Fate/sn×銀英伝クロスを考えてみた (白詰草)
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プロローグ
0:召喚前夜


 まもなく二月を迎える夕べ。遠坂 凛がそれに気付いたのは、後見人兼兄弟子からの嫌味たっぷりの電話を叩き切った時だった。電話の相手は言峰 綺礼という男で、神父という聖職者である。だが、その根性と口のねじくれていることときたら、金属たわしの繊維のごとくであった。彼との会話は、それで神経を逆撫でされるようなものである。

 

 容姿端麗、文武両道、品行方正、挙措優雅。穂群原高校での遠坂 凛を飾る四字熟語だ。ほっそりと華奢で、身長のわりに顔は小さく、手足は長く、白い肌を豊かに波打つ黒髪が飾っている。翡翠の瞳が気位の高い猫を思わせる顔は、彼女に1/4流れている西欧の血を感じさせた。その全校生徒憧れの美少女が、彼らが見たら目を疑うような勢いで受話器を叩きつけると肩で息を吐く。勢いで首筋にまつわる長い黒髪を払う。

 

 その時だった。首にかかっていたわずかな重量がふと消失し、ついで体温であたためられた硬質な感触が胸の谷間を滑り落ちる。

 

「やだ……。チェーンが切れちゃったの!? もう、こんな時なのに!」

 

 慌てて赤いハイネックのセーターの襟元を引っ張り、手を突っ込もうとしたが不必要だった。そのまま、豪奢なペルシャ絨毯にセーターの裾からこぼれ落ちたからだ。凛の顔が微妙に引きつった。華奢な体型とは表裏一体、身体の特定部位のボリュームがやや不足しているのは本人にとっては悩みの種だった……。

 

「まったく、幸先が悪いったらないわね……。

 それにしても綺礼のヤツ本当に嫌味ったらしいんだから!」

 

 とりあえず、後見人への八つ当たりをつぶやきながら床に落ちた遠坂家の家宝を拾い上げる。それは真紅のルビーと白金の鎖のペンダントであった。鳩の血色の宝石は、凛の親指と人差し指で作った輪ほどもある大粒のトリリアントカット。石を留める枠や鎖、留め金にいたるまでふんだんに白金(プラチナ)を使った重厚なデザインである。女性のアクセサリーというよりも、ヨーロッパの王侯貴族が身につけた財宝といったほうがふさわしい。

 

 実際、このペンダントは遠坂家の初代が入手し、六代目である凛が引き継いだ由緒あるものだ。遠坂家は、この冬木市有数の代々続く資産家であった。しかし、それは一面の顔に過ぎない。月の裏側のように世間から隠されたもう一つの姿。根源「」に至る聖杯を育む冬木市を管理する魔術師。それこそが遠坂家の真実であり、このペンダントにも同様のことが言えた。宝石やアクセサリーとしての価値よりも、代々の当主が営々と込め続けた魔力こそ、この家宝の真実なのである。

 

 遠坂の魔術特性は流動と変換。魔力を込める触媒として、宝石との親和性が特に優れていた。魔術の触媒としては、上質で、由緒があり、かつ大粒な宝石ほど価値は高い。必然的に遠坂家の魔術は金を食う。資産家でなければそもそも魔術を継承できないのだ。

 

「あれ、チェーンは切れてないみたいね。どうして落ちちゃったのかしら」

 

 半ばほっとしつつ今度は留め金を触る。そして、より事態が深刻なことに気付いた。留め金の爪を引くと、まったく手ごたえがなく動いた。これでは鎖が留め金から抜けてしまう。

 

「ちょっと……冗談じゃないわよ」

 

 先ほどの電話を思い出す。本来約60年周期で行われる、根源に至るための儀式、聖杯戦争。七人の魔術師によって行われるのは、精霊にまで昇華し、世界の外の「座」にいる英霊のコピーの召喚である。もともと冬木市には良質な霊脈があった。しかし、単純にそれを集積しても根源に至るほどの力にはなりえない。世界を正常に保とうとする力が、守護するものこそが根源なのだから。

 

 根源にはこの世界のすべての情報が集うとされ、言わば神の座とも言ってよい。そこに触れることが叶えば、世界を改変する力『魔法』に至ることさえ叶うだろう。魔術は他の方法によっても代替可能なものだが、魔法は魔法でしか成立しえない現象だ。魔術師はそれを目指して血脈を繋ぐ。しかし、人類の歴史上『魔法使い』はわずかに五人。しかも現存する魔法はそのうち二つという有様なのだから、いかに至難の道であることか。

 

 それを打破するために編み出されたのが、冬木の聖杯戦争だった。

 

『足りないのなら他から持ってくればいい』

 

 これは魔術師の考え方の根幹である。冬木の霊脈を流れる魔力を集約したところで、根源まで至るには足りない。しかし、それを可能とする力を集める呼び水にするのは可能だ。英霊の能力を七つの鋳型に押し込めて、生前の人格を再現したうえで召喚する。いわば英霊の劣化コピーである彼らは、主人の使い魔として互いに闘争し、最終的な勝者が膨大な魔力を湛えた聖杯を手にするのだった。

 

 しかし、なんのイレギュラーなのか、始まりの御三家の一人、遠坂 凛の右腕に突然その兆しが現れた。能力を限定されているとはいえ、サーヴァントは英霊の分身である。ただの人間の魔術師風情に、到底制御できるものではない。……本来であるならば。

 

 御三家のひとつ、マキリが開発したのが、マスターにサーヴァントへの絶対命令権を与える『令呪』であった。サーヴァントに、魔力で叶う範囲のことを強制できる三回かぎりの枷。それは時にスパートをかけさせる拍車になり、絞首刑の首縄ともなる。

 

 この令呪は、マスターの候補者の魔術師の身体に、まず兆しとして浮かび上がる。もともと聖杯戦争の開発者である御三家――遠坂、マキリ、そしてアインツベルン――には確定参加権がある。しかし、聖杯戦争が開始してから二百年、その四回目はほんの十年前に行われた。通常なら次はこの五十年後、少壮期を迎えた凛の子供が参加するはずだった。

 

 凛の父時臣は、前回の聖杯戦争で戦死したという。母の葵もその後ほどなくして亡くなった。父の前当主である祖父は凛が生まれる以前に、祖母は時臣が少年期に死去している。魔術とは秘匿し、独占するもの。基本的には一子相伝だ。たとえ複数の子どもが生まれても、資質の高い後継者を選んだら、そうでない方は魔術とは関わりのない一生を送るか、他家に養子に出される。

 

 そして、配偶者といえども魔術についてはほとんど知らされずに終わる。もっとも、葵は時臣の死後に精神を病んでいた。何かを知っていたとしても、当時小学校低学年だった凛に、それを伝えられたとは限らない。

 

 ここに独占することの弊害、記憶や記録の伝承の途絶が起こっていた。普通の家庭なら、直系親族が亡くなっても、父母や祖父母の兄弟姉妹からなんらかの話が伝わってくるものだ。

 

 後少し、せめて五年後ならば、凛だって準備のしようもあった。先日来から英霊を召喚するための触媒を探すべく、家捜しを敢行した。だが出てくるのは、埃と解読不能な古文書、件のペンダント。そして魔術礼装の杖。

 

 最後のアレは、凛の魂の尊厳に、深刻な危機を覚えさせるシロモノであった。首に刃を突きつけられたならいざ知らず、現状において触媒に使用したいとは絶対に思わない。まかり間違って、アレを携えた英霊が出てきたらどうすればいいのだ。しかもそれが自分の先祖だったりしたら。

 

 だが、首に刃とまではいかなくても、扉の向こうまで火が迫ってきている状況ではあった。既に数日前から、新都を中心に事件が発生している。犯人はサーヴァントと見て間違いない。遠坂は確定参加者として狙われる立場であり、冬木の管理者としては凶行を野放しにすることはできない。

 

 だから、ペンダントという虎の子の魔力のストック源に、不具合が生じるのは死活問題だった。ここぞというときにうっかりして失敗するのが、遠坂家遺伝の宿業なのだ。落としたのが自宅の居間なのは、せめてもの救いとしか言いようがない。

 

 凛は、発生する修理代を思って溜息を吐いた。先ほど叩きつけた受話器を持ち上げると、今度は出入りの宝石商に電話をした。すでに閉店時間後であったが、遠坂家は代々の上得意である。また、老店主は、時臣の遺産相続の際に宝石の目録作成を依頼されて、遠坂の家宝を鑑定している。いかに高価なものかを熟知している彼は、明日の学校帰りに店に寄るという凛を断固として遮り、今から伺いますと宣言した。

そして、半時間後には、秘書兼助手の姪と一緒に、工具一式を持参して遠坂家の呼び鈴を鳴らしていたのである。

 

「本当にこれは逸品ですなあ……」

 

 右目にルーペを装着し、感嘆まじりに彼はペンダントを点検した。

 

「あの、近いうちにこれを使いたいんです。今直せませんか?」

 

「残念ながら、それは無理です、遠坂のお嬢様」

 

 老店主は、これが本当の逸品だからと改めて前置きして説明した。曰く、留め金の細工も非常に凝ったもので、既製品と交換するのはあまりにも惜しい。また、アンティークであるため、損傷した部品は地金から削り出しして作らなければならないだろう。それに宝石の枠も少し緩んでいるため、この機会に調整した方がいいでしょう、と。

 

「じゃあ、チェーン自体を交換すればどうかしら?」

 

「今、うちの店にはこの宝石に見合う商品がございませんよ。

 入荷するのと修理するのでは、かかる日数がさほど変わりませんし、

 正直学生さんにはお勧めできかねる金額になりますな。

 これと同等のものですと百万円前後になってしまいます」

 

 これには凛も内心で怯んだ。

 

「この際はシルバーでも構いませんけれど」

 

「宝石の質に負けますし、枠と鎖で色が違うのはちょっとねえ……。

 それにね、この、枠についている鎖を通す輪があるでしょう?

 ここも白金でして、これは銀より硬いですからな。

 この輪に通る太さの銀鎖だと強度に不安があります。

 当店としてもこんなに格の高いものを修理するのは、大変勉強になります。

 修理代の方も勉強させていただきますので、十日、いや一週間いただけませんか?」

 

 ここに、同行してきた姪も同調した。

 

「あの、遠坂様。私は、細工職人として勉強中なんです。

 私も店長にできるかぎり協力します。

 少しでも早くお届けにあがりますから、修理させてください。

 だって、こんなに豪華なペンダント、もう作れる富豪なんていませんし、

 見たり触れたりすることもないんです。お願いしますっ!」

 

 応接ソファから彼女は立ちあがると、深々と45度のお辞儀をした。若いが自分より年長の女性にここまでされるとさすがに凛も断れない。

 

「え、ええ、分かりました。あの、頭を上げてください。

 それでもできるだけ早くお願いしますね」

 

「はい!」

 

 彼女は、にこにこと笑いながら、手早く預かり証を書き始めた。店主の方はルーペを外し、ペンダントをケースに収めて立ち上がる。

 

「それでは遅くに失礼いたしましたな。……おや?」

 

 遠坂家の客間も、旧家にふさわしく贅を尽くしたものだ。煉瓦造りの洋館によく似合うマホガニーの柱時計が特に目を惹く。彼らの店は、宝石と共に時計も扱っていて、これまた垂涎の品であった。だが、時計技師としても老練な彼には、はっきりと異常が見て取れた。

 

「ちょっと失礼、その時計を拝見させていただきましょう。

 振り子の揺れ方がおかしいようだ」

 

 時計の前に屈み込むと、振り子のケースの蓋をあけて、中をのぞくと姪に手を差し出す。

 

「ああ、振り子のネジがだいぶ緩んでますな。おい、ちょっとペンチを貸してくれ」

 

「はいはい、どうぞ。凄いわ、本物の柱時計ですね。あの暖炉も凄く素敵……。

 あ、あの飾り壺、ひょっとしたら万暦赤絵じゃありませんか!」

 

「こら、うるさいぞ。静かにせんか。……すみませんな、遠坂のお嬢様。

 コレは跡取り見習いなんですがどうも落ち着きがなくて。

 ふむ、これでよし。ついでにゼンマイの調整もしましょう。

 ああ、こちらはサービスですよ」

 

「ありがとうございます」

 

 凛はにっこりと微笑んだ。ペンダント修理の代金とかかる日数は痛いが、時計が狂う前に無料で直してもらえたのなら、まあよしとすべきだろう。時計を修理するとなると、別途料金が発生するのだから。

 

「あの、ひとつ教えてください」

 

 美少女の微笑みに、宝石店主とその助手は大いに癒された。職業柄、彼らは美しいものが大好きだったのだ。

 

「万暦赤絵ってなんでしょう?」

 

「あのマントルピースの上の壺のことです。

 明の万暦年間……日本で言うなら、安土桃山の終わりから、

 江戸幕府の二代将軍ぐらいのまでの時代のものですね」

 

 はきはきと答えたのは意外にも女性の方だった。

 

「凄いわ、お詳しいんですね」

 

「私、アンティークのアクセサリーや陶磁器が好きで、

 この道に進んだようなものですから。

 万暦赤絵は特に日本での人気が高い骨董なんですよ。

 最近は国際的な評価も上がってきましたけどね。

 サザビーズとかのオークションだとそれこそ何百万、何千万のものも出ています」

 

 凛は日頃の掃除の仕方を思って、冷や汗が出てきた。

 

「ふむ、ケースをお作りになった方がいいでしょうなあ」

 

「でも店長、あの壺の入るケースだと、

 マントルピースの上から奥行きがはみ出しますよ。

 逆に不安定になっちゃうと思いますけど」

 

「それもそうか。むしろ台座を据え付けた方が……、

 いや、あの赤大理石を傷つけるのももったいない話だな。

 ああ、すみません、長々と余計なことを申しました。

 そろそろお暇させていただきます。

 修理ができましたらお届けしますから」

 

 若き上得意の笑顔が硬化してきたのを見て、老人は話を打ち切ることにした。姪を促し、遠坂家を辞去する。それでも夜分に駆けつけて来てくれた相手に、凛は礼儀を尽くすことにした。もう一度、笑顔とともに一礼して告げる。

 

「いえ、とても参考になりました。

 とりあえず、あの壺は金庫かどこかにしまっておくようにします」

 

 

 

「今日は厄日なのかしら……。ほ、ん、と、う、に、あの腐れ神父のせいね」

 

 宝石商らを見送ってから、後見人にふたたび八つ当たりする凛だった。今まで意識もしなかった物に、とんでもない価値があることを知るのは、プレッシャーのかかるものである。ここぞという時に失敗をしでかす自覚があるだけに、目につくところから速やかに撤去したい。

 

「でもこれ、金庫には入らないわよね。地下室に置くしかないのかしら。

 中国の壺じゃあ、触媒にならないものね」

 

――聖杯戦争に召喚される英霊は、聖杯の概念を持つ者である。従って西洋や中近東の英霊に限られ、東洋や新大陸はその対象にはならない。……ただし過去の英雄において、だったが。



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1章 Magus meets Magician
1:召喚


 結局、ペンダントの修理は召喚には間に合わなかった。修理に出した時点では、単独の連続犯と思われたサーヴァントの凶行が、続く数日で複数による連続犯と化したからだ。

 

 一番早く発生していたのは、連続集団昏倒事件だった。連日もしくは一日おきのペースで、隣接した数世帯で気分が悪くなったり失神する人が続出した。複数の人が悪臭を訴えていたため、世間はガス管の損傷による中毒事件と思っているが、これは人間の精気を搾取する仕業に違いない。しかし悪臭という小道具を使い、症状は重くても一両日で退院できる程度に止まっている。一応『魔術は秘匿する』という原則を守り、後遺症もない洗練されたやり口ではある。このあたりで治まっているなら、まだ目こぼしのしようもあったのだが。

 

 次に発生したのが、若い男女が意識不明で発見される傷害事件。いずれも首筋に咬み傷があり、『新都の吸血鬼事件』という通称の下、様々な憶測が流れている。こちらは前者に比べると、人数は少ないが症状がより深刻だった。いくら冬でも温暖な地とはいえ、一月下旬の夜間に、失血のうえ朝まで放置されればただでは済まない。死者はまだ出ていないが、それも時間の問題だった。特に冷え込んだ夜に襲われた青年は、凍死寸前で発見され、意識が戻っていないと聞いた。

 

 さらに、四人家族のうち三人が刀や槍と思われる凶器で惨殺されていた。学習塾から帰ってきた女子中学生は、変わり果てた両親と弟の姿に直面することになった。ただならぬ絶叫に隣人が駆けつけてみると、正視できない惨状が広がっていた。少女はショック状態で、事情聴取も不可能だという噂だ。

 

 とある正義の味方志望者が抱いていたのと、比べものにならない焦燥感が凛を苛んでいた。もはや、管理者として手をこまねいてはいられない。このままだと、最悪十年前の災害の再現である。サーヴァントにはサーヴァントでしか対抗できない。サーヴァントの七つの枠――剣士(セイバー)槍兵(ランサー)弓兵(アーチャー)騎乗兵(ライダー)魔術師(キャスター)狂戦士(バーサーカー)暗殺者(アサシン)――のうち、残されたのは『剣士』と『弓兵』のみ。サーヴァントの中でも前の三者は耐魔力を備え、特に『三騎士』と呼ばれている。中でもパラメーターが平均して高く、そのバランスのよさから『最優』と呼ばれるセイバー。遠距離攻撃を得意とし、多くが強力な宝具を所持するアーチャー。どちらも今までの聖杯戦争で高い戦果を上げている。その優秀なサーヴァントが残っているのは幸運だった。

 

 懸念されるのは触媒がないこと。その場合、マスターに似たサーヴァントが召喚されるという。これはかなりの賭けであったが、五つの魔術属性を備えた自分にもそれなりの自負はある。それに、今まで溜めてきた魔力の籠った宝石の半分をつぎ込み、最大限の努力を払って準備をした。慎重に召喚の魔法陣を描き、時の訪れるのを待つ。柱時計が柔らかい音を2回鳴らすのに合わせて、魔術刻印と魔術回路を駆動させる。

 

 そして、凛は高らかに呪を紡いだ。魔法陣が発光する。次いで、サーヴァントを構成するエーテルが集い、銀河のごとく緩やかに渦を巻き、輝き始める。

 

「――告げる。

 汝の身は我が下に、わが命運は汝の剣に。

 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 

 魔力を肉体が駆ける苦痛と、魔力を容赦なく奪われていく脱力感が襲う。

 

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者」

 

 しかし、これほどの高揚感があったろうか。本来の周期なら五十年後。その時凛は67歳。おそらく参加者とはなりえなかった大儀式である。

 

「我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」

 

 たとえ、若すぎるとしても。これが父の死による運命の悪戯だとしても。

 

「我に従え!ならばこの命運、汝が剣に預けよう!」

 

 ――遠坂凛は、魔術師の恍惚をこの時確かに感じていたのだ。

 

 刹那。膨大な白光が音もなく発生し、途轍もない圧力が凛を貫いた。余りの眩しさに目を瞑っても、はっきり分かる。召喚されたものとの間に、魔力のラインが形成され、現世に繋ぎ止めていく。エーテルが巻き起こす風が、凛の黒髪を浚って吹き抜けた。

 

「この手ごたえ! 釣り竿で鯨を釣ったようなものだわ。

 間違いなく最高のカードを手に入れた!」

 

 確信した。魔法陣の上、収斂する光は人の形を取り始める。この強烈な魔力は、千人の魔術師を集めても及ぶところではない。人の身でありながら、偉業によって英雄となり、精霊にまで昇華した存在。それが今ここに顕現する。光と風が治まり、凛は目を開けた。もの柔らかな声が語りかける。

 

「ええと……。君が私のマスターなのかな?」

 

 そこに立っていたのは、鍛え抜かれた体格の武人ではなかった。むしろ、武器を手にした姿など想像もつかない存在だった。黒髪黒目。身長はそれなりにあったが、まあ普通の範囲内。中肉というにはやや肉付きは薄く、全体に線の細さを感じさせる。服装は黒いベレーとジャンパーと靴。スラックスはアイボリーで、首元に同色のスカーフを巻いている。

 

「で……アンタ、何!?」

 

 思わず凛がこう言ってしまっても、誰が彼女を責められようか。鎧に身を包んだ西洋の騎士どころか、服装はどう見ても現代人。しかも、顔立ちはどちらかというと東洋系である。まあまあ整っていてハンサムの部類には入るものの、いかにもおとなしそうで文系の青年というのが一番ぴったりくる。一瞬『キャスター』なのかとも考えたが、すでに召喚されている。クラスの重複は発生しないのだ。

 

「ああ、……私はアーチャー? みたいだね」

 

「なんてこと……財産半分つぎ込んだのに! セイバーじゃないなんて目も当てられない」

 

「まあ、その……悪かったねえ」

 

 アーチャーはベレーを脱ぐと、申し訳なさそうにおさまりの悪い黒髪をかきまわした。

 

「人類の歴史上でも数少ない、豊かで平和な時代を見て、

 伝説の英雄に会えるなんてちょっと面白そうだなと思って……。

 気がついたらここだったんだ。

 それが我々の殺し合いで、こんな年端もいかない子が参加者だとは。

 せっかくの平和な時代なのに、なんて世知辛い話なんだ」

 

「ちょっと待ちなさいよ。年端もいかないってどういうこと?」

 

 凛はきりきりと柳眉を吊りあげて、なんとも頼りないサーヴァントを詰問した。

 

「だって、君は15、6歳くらいだろう? 立派に子供じゃないか」

 

「明後日には17歳になります! それにね、あんたには言われたくないわよ!

 あんただって私とそんなに変わらないじゃないの!」

 

「は?」

 

 アーチャーは何を言われたかわからないという顔をした。

 

「……来なさい」

 

 眼前の美少女が、据わり切った目で迫る。

 

「ええ?」

 

「いいから来なさい!」

 

 凛は、魔法陣の上のアーチャーの手首をつかむと、地下室の片隅に置いてある姿見のまえまで引きずるように向かった。

 

「ええと、これは質問なんだけど」

 

「何よ」

 

「サーヴァントは言わば実体化した幽霊なんだろう?」

 

「英霊っていいなさいよ!」

 

「果たして鏡に映るのかな?」

 

 もはや無言で、凛は鏡の前にアーチャーを突き飛ばしてやった。アーチャーの素朴な疑問はたちまち解消された。結果は『映る』。己が姿を見たアーチャーはあんぐりと口を開き、次いで傍らのマスターに向き直った。

 

「これは一体、どういうことなんだ!」

 

「私が知りたいわよ! サーヴァントは、全盛期の肉体で召喚されるって聞いてたのに」

 

「全盛期ってそんな……。

 まあ、たしかに実技なら一番ましな時代かもしれないけど……。参ったなあ」

 

 鏡の中に立っていたのは、どんなに高く見積もっても二十歳(はたち)まえ。現代日本においては、高校生か童顔の大学生にしか見えない青年の姿であった。

 

「で、あんたの真名は」

 

 もはや凛の口調からは、英霊に対する畏敬の念など欠片も伺えなかった。いずこかの英雄豪傑でもなく、現代人らしき青年が召喚されるなど、なんの間違いなのか。服装は軍服にも見えるが、左上腕部のエンブレムに記された国や地名など聞いたこともない。

 

「……そうだね、自己紹介はしようか。私はヤン・ウェンリー」

 

「ヤンっていうと、中国人なの?」

 

「多分、人種的なルーツはそうだと思う」

 

 また微妙な回答に、凛の眉間に皺が加算された。

 

「じゃあ、ヨーロッパとのハーフ?」

 

「まあ、そういうことになるんだろうね。母の旧姓はルクレールといったから。

 この時代ならフランス系になるのかな」

 

「いつの時代の英雄なのよ」

 

 ヤンと名乗ったサーヴァントは、また髪をかきまわした。

 

「英雄なんてそんなものではないよ。でも……私は今から約1600年後の人間だ」

 

「せん、ろっぴゃくねんご!?」

 

「そう」

 

 ふと、彼は凛の背後に目を向け、微苦笑を漏らした。

 

「万暦赤絵か。あれは親父の遺品で唯一の本物だったんだ。

 まあ、この時代になかったら私にまで伝わらないものな。ところで、君の名前は?」

 

「……遠坂凛よ」

 

「いい名前だね。まあ、とりあえずよろしく」

 

「終わったわ……」

 

 思わず床にへたり込んでしまう凛だった。未来からの英雄。ゆえに知名度補正はゼロ。先ほど掴んだ腕の細さから、相当にいやな予感はしていた。この線の細い文系青年を改めてマスターとして検分すると、筋力、敏捷、耐久いずれも最低ランクである。魔力こそ優秀だったが、保有スキルなど直接戦闘に向いているものは一切ない。

 

「私が伝説の武人と直接戦闘しても、瞬殺されるのが関の山だけどね。

 前提条件にもよるけど、やりようがないわけでもないさ。

 要は最後の瞬間に、君が生き残っていればいいんだから」

 

 そう言うと、凛の前の床に胡坐をかいて座り込む。

 

「なに言ってるのよ、管理者として参加するからには勝つ、当たり前でしょう!」

 

「まあ、最初から負けるつもりで戦争する人間はそんなにいないからなあ」

 

 あっさりと言い放つアーチャー。優しげな容姿で口調は温和だが、意外にも毒舌家のようだ。

 

「君は聖杯とやらに何を望むんだい?」

 

「遠坂の後継者として勝利は望むけどね。聖杯に願う望みはないわ。

 目標はあるけどそれは自分の手で叶えないと意味がないし。

 でも、いつか使いたくなる時がくるかもしれないじゃない。

 貰っておいても損はないでしょう」

 

「世界をわが手に、なんていうんじゃなくて安心したよ」

 

「そんなの望まないわよ、馬鹿馬鹿しい。世界なんて自分をとりまく環境じゃない。

 私はすでにその主人なんだから」

 

 アーチャーはちょっと目を開くと小さく拍手した。

 

「うん、同感だ。人は自分以外の主人になるべきじゃないしね。

 ……幽霊(サーヴァント)主人(マスター)になっていいものかは疑問の余地があるけど」

 

「そういうあんたはどうなのよ。聖杯になにを望むの?」

 

 アーチャーの顔に、なんとも言えない表情が浮かんだ。懐かしさとほろ苦さの入り混じったものだった。

 

「私は歴史を学びたかったけど、学費がなくて断念した。

 仕方なく、無料で歴史を勉強するために士官学校に入った。

 四年生の卒業試験の実技ほど頑張ったことはなかったなあ。

 ……ああ、だからこの姿だったのか。

 結局そのまま軍人になって、隣国と150年も続いている戦争に参加した。

 私の世界で、長期間の平和を知る人間はいない」

 

 凛は絶句した。150年も戦争が続く世界など想像もできない。

 

「そして色々あって、まあ結局私は死んだ。

 私の生きている間に、長期的な平和はついに訪れなかった。

 それを見ることができるというだけで、願いの半分は叶ったようなものさ」

 

 このヤンという名のサーヴァントは、外見よりもずっと年長なのだと思わざるを得なかった。穏やかで抑制の効いた口調も、凛に対する態度も、同年代というより父親のそれである。

 

「本当はあなたいくつなの?」

 

「この姿の年齢は20歳前後だね。死んだ時は33歳だった。

 ああ、せめてそっちで召喚されたらよかったのに」

 

 それもまた衝撃だった。つまり彼は、この姿の13年後には亡くなっているということだ。

 

「どうしてなのか聞いてもいいかしら?」

 

「君の態度からして、この姿だと私は成人には見えないんだろう?」

 

「別に気にする必要はないでしょう」

 

「いや、他のマスターやサーヴァントと交渉する際に不利だよ。

 やっぱり青二才の言うことを信じてもらうのは難しい。

 ましてや私は頼もしい外見の持ち主じゃないし」

 

 彼は肩を竦めた。

 

「でも私も君に聞きたい。まだ十代の君がどうしてこんな危険なことに参加するんだ?」

 

「……父が十年前に亡くなったからよ。

 遠坂はこの儀式を組んだ三家のうちのひとつだから、参加権も優先されているの」

 

 凛の言葉に、アーチャーは気まずそうに頭を下げる。

 

「ごめん、悪いことを聞いたね。とりあえず、これ以上の話は後にしよう。

 もう休んだ方がいいよ」

 

 サーヴァントの召喚には、大量の魔力を必要とする。飛び抜けた資質と魔力量を持つ凛だが、実は疲労の極にあった。

 

「……そうする。アーチャーはどうするの?」

 

「今の状況を知りたいな。新聞と法律関係の本があるなら読ませてほしい」

 

「新聞は居間にあるわ。法律の本は……あるならお父様の書斎よ。でも十年は前のだけど」

 

「別に大丈夫だよ。憲法や民法はそうは変わるものじゃないからね。

 そうだ、筆記用具も貸してもらいたいな」

 

 ――かくて、いずこかの並行世界と異なる英霊が召喚された。時計の狂いがなく、あるべき触媒がなく、異なる触媒が存在したゆえに。屋根を突き破ることもなく、令呪を使用することもなく。蝶の羽ばたきが、大海の彼方でどのような風を起こすのか……。



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2:最弱のサーヴァント

 漆黒の闇に色とりどりの宝石が散らばる。それは地上の大気を通さないため、瞬かない星々の群れ。現代の人間が、見ることのない宇宙空間の光景だ。『彼』は声もなくそれを凝視していた。

 

 鷹揚で磊落な大きな体をした父。男性ばかりで、荒っぽくガサツだったが、彼に優しかった乗組員(クルー)たち。旧式で武骨な星間宇宙船。そこはまぎれもなく彼の家と家族だった。父との目線の高さの差が当初の1/3になった頃に、『彼』は父に大学受験を切り出した。歴史を学びたいという息子に、『歴史で金儲けした奴がいないわけじゃない』と、父親は素直でない了解を寄こした。そして、彼が大学受験のために下船した直後のことだった。核融合炉の事故で、船と家族を失ったのは――

 

 

「う……最悪」

 

 凛が目を覚ました時、時計は八時を回っていた。とにかくだるい。サーヴァント召喚の高揚感が睡眠を取ったことで薄れて、疲労を増幅させてしまったようだ。あと15分で学校の予鈴が鳴る。実際に体調不良なのだから、息せき切って遅刻するより、いっそ休みの連絡を入れてしまおう。

 

 髪を乱し、幽鬼のような足取りで、電話のある居間へと向かう。そこに惨状が待っていた。テーブルにはチラシの裏に新聞の切り抜きが貼られ、疑問符混じりの殴り書きが添えられたものが山積していた。切り抜かれた新聞の残りは、テーブルの下やらソファの周りに散乱している。

 

 その生産者は、六法全書を枕に、黒ベレーをアイマスクにして、ソファの上で熟睡していた。たしか、サーヴァントは睡眠も食事も不要だと聞いていたのだったが……。

 

「ちょっとアーチャー! なに寝てるのよ、起きなさい!」

 

「……うーん、フレデリカ。あと5分、いや4分30秒、4分15秒でいいから……」

 

 フレデリカって誰よ!? 内心で激しく突っ込む凛だった。そしてやたらに具体的な寝言、実は起きているだろうと。とりあえず、肩を掴んで揺さぶり、また耳元で叫ぶ。

 

「アーチャー!!」

 

「う、ううん、いいじゃないか。聖杯戦争は夜にやるんだろうに」

 

 なに、そのいらない知識。国や時代を超えて召喚されるサーヴァントに、聖杯戦争や現代の知識、言語を付与するのも聖杯のバックアップなのだが、正直行き過ぎではないか。

 

「もう、せめてテーブルを片付けてちょうだい。これじゃ紅茶も飲めないでしょ」

 

「……はいはい。私にも一杯貰えるとうれしいなあ」

 

 黒い頭がむくりと動き、白兵戦や射撃とは縁のなさそうな手がベレーを握って伸びをした。そのままソファーから起きあがると、ようやく立ち上がっておざなりにチラシをまとめ始める。

 

「そう言えば今日はどうするんだい? 君は学生だよね」

 

「あー!!」

 

 アーチャーからの意外な指摘で、凛は当初の目的を思い出した。

 

「今日は体調不良で休むって連絡するわ。あなたとこの街の下見をしなくちゃ」

 

「それなんだけど、今まで知らなかった親戚が、急に訪ねて来るから、

 ということにしてくれないか」

 

「は?」

 

「そっちも後で説明するよ。学校が始まる前に先に連絡をしておいで」

 

 アーチャーに促されるままに学校に連絡し、ついでにケトルを火にかけ、湯が沸くのを待つ。その間にポットとカップ2つも温めておく。ちょっと奮発してお気に入りの茶葉をティースプーンに2杯半。

 

 沸騰の大きな泡が連続して立つようになったら、高い位置から円を描くように湯を注ぎ、素早くポットに蓋をして、砂時計をひっくり返す。そしてポットとカップを盆に載せて、居間へと向かう。

 

 とりあえず、アーチャーの片付けは、見られる程度に進んでいた。新聞はラックに戻り、チラシと六法全書はソファの反対の隅に積み重ねられている。

 

 凛は盆をテーブルに置くと、砂が落ち切るのを見計らい、2つのカップに均等に紅茶を注いだ。もちろん、最後の一滴(ゴールデンドロップ)まで落としきる。

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとう、久しぶりだ。……うん、君もなかなか上手だね。とてもおいしいよ」

 

「『君も』?」

 

「ああ、私には被保護者、ええと里子がいてね。本当によくできた子で、紅茶を淹れる名人だったよ」

 

「それじゃあ、フレデリカって誰なの?」

 

「私の妻だよ。……傷付くからそんなに驚かないでくれないか、マスター」

 

「そ、そうね、あなた実際は33歳なんだものね」

 

 改めて彼を見れば、左の薬指にプラチナの結婚指輪をはめている。そのあたりは遥か未来でも変わらないものらしい。

 

「なりたくてなったわけじゃないんだけどなあ」

 

 アーチャーは天井を仰いで嘆息した。

 

「まあ、私のことはさておいて、この戦争の基本方針をどうするか相談しよう」

 

「そうだ、宝具、あなた宝具は持ってないの?」

 

「まあ、宝具っていうか、使えそうな武器はこれぐらいだね」

 

 アーチャーがジャンパーのポケットから出したのは、一見拳銃に見えた。

 

「自由惑星同盟軍制式光線銃(ブラスター)

 一応、君の魔力の続く限り、エネルギー切れにならないみたいだ。

 有効射程距離は30メートル前後だね」

 

 取り出された未来の武器に、凛の愁眉もようやく開いた。なるほど、この武器なら引き金を引く以上の腕力は不要だ。そして光線銃というからには、その弾速はほぼ光速。アーチャー自身の敏捷もさほど問題ではなくなる。

 

「ただ問題は……」

 

「問題は?」

 

「わたしの射撃が下手くそだってことさ」

 

 今度は凛のこめかみに青筋が浮いた。

 

「……あなた、本当にそれでも軍人なの!?」

 

「うん、それはよくみんなに言われた。今にして思えばちょっと後悔しているよ。

 でも、『座』に固定された私は不変だからね。

 今さら練習しても上達しないから、現状を凌ぐのは難しい」

 

「じゃあ、どうするのよ……」

 

「聖杯からの知識によると、私たちを現世に留めおけるのは期間限定だそうだね。

 要はその間、生き残ればいいんじゃないかな。

 君は何が何でも聖杯が必要なわけでもないみたいだし、こんなことで死ぬのも馬鹿らしいだろう」

 

「あのね、召喚した時にも言ったと思うけど、

 遠坂の後継者として、参加するからには勝ちにいかないといけないのよ」

 

 そろそろ、こめかみと心の血管が切れそうになってきた凛である。対するアーチャーは、あくまで冷静だった。

 

「でも勝利を収めて自分は死ぬ、ということも有り得る。

 これは、私の国でも起こった例だよ。

 自分が負ける、死ぬと思って戦争をする人間は少ないけどね。

 でも、それこそが一番考えるべきことなんだ」

 

 漆黒の瞳は凛を見つめていたが、その対象はずっと彼方にあるものなのだろう。彼は、傍らの六法全書を手にとった。最初のほうの頁を開いて、凛の前に差し出す。

 

「どんなに平凡な人間だって、誰もその人の代わりにはなれない。敵を倒すということは、それが方向を変えるだけだということも。せっかく、君は素晴らしい憲法を持った国に生まれたのだから」

 

 軍人らしさのない指が示したのは前文と第九条。現在では右派左派の論争の的となっているのだが、150年間戦争が続く世界の人間の指摘は、あまりにも重たいものだった。……しかし。

 

「サーヴァントに日本の法律について言われるなんて……」

 

 魔術という、現代から過去に逆行する学問においては、最も相性の悪い分野であったろう。そもそも、魔術によって生じた現象に、どんな法律が適用できるというのか。召喚したサーヴァントの行為など、その最たるものである。

 

「だからね」

 

 アーチャーは傍らのチラシの束に手をやった。

 

「私に、こういったことを命じないで欲しい。令呪を使われる前に、座に帰らせてもらうよ」

 

 それらは、例の事件の記事が時系列順にスクラップされ、英語らしき書き込みがされていた。

 

「これ……、あなた一晩で調べたの?」

 

「そりゃ、私もこういう仕事で給料を貰っていたんだから。

 とりあえず、ここにあった新聞の中で、サーヴァントによると思われる事件を抜き出してみたよ。

 少なくとも三件、集団昏倒事件に、吸血鬼、一家三人の刀槍によるとみられる惨殺。

 今現界しているサーヴァントが、私を含めて六人。

 時系列的に私は除外できる。

 全て異なる犯人によるものなら、3/5が住民相手に残虐行為を働いていることになる」

 

 アーチャーの表情や口調は、柔らかで穏やかなものだったが、生半可な反論を許さぬ強さを秘めている。

 

「サーヴァント同士が争うなら、死人をもう一度殺すようなものだ。

 せいぜい他人に迷惑をかけないようにやればいい。

 何も知らない住民を巻き込むなんて、戦争とさえ言えない。単なる暴力だ」

 

 アーチャーの瞳が、凛の翡翠の瞳をひたと見つめる。今朝がたの夢でみた、星の海の闇そのままの色で。遠坂家の広い居間は、まだ十分に暖房が効いていないのに、凛は背筋に滲む汗を感じた。

 

「……返す言葉がないわね。

 一応聖杯戦争に監督役はいるけど、サーヴァントには対抗できないもの。

 結局、サーヴァントにはサーヴァント、ということになるわ。

 またはマスターの排除だけど」

 

「できれば人的被害を出したくないね。それが競争相手だとしても」

 

「でも、サーヴァントを倒すより、マスターを倒した方が楽なのよ」

 

「凛、凛、よく考えてごらん。

 一度、その手を血で汚したら、大海の水を以ってしても雪ぐことはできないんだよ」

 

 そう言うと、アーチャーは少し冷めた紅茶を飲み干した。

 

「もっとも、現段階では情報が少なすぎる。

 君以外のマスターやサーヴァントも分からないのに、闇雲に打って出るのは無謀だよ。

 だから、まずは情報収集をしないとね」

 

「でも、どうやって……」

 

「君の父上やご先祖様はなにか記録を残していないのかい?」

 

「正直にいうと、父の記録は所在が分からなかったわ。

 もっと古い物はあるにはあるけど、沢山あるし、何て書いてあるのか解読できなかったし」

 

「この聖杯戦争は、五回目だそうだね。では、四回目は何年前かな?」

 

「十年前。それで父が……」

 

「……そうか、すまない。じゃあその前はいつかな」

 

「第三回はその六十年前よ。聖杯戦争の開始は、だいたい二百年前ね」

 

「じゃあ、周期は通常六十年であっているのかい?」

 

「ええ、そのようね」

 

「う~ん、十年前……ね。

 できれば三次と四次を比較してみたいけれど、とりあえず前回の状況を調べないか?」

 

「だから、どうやって!?」

 

 また柳眉を釣りあげかけた凛に、アーチャーは穏やかに笑いかけた。

 

「個人的な記録が曖昧なら、公式や報道の記録を調べる。歴史学の基本さ。

 案内してもらえないかな?」

 

「どこへ?」

 

「市役所と図書館と教育委員会。この街にあるなら博物館も。でもその前に銀行だね」

 

 凛は、唖然としてアーチャーを見つめた。たしかに彼の世界は、現代社会と大枠で似ているようではあった。しかし、サーヴァントという幻想の存在に、こんなに現実的な場所を口にされるとは思わなかった。その凛に、アーチャーは苦笑をして肩を竦めた。

 

「人間の本質なんて、千六百年経っても変わらないのさ。

 戦争にお金がかかるってこともね」

 

 調べ物をするなら、実体化して同行しないと意味がないとのアーチャーの主張はもっともであった。幸い、彼の容姿は日本人と主張してもそうは問題ない。だが、問題は服装である。このちょっとぼうっとした、大人しそうな文系青年にはミリタリー系ファッションが全く似合わないのである。

 

 幸い、凛の父とアーチャーの体格は近かった。時臣が亡くなった頃の物は、さすがに彼には似合わない。しかし、資産家の着道楽らしく、学生時代にオーダーした衣服も残っていた。父のシャツにウールのパンツ、紺のコートに着替えたアーチャーは、見事に学生にしか見えなくなった。

 

 銀行に向かう途中、凛は彼に疑問をぶつけた。

 

「たしかに、あの三件の事件は私もサーヴァントの仕業だと思うわよ。

 でも、どうしてあなたはそう考えたの? 昨日、いえ今朝召喚されたばっかりで」

 

 凛の疑問に、アーチャーは黒髪をかき回した。

 

「じゃあ、まずは集団昏倒事件から話そうか。

 ガス中毒説があげられているが、一家四人のうち父親が入院、

 母と幼児は軽症というケースがあった。これはね、おかしいんだよ」

 

「どうしてよ」

 

「要するに毒物だ。体重の軽い方が重症化する。

 彼らが住んでいたのは2DKのアパートだったね。

 同じようなアパートの賃貸情報の広告があったが、

 ああいう間取りなら、一家そろって同じ部屋で寝るはずだ。

 母子が重症、父が軽症ならありうるが、逆はまずない。

 一方で、一家三人入院の例。これは子どもが高校生だ。

 被害者をえり好みしているし、えり好みのできる実力者だよ」

 

「えり好みってなにがよ」

 

「母親が倒れたら、小さな子の面倒を見る者がいなくなる。

 本質的には戦いに向いていない、むしろ優しい人物だと思うね。

 女性の可能性が高いな。本当のガスなら子どもから先に死ぬ」

 

 百五十年間戦争をやっている国の軍人の言葉には、容赦というものがなかった。言葉を失くす凛に、アーチャーは肩を竦めた。

 

「こんな言葉で君が蒼褪めるくらいだ。この国は本当に平和なんだね。

 だから、吸血鬼事件もこの国の人にはまずできない」

 

「あんまり聞きたくなくなってきたけど、一応聞くわ。どうしてよ」

 

「凛、君はずいぶん華奢だね。新聞や広告に載っていた人も全般的に細い。

 それでも犠牲者の成人男女なら、五十から七十キロ前後は体重があるだろう。

 その人間を昏倒させて、路地裏まで引っ張り、抱き起こして首に齧りつく。

 たしかに生前の私にもできたよ。軍人として訓練をしていたからね。

 とはいっても、同じぐらいの体格の相手までだが。

 だが、なんの素養もない、普通の人には不可能だよ。気絶した人間はとても重い。

 体格差でできるとしたら、身長は百八十センチ以上、体重は九十キロ近い偉丈夫になる。

 私の国には大勢いるが、この国ではそんな人間は少ないんじゃないのかい?」

 

 魔術など知らない遥か未来の住人は、非常に論理的に不審点を炙り出していく。

 

「だいたい、人間の歯は首に穴があくようには噛み付けない。

 歯の形状もそうだが、そこまでの顎の力もないし、

 生身の人間がこんな肉体的接触をしたら、唾液やDNAも付着する。

 これだけ治安のいい国の警察だ。そんなに無能じゃないだろう」

 

「うう、一々もっともだわ。じゃあ、最後の一家三人惨殺は……?」

 

 そう聞く凛に、アーチャーは黒髪をかき回しながら反問した。

 

「刀と槍の違いはなにかな、凛?」

 

「ええ? 斬るのと刺すのかしら」

 

「それもあるけど、片刃と両刃だよ。

 この国の一般的は刃物は包丁だろうが、

 つまりは刺し傷の形状や深さがあてはまらないんだろう。

 なんで、複数の武器を使う必要があるんだ?」

 

「え?」

 

 意表を突かれてぽかんとした凛が、震え上がるのはこの後だった。

 

「普通の人間には、片刃と両刃の武器を右手と左手に握って戦うことなどできない。

 訓練を積んだ最精鋭の白兵戦闘員も、そんな戦い方はしない。

 そして悲鳴も上げぬ間に、三人を同じ部屋で滅多刺しにして殺す。

 これも不可能だよ。滅多刺しという条件を除くなら、私の部下にはできる者がいた。

 しかし、それには一撃で即死させる必要がある。そうでなきゃ、この図式は成立しない。

 一人が滅多刺しにされていうちに、残りは逃げるからさ。大声で悲鳴を上げてね」

 

 数式を述べる学者のように、淡々とした口調で恐るべきことを口にする。外見がおとなしいだけに、怖いことこの上ない。言いながら、彼は小首を傾げた。

 

「殺害方法としてはいささか馬鹿馬鹿しいが、複数の片刃や両刃の刃物を、

 マシンガンのように投げつければ可能かも知れないがね」

 

 もはや凛には言葉もない。こういうことをして給料をもらっていたというのは何の誇張もなかった。

 

 軍資金を降ろした後で、アーチャーに通信機器が絶対に必要だと強く主張され、

凛にとっての鬼門、携帯電話ショップに行くことにした。

 

「別にあなたとは心話ができるんだから、携帯なんかなくってもいいじゃない」

 

「心で念じて救急車や警察が来てくれるなら、問題はないんだけどね」

 

「っく、分かったわよ」

 

 たとえ彼の外見は凛と同年代でも、中身はずっと年長者。やんわりと正論で返されると、凛も反論できない。

 

 とりあえず、操作が簡単だという携帯電話を購入し、アーチャーがマニュアル片手に、ちょっと不器用な手つきで、短縮ボタンに救急と警察とタクシー会社の電話番号を入力するのを横目で見て、改めてサーヴァントって何だろう思う凛であった。

 

 そして、次に向かったのが市役所。

アーチャーが凛に取るようにと言ったのは、なんと遠坂家代々の戸籍謄本であった。その間、市役所のロビーの情報公開コーナーで、人口統計を調べ始めたではないか。

 

「ねえ……ほんとうにあなた、何やっているのよ……」

 

「凛、なんで何百年、何千年前の歴史が伝わっていると思う?」

 

「……考えたこともなかったけど、言い伝えとか古文書とか?」

 

「うん、正解だ。特に第一資料は、時の政権の公式文書だよ。

 よくお役所仕事っていうけど、そう馬鹿にしたものでもない。……ほら」

 

 アーチャーの指が、人口統計の十年前の行を指した。

 

「冬木市の年間死亡者数は、この統計上だとだいたい年六百から七百人台だね。

 でもこの年は千二百人に届いている。平年の倍だ。これは異常だよ」

 

「この年に、冬木では大火災が起こったの。死者は五百人以上だったそうよ」

 

「四回目との関連は?」

 

「たぶん」

 

 気まずく黙りかけたところに、凛の受付番号を告げるアナウンスが聞こえたのは、救いであったろう。だが、会計窓口で請求金額を聞いて、仰天する凛であった。

 

「い、一万円以上!? さっきの携帯より高いじゃない」

 

「さすが、先祖代々の名家だね」

 

 古い戸籍は一通750円。それを先祖代々で遡って取ると、予想もしない金額を請求されるのだ。二十通ちかくになった戸籍謄本を受け取ると、二人はロビーの隅の椅子に戻った。アーチャーが戸籍を新しい方からめくっていく。五通目あたりに入ったところで、一人の名前を指差した。

 

「ああ、やっぱり、君の父方祖父の弟が養子に出てるね。

 この人が私の祖父。生前は養子ということを母も知らなかった。

 先日亡くなってね、戸籍を取ったら、遠坂家が実家だとわかったんだ」

 

『……ということにしよう』

 

 と、器用に念話を交えて話すアーチャー。凛も当たり障りなく答える。

 

「じゃあ、大叔父さんの孫ということね」

 

「そういうことになるのかなあ。あ、そろそろお昼にしないかい」

 

 ちょうど正午のチャイムが鳴った。

 

『サーヴァントは食事はいらないんでしょう?』

 

『君は朝食抜きだろう。腹が減っては戦はできないよ。それはもう……』

 

 おっとりとした顔が一瞬苦渋の色を浮かべる。だが、彼はすぐにそれを消し去った。



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3:人と戦争の歴史

 二人は市役所そばの喫茶店に入り、テラス席に陣取ると、二人分の紅茶とミックスサンドを注文した。風もなく、穏やかな陽射しが二人を包む。それでも屋外にいるのは凛たちぐらいだ。アーチャーは戸籍をテーブルに広げると、髪をひと混ぜして口を開いた。

 

「君の妹さんが養女に行った先――これはマキリだね?」

 

 さりげなく投げ込まれた爆弾発言に、凛は息を呑んでアーチャーを凝視した。

 

「そんなに睨まなくても大丈夫だよ。これを見れば一目瞭然じゃないか」

 

 現在の戸籍には、時臣の名と凛しか記載されていないが、その前の物には父と母、そして養女に行った妹――遠坂桜の名があった。

 

「この子も参加者になるのかい?」

 

「……この前、令呪がないことは確認したわ」

 

「つまり現在は不明ってことだね」

 

 アーチャーの淡々とした指摘は、凛の肺腑を抉るものだった。

 

「桜は、そういう子じゃないの。それに、マキリの跡取りにはなれないのよ。

 血のつながりがない以上、魔術刻印を継げないんだから」

 

「凛、私は昨日、民法も読んでみた。

 未成年者を養子にする場合、直系親族や実親の配偶者でないかぎり、

 家庭裁判所の許可が必要だとあった。

 それに、未成年者は養父母双方と縁組するともね。

 現に君の大叔父さんはそうなっている。……一方」

 

 アーチャーの指が、桜の除籍した日の行をなぞった。

 

「こっちには養父の名前しかない。

 両親の揃った家から、母親のいない家に養女に行くなんて、

 普通は裁判所がイエスと言わないよ。

 それをどうにかしてしまう何かがあったと考えた方が自然だ。

 予断や希望的観測を入れるのは危険だよ」

 

「戸籍や統計ひとつでここまで分かっちゃうのね」

 

「言っただろう、お役所仕事は馬鹿にはできないってね」

 

 アーチャーは頼りない肩を竦めた。

 

「よく、画一的、無機質なんて言われるが、だからこそ分かることもあるんだよ」

 

 そこに、注文した昼食が運ばれてきたので、凛とアーチャーはまずはそちらを処理することにした。

 

「それで、どうして先祖代々まで戸籍をとったわけ?」

 

「理由は三つある。

 まずひとつめに、この聖杯戦争の周期と合わせて考えれば、代々の参加者の目途が立つ」

 

 サンドイッチを頬張る冴えない姿とは裏腹に、実に明晰な返答である。

 

「ふたつめに、君の家の古文書を調べる範囲が限定できる。

 そっちの時間がとれるかは何とも言えないけどね。

 まあ、これは今やるよりも次回への課題として継続調査すべきかな。

 次も今回のように短期間で開催するかもしれないからね」

 

「でも、今役に立たなくちゃしょうがないじゃない」

 

 凛の言葉に、彼は黒い頭部を傾げて見せた。

 

「じゃあ、二百年間に聖杯で願いを叶えた人はいるのかな?」

 

「あなたは、いないと思うわけ?」

 

「少なくとも、御三家にはいないと思っているけど」

 

「……そのとおりだわ。どうしてあなたはそう思うの」

 

「仮に遠坂が願いを叶えたとしよう。

 その六十年後、ただ一人の直系の跡取りを殺し合いに参加させようと思うかい? 

 息子や娘、ことによると孫を。

 そんなことを言われた方も、二つ返事で参加するものだろうか」

 

「聖杯戦争の勝利は、魔術師として大きな栄光だわ。それに、どんな願いも叶うのよ」

 

 アーチャーは一瞬瞑目してから、ひたと凛を見つめた。

 

「自分に言い聞かせることはできるだろうね。

 でも、君は子どもや孫にそう言える? 

 両親や祖父母にそう言われて納得できる? 

 よその家に協力するために死んで来いと。

 私はそこまで利他的にはなれないよ」

 

 魔術師というのは、むしろ極めて利己的な存在だ。

後継者を一人に定めるのも、魔術基盤を独占、あるいは寡占するためなのだから。

 

「私なら、聖杯戦争への貢献度あたりを基準に勝者となる順番も決めておく。

 戦争になったら、三家で手を組み、外来の参加者を各個撃破する。

 それで、令呪でもって生き残った自分たちのサーヴァントを始末する。

 うまくいけば三回で終了だ。

 そうでなくたって、四回もやっていれば、ひとつぐらい願いを叶えた家系が出ているはずさ。

 それにこの方法なら、真剣な殺し合いには発展しない」

 

 凛は、心底から戦慄した。彼が穏やかで柔らかな口調で、淡々と語るのは限りなく冷徹な策略であった。何より怖いのは、それが実に合理的だと思ってしまうことだ。

 

「あ、あなた、何言っているのかわかってるの」

 

 テーブルの下で、右腕の令呪を服の上から握り締める。

 

「わかっているよ。だからこその英霊の召喚じゃないんだろうか。 

 サーヴァントだけなら人命の犠牲はゼロ。

 おまけに大抵は高貴で栄光を謳われた英雄の分身、しかも魔力の塊だ。

 生贄の具としてはこれ以上のものはない。

 聖杯の完成には、生贄として七体が必要になると考えると説明がつくよ。

 そうでなきゃ、よそ者を自分たちより多く受け入れる意味はない」

 

 幼い日に、父から教えられた聖杯戦争。七人の魔術師が、七体の使い魔とともに、万能の願望機を賭けて戦うという栄光の側面。あまりにそれが眩しくて、疑問にさえ思わなかったのに。この底知れない未来からの来訪者を、令呪でもって排除すべきなのか。

 

 蒼褪めた凛に、アーチャーは笑って見せた。 

 

「もっとも、これは私の憶測に過ぎない。

 きちんと調査すれば真相も明らかになるかもしれない。

 みっつめの理由は、要するにこのことさ。

 情報の収集によって、遠坂には交渉材料ができる。

 そして、君を殺すと養女に行った妹さんしか係累が残らず、情報が継承されなくなってしまう。

 つまり、私を排除するのと君を殺害するのはイコールでなくなる」

 

「あなたねえ!」

 

 凛はテーブルに両こぶしを打ち付けた。

 

「なに覇気のないこと言ってるのよ!

 最初っから負ける気じゃあ勝てるものも勝てないでしょ!」

 

 アーチャーは、ため息を吐きながら、黒髪を掻きまわした。

 

「努力しても駄目なものは駄目なんだから、仕方ないだろう。

 まあ、私の人生に射撃や白兵戦の名手だった時期などないんだが、

 より『まし』なのが士官学校時代でね。

 でも射撃は58点、白兵戦技も大して変わらない点数だったよ。

 落第点(あかてん)が55点のところでさ」

 

「あなた軍人だって言ったけど……何やってたのよ?」

 

 低気圧をはらんだ凛の言葉に、彼はあっさりと返答した。

 

「宇宙艦隊の司令官だよ。

 優秀な部下のおかげで、私は作戦を考えて指揮するだけだったからね」

 

「じゃあ、ライダーの方が適性だったわけ!?」

 

「それもどうかなあ」

 

 ぼさぼさ頭が傾げられた。

 

「自分で戦艦を動かしていたわけでもないし、大気圏内を飛行したらえらいことになるよ。

 旗艦(わたしのふね)だけでも全長が一キロ近いんだからね」

 

「あなたの船だけで?」

 

 アーチャーはこっくりと頷いた。

 

「ヤン艦隊だけでも、艦艇一万二千隻、兵員は百五十万人。

 私が指揮した最大数は二万隻、兵員二百万人以上。

 秘匿も何もないだろう」

 

 もはやスケールが違いすぎる。仮にライダーとして召喚できていたら、彼が現界した瞬間に凛は干物になっていただろう。

 

「取りあえず、早く食べて次に行こうか」

 

「ええ…………」

 

 それからのアーチャーは、学生のような外見にふさわしい行動を取った。図書館に行って、冬木火災前後の新聞縮尺版のコピーをたんまりと取り、さらに司書に目ぼしい本を検索してもらい、冊数制限ぎりぎりまで借りる。

 

次に、教育委員会に足を運んで、郷土史研究家に連絡してもらうように依頼する。たまたま教育委員会の職員に、十年前に市民課にいた女性がいて、その状況も聞くことができた。

 

 その行政職員が語ったのは、守秘義務の範囲での概略にすぎなかった。だが、大火災に先駆けて起こった、連続猟奇大量殺人を含めた異様な空気は十分に伝わってきた。特に凛に衝撃を与えたのは、通常の一年分にほぼ匹敵する、五百通以上の死亡届が一か月程度の間に集中したというくだりである。

 

 届出の受付もさることながら、火葬場の稼働限界も瞬く間に突破し、近隣市町村どころか隣県まで受入れ先を求めて奔走した。冬木市始まって以来の大災害の、あまりに大きな爪痕。そのうち、彼女も涙ぐんできてしまい、二人は謝罪して早々に退散した。

 

 今度は大きな書店に行きたいとアーチャーが要求し、二人はデパートへと向かった。途中で閑散とした公園を通り過ぎようとする。その時だった。鋭い痛みが凛の右腕を走り抜けた。

 

「痛っ……」

 

「どうしたんだ、大丈夫かい?」

 

「……多分、マスターがいるわ。あなた、サーヴァントの気配はわかる?」

 

「いや、さっぱりだね。

 それにしても、マスター同士、サーヴァント同士は相手を感知できるのに、

 マスターとサーヴァントにおいてはその限りじゃない、というのも不思議だね。

 一応の安全措置なのかな、これは。逆に危険だと思うんだが」

 

「まあ、私が参加者だってことは、魔術師には周知のことだもの。

 のこのこ出て来るなら……」

 

「自分を囮にされても、私じゃ盾にもならないからね。

 お願いだから危ないことをしないでほしいな」

 

 真摯な口調で彼は諭した。そして、ふと気づいたように告げる。

 

「ところで、ずいぶん寂れた公園だね。子供も母親も一人もいない」

 

「ここが例の火災の跡地よ。その後に整備されて公園になったけど、誰も近づきたがらないわ」

 

「まだ十年だ。大事な人を失った心の傷が癒えるには、短いのだろうね」

 

 書店に着くと、彼は最初、歴史書や歴史小説に未練たっぷりな視線を向けたが、購入したのは冬木市周辺の地図と住宅地図である。こちらもまた結構な金額であった。戦争は金がかかるというアーチャーの言を、たった半日で実感した凛である。

 

「本当にあちこち連れまわしてくれたわねえ……」

 

 そろそろ冬の日も傾き始め、陽光が赤みを帯び始めていた。デパートの屋上に出た二人は、眼下を眺めやる。アーチャーはさっき買った地図を開くと、地形と照合し始めたらしい。

 

 凛の方は、遥か下の地上から、こちらを眺める琥珀の目と視線があった。こちらが見えているのかいないのか、赤い髪をした同級生が、驚いたような表情を向けている。少年の姿がはっきり見えるのは、凛が視力強化の魔術を使用したからだ。相手から見えているか不明だったから、表情を変えずにフェンスから離れる。

 

「ああ、お疲れさま。あれ、どうかしたのかい?」

 

「ちょっと知り合いを見かけたの。あっちからは見えていないと思うけどね。

 ところでどう、ここからの眺めは? 戦闘に役立ちそうかしら」

 

 地図から顔を上げたアーチャーの表情は冴えなかった。

 

「陸戦は士官学校の演習以来なんだ。その、力になれなくて申し訳ない……」

 

「ああ、そう……」

 

「でも、君が生き残るよう全力は尽くす。私の力が至らないかもしれないけれど」

 

 いや、そのフォローの後半は言わなくていいから。凛はがっくりする。このアーチャー、どうにも悲観主義者な気がする。自分の魔術に自負のある凛にとって、戦意に水を差されること夥しい。

 

「もういいわよ。帰りましょう」

 

 すっかり深刻な雰囲気になった二人だった。大量の本を抱えたアーチャーは、凛の後を付いていく。

 

 それが、翌日ちょっとした騒ぎを起こすことになるのだが、彼は感心したように呟いた。

 

「ああ、これが生前の十倍の腕力になっているっていうことか。

 荷物が軽いのはありがたいな」

 

「あのね、たったの十倍ってことは英霊として最低ランクなの。

 これが最高クラスのサーヴァントなら、五十倍以上だって聞いたわ」

 

「だがね、体重の十倍と考えると、今の私はホッキョクグマと同等のパワーだよ。

 そりゃ、ゾウと対決したら負けるさ。だが人間相手では過ぎるほどの力だ。

 どのくらい生前と違うのか比較しないと、危険かもしれないな」

 

「ほどほどにしといてよ。

 あなた、腕っ節がさっぱりのくせに、ものすごく魔力を食ってるの。

 なのに対魔力はお話にならないし。

 私が魔術で援護したら、あなたも大怪我しちゃうじゃない」

 

 彼の耐魔力は、三騎士として最低水準に近い。とはいえ、ヤン・ウェンリーは神秘なき遥か未来の住人だ。お情け程度でも対魔力があるのは、むしろ相当の幸運だろう。

 

「君の魔術って、どんなことができるのかい?」

 

「一番手っ取り早いのはガンドね。人を指差して病の呪いをかけるの。

 私なら、魔力を銃弾のように撃ち込んで、攻撃としても使えるけど。

 これならアーチャーでもキャンセルできるけど、私の奥の手ではばっちりダメージを食うわよ」

 

「はあ」

 

「遠坂の魔術は流動と変換。魔力を媒体にこめて、蓄積しておくことができるの。

 これを一気に解放すれば、シングルアクションなみのスピードでAクラスの攻撃が可能。

 だけど、問題があるのよ」

 

「君にもかい?」

 

 アーチャーが複数形を使用するのは癪に障るが、この助言者に見栄をはるべきではなさそうだ。

 

「数量限定なのよ。この媒体はなんでもいいわけじゃないの。

 私たちの家系の魔術に最も相性がいいのが宝石でね。

 貴石じゃなくて宝石。ダイヤとかルビーとかサファイアとかそういうの。

 しかもね、質が良くて、大粒で、古い来歴のあるものが必要なのよ」

 

 凛の言葉に、アーチャーは漆黒の目を瞬かせた。

 

「そりゃまた、ずいぶんな金食い虫だ」

 

「そうなのよ! 本当にお金がかかるんだから!

 中でも、さっき言った攻撃が可能なとっておきは十個しかないの」

 

 アーチャーは、また黒髪をかきまわした。

 

「よっぽど高価な宝石なんだろうね」

 

「しかも、十年近く魔力を込めてきたのよ……」

 

 凛は溜息を吐いた。アーチャーもマスターに従った。

 

「それじゃあ、おいそれとは使えないね。

 そんなに金も時間もかけて、秘匿しなきゃいけない学問のために、

 殺し合いまでするメリットがあるのかい?

 この経済行為には、激しく間違っているところがあるような気がするよ」

 

 元軍人に魔術師は反論した。

 

「経済行為って……。あのね、聖杯戦争は単なる戦争じゃないのよ。

 魔術師にとって、魔法を目指すのは絶対の命題なんだから。

 お父様はそう言ってたわ」

 

 黒い瞳が瞬いた。

 

「なるほどね。だが、人には思いどおりに生きる権利がある。

 この国の法でも謳っていたよ。

 私の父は星間交易商人だった。被保護者は軍人になってしまったがね。

 それがあの子の希望である以上、私に邪魔する権利なんてないが、

 なってほしくはなかったよ。凛、君はどうだい? 

 本当に心から望んで魔術師になったのかな」

 

「もちろんよ。わたしはお父様の夢を継ぎたいの」

 

「では、君自身の望みはなんだい?

 私なんかに命を賭すほどに希求するものなのかな?」

 

「えっ……」 

 

 その問いには、答えが見つからない。絶対的に不利な状況の戦いなんて、考えたことさえなかった。アーチャーことヤン・ウェンリーは、そんな彼女を優しく見やった。

 

「その悩みを考えるのは、生き抜いてこそか。頑張ろうよ、マスター」




サーヴァントステータス

【CLASS】アーチャー
【マスター】遠坂 凛
【真名】ヤン・ウェンリー
【性別】男性
【身長・体重】176cm・65kg
【属性】中立・中庸

【ステータス】
筋力E 耐久E 敏捷E 魔力B 幸運C(EX)
( )内は戦闘時。

【クラス別スキル】

単独行動:A
 マスター不在でも行動できる。
 ただし宝具の使用などの膨大な魔力を必要とする場合はマスターのバックアップが必要。

対魔力:D
 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。
 魔力避けのアミュレット程度の対魔力。

【固有スキル】

カリスマ:A
 大軍団を指揮する天性の才能。
 Aランクはおよそ人間として獲得しうる最高峰の人望といえる

軍略:A+
 一対一の戦闘ではなく、多人数を動員した戦場における戦術的直感力。
 自らの対軍宝具や対城宝具の行使や、
 逆に相手の対軍宝具、対城宝具に対処する場合に有利な補正が与えられる。

心眼(真):A
 修行・鍛錬によって培った洞察力。
 窮地において自身の状況と敵の能力を冷静に把握し、
 その場で残された活路を導き出す“戦闘論理”。
 逆転の可能性がゼロではないなら、
 その作戦を実行に移せるチャンスを手繰り寄せられる。

【宝具】

『制式銃』
 ランク:D 種別:対人宝具 レンジ:0~30 最大捕捉:10人
 レーザー光線による攻撃を行う銃器。
 本来は、大量生産の兵器だが、現代から千六百年後の未来という、
 時間と技術の格差により、神秘を纏う事になった。
 使う者が使えば、地味ながら非常に強力な武器になりうるが、
 使い手がヤンだということで威力をお察し下さい。

『????』ランク:-- 種別:-- レンジ:-- 最大補足--

『????』ランク:-- 種別:-- レンジ:-- 最大補足--


触媒は、遠坂家にあった万暦赤絵の壺。
ヤンの父のコレクションで、唯一の本物で形見として相続していたもの。

聖杯にかける願いは特になし。
召喚に応じた理由は、人類史上にも珍しい平和な時代を見ることと、
伝説の英雄たちに会ってみたいから。したがって、戦闘意欲はあんまりない。
というか、戦っても勝てない。勝てない戦いはしない、それがヤン・ウェンリー。

身体能力が最高だった、士官学校卒業試験時の肉体で召喚されている。
実年齢は20歳、外見的には18歳前後。
ちなみに試験結果は射撃58点、白兵戦も似たりよったり。なお落第点は55点。
……お察し下さい。

趣味の歴史研究を生かして、聖杯戦争を調べてみようというやる気は満々である。


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閑話1:英霊とお茶を

 サンドイッチを平らげて、お替りした紅茶の香りに目を細めながら、アーチャーことヤン・ウェンリーは首を捻った。

 

「それにしても不思議なんだが、サーヴァントって幽霊なんだよね」

 

「なによ、急に」

 

「飲み食いした物はどこに行くんだろう。

 怪談なんかだと、よく座席がぐっしょりと濡れていたりするものだが、

 そういうこともないようだしなあ」

 

「か、怪談!? まさか、そんなことまで聖杯からの知識が!?」

 

 凛は目を剥いた。ほんとにこの聖杯、余計な知恵をつけすぎではなかろうか。そんなマスターに、ヤンは手を振ってみせた。

 

「いいや、その手の話は私の時代にだって山ほどあるよ。

 船乗りは迷信深いものだし、『宇宙怪談集』って、結構人気のシリーズなんだ。

 私もよく読んでたよ」

 

 凛の上半身が椅子の上で傾いだ。

 

「な、なによ、それ」

 

「ほら、百五十年も戦争をしてる社会じゃないか。

 一回の会戦で戦死者が何十万人と出るんだ。

 そういうネタには事欠かないというわけさ」

 

「……聞くんじゃなかったわ!」

 

 この青年は温厚な頭脳派に見えて、根っこはやっぱり軍人なのだった。

 

「私が司令官をしていた宇宙要塞でも、幽霊騒ぎがあってね。

 若い連中と私の被保護者が幽霊探しをして、捕らえたんだが、なんのことはない。

 事件を起こして逃亡していた兵士が、虫垂炎で呻いていただけだった」

 

「ちょっと待って、何ですって? もう一度言ってちょうだい」

 

「幽霊を捕らえてみれば脱走兵?」

 

「違うわよ! なに川柳にしてるのよ。その前よ、前。なんなの、宇宙要塞って!?」

 

 ものすごく聞き捨てならない単語だった。

 

「ああ、敵国が一種の国境的な宙域に設置した人口惑星でね。

 直径六十キロ、収容艦艇数は二万隻、五百万人が暮らせる要塞だったんだ」

 

 アーチャーが口にしたのは、想像を絶する代物であった。

直径六十キロ。水平方向はまだしも、垂直方向はエベレストの七倍ぐらいか。

それを宇宙空間に、人間が建設するのだという。いったい、幾らかかるのだろうか。

 

「やっぱりそう思うだろう?

 なのに、 建設を命じたオトフリート五世という皇帝は締まり屋でね。

 予算が大幅にオーバーして、責任者は自殺させられたんだ。ひどい話だよ。

 そこで建設を中止してくれれば、わが国もあんなに犠牲を出さなかったのに」

 

 凛の思考に、余計な解説を入れるアーチャーだ。また疑問が増えたのが始末に悪い。

 

「敵国って、敵の物をどうしてあんたが司令官をやってたのよ」

 

「その要塞はイゼルローンというんだが、雷神の槌という主砲があってね。

 出力は九億二千四百万メガワット、数百隻の艦艇を一瞬で蒸発させる兵器だ。

 わが国は六回攻略しようとして、六回とも失敗した」

 

「……ねえ、アーチャー。その艦艇って、あなたの艦のサイズよね」

 

「旗艦級はそうゴロゴロしてはいないが、六百メートル級の標準戦艦ならそうだよ」

 

 凛は頭がくらくらしてきた。なんてトンデモ兵器のぶつかりあい。1600年後の戦争は、ものすごいことになっていた。彼がえらく燃費の悪いサーヴァントなのも、そんな無茶苦茶な世界から呼んできたせいかもしれない。

 

「でも、攻略に成功したからあなたがいたわけよね」

 

「私が七回目にやれと言われてね。

 一芝居打って、ペテンにかけたのさ。私の艦隊からは死者は出なかった」

 

「すごいじゃない!」

 

 確かに英雄と呼ばれるにふさわしい功績だった。だが、アーチャーは苦く笑うと黒髪をかきまわした。

 

「で、よせばいいのに調子に乗って、敵国に侵攻したんだ。

 わが軍はボロ負けした。三千万人が動員され、二千万人が還らなかった。

 一番被害の少なかった私の艦隊が、国境警備の任に就いたというわけさ」

 

 凛は声もなく、線の細い青年を見つめた。

 

「もうこうなると、いくら戦術を工夫しても駄目だ。

 私が戦場で負けなくても、国が負けたら意味がない。

 君が勝利をおさめても、冬木が焦土と化しては意味がないように」

 

「……さっきの役所で見た、平年の倍の死者数になってはいけないってことね」

 

 黒髪の青年は、かすかな笑みを浮かべて頷いた。

 

「ああ、そうだとも。

 君はとても賢く、自分だけを安全圏に置いて戦いを煽動しない。

 私の生前の上司に、遥かに勝る美点だよ。

 しかし、もう一つの違いこそが安易に戦ってはいけない理由だ。

 ここは兵員だけの被害で済む、宇宙空間じゃないんだからね」

 

 凛のアーチャーは、戦いが大嫌いだという。死んでからまでやりたくないと。

 

 彼は生前、二千万人以上の味方を失いながらも、ただ一個艦隊で数倍する敵を殺した。だが、一人の民間人も犠牲にせず、百三十億の自由惑星同盟の国民を守り抜いた。

 

 千六百年後の世界で、ヤン・ウェンリーが、宇宙一の名将と称されるゆえんであった。

 



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4:遭遇

 翌日、霊体化したアーチャーをお供に凛は登校した。昇降口に入った瞬間、強烈な不快感が襲ってきた。

 

『やられたわ……!』

 

『どうしたんだい、凛』

 

『結界が張られてる。それも人体を融解させて、魂を回収する極悪なヤツよ!』

 

『……そりゃ一大事。この瞬間にも発動する代物かい?』

 

『そうはならないと思う。これだけの規模だと、発動するまでに相応の日数がかかるわ』

 

『じゃあ、第二目標はこの結界の解除だね。……あ、凛。お友達が来てるよ』

 

アーチャーの警告のおかげで、幸いにも凛は醜態を晒さずにすんだ。

 

「おっはよ~、遠坂。なーにシリアスな顔してんのよ」

 

「……おはようございます、美綴さん」

 

 人の悪そうな笑顔を浮かべて、背後に立っていたのは、同じ2年A組の美綴 綾子だった。茶色っぽいボブヘアをした、さっぱりした印象の美人である。スポーツ、それも武芸百般を得意としており、凛に次いで男女の人気が高い少女だ。凛が厳重に着込んだ猫を見事に看破している数少ない相手で、遠慮のない会話のできる悪友である。

 

「聞いたぞ、昨日学校サボって、なかなかのイケメンとデートしてたそうじゃない。

 ひょっとしてケンカした?」

 

「違います。あの人は柳井さん。わたしの大叔父の孫にあたるの。

 彼のお祖父さまが亡くなって、戸籍を調べたら分かったそうよ。

 それで、勝手に戸籍を取るのも悪いからって、断りの電話をくださったの」

 

「よく、あんたんちの電話がわかったわね」

 

 好奇心にきらきら輝く栗色の瞳に、翡翠の瞳は温度を変えなかった。

 

「ええ、わたしもそう思ったけれど、冬木市の遠坂ってうちだけなのよね」

 

 綾子ははたと手を打った。

 

「そういえばそうだった。なんだ、つまんない。

 どんなドラマがあったのかと思ったのに」

 

「そんなのないわよ。

 ついでだから、お祖父さんの実家のお墓参りもしたいって。

 わたしも知らなかったとはいえ、お葬式にも行かなかったから、

 せめて市役所とかを案内させてもらったの」

 

 これは、昨晩協議して作ったカバーストーリーだ。アーチャーは大学生二年生。実家は関東だが、冬木市から特急電車で一時間ほどの街に下宿中という設定である。

 

「なーんだ、彼氏作るの、遠坂に先を越されたと思ったのに。

 うちの部の一年達が見掛けてね。ちょっと地味だけど身長もあるし、

 割とハンサムで、磨けば光るって言ってたからさあ。

 ……で、泊っていったの、彼氏?」

 

 綾子はにやりと笑い、凛を肘で突いた。凛はすげなくその手を払う。

 

「あのねえ、初対面の親戚に、そこまでするはずないでしょう。

 いま大学生で、冬木の近くに下宿してるから、親に頼まれて来たんだって言っていたもの。

 夕方には帰ったわよ。でも、市役所で時間がかかっちゃってね。

 お墓までは無理だったわ。また案内することになりそう」

 

「もぉ~~、つまんないなぁ」

 

「ちょっと綾子、不謹慎よ。彼、ご不幸があったばかりなのに」

 

 友人と他愛のない会話を続けながら、教室へと向かう。そして、昼休みの開始をジリジリとしながら待つ凛だった。

 

『……朝ね、学校にマスターはいないって言ったの、あれ、取り消すわ』

 

 柔らかな調子の心話が、凛に語りかけてきた。

 

『まだ学校の関係者だとは限らないよ。

 ここは不特定多数の人間が出入りするところだからね。

 しかし、これが三件と別の犯人なら、六騎中四騎が容疑者になってしまう。

 ただ、君が信じてくれるかどうかは分からないが、私にはこんな芸当はできないよ』

 

 ここで自分を容疑者から除外しないのが、アーチャーの怖さなのかも知れない。

 

『信じるわよ。

 昨日ずっと一緒にいたし、

 あなたはこんな無差別攻撃をするタイプじゃないと思うもの』

 

『ありがとう。ただね、連続昏睡事件の犯人は容疑者の順位は低いと思う』

 

『どうしてかしら』

 

 これには質問というより、アーチャーの言葉を促すものである。

 

『あれも非道な行為には変わりはないが、

 被害者のダメージを的確にコントロールできている。

 隠蔽方法も無理がない。高度な技能を持った理知的な相手だよ。

 一方、この結界とやらは人体を融かすんだろう。

 この学校の生徒職員、数百人を融かしたら隠蔽なんて不可能だ。

 前者の方法を使える術者が、あえて後者の手段を取ることは考えにくい』

 

 彼の発言は、凛の推論とも合致するものであった。

 

『同感よ。あの事件で吸い取られた精気は、霊脈の流れに乗って、

 柳洞寺に集められているわ。

 犯人は陣地作成スキルを持つ、キャスターでほぼ間違いないと思う』

 

『じゃあ、学校の方がキャスター以外だとして、

 その主従は君の存在を知っているのかな?』

 

『遠坂の参加が確定だということは、これに参加しそうな勢力は知っているはずよ。

 突発的な参加者でもなければね』

 

『君の存在を知っているなら、百害あって一利なしだと思うなあ。

 生徒を人質に取るにしても、凶器ができるのは何日も後だ、

 黙って見ていて自分に従えと喚いたところで……』

 

『誰が聞くもんですか』

 

『そのとおり。主従が君の存在を知らないか、なんらかの齟齬があるのかも知れないね』

 

 このアーチャーは、戦闘面では非力だが、助言者や参謀としては紛れもない当たりであった。

 

『どんなふうに?』

 

『例えば、マスターは君を知っているが、サーヴァントには知らされていない。

 そんなサーヴァントが、マスターに隠れて勝手な行為をしている場合。

 双方が君を知っていても、凶暴なサーヴァントを

 マスターが制御しきれない可能性もある。

 あるいは君を知っているのに、マスターの命令に

 サーヴァントが従わざるを得ないのかもしれない』

 

『前の二つは分かるわよ。

 でも、最後のはちょっとねぇ……。そんなマスター、馬鹿すぎない?』

 

『人間は馬鹿なことを平気でやるんだよ。

 自分が強大な力を手にしていると思い込んだりすると特にね。

 君は頭がよくて、強力な魔術師さ。

 でも、そうではない人間だって無力という訳ではない。

 君の尺度だけで測るのは危険なことだ』

 

 穏やかな心話は、苦みを帯びて響いた。

 

『君にとっての弱者が、他の人にとってもそうとは限らない。

 金貨一枚の価値が、億万長者と貧乏人で違うように。

 自負を持つのは結構だが、それに溺れないようにね』

 

 これは遠坂凛のうっかり属性に、五寸釘を刺すも同然の指摘であった。そんな彼の気配が遠ざかろうとする。

 

『ちょっと、どこに行くの?』

 

『とりあえず、校舎を見て回ってくるよ。

 ああ、それと校舎の見取り図、

 さっき事務室の前にあったパンフレットでいいから手に入れてきてくれるかい?

 次の授業までには戻ってくるよ。あと、絶対に独りにならないように。いいね』

 

 本当に、生前の彼はどんな英雄だったのだろう。星の海を無数の戦艦が行きかう未来に、『魔術』や『魔法』は、まだ残っているのだろうか。『弓の騎士(アーチャー)』というよりも学者っぽくて線が細く、強いて言うなら『魔術師(キャスター)』かと思ったものだが。それがある意味で生鵠を射ていることを、凛は未だ知らない。

 

 その後、昼休みに簡単な作戦会議をして、この結界の解除を試みようということでふたりの意見が一致した。新都を中心に起こっている集団昏睡と連続傷害、深山町で起きた一家殺人のせいで、早く下校するようにという学校から指示があり、部活動も中止となった。そのおかげで、いつもより早く生徒の姿が減り、心おきなく探索を始められる。

 

「だめだわ、これ、私の手に負えない……」

 

 見るからに禍々しさの漂う呪刻に、凛は唇を咬んだ。

 

「もの凄く古くて高度な魔術よ。ひょっとしたら宝具かもしれない」

 

「現界していないセイバーは除外できる。私には不可能。

 するとキャスター、ライダー、ランサー、アサシン、バーサーカーが容疑者。

 ただし、新都の昏倒事件がキャスターによるものなら、容疑の順は低くなる」

 

「バーサーカーは理性と引き替えに能力を上昇させるクラスよ。

 複雑な魔術や宝具を使える可能性は低いと思う。

 アサシンは……こんな能力の持ち主なら、

 アサシンのクラスでは召喚できないような気もするわ」

 

 根本的手術が不可能である以上、できるのは対症療法である。呪刻を発見次第、凛は魔術刻印を起動し、呪刻に自分の魔力を流して浄化していく。これはほんの一時しのぎ、術者本人が改めて魔力を流せば、あっさりと機能を回復するだろう。

 

 その傍ら、アーチャーは凛が貰って来たパンフレットの、校舎見取図に赤ペンで呪刻の位置を書き込んでいる。赤丸は既に片手の指では足りなくなっていた。

 

「凛、この学校にもレイミャクってやつは通っているのかい?」

 

「ええ、冬木全体がそういう土地だから、聖杯戦争の開催地になっているわけだもの」

 

「大体の流れをこれに書き入れてもらえないか」

 

 アーチャーが差し出した見取図に、水色の蛍光ペンで大まかに蛇行した矢印を書き込む。それを見たアーチャーは拳を口元に当てた。

 

「ふーん、だいたいレイミャクの流れを堰き止めるように、

 ジュコクとやらが配置されているように見えないかな」

 

「確かにそうね……」

 

「そして、こいつを高低差や方位を加味して示すとこうなる」

 

 今度は、パンフレット表紙の校舎の写真に赤丸が書き込まれていく。凛は目を瞠った。今までに発見した呪刻を三次元視点で見ると、校舎に針金の輪を斜めに引っ掛けたように、魔法陣の一部が浮かび上がってくるではないか。

 

「こいつが線対称の図形と仮定するなら、ジュコクの位置はある程度予測が可能だね。

 もう数箇所と中心点を探せば、起点も推測できると思うよ」

 

「やるじゃない、アーチャー! で、次の位置はどこになるのかしら」

 

「ここは四階だったね。じゃあ、一番近いのは多分屋上だ」

 

「行きましょう」

 

「ああ、ちょっと待ってくれ。一応、退却ルートの準備をしておくよ」

 

 四階は特別教室が並んでいる。アーチャーは、ベランダ出入口のサッシの錠を開けて回った。彼にとって、退路の確保は常識だ。だが、凛の意気込みに水を差したのも事実ではあった。

 

 なんなのよ、もう。逃げること前提なわけ!?

 

 凛の内心はアーチャーに伝わった。彼は、ベレーを脱ぐと、黒髪をかき回して言った。

 

「私は一応、戦術レベルで負けたことはないんだ。

 『不敗のヤン』なんて味方には呼ばれていたもんだよ。

 とはいえ、戦略レベルで大敗してるから、それ以前の問題なんだがね」

 

 だから、なんでそう一言多いのか。台詞の前半で上昇した安心感が、続く言葉で台なしだった。

 

「私は勝てない戦いはしないよ。

 そのぐらいなら逃げるから、君もそのつもりでいてくれ」

 

 頼りなげな言葉に隠された悪辣さを、やはり凛はまだ知らない。

 

 

 屋上に出ると、すでに夕闇が空を濃藍に変えていた。半円よりも丸みを増した月が、ほのかに光を投げかける。冬の冴えた空に、宵の明星と天狼が白銀に輝く。

 

 アーチャーの黒い瞳が、彼には見慣れぬ、だが歴史書に記された星座を見上げた。とはいえ、凛の方には彼のそんな感嘆に気付く余裕はなかった。アーチャーの予測どおり、屋上の片隅に一際複雑な呪刻が刻まれていたからだ。

 

 魔術刻印のある左腕をかざし、呪文を詠唱する。魔術はつつがなく発動し、しばしの浄化をもたらした。凛は、ふっと息を吐いた。この複雑さから見て、ここは重要な基点だろう。かなりの妨害効果が期待でき、わずかに安堵したのだ。

 

「なんだよ。消しちまうのか、もったいねぇ」

 

 凛は弾かれたように顔を上げた。

 

 ふてぶてしいほどの自信に満ちた、よく通る男性的な声。給水塔の上に、長い髪をなびかせて痩身長躯の男が立っていた。瑠璃の髪と柘榴石の瞳。白い顔は美麗でありながら、猛々しさと気品を備えている。全身を覆うのは、群青色に白銀で幾何模様が刻まれたボディースーツのような武装。その存在感と魔力は、明らかに人のものではない。

 

「これ、貴方の仕業?」

 

「いいや、こんな小細工は俺の趣味じゃねぇよ。他の奴らはどうだか知らねぇが」

 

 アーチャーが凛を庇って前に出る。その背の薄さは、目の前の青いサーヴァントと対抗しうるとは思えなかったが、彼は悠然と質問した。

 

「では、新都の集団昏倒と吸血鬼、二つの事件については?」

 

「そっちも知らねぇな」

 

「だろうね」

 

 黒いベレーが小さく頷く。

 

「貴公の容姿と、為人(ひととなり)には合致しない」

 

 その言葉に、男が楽しげに紅い瞳を細めた。次いで右手に真紅の槍を出現させる。

 

「は、面白いこというな」

 

槍兵(ランサー)のサーヴァント……!」

 

 それもまた三騎士の一角、最速の英霊が選ばれるクラスだ。白兵戦に特に優れ、またセイバーほどではないが、魔術に対する防御を与えられている。魔術師やアーチャーにとっての天敵と言える。それ以前に、外見からして凛のサーヴァントより遥かに英雄豪傑らしい。能力に至ってはまさに天地の差であった。絶対に勝てない。一撃で倒されてしまうだろう。

 

 それを理解していないはずもないだろうに、アーチャーの態度からは動揺も緊張も窺えなかった。鈍感なのではないかという口調で会話を続ける。

 

「それに今、武器で深山町の一家惨殺容疑は除外できた」

 

「へェ、なんでそう思う?」

 

「貴公は、槍の名手だからランサーとして召喚されたのだろう。

 なのに女性や子どもを滅多刺しにしなくては殺せない技量だというのなら、

 聖杯の選考基準を疑うからね」

 

 柔らかな衣に包まれた強烈な皮肉だった。だが、ランサーは感心したように軽い笑いを漏らした。

 

「違いねえ。大人しそうな顔して言うじゃねえか、兄さんよ。

 セイバー……じゃねえな、アーチャーか?」

 

「そいつは間違いじゃないが、私を見てそう思った理由は何だろう。

 五つも候補があるのにね。

 貴公が他の四騎を知っているからかい?

 せっかくだから教えてくれると助かるんだがね」

 

「――あ」

 

「あっ!」

 

 アーチャーの前後で、同音の男女二重唱が発生した。その意味するところは大きく異なったが。

 

「と、とにかくだな、ごちゃごちゃ言うのはもう終わりだ。

 俺達はただ命じられたまま、た戦うのみ!!」

 

「ランサー、噛んでる」

 

 凛は淡々と指摘した。

 

『サーヴァントも元は人間。結局のところ、強大であっても無謬(むびゅう)の存在じゃない。

 我々が活路を見出すとするならそこだよ』

 

 昨晩、アーチャーが語った言葉である。たしかにそうかもしれないと納得した。その発言者は肩越しに振り向くと、凛をたしなめた。

 

「マスター、歯に衣を着せてあげなさい。気の毒だよ」

 

「てめえが言うな!! ッチ、てめえの舌は毒矢なのかよ。

 アーチャーで合っているじゃねえか」

 

 アーチャーは黒髪をかき回した。

 

「そんなこと言われても、槍と飛び道具じゃ同じ戦いはできないじゃないか。

 犬は噛み付く、猫は引っ掻く、喧嘩のやり方は人それぞれだろう」

 

 後輩の台詞を盗用して応じた時である。ランサーの表情が一変したのは。

 

「――犬と言ったか、貴様」

 

「そりゃあ言ったけど、今のどこに怒る要素が……ああ」

 

 アーチャー、ヤン・ウェンリーの脳裏の歴史人名事典に、該当者が一名ヒット。遥か未来、故国の第三艦隊旗艦に、その名を冠せられた侵略への抵抗の象徴。このランサーが彼の英雄なのだとしたら。

 

 アーチャーは大きく溜息を吐いた。

 

「伝説というのは遠くにありて想うものなんだなぁ」

 

 ク・ホリン、あるいはクー・フーリンとして伝承に語られる光の御子。光の神ルーとアルスター王の妹の間に生まれ、百の黄金のブローチで身を飾る、槍の名手の美丈夫。それがどうして全身タイツに身を固めているのか。

 

「いや、ほんとうに、どうしてこうなったんだ!?

 いやいや、これはなにかの間違いかも……」

 

「その心臓、貰い受ける」

 

「やっぱり、間違いなんかじゃないんだね」

 

 アーチャーは悲しげな視線を彼の武器に送った。真紅の槍は、脈動するかのように周辺の魔力を収奪し始める。冷え冷えと濃厚な死の気配が集った。アーチャーは再び溜息を吐いた。

 

「ランサー」

 

「どうしたよ、今頃命乞いか?」

 

 真紅の槍を構え、猛々しい嗤いを浮かべる敵手に、アーチャーはあっさりと肯定を返した。

 

「こういう手段を取るのは、非常に気が引けるんだが、そのとおりだ。

 貴公と決着をつけるなら、せめて最後の晩餐に招待させていただきたい。

 三日後でいかがだろうか?

 ただし、貴公とマスターがそれまでに斃れたら無効。

 私が貴公以外の手にかかったら、代わりに私のマスターが招待するものとする」

 

 畳みかけるように伝えられた言葉に、ランサーは呆気にとられた。

 

「――ッ、俺の正体はお見とおしってことかよ」

 

「三日後の十八時に本校正門に集合。

 ホワイトタイ、ブラックタイ、武装も不要。

 文字どおりの平服でお越しください。以上!」

 

 否とも諾とも返答を待たず、アーチャーは踵を返した。凛の手を引っ張って、校舎内へ駆け込む。後には深紅の目を見開き、口を開けっぱなしにした青い槍兵が残されていた。

 

「おい、どうすんだよ、くそマスター。

 あのアーチャー、弱っちいがめちゃくちゃ厄介な相手じゃねえか」

 

 冬木の管理者たる遠坂家は、第二の霊地に要塞となる工房を構えている。大きな主催者特権を有しているのだ。当代の凛は、潤沢な魔力と五大属性という希少な特性を持つ強力な魔術師。

 

 彼女のサーヴァントはアーチャー。戦士としてはまったくお話にもならない。ランサーの望みである、力を尽くしたギリギリの戦いの相手は務まらないと断言できる。しかし、かわりに滅法頭が切れる奴だ。

 

 ごくわずかな失言から、ランサーが他四騎のサーヴァントの情報を持っていることを見抜き、さらにはランサーの真名を断定してのけた。おまけに、ランサーの誓約を知っていて、それを利用して三日間の休戦に持ち込んでしまった。

 

 その間に彼ら主従がどう動くか。地の利と管理者としての権限を生かして、交渉と防衛戦に徹すれば、これほど堅固な存在はない。籠城されると、対城宝具を持たぬランサーでは攻め手に欠ける。

 

 ランサーは瑠璃の髪を掻き毟った。

 

「で、俺は招待に応じるしかねえ。

 まさか、犬料理を出したりしねえだろうな、あの野郎……」

 

 ここ、日本という国では犬は食用ではないと聖杯からの知識は告げる。しかし、この時代にそういう食文化の国はあり、この日本ではあらゆる国家の料理が食せるとも。ランサーは目を眇めて呻いた。

 

「いや、いらねえから、そういう知識は!」

 

 しかもこの知識、アーチャーにも入手できるのである。

 

「聖杯ってのは何なんだ? どう考えても悪意に満ちた代物じゃねえか。

 そいつが叶えてくれる願いなんざ、碌でもない代物に違いねえ」

 

 不信感が募るランサーだった。



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5:不敗と奇蹟

アーチャーに腕を引かれた凛は、一気に階段を駆け降りた。

 

「ちょ、ちょっと、こんな逃げ方しても追い付かれるだけ……」

 

 二階にある自分の教室まで、先導されるがままに戻ったが、霊体化して建物を突きぬけられるサーヴァントにとって、なんの意味もない。少し息を切らした凛に、アーチャーは頭を振った。

 

「彼の正体は私の推測どおりのようだ。恐らく追ってはこないさ。

 彼は非常に頭が切れる理性的な戦士だ。

 私のように簡単に除ける弱者との約束を破り、

 重大なハンデを負うような馬鹿はやらないと思うよ」

 

「あ、あなたっ、な何言ってるのよ」

 

「私が犬と言ったら怒っただろう。

 彼はク・ホリン、いやクー・フーリンと発音した方が有名かな。

 光の御子、クランの猛犬、アルスターの赤枝の騎士。

 祖国の為に七年間ひとりで戦い抜いた英雄だ」

 

 猫を思わせる翡翠色の瞳が、大きく見開かれてOの字を形作る。

 

「どうしてわかったのよ」

 

「彼は、千六百年後も英雄として語り継がれているんだ。

 私の国は、専制国家から逃げ出した、奴隷だった人々が築いた国でね。

 五十年をかけて、一万光年を逃亡し、新たな居住惑星を見つけたんだ。

 そして、建国して五十年後から、滅びるまでの百五十年間敵国と戦い続けた。

 宇宙を戦場にしてね。そこを征く戦艦には、神話や伝説の英雄の名前がつけられた。

 第三艦隊の旗艦は彼の名前だったんだ。だから、私は知っていたわけさ」

 

 アーチャーは髪をかき混ぜながら苦笑した。凛のほうは、途方もないスケールの話に相槌を打つことも忘れて聞きいった。

 

「私はいやいや軍人になった落ちこぼれでね。あんまり仕事熱心じゃなかったんだ。

 だから、こっそり戦術コンピュータの中の戦史ライブラリを読み漁ってた。

 で、旗艦ともなると命名の由来、その神話や伝説などの説明が添付されているんだよ」

 

「じゃあ、あのランサーの名前は、千六百年後まで伝えられているのね」

 

「そうだよ。我々の戦争は、侵略する暴虐な専制国家から、

 国を守るためのものだという建前だった。

 抵抗の象徴たる、ク・ホリンというのはぴったりな名前だろう。

 ギリシャ神話系の艦名が多いなか、珍しい響きでもあったんだ。

 私は興味を持ってね、彼の伝承はちょっと詳しく調べたのさ」

 

 凛は頷いた。召喚された当初から思ったのだが、このアーチャーはなかなか巧みな語り手だ。彼の話は面白く、わかりやすい。相当に頭がいいのだと再認識する。

 

「なにが幸いするかわからないものだね。伝説によると彼にはいくつかの誓約(ゲッシュ)があった。

 ケルト人は自らに不利な誓いを立て、周囲に公表することにより、神の加護を得るという信仰があったんだ。

 これを破ると、加護を失って破滅する。

 クー・フーリンの主な誓約は、一つ、目下の者からの夕食の招待を断らない。

 二つ、犬を食べないだったと思うよ」

 

「だからあなた、あんなこと言ったのね。でもそれ、単に意地汚いだけじゃないの?」

 

 凛の感想に、アーチャーは苦笑しながら首を振る。

 

「いやいや、とんでもない。彼の母は王の妹だよ。つまり彼はアルスター王の甥だ。

 彼より目上の者の方が少ない。要するに、どんな相手からの招待も拒めないんだ。

 敵からのものでも、それこそもう一つの誓約を破らせようとする相手でもね。

 実際、彼の敗北と死の遠因はそれなんだ。でも破ると、重大なペナルティーが科せられる。

 会食の準備を頼むよ、凛。犬料理を用意してくれなんて言わないからさ」

 

 凛の口もOの字を描いた。このアーチャー、優しそうに見えてとんでもなく人が悪いんじゃないだろうか。言う事が時折、本人の髪や目よりも真っ黒になる。

 

「あたりまえよ! 嫌よ、犬料理だなんて。私も絶対に無理!」

 

「うん、私もだよ。

 食べたいメニューじゃないし、できれば同盟、

 無理なら不可侵条約を結びたい相手だからね」

 

 凛は安堵の吐息を吐いた。そうすると、疑問が頭をもたげてくる。

 

「あれが、同盟を結びたい相手なの?」

 

「四件の事件に無関係で、しかも他のサーヴァントの情報を持っている。

 彼の能力をもってすれば、私たちが気がつく前にあの世に送れたのに、

 わざわざ戦いの口上を述べたんだ。堂々たる武人らしい好漢だと思うよ」

 

「だから、集団昏倒と結界は違うっていうわけね。でも吸血鬼の方は?」

 

「そっちは容姿もキーになる。

 君は魔術師だから、彼を見たらサーヴァントだ、対決すべしと考える。

 だが、考えてもごらん。夜道を一人で歩いているところに、

 あんな怖い外見の青年が現れたら、即座に逃げ出したくはならないのかい?」

 

「あ、言われてみれば、たしかにそうだわね……」

 

 被害者には女性も含まれていた。危険な香りのする美貌をした、長身の外国人青年。これだけでも警戒に値するが、加えてあの格好だ。脳裏の警鐘が、最大音量で鳴り響くこと間違いない。

 

「当然、相手に背を向ける。追いつかれて昏倒させられれば、

 転んで顔や手足に怪我をする。意識を失って倒れると、顔の怪我は避けられない。

 逃げないで抵抗しても、やはり負傷するよ。防御創ってやつだ。

 だが、新聞によると首筋の傷しかないそうだ。だからこそ警察は悩んでいるわけさ。

 大人一人を昏倒させて、傷一つで済むっていうのが逆に普通じゃないんだよ」

 

 これは、目から鱗の指摘だった。魔術を知らない人間の常識論と、軍人としての人間の動きの限界や、肉体の脆さへの知識。理にかなった推論であった。

 

「納得したわ。でも、マスターが問題じゃない」

 

「マスターは自分に似たサーヴァントを召喚するって、君は言っただろう」

 

 凛は、鋭い目つきで非力で冴えないサーヴァントを睨んだ。

 

「あなたと私のどの辺が似てるか、じっくり話をつけましょうか」

 

 怠け者で、髪はぼさぼさで大人しいふりした毒舌家。似ていると言われるのは心外だ。ミス・パーフェクトとまで言われた自分と、彼のどこに共通点があるというのか。アーチャーはまた髪をかき回して、机に腰掛けた。

 

「話は最後まで聞いてほしいな。

 つまりね、彼に似た性格のマスターなら、冬木の管理者たる君の提案を無碍にはしない。

 だが、彼に似ていないマスターならば、ああいう性格の彼とは長続きしない。

 私は後者の可能性が高いと思うんだ」

 

「ええ? 仲が悪いってこと?」

 

「そう。彼は他の四騎のサーヴァントを知っている」

 

 凛は頷いた。

 

「つまり、偵察なり、交戦なりをしていると思わないか?

 だが、まだ脱落したサーヴァントはいないんだろう」

 

「だって、七人のサーヴァントが揃わないと戦争が開始しないのよ」

 

「そんなの建前さ。彼もほかのサーヴァントもとっくに活動を開始しているじゃないか。

 新都の集団昏倒と吸血鬼、深山の一家惨殺、この学校の結界。違うかい?」

 

 凛は不承不承に頷いた。たしかに自分は出遅れて、挙句にこんなサーヴァントを呼んでしまった。

 

「彼は強い。なにしろ、七年間もひとりで戦い抜いたゲリラ戦の名手だからね。

 そういう武人が情報の重要性を熟知しているのは当然だが、

 こうした一対一の戦いでは、叩きのめすことを優先すべきなんだ」

 

「え、どうして?」

 

「端的に言うなら、殺した相手の名前なんて必要ないってことさ」

 

「うっ……」

 

 軍人の言葉は、魔術師という学究の徒の甘さを思い知らされるものだった。

 

「先手必勝は戦術的な大原則なんだ。だが、脱落者はいない。

 勝てる相手だが撤退をしているとも考えられる。

 その作戦の有用性は一部認めるよ。ただ、彼のような戦上手が好むとは思えないな。

 伝承におけるクー・フーリンの基本戦術は一撃必殺、即離脱。

 それを七年間、何回となく繰り返したんだ」

 

 学者の講義のように鋭い分析が披露され、凛はアーチャーの顔を眺めることしかできなかった。これが並外れた『心眼(真)』と『軍略』の能力なのか。役に立たないとばかり思っていたが、素人歴史愛好家だという本人の趣味との相乗効果は恐るべきものであった。

 

「この会食は、彼の誓約を利用した謀殺が目的じゃないよ。

 相手を量る試金石や、離間を招く(たがね)の一撃になるかもしれないと、

 まあこっちは何とかの皮算用だがね。でも、一定の布石にはなるだろう。

 食事を奢ってくれた相手に、ご馳走様でした、じゃあ死ねとは言いにくいじゃないか」

 

 しごく穏やかに話を結び、アーチャーはおっとりと微笑んだ。大人しそうな、十八歳ぐらいの文系学生の容貌で。余計に凛は蒼褪めた。なんて悪辣。絶対、こいつは私になんて似てない。

 

「ま、取りあえずは帰ろうか」

 

「ちょっと待ってよ、休ませて。疲れちゃったわ」

 

 自分の席の椅子に座りこんでしまった凛に、アーチャーは肩を竦めた。

 

「君が昨日買って、鞄の中に入れておいたものがあるじゃないか」

 

「は?」

 

「タクシーを呼びなさい。

 温かい居間で、夕食を食べて、紅茶でも飲んで休んだほうがいいだろう」

 

「そんなのもったいないわ」

 

「金で片のつくことなら、つけるべきだ。まだ、残り十二日間も戦いがあるんだからね。

 食べられるときに食べ、休める時には休む。でないと生き残れないよ」

 

 彼には珍しい、断固とした口調だった。手抜きは大好き、怠けるのも大好き、サービスと給料はそのためにある!

 

 しかし、彼は、末期を迎えた国の最後の一個艦隊を率いて戦い抜いた。やるときはやるし、体はやわでも心は鋼。そして幾度の戦場を越えて不敗。それがヤン・ウェンリーである。

 

 なんといっても、ヤンだって歩くのは面倒だ。霊体化して壁抜けができても、空が飛べるわけではない。幽霊なら、宙に浮いて飛ぶとか、あちこちに瞬間移動できるとか、そういうことができてもよさそうなのに。

 

 昨晩、色々と試してみた結果だが、つまらないなあ、というのが正直な感想だった。

 

「それにね、ランサーの尾行に怯えながら家まで歩く気かい。

 神秘の秘匿というなら、第三者が入るだけで回避できる戦いだよ。

 タクシーの運転手さんとかね。私は霊体化すればいいんだし」

 

 凛は鞄を探ると、携帯を取り出して短縮ボタンを押した。これは昨晩、彼に特訓されたことだ。アーチャー、ヤン・ウェンリーは地味に奇蹟を起こしていた。知る者は誰もいないけれど。

 

「もしもし、深山の遠坂です。穂群原高校にいるんですけど、タクシーを一台回してください」



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閑話2:名前の意味

 凛とアーチャーは警戒しながら階段を下り、到着したタクシーに乗り込んだ。むろん、従者は霊体化して。温かい車内の座席に納まると、凛はふと疑問が湧いてきた。

 

『ねえ、アーチャー。あなたの国の第三艦隊の旗艦が【ク・ホリン】だったのよね』

 

 凛はアーチャーに心話で問い掛けた。柔らかな肯定が返ってくる。

 

『ああ、そうだよ』

 

『じゃあ、あなたの旗艦は? なんて名前なのよ』

 

 第三艦隊とヤン艦隊。ナンバリングの中に混じる司令官のファミリーネーム。通常は一万二千隻、最大で二万隻を超える艦隊。兵員数は政令指定都市の人口レベル。アーチャーはそう言っていた。だが、その規模に個人名が冠せられるのは普通ではない。

 

 この頼りないサーヴァントが、とても高位の軍人だということに、凛は遅まきながら気づいたのである。彼の部下にとっては、司令官自ら銃を持ち出し、身を守るようなことがあってはならなかっただろう。

 

『【ヒューベリオン】さ。この時代だと【ヒュペリオン】と発音するようだね』

 

『そっちはギリシャ神話っぽい名前ね』

 

『そのとおり。土星の衛星の【ヒペリオン】と同じだよ』

 

 アーチャーは解説してくれたが、凛は気まずく心中に呟いた。

 

『ごめん、全然知らないわ』

 

『まあ普通はそうだろう。そんなに有名な神様じゃないからね。

 私も旗艦になってから、その名前を知ったぐらいだよ』

 

『へえ、それで、どんな神様なの?』

 

『ゼウス以前の古い神々の一人で、

 天体の運行と季節の変化を人間に教えたとされているそうだ。

 一説には、太陽神ヘーリオスの別名だとも言われている。

 エピソードらしいものはこれぐらいかな』

 

 たしかに派手な逸話を持つ神ではなさそうだ。

 

『あ、そうなの……。ところでギリシャ神話の神には、名前に意味があったわよね』

 

 有名どころではヘラクレス。『ヘラの栄光』という意味である。彼の苦行の数々が、女神ヘラの差し金であったことを考えれば、なんとも皮肉と言うか……。

 

 女は恐ろしい。

 

『よく知ってるね。さすがは優等生だなあ』

 

 ヤン曰く、約五千人の同期生の中の上の成績で卒業した。彼が告白した射撃や白兵戦の駄目さをカバーして、なお中の上ということは、得意教科は突き抜けて優秀だったということになる。

 

 この自己評価が低いサーヴァントの語らぬ点をこそ、凛は汲み取らないといけないのだろう。

 

『あなたには負けるけどね。で、意味は?』

 

『【高みを行く者】だ』

 

 智将ヤン・ウェンリーの旗艦の名は、主にぴったりな名前であった。千六百年前の遠坂凛が、それを真実の意味で知ることはないのだが。

 

 ――今はまだ。



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2章 運命は夜に訪れる
6:降臨


 とある世界では、校庭で行われた赤と青の剣戟。しかし、黒と青の遭遇は、火花さえ散らさぬうちに終結し、弓道場の掃除に勤しんでいた少年の耳に届くことはなかった。

 

当然、彼は掃除を終わらせ、何事もなく帰宅を果たした。そんな彼を、思いがけない客が待ち受けていた。

 

「遅かったのね。まちくたびれちゃったわ」

 

 白い肌に白銀の髪。満月に足りない月光と、門燈の淡い明りでも、最上級の紅玉を思わせる瞳は明らかだった。まるで、冬の妖精。年齢は小学校の高学年ぐらいか。

その身を飾るのは、いかにも高価そうな紫色のコートと帽子。それが余計に、少女を等身大のビスクドールのように見せていた。整いすぎるほど整った顔立ちは、一度目にしたら忘れないだろう。

 

 彼も覚えていた。

 

「む。きみは、昨日の……」

 

「あら、おにいちゃん。昨日教えてあげたのに、まだ呼んでいなかったの?」

 

 少年の琥珀の瞳を見上げて、紅玉が妖しく瞬いた。

 

「せっかく教えてあげたのに。早く呼ばないと、死んじゃうよって」

 

「な、何を言っているんだよ!?」

 

「はじめまして、わたしはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン」

 

 そう言って、少女は優雅にコートの裾を持ち上げて、貴婦人の礼をした。

 

「あ、ああ、よろしく。ええと、おれは……」

 

「ねえ、お客さまをいつまで外で待たせるのかしら」

 

「あ、悪かったな」

 

 何が何やら呑み込めぬうちに、彼は門の鍵を開けて、戸を開けた。

 

「ええと、イリヤス……イリヤちゃんだっけ。とりあえず、話を聞くからさ」

 

 少年は、彼女を先導して自宅の敷地へと歩み入った。背後で、少女の瞳に一瞬にして険が宿ったのには気付かずに。十歩ほど歩いたところ、背後の少女からの言葉をかけられた。

 

「……わたしね、その呼び方をされるのは嫌いなの。

 それも、よりによってあなたになんかね」

 

「え?」

 

 声に籠められた激しさに、彼は振り向いた。そこに、鉛色をした死の具現が立っていた。巨人だった。荒々しく削りだされた巨岩の彫像のような筋肉に鎧われた。絶対に人ではない。三メートルちかくはありそうな巨躯だが、巨人症の人間ではありえぬ、黄金比の体格を持っている。

 

少年は呆然と口を開き、本能的に後ずさった。

 

「せめて、苦しまないように殺してあげる。やっちゃえ、バーサーカー!」

 

 鉛色の巨人は、おどろに乱れた髪を振り立てて咆哮した。その形相の恐ろしさに、少年は後ずさり、踵を返して土蔵に逃げようとした。しかし、巨体に似合わぬ俊敏さを持つ剛腕が、背後から彼を痛打した。大型車にはねられたのに等しい衝撃。年齢の割にやや小柄な彼は、軽々と吹っ飛ばされ、進行方向へと短い空中遊泳を強制される。そして、目的地の扉へと叩きつけられた。

 

「ぐ、あ」

 

 体重を逃しかけていたのが幸いして、即死には至らなかった。だが、それだけだ。不吉な響きと共に、複数個所の骨折をしたのが、はっきりとわかった。そして、それが内臓を傷つけたであろうことも。喉の奥から熱い塊がせり上がり、鉄の味と匂いをさせて口からこぼれ出た。声も出ないほどの激痛に苛まれながら、彼は衝撃で開いた扉から、自らの工房、土蔵へと這い入った。

 

 なぜ、どうして、何があった? 夕日色の髪の下に疑問が渦巻く。それもあまり長いことではなさそうだった。薄れゆく意識をかき集め、彼はもがいた。不可思議な痣の浮く手を伸ばして。

 

もっと、少しでもアレから逃げなければ。このままでは死ねない。養父とのあの月下の約束も果たさないまま。

 

 思考とは裏腹に、もう力が入らなかった。彼は咳き込み、更に喀血した。その血が、這いずってめくれたシートの下の魔法陣に零れおちた。

 

 ここに召喚の条件は整った。令呪の兆しを備えたマスター。魔法陣に対価たる血液が流し込まれ、エーテルが回路を駆け巡る。王冠より出で、王国に至る三叉路へと注がれ、繰り返して満たされる。世界の外、根源『』との境界、英霊の座より天秤の守り手を招く。

 

 そして四方より風が降り立った。

 

 奔騰する銀と青の光。それに合わせたかのような武装の騎士。白磁の肌、金砂の髪、柊の葉の緑の瞳。死の直前の幻影か。

 

たとえ幻影だとしても、あまりに美しい少女であった。倒れた少年に歩み寄り、膝を付く。白銀の甲冑が鈴に似た音を鳴らす。地獄のような苦痛をも、一瞬忘却させるほどの美であった。

 

「あなたが私のマスターか」

 

 なにやらわからぬうちに、彼は声もなく頷いた。実際、声など出せそうになかったが。少女は、金砂の頭を頷かせた。

 

「ここに契約は完了した。これより我が剣は汝と共にある」

 

 それはいいから助けてくれ。声が出せたら彼はそう言ったことだろう。意識が混濁したのか、痛覚が麻痺してきたのか、痛みを感じなくなってきている。もうこれは駄目かも知れない。そこに軽い足音が聞こえてきた。

 

「あら、ようやく呼んだの」

 

 白銀の少女は、土蔵の中に立つ金髪の少女を認め、更に眼差しを険しくした。

 

「なんで、あなたがここにいるの、セイバー!

 ちょうどいいわ、バーサーカー、この裏切り者も一緒に殺しなさい。

 八つ裂きにしてやるといい!」

 

「いやいや、そいつは穏やかじゃないね」

 

 この状況に全く不似合いな声が、土蔵の外側から聞こえてきた。

 

「私は冬木の管理者(セカンドオーナー)、遠坂のサーヴァントだ。

 まあ、完全に通りすがりの者なんだが、一応魔術は秘匿するんだろう?

 そういう、不可能犯罪の死体を出すのはやめてもらえないかな」

 

 遠坂凛は、隣のアーチャーに何とも言えない視線を向けた。タクシーで帰宅の途中、尋常でないエーテルと魔力の発動を感知し、この武家屋敷に乗り込んだ二人だった。鉛色のサーヴァントは、ほとんど全ての能力が最上級というとんでもない化物で、この弱いアーチャーが逆立ちしたって勝てる相手ではない。

 

「アーチャー、全っ然、仲裁になってないんだけど……」

 

 だが、この言い草は、バーサーカーのマスターのお気に召したようだった。小学校高学年ぐらいの外見に似合わぬ笑みを浮かべると、妖艶なほどの流し目をアーチャーに送った。

 

「ふうん、トオサカのサーヴァントは面白いこというのね。わたしがこの二人を殺すのは止めないの?」

 

「まあ、止めてくれるとありがたいとは思うけれど、聖杯戦争も結局は殺し合いだから、

 彼らを助けるために、私のマスターが死ぬようなことをするつもりはない。

 というよりも、私には実力行使で止める力はないしねえ」

 

 黒髪をかきながら、穏やかな口調で冷静かつ辛辣なことをいう。それに白銀の少女は目を細めた。

 

「あなた、ちょっとキリツグみたいね」

 

「ええと、どちらのキリツグさんかな」

 

「エミヤキリツグ。十年前、アインツベルンのマスターとして参加した、わたしの父よ!」

 

「はあ。この家、衛宮という表札が掛かっていたね。

 じゃあ、あそこに倒れているのは、ひょっとして君のお兄さん?」

 

「そんな奴なんて知らない! キリツグはわたしを捨てたんだもの!

 そこのセイバーと一緒に裏切ったのよ。お母様を死なせたくせに!」

 

 激しい言葉に、土蔵の中のセイバーは、釘づけにされたように動きを止めた。アーチャーはまた髪をかきまぜると、首元のアイボリーのスカーフを外しながら歩き出した。

 

「通りすがりの者がすぐさまどうこうは言えないんだが、

 そういう恨みを含めて、君たちは話し合いをすべきじゃないのかと私は思う。

 そのためには、彼を病院に運ばないと。その出血量だと、あと十分保たないよ」

 

 そういうと、すたすたと土蔵に入っていく。凛も慌てて後を追おうとした。同級生の衛宮士郎の傍らに立つ少女騎士。彼女こそ、凛の希望だったセイバーに違いない。見事な戦装束から察するに、相当に名のある騎士だったのだろう。瀕死のマスターのせいか、能力はセイバーとしての基準を下回るものだが、それでもアーチャーよりも遥かに強い。

 

「いいよ、凛。君はそこで待っていてくれ」

 

「だって、衛宮くんの手当をしないと!」

 

 そこで心話が聞こえてきた。

 

『正直、重傷すぎると思うよ。

 私の視界に同調して、君に治せそうな怪我なら来てくれ。

 しかし無理なら、君はそこにいなさい。

 セイバーが私を殺したら、君は希望の相手と契約が可能だ。

 その選択肢を残せるようにね』

 

 それは凛の足を停めるに充分だった。冷徹なほどの判断と思考。王である凛が生存していれば、歩である自分を切って飛車角の入手が可能だと。

 

 そんな考えを窺わせない様子で、アーチャーは悠然と怪我人の隣にしゃがみこみ、世間話でもするように声を掛けた。

 

「ええと、君は衛宮君でいいのかな。私の声が聞こえるかい」

 

「う、あ……ぐ」

 

「大丈夫じゃあなさそうだが、ちょっと体を動かすよ」

 

 そう言うと、手際のいい動作で、側臥位に姿勢を変えて、スカーフで口腔内の出血を掻きだす。それに眉を寄せると、少年の上半身を触診した。ようやくセイバーが我に返った。

 

「マスターに何を!」

 

「落ち着いて、応急処置さ。あれ、この症状、絶対に肋骨骨折、肺穿孔、

 外傷性気胸を併発していると思ったんだが。骨折箇所がわからないな……」

 

 アーチャーはまた眉を寄せた。先ほどまで絶え絶えだった息が、明らかに整いはじめ、脈も安定している。この出血量なら、絶対にショック症状を起こし、急速輸血が必要になるはずなのだ。思ったより怪我が軽かったというだけでは、失血症状の改善の理由にはならない。肺に貯留した血液による呼吸困難も、自然に治るものではないのだ。

 

「変だな。なんだか、怪我が治っているみたいなんだが。

 これも魔法、いや魔術なのかい」

 

 従者に質問を向けられた黒髪の美少女は、左右に首を振った。アーチャーのマスターは言う。

 

「魔術は充分に集中して行わないと、それこそ死に至るのよ。

 そんな半死半生の状態で、大怪我を治すような魔術を使うのは無理だわ。

 他者に魔術を施すのは最も難しい。こんな位置からではわたしにもできない」

 

 鉛色のサーヴァントのマスターには聞く必要もない。アーチャーは、青と銀で武装した金髪のセイバーを見上げた。

 

「じゃあ、セイバー、これは君の力かい?」

 

「いいえ、私は……」

 

 かつてはできた。今は失われた宝具を思い、沈痛に首を振る。

 

「いや、凄いな。もう顔色もよくなってきた。

 これを解明した方が、聖杯うんぬんより人類に役立つような気がするんだが」

 

 軍人として、いやというほど負傷者を見慣れたアーチャー、ヤン・ウェンリーの見立ては、かなり正確なものだ。本来ならば、そろそろ下顎呼吸へと移行し、三分以内に臨終の息を吐いているだろう。なのに、もうすぐ意識を取り戻しそうなほどに回復している。脱いだ軍服の上着を、衛宮少年にかけてやりながら、アーチャーは肩を竦めた。

 

「わけがわからないが、まずは人死にが出なかっただけよしとしようか。

 そうだろう、バーサーカーのマスター。

 恨み事があるなら、それを伝えて原因を探るべきじゃないか。

 こんなに大騒ぎしているのに、誰も彼の家から出てこない。

 まだキリツグさんとやらが帰宅していないだけか、あるいは一人暮らしなのか。

 ならば、どうして衛宮くんはそういう境遇になったのか。

 聞いてみてからでも遅くはないだろう」

 

 この言葉に、宝石色の瞳の持ち主たちは、そろって目を見開いた。ルビーの瞳の少女が問う。

 

「どういう意味?」

 

「十年前まで、衛宮キリツグ氏と同居していた実子が知らない、私のマスターの同級生。 

 つまり、彼はキリツグ氏の実子ではない。そして、バーサーカーのマスター……」

 

「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」

 

 そう言うと、彼女は顎を逸らした。

  

「レディに名乗らせたんだもの、あなたも応えなさいよ、トオサカのサーヴァント」

 

 アーチャーは苦笑すると、さまにならない敬礼をした。

 

「これは失礼。私はアーチャーのサーヴァントだよ、一応。

 フォン、ということはドイツ系かな。

 ではフロイライン、失礼な質問だが、君は一体いくつだい」

 

 イリヤスフィールは、その質問に艶然と微笑んだ。

 

「本当に失礼ね、レディの年齢を聞くなんて。

 でも、アーチャーには教えてあげる。あなたは紳士で賢いもの。

 他の人には秘密よ。こっちに来て」

 

「はいはい」

 

 言われるがままに、今度はイリヤスフィールへと歩み寄り、後ろに控えるバーサーカーにも頓着せずに、しゃがんでイリヤの耳打ちを受ける。彼のマスターと、セイバーは、呆気に取られて見ていることしかできなかった。外見は凛とさほど変わらないのに、完全に言動がお父さんである。ああ、里子はいたみたいだっけ。

 

「ははあ、なるほどね。ではフロイライン、君の事情をよく話した方がいい。

 そして、彼の事情も聞いてあげた方がいいよ。

 君が言う、十年前の聖杯戦争。それが五百人以上の死者を出した冬木の大災害と関連し、

 記憶の断絶を招き、親を失った子、子を失った親を生み出しているとみて間違いない。

 また、娘を失わせた夫を、妻の実家が許すだろうか。

 孫に向けて、娘の夫を詰るのではないかな?

 これは一般論だがね」

 

 イリヤスフィールは、しゃがんで視線を合わせたままで語る、アーチャーの漆黒の瞳を見つめた。彼女の父にどこか似た、不思議な英霊を。ギリシャの大英雄、ヘラクレスを従者にしている聖杯の化身にはわかる。彼が実はとてつもなく格の高い英霊であることが。彼を本来の力で召喚することは、どんな魔術師、いや魔法使いにも不可能。

 

「本当に、あなたはおもしろいサーヴァントね、アーチャー。

 じゃあ、そこのセイバーのマスターとの話し合い、あなたも同席していいわよ。

 というより、あなた、わたしのサーヴァントにならない? 

 わたしなら、もう一人くらい平気よ」

 

「ちょっと待ちなさいよ、アインツベルンのマスター。

 一応、私も名乗っておくわ。私は遠坂凛。

 そして、そいつは私のアーチャーよ。へっぽこだし、とんでもない魔力食いだけど。

 それでも、一人でマスターとサーヴァント、二組の中に放り込む真似はできないわよ」

 

「あなたもおもしろいマスターね、リン。

 マスターがサーヴァントを守るなんて、逆じゃない。

 でもいいわよ。アインツベルンのマスターとして、冬木の管理者には礼を尽くすわ」

 

 アーチャーは遠い眼をした。外見年齢はどうあれ、美少女に取り合いをされるなんて生前もなかったのに。この姿の時こうだったら、卒業パーティーで切ない思いをせずにすんだのだが。人生ではままならず、死した後に機会が巡るとは、なんと切ない話だろうか。

 

 まあ、調停役として期待されているだけだろうけれど。



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7:混迷

「あ、あの……?」

 

 衛宮士郎のサーヴァントは、急展開を呑み込めていないようだった。聖緑の視線が、銀髪と赤毛、長さの異なる黒髪の間を彷徨う。

 

 黒髪のアーチャーが労わるような表情を浮かべた。

 

「なにやら因縁があるようだが、とりあえず彼を室内に入れてあげよう」

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーは、小柄な少年を肩に担いだ。生前の十倍の腕力は大したもので、人ひとりが枕程度の重さにしか感じない。再び学生時代を思い返して、遠い目になるヤンだった。この腕力があれば、白兵戦技のテストも、もうちょっと楽勝だっただろうに。

 

「怪我が治っても、肺炎で死んだら困るじゃないか。

 ええと、セイバー、霊体化して内側から鍵を開けてくれないかな」

 

 青年の申し出にセイバーは頷き、ややあって美しい眉を顰めた。

 

「……霊体化ができないようです」

 

 遠坂凛は首を傾げた。

 

「え? ……まあ、無理もないかも。マスターがそんな様子じゃあね」

 

「では、私が失礼して鍵を開けさせてもらおう」

 

 これはバーサーカーにはできない。室内で実体化したら、頭が天井を突き破るだろうから。アーチャーは少年をセイバーに託すと、霊体化して戸をすり抜け、実体化して内側から鍵を開けた。すると、軍服とスカーフが元に戻っている。

 

「不条理だよなあ。霊体になると服は戻ってるし。

 でも飲み食いしたものはどこかに消える。どうなっているんだろう」

 

 首を捻りながら戸を開くと、小柄なセイバーがマスターを姫抱きにして立っていた。とても男前な立ち姿である。アーチャーはさらに首を捻った。

 

 英霊の姿は、その人物を特定するのには役立たないと、ランサーの姿から学んだヤンだ。伝承によると、古代ケルト人は、出陣の際に裸身を青く染め、石灰の塗料で加護のルーン文字を肌に描いたという。その概念が、召喚者のイメージなり、聖杯のコピー機能なりで、全身タイツへと変貌したのではなかろうか。

 

 一応の根拠はある。槍を武器とする西欧や中近東の名だたる英雄は少ない。彼のマスターは、クー・フーリンを呼び出すつもりで触媒を準備したことだろう。

 

 一方、遠坂凛はヤン・ウェンリーを知らない。触媒も偶然あった万暦赤絵の壷だ。なのにヤンは、ほぼ生前の姿で召喚されている。大分若返っているけれども。

 

 だから、セイバーの色鮮やかな装束も、生前身に着けていたものとは限らない。鮮やかな青のドレスから判断するなら、藍が伝播した中世以降のものだと思うが、だいたい千年間ぐらいが候補になる。

 

しかし、これも怪しいものだ。例えば聖母マリアは、絵画では赤と青の服を身につけている。だが、紀元一年のころの大工の妻が、そんな服を着られるはずがない。宗教的な象徴を取り入れて、後世の画家が創作したのだ。

 

 女騎士というと、ジャンヌ・ダルクが有名だが、彼女は村娘だった。あんな全身鎧を身につけて、滑らかに動けるとは考えにくい。増した力とは関係のない、挙措動作の慣れというやつである。彼女の動作は男性的だ。つまり、さっぱりわからない。

 

「う~ん、今夜は文献を当たろうと思っていたんだがねえ」

 

 靴を脱いで、日本家屋に上がり込む。これも聖杯の賜物。なんとか誤魔化して学習法として売ることができれば、確実に巨富を得ると思うのだが。

 

小柄なセイバーは、力こそアーチャーに勝るが、自分よりも背の高い少年を抱えて歩くには腕の長さが足りないようだ。それを横抱きにしているものだから、廊下の壁にマスターの頭をぶつけかねない。

 

「セイバー、その抱き方はよくないよ。肩に担ぎあげた方がいい。

 いや、やっぱり私が代わろう。

 怪我人をその甲冑の肩に担ぐのはかわいそうだ」

 

 少年はふたたびアーチャーが運ぶことになった。

 

「文献ってなんの?」

 

 雪の妖精が、ひょっこりと下から覗き込む。バーサーカーは霊体化させてくれたようだ。

 

「ああ、私たちは第四次聖杯戦争を調査しているんだよ。

 私は、この聖杯というものが、どうにも信用できなくてね」

 

 これに、セイバーが顔色を変えた。

 

「何が信用できないというのか、アーチャーのサーヴァントよ」

 

「要するに、たった六人の人間の命で、なんでも願いが叶うというところが。

 私の父は船の事故で、乗組員ごと事故死した。あの時の死亡者数は十五人だった。

 その半分にも満たない犠牲で、そんなに都合のいいことは起こらないと思うんだ」

 

「あら、サーヴァントの命だってそうじゃない」

 

「サーヴァントの命、ねえ」

 

 アーチャーは苦く笑った。

 

「命という点なら、私たちは勘定に入らない。結局は幽霊のコピーだからね。

 私なんて、国を守るためにどれほど人を殺しただろうか。

 でも、願いなど叶わなかったよ。

 たった十数年の平和でよかったんだがね」

 

「私も国を守るため戦った! そのために聖杯が必要なのです」

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーは首を傾げた。

この十五歳ほどのセイバーは、欧州の英霊だと思われるが、ゲルマン系やスラブ系ではなさそうだ。金髪だからノルマン人の血を引いているかもしれないが。

 

 だが、こういう甲冑の騎士のいた時代は、中世ヨーロッパ。六世紀から十五世紀ほどの間である。中間時期をとっても千年前だ。二十一世紀の聖杯で彼女の国が救えるものなのか。聖杯は、時間にさえ干渉できるのか。とてもとても疑わしい。

 

 光速の壁を越えて、三千光年を二十日で踏破する千六百年後でも、時は進むのみで後戻りはできない。マスターによれば、英霊である自分は時間から切り離された『座』にあり、だから時を越えられたのだと。このあり得ぬ奇蹟を、素人歴史家として楽しんでいたのだが、なにやらきな臭いものを感じる。

 

「私はこの時代に来られただけで満足だし、伝説の英雄に一人は会えた。

 その、ちょっとイメージとは違ったがね……」

 

 光の御子、クー・フーリン。ヤンにだって理想のイメージというものはあった。美しくも猛々しい、黒髪に青い瞳のブラックアイリッシュの戦士。白いリネンのローブを飾る、ルーン文字を象った百の黄金のブローチ。そういう感じの。

 

 実物が全身青タイツだなんて、あんまりにもあんまりだ。幻想が丸潰れ(ブロークン・ファンタズム)である。絶対にコピーのエラーに違いない。そういうことにしよう。歴史マニアの精神のささやかな安定のためにも。

 

「私は聖杯はいらないよ。

 従って、マスターの安全が叶うのなら、君たちと敵対するつもりはない。

 というよりも、私なんて敵にもならない。違うかい?」

 

「ちょっと、なに勝手に話を進めているのよ!」

 

 上がり込んで、少年を横にできる場所を探していた凛が、奥の部屋から声を荒らげる。

 

「でも、こちらのフロイラインの従者を見ただろう。

 彼に私が勝てると、一かけらでも思うんなら、私は君の正気を疑うよ。

 自慢じゃないが、私は首から下は役立たずだと先輩に言われたことがある」

 

「馬鹿なこと言わないでよ。自慢じゃないどころか恥じゃないの!」

 

 遠坂主従のかけあいに、イリヤスフィールは吹き出した。

 

「あらあら、セイバーには勝てるの」

 

「いや、それも無理だが、私とマスターは一応彼女のマスターの恩人だろう。

 騎士たるもの、相応の礼を尽くすべきじゃないのかな」

 

 セイバーは反論の言葉を封じられた。このアーチャーは、実に嫌なところを狙ってくる弁舌の持ち主である。しかも、これはまったくの正論であった。騎士道に背いた行いにより、剣を失ったことのある彼女にとって、急所を突き刺されたに等しい。

 

「凛、その部屋でいいのかい」

 

「ええ、布団も敷いたわよ」

 

「いや、そのまえに着替えさせよう。

 なにか敷物と湯とタオルを。あとハサミとゴミ袋も」

 

 凛は顔を強張らせた。

 

「ハサミって……」

 

「この制服はもうだめだよ。クリーニングに出しても落ちないし、大騒ぎになる。

 フロイライン、彼との話次第では弁償してくれるね?」

 

「じゃあ、わたしが切ってあげましょうか」

 

「それも駄目。怪我をさせないように服を切るにはコツがあってね。

 なにより、こういう汚れ仕事はレディには似合わない。

 血液は感染源だからね。処置は病死しない幽霊の方がいいのさ」

 

 このくらいの社交辞令は、アーチャーも言うのだった。中身は33歳、パーティーなどではそれなりに肉食系女性をかわしてきたのである。

 

 この白銀の妖精も、ちゃんと淑女として遇するべきだろう。貴族号をもち、千年も孤高を誇った名門。それは婚姻などによる、財産の補充は必要ないということだ。さぞや金持ちでプライドが高いだろう。だが、権威は権威を尊重する。そこらが落とし所ではないだろうか。

 

 レディ扱いされて、イリヤスフィールの表情がほんの少し緩みかけた。

 

「バーサーカーは強くて優しいんだけれど、たった一つ欠点があるの。

 おしゃべりができないのよ。リンはいいわね」

 

「いやいや、こちらのセイバーは綺麗で強い。凛は彼を羨ましがると思うよ。

 召喚されたとき、セイバーが良かったって言われてしまったからね。私も同感だ。

 私がサーヴァントを持つ側なら、冴えない男より、

 美しく凛々しい女性騎士の方がいい」

 

 気まずそうに沈黙するエメラルドの瞳に水を向けたつもりだったが、返ってきたのはルビーの瞳からの弾劾だった。

 

「でもそのセイバーは裏切り者のウソつきよ。

 ……守ると、わたしのところに帰してくれると誓ったのに。

 お母様はそう言ってたわ!」

 

「そんなっ……聞いてください、イリヤスフィール!」

 

 またもや修羅場が演じられそうな気配である。頼まれた物を運んできた凛も困惑しきっている。アーチャーは、まだ意識を取り戻さない少年の頬を軽く叩いてみた。

 

「そのね、申し訳ないけれど、そろそろ起きてくれないかなあ」

 

 当然、答えはない。アーチャーは溜息をついて、修羅場の上演者らを追い出しにかかった。

 

「じゃあ、着替えをさせようと思うので、レディは席を外してもらいたいな」

 

「それはできません。私はサーヴァントとしてマスターを守らなくては」

 

「うん、まあその方がいいか。騎士なら血は見慣れているだろう」

 

 アーチャーは、あっさりセイバーの申し出を受け入れた。彼女とイリヤスフィールを分断することが、まずは重要だと判断したのである。凛も彼の心話を受け取り、密かに共同戦線を形成する。

 

「ここはアーチャーに任せてよ。

 あれでも軍人だから、けっこう手慣れてるみたいだし」

 

 凛が促して、ようやくイリヤスフィールは立ち上がった。セイバーに強烈な一瞥を投げると、無言で部屋を出ていく。

 

「やれやれ、君たちは相互理解が必要そうだね。

 この子の父も衛宮、あの子の父も衛宮、君のかつてのマスターも衛宮。

 そして名前は、すべてキリツグじゃないのかな」

 

 なかばセイバーに聞かせるように呟きながら、まずは顔を汚した血を拭う。次に、少年の汚れた制服をハサミで切り、ゴミ袋へと詰めていく。年齢の割に鍛えられた、少年の上半身が露わになった。皮膚にべったりと付着している血に、アーチャーの眉が寄る。

 

「やはり、皮膚を損傷するような、激しい変形を伴う骨折があったんだ。

 どうして治るんだ。

 十分ほどで出血と呼吸困難で死にいたる傷のはずなのに」

 

 胸部を拭き清めると、また側臥位にさせる。背中の血にもなんとも言えない表情になった。

 

「これは、肩甲骨と背骨も折れたな。どうやって、あそこまで這えたんだろう。

 この子は平和な日本の、普通の学生のはずなのに。なぜだろうね」

 

「アーチャー、あなたは医者なのですか」

 

「いや、違う。軍人だから、人を殺すのと救うのと、双方の知識を学んだだけだよ。

 人体の急所を知る点では、表裏一体だからね」

 

 致命傷を負いながら、冷静に止血を行ったヤンである。恐らくは助からないと、はっきり認識しながらも。

 

 そして、この少年の怪我の痕跡から推測するに、肺が血で充満するような出血を起こしたはずだ。その量は一リットル前後、呼吸不全と出血性ショックを起こし、十五分以内に死亡する。

 

 だが、今は血色もよくなり、体温や呼吸、脈も平常。重ねて言うが、ありえないのだ。それこそ魔法でも使わないかぎりは。

 

「いやはや、上着も駄目だが、ズボンも駄目だね。もったいない」

 

 土蔵の石の床を這ったので、ズボンの膝や腿の布地が擦り切れ、穴が開いていた。これも脱がせてゴミ袋に突っ込む。そしてようやく、新聞紙を敷いた畳の上から布団へと移動させ、凛が出したパジャマを着せてやった。

 

「やっぱり、腕力があるって楽でいいなあ。……あ」

 

 やはり、これだけの動作をさせれば意識を取り戻しもするだろう。夕日色の短めな前髪の下、潔癖そうな印象の眉が寄せられる。瞼が動き、琥珀の瞳が姿を現し、何度か瞬きを繰り返して、覗き込む黒髪黒目の青年に焦点が合う。

 

「………じいさん?……」

 

 まだ意識がはっきりしない少年の、罪のない一言だったが、難しい年齢だったヤン・ウェンリーの心をざっくりと切り裂いた。

 

「ひどいっ……。それはあんまりだ……。私だってまだ若いんだ。

 実際の歳だって、世間から見たら若いだろうそうだろう」



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8:覚醒

「ひどいっ……。それはあんまりだ……。私だってまだ若いんだ。

 実際の歳だって、世間から見たら若いだろうそうだろう」

 

 アーチャーは、誰にともなくぶつぶつと訴えかけた。妻や被保護者なら同意し、先輩なら一蹴しただろうが。緊張感のない嘆き節は、少年の記憶の中のやや低い掠れ声ではない。若々しい、温かみのあるテノールだ。その差が彼を一気に覚醒させた。

 

「なっ……、誰だ、あんた!」

 

 セイバーが聖緑の瞳に喜色を浮かべ、アーチャーを押しのけて少年ににじりよった。

 

「マスター! 目が覚めたのですね!」

 

「な、なんで、誰だよ、その子も!? なんなんだよ、一体!?」

 

 その反応に、アーチャーは眉を寄せた。なにかがおかしい。瀕死だったはずの少年が跳ね起きて、布団の上を後ずされるほど元気なことはさておくとして。

 

「その、なんと言うか、何と言ったらいいのか、何と言うべきか……」

 

 アーチャーは溜息をつきながら肩を竦め、ついでに黒髪をかきまぜるという器用な動作を無意識にしながら、心話でマスターを呼ぶ。凛が駆けつけて来るまでの短い間だろうが、とりあえず当たりさわりのない質問をした。

 

「こんばんは、勝手に上がり込んで申し訳ない。私はアーチャーというものだ。

 順を追って説明しようとは思うが、最初に教えてほしい。

 どこか痛いところはないかい? 息苦しいとか、気分が悪いとか、

 少しでもおかしなところは?」

 

「え、あ、別に何もないぞ」

 

 自分より少し年長の青年の落ち着いた質問に、彼は反射的に答えた。

 

「そりゃあなによりだ。ところで、君の名前を教えてくれないか」

 

「え、衛宮士郎だけど……」

 

「士郎君か。いい名前だね。とりあえずはよろしく。

 まあ、詳しいことは私のマスターから説明があると思うがね」

 

 琥珀色が大きく見開かれ、吸い込んだ息が笛の音を立てる。彼はようやく、魔術使いとしての感覚で、目の前の少女と青年を捉えた。人の姿をしていても、これは人ではない。輝かしいほどに美しい、青と白銀の騎士装束の少女。

高校の先輩ぐらいにしか見えない、黒とアイボリーの軍服っぽい格好の、そこらにいそうな青年。外見は全く違うが、本質は同じ。信じられないほど高濃度のエーテルで編まれた魔力の塊だった。――あの鉛色の巨人と同じ。

 

「マスターってなんだよ!?」

 

 その時、廊下から二組の軽い足音が聞こえてきた。襖が開けられて、黒髪と銀髪と、二人の少女が入ってきた。

 

「こんばんは、衛宮くん。いえ、セイバーのマスターと呼ぶべきなのかしら」

 

「と、遠坂!? なんで、遠坂がここに? や、そ、それより……」

 

 穂群原高校の男子生徒が、あまねく憧れる高嶺の花、遠坂凛。しかし、その隣から敵意をこめた紅玉の視線の錐を突き刺してくるのは、先ほどイリヤと呼んだら激怒した少女だった。

 

「何のことなんだ。それに、きみ、さっきのアレは……え、なんでだ?

 俺、さっきアイツに殴られて、それで……なんで」

 

 断絶していた記憶が蘇える。月光の下、巨人の剛腕にはねとばされて、体のあちこちから鈍い骨折の音を聞いた。激痛の中、血を吐きながら這いずって逃げようとしたはず。

 

 突如として沸き起こった青銀の閃光、渦巻く風の中に現れたセイバーと名乗った少女。彼女の言葉に頷いて、それからの記憶はない。彼は混乱の極につき落とされた。いまごろになって震えが起きる。

 

「そう、そうだ。あの時、俺、もう駄目だってぐらい大怪我したはずなんだ」

 

 この言葉に、アーチャーの下がり気味の眉と目が、二十度ほど上向きに角度を変えた。

 

「あそこに逃げて、なんだか光ったと思ったら、あのセイバーって子が現れて……」

 

「なるほど。私はいままで勘違いをしていたようだ」

 

 黒い瞳がイリヤスフィールを射ぬく。それは、数百万人の部下を、一声で統率した司令官のものだった。

 

「ルール違反を犯したね、バーサーカーのマスター。

 セイバーのマスターと交戦したのではなく、

 バーサーカーに殺されそうになったから、彼はセイバーのマスターとなったんだ。

 一般人に手を出したのなら、管理者のサーヴァントとして

 君をそのままにはできない。

 彼への釈明と謝罪、賠償をしていただこうか」

 

 凛は、権限の正しい使い方というものを目の当たりにした。無力なアーチャーが、最凶のサーヴァントであるバーサーカーのマスターを、理路整然と糾弾し、冬木の管理者の代理として要求をとおす。

 

 いくら強大な魔術師でも、結局は十代の箱入り娘。軍隊という階級社会で、その最高位に就いた人間の毅然とした態度に気圧される。イリヤスフィールは一瞬言葉に詰まったが、ぷいと視線を逸らして言った。

 

「わ、わたしは昨日、ちゃんと警告をしたもの。

 早く呼ばないと死んじゃうよって。だって、令呪の兆しがあったわ」

 

「それだけかい? 彼に告げるべき内容は、

 最低でも、七人の魔術師が殺し合いを演じる聖杯戦争の参加資格者であることと、

 それにどう対応するかということだ。

 使い魔のサーヴァントの召喚なり、リタイアするなりを判断すべしとね。

 そう言わなけりゃ、警告とは呼べないね。情状酌量にはならないよ。

 セイバーが召喚されたのは、結果論でしかない。

 そして、不可解な現象で士郎君の怪我が治癒したのもだ」

 

 そう言って、イリヤスフィールの抗弁を却下する。彼が語った警告すべき内容は、そのまま衛宮士郎への簡潔な説明となった。士郎の目が大きく見開かれたが、アーチャーはかまわずに続けた。

 

「私の診たてでは、最低でも肋骨、肩甲骨、脊椎の骨折。

 それによる肺穿孔、外傷性気胸と肺動脈損傷。

 出血によってショックを起こし、心臓が止まるのが先か。

 肺に充満した血によって苦しみ抜いて溺れ死ぬのが先か。

 リミットは十五分以内。いずれにせよ、彼はもう生きていない。本来ならば」

 

 冷静な口調で、聞いているだけで痛くなるような怪我の所見が並べたてられる。これには元怪我人だけではなく、入室してきた二人まで顔色を悪くした。いや、実はセイバーもだ。聖杯を望んで召喚に応じて、すぐさま消滅を強いられるところだった。

 

 凛は従者に抗議した。

 

「ちょっとアーチャー、生々しすぎる表現はやめてくれない?」

 

「おや、マスター、君は戦いに挑む気だったんだろう?

 敗者は当然こういう傷を負い、まあ大抵は死に至る。

 救命に成功しても、残りの人生は重い後遺症と道連れだよ。

 それも承知で、参加したんじゃないのかい。

 フロイライン・アインツベルン、君もね」

 

 その気になれば、ヤン・ウェンリーはいくらでも剥き出しの皮肉や毒舌を吐けるのである。彼はこの時、本気で立腹していた。こんな年端もいかない子どもたちが、二百年姿も見せぬ聖杯とやらを奪い合って、なぜ殺し合いを演じなくてはならないのか。

 

 それは、親や保護者の教育が悪いに決まっている。聖杯戦争を魔術師としての栄誉だと、勝者にはすべての願いが叶えられるのだと教え込まれれば、子どもは疑問も持たずに『敵』を殺そうとするように育つ。

 

「なぜ、簡単に殺そうとするんだ? 人の命はとても尊い。

 失われたら、二度とは甦らない。そして、誰もその人の代わりはいない。

 君の母上のように。そして多分、父上のキリツグ氏のように。

 彼を失えば、君と同じように嘆き怒る人が、何人もいるだろうに!」

 

 こんなに真っ当に叱ってくれる相手は、イリヤスフィールのこれまでの人生にはいなかった。性格の根っこに外見相応の幼さを持つ彼女は、しゅんとして頭を垂れた。

 

「ごめんなさい……」

 

「謝るべき相手は、私じゃないよね。君にはわかるだろう?」

 

「う……ごめんなさい」

 

 ついに、彼女は白銀の頭を少年に下げた。戦い方は人それぞれとアーチャーはランサーに語ったが、これがまさにそうだった。でも、と凛は思う。完全に先生か父親だわ、こいつ。

 

「あの、ごめん。俺にはなんだかさっぱりわからないんだ。

 君が誰なのか、爺さん、いや切嗣とどういう関係なのか。

 あのセイバーって子がなんなのか。

 それよりも、なんで遠坂がここにいるのさ?

 そのアーチャーって人は誰なんだよ」

 

 衛宮士郎の疑問も、一気に堰を切って溢れだした。アーチャーは、ベレーを脱ぐと髪をかき回した。

 

「まあ、そうだね。普通はそうなるよなあ」

 

「ウソよ。だって、キリツグが養子にしたんじゃない。

 なのに、聖杯戦争を知らないわけがないのよ。

 キリツグは前回、アインツベルンのマスターとして参加したんだから!

 そのセイバーと一緒にね! そして、そのままわたしを捨てたんだからっ」

 

 アーチャーは困った顔をして、夕日色の髪の少年と新雪の髪の少女を交互に見やった。

 

「なるほど、君たちの知識に食い違いがあることはよくわかった。

 十年前の聖杯戦争がその境界になっていることもだがね。

 しかし、とりあえずは、順に自己紹介から始めるべきじゃないだろうか」

 

 イリヤスフィールとセイバーは、青年の姿のサーヴァントをぽかんと見つめた。仮にも英霊が、なんでこんなことを言い出すんだろうかと。

 

「まずは言いだしっぺの私からだね。私はアーチャー。

 そちらの遠坂凛のサーヴァントだ。

 こういった用語は、最後にまとめてマスターの凛に説明してもらうとして、

 君に問うべき大前提があるんだが」

 

「なにがさ」

 

「君が魔術師なのかということだよ」

 

「……なんで、知ってんのさ!?」

 

「え、ああ、そうきたか。これは困ったなあ」

 

 アーチャーは疲れた顔で、姿勢を崩して足を投げ出す。

 

「何ですって? よくも遠坂の管理地に潜り込んでてくれたわね」

 

「マスター、それも後にしなさい。

 ちょうどいい、君もちゃんと自己紹介するように。

 魔術師としての立場も含めてね」

 

 すっかり司会進行役に収まってしまったアーチャーを、凛は睨みつけた。

 

「私は遠坂凛よ。

 その口の減らないアーチャーのマスターで、この冬木を管理する魔術師。

 まったく、今までよくも隠れていたわね衛宮くん。おかげで大損よ。

 上納金、あとで耳を揃えて払ってもらうから覚悟なさい。

 おまけに、こんな何も知らなそうなへっぽこにセイバーを取られるなんて」

 

「セイバーじゃなくて、改めて申し訳ないね。

 じゃあ、フロイライン・アインツベルン、君の番だ」

 

「わたしはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 聖杯の担い手にして、バーサーカーのマスターよ。

 バーサーカーを紹介するのは失礼させてもらうわ。

 この部屋は狭すぎるし、バーサーカーはしゃべれないものね」

 

「それは助かるよ。

 君と衛宮キリツグ氏の関係を、もう一度士郎君に言ってもらえるかな」

 

「私は、キリツグの実の娘よ」

 

 ルビーの瞳が、炎の色に燃え立った。

 

「爺さんに子どもがいたのか!?」

 

「失礼だがキリツグ氏はいま……」

 

「じいさん、衛宮切嗣は死んだ。五年前に」

 

 その反応と情報に、アーチャーはベレーを直すふりをしてこめかみを揉んだ。とても厄介なことを示唆していたからだ。 

 

「では、君と切嗣氏の関係は」

 

「俺は十年前にじいさんに引き取られたんだ」

 

 黒髪と銀髪の二人のマスターは、少年と青年に視線を行き来させる。先ほどアーチャーが口にしていた推論は、見事に的の真ん中を射ぬいていたのだった。

 

 凛はほとほと思い呟いた。

 

「……このぐらい、射撃もうまかったらよかったのに」

 

 アーチャーは聞こえぬふりで話を続けた。

 

「では、切嗣氏の息子さんの話を聞く前に、

 彼にはもう少し暖かい服装に着替えてもらおう。長い話になりそうだからね。

 そして、せめてテーブルにつかないか。彼が気の毒だよ。

 あんな目にあった後で、自分の寝床に美人が三人も踏み込むなんて。

 こんなに身の置き所のないものはない。男として同情する。

 さあ、マスターたちは一緒に別の部屋で待っていよう」

 

 この言葉に救われた少年は、感動さえ覚えて発言者に感謝を述べた。

 

「アーチャー、ありがとう! アンタ、いいヤツだな……」

 

「君こそ、人がよすぎて将来が心配だよ……。

 じゃあ、着替えてセイバーとも打ち合わせしてから来るといい」

 

「はあ!?」

 

 その後、セイバーが部屋の内外のどちらでマスターを警護するか、士郎と押し問答を始めたが、ヤンはさっさと二人のマスターを連れて離脱した。

 

 もう、疲れた。あとはお若い人同士、自由にやってくれという気分だった。彼本来の世界からは消えた、畳の部屋に感動を覚えながら、溜息と愚痴を一緒に吐いて座り込む。

 

「ふう、やれやれ、疲れたよ。超過勤務もいいところだ。

 給料も出ないのに、やっていられんなあ」

 

「あんたね……。やる気あるの?」

 

「君を守り、戦争の終了まで生存させるという点ならばイエスだ。

 しかし、ランサー、セイバー、バーサーカーと戦えというのなら、

 ノーと言いたいね」

 

 彼は左膝を立てると、その上で頬づえを突いた。

 

「金なら誰にも使い道があるが、魔術は万人に共通の価値があるものじゃない。

 むしろ、隠さなくちゃいけない学問なんだろう。

 しかし、公表されず、他者の検証や研究を受け付けない学問に発展はないよ」

 

「それはそうよ。魔術は過去へ向かう学問だもの。

 世界の根源に触れ、世界を塗り替える『魔法』に至るために、

 私たちは代を重ねるのよ」

 

 凛の言葉に、アーチャーは疲れたように目を閉じて答える。

 

「ビッグバンの一瞬前、一点に集中した全宇宙の質量、

 それを動かすゆらぎ、神の一撃に介入するわけかい?

 ちょっとできるとは思えないがねえ」

 

 これに目を瞬いたのは、イリヤスフィールだった。

 

「あら、すごい。よく第一魔法のことがわかるのね」

 

「なんだい、第一って?」

 

「いままでに生まれた魔法はたったの五つ。今でも使えるのはそのうちの二つだけ。

 アーチャーが言ったのは失われた一番目の魔法『無の否定』よ」

 

「そりゃどうも。無を否定するって、万物の生成ってことかい。

 なんともまあ、スケールの大きな話だね」

   

 宇宙時代の住人であるヤンは、自らの時代に主流となっている天文学の説を述べたにすぎないのだが、それも魔法だとおっしゃるわけだ。気宇壮大というより、誇大妄想が過ぎるような気がする。

 

 彼の内心はマスターには伝わらずにすんだ。凛も頷いて応じたからだ。

 

「遠坂は、第二魔法を求める家系よ。

 大師父キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグの

 『並行世界の運営』が研究テーマなの」

 

「アインツベルンは失われた第三魔法を再現するのが、千年の悲願。

 『魂の物質化』と『天の杯』。

 詳しいことはアインツベルンも忘れてしまったけれど。

 その一部を応用しているのがサーヴァントの召喚らしいわ」

 

「並行世界の運用たらは想像もつかないが、魂を物質化するって、

 そりゃ幽霊を完全に実体化させ続けるってことかい?

 要するに、死者の蘇生か不老不死の研究なのか」

 

 イリヤスフィールは小さな手で拍手を送った。

 

「すごい! あなた、とっても頭がいいのね」

 

「いやいやいや、そりゃあ無理だろう。まさに魔法だがね」

 

 アーチャーは、左ひざを抱え込み、天井を仰いで嘆息した。そして、漆黒の視線を廊下に流す。トレーナーとジーンズに着替えた少年と、青と白銀の武装の少女が立っていた。

 

「なんだか、帰りたくなってきたよ。

 この聖杯戦争が胡散臭いということだけは、この二日でいやというほどわかった。

 では、重要な証言者も来たようだ。

 本当に色々とすまないが、セイバーのマスターとサーヴァント。

 君たちの話を聞かせて欲しい。まずは、もう一度自己紹介から。

 君が魔術師ならば、その立場も含めてね」



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9:ミッシング・リンク

 黒髪の青年の言葉に、衛宮士郎は口を開いた。五里霧中の状況だが、この青年は頼れるような気がしたのだ。短い間だが彼の為人(ひととなり)はなんとなく分かる。穏やかで公正、優しいが時に厳しい。それに、ただ一人士郎に助け舟を出してくれた。

 

「俺は衛宮士郎だ。十年前に衛宮切嗣に引き取られたんだ。

 魔術は切嗣に教えてもらった。一応は魔術師、いや魔術使いだ」

 

「それはどう違うんだい?」

 

「魔術師みたいに研究はしてないってこと。

 それに俺、大した魔術は使えないぞ。精々、解析と強化ぐらいで」

 

「それだって凄いと思うよ。普通の人にはできないことだろう。

 もちろん、私だってできないよ。魔術なんて、私にとっては想像上のものだった」

 

「あ、そうなんだ……」

 

 アーチャーと名乗った青年の服装は、黒いベレーにジャンパー、アイボリーのスカーフとスラックス。ベレーと襟元に五稜星を配し、左の胸にはオレンジの徽章、左上腕にはエンブレム。現代の軍服にもありそうなデザインだ。半裸の巨人や、鎧甲冑の美少女とは全然違う。 

 

「じゃあ、なんで、俺のこと魔術師って知ってたのさ?」

 

 黒い瞳が金髪の少女に向けられる。 

 

「彼女……、セイバーのサーヴァントがマスターと呼んだからさ。

 サーヴァントを召喚できるのは魔術師、

 もしくは魔術師の素養のある人間だからだよ」

 

「そ、そうなのか?」

 

 アーチャーのマスターが頷いた。

 

「そうよ。なにも知らない素質だけの素人なら話は簡単だったけど、

 魔術を使えるなら、衛宮くんのこともそのままにはできないわよ」

 

「う……」

 

 学園のアイドルが放つ並ならぬ迫力に、士郎は及び腰になった。それをみたセイバーが、膝立ちになりかける。アーチャーは両手を上げ、双方を制するような仕草をした。

 

「だから凛、それは後にしてくれ。セイバーの話が先だ。

 長いこと蚊帳の外に置いてしまって申し訳なかったね、セイバーのサーヴァント。

 君の自己紹介と、十年前の聖杯戦争の話を聞かせてくれないか。

 君のマスターとバーサーカーのマスターを繋ぐ、キーパーソン。

 衛宮切嗣氏のことを」

 

 それまで、会話に入れなかったセイバーは、アーチャーを鋭く見やった。

 

「たしかに私はセイバーのサーヴァントだ。

 だが、アーチャー、あなたにそんなことを聞かれる筋合いはない」

 

 潔癖な少女のサーヴァントを促したのは、当のアーチャーのマスターだった。

 

「気持ちはわかるけど、話した方があなたのためよ、セイバー。

 こいつは、ものすごく悪辣なヤツよ。

 ちょっとした言葉尻からでも、とんでもないことまで見抜くの。

 素直に言ったほうが、まだしも傷が浅くて済むわ」

 

「ひどいなあ、凛。そのおかげで助かったんじゃないか」

 

 凛は豊かな黒髪を、首筋から手櫛で梳き上げた。自分の従者の手口を真似て、圧力をかけてみようと思い立ったのである。

 

「それに、私は冬木の管理者(セカンドオーナー)よ。

 モグリの魔術師、衛宮切嗣と衛宮士郎は、我が家門に入るなり、

 上納金を納めて居住の許可を求めるべきだった。

 それを十年も怠ってきたんだもの、遅延金込みで請求するわ」

 

「ええっ、なんでさ!? なんで、そんなの払わなきゃならないんだよ」

 

「冬木の魔術基盤を使ってるんだからあたりまえじゃないの。

 家賃と使用料みたいなものでしょ。そのための管理者だもの。

 たとえ、月五万や十万でも十年分は大きいわよね、衛宮くん」

 

「いや、待ってくれ。一月分でも大きいぞ!?」

 

「セイバーの証言次第では、遅延金は値引き、分割払いも可としてあげるけど」

 

 これに水を差したのは、凛のサーヴァントである。

 

「日本の法律上、五年前以上の遡及請求は不当だよ、凛。

 彼が父上の跡を継ぎ、一定の責任能力を持った十五歳以降が

 支払期間として妥当だろう。

 君にも知らずに請求を怠っていたという責任があるから、

 さらにその半額ぐらいにしときなさい」

 

「あんた……、ほんとにいいヤツだな!」

 

「アーチャー、あんたね、どっちの味方なの?」

 

「法治国家で不法行為を働くのはよくない」

 

「なんですって?」

 

「君ね、軍人を何だと思ってるのかな。要するに国家公務員だよ。

 法律を守らない軍人なんて存在する価値はない。そういうことは見逃せないな」

 

 凛は座ったままよろめきそうになった。変なところが厳しいサーヴァントである。

 

「それにね、セイバーの証言次第では士郎君はそれどころじゃなくなる」

 

 セイバーが眼差しを険しくした。

 

「どういうことですか、アーチャー」

 

 アーチャーは黒髪をかき回した。

 

「順を追って話すが、最初は君の自己紹介の続きから。

 十年前の切嗣氏のことを。

 まずは、バーサーカーのマスターが、本当に彼の娘なのか」

 

「はい、彼の娘がイリヤスフィールだということは間違いありません。

 しかし、本当にイリヤスフィール本人なのか……。

 今が十年後ならば、あなたはもっと……成長しているはずです」

 

 疑念を籠めたエメラルドに、怒りに燃えたルビーがぶつかる。小柄な少女は立ち上がった。

 

「嘘つきで裏切り者で、おまけに失礼なんて、

 最優じゃなくて最悪のサーヴァントね!」

 

 そして、硬度に勝るほうが相手を粉砕した。

 

「わたしはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 キリツグとあなたが死なせたアイリスフィールの娘よ!

 本人がそう言っているのに、人の外見をどうこう言うなんて!」

 

「なっ……」

 

 アーチャーは肩を竦めた。

 

「君の怒りはもっともだし、セイバーの疑いももっともだ。

 人間は、自分の尺度でしか判断のできない生き物だからね。

 自らを知ってもらう努力も必要だよ。

 かわいそうに、一番の被害者が一番何も知らない。

 まずは、全部の事実を並べて、それを分析しないとまとまりやしないさ。

 その後で恨むなり、怒るなり、死後認知やら遺産の請求やらしたらいいんだよ」

 

「はい?」

 

 人とそれ以外の少年少女は異口同音に疑問の声を上げ、青年のサーヴァントに視線を向けた。

 

「士郎君の養父は五年前に亡くなり、相続人は養子の彼一人というわけだ。

 それは、イリヤスフィールという娘が戸籍に載っていないからだ」

 

「え、この子、外国人なんだろ?」

 

「違うよ。父親が日本人ということは、彼女には本来、日本国籍もあるんだよ。

 外国人が日本人と結婚しても日本人にはなれない。だが子供は違う。

 婚姻届を提出した夫婦の子なら、日本国籍と外国籍双方を持つのさ。

 最終的にはどちらかを選ぶんだが、それは大人になってからでもいいんだ」

 

 そう言うと、彼は拙い発音のドイツ語で、イリヤスフィールに語りかけた。

 

【こんなことを言うのは失礼にあたるんだろうが、

 君の母上は、フラウ・アイリスフィールであって、

 フラウ・衛宮ではないんじゃないのかな?】

 

 真紅が漆黒を見た。配慮のいきとどいた穏やかな示唆に、白銀の頭が頷く。

 

【ええ】

 

「つまりね、なんらかの事情で日本の行政機関に婚姻届を出していないんだ。

 そうなると、内縁の妻子ということになって戸籍に載らない。

 戸籍に載らないと相続権がないんだよ。 

 でもね、子どもには父の死後に認知をさせるという権利がある。

 しかるべき書類を添えて、裁判所に訴えればいいのさ。

 そうすれば、君の名は戸籍に載り、

 切嗣氏の遺産の四分の一は法律上君のものにできる」

 

 みな一様に目と口を見開いて、アーチャーの顔を見つめた。

 

「あんた、何者なんだ」

 

 士郎の疑問は、一同の心を代弁していた。アーチャーはもう一度肩を竦めた。

 

「私が十五の時、父が交易船の事故で亡くなってね。乗組員も全員助からなかった。

 私は社長の息子として、遺産相続というか

 負債の清算をしなくちゃならなかったのさ。

 乗組員の遺族にそういう人がいて、一緒に裁判所にも行ったものだよ」

 

「ああ、そこが私とアーチャーの似てるところだったのね。

 ……複雑だわ。性格が似てないってのは安心したけど」

 

 凛は安堵し、先日の戸籍うんぬんの疑問も同時に解消した。どおりで法律にこだわるし、しかもえらく詳しいわけだ。彼の人生経験からの知識だったのか。

 

 しかし、十五歳の少年がやらざるをえなかった、ということは。――彼にも母がいないのだ。なんて皮肉な相似。

 

「どういう意味かな、マスター。

 まあ、だからね、死んだ父親にも、そういう意味での償いをさせることはできる。

 何も知らなかった養子も、間接的にだが償うことになる。

 それでも許せないというのは思想の自由だから、誰にもどうこうは言えないが、

 全てをごっちゃにして、暴力を持ちだすのはよくないよ。争いは何も生み出さない」

 

「……お金なんていらない」

 

「うん。でも、君が切嗣氏の娘だって公式な書類に載る意味は大きい。

 望めば日本人の『衛宮イリヤスフィール』にもなれるんだよ。

 かなり手間はかかるけれどね」

 

 諄々と説かれて、ルビーの炎は鎮火に向かい、イリヤスフィールは、アーチャーのそばに腰を下ろして膝を抱え込む。セイバーの主従からは、ぷいと顔を背けたままだったが。

 

「だから、十年前にイリヤスフィール嬢と同居していた切嗣氏と、

 士郎君を引き取って死去するまで暮らした切嗣氏。

 この切れ目となる第四次の聖杯戦争のパートナー、セイバーの証言は非常に重要だ」

 

「たしかに、私はキリツグのサーヴァントとして第四次聖杯戦争に参加しました。

 しかし、キリツグが私に口を利いたのは三回に過ぎません。

 いずれ劣らぬ強敵ぞろいでありましたが、

 我が剣はどのサーヴァントにも後れをとることはなかった。

 最後に残った黄金のサーヴァントと戦い、あと少しで手が届くというところで、

 キリツグは令呪をもって私に聖杯の破壊を命じました。

 私は抵抗しましたが、重ねて命じられ宝具を抜き、聖杯を破壊しました。

 ……そこで魔力が尽き、現世から消滅しました。

 キリツグこそが聖杯を裏切ったのです」

 

 アーチャーはまた髪をかき回すことになった。これは困った。三回しか会話がないとは、銀河帝国の沈黙提督じゃあるまいに。

 

「なるほど、切嗣氏の聖杯にかける願いや、

 それを諦めた理由は君は知らないのかい?」

 

 金沙の髪が上下に振られた。 

 

「そして、君は聖杯の破壊後どうなったか知っているかい」

 

 それが今度は左右に振られる。なるほど、ここが失われた環だ。

 

「じゃあ、最後になったが、聖杯戦争後から五年前までの切嗣氏を知る、

 士郎君の証言を聞かせてくれないか。君と切嗣氏の出会いから別れまでを。

 辛いことだろうが頼むよ」

 

 穏やかな声のやさしい促しが、士郎の口を自然に開かせた。それは、□□士郎が死した日の記憶。

 

 黒と赤の世界、黒く燃える太陽。焦土の中、薪と化す数多の人々。助けを求める声に耳を塞ぎ、かつて人だった、家族であった炭化物を踏み越えながら、彼は彷徨い歩いた。助けを、救いを、安全を求めて。劫火に感情と柔らかな記憶をくべ、それでもどこかへと向かおうとして……。

 

 次の記憶は、覗き込む灰墨色の目。頬に落ち、濡らしていく冷たい雨と温かな雫。

霞む目に、その人は心から嬉しそうに、悲しそうに笑いかけ、彼を抱きしめて感謝の言葉をくれた。

 

「生きていてくれてありがとう……」

 

 そして、衛宮士郎が誕生した日。その笑顔があまりに幸せそうだったから、彼はそれを拠り所にした。命の代わりに、あの黒と赤の炎に捧げた記憶と感情。がらんどうになった心には、自分は誰かの役に立たねばいけないのだと思った誰かに喜んでもらうこと。自分が助けなかった人への償いにはならないけれど。

 

 家事がからっきしの父に代わって、料理を作り始め、家事を進んでやった。最初は下手だったけれど、父の笑顔がうれしくて、見る見るうちに上達した。

 

 切嗣は、ときおりふらりと旅行に出かけ、海外の土産をくれたが、そのたびに痩せてやつれ、落ち込んでいた。最初に助けられて、養子にならないかと言ってくれた時も、老けていたために、父さんではなくじいさんと呼んでいた。無論、照れくささもあったからだが。

 

「ああ、それはわかるよ。私は里子を預かっていたんだが、

 あの子は私を名前ではなく、階級や役職で呼んでいたものさ」

 

「へ、あんた、俺よりちょっと年上ぐらいだろ? 十八歳ぐらいじゃないのか」

 

「それなんだがねえ……。

 この聖杯、サーヴァントを生前の最盛期の肉体で召喚するんだ。

 言っておくが、私はもっと年上だ。この状態は二十歳の時だよ。

 それは、すべてのサーヴァントに言えるんだ。外見で判断はできない」

 

「そう、そうなんだよ。じいさんは、やつれて老けこんでいたんだ。

 俺もまだ小学生だったから、余計に爺さんに見えた。本当はそうじゃなかったんだ」

 

 そして、五年前の冬の夜。冴え冴えとした月光の下で、士郎は父に誓った。全てに手を差し伸べ、救済する正義の味方。父が諦めてしまった、きれいなユメを必ず実現させると。魔法使いだと言った、養父から教えられた魔術。できることならそれを使って。

 

 そんなこと、ありえない。そんな存在はこの世にいない。思わず反論しようとした凛を、アーチャーは一瞥で制止した。

 

『彼が全てを話すまで、反論は待ってくれ。

 この場だけじゃなくて、彼をよく知り、理解してからだ』

 

『だって、おかしいじゃない。あんな考え方!』

 

『典型的なサバイバーズ・ギルトだよ。

 私の国ではありふれているが、この平和な国では本当に珍しい。

 だから、周囲もケアの方法を知らないんだ。

 というより、病気だとは思わないのさ。だから、安易に責めてはいけない』

 

『病気ですって!?』

 

『重症だよ。でも、私も人の事は言えない。何度も思ったものさ。

 あの時、船を降りなければよかったのにとね。

 そして、きっと、もっとひどいことを巻き起こしただろう。

 身につまされるよ。死んでから思い知らされるとは、皮肉なものだ』

 

 アーチャーは、黒い瞳を伏せた。士郎少年の養父が、彼の言葉に一際嬉しそうな笑みを浮かべて、そして座ったまま、静かに息絶えたというくだりを聞いて。

 

「じいさんが死んで、俺ははじめてじいさんの歳を知った。

 まだ、三十四歳だったんだ」

 

「じゃあ、第四次聖杯戦争当時は二十九歳ということだね。

 そして切嗣氏は、その前はイリヤスフィール君の母の実家で暮らしていたんだね」

 

 白銀が無言で頷く。

 

「さきほど教えてもらった君の年齢から逆算すると、

 彼は二十歳そこそこで魔術の名家から、

 婿入りを乞われるような魔術師だったということになる。

 ……どういう魔術師だったんだい? 

 十代半ばから活動したとしても、研究で名を成せるとは思えないんだが」

 

「アインツベルンの魔術は、あんまり戦闘向きじゃないの。

 だから、名うての傭兵として、キリツグを雇い入れたんだって、お爺さまが」

 

「は? 傭兵ってなんだい」

 

 物騒な単語に、アーチャーだけでなく、高校生コンビも目を瞬いた。前回も参加したという剣の従者が口を開いた。

 

「キリツグは、外道の魔術師を仕留める、フリーランスの暗殺者だったと。

 魔術師殺し、とも呼ばれていました」

 

「他の参加者から?」

 

「はい」

 

 アーチャーはベレーを脱ぐと、眉間を揉みしだいた。

 

「ちょっと待ってくれ。

 それでも活動期間は、やはり十代後半だってことに変わりはないんじゃないか?

