、坂本殿はそれくらい隙を見せた方がとっつきやすくなるのではござらんか。風香などは『いいんちょと並ぶ完璧超人』と評してござったが」

「いや、それは完全に過大評価だと思うんだけど」

 雪広さんをオールマイティとするなら、私は器用貧乏と言うべきだろう。総合的な学力の面だけは、まだ私の方が上だろうけど、テスト勉強というものを基本的にしないので、順位的には雪広さんの方が高かったりする。(お小遣いは寮暮らしということもあって生活費込みの定額制になった)

「まあ、いいんちょのさらに上位互換で超がいるしな、うちのクラス。てか、一芸入試とかしたら大学合格できるレベルの奴が多すぎるだろ」

「確かに、古などは十分合格できそうでござるなあ」

「おめーもだよ、エセ忍者」

「はっはっは、拙者は忍者などではござらんよ」

「じゃあまずその喋り方をなんとかしろよ……」

 A組では頭から否定されることはないと気づいたからなのか、千雨さんはここのところ、この手の突っ込みが厳しめだ。図書館探検部なんていう特殊な部活動に参加しているし、知らないうちに魔法の存在にたどり着いてしまいそうで、ちょっと怖い。

 かといって、どうすれば千雨さんに魔法を隠したままでいられるのかと考えても、良案は浮かんでこない。むしろ、この時期に千雨さんが自力で魔法に気づくところまで行けば、超さんが自陣営に引き込もうとするんじゃないかという気もする。

 私の記憶にある「長谷川千雨」は、なんだかんだ言っても自分の日常を気に入っているから、それを壊されたくないという動機があった。けれど、非常識を「良く分からないけどそこにあるもの」として、それなりに受け入れている今の千雨さんの「現実」は、結構ファンタジーに寄っているはずだ。説得の余地はあると思う。

 そして、超さんが引き込むことをしないなら、それほど時を置かずして、千雨さんは魔法を知ったという記憶を消されるだろう。ネギの赴任前ならそうなるのが妥当な展開というものだ。

 ほら、やっぱり、私がしないといけないことは、なにもない。

「春香、どうした、ぼーっとして。置いてくぞ」

 問いかけられて、顔を上げる。千雨さんの朝食もすっかりなくなっていた。長瀬さんは既にトレイを手に持って立ち上がっている。

 いつの間にか考え込んでいた私だけれど、無意識のうちにちゃんとご飯は食べていたらしい。

「あ、ごめんごめん。行こうか」

 答えて、立ち上がる。

 まったく、私にしかできないことはあるのかだなんて、本当に中学生そのものの悩みだ。長瀬さんの言葉ではないけれど、自分にも年相応な面があるということを、素直に喜んでおけばいいのだろうか。

 もちろん、それでいいはずが無いのだけれど。

 

 

 放課後になって、さて今日はどうしようかなと考える。

 ゴールデンウィーク中に世界樹の樹皮から採取したコケは、サークルの研究室でいろいろ生育環境を変えつつ培養中だ。そこら辺の機器はまだ触らせてもらえないので、とりあえず今日のところは顔を出す必要もないだろう。急な用件でサークルのマスコットあるいは猫の手要員としての私が必要なら、昼休みの内に会長からメールが入っていたはずだ。

 じゃあ図書館にでも行こうかと考えたけれど、つい昨日、本屋さんで買ってきた某ファンタジー小説の下巻が鞄の中に入っていることを思い出した。まずこちらを読むのが先だろう。いや、新潮文庫版も買ったから内容的には分かっているのだけど。良い小説は何度読んでも面白いから別にいいのだ。あと一冊出たら、新刊が出なくなるんだなあと思うと、ちょっと憂鬱である。

「や。難しい顔をしているネ」

「……いや、すごくくだらないことを考えてたんだけどね」

 掛け値なしに本当なのだけれど、超さんは小さく笑っただけだった。

 放課後の教室はいろいろと騒がしい。千雨さんが図書館探検部に入ったので、帰宅部の人間はいないはずだが、毎日活動のある気合が入った部活で無い限りは、お喋りに興じたり、遊びに行く約束をしたりと、すぐに教室を出て行く人は少ない。

 だから、超さんが私に声をかけてきたからといって、予知能力云々の突っ込んだ話をすることはないだろう。

「今月お財布が厳しいから、肉まんは買えないんだけど……」

 機会があればどこでも商売を始める超さんに、とりあえずけん制をかけておく。まあ、セイロを持っていないから、今日はそういう話じゃないとは思う。

「おや、それは好都合ヨ」

「好都合?」

「坂本サン、アルバイトをする気はないカナ?」

 なんでも、来月行われる学園祭に向けて、超包子の営業規模を拡大する予定なのだそうだ。

 私も何度と無く利用したが、現在のところ超包子の店舗数は一店のみ。メニューも点心などの軽食が中心で、夜の七時には営業を終了する。主要な客層は間食を目的とした学生や教師達で、決して夕飯を食べる場所ではない。

 店員も基本的にはお料理研究会の面々から希望者を募ってローテーションを組んでいたということらしい。だが、学園祭の準備期間中は居残りをする者が増えるため、その消費増加を当て込んで、本格的に夕飯や夜食を食べられる店舗としてリニューアルするのだそうだ。

 本店のテーブル数を増やすだけではなく、二号店を大学校舎近くに出すとの事で、超包子に協力してくれているお料理研究会の面子だけでは人手が足りないらしい。

「ハカセや古も手伝ってくれているのだけどネ。坂本サンもウェイトレスをやてくれないカ? お給金は弾むヨ」

「わかった、やる」

 説明を受けた私は即答した。超さんが怪訝そうな顔をする。

「別に今すぐの返事でなくても良かたのだケド……そんなに厳しいネ?」

 返事のタイミングが悪かったせいで、懐事情の心配をされてしまった。

 いや、そういうことではなく。ただ私の中に超さんからの依頼を断るという選択肢が浮かびもしなかったというだけの話だ。

 比べるまでも、また考えるまでもなく、私より超さんの方が現在の情勢を正しく把握しているだろう。その超さんがわざわざ持ちかけてきた話なのだから、私に否やはない。

 しかし、それを言うわけにもいかないので、私は少し引きつった笑いを浮かべた。

「えっと、うん。ちょーっと本を買いすぎちゃったかなって、ね」

 本当はちゃんとやり繰りして、余裕を持って使っているだけに、少し悔しい。むう、超さんに計画性のない人だと思われたらどうしよう。それはちょっとイヤだ。

 私の引きつった笑顔を、照れ隠しだと思ったのか、それとも嘘だと思ったのかはわからないけれど、超さんはにっこりと笑った。

「私は人手が欲しい。坂本サンはお金が欲しい。これこそ正しい雇用関係というものネ」

 そうだねとうなずいて、私は乾いた笑いを漏らした。

 それからふと、超さんはなんで私をバイトに誘ったのだろうと、ようやく考えた。なるほど、私は確かに、ふ抜けているようだった。



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【番外】 女の子会議

 お風呂から上がり、大浴場の前にある自動販売機でフルーツ牛乳を買っていたところを拉致された。このあと暇かどうかを問いただされて、暇だと答えたらあれよあれよという間に部屋へ連れ込まれただけなので、拉致というのもおかしい気はするが。

 そういうわけで美空は現在、近衛木乃香と神楽坂明日菜の部屋でクッションを抱えて座っている状況だった。飲み物は持参のフルーツ牛乳。お茶請けは買い置きしてあったらしいクッキーである。

 入学から二ヶ月も経っているので、仲良しグループごとの境目もそれなりに固まりつつある。実のところ美空は、木乃香とも明日菜とも異なるグループに属している。仲のいいクラスメイトという感じではあるが、部屋にお呼ばれしてお茶会に参加、というほどの関係ではない。少しばかり不思議な感じである。

 お茶会の面子は部屋の住人である二人に、椎名桜子と美空自身をプラスした四人だ。美空を外して雪広あやかを足せば、初等部時代の同じクラスグループ、ということになる。

 座卓をぐるりと囲むように座った四人の中で、最初に口を開いたのは明日菜だった。

「ごめんね。急に来てもらっちゃって」

 決まりの悪そうな笑顔を見せる明日菜だが、大浴場の前で美空にこのあとの予定を問いただしてきたときの真剣さを考えるに、おそらくお茶会を開いたのは彼女だ。

「やー、まあどうせ暇だったからね。気にしなくてオッケー、オッケー」

 実際には既にテスト週間に入っているので、暇であるはずなどないのだが美空も他の三人も、特に試験勉強をするつもりはない。

「そうそう、クッキーも美味しいし」

 笑いながら答えた美空のあとに続くように、桜子もうなずく。彼女はすでにぽりぽりとクッキーをかじり始めていた。

「あ、それなあ。春香さんに教えてもらったお店で買うたんよ」

「そういえば散歩と食べ歩きが趣味って言ってたね。今度いろいろ教えてもらおーっと」

 桜子は言いながらもクッキーをひょいひょい口に運んでいく。美空も一つ取って食べてみたが、なるほど、これは美味しい。しかし、飲み物がフルーツ牛乳では甘さのバランスが取れていない。これなら普通の牛乳の方が良く合うはずだと思う美空だった。

「それにしても、やっぱり三人部屋だと広いなー。ここを二人で使っているとは……」

 きょろきょろと内装を見回した美空は、むむむと唸った。単純に広いということもそうだが、ロフトの存在はそれ以上に心惹かれるものがある。

「これが権力って奴だよねー」

 あはははと桜子は明るく笑うが、学園長の孫である木乃香は「ウチのおじいちゃん、少し過保護なんよ」と恥ずかしそうだ。

「クラスの人数考えると一つはこういう部屋が出るんだから、クジ運が良かったとでも思っておけばいいじゃない」

 前向きな視点を出したのは明日菜である。しかし、人間離れした強運の持ち主がすぐそこでクッキーを食べているので、それは本当に気分だけの話といえる。

 その明日菜が、はっと我に返ったように動きを止めた。

「って、そうだった。おしゃべりもいいんだけど、今日は美空ちゃんに相談したいことがあったのよ」

「お、なになに。相談? シスター服に着替えてきた方がいい?」

 初等部の頃からシスター見習いなどやっている美空だが、その手のお悩み相談を受けた覚えはほとんどない。美空は明るく快活な少女ではあるが、だからこそ悩みを相談する相手としては候補から外されてしまいがちなのだ。

「えっと、その、私ね。好きな人がいるのよ」

「ああー」

 高畑先生か、と美空がうなずくと、明日菜は顔を真っ赤にして「な、なんで知ってるのよ!」とわめきだした。

 なんでも何も、はた目にも分かりやすすぎる態度に自覚はないのだろうかと、美空は疑問に思う。あからさますぎるからみんな言わないだけで、クラスメイトの中では、感づいていない人の方が少ない。

 明日菜はごほんごほんと咳払いをして、まだ耳を赤くしたままで言葉を続けた。

「ま、まあ、知ってるなら話が早いわ。だからその、瀬流彦先生と付き合ってる美空ちゃんにアドバイスとかもらえたらなーって……」

 今度は美空が顔を真っ赤にする番だった。

「なっ、せるっ、つきっ、私がっ? ない、違うから。そんなんじゃないからっ」

 日本語を忘れてしまったかのような美空のうろたえぶりに、明日菜が首をかしげる。

「え、嘘。そうなの? だって朝倉から仕入れた情報だと……」

 ちらりと明日菜が視線をやった先で、桜子がなにやら小さなメモ用紙を取り出した。

「んーっと、これによると『美空さんと瀬流彦先生の関係? いやそんな、友達を売るみたいな真似はできないよ。え、肉まん三つお持ち帰りで追加? もう、そんなことしても駄目だってば。あ、そうそう、この肉まんは中々人気メニューでね、この間も瀬流彦先生が美空さんにおごらされてたんだよー。あの二人は昔から仲いいねえ。あ、口がすべっちゃった。秘密ね、秘密』……以上、取材時のテープレコーダーより書き起こし、だってさ!」

 朝倉和美は情報提供者の名前を漏らすような半端な仕事はしないが、そもそもこんな情報を持っている美空の友人など極々限られた範囲に絞られる。というか肉まん云々と言ってる辺り、美空の頭には一月ほど前から超包子でバイトをしている友人の名前しか浮かんでこない。

「は、春香ああああ!」

 美空は悲痛な声を上げて、抱えていたクッションに顔をうずめた。

 

 

「つまり、話をまとめると」

 明日菜が真面目くさった顔で口を開く。つい数分前まではきゃいきゃいと騒ぎながら、美空の話を根掘り葉掘り聞いていたとは思えない口調だ。

「瀬流彦先生とは元々同じ施設の出身で、一番身近な年上のお兄さんだった、と」

「すこしアスナと高畑先生の関係に似とるなあ」

「中等部に上がってからは先生と生徒だから以前みたいに気安く話しかけることはできなくなったけど、休日とかはたまに約束して一緒にでかけてたりする、と」

「うう……」

 顔の下半分をクッションに埋めて、少しなみだ目になっている美空を前に、明日菜達三人は重々しくうなずいた。

「デートね」

「デートやなあ」

「デートだねっ」

「だから違うって!」

 先ほどから何度と無く繰り返した台詞をもう一度叫ぶ美空。しかし、明日菜の視線は先ほどから変わらず、羨ましいなあと言わんばかりだ。

「美空ちゃんの言葉を信じて、付き合ってないってことにしてもさー」

 ロマンスだよねえと目をきらきら輝かせている桜子の言葉を、にこにこ微笑んでいる木乃香が引き継ぐ。

「アスナとは先生への片思い同盟やんなあ」

 顔を見合わせてうんうんとうなずきあう木乃香と桜子。彼女達の中では既に、美空から瀬流彦への恋心については確定事項らしい。

 そうなのだろうかと自問して、そうなのかもしれないと美空はうなずく。逃げ足だけは自信のあった自分が、雑木林の中で瀬流彦に追いつかれてしまったあの日から。いや、もしかしたらもっと前から、美空の中にはそういう気持ちがあったのかもしれない。

 けれど、それをこの場で認めるつもりなど、美空には毛頭なかった。からかったり、いたずらを仕掛けたりするのは好きだが、その逆は美空の趣味ではない。

「わ、私のことはもう大体聞いたっしょ。桜子とかこのかにはそういう話ないの? アスナにアドバイスしてあげればいいじゃんっ」

 苦し紛れに話題を逸らすと、桜子がうーんと首をかしげた。

「ずっと女子校だったから、そーいうのってあんまり無いんだよねー」

「ウチもそうやなあ。おじいちゃんがたまにお見合いの話を持ってくるけど、少しも実感わかんし……」

 木乃香の台詞に、明日菜が不思議そうな顔をする。

「あれ、でもこのか、こっちに来る前は共学だったんじゃないの?」

 京都からの転校生である木乃香は、笑いながら首を振った。

「ウチ、山奥に住んどったからほとんど家庭教師やったんよ。それに、身近におる人で一番格好良かったんは女の子やったしなあ」

 京都での暮らしを思い出したのか、木乃香は少し寂しそうに目を細めた。

「へー。でもそれ、どっちかっていうと女子校でこそありがちなパターンだと思うけど。ほら、いいんちょとか、その内『お姉さまー』って呼ばれそうな雰囲気してるし」

 美空は同じ魔法生徒である知り合いの真似をしてシナを作った。桜子が同意するようにうなずく。

「おー、ありそう、ありそう。円もそういうファンつきそうだなあ。声とか格好いいし」

 どんどんずれていく話題に、明日菜は最初難しい顔をしていたが、ふっと一度笑うと、進んで話題をずらしはじめた。

「ちょっと待ちなさいよあんた達。そういう方向でいくなら千雨ちゃんもかなり人気出ると思うわよ。面倒見いいから」

「あ、それわかるー!」

 龍宮真名が、いや長瀬楓がと、四人は笑いながら言い合う。話の中身に多少の差異はあれど、だいたいどこの部屋でもこうやって馬鹿話をして盛り上がっている間に、夜が更けていくのだった。

 テスト勉強をしている人の方がクラス全体で見ると少数派という辺りに、A組らしさがあると言えなくもない。

 

 

 翌日の朝、普段よりも一本早い電車で登校してきた明日菜は、通学路を歩きながら、ぱんっと頬を叩いて自分に活をいれた。

「どうしたん? 急に気合い入れたりして」

 付き合わされて早く出てくることになった木乃香は、不思議そうな顔をする。

「昨日はなんだか、途中から話がずれてうやむやになっちゃったけど、やっぱり美空ちゃんから学ぶところはあると思うのよ」

 きりっと表情を引き締めて、明日菜は顔を上げる。

「妹じゃ嫌だって気持ち、私もわかるもん。昔ちょっと面倒を見てた子のままじゃ、駄目なんだ、って思う」

 手をぐっと握りしめて決意を新たにする明日菜。

「今のままでいいなんて満足するのは、違う。勇気を出して、一歩でも踏み出さなきゃ」

 木乃香が関心したように、ぱちぱちと拍手をする。

「おー、なんや今日のアスナは格好ええな」

「アスナ君がどうしたって?」

 不意に背後から声をかけられて、二人は驚いたように振り向いた。

「おはよう、二人とも。今日は珍しく早いじゃないか」

 振り向いた先には、白いスーツに無精ひげといういつもの出で立ちで、高畑が立っていた。明日菜は絶句して口をぱくぱくさせている。顔が真っ赤だ。

「あ、あ……その、お、おはようございます私は用事があるのでお先に失礼します高畑先生また教室でっ!」

 息継ぎもなしで言い切った明日菜はものすごい速度で昇降口の方へと走っていった。

 取り残される形になった高畑は、ぽりぽりと頬を掻いて、同じく置いて行かれた木乃香を見下ろした。

「あー、すまない。突然声をかけて、驚かせてしまったかな」

「や、そういう訳とは違うんですけど……」

 勇気を出すんやなかったんかなあ、と思わないでもなかったが、木乃香は友人のためにとりあえずこの場を誤魔化すことにした。高畑を見上げて、にっこりと笑う。

「女の子には、秘密がいっぱいあるんですえ?」

 そうか、秘密なら仕方ないねと、高畑は困ったように苦笑した。



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私の知りたいこと

「春香ちゃーん、この紙皿とかの余りはどうするのー?」

「取っておいても使い道ないから、お料理研究会に寄付だね。そっちの机に割り箸とか置いてあるから、同じとこに固めておいて」

「はーい」

 夏美さんに答えながら、私は机を布巾で拭いていく。

 今日のところは見苦しくない程度に整頓しておけばいい。どうせ明日はまる一日、学園祭の後片付けとして時間がとられているし、あまり本格的にやると後夜祭が始まってしまう。

 クラスの出し物を何にするかは、もっと紛糾するものだと思っていたが、意外とすんなり超包子1-A支店に決まった。仕入れやレシピなど、飲食店を出すネックの大部分が超包子頼りで解決する、というのは大きい。超さんの儲けにはほとんどならないはずなのだけど、宣伝効果があると割り切ったんだろうか。

 そんなわけで、私達は今、営業の終了したお店の後片付けをしているところだ。最後のシフトに入っていたのは、千鶴さん、夏美さん、ザジさん、桜咲さん、そしてマクダウェルさんだ。

 じゃあなんで私がいるのかというと、超さんに支店長として任命されたから、という理由がある。超さんや五月さん、茶々丸さんは本店をメインに活動していたし、葉加瀬さんはサークルの活動が忙しかった。私と古さんで比べるなら、かわいくてバランス感覚のある古さんをウェイトレスに任命するのは至極当然な結論だ。支店長なんてつまりは雑用係の代名詞だし。

