ブラウニー (真澄 十)
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ブラウニー

※この作品は「小説家になろう」様にも掲載しております。


 ~ルーサー・キャンベル卿の手記十月十五日より~

 

“我が愛しい人よ。私は貴方を探し続ける。私の生涯を投げ打っても構わない。私の全てを賭けても良い。砂漠の指輪を探すよりも困難でも構わない。一目会いたい。一目だけで良いのだ。

 もはや涙は枯れたのだ。次に涙を流すのは、貴方と再会をなす時だ。私は二度と立ち止まらない。再び見える日まで。”

 

 ルーサー・キャンベル卿の手記はここで終わる。彼が生涯独り身であったのは、彼がかつて愛した女性によるためと云われている。しかし彼女の名は彼の手記に登場することは無い。あらゆる文献を漁ろうとも、彼女の名は分からないのだ。これは彼がほとんど手記などの文献を残さなかったことにも起因する。時折、この名無しの女性と思われる人物は歴史に登場するが、名前は記されていない。何故、キャンベル卿が彼女の名前を隠したのか。その理由は、没後百年を超えた今でも定かではない。

 旧ソルシエル帝国に大きな転機をもたらした彼の青春は、未だ大きな謎に包まれているのだ。

 

 ◆◇◆◇◆

 

 男は風雨の中を駆けていた。その身を纏った上質な衣服が泥で汚れるのも構わずに、ひらすら走り抜いた。十月の雨は思いのほか冷たいが、それすらも意中にはない。ただ、ひたすらに駆けていた。それは愛しい人を探すため。大声でその人の名前を呼ぶが、雨はその声を無情にもかき消す。

 

 もしかすると、すでにすれ違ったのだろうか。

 もしや、家に戻ったのかも知れない。

 いやしかし、ここで引き返したら機会を永遠に失うかもしれない。

 

 判断を天に仰いでも、返るのは雨音と雷鳴だけだ。いや、こうして立ち止まる時間すら惜しい。ただひたすらに、その人の姿を探す。時刻は深夜。この風雨の中を歩くのは、自分と売れ残った娼婦くらいだ。目に入った娼婦に尋ねる。黒髪を短く切りそろえた女性を見なかったか、と。娼婦は答える。知らないわ。男は礼を言い、再び雨の中を駆ける。

 このやり取りはすでに十数回に及んだ。その全ての娼婦が知らぬと答えた。だが、それもそうだろう。この風雨の中、傘すら持たずに泥だらけではいずりまわる男。雨に濡れて定かではないが、泣き腫らしたらしい目元。駆け回ったため、荒々しい息。だれが見ても不審者だ。いくら娼婦でもそんな男と関わりたくはない。

 

 男とて、娼婦たちの奇異の眼差しに気付かぬわけではない。しかし、それでもなお男は駆けていた。大通りを外れて、路地裏に入る。人気の無いところに行けば、ひょっこりとその人が現れそうな気がして。

 駆ける。駆ける。駆ける。

 帰路のことなど考えているはずもない。ただひたすらに駆けて、捜し求めることしか男にはない。靴はおろか腰まで泥でまみれている。飛び跳ねた泥でシャツは黒点の紋様が出来上がっている。髪は額に張り付いている。

 それら全てが男にとっては瑣末なこと。今はその人だけを追い求めなければならないのだ。

 

 だが、体力の限界だった。本人は気付かなかったが、風雨は容赦なく男の体力を奪い取っていた。むしろ、ここまで耐えていた方が奇跡である。

 しかし、奇跡はそこまで。男の視界は端から徐々に霞がかかっていく。まるで、背後から霞の化け物が襲いかかってくるようだった。その霞を払おうと腕を振り回し、さらに早く駆ける。しかし霞は消えるどころか、恐ろしい早さで視界を侵食する。どんなに早く駆けても、ぴったりと付いてくる。

 気付けば、いつの間にか泥の中に顔を埋めていた。歩みを止めた彼のもとに、容赦なく霞は襲い掛かる。霞が視界を全て埋め尽くす瞬間から、強烈な眠気を催した。

 この冷たい風雨にさらされたままでは、間違いなく事切れる。しかし男は思った。私の最後はこれが相応しいのかも知れない、と。

 

 ――そして男は夢を見た。それは、かつての幸せな日々だった。

 

 ◆◇◆◇◆

 

「キャンベルさん。今月の支払い滞っていますよ。困りますね、支払い期日は守ってもらわないと。」

「……ああ、すみません。うっかりしていました。」

 

 ルーサー・キャンベルは書斎にいた。書斎机で書き物をしていたのだが、今は眼前の仕入れ業者のため中断させられていた。

慣れた手つきで金庫を開ける。中身は大分目減りしてしまった。その中から、必要な分だけ取り出して男に差し出す。

 

「はい。確かにお預かりしました。……次は遅れずにお願いしますよ」

 

仕入れ業者の男は外套と帽子を身に付けながら言う。用を済ましたので帰るようだった。

 

「すいませんね。気をつけます。帰り道にお気をつけて。ブラウニー、そこまで送って差し上げなさい」

「畏まりました」

 

 ルーサーのそばに控えていたメイドが答える。黒髪を短めに切りそろえた、大人しそうな女性であった。彼女は5人ほど勤めているメイドの一人だ。

 この大きな屋敷に5人というのは些か少ない。これは浅からぬ事情があるためだ。

 キャンベル家といえば、以前は貴族の名家だった。道行く人にその名を知らぬ者など居ないほど高名な家である。王室からの特権予算と、領地からの収入だけで暮らしていける。およそ労働からは遠いところにあった。

 そのような貴族の日々の勤めといえば、社交界へ顔を売り、王室関係者に気に入られることぐらいだ。領地の管理も大事な仕事ではあるが、雑務は殆ど部下が済ませてくれる。仕事という仕事は、実質無いにも等しかった。その日の食い扶持に頭を悩ます者も少なくないという平民階級に比べれば、実に気楽なものである。

 

 しかしそれも、領地と特権予算があればこそ。それらを脅かすほどの事を、ルーサーの両親はしでかした。

 母親は貴族の夫人としてはおよそ失格であった。彼女は一部では有名な浪費家だったのだ。しかし、それは決定的ではない。決定的だったのは、ルーサーも知らなかった彼女の夜の顔だ。

 とんでもない好色。この一言に尽きるだろう。何人もの男を外につくり、彼らに金を支払い、肉体関係をもっていた。このことが王室の耳に届いた。当時の貴族の風紀の乱れが表面化しており、王室はこのことに憤慨していた。少なくとも王室からキャンベル家に厳重注意が下る程度には。

 

 父親は、王室も出席していたパーティで、あろうことか王室に対して暴言を吐いた。妻のせいで王室から厳重注意を受けたことが原因であるらしい。らしいというのは、ルーサーはそのとき同席していなかった為だ。

 父親は酒を浴びるほど飲んでいたらしいが、そもそもソルシエル帝国において、貴族が社交の席で酒に呑まれるというのは大変不名誉だ。暴言を吐いたにも関わらず謝罪もせず、注意をした王室関係者にワインを浴びせたとなれば、もはや貴族として失脚を意味してもおかしくない。

 

 だがキャンベル家は未だ貴族である。しかし、それは単に以前の資産が膨大だったためにかろうじて首が繋がっているだけにすぎない。だが領地はほとんど取り上げられ、特権予算も控除された。いまや、貧乏貴族となんら変わりはない。いや、それらよりも領地は少ない。ゆえに働かねば生活できないのだ。

 だが、ただ働くだけでは焼け石に水であるのが現状である。彼には、膨大な借金があった。

 

 ルーサーは一人の部屋で机に突っ伏したまま、深いため息をついた。頭を抱えるほど悩んだときに後頭部を掻くのは、彼の癖だ。

 

「一応利益はでているが……全然足りない。」

 

 彼は劇場を経営している。

 彼も元は上流の貴族だ。観劇については人並み以上に経験がある。それが幸いしたのだろう。評判は上々であった。

 しかし、ここでも両親の影がついてまわる。貴族は落ち目の者に容赦はない。なぜなら貴族は世間体で生きているようなものだ。あの恥知らずな両親を持つルーサー・キャンベルと親しくすれば、自分の評判も悪くする。多くの者がそう考えている。そのため、いまだに大きなパトロンがつかない。