 いやはや、何だかわからないが、君たちにとっては、

 切嗣氏の個人史を知ることが重要だろうなあ」

 

 衛宮切嗣の娘と養子は、この指摘に目をまん丸にした。娘は戦争前の父しか知らず、養子はその後の五年間の父しか知らない。声を荒らげたのは、セイバーだった。

 

「なにを悠長な!」

 

「いや、セイバー、前の戦いの検証は非常に重要だよ。

 また同じ轍を踏む羽目になるかもしれない。

 幽霊の我々が、無辜(むこ)の人間に害を及ぼすなんてあってはならないと思う」

 

「戦いになれば、そんなことばかり言ってはいられない!」

 

「たしかにそうなのかも知れないね。私はその点はとても恵まれていた。

 さいわい、そういう事が可能な時代であり、戦場だったんだ。

 君と私は時代や立場が違っている。それは論争しても始まらないことだよ。

 君の気を悪くしたのなら、すまなく思うが」

 

 そして、ぺこりと黒い頭を下げる。見守っていた高校生らは、非常に微妙な気分になった。外見は似ていない兄妹の喧嘩、だが内容は娘を諭す父親だった。

 

「ところでね、セイバー。

 彼らにとって、亡き父を知るための調査と聖杯戦争はまったくの別物さ。

 二週間で終わるものではないだろうし、終わらせるべきものでもない。

 それは混同しないでほしい」

 

「っ……。わかりました」

 

「だから、バーサーカーとセイバーのマスターは、

 互いを殺さぬようにすべきじゃないだろうか。

 この戦いの後も、父のことを知ることができるように。

 サーヴァント同士が勝負をつけるのは、仕方がないのだとしてもね」

 

「心配はいらないわよ、アーチャー。

 わたしのバーサーカーは最強なんだから。

 セイバーみたいなザコ、敵いっこないもの」

 

「そういう言い方はレディにふさわしくないと思うなあ」

 

「むー」

 

 これは『カリスマA』の産物というよりも、父性に富んだ受容的な性格と、柔らかで情理を巧みに織りあげた語り口がもたらすものに違いない。父の愛情に飢えていただろうアインツベルンのマスターがすっかり懐き、衛宮士郎も彼に好感を持っているに違いない。

 

 なんて、ファザコンホイホイ。

 

 一番反感を抱くだろうセイバーが、アーチャーを脱落させてやりたいと思っても、どちらかのマスターから制止がかかるだろう。

 

「ちょっと待ってよ。アーチャー、あんた衛宮くんを聖杯戦争に参加させる気?」

 

 漆黒が琥珀を見つめた。

 

「それは、士郎君の意思次第だよ。しかし、これも言わなきゃいけないだろう。

 セイバーが召喚され、それは冬木にいる他の主従の感知するところになっている。

 こうなると、リタイヤします、記憶も抹消しますじゃ、逆に危険な気がするんだ。

 それに十年前の事情を知るためには、セイバーの助力が必要でもある」

 

「いや、参加するよ、遠坂。俺も、十年前の事が知りたい。

 それ以上に、じいさんのことを知りたいんだ。

 俺を引き取る前の事も。俺、じいさんに娘がいるなんて知らなかった。

 でも、今思うとさ、けっこう頻繁に海外旅行してたのは、

 君のこと迎えに行こうとしてたのかもしれない」

 

「そんなの、ウソよ!」

 

 アーチャーは髪をかき回した。海外旅行、ね。彼に聖杯が囁く。それに必要なものを。彼の国、彼の時代にも似たシステムは残っている。遥かな時が流れても、人間の考えることに大きな違いはないのだろう。

 

「傍証となるものはあるかもしれないよ」



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10:快刀乱麻

「傍証となるものはあるかもしれないよ」

 

 その言葉に反応したのは息子のほうだった。

 

「本当なのか!」

 

 ほんとうに養父思いの、なんていい子なんだろう。

士郎にとって、衛宮切嗣は本物のヒーローだったに違いない。

 

「切嗣氏の死後、返還してしまったかもしれないんだが、

 パスポートが残ってたら、それに出入国のスタンプがあるはずだ」

 

 またまた少年少女は呆気にとられた。凛はアーチャーの袖を引っ張った。

 

「ねえ、ちょっとアーチャー。それが証拠なの?」

 

「とっても有力かつ公的で客観的な証拠だよ。

 出入国管理ってのは、国がやってるんだからね。

 普通に旅行したなら、必ず通るんだ。君もそうだろう?」

 

 異国から参加したイリヤスフィールは反射的に頷いた。

 

「士郎君によると、切嗣氏は体調が思わしくなかったようだ。

 そんな人がけっこう頻繁に、スパイよろしく密出入国はしないと思うんだがね。

 探してみる価値はあるんじゃないかなあ」

 

 士郎が顔を輝かせて立ち上がった。

 

「ちょっと持ってくる! 形見に取っといたんだ!」

 

「待ってください、シロウ!」

 

 ぱたぱたと駆け出す彼の背を、甲冑を鳴らしてセイバーが追った。

 

「……お役所仕事ってすごいのね」

 

 凛はつくづく感心した。セイバーとバーサーカーのマスターの関係が、

たった一冊のパスポートで改善に向かうのかもしれない。

さすがは元国家公務員のサーヴァント。公式文書というものを武器にする。

若年の魔術師たちと、知識とその方向性がまったく違うのだ。

 

「ああ。そして、こういうものも、重要な記録のひとつなんだよ。

 切嗣氏が、ドイツに長期滞在した時期の物が残っていると更にいいんだがねえ」

 

「どうして?」

 

 首を傾げたイリヤに、アーチャーが苦笑いして告げた。

 

「イリヤスフィール君が、認知の裁判を起こすときの有力な証拠になる。

 というか、なったんだ。しかし、とても大変だったんだよ。

 だから、部下には認知届を出すようにと言ったものだ。

 男ならば生きているうちにやっておくべきだとね」

 

 嫌な思い出だったのか、渋面になるアーチャーに、二人のマスターは翡翠とルビーを点にした。

 

 これまた生々しい……。英霊にまでなった英雄だろうに、えらく俗っぽく現実的なことを言う。それに助けられたのは事実だが、なんだか夢のないことだ。というよりも、高いカリスマ性は、アレな部下を持って、苦労しての産物なのだろうか。

 

 廊下から二つの足音と、鈴のような金属音が戻ってくる。

 

「おや早かったね。

 しまっていた物がすぐ出てくるなんて、君も家事の達人なんだろうなあ」

 

「なあ、アーチャー、これのどこに載ってるんだ!?」

 

 士郎の手からパスポートを受け取ると、アーチャーは最初のページを開いた。

 

「まずは、イリヤスフィール君に確認しよう。

 この衛宮切嗣氏は、間違いなく君の父上かい」

 

 そこには、ぼさぼさとした髪に無精ひげ、あまり精気がない男性の顔写真があった。

彼が三十代前半に見えるか、というならヤンも首を横に振る。自分に似ていると言われても首を振りたいところだ。ここまで疲れた目をしてはいないと思いたい。

 

「そうよ……。キリツグに間違いないわ。

 でも、アインツベルンにいた時は、こんなにおじいさんみたいじゃなかった」

 

「うん、じゃあね」

 

 アーチャーの手が、さらにページを繰る。

 

「あった、これだね。ドイツ、フランクフルト空港のスタンプ。

 ミュンヘンとベルリンもある。

 随分足を運んだんだね。これの更新から、五年前までの二年で計八回だ」

 

 少なくない回数だった。

 

「キリツグは、わたしのことなんて忘れたんだと思ってた……」

 

「そうじゃないと思う。聞いてくれ、イリヤスヒールちゃん!」

 

「下手な発音ね。……キリツグとおんなじ。

 お母様のことも、うまく呼べなかったし。

 いいわ、イリヤと呼ばせてあげる。

 ただし、『ちゃん』はいらないわ。

 次にいったら殺すから」

 

 釘、いや氷柱を打ち込まれて士郎は怯んだが、気を取り直して雪の妖精に訴えた。

 

「う、じゃあ、イリヤ。爺さんは、外国に行くたび、やつれてきてさ。

 俺を引き取った頃に比べて、この写真はさらに老けてるんだ。

 変なお土産くれるたびに、笑ってても悲しそうだった。

 絶対に、イリヤのこと忘れてなんかいなかったと思う。

 ……死んじまったの、最後の旅行から一月も経ってなかったんだ」

 

 空気が密度と質量と湿度を増した。セイバーがアーチャーに縋るような視線を送る。

ここまでのやりとりで、自分の言葉はイリヤにとっては逆効果だと思い知らされたのだ。

 

「そういうことだよ。人の行動は記録に残る。でも、心はなかなか残らない。

 日記なんかつけてれば多少違うけど、人は簡単に本音を出せないからね。

 それに勘違いもするし、物忘れをしたりもする。

 記憶力というやつは、男の苦手分野でね。女の人には敵わないんだ」

 

 ふと微笑んで、黒髪をかきまわす。アーチャーには珍しい、照れ笑いに近い表情だった。

 

「だから、周囲の人の言葉を丹念に集めて、よく考えてみないとわからない。

 それでも、なお正解はない。

 当然だよね。自分の心でさえ完璧に理解できる人間はいない」

 

 アーチャーは凛にちらりと笑みを向けた。ここに乗り込む前に、心の贅肉なんて発言を繰り返しながら、顔見知り程度の同級生を見殺しにはできなかった、心優しいマスターを。

 

「自分を含めた人の心を解明できたら、それこそが魔法だと私は思うよ。 

 私たちサーヴァントだって、元はその不完全な人間だ。

 ろくに交流がないマスターの心を推し量るのはとても難しい。

 だって、時代も国も立場も違う。セイバーは性別も違うね。

 私のマスターと彼女のマスターは、同じ国の同じ高校生だが、

 同じ学年でも顔見知り程度だからね。

 やはりお互いの心の中のことなんてわからないと思うよ」

 

「じゃあ、なんのためにそんなことをするの?」

 

 アーチャーは、自分の傍で膝を抱えた小さな少女に向き直ると、細い両肩に優しく手を置いて語りかけた。

 

「それはね、イリヤスフィール君、君が納得をするためだ。士郎君もだがね。

 死者を知り、その思いを推し量り、自分なりに理解できるように。

 それだって正解はないけれど、自分が出した答えであることが重要なんだと思う。

 そうなってようやく、自分のほんとうの思いがわかる。

 悼んで泣くのか、やはり怒って恨むのか。そして、その後にどうするのかね」

 

 アーチャーの言葉に、イリヤはスカートを握り締めた。自分にはこの戦争の先はない。そんなことは知らぬ、すぐに敗退するかもしれないサーヴァントが、こんなに真摯な言葉をくれるとは。

 

 士郎も悟らざるを得なかった。これは、十七、八の人間に言えることではない。もっと、ずっと人生経験を積んだ者の言葉であった。自分の姉貴分の現役高校教師が、爪の垢を押し頂いて飲むべきである。

 

 温かな手が少女の肩から離れ、彼はマスターへ顔を向ける。

 

「それでね、凛。君もまた、聖杯戦争の孤児だ。

 彼らの父の過去はおそらく我々の調査の疑問とも重なることだよ」

 

「ええ。私の父も前回の参加者だったわ。

 でも、どういう状況で亡くなったのかはわからない。

 そしてセイバー、あなたが現世から消滅した後、この街は大災害に見舞われたのよ。

 死者五百名以上、焼失家屋は百棟以上。

 冬木の平年の約一年分にあたる死者だったわ。

 あなたのマスターの体験した地獄絵図よ」

 

 セイバーは緑柱石の瞳を見開いた。

 

「そんな、そんな馬鹿な!」

 

「それと聖杯戦争が、まったく無関係だとは思えないのよ。

 もしも聖杯を手に入れるとしても、それがわからないうちは使えたものじゃないわ。

 冬木の管理者としては、調査中の停戦を申し入れようと思ってる。

 聖堂教会の監視役にね。

 新都の集団昏倒と吸血鬼、深山町の一家惨殺、うちの学校の結界。

 全部サーヴァントの仕業よ。

 こんな連中野放しにして、戦ってなんていられないでしょ。

 いつ背中から刺されるか、わからないもの」

 

「なっ…なんだって!? ウソだろ、遠坂」

 

「信じられないわ。

 そういうことがないように、アインツベルンは

 英雄だった英霊召喚の術式を組んだんだもの」

 

「残念ながら嘘じゃないんだよ、これがね」

 

「では、どうして私たちにそれを明かしたのですか、トオサカの主従よ」

 

 美しい少女の詰問に、士郎ならば顔を赤くしただろうが、ヤン・ウェンリーの美貌への耐性は高い。敵対していた皇帝ラインハルト、かの絶世の美青年のほうが迫力があると思う。

 

「まず、君たちセイバー陣営には時間的にできないから」

 

 しごくあっさりした回答に、剣の主従の肩の力が抜けた。

 

「次に、さきほどのバーサーカーでは、ああいう事件はできないし、

 飛び抜けた力量のマスターのおかげで、その必要もないからさ」

 

 凛も腕組みして頷き、イリヤスフィールは自信ありげに微笑んだ。バーサーカーのマスターも、従者に劣らぬ化け物魔術師だった。魔術回路の量といい、生成できる魔力といい、並みの魔術師百人分の凛のさらに上を行く。それに、あの二メートル半の巨人では、吸血鬼や一家惨殺という『等身大』の犯行は不可能。

 

「あれは、食うに困ってるサーヴァントじゃないかなあ。

 特に、吸血鬼はあからさまにそうだ。

 血には魔力が含まれるそうだが、行き当たりばったりがすぎる。

 こんな事件が続いたら、夜歩きする人は減ってしまう。

 あるいは、近いうちにそれをどうにかする方法を構築中なのかもしれないがね」

 

 凛と士郎はアーチャーの顔を凝視した。

 

「それが、学校の結界っていうことなの?」

 

「推論にすぎないよ。だが、容疑者はぐっと減った。

 キャスター、ライダー、アサシンの三騎だ。

 昏倒は柳洞寺のキャスターの可能性が高く、ゆえに容疑順は低い。

 あとは、半々ってところだね。

 しかし、よりによって、なんで学校を選んだんだか」

 

「なんでさ」

 

「結界が発動したら、数百人が融解させられるそうだ。

 だが、あんまり子どもの帰宅が遅かったら、親が連絡なり迎えなり寄越すだろう。

 実際はそこまで猶予はない。業者やその他の来客がもっと早く来るだろうからね」

 

「はあ!? 遠坂、本当にそんなシロモノが仕掛けられてんのか!?」

 

 驚愕する琥珀の瞳。士郎の理解力もそろそろ限界に達しようとしていた。しかし、冬木の管理者は無慈悲に頷いた。

 

「ええ、発動まで一週間くらいはかかる見込みだけどね」

 

「だが、魔術の秘匿、という点で完全にアウトだろうに。

 もしも私がやるなら、不特定多数の人間が出入りし、

 発動で多数の死者が発生しても、誤魔化しおおせる場所を選ぶね」

 

 アーチャーは、さらりと恐ろしい事を口にした。

 

「……どこさ」

 

「駅だよ。朝夕のラッシュ時、電車がホームに入った瞬間を狙う。

 事故で死者多数、遺体が損壊したとしても言い訳が立つ。

 ついでに、ここは遠坂のマスターの生活圏に入っていない。

 邪魔もされないってわけさ」

 

 衛宮家の居間に集っていた少年少女の顔から、血の気が一気に引いた。このアーチャー、バーサーカーとは別の意味で怖い。あちらは外見が鉛色だが、こちらは腹の中が真っ黒だ。

 

「それほどに恐ろしいことができるサーヴァントだということを、

 マスターは理解しているんだろうか。

 そして凛、君もようやく深刻性に気がついてくれたみたいだね」

 

「だから、あんた、学校に仕掛けた時点で齟齬があるって言ったのね」

 

「ああ、自分の力を一番理解しているのはサーヴァントだ。

 少なくとも、その意見をマスターが充分に聞かないのか、

 サーヴァントが黙っているのかとは思う。

 学校で死ぬのも、駅で死ぬのも、死者にとっては同じことだ。

 いずれにせよ、一般の市民にとって最も危険な陣営だ」

 

 琥珀と緑柱石が互いを見つめ、小声で会話を交わした。

 

「なあ、セイバー。俺、アーチャーのほうがおっかないと思うんだ」

 

「同感です、シロウ。アーチャー主従から目を離さぬほうがいいでしょう」

 

「でも、学校の結界をどうにかしなくちゃならないよな。

 俺は遠坂に協力したい。だって、俺には何にもできないからさ。いいか?」

 

「賛成します。城を脅かされて、立たぬ城主はいない」

 

 そう言ってセイバーは頷いた。

 

「じゃあ、俺にも協力させてくれ。学校の結界のこと。

 そういえばお礼もまだだっけ。ありがとうな、遠坂とアーチャー。

 で、ごめん、イリヤ。

 知らなかったとはいえ、俺が爺さんをとっちまってたんだよな」

 

 本当に真っ直ぐな気性をした、いい子なんだよなあ。だからこそ、性格の偏りが気になるわけで。

 

 普通はもっと恐れ、イリヤに隔意を抱く。凛とヤンに不審の目を向け、警察を呼ぼうとするだろう。父の死に、もっと打ちひしがれ、泣き喚き、周りに心配を掛けたっていいのだ。それが当たり前の反応であり、子どもの感情というものだろう。

 

 周囲にとって理想の反応をするように、自分をコントロールしているかに見えて、とても気にかかる。

 

 そう思うのは、どことなく被保護者に似た少年だからか。よく見ると、感じのいいなかなかのハンサムくんでもある。ちょっと表情が乏しいのと、口調がぶっきら棒なので損をしているのではないか。

 

 だが、そんな彼の笑顔にはなかなかの破壊力があるな、とヤンは思った。年齢は違えど、いずれ劣らぬ美少女たちが、頬を赤らめているではないか。

 

 やれやれ、甘酸っぱい思春期で微笑ましいことだ。そう考える妻帯者であった。こんなろくでもない聖杯戦争の渦中でなければ、どんなによかったことか。ヤンのこんな思いだって、代償行為に過ぎないのかもしれないが。

 

「……まだ、許したわけじゃないわ。

 でも、アーチャーの言うとおり、キリツグのことは知りたい。

 お母さまを死なせたのに、なぜアインツベルンを裏切ったのかも」

 

「まあまあ、そいつは明日以降にしないかい。もう夜も遅い。

 こういうことは、夜にぐるぐると考えても、あんまり実りはないんだ。

 とりあえず凛、監視役に一報を入れた方がいいね」

 

 アーチャーの提案に、凛の柳眉が寄った。

 

「あいつに何を話すのよ」

 

 聖堂教会と魔術師は、本来敵対関係にある。あまり手の内を晒したくない。 

 

「事実を伝えればいいのさ。

 君がアーチャーを召喚し、アインツベルンとセイバーのマスターと接触した。

 三者協議の結果、十年前の聖杯戦争について、調査検証が必要と判断した。

 冬木の管理者遠坂と、はじまりの御三家アインツベルンの名において、

 停戦を申し入れするとね」

 

 言われるがままに、凛は教会へと電話した。今度は、アーチャーに操作をさせてだが。電話帳に登録した番号を呼び出し、通話ボタンを押すのはまだちょっと無理だ。

 

 いけ好かない凛の後見人は、彼女の申し出にしばし言葉を失い、ややあってから

明日、三者で出頭すべしとのみ答えた。凛はすかさず通話終了ボタンを押した。

 

 この携帯電話、いままで敬遠していたがなかなか便利だ。受話器を叩きつけるよりも、ずっと優雅に会話を打ち切れる。遠坂の家訓にふさわしいと言えよう。

 

「明日、三人で来いですって」

 

「時間の指定はないのかい」

 

「別にないわよ」

 

「じゃあ、マスターたちがきちんと休息してからでもいいね。

 魔力は生命力なんだろう」

 

「アーチャー、学校の結界はどうすんだ?」

 

 士郎の言葉にアーチャーは首を振った。

 

「昨晩、凛が邪魔する措置を取った。こいつの挽回もあるから、

 今日明日は大きな展開はできないだろう。

 もともと発動に一週間はかかるし、

 さっき言ったように息のあった陣営とは思えない。

 そのうえ、マスターは知識がないのか、あるいは自己顕示欲が強いよ」

 

「どういうことさ?」



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11:危機

「どういうことさ」

 

 士郎は眉を顰めると、アーチャーに問いかけた。この青年は、自分なら、学校ではなく駅に結界を仕掛けると言った。軍人と思しき服装だから、戦闘に関しては士郎よりも詳しいだろう。

 

 そんな士郎の予想どおり、いや、それ以上の推論が返ってきた。

 

「凛の存在を知らず、他の手段を考えられないのなら前者。

 凛のことを知っているのに、あえてやっているのなら後者だ。

 前者なら早々に尻尾を出すし、後者ならジュコクに干渉を続ければ、

 早晩なんらかの形で接触してくるんじゃないかな」

 

「お、おう……。そしたらどうするんだ?」

 

 アーチャーは髪を掻き回した。

 

「やり口が傍迷惑すぎるし、あんまり同盟に値する陣営とは思えないな。

 早めに決着をつけたいところだね」

 

 ルビーの瞳が瞬き、新雪の髪がさらりと音を立てて傾げられた。

 

「あら、どうして」

 

「三日後は伝説の英雄との会食なんだ。戦いを忘れて会話をしてみたいんだ」

 

 凛は、思わず彼の襟元に掴みかかった。

 

「ねえ、あんた、言うに事欠いてそっち優先なの!?

 もうちょっと真面目にやんなさいよ!」

 

 がくがくと揺さぶられながら、アーチャーは呑気に言った。

 

「いやあ、それが私の元々の目的なんだし、いいじゃないか。

 死んだあとまで目の色変えて、戦う意欲はないよ。

 生前、散々やったんだ。もう勘弁してほしいなあ」

 

 やる気のない台詞に、士郎は疑念を露わにした。この線の細い容貌の青年に何歳か、いや二、三十歳を取らせたところで、到底英雄らしくなるとは思えない。

 

「やったって、戦いを?」

 

「それも、多勢に無勢の絶望的な負け戦をね」

 

「そっか、軍人っていってたよな、アンタ。でも、ものすごくえらい人なんだろ?」

 

 士郎も、こういうミリタリー系の服装には多少の知識はある。襟元のはたぶん階級章だ。一本線の中央に大きな五稜星。軍の階級章には一定のルールがある。星は相当な高官の証拠だ。

 

「まあ、小さな国の軍だったからね。人口はこの国の四十分の一ぐらいさ」

 

 最終的な所属国の人口は嘘ではない。それ以前は、人口百三十億人の国家の軍のナンバー3であったが。なお、ヤン・ウェンリーが率いた軍の兵員数は、エル・ファシル国民とは別に二百万人以上である。

 

 否定せぬ口ぶりに、士郎は重ねて聞いた。

 

「じゃあ、大将とかなのか」

 

「いや、元帥だが、名ばっかりさ」

 

 想像を上回る答えが返され、現代人はぽかんとするしかなかった。セイバーは、彼らとアーチャーを交互に見るしかできない。聖杯で知識を得ても、じゃあ完璧に理解できるかというとそうでもない。生前に、概念のないことを理解するのは難しいものだ。

 

 アーチャーは、気のない素振りで手を振った。

 

「有能な年長者がみんな戦死してしまってね。元々は繰り上げ人事の産物だ。

 私も一回ぐらい戦略面で優位に立って、

 数に任せた勝利ってのを味わってみたかったよ、ほんと」

 

「では、これがそうだと?」

 

「いいや、違うよ、セイバー。

 もっと夢だったのが、戦わずに平和的な交渉を行うことだ。

 士郎君とイリヤスフィール君、そして私のマスター。これで七分の三。

 うち、御三家の三分の二が停戦の申し入れをすれば、監視役も拒めないと思う。

 できればあと一人、賛同者を募って、停戦及び調査に移行したいなあ」

 

「では、聖杯はどうなるのですか!」

 

「うん、調査をすればね、それを手に入れて使う価値があるかだとか、

 みんなが妥協できる案だとか、なにか方法が見つかるんじゃないかと。

 ここにはマスターが三人、サーヴァントは三騎。

 聖杯を欲しているのはそれぞれ一人ずつ。

 そのへんはね、やりくりがつくんじゃないかなあ」

 

 イリヤの眉が吊りあがった。

 

「冗談じゃないわ!」

 

「なんで怒ってんのさ、イリヤ」

 

「最終的にわたしとセイバーに組めと言ってるの!

 あなた、どちらかに殺されてもいいって、そういうこと!?」

 

 士郎は愕然とアーチャーを見つめた。自らを担保にした交渉。生前養父が言っていた。十のために一を切り捨てていたと。だが、その一に自分を据えてテーブルに乗せる。このおとなしげな青年の姿のサーヴァントは、切嗣よりも苛烈な存在なのかもしれなかった。

 

「そんなのやめてくれよ!」

 

「わたしだって許さないわよ。令呪を使ってでもね!」

 

「いやその、先走らないでくれ。あくまで調査結果次第だよ。

 事と次第によっては使用不可な物かもしれないしね。

 そのためには、専門家の知識が欲しい。柳洞寺にいるらしきキャスター。

 彼または彼女をこちらに引き込みたいんだ」

 

「討ち入るのですか、アーチャー」

 

 凛が見てとれるセイバーの能力は、アーチャーよりも余程に高い。へっぽこマスターのせいで不備が発生し、本来の能力を発揮できないようだが、それでもなお驚異的な対魔力だ。凛の目には金剛石のようにも見える。この神秘が薄れた現代、最高峰の魔術師であっても、彼女に傷をつけることはできないだろう。キャスターには、絶対的なアドバンテージとなる。

 

「いやあ、私たちに必要なのはキャスターの頭脳であって、首級じゃないんだ。

 まずは交渉してみようとは思う。これも明日、ああもう今日か、もっと後にしよう。

 より重要な問題から片付けるべきだ。士郎君」

 

「へ?」

 

「士郎君は一人暮らしのようだが、このセイバーを同居させて大丈夫なのか。

 彼女、霊体化ができないって言っていたんだが……」

 

 アーチャーの言葉に、凛は碧がかった蒼い瞳を瞬いた。

 

「そう言えばそうだったわね。でも、さっきは衛宮くんが重体だったじゃない?

 今はどうかしら、セイバー」

 

 金砂の上で、蒼い蝶が右往左往する。

 

「いえ、やはりできないようです」

 

 黒髪の主従は顔を見合わせた。

 

「では、あと二週間前後、彼女を住まわせて誤魔化しとおせるかな?」

 

 とんでもないことを言われて、士郎は目を剥いた。

 

「え、ま、待ってくれよ! セイバーが同居するって!?」

 

「やっぱり……。ハプニング召喚っぽかったもんね」

 

 凛はイリヤスフィールを軽く睨んだ。

 

「衛宮くんは聖杯戦争のこと何にも知らないみたいだし、

 不備が出るのも無理ないかもね。

 まったく、余計なことしてくれちゃって」

 

「だ、だって……」

 

 イリヤフィールは首を竦めた。

 

「でも、もう後戻りもできないしね。なんとかするしかないわよ。

 ちょうどいいわ、衛宮くん。ついでにサーヴァントの説明をしとく」

 

 凛は簡単にサーヴァントについて説明した。サーヴァントとは、偉業によって精霊の域に昇華した英雄の魂の分霊を、『座』から呼び出したもの。通常の使い魔とは一戦を画す最上級のゴーストライナー。その本来の姿は霊体。

 

 あの巨体のバーサーカーが姿を消したのは、その状態に戻ったからだ。霊体であるサーヴァントは、通常の武器で傷つけることはできない。

 

「本来、とても人間の魔術師が敵う相手じゃないわ。……本来は」

 

 凛は、胡坐をかいて、暢気に欠伸している黒髪の従者を睨みながら言った。衛宮士郎のセイバーの凛とした佇まいに比べると、なんとも緊張感に乏しい。

 

「マスターの体に浮かぶ令呪が、サーヴァントに対する三回だけの絶対命令権。

 うまく使えば、魔法の一歩手前のことまで可能になる。

 たとえば、離れたところからサーヴァントを一瞬にして転移させるとかね」

 

「じゃあ、霊体化しろって言えば……」

 

 手の甲の赤い痣を凝視する士郎だった。口調に78パーセントぐらいの本気が込められている。長い睫毛を半ば伏せた凛は、容赦なく問題点を指摘してやった。

 

「実体化できなくなったらどうするのよ」

 

「そうなのか?」

 

「可能性はあるんだから、そんな使い方は駄目に決まってるわ。

 今度は実体化しろなんて命じていたら、幾つあっても足りないでしょう。

 サーヴァントはサーヴァントでしか倒せない。

 わたしのアーチャーだって、この場のどの人間よりもずっと強いのよ」

 

 士郎は、また欠伸をした青年に疑いの目を向けた。

 

「その気持ちはよくわかるが、これは本当だよ。

 しかし、話を元に戻そう。

 セイバーと二週間同居して大丈夫かい?」

 

 セイバーは、士郎がこれまでに見たこともないほどの美少女だ。さっきの巨人の姿が見えなくなったのは、本来の状態を取ったということがわかった。だが、彼女にはそれが出来ないというのだ。士郎の顔から一気に血の気が引いた。

 

「そんな、困るよ! 

 うちには後見人のとこから、姉貴分がしょっちゅうメシをたかりに来るんだ。

 部活の後輩の子も、料理の手伝いとかに来てくれるし。

 そこに、いきなりこんな可愛い子がいたら……」

 

 マスターからの正直な賞賛に、セイバーの白い頬が微かに赤らんだ。アーチャーも腕組みをして、彼女の美を誉めたたえる。

 

「しかも、黄金の髪にエメラルドの瞳、白銀の甲冑に蒼いドレス。実にお美しい。

 伝承の女騎士とは、かくあってほしいという理想そのものだよ。

 ただ残念なことに、現代日本で一般家庭を訪問する姿ではないんだよなあ」

 

 そうなのだ。最後に付け加えられた言葉が、最大の問題である。

 

「しかし、私は騎士としてマスターを守らねばなりません。

 アサシンのサーヴァントは、同じ部屋に潜まれてもわからぬほどの技量の持ち主。

 私は、シロウの傍を離れるつもりはない」

 

「でもねえ、セイバー。

 あなたがそのままの姿で、うまい言い訳もなく同居なんかしてごらんなさい。

 二週間後の衛宮くんは、命は無事でも、社会的には死んだも同然よ」

 

「まあ、そうだろうね。世間の目ってのは厳しいからなあ」

 

 黒髪の主従はそろって頷き、夕日色の髪の主は、座卓に突っ伏してしまった。遠坂凛の言うとおりだ。どんな罵声を浴びせられるか、あらぬ噂が立つか。

 

 ――衛宮士郎は、コスプレさせた金髪美少女を囲っている。

 

 別の意味で人生が終了してしまう。とても正義の味方にはなれないんじゃないか!?

いや、士郎だってそんな噂のある人間を、正義の味方だなんて思えない。

 

 むしろ人間のクズじゃないか!

 

「だ、駄目、駄目だ! 頼む、セイバー、せめて普通の服に着替えてくれ。

 ああ、でもどうしようって……、もうこんな時間じゃないか!」

 

 居間の時計を見上げると、すでに午前二時を回っていた。あと三時間ちょっとで、早起きの後輩が来てしまう。その一時間後、教師としてはレッドゾーンの時間には後見人の娘が。間桐桜と藤村大河。士郎にとっては妹分と姉貴分。口下手な士郎の言い訳なんて、即刻ばれて、……修羅場がやってくる!

 

 二週間後の社会的な死よりも、すぐそこに迫っている危機だ。なにやら馴染みのある声で、幻聴が聞こえてきて、ぶるぶると夕日色の頭を振る。

 

 そして、衛宮士郎は真剣に己が生命を危ぶんだ。ゆえに最も頼りになりそうな者に縋ることにした。

 

「――た、助けてください、遠坂さん。

 弟子入りでも上納金でも払うから、

 そちらのアーチャーさんのお知恵を貸してください。

 お願いします!」

 

 これが伝説の日本の風習、土下座なんだ。アーチャーはまた黒髪をかき回した。長めでやや癖のある髪が、すっかり暴風の中でマラソンをした状態だ。

 

「そのね、士郎君。顔を上げてくれ。私より適任者がいる。

 君のごきょうだいにお願いしなさい」

 

「は?」

 

 士郎は呆気にとられた。



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12:偽装

 間桐桜は、穂群原高校の一年生だ。弓道部に所属する、おとなしやかな印象の美少女で、一年生のナンバーワンとの呼び声も高い。特徴的なのは、藤色と薄墨の中間のような髪と瞳の色。そして年齢の割に豊かな胸だ。

 

彼女はいつものように、弓道部の先輩である衛宮士郎を訪れた。朝六時、朝食の手伝いである。朝の挨拶をしながら、玄関の戸を開ける。そして立ちすくんだ。

 

 玄関を埋める、靴、靴、靴。それも多分、みんな女物だ。目を引くのは、鮮やかな紫色の小さなブーツ。三足の黒いフラットパンプス。いずれも艶やかで滑らかで、一見して高級品。それに混じるのは不似合いな、桜には見慣れた穂群原高指定のローファー。ただし、桜の靴ではない。

 

「せっ先輩っ! 一体何が……と、遠坂先輩……?

 なんで、遠坂先輩が……」

 

 桜の声に、現れたのは穂群原高校のナンバーワン、遠坂凛だった。キャメルのブレザーに赤いリボン、黒いフレアスカートの制服。それ自体は桜と一緒だが、スカートに座り皺がつき、いつもの完璧な身支度にはほど遠い。よくよく見れば、美しい翡翠の瞳の下に、薄っすらと隈ができていた。

 

「あら桜。今、ちょっと込み入った話になっちゃってて」

 

「今って、どういうことなんですか。こんなに朝早くに……」

 

 桜の詰問に、凛は腕時計に目を落とした。

 

「やだ、嘘、こんな時間!? 信じられない……。

 実は衛宮くんの家庭の事情でね。わたしの口からはちょっと言えないわ。

 もう冗談じゃないわよ。わたしは単なる案内役のはずだったのに……。

 ねえ、桜、あなた衛宮くんと親しいんでしょ」

 

「え、あ、その先輩は先輩で、お料理を教えてもらってて、その、あの……」

 

 赤らめた頬と、しどろもどろの言葉が語るに落ちるというやつだった。

 

「ごめんなさい、お願いがあるの。衛宮くんの後見人?

 そういう方を知ってるかしら」

 

「藤村先生のおじいさまです」

 

「あ、藤村組の親分さんだったのね。どうしようかしら……。

 すっごく、微妙な問題なのよ。ねえ、藤村先生と衛宮くんは親しいのかしら?」

 

「は、はい。毎朝のようにご飯を食べにくるんです。

 わたしはそのお手伝いで」

 

 無理があるわ、それ。凛は内心で思った。なんで後見人の成人の孫が、未成年に朝ご飯を作ってもらうのよ。逆でしょ、逆。霊体化しているアーチャーからは、弁解めいた感情が伝わってくる。

 

『いや世間には諸事情があるんだよ』

 

『ああ、あんたもそういう駄目な大人なのね……』

 

『まことに面目ない』

 

『もう、黙ってて!』

 

 内心で撥ねつけると、桜に問い質す。

 

「じゃあ、待っていればいらっしゃるのね」

 

「あの、何人お客様がきているんですか?

 遠坂先輩もよかったら食べていってください」

 

 はにかむような笑みを見せる、いまは間桐を名乗る妹は本当に可愛かった。

 

「わたしを含めて五人だけど、本当にごめんなさい。

 もう、帰るに帰れなくなっちゃって。衛宮くんも手が離せそうにないの。

 朝食作るの、私も手伝うわ」

 

 そして凛は、名字の異なる妹と、並んで朝食を作り始めた。これを逃避行動という。いまから二時間余り前にアーチャーが提案したカバーストーリーによって、間もなく起こるであろうことを、考えたくない凛だった。

 

「あれ、ご飯がそのまま……。ひょっとして、夕食も抜きだったんですか?」

 

「ええまあね。でも、これじゃ足りないでしょう。

 お客さん……外国人だし」

 

「大丈夫です。今朝は洋食にするつもりで、パンにしたんですよ。

 一応、二斤買ってきちゃいましたから。サンドイッチにしましょうか?

 こっちはおにぎりにしちゃいますね」

 

「人数も多いし、その方がいいと思うわ。じゃあ、わたしは野菜スープでも作るわね」

 

「遠坂先輩もお料理なさるんですね」

 

「わたしは一人暮らしだから、スーパーのお惣菜だと量が多すぎちゃってね。

 普段は食欲なくて、朝は牛乳ぐらいなんだけど、さすがにちょっとお腹が空いたわ。

 衛宮くんにも悪いことしちゃったなあ……」

 

 遠坂凛の様子に、桜は安堵の吐息をついた。どうやら、恋愛とかそういう関係ではないみたい。

 

 そこで会話が一旦途切れ、あとは食材を洗う水音、リズミカルな包丁の音が続く。野菜を刻み終わり、鍋に投入した凛が口を開く。

 

「ねえ、桜。最近、慎二とはうまくやってる?」

 

 びくり、と桜の肩が震えた。それで充分だった。

 

「兄さんが何か……」

 

「んー、アイツ、後輩に八つ当たりしてたみたいで、

 衛宮くんも遅くに帰って来たのよ。

 だからまあ、こんな時間まで揉めちゃったんだけど。

 桜は衛宮くんのお父さんって知ってる?」

 

 その問いに、桜は首を左右に振った。

 

「いいえ、先輩が小学生の頃に亡くなったとだけは聞いてますけど。

 わたしが先輩と知り合ったのは、去年からですし……」

 

「やっぱりそうなのね……。藤村先生ならご存知なのかしらね」

 

 浮かない顔の凛の質問に、桜はようやく笑顔で答えた。

 

「ええ、藤村先生は知っていらっしゃいますよ。

 高校生の頃、先輩のお父さんに片思いしてたって言ってました」

 

 豊かに波打つ髪のリボンが、飛翔する黒揚羽のように動いた。

 

「なんですって!? ……まずいわ」

 

 そして無情にも、ガラガラと玄関の戸が開く音が響いた。

 

「おっはよー士郎って、なんじゃこりゃー!?

 なによう、この靴の山ぁー!?

 しーろーうーっ! 出てきなさーいっ!」

 

 ああ、もう来ちゃったのか。凛は内心で深々と溜息をついた。

 

「おいでになったみたいね。後は衛宮くんと……衛宮さんのお嬢さん次第だわ」

 

 桜の手から、握っている最中のおにぎりがぼろりと落ちた。

 

「えっ、ええーっ!? 何ですかそれはっ」

 

「ねえ、わたし、やっぱり帰ってもいい?」

 

「そんなのダメです! 何があったんですか!」

 

 台所の手前の部屋から、廊下を複数の人間が歩く音が聞こえ、やがて止まる。玄関に到達したのだろう。先ほどの、明るく若い女性の声が絶叫に変わった。

 

「なんなの、この人たちは? は、え? ええっ……。

 う、ウソでしょーっ! きり、切嗣さんの娘ですってぇー!!」

 

 ほんとにやることがえぐい。これは無論、凛のサーヴァント、ヤン・ウェンリーの提案だった。桜相手の小芝居もだ。赤の他人である遠坂凛は、巻き込まれた第三者として振舞うように。

 

 薄日の射す曇りの夕暮れ色の桜の円らな瞳が、さらに真ん丸になった。

 

「うん、その、そういうことみたいなの。

 やっぱり、わたし帰るわ。ご家族の問題なんだし」

 

「待ってください。遠坂先輩からも説明してください」

 

 そう言う桜の目が据わっていた。ご飯粒がついたままの手で、凛の左手を逃すまいと握り締める。

 

「朝ごはんを持っていきながら、衛宮くんに聞いてみて。わたしだって困ってるのよ」

  

 我に返った桜は、凛の手を離した。

 

「あ、ごめんなさい、遠坂先輩。手ベタベタにしちゃいました」

 

「いいのよ。手を洗えばすむしね」

 

 凛と桜は、玄関からの絶叫に聞こえないふりをしながら、食事の準備を続けた。ほどなく食事はできあがり、手分けをして盆に載せると居間へ向かう。座卓に突っ伏す栗色の髪。夕日色の髪は項垂れている。

 

「そんな、ウソ、ウソよ……。切嗣さんに、娘がいたなんて……」

 

「ウソなんかじゃないわ」

 

 つんと顎をそびやかす白銀の髪。後ろに控えるのは、三人のメイド。銀髪が二人に、金髪は一人。

 

「ええと、おはようございます」

 

 凛の挨拶に、栗色の髪ががばりと起き上がった。

 

「と、遠坂さん!? なんで遠坂さんがここにいるの?」

 

「そのぉ、そちらのイリヤスフィール・フォン・アインツベルンさんの関係で。

 遠坂家は以前、彼女のお家と共同事業を行ったことがあるんです。

 そのご縁で、ときおり連絡をとる間柄で……」

 

 かなり歪曲しているが、まるきりの嘘でもない。この事業で行うのが、殺し合いだというのを口にしなければいい。冬木屈指の名家、遠坂家ならと納得してもらえるとは、黒い従者の弁だった。

 

 彼の言葉のとおり、相手はまったく疑う様子を見せなかった。

 

「あ、そうなの。じゃあ、遠坂さんはこの子の知り合いなんだ」

 

「ええ、イリヤさんのおじいさまと、電話でのやりとりが主なんですけど。

 私の父が亡くなって十年目ですので、式典の予定についての問い合わせを下さって、

 その折に、イリヤさんのお父さまのお話が出たんです。

 もう十年も音信不通で、失踪同然だと」

 

「うっ……」

 

 イリヤ側の事情を明かされ、藤村大河は怯んだ。士郎の目も虚ろになった。言語化するとたしかにひどい。

 

「わたしはそれで、珍しい名字ですので、ひょっとしたらと申し上げました。

 もちろん、衛宮くんに先にお話を聞くつもりだったんです。

 ただ、親戚の不幸の関係で一昨日お休みしたから、それもできなくて」

 

「あ、あの、遠坂さんのほうは、その、大丈夫?」

 

 気遣う大河に罪悪感を覚えつつ、凛は頷いてみせた。

 

「わたしの方は遠縁ですし、事務手続きの関係ですから。

 ただ、その間に、イリヤさんが聞きつけて、昨日押しかけてきちゃったんです。

 ――ドイツから」

 

『そう、その調子だよ。もっと困った顔で言ってくれ』

 

 姿なき脚本家兼演出家から、演技指導が入る。こんな時に霊体化して難を逃れるなんて。

 

『汚い、きったないわよ、アーチャー!』

 

『だって、未成年に見えている私が弁護士です、

 代理人ですって言っても通らないだろう。

 だから生前の外見で召喚されたほうがましだったんだよ。

 酒だって、問題なく買えるんだから』

 

 凛は真剣に殺意を覚えた。

 

『ほらほら、続けて』

 

「……衛宮くんには本当に申し訳なかったんですが、

 ドイツから来たと言われては、追い返すわけにもいかなくって。

 昨晩、こちらにお邪魔させていただきました。

 で、結論から言えば、衛宮くんの養父の衛宮切嗣さんは、

 やはり、イリヤさんの実のお父さまだったんです」

 

「ええーっ!」

 

 再びの絶叫と同時に、大河は立ち上がった。

 

「ホントなの!? ねえ、士郎、ホントなのっ!」

 

 剣道五段の姉貴分の腕に吊りあげられ、がくがく揺さぶられながら士郎も言い返す。

 

「ああ、ホントだったんだ……。俺だって、俺だって知らなかったんだ!

 じいさんが、実の娘を放っておいて、俺を養子にしただなんて!」

 

 シナリオどおりとはいえ、掛け値なしの本音の絶叫だった。

 

*****

 

 士郎君の関係者には、切嗣氏の家族に関する事実をそのまま告げればいい。これもアーチャーの提案だった。

 

「こんなに可愛い娘さんがいたのに、その子を妻の実家に置き去りにしていた。

 しかも、内縁の妻子で奥さんは冬木の災害で亡くなっているんだ。

 内縁とはいえ実の娘がいたのに、災害孤児を養子にして、

 それを伝えることなく亡くなった。

 切嗣氏にも事情はあったと思われるが、

 娘が激怒して当然の状況だとは思わないかい」

 

 もう今朝方になるが、淡々と列挙された事実に士郎は頭を抱えてしまったものだ。誇張や偽りではない。それゆえに、養父がとんでもない駄目男にしか聞こえない。

 

「イリヤスフィール君も当然そうなった。父の真実、母の死の真相を知りたい。

 事と次第によれば、法的な措置を取りたいと思っていると」

 

 士郎の手がばたりと落ち、声なき絶叫の表情で発言者を凝視した。鬼、いや悪魔がいる。それを誰に言うんだ。……誰が!?

 

「これはイリヤスフィール君の側の大人が言ったほうがいいね」

 

「お、大人ってどういうことさ?」

 

「私の国の敵国は、皇帝陛下が治め、貴族やその姫君がいた。

 そういう国の名家のお嬢様は、決して一人で旅行なんかしない。

 スーツケースを持ったり、逗留の世話をする人を必ず連れていくんだ。

 フロイライン・アインツベルン、君もそうだろう?

 貴族号を持つ、千年の名家の令嬢ならばね」

 

「ふうん、アーチャーはほんとうに物知りなのね。よくわかってるじゃない」

 

 イリヤの曲線的な肯定に、残りのマスターもサーヴァントも呆気に取られたものだ。

 

***

 

 イリヤの背後に控えた三人のメイドのうち、最も長身で怜悧な印象の美女が口を開いた。白銀の髪に紅玉の瞳は、手前にいる幼い主人に共通する色彩だ。

 

「それは衛宮士郎様の事情に過ぎません。お嬢様には、法的な権利がございます。

 きちんと調査し、事情を(つまび)らかにしたうえで、

 しかるべき措置をとらせていただきたく存じます」

 

 流暢な日本語で、切り口上に告げられて、士郎と大河は言葉に詰まった。あらかじめ、芝居の流れを教えられていた士郎だったが、これは強烈なインパクトだった。

 

 イリヤの付き添いのメイドで、家庭教師でもある、セラがその役を担っていた。彼女よりも若いリズという愛称のメイドは、無表情にぼそりと呟く。

 

「……かわいそう、イリヤ」

 

 こちらも銀髪に赤い瞳で、やはり美人だ。ゆったりとしたメイド服の上からも、それと判るほど豊かな胸の持ち主で、色々な意味で大層な迫力があった。

 

 その後ろ、唯一の金髪のメイドだけが居心地の悪そうな顔をしていた

 

***

 イリヤの返事に、アーチャーは小首を傾げた。

 

「おつきがいるんなら、もう一つ聞きたいんだ。

 なにか、お仕着せの服を持っていないかな?」

 

「持っているけど、わたしの付き添いが男だったらどうするの?」

 

「いくつだってレディはレディ。

 嫁入り前の令嬢なら、絶対に人間の男を従者にしない。

 私の時代ではそうだったよ。今は違うのかな?」

 

 ルビーの瞳が大きく見開かれた。

 

「違わない。ねえ、リン、アーチャーって本当にアーチャー? 

 キャスターの間違いじゃなくて?」

 

 この問いに凛は首を振った。口には出せないが、ヤンは千六百年後の科学技術を知るリアリストだ。鋭い分析はいっそ魔術的だが、それは彼の思考能力の産物だった。

 

「違うわよ。こいつはキャスターじゃないわ」

 

「マジシャンと呼ばれたことならあるけどね。

 うん、持っているなら幸いだ。セイバーに貸してあげてもらえないかな。

 そして、彼女を君の付き添いだということにして欲しいんだ」

 

 セイバーは仰天して声を張り上げた。

 

「何を言い出すのですか、アーチャー!」

 

「それはだねえ……」

 

 黒髪のサーヴァントは語りだした。複雑な問題は割り算で処理するといい。その前に結合できそうな物を同じカテゴリーに置く。そう言って人差し指を立てる。

 

「イリヤ君とセイバーは外国人という点で共通するんだ」

 

 アーチャーは中指も立て、ハサミで切る仕草を交えて言ったものだ。

 

「聖杯戦争と、衛宮切嗣氏の家族の問題は切り離して考えよう。

 魔術は魔術、法律は法律で決着をつければいいさ。

 後者については、イリヤ君に当然の権利があるんだしね。

 そして、この事実の重さの前には、セイバーの素性なんて微々たるものだ」

 

「しかし、私を敵マスターの使用人などと!」

 

 セイバーの抗議にも、アーチャーは動じなかった。

 

「それはせいぜい二週間のことじゃないか。

 彼女は君のマスターのきょうだいで、ずっと長く家族として関わるんだよ。

 君のことで悪評がたったら、士郎君もイリヤ君も困るだろう」

 

「……どうしてなのですか」

 

「士郎君とイリヤ君の関係を、色眼鏡で見られかねないってことだよ」

 

 同性としての配慮か、非常に婉曲な言い方にとどめてあったが、士郎は察して蒼白になった。 中学生ぐらいの金髪美少女にコスプレさせて囲っている変態が、小学生ぐらいの銀髪美少女に、今度はナニをする気かと世間は思うだろう。

 

 士郎はアーチャーをもう一度伏し拝んでから、セイバーに取りすがった。

 

「頼む、セイバー! どうしても駄目か? じゃあもう令呪を使うしか……」

 

 切羽詰った琥珀の目が据わりかけていた。本当にこのアーチャー、つくづく人が悪い。こんな時間にこの問題を切り出したのだって、相手の判断力を奪うために決まってる。

 

 一番状況を知らず、最も人がよく、サーヴァントとまだ足並みが揃うわけがない衛宮士郎。だが、サーヴァントの犯罪に全く関わりはなく、魔術師には勝てないセイバーのマスター。しかも、最強の主従であるイリヤスフィールと父を同じくするキーパーソン。

 

 こいつが標的にしないわけないじゃない。

 

 凛は横目で従者を睨んだが、彼の思惑には乗ってやることにした。このえげつない策だって、一には凛の生存、二には未成年のマスターの手を汚させないこと、三にはこれ以上人間の死者を出さないこと、そういう意志の元に考えられたものなのだから。

 

「衛宮くんにセイバー、ちょっと落ち着きなさいよ。

 確かにセイバーの案は無理があるもの。

 五年前に亡くなった衛宮くんのお父さんにお世話になったって言うと、

 あなたの外見だと最高で十歳ぐらいの時よ。

 彼が冬木に来る前だと、それが五歳になっちゃうのよ。ほら、無理でしょう?」

 

 セイバーは眉を寄せて唇を噛んだ。

 

「中学を卒業して、メイドとして働いてますっていう方がまだいいと思うけど」

 

 アーチャーも主人に言い添えた。

 

「申し訳ないが、故人には、一時的に悪者になっていただくしかない。

 娘と息子に迷惑をかけているのは事実なんだから、

 口実にされたところで、怒ることはできないと思うがね」

 

 致死量を超えた毒なら、いくら食べても同じことだ。ならば、それを活用すればいい。木を隠すには森の中、金髪の美少女を隠すなら、銀髪の美少女と美女の中に。

重大で強烈な事実に、わずかな偽りが混入され、アインツベルンには三人目のメイドが誕生したのである。



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13:団欒と後片付けと

 『法的措置』という重々しい単語に、シナリオを知ってはいたが言葉に詰まる士郎と、何も知らず何も言えない大河を尻目に、セラは話を続ける。

 

「とにかく、こんな非常識なことは許されません。

 旦那様に反対された仲とはいえ、実子のイリヤスフィール様に何も言わず、

 こちらの衛宮士郎様にも何も告げずに亡くなられたとは。

 調査のために、我々は冬木に滞在いたします。

 当面、証拠隠滅の監視に、こちらのセイバーをつけさせていただきます。

 我々もホテルのキャンセルが整い次第、衛宮邸に移りますので」

 

「ええっ、ちょっと待ってください。

 士郎はそんなことしないし、男の子ですよぉ!

 こんな可愛い子と同居させるなんて、何かあったら……駄目、駄目よ。

 おねえちゃんは許しません!」

 

「藤村様とおっしゃいましたね。後見人のお孫さんだとか。

 失礼ながら、これは感情ではなく法的な問題です。

 あなた様は衛宮家に何らの権利も有しませんので、悪しからず」

 

 ふだんは元気いっぱい、絵に描いたような美人ではないが、明るく親しみやすい大河の顔が固まった。

 

「は、はい?」

 

「こちらのイリヤスフィール様は、

 衛宮切嗣氏がしかるべき手続きを行っていたら、遺産の相続権がございました」

 

 真っ白な顔の大河に、白皙の怜悧な美女はやや口調を緩めた。

 

「むろん、当家の資産に比べたら微々たるもの。

 何も知らぬご養子が、困窮するような措置を取ろうとまでは思いません。

 しかし、衛宮の姓と日本の国籍が、父のせいで得られなかったとは……。

 家庭教師にすぎぬ私であっても、許しがたきことです。

 お嬢様の心は、いかばかりかとお思いですか」

 

「あ、あの、でも、それは士郎のせいじゃ……」

 

 なんとか口を挟もうとした大河だが、すぐに氷壁にぶち当たることになる。

 

「おっしゃるとおりです。たしかに衛宮士郎様のせいではありません。

 しかし、死後の認知の請求は、法に定められた子どもの権利です。

 お嬢様にとっても、当然の権利なのです。

 あなた様は教職におられるとうかがっておりますが、

 よもや否とはおっしゃいませんよね」

 

「う、うう……」

 

 ぐうの音も出ないとはこのことだった。気の毒になってくる凛だ。凛が大河の立場でも、弁護の術が見つかりそうにない。

 

 理屈と感情の双方に訴え、反論を封じ込める。相手の弱点を狙い澄ました、この根性の悪い台詞の製作者もアーチャーだった。

 

士郎が口にした、姉貴分の藤村大河と妹分の間桐桜。その立場や性格、士郎との関わりを聞き取り、こうした台詞を作成した。誰が誰に対するか、その配役も含めて。

 

 凛でも薄気味悪くなるぐらいの的確な配役であり、台詞回しであった。それに対して、学校では無愛想で口下手な衛宮士郎が、驚き慌て、困り果てた表情を見せる。台詞はある程度仕込まれたものだが、発露する感情は自然なもので、演技ではないのだ。だから身近な女性二人も、彼を不審に思わない。

 

 だって嘘ではないのだから。イリヤに関する話は、おおむねノンフィクションであり、登場する人物、団体等は実在する。だからこそ、こじれているわけだが。

 

「こちらのセイバーは、メイド見習い兼お嬢様の護衛で通訳です。

 働き始めたばかりの至らぬ粗忽者ですが、

 護身術の腕は衛宮士郎様より上かと。

 なにより、裁判の瀬戸際にそんな不祥事を起こしたらどうなるか、

 高校生ともなれば、弁えておられましょうに」

 

 セイバーは無言で一礼した。背筋の通った隙のない動作で、剣道五段の大河には実力者とすぐわかる。

 

「う、うう……」

 

「ごめん、藤ねえ。そういうことなんだよ。

 この人たちに信じてもらえるまではさ、仕方ないと思うんだ」

 

 セイバーは士郎の護衛ではなく、監視役。アーチャーは、そういう形に表面上の肩書を改変したのだ。『敵』であるから、短期的に恋愛関係に発展するとは思えなくなるように。

 

「いずれにせよ、長いことではございません。

 今日明日にでも、私どももこちらに移らせていただきますので」

 

 それを合図に、イリヤスフィールは立ち上がった。白いスカートの裾をつまみ、愛らしい淑女の礼をした。これもアーチャーの指導。『美は力なり、可愛いは正義』だそうだ。千六百年後の格言らしい。……なんか混ざってる気がする。

 

「そういうことで、よろしくね。

 わたしは、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 イリヤって呼んで。ねえ、あなたのお名前は?」

 

「あ、ああ、あの藤村大河です」

 

「フィジムァ タイガ?」

 

「藤村……あの、やっぱいい。大河って呼んで」

 

 しろがねの髪にルビーの瞳、白皙の肌。ビスクドールさながらの美少女だ。こんな子に、タイガーって呼ぶなと叫んだりなんてできない。凝ったデザインのスカートとブラウスは、布の発色に光沢に質感、精緻な刺繍まで、一見して高価なもの。おつきのメイドの白と黒、紺の制服もこれまた上品で上質なものだ。

 

 あんまり服装には興味のない大河だが、それはわかるのだ。ああ、お金持ちだと。いつも、よれよれしていた初恋相手には欠片も似てない。

 

「じゃあ、タイガ。キリツグのことを教えてくれる?」

 

「う、うっ……こ、こちらこそ、よろしくね……。

 あは、あはははは……でも、やっぱり信じらんないよう。

 全っ然、切嗣さんに似てないし」

 

「わたしはお母さまに似たんだって、みんないうわ。

 とってもきれいなひとだったんだから」

 

「うん、うん、そうだろうねぇ……。

 イリヤちゃんもとってもかわいいもんねぇ」

 

 また、栗色の頭が座卓に乗っけられてしまった。この有様にどうするべきか言葉をなくしていた桜は、時計の音に我に返った。一回は先ほど鳴り、今度は七回。

 

「大変です。もう七時ですよ、藤村先生!

 早くご飯にしましょう。……食べられそうですか?」

 

「……うん、食べる。食べるってか、食わなきゃやってられるかぁーーっ!」

 

 自称のごとく、飢えた虎と化して、士郎の姉貴分は目の前の朝食に猛然と食らいついた。彼女の弟分は、アーチャーの読みの鋭さに、心からの感謝を捧げた。セイバー案では、セイバーの腕前を確かめると言い出しただろう。

 

 それでは困る。道場からは土蔵の入口が丸見えで、昨晩の血痕の掃除まではとても手が回っていない。大騒ぎになるところだった。

 

「藤ねえ、そういうわけで、今日は俺学校休むよ。

 とても無理だ……。これじゃ、今日は留守にできない」

 

「藤村先生、申し訳ありませんがわたしもそうします。

 もしも、体調が許せば午後から行くかもしれませんけれど」

 

「あ、いいよ、遠坂さん、無理しないで。

 女の子だもん、体が一番大事だからね」

 

「昨晩、藤村先生にご連絡すればよかったです。そこまで気が回りませんでした。

 結局、夕飯は抜きだし、お風呂にも入ってないし、一睡もできなかったし」

 

「ご、ごめんなさい」

 

 夕日色と栗色が、同時に下げられる。こちらのほうが、確かに姉弟らしかった。

 

「この朝食も食べられなさそうだしね……」

 

 最後は呟きだった。猛然とサンドイッチとおにぎりにかぶりつく妙齢のはずの女性教諭。静かだが、けっこうなペースで食事が消えていく妹と、こくこくと頷きながら、主人そっちのけで食事をする金髪のメイド。

 

 行儀の悪い同僚を、怜悧な銀髪美人が冷ややかに見つめ、もう一人はただただ無表情に凝視している。

 

「……セイバー、よく食べる。おいしい……?」

 

 返事はせわしなく上下に振られた頭。

 

「こんなに美味なものは初めていただきました! 

 今まで食べたものは、……その……雑、でしたので」

 

 セラの眼差しが厳しくなった。アインツベルンが、使用人に碌な食事を与えていないと言われたようなものだ。さすがのアーチャーも、食事の感想までは仕込んでいなかったのである。

 

「とにかく、衛宮様。躾の行きとどかぬ新米を付けるのは、

 当方としても不本意ですが、あなた様の潔白のためでもあります。

 短い間ですが、ご了承を」

 

「あ、は、はい。

 俺も疑われたくなんかないし、我慢するよ。

 ええと、遠坂さん。その、ありがとう」

 

「いいえ、こちらこそごめんなさい。

 アインツベルンのおじいさまに、

 もっと確かめてから伝えなかったわたしのミスだもの」

 

 こんな中で、暢気に食べるなんて凛には無理だ。脳裏でアーチャーが栄養補給の重要性を説いてもだ。

 

『食事には雰囲気だって大事でしょ!』

 

『たしかにね。でもちょっとでも食べたほうがいいよ。

 せっかく、君の妹さんが作ってくれたんじゃないか』

 

 そうだ、この従者はそれを知っているのだった。凛は、すっかり冷めている紅茶を啜った。渋いし、香りも飛んでしまっている。許しがたいことに、紙のティーバッグのものしかなかった。せめて、三角パックのを用意させよう。

 

 あんまり苦かったので、口直しに桜が作った卵サンドに手を伸ばす。時間短縮のためか、ゆで卵ではなく、スクランブルエッグを挟んである。ケチャップと粒マスタードで、味がぼやけないように工夫されている。たっぷりとバターを使っていて、今の凛にはちょっと重たいがとてもおいしい。

 

「間桐さん、お料理上手ね。このサンドイッチとってもおいしいわ」

 

「遠坂先輩のスープもすごくお上手です。上品な味で、見た目もとってもきれいで」

 

 サンドイッチにもおにぎりにも合うように、さっぱりとした塩味のスープだった。これも時間短縮のため、野菜は綺麗に賽の目ぎりにされて、人参に玉ねぎ、かぶは根と葉を使っている。彩りもいいが、アクを丁寧に取っていて、野菜本来の上品な甘みがよく出ていた。

 

 さすが、ミス・パーフェクトと桜は感嘆した。

 

『こんな低カロリーで、ちゃんと美味しい料理ができるなんて。

 それに食も細くて女の子らしいなあ。だから、あんなにほっそりとしてて……』

 

 豊かに波打つ黒髪を、ツーサイドアップにしても顔が大きく見えない。それを引き立てる細く長い首。なにより、ウエストと手足の細いこと。太ももやお尻も細いから、正座しても下半身が平らだ。台所で並んだ時、身長は桜とさほどに変わらないが、歴然と顎や腰の位置が高かった。モデル体形で、どんな服も似合うだろう。

 

『きっと贅肉に悩んだりなんかしてないんだろうなあ。

 この前試着したけど駄目だったワンピも、きっと綺麗に着られる。いいなあ……』

 

 先日、一目惚れしたワンピースは、胸の下で切り替えるデザインだった。しかし桜が着ると、切り替え位置が上がってしまって、まるでマタニティードレスだ。可愛かったのに、華奢な人が着てこそのデザインで、泣く泣く諦めたばかり。羨ましい。

 

 羨む桜をやはり羨む凛だ。

 

『やはり、出るべきところを出すには、健康的な食欲が必須なのかしら』

 

 一歳下、いや今日から一月弱は二歳下の妹に、体の特定部位のボリュームがはっきりと負けている。山の高からざれば、谷間もできぬと、まあそういうことだ。ブレザーの胸元が、妹のような形になるには相当な質量が必要になる。

 

『私の体型はお母様似だわ。なんで、桜だけ……。

 ひょっとして、お父様の家系似? おばあさまが外国人だったからかしら。

 うう、髪の癖じゃなくて、なんでそっちが似なかったのよ!』

 

 それにサラサラのストレートヘアには憧れる。女の魔術師の髪は、魔力を溜める装置でもあるから、ロングヘアは必須。冬は乾燥と静電気、夏は湿気と熱との戦いで、天然ウェーブの髪は大変なのだ。

 

 持てば羨み、持たざればやはり羨む。乙女心は複雑であった。

 

「ありがとう、間桐さん」

 

「こっちも食べてくださいね」

 

「ありがと」

 

 でも、とても食欲がわかない。それより、お風呂に入って寝たい。美味しい紅茶を一杯飲んでから。

 

『うん、私にもくれると嬉しいなあ。そういえば、凛、誕生日おめでとう』

 

『ん、ありがと』

 

『……それが若さだよなぁ』

 

 そのうち、祝辞が祝辞に聞こえなくなる日が来るのだが、その日を迎えるためには今を生き抜くことだ。生存の方程式を解き明かすべく、ヤンの頭脳は静かに回転を加速させた。

 

 てんやわんやで食事を終えて、藤村大河と間桐桜は登校して行った。イリヤを、士郎の後見人の藤村雷画に会わせるために、藤村家にまで連れて行きながら。

 

 高校二年生の少年少女は、玄関先で見送った。玄関の戸が閉まり、三人の声が遠ざかり、門扉の音まで聞いてから、同時にへたり込んで大きく息を吐いた。

 

「あ、ああ、やった、やったぞ。何とか乗り切った……!」

 

「ふたりともお疲れさん」

 

 虚空から姿を現したアーチャーが、穏やかに労いの言葉を掛ける。

 

「もう、ずるいわよ。肝心な時に」

 

「しかしね、イリヤ君の怒りや憎しみの根幹は、家族の問題だよ。

 だから、部外者は少ない方がいい。君は第三者の調停役だ。

 管理者とは本来そういう役割ではないのかな?」

 

「まあ、そうだけど」

 

「二流の権力者は、その地位に就くことを考える。

 一流の権力者は、その地位で何を為すかを考える。

 私は、凛には後者になって欲しいな」

 

 座り込んだ凛に差し伸べられた手。握り返したが、まったく生きている人間と変わらなかった。あたたかく、乾いて感触のよい手だった。だが、右手人差し指の関節あたりに胼胝(たこ)がある。この穏やかな青年は、確かに射撃を学んだ者なのだ。信じられないことだけれど。

 

 廊下の奥で息を呑んだ者がいた。偽りの同僚が、感情の籠らぬ声を掛けた。

 

「……セイバー、どうしたの」

 

「な、なんでもありません……」

 

「そう、なら片付け」

 

「は? なぜ私が!?」

 

「メイドだから」

 

「私はセイバーのサーヴァントです!」

 

「でも、メイドだから」

 

 リズことリーゼリットは、セイバーの襟首と腰のエプロンの結び目を掴むと、軽々と持ち上げて連れて行ってしまった。

 

「な、ちょっと放して下さい!」

 

「仕事さぼるとセラが怒る」

 

 玄関先の三人は、それを呆然と見ていた。アーチャーは黒髪をかき回した。

 

「申し訳ないことをしてしまったかなあ。

 彼女、どう見ても身分の高そうな騎士だったし。

 士郎君、やめさせた方がいいかもしれない」

 

「へ、なんでさ」

 

「君は彼女の真名を聞いたかい?」

 

「いや、実は聞いてないんだ。

 俺、マスターとしては知識が少ないから、

 キャスター対策に伏せておいた方がいいって」

 

 ヤンと凛は顔を見合わせた。危機管理の点では妥当といえよう。

 

「言えてるわ。セイバーはキャスターを攻めたいみたいだし、

 衛宮君のように魔術がからっきしなマスターに、知らせておくのは危険かもね」

 

 ぐらりと士郎がよろめいた。

 

「だからね、マスター。君は歯に衣を着せてあげなさいって言っただろう」

 

「や、アーチャー、それフォローじゃない。フォローじゃないぞ!」

 

「ああ、すまない士郎君。

 セイバーの考えも軍事的には間違いじゃないんだが、

 君には明かしておいた方がよかっただろうなあ。

 騎士の社会的地位は、時代によって随分違うから、

 君も適切な対応ができるだろうに。

 ああいう、甲冑の騎士のいた時代は中世ヨーロッパなんだ。

 彼女の出身地は、地中海地方や東欧ではなく、西から北だと思う」

 

「なんでそういうことになるんだ?」

 

「食事が雑だったという言葉を信じるならね。

 年代は五世紀から十一世紀の、十字軍の遠征以前の可能性が高い。

 イスラム文化との接触で、ヨーロッパ全土に香辛料が広まる前だ。

 そうなるとねえ、衣装の歴史的な辻褄が、合わなくなってしまうんだよなあ」

 

 黒髪を傾げて腕組みをするサーヴァントに、琥珀の目が見開かれ、隣の華奢な肩が竦められた。ちょっとした言葉から、とんでもないことまで見抜くと、彼のマスターが評したのは大袈裟ではなかったのだ。

 

「う、うーん、ごめん、俺歴史って苦手でさ……」

 

「何が言いたいのよ」

 

「この国は当時世界一の先進国、中国に近かったから、

 ヨーロッパよりはるかに文化的に進んでいた。

 日本では使われていたが、彼女の時代には多分ないと思うんだ」

 

「だから、何がないの?」

 

 台所から、破砕音が連続して響き渡った。アーチャーは困ったように眉を下げた。

 

「ごめん、遅かった。……今の音の原因。つまり、陶磁器だ」

 

「うわーっ! ちょっと……」

 

 脱兎のごとく駆け出しかけた、夕日色の襟首を黒い袖がむんずと捕まえる。

 

「まあまあ、落ち着いて。令呪が発動したらもったいない」

 

「へっ!? そんなんで発動しちまうのか、遠坂」

 

「単純な願いほど、強力な効果があるらしいのよ。

 いい、衛宮くん。三つあっても、実際に使えるのは二つまでと思っておきなさい。

 残りの一つは、マスターの生命線よ。万が一、サーヴァントが裏切った場合のね」

 

 そんなことをアーチャーの目の前で言うのは、ちょっとどうかと思うが、彼は落ち着いたものだった。

 

「令呪は貴重なものだ。皿の一枚や二枚、諦めるしかないよ」

 

 再び、音が連鎖する。

 

「いや、うん、そのね、今さら焦っても遅いだろう」

 

「……お、おう。そうだよな。俺、行ってくるよ……」

 

 毒気を抜かれ、とぼとぼと台所に向かう士郎。凛は、縦の物を横にもしない、怠け者のサーヴァントをまじまじと見つめた。

 

「いくら、聖杯から知識を受け取るとは言ってもね。

 自分の時代にない壊れ物を、数十倍になった力で扱うのは無理があるんだよ。

 私だって元から不器用なのに、この時代の陶磁器なんて恐れ多くて扱えないよ」

 

「どうして恐れ多いのよ」

 

「君ね、西暦五百年代の骨董を洗剤とスポンジで洗えるかい?

 それも力が十倍になった状態で」

 

 とても言い訳っぽい。しかし、彼の触媒となった、あの万暦赤絵の壺に同じ扱いができるかと自問すると……。

 

「たしかに無理かも。四百年前の壺が何百万でしょ。

 ってことは、少なくとも四倍よね」

 

「いいや、骨董ってのは、そうならないんだよ。

 時代に応じて、桁のゼロが二つ三つと増えるのさ」

 

 凛の眉根が寄った。

 

「……お、億?」

 

「食器は現代の価格に対してだからそこまでじゃない。壺はそうだと思うよ」

 

 だが、日常の食器でも万から数十万。長い黒髪が勢いよく左右に振られた。

 

「やっぱりそうだろう? 

 食器一個とっても、時代差を理解するのは難しいんだ。

 そんな主従で一つの目標に向けて共闘なんて、普通ならできっこない。

 彼女との接触を、必要最低限にとどめたらしき切嗣氏の判断も、

 あながち間違いじゃないとも思うんだよ」

 

「あなたは現代をかなり理解してるし、わたしたちのことも考えてくれてるわよね」

 

「それは後続ランナーの利点だろうね。

 私の国は、この国やアメリカ合衆国に近い政治システムだ。

 大人は子どもを守るものだ、という考えも浸透している」

 

 凛は頷いた。それは、彼を見ればよく分かる。外見は凛たちと同年代でも、言動は年長者としての経験に裏打ちされたものだ。

 

「それでもこんなに平和で、街に働き盛りの男性が大勢いて、

 六十年以上戦死者がいない社会なんて、私からしたら夢のようだよ」

 

「そうなのね……」 

 

「士官学校の代わりに、高等学校があって、音楽や調理を教えたりするのもだ。

 藤村先生はきっといい先生なんだろうね」

 

 そう語るアーチャーは、なんとも優しい、眩しいものを見るような表情をしていた。

 

「さて、我々はいったん帰って一寝入りしようか。

 学校の結界は、ちょっと考えを変えた方がよさそうだしね。

 教会への出頭は午後にすればいいさ」

 

「衛宮くんたち、ほっといていいの?」

 

「家族の問題に嘴を突っ込むと、痛い目にあうからね。

 当事者同士で頑張ってもらおう。

 二人とも、根っこはいい子たちだ。

 いろいろと歪みがあるが、お互いの存在が癒すと思うよ。

 一緒に暮らし、語り合えばきっとわかってくるだろう」

 

 そう言うとアーチャーは、台所の入口で仁王立ちしている長身のメイドに声を掛けた。内部の惨状に、険のある視線を向けている。偽りとはいえ、このありさまでは、千年の名家のプライドが許し難しといったところか。

 

「そういうことで、セラさん。私たちはひとまず失礼します。

 本日午後三時ぐらいに、こちらにお邪魔して、教会に行こうと思っています。

 あなたのご主人と、士郎君にもよろしくお伝えください」

 

「承りました。遠坂様、僭越ながら私が車でお送りしますわ。

 イリヤ様の関係者の家から、管理者遠坂のご令嬢が徒歩で朝帰りしたなどとは、

 アインツベルンの恥でございます」

 

 真紅の瞳を、漆黒の瞳が受け止めた。

 

「なるほど、遠坂の裁定を許容していただいたということでよろしいのですね。

 では、よろしくお願いします」

 

 アーチャーはぺこりと黒い頭を下げた。

 

「アーチャー様は、外見よりずっと大人でいらっしゃるのですね」

 

「そうなんですが、この外見がネックでしてね。

 おかげで、紅茶に入れるブランデーも買えそうにありません」

 

 かくて、遠坂主従は、快適に自宅に帰りつけたのである。黒塗りのリムジンで。アーチャーにと、リムジンのキャビネットに納められていた高価な洋酒が一揃い贈られた。

言ってみるものである。

 

「ねだらないでよ、みっともない。でも貰ったものは仕方ないわね。

 あんたが一番頑張ったと思うし、取っておきの葉で淹れてあげるわよ」

 

「ブランデーはたっぷりで頼むよ」

 

 遠坂凛の長い二日目はひとまず幕を下ろした。



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3章 趣味と実益
14:素人歴史愛好家


 ――ひとりぼっちになってしまった『彼』は、父の会社の弁護士の助けを借りて、負債の清算に奔走した。

 失われてしまった、父を含めた十五人の家族。でも、彼らには本当の家族がいた。天涯孤独になってしまった『彼』とは違って。

 まずは、その謝罪と賠償。浴びせられる罵声、それよりも遥かに堪えるのが悲嘆と慟哭。失ったのは『彼』も同じ。同じように振舞えればどんなによかっただろうか。

 上に立つ者は、その地位に応じた責任と義務を同時に負う。『彼』はそれを負債と共に相続したのだから。

 次に、船と一緒に宇宙の藻屑となった積荷の賠償。金額や物資だけの問題ではなく、規定の期日に届かなかったこと。失われた信用に必死に頭を下げて回った。

 『彼』の父は、金育ての名人などと渾名された商人で、保険と貯蓄と帰ることもなかった地上の家の代金で、なんとか清算することができた。借金がないだけましといったところだった。

 あてが外れてしまったのは、『彼』の父の骨董コレクションが、一点を除いてみな偽物だったこと。本物ならば、大学に通い、歴史学者となっても何不自由なく一生が送れただろうに。

 無料で歴史を教えてくれる、そんな都合のいい学校が……あった。自由惑星同盟軍士官学校戦史研究科。『彼』はぎりぎりで願書を提出し、なんとか合格したのだ。宇宙船育ちで、運動体験に乏しい『彼』にとって、過酷な学校生活の始まりだった。

 実年齢より二、三歳若く見える。これは十六歳の少年にとって、重大な肉体的ハンデだった。必死で行軍練習や実技に取り組んでも、及第点ぎりぎりを取るのがやっと。その辛さに、いっそあの時受験のために下船などしなければと、何度思ったことだろう。

 そんな『彼』にも励ましてくれる友達が出来た。同室だった性格のいい優等生と、学校の事務長の娘。どちらも金髪碧眼で、『彼』にとっては眩しい光のような存在だった。『彼』はおずおずと手を伸ばした。彼と彼女はその手を握り返し、陽だまりに連れ出してくれた。

 ――私は、生きていてもいいのだろうか。


 四時間ほどは眠っただろうか。凛が目を覚ました時には、正午を回っていた。

 

「うう、あんまり寝た気がしない……」

 

 日常的に魔術の鍛錬を行う凛は、ショートスリーパーである。

しかし、完全に体内時計がずれてしまった。なにより、あのサンドイッチが結構きいていて、まだお腹が減らないのだ。着替えをして、よろよろと居間に降りていくと、ソファーでアーチャーが寝息を立てている。調べ物をしているうちに眠り込んでしまったのか、一昨日集めた資料に半ば埋もれて。

 

「まーた寝てる。ま、いいわ」

 

 まだ時間はあるし、サーヴァントに身支度はいらない。羨ましい話だ。サーヴァントに飲食は不要だが、食べた物は魔力に還元される。マスターからの供給に比べれば微々たるものだが。紅茶を呑みながら首を捻っていた彼にそう説明したら、感心したように頷いた。

 

 凛のアーチャーは、紅茶以外にはあまり執着しなかった。一昨日の昼食は、凛だけが食べるのは不自然だから頼んだそうだ。だが、多少でも補助になるなら、食事をさせるのはいいかもしれない。何だか知らないが、とにかく燃費が悪いサーヴァントなのだ。睡眠も魔力の補充にはなる。この遠坂の屋敷は、冬木第二の霊脈上にあるのだから。

 

「ううん、ユリアン。もう朝かい……?」

 

 今度はユリアン。だが、もう内心で突っ込む必要はない。こちらが彼の里子なんだろう。きっと、このだめな大人に家事をしてくれていた。

 

「わたしはユリアンじゃないし、朝じゃなくて昼よ。

 でもまだ寝てて。あんた、家事の役に立たないから」

 

「そいつはどうも……。マスターの仰せのとおり……」 

 

 言葉の最後は寝息になった。あのランサーやセイバーに比べて、なんとも冴えない英霊だ。

 

「サーヴァントのトレードってできるのかしら……」

 

 いや、チームとして考えた方がいいか。御三家が協調して、外来の参加者を各個撃破する。アーチャーが言った構図だ。となると、やっぱりこいつは、なくてはならない『頭』になる。

 

 あの濃い面々、管理者の言う事を聞きなさい! では動かないだろうし……。凛は溜息を吐いた。このアーチャーがどうにかそうまとめたのだ。

 

「やっぱりそれは無理か。でも、間桐は参加してるの?」

 

 朝、桜に手を握られたが、令呪を持っている人間と接触した時のような痛みを感じなかった。でも、桜の義兄、慎二は魔術回路が枯渇している。彼の父にはわずかな魔術回路があるとのことだが、アルコール浸りでいるらしい。では、臓硯、あの五百年生きている化け物がマスターか。

 

「だとすると、ランサーかライダーかアサシン。

 キャスターだったら、間桐邸に籠るはず。

 いいえ、これも引っ掛けかもしれない。

 いずれにしろ、ランサー以外は、

 学校の結界なり新都や深山の事件のどれかの容疑者……」

 

 これでは同盟を組むのは無理だ。アーチャーはキャスターを引き入れたいようだが。

 

「ランサーを引き入れるか、交渉はしなくちゃならないってことね。

 ランサーが間桐のサーヴァントならいいんだけど」

 

「そいつは期待しない方がいいよ」

 

 いつの間に目を覚ましたのか、ソファに横になったまま、片眼を開けたアーチャーが応じた。

 

「どうしてよ」

 

「三騎士と言うのは、恐らく外来の参加者を騙すフェイクだ。

 この地に拠点を持ち、霊脈を押さえている遠坂や

 間桐が召喚すべきはキャスターだよ」

 

 この意見に、遠坂の当主は豊かな黒髪を乱す勢いでソファに駆け寄った。

 

「何ですって!」

 

 アーチャーは寝がえりを打ち、また両目を閉じた。

 

「御三家の共闘が前提ならば、どう考えてもそちらのほうが理にかなっている。

 君の家は、冬木第二の霊脈にあるって自慢してたじゃないか。

 目くらましのために、魔術師を最弱と言い、

 剣士、槍兵、弓兵を三騎士なんてもてはやして、

 外来の参加者に引かせる気だったんだろうが、

 その知識が伝達されていないんだよ、恐らくね」

 

「でも、三騎士には対魔力が付与されるわ」

 

「だが、セイバーとランサーは、マスターが傍にいなくては十全の力を発揮できない。

 つまり、マスターも相手に身を晒すことになる。

 どんなに強い英霊だって、頭は一つで腕は二本。元が人間である以上は変わらない」

 

 そのとおりだ。召喚できるのはあくまで、人間だった英雄たち。百の頭と腕を持つヘカトンケイルのような、そういう存在は含まれない。

 

「その何がまずいっていうのよ」

 

「だから戦闘時には、マスターの守備に致命的な隙が発生する。

 この二組と対するに、マスターはマスターを狙うだろう。

 セイバーやランサーには魔術で勝てないからね」

 

「それはそうよ。セイバーがよかったっていうのは、

 わたしの魔術での同士討ちを心配しなくていいからよ。

 でも、あんたにはあんたで、いいところがなくもないわ。……たぶんね」

 

「……そいつはどうも。

 そうして、マスターが戦っているところに介入し、

 漁夫の利をおさめられるアサシン。こいつが次善の選択肢だよ」

 

 どちらも弱く、ハズレとされているサーヴァントだ。

 

「そんなはずないでしょう!」

 

「そして今回、アインツベルンはバーサーカーを選んでる」

 

「ええ、とんでもない化け物。きっと大英雄にちがいないわ。

 あんな魔力をバカ食いするクラスを、きちんと制御できるんだもの、

 あの子も化け物魔術師よ」

 

「いいや、違うよ。バーサーカーを選ぶ最大のメリットは、

 サーヴァントの意志を無視できることさ。

 彼は聖杯を手にしたら、何をしたいなどとは考えられない。

 だからこそ、思考力を奪ったクラスが存在し、呪文も設定されているんだろうね。

 前回、あのセイバーを召喚した陣営に、思うところがあったのかな」

 

 凛は言葉を失くした。

 

「ちなみに、機動力のある強力な宝具に騎乗するライダーも、見せ札の可能性が高い。

 どんな乗り物かは知らないが、これほど秘匿と相性の悪いクラスはない」

 

 ヤンはむくりと起きあがった。凛は思い出した。彼をライダーとして召喚したら、という仮定を。

 

「今、ものすごく納得したわ。あんたの宇宙戦艦とか冗談じゃないもの」

 

「まあ、私の場合は極端すぎるがね。

 しかし、夜に戦うといっても、物音を立てればより響く。

 欧州、中近東の乗り物といえば、戦車や名馬の可能性が最も高い。

 やはりこれは、二百年前に作ったシステムとのギャップなんだろうなあ。

 当時はよかったが、社会や技術の発達で、馬がいなくなってしまったんだよ」

 

「ああ、そうかも。考えてもみなかったわ」

 

 歴史マニアの未来人の指摘に、現代人は頷いた。

 

「船だと戦場が限定されるから、ライダーを狙うなら考慮するだろう。

 空飛ぶ乗り物の伝承がないではないが、こいつも疑問だね」

 

 凛は首を傾げた。

 

「相手の攻撃は届きにくいわよ」

 

「だが、市街地に潜まれた相手を見つけるのは難しい。

 現代戦の空爆は、そういう敵の排除が目的だが、魔術の秘匿でそれはできない。

 となると、一方的に不利だよ。自分のほうは一発でばれるのにさ」

 

「それはいくらだって手段があるわ。マスターが結界を張ったりすればいいんだから」

 

 凛の反論に、軍人のサーヴァントは難色を示した。

 

「それで秘匿はクリアできるとしても、

 馬にしろ戦車にしろ、要は兵力を高速移動させる道具に過ぎないんだよ。

 攻撃には、矢を射るなり、槍で突くなりしないと意味がない。

 だが、その役割は他のクラスに取られてしまっている。

 乗り物で体当たりするのかい? 合理的じゃないね」

 

「そうとは限らないでしょ。宝具自体に武器が備わっている場合もあるわ。

 あんたの戦艦だってそうでしょう。どうやって攻撃してたのよ」

 

「主力武器は中性子線ビームだ。有効射程距離は五光秒。

 百五十万キロの彼方から撃ち合うのさ」

 

 凛が電子機器の取り扱いが苦手とか、もうそんなレベルの話ではない。距離の単位が『光』ときた。想像を絶するとはこのことだ。

 

「……ちょっと待って。ここからどのくらいの距離になるっていうの」

 

「うーん、月までの四倍ぐらいかな。

 彼我の距離がもっと接近すれば、レーザー水爆やレールキャノンの出番になるが」

 

「それ、どんな武器なのよ」

 

「ええとね、レーザー水爆は……」

 

 聞くだに禍々しい単語に、艶やかな黒髪が左右に振られた。

 

「やっぱりいいわ。知りたくなくなってきた。

 体当たりのほうがまだマシな気がする」

 

「体当たりなんかするのは、強襲型揚陸艦ぐらいだなあ。

 こいつは白兵戦の人員を送り込むための艦で、厳密に言うと強制接舷だ。

 しかし、白兵戦隊員は宝具に含まれるんだろうか……?

 戦闘技術的には、セイバーとランサーの中間になってしまうんだが」

 

 『バナナはおやつに入りますか?』みたいな自問に凛は呆れた。おざなりに手を振って、英霊ヤン・ウェンリーがライダーだったらという仮定を打ち切ることにした。

 

「も、いい。あんたがライダーじゃなくてよかったと改めてわかったから。

 じゃあ、アーチャーはどうなのよ」

 

 その問いに、ようやく大儀そうに起きあがり、黒髪をひと混ぜする。

 

「三騎士の中でも一見ぱっとしないし、接近戦にも弱い。

 あんまり、弓で名だたる英雄も聞かないしね。中世ヨーロッパだと」

 

「無駄なしの弓のトリスタンとか、ロビンフッドくらいよね」

 

「だが、ギリシャ神話まで手を広げれば、ヘラクレスにオリオンあたりも候補だ。

 どうやって呼んだらいいのか、触媒の入手は困難だろうがねえ」

 

 本当に歴史マニアって……なんていうかこう、発想の方向が見当もつかない。

 

「ちょっと待ちなさい。ギリシャ神話って、キリストの聖杯以前でしょうが」

 

「クー・フーリンが召喚できる以上、そっちの聖杯かは怪しいね。

 彼はイエス・キリストと同時代人で、どちらも夭折にしている。

 中近東のキリストの逸話を、アイルランドの彼が聞けたとは思えない」

 

「じゃあ、聖杯の概念って……」

 

「ヨーロッパに広く分布する、魔法の大釜伝承が有力候補じゃないかな。

 ケルト、北欧、ギリシャ神話にも登場してるよ。

 だから時代区分はあてにならないとみていい。

 私の時代には、いわゆる宗教はほとんど残っていないんだ」

 

 その見本が、この黒髪黒目の東洋人っぽいサーヴァントだ。凛は肩を落とした。

 

「あんたに時代を言われると、納得するしかないわね」

 

「なによりも、戦場で最も人を殺したのは飛び道具だ。

 剣や槍の射程外から、敵を撃つこともできる。

 篭城しているマスターを狙う輩を、死角から狙うことも。

 単独行動スキルが付与されるのは、そのためだと思うんだよなあ」

 

 たしかに、共闘するなら効果的な組み合わせかもしれない。キャスターが本拠地を固め、バーサーカーが囮となり、死角からアサシンないしはアーチャーが必殺の一撃を放つ。

 

「でも、弓兵も三騎士って、もてはやされてるクラスよ」

 

 凛の言葉に、アーチャーは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「私を見てもそう思うかい?」

 

「うっ……」

 

「このクラスは、本来は一種のトラップではないだろうか。

 召喚者の知識と、用意する触媒によっては、強い英霊を呼ぶのも可能なんだ。

 『キリストの聖杯』以降の英雄にこだわらなければね。

 強い弓兵を呼びたいなら、『キリストの聖杯』以前の英雄の触媒を用意すればいい。

 しかし、そうと知らない者に取られても御三家側には脅威じゃない。

 召喚するサーヴァントの強さに、有意に格差を設けられるんだよ」

 

 凛はおのれのうっかりぶりを呪った。

 

「あの壺、地下室にしまわなきゃよかった……。

 中国の壺が触媒になるなんて思わなかったのよ!」

 

「だろうねえ。明代は一騎当千の英雄の時代ではないものなあ」

 

「千六百年後のあんただって、一騎当千の英雄じゃないでしょう!」

 

 いきり立つ凛に、寝癖のついた黒髪が上下動した。 

 

「いや、まったくそのとおり。

 だが、こいつが本物の戦争じゃないことはわかってるよ。

 軍隊として運用するでもなし、個々のぶつかり合いに、

 複数の兵種を用意する意味なんてない」

 

 そう言うアーチャーは、軍人というよりも学者の卵に見えた。

 

「あんた、そんなこと考えてたの」

 

「ああ。この聖杯戦争、そこからして怪しいじゃないか。

 なんで、様々なクラスにする必要があるんだ。

 本当に力比べと言うなら、もっとも伝承が多い剣士を七人呼んで、

 勝ち抜き戦の試合でもやればいいんだよ。

 ジークフリートにローランにシグルド、そしてアーサー王と円卓の騎士。

 七人くらいすぐ思いつくし、二週間とかからずに終わる」

 

 欠伸交じりだが、相変わらず合理的過ぎる発言だった。

 

「たしかにそうかもね。じゃあ、なぜこんな形にしたんだと思うの?」

 

 凛は逆に質問してみた。

 

「英霊が生贄と仮定すると、その方法では死に至るとは限らないからじゃないかな。

 だからこそ、『勝負』じゃなくて『戦争』ではないのだろうか。

 これは、ポーカーじゃなく七並べみたいなものだ。

 強い札じゃなく、目的に近い札を引くべきなのに、そいつが忘れ去られてる。

 一子相伝の魔術師が本気の殺し合いなんか演じたら、当然そうなるに決まってるさ」

 

 身も蓋も底もないほどに冷静な考察だった。

 

「きっと、最初のころは取りきめがあったんじゃないだろうか。

 第四次聖杯戦争で、傭兵を入れるぐらい切羽詰まった家がいたせいで、

 おかしくなったのかもしれないよ」

 

「じゃあ、アインツベルンが何かをやったっていうの」

 

「可能性は低くないね。

 なお、第三次は君の曽祖父が参加したと思われるが、きちんと生還してる。

 でないと君の大叔父、つまり『柳井くん』の祖父が生まれないからね」

 

 凛は舌を巻いた。それは先日、アーチャーがでっちあげた名であった。

 

「戸籍って、そう使って調査するんだ……。知らなかったわ」

 

 あの十六通で12,450円也の戸籍代金、ちゃんと役に立っていたのだ! 高いと思ったが、その分の価値はあったのか。これは驚きだった。

 

「でも、限界もある。この戸籍制度は明治五年にできたが、

 公開されているのは明治十九年に作り直されたものが最も古いんだ」

 

 呆気に取られた凛に、枕代わりの六法全書を見せるアーチャーである。

 

「つまり、聖杯戦争開始の二百年前の事は戸籍からではわからない」

 

「じゃあ、どうやって……」

 

「ここで登場するのがお寺だよ。遠坂家の先祖代々の墓はどこにあるのかな?」

 

「柳洞寺だわ……」

 

 キャスターが根城にしていると思しき場所だ。

 

「でもなんで柳洞寺が出て来るのよ」

 

「人間、生まれたからには必ず死ぬ。要するに、納骨した時の記録に頼るわけだ」

 

 凛の翡翠の目が点になる。歴史マニアって一体……。

 

「だからこそ、キャスターと平和裏に交渉したいんだよ。

 住宅地図で見たかぎりだが、とても大きなお寺だった」

 

「ええ、そうよ。昔から深山町にある家は大体あそこの檀家だわ」

 

「士郎君の家もそうかな?」

 

「多分、そうでしょうね。藤村組の親分さんが後見人になったぐらいだし」

 

「その線で、セイバー陣営の主戦論を押さえたい。

 確かに非道な行為だが、暖房のきいた室内で、

 救急車を自力で呼べる行為にとどめてる。

 失血の上、真冬の路上に放置しておく吸血鬼犯とは明らかに違う。

 おそらく、寺の住人にも、現段階では重大な危害は加えていないだろう」 

 

 アーチャーの言葉に、凛は胡乱な目を向ける。続いた言葉は突拍子もないものだった。

 

「冬木市の年間の平均死亡者数は六百人から七百人だったのを忘れたかい?」

 

「それがどうかした?」

 

「一日二人が亡くなっている計算になる。

 あれだけ大きなお寺なら、週の半分以上は葬式や法事をやっていないだろうか」

 

「ええ、そうみたいだけど、何の関係があるっていうの」

 

「新聞で見るかぎりだが、昏倒事件が起こり始めてから十日は経っている。

 その間に葬式ができないと、たちまち町中の噂になると思うんだ。

 欧州や中近東の住人が、人を操り、異なる宗教の葬儀を行うのは無理ってものだ。

 そして、異教を弾圧した時代や場所の人間ではないんだろうね」

 

「ああっ! ……たしかにそうだわ。

 柳洞寺の子も同級生だけど、別に変わった様子はなかった……。

 それに英霊によっては、寺なんてタブーもいいところよね」

 

 冠婚葬祭のうちで、予測ができず待ったもきかないのは、葬式だけだ。葬式を上げる寺の都合がつかないと、火葬だってできない。火葬場を管理している市民課だって困る。ヤンは、十年前の市民課職員の話と、戸籍を取りに行ったときの状況を結びつけて判断したのである。

 

 人が死んだら、遺体をどうにかしなくてはならないのは未来も変わらない。マスジッド宙港で永遠の眠りについた、あの老大佐のように。人類が存続するかぎりは、大地に墓標を立てるだろう。遺体の有無には関わらず。ヤンの父の墓は空っぽだが、母の隣で眠っていることだろう。

 

 自分のはどうなったことやら。そんな思いはおくびにも出さず、彼は続けた。

 

「柳洞寺にいるなら、キャスターは実体化しているほうが自然だ。

 霊体化した状態では、ほとんど現世に干渉できなかったよ。

 資料のページさえめくれないくらいだ。

 陣地を作るには、何らかの作業が必要じゃないのかな。

 ねえ、マスター、魔術師としてその辺はどうなんだろう?」

 

「あちゃー、うっかりしてたわ。

 魔方陣を敷くにしても、礼装を作るにしても、

 作業をしなくちゃ無理ね。考えてもみなかった」

 

 遠坂凛、うっかりをやらかすところだった。サーヴァントが、日常どうしているかまでは考えになかった。キャスターは籠城戦を前提とし、実体化しなければ、陣地作成を行えないのではないか。だからいっそう魔力を必要とし、あるところから持ってきているのだろう。アーチャーに言われてみれば、いかにも魔術師の発想だった。

 

「それに、いないはずの人間が出てきたら不審に思われるが、

 いるはずの人間が姿を消しても、何の不思議もない。

 トイレかもしれないし、ちょっと買い物に行ったのかと思うだろう。

 外国人ならば特に。キャスターと名乗っても、そう不自然じゃないさ」

 

「あーっ、そうだった!

 あんたの顔が東洋系っぽいから、そっちも失念してた!」

 

 またまたうっかりしていた。彼は遥か未来、国境が星の海の間に引かれた世界に生きた。歴史愛好の趣味のお陰で、ルーツに関係なく聖杯の概念を持っている。

 

 顔立ちは東洋系に近いが、肌は白く、日本人とは骨格が違う。頭が小さく、手足が長い。肉付きの薄さと相まって、軍服が似合わず損をしている。生っ白くて、頼りなく見えるのだ。よくよくよーく見ると、割とハンサムなのに。

 

「どうしようかしら。柳洞くんに事情を聞いたほういい?

 私のこと敵視してる奴だけど、衛宮くんとは仲がいいのよ」

 

「そいつはいいね。ただ、注意は必要だよ。

 その子からキャスターに伝わるかもしれない。

 士郎君も友人を人質を取られてるようなものだ。

 その彼のセイバーが切り込むなんて、不確定要素と危険が多すぎる。

 だがキャスターとの交渉は可能だと思う。君が言ったように」

 

 凛は眉を寄せた。

 

「は? わたしがなにか言ったかしら」

 

「モグリの『魔術師』は、遠坂の家門に入るか、上納金を払うべしって」

 

「え、ええーーっ!?」

 

 凛は信じられないものを見る視線を向けた。

 

「何言い出すの、あんた!」

 

「魔術師としてのルールは守っている相手だ。

 理を説き、利に誘えば、頷く可能性がある。

 とりあえず、先手を打って、手紙でも出してみたらどうかな。

 墓参りしたいけどいいですか、できれば管理者として話もしたいとね。

 イリヤ君だって、切嗣氏のお墓参りはしたいだろう。

 ついでに返信用封筒も入れておいたらいいよ。

 切手二枚分なら、無視されても安いものさ」

 

 凛は眉間に皺を寄せ、常に斜め上に突き抜けたことを言う従者を睨んだ。

 

「信じらんない。ありえないわ。聖杯戦争に郵便ですって!?」

 

「魔術勝負じゃ絶対に勝てない相手だよ。

 敵陣で、敵の得意分野の勝負をしても始まらないということさ。

 ならば勝る点、キャスターの生きていた時代より、

 進んでいる社会システム、こいつを利用すべきだ」

 

「もう、勝手にしなさい」

 

「ありがとう。じゃあ、便箋と封筒と切手をもらえるかな?」

 

 言葉もない凛だった。もう付き合ってられない。衛宮家に行かなくちゃならないから、身支度をしよう。とりあえず、レターセット一式を押し付けてから。凛が出発を急かす頃、何枚もの便箋を出来の悪い造花にしてから、アーチャーの手紙は書きあがった。

 

「こんなの、効き目あるの?」

 

「半々だねえ。だが、さほど害にはならない。

 打てる手は打っておいたほうがいいよ。敵の敵は味方ということだってある」

 

「聖杯戦争なんて、みんな敵でしょう」

 

「だが、キャスターにとっては、

 最も目障りなサーヴァントの排除を手伝ってくれるかもしれない」

 

「まさか、セイバーじゃないでしょうね」

 

 凛の詰問に、アーチャーは漆黒の瞳を瞬かせた。

 

「違うよ。吸血鬼事件のライダーだかアサシンさ」

 

 アーチャーの言葉は、聖杯の加護によってきちんと日本語に翻訳されている。だが、凛は懇願した。

 

「お願い。人間の言葉で話して」



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15:赤と黒

 遠坂家は、坂の上の由緒ある赤煉瓦の洋館だ。一方、衛宮家はもっと下、深山町の中心に近い武家屋敷だ。

 

 どちらの建物も、アーチャー、ヤン・ウェンリーにとってとても興味深い。特に衛宮家のような建築様式は、千六百年後まで実用としては伝わっていない。文献や画像に残ったものの復元のみだ。漆喰の白壁とコントラストをなす、美しいなまこ壁。見事な数寄屋造りの屋根は母屋、ふたつの切妻屋根は土蔵と道場。

 

『いやあ、りっぱなお宅だねえ。

 凛の屋敷も実にいいが、こういう建物は復元されたものしかお目にかかれないよ』

 

『感心するのはいいけど、この家は魔術師の工房としては、

 開けっぴろげもいいところよ。魔術への防御は無力だわ』

 

『まあ、その辺はイリヤ君もセイバーもいる』

 

『……殺し合いをしてなきゃね』

 

『それはないから大丈夫だよ。

 バーサーカーは、あの武家屋敷の屋内では出現させられない。

 昔ながらの建物だから、君の家に比べると天井が低いんだ。

 彼は落っこちてくる建材から、マスターを守らなきゃならなくなる』

 

 そんなこと、凛は気にも留めなかった。

 

『じゃあ、セイバーが有利じゃないの』

 

『いやいや、そうでもない。イリヤ君は聖杯の担い手だと言っただろう。

 聖杯を欲するセイバーにとって、すぐさま殺害できないマスターだよ』

 

 もう、どこまで人の悪いサーヴァントなんだろうか。

 

『あんた、ほどほどにしないとセイバーに殺されるわよ』

 

『そいつも彼女にはできないんだ。私は彼女と違って、霊体化できるからね。 

 彼女の剣を逃れて、士郎君を殺すことができるわけだ。

 彼女がすかさず仇を討っても、君は殺せない。

 君には新たなマスターになってもらいたいだろうからね。

 セイバーにイリヤ君を排除できない以上、君は生き残れる』

 

 昨晩、室内に誘導したのは、親切心ばかりではなかったと自白したも同然である。

 

「もういや。どうしてこんなに腹黒いサーヴァントが来ちゃったのかしら」

 

「そりゃ、触媒があったからだろうねえ。巡り合わせと思って諦めてくれ。

 私にとっては君が生き残ればいいのであって、彼らを斃す必要もない。

 そのためには、相手の弱点に、自分が勝る点をぶつけるしかないからね」

 

 この根性悪のリアリストめ。凛のこめかみに、何度目かの青筋が立ちかけた。だが、必要ないということは、できなくはないということじゃないの?

 

 衛宮家の門をくぐってから実体化したアーチャーは、穏やかに笑うのみだったが凛は確信した。

 

 できるの、こいつに? いや、できるか、こいつなら。強力だが超箱入り娘のマスターと、狂気のサーヴァント。お人よしで無知なへっぽこマスターと、清冽で一本気なサーヴァント。四人が束になっても、このひねくれた頭脳の持ち主に追いつくとはちょっと思えない。こいつの口の悪い先輩の言葉を裏返せば、『首から上は役に立つ』ということに他ならない。

 

 凛は頭が痛くなってきた。首を振りながら、玄関の呼び鈴を押す。しかし、応えはない。

 

「どうしたのかしら?」

 

「土蔵の血痕でも落としているのかな」

 

 なにげない一言だったが、凛をげんなりさせるには充分だった。昨晩、サーヴァントの非道を聞いて、聖杯戦争への参加を表明した衛宮士郎は、セイバーの同居問題が一段落するや否や、行動を開始しようとした。それに首を振ったのがアーチャーであった。

 

「士郎君、君は大怪我をしたばかりだ。

 不可解極まりない現象によって、完全に治癒したから実感が薄いのかもしれない。

 でも、その奇蹟を頼みにして無謀な真似はしないでほしい。

 あれに再現性があるのかも不明だからね」

 

 アーチャーは居間から出ると、士郎の部屋へと戻った。再び戻った時には、ゴミ袋を提げていた。半透明の冬木市指定のゴミ袋の中に、キャメルベージュと、黒ずみはじめた赤の物が詰まっていた。

 

「士郎君、持ってごらん」

 

 促されるがままにゴミ袋を手にし、その正体に気がつく。衛宮士郎の手に震えが走り、強張って手を離すことができなかった。視線を外すこともだ。それは、変わり果てた自分の制服だった。血に濡れた分、朝着た時より重みを増し、袋の中からは、眩暈がするほど濃厚な鉄錆びた臭いが立ち上る。

 

「これが君の流した血の量、命の重さだよ。

 たったこれだけの重さだが、それで人は死ぬんだ。ちなみに、私の死因でもある。

 私たち軍人は、まず自分が生き残ることを優先しろと教えられる。

 さもなくば人は救えない。死体が二つになるだけだということだよ」

 

 穏やかな表情で放たれた、強烈な牽制球だ。そこで止めておいてくれればいいのだが、士郎の手からゴミ袋を離させると、凛とイリヤにも向き直った。

 

「さあ、君達もこれを持つんだ。そして、考えることだ。

 聖杯戦争の勝者とは、この数十倍の重さを六個分背負う。

 冬木の大災害のようなことになったら、更に百倍、千倍にもなる。

 聖杯をもってしても、その罪は雪げはしない」

 

 全てを見通すような漆黒の視線に、凛もイリヤも抗うことはできなかった。決して満杯ではないゴミ袋は、とてつもなく重かった。

 

 言葉を失くした一同に、アーチャー、ヤン・ウェンリーは告げた。

 

「せっかく平和な時代に生きている君たちが、そんな罪に汚れて欲しくないんだ。

 ろくでもない戦いだから、犠牲なく勝たねば意味がない。

 犠牲となるのは、死人であるサーヴァントだけで充分だ。それが私の考えだよ。

 それからね、凛、一つ訂正があるんだ」

 

 決して激しくはない、静かな口調だった。

 

「な、なによ」

 

「この前、私は英雄じゃないっていっただろう。

 ある点においては、たしかに英雄なのかもしれない。

 この時代より、すこし前の映画の台詞だったかな。

 『一人を殺せば殺人者だが、一千万人を殺せば英雄だ』というやつ。

 その意味でなら」

 

 それはセイバーにも、息を飲ませるに充分な告白だった。

 

「私に言えるのは、今はそれだけだよ。考えて、判断するのは君たち自身だ。

 しかし、私は軍人でもある。

 司令官たるマスターと無辜の民間人を守るためには、

 敵兵とその司令官を排除することも選択する。

 われわれ遠坂と敵対するなら、そのことは考慮してもらおう」

 

 呆れるほどの交渉術だった。血まみれの制服と自らの死因でインパクトを与え、情理を説いて安心させたところに、生前の事績の一端を示して恫喝する。

 

 彼の能力からすると、とんでもないはったりだが、アーチャーというのが肝である。アーチャーとは、強力な遠距離攻撃の宝具を所有するクラスだからだ。彼自身の能力は極めて低いが、他のマスターにとっては、いまだ詳細を明かさぬ宝具は脅威。加えて、この頭脳。敵対よりも同盟を選びたくなるというものだ。

 

「じゃあ、ちょっと回ってみましょうか」

 

 だが、そこまでいく必要はなかった。手前の道場から、竹刀の打ち合う音が聞こえてきたからだ。

 

「あ、こっちだったのね。お邪魔するわよ」

 

 一声掛けてから、上がりこむ。ついてきたアーチャーは、物珍しげに中を見回した。

 

「感動だなあ。本物の道場だ」

 

 しかし、剣士らの服装は、ツナギの作業服にメイド服。打ち合いというより、衛宮士郎はセイバーに防戦一方だ。それは当たり前か。

 

「セ、セイバー、ちょっとタンマ!」

 

「そう言われて待つ敵はいませんが、いいでしょう。

 シロウ、一休みとしましょう」

 

 アーチャーは頭をかいた。

 

「それにしても、士郎君、本当に平気なのかい?

 昨晩、肺の損傷と大量の失血をしたんだから、無理しちゃ駄目だよ」

 

「ありがとな、アーチャー。ほんとに何ともないんだ」

 

「ならいいんだが、不可解な現象だよなあ」

 

 不可解現象の粋たる、サーヴァントにそんなこと言われても。士郎は思わず頬をかいた。

 

「いや、サーヴァントに言われるのもヘンだと思うぞ」

 

「ほら、私は幽霊だからある程度の不可解はありだと思うんだ。

 しかし、君は生身の人間だからね。

 あの怪我が治るというのは不思議でしょうがない。

 だが、治ってくれてよかったよ」

 

 和気藹々と話す男性陣。一見、学校生活の一幕である。

 

「衛宮くん、ちょっとは緊張感持ちなさいよ。

 セイバーと二人、何やってたのかしら」

 

「結局、イリヤのメイドに邪魔だって追い出されちゃってさ」

 

「ふうん。あの子はどうしたのよ」

 

「離れにいる。ちょっとの間は見てたんだけど、寒いのは苦手なんだって。

 土蔵の掃除して、昼飯食べて、稽古をつけてもらってたんだ」

 

 コミュニケーションを図るにはいい方法だとは思うが、護身術にするには問題があった。一応、凛の弟子になったのだし、師匠として言ってやらなくては。

 

「衛宮くん、サーヴァントは普通の武器では傷つけられないの。

 その竹刀で叩いても意味がないし、普通なら掠りもしないわよ」

 

「強化の魔術を掛けても駄目か? 俺、強化と解析はできるんだよ」

 

「また随分、マニアックというか偏った魔術ねえ。

 魔力を帯びたものなら通用はするけどね。

 ちょうどいいわ、その竹刀に強化を掛けてみて。

 で、わたしのアーチャーと戦ってみれば?」

 

「おいおい、凛」

 

 困り顔のアーチャーに、凛は心話で告げた。

 

『はっきり認識させたほうがいいでしょう。

 相手は霊体化できないセイバーじゃないって』

 

「トレース・オン」

 

 その傍らで、士郎は魔術発動の言葉を呟き、魔術回路に魔力を通していく。脊椎に鋼の棒を縦に突き通していくような痛み。

 

 それが、世界に働きかける代償。竹刀の構造を解析し、構造の隙間に魔力を流していく。いつもは一割に満たない成功率だが、ことのほかうまくいった。いや、これまでにないほど上出来だといっていい。

 

 魔術の成就に満足している士郎に、遠坂凛は愕然とした表情になっていた。

 

「……凛。すごい顔だよ。あたら美少女がもったいない」

 

 アーチャーがおずおずと取り成すが、空間を真紅に染め上げるかのような怒気が立ち上っていた。

 

「……アーチャー、遠慮はいらない。とにかく、ぶっちめてやって。

 その後で、とっくりと教えてやるから。……師匠としてね」

 

「そういう制裁には、私は反対だよ」

 

「違うわよ。師匠のレッスンその一よ」

 

 アーチャーは浮かない顔になった。それでも、ここはマスターの仰せに従ったほうがよさそうだ。凛の心話に込められた怒り。

 

『ものすごく危険なことをやってるのよ。

 これが衛宮切嗣が教えたことなら、理由を問い正さなくちゃいけない。

 そして、二度とやるなと言って、正しい方法を教えなきゃ。

 今まで死なないでいたのが奇蹟なんだから!』

   

 魔術師としての矜持と、それ以上に少年を思いやる真情だった。凛の形相を気にせず、士郎は竹刀を素振りし頷いた。

 

「準備できたぞ」

 

 アーチャーは溜息を吐いた。

 

「私は格闘術も苦手だったんだがなあ……。

 なんで死んでからまで、こんな目に……」

 

「つべこべ言わないの。大丈夫、今は十倍は強くなってるから」

 

 凛が叱咤激励しても、アーチャーの顔は晴れなかった。挙句、言い訳がましいことを口にした。

 

「ええと、士郎君。まず最初に言っておく。

 私はこんななりだが、一応正規の訓練を受けた戦時国家の軍人だ。

 君より身長も体重も勝る。

 これだけでも、平和なこの国の学生に勝てる要素は少ない。

 それでもいいんなら、気は進まないが相手になろう」

 

「俺はいいぞ。じゃあ、よろしく、アーチャー」

 

 道場の中央で対峙した青年に、士郎は頭を下げた。

 

「うん、まあ試合だからほどほどによろしく」

 

 セイバーがどんな剣術を仕込んだのかはわからないが、これでジャンヌ・ダルクの線は薄くなった。

 

 村娘だったジャンヌは、陣頭に立つが旗持ちを好んだ。しかし、神の啓示を受けても、村娘は村娘だ。学んでもいない剣術などできるはずがない。矢を受けて、泣き叫ぶほど取り乱したとも伝え聞く。

 

 そして、当時の戦争のマナーを頭から無視した。使者を送って日時を取り決めたり、一騎打ちの口上を述べたりする、そういうことを。だからこその快進撃であり、それゆえに戦後に迫害され刑死したのだ。政権を奪取したシャルル七世はともかく、王を支える保守派にとって、脅威だったというわけだ。

 

 士郎は、強化した竹刀を中段に構えた。今までセイバーにしごかれて学んだのは、サーヴァントに攻撃するだけ無駄だということだった。相手の攻撃に対し、牽制と防御に徹する。手加減に手加減されたセイバーの太刀筋でさえ、目のいい士郎でもろくに見えやしない。

 

 だが、急所を守るように武器を構え、衝撃を逃がして受け止めるようすれば、セイバーを呼ぶまで持ちこたえられるかもしれない。まだ成功はしていないが。

 

「じゃあ、失礼」

 

 アーチャーが一歩踏み出した。彼は無手である。士郎は、リーチの差を生かすべく牽制の一撃を繰り出した。アーチャーの姿が掻き消え、ベレーに向かって繰り出した竹刀は空を切った。たたらを踏みかけた作業服の足を、出現したアイボリーのスラックスが払う。

 

「っつ!?」

 

 文字どおりの意味で、士郎は足をすくわれた。硬く握り締めた竹刀が災いし、完全にバランスを崩した。手首を打たれて、竹刀がすっぽ抜け、床を叩いて転がっていく。

 

「うわぁっ!」

 

 そのまま手首を決められ、なにがなにやらわからぬうちに視界が一回転する。

 

「よいせ」

 

 緊張感のない掛け声とともに、士郎は床に押し付けられた。左腕は自らの体が重石となり、まったく動かせない。右手はアーチャーが掴んだまま、背後から首元を膝で押さえるように圧し掛かられた。実にあっけなく勝敗は決した。

 

「これで君は死んだ」

 

 淡々とした声と共に、夕日色の後頭部に、銃の形にした指が押し付けられる。

 

「二回目だよ、士郎君。本当なら昨日で終わっていたが」

 

 セイバーが聖緑の瞳を見開き、膝立ちになる。

 

「このように、幽霊ならではの攻撃法があるわけさ。

 君のセイバーにはできないが、それ以外のサーヴァントには皆できる。

 セイバーと離れないで済む、そういう方法を考えたほうがいいなあ」

 

 そう言うと、ヤンは士郎の体を離した。

 

「う、その、疑って悪かったよ。アーチャー。あんた強かったんだな……」

 

 物憂げな表情で両手を凝視しながら、黒髪の青年は頭を振った。

 

「最盛期の肉体でって、確かに本当なんだなあ。

 体がちゃんと動くし、教科書のとおりにやれば、さっきみたいに決まってたのか……」

 

「へ? なんでさ」

 

「学生時代はとろくて腕力不足で、落ちこぼれもいいところだった。

 これだけハンデのある君を拘束できなきゃ落第なんだがね。

 その及第点を取るのに、ものすごく苦労したんだ。

 それこそ、身長と体重の問題でね」

 

 士郎は、真っ直ぐアーチャーの顔を見てから、頭のてっぺんに目をやった。

 

「や、充分だと思うぞ。俺より十センチぐらい高いよな。

 いいなあ、羨ましい……」

 

「私の国は多民族国家でね。混血が進んでいて、私の身長が標準ぐらいなんだ」

 

「……げ、そうなのか?」

 

 身長に悩む者には、絶望する国家である。

 

「大丈夫さ、君はまだ十七歳なんだろ。私もその頃は君より小柄だった。

 きっと、まだまだ背が伸びるよ」

 

「あ、ありがとう、ありがとう……アーチャー……」

 

 昨晩から降ってわいた美少女と美女達に囲まれて、ストレスが音速で蓄積していく士郎にとって、同年代に見える同性からのエールは、なによりの癒しであった。

 

「身長は人並みだが、筋肉はさっぱり。おかげでパワーとスピードがね……。

 だが、今は当時の十倍で、その問題は解消してる。

 あの頃、こうならよかったのに。まったく世知辛い話だよなあ」

 

「そ、そっか。なあ、俺にも教えてくれないか?」

 

「それは構わないんだが、これでも四年間で三千時間の授業の賜物なんだ。

 あと十日に詰め込むとすると、百倍厳しい内容にしないといけないんだが、

 それでもいいかな?」

 

 アーチャーの静かな口調には、妙に迫力が籠っていた。

 

「え、ええと、どんな授業だったんだ?」

 

「君の年齢の時の授業は、十キロの装備で徒歩五キロ、

 水中歩行三百メートルに、障害越えを二十五か所。

 こいつを三時間以内に終了させるんだ。

 さて、どれを百倍にすれば出来そうかい?

 四項目を二十五倍ずつにするか、

 制限時間を百分の一にするという選択もあるが、どうかな?」

 

 腕組みをして、小首を傾げて士郎に尋ねる。その黒い目は全く笑っていない。士郎はせわしなく首を左右に振った。

 

「わかってくれたんなら結構。じゃあ、私のマスターからも話があるそうだ」

 

 アーチャーがそっと位置をずらす。その陰から出現したのは――あかいあくまだった。



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16:三者三様

 遠坂凛の魔術講座は、詰問から始まった。

 

「衛宮くん。あなた、一体何してるわけ?」

 

「強化の魔術だぞ」

 

「その前よ!」

 

「前って、魔術回路を作って……」

 

「……この馬鹿。あんた、へっぽこじゃないわ。ど素人よ!

 魔術回路なんて、何度も作ったりしないわ。

 一回開けば、スイッチを作ってそれを入れるだけ」

 

「え、どういう意味さ?」

 

「魔術回路は魔術師が持つ擬似神経よ。

 一回開通させれば、消えたりなんかしない。

 魔術のたびに作るなんて、正気の沙汰じゃないわ。

 それが一番危険で死亡率の高いプロセスだからよ!

 そんな馬鹿な方法、誰に教わったの!?」

 

「……じいさんだ」

 

「なんですって!?」

 

「お、俺がむりやりじいさんに頼んだんだ。

 でも俺は出来が悪くって、じゃあ、何度も練習すればいいって……」

 

「なんてこと……。

 言い方が悪かったのか、教え方が悪かったのか知らないけど、完全な間違いよ。

 今まで死ななかったのが不思議なぐらいだわ」

 

 凛の肩に、アーチャーが手を置いた。

 

「過ぎたことを責めてもしかたがないよ。

 君が正しい方法を教えてあげれば済むことだ。 

 それに子どもの独学は、どうしても偏りが出るものさ。

 そんなに怒らなくたっていいじゃないか」

 

 宥めるアーチャーを凛は睨めつけた。

 

「あんたはそう言うけどね。その偏りが、死ぬようなものなのよ」

 

 凛の迫力に、セイバー主従は口を挟みかねたが、アーチャーは一枚上手であった。のんびりとした笑みを浮かべる。

 

「凛もなかなか生徒思いじゃないか」

 

「なっ、なに言って……」

 

 そして、真っ赤になって絶句する凛をよそに、士郎に向き直る。

 

「そういうわけで、士郎君。

 君も上納金に授業料を上乗せすることをお勧めする。

 凛の魔術は、元手がとても馬鹿にならないんだ」

 

 琥珀とエメラルドが点になった。翡翠も丸くなる。

 

「あ、あら? アーチャー、あんたもたまにはいいこと言うのね……」

 

「技術や知識に対しては、相応の報酬を支払うべきだと思うんだ」

 

 含みのありすぎる口調と表情だった。

 

「わかったわよ。紅茶とブランデーと後は何よ?」

 

「本を買ってもらいたいところだけど、読んでる時間がなさそうだから、

 せめて枕とベッドを要求したいな」

 

「と、遠坂、いいのか? 

 セイバーをどうやって誤魔化すか、あんなに大変だったのに、

 その、男と同居ってことになるんじゃあ……」

 

 士郎は今になって慌てだした。その本性があかいあくまだったとしても、憧れのミス・パーフェクト、遠坂凛が若い男と同居するなんて。

 

「アーチャーは霊体化できるから、必要に応じて姿を消せるし、

 わたしの家には衛宮くんの家みたいな来客はないもの」

 

「いや、それにしたってさ、姿が見えないってのも……」

 

「不埒な真似をするんじゃないかと心配してるのかい?

 重ねて言っておくが、私は君たちよりもずっと年長だよ。

 士郎君のお父さんよりは若いがね」

 

 たった一歳だけど、というのは内緒のヤン・ウェンリーである。そして、左手を掲げると、手の甲を一同に向けて、薬指を右手で指差す。

 

「おまけに私は既婚者で、妻はもったいないぐらいの心優しい美人だった。

 まだ結婚して一年も経っていなかったのに、とてもそんな気になれないよ。

 なによりも、凛や君は私の里子とそう変わらない年齢なんだ」

  

 しみじみした述懐に、一気に空気が重くなった。十五歳で唯一の家族を失くし、たった一人で負債の清算をやり遂げた。小さな国の元帥として、一千万人以上の敵を倒した。そして、新婚ほやほやで美人妻と里子を残し、出血多量で死亡。三十四歳未満の若さで。

 

 彼の言葉を並べると、壮絶にすぎる半生記ができあがった。迂闊な発言をした士郎に、色合いの異なる緑の視線が突き刺さる。

 

「ないわね。寝言で奥さんの名前を呟くぐらいなのよ」

 

「……シロウ、謝罪をすべきです」

 

「ごめん、悪かった!」

 

「いやいや、君の懸念も当然さ。

 だから、君とセイバーの同居も藤村先生に反対されたわけだしね」

 

 下げた頭がもっと下がるような同意だった。

 

「そ、その節はお世話になりました……。ホントにすみません!」

 

 アーチャーは軽く手を振った。

 

「いや、私のことは気にしなくていいよ。

 君の命の危機をどうにかしたほうがいいんじゃないか?

 凛、何かいい方法はないのかな」

 

「じゃあ、衛宮くん、ちょっと魔術回路の状態を調べさせてもらうわ。

 痛いわよ」

 

 凛の宣言どおり、魔術回路の確認には激痛を伴った。あまり記憶に残っていない、昨晩の怪我よりも痛いぐらいだ。

 

「い、いってぇ……」

 

 涙目になっている弟子の傍らで、師匠は首を捻った。

 

「確かにスイッチがないわ。開いてるのはたった二本だけか」

 

 士郎を本気で驚かせたのだが、凛の弟子の素質は初代魔術師としては、なかなかのものであった。ただ、多少埋蔵量があったところで、それを汲み上げ、エネルギーとして効率よく使えるほうが重要なのだ。そう説明されて、士郎はしゅんとした。

 

「でも、これじゃサーヴァントを使役するには足りなすぎるわ。

 きちんと開いていたら、セイバーも苦労が少なかったでしょうに」

 

 セイバーも頷いた。

 

「パスは感じられるのですが、ラインが感じられません」

 

 凛はぴしゃりと顔を覆った。

 

「冗談! じゃあセイバー、今は召喚時の魔力で動いているわけ?」

 

「はい」

 

「まずいわね、早くに何とかしなきゃ」

 

「なんでさ」

 

「今のセイバーは、召喚時のストックで動いているけど、

 マスターからの供給がほとんどないってことよ」

 

 首を捻る士郎に、アーチャーがぽつりと言った。

 

「納車された車みたいなものさ」

 

「あ、すぐガソリン切れになっちゃうってことか」

 

 ディーラーによっては、サービスしてくれるかもしれないが、たいていは十リットルほどしか入っていない。非常に即物的だが、少年にはわかりやすい表現だ。士郎の部活の先輩も、卒業後に免許を取って車を買った者がいるので。

 

 女性陣は憤然となった。

 

「なんて表現よ。魔力切れになっても、サーヴァントは消滅するわ。

 アーチャーのように単独行動スキルを持っていれば別だけど、

 それだって、一日二日ぐらいのものよ」

 

 当然、セイバーには単独行動スキルはない。エメラルドの瞳が、不満げに役立たずのガソリンスタンドを見やる。

 

「ど、どうしよう!?」

 

 ふたたび、今さら慌てだすへっぽこ魔術使い。セイバーは小さく溜息をついた。敵マスターに指摘されるまで気がつかないとは。彼の養父と違った意味で問題がある。

 

「仕方ないわね。教会から帰ってからなんとかしましょうか」

 

「今じゃだめなのか」

 

 焦る士郎に、凛はにっこり笑った。

 

「さっきの十倍痛いのが、七、八時間くらい続くけど、それで教会に行っても平気?

 なら止めないわ。ちなみに、教会に行かないのはナシよ」

 

 最後はドスの効いた声だった。アーチャーにも仲裁する様子がない。士郎はがっくりと肩を落とした。

 

「それまで、魔術を使うのはやめなさい。

 今までは運が良かっただけ。次で死なないとは限らないのよ」

 

「う、うう。わかった。心配してくれてありがとな、遠坂」

 

 翡翠の瞳が鋭くなった。

 

「勘違いしないでね。借金を払ってもらうまで死んでもらっちゃ困るの」

 

『そんなに照れなくていいのに』

 

 凛は勢いよくアーチャーに向き直った。にこにこと見守る従者を射殺さんばかりの目で睨んでやったが、そんなものに怯むヤンではない。諦めた凛は、衛宮主従に顔を戻した。全く、やりにくいったらない。いけ好かない後見人より、よほどに手強いサーヴァントだ。

 

「さて、イリヤに声をかけて、教会に行きましょうか。

 バスの時間だってあるしね」

 

 離れのイリヤスフィールに声をかけ、一行はバス停に向かった。マスターは三人、サーヴァントは一人。平凡な少年を、年齢は異なれど色とりどりの美少女が囲んでいる図だ。

 

 大変居心地の悪い士郎である。学校を休んだのに、こんなところを誰かに見られたら、どんな誤解をされるだろうか。

 

「な、なあ、遠坂。アーチャーを実体化させてくれないか」

 

 もうひとり、男が加わればまだマシかと思い、凛に打診する。返答はすげないものだった。

 

「嫌よ。バス代が余分にかかるじゃない」

 

 坂の上の洋館のお嬢様が、どんだけケチなんだと耳を疑う発言である。

 

「ちょっ……そのぐらい俺が払うからさ。頼む!」

 

「駄目。あいつ、魔力をバカ食いするから。あんなに弱いくせに」

 

 不満げなアーチャーのマスターに、バーサーカーのマスターは流し目を送った。

 

「じゃあリン、わたしが引き受けてあげる。

 ああいう、黒髪に黒い目ってわたしは好みよ。

 よくみるとハンサムだし、なにより声とお話がすてきだわ」

 

 この場の現代日本人には該当しない。そして、混血が進んだ未来人には意外と珍しい色彩だった。髪や目の色は濃いほうが優性遺伝するが、もう一方の親に応じて色素が薄くなるからだ。一方、金髪碧眼も少ない。遺伝的に劣性だからである。

 

 これは、現代も変わらないだろう。霊体化したヤンは、引っかかりを覚えて考え込む。その思いは、マスターに伝えられることはなかった。

 

「あなたはすごい魔術師だけど、あのバーサーカー抱えては無理でしょ」

 

 凛にしても、はいどうぞと譲ってやるつもりはない。たとえ弱くたって、サーヴァントがいるといないとでは大違いだし、対マスターに関しては、アーチャーは充分に戦力になる。

 

「リンの魔力が貧弱なんじゃないの?」

 

「失礼なこと言わないでよ。

 わたしが衛宮くん並みなら、召喚した瞬間に干からびて死んでるわ」

 

 酷評に士郎は遠い目になった。セイバーに魔力供給もできない身としては言い返せない。

 

「声はともかく、あいつの顔ねえ。普通じゃない?

 ランサーはものすごい美形だったけど」

 

 雪の妖精はルビーの瞳をぱちくりさせ、とんでもないことをのたまった。

 

「ああ、あのカイジン青タイツね」

 

 凛も士郎もつんのめりそうになった。セイバーだけが姿勢正しく立っている。顔に疑問符を張り付けてだが。停留所に到着していたのは幸いだった。

 

「……ねえ、イリヤ。

 アーチャーからだけど、『そんな言い方、誰に教わったんだい』って、

 ものすごくショックを受けているみたいよ」 

 

「さっき、タイガの家のテレビで見たの。

 ああいう格好の悪いヤツが出てきて、セイギのミカタがやっつけたのよ」

 

「『そんな言い方もよくないよ。伝説の英雄なんだよ』ですって。

 でもイリヤ、やっぱりランサーに遭遇してたのね」

 

「三日くらい前だけど、バーサーカーに挑戦しにきたの。

 わたしのバーサーカーは最強だもの。

 全然歯が立たずにさっさと逃げちゃった。

 ねえ、最速のサーヴァントって逃げ足のこと?」

 

「もう、ぶつぶつうっさいわよ。

 『退却戦が一番難しいんだ。それも彼の強さなんだよ。たぶん』だそうよ」

 

「でも、わたしのバーサーカーにはかなわないわよ。

 だって、ギリシャの大英雄、ヘラクレスだもの」

 

 セイバーは息を呑んだ。伝説に語られた輝かしい武勲と、圧倒的な知名度。死後に星座となり、神々の一角に迎え入れられたほどの存在だ。現在のセイバーでは文字どおり太刀打ちできない。

 

 凛は眉間を抑えた。ちょっと頭に響く。この心話、マスター側からシャットアウトするのは難しいようだ。サーヴァントと人間の霊格の差により、高きから低きへの流れは容易で、低い方は高いものが汲み上げる形になるのだろう。

 

「ちょっとぉ、ボリューム落としなさいよね。

 イリヤ、『なんてもったいない!』って喚いてるわ。

 せっかくの機会なのに、その武勲をお聞きしたかったって。

 それこそ、アーチャーとして呼べばよかったのに、

 ギリシャ神話で最強にして、いとも賢き、男性美の極致たる英雄だろうにって」

 

 アーチャーの嘆き混じりの絶賛に、イリヤは胸をそびやかした。士郎は琥珀の目を真ん丸にする。 

 

「すげえ、遠坂のアーチャー、歴史に詳しいなあ」

 

「元々、歴史学者になりたかったんですって」

 

「え、歴史なんて暗記だろ」

 

「アーチャーから伝言よ。『士郎君、後でじっくり話をしようか』だって」

 

 その時、通りの向こうからバスがやってきた。なので、凛は伝えずじまいになった。

アーチャーの言葉に秘められた、何ともいえない迫力を。

 

 徒歩だと一時間あまりかかる教会への道だが、バスならばその四分の一だ。端然と座るセイバーに対して、イリヤは目を輝かせた。

 

「すごい、こんな大きくて椅子がいっぱいある車、はじめて乗ったわ。

 ねえ、シロウ、あそこにある丸いわっかはなあに?」

 

「ああ、あれはつり革。椅子に座れなかったときに、立ってる人が掴むんだ」

 

「どうして?」

 

「バスが揺れたりしたときに、転んだりしないようにさ」

 

 ぱっと見、兄妹に見えなくはない。まったく、ちっとも、欠片も似ていないが。だから、他の乗客から向けられる好奇の視線が結構痛い。座ったのは一番後ろの座席。でないと四人、一列で座れないからだ。

 

 士郎を中心に左右にイリヤとセイバー。銀髪と金髪の美少女に挟まれ、肩身が狭い士郎だ。セイバーとは一つ座席を空けて、出口側に凛が座る。

 

「でもリン、どうしてバスにしたの?

 セラが車を出すって言ったのに」

 

「アーチャーが言うには、人目を味方にしたほうがいいんですって。

 あなたをアインツベルンの城から移動させたのもそうよ」

 

 凛にも疑問だった。アインツベルンの城は、冬木市と隣町の境界にある、大きな森にある。魔術的な結界に閉ざされた、難攻不落の要塞のはずだ。

 

「ヘンなの。あのお城、キリツグの家よりずっとすごいのに」

 

「は? え! とりあえず言われたままに言うけど」

 

 凛はそこでドイツ語に切り替えた。これもアーチャーからの指示だ。他の乗客と衛宮士郎の耳を考慮したのだ。

 

【森の中の一軒家、ライフライン……電気と水はどうしてるのかって。

 電線や水道管を引いているのかしら】

 

【ううん、水は地下水で、電気は自家発電よ】

 

【それも魔術でどうにかなるのかな。あるいはメイドさんの人力かい】

 

 きょとんと目を見開くと、白銀が左右に揺れる。

 

【ドイツのアインツベルンの城はそうだけど、冬木の城は今は違うわ】

 

 十年前の第四次聖杯戦争で損壊した冬木の城。今回急に開催を迎え、魔術で完璧に修理するのは不可能であった。森の結界など、魔術工房としての機能に重点を置き、機械化できるものはそうしたのだ。

 

【では、水にはポンプ、電気には発電機、どちらも燃料が要るよね。

 それも魔術で調達できるのかな?】

 

 さらに揺れる小さな銀の頭。

 

【燃料を運ぶのは石油会社の車だろう。

 そんな業者まで、魔術の結界とやらを自力で解除するのかい?】

 

【招いた者は入れるようにしてあるから、そんなことしなくても平気よ】

 

【そういう業者は市内でも限られる。全部電話しても大したことない。

 燃料を注文した業者を探して、

 『急に帰ることになった。危ないから、油を抜いてくれ』と言うだけで、

 君たちは寒い冬の森でトイレもままならなくなる】

 

「……だそうよ。再配達を頼んだら、また取り止めを連絡する。

 そのうち、悪戯扱いされて応じる業者はなくなる。

 腹が減ってはいくさは出来ぬ、サーヴァントを使役できなくなっちゃうって。

 ほんとに根性悪い奴ね」

 

 凛も青ざめたが、ドイツ語を解する二人も心臓にまで鳥肌が立った。セイバーが強張った顔で応じた。

 

「ですが真理です。私も戦いで最も苦労をした点だ」

 

「でも、衛宮くんの家は街中にあるから、いろいろと便利でしょうって」

 

 そのいろいろが、食料などの補充にいざという時の避難、目立つ大威力の宝具の使用抑制などだそうだ。しかし、降車も近づいているため、詳しいことは省略したが。

 

 イリヤが大喜びでボタンを押して、言峰教会前で一行は降車した。

 

「衛宮くんは教会に来たことある?」

 

「いや、初めてだ。そういえばここ、孤児院をやっているんだよな。

 じいさんに引き取られなかったら、俺はここに住んでたのかもしれない」

 

 白亜の聖堂を仰ぎ見る士郎に、イリヤは複雑な表情になった。

 

「でも、わたし、ここきらい。あの神父も」

 

 豊かな黒髪が頷きを返す。

 

「それには私も同感。私の後見人だけど人格的には最低。

 人の心の傷を開くことに生き甲斐を感じているような奴よ。

 衛宮くん、せいぜい気をつけることね。

 あなたみたいなお人よし、格好の獲物よ」

 

「ところでさ、なんで聖杯戦争に教会が関係するんだ?」

 

 凛は肩をすくめて、『聖杯』がキリスト教のシンボルであるがゆえだと説明した。もしも本物なら、魔術師の勝手にはさせられないというわけだ。

 

 魔術協会と聖堂教会。魔を求める者と魔を駆逐する者。だが、神秘を重要視する者たち。聖杯戦争が明るみになるのは困る、という一点で協力をしているのだ。簡単に言うと、後ろに回した右手で武器を握りながら、左手で握手をし、足を踏みつけ合っているような関係である。

 

「ここの神父は、わたしの父の弟子で、わたしにとっては兄弟子よ。

 でも教会に所属し、人外を狩る代行者だった。

 まあ、要するにそういう奴よ」

 

 アーチャーの微かな思念が、不思議にはっきりと伝わってくる。 

 

『……フェザーンの黒狐、いや、地球教みたいだ』



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17:激突

 聖杯戦争の監視役、言峰綺礼は、遠坂凛の手厳しい表現どおり、いやそれ以上の存在だった。セイバーのマスターとして、名乗りを上げた衛宮士郎に向けた笑顔の胡散臭いことときたら。

 

それは『衛宮』の姓に反応したものらしい。そして、養父のエピソードをつらつらと語りだしたのだ。

 

 士郎としては、亡き養父を問い詰めたくなった。

 

 ……あんた、何やったんだよ、じいさん!?

 

 どこをどう聞いても、遺言となった正義の味方というニュアンスから、五百四十度(一周回って正反対)ぐらい角度が違う。昨日のこの時間に聞いていたら、士郎は猛抗議して、養父の正当性を訴えただろう。切嗣の正義を証明し、非道なサーヴァントを撃退するために、聖杯戦争に参加したことだろう。

 

 しかし、士郎は昨日までの士郎とは違っていた。隠し子のサーヴァントに襲撃され、圧倒的な暴力によって死にかけた彼である。どこかの世界で、真紅の槍の慈悲深いほど正確な一閃で絶命し、自覚なきままに蘇生したのとは異なる。暴力の痕跡を赤裸々に提示され、いかにその怪我が重態であったのかをこんこんと諭されたのだ。温厚で知的な『大人』によって。

 

 そして、彼がとりなしてくれた。もっと養父について知るべきだと。

 

 だがその大人のシビアなこと、正直この神父なんか目じゃない。血まみれの制服が詰まったゴミ袋のあの重み。遠まわしにだが、その数十倍を数百個、背負って歩けたのかと問われたのだ。生存のために逃走を選んだのは正しいと、そういう言葉でもあった。

 

 それが抗体となって、言峰の煽動に士郎は引っかからなかった。

 

 父の名を聞いたイリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、言峰神父にいっそう険しい視線を向けた。

 

「セイバーが召喚され、マスター衛宮士郎は聖杯戦争への参加を表明した。

 よかろう。ここに、聖杯戦争の開始を宣言する」

 

「そして、ここに聖杯戦争の停戦を要求します」

 

 凛の傍らから、アーチャー、ヤン・ウェンリーが実体化して告げた。

 

「ほう、凛のサーヴァント。何故かね」

 

「遠坂凛は霊地冬木の管理者で、衛宮士郎の魔術の師でもあります。

 また、衛宮士郎はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの

 義理のきょうだいです。この三者には密接な利害関係がある。

 ゆえに団結して、この聖杯戦争の本質を追求し、利益を享受したいわけですよ。

 だが、不利益をもたらすものならば、改善が必要であると判断しました。

 四回もやって、一度も成功していない儀式、二百年も前のシステム。

 徹底的な原因究明と、今後に向けた対応を行うべきです。

 これが、始まりの御三家、アインツベルンと遠坂の判断です」

 

 全ての人間が表情を空白にした。凛が今まで見たこともないような表情で、言峰綺礼はようやく口を開いた。

 

「アーチャーのサーヴァント、少々待つがいい」

 

 そんな制止はまるで役に立たず、定理を述べる学者のように淡々と要求が突きつけられる。

 

「戦争の継続には、我々以外の四人のマスターの、

 全員一致の賛成を提出していただきましょう。

 こちらには始まりの御三家の過半数がいる。

 覆すにはのこりの一家を含む過半数の同意がなければ、我々としては従えませんね。

 監視役ならば、その働きかけを行い、できないなら停止を表明していただく。

 三日もあれば可能でしょう」

 

 長身で、神父服の上からでも発達した筋肉がわかる言峰神父よりも、頭一つ背が低く、体の幅や厚みがふたまわり以上も薄いアーチャーだ。外見も二十歳を越えているようには見えない。しかし、落ち着いた口調とその内容を聞けば、交渉に慣れた人物であったことは明らかだった。三人のマスターにとって、昨晩からさんざん思い知らされたことであるが。

 

「無論、その間に戦闘が起これば、我々三家も防衛を行います。

 結果として、一騎でも敵のサーヴァントが脱落すれば、

 その時点で有無を言わさず停戦になることもお忘れなく。

 さて、早く働きかけをなさったほうがいい。

 当方はキャスターに書状を送り、返答まちですからね」

 

「お、おい、いつの間に……」

 

「君のお宅に行く前にポストに入れてきた。

 同じ町内だから今日明日には着くでしょう。

 返答があればよし、なくても教会からの働きかけには、

 何らかの反応があるでしょう。

 そういうことで言峰神父。

 教会は監視役であり、戦争の進行そのものに権限はない。

 監視役としての役割を粛々と果たされることです」

 

 言峰の眉間に皺が刻まれた。

 

「……なるほど。凛のサーヴァントは知恵者のようだ」

 

「そいつはどうも。で、教会としての返答はいかがです」

 

 マスターが自分の言葉に絶句しているのをいいことに、ヤンは畳み掛けた。この神父、生前の自分とそう違わない年齢だろうか。少年少女には権威に見えるだろうが、ヤンにはわかる。

 

 もっともらしいことを言って、サボっているだけだ。

 

 そして子どもに戦いを焚きつけている。こんなろくでなしに容赦はいらない。

 

 少々内容は違うが、自分もサボっては散々に怒られた。だから、攻める場所は明白で、攻撃手段も熟知している。これは、畏怖すべき先輩のやり口を真似てみたものであった。

 

「そちらの意見は検討しよう。

 しかし、セイバーとバーサーカーのマスターは、その案を支持するのかね」

 

「俺にはよくわからない。

 でも、あの大災害を突き止めてからじゃないと、聖杯戦争をやる気は起きない。

 罪を犯してるサーヴァントを放ってはおけないけど、

 マスターって教会に登録されてるんだろ?

 だったら、さっさと監視役がどうにかしないのはおかしいぞ。

 俺たちが躍起になって探すより早いんだろ?

 なんでそうしなかったのさ。

 学校の結界を、すぐ解除してもらわなくちゃならないし」

 

 法律遵守で合理主義の怠け者は、滅私奉公の働き者にたしかに影響を与えていた。いいんだか、悪いんだかは別として。

 

 自分ではどうしようもない、自分のせいではない難題を、法律と複数の人の手を借りることで、快刀乱麻を断つがごとくに解決してもらったためだ。

 

 役所や裁判所がえらいってこういうわけかと、士郎は感動してしまった。藤ねえが勝手に書き換えた進路志望、正義の味方=法律関係っていうのは間違いじゃないかも。

 

 じゃあ教会って、この聖杯戦争の役所や裁判所みたいなものだろう。士郎は自然にそう思った。教会の仕事を俺たちに丸投げするなんて、お門違いじゃないか。

 

「たしかにね。衛宮くんの言葉にも一理あるわ。

 冬木の管理者としても言っておくけど、登録したマスターへの警告ぐらい、

 やってもらわなきゃ困るわね。

 わたしへの参加をせっついた以上、他の登録者は知ってるんでしょう?」

 

 被後見人の言葉に、言峰は視線を黒髪の青年に向けた。すべてを見通すような黒々とした視線が返されて、神父の方が目をそらす。

 

 御三家の一員として凛に負けてはならじと思ったのか、イリヤスフィールも言葉を添えた。

 

「わたしもアーチャーの案に乗るわ。

 セイバーはキライだけど、シロウはそんなにキライじゃないし、

 リンとアーチャーはキリツグの調査に協力してくれるもの。

 それに、術式を組んだアインツベルンとして黙ってられないわ。

 おかしくなってるなんて言われたままにはしておけないの」

 

 人は、理解と恩恵を与えられると心を動かす。北風と太陽のたとえのように。厚い冬服を脱ぎ捨てて、温かな春を享受するだろう。孤独な少年と少女たち。その心を解きほぐす特効薬は、一に家族、二に友人だ。そして、三には頼れる年長者。複数の人に密接に囲まれ、その温かさを感じ、孤独ではないと知らせることだ。

 

 心の古傷の疼きにかわって、新たな頭痛の種を播いただけとも言うが、新しくて強い感情が、心の水面を閉ざす氷に(ひび)を入れるかもしれない。氷の下には、必ず感情の流れがある。複数の海流がぶつかって、豊かな幸が生まれるだろう。

 

 それは友情や愛情だ。たった五つの魔法よりも、ずっと尊いものだとヤンは思う。自身の経験からの処方箋だった。 

 

「決まりですね。では、失礼」

 

 ぺこりと頭を下げて、さっさと踵を返しかける。

 

「待つがいい。まだ返答はしていないが」

 

「返答なんて、はいかイエス以外はありえないでしょう?」

 

 穏やかな童顔に、ヤンはせいぜい人の悪い表情を浮かべてみせた。主戦論を唱える国家の命令には、軍人として従わなければならない。生きているならば。

 

 だが、幽霊に命令できるのは、せいぜいご主人様だけだ。それもたったの三回。商人の息子で、国家公務員の軍人で、二百万人の上官だったヤン・ウェンリーは、戦争とも言えぬ殺し合いに、真面目に付き合う気は最初からなかった。

 

「じゃあ、検討とご健闘を。

 三日を超えても返事がなければ、あなたの職務怠慢だ。

 聖堂教会とやらに連絡し、あなたの更迭を求めますので、あしからず」

 

 聖堂教会たらいうのも組織だろう。組織人を押さえるには、真っ当な理由で上位者に告発すればいいのだ。その後にどうするかを考えるのは、マスターの仕事ではなく教会の役割だ。少年少女には思い浮かばなくとも、元国家公務員にとっては当然の発想だった。

 

「さ、各陣営に連絡をお願いしますよ。

 三日後の午後五時までに、当方まで結果が伝わるようにしてください。

 書面でね。それがないかぎりは更迭を訴えさせていただきます。

 これ以上、お時間を取らせるのも申し訳ない。失礼します」

 

 そう言い捨てると、アーチャーはくるりと背を向けて、言峰の反応を待たずに歩き出した。期限内に仕事しないと、上に言いつけるぞ! というわけだ。

 

 さて、この神父には効くだろうか。上層部がどう反応するだろうか。しかし、手はいくらでもある。いざとなれば、ヤンは役所に訴えるつもりだった。その事態となったら、教会が聖杯戦争の主導権を握るどころではない。なお、大きな宗教法人を所管するのは、文部科学省である。

 

 

 猫背気味の背を追って、少年少女らも教会を後にした。

 

「いやー、やるもんね、アーチャー。あいつのあんな顔、始めて見たわ。

 もう、スッキリした」

 

「やれやれ、実に麗しくないご関係のようだね……」

 

「でもな、アーチャー。聖杯戦争の継続派が勝ったらどうすんだよ?」

 

 純朴な言葉にヤンは目を細めた。

 

「士郎君は素直で本当にいい子だね」

 

「お、おう?」

 

「だが、私は汚れた大人なのさ」

 

 否定も肯定もできかねる言葉に、士郎は夕日色の髪をかいた。

 

「ええと……」

 

「篭城しているキャスター、遊撃しているランサー、新都の吸血鬼、

 深山の一家殺人、学校の結界の犯人のライダーだかアサシン。

 どっちにしろ、アサシンは隠密行動のクラスだ。

 マスターが割れたら、サーヴァントもばれるから、

 呼びかけにほいほいと現れるとは思えない。

 四者の意見の取りまとめなんて、実質不可能だよ」

 

 士郎の顎が落ち、あんぐりと口を開ける。

 

 ――ち、違う。譲歩じゃなくて罠だ。

どれを選んでも、高確率で停戦するしかないってことか!?

おっとりと優しそうな顔で、笑顔さえ浮かべて言う台詞じゃないぞ。

サーヴァントがマスターに似るってホントだ。

こっちは真っ黒い悪魔だ!

 

「停戦に応じなければ、こちらの呼びかけに応じないほうが悪いと

 正当性を主張できる。主催者の過半数を抱えた利点さ。

 それでも襲ってきたら、三人で連携して返り討ちにする。

 あれ、ところでセイバーはどうしたんだい?」

 

 霊体化できないセイバーは、情報を与えたくないと教会内には足を踏み入れなかった。前庭で待っていると言ったのに、姿が見えない。二月三日の午後五時すぎ。明日は立春だ。冬至の頃より、随分と日が長くなったが、それでも既に日没を迎えている。夕闇の藍色が、残光の朱色を完全に拭い去り、寒さが忍び寄ってきた。

 

 そして、澄んだ金属音が、高く低く連続して聞こえてきた。

 

「……まさか、襲撃!? こんな早くに」

 

「考察すべき点だ。凛、あちらには何が?」

 

「墓地よ。あ、ちょっと! 待ちなさい、衛宮くん!」

 

 凛の制止にも関わらず、士郎は駆け出した。従者の名を叫びながら。そして、ほどなく足を停めた。

 

 そこに顕現するは英雄譚。蒼と群青の交錯。互いを鎧う白銀が、満月にやや足りぬ月光を跳ね返す。滑るように、舞うように、精錬された足さばきで、目まぐるしく入れ替わる蒼と群青。打ち合う刃が音(はがね)に伴奏された、死の舞踏(ダンス・マカブル)

 

 長い瑠璃の髪が翻り、手にした一条の槍が真紅の流星雨となって、蒼いドレスへ殺到する。金紗の髪の騎士は、聖緑の瞳を鋭くし、白銀の篭手を縦横無尽に振るう。だがそこに剣の輝きはない。

 

 狙撃銃のごとき、精密きわまりない刺突を、大口径の散弾銃の弾幕で阻止するかのように。姿なき武器が、鋼の音のみを響かせる。その衝撃はいかばかりか。

 

 両雄の足元で、冬枯れの芝生がみるみるうちに抉れ、黒土をのぞかせる。その不利を悟った、剣の騎士と槍の騎士は、再びの衝突の反作用を利用し、左右に飛び離れた。

 

 群青のランサーが、真紅の目を眇めて、蒼のセイバーを詰る。

 

「貴様、それでもセイバーか。武器を隠すとは卑怯者め!」

 

 対するセイバーは、涼やかな声で一蹴した。

 

「ほう、これが剣とは限るまい。槍か斧か、あるいは弓ということもありうる」

 

「ぬかせ、セイバー!」




 この世界の文科省には、陰陽師が所属してるかもしれない。陰陽師は、天文、気象、暦の研究者である。学問上の後裔は気象庁やJAXAだろうか。強そう。


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18:三騎士と狂戦士

 群青のランサーが、真紅の目を眇めて、蒼のセイバーを詰る。

 

「貴様、それでもセイバーか。武器を隠すとは卑怯者め!」

 

 対するセイバーは、涼やかな声で一蹴した。

 

「ほう、これが剣とは限るまい。槍か斧か、あるいは弓ということもありうる」

 

「ぬかせ、セイバー!」

 

 再び交錯する、真紅の槍と見えざる剣。色合いの異なる青が、月光の下で舞闘を再開した。士郎は息を呑み、美しき従者の剣戟に見惚れた。凛もひたすらに見惚れた。しかし、もっとも顔を輝かせたのは、その隣のアーチャーだった。

 

「ああ、これだ。こういうのが見たかったんだよ」

 

 崩れた足場から飛び離れ、再び両雄は対峙したが、新たなサーヴァントの気配にランサーが頭を巡らす。

 

「うるせぇぞ! って、てめえらは……」

 

「どうぞ、私のことはお気になさらず。お二人とも続けてください」

 

 ランサーは顔を引き攣らせた。彼が反応したのは、アーチャーの暢気な声ではない。

腹に響く重低音とともに近づいてくる、暴力的なほどの死の気配を纏った鉛色の巨人。

肩に冬の妖精を乗せたバーサーカー。

 

ランサー クー・フーリンにとって、最悪の相手だ。先日、小手調べで挑んだものの、あやうく座に直帰させられるところだった。なにしろ、彼の宝具ではかすり傷一つ付けられなかった。

 

ランサーは装束の色ほどに青ざめた。夕闇がそれを隠してくれたのは、夜の女神の寵愛なのか。彼の脳裏によぎるのは、『詰み』という単語だった。

 

 残りの面々は、令呪の縛りにより、引き分けて撤退せねばならないセイバー。誓約によって、夕餉の誘いに応じなくてはいけないアーチャー。最弱のアーチャーを倒すと、ステータスが著しくダウンし、残る二者を振り切ることはできない。

 

どちらかか、あるいは双方の攻撃で死ぬ。彼らはランサーの事情など知ったことではなく、追撃の手を緩めるはずがなかった。

 

「畜っ生! せっかく命を掛けたギリギリの戦いがしたかったのによ!」

 

「では、貴公は聖杯を欲しないのかな?」

 

「俺は国や時代を超えて、英傑と武を競うために召喚に応じただけだ!

 あんな根性の悪い代物、こっちから願い下げだぜ」

 

「なるほど、貴公は実に賢者でいらっしゃる。

 せっかく国や時代を超えたんだから、この立場でしかできないことをしたいものだ。

 例えば、皆で酒食を共にするとか。どうだろう、士郎君にイリヤスフィール君。

 実は明後日、凛が招待済みなんだが、君達もスポンサーになってくれないか?」

 

「ああ、俺はいいぞ」

 

 気のよい少年は、一二もなく了承した。もう一人のほうは、真紅の瞳を瞬かせた。

聖杯戦争のマスターとなるべく育てられた少女だ。高名な英雄の伝承は、ひととおり承知している。

 

槍兵としての条件を満たす英霊は案外少ない。槍と白兵戦の名手で、高い敏捷性を誇っていること。それに加えて、赤い槍と夕餉の誘いがキーワード。

 

「ふうん、そういうことね。ごめんなさい、ランサー。

 あなたのいないところで失礼を申し上げたわ。

 あなたは紛れもなき大英雄よ。

 ぜひ、わたしの招待も受けてくださらない?」

 

 絶体絶命のピンチに思わぬ形で手が差し伸べられたわけだが、ランサーは虚ろに笑った。ガーネット色の瞳の焦点も、少なからずずれている。

 

「は、ははは……。

 バーサーカーのマスターにまで、俺の正体はお見通しってことかよ。

 ところでバーサーカーのマスターよ。失礼ってのはどういうこった?」

 

「世の中には、知らない方がいいことがあります」

 

 沈痛な表情で首を振るアーチャーには、ランサーに口を噤ませる何かがあった。凛は目を瞠った。たしかに彼は、ランサーと同盟を結びたいと言っていた。明後日の夕食を待つことなく、さっさと動きを始めたようだ。

 

「アーチャー! この機を逃すつもりか!」

 

「セイバー、今、我々は監視役に停戦を申し入れてきた。

 ランサーが脱落すれば、確かに停戦条件は整うが、私の願いは叶わないんだよ」

 

「あなたの望みとは……」

 

『平和な時代を見て、伝説の英雄と会う。できれば話も聞いてみたい』

 

 昨晩聞いた限りではそうだった。セイバーは白皙の顔を紅潮させた。

 

「あ、あなたは聖杯戦争をなんだと思っているのです!」

 

「その定義はさておくとして、彼からマスターに伝えてもらったほうが、

 教会からの通知よりも確実に伝わるだろう。

 あるいはもう知っているマスターなのかもしれないがね」

 

 ランサーは、最後の一言にほんの少し表情を硬くした。

 

「では感謝をしよう、アーチャーのサーヴァント。

 我が主への伝言、しかと承った。

 だが、俺のマスターが聞くとは限らんぞ」

 

「私は別にかまいませんよ。

 我々三名でお相手するまでですからね。

 貴公の望みは叶わずに敗退を余儀なくされ、

 結果的に、貴公のマスターの意見は必要がなくなります」

 

 あかいあくまのアーチャーは、ランサー自身が評したように、黒い毒舌の矢を放つのだ。

 

「私としては、貴公がマスターを説得することを切に願うわけです」

 

 集中砲火を浴びたランサーの額から鼻筋の美しい稜線が、衝突事故車のフロントノーズと化した。その凝視に込められた諸々の感情は、アーチャーの眉を下げさせた。

 

「その、そんな顔をしないでくださいよ。

 まるで私がいじめたみたいじゃないですか」

 

「いじめてるだろうがよ! なんつー無理難題を吹っかけやがる」

 

「ははあ、ひょっとしてマスターと気が合わないんですか? 

 すまじきものは宮仕えとはよく言ったものですが、

 死んだ後までこき使われるなんて、お互い辛いですよね」 

 

「どういう意味よ、アーチャー……」

 

「いや、生前に比べると遥かにいいかな」

 

「おう、ちょいと若いが、てめえのマスターはいい女だよな。

 それに比べると、チッ、まったくツイてねえぜ!」

 

「ま、それもそうですが、彼女は安全圏から、

 愚劣な主戦論で煽動を行うマスターではない。幸いにもね。

 生前の上司というか、国のトップがそうだったので、生理的に駄目でしてね。

 握手された時には、心にジンマシンが出るかと思いましたよ。

 給料もベッドも枕もありませんが、それもないのが救いです」

 

「うっさいわね。ベッドと枕は用意するわよ」

 

 アーチャーの影から、ドスの利いた声が響く。それはアーチャーとバーサーカー以外の面々に、身を竦ませる迫力に満ちていた。しかし、黒髪の青年は微笑みを浮かべた。

 

「これで私の問題は半分解決しました。貴公に感謝します。

 なので、貴公も頑張ってくださいね」

 

 贈られたエールにランサーは思わず半歩よろめいた。精神的には槍に取りすがり、地面に膝をついた状態だ。

 

「そんな目で見ないでくれねえか……」

 

 さまにならない敬礼と、労わりと同情に満ちた眼差しに、心が音を立てて真っ二つに折れそうだ。生前を語るアーチャーの言葉は、まさにランサーの現在進行形の心境だった。

 

 握手なんぞしないで済むのはまだしもだが、死後までなんでこんなに不運なんだ。

あれか、幸運のステータスのせいか!? ランサーは聖杯を呪った。もう何度目だかわからないほど。

 

「あら、どうしたの、バーサーカー?」

 

 小さな主の隣の巨大な顔が、唸り声と共に何度も頷いているように見える。

 

「それはほら、彼の場合は生前大いに苦労しただろう?」

 

「ふうん。バーサーカー、今もそう?」

 

 今度は左右に顔が動く。ヤンは黒髪をかき混ぜた。さすがはヘラクレス、理性はともかく、知性が残っているような気がする。これなら、質問の形式次第では答えてくれるかもしれない。

 

 やる気が出てきた。こんなろくでもない争いにはさっさと決着をつけ、自分の願いを叶えるのだ! 

 

 国だの軍だの、縛るものがなくなり、欲望に忠実になったヤン・ウェンリーである。

 

 彼の前に位置する夕日色の頭も、せわしなく上下動していた。アーチャーはさりげなく半歩位置をずらし、背後にいる黒髪の美少女の視線から少年を隠してやった。男性陣に塩味と酸味と苦みの混じった合意が形成され、厭戦ムードが漂いだす。 

 

「まあ、じゃあそういうことで。貴公の健闘を重ねて祈ります」

 

「お、おう。じゃあ俺もそろそろ失礼するわ。では、明後日の夕餉の席でな」

 

「待てっ、ランサー!」

 

 仕えられる側であったセイバーが、我に返って一歩踏み出したときには遅かった。最速のサーヴァント、槍兵。ゲリラ戦の名手たるクー・フーリンは、戦闘からの離脱にも長けていた。風を巻いて、さっさと闇の彼方へと姿を消したのであった。

 

「みごとな退却だなあ。私の後輩もなかなかだったが、さすが年季が違う」

 

 暢気な発言に、セイバーは見えざる剣を彼の喉元に突きつけた。皮一枚分の切り傷が刻まれ、わずかに血が滲み出す。

 

「アーチャー! 貴様、裏切る気か!」

 

「騎士の一騎打ちに水を差した非礼はお詫びしよう。

 だが、停戦は君のマスターも合意したことだ。

 彼には自身のマスターへの伝達をお願いしたんだ。

 教会が手配するよりも確実だからね。

 その上で、挑んできたら斃せばいい。だがね」

 

 アイボリーのスカーフに、何滴かの血が染みを作る。ほとんど無彩色のアーチャーとの対比が強烈で、凛は拳を握りしめた。だが、彼はまったく臆することなく、静かな口調で続けた。

 

「ここは死者が眠る場所だ。私のマスターのご両親もここにいる。

 幽霊の私が言うのも変かもしれないが、その眠りを妨げるのはね。

 お墓が荒れたら、一番悲しむのは遺族だ。

 これ以上、ここで戦うのはやめてくれないだろうか」

 

 両者が激突した場所は、芝生が抉れ、土がのぞいている。だが幸いそれだけだ。墓石が欠けたり、倒れたりはしていない。セイバーは唇を噛むと、腕を下げた。

 

「ありがとう、セイバー。では、みんな帰ろうか。

 ここでは話しにくいこともあるし、

 魔術師としての意見も聞かせてほしいんだ。

 ところでセイバー、あのメイドさんの服はどうしたんだい?

 武装の下に着てるのかな?」

 

 顎に手をやり、小首をかしげるアーチャーに、セイバーは我に返るとあたふたとした。

 

「あの、そ、それは……」

 

 霊体化できないセイバーだが、その衣装や武装は魔力を編んだものだ。魔力を解くことにより、それらは消える。では再武装するとどうなるのか。

 

 衛宮士郎が使える数少ない魔術が強化だ。これは物質に魔力を通すことによって、材質の強化を図るものだ。しかし、魔力の注入に失敗すると、その物品を逆に壊してしまう。

 

 人間であってさえこうなのに、サーヴァントの桁違いの魔力を急激に叩きつけられて、普通の服に耐えきれるわけがない。夜目の利く士郎が、墓地に散らばる白い花弁のようなものを認めた。

 

「なあ、ひょっとして、あれがそうじゃないのか……。

 ど、どうしよう! セイバーの服装問題ふたたびだ!」

 

 セイバーの壮麗な戦装束は、一般家庭を訪問するのにふさわしくないが、街中を歩いたり、バスやタクシーに乗るのにもこれまたふさわしくない。

 

「ねえ、セラ呼ぶ? きっと怒るけど」

 

 セイバーがびくりと金髪を揺らした。

 

「あ、あの」

 

 おさまりの悪い髪がはみ出したベレーが軽く下げられる。

 

「よろしくお願いするよ、イリヤ君。

 ちょうど勤め人の帰宅時間だ。

 みんなで深山町まで歩いたら、どれだけの人の目に触れることか。

 リムジンだって、目立つことだろうがね」

 

 凛はアーチャーの袖を引いた。

 

「ねえ、わたしとイリヤは別行動でもいいでしょ。普通にバスで帰れば」

 

 この面々に混ざって、辟易しているのは凛も一緒だった。

 

「バス停なんかでサーヴァントに襲撃されたら、

 バーサーカーと私でどうにかなると思うかい?

 ここなら迎撃できるから、迎えを待った方がいいんだよ」

 

「うっ……」

 

 破壊力抜群だが、手加減とは一切縁のないバーサーカー。非力で射撃の下手なアーチャー。これは厳しい。主に凛の生存確率が。言葉に詰まった凛は、士郎と顔を見合わせた。

 

「な、なあ遠坂。学校の部活、今日も短いと思う。

 ここから歩くとさ、橋のとこですれ違うんだ」

 

 そして、高校生の帰宅時間でもあることに気付く。未遠大橋の歩道は、自転車道も兼ねている。彼らの歩む傍らを、学校の生徒達が走りぬけていくわけで……。

 

「あの橋、歩くと十分はかかるんだ。みんなに見られる。

 なあ、セイバー、家までの道、わかるか?」

 

「ええ、大体は……。まさかシロウ、私に一人で帰れと!?」

 

 セイバーの詰問に、琥珀色の瞳がふいと逸らされた。コスプレ美少女をこっそり囲うから、公然と連れ歩くにレベルアップしてしまう。いや、人間の屑からケダモノへのレベルダウンか。

 

 それはイヤだ。屑でもいい、せめて人間でいたい! 士郎も必死だった。

 

「そっか……」

 

 そこで士郎ははたと気づいた。一時は別行動しても、鎧甲冑の美少女が衛宮家に戻ってくるのは変わらないのだ。

 

「や、やっぱ、一緒に帰ろう。ごめん、イリヤ、俺からも頼む」

 

 昨夜からの騒動の末、士郎は他人を頼ることを覚えた。それは凛も一緒だ。

 

「ええ、わたしからもお願いするわ。

 わたしたちにも外聞というものがあるのよ。

 メイドはまだありだけど、鎧の騎士はないの。現代には」

 

 すかさず拝む少年と、頭を下げる美少女だった。アーチャーは凛の発言に、顔の前で手を振りながら応じた。

 

「二百年前だってどこにもいないよ」

 

「へ、そうなのか。なんでさ?」

 

「銃の台頭で、鎧が意味をなさなくなってしまったんだ。

 四百年ほど前に、セイバーのような鎧の騎士は姿を消した。

 ま、この国にはほとんどないようだし、

 我々サーヴァントには、一般の銃器が効かないのは幸いかな」

 

 セイバーもドレスの色ほどに蒼褪めた。このアーチャーは、作為もなく心臓を抉るような発言をしてくるのだ。彼女の思いは、アーチャーの知るところではなく、新たな難題に髪をかき回した。

 

「しかし、これは課題だね、セイバー。

 襲撃者の前で服を脱ぐわけにはいかない。

 君が戦うには、なんとか士郎君に同行し、同時に服の準備も考えないと……。

 地味に難しいなあ。君がたいへんな美人なだけに、どう考えても目立つし」

 

 腕組みして嘆息するヤン・ウェンリーだった。セイバーは歴史マニアの心を潤してくれる存在だが、やはり伝説は遠くにありて思うもの。近くば寄って目にも見よとなると、眩しすぎて困る。目にも痛いが、きっと財布にも痛そうだ。

 

「服なら、わたしのをあげるわ。

 貰いものだけど、似合わないから着てないし、

 毎年、同じのを贈ってくるから何着もあるのよ」

 

「悪いな、遠坂。なにからなにまでありがとな」

 

「アーチャーのマスターに感謝を」

 

 セイバーは結いあげられた金髪を下げて、その顔色を隠した。

 

「ただね、問題が二つあるの。贈り主があの綺礼なのよ」

 

「服に罪はないよ。サイズが合うならいいじゃないか」

 

 凛のサーヴァントは理性的かつ節約家だった。彼のマスターは首を振った。

 

「それとね、下着はないの。衛宮くん、そっちは調達しないとならないわよ。

 セイバー、あなた、下着も借りていたでしょう。

 あの布切れのどれかに、それも混じってるんじゃないの?」

 

 指摘を受けた剣の主従は顔を見合わせ、異口同音に叫びを上げた。

 

「ええっ!?」

 

 それから迎えが来るまで、ゴミ拾いに勤しむことになった士郎とセイバーであった。夜に墓参りをする人間はいないと言っていい。だから外灯もほとんどない。ゆえに、夜目が利く士郎が指示して、セイバーが小さな布切れをせっせと集めて回る。

 

 隠匿を教会にやらせて、下着の切れ端をあの胡散臭い言峰に拾われたいのか。アーチャーの主従や、バーサーカーのマスターに手伝ってもらいたいのか。そういうことである。

 

 それを遠巻きにした凛とヤンは、微妙な表情で囁き交わした。

 

「アーチャーごめん。前言を訂正する。

 あなたが来てくれてよかったわ。服の誤魔化しがいらないし」

 

「そうだね。私も花も恥じらう乙女に、千切れたパンツを拾われたくはないよ」

 

「あんた、わたしがあえて言わなかったことを……」

 

「しかしまあ、不備なく召喚してくれてありがとう。

 それにしても、前回の召喚時の彼女はどうだったんだろう。

 イリヤ君は知らないかな」

 

 イリヤは首を横に振った。

 

「セイバーとお母さまは、一緒に飛行機で日本に行ったみたい。

 でも、サーヴァントとしてどうだったのかは、よく知らないの」

 

 二つの黒髪が傾げられた。それは判断材料にはしがたい。アーチャーの考察を発展させるなら、その行動だって陽動とも取れる。

 

「言峰神父も前回の参加者だと言っていたね。

 凛とイリヤ君のお父さんと、これで三人。

 あと四人は参加者がいるはずだが、一人も生存者がいないんだろうか?」

 

 凛ははっと顔を上げた。

 

「外来の魔術師の参加を取りまとめるのは、魔術師の学びの府、

 ロンドンの時計塔よ。何か知っているかも」

 

「連絡が取れそうかい?

 今回の参加者も斡旋してるなら、そちらからも呼びかけをしてもらおう」

 

「そうね、取ってみるわ。

 わたしは卒業後に時計塔に進学し、

 そこの名物講師を師と仰ぐのが当面の目標だったの。

 聖杯戦争が始まるまではね」

 

「たった十年で再開したイレギュラーか。……くさいね」

 

 最後の呟きは、近づいてくる重厚なエンジン音にかき消された。



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19:時の女神の紡ぐ糸

 迎えが到着して、一行は黒塗りのリムジンに乗り込んだ。凛はセラに頼み、先に遠坂邸に寄って、セイバーの服を取りに行くことにした。アーチャーが、せっせと集めたり、書いたりした資料と地図も、一緒に紙袋に詰め込む。結構な重さだ。

 

「念のため、君も宿泊できる用意をして行ったほうがいい。

 制服や教科書もね。明日は学校に行って、結界の様子を見てみよう」

 

「じゃあ、あんたもお父様の服、適当に選んで持ってきてよ。

 『柳井くん』として行動できるようにしたほうがいいかもしれない」

 

「おや、君には戦略家としての素質があるようだ。

 紅茶とブランデーも持って行っていいかい?」

 

「好きにしなさい。あと、車まで荷物持ちして」

 

「はいはい」

 

 せっかく、車があるのだから使わない手はない。腕力が十倍になっても、人間が運べる体積はそうは変わるものではない。手の長さの分だけしか抱え込めない。

 

 それは荷物もマスターも同じだ。アーチャーことヤン・ウェンリーは、サーヴァントの能力を過信する気にはなれなかった。

 

 極論するなら、英雄とは多大な功績を上げながら、若くして非業の死に斃れた者だ。いわば幸福な人生の失敗者である。その原因の多くは、人間関係にある。

 

 ヤンだって他人の事は言えない。暢気に平和な余生を送るには、あまりに人を殺し過ぎた。そんな人間の幽霊の、そのまたコピーを呼んだところで、幸福をもたらすことはないのではないか。

 

 でも、せめて不幸を呼ばないようにしたい。生前の千六百年後だけで充分だ。凛の父、遠坂時臣のクローゼットをかき回しながら、置いてきてしまった人々に思いを馳せる。

 

「着道楽で、きっと美男子だったんだろうなあ。凛と桜君のお父さんだし」

 

 先日借りた、シャツと紺のカーディガン、グレーのパンツ。まずはこんなものでいいだろう。

 

「やはり、彼の代までには何らかの取り決めがあったのかも知れないな。

 姉妹がべつの家にいたら、将来的にはその子や孫が殺し合うことになる。

 だが、術式のアインツベルン、令呪のマキリ、霊脈を管理する遠坂。

 ……遠坂だけが、聖杯戦争という『儀式』の根幹に関わっていない。

 もしかしてそういうことか」

 

 黒い瞳が虚空を見据えて呟く。

 

「やれやれ、こいつは厄介だな。なんとかして、間桐も引き入れなくては。

 そして、キャスターが私の分析像に近い人物であることを祈るしかない」

 

 階下から、マスターの澄んだ声が聞こえる。今行くと返事をし、ヤンは主なき部屋にぺこりと頭を下げた。

 

「あんなに可愛いお嬢さんだ。さぞやお心残りでしょう。

 私の力の及ぶ限り、あと11日間はなんとかします」

 

 そして今度は敬礼を。そして、ヤン・ウェンリーはアーチャーとして、主の下に急いだ。

 

*****

 そんなこんなで衛宮邸についた士郎は、車のトランクから取り出された遠坂主従の大荷物に目を丸くした。

 

「まさかそれ、全部セイバーの服じゃないよな?」

 

「違うわよ。セイバーに合いそうな大きさの服は四着くらいよ。

 あとは作戦会議の資料と、それが長引いた時の宿泊用品。

 そして、学校の支度。わたしだってねえ、そんなに学校を休めないわ」

 

「す、すまん。今日はほんとに助かった。

 あとさ、アーチャーのケガ、大丈夫か」

 

「サーヴァントは頭や首、心臓の霊核を破壊されないかぎり、消滅しないわ。

 マスターの魔力にもよるけど、一旦霊体化して実体化すれば、

 大抵のダメージはリセットされる。魔力が足りないと難しいけどね」

 

 士郎は思わず詰めていた息を吐いた。アーチャーは士郎に対して、最も温厚に接する相手だ。同性の気安さもあり、好感を持つのは当然であった。

 

「そっか、よかった。でもサーヴァントも血が出るんだな」

 

「魔力の喪失を示すためにね、そうなっているらしいの。

 でも、衛宮くん、セイバーはそれを癒す霊体化ができないのよ。 

 おまけに魔力不足。それはあなたからの供給がないからよ。

 あなたみたいなへっぽこが、セイバーを使役したら、

 そんなにピンシャンしていられないわ」

 

 さすがに士郎もむっとして、師匠に反論する。

 

「アーチャーが魔力をバカ喰いするって言った割に、遠坂は平気そうじゃないか」

 

 しかし、あかいあくまは、弟子の抗議を一蹴した。

 

「あのねえ、わたしは遠坂の六代目よ。

 魔術回路はメインが四十、サブはそれぞれ三十」

 

 士郎は目と口でOの字を描くしかしかなかった。回路数は彼のざっと四倍。魔力に至っては百倍以上の開きがある。

 

「だから、あいつを養っていけるのよ。

 とりあえず、今夜はスイッチをつくることから始めましょ。

 作戦会議の後で。だから、これ持って行って」

 

 突きつけられた紙袋は、弓道部一の腕前で、正義の味方となるべく鍛錬していた士郎でも、ずっしりとくる重さだった。これをその細腕で、小揺るぎさせずに持ち上げるとは。遠坂凛恐るべし。

 

「でも先に夕飯にしよう。今日は藤ねえと桜も来ないって言うんだ。

 遠坂が来る前に、チキンカレーを作っといたんだ。

 あとはサラダぐらいしかないけど」

 

 なんてマメなやつ。凛は半眼になった。昨晩殺されかけ、ほとんど徹夜で善後策を話し合い、姉貴分と妹分の襲来をかわし、土蔵の血痕を落として、セイバーと稽古する間の仕事だ。おまけに言うことがふるっていた。

 

「それに、手抜きしてカレールー使ったんだけどさ。

 アーチャーはカレー食べられるかな?」

 

「まったく、カレールーが手抜きですって?

 もうね、正義の味方よりコックになったらどう? 

 その方が明らかに人を喜ばせるわよ」

 

 凛の傍らに、アーチャーが実体化した。アイボリーのスカーフは、もう真紅に彩られていない。

 

「私もマスターの意見に一票。それからカレーはよろこんでご馳走になるよ」

 

「わたしもいただくわ。じゃあ、ちゃっちゃと食べて、作戦会議としましょう。

 その後で、衛宮くんの処置ね」

 

 降りてきたセイバーには、凛の服の入った袋を渡す。深山商店街で凛が代理で購入した下着と一緒に。コンビニに下着が一式売っているなんて驚いた。別件で立ち寄ったのだが、棚の一角に並んでいて、これ幸いと購入したのだ。スポーツ用のフリーサイズの物だが充分だろう。また破いても惜しくはないし。 

 

「リンに、重ねて感謝を」

 

「セイバー、先に着替えてきてよ。また、いつ藤村先生が来るか……。

 私はイリヤの関係で誤魔化せるけど、あなたの服装はちょっとね」

 

 そのほかの荷物は、士郎とアーチャーで手分けをして運ぶ。あかいあくまの弟子と従者は、なんとなく顔を見合わせて、とぼとぼと歩く。

 

「俺さ、遠坂に憧れてたんだよ……。

 美人だし、スタイルいいし、文武両道で優雅なお嬢様って感じで……」

 

「うんうん」

 

「まさかすごい魔術師で、性格がああだなんて……」

 

「人間だれしも表と裏があるものさ。

 君だって、藤村先生と他の先生と同じように接したりしないだろう?」

 

「そりゃそうだけどさあ」

 

「逆に考えてごらんよ。

 取り繕うべき他者ではなく、自分の本音を言える相手と認めてもらったと」

 

 琥珀の目がじっと中空を見つめたが、がっくりと肩を落とした。

 

「うう、真実を知るって辛いもんなんだな」

 

 漆黒の目が優しく細められ、次に静かな力を込めて士郎を見つめた。

 

「そうだよ、士郎君。君にとっては切嗣氏を知ることがそうなるかもしれない。

 イリヤ君の存在さえ、君に伝わっていなかったぐらいだ。

 どうするかい? それでも君は求めるのか」

 

 士郎は息をのんで頷いた。

 

「そうか。では君に頼みがある。これは今は君にしかできないことなんだ」

 

「わかった。俺は何をやればいいんだ?」

 

「まず、衛宮切嗣氏の生まれてから亡くなるまでの戸籍を取って欲しい。

 君が遺産相続した時に、使用したもののコピーでもかまわない」

 

 琥珀の目が固まった。

 

「へ?」

 

「それを元に、切嗣氏の家系調査を簡単にしたいんだ。

 彼が魔術師だということは、親も魔術師ということだろう。

 切嗣氏が聖杯を欲するに至った理由に、大きく関与するのではないか。

 私はそう思うんだよ」

 

「な、なんでさ。なんで俺にしかできないんだ」

 

「戸籍は、直系の人間や養子でないと取れない。

 そうでない人間は、資格を持つ人に頼まないといけないんだ。

 そんな時間もないからね」

 

「あ、そうなんだ。

 じいさんが死んだ時は、藤ねえの祖父ちゃんが色々やってくれたから……」

 

「それが後見人の役割だからね。ではまず、その方に訊いてみてごらん。

 それを元に、切嗣氏の父母、祖父母を探ってみよう。

 あるいは凛の言う魔術の学校に、なんらかの記録があるかもしれない。

 士郎君、歴史は暗記じゃないんだ。過去から現在、未来はつながっている。

 自分に関わる過去の人々を探す、これも立派な歴史学なんだよ」

 

「俺、考えたこともなかった。じいさんも死んじまって、

 実の親の事もよく覚えてないし……」

 

 ヤンはわずかに目を伏せた。六、七歳で大災害から生還したということは、□□士郎を取り巻いていた世界の消滅に他ならない。

 

 闇に昇った新たな太陽が、衛宮切嗣だ。七歳から十二歳まで、反抗期を迎える前の少年時代。太陽の光にだけ目を向けているうちに、衛宮切嗣は亡くなった。背後にあるかも知れない、夜の闇を少年が知らぬうちに、再び世界は消失した。

 

 だが、太陽の残光が士郎を照らし、彼はそれをひたむきに追っている。いや、それだけしか知らない。あたりまえだ。衛宮切嗣が闇を見せていないのだから。

 

 十代の少年が魔術師殺しとして名を馳せ、可愛い娘よりも聖杯戦争での勝利を選んだ理由を。その聖杯戦争で、美しい妻を亡くし、娘との交流を断たれたことも。彼の軌跡の断片を綴ってみると不審だらけだ。

 

 この子は、それを疑問に思わず、真実を探そうという心の余裕さえないのだ。二度も世界を消失し、その度に精神がリセットされてしまったのではないか。衛宮士郎の精神年齢は、おそらく外見よりもずっと幼い。正義の味方を無条件に信じている、その年頃の子どもと同じなのではないのだろうか。

 

 だが、それを指摘しても意味がない。士郎が自身を見つめ、どうするかを考えるのは、彼の自由で権利である。本人が好きな生き方をするのを、周囲がとやかく言うべきではない。

 

 公序良俗に反しない限りだが。心の迷宮を彷徨い、出口を探すのは士郎にしかできないことだ。ヤンにできるのは、松明の灯し方や通路を探すコツを教えることぐらいだ。それだって、幽霊の高望みかもしれないが。

 

「ほんとうに大変だったね、士郎君。

 だが、君の戸籍には実のご両親の名前がきっと載っている」

 

「えっ! なんだって、本当なのか!?」

 

「この国の住民登録システムは非常に洗練されている。

 被災地から救助された、六、七歳の『士郎くん』の身許はすぐにわかる。

 その上できちんと養子縁組の手続きをしたはずだ。

 赤の他人の未成年を養子にするなら、家庭裁判所の許可が必要なんだよ。

 そちらの戸籍も調べれば、君の実の親族が見つかるかもしれない。

 特に母方の親戚全員が、被災地に住んでいたとは考えにくい。

 君は独りじゃないかもしれないんだ」

 

「お、俺に親戚がいるかもしれないって、そういうことなのか、アーチャー……」

 

 思ってもみない言葉だった。黒髪の青年は頷くと、視線を虚空に投じた。自らの苦い体験を語りだす。

 

「これは私の反省からなんだ。

 父の事故の処理には、亡くなった母は関係ないから、戸籍を調べなかった。

 私は天涯孤独になったのだとばかり思ってた」

 

「うん」

 

「ところが、私が軍で功績を上げたら、母方の叔父だという人が出て来てね。

 正直に言って、愉快な気分じゃなかったよ。

 父の船の遭難事故は、かなり大きく報道された。

 本当に私の将来に期待をしていたのなら、その時点で名乗り出たと思わないか?」

 

「それはひどいよな。あ、ゴメン、アーチャーの親戚なのに……」

 

「いいさ。私も二十一になったばかりだったし、何を今さらとしか思えなかった。

 だからその後に連絡も取らずにいた。

 それから八年後に、やっぱり功績を過剰に報道されたんだよ。

 しかし、その時には彼は顔を出さなかった」

 

「それって……」

 

 士郎は息を詰めた。では、アーチャーの二十八、九歳ぐらいの頃のことだ。その叔父というなら、まだ六十代ぐらいだろう。普通なら亡くなっているとは思わない。乗り込んできたイリヤと一緒だった。

 

「母の旧姓だけで、彼の消息を探すのは無理だった。だが、後悔しているんだ」

 

「俺の親戚も同じだって言うのか?」

 

 琥珀の瞳に影が落ちかけるのを見て、ヤンは首を振る。

 

「いや、君の場合は名前しか覚えていない状況で救助されて、

 すぐに養子に行ったんだろう。

 君の親戚が探しているのは、□□士郎。君は衛宮士郎だ。

 親戚がなかなか見つけられなかった可能性があると思う」

 

 少年の瞳が大きく見開かれた。

 

「そんなことがあるのか!?」

 

 ヤンは瞬きすると、十年前の市民課職員の話を自分なりに要約して伝えた。

 

「探す方法はあるよ。

 でも、一気に五百人もの死者が出て、役所だって大混乱している。

 一年分に匹敵する仕事が発生してるわけだからね。

 戸籍だって、作っているのは役所の人なんだ。

 とても大変だったそうだ。不眠不休で頑張り、遺体の確認に協力し、

 あちこちの市町村に火葬の受け入れをお願いしたと教えてくれた」

 

「俺、知らなかった。あの災害で、そんなことになってたのか」

 

 黒い頭がそっと頷いた。

 

「ああ、そうなると警察や消防の協力を優先しなくてはならない。

 どうしても、個人は後回しにされるが、誰にも責めることはできないよね」

 

 赤い髪も無言で上下に揺れた。

 

「君の親戚の有無は、調査をしないとわからない。

 しかし、それなりに時間がかかるんだ。

 相手にも同じことが言えるんだよ。

 士郎君を見つけた時には、切嗣氏と仲良く暮らしていて、

 君には名乗り出ずにいたのかも知れない」

 

「あ、そか、そういうこともあるかもしれないんだ。

 じゃあ、なんでじいさんは調べなかったんだろう」

 

「いや、調べなかったのかもわからない、というのが正解だ。 

 調査結果が不幸なものだったから、君には伏せておいたのかもしれない」

 

 士郎は、アーチャーの黒い瞳をまじまじと見詰めた。現在の状況から、複数の仮定を立ち上げ、もつれた糸を解きほぐそうとする。彼の言うとおりだった。歴史は暗記なんかじゃない。

 

「君には知るべきことが沢山ある。

 切嗣氏のことやイリヤ君のこともだが、君自身のことを知るべきなんだ。

 聖杯戦争よりもずっと大事なことだ。そのためには無事に生き残らないとね。

 イリヤ君のためにもだ。切嗣氏のことを話してあげなくちゃ」

 

「……ああ、俺も昔のじいさんのこと、知りたいよ」

 

「そうだろ。だからよく調べ、考えてからでないと、戦うべきじゃないんだ。

 戦いは事前の準備、戦略で九割九分は勝敗が決する。

 戦いの方法、戦術で不利をひっくりかえすなんて、百回のうち一回くらいだよ」

 

 銀河帝国の諸将が聞けば、『おまえが言うな!』の大合唱が起こっただろうが、この千六百年前には誰もいない。……たぶん。

 

「敵を知り、己を知れば、百戦危うからずってヤツか」

 

「そうそう。セイバーの魔力不足。こいつが君たちの当面の問題」

 

「うぐ」

 

 たちまち入る的確な切り返しに、変な声が出てくる士郎だ。師匠の従者は、穏やかで賢いが、決して優しいだけではない。

 

「で、それを解決しないと、彼女はガス欠で消滅する。

 あと十日あまりを生き延びるためには、セイバーの協力が不可欠だ」

 

 そして、さきほどの仲裁にも意味があったのか。

 

「うん、そうだよな。さっきはセイバーを止めてくれてサンキュ、な」

 

 訥々とした謝礼に、不器用なウィンクが返された。

 

「いや、無粋なのは申し訳なかったよ。私だってもっと拝見していたかった。

 だが軍人と言うのは貧乏性で、常に補給を気にしてしまうのさ」

 

 士郎は夕日色の頭を乱雑に掻き毟った。

 

「やっぱし、セイバーの魔力はなんとかしなくちゃな……」

 

「スイッチの作成とやらは、随分痛そうだが、なんとか頑張ってくれ。

 生きていてこそ、いいことに巡り合えるんだからね。

 絶体絶命のピンチが縁で、私は妻と知り合ったようなものだ。

 だから、まずは食事だね」



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閑話3:もしも魔術師ヤンがクー・フーリンを召喚したら

 アーチャー、ヤン・ウェンリーが召喚に応じた理由は二つ。一つは、人類史上極めて珍しい、平和で豊かな時代を見ること。もう一つは、聖杯戦争に召喚された伝説の英雄に会うこと。話ができれば最高である。

 

「なのになあ……。ランサーはうん、ちょっと、その、あれだし」

 

「あんたもいい加減しつこいわね。そんなにあの武装が気に入らないわけ?」

 

「ランサーは紀元一世紀の人間だよ。イエス・キリストと同時代人だ。

 アイルランドの気候や植生から考えて、リネンの服に、

 羊毛や毛皮のマントを纏っているだろう。そして、革鎧で武装してる。

 で、伝説によるなら、百の金のブローチで身を飾ってたんだ。

 そっちで出てきてほしかったんだよ」

 

 凛はその姿を想像した。

 

「なんか、随分雅やかな格好じゃない」

 

 たしかにあれだけの美形なら、そちらだって似合いそうだけれど。

 

「そうだよ。彼はアルスター王の甥。

 母は王の妹で、父は光の神ルー。貴種中の貴種さ。

 光の御子って呼ばれたのは、生まれもさることながら、非常に美男子だったんだ。

 少年の頃は、美少女と見まがうようなね。

 おまけに原初のルーンの使い手で、当時有数の文化人だよ。恐らくは」

 

「えっ……」

 

 それは、世間では貴公子と言わないか。

 

「うそ、それにしちゃずいぶんガラが悪いわ。

 夜の街でティッシュとか配ってそうな口調だったじゃない」 

 

 マスターの具体的な描写に、黒い頭が項垂れた。

 

「マスターのイメージによって、『座』からのコピー像に差でも出るのかな……」

 

「何が言いたいのよ?」

 

「私は未来の存在だから、当然君は私を知らない。

 そのせいか、若返った以外はだいたい生前どおりだと思う」

 

「ランサーは違うってわけね」

 

 項垂れたままの頭が、さらに下がった。

 

「うん。なんというか、勇猛で、かつ気さくで、

 皆に慕われるような戦士だったというのを、

 デフォルメしたような感じなんだよなあ」

 

「じゃあ、あんたみたいな夢見がちなマスターが召喚すれば、

 そういう姿だったのかもしれないわね」

 

「タイムトリップした幽霊なんて、元からファンタジーなんだから、

 夢ぐらい見させてくれたっていいじゃないか!」

 

「アーチャーは、どんなのが理想だったのよ」

 

 黒い瞳が虚空を見つめ、ややあってからヤン・ウェンリー版ランサー クー・フーリンがすらすらと語られた。いつもは眠そうな目に、星の輝きを浮かべながら。

 

「服装はさっき言ったように白いリネンのローブと毛皮のマント。

 ケルトの女性は、裁縫上手が美女の条件だったから、凝った刺繍入りで。

 彼の奥さんは、大変な美人だったそうだから、当然できると思うんだ。

 そして、ルーン文字やケルト文様の金のブローチは外せないなあ。

 アイルランド系の美男子ならば、白皙に黒髪碧眼が望ましい。

 で、勇猛かつ頭脳は明晰なんだ。

 そして身分にも関わらず騎士団に入り、皆に慕われる勇者。

 美と智と勇に人望をも兼ね備えた存在なんだよ」

 

 凛は開いた口が塞がらなかった。夢見がちではなく、夢見過ぎだ。

 

「あ、あんた……それは理想が高すぎよ! いくらなんでも盛りすぎだわ。

 それで理想と違うなんて言われても、ランサーだってかわいそうよ!」

 

「やぁ、だってそういう伝説なんだから、理想の丈をぶつけてもいいだろう?