 ふと時計を見ると、十七時まであと少し、といったところだ。サーカスの開演は昨日と同じで十八時のはずだから、そろそろ抜けたいかもしれない。

「あ、ザジさん。時間大丈夫? サーカスのリハとかあるなら抜けてもいいよ」

 昨日のザジさんは空中ブランコにジャグリング、綱渡りや玉乗りと大活躍だった。クラウンとして笑いを取りに来ることがなかったのが、ちょっと残念だったかな、というくらいである。

「……」

 ザジさんはふるふると首を振ってから、こくりとうなずいた。たぶん、まだ大丈夫、ということなのだと思う。あやかさんが居ればもっとはっきりとした意思疎通ができるのだけども。

「んー、じゃあ時間になったら勝手に抜けちゃっていいから」

 私の言葉に、ザジさんがもう一度うなずく。ちょっとコミュニケーションが難しいけど、ザジさんは基本的に協調性がある。どこぞのマクダウェルさんとは大違いだ。

 そのマクダウェルさんは、やる気がないのが見え見えだったので、売上とお釣りを高畑先生に届けてほしいとだけお願いしておいた。たぶんマクダウェルさん自身は戻ってこないけど、お金の安全だけは百パーセント保障される。うん、適材適所という奴だ。

 適材という意味では、会計関連のお仕事はあやかさんや龍宮さん、早乙女さんみたいな「お金を扱うことに慣れている人」を最低一人はシフトにいれて回していた。

 会計、キッチン、フロアときっちり分業しておいたので、私のお仕事はその時々のヘルプくらいだ。問題が出ても、ほとんどは各担当のリーダーがなんとかしてくれたし。ちなみにキッチンのリーダーは千鶴さん。フロアのリーダーは千雨さんだ。超さんと五月さんは顧問扱いなので、私にまで問題が上がってきたときに初めて登場、ということになる。こう考えると本当に私なにもしてないな。支店長ではなく調整係と言った方がしっくりくる。

「坂本さん」

 簡易冷蔵庫の中を整理していた桜咲さんに声をかけられた。

「肉まんの具が大分あまっていますが……どうしますか?」

 ああ、閉店間際のラッシュに対応できるよう作り置いてあったのが余ったのか。

「えーっと、腐らせるのもなんだから、クラスの自炊組に上げちゃうのがいい、のかなあ。あやかさんに聞いてみるよ」

「あ、それの使い道は決まってるから気にしなくて大丈夫よ?」

 会計の取りまとめをしていたあやかさんに連絡しようと携帯電話を取り出したところを、千鶴さんに止められた。キッチン班でちゃんと余ったときの使い道を考えていた、ということらしい。

「たぶんそろそろ連絡が来ると思うのだけど……」

 千鶴さんがそう言って首を傾けたところを、狙い済ましたように連絡が入ってきた。私の手の中でマナーモードの電話が震えたのと同時に、千鶴さんや桜咲さんのポケットからも着信音がぴろりろと流れ出した。振り向いてみれば、ザジさんと夏美さんも、それぞれポケットから携帯電話を取り出して視線を落としている。

 ここまでくれば差出人は見ずとも分かる。予想通り、それは我らが委員長あやかさんからのメールで、後夜祭に打ち上げパーティーをやるとのお誘いだった。

「余った食材はそこで使うから、問題ないわよ」

 にこにこと微笑む千鶴さん。うーん、本当にこのクラスはお祭り好きだ。

 でも、すでにひき肉状になってて下味までついてる肉まんの具を、肉まん以外に作り直すのはなかなか難しいと思う。具は余っていても、皮は余っていないのだ。私のあまり幅広いと言えないレパートリーでは「余りもの全部みじん切りにして放り込んだチャーハン」くらいしか出てこない。

 まあ、千鶴さんも近衛さんも、それこそ五月さんだっているわけだから、そこら辺は心配しなくても大丈夫か。

「ん、了解。それじゃ、ちゃっちゃと片付けて打ち上げに行こっか」

 あと残っているのは、超包子に返却するセイロの始末くらいだ。五人で手分けすれば、すぐに終わるだろう。

 

 

「……はめられた」

 私は軽くうつむいて、ぼそりと呟いた。たぶん誰の耳にも届かなかったと思う。いや、茶々丸さんなら声を拾ったかもしれない。だからどうなるというものでもないけど。

 あやかさん達の手によって、地面よりも一段高い演台の上に押し上げられた私は、ウーロン茶の入ったコップを片手に、困っているところだった。

 つまりは、乾杯の音頭を取れということなのだ。ちゃんと準備期間があるのなら、プレゼンの一つや二つくらいはこなせるけど、こういうことをいきなり言われても困る。

 委員長のあやかさんがやるべきだと主張したら「私は今回ただの出納係ですわ」なんてしれっとした顔で言われてしまった。じゃあ超さんの方が適役だよと言ってみたが「これは1-Aの打ち上げで、超包子の打ち上げではないヨ」などとニヤニヤ笑いが返ってきた。

 もういっそ「楽しんでください」とだけ言って降りてしまおうかと思ったけれど、そのネタを理解してくれる人はクラスに五人といない。あー、もう、なんでこんなことに。

「えーっと……」

「腕が重いなー! はーやーくー」

 私がどうしたものかと思っているところに、朝倉さんから茶々が入る。あとで覚えてろよ。というか、そういう飲み会向けの突っ込みをどこで覚えてくるんだ、朝倉さんは。

「じゃあその、みんなお疲れ様です。売上はばっちり黒字になりました。あやかさんと超さん、それから高畑先生からもオッケーが出てるので、この打ち上げのお金はそこから出ます」

 いえーっ、と歓声が返ってくる。何を言っても盛り上がってくれるというのは本当にありがたい。

「えと、短いけど以上。超包子1-A支店の成功を祝って乾杯っ」

「かんぱーいっ!」

 私の声に続くように、みんなカップを高く掲げた。

 その隙を見計らって、私はそそくさと演台から降りる。ふーっと息を吐いたあとで、ウーロン茶を一口。たったあれだけのことで、喉がカラカラだ。別に上がり症というわけじゃないけど、突然の無茶振りはやめて欲しい。

「お疲れ」

 言いながら近づいてきたのは千雨さんだ。お祭りという大義名分があるからか、今日は犬耳と尻尾がはえている。服装もさりげなくかわいい系でまとまっているけれど、特定のアニメキャラを意識してはいないらしい。部屋で学園祭中どんな格好をするか話していたとき、「こんなところで足がつくのはアホらしい」と、千雨さんは言っていた。

「慣れないことはするもんじゃないよね。緊張しちゃった」

「へえ、春香って緊張するんだ」

 するよ、当たり前に。

「確かに春香さんって、いつも余裕を持ってるイメージがありますからね」

 近くにいた聡美さんまで話に乗ってきた。

 しかし私に言わせれば、初等部の頃は単純に周囲との精神年齢の差がそう見せていただけの話で、最近に至っては怠惰の表れだ。すっかりふ抜けたくせに、中学生レベルで求められることなら、万事そつなくこなすことが出来るせいで、余計そう見えてしまうのだろう。

「でも、どちらかと言えば春香さんは努力型の人だと思いすよ」

 聡美さんが笑いながらフォローを入れてくれた。はい、理数系の勉強ではご迷惑おかけしました。

 千雨さんは、ふむと小さくうなずいた。

「確かに、勉強の教え方見てると、そういう気もする」

 テスト前、図書館探検部の勉強会に何度かお邪魔させてもらったときのことを言っているのだろう。綾瀬さんが全然勉強せずに本ばかり読んでいたのが印象的だ。

「はい。初等部のころも、私の説明よりも春香さんの説明の方が分かりやすいと良く言われました」

「どっちかっていうと、聡美さんの説明が分かりにくいだけだと思うんだけど」

 一を聞いて十を知る、とよく言うけれど、聡美さんは人に教えるときも一と十しか説明してくれない。もうちょっと詳しく、と頼んだら七だけ追加で説明してくれたりして、さらに混乱することになる。

 これだから天才という奴は……である。教師に向いているのは勉強が苦手だった人、という話は、そういうところからも来ているのだろう。

 私はふと、もう一人の天才を探して視線をさまよわせた。

 演台の上に私を押し上げるまでは、この辺りにいたはずなのだけれど、いつの間にかいなくなっている。

 A組の宴会会場となっているこの辺りは、キャンプファイアーが行われているグラウンドにも近く、中々の一等地だ。その一等地の端っこで、キャンプファイアーの赤い光に半身を照らされている超さんを見つけた。

 視線を戻すと、よそ見をしている間に千雨さん達の話題は聡美さんの目のクマに移っていた。ビタミン取れ、ビタミン、と千雨さんがサラダを紙皿に取って聡美さんに押し付けている。

「ごめん、ちょっと向こうに行ってくる」

 私は千雨さんと聡美さんに断りを入れて、その場を離れた。

 

 

 その一角は、ちょっとしたエアポケットになっていた。外から見ればA組の宴会会場の内側であり、部外者は遠慮して近寄らない場所。そして、中から見ると、食べ物なんかの置かれたテーブルから離れているため、わざわざ近寄る必要のない場所。人の動線から外れているそこは、自分からそうしようと思わない限り、なかなか意識が向かない。

 だからだろう。超さんはそこに近づいてくる私にすぐ気づいて、にこりと微笑んだ。

「お疲れサマ。ここらにはあまり美味しそうなものは無いヨ」

「えーと」

 うん、それは分かっている。ただ私は、ほんの数秒前、超さんが笑顔で隠してしまうその前に浮かんでいた表情が気になって、あまり深く考えずに歩いてきてしまっただけなのだ。

「超さんとお話ししたくって」

 私がそう言うと、超さんは笑顔を崩さないまま、座るかと椅子を勧めてくれた。私はそれを断り、超さんの隣に並んで立った。ここからだと、みんなの馬鹿騒ぎが良く見える。

 ピーナッツを上に放り投げて口に入れる、という定番の食べ方を、誰が一番高く投げて成功させるかで競い合っているらしい。今、古さんが三メートル近く投げ上げた肉まんを見事に口でキャッチした。周りのみんなから拍手が巻き起こる。

「楽しそうだね」

「そうダネ。楽しそうダ」

 夜だというのに、超さんは眩しそうに目を細めた。

「超さんは、やらないの?」

 私が視線で示した先で、ザジさんが立て続けに三つのチョコレートを投げ上げた。体も首も微動だにしていないのに、チョコレートは三つともザジさんの口の中に飛び込んでいく。あれはもう、口でキャッチとかじゃなくて投げ方が上手いんだな。

「私は、ああいうのは苦手ヨ」

「……そっか」

 周囲は大分暗くなってきている。サーカスに出ていたザジさんが合流しているということは、もう八時過ぎのはずだ。流石に昨日までのように、日付が変わるまで騒ぎ続けることはできない。今はすでに後夜祭。四日間続いたお祭りは、もうすぐ終わる。

「そうそう。支店長を引き受けてくれて、助かたヨ。春香サンのおかげで、五月も私も、本店の方に集中できたネ」

 超さんが、たった今思い出したというようにお礼の言葉を口にした。

「おっきな問題もなく終わって良かったよ。ほとんど見てるだけだったし」

「営業時間中は、シフトが入ていなくても出来るだけお店に居てくれたと聞いているヨ」

 まあ、それくらいは支店長のお仕事の内だと思う。サークルの発表とか、そういうのは流石に抜けさせてもらったけど。

「本来のアルバイトとは違うから、お給料は出せないけれど、何かお礼をしなければと思ていたネ」

「そんなの、別にいいのに」

 私は笑いながら断ったけれど、超さんはふーむと考えるように指を顎にあてている。

「そうネ。特別サービスで、一つだけ春香サンの質問になんでも本当のコトを答えてあげるヨ」

「えぇっ?」

 思わず声を上げて、超さんの方を振り向く。そして、超さんと目が合って、そこでようやく、またはめられたのだと気づいた。

 アルバイトを始めてから一月、驚くほど超さんからの接触は無かった。てっきり私が見たということになっている未来のことをあれこれ聞かれるのかと思っていたけれど、超さんが振ってくるのはお仕事の話や勉強の話ばかりだった。

 そして、いきなりこれだ。

 たぶん、今このタイミングで聞いたことについて、超さんは嘘をつかない。超さんがわざわざ「本当のこと」と断ったからには、きっとそうするつもりだ。たとえ私がどんな無茶なことを聞いても、だ。

 私は、私がそのことに気づいたということを、声を上げて思わず振り返ったことで、超さんに教えてしまった。

 超さんは「私が何を聞くか」を知りたいのだ。ここで私が超さんに聞く事柄は、つまり「私の知らないこと」だ。それはたぶん、私で思いつく範囲以上に大量の情報を超さんに渡すことになる。そして、私が適当な質問でお茶を濁したなら、それは私が何をどこまで知っているかを超さんに教えたくない、という意味に他ならない。

「さ、春香サン。何を聞きたいネ?」

 超さんが口角を上げて笑う。ずるい人だ。私が何を聞いても、聞かなくても、それが超さんにとって有益な情報となる状況。

 けれど、私が超さんに聞きたいことって、何があるだろうか。表面的な流れは、大体知っている。というか、こんな誰が聞いているかも分からないところで、超さんの計画について聞けるわけもない。

 私が超さんの味方をしたいと思っているからこそ、逆にうかつなことを聞けない。でも、これは超さんが用意した試金石なのだ。誤魔化したりすれば、超さんの中で私の警戒度がぐっと上がってしまうだろう。今みたいに怪しまれている、という程度ならいいけど、私のために監視とか情報収集の時間を割かせるというのは、ちょっといやだ。超さんにとっては誤差のうちかも知れないけど、わざわざ無駄な時間を使わせるのは、出来れば避けたい。

 私があーでもない、こーでもないと悩んでいると、超さんがくすりと笑った。

「そういう顔をするのは、四月以来だネ」

 あ、と思った。

 千雨さんにふ抜けていると言われた。ふ抜けていると、自分でも思っていた。超さんにも、ふ抜けていると、思われていた?

 超さんに味方するなんて考えておいて、世界樹の発光周期のことを伝えたら、それで役目を果たしたとばかりに、全部超さんに丸投げしていた。

 だって、これ以上何かして、それが取り返しのつかない結果を呼んでしまったら。そう思うと、もう何も出来なかった。それは、言い訳だろうか。

 この二ヶ月というもの、私は本当に、何をすればいいのか分からなかった。何もしなくていいのかどうかも、分からなかった。

「……超さん」

「ン?」

「超さんの助けになりたい。私に出来ることを教えて欲しい」

 私の言葉に、超さんはきょとんと目を丸くした。次の瞬間、笑い出す。

「ふ、あはははは。さすが春香サンだネ。その返答は予想外だたヨ」

 予想外、本当にそうだろうか。私を怪しんで、自身の敵である可能性を考えるなら、同じように味方である可能性を考えないわけがない。

 そんなことを考える私を尻目に、超さんはひとしきり笑った後、呼吸を整えてから言った。

「約束だから答えないといけないネ。……今週の土曜日、確かバイトを入れていたネ。それが終わたら、少し話そう。時間を作ておくヨ」

 私が分かったとうなずくと、超さんは視線を宴会の喧騒へと向けた。その顔にわずかな微笑みが浮かぶ。

「サテ、そろそろ小腹が空いてきたネ。五月の作た菜を食べに行くとするヨ。春香サンも来るカナ?」

「もちろん、お供するよ。あ、椎名さんがケーキ焼いたって言ってたから、それも食べてみたいかも」

「まだ残ているといいネ。うちのクラスはカロリーと明日を考えない欠食児童ばかりヨ」

 いやいや、流石にそれはごく一部だと思う。今日はお祭りだから少し緩んでるかもしれないけど、柿崎さんとか千雨さんは、普通にカロリーも気にしてるよ。まあ、少数派だっていうのは認めるけどさ。

 ……残ってるよね、椎名さんのケーキ。

「不安になってきた。急ごう、超さん」

 私はクラスの皆が作る喧騒に向かう足を、少しだけ速くした。



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月明かりの下、屋台で

 約束の土曜日。超包子の閉店後、本日の後片付けを私と超さんで引き受けた。五月さんは手伝おうかと言ってくれたけど、これは私達二人が自然に居残るための方便なので、大丈夫、大丈夫と誤魔化した。

 真面目に後片付けを終わらせて、屋台の中で差し向かいになり腰を落ち着けた。いよいよこれから、である。

「さて、まず最初に、春香サンの未来視について、いくつか確認しておきたいことがあるヨ」

「どれくらい信用できるか確かめたい、ってことだよね」

 超さんの台詞に、私は素直にうなずいた。

 当初の予定であった、超さんと積極的に関わらないという方針を捨てた現在、私が第一に考えるべきことは、超さんの信用を得ること、だ。最低ラインでも、敵でないことは納得してもらわなければならない。

「春香サンは、一体いつまでの未来を視たことがあるのカナ? 十年、百年、それとも千年?」

 視た、と言われると返答が難しい。例えば、百年後の情報について、私は多少なりとも知ってはいる。けれど、それは学園祭編を通して間接的に得た知識だ。

 できるだけ私の持っている情報を正確に伝えるとするなら、嘘を少なくするに越したことはない。

「あと二年、かな。中等部三年の夏くらいまで。自分が高校生やってるとこは視たことない」

「最後に未来を視たのは初等部一年くらいと言ていたが、正確な時期は覚えているカ? 季節だけでも良いヨ」

「んー、いつだろ。冬休み終わってからはもう視た覚えがない。それは確実」

 そもそも、未来を視たことがないので、これは嘘じゃない。

「……初めて視た未来を覚えているカ?」

 少しの溜めの後の質問。

 これは、どれを話せば良いのだろう。……いや、難しく考えるのはやめよう。時系列とかを考えながら話すよりは、一話から順に視たということにした方が、分かりやすい。

「えーと、来年の……冬? かな。うちのクラスに新しい先生が赴任してくるのを――」

「ストップ。それ以上は言わなくて良いヨ」

 私の言葉を手ぶりで制した超さんは、小さくうなずく。

「なるほど、だいたい分かたネ。ただ、その上で断ておくけれど、私は春香サンから未来で起こることを詳しく聞こうとはあまり思ていないのヨ」

「うえっ?」

 超さんのその台詞に、私は間抜けな声を返した。

「え、でも、だって、前に『視たことを教えて欲しい』って言ってたじゃない」

 というか、頭脳も身体能力も秀でたものを持たない私としては、覚えている知識を隠さずに話すことが、一番簡単に役立てる要素なのだけど。

「私が知りたいのは未来でなく、過去だヨ」

「過去なんて……」

 言いかけて、気づく。いや、私は過去を知っている。超さんの過去も、マクダウェルさんの過去も、桜咲さんの過去も、不確定な要素が多いとは言え、知ってはいる。

「一番わかりやすいのは身の上話だろうネ。未来において人の過去を知ることは、十分あり得る話ヨ。事実、春香サンは私の過去を知ている。そうダネ?」

 私はこくりとうなずいた。過去と言うよりは、未来と言うべきかもしれないが。

「それこそ身の上話としてだから、全部知ってるわけじゃないけど。ええと、火星とか、カシオペアとか、そういうの」

 天文の話だと誤魔化すことも出来そうな私の返答に、超さんは目を細めた。

「……なるほど。実のところ半信半疑な部分もあたのだけれど、春香サンの能力は本物だたらしいネ」

 腕を組んで少しだけ難しい顔をした超さんは、数秒考え込んだ後、思い出したというように、顔を上げた。

「ああ、言い忘れていたけれど、盗聴対策は十分にしてあるから、あまり言葉に気を遣う必要はないヨ」

 私が中途半端に言葉を濁した理由を、超さんはそのように結論付けたようだった。ただ単に、魔法とか口に出して言うのが気恥ずかしかっただけなのだけど。丁度いいので、私は疑問に思っていたことを聞いてみる。