 

 劇場や多くの芸術家はパトロン無くては成立しない。劇場も入場料はとるが、そんなものは殆ど足しにならないのだ。パトロンからの援助でそれぞれの生活は成り立つ。

 つまり、劇団は先行き危ないのだ。ルーサーの目利きもあり、すばらしい役者を揃えることもできた。この国では劇場と役者たちはセットで経営される。劇場が優れた役者を独占できるため、人気のある役者を抱えている劇場は利益を捻出しやすい。そのおかげで利益は出ている。しかしパトロンはつかない。何かトラブルが起きれば、すぐにでも閉館しなければならないのだ。

 

「……今月も利息を返すのがやっとか。くそったれ! 何で俺が親の借金を!」

 

 机を平手で打ちつける。置いてあった書類の何枚かが落ちる。

 

「……息子に借金をまかせて夜逃げとは、良い身分だな」

 

 その目には涙が浮かんでいた。こぼれることは無かったが、その涙が今日までの苦難を如実に物語っているのだった。

 父と母は行方が知れない。二人とも、ある日突然いなくなった。いくつかの価値ある宝石や絵画を持ち去り、実の息子を置き去りにした。父にいたっては、蒸発する直前に大きな借金をこしらえた。成人の祝いが借金とは、なんとも粋なものではないか。そしていまやキャンベルの血を正しく引いているのはルーサーだけだ。

 だからキャンベル家は齢22の若造が取り仕切るしかない。名誉あるキャンベルの血を絶やすわけにはいかないのだ。

 

 ややあってルーサーは冷静を取り戻した。当り散らしても事態は好転しない。旧知の間柄にある貴族たちへ、パトロンになって頂けるように手紙を書いている途中なのだ。彼は再びペンを走らせた。

 もう何通も知人へ手紙をしたためているのだが、よい返事は返ってこない。予想以上に、没落した貴族という烙印は足枷であった。

 

 コンコンとノックの音が響く。ブラウニーだろうか。

 

「……どうぞ」

「お送りしてきました。……お茶を淹れましょうか」

 

 ブラウニーは幼いころよりこの屋敷で仕えている。ルーサーは両親の愛を受けて育ったとは言いがたい。彼女だけが心を許せる遊び相手だった。それは今でもそうだ。

 

「ありがとう。いただくよ」

 

 ペンを置き、大きく伸びをする。ずっとペンを握っていると肩が凝り固まってしまう。多分、ブラウニーが少し休めと言う程度には疲れて見えるのだろう。確かにここらで休息は必要かも知れなかった。

 

「畏まりました。では淹れてきますね。お茶菓子はクッキーでよろしいですか?」

「もちろん。君の焼いたクッキーは最高さ」

「あ、ありがとうございます」

 

 ブラウニーは照れたとき、少々俯く。その仕草はどことなく小動物を思わせ、ルーサーはその仕草が好きだった。

 ブラウニーが退室しようとする。半分ドアを閉めたところで、ルーサーは良い考えに思い立った。仕事を忘れて気分を入れ替えるには最高のアイデアだった。

 

「あ、待って!」

「はい?」

「あ、その……カップは二つ持ってきてくれ。無論クッキーも二人分。……あと、くれぐれも君が配膳してくれ」

 

 部屋にはルーサーしかおらず、来客の予定もない。その意味するところは、お茶に同席しろということであった。

 

「か、畏まりました」

 

 再び俯く。これは彼女なりに赤くなった顔を隠すためだ。ブラウニーは恥ずかしかったり、照れたりするとすぐに顔が赤くなる。これはもう昔からで、本人も自覚するとともに治らぬと諦めていた。だから早く退室して、早く冷静になる必要があった。

 深く一礼して、退室する。耳まで赤く染めた顔を誰かに見られたくない。ブラウニーは急ぎ足で厨房へ向かうのだった。

 

 ブラウニーは彼の思いに気付いていた。思い上がりでなければ、ルーサーは自分を愛しているのだろう。というより、誰が見ても一目瞭然だ。この屋敷のメイドの全員が、ルーサーのブラウニーに対する恋慕を知っている。そして、ブラウニーのルーサーに対する気持ちも、メイド全員が知るものだ。はっきりと口にこそしないが、ブラウニーもルーサーを愛している。だからこそ、顔が赤くなってしまって、余計にルーサーの顔を直視できないのだった。

 

 一方ルーサーは、彼女が退室したドアをぼんやりと眺めていた。彼もまた、彼女に対する思いは自覚している。だが、その思いを言い出せずにいた。

 別に、身分の違いからではない。もはや没落した貴族だ。世間体など考える必要もない。しかし、彼女は自分を思ってくれているのだろうか。もう彼女がこの屋敷に来て随分になる。それらの彼女との日々が、自分の思いを伝えた瞬間に壊れてしまいそうで、今まで打ち明けられずにいる。

 それに、経済的な問題もある。借金にまみれた自分など、彼女を不幸にするだけかも知れない。ルーサーとて分かっている。これではまるで子供の恋だ。貧乏と奥手を言い訳にしているに過ぎない。

 やはり、このままでは駄目だろうな。ルーサーはそう思った。このままではいたずらに時間だけが過ぎてしまう。何か行動を起こさなければいけないのだ。

 

 思えば、彼女とのはじめての出会いはもう随分昔だ。もう何年になるのだろうか。

 屋敷に来たころは、とにかく暗い性格であった。今でも天真爛漫からは程遠いが、昔の彼女を見れば誰だって明るくなったと言うであろう。

 

 しかし、今思えば謎の多い女性だ。まず本名が分からない。以前、彼女の落し物であるロケットを見たことがある。これももう随分昔のことだ。ロケットの中身には、そこに納められているはずの写真の類は入ってなかった。蓋の部分には、出生の年月日が記されていたのだが、生年月日の下が削られて読めなかった。生年月日の下にくるのだから、名前であることは間違いないだろう。どうにか一文字だけ、イニシャルのアルファベットは読めたのだが、それは間違いなく「C」であった。ブラウニーならば「B」が刻まれているはずである。

 

 後になってブラウニーに聞いた覚えがある。それは家族の持ち物か、と。彼女は間違いなく自分のものだと答えた。それならば何故イニシャルがCなのかと。彼女は、本当はCなのだと答えた。そして、このことは忘れて欲しいとも言った。

 

 馬鹿正直に忘れることなどできなかった。だが詮索する気もない。ルーサーは彼女の名前に惚れたのではないし、過去が知れないのは今に始まった話ではないのだ。

 再びノックの音が響く。ルーサーの思考はここで中断されてしまった。

 

「ブラウニーかい。入りたまえ」

 

 入ってきたのはやはりブラウニーだった。手にはトレー。そこには良い香りを立てるお茶のポッドやカップ、それにクッキー。ちゃんと二人分あった。

 少し目を引いたのは、それらと一緒に封筒が乗せられていたことだ。

 

「僕宛の手紙かい?」

「はい。エアーズ様、バックス様、パーソン様から届いております」

 

 それらの家はよく知っている。少し前にパトロンになって頂けるように手紙を出した。その返事だろう。

 ―――どうせ良い返事ではないとルーサーは半ば諦めていた。

 

「そこのテーブルで飲もう。茶を飲みながらでも手紙は読める」

「はい。……手紙を汚さないように気をつけてくださいね?」

「はは。もう子供ではないさ」

 

 ペーパーナイフで手際よく封を破り、中身はまだ見ないようにしてソファーに腰掛ける。書き物机の椅子よりも、こちらの方が何やら心地よいような気がした。

 ブラウニーが暖めたカップにお茶を入れる。実に良い香りだった。

 

「アッサムかい。良い香りだ。味も……おいしい」

「ありがとうございます。私もいただきます」

 

 テーブルの向かい側に腰掛けて、一口飲む。満足げな表情は、どうやらブラウニー自身も満足のいくものだったらしい。

 ルーサーは一通目の手紙を広げる。エアーズ卿からのものだ。キャンベル家ほど位は高くないものの――今となっては立場が逆だが――古くからの付き合いだ。

 

「ブラウニー、君がここに来てからどれくらいになるかな。……やはり悪い返事だ」

 