 人の想像が英雄を形作るんだし、やればいけると思うんだよ。

 この聖杯戦争って、そういうシステムじゃないのかい?」

 

「え、システムって、何が言いたいわけ?」

 

「理想の英雄を召喚するために、触媒を探して、

 事績を調べ、最良のイメージで召喚するんじゃないのかい?」

 

 そういうのってありなのだろうか。しかし、人の信仰が作り上げた英雄は、実在架空に関わらず、英霊の座に存在するという。英霊の定義を思い起こした凛は、口元に手をやって首を捻る。

 

「ってことは、ありと言えばありなのかしら。

 でも、サーヴァントは英霊の一部をコピーしたものだから、

 座の本体とは確かに違うのかもね。最盛期の肉体になるんだし」

 

「槍兵というのは、なり手が限られるクラスだと思う。

 欧州や中近東の槍の名手は、案外少ないんだ。

 時代が下がると、馬上槍の試合が主流になって、ライダーになってしまう」

 

「でも、槍の名手がいなくなるわけじゃないでしょ?」

 

「宝具の問題だよ。槍でなく、愛馬や馬術のほうが有名になるわけだ。

 この聖杯戦争には神様は呼べない。欧州の神の武器には槍が多いんだがね。

 日本なら、蜻蛉切の本多忠勝なんかがいるのに」

 

「ああ、そういう見方があるのね。で、それとランサーとどういう関係があるのよ」

 

「それに加えて、敏捷性に富んだ白兵戦の名手なんて条件を付されている。

 これは該当者を絞り、御三家が対策を取りやすくするためじゃないかな。

 外来者に三騎士を取られた時のために。だから三騎士ってのが罠だと思うわけだ」

 

「じゃあ、ランサーのマスターは、外来の参加者?」 

 

 アーチャーは頷いた。

 

「だと思うよ。しかしランサーは、実はセイバーより有利なクラスだ。

 最速であり、白兵戦の名手で、対魔力はセイバーに次いで高い。

 ランサーの敏捷性なら、魔術師がちんたら魔術を行使する間に、一突きで殺せる。

 普通なら剣よりもリーチが長いしね」

 

 剣道三倍段というのは、素手が剣に対してではなく、槍に剣が対する場合のものだ。

武器の長さを、技量で補うのは非常に難しい。最強なのは飛び道具で、日本では武士といえば弓だった。海道一の弓取りなどと言うように。

 

「セイバーの剣が見えていれば、あの一戦で負けていた。

 様子見もあって、手加減していたんだろう」

 

 断言するアーチャーに、凛は首を傾げた。

 

「私には互角に見えたけど」

 

「凛、こいつは算数の問題だ。

 身長百五十センチ半ばの彼女が、一メートル弱の剣を握る。

 相手は、二メートルの槍を持つ、百八十センチ後半の男性。

 さて、攻撃範囲が広いのはどっちかな?」

 

「あっ……」

 

「そして、素早さでは彼に分がある。まともに当たれば大変な強敵だった。

 ゲッシュとバーサーカーのお陰さ。これが戦術より戦略ってわけだよ」

 

 淡々とした戦況の分析に、否応なく思い知らされる。彼も戦いに生きた人間だったのだと。

 

「じゃあ、ランサーはなんで一人で偵察していたのかしらね?」

 

「さあ、なんでかはわからないがね。

 ランサーは安定した戦力を発揮できるが、対象者が限られるのが最大の弱みだ。

 もっとも真名を秘さなくてはならないんだよ。

 例えばギリシャ神話のアキウレスも、ランサーとなりうる英雄だからね。

 そのためにもマスターが同行し、カバーする必要がある。

 最速という条件ひとつで、マスターを狙いやすくする仕掛けもできるのさ」

 

 凛は、従者の言に上腕をさすった。暖房が効いているのに寒気がする。

身許が割れると、誓約を持つケルトの大英雄は、奸智に優る奴にひどい目に遭わされるのだ。生前と同じく。なんて、気の毒……。幸運の低さも納得だ。

 

「それも見せ札だとあんたが言う理由ね」

 

「もっとも、最速による一撃必殺を最大限に運用すればいいだけさ。

 本来は、不利と言えないほど彼は強い。

 槍兵の対象者の中では、最高クラスの英雄だと思う。

 おまけに彼は騎士の一員だ。仕えることへの抵抗も少ないだろう。

 それだけの人選をして、二千年前の人間の触媒を入手する。大変なことだよ」

 

「あなたのお父さんの形見の壺みたいな金額になるでしょうね」

 

 四百年前の壺が、今は数百万。彼の時代だと億単位。二千年前のクー・フーリンの物ならば、その価格になっても不思議はない。

 

「そういう物の準備は自腹だよね? 金なりコネなりが必要だよ。

 ぶらりと入った骨董品屋で、即座に見つかるものじゃない」

 

「言えてるわね。しかも、今回は急な開催だったのよ。

 きっと、時計塔からの参加者がマスターでしょうね」

 

「早く連絡がつけばいいんだけどなあ。

 停戦に応じてくれるかどうか、そいつが問題だがね」

 

 ヤンと凛は同時に溜息をついた。気さくな好漢のランサーが、あんなに嫌がっているマスターだ。停戦に賛同する可能性は高くなさそうである。

 

「ともあれ、伝説によれば、彼はキャスターや

 ライダーとしても適性がありそうなんだ。

 でも、彼のマスターは、クー・フーリンを槍兵として召喚すべく

 儀式を行ったのだろう」

 

 原初の十八のルーンの使い手だが、戦車での戦いも有名なのだ。愛馬は、灰色のマッハと漆黒のセイングレイド。アーチャーはそう補足した。

 

「へえ、さすがにアーチャーの時代まで語られるだけのことはあるわね」

 

「しかし一番有名なのは、必ず心臓を貫くという雷の槍だ。

 彼を呼べるというなら、私だってランサーのクラスで呼ぶよ。

 理想の限りを込めて、あの恥ずかしい呪文だって頑張って唱えるさ」

 

「あんた、言ってはならない事を言ったわね」

 

 サーヴァントを召喚するという高揚感の中では麻痺していたが、その対象に指摘されると赤面ものだった。呪文一つにも、戦争開始から二百年の時代差があるわけだ。当時は貴人への挨拶に、麗々しい口上を述べていたから、ご先祖にとっては正しかった。

 

 しかし、現代人の凛、そして未来人のヤンの感覚からすると……。

 

「将来的には君の子どもに発生する問題だけどなあ。

 あと六十年後なら、四、五十代のおじさん、おばさんが唱えるんだが」

 

「うっ……」

 

 由々しき問題だ。それまでには何とかしようと凛は決意した。

 

「彼のマスターは、相当に戦い慣れている人物で、優れた魔術師だろう。

 だが、大いに苦労をして召喚したのに、

 彼または彼女の理想なりイメージが、ああだったのかと思うと……」

 

 言葉を切って目を逸らす。凛にも彼の落胆が理解できてきた。なんともしょっぱい気分だ。

 

「たぶん、ちゃんと触媒を使って、召喚したのよね。

 わたしがあんたを呼んだのとは違って」

 

「……触媒なしでセイバーを狙ってたって、それも随分と無謀だね。

 準備の段階、戦略レベルで既に負けてるじゃないか」

 

「悪かったわよ!

 でも、準備したら準備したで、ランサーがあれでしょう……」

 

 もしかして、彼のマスターは残念な人間なのではないか。漠然と思う弓の主従であった。



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4章 形のない宝具
20:軍略A+


修行・鍛錬によって培った洞察力。
窮地において自身の状況と敵の能力を冷静に把握し、
その場で残された活路を導き出す“戦闘論理”。
逆転の可能性がゼロではないなら、
その作戦を実行に移せるチャンスを手繰り寄せられる。




 製作者が手抜きと言った食事は、たいそう美味であった。遠坂主従は賛辞を惜しまずに、だが食べる量はそう多くなかった。アインツベルンは主とそのメイドが席につき、見慣れない料理に首を捻った。

 

「これ、フリカッセと違うのね。とってもおいしいけれど」

 

「フリカッセって何さ」

 

「いわゆるシチューだよ」

 

 黒髪の通訳に夕日色の頭が、勢いよく方向を変える。

 

「アーチャー、よく知ってるなあ」

 

「私の敵国は、ドイツに近い文化の国だったからね。

 国民はみんな、その国の言葉を習うんだ。だからわかるんだよ」

 

「うわ、そういうことかあ。

 法律に詳しいって、それもそうなのか?」

 

「まあね。私は文民統制国家の軍人だから、当然法律に従わなきゃいけない。

 昇進する度に、必ず講習でしつこく言われる」

 

「講習ねえ。それ聞くと、やっぱり公務員よね。

 でもそういうので、そんなに詳しくなるものなの?」

 

 凛の言葉に、アーチャーは眉を顰めた。

 

「私は軍事基地の司令官を務めたんだ。

 この職は法的届出の最高決裁者になり、軍法会議で裁判長をやることになる。

 事務の責任者が、そういうことに厳しい人で、勉強もさせられた。

 彼のテストにパスしなきゃ、有給は認めんとさ」

 

 一同から感嘆の声が上がった。金髪を上下動させながらカレーを食べる一名を除いて。

 

「軍人って戦ってばっかりじゃないのか」

 

「一日の戦闘のためには、それに百倍する訓練が必要なんだ。

 そのための食糧や人件費に兵器、訓練の計画に実践。

 こういったことを充分やる、それが戦略で、戦争で一番重要な点だ」

 

「それ、腹が減っては戦ができぬ、ってヤツか?」

 

「まさに至言だね。我が国の滅亡の原因の一つがそれだ」

 

 セイバーがカレーから顔を上げ、アーチャーに鋭い視線を向けた。

 

「他には何があったのです」

 

「多勢に無勢さ」

 

 今まで戦いと縁のなかった現代人たちに、アーチャーは戦略の基本を説明する。

 

「一番の必勝の策は、敵より多くの味方を揃えることだ。

 さっきのランサーとの戦闘みたいにね。

 これができれば勝ったも同然、できなければ負けるのは必然。

 そいつを敵さんにやられた。彼は戦略の天才だったんだ」

 

「……何か、俺が想像してたのと違うぞ」

 

「長い年月、敵対している国同士だったが、一回の戦闘の限界は一月ぐらいだ。

 その準備と後始末が大変なんだ。

 そのためには、国から金を出してもらわなきゃいけない。

 一番ウェイトを占めるのは、予算要求と適正な予算執行。

 とはいえ金勘定なんて私にはさっぱりで、

 優秀な事務の達人に丸投げして、だから何とかなったんだがね」

 

「だからアーチャーは物知りなのかしら」

 

 イリヤの問いに、ヤンは苦笑いを浮かべた。

 

「一番大きいのは、私の国の仕組みがこの国に近いからだよ。

 似ているから理解がしやすいんだ。これは数少ない私のいいところかな」

 

 これに反論したのは、なんとイリヤのメイド兼家庭教師だった。

 

「アーチャー様、ご謙遜をなさるものではありません。

 あなたのお陰で、お嬢様は無用な復讐をなさらなくてよくなったのです。

 私どもが考えもしない方法を教えて下さったのですから」

 

「セラ……」

 

「いいえ、これは知っている者にとっては義務ですよ。

 子どもが親の愛を求めるのは当然のことだ。

 でもイリヤ君、士郎君もまた、養子としての権利を持っているんだよ。

 だからなんとか、折り合いをつける方法を考えてほしいのさ。

 非常に難しいことは、よく分かっているけどね」

 

 凛は小さく息を吐いた。

 

「なるほどね、アーチャーの『中立中庸』ってこういうわけね。

 人それぞれに立場と言い分があるってこと?」

 

 ヤンは小首を傾げた。

 

「そうかもしれないね。なにしろ長い戦争をしていた国に生まれたんだ。

 それぞれに言い分があるし、理があるってことを、私はよく知ってる。

 自分の意見を他人に理解してもらうのが、いかに難しいかもよくわかる。 

 ただ、努力しても駄目なものは駄目なんだよなあ」

 

 赤い色の潔癖そうな眉が、上向きに角度を変えた。

 

「俺は、そんなことないと思う。

 努力すれば、きっとできるようになるって」

 

 優しげな黒い眉は、下向きに角度を変えた。

 

「そう思えるのが平和の尊さなんだね。本当に羨ましい」

 

「なんでさ」

 

「戦闘中に努力しない兵士がいると思うかい?

 それで戦死を逃れられるなら、みんな戦場から帰ることができる」

 

 発言者を除くすべての者が息を呑んだ。

 

「こんな話はここまでにしようか。すまなかったね」

 

 遠坂凛のサーヴァントは、平凡な青年の姿をしている。新都のデパートにでも行けば、周囲に紛れてわからなくなるほど日本人に近い容貌だ。しかし、たしかに戦争の中で生まれ育ち、死んだ存在なのだ。現代人は骨の髄まで思い知らされた。

 

 セイバーも悟らざるを得なかった。この頼りなげで、ステータスも軒並み低いアーチャーは、『カリスマA』を持つにふさわしい一軍の将であったろうことを。これほど真摯に、兵士の死を惜しみ、人の心を理解し、理解させようと努める存在だ。さぞや部下に慕われたことだろう。セイバーは思わず問うた。

 

「アーチャー、それでもあなたは聞き、語ろうとするのですか。

 限界があると承知していながら」

 

「人間には他に方法がないと私は思うんだ」

 

 そう言ったアーチャーは、静謐な笑みを浮かべていた。

 

「不完全ではあるけれど、心をわかってもらうには、言葉をもってするしかない。

 たしかに、言葉では伝わらないものもある。

 でもそれは、言葉を尽くしてからのことだと思うんだ」

 

「アーチャー……」

 

 それ以上言葉がでてこないセイバーに、アーチャーは苦笑いしながら黒髪をかきまわした。

 

「しかし、三回ぐらい言っても、駄目だと駄目なんだよなあ。

 それにね、万人に賛同されるなんてありえないんだ。

 半分が味方になったら大したものだ、ぐらいに思ったほうがいいよ。

 選挙なら勝てる」

 

「あんたね、今ちょっと感動したのに、

 すぐさまぶち壊すようなこと言わないで」

 

 抗議する凛に対して、セイバーは無言で考えこんだ。生前のこと、前回の聖杯戦争のマスターのこと。すべて意志の疎通を欠いていたからではないのか。自分はまだ、衛宮士郎に真実の名を告げることはできないでいる。

 

「でも、これもまた私個人の考えだからね。

 もっとも、死んでからではあんまり意味がないか。

 だが、その死人が行う聖杯戦争に呼ばれてしまった以上、

 私は生きている人間の保護を最優先したい」

 

「戦わないと、そういうことですか」

 

 緊迫しかけた空気におろおろする琥珀に、翡翠の矢が直撃した。思わず目を泳がせると、今度は二対のルビーの矢が。もう一対はセイバーを無表情に見ている。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ、セイバーにアーチャー。

 夕飯の片付けが終わってからにしてくれよ。

 お茶も淹れ直したいしさ! なっ」

 

「じゃあ、私がやる」

 

「ありがとう、リズ」

 

「うん」

 

「『うん』ではなくて『はい』と言いなさい。

 では、わたくしも」

 

 二人のメイドが立ち上がろうとし、一方をアーチャーが制した。

 

「すみません、セラさん。あなたはイリヤ君の家庭教師だと伺いました。

 そして、魔術の師だとも。あなたも魔術師ということですか?」

 

「はい、それがなにか?」

 

「あなたにも同席していただきたいんです。

 できるだけ多くの知識がほしい。家門によって魔術が異なるならなおのことです。

 私は、魔術にはまったく縁のない時代に生きていましたから。お願いします」

 

「それでは僭越ながら」

 

 リズが片付けを始め、アーチャーも資料をごそごそとテーブルに並べ出した。冬木市の地図が二種類に、郷土史の本。遠坂家の戸籍が一式と英語らしき文章の綴られた紙の束。レポート用紙と筆記用具は凛の前へ。

 

「じゃあ、凛には書記をお願いしたい」

 

「え?」

 

「きちんと記録をとり、文書に残した方がいいんだ。

 もしかしたら、第六次の基礎資料となるかも知れないんだからね」

 

 そう前置きすると、ヤンはこの聖杯戦争の概略をかいつまんで説明した。二百年前に始まり、およそ六十年周期で開催され、今回が五回目であること。遠坂家が霊脈、アインツベルンが術式、マキリが令呪のシステムを提供している。

 

 ゆえに始まりの御三家と称され、優先的に令呪が発現し、特典もある。サーヴァントが敗退すると、マスターからは残った令呪が消失する。しかし、御三家のマスターの令呪は異なる。サーヴァントを失っても令呪は残り、主を失ったサーヴァントと再契約が可能である。

 

「ゆえに、御三家のマスターはより狙われやすい。敗者復活の権利があるからだ。

 だから、本当に勝ちたいんなら、三者が連携して戦えばいいんだよ。

 自分たちの手下の魔術師で残る枠を埋め、願いを叶える順番も決めておけばいい。

 極論するなら、アインツベルンが願いを叶えたら、

 みんなに第三魔法を使うと約束すれば、諸手を挙げて協力してくれる。

 戦う必要もないんだ。令呪を使えばそれで済む」

 

 婉曲な表現なので士郎は聞き流したが、残るマスターとセイバーの顔色が白っぽくなった。不老不死が対価ならば、マスターだって八百長上等だろう。サーヴァントを六騎集めて、令呪で自殺させればいいということだ。

 

 そんなことを言われたアインツベルンのマスターが、抗議の声を上げた。

 

「でもアーチャー、これは魔術師としての栄光なのよ!」

 

「イリヤ君もそう聞いているのかい? 凛も同じことを言ったな。

 もう一つ重要なのは、これが六十年周期で行われることだ。

 歴史学では一代は二十五年として計算する。

 つまり、本来なら第五次はあと五十年後、君たちに孫が生まれ成人した頃に、

 君たちの子どもが挑むことになる」

 

 歴史マニアを除いた面々は、色とりどりの頭を傾げた。発言者と同じ色の髪の持ち主が、紙面にペンを走らせながら問う。

 

「それがどうしたのよ」

 

「単に霊脈とやらの、エネルギーの問題ばかりじゃないと思うんだ。

 魔術は一子相伝。これを守るなら、二代ぶんの間隔を空けないと後継者を残せない。

 遠坂家が直面している問題が発生する。つまり、君が死ねば遠坂に次はない」

 

 細い指先から、ペンが転がり落ちた。

 

「アーチャー、なんてこと言うのよっ」

 

「そして、君の父上もそれは当然考慮するはずだ。

 自分が死ねば、まだ小さな娘と何も知らない妻が遺されてしまうと。

 つまり、彼は死ぬつもりなどなかった。

 いや、そういう取り決めがあった可能性すらある。

 第三次の遠坂の参加者と思われる、凛の曽祖父は生還している。

 でないと、養子に出ている大叔父たちが生まれないからだ」

 

 士郎は首を傾げた。

 

「でも、なんでさ。遠坂のお祖父さんが跡継ぎなんだろ?

 なんの関係があるんだよ」

 

「そ、そうよ」

 

「こんなに出産や育児が安全になったのは、日本でも昭和四十年代以降だよ。

 凛の曽祖母のきょうだいは、七人のうち成人したのが四人、

 三十歳以上になれたのは二人しかいない」

 

「う……、マ、マジに?」

 

「とにかくそれだけ、感染症が恐ろしいものだったんだ。妊娠出産も命がけだった。

 凛の曽祖母の実家でいうと、兄嫁はそれで亡くなったと思われる。

 それを潜り抜けても、昭和三十年代まで人生は五十年だったのさ」

 

 平均寿命八十年の時代の高校生二人にとって、想像しがたい五十年前の日本の姿だった。

 

「アーチャー、なんであんたそんなこと知ってるの!?」

 

「一昨日図書館に行った時、司書さんに日本の明治以降の人口動態の

 ダイジェストを作ってもらったんだ」

 

 面倒なことはさっさと他人を頼るヤンだ。コピーをしている間に、そっちも頼んでおいたのだった。こちらは、千六百年後も廃れていない図書館のサービスで、素人歴史マニアはお世話になったものである。

 

「それが劇的に変わるのが昭和四十年代、高度経済成長と第二次ベビーブームだ。

 平和が続いて経済が発展し、栄養状態と公衆衛生が著しく向上した。

 医学の発達のおかげもあるが、前者の影響がずっと大きい。

 それより前の時代に、一人っ子を設けたからよし、なんて言っていられないよ。

 とにかく無事に育ってくれなきゃ、素質に応じて跡継ぎを選ぶこともできない」

 

「その発想はなかったわ……」

 

「子どもの素質なんて、赤ん坊の頃にわかるわけないじゃないか。

 せめて、物心つくぐらいまでは待たないといけないだろう。

 魔力の有無もそうだが、研究者なら聡明な頭脳の持ち主が望ましいはずだ」

 

「ええ、それはそうだけど……でも、なぜそれが問題なのよ」

 

「さっき言ったように、二十歳までに七人中三人が亡くなっているってことだよ。

 これは人類史上、長らく至難の技だった」

 

 白銀の頭が可愛らしく傾げられた。

 

「ねえ、アーチャーはなにをいいたいの?」

 

「ほんの六十年前までは、生まれた子どもが成人できるかどうか半々だった。

 出産が女性の死因の上位を占めていた。

 平均寿命が五十歳の時代、明治から昭和初期の五十年に、戦争が三回もあった」

 

 高校生二人の喉が鳴った。

 

「こんな状況で、一人っ子にすべてを賭け、

 本気で戦うような危険な真似はできないよ。

 聖杯戦争を続けていくならばね」

 

 凛は頭がくらくらしてきた。歴史上の社会や技術の発展を考察し、広く事象を把握する。高校生に追い付ける思考法ではない。衛宮主従は完全に表情が漂白されていた。イリヤとセラは、食い入るようにアーチャーを見つめている。

 

「もう一つ。日本の民法は、戦前と戦後で大きく変更されている。

 戦前は、相続権があるのは長男のみだ。

 最初に生まれた娘が優れた魔術師でも、彼女には遠坂家を継げない」

 

「じゃ、じゃあ、遠坂みたいな子はどうしてたのさ?」

 

「一人っ子なら婿養子を取り、婿が跡取りになる。

 弟が生まれたら、彼が遠坂家の跡取りだ。

 子どもを複数もうけておいて、素質に応じてなんとか算段する方が確実だ。

 こういう社会だと、子どもが成人してすぐに親の寿命がくる。

 凛の父方の祖父母がそうなんだ。違うかい、凛?」

 

 アーチャーの言葉に、凛は不承不承に頷いた。彼女が生まれる前に、父方の祖父は亡くなっている。祖母は時臣の少年時代に没している。二人の顔を、凛は直接には見ていなかった。

 

「そして、一子相伝の縛りのせいで、傍系の援助を期待できない。

 これでは余計に、小さな娘を残して死ぬわけにはいかない。

 遠坂時臣氏にとっては、サーヴァントを戦わせ、自身は籠城するのが最適な戦術だ。

 ならば、必ず単独行動スキルが付与されるクラスを選ぶ。

 凛の父が選んだのは、アーチャーだと私は予想する。

 それもとても強い英雄を選んだことだろう。彼には準備時間も資金も充分にあった」

 

 セイバーが我に返った。

 

「あの、黄金のサーヴァントが!」

 

「なるほど、君と優勝を争った相手だね。また後で教えてくれないか」

 

「わかりました」

 

「さて、こうやって死ぬ気のない人の相手が、

 『魔術師殺し』という異名を持つ傭兵だったらどうするだろうか」

 

「じゃあ、まさかじいさんが……」

 

「いや、セイバーはマスターなしでは戦えないが、

 アーチャーはそうじゃない。ゆえに、余計に籠城するだろう。

 こうなると一番あやしいのが、サーヴァントとの主従関係。

 このへんが鍵なのではないか」

 

 凛は眉を寄せた。同じ時代の同じ学校の同級生とだって、人付き合いは難しい。まして、時代も地位も常識も全て異なる英雄と、父がうまくやれただろうか。生粋の魔術師で、優雅で貴族的な、だがうっかり屋の父と。

 

「たしかに、あの黄金のサーヴァントは傲慢この上ない男でした」

 

 セイバーの証言を聞くと悲観的にならざるを得ない。翡翠の色を黒ずませる凛を見て、士郎は眉間に皺を寄せて呟いた。

 

「セイバーが言うんなら、相当なもんだろうなあ」

 

「……シロウ、どういう意味ですか」

 

 まさに、口は災いの元。冷や汗をかいた士郎に、穏やかな声がかかった。

 

「ええと、続けてもいいかな」

 

「あ、ああ、頼む」

 

 アーチャーから送られたのは労わりの眼差しで、ほろりとする士郎である。『男は辛いね』と語りかけるかのようだった。

 

「単独行動スキルのレベルにもよるが、

 アーチャーならば遠坂時臣氏が死亡しても、主を探す余裕がある。

 飛び立ったふ、っと飛行機で、目的地まで飛び続ける必要はない」

 

 開戦時と終幕では、主従の組み合わせに変動が生じているかもしれない。理論的にはありとされているが、にわかには想像できないことだ。

 

「でも、御三家以外のマスターは、敗退により令呪が喪失するのよ」

 

「しかし、主を失ったサーヴァントの出現により、

 一度脱落したマスターに、令呪が再配分される仕組みもあるそうじゃないか。

 せっかく呼んだサーヴァントを、死ぬまで戦わせようとしているみたいだ。

 いかがわしいし、疑わしいね。令呪一つ取っても、真っ当な代物じゃなさそうだ」

 

 凛は、アーチャーの言葉を記すと、隣に赤で疑問符を書いた。

 

「さて、ここまででほとんど言及されていない、最後の御三家がある。

 令呪を開発したマキリ。前回と今回の参加は今のところ不明。

 だが、語られず表に出ないからこそ、重大な秘密を握っているのではないだろうか」

 

「でも今、あの家には戦争に参加できる魔術師はいないはずよ!」

 

「では凛、魔術師って何だろう」

 

 ここに集った魔術師達は、顔を見合わせた。

 

「世界の根源に至り、魔法を目指す者よ」

 

 凛の言葉に、おさまりのわるい黒髪が左右に振られた。

 

「いや、私が言っているのは魔術師である条件さ。

 魔術回路を持つ者。その点ならば、マキリには三名も該当者がいる。

 さっき言ったように、飛び立った飛行機で」

 

「飛び続ける必要はない……。って、アーチャー、あんたまさか」

 

「召喚した者と使役する者が一緒である必要はない。

 サーヴァントを従える令呪の製作者で、御三家の特権を作れるような技術がある。

 自分に便宜を図る、ズルをしないほうが不自然だ」

 

 穏やかな口調で、平然と悪どいことを言うヤン・ウェンリーだった。

 

「なんですって!?」

 

「戦争というか軍事ってものはね、手段があるならやらないほうが馬鹿、

 ひっかかるほうがマヌケ、そういう世界だよ」

 

 士郎が眼差しを鋭くした。

 

「……卑怯だ。そんなの正義なんかじゃない!」

 

「ああそうだ。戦争はおしなべて卑怯で醜い。

 敵より多くの兵力を整えること、敵の食糧を断つこと。

 日常では人でなしと罵られることが、戦争になると正しくなる。

 やらなければ負けるんだ。敗者が言うんだから嘘ではないよ。

 私もさんざんやって、ペテン師とも敵国に呼ばれたものだ」

 

 母音による混成合唱が沸き起こり、黒い射手は肩を竦めて髪をかき回した。

 

「みんなそろって、頷かなくてもいいじゃないか。

 戦争はいつの時代でも、経済や国家の権益と密接に結びついている。

 バーサーカーのような英雄は、もう出現しないかも知れない。

 だからこそ、不朽の英雄譚として語られているのだろう。

 何千年もの間、夢と憧れの存在として」

 

 と、これは歴史マニアらしく言葉を結ぶ。そんなフォローをしても、発言内容を漂白するなど不可能だが。

 

「じゃあ、アーチャーはマキリが参加してるって言うのか?」

 

「可能性は高いし、戦争が開始した今となっては、

 いずれにせよ呼びかけすべき相手だ。

 教会にもはっきりと所在が知れているからね」

 

「冬木って、遠坂のほかにも魔術師の家があったんだな。

 マキリなんて聞いたことないけど」

 

「恐らく、帰化したのだろうね。

 今は同音の漢字を読み方を変えて当てている。『間桐』と」



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21:無限の知性―Unlimited Brain Works―

「冬木って、遠坂のほかにも魔術師の家があったんだな。

 マキリなんて聞いたことないけど」

 

「恐らく、帰化したのだろうね。

 今は同音の漢字を読み方を変えて当てている。『間桐』と」

 

 アーチャーの言葉は、爆弾を投げ入れたかのような作用をもたらした。大きな目を更に見開いた士郎が腰を浮かせる。

 

「嘘だろ! 桜と慎二が!?」

 

「アーチャー! なんで言ったの!」

 

 凛は青ざめて従者に詰め寄った。投げ捨てられたペンが畳を転がる。

 

「さもなくば士郎君が危険だからだ。あるいは凛、君の妹さんも」

   

 思わず掴みかかった凛の手は空を切った。霊体化したアーチャーが、凛の対面に座していた衛宮主従の背後に出現する。セイバーの背後の左側、凛の魔術がキャンセルされ、セイバーが咄嗟に反撃できない位置に。

 

 凛は従者の小賢しさに舌打ちし、残る二人の少女たちは、アーチャーの真の脅威を初めて目の当たりにした。

 

 霊体化できる、高い知性を持つ平均的な体格の持ち主。常人の十倍の膂力と敏捷性、劣るとはいえ射撃と格闘の技能も有している。これらを複合的に運用すれば、最優のセイバーにも、最強のバーサーカーにもできない攻撃が可能ということだった。

 

 自分のマスターを安全圏において、室内に戦場を限定する。単独行動スキルを持つ彼ならば可能。そして敵のマスターを狙えば、サーヴァントと矛を交える必要すらない。アーチャーというよりはアサシンの戦法だが、手段があるのにやらないのは馬鹿と言い切る者に、こだわりなどないだろう。人を殺すという結果は同じなのだから。

 

 バーサーカーは反撃するまえに消滅するだろう。セイバーも同様だ。タイムリミットが多少異なるだけだ。今朝方の警告は、決してはったりなどではなかったのだ。

 

「遠坂の妹……? 遠坂は一人っ子じゃないのか」

 

「さにあらず、さ」

 

 セイバーの背後から、手を伸ばして遠坂家の戸籍一式を取り上げる。

 

「戸籍は語る。見てごらん、士郎君。

 これは現在の戸籍。今は亡くなった時臣氏と凛の名しか乗っていない。

 しかし、これは約八年前に法律の改正で作り直されたものだ。

 その前のものがこっちだよ。凛は四人家族だった。父は時臣、母は葵、

 長女は凛、二女は桜」

 

「遠坂以外みんなバツがついてる……」

 

「そう。ご両親は死亡により除籍、妹は間桐家へ養女に行って除籍したんだ」

 

 士郎は思わず立ち上がった。自分より頭半分背の高いアーチャーの肩を掴む。その手は空を切ることなく、生身の人間と全く変わらない感触と体温を伝えてくる。

 

「嘘だろ、なあ、嘘だろ!? 遠坂と桜が姉妹だなんて!」

 

「本当だよ。こういった届出に、虚偽を行うのは大変難しい。

 法律をきちんと守ったほうが遥かに楽だ。

 養子縁組そのものは犯罪でもなんでもない。非常に不自然だがね。

 私は、聖杯戦争を控えた時臣氏の安全対策と見ているんだよ」

 

 黒い揚羽蝶も、勢いよく上昇した。

 

「なんですって!?」

 

「桜君が養女になった時期には、実のご両親は健在だった。

 しかし、縁組したのは養父のみ。

 母のいない家庭に行くなんて、実父母と養父の強い希望と誠意がなければ、

 まず家庭裁判所が許してくれないよ。そんなに法曹は甘くはない。

 一般人には一生のことでも、彼らには毎日の仕事だ。

 不審があれば、すぐに見抜かれるさ」

 

「そんなの、魔術で誤魔化すことだって……」

 

 凛の反論にアーチャーは首を振る。

 

「裁判所はまだしも、市役所への届け出はそうはいかないよ。

 あんなに混雑した窓口で、秘匿すべき魔術ができるのかい?」

 

「あっ……」

 

 先日、戸籍を取りに行った時、平日の午前中にも関わらず、市民課の窓口は混雑していた。いや、当然だ。市役所は平日の日中にしかやっていない。

 

「複数の第三者が見ても、問題のない形で手続きをしているはずだよ。

 何度も言うが、その方が楽なのさ。

 間桐家も協力して、円満に養女に行ったと判断していいだろう。

 いわば桜君が結んだ親族関係になる。

 そうそう殺し合いなどできるものじゃない」

 

「間桐は、そんなに甘い家じゃないのよ!」

 

「だが、養父や実父母が無事なら、いつでも養子離縁は可能だよ。

 今の桜君や士郎君だって、やろうと思えばできるがね」

 

「ええっ!?」

 

 凛と士郎は揃って声をあげ、アーチャーに顔を向けた。

 

「娘を預けるほど信用しています。戦争ではよろしくお願いします。

 そして、万が一の場合には、娘を頼みますとね。

 生還すれば、いつだって手元に取り返せる」

 

「本当なの、アーチャー?」

 

「もちろんだよ。養子離縁という手続きがちゃんとある。

 婚姻、離婚と同じでね、セットになっているんだ。

 だって、婿養子が離婚したときとか困るじゃないか」

 

 士郎は思わず咳き込んだ。

 

「む、婿養子ぃ!?」

 

「再婚相手の子供を養子にして、でもまた離婚するときとか」

 

 昨晩の怪我とは違う意味で、生々しい事情が語られた。

 

「あ、そ、そうなの」

 

「凛が利用することがないように祈るよ」

 

「うっさい!」

 

 真っ赤になって拳を振り上げる遠坂凛は、学校でのクールビューティーではなかった。イリヤは軽やかな笑いを立て、セイバーは表情の選択に迷っている。

 

 士郎は赤くなりながら、凛からの死角になる位置で、アーチャーに親指を立てて見せた。グッジョブ! と。本音を言って地を出す姿はたしかにいい。とっても可愛いじゃないか。

 

 アーチャーは同意を込めて微かに頷き、続きを話すことにした。

 

「人質とも言えるが、そういう形では楯にされないという、

 時臣氏なりの計算があったとも考えられるんだよ。

 目の届く所で見守りたいという親心もあったんではないか。

 自分が戦いに優勝すれば、子どもが戦争に参加する必要はなくなる。

 優勝しなくても、生還すれば六十年もの猶予がある。

 その時までに、間桐と協力体制を整えればいい。

 これはね、イリヤ君のお父さんも同じじゃないかと思うんだ。

 ただ、計算違いってのはよくある話なんだがね」

 

「キリツグも、そう思ったのかな……」

 

 ルビーの瞳を潤ませる銀髪の少女の傍で、頬を押さえて翡翠の瞳を彷徨わせる黒髪の少女。

 

「うっ……どうしよう、否定できない。お父さまならありうる……」

 

 遠坂の遺伝子に組み込まれているのではないか、といううっかりの呪い。ここぞという時に必ず発動して失敗するのだ。父もそうだった。無論、自分も。

 

 なにせ、来たのがこのサーヴァント。参謀としては最高だが、戦士としては最弱で、中身は食えないおっさんの。がっくりと畳に手をつく凛に士郎は焦った。

 

「と、遠坂、その大丈夫か? でも俺、信じられない」

 

「気持ちはわかるが、凛と桜君が実の姉妹であり、

 間桐家は魔術師の家門で、桜君がそこの養女というのは事実だ。

 これを念頭においてくれ」

 

「う、わかった」

 

「そして、私の推論はこうだ。御三家といってもその立場は対等ではない。

 術式を作ったアインツベルン、令呪を開発したマキリ。

 彼らは聖杯戦争という『儀式』の根幹に関わっている。

 一方、遠坂は霊脈の管理と提供だ。

 だがこれは地主と一緒で、遠坂でなくてもいい」

 

 俯いていた顔が勢いよくあがり、翡翠の錐が漆黒にねじ込まれる。

 

「……なんですって、もう一度言ってごらんなさい」

 

「アインツベルン、間桐と違って、遠坂は替えがきく存在だ。

 『儀式』にとってはね。

 彼らには、冬木でない霊地を選ぶことだってできた」

 

「そんな霊地、日本にいくつもないわよ!」

 

 アーチャーは眉を上げた。

 

「では、日本以外だっていいじゃないか」

 

 一言でマスターを沈黙させると、彼は続けた。

 

「だから、遠坂家の立場は、他の二者のいいように歪められていた可能性もある」

 

 緊迫した黒髪の主従に、白銀の髪の少女が声を掛けた。

 

「ねえ、どうしてアーチャーはそう思ったの?」

 

「二百年前というと、日本はまだ鎖国中だ。

 一方、欧州の国家は自国外に進出し、植民地政策を盛んに行っていた。

 彼らからすると、こんな極東の小国の、

 言葉や肌の色が異なる未開人は同格の相手じゃない。

 アインツベルンはドイツ、マキリはちょっとわからないが、

 少なくともアジア、アフリカ系ではない。

 白色人種と有色人種、現在だって解消していない問題だ」

 

 そして、千六百年後の未来でもだ。ゲルマン系偏重の銀河帝国と、他民族混血国家だった自由惑星同盟。ヤンは苦味を噛みしめながら、思考の刃をふるい、弁舌の剣先を突き刺す。限りなく、無限に近い知性の発露であった。

 

「そもそも、聖杯戦争に選抜されるのは欧州に中近東の英霊。つまり白色人種だ。

 だが、東洋に聖杯の概念がないなんて大嘘だよ」

 

「どういうことよ。アーチャー」

 

 猫のようなアーモンドアイに、翠の炎が燃え立つ。

 

「西暦七世紀の唐、首都長安にはキリスト教徒が住んでいた。

 イスラム商人も大勢貿易に来ていた。

 絹を求め、陸路や海路で。十字軍よりも五百年以上昔のことさ」

 

 俗に言うシルクロード貿易を持ち出されて、高校生は唖然とするしかない。魔術に関する知識はあれど、そんなことは初耳のイリヤは瞳を輝かせる。

 

「大昔の中国に、ヨーロッパの人が住んでたの?」

 

「紅毛碧眼の舞姫が、夜光の杯にワインで酌をする酒場もあったそうだよ。

 なにしろ、世界一の国際都市だ。それが唐代だけで三百年も続いたんだから、

 聖杯の概念が伝わらないほうが不自然だ」

 

「でも日本はサコクしてたって、アーチャーはさっきいったでしょ」 

 

「厳密に言うと、貿易先と受入れ場所を限定していただけだがね。

 その前には、宣教師を受け入れていた時代があったんだよ。

 当代一の権力者が認めたからで、彼が知らなかったとは思えない」

 

 確信のこもった言葉だった。凛は長い睫毛を瞬かせた。

 

「それって……」

 

「織田信長だ。同時代の主だった武将が、全く知らないなんてこともありえない。

 なにしろ、彼に叛いた明智光秀の娘は細川玉だよ」

 

 いきなり知らない名前が出されて、日本の高校生達は顔を見合わせた。

 

「呼び方を変えようか。細川ガラシャ夫人。これなら聞いたことがあるんじゃないか」

 

「えっ、そうなの!?」

 

 歴史上の人物として、個々には知っていている。しかし、そんな血のつながりまでは、学校の授業では教わらない。

 

「権力体制に不都合だと、キリスト教の布教を禁じたのは徳川家康。

 不都合だと思うのは、内容を理解していたからじゃないのかな。

 彼は死後神として祀られた。永遠の生命なんて不都合だろう?

 キリシタンの弾圧と島原の乱。遠坂家も隠れキリシタンだったそうだね。

 天草四郎は殉教の英雄だ。彼なら聖杯を知っていても不思議はない。

 なのに日本人だから呼ぶことができない。おかしいとは思わないか。

 これでも差別をされていないと言えるだろうか」

 

 凛は口を両手で抑えた。イリヤの瞳にも緊張が宿る。

 

「わたしは、そんなことは聞いていないわ」

 

「不都合なことを正直に教える人間の方が少ないんだよ」

 

 こちらもまた、イリヤには思い当たることが多すぎ、唇を尖らせて黙るしかなかった。アーチャーは、座卓の誰もいない辺まで足を進めた。座り込んで、胡坐をかくと続ける。

 

「凛は、なんでそうしたんだと思うかい?」

 

「さっぱりわからないわよ!」

 

「私は、遠坂家に更なるハンデを付けたんだと思うね」

 

「ハンデって、何がハンデよ」

 

 アーチャーは、座卓に肘をつくと、手を組み合わせて顎を乗せた。

 

「触媒の入手さ。

 当時は鎖国状態だったが、欧州や中近東から遠い、

 ほぼ単一民族の島国という地理的特性は変わるもんじゃない。

 君も苦労したばかりだろう」

 

 背筋を冷たい雷撃が奔る。喉をせり上がる絶叫を、凛はどうにか飲み込んだ。

 

「もう一つ、アインツベルンは千年、間桐は五百年、一方遠坂は二百年。

 これからマイナス二百年。どうかな、凛。君と士郎君の関係にならないか?」

 

 凛は口を開きかけ、結局言葉を見つけることはできなかった。そういう考え方があるのかと。アーチャーは、不変の公式を読み上げるように、淡々と続けた。

 

「むしろ当然だろう。当時の君の家は、ぽっと出の新参者だよ。

 新兵を訓練なしで、将軍として出陣させるようなものだ」

 

 これはセイバーに対する牽制でもあった。

 

「だがなぜ、ここまでのハンデをつけたのか?」

 

 まるで、生徒に出題する教師のような口調だった。そんな授業を受けたことのない者は、教師に質問で返すしかない。

 

「それも私にはわからない。アーチャー、あなたにはわかるわけ?」

 

 またたいた黒い瞳が閉じられる。頬を左手に託すと、右手の平を凛に向けてアーチャーは語った。やれやれ、と言わんばかりの仕草だ。

 

「理由は簡単。

 最初に遠坂が願いを叶えたら、自分の土地が荒れ、

 住民に被害を及ぼす戦争を、継続させようとは思わないからだ。

 戦争なんてやらずに蓄財に励み、魔法の研鑽に努めるだろう。

 余所者なんか追っ払って」

 

 いずれにせよ、アインツベルンとマキリが勝利しないと遠坂に順番は来ない。アーチャーは、駄目押しに付け加え、溜息まじりに凛に告げた。

 

「よくもまあ、五代も騙されたまんまになってたもんだ」 

 

「な、な、なんてことーーっ!!」

 

「これはあくまで、私の推論だがね」

 

 士郎は凛が気の毒になってきた。目を逸らすと、義理のきょうだいと目が合う。

 

「そんな、いまさら取ってつけたように言われても……。なあ?」

 

「むー、説得力がありすぎるもの」

 

 おまけにアーチャーは元帥だったという。彼の部下も随分苦労したんではないだろうか。ふと、同意する空耳が聞こえたような気がしたが……。

 

「だが、三家での儀式という割に、遠坂家はあまりに知識に乏しい。

 だからこんなに困っているんだよ」

 

 遠坂の宿業、うっかり。それは、初代からの遺伝だったのか! 長い黒髪を振り乱す少女から、呆気にとられている銀髪の少女に、黒い瞳が向けられる。

 

「もっと言うなら、アインツベルンも聖杯戦争に固執しすぎではないのかな。

 これは第三魔法復活の手段であって、戦争自体が目的ではないんだろう。

 せっかく過去の英雄を呼べるなら、その道の先達に教えを請えばいいのに」

 

「え、どういうこと?」

 

 二対の真紅の瞳が互いを見つめあい、年長の方が口を開いた。

 

「それは、いったい誰だとおっしゃるのです」

 

「あなたがたのご先祖様ですよ。第三魔法だかを使えていた魔法使い。

 その人だって、歴史上五人しかいない英雄でしょうに。

 元々の聖杯戦争は、その方をキャスターで呼び出すためのもの

 だったのではないでしょうか。

 術者を呼んで、エネルギーも調達して、第三魔法を復活させる。

 これが一番手っ取り早い方法だ。

 そして不老不死であれば、大抵の望みは叶うんじゃないでしょうか」

 

 魔術師たちは眉を寄せて、黒髪の青年を凝視した。アーチャーは髪をかき混ぜながらつぶやく。

 

「いや、不老不死を得て、まだ存命だから降霊ができないのかな?

 じゃあ、世界中に尋ね人の広告を出してみたらどうでしょう。 

 そちらは資産家でいらっしゃるようですしね。

 二百年前なら不可能だったでしょうが、現代ならそれも可能でしょう」

 

 セラが眉間を抑えて俯いた。

 

「セラ、大丈夫? アーチャーにひどいこと言われたの?」

 

「い、いいえ、違いますわ、お嬢様。衝撃的なご提案でございました。

 アーチャー様、当主にもお話しさせていただきますね……」

 

 アーチャー、ヤン・ウェンリーは半眼になって続けた。

 

「是非にお伝えください。

 いくら、先祖代々時間をかけるのが魔術だとはいえ、

 二百年はいかにも長い。手段が目的化しては、事業として失敗です。

 真面目に付き合うだけ損な戦いだよ、士郎君とセイバー」

 

 琥珀色の目は大きく見開かれ、エメラルドの方は完全に動きが停止している。

 

「私たちは勝てないと、そう言いたいのですか」

 

「君は前回、アインツベルンのサーヴァントだったね。

 だから気にしなくてもよかったが、今回は違う。

 聖杯の器を用意するのもアインツベルンなんだろう?」

 

 黒い視線がルビーをとらえ、イリヤは頷いた。

 

「ええ、そうよ」

 

「士郎君達が優勝したとして、イリヤ君を欠いたり、協力を得られねば、

 聖杯の器がないから聖杯は手に入らない。

 この戦争は最初から、外来の参加者が勝てるようにはできていない」

 

 絶句するセイバー。アーチャーは黒髪をかき回した。

 

「つまり、昨日言ったような図式にしないと、

 君が勝っても、君の目的は果たせないんだよ。

 士郎君やイリヤ君と語らい、互いに理解に努め、

 君の望みに賛同してもらわなくてはいけない。

 衛宮切嗣氏に関わる者は、みんな仲良くしなさいと、こういうことかな。

 それならば、我々遠坂主従も知恵と力は貸すけどね」

 

 凛も頭が半分真っ白になった。黒髪の従者が、聖杯戦争の根本まで考察しているとは思いもしなかった。世界史に日本史、そして地理や社会学まで総動員して。交渉のために、知識が欲しいと言っていたのは、本気だったのだ。だからこそ、彼は考える時間を欲するのだろう。

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーの持つ究極の一。それは、この頭脳なのだから。 



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22:知は力なり

 呆然としている一同を見回すと、アーチャーは言葉を続ける。

 

「だが一方で、停戦が成立するまで、最大級の警戒を行わないといけない。

 桜君は遠坂と衛宮の弱点だ。

 間桐からの参加者がいるのならば、この点をこそ衝いてくる。

 凛に士郎君、間桐の名を持つ者からの接触には、充分に注意するんだ」

 

 士郎がようやく口を開いた。

 

「桜もか……?」

 

「君たちにはすまないが、彼女を候補者から除外はできない。

 養女になったところで、実の親や姉妹との法律上の縁が切れるわけじゃないんだ。

 この戦争で凛が死んだら、遠坂家の資産は桜君が継ぐことになる」

 

 陳腐なサスペンスドラマに出てきそうな、だが、紛れもない法律上の仕組みだった。

 

「義兄が十八になったら結婚し、最低二人は子どもを作るんだ。

 そして成人になったら、離婚と養子離縁をする。

 家庭裁判所の許可も必要なく、いつでも可能になるんだよ」

 

 士郎は唾を呑み込み、なんとか言葉を絞り出す。

 

「そ、それで、どうなるのさ」 

 

「遠坂桜が遠坂家の当主になり、間桐の血を引く子どもが将来の当主だ。

 もう一人の子が間桐の跡取り。婚姻による家門の乗っ取りってやつさ」

 

 間桐桜の姉と兄貴分にとって、側頭部を一撃されるような指摘だった。

 

「そうなれば、御三家とは名ばかりだ。マキリが二に、アインツベルンは一。

 今後に聖杯戦争が起きれば、よりアインツベルンの勝利は難しくなる。

 マキリが令呪を開発した家だということも、忘れてはいけないよ。

 勝者となったサーヴァントの所有権を、

 乗っ取れるようにしていないとは言い切れない」

 

 そして、アインツベルンからの参加者には、アーチャーは氷の釘を打ち込んだ。虚空の女王の心身を、二杯の紅茶で篭絡したヤン・ウェンリーにとって当然の懸念であった。サーヴァントに絶対の命令を下せる令呪は、言うなればバックドアと強制コマンドの複合体だ。

 

「絶対に乗っ取りができないことが、証明されているのかい。

 きちんと、複数の他の魔術師が検証しているのかな」

 

「え、わからないわ……。お爺さまからはなにも聞いていないもの」

 

 黒い瞳を向けられた凛も無言で首を振った。父や後見人から、そんなことなど聞いていない。

 

「よくも疑問と危機感を持たずにいられるものだ。

 参加が不明なほど消極的なのは、

 そういうことを画策しているのかもしれないじゃないか。

 ご三家のマスターの令呪が消えないというのが、

 その布石でないと断言もできないだろう」

 

「じゃあ、どうすればいいのよ……」

 

「そんなの考えるまでもないよ。

 この戦争を生き残り、様々なことを学び、幸せになればいいんだ。

 その幸せの中には、桜君の幸せも含まれるだろう。

 君たちの友人の幸せもだ。だからまずは、学校の結界の除去を優先する」

 

 穂群原高生たちは頷いた。

 

「居場所が判明している参加者には、今夜にも教会からの連絡はされるだろう。

 明日登校して、結界が消えていればそれでよし」

 

「そのマスターとサーヴァントが応じなかったらどうすんのさ」

 

「いい質問だね、士郎君。私もそんな気がするんだ。  

 私は、結界の犯人のマスターは、学校に強いこだわりを持つ者だと思う。

 遠坂凛の存在を知っているならなおのことだ。

 そして、学校に出入りしても不審に思われない者。

 生徒または教職員で、自己顕示欲が強く、他罰的な性格である可能性が高い」

 

 むくりと顔を上げた凛が目を泳がせた。同じく琥珀が彷徨いだす。

 

「わたし、ものすごく思い当たる相手がいるわ。

 この前、告白されたんだけど、思いっきりお断りしたばっかりなの……」

 

「それは奇遇だな。俺にも思い当たるヤツがいるぞ、遠坂。

 そいつさ、失恋のせいで、下級生にひどい八つ当たりしててさ。

 俺、仲裁に入って弓道場を掃除してきたんだ。昨日のことだけど」

 

 座卓を挟んで二人のマスターは顔を見合わせた。

 

「衛宮くん、誰なのよ」

 

「遠坂こそ誰なのさ」

 

「二人とも、逃避しても始まらないよ。

 桜君の義理の兄、間桐慎二君。凛が今朝、台所で心配してた子だろう」 

 

 ずばりと言われたが、間桐慎二の友人が弁護に立った。

 

「し、慎二はちょっとクセが強くって、

 ひねくれてるけど、そんなに悪いヤツじゃないんだ。

 そりゃ、桜とぎくしゃくしてたこともあったし、

 俺がケガした時に、みっともないから部活に出るなって言ったけど!」

 

「苦しい弁護ですわね、士郎様」

 

 玲瓏な声音でぽつりとセラが反論した。

 

「うぐ」

 

 アーチャーが黒髪をかき回した。

 

「確かに癖がある性格なのかもしれないね。

 怪我が治るまで安静にして、部活も休めって素直に言えばいいのに」

 

「あ、そっか、アイツのことだからそういう意味だったのか!」

 

 セラは、小さく手を打ち合わせた。

 

「なるほど、そういうことなのですか。日本語とは難しいものですわね」

 

「ええ、言い回し次第で、全く別の意味になってしまう」

 

 黒髪黒目の青年の『通訳』の巧みさに感心する家庭教師をよそに、彼女の生徒は仰天するようなことをさらりと言った。

 

「わたし、今日テレビで見たわ。ツンデレっていうんでしょ?」

 

 二人の日本人と、一人の未来人がよろめき、三人目は座卓で身を支えた。

 

「お嬢様、そんな余計なことは覚えなくても結構です。

 まったく、なんて品のない。どうなさいました、アーチャー様?」

 

「いえ、余計な知識が聖杯からやってきまして、目眩がちょっと」

 

「ちょっとアーチャー、大丈夫なの?」

 

「あ、ああ、大丈夫だよ」

 

 言えるわけもない。『ツンデレ=遠坂凛=先輩他多数』なんてイメージが降ってきたことなど。非常にわかりやすい喩えではあったが、正直いらなかった。

 

「と、とにかく、学校の結界。これは我々も陽動作戦としよう。

 犯人を炙り出すために、凛と士郎君の二人で協力して、

 残りの呪刻を調査し、妨害工作を行うんだ」

 

「でも、あの結界、そんなことじゃ解除できないわよ」

 

 凛の指摘に、アーチャーは首を振る。

 

「発動を先延ばしし、二週間弱を稼げれば我々の勝ちだよ」

 

「うう、まだるっこしいわね!」

 

「それが一番いいんだが、相手も同じように考えるだろうさ。

 この犯人のマスター、短気で我慢も足りない性格だと思うんだよね」

 

 士郎は冷や汗が出てきた。

 

「なあ、アーチャー。あいつに会ったことあんのか……?」

 

「ないけれど、こういう行動には為人(ひととなり)が現れるものなんだ。

 学校の広い敷地に呪刻を設置するって、一人でやるには大変だと思わないか?

 ええと、あれはどこだっけな」

 

 そう言うと、座卓に並べた資料をかき回し、学校のパンフレットを拡大でカラーコピーしたものを人数分配り始めた。凛がコンビニに寄った理由である。彼女が笑顔で店員に頼んだら、快く操作をしてくれた。千六百年後の格言は真理だと、霊体化したアーチャーは唸ったものだ。

 

「昨日調べたかぎりだが、見取図の赤丸が呪刻の位置。

 そいつを校舎の写真にもマークしてある。

 写真の赤線は、実際に見つけた呪刻をつないだものだ。

 青丸と青線は、こいつが線対照の図形と仮定した場合の、

 呪刻の予想位置と予想図の残り。仮定と予想の多い代物で申し訳ないが」

 

 話し合いは、完全に軍事作戦の様相を呈してきた。

 

「……あのさ、遠坂。聖杯戦争って、魔術の儀式なんだよな?」

 

「しょうがないでしょ、アーチャーは軍人よ。

 こういうことやって、給料もらってたって言うんだから、

 できることをやってもらうしかないじゃない」

 

 地図や写真を駆使して、理論的に魔法陣を予想する。ある意味すごい。解析の魔術が得意で、ガラクタいじりの好きな士郎には燃えてくるものがある。

 

「アーチャー、どうやるんだ、これ。カッコいいなあ!」

 

「作戦参謀は、地図を元にいろいろな作戦を立てるからね。

 平面図を元に、立体図をイメージするのは慣れかなあ。

 そのうち、感覚的になんとなくわかるようになってくるんだ」

 

 ヤン・ウェンリーは、数百万キロ範囲の戦場を、感覚的に一瞬でイメージできるが、

地上ではこのぐらいしか使いどころがない。

 

「アーチャー、あなたは素晴らしい軍師だ。わが国に招くことができぬのが残念です」

 

「おほめいただき光栄だが、私はそんなに役立たないと思うなあ。

 セイバーの甲冑は実に美々しいが、あれを身につけて行軍なんて、

 ちょっとできそうにないからね」

 

 セイバーの鎧は、いわゆる全身鎧ではないが、それでも二十キロ以上はあるだろう。兜を含めた全身鎧は、総重量が三十キロから五十キロにも及ぶ。にもかかわらず、当時の騎士は馬に飛び乗ったり、泳いだりもできたそうだ。すでに人間じゃない。もっと軽量化された装甲服の戦闘訓練でも、悲鳴を上げていたヤンには無理だ。

 

「そのサーヴァントは、この作業を凛が休んだ日にやったんだよ。

 それも学生や先生のいなくなった、深夜から早朝までの間さ。

 気の毒な話じゃないか。この赤丸を調べるのだけで、三時間余りかかったんだ」

 

 士郎とセイバーは予想図を見た。それでもなお、青丸のほうがずっと多い。これを一人で、六時間程度の間に施術して回っているわけだ。おまけに……。

 

「ものすごく古くて、高度な魔術だったわ。

 私にできる結界の術でも、そんな短時間の施術は無理よ。イリヤはどう?」

 

 地図を見回したイリヤは首を捻る。

 

「この学校の中をこんなにあちこち歩くの? 歩くだけで一晩かかっちゃう。

 それにリン、こんなにたくさん呪刻を書かなくちゃいけないんでしょ?」

 

「ええ、その時間も必要ってことよね」

 

「だったら、よけいに無理よ。でも、そんな結界がシロウの学校にあるのね。

 ちょっと行ってみたかったのに」

 

 若いとはいえ、破格の実力を持つ魔術師ふたりが、揃って否定的な見解を述べた。アーチャーは、イリヤの師であるセラにも聞いてみた。

 

「サーヴァントは人間の数十倍の速さで移動できるが、

 魔術にかかる時間の短縮はできるものなんですか?」

 

「そういう能力を持つ英霊が、いないことはないと伺っております。

 しかし、キャスターとして召喚されるにふさわしい英霊ですわ」

 

 黒髪の魔術師(マジシャン)は、腕組みをして独語するように呟く。

 

「一応は合理性をうたう魔術師が、こんなに効率の悪いことをするだろうか。

 凛の学校というホームグラウンドに、発動まで一週間以上はかかる罠を敷く。

 その間に凛にも存分邪魔され、それを修正しようとすれば発見される可能性が高い。

 倒されたら、掛けた労力と魔力の大損だ」

 

「じゃあ、アーチャーは、サーヴァントはキャスターじゃなくって、

 マスターも魔術師じゃないって言いたいの?」

 

「そうだね、イリヤ君。その可能性も排除すべきじゃないと思う。

 しかし、サーヴァントというのは、その存在も力も本当にすごいものだ。

 たぶん私を除いてね」

 

「え、えと、アーチャーはアーチャーですごいと思うぞ。

 すっごく頭がいいし、とにかく、物知りだしさ」

 

 士郎の褒め言葉は正直なものだったが、強いとか美しいという、英雄らしい形容詞は含まれていない。

 

「ありがとう。

 大体は仕事して、給料をもらって、それなりの年齢になってのおかげだがね。  

 さて、君たちはそうじゃない。そして、結界のマスターも若いことが予想される。

 見たこともないような美男美女に偉丈夫たちに、

 マスターとしてかしずかれ、命令を下せるんだ。

 舞い上がって、とんでもないことをしでかしてもまったく不思議じゃない」

 

 黒い瞳が、低い位置にある真紅の瞳をちらりと見た。

 

「シロウ、わたしが悪かったわ。ごめんなさい」

 

 白銀の頭が下げられて、士郎はあたふたした。

 

「や、いいよ、もう。イリヤの気持ちもわかるんだ」

 

 しかし、これには裁判長経験があるヤンは首を振った。

 

「イリヤ君のしたことは殺人未遂だ。簡単に許されるものじゃない。

 士郎君が許すというのだから、私はもうとやかくは言わないがね。

 ただし士郎君、自分の命が粗末にされたことを君はもっと怒っていいんだ。

 誰も代わりはいないし、誰かの代わりにもなれない。

 君も、凛も、イリヤ君も、こんな戦争をやれという大人に対して

 否と言う権利がある。

 死ぬぐらいなら逃げたほうがずっといい。逃げなかったら死体が増えるだけだ」

 

 士郎を揺り動かす言葉だった。あの日逃げた自分を、ずっと負い目にしていた。

だがそれは間違いではないと、アーチャーは語る。そして、これからの戦いのことも。

 

「だから、この作戦も危険と思ったらすぐに離脱すること。

 間違っても、マスターである君たちは、サーヴァントと交戦してはいけない。

 それはサーヴァントの役割だ。明日は私がやるしかないね。

 セイバーを学校に連れて行くには、準備と工夫が必要だから、

 明日に間に合わせるのは、ちょっと難しいだろうが」

 

 セイバーが目を丸くした。 

 

「私がシロウの学校に行けるのですか?」

 

「まあ、つまり証拠隠滅の監視ということでね。

 学校に証拠を隠したりしてないか、荷物検査して見張りをするってわけさ。

 イリヤ君側の協力も不可欠だし、士郎君の了承が一番に必要なんだが」

 

「俺はいいけど……」

 

「故人の名誉の問題があるんだが、いいかい?」

 

 夕日色の短髪が、激しくかきむしられた。

 

「うわぁ、それを学校に言わなきゃなんないのか!

 どうしよう、俺、藤ねえに殺される……」

 

「そのへんの根回しが必要なわけなんだ。

 味方になってくれそうなキーパーソンに、あらかじめ話を通しておく。

 そうやっておいてから、初めて全体に話をするんだよ。  

 こいつをやるのとやらないのとじゃ、人間関係やら事業やらの成功率が大きく違う」

 

 セイバーががっくりと項垂れた。

 

「アーチャーよ、あなたはまさしく賢者だ。その方法をもっと早くに知りたかった!」

 

「どうしたんだよ、セイバー?」

 

「い、いえ、生前の人間関係に思いをいたしまして……」

 

 ぼさぼさになった赤毛の主と、金髪が萎れた従者は、顔を見合わせて力なく笑いあった。

 

「ではセラさん、放課後に管理職と面会をと、

 明日の朝、学校に電話で申し入れしてください」

 

「はい、かしこまりました」

 

「え、ちょ、ちょっと!」

 

「士郎君はこれに慌てて、藤村先生に相談するという形をとる」

 

 琥珀色の目が真ん丸になり、口も同じ形になった。士郎を悩ませる姉貴分を、そのキーパーソンにしてしまえという逆転の発想である。

 

「事実を話すだけで、彼女はきっと君の味方になってくれるよ。

 初恋相手の名誉と、弟分の立場がかかってるんだから。

 でも、イリヤ君のことも思いやれるような人だ。

 無碍に反対もできず、明日は管理職をとりなしてくれると思うよ」

 

「う、うう、うん」

 

 言葉もない士郎に、ヤンはにっこりと笑いかけた。時系列を少々入れ替えて、誰も悪者にせず難題に片をつけてしまう。大人のテクニックの一つ、嘘も方便というわけだ。

 

 巧妙な詐欺の手口そのものでもあるが、基本的には事実なので、追求されても無理がない。口下手な士郎でも、これならなんとかなりそうだ。

 

「で、明日の放課後に、イリヤ君とセラさんは、

 セイバーと一緒に学校に行ってほしいんだ。

 セイバーを貼り付けるための談判兼、

 いざというときにバーサーカーの動員を願いたい」

 

「ちょっと待ちなさい! 学校の中でだって無理よ。頭がつかえるでしょう。

 校舎がめちゃめちゃになるわ」

 

 物申した凛に、アーチャーは人差し指を立て、床と天井を交互に指差した。

 

「学校の教室は、高さを三メートル以上にする法律があるんだ。

 六法全書に載ってたよ」

 

「え、マジか?」

 

「そんなの決まってるの!?」

 

 現役高校生が口々に驚きの声を上げた。

 

「君たちは学生だから、この時代の学校についてひととおり調べたんだ」 

 

「や、普通そこまでやんないだろ……」

 

 若干引いている士郎に、アーチャーは首を振った。

 

「魔術なんてわからないから、できそうなところから手を付けただけだよ。  

 学校が戦場となってしまった場合、兵力が展開できるか否か。

 身長二メートル半のバーサーカーを、出現させても大丈夫かどうか」

 

「あ……」

 

 戦いの準備である戦略は、99%が戦術に勝る。彼はそう言った。学校の見取り図や写真の準備、法律の調査だってその一環なのか。

 

「結論を言うなら、彼が出ても大丈夫だ。

 障害物のない廊下と広い特別教室の呪刻を中心に除去し、

 さらに体育館や武道場などに手を伸ばすようにする。

 相手が手を出すなら、こちらに有利な場所で手を出させればいい」

 

 一同、唖然とするしかなかった。これがアーチャーの戦略というわけだ。相手が出した手が、こちらに届く前に殴り倒せるようにする。

 

「まあ、他にも色々考えてはある。

 いざとなったら、凛に本来の意味のガンドで、

 学校閉鎖する数の生徒と、教職員全員に風邪をひかせてもらうとか。 

 人がいなきゃ、結界が発動しても被害者は出ないからね」

 

「出ないって、あんた、わたしにそんなことやらせる気でいたの……」

 

 凛だけでなく、みんなからも色々なものが引いた。血の気とか心とか。なにそれ、超怖い。もはや、鬼とか悪魔とかじゃなくて、名状しがたきナニカだ。

 

「最悪の場合には。あの結界が、術者が消滅しても解除されないことも考えられる。

 爆弾を置いた者を逮捕しても、爆弾はなくならないようにね」

 

 凛は、口許に拳をあてた。

 

「現代の魔術だと、そこまで頑固なものはないけど、

 あんなに高度な術だと、あんたの言う可能性もありよね……」

 

「今はちょうど冬だし、風邪が流行して学校閉鎖ってのはさほど不自然じゃない。

 数百人の若い命がドロドロにとけるより、数十人が風邪引くほうがましだ。

 もしもの場合は頼むよ、マスター」

 

 これが司令官としての思考法だ。常に最悪を仮定して、決して楽観論では動かない。作戦成功のためには、ある程度の犠牲も止む無しと割り切る。より少ない犠牲で、より多くの生存を。

 

 士郎は目を見開いた。養父がしていたという救済の手段は、軍事行動そのものだった。そして、『魔術師殺し』に『傭兵』だったという衛宮切嗣とは、一体何者で何を為し、何を想っていたのか。自分は何もほんとうのことを知らない。遺言となったあの言葉以外は。

 

 養父が亡くなって五年。初めて士郎は、彼をもっと知りたいと思った。それが時の癒し。養父の死にかたくなに凍り付いて、最後の約束を果たさねばと思っていた士郎に、差し込んできた光だった。

 

 もっと違う角度から、沢山の方法の中から、『正義の味方』に至る道があるのではないか? それには、知らなかったことを知らなくてはならない。そして知ることができるのだ。アーチャーが教えてくれた方法もその一つ。

 

 そして考えてみよう。あの言葉の意味を。切嗣の絶望と『正義の味方』の限定期間とは何なのかを。



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23:一石二鳥

 悲観論に基づいた対処法に、皆が及び腰になってしまったようだ。アーチャーことヤン・ウェンリーは、漆黒の瞳を瞬いた。

 

 やれやれ、言いすぎたか。この子たちは、聖杯戦争は魔術の儀式だと思っている。軍人の理論は、いささかどぎつかっただろうか。実の妹や友人を、敵だと疑ってかかれとは。

 

 とはいえ、間桐兄妹にも公平は期すべきだろう。

 

「もっとも、これは根拠のない言いがかりにすぎないよ。

 結界が消えていれば、それがベスト。犯人は不問としよう。

 心理的な圧力は残るから、交渉の際には我々が有利さ」

 

「だったらいいんだけどね」

 

 溜息を吐く師匠に対し、弟子の顔色が冴えなくなった。

 

「あの、俺の立場は……」

 

「君に身内がいるとなれば、逆に滅多なことができないよ。

 それがアインツベルンのマスターなら余計にね。

 なにか言われたら、そのことを持ちだしてごらん」

 

 力をなくした夕日色の頭が、座卓に突っ伏してしまった。

 

「シ、シロウ、気を確かに。

 アーチャー、どうしても私が学校にいかなくてはならないのですか」

 

「結界がそのままかどうか、わかってから学校に申し入れるのでは遅いんだ。

 学校の都合だってあるからね。

 無理を通すためだからこそ、きちんと手順を踏まないと」

 

「なるほど、もっともです。あなたの言うことは礼にも適っている」

 

 ビジネスマナーを持ちだす元国家公務員に、王だった剣の英霊は納得してしまった。生前は臣下たちに伺候される側だった。その前には必ず使者にが立ち、日程などをやりとりしたものだ。

 

 こうしたことを不作法に省略したら、戦の原因にもなりうる。だから、使者とは命がけの仕事であった。現代はまことに簡単で穏やかになったものだ。電話の一本で済む。

 

 この国、この時代は、セイバーが夢見た理想に近い。冬に飢えることなく、食卓には世界中の美味が並ぶ。市井の人々が、王侯にも勝るほどの色鮮やかな衣服をまとい、繁栄した街を行きかう。電気の灯火は夜の闇を照らし、暖かな室内はまるで春のようだ。

 

 千六百年あまりの時を経て、大陸の西の島で求めた理想が、東の島で現実となっている。戦いの剣としてのみ、現世にあった十年前とは目に映るものが違っていた。もっとこの時代を見たいと、彼女が思い始めるほどに。

 

 こんなに平和で豊かな時代が訪れたのに、衛宮切嗣にはなおも不足であったのか。そして、騎士道や英雄を否定した彼の、正義への渇望とはなんだったのだろう。養子がそれに共鳴するほどに、今わの際まで希求していたという。

 

 まるで、自分のようではないか……。

 

「そ、そんなぁ、セイバーまで……」

 

「マスターの師や学び舎に、サーヴァントの私が礼を尽くすのは当然です。

 確かに、令呪で転移させることもできるのでしょうが、

 シロウのそばで守れるならば、これ以上のことはありません」

 

「セイバーが霊体化できない以上、きちんと立場を作って、

 士郎君に同行できるように存在を公表してしまったほうがいいんだよ。

 女性は外出の際に、財布や化粧品を入れたバッグを持つだろう?」

 

「そうでしたね。バスに乗った女性も持っていました」

 

「そのバッグに、セイバーの服の予備を入れておけばいいよ」

 

 セイバーは、凛からもらった服に着替えている。白いブラウスと深青のリボンタイ、ハイウエストのロングスカート。ミッションスクールの制服を思わせる、楚々とした服だ。硬質な美貌のセイバーにはよく似合っている。

 

 あの言峰神父が、どんな顔して選んだのやら、知りたくもあり知りたくもなしだが、

全く同じものが何着もあった。万が一、着替えることになっても、不審に思われないだろう。

 

「服を? なんでさ?」

 

 意外な単語に士郎はきょとんとし、アーチャーは頭を掻き回した。

 

「さっきみたいなことがあると、困ったことになるからね。

 士郎君の荷物に入れてもらうのも考えたが、何かの弾みで所持がばれたら……」

 

 奥歯に物が挟まったような台詞だったが、言わんとすることは十二分にわかった。青ざめた顔の周囲で、赤い髪が激しく左右に振られる。

 

 セイバーの服の予備というと下着も込みだ。男子高校生が所持すべきものではない。バレたら社会的生命の終了。しかし、セイバーがいなくては生物学的生命の危機だ。

 

 この命題を両立させるのは、なかなかに難しい。隠し通すことができないなら、公表しても不審に思われないようにするしかない。今朝の焼き直しになるが、教職員の藤村大河にイリヤたちを紹介した布石がここで生きてくる。

 

士郎は唸りながら頭を下げた。

 

「う、うう……わかったよ。ありがとな、アーチャー。考えてくれてたんだ」

 

 士郎とアーチャーの手合わせと、セイバーとランサーとの攻防の際の反省点に、折り合いをつけた苦肉の策であった。だが、士郎や凛の高校生では考えつかない方法だ。

 

「しかし、結界はそのままだが、明日の出動には何の反応も起きない場合もある。

 これは示威行動が効果を出したということになり、決して無駄にはならない。

 呪刻の処置も進むから、結界の発動が先延ばしできる。

 そうそう、イリヤ君も士郎君の学校見学ができるよ」

 

「え、ほんとう?」

 

「そして、日中に時間的余裕がある、

アインツベルンの方にお願いしたいことがあります」

 

「何をでしょう?」

 

「携帯電話の準備を。

イリヤ君とセラさんとリズさん、ええと、士郎君は持ってるかい?」

 

 いきなりの発言に、士郎は虚を衝かれた。

 

「え、ああ、持ってるよ、一応。あんまり使ってないけど」

 

「じゃあ、士郎君はいりませんが、セイバーの分もお願いしたいんです。

 そして、凛の電話番号の登録を。

 凛の電話にも皆さんの番号を登録させていただきますが」

 

 今度は携帯電話。確かに、現代知識は聖杯からもたらされるとはいえ、迷いなく作戦に取り込めるものだろうか。士郎は疑問に思った。かなり現代に近い英雄なんだろうか。でも、皇帝のいる国と戦っていたというし、貴族の習慣も知っている。何者なんだろう?

 

 セイバーの正体に首を捻るアーチャーだが、周囲にとっては彼のほうがよほど謎の多い英霊であった。

 

「俺はいいけど、どうしてなのさ」

 

「情報を制するものは戦いを制するんだよ。

 特に重要なのが、情報を共有し、即時に伝達できることだ。

 こんなにいい手段があるのなら、使わない手はない。

 さて、明日は学校だ。凛、そろそろ士郎君の対策に着手すべきじゃないかな」

 

 せっせと筆記する凛のこめかみに青筋が立った。

 

「ちょっと、わたしが書くまで待ちなさいよ。あんたが書記を振ったんでしょうが!」

 

 ヤンは小首を傾げてから、お金持ちの陣営に向き直った。

 

「うーん、録音機器も一緒にお願いできませんか?」

 

 厚かましい依頼だが、セラは深々と頭を下げた。

 

「承りました」

 

 知識や技術には価値があるのだ。並ならぬ頭脳の持ち主の考察は、値千金ではきかない。

 

 そして、これに思わぬ恩恵を受けた者がいた。穂群原一の美少女、遠坂凛と携帯番号を交換した衛宮士郎だ。

 

『生きてりゃいいことがあるよ』と言っていた、弓の従者からの飴の贈り物だった。

 

 だが、士郎の幸運もそこまでだった。弓の主からは、一見飴に見える味のない代物――魔力入りの宝石――を飲まされ、熱と激痛に朝までのた打ち回ることになった。これは師匠としての愛の鞭なのか。

 

それとも、セイバーを召喚した意趣返しなのか。いや、両方かも知れない。マスターは自分に似たサーヴァントを召喚するという。常に一石数鳥狙いのアーチャーに、遠坂凛も似ているのかも。

 

「大丈夫ですか、シロウ」

 

 熱い額に、ひんやりとした小さな手が触れる。焦点の合わない視界の中、聖緑の瞳が心配そうに見つめてきた。なんと返事をしたのかは定かではない。士郎の意識は、深い井戸の底へと沈んでいった。

 

そして、切れ切れの夢を見る。国を守るため、剣を執り、戦いを選んだ孤高の王の物語。皆の笑顔を望み、行動したのに、滅私のあまりに理解をされない。

 

少年と同じ魂の持ち主の軌跡を――。



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閑話4:ステップファーザー・パラドックス

「それにしても、養子がやめられるなんて知らなかったわ……」

 

 長い黒髪をかき乱しながら凛は唸った。アーチャーことヤン・ウェンリーは、ブランデー入りの紅茶の湯気を顎にあてながら小首を傾げた。

 

「一種の盲点だね。

 養子縁組は、結婚ほど多くはないし、特に子どもだと大っぴらにはしないものだ。

 それに結婚と違って、養子縁組は重複できるんだよ」

 

「は?」

 

 眉を寄せたのは高校生二人だった。

 

「養子が婿養子になる場合でも、前の養親との縁組を解消する必要はないんだ。

 妻の父母のどちらかが、健在であることが条件だがね。

 士郎君がどこかに婿入りする場合、例えば藤村先生と結婚して、

 藤村士郎になるとそうなるんじゃないかな」

 

 こちらは緑茶を啜っていた士郎だが、盛大に噎せ返った。アーチャーの隣の凛にまでは被害が及ばなかったが、彼女が眉を顰めるには充分だった。

 

「やだ、ちょっと汚いじゃない」

 

 咳がおさまり、謝罪と抗議ができたのは、それから百秒も後のことだった。

 

「う、す、すまん……。アーチャー、そのたとえは勘弁してくれ!」

 

「ごめん、ごめん。でも他に該当しそうな条件の人がいないもんだから。

 具体例があったほうが、ピンと来るだろう?」

 

 士郎は、音がしそうな勢いで、左右に首を振った。

 

「いや、そんな具体例はなくていい。なくていいぞ!」

 

「そうかい? ちなみに亡くなった養父母とも離縁できる。

 家庭裁判所のお世話になればね」

 

 澄ました顔で紅茶を啜るアーチャーの隣と対面の、翡翠と琥珀がしばし見詰めあった。

 

「ねえ、遺産相続はまだわかるけど、なんで養子のことまでそんなに詳しいわけ?」

 

「俺もそう思う。普通、離縁できるなんて知らないだろ」

 

 二色の視線を注がれた漆黒が瞬きをした。

 

「ああ、私がやろうと思ったことがあったからさ」

 

「ええっ!?」

 

 すっとんきょうな声を上げる少年とは裏腹に、アーチャーとの会話が多かった凛にはぴんときた。

 

「ひょっとして、里子の?」

 

 おさまりの悪い黒髪が頷いた。

 

「うん。恥ずかしながら、私は女性にもてなくってねぇ……」

 

 そういう前振りに、うまい相槌を打てるような話術を高校生に求めないでほしい。凛と士郎は無言になってしまった。

 

「なかなか恋人もできないし、いつ戦死してもおかしくないし、

 そうしたら遺産は顔も見たことがない親族にいっちゃうわけさ。

 あの子の面倒を見るどころか、私が面倒を見てもらっていたのに。

 不公平だろう?」

 

 更に難易度の高い言葉が続いた。

 

「う、そ、それは……」

 

 口ごもる凛の脳裏に、彼の寝言が閃く。

 

『――ユリアン』

 

 アーチャーはゆっくりと頷いた。

 

「君達よりひとつ上になるのかな。

 彼が十二歳の時に、私のところにやって来たんだ。

 あの頃は小さくって、引き摺っていたスーツケースの方が大きいぐらいだった。

 とてもいい子だったよ。賢くて優しくて、スポーツも万能。

 おまけに美少年で、家事の達人だった。紅茶を淹れるのもとても上手だった」

 

 黒い瞳が、眩しいものを見るように細められた。

 

「まったくね、天は二物も三物も与えるのかと思ったよ。

 でも、それほど優れた子だったから、私なんかの所に来たのさ」

 

 優しくもほろ苦い微笑が、青年の面を彩った。

 

「戦争が続いて、社会福祉施設も一杯で、軍人の孤児を軍人が引き取ると、

 養育費を貸与するという悪法ができたんだ」

 

「なんでさ、そんなに悪くはないんじゃないか?」

 

 アーチャーの眉宇が鋭角を描き、静かな口調に鋭さが加わる。

 

「戦争孤児が、みんな適用を受ける法律じゃないんだ。

 社会福祉施設の子は対象外だ。

 そうならなかったのは、あの子が優秀だったからだ。

 借金で縛りつけてでも軍人にしたかったわけさ。

 だから先輩は、借金を返せそうな私を里親に選んだのだろう」

 

「借金ですって? どういうことよ」

 

「軍人にならないと、借りた養育費は返さなくちゃいけない。

 私は独身だし、給料も高い方だから、扶養者控除で元が取れた。

 養育費には手をつけずに取っとけるぐらいにね。

 しかし、一般の里親は子持ちの夫婦だ。養育費を使わざるを得ないのさ」

 

「ひどい……」

 

 ソプラノとテノールが一小節の合唱を奏でる。アーチャーは片膝を立てて、腕と顎を乗せた。

 

「ああ、そうだ。実に非人道的なやり口だ。

 おまけに養父母のどちらかは軍人だ。また家族が戦死するかもしれない。

 職業選択の自由を奪い、敵国への更なる憎しみを植えつける。

 このうえない悪法だよ。こんな法ができるようじゃ、国家として終わりさ。

 実際に終わりを迎えたがね。予言の成就を誇れやしないが」

 

 困り果てた少年少女に、青年は頭を掻いた。

 

「いや、そいつは措いとこう。今はない国のことだ。

 個人レベルに話を戻すが、私は親が急に死んで、えらく困ったものだ。

 彼をそんな目に遭わせたくはなかった。

 幸い借金もないし、あの子と養子縁組をしとこうかなと思ったんだよ。

 貰うものを貰ったら、元の名字に戻すこともできるしね」

 

 彼の知識には、実に重い裏打ちがあったのだった。

 

「ねえ、アーチャー。その人を養子にできたの?」

 

 黒髪が振られた。

 

「いやあ、それこそ家庭裁判所がうんと言ってくれないんだよ。

 独り者だし、いつ戦死してもおかしくない軍人だ。

 だから養子にしたいと思うのに、融通が利かないったらありゃしない。

 例の先輩は、ますます嫁がこなくなるから、止めとけだとさ。

 そんなこと言われたって、婚姻届は死亡届と違って、一人じゃ出せないんだよ。

 そのかわり、死亡は自分で届出しなくていいけどさ。というか出来ないなあ」

 

 凛は座卓に拳を振りおろした。重々しい打撃音に士郎はびくりとした。普通の女の子の華奢な拳が出せる音じゃなかった。この主従、絶対にマスターの方が腕っ節が強いと思う。口以外の攻撃力もだが。

 

「やめてちょうだい、その真っ黒いジョーク。

 これ以上口にするなら、禁止のためには令呪の使用も辞さないわよ」

 

「残念ながら事実なんだがね……。死んだから召喚に応じられたんだよ」

 

 フォローも突っ込みもできない。障害物を避けたら、落とし穴にはまり、底に地雷が埋まってる。

 

「ご、ごめんなさい……。ああもう、そんな微妙なこと聞くんじゃなかった。

 私が悪かったわよ」

 

 口下手な士郎は、師匠の言葉に頷き続けるしかない。

 

「まあまあ、これには続きがあるんだよ。あの子は軍人を目指してしまってね。

 私はできれば諦めさせたくて、部下の腕利きのパイロットや

 陸戦隊員の弟子にしたんだ。

 どちらも、我が国一の技量の主だ。

 厳しい訓練を受ければ、考え直すかなと思ってさ」

 

「あんたって、おとなしい顔で、しれっとえげつないことやるわよね……」

 

「私の影響で、軍人になってほしくなかったんだよ。

 つまるところ、人を殺せば殺すほど出世する職業なんだから」

 

 溜息を吐きながら、紅茶を啜る戦争嫌いの不良軍人だった。

 

「士郎君のおとうさんの気持ちも、私にはわかるような気がするんだ。 

 彼は、君に魔術を学んで欲しくなかったんじゃないかって。

 痛い思いをして、さっぱり上達しなければ、嫌になるんじゃないかとね」

 

「え、じいさんが……!?」

 

「これは私の経験からの憶測だけどね。ジレンマなんだよなあ。

 嫌いなことでも、飯の種になるほど得意なわけで、

 私が教えられることはそれぐらいなんだ。

 共通の話題にもなる。情けない話だが」

 

 言われてみると、思い当たることが多々ある。アーチャーは、衛宮士郎から衛宮切嗣となった存在でもあったのだ。掌を指すかのような洞察も、全部彼自身の経験なのかも知れない。

 

「ただ、子どもというのは、大人のケチな目論見をやすやすと超えてしまうんだ。

 私の里子は優秀だった。どれにも望外の成果をあげてしまってね。

 十六歳で少尉に昇進して、遠い半敵地に赴任ときたもんだ」

 

 思い出してヤンは腹が立ってきた。不機嫌な顔でベレーを脱ぐと、両手で締め上げる。雑巾を絞る手つきじゃない。扼殺する握り方だ。掃除好きの少年は、いち早くそれに気付いた。

 

「と、遠坂ぁ……」

 

 青褪めた弟子から哀願の眼差しを送られて、凛は黒い袖を引っ張った。

 

「よその茶の間で、そういうことするんじゃないわよ。

 せめて霊体化して、見えないようにやりなさい」

 

「それもやめてくれ! 見えない状態でそうしてると思うと余計怖いだろ!

 うちではやっちゃダメだ!」

 

「ああ、これは失礼。ついつい癖で」

 

 なんて気の毒なベレーだろうか。まだ鷲掴みされたまんまだ。

 

「士官になると、私の保護を外れる。余計に養子は難しくなった。

 しかし、当時副官だった私の妻は、法律に詳しかったんだよ。

 私が悩んでいると、相続税がかからない範囲で生前贈与して、

 相続人として遺言で指定しておけばいいと教えてくれた。

 いいタイミングで餞別になったよ」

 

「そ、そう……」

 

 それもやるせない解決法だった。しかし、アーチャーにとっては名案だったようなのが、また何とも言えない。百五十年も戦争が続く世界の人間の考え方なのだろうか。

 

死を思え(メメント・モリ)

 

 アーチャーは、常にそれを念頭に置いて動いている。

 

 父のことを思い起こし、肩を落とす凛だった。いくら弟子だって、あの後見人の選択はない。陰険な性格破綻者だし、財産管理はおざなりだし、小学校の授業参観、級友が泣き出したものだ。自分は気をつけよう。この戦争を生き抜くのが最初の超難関だけど。

 

「そうさ。このように、いくつも方法があるんだよ。

 一つのやり方で駄目だったら、他のやり方を考えてみればいい。

 自分で出来ないなら、他の人の知恵や力を借りればいい。

 桜君が今日、凛の二つ下になったということなら、十五歳だろう?

 彼女が望むなら、養子離縁の届け出は自分でできるんだよ。面倒だけどね。

 そのへんも、この戦争を通じて交渉できるかもしれない」

 

 見開かれた翡翠と琥珀に、黒曜石が微笑む。はたと士郎は気付いた。

 

「あ、遠坂、今日誕生日だったんだ……。ゴメン、知らなかった。

 もうあと二時間ぐらいしかないけど、その、お誕生日おめでとう」

 

 凛の白皙の頬に、突如としてセーターの真紅が照り映えたかのようだった。彼女は口ごもりながら祝福に応えた。

 

「あ、うん、ありがとう、えみ、え、えーと士郎……」

 

 士郎の頬を染めた朱を、夕日色の髪のせいにするには少々無理があっただろうか。



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24:呪文と言葉

 結局、遠坂凛とアーチャーは衛宮邸に宿泊した。魔術回路を開く痛みに唸る士郎を放置することはできない。万が一だが、死に至ることもありえる。

 

 とはいえ、弱ったマスターの枕元に遠坂主従が控えるなど、セイバーに許容できることではない。折衷案で、凛は客間に通され、アーチャーは居間で持ってきた資料に取り組むことにした。

 

 なにかあれば、アーチャーに声を掛け、凛を心話で呼ぶ。それでいいじゃないかというアーチャーの提案だ。セイバーと凛に受け入れられる内容である。

 

ついでにアーチャーは、あの不可解な治癒を議題に上げてみた。

 

「昨日の怪我、あれは致命傷だよ。それが治ったぐらいだから、危険性は低いと思う。

 しかし、生来の体質ではないようだね。セイバーの召喚に関連するのかな」

 

「どういうことでしょうか」

 

「以前怪我をして、部活を休めと言われた時は、

 治癒まで相応の時間がかかったようだから」

 

 セイバーは密かに舌を巻いた。たったの一言から、そこまでの考えを巡らせることができるのか。彼のマスターは小首を傾げた。

 

「ひょっとして、セイバーの魔力が逆流しているのかもね。

 以前の参加者には、サーヴァントと魔力を同化させて、

 一時的に不死に近い肉体を得たマスターもいたそうよ」

 

「もともとイリヤ君の家の悲願は、

 不老不死または死者の蘇生に類するものと考えられるからね。

 頷ける話だ。ああ、そうか、だから『聖杯』なんだよ。

 魔力の釜というだけじゃなくて、ダブルミーニングだ」

 

 ゴルゴダの丘で処刑された、イエス・キリストの血を受けた杯。その聖杯で汲んだ水は、飲んだ者の傷病を癒し、あるいは不老不死を与える。病に倒れたアーサー王が求め、騎士らが探索して持ち帰り、王は快癒したという伝説は有名である。

 

「もう、名称からしてあからさまにアインツベルンのための儀式じゃないか。

 『ヘブンズ・フィール』も天の杯という意味だそうだし」

 

 再び、ぐったりとする漆黒の長い洗い髪。

 

「ああもう、ご先祖様はどうして気が付かなかったのかしら」

 

「恐らく言葉の問題だ。キャスターって、最初なんのことかと私は思ったね」

 

「『魔術師』よ」

 

「違うよ。英語で直訳すると『投票者』さ」

 

 凛が眉を顰めた。

 

「テレビのキャスターと同じじゃないの?」

 

「そいつは和製英語。ニュースキャスターとは別個のものさ。

 ニュースが接頭語に付くから『ニュースを報じる者』になるんだ。

 詠唱する者というニュアンスで選んだのなら、スペルとかを頭にくっつけないと」

 

 アーチャーの言葉に、今度は顔を覆う凛だった。

 

「いやぁ、もう……。間抜けすぎる。カッコ悪いわ」

 

「アインツベルンがドイツ人だったせいかな?

 遠坂は当然として、マキリも英語圏の人間じゃないんだろうか」

 

「それ、聖杯戦争となんか関係がある?」 

 

「魔法使いといえば、呪文を唱えるものだろう。

 他国語だから間違えたとも思えなくてね。

 呼び出される側に配慮でもしたのかな」

 

 セイバーが首を傾げる。

 

「配慮とは……どのような?」

 

「ヨーロッパの暗黒時代に行われた、魔女狩りという名の異教弾圧。

 土着の信仰にキリスト教が取って替わるため、知識層の女性を迫害したんだ。

 彼女たちは、教会以上に地域の住民からの信頼を受ける存在だったからだ」

 

 翡翠が瞬いた。

 

「魔女狩りが? あれはでっちあげだってのは知ってるけど」

 

 これもまた、凛が思ってもみない発想だった。魔術は知らないが、戦史では優等生だったヤン・ウェンリー。

 

 戦争の歴史は、人類の歴史とほぼ等しい。宗教戦争は文化衝突の一形態だ。銀河帝国の専制と、自由惑星同盟の共和民主制を考える上で、ずいぶんと地球時代の歴史資料を読み漁ったものだ。大半は趣味だけど。

 

「風土に根ざした信仰には、薬草などへの知識が含まれている。

 医師で薬剤師、助産師でもあった白い魔術の使い手だ。

 だからこそ、ぽっと出のキリスト教には邪魔だったんだよ。

 神秘が薄れたなんて、案外とそのせいじゃないのかね」

 

 宗教のない未来に生きたヤンは、しごく罰当たりな台詞を吐いた。セイバーがいつの時代の人間なのかを測る目的もある。十字軍の参加者やジャンヌ・ダルクならば、烈火のごとく怒るだろうと思ったのだが、その様子もない。

 

ヤンは黒髪をかき混ぜ、言葉を継いだ。

 

「そういう存在をそんな風に呼んだら、気を悪くするかもしれないだろう。

 魔術師殺し(メイガス・マーダー)か。凛、魔術師はメイガスと呼ぶんだね?」

 

「まあ、そうね」

 

「なるほど、ウィザードやソーサラーではないってわけだ。

 じゃあ、語源はマギ、東方の三博士ということか」

 

 言葉遊びのような会話に、セイバーの眉間に皺が寄る。

 

「それが何か?」

 

 ヤンは、英語が銀河連邦公用語へと発展し、ルドルフ・ゴールデンバウムのゲルマン文化偏重により、ドイツ語が復活して、銀河帝国公用語が成立した歴史を知っている。帝国からの逃亡者たちは、銀河連邦公用語を復活させ、後の自由惑星同盟公用語となった。

 

 それが可能だったのは、英語とドイツ語は古代ゲルマン語を共通の祖とするからだ。

しかし、近隣の民族の文化からも大いに影響を受けた。

 

 最たるものが西方世界の中心、東西文化の要衝たる古代ローマ。ギリシャ文明やエジプト文明、メソポタミア文明の後嗣でもある。古代ローマ人はラテン語を話した。マギもラテン語であり、それは英語の語源ともなった。

 

「言葉は本質を表すんだ。マギの技はマジックで魔術。魔術を使う者がマジシャン」

 

「あんたの二つ名ね」

 

「私のは手品のほうになるけどね。

 実はもうひとつ、マギが語源ではないかという言葉があるんだよ」

 

 金髪と黒髪の美少女達は顔を見合わせた。

 

「なんなのよ」

 

「メディック。医療だ」

 

「はぁ? 今度は何が言いたいの」

 

「東方の三博士が、イエス・キリストに贈ったのは、黄金と乳香と没薬。

 後ろ二つは、香料であり薬でもある」

 

「香料が薬、ですか?」

 

 金沙の髪が傾げられる。

 

「薬草の一種だからね。殺菌と防腐作用もあるんだよ」

 

 凛の瞳に不審の色が浮かんだ。洒落っ気なんて皆無なアーチャーが知っている香料。ということは、歴史的に有名な用途があるんじゃないのだろうか。

 

「ねえ、あんたが知ってるってことは、何の香料と殺菌と防腐に使ったの?」

 

 その問いに、優等生の発言に機嫌をよくした教師の笑みが浮かべられた。

 

「さすがに君は察しがいいなあ。ミイラの製作に使用したんだ」

 

 言葉もないセイバーに、凛が溜息を吐きながら首を振ってみせる。

 

「こういう奴なのよ。あんまり真面目に付き合うと疲れるから。ね、セイバー」

 

「はい……」

 

「永遠の命を願うのは、人間の普遍的な感情だよ。

 そして死者の復活への願いも、世界中の神話に語られてる。

 なにもイリヤ君の実家ばかりのものじゃない。

 もっとも、成功例はほとんど聞かないがね」

 

 その言葉には、西洋と東洋の少女らも頷かざるを得ない。

 

「人間誰しも死ぬのは怖い。可能ならば逃れたいものだ。

 その最先端の研究者が、魔術師だったわけだろう。

 魔術からは、自然科学や薬学、医学、天文学が分化していき、文明は発展した」

 

 鉛から金を生み出そうとしたことが元素の発見につながり、見えない神秘を覗く水晶玉は、顕微鏡や望遠鏡になった。星の運行に人の運命を重ね、観測することが天文学の基礎である。東方の三博士は、キリストの誕生を星の輝きで知ったのだから。そうした学術の積み重ねが、ヤンの時代の技術の根幹ともなっている。

 

「そのせいで、魔法と呼べるのはいまは五つしかないのよ。

 他の手段で代替できるものが魔術になったんだから」

 

 かつては、呪文一つで松明に炎を点すことができれば、充分に魔法と呼べた。しかし、今ではマッチがあり、ライターがある。いや、懐中電灯の方がはるかに優秀だ。

 

 凛の最強の宝石魔術も同様である。威力で比べるなら、ミサイルのような近代兵器には及ばない。ただし、霊体であるサーヴァントには一般の兵器は効かないが。

 

「なんにしたって、狭い世界で他者の検証も受けずにやれば退嬰もするさ。

 昔は魔術師として名を成し、尊敬や畏怖を捧げられていただろうに。

 時を逆行する学問なんてかっこつけても、

 私には葡萄をやせ我慢する狐としか思えないね」

 

 肩を竦めるヤンに、翡翠の瞳が険しくなった。

 

「なんですって!?」

 

「君の魔術、何か日常で利益を生むかい?

 あ、士郎君の上納金と授業料は除いてね。

 魔術や薬で、病人やけが人を公然と癒し、感謝されるようなことはあるのかな」

 

 凛は口を噤むと、視線を逸らせた。そんなことはできない。魔術の行使が明るみになったら、時計塔の封印指定執行者に狩られるのだから。それ以上に、費用対効果で現代医学に敵わないのだ。マスターの様子に、アーチャーはそれ以上の追撃はせず、射たのは別の疑問点だった。

 

「キャスターは、魔術で名を成した英雄だ。魔術を秘匿しなくてよかった時代の人間。

 令名か悪名かは措くとして、君たちより原初に近い位置にいる。

 当時最高峰の薬学の権威でも不思議はない。

 昏倒事件の悪臭は魔法薬のたぐいかもしれない」

 

 セイバーが拳を握り締め、鋭い眼差しで声を張り上げる。

 

「卑怯な! すぐさま討伐すべきです」

 

「いや、そうとばかりも言い切れないな。

 戦う方法がそれしかないのなら、使わざるを得ないんだ。

 毒や陰謀は、多くの場合非力な者の手段なんだよ」

 

「非力?」 

 

 セイバーにアーチャーは苦笑してみせた。

 

「そう。私に力があるなら、何も考えずに正面から粉砕できる。

 バーサーカーのように。しかし、持たざるから考えるわけさ」

 

 あまりに的確な具体例に、セイバーも凛も頷くしかなかった。

 

「キャスターの犯行も非常によく考えられたものだ。

 私は、キャスターは女性の可能性が高いと思う」

 

「たしか、あんた最初にそう言ってたわよね。

 小さい子と母親は重症にならないようにしてるって」

 

「他にも悪臭という小道具を使って、ガス中毒と思われるように辻褄を合わせてる。

 こいつが男の発想と思えないんだよなぁ」

 

 セイバーは周囲の人々を思い返した。ことに生前の面々を。

 

「たしかにそうかもしれません。――いろいろと雑でした」

 

「雑なら付け入る隙があるんだが、細やかな相手はとても厄介だ。

 おいそれと現場を押さえられるようなヘマはしてくれない」

 

「見逃す気ですか」

 

 黒髪が左右に振られ、組んだ両手に顎を乗せる。

 

「ここまでの犯行を証明できない以上、これからの犯行を抑止するんだ。

 キャスターは、魔術は秘匿するという、現代のルールを弁えて対応している。

 ほぼそれに成功し、今のところ死者や重症者を出していない。

 斃すほどの重罪には問えないよ。この昏倒事件に関してはね」

 

「マスターの入れ知恵かも知れぬでしょう」

 

「それでも別にかまわないよ。

 理があることには従い、損得を計算できる相手ならね。

 見ず知らずの人間に、不必要に残虐な真似をしないタイプのような気がする。

 吸血鬼や一家殺人と違って、非常にやり方が洗練されてる。

 これみよがしな学校の結界の犯人でもなさそうだ」

 

「犯行には為人(ひととなり)が現れるって、あんた言ってたわね」

 

 凛の問い掛けに、アーチャーは髪をかき回しながら渋面を作った。

 

「集団昏倒の犯人が、結界の設置者ならば、凛が気付かぬ内にやられていただろうさ。

 反面、ちょっと気分が悪くなったとか、

 風邪が流行ったという程度で収まったと思うね」

 

「数百人を融解させるようなことはしないと?」

 

 セイバーの反問に、ぼさぼさになった黒髪がうなずいた。

 

「下手に手を出して、恨みを買うのは逆効果だと思うんだよ。

 必要ならば、非情に徹し、残虐な手段も厭わない。

 生前の敵に、似たようなタイプがいたんだ」

 

 『彼』が最も憎悪したのは、自国の旧王朝とそれを支えた権門であった。その粛清は容赦のないものであったが、敵国たる自由惑星同盟への出兵には、むしろ反対派だったと聞き及ぶ。宇宙統一なんぞ、正直言えば損だからだ。

 

「へ、へえ、そうなの……」

 

 心話を送られた凛が口の端を引き攣らせる。セイバーは無言で表情を硬くした。セイバーの生前を知りもしないだろうに、言う事がいちいち急所に命中し過ぎる。彼女にとっては、実に嫌な相手だった。

 

「では、放置しろと!?

 管理者のサーヴァントを名乗るならば、片手落ちというものだ」

 

「ちょっと違うなあ。

 仕掛けるには、時期尚早だと言っているんだ。

 手紙の返事もまだだし、相手が折れてくれるかもしれない。

 それが無理でも、確実な対処法を編み出してからにすべきだと思う。

 いずれにせよ、君たちの魔力供給の目途がたたない間は駄目さ」

 

 やんわりといなされたセイバーは、アーチャーとの会話を打ちきることにして、無言で一礼すると士郎の寝室に向かった。それをしおに、凛も立ち上がって客間に向かう。

 

 残ったヤンは、資料をめくりながら、黒い瞳で別の物を見ていた。

 

「そう、言葉なんだよ。ヘブンズ・フィールは天の杯。

 アイリスフィールにイリヤスフィール。フィールを名に持つ親娘。

 たしかに杯は女性の象徴だが……。

 そして聖杯の担い手。母が銀髪紅眼、父が黒髪黒目、娘は母の色彩をしてる」

 

 銀髪紅眼。アルビノに見られる特徴だ。それが三人、いや故人も含めれば四人。遺伝的な要因によるものだが、近い親族といえども、ここまで頻発するものではない。

 

 イリヤの場合は、父が黒髪黒目なのだからなおのことだ。あの真紅の瞳にも関わらず、視覚障害は見受けられず、陽光への備えもしていない。アルビノの人間は虚弱体質であることが多く、実年齢とは異なる幼い容姿も、最初はそれだと思っていた。

 

 しかし、呼ばれたメイドを見てヤンは首を捻ったのだ。こんなにアルビノが揃うだろうか。しかも妙齢の女性ばかり。イリヤの実年齢からすると、五年間ほどで三人も生まれていることになる。いくらなんでも不自然だ。それに、皆がみな、人形のように美しい。メイド二人の能力も大変なものだ。

 

 ヤンが作ったセラの台詞は、外国人に話せるようにと、当初はもっとシンプルなものだった。それに首を振り、法律知識を組み入れて、もっと強烈な印象を与えられるように要求したのはセラだ。難しくなった台詞を一発で記憶し、外国語を駆使して流暢に話せるものだろうか。

 

 そして、四十人分の膂力を持つセイバーを子猫のように運べるリズ。今のヤンならば、同等の体格差の士郎でもああやって運べるが、生前は無理だった。すなわち、尋常の腕力じゃない。

 

「凛は、アインツベルンは錬金術の大家だと言った。まさか……」

 

 その時だった。蛍光灯の光に影を落として、ひらひらと舞うものが視界をよぎる。黒と薄紫の優美な蝶だ。――二月の最中にいるはずもない。

 

 蝶は意志あるもののように、いや意志をもって彼の黒髪に止まった。ちょうど、左耳にかかるあたりの位置に。

 

『よく気がついたこと。アレらはピュグマリオンの末裔の手になるものね。

 そうそう、書状はいただいたわ。

 返事をしたためるよりは、こちらの方が早いから、

 こんな恰好だけれど失礼させていただくわね』

 

 優美で落ち着いた女性の声が、アーチャーの耳朶を打った。



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25:緒戦は舌戦

 アーチャーの目が一瞬だけ大きくなった。だが、それ以上の動揺は面に出さず、礼儀正しく挨拶を返す。

 

「いえいえ、こちらこそ用件のみで申し訳ない。

 さて、あなたをキャスターとお呼びしても失礼にはあたりませんか」

 

『いささか間が抜けているけれどかまわないわ。

 魔術師では紛らわしいけれど、魔女と呼ばれるのは好みではないもの。

 貴方は考え深い殿方のようね』

 

「ではキャスター。

 単刀直入にうかがいますが、一家殺人と吸血鬼事件と穂群原高校の結界は、

 あなたの仕業ではないということでよろしいのかな」

 

 蝶が羽を開閉し、アーチャーの耳を叩くような仕草をした。くすぐったさに彼は肩を竦め、首を振ったが蝶は髪に止まったまま。また羽根で耳を叩く。

 

「うわっ、怒らないでくださいよ。

 証拠隠滅に気を使い、いわば非合法な献血程度でおさめていた昏倒事件と、

 あの三件が同一犯だと思ってはいません。だが、念のためにね」

 

『やはり知恵者ね。あのお嬢ちゃんにはもったいないこと。

 あの坊やのセイバーと同様に』

 

「私としては、あなたのような魔術の先達に、

 凛の師になっていただきたいところですがね。

 それには不法行為を止めていただけませんか?

 今ならば、まだ推定無罪が通る。疑わしきは被告人の利益にということで」

 

『それが私への利と言うなら足りなくてよ。アーチャーのサーヴァント』

 

「だが、我々が団結して停戦を進めれば、あなたは困る。

 陣地が足枷ともなるのが、キャスターのクラスの欠点です。

 手を出してもらえず、無視されるとタイムオーバーになる。

 聖杯は入手できませんよ」

 

 蝶が微かに身じろぎした。

 

『貴方、マスターを裏切る気かしら?』

 

「いいや、この聖杯の不備を解消したいだけです。

 もうひとつおうかがいしますが、

 あなたは『魂の物質化』を使える魔法使いではないですよねえ?」

 

『貴方ならばわかっているはずでしょう。

 それを使えるのなら、英霊の座に行くこともないのではなくて?』

 

「しかしですね、それこそギリシャ神話には不老不死を返上する存在もいたでしょう。

 射手座のケイロンに、双子座のポルックス。

 天球を支えるアトラスは石に変じました。だから、一応は」

 

 笑みの気配が蝶から漂う。

 

『ふふ、そのとおりよ。永遠の命など、呪いでしかないわ。

 日毎に、肝を啄ばまれるプロメテウスのようにね。

 神の血を引くものにさえ、なかなかに耐えられぬものよ。

 死に勝る苦痛や、愛する者を失う孤独を味わい続けねばならないのだから。

 そんな生になんの意味があるかしら』

 

「だから、エンディミュオンは眠りにつかされたのかな?

 たしかに、あなたのおっしゃるとおりでしょう。不老不死がそんなによいのなら、

 子々孫々に伝えるべく、魔法を守り抜くはずだ。決して失伝させはしない。

 そうなっていないことが明白な答えだ。魔法使いの行方不明もね」

 

 イリヤやセラには、別方向からのアプローチを示してはみたが、ヤンは成功すると思っていない。キャスターの言葉もそうだが、トップに不老不死の存在が君臨しているなんて、後から生まれた者には堪ったものではないだろう。旧銀河帝国の皇帝には、長寿のあまりに暗殺された者もいたのだ。

 

 本人にしても、技術や社会の進歩についていけるだろうか。過去の遺物と成り果てて、時から取り残されてはしまわないか。

 

 そして、愛する者に先立たれ続けるのだ。遺された者は、いつの日か亡き人の許に赴くことを知っている。だから、喪失の痛みにも何とか耐えられる。それさえも叶わないのが不老不死。

 

 祖父母や両親、配偶者を看取るのは人間の常だが、子どもに孫、ひ孫に玄孫(やしゃご)……あるいはもっと。ずっと子孫の喪主を務めなくてはならないなんて、ヤンならばごめんこうむる。

 

『その不老不死も、果たしてどんなものかしらね。

 人の姿形、心を保っているとは限らないわ。

 黄金や大理石の像と化すのかも知れなくてよ?』

 

「うう、そいつもありえるなあ。錬金術の大家で資産家だそうですからね。

 宝物庫の財宝のどれかが、ご先祖様の変じたものかもしれないのか。やれやれ」

 

 アーチャーのピントのずれた慨嘆に、蝶が小さく笑い声を立てた。

 

「しかし、あなたがアインツベルンの魔法使いでない以上、

 イリヤ君の参加目的を果たすのは難しそうだな」

 

 彼は髪をかき回しかけ、耳元の来訪者を思い出して手を止めた。

 

「これは専門家にお聞きしたいんですが、

 この聖杯戦争のシステムは改正できないものですか?

 あなたに協力していただき、その対価として、

 イレギュラーの今回はサーヴァントへの報酬に充てる。

 そういう選択も可能ではないのかと、門外漢は思うんですがね」

 

『今回は諦めさせるのかしら?』

 

「二百年やってて成功しないのに、そのまま継続するなんてナンセンスです。

 この二百年で、社会や技術は非常に進化しているのに。

 あなたの生前と比べて、この世界はいかがです。

 まさに魔法のような変貌ぶりではありませんか?」

 

『……貴方、私の真名を知っているわけではないでしょう』

 

「それはもちろん存じませんよ。

 だが、近代は神秘が薄れ、パワーソースを独占するために、

 魔術を秘匿し、一子相伝なんてことをしているわけです。

 こんな世情では、魔術で名を成す英雄なんて生まれません。

 ですから、あなたは魔術が魔術として語られる時代の存在だと思うわけです。

 ゆえに、魔術を使うためのエネルギーに苦労されて、

 ああいうことをせざるを得ないのではないかとね」

 

 なんとも魅惑的な忍び笑いが蝶から漏れた。

 

『まあ、本当になんて(さか)しいのかしら。

 あの年若いマスターたちとさして変わらぬ、可愛らしい姿をしているのにね。

 アーチャーのサーヴァント、私の僕にならないこと? 

 魔力不足で困っているのはセイバーだけではないのではなくて?』

 

 この言葉に苦笑いしたアーチャーは、右手で髪をかき回した。

 

「おほめいただき光栄ですが、私は本当は三十三歳の既婚者です。

 可愛いなんておっしゃられても、その、困りますよ」

 

『……つ、妻に誠実な夫が、まだいただなんて!』

 

「いやいや、どういう意味ですか、それは。

 浮気上等の既婚者なんて、大神ゼウスじゃあるまいし」

 

 不実を疑われるのは、ヤンとしても不本意だ。細めた瞳に不満を見て取ったか、蝶が謝罪の言葉を紡ぐ。

 

『ま、まあ、これは失礼。……貴方、現代に近い英雄のようね。

 私と違って、今は夫婦が誠実なのは当然だもの。なんて素敵なのかしら』

 

「あなたも色々とご苦労をなさったようですね。

 私も妻を置いてきてしまいました。

 きっと、大変な苦労をさせたことでしょう。

 せめて、それを裏切りたくはないんですよ。たとえ幽霊であっても」

 

『……貴方の妻は、きっと幸福だったでしょうね。

 そんな貴方の主に、あのお嬢ちゃんは力不足よ。

 貴方の本来の力を発揮できないでしょうに』

 

「それはさておき、とりあえず冬木の管理者としてお話がしたいんです。

 それに、墓参りの必要性もある。柳洞寺への訪問の許可をいただきたい。

 当面、我々との戦闘がなければ、あなたも魔力の搾取は必要ない。

 私たちはまず、吸血鬼と結界の犯人の排除に努めたいんです。

 悪い話ではないでしょう?」

 

『あら、私にとって、よい話だと言うの?』

 

「あなたが細心の注意を払って、魔力を集めている隣で、

 無遠慮に猟奇事件を起こしているサーヴァントだ。

 新聞に隣り合って載っていたから、私もあなたの事件の不審に気が付いたんです」

 

 蝶が再び身を震わせた。低められた声に冷気が籠る。

 

『ええ、あの下品な輩……。マスターともども忌々しい』

 

「魔力の搾取相手を選べるほどの探知能力を持つあなたなら、

 本来は攻撃も可能でしょう。

 しかし、それをしていないのは、遠隔攻撃が難しい相手だからだ。

 機動力や敏捷性に優れ、高い対魔力を持つ、だがランサーではない者。

 クラスはライダーまたはアサシン。私の推測はこんなものですが」

 

『一つを除いて当たりね。教えてあげましょうか、犯人はアサシンではないわ。

 悪趣味な結界の方も。だから私には手が出せない。

 あの女の首をはねてくれるのなら、柳洞寺への訪問は考えましょう』

 

 黒髪から蝶が飛び立った。

 

「ありがとうございます。犯人が確定しただけでも、大いに感謝しますよ。

 ただそのね、行為をやめさせる程度で勘弁してください。

 私の宝具で首をはねるのは、ちょっと無理ですから」

 

『とにかく、さっさとやめさせることね。

 訪問はその結果次第。貴方だけならいつでも歓迎するけれど』

 

 小さく様にならない敬礼をするヤンの前で、空気に溶けるように蝶の姿が掻き消えた。

 

「いやあ、すごい術だなあ。

 こういう術が使えるなら、電話に頼ろうとは思わないのかもしれないが。

 しかし、ピュグマリオンときたか。美女の石像を人間にした王と錬金術。

 そして杯の名を持つ、聖杯の担い手の母と娘。

 父には似てないのに、メイドには似てる。

 ああ、嫌だなあ。嫌な予感しかしない」

 

 ヤンは後頭部で腕を組み、寝転がった。眉間に皺を寄せてぶつぶつと呟き続ける。

 

「うう、別の事を考えよう。アサシンじゃなくてライダー。

 キャスターの言を容れるなら、女性のライダーか。

 で、人間の血を吸えるような歯を持つって、誰だろう。さっぱりわからない。

 アサシンじゃないのはありがたいな。

 ライダーなら、戦場次第でどうにかなるかもしれない」

 

 だが、すぐに起き上がった。畳の寝心地は快適とはいえない。部屋の隅に敷いてある布団に場所を移すことにしよう。

 

「やはり第三次、第四次の双方とも怪しい。

 第三次は七十年から八十年前、日本は太平洋戦争に向かっているご時世だ。

 外国人が大挙して二週間も何かやれば、絶対に人目につくはずなんだ。

 早く中止になったのか?」

 

 

 ヤンは、めくり癖の付いた戸籍謄本の束に愚痴をこぼした。

 

 

「凛の祖父が早死にしているのは痛いな。

 おまけに傍系を養子に出して、記憶が断絶してしまっている。

 いくら魔術は一子相伝といっても……。

 それだって、騙されてる可能性もあるなあ。

 秘匿に独占じゃ、他家の魔術師も結局は敵だ。

 お宅は後継者問題にどう対応していますかって訊いても、

 正直に答えないだろうし」

 

 布団と枕を用意してくれた士郎に感謝しながら、ごろりと横たわる。だが、ヤンの独白は止まらない。

 

「こんなことしなくたって、あと三百年で人は光の速度を超えるのに。

 違う星に向けて飛び立ち、新たな惑星を住居となして、銀河へ広がっていく。

 魔法がなくても、私の時代までは届いたんだ。あの万暦赤絵は」

 

 押し入ってきた憂国騎士団の、テロ行為で割られてしまったけれど。

 

「あの時、ああすればよかったを叶えたところで、英霊の『座』にある我々は不変。

 この世界につながる時間線は改変できても、

 それ以外の平行世界はそのままじゃないのか? 

 ここだって、明らかに私の世界の歴史と違うしなあ。

 ざっと二十年後に、二大国家間の全面核戦争が起こるようには思えない」

 

 ヤンの世界史では2029年に北方連合国家(ノーザン・コンドミニアム)と、三大陸合衆国(U・S・ユーラブリカ)の間で、全面核戦争が勃発した。世界は焦土と化し、多くの人や建築物、文化遺産は灰燼に帰した。

 

 その後に起こる核の冬、残り少ない人類は生存のために団結するのではなく、他者を蹴落としてでも生きる道を選ぶ。九十年にわたって内乱と紛争が続き、2129年に地球統一政府(グローバル・ガバメント)が成立する。

 

 だが、この世界は二極化していない。ここはきっと、東西冷戦が終結した平行世界だろうとヤンは推測している。

 

「なるほどね、凛の研究テーマにも、一応関連がないことはないんだな」

 

 だからこそ、初代はこんな詐術に引っ掛かったのだろう。駆け出しの魔術師を騙すことなど、造作もなかったに違いない。そしてもう一人、騙されていると思われるのは。

 

「『世界の内側』の願望はおよそ叶えられる、ねぇ。

 ふん、『世界の外側』の英霊は、結局対象外なんだ。所詮コピーだしなあ。

 セイバーが英霊になった原因によっては、勝っても利益を得られない。

 結局、あれも嘘、こいつも嘘、万能なんかに程遠い代物じゃないのかね」

 

 ヤンはもぞもぞと寝返りを打った。時臣の私服じゃなくて、パジャマを探せばよかった。

 

「じゃあ、マキリのテーマや願いはなんだろう?

 不老不死というのは協力に値するが、慎重派だと思われる当主だ。

 今回みたいな悪い条件下で、真面目に参戦しようとするかな」

 

 ヤンの思考は行きつ戻りつしながら、しかし複数の道筋をシミュレートしていく。

 

 こうして、宇宙有数の軍事的才能の持ち主が、思考と牙を研ぎ澄ませ、

同盟を組んだ者に、その一部を提供して警戒を呼び掛けた。

そこに手を出してきたところで、『彼』は所詮敵たりえなかったのである。

 

 最初に声を掛けられたのは、一晩の苦行からけろりと回復して、登校した衛宮士郎だった。右手の令呪を包帯で隠したところで、衛宮家からの巨大なエーテル反応は隠しきれるものではない。

 

 しかし、誤算だったのは、他にも出入りしている御三家の遠坂、アインツベルンのマスターだ。誰が誰のサーヴァントなのか。

 

 探りを入れるために、自分も魔術師で聖杯戦争に参加していことを告げ、学校の結界をキャスターの仕業だと言ってやったが、単純なはずの衛宮士郎は、琥珀の目をぱちくりとさせた。

 

「そっか、慎二も魔術師だったんだな」

 

「ああ、そうさ。この学校にはもう一人マスターがいる。

 そいつがこの結界の犯人さ。なあ、衛宮、僕と組んでアイツを倒さないか。

 これは遠坂のサーヴァント、キャスターの仕業だ」

 

「ふうん。なんで慎二が知ってんのさ。現場を見たのか?

 で、そいつがキャスターだなんてどうしてわかったんだ」

 

「遠坂と一緒にうろうろしていたからさ。

 三日前もあいつ学校を休んだだろう。その時に召喚したんだな。

 そいつがやったに違いないね」

 

「遠坂のサーヴァントはキャスターじゃないぞ。

 アイツは魔術なんて使えないって言ってたし。

 だいたいさ、慎二もマスターなら止めたらよかったじゃないか」

 

 士郎の反応は、冷静かつ理論的なものだった。単純な正義バカと侮っていた間桐慎二はたちまち言葉に詰まり、返事がないので士郎は続けた。

 

「それにさ、まだ教会から連絡されてないみたいだけど、

 遠坂とアインツベルン、あと俺で停戦を申し入れたから。

 じいさん、いや親父の隠し子が名乗り出てきたんだ。

 ……俺、それどころじゃないんだよ」

 

「か、隠し子!? なんなんだよそれ」

 

「なあ、慎二、どうしたらいいと思う?」

 

 困り果てた士郎に逆に相談されて、慎二の繊細な顔が引き攣った。

 

「僕が知るもんか!」

 

 当然すぎる返答に、士郎は項垂れた。琥珀の目も虚ろになり、雨雲を張り付けたような顔で、呻くように養父の不義理の実態を告げる。

 

「うん、だよな。だよなあ……。その子がアインツベルンのマスターなんだ」

 

 間桐のマスターは、驚きの声をあげることしかできなかった。

 

「はあぁっ!?」

 

「一昨日、家に乗り込んできて、正直、殺されるかと思った。

 遠坂が仲裁に入ってくれて、どうにか助かったんだ。

 でも借金のかたに、俺、遠坂に弟子入りさせられちまってさ。

 アインツベルンの子も、まだじいさんに怒ってるんだよ……」

 

「あ、ああ……」

 

「そりゃ、十年も放っといたら無理もないけどさあ!

 しょうがないじゃないか、五年前に死んじまったんだから……」

 

「……衛宮の親父さん、何も言ってなかったのか?」

 

「ああ、俺はなんにも聞いてないけど、相手が信じてくれないんだ!

 今日は今日で、放課後に学校に談判に来るって息巻いてて……。

 ごめん、悪いけど、今日はそっちを優先する。じゃあな」

 

「が、学校に談判!? なんだって、ちょっと待てよ。おい!」

 

 屋上に呼び出したはいいものの、力のない足取りで踵を返されてしまった。だが、問題はそこではない。間桐慎二は、とんでもない墓穴を掘ったのだ。

 

 果たせるかな、次の休み時間には彼の元に遠坂凛からの呼び出しが入った。

 

「間桐くん、この結界の犯人を知っているんですって?」

 

 腕組みして、優雅に微笑む遠坂の魔術師。二つ所持すれば希少という属性を、五つも所持する天才である。この時、周囲を染めていたのは炎の色と氷の温度だった。

 

「あ、ああ。キャスターの仕業だ」

 

「それがわたしのサーヴァントだと、士郎に言ったそうね。

 おあいにくさま、わたしのサーヴァントはキャスターじゃないの」

 

「し、士郎!? おい、遠坂、いつの間にそんな……」

 

「あいつはへっぽこだけど魔術師よ。我が遠坂の弟子ね。

 魔術回路を持ち、サーヴァントを召喚したわ。

 で、魔術回路のないあなたが、どうやって聖杯戦争に参加する気?」

 

「僕は魔術師だ! 魔術回路の有無なんて、魔術師としてのありかたには関係ない!」

 

「へえ、じゃあどうやってサーヴァントを召喚する気なの?

 エンジンのない車は、サイズがどうであれ模型だそうよ。

 わたしのサーヴァントによるならね」

 

 間桐慎二は、整った眉目を歪めた。

 

「サーヴァントならいるさ。来い、ライダー!」

 

 彼の傍らで、サーヴァントが実体化した。



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5章 アーチャーVSライダー
26:万能の釜


『う……うわぁ……』

 

 凛の脳裏にアーチャーの呻きが伝わる。サーヴァントの出現に驚愕したわけではない。士郎の断りも、凛の挑発も、彼がアレンジしている以上、それ自体は想定内であった。

 

 現れたライダーは、長身で女性美の極致のような肢体の持ち主だった。一点のしみも傷もない、乳白色の肌。ほっそりと長い首は、華奢ながらも優美なまろみを帯びた肩へと続く。くっきりとした鎖骨のくぼみの下には、双つのたわわな果実が実る。半面、細くくびれた腰から足へと続く曲線は、小さな円周に反比例する高さをもつ。そこから連なる手足も、長さといい、細さと滑らかさを兼ね備えた肉付きといい、男ならば魅了され、女ならば羨望することだろう。

 

 彼女の体を縁取るのは、膝を超え踝あたりまである、紫水晶を紡いだような美しい髪。卵形の輪郭におさまった彫像のような眉目は、半ば隠されているが、絶世の美貌と表現しても不足なほどだ。彼女の容貌に、ケチをつけられる人間などいないだろう。

 

 問題があるのは、体形を克明に描写できるような服装である。万事に鈍感なアーチャー ヤン・ウェンリーでさえ、動揺するような代物だった。

 

 黒と紫のベアトップのワンピースは、素肌に貼りつくようなデザインで、上下とも実に際どい位置までしか布地がない。その露出を埋め合わせるかのように、腿までのブーツと、上腕まであるレザーグローブを身に着けている。色はいずれも黒。双方に紫のベルトがあしらわれ、首にも紫のチョーカー。そして顔を半ば隠しているのが、仮面のような紫の眼帯。

 

『未成年の前では、口に出せない職業の人にしか見えない……』

 

 口に出されなくても、彼の思考が駄々漏れの凛はどうすればいいというのだ。

 

『アーチャーには完全に同意だけど、仕事着ならある意味マシじゃない?

 本人の服の趣味がコレなら、超美人なだけに痛すぎるわ。

 痴女よ、痴女』

 

 凛の内心を読み取ったのか否か、うちひしがれた様子のアーチャーが実体化した。

 

「……ひどい、あんまりだ。私の夢を返してくれ。

 全っ然、召喚に応じた意味がないよ。凛、もう帰ってもいいかい?」

 

「馬鹿言わないで。どこに帰る気よ? 『座』とか言ったら殴ッ血KILLわよ」

 

 図星だったらしく、アーチャーは口を噤んだまま、実に嫌そうな表情で間桐の主従に向き直った。だが、どちらとも目を合せようとしない。

 

「は、どうしたんだよ、遠坂。ずいぶんしょぼいヤツじゃないか」

 

 黒い瞳が、ライダーのマスターに恨みがましい視線を向けた。

 

「あなたね、そんなにショックを受けることないじゃない。

 召喚者のイメージに左右されるのかもって、推理してたんでしょ。

 間桐くんらしいじゃないの。……この変態。最っ低!」

 

 凛の口調に電撃が加わり、騎乗兵の主従を打ち据えた。次いで視線の風刃が、少年の心を切り刻む。腐ったゴミを見る目だった。

 

「なっ……僕が変態だって……!?」

 

 無言のライダーは、眼帯の下で涙ぐんだ。岩塊を頭上に落とされた気分だ。

 

「それ以外の何だって言うのよ! どこの英雄がそんな格好してるのよ!?」

 

「えーと、マスター。ランサーが、ほら」

 

「あっ……そうね。うっかりしてたわ。彼の方がまともだもの」

 

 まったく、さっぱり、ちっとも慰めにならないフォローと、同性からの厳しい査定は、ライダーをいたく傷つけた。

 

 あれよりはマシだと思っていたのに!

 

「いずれにせよ、遠坂とアインツベルン、衛宮の三家は停戦を選択したわ。

 あんたの選択肢は二つよ。私たちに同意するか、残りの陣営をまとめて

 戦争の継続を教会に訴え出るか」

 

「ちょ、本当だったのかっ? 衛宮の言ってたことは」

 

「そうよ。士郎の言葉は遠坂の言葉と同じ。

 今からでも我々に与するならばよし。敵対し、向かってくるなら叩き潰すわ。

 停戦を呼びかけたけれど、防戦をしないとは言っていないわよ。

 わたしたちに喧嘩を売る気なら、覚悟することね」

 

 小気味よい啖呵のマスターの隣、黒髪のサーヴァントは表情を曇らせたままだ。

 

「よく考えるといいわ。わたしだって間桐の長男を殺したくはないもの」

 

「そんな弱っちいヤツに、ライダーが倒せるもんか」

 

 この言葉に、ようやく凛のサーヴァントが口を開いた。

 

「君自身を倒すのと、彼女を倒すのはイコールではない。

 サーヴァントの力はマスターの力ではない。

 私のマスターの言うとおり、よく考えることだ。

 私はテロリストとは取引するつもりはない。司法取引も望ましくはないがね」

 

 慎二とさほど違わぬ年齢に不似合いな、すべてを見通すような漆黒の瞳だった。

 

「君ははじまりの御三家の一員だ。

 聖杯戦争を継続したいなら、我々以外の陣営に呼びかけをしたまえ。

 あと二日以内にね。不可能なら停戦になる。

 よく考え、ただし早急に判断することだ。

 じゃあ、凛、失礼しようか。授業が始まるよ」

 

「そうね。そんなに休んでもいられないもの。お先にね、間桐くん」

 

 颯爽と長い髪を靡かせて屋上出入口に向かう凛の背後を、実体化したままの青年が警護する。少女がドアを閉めると同時に、姿を消した。歯噛みをする間桐慎二に、ライダーは眼帯の下から冷たい視線を送る。

 

「畜生、衛宮に遠坂、僕をバカにしやがって……!」

 

「シンジ、停戦に応じたほうがいいでしょう」

 

「黙れ! オマエの意見なんか聞いてない!」

 

 あの黒髪の主従となんという差だろうか。自分の真のマスターは、青年の主にも劣らぬ資質の持ち主で、同じぐらいに愛らしく美しいのに。

 

 ――やはり、この姉様たちのおさがりは、私のような大女には似合わないのですね……。

 

 また目元に熱いものが込み上げてきた。 

 

「……そうですか」

 

 一言呟くと彼女も霊体と化す。

 

 だが、アーチャーの仕掛けた罠はこれで終わりではなかった。放課後になって、衛宮士郎の言う『親父の隠し子』が、付き添いを伴って乗り込んできたのだった。

 

 目に見える者として、金銀の髪をした美しいメイドがふたり。そして、目には見えぬ鉛色の巨人を連れて。

 

 呼び出された衛宮士郎は、藤村教諭と共に校長や教頭の前で、冷や汗をかきながら養父のことを告白することになった。

 

 必然的に、呪刻の調査を行うのは凛とアーチャーになる。アーチャーが作成した予想図は、実際の呪刻の位置とほぼ一致していた。これにより、非常に効率的にチェックと妨害が進んでいった。

 

 今日も、昏倒事件や通り魔事件のため、部活動は五時までに短縮。その間には人がいなくなる、特別教室周りを中心に回る。

 

「ちょっとぉ、いつまで不景気な顔をしてるのよ」

 

「いや、あのライダーの恰好はたしかに衝撃的だったよ。

 だがあれで吸血鬼事件の犯人でもあることがわかってしまった。

 できるだけ、サーヴァントも排除はしたくなかったんだが、

 そうも言っていられないかな」

 

 げんなりした表情の従者に、主も同じ表情になった。

 

「英雄として話を聞きたいから?」

 

「いいや、これまでの四回、望みを叶えた者はなく、斃れたサーヴァントは存在する。

 『聖杯』というのなら、特別な器に満たされた中身が重要なんだ。

 それが魔力。六十年かかるインターバルが、六分の一になったっていうのは、

 オーバーフローを起こす手前じゃないのかと思うんだよ。

 だからサーヴァントの犠牲という供給をしたくないんだが」

 

 アーチャーの発言は、色々な意味で問題だった。

 

「その魔力が残存しているから、

 インターバルが六分の一に短縮されたのではないか。

 聖杯は『さかずき』なんだ。入れすぎればこぼれる。その悪影響も心配なんだ。

 サーヴァントには肉体がある。

 魔力によって形成されているが、結局はエネルギーだろう。

 E=mcの二乗が適用されないのかと疑問に思うのさ」

 

 やや吊り気味の翠の目が真ん丸になる。

 

「え、なにそれ、アインシュタインの公式よね。何よ、急に」

 

「物質は質量に光速の二乗をかけたエネルギーに変換されるという公式だが、

 単なる公式じゃないよ。現代社会を支えている重要なものだ。

 だが、その前には不幸な使われ方をした。何か知っているかい?」

 

 二羽の黒揚羽が、連なって左右に動く。

 

「では、マンハッタン計画という言葉を聞いたことがあるかな。

 平たく言うなら原子爆弾の開発だ」

 

 人のいない教室を、沈黙の天使が旋回する。

 

「本来の私は霊体だが、実体化すれば、176センチ65キロの質量を持っている。

 バーサーカーの身長は二メートル半、体重は三百キロはくだらないだろう。

 残る五騎のサーヴァントも、相応の体格を持っている。

 これだけの質量に変換できるエネルギーたるや、凄まじいものになる。

 君は、この国に落とされた原子爆弾の核物質の量を知ってる?」

 

 凛は息を呑み込んで首を横に振った。

 

「ヒロシマ型のウランは50キログラム、

 ナガサキ型のプルトニウムは6キロちょっとにすぎないんだ。

 それも、全ての核物質が反応したわけじゃない。

 エネルギーに変換されたのは、およそ1グラムだと推定されている」

 

 寒気がしてくるような講義だった。ヤン・ウェンリーは戦史では学年一の優等生だったのだ。

 

「サーヴァントは魔力で形成されているが、

 それでも一定の物理法則には縛られている。

 宙に浮いたり、あちこちに瞬間移動したりはできない。令呪なしではね。

 この物理法則にも、当てはまらないとは言い切れない。

 我々のエネルギーを合計すれば、どのぐらいの破壊力になると思う?」

 

 凛には答えられなかった。

 

「第三次の戦争が終了するまでに、

 何騎かのサーヴァントは脱落しているんじゃないか。

 そして、前回は少なくとも五騎だ。もう器が一杯ではないのかな。

 エネルギーとは、多ければいいというものでもない。

 きちんと制御することのほうが、ずっと重要なのさ。

 十年前の大災害は、溢れた聖杯の中身のエネルギーによるものかもしれない」

 

 歴史学や社会学の次は、軍事知識と物理学。このアーチャーは、多彩な弁舌の矢を放つ。 

 

「だから私は、それが判明するまでは滅多なことをしたくない。

 聖杯戦争の孤児である君たちが、新たな加害者となってはいけないんだ」

 

「ちょ、ちょっと、どうしてそんなことを思いついたの!」

 

「いろいろと考えたんだよ。聖杯とは何なのだろうとかね。

 キリストの血を受けた杯、あるいは万能の願望機、魔力の釜。

 では、魔力とは何か。それで形成されたのが我々サーヴァントだ。

 物質でないなら、さっきの公式は適用されないが、まだ厄介な疑惑がある。

 目に見えぬものがエネルギーを持ち、目に見える姿になると言うと、

 君は何を連想する? 身近にあるもので」

 

 凛は一瞬眉を寄せたが、すぐに答えた。ここは調理室、答えは実習机についている。

 

「やっぱり、ガスの炎とかかしら」

 

「ご名答。私が連想するのとはやや異なるが、炎もプラズマの一種だ」

 

「ぷ、ぷらずま?」

 

「私の時代だと、そいつは核融合炉で生成される。太陽の中心核と同じ環境でね」

 

 凛にはまったく理解ができなかったが、現代においては研究の端緒がついたかどうかという、次世代エネルギーである。簡単に言えば、太陽の中心核とおなじ環境を作るのだ。十億度を超える超高温の世界。そこで水素原子が融合し、ヘリウム原子が生成される。その高温を生みだすのがプラズマである。これを封じ込め、コントロールするのが核融合炉だ。

 

「プラズマが生み出す超高温によって、

 核融合が起こり、莫大なエネルギーが発生する。

 それを収める容器は尋常なものじゃない。

 超伝導によって強力な電磁場を作り、十億度に達する熱を封じ込めるんだ」

 

「聖杯が、その、核融合炉みたいなものだってこと……?」

 

「いいや、聖杯じゃなくて、その器が」

 

 膨大な魔力を受け止めることになる器とは、どんなものなのだろう。セイバーが一瞬目にしたのは黄金の杯だったという。だが、聖杯は霊体であるとも聞いている。単純に金属の器に入れられるのか。

 

 儀式の最も重大な秘密を握っているのはアインツベルン。他の者が戦いに勝っても、儀式が成功しない理由だ。ヤンはそう睨んでいる。

 

「『天の杯(ヘブンズ・フィール)』、杯はフィール。

 アイリスフィールとイリヤスフィール。

 キャスターは、イリヤ君たちをピュグマリオンの末裔の作だと言った。

 正直、嫌な予感しかしない」

 

「なっ……。あんたじゃないけど、順を追って話してちょうだい。

 キャスターの話って何よ!?」

 

「キャスターとつなぎが付いたんだよ。

 彼女は結界と通り魔と一家殺人は、自分とアサシンが犯人じゃないと言った。

 その時に、そんな話が出たんだ」

 

 凛はほぼ頭ひとつ上にあるアーチャーの顔を睨んだ。

 

「あんたね、そういうことは先に言いなさい!」

 

「士郎君とセイバーには、今は余計な情報は与えないほうがいい。

 ああいう、正義感と義務感が強いタイプは、ひたすらに邁進する恐れがある。

 イリヤ君という、心を繋ぎ止める錨の存在に馴染むまで時間が必要だ」

 

「もう、そうかも知れないけどね。わたしには言えるでしょう」

 

「君もけっこう、態度と顔に出るからねえ。

 事後報告ですまないが、ライダーのマスターに会うには伏せておく必要があった。

 さて、吸血鬼事件だが、ランサーが犯人でない理由は言っただろう」

 

 凛は不承不承に頷いた。

 

「ええ、あんな容貌の若い男が夜道に現れたら、みんな逃げ出すってことでしょ」

 

「こいつは仮説のひとつとして聞いてほしい。

 あの格好は確かにすごいが、私やセイバーと同じことができないわけじゃない。

 たとえば、ロングコートを着て、眼帯の代わりにサングラスをかける」

 

「夜にサングラス?」

 

「まあ、包帯でもいいさ。そして手に白い杖を持つんだ」

 

 凛は目を見開き、口を両手で押さえた。

 

「あんなに美しい、目の不自由な外国人女性が夜道を歩いていたら、君ならどうする?

 男が鼻の下を伸ばすより、同性のほうが心配して声をかけ、大丈夫かと尋ねないか?

 そこでつまづいたふりでもすれば完璧だ。

 助け起こそうとしたところを……」

 

「襲うってわけね」

 

「漠然とだが、新都の吸血鬼は美しい、

 人を誘惑できる存在じゃないかと思ってはいたんだ。

 若い男女が共に被害者だし、これだけ報道されているのに、

 通り魔とは思いつかないような容姿なのでは、とね」

 

「たしかにね。ランサーやバーサーカーじゃみんな逃げるわ。

 あんたからは逃げないでしょうけど、寄ってくるかといえば」

 

「セイバーやライダーのような存在だろう?

 だが、セイバーには時間的に不可能な犯行だ。

 そしてキャスターとアサシンではないなら、そういうことになる。

 キャスターの言葉が真であると仮定したうえで、

 物的証拠も目撃証言もない、状況証拠と消去法による不完全なものだがね」

 

 猫背気味で元気のない足取りのアーチャーだが、頭脳と弁舌のほうは澱みがない。調理室を出て、隣の被服室へと移動する。予想図では、呪刻が集中している部屋だった。

そして予測どおりに、あるわ、あるわ。床と四方の壁に呪刻がびっしり。

 

「――セット」

 

 凛は、廊下側の壁の呪刻に魔力を流した。そして、次の呪刻に歩を進めようとして、壁に貼られた『衣服の歴史』が目に入ると、疑問がむくむくと湧き上がった。

 

「それにしても、あれどこの英雄よ?」

 

「そんなの私が知りたいよ。ありえないだろう、あれは! 服飾史的にも!」

 

 壁の資料を指差して、アーチャーは小声で喚いた。凛もまじまじとそれを読む。

 

「彼女が着ているのが革や絹なら、ああいう体にぴったりするデザインは、

 その図表にある、ビクトリア朝あたりの服みたいにしないといけないんだ」

 

 まだしも近いのが、後ろボタンの細身のドレスだろうか。スカートの長さが全然違うが。ブーツは男性の乗馬服が参考になる。こちらも腿までの長さはないけれど。

 

「あら、どうして?」

 

「脱ぎ着ができないんだ」

 

 凛は、ビクトリア朝の紳士淑女の装いを注視した。そして、ライダーとの相違点に気づく。

 

「たしかに、こっちのは紐で編み上げにしたり、スリットを沢山のボタンで留めてる。

 ああ、こういうのって脱ぎ着するためなのね。デザインだと思ってたわ」

 

「着脱の利便も、デザインに取り入れるのさ。

 人間ってのは貪欲に工夫するんだ。どうせなら見栄えがいいほうがいい」

 

 凛は素直に頷いた。

 

「うん、わかるわ。セイバーのドレス、今見ても素敵だもの。

 着替えのときに鎧を解いたところを見たんだけど、

 胸元からウェストが編み上げになってたわね。あんたの言うとおり」

 

「ゴムやファスナーみたいな便利なものがないからさ。

 化学繊維の編地のような、伸縮性の高い布もね。

 そのせいもあって、貴族には召使が必要だったんだよ。

 この図の服だと一人じゃ着られないだろう?」

 

 襟首から腰の下まで、びっしりと真珠のボタンが並んでいた。後ろ手ではめたり外したりは、たしかに無理があるだろう。

 

「へえ、贅沢というだけじゃなかったのね」

 

「セイバーの鎧も、本物ならば一人では着られないよ。

 一方、私たちの時代の装甲服は自分で着脱できる。

 技術の差が服装に現れ、歴史とも密接に関連するんだ」

 

 壁の年表によれば、そうした素材が全部揃うのは、二十世紀中盤以降だった。繊維工業が発展し、平和が訪れて、石油や金属を豊富に使えるようになっての産物だ。

 

「たったの四、五十年前に、こういう高度な結界の魔術を使える存在がいたのかい?」

 

 凛は無言で首を振った。

 

「そうだろうなあ。コピーの不具合か、伝説と実態は異なるのか。

 いずれにせよ、髪と瞳などに逸話を持つ、普通の人間ではない存在。

 で、騎乗するものとの関連がなくてはならない。

 ギリシャ神話の人名、首を刎ねるというのも、多分キャスターのヒントだ。

 該当者がいなくはないが、なんでライダーなんだろう」

 

 顎に手をあてて渋い顔をするアーチャーに、翡翠の瞳が再び丸くなった。

 

「うそ、そんなこと何から思いついたのよ?」

 

「ライダーが吸血鬼なら、歯が人間よりも鋭いはずだ。

 そして、あの長い髪。個人差が大きいが、

 人間の髪の寿命では、あんなに長くはならない」

 

「そんなことないでしょ。平安絵巻なんかどうなるのよ」

 

 凛の反論に、アーチャーは凛の顎の下あたりの高さに手を置いた。

 

「そのころの女性の平均身長は、百四十センチあるかないかだよ。

 そして、正座に近い姿勢で、膝で歩いたんだ。

 身長から半分近い高さがマイナスになる」

 

 そこから更に手を下げる。凛の腰ぐらいの位置まで。

 

「凛より二十センチ背の低い人の正座だ。君の髪の長さでも床に届くだろう?」

 

 凛は頷いた。髪型ほど、女の子の好みが出る部分はない。凛も腰あたりまで伸ばしているが、これは手入れの都合もあってのことだ。とはいえ、伸ばしっぱなしにしても、髪の長さには限界があるらしい。

 

「でも、ライダーの身長は、私とそう変わらない。

 色はさておくとしても、あの長さは人間にはありえないよ」

 

「……あんたってつくづく物知りねぇ」

 

 凛の賞賛に、アーチャーは肩を竦めた。

 

「こんなの雑学のたぐいだよ。

 歴史学者は、これぞというテーマを選び、注力しなくちゃ一流にはなれない。

 広く歴史の流れを知りたいなんて考えると、どうしても水深が浅くなる。

 もしも歴史学者になれたとしても、いいとこ二流で終わったろうなあ」

 

 雑談の合間にも、地図の位置を彼が指し示し、凛がほぼ予測の場所に呪刻を見つけて魔力を流していく。

 

「英雄にはなれなかったってわけね」

 

「そりゃそうだ。戦争の才能ってのは非常の才の最たるものだ。

 平和なこの日本で、平凡な生活を送っている人に眠っているかもしれない。

 でも、そんなものを知らない時代や世界のほうがずっといいよ」

 

「わたしこそ、あんたの時代の想像なんてつかないわ」

 

 凛は言葉を切って集中する。左腕の魔術刻印が、仄かな光を放ち魔力を流していく。

 

「これでよし。アーチャー、あと何個ある?」

 

「ここまでで四十個。残りは推定で最少が三十二。最大数は見当もつかない」

 

「ああもう、キリがないわね!」

 

 ヤンは青丸の一つを赤で囲んだ。赤丸は十数個、二色の二重丸は二十数個。彼もうんざりするが、マスターをなだめる方に回った。これも参謀の役割である。

 

「だが、魔方陣を構築する基点の、複数の交点となりそうな部分は潰せたと思う。

 術を起動させようとすると、かなり時間を食うようになってると……いいんだが」

 

「頼りないわね……」

 

「そんなこと言われても、私には未知の技術だからなあ。

 この結界とやらのシステム、君にわかるかい?」

 

 凛の柳眉が鋭角を描いた。

 

「悔しいけど、無理!」

 

「だからさ、こうやって地道にやるしかないんだ。

 相手が諦めてくれると一番楽なんだが、君と誰かさんとの根くらべだね」

 

 と言いながらも、それは望み薄だとヤンは思っている。一番頭にくるのは、この施術者だろう。あるいはそのマスターか。

 

 アインツベルンのマスターと同席している衛宮士郎。彼または彼女の従者である金髪のサーヴァント。霊体化しているだろう、もう一騎のサーヴァント。彼らを取り巻く学校の管理職と担任教諭。

 

 一方、姿を見せている遠坂凛と黒髪のサーヴァント。停戦の中核となっているが、サーヴァントの能力は軒並み低い。さて、どちらを狙う?

 

 それは当然弱い方だ。ほいほいと襲撃を仕掛けてくるか。これを誘いと看過して、見え透いた手には乗らないか。いや、誘いと知りつつも倒せると踏んで、やはり戦いを選択するか。 言語化したヤンの第一希望は、もっとも可能性が低いと思うのだ。

 

 教室内の呪刻を処置し、警戒しながら廊下の出入口の戸を開いたヤンは口の中で呟いた。

 

「ほうら、おいでなすった」

 

 凛に室内にいるように心話を送り、彼は扉から半歩だけ体を出した。廊下の端に、長い髪の女性が佇んでいる。そこが、凛が仕掛けた霊体化防止結界のボーダーライン。

 

「何のご用かな、ライダーのサーヴァント。

 ひょっとして停戦の申し出かい? あるいは、この結界の除去の協力かな?」

 

 返答は、両手に現れた長い釘のような、鎖のついた短剣。

アーチャーもポケットに手を入れた。

 

「残念だ。どちらでもない、ということか」

 

 ポケットから抜き出した手には、黒光りする銃。安全装置を解除して、立射姿勢をとる。

 

「では、これが最後の警告だ。投降せよ、しからざれば発砲する」



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27:嚆矢

「では、これが最後の警告だ。投降せよ、しからざれば発砲する」

 

 降伏勧告への返答は、唸りを立てて投じられた短剣だった。だが、被服室の戸口の枠を粉砕しただけに終わった。ひょいと首を引っ込めただけで、アーチャーはあっさりと一撃を回避したのだ。再び廊下に突き出された銃は、位置を低くしていた。立座位姿勢から引き金が引かれる。

 

 光の()が、狭い廊下を席巻してライダーに殺到した。

 

「くっ……」

 

 ライダーから苦鳴が上がった。魅惑的な肉体の、そこかしこから鮮血が滴っている。

回避は不可能だった。彼女がいかに敏捷を誇ろうとも、精々音を置き去りにする程度の速度しかない。一方の光線銃は文字どおりの光速だ。いかにヤンの射撃が下手でも、遮蔽物のない直線通路では関係ない。

 

 下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる。これは全くの真理であるが、現実の光線銃にはエネルギーに制約がある。不器用なヤンはエネルギーパックの交換が大の苦手で、かなり減点を食らったものだ。だが、今は供給豊富なマスターの魔力でそれを気にしなくていい。そして、同じ武器で撃ち返す相手ではない。

 

 これなら負けるはずはない。――人間が相手なら。しかし、相手は人間でないサーヴァントだ。ライダーの傷は、見る見るうちに消滅していく。

 

 アーチャーはわずかに顔を顰め、独語する。 

 

「厄介だな。急所に当たらないと死なないってのは、このことか」

 

 アーチャーの戦闘行為に、凛は息を呑み呆然としていた。弱い、射撃が下手と自称していた彼だ。しかし、それを覆す手段を構築していたのだ。自分でも戦える戦場を設定して、相手に攻めさせる。それが処刑台への十三階段と気付かせることなく。

 

 この四階は、結界の予想図の外周円の頂点付近にあたる。呪刻がそこかしこに配され、凛が今までせっせと魔力を流している。廊下には、人払いと霊体化防止の結界も施した。

 

 特に、立てこもっている被服室は、天井以外のすべての面に呪刻がある。そして、屋上の呪刻の真下だ。霊体化すると無機物をすり抜けられるが、魔力の込められたものはその限りではない。魔術基盤である地球そのもの、地面には潜れないように。

 

 ライダーは、教室の前後にある出入口以外から、この部屋には入れない。女性二十人の体重の動物というと、大型種の馬に相当し、腕力もそれに準ずるだろう。人間が殴られたらひとたまりもないが、鉄筋コンクリートの壁を壊せるほどのものではない。そして、ヤンが陣取るのは、ライダー側の出入口。凛を守るための布陣だった。

 

 炭酸飲料のタブを何個も開けるような音がして、再び放たれる光弾。ホースで水播きでもするかのように、遠慮のない乱射だった。ライダーはたまらずに跳躍し、いくつか被弾しながらも壁を蹴り上がり、天井を蹴って、また反対側の壁に。変則的な軌道を描いて、アーチャーへの距離を詰めようとする。

 

 神秘は神秘に打ち消される。千六百年後の武器と、それ以上に現代から時間を隔てたライダー。レーザー光線に変換されているとはいえ、そのエネルギーは凛の魔力。対魔力の高い彼女には決定打になりえない。

 

 しかし、光というのが、アーチャーが意図したわけではない、ライダーにとっての弱点だった。影の島の魔物、蛇の眷属である吸血種を貫く白光の矢。

 

 戦いには相性というものが存在する。ライダーにとっては、この弱いアーチャーは最悪に近い相手だった。弓矢を射るのではなく、光の魔弾の射手。攻撃動作に必要な空間は極端に小さく、攻撃範囲は広く、抜群の連射性能だ。

 

 鎖つきの短剣の射程距離はたかが知れている。投擲武器としてはお粗末だ。なにより彼女は武人ではなく、遮蔽物の陰から見え隠れする、アーチャーに中てる技術を持っていない。

 

 しかし、それでも銃の威力不足は否めなかった。ブラスターは、人間を殺傷できるだけの出力しかない武器だ。宇宙戦艦の内部で、機体や機器を損傷しないようにしてある。金属を溶解、切断することはできない。

 

 ライダーはすぐさまそれに気がついた。短剣で顔と胸元、二つの急所をカバーし、敵手へと迫る。

 

 ヤンの最大の賭けが見事に当たった。ライダーもまた、宝具に依存するクラス。

彼女がかの英霊ならば、その乗り物は屋内での使用に適さない。ゆえに飛び道具が天敵だと。銃撃をあえて防御させ、手を塞ぐ。あからさまに怪しい眼帯に触る(いとま)を与えないように。

 

 飛びまわるライダーを追いそこねた光線が、壁や天井を削る。しかし、命中したものも両手の指を超える。満身創痍でもライダーは怯むことなく、アーチャーの頭上に達し、天井を蹴るや頭上から襲い掛かった。

 

 黒いベレーを乗せた黒髪が一瞬で霊体化し、現れたのはいま一人の黒髪の魔術師。くっきりとした翡翠の瞳に、鋭い輝きを乗せ、形よい唇が力ある言葉を放つ。淡青のアクアマリン、透明と深青のサファイアを投じながら。

 

「――七番、八番、六番、冬の河!」

 

 水の檻がライダーを取り巻き、白く冷気を立てて瞬間的に凍りつく。その威力はAランクに達した。ライダーの対魔力をもってしても、完全には防げぬ攻撃。

 

 ヤン・ウェンリーの思考誘導は、英霊にも完璧な効果を発揮した。マスター狙いを匂わせて、ライダー単騎での襲撃を余儀なくさせる。決定打にはならない飛び道具、そしてアーチャー自身は弱い。接近戦に持ち込めば彼は敵ではない。そう思い込ませるミスディレクション。

 

 だが、本命はマスターの宝玉の一撃。視界の共有と心話という情報伝達が可能にした、黒髪の魔術師ふたりの十字砲火(クロスファイア)

 

 ライダーは声もなくのけぞった。その紫と黒の妖艶な姿を、純白が侵食していく。アーチャーが淡々と告げた。

 

「さて、君のマスターに言ったように、私の力とマスターの力も関係ない。

 しかし、聖杯戦争はチーム戦だ。

 君のマスターは君の危難を救ってくれないようだね。

 ではさようなら、ライダーのサーヴァント」

 

 制式銃が背後から延髄に押し当てられる。引き金にかかった指に力が篭る。そして、ライダーの姿は消失した。

 

「やったわ!」

 

 歓声をあげる凛に、ヤンは首を振った。

 

「いや、違う。令呪による転移だ。まだ撃ってなかった」

 

「何ですって!? あんたがモタモタしてるからよ!」

 

「いやあ、ごめん、ごめん。ただね、収穫もあった。

 あの凍りついたライダー、どうやったら解凍できるんだい?」

 

「それは、わたしの魔術を解くか、時間を待つしかないわ。七、八時間ぐらいはね。

 あんたが、簡単に解除できず動きを止める魔術を使ってくれって、

 言ったとおりにしたんだから」

 

「温めれば溶けるってものじゃないんだね」

 

 凛は眉を吊り上げて、頼りない従者を叱りつけた。

 

「あたりまえでしょう! 霊体のサーヴァントに通用する術よ。

 お風呂に突っ込んでも溶けたりしないし、

 そこらの魔術師にも解除はできないようにしたわ。

 半端な術じゃ、ライダー自身の対魔力に弾かれるしね」

 

「でも夜中までには解けてしまうんだろう?」

 

「それで充分よ。最後のほう、傷が消えなかったでしょ?

 アーチャーが、随分魔力を消耗させたからだわ。

 そして、私の魔力に覆われている間は、マスターからの魔力供給はできないの。

 魔術が解けるのが先か、ライダーが魔力切れで消滅するのが先か。

 ギリギリのラインよ」

 

 アーチャーは感心して頷いた。

 

「すごいなあ。そいつを自称魔術師の慎二くんが解けるかどうか。

 無理なら令呪を使って、ライダーの対魔力を底上げするだろうが、

 決断が必要になる。二つ目の令呪の使用だ」

 

 ライダーを消滅させることはできなかったが、実質的に行動不能に追い込んだのだ。

 

「でも、間桐臓硯がどう出るか……あいつは五百年も生きてる化け物よ」

 

 アーチャーは首を振った。

 

「それはむしろ彼の問題になる。君が気にしても仕方がない。

 今日はこれでよしとしよう。彼らにも選択肢を残したということさ。

 令呪を使って君の術を解くか、君に詫びて我々の陣営に下らせるか。

 あるいは、誰かほかの魔術師に頼むか、

 ライダーの消滅を待って他のサーヴァントと組むか」

 

「うう、もう一個使って完全に止めを刺すようにすべきだったんじゃないの?」

 

 ふたたびおさまりの悪い黒髪が振られた。

 

「いいや、マスターの選択肢を増やすのは、こちらにとって有効な手段だ。

 ライダーが死ななかったからこそ、令呪をどう使うかと迷うことになる。

 最後の選択肢は現実的ではないからね。

 間桐慎二が他のサーヴァントと組むには、マスターのみを斃さねばならない。

 ライダーの戦力なしには不可能だ」

 

 ジェンガのように積み上げられた、重層的な罠だった。取れると思いこませ、手を出した敵の頭上へと集中砲火が叩きこまれる。ヤン艦隊司令官の十八番だ。

 

「ライダーを見殺しにし、君を倒して、手に入るのが私では割に合わないよ。

 咄嗟に令呪を使ってしまったぐらいだから、そんな思い切った手は打てないさ。

 衛宮陣営とアインツベルン陣営に注意喚起を行い、

 あと十日あまりの防衛に成功すれば、君にとっての勝利は変わらない。

 魔術を解いたとしても、マスターは魔力を供給しなくてはならない。

 相当な魔力の喪失だというなら、今夜は吸血行為をする余裕はないだろう」

 

 敵の退路を、掘削機で削りにかかるヤンだった。無辜の市民に重症を負わせている相手だ。聖杯に不備があるのではないかという懸念さえなければ、斃してもいいと思っていたほどだ。

 

「さて、凛。戦いは終わったが、この壊れた部分、どうすればいいかな?」

 

 凛は士郎の電話番号を押した。高齢者向き携帯の登録ボタンに、同盟者のマスターの番号を割り振りしたおかげだ。やったのはアーチャーだが。

 

「士郎、話は終わった? じゃあ、師匠としての命令よ。

 穂群原のブラウニーの活躍に期待するわ。

 脚立と修理道具一式を持って、四階被服室前に来なさい。

 なんでさ、ですって!? 

 あなたたちが談判している間に、ライダーと闘ってたのよ!

 虎の子も放出したんだから! つべこべ言わずにさっさと来る!」

 

 言うだけ言って携帯電話を切る凛に、呑気な声で質問が投げかけられた。

 

「うーん、こういうの、魔術でぱっと直せないのかい?」

 

 もしも視線に物理的な力があるのなら、アーチャーの頭部は消失していたことだろう。

 

「本当ならそれぐらい出来るわよ! 

 これだけ呪刻に魔力を流して、そのうえ、

 あんた、自分がどんだけ魔力をバカ喰いするかわかってんの!?

 さっさと引っ込んでてちょうだい」

 

「は、はい、マスター。悪いねえ……」



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閑話5:メイドとサーヴァント

メイド【英】小間使い
サーヴァント【英】家僕


 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンとその一行は、アーチャーの依頼を果たすべく、家電量販店に繰り出した。銀髪紅眼の美少女が一人、美女が二人。金髪翠眼の美少女が一人。その目立つことときたら。平日の日中で、客の少ない時間の来訪なのは、店にとって幸いだった。

 

 そして、この美しい外国人女性たちが、日本語に不自由していないこともだ。

 

「すーごい、色々なケイタイがあるのね」

 

 外見上の最年少者が、大きな瞳を輝かせる。本物のルビーにも勝るほどに。

 

「リンはどんなのにしたのかな?」

 

「遠坂様と同じ物になさいますか、お嬢様?」

 

「セラ、どれがそうなの」

 

「機種をうかがってまいりました。ええと、あ、あちらですね」

 

 少し離れたコーナーにある、シンプルな外観の携帯電話だった。

正面に配置された最新機種よりも、やや大ぶりでボタンの数も少ない。

壁のポップには『初心者の方、ご高齢の方にもおすすめ!』の紹介文が。

 

「……これ、おじいさん、おばあさん用のなの?」

 

 ぽつりと言った主人に、セラは礼儀正しい反論をした。

 

「初めての方にも使いやすい、ということで選ばれたのではないでしょうか。

 アーチャー様がお使いになる場合もあるでしょうから」

 

「どうする、イリヤ」

 

「リズ、様をつけなさい」

 

 メイド二人のやりとりに、白銀の頭が傾げられる。

 

「これも悪くないと思うけど、さっきのみたいにキレイな色のがないわ。

 赤だとリンと一緒になっちゃうもん。違うのがいい。あ、あれがかわいい!」

 

 イリヤが指差したのは、キッズ携帯と書かれたコーナー。しかし、セラは首を振った。

 

「旅行中などの短期間ならば、プリペイド携帯というものがよいそうですわ。

 それには専用の機種があるようです。

 とりあえず、そちらになさってはいかがでしょうか」

 

「えー、こっち? あんまりかわいいのがないじゃない」

 

「これが終われば、一旦、ドイツにお帰りになるのですから」

 

 セラの言葉に、少女は目を見開いた。

 

「ドイツに帰る……なぜなの?」

 

 イリヤは、聖杯の器として形作られ、生まれ、生きてきた存在だった。五十年も繰り上がった聖杯戦争に参加するべく、さらに急遽調整されたホムンクルス。この戦いの勝者となれば、小聖杯となるだろう。よしんば聖杯が降りなくても、長い命ではない。

 

【昨晩、旦那様にアーチャー様のお考えをお話ししました。

 驚いておいででしたわ】

 

 キャスターとして第三魔法の魔法使いを召喚し、協力してくれる魔術師を参加させ、

サーヴァントを令呪で自殺させればいい。

 

 あるいは、不老不死となって存命かもしれない魔法使いを探し出す。おおむね平和な、情報が行き渡る社会となった今、全世界に訪ね人をするのも可能だろうと。

 

【それは、アハトお爺さまも驚くだろうけど……】

 

【今回は無理をせず、あの方のお考えを詳しくお聞きするようにとのお言葉です。

 無論、お嬢様には勝ちぬくお力がありましょうが、

 その方法も視野に入れるとなると、

 この先もお元気でいていただかなくてはなりませんから】

 

 それは、次回への布石として、イリヤの体を再調整するというものだった。アインツベルン千年の歴史が生んだ、奇蹟の存在。アーチャーの考えを聞かされてみれば、イレギュラーの今回で使い潰すのは惜しくなる。

 

 六十年以内に訪ね人が見つかれば、小聖杯としての魔術特性を持つイリヤは、魔法使いの後継者にうってつけだ。

 

 見つからなかった場合には、次回の聖杯戦争で、アインツベルンの魔法使いを召喚するのだ。第六次のキャスターのマスターとなれるように、より高度な調整を行う必要がある。小聖杯になって、意識や知能を喪失してしまうと、魔法を継承できないからだ。

 

 並行して、新たな戦略を練らなくてはならない。次回のキャスターを、アインツベルンの魔法使いとするなら、この冬木の霊脈に拠点が必要になる。遠坂家の協力が不可欠だ。

 

 そして、第三魔法が不明である以上、聖杯の器をホムンクルスにするのは疑問である。第三魔法の使い手が、自ら望む形に器をアレンジをするかもしれない。ホムンクルスの調整は、聖杯戦争の二週間程度でできるものではない。だとしたら、無機物の方が適している。

 

 アーチャーの言葉をきっかけに、様々な検討が必要となったのだ。

 

 それは、イリヤが一般人の天寿に近い年月を生きられるということだ。セラの密やかな願いだった。彼女はイリヤの教師となるために調整されたホムンクルスだ。高い知性と母性的な性格を持つように作られている。

 

 だが作りものでも、姉のように、母のように、主人の幸福を祈っている。ユスティーツィアに連なる、アイリスフィールに続く存在だからだろうか。

 

【ほ、ほんとうなの】

 

 セラは頷くと、イリヤの耳元に囁いた。

 

【はい、そしてできれば、あの方をお引き留めするようにとのことです。

 お嬢様以外には不可能ですわ】

 

 若き天才の遠坂凛をして、魔力を馬鹿食いするというアーチャーだ。聖杯のバックアップがなくなったら、彼女でも受け止めきれないだろう。

 

 だが、冬木から遠いアインツベルンで、三か月もの間ヘラクレスと暮らしたイリヤなら? 彼は本当はとても格の高い英霊だ。それでも多分可能だろう。

 

 凛のアーチャーを、どうやってイリヤのアーチャーにするかという難題が立ち塞がるけれど。彼のマスターに危害を加えて奪い取ったり、バーサーカーを非道に死なせたら、きっと協力してくれない。座に自分で帰ってしまうだろう。だから、味方にしなくっちゃ。

 

「うふふ、おもしろいわ。それって、リャクダツアイよね」

 

 知らない単語に無表情に首を傾げるリズ。身に覚えのある言葉にへたりこみそうになるセイバー。セラは目を伏せて、厳かに家庭教師としての役割を果たした。

 

「お嬢様、藤村様のお宅でテレビをご覧になるのは禁止します」

 

「えーー、ひどーい! おもしろいのに」

 

 あがる不平に、リズがぼそりと呟いた。

 

「テレビじゃなくても、今日学校で見られる。それもイリヤ……様が主役」

 

「もう、リズったら、ああいうのはテレビだからおもしろいの」

 

「たしかに。本当だと笑えない」

 

 イリヤは唇を尖らせ、セラは瞑目してこめかみを揉み、セイバーは棚に取りすがってなんとか身を支えた。

 

「あら、セイバー、顔色が悪いわよ。そんなことで大丈夫なの?」

 

 棘はたっぷりと生えていたが、仮の主人からの労わりの声。イリヤからの初めての歩み寄りだった。

 

「な、なんでもありません……。

 いいえ、申し訳ありません、イリヤスフィール。

 私が不甲斐ないばかりに……」

 

 前回に勝っていれば、いや、アイリスフィールを守り切れていれば。忸怩たる思いで一礼するセイバーに、セラからの厳しい叱咤が飛ぶ。

 

「あなたも様をつけなさい、セイバー。

 今のあなたはアインツベルンの使用人なのですよ」

 

「は、はい……」

 

 セイバーは、アインツベルン陣営に出戻った格好だ。『先輩』らの態度は、大事な令嬢の母を死なせた者に対して、むしろ寛大だといえよう。

 

 ――しかし、これはきついです。これでも仲良くしなさいというのですか、アーチャー……。

 

 答えは聞くまでもなく、『うん』に違いない。このメイド稼業に関しては、自分のマスターである衛宮士郎が最大の賛同者だ。もしも、取りなしてくれる者がいるとすれば、アーチャーのマスター 遠坂凛しかいない。 

 

 みんなに真名を明かして、助けを求めた方が楽ではないかと思い始めるセイバーだった。

 

 それは、穂群原学園で昼ドラ上演が始まる五時間前の物語。



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28:戦い続いて日が暮れて

 凛が電話してからほどなくして、衛宮士郎とイリヤスフィール・フォン・アインツベルン、二人のメイドもやってきて、戦いの痕跡に目を瞠った。

 

「なんだ、これ? どうしてこんな跡が付いたんだ」

 

「アーチャーの宝具よ。教室の戸口を壊したのはライダーだけど」

 

「服が昔っぽくない英霊だったからなあ。ひょっとして銃の跡か?

 でもなあ、天井まで傷がついてるぞ。

 俺じゃ、あんなところまで板の張り替えはできないし……」

 

 顎に手を当てて思案する士郎に、凛とイリヤは目を丸くした。

 

「え、修復の魔術は使えないの?

 こういう無機物の扱いって基本じゃない。

 せっかくスイッチができたんだから、使ってみるいい機会でしょう」

 

「そうよ、ヘンなの。

 シロウのししょーの命令なんだから、魔術でやりなさいってことよ」

 

「へ? だから俺、解析と強化ぐらいしか使えないんだ」

 

 二人の少女は顔を見合わせた。

 

「ねえ、衛宮切嗣さんのお嬢さん。あなたのお父さん、どんな魔術師なのよ?」

 

「だからわたし、よくしらないもの。

 リンこそシロウのししょーでしょ。いまから教えればいいじゃない」

 

「冗談。呪刻の処置とアーチャーのせいでそんな余力ないわ。

 だから士郎を呼んだのに、あてが外れちゃったなぁ。

 機械いじりは得意だって聞いてたけど、この穴はそういうわけにはいかないし」

 

「いや、その、故障したとこを調べるのには解析の魔術を使ってたんだけどさ……」

 

 士郎は頭を掻いた。

 

「これは解析はいらないけど、こんなにあちこちの壁や天井の張り替えなんて無理だ」

 

 凛は溜息をついた。

 

「あんたね、その解析の度に命がけで魔術回路を生成してたわけ?

 それで、あんなにあれこれ修理してたの? 馬鹿じゃないの」

 

「な、馬鹿ってなんだよ、遠坂!」

 

「リン、シロウを愚弄するとは、聞き捨てなりません!」

 

 金髪のメイドが眉を逆立てる。凛は、弟子の従者に取り合わなかった。

 

「セイバーは黙っててちょうだい。これは魔術師としての問題だから」

 

 彼女の前の主にこそ言ってやりたいが、いない相手にぶつけても仕方がない。魔術師は血を流し、死を許容するものとはいえ、限度がある。士郎には、みっちりと危険を教えていかなくてはならなかった。

 

「……ねえ、士郎、あんたの命は、おとうさんに助けてもらったものよね」

 

「あ、ああ」

 

「それを古いエアコンやストーブと、引き替えにしていいのかって訊いているのよ。

 失敗したら死んでいたって、わたしが昨日言った意味わかってるのかしら。

 あんたが修理中に変死していたら、どうなったと思うの?

 本当に誰かの役に立つのか、よく考えてみなさい」

 

 士郎は琥珀の目を見開き、師である黒髪の美少女を凝視した。言葉もない少年に、凛は頭を振った。

 

「出来ないなら、この修理はやめにしましょ。

 教会に停戦勧告をせっつきながら、直させるようにするから。

 それがあいつの役割なんだしね。

 これまでサボってた分、こき使ってやるんだから」

 

 今度は後見人に電話をし、用件を一方的に伝えると通話を切る。 

 

「じゃあ、帰りましょうか。もう、本当に燃費が悪いんだから」

 

「って、勝ったのか、遠坂?」

 

 士郎の前にあかいあくまが出現した。

 

「ふーん、士郎。

 あんた、アーチャーが負けて、わたしが平然としてるような人間に見えるんだ?」

 

 物凄い重圧がへっぽこ見習いを直撃。士郎はシンクタイム0の弁解を余儀なくされる。

 

「え、や、そんなことない、そんなことないぞ!

 だって、姿が見えないからさ、その、てっきり……」

 

 そして微妙に墓穴を掘ったが、凛は鼻を鳴らして否定するだけでにしてやった。そこらの学生みたいなアーチャーが、戦って勝つとは確かに思えないだろう。

 

「あいつの言葉を借りるなら、負けてはいないってこと。

 わたしも、アーチャーがあんなにやるなんて意外だったけど。

 こっちはわたしの魔力と預金残高以外はノーダメージよ」

 

「やっぱりね」

 

 イリヤの言葉に、士郎とセイバーは首を捻った。

 

「どうしてですか、イリヤスフィール……様」

 

 セラの鋭い一瞥に、セイバーはびくりとして敬称を付け加える。今のセイバーの社会的な肩書は、アインツベルンの使用人。何かの折にボロを出さないように特訓中だ。

 

「アーチャーはとっても賢いからよ。

 勝てない戦いはしないっていっていたけれど、

 勝てる戦いならするってことじゃないの? ねえ、リン」

 

「そういうことらしいわね。

 生前は負けたことがないから『不敗』とも呼ばれていたそうよ。

 でも一撃食らわせたのは、わたしのほうよ。だから大損だわ」

 

『命あっての物種だろう』

 

 被服室に置いてあった鞄を手にすると、凛は肩を竦めた。

 

「アーチャーからの伝言。

 秘匿する戦いなら、公開する状況にすれば避けられる。

 サーヴァントの出現を防ぐには、衆目こそが最強の味方。

 ちょうど部活の子の下校時間だから、一緒に帰れですって」

 

 渋面になる凛だった。この濃い面子に混ざりたくなかったのだが、いたしかたない。

凛の新たな下校仲間は、次から次に明かされるアーチャーの波乱万丈の人生に、呆然とするしかなかった。

 

「何者なのさ、アイツ……」

 

 士郎が思わず漏らした呟きは、セイバーとイリヤたちにも共通する疑問だった。それは、穂群原高校の生徒たちが、金銀の髪の美少女と美女にも送る言葉だったが。今日も肩身の狭い衛宮士郎と、それに加わった遠坂凛である。姿を消してるアーチャーが羨ましい。

 

「でもさ、遠坂。うまいことアイツに逃げられてないか……」

 

「アーチャーをここで現界させて、なんて説明するのよ。

 三日前に初めて知った亡き大叔父の孫が、イリヤたちと知り合いだとでも?

 不自然すぎるわ。却下よ、却下」

 

「は? じゃあ、一年が見掛けたって美綴が言ってた、

 遠坂のイケメンな彼氏って、もしかしてアーチャーか!?」

 

 強烈な翡翠のビームが放たれた。

 

「なんですって!? なんでそんなことになってるのよ……。

 わたし、親戚だって綾子に言っておいたんだけど」

 

 右手の通学鞄の取っ手から不吉な軋みが上がり、逆の握りこぶしがぶるぶると震えている。士郎はびくりとした。

 

「えーっと、ホラ、遠坂とアーチャーは仲がいいし、

 アイツ背も結構高いし、優しそうで頭よさそうだろ。

 顔もよく見ればちょっとハンサムだし……」

 

 そこまで言った士郎は気付く。あれ、お似合いじゃないか。

 

 ランサーのように飛び抜けた美丈夫ではないが、なにげにハイスペックな物件である。同年代ではなく、父親的な立ち位置にいるから認識しにくいが、穂群原にいたら、知る人ぞ知る感じの人気がありそうだ。少なくとも得意教科はトップクラスだろうし、軍事訓練についていけるなら、学校の体育が全然ダメということもないだろう。部活は郷土史研究部とかだろうけど。

 

 だが当人に言わせると、背もとりたてて高くはないし、体格が貧弱で実技は苦手、一向にもてなかったそうだ。どんだけ男に厳しいのか。それが戦時国家ってことだろうか。

 

 平和の尊さを、士郎はまざまざと実感した。日本だって、ほんの六十年前はそうじゃなかった。昨晩のアーチャーの講義に色々と考えてしまうが、今すぐ必要なのは自らの安全と平和であった。

 

「ええと、そうじゃなくて、遠坂の隣にいても

 不自然じゃないってことじゃないのかな!

 ……俺だったら緊張して、とても彼氏には見られないと思う」

 

 というか、今もとても緊張してます。ああ、そんなに怒気を放たないでください。士郎は必死の思いで、凛をなだめにかかった。

 

「いいなあ、リンは。バーサーカーと、街を歩いたりできないもの」

 

「……そういう問題でしょうか、お嬢様」

 

「だから、そんなんじゃないのよ。

 昨夜の作戦会議の戸籍とか資料、一昨日にあいつの指示で集めたんだもの。

 ぽんと、どっかから出てきたわけじゃないのよ。

 戸籍は12,450円、住宅地図は18,900円もしたんだから。

 わかる? 元手が掛かってんのよ!」

 

「すげ……。それだけの元手であれだけ考え付くのか」

 

「それで給料もらってたってのが口癖だもの」

 

 セイバーは顔を覆って、時代が異なることへの嘆きを発した。

 

「な、なんと……あれほどの軍師を金のみで臣下にできるとは……。

 その王にとって、どれほどの幸運か!」

 

「アーチャーは心にジンマシンが出るような奴だって言ってたけどなあ……。

 そうだ、軍人は国家公務員とも言ってたよな。

 公民の授業で言ってたけど、公務員は全体の奉仕者だってさ。

 セイバー、アーチャーのご主人は王様じゃなくて国民だ」

 

「う、士郎、アーチャーから『よくできました』ですって。

 綾子め、後で覚えてなさいよ。でも、あいつの変装、一応は成功しているのね」

 

 アーチャーが、脳裏に語りかけてきた。

 

『凛、新たなる問題の発生だ』

 

「今度は何よ」

 

『私の容貌はライダーのマスター、間桐慎二が知っている。

 君の大叔父の孫の容貌は、彼の友人や後輩が知っている。

 両者の情報を統合したら、いずれ気付かれる。なんとかしなくてはならないよ』

 

 凛は項垂れると深く溜息を吐いた。

 

「……もう、勘弁してよ」

 

 このまま、坂を登れば2分で遠坂邸という交差点。ここから衛宮邸までは、10分も歩かないといけない。魔力の消費でクタクタなのに。

 

「どうしたんだよ、遠坂」

 

『それでも、まだ我々は勝っていない】

 

 静かな思念が凛の心に響く。

 

「ライダーのマスターの対策会議が必要になったわ」

 

「なんでさ」

 

「ライダーのマスターが、アーチャーの推理の人物だったからよ」

 

 琥珀が真ん丸に見開かれ、ついでに口まで同じ形になった。

 

「ウソだろ……」

 

 凛は眼差しを鋭くし、顎の角度を上向きにした。

 

「そうとなったら、さっさとやっちゃいましょう。

 今夜はわたし、自分のベッドで寝たいのよ。魔力の回復のためにね。

 イリヤにセイバーも参加して。特にイリヤ、あなたは士郎の身内よ。

 よく知らないからこそ、狙われる可能性が高いって、アーチャーが言ってるわ」

 

「わたしのバーサーカーには敵わないと思うけど」

 

 凛はアーチャーの言葉をドイツ語で伝えた。

 

【だからこそ問題なんだ。

 凛の妹の義兄、士郎君の友人をイリヤ君が手に掛けたら、

 切嗣氏の過去を二人で探すどころではなくなる。

 一方、彼にはイリヤ君に何の遠慮もない。

 サーヴァントが手強いなら、君自身を狙ってくる。

 ライダーだけを排除し、彼が報復できなくなる手段が必要になる】

 

 雪の妖精は頬をふくらませた。

 

「もう、面倒くさーい」

 

 またもアーチャーからの忠告が凛を経由してもたらされる。

 

【それ以上に、君のバーサーカーではライダーだけ排除するのが難しいだろう。

 もし、彼女のマスターがそばにいたら、彼まで巻き込んでしまう】

 

「……彼女? ライダーも女のサーヴァントなの?」

 

「そうなのよ。アーチャーに、そういう報告をまとめてさせないと。

 私がやるのかいですって!? 