「過去のことは聞きたくて、未来のことは聞くつもりない、っていうのはどうして?」

「簡単な話だヨ。私が言うのも何だけれど、未来を知るのは良いことばかりではナイ。それは春香サンも良く分かているのじゃないカナ」

 さらりと返されて、私は言葉に詰まる。

 こんな知識なんていらなかったと、思ったことは当然ある。

 けれど、未来を変えるという一点においてなら、未来の情報は無いよりも有った方が便利じゃないだろうか。

 ええと、例えば、「航時機をネギに渡したせいで失敗した」という知識を、私は持っている。だから、ネギに航時機を渡さなければいい、という対策を打てる。私がこれから起こるだろうことを知っているからできる対処だ。それはとても有効な手段だと思うのだけど。

 …………あ、そうか。

「分かたようネ」

「思考が硬直しちゃうのを避けたい、ってことでいいのかな」

「だいたい正解ヨ」

 なまじ「航時機をネギに渡したせいで失敗した」ということを知っているから、ネギに渡すか渡さないかという二つから対処を選ぼうとしてしまう。でも実は他の人に――例えば何らかの方法で説得し、味方に引き入れたマクダウェルさんや高畑先生に――渡すということだって考えられるし、それ以外の対処法だっていくらでもある。

 未来を知っていることは、必ずしもアドバンテージだけをもたらすというわけではないのか。起こった結果のみに注目してしまうと、広い視野を保てなくなってしまう。

「私が今麻帆良にいることは、硬直した思考の、結果の一つヨ」

 わざとらしく超さんは笑う。

 未来に起こる戦争(だと私は思っているのだけど)を回避するという、超さんの目的は、確かに見かたによってはそう取ることもできる。

 もちろん、同じ理屈は私にだって当てはまる。

「過去について聞きたいというのは、調べても分からなかたことがあるからヨ。もし春香サンが知ているなら教えて欲しい」

 ようやく本題だ。私の間抜けな質問で、随分より道をしてしまった。

 知らず、私は姿勢を正した。

「なんでも聞いて。私が知ってることなら、全部話す」

「全部なんて話さなくてもいいヨ。七割がた確定している状況証拠を、九割にまで引き上げてくれる証言がもらえれば御の字ネ」

 そこまで言って、言葉を切った超さんは、私の目をじっと見てくる。ふと、視線の動きで嘘が分かる、という話を思い出した。

「神楽坂明日菜サンについて、春香サンは何か知ているカナ?」

 私は息を呑んだ。

 なるほど、この学園でそれを調べたとして、クリティカルな情報を持っているのは学園長、高畑先生、そして図書館島の地下にいるアルビレオ・イマくらいだろう。そんなところから情報を引っ張ってくることは、流石の超さんでも出来なかったらしい。

「どうやら知ているようだネ」

 超さんの言葉に、うなずきで応える。

「神楽坂さんは、黄昏の姫巫女って呼ばれてた。麻帆良に来る前は、その、えーと、魔法世界、にいたみたい」

 魔法世界。口に出してみると、シュールにもほどがある。もしも今ここで超さんが「魔法なんてあるわけないネ」とか言って笑い出したら、私は一生もののトラウマを負うだろう。さんざん非常識に慣れ親しんだ私でさえ、魔法という言葉を口に出すのは結構な勇気が必要だった。

 照れ隠し、というわけではないけれど、私は慌てて言葉をつけ足した

「先に言っておくけど、神楽坂さん自身は、そのことを知らないみたい。忘れてる、って言えばいいのかな」

「だろうネ。知らないフリをするのなら、身体能力まで含めて、もと上手く隠しているはずヨ」

 私は少しだけ不安になって、超さんに問いかける。

「その……、神楽坂さんに、言うの?」

 七割がた推測できていたと超さんは言った。私の証言で、八割、九割の確度となったとしたなら、超さんは神楽坂さんをどうするつもりなのだろうか。魔法無効化能力というレアスキルは、確実に超さんの計画の助けになる。何しろ、魔法使い相手にほぼ絶対的なアドバンテージとなり得るのだ。でも、今の神楽坂さんは、敵対する魔法使いや化け物を倒すために力を搾り取られていた、そんな過去のことは知らない。

 全部忘れて普通に、高畑先生の言葉を借りるなら幸せに、暮らしているのだ。

 知っているとおりに進めばあと二年で思い出してしまうとは言え、私が超さんに神楽坂さんの過去を教えたことでそれが早まるというのは、かなり後ろめたいものがある。

「春香サンが何を不安に思ているか、だいたい分かるけど、その心配はないヨ」

 超さんが笑う。

「むしろ神楽坂サンの件に関して、私と麻帆良上層部の利害は一致していると言えるネ。彼女を魔法関係者の目から隠したいのは、私も同じヨ」

 魔法関係者から、隠す。それはつまり……。

「完全なる世界」

 私の中で一連の事件が一本の線に繋がったせいで、思わず呟いてしまった。

 魔法世界編において、神楽坂さんの存在は鍵だ。二十年前も、そして魔法世界編でも、完全なる世界は黄昏の姫巫女の確保に固執している。おそらく、魔法世界を消すために、神楽坂さんの力が必要なのだ。

 でも、ここまでは、もっと前から分かっていた。気づいたのは別のことだ。

 魔法世界編、つまり完全なる世界による魔法世界崩壊の計画は、修学旅行で神楽坂さんとフェイト・アーウェルンクスを接触させてしまった時点で、始まっていたのだ。

 犬上小太郎の再登場や、悪魔とネギの因縁にばかり意識が行っていたが、修学旅行後に起こった悪魔の襲撃事件におけるフェイトの主目的は、神楽坂さんの魔法無効化能力が、周囲に影響を及ぼす術式として変換可能かの確認だったに違いない。それは言い換えれば、神楽坂さんが黄昏の姫巫女と同一人物であるかの確認、ということでもある。

 それなら、修学旅行編で彼女の存在を隠し通すことさえできれば、フェイト達の行動開始までの時間的猶予が大きく変わってくるはずだ。どうすれば良い? 神楽坂さんがネギの従者にならず、その上で近衛さん誘拐事件やマクダウェルさんの襲撃事件を乗り切るには……。

「完全なる世界、なんて単語まで出てくるのカ。聞かない、と言たのは私だけれど、春香サンの視た未来がどうなていたのか、気になてしまうネ」

「あっ、ごめん」

 思考の海に沈みかけていた意識を浮上させる。よそごとを考えている場合ではなかった。

 超さん自身が、未来の情報をいらないと言うのなら、聞かれたこと以外を喋るべきではない。私の口から出た情報を、超さんが鵜呑みにすることはないと分かってはいる。けれど、超さんが言ったように、それで思考にバイアスがかかってしまう可能性はあるのだ。

「他に聞きたいこと、ある?」

「いや、ないヨ。調べて分かることなら、春香サンに聞く必要はないからネ。神楽坂サンのことは例外ヨ」

「あれ、えーと、じゃあ、終わり?」

 確かに、超さんが調べてもこれ以上の情報は出てこないと判断した神楽坂さんのことを話した。でも、本当に私が超さんのためにできることってこれだけなのだろうか。

「その、短期的なことだけじゃなくて、長期的な行動の指針とかは」

「そこまで縛る必要は無いヨ」

 含みのある表情で笑う超さん。

 学園祭の最終日、私が超さんに聞いたのは「超さんの役に立つためにできること」だった。そして、超さんはあの時「一つだけなら駆け引き抜きで本当のことを答える」と言ってくれていた。その超さんが必要無いというなら、私に協力できることなんて、本当に無いということに……。

「あっ」

 そうか、そういう事か。騙された。

「笑われて当たり前だ。もっとマシな事を聞けば良かった」

「そうだネ。春香サンはもう少し頭が良いと思ていたヨ?」

 超さんの駆け引き抜きの本当の答えは「土曜日にこの場で話をすること」だ。つまり、さっきまでのやり取りはばりばりに裏があった。

 思考の硬直だなんて、おためごかしも良い所だ。私が嘘の未来情報を言う可能性があるから、検討材料の無いものについては聞かない方が良い。そういうことだったに違いない。

 スタート地点の間違っている推論は、どれだけ正確に行おうと間違った解にしかたどり着かない。偶然真実を得ることはあるだろうけれど、それは間違った推論を行った結果でしかない。論理的に妥当な推論を行える超さんだからこそ、間違ったスタート地点に立つことは避けたかったのだろう。

 長期指針を与えないのも同じ。もしも私が敵なら、与えられた指針と反する行動を取れば良いだけなのだ。そりゃあ、そんな危険な情報を私に渡す必要なんて無いだろう。

「フフ、共通認識が取れたところで、もう一つ聞いても良いカナ?」

 がっくりと脱力してしまう。本当に超さんはひどい人だ。

「良いよー。全然信用されてないって事が分かってショックだけど、私のスタンスは変わらないから、なんでも聞いて」

 完全に気を抜いていた私の隙を突くように、超さんが鋭く問うた。

「私に協力する理由」

 室温が、一瞬で二度くらい下がった気がした。

 これだ。

 駆け引き抜きで私と二人きりになりたがった超さんが問いたかったことは、きっとこれだ。

 聡美さんも、五月さんも、龍宮さんも、超さんが選んだ人だ。

 でも私は違う。私が超さんを選んだのだ。だからこの問いは必然。ここで中途半端なことを言えば、二度と超さんの信頼を得ることは出来ないだろう。

「それを説明するためには、超さんの過去……未来かな。私の知っていることをある程度話さなきゃいけないんだけど、良いかな。それに、少し長くなる」

「良いヨ」

 短い返答。

 私は舌でなめて、唇を湿らせる。

 六年もの間ひとりで考察を続けたノートを思い出す。何度も読み返したし、何度も書き直した。

 燃やしてしまったから、もうこの世界のどこにも存在しないノートだけれど、書いた文章はしっかりと頭の中に染み付いている。

「私の最終目標は『魔法世界の消滅によって発生する難民問題と、それに伴って起こると予測される旧世界住民と魔法世界住民の武力的衝突を回避する』ことだよ」



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裏の裏は表だろうか?

「私の最終目標は『魔法世界の消滅によって発生する難民問題と、それに伴って起こると予測される旧世界住民と魔法世界住民の武力的衝突を回避する』ことだよ」

 超さんの表情に変化はない。

 続けて、と目で言われた気がするので、現時点で既に超さんが持っていそうな情報を選んで口を開く。

「私が知っている中で、確度が高い情報は四つ。魔法世界は人の手によって火星と重なる形で作られた。そう遠くない時期に魔法世界は消滅する。百年後には火星に人が住めるようになっている。それから」

 一度ためを作る。

「超さんは未来から来た。……これは推測だけど、たぶん、2114年」

 別に超さんは、無表情というわけではない。そう、生徒の答えを採点する教師のような、という表現が当てはまるだろう。試されているのだ。

「時代を特定した根拠はあるのカナ?」

「タイムマシン――航時機は世界樹の大発光に合わせないと使えない、って言ってるのを視たの。百年以上経過した中で一番近い発光周期だから」

 ただ足し算しただけなので、本当は推測と言えるほどでもない。

「オヤ? 春香サンは先日、大発光が一年早まると言わなかったカナ」

 遠まわしに、あれは虚言だったのかと揺さぶってくる超さん。冗談めかした物言いが、逆に怖い。でも、それならば六年の間に自問したことがある。

「言ったよ。でも、2113年や2108年から来たのだったら、超さんが2003年に発光する可能性を考えないわけがないと思う」

 2108年というのは、何らかの理由で発光周期が二十一年に変わってしまった場合である。

 どちらにせよ、発光が一年早まったことが超さんにとって誤算だった以上、彼女が居た時代ではずっと二十二年周期だったか、次回以降で二十三年の周期を挟んだと考えるのが妥当だ。

「……話を止めて悪かたネ。続けて良いヨ」

 保留、と言ったところだろうか。

「私は魔法世界の消滅を数年、長くても二十五年以内だって推測してる」

「根拠は私がいるから、カナ」

 超さんの言葉に頷く。それ以上後に消滅するのなら、超さんは2026年の大発光に合わせて時間を跳んだはずだ。

「魔法世界の消滅と住民の旧世界への脱出。これが現在の――旧世界の人が魔法を全然知らない状況で行われたら、必ず諍いが起こる。……起こったんだと思う」

 超さんの表情を窺う。何か、私の推測が当たっているのか、それとも的外れなのか、そういうものが読み取れないかと思ってだ。もちろん、何も読み取れはしなかった。

「最初に言ていた目的ダネ。それを回避する、と。方策はあるのカナ」

「……私は持ってない」

 そう、私はそれを回避する方策を持っていない。持っていないからこそ――。

「だから私に協力する、と言うわけダ。私と春香サンの目的が同じだとも限らないのに?」

 わざとらしい言い回しだ。事実、わざとなのだろう。

「同じじゃないかもしれない」

 大きく外れているとも思っていない。けれど、今返すべき言葉はそれじゃない。

「でも、私は二年後の学園祭で超さんが取ろうとした手段を知ってる。それは私の目的達成に十分プラスになる」

「私が『取ろうとした』手段、ネ」

 繰り返されて、私は言葉に詰まった。過去形、である。

 四月の時点で超さんが失敗したということは気づかれている。だが、そうであったとしても迂闊な言い回しだった。

「その手段、今の私が考えているものと同じか聞いてみたいところダガ……」

「言っても良いなら、話すよ」

「いや、止めておくヨ」

 超さんはゆっくりと首を振った。そして笑みを浮かべる。

「代わりに私が言おう。私の取る手段は『全世界への魔法ばらし』ダ」

 唇を片側だけ吊り上げた、意地の悪い微笑。

「春香サンの知ている未来と同じかどうか、なんて答えなくても良いヨ。この手段から導かれる、難民問題回避までの手順を答えて欲しいネ」

 スタート地点は、私が知る手段と同じ。けれど、超さんの口から発されたことで、その意味は大きく変わった。

 超さんが聞きたいのは未来の情報ではなく、私自身の言葉だ。

 す、と息を吸い込んで、口を開く。

「最初に魔法の……魔法使いの存在をばらす。その次に、魔法世界。地球外に住んでいる人の存在を認知させて、国交を開く」

 本当は魔法世界の存在公表までは、超さんの計画の一部だけど、それには触れない。

「旧世界、あるいは魔法世界の各国が鎖国を行う可能性は無いカナ?」

 その可能性はある。あるけれど、大きな問題にはならないと、私は考えている。

「どこか一国、一企業でも良い。率先して技術と物資の交流を行えば、追随する国が多く出てくる、と思う。現時点で魔法世界と旧世界には領土問題も、過去に流れた血も存在してないし、魔法技術という一点において旧世界側はほとんど横並びでゼロベース。だから、他国に遅れを取らないよう、積極的に外交努力を行うと考えて良いはず」

 ダムの一穴は、おそらく超包子があけることになるだろう。

「国交の開始と平行して、魔法世界の所在地――火星と座標を同じくする亜空間であることをばらす。でも、ここは魔法世界側の政府が自主的にやるかもしれないし、そう仕向けることも不可能じゃないと思う」

「ばらす目的ハ?」

 水を向けてくれたので、そのまま続ける。

「火星が魔法世界の領土だっていう認識を、旧世界側に浸透させる。魔法世界は遅かれ早かれ消滅する。移民先を確保しない限り、難民問題の回避はできないと思う。だから、これは友好な関係を築いているタイミングでやらないと意味が無い。魔法のことがばれた後なら、魔法世界の政府もそう考える可能性は高いんじゃないかな」

「しかし火星は不毛の土地ヨ? 移民先としては不適当ダネ」

 魔法を使えば「スター・レッド」よろしく、空気と水を作って細々と生き延びることは可能じゃないかな、なんて思わないでも無いけど、それでは移民先として不適当だというのは同意だ。

 握りしめた手が汗ばんでいるのを感じる。

「確かに今の火星を移民先としたら、豊かな地球の土地を巡って争いに発展する可能性が高いと思う」

 だから、一度は妄想として切り捨てた案を、上げる。たとえ超さんの計画と異なっていたとしても、私の想定ではこれが精一杯だ。

「魔法世界の消滅までに、火星のテラ・フォーミングを行う。技術供与は百年先から来た火星人」

 心臓がばくばくと鳴っている。手のひらどころか、体中から汗が吹き出てきた。

「難民問題は、回避できる」

 まっすぐに超さんの目を見る。今は、逸らしたくない。

 薄く、超さんの口が開いた。言葉がこぼれる。

「……三十七点」

「おおう」

 酸素が足りてなくて、くらりと頭が揺れた。

「ちなみに聞くけど、加点法? 減点法? まさか千点満点とか言わないよね」

 いたずらっぽい笑みで超さんが答える。

「それは秘密ヨ。言てしまうと面白くないネ。ただ、次善の策を用意しない内は三流ダとアドバイスしておこうカ」

 うう、お説ごもっともです。耳が痛い。っていうか胃も痛い気がする。

「まあ良いネ。とりあえず春香サンは敵じゃないと判断しておくヨ」

「あー、それは素直に嬉しいなあ」

 もちろん「相手にならない」という方の意味だったとしてもだ。日本語って難しいなあ、もう。

「サテ春香サン。元々、未来視のことは私にもばらすもりが無かたと、言ていたネ」

「うん。自衛できないから、あんまり深く関わると逆に迷惑かなと思って」

「それはまた随分と今サラな発言だネ」

 あっはっは、と明るく笑う超さん。

 うああー、そうだ、超さんの口からはっきりしっかり「全世界に魔法をばらす」って聞いちゃったよ。どうしよう。

「ま、そこは気にしなくて良いヨ。必要に応じて私から話したのだしネ」

 いや、超さんが気にしなくても、私は気が気じゃないというか。

「ともかく、私にばれなかた場合に一人でどう動くかの予定を立てていた、と考えても良いのカナ?」

「無駄になっちゃったけどね。一応は考えてたよ」

 フラグ潰しーとか、土壇場でネギを裏切ってーとか、いろいろと考えてはいたのだ。

「無駄にしなくて良いネ。その予定どおりに動いて欲しいヨ」

「へ?」

「春香サンが本当に私の味方なら、そうそう不利になるような事はしないダロウ?」

 そりゃあそうなのだけど、それは「したくない」であって「やってしまう」可能性はあるのだ。それとも、泳がせてぼろを出すのを待つという意味もあるんだろうか。

「分かった。でも、これは駄目だ、って思ったら止めてね。すぐにやめるから」

「もちろん、それとなく動きは監視させてもらうヨ」

「ですよねー」

 ははははは、と乾いた笑いをこぼす私。いやいや、監視をつける、と明かしてくれてるのは信頼の証! いや、やっぱ違うかなあ。

 

 それから、今後のことを少しだけ話して、秘密の会合はお開きとなった。

 超さんは研究室に用事があるとのことで、大学校舎へと向かうそうだ。いらぬ心配かもしれないけど、あんまり夜遅くまで出歩くのは女の子としてどうなんだろうか。

 じゃあまた月曜日に、と言って寮へ帰ろうとした私の背に、超さんが声をかけてきた。

「春香サン」

「なに?」

 振り返ってみると、珍しくも笑っていない超さんがいた。

「大学生時代、あるいは社会人時代を視たことハ?」

「無いけど……?」

 高校生の自分は視たこと無い、って最初に言わなかったっけ。そこまで連載進んでなかったし。というか、連載続いててもそこまで行かないと思うけど。あ、最終話であれから数年、という展開は有ったかもしれない。