 手紙を乱暴に破り、丸めて、背後の暖炉に放り込む。まだ火を入れるような季節ではないが、紙屑を捨てるには良い場所だった。後で溜めている灰で埋めれば見た目も悪くはならない。

 

「それは残念です。……十年くらいでしょうか。」

「もうそんなに経つのか。久しいな、君と一緒に湖へ釣りに行ったときのことを思い出したよ。……これも悪い返事だ」

 

 二通目のバックス卿からの手紙も同じように破いて捨てる。バックス卿はそこまで親しい間柄ではないが、万が一ということもある。藁にもすがる思いで送ったのだが、やはり良い返事はもらえなかった。

 

「そんなこともありましたね。旦那様と同じぐらいの歳の子は私だけでしたから」

「その時は確か十二歳くらいだったね。よくその歳で雇ってもらえたものだ。最初から僕の遊び相手をさせるつもりだったのかな」

「……そうかも、知れませんね」

 

 ブラウニーの顔に影が差す。ルーサーはそれを見逃さなかった。何故かは知らないが、ブラウニーにとってこの話題は面白くないらしい。

 すかさず話題を変える。

 

「ところで休日はどうやって過ごしているのかい? 最近ろくに暇を取らせてやれなくて申し訳ないのだけどね」

「いえ、気になさらなくて結構です。使用人は皆、旦那様の事情を理解していますし、それでも暇を取らせて頂けるので感謝していますよ。

 私は、別段休みだからといって何かをすることは無いですね。本を読むか、必要な物を買いに外へ行くくらいです。リリーちゃんなんかは休みの度に服を買っていますよ」

 

 くすりと笑う。清楚な顔つきに浮かべた微笑は、ルーサーの心をくすぐった。

 しかしルーサーは、ブラウニーも年頃の女性なのだからそれぐらいはするべきではないかと思う。思えば彼女の私服は数着しか見たことが無い。

 よし、これを口実にデートに行こう。そう決心したのだが、いざ口に出そうとすると、存外に難しいものだった。

 

「な、なあ。それなら今度……いや、やはり何でもない」

 

 ブラウニーは首をかしげる。ルーサーは何やらきまりが悪いので、慌てて手元の手紙の文字を拾う。

 その手紙の内容に、ルーサーは息を飲んだ。何度も文字を読み返す。もう一度読むと、今度は別の内容に文字がすり替わりそうな気がして、理由のない焦りに囚われる。

が、その焦りの表情は、次第に歓喜の色を帯びるのだった。

 

「……旦那様?」

「やったぞ! ああブラウニー、僕はやったぞ! 一時は不毛な努力と思ったが、報われた! やはり神は努力する人間には救済を与えるのだ!」

 

 ブラウニーはルーサーの急激な高揚が理解できず、ただただ困惑する。気付けば自分の手をとって踊っているではないか。狂喜乱舞とはまさにこのことである。

 

「ブラウニー、今度暇を出そう! 僕と一緒に街へ行こうじゃないか! 好きなものを買うといい! そうだ、服がいい! あまり君は服を持ってないみたいじゃないか。一緒に選ぼう!」

 

 ここまで気分が高揚していると、さっき喉でつかえていた言葉が嘘のように出てくる。ルーサー自身も自らの躁状態に戸惑うが、それでも収まらない。

 

「だ、旦那様?いったいどうしたのですか……?」

「パーソン氏だよ!あの大商人が、僕の劇場のパトロンになってくれた! ああ、身分を鼻にかけた貴族なんぞより、商人の方がよほど実直だ!」

 

 ◆◇◆◇◆

 

 パトロンの存在はやはり大きかった。若干の期間を経て実際の後援が始まったわけだが、これがより一層劇場に利益をもたらした。

 まず単純に収入が増えた。もとより一応の利益は出ていたが、そこに後援者から多額の援助がくれば、それはその分だけ使える金が増えたことになる。むろんパトロンの意向には逆らえないし、今まで通りの自由な経営はできない。何故なら後援者には経営に口出しする権利がある。

 

 さらに、これは商人ならではだとは思うが、可能なだけ劇中にパーソン商会の商品へと誘導をするようにという指示もある。具体的には、例えば良い香辛料が商会に入ったならば、ストーリーが破綻しない程度に料理のシーンを挿入するなどだ。劇場の周辺に新しく店を出すらしく、そこの利益に繋がる可能性は大きいそうだ。

 

 つぎに役者たちが切磋琢磨に使える時間が増えた。パトロンがつかないという現実は役者にも相当負担だったらしく、副業を持つものも少なくなかった。しかし後援者の存在でその心配も少なくなった。もとより優れた才を持つものを集めたのだ。如実にその頭角を現し、それはより観客を集めるようになった。

 そして、ルーサーにとって一番喜ばしいのは借金返済に充てる金が入ったことだ。今までは利息を返すのが精一杯で、借金そのものの返済は滞っていた。それが収入の増加により、幾らかずつではあるが返済できるようになったのだ。

 

 当然懐も暖かくなる。恋慕の人と逢引きする程度の余裕は生まれた。最近はきりきり舞いであったが、珍しくルーサーとブラウニーの両者が予定の空いた日があった。ルーサーは、以前はその場の勢いで誘ってしまったので、改めて誘いなおし、デートの運びとなったのだ。

 そしてそのデートの約束が、本日である。

 

 

 

 

 二人は今馬車の中にあった。二頭立ての4輪馬車である。黒い車は屋根つきで、いかにも貴族御用達の風合いである。

 その車の中で二人は向かい合って座っているのだが、どうにも会話は弾まず、途切れがちである。ルーサーはこの気まずい雰囲気を打開しようと話題を探すのだが、いかんせんこのような逢引きに疎いルーサーである。パーティでは難なくこなしていたのに、相手が変わるとこんなにも難しくなり得るのかと驚いた。

 

 だが、ルーサーが冷静を欠いている一方で、ブラウニーはいつもの様子であった。

 ブラウニーは相変わらずの微笑みで外を眺めていた。彼女にはそれだけで楽しいのだろう。往来をずっと眺めているだけでも満悦の様子だった。

 

「旦那様は、よく外に買い物に行かれるのですか?」

 

 ふとブラウニーが話題を振る。彼女は別に沈黙は苦ではない様子であったが、ルーサーにとっては渡りに船だ。

 

「いや。最近はてんで行ってない。だから楽しみさ。君と一緒だというのも大きいけどね」

 

 できるだけ物怖じせずに言う。この逢引きの直前に、ブラウニーと仲の良い使用人から、旦那様は奥手すぎる、もっと押さないとブラウニーが離れてしまうぞ、という忠告を受けての強気だった。大きなお世話であったが、その忠告はありがたく受け取ることにした。

 案の定、ブラウニーは顔を真っ赤にする。今彼女の顔に水をかければ湯気が上るに違いない。

 

「ご、ご冗談を」

「冗談なものか。……あの店に入ってみないかい? 女性に人気の店らしい」

 

 それは事前に使用人たちからお奨めの店を聞いた結果、満場一致で可決された店だった。なるほど、外見も洒落ていて良い。瀟洒な雰囲気を発するその店は、たしかに素敵な店であった。

 

「い、いえ……私には似合いませんよ」

「謙遜することは無い。さあ、入ってみよう」

 

 手綱を握る使用人に合図を送り、馬車を止めさせる。既に路面の脇には何台かの先客がいた。たしかに人気の店らしい。

 ルーサーは先んじて馬車から降りる。彼女が降りようとすると、その手を取ってエスコートした。ここでも俯きがちだったが、それが恥ずかしさからなのか、それとも足元に注意を払っていたのかは判別つかなかった。

 

 ブラウニーの手を引いて入店する。しばらく一緒に商品を眺めていて、ルーサーは気付いたことがあった。

 なるほど、女性に人気という店は、総じて男性には居心地の悪い雰囲気を放つようだ。実際には男性も多くいるのだが、こういう場に慣れないルーサーは落ち着かない。珍しいコルセットなども置いてあるようだが、なんとなくそれをまじまじと見るのははばかれる。結果として視線が宙を浮き、より一層に場から浮くのであった。

 