 当たり前でしょう、そのほうがわたしが楽じゃない。

 は? うっさい、超過勤務なのはわたしも同じよ!

 報告しないなら、ベッドも枕も紅茶もナシよ。そう、素直でよろしい」

 

 虚空を睨んで叱咤する凛は、危ない人にしか見えなかった。この豪華で異色の取り合わせが一種の結界となって、他の下校する生徒を寄せ付けなかったのは幸いといえよう。

 

「なあ、セイバー」

 

「なんですか、シロウ」

 

「霊体化できるのも、いいことばっかりじゃないよな。

 セイバーが実体化しててさ、顔を見ながら話ができるのはいいことだと思う。

 俺のせいで不便で悪いんだけどさ、姿が見えなければ見えないで、

 アレだもんなあ……」

 

 琥珀色の目が、ちらりと凛に視線を流し、瞑目して溜息を吐いた。わかっちゃいても見てて痛い。憧れの崩壊を嘆くのは、黒髪の青年だけではないのだ。

 

「……シロウに感謝を」 

  

 語るべきだろうか。自分の真名を。同じ衛宮の名を持っていても、この少年は先のマスターではない。

 

 セイバーに芽生えた心の揺らぎだった。



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29:夢破れし者の哀歌

 遠坂邸は、魔術師遠坂凛の工房である。魔術師にとっての砦。至るところに魔術的な罠が仕込まれた、難攻不落の要塞だ。アインツベルンのマスターは当然、へっぽこな弟子を招じ入れるわけにはいかない。

 

いきおい、会合場所は衛宮邸になるのだった。

 

「リン、もうここに泊りこんじゃったら?」

 

「うーん、イリヤ君。私は賛成できないね。風紀的にも危機管理の点でも」

 

 実体化したアーチャーが首を振る。

 

「我々が連携しているのは教会に公表した。

 戦争継続派も連携して攻めてくるかもしれない。攻めなくとも方法はある。

 士郎君の所に凛が寝泊りしていると世間に言うだけで、かなりのダメージだよ。

 どうも魔術師の皆さんには、そういう発想がないようだが」

 

 顔を強張らせた士郎と凛に、アーチャーは眉間をさすった。ヤン艦隊の良心、生ける軍規のありがたさを今さらながらに実感する。だからこそ、間桐慎二を『魔術師』という単語で挑発しておいた。『間桐くん』と『士郎』も無論その一環だ。

 

 ヤン・ウェンリーは、普段は見え透いたところのある善人だが、戦争では宇宙一人が悪くなるとは別の部下の評である。アーチャーにとっては甚だ心外だが、ここにいる面々が知ったら、全員がその美丈夫に賛同したことであろう。だから黙っているのだが。

 

「魔術師といっても、一般常識を甘く見ちゃいけない。

 君たちを傷つけ、生活をままならなくさせるには充分だ。

 イリヤ君は、おつきの人を抱えた切嗣氏の娘だからいいが、赤の他人の凛は駄目。

 昨日は車のおかげで見られなかったからいいけどね。

 わかったかい?」

 

 声もなく頷く高校生たちであった。

 

「それに、戦争継続派も連携して攻めてくる恐れがある。

 少なくとも、ライダーのマスターは一度は継続を選択したんだからね。

 複数の拠点を持てば、敵も分散せざるを得ない。

 どちらか一点に集中するならば、こちら側が挟み撃ちするチャンスになる。

 期間限定の戦いだから、相手に迷わせるだけでも意味があるんだよ」

 

 そして迷ったり、焦ったりすると、ヤン・ウェンリーの思う壺。銀河帝国の綺羅、星のごとき名将たちを手玉にとった思考誘導である。

 

 ただなあ、とヤンは内心で嘆息する。この少年少女たちはせっかちだ。これを今から説得にかからなければならなかった。

 

「では、そのライダーについて報告しよう。凛、携帯を出してくれるかい。

 うまく写っているといいんだが。ああ、これこれ」

 

「アーチャー、あんた、いつの間に……」

 

 彼は乱射したレーザー光線にフラッシュを紛れ込ませ、ちゃっかりと写真を撮っていたのであった。

 

「ほら、私は鏡に映るじゃないか。

 写真にも写せるんじゃないのかと思ってね。

 昨晩、自分を撮ったら撮れたんだよ」

 

 ライダーの前には、アーチャーの写真。自撮りに慣れているわけもないので、画像は少しぶれているし、視線もあっていないが、アーチャーが映っていた。えらく鮮明な心霊写真だ。

 

「自撮りってさあ、女子高生じゃないんだぞ」

 

 がっくりする男子高校生に、女子高生が反論した。

 

「失礼ね、わたしはそんなことしないわよ」

 

 正しくはそんなことできないだが、士郎も追及はしなかった。優雅なミス・パーフェクトには、たしかにふさわしくないと思うし。

 

「私だって面倒くさいが、作戦を立てるためには細かいことが重要なんだ。

 確認してみて、ライダーも同様じゃないかなと思ったのさ。

 口で言うより実物を見せた方が早い」

 

 そして、自分と同じくらい驚愕を味わってほしい。このやるせなさも共有してほしい。傷ついた歴史マニアであった。琥珀とエメラルド、ルビーが揃って大きさを増し、口々に呻き声があがった。

 

「う、うげ、これ誰? というかなんなんだよコレ!?」

 

「こっ、これがライダーのサーヴァント……! 

 なんと羨ま、い、いやはしたない姿なのでしょう。

 宝具は見たのですか、アーチャー?」

 

「ヘンなかっこう。ねえ、こんな服でなにに乗るの? 前だって見えないんじゃない」

 

 箱入り娘の言葉に、硬直する義理のきょうだい。馬に跨るにしろ、戦車を駆るにしろ、眼のやり場のない格好になるに違いない。ご丁寧に、武器は鎖の付いた釘のような短剣だ。そして目元を隠した仮面。騎乗兵という単語から想像する範囲を超えている。どう見ても妖しいお店の従業員であった。絶句する未成年に対し、中身が成人のサーヴァントはあっさりとしたものだった。

 

「いや、宝具は見ていないよ。そんなものを出されても困るからね。

 だから廊下を戦場に設定したんだよ。

 それにできるだけ、彼女の顔も見なくて済むようにした」

 

「やっぱり、あんた察しがついてたのね」

 

「うーん、誠に不可解なんだが、別の英雄を呼ぼうとして召喚されてしまったから、

 彼女はライダーなんじゃないかと思うんだ。

 そういう状況で召喚されたから、あんな格好にあんな武器なんじゃないかと」

 

 別の意味で異形のライダーと対峙しながら、冷静に考察しているアーチャーも相当であった。そら恐ろしくなるセイバーである。

 

「アーチャー。私にはあなたが何を考えているのかわかりません」

 

「いや、セイバー。あの格好を目の当たりにしてごらん。

 誰なのか気になって仕方がないよ。あれはない。あんまりだ。彼女も気の毒に」

 

 嘆くことしきりのアーチャーに、士郎は訊いてみた。

 

「で、誰なんだよ、このライダー」

 

「ペルセウスを召喚しようとして、呼ばれてしまったメドゥーサ。

 鎖の短剣は、アンドロメダの鎖のイメージの混合かな?

 そっちの方は濡れ衣だよなあ。かわいそうに」

 

「ちょっと待ってくれ。ペルセウスって誰さ?」

 

「じゃあ士郎君、ペガサスの神話は知っているかい? 秋の星座の代表格だけど」

 

「翼の生えた天馬だろ」

 

「そう。ギリシャ神話でも華やかな物語だね。

 ペルセウスは武勲を立てることを王に約束し、

 髪が蛇になっている魔物を倒しに行くんだ。

 神様から幾つも武器や道具を借りてね。

 冥府の神ハーデスからは姿隠しの兜、知恵と戦の女神アテナからは盾と剣。

 そして、伝令神ヘルメスからは空飛ぶサンダルを。

 あと、石にならない袋もあったっけかな?」

 

「じゃあ、宝具をいっぱい持っている英霊になるのか?」

 

「彼が召喚されていれば、そういうことになっただろうね。

 しかし、ペガサスの乗り手ではなく、生みの親が来てしまったんだろう」

 

 苦り切った顔のアーチャーは眉間を揉むと、座卓に突っ伏した。

 

「ほんとにもう、どうしてああなったんだ!

 最盛期の肉体なら、ギリシャ神話屈指の美女なんだよ。

 絶世の美女、知恵と戦いの女神アテナが嫉妬するようなさ!」

 

 少年少女はもう一度携帯画面を覗き込んだ。長く美しい紫の髪、黄金比の肉体、彫像のような眉目。確かに物凄い美人だ。衣装が全てをぶちこわしにしているが。

 

「そのさ、アーチャー。気持ちはわかるけど続きを頼む」

 

 きっと知らないのは士郎だけなんだろう。他の女性陣は一様に頷いているのだから。

 

「……ペルセウスが退治に向かったゴルゴンの三姉妹は、

 末妹のメデューサだけが不死身じゃなかったんだ。

 彼女たちの顔の恐ろしさは、直視した者を石に変えてしまうというものだった。

 それは、女神アテナに美貌と美しい髪を嫉妬されて、

 そんな姿にされてしまったんだよ。

 そうしておきながら退治に道具を貸す。ひどい話さ。

 やったのは自分なんだから、元に戻してあげればいいだけのことなのに」

 

「完全にマッチポンプじゃないか!」

 

「だろう? 

 ペルセウスは、女神アテナの鏡の盾に、

 メドゥーサを写して近づき、首をはねるんだ。

 その血潮から生まれたのが天馬ペガサス」

 

 柔らかな抑揚で紡がれる、遥か神代の物語。アーチャーは物語の優れた語り手だった。それは、彼の里子も聞いたであろう優しい声。

 

 凛ははっとした。この父と夫を失った子と妻が、どれほど嘆き悲しんだだろうか。彼という上官を失った、二百万の部下達もだ。今から千六百年後の、だが彼にとっては死後の出来事。凛は初めて認識した。聖杯戦争とは、なんて歪んだシステムなのか。

 

 ヤン・ウェンリーは英雄譚の続きを語る。

 

「ペルセウスは、ペガサスに乗って故郷に凱旋する途中、

 生贄にされそうになっている王女アンドロメダを、化け物鯨から助けるんだよ。

 メドゥーサの首を見せて岩にしてね。

 この神話の登場人物は、全部星座になっているんだ」

 

 そう言うと指を折って星座の名前を上げる。四辺形のペガスス座に、他の銀河を持つアンドロメダ座。アンドロメダ銀河は、我々が属する天の川銀河から約二百万光年離れているが、もっとも近いお隣さん。

 

 くじら座には老齢の巨星ミラ。星の膨縮が始まっているため、変光星としても有名である。

 

 アンドロメダの母のカシオペア座は、Wの形が特徴で、北極星の指標星座。ほかの星座は秋の星座だが、北極星に近いので、季節にかかわらず見ることができる。

 

 父親のケフェウス座は目立たないけど、全天一美しい赤色星ガーネットスターを王冠に持つ。

 

「ま、この一家は、星の位置が示すとおりのかかあ天下でね。

 娘が生贄にされたのは、母親がうちの子は海神ネーレウスの娘より

 美しいなんて言ったからさ。その一人は海神ポセイドンの奥さんだ」

 

「海の神様が二人もいるんだ」

 

「もっと沢山いるよ。ざっと三千人ぐらい」

 

「へっ?」

 

 神話のあまりの壮大さに、琥珀が真ん丸になった。 

 

「海は広いからね。他に有名なのは、外洋の守護神オケアノスかな。

 オーシャンの語源だ。ポセイドンは地中海、ネーレウスはエーゲ海の神」

 

「ああ、そうなんだ……。世界中の海の支配者じゃないんだな」

 

「そりゃ、地中海地方が世界の全てだった時代の神話だからだね。

 ネーレウスは古い神で、ポセイドンの大伯父だ。三千人の海の神は彼の息子。

 同じ数の娘もいる。そいつもあって、婿としては黙ってたらまずいわけさ」

 

 ユーモアを織り込んだ説明に、士郎とイリヤの目が輝いた。

 

「すごいわ。どうしてそんなにくわしいの?」

 

「船乗りは、古来から星を指標に航海していたからね。

 父の船の航法士のじいさまが教えてくれたんだ。

 これは彼の受け売りだよ」

 

 凛は感心しつつも呆気に取られた。実に自然な切り返しで、航行しているのが星の海だとは思うまい。

 

「なあ、じゃあペルセウスとメドゥーサはどうなったんだ」

 

「うん、英雄のペルセウス座の一角には、メドゥーサの首の星がある。

 こちらも変光星として有名なアルゴルだ。ミラとは変光のメカニズムが違うがね。

 ペルセウスの石像もメドゥーサの首を持っている。

 その手の触媒を使って、イメージが曖昧な者に召喚されたのかもしれない。

 少々、無理があるかな、この推論は」

 

 首を捻る黒髪に、金沙の髪が頷いた。

 

「しかし、アーチャー。あなたの考えにも一理あります。

 サーヴァントの強さは宝具によります。

 宝具が豊富なサーヴァントはそれだけで有利ですから」

 

「ありがとう、セイバー。触媒が不適切で、ペルセウスを呼ぶには弱かった。

 だから彼女は、女神に嫉妬された美貌に、

 怪物と化した後の能力なんかが変な具合に付与されて、

 あんな姿なんじゃなかろうかと思うんだ」

 

 大変悲しげなアーチャーである。

 

「ランサーはイメージのアレンジの範囲内だ」

 

 彼にひどい評を下したイリヤが、びっくりして声を上げた。

 

「ええーっ! あれでも範囲なの!?」

 

「彼の時代の戦支度は、体を青く塗って白い塗料で加護の文字を書くんだよ。

 それが鎧と一体化した姿なんだろうね、きっと。

 まあ、それは二騎のどちらにも言わないであげてくれ。

 一番不本意なのは彼らだろうからね」

 

「あんたもでしょう。なんでそんなに落ち込むのよ」

 

「……私にだって、夢を見させてくれたっていいじゃないか。

 ライダーの正体がメドゥーサならば、あの姿は気の毒に過ぎる。

 サーヴァントが最盛期の姿で召喚させるというのなら、

 ギリシャ彫刻のようなドレープのドレスに、

 美しい髪を凝った形に結いあげた、そういう姿でいいじゃないか!」

 

 艶やかで豊かな髪の美女が、たおやかな手で純白の天馬のたてがみを撫で、鞍上に横座りして天空を騎行するのだろう。一説には海神ポセイドンの寵愛を受け、ペガサスは彼との間の子だったとも言われている。

 

 海神は、彼女に貝紫で彩ったドレスも贈っていたかもしれない。一着の服を染めるのに、何千個もの貝を必要とする貴重な染料である。ユリウス・カエサルの服にも使われた帝王の紫。

 

「ちょうど、この髪のような色になるんだ。

 空と海の青に映えて、さぞ美しい姿だったろうに」

 

 膝を抱えてしょんぼりしながら、理想像を語る歴史マニアのサーヴァント。マスター以外がはじめて見る、外見相応の表情であった。

 

「そのほうがよかったのに。この服よりずっとすてきだわ」

 

 携帯画面を再び凝視したイリヤの評だった。凛も同感である。このアーチャーにも、ロマンチストな部分があったらしい。

 

「ひょっとしてだけど、これ、蛇のイメージに引きずられたんじゃないのかしら?

 この写真じゃよく見えないけど、あの眼帯には鱗模様があったでしょ」

 

「ああ、そうかも知れない。でも、これはないよなあ……。

 せめて、呼びだす相手の勉強ぐらいしてくればいいのに。

 ライダーも可哀想だが、私だって悲しいさ。

 夢が片っ端からおじゃんになってくのに、誰も慰めてくれない……」

 

 そんな不真面目な態度で、誰かに同情してもらおうというのが間違っている。一番冷淡なのは彼の主だった。

 

「なにブツブツ言ってんのよ」

 

「だから、キャスターがマスターともども下品な輩と評したのかねぇ……。

 そうそう、昨日の手紙は、昨夕には届いたらしいよ。

 素晴らしい社会インフラだね。昨晩、君たちが休んだ後で、

 彼女からの伝言を聞いたんだ」

 

 凛のこめかみにくっきりと青筋が立った。なのににっこりと微笑んでいるので余計に怖い。セイバーの主従と、バーサーカーの主の背中がそそけ立った。

 

「ちょっと待ちなさい。どこで、伝言を聞いたんですって?」

 

「この居間だけど」

 

「昨晩は私とイリヤで結界を張ったのよ。

 なのに、それをやすやすと突破して、わたしたちに気付かせもせずに……」

 

 アーチャーは黒髪をかき回した。

 

「いや、それだがね。衛宮家の結界云々なんて私は知らないんだが。

 防衛網を突破されたと知っていたら、きちんと報告したよ。

 私は魔術については全く知識がない。

 なにかやっているのなら教えておいてくれないか」

 

「あ」

 

 黒髪と銀髪の少女は顔を見合わせて、同音で合唱をした。

 

「ごめん、聖杯は一般常識や言葉の加護しかないんだったっけ……。

 ここには、士郎のお父さんが施術したらしい、侵入者警報の結界はあったわ。

 でも、警報じゃ間に合わないから、侵入に抵抗する種類の術も施術したの。

 結果として、まったく役に立っていなかったけど」

 

「マスターより優れた魔術師が、キャスターのサーヴァントなんだろう。

 驚くにはあたらないと思うね。いくつも有益な情報をくれたよ」

 

「キャスターも女の英霊なのね」

 

 眼を瞠るイリヤに、アーチャーは頷き、胡坐を組みかえた。 

 

「たぶん、大変な美女の英霊だよ」



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30:新たなる強敵

「なんでさ」

 

 純朴な問いを発する男子高生と、無言で眼光を険しくする女子高生。

 

「私の部下には大層な女好きが二人もいた。

 彼ら曰く、美人は声まで美しい。なぜならば、美しい骨格が美声を奏でるからだ」

 

「……たしかにそうかも。遠坂も、セイバーも、イリヤもみんなそうだ」

 

 ヤンは思わず眉を上げて、士郎の顔を見なおした。この少年、なかなかやるなあ。

そのへんは衛宮切嗣に似たんだろうか。

 

「彼らのうちの一人は、映画俳優も裸足で逃げ出すような大変な美男子だった。

 もう一人だって、そこらのタレントも目じゃない愛嬌のある美男子だ。

 二人とも美声の持ち主でもあった」

 

「アーチャー、ものすごい説得力だ……」

 

 士郎は拳を握りしめた。黒髪が頷きを返す。

 

「それだけじゃないんだ。私の周囲の美男美女は、みんなその条件に適合した。

 なにより敵国の皇帝は、絶世の美貌に素晴らしく音楽的な声の持ち主だ。

 こうなると、彼らの言に異説は持てない」

 

「え、絶世のって、そこまで……」

 

「私の言葉などでは、表現しきれないような美青年だった。

 あのキャスターも、とても美しい声だったよ。

 生前はかなり高い身分の女性だったと思う。言葉遣いにも落ち着いた気品があった」

 

「でも、それだけじゃさあ」

 

「士郎君、もうひとつあるんだ。美人は自分の魅力を知っている

 そして、それは会話にも現れる。本物の美人は会話も魅力的だ。

 美声は美貌を保証しないが、美貌の美声には裏づけがある。これも彼らの弁だがね。

 彼女の話は、とても知的で興味深かったよ」

 

 夕日色の髪が、音を立てる勢いで上下に振られた。あほな会話の男子どもに、女子の視線が突き刺さる。

 

「この馬鹿、そんなこと言っている場合じゃないでしょ!」

 

「リンの言うとおりです」

 

「シロウもアーチャーもフケツだわ。ケダモノね!」

 

「うん、ケダモノ」

 

「お嬢様、益体もない低俗な番組をご覧になってはいけません。

 リズ、おまえも見てないでお止めしなさい」

 

 蒼褪める高校二年生(真)と、平然たる高校三年生(偽)。後者は表情も変えずに、少女たちに説いてみせた。

 

「いいや、これだって真面目な話さ。わずかな材料でも手がかりになる。

 キャスターとなる英霊は、魔術が魔術として語られた時代の英雄だ。

 そして、身分の高い美女だということを踏まえれば、事前対策がある程度可能だ。

 毒薬に媚薬、魅了や幻惑の類いには注意するとか」

 

 セイバーの手から、茶菓子の饅頭が膝に転がり落ちた。

 

「な、な、何を言って……」

 

 動揺した様子のセイバーに、ヤンはおや、と思った。

キャスターへの主戦論といい、この様子といい、魔術師に反感を抱く理由があるのかもしれない。

 

 第四次のキャスターが非道な相手だったのだろうか。前回のマスターと、よほどにうまくいかなかったというのもあり得る。あるいは……生前の問題か。

 

 この儀式は降霊だという。前回亡くなった参加者を呼んで、事情聴取ができればいいのに。それこそキャスターに聞いてみたい。そのほうが手っ取り早いと思うヤンだ。ハムレットの父王のように、誰が悪いのか告発してくれないものだろうか。彼らの息子や娘が、ハムレットのようになっては困るけれど。

 

 それは口にせず、ヤンは最も危険そうな人物に懇々と注意をした。

 

「お伽噺にあるだろう。魔術を使う、美貌の高貴な女性」

 

 随分と回りくどい言い方である。

 

「って、魔女だろ?」

 

「士郎君、キャスターはそう呼ばれるのは嫌いなようだ。注意してほしい。

 白雪姫に眠れる森の美女、白鳥の湖。そのへんの常套手段じゃないか。

 幻惑はアーサー王の魔術師マーリンもやってなかったっけかな」

 

 心臓に悪いどころではない言葉だった。サーヴァントの心臓が、いかなるものかは不明だが。セイバーは、座卓の下に転がり込んだ饅頭に手を伸ばすことで、表情と動揺を隠した。

 

「お伽噺には、原型となる話が神話や伝説にあるんだ。

 月や夜の女神。アルテミスにヘカテー、北欧のフレイヤ、ケルトのモリガン。

 変化に幻惑、出産と豊穣。そして死や眠りも司る。

 月と夜、さらには水と神秘の象徴なんだ。

 美しく、情が深く、ゆえに嫉妬深くて残酷にもなる。

 女性の二面性とも言えるんだろうね」

 

「いや、俺に同意を求められても、その、困るんだけど……」

 

 また女子の目力が増強してるし。女の子には優しくしないと損をする。じいさんの言葉は真理だったようだ。 

 

「キャスターは、そういう存在なんじゃないかな。

 彼女はセイバーにご執心のようだった。

 篭城戦には弱点があるんだよ」

 

「弱点?」

 

 士郎は頭を捻る。たしか、歴史の授業に出てきたような気がする。

 

「援軍がいないとダメだってことか」

 

 アーチャーは微笑んだ。

 

「一般的にはそれが正解だが、聖杯戦争では少々違うんだ。

 相手に無視されると意味がないのさ」

 

「え、無視って……」

 

「それが一番困るんだ。彼女の仮想敵がイリヤ君ならね」

 

「わたし?」

 

 自分を指さすイリヤに、アーチャーは頷いた。

 

「わかっている限りでは、君たちが最強の主従だ。

 アインツベルンのマスターとして、聖杯の器も持っている。

 そんな君がキャスター以外のサーヴァントを斃し、霊地に籠ってしまったら?」

 

「む……。陣地から出て、攻めるしかなくなるよなあ」

 

「そのとおり。短期戦の聖杯戦争で、勝つには不利なクラスと言える。

 だからこそ、セイバーという前衛を欲しているんだろうね」

 

 イゼルローン要塞だけでは雷神の槌が意味を成さないように、キャスターの魔術の範囲へ追い込み役が必要になるというわけだ。おおよその魔術をキャンセルできるセイバーなら、同士討ちの心配がいらない。

 

「魔術師の考えることは一緒ね。

 だから、セイバーは最優のサーヴァントというわけよ」

 

 もっとも、セイバーとして付与される対魔力は、標準的には大魔術で即死しない程度。魔術では傷付けられぬ士郎のセイバーは、破格の存在である。

 

「キャスターの魔術ごとき、私には効きません」

 

「しかし、セイバーが魔術をキャンセルできても、

 士郎君が篭絡されてしまってはどうしようもない。

 そういうことがないようにと、君たちに注意喚起をしておくよ」

 

「ちょっと待ちなさい。あんた、キャスターとそんなことまで話したわけ?」

 

 雷雲漂う凛の言葉に、アーチャーは小首を傾げた。 

 

「いいや、違う。私も彼女にスカウトされたんだ。

 高待遇を匂わせてくれたが、無辜の市民の生命力が報酬では頷くつもりはないよ。

 しかし、それは私やセイバーを抱えるに足る魔力を集めているってことだ。

 争うよりも、交渉でなんとかしたい相手なんだよなあ」

 

 勝てない戦いはしない。戦うならば負けないで済む方法でやる。そして負けたことはないという凛のサーヴァントは、緑茶をもの珍しそうに啜って続けた。

 

「それだけの魔力を運用できる者なら、

 魔力の釜たる聖杯をうまく使えるんじゃないかって思うのさ。

 イリヤ君の家の悲願や、凛の研究テーマにも有益な情報を持っているかもしれない。

 効率よく複数の願いを叶える方法も。

 マスターとサーヴァント、二者のどんな願いでも叶うシステムならば、

 妥協すればもっといける可能性もあるんじゃないかな?」

 

「でも聖杯は、サーヴァントが残り一騎にならないと出現しないのよ」

 

 こちらは緑茶も和菓子も、一口でやめにした銀髪の少女の言葉だった。

 

「そうかなあ。これまでの四回、願いを叶えた者はなく、

 しかし、斃れたサーヴァントはいるわけだろう。

 それも含めて、専門家に診てもらおうと考えているわけさ」

 

 ヤンは顔色一つ変えず、凛に明かした内容は伏せて、他の陣営に考えの一部を明かした。視線で同意を求められ、セイバーは頷いた。

 

「ええ、私も前回、この手でサーヴァントを斃しています。

 

「そして、君と黄金のサーヴァントが残った。

 君は途中で消滅したそうだが、その相手とマスターはどうなったのか」

 

「……いいえ、何も」

 

「何もわからないで戦いを進めてはいけないと思う。

 私たちサーヴァントは、幽霊の一欠片のコピーにすぎない。

 死んだところで、なんの痛痒もないが、人間はそうはいかない。

 だからこそのサーヴァント、騎士の果し合いに

 代理を立てるようなものではないかな」

 

 士郎がまた目を丸くした。

 

「騎士の果し合いに代理ってありなのか……?」

 

 それに聖緑の瞳が苦笑する。

 

「シロウ、珍しいことではありません。

 たとえば、貴婦人の代理として、夫の仇と一騎打ちをすることもあります。

 そう言いたいのですね、アーチャー」

 

「この場合は父母の仇というか、その原因が前回の聖杯戦争だろう。

 特に御三家同士で、跡取りを殺しあったら本末転倒だ。

 家門を断絶させないための取り決めがあったのかもしれない。

 だが、外から迎えられた、切嗣氏にそれが伝わっていたかどうか。

 セイバーは何か……」

 

 金の髪が力なく揺れる。

 

「イリヤ君は?」

 

 躊躇いがちに銀髪も揺れた。

 

「とまあ、こういう次第だ。巻き込まれた士郎君は当然知らないだろう」

 

「ちょっと、わたしには聞かないわけ?」

 

 翡翠の瞳に険を含ませる凛に、黒い瞳の半ばまでを瞼が覆った。

 

「自分が死んだら後がないのに、セイバーを呼んで出陣する気だった君が、

 知っていたとは思えないね」

 

「うっ……悪かったわよ。根に持ってたの、あんた……」

 

「そういうわけじゃないよ。それが趣味の人間もいる。

 まあ、凛は違うってわかるけどね」

 

「え?」

 

 どんな趣味だ。というか、なんて奴だ。一同が眉間に縦皺を作る中、黒髪のサーヴァントの嘆き節が続く。

 

「私だって、どんな英雄と出会えるのかと楽しみにしてたんだ。

 なのに、ヘラクレスはバーサーカーだし、ランサーは怪人青タイツだし、

 ライダーは妖女黒タイツだ。夢も希望もありゃしない」

 

 正確に言えば、ライダーはタイツではないが、まだそのほうがましだった。ヤンは内心で、聖杯戦争のシステムに呪詛を吐いた。英霊の一欠片を、クラスという枠に押し込むというが、絶対に劣化しているに違いない。

 

 クー・フーリンもヘラクレスも父を神に持つ王族の貴公子。メドゥーサも海神ネーレウスの血を引く姫君だ。それぞれの時代において、最高の美を誇る知識人でもあるはずだ。

 

 そんな巨大な人格の持ち主たちを、七人も完全に再現できる魔術があるなら、聖杯戦争はとっくに成功している。

 

 彼らに比べれば、ささやかに過ぎる自分でさえ、酒も買えないこの童顔。身体能力は二十歳、外見は二十五歳ぐらい、そのぐらいの融通も利かないとはポンコツじゃないか。万能の願望機だなんて、ちゃんちゃらおかしい。信じるに値しない。

 

「ああ、私もなんで応じちゃったんだろうなあ……。こんな面倒くさいものだったとは」

 

 毟り取ったベレーを渋い顔でもみくちゃにするアーチャーに、名前を略されたサーヴァントの主はおずおずと質問した。

 

「えっと、セイバーは……」

 

「もちろん、セイバーは私の理想の女騎士って感じだけど、

 マスターである士郎君を差し置いて、あれこれ聞くのも失礼だろう?」

 

 剣の主従は決まり悪げに顔を見合わせた。前半は素直な賞賛だったが、後半は衛宮主従の交流を促すものだ。同盟者は当然として、マスターにも真名を秘しているセイバー。士郎も、養父とうまく行っていなかった様子の彼女に、臆するものがある。言峰神父の言葉が事実なのか、それも心に(わだかま)って。

 

 

「こうなりゃ、キャスターに希望を託すしかないよ。

 ひととおりの目途がついたら、さっさと座に帰るから」

 

「ちょ、ちょっと待った! 待ってくれ!」

 

 声を張り上げたのは、彼のマスターではなく、セイバーのマスターだった。

 

「それは困る! アーチャーが居なくなったら、

 俺、このメンツの中でやっていかなきゃならないじゃないか!」

 

 黙々と努力するだけでは、どうしようもないことがあると悟ってしまった士郎である。これまでの士郎は、肉親もない孤独な存在だった。だが、その半面、こういったしがらみにも縁がなかった。だから、自分のことにのみ努力することができた。

 

 でも、じいさんの娘が現れ、じいさんのサーヴァントだったセイバーも現れ、イリヤの身内のメイドさんまでやってきた。精神的には、バーサーカーにやられちまったほうが楽だったかもしれない……。

  

「……無理。絶対に無理だ。

 頼む、じいさんの事を調べるのにも、色々教えてほしいんだ」

 

「はあ、でも基本のやり方は、ちょっと調べればわかることだけど……」

 

 士郎は夕日色の髪をぶんぶんと振った。

 

「アーチャーのちょっとは、俺には沢っ山なんだ!」

 

「うーん、大半は聖杯の知識のお陰なんだけどなあ」

 

 これに物言いをつけたのはイリヤである。

 

「ちがうでしょ、受け取り手の差があるもの。わたしのバーサーカーにはムリよ」

 

「ほんとにもったいないなあ。

 ヘラクレスの師は、ギリシャ神話最高の賢者ケイロンだ。

 アーチャーかセイバーなら最強にして最賢、主に忠実な最高の戦士だったのに。

 この聖杯の知識の恩恵、マスターが受けられればいいのになあ。

 時代も国も違う私たちが、当たり前に会話し、本や記録を読めるって、

 そっちの方がものすごいことだろう。これを普段も君達が使えないのかい?

 言語のサポートまであるし、テストだって楽勝だ」

 

 高校生の心を砕くような一言だった。

 

「あーっもう、それを言わないで! 

 聖杯戦争に敗れて死ねば、期末考査は関係なくなるけどね!」

 

「君たちがちゃんとテストを受けられるように努力するよ」

 

「お、おう。その、どうも」

 

 ああ、そうか。負けて死ねばテストは受けられないが、生き延びれば問題になってくる。あれは再来週だったっけ。テスト勉強にも、そろそろ手をつけなくてはいけない。

 

 そして、じいさんの隠し子問題。琥珀の瞳が翳りを帯びた。生きていくのは大変なんだ。でも、あの時劫火に消えれば、狂戦士の剛腕で八つ裂きにされれば、今はない。辛くとも、いいことばかりでなくても、生きているのだから。だからテストだって……。

 

 そこまで考えた士郎の脳裏に、不吉な雷光が閃いた。

 

「ま、まずい、まずいぞ、遠坂! さっさと学校のカタを付けないと!」

 

「急に切羽詰ってどうしたのよ、士郎」

 

「来週は高校入試だ! ガンドの風邪で避難はムリだぞ!」

 

「あーーっ! そうよ、まずいわ。うっかりしてた!」

 

 蒼白になったマスターの言葉に、アーチャーは天井を仰いだ。

 

「おいおい、凛、そいつはうっかりじゃ済まないよ。

 君の言うとおり、止めを刺しときゃよかった。

 仕方がない、ライダー陣営の焦りを誘って、入試までにカタをつけよう」



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31:アーチャーの会議好き

 入試までにライダーのカタを付ける。士郎には可能とは思えず、アーチャーに詰め寄った。

 

「どうすんのさ!」

 

「なんとか撃退に成功したライダーだが、

 凛の虎の子のおかげで、氷漬けになっている。

 令呪による転移で、取り逃がしてしまったが、令呪を使わせたから無駄ではない」

 

 整然とした説明が再開された。作戦参謀としては、やる気がないくせに能力だけはやたらと高く、ゆえに煙たがれたヤンだ。その気になれば、このぐらいの説明はお手のものである。

 

「俺が大汗かいているときに、そんなことになっていたんだ」

 

「私よりもマスターのお陰だね」

 

 凛は碧眼を眇めると、忌々しげにライダー戦の決算報告を行った。

 

「当然でしょう。元手が掛かってんのよ。ざっと三百万円と十年間分の魔力がね」

 

 士郎の上体が揺らいだ。精神に食らったアッパーカットが、肉体にも効いたのだ。

 

「え、な、なんだってぇ!? さっ、さっ、さんびゃくまんえんーー!?」

 

 イリヤの方はわずかに銀髪を傾げただけだ。

 

「そういえば、トオサカは宝石翁の弟子だったものね。でもリンすごいわ。

 たったそれだけで、サーヴァントを凍らせる魔術ができるんだもの」

 

 桁はずれの金満家の言葉に、凛は不機嫌になった。

 

「たったってね、一個百万はしたんだけど」

 

「え、遠坂の魔術って……」

 

「魔術のための触媒として、お高い宝石が必要なんだそうだよ、士郎君」

 

 道理で、『月五万や十万でも十年溜まればそれなりでしょう』と言う金銭感覚のはずだ。それは高校生としておかしいから!

 

「早めに、上納金だか授業料を払ってあげてくれ。分割払いでいいから」

 

「わ、わかった。でも俺、遠坂に魔術習っても、そんなの用意できないんだけど!」

 

 今後、どんな教材が必要になるのか。戦々恐々とする士郎に師匠は手を振った。

 

「ああ、士郎には当分必要ないから平気。

 大量の魔力を生成して、制御して放出できるようにならないと無理よ」

 

「う、あう」

 

 容赦のないごもっともな講評だった。

 

「それよりなにより、最初はセイバーへの魔力供給からよ。

 もう、あの石だって結構高かったんだから」

 

 昨夜飲まされた石の金額を聞いた士郎は卒倒しかけ、浄化槽の清掃をしなくてはならないのかと危ぶんだ。そして、助け舟を出してくれたアーチャーともども、メドゥーサにも勝る眼光に射竦められることになったが、まあご愛嬌と言えるだろう。

 

 イリヤは『ジョウカソウってなにかしら?』と疑問を持ったが、賢明にも沈黙を守った。

 

 凛は、セイバーを取られた憤懣を込めて、弟子のへっぽこぶりを腐したが、問題点を指摘することは怠らなかった。

 

「現物で返せとは言わないけど、士郎はきちんと授業を受けて、

 上納金と授業料を払いなさいよね。

 わたしが身銭を切ったのに、

 ヘロヘロなラインしか繋がらないってどういうこと!?」

 

 凛の剣幕に、士郎は正座して頭を下げた。 

 

「遠坂、ごめん。ぶ、分割払いでお願いします。

 できれば、その、六十回くらいで……」

 

「あんたね、それは聖杯戦争を生き延びないと無理でしょ」

 

「リンだってそうじゃない」

 

「それはそうよ。でも、わたしが死んだら、士郎だって遅かれ早かれ死ぬわよ」

 

 断言する凛に、士郎は眼を剥いた。

 

「な、なんでさ!?」

 

「わたしの弟子でなくなったら、真っ先にあんたが襲われるわ。

 わかってるだけでも、ランサーに、ライダーに、キャスター。

 イリヤとあんたじゃ、当然弱い方が狙われるわよ。

 セイバーが魔力切れで消滅するか、自己流の魔術で自爆するでしょうね。

 そしたら、イリヤだって困るのよ。

 お父さんのことを、調べられなくなっちゃうでしょ」

 

 士郎とセイバーは、力のアインツベルンと知の遠坂、二人のサーヴァントのお陰で平穏を保っているようなものだ。そして、知の恩恵を受けているのは、アインツベルンも一緒だった。セラは、美しい所作で凛とアーチャーに一礼すると、主を諭した。

 

「遠坂様のおっしゃるとおりですわ、お嬢様。

 こちらに移っていなくては、あの森で孤立し、絶好の的になっていたでしょう。

 お二人の助言に感謝しなくては」

 

「アーチャーが言ってた怖いことって、こういうことなのね。

 ありがとう、リン。シロウも」

 

 セラを真似て、小さな銀の頭も下げられた。慌てた士郎は手を振った。

 

「い、いや、俺何にもしてないしさ」

 

 士郎の言葉に、白い五稜星が左右に揺れた。

 

「士郎君は大したことをしてるんだよ。

 生死の危機を二回も生き延びて、切嗣氏のことをイリヤ君に教えてくれた。

 凛とイリヤ君とセイバーを受け入れてくれたのもね」

 

 士郎が、間桐慎二のような性格ならば、もっと紛糾していただろう。自己への執着が薄すぎるのは問題だが、この場合はプラスに作用した。しかしこれから、正しい意味での自尊心を身につけてもらわなくてはならない。それは凛やイリヤに任せるとしよう。家族を失った悲しみを癒すのは、新たな愛情なのだから。

 

 幽霊にはできないことだし、してよいことでもない。

 

「いいこと、わたしがいいって言うまで、絶対に独断専行しちゃ駄目よ。

 セイバーもお願いね。こいつが無茶しないように見張ってて」

 

「リンに感謝を。シロウをよろしくお願いします」

 

 礼儀正しい美貌の騎士を、凛は魔術師の目で検分した。

 

「まあ、なんとかやってみましょうか。 

 それでも、セイバーの魔力は昨日より回復してるわね。

 食事のおかげかしら?」

 

 そして、相変わらず魔力が満タンにならないアーチャーにも首を捻る。先ほどの光線銃の消費は、拍子抜けするほどに少ないものだった。一方、霊体化していても魔力をそこそこに食うのだ。

 

「さて、夕食前に切りあげないとね。続けて、アーチャー」 

 

「はいはい。ライダーの使役者は、やはり間桐慎二君だった。

 で、君達には私がキャスターではないと言ってもらったが、

 彼には私がアーチャーと断定できなかったようだ」

 

 イリヤが真紅の瞳を瞬いた。

 

「マトウシンジは正式なマスターじゃないということね」

 

 正式なマスターには、敵のサーヴァントの能力が透視できる。その情報は、マスター経由でサーヴァントに伝達されるとヤンは推定する。単独行のランサーが、ヤンのクラスを判じかねていたのが傍証だ。そして、消去法でセイバーとアーチャーを挙げてしまったのが、ランサーの不運の始まりでもあった。

 

「召喚者は別に存在すると考えて、注意を怠らないように。

 こうなると、自分に似たサーヴァントを召喚するという点で、

 もう確定と思ってもいいだろう」

 

 表情を曇らせて、黒髪を掻きまわす。示唆された実姉にとっては、問い返すまでもなかった。ヤンは、桜が養女に行った理由を聞いていた。

 

 桜は、魔道の家門の加護なくば、生きていけないほどの素質に恵まれていたのだ。五つの属性を持つ凛に劣らず希少な、架空属性『虚数』の所持者。

 

 魔術回路が絶えた間桐家の、後継を生む者として乞われたことだろう。マキリの魔術は継承できないが、将来の家門の母として守られるためだ。知識は与えられずとも、桜には魔術回路がある。凛とほぼ等しい数の、強力なものが。

 

 そして、ペルセウスとメドゥーサに共通する、固有性の低い触媒を使ったとすると、

召喚者に似たほうが召喚されるのだろう。魔物と化す前のメドゥーサは、豊かな髪と水晶のような灰色の瞳、曲線美に富む肢体に恵まれた、美貌の持ち主であった。そして『妹』である。

 

 ライダーがメドゥーサならば、真の主は間桐桜だ。

 

「凛の魔術を解除するには、令呪を使うか誰かに頼むかの二者択一になる。

 前者ならば、残る令呪は最大でも一個。

 ライダーを殺し、他のサーヴァントと再契約する気があったら、

 そもそも令呪を消費してまで避難はさせないだろう。

 間桐家の他の魔術師に、凛の術が解けるのならば、そうするだろうが……」

 

「あの家の当主だろうと、そんなに簡単には解けないわ。

 十年間蓄積した魔力による、Aランク相当の魔術だもの。

 世界の修正があっても夜中までは保つわよ」

 

「じゃあ、明日には復活しちゃうじゃないか」

 

 凛は人の悪い笑みを浮かべて、先ほどアーチャーに言ったことを繰り返した。セイバーの主人は納得した。やっぱり、似たサーヴァントを召喚するって本当だと。アーチャーも、ライダーのマスターには、選択肢が少なくとも四つあり、それが行動を迷わせることになると補足する。

 

「せいぜい迷ってもらおうと思っていたが方針を変えよう。

 今夜の吸血行為は不可能と考えていいが、またぞろ蠢動されては堪らない」

 

「やっぱり、ライダーが吸血鬼なのか……」

 

「これは仮定だが、ちょっとした変装をすれば、

 皆が声をかけて、心配するような存在だと思わないか?」

 

 アーチャーは再び、携帯電話の画像を見せた。

 

「さんざん通り魔への注意がされているんだ。

 最もそう思われない姿をしているんじゃないだろうか」

 

 際どい部分を衣服で隠せば、皮の手袋もブーツも冬の装いとしては普通だ。最も目立つ眼帯も、包帯などで隠して、白杖を持てば不審に思われない。

 

「そっか、セイバーをメイドにしたのと同じなんだな」

 

「アーチャーがリンの彼氏になったのもね」

 

「だーかーらー、違うって言ってるでしょ!」

 

 本気で嫌がる凛に、アーチャーは苦笑いをしながら『遠坂凛の親戚』のプロフィール

を士郎とイリヤに伝達する。

 

「そうそう、私は凛の亡くなった大叔父の孫で、大学二年の『柳井』二十歳。

 出身は関東、現在は京都に在住。

 そういう設定にするつもりだから、心に留めておいてくれ」

 

「なんでさ。なんでまた、そんなに細かいんだよ」

 

「明日のランサーとの会食を、誰かに見られたらそれで通すからさ。

 ランサーは、大学の留学生ということにでもしようと思って。

 そうだ、凛。明日の会食の飲食店、どこか予約しておいてもらえないだろうか」

 

 凛は反射的に尋ねた。

 

「あんた、本気? こんな時に!」

 

「こんな時だから、彼に助力してもらいたいんだよ。

 敏捷性でライダーと同格であり、ライダーに勝る白兵戦技能の持ち主だ。

 ランサーでありながら、マスターと離れて行動できる。

 持久力がセイバーやバーサーカーに勝るということだ。そのうえ、霊体化が可能。

 一定の広さの屋内を戦場にするなら、対ライダー戦は彼以上の適任はいない」

 

 つらつらと列挙されるのは、ランサーがいかに強敵であるかということの裏返しだった。今のところ、アーチャーの奸智に丸め込まれてしまっているが、逆にアーチャーとランサーが組めば、このうえなく手強いだろう。セイバーは密かに危惧した。

 

「どうやって協力させるのよ。あんた、あれは嫌われたわよ。

 色々とひどすぎるわ」

 

 凛の非難に、アーチャーは人畜無害そうな笑みを浮かべた。

 

「とんでもない、私は彼の命の恩人になるんだよ。

 さらに美味と美酒を振る舞い、彼の願いを叶えるように持ちかける。

 強敵と武を競うチャンスだよとね。魅力的な提案だと思うんだが、どうかな」

 

「よ、よくもまあ、そんなことを言えるわね……」

 

 従者の悪どさに、うら若き女主人は呆れかえった。発想が完全に悪徳商人だ。事故死したという彼の父は、さぞやり手だったに違いあるまい。

 

「だから、ランサーとの約束を破るわけにはいかないよ。

 彼も誓約に縛られるうちは、全力を発揮できないからね。

 ご馳走を食べて、後顧の憂いをなくし、管理者に協力してもらうのさ。

 おまけに私の願いも叶うし、いいことずくめだろう?」

 

「なんと不謹慎な! 何より、サーヴァントならば私がいる。

 なぜだ、アーチャー」

 

 一転、険しい顔になったセイバーに、アーチャーは髪をかき混ぜて眉を下げる。

 

「申し訳ないんだが、今の君は表面上、

 イリヤ君のサーヴァントに見えるようにさせてもらってるんだ。

 一方、イリヤ君の真のサーヴァントを知っているのがランサーだ。

 バーサーカーは切り札だ。直前まで伏せておくべき類いのね。

 ランサーとライダーのマスターが、手を組むことを阻止する目的もある」

 

「どうしてなの? バーサーカーは最強よ。

 ランサーなんかじゃ傷も付けられないんだから」

 

「イリヤ君は、バーサーカーはおしゃべりができないって言っただろう?

 彼の宝具は真名解放型のものではない。違うかな?」

 

 穏やかに問いかけられて、イリヤは息を飲み込んだ。

 

「バーサーカーは、極めて高い能力を持っている。

 肉弾戦では彼に勝てるサーヴァントはいないと思うよ。

 しかし、サーヴァントの強さは宝具に依るところが大きいと、

 セイバーもさっき言ったね」

 

 不承不承という表情で、上下動する金銀の髪。

 

「バーサーカーの宝具は、常時発動型ではないかと私は推測するんだが」

 

「う……」

 

 言葉に詰まるイリヤに、アーチャーは手を振った。

 

「ああ、無理に話さなくてもいいよ。私だって秘密にしてるからね。

 バーサーカーの白兵戦能力は比類ないものだろう。

 だが、真名解放型宝具ではないとなると、爆発力に欠ける。

 機動力に富み、宝具に依存するライダーとの相性は、あまりよくなさそうだよ。

 彼女は肉弾戦の専門家ではなさそうだから、

 正面から身一つで組み合うとは思えない」

 

 バーサーカーは、肉弾戦に優れたサーヴァントに、無類の強さを発揮する。しかし、欠点も存在するとのアーチャーの言だった。バーサーカーの攻撃範囲の外から、イリヤを巻き込むような一撃を放ってくるかもしれない。

 

「ライダーがメドゥーサならば、一番厄介なのは石化の邪眼だろうね」

 

 イリヤは怪訝な顔になった。セイバーの主従も同様だ。

 

「きっと宝具のペガサスじゃなくて?」

 

「馬って大きいんだよ、イリヤ君。バーサーカーと同じぐらい背も高いんだ。

 そのうえ、翼がついているなら余計に場所をとるのさ」

 

 騎士だったセイバーが真っ先に気付き、はたと膝を打った。 

 

「ええ、あの廊下で騎乗するにはいかにも狭い。

 騎乗して走るなら、バーサーカーより高さが必要になります。

 なるほど、見事な計略です」

 

「私が生き残るには、それしか方法がないからね」

 

 幅二メートル半、高さ三メートルの学校の廊下では、翼をたたんでも身動きがままならないだろう。こと戦闘になると、ヤン・ウェンリーはどこまでも根性悪になれるのだ。

 

「私の宝具は、威力は低いが数撃ちゃ当たる。遠くからね。

 だが、接近戦主体のセイバーやバーサーカーはそうはいかないだろう。

 どちらも単独行動ができないから、

 士郎君やイリヤ君がそばに付かなくてはならない。

 彼女の一瞥で石になるんじゃ、天馬よりおっかないよ」

 

 衛宮とアインツベルンの陣営は顔を見合わせた。代表してイリヤが異議を述べる。

 

「でも、マキリの跡取りが、わたしを殺そうとするかしら?

 聖杯の器が手に入らなくなるのよ」

 

 それにヤンは首を振る。

 

「彼が魔術師として、ちゃんと教育されているかどうか。

 聖杯の担い手の意味も、知っているか怪しいものだ。

 でも、マスターとサーヴァントが七組というのは知っているだろう」

 

 そう言うと、ヤンは士郎の状況を説明した。セイバーは、イリヤの命で士郎の監視役についている。前回もアインツベルンのサーヴァントとして、アイリスフィールを守っていた。そして、前回は最後まで勝ち残っている。

 

「それほどに有能なセイバーを、再び召喚するのはむしろ当然だろう。

 イリヤ君のお母さんは、セイバーを公然と同行させていたようだし」

 

 セイバーは目を伏せた。

 

「ええ……とても楽しそうに、この街を見ていました」

 

「娘が母の真似をしても不自然ではないよね。

 イリヤ君が前回のことを知らないということは、

 我々以外は知りえないんだから」

 

 決勝まで残った切嗣主従の戦果は大したものだ。せっかくの情報を無視することなど、常識では考えられない。

 

「なるほど……、たしかに、イリヤスフィール……様のサーヴァントとして、

 私がシロウを監視しているように見えるでしょう」

 

「だから、士郎君のサーヴァントは、慎二君にとっては謎のままだ。

 イリヤ君のセイバーがついているのに、

 士郎君を無防備にすることはありえない。

 よって、姿を見せず霊体化しているとね」

 

 その先入観を利用した、ちょっとした詐術だ。

 

「じゃあ、シロウには、サーヴァントが二人ついてるって、そう思わせてるの?」

 

 イリヤの質問にアーチャーは頷いた。

 

「そして、士郎君は凛の弟子で、イリヤ君の義理のきょうだいだと言い渡してある。

 私とセイバーと謎の一騎を、敵に回そうとは思わないだろう。

 イリヤ君に手を出すならば、ここに攻め入ることになるが、

 隙だと思わせることで、襲撃を日中に誘導できるのさ」

 

 夕方には、セイバーと架空の一騎が帰ってくるからだ。

 

「となると、ペガサスで飛ぶわけにはいかなくなる。

 邪眼にさえ注意すれば、バーサーカーの有利は動かない」

 

「だから、私をアインツベルンに?」

 

 前回のマスターと酷似した手法に、反感を覚えていたが、そちらが目的だったのか。なんという神算鬼謀だろう。慄然としかけたセイバーに、アーチャーは手を振る。

 

「いやいや、いくらなんでも、そんな先読みはできないよ。

 君にメイドのふりをしてもらったのは、

 主に士郎君の今後の生活を守るためだからね」

 

「あ、ありがとうございました、アーチャーさん!

 学校の付き添い、ほんとに何とかなったんだ。

 あ、そうだ。セラさんもありがとうございました……」

 

 士郎は、アーチャーとセラを伏し拝んだ。今日の学校への説明は、イリヤ側の使用人ということでセラに押し切ってもらい、見事にセイバーの付き添いを了承させてしまった。しかるべき理由できちんと手順を踏めば、おおよそのことは通るというアーチャーの言葉のとおりに。

 

 ――養子と隠し子の骨肉の争いなんて、学校だって巻き込まれたくはない。特に、穂群原高校は私立で、公立とは違って自治体の後ろ盾がない。

 しかし、簡単に退学とも言えない。生徒は金蔓だからだ。だからこそ、管理職は当事者同士でなんとかしてくれと考えるものだ。きちんと許可を求めての付き添いだし、藤村先生の証言もある――。

 

 そして、この騒動は、全校生徒の耳目を惹いた。部活動どころではなく、みんなが応接室を遠巻きにする状況になったのだ。四階の特別教室周辺から、生徒を遠ざけるのにも一役買ったのである。

 

 ヤン・ウェンリーの魔術は、彼が望むカードを相手に選ばせて引かせる。破滅を迎えるまで、相手はそれに気付かない。

 

「そして、士郎君と同じくらい、間桐慎二君の今後のことも配慮すべきだ。

 彼を殺すのは論外。私たちのマスターに犠牲者を出すのと同様にね」

 

「なぜですか。大勢の人間を害しようとしたマスターでしょう」

 

「たしかにね。しかし、そいつはサーヴァントの仕業だ。

 マスターの指示によるものだとしても、教唆犯と実行犯では後者の方が重罪だ」

 

 セイバーの白い頬に朱が上った。

 

「なんと卑劣な!」

 

「私もそう思うよ。

 しかし、ライダーが嫌だと言っても、令呪で命令されたら拒めない。

 そんな犯行を抑止するのが教会だろうに、ろくに働きかけもしてないじゃないか」

 

 前回の教会の対応を知るセイバーは考え込んだ。深い緑に金の睫毛が影を作る。

 

「……前回のキャスターは、一般人に無用の殺戮を行う輩でした。

 教会からの要請で、他の陣営と協力のうえで、キャスターの討伐に当たった。

 たしかにおかしい。アーチャーの言うとおりです」

 

「あちらがやらないなら、管理者が抑えなくてはいけないのは、

 君も騎士なら分かってくれると思うけどね」

 

 金沙の髪が頷き、決然とした眼差しを漆黒の瞳に注ぐ。

 

「国を守るのが騎士たる者の務めですから」

 

「それでも、同格の存在である間桐を蔑ろにできないだろう?」

 

 形のよい金の眉が寄った。同盟者の討伐は、政略で最も難しいことだ。多くの味方を作らなくては、苦戦と戦後の汚名は必至である。

 

「……わかってきました。

 間桐への対応は、前回のキャスターの討伐の逆だというわけですね。

 同盟者である遠坂、アインツベルンでは難しい。

 かといって、友人であるシロウが行っては禍根を残すと」

 

 アーチャーが穏やかに微笑んだ。

 

「これ以上、間桐主従を追い詰めて、決定的に敵対させてはいけない。

 遠坂陣営は、同盟者を増やし、ライダーが勝てない状況を作る。

 そして、士郎君は慎二君の攻め手を奪いつつ、彼の味方になるんだ」

 

 遠坂凛が北風となるなら、衛宮士郎は太陽になって、間桐兄妹の懐柔をというのがヤンの新たな構想だった。

 

「意味がわからないぞ、アーチャー……」

 

「つまりはこういうことさ」

 

 それから士郎らに語られたのは、仕事を丸投げするために人材発掘と育成に努め、

『ヤン・ファミリー』と称されるほどに、幕僚を団結させた管理職の極意であった。



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32:戦いのかたち

「士郎君と慎二君、桜君に共通する接点は弓道部だね。

 一昨日、君が遅く帰ってきたのは、部活のトラブルだったそうだが、

 ここを士郎君のホームにするんだ」

 

 明らかにぎくしゃくしている、部内の人間関係の調整に努めろということだった。

 

「君の受けた仕打ちを単純になじるのではなく、改善案を提示するのさ。

 できるだけオープンに、部内で合意を形成するといい。

 でないと、彼や君だけが悪者になるからね。どちらもよくないだろう」

 

 みごとな組織管理論だが、士郎の口から疑問が零れおちた。

 

「……なあ、聖杯戦争は?」

 

「それとは別に、きちんとした手段によって解決すべき問題だよ。

 その問題が解決されれば、君や他の生徒の学校生活が充実し、

 相手の攻撃手段を封じることにもつながるからね。

 それで彼が同盟を選んでくれれば、ベストじゃないか」

 

「でもさ、吸血鬼事件も、あいつらの仕業なんだろ」

 

 法律を尊重するアーチャーなのに、その態度は意外だった。

 

「証拠もないし、目撃情報もないけど、恐らくはね。

 彼らは悪事を働いていて、こっちは制止する理由もある。

 戦うのは実は簡単だ」

 

「じゃあ、ライダーを倒さなくちゃ。

 やらせた奴にだって同罪だろ。なんで赦すのさ」

 

 ヤンは、髪をかき回した。それが、聖杯戦争の巧妙で陰険なところだ。

 

「しかしね、捜査もできない、幽霊が犯した罪だ。

 悪事をやらせたマスターには、日本国民として裁判を受ける権利がある。

 それを無視して制裁を加えたら、我々も犯罪者になるんだ。

 士郎君の理想とは少し違うんじゃないかな?」

 

 誰をも切り捨てず、全てに手を差し伸べる正義の味方。静かな眼差しが、士郎に問いかけていた。それが、養父から受け継ごうとした理想ではないのかと。

 

「ああ、うん、だけどさ……」

 

 凛も同意するしかなかった。法治主義者のサーヴァントの言い分は、一理も二理もあった。

 

「ねえ、士郎。やるだけやってみたらどう?

 綾子も手を焼いているみたいだし、桜も弓道部よ。

 確かに、わたしやあんたにとって、人質にできる相手が揃ってる」

 

 士郎には反論の言葉が見つからなかった。ライダーは生徒と教職員全員が犠牲になるような結界を仕掛けている。一人二人の犠牲を躊躇いはしないだろう。

 

「わたしだって、アーチャーに言われるまで考えなかったけど、

 綾子や桜が呼んでるって下級生に言われたら、きっと疑わずに行くでしょうね」

 

 弓兵の役割を果たしているとは言えないが、二百万人以上の兵員の司令官はこういうことまで考えるのか。凛は考え込んでしまった。戦力としては最弱に等しいが、おそらくは歴代で最も賢いサーヴァントだろう。

 

「そうそう、凛もイリヤ君もよく気をつけるんだよ。

 士郎君の学校関係や、教会の呼び出しや来訪は、絶対に複数で対応すること。

 凛の後見人を悪く言いたくはないが、素人同然の学生を焚きつけるような人物を、

 私は信用できないね」

 

「それが正解よ。あいつはね、信用できないことを信用できるというタイプの奴よ。

 人外の化け物を狩っていた、バリバリの元代行者なの」

 

「……じ、人外ってなんだい?」

 

「死徒とかね。言ってみれば吸血鬼やゾンビよ」

 

 黒い目が真ん丸になった。

 

「あの外見を見りゃわかるでしょうけど強いわよ。

 わたしたちマスターが単独じゃ勝てない。アーチャーも肉弾戦じゃ負けるわね」

 

「やれやれ、貴重な情報をありがとう。まったく心躍らないがね。

 だからこそ、ランサーを引き入れたいんだがなあ」

 

 溜息をついて、冷めた緑茶を啜ったヤンは、ふと菓子の皿に目をやった。饅頭や大福がぎっしりと並べられていたのだが、皿の模様がよく見えるようになっていた。

 

もっぱら話をしていたヤンは食べていない。慣れない味に、一口でやめたのがイリヤ。凛は緑茶にもほとんど口をつけていない。士郎も同様。と、すると……。

 

「ところで、明日の夕食の店だけど、美味しくて食べ放題のところがいいと思うんだ。

 定額制のバイキングレストランなんかがいいと思う。

 貸切じゃなくて、予約席で充分だ。人目を味方にした方がいい」

 

「俺の家で夕飯作ってもいいぞ」

 

「サーヴァントに毒は効かないが、苦手な物を食べなくてもいい場所の方が気楽だよ。

 彼にとってここは敵地で、サーヴァントが三人もいるんだから」

 

「あ、そっか、そうなるんだよな」

 

「君だって、後片付けを気にせずにゆっくり話ができた方がいいだろう。

 たまには外食だっていいものだ。なによりも」

 

 凛は半眼になった。

 

「なによりも、何? またろくでもないことか、手抜きを考えているんでしょ」

 

「さすがマスター、ご明察だ。

 食後の運動に、ランサーに一騎打ちを申し込まれたら困るんだよ。

 そういうところなら、すぐさまそういう話にはならないだろう」

 

「やっぱり。どうするのよ、これから?」

 

「うーん、少々エンゲル係数はかさむが、夕食後に翌日の夕食に誘い続けるとか?」

 

「エンゲル係数ってなあに?」

 

「家計に占める食費の割合だよ。低所得世帯ほど、係数が高くなる」

 

「大食いがいても高くなるの?」

 

「そりゃ、食べる人や量が増えればそうなるねえ」

 

 黒髪と銀髪の擬似兄妹が、和やかに会話するのをよそに、士郎が裏返った声で叫んだ。

 

「エ、エンゲル係数!? なんでそんなこと知ってるのさ! 

 これも聖杯の知識なのか、遠坂!?」

 

「わたしが知るもんですか。

 こいつは日本国憲法の素晴らしさを、召喚して六時間後に力説したのよ。

 生前に知ってようが、聖杯の知識だろうが、関係ないと思わない?

 付き合うこっちも疲れるのよ」

 

「なんでそんなに不満そうなの、リン。

 頭がよくて、お話がおもしろくて、マスターをきちんと守れるんだから、

 アーチャーはいいサーヴァントじゃない。

 おまけにだれかさんと違って、リズの服やセラの下着をダメにしたり、

 大食いもしないのよ」

 

「う、あの……」

 

 気まずそうに口を開いたセイバーだが、銀髪がぷいと横を向く。相変わらず、セイバーに対するイリヤの採点は辛口だった。

 

「まあまあ。それは召喚の不備と魔力不足に起因するんであって、士郎君の問題だ。

 だが、そうなったのはイリヤ君と切嗣氏の責任でもあるんだよ。

 セイバーばかりのせいじゃないさ」

 

 ルビーの瞳が、アーチャーを上目遣いに見た。

 

「アーチャーはどっちの味方なの?」

 

「私は凛の味方だから、管理者の部下として公平を期すだけだよ」

 

 セイバーのみを責めるのではなく、広く深く原因を考察せよ。それがアーチャーの論旨だった。士郎の疑問はイリヤの疑問でもあるのだ。黒髪と黒い瞳のアーチャーは、生きていた時代が全く読めない。わかるのは、とにかく頭がよく、本来の意味で中立中庸ということだけだ。

 

『どうにかして、アインツベルンに連れて帰っちゃおうかな』

 

 そんなバーサーカーのマスターの思いも知らず、士郎は野望を抱いた。エンゲル係数。その言葉の意味を虎にも言ってもらおう。そして、食費を入れてもらうんだ!

 

「食費の問題だけじゃないわよ。

 あんたやランサーが、夕飯時に毎日ウロウロしたら、誤魔化しきれないでしょう」

 

「そうだっけ、今だってアーチャーは遠坂の彼氏だって思われてるもんな。

 今度はランサーが加わったら……」

 

「サンカクカンケイ? それともギャクハーレム?」

 

 凄味のある微笑を浮かべた凛が、左手を突き出す。制服の袖から手首に覗く、魔術刻印が青白い光を発した。

 

「なんですって、衛宮くんとフロイライン・アインツベルン。

 もう一度言ってみてくれる?」

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 異口同音に叫んだ赤毛と銀髪が、揃って米つきバッタと化した。メイドとして誤魔化しているセイバーの気持ちは複雑だった。キリツグとの関係を主張して、士郎の家に同居したら、セイバーもそう思われたことだろう。

 

 ヤンも何とも言えない思いになった。死亡時の外見で召喚されていたら、まずは起こらない問題だった。遠い親戚という説明だけで、あっさりと終わったろうに。

 

「駄目かなあ、やっぱり。

 一回限りだから、彼のマスターも黙認してるんだろうし、

 度重なれば、令呪をもってでもそんなの守るなって言うだろうなあ。

 令呪に余裕があるマスターの場合に限られるが」

 

 ルビーの瞳に、白銀の睫毛が半ばまで影を落とした。

 

「リンとアーチャー、わたしだって聖杯が欲しいんだけど」

 

「それは期限内に、より安全に達成すればいいわけさ。

 目的に応じてさまざまな手段を考え出すのが、マスターの役割とも言える」

 

「そっちはアーチャーのお仕事だったの?」

 

「そういうことだね。

 君は最強のバーサーカーのマスターで、彼の強さは切り札の一つだよ。

 だが、切り札はここぞという時に使ってこそだ。逆に温存しすぎてもいけない。

 その投入の機をはかるのが、イリヤ君に求められることだが、まだ早いと思うね。

 だって、たったの四日目だ。色々と情報を集め、分析してからでも遅くはないさ」

 

「わかったわ。アーチャーのお話は面白いから、もっと聞きたいもの」

 

「それはどうも、ありがとうと言うべきなんだろうね。

 さて、明日の夕食、どうしようか。

 どこかいい場所を知ってるかい? 食べ放題、飲み放題だとなおいいね」

 

 夕日色の頭が、力強く頷く。

 

「俺もそう思った。エンゲル係数的にも。

 安くて、旨い食べ放題の店が新都にあるんだ。予約しとこうか?」

 

「いいや、遠坂の名で予約したほうがいいから、店の名前を教えてくれないか。

 士郎君とイリヤ君の親睦を深めるという名目でね。

 セイバーは当然だが、セラさんとリズさんにも来てもらおう。

 私は凛の親戚で、ランサーは私の友人」

 

「ずいぶんと面倒な設定よね。やっぱり、士郎の案の方が楽じゃないかしら」

 

 確かにその方が楽だが、これも生存のための一手なのだ。

 

「いや、これは大勢の目に触れさせることに意味があるんだよ。

 理由はいろいろあるが、秘匿せよとは公開されるとまずいということに他ならない。

 後ろ暗い真似は、公明正大な行為には絶対に勝てないのさ。

 覚えておくと役に立つよ」

 

 心当たりが多すぎる面々には、言い返すことができなかった。

 

 ぎりぎり夕食前に会合を切り上げ、凛は衛宮家を辞去した。

 

「え、食っていけばいいだろ。二人分くらいなんとかするぞ。

 カニ玉の具はちょっと減るけどさ……」

 

「ありがと、士郎。でも、この二日結構食事をすっ飛ばしたのよね。

 買い直さなきゃならないものがあるのよ。牛乳とか野菜とか」

 

 士郎は夕飯に誘ってくれたのが、そろそろ食品の補充も必要だ。夕方のタイムセールを逃す手はない。マウント深山商店街に寄って買い物をしたら、結構な量になった。アーチャーを霊体化させなくてはならないのが残念だ。荷物持ちをさせてやるのに。

 

『でもやっと、家で眠れるわ』

 

『お疲れさん。ところでマスター、例の物は?』

 

『客間を開けるわ。あんた、掃除しなさいよ』

 

『別に埃じゃ死にゃしないし、もう死んでるから余計に気にする必要も……』

 

『うっさい。あんたの足跡が床に残ったら不審でしょうが。

 箒なら壊す心配はないわよね!? 嫌よ、埃まみれのサーヴァントなんて』

 

 凛の小言に、ぼやくような思念が返ってきた。

 

『誇り高きサーヴァントの方が難しいと思うなあ。

 皇帝が敵だったと言ったのは失敗だったかな』

 

『どうしてよ』

 

『騎士とは支配者階級なんだが、ローマ文化圏では女性の相続権は低かった。

 特にフランスでは、ずっと女性の継承権がなかったぐらいだ。

 時代が下がると、ローマ帝国の影響が少ない英国やドイツ、

 北欧なんかは緩んでくる。

 中世末期のその国々ならば、甲冑の女騎士はぎりぎり存在する。

 容姿や服装的に、最初はそうだと思っていたんだが、どうやら違うみたいだ』

 

 思いがけないと言おうか、彼らしいと言おうか、また歴史論が語られる。今度は女性の騎士についてのあれこれだが、随分と歯切れの悪い調子だった。

 

『よくわからないけれど、それとセイバーがどう関連するの?』

 

『その時代の女騎士は、国を救いたい、守るとまでは言わないと思うんだ。

 女性が継ぐような家は、そんなに名門じゃなくて、貴族の配下でも末端だからね。

 日本の戦国大名の部下の部下、足軽の頭みたいなものだ』

 

 自分の家や主家の存続は願うが、国家という大局的な視点を持つには至らない。

 

『一方、キリスト教信仰も篤くはないから、ジャンヌ・ダルクでもなさそうだ。

 ジャンヌならますます支配者じゃないけどね』

 

 凛は驚き呆れた。よほどセイバーに興味があったのだろうが、作戦を考える合間によく分析できるものだ。好きな甘味は別腹、みたいなものかもしれない。

 

『つまり、セイバーと時代が合わないって言いたいのね?』

 

『そうなんだ。騎士が一国の王というのは、十字軍以前の時代、中世の前半までだ。

 ヨーロッパのどの地域であっても、女性が王位を継げるはずがないんだよ。

 となると服装が噛みあわなくなってしまうんだ』

 

 セイバーの見事な板金鎧は、十四世紀以降の技術力がないと作れない。十字軍の遠征により、イスラムの進んだ冶金術がヨーロッパに流入してからのことになる。アンダースカートの精緻なカットワークレースは、早くとも十五世紀以降のもの。この時代が、甲冑の女騎士が存在するギリギリなのだ。

 

 十六世紀になると、騎士は階級の名称となり、剣を振るっての戦いは銃撃戦へと移行する。中世最末期、あの見事な装束を用意できる家格の娘が、騎士を継ぐこともありえない。国中から、有能な騎士が婿入りを争って願うだろう。彼女は姫君として育てられるはずだ。

 

『英霊が人類の意識の集合体というなら、

 後世の創作によって姿が変容するかもしれない。聖母マリアの服のようにね。

 中性ヨーロッパの前期から中期の、身分の高い女性の騎士なんて不審極まりない。

 取り扱い注意だ。彼女は、士郎君たちに任せた方がよさそうだよ』

 

 聖杯を真剣に欲している者にとっては、その価値を認めていない、物見遊山気分の者の主導には、頷きがたくなっていくだろう。ヤンはそう分析する。だから、素性と目的がはっきりしているクー・フーリンと同盟を結びたいのだが、彼のマスターが誰かわからないのがネックだ。

 

 キャスターは素性と目的、マスターの全てが不明だ。しかし、利己的だが理知的な為人だ。損得勘定ができるということで、金の卵をとるために、ガチョウの腹を裂いたりはしないだろう。

 

 そして、アサシンの動向も彼女は知っている。知識は戦いを制する。敵対よりも利益供与によって、何とかしたいものだあと十日しかないが、凛の師になってもらえないものだろうか。今後に大いに役立つだろう。女性としても、猫かぶりではない気品を身につけられるといいのに。

 

 ライダーは、間桐桜のサーヴァントである可能性が高い。だが、神に翻弄され、死後に星となったメドゥーサが、人の作った聖杯に望むことがあるというのか。むしろ、声なき嘆きに、地母神としての側面が慈悲を垂れたのではあるまいか。かつての自分に似た美しい『妹』に。

 

 衝撃から立ち直り、彼女を桜のサーヴァントと仮定すれば、あのものすごい服装も、別の意味をヤンに提示する。

 

 特に眼帯が。メドゥーサは、ゼウスの兄に略取された乙女として、もう一人の兄である冥府の神ハデスの妻、ペルセフォネーと混同される事があるのだ。

 

 ペルセフォネーは乙女座になったが、じつはもう一人、乙女座になぞらえられた女神がいる。正義の女神アストレイア。ローマ神話のテーミスの元になった存在だ。西洋では広く司法のシンボルとなっている、目隠しをして天秤と剣を持つテーミス。外見にとらわれず、真実に耳を傾けよとの教訓である。

 

 眼帯の女。あの蛇を思わせる服装にも、潜むものがあるのではないか。メドゥーサが表すのは、美女から魔物への変質。蛇は地母神の象徴だが、心理学では恐怖や性の暗示だ。そして、生贄を拘束する鎖にも似たライダーの武器。マスターからのSOSが反映されているのかと思わざるをえない。

 

 あの廊下だって、眼帯を外して突進すればよかったのだ。きっと、彼女は『姉』に手を上げられないのだろう。女神アテナに妹を元に戻すように嘆願し、だが、同じ魔物にされてしまった二人の姉がいるから。

 

 ゴルゴンの三姉妹は、魔物としても受身の存在だった。ガイアが生んだテュホーンのように、神々の下へ乗り込み、散々に暴れたわけではない。『討伐』に来る連中を退け続けただけだ。勇者とやらも、来なければ石にされなかったろうに。

 

 それが、従順というか主体性に乏しい為人となっているのか。あるいは、真のマスターが人質になっているのかもしれない。他人に危害を加える者は、真っ先に家族の中の弱者に矛先を向ける。すでに、手を上げた過去があるようだし、魔術など使えなくても、人を痛めつける方法は無限にある。

 

 しかも、五百年も生きているという老魔術師がいるという。クローン体を作成し、脳移植を繰りかえすというのは、子供向けの立体TVアニメの悪役の手法だ。

 

 しかし、人間の脳の耐用年数は百年程度である。その五倍も長持ちさせるのは、どういう仕組みか。まともな手段ではないだろう。桜だけではない、間桐慎二とその父も、恐らく犠牲者だ。

 

 ライダーを排除して、戦争から一抜けさせるか。彼女も引き入れて、あの兄妹を信のおける人に託すか。難しいところだよなあと溜息が出てしまう。

 

 しかし、気を取り直したヤンは、今まで心話を遮断していたマスターに語りかけた。

 

『とにかく、問題は切り分けて考えよう。

 士郎君の家族の問題は士郎君が担うべきだ。

 君は、君の家族の問題に注力したほうがいい』

 

『わたしの家族……』

 

『そう、君の大事な妹さんがいる』

 

『遠坂と間桐は不干渉なのよ!』

 

 ふと、凛の脳裏に微苦笑の気配が漂った。

 

『養女に行ったからといって、実親との関係は変わらないよ。

 姉妹の関係も同様だ。そんな法的根拠のない悪習なんて従わなくてよろしい。

 そもそも、そいつを主張しているのは誰なのかい?』

 

『……間桐臓硯よ』

 

『おやおや、やはり五百年も前の人間だね。現代法に乗り切れていないようだ。

 いいかい、凛。養子縁組は家じゃなくて、子どもの福祉のためにあるのさ』

 

『え……?』

 

『こいつは、現代も千六百年先も変わっていない基本だ。

 正義の基準は、時に応じて変動するものが多い。

 七十年前は、養子は家の存続のためだったが、現在はそうはいかない。

 すべては桜君の意志でどうにでもなるんだよ』

 

『桜の意志で?』

 

『昨夜言っただろう。やろうと思えば養子離縁ができるって。

 かなり面倒ではあるが、十五歳以上であれば自分でできるんだ』

 

『本当にできるの……?』

 

『本当だとも。もう、君たちは五つ六つの子どもじゃない。

 権利が侵されたのなら、正当な方法を以って対抗できる』

 

『そんなまともな方法、あの化け物には効かないのよ!』

 

 アーチャーに思念を叩きつけて我に返ると、いつのまに坂を登ったのか、自宅の前に立っていた。

 

『凛、ポストを確認してみてくれないか?』

 

『わかってるわよ』

 

 どうせ、夕刊に広告、ダイレクトメールや請求書の類いだろう。そう思っていたが、一通だけ見慣れた文字の封筒が混じっていた。アーチャーに促されて、凛が記入した返信用の封筒。慌てて裏返すが、差出人の名前はない。

 

「嘘、手紙が来てる」

 

『なるほど、彼女は約束を守る人物のようだね。

 化け物魔術師には、強大な魔術師の力を借りてみないかい?

 おとぎばなしにも真実の一端が含まれるのさ』



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閑話6:衛宮家の食卓――ヘラクレスとかに玉と――

 バーサーカーの正体がヘラクレスと知ったアーチャーは目に見えて落ち込んだ。

 

「ひどい。あんまりだ。彼の武勲を一番うかがいたかったのに。

 なんで、アーチャーとして召喚しなかったんだ。

 それこそ、最強だっただろうに」

 

 そんなことを、部屋の隅で膝を抱えて呟いている。凛の翡翠の瞳の半ばを、長い睫毛が覆う。

 

「馬っ鹿じゃないの。

 ヘラクレスがアーチャーだったら、あんたはどうなるのよ。

 あんたがバーサーカーだったら、どっちみち話なんてできないでしょ。

 じゃなかったら、他に空きがあったのはセイバー。

 あんたに剣術なんてできるの!?」

 

「あんまり関係ないんじゃないかい? 

 私が生前できなかった戦略上の最高の結果を出してるんだし」

 

 言われて凛は眉を寄せた。

 

「最高の結果って、何?」

 

 黒髪のサーヴァントはのほほんと笑った。

 

「読んで字のごとくさ。戦いを略すことがすなわち戦略上の大勝利ってね」

 

 凛は、人差し指を立てたアーチャーの胸倉を掴み、ゆっさゆっさと揺さぶりながら説教した。

 

「言われてみると、あんた、ろくすっぽ戦ってないじゃない!

 この無駄飯ぐらい!」

 

 凛の腕力か、はたまたアーチャーが軽量級なのか。衛宮士郎は後者であってほしいと切に願う。遠坂凛は今日から魔術の師匠となった。もしも前者で、あの調子で締めあげられたら……、俺は、死ぬかもしれない。

 

 もっとも後者であっても、士郎の危機は何ら変わらないのだが。アーチャーは士郎より十センチ近く背が高く、体格は似たようなものだ。士郎のほうが小柄な分だけ体重も軽い。より激しくシェイクされるだろう。

 

 戦わなくちゃ、現実と。でも幻想の崩壊を見るのも辛い。ミス・パーフェクトがどうしてこうなった。あかいあくまの下僕の前途は多難だ。

 

 締めあげられている黒い悪魔は呑気な声を上げた。通常物理攻撃無効のおかげだ。

 

「いやー、懐かしいなあ。昔はそうも呼ばれてたんだ」

 

「何ですって!? 不敗だのマジシャンだの、大層な二つ名は嘘だったの?」

 

 凛は知らないが、実はまだある。奇蹟だとか、ペテン師だとか、戦場の心理学者に戦争の芸術家。戦術なんて、戦略を整えられなかったことの苦しまぎれの悪あがきだったから、ヤンとしても不本意な異称の数々だ。

 

「ほら、私なんかが元帥になったのは、

 有能な年長者がみんな戦死してしまったからで、

 その前は指揮官じゃなくって参謀だったんだ。

 参謀だって何人かいたから、作戦案を採用されないとどうもこうもない。

 私はろくでもない結末ばかり考えつくんで、上官に好かれなくってさ」

 

「そればっかりじゃないわよ。あんたの上司の気持ちがわかるわ。

 あんた、大人しい顔して、しれっと真っ黒いこと言うんだもの。

 不真面目だし、すぐさぼろうとするし! 

 実際問題できるの? セイバーなんて」

 

 マスターの無理難題に、アーチャーは胸の前で手を左右に振った。

 

「そんなの、無理に決まっているだろう。

 武芸百般に傑出し、最高レベルの頭脳を誇り、

 男性美の極致で数多の女性を魅了した、ヘラクレスとはわけが違うんだよ」

 

 死を具現化したような鉛色の巨人とは、結びつかないようなアーチャーの評だった。

 

「男性美ぃ? たしかに筋肉隆々で、すごく大きかったけど、

 美形かっていうと違わない?」

 

 これは凛の評だ。バーサーカーに吹っ飛ばされて死にかけた士郎は、当然観察している余裕などない。 

 

「彼は大神ゼウスの子だよ。オリンポスの神々は巨人の神だ。

 人間とのハーフだから、逆にあんなもので済んでいるんじゃないのかな。

 だって、女神ヘラの乳をヘラクレスにこっそり与える際に、

 飛び散った乳が天の川になったわけだから」

 

「ミルキーウェイね。確かに体が大きくなきゃ、そこまで飛び散らないか」

 

「そういうこと。ちなみにヘラは絶世の美女でもある。

 ヘラクレスの母親は、そんな妻を持つ大神ゼウスが

 目をつけたほどの美女。ゼウスだって、男性の理想美の持ち主だ。

 二人の息子のヘラクレスが美男子でないわけがない。

 アマゾネスの族長の腰帯を借りてこいという、

 十二の試練の一つだって、それで難なく解決してるだろう」

 

「あ、そういえば」

 

 凛は頷き、士郎は会話からおいてけぼりを食った。魔術の自己鍛錬はしていたが、こういう神秘学的な勉強はさっぱりだ。過去へと向かう学問と、凛は魔術のことを語っていたが、歴史マニアのアーチャーはさらにその上を行く。

 

 普通の男は、ギリシャ神話の詳細なんて知らないから! 女子高生だって、星占いの星座ぐらいじゃないのか。

 

 ――この人たち、色々とおかしい。ヘンだ。

 

 とある平行世界では、行き過ぎた無私を散々に貶された士郎だが、ここでは師匠らが他山の石となった。

 

 突き抜けすぎて賢いって、気味が悪いよな……。

 

 弟子の内心は師匠には伝わらず、豊かな黒髪を胸元から背中に梳き流すと、腕組みをする。

 

「そうよね。たしかにもったいないわよね。

 十二の試練を考えてみると、ヘラクレスはキャスター以外の

 すべてのクラス特性を持つんじゃないかしら」

 

「あれかな、アーチャーだと宝具になりそうなヒドラの毒矢が、

 自分の弱点になるからかな」

 

 きょとんとする士郎に、アーチャーはヒドラの毒矢は、試練のひとつで退治した、多頭の巨竜の血の毒だと説明した。

 

「この怪物は海蛇座として天にあるんだ。

 ヘラクレスの邪魔をするために、ヘラが送り込んだ大ガニはかに座。

 だが、こいつはあっけなく踏みつぶされてしまった」

 

「わかるぞ。あのバーサーカーの元だろ。カニのハサミなんか効かないと思う。

 それにしても、星占いのかに座って、そういう伝説があったのか。

 バーサーカーを邪魔するぐらい、大きなカニかぁ……。

 食ってみたいなあ」

 

「ははぁ、確かに食いでがあるだろうね」

 

 でもそれ、お高いんでしょう? 自問した士郎は、次に財布と相談した。答えはノー。いや待て、藤ねえからお裾分けのカニ缶があった。そして一昨日買った特売の卵2パック。うし、明日の晩はカニ玉にしよう。  

 

 献立が一つ決まって晴れ晴れとした士郎に、本題が説明された。自らの武器が、ヘラクレスの弱点となりうる理由が。

 

 ヘラクレスの妻はケンタウルスに攫われそうになったことがある。犯人のケンタウルスは、夫にその矢で射られ、彼女にこう言い残して息絶えた。

 

『私の血には、愛を取り戻す力がある。

 夫の愛が薄れた時に、私の血を彼の服に沁み込ませれば、

 彼は貴女の元に戻るだろう』

 

 ケンタウルスにとって、彼女は自分の仇の妻。ヘラクレスの妻にとっては、彼は夫に処断された誘拐犯。その言葉を信じるなんてどうにかしている、と思わざるをえないが、彼女は信じてしまったわけだ。

 

 蛙の子は蛙の子というべきか、数年後にヘラクレスは別の女性を寵愛するようになり、妻は取っておいたケンタウルスの血を下着に沁み込ませる。それにはたっぷりとヒドラの毒が含まれていた。

 

「もてるのは羨ましいけれど、男としては避けたい死に方だよなあ」

 

「言えてるわね……」

 

「……ど、どんな死に方だったのさ?」

 

 ヒドラの毒は、激烈な苦痛をもたらす。不老不死の者でさえ癒えることはなく、神に不死の返上を願い出るほどのものだ。被害者のひとりは、ヘラクレスの師、ケンタウルスの賢者ケイロン。誤射によるものだ。ギリシャ最高峰の頭脳の持ち主で、死を惜しまれて星座に迎えられた。それが南斗六星をもつ射手座である。

 

 そんなものを下着、いや正直に言おう。パンツに塗られたら。

 

「皮膚、肉、臓器に至るまで、毒に焼けて腐れ落ちるんだよ。

 自ら焼死した方がましという痛みだっただろうし、

 ヘラクレスは実際にそうしているんだ」

 

 臓器、それはパンツに縁のあるアレというかナニ……! アーチャーの遠まわしな解説に、逆に蒼褪める赤毛の少年。

 

 『女の子には優しくしないと損をする』とは真理の一端であった。しかし、『女の子()に優しくするのは死を招く』ということでもあるようだ。

 

「ちなみに、死んだあとでヘラクレスも星座になってる。

 そんなことより、生きている間に優しくしてあげればいいのに。

 神様なんてのは理不尽なものだが、彼の名前は、『ヘラの栄光』って意味だ。

 十二の偉業は、ヘラの差し金によって行われたからだよ。

 怖いだろう?」

 

 アーチャーの警告の矢も、ヒドラの毒に匹敵するぐらいに強力だった。

 

 ※ヘラは貞節と信義の守護神です。彼女の半分は嫉妬の怒りでできています。フラグの建築は、用法用量を守り、あなたの健康と生命に留意して行いましょう。

 

***

 遠坂主従が帰宅して、士郎は夕食の準備を始めた。昨日計画したとおり、メインはカニ玉、付け合わせは春雨と肉団子のスープ、レタスとコーンの中華風サラダ。貰い物の缶詰に、買い置きの乾物、特売の卵とひき肉にレタスを使い、緊縮財政でもうまいものを。士郎の努力と工夫の結果である。師匠の従者がこれを見たら、拍手喝采したことだろう。

 

「あ、あの、リズさん。コレ、できたから運んでください」

 

「……ハイ」

 

 今日も、虎も桜も来ていない。その代わりに、メイドのリズが助手を務めていた。美人だしスタイルも抜群だけど、無口で無表情で、士郎も対応に困る人だ。いま一つ、何を考えているのか読めない。その点では、士郎に手厳しいセラの方が理解できる。

 

「でもリズさんはセイバーにあたりがきついんだよなぁ」

 

 士郎はスープをかき回しながら、溜息もひとつ。

 

「うう……。やっぱり、皿かなあ。

 セイバーの割ったヤツ、リズさんの給料から弁償だったり……」

 

 セイバーを新しいメイドと紹介したせいで、リズは後輩ができたと思ったらしい。さて、仕込んでくれようと皿洗いをやらせたところ、朝食に使った皿は半減の憂き目にあった。

 

 だが、それを責めることはできない。セイバーの腕力は常人の四十倍だ。アーチャーが警告したように、陶磁器はポテトチップス同然の脆さだったに違いない。

 

 イリヤも悪いと思ったらしく、今日学校に談判に来る前に、皿やカップを買ってきてくれた。

 

「うぅむ、余計に使えないじゃないか」

 

 士郎は、台所のテーブルに鎮座ましましている、ロイヤルブルーの箱に視線を送った。アインツベルンは並外れた資産家だ。藤村家から貰った皿の代わりに、新都のデパートの最上階のブランド食器の店で買ってきたのだ。

 

「だって、このお店しかセラも知らないんだもの」 

 

 そう言ったのは幼い女主人のイリヤである。

 

「申し訳ありません、士郎様。リズについては、わたくしの責任です。

 セイバーのサーヴァントをメイドにするのは、

 あくまでふりという説明が充分ではありませんでした。

 出来あいの安物で申し訳ありませんが、お納めくださいませ」

 

 謝罪と共に深々と一礼したのは、その家庭教師のセラだった。

 

「くれるというならもらっておきなさいよ。

 洋食器だから、イリヤたちの食器にすればいいじゃない」

 

 遠坂家の令嬢もあっさりとしたものだった。日常的にアンティークの名品を使っている凛にとって、結局は現代の大量生産品である。

 

「ちょっと待ってくれよ! これ、ものすごい値段がくっついてるんだけど!」

 

 士郎の言葉に、黒い頭がひょいと覗きこんだ。

 

「どれどれ。……おお、こりゃすごい」

 

「あら、イリヤ。自宅用って言ったの?」

 

「え、だって、この家で使うでしょ」

 

 凛は髪を掻き上げた。

 

「んー、間違いじゃないけどね。贈り物用って言っておいた方が無難よ」

 

「値段がわかったらよくないの?」

 

「イリヤ君、金貨一枚の価値は、人それぞれに違うんだよね。

 これは普通の人にとって、お皿一枚の値段としては高いってことさ」

 

「そうなの?」

 

 アーチャーの説明に、イリヤはセラに訊いてみた。

 

「ですが、あのお皿も日本の物として、我が国のこの社と同等の格式のものですが」

 

 士郎はあんぐり口を開け、我に返るとせわしなく両手を振って否定した。

 

「へ? ないないない、それはない! あれ、貰いもんだから!」

 

「ですが、歴史ある有名な窯のものでしたわ。この社の手本となった物ですのに」

 

「えっ!?」

 

「ああ、そういえば、私の父もそんなことを言ってたなあ。

 ドイツの磁器は、中国や日本の物を手本に絵を模写したけど、

 ドイツに柘榴の木がなかったから、タマネギになっちゃったって」

 

 言いながらも、アーチャーの表情は疑わしげだ。

 

「ザクロがタマネギ? へんなの」

 

 首を傾げるイリヤに、士郎も倣った。

 

「ああ、でもよく見ると、タマネギから枝が生えてる。変だよな」

 

 真紅と琥珀が見つめあった。

 

「あ、ホントね、シロウの言うとおりよ!」 

 

 頃あいと見た凛は、可愛らしく咳払いした。紅茶好きの彼女は、茶器にも一家言あった。これはヤンと違うところだ。

 

「アーチャーの雑学と、歴史好きの源がわかった。お父さんの影響だったのね。

 その疑問は、アーチャーのお父さんが正しいわよ」

 

「本当だったのかい?」

 

「ええ、ブルーオニオンは、本当に柘榴の実だったのよ。

 それにしてもあんたのお父さん、相当な骨董マニアだったのね」

 

 眉を寄せて、こめかみを掻く凛に、アーチャーは眉を下げて髪をかき回した。

 

「いや、私もてっきり与太話だと思ってたんだよ。

 形見のコレクションが、一個除いてみんな贋物だったからね。

 だが凛もそう言うなら、親父に謝らないといけないな」

 

 当事者二人は買い出しに行き、席を外していた。セラの大人の配慮である。それは素晴らしいと思う。でも、でも!

 

「だ、だからって、いきすぎだろ。一枚五桁の皿なんて!

 やっぱこれ、イリヤ達が使ってくれ。

 貰い物が土蔵にまだ沢山あるからさ、な!」

 

 そうして蔵出しされたのが、いかにも結婚式の引き出物っぽい白い皿だ。

 

「なーんか、カニ玉乗っけるだけじゃ殺風景だな。

 でもなんでこう、家で作るとふんわりといかないんだろ」

 

 やや不満の残る出来上がりだ。あんをかけて、これも運んでもらう。

 

「炒飯も、こう、パラパラッといかないんだよな。

 作れない事はないけど、中華って微妙だ……」

 

 最後に冷やご飯を活用した、山盛りの炒飯を二皿。お好みで取り分けてもらおう。白いご飯も炊飯器にスタンバイ。急に増えた人数に、士郎も試行錯誤の最中である。

 

「じゃあ、みんな、手を合わせてください。いただきます!」

 

 挨拶して、士郎は料理を口に運んだ。

 

「うーん、七十、いや六十七点ぐらいかなあ……」

 

「とんでもない、シロウ。今日も素晴らしいです!」

 

「うん、シロウ。このピラフしっとりしてておいしい。

 初めて食べるわ」

 

「あー、うん、ありがとな、イリヤ。

 しっとりしてたら炒飯として駄目なんだけどさ……」

 

「このオムレツは、重厚で食べ応えがありますね。

 具はカニと……マッシュルーム? この歯ごたえのあるものは何でしょう」

 

「セラさん、それはマッシュルームじゃなくて、シイタケなんだ。

 あとタケノコ。でも、ふんわりトロリがカニ玉の理想だよなあ。

 やっぱし、中華は難しいな。どっか習いに行こうかな……」

 

 ちょっと不出来な料理でも、大勢で囲む食卓は楽しい。アインツベルンの面々の、鋭い批評交じりの褒め言葉にはグサリとくるけど。

 

「リ、リズさんはどうだろ?」

 

 無言でスープをかき混ぜるリズに、士郎はおずおずとお伺いを立ててみた。

 

「これ、みんな逃げてく。……生きてる?」

 

 女性陣が顔色を変え、一斉にスープから身を引いた。

 

「違う違う! それ春雨! ごめん、フォーク持ってくるから!」

 

 慣れないレンゲに悪戦苦闘し、春雨をすくえないリズ。中華は、世界三大料理って言うじゃないか! なのに、どうしてこうなったんだ!? 

 

 自己流による、『もどき』が呼んだ大誤算であった。



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6章 彼岸からの願い
33:聖杯探求


「どういうことよ?」

 

 門を潜り、玄関に入ると同時に、凛は実体化したアーチャーを問い詰めた。

 

「魔女というのは、本質的には女性の味方なんだよ。

 彼女たちの原型は、キリスト教に迫害された土着の宗教の癒し手だから。

 薬師にして毒使い、産婆にして堕胎医でもある」

 

 癒せる者には癒しを、癒えぬ者に永遠の安息を与える、生死のあわいに立つ女。月と水に象徴される、変容する女神の末裔たちだ。

 

「だから、心優しい不幸な女性に味方してくれるんだ。

 シンデレラにドレスやガラスの靴、馬車を贈ったように。

 オーロラ姫の死の呪いを、百年の眠りに軽減したように。

 誠意と対価をもって交渉してごらんよ。

 君の魔術の師として、大きな実りをくれるかもしれない」

 

「あんなことした相手なのに、そんなことできると思うわけ?」

 

「試してみる価値はあると思うよ」

 

 未来の黒髪の魔術師は、現代の黒髪の魔術師に微笑みかける。

 

「女性の持つ世間の知恵は、それだけで一つの魔法だよ。

 今の凛に必要なのは、魔術ではなくそちらの方だと思うんだ」

 

「魔術でなくてって、なによ、それ」

 

 色をなしかけた凛に、アーチャーはやんわりと微笑んだ。

 

「家同士は不干渉でも、周囲の人はその限りじゃないってことさ。

 桜君が遠坂家の娘だったことは、大人たちは知っているわけだから。

 学校にだってちゃんと伝達されてる」

 

「えっ!?」

 

 凛の吊り気味の目が丸くなり、間桐桜との相似が現れた。

 

「戸籍に載ってるんだから、行政側には秘密でもなんでもない。

 学校が知らないんじゃなくて、事情を配慮して口にしないだけさ。

 それが守秘義務ってことだから」

 

 あまりのことに言葉が出てこない。そんな凛に、アーチャーは語り掛ける。   

 

「だから、君たちのお母さんが健在だったなら、

 学校の先生や他の子の親から、桜君の様子を聞けただろう。

 間桐家が利用する店の人なんかからもね。

 桜君が幸せそうでなければ、必ず手を差し伸べたと思うよ」

 

 学校や衣食住は魔術では賄えない。それに関わる人々を通じて、桜を思いやり、助けることができる。高校生が陥りやすい盲点をアーチャーは指摘する。彼の知る白い魔女ならば、必ず取っただろう手段を想像しながら。

 

「キャスターと交渉したいのは、そのためでもあるんだ。

 彼女は、私のことを若いマスター達と変わらぬ容姿をしていると言った。

 これが示すことは二つ。一つは彼女は、私より年長の容姿をしているということ」

 

「もう一つは?」

 

「彼女のマスターが、君達のように若年ではないということだ。

 この日本で、成人と未成年の差は大きい。

 聖杯戦争にあたっては、成人の同盟者がいることは必ずプラスになる」 

 

 凛はアーチャーを凝視した。

 

「前回の戦争で、セイバーが活躍できたのは、

 成人のマスターの戦略によるところが大きいと思う。

 彼らもまた、戦争を予期して、充分に戦いの準備を整えたはずだ」

 

 魔術師殺しと呼ばれた衛宮切嗣ならば、その準備は入念なものだったことだろう。千年の名門のアインツベルンと、六代二百年の遠坂では比べるべくもない。戦闘に特化した者を、婿に迎えるなどという発想も、一子相伝を旨とする魔術師のものではなかった。

 

「だから、お父様は負けたのね」

 

 アーチャーが繰り返すのは、戦争は事前の準備を尽くした者が勝つということだった。可能な限りの準備を整えたとしても、優劣は発生する。それは強さの差に直結し、戦術で埋めるのは容易なことではないと。

 

「いいや、それも違う」

 

 アーチャーの黒い瞳は、あくまで静かだった。

 

「前回の戦いでは、聖杯で望みを叶えた魔術師はいないだろう。

 聖杯の取得に関するなら、全員が負けているということになる。

 それまでの三回と同様に」

 

 凛は頷くしかなかった。

 

「この聖杯戦争は、根本から誤っているのではないか。

 聖杯は探求するものであって、戦いで奪い合うものではないと私は思う。

 魔術師が学究の徒というのなら、なおのことだよ」

 

 学者になりたかった軍人の言葉は、戦おうとする魔術師には重く響いた。

 

「だから、あなたは探求を選ぶの?」

 

「二百年も成功しない理由を考えなくては、いつまで経っても成功はない。

 ゆで卵をいくら温めたって、ひよこは孵らない。

 卵の状態を調べなくてはならないが、割るわけにはいかないだろう」

 

「それで、キャスターに見てもらうってこと?」

 

 アーチャーはこくりと頷いた。

 

「それも方法の一つだが、残りの家には頑固な老人がいるんだろう。

 若い君が、改善なり廃止なりを訴えても、そんなに簡単には通らないよ。

 土地の管理者の遠坂ならば、首をすげ替えても構わないということになりかねない。

 桜君にはその権利と資格があるんだ」

 

 凛の背筋を寒風が吹き抜けていく。限りなく冷徹に、そして辛辣に『敵』の思考を読み解く。彼のスキルの軍略や心眼(真)のランクの高さは、そういうことなのだ。

 

「そのことを忘れてはいけない。

 サーヴァントを使えば、完璧なアリバイを用意して殺人ができる。

 宝具や魔術なんかなくても、人を殺すのは簡単だ」

 

 棒立ちになった凛に、アーチャーは表情を緩めた。

 

「だがまあ、聖杯戦争の勝者は一組なのだから、勝てなかったら存続を望むだろう。

 やみくもに君を殺すとは考えにくい。年寄りは保守的だからね。

 二百年も見切りをつけずにいるぐらいだ。

 もっとも、私に人様のことをいう資格はないがね」

 

 しかし最後のほうは、自嘲の笑み交じりだった。凛の胸がチクリと痛んだ。彼は言っていた。百五十年も戦争が続き、誰も平和を知らない世界に生きていたと。

 

「しかし、君のような少女が、そういう年寄りを納得させるのは難しい。

 だが、方法がないわけじゃない。

 権威主義者は、往々にしてより高い権威に弱い。

 それにはキャスター以上の適任者はいないよ。

 私のような門外漢が、好き勝手を言うよりもずっと効果的だ」

 

「そんなにうまく行くかしら」

 

「だから複数の方法を考えて、準備をしておくわけだよ。

 その手紙だってきっかけになるかもしれない」

 

「もう戦争どころじゃなくなってきたわね。聖杯は探求するもの、かぁ……」

 

 溜息を吐く凛に、アーチャーは首を振った。

 

「その探求の果てに、聖杯戦争の解明がなされるとしたらどうだい?

 二百年成功しなかった原因を究明し、改良を行い、次代に繋ぐ。

 魔術師にとってそれも一つの栄誉じゃないか」

 

 静かな笑みを浮かべた黒い瞳を、凛は凝視した。

 

「栄誉どころの騒ぎじゃないわ。快挙よ。

 時計塔の入学試験どころか、王冠の位階に到達できるぐらいの!」

 

「戦いや勝利の方法は一つじゃない。

 戦争は血を流す政治だが、交渉や政略は血を流さない戦争だ。

 そっちのほうがずっと優雅だ。君の家訓にもふさわしいじゃないか」

 

 アーチャー ヤン・ウェンリーは、闘争ではない勝利を求めていたのだ。

 

「千年前、二千年前の国家の滅亡は、現代には関係ないことが多い。

 だがそのころに発見された公式や法則は、今日でも使われている。

 魔術は学問なんだろう。学問的な勝利じゃ駄目かい、凛?」

 

「あなたの時代でも、アインシュタインの公式が使われるように?」

 

「そうだよ。何百年も昔の国家の興亡は、歴史書に語られるだけだが、

 民の嘆きや王の苦悩が、憲法や民主主義を生み出していった。

 戦火への反省が、平和の礎となり、双方が現代の日本を形作っている。

 こいつは士郎君にも言ったが、過去から現在、未来はつながっているんだ。

 過去の聖杯戦争の検証なくして、今回の聖杯戦争をやっても成功しないだろう」

 

 凛は再び頷いた。六十年の間隔は、聖杯戦争への研究や反省、準備の時間でもあった。

 

 今回はたった十年。凛がいかに魔術の才能に恵まれていても、遠坂の魔術を継承するだけで精一杯だった。第四次戦争がどうなったのか、何が起こったのか。父の死の真相すら、調べるには到底間に合わなかった。

 

「ええ、そうね。ましてやあんたがサーヴァントじゃあ、戦っても勝てないもの」

 

「そいつを言われると申し訳ないが、そもそもこのシステムが完成しているのどうか。

 単に、屋根の雨漏りや扉の建て付けの問題ならまだいいが、

 屋根や扉がないんだとしたらどうする?」

 

「そこからぁ!?」

 

「だって、一回目と二回目は、戸籍からじゃ参加者の目星もつかないんだよ。

 地下室と書斎の文献、時間があるんなら

 片っ端から読ませてもらいたいところだけど」

 

 双方の書棚をぎっしりと埋め尽くした、遠坂家歴代当主の文書。父や祖父の遺した物は、いままで魔術の修練のために何度も読み返した。曽祖父以前の文書は、すべて達筆すぎる毛筆で、現代人の凛には解読不能だった。聖杯の加護のあるアーチャーに、解読してもらえるなら願ったり叶ったりだが……。

 

「わたしだってあんたに頼みたいわよ。でも、そんな時間はないものね……」

 

 遠坂が根源への道を目指してより六代二百年。だが、遠坂家の歴史はさらに古い。平安貴族の流れを汲むという名家なのである。魔道を志す前の先祖の文書も、地下室に保存されている。膨大な量だ。せめて該当者にあたりをつけないと、お手上げというほかなかった。

 

『太平洋戦争の終戦以前は、家を継ぐのは長男。

 次男、三男や娘が優れた魔術師でも当主にはなれない。

 かといって、昭和三十年以前の乳幼児死亡率や感染症の脅威を前に、

 一人っ子にすべてを託すのは危険すぎる』

 

 社会情勢からのアーチャーの分析で、遠坂家の当主イコール魔術の継承者と言い切れなくなったからだ。

 

「ほんとに厄介よね……。

 第一次と第二次は失敗したらしいから、余計に伝わってないのよ」

 

「できることからやるとしようか。さあ、キャスターからの返事を読んでみよう」

 

「ええ……」

 

 浮かぬ顔のマスターに、アーチャーは微笑みかけた。 

 

「それにしても、死んでから歴史研究ができるなんてね。

 念願だった、大学に入ったような気分だよ。召喚してくれてありがとう」

 

 普段と異なる笑顔だった。知的好奇心に輝き、喜びに満ち溢れて若々しい。

 

「じゃあ、感謝しなさい! ちゃんとわたしたちの勝利を掴むのよ」

 

 凛はそう言い放つと、玄関に施錠するためにアーチャーに背を向けた。危ないところで間に合った。本当はえげつない性格のおっさんの癖に反則だ。

 

 今のはちょっと、いやかなり……。

 

 紅潮した頬を隠すためと、キャスター対策に念入りに結界を張り直す。落ち着きなさい、遠坂凛。不毛すぎるから!

 

 まったく気付いた様子のないアーチャーに、安堵が半分、いらだちも半分。優雅にそれを押し隠し、凛は毅然と顎を上げるとアーチャーを伴って居間へと向かうのだった。

 

 そこで二人はキャスターからの手紙を開封し、腕組みして唸り声で合唱をすることになった。魔女の手紙はとんでもない代物だった。

 

 凛の目には美しい筆跡の日本語に、アーチャー ヤン・ウェンリーは読むと、流麗な自由惑星同盟公用語に見える。聖杯の加護は、口語のみならず文章にも及ぶ。

 

 それでもヤンは、現代ドイツ語とほぼ等しい銀河帝国公用語で手紙を書いておいた。ルドルフ・ゴールデンバウムの復古主義が、こんなところで役立とうとは。ヤンは帝国語の発音が苦手だが、読み書きに不自由はない。敵国の本であろうが読み漁る活字中毒のおかげだ。

 

 時代も国もわからぬ相手に出すなら、英語の発展形である同盟公用語よりも、現代ドイツ語のほうがましだろうという心胆であった。

 

 冬木の聖杯は日本の英霊を召喚できない。だが、キャスターは未知の異なる言語に変換される術式を編み出しているのだ。

 

「未来の言葉にも対応してるなんて……。 

 聖杯のシステムを解析して、転用してるってことよ。

 とんでもない魔術師だわ。

 とにかく、わたしと、士郎とイリヤ、あんたの訪問は許可。

 でも、セイバーとバーサーカーは、山門から進入禁止。

 柳洞寺はもともと天然の結界で、霊体は山門以外からは入れないの。

 のこのこ行くのは危険すぎるわ」

 

「凛、もうひとつおまけがある。消印の時間をみてごらん」

 

 便箋にのみ注意を払っていた凛だが、封筒を見て慄然とした。

 

「嘘でしょう……。 

 この時間じゃ、まだライダーと戦闘になってない。

 『弓の騎士と主の健闘を讃えて』なんて書けないはずよ!」

 

「戦いの様子を監視していたとしか思えないだろう。

 複数の条件づけで、文章を最適な形に変化させるのかな?

 うーん、こいつがまさしく玉虫色の言葉ってやつか。

 やれやれ、ほんとに厄介な相手だ」

 

 アーチャーのぼやきに頷くしかない。だが、彼はめげなかった。

 

「敵に回すにはね。味方か同盟者にできれば非常に心強い。正念場だよ」

 

「味方にできると思うの?」

 

「せめて、敵として襲われない程度にはしたいものだね。

 明日は士郎君とイリヤ君は朝一で後見人に事情を聞き、午後に部活だったろう。

 午前中の予定を早めに切り上げてもらって、私たちとお墓参りに行こう」

 

「私たちって、まさか……」

 

「簡単さ。君の大叔父の孫として行動するんだ。

 曽祖父の墓参りと、ご先祖の納骨記録である過去帳を見せてもらう。

 キャスターに挨拶しながらね。凛、お寺に連絡しておいてくれないか」

 

 凛の目がまた妹似になった。

 

「え、敵地に乗り込んで調べる気なの?」

 

「当然だろう。有益なことは何一つわかっていない状態だよ。

 聖杯の不具合がいつから発生したのか。

 いや、そもそも、きちんと完成をみたシステムだったのか。

 その差は大きい。前者ならまだしも、後者だったら大変なことだ」

 

 屋根の雨漏りなのか、屋根がないのか。後者ならば屋根を乗せるだけでは駄目だ。壁を崩し、骨組みから直さなくてはならない。

 

「だから、設計図に相当するものを見つけたいんだよ。

 今回成功するとはちょっと思えないが、現象が発生している今こそ、

 目星ぐらいはつけておかないとね。

 継続にしろ、改善にしろ、廃止にしろ、いつまでたっても結果が出ないよ」

 

 聖杯戦争の廃止。聖杯に招かれたはずのサーヴァントとも思えない発言である。

 

「ちょっと待ってよ。廃止するって、あんた……」

 

「まあ、ちょっと聞いてくれないか? 二百年前の日本は鎖国していた。

 二回目は明治。日本の人口は四千万人。この冬木もずっと人家が少なくて、

 まだ電気も電灯もない。夜は暗く、牛馬が当たり前にいて、

 夜に聖杯戦争をしても問題はなかった。人間が太陽にあわせて生活していたからだ。

 だが、今はどうだろう」

 

 人口は明治時代からの百年で、三倍に増加し、平均寿命は三十年以上も延びた。最も劇的な変化は、妊産婦や乳幼児の死亡率の激減である。平和により工業と経済が発展し、牛馬はいなくなり、人工の光で闇は薄れた。

 

「こんな市街地で、サーヴァントや魔術師が秘密裏に戦争するなんて、

 土台無理な話だよ。さらに六十年後の社会なんて、予測もつかないだろう」

 

 凛は怪訝な顔になった。紀元前の神話にも詳しい彼が、千五百年ほど前の事を知らないなんて。ずいぶんと矛盾している。

 

「アーチャー、あなたは千六百年後の未来から来たんでしょう。

 知っているはずよね」

 

 凛の反問に、黒い瞳がゆっくりと瞬いた。

 

「だがきっと、この世界から、私の世界へはつながってはいない。

 君の研究テーマの、平行世界の運用と関係がないこともなさそうだがね」

 

 様々な可能性を挙げる彼には、珍しい断定口調であった。

 

「どうしてそう言い切れるのよ」

 

「私の時代につながるのなら、世界はもっと二極化しているはずだ。

 ちょっと調べてみたが、東西冷戦の終了の有無で世界が分かれたんだろう」

 

「あなたの世界は、冷戦が継続してたの?」

 

 アーチャーは、お手上げのポーズを作った。

 

「恐らくはね。その頃の資料は極めて残存数が少ない。みんな焼けてしまった」

 

 世界中の資料が焼失するとは、尋常ならざる状況ではないか。凛はアーチャーの顔を凝視した。

 

「私の世界では、西暦2029年に全面核戦争が勃発した。

 生き残った人類も、生存をかけて互いにいがみ合った。

 核の冬の中で、紛争が一世紀近くも続き、

 2129年に地球統一政府(グローバル・ガバメント)が発足する。

 首都はプリンスベーン、当時の世界人口は十億人」

 

「う、嘘……」

 

「私の世界の歴史の事実だよ。

 現代社会の情勢では、その時そうなるとは思えないが、いずれ戦争は起きる。

 今までの人類史上、こんなに長く平和で豊かな時間はないんだ。

 君達は、どんな宝石よりも稀有な時代に生きている」

 

 アーチャーの面をよぎったのは、透き通るような微笑だった。

 

「第三次聖杯戦争は、第二次世界大戦の前夜に開催されたことだろう。

 第六次聖杯戦争が、第三次世界大戦の最中でないと、断言できる者はいない。

 私にもわからないんだ。異世界人だからね」

 

「……それでも、あなたは聖杯に願わないの?」

 

「何をだい?」

 

 底知れぬ黒い瞳が、静かに凛を射抜いた。



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34:女神の遣い

「例えば、自分の国が滅びませんようにとか……」

 

「千六百年後のことを今願っても仕方がない。

 先祖さえ生まれていない子どもの葬式を、キャンセルなんて出来やしないさ。

 君こそ、この平和が永遠に続きますようにと願わなくていいのかい?」

 

 凛は唾を呑み込んだ。夢で見た、星をも飲み込む宇宙の闇。それがじっと見つめている。

 

「……願わないわ。

 永遠の平和って、対立もないけど、競争も生まれないということでしょう。

 あなたが、魔術の衰退を指摘したのと同じことよね。それは停滞よ。

 そうなったら、人間は腐って滅びると思うの」

 

 アーチャーはゆっくりと瞬きをした。その色は、茫洋としたいつもの彼の目だった。

 

「たしかに君は賢者だ。

 それ以前に、この願いのスピードはどのくらいなんだろう」

 

「は?」

 

「宇宙で最速なのは、現在のところ光だが、

 それで進んだとしても私の国まで届かないよ」

 

 凛はぽかんと口を開けた。そういえば、そんなことを言っていたっけ。奴隷だった先祖が、五十年をかけて、一万光年の逃亡の果てに新たな惑星を見つけたとか何とか。彼の先祖は、光の二百倍の速さで宇宙を航行していたのだ。

 

「え、ちょっと待って。あんたの国は、地球から……」

 

「ざっと一万一千光年ぐらい離れてる。

 首都のある恒星バーラトは平凡な星だから、

 地球最大級の望遠鏡でも見えるかどうか。

 千六百年じゃ、十分の一を超えたぐらいの距離しか到達しないなあ」

 

「いちまん、いっせん、こうねんって……ええ!?」

 

 たどたどしい鸚鵡返しをした凛に、更なる事実が突きつけられた。

 

「私の時代なら、亜空間跳躍航法で二か月ぐらいで行けるけどね。

 一日百五十光年ぐらいは進む。航路図があるおかげだ。

 そいつがない、未踏の領域を航行したから五十年もかかったのさ。

 自由惑星同盟は、地球のあるオリオン腕じゃなくて、サジタリウス腕にあるんだ」

 

「その、オリオン腕とかなんとかって、何なのよ!?」

 

「銀河の渦の名前だよ。サジタリウス腕はここの一本隣だ。

 銀河系中心に近い方になる」

 

 凛の思考が固まった。改めて聞かされると本当にとんでもない。アーチャーは、先人の苦労をしみじみと語った。

 

「渦の間にある、航行不能宙域を乗り越えるのが大変だったんだよ。

 千六百年後でも、二か所の回廊宙域しか見つかってないんだ」

 

 彼の時代になると、一日に光の何万倍もの距離を飛ぶというわけだ。それでも宇宙は広大で、謎と危険に満ちている。

 

「うそぉ……亜空間跳躍って、それ」

 

「君の言う、平行世界の運用の一歩手前じゃないかな。

 ほぼ時差なく一万光年に届く、超光速通信波なんてのもあるが」

 

 凛は頭を抱え込んだ。聞くんじゃなかった。

 

「ま、世界の内側ってのが地球を指すなら、どのみち範囲外。

 人間のいる領域だとしても、願いが光速なら時間が足りないってわけさ。

 逆に一瞬で届いたら、千六百年後までエネルギーが残るとは思えない。

 エネルギーの恒久的な保存なんて、それこそ第三魔法と同じだ。

 そいつができるなら、聖杯戦争なんて必要ないじゃないか」

 

 道理で、アーチャーが聖杯に願いを抱かないはずだ。ヤン・ウェンリーは千六百年先の未来、一万一千光年離れた星の住人。彼の時代では、その距離も二か月で飛べる。科学が魔法の領域にまで迫っている。だからこそ、限界が見えるのだろう。

 

「ん、待てよ、銀河帝国の首都星になら届く、かなあ?

 彼のお姉さんが、皇帝の寵姫になりませんようにと願うか……」

 

 ヤンは髪をかき回しながら、脳裏で距離を計算した。ヴァルハラ星系オーディーンなら、地球から八百光年ぐらいだ。しかしすぐに首を振る。

 

「うーん、どう考えても、そこまで彼に塩を送る義理もないよな。

 というか、むしろ塩を撒いて追っ払いたかったし。

 世界の外側の座にいる英霊が不変なら、意味ないだろうからなあ。

 私なんかが英霊になれるんなら、彼は確実になってるはずだ」

 

 凛のサーヴァントは、聞き捨てならない言葉を続けざまに放った。

 

「あ、あなた……何を言ってるの?」

 

「言峰神父が言ってただろう。世界の内側の願いなら、おおよそ叶うって。

 『内側』に降り立ったサーヴァントの願いは叶う。

 だが、『外側』の座にいる本体に影響を及ぼすものではない。

 そういうことじゃないだろうか。確証も何もない、私の憶測だけど」

 

 暖房の効いている部屋なのに、背筋に霜が下りていく。

 

「君の研究テーマの平行世界とは、

 歴史年表が何冊も隣り合わせに並んでいるような感じなのかねえ?

 本ごとに、ページの記述は微妙に異なっている。

 英霊は本棚の前の閲覧者だけど、サーヴァントは本に突っ込まれたしおり。

 この本の中なら、しおりとして干渉できるけど、よその本には関係ないし、

 本の中に戻れない本体にとって、大した意味はない。

 そう推測しているんだが、どうなんだろう?」

 

 凛の前にいるのは、知恵と戦の女神の使いだった。黄昏に飛び立ち、海鷲の群れを蹴散らし、黄金の有翼獅子をも爪に捕らえる梟。昼の微睡みから目覚めれば、微かな光で彼方を見つめ、わずかな音も聞き漏らさない。

 

「わからないわよ!」

 

「そりゃそうか。一回も成功していないものなあ」

 

「うっ……」

 

 痛いところをずばりと衝かれ、呻き声しか出てこない。ヤンは肩をすくめてみせると、右手の指を立てて、判明しているサーヴァントを挙げていく。

 

「その辺を割り切ったサーヴァントならいいんだがね。

 クー・フーリンは確実にそうだから、敵にはしたくないんだよ。

 ヘラクレスは、イリヤ君の意志に従うだろうから、

 彼女と背後の面々を味方にできるかが鍵だね」

 

「ランサーはわからないけど、イリヤはアーチャーに懐いているものね。

 あのバーサーカーなら、クー・フーリンには有利よ。

 マスター殺しに出られたらまずいけど」 

 

「そいつはランサーの望むところじゃないだろうが、

 令呪に逆らえないのがサーヴァントの悲しさだからなあ。

 早いところ、彼のマスターを割り出しておきたいんだがね」

 

 それも会食の目的の一つだ。キャスターとの会合を乗り切らなくてはいけないが。 

 

「これほど魔術に詳しいキャスターなら、このカラクリも承知のうえだろう。

 それで召喚に応じたのならば、望みによっては折り合える。

 彼女はアサシンの動向を知っているから、同盟なり利害調整をしておきたい」

 

 ヤンは説明を続け、薬指と小指も立てる。生前はほとんどできなかった、戦略家としての本領発揮だった。ここまでで立てられた指は四本。アーチャーを除くと残り二騎になる。

 

「セイバーはどうするの?」

 

 親指が立てられ、次に左手の人差し指も立つ。

 

「一番切実に聖杯を求め、一回失敗しているセイバーがもっとも危なっかしい。

 士郎君に慎二君の対応をしてもらい、彼女にはライダーに目を向けてもらう。

 桜君に対する為にも、士郎君と藤村先生の協力が欲しい。

 彼は君の弟子で桜君の兄貴分、彼女は二人の姉貴分で、最近身近に接しているしね」

 

「そんなことで、大丈夫かしら……」

 

「それが管理者(セカンドオーナー)遠坂凛の腕の見せどころさ。

 お墓参りをしたり、切嗣氏の遺品整理をするのは

 士郎君やイリヤ君にとっていいことだと思うんだ。セイバーにとってもだよ」

 

「セイバーにとっても?」

 

 首を傾げる凛に、ヤンは頷いてみせた。

 

「前回の失敗の遺恨はあるだろう。

 聞いた限りじゃ、円満な主従とは言い難そうだしね。

 余計にむきになるってことはあると思うんだよ。

 その養子と向き合うことで、彼女には見えなかった衛宮切嗣が見えてくるだろう。

 冷静になってから、聖杯の取得をよく考えてほしいんだ」

 

 まどろっこしいと思っていたアーチャーの牛歩戦術だが、二重三重に意味があったのだ。

 

「セイバーを止めてたのはそのせいだったのね」

 

「あとは魔力の補給だね。戦いで一番重要なのは食料と機動力なんだ。

 武器がなくても、そいつがあれば逃げられるからね。士郎君の調子はどうだい?」

 

 波打つ黒髪を飾るリボンが、力なく右往左往する。

 

「スイッチは出来たけど、肝心の魔術回路の稼働はまだまだよ。

 なにせ、二十六本分も認識が出来てなかったぐらいだもの。

 あいつのは、ちょっと普通じゃなくって、神経と一体化してる。

 わたしが魔力をほとんど感じなかったのは、そのせいもあると思うわ。

 一応、ラインはつながったようだけど、糸みたいなものよ」

 

「満タンまで時間がかかりそうってことかな?」

 

 リボンの蝶が上下に動いた。ガソリン用のノズルではなく、実験用スポイトで給油しているようなものだ。せめて、手動式の灯油ポンプぐらいには動いてくれないと困るのに。

 

 おまけにセイバーのスキルの一つも問題であった。

 

「あんたが止めたのは正しかったと思うの。

 ランサーと戦ったときに、セイバーのスキルが見て取れたけど、

 魔力放出で腕力なんかをブーストしているのよ。その分魔力を食ってるはず。

 今の状態で連戦して、宝具なんか使ったら、彼女は消滅しちゃうわ。

 アーチャーもあんまり連戦しないでちょうだい。

 で、多少は魔力を補うためにも、あんたも食事しなさい」

 

 アーチャーは決まり悪げに黒髪をかき回した。

 

「私まで、君んちのエンゲル係数を悪化させる存在になろうとはね……。

 それにしても、君が料理するなんて意外だなあ」

 

 形のよい眉が、ぴくりと動いた。

 

「見くびらないでよ。ルゥを使っているカレーより、私の方が上よ。

 あんた、中国がルーツって言ってたけど、中華料理って平気?」

 

「うん、コーヒー以外に嫌いなものはないよ。ありがとう、マスター」

 

「じゃあ、客用寝室の掃除でもしてて」

 

 凛は台所へ、アーチャーは寝室へと身を翻したその時、遠坂邸の電話が鳴り響いた。凛は受話器に手を伸ばし、応対する。流れてきたのは英語だった。時計塔からの電話だ。やりとりをするうちに、凛の額に皺が刻まれた。次に白い氷にひびがはいって、蒼い水流が現れる。最後に浮かんだのは、美しき微笑だった。

 

「くわばら、くわばら」

 

 ヤンは呟いた。仰せのとおりに掃除して、落雷を避けよう。そう思ってドアノブを捻ったがピクリとも動かない。魔女の仕業だ。恐る恐る背後を振り向くと、完璧な笑みを浮かべたあかいあくまが手招きをしていた。

 

『あんたが電話に出なさい。嫌味の限りを言ってやって。

 連絡つかないんですって。今回の参加者と前回の参加者、両方がね!』

 

 心話で命じられて、しおしおと電話を替わったアーチャーの眉がはね上がり、マスターのオーダーに応えたのは、それから三十秒と経たない後のことであった。

 

***

 

 凶報二つに、もう一つも吉報とは言えなかった。ロンドンの時計塔からの返事は、時計塔から公式に聖杯戦争に参加した魔術師は二人。彼らの双方と連絡が取れないという。

 

 それに先駆けて、昨晩の内に電話をしたのは、アーチャーことヤン・ウェンリーである。凛の英語力は高いが、聖杯の加護により言語の壁がないアーチャーの方が適任だ。なにより、交渉や尋問の能力は従者が主人に遥かに勝る。

 

 ――始まりの御三家、聖杯の担い手アインツベルンと、冬木の管理者遠坂が望んでいるのは、聖杯戦争を一時停止し、不具合発生の疑いが濃厚な、聖杯のシステムを解析することだ。

 

 この状況下での交戦は、我々ともう一組の主従の望むところではない。しかし、主催者の言葉を信じるのも難しいだろうから、教会からも停戦の呼びかけを行うように依頼した。だが、潜伏行動中のマスターへ伝達できるか定かではない。ゆえに、時計塔からも連絡をお願いしたい。

 

 ヤンの依頼に対し、相手の対応は煮え切らないものだった。さすがにカチンときたヤンは、勤め人ならではの啖呵を切った。

 

「そちらの所属の魔術師にとって、時計塔は生命線でしょう。

 なんらかの連絡方法はお持ちのはずだ。給与口座とか、雇用保険とかね。

 そして、第四次聖杯戦争に、時計塔から参加した魔術師がいるならば、

 是非教えていただきたいことがあります。ご連絡をお願いします。

 は、私ですか? 遠坂のサーヴァントである、アーチャーと申します。

 じゃ、よろしく」

 

 これが、一昨日の深夜に掛けた電話の内容である。ロンドンはちょうど午後のティータイムの頃だった。神秘中の神秘、人から昇華した英霊の一欠片であるサーヴァントが、まさか、こんなに俗っぽい事務連絡を電話でやろうとは。従者にやらせたのは凛だが、電話を受けた時計塔が気の毒になってしまったものだ。

 

 だが、今にして思えば、もっとガツンと言わせてやればよかった。

 

 職員も引っくりかえりそうになったろうが、学び舎も上へ下への大騒ぎになったのは想像に難くない。万事、秘密主義に権威主義、しごく腰の重い時計塔が、翌日に連絡をくれるなど、開設以来の快挙に違いあるまい。

 

「はあ、二人とも連絡がつかないと……。

 お宅の安全対策はどうなっているんですか。

 魔術は死を許容する? 聖杯戦争は魔術師としての栄誉?

 へえ、随分なたわ言をおっしゃるものだ。

 そちらから参加した魔術師も、一家の当主や次期当主になるのでしょう。

 そこからそっぽを向かれて、お宅の今後の経営が心配ですよ。

 私のマスターが入学し、卒業するまで存続するんですかねぇ?」

 

 電話の向こうの人間は押し黙ったらしい。アーチャーの舌が切れ目なく火を噴いたからだ。

 

「前回の正規の参加者は、そちらの講師だったロード・エルメロイ氏。

 こちらは死去なさっていると先日うかがいましたがね。

 前回といい、今回といい、そんな調子だとますます心許ないですね。

 いっそ、名物講師だという方を、アインツベルンと遠坂で招聘し、

 家庭教師になっていただいたほうがいいんじゃないのかな、マスター」

 

 送話口を押さえもせずに、アーチャーは凛に質問した。

 

「後で考えるから、続けなさいアーチャー」

 

 彼の質問に、日本語で答える凛だ。マスターが来年入学しようとしている学校に、サーヴァントが喧嘩を売るなんて……。

 

 しかし、アーチャーの非難にも大いに頷ける。大学に進学したかった人間だけに、時計塔の体制がいたく不満らしく、正論でくるんだ毒舌を叩きつけている。

 

 前回の参加者については、昨日連絡した時に教えてもらうことができた。故人であるロード・エルメロイこと、ケイネス・アーチボルト・エルメロイは、降霊科の神童とまで呼ばれていたらしい。そして、風と水の二重属性を持ち、礼装は水銀。

 

 アーチャーが言うには、アインツベルンはケイネスに協力して貰うべきだったそうだ。敵として排除するより、戦争に敗れることも考慮して、六十年後の布石を打ったほうがいい。略歴を聞くに、たしかに聖杯を研究する適性が高そうだ。

 

『いや、切嗣氏よりも婿入りさせるべきじゃないか。

 アインツベルンの願いは、第三魔法の復活のはずだ。

 切嗣氏の魔術がどんなものかは知らないが、十代で神童と呼ばれた人と、

 魔術師殺しと呼ばれた人では、学者としてどちらが適しているだろうか。

 降霊の専門家ならば、魂の物質化にも大いなる栄光を感じてくれるだろうに』

 

 衛宮切嗣が聖杯にかけた願いを、はっきりと知る者はいない。

 

『士郎君への遺言からすると、正義と平和、救済というのが彼の願いのように思える。

 戦いに勝ったとして、第三魔法を復活させてくれるだろうか。

 あるいは魔法を復活させて、魔法使いになるのが余所者でいいのかい?

 それとも、マダム・アイリスフィールが魔法使いになるならば、

 誰を不老不死にするのか』

 

 今日の授業中、凛に心話で明かされた考察だが、改めて考えると眉間に縦皺が寄ってしまう。こうやって整理されてみると、戦闘力にのみ秀でた傭兵の婿入りには無理がある。衛宮切嗣には、彼なりの願いがあったのではないか。それが舅と一致しているとは限るまい。

 

『魂の物質化を、自分にかけられるならばいいが、無理ならどうする。

 よそ者の夫、魔術師殺しを不老不死にしていいものかな?

 冬木の聖杯の力を、ドイツのアインツベルンまで持ち帰れるのか。

 今まで成功していない儀式なんだから、誰にもわからないんだ。

 その場で願いを叶えるほうが、素人には確実だと思えるんだがね。

 凛は宝石に魔力を貯めておくことができるが、魔術師がみんなできるのかい?』

 

『宝石魔術は、流動と変換の特性を持っていないと難しいけど、

 アインツベルンの魔術は錬金術だったわね。

 聖杯の器にそういう仕掛けをしておけば可能かもしれない。

 でも、魔術基盤の冬木から離れて、平気かはわからないわ』

 

 アーチャーの言葉に首を捻りつつ、凛は自分の迂闊さに理科の教科書の裏で歯噛みした。優勝したら魔力をとっておくことを考えていたが、最上質の媒体が大量に必要だ。

金庫ではなくて、遠坂家の地下室から屋根裏まで満杯になるぐらいの宝石が。当然そんなものはない。そこで大量の宝石を願ったら、溜める魔力は残らない。

 

『ああもう、十年での再開なんてイレギュラー、不利ばっかりじゃないの!』

 

『……あのねえ、六十年周期で巡ってくる彗星が、十年で訪れたら凶兆じゃないか。

 正常な軌道を外れてるってことだ。

 衝突するんじゃないかと心配するのが当然で、

 チャンスと思って飛びつく、君たち魔術師がどうにかしてるよ』

 

 ちょうど授業でやっていた地学の内容で皮肉るなんて、何て憎たらしいサーヴァントだろう。とっても悔しいが、口に出して反論できなかった。……授業中だったから。

 

 おのれ、知能犯の確信犯め。思い出しても腹が立つ。凛は、罪もない白菜を一刀両断にして憂さを晴らした。

 

『そんな不測の事態だって、いくらでも起こりうるんだよ。

 外部に助力を頼むなら、価値観を共有できそうな人の方がいい。

 九代も続く魔術の名家ならば、うってつけだろうに』

 

 彼の死去に伴い、教え子がエルメロイの名を継いだ。彼は優れた教師だが、術者としては二流半。エルメロイ家の魔術刻印も失われ、家門の伝統や栄誉も地に墜ちたそうである。

 

 それは、遠坂家が追うことになるかもしれない道だった。父の死に際しては、魔術刻印の保全が間に合った。魔術の知識は伝達もなされた。遠坂時臣が万全の手はずを整えていたからではあるが、後見人言峰綺礼の力も大きい。

 

 さもなくば、アーチャーの嫌味は遠坂家にも浴びせられたのであろう。

 

「へえ、辞められたらお困りになるのに、

 先代のエルメロイ氏の戦争参加は止めなかったんですか。

 その二代目ロード・エルメロイ氏が、前回のイレギュラーのマスターですか。

 で、あなたが名乗られたのは、エルメロイでもベルベットでもなかったですが、

 ご本人はどうしていらっしゃるんですか」

 

 生前は凄腕の事務の達人がいたので、この手の要求はやらずに済んだ。経験がないため、先日に引き続き、ヤンは先輩のやり口を真似てみた。効果は絶大だった。顔の見えない電話ならではのプレッシャーもあったろう。サーヴァントの詰問に、相手はたまらず口を割ってしまった。

 

「は、エジプトへ出張中? ……いいなあ……。実に羨ましい。 

 連絡がつかないんですか? ライバルの本拠地だから難しい?

 いや、学問の府なら競い合い、協力してなんぼでしょう。

 早急に連絡してください。

 ロード・エルメロイ二世と、冬木入りしているはずのマスター二名にです。

 遠坂まで連絡が欲しいと。できれば明日中、不可能ならば明後日までに。

 連絡が来るまで、こちらから時計塔に連絡を続けますからそのおつもりで」

 

 言うだけいって、アーチャーはかなり乱暴に受話器を置いた。

 

「まったく、どうなっているんだ。危機管理がザルどころか枠じゃないか!」

 

 ぶつくさ言いながら、隣のキッチンに入り、椅子にどかりと座り込む。護衛嫌いで、要塞防御指揮官にお小言を食らったのを、遠くの棚に投げ上げた発言だった。だが、それを告げ口をする者はいないのだから構やしない。

 

 イリヤが評するように、アーチャーの声はとおりがよく、食事の準備中の凛にも明瞭に届いていた。

 

「やっぱり、あんたの言ったことが正しかったような気がするわ。

 これは魔術の勝負、マスターには殺すまでの危害を与えないって、

 そういうことを時計塔に言ってたのかもしれない。

 そして、十年前の冬木の災害と、聖杯戦争との関連があると思っていないんだわ。

 参加者との連絡もままならないなんて!」

 

 ぼさぼさになった髪を更にかき混ぜて、アーチャーは渋面を作った。

 

「そのとおり。脱落したサーヴァントはいないが、

 マスターはその限りじゃないのかもしれないなあ」

 

 凛は、海老の殻を剥く手を止めた。

 

「うう、じゃあ、こういうことよね。

 所在とマスターがはっきりしない、ランサー、キャスター、アサシンの、

 三分の二が時計塔の魔術師のサーヴァントだって。

 で、二人とも連絡が取れない。脱落してるのかもしれないって!」

 

 悲観的だが、蓋然性の高い推論である。アーチャーは楽観論を捻り出してみた。

 

「キャスターはアサシンの動向を知っている。

 この二者のマスターが、連携して篭城しているのならいいんだが」

 

 これは即座に駄目だしを食らった。

 

「よくないでしょう、よけいに危険よ!

 私と士郎とイリヤにアーチャーじゃ、死にに行くようなものじゃない」

 

 事象を分析すれば当然だが、この子は賢いとヤンが感心するゆえんだ。素質の差はあれど、ほぼ独学なのは凛も士郎も一緒だろう。学び、考え、改善することの適性が、魔術師としての二人の格差につながっている。良い悪いではなく、向き不向きということだが、双方の交流は互いに実りをもたらすだろう。

 

 そんな前途有為な少年少女を、若死にさせるなんてとんでもない。

 

「だからこそ、夜じゃなくて昼間に行動するんだよ。

 おおっぴらに集団行動する人間が、いきなり失踪したら不審に思われる。

 あのキャスターならば、そんな下手を打たない」

 

 たしかに一理ある。

 

「だといいんだけど……。

 まあ、柳洞くんも普通に学校に来てるし、

 お寺の参拝者が帰ってこないなんて騒ぎも聞かないし、

 なんとかなるかしら?」

 

「士郎君に、藤村先生にも同行していただくように頼んでもらおう。

 日程的にきっとそうなるだろうけど、念を入れてね」

 

「わかったわ、士郎に電話しとく。

 イリヤと一緒に、藤村の親分さんに話を聞くんだから、

 藤村先生も同席するでしょうしね。弓道部は午後からだし」

 

「ただ問題は、私が長時間実体化する必要がある。大丈夫かい?」

 

 凛は海老の殻剥きを再開しながら、昂然と宣言した。

 

「やってやろうじゃないの! そうと決まれば食事よ。あんたは掃除!」

 

 アーチャーは首を竦めた。

 

「ま、魔力節約のために霊体化しようかなーと……」  

 

「霊体化は節約にはなるけど、魔力の取り込みには効率が悪いのよ。

 あんたも寝てるうちに実体化してるでしょ。だから、サボらないでやりなさい」

 

「はいはい……」

 

 遠坂家の家具は、どれもこれも由緒あるアンティークだ。掃除が下手ということを差し引いても、ヤンは十倍になった腕力で扱いたくない。彼の世界の地球では、全面核戦争によって、地上の多くが灰燼と化した。地下金庫などに保管されていた美術品と異なり、木製家具は日用品だ。ゆえにほぼ全てが焼失した。たとえ難を逃れていたとしても、ヤンの時代まで千六百年もの時が流れている。

 

 もしも、どこかからこの家具で発見されたら、とてつもない金額になるはずだった。宇宙暦八百年にあるとするならば、ゴールデンバウム王朝の皇宮『新無憂宮(ノイエ・サンスーシー)』ぐらいだろう。

銀河帝国の皇帝でも、入手できるかわからない貴重品なのだ。

 

 根っから小市民のヤンは、へっぴり腰で、そろりそろりと不器用にはたきを動かした。それでも、階下から食事の支度を告げる声が聞こえる頃には、ひととおりの埃をはたき、箒で集めてゴミ箱に。カーテンをしたまま、細く窓を開けて、空気を入れ替える。

 

「それにしても、どうしたものかね……。わかった、今行くよ」

 

 明日のランサーとの食事をどう乗り切ったものか。マスターらやセイバーが思うほど、ヤンも能天気に楽しみにしているわけではない。凛が作ってくれたのが、最後の晩餐となるのかもしれなかった。



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35:食卓に英雄譚

 凛も、どこかでそれを感じていたのかもしれない。並べられた色とりどりの料理は、豪語に恥じぬ出来栄えだった。

 

 泡立てられた卵白が、朧ろに浮かぶコーンスープ。ホタテの貝柱と花形の人参が添えられた白菜の豆乳クリーム煮。翡翠色の青梗菜の炒め物を添えられた海老のチリソース煮は、紅橙色が目に鮮やかに、香味野菜の効いたソースが嗅覚をも魅了する。

 

 これらを引き立てて調和させる、圧力鍋で炊いた純白のご飯は、艶やかな光沢を甘い香りの湯気が飾っていた。

 

「うわあ、これは素晴らしいご馳走だね。いただきます」

 

 一礼すると、アーチャーは食事に手をつけ、漆黒の目を丸くした。

 

「本当にとっても美味しいなあ! マダム・キャゼルヌに匹敵するよ。 

 すごいよ、ミス・パーフェクトってのも頷ける……」

 

 賞賛の言葉に、凛は誇らしげに笑った。

 

「わたしが本気を出したら、もっと凄いんだから。

 士郎じゃないけど、今日は時間のかからないメニューだもの」

 

「いや、君はお嬢様だから、てっきりこういうことは苦手だと思ってたんだ。

 私の妻も、あんまり得意じゃなくてね。……挟む物以外は。

 あ、失敗するだけで、まずいわけじゃないんだよ、うん。

 習ったら、ちゃんと上達したんだ。

 達人になるには、ちょっと時間が足りなかったけど」

 

 妻への弁護を忘れない、心優しい夫だった。

 

「アーチャーの奥さんってお嬢様だったんだ?」

 

「一応、上官のお嬢さんということになるのかな。

 最初に会ったのは、彼女が14歳の頃のようだが、私はさっぱり覚えてないんだ。

 軍務でそれどころじゃなくって」

 

「すっごく、興味があるけど、食べてからにしましょ。

 中華って冷めると不味くなるんだから」

 

 ヤンは異論なく頷き、せっせと料理に箸を伸ばした。箸の使い方までとは、聖杯の加護はすごいものがある。それよりも、この料理の数々、これが魔法じゃないだろうか。

確実に人を幸せにしてくれる。

 

 たしか、この時代の人の言葉ではなかったか。『本当の正義の味方は、みんなのお腹を一杯にしてくれる人だ』これこそが真理にして至言だ。

 

 皿の上がほぼ綺麗になるまで料理を堪能し、満足の笑みとともに、アーチャーは再びマスターを褒め称えた。

 

「でも、料理ができる人というのはすごい。尊敬するよ」

 

 彩りよく、季節の野菜を使って、味と栄養バランスも完璧だった。

 

「今日はあんたもいるしね。わたし一人だと、海鮮類が一回で使い切れないのよ。

 長持ちしないから、次の日も使うでしょ?

 料理を変えても、素材が一緒だと飽きちゃうのよね」

 

「自炊してるとは偉いなあ。私なんて独身の頃は外食ばっかりだった」

 

 ヤンの独身生活のルームメイトは、被保護者が揶揄したようにカビと埃だった。外食ばかりしていたので、生ゴミの類は出ないということだ。せいぜいが紅茶のティーバッグ。ゴミ出しするなら寝ていたかった。艦隊勤務が多くて、出撃すれば二、三か月は地上に帰らないという事情を加味しても、弁解の余地なく駄目な生活態度だった。

 

「男の人ってそうよね。女の子はカロリーや栄養を気にするの。

 珍しいのは士郎よ。よっぽど、おとうさんが何にもやらない人だったのね」

 

 黒い瞳が宙をさまよった。

 

「まことに面目ない」

 

「やっぱり、あんたも駄目な大人なのね……」

 

 アーチャーは、コーンスープを啜って表情を誤魔化した。

 

「それを言われると反論のしようもないんだが、

 私の父はまっとうな家庭人じゃなかったからなあ。

 人間、経験のないことはできないんだよ。

 衛宮切嗣という人も、当たり前の生活を知らない人に思える。

 一方、士郎君の中には、実のご両親が与えてくれた

 家庭生活がちゃんと生きているんだ。 

 凛のお母さんも、とても優しい、料理と家事の達人だったんだろう?」

 

 不意打ちだった。目頭が熱くなり、凛は眉間に力を入れて堪えた。

 

「や、やだ、急に何を言い出すのよ」

 

「私の母は、私が五歳の時に亡くなって、ほとんど覚えていない。

 父は再婚しなかった。男所帯の宇宙船暮らしじゃ、家事の出番はない。

 士官学校に入学して、寮生活のおかげで最低限はできるようになった。

 でも私は、挟む物さえ満足に作れないんだよ」

 

 言いさして、今度はジャスミンティーで口を潤す。  

 

「しかし、君や士郎君は違う。

 愛されて、充分に母の手を掛けられて、育った子だとすぐにわかる。

 そちらだって、大事な遺産なんだ。

 身に染みこんでいるから、自分ではわからない。

 でも、ちゃんと現れるんだよ。士郎君もわかってくれるといいんだが」

 

 遠く、懐かしむような眼差しだった。

 

「士郎のことを、ずいぶん気にするのね」

 

「士郎君はちょっと私の里子に似てるんだ。

 だが、私が気になるのは、養父の方だ。

 私が知る人物に、非常に方向性が似てる」

 

 凛の箸が止まった。とはいえ、二人とも皿の上はほとんど片付いている。

 

「誰よ」

 

「新銀河帝国皇帝、ラインハルト・フォン・ローエングラム」

 

 凛は息を飲み込んだ。

 

「士郎やイリヤのおとうさんと、あんたの敵だったっていう戦争の天才が!?

 いったいどこが似てるっていうのよ!」

 

「スケールは全く違うし、

 皇帝ラインハルトの方がまだしも現実的な手法を選んだがね」

 

「宇宙で戦争するほうが現実的ですって?」

 

 収まりの悪い黒髪が頷いた。

 

「ああ、私はそう思うよ。だが、長い話になる。ここを片付けてからにしよう。

 君の体力と魔力の回復のために、今日は早く休んだほうがいいからね」

 

 とても続きが気になるところなのだが。

 

「じゃあ、あんたもお皿を運ぶのぐらい手伝ってちょうだい。

 洗わなくていいから。今夜のお皿、景徳鎮なの。骨董じゃないけどね」

 

「……聞かなきゃよかったよ。緊張してきた」

 

 ヤンは細心の注意を払って、盆の上に皿を載せていった。これだと、一揃いで何万ディナールになることか。この世界で、2029年に全面核戦争が起きることはなさそうだが、千六百年先までまったき平和が続くとも思えない。でも、こうした文化遺産が灰燼と化すことがないように祈る。

 

 皿洗いと台所の片づけを済ませ、さらに入浴もしてから凛はベッドに座り込んだ。ナイトテーブルには凛用のハーブティーと、紅茶入りブランデーが一つずつ。アーチャーの話は、寝るばかりの状況で聞こうというわけである。

 

「さて、それでは、最初に私の敵国であった銀河帝国に、

 新王朝を打ち立てた、ラインハルト・フォン・ローエングラムの話をしよう」

 

 そう前置きして始まったのは、超巨星の物語。何度か語られた絶世の美青年が、至尊の座を占めるまでの道程である。

 

 かの青年は、白磁の肌に豪奢な金髪、蒼氷色の瞳をしていた。彼には、五歳上の姉がいた。肌と髪は弟と同じく、瞳の色は最上級のサファイアブルー。幼くして母を失くした彼にとって、姉であり、母である最愛の存在だったことだろう。

 

「お姉さんもやっぱり絶世の美人?」

 

「映像で見た限りだがね。

 専制国家で過ぎたる美貌は、女性に幸福をもたらさない。

 彼女が十五歳の時に、皇帝の寵姫として、後宮に入れられることになってしまった」

 

 彼ら姉弟の父は、妻を亡くしてから気力を失い、酒に溺れる毎日を送っていた。貴族といえども名ばかり、生活は苦しかったことだろう。だが、金を貰おうと貰うまいと、皇帝の命に逆らうことなどできないのだ。

 

「皇帝に逆らったら一族郎党処刑台だよ。

 父娘に選択の余地なんてない。

 だが、ただ一人、叛逆を胸に抱いたのがその弟だ。

 幸か不幸か、彼は天才だった。

 彼の幼馴染の親友は、その天才に追随できる才能があった。

 彼は親友と二人、軍に身を投じ、めきめきと出世した。

 姉の寵愛の余慶はあったにしろ、二十歳で上級大将まで達したんだからね」

 

 アーチャーが語ったのは、まさしく英雄譚と呼ぶにふさわしいものだった。

 

「すごい英雄じゃないの。その皇帝とますます似ているとは思えないんだけど」

 

「彼との攻防で、滅んだ母国のことを考えなきゃ、実に輝かしい人物だよ。

 だが、同時代に敵として生きるには、こんなに嫌な相手はいない。

 その為人(ひととなり)、戦いを嗜む。

 とても苛烈で美しい、青白い炎のような青年だった」

 

 しかし、アーチャーの口ぶりからは、嫌悪の念は感じられなかった。敵ではあったけれど、ヤン・ウェンリーは彼を心から憎むことはできなかった。数世紀に一人の、歴史上に輝く奇蹟のような存在に、畏敬の念さえ抱いたものだ。敵国の軍人として、正しくない考えなのだろうけれども。

 

 しかし、ラインハルトは専制国家で軍事の実権を握った者にふさわしく、 ヤン・ウェンリーには絶対にできない戦略の数々を行った。例えば、同盟軍の帝国領逆進攻の際の焦土作戦。

 

「こちらの進軍ルート上の、辺境惑星の物資を引き上げての焦土作戦をやられた。 

 専制政治からの解放を謳っている手前、食料を放出しないわけにはいかなかった。

 そして飢えたところで逆襲された」

 

 三千万人が出撃し、二千万人が還らなかったと 淡々と語るアーチャーに凛は言葉を失った。ぼろぼろになったアーチャーの国の軍。さらに、帝国の旧王朝の皇帝が病死した。

 

 死去したフリードリヒ四世は後継者を定めなかった。彼と、ある侯爵が男子の孫を、別の大貴族二人が皇帝の孫にあたる彼らの娘二人を立てて、後継者争いの内乱に突入した。

 

「それに先駆けて、互いの捕虜の交換を行ったんだがね。

 その帰還者の一人を彼の操り人形に仕立てて、

 同盟で軍事クーデターを起こすように画策した。

 警戒していたが、予測よりあちらさんの手回しがよくて、

 見事に起こされてしまった。

 唯一、無傷だった第十一艦隊がクーデターに与したもんだから、

 私たちの艦隊が鎮定しなくちゃならなかった。

 私は二千万人を助けられず、百五十万人の同僚をこの手で殺した人間なんだよ」

 

 それはまた、宇宙を燃やす烈火への、凄絶な抵抗の物語でもあった。一千万人の敵を殺していると言うヤン・ウェンリーは、その主人公だったのだ。凛は言葉を失う。

 

「まあ、私のことは置いといてくれ。似てないか?

 言峰神父が語った衛宮切嗣の手法に」

 

 他のマスターを除くためにビルごと爆破し、婚約者を人質に取って、騙まし討ち同然に殺したと。

 

「衛宮切嗣の戦い方には、彼に重なる部分がある。そして能力もだ」

 

 年少から戦いに身を投じ、それに高い才覚を現す。半面、一般的な生活や感情の機微に疎い。

 

「皇帝ラインハルトは学校教育を受け、軍隊で生活もした。

 親友だったキルヒアイス元帥が、非常にできた人物なのも大きい。

 だが、切嗣氏はどうだろうか。

 士郎君やイリヤ君への対応を見ると疑わしいんだ」

 

「士郎に何にも言わず、アインツベルンにも門前払いを食わされていたように?」

 

 凛の問い掛けに、アーチャーは頷いた。

 

「私が門前払いを食わされたのなら、アインツベルンに書状を送ったり、

 仲介人になれそうな相手を探す。敗戦の記録は重要なんだ。

 歴史の第一資料が、時の政権の公文書だというのは、

 敗者の記録が残るのは稀だからだよ」

 

「ああ、そうよね。うちだってそうだもの。

 お父様がどうしていたかもわからない」

 

 敗者の多くは死に至る。負けても生き残り、記録を残せるのは稀な幸運だ。黒髪の主従は、苦い思いをそれぞれの飲み物で流し込んだ。アーチャーは、紅茶の残るカップを置くと続けた。

 

「彼が把握していることを説明し、次回の改善策を提供するといえば、

 接触ぐらいはできるだろうに。

 イリヤ君のことを士郎君には言いにくいとか、

 理解が難しいと判断すれば、遺言状を残しておく。

 明日の話し合いで、そいつが見つかれば万々歳なんだがね」

 

「でも、士郎が十二歳の時のことよ。ちゃんと話せばある程度はわかるでしょう」

 

「士郎君の内面は、きっともっと幼いよ。

 君とは違うというか、この勝負では男は女に勝てない」

 

 それは凛も感じていたことだった。普通の男子高校生なら父親を愛称の『じいさん』とは呼ばない。せいぜい親父ぐらいのものだろう。

 

「だから藤村先生も心配してるんだわ。ご飯をたかるのは感心できないけど」

 

 これにヤンは苦笑して首を振った。

 

「でも、あのぐらい積極的に交流を強要されないと、

 サバイバーズ・ギルトの人間は負い目に思ってしまうよ。

 一般的には非常識だが、士郎君にとっては正解なんだ。

 迷惑だけど藤ねえだから仕方がない、って思えるぐらいでちょうどいいのさ。

 計算なくやっているのが、彼女のすごいところだよ」

 

「あんたはずいぶん高く評価してるけど、藤村先生のあれは素よ。

 学校でもあんな調子で、問題教員だもの」

 

 凛の言葉に、ヤンは苦笑を深くした。

 

「少年少女とうまくやれる大人ってのは、貴重な才能なんだよ。

 才能の有無と生活態度には、直接の関係はないのさ。私の部下にもいたもんだ。

 それ以上に、人間同士のそりがあうかどうかってのが重要でね。

 解毒剤が効くのは、一種類の毒だけだろう?」

 

「あんまり褒め言葉になってないんだけど、わかりやすいからまあいいわ。

 でも、ほんとによく知ってるわね」

 

「そんなことないさ。私自身、学生時代はずいぶんと助けられたよ。

 佐官になってからは、そういう勉強をさせられたけどね」

 

 凛は溜息をついた。戦時国家に生まれ、望まずとも軍人の道を歩んだ彼だから、士郎の精神的な問題を見抜き、穏やかな対応ができたのだ。彼の忠告によらず、士郎の異常性を指弾していたらどうなったことか。きっと、ムキになったに違いないのだ。ランサーにもライダーにも、ことによったらキャスターにも、突撃したかもしれない。

 

「だが、それでも限界があるんだ。

 君だって、近所の小学生に母親のように世話を焼いたりできないだろう」

 

「そりゃそうね。それを考えたら、たしかに大したものかもしれないわ。

 士郎と藤村先生のおかげで、桜も笑うようになったんだもの」

 

 中学校までの桜は表情が硬く、いかにも小心な様子で仲間はずれにされることも多かった。間桐慎二が、威張っている反動を受けていたせいもあるのだろうけれど。

 

「しかし、士郎君を見てると、切嗣氏の孤独な人物像が浮かんでくる。

 誰も信じられず、一人で全てを背負おうとしているかのようなね。

 皇帝ラインハルトでも、そんな無茶はやっていない。

 彼は戦略の天才だ。多勢の力を知っている人間だからだよ」

 

「教会のランサー戦みたいに?」

 

 頷いて、ヤンは紅茶入りブランデーを啜った。

 

「誰をも切り捨てず、全てを救う正義の味方になる夢よりも、

 腐敗した王朝を打倒し、敵国を征服し、宇宙の統一を目指すほうがずっと具体的だ。

 彼にはその才能と能力があったし、

 有能な将帥が揃った精強の軍という道具も揃ってる。

 衛宮切嗣の戦力は全体の七分の一。

 帝国軍と同盟軍の勢力比は、彼の巧みな戦略によって、最終的には十対三。

 さて、君ならどっちが勝つと踏む?」

 

「……皇帝ラインハルトだわ」

 

「そのとおりだ。君には確かに戦略のセンスがあるね。

 凛は、切嗣氏の行動から何を思うかな」

 

「『魔術師殺し』の暗殺者には、頼れる人間がいなかったってこと……?」

 

「あるいは、それを失ってしまったのか。

 皇帝ラインハルトが同盟征服に乗り出したのは、親友の死後のことだ。

 キルヒアイス元帥の死後まもない頃の作戦は、滅茶苦茶だったよ。

 懐の痛まない手段で、同盟軍を割った謀略の主とは思えない作戦を取ったりした」

 

 イリヤの母、アイリスフィール・フォン・アインツベルンは、優美で高貴な姫君のような女性だったとは、セイバーの証言である。徹底してセイバーを無視する夫との緩衝材として、随分と骨を折ってくれたそうだ。

 

 そんな妻を失い、愛娘を取り上げられた人間がどうなるか。アーチャーが示したのは、皇帝ラインハルトの父セバスティアンのことだった。彼は、娘が後宮入りしてすぐ、酒浸りが激しくなって死去したという。

 

「イリヤが入る予定だったアインツベルンの城は、ものすごい結界の工房なのよ。

 本国のアインツベルンはもっと厳重でしょう。

 そこに命を削るようにして、何度も行こうとしたのかしら」

 

「一方で、医者にかかった様子もないだろう。

 彼の絶望を感じると同時に、世俗の事に疎い人なのかなとも思うんだよ。

 士郎君のことを頼む、と依頼されれば後見人にはなれる。

 だがねえ、いくら近所の知り合いで、個人的にはいい人だからといって、

 私なら老齢のやくざの親分には頼まないよ。

 君のお父さんのように、社会的にきちんとした人に頼むさ」

 

 翡翠の瞳が丸くなった。

 

「うっそでしょ、だから、あの根性捻じ曲がった綺礼を!?」

 

「聖職者だし、自分よりも若い。

 君のお母さんとどうこうなる心配も低い。

 逆に、君が成人するまで健在な確率は高い。

 そして、遠坂の魔術を知っている。考えうる限り、最適な人選だと思うがね。

 お父さんは、君とお母さんのことも、充分に案じていたんだろう。

 当主が亡くなって、遺族が貧乏しないって、とっても大したことなんだよ」

 

「うー……うん……」

 

 遠坂時臣は、普通の父らしい父ではなかった。遊園地に連れて行ってくれたり、いっしょに公園で遊んだ記憶はない。

 

 戦いに赴く際、頭を撫でられたのが、覚えている限りでは最初で最後のスキンシップ。だが、それを恨んだことなどない。父は遠坂凛の誇りだった。

 

 そして、これからも。貴族的で、生粋の魔術師としての行動だが、あの日の凛には、根底にある自分への想いを感じ取れたから、父の言葉を守ってきた。

 

 凛はこれからも魔道を往くことだろう。経済的には間違ってると言われても、父の道を歩みたいと思う凛の考えは、間違いなんかじゃないのだから。



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36:枕辺の伝言

「一方、藤村雷画氏は、地元では有名な暴力団の組長だ。

 孫が二十代半ばなら、本人は七十台後半ぐらいじゃないのかな?」

 

「多分ね。でも、とっても元気よ。派手なバイクを乗り回しているのを見かけるもの」

 

 どうやら、孫娘は祖父に似たようだ。

 

「だが士郎君が成人するまでに、亡くならないとも限らない。

 そして万が一、被後見人がそっちの道に進んだらどうするんだい」

 

 アーチャーの問いかけに、凛は眉根を寄せて首を傾げた。

 

「正義の味方になるって言うんだから、それは大丈夫じゃないの?」

 

「だったらいいんだが、こういう役割を担う人は、善意の隣人ってだけじゃ不十分だ。

 士郎君は誰かのためになりたいと思うがあまり、自己への価値観が希薄になってる。

 恩のある老人に、組を頼むと遺言されたら、嫌だと断れるかねぇ?

 例えば暴力団の抗争で、襲撃を受けたような場合にさ」

 

 藤村組は、暴力団というよりテキ屋の元締めといった方が正しいが、絶対にないとは断言できない。彼らのほうにそのつもりはなくとも、相手にその気があれば、暴力団抗争は起こりうる。 

 

「それだとありかも……。たしかに後見人って人選が難しいのね。

 あいつの性格は最悪だけど、社会的には問題ないし」

 

「そういうことだ。三十代の男性に、他に頼める人がいないってのも普通じゃないよ。

 たとえ天涯孤独でも、会社の上司や先輩、学校の恩師とか、それなりにいるものだ。

 もっとも、会社勤めをしていたようには思えないがね」

 

「確かにね……。三か月ごとに二週間の旅行をしてるんだもの」

 

 凛は腕組みをし、アーチャーもマスターに倣った。

 

「旅行は無論のこと、ただ暮らすにしたって金は要る。

 彼の死後は、ほとんど収入がないだろうに、士郎君は私立高校に行ってる」

 

「保険とかじゃないかしら」

 

 アーチャーは首を捻った。

 

「だとしても、大金が子ども一人に遺されたわけだ。

 社会の一般常識からすると、よけいに後見人には不適切だ。

 切嗣氏は役所に相談して、弁護士を紹介してもらい、

 行政の援助も受けたほうがよかったかもしれない」

 

「またお役所仕事?」

 

 この疑い深いサーヴァントは、隣人の善意にまで疑問符をつけるのか。辟易とした凛に彼は頷いた。

 

「そうさ。そいつのおかげで、私はユリアンを預かることができた。

 血のつながらない、身寄りのない子を背負うには、

 そういうバックアップが後見人のためにも必要なんだ」

 

 ……そういえば、こいつは経験者だっけ。

 

 十五歳で孤児になり、巨額の負債の清算に取り組み、戦争孤児を預かっていた。だから目の付けどころや、言うことが違うのだろうか。

 

「でもアーチャー、普通はそんなこと思いつかないでしょ」

 

「凛なら、自分が知らないことは、知ってそうな人に聞くだろう?」

 

「そりゃあね」

 

「誰かに聞けば、役所に相談してみたらぐらいのことは教えてくれる。

 冬木の広報誌にも、ちゃんと法律相談の日が載ってるよ」

 

 凛は呆れて首を振った。

 

「そんなの、わたしもちゃんと読まないわよ」

 

「来年度のゴミ収集のお知らせなんかはどうだい?」

 

「あ、そういうのは読む。

 読むけど、それにしても何読んでるのよ、アーチャー……」

 

 聖杯や魔法のことを、様々な知識を駆使して考察したかと思えば、今度は『広報 ふゆき』を熟読してる。なんなの、そのギャップは。

 

 アーチャーは溜息を吐いて、がっくりと肩を落とした。

 

「平和な社会だと、地方自治体がここまでやってくれるのかと思うと、

 羨ましいやら感心するやらだよ。

 こういうのを読まない人は多いが、読む人はちゃんと読むんだ。

 特に、高齢者や子供を持つ母親はね」

 

「それがどう関係するのよ」

 

「ご近所にちょっと聞けば、答えが返ってくる質問だってことさ」

 

「あ!」

 

 ほんの些細な糸口、事象の断片から、対象の人物像を立体的に描き出す。戦場の心理学者の名をほしいままにした、ヤン・ウェンリーの能力の一端だった。

 

「学校行事に参加すれば、保護者や学校の先生に聞く機会もあるだろう。

 地域や学校に無縁で、あまり他者と交わらない人だったのかと思う。

 ……もしくは敬遠されてたかもしれないが」

 

「士郎の実のご両親と知り合いだったから、遠慮してとか?」

 

「その可能性も高いね。それと、あのパスポートの写真を見て、君はどう思う?」

 

「ずいぶん、疲れきった人だと思ったわ」

 

「そうだよね。でも、彼はその三年前までは、名うての暗殺者だった。

 やっぱり、そういうのは隠せない。特に子供がいる母親は敏いよ。

 怪しい人間を敬遠するものさ」

 

 定職に就かず、しょっちゅうふらりと姿を消し、半月も帰ってこない。よれた服に無精ひげ、ぼさぼさ頭で昏い瞳の、年齢よりも老けた三十代の男。

 

 凛も普通の家に生まれたとは言いがたいが、母の葵なら、幾つであっても遊びに行くことを許さなかっただろう。よくもまあ、女子高校生だった大河が入り浸れたものだ。なるほど、藤村家も普通とはいえない。

 

 だから、早朝に桜と士郎が二人きりになる時間があっても気にしないのか……。

 

「……許せないわ、あのじじい。

 桜や慎二を利用して、『衛宮』に探りを入れさせてたんだわ!」

 

 だからイリヤと凛の登場で、足が遠のいたのだろう。

 

「だが、もっともな懸念でもある。

 たかだか魔術儀式のために、ホテルを爆破する人間が引き取った子なんだからね」

 

「たかだかって!」

 

「イリヤ君の実家ほどの金持ちなら、たった六人ぐらい、

 なんとでも言いくるめて協力してもらえる事じゃないか。

 ヘラクレスを呼び出せる触媒だなんて、国家というより人類の宝だよ。

 その金で、何人雇えると思う?」

 

「わたしたちがいるわ」

 

 アーチャーは黒い眼を半ば瞼で隠し、親指と人差し指で丸を作った。『金』のハンドサインだ。

 

「遠坂と間桐には、次回、次々回に同様の手段を取れるよう、

 資金提供を約束すればいいだけの話だ。

 第三魔法を使うと約束してもいい」

 

「そんな、失われた第三魔法を他人に使うですって!?」

 

 凛の反論に、虫も殺さぬような顔が人の悪い笑みを浮かべた。

 

「私なら、千年も忘れてた代物を、いきなり自分や家族に試そうと思わないね。

 怪しい実験に、被験者が喜んで立候補してくれるなんて、一石二鳥じゃないか」

 

「ア、アーチャー、あんた……なんて、黒いこと……」

 

 中立中庸とは、善と悪、秩序と混沌を行き来するから、平均値でってことじゃないでしょうね……。慄く凛に、アーチャーはイリヤの家を一刀両断した。    

 

「私から見たら、アインツベルンはそういう家だよ。

 当主が安全地帯でふんぞり返って、イリヤ君のような少女を死地に送り込んでる。

 そして、聖杯戦争を名誉だと教えてるんだ。まったく、虫唾が走る」

 

 ヤン・ウェンリーにとって、安全地帯から戦争を賛美する権力者ほど嫌いなものはない。アインツベルンも、間桐も、時計塔もだ。戦争賛美は遠坂も一緒だが、自ら戦おうとする凛の気概が一線を画している。

 

「そこに納得ずくで雇われたのが衛宮切嗣。彼が引き取った子も魔術師だ。

 極端な人間は、身近な者に強烈な求心力を発揮する。

 どんなことを教えられたかと疑いもするよ。

 間桐臓硯は、かなり慎重な人物だと思われる。

 彼が聖杯に託す望みは不明だが、大災害じゃないだろう」

 

「え……?」

 

「あちらも冬木に住んでる。ここが合わないなら、なんでよそに行かないんだ?」

 

 凛は髪をかきあげた。確かにそれも一理ある。

 

「そう……ね。あのじじいだって、外国から来たんだもの。

 魔術回路が枯れるまで、冬木にいなくてもいいのよね」

 

 アインツベルンのように、適した地に居を構え、戦争のたびに来訪する方法を取ってもよかった。間桐臓硯にも、冬木を離れがたき理由があるのではないだろうか。

 

「愚行に見えても、外道であっても、行動にはその人なりの理由がある。

 もっとも、士郎君の様子を見れば、おおむね普通の子だとすぐにわかるさ。

 テレビみたいな正義の味方なら、子どもの空想で片付けられる。

 探りと言っても、ほんの最初だけだろう。あとは本人達の自由意志じゃないかな」

 

「だったらよかったわ」

 

 凛は胸を撫で下ろした。妹が、四六時中スパイを続けていたとは考えたくない。あの朝に赤らめた頬の好意は本物だ。

 

「ただそれが、何を正義とし、どう実現するかで、危険なものにもなるんだよ」

 

「その、皇帝ラインハルトみたいに?」

 

 黒髪がかすかに動いた。縦とも横ともいいがたい方向に。

 

「私が心配するのは、士郎君は元々は彼の親友に近い性格の持ち主だと思えることだ。

 それが大災害でリセットされ、養父の死で再びリセットされてしまった。

 残された部分で養父の理想に感応し、理想を体現する人を追いかけ、支え、

 ……身代わりとなり殉ずる。そいつが一番怖い」

 

 言葉もなく凝視する凛に、黒い瞳に翳が落ちた。

 

「そして、私が遺した人々に強いている道なのだろうね。

 でも、ここで案じてもどうしようもないし、願っても届かないだろう。

 あそこで死ぬとは思わなかったから、何も伝えておけなかった。

 だが君達には間に合う。もしも、私が斃れたときのために」

 

 凛に反論することはできなかった。そして慰めたりすることも。ヤン・ウェンリーという名の、非力で、不真面目で、毒舌家の、とんでもなく聡明なサーヴァント。彼は自分の死後の状況までも見通している。なんて、やりきれないことだろうか。

 

「戦争中の強烈な体験っていうのは、人の一生を決定付けてしまうほどのものだ」

 

 瞳が伏せられ、自嘲の笑みが浮かぶ。

 

「やった本人が言うんだから本当だよ。

 妻も、被保護者も、私に出会わなければ軍人にはならなかった。

 衛宮切嗣は、私にも似ているんだ」

 

 いや、私の方がもっと悪いなと、苦い呟きが凛の耳を打った。少なくとも、ここは平和な国だ。戦場の只中じゃない。

 

「そこへ正義というイデオロギーが絡み付いてしまうと、

 百五十年も争い続け、なお終わらないような思想戦争も引き起こす。

 私が士郎君とイリヤ君の関係を、家族の問題に矮小化したのはそのためだ」

 

 そして、聖杯戦争より家族争議に重きを置かせたのも。

 

「私がいなくなったら、君はその路線で衛宮家の子たちの関係調整に務めてくれ。

 君が頼りになるならば、士郎君とイリヤ君は君を守ろうとする。

 士郎君の交友関係を通じて、桜君に手が届くようになる。

 敵として、間桐を排除するのは難しくないが、

 桜君にとっては、十年も一緒に暮らした家族だよ。

 君やご両親よりも長く接した相手だということも忘れてはいけない。

 必ず、彼女の意志を尊重して、最適な道を選んで欲しい」

 

「……な、なに、なんでそんなことを言うのよ!」

 

 それは紛れもない遺言だった。聖杯戦争の事ではなく、凛を案じ、関わった人々への善後策だ。

 

「あんた、やりようがあるって言っていたし、ここまでなんとかしてきたじゃない」

 

 涙を見せまいとした結果、アーチャーを睨むことになった凛に、不変の定理を述べるような声が返された。

 

「深山の一家殺人だ」

 

「えっ……!?」

 

「私は戦死したんじゃない。戦いに負けずに済んで、

 講和会談に赴く途中で暗殺された。

 正面の雄敵に必死で、横合いからのテロリストに気付かなかったのさ」

 

 硬直した凛に、淡々とした調子で言葉が続いた。

 

「ちょ、ちょっと……」

 

「まあ、私には過ぎたことだが、はるか未来の話だからね。

 細かいことは省くとしよう。深山の一家殺人の凶器は刀や槍と思われる。

 そういう発表なのは、片刃と両刃の刺し傷が混在し、

 人体を貫通する深い傷も含まれるという意味だ」

 

 短い新聞記事からは見えないが、凄惨そのものの事件像だ。凛は掛け布団を握り締めた。

 

「それがどうしたの?」

 

「私たちが相対したランサーかライダーの武器なら、傷の形は一種類だけになる。

 ランサーの槍は両刃、ライダーの短剣は二本あったが、

 刃の形は両方とも片刃だった」

 

 あの最中に、そこまで観察をしていたのか。凛には頷くことしかできない。

 

「さて、キャスターの言葉はそれなりに信が置ける。

 私たちがライダーを退けたことで、ちゃんと訪問の許可をくれた。

 彼女が自分とアサシンではない、と言うのなら確かにそうなんだろう。

 プライドの高そうな女性だ。濡れ衣を着せられるのは我慢ならないと思うね」

 

「じゃあ、誰なのよ……」

 

 ようやく声を絞り出した凛に、アーチャーは直接の回答をよこさなかった。

 

「時間的に私とセイバーではない。

 バーサーカーでは、遺体がミンチになるだろう。

 つまり、一家殺人は、今回のサーヴァントの仕業ではない。

 しかし人間業でもない」

 

「アーチャーが、最初に言ったように?」

 

「ああ。では、誰なのか。実は、この犯罪が可能な者は過去にいたんだ」

 

 翡翠の瞳に緊張の色が宿る。マスターの視線に促され、アーチャーは話を続けた。

 

「第四次聖杯戦争のアーチャー。

 君のお父さんのサーヴァントだった可能性の高い、

 複数の宝具を、雨あられと打ち出した黄金のサーヴァントだ」

 

「……まさか!」

 

「用心するにしくはない。

 君のお父さんがいつ亡くなったのか不明だが、

 セイバーの証言によるなら、とても強いサーヴァントだった。

 そんなに強いサーヴァントがいたのに、なぜ、君のお父さんは亡くなったのか。

 そして今、四次アーチャーの戦い方に合致する殺人が起こっている。

 よく考えてみるべきだ」

 

 凛をひたと見つめる、底の見えない永遠の夜。彼の部下が戦場で見ていた、不敗とも魔術師とも称された名将の顔だった。

 

「そして、これは君のお父さんに対しても言えることだ。

 敵と相対してると、どうしてもそちらに意識が向く。

 横槍や背後から足を引っ掛けようとするものが目が入らなくなる。

 特に、強大無比なものに拠って立つと、一層その傾向が高い」

 

 ヤンは一回目と二回目のイゼルローン攻略を思い返しながら言葉を続ける。

 

「いいかい、凛。サーヴァントとは極論すると戦いの道具、ハードウェアだ。

 それを運用するマスターがソフトウェア。前者を動かすのは後者なんだ。

 どんな強大なサーヴァントも、

 マスターがきちんと運用しなくては力を発揮できない」

 

 もしも、三騎士の残る二人が聞いたならば、肌に粟を生じさせていたことだろう。アーチャーの主は、むろんそんなことは知らないが、静かな迫力に気圧されて、頷くのも忘れて聞き入った。

 

「しかし、ハードを過信するのは危険だ。

 絶対に大丈夫と思い込んで、ハードを篭絡しようとする者を、

 自ら呼び込んでしまうことだってある。

 味方のふりをされると、余計に信じてしまうものだ。

 または、ハードに寝返るような仕掛けをしておく。

 私はどっちの手も使ったが」

 

 アーチャーは、椅子の上で足を組み替えた。

 

「いずれにせよ、前回の戦争の結末を知る者はいないんだ。

 セイバーは聖杯を吹き飛ばしたということだが、顕現はしていたのかもしれない。

 彼女が聖杯を吹き飛ばすまでの間に、誰かが願いを叶えていないとも断言できない」

 

「あなた、聖杯で願いを叶えた魔術師はいないって、そう言っていたじゃないの!」

 

「サーヴァントは魔術師じゃないからね。

 セイバーが吹き飛ばしたのは聖杯の器。そして彼女は消滅した。

 その瞬間、前回のアーチャーが最後の一騎となった。

 前回のアーチャーはどうしたんだろう?」

 

 凛は、頭を抱え込むと、枕に倒れ込んだ。

    

「ちょっと、ちょっと待ってよ。頭がどうにかなりそう!」

 

 凛は掛け布団に手を伸ばし、頭から引っかぶった。

 

「うう、も、寝る。これ以上は、明日考えるから……」

 

 ヤンは苦笑すると、残った紅茶を飲み干した。

 

「まったくだ。世の中は、考えても駄目なことばかり。

 同じ駄目なら酒飲んで寝よか、さ。おやすみ、マスター」

 

 立ち上がり、歩き、ドアを開ける音が、布団越しに聞こえてきた。そして、灯りが消える。ドアが閉じられて、足音が消えた。凛の負担を軽減するために、霊体化したのだろう。カップが置きっぱなしでも仕方がないか。

 

 布団の中で凛は呟いた。

 

「ああ、もう、とんでもない相手を呼んじゃったわ。

 未来の異世界人だなんて……。

 魔法の一歩手前まで科学が迫っている時代に、

 何百年に一人の天才にも負けなかったってことじゃないの」

 

 魔力を馬鹿食いするのもやむなし。未だ現れていない存在だから、サーヴァントの枠に押し込めることができたのかもしれない。彼が過去となった遥かな未来ならば、不朽の英雄譚の主となっていたことだろう。ヘラクレスというよりも、オデュッセウスのような。

 

 でも、彼は家に帰れなかった。そして、死後もなお乗組員を案じている。

 

 だが、たとえ聖杯に願っても、その時、その場所には届かないとわかっている。では、せいぜい今を楽しむしかないではないか。そう思っているのだろうか。

 

 凛はぎゅっと目を閉じた。そんな相手をサーヴァントとして使うなら、マスターという補給線がしっかりしなくちゃ。今日は寝よう。それだって義務だ。精神のコントロールは魔術師の基礎基本。

 

 魔術を使う必要もなく、凛はすぐに健やかな寝息を立て始めた。



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37:美しき四面楚歌

 ――士官学校に入学したのは、無料で戦史を学ぶためだったのに、国の財政難で『彼』のいた戦史研究科は廃科になってしまった。金髪の友二人と、反対運動をしても実らなかった。当時の校長が与えた罰は、科の資料図書の目録作りという粋なもの。人生で思い切り本を読めた日々。

 

 書庫の鍵の貸し借りをするうちに、若い事務局次官と交流するようになり、門限破りを見逃した下級生に、慕われるようになった。薄茶色の髪と目を持つ事務官は六歳年上の先輩、鉄灰色の髪に青灰色の目の後輩は二歳下。金髪の同級生と、事務長の娘と並んで、『彼』の終生の友となった。

 

 実技が苦手な『彼』は必死の思いで卒業試験に取組み、なんとかパスして軍に入った。一年目は戦史統計室で、少ない仕事をそっちのけで資料を読み漁る日々。

 

 不真面目さが祟って、二年目の配属先は敵国に近い辺境の警備隊。そこで転機が訪れる。敵国との武力衝突が起こり、劣勢となった『彼』の部隊は、惑星へと逃げ込んだものの、包囲をされてしまった。そんな時に警備隊の司令官に、民間人三百万人の避難を命じられたのだった。

 

 目まぐるしい場面の転換が続く。多忙と緊張で、記憶が定かではないのだろうか。数多の断片の中に、金褐色の髪とヘイゼルの瞳がちらりと浮かんだような気がした。

 

 視界が落ち着くのは、背景の漆黒の中を惑星が遠ざかっていく姿。『彼』は、民間人を置き去りにして逃亡した上官を囮に、まんまと脱出に成功したのである。

 

 そして、『彼』はエル・ファシルの英雄と呼ばれた。なんのことはない、民間人を見捨てようとした軍の汚点隠しに過ぎないのだが。

 

 その自己分析は正しく、しかし誤っている。救われた人にとって『彼』は紛れもない英雄だった――。

 

 

 凛は、ふっと目を覚ました。己が工房で休めたせいか、ずいぶん体が軽くなった。昨日までの魔力の吸い取られ方が嘘のようだ。時計を見ると八時。十一時に柳洞寺門前で待ち合わせの約束だから、二度寝をするほど余裕はない。

 

「うー、仕方ない、起きよ」

 

 もぞもぞと身支度をする。墓参りに行くなら、お気に入りの私服というわけにもいかない。身に着けるのは、学生の礼服、制服である。とりあえず、ブラウスとスカートにカーディガンを引っ掛ける。髪を結うのは、食後でいいだろう。別室のアーチャーに声を掛けようとして、彼が居間にいることに気がついた。

 

「あら、てっきり寝てるか、霊体化してると思ってたのに……」

 

 呟くと凛は階段を下りて、居間に向かう。拙いドイツ語が聞こえてきた。ちょうど、終わりの挨拶をしているところだった。

 

「アウフ・ヴィーダーゼン」

 

「あら、誰に電話してたの?」

 

「セラさんにだよ。今日は車じゃなくて、街を歩いてもらおうと思ってね」

 

 アーチャーは公開することによって他者の目に触れ、記憶を残すことの重要性を強調した。

 

「藤村先生が同行すれば、余計に目立つはずだ。安全対策だよ」

 

 凛は、脳裏にその一団を思い浮かべた。士郎と藤村大河、イリヤと金銀の髪のメイドが三人。

 

「わたしたちの前途もだけど、士郎、大丈夫かしら……」

 

 墓参りする前に、墓穴を掘らないといいんだけれど。アーチャーは衛宮切嗣への関係者を集め、交流を推進させる気のようだ。個性の豊か過ぎる面々だ。キャスターとの対面より不安になってくる。

 

「物事は、複数の視点から見ることが大事なんだよ。

 歪みのない視線を持つ人間はいないけれど、複数の目で見ることによって、

 その歪みが、立体へと形を変えるんだ。

 ありのままの衛宮切嗣を知ることが、あの子たちには必要なことだと思うよ」

 

「そうね。でも、お墓参りの準備もしなくちゃ。先に朝食にしましょう」

 

 アーチャーの影響は少なくなかった。凛には、すっかり補給の重要性が身についていた。

 

*****

 

 遠坂凛よりも、更に多忙なのが衛宮士郎だ。墓参りの前に、イリヤと藤村雷画を訪ね、養父の遺品や戸籍の件について聞かなくてはならない。

 

 もっとも、士郎は早起きが苦ではないし、ここに逗留している女性たちの半分は家事のプロ。台所も占拠されかけている。ドイツ育ちのイリヤは、日本食を食べ慣れていないからだ。

 

 本日の士郎とセイバーの朝食は、白いご飯にみそ汁、焼鮭と納豆、小松菜のお浸しにたくわんと焼き海苔。

 

 一方、アインツベルン組は、ライブレットにハムとチーズ、野菜スープとコーヒー。こちらの女性たちは少食だ。三人で姉貴分一人といい勝負といったところだ。セイバーが割った食器は、イリヤが弁償してくれて、一緒にナイフやフォークも補充された。いずれも世界的に有名なメーカーの品だった。皿の一枚、カップの一客が五桁に届く。魔術師ってみんな金持ちなのかと、士郎を唸らせたものだ。

 

「ねえ、シロウ。その気持ち悪いの、本当に食べても大丈夫なの?」

 

 赤い瞳が、ねばねばと糸を引く、茶色の粒を気味悪げに凝視した。

 

「これは納豆っていうんだ。大豆って豆でできてる。

 俺は好きだぞ。でも、セイバーが平気だとは思わなかったなあ」

 

「においと味は独特ですが、大変に美味です。

 豆が、これほど栄養豊かなものだとは……」

 

 日本では古くから食べられているが、大豆がヨーロッパへ伝播したのは十七世紀。

そんな知識までよこす聖杯が、ちょっと恨めしいセイバーだ。

 

「この鮭もです。

 我が国と同じく、保存のための塩漬けだというのに、なんという差か……」

 

 セイバーは、ご飯と鮭と一緒に悔恨も奥歯で噛み締めた。彼女の故郷では、鱈や鱒を塩漬けにした。そのままでは塩辛すぎる。水に晒して塩抜きをして食べるのだが、塩分とともに旨みも逃げてしまい、パサパサになっていた。似たような調理法なのに、この差はいったい何なのだ。

 

「あはは、でも納豆はこのへんじゃあんまり食べないんだ。

 日本の東の方で生まれた食べ物だからな。

 慣れないと見た目や味が変わってるし、じいさんも食べなかったなあ」

 

「でもシロウは平気なのね」

 

「ああ、よく覚えてないけど、俺の実の親は納豆が食える人だったのかも……」

 

 これは、アーチャーとの会話をきっかけに、気がついたことだった。

 

「じいさんは、ハンバーガーみたいなジャンクフードが好きだったけど、

 イリヤの家で暮らしてたから、パンが中心だったのかな。

 カレーや牛丼みたいな食べ物じゃないと、ご飯ばっかり残すんだよ」

 

 おかずの味で白いご飯を食べるのが、日本人特有の口中調味だ。学校給食でも三角食べを指導される。だが、パン食中心だと身につきにくい。

 

「でも、セイバーは上手に食べてるよな。箸も綺麗に持つしさ」

 

「聖杯の賜物です」

 

 セイバーの言葉に、無表情に呟く者がいた。

 

「……お皿は割るくせに、無駄遣い」

 

「リズ、食事中にそんなことを言うものではありません」

 

「だって、ほんとのこと」

 

「だからです」

 

 セラに咎められて、リズは無言で頷いた。しかし、不服そうだ。不出来な後輩に、一言なかりせんという気なのかもしれない。

 

「先様のご都合もありますから、とにかくいただいてしまいましょう」

 

 怜悧な口調で言い切られ、反論の間もなくセイバー主従は食事を再開した。士郎は本気で、遠坂主従に常駐してもらいたくなってきた。

 

 そりゃ士郎だって男だ。美人に囲まれる夢を見ていなかったといえば嘘になる。いや、だった。人の夢と書いて儚いって本当なんだ……。

 

 現実はかくも厳しい。女の子たちに『ちやほや』ではなく『つんけん』されると、とってもきつい。男一人の孤独をひしひしと感じる。とはいえ、バーサーカーに出現されても困るわけで。

 

 なあ、じいさん、女の子に優しくしないと損するって言ってたよな。この状況はなんなのさ!? ほんとに優しくしてたら、こうなってなくないか?