「そうカ。おかしなことを聞いて悪かたネ」

 それだけ言うと、超さんは大学校舎の方へ向かって歩き出してしまった。

「おやすみ、春香サン。良い夢ヲ」

「え、あ、おやすみ超さん」

 ……なんだったんだろうか。



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【BT】 裏の裏は明後日の方向

BTはBonusTrackの略です。番外との区別用。


 超包子の屋台から少しばかり離れた樹上。身を隠していた龍宮真名は、依頼人と標的が完全に離れたことを確認した。

 ふ、と小さく息を吐き、念のために用意していた麻酔銃を解体して、ギターケースの中に収める。

 標的、と表現はしたが、龍宮の仕事はどちらかと言えば周囲の警戒だ。防諜において科学と魔法を併用したとしても、最終的に信用できるのは人の目である。もちろん、その「人」が信用できるという前提はつくが。

 坂本春香。未来視の少女、か。

 龍宮は心の中で呟く。

 超から話を聞かされた段階では半信半疑だったが、実際に彼女らのやり取りを見れば信じざるを得ないだろう。

 経歴に不審な点はなく、体さばきも素人そのもの。魔力も気も感じられない。それにも関わらず、口を開けば出てくるのは機密レベルの高い情報ばかり。

 万が一、坂本が超に危害を加える可能性を考慮して、窓から両者が見える位置に陣取っていた。周囲の警戒も行いながらだったため、ところどころで唇を読んだだけではあるが……。

「頭の痛い話だな」

 もっとも、頭を痛めるのは龍宮でなく、超の仕事である。

 龍宮は潜伏していた痕跡を入念に消した後、地上へと飛び降りた。

 

 

「やあ、今日は助かたヨ」

「会話中、屋台に近づく者は居なかった。魔法の気配も無し。遠距離から望遠レンズなどで覗いていた者も同じく無しだ」

 人気の無い研究室で依頼人へ報告を行う。もっとも、それらの気配があればすぐに当たり障りの無い会話に切り替えるよう連絡する手はずになっていた。言うまでも無いことではある。

「盗聴器の類はお前の方が専門だろう」

「そうだネ。流石にそこでヘマはしないヨ」

 鷹揚に頷いた超が、懐に手を入れる。取り出されたのは分厚い封筒である。

 龍宮はそれを受け取り、中身を確認する。

「確かに」

「次はもう少し気持ちの良い仕事を用意するネ」

「そうしてくれ」

 仕事である以上、私意を挟むつもりはないが、クラスメイトに銃を向けるというのはあまり褒められたものではない。

「龍宮サンはどれくらい話を見ていたカナ?」

「口外はしない」

 読唇術の心得があることを知られている程度、驚くようなことではない。むしろ裏稼業を行うなら必須技能の一つとも言える。

「そうして貰えるとありがたいネ」

「一つだけ聞きたい」

「何カナ」

 龍宮は疑問に思っていた言葉を口に乗せる。

「なぜ最後の質問をした」

 別れ際に発された、超の問い。

『大学生時代、あるいは社会人時代を視たことハ?』

 本来なら、わざわざ聞く必要は無い。あの質問を行わずとも、超はとっくにその可能性に気づいていたはずだ。

 何しろ坂本は「高校生の自分を視たことが無い」と言い切っているのだから。

 あれでは坂本に中学校卒業後の未来を視れない理由を考えろ、と言っているも同然である。

「まだ気づいていないみたいだたからネ。あれで、春香サンならその内勝手に気づくヨ」

 高校生以上の未来を視たことが無い。それは、坂本春香は高校生になることが出来ないという可能性を内包している。

「自分が視たままの未来では死ぬかもしれないとなれば、敵に回る可能性は限りなく低くなるというものダヨ」

 私は悪党だからネ、などと嘯いている超の物言いに、龍宮は目を細めた。無言で振り返って研究室の出口へと足を進める。

 戦争の回避などという正義感よりも、家族や友人の安全、さらに突き詰めるなら自分自身の命がかかっているという方が、信用できるのは確かだ。

 坂本は未来を視たと言っても一般人である。命をかけてまで為したいものなど、持っているとは思えない。

「超……」

 龍宮は研究室のドアを開け、廊下に出る前に首だけで振り向く。

「そういう台詞は、もっと冷酷な顔で言うべきだな」

 超の行動は非情にも見えるが、確実な味方を増やしつつ坂本の命を救う可能性を上げている。

 合理的なくせに甘さを残しているこの革命家を、龍宮は気に入っていた。

 後ろから言葉が飛んで来る前に、さっさと廊下に出てドアを閉じる。まともに向き合って話せば、煙に巻かれてしまう可能性が高いのだ。

「一撃離脱は舌戦でも有効だな」

 懐も温かくなったことだし、帰りにあんみつでも食べていこうか、などと考えながら、大学校舎を後にする。

 映画を見ようとすれば大人料金を請求される龍宮ではあるが、夜中に出歩いても咎められないという点では便利である。

 唯一の問題は、こんな時間に開いている店があるかどうかだが。

「まあ、歩きながら探すか」

 ギターケースを背負ったまま、夜の街へと足を向ける。私生活では割と無計画な龍宮であった。



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空回りの放課後

 学園祭の後、季節が段々と夏めいてきた。太陽が高く上るようになり、日差しが強く、影は濃くなっていく。夏休みも目前に迫ってきた。しかし、それはそのまま学期末試験が近づいてきたということでもある。

 部活動も休止期間に入ったし、それなりに真面目な生徒なら放課後は図書館なんかで勉強に勤しむ時期だ。

 私はテスト勉強せずともそこそこの点数が取れる下地があるので、どちらかと言うと不真面目組に分類される。前回の中間テストも、図書館探検部の勉強会にお邪魔させてもらったのと、千雨さんのために一夜漬けのヤマ張りを手伝ったくらいだ。

 そのヤマが当たった千雨さんの点数が良かったからか、それとも勉強会でテスト対策を教えていた話が広がったのか。中間試験後、何かと授業内容について質問をされることが多くなってはいた。

 けれどまさか、こんなことになるなんて思っていなかった。

 期末試験開始の一週間前、木曜日の放課後。1-A教室にて、私はちょっとした勉強会に巻き込まれている。

「坂本さん、be動詞って何? 英語? でもbeなんて単語、見たこと無いわよ?」

 目の前には、机にかじりついて必死にテスト勉強する神楽坂さんの姿があった。

「isとamとareのことだよ。この三つはbeっていう動詞が変化したものだから」

「なんでそんな面倒くさいことするのよ。playとかはplay動詞なんて言わないじゃない」

 ばしんばしんと教科書を叩いて主張する神楽坂さん。

「面倒くさい奴だからわざわざbe動詞なんて呼ばれて区別されてるんじゃないかな」

「ああ、そういうことか。嫌な奴ね、be動詞!」

「そうだねー。でも代わりに『I am Haruka』と『You are Asuna』と『This is a pen』が同じような文章ってことが分かりやすくなるんだよ」

 神楽坂さんはげんなりとした顔で私を見てくる。

「それのどこが同じなのよ、どこが」

「isもamもareも、beが変化したって言ったよね。だから三つとも元はこういう文章」

 私はノートに『○○ be ××』『○○は××です』と書いた。たぶん今はSVとかSVOとか言わない方が良いと思う。

「あ、なるほど。訳すと同じわけね。って、『a』はどこいったのよ、これ」

「それはペンが何本あるかっていうのが関わってて――」

 とまあ、そんな感じで英語を教えている。be動詞とかは完全に四月に習ってた範囲なのだけど、そこからスタートというのは中々潔いものである。中間試験の成績はあまり聞きたくない。

 なぜこんな事になったかと言えば、原因は隣の机で近衛さんに教えてもらっている美空さんにある。テスト勉強の進行度が違うので、先生役が二人必要なのだ。

 なんでも美空さんと神楽坂さんは、先生ラブ同盟(命名・パルさん)として互助関係を結んでいるらしい。で、夜中に寮の部屋でお茶会をしていた時に、神楽坂さんがこう発言したのが発端だそうだ。

 曰く「赤点をとったら補習で高畑先生につきっきりで教えてもらえる」

 そこに真っ向から反論したのが美空さんである。つまり、出来の良い教え子と悪い教え子、どっちの方が好感度が高くなるか、だ。神楽坂さんは目から鱗が落ちる思いだったらしい。

 概ねそういう理由で、美空さんと神楽坂さんは英語を勉強しているのだ。というか、なんで神楽坂さんは今までそういう思考にたどり着かなかったのだろうか。

 ともあれ、小中学校レベルの成績においては、頭の出来や適性よりも、モチベーションの占める割合が圧倒的に多い。実際、ネギを助けるために図書館島地下で勉強したバカレンジャーは、短期間の集中講義でそこそこ以上の点数を取ることに成功している。

 この調子で勉強するなら、今回が無理でも次回以降、神楽坂さんは英語で平均点以上を取り続けることが出来るかもしれない。

「坂本さん、そろそろ休憩にせん?」

 近衛さんに声をかけられて、時計を見る。勉強会スタートからおおよそ一時間。たしかに頃合いだ。

「あー、そうだね。じゃあ一回休憩しようか」

 先生役をやっていた私と近衛さんがそう宣言すると、生徒役の二人がぐでーと机に突っ伏した。集中力切れである。

「ごめんなー。坂本さんまで巻き込んでしもうて」

 近衛さんがお茶の用意をしながら苦笑する。一リットル入る魔法瓶の中身は、よく冷やした水出し麦茶らしい。

「教えるのは復習にもなるし、気にしないでよ。それに……ね」

 私はちらりと美空さんの方を見る。

 美空さんの勉強目的は、自己申告によると奢らせるため。平均が75点を超えたら、夏季限定トロピカルパフェを奢ってくれるよう、瀬流彦先生に約束を取り付けたのだそうだ。それ完全にデートの約束だよね。言わないけど。

「友達の恋路のためだもん、協力するよ」

 聞き捨てならない言葉に反応してか、へたばっていた美空さんが勢いよく体を起こす。

「ちょ、ちょっと春香! 何言ってんの、そういうのじゃ無いってば!」

「えー? 神楽坂さんのことだったんだけど、美空さんこそ何を言ってるの?」

 慌てている美空さんに、にっこりと笑顔で応える。

「ああ、なんか、坂本さんがパルの奴と仲が良い理由、分かった気がするわ」

 呆れたという表情で神楽坂さんが零す。

 まあ、朝倉さんに美空さん達の情報を流した負い目もある。これでも一応、口止めはしておいたのだ。瀬流彦先生の熱愛発覚! みたいな記事を打つには、まだ時期が早すぎる。

 その点については朝倉さんも同意見らしく、報道部の方で瀬流彦先生と美空さんのデート記事が出てしまわないよう動いてくれているらしい。

 お互い憎からず思っているのは確かなのだから、じっくりゆっくり応援させてもらおうじゃないか。

「知っとる。これは何か悪だくみをしとる顔や」

 魔法関係VIPの二人はやや引き気味である。まったく、純粋な友情に対して失礼な。

 そんな感じで、おしゃべりを交えながらお茶を飲んだりして休憩。メリハリが大事なのは、仕事も勉強も同じだと思う。

 とりあえず、文法とかの基礎知識が終わったら、英単語の暗記法なんかも教えてあげたいところだ。

 

 

 勉強会が終わったあと、私は本屋に寄るからと言って三人と別れた。

 時刻は既に午後五時を回っているけれど、日はまだまだ高い。

 夕飯はちゃんと寮で食べる予定なので本屋のはしごをするつもりは無いが、少なくとも目当ての漫画を二冊、小説を一冊買う予定だ。

 商店の並ぶ界隈へと歩を進めながら、今日の勉強会を思い出す。

 勉強会に参加したのは美空さんの恋路を応援するため、という言葉はもちろん嘘じゃないけれど、実のところもう一つ理由があった。

 神楽坂さんのバカレンジャー脱却である。

 今回の試験で神楽坂さんの英語の成績が上がっていれば、高畑先生はほぼ確実に「頑張ったね」とか言って褒めるだろう。

 そのタイミングで、他の教科の成績も上げれば、もっと褒めてもらえるんじゃない? と誘導すれば、神楽坂さんのバカレンジャー脱却は決して夢ではない。

 できることなら、他のバカレンジャー四人の学力も向上させたいと思っている。

 あわよくば私は、ネギ・スプリングフィールドの最初の仮契約相手として、神楽坂さんではなく、近衛さんを選んでもらいたいと考えているのだ。

 駄目な子ほど可愛い、と言うとちょっと神楽坂さんに悪い気がする。けれど、勉強に恋愛にとネギが親身に神楽坂さんと関わっていたからこそ、最初の仮契約相手が彼女になったのだと思う。

 A組の成績が万年最下位でなければ、図書館島地下への探索イベントは起こらない可能性が高い。

 神楽坂さんだけでなく、のどかさんや綾瀬さんとの接点も減らすことが出来て、一石で何鳥も得られるのだ。

 なぜそんな事をするかと言うと、超さんに指摘された次善の策というものを少しばかり考えたからだ。

 超さんの計画が成功すれば良し。しかし、失敗したならば私の記憶にある魔法世界編、つまり完全なる世界による魔法世界消滅計画が動き出す可能性が高い。

 けれど、これを遅らせる有力な方法を、私は知っている。完全なる世界に、黄昏の姫巫女――神楽坂さんの事を気づかれなければ良いのだ。それだけで、かなりの時間を稼げるだろう。

 京都にてフェイト・アーウェルンクスと接触させない。口で言うのは簡単だが、関西呪術協会襲撃と近衛さん誘拐に神楽坂さんが関わってしまえば、これを避けるのはかなり難しい。初接触は確かお風呂だったはずだけれど、そこを回避してもリョウメンスクナノカミ戦で出会ってしまえば同じだ。

 だから、そもそも現場に神楽坂さんが居ない状況を作る必要がある。

 そこで私が考えたのが、近衛さんの仮契約前倒しである。

 ネギの最初の従者が近衛さんとなり、マクダウェルさんと相対することになれば、その時点で桜咲さんの参戦が望める。護衛対象である近衛さんが闇の福音と事を構えるとなれば、顔色を変えてネギ達へと接触するはずだ。

 鳥族とのハーフ云々の問題は解決せずとも、修学旅行前から共闘関係を築けるなら、疑心暗鬼に陥ることはない。誘拐阻止の可能性は飛躍的に上がるだろう。攫われた場合にも、仮契約カードによる念話で、近衛さんから速やかな情報受け渡しを行える。

 リョウメンスクナノカミ出現前に天ヶ崎千草を捕縛できれば、ポーズとして協力しているだけのフェイト・アーウェルンクスは、そこで手を引く可能性が高いのだ。もちろん、神楽坂さんとの接触前、という注釈はつくけれど。

 それに、問題点もある。

 バカレンジャーの学力向上に成功して、ネギによる勉強会を回避できたにも関わらず、修学旅行で関西呪術協会襲撃が起こってしまった場合の話だ。

 綾瀬さんが長瀬さんや古さんの実力を認識していないために、助けを求める相手として候補に上がらない可能性が出てきてしまう。

 この部分のフォローとしては、私が間に立って、綾瀬さんと長瀬さんや古さんの接点を増やしていくしかないだろう。

 いっそのこと、兼部を考えても良いかもしれない。学園祭編のネギパーティ構成人員は、その過半数が(千雨さんも含めて)図書館探検部の所属である。共に行動しつつ、魔法関係の事件に巻き込まれないよう誘導することが出来れば、ネギ陣営の戦力を大きく削ぐことも可能なはずだ。

 ……それに、やっぱり気になるのだ。図書館島地下の蔵書には、一体どんな本があるのだろうか。

 ともあれ、まずは神楽坂さん達の学力向上である。綾瀬さんは、図書館組での勉強会に上手いこと引き込めればなんとかなると思うけど、他三人はどうしたものだろうか。

 そんなことをつらつらと考えながら歩いていると、行き着けの本屋さんが見えてきた。

 私は目当ての本のタイトルを思い出しながら、自動ドアをくぐった。

 この時点の私はまだ、目標の小説が売り切れていて三軒もの本屋さんをはしごすることになるだなんて、思っていなかった。



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大切なものが多すぎる

 春休みが明けて四月が来た。

 出会いと別れの季節なんて言いつつも、私達はそのまま2-Aへと持ち上がりで進級しただけなので、かわり映えしない。

 何しろ、担任どころか教室まで同じなのだ。感覚的にはこの間あった冬休みとほとんど変わらない。

 実は初等部のころ、学園祭中に当時の3-A教室を覗いて相坂さよを探したりしていたのだけど、全くの無駄足だったということになる。あのとき見に行った教室は、現在1-Aが使っているはずだ。

 それはそれとして、私は今、その2-A教室のど真ん中で、両手と両膝を床について崩れ落ちている。

 原因は極々個人的なことだけれど、実に深刻な問題だ。

「伸びてなかった……。ああもう駄目だ」

 私は去年の身体測定から微塵も成長していない我が身長を嘆いていた。気分は既に鬱だ死のうの世界である。流石に下着姿のまま死ぬわけにはいかないので、きちんと制服を着なおして、それから屋上に行こう。うん、そうしよう。

 アホな事を考えている私に、あわあわと声をかけてきたのはのどかさんだ。

「そ、その、気を落とさないで」

「のどかさんは百五十の大台に乗ったんだってね。うう、うらやましい」

 嫉妬の篭った視線を送ると、のどかさんが思わずと言った感じで一歩下がった。

 現在ののどかさんの身長は、山崎郁恵とほぼ同じということもあって、羨ましさの根も深い。

「私達はまだ中学生なのです。これからもっと伸びると思うですよ」

「夕映さんは三センチも伸びてるからね。違う、根本的に違う。ミリ単位でさえ伸びてないってことは、もう成長期が終わったってことなの。下手したら数年以内に夕映さんに追い抜かれる可能性すら……」

 今はまだ十センチ近く私の方が高いけれど、本気で時間の問題という気がする。

「ふっふっふ」

 勝ち誇った笑いにそちらを振り向くと、自信満々といった感じの風香さんが腕を組んで立っていた。

「そ、その笑いはまさか」

「そのまさかだよっ。これを見るが良いっ!」

 じゃーん、というセルフ効果音と共に突き出されたのは、身体測定の結果を記入する用紙である。前年度と比べて驚きのプラスニセンチ。

「ば、馬鹿なっ」

 隣で苦笑しながらも嬉しそうな史伽さんの用紙を見せてもらうと、こちらも同じく二センチ伸びている。

「風香さんと史伽さんまで伸びてるなんて……。はっ、マクダウェルさん! マクダウェルさんは仲間だよね?」

 文字通り永遠の少女であるマクダウェルさんを探してきょろきょろと首を動かす。視線が合うと、思いっきり睨まれた。

「黙れ」

 眼光と同様、鋭い言葉が飛んでくる。当たり前のことだけど、あの反応は伸びてないな。普通に成長していたら千鶴さん並のスタイルになっていたわけだから、微妙に仲間というわけでもないけど。それともあの大人バージョンは願望込みなんだろうか。いつか聞いてみたい。でも聞いたら人生が終わる気もする。

「しかし、ウチのクラスは両極端だな。あの辺りなんかもう中学生じゃないだろ」

 少しばかりげんなりした千雨さんの視線の先では、千鶴さんとあやかさんがお互いの結果を見せ合っていた。

「千雨さん、それ禁句」

 私よりもさらに早く、中等部進学時には成長期を終えきっていた千鶴さんは、そこら辺の話題に敏感である。身長高くて美人なのだから、あんまりコンプレックスを感じる必要ないと思うんだけど。

 まあ、あの容姿でランドセル背負って登校していたわけだから、悪目立ちしていろいろあったのだと思う。

 逆に、中等部に上がってからぐっと大人っぽくなったのは、パルさんやあやかさんだ。龍宮さんなどは元から身長が高かったのに、この一年でさらに二十センチ近く伸びているんじゃないだろうか。

 誰か五センチほど分けてくれないだろうか。いや、割と本気で。

 

 

 そんなこんなで、悲喜交々な身体測定を終えると、朝倉さんが注目、注目と声を上げた。

「着替え終わった人から、教卓にあるアンケートを持って行って答えてねー。卒業文集に乗っかるかもだから、そこら辺考えて書くと良いよ」

 学年はじめはホームルーム過多になるものだけど、まさか二年の内から卒業を見越したものを書かせてくるとは思わなかった。

 つまり、中ニ病まっさかりな回答を書くと、卒業するとき、非常に恥ずかしい思いをするわけだ。というか、明らかにそれを狙っていると思う。報道部は鬼か。

 でも文集制作って報道部の仕事じゃないと思うんだけど、そこのところどうなんだろう。アルバム委員とか文集委員みたいなの、有ったっけ?