 しかしそれも、次第に順応して堂々とした振る舞いを思い出してからは、なるほど貴族らしいものだった。常にブラウニーの腕を組んで、堂々たる様であった。ブラウニーもルーサーと同じく最初は浮いていたのだが、エスコートに慣れたらしく、途中からはさながら貴婦人のような雰囲気であった。

 ――その服装を除いて、だが。およそ街娘とも言い難く、あまりにも簡素なそれは田舎娘と言うのが相応しいようにも思えた。しかしルーサーの放つ高貴さがそれをフォローしているおかげで、なんとか貴婦人の様相を呈するのであった。

 

 二人とも慣れてからは、ショッピングに興じる余裕もできた。まず帽子から始まり、次に宝石、靴、手袋などと見て回った。しかしこれといってブラウニーは物欲を示さないのだった。

 しかしただ一つだけ、興味を惹かれたらしい品があった。それは意趣を凝らしたドレスのように仰々しくはなく、かといって野暮ったいものでもない。気の利いたデザインに上質な生地、身軽な印象をもたせるそのドレスは、貴族のパーティには似つかわしくないだろうが、間違いなく品格を漂わせるものであった。

 

 そもそも着たきり雀のブラウニーに服を与えるのが今回の目的である。このドレスは普段着としては、おそらくブラウニーは好まないだろうが――貴族の娘ならばこれよりも遥かに豪奢なものを普段から着ているのだが――余所行きの服としては十二分に素敵なものだ。

 またしても遠慮するブラウニーに半ば強引にそのドレスを買い与えた。その服に着替えて帰ってはどうかという店員の申し出を受けて、ドレス姿の状態で店を後にするのだった。

 

 結論として、いたく気に入ってくれたようである。馬車に乗り込んでからというもの、頻りに服に目線を落とし、感嘆の声を漏らしている。

 

「よく似合っているよ」

 

 世辞ではなく、本心からの言葉だった。清楚な雰囲気を纏うブラウニーに、飾り過ぎないドレスはよく似合っていた。服に合わせて購入した靴も、一層ブラウニーの魅力を引き立てる。

 馬車は帰路についていた。もう空は朱に染まっている。

 服を買った後は、いろいろ見て回った。が、ブラウニーは本当に服だけで満足だったらしく、それ以降はひやかしだけであった。

 

 ルーサーは決心した。前々から考えていたことではあったが、今一度決心した。それは、今こそ行動に移そうという決心である。

 狭い馬車の中ではある。やや苦労しながらブラウニーの足元に膝を付き、頭を垂れる。

 

「……え?」

 

 戸惑うブラウニーはやや素っ頓狂な声を上げるが、ルーサーはそれを無視して、懐中からあるものを取り出す。黒い箱である。手のひら大で、頂点がやや丸くなっている箱。

 ルーサーは恭しくその箱を空け、中身を見せる。

 ――指輪であった。それもイミテーションの安物ではない。永遠の愛にふさわしい、不変の輝きを放つダイヤの指輪。指輪の彫金も、ダイヤのカットも、指輪本体も、すべて彼女の為に作らせたものだ。絢爛なようでありながら、決して下品ではない。どこまでも清楚な輝きと気品をもつ指輪は、まさに彼女のためのものなのだ。

 

「……ルーサー・キャベルは、貴方に婚約を申し込みます。僕と結婚してください。」

 

 それは、かねてからの想い。今までずっと、伝えようとして伝えられなかった想い。この指輪も、もう随分前に作らせたのだ。ずっと、渡すことができなかった指輪。

 その指輪を、ブラウニーは受け取るでもなく、拒否するでもなく、箱ごと彼の手を握った。

 ルーサーは顔を上げる。ブラウニーは、泣いていた。だがその顔は微笑のままである。うれし涙、であって欲しかった。

 

「……ありがとうございます。私も貴方を愛しています」

 

 ルーサーは破顔する。しかし、次の彼女の言葉には戸惑うのだった。

 

「……だからこそ、お受けできません。私はずっと貴方を騙しています」

「名前のことなら、気にしなくとも良い!偽名だというのは知っている。それでも尚私はあなたが愛おしい!」

「……それもあります。しかし、それだけではないのです。私は穢れているのです。」

「……どういうことだ?」

 

 彼女は語り始める。今まで誰にも言わなかった過去。言えなかった過去を。

 偽名を使い始めたのは、そもそも以前の名前が重い枷であったからだ。彼女の家はもともと貴族であった。しかし、どうも多額の借金をこしらえたらしい。らしい、というのは彼女がまだ幼く、事情をよく理解していなかったそうだ。

 

 彼女には兄弟が多くいたそうだが、その殆どが口減らしの為に嫁がされるか、家を追われた。彼女は年齢のせいもあり嫁ぐわけにもいかず、家を追われたのだった。

 無論、生活のためには働くしかない。しかし、以前の名前を口にすると、皆雇うのを嫌がる。貴族に働かせているなんて知れれば、どんな藪蛇が出てくるか知れたものではない。当然の対応だといえよう。そこで、彼女はブラウニーと名乗ったのだ。家業を手伝う妖精の名前。彼女にはそれが相応しいと思えたのだ。

 

 次は年齢が足枷であった。どこの誰かも知れない小娘を雇ったところで、労働力に期待できない。しかも世間知らず。なかなか雇ってもらえなかった。

 ようやく雇ってもらえたのが、キャンベル家であった。使用人として雇ってもらえたのだが、自身も不思議だった。そもそも駄目もとで面接を受けたのに、本当に受かってしまうとは。しかも貴族の使用人といえば、誰かの紹介状なしには雇ってもらうのは困難だ。ただただ、不思議であったが、雇って頂いて不思議がるのもおかしい話だ。とりあえずその疑問は思考の隅に捨て置いてのだが、疑問はすぐに氷解した。

 

 ルーサーの父は、とんでもない人だった。年端もいかぬ少女を、自分の夜伽のために雇ったのだ。その虐待は、毎夜に及んだという。

 

「……」

 

 ルーサーは声がでなかった。いや、どう返答したらいいのか分からない。

 ただ彼の心を埋め尽くすのは、怒りである。父親に対しての憤怒。ただルーサーにとって不幸なのは、その対象が行方知れずで、もはや彼にとって死んだのも同然であることだ。

 

「……ごめんなさい」

 

 怒りの顔が自身に向けられたと思ったのだろう。縮こまって言う。

 

「君に対して怒っているのではない。……くそったれの親父に対してだ」

「……しかし、分かって頂けたでしょう? 私は貴方の寵愛を受けるには相応しくありません。」

「何を言っている!」

 

 つい語気が荒くなってしまった。ブラウニーは目を硬く閉じ、さらに縮こまる。すまない、と軽く謝り、自らの気を落ち着かせる。

 

「それでも、僕は君を愛している。……親父は確かに赦せないが、それは君の罪ではない」

「しかし、それでも私は……」

「よし。ではこうしよう。家業手伝いの精、ブラウニーの妖精の話を知っているかい?」

「はい? ……い、いえ。名前程度で、詳しくは存じませんが」

 

 突然始まった、およそ脈絡のない話に虚を突かれる。だが、その真剣な面持ちは、ただ御伽噺を語りたいわけではない、と語っている。

 

「何故ブラウニーの妖精は家事を手伝うのか。それは、彼らは服を持っていないからだそうだ。

 彼らはいつも茶色の薄汚れたボロを身に纏い、家人が就寝した頃合に家事を手伝う。彼らはどうも恥ずかしがりやなんだそうだ。そして、その手伝いの成果として服を欲している。だから服をあげれば、それはお役目御免ということで、彼らは自由の身になる。」

「はあ…そういうお話だったのですね」

「そして、僕は今日ブラウニーに服を与えた」

 

 彼女が着ている服を指差す。確かにそれは今日、彼女にルーサーが買い与えたものだ。

 

「家事手伝いは晴れて御免。これからは、本当の君の人生を歩む。……過去のことは、忘れても良いんじゃないかい?僕は君の人生を一緒に生きたい」

「……忘れても、良いのでしょうか。私は私の望むように生きても?」

「良いに決まっている。誰も君のことを縛りなどしていない。今まではただ、周囲に翻弄されていただけだ。君の人生は君だけのものだ。」

 

 長い沈黙。

 