 

 そう思うと、むくむくと疑問の雲が湧いてくる。士郎に巡ってきた遅い反抗期だった。

 

 思春期は、絶対の存在である親から、自己を確立していく重要な成長プロセスだ。衛宮切嗣を崇拝する養子に、恨んでいる実子をぶつけることで、幼い日の理想に疑問を抱かせる。最優と最強のサーヴァントのマスターに、最弱のアーチャーが仕掛けたのは一種の心理戦だった。

 

 毒は量を加減すれば、妙薬ともなる。心理戦は心理学の粋であり、薄めれば心理療法になる。ヤンは荒療治を選択した。遠慮なくぶつかり合えばいい。ぶつかるうちに角が取れて丸くなっていくし、ぶつからない方法も学ぶだろう。

 

 こう表現すると大仰だが、ありふれた小学校高・低学年の姉弟関係の再現である。

 

 聖杯戦争という異常な状況下で、精神年齢が幼い二人に必要なのは、平凡な人間関係の構築だ。きょうだいが仲良くし、周囲の大人と信頼関係を築き、友人たちと交流を深めていく。

 

 精神の支柱が一点だと、過大な重みがかかってしまう。ならば、柱と支点を増やすべきだ。そして、士郎とイリヤが、父から心理的に自立できる契機となればしめたものだ。士郎の理想にしても、自律と自尊のうえで果たさなければ、彼をきっと不幸にする。

 

 そして、成功しつつあった。

 

 ……優しくしろって言っても、こういう時、どうすりゃいいのさ。『女の子』じゃない、『女の子たち』への方法は!? それも教えといてくれよ……。

 

 セイバーに優しくしたらイリヤに睨まれ、イリヤに優しくすると、メイドの二人に睨まれる。かといって、メイド相手の話題がない。

 

 味見の時より味噌汁がしょっぱい士郎は、遠い目になった。

 

 こんな調子で、雷画じいちゃんのところに行って、大丈夫だろうか……?

 

 士郎の懸念は大あたりだった。人間の予想は外れて欲しいことが的中する。豪放磊落な雷画老は、士郎の連れに相好を崩し、胡坐の膝を打って大いに笑った。被後見人の、まだまだ小さな背中を力任せに何回も叩き、耳元で囁いた。

 

「坊主、いつの間に引っ掛けたんだ? おまえも隅に置けんじゃねえか。

 氏よりも育ち、蛙の子は蛙ってな。で、本命はどの娘だ? んんー?」

 

 ちっとも囁きになってない音量だった。三対の赤い瞳の温度が、一気に氷点下に突入した。

 

「ちょっ……、雷画じい、そういうんじゃないから、洒落になってないから!

 いまはやめてくれ。親父の戸籍とか、遺言状とか、そういうのが見たいんだ」

 

 真っ赤になって両手を振る士郎に、雷画は灰色の薄い眉を撥ね上げた。角刈りに黒目の小さい目と相まって、さらに凶相になった。士郎は慣れたものだが、セイバーを除く良家の子女らは身を固くするほどの迫力だ。

 

「どうした、ずいぶんな心境の変化じゃねえか。

 ま、無理もあんめぇ。こんなに可愛い嬢ちゃんがいたとはねえ。

 士郎にとっちゃ、血はつながってないが、義理の妹か。

 いやいや、あいつも罪作りなこった。

 うちの大河も随分と熱を上げとったが、女受けする奴だったからな」

 

 お願い、もうやめて。じいさんの信用度もゼロを突き破って、マイナスだ!

 

「え、ええーと、ごめん、時間もないから」

 

「おう、戸籍はあるが、遺言状みたいなもんは預ってねえ。

 あの時に世話になった弁護士に聞いといたが、やっぱり知らんとさ」

 

「そ、そうか。藤ねえは?」

 

「大河は寒稽古に行った。てか、俺が行かせた。あれがいると話が進まねえからな。

 墓参りに間に合うように戻ってこいとは言っといた。

 大河は遺言状は知らんってことだが、嘘じゃねえと思うよ。

 あれが預ってたら、その嬢ちゃんが来たのに隠しちゃおけん」

 

 夕日色の頭が頷いた。がさつで無駄に明るいぶん、大河はその手の陰湿さと無縁である。というより、言動が怪しくなって、すぐにぼろを出すに決まっている。

 

「その弁護士の話じゃ、遺言状は思わぬところから出てくるんだとよ。

 本の間とか、蔵の中とか」

 

「本とか、蔵?」

 

「そうさ、お嬢ちゃん。本棚の本に挟んどいたり、蔵の箱に入れといたり。

 どうしようかと思うようなことほど、そうしちまうって言うんだよな」

 

 もしも、聖杯戦争が通常の周期で発生していたら、イリヤが日本に来るのはあと五十年先だった。士郎は七十歳近くになる。その時に、この家に住んでいるかはわからない。

 

「……ええ、わかる気がするわ」

 

 皺のある無骨な手が、白銀の頭を撫でた。

 

「そっか、偉いなあ。鳶が鷹を産んだかね。 

 でなきゃ、お袋さんが、よっぽどできた美人だったんだろう」

 

「そうよ、とっても綺麗で優しかった……」

 

 セイバーは静かに瞑目した。彼女の感覚では、アイリスフィールが誘拐されたのは、一週間ほどの前。しかし十年の時が流れ、前回のマスターは死去し、彼の娘は外見はあまり変わらぬものの、中身は淑女となっている。

 

「おう、そうだろうよ。士郎の家にゃ、道場や土蔵があるから、家捜しも骨だぜ。

 先に戸籍を見てみるかい?

 ただなあ、素人が見ても、よくわからんぜ。

 嬢ちゃんたちは、日本語は読めるかね」

 

「はい、わたくしは多少ならばですが」

 

 しかし、雷画はセラの答えに気遣わしげな面持ちになった。

 

「これなあ、日本人だって、すらすら読めるもんでもないぞ。士郎、見てみな」

 

 促されるまま、黒い表紙の冊子を開く。最初は横書きのすっきりした戸籍が出てきた。衛宮切嗣の死亡年月日が載っている戸籍。その下に養子の士郎。士郎の名前の下には、確かに実父母の名前が載っていた。

 

「なんだ、調べようと思ったら、こんなに簡単にわかったんだ……。

 俺の本当の両親も……」

 

 一枚めくると、戸籍は縦書きになり、更に詳しい情報が載っていた。士郎が衛宮となる前の戸籍の本籍地。筆頭者である実父の名前。こちらの戸籍を調べれば、士郎の実父母と血縁を辿っていける。

 

 更にもう一枚。筆頭者は切嗣から矩賢に変わる。

 

「この人が、じいさんの父さんなんだ。

 難しい字の名前だよな。なんて読むんだろ?

 イリヤからだと、この人もお祖父さんになるんだな」

 

「うん……」

 

 切嗣の母にあたる妻はバツで消されているが、父の方は消えていない。

 

「じいさんの父さんは生きてるのか!?」

 

 これに雷画は顎をさすり、塩辛声で唸るように言った。

 

「いいや、そいつがわからんかったのよ。

 その戸籍は、あいつが士郎を養子にする前のもんだ。

 後のも取ってはみた。五年前の話だがな。次を見てみな」

 

「……消えてない。じゃあ!」

 

 表情を明るくする士郎と対照的に、雷画の表情は渋いままだった。

 

「あのな、戸籍ってやつには住所がわかるなんたらいう書類があるそうだ。

 そいつもくっつけてあるんだがよ」

 

 促されるままに更にページをめくってみる。

 

「○○国アリマゴ島? 外国にいるのか……」

 

「なんでもな、外国は日本みたいに役所に住所の登録をしないっちゅうのさ。

 調べてもらったが、そこは絶海の孤島ってやつでよ。

 電話もねえっていうんだぜ。

 死んでても、死亡届が出されていないかも知れんのだと」

 

 衛宮切嗣の娘と養子は、異口同音に驚きの声を上げた。

 

「ええっ!?」

 

「もっとも、あいつは一人っ子だし、士郎がいたから遺産相続には問題ねぇ。

 親子が絶縁なんざ、俺ら極道にも珍しいこっちゃないし、

 奴さんが連絡してないのは、相応の理由があるんだろうと思ったんでな。

 それ以上は手をつけてねえのさ。

 士郎の親戚のほうも、下手な相手だと、財産を食い物にされちまうからな。

 おまえがしっかりしてから、探すようにしたほうがいいと思ったのよ」

 

 決まり悪げにそう言って、雷画はイリヤに頭を下げた。

 

「だが、嬢ちゃんには済まねぇことをしちまったな」

 

「いいえ、教えてくださって、ありがとうございます。

 これでわかったわ。シロウが悪くないって。

 お爺さま、キリツグのこと許してなかったから……」

 

「そうかい。だが、びっくりしただろう。

 あいつもまだ若かったのに、こんなに可愛い娘もいて、無念だったろうに……。

 でも、知らないまんまなら、墓参りもしてもらえなかったんだ。

 嬢ちゃんには気の毒だったが……」

 

 雷画は太い溜息を吐くと、士郎に向き直った。

 

「だが、士郎よ、遺言探しはするだけはしてみな。どっかにあるかもしれん。

 弁護士に聞いたら、遺言による認知ってのがあるんだと。

 もし見つかったら、裁判やるより楽だとさ」

 

 琥珀とルビー、エメラルドも大きく瞠られた。

 

「えっ、じゃあなんで、じいさんは預けとかなかったのさ!?」

 

「士郎よ、おまえとその子、どっちが金持ちだ?」

 

「へっ!?」

 

 二人は顔を見合わせた。バイトをしながら高校に通っている士郎と、メイドを連れて、ドイツから日本まで旅行ができるイリヤ。比較にもならない。

 

「そういうこった。

 ドイツで何不自由なくお嬢様として暮らしているなら、

 無理に日本に連れてくるってのも考えちまうもんさ。

 ましてや、なさぬ仲の男の子まで遺してるんだからよぉ」

 

「ははは……」

 

 士郎は力ない笑いを零した。それがこの現状をもたらしているのだが。

 

「しかし、おめぇ、誰に教わった? 

 隠し子が来たってぇ時に、落ち着いて調べにくるなんざ、

 言っちゃ悪いが、おまえの知恵じゃあるめぇ」

 

 助け舟を出したのはセラだった。 

 

「実は、遠坂様のお力をお借りいたしました」

 

「ははぁ、やっぱりなあ。士郎、あっちが本命か?

 お袋さんもそりゃ別嬪だったが、あの子のが華があるからなぁ。

 すらっと柳腰でよぅ、小股の切れあがった女になるぜ。

 そいじゃぁよ、毎朝来てたボインの嬢ちゃんはどうすんだ?

 ああいう大和撫子の安産型のほうが、おまえにゃ合ってると思うんだがなぁ……」

 

 真紅と聖緑がドライアイスの剣と化し、士郎を串刺しにする。

 

 だからやめて、俺の信用も駄々下がりだ! 

 

「だから、だから、そういうんじゃないって!

 遠坂の親類も、ちょうど不幸があって、それでだよ!」

 

「やっぱり間桐の嬢ちゃんが本命か? 

 ――まさか、ひょっとして、……ウチのか?」

 

「だぁーっ! もう、違うって言ってるだろ!

 イリヤのこと、しっかりさせるのが一番大事なんだから」

 

 士郎は真っ赤になって力説した。その時、帰宅を告げる大河の声が。

 

「とりあえず、みんなで墓参りに行って来る!」

 

 宣言すると、士郎はほうほうのていで雷画の前から辞去した。背後に、美女と美少女たちを引き連れて。そこに孫娘も加わるわけだ。雷画は四角い顎をさすった。

 

「やっぱよう、氏より育ちが強いよなあ……」



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38:第七のサーヴァント

本作の第四次聖杯戦争の時期は、オリジナルの設定となります。


 衛宮士郎は、柳洞寺に行く道を、こんなに長く感じたことはない。藤村大河も同様である。雪色の睫毛を伏せた妖精に、なんと言葉を掛けたらいいか。だが、大河は士郎より、対人スキルがずっと高かった。

 

「そ、そうだ、士郎とイリヤちゃん。お花買ってこ、お花!」

 

「お花?」

 

「そうそう、お墓に供えるの。士郎、お線香は持ってきた?」

 

「あっ……忘れてた」

 

「ダメねえ。ほら、あのお店なら両方売ってるから」

 

 大河が指差したのは柳洞寺の門前町の商店だった。参拝者用になんでも売っているところだ。花に線香、不祝儀袋にお供えの菓子、黒いストッキング。そして、おでんや団子、甘酒、お汁粉。夏だとラムネやかき氷が登場する。昔からの甘味処で、そちら目当ての客も多い。

 

 言われるがままに入ってみると先客がいた。

 

「あら、こんにちは、藤村先生。衛宮くんとイリヤさんも」

 

「あ、あれ、遠坂さん?」

 

 とっさにわからなかったのは、長い黒髪を普段と異なる形にしていたからだ。後頭部でシニヨンにまとめている。メイドのセイバーに似た髪形だ。名のとおりの凛とした美貌がさらに引き立っている。

 

 その隣に細身の青年が立っている。年齢は凛よりも一、二歳年上か。濃灰色のコートと黒いズボンに白のマフラー。彼はかすかに微笑むと、あいさつと一緒に会釈した。

 

 士郎とイリヤとその連れは、必死で声を飲み込んだ。思わず、誰!? と言ってしまいそうだったので。もちろん、周知の存在だ。遠坂凛のサーヴァントのアーチャーである。

 

 馬子にも衣装というべきか、遠坂時臣の上質な衣服は、彼を見違えるほどに引き立てていた。似合わない軍服コスプレをした、高校生から大学生といった外見だったのが、

完璧に大学生に見える。それも、かなり偏差値の高そうな学校の。

 

 おさまりの悪い髪を、整えているのも大きい。自分の親戚を名乗るなら、きちんとしなきゃただじゃおかない。そんな凛の厳命によるものだ。

 

「あの、そちらは……?」

 

「こちらは、わたしの大叔父の孫にあたる柳井さんです」

 

「はじめまして、僕は柳井と申します」

 

 彼はそう言うと、再び一礼した。

 

「は、はい、こちらこそはじめまして!」

 

 大河が慌ててお辞儀したので、士郎たちもそれに習う。動揺を表すまいと、みんな必死だった。アーチャーが実体化して同行するのも、柳井と名乗るのも聞いていた。しかし、服の試着もしてもらっておくべきだった。服装の効果は大したもので、茫洋は鷹揚に、貧弱で生っ白いが、細身の白皙と形容できるようになっている。

 

 凛の磨けば光る彼氏と下級生が噂するのも納得であり、本日は光っていた。大河の同行をアーチャーが求めた理由の一つを、士郎は理解した。凛に噂が立たないようにだ。大人としての責任というか、男としての配慮というか。

 

 自分の射は、魔術鍛錬の延長にある邪道だ。だから、弓道部と距離を置いたほうがいいと思っていたが、昨日の助言のように頑張ってみようか。

 

 そう思う傍らで、よそ行きの顔をした凛が、アーチャーに大河を紹介している。

 

「こちらの藤村先生は、わたしの学校の先生で、

 あちらの衛宮くんは同級生なんです」

 

「ああ、そうですか。よろしくお願いします。

 凛さん、あちらの方たちは……?」

 

「ええと、衛宮くんの関係の方なの」

 

「皆さんもお寺に行かれるんですか?」

 

 穏やかな問い掛けに、一斉に色とりどりの頭が上下動する。

 

「そうですか。短い間ですが、よろしくお願いします」

 

「あ、ひょっとして、遠坂さんが言ってたご親戚の方ですか?」

 

 大河の質問に、黒い短髪が傾げられる。もう一人の黒髪の持ち主が代わって肯定した。

 

「はい。わたしの大叔父は、小さい頃に養子に行っていたんです。

 わたしも知らなかったんですけれど」

 

「先日祖父が亡くなりまして、色々な手続きを始めたところなんですが、

 僕の母も祖父の戸籍を取るまで知らなかったそうです。

 たまたま、僕は京都の大学に在学していまして、母の代わりです。

 家系図を作るから、お寺にも伺うようにと言われまして」

 

 娘の子なら、凛の大叔父の養子先の姓と違っていても不思議ではない。ヤンは自分のぼんやり加減を自覚していたから、実名に近い音の偽名にした。呼ばれたら返事ができるようにだ。

 

 そんなことは露知らない大河は、アーチャーの態度に気後れしたようだ。

 

「す、すみません、お悔やみも申し上げずに、失礼なこと言っちゃって」

 

「いいえ、とんでもないことです。あの、失礼ですが……」

 

「え、あ、ああ、こっちはまあ、お墓参りですから。

 そうだ、お花とお線香買わないと! 

 イリヤちゃん、切嗣さんにお花を選んであげて」

 

「う、うん」

 

 イリヤは熱心に花を選ぶふりをした。キリツグと同じ一人称も反則だ。学生の一人称が『私』なのは不自然だという、凛の指導のせいだった。

 

「では、お先に」

 

 会釈する凛に大河が声を掛ける。

 

「遠坂さんと柳井さん、よかったら一緒に行かない?

 ここの若住職とわたし、同級生なんだ。本堂に行くんなら紹介してあげる」

 

「本当ですか。ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせていただきます」

 

 外見上の年少者が、折り目正しく謝礼し、年長者は慌てて両手を振った。

 

「い、いえ、そんな、大したことじゃありませんから……」

 

 大河はたじたじと後ずさった。イリヤに、こそこそと呟く。

 

「ねえ、イリヤちゃん、遠坂さんと知り合いなんだよね?」

 

「わたしより、お爺さまとよ。リンは若いけどトーシュだから」

 

「じゃあ、あの柳井くんは知ってる?」

 

 イリヤはとりあえず首を横に振った。

 

「そっか、そうよね。くう、親戚までハイレベルなんだぁ。

 士郎とそんなに変わんなさそうな歳なのに、しっかりしてるわねぇ。

 どこの大学かしら。……やっぱ、国立かな」

 

 そりゃまあ、本当はじいさんよりちょっとだけ若いぐらいだし……。

 

 口に出せない士郎は、遠い目をして花と線香の支払いを済ませた。実は、大河の予想はあたらずしも遠からずで、ヤン・ウェンリーの母校、自由惑星同盟軍士官学校は難関の国立校なのだが、士郎には知る由もない。

 

 そしてみんなで連れ立って、柳洞寺の参道を登っていく。メイド達は山門のところで主人に一礼して、ここで待つと告げた。見えざる巨大な従者も、イリヤの指示で離れる。

 

「……なんでさ」

 

*****

 

 そこは運命の夜、青銀の騎士と共に、朝日を目指して登った道。理想に溺れ死ねと赤き騎士に宣告され、転がり落ちた長い長い階段。愛する者たちを救うために、幾多の分かれ道の果てにつながる場所。

 

 寄り代は、その時『彼女』の手から離れていた。ゆえにこの地で召喚を行うものがあれば、『彼』が呼ばれるのもひとつの道理。

 

 そして『彼』は知っていた。あらゆる時間軸に、人間の滅びの原因を滅ぼすために、

舞い降りる守護者である『彼』だけが。

 

 その生と死、行動により人類の存亡を左右する、黄金の有翼獅子と黒い梟。梟が卵のうちに死なないように、あるいは有翼獅子を引き裂くことがないように、滅ぼした数多の世界を。

 

 真紅の少女ではなく、黒紫の魔女に召喚された時点で、ここは異なる並行世界だとは気づいていた。しかし……。

 

『一体何が起こっているんだ!?』

 

『うるさいわね。おだまりなさい』

 

 主からの叱責に、彼は我に返った。

 

『……マスター、今、客人がそちらに向かったのだがね』

 

『坊やと銀のお嬢ちゃんのサーヴァントは?』

 

『約束のとおり、門の前にいる。

 マスターの客人らには手を出さんようにしてもらいたいものだな』

 

『あら、仮初めの命でも惜しくなったのかしら?』

 

『そうとばかりも言い切れんが、確かに否定はせんよ』

 

 霊体のまま、彼は深く深く溜息を吐いた。一体、何が起こっているのか。衛宮士郎と遠坂凛が連れ立って、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンと共にここを訪れるなどとは。

 

 そして、この門前にセイバーが待機している。なぜか、メイド服を着て。バーサーカーも姿を一瞬姿を現した。外で待つとの約束に応じるということだろうが。

 

 なんという勝ち目のなさだ。キャスターの魔術の加護があるにせよ、セイバーとバーサーカー、単独でも勝ちを拾えぬ相手が同盟している。土曜日の昼前の訪問は、戦う気がないというあちらの意思表明だろう。だが、戦略的には容赦なく詰みの状態。そして……カオスだ。

 

 こんなイレギュラーを起こしているのは、あの黒髪の青年に違いあるまい。

 

『遠坂の主従はそのまま通したが、よかったのかね、マスター』

 

『彼らは主賓よ。それに、礼を尽くした賢者を遇さぬのは破滅の道。

 おまえも口を閉じなさい。セイバーとバーサーカーを監視するがいいわ』

 

『……撃退せよと言われんことを、感謝すべきなのかね』

 

 彼は鉄灰色の目に自嘲を浮かべた。こればかりは、令呪をもって命じられても無理だが。鷹の目で様子を窺い、来訪者がいないことを確認して実体化する。

二騎のサーヴァントのうち、実体と理性を持つ者が、弾かれたように飛び離れる。

 

「――貴様は!?」

 

「ここの門番だ。ああ、私には君達と戦闘に及ぶつもりはない」

 

 紅い外套に黒い軽鎧を身につけた、鍛え抜かれた長身の青年だった。銀髪に鉄灰色の瞳に、褐色の肌。年齢は二十代半ばほど。人種を特定しかねる容貌の主だ。その身から感じ取れる魔力は、明らかにサーヴァントのもの。もっとも、虚空から出現できる人間もいないが。

 

「っ……アサシンか!」

 

 武装しようとしたセイバーに、二対の真紅の矢が突き刺さる。

 

「そちらのおっしゃるように、白昼の戦闘はいけませんよ」

 

「服、また破いたらダメ」

 

 鉛色の巨人も姿を現す。紅い騎士はシニカルに苦笑して首を振った。

 

「だから、争う気はないと言っているのだが。

 君たちが奮闘するには、いささか時と場所が悪いとは思わんかね?

 そら、あと五分もすれば参拝者が来るぞ」

 

「くっ……」

 

「私が姿を見せたのは、そちらが約定を守った対価だ。

 無理に押し通るならば、相応の代償を覚悟してもらうがね」

 

 二騎のマスターは、キャスターの元に。ここでアサシンを斃しても意味がない。半面、三人のマスターの令呪は、すべてが揃っている。

 

「とはいえ、キャスターも等価の危険を冒している。

 君達のマスターは、いつでも令呪を使うことができる。

 管理者の顔を立てて、おとなしく待っていてもらいたいものだな」

 

 深みのある声で理路整然と説明され、緑柱石の瞳に険が奔った。

 

「……暗殺者にしては、随分と口が回るものだ」

 

「なに、私は門番に過ぎんよ。

 やってできんこともないが、暗殺は本業ではないしな」

 

「何!?」

 

 アサシンは特異なサーヴァントである。その座に招かれる英雄は、山の翁ハサン・サッバーハと固定されている。歴代のハサンの中から、もっとも召喚者に似たサーヴァントが招かれるというのだ。しかし、このアサシンの容貌はアラブ系とは言えない。銀髪に灰色の目もそうだが、顔立ちも服装も異なる。

 

「さて、この辺にしておこうか。参拝客がそろそろ山門の麓に差し掛かるからな」

 

 消えかける青年に向かって、白光が瞬いた。無表情なメイドが携帯で撮影したのである。面食らったアサシンの顔は意外に若く、だが言葉を発する間もなく姿を消した。年配の婦人が二人、おしゃべりしながら近づいてきたからだ。

 

「……うん、撮れてる」

 

 偽の後輩は、呆気に取られた。

 

「あ、あなたまで何をやっているのですか!?」

 

「アーチャーに見せる」

 

 二人に向けられた画像は、半分透けていたが、顔立ちや服装は充分に見てとれる。こっちは正真正銘の心霊写真だ。セラがこめかみをもんだ。

 

「リズ、本来なら大変な無作法ですよ。

 場合が場合ですから、お手柄ではありますが。

 さ、あの奥様たちが門を潜る前に、あなたはさっきのお店に行きなさい。

 携帯を壊されてはいけませんからね」

 

「一応、イリヤにもメールするから」

 

「それがいいでしょう」

 

 リズは無言で頷く。

 

「念のため、セイバーもリズに同行してもらえませんか。

 あの子がアサシンに襲われては、元も子もありません」

 

 後輩扱いに抗議しようとしたセイバーに、千円札が二枚差し出された。

 

「ただで待たせていただくわけにもいかないでしょう。

 二人でなにか食べていらっしゃい。昼食に響かない程度に」

 

 セイバーは、ドイツの美女と日本の偉人の顔に視線を交互に送った。そして金の頭が下げられる。

 

「……あなたに感謝を。しかし、一人で大丈夫ですか」

 

「バーサーカーがいますからね。私はお嬢様をお待ちします」

 

 視線で促されて、セイバーはリズの後を追った。しっかりとお金を握り締めて。セラは首を振り、溜息混じりにぼやいた。

 

「本当に新入りなら、仕込むのは骨でしたよ、アーチャー様」

 

 衛宮切嗣に関わる者は仲良くしなさい。そうすれば勝機も出てくるし、願いが叶う公算も高くなるから。それが遠坂のサーヴァントの言葉だった。

 

 彼は、セイバーをアインツベルンのメイドにすることによって、士郎の警護を可能にした。藤村家に同行することで、イリヤとの交流も促されている。そして、セラにはそっと電話で告げた。

 

【今回の聖杯戦争は、凶兆ともいえるイレギュラーです。

 私はマスターを若死にさせたくはありませんし、私の願いは大体は叶っています。

 そして遠坂凛の目的は、聖杯戦争の優勝でした。

 ま、私じゃ勝てませんから、凛ももう諦めてますよ。命あっての物種ですし】

 

 苦笑の気配が伝わってきた。きっと、黒髪をかき回しているのだろう。

 

【それより何より、何とか生き延びませんとね。

 たった六十年の先延ばしですが、人間にとって実に大きい。

 凛が大人になり、子どもや孫に恵まれる時間が一番欲しいのです。

 それが遠坂の本当の勝利です。聖杯戦争より大事な】

 

 わずかに間を置いて、続きが語られる。

 

【私は子どもに恵まれませんでしたから。

 ああ、お気になさらず、もてない甲斐性なしだったんですよ。

 人生で叶わなかった事を叶えるのも、サーヴァントの目的なんでしょう。

 子どもに戦いをさせたくない、幸せになってほしいというのも】

 

 セラは息を飲み込んだ。それはあるいは衛宮切嗣の願いかも知れなかった。

 

【ですから、そちらの聖杯入手に助力したいと思っています。

 しかし、さらに重要なのはイリヤ君と士郎君の幸福ではありませんか?

 親を失った子に殺し合いをさせるだなんて、大人として許容できるものではない。

 なんとか回避したいと私は思うのです】

 

【承りました。わたくしもお嬢様が義理の弟の血に塗れるのは……。

 わたくしが目を離した隙に、衛宮様のお宅に行ってしまわれたのです】

 

【やはりねえ。

 顔も見ず、何も知らない相手だから、殺意に歯止めがかからない。

 でも、お互いを知ってみれば、なかなかそうはいかなくなる。

 どちらもとてもいい子たちだ。生活環境なりの偏りはあるようですが】

 

 ぐうの音も出てこない指摘だった。

 

【そしてね、それ以上に偏っていると感じるのは、

 二人の父である衛宮切嗣です。  

 私の知る英雄に似ている部分があるように思うんですよ】

 

【どのような部分が似ているとおっしゃるのですか?】

 

 深い知性を感じさせる声が、イリヤの家庭教師の耳朶を打った。

 

【心の一部が子どものままだ。

 その夢に疾走し、届いたのが私の敵だった人で、挫折し、届かなかったのが彼。

 そう感じます】

 

【あ、あなたは……なにを……】

 

【士郎君に告げておかなかったこと。

 イリヤ君を取り戻すのに、一つの手段しか取っていないこと。

 第三者の力を借りることを知らないのではないでしょうか。

 いじめを誰にも相談できない子どものように。

 まあ、これは今はどうでもいい。

 亡くなった人のことであって、それを掘り起こすのは彼の子どもの仕事だから】

 

 衛宮切嗣の世間知の欠落への指摘。それがイリヤの孤独の原因ではないかと青年は言う。

  

【問題は生きている子どもの方です。

 士郎君にとって養父はヒーローで正義の味方だった。

 それを追おうとしている。最後の約束が遺言となってしまったからだ。

 ですが、子どもにヒーローになれだなんて、

 善良な人間に異常者になれというも同然です。

 そこへ持ってきて、英雄だったサーヴァントという

 二重に異常な存在が輝かしい活躍を見せたら、

 余計に魅了されてしまいますよ。碌なことになりやしない】

 

 大人しい童顔に似合わぬ、何とも苦々しい口調だった。

 

【私は、彼の前であの美しく凛々しいセイバーに戦って欲しくありません。

 敵国の皇帝は、輝くほどに美しい、生ける軍神そのものの存在でした。

 私が殺した敵軍の中には、彼を崇拝し、忠誠を捧げ、

 皇帝陛下万歳と叫んだ若者が何万人もいるのです。ですから――】

 

 セイバーをなるべく戦闘させない。表面上はアインツベルンの使用人であり、イリヤへの罪悪感を持っているセイバーならば、セラたちの制御もある程度は可能。遠坂陣営は、士郎とイリヤが危険な目に遭う局面を作らないよう努力する。

 

【実際に必要なことでもあります。

 魔力供給はまだまだ不充分だそうですので。

 もしも、別行動の際にセイバーが戦闘に及びそうになったら、

 なんとか彼女の気を逸らしてください。

 バーサーカーで脅しても、美味で懐柔しても、何でも構いませんから】

 

 今回はその併用である。アーチャーの慧眼を讃えるべきか。その洞察の凄まじさに慄くべきか。まあ、戦闘が避けられるなら一番だ。ここは死者の眠る場所への道、バーサーカーに壊させていいものではない。

 

 そして先ほどアサシンが指摘したのは、登ってくる参拝客だった。そろそろ昼食の支度の時間である。三々五々、墓参りを終えた人々が降りてくる。

 

 それにしても、ずいぶん人数が多い。墓参りは春、夏、秋にシーズンがあると聞いていたのだが、二月にも行事があったのだろうか。

 

 そこまで考えたセラははっとした。冬木の災害から十年。まもなく命日を迎える犠牲者へ、追悼と慰霊に訪れた人たちなのだ。黒っぽい服装の老若男女。いずれも顔を曇らせ、ハンカチで涙を拭う人もいる。

 

「冬木の大災害の原因が、第四次聖杯戦争だとしたら……」

 

 そして、アーチャーが危惧していたイレギュラーの今回。これ以上の数の遺族が生まれないと、どうして断言できるだろう。母の死に泣き、父の失踪に怒ったイリヤが、自分や士郎と同じ存在を作るのか?

 

 セラは手を固く握り締めた。

 

 これはアーチャーの作為ではないが、想定していた必然だった。彼の世界では一回の会戦につき、数万単位の戦死者が出ていた。その日には、墓地が参拝者で埋め尽くされる。

 

 ヤンは、災害の五百人超の死者のうち、柳洞寺に相当数が埋葬されていると睨んだ。

地図によれば新都に墓地はなく、最も近くて大きいのがここだ。

 

 しかし、彼が考えていた以上の効果を生んだ。子どもを守るのは大人の義務、そう考えるのは一人ではなかったからだ。組織の中で、しがらみの多かったヤン・ウェンリーは、他者に頼ることを知っていた。その相手の適性と力量を見抜き、任せられることは任せてしまう。

 

 ヤンは、生真面目で冷静で、教師らしい威厳を持つセラに参謀長役を任せることにしたのだ。本質を突いた、端的な発言をするリズは副参謀長役。そして、危ういバランスの士郎とイリヤ、セイバーの安全網を担ってもらおう。そういう目論見であった。連日連夜、遠坂主従が衛宮家に出入りするわけにもいかないからだ。

 

「たしかにこれでは危険ですね。皆様、どうかご無事で……」



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閑話7:英雄のいない場所

「わたしの親戚を名乗る以上、みっともない格好は許さないから」

 

 マスターに突きつけられた品々は、アーチャー ヤン・ウェンリーを困惑させた。

 

「え、何だい、これは……」

 

 ヘアクリームにヘアスプレー、ヘアブラシ。整髪用品の数々だ。

 

「ああ、クリームとかはわたしのだけど、ブラシは新品よ」

 

「いやいや、そういう問題じゃなくて、なんでこんな必要があるのかな」

 

 遠坂凛は、ヘアブラシをアーチャーの顔に突きつけた。

 

「そのもっさりとした頭は絶対に却下よ」

 

 アーチャーは眉を下げると、マスターの不興の素であるおさまりの悪い黒髪をかきまわした。

 

「凛、ちょっと疑問なんだが……」

 

「なによ」

 

「サーヴァントって、物理的に干渉できないんだろう?」

 

 なにしろ元が幽霊だ。毒を飲んでも、銃で撃たれても、常世の物では傷つかない。もう死んでるんだから当然と言えば当然だが。

 

「このヘアクリームとやらで、私の髪が整うのかなあ……」

 

「ああーっ、もう、いちいち理屈っぽいのよ、あんたは!」

 

 凛は、アーチャーの腕を引っ掴むと、ドレッサーの前に連行した。今日のアーチャーは、父の若いころの服に着替えている。軍服は、肩や胸板の薄さが災いし、さっぱり似合わずコスプレになり果てているが、上等なシャツにカーディガンという服装は悪くない。これなら二十歳と言っても大丈夫だろう。

 

「要するに、あんたは魔力でできてるわけよ」

 

「はあ」

 

「それを支えてるのが、わたしが供給している魔力」

 

「ははあ」

 

「そこに座んなさい」

 

 指し示されたのは、ドレッサーの椅子。真っ赤に燃える迫力に、アーチャーは無言で従った。こういう状態の女性に逆らってはいけない。後輩の姉上らと、同種のオーラを放っている。

 

「つまり、マスターであるわたしの魔力を通せば、

 あんたの肉体にも干渉できるってわけよ」

 

 単にヘアセットで済むんだろうかとヤンは危惧した。

 

「ちょっと待ってくれないか。そりゃ、私の対魔力を越える力ってことだよね」 

 

 ヤンにはアーチャーのクラススキルの対魔力がある。お粗末なものだが、それでも常人にはとっては銃撃並みの、凛のガンドをキャンセルできる。と、いうことはだ……。

 

「そんなの、髪に注ぎ込んで平気なのかい……?

 サーヴァントは頭部が急所だって、君も言ったじゃないか!」

 

 アーチャーの髪をブラッシングしかけた手が止まる。

 

「大丈夫よ。……多分、ね」

 

「た、多分って、そんな曖昧な……」

 

「わたしの魔力をあんたに使うんだから。

 毒蛇だって、自分の毒じゃ死なないじゃない」

 

 鏡の中のアーチャーの顔から血の気が引いた。

 

「いやいや、死ぬよ! コブラは自分の毒で死ぬんだよ! 

 頼む、凛、やめてくれ!」

 

 自らのマスターを猛毒呼ばわりするアーチャーに、凛はむっとして言いかえした。

 

「駄目」

 

 そして、眼つぶしも兼ねて、ミストを一吹き。

 

「うわっ! これ、沁みるじゃないか。ひどいなあ、もう……」

 

 目をこすっているアーチャーに構わず、凛は彼の髪をブラシで梳き始めた。豊かな長めの髪は、少し癖があるが、存外に柔らかく艶があった。青みがかった見事な漆黒で、無造作にかきまわすのがもったいない。

 

 彼の世界では、マッチョなタフガイが美男なのかもしれないが、ここは平和な日本。細身の優男のほうが人気がある。身だしなみを整えれば、アーチャーもいい線行くと思うのだ。

 

 ちょっと潤んだ漆黒が、鏡の中から凛を恨めし気に見ていた。

 

「そんな顔しないでよ。

 対魔力は攻撃を意図した魔術を弾くけど、治癒魔術とかは平気だから」

 

 安心させようと思って言ったのに、青年の顔色がますます悪くなった。

 

「ちょっとぉ、わたしの言うこと信じなさい」

 

「……信じるから怖ろしいんだよ」

 

「どうして」

 

「世の中には、医療過誤というものがあってだね……」

 

 英雄とは、酒場にはいるが、歯科医の診察台にはいないもの。魔女の鏡の前も、英雄のいない場所だった。



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7章 連戦
39:悼み、痛む


 心霊写真に、アインツベルンのメイドたちが三者三様の反応をしていたころ。彼女たちの主人は、父の墓石の前で、神妙と当惑が入り混じった顔で合掌をしていた。遠坂主従は、墓地の奥にある立派な墓所の前で、やはり合掌して線香を上げている。

 

「キリツグ、ほんとに死んじゃったんだ……」

 

 ぽつりと呟くイリヤに、士郎は掛けるべき言葉が見つからなかった。切嗣の死から五年だが、彼の心はまだ整理が終わっていない。応えたのは藤村大河だった。

 

「うん、悲しいけどね……。

 でも、イリヤちゃんが来てくれて、切嗣さんもきっと嬉しいと思うよ」

 

「こんなことで喜ぶなんてずるいわ。

 わたしは待ってたのに。ずっと、ずっと、待ってたのに!」

 

 悲痛な叫びは、冬の空気を貫いて響く。嗚咽の声が続いた。黒い髪が二つ、気遣わしげに振り向いた。だが、遠坂凛と連れの青年はその場を動かず、視線のあった大河に目礼をするにとどめた。

 

 墓石で死角になるアーチャーの袖を、凛は引っ張った。

 

「いいの? 放っといて」

 

「涙は喪の重要なプロセスだよ。悲しみへの特効薬さ。

 泣けないほうが心配なんだ。まずは一段階の前進だね」

 

 家族の問題だから、士郎とイリヤとその関係者で解決すべきだという方針を変える気はないらしい。

 

「それに、君に慰められるともっと気まずいさ。

 彼らの父よりも、君のお父さんの方が五年も早く亡くなっているんだからね」

 

 冬の冷気ですこし冷たくなった手が、おずおずと凛の後頭部に触れた。

 

「君はとても強い。そして賢くて優しい。だが、世の多くの人はそうじゃない。

 強者の基準で考えてはいけないんだ。ここは部外者らしく遠慮をしとこう。

 それに、やらなきゃならないこともある」

 

 そう言うと、彼はノートとペンを取り出し、墓石の隣を覗き込んだ。

 

「うーん、思ったよりは少ないな。跡取り以外を養子に出してるせいか?」

 

 アーチャーが首を傾げて見ていたのは、法名碑に刻まれた名と没年だった。

 

「これを調べに来たのね」

 

「まあ、ここ二百年ぐらいのご先祖様をね。

 ただ、お墓の広さにも限りがあるし、墓石を立て直したりしたかもしれないから、

 お寺に聞いたりしなくちゃならないだろうけどなあ。

 凛、また書記を頼むよ。読めるけど、私は漢字が上手に書けないんだ」

 

 アーチャーの外見は日本人と言っても通用するが、本来は英語に近い言語を話していた。それが流暢な日本語に聞こえるのは聖杯の加護だ。

 

 一方、現代ドイツ語に近い帝国語も話せる。こちらは聖杯の加護によらないため発音が拙い。凛やイリヤたちはドイツ語を話せるし、セイバーにはサーヴァントとして加護が働く。士郎に直接聞かせたくない言葉は、翻訳されない利点があった。衛宮家の子どもたちには、ヤンも配慮しているのだ。

 

 しかし、日本語はそうはいかない。読めるし聞き取れるが、書く方はお手上げだ。複雑な漢字を書くのは、不器用なヤンには難しい。

 

「こんなに一杯!?」

 

 アーチャーは戸籍も引っ張り出し、一番古いものと墓石の人名を交互に見比べた。ややあって一点を指す。

 

「いや、この人からは戸籍に載ってる。この人より前の右から十人分でいいよ。

 法名と没年、俗名を書いてくれ」

 

「結構あるじゃない」

 

「でも写真はちょっとなあ……」

 

「ああ、そうね。なんか罰当たりだもの。いろいろ写るとやだし……。

 アーチャーたちの画像があるのにいまさらだけど」

 

 頷くと、凛はノートにペンを走らせた。ミス・パーフェクトと言われるだけあって、凛は書道の手本のように端正な字を書く。だから、ヤンも書記を頼んでいるのだ。

 

 凛がせっせと筆記する間、ヤンは戸籍と法名碑を見比べた。

 

「このお墓には、君の曾祖父母までが納骨されてるんだね」

 

「ええ、祖父母から教会にお墓があるわ」

 

「なるほどね。江戸時代はキリスト教は禁教だし、

 太平洋戦争の突入以前から、また弾圧されたからか。

 君のご先祖様が聖杯戦争に加わったのは、そっちの思惑だったのかもなあ」

 

 また始まった。凛は従者を横目で睨むと、名前を書き写すのを再開した。

 

「遠坂の先祖は、根源を目指して武術を修めてたそうよ。

 でも魔術師に転じたんですって」

 

「ああ、それなら納得だ。信仰が先にあったんだね」

 

「今度は何よ」

 

 黒い瞳が、遠坂家の墓標に注がれた。

 

「根源に行きたいというのは、魔術師の願望だというが、

 隠れキリシタンだった君のご先祖様にとっては、

 神に会いたいということではないかな」

 

 冬の風が、二人の黒髪をかすかに揺らした。梅の香がどこからか漂ってくる。

 

「キリシタンの弾圧は江戸時代中ずっと続いたんだよ。

 ばれれば拷問、改宗しなけりゃ死罪ってのも変わらない。

 だから、君のご先祖だって寺に墓を作り、神社の氏子だったりしたわけだろう」

 

 死後には神の許へ行くという。だが、計り知れない重圧に耐え、信仰を守り抜いた遠坂の先祖は、生きて神にまみえたいと願ったのではないか。

 

「だから、聖杯戦争に?」

 

「いや、そうとばかりも言い切れないな。

 自己鍛錬をして、神に会いたいと願う人が、神の座に行くために別の道を探す。

 ここまではいい。

 しかし死者の復活という、神を冒涜するような真似に喜んで参加するかな」

 

 ペンを走らせる手が止まり、頭半分上にある顔を翡翠が凝視した。

 

「聖杯の概念を持つということは、かなりの確率でキリスト教の英雄だ。

 彼らに仮初めの生を与え、また殺して贄とするなんて許容できるだろうか」

 

 聖書に載っている聖人たちは、赫々たる武勲や偉業の主だ。竜を退治したゲオルギウス、巨人ゴリアテを投石器で斃したダビデ。神に授けられた指輪で、悪魔を使役して神殿を造ったソロモン王。民を率いてエジプトを脱出し、海を割って約束の地へたどり着いたモーゼ。

 

 聖書に載らぬ英雄にも、信仰の篤い者はいくらでもいる。十字軍を率いたリチャード獅子心王。彼は佩剣の銘をエクスカリバーとしたそうだ。ブリテンの英雄、アーサー王にあやかったのである。

 

 神の声を聞き、シャルル七世と共にフランスを救い、だが魔女として処刑されたジャンヌ・ダルク。後にそれは撤回され、彼女は聖人の列に加わる。

 

「二百年前のご先祖様は、必ず参加する権利を得て、

 冒涜に掣肘を加えたかったのかもしれないよ。

 ならば、教会との関係が良好なのも頷ける」

 

「止めないで参加をしたですって!?」

 

「相手は、神をも畏れぬ真似をしようとする異国の連中だ。

 自分より魔術師としての実力もずっと高く、

 その時に逆らったら殺されていたかもしれない。

 従うふりをして、魔術の研鑽を行い、それとなく邪魔をし、

 対抗手段を身につけてぶち壊す。

 このぐらいのことを考えても不思議はないよ。宗教は息が長いものだ」

 

 ヤン自身は神はいないと思うが、いると信じる者を否定しようとは思わない。

 

「長崎の隠れキリシタンは、三百年以上も聖句を口で伝えたんだから。

 こういうのを考えるのが、歴史学の楽しみの一つなんだよ」

 

 凛は考え込んでしまった。何千年も前の聖書や教典の一節を巡って、未だに紛争が絶えない国がある。

 

「……よそのことは言えないわよね。

 二百年も聖杯戦争にこだわっている私たちも同類かも知れない」

 

「ミッシングリンクは、四次と五次だけじゃない。

 三次と四次にも断絶があるんだ。

 情報を繋ぐべき凛の祖父が、五十代で亡くなっているせいだ。

 三次でも何かが起こっていて、そいつが四次に影響を与えている」

 

 アーチャーに視線で促され、凛はメモを再開した。

 

「三次にも何かが起こったっていうの?」

 

「さっき、戦争前にキリスト教が弾圧されたと言ったが、

 外国人の入国も同じことが言える。

 枢軸国側であるアインツベルンはともかく、

 それ以外の国の人は、日本に入国するのも相当に難しかったはずだ。

 この冬木では、とんでもなく目立っただろう」

 

「そんなの、魔術で認識をそらせばいいでしょう。なんとでもなるわ」

 

「そうかい? 大荷物でやってきて、半月も逗留し、

 食事や買い物に来る外国人が、五人ぐらいいても?」

 

 凛の手が再び止まった。もう、書くものを書き終わったせいでもあるが。

 

「え?」

 

「時計塔や魔術協会が斡旋した外来の魔術師は、ヨーロッパ出身者が多いんだろう。

 当時は旅客機なんかないから、船旅で何か月もかかる。

 それが往復だ。着替えだけでも大荷物だよ」

 

 またも、時代差による盲点を衝かれた。

 

「そして、現代のように流通も技術も発達していない。

 便利な商店やホテルどころか、冷蔵庫すらない。

 食べ物の買い置きがほとんどできないところへもってきて、

 水だって、井戸のある拠点を押さえないと手に入らない」

 

「……あ、ああ、そうね。スーパーもコンビニも自販機もないんだわ」

 

「蛇口をひねれば、水や湯が出てくる水道もだよ。

 水の確保は、軍事上の難題なんだ」

 

「あんたの時代でも?」

 

「ああ、そうさ。水があり、容易に降下できる惑星は非常に少ない」

 

 なにげない質問の答えが、凛の度肝を抜く。

 

「あ、あんたって、本当に宇宙人なのね……」

 

「昭和初期に来日した外国人には、さほど違わない状況だと思うがね。

 言葉もろくに通じない、補給困難な異国の地で、

 拠点と物資の入手が必要というだけで、

 外来の参加者にとっては重大なハンデだよ。今だって皆無じゃあない」

 

 凛やイリヤのバックアップのない衛宮主従を想像してみればいい。それでも士郎には家があるが、外来の参加者たちには家がないのだ。

 

「多くの不動産を所有している遠坂や、間桐の目を誤魔化してはおけないさ」

 

「いくら外国人でも、そこまで考えなしじゃないわよ」

 

 さすがに、両家の不動産を借りたりはしないと凛は反論する。

 

「いや、情報は横のつながりの遮断が難しいんだ。

 君たちの家は、市街地にも土地を持っているんだろう?」

 

 凛は頷いた。後見人が二束三文で売り払ったので、かなり減ってしまったが。

 

「別の借り手には商店が含まれないか。あるいは飲食店が」

 

「……確かにそうだわ。昔からのお店がまだあるもの!」

 

 凛も、米屋と酒屋によく注文する。重い物を配達してくれる利点は、価格には替えられない。後者については、遠坂家の当主として、地域のつきあいへ贈答が欠かせないからだ。だから、未成年世帯でもブランデーを買うのを黙認してくれる。スーパーではこうはいかない。

 

「大家さんに変わった事はないかと聞かれたら、すぐに答える珍客じゃないか。

 これで二週間も戦争をやってたら、

 複数の郷土史に外国人の奇行として残ったはずだ」

 

 翠の瞳が見開かれ、黒髪に縁取られた静かな横顔を凝視する。

 

「なにも語られないということが、第三次の不首尾を意味する。

 噂になる前に、閉幕したんじゃないかな。不都合が早い段階で発生してね」

 

 小さな拍手が二人の耳朶を叩いた。二つの黒髪が音の方向へと向き直る。

 

「お見事ね」

 

 そこに、黒と紫のドレスの女性が佇んでいた。



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40:アーチャーVSキャスター

「お見事ね」

 

 そこに、黒と紫のドレスの女性が佇んでいた。潤いのある美しいアルトの声は、アーチャーには聞き覚えのあるもの。

 

「それは恐れ入りますね。本日はお招きに預り、感謝していますよ、キャスター」

 

 凛のアーチャーは、悠然とした態度でキャスターに挨拶を始めた。緊張感のないこと夥しいが、凛も腹を括った。ここはキャスターの工房、いや神殿。虎口に飛び込んだのならば、相手が噛み砕けないように堅固であるしかない。

 

「私は管理者遠坂のアーチャーで、こちらがマスターです」

 

「はじめまして、キャスター。わたしは冬木の管理者、遠坂凛。

 わたしのサーヴァントに、様々に有益な情報を下さったそうね。

 それにはお礼を申し上げるわ。ありがとう」

 

 ドレスと同じ色のフードの下で、キャスターの朱唇が薄い笑みを浮かべる。

 

「あら、礼儀正しいこと」

 

「でも、管理者として、これ以上の騒ぎは困るの。 

 停戦に応じていただきたいのよ」

 

 昏倒事件を仄めかしつつ、一昨日以降の発生がないことを酌量して、凛の口調も鋭さはあるが棘はない。

 

「頼みごとをするのなら、対価が必要なのよ、お嬢ちゃん」

 

「あなたは凄い魔術師だわ。

 聖杯の加護を解析して、手紙を下さるぐらいにね。

 そんなあなたに隠し事をしてもうまくいかないでしょうから、率直に言うわ。

 あなたの願いは何なの? 

 アーチャーは、あなたはとても賢いひとだから、

 『世界の内側』で叶う範囲の願いのために召喚されただろうって言ってる。

 サーヴァントとして、何を望むの?」

 

 唇から、聞くものを陶然とさせるような笑い声が漏れた。

 

「ふふ、管理者のサーヴァントは、本当に聡いのね。

 魔術師ではないと言ったのに、そのからくりに気がついたの?  

 そうよ、欠片であるこの身が叶えられる望みは、さほどに多くはないわ。

 この世界にだけ通用する願い。数多ある世界はそのままよ」

 

 黒紫の魔女に、黒髪の魔術師は静かに尋ねた。

 

「では、あなたの願いは、この世界で何事かを為すことですか?

 時と場所を超越した、サーヴァントでしか出来ないことを」

 

「貴方なら生前に手にし、与えていたものでしょうけれどね」

 

 黒い目を真ん丸にして、ヤンは自分を指差した。

 

「私がですか? ……ひょっとして、もしかして、誠実な夫婦生活?」

 

 フードの下の白皙に、季節に早い桜の花が開花した。

 

「これだから、変にさかしい男は嫌いだわ」

 

 アーチャーの眉宇に緊張が走った。魔力搾取による昏倒事件は、魔力不足の補給だと彼は考えていた。さらに柳洞寺に入り込み、姿を現して陣地を作成し得たことを加味すれば、キャスターのマスター候補はそう多くないのだ。揃って魔術に縁がなく、おそらくは潜在的な魔力も乏しい人物。

 

 時計塔が斡旋した参加者の情報を入手してからも、キャスターのマスターはその二者ではないと思った。参加者の一人は中年の男性、もう一人は妙齢の女性。いずれも経験豊富な魔術師とのことだ。

 

 そうした人物が、ああいうやり口を許すとは考えにくかった。いや、犯罪など起こさずとも、魔力の供給ができるであろう。特に女性の方は、魔術師の犯罪を取り締まる役職に就いていたのだ。彼女の同僚でもある男性だって、余計なリスクは避けるに違いない。

 

 だが、この口ぶりはどうだ。ヤンのほかにも、『変にさかしい男』に心あたりがあるようではないか。

 

「そいつはすみませんが、私も妻を裏切りたくはないので」

 

 狐と狸の化かしあいに業を煮やした凛が、言葉の剣を抜いた。

 

「もう、単刀直入に言うわ。

 キャスターは受肉して、旦那様とラブラブに暮らしたいってことでいいの?」

 

「……慎みのない若い娘も苦手よ。いいこと、女の子は淑やかなのが一番なのよ」

 

 凛はアーチャーと顔を見合わせた。

 

「キャスター、あなたも結婚してたんでしょう……?

 今さら照れなくてもって感じだけど、そういうことなら対価も準備できるわ。

 協力してくれるなら、戦後に旦那様と結婚できるようにしてあげる」

 

「な、なんですって!?」

 

「聖杯の魔力で受肉できるかはわからないけど、

 私のサーヴァントとして残るのはどう?」

 

 魔力をかき集めることに長けたキャスターなら、霊地に住む強力な魔術師の凛がマスターになれば、現世に残留することも可能だろう。

 

「そうだね。アインツベルンの協力を仰げば、

 外国人として生きていく書類も準備できるはずだ。

 セイバーに、パスポートを用意できた財力や権力がある。

 あなたのパスポートや証明書も作れるでしょう。

 お望みなら、婚姻届も出せますよ」

 

「こ、こ婚姻届……」

 

 キャスターの頬が、桃の色へと変化した。

 

「ええ。証人になってくれそうな人も紹介するし、

 新居にうちの所有する物件を格安で提供してもいいわ。

 教会に知り合いがいるから、結婚式だって手配する。

 どう? 聖杯の調査に協力してくれないかしら」

 

 凛は、これまでの黒髪の魔術師の言動から、考えを巡らせていた。相手を理解しようと努め、肯定的に接すれば、魔女だって凶行には至らないのではないか。

 

 オーロラ姫の呪いは、お皿が足りないのを口実にして、招待状を出さなかったのが悪い。最初から招いていたら、強大な力にふさわしい加護をくれたことだろう。

 

「……わ、悪い話ではないけれど、アーチャーはどうするつもりかしら。

 まさか、私の手にかかる気で来たのではないでしょう」

 

「いやあ、それなんですが……」

 

 ヤンは髪をかき回しかけ、凛の一睨みで手を止めた。彼女が苦労の末に、今風の髪型に整えたのだ。

 

「今夜、ランサーと会食なんですよね。

 戦いを挑まれたりしたら、正直とても勝てる気がしません。

 私のマスターは御三家の一人ですから、私が死んでも令呪は残存します。

 あなたが、聖杯戦争を勝ち抜けたら、その後の話ということになりますけどね」

 

 キャスターは優雅に腕を組んだ。

 

「あら、あの風来坊の痩せ犬と?」

 

「はあ……その、もうちょっとお手柔らかな表現でお願いします。

 一応、私の憧れの英雄だったんですから」

 

 くすりと唇が綻んだ。

 

「風のように素早く、掴みどころのない男。

 マスターは穴熊のように姿を見せない。

 だから、僕にするのは諦めていたけれど……、私の好みではないしね」

 

「数多の美女を魅了した、武勲赫々たる美丈夫ですよ?」

 

「それが信用できないのよ」

 

 キャスターは、わずかに顎を動かして、白銀の少女を示す。

 

「あのバーサーカーの行状と同じくね。

 裏切りの報いに、ふさわしい死に方をしたでしょう。

 でも、ディアネイラは愚かよ。

 ネッソスの血は、夫と女の双方に贈るべきだったのに」

 

「ははあ……」

 

 たじろぎながらも、ヤンは探りを入れてみた。

 

「では、あなたは不倫をなさる必要はないということですか」

 

「当然でしょう。自分が許せぬことを行うつもりはなくてよ」

 

「そして、自分が許せぬ相手には、ふさわしい報いを?」

 

 美しい唇が眉月を形作る。ヤンは三つのことを確信した。彼女はヘラクレスに縁のある、ギリシャ神話の英雄だ。士郎のような素人魔術師に、偶然召喚できる存在ではない。

 

 となると、触媒に便宜を図ってもらえるという、時計塔の魔術師いずれかがマスター。だが、様々な情報の断片から、彼女のマスターは女性でないと判断していい。しかし、男の魔術師は、彼女を妻には迎えない。魔法に至るために血を繋ぐのが魔術師。子を産めぬのがサーヴァント。

 

 ――『彼』はどうなった?

 

 黒い瞳に走った緊張を認め、キャスターは口を開いた。

 

「この国の諺では、撃たれぬのは鳴かぬ雉よ」

 

「なるほどね。

 あなたほどの女性にそう思われるとは、その方は男冥利につきるでしょう。

 あなたに見捨てられたら、怖ろしいことになりそうですがね」

 

 会話から取り残された凛の目前で、キャスターとアーチャーが言葉の剣を交えた。探りあい、フェイントを仕掛け、足をすくい、急所を仕留めようとする。

 

「私は捨てたりはしなくてよ。ゴミはきちんと始末するものでしょう?」

 

「あなたはいい奥方だったのでしょうね。現代社会にも対応できそうだ。

 しかしね、どんなゴミであれ、現代では勝手に処分してはいけないんですよ」

 

「焼くと灰や煙をまき散らすから? 埋めたら臭いや蛆が出るから?

 どちらも出ないならかまわないでしょう。もうゴミはなくなったもの」

 

 アーチャーは小さく息を呑んで、憂愁と共に吐き出した。

 

「……なるほど。時を戻せぬ以上、この話は終わりにしましょう。

 私たちが問題にしているのは、聖杯戦争の今後です。

 あなたがたの主従関係に、口を挟むのは本題ではありません。

 恋路の邪魔をして、馬に蹴り殺されるのもごめんですからね」

 

「そういうことね。言霊は尊ぶべきよ。

 これから、天を往く馬にも挑まねばならないのだから」

 

「……よくご存知で。

 しかし、あなたの今後の生活のために、

 早いところきちんとなさったほうがいいですよ。

 我々に与するか、せめて害を与えないよう、去就を明らかにしていただきたい」

 

 アーチャーには珍しい押しの姿勢だった。

 

「さあ、どうしたものかしら」

 

「おやおや、今は二月なのにのんびりしている暇はありませんよ」

 

「それが何だと言うの?」

 

 美女と美少女、二人の魔術師が同時に首を傾げた。黒髪の青年も小首を傾げ、おっとりとした笑みを浮かべた。

 

「私のマスターもすっかり失念していましたが、

 日本ではもうすぐ新年度を迎えるからですよ。

 私は役人でしたから忠告しておきますが、ご主人の勤めがなんであれ、

 あと一月もすれば年度切替えの時期でしょう」

 

「……アーチャーのマスター、貴女の僕は何を言ってるのかしら?」

 

 困惑した様子のキャスターに、富豪の令嬢も首を左右に振る。

 

「ごめんなさい。わたしも意味がわからない」

 

 不意打ちに成功したアーチャーは、不器用に眉を上げた。 

 

「日本では、婚姻届を出して結婚が成立するんですよ。

 外国人だと本国の書類が沢山必要になります。

 イリヤ君の家がいくら金持ちでも、そういう書類の準備は時間が必要だ。

 偽造ではなく、役所に申請するならね」

 

「え、ええ……?」

 

 現代の魔女は直接に、伝説の魔女はフードの下から、胡乱な眼差しを送った。二人の気持ちは一つだった。

 

 ――何言ってるの、この男は!?

 

「年度の終わりと初めは、役所はとっても忙しいんですよ。

 決裁者の私も、書類にサインするだけで一月が過ぎてしまったものです。

 でも、ややこしい届出へのチェックが多少は緩むチャンスだ」

 

 凛は、チャコールグレーのコートの袖を引っ張ると、耳元へ囁いた。

 

「ねえ、アーチャー、すぐに婚姻届なんて出す必要あるの?」

 

 キャスターも頷いているが、ヤンは厳然と言い放った。

 

「当然です。税金の控除が全く違います。保険やなんかもね。

 夫が金を損することになってもいいんですか?」

 

「なっ……なんですって……?」

 

 給料分の仕事をするが口癖だったヤンだが、被保護者を迎える前は、ごっそりと課税されたものだ。マスターには白き魔女の手法を提唱したが、自分は亭主の黒い魔道士に倣ってみる。新年度のたび、『まだ配偶者控除の申し込みはしないのか? まったく、甲斐性のない奴だ』と言われたものだ。

 

 込められた怨念を察知したかどうか、現代事情に疎いキャスターが怯む。とんでもない発言をするアーチャーに、凛の顎が落ちた。なんて嫌な精神攻撃!

 

「幸せに暮らしたいなら、先立つものが必要でしょう。

 富豪だからといって、幸福とは限りませんが、文無しだと確実に不幸です。

 私が保証します」

 

 降り注ぐ言葉の矢は、キャスターの急所を抉った。王位の相続争いに負け、流浪の身となった生前である。

 

「ふ、ふふふ……。寄る辺なき身の辛さなら、貴方に言われるまでもなくてよ」

 

 ヤンは腕組みして、不機嫌に目を細めた。

 

「私もそうなんですがね。

 孤児になって、衣食住と学業に目が眩んだばかりに、

 金と引き替えに人を殺す職業に就いてしまいましてね。

 死後に趣味と願いを叶えられると、召喚に飛びついたら殺し合いでしょう。

 やっていられませんよ、まったく。人殺しは、嫌ってほどやりました。

 給料も出ないのに、もうごめんです」

 

 給料の話から離れようとしないアーチャーから、キャスターは話の舵を取り返そうと試みた。

 

「では、貴方は聖杯に願うものはないと?」

 

 黒髪の青年の目つきがますます険しくなった。 

 

「そんな胡散臭いものはいりません。

 たかだか、六人の人間か、幽霊のコピーを殺したぐらいで、

 どれほどの力が得られるというのか」

 

「『世界の内側』では、おおよその望みが叶うのよ」

 

「キャスター、あなたは私の話を聞いていたでしょう?

 私が未来の存在だということも。改めて自己紹介としましょう。

 私はヤン・ウェンリーといいます。今から約千六百年ほど後に、死んだ軍人です」

 

 我に返った凛は、アーチャーの腕を引っ張った。

 

「ちょっと!」

 

「今さら隠しても無駄さ。

 ライダーとの戦いを監視できて、

 その前の我々の話を聞かれていないはずがないじゃないか」

 

 こちらも本来の調子を取り戻したキャスターは、アーチャーに問う。

 

「遥かな未来には、天上の炎を炉となし、

 星空を仰ぐのではなく、船で往くというのは本当なのね」

 

「ええ。でも、人間の本性は何も変わらない。

 五百年近く争い続け、人口を三千億から四百億に減じてなお、戦いを止めなかった。

 それほどの犠牲を投じても、ほんの十数年の平和も得られなかったのに、

 聖杯とやらに期待を抱けるもんじゃない」

 

 二つの艶やかな唇が、微かな笛の音を立てた。

 

「三千億が、四百億、ですって?」

 

「それだって、すごい数でしょう!」

 

 黒い頭が力なく振られた。

 

「地球の現在人口は六十億を超えていて、そのたった七倍にも満たない。

 なのに、宇宙で一回戦闘すれば、数万人単位の死者が出る。

 私も大勢の人の命を奪いました。自分の命一つで償えるものではない。

 死んで終わりにならなかったのは、やはり報いなんでしょう」

 

 アーチャーが戦闘を拒むのは、戦いの無意味さを知り尽くした者だからだ。 聖杯に願いを抱かないのも、五百年の燔祭に膨大な供犠を投じ、なお夢が叶わないのを見ていたから。

 

「死は、本人にとっては終わりでも、遺された者を押し流してしまう。 

 また犠牲者を出せば、新たな遺恨を重ねるだけです。

 このお寺を本拠地になさっているならば、気がついていらっしゃるでしょう」

 

 ヤンは、士郎の一行に眼差しを送った。その他にも、黒い装いがちらほらと見える。

 

「そうね……。黒い衣で来る者が増えたわ。

 これが、貴方の言う十年前に遺された者ということね」

 

「ええ、私のマスターも、セイバーとバーサーカーのマスターも。

 そしてきっと、ライダーのマスターもみんな孤児です。

 今回は、マスターである人間と、無辜の市民に犠牲を出さないことが、

 私の一番の望みです」

 

「子どもに優しいのね。……それは、貴方が孤児だったから?」

 

 深い夜の底が、静かにキャスターを見つめた。

 

「子どもを守り育てることは、人間に唯一許された時への対抗手段ですから。

 そうして、人間はここまで歩んできた。

 そして、千六百年後の私の時代までは歩んでいる。

 光の速さで、地球から一万年以上かかる場所まで居を広げてね」

 

 Oの字になった口を隠すには、黒で覆われた指先の動きは遅かった。

 

「……ところどころ話を聞いてはいたけれど、まさか本当だったとはね。

 貴方の申し出は面白いわね、アーチャー」

 

「と、言いますか、こんな戦争ごっこの魔術大会に興じている場合じゃありませんよ。

 私の世界では、今から四半世紀後に全面核戦争が起こりました」

 

「ちょ、ちょっと、アーチャー! 今それ言うわけ!?」

 

「な……」

 

 聖杯の知識が、キャスターにもたらされる。唯一の被爆国である、日本を襲った核爆弾。これが世界規模で降り注ぐと、未来を生きた青年は言うのだ。

 

「人類の九割近くが死滅します。そして、続く内乱で宗教もほとんど滅ぶ。

 魔術基盤とやらも失われるんじゃないでしょうかね。

 我々は放射線では死ななくても、魔力の素がなくなったら消えちゃいませんかね?」

 

 キャスターは、口を押さえていた右手に、左手も重ね合わせた。動揺した二人の魔女に、魔術師は肩を竦めてみせた。

 

「この世界の未来そのものではないが、近い未来が訪れる可能性は否定できない。

 それどころか、もっと悪い未来だってありうるんだ」

 

「あんた、全面核戦争は起きないっていっていたじゃないの!」

 

 黒い瞳が瞬いた。

 

「うん、全面核戦争は起きないと思う。

 しかし、ソビエト連邦の崩壊で、発展途上国の核武装がずっと野放図に進んでる。

 政治的イデオロギーの対立の代わりに、宗教と民族の紛争が深刻だ。

 資本主義体制が勝利したから、領土や資源の奪い合いも激化していくだろうね。

 核を使った散発的な戦争やテロの可能性で、

 もっと始末に負えないかもしれないなあ」

 

「え、ええっー!? なによ、それ、どういうことよ!」

 

 凛は声を張り上げ、思わずアーチャーのマフラーを引っ張った。彼が、全面核戦争が起きないと言うから安心していたのに、それ以上に悲観的な未来予測が飛び出してこようとは。

 

「いや、だって、私の過去の世界の西暦二千年代初頭は、

 北方連合国家(ノーザン・コンドミニアム)三大陸合衆国(USユーラブリカ)に二極化していたからね。

 二大国家のタガがきつくて、この世界みたいに多極化してはいなかった。

 吸血鬼もゾンビもいないし、魔術もなかったと思うよ、たぶん」

 

 サーヴァントが通常攻撃無効なことをありがたく思いつつ、ヤンは答えた。生きていたら、マフラーで絞殺されるところだった。危ない、危ない。幽霊でよかった。 

 

 そして、彫像と化したキャスターに続きを告げる。

 

「そのおかげで、南半球は比較的核の被害が少なかった。

 ここでは南半球、それもオセアニアへ逃げろと言い切れないのが辛いですが、

 今のままだと結局逃げられない。我々は聖杯に縛られている」

 

 冬木の魔術基盤の圏内は、隣町との境界線上のアインツベルンの森までではないだろうか。アインツベルンは、御三家の筆頭ならではのズルで、セイバーやバーサーカーをドイツで召喚しているが、冬木入りはしなければならなかった。他の陣営の殺し合いを、ドイツで高みの見物というわけにはいかないのだろう。

 

「だから、聖杯のシステムを解析する意味はあるでしょう。

 そして未来のためには、先立つものが必須ですよね?」

 

 キャスターは考え込んだ。そして、アーチャーと質問まじりの雑談を交わす。その結果、魔女は魔術師に陥落した。

 

「……いいでしょう、管理者の話に乗るわ」

 

「停戦に合意して、聖杯の調査に協力していただけるということでよろしいですか?」

 

 念を押すアーチャーに、キャスターは頷いた。

 

「ええ、その方が戦うよりも早そうですもの。

 でも、どうするつもりなのかしら。

 願いを叶えるのに必要なのは、六体のサーヴァント。

 貴方が組んでいるセイバーと私、双方を残したら足りなくてよ」

 

 アーチャーは淡々と答えた。

 

「これまでの聖杯戦争、斃れたサーヴァントはいるのに、

 望みを叶えた者がいるか、定かではありません。 

 持ち越された魔力が、今回の短いインターバルの原因ではないかと思うんですよ。

 となれば、より少ない犠牲で魔力が充分になる可能性がある。それがまず一つ」

 

 キャスターの細い指が、形の良い唇をなぞった。

 

「まず、一つ? では次は何?」

 

「今はまだ確証がない。しかし、あてがないこともないとだけ言っておきましょう」

 

 キャスターは、黒いフードの下で表情を動かした。黒髪に黒い瞳のアーチャーは、慎重で情報分析に長けた賢者だ。ユニークな仮説は述べても、根も葉もない妄言は吐かない。   

 

「ふふ、それでは今日はこの辺にしましょうか。

 セイバーのマスターはともかく、バーサーカーのマスターはそろそろ気づく。

 弓の騎士と主よ、今晩も健闘を祈りましょう」

 

 唇に笑みを浮かべ、ほっそりとした肢体がたおやかに一揖する。そのまま色素が薄れ、風に溶けるように姿が消えた。凛は張り詰めていた息を吐いた。

 

「大丈夫かい?」

 

「き、緊張したわ……。よかったの、あんなに自分のことばらしたりなんかして」

 

「いやあ、隠すだけ無駄だよ。ただでさえ女性は敏い。

 ましてや、神代の魔術師だ。人間としては、当時最高クラスの頭脳の持ち主だろう」

 

 昏倒事件の手口から予想はしていたが、非常に洗練された魔術と、現代に対応できる知能がある。今のキャスターの幻影は、士郎ら一行にも気づかせないような術のようだ。

 

 これほどの術者が、キリスト教やイスラム教が盛んになった時代に名を成せるはずがない。 さらに古い時代、恐らくはヘラクレスを生前に知っている。

 

 そして、プライドが高く、非常に気性の激しい美女だ。……困ったことに、ヤンには心あたりがあった。ヤンが確信した三つ目。ヘラクレスの死因をあてこすった発言は、意図的なリークだ。

 

 『貴方が私を知っているだろうことを、私も知っているのよ』という極太の釘に他ならず、『私のことを知る貴方は、どうするのかしら?』との恫喝だ。

 

 これはまずい。ヤンは顔には出さず、マスターにも気取られずに、心に冷や汗をかいた。白き魔女にして預言者の祖先、時の流れに漂白される以前の黒き魔女。古いが強いという法則からするに、ヤンの手に負える女性ではない。これ以上の正体の探りあいはごめんである。

 

 ばらしたところで、聖杯の加護を以ってしても調べがつくことはないのだから、正直に言ったほうがいい。

 

 彼女は情報の重要性を知る人間だ。風変わりなアーチャーの正体を、闇雲に他にばらしたりはすまい。そうなるとしたら、彼女にとって、そのほうが得だと判断したときだ。凛たちの陣営からの利益供与が勝っているうちは、こちらにつくだろう。

 

 それより何より、彼女が忌むのは不実な男に違いあるまい。王女メディアの怒りに触れて、切り刻まれるのも釜茹でにされるのもごめんだ。魔女の秘薬で、焼き殺されるのも。キャスターの真名を悟ったヤンの、咄嗟の判断だった。

 

「これ以上の論評は、今は差し控えようか。

 私たちも切嗣氏のお墓を参拝するとしよう。

 そして、若住職を紹介していただいて、納骨の記録を調べるんだ」

 

 何事もなかったかのようなアーチャーに、凛はへたりこみそうになった。

 

「ちょ、ちょっと時間をちょうだい。どうなるかと思ったわよ……」

 

「何にもならなかったからいいじゃないか。過ぎたことだよ。

 これからどうするか考えないと。時は金、いや、ダイヤやエメラルドさ。

 さ、行くよ」

 

 サーヴァントのステータスに精神があるなら、アーチャーはこう表示されたはずだ。

メンタルが炭素クリスタルと。



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41:霊脈より人脈

 それから凛たちは士郎の一行に合流し、衛宮切嗣の墓にも手を合わせた。本堂に向かい、大河に若住職の零観を引き合わせてもらい、納骨記録である過去帳を書き写す。

 

 そちらを凛がやっているうちに、アーチャーは零観から、柳洞寺の縁起を何くれとなく聞き出した。円蔵山という地名や寺の名前。そして怪談。夏ならばまだしも、冬だとうそ寒いだけだった。

 

「珍しい地名ですね。

 お寺の名前みたいなのに、ここは柳洞寺という名がちゃんとある。

 でも、柳という名なのに、境内にも参道にも柳は生えていませんよね?」

 

 柳を姓に含む者から、思わぬ指摘を受けた零観は目を瞬いた。

 

「そういえばそうだな。まあ、あれは川べりの木だ。

 なにより、寺に柳じゃあ、幽霊に出てくれと言わんばかりだろう。

 坊主は死人を供養して、成仏させるのが仕事だ。

 植えるのはまずかろうなあ」

 

「ああ、そうですよね。昔はあったのかも知れませんが」

 

「君はずいぶんと面白いことを考えるな」

 

「歴史学科なので、興味がありまして。僕の名字と同じ寺ですし」 

 

 そう言うと、物柔らかに微笑む。凛は内心で唖然としたが、考えてみれば、アーチャーの父は、何億円もする壷を買ったやり手社長だった。これは演技ではなくて、お坊ちゃんだった彼の一面なのだろう。 

 

「なるほどなあ」

 

「で、洞は洞窟の洞ですが、この山のどこかに洞窟があるんですか?」

 

 零観は懐手をして顎をさすった。

 

「ああ、そういえば怪談の舞台だったな。いや、俺は知らんなあ」

 

 漆黒の瞳が瞬くと、アーチャーは小首を傾げた。

 

「怪談は、江戸時代の頃ですよね。

 落盤とかあっても、おかしくはないかな。

 このあたりは、戦時中の南海大地震でかなり揺れたでしょうし」

 

「……そういうのも歴史学なのかい?」

 

「僕の父方の祖父の実家は東京なんです。

 祖父にも実際の経験はないけれど、関東大震災のことは随分聞かされました。

 歴史学と、気候や天災は関わりが深いんです。

 僕も卒論のテーマにしようかと思っています」

 

「そういうものか。

 また親父にも聞いておくが、あんまり揺れなかったんじゃないか?」

 

 地震そのものを知らないようなのに、意外な発言であった。再び小首を傾げる黒髪の青年に、若き僧侶は過去帳を手に取る。

 

「大きな地震があると、墓石が倒れて割れたりするものなんだが、

 ここの墓石は、古い物が綺麗に残ってる。

 それこそ、遠坂さんの家の墓がそうなんだ」

 

 現代技術による滑らかな表面を持たない、人の手によって磨かれた墓石だ。微かな鑿の跡に苔がむして、写真では字が鮮明に撮れそうになかった。

 

「ああいう立派な墓ほど、石が重くて倒れやすい。

 倒れると無傷じゃ済まなくて、割れたり欠けたりするものなんだ。

 直したなら、こいつに書いとくんだが」

 

 二人の青年に視線を向けられた凛は、首を左右に振った。

 

「ええ、そういうことは書いてありませんでした」

 

「ま、戦時中のことなら、手落ちはあるかもしれんよな。

 一成、こいつは弟だが、遠坂のお嬢さんと同級生なんだ。

 何かわかったら、伝えさせるようにしよう」

 

 アーチャーは嬉しそうに一礼した。

 

「ありがとうございます」

 

 それをしおに、二人は寺を辞した。寺の出口でイリヤが待っていた。

 

「あら、士郎と帰ったんじゃなかったの?」

 

「先に行っててもらったの。ねえ、リン、これ見て」

 

 イリヤが差し出したのは、そっけないデザインのプリペイド携帯だった。画像が添付されたメールが一通。本文は『門番のアサシン?』の一言。半ば透き通っているが、顔かたちに浅黒い肌と灰銀の髪や瞳の色、着衣の真紅が見て取れる。いっそ見事なほどの心霊写真だ。

 

「な、なにこれ!?」

 

「リズが送ってきたの。この赤いヒト、門のところにいるみたい。

 リズはセイバーと一緒にさっきのお店に行ったわ。

 セラはバーサーカーが守ってる。でも」

 

「なるほど、これのために待っていてくれたのか。

 ありがとう、イリヤ君。でも私じゃ護衛にはならないと思うけどなあ……」

 

 イリヤは、青年の手を引っ張った。

 

「大丈夫よ、バーサーカーがすぐ来てくれるから。

 でも、今日はとてもすてきね、アーチャー。

 あの黒い服より似合うわ」

 

「それはね、服がいいからだよ、きっと。

 凛のお父さんはお洒落な人だったんだろうね」

 

 またしても、思わぬ角度からの一撃だった。口許を押さえる凛にアーチャーは頭をかきかけ、手を止めた。

 

「ごめん、私はどうもデリカシーがなくていけないな。

 さて、夕方までまだ時間がある。教会のお墓にもお参りしようか」

 

 凛は無言のまま頷いた。このサーヴァントは、凛にも喪のプロセスを辿らせようとしているのだ。還らぬ人を想うことで、生の尊さを、戦いの虚しさを目の当たりにさせる

『争いは何も生み出さない』というのは、彼にとっては建前ではなく、本音そのもの。

 

「……そうする。その後、夕方までどうするの?」

 

「待ち合わせは学校だから、士郎君たちとはそこで合流しよう。

 イリヤ君も、士郎君について行くといいよ」

 

 つぶらなルビーの瞳が大きさをました。

 

「え、シロウのブカツを?」

 

「私は凛と一緒に学校に行っているだろう。

 霊体化してうろついていると、生徒の情報が色々と聞けるんだよ」

 

 これもまた、セイバーやバーサーカーにはないアーチャーの優位性だった。普通高校とはかなり毛色が異なるが、ヤンは同年代に学校生活を送っている。当時は無関心だったが、どういうところで噂が立つのかはよく知っていた。

 

「イリヤ君とセイバーの出現で、士郎君は一躍時の人だ。

 君との縁で、学校一の美少女である我がマスターとも仲良くなってるからね。

 僻む男もいないではないが、彼はなかなか人気があるんだよ」

 

 もげろ、爆発しろというよりも、同情の声のほうが大きかった。士郎のファザコンぶりは有名で、なのに隠し子がいたなんてというわけだ。

 

 それがまた、幼い美少女の大富豪で、メイドを見張りにつけるほど怒っている。遠坂凛は、両方と少々の接点があったがために、貧乏くじを引かされた第三者。 

 

 男たちの怨嗟の声は、士郎の人徳もあって、もっぱら故人に向けられていた。衛宮切嗣には申し訳ないことだったが、死人の心は傷つかない。

 

「過ぎるくらいに正直で、親切な働き者だし、弓道の腕前は素晴らしいそうだ。

 見学するといいんじゃないかな?」

 

「キュウドウ? なあに、それ」

 

「日本の武道なんだって。私も知識倒れだから、実際に見たほうがいいよ」

 

「おもしろそうね。でも、アーチャー、それだけじゃないんでしょ?」

 

 長い銀の睫毛から、真紅の瞳が漆黒を透かし見る。外見を裏切るが、実の年齢にはふさわしい、魅惑的な眼差しだった。アーチャーは両手を挙げて敗北を宣言した。

 

「君には降参するよ。

 昨日、呪刻をいくつか消去して、弓道場に起点がある可能性が高いとわかった。

 もしもの時でも、イリヤ君たちならなんとかできるだろう?」

 

「……シロウじゃどうにもできないってことね?」

 

 少年の師匠は渋い顔になった。

 

「それができるなら、セイバーが魔力不足にはならないでしょ」

 

「……あ、そうだった。ごめんね、リン」

 

 だが、たとえ一人前でも、ギリシャ神話で最も有名な女妖の術を解けるはずはない。

 

「イリヤも見てみなさいよ。簡単に解けるような魔術じゃないの。

 言ってみれば、ドアの前に石を置いて、開かないようにしてるだけ」

 

 なかなか巧みな比喩だった。ヤンはにっこり笑って補足する。

 

「凛や君なら、大きな石を置けるだろう。だが、士郎君にはまだ無理ってわけだよ」

 

 翡翠とルビーが見つめあい、多難な前途に吐息をついた。サーヴァントを排除するのではなく、利益供与によって協力してもらう。現界できるのは、どのみち二週間。その間に、サーヴァントに停戦を呼びかけて饗応し、偉大な先人に知識を借りるべきだというのが、アーチャーの主張だった。

 

 専門家であるキャスターは言うに及ばず、原初のルーンの使い手のクー・フーリン、

高度で複雑な結界術を施せるメドゥーサ。後ろの二人は、討ち取るチャンスがあったサーヴァントだが、だからこそ恩も売れるというのだ。本当に、大人って汚い……。

 

「それにね、慎二君と桜君も弓道部だ。

 御三家の残る一つに、イリヤ君がアインツベルンのマスターとして接するのは、

 礼に適っていないかな?」 

 

 イリヤにも益を与えつつ、間桐主従を抑えにかかるアーチャーだった。白銀の頭が傾げられる。

 

「戦争なのに?」

 

「元の形を忘れちゃいけないよ。

 こいつは、三家共同実施の大魔術だったんだろう。

 道に迷ったなら、原点に立ち返ることが鍵ではないかと思うのさ」

 

 アーチャーはそういって、不器用にウインクをしてみせた。

 

「私たちは、お寺で得た資料を元に、遠坂家の文書をあたってみようと思う。

 キャスターも一応停戦に乗ってくれたよ」

 

「本当!? すごいわ、アーチャー。どんな魔法をつかったの?」

 

 目を輝かせるイリヤに、ほろ苦い微笑が向けられた。

 

「それはまた後にしよう。みんな、イリヤ君を待っているからね」

 

 三人で参道を下る。途中の山門をヤンは観察した。画像に写りこんだ背景を見るに、七人目のサーヴァントが立っているのはこの辺りだ。彼と自分の目の高さを概算で比較する。

 

 彼はずいぶん背が高い。ヤンより十センチは上背があるだろう。褐色の肌に、銀髪と鉄灰色の目は珍しい取りあわせだが、顔立ち自体はアジア系とおぼしい。胸元まで写っている風変わりな服装は、仏像の四天王や十二神将を思わせる。

 

 アサシンとなる英雄は、山の翁ハサン・サッバーハだという。だが、顔の彫りは深く端正だが、骨格からしてアラブ系ではなさそうだ。よしんばアジア系の混血としても、ムスリムの男性が髭を生やさないのはおかしい。そこまで考えて、ヤンは遠い目になった。

 

「でも、今さらだよなあ……」

 

 魔術の存在により、この世界の歴史はヤンの常識と異なっているかもしれない。 ハサン・サッバーハは、イスラム教の一派の教主だ。信徒に大麻(ハッシシ)を与え、他の教派の聖職者の暗殺を指示していた。地球教の手法の源流といえる。教主本人が、暗殺をしていたわけではないから、ハサンの殻を被った、暗殺者の概念というのが正しかろう。

 

 そんなことを考えながらも、ヤンは二人の少女のおしゃべりに相槌を打ちながら、素知らぬ顔で参道を下っていった。七人目が確定。だが、マスターは不明。彼がアサシンだとしたら、姿を晒す意味はないはずなのに。

 

「……あ、そうか。そういうことか。

 もう何でもありというか、やった者勝ちというか、あー……こりゃ大変だ」

 

 聖杯戦争の時期が巡れば、魔術師はサーヴァントを召喚できる。たとえ、へっぽこの見習いでも。

 

 マスターはマスターを感知する。令呪の疼きで。マスターの魔力の大小に左右されるが。

 

 では、英霊となった大魔術師が幻影で現れたのは……。

 

 ヤンは溜息をついた。イリヤが褒めてくれた服装だが、ベレーもないから髪をかきまわせない。

 

「どうしたの、アーチャー? 

 ためいきをつくと、しあわせが逃げちゃうってテレビで言ってたわ」

 

「うーん、アインツベルンの君に言われると、矛盾を感じるなあ……。

 このお寺の方の話によると、満足して生涯を閉じたなら、成仏するんだって。

 そりゃ、神霊ってことだよね。サーヴァントとして呼べなくはないかい?」

 

 アーチャーのぼやきに、霊体化していたアサシンが膝をついてしまったことは誰も知らない。

 

***

 

 遠坂凛とアーチャーは、食事を終えて教会に墓参に向かった。一方衛宮士郎は、弓道部の面々の注視を集めていた。拳を握り、唾を飲み込んで口を開く。

 

「その、みんなもひょっとして知ってるかもしれないんだけど、この子はイリヤ」

 

「はじめまして。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンです」

 

 士郎の紹介に、にっこりと笑みを浮かべたイリヤが、可愛らしい淑女の礼をした。部員から、感嘆とどよめきが起こる。

 

「で、こっちが、イリヤのメイドのセイバーさん」

 

 セイバーのほうは、毅然とした表情を崩さず、言葉少なに一礼した。

 

「はじめまして。よろしくお願いします」

 

 士郎は、中空に視線を彷徨わせ、ややあって口を開いた。

 

「う、その、とっても言いにくいんだけど、この子……俺の親父の、実の娘なんだ……」

 

 部員の多くは表情の選択に困った。部長の美綴綾子が、代表して士郎に囁く。

 

「ちょっと、衛宮、大変なのはわかるけど、何もここで言わなくても……」

 

「ゴ、ゴメン! でも、実は遺言状を探さなきゃいけないことになったんだ」

 

 琥珀の目が、弓道部の備品庫の扉に注がれた。

 

「ここにあるかもしれないって、そういうことなんだ……」

 

「えっ……!?」

 

 弓道部の顧問が、気まずそうな半笑いになった。

 

「ご、ごめんね、わたしからもお願い。

 し……衛宮くんが隠してなくても、衛宮くんちにあった木箱とか、沢山貰ったの。

 土蔵にあった、使ってなかったのを。

 ……まさか、まさか、切嗣さんに娘がいるなんて、知らなかったのよぅ……」

 

 ほとんどの武具や防具は個人のものだ。だが、それを保管しておく木箱や行李は、衛宮邸で余っていたものだ。顧問になった大河に、乞われるがままに譲っていたのだった。

 

「底に布とか、紙とか敷いてるのあるでしょ?

 ひょっとして、もしかして、その間に……」

 

 表情の残り半分は泣きべそだ。琥珀とルビーが、複雑な色で大河を見やる。

 

「だから、ほんとに悪いけど、ここを家捜しさせてほしいんだ。

 きっとあちこちひっくり返すことになると思う。

 たださ、もうちょっとで新年度だろ。ついでに整理したらどうかと思うんだ」

 

 部員から否定的な声があがる。士郎は唾を呑み込み、拳を握り締めると、過去最長レベルの演説を行った。

 

「だって新入生のために、弓の調整とかやっておかないといけないだろ。

 今の一年生も、来年度すぐに試合だろ。

 みんな出来るようになったほうがいいと思う。

 俺でよかったら、やり方を説明するから」

 

 士郎を除いた部員の視線が交錯する。今日は間桐兄妹は欠席だった。両方とも体調不良だそうだ。すなわち、一番嫌味を言う副部長が不在ということである。綾子は断を下した。昨日遠坂凛に、弓道部の体制をたしなめられていたのだった。

 

「確かに、衛宮の言うとおりよ。

 先週の終りにぐちゃぐちゃだったのが、一昨日から綺麗になってる。

 水曜日の当番は、今日休んでる間桐兄と一年女子だったわね」

 

 視線を向けられた女生徒らが、気まり悪げに下を向く。

 

「ずいぶん、上手に直したのね。

 間桐兄は、そっちの指導はさっぱりなのに偉いわ。

 間桐妹のおかげ? でも、弓張りまでやるの、みんなの腕力じゃ大変だったでしょ」

 

 一年生の女子達はますます俯いたが、残る部員も同じ姿勢になった。綾子の茶色の瞳が厳しくなった。

 

「あら、ほめたのに、ずいぶん謙遜するわね。

 ……本当は、ブラウニーがやってくれたんじゃないの?」

 

 弾かれたように頭を上げる面々に、士郎は慌てた。

 

「お、おい美綴!」

 

「私にも教えてくれる人はいるってこと。 

 ねえ、みんな。新年度には後輩が入ってくる。私たちも進級する。

 今の二年は、夏休み明けには引退。妖精さんもいなくなる。

 で、今のままでいいの? 道具整備が全部できる人、手を挙げて」

 

 手を挙げたのは、士郎と綾子、二年生がもう二人。残りは床を見詰めたままだ。

 

「じゃあ、手を挙げなかった人はどうする気?

 いつ習うの? これがチャンスでしょ。

 では、もう一回聞くけど、衛宮の提案に賛成の人、手を挙げて」

 

 林立する手に、綾子は表情を緩めた。

 

「挙手多数により、衛宮の提案は可決しました」

 

 その言葉に、夕日色の頭が下げられる。

 

「みんな、ありがとな。無理言ってごめん」

 

「次に、私からの提案。部活は全員で掃除して始めるようにする。

 最後に当番の掃除っていうのが、よくないと思うんだ。

 あの事件が解決するまで、遅くまでの部活はできないからね」

 

 次の採決も、挙手多数により可決。その鮮やかさに、士郎もイリヤも唖然となった。これも、凛の従者が仕込んでいた魔術の種の萌芽である。

 

 霊体化して凛にくっついているアーチャーは、セイバーやバーサーカーが及ばないほど学校生活に接していた。千六百年前の授業を楽しみ、生徒や先生の人間関係を観察し、こっそり図書室に忍び込み、郷土史研究部の会誌に目を通す。

 

 彼が着目したのは、弓道部のキーパーソンとなれる部長の美綴綾子。凛の友人で、アーチャーを彼氏かと茶化したボブヘアの美人だった。好奇心旺盛な彼女は、機械音痴の凛が購入した携帯を目ざとく見つけ、再び『親戚』との関係を冷やかし混じりに問いかけてきた。

 

 ヤンは、凛に事実を答えさせた。アインツベルン家とのいざこざのせいだと。一欠片の嘘も吐いていない。士郎とその義理の妹の件と思うのは、他者の自由である。

 

 続いて、あの夜に、士郎が遅く帰宅した理由を告げさせた。これは、凛にとっても腹立たしいことであったから、すらすら言えた。後半については、イリヤの事情を少々アレンジしてみた。

 

「あのね、綾子には教えとくわ。

 昨日わたしが休んだの、元はと言えば弓道部のせいよ。

 間桐くんのやり口を、女子が持て囃しているみたいじゃない。

 注意した衛宮くんに、掃除や弓の手入れを押し付けて、みんな帰っちゃうなんて。

 事件のせいで、部活も五時半までのはずだったわよね。

 そのつもりでイリヤは待ってたのに、三時間以上も待たされたわ。

 顧問も部長も何やってるの!」

 

 まさに寝耳に水。まったくの初耳だった。凛が休んだ前日は、二月二日。体育会系部の月例全体会合で、部長の綾子は顧問の大河と共に出席していた。その留守に、そんなことが起こり、なのに誰も言わないなんて。同級生も下級生もだ。

 

 顔色を変えた綾子に、凛はやや口調を緩めた。 

 

「イリヤも余計に怒っちゃって、本当に大変だったんだから。

 済んだからことだから、もういいけれどね。

 でも、衛宮くんの居残りは、れっきとしたいじめでしょう。

 綾子も部長だったら、ちゃんと手を打っておきなさいよ。

 場合によっては、生徒会長の耳にも入れるわよ」

 

 根回しは、本人が行うよりも、第三者の方が効果が高い場合がある。凛は綾子と友人だが、士郎とは表面的には顔見知り程度だ。士郎がいじめだと訴えるより、より公平を印象付けることができ、信憑性も高い。慎二を恐れて口を噤む者も、凛や生徒会長が味方になるなら証言するだろう。

 

 ――そして美綴君は、信望が高く統率力のあるリーダーだ。部員をまとめ、士郎君の孤立を防ぐ方法を選択すると思われる。でないと、部活動の資金を直撃するからね。生徒が修繕して回るぐらい、緊縮予算なんだろう?―― 

 

 艦隊司令官となってからは、信頼できる優秀な幕僚に任せていたが、その幕僚を揃えるために、ヤンもなけなしの人事術を駆使したものだ。だが、恩師の統合作戦本部長、先輩の後方主任参謀の後押しの方が絶大だった。

 

 ヤンは、凛に頼れる上役を張らせたのである。これは普段の行いがものをいう。ミス・パーフェクトの凛だから、可能だし有効なのだが、無駄飯食いの穀潰しでは、やっても聞いてはもらえない。わかっちゃいるが、日頃の行いを改めるには、ヤンは怠け者過ぎたのだ。

 

 これは昨晩、士郎に弓道部の人間関係調整を勧める前に播いておいた種だ。凛の言葉は、綾子を動かし、部長の言葉は顧問を動かす。



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42:大義と正義

 だが、それではまだ足りないとアーチャーは語った。副部長という権力を振りかざす慎二、唯々諾々と従う士郎の双方に責任がある。容赦のない言葉だった。 

 

「これは私が軍の司令官だったからの言葉だと思ってくれ。

 士郎君は従うのではなく、不在の部長や顧問を呼び、告発すべきだった。

 それが同級生である君の義務だ。

 同格者としてたしなめ、下級生を守るのは正しいが、その後がよくない。 

 間桐慎二は、弓道部をマイナスの感情で支配してるんだ。 

 君に理があるのに、庇った者が悪い方につくのがまともかい?

 不正ときちんと戦わなくては、友人でなくて奴隷になってしまうよ」

 

 そして、いつの間にか管理職のリスクマネージメント講座になっていた。聖杯戦争はどこにいったのかしらと、凛は頭痛を覚えたものだ。 

 

「士郎君が下級生の肩代わりをすればよし、とはならないんだ。

 毎回ならまだしも、君は部活になかなか行けないんだろう。

 恐らく、下級生にはそれも不満なんだよ」

 

「俺が毎日行かないのがか?」

 

「半分はそうだね。

 毎日練習しなくても、一番上手だなんて、普通は嫉妬するものだ」

 

 士郎は目を見開いた。

 

「多くの凡人にとって、慎二君の気持ちのほうがよくわかる。

 弓の腕が立つから、副部長の彼より顧問と部長の評価が高い。

 慎二君が面白くないのも当然だし、庇ってくれても中途半端だ。

 たまにしか顔を出さず、結局は副部長にもいい顔をする。

 頼りにならない八方美人だとね」

 

「俺が八方美人!? そ、そんなこと……」

 

 士郎は自分のことを、口下手で不愛想だと思っていた。八方美人なんてものから程遠いと。

 

「それで、君に味方しなかったんじゃないかと思うのさ。

 下級生にとっては、副部長の圧政は毎日のことなんだよ。

 君に味方しても、君が来ない日はどうすればいいんだい?」

 

 普段の様子をよく知らない士郎は、慎二と下級生、両方の味方をしたつもりだった。しかし、これが本当の味方と言えるだろうか。アーチャーの表情が問いかけてくる。

 

「でもさ……」

 

 弓道部の問題点を鋭く抉る分析であった。凛と綾子のやりとりの後で、アーチャーは綾子にくっついて歩いた。霊体化万歳である。

 

 責任感の強い綾子は、さっそく数人の部員を問い詰めて、凛の話が事実であることを確認していた。それをアーチャーも聞き、心理的な解釈を加えて、士郎に突きつけた。口ごもる士郎を、彼は穏やかに諭した。

 

「凛ではないが、もっと自分を大切にするんだ。

 士郎君の行動は、すべてを助けているのではなく、

 切り捨てる一を自分に置き換えているだけだよ。

 そのうち周りも君を低く見て、切り捨てる側に回るかもしれない。

 彼が周囲を扇動して、君に暴行を加える可能性もゼロじゃないんだよ」

 

「そんな心配は不要です、アーチャー。シロウは私が守ります」

 

 セイバーの言葉に、黒髪が振られた。

 

「そういう問題では済まないんだよ、セイバー。

 士郎君を守っても、相手に怪我を負わせたら駄目なんだ」

 

「襲った者にとっては当然の報いでしょう」

 

「うん、一般社会はそれで済むんだが、学校ってのは厄介でね。

 生徒が悪さをすると、先生が責任を問われるんだ。つまり、藤村先生が」

 

 セイバーの瞳も見開かれた。

 

「それは本当ですか、シロウ!」

 

「お、俺、考えてもみなかった……」

 

 どっちが生徒かわからなくても、一応は顧問だ。

 

「でも、そうなっちまうかも。藤ねえが悪くなくても、部活も試合も無理だ」

 

「それを未然に防ぎ、いじめも解消できるのだからね。

 士郎君独りで、どんなにいいことをしても、手の届く範囲は短い。

 私は好きな話ではないが、しあわせの王子にも燕という協力者がいた」

 

 自らを飾る宝石や金を、貧しい人に分け与えた彫像と燕の物語。アーチャーは時折、とても柔らかな喩えを使う。

 

「でも、私は死んだら元も子もないと思う口でね。もう死んでるけど」

 

「あんたって一言多いのよ」

 

「私は、もっと王子と燕が沢山いたらいいのにと思ったものだが、

 士郎君にはそれができるんだ。王子や燕と違う人間なんだから」

 

 思わぬ言葉に夕日色が傾げられた。金銀と黒絹もそれに倣う。

 

「自由に動けて、言葉が話せるじゃないか。その力で賛同者を作るべきだ。

 民主主義では多数派が正義となるんだよ」

 

 琥珀の目が真ん丸になった。

 

「へっ!?」

 

 アーチャーはにっこりと微笑んだ。

 

「言っただろう、半数が味方してくれれば大したものだと。

 君に半数がつけば、反対派は一人の差で負ける。

 そうなったらしめたものだ。

 慎二君がいちゃもんをつけようとも、部員みんなで決めたという後ろ盾ができる」

 

「それもじいさんの言ってたのと同じだ……」

 

「多数決の原理は、ある意味仕方がないんだよ。

 人間は一人一人違う事を考えるから、全員に賛同されるのは不可能だ。

 ならば、一人でも賛同者が多い方を選ぶしかない。

 そういった諦念から生まれた方法なんだ。

 でもこれは、人間の価値が平等だからこそのものだ」

 

 聖杯の囁きに、エメラルドが凍結した。民主主義とは多数決だ。地位ある者でも多数決に従わなければ、おまえが悪いと追い出される。たとえ、ただ一票の差でも。票を投じる人間が、平等であるからこそのシステム。一人の王が国を背負うのと、なんと違うことなのだろう。

 

 前回の召喚で、セイバーはひたすら勝利のみを追っていた。祖国のことだけを見ていた。自分にとっては現在でも、今から見れば遠い過去。そこから今はつながっている。

 

 祖国が滅びても、この時代へと到るのか。どうしてだろう。どうすればそうなるのだろう……。

 

「そ、そこまでしなくてもいいだろ!」

 

「違うよ。君はあくまで部員に武具の管理方法を指導するだけさ」

 

「ごめん、もっと訳がわかんないんだけどさ……」

 

「物は言いようで、こういう風にすれば角は立たないんじゃないかな」

 

 示されたのは、イリヤとセイバーを紹介し、弓道場の家捜し兼整理をするという、先ほどの演説内容の案。それまでの腹黒さとは一転、超が付くような正論だった。

 

「士郎君は弓道部一の腕前なんだろ? その人の道具の手入れ法の伝授だ。

 むしろ、ありがたがって参加すると思うねえ。

 51対49が最低ラインとして、その比率をいかに傾けるのかが問われることだ。

 君が貢献できることを武器にすればいい。

 そうすれば、君を頼りにしたい人にイエスを、

 利用しようとする人にノーを見せる機会にもなる」

 

 一人でできることはたかが知れている。だが、味方が大勢いたらどうだろう。自分の手が届かない人に、別の味方の手が届くかもしれない。

 

「なんでも一人でやるのは大変だ。

 大変な事は我慢せずに、助けてもらうほうがいい。

 君も楽をできるし、相手も引け目を感じなくなる。

 もっとみんなを頼り、甘えていいんだよ」

 

「そうなのか?」

 

「そうだとも。士郎君だけじゃなくて、凛もイリヤ君もね。

 あ、セラさんとリズさんもですよ。人間にはその権利がある」

 

 幽霊であるサーヴァントにはないということか。セイバーは考え込んだ。よき王たろうとした。しかし、国は割れた。ならば、全ての民を導ける、自分よりもよき王が選ばれることを願っていた。

 

 でも、今の世は全てを従えなくても動く。どうして、そうなっていったのだろう。アーチャーの好む歴史を紐解けば、わかるのだろうか……。

 

 ともあれ、士郎の提案は了承され、武具庫の掃除が始まった。一時間でできる範囲から。小さな白銀の少女も覗きこみ、もの珍しげに弓道具を見まわした。その視線が一点で止まる。

 

「ふうん、ほんとうにあった」

 

 魔術師の目に映るのは、武具庫の壁の複雑な呪刻。これほどの魔術の起点なら、本来は強烈な魔力を感じただろうが、遠坂主従がせっせと他の呪刻を妨害し、施術者に一撃を食らわせたせいで力を大幅に減じていた。

 

 でも、ライダーはまだ死んでいない。聖杯の少女にはわかる。

 

 衛宮家から譲られた木箱は運び出され、部員の姿が途切れる。イリヤは呪刻に歩み寄り、手をかざす。

 

「えいっ」

 

 一瞬で施術は完了した。これで霊脈からの取水口に、大岩が置かれたも同然の状況になった。完全には閉鎖できないが、水流が減れば術式は正常に動かなくなる。

 

【これでいいかな? 

 アーチャーは子ども扱いするけど、わたしだってすごいんだから】

 

 イリヤは満足げに微笑んだ。

 

【わたしもシロウのブカツのお掃除を手伝ったって、言えるわよね】

 

 脳裏に、姿なき従者が賛同の唸りを伝えてくる。

 

【口実だったけど、キリツグの遺言、ホントに出てくるといいね、バーサーカー】

 

 母国語で呟くと、イリヤは弓道場へと戻っていった。この戦争が成功すれば自分はいなくなり、成功しなくても長くは生きられないけど。遺言が見つかれば、アインツベルンのホムンクルスではなく、キリツグの娘として、シロウの姉として死ねる。

 

 でも、本当は……。

 

 ちょこちょこと動き回って、部員の掃除を覗く銀髪と、その後ろを躊躇いがちに歩む金髪。並外れた美少女だけに、部員の反応はいい。そして、一層士郎への同情の声が大きくなった。こんな可愛い子たちに親の問題で責められるなんて、可哀想だというものだった。

 

 顧問の初恋の顛末にも、生温かい視線が送られたが。初恋の相手が若死にするのは悲劇だ。だが、隠し子が現れるのはアウトだ。恋が実らずに終わって、よかったよねとなってしまう。これで大河との実子までいたら、昭和の昼ドラではなく、夜の二時間サスペンス展開だったろう。 

 

「う、やっぱりないかあ……」

 

 大河はショートカットの髪を両手でもみくちゃにした。箱は十数個あったが、部員全員でかかれば、すぐさま捜索は終了する。

 

「衛宮家からの物にないことは確認できました。

 顧問のフジムラさまと、部員の方々のご協力に感謝を」

 

 結いあげられた金髪が、背筋の通った一礼をする。

 

「しかし他の場所に、シロウ様が隠していないとは断言できません。

 申し訳ありませんが、ここにないと確信できるまで、

 私の監視は続けさせてもらいます」

 

 潔癖そうなセイバーには、大河も綾子もつけいる隙がない。隠していないという士郎の言葉は正しいと思うが、イリヤ側が信じなくては意味がない。十年分の怒りは根深いのだと、納得するしかなかった。

 

「う、みんな、ごめんな。そんなに簡単には出てこないか……。

 家のガラクタ探すより、楽な方からやろうと思ってさ。

 じゃ、的の張り直しから説明するぞ」

 

 そこからは衛宮士郎の独壇場。彼の本質は作る者なのだから。金銀の少女は、少年の特技に目を輝かせた。家事や料理が上手で、手先が器用で、ぶっきらぼうだが誠実だ。ちょうどアーチャーと逆に。

 

 士郎の美点を、イリヤやセイバーに見せることが大事だ。それは、戦いの能力には全く関係ないところにある。

 

 聖杯戦争とご大層に銘打っても、蓋を開けてみれば、主な参加者がみな関係者という有様だ。こじれた関係を修正し、生きている人間を尊重するようにすれば、何を切るべきか明白だろう。自分も頭数に入れた、辛辣なアーチャーの策だった。令呪を温存するのもそのためだ。

 

 用兵家とは、いかに部下に効率よく死んでもらうかを計算する。そんな命令に従ってもらうには、部下に理解され、支持されなくてはならない。士郎にはそれが必要なのだ。いざというときに、セイバーを死地に赴かせることができる判断と、彼女に納得してもらうための理解。

 

 へっぽこマスターとして、不満を抱かれているうちは駄目だ。得意分野で認められ、尊敬を受けなくてはならない。ならば、美点をみせつけよう。部活動はうってつけだ。

 

 ヤンが敷いた安全網の一つだった。今夜、ランサーに殺されてもいいように。

 

 冬の短い午後は、あっという間に日が傾き、弓道部もお開きになった。遠坂主従やランサーとは、学校の正門で待ち合わせだ。約束の六時まで、あと二十分もない。帰るほどの時間もなし、士郎らは校門の前で時間を潰すことにした。

 

「すごかったわ、シロウ! かっこよかった!」

 

 イリヤは士郎の射に魅せられた。まるで糸に引かれたように、的の真ん中に吸い込まれる矢。

 

「アーチャーってほんとうは、シロウみたいな人の英霊なのよね……」

 

 ちっとも弓の英霊らしくない、凛のアーチャー。あの宝具で付けた跡の多さは、外れが多かったということでもあった。

 

「リン、まちがいで呼んじゃったっていってたの、本当ね」

 

「あはは……」

 

 軍の司令官だと言っていたから、本人が戦闘員として優れている必要は確かにないけど、今日の私服姿では軍人らしいとは到底言えなかった。

 

「そんで、ランサーと食事なんて、大丈夫かな……。アイツ」

 

 イリヤは目を瞬いた。長い睫毛の羽ばたきが、純白の小鳥のようだ。

 

「あら、シロウとセイバーはランサーのこと知らないの?」

 

「えっ!?」

 

 士郎とセイバーは、真紅の瞳を凝視する。

 

「アーチャーは知ってるから夕食に誘ったのに」

  

「なんでアイツ、黙ってるんだ!」

 

 金沙の髪は、大きく上下動する。聖緑に金の炎が燃え立った。イリヤは首を傾げた。白銀の紗の間から、大人びた視線が衛宮主従に送られる。

 

「だって、それはルール違反だもの。ランサーはお食事に招いたお客様でしょ。

 サーヴァントの真名は自分で探すものよ。

 ヒントはたくさんあるのに、調べないのはシロウが悪いわ」

 

 アインツベルンのマスターにふさわしい言葉だ。

 

「待ってくれよ、じゃあライダーはどうなのさ!」

 

「ライダーは、わたしたちが停戦を持ちかけたのに襲ってきた敵。

 真名がわかったのなら、仲間に教えるのがルール。

 キャスターは停戦を受け入れたから、わかってても口に出さないのがルールよ」

 

 イリヤはセイバーに近付くと、背伸びをして指を突きつけた。

 

【ねえ、セイバー。わたしも、あなたに同じことをしてあげてる。わかるわよね?】

 

 セイバーの正体に首を捻っているアーチャーだが、正解を知る者はここにいる。だが彼はイリヤに聞いてこない。彼がルールを守る以上、イリヤもルールを守っている。

 

【シロウを守れなかったなら、わたし絶対にゆるさないわよ。

 ランサーのヒントは沢山あるんだから、よく考えるのね。

 サーヴァントが気付いたことを、マスターに伝えるのはいいの】

 

「っ……はい」

 

「それから、これでアーチャーを責めるのもダメよ。セイバーの命の恩人なんだから」

 

「あの時、私が負けたというのですか!」

 

「サーヴァントは心臓か頭に攻撃を当てないと死なないから、

 アーチャーはライダーを倒せなかったわ。

 じゃあ、必ず当たる宝具を持ってたらどう?」

 

 夕食の誘い、赤い槍、必ず急所に当たる。イリヤのヒントが、セイバーの脳裏で形を成した。

 

「……アイルランドの光の御子か!」

 

「そいつは誰なのさ?」

 

「クランの猛犬、アルスターの赤枝の騎士だよ」

 

 落ち着いた声が士郎の背後から聞こえてきた。遠坂主従が到着したのだ。

 

「わかりやすく言うと、ケルト版ヘラクレス。そのぐらいの大英雄。

 ギリシャ=ローマ文化圏発祥の本家より、知名度は低いけどね」

 

 語尾に、険悪な美声が被さった。

 

「人の正体をバラした挙句、難癖付けるたぁ、いい度胸じゃねえか」



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43:英雄たちの饗宴

 どこで手に入れたのか、グレーのセーターにジーンズ姿のランサーが仁王立ちしていた。アーチャーは一向に構わず頭を下げた。

 

「あ、こんばんは。随分早いお越しで」

 

「この野郎……」

 

 様子をうかがっていたのだが、聞き捨てならない内容に姿を現わさざるを得なかった。戦士のセイバーにも気付かせぬようにしていたのに、この呑気者のせいで……。調子が狂って仕方がない。

 

「ですが、あなたの令名は私の時代まで届いていますよ。

 私の国の第三艦隊の旗艦の名がそうでした」

 

「てめえはケルトの者には見えねえが」

 

「混血国家なものでしてね。色々な神話の英雄の名を使っていたんですよ」

 

 他の面々が目を白黒させている内に、近付いてくる黒塗りのリムジン。

 

「え、えーとイリヤ君、バスに乗るんじゃなかったのかい?」

 

「セラが調べたら、帰りのバス9時になくなっちゃうの。

 だからよ。ねえ、ランサーも乗って下さらない?

 お店の場所、ご存知ないでしょ」

 

 これを脅迫という。この少女が連れているのは、正真正銘のヘラクレスだ。知名度で圧倒的であり、その偉業は彼を星座にした。ヤンの世界でも、恐れ多くてヘラクレスという船名は付けないほどだ。

 

「まあまあ、大丈夫ですよ。この車内ではバーサーカーを出すわけにはいきませんし」

 

 セイバーの剣も振るえない。ランサーの槍も。可能そうなのはアーチャーの宝具だ。イリヤなりの考えだが、なかなか辛辣でえげつない。明らかに外部教師の影響だ。

 

「ちくしょう、また教会と同じじゃねぇか!」

 

「でも、ご馳走は本当ですよ」

 

「くっそ……」

 

 ランサーは発達した犬歯を剥き出しにして渋面を作ったが、乗らないわけにはいかなかった。このメンバーで、ランサーが夕食の誘いを断れるのは、バーサーカーしかいないだろうが、物言えぬ巨人が招待することはない。夕食をすっぽかした瞬間に、ステータス下降が発生し、強者と全力の戦闘を楽しむどころではなくなってしまう。

 

 リムジンの広い車内も、これだけの人数が乗り込むと圧迫感がある。まして、精悍な美丈夫が険相を作っているとなるとなおさらだ。

 

「ああ、一応自己紹介しておきましょう。

 私はヤン・ウェンリーと申します。ご存知だとは思えませんが」

 

 平然と真名をばらすアーチャーに、凛を含んだ驚愕の視線が集中する。

 

「これで公平でしょう。私も、憧れの英雄にお会いできて光栄です。

 短い間になるかもしれませんが、まあよろしく」

 

 毒気を抜かれたランサーが、溜息交じりに腕と足を組んだ。嫌味なほどに長い脚で、対面に座っていたアーチャーの膝を軽く蹴る。

 

「あいた!」

 

「あいたじゃねえよ。おい、アーチャーのマスターよ。

 こいつは何を考えてやがる!」

 

 翡翠の銛がガーネットに撃ち込まれた。

 

「それがわかれば苦労はしないわよ! あなたが聞いたらいいじゃない!」

 

 真っ赤なあくまの咆哮だった。ランサーは首を竦め、アーチャーの襟元を掴んで引き寄せると、ぼそぼそと呟いた。

 

「……おい、てめえのマスターに、なんで俺が怒られなきゃならねえんだよ」

 

「いやまあ、ちょっとね。お気になさらず。

 私のマスターは、調べ物のせいで、気が立っているだけですよ」

 

「真名をバラしたのはいいのかよ?」

 

「言ったところでわからないでしょう。だったら隠しても意味がありませんしね」

 

 聖杯からの知識には、該当者はいない。そもそも、東洋人は召喚できないはずだった。ランサーが首を捻る間にも、リムジンは夜の街を滑らかに走行し、新都へと進む。目的地はショッピングモールのビュッフェレストランだ。ホテルの駐車場にリムジンを預け、道路を横断する。

 

 士郎と美女たちの一行に、青年二人が加わり、男女比は三対五(バーサーカーを除く)。多少は目立たなくなるかと思いきや、とんでもない話だった。

 

 セーターにジーンズのありふれた服装も、長身痩躯に白皙の美青年が着ると逆に容貌を引き立てる。隣にいる青年は一見目立たないが、よく見るとなかなか整った、知的で温和な顔立ちだ。身長は士郎とランサーの中間だが、平均よりは高く、上品な服装で良家の子息に見える。

 

 同性がいればいたで、肩身が狭い!? これは誤算だった……。どうか、知り合いに出合いませんように! 

 

 士郎は何者かに祈り、エレベーターへ向かう。最上階までの沈黙。夜を登っていく光景に、イリヤは目を真ん丸にして見入った。

 

「すごーい、どんどん高くなってくわ!」

 

 ガーネットとエメラルドも同様だった。

 

「こりゃすげえ。絶景だな」

 

「まさしく……」

 

 黒曜石はにこにこと見守っている。士郎は不審に思った。かなり近い時代の英雄だと思ったけれど、エレベーターがある時代に、一千万人を殺した英雄なんているんだろうか。第二次世界大戦にはエレベーターはある。だが、民間人に被害を出さないなんてことが可能かどうか。思案する士郎だが、足は自然に動き、レストランの前に。

 

「ここだぞ」

 

 予約者である凛が、係員にそれを告げ、一行は席へと案内される。週末の夕食時で、店内は賑わっていた。他の客は、それぞれ食事と会話に集中し、この派手な面々に注意を向けるものはいない。

 

「じゃあ、みんなが揃ったところで、ここ、二時間食べ放題よ。

 たくさん食べてね。あと、お酒を飲むなら別に頼むけれど、

 柳井さんとランサーさんはどうします? あと、運転手さんはダメよ」

 

 見事に猫を着こみ、非のうちどころのない笑顔の凛に、全員が及び腰になった。

 

「じゃあ、僕と彼はお願いします。ビール生二つで」

 

 凛の猫かぶりには慣れているアーチャーがおずおずと手を挙げた。手慣れた注文内容が、士郎の眉間に皺を与えたが。

 

「わたくしたちは結構です」

 

 セイバーの視線が凛と士郎を行き来するが、外見でアウト。

 

「ドリンクが来る間に、好きな物を取ってきてください。

 おかわりは自由だけど、残すのはだめだから」

 

 凛の注意に、真剣な表情でうなずく剣と槍の騎士。さきほどから嗅覚を刺激する香りが立ち込めている。その発生源の前に立った彼らの前に現れたのは――。

 

「な、なんと、美しい……。

 あ、アヴァロン……アヴァロンがここにある……!」

 

「すげえ……! テイル・ナ・ノーグの食い物も、きっとここまでじゃねえぞ!」

 

 色とりどりの食べ物だった。そんなに高価な店ではないが、彼らにとっては山海の美味。それが、調理法の粋を凝らして並んでいる。生に、煮る焼く揚げる蒸す、そして冷やす。生前ではありえぬ食卓である。

 

「な、なあ、ほんとにこれ食っちまっていいのかよ」

 

「いいんですよ、お腹一杯どうぞ」

 

 弓の騎士は微笑んでそう答えた。

 

「お、おまえ……。いい奴だったんだな……」

 

 犬を食わされるのかと覚悟していたランサーには、予想外の饗応だった。

 

「いやあ、私はあなたがたとの会話が楽しみで来たようなものです。

 そんなひどいことしませんよ。脅かしてすみませんでしたね」

 

「なるほど、おまえも俺と同じ口だな」

 

 料理を端から皿に載せるランサーとセイバーの隣で、アーチャーはフィッシュフライとポテトを皿に載せた。次にスペイン風オムレツと、アイリッシュシチュー。好みというのは死後も変わらないようだ。

 

「ええ、そうなりますかね。まだ話していない相手もいますが、

 あなたと話せるなら、最期になるのもそう悪くはないなと」

 

 そう言って席に戻ったアーチャーを、ランサーは追った。

 

「覚悟はしてるってわけか」

 

「まあそりゃそうですよ。私は軍人ですが、身一つで戦ったことなんてありませんし」

 

「だろうな」

 

 コートを脱いだアーチャーは、シャツとカーディガン姿だったが、ランサーに比べていかにも筋肉が薄い。

 

「それに聖杯戦争は、システム的にあなたの望む戦いは不可能でしょうしねえ」

 

「なんだと!?」

 

 立ち上がりかけたランサーに、ヤンはジョッキを掲げた。

 

「まあ、まずは乾杯しましょう。ここは共通の友に敬意を表して」

 

 人類の友、酒のことである。ランサーは腰を落とし、しぶしぶジョッキを掲げた。

 

「仕方ねえ。乾杯だ」

 

 ジョッキの触れあう音。他の面々は、目を皿のようにしてアーチャーとランサーを見ていた。二人の青年が、ジョッキを傾ける。

 

「うめぇな、こりゃ! 飲んだことのない酒だが」

 

「あ、まだビールはなかったかな。ワインの方がいいですか?」

 

「そいつは前に飲んでるからな」

 

「あなたが飲んでいた物とは、随分違うと思いますよ。

 水で割らないし、味も付けないので、別物に近いでしょう」

 

「お、そうなのか? じゃあ、どうせなら色々飲み比べてみるか」

 

 普通の飲ん兵衛の会話だった。時々物騒な内容が混じるが、周囲のほどよい喧騒に隠れて、目を向けるものはいない。

 

「それもいいですね。どうせ飲み放題ですから」

 

 士郎はアーチャーのマスターに向き直り、ぼそぼそと呟いた。

 

「なあ、遠坂。サーヴァントって酔うのか?」

 

 微かにトラウマを刺激されつつ、答えたのはセイバーだ。

 

「一応酔います」

 

「そうみたいよ。紅茶にブランデー入れると喜ぶし」

 

 ランサーは皿の料理にも手を伸ばし、美味に感嘆した。

 

「すげえな。いい時代だよな、今は」

 

「ですよね。何が悲しくて、幽霊を召喚し、魔術師同士が命を賭けるんでしょうね」

 

「そりゃあれだ、命を賭けるなんて言っても、自分が死ぬとは思わねえんだろ。

 魔術師ってのは、基本的に死ににくいからな」

 

 十八のルーンの使い手で、腹を裂かれてなお奮戦したクー・フーリンだけに、大変な説得力があった。

 

「ははあ……なるほどねえ」

 

「今度は俺の問いに答えてもらおうか。さっきの俺の望む戦いは不可能ってやつをだ」

 

 アーチャーは、ジョッキを乾して首を傾げた。

 

「ああ、それね。

 純粋に技量の勝負をするなら、槍の名手同士で戦う必要がありませんか?

 でも、ランサーは一人しか呼べないでしょう」

 

「ん? ……お、おおぉ!?」

 

 その叫びに、店員が寄ってきた。すかさず、アーチャーが赤ワインとウィスキーソーダを頼む。非常にシンプルな指摘に、ランサーが髪をかきむしりながら、ぶつぶつと呟いた。

 

「いやいや、待てよ。

 ほかの二騎士に、騎兵、狂戦士、魔術師に暗殺者、そいつらは!」

 

「剣と槍のリーチ差を考えて下さいよ。接近戦では槍の方が圧倒的に有利です。

 あなたに匹敵するなんて、途轍もない剣の技量が必要でしょう」

 

 フォークの手を止め、眼差しを厳しくしたセイバーを小さく手で制すると、アーチャーは続けた。

 

「そういうサーヴァントを、運よく召喚できるか。

 こちらのセイバーがたまたまそうですけどね。それは運にすぎませんよ。

 無理なら宝具合戦になって、結局技量とは無縁になると思いますが」

 

 ウェイトレスが近付いて飲み物を置いた。彼女が遠ざかるまでの間を繋ぐため、ランサーは反論に開こうとした口で赤ワインを呷り、予想外の味に渋い顔になった。

 

「なんだこりゃ? 確かに別物だな。で、てめえはどうなんだ、弓兵」

 

 黒い目が、恨めしげにランサーを一瞥した。矢避けの加護持つ英雄が、それを言うのはずるい。

 

「飛び道具では、あなたの相手にならないでしょうに。

 懐に入るまでに、敵を斃さなくちゃいけないのに、あなたに矢は通用しない。

 あなたが一方的に有利でしょう。互角の勝負になりえませんよ」

 

 当てこすりに押し黙るランサーをよそに、ヤンはフィッシュフライをウィスキーソーダで流し込んだ。さすが、一流シェフを輩出する日系イースタンのルーツだ。衣はサクサク、具はホクホクでとても美味しい。これが大量生産なのだから恐れ入る。満足の息を吐くと、深紅の瞳に促されて、残るクラスを挙げていく。

 

「騎乗兵は宝具によりますが、機動力勝負の相手だ。

 あなただって、戦車の戦いをしてたでしょう。

 相手の白兵戦に付き合いましたか?」

 

「いいや。そういやそうだったぜ」

 

 ランサーは頬杖をつき、溜息も吐いた。彼の御者も馬も、王と称されたほどの傑物で、槍一つで立ち塞がる敵などいなかった。

 

「俺も、騎乗兵相手には宝具を使うな」

 

「そして、相手も宝具が豊富だ。技量より宝具の競い合いでしょう。

 狂戦士は言わずもがなです。もともと弱い英霊を強化するクラスだ。

 普通ならあなたには敵わない。

 イリヤ君のバーサーカーが破格なのは、これまた運です。

 こういうのは、一般論で考えないといけませんよ」

 

 ランサーの秀でた額に、渓谷と青い川が生まれた。

 

「じゃあ一般論ついでに、残りも言ってみろ」

 

「はあ、では」

 

 ヤンは黒髪をかきまわしてから続けた。弱いとされるクラスは魔術師と暗殺者。ともに、槍兵の射程に入れば敗北だから、当初から白兵戦は選択しない。

 

 魔術師は陣地作成を活用し、篭城戦を行う。阻止すれば槍兵が圧倒的に優位。しかし、阻止できなければ、ランサーの対魔力を超える攻撃ができる魔術師には、ワンサイドゲームを決められる。

 

 暗殺者はマスターを狙うためのクラス。彼らはいかに隙を狙うかに尽きる。他の陣営が対決しているさなかに、介入するのが最適解だ。サーヴァントとの正面対決はアサシンにとって失敗。一方、成功したときは武器を交える必要はない。マスターの死亡により、ランサーは消滅の瀬戸際に立たされるからだ。

 

 ランサーはむっつりとワインを口に運んだ。とんでもなく渋い酒だった。アーチャーのマスター以外の全員は、英霊による戦術解説を聞いて呆気に取られた。

 

「ま、これは私なりの解釈ですし、宝具も英霊の実力のうちというのも事実ですよね。

 でも、あなたの宝具はいささか反則じゃありませんか?

 伝承の限りですけれど」

 

「おいこら、バーサーカーもセイバーも相当なもんだぜ」

 

「そりゃ仕方がありませんよ。

 アインツベルンは、なりふり構わず勝ちに来てるんですからね。

 主催者の一人として、ありとあらゆる抜け道を駆使してるでしょう。

 そんな家が前回と今回で選んだ英雄ですよ」

 

「ほう、セイバーがか」

 

 ランサーは、金沙の髪にエメラルドの瞳をした、小柄な美少女に目をやった。その瞳は油断なくランサーを凝視し、緊張感を失っていない。フォークの手も止まっていなかったが。

 

「……なんかの間違いじゃねえのか。

 女戦士ってのは、そんなに小柄じゃなれねえよ」

 

「あなたの槍と、剣で互角の戦いができるのに?

 彼女はあなたより三十センチは背が低く、剣だって槍の半分もありませんよ」

 

 令呪の縛りで本気が出せないとは言えないランサーは、また赤ワインを啜った。その味で、ごく自然に渋面を作ることができた。

 

「あれは、てめえが邪魔したせいじゃねえか!」

 

「でも、最大の戦力を準備するのは、戦いとして間違いではない。違いますか?」

 

 青年らの談話に、残る者は耳をそばだてていた。ランサーは高い鼻を鳴らした。

 

「そいつは言えてる。

 だが、おまえの言い分では、間違いがあるみたいじゃねえか」

 

「ええ、魔術儀式としては失敗でしょう」

 

 黒と赤の視線がかちあう。

 

「違いねえ。こんな奴が来ちまうとはな」

 

「あなただって、それでも承知で楽しみに来たんでしょう。

 大いに誤算がおありでしょうがね。私もですよ」

 

 ランサーは渋くて強いワインを呷った。ようやく飲み干せたが、悪酔いしてきそうだ。

 

「この酒はもういらね。渋くて不味いぜ」

 

「甘いほうがお好みですか? この辺がそうですよ」

 

 アーチャーは、メニューを指し示した。

 

「おまえ、詳しいな……」

 

「あとは、郷に入ればに則って、日本酒なんかどうですか」

 

「適当に頼んどいてくれや。俺もオカワリってやつをしてくるわ」

 

 ランサーはいつの間にか、皿の上を空にしていた。セイバーを除く面々は、慌てて料理を口に運び始める。

 

「まだ時間は大丈夫かい?」

 

「え、ええ平気よ」

 

 アーチャーはカシスソーダと、日本酒の二合瓶とぐい呑みを二つ頼んだ。凛は怪訝な表情になった。

 

「あんた、日本酒飲めるの?」

 

「私はこっちの友人はえり好みしないよ。紅茶には合わないけどね」

 

 千六百年後にも日本酒があるということに、感動していいのだろうか。五十年一万光年の逃亡でも友情が絶えなかったということだから、酒飲みとはすごいものだ……。

 

そう思っていたら、ランサーが戻ってくるまでの間に、酒にまつわる歴史論が開陳された。面白くもあり、少々おっかないものもあり、セラが咳払いして止めるような内容も含まれていたが。

 

「歴史のお話としては興味深いものがありますが、

食事の話題としてはいかがなものでしょうか」

 

 色とりどりの頭が一斉に頷き、黒髪の青年は苦笑した。

 

「ああ、こりゃ失礼。

 ワインとビールは古くからありますが、当時の品種や技術では、

 さっきの赤ワインほど強い酒にならないと思います。

 このカクテルなら、ランサーも好きじゃないかと思うんですよ」

 

「で、カシスソーダって……」

 

「外見と味が一番近いんじゃないかと思うんだ。

 ワインは貴重品だから、昔は水で割り、蜂蜜などで調味していたんだよ」

 

 甘い酒は洋の東西を問わず、古来より珍重されている。

 

「この味なら、ランサーも好きじゃないかと思うんだ」

 

「あんた、本気でランサーをもてなす気だったのね……」

 

「彼は尊敬すべき救国の英雄だよ。だから、第三艦隊の旗艦の名になったんだ。

 あれはスマートで美しい艦だった。名は体を表すんだねえ」

 

「誉めてもらったのになんだが……だった?」

 

 皿に料理を満載にして戻ってきたランサーが、口の端を引き攣らせた。

 

「あの、まあ、そういうことです……」

 

 ランサーはぴしゃりと目元を覆った。

 

「おいおい、人の名前付けといて、そりゃねえだろ……」

 

「はあ、私たちも好きで負けたわけじゃないんで、勘弁して下さいよ」

 

 ランサーは皿を置くと、音を立てて座り込んだ。

 

「じゃあ、おまえは本来はライダーってことか」

 

「多分。あるいはキャスター扱いされるかも知れないですが」

 

「それでそんなに弱いわけか」

 

 魔力と幸運以外、軒並み最低水準。ステータスはキャスターに近い。

 

「さっきも言いましたが、攻撃は艦の武器がやるものです。

 私自身が射撃したり、爆弾を投げるわけではありません」

 

 ランサーは、美しい青い髪をかき回した。

 

「おい、俺にも都合があるんだ。戦ってもらうぞ」

 

「ええと、それ方法に指定があります?」

 

「なんだと?」

 

 アーチャーは、運ばれて来たカシスソーダとぐい呑みをランサーの前に置いた。

 

「あなたと肉弾戦は絶対に無理ですよ」

 

「は、ランサーと肉弾戦ができる弓兵なんざいるはずねえ。

 構わねえぜ、宝具を出しな」

 

 黒い眉が寄せられた。

 

「では、ランサー主従は停戦に不参加ということでいいですか?

 私はキャスターと会談して、停戦に合意を貰いました。

 現時点で過半数の合意は得られてます。

 私を斃しても、過半数は四のままですが、それでも?」

 

 ランサーは舌打ちした。危惧したとおりだ。あの女狐は、三家同盟に付いたということだ。アーチャーが持ちだした過半数ルールによるなら、七騎ならば四対三で過半数だが、六騎だと四対二となる。遊軍しているランサーが、取りまとめるのは不可能と言っていい。

 

「それはそれだ。てめぇは俺と話して願いを叶えたんだろうが。

 なら、次は俺の願いに協力する番じゃねえか。そいつが公平ってもんだろ」

 

「うーん、こいつは一本取られましたね。

 でも、とりあえず、時間まで飲みましょうよ。さ、どうぞ」

 

 ランサーのぐい呑みに透明な液体が注がれる。続いて、自分のものにも注ぎ、ヤンは穏やかに微笑んだ。

 

「この国の酒です。その皿にのっている、ピラフと同じ米が材料ですよ」

 

 偽名のとおりの柳に風といった塩梅で、アーチャーは酒杯を乾した。眉間に縦皺を寄せたランサーも続く。

 

「不思議な味だな。甘くて辛い。こいつも好みじゃねえな」

 

「ああ、やはりビールぐらいの度数がいいのかな。

 紫の方はビールと同じくらいですよ。そいつは甘口です」

 

 ランサーは口をつけ、表情を緩めた。

 

「こりゃ、すげえ美酒だ」

 

「お口にあったなら幸いですね」

 

 ランサーがカシスソーダを飲む間に、アーチャーは日本酒の杯を重ねながら、ランサーの武勇伝に、頷き顔を輝かせて感嘆している。双方の酒盃が空になり、次なるは琥珀色の液体。

 

「これは新しい種類の酒です。

 お隣のスコットランド発祥のウィスキー。語源はウィスケ・ベサ」

 

「ほう、命の水か」

 

 二人が手にしたのはロックウィスキー。ヤンが注意しようと口を開きかけた時に、勢いよく呷ったランサーが咳き込む。そして白皙を紅潮させた。

 

「なんだ、こりゃ! 水の姿をした火か!?」

 

「あ……すみません。今言おうと思ってたんですが、強いですよ、それ」

 

「先に言っとけよ!」

 

 ヤンは軽く頭を下げて、謝意を示した。別に酔い潰すつもりではないが、クー・フーリンが生きたのは、強い酒のない時代だったことをつい失念してしまう。

 

「それにしても不思議だなあ。毒は効かないのに、酒には酔う。

 考えてみれば、酒は洋の東西を問わずに神への捧げ物で、

 我々は、神よりも下っ端とはいえ概念の産物。当然といえば当然かな……」

 

 傾げられる黒髪に、掻き毟られる蒼い髪。

 

「すっとぼけた顔で、小難しいこと考える奴だな……おまえはよ」

 

 ヤンは、ランサーの前にドリンクメニューを押しやった。

 

「あの、当時はどんな酒を飲んでたんです?」

 

「こんなもん見せられても、さっぱりわからん。上からおまえが説明しろよ」

 

「じゃあ……」

 

 男性サーヴァント二人が、和気藹々と酒談義をする中で、酒屋でバイトしている士郎は気がついた。このアーチャー、すごい酒豪だ。手を止めることなく、ちゃんぽんで飲んでるのに顔色が全く変わっていない。

 

「そういえば士郎君、君のバイト先はお酒屋さんだったよね。

 カクテルは知ってるかい? 私はちょっとしか知らないんだよ」 

 

「あ、ああ、俺もあんま詳しくないけど……」

 

 アーチャーに水を向けられて、士郎も会話に加わる。話題は酒から料理に移り、その頃には凛やアインツベルンのメイドという作る側、イリヤとセイバーという食べる側にも輪が広がった。

 

「へぇ、遠坂は中華が得意なんだ。じゃあ今度教えてくれよ。

 なんか、コレじゃないって物になっちまうんだよなあ」

 

「あら、シロウのもおいしかったわよ。あれはあれでユニークな味だったわ。

 カニとシイタケとタケノコ? のオムレツ」

 

「ええ、チャーハンもおいしかった。しっとりしていて」

 

 賞賛の声に、逆に士郎は赤くなった。中華料理の理想形からは程遠いからだ。

 

「聖杯戦争が終わってからね。

 でも士郎、あなたの家のガスコンロじゃ、その人数分作るのは難しいわよ。

 火力が命なんだから」

 

「遠坂んちはどうなのさ」

 

 凛は左手を軽く持ち上げた。

 

「ず、ずるいぞ」

 

「あんたね、火力の増加は基礎の基礎よ。これじゃ先が思いやられるわ」

 

 ランサーは腕を組んで椅子に凭れかかった。嘆息しながら首を振る。

 

「嬢ちゃんはサーヴァントが、セイバーはマスターがへっぽこなわけか。

 ままならねえな。いっそ逆なら、俺も存分にセイバーと手合わせできたのによ」

 

 セイバーの金色の両眉が上がった。白銀の少女も頷く。

 

「ランサーよ、マスターを愚弄すると許しません」

 

「そうよ、ランサー。ひどいこと言わないで。

 アーチャーをシロウが使役したら、ミイラになっちゃうもの」

 

「こいつが?」

 

 イリヤの使役するバーサーカーのように、力に満ちているわけでもなく、至って普通の青年である。黒い目がきょとんとランサーを見返す。

 

「はあ。自分じゃわかりませんが。

 ところで、今日の一戦が終わったら、手伝っていただきたいことがあります。

 ライダーのマスターと交渉する為に、あなたの同席をお願いしたいんです」

 

 ランサーは器用に右の眉を上げた。

 

「は、おまえが俺に勝つってか?」

 

「いえ、私の生死に関わらずですよ。

 こいつは、アーチャーのマスターとしてではなく、管理者としての依頼です。凛」

 

 従者の声に、凛は我に返った。まさか、戦いを了承するだなんて思ってもみなかったのに。

 

「え、ええ。ライダー主従は、新都では吸血事件を起こし、

 学校には悪質な結界を張っているわ。

 魔術は秘匿し、一般人を巻き込まないという原則から外れてる。

 アーチャーとわたしが制裁を加えて、マスターの反応を待っているところよ。

 このまま悔い改めないなら討伐する。

 もし、事件を起こしている彼女を見つけたら、ぶっちめてやってほしいの」

 

「事件を起こしてない時はどうすんだ、管理者の嬢ちゃん」

 

 翡翠色のアーモンドアイが、長身のランサーを魅力的な角度で見上げた。

 

「それはあなた次第よ、ランサー。

 でもあなた、偵察している時に実体化する?」

 

「なるほど、悪事の前触れだな。だが、なぜ俺に頼む?」

 

「約束してくれるなら、ライダーの真名を教えるけど」

 

 凛の交渉に、ランサーは粋に肩を竦める。

 

「考えたな。あんたはいい女だが、悪い女にもなりそうだぜ。

 魔女ってのはそういうもんだが。いいぜ、約束するから言ってみな」

 

「これはアーチャーの推測よ。でもキャスターのヒントつき。

 確率は高いと思うわ。ライダーの真名は多分メドゥーサ」

 

「ほう、そうきたか……」

 

 ランサーは体重を椅子の背に預け、足を組み直した。

 

「天馬の乗り手だな」

 

「ええ。宝具を出されると、我々の通常の攻撃が届かないんですよ。

 私たちの宝具や魔術は、彼女が悪さをしている街中での使用には適していない。

 ですが、おそらくあなたなら」

 

 つくづく厄介な相手だとランサーは内心で舌打ちした。このヤンと名乗った男は、ランサーの宝具を知っている。名前だけではなく、その性質まで。聖杯に問いかけても正体不明。何者だ?

 

 ランサーは鼻を鳴らすと、目の前の美酒と美食を味わうことにした。アーチャーは幸せそうに酒盃を重ね、ときおり料理をつまんでいる。士郎は、テーブルの下で両拳を握ると、黒髪のサーヴァントに問い掛けた。

 

「なあ、アーチャー、ホントに戦う気なのか?」

 

「まあ仕方がないね。それが我々の役割なんだし。

 今回は加勢はいらないよ。次があるとはちょっと思えないが……」

 

 見開かれる色とりどりの宝石たち。

 

「なんだい、みんな。そんな顔することはないだろう」

 

「だって、だって、あんた……」

 

 戦闘に関するステータスは底辺を這ってるし、宝具のランクと威力も低い。そんな凛に、アーチャーは微笑んだ。

 

「大丈夫、私も簡単には負けないよ。ただ、マスターにお願いがある。

 宝具の使用を、令呪で命じてほしい。これはいいですよね、ランサー」

 

 口が満杯のランサーは、右手を挙げて賛意を示した。

 

「じゃあ、食事が終わったら場所を移しましょうか。

 さて、あと十分はあるから、みんなデザートでも食べたらどうだい?

 私にもブランデーを一杯」



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閑話8:百薬の長とエリキシル

アーチャーが頼んだカクテルに、士郎は琥珀の目を真ん丸にした。

 

「カシスソーダって……ランサーの分か?」

 

 長身で強面の美青年にはそぐわない。酒に弱い女性が、ジュースの延長で飲むようなカクテルだ。

 

「外見と味が一番近いんじゃないかと思うんだ。

 ワインは貴重品だから、昔は水で割り、蜂蜜などで調味していたんだよ」

 

 ドイツ人の令嬢が首を傾げた。

 

「アイスヴァインみたいな味になるの?」

 

「あるいは貴腐ワインとかね。今よりずっと甘味が貴重だから、蜂蜜も高価なものさ。

 一般人にはなかなか手が出ない。

 だから甘くするために、古代ローマ人は鉛の容器にワインを入れた」

 

 士郎が眉を寄せる。

 

「鉛って……。なんか、体に悪そうだぞ」

 

「そのとおり、悪いよ。

 ワインの成分で酢酸鉛ができて甘くなるんだが、こいつは神経系に作用する毒物だ。

 暴君ネロが、若い頃の英明さから一変した原因だという説もある」

 

「げっ……」

 

 しかし、日本人に古代ローマ人を嘲笑うことはできないとアーチャーは続けた。日本は日本で、女性のお白粉として使っていたからだ。五代将軍徳川綱吉の、常軌を逸した性格の原因ではないかと言われてる。彼以降も、虚弱で短命な将軍が少なくなかったのも。

 

「なんでよ?」

 

「ほら、昔の化粧は胸元までお白粉を塗るじゃないか」

 

「ああ、舞妓さんみたいにってことね。でも、どういう関係?」

 

 アーチャー以外は怪訝な顔になった。

 

「乳母もそういう化粧をしてるんだ。乳児のうちから、そんなものが口に入ったら……」

 

「うっ……」 

 

 凛も思わず呻いた。今度はアーチャーが怪訝な顔をした。

 

「君だって、宝石を魔力の栄養剤代わりにしてるのに」

 

「ちゃんと種類を選んでるわよ。ダイヤモンドなら炭素でしょうが」

 

 士郎は先日飲んだ石の正体を知って、ふたたび青褪めた。

 

「ダ、ダイヤぁ!? やっぱ、すぐに浄化槽の汲み取りを頼まなきゃ……」

 

 凛は眦を吊り上げると、弟子を睨みつけた。

 

「言っとくけど、魔力を放出したら砕けるから。それは不要よ!」

 

「なるほど、ダイヤか。もったいないけど賢明な選択だね。

 他の宝石じゃあ、あんまり体によくなさそうだ」

 

「そうだぞ。普通、宝石なんて飲まないよなあ」

 

 黒髪の青年は首を振った。

 

「いやいや、士郎君。

 クレオパトラは宴の際に、真珠の耳飾りを酢に溶かして飲んだというよ。

 後世の創作かもしれないが、何とも豪奢で優雅だよね。

 凛もそっちにしたらどうだい?」

 

「あのね、強い魔力を流すには、強度のある素材がいいのよ。

 真珠は脆いし、宝石みたいに歴史の蓄積がないし。

 それに、他者に魔力を流すのが難しいのは一緒よ」

 

 これは、珊瑚や象牙にも同じことが言える。

 

「そういうものかねえ。ダイヤと違って、ちゃんと薬効もあるんだが」

 

「薬効って?」

 

「真珠の成分は炭酸カルシウムだから、骨にもいいし、精神の沈静効果もある」

 

 凛のこめかみが引き攣った。

 

「……何が言いたいのよ」

 

「土壌の関係で、この国で不足しがちな栄養素なんだろう。

 君も摂ったほうがいいと思うよ。骨や歯も、心と同じく大事なものだ。

 いずれは母になるんだし、老後の健康も考えなきゃ」

 

 一般論にくるんで、しゃあしゃあとマスターの短気を揶揄している。凛は言葉を飲み込んで、代わりに拳を握りしめた。後で覚えてらっしゃい……。

 

「でも、健康法も極端なのはよくないよ。

 不老長寿の薬として、辰砂を飲んで死んだ古代中国の皇帝も多いからね」

 

「ねえ、しんしゃってなに?」

 

「『あおによし』の『丹』のことだよ。朱色の塗料の原料だ。

 イリヤ君たちやランサーの瞳みたいな色の鉱物なんだがね」

 

 凛とセイバーは顔を見合わせた。アーチャーの歴史話に登場するアイテムには、一筋縄ではいかない裏がある。

 

「……あれでしょ。東方の三博士の贈り物と同じノリなんでしょ」

 

「香料がミイラに使われていたのと同じ物というあれですか、リン……」

 

 アーチャーは思わず拍手し、残りの者たちは顔を見合わせた。

 

「すごいなあ! よく覚えてたね」

 

 否定してない。士郎は恐る恐る伺いを立てた。

 

「それ、なにさ?」

 

 黒い瞳が細められた。

 

「赤い石、柔らかい石、賢者の石。錬金術ではそうも言われた」

 

 その色の瞳の三人が、一斉に目を瞠る。

 

「その正体は硫化水銀。加熱するだけで、赤い石が銀色の水になるんだ。

 昔の人にとっては、神秘そのものだっただろう。

 たしかに防腐作用もあるが、酢酸鉛どころじゃない猛毒さ。

 水銀は日本でも公害の原因となったそうだが、知らないとは怖ろしいことだ。

 そう思わないか?」

 

 放たれたのは、一般論の姿をした、重く鋭い問いの矢。アインツベルンは、聖杯戦争とその果てに目指すものを、本当に知っているのか。答えられるものは誰もいない



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44:対決

「どこへ行くかと思えば……ここかよ」

 

 アーチャーが戦いの場に選んだのは、新都の一角を占める例の公園だった。

 

「ここは、日中から人気のない場所ですからね。

 このぐらい開けていないと、私も戦いようがありませんし。

 凛は無理そうだから、イリヤ君にお願いがあるんだが、

 この公園に人払いの結界はできるかな?」

 

「うん、平気よ。でも十五分ぐらいしかもたないけど」

 

「いいよ、充分だ」

 

 頷いたイリヤは、目を伏せると何事か呟いた。顔にまで巨大な魔術刻印が浮き出し、光を放つ。士郎は義妹の変貌に肝を潰しかけた。ヘラクレスを従えられるとはこういうことなのか。

 

「終わったわ」

 

「ありがとう。じゃあ、そろそろ始めましょうか。

 令呪を使ってから開始ということでいいですか?」

 

「ああ、かまわん。さっさとやんな」

 

「では」 

 

 奇跡的にベレーを落とさずに頭を下げると、アーチャーは凛を連れてランサーから五十歩ほど離れた。

 

「マスター、令呪の使用を」

 

 ここでようやく、凛は疑問を抱いた。

 

「アーチャー、あんた、宝具って、あれだけじゃないの!?」

 

 一度霊体化し、いつもの軍服姿に戻っていたアーチャーは、決まり悪げに髪をかき混ぜた。

 

「ああ、あっちは使えそうな宝具」

 

「え? どういうことよ」

 

「ごちゃごちゃ言ってねぇで、さっさとしてもらおうか」

 

 敵と味方に促され、凛は仕方なく令呪に願う。二重の眉月から放たれる矢を思わせる、均整のとれた令呪に。

 

「――令呪に告げる。アーチャー、宝具を使いなさい!」

 

 令呪の一角が輝き、眉月の外側が消え、かわりに膨大な魔力がアーチャーに注がれる。そして――。

 

「Yes Maam!」

 

 応えたのは、穏やかなテノールではなかった。もっと複数の、腹に響くような重低音の合唱。顕現したのは、白い鎧兜。左腕に赤い薔薇の紋章を刻み、右手に冬の月光を燦然と弾き返す戦斧を携え。その数は、一見しただけではわからないほど。一キロ四方ほどの広場に、整然と隊列を組み、ランサー一人を包囲している。

 

「ん、な、なんだとぉ!?」

 

「こっちは使えない宝具。含まれたんだよね……」

 

 凛は硬直した。それって、バナナじゃなくって、まさか……!

 

「宝具の操作兵員も。あー、これ、言わなきゃ駄目かい、中将」

 

 アーチャーの前に立ち、戦斧を構える長身の騎士が兜の下から応えた。

 

「言っていただかないと困りますな。

 今の我々は閣下の宝具。号令なしに出撃はできません」

 

 痺れるほどに魅力的なバリトンが応え、アーチャーは実に嫌そうな顔になった。

 

「恥ずかしいなぁ、もう。

 ……三つの赤(ドライ・ロット)三つの赤(ドライ・ロット)、血と炎と赤き薔薇。

 薔薇の騎士(ローゼンリッター)、出撃せよ!」

 

「Sir,Yes sir!」

 

 広場にどよもす、歓呼の響き。ある者は戦斧を握り直して構え、隊列後方の者は、いかにも威力のありそうな銃をランサーに向ける。

 

「な、なんだよ、これ、こいつら……」

 

「シロウ……これ、みんな、サーヴァントよ!」

 

 衛宮切嗣の二人の遺児は、呆然と白い騎士の一団を見渡した。士郎は人数を数えようとしたが諦めた。ぱっと見だが、全校生徒の倍はいそうだ。セイバーは、眦が裂けんばかりに目を見開いた。

 

「馬鹿な、これは征服王と同じ……いや、違う!」

 

 かの征服王の軍勢は、王の召喚に応えた臣下が、共に築いた固有結界であった。彼の世界が、現実を押し返し、自らの幻想へと塗りかえる空想の現実化。しかし、令呪を使ったにしろ、風景も変わらぬままだ。この発動の速さはありえない。

 

「この腹黒め、とんでもねえものを隠してやがったな!」

 

 ランサーは後退しようとしたが、退路を塞がれていることに舌打ちした。これを打破するには、真名開放の後に槍を投じねばならない。その間、ランサーは無防備になる矢避けの加護も、視覚外からの射撃には無力だ。

 

 ケチくさいマスターからの魔力を削ってでも、ルーン魔術を発動させるべきか。ランサーは左右に目を走らせると、力ある文字を中空に刻もうとした。

 

 人垣の間から、ひょいと手が上がった。白い騎士らの背後から、黒い頭ものぞく。

 

「いや、ちょっと話を聞いてください。中将も待ってくれ。

 ランサー、あなたは強者とのギリギリの戦いをご所望のはずだ。

 私の部下は、わが軍の歴代最強の白兵戦の名手たちです。

 幸いというか、武器や戦法は比較的あなたに近い。

 制限時間まで、彼らと手合わせしてください。ただし、殺し合いはなしで」

 

「……閣下。敵と試合ですと?」  

 

「そいつの言うとおりだ」

 

 白と群青の騎士に低い声で凄まれても、黒い魔術師は怯まなかった。

 

「ランサーは、まさに一騎当千の英雄だ。

 連隊(二千人)に対するに、師団(二万人)をもってせよと言われた諸君らでも、

 百人ぐらいは相手をしなくちゃいけないと思うよ」

 

「我々の選抜基準を見くびっていただいては困りますな。

 わが軍の比率で言うなら、一騎当万の勇士ということになる」

 

「……それは強弁が過ぎないかなあ。では貴官に任せるよ」

 

「んなっ……てめえ、アーチャーのくせに飛び道具はどうした!」

 

 ランサーの詰問に、アーチャーは髪をかき回した。

 

「私は射撃が苦手でしてね。

 彼らは射撃も名手ですから、任せることにしました。

 ともかくランサー、宝具使用を了承したのはあなたですよ」

 

 その言い種に、白い騎士は低く笑いを漏らした。

 

「まったく、相変わらず悪辣ですな……」

 

 ヤンの思考は、自らのサーヴァントに伝達された。ゲイボルグには、二つの伝承がある。

 

 一に曰く、必ず心臓を穿つ呪いの槍。二に曰く、数十の鏃にわかれ、敵を討つ雷の槍。それが両立したら困る。薔薇の騎士はヤンの宝具であって、ヤンが死ねば消滅する。かといって、薔薇の騎士を殺されるのも色々と支障を来たす。

 

 防ぐ方法はある。最初にランサーに遭遇したとき、彼は投擲の構えを見せた。伝承に語られるように、真名開放には投ずることが必要なのだろう。槍を手放せる状況を作らなければいい。瞬間的に包囲すれば、己の技量で戦うしかなくなる。

 

 ――彼はとても強いが、君たちは宇宙一の精兵。決して負けはしない。――

 

「では、閣下のご指名により、お相手仕りましょう」

 

 中将と呼ばれた騎士はそう言うと、一歩進み出た。見惚れるような敬礼で名乗る。

 

「小官はワルター・フォン・シェーンコップ。伝説の英雄に、一手ご教示を賜りたく」

 

「こっちはゲールの者か? 

 ますますわけががわからねえ。

 貴様ら、どこの弓兵に、どこの騎士だ」

 

「強いて言うならば、我らはつれなき女王に仕える者ですな。

 だが、そんなごたくはどうでもよろしい」

 

 シェーンコップは戦斧を突き出した。

 

「我らはただ戦うのみ」

 

 白い炎に輝く斧に、真紅の槍が重ね合わされる。

 

「違いねえ」

 

 美麗な顔に、獰猛な歓喜を乗せて、クランの猛犬は躍動した。突き出される真紅の槍を、輝く戦斧が弾き返す。一合、二合、三合。セイバーとの剣戟よりも、高く澄んだ刃鳴りが響き渡り、無数の火花が両雄を飾る。互いに劣らぬ長身の主である。敏捷とリーチはランサーが勝るが、耐久力と防御においては、シェーンコップが勝る。

 

 墓地での戦いが、より迫力をもって再現された。両者の武器が見えているせいだ。迫りくる稲妻の如き真紅の連撃を、虹の煌めきが弾き、絡めとり、撃ち込み、突き上げる。瞬きするほどの間に、数十の動作が連鎖する。相手を打倒する、ただそのためだけに。

 

「さすがは伝説の大英雄ですな。確かにお強い」

 

「貴様こそ、その腕で名を残さぬはずがあるものか。

 あのアーチャーといい、何者だ?」

 

 ランサーは、不審の目をシェーンコップの武器に向けた。白い斧は、刃の部分が透明で、こちらが本来の色なのだろう。虹のような輝きを放ち、彼が今まで刃を交えたどんな武器とも感触が違う。

 

 両雄の武器に目を吸い寄せられていた士郎は、ゲイボルグの神秘よりも、アーチャーの軍勢の武器の異常さに、目を剥くことになった。

 

 おかしい。ランサーと一騎打ちをしている騎士以外も、多くの者がまったく同じ斧を持っている。そして、銃の台頭で、鎧の騎士は姿を消したと言ったのは、アーチャー自身のはずだ。白い甲冑の騎士らには、大型の突撃銃のようなものを構えている者がいる。

 

 そして、その斧に眼を向けると――。

 

「な、なんだよ、あれ。う、嘘だろ。一体何なんだよ、あいつら!――」

 

 一際高い音で刃が噛み合い、両者はふたたび激突した。

 

「シロウ、どうしましたか!」

 

「セイバー、あの斧、変だ。あ、あれは」

 

「そいつは今は、他言無用に願いますなあ」

 

 いつの間にか、士郎らも騎士に囲まれていた。いや、声をかけてきたのは、アーチャーと同じ軍服姿の男だった。こちらは、ランサーよりさらに背が高く、がっしりとした肉付きの巨漢である。彼は武器らしいものは持っていなかった。いかにも気がよさそうで、声も朗らかだ。

 

「まあ、ちょっと待っててもらいましょうや。

 要塞防御司令官どのも、張りきってますからね」

 

「無理もないですよ、副参謀長。

 なにしろ、隊長じゃなかった、中将が閣下の目の前で実力を披露するなんて、

 今回が初めてですから」

 

 騎士の先頭に立っているのは、こちらも軍服の若い男だった。焦げ茶の髪と瞳をした、純朴そうな青年だったが、彼の手には銃がある。長身で筋骨逞しく、銃がなくても士郎などひとひねりだろう。セイバーは身構えかけたが、青年は銃を収め、びしりと敬礼をした。

 

「失礼しました。小官は薔薇の騎士連隊長代理です。

 我々は、アーチャー ヤン元帥閣下の部下であります。

 閣下に貴官らの護衛を命じられました」

 

「言い訳を!」

 

 巨漢が、両手を開いて顔の両脇に掲げた。

 

「まあまあ、落ち着いてください。閣下からの伝言です。

 こちらのご令嬢は、聖杯の担い手として、害するわけにはいきません。

 閣下のマスターも似たようなものですが、セイバーのマスターは違うんだそうです。

 光の御子の宝具に注意するようにと」

 

 この進言に、当の令嬢が真紅の瞳を細めた。

 

「ありがとう、ヘル……」

 

「パトリチェフですよ」

 

「ヘル・パトリチェフ。

 ねえ、皆さん、ちょっとお下がりになって。出てきて、バーサーカー!」

 

 イリヤの指示に従って、士郎とイリヤから少し離れた一団は、回れ右して半円形の隊列を組んだ。その背後にはバーサーカー。二人を護衛対象と認識し、バーサーカーを友軍と認める行動だ。セイバーや士郎の突撃を押しとどめる柵でもあった。

 

 隊列の後方、軍服の二人がのんびりと会話を始めた。  

 

「おや、閣下は中将の活躍を見たことがなかったかな。第七次の攻略の時は?」

 

「あれは相手がザルで、変装したまま司令部までフリーパスだったんですよ」

 

「クーデターの時、シャンプールで活躍したのは、

 中将が野戦服にキスマークつけて、幕僚会議で報告してたがねえ」

 

「でも、閣下は戦艦にいらっしゃたでしょう。

 あれも結局、スパイの拘束作戦に移行しましたしね」

 

 巨漢と青年の話は続く。

 

「なるほど、そう言えば。ガイエスブルクの時は……あー、査問会だったなぁ……」

 

「そうなんですよね。もう、やる気満々ですよ、中将も」

 

 サーヴァントはマスターによってステータスが上下する。マスターの優劣はもちろん、絆の深さでも発揮できる力が違ってくる。

 

「ねえ、アーチャー。あんたの部下の方が強いのね」

 

 敏捷と魔力以外は、ランサーにそうそう劣らない。そして幸運は遥かに高い。ステータスを見るかぎり、セイバーに次ぐだろう能力の持ち主だった。

 

 ヤンは黒い瞳を細めた。数多の戦場を越え、宇宙に勇名と悪名の双方を轟かせた薔薇の騎士。その十三代目の連隊長で、最初で最後の中将となった伊達男だ。

 

「そりゃそうだよ。彼は当代で五指に入る勇者だったからね」

 

 剣戟の間から、シェーンコップが反論する。

 

「過去形で言ってほしくはありませんな!」

 

 黒い眉が一気に角度を変えた。

 

「現在形なら、貴官はここにいないだろう! 何をやってるんだ、まったく」

 

 シェーンコップは兜、いやヘルメットの下で舌打ちした。

 

「おや、我々を置いていった方の言葉とも思えませんな。

 しかたがないでしょう。あの坊やのお目当ては閣下のみ。

 死なれてしまっては、残りは眼中にないわけだ」

 

「だからだよ! 

 平和を乱す元凶が死んだんだ。

 さっさと帝国と手打ちをすりゃよかったじゃないか!」

 

「帝国印絶対零度の剃刀なら賛同するでしょうが、

 戦争が趣味の、皇帝ラインハルトが聞き入れるものですか」

 

 上昇した眉が下がり、静かに部下を見据えた。

 

「だからといって、再戦するとはね。……馬鹿だよ。

 貴官は百五十歳まで生きるんじゃなかったのかい。

 あと、百十年も短いじゃないか……」

 

 上官の殊勝げな言葉に、誤魔化される部下ではない。

 

「まったく、ああ言えばこう言う。四年も短縮しないでいただきたい。

 ……最盛期というなら、中身も可愛げのある頃にならないものか」

 

「そういう貴官も若返っているが」

 

 ぼそりと吐かれた反論にもかかわらず、刃の伴奏の隙間を縫ってシェーンコップの耳に届いた。

 

「……なんですと?」

 

「鏡がないのが残念だ。第七次の頃ぐらいに見えるよ」

 

 薔薇の騎士連隊の第十三代連隊長が、上官に問い返すまで三合あまりの刃音が挟まった。

 

「なにをおっしゃりたいんです」

 

「いい年して無理したと言っているんだ。ああ、私じゃなくて聖杯がね」

 

 無言になったシェーンコップは、眼前の槍兵へと技巧と膂力の限りを叩きつけた。斬撃を渾身の力で弾き返したランサーが、犬歯を剥きだした。 

 

「てめえら、真面目にやれ!」

 

 シェーンコップは最少の動きで斧を引き戻し、突きこまれた槍を防いだ。返す一撃で首を狙う。金銀妖瞳の首の代わりというわけではないが、殺すつもりでかからなければならない相手だ。

 

 上官の推測によれば、ランサーは初戦は様子見に徹しているのではないかという。ヤンの命に背いても、斃せるものなら斃したい。だが、この蒼い騎士はシェーンコップが戦った誰よりも強い。やはり、宇宙よりも時空のほうが広大とみえる。

 

「大真面目だとも。俺がこんなに長時間戦った相手はそうはいない」

 

「そいつは言えてる。俺もだ……ぜっ!」

 

 戦場では、滅多に長時間の一騎打ちにはならない。軍事の白兵戦は、多対多が基本だ。ランサーことクー・フーリンも、赤枝の騎士らと槍を揃えて戦っていた。一人奮戦した戦では、絶対に負けるわけにはいかず、躊躇なく宝具を開放した。この男のような雄敵と、これほど長く槍を交えたことはない。

 

「は、狸だが、筋は通すと言うわけか」

 

「ああ、ガチガチにな。貴官もマスターに伝えることだ。早く停戦に応ずべしとね」

 

 幾重にも火竜に取り巻かれ、澄んだ刃音に伴奏された会話。その間さえも、真紅の驟雨と白と虹の竜巻が交錯する。

 

「俺も言うだけは言っといたが、あの野郎の考えなんざ知ったことかよ」

 

「それはいかんな。上官と意志疎通を欠くのは敗北の素だ」

 

 会議好きの提督の部下は、ランサーの精神をざっくりと斬り裂いた。バリトンの美声は、ヘルメットにくぐもることなく広場に流れる。

 

「こちらは構わんがね。そういう陣営は閣下の大好物だ」

 

「人聞きの悪いことを言わないでくれ」

 

 ヤンの抗議が、ランサーの耳に届いたか否か。

 

「決着もつかないようですし、そろそろ予定時刻です。お開きにさせてもらいますよ。

 ランサー、重ねてマスターに伝えて下さい。

 聖杯戦争には重大な不備がある可能性が高いと。では、総員配置に戻れ!」

 

 広場を埋め尽くしていた騎士が、一瞬で掻き消えた。遠ざかっていくリムジンが一台。ランサーの前には、左肩にアーチャーとイリヤを乗せたバーサーカーが立っていた。

 

「つくづく、てめえは賢くて汚いな」

 

「アインツベルンのマスターからもお願いするわ、ランサー」

 

 アーチャーの膝の上で、イリヤは妖精のような笑みを浮かべて言った。

 

「イリヤ君、それはお願いとは言い難いなあ……」

 

 バーサーカーの右手には、ランサーの身長ほどもあろうかという、石作りの斧剣が握られていた。

 

「これは脅迫って言うんだよ」

 

「てめえが言うな!」

 

 とはいえ、負け犬の遠吠えであった。ランサーには単独行動スキルはない。彼の宝具は非常に燃費が良いものだが、全力の白兵戦を十五分近くにわたって続ける方が、ずっと魔力を食うのである。

 

 まして、ここはかつての大災害の跡地。死者の怨念や、生者の悲しみが色濃く残り、光の御子たるクー・フーリンにとって、相性の良い場所ではない。 

 

「さて、あなたの願いも叶えた事だし、

 ライダー陣営の牽制に協力していただきますよ」

 

 アーチャーが右手を振って何かを投げた。コントロールが悪く、ランサーの頭上を越えたが、そこは最速のサーヴァント。地面に衝突する前に、何なく掴み取る。

 

「なんだ、こりゃ」

 

「携帯電話です。必要がある場合、それで連絡します。

 じゃあ、今日はありがとうございました。気をつけてお帰りください」

 

「まったく人を食った野郎だが、てめえの部下は確かに猛者だったぜ。

 だが、次は俺が勝つ。じゃあな」

 

 蒼い髪が翻り、凄まじい早さで遠ざかる。律儀に携帯の箱を持って。

 

「よかった、なんとか帰ってくれて」

 

「どうして? アーチャーの方が強かったのに」

 

 首を傾げるイリヤに、黒髪が振られる。

 

「いや、もう、私が限界だ」

 

 イリヤを包んでいた温かな感触が消失した。

 

「きゃっ!」

 

 アーチャーの体の厚み分を落下して尻餅をつき、イリヤはバーサーカーの肩から転がり落ちそうになった。すかさず従者は斧剣を放り出し、大きな手でイリヤを支えてくれた。

 

「あ、ありがとう、バーサーカー」

 

 アーチャーは死んだわけではない。だが、実体化できなくなるほど消耗しているということだ。イリヤは判断し、瞬時に決断した。コートのポケットに手を突っ込み、取り出したのは携帯電話。

 

「もしもし、リン。アーチャーが消えちゃった!

 いまからそっちに行くから、セラに車を戻すように言って。

 行くよ、バーサーカー!」

 

 巨体に似合わぬスピードで夜を駆ける鉛色のバーサーカー。その目指す先、赤いテールランプがUを描いたかと思うと、白いヘッドライトが近づいてくる。ほどなく両者は合流した。

 

「ねえ、リン、アーチャーは大丈夫!?」

 

 霊体化してしまうと、サーヴァントの様子はラインが繋がっているマスターにしかわからない。

 

「生きてるよとは言ってる。でも、使えない宝具って言うわけだわ」

 

 アーチャーの宝具『薔薇の騎士』は、アーチャー自身の魔力によって展開される。ここまでの五日間、凛の魔力を絞り取るだけ絞り取って、かつ令呪による補充をしないと使えない。そして、十五分弱の使用後は、本人が実体化できないほど消耗する。

 

「使えないとは失礼な」

 

 バリトンの抗議に、少年少女が一斉に視線を向けた。

 

「あなた、誰!?」




※アーチャーのステータスが更新されました。※

【CLASS】アーチャー
【マスター】遠坂 凛
【真名】ヤン・ウェンリー
【性別】男性
【身長・体重】176cm・65kg
【属性】中立・中庸

【ステータス】
筋力E 耐久E 敏捷E 魔力B 幸運C(EX)
( )内は戦闘時。

【クラス別スキル】

単独行動:A
マスター不在でも行動できる。
ただし宝具の使用などの膨大な魔力を必要とする場合はマスターのバックアップが必要要。

対魔力:D
一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。 魔力避けのアミュレット程度の対魔力。

【固有スキル】

カリスマ:A
大軍団を指揮する天性の才能。Aランクはおよそ人間として獲得しうる最高峰の人望といえる。

軍略:A+
一対一の戦闘ではなく、多人数を動員した戦場における戦術的直感力。 自らの対軍宝具や対城宝具の行使や、 逆に相手の対軍宝具、対城宝具に対処する場合に有利な補正が与えられる。

心眼(真):A
修行・鍛錬によって培った洞察力。 窮地において自身の状況と敵の能力を冷静に把握し、 その場で残された活路を導き出す“戦闘論理”。
逆転の可能性がゼロではないなら、 その作戦を実行に移せるチャンスを手繰り寄せられる。

【宝具】

『制式銃』
ランク:D
種別:対人宝具 レンジ:0~30 最大捕捉:10人

別名『使えそうな宝具』。レーザー光線による攻撃を行う銃器。
本来は大量生産の兵器だが、現代から千六百年後の未来という、時間と技術の格差により、神秘を纏う事になった。
使う者が使えば、地味ながら非常に強力な武器になりうるが、使い手がヤンだということで威力をお察し下さい。
だからこそ、ひっかけの釣り針にもなるのだが。

『三つの赤(ドライロット)』
ランク:B+~C+ 
種別:対人・対軍宝具 レンジ:1~100 最大補足:約1,700人

別名『使えない宝具』。宝具????の操作兵員のうち、薔薇の騎士連隊を出撃させる。
彼らは、勇名と悪名を轟かせた、宇宙最強の陸戦隊員である。
レーザーと小火器無効の装甲服に、炭素クリスタルの戦斧や荷電粒子ライフルなどで武装している。
大威力の反面、秘匿性は皆無、展開には相当の面積が必要。 魔力を大量に必要とし、令呪による補給も不可欠である。彼らはアーチャーのサーヴァントであり、アーチャーが死亡すると消滅する。非常に運用が困難な宝具である。
 

『????』ランク:-- 種別:-- レンジ:-- 最大補足--


 触媒は、遠坂家にあった万暦赤絵の壺。ヤンの父のコレクションで、唯一の本物で形見として相続していたもの。

 聖杯にかける願いは特になし。召喚に応じた理由は、人類史上にも珍しい平和な時代を見ることと、伝説の英雄たちに会ってみたいから。したがって、戦闘意欲はあんまりない。

 知識欲の赴くまま、聖杯戦争のあれこれを考察しているが、本当は、英雄たちと時代を超えたバカンスを呑気に楽しみたい。

 しかし、戦うからには負けないようにする、『不敗』を冠された戦術家である。


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45:眠りと覚醒

 奇しくも凛は、アーチャーにしたのと同じ疑問をその男にぶつけた。同じ黒とアイボリーの服装だが、彼が現れたなら即座に英雄豪傑と認識できただろう。

 

 鍛え抜かれた長身に、灰色がかった褐色の髪と瞳、年齢は三十歳前後ほどか。類まれな美男子だが、目元口元に現れた不遜な笑みが、ただならぬ存在感を醸し出している。誰何の声に、彼は美しい敬礼で答えた。

 

「小官はワルター・フォン・シェーンコップ。階級は中将です。

 司令官不在につき、幕僚の次位者としてマスターに報告します」

 

「その声は……。あっ、あなた、さっきランサーと一騎打ちしてた!」

 

「Ja. 失礼」

 

 恭しい口調で一礼すると、シェーンコップと名乗った男は、優雅な身のこなしでリムジンに乗り込んだ。

 

「大した腕前でした。さすがに、第三艦隊の旗艦に名を冠せられた英雄ですな。

 どうやら全力ではなかったようですが、おかげで当方の被害はゼロ。

 ただし、司令官はしばらく現界ができません」

 

 そのランサーと互角の一騎打ちを演じたこの男も、勇名を馳せた英雄だったことだろう。

 

「その間、ご自分の身はご自分で守ってください。

 私は聖杯戦争の成否なんぞ興味はありませんが、

 人死にが出たら、あの人は御三家を潰しにかかりますよ」

 

 少年少女らを等分に見やる灰褐色の瞳に、危険な輝きが浮かんだ。

 

「そして、閣下からの伝言です。キャスターとは一応の停戦を結んだ。

 門番のアサシンについては不明だが、無用な手出しをしないようにと。

 もう一つ、深山の一家殺人を調べろと。では、小官も失礼します」

 

 言うだけ言うと彼も姿を消した。ついに凛は絶叫した。

 

「な、なんなのよ、一体!?」

 

「遠坂にわかんなきゃ、誰にもわかんないと思うぞ」

 

 もっともすぎる士郎の指摘だった。

 

「そうよ、リン。マスターなのに、アーチャーの宝具を知らないだなんて」

 

「あいつ、最初に銃を出したのよ。使えそうな宝具はこれって。あっ」

 

 凛は髪をかき混ぜながら、己のサーヴァントの策士ぶりに今さら舌打ちした。

 

「使えなさそうだから黙ってたのね。あんの、腹黒め……」

 

「でも正しくないか? あの人数、うちの学校の校庭ぐらいじゃ入りきらないだろ」

 

 士郎の言葉に、セイバーは固い表情で頷いた。

 

「そうですね。およそ千数百人はいたでしょう」

 

「そんなに!?」

 

 金髪が再びと頷く。

 

「いずれも尋常ならぬ勇士たちでした。

 似たような宝具は見たことがありますが、あれとは違うようです」

 

「本当!? どんなのだったの、セイバー?」

 

「前回のライダーも軍勢も召喚しましたが、あちらは固有結界というべきものでした。

 彼らが共有する意志が、軍勢を内包する世界を作り、風景すら変えてしまう。

 ですから、あれだけの広場は不要だったのですが」

 

「うー、それに比べると一見凄いけど、半端よね」

 

 無理もない。未来の英雄なだけに、神秘の格は低いのだ。

 

「真名を開放させずに、互角に打ち合ってくれただけで御の字ってことね」

 

 嘆息する凛に、士郎は思い切って疑問をぶつけた。

 

「なあ、遠坂。アーチャーは何者なんだよ。あの軍勢、絶対におかしい。

 銃が台頭したから、鎧の騎士がいなくなったって、あいつ自身が言ってた。

 でも、何十人もでっかい銃を持ってたんだ。

 それにあの斧、鉄でも銀でも金でもないぞ!」

 

 赤と緑が瞬く。士郎の動揺と口止めを指示した巨漢を見たイリヤが、代表して口を開いた。

 

「どうしたの、シロウ。木こりの話みたいなこと言うのね。なんの斧なの?」

 

 士郎は唾を呑みこみ、解析の魔術の結果を少女らに告げた。

 

「――ダイヤだ。ダイヤみたいなもの!」

 

 少女たちは顔を見合わせ、次の瞬間に車内が叫びで満たされた。遮音性の高いリムジンが、それを外には響かせなかったが。

 

「な、だ、ダイヤぁ!?」

 

「ああ。斧もあいつ一人が持ってたわけじゃない。

 ほとんど全員が持ってるんだ。あんなでっかいダイヤのを」

 

 現代の技術でも人工のダイヤモンドを作ることはできる。しかし、あれほどの大きさの結晶を作るのは不可能だ。

 

「う、嘘……なんて無茶苦茶……。

 こっちは、宝石剣目指して四苦八苦してんのに、ダイヤで斧ですって!?」

 

 セイバーは、詰めていた息を吐き出した。

 

「とてつもない武具です。どれほどの富があれば可能なのか、見当もつきません」

 

「……どうしてわかったの、シロウ?」

 

 真紅の瞳を向けられて、士郎は夕日色の頭をかいた。

 

「う、その、悪い。遠坂には止められてたけど、つい、解析を……」

 

「もう、やっちゃったことは仕方がないわね。

 あんたが平気ならいいわよ、別に。で、アーチャーの事を知ってどうする気?