 疑問符を頭に浮かべながら、教卓へ向かう。まだ着替えを終えていない周囲数名の分もついでにアンケートを取って、席へ戻る。

「マクダウェルさんと茶々丸さんの分も取ってきたよ」

 声をかけると、茶々丸さんが丁寧に頭を下げてお礼を言ってくれた。礼は言わんぞ、などと迂遠なお礼を言ってくるマクダウェルさんとは対照的である。

「春香ー、私の分は?」

「裕奈さんのもあるよ。はい」

「さんきゅー!」

 千雨さんと夕映さんはクラスの馬鹿騒ぎにあまり関与せず、さっさと着替えを終えていたので、既に席でアンケートを書き始めている。

 高畑先生はまだ戻ってきていない。当たり前だ、生徒が着替えている可能性のあるタイミングで戻ってくるわけがない。騒ぎはしても悪いことはしない、と私達を信頼している部分もあるのだろう。

 私も大人しく席について、アンケートを見る。

 名前、生年月日、血液型、所属クラブ、好きなもの、嫌いなもの……って、これは単行本のおまけページに書いてあった生徒プロフィールか。でも、他の設問にある好きな先生、苦手な先生とかは載っていなかった気がする。

 元々あのプロフィール自体が抜粋だったのか、それとも項目が似ているだけの別アンケートなのか。

 どっちかと言うなら後者かな、なんて考えながら、さらさらとアンケートに答えていく。だって、茶々丸さんのプロフィールにゼンマイとか外部電源とか書いてあった覚えがあるし。

 誕生日は三月十三日、血液型はA型、所属クラブは世界樹をこよなく愛する会と図書館探検部、と。

 好きな先生は無難に高畑先生……にしたら神楽坂さんが面白いことになりそうだし止めておこう。学園長で良いか。ああいう昼行灯なおじいさんは好きだ。

 苦手な先生は特になし、と。記名制のアンケートでこれを聞かれてもなあ、困る。ああ、美空さんはわざとこっちに瀬流彦先生の名前を書いているかもしれない。

 半分ほどアンケートに答えたあたりで、一足先に書き上げたらしい千雨さんに声をかけられた。

「どんなこと書いてる?」

「もう終わったの?」

「それこそ適当に書いたからな」

 ほれ、と見せられたアンケート用紙は、確かに全部埋まっている。

 嫌いなものの欄に「常識」って書いてあるんだけど、それ明らかに皮肉だよね。前の部分に括弧で囲んで(麻帆良の)ってつくよね。

「私はまだ半分くらいかな」

 言いながら、書きかけのアンケート用紙を見せた。

 同じような光景は教室のそこかしこで起こっている。最終的に文集か何かでまとまったものが見れると分かってはいても、他の人がどんなことを書いたのか、気になるものなのだ。

 ふんふんと頷きながら私のアンケートに目を通していた千雨さんが、嫌そうな表情をする。

「お前、好きなものが『平穏な日常』はねーだろ。どこのアニメの主人公だよ。大切なものは失ってはじめて気がつく、みたいな奴」

 気取りすぎだ阿呆、と締めくくる千雨さんに苦笑を返す。

 うん、まあその、当たらずとも遠からずというか。今年度後半からは平穏と程遠い日常になる予定だから、余計に愛しいのだ。

 それに、この程度で気取っているだなんて、片腹痛い。私は千雨さんをいじるためなら真顔で恥ずかしい台詞が言える。

「甘いね、千雨さん。気取るつもりならこれくらいはやらないと」

 私はそう言ってボールペンに持ち換えると、「平穏な日常」の隣に「千雨さん」と書いた。

 案の定、千雨さんは嫌そうに表情をゆがめた。でも、顔が赤い。こういう攻撃に耐性低いのは相変わらずだ。

「……たまに春香が分かんねーよ、私は」

「春香さんは大体いつでも真剣と書いてマジなのです」

 千雨さんの一つ向こうの席から、真顔で呟く夕映さん。ナイス連携。

「余計たちわりーじゃねえか」

 赤くなった顔を隠すように頭を抱えて、机に突っ伏す千雨さん。図書館組では良く見られる光景だ。姉御肌の割にはいじられることも多いのが千雨さんらしい。

 まあ、さすがにこのまま提出するのはどうかと思うので、夕映さん、マクダウェルさん、裕奈さん、と好きなものをどんどん増やす。

 スペースが足りなくなったので、矢印を引っ張って「裏へ」と書くとプリントを裏返して、そちらをさらにクラスメイトの名前で埋めていく。

 私の平穏な日常の中に、このクラスの皆が含まれている。これくらいやらなければ気取っているとは言えない。

 超さんの名前を書こうとして、ふと手を止めた。

 賑やかで、騒々しくて、非常識で、平穏な日常。魔法も異世界も、火星進出だってどんと来いだ。戦争に巻き込まれるよりは全然良い。

 でも、そこに超さんは居るだろうか。

 たとえ計画が成功しても、超さんは麻帆良から居なくなってしまうんじゃないだろうか。

 未来へ戻ったのか、単純に犯罪者として身を隠したのかは分からないけれど、ネギ達が飛ばされた魔法ばらしの成功した世界に、超さんの姿は無かったはずだ。

「どうした春香、ぼーっとして」

 声をかけられて、我にかえる。体を起こした千雨さんが、怪訝そうな顔で私を見ていた。

「あー、ちょっと漢字をど忘れして。うん、思い出した、思い出した」

 私はペンを持ち直すと、できるだけ丁寧な字で超さんの名前を書いた。



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未来予想図

 最近は並木の葉も色づいて、すっかり秋めいてきた。先週には二学期中間テストの結果発表も終わっている。

 十月半ばというこの時期、おそらくネギ・スプリングフィールドは日本語の習得に尽力していることだろう。いくら天才と言っても、もうマスターした、なんてことは無いはずだ。無いよね?

 ともあれ、バカレンジャー成績UP計画は、それなりの成果を上げている。この間の中間テストでは、クラス平均点が学年で下から三番目という順位だった。

 神楽坂さんは英語を中心にして、順調に成績を伸ばしている。平均が六十点を突破。英語に至っては八十点に迫る勢いだ。恋する女の子は強い。

 ネギのために勉強していた図書館島地下での集中講義の方が成績の伸びは良かったわけだけど、これは好意の度合いというよりも、単純に性格の問題だろう。神楽坂さんのポテンシャルはやる気にほぼ正比例していて、それは誰かを、何かを守るときにこそ最大になる。

 テスト勉強でも、京都でも、学園祭でもそうだったように思う。正統派ヒーローとは、まさに彼女のためにある言葉だろう。

 夕映さんの成績は現在かなり良い。テストではのどかさんと同じくらいの順位である。ぶっちゃけた話、今回ケアレスミスが多かった数学は普通に抜かれた。次は負けない。

 もともとやる気がないことが夕映さんの問題だったわけなので、対処としてはやる気を出してもらうだけで良かった。具体的に何をしたかと言うと、図書館組で示し合わせて、補習が入る放課後に遊びの予定を入れただけである。補習受けてる人は置いてくからね、と釘を刺した上で。

 この件については、のどかさんが協力的で助かった。逆に、あっさりと成績を抜かれた千雨さんは「納得いかねー!」などと叫びながら夕映さんの肩をぶんぶんと揺すっていた。いつも通り無表情な夕映さんだったけれど、少しばかりどや顔をしていたように感じたのは気のせいだろうか。

 他三人は……その、あまり変わっていない。長瀬さんが国語と社会科。古さんが英語で少しだけ成績を上げているけれど、それくらいだ。

 まき絵さんについては、ネギが先生として赴任するのを待つことにした。動機が出来れば頑張ってくれるはずだから。

 良いんだ、まき絵さんは可愛いしお料理も気遣いもできるんだから、2-A女子力ランキングで言えば近衛さんと張ってるよ。勉強だけが全てじゃないよ。うん。

 まあ、女子力ランキングで言うなら、不動の一位は間違いなく五月さんのものだ。円さんが割と真顔でお嫁に欲しいって言ってたけど、完全に同意させてもらう。

 最後の方で思考が脱線したけど、とりあえず図書館島地下での勉強会イベントは、これでほぼ回避できるはずだ。

 そういうわけで、暑くも寒くもない上に花粉も飛ばないという一年で最も過ごしやすい季節の夕暮れ。私は上機嫌で鼻歌など歌いながら商店街を歩いていた。

 もっとも、機嫌が良い理由は半分くらい、美味しいモンブランを食べてきたからである。秋になるとお芋に栗にと、私好みのほくほく系スイーツが増えるので、食べ歩きの頻度も自然と高くなる。

「坂本じゃないか。珍しいな、こんなところで」

 いきなり声をかけられて、びくりとする。振り返ると、私から見て四歩、向こうから見て三歩の位置に、龍宮さんが立っていた。

 たぶんこの距離なら鼻歌は届いてないはず。下手っぴだから聞かれていたら恥ずかしい。

 私は龍宮さんの隣まで寄って行って、非常に背の高いクラスメイトを見上げた。

「今日はちょっと足を伸ばしたからね。目的は果たしたから、もう寮に帰るところだけど」

 なんでも龍宮さんも用事を済ませて帰る途中らしいので、並んで寮へと歩き出す。

「しかし、坂本が一人というのは珍しいな。何をしていたんだ?」

「んー、甘味処めぐりかな? あそこのビルの裏手に美味しいケーキ屋さんがあるんだよ。紫芋のモンブランが絶品だった」

 立ち止まって後方にあるこげ茶色の五階建てというありふれた建物を指し示すと、龍宮さんは目を細めてかすかに笑みを作った。

「それは良いことを聞いた」

「あれ、龍宮さん甘いもの好きだったんだ」

 どちらかというと辛いものが好きそうなイメージだったのだけれど。……いや、そういえばプロフィールにあんみつが好きって書いてあったような気がする。

「好きだよ。どちらかと言えば和菓子党だがな」

 覚え違いではなかったらしい。

 大きくなったら、というか二十歳を過ぎたら、どら焼きとかを肴にして飲むタイプになってくれるんだろうか。山崎郁恵は見てるだけで胸やけするからやめろ、と良くブーイングを受けていたのだけど。

「なるほど、なるほど。じゃあ今度いっしょに食べに行く? 美味しいところ案内するよ。ぜんざいとあんみつと最中の三種類お勧めがあるけど」

「全部頼む」

 即答だった。むしろ私が最後まで言う前に答えが返っていた。

「しかし良いのか? 一人で食べに行く趣味なのかと思ったが」

 龍宮さんの投げてきた疑問に、首をかしげる。

 言われてみれば、友達と一緒にいる事が多い私がわざわざ単独で食べ歩きと言うのだから、そう取られてもおかしくない。

「ああ、初めて行くお店はね。はずれな時もあるから一人で行くの。で、美味しかったら自慢げに皆を連れて行くんだ」

 麻帆良甘味処マップの作成は、初等部時代からのライフワークである。

 協力者兼ライバルは椎名さんだ。事前の情報収集もなしに、ぷらっと入ったお店が物凄く美味しくて、数ヵ月後には雑誌で紹介されていた、なんてこともあった。

 知る人ぞ知るというレベルなら私にも情報が入ってくるのだけど、全く無名の美味しいお店の発掘では、椎名さんにかなわない。

「なるほど。では、予定があいた時にでも頼む」

「了解。任せといて」

 美味しいお店を見つけたら、人に紹介しなければもったいない。一口食べた瞬間に、ぱっと顔を輝かせるのを見るだけで幸せな気分になれる。

 龍宮さんだとそこまで分かりやすい反応は示してくれないかもしれないけど、小動物のごとく黙々と食べ進めるか、料理番組もかくやという勢いで語りだしてくれるかと、なかなか興味深い。

「じゃあ、連絡するからアドレス教えてよ」

 私は楽しげな未来予想図を頭に描きながら、携帯電話を取り出した。

 

 

 その日の夜、私は自室の座卓に置いた携帯電話を前にして、額に手をあてていた。

「しまった……」

 書き上げたメールに表示されているのは、龍宮さんへの甘味処お出かけ計画である。

 なんで「しまった」なのかと言うと、これを送っても龍宮さんから返事の来る可能性が限りなく低いことに気づいたからだ。

 私の知っている限りでは、龍宮さんはお仕事用とプライベート用の二つの端末を持っていたはずで、学園祭のお別れ会イベントまでは、もっぱらお仕事用しか使っていなかったのである。

 流石に、この教えてくれたアドレスがお仕事用ってことはないだろうし、メールで約束を取り付けるのは絶望的だ。

 うーん、無意味なことをしてしまった。

 まあ深く考えても仕方がない。こっちからアドレスを聞いておいて「メールが返って来ないと思ったから送らなかった」だなんて、本末転倒にもほどがある。

 私は座卓から携帯電話を取り上げた。

「送信、っと」

 そもそも何を根拠にメールが返って来ないと思ったのか聞かれても困るだけなので、送らないという選択肢はありえないのだった。

 ちなみに、龍宮さんのアドレスを教えてもらったことで、私は武道四天王のうち実に三人の連絡先を確保したことになる。今のところ予定はないけれど、修学旅行で何がしかの事件に巻き込まれても安心である。……たぶん。

 明日あたり、昨日メール送ったけど届いたー? とかそんな感じで龍宮さんに声をかけることにしよう。プライベートな端末の方も確認するようになってくれると嬉しい。

 保身だけじゃなくて、クラスメイトとしてもその方が嬉しい。みんなでパーティーするよという連絡は、2-Aである以上これからも山ほどあるはずなのだから。

「春香……一人しかいない部屋でにやにや笑ってるとか気持ちわるいぞ」

 名前を呼ばれて部屋の入り口を振り返ると、いつの間に戻ってきたのか、お風呂上りでタオルを頭に巻いた千雨さんが、眉間に皺を寄せていた。

「ひどっ。良いことがあったら笑う。悲しいことがあったら泣く。心の健康の秘訣だよ」

「へー、良いことねえ」

 物凄くうろんな表情で見つめられてしまった。

「聞きたい? 聞きたい?」

「いや別に」

「聞こうよ! 誰もいない部屋でにやにや笑ってる気持ち悪いルームメイトの心情を聞こうよ!」

 ウザい系のテンションにはお約束どおり冷たい返し。千雨さんの突っ込みレベルは日々順調に上がっている。主に私を含めた2-A生徒の言動のせいで。

 千雨さんは自分のスペースに洗面器などのお風呂セットを置くと、私の隣に腰を下ろした。

「まあ聞くけどさ。何があったんだ?」

「今度、龍宮さんと一緒にあんみつ食べに行くんだー」

「……それだけか?」

「それだけ」

 頷きを返すと、非常に微妙な顔をされた。

「たまに春香の中身はおっさんなんじゃないかと思うことがあるんだ」

「失礼な」

 前世まで含めたとしても、私はおっさんだったことなど一度もない。

 千雨さんもあと十五年くらいしたら分かるよ。

 学生時代に作った友達が凄く大切だって事とか。違う学校に進んだってだけで連絡を取りづらくなる事とか。どんなに仲が良かった子でも一年以上連絡を取らなかったら疎遠になっちゃう事とか。

 もちろん、私の友達になってしまったからには、そんな思いをさせるつもりは微塵も無いけれど。

 あやかさんと組んで、卒業しても長期休み毎に同窓会を企画してやるんだから。

「覚悟して置くように」

「な、何をだよ」

 私はにやりと笑う。

「んー、秘密?」



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今日と変わらぬ明日のために

 今日の私はコート、マフラーに手袋という完全装備だ。いや、今日も、完全装備である。

 雪の積もらない季節を冬と呼ぶのはおかしいと、半ば以上本気で主張していた山崎郁恵と違い、私は寒さに弱いのだ。麻帆良生まれの麻帆良育ちであるからして。

 二月半ばを過ぎて寒さが緩んできたくらいで、コートを手放すことは無い。

 たぶん、今の私が煙草を吸ったら、普通にむせるに違いない。今さら吸うつもりも無いけれど。お酒はどうだろう。お父さんが結構イケる口だから、下戸ではないと信じたいところだ。

「茶々丸さんは、寒いの平気なの?」

 中等部の制服のみという、私とは比べ物にならない薄着で歩く茶々丸さんを見上げる。

「はい、問題ありません」

 茶々丸さんの場合、コンピューターの天敵は熱ということを考えると、冬の方が調子良いということさえあるかもしれない。羨ましい。

 その茶々丸さんの向こうで、自慢げな顔をしている聡美さんは、手袋とマフラーなしなので、それなりに寒さに強いのだろう。

「茶々丸は耐冷、耐熱性能に気を遣ってますからね。放熱機構が働いている限りは、真冬だろうが真夏だろうが変わらぬ動作を保障します」

「それは凄い、と言いたい所だけど、一応秘密なんじゃないの? 茶々丸さんのこと」

 一緒に歩いているのが私と五月さんだけとは言っても、ここは往来のど真ん中なのだし。

「別に秘密、というわけでは無いんですよ。工学部ではみんな知ってますし」

 まあ、初等部の子たちが「茶々丸飛んでー」とか言ってたりするから、ロボットだとばれても別に大きな問題にはならないのだろう。

「どこまで違和感無く通せるかも観察はしてますけど、春香さんや長谷川さんには初日からばれてたみたいですしねー」

 私は教えてもらうまで気づきませんでした、と笑うのは五月さん。いやいや、気づかないというより、気にしてないだけなんだと思うけどね。学園結界的に考えて。

「聡美さんがそう言うなら、別に良いけどさー。ああ、それにしても寒い。早く春が来ないかなあ」

「しかし、春は花粉が飛びますので」

「花粉が飛んだら困る、って耐塵性低いの? 流石に花粉症にはならないでしょ」

「いえ、私ではなくマスターが」

 私の疑問に、茶々丸さんが応える。そうか、エヴァンジェリンさんは確か花粉症なのだったか。従者としては、そこら辺も気を遣う部分なのだろう。

 不幸中の幸いと言うべきか、私は花粉症の忌々しい記憶があるにも関わらずその呪いから解放された稀有な事例である。

「エヴァンジェリンさん花粉症なのかー、それも辛いよねえ。五月さん達は花粉症大丈夫?」

 話を振ると五月さんは柔らかく微笑んで、私はまだ大丈夫です、と返してくれた。

「私も花粉症ではないけど……鼻炎気味なので年中似たようなものですね。」

「聡美さん、それ部屋と研究室をちゃんと掃除したら症状改善すると思うよ」

 原因の一つはおそらく、ほこりである。換気をちゃんとするだけでも違ってくるはずだ。

 そんな風に適当なことを喋りながら、私たちは四人共通のバイト先である超包子を目指していた。超さんと古さんは、中武研の方へ行っているので今日はお休みだ。代わりにお料理研究会から何人かがシフトに入っている。