「……はい。私は、私の人生を歩みたいと思います。……しかし、少し時間をください。まだ気持ちの整理がつきません」

「わかった。いくらでも待とう。この指輪は君に預ける。これを身に付けるか、僕に返すか、よく考えて欲しい」

「ありがとうございます。……あの、もしこの指輪を身に付ける決心がついたら、私の本当の名前を教えます。……その名前で、私を呼んでくれますか?」

「もちろんだ。君はもう、ブラウニーではない」

 

 再び長い沈黙。しかし、先ほどと異なるのは、それは思案の静寂ではなく、愛し合う二人が気持ちを交わすための静寂。

 どちらからということもなく、二人の顔は距離を縮め、口付けを交わした。

 暁に落ちた空は、どこまでも優しい。ただ、静かに二人を祝福していた。

 

 

 屋敷についたのは、もう日が落ちてからだった。そこまで遅い時間という訳ではないが、少々夕食の時間には遅れてしまった。

 屋敷の門前で二人は馬車より降りた。馬と車は裏から入り、馬は厩舎に繋がれる。

 

「旦那様! お帰りになられましたか!」

 

 門を開けると、すぐさま使用人のリリーが迎える。だが、その必死の形相は出迎えのそれとは程遠く、一種の錯乱とも見て取れる。

 

「どうした? 何かあったのか?」

 

 ルーサーは怪訝な面持ちを作る。しかしその剣呑な雰囲気から、ただ事ではないということだけは理解できる。

 だから多少のことは覚悟できた。しかし、次に続いた言葉は、鈍器で頭を殴られたような衝撃を覚えるのだった。

 

「旦那様の劇場が、焼け落ちました! あと、その犯人として、……旦那様の御父様が、捕まりました!」

 

 ルーサーの心臓は、明らかに異常な速度で脈打つ。早すぎる血流のせいで、眼前は白く染まり、異常に発汗し、足元がおぼつかなくなり、その場に座り込むのだった。

 

 ◆◇◆◇◆

 

 夜の帳が降りた頃合に、その男は闊歩を始めた。宿泊している宿は、貴族御用達とまではいかないものの、それなりに良い宿だ。決してその男のような浮浪者が泊まれる宿ではない。しかし不相応な暮らしをできるのも、かつての家から貴金属の類や、高価な絵画を売り払い、名前を利用して大きな金を借りたからだ。

 残された者のことなど最初から意中には無く、ただ遊び暮らすことしか頭に無い。

 

 それは男の意識が阿片によって毒されているからというのもあるだろう。もともと恬淡とは程遠い人物ではあるが、阿片窟に入り浸るようになってからは、それに拍車がかかるのだった。

 今宵も、つい先ほどまで阿片をしこたま吸引したため、男の意識は混濁の極みにある。およそ論理的な思考や倫理観など持ち合わせようもなかった。

 

 以前は、年端もいかぬ少女を雇い、その少女に相手をさせていたため、彼の性癖も表にはあまり表に出なかった。しかし彼が野に放たれた今、彼のそれは歯止めがきかないのだった。

 男は劇場まで足を運ぶ。別に演劇が見たいわけでもなく、目当てはそこに群がる娼婦だ。劇場は貴族や富裕の者が集まる。それを目当てに娼婦も集まるのだ。

 

 男はある一人の娼婦に声をかけた。金貨3枚でどうか。と、卑しい笑みを浮かべながら問いかける。金貨3枚もだせば、相手は喜んで快諾するのだが、今回は少々違った。

 女はすでに予約済みであった。それも、名家の主が囲っている娼婦である。女は、金貨3枚よりも高い値段で買われているため、男を断った。そうでなくとも、どこか焦点の合わないこの男は、警戒心の強い人間なら忌避するだろう。

 

 男は、わけの分からない暴言をひとしきり吐いた後、その女を刺した。懐中に忍ばせていたナイフを握り、立ち去ろうとした娼婦の背中を刺した。

 すぐその異常に気付いた周囲は、阿鼻叫喚の有様だった。蜘蛛の子を散らすように男から逃げ惑う。しかし、不幸だったのは、彼がすでに阿片に毒され、感情の起伏が異常だったことだ。

 一度怒り狂ってしまえば、もはや理性の針は振り切れ、歯止めがきかない。こうなると、もはや世界の全てが自分の敵のように思え、暴走する。

 

 その矛先は、目の前の劇場だった。この劇場があるから、俺を不快にさせる女がここに寄るのだと男は思った。もはや論理に欠く思考だが、彼にとっては正義の行いであった。

 だれかが落としたのだろうランタンを拾い、火を放つ。秋の枯れた落葉に炎は食指を伸ばし、その魔性の触手はあっという間に豪奢な建築物に絡みつく。

 すぐに男は憲兵に取り押さえられたが、劇場は無残にも火の手で包まれるのだった。

 

 ◆◇◆◇◆

 

 ルーサーはことの顛末を聞き、自身の父の天性の愚かさに愕然とする。

 何ということだ。どこまで僕を苦しめる! どこまで貴様は愚かなのだ!

 ルーサーは心中で呪詛を唱えるが、事態が好転するはずもなかった。まず、焼け落ちた劇場を再建しなければならない。不幸中の幸いというべきか、人的な被害は皆無だ。新たに作り直せば事足りる。

 

 ―――その費用があれば、だが。

 

 無論、パトロンの存在がある。彼の援助に頼るというのが一番の手ではある。だが、ルーサーには一種の予感があった。いや、予感というより、先の展開を予測できるというのが正しいのだろう。

 コンコンとノックの音が響く。入室を促した後に入ってきたのは、ブラウニーであった。

 

「だ、旦那様、……パーソン様が来訪なさったのですが……」

 

 複雑な顔を浮かべ、恐る恐る来訪者の存在を告げる。日の沈んだ後の来訪など、普通は失礼にあたる。つまり礼節を重んじる事態ではない、ということだ。

 

「……通しなさい」

 

 今から起こるであろう、さらなる深刻な事態を考えると、偏頭痛と胃痛で苛まれるのだった。

 

 ルーサーとパーソンは、書斎に二人きりになり、会合を始めた。長きに亘るかと思われたが、思いのほか早くに終わりを迎えた。ルーサーにとっては苦難の夜の始まりにすぎないのだが、それでも会合そのものは日付を跨がずに終わった。

 

 案の定、パーソンはパトロンを降りた。それもそうだろう。殺人者の息子が経営する劇場のパトロンなど、いたずらに体面を汚すだけだ。

 さらにいえば、パーソン氏が預かってきた言付けも絶望的だ。

 

 ――キャンベル家における爵位と領地の剥奪。

 

 これはもはや止めの一撃に他ならない。ルーサーの劇場は、一応は滞りなく運営できたものの、それは操業がうまくいっているときの話であり、一度転倒すれば復帰は困難なのだ。

 パトロンという存在があればそこからの復帰は容易なのだが、それが無い今、劇場の再建は望むべくもない。それでも貴族という肩書きを利用すれば、さらなる借金で持ちこたえることも出来るかも知れないが、それももはや叶わない。

 

 つまり、残ったのは借金のみ、という惨状なのだ。彼には他に何も残っていない。地位も、権力も、後援者すらも残されていないのだ。

 そもそもの借金の出所も父親、さらなる破滅の原因も父親。父の存在が彼から全てを奪い取った。愛する人の純潔すらも。

 ルーサーは心底憎悪した。もし眼前に父がいたならば、間違いなくくびり殺していただろう。だが今や父は檻の中。この国で最も惨めで、最も安全な場所に逃げ込んでしまったのだ。

 

 報復の機会すらも奪われた。この事実がルーサーをさらに消沈させる。憎悪しながらも、肩を落とすしかない矛盾は、ただただルーサーを苛む。

 ルーサーにできることといえば、ただ何処とも知れぬ自室の空間を呆然と眺めることだけだった。

 

「……旦那様」

 

 いつの間にかブラウニーが傍らで、所在なさげに佇んでいた。どう声をかけたら良いのか分からない。その心情は痛々しいほどに伝わる。それを斟酌してか、ルーサーはポツリと語りだす。

 

「……この屋敷は引き払わないといけないな」

 