 士郎が知るべき相手は、他にいるんじゃないの?」

 

 イリヤしかり、セイバーしかり、そして衛宮切嗣しかり。

 

「それとも敵として知りたいの?」

 

「いや、そういうわけじゃ……」

 

「じゃあ黙ってて。あいつが真名をばらしたからといって、

 わたしが正体を明かすと思ったら大間違いよ」

 

 翠の炎が琥珀を焼き焦がす。

 

「知りたいなら、自分で調べることね。

 でも今は、あんたとセイバーのことを考えた方がいいわよ」

 

「なんでさ」

 

「へっぽこ魔術師を狙うであろう、ランサー、ライダー、

 キャスターに誰が釘を打ったと思ってんのよ。

 わたしも調べ物あるし、明日は籠城するから」

 

 あと一時間ほどで日付も変わるが、幸い明日は日曜日だ。終日霊脈のうえで休めば、アーチャーも多少は回復することだろう。

 

「となると、慎二が狙ってくるのは士郎たちよ」

 

「どうしてなの? 結界の起点、塞いじゃったから?」

 

「それもあるけど、弓道部はまとまったみたいじゃないの」

 

「うん、シロウ、かっこよかった。なぜリンが知ってるの?」

 

 イリヤが首を傾げ、士郎も同調した。

 

「そうだよ。なんで遠坂が」

 

「士郎が遅く帰ってきた理由を、綾子に注進したのはわたしだからよ。

 あいつの指示でね。ことと次第によっては、柳洞君の耳に入れるって」

 

 形のよい唇に、薄く笑みを浮かべるあかいあくまに、士郎とイリヤはドン引きした。あの提案の時点で根回し済みだったたとは、遠坂主従怖すぎる。

 

「柳洞君はわたしのこと仏敵だって言ってるそうだけど、

 中学の時は生徒会でコンビ組んだ仲なの」

 

「それが原因か……」

 

 一成が女子を苦手とするのも、すごく納得だ。あかいあくまだもんなぁ……。

 

「わたしが、弓道部の件をいじめとすっぱ抜けば、予算も切られるし、

 新入生の入部も減るでしょうね。在校生も辞めちゃうかも。

 綾子だって、二年の反慎二派に因果を含めるにきまってるわ。

 だから、すんなり通ったでしょ?」

 

「お、おう」

 

「綾子が連絡してきたのよ。だからもう大丈夫だってね」

 

 夕日色の頭が深々と下げられた。

 

「ありがとうございました……っ」

 

 アーチャーが言ったとおり、魔術を使わなくても方法は無限にある。魔術師といったところで、結局は人間、それも一介の高校生。喜怒哀楽に左右され、人間関係から自由にはなれない。

 

 そこから見れば、間桐慎二は欠点と弱点をさらけ出しているようなものだ。心を射ぬく魔弾の射手が、狙い撃ちしないはずがないのだった。

 

「弓道部の権勢が弱れば、あいつは矛先を楽なほうに向けるわよ。

 ライダーが勝てなかったわたしたちよりも、

 桜を盾にとれる士郎のほうが与し易く見えるもの」

 

「リン、わたしも?」

 

 イリヤは表面上最優のセイバーのマスターで、実際は最強のバーサーカーのマスターだ。  ちょっかいを出してくるとは思えなかった。

 

「桜で士郎を釣って、人質にされたらどうするのよ。

 バーサーカーに人質救出なんてできる?」

 

「うー……」

 

 イリヤは頬を膨らませた。ヘラクレスは敵を殲滅するだろう。嵐のごとく周囲を巻き込んで。

 

 凛は肩を竦めると、士郎に紙片を差し出した。

 

「これ、ランサーに渡した携帯の番号よ。

 慎二に呼び出されたら、ランサーを呼んで。

 来るかわからないけど」

 

 11桁の数字に士郎は目を白黒させた。

 

「サーヴァントが電話になんか出るかな……」

 

「一応持ってったみたいだから、気休めだけどね。

 でも、なるべく公衆電話からかけてよ。

 ランサーに士郎の番号を特定されない方がいいって。

 わたしの携帯は仕方がないけど」

 

「それもアーチャーが言ったのか?」

 

「そ。昨日の晩、やけに遺言っぽいことを言ったのよ。

 最初っからその気だったのね」

 

 令呪で底上げして、なんとか消滅を免れるような魔力喰いの宝具。威力は絶大だけど、真名開放の絶好の的になりかねない軍勢。たしかに、あんな状況でもなければ使うメリットはない。でも、ランサーに信義を見せるために、彼はあえて札を切った。

 

 ランサーとマスターが不仲であることを察知したからだった。罅ならこじ開け、溝ならそれを深く広くするために。同盟に与した方が、あらゆる利があることを匂わせた。美酒に美食、彼の願望を叶えられるサーヴァントと宝具。さて、どうするか。携帯電話という糸もつけた。

 

「あと、これ、残りの結界予想図だって。青丸の部分は施術済みよ。

 余裕があるなら士郎の解析と、消去はイリヤに頼むわ」

 

「リン、この弓道場のはもうやっちゃったわ」

 

「そ、ありがと」

 

 ちょうど、遠坂邸に車が到着した。

 

「セラさんも、運転をありがとうございました。助かったわ」

 

 セラは目礼すると、気遣わしげに凛に問いかけた。

 

「いえ、こちらこそ。それにしても遠坂様。

 アーチャー様不在なのに、お一人で大丈夫ですか」

 

「大丈夫よ。伊達に管理者遠坂の工房ってわけじゃないから」 

 

 外に出ようとした凛に先じて、リムジンのドアが開けられた。外側には先ほどの美丈夫が立っていた。

 

「えぇっ!?」

 

「言い忘れましたが、小官は閣下にマスターの警護を仰せつかっております」

 

 凛の手を取ると、実に洗練された動作で降車をエスコートする。

 

「首から下に関しては、ずっとお役に立てると断言いたしましょう」

 

 士郎が震える指先で、アーチャーの代役を指差した。

 

「ちょ、ちょっと待て、遠坂。

 そいつ、アーチャー言ってた女好きの部下その一じゃないのか!?」

 

 映画俳優も裸足で逃げ出す美男子で、しかも美声。特徴が完全に一致。車内と車外から、色とりどりの視線が彼に集中した。

 

「う、嘘ぉ! 冗談じゃないわ。お願い、起きてよ。アーチャー!」

 

 優に頭一つ高い位置から、灰褐色が凛をしげしげと眺めた。

 

「失礼な。見境いのない女好き呼ばわりは不本意ですな。

 小官にも、好みというものがあります。

 フロイラインは大層お美しいが、少々足りませんな。

 年齢もそうですが、ほかもろもろが」

 

「な、なに見てんのよ! む、むかつく……っ!」

 

 凛は拳を握り、肩を震わせた。未成年扱いと女性未満扱いは似て非なるものだ。穏やかな皮肉と慇懃無礼な毒舌もだ。重ね重ね腹が立つし、安心感ゼロ。水際立った容姿も、洗練された物腰もないが、アーチャーは愛妻家の紳士だった。

 

 帰ってきてお願い! 凛の祈りは一部が天に届いたようだ。

 

『……かっこつけたところで、彼には君と同じくらいの娘がいるよ』

 

 意識を取り戻したアーチャーが、気だるそうにマスターに告げ口をした。彼のサーヴァントにも当然伝わる。双方微妙な顔になった。

 

「それにしちゃ若い……あ、ああ、さっき、そんなこと言ってたわよね。

 ……ってことは、認知届を出させた部下?」

 

『そうだよ。だから大丈夫だよ、凛。

 シェーンコップ、あの時は貴官を信用するしかなかったが、

 今は、君ならば信頼できると確信しているから頼んだんだ。

 じゃあ、マスターをよろしく頼む……』

 

 翡翠の目が点になった。なんという殺し文句……! 煮ても焼いても食えなそうな美丈夫が目をそらし、尖り気味の顎をさするほどの威力だ。

 

 凛は確信した。

 

「ねえ、アーチャーがもてなかったって、嘘でしょ」

 

「その疑問に関しては、是であり否であるとお答えしましょうか。

 では、小官の警護でよろしいですか、閣下のマスターどの」

 

「よくないけど、仕方ないわね、アーチャーの部下さん。

 ところで、その答えはどういう意味?」

 

「自分のことに関しては、鈍感なお人だというわけですよ。

 閣下は二十代で大将に昇進している。

 それも、平の大将じゃない。わが軍の№3だ」

 

 性格は基本的に知的で温厚。軍人らしい見栄えはしないが、容姿そのものは決して悪くない。

 

「もてないのではなく、そこらの女には手が出せないというのが真相でね」

 

 彼らが語らないから凛は知らないが、アーチャーの奥方は、銀河一の凄腕だったのである。

 

「ありがとう、すごく納得した。じゃ、みんな、おやすみ」

 

 よろよろと遠ざかる赤いコートの背を、車中の面々は不安そうに見送った。

 

「あのような部下を従えていたとは……。

 アーチャーもさぞ苦労をしていたことでしょう」

 

 セイバーはしみじみと呟いた。臣下には、あそこまで遠慮のない毒舌家はいなかった。そういう者が一人いると、主君が許したとしても、他の臣下が黙っていない。臣下同士の舵取りが難しくなる。身分のない国の上下関係も、そう簡単なものではなさそうだ。

 

「大丈夫かな、遠坂……」

 

「たぶん、おそらくは……」

 

 衛宮主従のやりとりは歯切れが悪い。心話が聞こえないから当然である。だが、凛が納得しているらしいのでよしとしよう。懸案事項は尽きることがないのだから。

 

「ランサーをなんとかしたのはいいけどさ、どうしようか……。

 今日の部活、慎二も桜も来てなかった。やっぱり、ライダーのせいだよな」

 

「シロウ、リンの魔術はきっと、水と風の二重属性だと思うの。

 こういうのはとくのがとってもたいへんなのよ。

 だいたいの魔術師は属性が一つだから」

 

「そうなのか?」

 

「でも、魔術は世界の修正で、すこしずつ力が弱まるの。

 だから、ぎりぎりまで待って、魔力でおし流したのかもしれないわ。

 リンやわたしが呪刻を消したのとおなじに」

 

「そんな方法があるんだ」

 

 非常に狭い範囲の魔術しか知らず、自己流でやってきた士郎にとって別次元の方法だった。

 

「でも、とても魔力がたくさんいるの。

 マトウのふたりが来なかったのは、きっとそのせいよ。

 きっとサクラもライダーに協力してる。

 ううん、サクラがマスターかも知れない」

 

「桜が……!?」

 

「サーヴァントはマスターに似るって言われてるわ」

 

 士郎は返答に詰まった。珍しい髪の色や曲線美に富む体形、そして妹であるということ。アーチャーが濁した共通点を突きつけられたのである。

 

「よしんばそうであったとしても、ライダーは斃すべき相手でしょう。

 私も少しですが魔力が溜まってきました。

 学校で、シロウを守るには充分です。ただ、問題は……」

 

「学校だと、人質が多すぎるってことだよな。

 でも、吸血鬼事件みたいな状況だと打つ手なしだ。

 場所が広すぎるし、ライダーは霊体化できる」

 

 沈黙の帳が落ちる。アーチャーは、自分と相手の戦力を把握し、自分の舞台に誘い出して敵を退けている。マスターとの連携も巧みだ。彼自身は弱くても、遠坂凛は五属性を持つ天才。最大の難関、大魔術ほど長い詠唱が必要という欠点を、宝石魔術でクリアしている。それは高い対魔力を持ち、敏捷に優れたライダーに大ダメージを与えるほどだ。

 

 対して、士郎ができるのは強化と解析ほか少々。しかし、セイバーにきちんと魔力を供給するとなったら、どれほど余裕があるか。そんな事情もあって、セイバーも長時間の大立ち回りはできない。

 

「遠坂は気をつけろって言ったけどさ、あっちが誘うなら乗ってみるのも手かな……」

 

「それはどうかしら。ねえ、シロウ、わたしの目を見て」

 

「ん?」

 

 言われるがままに、一対のルビーを覗き込む。瞬時に意識に霞がかかった。

 

「どう? 見える? これがアインツベルンのお城」

 

 操り人形のように、少年の首が動いた。

 

「イリヤスフィール! 一体何を!?」

 

「セイバーがうるさいから、ここまでにするわね」

 

 士郎が弾かれたように頭を上げた。

 

「いまのは一体なんなのさ!」

 

 そこはちょうど、衛宮家の門の前だった。セラを除く全員が車から降り、玄関へ歩きながら、イリヤは肩越しに妖艶な視線を投げかける。

 

「これが魔眼よ。わたしのは大したものじゃないけど。

 でもシロウ、抵抗力がなさすぎね。

 メドゥーサの魔眼じゃ、あっという間に石にされちゃうわ」 

 

「う、そっか……」

 

「だからね、何か言ってきたら、わたしといっしょに行きましょ」

 

「イリヤ!」

 

「平気よ。

 バーサーカーは、ライダーを討ったペルセウスの孫で、

 ペルセウスよりもずっと強いの。わたしのバーサーカーは最強なんだから。

 それにわたしは、アインツベルンのマスターなんだから、

 マキリのマスターに挨拶すべきでしょ?」

 

 戦争ではなく、本来の魔術儀式に立ち返ろうと呼びかけるわけだ。弓道部という権力の足場を崩すのは、そのための呼び水である。

 

 サーヴァントに浮かれ、力を揮って悦に入っているうちに、より強力な陣営にがっちりと周囲を固めらる。彼がこだわる学校生活が危うくなれば、必ず権力に擦り寄ってくる。御三家で最も格上の、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの誘いかけに

無関心ではいられまい。寺からの帰り道に囁かれた、辛辣極まりないアーチャーの分析だった。

 

 その一方で、彼はこうも言った。イリヤが入ることで、慎二を制御できるかもしれない。慎二の行動は、魔術への劣等感や嫉妬がない交ぜになったものではないか。強力な魔術師のイリヤが、そうではない存在を尊重すれば、満たされてはいかないだろうか?

 

「これに関しちゃ、私たちではダメさ。一発食らわせてしまったからね。

 何より、君は家格、実力、サーヴァント、三拍子揃って凛に勝る」

 

 慎二の自尊心を満たすには、つれなき凛より上の存在に認められることだ。

 

「その仲介役となりうる士郎君に、危害は加えにくいだろう。

 一方、凛は君と士郎君の仲裁者さ。

 ライダーの力を削げば、戦争の熱が冷めて、計算も働くようになるんじゃないかな。

 弓道部のいざこざから思うに、彼は相応に頭のいい、能力のある人間だろうからね」

 

 アーチャーは、宝具を使うことを考えていたのだろう。自分が消滅、あるいは行動不能になるのを見越して、イリヤには融和戦術を伝授したのである。

 

「どうしてそんなに戦いを避けるの?」

 

「聖杯戦争なんて、戦わなくても実現できるからさ。

 アインツベルンが第三魔法復活の賛同者を募ればいいんだ。

 七人による共同研究ってわけだね。以下、御三家がテーマを持ち回りする」

 

「魔術は秘匿しないと力が落ちちゃうのに」

 

「魔術基盤は、広く信仰を集めたほうが強力だというのに、

 ちょいと矛盾を感じるなあ。

 世界が豊かになって、神や幻想に縋らなくてもよくなったからかな」

 

 温暖な冬木は、冬の風もどこか優しい。森々と冷気を結ぶアインツベルンの森とは違う。常緑の木々、咲き初めた白梅が香り、水仙が蕾をほころばせる。彼方に銀嶺を望む空は、澄み切って明るく蒼い。アーチャーはそれを愛おしそうに見ていた。

 

「そんな今の世を見たい、楽しみたいって英霊を呼べばいいんだ。

 二週間楽しんだら、自殺してもいいって納得ずくで来てくれる相手を」

 

 そんな穏やかな顔で、二月の空気よりも冷めたことを言う。呆気に取られた凛とイリヤに、彼はなんともいえない笑みを浮かべたものだ。

 

「応じる相手は、けっこういると思うんだよ。

 特に、日本の英霊を呼べるように改正すればさ。

 この国では、戦死者を英霊と呼ぶそうじゃないか。

 彼らが生を捧げた国の繁栄を、守ろうとした人の行く末を、

 その目で見ることができるなら。……私なら見たいなあ」

 

 彼もまた、そういった人々を指揮した軍人であった。一つ一つの言葉が、少女達の心に沈殿していく。 

 

「日本には、神様を呼んで収穫を祈願したり、

 亡くなった人の魂が、子孫のところへ里帰りする信仰があるそうだ。

 死後に戦ってもう一度死ねと言うよりも、

 期限が来たら贄として協力してもらうけど、

 現世を楽しんでくださいとお願いしたら、受け入れてくれるんじゃないかな?」

 

 イリヤの父は、徹底的な合理主義で、敵を排除した男だと聞いた。だが、アーチャーは、システム自体をもっと割り切ったものにしろと言う。聖杯戦争に勝つことだけを教えられて育ったイリヤにとって、頭を殴られたような衝撃だった。

 

「ねえ、シロウ。

 ライダーとセイバーが戦っているときに襲われたら、

 シロウが相手のマスターと戦うのよ。

 マトウシンジやサクラと戦える? いざとなったら殺せる?」

 

「……わからない」

 

「逆に、セイバーがライダーのマスターを殺しても平気?」

 

「あ……」

 

 琥珀が大きく見開かれた。士郎は、サーヴァントを倒すことばかり考えていた。マスターを狙うのはれっきとした戦法だが、自分にできるのか。あるいはセイバーに命じることができるのか。動揺した顔に向かって、イリヤはにっこりと微笑んだ。

 

「シロウはほんとにヘッポコね。殺せるのが魔術師よ。

 わたしがシロウにやったみたいに」

 

 イリヤは身を翻すと、離れへと向かった。背を向けて流れる銀の髪。追いすがろうとした士郎に、小さな声が聞こえた。

 

「あの時はゴメンね。でも必要になったら、きっとまたやるわ。

 シロウはどうするのか、考えておくのね」

 

「何をさ?」

 

「セイバーは聖杯がほしいんでしょ?」

 

 立ち尽くす士郎を置いて、小さな背が遠ざかる。セイバーの望みは、聖杯を手に入れて国を救うことだと聞いた。士郎は、セイバーの望みを叶えてやりたいと思っていた。

 

 でも、それに立ち塞がるのが、慎二と桜だったら? とんでもないステータスを誇る、最強のバーサーカー ヘラクレス。使い勝手のよくない宝具を巧みに運用し、不敗を守るアーチャー ヤン・ウェンリー。

 

 遠坂、アインツベルンの陣営は、アーチャーの主導で一応のまとまりがついている。士郎は、幸運にもそれに乗っかっていたに過ぎない。あくまで間桐が聖杯を望むなら、セイバーのために友人と妹分を殺せるのか。

 

「じいさんが言ってたのは、これだったんだ……」

 

『誰かを助けるということは、誰かを助けないということだ』

 

 その先を見ていたのがアーチャーだった。数少ない魔術師が、六十年周期で殺しあったら、御三家なんてとっくに滅びてしまっただろう。それを防ぐルールがあったのではないか? 伝わっていないのなら、今後は折り合う形を求め、少なくとも人間に犠牲が出ないようにすべきだと。

 

「でも戦いの中で、より多くを助けるんじゃ遅いんだ。

 もっと前に、やらなきゃならないことがあったんだ」

 

 それは、秘匿を旨とする魔術では不可能だ。公明正大に、多くの味方をみつけ、力になってもらうこと。幽霊のサーヴァントではなく、人間のマスターが、人間に対して行わなければならない。士郎に弓道部をまとめさせたのは、きっとその手始めだったんだろう。

 

 じゃあ、自分がなすべきは。士郎は拳を握りしめた。

 

「慎二に聞かなきゃ。あいつの願いを」

 

 『魔術師』ではなく、『友人』として対することじゃないだろうか。



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閑話9:疑似親子

 アーチャー自身のサーヴァントだという、ワルター・フォン・シェーンコップ。遠坂凛と彼の相性は最悪に近かった。

 

 人のことを、色々足りない女性未満とは何事か。だから心配無用なんて、失礼にもほどがある。

 

 しかし、シェーンコップにはシェーンコップの言い分がある。自分が敬愛を捧げた宇宙一の名将を、死んだ後まで戦いに引っ張り出すのだ。おまけに『サーヴァント(下僕)』だなどと、尊厳のかけらもない単語でくくり、首縄に等しい令呪で縛って。

 

「あの人もあの人だ。

 人間の平等を守る思想のために、十倍の敵に喧嘩を売ったくせに」

 

 呟いて、シェーンコップは尖り気味の顎をさすった。

 

「ふん、まあ、仕方がないな。

 自分がそうだっただけに、寄る辺ない孤児にとことん弱いからな」

 

 凛は、アーチャーが定位置にしているソファに座った美丈夫に、刺だらけの視線を突き刺した。アーチャーよりも頭一つ近く長身で、体格は二回りほども大きい。長い手足を優雅に組んで、貴族のごとき態度で、マスターのマスターを値踏みしている。

 

「ずいぶん、アーチャーへの態度と違うじゃない」

 

 あの恭しさはなんだったのだ。

 

「それはだな、実績の違いさ」

 

 シェーンコップはシニカルな微笑を浮かべ、片眉を上げてみせた。

 

 腹立つ! 決まってて格好いいだけに、ものすごく腹立つ!

 

「俺を、いや閣下を従えるに足る、器量なり技量なりを見せてもらいたいね。

 でなければ、俺自身の忠誠を、フロイラインに捧げる理由はないな」

 

「……言うじゃない。あなたのほうが、よっぽどアーチャーより強いのに」

 

 シェーンコップは鼻で笑った。

 

「随分と単純だな。我々は、古い時代のサーヴァントとは違う。

 この時代の軍隊でも、腕っ節で序列が決まるわけじゃあるまい」

 

「う……」

 

「俺たちの世界の軍隊の花形は、宇宙戦艦による艦隊戦だ。

 その最高峰の用兵家が、ヤン・ウェンリーだ。

 諸君らは侮っているようだが、あの人は天才だぞ」

 

「あいつが天才ですって!? 

 それは、敵の皇帝ラインハルトのことじゃないの?」

 

 昨夜、アーチャーが凛に語ったのは、神話的な英雄だった。金髪碧眼の絶世の美青年。彼の天才性、激しさと孤独を、詩的なほど美しく表現をしてみせたものだ。凛がそう言うと、シェーンコップはまた顎をさすった。

 

「やれやれ、他人のことはお見通しのくせに、自分のことには鈍感な人だ」

 

「どういう意味よ?」 

 

「あの坊やは戦略の天才なのさ。戦争をするための準備を完璧にこなす。

 戦いは数だ。物量を揃えれば、まず負けないものだ」

 

「アーチャーも同じことを言ってたわ」

 

「その『数』を個人の才で食い破るのがあの人だ。

 戦略の天才をして、目の色を変えて飛びつかせる戦術の天才。

 それがヤン・ウェンリーだ」

 

 目を瞠った凛に、美丈夫は唇の端を上げた。

 

「考えてみるんだな、閣下のマスター。 

 その天才との幾多の戦いに生き残らなくては、

 君に語ったようなことは言えないはずだが」

 

「あれって、そういうことだったの!?」

 

「圧倒的な大軍と、片手の指では足りんほど戦い、一度も負けたことがない。

 それが俺の上官だ。自ずと基準が厳しくなるのも納得していただけるだろう?」

 

「くっ!」

 

 歯噛みをする黒髪に翡翠の瞳の美少女に、シェーンコップは嫌味たっぷりに告げた。

 

「幸い、短期間でも器量や技量は成長が可能だ。

 女としての成熟とは違ってな」

 

「やっぱ、あんたとは相容れない!」

 

「おや、相互理解が深まったな。結構結構」

 

 相互理解に比例して、溝も深まっていく両者であった。



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8章 謀略のチェスゲーム
46:朝食時の来訪者


注:独自設定には間桐鶴野の生存を含みます。


『その剣を抜いたら、もう戻ることはできないよ』

 

 魔術師の予言に、少女は微笑んで答えた。

 

『でも、みんなが笑っていました』

 

 岩に突き立てられた黄金の剣。王にふさわしい者を選定する剣。国中から集まった、数多の騎士に勇者、いずれの手にも納まらなかった剣を抜いたのは、まだ少年の騎士見習いだった。いや、正しくは男装した少女。

 

 彼女は男装のまま王位を継いだ。選定の剣は彼女に不老を与えた。輝かしく、美しい少年王としての統治が始まった。正義と公平を重んじ、武技に優れた王の下に、国中から騎士が集い、忠誠を誓った。

 

 これで国を守り、民が安んじて暮らせる日が来る。騎士らの王はそう思った――。

 

 

 衛宮士郎の朝は早い。魔術の鍛錬に始まり、朝食の準備をして、学校に行く。それが平日。日曜日も登校以外は一緒だが、今朝はいささか違っていた。

 

「あー、七時かぁ……。寝過ごしちまったな」

 

 目覚ましなど必要としないほど寝起きがいい士郎だが、鳴ったことにも気がつかなかった。彼を目覚めさせたのは、空腹を刺激する芳香だった。淹れたての珈琲と、焼きたてのパン。腹が鳴るのと同時に、士郎は跳ね起きた。

 

「し、しまった!」

 

 慌てて着替えて、台所へ走る。そこにいたのは、薄墨の髪と瞳の後輩ではなく、雪兎を思わせる配色の妙齢の女性。士郎の足音がうるさかったのか、見返す瞳にちょっぴり険がある。

 

「グーテン・モルゲン」

 

「あ、リ、リズさんか。お、おはよう……。そか、そうだよな」

 

 やっぱり、頭が回っていないようだ。嘘かまことかはともかく、昨日の部活を体調不良で休んだ桜が来るはずがない。洋食の匂いに、つい桜だと思ったけれど、マキリを知るアインツベルンのマスターもいるんだから。

 

「ゴハンできてる。食べて」

 

「え、いいのか? ありがとう」

 

 促されて居間に行くと、イリヤが優雅な手つきで珈琲をかき混ぜていた。

 

「シロウおはよう。先に食べちゃったけど、シロウもどうぞ。

 日本ってスゴイのね。パンを作って焼いてくれる機械があるんだもの。

 うちのパンのほうがおいしいけれど、これも悪くないわ」

 

 聞けば、携帯電話などを買いに行った際に、自動パン焼き機も買ったのだという。

 

「イリヤの家って、パンまで手作りしてるのか?」

 

 銀髪がこっくりと頷く。

 

「うわ、金持ちってすごいな……。あれ、セイバーは?」

 

「道場に行ってもらいましたわ。

 一応、お嬢様の護衛を名乗ってもらっていますしね。

 実のところ、台所にいても手伝いになりませんから」

 

 答えは、セイバーの仮の上司から戻ってきた。

 

「す、すみません……。俺、呼んで来ます」

 

 士郎は決まり悪げに赤毛をかいた。これも召喚の不備の影響だ。ラインが非常に細いらしく、心話や視界共有などがアーチャー主従のようにいかない。もっとも、彼らほどつながりがよいのも、それはそれで大変そうだ。

 

 士郎は玄関から出ると、道場に足を向けた。

 

「セイバー、いるのか? 入るぞ」

 

 冬の朝の森閑とした空気が、板の間に充満していた。その中に、正座して目を閉じる、金と青の少女。一幅の絵のような光景だった。士郎は呆けたように見惚れ、息を呑み、言葉を失くしてしまった。長い金の睫毛があがり、秘められたエメラルドが露わになる。

 

「おはようございます、シロウ」

 

「お、おはよう、セイバー。あ、朝メシだってさ!

 今日はすごいぞ。パンまで作ってくれたんだ」

 

「素晴らしい……。朝餉に焼きたてのパンとは、最高の贅沢です。

 アーチャーではありませんが、今はなんと平和で豊かなのでしょう」

 

 立ち上がって、いそいそと居間に向かうセイバーは、美しく愛らしい少女にしか見えない。でも、彼女もまた、戦いに生き、剣で名を成した英雄のはずだった。こんな小さな背で、細い肩で、甲冑の重さに耐えるのも大変だっただろうに。明け方の夢のぼんやりとした記憶に、士郎は考え込んでしまうのだった。

 

 アインツベルン謹製の朝食は、一流シェフもかくやという味だった。いや、士郎は一流シェフのレストランに行ったことはないが。

 

「先日は、言葉の綾とはいえ、失礼を……。申し訳ありませんでした」

 

 と、セイバーはアインツベルンのメイドに詫びたものである。最初の朝に、桜が作ったサンドイッチはとてもおいしかったが、あれはいうなれば家庭の主婦の味。こちらはプロの料理人の味だ。昨夜のバイキングも多種多様で、常若の女神の食卓も及ばぬほどの彩りだったが、オムレツの火の入れ方や、珈琲の香りやコクの深さが歴然と違う。そして、焼きたてのパン。添えられたバターやジャムも、きっと高級品だろう。

 

「すごいよな。セラさんもリズさんも、料理上手だなあ」

 

 士郎がドイツの食に持つイメージは、ビールとソーセージとポテト程度のものだ。アーチャーはフリカッセはシチューだと教えてくれたし、ドイツ語も話せるから詳しいみたいだけど。士郎はフォークの手を止めて、ぽつりと呟いた。

 

「そうだ、アーチャー、大丈夫かなあ。……遠坂も」

 

「だからわたしがマスターになってあげるって言ったのに」

 

 イリヤは頬をふくらませたが、士郎はぎょっとした。

 

「それって、遠坂に死ねってことじゃないか!」

 

「ぜんぜんちがうわ。令呪は相手の同意があれば、かんたんな魔術で移せるの。

 力ずくでうばうこともできるけど。

 じゃないと、御三家のマスターはリタイヤができないでしょ?」

 

「知らなかった……」

 

「リンたら、うっかりさんね。でも」

 

 イリヤは言葉を切って、セイバーをちらりと見た。

 

「魔力喰いのアーチャーがいるから、リンにそんな余裕ないし、

 バーサーカーのいるわたしが、セイバーを欲しがるはずないし、

 シロウが他のサーヴァントまで持てるはずがないし。

 うん、やっぱり教える意味ないかも」

 

 無邪気な駄目出しに、赤い頭ががっくりと下がった。

 

「あう。遠坂が、アーチャーは燃費悪いってずっと言ってたはずだよな……」

 

 千人を優に超える騎士団が宝具の、射撃が下手なアーチャー。

 

「あれ、でも待てよ。あいつ、戦艦乗りだって言ってただろ」

 

「ええ、本来ならばライダーだっただろうとも言っていましたね」

 

「でもキャスター扱いされるかもしれないって言ってなかったかしら?」

 

 信号機の配色の視線が交錯して、三人の頭上を無数の疑問符が旋回する。

 

「で、名前がヤン・ウェンリーって。誰なのさ?」

 

「皆目見当がつきません」

 

 セイバーはかぶりを振った。真名を知れば、聖杯がその英雄の知識を与えてくれる。だから、聖杯戦争ではサーヴァントは名を秘し、クラスで呼ぶ。真名が知れると、弱点を晒すことに繋がりかねないのだから。

 

「しかし、今は彼のことよりも、ライダーとランサー、

 キャスターとアサシンへの対応を考えるべきでしょう」

 

「キャスターには、遠坂とアーチャーが話をつけたみたいだけど、

 このアサシンってさあ……」

 

 士郎は、リズが撮った心霊写真に眉を寄せた。セイバーの話によると、赤い外套に黒い軽鎧を身につけた長身の青年だったそうだ。なかば透き通った画像でも見て取れる、褐色の肌に銀髪、鋼色の瞳という、異彩を放つ組み合わせ。秀でた額に通った鼻筋の、なかなか端正な顔立ちである。

 

「……なんかムカつく顔だよなー。

 というよりさ、こんな派手な格好のアサシンがいていいのかよ」

 

 セイバーは口許に手をやると、小首を傾げた。

 

「前回のアサシンは、黒装束に髑髏の仮面でしたが」

 

「そっちのほうが、よっぽどそれっぽいじゃないか。

 で、コイツ、暗殺は専門じゃないって言ったんだろ?」

 

「はい。そも、暗殺者が姿を晒すのでは意味がない。

 まして、門番と名乗るからには、ずっとここにいるのでは?

 キャスターとアサシンのマスターが共闘しているとしても、

 アサシンの側に全く利がない。不自然です」

 

 またまた唸り声の混声合唱。士郎は赤毛をかきむしった。

 

「ランサーがどうするか、結局答えをもらっていないんだよなあ」

 

「でも、アーチャーはランサーとの約束をまもったわ。

 これは大きいと思うの。リンのお願いを聞いてくれるかもしれない」

 

 令呪を費消したうえで、自らの消滅覚悟で守られた誓約である。古代ケルト人のクー・フーリンこそが、その価値を認めるだろう。

 

「うー、結局、俺達がライダーとの決着をつけるしかないのかな」

 

 昨日、イリヤにも言われたが、慎二や桜をセイバーに殺せと命ずることはできない。そしてこの手で殺すことなどできやしない。士郎はそれを伝え、言い添えた。

 

「でも、俺、思うんだ。

 慎二はちょっと捻くれてるけど、根はいいヤツなんだ。

 桜だって、本当に優しい、いい子なんだ。

 こんなことする理由が何かあるんだよ。

 それを教えてもらえば、ほかに何か方法があるかもしれない」

 

「なにか他の方法ですか……。ライダーを斃せば……?」

 

 セイバーの言葉に、士郎は勢いよく頭を振った。

 

「慎二は魔術回路がないから、魔術師になれない。なのにマスターだ。

 じゃあ、ライダーは誰が呼んだのかってことになる」

 

 認めたくはなかった。慎二には呼べない。魔術師としての知識がある彼の父や祖父なら、ペルセウスを呼ぶんじゃないか。そうした情報を元に、疑問から導かれる答えは。アーチャーが何度も見せた思考法を、士郎もいつしかなぞっていた。

 

「サーヴァントがマスターに似るんなら、……桜しかいないじゃないか。

 ほかに女の人はいないんだから」

 

 俯き、拳を握り締めて、士郎は呟いた。

 

「そんなのおかしいだろ。魔術と関わらないために養子に行くんだろ。 

 遠坂だって、桜を守るために関わらないようにしてたんだよな。

 じゃあ、なんで桜にサーヴァントを呼ばせたんだよ。

 約束を破ってるってことじゃないか!」

 

 魔術刻印は、血縁者でなくては継承できない。養子である士郎も、衛宮の魔術刻印を継いでいない。養女の桜にも同じことが言える。他家の魔術を学んでも、ろくに使うことができないだろう。

 

「そうとも言い切れないわ。マキリの血を残すために引き取ったのなら」

 

 顔を強張らせた士郎に、白銀の妖精は淡々と告げた。

 

「そんなにめずらしいことじゃないの。

 マトウシンジがだめでも、子どもには魔術回路があるかもしれないわ。

 マトウが引き取るようなリンの妹なら、きっとたくさん回路を持ってる。

 半分になったとしても、ゼロよりずっといいでしょ?」

 

「そ、それって……」

 

「はっきり言いましょうか。

 サクラはマキリの子どもを生むために引き取られたのよ」

 

「そ、そんな!」

 

 顔色を変えるマスターに、金沙の髪が左右に振られた。

 

「いいえ、シロウ。私の国でも珍しくはありませんでした。

 マキリの当主は、五百年前の人間だというではありませんか。

 彼の常識では、むしろ当然のことでは?

 年齢と性別を違えれば、あなたたちの父になる」

 

 遠坂も古い家系だという。伝統を重んじ、貴族的だったという凛の父は、それほど抵抗を覚えないのではないか。セイバーはそう続けた。イリヤも言い添える。

 

「マキリの魔術を学び、子どもに伝える準備をしながら、

 他の魔術師の手から守られるの。でないと、子どもに伝えられないじゃない」

 

 士郎は不承不承に頷いた。そう説明されれば、わからなくはない。きちんと機能していたら、一理はあると思える方法だ。

 

「でもね」

 

「でも、なにさ?」

 

「魔術は、家というか血による違いが大きいの。

 シロウもキリツグが教えてくれた魔術、ちょっとしか使えないんでしょ」

 

「う、うう、うん」

 

 実は、師匠の凛の教えも、初歩の初歩の『し』の状態である。

 

「トオサカの魔術は、宝石魔術。つまり、魔力を出すのが得意なの。

 サクラも元々はそうだと思うわ」

 

 幼いイリヤがこんな解説をするなんて、思ってもみなかった。琥珀と緑柱石が動きを止める。

 

「でも、令呪を作ったのはマキリ。そういう魔術だと思うの。

 ほんとうは霊体のサーヴァントを縛ることができるような」

 

「遠坂がライダーを凍らせたみたいなやつか?」

 

「ううん、かなり違うと思う。

 令呪はサーヴァントが現界している間、使わないとずっと残ってるもの。

 世界の修正に、二週間も耐えられるってことよ。

 アハトお爺さまも言ってたわ。一種のフィジカルエンチャントだって」

 

 なんだか、ものすごく難しいことになってきた。

 

「よ、よくわかんないけどさ、すごい魔術ってことでいいのか」

 

「うん、そうよ。マキリとトオサカは、かなり魔術が違う。

 それはわかるでしょ、シロウ」

 

 これには頷かざるをえない。十年分の魔力を使って、数時間の氷結を可能とする凛も大変なものだが、攻撃と瞬発力、束縛と持続力という差が見て取れる。

 

「じゃあ、どうやったらサクラがマキリの魔術ができるようになると思う?」

 

「えっ……?」

 

 長い銀の睫毛から、大人びた視線が覗く。

 

「魔術は、血を浴び、死を許容するもの。

 シロウの間違った鍛錬よりも、辛いことかもしれないのよ」

 

 むしろ、魔術などと関わらないほうが幸いなのかもしれない。

 

「でも、遠坂とアーチャーは、慎二が間桐の魔術師だって言ったって」

 

 士郎は考え込んだ。怪我が治るまで休めと言えばいいのに、目障りという言葉を付け加えてしまう友人のことを。そう言ったのもアーチャーだった。ツンデレと表現したのはイリヤだが。

 

「もしかしたら、それもあいつなりのサインかもしれない……。

 なあ、イリヤ。イリヤがアインツベルンのマスターとして、

 間桐に連絡するのはありなんだよな?」

 

「ええ、もちろんよ」

 

「俺が、マスターとして接触するのもいいんだよな?」

 

 小さな銀の頭が、上下に動く。

 

「それも構わないけど、どうするの? セイバーがシロウのサーヴァントだってわかったら」

 

 その時だった。イリヤの声をかき消すほどに、玄関の呼び鈴が連打されたのは。三人は顔を見合わせ、家主が立ち上がり、返事をしながら玄関に向かう。セイバーとイリヤの順でその後に続く。すりガラスの引き戸が、ぼんやりと透かす赤い影。

 

「おー、遠坂か? おはよう、戸開いてるぞ」

 

 言わせも果てず、勢いよく戸が開いた。大荷物を抱え、髪を乱し、肩で息をした凛が立っていた。

 

「し、士郎。お願い、しばらく泊めて。わたしもう限界だわ!」

 

「えぇーっ! どうしたんだよ遠坂ぁ!?

 や、やっぱ、アーチャーの部下が……!?」

 

「アイツだけなら我慢したわよ!」

 

 凛は玄関に足を踏み入れると、どさりと荷物を置いた。

 

「じょ、冗談じゃないわ!」

 

「おう、俺も邪魔するぜ」 

 

 聞き覚えのある声に、士郎の動きが止まる。

 

「貴様っ!」

 

 セイバーが蒼い光を纏い、銀青の装束に姿を変えた。凛の背後で、ひらひらと手を振っているのは、昨晩と同じ服装をしたランサーだった。 

 

「あ、あの魔女、仕事が早すぎなのよ!」



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47:裏側に潜むもの

 昨夜、アーチャーがランサーに携帯電話を渡したのは、霊体化させないためだった。キャスターに、彼との会食と対決を匂わせたのも煽動だ。彼女の探査能力で追跡し、マスターか潜伏先が割れればいいなあという程度には、アーチャーも他力本願だった。

 

 しかし、アーチャーは、生活のかかった女性の底力を過小評価していた。ゲリラ戦の名手で、必殺の槍を持つ神出鬼没のランサーは、彼女にとって二番目に怖ろしい相手だ。捕捉する機会を虎視眈々と狙っていたのは、キャスターも同じだったのである。昏倒事件で、被害者を細かく選べるほどの彼女は、ランサーの居場所も探していたのだ。

 

 今までは掴みきれなかったが、アーチャーとの対決が決定打だった。公園の戦いにこっそり干渉し、ランサーの力を削いでおき、逃走経路で罠を起動した。戦闘で消耗し、実体のままで逃走するランサーは棚から転げ落ちた牡丹餅だ。

 

 外人墓地を突っ切ろうとして、骸骨に十重二十重に取り巻かれたところを、短剣で一撃。

 

「いやなぁ、クラスによるうまい戦い方の話を聞いた後で、

 キャスターが刃物でブッ刺してくるとは思わねぇだろ?」

 

 遠坂邸の呼び鈴を連打して、凛を叩き起こしたランサーは蒼い髪をかいてそう言ったものだ。

 

「あれほど小官を手こずらせておきながら、女の細腕でやられるとは。

 情けないにもほどがある」

 

 灰褐色の視線を漂白した美丈夫が腕を組む。ランサーが犬歯を剥き出して反論した。

 

「てめえも真夜中の墓場で、骸骨の集団に取り巻かれてみろよ!

 挙句に黒いフード被った女が、短剣握り締めて突っ込んでくるんだぜ!

 普通は慌てるだろうが!」

 

 ……絵に描いたようなホラーだ。いや、幽霊同士の戦争に今さら言うのもナンセンスか。怖がらずに、慌てながらも立ち向かうとは、さすがは歴戦の英雄。

 

 しかし、こうしてここにいるこということは……。凛はうんざりしながら思考を巡らした。

 

「骸骨どもは蹴散らして、そいつも槍で突いたんだがなぁ……」

 

「でも幻影だったんでしょ」

 

 質問ではない確認に、ランサーは鼻に皺を寄せると後頭部を掻いた。

 

「おう。俺としたことが、背中から刺されるなんてよ……」

 

 アーチャーの部下も反論はしなかった。これについては人様をどうこう言えない。倒したと思った敵に、背後からトマホークを投擲されたのが死因だったからだ。もっとも、サーヴァントは少々刺されたぐらいで命を絶たれたりはしない。キャスターの短剣が絶ったのはもっと深刻なもの。ランサーとマスターとの契約だった。

 

「あれがキャスターの宝具だったんだな。

 今の俺は、魔女のサーヴァントってわけよ。 

 で、嬢ちゃんの護衛を令呪で命令された」

 

「気前のよすぎる申し出だ。疑ってかかるべきですな、閣下のマスター」

 

「要するによ、あの魔女は勝つんじゃなくて、生き残りを考えたんだろうさ」

 

 今後のことを考えるなら、今まで搾取した魔力を保たせなくてはならない。これ以上搾取して、事件を起こすのは禁物だ。戦いによらぬ利をもたらせる、管理者遠坂の機嫌を損ねるべきではないからだ。

 

 となると、対魔力に優れるが、戦いに魔力放出を用いるセイバーよりも、白兵戦技能に優れ、燃費の良い自分のほうが手駒として望ましかったのだろう。ランサーはそう踏んでいた。

 

 もしも、アーチャーがこの言を聞いていたら、頷きながらも補足しただろう。キャスターにとって、最も怖ろしい相手へのカウンターとして欲したのだと。『彼』が彼女の敵に回った場合、霊体化できないセイバーでは、彼女の夢の源泉を守れないからだ。

 

「俺がこうなったのは、管理者に恩を売るためだ。

 あの野郎が夕食に招いた結果なんだから、

 アーチャーのマスターとして責任をとってもらいてぇな」

 

 凛はすっくと立ち上がり、部屋へと戻った。再び居間に姿を現した時は、身支度を済ませ、手には片付けていなかった先日のお泊りセット。

 

「お、どうしたんだよ」

 

「……嫌よ。絶対に嫌! こんな男どもと合宿なんて無理っ!」

 

 ――かくて、遠坂凛は自宅を出奔したのであった。

 

「小官としては、こちらのサーヴァントと共闘のうえ、

 この男を聖杯に突っ込むのが最善と愚考いたしますね」

 

 見えざる剣を構え、ランサーと対峙するセイバー。ランサーの背後には戦斧を握る白い騎士が現れる。

 

「うん、わたしもそのほうがいいと思う」

 

 頷くイリヤの背後には、膝立ちした鉛色の巨人がうっそりと顕現した。

 

「ちょっと待ったぁ!」

 

 叫んだのは二人の男。渦中の槍兵と家主の士郎だ。

 

「朝っぱらからやめてくれよ! ランサーはともかくとして家まで壊れちゃうだろ!」

 

「……おい」

 

 ともかく呼ばわりのランサーは頬を引き攣らせたが、聖杯戦争のルール違反であることは違いない。

 

「それに、ランサーはライダー討伐に協力してもらうつもりだったじゃないか!

 善は急げだ。イリヤ、間桐の家に行こう」

 

 白銀が首を傾げた。

 

「え、今から?」

 

 赤毛が力強く頷く。

 

「そう、今からだ。セイバーも着替えてくれ。

 ランサーも、俺と一緒に来てくれないか」

 

「お、おう。俺はいいぜ」

 

 ここから逃げられるんなら、何でも口実にしてやる。必死の思いを眉宇に滲ませた少年は、蒼い髪の青年を頷かせた。

 

「うし! 行くぞ!」

 

 風の速さで支度を済ませ、士郎は一行を引き連れて駆け出した。遠坂凛を置き去りにして。

 

「あ、あいつ、弟子の分際で逃げやがったわね……!」

 

 シェーンコップは肩を震わせている少女に何も言わず、霊体に戻った。百戦錬磨の色事師は、女性と修羅場になる局面を作らないのだ。

 

「遠坂様、事情はわかりかねますが、ひとまずお上がりになってください」

 

「……もうゴハン食べた?」

 

 二人のメイドが掛けた声の最初に頷き、次に首を振る。

 

「では、ありあわせで申し訳ありませんが、

 よろしければお召し上がりになってください」

 

 そして、凛もアインツベルンの素晴らしい朝食を供されることになったのだった。食後が珈琲だったのは、凛にとって画竜点睛を欠いたのだが。

 

「もう、こんなドサクサで間桐をどうこうできるはずないじゃないの……」

 

 朝っぱらから疲れた凛は、座卓に突っ伏した。

 

「早く起きてよ、アーチャー」

 

***

 

 結果的にいうなら、ドサクサでどうにかなってしまったのである。半時間後、凛は顔を覆った。

 

「もぉ、いやぁ……。嘘でしょう」

 

「ちゃんと姿隠しはしてもらったぜ。一般人に見られちゃいねえよ」

 

 ランサーの小脇に抱えられた慎二と、桜を姫抱きにしたライダーを加えた一行が戻ってきたのだ。

 

「これはなぁ、嬢ちゃんの攻撃が効き過ぎたんだとさ。

 そいつに下手を打ったらしいぜ」

 

「……ハイ。私のせいで、サクラが……。

 お願いです。サクラを、サクラを助けてください!」

 

 実体化したものの、色も魔力も薄れたライダーが、貝紫が地に触れるほどに腰を折る。

 

「当たり前よ。わたしは桜の姉なんだから」

 

 青褪めて、目を開ける様子もない桜に、凛は眉を顰めた。

 

「これは……魔力切れみたいね」

 

 かなり消耗している。このままでは早晩、衰弱死するだろう。しかし管理者として、言うべきことが別にある。凛は、美しい騎乗兵を鋭く見据えた。

 

「でも、桜を回復させたはいいけど、

 ライダー、あなたに悪事を働かれたんじゃ元も子もないわ。

 先に、結界の解除をしてもらいましょうか」

 

 琥珀色が驚愕に見開かれた。 

 

「そんな、遠坂! 早く桜を助けてくれよ!」

 

「いいえ、シロウ。それはリンが正しい」

 

「セ、セイバー!?」

 

 思いがけないことに、凛の賛同者は士郎の従者だった。 

 

「管理者とは、この地を管理するということなのでしょう。

 悪を為した者を、身内だからといって、情に流されてはいけない」

 

「だって!」

 

「士郎とセイバー、論争は後にして。

 ねえライダー。あなたががさっさとやれば、桜は早く治るの」

 

「わかりました」

 

 踵を返し、霊体化するライダーを見ていたランサーにも、凛の指令が飛ぶ。

 

「あと、ランサーも同行してちょうだい。解除の反対をやられたら困るから」

 

「人使いが荒いじゃねえか……」  

 

 軽口を叩こうとしたランサーに、心話が突き刺さった。現在のマスター、キャスターの命だ。さっさと行かないと、惨く殺すと息巻いている。周囲を見回すと、バーサーカーの隣で可愛らしい仁王立ちをするイリヤが。

 

「しょうがねえな。じゃ、俺も行ってくるわ。こいつで連絡するからよ」

 

 ランサーはジーンズのポケットから携帯を取り出した。ひょいと投げ上げて霊体化し、ふたたびキャッチした時には、群青の武装を纏っていた。軽々と軒先に飛び上がると、あっというまに屋根を足場に学校へ向かっていく。士郎は、彼に向けていた視線を、呆然と上空に向けた。

 

「ランサーって……現代に馴染みすぎじゃないか?」

 

 その約十五分後、凛の携帯が鳴って、一同はその念を新たにしたのだが。凛は、虎の子の十年物のエメラルドで、ライダーとの約束を果たした。とはいえ、意識が戻るまでの回復ではない。あくまでも、これは点滴のようなもの。病気と同じで、桜の回復は本人の体力に任せるしかない。

 

 意識が回復したのは、桜の兄のほうだった。

 

「あ、大丈夫か、慎二?」

 

 覗きこんでくる琥珀の瞳。慎二は呆然とし、あたりを見回した。

 

「は、え、衛宮!? あ、な、何が……」

 

「それは俺が聞きたいぞ。どうしたのさ。

 いや、どうして、慎二たちが聖杯戦争に参加したのさ」

 

「衛宮も聖杯戦争に参加しているくせに、愚問だね。

 遠坂の弟子なら知っているだろう。ぼくは間桐の魔術師だ」

 

「俺は、たちって言ったぞ。

 慎二が間桐の魔術師なら、桜はなんなんだ。

 なあ、ライダーは、本当は桜のサーヴァントなんだろ?」

 

 士郎と慎二のやりとりを、凛は襖を隔てて聞いていた。士郎と桜の交流は、慎二との友人関係が先にあった。ならば、ここは士郎に任せよう。そう判断したのだ。

 

 士郎の問いに返されたのは、舌打ちだった。

 

「ああ、そうさ。まったく、あのグズにふさわしいはずれサーヴァントだよ。

 桜なんかに、間桐の跡取りが務まるもんか。

 だから出てけっていってやったのに!」

 

 やっぱり、わたしが出ようかしら。ぶっ血殴ってやるべきよね。左袖をまくり始めた凛に、穏やかな心話が届いた。

 

『……ちょっと待ちなさい。毒舌や憎まれ口を叩くのが、愛情表現という人もいるんだ』

 

『あ、アーチャー? 大丈夫なの!』

 

『いいや、あんまり。だが、ここは士郎君に任せてごらん』

 

 凛は、浮かせた腰を落とした。凛がやろうとしたことを、士郎が始めてくれたからだ。赤毛の少年は、猛然と反論を開始したのだ。

 

「慎二には悪いけど、おまえには魔術回路がないって聞いたぞ。

 どうやって、魔術師になる気なんだよ」

 

「そんなもの、聖杯戦争に勝って願えばいいのさ。

 そのためのサーヴァントじゃないか。

 あいつは、お爺様に命令されて呼んだくせに、戦いたくないって言うんだぜ」

 

 凛は唇を噛んだ。アーチャーの推測は当たっていたのだ。

 

「だから、僕が引き受けてやったんだ」

 

「それで人を襲ったり、結界を張ったりしてたのかよ!」

 

「サーヴァントを呼んで、戦争する気なら当然じゃないか。

 魔術師としての知識や、心のあり方のほうがずっと大事なんだよ。

 まるっきりなっちゃいないね。嫌なら呼ばなきゃいいのさ。

 僕が出てけって時に出て行かないからこうなるんだ」

 

「なんだとぉ!」

 

 士郎の大声に、桜の瞼がピクリと揺れた。力なく睫毛が震える。凛は息を呑んだが、結局それ以上の動きにはならなかった。

 

『言葉の裏側に、心が隠れているものだよ。よく聞いて、彼の心を読み取るんだ』

 

「あいつ、馬鹿なんだよ。魔術回路があるだけで、僕を見下してやがる。

 なんだよ、言うに事欠いて、ごめんなさいって。

 僕が跡取りになれない、自分が選ばれたってさ」

 

「そ、それは……」

 

 とりなそうとする士郎に、慎二は青みがかった瞳を眇めた。

 

「本当に馬鹿だ。魔術師として選ばれることで、蟲にたかられてるのにさ。

 そいつを自慢して、僕を哀れんでやがる。どこまでも大馬鹿なんだよ!」

 

「な、な、なんだって!?」

 

 凛は手のひらに爪を食い込ませた。これが昨日、凛を不機嫌にさせた原因だった。アーチャーと調べた先祖の名前から目星をつけた文書に、こんな一文が載っていたのだ。

 

――マキリ・ゾォルケンなる魔術師、其は虫怪のたぐひなり。限りなく穢らわし。努々(ゆめゆめ)、血を交わらせること(なか)れ。――

  

 遠坂と間桐は不干渉。これは、遠坂側の訓戒であったのか。

 

「あんな甘ちゃん、間桐には不要さ。さっさと逃げ帰ればいい。桜は……」

 

「本当は遠坂の妹、そうなんだろ」

 

「はっ、恐れ入ったね、衛宮。いつの間に桜の姉貴まで誑しこんだんだよ」

 

「士郎君と凛の名誉のために言わせてもらうが、それを教えたのは私だよ」

 

 第三の声が割って入った。襖の前にモノクロのサーヴァントが実体化する。

 

「お、おまえは!」

 

「あ、アーチャー! 大丈夫、じゃ、ないよな……」

 

 少年たちが見たのは、ライダーよりも薄れた姿の青年だった。 

 

「やっぱり、おまえのせいか……!」

 

 睨まれたアーチャーは、小さく肩を竦め、まったく悪びれることなく反論した。

 

「遠坂家の戸籍を取れば、簡単にわかることだ。

 当時を知る大人もいるだろう。

 桜君が遠坂家の娘だったことは、君たちが思っているほど秘密ではない」

 

 少年たちは二の句が継げなかった。

 

「もし、彼女たちの母が存命であったなら、様々な手が打てただろう。

 不幸なことにそれも叶わなくなってしまったが、

 桜君が声を上げられないならば、兄の君が声を上げればいい」

 

 その声は、不変の定理を述べるように、淡々と部屋に流れた。

 

「教育とは、人の心をいかようにも色付けできる、そんな力がある。

 それが非人道的な虐待であってもだ。

 当人にとって当然になってしまうんだ。悪いのは教える側だ。

 君の怒りは、そちらにぶつけるべきだった。

 他者に向けたのが、君の誤りであり、罪である。私はそう思うね」

 

 何もかも見通すような瞳が、慎二に向けられる。

 

「君は聖杯を手に入れて、魔術師になるのが望みだと言う。

 君の言葉によるなら、蟲にたかられる羽目になるのに、それでもかい?」

 

 士郎ははっとして、友人と青年を交互に見た。

 

「間桐の跡取りは、僕だからだ」

 

 アーチャーの瞳が、ふと緩んだ。

 

「ツンデレ、か。イリヤ君が言ったのは、けだし名言だった。

 君は素直ではないが、妹思いの兄のようだね」

 

「な、な、何を言い出すんだよ!」

 

「君が発していたのは、凛へのSOS。違うかな? やり方には賛成できないが」

 

 半ば透けた黒い瞳には、すべてを見通すような光があった。

 

「学校で騒ぎを起こせば、管理者の凛が黙っていない。

 凛にライダーを始末させるもよし、手を組めそうなら、

 桜君を家に帰すきっかけにするもよし。

 もしも勝ったら、君が魔術師となれる。やはり、桜君はいらなくなる」

 

「桜がいらなくなるって……」

 

「家に帰れるってことだよ」

 

 慎二は一瞬呆けた顔になり、次に哄笑した。

 

「は、はははっ! こいつは傑作だ! 僕がそんなお人よしだって!?」

 

「君の本当の敵は、聖杯戦争のマスターやサーヴァントじゃない。

 敵の敵は味方になれるものだ。君の敵は、凛や士郎君にとっても敵だろう。

 ――マキリ・ゾォルケンなる魔術師、そは虫怪のたぐいなり」

 

 慎二は歪んだ笑みを浮かべた。それは、泣き笑いに近いものだった。

 

「……そいつも、おまえが調べたのか? 

 そうさ、僕が欲しいのは、うちのジジイの墓だ!

 もうちょっと、もうちょっとなんだ。これ以上、邪魔するな!」

 

「邪魔なんてしないよ。事と次第によっては協力できるかもしれない」 

 

 少年たちは、静かな笑みを浮かべるアーチャーを凝視した。

 

「なにがあったのか、話してくれるね」

 

 慎二は思わず頷いていた。



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48:兄と姉

「遠坂がライダーを凍らせたときに、桜が令呪を使ったんだ。

 放っといて次を捜せばいいのに、判断が甘いんだよ。

 でも、僕はしめたと思ったね。だから、対魔力の底上げに反対した。

 令呪が残り一個になっちゃうってさ」

 

 間桐臓硯は深謀遠慮の人であって、臨機応変の人ではない。これは、アーチャーことヤン・ウェンリーと似ている。だが、ヤンには非常事態に対応してくれる有能な幕僚が何人もいた。

 

 臓硯には誰もいなかった。長く生き過ぎ、次世代育成を怠った報いだろう。酒浸りの息子、魔術師気取りと魔術師未満の孫は知識に乏しかった。特に魔力を搾取するため、虐待そのものの鍛錬を施していた桜のほうは。

 

「なにより、遠坂の術を甘く見てたんだな」

 

「相応に元手がかかってるんだよ」

 

「知ってるさ。あいつも馬鹿なんだよ。

 魔術なんかやめれば、左団扇で暮らせるんだぜ」

 

「エネルギー補給用のが、五十万もするんだもんなあ……。

 俺、知らなかったから、トイレに流しちまったけど」

 

 隣室の凛をやきもきさせながら、男三人の会話は脱線を交えて続く。 

 

「遠坂の魔術を解く方法は三つだ。

 一番簡単なのが、令呪による対魔力の底上げ。でもこれは僕が反対した」

 

「他にはなんだい?」

 

「二番目は正攻法さ」

 

 水と風の二重属性が、宝石の結晶のように精緻で堅牢に編まれた術に、魔術師として挑戦する。

 

「ジジイは、姉を貰えばよかったってほざいていたけどさ。

 遠坂を養女にしても意味ないぜ。おまえが言うように教育が悪いんだから」

 

「ははあ……確かに、研究者が実践者である必要もないからね。

 君は魔術という学問に向いているのかもね」

 

「へっ!?」

 

 間抜けな声をあげる士郎の隣で、慎二も唖然とした。

 

「E=mcの二乗を見つけたアインシュタインが、原爆を作ったわけじゃない」

 

「……おまえ、いつの時代の人間なんだよ」

 

 慎二はアーチャーを追及した。

 

「聖杯の加護は、かなり手広く深く現代知識をサポートするけど、

 ライダーはそんなこと考えつかないさ。

 生前の知識に左右されるんだぞ。

 しかもおまえ、光の矢を撃つそうじゃないか」

 

 士郎も頷いたが、アーチャーは気だるそうに首を振った。

 

「それは、後にさせてもらえないかな。そろそろ時間切れになりそうだし」

 

「く、じゃあ、簡単に続けるぞ。結局、ジジイには歯が立たなかった。

 ライダーの消滅までに、解呪の式を組み立てる時間はなかった。

 そんな術が使えるなら、桜にもっとましな魔術が教えられるさ」

 

 令呪を開発した頃の臓硯ならば、とっくに桜を間桐の色に染め替えていただろう。

 

「それではどうやって?」

 

「一、二が駄目なら、三番目の力押ししかない。

 それもライダーが消えず、遠坂の魔術が薄れるぎりぎりまで待ってだ。

 でもアイツに、遠坂の魔力に対抗できるパワーはない。

 桜にやらせるしかなかったのさ」

 

 士郎もアーチャーに続いて疑問をぶつけた。 

 

「慎二、ちょっと待ってくれ。じゃあ、桜も魔術師っていうことだよな。

 でも俺、桜から魔力を感じたことなんてないぞ」

 

 慎二は唇を歪めた。

 

「そうさ。蟲をたからせて、ジジイが横取りしてるからな」

 

 兄貴分と姉は息を呑み、アーチャーは溜息を吐いた。

 

「時臣氏の保護策が、裏目に出てしまったわけだ。

 彼としては、娘が君の結婚相手として乞われたと思っただろうからね。

 当然、無体はすまいと考えるよ」

 

「あの爺は、子孫なんかどうでもいいのさ。

 もう五百年も生きていて、まだまだ生きる気でいやがる。

 聖杯を手に入れて、不老不死になるんだとさ。

 はっ、笑っちまうね。ミイラみたいな姿でどんだけ生きる気さ。

 ……そうはさせるか」

 

 慎二は、目をぎらつかせた。

 

「ライダーなんか放っとけと言っても、桜は聞きやしない。

 じゃあ、僕はおまえがやれって言ってやった。

 他にできるヤツはいないしね。爺も仕方なく、蟲を体から出した。

 一番の大物は残ってるけど」 

 

 士郎とアーチャーは異口同音に疑問を口にした。

 

「大物?」

 

「桜の心臓にいる、爺の本体だ。あいつはとっくに人間辞めてる」

 

 隣室の凛は必死で悲鳴を堪えた。でも、そんな日常を妹は十年も続けていたのだ。

 

「じゃあ、今、その……」

 

 口ごもる士郎に、慎二は肩を竦めた。

 

「まだいるさ。でも、遠坂の魔術を押し流すために、

 桜はフルスロットルで魔力を流した。

 で、中途半端に成功したけど、全体としては失敗だったというわけさ」

 

 凍結を解除することに成功したが、魔力を失って消えかけのライダー。桜にはもう魔力を供給する余裕はない。

 

「遠坂の魔術を押し流した余波に焼かれてジジイは半死半生。

 僕も、桜とライダーに血を抜かれたけどね」

 

「まてよ、慎二の親父さんは!?」

 

 慎二の父には、少ないながらも魔術回路がある。

 

「桜のヤツ、衛宮に言ってなかったのか?

 親父はライダーにびびって、家から逃げ出したんだ。

 酒飲んでたから、道でこけて、下まで転げた」

 

 事もなげな口調だが、それは一大事ではないだろうか。

 

「大丈夫なのかよ。慎二んちの前、急な坂じゃないか。

 あれ、下まで百メートルはあるだろ……」

 

 心配そうな士郎に、慎二は肩を竦めた。彼は酒びたりの父を軽蔑していた。なのに魔術回路があるから、自分より優れているというのだ。ではなぜ、修行もせず、養女に屈辱ごと押し付けるのか。同情する気も起きなかった。

 

「あっちこっちの骨を折って入院中だよ。頭の骨も。

 肝臓とすい臓も壊れかけ。はっきり言うと、意識不明の重体さ」

 

「え、ええーっ!?」

 

「当然、魔力だの体液だの供給するどころじゃない」

 

 魔術回路のない慎二の体液は、ぐっと魔力が落ちる。となれば、質より量。かなりの血を抜かれて、ふらふらになっていたが、なんとか動けるのは彼だけだった。今朝もどうにか食事の出前の連絡をして、到着を待っているところに、士郎たちが来襲したのだった。

 

 出前だと思って玄関を開けたところ、蒼い影が鳩尾に拳を埋めた。そこからの記憶は慎二にはない。そう言われて士郎は目を泳がせた。視線の先には、黒い瞳が困ったような表情を浮かべている。

 

「ランサーをどうにかしなくちゃと思ってさ……」

 

「うん、いや、あれは私のミスだ。

 キャスターが尾行してくれたらいいなと思ってたんだけど、

 考えてみれば彼女、積極的で情熱的、かつ果断な性格だったよなあ……」

 

 惚れた男のために、国宝を守る竜を眠らせ、追手の足どめに異母弟を切り刻み、海に撒き散らすほどに。生前そこまでしたのに、得られなかった誠実な伴侶と安住の地。手に入るなら、もたもた待ってはいない。おとぎ話で先手を打つのは、いつだって魔女ではないか。しかも、お姫様として幸せになるチャンスなのだから。

 

「もっと、時間はかかっても穏健な方法を考えていたんだよ。

 君たちにはすまないことをした」

 

 黒い頭が下げられる。

 

「しかし、手早く済むならそれに越したことはない。ではその後はどうなったのかな」

 

 促され、士郎は口を開いた。

 

*****

 

 慎二を確保したランサーは、ライダーを呼び付けたのだ。

 

「なんだ、このガキ。死にかけじゃねえか。

 出てこいよ、ライダー。マスターを見捨てる気か?」

 

 空気が揺らぎ、紫と黒と白に彩られた。しかし、いかにも存在感が薄い。短剣を構えたところで、剣と槍の騎士と、バーサーカーの敵ではなかった。ランサーは舌打ちした。

 

「チッ、こっちも消えかけか。あいつら、殺る気でやってやがったな……。

 よう、ライダー。おまえの本当のマスターを連れてきな」

 

 ライダーは切れ切れに反論した。

 

「私の、マスターは、貴方が捕らえていますが」

 

「ふん、大した忠義だが、ただのガキに貴様ほどの英雄が呼べるものかよ。

 いいから連れてきな。悪いようにはしねえよ。俺のマスターのお達しだからな」

 

 ライダーがびくりと肩を揺らした。

 

「さっさとしねえと、死んじまうぜ」

 

 紫の髪の美女は無言で踵を返すと、優美な肢体を宙に躍らせ、二階の窓に溶け込んだ。士郎は、セーターにジーンズの英霊に詰め寄った。

 

「ランサー、どういうことなのさ!」

 

「ま、見てろ」

 

 ランサーは顎をしゃくった。二階の窓が開き、貝紫の影が飛び出す。両腕に、毛布で包んだ少女を抱いて。

 

「さ、桜……。桜、おい、しっかりしろ!」

 

 彫像のように血の気をなくし、長い睫毛は硬く閉じられている。士郎の声にも反応がない。イリヤが小さな手をかざす。

 

「やっぱり、サクラがライダーのマスターだったのね。

 きっとこれ、リンの攻撃のせいよ。

 なんとかするにも、マトウの工房じゃできないわ。

 シロウの家まで戻りましょ」

 

「げっ、この状態で!? イリヤ、ちょ、ちょっと待ってくれ。

 完全に人攫いじゃないか!」

 

 まだ朝の九時を回ったばかりだ。通行人が多すぎる。

 

「もう、シロウのヘッポコ。

 秘匿する魔術って、こういうときのためにあるのに。

 でも悪いのはキリツグなんだから、わたしがやってあげる」

 

 イリヤは、長身の美男美女サーヴァントに手をかざした。全身に及ぶ巨大な刻印が光を放つ。バーサーカーを除く全員が目を瞠った。

 

「えいっ!」

 

 それぞれが対魔力を持ち、人間まで抱えているのに、イリヤの術は完璧に作用した。姿を消さぬまま、見えているのに何も不審を感じなくなる。

 

「さすが、バーサーカーのマスターだな、こりゃ」

 

「いいから、いそいで。ライダーは別にいいけど、リンの妹が死んじゃう」

 

 蒼い槍兵がぽかんと口を開けた。

 

「おいおい……。マスター四人がガキで身内かよ。あの野郎が戦う気をなくすわけだ」

 

 そして、人攫いの一団は憚ることなく道路を往来し、衛宮家へと帰りついたのだった。士郎の説明を聞いたアーチャーは、まずは疑問を口にした。

 

「……その術、セイバーには使えなかったのかな」

 

「へ?」

 

「ほら、教会から帰る時に」

 

「あっ!? ああぁーっ! その手があったのか?

 で、でも、セイバーの対魔力じゃ駄目じゃないのかなあ」

 

 慎二は、波打つ髪をかき上げた。

 

「衛宮はつくづくヘッポコだな。治癒魔術の類いは弾かないぞ」

 

「へ?」

 

「冷静に考えろよ。対魔力が邪魔して、マスターがサポートできなきゃ不利だろ。

 サーヴァントが大怪我した時に、敵の目の前で悠長に大魔術ができるか?

 というより、衛宮、試してもいないのかよ」

 

 夕日色が左右に振られる。間桐慎二は皮肉屋だが、それだけに思考能力に優れていた。

 

「そういうもんなんだ……」

 

「さもなきゃ、三騎士なんて持て囃されずに、はずれ扱いになるじゃないか」

 

 琥珀と漆黒が互いを映す。

 

「イリヤ君も、けっこう人が悪いなあ……」

 

「うう、教会の時は仕方がないけどさあ」

 

 イリヤにとっては、セイバーを信用する時間が必要だったのだから。

 

「そうだね。アインツベルンも、遠坂も、間桐も、家族問題が根幹にあるんだ。

 歴史上、非常にありふれた戦いの理由ではあるけどね。

 史上最高の覇者でさえ、家族を幸せにすることができたかどうか。

 いや、違うかな。家族と幸せに生きるのは、世界征服に匹敵する難事業なんだろう。

 いっそう聖杯戦争と切り離して考えるべきだよ。

 では私はそろそろ失礼するが、君たちはランサーに話を聞くことだ」

 

「ランサーに? なんでさ」

 

「彼は、自分のマスターの命令だと言ったそうじゃないか」

 

 今のランサーの主は……。

 

「キャスターが?」

 

「なんだよ、それ! あの青い奴は、衛宮のサーヴァントじゃなかったのか!?」

 

 目を見開く少年たちに、薄れながらの言葉が続いた。

 

「悪いようにしないともね……」

 

「おい、ちょと待て! 汚いぞ、最後まで説明してけ!」

 

 叫んだ慎二の背後の襖が開いた。

 

「うっさいわね。桜が起きちゃうじゃない」

 

「と、遠坂ぁ!?」

 

 仁王立ちしていたのは、あかいあくま、いや真紅の魔女であった。後ろ手で襖を閉めて、慎二につかつかと歩み寄り、襟元を掴んで締め上げる。

 

「冬木の管理者として、あんたの所業を赦すわけにはいかないわよ。

 学校の結界は、被害を出さないうちになんとかできたけど、

 吸血鬼事件もライダーの仕業でしょう」

 

「ぼ、僕を殺す気か!?」

 

 蒼褪めた慎二に、翡翠が凄絶な輝きを放った。

 

「簡単に楽にしてやるもんですか。あんたには償いをしてもらうわよ。

 あのじじいを排除し、桜が間桐を継ぐ。そして、間桐を立てなおしてもらう。 

 遠坂の魔術の分家としてね!」

 

「ん、な――」

 

「でも、それは後のことよ」

 

 凛が脱がずにいたコートから、一冊の本を取りだした。

 

「か、返せ!」

 

 返答は、胸の中央に叩きこまれた肘打ちだった。悶絶して倒れ伏す友人に士郎は目を白黒させた。師匠の鮮やかな手並みにも今のはなんだか、非常に洗練された動きだ。セイバーには一蹴されたが、必ず殺す技というのは、こういうものなのであろう。

 

「し、慎二! 遠坂も何を……」

 

 冷や汗まじりの士郎の問いに、凛は鼻を鳴らしたのみだ。

 

「やっぱりね。令呪の開発者ならではの裏技ってことね」

 

 ページを開くと、桜の花弁を思わせる図形が載っている。

 

「令呪の委譲。魔術師じゃない慎二が、ライダーを従わせるんだもの。

 なにかズルやってるとは思ってたけど、まさか無機物に移すだなんて。

 とんでもない術ね」

 

 しかし、それが弱点だ。凛の手が、ページの花びらをなぞる。

 

「――令呪に告げる。

 ライダーよ、三騎士及び狂戦士のマスターを害することを禁ずる!」

 

 ページが光を発し、図形が消失する。

 

「これで、残りは一個」

 

 うずくまったままの慎二に、凛は屈みこんだ。美しい顔に、底冷えのする笑みを浮かべて。

 

「ライダーがあんたに牙を剥かない理由はなくなったわ。

 桜の慈悲に縋る? まあ、あと一日は起きないでしょうけど」

 

 凛は再び慎二の襟元を締めあげた。

 

「それとも、遠坂とアインツベルン、衛宮に下る?

 ライダーはセイバーたちに見張ってもらってるけど、

 隙の一瞬でもあれば、あんたぐらい殺せるものねえ?」

 

 慎二の顔色が、赤黒く変色していく。士郎は必死に凛の手を押しとどめた。

 

「と、遠坂! 締めすぎだ!」

 

「ああ、ごめんなさい、間桐くん。これじゃ返事ができないものね。

 で、どうするの?」

 

 凛は花が綻ぶような笑顔を見せた。水仙も鈴蘭もトリカブトも、みな美しい花を咲かせる。致死の猛毒を根に蓄えながら。

 

「はいかイエスで答えなさい。それ以外は必要ない。あんたの命と同様にね」

 

 慎二はがっくりと頭を下げるしかなかった。



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49:それぞれの想い

 凛が慎二を引っ立てて、向かったのは衛宮家の道場だった。桜は士郎に任せてある。

板の間の中央にライダーが力なく蹲り、武装したセイバーとランサーが油断なく武器を構えていた。セイバーの剣は姿が隠れたままだが。

 

 腕組みして壁にもたれ掛っていたイリヤは、凛たちの登場に首を上げた。

 

「あれ、リン。ライダーのマスターは平気?」

 

「できることはやったわよ。

 もう命に別状はないけど、眼を覚ますにはもうちょっとかかるわ」

 

 凛のの言葉に、ライダーは弾かれたように顔を上げ、次いで深々と一礼した。

 

「あ、ありがとうございます……」

 

「勘違いしないで。ライダーは赦したわけじゃないわ

 あんたの罪は、相応に償ってもらう。でも、まずはランサーに聞きましょうか」

 

「おう、何をだ?」

 

「桜のこと。あなたのマスターは、悪いようにはしないと言ってくださったそうね」

 

 ランサーは器用に形のよい眉を上げた。

 

「まあな。ちょっと待ってろよ」

 

 言うが早いか、ランサーの携帯が鳴り出した。彼は携帯を取ると、二言三言話してから、凛に向かって突き出した。

 

「ほれ、キャスターからだぜ」

 

 道場に集った全員が驚愕に口を開けた。

 

「あ、ああ、も、もしもし? ほんとにキャスター?」

 

『何を驚くことがあるかしら、アーチャーのマスター。

 こんなにいい方法があるのに、わざわざ魔術を使う意味があって?』

 

 原初に近い魔術師に言われ、現代の魔術師は愕然とした。魔術師は本来、最先端の学者だったとアーチャーが言っていたが……。

 

「まさか、あなたが言うなんて思わなかったわ。

 ところで、キャスター、桜を悪いようにはしないってどういう意味?」

 

『私の望みは平穏な暮らしなの。だから住まいは綺麗にしたいのよ。

 人を喰らい、人に変じる害虫が、うろついているだなんてまっぴら。

 夜道を歩くことに、生きながら喰われるほどの罪などないわ』

 

 凛の顔から血の気が引いた。アーチャーがサーヴァントの犯罪を発見したのは、主に新聞記事からだ。彼が知りえない事件もある。例えば、アーチャーを召喚する三日ほど前に、同報無線から流れていた行方不明者のお知らせであるとか。

 

「まさか、あの行方不明……」

 

 凛がすぐに思い出せたのは、行方不明者が珍しく若い女性だったからだ。この手の行方不明は、だいたいが高齢者が出かけたまま帰ってこないというものなのである。だが、そのうち広報で言わなくなったから、見つかったとばかり思っていた。

 

『そう。私が気づいたときには遅かったわ。

 我が神は、女と夜と辻を守護する。その意を穢すものに罰を与えなくてはね』

 

 そうではないとキャスターは言う。凛は声を失い、むなしく口を開閉させる。この数年に度々起きた、失踪事件の犯人が判明した。間桐臓硯の五百年の生は、おぞましいかぎりの術で、他者の命を犠牲としていたから可能だったのだ。

 

「なんてこと……。私は管理者失格だわ。

 アーチャーがいい顔しなくても、臓硯は殺すしかない」

 

 凛の言葉に慎二は顔を強張らせたが、無言で頷いた。それは彼の望みでもあったからだ。

 

『ええ、始末するならば今のうち。アーチャーが眠っている間にね。

 彼は魔術を知らぬ者だから、魔術でしか葬れぬ存在を知らないのよ』

 

「桜がライダーのマスターでも?」

 

 小さな笑い声が聞こえてきた。

 

『教えのためだけではないわ。私はね、女を辱め、玩ぶものは赦せないの。

 女であるというだけで、男の好きにされるなんて、神の加護でも赦さない。

 私は、そんな輩はすべて滅ぼしてきたわ。生きている間も、……今もよ』

 

 凛の背筋を冷たい戦慄が駆け上がった。令呪で縛ることができるサーヴァント。フードから覗く顔の下半分でさえ、類い稀な美しさが見て取れるキャスターだ。不心得なマスターが欲望のはけ口にしたとして、なんの不思議があろうか。

 

 彼女は遠い昔の存在だ。厳然たる身分制度がある時代の、非常に高貴な女性。狼藉を働く下賤の者を罰するのは、彼女にとって当然の権利で正義に違いない。罰せられた者は、死を以って償うことになったのだろう。

 

 正義の基準は時代によって異なると、アーチャーも言っていた。人間の平等が生まれたのは、人類史上ではつい最近のことだ。身分の高いものが、低いものから搾取する時代のほうが、ずっとずっと長かった。それは、千六百年先の自分の敵国も同じだったと語っていた。

 

 キャスターが起こした昏倒事件も、彼女にとっては年貢の徴収のようなもので、ゆえに加減を知っているのだとも。彼女を単純な悪とみなさず、交渉を選んだ彼を今さらながらにありがたく思う。だから、キャスターは凛に助力する気になったのだろう。桜に、自分の生前の不幸を重ね合わせたのかもしれない。

 

『ともかく夜になったらおいでなさいな。妹を連れてね』

 

「夜まで待って平気なの?」

 

『ええ、害虫もアーチャーもどちらもね。

 それから、ありったけの宝石を持っていらっしゃい。

 大掛かりな術になるわよ』

 

 相手は凛の術までお見通しだった。手紙の結びでライダー戦を讃えたのだから、知っているのも当然ではあったが、気分のいいものではない。

 

「……わかったわ。ありがとう」

 

 ようやっと返答した凛に、含み笑いを残して電話が切れた。

 

「桜の姉としても、管理者としても、間桐臓硯を許す理由はなくなったわ」

 

「……ああ」

 

「あのじじいが死んだ後、諸々の手配はあんたがやりなさい。

 それから、ライダーが襲った被害者に、きっちりと賠償すること。

 桜への償いは、一生かけてやってもらうわ」

 

 慎二は俯いた。間桐の魔術はこれで断絶する。そう思うと笑いがこみ上げてきた。狂ったように笑い出す少年を、イリヤは気味悪げに見詰めた。

 

「ねえ、リン。この人、だいじょうぶ?」

 

「あ、はっははは、ぼ、僕は正気さ、アインツベルンのマスター!

 ざまぁみろ、ジジイ! なにが不老不死だ!」

 

「それが、マキリの望みなの」

 

「ああ、そうだとも!

 五百年生きて、聖杯戦争に二百年も付き合って、

 僕たち子孫から憎まれ抜いて、ムシケラとして死ぬんだ!

 魔術も何にも残せずにさ! 滑稽だろ!? 笑わずにいられるかよ!」

 

 涙に濡れ、血走ったぎらつく目が、真紅を捕らえた。

 

「おまえも覚悟しとくんだな! 

 ジジイが望んでた不老不死。

 アインツベルンの第三魔法『魂の物質化』がなったら、おまえもそうなる。

 ずっとそのまんまの、永遠に死なない化け物になるんだ。

 みんなに疎まれ、恐れられて、永遠に生きるがいいさ!」

 

 ひとしきり絶叫すると、慎二はばたりと床に倒れ、ぜいぜいと喉を鳴らした。

 

「シンジ!」

 

 手を伸ばしかけたライダーを槍で制止すると、ランサーが呆れたように呟く。

 

「おっと、動くな。血が足りねえってのに、叫ぶ馬鹿があるかよ。

 その程度じゃ死にやしねえ。どうしたよ、小さい嬢ちゃんとセイバー。

 この小僧みたいな顔しやがって」

 

 金銀の少女は、少年と顔色を同じくしていた。すなわち蒼白に。セイバーとイリヤは、お互いの正体を知っている。アハト翁は、セイバーの触媒は贋物であったと結論付けていたが。

 

 アインツベルンが、満を持して迎えた第四次聖杯戦争。サーヴァントとして選んだのは、伝承に名高き騎士王アーサー。触媒は、彼に不死を与えた加護の鞘。異母姉によって盗まれ、彼は戦で手傷を負い、死んだとも、妖精郷で長い眠りについているとも言われていた。

 

 失われた第三魔法を追い続けるアインツベルンの娘。鞘と共に、不病不死を失った騎士の王。二人が目の当たりにしたのは、それに限りなく近づいたが故の、悲喜劇であった。

 

 セイバーは力なく膝をついた。

 

「な、なんという……なんということだ!」

 

『王は人の心がわからない』

 

 国を守るために、蛮族の拠点になる寒村を乾し上げたことがある。王位を守るため、偽りの姿で迎えた妻は、部下と不貞を働いた。だが、女であることを隠していたのは自分だ。それを公にできない以上、目こぼしし、許そうとしたのに円卓は割れた。そして、投げかけられた言葉だった。不徳をなじる声だと思っていた。

 

 ――別の意味があったのかもしれない。

 

 選定の剣により不老となり、聖剣の鞘によって不死と無敵の加護を得た。鞘を失ったから敗北したのだと思っていた。しかし、人心が離れていったのが、十年も少年の姿のまま、あらゆる病とも無縁で、傷つかぬのが一因だとしたら。

 

 勝利のためにはいかなる手段も取り、妻や部下の裏切りさえ一顧だにしない。変わらぬ正しさゆえに、己が子でも裁き、切り捨てようとする、ひたすらに正しい永遠の少年。他人にはそう見えていたのではないのか。

 

 もう戻れないと忠告された、王位を選定する剣を抜くこと。求めたのはそのやり直し。よき王になれる誰かに託すつもりだった。だが、いつか不老の王が周囲との亀裂を招くのだとしたら、国の滅びは止められない?

 

 いや、その年月の差こそが重要では? だが、長く続けば続くほど、マキリのように歪みを生んでいきはしないか? その反動が、あの戦い以上に国を揺るがすことにならないだろうか。

 

 セイバーは俯き、拳を握り締めた。王の選定のありかたそのものが誤っていたのだろうか。自分の願いが叶っても、結局末路は一緒なのか。

 

 そんなはずはない。聖杯は万能の願望機。自分よりも遥かに優れた人間を、選定の剣の前へと運ぶはずだ。

 

 イリヤも無言で青褪めていた。小聖杯として育ち、戦いに赴くことに疑問を持っていなかった。第三魔法を成就させて、アインツベルンの悲願を果たすことにも。だが、その果てにあるのが誰にも愛されず、怨嗟と忌避を向けられ、永遠の孤独に生きることなのか。

 

 凛は髪をかきあげ、苦く溜息を吐いた。魔術師は根源に向かうため、代を重ねるが、その一代を伸ばそうと試みる者も少なくない。挙句、死徒になったりする者も出てくる。魔術師としての大成と、人間としての幸福は、限りなく相容れないものだった。

 

 少女たちの様子に、ランサーは頭を掻き毟った。

 

「とんだ愁嘆場だな、おい」

 

 そして、力なく床に座り込んだライダーに視線を落とす。

 

「ついでに聞いとくが、ライダーよ、貴様の望みは何だ」

 

「……手遅れです。私は、誰にも知られぬように、マスターを守りたかった……」

 

 搾り出すように悲痛な声だった。

 

「私を助けようとして、姉様たちは神に慈悲を乞うたのに、

 私と同じ怪物にされてしまった。

 知らずにいてくれればよかったのに! サクラもそう願っていたでしょう!」

 

 波打つ黒髪が、揺らめいて振り返った。

 

「いいえ、違うわ。ライダーが桜を守って、聖杯を手に入れたとしても、

 吸血鬼事件や学校の結界の被害者が何百人も出たら、全然助けになんかならない!

 士郎と同じになる。幸せになんかなれないの」

 

「ゾウケンを殺すのに?」

 

 翡翠の目が細められ、珊瑚の唇が弧を描く。

 

「あら、勘違いしないでほしいわね。わたしがするのは桜の寄生虫の治療よ」

 

 人間は、人間の法で裁くべきだ。アーチャーはそう繰り返し、マスターの命を奪うのは原則として反対した。

 

 しかし、彼のサーヴァントへの態度は一貫している。まず交渉して停戦を呼びかけ、同盟には利益を与える。だが、敵対者には武力行使も辞さない。人間の枠から外れたサーヴァントは、法の規制と保護を持たなくなるからだ。人間を辞めた外道も同様だろう。

 

「人間の臓硯が死ぬのと、なんの関係もないでしょう。

 あのじじいが蟲なら、死ぬかどうかも怪しいけど。

 ああ、慎二、あんたにも協力してもらうわ」

 

 名指しされた慎二は、まだ肩で息をしながら顔を上げ、凛に視線を向けた。

 

「な、何をだよ」

 

 凛の左手が少年を指差し、光を発する。細い指に黒い靄が集い、弾丸のように慎二に打ち込まれた。

 

「な、なにするっ!」

 

 痛みはなかった。その瞬間は。しかし、ほんの一呼吸かそこらのうちに、背筋を悪寒が駆け巡り、頭と喉、関節と筋肉の痛みが慎二を襲った。歯の根が合わないほどに震え、自分自身を抱くようにして倒れ込む。本来のガンド撃ちである。物理的な攻撃力は加減したものの、強烈なインフルエンザに似た症状を起こす呪いだ。

 

「シンジ!?」

 

 ライダーが眼帯の下で目を白黒させた。

 

「慎二と桜は、体調不良で昨日部活を休んだ。

 今日のも休む。心配になった士郎は、明日慎二の家を訪ね、

 風邪で倒れた孫たちと、死んでる祖父を見つける。

 ライダーは、これから臓硯をどうにかしてちょうだい」

 

 冷然たる口調に、サーヴァントもマスターも反論の言葉が見つからない。

 

「冬なんだから、そんなに不自然じゃないわよね。

 おあつらえ向きに、ここに風邪っぴきもいるし」

   

「いやいや、嬢ちゃん、あんたが今やったよな……」

 

 突っ込んだランサーだが、凛の謝礼に背筋を凍らされることになる。

 

「そうだ、ランサーにはお礼を言わないとね。

 ライダーの結界を解かせてくださってありがとう。

 あれが解けなかったら、全校生徒の三割にガンドを撃ち込まないといけなかったの。

 先生には全員。下手したら中学三年生までよ」

 

 凛の言葉にランサーが眉を寄せた。士郎とイリヤは歯痛を堪えるような表情になる。

 

「……なんでだ?」

 

「学校閉鎖にするの。人間がいなきゃ、結界に意味がないでしょ。

 溶けるよりましだって、アーチャーが言ったの。一人で済んで助かったわ」

 

「えげつねぇ……」

 

 美少女が笑顔で言っても、まったく救いがない。友とすることができればこれ以上はなく、敵に回すとこのうえなく恐ろしい。アーチャーことヤン・ウェンリーは、敵手にそう評された人物であった。

 

「じゃあ、ライダー。あんたは慎二を連れて帰ってちょうだい。

 爺と慎二がちょっかいを出さないように見張っててもらうわ」

 

「サクラは……」

 

「今夜が終わってからよ。さあ、こいつを連れて帰って。

 看病して待ってなさい」

 

 ライダーは逡巡した。凛は桜の姉とはいえ、敵対するマスターである。これでは人質に取られるようなものだ。凛は鋭く足を踏み鳴らした。八極拳で鍛えた震脚が鳴らしたのは、バーサーカーにも遜色のない重低音だった。

 

「さっさとなさい。ちゃんと看病しないと、命に関わる程度にしておいたから。

 ……桜に二つも葬式の喪主をやらせる気?」

 

 ライダーは蹌踉と立ち上がると、慎二をぞんざいに肩に担ぎ上げ、道場から走り去った。急展開に目を真ん丸にしていたイリヤは、ぽつりと呟いた。

 

「あ……。さっきの魔術、もう切れちゃってるんだけど……」

 

「慎二の体面なんて、知るもんですか」

 

 凛は不機嫌な猫のような表情で、ぷいと踵を返すと道場を出て行った。士郎に託した妹のところへ戻るのだろう。

 

 女は怖ろしい。ランサーは永遠の真理を腹の底に収め、床に胡坐をかいた。

 

「あの野郎、ていよくサボってるだけじゃねえだろうな……」

 

 抗議の眼差しは、ルビーと鉛の色をしていた。

 

「あー、そういうこと言うのね。アーチャーが夕食に招いてくれたのに。

 招待主のアーチャーに戦いを挑んで、具合を悪くさせたのはランサーでしょ。

 ケルトの大英雄はレイギ知らずで、えーと、ケツノアナが小さいのね!」

 

 賛同するかのような唸り声が合いの手を入れる。

 

「お、おい……。俺だって騙されたんだぜ。

 あれほどの騎士を従える将が、俺より格下ということがあるものか!」

 

「そんなのヘリクツよ。

 アーチャーはランサーを知ってるけど、ランサーはアーチャーを知らないんでしょ。

 古いほど神秘は勝る。だから格上に間違いないわ。なにがケルトのヘラクレスよ。

 本物のわたしのバーサーカーとくらべたら、ヘノツッパリにもならないくせに!」

 

 ランサーはたじたじとなった。反論したくとも、イリヤの背後には唸りながら睥睨するバーサーカー。淑女らしからぬ言葉遣いをたしなめる者もいない。

 

「仕方がねえだろ! こっちは令呪に逆らえぬ身だからな」

 

 きらりとルビーが輝いた。

 

「ふうん、令呪の命令だったんだ。やっぱりね」

 

「やっぱりってなんだよ」

 

「アーチャーがリンにいったのを、わたしにも教えてくれたの。

 ランサーはイチゲキヒッサツのゲリラ戦の名手だって」

 

「ほぅ……」

 

 昨夜の食事の際にも、面白いことを言う奴だと思っていたが、他にも何かあるのか。ランサーは、真名以外は正体不明のアーチャーに興味を惹かれた。

 

「他にはなんと?」

 

「アーチャーが会ったときには、自分とセイバー以外を知っていたみたいだったって。

 たしかに、バーサーカーとも戦ったよね」

 

 ランサーは渋面になった。自慢の槍でいくら突きかかっても、傷一つ付けられなかった。もちろん、ランサーも奥の手すべてを出し切ってはいないが、引き分けて撤退せよという命を恨めしく思うような強敵だった。

 

「あなたはとても強い英雄だから、

 全力で戦ってればダツラクしたサーヴァントがいただろうって。

 だって、マスターをねらってもいいんだもの。

 ちがうってことは、テイサツをユウセンしていたんじゃないかって、

 そういってたわ」

 

「薄っ気味悪い奴め……」

 

 ランサーは肺を空にするような溜息をついた。

 

「でも、もったいない、あなたの力のムダづかいだって。

 殺した相手の名前なんて必要ないんだから」

 

「だよな!」

 

 蒼い頭が上下し、束ねられた長い髪が犬の尾のように動く。イリヤは彼の異称を思い出して、笑いをかみ殺した。

 

「ねえ、命令を下したのはだあれ?」

 

「そいつは言えねえな。とんでもないド外道だったが、一度は仕えた主だ」

 

 最初のマスターへの仕打ちは許しがたいが、油断した者を狙うのは当然の戦術でもある。責があるのは、相手を見誤っていたマスターと、彼女から目を離した自分にある。令呪で主替えを強要され、生殺しのような縛りを加えられたことは腹立たしいし、目撃者への指示は、殺して口封じという胸糞の悪いものだ。

 

 しかし、前者はアーチャーのおかげでなかなか楽しめたし、後者は幸い機会がなかった。並行世界とのわずかな差異が、ランサーの悪感情に一定の歯止めとなっていた。前マスターへの立腹は、殺意に移行するには到らなかったのである。

 

「あら」

 

 イリヤは長い睫毛を瞬いた。

 

「じゃあ、あなたのマスターは御三家かどうかは教えてくれない?」

 

 ランサーは両手を広げて、肩を竦めた。

 

「聞くまでもないんじゃねえか?」

 

 すでに割れているではないか。そう思ったランサーだったが、イリヤも伊達に戸籍問題に直面してはいない。

 

「マトウの家のことは、ぜんぜんわからないもの。

 ライダーのマスターたちが知らないような親戚かもしれないでしょ?

 養子にいくと、リンの妹みたいにファミリーネームが変わるわ。

 サクラも血でいうなら、マキリじゃなくて、トオサカのマスターよ」

 

 思いもかけない角度からの追及は、ランサーを困惑させた。前マスターの正体を明かしてしまえばいいのだが、できないから歯切れが悪い。

 

「あー……、そりゃねえから、うん。気にするなよ」

 

 煮え切らないランサーに、イリヤは唇を尖らせたが、それ以上の追求は諦めた。となれば善後策だ。アーチャーの教育は、新雪色の少女を色々と染めていたのである。

 

「じゃあいいけど。いそいで教会に伝えなくちゃ」

 

 ランサーは必死で顔を取り繕ったせいで、反応がやや遅れた。

 

「……なんでだ?」

 

「御三家のマスターじゃないなら、令呪は消えちゃうけど、

 リタイヤしたら、教会に行かないとあぶないのよ。ホゴしてもらわなきゃ。

 令呪がなくなっても、魔術師なのは変わらないわ。

 キャスターとか、よくわかんないアサシンが、エサにするかもしれないでしょ?」

 

 イリヤがランサーの前の主を気にしたのは、凛に触発された御三家としての意識だったのである。アーチャーの態度は、彼女の自尊心と競争意識をプラス方向に育てていた。ランサーにとってはとんだ自縄自縛だ。脳裏に魔女の含み笑いが木霊する。

 

『苦しいところね。前の主を売るか、今の主を売るか……。

 好きになさいな。選択によって、困るのはおまえよ』

 

 魔女の予言どおり、彼は大いに困った。前の主はその教会にいるとバラすか。アサシンは、同じ主に仕える同僚だと告白するか。ポケットから携帯電話を取り出して、操作を始めるイリヤにランサーは慌てた。

 

「ちょっと待て、ちっちゃい嬢ちゃん! 教会には連絡すんな!」

 

「なぜ?」

 

 妖しい輝きを放つ真紅の魔眼。その背後には死を具現化した鉛色の巨人。ずっと無言のセイバーも、見えざる剣を抜いたようであった。南無三。ランサーは背中に汗を感じながら、きっぱりと言い切った。

 

「理由は今は言えねえ。だが、厄介な事情がある。

 病人を抱え、戦力が欠けている時に手を突っ込むのは下策だぜ。

 害虫を退治して、アーチャーが目を覚ましてからだ」

 

「わかったわ」

 

 小さな銀の頭が頷いた。

 

「戦力のチクジトウニュウはダメだものね」

 

 そう言うと、軽い足取りで道場を出て行く。バーサーカーがのしのしと後を追った。三騎士のうち二騎は、思わず顔を見合わせた。教えたのは、残る一騎に違いあるまい。

 

「彼は本当に何者なのか……」

 

「てめえが言うな」

 

 武器と真名を秘したセイバーにも、突っ込みを入れるランサーだった。

 

「ちくしょ、俺の望みはさっぱり叶やしねえ。せめて付き合えよ、セイバー」

 

 ランサーは顎をしゃくった。

 

「おあつらえ向きに、ここは武技の修練をする場所なんだろ。

 宝具代わりの得物もあるしよ」

 

 セイバーが士郎に稽古をつけていた竹刀に、なぜか薙刀もある。ランサーは堂々たる騎士の一礼をしてみせた。

 

「我らは戦いによって名を為し、死して後に戦うために招かれたものだ。

 名を伏せた戦士として、我らはただ戦うのみ。

 それでいいじゃねえか、セイバーよ」

 

 伝説の光の御子の挑戦に、エメラルドが輝いた。セイバーも凛然と礼を返す。

 

「なるほど道理だ。だが、私が武器を隠したと、もう言い訳はできぬことになるぞ」

 

「ぬかせ、セイバー」

 

 やがて、道場からは乾いた音が鳴り響いた。見ることが叶わぬ弓の騎士が、さぞ悔しがったであろう。そんな剣戟が交わされたのであった。




セラにテレビを止められたけど、藤村さんちでちゃっかり見ているイリヤちゃん。雷画氏と一緒に、高齢者の好きな番組や映画を見ることが多い。お気に入りは『ヘル・ティーゲル(寅さん)』など。


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50:紅き瞳が映すもの

 士郎は、桜の現状をイリヤから聞かされて、実の姉より落ち込んだ。一年ほど前、部活で怪我をしたのがきっかけで、家事の手伝いに来てくれるようになった桜。とはいえ、資産家の間桐には家政婦がちゃんといて、お嬢様育ちの桜は何もできなかった。おにぎりを握るとボロボロに、卵を焼くと黒焦げになった。でも士郎にとって、久々に誰かに作ってもらう食事だった。上手下手を超えておいしかった。

 

 慎二とのいざこざは、よくある兄妹げんかだと疑わなかった。慎二は斜に構えたところのある威張り屋だし、桜は桜で大人しすぎるから、ついついエスカレートしてしまうのだろうと。士郎も慎二に意見したり、時には口論からちょっとした殴り合いにも発展したが、そのうち収まるだろうと楽観していた。

 

「……俺、なんにも気がつかなかった」

 

 毎日のように手伝いにきてくれるのは、逃避だったのかもしれない。

 

「しかたがないわ、シロウ。魔術は秘匿するって、そういうことだもの。

 わるいことをして、ばれるようだと魔術協会が狩りにくるの」

 

「……ばれないようにしてる奴を、じいさんが殺していたんだな」

 

「うん、きっと、そういうこと」

 

 イリヤの言葉に、士郎は膝を抱え込んだ。

 

「魔術師殺しなんて聞いて、俺、びっくりしたんだ。

 でも、こういう奴がいるんなら、仕方がないのかもしれないとも思う。

 だけどさ、本当に見えない相手には手が出せないんだ。

 前の聖杯戦争の時だって、ひどいことやってたかもしれないのにさ。

 ……なあ、イリヤ。魔術ってなんだろうな……」

 

 切嗣が子供だった士郎に見せてくれた『魔法』は、まさに夢のようだった。養父の目指した綺麗な夢を目指すには、夢のような魔術で果たしたいと願った。しかし、夢は美しいものばかりではなかった。悪夢そのものの現実として、ずっと妹分を苦しめていた。

 

 士郎は、初めて魔術に疑問を抱いた。神秘は秘匿すべしという言葉を、頭から鵜呑みにしていた。

 

 しかし世間では、善行は明らかにし、隠すのは悪行である。じゃあ、魔術は? 自問しても答えは出ない。士郎のへっぽこ魔術では、善も悪も大したことはできないからだ。高みにある間桐臓硯の魔術は、隠すべき悪となるほどのことができた。

 

 赤毛が力なく振られた。それを全部の魔術に当てはめるのも、やはり極論だろうか。物事には複数の側面があり、すべてを肯定することも、否定することもできない。最も明らかな辺を、法を物差しで測るのだと、理性と感情に穏やかに働きかけたアーチャーの影響かもしれない。

 

 ルビーの瞳に、悲しいほど優しい微笑みが宿った。

 

「わたしに、ううん、わたしたちにとってはすべてよ、シロウ」

 

「……わたしたち?」

 

「アインツベルンのものは、そうやって生まれて育つの。

 魔術で生まれ、魔法に至るために生きる。

 でも、わからなくなってきちゃった。

 もし第三魔法を復活させて、成功したとして、

 魔法使いになった人は幸せなのかしら」

 

 小さな手が、胸の前で組み合わされた。

 

「不老不死は人間の夢。とてもすばらしいことのはずよね。

 一度は手に入れたのに、魔法は途絶え、魔法使いもいなくなっちゃた。

 ずっと不思議だったの。……こういうことだったのかもしれないよね」

 

 人は生まれ、育ち、老いを迎えてこの世から去る。それを覆そうとした者は、古今東西の神話や伝説にいくらでもいるが、成功したものは皆無だ。イエス・キリストは復活を果たしたが、父たる神の天上に召された。再びの生で、家族や弟子に囲まれて暮らすことは叶っていない。

 

「わたしたちは千年も魔法を追っている。

 マキリゾウケンは、その半分を生きてる。

 蟲になって、家族に嫌われて。だからなのかな……」

 

 ホムンクルスが生まれたのは。知識や感情を植え付けることも、成長や寿命も創造者の思うがまま。切嗣の血を引くイリヤが、唯一の例外だろう。しかし、母の胎内にいるうちから、様々に調整を施され、早まった聖杯戦争に対応するため、さらに手を加えられている。

 

「なにがさ、イリヤ?」

 

 イリヤは首を振った。

 

「ううん、なんでもない。アーチャーが起きたら相談してみる。あれ、リンは?」

 

 返答したのはセラだった。

 

「遠坂様でしたら、宝石店に出かけられました」

 

 宝石店という単語に、士郎は眩暈を起こしかけた。

 

「ま、まさか、ン百万の宝石を準備すんのか!?」

 

「いいえ、とっておきを取りに行くとおっしゃいました。

 念のためリズを同行させましたが、一度ご自宅にお戻りになるそうです」

 

「ってことは……」

 

 道場から乾いた音が聞こえてくる。

 

「ランサーとセイバーが手合わせしてるみたい」

 

「うー、遠坂め。ランサーを押し付けてったぞ……。

 じゃあ、アーチャーはどうしてるんだろ」

 

「部下の方は、遠坂様の警護をなさっているようですが……」

 

「わたしにはわかるわ。アーチャーもここにいる。……チャンスね」

 

 イリヤは真紅の瞳をきらめかせた。

 

「今のうちにやっちゃいましょ」

 

「何をさ?」

 

 琥珀がきょとんと見開かれる。

 

「うーんと、リャクダツアイ?」

 

「お嬢様!」

 

「はぁっ!?」

 

 叱咤と疑問の声が飛び交う中、イリヤは家庭教師を可愛らしく見上げた。

 

「というよりは、フセイユウシなのかしら?」

 

 セラの怜悧な面に、ゆっくりと理解の色が現れる。

 

「では……」

 

「ねえ、セラも手伝って」

 

「よろしいのですか?」

 

「夜までどころか、このままじゃ消えちゃう」

 

 聖杯の少女の言葉だ。セラは表情を引き締めた。士郎に聞き取れないよう、イリヤはドイツ語で囁く。

 

【そうなると困るの。だって彼、ヘラクレスに匹敵する魂の容量がありそう。

 わたしは動けなくなるかもしれない】

 

 彼が消滅したら、その魂はイリヤが回収する。今回のサーヴァントは、ヘラクレスにメドゥーサ、クー・フーリンと神話級の粒ぞろいだ。ヤン・ウェンリーという真名以外は不明のアーチャーだが、その格は彼らに劣らない。

 

 それを士郎に告げることはせず、口にしたのは当面の問題である。

 

「それでも、やっぱり明日までは動けないと思うわ」

 

「ですが……」

 

 セラは逡巡した。アーチャーが、間桐臓硯の排除に賛成するかどうか。彼は魔術を知らず、歴史の流れを愛する。魔術の秘奥にいまだ遠く、人の営みのまま代を重ねた遠坂だから、呼ぶことができたサーヴァントともいえるのだ。人を辞めた外道とは相容れなさそうだが、だからこそ、凛が手を汚すのを厭わないか。

 

【彼らの手は汚させないわ。これは私がやるべきことだから】

 

 ふとイリヤの瞳に紗がかかり、やや舌足らずな話し方ではなく、流麗な声が流れた。

 

【……マキリは生き過ぎた。正義と平和を望んだ天才が変わり果ててしまった。

 せめて、私の手で眠らせてあげましょう】

 

 セラは、深々と頭を下げた。

 

【貴方様のお心のままに】

 

 ホムンクルスの祖、冬の聖女ユスティーツィア。イリヤに継がれた欠片が、垂れた慈悲であったかもしれぬ。 

 

 そのアーチャーは、慎二のために敷いていた布団を横取りして、ちゃっかりと寝ていた。霊体化してだが。イリヤは魔力を流し込んで強引に実体化させ、その唇を啄ばむと、セラにも同じことをした。士郎は、目と口をOの字にして見ていることしかできなかった。

 

「な、な、な、なにやっ」

 

 絶叫しそうになった士郎の口、というか顔を大きな手が塞ぐ。バーサーカーは、イリヤの忠実な僕であった。

 

「かんたんなパスをつないだだけよ。……セラ、だいじょうぶ?」

 

 イリヤの師であるセラは、優れた魔術師である。弟子には及ばないものの、魔力量も一流以上といっていい。そんな彼女が堪らずに膝をつき、白い額に冷や汗を滲ませた。頬からも赤みが失せ、紙の白さになっている。

 

「……な、なんとか。やはり、この方は尋常な英霊ではありません……」

 

「ちょっとだけ我慢してね。じゃ、行くよ、バーサーカー」

 

 顔を塞がれて、じたばたしている士郎も否やもなく、道場へと連行された。こちらも目を真ん丸にしたランサーの前で、セイバーと士郎にも、イリヤの口付けが贈られた。

 

「んー、やっぱりつながりが悪いのね。二人ともヘッポコなんだから。

 やっちゃえ、バーサーカー!」

 

 巨大な手が、夕日色と金沙の後頭部に添えられ、拝むように合わされた。その持ち主達の顔面を内側にして。ランサーが気の毒そうに目を逸らした。

 

「惨劇を見たぜ……」

 

「……お、俺、初めてだったのに……」

 

 床にうずくまる士郎の背を、傍らにしゃがんだランサーが労わるように叩いた。

 

「おお……そうか。まあ気にすんな。ガキとサーヴァントは数にゃ入らねえよ。

 次の時に、気張りゃあいいじゃねぇか、な?」

 

「むー、失礼ね。わたしガキなんかじゃないわ。レディなんだから」

 

「へえへえ、レディねぇ。だったらもうちょいと言葉遣いをだな……」

 

「そういう問題じゃないだろ! イリヤも、その、セイバーだってさ……」

 

 唇を押さえ、真っ赤になったセイバーは、凛とした女騎士ではなく、可憐な少女に見えた。

 

「い、いえ、大丈夫です」

 

「っかーーっ! アホらしい。接吻ごときで照れてんじゃねえよ。

 魔力の供給ってんなら、坊主がセイバーといっ……」

 

 『坊主』のきょうだいのルビーレーザーが突き刺さり、ランサーは口を噤んだ。天井に余裕がある道場だから、バーサーカーも直立不動で待機しているが、斧剣を握った手に不穏な力が篭っている。

 

「そんなことより魔力はどう、セイバー?」 

 

 士郎のファーストキスは、そんなこと扱いされてしまった。ますます萎れる主とは対照的に、セイバーは姿勢を正し、一礼をした。

 

「感謝をします、アインツベルンのマスター。

 ラインがきちんとつながったようです」

 

 魔術師の体液には魔力が含まれる。最も豊富なのは、生命の源となるものだが、唾液や涙にも含まれてはいる。膨大な魔力を誇るイリヤであれば、士郎とセイバーの架け橋になるに充分だった。そして、彼らが知ることのない縁によっても、この結びつきに大きな意味があった。

 

 第四次聖杯戦争で、セイバーの鞘を抱いていた男女。男は士郎の養父であり、女はセイバーと行動を共にした聖杯の姫君。今は亡き二人の娘が聖杯の器として、過去と今の鞘の主に贈る、許しと祝福のキスでもあったから。

 

 しかし、士郎はそれどころではない。くらくらするほどの脱力感が襲う。

 

「ううぅ、これが魔力の供給ってことか。キツイんだな……。

 ああ、そろそろ昼飯か。……どうしよう」

 

 戦いの最大ポイントは補給である。聖杯戦争はもっとも難しい輸送を度外視できるが、マスターの魔力という生産力の差がもろに現れる。そして、魔力は生命力。食うことと寝ることをどうするか。

 

 士郎も早速、アーチャーの言葉を思い知ることになった。心細い冷蔵庫の中身と、それ以上に不安な後方戦力。凛とリズは不在、士郎とセラは魔力供給に四苦八苦。家事をする手が足りない。士郎には、二騎士とイリヤ主従に、食事の支度を任せる度胸はなかった。

 

「なあ、俺たちは出前でいいか?

 遠坂の計画に乗るなら、部活にいかなきゃならないし」

 

 こくこくと頷く金沙の髪の傍らで、蒼い髪の青年が遠い目になった。

 

「おまえら、もっと真面目にやれよ」

 

「ランサーも食うだろ? 嫌いなものはあるか?」

 

「セイバーのマスターに感謝する。犬と……バカ辛い物以外にしてくれ」 

 

 ランサーは速やかに前言を翻した。昨晩の夕食は、彼の想像を突き抜けた美味だった。

 

「い、犬なんて食わないぞ!」

 

 ガーネットが、胡散臭げに琥珀を睨んだ。

 

「じゃあ、ホットドッグって何なんだ」

 

「ソーセージ入りのパンだよ。……念のため言っとくけど、豚肉だぞ」

 

「それじゃどうして、犬って言うんだよ?」

 

「え、あ……さあ?」

 

 アーチャーが起きていたら、教えてくれたかもしれないが。

****

 

 そろそろ米が食いたい士郎は、定食屋に出前を頼んだ。一応凛に電話したら、リズと道中で済ませてくるとのことだ。

 

「あいつの宿題も調べとかないとね」

 

 深山町の一家殺人のことだ。

 

「教会への要求期限は明日までなんだけど、そろそろ何か言ってくるかも。

 でも気をつけて。あいつ、信用ならないから。

 イリヤたちには言ってもいいけど、ランサーには伏せといてちょうだい」

 

 凛からの伝言を半分みんなに伝え、士郎は急いでカツ丼をかき込み、セイバーを伴って学校へ。なにやら難しい顔になったイリヤは、土蔵へと向かった。ランサーは、ぽっかりと暇になった。

 

 一応、桜の見張りを仰せつかっているが、部屋の外でという但し書きがつく。貴族のメイドが、嫁入り前の娘の寝室に、略奪愛上等の古代人を入れるはずがなかった。追い出されたランサーは、隣の部屋の襖の前で胡坐をかいて独語した。

 

「なさぬ仲の男所帯に、娘一人放り込んで今さらだがな……」

 

 敷きっ放しの布団から、静かな声が上がる。

 

「……見て見ぬふり、知らんぷりも大事なことですよ」

 

「おまえ……」

 

 なんとか実体化したアーチャーだった。彼はうっすらと微笑んだ。

 

「明るみに出ず、証拠のない事実は存在しないのと同じことです」

 

「いいのか?」

 

「魔術は秘匿するのでしょう? それが招いた事態だ」

 

「意外だな。お前は法にやたらとうるさいそうだが」

 

 黒い瞳が大儀そうに閉じられた。

 

「法は守る者の盾であり、破る者には剣となる。

 だから私は、この子たちには法を守らせたい。

 この国は、戦争を放棄した稀有な法を持っている。

 自国の法に基づいて、敵国の人間を大勢殺す必要はない。……私のように」

 

 武勲で名を馳せた存在であろうに、彼はそれを誇りに思っていない。ランサーには理解しがたい感覚だが。

 

「なるほど」

 

「だが、法とは人間の為にあるものです」

 

「人間のたぁ……」

 

 一瞬開けられた目が、厳しい光を放つ。 

 

「蟲には適用されない。人命と寄生虫では、比べるまでもないことだ」

 

 そう言うと、姿が揺らいで消えた。

 

「あ、おい!」

 

 ランサーは伸ばした指を所在なげに動かした。

 

「気配はあるか。消滅してはいまいが、これほど消耗する宝具だったとはな……」

 

 それでもアーチャーはランサーの挑戦を受けて立った。セイバーとバーサーカーを擁しているのにだ。姿も言動も軟弱だが、彼の心はたしかに武人のものだった。

 

「せっかく、戦さのし甲斐がある相手なんだが」

 

 魔女にとっつかまって、一番の不満がそれだ。マスターを厳重に守っているあの女は、アーチャーの主従には手を出すなと厳命した。そして、本拠地の立ち入りは門番に阻まれる。暗殺者らしからぬ赤い騎士に再戦を挑んだが、鼻で嗤われた。

 

『甚だ不本意だが、私と君は同僚ということになる。

 光の御子は、仲間に槍を向ける男だったのかね?』

 

 では何をしろというのだ。二人並んでお茶を挽くのか。先日偵察したときは、面白い戦い方をする男だと思ったが、同僚として付き合えるかは別問題である。

 

 ランサーは、強者との戦いを願って召喚された。聖杯に願いはないが、サーヴァントとしての楽しみには貪欲である。じゃあ、その条件でアーチャーらに張り付くのはどうだと願い出て、遠坂邸に押しかけた次第だ。

 

 結果としては悪くない。セイバーと手合わせもできたし、昼食もこれまた美味だった。バーサーカーに手合わせを願うのは無理そうだが。

 

「話をすれば面白いしよ。だが……」

 

 アーチャーの一番の武器は、将としての統率力、師としての教育力だ。最初にまみえた時は、マスターとの二人連れだった。教会の墓地で仲裁に入ったときは、セイバーとバーサーカー陣営を連れてはいたが、いかにも寄り合い所帯といった様子だった。

 

 それがどうだ。わずか四日で、少年少女のマスターは見違えるように成長し、互いを守りあうまでになっている。キャスターを仲間につけ、ライダーを行動不能に追い込んだ。

 

 敵の敵は味方とばかりに、キャスターはランサーを毟り取り、目まぐるしく勢力図が変わっていく。もう一方の綱を握るのはキャスター。しかし、魔女はアーチャーと敵対する気はないらしい。

 

『あのアーチャーは、聖杯戦争には過ぎたるサーヴァントだわ。

 彼の戦いは、この狭い地に収まるようなものではないの』

 

 魔女は溜息を吐いたようだった。

 

『あんな姿をしていても、本当はとても怖ろしい男よ。

 私の願いのためにも、敵に回したくないわ。

 あの宝具を見るまでは、おまえのように奪おうと思っていたのだけれど……』

 

 百戦錬磨の軍人は、王女だったキャスターが是非とも欲しい人材だった。たとえ宝具が大したことはなくとも、あの頭脳だけでお釣りがくる。そう思っていたのだが、彼は強力な宝具を持っていた。しかし、秘匿性は皆無だわ、広い場所が必要だわ、展開時間は短いわと、三拍子揃って山寺の籠城戦に向いていない。今までに搾取した魔力で養うには、燃費も悪すぎる。

 

『だから、遠坂のマスターに生きていてもらわないと困るのよ。

 もちろん、バーサーカーとセイバーのマスターにもね』

 

 どうやら、魔女には色々と欲しい物があるらしい。この三者を失うと、それがご破算になってしまうのだという。どんな手を使ったのか知らないが、よほどに急所を抉られたとみえる。

 

「戦さもない、豊かでいい時代だ。

 食い物はうまい、衣は色鮮やかに柔らかく暖かく、

 寝床は雲を褥にするがごとしってか。

 もっとも生きていくには、なかなかややこしそうだがな」

 

 神秘は古いほど勝るというが、これと引き換えになるのなら喜んでくれてやる。だが、今さら言っても詮無きことだ。時の流れは覆らない。無理に堰き止めようとしたのが、ライダーを擁する間桐の現状であろう。セイバーとイリヤは衝撃を受けていたようだが。

 

「しかし、アーチャーもだが、セイバーは何者だ?」

 

 真名を秘し、セイバーとしての象徴の剣もかたくなに秘す女騎士。

 

「何者っていやあ、アサシンもだが」

 

 真紅の外套に黒白の双剣。褐色の肌に、銀灰の髪と瞳の、いずこの者とも知れぬ英霊。あのすかした皮肉屋と、二人で門番をするのは遠慮したい。

 

 ……もしそうなら、『カイジン青タイツと赤マント』と評する者が出たかもしれない。彼らが知らないのは幸いと言えよう。

 

「……わけがわからん」

 

 ランサーは勢いよく首を振った。彼は聡明な戦士だが、細かいことをごちゃごちゃ考えるのは得意ではなかった。暇をもてあますのも苦手だ。クー・フーリンは行動の人なのである。

 

「嬢ちゃんを迎えにでも行くか」

 

 その旨をセラに告げ、玄関へ向かう。靴を突っかけているところに、土蔵からイリヤの金切り声が聞こえてきた。すわ、異変か!? ランサーは嬉々として突っ走った。

 

「なにこれ……」

 

「なんだ、なんだ!? ……なんにも起こってないじゃねえか」

 

 イリヤが立ち尽くしていたのは、土蔵に雑然と転がるガラクタの前だった。

 

「鼠でも出たのかよ」

 

 イリヤは無言で首を振り、なにかの部品を拾い上げた。

 

「これ見て、ランサー」

 

「はぁ? ただの鉄屑じゃ……ねえな」

 

 手渡されたものは、ランサーの掌で砕け散った。なんの痕跡も残さずに。高さと色調の異なる赤い視線が交錯する。

 

「こいつは、魔力そのもので出来てる」

 

「ええ、シロウの魔力を感じる。でもこんなのおかしいわ」

 

 魔術は世界の法則を欺くものだ。長く誤魔化してはおけない。この点でも令呪は破格のものであるが、魔術師の魔術回路を間借りして、世界の修正を潜り抜けている。凛の宝石魔術も同様。魔力を長持ちさせるには、世界から隠す包み紙が必要だ。魔術は秘匿せよとはその意味でもある。

 

 しかし、このガラクタは、魔力だけで出来ている。ランサーに触れて壊れたのは、神秘に勝るサーヴァントの魔力に干渉されたからだ。だが、イリヤが持ったぐらいでは平気だった。どういうことなのか。

 

「こんなもん、いつ作ったんだ。坊主が出かけてから、小一時間は経ってるが」

 

 小さな銀の頭が、左右に振られた。

 

「そんなヨユウがあったら、シロウはお昼ごはんを作ってたわ。

 今朝はおねぼうさんだったし、すぐにリンとランサーが来て、マキリに行って……。

 昨日もそう。朝からおとなりに行って、キリツグのお墓におまいりしたの。

 ブカツに行って、ランサーとご飯を食べて……」

 

 昨日今日のことではないし、一昨日も似たようなものだ。

 

「そういう嬢ちゃんはなにをやってたんだよ」

 

「ヤサガシ。わたし、シロウとは血がつながってないけどきょうだいなの。

 キリツグの遺言を探してたのよ」

 

 探していたのはセイバーの触媒もだが、ランサーには伏せる。 

 

「あるかどうかわからないけれど、遺言が見つかったら、

 ニンチが楽にできるって、アーチャーもタイガのおじいさまも言ったから」 

 

「……嬢ちゃんも、苦労してんだなぁ」

 

 それはランサーにとっても痛い内容だった。知らなかったとはいえ、息子をこの手で殺してしまった。オイディプスの悲劇の逆である。

 

「キリツグが、わたしのことを捨てたんだって思ってたの。

 頭にきて、シロウを殺しちゃうところだった。

 でも、アーチャーとリンが止めてくれたの。

 色々なことを教えてくれて、ほかのことも調べてごらんって」

 

「なるほどな。それでか」

 

 非力なアーチャーと遠坂凛が、この同盟のリーダーになった理由が腑に落ちる。少年にとっては命の恩人、少女にとってはきょうだい殺しを止めてくれた相手だからだろう。

 

「キリツグのことだけじゃないのよ。聖杯戦争のことも。

 今までうまくいかなかったのは、なにかわけがあるから、

 きちんと調べないとあぶないって」

 

「だから、キャスターを引き入れたってわけだな」

 

 銀の髪が頷く。

 

「サーヴァントが現界できる間に調べて、よりよい方法を見つけたほうがいいって。 

 この街は、十年前に大火災がおこったの。この前の聖杯戦争と同じ時よ。

 五百人以上も死んじゃった。

 シロウのほんとうの家族も、……わたしのお母さまも、きっと」

 

 豪勇のクー・フーリンにも息を呑ませる事実であった。

  

「リンとサクラのお父さまも亡くなってる。でも、そんなのおかしい。

 魔術師のあとつぎは一人。六十年ごとに殺しあったら、御三家が絶えちゃう。

 何か、忘れてしまったこと、伝わっていないことがあるんじゃないか。

 アーチャーはそうもいってたわ」

 

「つまり嬢ちゃんは、親父がそのことも遺言に書いたかもしれないと思ったわけだ」

 

 イリヤはしかつめらしい顔になった。

 

「それはどうかしら……。わたしのこと、シロウにも言ってなかったのよ。

 言えないことを書けるかな? キリツグ、そういうとこダメダメだから」

 

「ダメダメってな、娘が言うかぁ?」

 

 呆れ顔のランサーに、イリヤはがらくたを示した。

 

「シロウのシュギョウも教え方が悪かったから、ヘッポコなのよ。

 ……なのに、こんなのはみすごしちゃうし。

 リンにも言って、しっかり教えてもらわなきゃ。

 ばれたらフウインシテイにされちゃう」

 

 世界の修正に左右されない、魔力でできた物品。無から有を生み出す奇蹟と同義だ。

 

「とはいえ、これは役立たずのがらくただ。

 この中でやってる分にゃ、単なる道楽で済むが……」

 

 少女の細い指の先を眺めていた深紅の瞳が、ふと細められた。がらくたの種類はさまざまだ。機械の部品のようなもの、あるいは金属の器。そして包丁が一本。

 

「なあ、嬢ちゃん、その刃もか?」

 

 小さな頭がこっくりと頷き、それを拾い上げる。

 

「これは特によくできてるわ。ちゃんと切れそうなぐらい」

 

 ランサーは眉間に皺を寄せて腕組みした。

 

「……今の魔術は詳しく知らんが、こいつはとびきりの変り種だろうな。

 しかし……いや、こいつも後回しだな。嬢ちゃんの探し物から片付けようぜ」

 

 大きな瞳をさらに見開いて首を傾げる少女に、ランサーは笑いかけた。彼は、娘には恵まれなかった。

 

「一飯、いや二飯の恩は返す。俺の太っ腹なところを見せてやるよ」

 

 庭で拾った小石に、探索のルーンを刻み、イリヤの髪を巻きつける。

 

「さて、出てくりゃいいが……」

 

 小石は踊るように跳ね回り、土蔵の中を巡る。しかし、外へ飛び出していった。

 

「やっぱり土蔵にはないのかしら」

 

 眉を寄せるイリヤに、ランサーは再び腕組みして頭を垂れた。

 

「嬢ちゃんの血に連なる者の魔力に反応するんだが……」

 

「ランサーはすごかったのね!」

 

「それゆえ、今の世では探せぬ物も多いんだがな……。

 ほれ、機械で文字を書いたり、姿や声さえも残しておけるだろう」

 

「ああ、こういうのね」

 

 イリヤは携帯を取り出すと、画像を呼び出す。弓道着の士郎に寄り添うイリヤとセイバーが写っていた。別の画像は、昨日の学生風の服装のアーチャーと一緒だ。半ば透けた赤い騎士、紫の髪を靡かせるライダーの姿もあった。

 

「なんだ、こりゃ?」

 

「アーチャーが試してわかったの。サーヴァントも写るのよ。

 そうだわ、ランサー。わたしとバーサーカーも撮って!」

 

「おいおい……あいつは何やってんだ。というより何者だよ……」

 

 ルーンの小石も、はかばかしい反応を返さない。イリヤの指示でカメラを操作しながら、溜息を吐くランサーだった。

 

「しかしな、嬢ちゃん。どうやっても、バーサーカーの顔が切れちまうんだが……」

 

 新たな機器を、アインツベルン陣営が導入するのも近いかも知れない。



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51:その刃にかけて

 凛が衛宮邸に帰ってきたのは、それから一時間ほどの後だった。布団の上で寝息を立てている妹に安心し、従者には呆れたが、実体化できるほどには回復したということでもある。イリヤらを交えて打合せをしているところに、士郎とセイバーが帰宅した。

 

「あら、早かったのね」

 

「高校入試の準備があるから、もともと二時間の予定だったんだ。

 ところで、なんで、石がいきなり貼りついてくるのさ!?」

 

「ふぉ?」

 

 みかんを頬張っていたランサーが、間抜けな声を上げた。

爽やかな芳香の果実を飲み込むと、顎に手をやり首を捻る。

 

「いや、俺が聞きてえんだが。ちっちゃい嬢ちゃんの遺言探しさ。

 そのルーンは、嬢ちゃんの血に連なる者の魔力に反応するようになってんだよ」

 

「へ? 俺、隠してなんかないぞ!

 それに、この服も荷物も、ちゃんとイリヤたちに見てもらったもんだ」

 

「じゃあ、坊主。ここに荷物を置いて、素っ裸になれ」

 

 こともなげに言われて、士郎は目を剥いた。ランサーがうんざりと手を振った。

 

「脱ぐのはここじゃなくていい。野郎の裸なんざ、俺だって見たくもねえ。

 その石が貼りつくのがどっちか。それに意味があるのかもしれん」

 

「うう……。わかった」

 

 どっちみち、制服から着替えるのだからと士郎は自分を納得させた。

風呂場で一式脱ぐと、外で待機していたランサーに声を掛ける。

 

「今度は体にくっついてきたんだけどさ……」

 

「なんだと? 坊主、ちょっと見せてみろ」

 

 止める間もあらばこそ、ランサーがずかずかと入り込んできた。

 

「ちょっと待ってくれーーっ!」

 

 ランサーは、慌てふためく士郎の体を一瞥した。

 

「魔術刻印たらいうのはないみてぇだが。……なあ、坊主。

 聞いたんだが、おまえ、火事の生き残りだったんだってな」

 

「ああ、そうだけど、それとどういう関係があるのさ! いいから出てってくれよ!」

 

 ランサーは、探索のルーンを刻んだ石を摘むと、風呂場から出ていった。

 

「おかしい。俺の腕が落ちたとは思えん」

 

 サーヴァントは肉体と技量の最盛期で召喚される。

 

「なあ、坊主、おまえはいくつだ」

 

 扉越しに掛けた声に、むっつりと応じる声は、まだ少年の高さを残している。

 

「十七だ」

 

「じゃあ、おまえの養い親は?」

 

「……生きてたら三十九、かな……」

 

「ということは、おまえの実の親でもおかしかないが」

 

 がらりと扉が開き、服を着て、血相を変えた士郎が飛び出してきた。

 

「違う! それだけは違う! 俺の父さんは……」

 

 黒煙と炎に燻され、薄らいだ記憶。 

 

「よく覚えてないけど、ちゃんといたんだ!

 じいさんじゃない、それは間違いない!」

 

 食ってかかる士郎に、ランサーは胸の前に両手を挙げた。

 

「悪かったよ。余計な世話だった。

 俺には、知らぬ間に出来てた息子がいたもんだからよ」

 

「あ……そか、うん。……ありがと」

 

 クー・フーリンの伝説を思い出す。彼は、ある少年に戦いを挑まれて斃し、息子を失ったことを知るのだ。

 

「とにかく妙だ。同じセイバーを召喚したこともそうだが、

 肌に火傷の痕が一つも残っちゃいねえ。

 火の中から助けられ、無傷というのはまずありえん。

 特に喉が焼け、胸を病むもんだが、おまえの声にそんな様子はないしな……」

 

 士郎は琥珀の目を見開いた。

 

「あ、そうだ。すっかり忘れてたけど、アーチャーも似たようなことを言ってた」

 

「あいつが?」

 

 ランサーは眉間に皺を寄せた。

 

「俺、バーサーカーに吹っ飛ばされてさ」

 

 深紅の目が皿のようになった。

 

「は、はぁ!? 殺しちゃうことだったって、手ぇ出してたのかよ!」

 

「あんまり覚えてないんだけど、グシャって感じの音がしたっけ……」 

 

 皿は瞼によって半分に欠け、形のよい額にも縦皺が寄る。

 

「……坊主、そりゃおかしいだろうがよ。

 俺は、手を出す前に仲裁が入ったんだと思ってた。 

 ただの人間が、あのデカブツにぶん殴られたら、

 血とはらわたをぶちまけて、ほれ、昨夜のピザみたいにペタンコになるぜ」

 

 ランサーの具体的な描写に、士郎は顔を顰めて赤毛を抱え込んだ。

 

「そ、そんな喩えやめてくれ! ピザが食えなくなっちゃうじゃないか……。

 ああ、聞いてるだけで痛くなるようなことを言われたっけ」

 

 蒼い髪が頷きを返す。

 

「そうだろうな。どんな怪我だ」

 

「ええと、背骨とあばらが折れて、それで肺に穴が開いて、血が溜ってただろうって。

 ショックで心臓が止まるか、苦しみぬいて自分の血で溺れ死ぬ。……十五分以内に」

 

 アーチャーの淡々とした説明は、不思議と凄惨さを感じさせなかったが、復唱するとものすごい状態だ。男二人は、強張った顔を見合わせた。

 

 ランサーは数多くの戦いを経験し、数え切れないほどの敵を討ち取った。急所をやるか、やられれば死ぬ。それは百も承知。しかし、医学的な知識は持っていない。

 

「そういう言い方されると、くるもんがあるな……。さんざっぱらやってきたけどよ」

 

「応急処置してくれたのはアーチャーだから、嘘はついてないと思う。

 でも遠坂は、今までに擬似的な不死になったマスターはいたって言うし」

 

 ランサーは頭を掻き毟った。

 

「訳がわからん。このゴタゴタした中で、あいつ、よくもやってられたな。

 ライダーのマスターの厄介事の前に、ちょいと片付けるつもりが、

 謎が深まるばかりじゃねえか」

 

「遠坂たちにも聞いてみようか……」

 

 士郎の言葉にランサーも頷くしかなかった。

 

「お、そうだ。あの土蔵のガラクタのことも、ちゃんと教えとけよ」

 

「へ?」

 

「師匠なんだろ、管理者の嬢ちゃん。隠すと身の為になんねえぞ」

 

 ランサーの忠告は的中した。ラインから伝わる絶叫で、アーチャーが目を覚ましたほどだ。

 

『……なんだい、そんなに慌てて……敵襲でもあったのかい?』

 

 心話なのだが、いかにも寝起きといった様子だった。

 

『ちょ、ちょっとね。士郎の魔術がらみの件よ。いいから寝てなさい』

 

 歴史から魔術を推理するアーチャーでも、こんな異端は考察しようもないと思うから。

 

『じゃ、お言葉に甘えて……。

 ところで凛、あんまり士郎君を怒ったり、責めてはいけないよ。

 彼には、知識が決定的に欠けているんだからね』

 

 知識はあっても、模型の車しか持たないのが間桐慎二。本物の車を持っているが、知識が足りないのが衛宮士郎。個としての危険性は、どちらがより高いか。暴走しそうな方に決まっている。

 

『同い年の美少女に怒られて、それを受け入れられる少年はいないよ。

 正論で論破するのではなく、できたことを受容して評価し、

 できないことの知識と方法を教えるのが先生の役割だ。

 君にはきっとできるさ』

 

 こんなことを言われたら、頭に上がった血も下がろうというものだ。凛は溜息を吐きながら、士郎の弁明を聞き取り、彼の思い込みを正した。

 

「あのね、士郎。これは投影とはいえない。投影は魔力で作る鏡の像のようなものよ。

 こんなふうに、他人にも触れるようにはならないし、すぐに消えるわ」

 

「そうなのか?」

 

「そうよ。これはそんなに生易しいものじゃないわ。

 魔力ひとつで、無から有を生み出せる。

 現実を塗り替える、魔法の一歩手前と言ってもいい。

 あんたはこれに特化した魔術師なんでしょうね。

 ある意味で、わたしよりずっとすごいわ。経済的にもね」

 

「は? あ、ああ、そりゃ、遠坂と比べればなあ」

 

「違うわ。宝石はあくまで触媒、流動する魔力を留めるための入れ物よ。

 あれがなければ、世界の修正で消滅してしまう。

 魔力そのものは私の血が対価。でもあんたの魔術には、対価も触媒もいらない。

 これは驚異的なことよ」

 

「お、おう、サンキュな」

 

 いつも辛口の師匠の、最大級の賛辞に士郎は赤くなった。

 

「でも、だからこそ、この魔術は使ってはいけないの」

 

「な、なんでさ!?」

 

 賛辞から一転の禁止令に、士郎は腰を浮かせた。

 

「こんなのばれたら封印指定だから」

 

「ふういん、指定? なんだよ、それ」

 

 凛は目を伏せて、語句の意味を説明した。封印指定とは、魔術師にとっての名誉の終身刑宣告だ。極めて特異な魔術の保持者を、保護するというのが名目。実態は、よくて幽閉されてのモルモット、悪くするとホルマリン漬けの標本。あまりのことに、士郎の顔が青褪めた。

 

「でなければ、聖堂教会に囲い込まれるか、殺されるわよ」

 

「な、なんでさ!?」

 

 驚愕する士郎、頷くイリヤ、腑に落ちない表情の二騎士。キリストと同年代のランサーはともかく、セイバーも服装より古い時代の英雄ということか。密かに凛は心にメモした。

 

「これがガラクタじゃなく、パンでも出してごらんなさい。

 キリストの再臨呼ばわりされても不思議じゃないわ。

 先に教会が目をつけたなら、洗脳されて連中の道具。

 それ以外なら異端として処刑されるってわけ。この魔術を使うのは止めなさい」

 

「い、いや、食い物とかは出せないよ。

 ストーブなんかも、外側だけのがらんどうだし。

 そんなすごいもんじゃないと思う」

 

「あの刃はどうだ?」

 

 胡坐を組みなおしたランサーが、端的な問いを放った。

 

「あ、うん。俺の投影、一番刃物がうまくできるんだ」

 

 ランサーはがりがりと蒼い髪を掻き毟しり、立ち上がった。

 

「俺も坊主の師匠に賛成だぜ。俺たちサーヴァントはこの世の理から外れた存在だ。

 だから、こういう真似ができる」

 

 その手に魔力が集う。渦を巻いて収束し、真紅の槍の形を結ぶ。膝立ちで身構えかけたセイバーを、ランサーは手で制して続けた。

 

「だからこそ、マスターは令呪で我らを縛るわけだ。

 サーヴァントを信じないということだ。当然だな。

 寸鉄を帯びずに招き入れられた席で、いきなり武器を出して振るえる」

 

 狭い室内にも関わらず、ランサーは巧みに槍を一閃させた。穂先が静止したのは、士郎の鼻先だった。士郎の喉が大きく上下動した。

 

「坊主の魔術は、これと同じだ。いや、もっと悪い。

 俺たちは令呪で縛られたサーヴァントだが、おまえは人間だ。

 なにも縛るものがない。おまえの心以外はな」

 

 真紅の槍が掻き消えた。

 

「そんな人間を誰が信用する? 

 おまえの魔術は、刺客にうってつけの力だぜ。まさしく魔道だぞ」

 

「あ……」

 

 セイバー主従は言葉が出なかった。不可視のセイバーの剣にも突きつけられた切っ先だったから。

 

「今の世で刃を持ち出して、何をする気だ? 

 一週間も過ごせば、さすがに俺でもわかる。

 この世は、槍の一棹、剣の一振りで変えられるような易いもんじゃねえ」

 

 凛は目を伏せた。翡翠の瞳は、夕暮れの針葉樹林へと色を変える。はるか古代の人間と、未来の人間が同じようなことを言うとは。

 

「やっぱり、英雄になる人は似たようなことを言うのね……」

 

 言葉の綾は、男より女のほうが察しがいい。雪の妖精改め、黒い魔術師の使い魔が首を傾げる。

 

「アーチャーもなにか言ったの?」

 

「戦争の才能は、一番の非常の才だって。

 自分は平和な時代に生まれていたら、二流の学者で終わってた。

 この日本でも、平凡な人の中に眠っているかもしれない。

 でも、眠ったままのほうが、ずっと幸せなことだとね」

 

 凛も、自分のサーヴァントであるヤン・ウェンリーの戦功をしかとは知らない。彼がすべてを語ってはいないからだ。しかし、いままでの言動からも、彼が非凡な軍人であったことはわかる。

 

「あいつ、自分の奥さんや里子との出会いは、戦争があったからだって言ってたわ。

 自分がきっかけで、奥さんたちは軍人になったって後悔してた。

 戦いの中で、強烈な体験をすると、それで人生を決めてしまうこともあるって」

 

 イリヤも士郎も目を皿のようにして、アーチャーのマスターの告白に聞き入った。セイバーは無言だったが、ランサーだけは呆れたように鼻を鳴らした。

 

「ふん、普通は誇ることじゃねえか。そこまで惚れこまれるとは、戦士の誉れだ」

 

 唐突に響きのよい拍手が上がった。

 

「すばらしい。是非、貴官からあの頑固者にそう言っていただきたいものですな」

 

 凛の背後に、灰褐色の髪と瞳の美丈夫が実体化していた。

 

「戦争が大嫌いで、政治の腐敗も大嫌い。

 自分が頂点に立てば、両方が一気に片付いたんだが。

 国家存亡の危機はなくなり、敵の首領はいなくなり、世界だって手に入ったものを」

 

 セイバーは思わず叫んでいた。

 

「なぜだ! なぜ、彼はそうしなかった!?」

 

「我が国のトップに停戦しろと命じられたからだ」

 

 彼の口元には笑みがあったが、目には殺気に似た光があった。

 

「馬鹿な!」

 

「ああ、俺もそう思う。無視しろと勧めたんだが、聞きやしなかった。

 腐敗し、堕落しきった煽動政治家でも、民意で選ばれたトップだ。

 そんな奴でも、国民の多数決で決まった。あの人は票を投じてはいないだろうがな。

 だが、国民の一員として、選択の責任を取るべきだ。そういうお人なんだ」

 

「なんだと……」

 

「最低の民主共和制でも、最高の専制より勝るというのがあの人の持論だからな」

 

「良き王が国を治めることの何が悪い!?」

 

 詰問するセイバーに、シェーンコップは真面目に頷いた。

 

「ほう、貴官もそう思うか。俺もそう思って、あの人に勧めたが断られてな。

 それこそ、あの人には独裁者としての才能もあったんだがね。

 才能があるのに、やる気がなさすぎるのが問題だな」

 

 否定されるどころか肯定されて、セイバーは二の句が継げない。

 

「そんな命令は無視するのが正義だと俺は言ったんだが、

 なにしろ厄介なひねくれ者だ。

 自分に酔うには賢すぎるし、自分を騙せるほどには賢くない。

 あれは見ていて歯痒いものだった」

 

 しみじみと首を振る。みんなの顎が落ちた。先日の舌戦のリベンジだろうか、部下にまでえらい言われようだ。

 

「あちらの皇帝ぐらい、一番になりたがる性格ならよかったんだがな。

 正義の対義語は、また別の正義。彼の養子はそう聞かされたそうだ」

 

「なっ……そんなの正義じゃないだろ! 人を助けるとかが正義だ!」

 

「そうさ、赤毛の坊や。味方を助けるのは正義だし、司令官の仕事だ。

 国民を守るのが給料のうち。そのために味方を死なせ、敵を殺すことになる。

 仰ぐ旗が違うだけの、同じ人間をな」

 

 セイバーは顔を強張らせ、ランサーは理解不能といったていで髪を掻き毟って反論する。

 

「敵は敵だ。さもなくば戦えまい」

 

 灰褐色が再び頷く。

 

「まったく、貴官らとは意見があうな。だが、あの人の意見は違うんだ。

 司令官としての正義は、戦争がなければ不要な仕事だ。

 停戦すればそれ以上の戦死者は出ず、降伏であっても平和は平和だろう?」

 

 シェーンコップは、優雅に腕を組み、高い位置から士郎の瞳を覗きこんだ。言葉に出さないその意味。大災害が起きなければ、衛宮切嗣は□□士郎を助けることはなかった。では、なぜ大災害は起こったのか。それがアーチャーが調べようとしていることだ。

第四次聖杯戦争との関連。

 

 いつ、どこで、だれが、なにを、どうしてそうなった?

 

「あ……」

 

「小官からは以上です。もうひとつ、こちらは閣下から。

 前回を知る者に、情報の催促をするようにと。時計塔の方から先に」

 

「あっ、忘れてた。時計塔と教会に催促しなきゃ。

 でも、綺礼じゃなくて?」

 

 凛の疑問に、シェーンコップは肩を竦めた。映画の一シーンさながら、嫌味なほど様になる姿だった。

 

「生存が判明している前回のマスターの中で、

 今回の戦争に関係ないのは彼だけだからと」

 

「そうね」

 

 頷く凛に、美丈夫はにやりと笑った。

 

「もっとも、こいつは言い訳で、実のところは嫌がらせだな。

 自分が苦労している最中に、あちらはエジプト旅行。

 素人歴史家が嫉妬するのも無理はない。

 教会には、停戦の過半数を超えたことは黙っているように。

 ただし、催促だけは続けるようにと」

 

「そっちはどうして?」

 

「さあて、またぞろ、腹黒いことを考えているんでしょうな」

 

 ランサーの口の中に、昨晩の赤ワインの味が蘇った。同色の瞳を逸し、飲んだ時と同じ表情を作る。琥珀と真紅が同時に瞬きした。

 

「さて、こんどこそ失礼します」

 

 実に決まった敬礼を残し、彼も虚空に消える。

 

「あ、そうそう、一家殺人の件だけど」

 

 アーチャーからの宿題を口にする凛に、士郎は勢い込んだ。

 

「何かわかったのか!?」

 

「いいえ。あいつの言ってたことを参考に、ちょっと不動産屋に頼んできただけよ」

 

「この前のドラマだと、ケイサツがタンテイに教えてくれたのに」

 

 イリヤの言葉に凛は苦笑して首を振った。

 

「無理無理。遠坂も地主で、アパートやマンションを持ってるの。

 あんな事件が起こって、うちの物件は大丈夫か、

 防犯の改修をしたほうがよくないかって」

 

「それとどう関係があるのさ?」

 

 凛は右の親指と人差指で丸を作った。

 

「それにはお金がかかるわけ。家賃を上げることになるの。

 防犯には賛成でも、家賃の値上げは簡単に賛成してくれないものよ」

 

 きょとんとするイリヤと、頷く士郎が対照的だ。

 

「うん、わかるぞ。高いもんな、カメラ付けたり、鍵を替えたりするとさ」

 

「十年前に連続殺人も起こってるのに、冬木の大災害にかき消されてしまった。

 だから、万一に備えたほうがいいと言ってきたわ」

 

「でもさ、アーチャーが調べろってことは、

 あの犯人はサーヴァントかもしれないんだろ?

 だったら、あんまり効果がないんじゃないか?

 そりゃカメラには映るけど、部屋の中に入ってから実体化できる。

 他人の部屋に、監視カメラなんてくっつけられないし」

 

 プライバシーの侵害だと大問題になるだろう。

 

「どちらかというと、緊急ブザーね。警備員がすぐに来るように」 

 

 士郎は目を瞬いた。

 

「遠坂らしくないぞ。あれがサーヴァントの仕業なら、そんな余裕ないじゃないか」

 

「ええ、そうよ。子どもやペットのいる家なんて誤作動ばっかりになるわ。

 警備会社って、出動された家がお金を払うのよね」

 

「なんでさ。それじゃ、不動産屋も借りてる人も嫌がるだけだ」

 

「それが目的だからよ」

 

 腹黒というのは伝染するのか。衛宮士郎とランサーは慄いた。

もうひとりの資産家の令嬢は、それに惑わされずに事実を指摘する。

 

「家主のリンも損するのに?」

 

「ええ、だから不動産屋はそんなのやりたがらない。

 わたしを説得して、考えを変えさせるのが一番早いわ」

 

「えー、どうやってぇ?」

 

「あいつは、情報は横のつながりを断つのが難しいって言ったわ。

 不動産屋がまさにそうなのよ」

 

 遠坂家が委託している不動産屋は、もともと家臣筋にあたる家だ。

その点でも、遠坂家の若き当主を無下には扱えない。

 

「ほかの業者から色々聞いたりして、あの事件の情報が入ってくると思うのよね。

 サーヴァントの仕業でないことを除外できるような。

 もうちょっと、何かわかるんじゃないかしら」

 

「ちょっと待てよ。キャスターとライダーの仕業なら、もうカタがついてんだろ?」

 

 不審そうなランサーに凛は答えた。

 

「あと一つあるのよ。死者が出てる、深山の一家殺人がね」

 

「あの野郎が皮肉ったあれか」

 

 一家三人が滅多刺しで殺された事件。もっともランサーは、

槍の名手がそんな無様はしないと、あっさりと容疑から除外されたが。

 

「新聞の報道では、居間で三人が亡くなっているのが発見された。

 三人には刀や槍などによると思われる複数の刺し傷があり、死因は出血多量。

 これが人間業じゃないって言うのよ」

 

 亡くなったのは、四人家族の両親と小学生の長男の三人。中学生の長女は学習塾に出かけていた。難は逃れたものの、第一発見者は彼女だったという。床のみならず、壁から天井まで血飛沫で塗装された居間に、倒れ伏す両親と弟の。新聞記事からアーチャーが読みとった悲劇だった。

 

「普通の人間は、両手で違う種類の刃物を持って戦ったりはしない、

 一つの部屋で三人を滅多刺しにもできないってね」

 

「なんでさ?」

 

「刀は片刃、槍は両刃、それがわかるのは人体を貫通するような深い傷があったから」

 

 息を呑む士郎と裏腹に、二人の騎士はぐいと身を乗り出した。

 

「……なるほど」

 

「同じ部屋で連続殺人をするには、一撃必殺の攻撃が必要。

 そうでなければ逃げられるから。だったら一種類の武器で足りるわよね?」

 

 違う種類の刃物で滅多刺しという殺害方法と矛盾する。

 

「でも、大量の出血をしたってことは、即死じゃないってことだって。

 誰かが悲鳴ぐらいは上げるんじゃないかって言うのよ」

 

 士郎とイリヤは目を瞬いた。前者が恐る恐る口を開く。

 

「そ、即死じゃないって、いったい……」

 

 凛はなんともいえない表情になった。

 

「……心臓が動いているから血が飛び散るんですって。

 死んでから刺しても、そんなに血は出ないそうよ」

 

 少年少女の顔から、潮が引くように血の気が失せた。 

 

「なのに上の子が帰ってくるまで、近所の人は気がつかなかったのよ。

 家族三人を生きながらに、ほぼ同時に滅多刺しにするなんて、

 一人ではできない。けれど、複数犯ならそれだけ痕跡を残すでしょう」

 

 セイバーの顔も蒼白になった。

 

「……まさか」

 

 凛はあえて明言を避けた。

 

「時間的にアーチャーとセイバーにはできない。

 ランサーとライダーは武器が違う。あ、バーサーカーもね。

 そして、あのプライドの高いキャスターが請け負うのなら、

 彼女とアサシンもやっていないとね」

 

 ランサーは呆れたように首を振った。

 

「筋は通るな」

 

「誰がやったのかはわからない。どうやってやったのかもわからない。

 それは、犯人側のことだからよ。

 でも、なぜ殺されたかは、被害者を調べればわかるかもしれないでしょ。

 この殺人だけは連続の事件じゃないわ。なにか、殺される理由があったのかも」

 

「サーヴァントにか……」

 

 ランサーの眉宇が曇る。

 

「多分ね。でも、すぐに尻尾を出すとは思えないわ。

 これはライダーのように、魔力で切羽詰った犯行じゃなさそうだもの」

 

 つまり、調査に数日は期間がいるだろうということだ。

セイバーは膝の上でスカートを握りしめた。

 

「これでは何も変わらない! 聖杯は、聖杯はどうなるのです!」

 

 結ばれた小さな拳は色を失い、小刻みに震えている。

胡座をかき、頬杖も突いたランサーが、ぽつりと問うた。

 

「セイバーのサーヴァントよ。そういや、おまえの望みは聞いてなかったか。

 死んだ後まで、目の色変えて、何を欲する」

 

「私は国を救いたいのだ!」

 

「ほぉ、国とはね……。死んだ後まで忠義なことだ」

 

 無言で眉を吊り上げるセイバーに、ランサーはため息を付いた。

 

「俺たちが現世にいられるのは、あと一週間少々というところだが、

 今日明日に聖杯を手に入れなくても、そう変わるとは思えねえがな。

 それにしてもおまえら、こんな話ばっかりしてたのか? ついてけねえ……」

 

 この場で唯一の黒髪の主が、華奢な肩を竦めた。

 

「悪かったわね。はっきり言って、アーチャーのせいなんだけど、

 あいつ、細かいことをグダグダ考えるのよ。でも役に立つこともあるわ。

 キャスターとの停戦が、こんなふうに転がるなんて思わなかったけど」

 

「……本当に俺はついてねえ」

 

「それはお互い様よ。ランサーがフラフラしてるからじゃない。

 機動性に長けて、隠密行動も得意、それに必殺の宝具。

 実質的にあなたがアサシンよね」

 

 虚を突かれたランサーは、一転して沸騰した。

 

「言われてみりゃそうじゃねえか! あの野郎、くだらねえ命令をしやがって!」

 

 凛は心中で首を傾げた。コルキスの王女メディアにしろ、光の御子クー・フーリンにしろ、簡単に触媒が用意できるような英雄ではない。おそらく、時計塔から斡旋された二人が彼らのマスター。

 

 ランサーのマスターは、女性のほうではないかとアーチャーは言っていた。『マク』は~の息子を意味する、アイルランドやスコットランド系の姓の接頭語だそうな。郷土の英雄を呼ぶのは頷ける話だ。しかし、ランサーは野郎と言った。彼には彼で複雑な事情があるのかも。それは口に出さず、凛は彼をなだめた。

 

「でも停戦が成立してたから、キャスターに殺されずに済んだのよ。

 よしとしてちょうだい。……あなたも、けっこう楽しんでるでしょ」

 

 翡翠の視線が向かったのは、反対色をしたみかんの皮の山。

 

「や、食っていいって言われたし!」

 

 慌てたランサーを家主が取りなした。

 

「ああ、遠慮なく食ってくれ。むしろ助かる。

 このまえ、藤ねえが二箱も持ってきたからさ。

 食いすぎると肌が黄色くなるって、自分じゃあんまり食わないくせに」

 

「……サーヴァントもそうなるのかよ?」

 

「そりゃわかんないけど、一日五個を一週間とかじゃなきゃ平気だよ」

 

 ランサーは、みかん籠に伸ばした手を引っ込め、セイバーに歩み寄りを口にした。

 

「そうなのか……。でもうめえよな、この果実はよ。

 真夏の夕日の色をして、乙女のように甘酸っぱくて薫り高いわな」

 

 詩人の国の大英雄は、詩的な表現でみかんを讃えた。

 

「冬にこんなもんが食えるなんて、常若の国も及ばねえだろう。

 セイバーよ、おまえの国のことは知らんが、俺の国の冬は厳しかった。

 女子供や年寄りが、病まず飢えず凍えぬ冬なんざ、夢まぼろしだった」

 

 ランサーは窓の外に視線を転じた。風は穏やかで、空は青く、陽光が降り注ぐ。冬なのに、薫り高い花が咲いている。すべてが彼の故国と逆だった。

 

「だが、ここじゃ当たり前だ。

 もうちっと、楽しむのも悪かないんじゃねえか。なあ?」

 

 無言の少女騎士に、凛は声をかける。

 

「ねえ、セイバー。これにはちゃんと理由があるのよ。

 桜を助けて、ライダーも引き入れて、聖杯の調査に協力してもらう。

 もちろん、イリヤとランサーにもね」

 

 赤い瞳の二人が、そろって自分を指さし、口々に一人称を発した。

 

「複数の魔術師が調べれば、不備があるかどうかわかると思うの。

 並行して、士郎とアーチャーと、……慎二が前回の聖杯戦争と災害を調べる。

 魔術に不備がなく、災害に無関係ならば、聖杯戦争を再開すればいい。

 でも、もし不備があるなら、直さないと使えないわ」

 

 セイバーが躊躇いがちに口を開いた。

 

「直るものなのですか?」

 

「それを調べるのがこれからよ。でもね、セイバーとイリヤ。

 これだけのメンバーで調べて、駄目なら諦めることも考えたほうがいいと思う」

 

 凛は、アーチャーから柳洞寺で聞いたことを繰り返した。隠れキリシタンだった遠坂の先祖は、生きて神にまみえたいと願って、根源を目指す魔術師となったのではないか。

 

 その彼が、聖杯戦争に喜んで参加したのか。神の御業、死者の復活を冒涜するかのような行為だ。参加することによって、邪魔しようと目論んでははいないだろうか?

 

「根拠がね、なくもないのよ。間桐の家の霊地を提供したのは遠坂よ」

 

 土地が合わなくて、魔術回路が枯渇する原因となった。子孫は先細りになり、遠坂桜は養女に行った。アーチャーの言っていた、婚姻による家門の乗っ取り。遠坂が先に仕掛けていたとは考えられないか。

 

「そうしてみると、聖杯の霊脈も怪しくない?」

 

 イリヤは目を見開き、小さな手で口を覆った。

 

「御三家の中では、うちはどうしても下っ端よ。

 二百年前では逆らっても勝てなかった。

 だから、騙されたふりして、騙してたのかもしれないわ。」

 

 士郎は、いままで師匠らが教えてくれたことを、自分なりに言葉にしてみる。

 

「なあ、セイバーたちは聖杯に呼ばれたんだよな。

 でもイリヤは聖杯の器の担い手だって言ってるだろ。

 聖杯は、二つあるのか?」

 

「そういうことね。魔術儀式の基盤が大聖杯。魔力の釜が小聖杯というわけ」

 

「じゃあ、大聖杯への燃料が霊脈で、大聖杯はそれを使って動くってことでいいのか」

 

 黒と銀の絹糸が、こっくりと頷いた。

 

「よしよし、なかなか賢くなったじゃないの」

 

「おう、遠坂のおかげだ。サンキュな」

 

 謝意を向けられて、象牙の頬がかすかに赤らんだ。

 

「じゃ、大聖杯を調べるのはやっぱ大事だ。セイバーも聞き分けてくれ」

 

「……シロウ。理由を訊いても?」

 

「大聖杯って、言ってみれば車のエンジンだろ。

 ガソリンやエンジンが悪いと、ちゃんと動かないことには変わんないけどさ、

 修理の仕方が大違いなんだ」

 

 ガソリンが悪ければ、抜いて新しいものを入れればいいが、給油に六十年かかるなら、今回は無理ということになる。

 

「でも、綺麗にする方法を誰か知ってるかもしれない。

 だから、こっちならまだいいんだけどな」

 

 問題はエンジン自体の故障。

 

「いろんな故障があるけど、複雑なものだと大変だぞ。

 オーバーホールよりも、新車に買い替えたほうが早くて安いこともあるんだ」

 

 士郎は赤毛をかいた。

 

「でもこれは、世界に一台のクラッシックカーみたいなもんだろ。

 無理に動かして、事故ったら元も子もない。

 十年前の災害だって、そういうことなのかもしれないじゃないか……」

 

「シロウ……」

 

 二つの声が同じ名を呼んだ。

 

「あ、ああ、ゴメンな。急に色々な事が起きたけど、一度に全部片付けるのは無理だ。

 間桐からなんとかするってのは、そのままでいこう。

 慎二は俺の友達だし、桜は妹分だ。一番先に助けてやりたい」

 

 アーチャーの慎重な行動は、誰かを切り捨てる状況を作らないためだったんじゃないか。士郎はそう思う。できるだけ多くに手を差し伸べることと、救助に順番をつけることは矛盾しない。そして、全部を一人で、いっぺんにやる必要はない。線の細い背中が、それを教えてくれた。 

 

 凛は深々と頭を下げた。 

 

「ありがとう、士郎。今夜の計画を教えるわ。

 まず、桜をキャスターのところに連れてく。

 桜の体も診てもらって、心臓の蟲も始末する」

 

「じゃあ、桜たちの祖父さんを……」

 

 口ごもる弟子に、師匠はぴしゃりと言い切った。

 

「ねえ、士郎。アーチャーが法律にこだわるのは、それが人を守るからなのよ。

 法を踏み外すと、法によって裁かれる。法に従う人を守るためにね」

 

「……うん」

 

「でも、あのジジイは蟲になって、それでさんざん悪事をしてきた。

 ……時々ある行方不明事件、あれはあいつがやってたの」

 

「な、なんで、どうしてさ!」

 

「キャスターが教えてくれたのよ。彼女の望みには害虫はいらないって。

 ……魔術には対価が必要なの。あんたの『投影』とは違ってね。

 五百年生きる術の対価が、蟲に身をかえての人喰いだったのよ!」

 

 士郎は虚しく口を開閉させた。

 

「いまさら人間様の法律に縋って逃れようなんて、それこそ虫が良すぎるってものよ。

 それともあんた、あのジジイにも手を差し伸べるべきだと思う?」

 

「う……」

 

「それは正義じゃないとわたしは思うのよ。偽善じゃないかしら」

 

 琥珀の瞳が揺らぎ、しかし言い返せずに俯いた。手を差し伸べるべきは、犠牲者の方だ。しかし、それには遅すぎる。目に見えないもの、手の届かないものはあまりに多い。この世のどこかで、今この瞬間にも罪は起こっているのだ。

 

 養父が聖杯に願いたかったのは、これではないのかと士郎は思った。――誰をも切り捨てなくていい世界を。争いのない、悪のない世界。

 

 そんな士郎に、凛は優しいほどの口調で告げた。

 

「あんたが悩まなくてもいいわよ。やるのはわたしなんだから。

 ランサーに手伝ってもらおうとは思うけど」

 

「俺に?」

 

 形の良い眉を上げる美青年に、凛は正座して手をついて一礼した。

 

「ええ、光の御子たるあなたに、伏してお願いします。

 わたしの妹を助けて下さい。……その槍にかけて」



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52:宝玉の円環

 車を出すというイリヤの申し出に、凛は条件をつけて頭を下げた。

 

「ありがとう。でも、もうちょっと目立たない車を借りてきてくれない?」

 

 施術の予定は午前二時。凛の魔術のベストタイムにあわせて行うつもりだ。そんな深夜にリムジンが走っていたら、やはり注意を引くだろう。

 

「ええと、白い四角い車がいいのかな?」

 

「イリヤねえ、どこでそんなの覚えてくるの? 

 でも、確かにそういうのがいいわね。

 みんなが乗れる大きい車にしてくれる?」

 

 一緒に行くと言い張る士郎には、断ろうとして考え直した。大丈夫だとは思うが、万が一キャスターが手出ししたら、対抗できるのはセイバーしかいない。

 

 そして、時計塔と言峰協会に催促の連絡をした。前者はしどろもどろで、後者は留守番電話のメッセージが虚しく響くのみ。

 

「あの腐れ神父、居留守使ってんのかしら。

 ふん、そっちがその気なら、こっちだってやってやるわよ」

 

 なにをやるかと言えば、上への告げ口である。聖堂教会の日本支部の電話番号だって、番号案内が即座に教えてくれる。凛が告げたのは、簡単な一言だった。

 

「すみません、冬木の遠坂と、ドイツのアインツベルンです。

 そちらから派遣されている言峰神父、ぜんぜん働いてくれないんですけど。

 ちょっと、上から注意していただけません? 

 でなければ、ちゃんとした人に替えて下さい。

 市民の安全もかかってるんですからね」

 

 それほど効果は期待できないが、打てる釘は打っておかないといけない。日本屈指の霊地を治める遠坂と、第三魔法を追う千年の大家アインツベルンの名を、無視することはできないだろう。

 

「冬木教会の運営もちゃんとしているのかしら……。

 わたしの両親のお墓も、あそこにあるんです。

 そちらの教会は、どこの役所が担当してるんですか?」

 

 と、プレッシャーをかけることも忘れない。凛はひとりごちた。

 

「この前の戦争は、凄い状態だったみたいなのに、なんとか隠し切れてる。

 でも、今回は……」

 

 第四次聖杯戦争は、マスターもサーヴァントも化け物揃いだったという。こちらはセイバーの言だが、海棲生物に似た魔獣を召喚するキャスターは、完全に常軌を逸していたそうだ。秘匿もなにもあったものではなく、大勢の子どもを攫い、魔獣の餌にした。

 

 真名はジル・ド・レェ。童話『青髭』のモデルとなった、堕ちたる英雄の成れの果て。最終的には、三騎士と騎兵のマスターらが連携し、討伐にあたる。決戦は未遠川の中洲。そそりたつ塔のような巨大な魔獣が召喚された。

 

 一般人にも少なからず目撃者が出たはずだ。だが、郷土史にそんなオカルトじみた記述はないとアーチャーは言う。ほぼ同時期に起こった、未遠川流域の化学工場薬品漏れ事故がそれだろう。数十人の中毒者は出たが、いずれも軽症というものだ。薬品には幻覚作用があり、魔物を見た者もいたとあった。

 

「やれやれ、随分おかしな中毒だね。そんな薬品、日本で製造できるのかい?」

 

 と、アーチャーは黒髪をかき回したものだが。つまり、言峰綺礼の父、璃正神父は、監視役兼隠蔽工作係を完璧に務めていたわけだ。

 

「まったく、それに比べると息子のヤツは……」

 

 ぶつぶつと不平を呟く凛に、穏やかな声がかけられた。

 

『……凛、その先代と彼は、いつ代替わりをしたのかな』

 

「アーチャー! だ、大丈夫!? ……あ」

 

 思わず振り向いたが、そこに黒髪の青年はいなかった。非常に明瞭な心話の欠点である。実際の声と同じように聞こえるのだ。 

 

『いや、さっぱりだめだ。長いこと起きているのは無理そうだよ』

 

「そう……」

 

『ところで、言峰神父の父上は?』

 

「亡くなってる。……たしか、お父様の葬儀の時は、あいつが聖句を唱えたわ。

 でも、はっきりと覚えてないけど、かなりのおじいちゃんだったような……」

 

『そうだね……。

 人三倍ぐらい頭脳明晰で、意気軒昂でも、急に亡くなる老人はいるからね。

 だが、璃正神父の死去した時期はいつなのか。

 聖杯戦争と重なるようなら、重大な意味を持っているかもしれない』

 

「え……?」

 

『聖杯戦争がもたらした、もう一人の死者、

 もう一人の孤児ということにはならないか?』

 

 凛は目を見開いた。親の死が子どもに与える多大な影響は、嫌というほど実感している。それが綺礼にも当てはまるのだとしたら……?

 

「考えてもみなかったわ。そういえば、すぐに敗退したって言ってたけど、

 どのサーヴァントのマスターだったのかしら……?」

 

 確定しているのは、剣士と槍兵、騎乗兵のマスターだ。最後の一人を除いて故人。疑問符つきだが、弓兵のマスターは凛の父時臣だと思われる。こちらも故人。キャスターのマスターは不明だが、話のように無茶な使役をしたら、恐らく生きてはいまい。 

 

 残りは二枠。狂戦士(バーサーカー)暗殺者(アサシン)

 

『ああ、そうさ。言峰神父は、どちらのマスターだったのか。

 それを、プロフェッサー・ヴェルヴェットに聞いてほしいんだよ』

 

「綺礼とセイバーじゃなくて?」

 

『口ではなんとでも言えるからね。第三者の証言が欲しい。

 それに、セイバーと切嗣氏は別行動のうえ、ろくに会話もしていない。

 彼の情報は彼女に、彼女の情報は彼に届いていないということだ。

 ライダー主従だけが、行動と情報を共にしていた。だから聞きたいんだ』

 

「今さら、前回のことを聞いてもねえ……」

 

 考えることがどんどん増えていくのに、凛は難色を示した。

 

『いや、今回も重要かも知れない。人は成功体験を繰り返すものだからね』

 

「成功、体験?」

 

 ヤンは胸中に抱いた疑念には触れず、目下の困りごとを口にした。

 

『第四次から生還したというだけで、大したものじゃないか。

 参加者ならば、父の見事な対応を見ていたはずだ。

 それを思い出して、きちんと監督役の任を果たしてもらわなきゃ』

 

 凛の額に青筋が立った。

 

「まったく、そうよね!」

 

『ごめん、そろそろ……ところで凛、シェーンコップから聞いたよ。

 私は魔術はまったくわからないが、君の選択を支持する』

 

「アーチャー、……わたし……」

 

 言いさして、拳を握り締める。

 

『……凛。私は不確かな聖杯のために戦うことには反対したよ。

 しかし矛盾するようだが、戦いを選択すべき時もあると思う。

 完璧(パーフェクト)最善(ベスト)も手にするのは至難の業だが、

 よく考えて最適(ベター)を選んでほしい。

 とにかく、いまは桜君の寄生虫退治を一番に考えるといい。健闘を祈るよ』

 

 なんの健闘なのか。問い返そうとして、口を噤、む。この髪も目も腹の中も黒いサーヴァントは、凛の目論見なんてお見通しなのかもしれない。

 

「うん。わたしも回復のためにちょっと寝るわ」

 

 衛宮家の離れを貸してもらい、凛は布団に横になった。今夜のために、魔力補給の宝石を三つも飲み込んで。そして、胸元をそっと押さえる。

 

「お父様とご先祖様、力を貸して」

 

 

 ――『彼』に新しい家族ができた。亜麻色の髪と大地の色の瞳をした、繊細な美少年だった。まだまだ小さく、細っこく、引っ張っているスーツケースの方が大きく見えた。重さは余裕で少年を上回ることだろう。初めてできた、ただいまを言う相手。父と一緒に船で暮らしていた『彼』は、これまで地上に家を持ったことはなかった。

 

 それからは、戦いに行くたびに帰ることばかり考えていた。亜麻色の髪の美少年は戦災孤児で、『彼』が面倒を見ることになったのだから。実際、面倒を見てくれていたのは、少年のほうだったけれど。

 

 あの子を独りにしなくて済むように。せめて、保護者としての期間が終了するまでは。人の欲には限りがない。いつしか、自分が生き延びることではなく、あの子を戦場に出したくないと思うようになった。

 

 三個艦隊を二万隻で各個撃破した、かの天才との対戦。迫り来る敵艦隊は、紡錘形の矢。自ら陣形を開いて通し、右後背に食らいつく。敵も、『彼』の指揮する艦隊の背を追う。星の海に出現する、互いの尾を噛みあう蛇(ウロボロス)。消耗戦を嫌った相手に合わせて退却し、送られてきたのは『再戦の時まで壮健なれ』

 

 そんなものにかかずらっている暇はなかった。一人でも、自軍の生存者を助けなければ。そして『彼』は知る。士官学校の最初の友人を永遠に喪ったことを。

 

 だから探した。これ以上の戦火を止める方法を。虚空に君臨する白銀の女王。彼女を射止めて、講和を結ぶことはできないだろうか――。

 

*****

 

 日付が変わった一時間半後、凛たちは柳洞寺の山門の前に降り立った。満月(アルテミス)は西に傾き、白い面をほのかに赤らめていた。彼女が愛した狩人(オリオン)は、猟犬(シリウス)とともに天球を渡り、一足先に(ねぐら)へと帰るのか。

 

 凛は妹を背負った士郎に頷くと、柳洞寺の階段を登り始めた。先導するのは剣と槍の騎士。背後には白い騎士。鉛色の狂戦士は、主人を左腕に抱き上げて、殿(しんがり)を勤める。赤い騎士は、山門から鷹の目を凝らして一行を見つめていた。

 

 セイバーが彼に鋭い視線を向ける。彼は秀でた額に手をやり、目頭を揉んだ。

 

「今キャスターから連絡を受けた。ここでやるようにとのことだが……」

 

 頭痛を堪えるような表情と口調だった。

 

「また顔ぶれが増えているな。まったく、なんだね、君たちは。

 戦いもせず、いったい何をするつもりかね」

 

「それには同感だが、貴様に問われる筋合いはない」

 

「これは失敬。だが、その少女は……?」

 

 銀灰色の目を眇め、門番はさりげなさを装って問いかけた。

 

「無辜の民を巻き込むのに反対したのは、管理者であったはずだが」

 

「その管理者が判断し、キャスターの招きで来たんだからいいでしょ。

 ねえ、キャスターのサーヴァントのサーヴァントさん」

 

 ずばりと切り込まれた言葉に、彼は溜息を吐き、深紅に鋼の視線を突き刺した。遠坂へ出向中の同僚は、右手を忙しなく振った。

 

「誤解すんなよ。俺のせいじゃねえぞ。アーチャーの野郎の宝具のせいだ」

 

 なにしろ、今もその一部が顕現している。当の白い騎士は深い響きの声で、マスターのマスターに問い返した。

 

「さて、閣下のマスター。何を始めるつもりかな?」

 

「じゃ、士郎、桜を下ろして」

 

「あ、ああって、ここに!?」

 

「相手がそう言うなら、仕方がないでしょう」

 

 山門の床に、少女の体が横たえられた。凛は妹の真っ直ぐな髪をそっと撫でた。

 

「ちょっと冷たいけど、我慢してね、桜。すぐに済ませるから。

 ではキャスター、お願いしたいんだけれど」

 

 山門の奥に蟠った闇が、黒いフードに紫のローブの女性に姿を変えた。

 

「口上は後ほどにさせてもらうわ。私、蟲は大嫌いなのよ」

 

 黒絹に包まれた細い指が、桜の体に触れた。

 

「……よくもまあ、こんな醜い術を考えたものだこと」

 

 吐き捨てると、彼女はフードを脱ぎ捨てた。蒼銀の清流に縁取られたかのような、清艶な美貌が露わになる。地に落とされたフードは、ふわりと広がって桜の姿を隠した。わずかに覗くのは、手の甲のみ。士郎はキャスターに詰め寄ろうとした。

 

「な、なにすんのさ!?」

 

 菫色の瞳が士郎を見上げた。

 

「女ならば、男に見られたくないものだからよ」

 

 反論を許さぬ声であり、表情であった。そしてキャスターは、稲妻のように折れまがった短剣を抜き放った。

 

破戒せる全ての符(ルールブレイカー)!」

 

 振り下ろされたのは、桜の手の甲。十二分に手加減をされて、浅い傷を刻んだのみだったが、黒絹に覆われた体が大きく痙攣した。見えるのはそれだけ。しかし、士郎が動揺するには充分すぎた。

 

「ちょっ……、なにすんだよ! やめてくれ! 桜っ!」

 

 主の命に、セイバーが一歩を踏み出そうとする。白と群青が迅速に動いた。士郎を斧の騎士が、セイバーを槍の騎士が羽交い絞めにする。赤い騎士には、鉛の巨人が顔を向ける。

 

「静かになさいな、坊や。これは序の口よ」

 

 キャスターは流麗な動作で屈みこむと、フードを拾い上げた。ぐったりとした桜の周りの地面は、かすかに白煙を上げていたが、ほかに目立つ異状はない。

 

 なにも知らない士郎は、大きく息を吐いた。魔術師の少女たちは、逆に息を飲み込んだ。あの布は悲鳴さえ飲み込み、駆除した蟲を焼き滅ぼしたのだろう。桜にはまったく影響を与えずに。

 

「さあ、小物は取り除いたわ。

 後は、管理者のお手並みを拝見といきましょう。

 私を門下とする気なら、一門の主に相応しい力を見せてちょうだい」

 

 凛は無言で頷くと、うなじの後ろに手を回し、ペンダントの留め金を外した。  

キャスターを背後に庇ったアサシンが、ごくわずかに鉄灰色を揺らがせた。

 

 それは、ようやく宝石店から退院してきた遠坂家の家宝。親指と人差指で作った円ほどもあるルビーのペンダントだ。最上質の鳩の血色で、カットは見事なトリリアント。宝石の枠も鎖も重厚な細工の白金。若い女性というよりも、王侯貴族の装身具というにふさわしい。

 

 しかし、このペンダントの真の価値は、歴代の遠坂の当主が、二百年近くに渡って蓄積してきた魔力にある。

 

「じゃあ、ランサー、あなたにお願いしたいのは……、

 その槍で、確実に臓硯の心臓を貫いて」

 

 士郎は愕然と凛を見詰め、ランサーはむっつりと舌打ちし、セイバーから離れた。

 

「いいのか? そいつの心臓だけに中るわけじゃねえぞ」

 

 キャスターの魔術により、桜の魔力を横取りして隠蔽していたものが消え失せた。ゆえに、少女の中の異質な魔力は、クー・フーリンの目には明らかだった。

 

 豊かな胸の谷間のやや左寄り、筋肉と骨のさらに奥。眠る少女の心臓の内側にそれがいる。才能豊かな赤い少女に、それがわからぬはずがなかろうに。

 

 ランサーの仄めかしにも、凛は動揺しなかった。   

 

「ええ、そんな無茶言わないわ。ベニスの商人じゃあるまいし」

 

「仕方ねえな。寝てる娘を刺すなんざ、我が槍の穢れだが……」

 

 言いながらも、彼の手にする深紅の槍は、魔力を収奪しながら脈動する。

 

 衛宮士郎(エミヤシロウ)は、凍結したようにその輝きを見ていた。絶対の死を告げる、禍々しくも美しい輝き。

 

「――その心臓、貰い受ける。刺し穿つ死棘の槍(ゲイボルグ)!」

 

 ランサーの手を飛び立った赤い槍は、ありえぬ極短の弧を描いて、石床の上の少女の胸に突き立ち絶息させた。絶叫しかけた士郎の口を白い籠手が塞ぎ、低い声が囁く。

 

「まあ、待て。あの人の教え子なら、勝算のない戦いは絶対にしないさ」 

 

 そんなことなど聞けるものか。士郎は、鋼の腕の檻から、遮二無二脱出しようともがいた。セイバーは拳を握って俯いた。もはや、この剣でできることはない。必要なのは、失われた鞘の方だった。

 

 ランサーが槍を抜き取る。一瞬で心臓を貫いたので、存外に出血は少ない。抜かれた槍の穂先に、白っぽいものが蠢いていた。凛は一瞬だけ凄まじい視線を送ったが、桜の傍らにしゃがみ込んだ。

 

 妹の顔は、安らかに眠っているように見えた。

 

「ごめんね、桜。あんたを殺したのはわたしよ。この罪は一生忘れないわ」

 

 だが、秘密として墓場まで持っていこう。魔術は秘匿、それがルール。この蘇生の魔術も。家宝に蓄積された魔力を、最大限の術として構築すべく、左腕の刻印が煌々と輝きを放つ。心臓にナイフを突き刺すような痛みに耐えながら、遠坂家六代目の魔術師は、槍に貫かれた心臓の治癒を行なった。

 

 ゲイボルグはただの槍ではない。付けた傷は癒えぬという魔槍だ。魔力と桜の心臓を対価に、そっくり新しい臓器に置き換える大魔術が必要だった。立春は過ぎたとはいえ、厳寒期の深更、気温は氷点に近い。しかし凛の頬は紅潮し、額には汗が滲み、頬の曲線を伝って地へと落ちる。

 

 衛宮士郎は、その光景もただただ凝視していた。蒼い槍兵の槍は心臓を穿ち、それを癒したのは赤の少女。時、場所、人を変えて、宝玉が繋ぐ縁だ。

 

 宝玉は、『彼』の命の恩人の証拠。いまここにあるということは、衛宮士郎は槍兵によって死ななかった。凛が引き金となることもなかった。彼と彼女は、かわりに間桐桜を殺したのだ。

 

 そして、蘇らせた。『彼』が招かれたのも道理、ここに円鎖は帰結する。この世界の衛宮士郎に届かなかった手、差し伸べる必要のなかった手だった。

 

 しかし、間桐桜には届いた手。それは桜が最も欲していたものだ。幾多の世界のどこかで、守護者として殺した妹分が――。

 

 『彼』は、鷹の目を伏せた。この視力をもってしても届かず、鍛え上げ、強化した腕でも救えなかった相手でもあった。

 

 顔色を取り戻した桜が、豊かな胸をゆっくりと上下動させ、健やかな寝息を立てはじめる。琥珀と銀灰が凝視する中で。体全体で深呼吸をした凛に差し出されたのは、黒に包まれた繊手だった。凛は無意識にその手をとった。手を握られたキャスターは、ふっと笑みを浮かべた。

 

「お見事ね。今の世の魔術もそう捨てたものではないわ」

 

「おだてても、何にも出ないわよ。これは、六代ぶんの大盤振る舞い。

 あと五代は無理ね。さあ、桜を家に帰さなきゃ」

 

 スカートの裾とニーハイソックスの埃を払い、士郎を手招く凛に、響きのよい声が掛かった。

 

「待ちたまえ、忘れ物だ」

 

 赤い騎士が、ルビーのペンダントを差し出していた。

 

「もう、空っぽなんだけど……」

 

「そうかね? これは大層美しい。君にしか似合わぬだろうよ」

 

 士郎とランサーが同時に顔を顰めた。

 

「っかーっ、この気障野郎」

 

 赤毛が頷き、白い兜はそれに首を振った。

 

「おやおや、坊や、褒め言葉を喜ばん女性はいないぞ。門番殿を見習うべきだ」

 

「や、無理。聞いてるだけで痒くなる!」

 

 赤と白の騎士らは青い連中を鼻で嗤った。紅白筋肉ダルマに士郎はカチンと来たが、口を開くまえに銀の短髪が振られる。

 

「寺の参道に、こんな値打ち物が落ちていたら大騒ぎになる。

 もっとも、すぐに持ち主は明らかになると思うがね。

 それは君たちとしても望ましくはなかろう」

 

「う……ありがとう」

 

 褐色の手から、白い手に渡る赤い宝玉。互いを包む赤と黒。なんとなく似た外見の二人だと士郎は思った。

 

「ケッ、お二人さんよー、こんな状況で世界を作ってんじゃねえよ。

 こいつをどうすりゃいい!?」

 

 ランサーが柄の悪い口調で、ドスの効いた声を上げた。ゲイボルグの切っ先に貫かれ、なおも蠢く蟲。

 

「なんてしぶとい……」

 

「嫌だわ、気持ちの悪いこと」

 

 呻く凛に、キャスターは心底嫌そうに眉をひそめた。艶やかな唇を開き、呪文を唱えようとする。蟲に小さな手が伸ばされた。槍の穂先から、ひょいと蟲を外してしまう。

 

「お、おい、イリヤ!?」

 

 真紅の瞳が摘み上げた蟲へに向けられた。

 

【可哀想なゾォルケン。待ちすぎて、変わってしまったのね】

 

 普段の舌足らずなイリヤの発音ではなかった。もっと落ち着いた、流麗な響きの声。

 

【まるでエオスの恋人のよう。彼は蝉になり、貴方は蟲になった。

 でも、彼は悪をなさず、貴方は悪をなした。

 貴方が求めた世界の平和は、苦しむ弱者を救うためだったのに。

 この少女や、貴方の孫のような人々を】

 

 冒し難い威厳に満ちた眼差し。蟲は身じろぎし、耳障りな鳴き声を立てた。いや、それは声だった。

 

【ユ……ス……ティーツィ……ア?】

 

【それを忘れてしまったのなら、もうお眠りなさい。

 今ならば、今だけは、私が悼んであげることができる】

 

 それは、蟲、いや間桐臓硯が、二百年前に失ったもの。冬木の霊脈に融けた冬の聖女に他ならなかった。蟲の動きが止まった。

 

【さようなら】

 

 白い手が強く握り締められた。それが間桐臓硯の最期であった。五百年の果てに何も遺せず、子孫には憎まれ、生あるものには悼まれぬ死。それでも、彼が奪った命には到底足りぬであろうが。

 

「イ、イリヤ……」

 

 士郎は恐る恐る声を掛けた。銀の睫毛が瞬き、きょとんと見上げる。

 

「なあに、シロウ?」

 

「や、その、大丈夫か? そ、その……」

 

 口ごもる義弟に、イリヤは手を開いて見せた。

 

「これのこと?」

 

 士郎は思わず目をつぶってしまったが、凛の驚きの声に慌てて瞼をこじ開けた。

 

「あ、あれ?」

 

 小さな掌にあったのは、潰れた蟲ではなく、小さな金属片だった。

 

「あとでね、シロウ。ここは寒いんだもん」

 

「そうよ。桜を一度、間桐の家に帰すから、今は時間がない」

 

 朝になったら、士郎が迎えに行くのが筋書きだ。

 

「そうね。それでは改めて、お礼を言わせていただくわ。

 ありがとう、キャスターとランサー。じゃあ、失礼します」

 

 深々と一礼し、階段を降り始めた凛に、キャスターの声が掛かった。

 

「私の宝具は、魔術の契約を断つものよ。

 当然、サーヴァントの契約も含まれているわ」

 

「じゃあ、ライダーは……」

 

「今ははぐれサーヴァントということね。急いだ方がよくてよ」

 

 単独行動ができるライダーが、令呪の枷を外されるのは危険だ。メドゥーサは、悪行により名を為した反英雄に近い存在である。何をするかわかったものではない。

 

「お、ついに戦いか? 俺も混ぜろや」

 

「あんた、まだついてくる気!? それは最後の手段よ。

 メドゥーサも重要なファクターだって、アーチャーが言ってるの。

 いい? 勝手に戦ったり、殺したりしちゃ駄目だから」

 

 うきうきとするランサーに凛は釘を刺し、主と同僚の眼差しは、白々と霜が降りるようなものだった。

 

「嫌だわ、この野蛮人」

 

「それには私も賛同するな。君の任は遠坂主従の護衛だったはずだろう。

 管理者の方針に従いたまえ」

 

「俺だって、好きでやってんじゃねえよ!」

 

「ほう。私も少々退屈してきたところでな。言ってくれれば、いつでも代わるぞ」

 

「それこそ願い下げだぜ」

 

 そう吐き捨てて、青い騎士は背を向け、遠坂凛らの一行を追う黒紫の魔女は山門の内側に姿を消す。残された赤い騎士は、腕組みをし、山門へと凭れかかった。そのまま門に背を擦らせるように力なく座り込み、自嘲の笑いを漏らす。

 

「はっ、ははは、……なんてことだ。ここは、間違いなく俺の世界ではない」

  

 ここの衛宮士郎は、一人で全てを救う美しい夢を見ていない。かわりに目に映し、手を取り合うのは、救うべき者ではなく仲間たち。飛び越えられぬバーにひたすらに挑むより、円陣を組み、同じ目標に手を伸ばす。正義の味方でもなく、ただ一人の味方でもない。多くを味方にし、互いに支えあい、一人を救う。

 

 衛宮士郎は、遠坂凛の、間桐桜の、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの味方だった。彼女たちも同じことが言えるだろう。

 

「彼か。そうだな、彼しかいない」

 

 新兵と敗残兵の寄せ集めを、短期間に精鋭の軍となさしめ、幾度の戦場を越えて不敗であった、黒髪の魔術師。彼の率いた軍は、激戦の連戦を重ねても、驚異的な生存率を誇った。その信頼が、困難な状況下においても、最高水準の士気を保ち続け、凄まじい戦果を叩き出すことになるのだ。

 

 それほどの功績を上げたのに、彼は人間の有限性を知り抜いていた。人は、歴史の川を流れる木の葉のようなものだと。だから、大人は子どもを育て、守る責任がある。上官が部下を育てるのも同じ。それが伝わったからこそ、家族や部下は彼を支えた。彼が死した後までも。

 

 彼が希求した平和が当たり前にあるここで、戦いに訴えるなど何事か。ヤン・ウェンリーはそう思ったに違いない。彼が停戦して調査という戦略を立て、智謀を凝らして戦術の限りを尽くしたら、対抗できる者など皇帝ラインハルトしかいないではないか。

 

 そこまで考えて、銀灰色の目が虚ろになり、彼は目元を覆った。

 

「……駄目だ。誰一人として、あちらとうまくやれるマスターがいないぞ」

 

 いやいや、現実逃避をするな。彼は銀髪をかき回すと、ぶるぶると頭を振った。守護者に至ってしまった自分の元を断ちたい。それが望みだった。しかし、どこをどう考えてもここは違う。自分がキャスターの門番をやっているのも、ヤン・ウェンリーが、遠坂凛のサーヴァントになっているのも。

 

「なんでさ……。なんで遠坂があの人を呼んでいるのさ……」

 

 聖杯戦争というものの、要は魔術師同士の小競り合い、おままごとだ。それに三ツ星シェフを呼んだようなもの。材料も器具もなく、どうして料理が作れるだろうか。

 

 本来のヤン・ウェンリーは三百万人の軍勢を率い、一戦で数百万人を屠る人間なのだ。サーヴァントとなって、個人的には強化されたが、総力としては著しく弱体化している。『戦闘』では、非力なサーヴァントでしかないだろうが、それでもなお、『戦争』では、このうえなく怖ろしい存在だった。

 

 知らないということは幸いだ。知っていると、エーテル製の胃袋がキリキリしてくる。

 

「どう考えても、アレ以上の強敵だぞ……」

 

 彼は、肺を空にするような溜息を吐いた。キャスターによる召喚は、ここから離れられない代わりに、強力な加護と魔力を与えてくれた。たとえバーサーカーが攻めてきても、相手が単騎なら退ける自信はある。しかし、ヤン・ウェンリーは何をやるかわかったものではない。

 

「いや、やらせなければいいのか。

 敵にするから怖ろしいのであって、味方にできればこれ以上の相手はいない……」

 

 これでは衛宮士郎と一緒だ。忌々しいが仕方がない。それに興味も出てきた。ヤン・ウェンリーの教えを受けるというのは、大変なことではないだろうか。今度は笑いがこみ上げてくる。 

 

「これは面白くなってきた」

 

 明らかに違う、だから殺しても意味がない。いや、生きて苦労をしたほうがいい。ヤン・ウェンリーの『娘』に振り回されろ。そうすれば、こんな馬鹿にはならないだろう。

 

「ならば、俺がやるべきなのは……」

 

 もうひとつの未練を晴らすこと。今、ここなら手を伸ばすこともできよう。自分が救えなかった、地獄に落ちても忘れられぬ、懐かしく美しい面影に……。



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閑話10:猛犬にご注意

「ところでよ、なんでホットドッグっていうんだ。

 おまえなら知ってるかもしれねえと坊主が言ってたぞ」

 

 セラの魔力の不正融資で、実体化できるほどに回復してきたアーチャーに、ランサーは声をかけてみた。布団の中から寝ぐせだらけになった黒い頭が覗く。

 

「ああ、それは広告を描いたイラストレーターの遊び心だそうですよ。

 パンに挟んだソーセージを、ダックスフントに見立てた絵を描いたら、

 店主が気に入って、ホットドッグという商品名にしたんだとか」

 

 なおも首を捻るランサーだった。

 

「はあ? この国は犬を食わないんだろうが。 

 なのに、なんで犬を食い物に見立てるんだよ」

 

「元々はアメリカの食べ物です。もっとも、アメリカ人も犬は食べませんがね。

 ダックスフントは変わった姿の犬なんです。

 極端に胴長短足で、毛は茶色。この街でも、飼っている人をよく見かけますよ」

 

「おい、あれ、犬だったのか? 