 四人並んで歩いていたのだけれど、私は携帯電話の着信音に足を止めた。

「む、明鏡止水。ってことは、あやかさんか」

 こんな雄々しい着信音になっているのは、私の電話帳の中であやかさんだけなので分かりやすい。ポケットから取り出して確認してみれば、メールではなく電話である。

「ごめん、先に行ってて良いよ」

 私を振り返って立ち止まった三人に断わりを入れて、電話にでる。

「もしもし、あやかさん?」

『ああ、春香さん。繋がって良かったですわ。頼みたいことがあるのですけれど、お時間よろしいかしら?』

「うん、大丈夫」

 まだバイトの時間まで三十分はある。聡美さん達も、私を待っていてくれるつもりのようだ。

『実は、急用が出来て委員会に出られなくなってしまいましたの。十六時からなのですけど、代わりに出てくださいません?』

 十六時か。バイトの開始時間とばっちり重なっている。

「その委員会って長い?」

『第四会議室で来週の遅刻者ゼロ週間に関する説明とプリントの配布を受けるだけですから、そんなにかからないと思いますわよ』

「了解、ちょっと待ってね」

 私は一度受話器から顔を離す。

「五月さん。シフトに入るの、一時間くらい遅れても大丈夫かな」

 言葉の端々からあやかさんの用件を察していたのだろう五月さんは、大丈夫ですよ。超さんにも連絡しておきます、と快く頷いてくれた。

「ありがとー。あ、もしもし、あやかさん? 委員会、私が代わりに出れるよ」

『まあ! ありがとうございます。助かりますわ、春香さん』

「どういたしまして。夜にプリント持って部屋行くね」

『ええ、美味しいお茶を用意してお待ちしていますわ』

「楽しみにしてる。それじゃ、後でー」

 通話を終えて、電話をポケットに戻す。わざわざ待っていてくれた三人に、ごめんねと手を合わせる。

「そんなわけで、委員会終わってから行くことになっちゃった。ごめん」

「本日のシフトは余裕があると記憶しています。金曜日ですので、ピーク時までに合流していただければ問題ありません」

 聡美さんも腕を組んで頷いている。

「茶々丸に同じ。そんなことより、春香さんの着信音設定が気になります。委員長だと分かったということは、全員違う曲にしているんですか?」

「そうだよ。イメージに合う曲にしてる」

 私の答えに、五月さんが珍しくもぽかんとした顔をする。さっきの曲がいいんちょさんのイメージ、ですか? とかわいらしく首をかしげた。

「器用貧乏な私からすると憧れなんだよ、あやかさんは。人生の師匠、って感じ。軽くだけど護身術も教えてもらったし」

 痴漢対策ということで教えを乞うたのだけど「大きな掛け声で気合を入れて、相手のつま先をかかとで踏んづける」という感じのことを言われて、発声練習をさせられただけだったりする。この人痴漢です、の一言が言えなくて、されるままになる人が多いという部分もあるから、あやかさんの主目的は大声を出させることにあったと思われる。

 ある意味現実的な指導ではあるのだけど、私の思惑とは外れていた。まあ、付け焼刃なんて無いほうがいいか。

「なるほど、師匠繋がりで明鏡止水。ちなみに私はどんな曲で登録してあるんですか?」

 U.C.のガンダムは見てるだろうと思ってたけど、Gガンも守備範囲内だったのか、聡美さん。

「聡美さんは『スイミン不足』だよ。キテレツ大百科の」

 このチョイスは自分でもなかなか気がきいてると思っているのだ。タイトルあたりが特に。にこにこ笑う私とは対照的に、引きつった笑顔を浮かべる聡美さん。

「さ、最近はあんまり徹夜とかしてないんですよ?」

「だって寮の部屋はいつ訪ねても大抵留守だもん。どうせ研究室に泊まってばっかりなんでしょ」

 そんなことはありません、なんて聡美さんは主張するけど、目が盛大に泳いでいるので説得力は皆無だ。

「って、そんなこと言ってる場合じゃなかった。第四会議室に行かなきゃ」

 じゃあまた後で、と声をかけて聡美さん達と別れ、私はもと来た道を戻って中等部校舎を目指した。

 心の中だけで気合を入れる。二〇〇三年二月の行事予定表に記された遅刻者ゼロ週間が何を意味するのか、私はそれをずっと前から知っていた。

 あやかさんからのお願いは渡りに船である。この連絡がなければ、私は情報を求めて木乃香さんにしつこく来週の予定を聞く羽目に陥っていただろう。

 

 

「こんばんはー、あやかさんいる?」

「あら、春香さん。いらっしゃい。あやかはまだ帰ってきていないのよ」

 その日の夜、約束どおりに部屋を訪ねると千鶴さんが迎えてくれた。

「早すぎたかー。出直した方が良いかな」

「せっかくなんだから中で待てば良いわよ。急いでるわけじゃないんでしょう?」

「それじゃ、お邪魔しようかな」

「ええ、上がってちょうだい。今お茶を用意するわね」

 にこにこ笑いながら千鶴さんはキッチンの方へ歩いていった。気を遣わなくて良いのに、と思わないでもないが、私だって友達が遊びに来ればお茶くらいいれる。気遣いはする時とされる時で微妙に重みが違うのである。

 千鶴さん達の部屋は三人用なので、私達の部屋より一回り広い。まあ、ちゃんと三人で使っているから木乃香さん達の部屋よりは人口密度が高いのだけど。

「あ、春香だー。遊びにきたの?」

「あやかさんに用事があってね。委員会に代役で出たから、その報告」

 そういう夏美さんは、流れているCMを見る限り、どうやら金曜ロードショーでもののけ姫を見ていたようだ。千雨さんも見ていたし、明日の教室はこれの話題で盛り上がるに違いない。

「五月蝿くしちゃうかもしれないけど、大丈夫?」

「うん、録画してるから気にしないで。それに映画館で一回見てるから」

 さすがに人気だなあ、もののけ姫。どうりでさっきお風呂がガラガラだったわけだ。

「お待たせ。夏美ちゃんの分もいれたわよ」

「わ、ちづ姉ありがとー」

 千鶴さんがお盆に紅茶を三つとチョコレートをたくさん乗せて戻ってきた。お茶菓子まで出てくるなんて、至れり尽くせりだ。

「あれ、これ手作り……ってことは、千鶴さん誰かにチョコあげたの?」

 女子校なんてものに通っていると忘れそうになるが、今日はバレンタインデーでもあったのだ。千鶴さんが持ってきたのはそこそこ簡単に作れるトリュフである。

 そこそこ簡単と言っても、お菓子なんて作ったこと無いという人にはハードルが高いので、美空さんとかにはお勧めしない。今年も瀬流彦先生にチョコ渡したのかな、美空さん。

 明日菜さんは高畑先生に渡せてないな、間違いない。

「保育園の悪ガキどもにあげたのよ。余りで悪いけど、春香さんも食べて」

 上品に笑う千鶴さん。おお、悪ガキども一生の思い出にするんだぞ。義理とは言え千鶴さんクラスから手作りチョコを貰えるなんて、下手したら二度とないよ。

「園長先生に苦笑されちゃったんだけどね。おやつの時間は決まってるから、今日出す予定だったおやつを明日に回すことになってしまったの。ちょっと申し訳なかったかしら」

「へー、そういうことも考えないといけないんだ。ちづ姉も大変だね」

 夏美さんが感心したように言う。

「そこでさらっと千鶴さんの手作りチョコを優先するあたり、園長先生も人格者だよね」

「ええ、とても良い先生よ」

 そんな事を話しながら、三人でもののけ姫を見てまったり過ごす。そろそろ十時だし、あやかさんもさすがに帰ってくるはずだ。急用を終わらせて。

 ……急用の中身は十中八九、来週やってくる新任教師の身辺調査だ。

 あやかさんは初日からネギ・スプリングフィールドの情報を十分に持っていた。オックスフォード卒と聞いている、という発言もあったし、そもそもネギの銅像だとか板書用の踏み台だとか、事前準備なしで用意できるものではない。

 次女とはいえあやかさんは雪広グループ当主の娘だ。学外からやって来るA組の新担任を、ただ迎え入れるというわけにはいかないのだろう。

 まあ、調べた結果が九歳の美少年だったせいでいろいろ暴走するわけだけど。

 現時点で、私の情報網にA組新担任の噂はまだ引っかかっていない。迎えに行くはずだった木乃香さんと明日菜さんが、そのプロフィールを当日まで知らなかったのだから、それなりに隠されているのだと思う。

 明日菜さんがネギに反発した理由の一つは、突然知らされた高畑先生のA組担当教師解任だ。上手いことあやかさんから新担任の情報を引き出せれば、明日にでも朝倉さんに売る予定である。

 あとはネギ着任当日に木乃香さん達が余裕を持って登校できるよう取り計らえば、第一声から失恋の相が出てるなんて発言も避けられるだろう。

「ただいま戻りましたわー」

 入り口の方から、妙に弾んだあやかさんの声。これはどうやらビンゴっぽい。

 千鶴さんと夏美さんと一緒に、あやかさんへ声を返す。

「おかえりー、待ってたよー」

 さーて、あやかさん。しっかり裏を取ってきたのだろう良いニュースを、上機嫌で話してくれるかな。私は悪い笑顔を表に出さないよう、心の中だけでふっふっふと笑った。




本編と関係の薄い小ネタ(特に読む必要なし)

【原作1時間目は何月何日?】
 前提条件
1.1時間目は2時間目の1日前の話
2.2時間目の日直が宮崎のどか
3.5時間目開始時点でネギ赴任から5日目(まき絵談)
4.5時間目のドッジボール勝負がある体育は午後の授業(13:15の時計が描いてあるコマあり)
5.7時間目の日直が椎名桜子
6.7時間目開始時点で3月金曜日
7.女子中等部は土曜日も授業がある
8.2003年3月の金曜日は7,14,21,28日
9.3/21は春分の日であるため7時間目予測日付から除外
10.3/28は卒業式、春休み、期末試験の日程的にありえないので7時間目予測日付から除外

<3/7の日直を椎名桜子として、相坂さよの日直を飛ばした場合>
・ネギ着任は2003/2/10(月)
・2/11が建国記念日のため、1の条件に反する

<3/7の日直を椎名桜子として、相坂さよの日直を誰か(雪広あやかなど)が代行している場合>
・ネギ着任は2003/2/8(土)
・2/9が日曜日のため、1の条件に反する

<3/14の日直を椎名桜子として、相坂さよの日直を飛ばした場合>
・ネギ着任は2003/2/18(火)
・3の条件である5日目が2/22土曜日半ドンなので、4の条件に反する

<3/14の日直を椎名桜子として、相坂さよの日直を誰か(雪広あやかなど)が代行している場合>
・ネギ着任は2003/2/17(月)
・1-8の条件を全て満たしている

 本SSでは、最も確からしいということで、ネギ着任は2003/2/17(月)を採用しています。
 補足として、ネギ着任が2/14以前である場合、バレンタインデーが原作でネタにされていない理由に説明がつかないと考えています。また、バレンタインイベントが無かったために、ホワイトデーもスルーされていると思われます。
(坂本春香の場合は、日直が誰それなんて覚えていないため、上記のような計算は行っていません)


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歯車のずれる音がした

 始業までかなり余裕のある通学路。それでもぱたぱたと走っていく人が多いのは、遅刻者ゼロ週間だからなのか、単に元気が有り余っているだけなのか。たぶん後者だ。

「朝倉はともかく、春香までついてくるとは思わなかったわ……」

 そんなことを考えていた私を、明日菜さんが半眼で睨んでくる。

「ええんやない? 二人が来んかったら、二度寝したまま遅刻してたかもしれんし」

 苦笑しながらも木乃香さんがフォローを入れてくれた。まさにそういう事態を防ぐために押しかけたということは、もちろん秘密だ。

「木乃香達が子供先生を迎えに行くって情報を仕入れたからには、そりゃついていくでしょ。私を誰だと思ってんのよ」

 そう言ってけらけらと笑う朝倉さんは、ハンディレコーダーにカメラも装備した完全取材態勢だ。

 ここはちょっと計算違いというか私が迂闊だっただけなのだけど、朝倉さんが取材という名目で二人を起こしてくれることに気づいていれば、わざわざ私まで新任教師お迎えグループに加わる必要は無かったと言える。

「朝倉さん、報道部として動くならもうちょっと体力つけた方が良いよ。明日菜さんについていけて無かったし」

「明日菜についていける脚力を身につけるより、木乃香とお揃いのローラーブレード買ってきた方が確実に早いわね」

 電車から降りた直後は走っていたのだけど、朝倉さんが真っ先に音を上げたので、現在は早歩き程度のスピードだ。

 私にしたところで朝のランニングよりも幾分か速いくらいのペースだったので、学校につく前にへばっていた可能性はゼロと言えないのだけど。明日菜さん足速すぎ。体力ありすぎ。

「で、明日菜達はどこに向かうわけ? 駅で子供先生を待つもんだとばっかり思ってたけど」

「おじいちゃんのとこで顔合わせして、ウチらのクラスまで案内するだけでええみたい」

「ここの駅の人ごみで、ええと、ネギだっけ? そのおでんダネみたいな名前のガキ一人探し出すのなんて無理っぽいしね」

 そりゃそうだ、と頷く私と朝倉さん。

 あの通学ラッシュの真ん中で「Welcome Negi!」とか書いたプラカードを持っていても、押し流されるのがオチである。

 というか、本来なら新任教師の名前はおろか年齢も(下手をすると性別さえ)知らない状態での呼び出しだったわけだから、待ち合わせ場所が学園長室というのも自然な流れだろう。

 土曜日に情報を流したときの反応で分かってはいたけれど、明日菜さんのネギ・スプリングフィールドへの心象はあまり良くない。高畑先生が担任から外れてしまうのだから、そこら辺は仕方ないか。

 しかし、目的地が学園長室ということになると、ますます私がここにいる理由がなくなってくる。朝倉さんも同じ結論に至ったようだった。

「えー、でもそれだと取材できないじゃん。下手すると顔合わせは予鈴の後になるんじゃない?」

 朝倉さんの予想はおそらく正しい。呼ばれていない私と朝倉さんが学園長室に入るわけにはいかないし、学園長室の前でネギの到着を待っていたとしても、予鈴がなってしまう可能性は高い。

 そもそも源先生がいる以上、教室への案内だって必要ないはずなのだ。だとすれば木乃香さん達が呼び出された理由は、ネギを二人の部屋に住まわせて欲しいという依頼が占める部分が大きいのだろう。

 なんと言っても木乃香さんと明日菜さんの暮らしている部屋だ。それなり以上のセキュリティがこっそり施されていることは想像に難くない。

「朝倉さん、私達に取れる選択肢は二つあるわ。一つは駅に戻ってネギ先生を待ち、誰よりも早く質問攻め。一つは学園長室の前で待ち構えて、木乃香さん達と一緒に教室へ案内するついでに質問攻め。一つは大人しく教室に向かい、朝のホームルームで質問攻め。さあどれがいい?」

 順に指を立てて行動指針を示すと、明日菜さんが呆れ顔でため息をついた。

「三つあるじゃないの」

「お約束やなー」

「一つ目は却下。アスナも言ってたけど、見つける自信ないし。二つ目も魅力的ではあるんだけど、学園長室前ってのがネックねー。他の先生に見つかったら怒られそうじゃない」

 朝倉さんなら扉にコップをあてて中の会話を盗み聞きとかやりそうだしなあ。そういう状態で見つかれば、そりゃ怒られるだろう。

「でも、三つ目だと面白みがねえ。せっかく坂本が仕入れてきてくれたネタなんだし。イギリスから来た子供先生に聞く麻帆良学園都市の第一印象、これを逃さない手はないんだけど……」

 半眼になって腕を組み、うむむと唸る朝倉さん。校門まではもう少し距離があるから、ゆっくり考えてもらいたい。

 私としては、明日菜さんとネギ・スプリングフィールドの初邂逅が、学園長先生立会いのもとで(つまりは失恋の相とか、いきなり制服を武装解除とか抜きで)行われることが確定したので最低ラインはクリアしている。

 仮に朝倉さんが記者魂に負けて二つ目の案を選んだとしても、私は三人とお別れして教室へ向かう予定だ。

 もちろん、新任教師が子供だという話はクラス中に十分浸透しているから、黒板消しにロープ、水入りバケツからおもちゃの矢の連鎖なんていう無茶はしないだろう。けれど、だからこそ最初の黒板消しトラップくらいは仕掛けそうな人物に、三人ばかり心当たりがある私だった。

 無意識に展開された魔法障壁によって、宙に浮く黒板消し。それに明日菜さんが気づいたのは直前の出来事でネギを怪しんでいたからということもあるのだろうけれど、そういう細かいフラグを丁寧に潰していくことが、大事なのだ。たぶん。

 

 

「おっはよー、って、まあ、予想はしてたけど誰もいないか」

 始業まではかなり時間があるし、早く来る義務のある本日の日直はエヴァンジェリンさんだ。真面目に早起きして登校してくる訳が無い。まあ、予鈴までには来るだろう。

 自分の席にすたすたと近づいて腰を降ろす。

 もしかしたら相坂さよが「居ますよー、私が居ますよー」みたいな感じで私の周りを飛び回っているかもしれないけれど、悲しいかな、霊感のれの字も持たない私にはそれを知る術がない。

 前世の記憶だなんてオカルトも良いところなのだから、そのあたりの能力が少しくらいあっても良いと思うのだけど、生まれてこの方金縛りにさえあったことがない。

 残念だけれど、相坂さよはもうしばらく一人ぼっちだ。

 コックリさんでもすればお話できたりしないかな、と思ったりもするのだけど、実行に移したことはない。魔法も幽霊も存在する世界だから、相坂さよ以外の本物が寄って来たりする可能性がゼロじゃないのだ。怖すぎる。

 何しろ、放課後にコックリさんをやろう、なんて言おうものなら、占い研の部長にして、稀代の魔法使いとなる資質を持つ木乃香さんがノリノリで参加してくるのが目に見えている。

 本物の降霊会になったらどうしてくれるのか。いや、そうなりそうだったら、桜咲さんがさりげなく止めてくれる気もする。

 そんな事を考えていたからだろうか。からりと教室の戸を開いて入ってきたのは、桜咲さんだった。

 視線を教室内に走らせて、私に目を止めると、軽い目礼。

「おはようございます」

「おはよ、早いね」

「ええ。坂本さんも」

 会話終了。

 味気ないなあ。や、私が木乃香さんと仲が良いから、わざと距離を置いているってことは分かってるんだけどね。

 もしかして桜咲さんが早く来たのって、木乃香さんが早く寮を出たからだったりするのだろうか。んー、あり得る。

 さっきまで私達のちょっと後方を、気配とか消して歩いていたのかもしれない。

 で、木乃香さん達がちゃんと学園長室に向かったのを見届けてから教室にやって来た、と。時間計算も合うから、たぶんその線だろう。

「そうそう、今日から来るっていう子供先生のこと、何か知ってる?」

 席から立ち上がりながらの私の言葉に、桜咲さんは少しだけ思案顔になった。

「いえ、目新しいことは何も。先週、坂本さんが仕入れてきた話は、委員長さん経由のものでしたよね。それよりも詳しくとなると、学園長に聞くしかないのでは」

 桜咲さんの側に歩み寄って、うんうんとうなずく。

「だよねえ。まあ、そこに聞くのがまず難しいわけだけど。高畑先生には土曜のホームルームで根堀り葉堀り聞いちゃったし」

 流石のあやかさんでも金曜の放課後だけでは詳しいところまで情報を集めることは出来なかったらしく、高畑先生の口からは幾つかの新事実が語られたりした。イギリス出身だけど日本語が通じるから大丈夫、とか。

 高畑先生が納得ずくで担任から外れるのだと知った明日菜さんの落ち込みようと言ったら、端から見ていてかわいそうなくらいだったけれど。

「朝倉さんが潜入取材してくれてるから、そっちに期待かな」

 いや、むしろ突撃取材と言うべきか。

 私と同じように、学園長室の扉に張り付いて聞き耳を立てる朝倉さんを想像したのかどうかは分からないが、桜咲さんも小さく笑ったような気がした。

「おっはよー! って、珍しい組み合わせだね」

 元気な声と共に教室に入ってきたのは美空さんだった。

 もう今さら「なんでボブカットなの」とは突っ込まないけどさ、たぶん私のせいだろうし。でもその左手に持ってるバケツは何に使うつもりかな?