 そう。もはやこの屋敷には居られないのだ。別段、住処として使う分には問題はないのだが、この屋敷はとにかく費用がかさむ。この巨大な屋敷は複数人での管理を前提として作られている。一人やそこらでは住むには巨大に過ぎるのだ。

 だとしたら、この屋敷は売り払うのが良い。その金で新たな寝床を探し、余った金で新たに事業を興すこともできる。いくらかは借金の返済にあてることもできるだろう。これらの理由から、この屋敷を手放すのが最善なのだ。

 しかし、ルーサーにとっては紛れも無い実家である。それを引き渡すのは、断腸の思いであるが、背に腹は変えられないのだ。これ以外に活路はない。

 

「……そうですね」

 

 ブラウニーもその結論に至っていたのだろう。異を唱えることもなく同意する。

 

「使用人の皆には申し訳ないが、暇を出さなければいけないな。キャンベルの名前が再就職の足枷にならなければ良いのだが……紹介状は書かないほうが良いだろうな。君はこれからどうする?」

「……旦那様のお側に居られるのであれば、そうしたいです。とりあえずは使用人として。……妻となる決心は未だつきません。もう少し答えを保留させてくださいますか?」

「もちろん構わないとも。……僕も君と共に居たかった。君からそう言ってくれて嬉しいよ。それに僕はスープの作り方すら知らないからね。君が居ないと餓死してしまうよ。」

 

 あまりにも重くなってしまった空気を少しだけ和らげようと、肩を竦めて冗談めかす。はたしてそれは効果があったのか、ブラウニーは少しだけ表情を柔らかくするのだった。

 

「明日はきっと大忙しです。今夜はお休みになったほうが良いですよ」

「ああ、そうするよ。ありがとう」

 

 忠言と、喜んで傅き人となるという言葉の両方に対して礼を言う。その意は伝わったのか、恭しく礼をし、ルーサーの私室より退出するのだった。

 

 ブラウニーの部屋は、使用人が寝泊りする為の離れの、とりわけ奥まった角部屋だ。本来なら二人で使用するはずの部屋なのだが、使用人の減少によって今は個室となっている。

 普通の乙女なら、そこに自分を飾るための諸々があって然るべきなのだが、あいにくとブラウニーの部屋にはそのようなものは無い。香水やアクセサリの類はもちろん一切ない。しかし花瓶の中身の花は唯一乙女らしいといえる。花瓶の水を変えるのは日々の日課となっている。そのおかげか瑞々しい花弁を誇らしげに咲かせていた。その花弁の芳香と鮮やかさだけがこの部屋を彩り、小さなランプの穏やかな光が、部屋を優しく照らすのだった。

 

 ブラウニーは今、小さなクローゼットに例のドレスを丁寧に収納したところだった。深い溜息を吐きながらランプの炎を弱める。明日からのことを思うと、眠っても疲れが取れるかどうか怪しいものだ。

 採光窓から見える星は、今日は何故か弱々しく感じる。彼女は板張りの床に跪き、手を組んで祈りを捧げる。

 

 ――どうか、私の愛する人に祝福を。彼の前途に光あれ。彼から災いを退け給え。

 

 随分長い時間、目を閉じて祈りの言葉を囁く。別段彼女は敬虔な信者ではない。神は居るとは思うが、手を合わせて祈ることなどない。だが、もしも祈ることで彼が救済されるのであれば。その一念で祈りを捧げる。

 夜はさらに深まり、草木すらも眠りについてもなお、彼女の部屋は光が灯ったままであった。

 

 ◆◇◆◇◆

 

 屋敷に加えて、劇場も人手に渡った。すでにルーサーには経営不能である。人手に渡らせることで役者の食い扶持が確保できるならば、と良い条件を提示してくれた貴族に売り渡した。

 一方でルーサーの食い扶持は安定しない。今の寝床は、かつての屋敷とは似ても似つかない荒屋である。床はそこかしこが腐っていて、うっかりしていると踏み抜いてしまう。隙間風も無視できない。

 しかし彼は満足していた。そこに彼女が居たから。

 

「ルーサーさん。起きてください」

 

 窓と壁の隙間から朝日が漏れる。けたたましい鶏の鳴き声が、日の出を必要以上に伝える。それも、ここでの一年間での生活で慣れてしまった。

 

「……あぁ、おはよう。もう朝か……」

 

 彼はやつれていた。頬はこけ、血色も決して良くはない。できるだけ高い賃金で雇ってくれる職場を探し、今は過酷な肉体労働に甘んじている。それでも、借金の返済には至らない。日々の食い扶持で精一杯だ。

 

 屋敷と劇場を売り払ったものの、結局借金の返済に充てられたのは僅かだ。借金の額はだいぶ減り、利息もそこまで重くはないのだが、今のルーサーにはその利息を返すだけで身を粉にしなければいけないのだ。結局、借金の額は貴族並みのものから平民並みの、つまるところ相応な額になっただけなのだ。

 

 疲れの抜けきらない体に鞭を打ち、ベッドから起き上がる。危険な仕事なのだろう。体のいたるところに生傷と痣がある。傷ついていく彼を見ると、ブラウニーの心もまた痛むのだった。

 

「……朝食の用意ができていますよ」

 

 野菜の切れ端を使ったスープと僅かなパン。10月もそろそろ中旬になろうかという肌寒い朝には有難い献立だ。以前ならばそもそも寒さに悩まされることすら無かったのだが、それは既に過去の話だ。

 顔を洗い、彼は腰掛けて朝食を取る。パンを千切るその指も、以前と比べれば太く、節が目立つようになり、まるで老木のようだ。以前の彼を知っているならば、彼のことを幽霊と評するだろう。それほどの変わりようだった。

 程なく朝食を取り終わり、ルーサーは手早く身支度を整える。

 

「じゃあ行ってくるよ……今日も遅いと思うから、先に寝といてくれ」

「はい。待っていますね。いってらっしゃい」

 

 もう主従の関係ではない。ルーサーはもう敬語でなくとも良いと言ったのだが、彼女は頑として譲らない。だが、あまり畏まった風ではないのは、彼女なりの最大限の譲歩だった。

 彼女は彼の背中を見送る。その背中は、いつしか力を失ったように思える。服こそあのときと同じものを着ているが、それは単に別の服が無いだけだ。その薄汚れた背中からは、疲れきった空気を放つばかりだ。

 

「……」

 

 彼女にはその背中を見送るのが何よりも辛い。彼を愛しているが故に、彼のどうしようもない境遇を思わざるを得ない。彼は、何も悪くは無いのだ。涜神の輩でもない。法に背いた咎人でもない。それは彼の父を指すが、決して彼ではない。ただ、巡り合わせが悪かった、としか言いようも無い。

 だからこそ、彼女は神に憤るのだ。何故彼を救済しないのか、と。何故祈りを聞き遂げないのか、と。何故あの寒い冬を再び彼の前に訪れさせようとするのか、と。

 

 しかしそれでも、祈りは欠かさない。ここで祈りを辞めれば、今までの努力も水泡に帰すような気がする。だから彼女は、神に怒りながらも、懸命に希うのだった。

 そして手を合わせて跪いたときに、ふと脳裏をよぎるものがあった。目線はゆっくりとキャビネットを捉える。

 キャビネットの中に、ひときわ丁重に保管されている物がある。それは、かつての日に彼が彼女に贈った指輪だ。

 ――ああ、よかった。ちゃんとあった。

 ビロードの生地の中で鎮座するそれは、かつてと同じ輝きを放っていた。その指輪だけが、かつての輝きをまだ湛えていた。そして、あのドレスもまだ持っている。あの指輪とドレスだけは、決して売り払うことなどできない。ただ、あの服も長い間着ることもなく、痛みは隠せないでいる。

 

 ――まだ、返事をしていなかった。

 

 彼女はまだ、かつての返事をしていなかった。忙殺されてしまった、というのは体裁だけの言い訳にすぎない。彼女は決して忘れてはいなかった。そして、その答えも決まっている。いや、最初から決まっていたのかも知れない。ただ、その場での恥ずかしさから回答を先送りにし、結果として彼を苛んでいるのかも知れない。