 やけに鼻面の長いイタチを連れてる連中が多いと思っちゃいたが……」

 

 最近人気があるのは、ホットドッグの看板に書かれたダックスフントよりも、さらに小柄で華奢なミニチュアダックスだ。毛が長いものも多いし、色も種類が増えてきた。

たしかに、もうソーセージに似ていないかもしれない。

 

「現代は、室内で飼えるような小さな犬が人気ですからね。

 プードルとか、チワワとか」

 

 聞きなれない単語に、即応する聖杯の加護。それはランサーが驚くことばかりだった。

 

「あの小羊の出来損ないみたいなのも、猫より細っこいのも犬だったのか!?」

 

 ヤンは感心した。さすがはゲリラ戦の名手、観察眼が鋭い。

 

「ええ、そうです。でも、ちゃんと犬らしい犬もいるでしょう」

 

「姿だけはな。だが、だらけきってやがる。

 あれじゃ狩りもできねえが、今の世ではその必要もねえ。

 無駄飯食いじゃねえか。なんで飼ってんだ」

 

「家族の一員として、可愛がるためですよ。

 今の時代、特に日本は人間の寿命が長い。

 子どもが巣立った後に、犬や猫を買うという人も多い。

 これも豊かで平和だからこそです」

 

 ランサーは髪を掻きむしった。

 

「そんなに呑気に飼うもんじゃねえぞ。獣を飼うには覚悟がいる。

 犬が狂ったら、命を賭しても始末しなきゃならねえ」

 

 狂犬病に感染して発症すると、致死率は百パーセントに限りなく近い。記録をひっくり返しても、助かった人間は片手の指よりも少ない。しかし……。 

 

「ん? そいつも今では助かるのか……」

 

 聖杯が告げるのは、狂犬病のワクチンがあるということだった。 

 

「科学の進歩はすごいでしょう?

 狂犬病のワクチンが発見されたのは、今から約百二十年前です」

 

 この日本では、死病が死病でなくなるどころか、姿さえ消した。

 

「それだけじゃありません。破傷風や壊疽も同じです。

 天然痘は撲滅され、ペストも根絶に向かっています。

 こういった事こそが、本物の魔法だと思いませんか?」

 

「……だな」

 

 人の意志で、力で、新たな法則を見つけ、世界を書き換えていく。

 

「たった七組の主従では、決してできないことです。

 だから私は、聖杯戦争に願うことはありません。私は知っていますから」

 

「何をだ?」

 

「人間の意志と可能性を。この国は敗戦国だった。

 出征した多くの若者が戦死し、首都や大都市が空襲で壊滅的な被害を受けた。

 その焼け跡から、こんなにも平和で豊かな国を築いていったのです。

 たったの六十年で」

 

 ランサーに、聖杯の知識が是と囁く。

 

「はぁ、それを言っちゃあ、おまえのマスターも立つ瀬がねえやな」

 

 黒い瞳が、微苦笑に細められた。

 

「私は軍人でしたから、数の信奉者なんですよ。

 やれ、魔術は秘匿とやっている間に、どれほど世界が変わったか」

 

「だな。馬も牛もいねえ。痩せ細り、襤褸をまとい、垢に汚れた者もいねえ」

 

「でも世界には、まだそういう国の方が多い。

 そんな人々の生を賭けた戦いに比べれば、これは金持ちの道楽ですね」

 

 熱のない口調で、一刀両断するアーチャーに、ランサーは肩を竦めた。穏やかに見えて、この男には空恐ろしいものが潜んでいる。

 

「……まあな」

 

「安全地帯に老人がふんぞり返っているのに、

 あの子たちが命を賭けるには値しませんよ。

 過去への逆行よりも、今を生きることが大事だと思うんです」

 

 そしてこの先も、どれほど変わっていくことか。ヤンの知っている歴史は訪れないかもしれない。しかし、人の持つ不屈の精神は、変わることがないだろう。

 

 例えば、核の焦土の中から立ち上がり、星空に飛び立った人々がいた。氷の船で出発し、五十年も新天地を探した人々は、ヤンの祖先だ。その一員に、圧倒的な帝国に、屈さぬことを選んだ自分たちを加えるのは、少々おこがましいだろうか。

 

「魔術をすべて否定するわけではありませんが、もっといい方法はないのか。

 過去を探すことが、未来への扉になることもある。

 知ったうえで、あの子たちにはよりよい選択をしてほしいんです」

 

 この世界の未来は、彼らのものだから。

 

 そう呟くと、アーチャーの瞼が落ちた。ランサーは手荒く髪をかき回した。

 

「よりよい選択ねえ……。おい、ちょっと待て。結局食ってもいいのかよ?」

 

 渋々という感じにアーチャーは薄目を開け、士郎の言葉を裏付けた。

 

「ホットドッグ自体は犬の肉は使ってません。ソーセージは豚肉が材料です。

 ……ああ、でも」

 

「でも、なんだ?」

 

「我々は概念の産物ですよね。毒は効きませんが、酒には酔う」

 

 ランサーは頷いた。

 

「あの命の水って酒はきつかったな」

 

「そしてねえ、物理攻撃は効かないそうですが、寝ぐせはつくんですよ……」

 

 その言葉に、ランサーは黒い頭を見つめて吹き出した。

 

「おい、どういう寝方をしたら、そんな頭になるんだよ」

 

 大半の時間は霊体化していたのに、どんな寝相だったのか、あちこちがはねている。特につむじの左右の髪がぴんと突っ立ち、まるで黒猫の耳のようだ。

 

「変でしょう? 霊体の私が、ただの枕に干渉されるなんて」

 

「そういやそうだな……」

 

「要するに、気の持ちようというか、生前の感覚が残っているじゃないでしょうか。

 寝たら寝ぐせがつくのが当たり前だったから、髪がはねる」

 

「犬ってのが引っかかるんなら、ゲッシュに障るってか……?」

 

「嫌な気分になるなら、やめておくのが無難じゃないですかねぇ」

 

 結局はランサーの気分次第ではなかろうか。そんなアーチャーの回答に、再び頭を悩ませるランサーだった。




狂犬病は海外ではまだまだ猛威を振るっています。渡航の際はご注意を。生還率は数十億分の一以下で、エボラウィルス(死亡率最大90%、ウィルス株によって異なる)が、呂布を見た後で関羽には勝てると思えるレベル。なお、正解はどっちにも負ける。


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9章 聖杯探求
53:文字どおりの人材活用


 桜を一度絶命させたことで、ライダーが制御できなくなるかもしれないというのは、

杞憂に終わった。寺の階段を下りているうちに、手の甲に一片の花びらが浮かんできたからだ。

 

「これが令呪の回収と、再配分のシステム……。ずいぶんと手回しがいいじゃない」

 

 凛は複雑な面持ちになった。契約の切断を機に、桜が聖杯戦争と縁を切れればいいと思っていたのに。

 

「令呪を作ったのはマキリなんだろ。やっぱ、特別扱いなんじゃないのか」

 

 そう言う士郎も、心に蟠るものがあった。桜の重みと体温を背負うと感じてしまう。凛が手を汚して、間桐の呪縛を断ち切っても、聖杯戦争からは逃げられないのかと。

 

「かもね。仕方がないわ。桜の魔力を横取りするものはいなくなった。

 ライダーが本来の力になるのは厄介だけど」

 

 でも、今はライダーをあてにするしかない。セラやリズの手を借りて、凛のパジャマに着替えさせると、心中で詫びながら桜にもガンドを打ち込む。間桐邸に到着すると、ライダーが飛び出してきた。

 

「あ、ありがとうございます! よかった……本当によかった……。サクラ……」

 

 涙声で礼を言う彼女は、やはり完全な悪とも言いがたい。メドゥーサの原型は地母神キュベレだと、イリヤはアーチャーに教えてもらったそうだ。

 

地母神は、わが子のためには他者を犠牲にするのも厭わない。ガイアしかり、鬼子母神しかり、唯一のために全てを切り捨てることができる、母性の残酷な一面を持つ女神。彼女らの基準は、善悪ではなく愛憎なのだ。だから彼女は慎二に従ったのかもしれない。

 

「……ところで臓硯は?」

 

 蟲の群体を一匹殺しても、残りが死ぬわけではない。本体を殺しても、肉体もどきは生きて動いているかもしれない。女王蜂を失った巣のように、蟲がばらばらになったりしたらどうしようか。危惧する凛に、ライダーは美しい唇を開いた。

 

「サクラが私を助けてくれてから、ほとんど動いてはいませんでしたが、

 先ほど、急に干からびたように固まりました……」

 

「そう……手間が省けてよかったわ」

 

 イリヤの変貌と無関係とは思えない。あの流麗な声は、イリヤであってイリヤでなかった。

 

「じゃあ朝になったら、士郎が桜たちの迎えに行ってくれない?」

 

 兄妹そろって体調不良で部活を休んでいる。親しい士郎が様子を見に行くのは、一般的に不自然ではない。

 

「え……?」

 

「慎二を無罪放免するのは癪だから、ガンドを打ち込んどいたの。

 今頃、強烈な風邪で唸ってるわ。今さっき、桜にもやっておいた。

 風邪で年寄りが死ぬのはありふれた話よ。あとは慎二がうまくやるでしょう」

 

 五百年生きるには、世間の目を欺く必要がある。臓硯が日本に移住してからでも二百年だ。なんとかする方法が間桐には伝わっているに違いない。淡々と続けた凛に、ライダーを加えた一同は引き攣った顔になった。

 

 アーチャーは主に似ていないが、凛が従者に似てきた。おそろしい……。

 

「ま、いざとなったら、キャスターにも手伝ってもらいましょう。

 今の間桐はがらあきよ。桜の師になってもらえば、双方に後ろ盾ができるじゃない。

 アインツベルン関係の外国人が増えるより、間桐の家庭教師だってことにすれば」

 

「それ、リンの考え?」

 

 イリヤの問い掛けは、質問というより確認の口ぶりだった。ちゃっかりと、しかも上手に人を使う。凛のというより、十代の人間の発想ではない。

 

「お察しのとおりアーチャーのよ。

 それでライダー、あなたにも協力してほしいの。罰則を兼ねるけど。

 もしも聖杯が使えない場合でも、アインツベルンの願いには

 近付けるかもしれないから」

 

「え?」

 

 ソプラノとメゾソプラノの疑問の声があがり、イリヤの目がまん丸になる。眼帯の下の、色を隠した目も丸くなっているのだろうか。

 

「聖杯戦争の勝利に賭けたら、勝つか負けるかのゼロか百でしょ。

 バーサーカーは確かに強いけど、それでも戦いに絶対はないわ。

 そうでしょ、ランサー?」

 

 むくれた顔の槍兵は、無言でぷいと横を向いた。アーチャーを侮り、宝具使用を許可したら、千を越える軍勢を引っ張り出してきやがった。現在のマスターは、魔術師のくせに短剣を振り回し、槍兵に傷をつける女だ。

 

 一般論で語れるアーチャーやキャスターがいるのなら、出てきてください。お願いします。深紅の焦点を遥か彼方に結んで、ランサーは深々と溜息をついた。

 

「だったら、たとえ一割でも二割でも、目標に近づいたほうがいいんじゃない?」

 

 アインツベルンの悲願は、第三魔法『天の杯』『魂の固定化』を取り戻すこと。その魔法が、不老不死または死者の蘇生を意味するのならば、今回招かれたサーヴァントの能力で、可能なことがあるかもしれない。

 

 そう前置きして凛が伝えたのは、アーチャーの破天荒な人材活用術であった。 

 

***** 

閑話11 ヤン先生の課外授業 人材活用編 

 

 ライダーへの対応に、ランサーの力を借りようというのが、アーチャー ヤン・ウェンリーの考えだった。

 

「できれば、ライダーにも協力してほしいんだよね」

 

 意外な言葉に凛は驚いた。

 

「え、斃すんじゃないの? 吸血鬼といい、結界といい、やることが凶暴じゃない。

 さっさと始末して、聖杯の反応をみるのも一つの方法だと思うけど」

 

 アーチャーの黒い目がまじまじと凛を見つめた。

 

「な、なによ。まさか、生前の話を聞きたいってわけじゃないでしょ」

 

「君もなかなか言うなあ……。確かに一騎ぐらいなら平気かなとは思うし、

 化け物にされてしまった身の上を聞かされても困るのは確かだ」

 

 その遠因の海神ポセイドンにも興味はあるけど、恋人が絶世の美女から魔物になったら、あっさりと見捨てる男だ。伯父なら姪を諌め、元に戻せばいいだろうに。結局、神と人間は相容れないんだとヤンは思っている。 

 

「じゃあ服のことを聞くわけ?」

 

 ベレーを落っことしそうな勢いで首が振られる。

 

「いや、それも別にいいよ。私は女性のファッションには疎いからね。

 そうじゃなくて、意味があるような気がするんだよ」

 

「なんの? わたしも、ペルセウスの失敗説が正しいと思うけど」

 

「ペルセウスを呼ぼうとしたことの意味だよ」

 

「それは、ライダーとしては最高峰だからでしょ。おそらく英霊有数の宝具持ちだわ。

 天馬ペガサスにメドゥーサの首、アテナの盾と剣、

 ヘルメスのサンダル、ハデスの兜。

 とにかく、これだけあれば大抵の英霊に対処できるわよね」

 

「うん、そうだね。だが、それだけだろうか。

 間桐の当主は御三家の最長老。彼が選んだ触媒に何の意味もないんだろうか」

 

 その発想がなかった凛は、決まり悪げに目を逸らした。ろくな触媒が用意できなかった挙句、地下室にあった万暦赤絵とかいう壷で、この変わり者が来てしまったのに、うっかりしてた……。 

 

「そりゃ、勝つために決まってるじゃない」

 

「勝利するために兵力を増やすと、補給の苦労も増えるよ」

 

 たったの一言だったが、凛を考え込ませるには充分だった。ギリシャ神話において、ペルセウスはヘラクレスに迫る英雄だが、人生の幸福度においては(ヘラクレス)の追随を許さない。

 

 メドゥーサの討伐の成功した帰還の途中で、討ち取った首で化け物鯨を斃し、王女アンドロメダを救う。美しい妻を得て王位に就き、子宝に恵まれて幸せな生涯を送った。唯一の悲劇が、予言のとおりに祖父を殺してしまったことで、これは円盤競技の事故だ。

 

 聖杯に願うような、人生の悔いがあるだろうか。呼ぶとしたら相当な力量がいる。その後の維持だって大変だろう。戦いに勝つには、一に兵力、二に補給、三に指揮官。聖杯戦争では、全部マスターが兼任しなくてはならない。

 

「たしかに慎二じゃ無理ね。ライダーだって、かなり弱体化してたもの」

 

「では、ペルセウスとメドゥーサの共通点は?」

 

「ペガサスでしょう」

 

「いや、メドゥーサもだ。メドゥーサにこそ意味があるとしたら?」

 

 アーチャーは、また小難しいことを考えていたらしい。

 

「じゃあ石化の能力かしら」

 

「ないとは言えないが、メドゥーサの血が生んだものは、ペガサスだけじゃないんだ」

 

「はあ?」

 

「私は、この聖杯戦争の本命はキャスターだと思うんだ。

 一番いいのは、アインツベルンの魔法使いを呼ぶこと」

 

 そう言って、彼は人差し指を立てた。

 

「ああ、言ってたわよね」

 

「でも無理なら、私だったら次善の人物を呼ぶ」

 

「次善って、誰よ?」

 

 不老不死は神の業。しかし、この聖杯は神霊は召喚できない。

 

「死者の蘇生に成功した、医神アスクレピオスさ。

 彼も半神で、死して蛇使い座になっているが、

 ヘラクレスが呼べるなら可能だと思うよ。知名度だって高いだろう」

 

 太陽神アポロンの息子で、ケンタウルスの賢者ケイローンの弟子。特に医業では師に優り、ついには死者を蘇生させるまでになった。一匹の蛇が巻きついた彼の杖は、今日でも医療の象徴である。

 

 しかし、これは冥府の神ハデスから、世界の秩序を破るものだとの声が上がる。抗議を受けたゼウスは、雷でアスクレピオスを射ち殺し、天に迎えて星座となした。

 

 とかく神は極端である。孫に対する仕打ちとしてあんまりだろう。なにも殺さなくても、やめろと警告すればいいではないか。

 

「ちょっとねえ……。知名度は高いけど、戦闘能力はないわよ」

 

「いいや、彼を呼べたなら、無理に勝つ必要はないよ。

 死者蘇生の方法を教えてもらえればいいんだから」

 

「は?」

 

 アーチャーは立てた指を二本、三本と増やす。

 

「私は一番の方法が無理なら、次善、三善の方法を考える。

 別の道筋でも、最終的にゴールにつけばいいわけだ。

 まあ、千六百年後の医学でも、不老不死は実現はしてないけどね」

 

「蘇生って、それじゃ救命救急講習じゃない……」

 

「いいや、全然違うよ。蘇生のボーダーは死後五分以内。

 アスクレピオスは、もっと時間の経過した死人を完全に蘇生させている。

 脳細胞の死の壁を飛び越えるんだ。ものすごいことなんだよ。

 これだって、私の時代でも解決していないんだから」

 

「ふーん」

 

 アーチャーの力説に、凛は曖昧に頷いた。だが、次の言葉に目を剥くことになる。

 

「彼が使った死者蘇生の薬は、メドゥーサの首の血が原料なんだ」

 

「なんですって!?」

 

「その考えがどこかにあっての選択かもしれない」

 

 黒い髪と瞳のヤン・ウェンリーは、腹の中も真っ黒い。

 

「サーヴァントは簡単には死なない。右の頚動脈から献血してもらおう。

 吸血鬼事件への罰として適当じゃないか」

 

「け、献血ってどうすんのよ、それ!?」

 

「君の宝石魔術は、血を使って魔力を込めるんだろう?

 メドゥーサの血を封じた宝石を作っておいたらいいさ。

 次回への担保になる」

 

 穏やかに微笑まれて、凛は引き攣った。

 

「アーチャー、あんたも悪よのう……。ところで、三番目もあてがあるの?」

 

「コルキスの王女メディアは、若返りの術を使えるんじゃないかな」

 

「うわぁ……。すっごい難しい人物じゃない……。わたしだったら呼ぶのはパス」

 

 王女メディアは、アルゴー号の冒険の事実上のMVPなのだが……。情熱と理知、狡知を併せ持つ、愛憎がオールオアナッシングな魔女だ。惚れた男のために父と国を裏切り、逃れるために異母弟を手にかけ、夫イアソンの継ぐべき王位を奪うために、誤った若返りの術を王女たちに吹き込み、王を刻んで煮殺してしまう。その仕打ちに国民は怒り、彼らは隣国コリントスへと逃げる。

 

 コリントスの王は、イアソンを気に入り、娘と結婚させようとした。メディアを恐れたイアソンは、彼女と別れ、新たな妻を迎えようとする。するとメディアは花嫁衣裳を贈るのだが、その衣装には魔術がかけられていた。結婚式で花嫁から業火が上がり、助けようとした父王ごと焼き殺す。

 

 イアソン夫妻の子どもは報復で殺されてしまったが、彼女は無傷で逃げおおせている。再び逃れた先は、ヘラクレスの領地。さすがの彼も庇いきれず、メディアは放浪を続けるのだ。最終的には、死後の沃野、エリシュオンの支配者になったと伝えられる。悪の勝ち逃げ人生の頂点といえよう。

 

 ちなみに、イアソンは野垂れ死に。アルゴー号の残骸の下敷きとなったそうな。アルゴー号は主を差し置き、とても大きな星座になった。あまりに大きいため、現在では、帆、(とも)、羅針盤、竜骨の四つに分割されている。神にスルーされたイアソンは、ライダーの最底辺だろうか、やっぱり。特に運が……。

 

「いくらなんでも、やることが激しすぎると思わない?

 とてもじゃないけど、うまくやれる自信がないわ」

 

 眉間に皺を寄せて首を振る凛に、彼は目をぱちくりとさせた。

 

「こういう神話は、大げさな脚色がつきものだからね。

 話してみると、根っからの悪人ではないように思える。

 まあ、殺した人間の数で言うなら、彼女なんて可愛いものだ」

 

「……ま、まさか……キャスターって……」

 

 アーチャーは凛の問いには直接答えなかった。

 

「メディアはヘラクレスの同時代人だ。当然、メドゥーサはいない。

 彼女がメドゥーサの血を手に入れたら、

 もっとすごい術を編み出せたかもしれないよ」

 

 はっとする凛に、彼は不器用に片目をつぶってみせた。

 

「時と場所を越えて英雄を結集できるなら、それを活用しなきゃもったいない。

 聖杯が駄目だった時に、一番厄介な陣営に嗅がせる鼻薬も準備するのさ」

 

 ヤンの目的は、マスターの子どもたちが欠けることなく、大人になって幸せに長生きをすることだった。そのために彼は新たな布石を打ち始める。

 

*****

 

「その発想はありませんでした……」

 

 呆然と呟いたのは、運転手のセラだった。ライダーの真名がメドゥーサと悟った時から、アーチャーは考えていたのだろう。せっかく、時間と空間を飛び越えて神話や伝説の英雄を呼ぶのだ。遮二無二殺し合いをさせるより、個々の技能を提供してもらえばどうか。

 

「今回がダメなら、次回の準備もしておけばいい。

 やってみなければわからないけど、宝石魔術は血を媒介して石に魔力を篭める。

 ライダーの血の魔力をストックしておいて、次はアスクレピオスを呼ぶの。

 第三魔法の使い手が見つからなくても、そういう手段もあるんじゃないかですって」

 

 一応の停戦をみたからこそ、可能になったことだ。

 

「聖杯戦争は元々、第三魔法を求める魔術儀式だったわけよね。

 招くサーヴァントにも、影響するんじゃないのかしら。

 ライダーやバーサーカーの触媒は、当主が選んだんでしょう?」

 

 死者蘇生の薬の原料となる、メドゥーサの首の血。たまたま本人が来てしまったが、ペルセウスが来ても宝具として所持しているはずだ。ゼウスの血を引き、ヘラの乳を飲んだヘラクレスは、人間を超えた強靭な肉体を誇った。ついでに言うなら、仔細ありげなセイバーも。今、口に出す必要はないから言わないけれど。

 

「とにかく、これで聖杯、いえ大聖杯の調査に入れるわね」

 

 情報にはまだまだ取りこぼしも多い。第四次の生存者ウェイバー・ベルベットと連絡はつかず、外来の魔術師二人も行方知れずだ。桜のために魔力を温存していたので、

アーチャーもほとんど回復ができなかった。おまけに、数時間後には学校が始まる。

 

「いっそ休んじゃいたいけど、そうも言っていられないわ。

 じゃあ、一旦休憩。あとは手筈どおりにやりましょう」

 

 その後、士郎は打ち合わせどおりに行動し、救急車と警察を呼ぶことになる。部屋のベッドで唸っている兄妹と、無言の臓硯を発見したと。魔術工房の結界は、ライダーが解除してくれていた。間桐の暗部、蟲倉もおぞましい中身を石へと変えた。

 

 ライダーのおかげで、士郎が割った窓ガラス以外の戸締りは完璧、病人は高熱にうかされている。遺体に外傷はなく、病死以外を疑わせるものはなにもない。士郎は不法侵入ということになるが、この事態では逆に感謝された。放置しておけば、最悪三人の不審死ということになってしまっただろう。取調べの警官はそう言った。

 

「学校への迎えがとんだことになったね。

 学校には連絡させてもらったよ。悪いけど、ちょっと話を聞かせてくれないかな」

 

 事情聴取は、とおりいっぺんのものだった。実際、それ以上答えられない。士郎は、間桐臓硯と会ったことはないのだ。

 

「あの、ここの桜……さんは、朝に家事の手伝いに来てくれるんです。

 うち今ごたごたしてて、最近来ないのはそれかと思ってたんだけど……」

 

 士郎は警察官の質問に、ぽつりぽつりと答えた。今日来たのは、彼ら兄妹が土日の部活動を休んだからだ。土曜日は体調不良という連絡があったが、日曜日は連絡もなかった。

 

「俺、ちょっと心配になって。こんなことなら、昨日様子を見に行けばよかった……」

 

「いや、君のせいじゃないよ。おじいさんは昨日の午後では間に合わなかったろう」

 

 中年の警官が優しく言ってくれたので、士郎の罪悪感はいや増した。しかし、隠し通さねば。項垂れて表情を暗くする士郎の肩を、警官が力づけるように軽く叩く。

 

「亡くなってから、二日は経過しているようだ。悪いことが重なったんだな。

 ここの息子、いや君の友達の父さんも入院中なんだ。

 病院に詰めたりして、一家で風邪をもらったんだろうね」 

 

 高校生と老人の体力の差が生死を分けたのだ。警官はそうも言った。

 

「運が悪いとはいえ、これは寿命だろうなあ」

 

 事情聴取が終わった士郎は、あっさりと帰宅を許され、間桐臓硯の死は、世間的には片がついてしまった。

 

 士郎は複雑な気分だった。慎二や桜、喰われてしまった人たちにとっては正義。しかし、手を下したのはランサーだが、凛が桜を一度は死なせ、イリヤが臓硯の本体を潰した。悪を断つために、少女たちが白い手を汚した。自分は見ていることしかできなかった。

 

「正義の味方どころか、女の子に優しくもできてない……。

 ごめんな、じいさん……」

 

 士郎は呟いた。魔術を人に役立てる魔術使いだという自負も木っ端微塵だ。二百年蓄積した魔力による、心臓の再生という桁外れの大魔術を目の当たりにした。凛は士郎と同い年だ。素質の差はあれ、正しい方向に進んだ者と、勘違いの自己流で迷っていた者では、途方もない距離が開いていた。

 

 高校野球優勝校のドラフト一位選手と、弱小校の補欠どころではない。打撃練習のつもりが、素人ちゃんばらの素振りになっていたようなものだ。凛がルールを教え、フォームの矯正に乗り出したが、ちゃんとした魔術になるのはいつのことやら。

 

 だが、こんな当然の劣等感さえ、一人きりでやっていたから持たなかった。特別な力に溺れた、井の中の蛙だった。劣等感まみれの慎二のほうがずっとまともだ。慎二は自分の力のなさを思い知り、才能ある妹に嫉妬したのだから。兄として、ひょっとしたら許婚としての愛情との間で、どれだけ苦しんだことだろう。

 

「友達のことだって、ちゃんと見てなかった。

 なんでもやってるつもりで、なんにもできてなかったんだ。

 俺、なんの力もないのか……」

 

「自分の大きさを知ることが、成長の第一歩さ」

 

 ふわりと気配が集い、柔らかな声が掛けられた。



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54:波乱の自己紹介

「アーチャー? 遠坂と一緒じゃなくてよかったのか」

 

「単独行動スキルの恩恵だよ。戦うべき敵も、ひとまずいなくなったからね」

 

 魔力温存のために、司令官代行の美丈夫には引っ込んでもらったが、アーチャーは遠坂邸から締め出しを食っていた。

 

 大した理由ではない。衛宮家で療養中だったアーチャーを、遠坂家に帰すことをみんな失念していた。凛の結界は霊体での侵入を拒み、実体になると鍵を貰っていないアーチャーにはどうしようもない。それを忘れて凛は登校してしまい、目を覚ました彼はここで困っていたのである。

 

「そ、そか……。じゃ、俺と一緒に学校に行こうか?」

 

「君は、ほんとうに真面目だねえ……。

 でも、今日はやめておいたほうがいいと思うよ。色々なことがあったしね」

 

 優しい口調だった。そういえば、士郎は彼と一対一で話をしたことはなかった。アーチャーの隣には、いつも凛がいたからだ。

 

「うん、そうだな……。慎二の爺さんのことは覚悟してたけど、やっぱちょっとさ。

 俺、なんにもできなかったから」

 

「でも士郎君、君がいたから救われた人がいるんだ。

 たとえば君とイリヤくんのおとうさん」

 

「……違う。俺が助けてもらったんだ」

 

「でも、彼は魔術以外にも君に色々なものを遺せたよ。

 思い出や君への言葉、藤村家の人たち、この家もね。どれも、とても貴重なものだ」

 

 黒い瞳が優しく細められた。  

 

「正直、羨ましく思うよ。私はむろん、五百年生きても遺せなかったものだ」

 

「アーチャー……」

 

 アーチャーは知っていた。それも当然だろう。彼のサーヴァントが一部始終を見ていたのだから。

 

「君の存在は、多くの人を繋いでいるんだ。

 君がいなくては、桜君や慎二君に手が届かなかっただろう。

 イリヤ君たちと協力することもできなかっただろう。

 どれも凛だけではできないことさ」

 

「そうかな……。俺にもっと力があったらいいのに」

 

 士郎は拳を握った。機械いじりをしたり、弓道や剣道をやった手は、やや小柄な身長に似合わず、大きくてしっかりしている。

 

「力ならあるよ。君の真面目さ、人の役に立ちたいと願う献身、それが培った人望」

 

「魔術じゃなくて?」

 

 アーチャーは魔術については何も言わなかった。黒い瞳が静かに微笑んだ。限りなく優しいが、底知れぬ悲しさを含んだ笑みだった。

 

「その魔術が君の友人たちに何をしたかい?」

 

 士郎の目が見開かれて揺らぎ、声もなく口が開閉した。

 

「そして、衛宮切嗣の娘にも苦しみを与えている」

 

「イリヤに?」

 

「亡くなった父を憎み、義理のきょうだいを憎む、その原因となったもの。

 当主が高みの見物をして、あんな少女を送り込んで羞じないもの。

 第三魔法に対する妄執だよ」

 

 それは聖杯戦争を始め、冬木を危険に晒し、多くの孤児を生んで、再び戦いに駆り立てようとしている。

 

「凛はきっと、自らの足で目標に至るだろう。

 間桐がなくなった今、御三家筆頭のアインツベルンから順当に目的を果たせばいい。

 うまくいかなかった場合のために、キャスターやライダーに協力してもらってね」

 

「うん。でもなんでさ?」

 

「イリヤ君が、どういう方法で願いを叶える気なのかはわからないからねえ。

 多分、そんな方法は取らないと思うが、歴史の改変によるものだと困る」

 

「へ?」

 

 アーチャーは珍しく眉間に皺を寄せ、独語するように呟いた。

 

「セイバーが、自分の国を救うというのは、歴史の改変にあたるんだよ。

 それが可能なら、アインツベルンも魔法を失伝していないことにできるんだ。

 千年前に遡り、第三魔法を保護する。冬木の聖杯戦争自体が起こらなくなる」

 

「そんなの無理だろ。今だって聖杯戦争やってるじゃないか!」

 

 黒髪が左右に振られた。

 

「成功するのは第六次でも七次でもいいんだ。

 歴史のターニングポイントの改変で第三魔法が存続し、

 聖杯戦争は行なわれず、今の我々はその時点で存在しなくなる。

 こいつがタイムパラドックス」

 

 穏やかな抑揚の声が告げたのは、一つの世界の滅びの形だった。

 

「は!? タ、タイムぱらどっくす!?」

 

「あるいは、そこで新たな世界が分岐する並行世界の誕生かな?

 これは凛の研究テーマのようだが、観測できないから意味はないか」

 

 士郎の目が点になった。慎二がアーチャーの知識を不審に思ったわけである。発言が歴史からSFへと飛んだ。

 

「なあ、アーチャー、昨日慎二も言ってたけどさ、

 アーチャー、いや、ウェンリーはいつの時代の人間なのさ」

 

「私はE式姓だから、ウェンリーが名前だよ。名字ならヤンのほうだ」

 

「あ、うん。ってイーシキってなんだ!? いやいや、誤魔化されないぞ」

 

 反射的に頷いてから、士郎は意味不明な単語に引っ掛かりかけた。だが疑問符を赤毛から振り落とし、黒髪のサーヴァントを追及する。

 

「まあ、隠すほどでもないっていうか、言っても意味ないと思うんだ。

 正直に言うと、私は未来の異世界の異星人だから」

 

「な、なにふざけたことを言ってんのさ!」

 

「あー、やっぱり信じられないよなあ……。

 嘘じゃないんだが、かといって、この軍服じゃ証明にならないからなあ」

 

 そのつもりはないのに言葉を重ねると、さらに煙に巻く有様だ。この軍服が実在しないことを証明するには、膨大な資料を必要とする。

 

「大聖杯がサポートするのは、現代までの知識だからね。

 時の輪の外の我々を呼べる術なのに、そっちには限界があるんだ。

 ま、仕方ないけどね」

 

「はい?」

 

「現在から過去は知ることができる。でも、過去には戻れない」

 

 士郎はとりあえず首を縦に振った、

 

「現在から未来へは向かうことができる。しかし、未来は窺えない。

 これは宇宙を支配する法則だ」

 

「あ、ああ」

 

「だが、魔術の話を聞くと、根源というのは世界の外側にあるという。

 この宇宙の法則外の極ということかな。

 我々英霊は、この宇宙と、根源との間に位置する。

 だから時から切り離されている。そういうことでいいのかな?」

 

 士郎の首が動きを止めた。

 

「ご、ごめん、俺、魔術使いだからさ……。そういう勉強ってやってないんだ」

 

 アーチャーが首を傾げ、困ったような表情で黒髪をかき回ぜる。

 

「ああ、そんなことを言ってたね。ごめん、忘れてたよ。

 この理屈で正しいのかどうかもわからないけど、

 生まれてもいない私のコピーを、呼べるのはそういう理由じゃないかと思うのさ」

 

「生まれてもいないって、アーチャーは死んで……あぁ?」

 

 鸚鵡返しをするうちに、士郎の頭はこんがらがってきた。

 

「うん、確かに私の人生は終わってる。千六百年ほど先の話だが」

 

 そして、ついに凍結停止した。士郎にはお構いなしに、ヤンは学究的な呟きを発した。

 

「世界の内と外。

 外の我々は並行世界と時間を超えて存在し、内側には複数の並行世界がある。

 ここもその一つだから、私の世界とは歴史の経緯が異なるんだ」

 

 士郎の目と口がぽかりと開いた。

 

「この世界では、東西冷戦が終結している。二大大国は成立していない。

 西暦2029年に、そういう形での全面核戦争は起こらないだろう」

 

 今度は上体がふらりと揺れ、畳に手をついて支える。

 

「え、ええ、えええ。ちょっと待て、待ってくれ……」

 

「まあでも、北方連合国家(ノーザンコンドミニアム)三大陸合衆国(US.ユーラブリカ)の全面核戦争じゃなくて、

 民族や宗教のテロ戦争で核が使われたりするかもしれないから、

 世界の滅亡回避はまだ保留だけどね」

 

 暢気な顔をして、恐るべきことを告げる、自称未来の異世界の異星人。士郎は目と口を全開にして、アーチャーの大人しげな顔を凝視した。

 

「信じる信じないは君の自由だが、私の名はヤン・ウェンリー。

 いまから千四百年後に建国し、その二百年後に滅びた旧自由惑星同盟の退役元帥で、

 エル・ファシル独立政府革命予備軍の司令官だ。

 住所はここから七千光年ほど離れた、オリオン腕とサジタリウス腕をつなぐ、

 イゼルローン回廊中央部のイゼルローン要塞」

 

 士郎の脳細胞が、ついに限界を迎えた。理解不能、切断、暗転。慌てふためく名を呼ぶ声を遠くに聞いて、士郎の意識は黒く塗りつぶされていった。

 

*****

 

 士郎の名を呼ぶ声に駆けつけたセイバーに、ヤンは絞られそうになった。

 

「何をした!」

 

「ええと、自己紹介を少々」

 

「馬鹿な! 己を明かすとは、私を侮っているのか?

 私は停戦には応じたが、聖杯を諦めるつもりはない」

 

 金髪を逆立てんばかりの剣幕に、ヤンはそろそろと片手を挙げた。

 

「あの、私は聖杯はいらないし、君を侮ってもいないよ。

 侮るまでもなく、私は君には勝てないし」

 

「違いねえや」

 

 野次馬のランサーが頷いた。

 

「令呪もなく宝具を出せば、セイバーが手を下すまでもなく消えるぜ。

 出さなきゃ、一撃で死ぬだろうがな」

 

「後者のほうが明らかに楽だなあ。主にマスターが。

 あんまり痛い死に方はしたくないから、時が来たらあなたがたにお願いしますよ」

 

 志の低いことを言い始めるヤンに、ランサーは呆れ顔になった。

 

「おまえなあ……。俺たちは確かに亡霊だが、誇りのないことを言うなよ。

 あの騎士が嘆くぜ」

 

「いや、私はあなたのように、誇れる生き方をしてませんからねえ」

 

「そいつを聖杯でどうにかしようとは思わねえのかよ」

 

 セイバーも険しい顔で頷く。ヤンは顔の前で手を振った。

 

「いやいや、いくら聖杯が、世界の内側で万能といってもねえ。

 物理的に無理なんですよ」

 

「どういう意味だ」

 

 エメラルドが黒曜石にぶつけられたが、堅牢さで勝るほうは小揺るぎもしなかった。

 

「世界の内側というのが、なにを指すのかが問題でしてね。

 いまのところは、人的領域イコール地球だからいいんです。

 しかし、私の生きていた時代ですと、人間の住む領域は一万光年に広がってます」

 

 二人の騎士の目と口で、計六個のOの字が書かれた。

 

「で、私が死んだのは、この地球から光の速さで、七千年余り離れた場所です。

 そこに願いを届けるのに、千六百年の時間しかない」

 

「は、はあ? ちょっと待てよ! じゃあ、てめえは……」

 

「……まさか、未来から来たと!?」

 

 ヤンは頷いた。

 

「私の宝具が一応の証明です。ランサーが刃を交えたのは、炭素クリスタルの斧。

 今の技術では作れないはずですよ」

 

 蒼い髪の騎士の顎が再び落ちた。

 

「そして、この世界は、私の世界とは歩んだ歴史が明らかに違う」

 

「……どうしてそんなことが言える!」

 

「私の世界だと、あと二十年ほどで全面核戦争が起きるんだ。

 北方連合国家と三大陸合衆国という、二つの大きな国の間でね。

 でも、そんな国はどこにもなく、これから二十年で建国するとも考えにくい」

 

 セイバーが息を吸い込み、ランサーの喉仏がゆっくりと上下する。ヤンはひょいと肩を竦めた。

 

「七千光年の距離と千六百年の時間、そして世界の壁。

 これをクリアして、願いを叶えるには、聖杯が何個必要になることやら。

 叶えられる願いを増やしてくれ、という願いはだいたい却下されますがね」

 

 そして、伸びた士郎に黒い視線を送る。

 

「といったようなことを言ったら、士郎君はオーバーヒートしてしまったようでして。

 未来云々だけでも、誇大妄想狂の発言にしか聞こえないでしょうからね」

 

 眉を下げるヤンに、ランサーも鼻に皺を寄せた。

 

「俺にもそう思えるぜ」

 

「このうえ、私の国と敵国は、

 百五十年も星空で艦隊戦を繰り広げていると言ったら?」

 

「アホぬかせ!」

 

「でも、本当なんですよ。残念なことに」

 

 黒髪の青年が浮かべたのはほろ苦い微笑だった。漆黒が聖緑に向けられる。

 

「一瞬で一万光年先に言葉を届け、宇宙船は一日で百五十光年の距離を飛び越える。

 しかし、不老不死どころか不老長寿、

 死後十分以上の死者蘇生も実現していないんだ。

 できたら私はここにいないだろうね。

 人である以上、生物としての限界は超えられないんだよ、きっと」

 

 セイバーには答えられなかった。人の限界を超えたものの末路は、この深更に見たばかりだった。しかし、あの鞘は違うはずだ。

 

「私としては、伝説の英雄と語らい、この平和な世界に触れるのが夢なんです。

 私は、平和な世界で歴史学者になりたかったんですから」

 

 やや特殊だが、聖杯戦争も戦争だ。戦史研究はヤンの一番の得意教科だった。研究期間が短いのは難点だが、特殊な文化を調べるのは文句なしに面白い。

 

「ケルトの大英雄と酒を酌み交わし、

 ギリシャ神話の大英雄には肩車をしてもらいました。

 神話の美女とも、一応の面識ができましたしね」

 

 正直言うと、ギリシャの魔性の美女二人には、あんまり関わりたくないが。

 

「そして、セイバーは私が理想に描いた女騎士です。

 アサシンとは話をしていませんが、会話に困る種類の相手ですから、

 これは仕方がないかな。だから、よりよい方法を見つけたら、

 自分で退場してもかまわない。マスターたちが、幸福になれる方法を」

 

 黒い瞳がセイバーを見つめた。澄み切っているのに、底の覗けぬような深淵だった。

 

「だから私は、アインツベルンに助力し、

 さっさと聖杯戦争を成功させてもらうのが一番だと考えている。

 君の願いを叶えるには、イリヤ君を助けるのが早道ではないかな」

 

「なぜですか」

 

「バーサーカー、いやヘラクレスは神の一柱だ。

 なのに、ここに来ているということは、

 人として果たせなかったことが目的ではないかと思う」

 

「それは……」

 

 アーチャーはセイバーの素性を知らない。彼が知るのはヘラクレスの悲劇。

 

「彼は、女神ヘラの差し向けた狂気によって、妻子を手にかけている。

 その贖罪が、彼を十二の冒険に向かわせたんだけれどね。

 狂気に身を落としても、子どもを守ることができるなら、

 最大級の神への意趣返しにならないだろうか。

 その点では、彼はライダーと似ているかもしれない」

 

 セイバーの背筋に霜が生じた。バーサーカーの目的など考えてもいなかった。子殺しの贖罪は生前でも足りず、神への反旗を掲げたのだろうか。

 

「イリヤ君の勝利が彼の願いなら、協力すれば君に譲ってくれるかもしれないよ。

 君にとっても、第四次の挽回とならないだろうか。

 衛宮切嗣の、アイリスフィール・フォン・アインツベルンの願いに、

 娘の幸福が含まれていなかったとは思えない」

 

「ならば、なぜ、私に何も言わなかったのだ!」

 

「それは私にはわからないよ。故人にしかわからないことだ」

 

 ヤンは不毛な論争に突入する気はなかった。

 

「大事なのはこれからじゃないか。

 アインツベルンが勝てば、あの子たちは姉弟として暮らせるかもしれない。

 聖杯戦争の必要がなくなれば、凛は桜君を助け、それが慎二君をも救うだろう。 

 第四次の孤児たちが更なる輪を作り、傷を癒していくんだ」

 

 それは、いま一人の死者、遠坂時臣の願いでもあるはずだ。

 

「これは聖杯がなくてもできることだと思うよ。

 マスターが全員、生存していることが条件だがね。

 これこそが、私のみっつめの願いだ」

 

 青の騎士ふたりの、心を射抜く一撃だった。彼らとヘラクレスの共通点も子殺しだ。槍の騎士は我が子と知らず、剣の騎士は我が子と認めず、その手に掛けた。

 

「……なるほどな。そいつは上出来な願いだ。

 俺も聖杯に用はねえが、一口乗せてもらおうか」  

 

 ランサーにラインを繋いでいるキャスターからも、賛意が伝わってくる。彼女もまた、子を失った母だった。

 

 ヤンは顔を綻ばせ、彼に右手を差し伸べた。

 

「ありがとうございます」

 

 目を瞠ったランサーも、右手を差し出し握手を交わす。

 

「だが、またおまえの部下とは戦ってみたいもんだがな」

 

「努力はしましょう」

 

「おまえに期待しても無理そうだからな。これは武人の手じゃねえ」

 

 剣を取り、弓を射る者の手ではなかった。男性としても指が細く、掌が薄い。

 

「で、セイバーはどうする?」

 

「いえいえ、これは強制ではありませんからね。

 彼女はあくまで士郎君の騎士です。

 セイバー、君は自分の考えで行動してくれてかまわないよ」

 

 無言のセイバーに、穏和な声がかけられた。

 

「ただ、ひとつだけお願いしたいのは、

 生きている人間を優先してほしいということなんだ」

 

「ならば、私は……!」

 

 いや、私も生きている! セイバーの口を衝きそうになった叫びだった。それを飲み込み、彼女は理解した。アーチャーが聖杯に目もくれない理由を。彼が考えているのは、マスターである少年少女らのことだった。凛たちに、遺してきた妻や養子、部下と友人、そして恵まれなかった我が子を見ている。

 

 少年少女らの幸せはなんだろう。それに聖杯は必要なのか? 魔術師としてではなく、人生に必要なものは? アーチャーが出した答えは愛情と知識だった。

 

 彼の目標にとっては、聖杯戦争など手段にすぎない。クー・フーリン、ヘラクレス、メドゥーサ、そしてヤン・ウェンリー。聖杯が教え、自身が語った彼らの共通点は、『家族の喪失』。これを軸に、今度はサーヴァントの同盟を作ろうとしている。タイムリミットまでに、聖杯を欲しない者は退場すればいいのだからと。大胆なまでの発想の転換だった。

 

「私は……」

 

「君の願いは国を救うことだったね。

 とはいえ、ここでは既に過去のことになっているんじゃないかな?」

 

 ヤンの言葉に、美少女がみるみる険相になった。右手に力が篭る。見えざる剣は厄介だ。ヤンは胸の前に手を上げ、セイバーの説得を試みる。

 

「ああ、その、すまないね。言い方が悪かった。

 一種のカンニングだが、君の国のことを調べてみたらどうだろう。

 現在がどうなのかも」

 

「なぜだ!」

 

「ここは私の知る、自分の世界の過去じゃないんだ。

 君の時代から続く未来でもないかもしれない」

 

 セイバーの口がぽっかりと開く。

 

「凛の研究テーマは、第二魔法『並行世界の運用』。

 その魔法使いが聖杯戦争のシステム構築に関わっているそうだ。

 世界の外側の英霊へ呼びかけ、コピーであるサーヴァントが内側に降り立つ。

 しかし、その世界が、自らの世界と同一とは限らないんじゃないか?」

 

 おっとりとした微笑みさえ浮かべて、黒髪の魔術師(マジシャン)は不吉な言葉を吐いた。理論の飛躍に、セイバーの脳細胞もマスターのそれと運命を同じくしようとしていた。

 

「つまり、ここは君が英雄となった世界とは限らないわけさ。

 たしかにそのほうが理にかなっているんだよね。

 タイムパラドックスの危険を減らせるから」

 

 ずらずらと述べ立てられる、訳のわからない言葉たち。セイバーにはほとんど意味不明だったが、結びの一言ははっきりとわかった。

 

「だとすると、ここで勝って願っても、骨折り損になるかもしれないよ」  



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55:未来から過去へ

 とさりと軽い音がして、セイバーの小さな体が畳に倒れ、ヤンを慌てさせた。

 

「あっ、セイバーまで……」

 

 ランサーも憔悴して畳に突っ伏し、蒼い髪を掻き毟る。アーチャーの言葉を中継しなさいという、現マスターの命に律儀に従った結果だ。

 

「やっぱ、てめえがキャスターでいいんじゃねえか?

 あの女はアサシンでよ。……山門の野郎は、アーチャーにでもしとくか」

 

 というよりも、この男が人間なのかランサーは疑っている。主に幸運を、敵に不幸をもたらす、黒猫の妖精。その化身ではないだろうか。こいつは敵をペテンにかけて、鼠にして飲み込みそうだ。

 

「はあ、でも私は魔術も魔法も使えませんが」

 

「いや、だからよ、今の世だって、俺にとっては夢の国以上だ。

 おまえの言葉が本当なら、未来は今よりさらに進んだ世なんだろう。

 船が光より早く星空を翔るなんざ、絵空事もいいところだが」

 

 嘆息するクー・フーリンに、はにかんだ笑みが向けられた。

 

「その艦に、あなたの名前が冠されていました。

 私の国だけではなく、敵国の艦にもです。

 千六百年ののちも、あなたは遍く敬われる英雄です」

 

 深紅の目がうろうろと彷徨い、彼は紅潮した頬を掻いた。

 

「お、おう……あー、なんだか照れるもんだな」

 

「ヘラクレスもメドゥーサも、そしてキャスターも、

 神話のみならず、星座や星として学びます。

 ここからでは天に輝く星座ですが、宇宙を行き来する我々にとっては、

 交通の難所だったりしますからね」

 

 これが、ヤンがサーヴァントらの正体にいち早く気づけた理由であった。イリヤ自ら明かした、バーサーカーは除くが。クー・フーリンは船の名に、ギリシャ神話の英雄は、星にまつわる学習の中にある。

 

「なるほど、そういう理由だったわけか」

 

 なお、ランサーの正体を悟ったのは、一に失言、二に赤い槍だったが、それは言わないでおくヤンだった。

 

「ああ、話が前後しました。

 この世界は、私の過去の世界そのものではなさそうです。

 しかし、英雄として私が呼ばれたということは、この歴史の差も、

 千六百年のうちには修正されていくのではないでしょうか。

 だから、ここも核戦争の危機を逃れられるか怪しいものだ。

 あなたの現在のマスターには、そう伝えてあります」

 

「じゃあ、あの女が停戦を受け入れたのは……」

 

「その核戦争の結末をお話したんですよ」

 

 北半球を中心に、人口の九割以上が死滅。続く内乱で、宗教のほとんどが滅ぶ。魔術基盤は失われ、キャスターの魔術をもってしても放射能を防ぐことはできないだろう。

 

 南半球に逃げれば助かるかもしれない。しかし、冬木の聖杯に縛られるサーヴァントは逃れられない。逃げたとしても、シェルターを作り、食料を始めとする物資を整えなくては、人間は生きていけない。

 

「げ……」

 

 ランサーの口から、蛙が潰れたような声が飛び出した。

 

「万が一核戦争が起こったときのために、

 聖杯を解析して、なんとかする方法を見つけませんとねえ」

 

 単に勝っても意味がない。聖杯が十全に機能するのは、聖杯戦争の間だけ。今、ここで調査をしないと次はないのだ。

 

「この子達にも同じことが言えます。

 平和な未来に生きるためには、もっと学ぶべきこと、やるべきことがある」

 

「じゃあよ、聖杯で戦争を防いだらどうだ?」

 

 アーチャーの瞳も声も、どこまでも静かで穏やかだった。

 

「そんなものには意味がないのです。

 世界の多くの国は、人間の平等を謳い、

 一人ひとりの判断を集め、社会を動かしている。

 その仕組みを手に入れるまで、人は多くの血を流してきました。

 幾多の国が滅び、王が斃れ、遥か多くの民の涙と血と命を糧にこの世界は生まれた。

 その犠牲と心と年月が、たったの七人で贖えるとは、私には思えない」

 

 その声は、意識を取り戻しつつあったセイバー主従にも届いた。

 

「古の英雄を七人集めたところで、結局はヨーロッパや中近東の英雄です。

 どうして世界すべてを変えられるでしょうか?」

 

「だが、おまえは未来の者だろうが」

 

 ランサーの反論に、ヤンは苦笑した。

 

「私など、たかだか軍の司令官にすぎませんからね。

 政治家の指示に従うのが仕事で、政治家を選ぶのは市民で、

 その市民を守るのが我々です。しかし、私も市民の一人だ。

 役割の差はあっても、平等の責任を持っている。

 人間として、同じ価値を持っているからです」

 

 見事な金髪に、あの美青年を思い出しながら、ヤンは言葉を続ける。

 

「今さら聖杯に縋ったら、独裁者に支配された過去に逆戻りすることになるでしょう。

 全人類が、聖杯の所持者の判断に左右される世界です。

 聖杯の所持者は、全人類の重みを背負わされる。

 そんな重みを背負える人間はいるかもしれませんが、少なくとも私ではない」

 

「おまえの部下はそう思ってはいないようだがな」

 

 黒髪が力なく振られた。

 

「彼は私を買いかぶっているだけですよ。

 とにかく、この聖杯に私が戦争の回避を願うのも、

 似たようなものではありませんか?」

 

 ヤンの言葉は、セイバーに冷水を浴びせたような効果をもたらした。がばりと跳ね起きた秀麗な面から、一切の血の気が引いていた。

 

「どういう意味だ!」

 

 ヤンは黒髪をかき回した。従者の叫びが士郎を覚醒させたが、アーチャーが続けた言葉が士郎の動きを止めた。

 

「何をもって平和と言うのか。争いはすべて否定されるべきものか。

 学業やスポーツ、商工業などの健全な競争まで含まれるのか。

 私が全部を決めろと言われても無理だし、聖杯が自動的にやってくれるなら、

 間違いがあっても止められないのではないだろうか」

 

 アーチャーが口にしたのは、SFにある人が機械に管理されたディストピア像だ。そういうこともありうるのだろうか。士郎はぞっとした。

 

「聖杯は万能の……」

 

 言い募るセイバーに、アーチャーの眉が八の字になった。

 

「うーん、製作者とその子孫を見るに、過大な期待はかけないほうがいいと思う」

 

「うっ……!」

 

 非常に端的で、説得力のありすぎる指摘に、また気が遠のきかけた士郎とセイバーだ。設置者は、当初の理想を忘れて蟲になった老人、うっかり屋の凛と直情型のイリヤの先祖である。

 

「この儀式自体、一回も完璧に成功していないしねえ。

 いきなり重大事を任せるなんて、それは無茶というものだ。

 昨日まで鍬を握っていた普通の少年に、大将を討ち取れというぐらいには」

 

「俺にはできるぜ」

 

 混ぜっ返すランサーに、ヤンは人の悪い質問をした。

 

「じゃあ、あなたを討ち取った相手はいかがです?」

 

「そうきやがったか。……ああ、たしかに違うな」

 

「とにかく、こいつは四回も失敗している、欠陥の多い代物です。

 設置はしたが、保全や改良をしているかというと、否と言わざるを得ない。

 主たる設置者は、ドイツで閉じ篭っている」

 

「たしかに、そうかもしれませんが……」

 

 セイバーも前回はドイツからやってきた。今回のイリヤと同様に。

 

「一方、マキリは子孫の能力は先細りになり、新たな後継者を育成するでもなかった。

 そして、本日をもって絶えたわけだ。ご協力をありがとうございました、ランサー」

 

「なに、おまえのマスターに比べりゃ、何ほどのことでもねえ」

 

 彼の言葉にヤンは微笑んだ。

 

「あなたの言葉は、凛の一生の誉れですね。

 では私のマスターでもある遠坂の話をしましょう。 

 魔術師としての遠坂は、凛で六代二百年。代替わりが短いでしょう。

 凛の祖父は五十代、父は三十代で亡くなっている」

 

 ヤンは溜息を吐いた。千年続いて、当主が(アハト)と名乗っているアインツベルンも、やはりまともではなさそうだ。

 

「凛の魔術は、とかく金がかかります。

 その資産を築き、家門の術を伝えるので手一杯ではないだろうか。

 祖先の事績を調べ、大聖杯の謎に至り、改善に着手する時間があるかどうか。

 あったら、私を呼ぶようなうっかりはしないと思いますが……」

 

 ヤンは胡坐を組みなおし、腕も組んだ。ランサーとセイバーは返答に困り、顔を見合わせた。肉弾戦に関しては、こんなに向いていないサーヴァントはいない。しかし、未来の知識で聖杯戦争を考え、よりよい方法を模索していた。キャスターよりも頭脳戦に特化したサーヴァントだ。

 

「きっと、聖杯か凛のうっかりによるエラーじゃないかなあ。

 士郎君にも伝えましたが、私は未来の異世界の異星人の幽霊なんですよ。

 下手に手を突っ込んで、世界滅亡が起きたらと思うとぞっとしない。

 これからの世界を築いていくのは、凛や士郎君たちなんだから」

 

 言ってからヤンは苦笑した。

 

「とはいえ、私の知る過去で、この世界の未来かもしれないことを教えたのは、

 ルール違反かな? 実現しないことを祈るよ」

 

「……うん」

 

 士郎はようやく畳から身を起こし、こくりと頷いた。

 

「さて、本日滅びた間桐。

 令呪の開発をしたにも関わらず、戦争への参加意欲は乏しい。

 正直、私は令呪の不正使用を疑っていました。

 最終的な勝者の令呪を乗っ取れるからではないかと。

 御三家の令呪が消えないのは、そのためではないかとね」

 

 苦りきった顔になったのは、アーチャーの策略の一番の被害者だった。

 

「おまえの発想、とことんえげつねえなあ……」

 

「私もそういう戦いをしていたものですから」

 

 さらっと悪どい返事が返ってきて、ランサーは顔を歪めた。ヤンはお構いなしに聖杯戦争史の考証を発表した。

 

「遠坂家の文献が正しいなら、この令呪は第三次から使われ始めたようです。

 しかし、第三次はかなり短期間で終了してしまったと推測します」

 

「なんでさ?」

 

「第三次の実施時期は、八十年ぐらい前だろう。

 太平洋戦争の前夜だよ。外国人は今よりも遥かに目立つ。

 複数の外国人が二週間もうろついたら、なんらかの証言が残るものだ」

 

「複数……あ、マスターとサーヴァントか!」

 

 ヤンは頷いた。黒髪黒目に中肉中背、東洋的な容貌のヤンはともかく、魔術師の多くは外国人、さらにサーヴァントは美男美女となれば目立たないほうがおかしい。

 

「ああ。令呪を準備し、満を持して開催したのにだ。

 早い段階で、戦争の根幹に関わる不具合が発生したのではないだろうか」

 

「戦争の根幹?」

 

 士郎は眉をひそめた。その表情に、ランサーも微かに眉を動かす。

 

「聖杯戦争は、万能の聖杯を作るためだよな。

 だから、マスターやサーヴァントが殺し合いをする。

 御三家のマスターが死んでも関係ない、いや生還してるよな……」

 

 凛の曽祖父と、たぶん間桐臓硯、イリヤの祖父か曽祖父。

 

「なんだろ、いや……」

 

 士郎の脳裏に閃くものがあった。

 

「サーヴァントを呼ぶのが大聖杯。儀式でできるのが小聖杯って、遠坂が言ってた。

 ……器だ。入れ物がなきゃ、魔術は世界に修正されちまう、だから!」

 

「ああ、私もそんなところじゃないかと思ってる。

 五百年も生きていた、いや二百年も待っていた者が、

 積極的に参加しないような不具合の発生ではないか?」

 

 黒い瞳に厳しさが宿った。

 

「いや、間桐だけではない。

 前回は、衛宮切嗣という外来の魔術師に参加させ、

 今回は、まだまだ若いイリヤ君を参加させたアインツベルン。

 そんな大望なら、なぜ当主自ら参加しないんだ?」

 

 そう言って、ヤンは肩越しに振り返った。

 

「ねえ、イリヤ君?」

 

 立っていたのは、小さな手を握り締め、雪の彫像と化したイリヤスフィール・フォン・アインツベルンであった。 

 

 立ち尽くすイリヤの肩に、背後から白い手が置かれた。

 

「お嬢様、かくなるうえは、お話ししたほうがよろしいかと存じます」

 

「セラ!?」

 

 驚愕して振り返る小さな主人に、セラは首を振った。

 

「とても隠しておけるとは思えません」

 

 イリヤは俯いた。同盟者として、アーチャーの知力は身に沁みている。味方ならば頼もしいが、敵に回すと怖ろしい。どちらもこのうえなく。しかし、それはアインツベルンにとって、もっとも秘匿すべきことだった。

 

 セラは膝を折り、イリヤと視線を合わせ、儚いほどに小さな肩を抱いた。

 

「聖杯戦争の時間には限りがあります。

 アーチャー様の追及を逸らすより、聖杯戦争の成就なり、

 解明なりに費やしたほうが、実りとなるでしょう」

 

 サーヴァントが現界するための魔力を補助するのが大聖杯。その稼働期間は概ね二週間。残りの時間は一週間強しかない。

 

「……でも」

 

「ご当主への責は、わたくしが負います。

 しかし、アインツベルンの責は、ご当主が負うべきもの。

 アーチャー様ならば、そうおっしゃることでしょう」

 

 二人の視線が交錯し、一方が大きく瞠られた。

 

「……セラ」

 

 セラの正体は、イリヤの家庭教師として調整されたホムンクルスだ。生まれたのはたったの二年前。そんな彼女が、こんなことを言い出すなんて。

 

「セラさんがそうおっしゃるということは、やはり何かが第三次にあったんだね」

 

 イリヤはこくりと頷くと、一つ深呼吸をして話し始めた。アインツベルンに伝わる、過去の聖杯戦争を――。

 

 聖杯戦争のシステムは、当初から完成していたものではなかった。第一回は、まともにサーヴァントが召喚できず、開催とはいえない。二回目は召喚したサーヴァントが戦おうとしなかった。戦争にはなっていない。

 

 ヤンは脱いだベレーをもみくちゃにし、ついでに髪もかき回し、肩を上下動させて息を吐いた。

 

「ははあ……、もとから見切り発進だったのか。

 イリヤ君の証言で、令呪の導入は第三次ということが確認できたが、

 たしかにマキリ翁は天才だったんだろう」

 

 第二次の反省で開発した令呪システムを、三回目にぶっつけ本番同然で成功させている。

 

「しかし、思ったよりも令呪の歴史は浅かったんだなあ。

 不正使用に至らなかったのはそのせいかな?

 しかし、せっかくこんなにすごい術を導入したのに、

 第四次の間桐の参加ははっきりしないんだね」

 

 イリヤは無言で頷いた。

 

「とはいえ、参加しているなら、候補はたった七分の一だ。

 マスターが明らかなセイバーとランサー、ライダーは除外できる。

 そして、アーチャーは恐らく遠坂時臣のサーヴァントだ」

 

 セイバーの頭も上下動した。

 

「ええ。アーチャーにはマスターが同行していなかった。

 籠城できる拠点を持ち、魔術師として成熟した者でなくば、

 あの男の主になれないでしょう」

 

「となれば残りはキャスターとバーサーカーとアサシン。

 どれも不利とされるクラスだ。

 間桐が参加したとしても、臓硯自身ではなさそうだなあ」

 

 ヤンはまた髪をかき回した。セイバーは眉を寄せ、前回の記憶を告げた。

 

「いいえ、アサシンは違います。アーチャーに討ち取られたというのは茶番でした。

 両者は連携していたのです」

 

「なるほどね。では、バーサーカーが候補かな。

 キャスター主従のやり口は、間桐臓硯ほど犯罪の秘匿に長けた者が、

 子孫に許すものではなさそうだから」

 

 セイバーは俯き、正座の膝を握り締めた。二騎のいずれも苦い戦いの相手だった。

 

「しかし、ますます間桐臓硯自身が選びそうにないよ。

 彼をして、消極姿勢になるような何か。

 それはやはり第三次に起こっているんじゃないのかな、イリヤ君?」

 

 セラとリズ、二人の眼差しがイリヤに注がれた。一人は怜悧な中にも慈愛を込めて、もう一人は、ひたすらな凝視に精一杯の真情を表して。イリヤは長い睫毛を伏せた。

 

「そうなの。アーチャーの言うとおりよ。

 第三回は、聖杯の器が壊されて、聖杯戦争はそこで終わったの」

 

 ランサーは髪を掻き毟った。

 

「解せねえな。サーヴァントは何してやがったんだ?

 三度目の正直ってヤツで、さぞや強い英霊を呼んだんじゃねえのか」

 

「アインツベルンが呼んだのは、『この世全ての悪』」

 

「なにさ、それ?」

 

 歴史や伝承に疎い士郎が怪訝な顔をした。ヤンは脳裏をかき回し、聖杯にもお伺いを立てた。

 

「ええと、ゾロアスター教の神様だそうだ。

 絶対の善神アフラ・マツダーと絶対の悪神アンリマユ」

 

 ヤンは中空に視線を投げ、困ったように眉を下げた。

 

「うーん、今回のメンバーを見ると説得力がないが、

 この聖杯、神様は呼べないんじゃなかったっけ?」

 

 零落した女神であるライダー(メドゥーサ)キャスター(メディア)。前者は星として、天上に輝いている。半神であるランサー(クー・フーリン)ヘラクレス(バーサーカー)。後者も死後に神として星座になった。

 

「……神様じゃなかったの。

 来たのはアンリマユじゃなくて、その形代にされていた、

 名もない人間だったんだって」

 

 三騎士は思わず顔を見合わせた。

 

「なんだか、私以上に戦闘が苦手そうなサーヴァントだなあ」

 

 被保護者が聞けば、『そんな低いレベルで満足しないでください』と言いそうな感想を漏らした者の名は、挙げるまでもないだろう。容赦のない一言で、事実を表現したのはランサーだった。

 

「勢い込んで、欲張った挙句にカスを引いたってわけか」

 

 アインツベルンの一行は揃って俯いた。

 

「でも、そのサーヴァントの魂は、聖杯に取り込まれたの。

 もしかしたら、彼を作っていた概念ごと」

 

「概念? そいつは、悪の象徴としてのものかい?」

 

 無言でイリヤが頷く。

 

「なるほどね。つまり、エネルギーの源に毒が投込まれてしまったわけか」

 

「……それもわからないの。調べていないから」

 

 器が壊され、サーヴァントを失ったアハト翁は、ほうほうのていで日本を逃げ出した。孤高を保ち、戦闘に向かない魔術のアインツベルン。攻められたらひとたまりもない。

 

「そんなの無責任じゃないか!」

 

「ううむ、そうとも言い切れないんだよ、士郎君。

 セラさん、そちらは旧東西ドイツのどちらに当たるんでしょうか?」

 

「東側になりますが、それが何か?」

 

「それでは、日本への渡航はなかなか難しかったでしょうね。

 イリヤ君、君のご両親が婚姻届を出していないのは、そのへんも理由になりそうだ」

 

 紅玉と琥珀がそろって瞬き、異口同音に叫びを上げた。

 

「え、ええっ!?」

 

「第二次は百三十年ぐらい前だ。明治の半ばぐらいだね。

 その後、日本は、いや世界は戦争が相次ぐ時代を迎えたんだ。

 第二次世界大戦が終わっても、東西冷戦と呼ばれる緊張状態が長く続いた」

 

 東西冷戦の終結の大きな象徴が、一九八九年のベルリンの壁崩壊と翌年の東西ドイツの統一。衛宮切嗣が婿入りして、しばらく経った後のことになる。

 

「日本はアメリカに同盟した西側諸国のひとつだ。

 東ドイツへの入国も難しいが、婚姻届の提出は更に難しいと思う。

 第四次の頃には改善されていただろうがね」

 

 しかし、アインツベルンのマスターの衛宮切嗣は、戦闘に特化した魔術使いだと聞く。士郎がそうであるように、魔術の知識に多くを期待できそうにない。

 

「たとえ、切嗣氏が大聖杯を見たところで、どうにかできたとは思えない。

 今までの失敗は、過去から引き継いだ複合的な要因によるものだ。

 これでは、どんな英雄を呼んでもうまくいくはずがないよ」

 

「……あなたはうまくやっているではありませんか」

 

 暗い表情のセイバーに、ヤンは首を振った。

 

「いいや、とんでもない。私の生前はさっぱりうまくいかなかった。

 百五十年も戦争をやっていると、社会全体が歪んでしまってね」

 

 一同は言葉を失った。

 

「今の状況は、主に社会情勢の賜物だ。

 そして、マスターの多くが子どもで密接な関係者だからさ。

 平和な社会で育ち、過去の聖杯戦争をよく知らない。

 私のマスターも最初は威勢がよかったが、サーヴァントが私で

 参加者がこの面々ではね。

 聖杯のために、身内や友人知人を殺すなんて、耐えられるものではないよ」

 

 士郎ははっとした。そうだ。じいさんはどうして魔術師殺しなんて道を選んだんだろう。

 

「当時の御三家の連中に言ってやりたいことは多々あるが、

 凛もイリヤ君も、桜君だって先祖からの恩恵を受けてる。

 それを放棄しないかぎり、負債を精算するのは子孫の義務だから仕方がないかな」

 

 黒い瞳が細められた。

 

「人が生まれる場所や時を選べないように、人生に無限の可能性はないんだと思うよ」

 

 士郎は拳を握り締めた。

 

「努力したって、無駄ってことか?」

 

「いや、そりゃ性別も選べないからさ」

 

「はへ?」

 

 張り詰めた問いをいなされて、士郎は間抜けな声を出した。セイバーの目も丸く形を変えた。

 

「男に子が産めないように、女は性遺伝子による連続性を保てない。

 腕力勝負では男が勝つが、口喧嘩では女に勝てない。

 これは遺伝子レベルの男女差だ」

 

「でも俺、遠坂には腕力でも勝てないと思う……」

 

「あははは……。遠坂は武道家の家系らしいからね……」

 

 ヤンは乾いた笑いを漏らした。

 

「人間にはどうしようもないことの方が、ずっと多いんだ。

 だが、狭い選択肢であっても現在を選び、未来を作っていくことはできる。

 この『聖杯探求』はその手始めだ」

 

「リンが言ってたみたいに?」

 

「ああ、そうだよ、イリヤ君。

 聖杯を調査し、今回の戦争を続行していいかどうかが一つ。

 現状からの改善が必要なら、どうすればいいのかが二つめ。

 キャスターやライダーに協力してもらい、

 第三魔法に近いものが可能かの研究が三つめ」

 

 ヤンはセイバーに視線を移した。

 

「この聖杯戦争には、大小二つの聖杯があるそうだね。我々は大聖杯に招かれる。

 この魔術の本質は、世界の内外を越えて、外の存在のコピーを内側に降ろすんだ」

 

「それがなんだというのです」

 

「大小というのなら、同じ物のサイズ違いを指すんだよ」

 

 場の面々の顔つきが二極化した。怪訝な者と蒼白な者に。

 

「士郎君が見た黒い空。遠坂の望みは、『根源に行くこと』だった。

 研究テーマとは異なるから、凛は重きを置いてはいなかったけどね。

 だが、これこそが小聖杯で行なう魔術の真骨頂なんじゃないか?」



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56:我が征きし星の大海

 アーチャーは、セイバーからイリヤへと視線を移した。

 

「六十年分の霊脈エネルギーで、世界の外側からサーヴァントを召喚し、

 そのサーヴァントを燃料にして、内側から外側に魔術師が跳ぶ。

 そう考えると黒い空にも説明がつく。

 亜空間跳躍と同じく、世界の内外の特異点をつなぐんだろう」

 

「どういう意味なのさ!?」

 

 士郎に返されたのは、なんとも未来人的な答えだった。

 

「通常の宇宙空間から亜空間に突入すると、星が見えなくなる。

 昼なのに暗くなった空は、亜空間のようなものが現れたせいではないかな?」

 

 現代人も、過去の英雄も、呆気にとられた。

 

「たしかに『願いを叶える』なんて曖昧なものより、こちらの方が術として美しい。

 大聖杯と小聖杯、ふたつの魔術が相似しつつ対照となる」

 

 アーチャーの口調は、公式の出来を吟味する数学者のようだった。だが、その公式の恐ろしさよ。居合わせた全員の顔色を漂白させる言葉だった。生贄だと明言されたサーヴァントらも、術の設立者の末裔達も、へっぽこ魔術師見習いも。

 

「それに、自分の望みを叶えうるものでなくては、

 遠坂の初代も、大聖杯の設置に賛同してはくれない」

 

 目を瞠る一同を前に、アーチャーは肩を竦めた。

 

「魔術師としては最下位でも、日本での社会的地位は遠坂が最上だ。

 術式のアインツベルンと地脈の遠坂、双方の願いを叶えられる術。

 そういうことじゃないのかな」

 

 ルーン使いでもあるランサーが呆れ顔になった。

 

「はん、魔術ってのはなぁ、おまえが思うほどに大雑把なもんじゃねえぞ。

 俺のルーンだって、術に応じた文字を刻まねばならん」

 

 魔術を知らぬ、未来の魔術師(マジシャン)は、頷いてから小首を傾げた。

 

「ええ、それは私もそう思いますが、聖杯は万能の魔力の釜といいますよね。

 釜とは火で焚くものでしょう。

 火となるのが脱落した英霊。だったら火加減を調節すればいい」

 

「はあ?」

 

「我々の時代の恒星間宇宙船は、エンジンの稼働を調節することによって、

 通常航行と最長百五十光年の亜空間跳躍を使い分けるんです」

 

 だしぬけに、ランサーの携帯電話が鳴り出した。長い蒼い髪がびくりと跳ね、慌てて電話に出る。

 

「は? ボタンを押せって? おい、こいつでいいのかよ」

 

 スピーカーモードにした携帯から、妙なる声が流れてきた。

 

『本当に賢しい男だこと。そのとおりよ。

 この世界の内側に手を届かせるならば、六騎で充分でしょうね』

 

「では、根源に行くには全部必要ということですか?」

 

『ええ』

 

 黒髪と蒼髪がかき回された。

 

「ま、そんなとこだろうとは思ってたぜ。

 おまえが言ったように、本当の真剣勝負ならみんな同じクラスにすりゃいい。

 わざわざ差を作って七人呼ぶのは、そうする理由があるわけだからな」

 

「つまりこういうことですか。六騎で、世界の内側にあるものにはすべて手が届く。

 だが、外側に行くには七騎が必要。令呪はそのためにある」

 

 電話の向こう側で、神代魔術の使い手が肯定した。

 

『そういうことよ。我らを律する手綱、あるいは駆り立てる御者の鞭。

 それも一面の真実だけれど、処刑の首縄というのが最も正しいわね』

 

 そう言うキャスターに、首根っこを押さえられたランサーは、実に嫌そうな顔になった。

 

「ギリギリの戦いで、自分が敗れるなら納得するがよ。

 戦い抜いた挙句、死ねと命じられるなんざまっぴらだぜ。

 いいか、マスター。その命を下したら、てめえの心臓も貰い受ける」

 

 噛みつかんばかりの口調に、キャスターは含み笑いで応じる。

 

『あらあら、これは英霊にとっては遊戯、魔術師にとっても同じこと。

 死人を二度は殺せない。我らが死んでも、本体にはなんの痛痒もないわ』

 

「あー、合理的といえば合理的だよなあ。あんまりいい気分ではないが……」

 

 クランの猛犬(クー・フーリン)の名にふさわしい唸り声を上げ、ランサーはヤンの胸ぐらをぐいと引き寄せた。

 

「馬鹿野郎、そういう問題じゃねえ! 貴様はそれでいいのか。

 遠坂のサーヴァントの貴様こそ、真っ先にそうなってもおかしかねえんだぞ!」

 

 吊り上った青い眉と、下がった黒い眉が対照的だ。

 

「はあ。たしかに罰当たりだとは思いますが、

 それを言うなら私は人間を一千万人ぐらい殺してますし……」

 

 とことん弱そうな相手からの信じがたい告白に、ランサーは目を剥いた。

 

「い、いっせん、……まんだと!?」

 

「味方はその三倍ぐらい死なせてますし」

 

 ヤンは目を伏せた。静かな声が一同の耳を打つ。

 

「誰もが、誰かの最愛の存在だった。私ひとりの命では、到底償えない罪です。

 なのに生前の望みであった、一時の平和を見ることができた。

 こんな仮初めの命、対価としては安いぐらいですよ」

 

 アーチャーにとっては、人の命の価値は平等。武勲は殺人罪だ。膨大な人命を贄に英雄になったことを、どうして誇れるか。聖杯への執着が乏しく、マスターたちへの愛情が深いのはそのせいなのだろう。

 

 とはいえ、これは身も蓋も底もない言い分だった。ランサーはがっくりして、目の前の薄い肩に額を預けた。

 

「……おまえなぁ、もうちょっと言いようってもんが……」

 

「でも、我々が現界できるのはせいぜい二週間です。

 結局消えるのなら、別にいいじゃないですか」

 

「そりゃそうだけどよ……」

 

「騙まし討ちは許せなくても、最初からそう言えば、あなただったらどうします?」

 

 ランサーはきょとんとした。

 

「聖杯の糧となることを対価として、今の世のあれこれを見聞して味わい、

 帰還の前までに死んでくださいだったら?」

 

 その言葉にランサーは考え込んだ。自分の死から二千年を(けみ)した今、人はずっと豊かになった。

 

「……身も蓋もねえが、楽しみの対価としてなら、そんなに悪かねぇな」

 

「でしょう? もっとも、凛には別の研究テーマがありますしね。

 とはいえ、世界の外に出るのには賛成するつもりはありません」

 

『あら、達観している貴方でも死ぬのは嫌?』

 

 からかい混じりの問い掛けをしたキャスターに、ヤンはきっぱりと首を振った。

 

「いいえ。亜空間跳躍そのものが非常に危険だからです」

 

 どさりと音がした。居合わせた者の頭が、戸口のほうに向きを変える。鞄を取り落とした、長く豊かに波打つ黒髪の、現代の魔術師に。

 

「……どういう意味なの。アーチャー……」

 

 青年と少女と、黒髪のふたりが相対する。

 

「私の世界では、宇宙船事故の多くが跳躍の失敗によるものなんだ。

 通常空間から亜空間に突入し、百五十光年を跳び、通常空間に戻るのは、

 非常に複雑な計算と繊細な技術を必要とするんだよ。

 こいつに失敗すると、虚数の海に溺れ、二度と戻ってこられない」

 

 凛はつんと顎を上げた。

 

「わたしは今のところ根源にいくつもりはないわ」

 

「でも、君のお父さんの願いはそれだったと思うよ」

 

 凛は、不承不承に顎を下ろすことになった。父との最初で最後のスキンシップ。痛いほどに強く頭を撫でる手は、宿願への決意に満ちていたように思う。

 

「でも、聖杯は万能よ。

 願いをかなえるために、方法をすっとばして結果を引き寄せると言われてる。

 単に、根源に行きたいと願えばいい……」

 

 いいさして、翡翠の瞳が大きさを増す。

 

「違う、だめだわ。帰ってくるためには、聖杯に『往復』を願わなきゃいけない。

 でもそうすると、根源で魔法を探すことができないじゃない」

 

 凛よりも頭半分高い黒髪が頷いた。

 

「彼が詳細な遺言を残していたのは、負けた時だけではなく、

 勝利も考えていたんだと思うんだ。

 君のお父さんは、ずいぶん敬虔なキリスト教徒だったようだし」

 

 神の御前に到達できた者が、いまさら下界へと戻るだろうか。否と言わざるを得ない。

 

「そして、もう一つ。亜空間跳躍には様々な制約がある。

 惑星や恒星の重力下では、決して行なってはいけない。

 重力の影響で、ワープの精度が著しく低下するんだ。

 地表でやるなんてもってのほか」

 

「……や、やっぱり亜空間で遭難確定だから?」

 

 彼のSF話を早くから聞いていた凛が、恐る恐る問いかける。アーチャーは腕組みして首を振った。

 

「跳ぶ側だけの問題じゃないよ。ワープの際は時空震が発生するんだ。

 人ひとりの質量でどれほどのことが起こるか、正確にはわからない。

 我々の世界にも、個人規模のワープ装置なんてないしね」 

 

「あんたの時代でも、テレポートとかはできないの?」

 

「そこまで小型化するのは不可能だし、無意味なんだよ。

 生身で亜空間を往来できるはずがないだろう」

 

 だが彼は、全長一キロの宇宙船で、何千光年もの距離を航行していると言った。 

 

「でも、正確じゃないけどわかるってことでしょう?」

 

「計算上の話だがね。

 新都の公園ぐらいの面積なら、跡形もなく消し飛び、

 焼け野原じゃなくてクレーターができるよ。士郎君が逃げる間もなくだ」

 

 アーチャー以外の口からは、呻き声しか出てこない。

 

「まあ、科学じゃなくて魔術によるワープなら、

 そういう悪影響はないのかもしれないけど」

 

『……貴方の世界のほうが、よほどに魔法の世界よ』

 

 キャスターがぽつりと感想を漏らした。

 

「では、あなたにも経験がないんでしょうか?」

 

『あるわけがないでしょう。天を自在に往来するのは神々ですもの』

 

 声にやや険がある。無理もないとランサーでさえ思う。いくら魔術師の英霊とはいえ、こんな質問には答えようがないだろう。ざまを見ろという気持ちの半面、あの女狐に同情もするが、先手を打っておく。

 

「言っておくが、俺にもそんな真似はできんからな」

 

 アーチャーは組んだ腕をほどくと、顎に手を当てた。

 

「ということは、前回の大災害はワープの失敗ではなさそうだね」

 

 凛は驚愕の叫びを上げた。

 

「あ、あんた、それも疑ってたの!?」

 

「うん、まあね。前回のアーチャーのマスターは、凛の父の可能性が高かったから」

 

 マスターの父といえども、ヤンの容疑者リストから除外されないのだ。

 

「決勝戦は、黄金のアーチャーとセイバーだった。

 マスターは共に同行しておらず、マスターはマスターと、

 サーヴァントはサーヴァントと決着をつけたと思われる」

 

 士郎とイリヤは顔を見合わせ、悄然と肩を落とした。これはセイバーの証言から考えうる、もっとも無理のない推論に思えた。だとすると、切嗣が時臣を手に掛けたのか?

 

「しかし、それだと凛に魔術刻印を継承できたことと矛盾するんだ」

 

「えっ!?」

 

 小さな叫びとともに、凛の瞳が再び大きさを増す。次の言葉で、士郎とイリヤとセイバーも凛に倣うことになった。

 

「例の災害で、もっとも激しく燃えたところだよ。

 凛の父がそこで亡くなったとして、誰が遺体を回収したんだ?」

 

 色とりどりの視線が、ほっそりとした左腕に集中した。凛は制服の上から握り締める。遠坂家五代の叡智の遺産、魔術刻印を。

 

「……そう、そうよ。これは、お父様の死後に移植したわ……!」

 

「セイバーが戦った黄金のアーチャーか。

 だが、セイバーを欠いて、アーチャーと対峙したら、

 衛宮切嗣氏は士郎君を助けることなどできないだろうね」

 

 そこで殺されるからだ。士郎とイリヤは、言外の意味に固唾を呑んだ。いくら不遜なサーヴァントでも、いやだからこそ、マスターを殺した相手を生かしてはおくまい。――普通なら。

 

 呆然として、凛は問い返した。

 

「じゃあ、誰が……」

 

「可能性は二つだ。同盟者が同行していたか。

 こちらだと、勝者は遠坂時臣となる可能性が極めて高い」

 

 しかし、時臣は死んでいるではないか。揺れる翠が、動じぬ黒瞳に問いかける。

 

「もう一つはなんなのよ!」

 

「決勝戦の前に、君の父が亡くなっている場合だ」

 

 セイバーの瞳も、強風に揺らぐ柊と化した。

 

「馬鹿な……。あの男の戦いぶり、そして、あのとてつもない宝具の数々……。

 いかに単独行動を持つアーチャーと言えど、マスターを欠いては不可能です!」

 

 黒い眉が角度を変え、瞳も細められる。薄い唇が開き、静かに一言。

 

「飛び立った船で、目的地まで飛び続ける必要はない」



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57:戦場の心理学者ふたたび

 居合わせた者たちと、電話の向こう側のキャスターが一斉に息を呑んだ。今回の聖杯戦争でも起こっていることだ。キャスターによるランサーの奪取。やや変則的だが、ライダーの代理使役もあった。前回に起こっていてもなんの不思議もない。

 

「ほかにもおかしなことがある。

 さっき、第一次から第三次までの状況をイリヤ君が教えてくれたが、

 ろくな戦闘がないように思えるんだよ。

 どこに、サーヴァントの影響で擬似的な不死を得たマスターが登場するんだ?」

 

「あ!」

 

「凛はそれを知っている。イリヤ君は知っていたかい?」

 

 イリヤは首を横に振った。

 

「そんなの、聞いたことない」

 

「さて、今回はそういうマスターがいる。

 バーサーカーから受けた傷が、跡形もなく治った士郎君だ」

 

 士郎の視界に、色調を異にする赤と緑の瞳が一斉に飛び込んできた。

 

「彼の手当をした私が断言するが、あれは間違いなく致命傷だよ。

 そういう怪我が治癒したのでなければ、不死とは言えない。

 しかし、なぜそれがわかったのか。こちらも答えは二つかな?」

 

 ランサーが口を開いた。

 

「殺るか、殺られたからだ。確実に急所を捉えてな」

 

「ご名答です。

 同じサーヴァントのマスターが、

 同じ治癒能力を持っていると考えたほうが無理がない。

 同じサーヴァントを呼ぶことは可能だからだ」

 

 呆然とする士郎の前で、凛とイリヤが同一の単語を口にした。

 

「触媒……!」

 

「それが士郎君と『彼』に、不死に近い再生能力を与えたのではないか。

 ただし、サーヴァントが現界している期間だけね」

 

 士郎も凛に倣うかのように、右の肩を握り締めた。弓道部から足が遠ざかった原因の怪我。治るまでに一か月、痕が薄くなるには三か月以上かかった。でも、炎に巻かれたはずの十年前の痕跡はない。

 

「じゃ、じゃあ……」

 

「凛にそれを語った者こそが、士郎君たちの父と戦ったと考えられる。

 まあ、最初からおかしいと言えばおかしかった。

 すぐに敗退した者が、どうして衛宮切嗣の行為を語れるんだ?」

 

 第四次聖杯戦争参加者の遺児たちの瞳が、零れんばかりに瞠られた。セイバーが歯の間から声を絞り出した。

 

「……そうだ。ランサー主従には語れない。ライダーたちも知らないはず……」

 

「マスターは自分に似たサーヴァントを召喚する。

 そういうことではないのかと私は疑っているわけだ」

 

「アーチャー……あんた、何を言ってるか判ってんの!?」

 

 顔を磁器の白さにした凛の問いに、アーチャーは静かに答えた。

 

「私も教会にいたんだよ。君の後見人が、衛宮切嗣を語るのを見ていた」

 

 押し殺しきれない、歪んだ歓喜に満ちた表情だった。

 

「あんなに詳しく語れるということが答えだ」

 

 マスターの一人を斃すため、ホテルを爆破し、彼の婚約者を攫い、騙まし討ち同然に殺したと。

 

「それをどうやって知ったんだ? 語れそうな者はこの世にいないのに」

 

「あっ……」

 

「一方で、教会が呼びかけたキャスターの討伐。

 子どもを攫い、止める家人を皆殺しにしたのが、

 キャスター主従だとどうして断言できるんだ」

 

「し、しかし、彼奴らは、私の目の前で、子どもを魔物の生贄に……!」

 

「違うよ、セイバー。それは犯行の結果であって、犯行そのものではない。

 子どもを攫うのと、家人を殺すのは同じことではないんだ」

 

 士郎は唾を飲み込んでから、セイバーに告げた。

 

「そうだ、アーチャーの言うとおりだ。

 子どもを誘拐すんなら、学校の帰りなんかを狙えばいい。

 普通なら親は迎えにこないから、親を殺さなくても誘拐はできるんだ」

 

 アーチャーは頷いた。

 

「それは家に押し入ったときに発生する犯罪のかたちだ。

 しかし、大人が殺され、子どもがさらわれていては発見が遅れるよ。

 警察に通報され、報道されるまでに、またタイムラグが発生する。

 教会からの通達はあまりに早い。まるで犯行を目撃したかのようだ」

 

 セイバーは息を飲んだ。アインツベルンの森での残虐な血の供犠。それを目の当たりにしていた彼女は、教会からの伝達を疑いはしなかった。

 

「それには、今回のキャスターのような探査能力が必要だ。

 だが、肝心のキャスターがその犯人だと言う。

 では誰がそれを見た?」

 

 黒い瞳の焦点が、時空を超えた場所へと結ばれる。

 

「いや、見ただけではいけない。伝えなくては意味がない。

 そう考えると、可能なものがただ一騎だけ存在する」

 

 アーチャーは、自分にとっても苦い単語を口にした。

 

「――暗殺者(アサシン)。一騎のはずなのに、数十が出現したというアサシンだ。

 気配遮断スキルを持つ彼らなら、見ているだけなら気づかれない。

 マスターと感覚共有することだってできる。

 情報を握る教会に、アサシンのマスターは潜んでいた。

 これが最も辻褄の合う推論だ」

 

 衝撃を受ける緑の瞳のふたり。

 

「そ、そんな……綺礼が……」

 

「馬鹿な! ならばなぜ、あの凶行を止めなかったというのか!」

 

 呻くようなセイバーに、アーチャーはそっけないほどの口調で答えた。

 

「教会にとっては、遠坂時臣を勝たせる出来レースだからさ」

 

 凛は思わず彼に掴みかかった。その手は空を切らず、温かな手に受け止められた。

 

「凛、凛。君にとってショックなのはよくわかる。

 しかし、遠坂の望みを考えた時にわかったんだ」

 

「何がよ!」

 

 どこまでも深い黒い瞳が、凛を通して遠坂の願いに向けられていた。

 

「君の父の望みが根源への到達ならば、教会にとって最もありがたいんだ。

 神の権威を穢す、不老不死の復活なんてとんでもないことだ。

 だって、この世界には吸血鬼やゾンビが存在して、

 聖堂教会は彼らを狩っているんだろう?」

 

「あ……」

 

 神の名において、人外を狩る代行者。まさに言峰綺礼の前歴である。息子が危険な任務に就くことに反対しなかったことからして、彼の父璃正の信仰も同様だったのではないか。

 

「その点、時臣氏の願いは、世界の外へ片道切符で行くようなものだ。

 第三魔法復活を願うアインツベルン、不老不死が願いだったマキリ。

 この両者が勝者になったら困るんだよ」

 

 ランサーが鼻を鳴らした。

 

「はん、御三家以外だって、強いサーヴァントがいたんだろうが」

 

 アーチャーは首を振った。

 

「いいえ、この二家は聖杯の器と令呪を抑えている。

 単に勝つのは可能でも、魔術儀式の勝者となるのは難しい」

 

 ランサーの携帯から、得心したような呟きが漏れてきた。

 

『なるほどね。遠坂はいずれも持たぬ魔道の若輩。

 教会が味方しても勝つのは容易ではないでしょうけれど、

 失敗しても懐は痛まない』 

 

「恐らくは」

 

 アーチャーの手の中で、凛の拳が解け、指先が冷たくなっていく。項垂れるマスターを、彼は沈痛な面持ちで見つめた。

 

「言っただろう、戦いは数と情報に左右されると。

 その点では、君の父は正攻法に徹している」

 

「……連続殺人犯を見逃しても!?」

 

「勝つために必要ならと考えたんじゃないかな。あまり賢いやり方ではないね。

 一番信じてはいけない相手を、同盟者にしたのを含めて」

 

 アーチャーが誰を疑っているかは、もはや明白だった。漆黒の瞳が、凛からランサーへと向きを変える。

 

「そこでランサー、あなたに伺いたい。

 なぜ、あなたの前のマスターの保護を教会に伝達しなかったのか」

 

「……てめえ、実は性格極悪だろ」

 

 ランサーの切り返しに、アーチャーことヤン・ウェンリーはうっすらと微笑んだ。

 

「善人が、金と引き替えに人を殺す職業に就くと思いますか?」

 

 彼の故郷であり、戦場でもあった、宇宙空間そのものの温度の笑いであった。

 

 ランサーは失態を悟った。彼が踏んだのは、とんでもない化け物の尻尾だった。一千万人を呑みこむ漆黒の龍。それがこの男の本性だ。

 

「私は人を疑い、策に嵌めて殺すのが仕事だった。だから疑うわけですよ。

 我々が教会にいたときに、あなたが墓地に現れた理由を。

 あなたのような好漢を、心に蕁麻疹ができそうな野郎が従えていた理由をね」

 

「くっそ……わかってやがるくせに」

 

「現段階では、あくまで私の憶測ですよ。

 でも、それが的中していたら、この子たちの命も危うい。

 ……あなたの本当の主のように」

 

 ランサーの目が見開かれ、険しく細められた。

 

「貴様……!」

 

 殴りかからんばかりの形相に、凛は制止の声を上げた。

 

「待ってランサー。アーチャー、どういうこと?」

 

「彼女とキャスターの間に、ランサーの主であった人間がいるということだよ」

 

「彼女!? 彼女って、じゃあ、時計塔の斡旋した……」

 

「そうだ。ランサーが召喚に応じた理由から考えるに、

 彼を全力で戦わせることができるマスターは彼女しかいない。

 男性の方では無理だ」

 

 二対の瞳が石と化し、呆然と黒髪のサーヴァントを見つめた。これは魔術でも千里眼でもない。わずかな情報の欠片を、丹念につぎはぎした結果だ。

 

「戦いには為人(ひととなり)が現れる。

 戦いは、人間の感情のぶつけ合いだから当然だがね。

 ポイントは、ランサーほどの戦士に諜報をやらせたこと。

 さて、四次で似た戦い方をしたサーヴァントがいなかっただろうか?」

 

 金沙の髪の少女騎士も、聖緑を零れんばかりに見開いた。

 

「まさか、そんな!」

 

「そして二人のマスターに対しても、似たようなことをしたのではないだろうか」

 

「なんだと!?」

 

 ランサーがアーチャーに詰め寄る。士郎は震える口を開いた。

 

「ふたり、ふたりって……」

 

「第四次アーチャーのマスター、遠坂時臣。

 第五次ランサーのマスター、バゼット・フラガ・マクレミッツ。

 両者のサーヴァントを強奪したのは同一人物だということさ」

 

 場が静まり返った。

 

「ほかにもある。サーヴァントの願いについてだ。

 人生のやりなおしを求めるもよし、受肉して生きるもよしと、彼はそう言った。

 前者の願いはともかく、後者が出てきたのはなぜだろう」

 

 その場に居合わせなかったセイバーは、はっとなって口を開いた。

 

「それは四次ライダーの望みだったはず……」

 

「ではセイバー、それを知りえる者は?」

 

「……私とアイリスフィール、ライダーの主従、そしてアーチャーと……」

 

 凛とした声が少しずつ張りを失い、最後は囁くような小声になった。

 

「あの男のマスター。アサシンが潜んでいたなら、そのマスターも聞いていた……?」

 

「彼がライダーの望みを知っていたのなら、

 アーチャーと同盟していたか、アサシンの主ということになり、

 先ほどの推論と矛盾しなくなる」

 

「し、しかし、単なる偶然かも知れないでしょう」

 

「そうかもしれないが、人間は往々にして身近なものを例にするんだ。

 だとしたら厄介だよ。前回のアーチャーならば、深山町の一家殺人が可能だからね」

 

「よもや、あのアーチャーがいると!?」

 

「そう思ったほうがいいだろう。

 隠しているようで、隠しきれていない。

 君や私のマスターに自慢でもしたいんだろう」

 

「じ、自慢ってなんなのさ!?」

 

「君たちの父は亡くなり、自分は生きている。

 君たちは何も知らず、不幸の元凶を再演しようとしていると。

 ま、これは私の言いがかりだ。確たる証拠は何もない」

 

 アーチャーの視線が刃と化し、蒼い前髪を断ち切る鋭さで一閃した。ランサーはそっぽを向いて右手を挙げた。

 

「ひとつ、証言はあるぜ。おまえに言わせりゃ幽霊の言葉だがな。

 

 俺を呼んだ女をやったのは、おまえが疑っている男だ」

 

「そいつはどうも。

 あなたの二番目の主は、言峰神父ということで間違いないですか?」

 

 ランサーはアーチャーに向き直り、無言で頷いた。

 

「では、今後の課題は第八の勢力の排除になります。

 となれば、一番危険なのはキャスター、あなたがただ」

 

『なんですって!?』

 

「サーヴァントの所在がはっきり知れているからです。

 危険ですよ。寺の住人をことごとく殺すかもしれない。

 可能ならアサシンも連れて、間桐家に移ってください。

 ライダーはあなたに恩があるし、桜君たちの保護者も必要です」

 

『マスターと離れろと言うのね』

 

 察しのよい相手にヤンは頷いた。もっとも、電話の向こうのキャスターには見えないだろうが。

 

「ええ、あなたがサーヴァントとして籠城するから、敵が攻めてくるわけです。

 人間を装って、街中で暮らせばおいそれと手は出せない。

 いざというときは、我々と相補的に戦えばいいでしょう」

 

『けれど、大聖杯はあの山のどこかにあるのよ』

 

「脱落者がいない以上、まだ意味がありません。

 小聖杯の器は、イリヤ君が握っている。

 使う時に、こちらの陣地になっていればいいんですから」

 

 必要な場所を、必要な時だけ使う。ヤンが生前構想していた宙域管理(スペースコントロール)の応用である。わざと椅子を空けておくことによって、座ろうとする者をコントロールするのだ。

 

『……わかったわ』

 

「そして、ここからが士郎君とセイバーの正念場だ。

 イリヤ君もね。因縁の相手として狙われる可能性が高い」

 

 名を挙げられた面々は一斉に頷いたが、イリヤが心配そうな表情になる。

 

「ねえ、リンとアーチャーは?」

 

 セイバー主従は顔を見合わせ、イリヤと同様に眉を寄せた。頭脳は最高、しかし戦士としては最底辺。宝具は強力だが、本人にとっても両刃の刃。襲われたらひとたまりもないだろう。

 

 アーチャーはゆっくりを瞬きをして微笑んだ。いつもの温かみのある表情に、凛は詰めていた息を吐いた。

 

「心配してくれてありがとう。ここは家族同士で乗り切ろうと思うのさ。

 我々は間桐主従と組むよ」



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58:聖杯のパズル

 そして、すぐさま仰天することになった。

 

「ええっ!? ライダーと組むの!?」

 

 凛とアーチャーは、ライダーを銃で蜂の巣にしたうえ、氷漬けにした。それが彼女の真のマスター、遠坂桜を瀕死に追い込んだのだ。挙句、諸悪の根源を断つためとはいえ、ランサーに桜の心臓を貫かせた。

 

「承知してくれるとは思えないけど……」

 

「君はライダーにとって、加害者であると同時に、

 願いを叶えてくれた恩人の一人とは言えないか?」

 

 凛はぷいと横を向いた。

 

「そんな立派なものじゃないわよ!

 わたしが、もっと早くに気づいていたら……」

 

「だが、君だけの力では、きっと桜君は助けられなかった。

 聖杯戦争という状況下で、いくつもの偶然が重なった結果だ。

 もちろん、慎二君やライダーだけでも不可能だったろう。

 せっかく助かった命なら、団結して守るべきじゃないか。

 いま一番弱いのは、間違いなく間桐の陣営だよ」

 

 正論ではある。だが、加害者が抜け抜けと言っていい台詞ではない。さすがの士郎も溜息交じりに手を振った。

 

「や、アーチャーが言っても説得力ないから」

 

 隣でランサーも頷いている。

 

「俺、これから見舞いに行って、そう言ってみるよ」

 

「ああ、ありがとう。持つべきものは仲介役だねえ。

 それに彼女の宝具や能力なら……」

 

 凛はアーチャーの顔面に、疑いの視線を突き刺した。

 

「あんた、美人とペガサスに乗りたいだけじゃないの?」

 

「ペガサスに乗りたいのは否定しないけど、いくら美人でも私にも好みはあるよ」

 

 彼の好みは、金褐色の髪にヘイゼルの瞳をした知的な美女だった。一途な性格で仕事は完璧、射撃は達人、料理の腕は努力中の。 

 

「まあ、それはそれとして、彼女と組めば勝てなくても逃げられる。

 こいつはとても重要だ」

 

 天馬の鞍上から魔眼で睥睨すれば、まず逃れられる者はいない。

 

「聖杯を調査しつつ、いるかもしれない敵への対応という

 二正面作戦は本当は避けたいが、もうあまり時間がない。

 ならば、できるだけ戦力を分散させないようにすべきだ」

 

 騎乗兵の身上は機動力。どちらかが狙われても避難なり、加勢なりが可能だ。アーチャーはそう続けた。

 

「剣を雨あられと飛ばす相手には、こちらも手数を増やすしかないからね」

 

「アーチャーの宝具には、銃を持ってた騎士がいっぱいいたじゃないか。

 あれじゃダメなのか?」

 

 士郎からの質問に、アーチャーはお手上げの身振りをした。

 

「刀剣のサイズは、ちょっとした砲弾並みだからね。

 残念ながら、荷電粒子ビームライフルでは勝負にならないよ」

 

「か、かでんりゅうしビームって……マジに……?

 じゃ、じゃあ、慎二の言ってた光の矢って……」

 

「いわゆる光線銃だね。宇宙船の中では、大威力の実弾銃が使えないのさ」

 

 さらりとした答えに、士郎は時代差を思い知らされた。

 

「ううう、マジで未来人だったんだ……」

 

 唸る士郎にランサーが首を傾げた。

 

「坊主、今度はやけにあっさり納得したじゃねえか」

 

「だ、だって、レーザーって工業用には使われてるけどさ。

 今の機械はでっかいし、銃みたいに長い距離には使えないぞ」

 

 機械いじりが好きな士郎ならではの知識だ。女性陣はきょとんとしている。

 

「レーザー装置が銃の大きさになって、

 学校の廊下の端まで届くなんてありえないんだよ!」

 

 士郎の言葉にランサーは、髪の色にも勝るほどの青筋を立てた。

 

「あれもてめえの仕業か!」

 

 その剣幕に漆黒の眼が丸くなった。

 

「なんであなたが怒るんですか」

 

「誰が直したと思ってんだ!」

 

 ということは、怒っている者が直したのだろう。壊した者の主が負けじと青筋を立て、修理人の主を糾弾する。

 

「あの腐れ神父! 居留守どころかサーヴァントに修理させるなんて!

 っていうか、断ればいいじゃないの!」

 

 ランサーの朝日の色の瞳に、哀愁の暗雲がかかった。

 

「そいつができりゃ苦労はしねえ。令呪を盾に取られたらよ」

 

 アーチャーは髪をかきまわした。たった三つの貴重品のぞんざいな扱い。その意味するところは……。

 

「なるほど、サーヴァントを奪っても、まともに参戦する気がないわけだ。

 だから、あなたを盗られたのに反応が乏しいんでしょう。

 本来のマスターへの攻撃も、労せずしてキャスターのせいにできますし」

 

「ランサーかわいそう……」

 

 口に出したのはイリヤだが、メイドのセラまで同情に満ちた表情になった。人の温かさは、冷たさよりも心を打ちのめすものだ。ランサーは畳に手をついて項垂れた。

 

「だから、そんな目で見ねえでくれねえか……」

 

『……冗談ではないわ。私は濡れ衣を着せられるのは我慢できないの』

 

 電話の向こうに氷河を抱いた活火山が出現した。失意のランサーは、キャスターの冷ややかな激情に閉口し、携帯電話をアーチャーに押し付けた。

 

「まあまあ、落ち着いてください。あなたがたはこれから移動を。

 ランサーも警護に向かってください。一旦、遠坂邸に集合しましょう」

 

「ちょっと!」

 

 家主の凛はアーチャーの袖を引っ張った。

 

「なんでわたしの家に!?」

 

『あら、マキリの家に行くのではなかったの?』

 

「あなたには、人間として振舞っていただかなくてなりません。

 先日の私のように、桜君の家庭教師、キャスター・なにがしとしてね。

 その服はよくお似合いですが、現代人には見えませんからね。失礼ながら」

 

 つまり、現代人として通用する服が必要。凛は息を呑み込んだ。遠坂家にはそれがある。母の葵の着ていた物が。

 

「第八のサーヴァントがいるかもしれない。

 我々は防衛戦を意識しつつ、聖杯の解析をしなくてはならない。

 座りたくなるように、椅子を二つ空けておきましょう」

 

「ふたつ?」

 

 異口同音に上がった声に、彼は頷いた。

 

「今日は、停戦勧告への対応状況の報告期限だ。

 キャスター、あなたのところへ教会から何らかの申し入れはありましたか?」

 

『いいえ、貴方以外からはなにも』

 

「士郎君、慎二君のところにも連絡はなかったんだよね」

 

 士郎は頷いた。慎二からの最初の接触の際に、教会への申し入れを伝えたが、寝耳に水といった様子だった。御三家の間桐には、とりあえず話を通しておくべきだろうに。

 

「彼のところで、情報が握りつぶされていると見てよさそうだ」

 

「どうすんのさ、アーチャー。教会へ乗り込むのか?」

 

「いや、それはやめておこう。

 教会の上層部に連絡し、対応してもらったほうがいい。

 我々が教会に乗り込んで戦闘になったら、第四次のアーチャーに今は勝ち目がない。

 戦車隊に歩兵で立ち向かうようなものだからね」

 

 不平の声を上げかけたイリヤだが、アーチャーの言い回しにピンと来るものがあった。

 

「ねえ、アーチャー。今じゃなかったら勝てるの?」

 

「ああ、勝てるというか、負けないと思う。作戦を練ればね。

 そのために相手を動かすんだ。空いている椅子のどちらかに。

 一つは柳洞寺。もう一つは、冬木のアインツベルンの城」

 

「あ!」

 

 驚いたのはイリヤだけではなかった。セイバーもだ。拳を口許にあて、しばし考え込む。緑柱石の瞳が鋭くなった。

 

「……前回のアサシンのマスターならば、

 あの城に入り込むことは不可能ではありません。

 そしてもう一つ。シロウのように、重傷がたちまち治った者がいるのです。

 イリヤスフィール、あなたの母上だ。彼女は言峰綺礼と戦っている……」

 

 呟くように言葉を紡ぎながら、セイバーの白い頬が青褪めていく。瞬く間に傷が癒えたアイリスフィールは、あの後で教会に出頭していた。彼女が瀕死の重傷だったことは、加害者以外は知りえないのだ。

 

 そして――。

 

「あの時、確かに黄金の杯がありました。

 アイリスフィールをかどわかしたのはバーサーカーだった。

 バーサーカーは、私がこの手で斃した……。

 ですが、彼のマスターは姿を現さず、アイリスフィールも見つけられず……」

 

 セイバーは声を絞り出した。

 

「なのに、聖杯の器は決戦の場にあったのです。

 私がバーサーカーを戦ったのとは違う場所に!

 ……バーサーカーとアーチャーのマスターが共謀していたとしか思えない。

 でなければ、あの場に聖杯の器があるはずがない!」

 

「ケッ、胸糞の悪い。女を殺して、荷を漁ったのかよ」

 

 ランサーは吐き捨て、士郎はひっかかりを覚えた。

 

「黄金? ……なあ、イリヤ。イリヤが持ってる器は大丈夫なのか」

 

「う、うん、大丈夫よ。バーサーカーが守ってくれるもん」

 

 イリヤは琥珀の眼差しにどぎまぎしながら答えた。

 

「ところで、あの……あの蟲から出てきたの、金属の欠片じゃなかったか?」

 

 びくりと紫のブラウスの肩が揺れ、華奢な手が震えながらスカートのポケットを握り締める。

 

「……うん」

 

『ならば、前回のバーサーカーの主は、きっとあの蟲の眷属よ』

 

 出し抜けに携帯電話から指摘の声が上がる。

 

「えっ!?」

 

『それはただの金屑ではないわ。強い魔力の痕跡がある。

 恐らく、聖杯の欠片。

 それがどうして、マキリの養い子の心臓にあるのだと思う?』

 

 桜のことを慮ってか、キャスターの言葉は抑制の効いたものだった。士郎やセイバー、アーチャーにはわからないだろう。しかし、凛やイリヤにはそれで充分だった。

桜に巣食っていたという蟲。前回のバーサーカーのマスターが間桐の者で、同様の術を受けていたら。

 

 あの蟲は、擬似的な魔術刻印であり、臓硯の使い魔でもある。そのうちの一匹を、アイリスフィールに張りつけておけばいい。彼女が所持していた聖杯のありかを知り、欠片を入手するのも容易だろう。

 

 イリヤは間桐臓硯の野望を悟った。彼自身は蟲となって弱体化し、直系子孫の魔力は衰退した。一方、アインツベルンは、他者の血を入れてホムンクルスに子を生ませ、強大な魔術師であり聖杯の器であるイリヤに仕立て上げた。

 

 同じことを、桜と慎二で行なおうとしたのではないか。つまり、桜はマキリの聖杯の母胎。本来の周期で聖杯戦争が開催されていたら、第二のイリヤに近い、強大な魔術師が参加したことだろう。

 

 イリヤはのろのろとスカートのポケットから金属片を取り出した。これは母の形見、いや母そのもの。イリヤの核でもある、聖杯の欠片。

 

「バーサーカーのマスターから、マキリに伝わったから……?」

 

 セイバーが首を振った。

 

「いいえ、私が剣を交えるうちに、バーサーカーは魔力が尽き、半ば自滅しました」

 

 魔力は生命力だ。バーサーカーへの魔力供給が追いつかず、マスターが死亡したのだとセイバーは思っていた。

 

「聖杯の下に辿りつき、欠片を持ち帰るのは不可能では……」

 

『そうとも言い切れなくてよ。

 先日の夜、アーチャーとランサーが戦ったのが、災害の現場だったのでしょう。

 そんな小さな欠片を、闇雲に漁って見つけられるものかしら?』

 

 何らかの方法で、セイバーらの決戦を見ていなければ不可能に近い。

 

「私とアーチャーの戦いの場には、第三者はいなかった。

 キリツグが、アーチャーのマスターと対峙した場所に……?」

 

 ランサーが頭を振った。

 

「いいや。俺の本当のマスターは、滅法強い女だった。

 あいつの不意を衝けた野郎が、人ひとり隠れているのを見逃すものか」

 

「わたしもそれには賛成よ。癪だけど綺礼は強い。

 うまく隠れていたとしても、セイバーの宝具開放をやりすごし、

 聖杯の欠片を奪って、大災害の中から逃げ出す?」

 

 凛は眉間をさすった。

 

「サーヴァントもなしでそんなことできたら、普通に優勝できるわよ」

 

 凛の言葉に、黒髪のサーヴァントは頷いた。

 

「つまり、常人には不可能ってことかい。たしかに、生前の私には無理だ。

 今だって怪しいものだが」

 

 キャスターが言葉を挟む。

 

『もっと大きな欠片なら見つけられるでしょうけれど。……人間ならね。

 でも蟲ならばどう?』

 

 バーサーカーのマスターから、アイリスフィールを経由し、決戦の地へ。アーチャーは顔を顰めた。

 

「宿主を移り変わる、まさに寄生虫そのものだ。しかし納得のいく推論です。

 ただし、たぶん順番は逆です。焼け落ちる前に探し出した。

 鉄筋コンクリートの建物が焼失する火では、どんな金属も無傷では済まない。

 その大きさが、蟲に運べる限度なのでしょう」

 

 複数の情報を入手し、様々な視点で検証する重要性。凛がアーチャーから繰り返し聞かされたことが、結実しようとしていた。第四次聖杯戦争が、少しずつその輪郭を露わにしはじめた。栄光どころか、悲惨そのものの醜悪な姿を。

 

「でも、なんでさ。なんでそんな物を桜に……」

 

 漆黒の瞳が、士郎からイリヤへと視線を移す。少女の銀の睫毛が伏せられ、肩に置かれた手の温かさに上げられる。

 

「正確なところは、施術者にしかわからない」

 

 臓硯亡き今、永遠に謎というわけだが、桜にとってはその方がいいのではないか。だからアーチャーはこう言った。

 

「我々が首を捻っても、出てくるのは想像だけだ」

 

「そっか……」

 

「とにかく、日が暮れる前に移動しなくてはね」

 

 それから、アーチャーはいくつかの指示を出した。ランサーに遠坂邸まで同行してもらい、次に柳洞寺へ足を伸ばし、キャスター陣営の案内を依頼する。

 

 間桐兄妹は入院中だ。士郎とイリヤとセイバーは彼らの見舞いに行き、ライダーに同盟の申し入れを行う。

 

「わたしも行くの? この家を守らなくてもいいの?」

 

「今、守るべきは場所ではなく人だよ。

 セイバーが士郎君に同行するなら、イリヤ君がいなくては不自然だ。

 義理のきょうだいとして、ついて行ってもおかしくはないだろう。

 メイドのお二人にも同行してもらったほうがいいね」

 

「ふうん、そういうものなのね」

 

「なんだか、えらく細けぇなあ」

 

 呑気な感想のランサーに、アーチャーは溜息を吐いた。

 

「あのですね、普通の高校生の周辺に、突如として外国人の集団が現れたら

 おかしいに決まっているじゃないですか。

 それも高校生とは言いがたい美男美女ばかり。分散化するしかないでしょう」

 

 愕然としたのは士郎である。

 

「や、やっぱし!?」

 

 そうではないかとは思っていたが、面と向かって指摘されると改めてマズイ。イリヤの一行とセイバー、ライダーやキャスターも飛び抜けた美女ばかりだ。長身の美男子なのがランサーとアサシン。揃いも揃って、派手な髪や瞳の色をしている。いや、ライダーの目の色はわからないけど。

 

「アーチャーの言うとおりだ。

 みんなして俺の家に集まられても、ものすごく困る!

 お、俺とじいさんにも、立場ってものがさぁ……」

 

 イリヤとセイバーをどうするかでも大騒ぎだったのに、妙齢のライダーとキャスターが加わったら、藤ねえがどんな反応をするか。不吉な光景が頭をよぎり、嫌な汗が出てくる。

 

 彼女らが切嗣の関係者を名乗ったら、今度こそ修羅場だ。いや、――地獄だ。

 

 セイバーと違って、年齢に問題がないのが大問題。超のつく異国の美女がふたり。……なんてことだ。じいさんの海外旅行に理由ができちまう。

 

 やばい。やばすぎる。衛宮切嗣の名誉は地に墜ち、底なしの穴を掘るだろう。かといって、士郎の知り合いというのはもっと無理があった。交友録の薄いページは、近所と学校とバイト先で全部が埋まるし、藤ねえもそれを承知している。

 

 顔色が目まぐるしく紅白を行き来する士郎に、アーチャーは気の毒そうに言ってくれた。

 

「そうだろう。少しでも、世間に申し訳が立つようにしないと。

 残りの全員が、イリヤ君がらみというのも不自然だ」

 

 赤毛が力強く頷いた。黒髪がそれに頷き返し、蒼い髪へと向き直る。

 

「ああ、ランサー、あなたは私の友人の留学生ということにしますから。

 設定を暗記してもらいますよ」

 

「はぁ!?」

 

 ランサーは、とばっちりに声もなく口を開閉させた。

 

「さて、ライダーの所在は明らかでないが、多分桜君や慎二君のそばにいると思う。

 もし、間桐邸で留守番をしていても……」

 

 桜に向かってつぶやけば、ラインがつながっているライダーに伝わるだろう。

 

「慎二たちは大丈夫かな……」

 

「病院にいるから、ひとまずは大丈夫だろう。じゃあ凛、私たちも行こうか。

 士郎君もイリヤ君も十分に気をつけて」

 

 衛宮きょうだいが仲良く頷き、揃って同意の返事をした。

 

「そうだ、士郎君。病院に行くなら、ついでに頼みたい物があるんだ」

 

「いいけど、なにをさ?」

 

「冬木の地図。いや、地形図がいいな。等高線が詳しく載っているもの。

 そして、もしも見つかるなら、この地方の断層や活断層の資料」

 

 マスターもサーヴァントも、一様にきょとんとした。

 

「今度はなんなのよ」

 

「聖杯の調査と戦いの準備さ。作戦参謀は、地図を読み解くのも給料のうちでね」

 

 そう言うと、アーチャーはセイバー主従に微笑みかけだ。

 

「図書館で、司書さんに頼むといいよ。

 そして、これは素人歴史家からのアドバイスだが、

 セイバーも祖国の歴史の本を借りておいで」



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閑話11:アーチャーVSキャスター場外戦

本話には、筆者による自由惑星同盟の独自設定が含まれます。


『ねえ、あんた、キャスターのマスターを知ってるの?』

 

 凛は、心話でアーチャーことヤン・ウェンリーに尋ねた。衛宮家から遠坂邸への帰路で、アーチャーもランサーも霊体化していたからだ。

 

『知ってるっていうか、当たりをつけてカマをかけてみたのさ。

 推測は正しかったようだ。魔力搾取を止めてくれたからね』

 

 凛はアーチャーのいるあたりに、胡乱な目を向けた。もう忘れかけていたキャスターへの手紙の内容。やけにおとなしく従ったと思っていたけれど、それも道理。陰険きわまりない脅迫文だったのである。

 

『誰よ!?』

 

『君のクラスの先生』

 

 凛は、十七年の人生で育ててきた猫を総動員し、落ちようとする顎を食い止めた。

 

『な、なんですって? 葛木先生がどうして……』

 

『住宅地図を買ってもらっただろう?

 柳洞寺の住所に、葛木宗一郎って載っててね』

 

 残念ながら、猫達は非力だったようである。あんぐりと開いた口を、凛は手で隠すよりほかなかった。

 

『……そ、そんなものに!?』

 

 恐るべし住宅地図、税込18,900円也。この出費もちゃんと元を取っていたのか。

 

 と、同時に、先日のアーチャーとキャスターのやりとりが腑に落ちた。交渉の合間に、キャスターは決まり悪そうにアーチャーへと問い掛けたのだ。

 

「ところで、アーチャー、その……配偶者控除っておいくらくらいなのかしら?」

 

 こんな生活感ありありの台詞を、魔術の英霊の口から聞きたくはなかった。自らの守銭奴ぶりを棚に投げ上げて、凛は打ちひしがれたものだ。

 

 そんなマスターを尻目に返答したのは、未来の魔術師ヤン・ウェンリー。彼は、金にまつわる大抵の苦労は経験してきた。現代アニメの小さな魔女の台詞ではないが、生きていくのは物要りなのである。

 

「奥さんに一定以上の収入があると受けられませんが、ええと……」

 

 アーチャーの疑問に聖杯が答えてくれる。

 

「最高で年間三十八万円だそうです。一月三万円ちょっと。

 少なくない差じゃありませんか?」

 

 黒いフードが深々と頷いた。

 

「でも、ご主人の年間の所得が高いと駄目ですよ」

 

「おいくら?」

 

「一千万円以上みたいです」

 

「……ならば平気だと思うわ」

 

「なお、内縁関係だと受けられない。ね、婚姻届って大事でしょう?」

 

 二人の魔女は思わずよろめいた。紙一枚の届出は、とっても重たいものだった。

 

「あなたが人として生きていくなら、健康保険や年金なんかもからんできます。

 職種によっては、労働組合などの優遇措置も関係する。

 今の時代、特に日本はそういう点で厳しい社会なんですよ」

 

「あんたは馴染みすぎよ……」

 

 どういうことなのと問うてみたい凛だった。で、実際に口にしてみると。

 

「私の国は、逃亡奴隷が築いたので、過去の国のいいとこどりをした面があるんだ。

 四十万人の逃亡者のうち、五十年後に新たな星に辿りつけたのは、

 十六万人しかいなかったんだよ」

 

 ふたりの魔女が呻き声を上げる。

 

「オデュッセウスも顔負けの放浪ね……」

 

「十六万人って、それっぽっち!? あんた、四百億って言ったでしょ」

 

「私の国は百三十億だよ。残りは敵国とその自治領だ。

 二百年でそれだけ増えたのはものすごいが、

 帝国との最初の戦いは国ができて五十年後。

 その時には、二万五千隻、三百万人の兵が動員されていた」

 

「五十年で二十倍!?」

 

「いや、違う。もっとだよ。艦隊だけが国民の全てじゃない」

 

 五十年のうちには、生まれる者もいるが、死んでいく者もいる。ひそかに、帝国からの逃亡者を受け入れたりもしたが、同盟の存在は隠されていたから、人数は限られている。

 

「……いったいどうしたのよ」

 

「多産の奨励だよ。千六百年後でも、妊娠出産は女性にしかできないことだ」

 

 キャスターは、ぽつりと言葉を漏らした。

 

「船が星座になるのではなく、船で星の海を渡る時代でも?」

 

「ええ、そうですよ。だから大変だったんです。 

 最初の到達者は十六万人。単純計算で、女性はその半分。

 しかし、子どもが産める年齢を考えると、その時点だと約二万人」

 

 凛は何も言えなくなった。これはもう、なまじな子沢山ではなさそうだ。

 

「で、近親婚の悪影響を防ぐため、日本式の戸籍制度が復活したわけです」

 

 凛の疑問から、アーチャーの国の波乱に満ちた建国史が顔を出そうとは。

 

「でも、日本式って?」

 

 首を傾げた凛に、驚くような事実が明かされた。

 

「戸籍は日本発祥のオンリーワン。現在、制度を導入している外国は、

 すべて太平洋戦争以前に日本の統治下にあったんだ」

 

「え、そうだったの?」

 

「うん」

 

 彼の顔が、いたずら小僧の笑みに彩られた。

 

「それをちょっと調べれば、私が現代までに存在しないってすぐわかるんだがね」

 

 ドイツに近い文化の帝国から独立した、多民族の民主制国家。さらに戸籍制度のある国は、過去も現在も存在しない。

 

「最初から盛大にネタばらしをしてるのに、

 凛も士郎君もイリヤ君も、まだまだマスターとして甘いねえ」

 

「あんたはサーヴァントとして辛すぎ!」

 

 お怒りのマスターから、アーチャーはキャスターに向き直った。

 

「愛する人と幸せになるためには、聖杯戦争以外のことも大変ですよ」

 

「本当にそうね……。ある意味で、戦いよりも厄介なことだわ」

 

「男はこういう手続きが苦手なので、女性が動くことになるものです」

 

「確かに……。あの方、下世話なことには疎そうですもの……」

 

 似たような社会の既婚者の言葉は、大変な説得力だった。お姫様育ちのキャスターには、喉から手が出る助言者だ。……彼を逃してはならじ!

 

「私も、妻がだいたいやってくれましたが、多少は覚えています。

 私がいる間は、できる範囲でご相談に乗りますから」

 

 ほっそりした両手が、アーチャーの右手を包み込む。黒いフードが頭を垂れた。

 

「よろしくお願いするわ……」

 

*****

 

『あ、当たったからいいようなものの、当てずっぽうすぎるでしょう!』

 

『そうでもないさ。あそこの僧坊は、女性やカップルの宿泊はお断りなんだってね』

 

 これは、役所に置いてあった冬木の観光パンフレットの一文だそうだ。戸籍を取りに行った際に、『広報ふゆき』と一緒に貰ってきたという。

 

『そりゃ、一応は宗教的な場所だもの。修行のお坊さんもいるしね』

 

『じゃあ誰が連れてくれば、寺の人が受け入れてくれるか。

 キャスターの手口は非常に女性的だ。

 で、クラスの特性上、現界して作業しなくちゃならないと思われた』

 

『まあ、そうね。実際に魔女だったしね……』

 

 当てずっぽうかと思ったが、アーチャーの推理は根拠があったのだ。

 

『お寺のお坊さんは聖職者だろう。

 この国の宗教ははかなり寛容だけど、サーヴァントは欧州か中東の人物だよ。

 明らかに宗教が違う若い女性を連れてきたら、街中の噂じゃないのかい?』

 

『若い女ねえ……。

 サーヴァントは肉体の最盛期で召喚されるってことね。

 でも、セイバーぐらいの外見ってことはあり得るんじゃないの?』

 

『未成年の外見なら、もっと大騒ぎにならないかい?』

 

『あ、わかった。士郎を見てればよくわかるわ……。

 隠し子とか誘拐騒ぎなんて、もっと洒落にならないわよね』

 

『そんな様子がないってことは、キャスターの外見は成人で、

 住職一家とは別の人物と一緒なんだろうなあと。

 魔術で誤魔化すったって、限界があるだろうし』

 

 凛は頷くしかなかった。名士、遠坂の若当主だから知っているが、柳洞寺の社会的な地位は高い。現住職が外人女性を連れてこようものなら、一大スキャンダルになる。これは、高校生の二男、柳洞一成でも同じことだ。

 

 また、年齢的に問題のない若住職、零観でも騒ぎが起こることは避けられない。寺の奥さんというのは、滅多な人には務まらないからだ。葬祭の裏方の手伝いに、墓地や寺の掃除に管理、いろいろと大変な役割を持っている。家族だけでなく、地域住民とうまくやれるかも問われる。

 

 柳洞零観は、藤村大河を憎からず思っているようだが、彼女でも正直難しいと思う。

アーチャーの推理のような、外国人の女性では絶対に無理だ。檀家の連中まで騒ぎ立てることだろう。弟の一成も、なんらかの反応をするはずだった。

 

『そう考えると、地図にある葛木宗一郎さんが鍵を握っていそうだ。

 どうやって探そうかと思っていたら、学校に同姓同名がいるじゃないか。

 若くて未婚の先生が、外国人の恋人を紹介するのは不自然ではないだろう?』

 

 霊体化したアーチャーは、学校の事務室へ入り込み、葛木教諭の住所を調べたという。学生時代、学校事務のお兄さんと交友があったおかげだそうだ。

 

『もっとも、キャゼルヌ先輩ならば、

 電話の隣に先生の住所録を貼っておかないけどね。  

 この国はほんとうに平和なんだと思ったよ』

 

 そして、じつにあっさりと地図の葛木宗一郎と同一人物であることがわかった。タネを明かされてみれば、なんのことはない。情報の断片を元に、常識を踏まえて資料を調べ、ちょっと推理しただけだ。

 

 彼の魔術にはタネも仕掛けもある。断片をつなぎ、全体像を作り上げる突出した能力。それを自在に操って、心理戦と情報戦で相手を揺さぶり、一点集中砲火で仕留める。戦場の心理学者と呼ばれたゆえんだ。

 

『だから、魔力搾取をやめてほしい、やめないなら相応の手段をとるという内容に、

 倫理の授業の感想を添えてみた。で、ライダー戦で光線銃を乱射してね』

 

 凛は固まった。ついでに思考も凍りつき、

 

『えげつない、アーチャーほんとにえげつない』

 

 感想が川柳になってしまった。

 

 非力なアーチャーだが、マスターを知られたキャスターには最悪の相手だ。彼女が陣地を離れるのは難しく、学校は対魔力の高いライダーの根城にもなっている。

 

 一方のアーチャーは、霊体化して潜み、ほぼ無音、光速の銃撃ができる。射撃や格闘は下手とはいえ、軍事国家で及第点をとれた腕前で、身体能力は生前の十倍。そして、マスターの凛は強大な魔術師だ。攻撃のバリエーションはイリヤに勝る。

 

 金貨一枚の価値は、億万長者と貧乏人では異なる。誰かにとっての弱者が、別の者にとっても弱者とは限らない。これもアーチャーが言っていたことだが、凛たちは貧乏人の金貨だったのだ。持たざるキャスターは、早々に折れるしかなかった。

 

 苦笑の気配が、凛の心に触れた。

 

『いいじゃないか。集団昏倒事件は、ガス会社の努力によって終結をみたんだ。

 そういうことにしておけば。これだって、管理者の役割だろう』

 

「あ……」

 

 事件が起こってからではなく、その前に手を打つ方法もある。

 

『私も、生前にこれができればよかったんだけどなあ』

 

 ぽつりとした言葉は重く、凛の心へと沈んでいった。海に沈む夕日のように。いつか夜を越え、旭日となって凛を導く願いになるのか。それは未来の物語。




 黒ヤンさんからお手紙ついた。

『前略 ――マスターと一緒に久々の学校生活を味わっています。
 この時代の授業はとても興味深い。特に、倫理が面白いですね。
 ところで、魔力搾取を早々にやめていただけませんかね?
 応じていただけないならば、私も相応の手段を講じますが……』

 キャスターさんは白旗上げた。


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10章 いつか蘇る王
59:真名


 アーチャーの助言に従って、士郎とイリヤとセイバーは病院へと向かったが、慎二と桜を見舞うことはできなかった。

 

「面会謝絶、ですか……」

 

 告げられた言葉を鸚鵡返しにする士郎に、三十代なかばぐらいの看護師がすまなそうに答えた。

 

「ごめんなさいね、せっかくお見舞いに来てくれたのに。

 どちらの患者様も熱が高くて、身内の方以外は遠慮させていただいています」

 

「そ、そんなに具合が……!?」

 

 士郎は青褪め、イリヤはドイツ語で呟きを漏らした。

 

【やりすぎよ、リン……】

 

 臓硯が死ぬような風邪を装ったとは言っていたが、これは少々……。桜のほうは、熱にうかされた悪夢で終わらせようとしたのかもしれないが、慎二に対しては激怒していたのだろう。

 

 ライダーの結界が阻止できて、本当によかった。穂群原に、ガンドによるアウトブレイクが起こらずに済んだ。よせばいいのに惨状を想像して、士郎の顔がますます青くなった。

 

 遠坂は同じことを数百人単位にできるんだ。本物の魔女だ。なんて、おっそろしい……。

 

 士郎の顔色を誤解した看護師は首を振り、安心させるような笑みとともに教えてくれた。

 

「いいえ、感染予防ですよ。二、三日もすれば、お見舞いも大丈夫よ」

 

「そ、そうですか。よ、よかった……。あの、俺、衛宮士郎っていいます。

 二人に大変だけど頑張れって、伝えてもらってもいいですか」

 

 士郎の言葉に、彼女は頷いた。

 

「はい、伝えますね。よかったら、これに書いていただけますか?」

 

 渡されたのは、可愛らしいメモ用紙。士郎は考え考え、桜と慎二へのメッセージを書いた。桜には看護師に伝言したようなことを。慎二には、それに一言付け足しした。

 

『治ったら、一緒に歴史の勉強をやらないか? いい先生がいるから。

 衛宮士郎 TEL0*0-****-****』

 

 ペンを握る手元を見つめるセイバーに、緊張の色が走った。

 

「シロウ……。気配がします」

 

 霊体化しても、サーヴァントはサーヴァントを感知できる。

 

「ラ、ライダーか?」

 

 声を低める士郎に、金沙の髪が頷く。士郎はさらに声をひそめた。

 

「じゃあ、聞いてくれ。ライダーたちも協力してほしい。

 まだヤバイのがいるかも知れないんだ。

 桜たちは、遠坂とキャスターたちが守るから」

 

 士郎の提案を、ライダー主従が受け入れるかどうか。同盟に応ずる公算は高いとアーチャーは言っていたが。

 

「そいつは、ひょっとすると桜の父さんの仇かも知れないって。

 ライダーも気をつけてくれよ」

 

 囁いて、士郎は神妙に病室のドアに頭を下げた。

 

「遠坂は妹を助けることができたんだ。

 ランサーとキャスターが手伝ってくれたんだけど。

 ライダー達が協力してくれたら、きっと何とかなる。頼む……」

 

 踵を返した小柄な少年を、霊体化した長身の美女はじっと見つめた。サクラの想い人である『先輩』。彼も、サクラを助けてくれた一人だった。シンジを救ってくれた一人でもあった。

 

 ライダーの襲撃を、アーチャー主従が見事に対処したからだ。結果、ライダーは吸血鬼事件を続けることも、学校の結界を発動させることもできなかった。その間に囚われの姫君と兄は、二人の魔女とその従者に救われた。まるで、幸福なお伽話のような結末。

 

 ライダーは眼帯の下で目を伏せた。灰色の水晶のような美しい瞳を。メドゥーサには訪れなかった救いの手は、神ではなく桜を取り巻く人々が差し出したもの。だが、それは桜に告げないでと凛は言った。

 

『桜を助けたのは私だけれど、殺したのも私よ。

 臓硯は死んだ、教えるのはこれだけでいいわ』

 

 あの少女は、名にふさわしく生きていくのだろうか。魔術師の矜持に胸を張り、されど孤独に。

 

 でも、サクラは姉の手助けに気づいている。熱からひととき意識を取り戻したとき、パジャマに目を落として呟いたのだ。

 

「……姉さん……」

 

 赤地に黒猫がプリントされたパジャマは、サクラの物ではない。その配色と図柄、さらに残った魔力の痕跡で、そうと気がついたのだろう。

 

『協力してもいいですよね、サクラにシンジ。でも、すこし羨ましいです』

 

 姉に想い人、その両方に助けてもらえるなんて。でもなぜ、ランサーやキャスターも仲間なのだろうか? 今更だが、首を傾げるライダーだった。

 

 でも幸いといえよう。アーチャーことヤン・ウェンリーは、稀代の戦略家にして戦術家である。ライダー陣営を弱敵と見定め、マスターの才能を立てる形で撃破し、その功をもってキャスターの懐柔にかかったのだから。

 

 それだけではない。学校を軸に士郎を取り込み、芋蔓式にイリヤも引っ張りこんだ。わらしべにされた結果の長者だとは、知らないほうがいいことだろう。

 

*****

 病院を出た士郎は、図書館へと向かった。

 

「図書館なんて久しぶりだな……」

 

 アーチャーの提案がなければ、来ることがなかっただろう。セイバーは、アーチャーの提案にじっと考え込んでいた。祖国の歴史を知るには、みずからの正体を明らかにすることになる。士郎とセイバーの関係は、彼の養父に勝ること百倍だが、士郎と敵であるはずのアーチャーとの関係は更にいいのだ。

 

 受容的で理性に富んだアーチャーは、父のように兄のように士郎に接している。どうやら、彼の里子は士郎に似たところのある少年だったようだ。士郎に知られれば、きっとアーチャーにも伝わる。サーヴァントの真名を知り、利用することの巧みさにかけては、アーチャーに並ぶ者はいない。

 

 それが怖ろしい。でも知りたい。相反する心に、セイバーはブラウスの胸元を握りしめた。

 

「あの、お願いしたい本があるんですけど……」

 

 セイバーの煩悶を知らず、士郎は司書の女性にアーチャーから頼まれた本のジャンルを告げている。

 

「あら、今は高校生もそういう勉強をやるの?」

 

 初老のふくよかな司書が、柔和に目を細めた。

 

「え、高校生もって、何がですか?」

 

「小学校の五、六年生で、地域を調べる学習があるのよ。

 よかったわね。ちょうど、それに貸し出されていた本が戻ってきたところよ」

 

「はあ、ありがとうございます」

 

 そのやり取りに、セイバーは目を瞠った。こんなに簡単に、調べたいことがわかるのか。俯いた頬に、視線を感じる。大粒のルビーが、じっと見つめていた。

 

「セイバーが言いにくいんなら、わたしが借りてあげてもいいわ」

 

「イリヤスフィール……」

 

 冬の少女は、律儀に約束を守ってくれていた。しかし、知っている。広めようとしないのは、イリヤには意味がないからだ。ヘラクレスの力をもってすれば、弱点を衝くまでもなく、セイバーをねじ伏せるのはたやすい。

 

「セイバーが気にするのは、キリツグがいいマスターじゃなかったから?

 でも、シロウはキリツグじゃないし、わたしもお母様じゃないわ」

 

 夫に対して従順で、優しい妻だったアイリスフィール。セイバーに対しても、慈愛に満ち、夫にとりなそうとしてくれた。イリヤはそう聞いている。

 

 でも、あと一歩足りなかった。キリツグに意見をし、ボサボサの襟首を引っ張ってでも、話し合いの席につかせるべきだったのだ。アーチャーのように、普通の人間のように。でも、それが作られた母の限界。

 

 しかし、イリヤにはできる。父から受け継いだ人間の部分が、設計図以上の成長を可能にする。だから、おとうとのために意見するのだ。それがお姉ちゃんの役割だろう。

 

「だから、シロウにはちゃんとつたえてね。……セイバーから」

 

 そう言うと、カウンターに伸び上がるようにして、士郎と司書に告げた。

 

「ねえ、シロウ。わたしにも本を借りてもらえない?」

 

「ああ、いいぞ。どんな本がいいのさ」

 

「いつかよみがえる王様と、その国が今どうなっているのかが知りたいわ」

 

「へ?」

 

 怪訝な顔になったのは赤毛の少年一人で、司書の女性は得たりと頷き、手元の端末を操作した。

 

「あのね、お嬢ちゃん。その王様と王国の本は沢山あるの。

 絵本から、博士が読むようなものまでね」

 

「じゃあ、両方がいいわ。一番かんたんなのと、一番むずかしい本」

 

「難しいほうは、とっても難しいわよ」

 

 イリヤは鹿爪らしい顔で腕組みをし、士郎を見上げた。

 

「アーチャーなら読めるよね」

 

「でもな、解説が高校生レベルじゃなくなると思うぞ。俺、ついて行けないよ……。

 それにアーチャーも、間桐と組むんならそんなに顔を出せないだろうし」

 

 セイバーもこくこくと頷いた。

 

「やっぱり、高校生ぐらいのにしておこうかしら」

 

「……それがいいと思う」

 

「私からもお願いします」

 

 二人の同意に、司書は頷いた。

 

「では、少しお待ちくださいね」

 

 それから二十分後、どっさりと本を抱えた三人は帰路についた。

 

「イリヤの読みたかった本、そんなにあったのか……」

 

 冬木に関する資料は三冊。残る七冊はイリヤのリクエストだった。

 

「むー、ちがうわ。ひとりの王様なのに、本がこんなにあるなんて思わなかったの」

 

 家に帰り着いたイリヤは、遠坂邸で待機中のアーチャーに、電話でその不満をこぼした。

 

『歴史に異説はつきものなんだよ。だから、複数の資料を読み比べるんだ。

 共通する部分があり、異なる部分がある。

 その違いがどうして生まれたのか、埋もれた事実が見つかることもあるのさ』

 

「じゃあ、どうすればいいの?」

 

『さっき言ったように、資料を読み比べるんだよ。要点を書き出したりしながらね』

 

「ええー!?」

 

『第三次と第四次聖杯戦争の状況は、そうやって調べて推測したんだよ』

 

 遠坂家に残された文書と、新聞記事の縮尺版のコピー、そして複数の郷土史。

 

「アーチャーって、ほんとうに歴史が好きなのね……」

 

 イリヤから告げられた素人歴史家からのアドバイスは、士郎とセイバーにも悲鳴を上げさせた。

 

「無理! それ無理! 

 そんなのできたら、俺、テスト勉強に苦労してない!」

 

「よもや、これもあの男の策では……」

 

 セイバーは目の前の本の山を睨みつけた。

 

「私を煙に巻き、聖杯戦争の遅延を図っているのか……」

 

 あるいは、さっさと告白してしまえということかもしれない。だとしたら悪魔も顔負けの奸智である。

 

「なあ、先に一冊で済むほうからにしないか……」

 

  士郎が手にしたのは、『グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国史』だった。厳密にはイギリスという国は存在せず、日本の法的には上記の国名が正式だ。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという四つの国が、王または女王の下に統治されている。

 

「……あのさ、イリヤ。これ、ほんとうに高校生向きなのか……?」

 

 厚さが五センチぐらいありそうな本だ。開いてみると活字は二段組。ふたたび、アーチャーに助言を求めるイリヤだった。

 

『一冊で収まっているんなら、確かに高校生向きだよ。

 詳細なものだと、何十巻もあるんだからね』

 

「一冊でも、ぜんぶ読んでる時間はないの!」

 

『じゃあ、まず、セイバーの時代を読むんだ。

 そこから飛ばして、現代の体制が生まれていった過程を調べるといい。

 後者は、士郎君の世界史の参考書あたりに、ダイジェストがあると思うよ』

 

「――だって」

 

「それが楽になったって、言えんのかなあ……」

 

 嘆息した士郎は改めて本を眺めた。

 

『グレートブリテン島および北アイルランド連合王国』

 

「セイバーはイギリスの英雄だったんだな。で、どの国なのさ……?」

 

 イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド。候補が四つもある。

 

「私の時代では、ブリテンと呼んでいましたので……」

 

「じゃあ、その時代はいつなのさ?」

 

 セイバーはついに意を決した。

 

「……シロウ。私の真名はアルトリア。アルトリア・ペンドラゴンです」

 

 琥珀がきょとんと見返す。

 

「うん?」

 

「しかし、私は男として生きていた。アルトリウス・ペンドラゴンとして」

 

「あるとりうす? 俺、聞いたことないけど」

 

 セイバーは睫毛を伏せた。

 

「愛称はアーサー。これならばわかりますか……?」

 

 剣士となりうる英雄。名はアーサー。

 

「へ、え、ええーーっ!? あ痛え!」

 

 慌てた士郎は立ち上がりかけ、座卓の天板に膝をぶつけてしまった。

 

「アーサーって、アーサー王!? 円卓の騎士のアーサー王なのか!?」

 

「はい……」

 

 こわばった顔で頷くセイバーに、士郎は膝をさすりながら、さっきぱらぱらと読んだ絵本の知識を披露した。

 

「アーサー王なら聖杯を手に入れてるぞ」 

 

「な、なに!? そんなはずは……」

 

 アーサー王伝説は諸説ある。最も有名なのは、円卓の騎士が聖杯の探求をするエピソードだろう。聖杯を持ち帰った者に差はあるが、それによって王の病は癒え、彼の統治は五十年に渡って続く。

 

 セイバーは手を握りしめた。

 

「ここは、私の世界ではないのか……?」

 

 士郎は赤毛をかき回し、眉を寄せた。

 

「もしかしたら、アーチャーが言ってたタイムパラドックスが起こってんのかも」

 

 この聖杯戦争で、セイバーが聖杯を得て、元の時代のやり直しに成功する。これはその書き換えられた歴史ではないのか。だとしたら、資料から確かめる術はない。

 

「厄介だな。なんか他に……」

 

「私が最後に戦ったのは、モルドレッドでした」

 

「それは一緒だな。ほら、ここ」

 

 絵本のアーサー王は、カムランの丘で、王位を狙うモルドレッドと対決している。士郎はそのページを開くと、セイバーに見せた。エメラルドが食い入るように、活字を追う。アーサー王と異母姉の間に、モルドレッドが誕生していた。しかしセイバーは、眦が裂けんばかりに目を見開いた。

 

「私は、父ウーサーの子だからアーサー。

 モルドレッドの母は、わが姉モルガン。だからモルドレッド。

 これでは目印にならない……」

 

 セイバーの言葉に士郎はぎょっとした。

 

「ちょっ、ちょっと待ってくれよ。

 セイバーが女で、相手も女ならどうやって子どもができるのさ!?」

 

「それはモルガンの魔術によって……。

 正しくは、私の因子によって作られたホムンクルスなのです」

 

「ホムンクルスって、錬金術の人造人間のことか!?

 そ、そんな、ムチャクチャな……」

 

 イリヤが目を見開いた。

 

「そんな、まさか、そんなことがあるかしら……」

 

「どうしたのさ、イリヤ」

 

 性を偽り、ホムンクルスを生む魔術。不老不死をもたらす守護の鞘。前者は魔術師マーリンと妖女モルガン・ル・フェイ、後者は湖の貴婦人によってもたらされた。

 

 そして、マーリンは湖の貴婦人の血を引き、彼女の愛人でもある。モルガンもまた、湖の貴婦人のひとりとも語られている。

 

 そして、ドイツには有名な水妖伝説がある。ラインの流れに、船人を惑わす歌を響かすローレライ。愛と引き換えに、世界の支配者となれる黄金を守るラインの乙女たち。

人の考えることに大きな差はないというが、無視できない類似だ。

 

「……もうちょっと考えさせて。でもね、セイバー。

 サーヴァントは英霊のひとかけらをコピーしたものなの」

 

「はい」

 

「もしかしたら、並行世界のどこかで、

 聖杯で願いを叶えたセイバーがいるのかもしれないわ。

 その結果、アーサー王の伝説がその本みたいになった。

 シロウ、タイムパラドックスってそういうことでしょ?」

 

「あ、ああ。うん。イリヤ、説明うまいなぁ」

 

 イリヤは誇らしげに笑って、胸を張った。それに助けられ、士郎は続けた。

 

「セイバー、俺が言いたかったのはそういうことなんだ。

 別のセイバーが願いを叶えて、この世界の過去が変わってることも

 ありえるんじゃないか?」

 

 サーヴァントの本体である英霊は、世界の外の座にいまし、サーヴァントの体験を記録として追認できるらしい。しかし、本体を離れたサーヴァントは、複数のコピーがいても他者を認識できない。

 

 並行世界があるなら、聖杯戦争も並行して起こっていることになる。ここと違う経緯を辿ったセイバーの存在を否定できない。凛やイリヤのように強大なマスターに召喚され、聖杯を手にいれ、願いを叶えていても不思議はないのだ。それを踏まえての二人の発言だった。

 

 緑の瞳が大きく見開かれ、白い手がわななきながら濃紺のスカートを握りしめる。白絹のブラウスもかくや、という顔色になった少女は、血を吐くような声で叫んだ。

 

「そんな、そんなはずはない! 歴史は変わってはいない! 私にはわかる!」

 

「なんでさ?」

 

「私はまだ生きている!」



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60:ひとりの重み

「はあっ!?」 

 

 士郎とイリヤの口から、素っ頓狂な声が上がった。

 

「そういう約束だった! 聖杯を得ることを対価に、私は世界と契約したのだから!」

 

「世界と契約?」

 

 なんじゃそりゃ? 士郎の胸中に萌した疑問であり、感想だが、口にはしなかった。というよりもできなかった。堰を切ったように、セイバーの言葉が続いたからだ。

 

「そうです。聖杯を手に入れ、王の選定のやり直しを願う。

 ふさわしき王が生まれ、私は消え、世界の守護者の一人になる!

 それが契約だったのだから!」

 

 激情を吐き出して、セイバーは息を荒らげる。士郎とイリヤはしばし見つめ合い、縁を赤らめた緑の瞳へと向き直った。そしてふたりして口を開き、異口同音にセイバーに告げる。

 

「ものすっごく怪しい……。セイバー、それ、絶対に騙されてると思う」

 

「そうよ。ここで聖杯に願ったことがかなったかどうか、

 どうやって確かめるの、セイバー?」

 

「わかるはずです! 選定の剣を抜くのは、私ではなくなるのだから」

 

 士郎は赤毛を掻きむしり、姉貴分そっくりの唸りを上げた。

 

「うがーっ! でも、()のセイバーはどうなのさ!?

 ここでセイバーの時代が変わったのか、ちゃんとわかるのか?」

 

「……あ」

 

 願望機が発動し、願いが叶えば、アルトリア・ペンドラゴンは王ではなくなる。アーサー王として召喚されたセイバーは、矛盾した存在となり、世界に修正されて消滅するかもしれない。本体が記録を知ることが叶うかどうかもわからない。聖杯入手を認識できるだろうか?

 

 そして、歴史が上書きされるのではなく、新たな並行世界として分岐するのならば、

セイバーや士郎の世界からは観測できないのだ。これはアーチャーの説だが。それどころか、ここがセイバーが望みを叶えて、分岐した世界でないとも断言は不可能。

 

「考えてもいなかった……」

 

 呆然とするセイバーに、偽りの女主人はとんでもないことを言い出した。

 

「タイガのうちのテレビでみたわ。

 借金のカタに、オイランにされちゃうのとそっくりよ。

 ネンキボウコウでは、ぜったいに返せないようになってるの」

 

「……雷画じい、イリヤになに見せてんだ」

 

 士郎は眉間に皺を寄せて毒づいた。だが、かなり的確な喩えのような気がする。

 

「でも、たしかにそんな感じがするぞ。

 全部の望みが叶うものが欲しいなら、全部を捧げろってことじゃないのか。

 セイバーの存在も、セイバーの人生も、家族や友達も、

 嬉しかったことも、悲しかったことも、みんな。

 みんな、違うアーサー王のものになっちまうんだぞ」

 

 魔術は等価交換。世界との契約も、似たようなものじゃないだろうか。しかも、これは奇蹟の前借りだ。とんでもない高利がつくように思えてならない。

 

「セイバーが頑張って、治めていた国の歴史だってそうだ。

 セイバーはそれでもいいのか?」

 

「私は国を滅ぼしました。あの時、選定の剣を抜いたのは誤りだった。

 もっとよき王が現れたかもしれないのに! 

 間違いは正さなければ……」

 

「俺は違うと思う……」

 

 一週間前の士郎なら、きっとセイバーに共鳴していただろう。自分と引き換えに、あの災害の犠牲者が全部助かるというのなら、と。

 

 でも、アーチャーと、みんなと触れ合ってわかった。それはとんでもない思い上がりではなかっただろうか。衛宮切嗣という、絶対のヒーローが助けてくれた自分の命を、あまりに高く見積もりすぎていたのかもしれない。

 

 士郎一人の価値が、亡くなった五百人以上と釣り合うことはない。でも、士郎が死んでいても同じだ。五百人がどんなに力を尽くしても、蘇らせることはできない。

 

 人間はみんなが唯一の存在。だから等しい価値を持ち、誰も引き替えにはならない。アーサー王の時代は、王様と庶民の価値は違う。でも命の数は、誰もが同じく一つだけ。セイバーはそれを失ってはいないという。彼女の本来の時間では。

 

「セイバーは生きてるんだろ。死んじまってないんだろ!

 だったら、だったらさ、できることがあるんじゃないか」

 

 真摯な色を瞳に浮かべた士郎に、俯いていたセイバーの頭がのろのろと上がった。

 

「……なにができるというのです。私の時間は、死の寸前で止まっているのに」

 

「俺の怪我を治してくれたの、きっとセイバーの触媒だ」

 

「私の鞘が、ここにはあると……?」

 

「鞘? そっか、エクスカリバーの鞘が触媒だったのか。

 そいつを探すんだ」

 

 セイバーに秘されていた前回の召喚の触媒は、モルガンに盗まれ、アーサー王の破滅の原因となった、不死と癒やしを与える鞘だったようだ。

 

「セイバーの剣は、刀身が一メートルぐらいはあるよな」

 

「シロウ、どうしてわかったのですか?」

 

「俺と稽古したときに、竹刀の長さや戦法に慣れてるみたいだったからさ。

 もっと長い両手剣とか、フェンシングのレイピアとは違うんだろ?」

 

 セイバーは目を瞠り、士郎の観察眼を見直した。

 

「たしかにそうですが、なぜ……」

 

「その大きさの鞘なら、遺言状よりもずっと見つけやすいぞ。

 多分、土蔵にあるんじゃないかと思うんだよな」

 

 セイバーが召喚されたのも、士郎の怪我が癒えたのも土蔵の中だった。

 

「片っ端から調べても、そんなに時間はかからない。

 この本を読む前に、ちょっと見てみないか?」

 

 士郎は本の小山の高さを目で測った。七冊で三十センチ弱。三人寄れば文殊の知恵とは言うけど、同じ三人なら土蔵をひっくり返すほうがまだ早い。一メートルを超えるような長物はそんなに多くないのだ。

 

「シロウのいうとおりかも……。さむくなるまえに見ちゃいましょ」

 

 イリヤもセイバーの袖を引く。セイバーは顔を覆った。

 

「ここで見つけても、どうにもなりはしない!」

 

 士郎は勢いよく首を振った。

 

「いい刀は鞘に入ってるって、雷画じいの好きな映画だけどさ。

 サーヴァントは概念の存在だってアーチャーも言ってたように、

 元の時代に持ち帰れるかもしれないだろ。

 怪我が治ったら、やり直せるかもしれないじゃないか!」

 

「そんなことが可能でしょうか……」

 

「わからない。失敗するかもしれない。

 でも、やらなかったら可能性はゼロなんだ」

 

 金の髪が、ゆっくりと上を向き、再び下を向いた。

 

****

 柳洞寺から遠坂邸へ、キャスター一行を案内してきたランサーが見たのは、資料が積まれたテーブルと電話を行き来しているアーチャーの姿だった。

 

「何やってんだ、あいつ」

 

「ほら、セイバーにカンニングを勧めたじゃない。

 でもね、自分ができるからといって、他の人もできるとは限らないわけ」

 

 特に、歴史は暗記科目だと思っていて、それもあまり得意ではない衛宮士郎には。電話口のアーチャーが言うように、複数の資料を読み比べ、疑問を洗い出すのは、大変な思考力を要求されるのではなかろうか。

 

 第三次、四次はそうやって推測したのだと、アーチャーは資料名を列挙する。だが、逆効果としか思えなかった。凛もランサーも、異次元の生物に遭遇した気分になった。

 

「……あの野郎はまた尋常じゃねえからな。正直、気味が悪いぐらいだぜ」

 

「それはわたしも同感だわ」

 

 凛とランサーのやりとりに、アサシンは銀の片眉を上げた。

 

「自らのサーヴァントを腐すのは、あまり品の良いものではないと思うがね」

 

 黒い柳眉が跳ね上がり、雪のような額に静脈のクレバスが発生する。

 

「こんな状況になって、黙っていられるもんですか!」

 

 遠坂邸の豪奢な客間の椅子は、久々に客人を乗せていた。凛の対面には、黒紫の魔女が。その右隣には、皮肉な笑みを浮かべた赤い外套のアサシン。さらに、テーブルの左側面の席に、長い足を組んだランサーが。

 

「サーヴァントが三人もいるのに、わたしを放って電話に出るなんて。

 まあ、アーチャーがここにいたって、

 あなたがたに襲われたらひとたまりもないけど……」

 

 フードの下の桜色が、ほのかな綻びを見せた。

 

「あら、妬いているのかしら? 可愛らしいこと」

 

「はぁ? 冗談じゃないわよ。

 外見こそああだけど、中身は食えないおっさんよ。

 言動なんて、完全に先生か父親だもの」

 

「それよ。夫を盗られるよりも、父を奪われるほうが耐え難いものですもの」

 

 メディアがコリントスの王と王女を殺したのは、自分ひとりだけのためではない。彼女を捨てようとした夫は、七人の子の父であったのだから。

 

「そういう意味で、アーチャーは狙われているわよ。あの銀の妖精に」

 

「ああ、あの子なら、最初からあいつをスカウトしたわよ」

 

 黒髪黒目で、父に少し似ている。賢くて、声がすてきで、お話が面白いと。

 

「あらあら」

 

「でも、パスポートの写真を見ると、そんなに似てないと思うけどね。

 あ、そうだった。キャスターのパスポートの写真も欲しいのよ。

 ちょっと着替えてくれる? お母様の服があるから。

 間桐の家にいくなら、着替えも準備しなくちゃね」

 

 凛は立ち上がると、キャスターを伴って母の部屋へと向かった。後に残されたのは、ランサーとアサシンだった。 

 

「おいおい、俺たちもほっぽり出したじゃねえか」

 

「ふむ、こうなると女性は長い」

 

「だろうな。これだけ色とりどりの衣が溢れてんだ。

 その中から選ぶのは難儀なこった」

 

 ランサーの生前、植物や羊毛から糸を紡ぎ、機を織り、布から一着の服を作るのは大変な作業だった。ケルト美女の条件には、裁縫上手が含まれるぐらいだ。なお、料理上手は含まれない。二千年を閲した現代も、その点は変わっていないそうな。

 

 アーチャーの話では、どうやら千六百年後も。……なんだか切ない話だ。

 

「それにしても、茶の一杯も出ねえし、茶菓子も置いてねえ。

 これなら、セイバーのマスターの家のほうがよかったぜ」

 

 アサシンは渋面になった。

 

「……それでは餌付けだ。君の死の遠因もそれだったように思うが、懲りないのかね?」

 

 苦労性の同僚にランサーは手を振った。

 

「そいつを知っているアーチャーが、卑怯な真似をしなかったからな。

 もっとも、嬢ちゃんやあの坊主が、犬をとっ捕まえて、

 殺して捌いて料理するとも思えんが」

 

「そういう問題ではない。そもそも、客がせびるのがさもしいのだよ」

 

「いいじゃねえか。セイバーはよく食うし、あいつは大酒飲みだ」

 

 ランサーが行儀悪く指した指の先、髪をかき回しながら電話で話しているのは、どう見ても大学生のアルバイト家庭教師だった。アサシンの端正で精悍な口元に、一ダースの苦虫が乱入した。

 

 遠坂凛も衛宮士郎も、ヤン・ウェンリーに何をやらせているのだ。彼が過去となった遥かな未来では、共和民主制の象徴、軍神や知神に近い尊崇を受ける存在なのに。

 

 銀灰色の視線の中、ヤンは受話器を置いた。黒髪をかき回し、肩も回しながら客間へと戻ってくる。

 

「やれやれ」

 

「どうしたよ」

 

「私の予想は大ハズレだったらしい。だから苦労しているようです。

 頼んだ本も借りてきてくれたそうだし、後で様子を見に行くとしますよ。

 なんだか喉が渇いてしまったな。あれ、凛は?」

 

「君のマスターならば、キャスターの服を見繕っているようだが」

 

 短い言葉だが、平静を取り繕うのに費やした努力は少なくないものだった。まさか、あの遠坂凛に茶を淹れさせる気なのか。その一点をもってしても、ヤン・ウェンリーは只者ではない。

 

「そうですか。お客さんにお茶も出さずに申し訳ない。

 すみませんが、私がやると、茶器までひどいことになると思うので」

 

「……茶器まで?」

 

「はあ。自慢にもなりませんが、私の淹れた紅茶はおいしくなくて」

 

 限界だ。宇宙規模の大英雄に、茶を淹れさせるわけにはいかない。アサシンは立ち上がった。鍛え抜かれた長身を、黒い瞳がきょとんと見上げる。

 

「私がやろう。申し訳ないが、厨房に案内していただけないかね」

 

*****

 

 残っている凛の母の服は、十年前のものだ。しかし、良家の夫人にふさわしい、流行に左右されない、上品で上質な服が揃っていた。幸い、母とキャスターは体格も近かった。どれもよく似合ったが、銀青の髪と菫の瞳に映える、水色のジャケットに白いカットソー、紺のスカートを選び、髪型も耳が隠れるように変えてもらう。

 

 いかにも家庭教師らしい、知的で清楚な美女が誕生した。他にも着替えを一式、スーツケースに詰めていく。

 

「住み込みが手ぶらでも変だし、一週間分ぐらいあればいいでしょう?

 お古で悪いけど」

 

「とんでもない。これは、貴女の母の形見でしょうに。

 お礼を申し上げるわ、アーチャーのマスター。……ありがとう」

 

「いいのよ。着てもらえたほうが、服も幸せだもの」

 

 そんな会話をしながら、スーツケースを転がして玄関に運ぶ。

 

「それにしても、あの蟲の棲家にメドゥーサね。少々、ぞっとしないわ」

 

 メディアもメドゥーサも共にギリシャ神話の人物だが、前者の方が年代は半世紀ほど後になる。メディアが物心ついた頃には、既に伝説の魔物であった。

 

 幼い頃、悪いことをすると、女神アテナの盾で石にされると叱られたものだ。大人になって知ったのは、真に悪辣なのは神々だということだったが、本能的な恐怖がなくはない。

 

「でも、あなたやランサーは桜にとって恩人よ。

 ライダーの願いを叶えたわけでもあるし、協力はしてくれると思うわ」

 

「だといいのだけれど」

 

 キャスターは肩を竦めた。そんな二人が客間に戻ると、思いもよらぬ光景が広がっていた。漂うのは紅茶の芳香。なんとも幸せそうな表情で、ティーカップを傾けるアーチャーと、鼻に皺を寄せて匂いを嗅ぎ、恐る恐る口をつけようとするランサー。見事な手さばきで給仕をしているのは、なんとアサシンである。

 

「……あんたたち、なにやってるの」

 

「ああ、凛、彼が淹れてくれたんだよ。

 お客さんにやらせるのは、本当は失礼だけどね」

 

 満面の笑みで答えるアーチャーに、凛は眩暈と頭痛を堪えながら、椅子に腰を落とした。

 

「アーチャー……」

 

 肘掛けに食い込む爪と、黒髪の間から覗く眼光と、地を這うような声にも、彼は平然としたものだった。

 

「だって、私が淹れるより百倍も上手だったんだ。

 素晴らしい腕前だよ。私の被保護者に負けないぐらい美味しい」

 

「それは光栄だな。さて、キャスターとアーチャーのマスター。

 諸君らもいかがかね」

 

 すいと差し出されたのは、凛のとっときのブルーオニオンのカップアンドソーサー。底に黄金を沈めた琥珀がたゆたい、立ち上るのは馥郁たるマスカットフレーバー。ダージリン・セカンドフラッシュティーの理想形がそこにあった。

 

 凛の視線は、琥珀の水面と褐色の面を行き来した。ええい、ままよ。魔術師最後の砦、魔術工房に他のサーヴァントを三人も招き入れ、今さら毒殺を疑うのも馬鹿馬鹿しい。

 

「……ありがとう。いただくわ」

 

 凛は姿勢を正すと、カップを取り上げた。薫りを堪能してから、口をつける。そして、味覚と嗅覚に最大級の祝福が訪れた。まろやかな甘味を引き立てる苦味。マスカットの香りが、更に濃厚に口から鼻に抜ける。

 

「お、おいしい……!」

 

「そうだろう?」

 

 悔しいが、凛が入れたものよりもおいしい。そのうえ、実に凛好みの味でもあった。紅茶好きのアーチャーが籠絡されるのも無理はない。キャスターも凛に倣い、気品ある所作で口をつけ、首を傾げた。

 

「これが今の飲み物? 私の時代の薬湯とあまり変わらないのね」

 

「実は、千六百年後もそれほど変わっていないんですよ」

 

「な、なに!?」

 

 アサシンは思わず目を剥いた。いままで、会話に加わらなかった彼は、アーチャーことヤン・ウェンリーが、ここまで自らの素性を明かしていると知らなかったのだ。しかし、誰の注意も引かなかった。千六百年後うんぬんというトンデモ発言に対して、むしろ当然の反応であったからだ。

 

「ああ、あなたには言っていなかったが、私は千六百年後の人間なんです。

 人間は宇宙に進出し、一万光年の範囲に活動を広げている。

 しかし、たかだか一万光年の範囲では、高等生命体は見つからなかったのでね」

 

 ランサーが投げやりに手を振った。

 

「さっぱりわからん。要するにどういうこった」

 

「つまり、私たちの時代でも、農作物や家畜は地球発祥のものだということです。

 食べ物や飲み物、服装だって現代とそんなには変わりません」

 

「そうだな。おまえの格好もそうだし、この前の晩飯や酒も知っていただろう。

 天の星から星へ、船で飛んでいるのに不思議なもんだ」

 

「別に不思議はありませんよ。

 人間が人間である以上、おいしいものや綺麗なものには目がない」

 

 ランサーはにやりと笑った。

 

「違いねえや」

 

「ええ、人間の大元は変わらないんです」 

 

 キャスターはカップを置くと、足を組み、椅子の背もたれに優美な肢体を預けた。

 

「そうね。人間の限界も変わらない。今でも人は老いや死から逃れられない」

 

 寺を本拠地にしていた彼女ならではの言葉だった。深い紫が漆黒に注がれた。時に菫に、時にトリカブトになる美しい瞳だった。

 

「貴方の時代もそうなのでしょう。

 アインツベルンの願いが叶えられると思って?