「おはよう、容赦をどこかに忘れてきた美空さん。バケツはアウトだと思うの」

 じと目で睨みつけると、美空さんは思い切り目を逸らした。

「いやいやいや、ほら、こういうのは最初が肝心じゃない。舐められるわけにはいかないっていうか。ね?」

「そうそう。最初が肝心だよねー」

 さらにその後ろから現れたのはゴム矢を抱えた風香さんだ。史伽さんも史伽さんで、トラップ用と思われるロープを提げている。来るのが子供だと分かっていても容赦ないね、君ら。

 時計を見るといつの間にか結構な時間が経っていたらしく、三人の後ろからも続々とクラスのみんなが登校してくる。

 微妙にいつもより集まりが良い気がするけど、このクラスならさもありなん、である。

「もー、泣かせちゃっても知らないからね」

「大丈夫、大丈夫。計画段階ではバケツに水を入れる予定だったけど、我慢するから」

 くくくく、と笑い合う陸上部のエースと双子。

 うーん、これを止めるのはちょっと難しいかもしれない。いや、無理やり妨害することは不可能じゃないけど、ちょっと避けたい。

 私は呆れたように大きくため息をついて、自分の席に戻った。

 そして、ポケットから携帯電話を取り出すと、木乃香さん宛てにメールを打つ。

「教室の入り口に歓迎トラップ有り。親睦のために引っかかるつもりなら止めないけど、一応先生に教えて上げて……と」

 うん、よし。

 この情報を聞けば、ネギ・スプリングフィールドの性格から考えて、黒板消しトラップにわざと引っかかるだろう。もちろん、魔法障壁はオフにして。

 その後でちょっとロープで転んで、バケツで目隠しされて、ゴム矢で射抜かれるかもしれないけど、私の目的から見れば誤差の範囲だ。たぶん。

 そんなことを考えている私の視線の先で、いたずらトリオは着々と歓迎の準備を整えていった。

 クラスの皆も心得たもので、黒板消しが仕掛けられたあとは教室の後ろにある出入り口を通っている。新任教師が来るという日に、トラップが仕掛けられていない訳が無く、そしてちょっと気をつけていれば発見できる黒板消しなんて囮に違いないということが分かっているのだ。訓練されてるなあ。

 しかし、それからさらに時間が経過して予鈴が鳴り、私はさすがにおかしいと思い始めた。

 遅すぎる。

 まさか二度寝して遅刻かと、携帯電話を取り出したタイミングで、教室の前方からばふっと白煙が上がった。

 ちょっと周囲に注意を払っていれば分かる程度の黒板消しトラップに引っかかったのは、ジャージ姿の千雨さんだった。



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【番外】 晴れ。ところにより、突風。

 子供先生を早く見たいから木乃香達と一緒に迎えに行く、なんて朝から大騒ぎしていたルームメイトにベッドの中から行ってらっしゃいと返事をしたら、布団を引っぺがされた。

 曰く、遅刻者ゼロ週間なんだから千雨さんもちゃんと起きろ、とのことだったけれど、今から出発したら始業の一時間近く前に着いてしまうからと説得して、部屋から送り出した。

 悪ノリはする癖に、こういうところは妙に真面目な奴だと口の中でもごもご呟きながら、千雨は冬の朝の二度寝という至福の時間に戻っていった。

 千雨のルームメイトである坂本春香の偉いところは、自分に用事があっても宵っ張りな友人への気遣いを忘れないことだ。対して、長谷川千雨の偉いところは、そういった友人がいても頼りきりにならず、ちゃんと自前で目覚ましをセットしていることである。

 そんなわけでしばらく後、スヌーズ機能によって鳴り響いた四度目の目覚ましベルを寝ぼけ眼で止めた千雨は、時計の長針と短針をじっくりと見つめて、乾いた笑いを浮かべた。

「はっはっは、余裕余裕」

 笑いながらも頭の中に学内路線の時刻表を思い浮かべて逆算し、朝食を食堂でとることを諦めた。

 慌ただしくベッドから起き出しパジャマを脱ぎ捨て、洗顔歯磨き寝癖処理と一気に身支度を整えた。これが夏なら意地でもシャワーを浴びるところだが、冬なので思い切って省略し、制汗スプレーで我慢する。

 その他諸々、妥協できるところは妥協して制服に着替えて眼鏡をかけて、最後にリップのみ引いて終わりにする。唇が割れると痛いのだ。

 ここまでやって十分かかっていないのは、千雨の趣味であるコスプレによる習熟がモノを言っている、というわけではない。千雨だって、気合を入れてメイクやら何やらするなら、分ではなく時間単位で時が飛んでいくのだ。

 出発前に共用の食糧ケースを覗いたらプリッツが一箱あったので、とりあえずこれを朝食ということにした。

 

 

 電車のドアが開くと、生徒達が一斉に改札へ向かって走り出した。ほぼ全員が定期を持っているということもあって、生徒達はどんどん改札を通り抜けて行くが、混雑具合はひどいものだ。単純に人数が多いのである。

 千雨が一人で登校するときは、電車から降りたあと、ホームであえて少しだけ待機することにしている。その方が楽だからだ。あまり待ちすぎると次の電車が入ってくるので、適度なタイミングを見計らう必要はあるのだが。

「まだ慌てるような時間じゃないしな」

 腕時計をちらりと見れば、起き抜けに計算したとおりの時間である。歩いて行っても予鈴の五分前には教室に到着できるはずだ。

 今日の木乃香達のように待ち合わせでもしているのなら話は別だろうが、あと三本までなら電車を遅らせても、全力疾走すれば授業には間に合う。

 美空や明日菜なら四本まで行けるんじゃないかと考えて、千雨は笑う。さすがにそこまで遅れると、今週に関しては校門でイエローカードが出るか。

 経験どおり、少し待つだけで改札はすき始めた。そろそろ行くかと改札をくぐると、普段は飾りと言っても良い駅員と問答している巨大なリュックサックがあった。

 いや、あれは荷物満載のリュックを背負っている子供だ、と気づいた千雨は、その正体に思い当たることがあった。

「麻帆良女子中等部なら、さっき走っていった子達の後についていけば迷わないよ。ええと、確か赤いブレザーとチェックのスカートがそうだったはずだけど」

 子供の目線に合わせるためか、しゃがんで応対している心優しい駅員だが、まさかこの駅を利用する女子校生徒の制服を全部覚えているのかと千雨は微妙な表情になる。

 年中ここに勤務していたら覚えてしまうのかもしれないが、申し訳ないけれどちょっと気持ち悪い。あと色は赤じゃなくて明るめの臙脂だ。

 視線に気づいたのか、駅員は千雨の方を見ると破顔した。

「そうそう、あの子がちょうど女子中等部の子だよ」

 その言葉に促されて振り向いたのは、膨らみかたから見て相当に重いだろうリュックを背負っているくせに汗一つかいていない非常識な――否、麻帆良内ではごく常識的な少年だった。

 つまり、厄介ごとである。千雨は表情が面倒くささに歪むのを自覚した。

「あ、あのっ、すみません。女子中等部まで行かないといけないんです。連れて行ってくれませんかっ?」

 よろしくお願いしますと礼儀正しく頭を下げるのは良いことだ。その非常識な筋力が無ければもっと良かった。

 千雨は大きくため息をつくと、いつもどおりに諦めた。しかたがない。ここではこれが普通だ。

「分かりました。案内しますからさっさと行きましょう」

「おお、良かったなボク!」

 面倒くささを隠さない千雨と、我が事の様に笑みを浮かべる駅員に、ありがとうございますと交互に頭を下げる少年を見て、千雨はもう一度ため息をついた。

「ほら、置いて行きますよ」

 そう言って歩き出すと、慌てた少年が後をついてきた。時折後ろを向いては、手を振っている。駅員が見送ってくれているのだろう。

 ちょっと気持ち悪いなんて思ったのは失礼だったかもしれないと、千雨は駅員の評価を上方に修正した。

「さっきの人達は、なんであんなに急いでいたんですか?」

 頭一つ分よりもう少し下の方からかけられた声に、千雨は答える。

「ああ、今週は遅刻者ゼロ週間なんですよ」

 すると少年は目を見開いて焦り出した。

「ええっ! た、大変じゃないですか。僕達も急がないと!」

 その年相応に見える困り顔に、思わず笑ってしまう千雨だった。

「赴任早々遅刻するのが嫌なのは分かりますけど、まだ歩いても間に合う時間ですよ。ネギ先生」

 間に合うと聞いてあからさまにほっとした少年は、次いで自分の名前を呼ばれたことに不思議そうな顔をした。

「なんで僕の名前がネギだって……あっ、もしかしてまほう……」

「まほ?」

「あ、その、まほう……まほ、麻帆良で先生をしているタカミチの生徒さん、ですか?」

 微妙に不自然な言い回しだったが、千雨は気にしないことにした。本当に外国人かと思うくらい、日本語のイントネーションまで完璧なのだから、それくらいのミスが減点対象になるはずもない。自身が受けている英語教育を思えば尚更である。

 しかし、話してみればみるほどに普通の少年だ。これで大卒の天才児だったり、見かけによらず重いものが持てたり、今日から自分のクラスの担任教師だったりしなければ、千雨は迷わず一般人認定していただろう。

「そうですよ。って、そういえば名乗ってませんね。長谷川千雨です」

 今日からあなたが受け持つクラスの人間です、とは言わないで置いた。

 教育実習とかすっ飛ばしていきなり担任などという非常識に対する合理的説明、一生徒に出来るわけがないのである。そういう説明は高畑や学園長にお任せだ。

「千雨さんですか! 僕はネギ・スプリングフィールドです。よろしくお願いします」

「ちさっ……長谷川です」

「え、でも千雨さんも僕のことネギって呼んだじゃないですか」

 スプリングフィールド先生とか長くてぱっとは出てこないし、そもそも言いにくい、という千雨の反論は、心の底から不思議そうなネギの表情に封じられた。

 舌打ちしそうになるのを堪えて、相手は無邪気なガキであると心の中で呪文を唱えた。

「千雨でいいです」

 げっそりとした表情で言うと、ネギが満面の笑みを作った。

「はい、修行が終わるまでの期間ですけど、よろしくお願いします」

「修行?」

「いや、ええと、まほ……らで先生をやって、見聞を広げることでようやく一人前になれるんですよ。修行の旅っていうかその、故郷の風習なんです」

「はあ、そうなんですか」

 どうもこのネギという少年は「麻帆良」という単語で舌が回らないらしいと千雨は気づいた。さっきも麻帆良の部分だけ何度も言いなおしていたのを思い出す。

 それにしても、子供を一人で外国に放り出すのが修行とは、とんでもない風習だ。と、一瞬考えたけれど、千雨は頭を振って否定する。本来なら大人になってからやるはずのものを、既に大学を卒業した天才児だというネギ少年が、言わば飛び級として受けているのかもしれないと思ったからだ。

 早熟な子供はどこでも苦労するものなんだなと、千雨は何人かの友人たちを思い浮かべながら、社交辞令だけとも言えない「頑張れ」を口にしようとした。

 しかし、それは後方から轟く地響きのような足音にさえぎられる。毎朝飽きもせずに繰り返される、登校ラッシュだ。

 次の電車のこれが来ることを知っていた千雨は、元から道路の端の方を歩いていた。しかし、英国紳士としての気質を発揮したのか車道側を歩いていたネギのリュックサックが、校門へと走っていく女生徒の腕と接触した。

「うわわっ!」

「ごめんなさーい!」

 ごめんと言いながらも校門の方へと駆け去っていく少女に何かを言う間もなく、千雨はバランスを崩して倒れこんできた巨大なリュックサック(とネギ)に押しつぶされた。

「くそっ、朝っぱらからついてない」

 敬語を忘れて悪態をついた千雨だったが、体を起こすには顔の下というか胸の上でむぎゅうと目を回しているネギが邪魔だった。何よりリュックが重い。

「身長と状況考えて事故だしガキだから何も言わんがすぐにどけ」

 低い声で脅すと、自分の下にあるクッションが何だったのか気づいたらしいネギが、顔を真っ赤にした。

「す、すみません! すぐに起きま……ま……」

 倒れこんだとき鼻に埃でも入ったのか、むずむずと表情を歪めたネギは、ハックションとくしゃみをした。

 同時に、目も開けていられないような突風と、ブツッと何かが千切れるような音。

「なんなんだ今の風は……」

 おそるおそる開いた千雨の目に飛び込んだのは、ボタンが吹っ飛んで思い切りはだけてしまった自分の制服だった。

「な、な、なんじゃこりゃあ!」

 千雨は、ほえた。



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【番外】 麻帆良学園都市の常識

「良いか、とりあえずジャージに着替えるから誰も来ないか見張ってろ」

「は、はいっ!」

 背後からの声に、ネギは直立不動で返事をした。冷静な指示が、逆に恐ろしい。

 ネギ・スプリングフィールドは魔法使いである。一人前になるための修行として、日本で教師となることを命じらてやってきた、未だ半人前の子供だ。

 つい先ほど、ネギはくしゃみで魔力を暴走させてしまった。その余波のせいで制服を吹き飛ばされた少女は、並外れた自制心で驚きと羞恥から立ち直り、素早く通りから離れると雑木林の中へと避難した。

 慌てて追いかけたネギに、こっちを向くなと言った上での、最初の言葉である。

「体育があったのは不幸中の幸いだな……。女子校エリアに入った後だったのも。ちっ、常識なんか糞食らえだ」

 先ほどまでの優等生然とした敬語はどこかに放り捨てた、男前な千雨の言葉遣いに、ああこっちが素なのかとネギは得心する。刺激的ではあるが、それは炭酸飲料のようなもので、口汚い単語の選択が人を傷つけるためではないことが分かる。

 それに気づいたら、怖さが薄れる代わりに申し訳なさが湧いてきて、ネギは思わず謝罪を口にしてしまった。

「すみません、千雨さん。ご迷惑を……」

 体育のために用意していたというジャージを取り出すためか、荷物を漁っているらしい物音が、ぴたりと止まる。

「なんでお前が謝るんだ?」

「その、僕のせいでこんな事になってしまって」

「制服が吹っ飛んだのはお前のせいなのか?」

 背中に射抜くような視線を感じる。ネギはあわあわと手を振って弁解した。魔法使いだという事がばれたら、オコジョにされて本国に戻らなくてはならない。当然、修行も失敗である。

「違っ……わないんですけど、その、まほ……でもなくて、ええとあの、ごめんなさいっ」

 支離滅裂な言葉に、ネギを睨みつけていたらしい千雨が、大きくため息をついた。背後にあった威圧的な雰囲気から解放されて、ネギも小さくため息をついた。

 追及を諦めてくれたのか、背後からは再び荷物を漁る音がし始めた。次いで、着替えているらしい衣擦れの音が。

「修行、修行ね。で、秘密があるわけだ。ああ、お約束だな、お約束だよ」

 何やらブツブツと呟いていた千雨が、ふとある単語を口にした。

「まほう」

 魔法使いであることがばれたのかと、思わず肩を震わせるネギ。

「麻帆良はですね。非常識が常識っつーかですね。全国レベルのアスリートがごろごろしてるし、忍者がいるし、ロボットもいるし……」

 どうやら、麻帆良の言い間違いだったようだ。ネギは知らず肩に入っていた力を抜く。

「だからもう今さら魔法使いが増えたくらいで驚きませんけどね」

「なっ、なんで知ってるんですかっ!」

「こっち向くなって言っただろう阿呆!」

 秘密であるはずの事実を指摘された驚きに振り向いたネギは、額をスパーンとはたかれそうになった。が、痛みは無い。

 既に着替えを終え、もしもこっちを見たらはたく、という心積もりだったのだろう千雨が、振り抜いたはずの手をしげしげと眺めていた。

「なんか途中で壁みたいなのが……無理やりぐにっと曲がりやがった。疑う余地なく超常現象じゃねえか。はっはー、さらば私の平穏な日常。ああもう、ありえねえ」

 細目になって皮肉気に笑う千雨に、ネギはおそるおそる声をかけた。

「あの、千雨さん。お願いします。秘密にしておいてくれませんか? ばれたことが知られると、大変なことになっちゃうんです」

「あ? あー、分かってる皆まで言うな。魔法使いのルールで普通の人にばれたら記憶消した上で魔法の国に帰らなきゃいけなくって、しかも修行は失敗で女王様になれなくなったりするんだろ? 魔女っこか!」

 ノリ突っ込みつきで往年の魔女っこモノの設定を語る千雨だったが、もちろんネギにそんなことが分かるはずもない。

「す、すごい。ほとんど正解です。あ! もしかして千雨さんも魔法使いだったり……」

「しない! 私はごく常識的な一般人だ!」

 期待に満ちたネギの問いかけを一蹴した千雨が、何かに気づいたような表情をする。

「ほとんど正解ってことは、もしかして記憶消せるのか?」

「は、はい。ちょっと頭がパーになるかもしれませんけど」

「却下」

「あう……」

 こめかみをぴくぴくと引きつらせた千雨が、記憶の消去という選択肢を切り捨てた。

「分かった、誰にも言わないから見逃せ。ってか、お前が迂闊すぎるのも悪いだろ、この状況」

 反論できるはずも無かった。ネギが魔法を暴発させたことがそもそもの原因である。その後も失言を繰り返した上に、魔法障壁の切り忘れと失敗を重ねている。

「すみません。僕がくしゃみなんてしたばっかりに」

 しゅんと落ち込んだネギに、千雨が慌てたような声を出す。

「泣きそうになるな! くしゃみするだけで服が吹き飛ぶとか大惨事だ、くそっ。今後気をつけろ。女子校でも教員とかに男いるんだからな? うちのクラスの奴らに迷惑かけるんじゃねえぞ」

 もちろん私も含めてだ、と宣言する千雨に、ネギはこくこくと首を振ってうなずいた。そうだ、初日からつまずいている場合ではない。自分にはマギステル・マギになるという目的が――そしてあの人を追うという目標があるのだから。

「おーい、誰かいるのか? そろそろ急がないと遅刻するぞー」

 ネギにとっても千雨にとっても聞いたことのある声が、ざくざくと雑木林を進む足音と共に寄ってきた。

「タカミチ! 久しぶり」

「高畑先生」

「おはよう、長谷川君。それから、久しぶりだね、ネギ君。大きくなったなあ」

 笑いながら挨拶する高畑に、おはようございますと千雨も頭を下げた。

「ん、長谷川君はなんでジャージを? 一時間目は体育じゃなかったはずだけど」

 なぜと聞かれれば明らかに自分のせいなので、ネギは慌て出す。高畑もネギと同じく魔法使いなので、千雨に魔法がばれたことを知られると、非常にマズいのである。

「はあ、さっきそこの道で思いっきり転びまして。拍子で制服のボタンが千切れたんです。で、駅から学校まで案内する途中だったネギ先生に、着替え終わるまで人が来ないよう見張ってもらっていたんですよ」

 嘘は言っていないけれど本当のことも言わないという、やたらと高等な状況説明をさらさらと行う千雨の言葉に、ネギはそうそうと頷くことしか出来なかった。

 千雨は高畑が魔法使いであることなど知らないだろうが、そんなこととは関係なく、先ほどの「誰にも言わない」という約束を守ってくれているのだ。

「そりゃあ災難だったね。ネギ君は一度学園長室まで挨拶しに行かないといけないから、僕が案内するよ。長谷川君は教室に急ぎなさい」

 高畑に促された千雨は腕時計を確認して、げっという呻きと共に表情を歪めた。

「じゃあすみませんけど、高畑先生あとはよろしくお願いします。ネギ先生も、また後で」

 言い残すと、千雨は雑木林を走り去った。その背中を見送りながら、ネギは「また後で」ってどういう事だろうと首をかしげる。もちろん、教師になれば会うことはあるだろうが、先ほどの言い方はもっと確信に近いものが感じられた。