 ならば、得た回答を伝えれば良いのではないかとも思うのだが、そうはいかないのだ。彼がこの答えを受け取れば、彼は自分という重荷を背負い込むことになる。

 それは、彼女を養わねばならないという重責。今でもそれは変わらないのだが、彼にはまだ選択肢がある。彼女を見捨てて一人で生活すれば、きっと多少なりとも楽にはなる。その選択肢の存在は、彼の精神的な支えでもあるのだ。まだ自分は逃げ出せる、という余地。それを奪うというのは、逃走の自由すらも奪うこととなる。

 

 ――だからきっと、もっと早くにこうするべきだったのだろう。

 そうだ。これより他に道は無かったのだ。

 彼はきっと、選択の余地があるからといって姿を眩ましたりなどはしないだろう。だから、こうするより他に彼の救済はないのだろう。

 多分、神は最初から道を示していたのだろう。自分がそれに気付かなかっただけだ。彼も言っていたではないか、神は自らを助けるものを助ける、と。

 

 ブラウニーの決心は、かくして固まった。それは、自らを犠牲に、彼を助けるということ。かつて彼の父から受けた辱めをもう一度受け、彼を助けるということ。

 もと貴族の娼婦となれば、おそらく物好きな好事家が高く買い取ってくれるだろう。かつて彼の父がそうだったように。金の代わりに借金の肩代わりをしてもらえば良いだけだ。それで、彼は救われる。

 そして、彼女は少ない私物をまとめ、荷造りを始めた。

 彼は悲しむだろうか。――きっと悲しむだろう。

 だが――彼を救うならば、これしかないのだろう。

 

 ◆◇◆◇◆

 

「――?」

 

 思ったより早くに帰宅できた。坑道での仕事は危険だが、給料は悪くはない。何より特別な技術を持っていない自分でも務まる。今日は雲行きが怪しいということで、帰宅するようにお達しが出た。雨で地盤が緩んで、生き埋めにならないとも限らないからだ。幸い今の就職先は労働者を丁寧に扱ってくれる。

 だから久しぶりにブラウニーとゆっくり過ごそうと思っていたのだが、どうも家は消灯されているようだ。ガタがきている鎧窓を閉めても、隙間から灯りは漏れる。しかし今日はそれが無かった。

 もう寝てしまったのだろうか。それとも何か買い忘れでもあって、慌てて買いに行ったのだろうか。

 

 空はもう曇天。いつもなら暁が空に燃える時間帯であるのに、今日は濁った沼のような灰色を湛えるだけだ。風がこの荒屋をガタガタと揺らす。嵐でも来るかも知れない。

 鍵は――よかった。閉まっている。少なくとも誘拐の類ではなさそうだ。

 懐中から鍵を取り出し、捻る。ぎい、と立てつけの悪い扉が開く。

 

「ブラウニー? 帰ったよ。居るのかい?」

 

 返事はない。手探りでランプを探し、やや苦労しながら火を灯す。

 やはり姿は見えなかった。が、代わりに他のものを見つける。

 

 ―――契約書だった。

 テーブルの上に無造作に置かれたそれは、ことの顛末を簡潔に語っていて――読み進めていくうちに、指先が震えた。

 ブラウニーが、自分の借金の為に、自分を売った。

 がつん、と。後頭部を金槌で殴られたような気がした。比喩でも何でもなく、本当にそんな気がした。

 いつの間にか、空からは天の涙が降り注いでいる。風はますます強まり、まるでルーサーを外出させまいとしているようだ。

 

「――――っ!」

 

 しかしそんなことは一切眼中になく、彼は荒れ狂う空の下を、一心不乱に駆け出すのだった。

 

 ◆◇◆◇◆

 

 もうどれほどの時間を駆け抜けたのか分からない。日付を跨いでしまったのは間違いない。

だが、それが限界だった。今彼は体力を限界まで消費し、路地裏で昏倒している。結局、彼女を見つけ出すことも叶わずに。風雨に身を曝し、そしてそれは容赦なく彼の体温を奪い、そのまま息絶えるしかない。だが、彼女の祈りは効果覿面だったのか否か、彼は助かってしまった。

 

 目が覚めたときに見たのは見慣れた天井だった。体の節々が軋みをあげ、体を起こそうとすると全身から鈍痛を感じる。それでも苦労しながら半身を起こす。何やら、鼻腔をくすぐる匂いがするが、もしかしたら幻覚かな、と思った。

 

「――やっと起きたのかい? あんた野垂れ死ぬところだったよ。」

 

 鈍い痛みに耐えながら、ゆっくりと首を声のほうに向ける。声の主は近所の小母さんだった。確か小麦粉を売っていると言っていた気がする。ブラウニーと仲が良いらしい。いや、仲が良かった、というべきなのかも知れないが。よく御裾分けをいただく、とブラウニーは言っていた。

 

「ブラウニーちゃんね、泣いていたよ」

「……どこに行ったか知っていますか?」

「いや、知らんね。全くこの甲斐性なしめ。あんな良い子を泣かすなんて、一体どういう了見だい」

「……」

「ふん。本当なら張り手の一発でもお見舞いしてやるところだけど、まぁ勘弁してやるよ。ブラウニーちゃんから、あんたの事情は聞いているしからね。同情はするよ。ブラウニーちゃんを泣かしたのだから、許しはしないけどね」

 

 随分な言われようだが、それも当然だろう。この恰幅のいい小母さんが言うように、自分はとてつもない甲斐性なしだ。

 そう、自分がもっとしっかりしていれば、彼女が居なくなることは無かった。自分は最大限の努力をしたかも知れないが、足りなかったのだ。どれだけ罵られようと、甘んじて受けなければいけない。

 

「ブラウニー…」

 

 結局、彼女の本当の名を聞くことはできなかった。求婚の返事もしてもらっていない。本当は迷惑だったのだろうか。自分と一緒に住むのも、同情からだったのだろうか。あの口付けも、偽りだったのだろうか。

 それに結局、自分は何も成せていない。借金の返済はおろか、たった一人の女の子を守ることすらできなかった。それどころか、守られてしまった。

 

「はあ。ウジウジしやがって。……とりあえずコレ食べな。不本意だけど、アンタの世話を任されているんだ、アタシは。アンタ自分じゃ何も作れないそうだからね。メシの世話くらいはしてやるよ」

「はあ……ありがとうございます」

 

 さっきの香りは幻覚ではなかったらしい。小母さんはパンとスープを持ってきてくれた。窓の外を見ると、既に日は昇りきっている。

 

「で、これを預かっているのだけど……指輪の箱。アンタに渡せって言っていたよ」

 

 ルーサーは小母さんから箱を受け取る。その中身には、指輪は無かった。代わりに、指輪が埋まっている筈の台座に、紙切れが一つ。

 慎重な手つきで、二つ折りになった紙を広げる。その中身には

 

 

―――セシリア・マクダニエル――

 

 

ただそれだけ。あまりにも短い言葉だったが、彼にとっては多くを物語る一言だった。

 

“もしこの指輪を身に付ける決心がついたら……私の本当の名前を教えます。……その名前で、私を呼んでくれますか?”

 

「……なんだい、これ?」

 

 小母さんが横から紙を覗き込む。だが、堪えようもない涙のせいで、答えることは出来なかった。。

 小母さんはいきなり泣き出したことに仰天したようだが、それ以上は何も言わなかった。ルーサーは彼女の気遣いに感謝しつつ、涙が枯れるまで咽び泣く。いつまでも、セシリアの名を呼びながら、嗚咽を漏らすのだった。

 

 

 

 

 どれほどの時間を涙に費やしたのか、本人には分からなかった。しかし辟易したこの小母さんの顔を見れば、かなりの時間泣いていたらしい。

 小母さんは待ちくたびれた、という風な仕草をする。

 

「で? 今後はどうするつもりだい?」

「……彼女を探そうと思います」

「どうやって?」

「……分かりません。しかし、僕にできる手段は全てとり、命を投げ打ってでも探します」

「……ふーん。」

 

 賛同するでもなく、窘めるでもなく、ただ気のない返事を返す。

 