「さあ、僕らも行こうか、ネギ君。今週は遅刻者ゼロ週間でね。教師にイエローカードは出ないけど、示しがつかないだろう?」

「あ、うん。千雨さんは、大丈夫かな」

 学校へ向けて歩き出しながらも、千雨が間に合うのかどうかネギは不安になってしまう。

 親切にも駅から案内してくれたのに、リュックで潰すわ、制服は脱がすわ、魔法はばれるわと、迷惑をかけた上に遅刻までさせてしまっては、申し訳ないでは済まない。

「あのスピードなら校門はセーフ、教室は予鈴に間に合わず、というところかな。心配かい?」

「駅で困っていたら、学校まで案内してくれたんだ。日本の女性は優しいって、本当だね。タカミチ」

 ネギは分かりにくい形でしか善意を示すことが出来ないらしい少女のことを思い出しながら笑う。

「そうだね。長谷川君は少し口が悪いけれど、とても面倒見の良い子だよ」

 高畑もまたネギにつられたように笑うが、その後ですぐに表情をあらためる。

「ともあれ麻帆良学園へようこそ。これから忙しくなるよ。ネギ先生」

 旧知である高畑に「先生」と呼ばれたことで、ネギは背筋が伸びるような思いをした。

 不安はある。

 先ほどの長谷川千雨のような、ネギよりも年上で、考え方も大人びた少女達を前にして、教師などという大役が果たせるのかと。

 しかしネギはその不安に負けないようにと、先を歩く高畑の背中を追って、足を踏み出した。

 ここでの暮らし全てが、マギステル・マギとなるための修行なのだから。

 

 

 麻帆良学園都市の学園長室は、何故か本校女子中等部の一角にある。

 警備上の問題から女子校エリアが学園都市の中心部に(つまり学園の最重要拠点である世界樹の側に)あること、学園長自身の孫娘が女子中等部に在学中であることなど、理由は幾つか存在する。

 しかし、対外的にもっともらしい理由を一つ挙げるとするなら、女子中等部が使用している校舎が、麻帆良学園創立時からある建物だから、ということになるだろう。改築は何度か重ねているが、当時はまだ共学であった学園の校長室を、今でも使い続けているだけなのである。

 その歴史ある部屋から、九歳の新任教師という前代未聞の人物を送り出し、学園長である近衛近右衛門は一息をついた。

「やれやれ、どうにか一時間目には間に合いそうじゃの。予鈴が鳴っても到着せんから、もしや道に迷ったのではないかと思ったが」

 予鈴が鳴った後では、木乃香達に捜しに行かせる訳にもいかんしの、と近右衛門は長い髭を撫でながら呟く。

 すれ違いになる可能性もあるが、それ以上に他の教師と出会えば急いで教室へ向かうよう指示されることが目に見えている。いちいち事情を説明していては、効率が悪いことこの上ない。

「案内してきてくれて助かったわい」

 近右衛門は隣に立つ高畑に目を向ける。

 なかなか現れないネギに対して「これだからガキは」と苛立ちを募らせていた明日菜の抑え役としても、これ以上はない偶然だった。

「いえ、途中からですよ。校門のすぐ近くまでは、うちのクラスの……ああ、いえ、長谷川君が駅から一緒だったようです」

 つい先週までは担任であったために口をついてしまったが、1-Aは既に高畑の受け持つクラスではない。

「長谷川千雨君か。確かにあの子なら子供が迷子になっとるのを見過ごすことはせんじゃろう。口では悪態をつくじゃろうがな」

 ふぉふぉふぉ、と楽しそうに笑う近右衛門。

 高畑はたまに、この老人は学園の生徒全ての個性を把握しているのではないかと疑いを持つことがある。さすがにそんなことは無いはずだが。

 長谷川千雨のことを知っていたのも、おそらくは孫娘と同じ部活であるとか、クラスであるとか、そういうことが理由であるに違いない。

「それから、その長谷川君ですが、ネギ君の魔法がばれたかもしれません」

「なんと。初日からか」

 近右衛門の反応に、高畑は眉をひそめる。

 ネギの修行の成功だけを見るなら、このことは報告しない方が良い。だが、高畑はそういうことが出来る性格ではなかった。

 ゆえに、近右衛門がネギに対して厳しい判断を下す可能性も考えてはいた。そのときはフォローしよう、とも。しかし、近右衛門の声には驚きと共に、笑いの成分が混じっていた。

 少しばかりの不可解さを残しながらも、高畑は報告を続ける。

 ネギが来るから外に気をかけていたこと、校門付近で魔法の発動を感知したこと、確認しに行くとジャージ姿の長谷川千雨がいたこと。

「ネギ君はどうも、魔力を持て余しているみたいで、くしゃみをすると武装解除とか暴発させてしまうんですよ」

 様子を見るために足を運んだネギの故郷で、彼の幼馴染の少女が、何度か被害にあっていたことを高畑は思い出す。彼女も心得たもので、三度目の訪英時には咄嗟に防壁を張って回避することを覚えていた。

「ふーむ。千雨君ならそこから何かに感づいてもおかしくはないのう」

 千雨に対して麻帆良の認識阻害結界の効果が薄いということは、初等部の頃から指摘されていた事実である。加えて、彼女の論理的思考があれば、幾つかの不自然な点を重ね合わせて、魔法という超常現象の存在にたどり着く可能性は高い。

 しばし、近右衛門は宙を見つめて、頷いた。

「ま、問題ないかの」

「……良いんですか?」

 話している途中から予想できていた答えではあったが、高畑は問いを返した。

「新田先生、おるじゃろ」

 しかし問いに対する近右衛門の返答は、高畑の想定していたものとは違った。

「新田先生、ですか」

「彼はわしが初めて受け持ったクラスの委員長での。今と変わらず堅物で、不良生徒達からは鬼の委員長と呼ばれとったもんじゃ」

「はあ」

 唐突に始まった昔話に、高畑は間の抜けた返事しかできない。

「その新田委員長が、今ではおぬしと同じ広域指導員として、相変わらず生徒達を震え上がらせとるわけじゃな」

 近右衛門は小さく笑ったようだった。

「しずな君もそうじゃし、移動売店の節子君も、事務の広橋君も、麻帆良の卒業生じゃよ」

 もちろん、おぬしもな、と高畑を含みのある視線で見てくる近右衛門。

「例えば三十年前なら、ネギ君を教師として受け入れることはできんかったじゃろう。が、今ならできる。麻帆良なら子供が教師をしていてもアリだという意識が、根付いておる」

 高畑はようやく、近右衛門が何を言わんとしているのかを理解した。

 もちろん認識阻害の結界の力はある。だが、それの補助を受けた形であっても、麻帆良の非常識度は少しずつ、しかし確実に、上がってきているのだ。

 麻帆良で育った、常識外れを常識とする者が麻帆良に就職する。そうして麻帆良はさらに非常識になる。

 麻帆良を卒業した、常識外れを屁とも思わない者が、麻帆良の外で就職する。世界は少しだけ非常識に優しくなる。

 そうやって、国体レベルのアスリートがいても、忍者がいても、ロボットがいても、誰も不思議に思わない環境を、育て上げてきた。学園祭を一般に開放して、県外から客を呼ぶことの出来る学園都市を、作り上げてきた。

 近右衛門が、白い眉毛に隠された目の奥で、優しく笑った。

「ま、本国には秘密じゃよ」

 度を越えるようだったら注意してやってくれ、という学園長の言葉に、高畑は頷いた。

「ええ、了解しましたよ。学園長」

 高畑の返答にふぉふぉふぉふぉと声を立てて笑った学園長が、ぴたりと真剣な表情になった。

「しかし、ネギ君はちゃんと先生を出来るのかの。さすがにそっちは甘い点をやることは出来んのじゃが」

 煙草を取り出そうと胸ポケットに手をやって、高畑は学園長室が禁煙だったことを思い出した。

 そろそろ、彼の初授業が始まった頃だろうか。

「大丈夫ですよ。ネギ君は頭良いですから」



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伸ばした手が掴むもの

 視線の先でもうもうと舞い上がったチョークの粉が収まる。その下から現れたジャージ姿の千雨さんが、ふるふると肩を震わせた。

「ああ、そうだな、私の不注意だ。予想できなかった私が悪い。だけど美空と風香と史伽、あとで覚悟しとけ」

 決して大きい声ではなかったのに、その宣言は教室中に響いた。復讐を宣告された三人が、「ぎゃー、ばれたー」と悲鳴を上げている。あなた達以外の誰がこんなことすると言うのか。

 黒板消しで注意を上に逸らしつつ、足下のロープに引っ掛けるという巧妙な罠だが、そちらはしっかりと回避して、千雨さんは席へと歩いてきた。

「なんなんだ、今日は。厄日か」

 髪や肩、眼鏡についたチョークの粉を払い落としながら千雨さんがぼやく。千雨ちゃんがああいうのに引っかかるって珍しいよねー、と笑う桜子さんにうっせえと返している姿は、少々不機嫌であることを除けばいつも通りの千雨さんだ。

 喉まで出かかっていた言葉を飲み込む。危うく、何故と問うところだった。

 なんで、ジャージ姿なのか。

 頭の中をぐるぐると回る嫌な予想を否定することができない。だって、状況が揃い過ぎている。千雨さんがジャージを着て登校してくる理由が、一つの可能性以外に思い浮かばない。

「おはようです、千雨。なぜジャージなのですか?」

 私の疑問を言葉にしてくれたのは、夕映さんだった。

 良く聞いてくれたと思うと同時に、自分が聞いても良かったのだと遅れて気づく。普通に考えれば、千雨さんがジャージで登校してこなければならない理由など無いのだから、疑問に思うのは当然なのだ。むしろ、聞かない方がおかしい。

 千雨さんは夕映さんに挨拶を返してから、わずかに表情をゆがめた。

「来る途中で転んで制服のボタンが吹っ飛んだ」

 ……間違いない。

 けれど、ここで取り乱すわけにはいかない。無意味に黙り込んだだけでも失態なのに、ここで机に突っ伏して頭を抱えるとか、そういう馬鹿なことをしてはならないのだ。

 私は小さく息を吸いこんで、吐く。そうしてようやく、体が強張っていたことに気づいて、意識的に力を抜いた。

 ちょっとだけ呆れた表情を作って、千雨さんに声をかける。

「枝にでもひっかけたの? 普通は転んだくらいでボタンとれないでしょ」

「ああ、そんな感じだ」

 一年生の頃から変わらない、私の左斜め前の席にバッグを置きながら、千雨さんはうなずく。

 その曖昧な返答に、私はもう一つの情報を得る。たぶん千雨さんは、既にネギ・スプリングフィールドが普通の子供でないことに気づいている。もしかしたら、魔法の存在にまで。

 だって、今の千雨さんなら、制服のボタンを吹き飛ばした非常識な現象に、「あり得ねえ」と声を上げるはずだ。おかしいという思いを内に溜め込まず、突っ込みに変えるはずなのだ。

「那波か柿崎。悪いけどソーイングセット持ってたら貸してくれ」

 そう言って、美沙さんから針と糸を借りると、千雨さんは自分の席で制服にボタンをつけ始めた。ソーイングセットを貸し出した美沙さんが目を丸くする。

「千雨ちゃんって、裁縫できたんだ」

 出来ないはずが無い。千雨さんは衣装の自作もするレイヤーにして、それなり以上に人気のネットアイドルだ。

「ボタンつけるくらいなら誰でもできるだろ」

 言いながらも、服とボタンを繋いだ部分にくるくると糸を巻きつけてボタンの下に隙間を確保する。千雨さんは流れるように指を動かして玉止めを作り、余った糸を切った。手を止めることなく、二つ目のボタンに取り掛かる。

「できるのと手馴れてるのとは違うでしょうよ」

 美沙さんは素直な感心の気持ちを込めて言ったのだろうけど、それは千雨さんからしてみれば痛いところを突く言葉だ。実際、千雨さんは誤魔化すように苦笑していた。

 私はそんな二人の様子を視界に入れながら、思考を回す。

 千雨さんがくしゃみか何かで制服を吹き飛ばされたことは、ほぼ確定。黒板消しトラップに引っかかるほど「何か」に気を取られていたことから、その何か――つまりは制服を吹き飛ばされたという現象の記憶を消されていないと予想される。そこに異常現象に対する突っ込みが無かったという事実を加える、と。

 順番に考えれば、答えが出た。千雨さんは、魔法のことを秘密にして欲しいと頼まれて、それを受け入れたに違いない。

 だとしたら、連鎖的にもう一つ分かることがある。千雨さんは、きっとネギの味方になる。

 異国の地で一人。風習も常識もまるで違う土地で、一人。しかも明かすことのできない秘密を抱えている少年に関わってしまったら。それを、ただ捨て置けるような人じゃないのだ。千雨さんは。

 例えば、ネギの不注意によって魔法がばれそうになったとしたら、千雨さんはどうするか。陰に日向に、フォローに走ってしまう千雨さんの姿が目に浮かぶ。それはきっと、ものすごく嫌そうに眉間に皺を寄せて、盛大に文句を言いながら。

 そう、だから考えようによっては、この状況は……。

「来たか」

 隣の席からぼそりと聞こえたエヴァンジェリンさんの呟きで、私の思考は中断された。

 頭の中で言語化される直前だった言葉を振り払う。自分が、ひどく嫌な人間になった気がした。

 ともあれ、この状況で来る人物など、一人しかいない。

 ほどなくして、教室の前方で本日二度目の白煙が舞い、ロープで転倒、バケツの落下、おもちゃの矢による射撃というフルコースの歓迎と共に、物語の主人公が登場した。

 

 

 放課後、ネギ先生の歓迎会まではもう少し時間がある。のどかさんが閉館前に図書館へ本を返しに行かなければと言い出したので、私たちは二人して準備を少しだけ抜けてきた。

 最初は準備を優先して欲しいと遠慮していたのどかさんも、千雨さんが「絶対転ぶ」と断言したら折れてくれた。両手で山ほど本を抱えてよろよろ教室を出て行こうとすれば、私や千雨さんじゃなくても心配するというものだ。

 ついでにあやかさんへ声をかけて、足りていない物の買い出しを引き受けた。帰りに生協へ寄らなければならないけれど、準備中に抜ける後ろめたさも少しは晴れるだろう。

 中等部図書館へと歩きながらの話題は、もちろんネギ先生のことである。

「ネギ先生って、可愛いよねー」

 のどかさんが少し顔を赤らめながら呟く。女子校育ちだから無理も無いのだけれど、私たちは男の子との接触が極端に少ない。

 うちのクラスで言うなら、特に免疫が無さそうなのは、のどかさんや大河内さんだ。初めてまともに接する同年代の男の子がネギ先生。豪華だ。文句なくかわいらしい男の子で、物腰も柔らかいと来るのだから、そりゃあ顔を赤らめたくもなるだろう。

「そうだね。八十年代ラブコメものかと思ったよ」

 私が冗談めかして言ったラブコメという単語に、のどかさんは今朝のことを思い出したのか、小さく笑みをこぼした。

「そう言われてみると、ちょっとベタだったかも」

「ベッタベタだったわ」

 悪戯でダメージを受けたネギ先生へ、あやかさん筆頭にしての慰め攻勢。後から入って来た明日菜さん達三人は呆れ顔で、だからやめとけって言ったのに、なんて呟いていた。

 私たちがベタだと言っているのはその後のことだ。

 教卓前に立ったネギ先生は、着任の挨拶をはじめると、その途中で何かに気づいたのか、急に笑顔になったのだ。何に気づいたのか分かっていたのは、私と千雨さん本人くらいだろう。

「手を振りながら『あっ、千雨さん。このクラスだったんですね!』だよ。惚れ惚れするほど完璧」

 結構上手く声真似できたと思ったのだけど、のどかさんからは似てないよーと辛口の評価をいただいた。

「転校生じゃなくて先生だけどね」

「後は千雨さんの反応がもう少しかわいらしければっ」

「すごーく面倒くさそうな顔してたよね」

 のどかさんはくすくすと笑う。

 実際、面倒くさい事態には陥った。

 そりゃそうだ。本日麻帆良にやってきたばかりのあの可愛い少年が、なぜかクラスメイトと顔見知りだったとなれば、経緯が気にならないわけがない。

 ざわついたクラス中から質問の集中砲火を受けて、千雨さんは非常に大変そうだった。

 それでも今朝の事――駅で道を訊ねていたネギ先生を不本意ながら案内していたらしい――について律儀に答えていたあたり、私の推測は大きく外れていないのだろう。

 おそらく、千雨さんはネギ先生を庇っている。

 純朴な少年が女子中学生からの質問攻めにあって、ぽろりと口を滑らせる可能性を懸念していたのだと思う。本人は絶対に認めないだろうけれど、人の良さで言えばA組でも指折りなのだ。

 そうやって今朝の事を話しながら、のどかさんと並んで歩く。中等部図書館はもうすぐそこと言って良い距離だけど、気を抜くことはできない。

 この先に、下り階段がある。

 のどかさんや夕映さんと一緒に何度も通った道だ。けれど、今日だけは細心の注意を払ってそこを下る。

 頭の中で何度も思い出したのどかさんの転倒シーン。進行方向から見て、階段の左側に倒れこんだはずだ。

 もちろん、転倒の原因となった大量の本は、その半分を私が持っている。けれど、それだけで転ばないとは限らない。

 だから私はさりげなくのどかさんの左側を歩く。転ばなければ、それで良い。でももし、のどかさんが転んでしまったとしても、その体をすぐに支えられるように。

 階段にさしかかった。

 のどかさんは危なげなく歩いている。

 抱えている本が半分になったから、ちゃんと前が見えているのだ。

 われ知らず、小さく息を吐いた。杞憂だったのだと、安心した。気を抜いて良いはずなどなかったのに。

「あっ」

 その瞬間を狙い澄ましたかのようなタイミングだった。

 隣で上がった小さな声。

 足を踏み外してぐらりと傾くのどかさんの体。

 気を抜いてしまっていた。それでも、私は反応した。

 この状況を予想していた。いや、知っていたのだ。動けないはずがない。

 持っていた本から手を離し、体格差のあるのどかさんを抱きとめようと身構えた。

 やけにゆっくりと、本が落ちて行ったように感じる。

 引き延ばされた時間の中、のどかさんが空中で身をひねった。

 ――転倒に私を巻き込まないように。

 私の眼前をすり抜けるようにしてのどかさんが落ちていく。

 体を捻って手を伸ばす。

 届かない。

 手を伸ばす。

 届かない。

 頬に風を感じた瞬間、手が届いた。

 力任せにのどかさんの腕を引いて、抱え込む。

 バランスを崩した無茶な体勢で、私はそのまま階段に倒れこんだ。

 ざぁっ、と木々の葉が風に揺れる音と共に、時間が戻ってきた。

 心臓が早鐘を打っている。体中から熱い汗が噴き出して、一気に体温を奪っていく。耳の奥がじんじんと痛い。

 階段に引っかからなかった本が、ばらばらと下へ転がり落ちていった。

 のどかさんは私の腕の中で目を回している。私たちは階段の中腹で折り重なるようにして座り込んでいる。だというのに、段差に打ちつけたはずの体は少しも痛くない。

 打ちつけなかったのだから、当たり前だ。私たちは風の壁に守られた。

 階段からゆうに五メートルは離れた視線の先、その小さな体に不釣り合いな大きい杖を構えたネギ先生と、目が合った。



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