「多分できます。……とりあえず、爵位を取り戻すところから始めなければなりません」

「……アンタ、元貴族だったのかい! いやぁ、ブラウニーちゃんもえらい所で働いていたものだ」

「それから、以前よりも権力を得なければ。政に深く関われる程度の権力は必要です」

「……本気かい? そこまでしなくちゃいけないのかい?」

「本気で草の根を分けて探すつもりなら、まだ足りないくらいです。……国外に行っていなければ良いのですが。」

「……なんでそこまで。」

「彼女の過去は決して幸あるものではありませんでした。だからこそ、僕は彼女を見つけ出し、彼女を幸せにしたい。

 ――僕は、彼女の夫ですから。」

 

 この小母さんとて、二人が婚姻していないことぐらいは知っている。だが、先ほどの指輪の箱におそらくそういうメッセージがあったのだろうことは、察するに難しいものではなかった。

 落ち始めた夕日を背後に侍らす男の目は、その夕日に負けず、焔が宿っていた。

 

 ◆◇◆◇◆

 

 歴史書を紐解けば、彼の生涯はこのように記される。

 

 ――ルーサー・キャンベルは貴族の名門の嫡子として生を受け、その後家督を継ぐ。その類稀なる献身の働きで、キャンベル家の家督をさらに確固たるべきものにする。

 また一説によるとキャンベル家は一度爵位を失ったとされるが、定かではない。これは彼が生前殆ど自らを記さなかったことと、公文書の一部が小火によって消失しているためである。

 旧体制の革新、奴隷制の撤廃、人身売買の廃絶、社会保障の充実、そして国民の所在を行政が把握できる住民基本台帳制度の基盤となるものを確立。世界に肩を並べる情報国家、ソルシエル連邦の礎となるものを作り出した。

 これらは数少ない手記に、わずかに出てくる女性の為に行ったとされる。だが、女性の存在そのものが定かではないため、信憑性には若干欠ける。

 享年七二歳。この時代にあってはかなりの長寿であった。――

 

 歴史に記せば、実に簡潔なものだ。もし彼をよく知るものが現代に生きているならば、異を唱えるに違いない。彼の人生はもっと怒涛のものであったと。彼が骨身を削ってまで政に執着したのは、偏に愛するものの為であったと。

 

 本当は国民の安寧など微塵も興味はなく、彼女を探すためだけに王室に深く介入したのだ。公私混同と職権乱用も甚だしい話だが、それが後世で糾弾されないのは、行った政治が結果として正しかったからだろう。国民の為の為政という蓑に隠していたのは、彼女を見つけだすという目的のみ。例えそれが叶わなくても、酷い暮らしを強いることの無いように。ただこれだけである。

 

 もしかすると為政者は、すべからく斯くの如しなのかも知れないが、少なくとも彼は本当の為政者ではなかっただろう。私利私欲に走っていたに過ぎないのだから。

 だが、きっとその想いは本物だったのだろう。偽らざるものだったのだろう。

 彼は、死去の寸前まで、彼女を想い続けていたのだから。

 

 ◆◇◆◇◆

 

 ルーサーの元からセシリアが離れて数十年後。

 病室の前には、およそ病院には相応しくない、屈強な男が居た。この病室の主の為の護衛である。今は二人の男がその任に就いていた。病室の中には、臥せる老人と、老人に繋がれた機器を忙しなく見守る幾人かの医師。そして、今まさに息を引き取ろうとする老人を送るために集まった人がいる。

 だが、だれも彼の手を取ろうとはしない。老人とは縁があるが、それを率先してするほど深い縁者かと言われれば、そうではない。ただ、この偉大な人の最後は見届けなければならないと、彼の後継者や、かつての同僚が集まったにすぎないのだ。

 

「……彼女を探さねば。マクダニエルの姓をもつものを調べなさい」

 

 うわ言のようにそれを呟く。それがうわ言であると嘲笑されないのは、これは彼が意気軒昂であるころから言い続けていることだからだ。彼を知るものなら、その妄執に辟易しないものは居ない。そういう意味なら、気は確かだと言えるのかも知れない。

 老人はもう長くはない。彼に繋がれた計器が、それを教えてくれる。殆どの者は正確にそれを読み取れはしないが、機器が指す数値が異常であることは見て取れる。乱高下を繰り返すあらゆる数値は、彼の体の異常を如実に物語っている。

 

 老人の髪は全て白く染まり、皮と骨しかないかのような痩躯だ。すっかり衰弱したその体を鑑みれば、むしろここまで臨終を先送りにしてきたことが奇跡に等しい。

 死神がまさに鎌を振り下ろさんとしているような病室に、ノックが響く。入室を促され入ってきたのは、護衛の片割れであった。

 

「……老婆が一人尋ねてきたのですが、如何致しましょう?」

「追い返しなさい。この場はキャンベル様の側近しか許されていない」

「それが……マクダニエルを名乗っていますが……」

 

 男たちの目が驚愕に見開かれる。護衛の男もこの老人の妄執は熟知している。そのマクダニエルを名乗る女性が現れたとあっては、無下に扱うことなどどうして出来ようか。

 進み出たのは、その集まりの中で最も年下の男であった。彼も若くはないが、まだまだ健康な顔色であった。

 

「……私が先ず会います。どこからか聞きつけたのか知らんが、どうせ死肉に群がろうとする女狐に決まっている」

 

 無下にできよう筈もないが、かといって信用できるわけがない。実際に会って、丁重にお帰り願うのが良いだろう。

 やや大股の歩みで、床を打ち鳴らすかのように退出する。この場におよそ相応しくない振る舞いだが、それを言うなら女のほうだ。彼を諌めるものはいない。

 男たちは再び老人に目を向ける。この人は偉大だ。あまり自分の生涯を語ることは無かったが、凄まじい生涯であったことは理解できる。他の為政者につきものの、不倫や愛人などの関係が囁かれることもなく、そればかりか家族すら持たなかった。一体、何が彼をそうさせたのだろうか。

 がらり、と扉が開かれる。先ほどの男が戻ってきた。しかし、他の者達が眉を顰めたのは、件の老婆と思しき人物を伴っていることだ。

 

「……おそらく、キャンベル様の言うマクダニエル様です」

 

 男は未だ腑に落ちない様子だった。ますます周囲は困惑し、胡乱な表情を作る。

 

「これが、彼から頂いた指輪です」

「……失礼。拝見させていただきます」

 

 今度は一際老いた男が歩み出る。彼の身辺の世話を長年に渡り行った執事だ。不謹慎だが、次に亡くなるとしたら彼だろう。

 

 どうぞ、と差し出す。男は指輪を検め、その指輪が老人から聞いたものと相違ないか調べる。その宝石のカットの特徴や、台座、指輪裏に刻まれた文字。それら全てが、この女性は老人が捜し求めていた人だと物語っている。

 

「……お久しぶりですね、ルーサー様」

 

 目を閉じていた老人が、ゆっくりとその目を開ける。

 

「……人生の全てを費やして、ようやく会えた。セシリア、君も随分老いたようだが、やはり美しい。ああ、見紛うものか。」

「……ごめんなさい。国外まで行ってしまうことになりました。だけど、貴方が私のためにやってくれていた事は、こちらにも聞こえていましたよ。道行く人はみな、ソルシエルは良い国だと言う程です」

「ああ、ありがとう。君に会えてよかった」

「はい、私も。こんなに老いてしまうまで待たせてしまいました。……伴侶失格ですね」

「何を言うか。私はこんなにも満たされている。……ああ、今日は死ぬにはいい日だ」

 

 老人の目がゆっくりと閉じられる。婦人が手を握り締める。その手の力も徐々に消え、彼は眠るように息絶えた。

 笑顔を湛え、幸せに満ちた顔で。

 窓から差し込む月光は、彼を祝福していたのだろうか。

 そうであるなら、彼の迎えは死神ではなく、天使のラッパであったに違いない。

 

 

 

 

 

 彼の墓は今や大分風化しているが、その威光は些かも衰えてはいない。当人の意思で、集団墓地の中に埋葬されたものの、その瀟洒さは他の比ではない。

 誰もその意味を知らないが、その墓に寄り添うように建てられた墓がある。その石碑にはこう刻まれている。

 

――家業手伝いの妖精はここに眠る。もう二度と二人は引き裂かれることはない――

 




 この作品は、およそ2年ほど前に書いたものです。ちょうど執筆活動を開始して間もない頃の作品なので、拙い部分も多々あると思います。

 それでも最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございました。

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