 セイバーの願いも同じ。聖杯の分を超えることよ。

 神を呼ぶことすらできぬのに、どうして時を変えられるかしら。

 大神ゼウスとて、父の時の神(クロノス)を殺すことはできなかったのに」

 

 アーチャーは空になったカップを、手の中で回した。

 

「死なない人間がいないように、滅びない国もまたありません。

 そりゃあ、当事者にとっては堪ったものではないし、紛れもない悲劇ですよ。

 しかし、歴史の中ではありふれた出来事なんです。

 国が滅んでも、また新たな国が生まれ、人間の歴史は続いていく」

 

「ずいぶんとあっさりしたものね」

 

 キャスターの言葉に彼は肩を竦めた。

 

「私は前者は書物で知っていました。

 後者については、身をもって体験しましたが、結論は変わりません。

 国が滅びても、そこで暮らす者すべてが死に絶えるわけではない。

 人が集まって国が生まれるのであって、国が人を生むのではないのだから。

 人がいる限り、また新たな国が生まれるのです。時には、滅びを苗床にして」

 

 もしもあの時、自分が同盟政府の陰謀のままに死んでいたら。国の形は残っていても、建国の理念を失った生ける屍でしかない。不自由惑星同盟とでもいうべきであり、それはヤンたちが守ろうとした国ではない。そんなことを考えながらの言葉だった。

 

 凛は、アーチャーの横顔を凝視した。よく見るとハンサムと言えなくもないけれど、線の細い平凡な顔を。彼を英雄たらしめるものは、その内側にあった。

 

 歴史を愛し、平和を希求し、人の可能性を信じる心と、一千万人を殺せる戦いの才能。その矛盾を抱えてなお、優しさと豊かな人間性を持ち続け、戦い抜いた激しさと厳しさだ。彼は、母国を深く愛していたのだろう。腐って生き長らえるなら、死んで新たな種の肥やしとなったほうがいいと思うほどに。

 

「セイバーに、自分の国を調べさせたのはそれでなの?」

 

 凛の問いに、アーチャーは悪戯がばれた子どもの表情になった。

 

「まあね。国が滅びるのは、誰か一人の責任ではないのさ。

 一人でどうにかできるのなら、そもそも滅びはしないわけだし。

 今の状況を知れば、少しは気が晴れるかと思って」

 

 ランサーことクー・フーリンは頷いた。

 

「なるほどな」

 

「その点、あなたは凄い。ただお独りで国を守り抜いたわけですから」

 

 ランサーは背もたれに身を沈め、嘆息した。

 

「俺の時はな。しかし、アルスターはこの世のどこにもねえ」

 

「しかし、あなたの伝説は、今も千六百年後も語り継がれている。

 こういったことこそが、真の不死ではありませんか?」

 

「小さい嬢ちゃんちのは贋物ってか?」

 

 アーチャーはにっこりと微笑んだ。

 

「千年前に失った魔法が本物かどうか、誰がどうやって証明するんです?」

 

 それは悪魔の証明だと、黒い悪魔が指摘する。

 

「あっ! てめえ、またえげつねぇことを考えてやがるな?」

 

 アサシンは遠い目をした。歴史に冠たる大英雄二人が、なんたる会話をしているのか。

 

「千年も前に失っても、アインツベルン家は今も存続しています。

 実のところ、魔法がなくてもまったく問題がないということではありませんか。

 もっとも、今回も失敗では、また暴発される恐れがある。

 キャスターとライダーにご協力いただきたいのは、宥めるための鼻薬ですよ」

 

 まだ未成年のマスターたちに、六十年の時間を。第六次までの遅延作戦、これこそがヤン・ウェンリーの本当の狙いだった。



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61:杯【フィール】

「六十年は、人の一生にとって実に長く貴重な時間です。

 今回のサーヴァントの多くは、その半分も生きていないでしょう」

 

 アーチャーもまた、六十年の半分を少し越えた時間しか持たなかった。静かな声が、凛とサーヴァントたちの心に沁みていく。

 

「人間のマスターらにいたっては、その三分の一も生きていないんです。

 私は、そんな兵士にも命令を下していたのだから、我ながら偽善だとは思います。

 しかし、この子たちは、我が国の兵士でもなければ、私の部下でもない。

 死ぬとわかっていることをさせられませんよ」

 

 凛はアーチャーの腕を引いた。

 

「どうしてよ! 停戦はできたじゃないの。

 まだ、怪しいのがいるかもしれないけど!」

 

 アサシンは必死で表情と声を押し殺した。ランサーが、眉を潜めたのにも気づかずに。

 

「天の杯、杯はフィール。アイリスフィールとイリヤスフィール。

 キャスターは、彼女たちをピュグマリオンの手になるものと教えてくれましたね」

 

 凛ははっとした。

 

「そういえばあんた、そんなこと言ったわね。ライダー戦の前よ。

 聖杯、いえ小聖杯は、英霊をエネルギーにした

 核融合炉のようなものじゃないかって!」

 

「ああ、十億度に達するプラズマを封じ込めるためには、

 強力な電磁場が必要だとも言ったよ。

 ちょうど、魔術を使った時のイリヤ君のような、ね」

 

 反応したのはランサーだった。

 

「あの公園の結界か!」

 

 アーチャーがイリヤの魔術行使に立ち会ったのは、その時だけだ。キャスターが呆れたような表情で呟く。

 

「あの状況で、よくも見ていたものだこと」

 

 聖杯戦争でアーチャーが体験したことへの考察は、一つ一つが聖杯探求の道しるべになっていた。

 

「あの時は、凛にはあれ以上の負担は掛けられなかった。

 士郎君には不可能だ。だからイリヤ君に頼んだんです。

 他意はありませんでしたよ、念のため」

 

「でしたよって、今は他意だらけってことか」

 

 彼は悪びれもせずに頷いた。椅子の上で片膝を立て、頬杖も突く。

 

「杯の名を持つ者が、すなわち聖杯の器そのもの。

 世界の壁を超えるほどのエネルギーを受け入れて、

 イリヤ君が無事とは考えにくい」

 

 かすれ声の問いが上がった。

 

「な、なぜ、あなたが知っている!?」

 

 四対の瞳が、赤い外套の青年に集中した。 

 

「いや、私は考えついただけだが、君は知っている(・・・・・)わけか。

 あなたが教えたのかな、キャスター?」

 

「いいえ、この男はただの門番よ。

 山門を触媒に、私が召喚したサーヴァントだわ」

 

 アサシンは、曖昧に口を開閉させることしかできなかった。ヤン・ウェンリーに対して、取り返しのつかない失策だった。黒い視線が銀灰の瞳に注がれる。

 

「まあ、君の正体は今は問題ではない。

 あの子の母が攫われて、出現したのは黄金の杯。

 しかしね、杯を奪うのに持ち主を攫う必要はないんだ」

 

 凛は震える唇を開いた。

 

「前回のキャスターの子どもの誘拐と同じね?」

 

「ああ。攫って殺して荷物を漁るより、最初の手間を省いたほうが手っ取り早い」

 

「あの子の母も器なら、その矛盾が解消できるというわけね」

 

 キャスターの指摘に、黒い瞳が伏せられた。

 

「そうです。そう考えれば、衛宮切嗣がセイバーとの接触を避けたのも、

 意味のないことではない。

 妻を生贄に捧げ、亡霊の願いを叶える気など毛頭なかったはずだ。

 絶対に、セイバーに感情移入するわけにはいかないからです」

 

 あんなに清冽な美少女が、国を救いたいと必死に強敵に挑むのだ。普通なら多少なりとも絆されるだろう。しかし、聖杯を十全に使うためには、余計な感傷を混入させるわけにはいかない。

 

「妻を犠牲にするなら、もっと大きな見返りを得なくてはならない。

 それが、聖杯戦争を含む、全ての争いの根絶ではないのでしょうか。

 根幹にあるのが、娘に母と同じ道を辿らせないことだ。

 私もその根幹には賛成します。あなたはいかがですか、キャスター?」

 

「あ、アーチャー……」

 

 凛はアーチャーの袖を握り締めた。それは、イリヤを器にさせないという意志表明に他ならなかった。この瞬間にも、同盟が決裂しかねない問い。いや、凛とアーチャーの命さえ危うい。

 

 キャスターは銀青の髪をかきあげた。現れた耳は魚の胸びれに似た形だ。母方の祖父、外洋の神オケアノスの血だろうか。船の王子に焦がれ、国を捨てた王女メディア。人魚姫と魔女、双方の原型だ。

 

「私もあの子を器にするのは反対よ」

 

 いつもは精悍な蒼と赤の従者が間の抜けた顔をするのに、女主人は皮肉な笑みを浮かべた。それさえも気品に溢れて美しかったが。

 

「あら、意外? 私の願いを叶えるには、あの子の家が持つ力が必要なのよ。

 アーチャーに言われて、私も少し調べてみたのだけれど、

 今の世は、受肉してめでたしめでたしとはいかないものなのね」

 

 美しい眉が寄り、菫の瞳に半ばまで銀の紗がかけられた。

 

「人を欺くのは容易いけれど、機械とやらには魔術では歯が立たないのですもの。

 このままでは、私はいるはずのない人間にしかなれない。

 隠れ潜んで暮らすなんて、受肉してもなんの意味もないわ」

 

 現実は人魚姫のようにはいかない。身元不明の美女を、王子様も世間も受け入れないだろう。

 

「ならば、私は実を選ぶ。

 あの子が器になり、命や意志を失っては駄目なのよ。 

 私への見返りも、たやすく反故にされてしまうでしょう。

 地位にしがみつく老人のやることは、いつでもどこでも変わらないのだから」

 

「ははあ……」

 

 大いに実感の篭った言葉であった。彼女の夫イアソンは、王位を得るためにアルゴー号で冒険をし、約束のとおりに金羊の毛皮を持ち帰ったが、王は譲位をしなかったのだ。

 

「私の功を恩に着てもらうには、あの子に無事に手柄を持ち帰ってもらわないと。

 もっと言うなら、あの子が当主になるのが望ましいわね。

 いいわ、薬を作りましょう」

 

「……毒殺は駄目ですよ」

 

 念を押すアーチャーに、キャスターは意味ありげに微笑んだ。

 

「安心なさいな。神代の魔術師の誇りにかけて、腕によりをかけて作るわよ」

 

 神秘が薄れた今、神の血を引かぬ者が飲んでも平気かどうかは保証しないけれど。むしろ効きすぎるかしら? でも、この国の格言には大は小を兼ねるとあるし、まあいいでしょう。心の副音声を伏せて、キャスターは請け負った。

 

「見様見真似の王女たちとは違うわ。

 私がやるからには、ちゃんと若返らせるわよ。

 あの山羊のように、老いぼれも子山羊のようになるでしょうよ」

 

 黒髪の青年は、上目遣いで美しき魔女を見つめた。

 

「その一言で、逆にものすごく不安になってきましたよ」

 

 メディアは、夫との約束を果たさぬ王に業を煮やし、その娘たちに若返りの魔術を伝授する。老いた山羊を釜茹でにし、山羊はみごとに若返った。王女たちは喜び勇んでその魔術を真似た。ただし、上っ面のみを。当然、成功するはずもなく、王は煮られて死んでしまった。

 

 それを踏まえた喩えだが、とても引っかかるものがある。食肉用の動物なら若い方がいいが、人間はそうではない。年齢に培われた中身が大事なのだが……。

 

「ならば、アインツベルンの当主に告げなさいな。私はコルキスの王女だと」

 

 キャスターの素性を知った上で、その薬をどうするのか。行動のいかんによって、現当主の器量を測る心算のようだ。

 

「なるほどね。そのあたりの交渉は、あなたにお任せします。

 ただし、今後は過剰な報復はしないでください。

 あなたが人として生きていくならね。現代では、人間の価値は平等ですから」

 

 アーチャーはそう言うと、玩んでいたカップをテーブルに戻した。そして無言のアサシンに、晴れ渡った夜空の色の瞳を向ける。

 

「では、最後になって申し訳ないが、あなたにも伺いましょう。

 アサシン、でいいのかな? あなたは聖杯に何を望みますか?」

 

 虚を衝かれたアサシンの目が丸くなり、本来の形を明らかにする。凛がわずかに眉を顰めた。

 

「――何も。私には、聖杯に託す願いはない」

 

 アサシンはそう答えた。彼の望みが別にあるのは、偽りのないことだったので。

 

「……ありがとう。助かります。

 じゃあ、凛、私は士郎君のところに本を借りに行ってくるよ」

 

 凛は、立ち上がりかけたヤンの黒い軍服の裾をはっしと握り締めた。

 

「ちょっと待ちなさい。よりによって、こんな話のあとで!?」

 

 ヤンは困ったような顔で、凛を見下ろした。

 

「時間は貴重なんだ。あと一週間強しかないんだよ」

 

「そもそも、なんで士郎に本を頼んだのよ」

 

「だって、君の貸出冊数の上限まで借りているじゃないか」

 

 凛は、椅子から転げ落ちないようにするのがやっとだった。アサシンも鉄面皮を保つのに必死であった。遥か未来の宇宙最高峰の智将が、なんて小市民的な……。実のところ、ヤンも他人様の幻想を壊して回っているのだった。

 

「そ、そんなことで……。本ぐらい買ってあげるわよ!

 帰り道に言ってくれればよかったじゃない。マウント深山にも本屋はあるんだから」

 

 しかし、敵もさる者、筋金入りの本の虫。

 

「私が必要だった本はデパートの本屋にはなかった。

 あれより小さな本屋には、まず置いていないと思う」

 

「う……」

 

 なんと、初日にチェック済みだった。

 

「だから、パソコンを導入してくれって頼んだのに」

 

 アサシンは無表情を装いつつ、肘掛けを握りしめて身を支えた。さもなくば、床の深紅の絨毯に同化してしまったことだろう。インターネットで調べる気か、はたまたネット通販か。秘匿を旨とする魔術儀式のはずが、どうしてこうなったのか。

   

「ああ、もう、わかったわよ! パソコンでもファックスでも持って来いよ!

 今から電気屋に注文するから! それでいいんでしょう!?」

 

 ああ、ここは絶対に自分の過去の世界ではない。アサシンは衝撃とともに確信した。あの機械音痴の守銭奴が、サーヴァントの求めに身銭を切って応じるなんて、断じてない、ありえない。

 

「じゃあ、ファックスはプリンター複合のにしてほしいな」

 

「はいはい! なんだっけ、インターネット回線も引くのよね?」

 

「そうだよ。今から頼んでも、明日になってしまう。

 だからちょっと行ってくるよ。

 ランサー、すみませんが着替えてくれませんか? 一緒に行きましょう」

 

「俺もか? えらく急ぐじゃねえか」

 

「教会に依頼した停戦の取りまとめの締め切りが今日です。

 第八の陣営が彼らなら、それにかこつけて訪問するかもしれない。

 遠坂の工房や病院を攻めるより、私ならば衛宮家を狙う」

 

 またしても言葉の爆弾が炸裂し、アサシンは肘掛けを握り締め、必死で叫びを飲み込んだ。

 

「なるほどな。途中でおまえが狙われるかも知れねえってわけか」

 

「それもありますが、あなたは冬木の地理に一番詳しいサーヴァントでしょう?

 最短距離ではなく、一番人通りの多い道を行きたいんですよ」

 

 アーチャーは髪をかき回し、決まり悪げに訴えた。

 

「私は方向音痴でして……」

 

 ランサーはげんなりとした顔で立ち上がった。

 

「……仕方がねえな」

 

 凛たちが呆気に取られているうちに、青年ふたりは身支度をして出かけてしまった。立春を過ぎ、長くなってきた日も薄暮に染まる時間だ。慎重なアーチャーは、これまで夜の外出を避けていたのに。

 

「そんなに急ぐのかしら……」

 

「霊体化して行けばよかったでしょうに」

 

「本を又借りしてくるつもりなのよ。帰りは実体化しないと本が運べない。

 でも、来た形跡のない人間が、家から出てきたら変でしょう」

 

 アーチャーと士郎は、墓参りの時に対面し、夕食にはランサーも加わっている。年齢の近い男同士、ちょっと立ち寄っても不自然ではない。

 

「アーチャーは私の遠縁ってことにしてあるの。

 関東出身で京都在住の柳井万里(やないばんり)

 大学二年生の二十歳、歴史学科に所属。

 ランサーはその友人の留学生。建築士の卵で、江戸、明治の日本の建物を研究中。

 そういう設定だから」

 

 キャスターは呆れたように首を振った。

 

「また、随分と細かいことね」

 

 しかし、これは人ごとではなかったのである。立ち上がった凛が、隣室へと姿を消し、再び客間に戻った時にはレポート用紙の束を手にしていた。

 

「キャスターは間桐臓硯の遠い親戚の、ロシア系東欧人がルーツのドイツ人。

 あのジジイに頼まれて、住み込みで桜の家庭教師に来た。

 愛称がキャスター、本名はクリスティーナ、名字はゾーリンゲンよ。

 はい、頑張って覚えてちょうだい」

 

 列挙された人物設定と、突きつけられた脚本にキャスターは目を白黒させた。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい、お嬢ちゃん。何なの、これは!?」

 

「架空の人間一人をでっち上げるのよ。

 スパイ任務のつもりでやらないとボロが出るって、アーチャーがね。

 熟読して頭に叩き込んで」

 

 言うだけ言うと、凛は赤い外套の青年に向き直った。

 

「悪いけど、アサシンの分までは作っていないんですって」

 

 彼は眉を寄せ瞼を閉じると、眉間を揉みしだいた。苦々しげに反論する。

 

「それは幸いだな。戦いならまだしも、詐欺の片棒を担ぐのはごめんこうむる」

 

「でも、あなたの淹れた紅茶はとても美味しかったわ。

 これなら、イリヤを連れ戻しにきた執事役もいいかもね」

 

「とんだ三文芝居だ」

 

 波打つ黒髪の美少女は、仄かな笑みを浮かべた。  

 

「だってあなた、イリヤを知っているんでしょう?」

 

 冴え冴えとした瞳が宝石の剣と化し、鋼に一撃で切り込みを入れる。

 

「いいえ、質問を変えましょうか。ねえ、アサシン。……あなたは、誰?」

 

*****

 

 夕暮れに背中を追いかけられながら、坂道を下る青年が二人。背の高い方が、頭半分下にある黒髪に問い掛けた。

 

「よかったのかよ。嬢ちゃんを置いてきて。あの野郎もとっちめずに」

 

「とっちめる必要はありませんよ。該当者は一人しかいない。

 凛ならそれに気付くはずだ」

 

 ランサーは顎をさすった。

 

「はーん、そういうわけか」

 

 ランサーの反応に、ヤンは首を傾げた。

 

「どういうわけですか?」

 

「俺はアサシンと一戦交えたんだがな、おかしな戦い方をする奴だった。

 得物は黒白一対の短刀のはずなんだが……」

 

「はず?」

 

「何本も出してきやがる。十七ばかりもはたき落としてやったんだがな。

 言っておくが、手元に戻ってくる宝具ってわけじゃねえ。

 そこらに落っこちたまま、次の瞬間には剣を手にしている」

 

「それはおかしい。宝具が何本もあるのも変ですが、人間の体力には限りがある」

 

 ヤンの時代の武器は大量生産品だが、白兵戦員の装備は、戦斧とナイフ各一丁ずつが基本だ。

 

「ああ、山と剣を持ち歩いても、重くて邪魔なばかりだからな。

 剣を替える前に殺られるだろうよ。――普通の剣なら」

 

 クー・フーリンの武器で最も有名なのは槍だが、光の剣の使い手でもある。戦場を駆けた者の言葉には重みがあった。

 

「だが、重さのない剣ならばどうだ? 

 サーヴァントでもなしに、魔力で剣を作れるのなら」

 

「一般の物理法則を外れることです。……まさに魔法だ」

 

「ああ、飛びきりの変わり種の魔術師だ。この世に二人とはいまい」

 

「では、あなたは一人は知っているわけだ。アサシン以外に」

 

 打てば響くようなアーチャーの切り返しに、ランサーはにやりと笑った。

 

「ああ、そういうわけだ。おまえはどうして気がついた?」

 

「彼は、イリヤ君が器だということを知っていました」

 

 黒い睫毛が伏せられる。

 

「アインツベルンは、孤高の魔術の大家です。

 イリヤ君が家の外に出たのは、十八年の人生でこれが初めてだそうです」

 

 ランサーの瞳が瞠られた。

 

「は? ちっこい嬢ちゃんは、坊主たちより年上なのかよ」

 

 アーチャーは頷いた。

 

「十年前に別れた父を覚えているには、ある程度の年齢でないと無理です。

 私は五歳の時に母を亡くしましたが、ほとんど覚えていません。

 最初に会った時から、あの子が外見より年上だというのは気付いていたし、

 彼女自身に教えてもらっていました」

 

「それで?」

 

「イリヤ君は家人以外と接触がない。

 彼女の体のことを知りうる異性は、ごく限られるのです。

 彼女の父と、アインツベルンの当主と、もうひとりだけに可能性がある。

 アサシンは彼女の父とは別人だ」

 

 ランサーは頷いた。凛が言うには、衛宮切嗣のパスポート写真は、黒髪に黒目、アーチャーに似ていなくもない風貌だったそうだ。

 

「そして、女で子どもを戦地に追いやるジジイが、英霊の座に登れるはずもねえ」

 

「ならば一人しかいない」

 

「……だな」

 

 アーチャーは思考によって、ランサーは情報によって、アサシンの正体に思い至ったのである。

 

 ――そして、双方の一部と、女の勘を持つ遠坂凛が気付かぬはずはないのだ。



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62:解名

 一瞬の躊躇。眉間の皺が伸び、潔癖な眉が、灰色の目が本来の形を取り戻す。すぐに皮肉っぽい笑みの形に変じたが。

 

「サーヴァントの真名を尋ねるのはルール違反だろう。アーチャーのマスターよ」

 

「ああ、ごめんなさい。愚問だったわね」

 

 凛はにっこりと微笑むと、テーブル越しにアサシンに歩み寄った。

 

「訊くんじゃなくて、こう言えばよかったわ。

 何やってんの、……士郎?」

 

「何を言うのかと思えば……馬鹿馬鹿しい。人違いだ」

 

「あら、そういう時はこう言わなくちゃ駄目じゃない。

『そんな人間は知らない』って」

 

 アサシンは表情を消した。いや、姿も消したかったが叶わなかった。遠坂家の堅固な結界は、自らのサーヴァント以外の霊体を拒む。瞬きするほどの逡巡を、凛は繊手を伸ばして掴み取る。

 

「な、なにをするの!?」

 

 神代の魔女が仰天するのも無理はない。華奢な美少女が、筋骨隆々たる偉丈夫を、右手一本で椅子から引き剥がしたのだ。八極拳に身体強化の魔術を上乗せした、現代の魔女ならではの荒業である。二人の膝がテーブルにぶつかり、ティーカップが受け皿に転がった。

 

 凛の鼻先に、白い短刀が突きつけられた。

 

「手を離してもらおうか。招待主にあるまじき無作法だろう」

 

 しかし、この異端の投影魔術に触れていた凛にとって、最悪の手段であった。 

 

「弟子の分際で、わたしを誤魔化せるとでも思ってんの!」

 

 胸郭を殴りつけるような一喝に、アサシンは気を呑まれた。ああ、これも忘れてはいない。激しくも美しい、錬鉄を鍛えた炎の魔女。

 

 左手の魔術刻印が青白い光を放ち、奔騰した魔力が長い黒髪を激しく揺らめかせた。紫の視線が赤いセーターと外套を忙しなく行き来し、おろおろと手を上げる。

 

「ちょ、ちょっと、落ち着きなさいな! まさか、これがあの坊やだと言うの?」

 

 凛はアサシンの襟元を締め上げながら頷いた。

 

「ええ、そうよ。大人の顔から、子ども時代の写真を探すのは難しい。

 でも逆は簡単なのよ!」

 

 右手でアサシンの顔を引き寄せ、魔力を纏った左手を秀でた額の上、かきあげられた銀髪に突っ込む。クラススキルによる対魔力の恩恵を持たぬアサシンに、抗う術はなかった。

 

 キャスターは目を丸くし、口許を手で覆った。 

 

「まあ……」

 

 髪が額に落ちて呆然とした顔は、肌も髪も瞳すら色合いを異にしていたけれど、少年の頃の面影を色濃く残していた。

 

「名もなき守護者とは聞いたけれど、お前も未来の英雄だったのね」

 

 アサシン、いやエミヤシロウは奥歯を噛み締めた。磨耗しかけた記憶の中の遠坂凛と、赤い外套のアーチャーは、息のあった主従であった。いや、あるいは分霊の記録なのかもしれないが、その境界は曖昧模糊としている。『彼女』は、リタイヤした従者の真名を聞けずじまいだった。

 

 この世界も同じだろうと思い込んでいたのは過ちだった。赤きアーチャーを召喚した遠坂凛は、従者と先に触れあい、衛宮士郎とは紆余曲折を経て同盟を結んだ。だから気付かなかった。

 

 黒きアーチャーを召喚した遠坂凛は、衛宮士郎とすぐに同盟を結んだ。何度も語らい、その喜怒哀楽に、表情の変化に触れた。だから気付いた。衛宮士郎とエミヤシロウの二人に。

 

「守護者、ですって……!?」

 

 それは人間の集合意識体、アラヤの尖兵。世界を滅ぼす事象を、全てを殲滅することで消し去るのだ。百のために一を切り捨てる存在と言えよう。

 

 全てを救う正義の味方になりたいという、衛宮士郎の理想から最も遠いものではないか。

 

 高い功績をもつ英雄が、守護者となることはない。英雄には足りぬ者に、世界が伸ばす誘惑の手。握り返した者は英雄となり、死後には世界を守るために頤使(いし)される。

 

「この馬鹿! こんな姿になって、何やってんのよ……!」

 

 凛の問いにエミヤは吹き出しかけた。翡翠の瞳に険が籠もる。

 

「なにがおかしいのかしら?」

 

 エミヤの胸元を握り締めた左手が、再び剣呑な光を帯び始める。

 

「いや、……まさに賢者の言だと思ったまでさ。

 私が、いや、俺が馬鹿だったからだ」

 

 凛は項垂れ、逞しい胸板に力なく額を寄せた。

 

「愚行でも、行動にはその人なりの理由があるって、アーチャーが言ったわ。

 あんたの人生なんだし、それももう終わってるんでしょう。

 ここにサーヴァントとしているってことは」

 

「遠坂……」

 

「わたしには、あんたを非難する権利はないけれどね。

 あんたは衛宮士郎だけど、わたしが知ってる士郎とは違うんだもの」

 

「どうして、そう言い切れる!?」

 

「だって、ここの士郎は家族問題で手一杯よ。

 イリヤのこと、おとうさんのこと、本当の家族のこと。

 あんたのようになれるとは思えないわ」

 

 エミヤは目を瞠った。彼はひたすらに養父の理想を追った。忘れてしまった実の家族のことに蓋をしたまま。

 

「あれが、実の家族を、だと……」

 

「というより、イリヤを認知させるための副産物なんだけどね……」

 

 逞しい上体がよろめいた。言うに事欠いて『認知』。身に覚えのないことのない男にとって、ざくりとくる単語である。

 

「あんたのおとうさんの過去を、イリヤと一緒に追ってみなさいって、

 アーチャーが勧めたのよ。今はもう、けっこう仲のいい兄妹よ」

 

 アサシンの顎が落ちた。やっぱり士郎だ。凛は悲しみを込めて、遥かに位置が高くなった顔を見上げた。魔術による変色。目だけではなく、髪も、肌も。こんな姿になるまで、限界を超えて魔術を行使したに違いない。

 

「ここの士郎はイリヤを置いて、限界を超えるような戦いにはきっと行けない。

 あんたは、なくしてしまったの?」

 

 エミヤは視線を逸らし、口を引き結んだ。これが、ヤン・ウェンリーの弟子になるということなのか。

 

「ねえ、並行世界の衛宮士郎。そういうことなんでしょう?」

 

 キャスターが右手の擬似令呪に目をやり、凛の言葉に頷く。

 

「なるほど、筋が通っているわね。

 英霊の座は世界の外、時の輪から切り離されている。

 千六百年後の英雄が呼べたのなら、数十年先の英雄が来ても不思議はないわ。

 真名を名乗らず、聖杯に問うてもこの男のような英雄はいない。

 いないのも道理だわ」

 

 そして溜め息を吐いた。

 

「山門が触媒では、精々サーヴァントを擬した亡霊が呼べるぐらいなのに、

 存外に格のある、英霊といっていい者が来たと思ったら……。

 あの赤毛の坊やが、どうやったらこんなにむくつけき男に育つのかしら?」

 

 エミヤには、キャスターの慨嘆に反応する余裕などなかった。

 

「俺は、自らの世界には召喚されないと?

 俺が経験した聖杯戦争では、遠坂のアーチャーはヤン提督ではなかった。

 赤い外套に、褐色の肌、銀髪の大男。俺自身だった!」

 

「その一回が、最初で最後の奇蹟だったのかもね」

 

 ずっと高い位置になった瞳を見上げて、凛は静かに言った。  

 

「それだって、あんたの異能を世界が欲し、最初に伸ばした手なのかもしれない。

 あんたの投影は、魔法に近いものだもの」

 

「そんな、馬鹿な……」

 

「もっとも、確かめようもないことね。

 あんたの世界のわたしが、何をやっていたのかと思うと悔しいわ」

 

「いや……君は、違うな、俺の知ってる遠坂も、俺を止めてくれようとしたよ。

 聞かなかったのは俺だ。じいさんの理想に進むことしか考えなかった」

 

 凛はむすりとした。

 

「わたしだって、アーチャーに言われなかったらそうなっていたと思うわよ。

 でも、誰かに言われたぐらいで、簡単に考えを変えられるなら

 苦労なんてしないのよね。 

 あいつだってそうだもの」

 

 夢で見る黒髪のアーチャーの人生は、不本意と後悔の連続だった。父を亡くし、家を失い、学費目当てで入った軍で、思いもかけない活躍をした。ごく平凡で善良な青年の中に、稀世の戦争の才が眠っていたのだ。人を殺すたびに、高まっていく名将としての声望。平和を願う心と反するその矛盾。

 

 しかし凛には、彼の生を愚かだとは思えなかった。間違っていたとも。歴史の大河に流されながら、生を閉じるまで抗った。このエミヤシロウも同じだ。世界が契約するほどの高みへと至ったのだから。近代兵器のせいで、英雄が生まれにくい現代とその先のどこかで。

 

 エミヤは面食らった。やけに理性的だ。ヤン・ウェンリーの影響だろうか。彼の知る遠坂凛ならば、詰問から糾弾、宝石強化の八極拳というコースだっただろう。

 

「と、遠坂?」

 

「あんたもそうなんでしょう。

 譲れぬ思いに、必死に努力をしたんでしょう。

 そんな姿になるまで、理想を追ったんでしょう」

 

「それが間違いだったんだ。

 世界を救うということは、君が言ったとおりのことだった」

 

「それはどっちの遠坂凛?」

 

 エミヤは言葉に詰まった。深い翠が灰色を包み込む。

 

「あんたは聖杯への望みはないと言ったわね。 

 でも、召喚に応じたのは、聖杯戦争には望みがあったということじゃないの?

 教えてちょうだい。士郎が本当に望んでいることを」

 

*****

 

 アーチャーとランサーは、少し遠回りをして衛宮家に到着した。呼び鈴を鳴らすと、出てきたのはセラだった。藤村大河が夕食に来ないのは、彼女が防波堤になっていたからだろう。

 

 アーチャーはぺこりと頭を下げた。

 

「こんばんは。夕食時にお邪魔して、申し訳ありません。

 士郎君に頼んでおいた本を借りに来たんですが……」

 

「あの、それが……。皆様は土蔵にいらっしゃいまして」

 

「え?」

 

 二人の青年は顔を見合わせた。

 

「なかなか調べ物が進まないのだそうです。

 セイバーの触媒を探して、お考えになるとおっしゃいまして」

 

「ああ、士郎君の怪我が治ったのも、セイバーが召喚されたのも土蔵でしたからね」

 

「アーチャー様たちも、どうかお知恵を貸してくださいませ」

 

 セラに促されて、二人は土蔵に回ることにした。

 

「失礼するよ……うわぁっ!?」

 

 土蔵を覗き込んで、後ずさったアーチャーの後頭部が、ランサーの肩口に当たった。歴戦のクー・フーリンは、アーチャーの頭突きぐらいでは小揺るぎもしなかったが、不平の呟きをを漏らす。

 

「なんだよ……うおっ!」

 

 だが、続いて頭を巡らせたランサーも、似たような叫びを上げることになった。バーサーカーが斧剣を振りかぶり、今しも振り下ろそうとしているところだったのだ。 

 

「よ、よかった! 

 た、頼む、アーチャーとランサー、イリヤを止めてくれ!」

 

 腰を抜かしかけて懇願するのは、家主の衛宮士郎だった。

 

「おいおいおい! これは何の騒ぎだ!?」

 

 膨れっ面で返答したのは、バーサーカーのマスターだ。

 

「だって、セイバーの触媒がどこにもないんだもん!

 あとは床下しかないの」

 

 アーチャーはイリヤをなだめにかかった。

 

「まあまあ、ちょっと待ちなさい。小さなものかも知れないだろう」

 

「そんなことないわ。触媒は、セイバーの剣のサヤよ。

 キリツグがセイバーを呼んだときに、お爺さまが用意したんだもの」

 

「でも、割れたり、壊れたりした破片かもしれないよ。

 もしも、完全な形で床下にあるとしても、

 バーサーカーが床を壊したら同じことになってしまう」

 

 金の髪が左右に振られた。

 

「私の鞘は不壊のものです。天井にもないということはやはり……。

 バーサーカーが壊すのがいけないならば、私が斬ります」

 

 青い光の靄が立ち上り、眦を決したセイバーが、武装を編もうとした。

 

「ああっ! セイバーまで! お、落ち着け、落ち着いてくれ!

 俺はこの家にずっと住んでるけど、土蔵の床を掘ったことなんてないぞ」

 

 士郎はようよう反論を思いついた。

 

「この床下に鞘を埋めるのは、重機なんかを入れないと無理だ。

 俺、そんな覚えはないんだ!」

 

「君が学校に言っている間はどうなんだい?」

 

「それも無理だ。うちの門は車も入れない」

 

 士郎の言うとおりで、イリヤのリムジンは塀の外の駐車場に置いてある。

 

「手作業だと、俺が学校に行ってる間ぐらいじゃ終わらないぞ。

 ……じいさんが隠したなら、俺が小学生の時だからさ」

 

「シロウ……」

 

 その言葉に含まれた哀切に、セイバーを包んだ光が立ち消えた。だが、衛宮家の事情に詳しくないがゆえに、冷静な判断ができる者がいた。

 

「鞘だと? それだと、このぐらいの長さか?」

 

 首を捻ったランサーが、両手を軽く広げて見せた。セイバーは無言で頷くしかなかった。白兵戦の名手は、見えざる剣の長さをほぼ正確に把握していたからだ。 

 

「ところでな、ちっこい嬢ちゃんの親父さんとお袋さんは、

 どのくらいの背格好なんだ?」

 

 セイバーとイリヤは顔を見合わせ、記憶が鮮明なほうが答えた。

 

「キリツグは、ちょうどアーチャーぐらいの体格でした。

 アイリスフィールの背は、だいたいリズぐらいで、

 体つきはもう少し細身でしたか……」

 

「リズ? ああ、メイドの胸のでかい方か。

 ってこたあ、アーチャーよりは背が低くて細いってことだな。

 アーチャーよ、ちょいと前に出ろ」

 

 首を傾げたアーチャーが、輪の中心に足を進める。

 

「こいつぐらいの体格の男が、この長さの鞘を持つとする」

 

 ランサーの開いた手は、上が肩に置かれ、下が腰の下まで届いた。

 

「で、腰からさげるとこうなる」

 

 腰の上から膝を越え、上下が体の厚みから斜めに突き出す。

 

「女なら余計に目立つぜ。もっと身幅が狭くて、背が低いんだからな。

 服によっては隠せるかも知れんが、肩から吊ると座れねえ。

 いくらなんでも、セイバーに隠してはおけまい」

 

 実物大のモデルで示したことで、新たな疑問が沸き起こった。一同は当惑した顔を見合わせた。

 

「あ、そっか。じいさんとイリヤの母さん、両方が持ち歩いてたんだっけ」

 

 士郎はランサーの手の間隔をじっと見た。

 

「長傘ぐらいあるな。どうやって隠してたんだろ?」

 

 セイバーは首を振った。

 

「私は、失った鞘が触媒とは知りませんでしたから……。

 それに、アイリスフィールは優れた魔術師でした。

 治癒魔術だと説明されて、不審にも思いませんでした」

 

 アーチャーは髪をかき回した。

 

「ああ、それじゃあ無理もないか」

 

 彼自身は目撃していないが、凛の蘇生の大魔術は、己がサーヴァントから聞いている。

 

「家捜しするからには違うと思うが、

 ひょっとして、セイバーの鞘も見えないものなのかい?

 あるいは、衛宮夫妻がそういう魔術を鞘に施したのかもしれないが」

 

 再び振られる、結い上げられた黄金の髪。

 

「いいえ、私の剣が見えぬのは、失くした鞘の代わりの魔術なのです。

 我が剣の鞘は、あらゆるものから身を守る最高の守護。

 たとえ魔法でも、見えなくすることはできません」

 

 少年少女と青年達の若々しい眉間に皺が増えた。変わらないのはバーサーカーぐらいだ。イリヤの忠実な従者は、斧剣を同じ角度で保持して待機中である。

 

「もう、どういうことなの!?」

 

 今にもやっちゃえと叫びそうなイリヤに、ランサーが手を上げた。

 

「あのよ、この土蔵で嬢ちゃんの捜し物を手伝ったが、

 ここでは俺のルーンが反応しなかったよな」

 

「ここでは?」

 

 傾げられる黒髪をよそに、蒼と金と銀が赤毛へと向きを変えた。 

 

「坊主に反応したんだ。こいつの荷物ではなく、服でもねえ。

 坊主の身体にくっついた」

 

「ま、まさか、シロウの体の中に……」

 

 目を瞠るセイバーに、士郎とアーチャーの目と口はぽかりと開いた。

 

「いっ、いや、ちょっと待ってくれよ。

 俺、レントゲンを何度も撮ってるけど、そんなの写ってたことないから!」

 

「それ以前に、一メートルもある異物を体内に入れたら、人間生きていけないよ。

 七歳の子じゃ、首から足先までの長さじゃないか」

 

 アーチャーの冷静な反論に、士郎はその図を想像してしまった。  

 

「それじゃ俺、ひらきになっちまう……」

 

「きゃー、いやーっ! シロウのばか!」

 

 具体的過ぎる比喩に、先日の食卓で既知のイリヤは抗議し、サーヴァントの青年らは目を逸らして顔に手をやった。聖杯の加護あるいは悪意により、『ひらき』の知識が送られてきたからだ。

 

「士郎君、その表現はやめてくれないかな。

 まあ、普通ならそのとおりになるだろうけどねぇ……」

 

「アーチャーもよ!」

 

 イリヤは憤然として胸元で拳を握り締めた。ランサーは首を振る。

 

「ああ、そうなっちゃいねえぜ。

 坊主の身体には、でかい傷跡どころか火傷の痕一つねえ。 

 なあ、セイバー。貴様の鞘とやらは、どんな代物なんだ?」

 

「私の鞘は……絶対の守護と癒しをもたらす不壊の鞘。

 余人には使えないはず……」

 

 ヤンは手を打った。

 

「おそらく、それだ」

 

 セイバーは瞳に疑問符を浮かべ、アーチャーを仰ぎ見た。

 

「なにがです!?」

 

「私たちが人ではないからだよ。

 サーヴァントは、マスターの魔力で維持された存在だ。

 私たちを使えるんだから、宝具を使えたって不思議じゃない。

 だって、我々の武器とは違って、君の鞘には実体があるんだから」

 

 宝具の担い手たるサーヴァントの上位存在がマスター。実物がある彼女の鞘を、限定的に使用できるかもしれない。

 

「絶対の守護は無理でも、治癒の機能は動いているんじゃないだろうか」

 

「……ならば、ありうることです。

 私の鞘は魔力で展開し、光の粒子の防壁となる。だから……」

 

 アーチャーは眉を下げ、士郎は寄せて顔を見合わせた。

 

「じゃあ、士郎君の体内に、粒子化した鞘があるのかな?」

 

「だったらどうしよう……。セイバーの時代に持ち帰れないぞ……」 

 

 アーチャーとランサーの瞳が瞬いた。

 

「持ち帰る?」

 

「セイバーの時代って、なんだそりゃ?」

 

 小柄な美少女は躊躇いがちに顔を上げ、青年達に視線を合わせた。

 

「私の真名は、アルトリア・ペンドラゴン。

 カムランの丘で死に瀕し、聖杯の入手を条件に世界と契約した者です。

 ……私はまだ生きている」

 

「はぁっ!? 生きているだと!?」

 

「……ペンドラゴン? アルトリア……男性名だとアルトリウス。

 ま、まさか、セイバー、君はアーサー王なのかい!?」 

 

 槍と弓の騎士からの問いに、剣の騎士は口を閉ざして頷いた。後者の知識と鋭さに、慄然としながら。

 

 アーチャーは、へたへたとしゃがみ込んで頭を抱えた。

 

「……わからないわけだ……」



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63:眠れる龍

本話は筆者による独自設定を多く含みます。


 アーサー王伝説のすべてを網羅している人間は、恐らくいない。それほどに、バリエーションに富んだ話なのである。しかし、実は女だったという異説は、アーチャーは聞いたこともない。ということは、ばれないように男装をしていたはずで、こんな豪奢なドレスに、髪を美しく結い上げた姿ではなかっただろう。

 

「君がどの時代のどこの国の英雄なのか、私にはさっぱり分からなかった。

 でも、君自身が探すなら、すぐに見つかると思ったんだよ」

 

 服装は中世末期だが、様々な言動からは十字軍以前のヨーロッパ辺境の人間だと思われた。キリスト教への信仰が薄いこと、食事が雑だと言ったこと。だから、彼女が騎士で一国の君主だというのが、大きな疑問だったのである。その時代は、まだ女子相続は行なわれなかったからだ。

 

 もっとも、他にやらなければならないことが多すぎて、アーチャーもセイバーの素性を探るのは止めてしまった。ランサーやライダー、アサシンの格好を目の当たりにし、

ギリシャの大英雄ヘラクレスはバーサーカー。せめて、セイバーぐらいは美しい夢でいてほしかったということもある。

 

 アーチャーは溜息を吐きながら立ち上がると、困りきった顔で腕組みをした。

 

「まさか、セイバーの正体がアーサー王だったとはね……。

 たしかにそれじゃあ、この世界がセイバーの世界の未来かどうか、

 判断ができないよなあ……」

 

 金銀赤銅の頭が一斉に頷いた。

 

「うん、そうなんだ。でも、セイバーはまだ生きてるって言うんだ。

 だから、鞘を持って帰れるなら、まだ方法があるかも知れないと思ってさ。

 世界との契約なんて、ちょっと怪しすぎるっていうか……」

 

「そうよ。ほんとうに世界が助けてくれるなら、

 なぜセイバーのケガを治してくれないの?」

 

 剣の主従は目と口で丸を作り、バーサーカーのマスターに向き直った。

 

「ほんとうのやりなおしは、そういうことだと思うの。

 わたしはシロウを殺しちゃうところだった。 

 シロウのケガを、セイバーのサヤが治してくれたから、

 こうやってやりなおすことができたんだわ」

 

 白銀の頭が深々と下げられる。

 

「だから、セイバーもありがとう。アーチャーもね。

 ねえ、セイバー、おねがいを取り消せないの?

 サヤがあれば、やりなおしができない?」

  

「……わかりません。世界から誘いを受けるしか、道はないと思っていた……」

 

 項垂れる従者の背を、士郎は労わるように叩いた。

 

「や、無理もないと思う。

 セイバーは大怪我してるんだし、そこにうまいこと言われたら信じちまうよ」

 

 青年ふたりは顔を見合わせた。

 

「また、ややこしいことになってきやがったな……」

 

 猛者との全力の戦いを望んで召喚されたランサーは、国を救いたいと願うセイバーに首を傾げるところがあったのだ。孤軍奮戦して守った故国は、この世のどこにもない。復活を願うには時が進みすぎている。

 

 しかし、セイバーは違うのだという。彼女の願いは、彼女本体の現在、すなわち過去にある。

 

「こりゃ、アーチャーの言っていたタイムなんたらってやつか?」

 

「ええ、そんな気もします。でも、確証のとりようもありません。

 当面はできることからやりましょう」

 

 あっさりと話題を転換したアーチャーに、色とりどりの視線が集中する。

 

「大まかに課題は三点。

 一点目は、聖杯の調査の準備を進める。

 みんなの願いに、折りあいが付けられないかを含めてね。

 二点目は、第八の陣営への警戒だ。

 最後が、士郎君の体内にあるかもしれない鞘。こいつをどうにかできないか。

 とりあえず、上げた順から始めようと思う」

 

 ヤンは溜め息をついて髪をかきまわした。

 

「士郎君、借りてきてもらった本をちょっと貸してもらえるかい」

 

「ああ、いいぞ。冬木の地形図と断層の本だよな。

 ところで、どうして断層の本がいるのさ?」

 

「私は魔術を知らないから、霊脈とは何ぞやと思ってね。

 この街の霊地は、柳洞寺に遠坂、間桐の両家と言峰教会だったっけ」

 

 士郎は曖昧に頷いた。

 

「ああ、そうなんだってな」

 

「みんな高台にあるだろう。

 水は高きから低きに至るが、低きから高きに至るのが断層による地形の隆起だ」

 

「う、ううん?」

 

「つまり、屈指の霊地というのは活断層の巣ではないのかということさ。

 安易に大聖杯をどうにかすると、横取りしていたエネルギーが元に戻る恐れがある」

 

 ヨーロッパ西北部の出身者達が首を傾げる中で、琥珀だけが深刻な色に染まった。

 

「じゃ、じゃあ、活断層にエネルギーが戻るってことか!?」

 

「どうしたの、シロウ。カツダンソウってなに?」

 

 ヤンと士郎の恐れを共有できるものは、この場ではバーサーカーのみだっただろう。ドイツ、イギリス、アイルランドは、世界で最も安定した陸地だ。

 

「……地面の下の、地震が起きる場所のことだ。冬木に地震が!?」

 

 アーチャーが頷いた。

 

「今回の聖杯戦争のいかんによっては、その恐れもある。

 だから、キャスターに調べてもらおうということだよ。

 そのためにも、大聖杯の位置を割り出さないといけない」

 

 士郎は唾を呑み込むと、無言で母屋へと駈け出した。 

 

「そんなもんで判るのか?」

 

 疑わしそうなランサーに、アーチャーは首を傾げた。

 

「闇雲に冬木中を探すよりはましなはずです。

 断層が霊脈ならば、最も隆起し、等高線が密で複雑な場所が怪しい。

 柳洞寺のある円蔵山で、断層と重なるところにあるのではないかと」

 

 居残った面々の瞳に疑問符が浮かんだ。

 

「根拠のないことではありません。寺の名にある『洞』。

 日本の洞窟は、だいたい石灰岩が侵食されてできるんです。

 石灰岩があるのは、もともと海の底だったところだ。

 これも地震と表裏一体の自然現象なんですよ」

 

 アーチャーは黒髪をかき回すと溜息を吐いた。

 

「この推測が当たらないことを祈るが」

 

 しかしヤン・ウェンリーの予測は、悲観的なものほど的中するのである。駆け戻ってきた士郎が差し出した本を参考に、転がっていた黒板に白で等高線の略図を描き、次に断層を赤で書き入れる。

 

「うわぁ……」

 

 ヤンは呻いた。円蔵山を真っ二つに切り裂く赤い筋。その片端は、特に等高線が密な場所を指していた。

 

「ねえ、アーチャー。これ、あたっちゃったってこと?」

 

「うん……。そういうことだ。こりゃまずいなあ。

 みんな、こっちの本を見てくれないか」

 

 開いたページには、冬木の地図。複数の断層が綾なすように表示されていた。

 

「こいつがダンソウってやつか。へぇ、町中に張り巡らされてるじゃねえか」

 

 地震のない国に生きたランサーの指摘に悪気はない。だが、冬木在住者は真っ青になった。

 

「なんだ、これ!? 霊脈ってこのことなのか!?」

 

 イリヤは首を左右に振った。

 

「よくわからないわ。この星が生む魔力の流れのことだから」

 

 イリヤは魔術師としての教育は受けているが、学校で学ぶ科学知識には疎い。

 

「じゃあ、そいつは後で凛に聞こう。だが、辻褄が合うんだよなあ。

 二百年前の日本は、ヨーロッパから見れば世界の果てだ。

 なのにわざわざここを選んだのは、こういう理由かもしれない」

 

 五つのプレートの交点に生まれた、玉を追う龍の形をした島。安定陸塊の上にあるヨーロッパ北西部に比べ、大地が生むエネルギーはずっと大きい。

 

「まいったなあ」

 

 アーチャーは思い切り髪をかき回した。

 

「私は、聖杯以外にキャスターの望みを叶える方法を提示し、

 彼女に残留してもらうつもりだったんだ。

 で、次回までに大聖杯を改良してもらおうかと思っていた。

 今回については、第八のサーヴァントがいるなら、

 セイバーとキャスターを除いても犠牲の帳尻は合う」

 

 あっさりと言ってのけたアーチャーに、ランサーは鼻を鳴らした。

 

「そうは言うがな、おまえが残りを斃して回る気か?」

 

「前回の黄金のアーチャーは、私と違って大変強いサーヴァントです。

 猛者と戦いたいというあなたの願いも叶うでしょうが、

 それでもこちらの不利は否めません。 

 マスターたちを守り、セイバーとキャスターを温存するならなおさらです。

 結果的に共倒れになるんじゃないかと思います。

 我々は基本的に歩兵ですが、彼は戦車隊を擁している」

 

 それは土蔵の寒さが増すような予想であった。

 

「そいつがいなけりゃどうする気だ?」

 

 ヤンは目を瞬いてから、右手の指を折り始めた。

 

「聖杯以外に願いを持つものには、それを提供します。

 聖杯は目的達成の手段だが、代替方法があるものもある。

 キャスターのようにね」

 

 愛する人と現世で添い遂げるため、魔力の源としてキャスターは聖杯を欲した。優秀なマスターが霊脈つきで見つかれば、無理して戦う必要などないのだ。

 

「そのうえで、なるべく納得ずくで聖杯の贄になってもらうつもりでした。

 キャスターは聖杯以外でも望みが叶う。私も同じです。

 桜君を助けたいというライダーの望みは既に叶えた。

 バーサーカーの望みは不明ですが、イリヤ君の意志には逆らわないでしょう」

 

 折られた指は四本。

 

「ランサーの願いは、バーサーカーと戦えば叶うと思いますがね。

 もっとも、あなたとアサシンは、キャスターが手綱を握っている」

 

 ランサーは舌打ちするしかなかった。

 

「これで六。イリヤ君とセイバーの願いを叶えるというのも、

 あながち不可能ではないでしょう。

 願いが共存できなくとも、キャスターらにご協力をいただき、

 不老長寿に近い薬を作ってもらえば、アインツベルンに実利はありました」

 

「ありましたって、なんでさ?」

 

 士郎の問いに、アーチャーは肩を竦めた。

 

「セイバーの願いの実現が難しくなったからだよ。

 正直、これでは無理だと思うんだ」

 

「私を騙したのか!?」

 

 柳眉を逆立てたセイバーに、彼は曖昧に首を振った。

 

「あの時は君の状況がよくわからなかったからね」

 

「う……」

 

 穏和な口調で刺された釘に、セイバーは二の句が継げなくなった。

 

「こうして聞いてみると、千五百年以上の歴史の書き換えが必要ではないかと思う。

 となると、できそうな術者が故人しかいないんだ」

 

「こ、故人!? 故人とはどういう……」

 

「根源を目指そうとしていた遠坂時臣。できるというなら彼しかいない」

 

 ヤンは土蔵の天井に指を向けた。指しているのは、その遥か上だったが。

 

「根源は、この世の法則を塗り替える『魔法』を得られる場所だという。

 いわゆる神の座、始源(アルファ)にして究極(オメガ)である、

 ビッグバンの一瞬前ではないんだろうか。

 そこに到達するには、サーヴァント七騎すべてが燃料に必要なんだろう?」

 

 黒曜石が紅玉に向けられ、小さな銀の頭がこっくりと頷いた。

 

「根源に到達した魔術師は、魔法を探そうとしているんだ。

 もういなくなったサーヴァントの願いを優先してくれると思うかい?

 なにより、君は彼のサーヴァントではなかった」

 

 そう、前回のマスターは衛宮切嗣だ。セイバーと三回しか口をきかず、接触を頑なに避けていた男。願いの代行をしてくれるかと、自問するのも愚かだった。

 

「そして今回のマスターは士郎君。

 侮るようで申し訳ないが、聖杯戦争を知らなかったレベルでは、

 ちょっと無理だと思うんだよね」

 

 セイバーの視線を受けて、士郎は両肩の前に両手を上げた。

 

「や、確かに俺、遠坂の言うとおりへっぽこだしなあ……。絶対に無理だぞ……」

 

「そして、凛の研究テーマは父とは違う。第二魔法並行世界の運用。

 イリヤ君のは第三魔法、魂の物質化の復活」

 

 アーチャーは無造作にセイバーのそばへ足を踏み出した。彼女の剣の間合いの中に。

 

「君の願いを叶えるには、前回に遠坂時臣のサーヴァントとして召喚され、

 彼を勝利させ、君の願いを叶えてもらえるほどに感謝されなくてはならなかった」

 

 エメラルドが揺らぐ。それはもはや覆せぬこと。

 

「今回は遅すぎる。あるいは早すぎた」

 

「は、早すぎた……?」

 

「本来の周期の聖杯戦争であれば、参加者は凛の子どもか孫だっただろう。

 そのマスターが君を召喚し、宿願を叶えようとするならね」

 

 これもまた仮定の話だった。第六次までに、アーチャーの世界のように核戦争が起こったら不可能になる。

 

 セイバーは、認めざるを得なかった。六騎の犠牲で届くのは、世界の内側だけ。刹那の間さえも自由にならないのに、どうして千年以上を変えられるだろうか。時の流れに支配された世界の内側では叶えられぬ願いだ。世界の壁を越えて、根源に至るほかはない。

 

 アーチャーは口には出さぬ。しかし、セイバーに残された選択肢は、今のところ一つしかなかった。ただ一騎で、残る七騎をことごとく斃す。それは不可能と同義だ。

 

 俯いて拳を握るセイバーに、穏やかな声が掛けられる。

 

「私は魔術なんて知らないから、キャスターにも聞いてみよう。

 他にも方法があるかもしれないからね。

 しかし、たぶんだけれど、聖杯では君を救うことはできないと私も思うよ」

 

 アーチャーの口ぶりに、ランサーが目を瞬いた。

 

「私も、ってか?」

 

 ヤン・ウェンリーはセイバーと衛宮姉弟に微笑みかけた。いかにも滋味を感じさせる表情で。

 

「気がついたんだろう? 世界とやらの詐術に。

 だから、セイバーの触媒を捜しているんだろう?」

 

「……そいつが俺の身体の中にあるのかも知れないんだけど……」

 

 ヤンは黒髪をかきまわした。 

 

「うーん、そいつはなんとかなるかもしれないよ?」 




昨今の震災で被害に遭われた方にとって、この作品で不快となられましたら、誠に申し訳ないことです。しかし、軍人に可能な聖杯戦争へのアプローチの描写ですので、ご理解いただけると幸いです。


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64:手の絆

「ね、ねえ、アーチャーのマスター。

 その男は一応、私のサーヴァントなのよ。

 あまり、苛めないでほしいものなのだけれど……」

 

 仁王立ちした華奢な赤い背に、遠慮がちな声が掛けられた。肩越しにキッと視線を向けた凛に、キャスターは宥めるように手を広げた。招待主に粗相をして怒りを買った召使いを、庇う女主人そのものである。

 

「ほら、本人も反省しているようだから、ほどほどに……」

 

 黒いミニスカートの下の、ほっそりと美しい脚線の後ろに、銀髪を乱した赤い偉丈夫が、萎縮しきって正座していた。

 

「苛めてなんかいないでしょ?

 これは、ちゃんとした聞き取り調査よ。

 なんで守護者になったのか、聖杯戦争の召喚に応じた理由はなにか」

 

 キャスターはふいと視線を逸らした。二つ目の質問こそ、アサシンには最も手痛いものだろう。彼女自身がそうであるように。

 

 凛は、アサシンことエミヤシロウに事実を述べさせ、時に質問を加え、できるかぎり淡々とした口調を心がけて応対した。まるで裁判官の態度である。士郎とイリヤのいざこざを裁定したアーチャーを真似たものだったが、自分の知る遠坂凛との差異が、一層エミヤを打ちのめした。

 

「つまり、あんたはお父さんの理想を継いだ。

 正義の味方となるべく、投影魔術を駆使して人助けをした。

 より多くの人を助ける選択を繰り返しながら。

 ついには、自分の死後を質に入れて世界と契約し、

 こきつかわれて人を殺し、もう嫌だってわけね。

 だから、元から断とうと考えたと」

 

 しかし、凛の冷静さはすぐに底をついた。エミヤの言葉を要約するうちに、翡翠の瞳に稲妻が宿り、握り拳がぶるぶると震え、黒髪が魔力で踊りだす。おとなしやかな本物のメドゥーサが、顔色を失くすような迫力であった。

 

「い、いやっ、お、落ち着いてくれ、遠坂!

 それはもう諦めた! ここの衛宮士郎は私ではないからな……」

 

 凛の眉宇がぴくりと動いた。踏み出す足が落雷の響きを上げる。

 

「それは、ここじゃない士郎だったら殺すつもりってこと!?

 ふっざけんじゃないわよ!」

 

 エミヤには返す言葉がなかった。キャスターも掛ける言葉を失った。

 

「馬鹿は死ななきゃ治らないってのは嘘ね。あんたは死んでも馬鹿よ。

 どうしてそういう方向に考えるの!」

 

「……エミヤシロウという英霊を消し去るには、他に方法がないだろう」

 

 自分殺しという矛盾を発生させ、世界の修正を起こす以外には。弟子の未来像に、凛は眉間に皺を寄せた。これほどの絶望を抱くまで、世界はどれほど彼を酷使したのだろうか。

 

「あんたがお父さんの理想を継いだのも、人助けをしてたのも並外れたことよ。

 世界が契約を求めるというのはそういうことだわ。

 でも、あんたは一番大事な人間の価値を認めず、救ってもいない。

 それがわたしは悔しいわ」

 

「一番大事な人間……?」

 

「わからないの?」

 

 エミヤは自嘲の笑みを漏らした。

 

「すまないが、心当たりが多すぎてな。イリヤも桜もセイバーも俺には救えなかったよ」

 

 凛は褐色の鼻梁に指を突きつけた。

 

「ほんとにもう、どうしようもないヤツね。

 あんたが一番大事にし、味方しなくちゃいけなかったのは、

 衛宮士郎、あんた自身よ」

 

 正義の味方ではなく、誰かの味方でもなく、第一に己自身の味方であれ。

 

「……なんだと」

 

 細い指が、鼻先から広くなった胸郭へと降りる。

 

「英霊エミヤにとっては、もう遅いんでしょうけどね。

 衛宮士郎には、まだチャンスがある。

 あんたの手で、あんたになるかもしれない存在を消したらどう?」

 

「遠坂?」

 

 先ほどまでと正反対のことを言い出す凛に、エミヤは呆気にとられた。凛は微笑みを浮かべた。

 

「イリヤに桜にセイバー、みんな救えばあんたにはならないんでしょう?

 これだって、矛盾の発生じゃないかしら」

 

 銀灰色が瞠られる。

 

「無限の並行世界のなかで、あんたにならない士郎を育て続けるのよ。

 いつになるかはわからないけど、英霊エミヤは消えるかもしれない」

 

「……雲を掴むような話だな」

 

「たしかにね。けど、殺し続けるよりは建設的だと思わない?

 そのほうが、幸せになる人は多いんだから。

 少なくとも、あんたが言った三人と、その世界の士郎は幸せになる。

 ……ところで、わたしの名前がないのが気になるんだけど」

 

「遠坂は、俺が助けるまでもなく、雄々し……」

 

 言いかけて、エミヤは単語を選び直した。翡翠の輝きが鋭さを増したからだ。

 

「いや、凛々しく難局に立ち向かい、乗り越えて行ったからな」

 

 彼が相対しているのは、キャスターを叩きのめし、バーサーカーをも一回殺せる魔術師だ。機嫌を損ねるべきではなかった。

 

「ふん、まあ、そういうことにしておいてあげる。

 わたしだって、士郎が幸せになってくれたほうが嬉しいわ。

 あんたはわたしの最初の弟子で、……友だちなんだから」

 

 凛は、エミヤに右手を差し出した。

 

「あんたも協力しなさいよ。

 正義にも色々あるでしょうけど、

 頑張った人間が幸せになるのは、間違いなく正義だわ。

 その数が増えるのだって、正義だと思うわよ」

 

 銀灰が再び丸くなり、次に笑いの形を作った。

 

「くっ、ははは……」

 

 大きくなり、肌の色を変じた両手で、エミヤは凛の右手を包み込んだ。

 

「まさに君は賢者だ。だからあの人を呼べたのかもしれんな。

 ……そうだな、この世界でも果たせる願いはあった。

 桜は君たちが助けた。セイバーのことも何とかなるだろう」

 

 あのヤン・ウェンリーが気に掛けてくれるのだから。 

 

「……ならば、俺はイリヤを助けてやりたい」

 

*****

 

 そして、遠坂凛はアーチャーことヤン・ウェンリーとの手筈どおりに動き出した。言峰教会と聖堂教会の日本支部には、停戦が成立した旨を打電する。

 

『七者の協定成立、連絡されたし』

 

 時計塔には、ファックスが入り次第、文書で連絡することにする。言った言わない聞いていないを防ぐ措置だ。電話会社には遠坂家の電話の通話記録も残る。一応の保険だ。アーチャーからの受け売りの説明に、キャスターは菫の瞳を丸くし、彼女の従者は灰色の目を点にした。

 

「……君は本当に遠坂なのか!?」

 

「あんたが士郎であるようにね」

 

 エミヤは言葉に詰まった。やはりというべきか、エミヤの知る遠坂凛とは違う。ヤン・ウェンリーの影響をこれでもかと受けている。そういえば彼は、変幻自在かつ柔軟な防衛戦を得意としていた。

 

「これで、現時点で停戦が成立したっていうタイムスタンプになる。

 今後誰かが殺されても、犯人探しは楽になるってことよ。

 第八の連中がいくら強くても、同時に三か所の口は塞げないわ」

 

 第二の霊地、遠坂の魔術工房には、凛に生きていてもらわねば困るキャスター。アサシンはどちらの魔女にも頭が上がらぬ。間桐兄妹とライダーは、襲撃の秘匿が難しい病院に。

 

「しかし、それだけでは弱かろう。教会なら病院を抱きこむこともできる。

 言峰だけでも桜や慎二を殺すには充分だ」

 

 エミヤの言葉に、凛は人の悪い笑みを浮かべた。

 

「あいつはランサーのマスターだったから、ライダーの正体は知ってると思うわよ。

 きっと、会食に聞き耳を立ててたはずだもの」

 

 アーチャーに促され、凛自身がランサーに教えた。今にして思えば、彼はかなり早い段階から、ランサーのマスターに目星をつけていたようだ。

 

「彼女の真名はメドゥーサ。眼帯をしていても、物凄い美人だわ。

 髪の毛だって蛇にはなってなくて、アメジストを紡いだみたい。

 人生の最盛期の肉体と、戦闘力が同居してるんでしょうね」

 

「なにが言いたいんだね」

 

「と、いうことは、彼女()見た者が石になるのではなく、

 彼女()見た者が石になるんじゃないかしら。

 おいそれと手が出せないと思わない?」

 

 ヤンがランサーにライダー討伐の協力を願い出たのは、彼ぐらいしか対抗できる者がいないからだ。死の魔眼を持つ、ケルトの魔神バロール。バロールを斃したのは、クー・フーリンの父、光の神ルー。メドゥーサ討伐における、祖父ペルセウスと孫ヘラクレスの関係に酷似している。ケルト版ヘラクレスというのは伊達ではない。

魔眼を持つ者に対しての相性は極めてよいだろう。そのランサーは、もう言峰のサーヴァントではない。

 

「もちろん、知らなくても一向にかまわないわ。

 ひと睨みで石になって、あいつのお父様殺しも確定ってわけ。

 そしたら、冬木港に沈めてやるんだから」

 

 エミヤは目を伏せ、眉間を揉んだ。

 

「君たちの奸智にはつくづく恐れ入るよ」

 

「複数形で言うのはやめてよ」

 

 そして、魔術的には無防備な衛宮家には、三騎士と狂戦士。一人を除いて、最強の布陣である。

 

「明日になったら、キャスターには間桐に行ってもらうから、お願いね。

 そろそろガンドの効力も切れるから、桜たちも退院できると思うし」

 

「……ガンド!? 何でまた桜たちに……」

 

「蟲ジジイを始末するためのアリバイよ。

 ライダーは、桜に同情して召喚に応じてくれたから、

 慎二の言うことを聞いていたの。

 ……アイツもアイツなりに、桜のことを何とかしようとしてたのよ」

 

 エミヤが愕然とすることばかりだった。

 

「慎二がやろうとしたことは間違いなく悪事だけど、未遂で済んだわ。

 わたしのほうが悪人よ。桜と臓硯をランサーに殺させたんだもの」

 

「でもね、お嬢ちゃん、いいえ、冬木のセカンドオーナーとお呼びすべきね。

 あなたの選択は、あの状況ではもっとも優れていた。

 あの蟲を殺さねば、あなたの妹もいずれ死んでいたわ」

 

 キャスターはそれ以上は言わなかった。あの娘の心身を癒すことも、名目とはいえ家庭教師の役割になりそうだから。

 

「ええ、臓硯については後悔してない。

 生き返らせたからいいってものじゃないけど、

 桜に私の手が届いたことはよかったと思う。……勝手よね」

 

 凛はセーターの上から家宝のペンダントを握り締め、自嘲の笑みをこぼした。

 

「嫌いな人間を殺しても、愛する人間が幸せになるなら嬉しいんだもの。 

 これじゃ、永遠の平和なんか訪れるはずがないわ。

 だって、人類全員がみんなを平等に愛するってことじゃない?

 そんなの神様よ」

 

 凛の言葉に、キャスターはほろ苦い表情で首を振った。

 

「あら、神こそが最も嫉妬深く、残酷で不公平なものよ。

 その神を越えるような願いを、聖杯ごときが叶えるとしたら、

 さぞや歪なものになることでしょう」

 

 凛は目を瞬いた。

 

「あら、あなただって聖杯に願うんじゃなかったの?」

 

 銀青の髪が、肩の上でせせらぎに似た音を立てる。

 

「とんでもない。聖杯は魔力の釜でもあるのでしょう。

 私は、現世に留まるために欲しかったの。

 サーヴァントの受肉というのが、不完全な第三魔法なのでしょう」

 

「そのほうがいいんじゃない?」

 

 再び、微かな瀬の音。

 

「最初はそのつもりだったけれどね。

 私も未来の魔術師に倣って、第三魔法について考えてみたのよ。

 不老不死、あるいは死者の復活。我らサーヴァントの受肉は後者ね。

 おそらく、この姿で受肉し、ずっと変わらないことでしょう」

 

「それがアインツベルンの理想でしょう?

 人生の最盛期の肉体と頭脳を、劣化させずに永久に保ちたいって。

 サーヴァントをその状態で呼ぶのも、きっと応用じゃないかしら」

 

 凛のアーチャーがまさにそうなのであった。身体能力がまだましな学生時代の肉体に、頭脳や経験は三十三歳の頃のもの。あどけなさを残した少年と青年の狭間の姿で、中身は食えない策略家だ。

 

 しかし、藤村大河と同年代のキャスターには、そこまで大きな乖離は見られないのだが。

 

「だから困るのよ。今の世は神の眷属が姿を消した。

 この姿のまま、この街で何十年も過ごすのは難しいわ」

 

 凛は頷いた。核戦争からの避難などよりも、そちらの方が想像がたやすい問題だった。

 

「結局、聖杯の解析をしなきゃってことね。冬木から引越しもできないもの」

 

「ええ。でも、もう放浪は沢山よ。

 裏切りの魔女だの、激情の王女だの、そんな二つ名も欲しくはない。

 ここで静かに暮らし、あの方を看取ってから、私も逝きたいの」

 

 凛はまじまじと美貌の王女を見つめた。

 

「……あ、そういう形で生前の未練を晴らすってのもありよねえ」

 

 歴史家志望の名将が、平和な時代で英雄に会い、歴史の研究を楽しんでいるように、激情と陰謀で悪名に塗れた人生を送った彼女が欲するのは、平穏な日常なのだろう。

 

「受肉が第三魔法の応用なのだとしたら、

 それを上回る神秘でないと姿を変えられない。

 神秘が薄れた今となってはとても難しいわ。

 このエーテル体ならば、研究して術式を編めば、

 相応の外見に変じられると思うから」

 

「ちょっと待って。じゃあ、前回のアーチャーが受肉しているとしたら、

 そいつは十年前の姿をしているってこと?

 歳はアーチャーぐらいで、金髪に赤い目の大変な美形だったって

 セイバーが言ってたわ。

 それが十年もそのままだなんて、いくらなんでも目立たない?」

 

 男性の場合、十代後半からの十年で一番容姿が変わる。翡翠とアメジストが互いを見つめ、傍らの偉丈夫に視線を転じた。

 

「この男はまた極端でしょうけれどね」

 

「ええ、わたしのアーチャーは、夢で見るかぎりだけど、

 あんまり今と変わっていないし……」

 

 結婚して一年も経たないうちに死んだと言っていたから、あれは三十歳を過ぎた記憶だと思う。金褐色の髪にヘイゼルの瞳の美女に、しどろもどろに求婚をしていた。

 

 そして、たぶん結婚式だろう。似合わない礼装を鏡に写し、苦笑をしていた顔は二十代半ばにしか見えなかった。

 

「まあ、そうなの? 

 可愛らしさが消えるか否か、随分と差があるものだこと。

 この男があの坊やなら、今の可愛いままがよかったのに……」

 

 凛も彼女の意見に深く同意した。

 

「ほんとにね。アーチャーはまだ背が伸びるって言ってたけど、

 頭一個分も違うなんて思わないわよ。

 おまけに肌や髪ならまだしも、目の色まで変わっちゃって」

 

 二人の魔女の俎上に載せられ、縦横微塵に切り刻まれて、エミヤは鳩尾をさすりながら溜息を吐いた。奇蹟の三十代と比べられては困る。

 

「いや、その、そういう比較はやめてくれたまえ」

 

「あんた、生前に聖杯戦争を経験してるんでしょう。何か覚えていないの?」

 

 色褪せた髪が振られた。

 

「すまないが、私の記憶はかなり磨耗している。

 そのうえ、サーヴァントとして参加したらしい記録も混ざっていてな。

 どれが真相なのか、わからなくなってしまったよ」

 

 凛の眉宇が曇った。

 

「やっぱり、カンニングは無理かあ」

 

 再び、エミヤは頭を振った。灰銀の瞳に確信を込めて。

 

「だが、その黄金のサーヴァントの天敵はこの私だ」

 

「えっ!?」

 

「無数の宝具を所持するアーチャーだそうだな。

 彼に対抗できうるのは、衛宮士郎しかいないだろう」

 

 なんという皮肉だろうか。黄金のサーヴァントは、目の眩むような数多の宝具を所有するという。守護者に堕ちた衛宮士郎と正反対の英霊。

 

 それが実父母の、養父とその妻子の、師匠と妹分の、そして自分のセイバーの仇だとは。借り物の理想に、紛い物の刃。しかし、それこそが究極の一では対抗できぬ、宝具の蕩尽に対する切り札。

 

「……そして、一つ思い出したよ。

 あれを私にしないために、助けなければならない人々をな……」

 

 エミヤは背筋を伸ばし、惚れ惚れするような一礼をした。

 

「我がマスターとアーチャーのマスターにお願いする。

 早急に教会を攻めたい。私に力を貸してくれ」

 

 人を救うことによってしか、自分を救えないエミヤの根幹は死しても変わらなかった。

 

「……わかったわ。で、誰を助けたいの?」

 

 ほんとうに、つくづく、どうしようもない奴だと思う。この期に及んで、まだ人助けだなんて。しかし、救える誰かがいるのなら、それは決して間違ってはいない。情けは人のためならずって言うのなら、いつか、この士郎にも届くだろう。それを凛は願う。

 

 鋼の瞳を一瞬伏せてから、エミヤは告げた。この少女の後見人に、あらたな罪状を積み上げることになっても。

 

「教会に、孤児たちが監禁されていた。彼らは私だったかもしれない存在なんだ」



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65:怒りの日

 遠坂凛の心話を受けて、アーチャーことヤン・ウェンリーはびくりとした。続けざまに叩きつけられる絶叫にも似た思考。ヤンの表情は、穏やかさを保っていたが、眼差しは静かに鋭さを増した。凛からの心話を聞くだけ聞くと、ヤンも心話を返す。

 

『なるほど、わかった。すぐ戻るよ。

 この問題には、市役所や消防、警察の手を借りたほうがいい。

 作戦を練るとしよう』

 

『そんな、今さら警察なんて……!』

 

『司直の目と手を入れることが大切なんだ。

 彼の拠って立つ権力基盤から切り離し、逃亡や犯人秘匿を防ぐんだよ。

 ……どんな宗教だろうが、孤児の虐待を正当化する教えなどあるものか』

 

 それは凛が息を呑むような鋭さだった。

 

『こんな不祥事を見逃していた、聖堂教会も責任を問われるだろう。

 復讐するは我にあり、か。

 ふん、神の代行者を名乗るなら、存分に役割を果たしてもらいたいものだね』

 

『あ、あんた……』

 

 言峰綺礼に、凛や士郎たちが手を下す価値などない。彼は言外にそう告げた。

 

『まずは、彼の罪を公にすることだ。

 教会が泣きついてきたら、我々の力をできる限り高く売りつける。

 その子たちを助けられるなら、今後の治療や生活の保障も含めてね』

 

『……助けられなかったら……?』

 

『人質とは生きていてこそ価値があるんだよ』

 

 決して激することのない思念が凛に届いた。しかし、紛れもなくアーチャーは怒っていた。炎の激しさではなく、光さえ抜けられぬ深淵の圧力で。

 

『もう、遠慮はいらないということになる』

 

*****

「な、な、な、な……」

 

 あとは言葉にならず、間桐慎二の唇が開閉した。不謹慎だが、遠坂凛は縁日の金魚を連想した。根性の悪い黒出目金みたい。黒出目金はようやく酸素を摂取し終えたようで、大声で叫んだ。

 

「なんなんだよ、そいつはーーっ!?」

 

「間桐君たちの家庭教師に来てくれた、キャスターさんよ」

 

 目の覚めるような銀髪の美女と、平凡な容姿の担任教諭を引き連れて、学校一の美少女はしれっとのたまった。

 

「はじめまして。クリスティーナ・ゾーリンゲンと申します。

 キャスターというのは愛称ですわ。この度は、誠にご愁傷様でございました」

 

「え!? あ、あの、ど、どうも……」

 

 慎二は目を泳がせた。凛はともかく、後ろにいる葛木宗一郎教諭を前に、ライダーを呼び出すわけにはいかなくなった。逆を言えば、この魔女たちも手を出す気はないということだが。

 

「ナースステーションのところでお会いしたのよ。

 亡くなられたおじいさまから頼まれたんですって」

 

 翡翠の銛が慎二の目に突き刺さった。いいから頷けと。慎二はそれでも抵抗を試みた。

 

「そ、そんなの聞いてないぞ!」

 

 キャスターと名乗った美女は、淑やかに瞼を伏せた。

 

「……無理もないことですわね。私も随分急なことだと思いましたから。

 さっき、こちらの凛さんから伺ったのですが、

 考えてみますと、お亡くなりになる直前だったのでしょうね……」

 

「えっ……」

 

「私はおじいさまの遠縁にあたります。

 出身はドイツですが、今は東京に住んでおりますわ」

 

 凛はよそ行きの顔で頷いた。

 

「それで、日本語がとてもお上手なんですね」

 

 キャスターは、微笑みながらも首を傾げた。

 

「もっとも、臓硯さんのご先祖さまには及びませんけれどね。

 私の曽祖父の、さらに祖父だったかしら? その弟が、日本に帰化したのだとか」

 

「はぁ!?」

 

 これは嘘八百なのだが、青みがかった銀髪といい、深い紫の瞳といい、間桐兄妹の持つ色彩と似通ったところがある。だから、アーチャーは彼女の偽りのプロフィールとして採用した。なお、ライダーとキャスターも少々似ている。これは二人が遠縁にあたるからだ。いざとなれば、従姉妹ということにしようという目論見である。

 

「その方が、初代の間桐臓硯さんだと聞いております。

 おじいさまは四代目でしたかしら? 

 息子さんが入院されて、お孫さんの面倒を見てほしいとのことでした」

 

 あのジジイに限って、そんな心遣いをするはずもない。

 

「あの後、何回かご連絡を差し上げたのですが

 まったくお電話が繋がらなくなってしまって……。

 乗車券を送って下さいましたから、心配になってこちらに参りましたの」

 

 しかし、美女が告げるのは、破綻のないストーリーである。慎二は悟った。脚本家は、あの黒いサーヴァント、アーチャーだ。

 

「間桐君、大変だったわね。わたしからもお悔やみを申し上げるわ」

 

 凛は複雑な表情を隠すために一礼した。

 

「それでね、わたしは桜の姉でもあるんだし、何か力になれることはないかしら?

 わたしも二回喪主をやったから、大変なの知っているもの」

 

「……と、遠坂……」

 

 それまで無言だった葛木教諭が口を開いた。

 

「間桐。故人のお心遣いは、ありがたいものだな」

 

 慎二はまたも酸欠になったようだが、絶対に違うと言えないのが秘匿すべき魔道の悲しさである。 

 

「で、でも、葛木先生……」

 

 困惑しきった様子の慎二に頷いてから、葛木はキャスターに向き直った。

 

「しかし、ゾーリンゲンさん。

 臓硯氏があなたに依頼した時と今では、条件が違い過ぎます。

 氏が存命ならよかったのでしょうが、この子らの父親はまだ重態で入院中です。

 どこかの社会福祉施設に一時入所するのが、間桐たちには望ましいと思いますが……」

 

「まあ、キャスターで結構ですわ。

 それにしても、シャカイ、フクシ、シセツですか?」

 

 キャスターは優雅に小首を傾げ、長い睫毛を瞬かせる。慎二が顔を赤くするほど魅惑的な表情だったが、葛木は淡々と言葉を続けた。

 

「以前は孤児院と呼ばれていた施設です。

 今は、こういったケースでも入所できます。

 市の福祉課に相談なさっては……」

 

 それを聞いて、凛は思わずといった様子で声を上げた。

 

「あ、昔は言峰教会で孤児院をやっていたみたいです。

 友人から聞いた話ですけど」

 

「あら、今はどうですの?」

 

 凛は曖昧に首を振った。

 

「あの、十年前のことです。例の大災害の頃の……」

 

「……ああ、それではな」

 

「いまの言峰神父は、一応わたしの後見人なんですけど、

 わたし、教会の仕事はあまりよく知らなくて……。

 最近忙しいのか、電話しても留守ばかりだし」

 

 葛木は思わしげに腕を組んだ。

 

「ふむ、やはり福祉課に相談するしかなさそうだ。

 いまもそこが存続していて、入所できるといいのだが……」

 

 同じ説明が、別室の桜にも繰り返され、妹も兄と同じ表情になったのは余談である。もっとも、桜の驚愕はすぐに収まった。ライダーが心に囁いたからだ。

 

『……サクラ。これは先日、あなたの姉上からの申し出があったことです。

 受けるのを勧めます。もうゾウケンはいなくなった。

 つまり、マトウの家の加護もなくなったのです』

 

 桜を苦しめていた臓硯だが、五百年も生きた魔術師としての実力は伊達ではない。ほとんど知識がなく、希少な素質を持つ桜が、表面上は平穏に過ごせたのは『間桐』あってこそだ。

 

『で、でも……』

 

『……あなたたちは一度、アーチャーのマスターらに囚われの身となっています。

 サクラが魔力切れになったときに。

 マスターも私も、殺そうと思えばあの時簡単に殺せたでしょう。

 でも、サクラもシンジも生きて帰ってきました』

 

 ガンドを浴びせられてはいたけど、桜の体内のすべての蟲は消えうせていた。魔力の搾取に伴う倦怠感や空腹、そして痛みもなくなった。まだ、本来の魔力量まで復調してはいないが、それも遠いことではないだろう。ラインが繋がっているライダーにはわかる。

 

『アーチャーのマスターと、キャスターを信じてみませんか?

 サクラの力が明らかになれば、聖杯戦争より危険になるでしょう。

 私たちはもうすぐ消えますが、これからは人間に狙われてしまう』

 

 たった二週間、六組の主従から身を守るよりも遥かに難しい戦いだ。首級を狙う人間と戦い続けたメドゥーサはよく知っていた。見るものを石にする宝石の魔眼も、より上位の神秘、複数の神の加護に敗れた。

 

 最後に勝つのは数の暴力。アーチャーことヤン・ウェンリー以外にも、それを知るサーヴァントはいたわけだ。

 

 結局、兄は不承不承に、義妹は戸惑いがちに遠坂凛の話に頷いた。慎二が、衛宮士郎のメモに心を動かされたせいもある。歴史の研究。いい先生。でも、葛木教諭は倫理担当だ。誰だろう。

 

*****

 

 そして、慎二と桜が退院する帰途に市役所に寄ったのだが、福祉課の職員の反応ははかばかしいものではなかった。教会は宗教法人が設置し、文部科学省(国)が所管する。孤児院は社会福祉法人が設置し、所管するのは県または政令指定都市等だ。入所者がいる場合は、冬木市でも立ち入り調査をするが、休眠状態ではその限りではない。職員には咄嗟に答えられなかった。

 

 こうしたことを国や県に電話で訊いても、即答してくれるものではない。市長名で文書による調査依頼となる。その文書を作り、上層部の決裁を貰うにも時間がかかるのだ。

 

「申し訳ありません。市民課と教育委員会に確認し、早急にご連絡します」

 

 すぐにやれることは、市の他部署に何らかのデータがないかの確認である。孤児の住民登録記録がないか。義務教育期間中の子どもなら、教育委員会から給食費などの補助を受けているか。それらを調査して、返答するというのがやっとだった。

 

 いわゆる縦割り行政の弊害だった。福祉課の対応は最大限に誠意あるものだが、差し当たっては全く役に立たない。間桐家の親戚は、落胆した様子で首を振った。

 

「凛さん、もう一度、教会に連絡してみていただけない?」

 

 あたふたする窓口から少し離れ、凛は言峰教会に電話した。

 

「やっぱり駄目です。もう一週間ぐらい電話が通じなくて……」

 

 葛木は難しい顔になった。

 

「ところで言峰神父のご家族は?」

 

「一人暮らしなんです」

 

 いつも謹厳な表情の葛木の眉宇が更に寄った。長身を軽く屈め、凛に耳打ちする。

 

「――警察に連絡を。間桐の家のように、急病かも知れん」 

 

 時は少し遡る。交番に立ち寄った観光客から、教会に関する情報が寄せられた。大学生と留学生の二人組からである。

 

「さきほど教会を見学したんですが、扉が開けっ放しなのに誰もいなくて。

 不用心ですよね。で、彼が呻き声が聞こえたって言うんですよ」

 

 軽く頭を下げたのは、蒼い髪をした留学生のほうだった。引き締まった長身に野性味のある美貌の主で、説明役の平凡な青年とは好対照である。

 

「僕には聞こえなかったんですが……」

 

 蒼い眉がぴくりと動き、黒髪の青年に外国語で反論する。おさまりの悪い髪をかき回し、彼も流暢な外国語で応じた。早口すぎて、警官にはろくに聞き取れなかったが、どうやら英語ではなさそうだ。

 

「ええと、礼拝のために祭壇に近づいたら聞こえたって言ってます。

 でも、一瞬だったと」

 

 その通報と凛の電話で事態は急変した。前者は、教会に行ったら呻き声が聞こえたというもの。後者は、後見人と連絡が取れないというものだった。

 

 双方を普通に結びつければ、一人暮らしの言峰神父の急病である。連絡を受けた警察は、近所の駐在所の警官に巡回するように指示した。そして三本目の電話は、意外な角度から飛び込んできた。

 

 それは、冬木市役所の福祉課からの連絡だった。孫の世話を、祖父が親戚の女性に頼んだ矢先に本人が亡くなってしまった。故人の息子は重傷で入院中。困り果てた彼女は、子どもの担任に助言されて、児童福祉施設を探すことにした。

 

 昔、冬木市にあったという、言峰教会の孤児院。そこの状況を教えてもらいたいと。だが、福祉課にはデータがない。市役所は、複数の部署に業務が縦割りされている。住民登録は市民課だ。言峰教会の孤児院に住所がある子どもがいるかどうか。応対した男性職員は、まず市民課に確認をとった。

 

 入所者はいないだろうと思っていたのに、住民登録上は子どもが何人かいることになっていた。しかし、引越しをしたのに、市役所に届け出ていない可能性がある。手続きをしないと住所がそのままになってしまう。

 

 では、ということで教育委員会に連絡したが、こちらも明確な答えが返ってこない。

 

「一番上は高校生だけど、小中学生もいるだろう。

 市教委にデータないの?」

 

「この子たち、外国籍なんですよ。

 日本人じゃないから、親に就学の義務はないんです」

 

「はあ、そういうもんなのか」

 

「もちろん呼びかけはしますけど、保護者次第なんですよね……。

 その子達は、市立の小中学校には在籍していません。

 調べてみないとわかりませんが、インターナショナルスクールとか、

 教会系列の学校にでも通ってるんじゃないでしょうか」

 

「孤児が何人もいるのに、みんな私学に行かせるなんてできるのか?

 葬式や結婚式で、馬鹿高い金でも取ってんのかねえ。

 坊主丸儲けとはよく言ったもんだよな」

 

 これに教育委員会の女性職員は首を傾げた。二十代ももうすぐ終わりの彼女は、自分を含めて、同級生の結婚ラッシュが一段落したところであった。

 

「ちょっと待ってください。なんか、変ですよ。

 私もだけど、市役所の同期は、あの教会で結婚式した人はいないんです」

 

 彼女より、十歳ほど年長の福祉課職員も首を捻った。

 

「言われてみると、俺もそうだったな……。

 俺は冬木のセンターホテルでやったっけ。倒壊する前だったからな。

 あの後に結婚した俺のツレは、神社の式場でやった奴が多いなあ」

 

「あの教会、大人数での披露宴は無理ですからね。

 挙式だけなら、安上がりにできるんですけど、

 披露宴をやるなら結局高くついちゃうんです」

 

「はあ、そういうものか。やっぱり、女の子のほうがよく研究してるなあ」

 

「かといって、あそこでお葬式っていう訃報もあんまり見かけませんね」

 

 二人の職員の会話は、世間話の域を出ないものだったが、後になってみれば、重要な示唆を含んでいた。

 

「クリスチャンは少ないから、そりゃしょうがないよ。

 うーん、おかしいなあ。霞を食ってるわけでもないだろうに、

 うちの坊主ら二人でも、俺だけの給料じゃおっつかっつだよ。

 まあ、ちょっと見に行かなきゃならないかな」

 

 その前に、彼は言峰教会に電話をした。そこにちょうど、訪問していた警察官が居合わせたのだった。

 

 神父の言峰綺礼は、十数年前に細君が夭折し、父は十年前に他界。以来一人暮らしだ。日本人離れした長身の偉丈夫で、被後見人の話では特に持病もないとのことだが、人間何があるかわからない。

 

 観光客の言葉のとおり、礼拝堂には鍵がかかっていなかったが、住居のほうは戸締りされている。呼び鈴を押しても返答はなく、人のいる気配もない。

 

「こりゃ、失敗だったな。被後見人に立ち会ってもらったほうがよかったか」

 

 父が選んだ後見人とはいえ、遠坂凛は神父とあまり親しくはないという。彼女が言うには、養女に行った妹の家に不幸が重なったため、姉としてなんとかしてやりたいと思ったそうだ。

 

『でも、わたしはまだ高校生ですから……。

 相談にのってもらおうと思ったんですけど、ここしばらく連絡がとれなくて。

 学校もありますし、教会まで行く時間がなかったから、

 留守電だけは入れてたんです。でも、一回も電話が来ないんです』

 

 住居から戻って、もう一度礼拝堂を覗いた警官は、入口に置かれた電話が鳴り響いているのを発見した。市の職員から孤児院の情報を入手し、そちらに回ってみようと思いついた。

 

 しかし、住所にある建物は無人だった。単なる留守ではなく、生活感が皆無だ。複数の子どもが暮らしているなら、洗濯物や自転車などが庭先にあるものなのに。初老の警官の脳裏に、警報が響き渡った。

 

「……おかしい。何か、とんでもないことが起こっているぞ」

 

 十年一昔と言う。しかし、高校生と大人では時の目盛りが異なる。あと数年で退職を迎える彼も、十年前は働き盛りのベテランだった。複数の子どもの失踪。それは大災害の直前に頻発した、殺人及び児童誘拐事件を想起させた。

 

「教会の礼拝堂で、呻き声がするだったな……。ま、まさか……」

 

 あの犯人は捕まっていない。そしてつい先日起きた、子どもを含んだ一家惨殺。あれほどの凶悪事件の犯人が、複数いるとは考えにくい。

 

 ――同一犯。でなければ模倣犯。その容疑者に言峰綺礼は躍り出た。すぐさま警察が教会に踏み込み、礼拝堂の捜索を行った。

 

 そして地下から、枯れ木のように痩せ衰えた瀕死の子どもたちを発見したのだった。児童虐待と保護責任者遺棄致死未遂。そして、未解決の誘拐殺人事件の容疑も。

 

 言峰綺礼が指名手配となるまで、そう時間はかからなかった。



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66:救助と守護

※本話と番外編には、独自設定が含まれます。


「……おまえ、おっかねえ奴だな」

 

 テレビを見ていたランサーが、ぽつりと呟いた。殺してやりたいほど忌々しかった第二のマスターの名が『現代の青髭』として、散々に夕方のニュースで喚き立てられている。それをなしえたのが、辛辣きわまりないアーチャーの一手だった。

 

 多くの人間は、物事を常識的に判断するものだ。特にこの平和な日本では、複数の殺人犯がいるよりも、一人が複数を殺していると考える。当時も今回も、被害者は子ども。猟奇殺人犯の嗜好と考えたほうが自然でさえある。

 

 たった三本の電話で、聖堂教会という言峰綺礼の防御壁は粉砕された。教会の監視役という大義名分と権力の陰で、暗躍し、ほくそ笑む窃視者。アーチャーを彼のことをそう分析していた。 

 

「言峰神父にもチャンスは与えてありますよ。

 出頭し、自分の罪を告白し、やっていない犯罪はそう言えばいい。

 警察がちゃんと捜査をしてくれるでしょう」

 

「だが前の様子を聞くと、その教会が隠蔽工作に動いたんじゃねえのか。

 俺も貴様のせいで、今回やらされたがなぁ!」

 

「どうも、その節はご面倒をお掛けしまして……」

 

 深紅の瞳に睨みつけられて、アーチャーは髪を掻きながら謝罪した。 

 

「言峰神父の場合、教会がどう出るかも一つのポイントです。

 神は罪人をこそ救うといいますが、人は神ではありません」

 

 淡々とした口調に、間桐家の居間が一気に冷却された。凛とキャスターが慎二と桜の退院に付き添い、間桐家に到着した後、あれよという間に児童監禁が暴かれたのである。

 

 そして凛の携帯電話に、警察からその旨が連絡された。凛は言峰の被後見人から、この事件の参考人になったわけだ。エミヤから聞いていた。こうなることは八割がた予期していた。だからといって、衝撃がなくなるわけではなかった。

 

 あの男は凛の後見を務める裏で、凛と同年代の子どもたちを監禁し、数年単位で生命力を搾取していたのだ。凛の誕生日には、毎年同じデザインの、だが成長にあったサイズの服を贈り、孤児たちには、魔力調達という名の虐待を毎日繰り返していた。その二面性が怖ろしく、おぞましかった。

 

 携帯電話を持つ手が強張り、白い頬が更に白さを増す。一見してただごとではない。慎二たちの帰宅に付き添っていた葛木教諭が、凛から事情を聞き出した。

 

「ふむ……。間桐たちを一時的入所させてもらうどころではないな」

 

 常に冷静な葛木でさえ、困惑の色を隠せなかった。凛と慎二、桜を順に見回すと、キャスターで視線を止める。

 

「……言峰神父の犯行だという確証はまだない。

 だが遠坂、いま家に帰るのは勧められん。おまえは一人暮らしだろう。

 安全が確認されるまで、間桐の家にいさせてもらったほうがいい。

 実の姉妹と義理のきょうだいだ。

 こちらのキャスターさんがいらっしゃるなら、間違いも起こらないだろう」

 

「なっ、遠坂までうちに!? ちょっ、冗談じゃない。

 待ってくださいよ、葛木先生!」

 

 声を裏返した慎二の袖を、桜がためらいがちに引いた。

 

「兄さん。わたしもそうしたほうがいいと思います。

 遠坂先輩、……ね、姉さんにもしものことがあったら、わたし……」

 

「あのね、桜。縁起でもないこと言わないでちょうだい」

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 首を竦める妹に、凛は優しい顔で決定打を放つ。

 

「でも、心配してくれてありがとう。

 もしものことがあったら、喪主は桜がやってね」

 

 ここに医師がいたら、病み上がりの兄妹は再入院を命じられたに違いない。

 

「んな……!? これ以上葬式が増えるなんて冗談じゃない!」

 

「いや、間桐に遠坂。私はそこまで言ってはいないが……」

 

 葛木の反論は慎二に届かなかった。キャスターは葛木の真摯な態度に見惚れていて、慎二たちに助け舟を出すそぶりはない。 

 

「家のだってまだ手も付いてないんだぞ」

 

「お葬式のことなら、わたしにも少しは手伝えると思うわ」

 

「くっ……、わかったよ!

 遠坂、葬式の手伝いをしてもらうからな!」

 

 凛は深々と頭を下げた。

 

「ありがとう、間桐くん。二、三日お世話になります」

 

 こうして、キャスター主従だけではなく、アーチャー主従もまんまと間桐家に入り込むことに成功した。間桐慎二とライダー主従が抵抗する術もないままに。

 

 そして今、テレビの前を占拠していた。大事件の発覚の副産物で、自然死に見せかけた臓硯の検死は早々に終わり、慎二たちは遺体を引き取りに行っている。その足で葬儀社と打ち合わせしてくるそうだ。 

 

 留守番を仰せつかったのはキャスターで、ランサーとアサシンも顕現したというわけだ。

 

「教会上層部がどう出るか、まさに神のみぞ知るといったところでしょう」

 

 子どもの虐待や殺害という最悪の犯行を暴露されて、教会がどう出るだろうか。庇うことはできず、表面的には破門の宣告。裏で異端者狩りに走るのではないか。

 

「君の生前は、これを君やセイバーに見せつけて、選択を強いたのかい?

 まったくひどいことをする。あの子たちにも、君たちにも……」

 

 ヤンはアサシン=エミヤシロウに視線を向けると、ベレーを握りしめて俯いた。

 

「自分の悪事を相手にすり替え、人を操るんだ。

 犯罪者の中でも最悪のタイプだよ。

 この件に、士郎君たちを直接関わらせるのはよくない」

 

「し、しかし……」

 

 口ごもるエミヤに、黒髪の青年はきっぱりと首を振った。

 

「これは、士郎君たちが乗り越えるべき人生の試練なんかじゃない。

 監禁されている子どもたちを最優先しなくてはならない。

 士郎君たちが救助したところで、彼らの治療や生活を支えきれはしないんだから」 

 

 エミヤの脳裏で、記憶の断片が瞬いた。

 

「……聖杯に願えば叶うと。でも俺は……」

 

 磨耗し、輻輳した記憶と記録が混ざり合う。何を言い返したのか。彼らを癒すことを望んだのか、やり直しの否定だっただろうか。いや、子ども達のことさえ気付かなかったことはなかったか。エミヤは固く目を瞑った。

 

「なんと答えたのかもはっきり分からない。

 でも、彼らを救えなかったことは、忘れていない……」

 

 ランサーが喉の奥で唸りを発した。

 

「あのド外道め、どこへ消えやがった!?

 こんなことなら契約が切れてすぐ、素っ首を獲りに行ったものを!」

 

「……悪かったわね。許していたら、もう決着がついていたのに……」

 

 キャスターが決まり悪げに目を逸らし、ヤンは苦笑を浮かべた。

 

「それですよ。彼が失踪したのも、子どもたちを放置したのも。

 私たちが押しかけたのに反応がなかったのもね。

 必殺の槍の使い手が、復讐に来る可能性を考え、

 取る物も取りあえず逃げたんでしょう。

 だから、ぎりぎりで助かったんです」

 

 殺す手間さえ惜しんだのだろう。マスターは契約の切断が感知できる。一方、教会には、サーヴァントの現界を感知する器具がある。言峰綺礼には、令呪の鎖を断たれたランサーの健在がわかるのだ。

 

 最速を誇る白兵戦の雄、ランサー。その真名はクー・フーリン。必ず心臓に中る槍を持つ、ゲリラ戦の名手だ。原初のルーンを用いた戦術の多様性と、七年も戦い抜いた持久力を併せ持つ。

 

「マスターだったからこそ、ランサーの怖ろしさを知り抜いている」

 

「そんな男が、よくも子どもたちを殺さなかったものね」

 

 深窓の姫君だったキャスターに、戦士のランサーは後頭部を掻きながら告げた。

 

「良心や慈悲からじゃねえな。死体を始末しないと腐って臭う。

 あの数の墓穴、そう容易くは掘れんぞ」

 

 キャスターの瞳に、半ばまで瞼の帳が落ち、柳眉が吊り上がった。

 

「そんなことを教えてくれなくても結構よ!」

 

「……言うのは遠慮していたんですが、要するにそういうわけなんです」

 

 一気にこの人数を殺してしまうと、後始末が大変になる。聖杯戦争の残り時間、ぎりぎり生きながらえさせればいいのだ。彼らに繋がれた点滴などがそれを物語っていた。

 

「しかし、これで言峰綺礼の行動はかなり限定されます。

 彼は非常に大柄で、服装や髪型を工夫しても誤魔化すのは難しい。

 第四次のアーチャーがいるならば、彼が動くことでしょう。

 皆さん、警戒を怠らないように」

 

「でも、私のマスターはどうすればいいのかしら」

 

 愁眉を寄せたキャスターに、ヤンはにこりと微笑んだ。

 

「ごく普通に生活していただいてください。

 あなたも当初のとおりに、間桐兄妹の面倒を見てあげてください。

 そうすれば、必然的に安全になります」

 

 今回のアーチャーのマスターの遠坂凛は、警察署で事情聴取に応じているところだ。

居合わせた担任教諭の葛木宗一郎が付き添ってくれている。それが終われば、間桐家まで送ってきてくれるに違いない。キャスターが、間桐家のことを彼に相談すれば、誰もが納得するロマンスのきっかけが誕生することだろう。

 

「間桐翁の秘密主義ゆえに、桜君にはほとんど魔術の知識がないようです。

 慎二君は多少の知識がありますが、魔術回路がありません。

 このままだと、令呪のシステムが失われてしまいます。

 また十年後に聖杯戦争が起きたら、どんな厄介なことになると思いますか?」

 

 未来の魔術師の扇動で、神代の魔女が目の色を変えた。

 

「――私の将来のために、今のうちに芽を摘む必要がありそうね」

 

 今度は間桐邸が魔女の巣窟になるに違いない。

 

「……大丈夫だろうか……」

 

 エミヤは眉間をさすりながら呟いた。数少なかった友人に、聖杯戦争以上の受難が訪れようとしている。

 

「心配ならば、君も助けてあげるといい」

 

「なっ……!」

 

 完全に藪蛇であった。有能な怠け者は、立ってる者は親でも使うのである。

 

「間桐翁は魔道書をかなり残しているらしい。

 慎二君は、ある程度独学で読み解いている。調べ物にも人手が欲しいからね。

 君なら彼ともうまくやれるんじゃないかな?」

 

「い、いや、しかし」

 

「今更だぜ、坊主(・・)」 

 

 口ごもるエミヤに、ランサーが冷静に指摘する。

 

「あのガキとは友達だったよな、おまえ。あいつも助けてやれ。

 女だけに惚れられているうちは、おまえは守護者のままだぜ」

 

 これにキャスターも首肯した。

 

「ええ、そうね、坊や(・・)

 善であれ、悪であれ、あまねく信仰を集め、昇華したのが真の英霊よ。

 星に認められれば、守護者からの格が上がることもありうるわ。

 お嬢ちゃんが言っていたことの焼き直しだけれど、

 並行世界で、おまえに感謝を捧げる男女を増やすのも一つの方法かもしれなくてよ」

 

「そうだね。幸せになる人が増えるのはいいことさ」

 

「……私は不幸な気がするんだが」

 

 頭半分は低く、ずっと薄い肩にとりすがりたくなるエミヤだった。ヤンは首を傾げた。

 

「我々は人じゃないからねえ」

 

 がっくりと落ちたエミヤの肩を、ヤンは軽く叩いた。

 

「かといって、召喚の目的を果たせないわけじゃない。

 私も君のこともちゃんと考えるよ。……士郎君」

 

 ガード不能の攻撃が、エミヤシロウの仮初めの心臓を直撃した。アサシンは戦わずしてアーチャーに陥落し、協力することを承服するのだった。

 

*****************************************************************

番外編 ※紅茶の魔術師※

 

「セイバーがアーサー王だとはなあ……。この世界では実在する人物だったのか……」

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーは膝を抱えて呟いた。場所は遠坂邸の居間。お気に入りのソファの隅っこである。

 

「それがなにかまずいってのか?」

 

「私の世界では、複数の人物をモデルとした創作上の人物だと考えられています。

 だって、ヨーロッパを統一して、各国の王が忠誠を誓ったりしてるんですよ。

 イギリスがヨーロッパを統一したことは、歴史上一度たりともなかったのに」

 

「お、おう……」

 

 また始まったようである。ランサーは助けを求めるように周囲を見回した。鋼の色と目があった。

 

「なあ、アサシンよ。っつーか坊主。

 おまえ、セイバーの元マスターだろ。聞いとけ、聞いとけ」

 

 俺の代わりに。そう言い捨てると、ランサーはさっさと逃げ出した。褐色の偉丈夫の顎が落ちた。

 

「なっ……!?」

 

 アサシンことエミヤシロウの正体は、槍と弓の騎士にもすでにばれていた。大地と星空。戦いの場こそ違うが、戦場を駆けた英雄たちは判断力に富んでいる。

 

 イリヤが器と知っていて、魔力で編んだ無数の刃を繰り出す者。二つの条件を満たすのは、この世にただ一人しかいない。

 

「私には隠さなくてもいいよ、士郎君」

 

「アーチャー、いや……ヤン提督……」

 

 この呼びかけにふっと黒い瞳が細められた。  

 

「懐かしい呼び方だ。でも君はこの時代の住人だよね。

 それを知っているということは、守護者の君に迷惑を掛けていたかな?」

 

 褪せた白い髪が下がった。精悍な顔に苦渋が滲む。

 

「率直に言って、消滅を願うぐらいには……」

 

 ヤンは眉を下げて、髪をかき混ぜた。

 

「あーー、我々が原因だったか。そりゃ、悪かったねえ。

 百五十年の戦いのせいで、我々は麻痺してしまっているが、

 この日本で生まれ育った君には耐え難いだろう」

 

 エミヤは曖昧に首を振った。

 

「私は、養父の理想を求め、正義を果たすには戦いしか思いつかなかった。

 ここではなく、政情の不安定な国で、弱者を救う戦いに手を染めた」

 

 より多くの人を救うために、少数を切り捨てざるを得なかった。エミヤの基準は命の多寡だ。先日まで救っていた人々が、今日は切り捨てるべき側になる。自分がないエミヤは、他者からの判断ができず、共感もされなかった。

 

「ついには、周囲がすべてが敵となり、絞首台送りだ。

 だから、あなたという存在が不思議でならなかった」

 

 圧倒的な大軍に、寡兵で立ち向かう。命を惜しんだ部下に、裏切られても不思議はない。しかし、彼の軍は最高水準の士気を保ち続けた。ヤン・ウェンリー最大の魔術だ。

 

「きっと、私は一人では何もできないからだ。

 だからみんなに助けてもらった。

 そのためには、みんなに私の考えを理解してもらわなくてはいけない」

 

 会議で言葉を尽くし、戦場の行動で示す。戦いはなにも生み出さない。そう言いながらも、一人でも多く生還させるために、最適手を陣頭で打ち続ける。

 

「要するに、私に賛同してくれる人が集まっていたからだと思うよ。

 君はなんでも一人でできるが、でも助けを求めたほうがよかったんじゃないかな?

 手が二本しかないのに、それ以上を救わなくちゃならない時、君はどうする?」

 

「……より多くを救える方を選ぶ。私はそうしてきた」

 

 黒髪の智将は、若返った顔に苦笑を浮かべた。

 

「私なら、まず助けられる人を助けるよ。

 次は、助けた人に救助に加わってもらう。

 どんどん助かる人が増えれば、より多くの人を助けられる」

 

 そして、最初に手を伸ばした者が、人々の輪の中心になるだろう。

 

「なんでも一人でやる必要はないんだよ。正義の味方も王様もそれは一緒さ。

 ねえ、士郎君、セイバーにもそう伝えて欲しいな」



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67:結集

 アーチャーが、魔術の心得のある面々を、間桐家に集めようとするのには理由があった。言峰綺礼が確保されるまで、市内の学校は休みになった。十年前の児童誘拐及び先日の一家殺人、そして今回の集団監禁と虐待。全ての犯行の容疑者になった、言峰綺礼を警戒しての措置だ。この機を無駄にせず、聖杯の調査に充てるつもりなのである。

 

 しかし、反対する者もいた。

 

「あの野郎をほっとく気か!?」

 

 ランサーはアーチャーを問い詰めたが、逆に問い返された。

 

「私たちが彼を処断する必要がありますか?」

 

「必要だと!? あの野郎は嬢ちゃんらの親の仇だろうが!」

 

「彼を確保して罪を調べるのは警察、裁きを下すのが裁判所の仕事ですよ。

 それぞれが、給料分の仕事を行えばいいだけの話です」

 

 複雑な事象は割り算で処理すべし。アーチャーは、言峰綺礼の処罰を聖杯戦争から切り離すことにした。魔術は一般社会から秘匿され、通常ありえぬ現象を起こす。

 

 間桐臓硯の人喰いは、その最たるものだろう。臓硯の肉体は、もはや人ではなく、妖蟲の群体であった。本性を露わにして犠牲者を喰い殺すと、何事もなかったかのように人の姿を取り戻す。喰われた者が、喰ったモノの肉体となるのだ。

 

 遺体や凶器は存在しない。それは加害者そのものだ。目撃者も存在しない。すぐさま、次の被害者となっただろうから。常人には、犯罪の痕跡すら見つけることが出来ない。

 

 まだまだ若い管理者にも無理だった。魔術協会と聖堂教会は知っていたのだろうか。自問すると、ろくでもない想像をしてしまう。聖杯戦争の存続のため、見て見ぬふりをしていたのかもしれないと。

 

 ――だが。

 

「聖堂教会には、上層部としての責任をとってもらいましょう。

 魔術協会にも、聖堂教会への折衝は折半してもらいます」

 

「……は?」

 

「言峰神父が動いてくれないと、凛とアインツベルンの連名で訴えてあります。

 教会と時計塔の両方にね。

 こうして事件が発覚すれば、上が自主的にやってくれますよ」

 

 短い付き合いながら分かってきたが、この男が淡々と話すのは、感情を抑制している時だ。この温度のない口調、相当に怒りが深そうだ。ランサーは口の端を引き攣らせた。

 

「……おまえ、怒ってるだろ」

 

「当たり前です。

 きちんと監査すれば、十年もばれないはずがない。

 教会上層部がやるべきことを怠っていたんですよ。

 高校生の凛たちや、幽霊の我々が尻拭いするなんて冗談じゃない。

 給料を貰っている人が、その分働くべきです」

 

 アーチャーは、負った責任の分の仕事はする主義だった。他者にも同じことを求めるのである。

 

「私は、凛や士郎君に、これ以上一グラムの負い目も作りたくありません。

 彼は凛の後見人でした。

 教会の子たちは、衛宮切嗣に選ばれなかった士郎君です。

 これだけでも、あの子たちが傷つくには十分すぎる」

 

「悪どいんだか、甘いんだか、分からねぇ野郎だ」

 

 ランサーは後頭部を掻くと、赤い外套のアサシンに目をやり、ふっと息を吐いた。

 

「……もっとも、そのほうがいいのかも知れんな」

 

 キャスターが頷く。

 

「ええ、アサシンはそれを知っていたものね。

 つまり、坊やが守護者となる分岐点かもしれないわよ」

 

 アサシンことエミヤシロウにとって、非常に居心地の悪い雰囲気になった。ひどいとばっちりだ。

 

「それもありますね。

 なんでもかんでも聖杯戦争で片付けようとするから、歪になるんです」

 

 ヤンはサーヴァントらを前に指を折った。聖杯戦争は魔術儀式。これは、あと一週間程度しか時間がない。

 

 士郎とイリヤ、凛と桜、桜と慎二の問題は家族争議。この戦争が終わった後に、長い時間をかけて取り組むべきものだ。もつれた感情の糸を解きほぐすには、十年、いやそれ以上の時を必要とすることだろう。

 

 だが、言峰の罪は法的に対処可能。それは警察や裁判所の役割だ。必要ないことはしない。他者にできることは適任者に割り振る。そうした思い切りが、事業成功には重要である。

 

「我々がやるのは、ほかに対処が不可能な黄金のアーチャーに勝つことだけです」

 

 勢力は七対一。しかし、歩兵が戦車部隊を包囲殲滅するようなもの。非常に困難と言わざるを得ないが、監禁されていた子どもという補給は絶った。 

 

「黄金のアーチャーを排除するのは、この聖杯戦争中にしかできません。

 だが、言峰綺礼の捕縛はそうじゃない」

 

 灰銀の目が丸くなった。

 

「だから、警察を入れたのか……!」

 

「そうだよ。出来ないことは、出来る人に任せればいい。

 サーヴァントに対抗できるのはサーヴァントだけ。

 それが我々の役割だろう?」

 

 マスターと覚しき言峰の行動を限定し、黄金のアーチャーと分断する。これもまた割り算というわけである。

 

「一番いいのは、言峰綺礼が観念してくれることだ。

 サーヴァントとの一蓮托生に賭けるよりは、

 令呪で始末し、自首したほうが長生きができる」

 

 何人たりとも裁判を抜きに処罰されない。言峰綺礼も有している日本人としての権利だ。

 

「まどろっこしいな、おい!」

 

 ランサーは大いに不服そうだったが、アーチャーは厳然と否定した。

 

「たしかにそうです。

 しかし、我々が殺したら、彼は罪を償うことなく終わってしまう。

 それではだめです。法と社会の裁きを受けるべきだ。

 被害者への賠償を行なう義務と、一対の権利なのですから」

 

 一見上品に正論を述べているようだが、その目するところは違う。死んで逃げるのは許さない。生きながら苦悩し、恥辱に塗れても償えということだった。

 

 言峰は監視役の立場を利用し、聖杯戦争を玩んでいた。バゼット・フラガ・マクレミッツを排除して、ランサーを奪ったのは、より優位に立つためだろうとヤンは踏んでいた。

 

 バゼットを除けば、経験豊かな者は不利なキャスターを引き、残りは未熟なマスターばかり。おまけに因縁の相手の子どもたちだ。彼らが相争うのは、窃視者にさぞや甘美をもたらすであろう。

 

 だが、それは聖杯戦争の枠内で、優位に立っていればの話。秘匿は公開に劣る。孤児の監禁虐待が、魔術絡みだなどと世間は知らないし、考えもしない。一片の情状酌量の余地もない、異常犯罪者だと指弾する。

 

 魔術に無縁なアーチャーは、聖杯戦争より厳しい戦いに、言峰を突き落としたのである。役所と警察へ、ちょっと連絡しただけで。なんと怖ろしい。この男も、現代日本の公的機関も。キャスター主従が等しく抱いた感想である。  

 

「もっとも、あれだけの子どもを虐げることを選んだ人間ですから、

 その望みは薄いでしょう。

 黄金のアーチャーと行動を共にしていたら、戦わざるを得ないでしょうし」

 

 説明を続けるうちに、アーチャーはどんどん不機嫌になっていった。これは生前のエミヤが対峙した状況だった。サバイバーズ・ギルトの持ち主にとって、塞がっていない傷をかっさばかれ、濃硫酸をぶっかけられるにも等しかったことだろう。

 

「君も士郎君なら教えておくよ。

 ここの士郎君は、自分よりも他人を優先してしまう子だと私は感じた。

 聖杯に願えば、何人もの孤児が助かるのなら、やはり考えてしまうだろう。

 でも、セイバーの願いとは相容れない」

 

 実はまだ生きていている、アーサー王ことアルトリア・ペンドラゴン。

 

「彼女は死の縁で、国の滅亡を覆すことを願っている。

 この時代からは遥かな昔だけど、セイバーにとっては現在だ。

 死にかけの子ども数人と、母国を天秤にかけたら、どちらに針が傾くと思うかい?」

 

「……それは」

 

 眉を寄せるエミヤに、ランサーは顔を顰めて髪を掻き毟った。

 

「ま、見ず知らずの子どもを選ぶ理由はないな。

 俺がセイバーの立場でもそうするぜ」

 

 ランサーの言葉に、黒い頭が上下動した。

 

「もしも生きていたなら、私だってそちらを選択するでしょう。

 でも、こうしてサーヴァントになった『私』の人生は変えられない。

 ならば現在を優先しますよ。そのほうが実りが期待できますからね」

 

「赤毛と癖毛の坊主と嬢ちゃんたちと、教会の子供たち……」

 

 ランサーは溜息を吐いた。この男が、イリヤが器ということを明かさない理由に思い至ったのだ。そして、霊脈が活断層ではないかという推測を持ち出したことも。

 

「そして、この街の人間か。坊主に重石をつけやがったな。

 というよりは、セイバーを外したかったんだろ? 

 なあ、アーチャーよ」

 

 アーチャーは決まり悪げに頭を掻いた。

 

「……ばれましたか。

 ここからでは過去でも、セイバーにとっては『現在』の願いです。

 こんな欺瞞に満ちた戦争に、賭けていいものではないと思うんです。

 手に入るのは、汚れた聖杯でしょうし」

 

 キャスターは緩やかに首を振った。

 

「それ以前に問題があるわよ。

 私たちが黄金のアーチャーに敗れ、『器』が満たされて、

 セイバーが聖杯を手にする可能性も皆無ではないわ。

 セイバーの主、唯一の縁者の身命と引き替えにね。

 坊やは許すかしら?」

 

 アーチャーとランサーは顔を見合わせ、後者がずばりと断言した。

 

「そりゃ無理だな」

 

「……でしょうねぇ」

 

 二人の見たところ、士郎はセイバーを扱いかねている様子だった。降って湧いた謎の美少女で、実は人間でもなくて、聖杯戦争の駒だと言われても、ろくな知識のない士郎が困るのは当然だろう。

 

 管理者のサーヴァントとして、アーチャーもお膳立てに協力したほどだ。イリヤのメイドのふりをしてもらって、士郎と一緒に学校に行き、授業や部活を参観するうちに、徐々に打ち解けてきたようだ。

 

 だが、切嗣の実娘で、義理のきょうだいのイリヤのほうが、ずっと重みのある存在だろう。

 

「令呪があるのは、サーヴァントより、マスターの願いを優先するためですからね」

 

 セイバー主従が聖杯戦争の勝者となったら、聖杯はイリヤの復活に使われることだろう。衛宮士郎が、第三魔法の使い手になるのかもしれない。なんと皮肉なことか。

 

「どんな願いも叶うなんて、どう考えても嘘でしょうに。

 そんなものの代償に、自分の生涯も消して、世界と契約するだなんて……。

 セイバーに必要なのは、きっとそのどれでもない」

 

 黒い瞳が、鋼色の瞳を仰いだ。

 

「きっと、凛が君に伝えたようなことに気づくのが必要なんだと思う。

 士郎君たちが、それを見つけるまで、

 言峰神父に余計なちょっかいを出されるのは困るんだ。

 第四次のキャスターは、セイバーの目の前で子どもを惨殺しているし」

 

「そういえばそうだったな。ふん、外道のやることは似たり寄ったりか。

 胸糞の悪い」

 

「なに!?」

 

 頷くランサーと驚くエミヤが対照的だ。エミヤの生前には語られなかったことかもしれない。

 

「セイバーのトラウマを、再び掻き毟るだろう。

 彼女の体感時間では、半月と経っていないんだよ。

 生死の狭間にいる重傷者を、これ以上追い詰めるのは危ない」

 

 黒髪の青年は身を乗り出した。

 

「繰り返しますが、聖杯戦争は第三魔法復活か、

 根源に行くための手段に過ぎないんです。

 魔法入手の手段で、家族問題や犯罪の解決なんて、無理があると思いませんか?

 それは人の心の問題なのですから。

 ……魔術や魔法を生み出すという、人の心の」

 

 神秘はより高い神秘に打ち消される。人の心こそ、神秘の最高峰ではないだろうか。ヤンはそう思う。人の心には、魔法でも魔術でも太刀打ちはできないだろう。

 

「聖杯戦争で実現可能なものと、そうでないものを切り分けましょう。

 マスターたちが生き残れば、魔法以外は達成できるんですからね。

 時間はかかるでしょうが」

 

 ヤンは目を細めた。士郎たちと同じ年だった頃の自分が頭をよぎる。父が亡くなって、心ならずも入学した士官学校の二年目。苦手な教科は本当に大変だったけれど、好きで楽しい授業もあった。少ないながら友人もできて、片思いが始まり、時には笑えるようになった。全てを失っても、生きている限り、人は前に進めるのだ。

 

「あの子たちにとって、時間が最良の薬となることでしょう」

 

 第四次聖杯戦争から十年。少年少女のマスターらの心を癒すには、同じかそれ以上の年月がかかるだろう。だが、この世界ならばそれも可能なのだ。この子たちが、戦争の訪れない世界を存続させてくれるなら。

 

 ヤンはサーヴァントらに深々と一礼した。どうにかにベレーを落っこっとさずに。

 

「そのためにも、改めてお願いします。あなたがたの力をお借りしたい」

 

「な、な、な、なにやってんだよ!」

 

 裏返った声が、居間の空気をかき回す。間桐慎二と桜が帰ってきたのだ。慎二の口が戦慄くのも無理もなかった。親戚を自称するキャスターは認識していたが、赤青黒と三人もサーヴァントが増えている。

 

 空気が揺らぎ、紫銀の髪が翻った。ライダーが実体化して、桜と慎二を背後に庇う。

 

「遠坂のアーチャーはともかく、そいつらは……」

 

 キャスターの朱唇が弦月を象る。

 

「あら、これは私の僕よ」

 

 慎二は蒼褪めながらも、桜の一歩前に出て、青い武装の美丈夫を見据えた。

 

「そっちの青い奴は、たしかランサー」

 

 では、未知の赤い外套の偉丈夫は? 褐色の端正な顔の灰色の瞳には、知性が感じられる。

 

「……ってことは、もう一方はバーサーカー、じゃないな。アサシンか? 

 なんで、キャスターが二騎もサーヴァントを従えてるんだよ!?

 ちくしょう、ルール違反もいいところじゃないか!」

 

 菫色の瞳が嗤いを浮かべた。

 

「何を言っているの。

 魔術師がサーヴァントを従えるのは、この戦争のルールでしょう?」

 

「そういうことよ。受け入れなさい、ライダーとそのマスター」

 

 新たな声が割って入り、慎二と桜は弾かれたように振り向いた。

 

「と、遠坂、そうだ、なんでおまえがキャスターを……」

 

 慎二が震えながら伸ばした指は、仁王立ちした凛に向けられた。

 

「そんなの、同盟を組んだからに決まってるでしょう。

 聖杯戦争は、力比べじゃなくて魔術儀式よ。

 だったら、最強の魔術師を味方にしない手はないわ」

 

 それは人間の魔術師ごときではなく、魔術師の英霊に決まっている。

 

「……その手があったじゃないか!

 なんで、こんなのが出てくる触媒を用意したんだよ、あのクソジジイ……」

 

 庇っている者に手ひどいことを言われ、ライダーの肩が落ちる。

 

「あの、君の言い分も理解できるが、ライダーを責めるべきじゃないよ。

 君たちは病み上がりだ。せめて、席に座って話し合いをしないか?」

 

 アーチャーはベレーを脱ぐと、遠慮がちに提案した。

 

「チッ! アーチャー、またおまえか!」

 

「え……この人がアーチャー?」

 

 驚いた桜はライダーに問い掛けた。頷きに、紫水晶の流れが揺れる。黒髪に黒目。凛や慎二たちよりも、よほどに日本人らしい色彩だ。桜よりは頭一つほど高いが、長身といえるほどではない。やや痩せ型で、表情は優しく、とてもライダーを退けた相手とは思えなかった。

 

「はい……ですが……」

 

「相談している場合?

 あんたたちはとっくに負けて、わたしたちに生かされてるようなものよ。

 さあ、さっさとこちらの軍門に下りなさい」

 

 控えめな胸をそらした凛に、アーチャーは小さく首を振った。そして、穏やかな声と口調で爆弾を投げ込んだ。

 

「いや凛、こう言うべきだよ。

 七騎で協力しなければ、勝てない敵が待っているだろうとね」



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68:対価

 アーチャーの言に、慎二たちの表情が硬くなる。

 

「敵だって!? ふん、おまえらのことじゃないのか!?」

 

 憎まれ口を叩く兄に、桜は真っ青になった。

 

「に、兄さん!」

 

 そんな二人に苦笑すると、アーチャーはソファに腰を下ろした。まずは話し合おうと、態度で示したのである。決して怠け心ではない。多分。

 

「敵ではないさ、少なくともね。

 聖杯戦争成就のために、君たちに協力して欲しいと考えているんだよ」

 

 のんびりとした口調に、慎二は毒気を抜かれた。

 

「きょ、協力?」

 

「凛が言ったとおりに、魔術儀式としての聖杯戦争に戻るんだ。

 だから、君に停戦を申し入れたんだよ。

 アインツベルンのマスターも一応は賛同してくれてる」

 

 慎二は眉を顰めたまま、アーチャーの対面のソファに座った。

 

「それで、この期に及んで協力を願うって?」

 

「むしろ、この機だからだね」

 

 アーチャーは小首を傾げた。慎二と桜に視線を行き来させる。

 

「失礼なことを聞くけど、君も桜君も、子どもはまだいないだろう?」

 

 慎二の細い顎が落ちた。何度か開閉を繰り返し、ようやく声を絞り出す。

 

「な、な、なに、馬鹿なこと……」

 

「真面目な話だよ。凛が直面している問題でもある。

 この聖杯戦争で死ねば、遠坂家に次はないんだ。

 君たちも同じじゃないか?」   

 

 突拍子もない問いは、息を呑ませるような答えを連れていた。間桐臓硯は死んだ。魔術師としての血脈も残せず、知識を伝達することもなく、慎二が望んだとおりに。 

 

「開催周期の六十年は、後継ぎを設けるための時間でもあったと思うんだよ。

 イレギュラーの今回は、御三家のマスターは皆若い。

 ここで死んだら、アインツベルン以外は家系が断絶してしまう」

 

「信じられないね。

 アインツベルンが独り勝ちするなら、余計に間桐や遠坂と組むとは思えない」

 

 不信感を露わにする藍色の瞳に、黒い瞳は穏やかさを失わない。

 

「そのアインツベルンだが、今回確実に目的を果たせるとは限らないよ。

 なにしろ、今まで一回も成功していない儀式なんだから。

 だが、次回は確実に不利になる」

 

「不利?」

 

 アーチャーは頷いた。

 

「御三家の枠のおかげで、これまでは外来の参加者は四組。

 御三家はことさら協力せずとも、その存在で相手の戦力を分散化させていたんだ。

 それが一極集中することになる。敵が六倍だ。まず勝てないよ」

 

 慎二は言葉に詰まった。まさに、今の自分たちと同じではないか。これは未来予想の姿を借りた降伏勧告だった。

 

「う……」

 

「だが、未来の心配をするには、今を生き延びなくてはね。

 我々は君の敵ではないが、君と我々の敵となる者が存在する可能性が極めて高い」

 

 ライダーがはっと顔を上げた。

 

「まさか、それがサクラの父上の仇ですか?」

 

「ライダー?」

 

 円らな瞳を零れそうなほど見開く桜に、ライダーは口を押えた。

 

「……すみません。サクラたちが眠っている間に、『センパイ』が教えてくれました」

 

「なるほど、士郎君らしいね。 

 ところでライダー、新都の吸血鬼事件、あの犯人はあなたですか?」

 

「あ、はい。……あっ!」

 

 実にさりげない問い掛けに、反射的に頷いてしまい、ライダーは再び口を押えて蒼くなった。アーチャーは苦笑して手を振る。

 

「ああ、いや、ちょっとした答え合わせに必要でしてね。

 そして深山町のガス漏れ事件は……」

 

 剣呑に目を細めたのはキャスターである。

 

「あれは私よ。けれど貴方、止めれば不問にすると言ったではないの。

 今さら蒸し返す気?」

 

 アーチャーは両手を上げて首を振った。

 

「いやいや、私が話題にしたいのは、あなたがたが犯人でない犯行です。

 もう一件、深山町の一家殺人があっただろう?

 親子三人を、刀か槍で殺害しているという事件だ」

 

「ああ、あれね。それがなんだよ」

 

 これが平和な国の子の、当たり前の反応というものだ。もう何度目だろうか。繰り返すのも嫌になるが、アーチャーは、その殺害方法の異様さを説明した。

 

「片刃の刀、両刃の槍。切り傷だけではどちらか分からないだろう?

 それがわかるというのは、刺し傷なんだ。

 包丁よりもずっと傷が深いから、刀槍と表現されたんだよ」

 

 慎二と桜の喉が鳴った。

 

「三人を複数の武器を使いわけて、ほぼ同時に滅多刺しして殺す。

 どうすれば、そんなことが可能だろうか?」

 

 たとえ両手に違う武器を握っていても、一人は残る。

 

「むろん、加害者が複数なら可能だよ。

 だが、この日本で、そんな殺し方ができる人間を集める方が難しいと思うのさ」

 

 凛は己のサーヴァントの言葉を補足した。

 

「ええ。不動産屋からの情報だけど、

 被害者の家族は、ごく普通の評判のいい人達だったそうよ。

 殺されるような恨みを買うようには思えないって」

 

 サラリーマンの夫、兼業主婦の妻、もうすぐ小学校卒業だった長男。生き残った長女は中学一年生。

 

「言峰が指名手配になって、ひょっとしたらって言ってきたのよ。

 でも、わたしもあいつだとは思わないわ。

 三人をほぼ同時に殺すのは不可能じゃない。あいつ、元代行者だからね。

 でも、何種類もの武器は使わないでしょうね」

 

 言峰綺礼は、身長二メートル弱、体重も百キロ弱。凛の八極拳の師でもある。あの男の実力なら、武器を持ち出すまでもない。

 

「だが、第四次アーチャーならばできる。逆に言うと、彼にしかできない。

 教会から救助された子たちは、彼の贄だったのではないだろうか」

 

 キャスターが魔力を搾取したように、ライダーが吸血をしたように。

 

「……それは」

 

「だから、孤立勢力を作ってはいい的になってしまう。

 ライダーは宝具にもよるが、一番の武器は機動力だ。

 戦い方の性質上、主従の間の距離が問題になる」

 

 宝具にライダーが騎乗したら、マスターらはどうするのか。

 

「四次ライダーの宝具は、戦車だったそうだ。

 彼のマスターは、ライダーと一緒に御者台に座ったという。

 ライダー、あなたの宝具は、三人乗りが可能ですか?」

 

 ヤンの問いに、ライダーは唇を開いた。

 

「鞍に跨るのと、乗りこなすのは別です。

 乗馬の名手でないかぎり難しいと思います」

 

 慎二と桜は顔を見合わせた。乗馬の経験なんてない。

 

「それに、私が死んだら宝具のペガサスも消えます。

 マスターたちが、落ちてしまったら……」

 

 凛は溜め息を吐いた。

 

「一応、念のために聞くけど、慎二に桜、空中浮遊の魔術、使える?」

 

 兄が代表して答えた。

 

「できるか、馬鹿!」

 

「じゃ、重力制御は? 落ちるスピードを減らして……」

 

「それも無理だよ!」

 

 妹も頷く。

 

「……というより、遠坂先輩はそんな魔術ができるんですか?」

 

「空中浮遊は準備しないと無理だけど、まあ重力制御ぐらいなら」

 

 あっさりした答えに逆に凄みを感じる。

 

「凄いなあ、魔術でもそれはできるんだね」

 

「ちょっと待てよ。魔術でもって、どういう意味だよ?」

 

 黒髪のサーヴァントの変てこりんな相槌に、慎二はすかさず突っ込んだ。

 

「じゃあ、いい機会だから自己紹介を。

 私はヤン・ウェンリー。今から千六百年ほど未来の人間なんだ」

 

「はぁぁ!?」

 

 慎二にとって、アーチャーは謎だらけのサーヴァントだった。東洋系の容貌で、光の矢を撃ち、原子爆弾の原理を知っている。本人が明かした理由は、信じがたいものであった。遥か未来の英雄。

 

「もっとも、この世界は私の世界と違う歴史を辿りそうだから、

 異世界の異星人というのが正しいかな」

 

「い、異星人って……」

 

「あと三百年ほどで、人類は宇宙進出を開始するんだ。

 千六百年後には、地球から一万一千光年離れたところまで、

 人類領域は広がる。私はそこの出身だ」

 

 慎二と桜とライダーの顔面に、計七つのOの字が並んだ。

 

「う、嘘だろ!?」

 

「君がそう思うならそれでもいいよ。証明する手立てはないからね。

 ところでライダー、やはりあなたの宝具は天馬ペガサスでしたか。

 現代でいうなら、戦闘ヘリ対スティンガーミサイルみたいなものか。

 ……正面からの対峙は、上策とは言えないなあ」

 

 ヘリの場合は先に相手を捕捉し、撃たれる前に撃破するが、それには飛び道具が必要だ。

 

「そういう宝具はお持ちですか?

 あなたの場合は、見るだけで有効な気もしますが」

 

「サクラが元気になったので、確かにできなくはありません。

 ですが、私の視界に捉えるには、あまり遠くなると……」

 

 相手が判別できる距離まで近づかないと、魔眼の効果は薄い。残念ながら、彼女は千里眼の持ち主というわけではなかった。

 

「欠点だらけじゃないか……」

 

 歯噛みをする慎二に、ヤンは首を振った。

 

「いや、黄金のアーチャーがそれだけ規格外だということだよ。

 それに、野放図に石化してしまうよりはよほどいいじゃないか。

 特に、接近戦を得意とするサーヴァントには脅威だよ」

 

「それ、この状況で意味あるのか!?

 おまえたちを石にしても、僕らも巻き添えだろ!」

 

 だから交渉のテーブルについたのだが。

 

「でも、石化が効かない相手となるとどうでしょうか。

 無数の宝具を持っていると聞くと、

 やはりペルセウスを連想しますからね」

 

「その場合は、あの仔の力を開放して、体当たりします」

 

 淡々と語るライダーに、慎二は顔を覆った。

 

「おい……、ますます後ろに乗れやしないじゃないか」

 

「……あ、そうなりますね」

 

 ライダーは、怜悧な美貌に似合わず天然だった。彼女も自衛のために戦ったが、それは魔物に変じてからのこと。家族の愛を一身に受けた末娘として、乳母日傘(おんばひがさ)で育った身である。マスターを組み込んだ集団戦には、まるっきりの素人だった。

 

 ランサーが後頭部を掻きながら、舌打ちをした。

 

「チッ、調子が狂うぜ。

 ギリギリの戦いができる相手が、こんなに少ねえとは思わなかった」

 

 肉弾戦においては、ライダーはランサーの敵ではなく、逆に遠距離戦は殺るか石にされるかの早い者勝ちだ。技の応酬もへったくれもない。

 

「少ないけれど、そのぶん強敵でしょう。

 慎二君、そして桜君。君たちだけでは、四次アーチャーには勝てない。

 言峰綺礼がいるだろうからね。

 しかし、我々に協力してくれれば、負けはしないと思う。

 間桐には、キャスターという庇護者も手に入る」

 

 再び、二人の目が丸くなった。眼帯のせいで、ライダーは不明だが。

 

「私の望みは、この世に残ることなのよ。

 ひとまず身を寄せるには、ここはそう悪くないわ。少々、埃っぽいけれど」

 

 菫の瞳が、藍色と灰紫を捕らえた。

 

「巻き毛の坊やに、ライダーのマスター。

 蟲を始末したのは私と、我が下僕のランサーよ。

 あなたがたも私に対価をお寄越しなさいな」

 

「な、なにをだよ」

 

「私たちが勝って生き残るために」

 

 桜貝の指先が、二人を指さした。

 

「この家の魔術を。令呪のシステムをね」

 

*****

 

 いかに強大であっても、サーヴァントはサーヴァント。令呪の制約を受けているであろう。そうでなければ、あの数の生贄では維持できまい。

 

 キャスターはそう言うと、右の袖を捲った。

 

「これは、私が見様見真似でこしらえた擬似令呪。

 このエーテル体だから、こんな無茶ができるのだけれど」

 

「つまり、そのアーチャーも擬似令呪で制圧ができると?」

 

 ヤンの問いに、キャスターは首を振った。

 

「擬似令呪ではおそらくは無理よ。でも、本来の令呪があるはずだわ」 

 

「でも、たぶん、綺礼が持ってる」

 

 凛ははっとした。

 

「やっぱり、あいつがお父様を殺したんだわ!」

 

 桜の顔色も変わった。

 

「……えっ!?」

 

「お父様は根源に行くつもりだった。綺礼に令呪を渡すはずがないわ。

 もしも黄金のアーチャーが殺したなら、きっと滅多刺しだった。

 この刻印だって、無事では済まなかったはずなのよ!」

 

 凛は制服の左袖を捲り上げ、刻印に魔力を流す。五代が紡ぎ、織り上げた生きる魔導書が、細い腕を青白く飾る。

 

「でも、刻印は無事。傷ひとつない。傷つけないように即死させたからだわ……。

 でなきゃ、魔術師は死なない。この刻印が守ってくれる」

 

 ランサーが忌々しげに吐き捨てた。

 

「あの野郎ならできるぜ。俺が証人だ」

 

「……わたしとは関係が……」

 

 養女に出されたのは、自分がいらない子だから。そう思っていた桜に、穏やかな声が掛けられた。

 

「あるんだよ、桜君。養子縁組は解消することができるんだ。

 君の本当のご両親が健在だったならば、今の君は遠坂桜だったかもしれない」

 

「……え」

 

「むしろ、聖杯戦争の一時的な避難だったのかと思うんだ。

 この間桐家からの参加者ははっきりしていない。

 でも、慎二君の祖父と父は健在だった。

 お父さんが亡くなったら、魔術師のいなくなる遠坂家より、

 まだ安全に見えたのではないだろうか」

 

 その言葉に、桜は眦が裂けんばかりに目を瞠った。

 

「だって、わたしがいらないからじゃ……」

 

「君と凛は一学年違いだね。

 凛が二月生まれなら、君は三月生まれ。違うかい?」

 

「そうですけど……遠坂先輩に聞いたんですか」

 

「まあ、そうとも言えるかな。

 イリヤ君がやってきた翌朝、君と二歳違いになったと考えていたんだよ」

 

 凛は呆気にとられた。

 

「よく覚えてたわね、そんなこと」

 

 ヤンは懐かしげに微笑んだ。

 

「私が預っていた子は、私より誕生日が十日早かった。

 その時だけ、十四歳違いになったんだ。君たち姉妹と逆にね」

 

 一学年違いで二歳下、冬生まれなら桜と名付けないだろう。消去法で三月生まれだ。

 

「冬生まれの凛は水にちなみ、春生まれの桜君は木にちなむ。

 陰陽五行に基づいてるのかな? 姉妹らしい、いい名前だと思ってね」

 

 凛と桜は顔を見合わせた。

 

「全然、共通点がないと思ってたわ……」

 

「遠坂先輩は格好いいのに、わたしは普通だなあって思ってました」

 

「そう? 桜って可愛いくていいじゃない。

 わたしの名前、字を説明するのがちょっと困るのよね」

 

 陰陽五行説は、ヤンのルーツ、中国から伝わったものだ。北は冬、色は黒、五行は水。東は春、色は青、五行は木。

 

 ちなみに、南は夏で赤で火、西は秋で白で金、中央が土用で黄色で土となる。青春や白秋も、これから生まれた言葉だ。

 

 平安貴族の流れを組む遠坂時臣には、当然の知識だったと思われる。ヤンは、顔を疑問符だらけにしている面々にそう説明した。

 

「十年前の二月、凛は七歳、君は五歳。小さな子の二歳の差は、本当に大きいんだ。

 まだまだ物心つかない君を、少しでも安全な方に。

 お父さんはそう考えたのではないかと、私は思うんだよ」

 

 ヤンは、間桐兄妹に微笑みかけた。

 

「これだって証明しようもないことかもしれないが、

 そういう考えもできると、心に留めておいてほしい。

 その可能性を潰したのが、言峰綺礼なのかもしれない。

 彼を確保し、過去を明らかにし、罪があるなら償わせる」

 

 桜はおずおずと頷いた。

 

「でも、これはあくまで前回の精算だ。

 今回の聖杯戦争の邪魔者は、黄金のアーチャーのみ。

 彼を排除し、聖杯を調査し、使用に耐えるか確かめなくてはならない。

 ということで、キャスター。専門家から続きをお願いします」

 

「では、話を戻しましょうか。その黄金のアーチャーが何者かはわからない。

 でも、真名がなんであれ、サーヴァントはマスターに令呪を握られた存在」

 

 サーヴァントが手強いなら、使役者を狙う。聖杯戦争の定石の一つだ。

 

「マスターからアーチャーの令呪を奪う方法もあるけれど、

 その主従が行動を共にしている時に、マスターに迫るのは難しそうね。

 強いマスターのようだし」

 

 凛は渋い顔で頷いた。

 

「ええ。あいつは代行者だったから、霊体に攻撃する武器がある。

 わたしのアーチャーじゃ無理よ。つまり、今回のマスターたちじゃ無理ってこと」

 

「私の幻影も、宝具の矢の雨ではどうしようもないわ」

 

 必殺の槍一本は欺けても、数撃ちゃ当たるには弱い。

 

「理想としては、令呪に遠隔から干渉できると一番いいのだけれど。

 この術を編んだ者なら、それぐらいは考えたはずだもの。

 それが無理でも、所持者を探知できないかしら」

 

 凛は頷いた。

 

「逆はできるものね。桜の令呪の気配を消して、本にも移せたんだから」

 

 翡翠が藍を睨みつけ、鞄から本を取り出した。今は白紙となったが、ライダーの令呪が記されていた本だ。

 

「これだって、とんでもない術よ。

 他者に移植はできるけど、相手にも魔術回路が必要なの。

 この本に、魔術回路があるとでもいうわけ?」

 

 凛の詰問に、キャスターは心底嫌そうな顔をした。

 

「……あるかもしれなくてよ。その材料が、蟲だったら……」

 

「い、嫌ぁ! やめてよキャスター!」

 

 凛は悲鳴を上げて本を取り落とした。慎二の膝の上に。

 

「うわっ、こっちに寄越すなよ!」

 

 慎二は本を払い落とし、部屋の隅へと蹴りやった。

彼の態度に凛は鼻を鳴らした。

 

「今さら何よ。後生大事に懐に抱えてたくせに」

 

 真っ青になった慎二は、せわしなくズボンの膝を払いながら反論した。

 

「本の材料なんて考えたこともなかったさ!

 ……でも、あのジジイならやりかねない……」

 

 桜がすっくと立ち上がった。客間から出て行く。

 

「さ、桜……?」

 

 凛と慎二の呼びかけにも、小さな背は答えなかった。赤い外套の偉丈夫が、気遣わしげな視線を送った。

 

「大丈夫なのかね、君たちの妹は……」  

 

 あまり大丈夫ではなかった。戻ってきた桜は、マスクにゴム手袋、右手に火バサミ、左手に三重にしたゴミ袋の完全武装だった。マスクの上から覗く目が、完全に座っている。無言のまま、火バサミで床に落ちた本を挟むと、ゴミ袋に突っ込んだ。

 

「キャスターさん、これ、研究しますか?」

 

「え、いいえ、結構よ」

 

 異様な迫力に、さしもの王女メディアも首を横にしか触れなかった。

 

「じゃ、ゴミに出しちゃってもいいですよね?

 ちょうど明日が収集日ですから」

 

 言いながら、一緒に持ってきていた殺虫剤を吹き込み、漂白剤も注いで袋の口をきつく縛りあげる。

 

「……うん、これでよし」

 

 やり遂げた顔になった妹に、かろうじて兄のみが反論できた。

 

「いや、よしじゃないよ! ゴキブリじゃないんだからさ……」

 

「……ゴキブリが死ぬ方法で、殺せない虫なんていません。

 それにいいんです。明日になれば燃えるんですから。

 あ、兄さんも遠坂先輩も、手を洗ってきてください。

 あと、ここ、今から掃除しますから」

 

「そ、掃除って、そんな場合じゃないだろ!」

 

「そ、う、じ、しますから!」

 

 円らな瞳が吊り上がり、姉妹の相似が明らかとなった。しかし、普段が大人しいぶん、迫力は姉の倍だ。桜の剣幕に、凛は妥協案を持ち出した。

 

「じゃあ、わたしも手伝うわ。慎二も手伝いなさいよ。

 みんなでやって、さっさと終わらせましょ?」

 

「そうだね、その方が早そうだ」

 

 桜君を説得するよりも。ヤンの心話に、凛も心中で同意を返す。まったくだわ。

 

「サクラ、私も手伝います」

 

 兄妹のやりとりにおろおろしていたライダーが、救われたような表情で立ち上がった。

 

「私たちまで?」

 

 不服そうなキャスターに、凛は必勝の言葉を持ち出した。

 

「現代の掃除方法を学ぶチャンスじゃないの。これも花嫁修業よ」

 

「やりましょう」

 

 マスターがそう決めた以上、哀れな下僕たちは従うほかなかった。



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69:いつか、蘇る王

 夕刻を迎える少し前、衛宮士郎とセイバー、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが訪れた。弔問とガラスの弁償を口実に、実のところはマスターとしての表敬訪問である。

 

「……なにやってんのさ?」

 

 呼び鈴に玄関の扉を開けたのは、喪服姿のアーチャーだった。

 

「大掃除が始まってしまってね。邪魔だからドア係をしろだとさ」

 

 間桐臓硯が死亡し、喪主となるべき息子は意識不明の重体。似たような経験をした凛は、キャスターに町内会長に連絡してもらった。アーチャーの助言で、新聞に訃報の掲載を依頼する。

 

 先に遺体を火葬し、葬儀は落ち着いたら行なう。故人の意志を尊重して、家族で静かな式にする予定だと。これは穂群原高校にも連絡した。

 

『お孫さんもまだ高校生です。

 二人とも病み上がりで、お通夜ができる状況ではありません。

 弔問は、お気持ちだけ受けさせていただきます』

 

 間桐家は、ほとんど近所付き合いがないが、冬木を代表する資産家だ。二人の孫は高校生だから、学校も関係がある。サーヴァントがうようよしている現状で、弔問客に来てもらっては困る。

 

 一見すると日本人ぽいアーチャーが、玄関の窓口係に任命された。幸い、時臣の遺品の中に喪服もあった。それ以上に、彼は掃除の役に立たなかった。

 

「要するに、葬儀屋のふりをするわけだ。……やれやれ」

 

 アーチャーは肩を竦めるが、ある意味で余人にできない役割である。奥に通されてみると、色とりどりの美男美女が、箒や雑巾を手に立ち働いていた。士郎とイリヤは顔を見合わせた。

 

 ――濃い。濃すぎる。

 

「これほどのサーヴァントが!?」

 

 身構えかけたセイバーだが、自分もメイド服だった。肌も露わな格好で掃除しようとしたライダーは、凛や他の面々の反対によって、慎二のジャージを借りていた。袖とズボンの長さが足りず、少年をむくれさせたものだ。

 

「なんだかなあ……」

 

 尋常な服装をしている分、逆に眼帯がシュールだ。

 

「悪のソシキのキチみたい……」

 

 イリヤの言うとおりだ。怪人赤マントが、怪人青タイツに掃除の指導をしている。

 

「もっと隅々まで丁寧に拭きたまえ」

 

 褐色の指が窓の桟を撫で、白く変色した。白い眉の間に皺が寄り、青タイツに指を突き出す。

 

「そら、埃が残っているぞ」

 

「うるせぇな。いちいち細かい野郎だぜ」

 

「キャスター、部屋の隅の掃除は、細いノズルに付け替えろ」

 

「こ、こうかしら?」

 

 おっかなびっくり掃除機を動かしている、銀髪紫眼の美女だけが現代人の服装をしていた。

 

「……なんだ、これ?」

 

 士郎とセイバーは、揃って眉間に皺を寄せた。イリヤだけがすっきりとした顔になると、ぱちんと手を打つ。

 

「あ、さっきテレビでやってたわ。ヨメとシュートメよ!」

 

「イリヤスフィール、この場合は婿と舅が正しいかと……」

 

 士郎は眉を下げて、頬を掻いた。

 

「いや、セイバーそれはいいから。大掃除ってこれかぁ……」

 

「あ、士郎とイリヤ、いらっしゃい」

 

 一種異様な光景を前に立ち尽くす士郎たちに、バケツを運んできた凛が声を掛けた。凛の後には、雑巾と古新聞の束を持った桜が。

 

「え、先輩……?」

 

 戸惑った顔の桜に、士郎は小さく頭を下げた。

 

「なんか、色々大変だったんだな。

 ……ごめんな。俺、なんにも知らなかった」

 

「そんな、先輩のせいじゃありません」

 

 神秘は秘匿せよ。そのために、沈黙し、耐えるしかなかった。桜が魔術に価値を、いや、魔術師であることの特別性を認めていたからだ。桜はそういうふうに育てられていた。それ以外の考えを剥奪されるほどの苦痛と屈辱だった。

 

 だが、ひたすら受け身でやり過ごそうとせず、凛のようにきちんとマスターになっていたら? 吸血鬼事件は起きず、学校に結界は張られず、ライダーは悪者にならずに済んだ。士郎にも、もう少し堂々と接することができただろう。

 

「わたしがいけないんです。わたし、先輩を騙して……」

 

 まさに会わせる顔がない。桜は、小柄な身長をさらに縮めた。士郎も慌てた。胸の前で忙しなく両手を振る。

 

「や、それは桜だけのせいじゃないぞ。

 俺だって、モグリだったから……」

 

「ええ、まったくね。十年も上納金を踏み倒してくれちゃって」

 

 取り成そうとしたのか否か、傍らの守銭奴がぼやく。士郎はそれを聴覚から追いやると、手を下ろした。

 

「それにさ、俺もちゃんと言っていないことがあったんだ」

 

 そのまま、右手の甲を桜に差し出す。令呪が赤く浮き出た甲を。

 

「俺はセイバーのマスターなんだ」

 

 傍らの金髪のメイドが凛然と一礼した。

 

「私がシロウのサーヴァント、セイバーです」

 

「え……? セイバーのマスターは先輩だったんですか」

 

 驚く桜に、銀髪の少女は両手でスカートを広げ、優雅な淑女の礼をした。

 

「マスターとしては初めましてね、サクラ。

 わたしはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン」

 

 イリヤの背後に、鉛色の死の化身が巨躯を現した。間桐邸の天井の高い、宏壮な造りだから可能だったので。

 

「バーサーカーのマスターよ。

 ライダーのマスターに、始まりの御三家の一員としてお話があるの」

 

「イリヤ、だからそれ、お話じゃない……」

 

 ありていに言って脅迫だ。桜の喉が鳴る。

 

「でも、ライダーのことをわたしは知っているんだから、

 バーサーカーのことをかくすのはヒキョウでしょ?」

 

 正論だ。圧倒的な力を準備する、アインツベルンの戦略そのものは正しい。強大な力を動かすべき頭脳を、奪ってしまったのが間違いだ。それを補うのが、イリヤの役割。そうアーチャーは語っていた。

 

 話せないバーサーカーの宝具は、恐らく常時発動型。安定性に優れる反面、爆発力には難点がある。敵に対して、いかにその弱点を伏せておくか。

 

 最適解の一つが霊体化からの強襲。彼の巨躯と抜きん出た能力は、相手の判断力を奪い、更に優位に立てるだろう。だからイリヤは、彼が充分に動けるスペースがあるか、常に判断するようにと。

 

 無論、戦闘だけでなく、交渉という名の脅迫にも威力を発揮する。

 

「や、うん、そうだけど、でもなあ……」

 

「わたし、セイバーに服を貸して、メイド見習いにしただけだもん」

 

 すまし顔のイリヤは、汚職政治家の答弁みたいなことを言い、士郎と桜を上目遣いで見た。

 

「勘違いしたのは、シロウとサクラが魔術師としてミジュクモノだからじゃない」

 

 士郎とセイバーはラインがきちんと繋がっていなかった。また、ライダーを慎二に託していた桜は、マスターとしての感知能力が凛やイリヤに劣る。

 

 イリヤとセイバーにラインが存在しないことを判別できず、アインツベルンの名もあって、セイバーのマスターを誤認したのだ。

 

「でも、これならわかるでしょう?」

 

 バーサーカーの顕現によって、顔面にまで現れる巨大な令呪。それはイリヤの魔術回路の規模も意味する。すべてにおいて規格外の主従であった。桜は、冷たくなった拳を握り締めた。

 

「……な、なんの話ですか」

 

 固い声で問いかけた桜に、銀髪が丁重に下げられた。続く言葉は、予想外のものであった。

 

「まずは、おくやみを申し上げるわ。

 アインツベルンの一員として、盟友であったマキリ・ゾォルケンに」  

 

「えっ? あ、はい……あの、ご丁寧にどうも」

 

 それは桜の虚を衝いて、あたふたと頭を下げることになった。桜が礼を返すと、イリヤは再び一礼した。

 

「それから、新しいマトウの当主にごあいさつに来たの」

  

「わ、わたし……?」

 

 桜は自分を指差し、目を瞠った。イリヤは軽く首を傾げた。 

 

「魔術を続けるなら、サクラがなるしかないけど」

 

 含みのある言い方に、士郎はイリヤに問い掛けた。

 

「辞めるんなら、桜でなくてもいいのか?」

 

「うん。でも、やめたらどこかの魔術師に襲われちゃうよ」

 

「襲われる? なんだってまた!?」

 

「……ライダーが言っていたのはそういうことだったんですか!?」

 

 士郎と桜は驚きの声を上げ、凛は眉を寄せて頷いた。妹と友人の声に奥から出てきた慎二は、イリヤが繰り返した言葉に鼻を鳴らした。

 

「ここは霊地だから、魔術師にとって、人殺しをしてもうばう価値があるの」

 

「だから、魔術をやめたら襲われるって? 

 はっ、自分が死ぬとは思わなかったジジイのミスだね。

 僕を見限って、遠坂から養女を迎えたらこの有り様か。

 自分から乗っ取られたようなものじゃないか」

 

 ざまを見ろと言わんばかりの台詞だが、臓硯の所業を思えば、凛もたしなめることはできなかった。口にしたのは別の警告である。

 

「慎二、あんただって他人事じゃないのよ。

 あんたは間桐の血を持ってるし、知識だってそれなりにあるんでしょ?

 実験材料にされて、脳みそを引っこ抜かれるかもしれないわよ」

 

 慎二は唇を噛み、桜は両手で口を覆った。

 

「それはそのまま、桜にも言えることだけど」

 

 いや、もっと悪いかもしれない。桜は強大な素質を秘めた魔術師で、しかも女だ。姉の贔屓目なしに、美少女でスタイルも抜群。どんな目に遭わされることか。臓硯の蟲のほうが、まだましな事態だってありうるのだ。

 

「魔術を続けるにしろ、辞めるにしろ、アインツベルンには協力してもらうべきよ」

 

 孤高の大家アインツベルンというが、それを可能にするのは莫大な財力である。凛は、すんなりした親指と人差し指で丸を作った。

 

「わたしのアーチャーによると、戦争は財力がものを言うんだそうよ」

 

 慎二は怪訝な顔になったが、負けじと言い返した。

 

「それがなんだっていうんだよ」

 

「あんたたちのおじいさんは亡くなったわよね。

 遺産相続が片付くまで、おじいさんの貯金は動かせないわよ。

 魔術協会に時計塔、お金でなんとかするのも限界があるんじゃない?」

 

「あっ!」

 

 間桐兄妹は同時に声を上げた。まさに盲点だった。二度も喪主をやり、二回目は自分が唯一の相続人になってしまった凛ならではの指摘だ。

 

 怪我する前から酒浸りだった父、鶴野は臓硯の事務所の役員ということになっていた。これは名目のみの役職で、祖父の収入から、父の給与が支払われていた。その貯金はあるが、臓硯の相続が片付くまでは、給与が入ってこないということだ。

 

 更に入院費用を支払い、二人の生活費と新年度の学費。脳内で算盤を弾いた間桐家の主婦は青褪めた。

 

「兄さん、そっちをどうにかするなんて、絶対無理です。

 父さんの個室料、一日一万円もするのに……」

 

 部屋の隅で様子を伺っていたランサーは、思わず呟いた。

 

「……生々しい話じゃねえか、おい」

 

 この騒ぎに、サーヴァントたちは掃除の手を止めていた。

 

「あの蟲を生かしといたほうが、幸せだった奴が多いってわけかよ」

 

 エミヤには答えられなかった。幸せになる者が多いなら、一人の不幸は切り捨ててきた。自分を含めて。

 

 穏やかな声が流れた。

   

「いや、それは違う。

 一人が全員を搾取し、本来全員が手にすべき物を独り占めしていただけです。

 彼らは、おこぼれで生かされてきた。

 しかしこれからは、自分の力で掴み取っていかなくてはなりません」

 

 その声は決して大きなものではなかったが、少年少女らの耳に届き、心を震わせていく。

 

「前よりも大変に思えるかも知れない。でも、その苦労は、自由と等価なんだ。

 自分がどんな人生を歩むか、自分以外に選択する権利はない。

 どんなに凄い魔術師も、英雄も、決して君たちの代わりにはならない」

 

 民主主義は英雄を否定する。その民主主義を守護して、戦い抜いた英雄。それは大いなる矛盾だっただろう。彼の言葉は、英雄である自分を否定しているが、セイバーはようやく彼が理解できたような気がした。

 

 人の価値が異なる国と争った、人間の平等を掲げる国の軍人。彼は何度もそう言っていた。自分と他人の価値は平等であると。自らの足で立ち、他人と助け合い、歩んでいくのが彼の理想。国を一人で背負っていたセイバーとはまったく違う。しかし、目指す先は同じだった。

 

 ――みんなが幸せに、自分らしく生きられる国を。

 

 王として、一人で理想の国を作ろうとしたセイバーと違うのは、国民自身が判断し、選択して作っていくという方法だけだ。無力だった民が、その生をリレーして豊かになり、学んで力を得た。

 

 あれからセイバーは寝食を惜しんで、図書館から借りた本を読みふけった。時には士郎の教科書や参考書を動員し、聖杯の囁きに耳を傾けて。そして、セイバーは知った。

 

 ブリテンと現代は、時の河の上流と下流の関係だった。大河も濫觴(らんしょう)に始まる。セイバーの治世は、その一滴。

 

 現代のイギリス人は、蛮族であったアングロ・サクソン系である。しかし、国土を守ろうとした彼女の奮闘を讃え、今も国を守ってくれていると信じている。

 

 最後の戦いの傷を妖精郷で癒やし、国家存亡の危機にふたたび彼は現れるだろう。いつか蘇る王、アーサー・ペンドラゴンと。

 

 セイバーは、失った鞘の代わりをとうに手にしていたのだ。語り継がれる不朽の名声、歴史の記録、人の記憶に刻まれる真の不死。

 

「……あなたの言うとおりです、アーチャー」

 

 セイバーは一度瞑目し、金色の睫毛を上げた。

 

「私の願いは、よりよき王の選定でした。しかし、やろうと思えばできたのです。

 我が子とは認めがたいが、彼は力ある騎士だったのだから。

 認められずに手にかけ、自分が死ぬ時になって、

 譲るべき者を失ったことに気付いて……すべてのやり直しを求めた。

 未来を求めるには手遅れだったから」

 

 緑柱石が白露を結び、ほろほろと雫をこぼす。

 

「私は愚かでした。勝手に作られた子に、嫌悪感しか抱けなかった」

 

「……無理もないと思うぞ。セイバーのような目に遭ったら、俺だってそう思う」

 

 これは士郎の本音だ。でも、セイバーの涙を止める役には立たなかった。

 

「では、女の私が妻とした王妃は!? もっと耐えられなかったのも無理はない!」

 

 彼女は臣下と密通し、それが円卓を割ることに繋がった。当時は考えもしなかったが、歴史を調べるうちに理解した。女同士の偽りの結婚では、当然子どもは生まれない。子を成せない女に価値のなかった時代だ。どれほど苦しみ、傷ついたことだろうか。

 

「シロウにイリヤスフィール、そしてリン。ライダーのマスターたち。

 あなたたちは、私のようになってはいけない。

 偽りで固めていても、必ず綻び、取り返しがつかなくなる」

 

 セイバーの告白にアーチャーは頷いた。 

 

「そのためにも、この聖杯戦争を無事に生き延びるんだ。

 ろくでもない戦いだからこそ、勝たなければ意味がない。

 その勝利だって、君たちの未来に比べれば大したものじゃないがね」

 

 凛は目を瞠った。

 

「……勝てるの?」

 

 アーチャーは髪をかき回した。

 

「戦場に至るまでの戦略は固めた。

 敵より多くの味方を集め、敵の補給線を断つ。これが第一段階」

 

 エミヤは微かに息を飲み込んだ。戦略では負けっぱなしだったが、戦術で負けたことのない不敗のヤン。そんな彼が、戦略的にも優位な状況を構築したのだ。

 

「そして、次のピースも揃ったよ。なんとか勝算が立てられそうだ。

 さあ、始めるとしよう。では頼むよ、士郎君」




※濫觴:杯を満たすほどのわずかな水流の意


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11章 七騎同盟
70:とある英霊の物語


「そして、次のピースも揃ったよ。なんとか勝算が立てられそうだ。

 さあ、始めるとしよう。では頼むよ、士郎君」

 

「へっ?」

 

 アーチャーに名を呼ばれた士郎は、間抜けな声を漏らした。赤い外套の偉丈夫が眉間に皺を寄せ、士郎の誤解を正す。

 

「たわけ、貴様ではない」

 

 彼と士郎は初対面同然である。なのに、この言いぐさはなんだ。士郎はさすがにカチンとした。

 

「なんで、おまえにそんなこと言われなくちゃならないのさ!」

 

 士郎の抗議には応えず、鋼の色が喪服の青年に視線を転じた。

 

「あなたも存外に人が悪い」

 

 のほほんとした顔で、爆弾を投げ入れるのだから。アーチャーことヤン・ウェンリーは、微かな笑みを浮かべた。

 

「隠していては、ためにならないと思ってね。

 セイバーが言ってくれたように、君も自分の言葉で伝えるべきだ。

 それとも、私のマスターが言ったほうがいいかい?」

 

 ランサーの宝具をも凌ぐ、急所を捉えた一撃だった。アサシンことエミヤシロウは溜息を吐いた。

 

「……それは勘弁していただきたいものだな」

 

 言いながら俯くと、前髪をかき乱し、再び顔を上げる。凛を除く少年少女たちが、一斉に目と口を満開にした。姓に名、あるいは年齢差を示す呼称で、口々にアサシンを呼ぶ。最も驚愕した者が、一人称を口にした。

 

「お、俺……!?」

 

 士郎よりずっと丈高く、逞しく、男性としての理想ともいえる体格。浅黒い肌と対照的な銀色の髪と瞳。しかし、秀でた額に前髪がかかると、少年の面影が明らかになった。

 

「そうだとも言えるが、違うとも言える。

 私は衛宮士郎の可能性の一つだ。

 『正義の味方』を目指した、魔術使いの成れの果てだ」

 

 自嘲の滲む口調に、エミヤの旧友の眉間に皺が寄った。

 

「で? サーヴァントとして呼ばれたってことは、

 聖杯戦争に勝利して、英雄になったってわけか?

 僕たちを見て、さぞや馬鹿にしてたんだろう!?」

 

「兄さん!」

 

 義妹の制止にも、慎二の糾弾は止まなかった。

 

「だってそうだろ? 聖杯戦争で死んでたら、そんなにでかくなりゃしない!」

 

「うー……」

 

 士郎は複雑な心境になった。琥珀を眇め、サーヴァントとなった衛宮士郎を眺め回す。やや小柄な自分よりも優に頭一つは高い。

 

 過去の自分を見下ろすエミヤの内心も、混沌としたものだった。しかし、重ねた年齢の分だけ、エミヤには余裕があった。

 

「確かにな。そう思われるのも仕方がなかろう。

 しかし、私が経験した聖杯戦争は今回とかなり異なっている。

 まず第一に、私の時のアーチャーはこの人ではない」

 

 磨り減って薄れかけた記憶の中に、未だ残っている鮮烈な色。月光の下、校庭で激突する赤と青。迫り来る青い死神が、真紅の槍で心臓を突き刺した。それは衛宮士郎が死んだ日の記憶。

 

 そして、蘇った日の記憶。鮮血に塗れた目覚め。転がっていた宝玉は、己の血よりも赤いルビー。

 

 家に帰り着いて間もなく、再び来襲した青い騎士。絶体絶命の危機に、風が鈴の音とともに舞い降りた。銀と蒼、黄金と聖緑の、夢幻のごとく美しい少女であった。

 

 鉛色の巨人を従えた銀雪の妖精。赤く歪んだ結界を跳梁する、長い紫の髪。夜空に舞い上がる黒の魔女。捩れた剣の矢を射る、赤い弓手の広い背中。

 

 士郎の目が見開かれた。

 

「全然違う……。俺はあの日、弓道場の掃除して、普通に家に帰ったぞ」

 

 イリヤが気まずい顔になった。

 

「うん……。死にそうにはなったけど……。

 それは、わたしとバーサーカーのせいだし」

 

 ランサーは腕組みした。彼の表情も冴えない。

 

「おうよ。一戦交えるどころか、すぐさま俺の正体を見抜きやがった。

 ゲッシュを持ち出されてはな……。こいつが弱いと油断した俺が悪いんだが」

 

 残念そうなランサーに、ヤンは眉を下げた。

 

「あのですね、私があなたと戦えると思いますか?」

 

「おまえの宝具は中々のものじゃねえか」

 

「秘匿を旨とする聖杯戦争で、あんな代物を学校で使えますか。

 学校というところは、どこに人目があるかわからないんですよ」

 

 ヤンの言葉に、エミヤは眉間を揉んだ。同じく凛も。

 

「ええ、本当にそのとおりよ。

 私のアーチャーがエミヤシロウでなかったから、

 ランサーが士郎を殺さなかったから、今の状態になったと思うの」

 

「炎を生き延び、養い親に宝を託され、理想を受け継いだ。

 英雄に与えられた死、魔術による蘇生。

 そしてセイバーを召喚し、共に戦い、やがて戦士へと至る。

 それは英雄譚というのよ」

 

 キャスターが、歌うように赤き従者の物語を紡ぐ。  

 

「惜しいことね。

 おまえがいま少し過去に生まれていたなら、星に認められたことでしょう。

 ランサーによる死は、坊やがこの男になる契機だったはずよ」

 

 現在と未来の衛宮士郎が愕然とする。琥珀と鋼色の凝視に、神代の魔女は優雅に肩を竦めた。

 

「死んだはずなのに生き返り、セイバーが顕現した後は、

 鞘の加護で限りなく不死に近い。

 年端も行かぬ若者が、向こう見ずになるには充分でしょう?」

 

「でも、俺は戦ったことなんてないんだけど」

 

 士郎の反論に、エミヤが片眉を上げた。

 

「だから貴様はたわけだというのだ。

 それが誰のおかげか、少しは考えてみろ」

 

 士郎はムッとした。これが自分の未来図だなんて思いたくない。実際、自分そのものの未来ではないんだろう。アーチャーとランサーは校庭で戦っていないし、だから士郎もランサーに殺されていない。バーサーカーにはやられたが、セイバーとランサーの戦いで、セイバーは負傷していない。ライダーとランサーにはアーチャー主従が対応している。決して強いと言えないアーチャーが、強力なサーヴァント二騎と戦って負けていない。

 

「あ……。そっか、アーチャーのおかげなんだ……」

 

 もう一人の衛宮士郎が語る、華々しい聖杯戦争に憧れないといえば嘘になる。しかし、その頻度で連戦したら、へっぽこな自分とセイバーが潰れるのは目に見えていた。黒いアーチャーより、ずっと強い赤のアーチャーと凛の主従と同盟したとしても。

 

「あれ? 待ってくれ。その聖杯戦争のアーチャーは、赤い服……。

 まさか……」

 

 褪せた白い髪が、微かに下がった。

 

「恐らくはそうだろう。今の状態が配役違いで起こっていたわけだ。

 ちなみに私が遭遇した柳洞寺のアサシンは、佐々木小次郎と名乗っていたぞ」

 

 全く同時に、三つの斬撃を繰り出す、魔法の領域に到達した剣術の天才だった。それを聞いたランサーが、口惜しそうに呟く。

 

「てめえも面白い戦いをする奴だが、そいつとも手合わせしたかったぜ……」

 

「大変な強敵だったがね。剣の腕は、セイバーをも凌いでいただろうな。

 その剣技だけで、ランサーとバーサーカーに門前払いを食わせたのだから」

 

 アーチャーまで羨ましそうな顔をした。是非、観戦したいと思ったに違いない。呑気な連中に、間桐家最後の直系は額に青筋を立てた。

 

「おい……。この聖杯は、西洋や中近東以外の英霊を呼べないんだぞ。

 佐々木小次郎だって? 日本人で、しかも架空の存在だろ。

 この衛宮だって似たようなもんさ。ルール違反だぞ!」

 

 睨み付ける慎二に、キャスターは嫣然と微笑んだ。

 

「魔術師がサーヴァントを呼ぶのがこの戦争のルールではなかったの?

 未来の存在を呼んだことを非難するなら、アーチャーのマスターも同罪よ」

 

 当のアーチャーのマスターは、アサシンの語る遠坂凛に複雑な気分だった。

 

「こいつを呼びたくて呼んだわけじゃないけど、

 でも弱いからこそ、いいこともあったのよ」

 

 凛は服の上から、家宝のペンダントを握り締めた。

  

「わたしは、士郎を死なせずに済んだのね」

 

 このペンダントが壊れ、修理に出していたから、万暦赤絵の壷を触媒にヤン・ウェンリーが召喚された。彼はランサーと戦わず、士郎は死なず、ペンダントは違う者を蘇らせた。卵が先か、鶏が先かという問いのようだが、このペンダントは英霊エミヤに繋がっていなかったのだ。

 

「その遠坂凛の気持ち、わかるわ。

 士郎を死に追いやったことを、ずっと負い目にしてたと思う」

 

「ああ、きっとそうだろう。

 俺の知る遠坂は、素直じゃないくせに、俺のために命を賭けてくれた。

 自分のサーヴァントを犠牲にしてまでな」

 

 長身で逞しく、端正な容貌の英霊エミヤの言葉は大層な破壊力だった。彼が語っているのは、凛ではない凛だ。頭では理解していても、感情が追いつかず、凛の頬に一月早く桃の花が開花する。

 

 それを見た慎二は、波打つ髪を振り立てた。

 

「ああ、もう、おまえの惚気はいらないんだよ!」

 

 残りのマスターの反応は、三者三様であった。イリヤは、士郎の袖にぶらさがるようにして訴えた。

 

「やだ、シロウってば、オンナタラシになっちゃってる……。

 ぜったいにあんなふうになっちゃダメなんだから!」

 

「安心してくれ。俺は絶対にああはならないから」

 

 未来の自分だというアサシンを睨みながら請け負う士郎に、桜が血相を変えて詰め寄った。

 

「先輩、本当ですか? 本当ですね!? 約束ですからね!」

 

「お、おう」

 

「よかった……」

 

 胸を撫で下ろした桜は、主従であったかもしれない二人に冷ややかに告げた。

 

「姉さんとアサシンさん、そういうのは後にしてください。

 あと、できるだけ、わたしの見えないところでやってくれませんか」

 

 サーヴァントらは何も言わなかったが、視線に温さを増した者が三名、動揺を滲ませたのは一名。目を隠したライダーと、姿を消しているバーサーカーは不明だ。

 

 慎二は激しく後悔した。こんな争いに首を突っ込むのではなかった。魔術師としての栄誉ある闘争どころか、きょうだい喧嘩とのろけ合戦じゃないか。

 

 しかし、時すでに遅し。もはや頼れるのは自分のみだ。脳内に花を咲かせた連中を放置し、エミヤに迫る。

 

「もっと役に立つ情報を寄越せよな」

 

 慎二の要求に、エミヤは咳払いをしてから口を開いた。

 

「とはいえ、私の経験した聖杯戦争とあまりに異なるのは理解できるだろう。

 ライダーとキャスターの悪事は、こんなにすぐには終息せず、

 ランサーのマスターもなかなか割り出せなかった。

 イリヤは完全に敵で、遠坂と同盟を組んだのはそのせいだ」

 

「もったいぶらずに結論から先に言えよ。

 まずは、アーチャーが疑っている、第八の主従が本当にいるのか」

 

 エミヤは苦く溜息を吐いた。この友人が、鋭くて探し物が得意だったこともすっかり忘れていた。自分の世界の間桐慎二は、聖杯戦争で落命したのだった。

 

「私の場合はいたがね。

 もっとも、我々の前に姿を現したのは、多くのサーヴァントが脱落してからだ」

 

 アーチャーは頷いた。行儀悪く片膝を立て、そこに肘を付いて顎を支える。 

 

「だろうね。そのほうが戦略的にも正しい」

 

 卑怯だと言いかけた士郎は、機先を制される形になった。

 

「そうなのか……」

 

「戦いは易きに勝つのが基本だよ。

 聖杯の中身が脱落したサーヴァントである以上、器が空では意味がない。

 脱落者が増え、中身が満たされると同時に、競争相手も減っているわけだ」

 

 エミヤは無言で頷きを返す。冷徹な言葉だが、黄金のサーヴァントはそういう考え方をする敵だった。

 

「ああ、当時の私にはわからなかったが、あなたの言うとおりだ。

 遭遇した時点では、あの男の真名もわからなかった。

 まもなく戦いとなり、連戦で消耗していたセイバーは相打って消えた。

 彼女の願いも叶えることはおろか、心を救うこともできなかった」

 

 口調が重苦しい。凛は眉を顰めた。

 

「ちょっと待ちなさいよ。あんた、

 黄金のアーチャーを知っているような口ぶりだったじゃないの」

 

「当時の、と言っただろう」

 

 黒い瞳が瞬いた。

 

「ではその後に、黄金のサーヴァントを知るチャンスがあったのかい?」

 

「生き残った私は、自分の魔術の研鑽に励んだ。

 皮肉なことに、あの男の宝具が大いに参考になった。

 無数の剣を……メロダックを、グラムを、ダインスレイフを持つ英霊だった」

 

 ランサーの瞳も瞬いた。

 

「何だそりゃ? ずいぶんと無節操なこった。

 山ほど剣を持ち歩いたって、戦場では邪魔なだけだろうによ」

 

「それは、あの男の本質が、戦士ではなく王だからなのだろう」

 

 金の髪が頷き、エミヤの証言を裏付ける。

 

「ええ、そうです。自らを高名な王と称していた。

 聖杯とて、己の財の一つだと言って憚らなかった。

 ライダーには心当たりがあったようだが、私には……」

 

 見当がつかなかったし、知りたいとも思わなかった。セイバーの王道を嘲弄したうえ、肉欲を向けてくる男だ。あの最悪な男が、現界しているのかもしれない。うそ寒くなったセイバーは自身を抱きしめた。

 

「で、誰なんだよ?」

 

 単刀直入な問いを発したのは、またも慎二だった。

 

「世界最古の王、ギルガメッシュではないかと私は推測している」

 

 エミヤの言葉に、ヤンは顎を上げた。

 

「……どうやら、ピースの一部が繋がったようだ」 

 

 無数の宝具を持ち、聖杯は自らの財と主張する黄金の王。アレクサンドロス(・・・・・・・・)ではなく、イスカンダル(・・・・・・)が英雄と認めた王。イスカンダルは、アレクサンドロスのアラビア語読みだ。アレクサンドロスが、古代ペルシアを征服したことで、そう表現されるに到ったのだが。

 

 古代ペルシアの版図には、ギルガメッシュ王の治めた地が含まれるのである。メソポタミア文明は、王朝の交代を経て、長く繁栄した。やがてウルクは衰退し、バビロニアが取ってかわる。首都バビロンは、旧約聖書に奢侈と虚栄の象徴として、真紅と黄金の淫婦と表現されている。

 

「強いのも頷けるよ。古いほど神秘が強くなるんだろう。

 数は力だ。凛たちのお父さんは、必勝の準備を整えていたんだね」

 

 姉妹は顔を見合わせた。なんて皮肉。その努力でも時臣の命は守れず、今強敵となって牙を剥こうとしているのか。

 

「そんな呑気なこと言わないでよ。どうするのよ!」

 

 語尾を荒らげたマスターに、黒いアーチャーは不器用に眉を上げた。

 

「どんなに強いサーヴァントも、頭は一つで手足は二本ずつだ。

 マスターも同様だ。この人数を活かさない手はない」

 

 それから、魔術師ヤンがベレーの中から取り出したのは、生前果たせなかった戦略構想の一つであった。



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71:サーヴァント・ソープオペラ

 二月初めのマウント深山商店街は、夕食の準備時にも関わらず、閑散としていた。そこここに警察官が立ち、反比例して親子連れや子どもの姿がない。児童が監禁され、虐待を受けていた件で、神父の言峰綺礼が指名手配となったためだ。言峰には、十年前の連続誘拐殺人の容疑も掛けられていた。

 

 そんな中で、美女と美少女の姿はことさらに目立った。長い黒髪をなびかせているのは、地元の名士、遠坂家の令嬢。物珍しげに、並んだ店を見渡しているのは、死去した間桐翁の遠縁の女性だという。

 

 長男が入院して、手が足りないからと間桐家の兄妹の世話役を頼まれだが、臓硯と連絡が途絶えてしまった。心配して来てみたら、臓硯は死去、子どもたちも祖父を襲った感染症で入院していた。

 

「悲しむというより、ただただ驚きましたわ。

 こちらの凛さんに病院でお会いして、色々と助けていただいて」

 

 これは、話好きな花屋の女主人が、世間話の端々から得た情報である。青みがかった銀髪に、深い青紫の瞳。名画の女神のような美貌の持ち主で、淑やかで知的。日本語が非常に達者である。商店街の面々が好感を持つには充分だった。

 

 次に現れたのは、黒髪の青年に伴われた青い髪の長身の美男子だった。年齢はそれぞれ、大学の低学年と高学年といったところだろうか。年少の黒髪の青年のほうは、中肉中背でごく普通の容貌だったが、年嵩のほうは長身に青い髪と赤い瞳、耳にはピアス。友人であることが、少しばかり不思議な取り合わせである。

 

 彼らは街角のコーヒースタンドに入ると、着席もそこそこに、黒髪はテーブルに地図を広げ、蒼髪は手にしたカメラを操作した。

 

『あの山は臭えが、何日も籠もれるもんか?』

 

 籠城に必須なのは水と食料だ。

 

『湧き水ぐらいはあるかもしれんが、食えるような鳥や獣は見当たらねえ。

 今は冬だから、草木も枯れてる。火を焚くと隠せねえぞ』

 

 サバイバビリティ溢れる台詞に、落ちこぼれ軍人が苦笑する。

 

『それがね、山になくても平気なんですよ。

 現代は水と食料品の調達も備蓄も容易です。

 もっとも、今あそこにいたら、余計に籠もるしかないでしょうがね』

 

『違いねえや。ニホンのケイサツってのは大したもんだ。

 早速、山狩りしてるんだもんな』

 

 双方が口にしているのは、母国語であった。ランサーことクー・フーリンは、アイルランド語の母体となった言語。アーチャーことヤン・ウェンリーは、英語を元に発展した自由惑星同盟公用語だ。聖杯の加護なき一般人には、英会話っぽく聞こえる。留学生と、英語のうまい日本人学生にしか見えない。

 

 運ばれてきた紅茶をヤンは一口啜り、残念そうに首を傾げた。

 

『うーん、やはりこういうところのは、時代が違っても味に差がないものだなあ』 

 

『……俺には坊主の淹れたヤツと違いがわからん。

 それより、呑気に茶なんぞ飲んでる場合か?』

 

 ヤンはカップをテーブルに戻した。

 

『第四次のアーチャーがいるなら、私と同様のクラススキルを持つはずです』

 

 思いがけない言葉に、今度はランサーが首を傾げた。

 

『単独行動ですよ。彼の容貌は公になっていない。

 いくらでも言峰神父と別行動がとれるんです。

 金さえあるなら、ホテルやマンションに住んでいても不思議はありません』

 

 ランサーは舌打ちすると蒼い髪をかき回した。

 

『あ……、それがあったか!

 秘匿した戦さだから、この時代の豊かさで抜け道を作れるってわけだな』

 

『まったくですよ。戦時国家なら、異国人にこんなに寛容ではありません。

 だが、この国はやはり異国人が少ないんです。

 あなたがたのように、髪や瞳の色の異なる美男美女は大変目立ちます』

 

 そういえば、黒や茶の髪の男女ばかりだ。金髪の者もいないことはないが、顔立ちの骨格そのものが違う。

 

『彼は非常に美しい、目立つ容貌だそうですね。

 私以外の、他のサーヴァントと同様に』

 

 彼らが最も執着するであろう、衛宮士郎とセイバー主従。聖杯の器たる、イリヤとバーサーカー。彼らも、そろそろ街へ繰り出してくる頃だろう。

 

 自身もサーヴァントだが、ランサーとアサシンを擁するキャスターは、聖杯戦争の中核を担っている遠坂凛と同道し、間桐邸はライダーとアサシンに守られている。その二人も、衣服などの準備が整ったら、人間として行動してもらうつもりである。キャスターの従妹と、イリヤを連れ戻しにきたアインツベルンの使用人として。

 

 これからのシナリオに、ランサーは目を眇めた。

 

『どっちの坊主も貧乏くじだな……。俺まで身につまされるぜ』

 

『身につまされるのは、私も同じですよ。

 好きでやってるわけじゃなくて、彼を配せるのがあそこだけなんです』

 

『まあな』

 

 ランサーは頬杖をついた。二人の学友を装うには、二十代後半のアサシンは不自然だ。凛にはアーチャー、間桐兄妹にはキャスターとライダという『親戚』がいるので、

これ以上の増員は無理。それはわかる。――だが。

 

『で、アーチャーよ、何が狙いだ?

 人間のふりをせずとも、霊体化しとけば済むことだろうによ』

 

『んー、我々が同盟し、マスター間の停戦がなったということの表明と言いますか』

 

 柘榴石の視線に促され、アーチャーは紅茶の紙コップを置いて続けた。

 

『アサシンのマスターはキャスターですが、教会には届け出ていないそうです』

 

『そりゃそうだろう。掟破りをわざわざ教えるはずがねえ』

 

『だが、教会には、サーヴァントの顕現を探知する機器があります。

 マスターは不明でも、アサシンの出現は知られている。

 そのアサシンが、士郎君たちの関係者として現れるのは、

 彼のマスターが停戦に合意し、彼もそれに同意したということです』

 

『ほう、それがどうした?』

 

 ランサーの相槌に、アーチャーはうっすらと笑みを浮かべた。文脈は大違いだが、後輩がよく口にした台詞だった。

 

『このままでは、第二次聖杯戦争の再現ですよ。

 召喚した英霊が戦わず、タイムオーバーになった。

 当然、聖杯も現れない』

 

『それで令呪が作られた、だろ?』

 

 アーチャーは頷く。 

 

『ええ、そこが違います。

 令呪があるのに、マスターが戦わせる気がないということですから。

 聖杯を欲する者には逆に厄介ですよ。

 任意で出来レースに移行できるでしょう?』

 

『……次から次へと悪どいことを考えつくな。

 おまえの頭の中はどうなってんだ?

 あいつは外道だが、本気で聖杯を欲しているようには感じられなかった。

 本気なら、偵察して撤退せよと令呪で命じねえだろう』

 

『言峰神父の願いは分かりませんが、『彼』はセイバーに言ったそうです。

 聖杯は彼の財であり、それを取り戻すのだとね』

 

 人畜無害そうな顔をして、言葉の奥に正反対の意思がある。ランサーは呆れ顔になった。

 

『取り戻したかったら、俺たち全員が相手だっていうことだな?

 おまえが一番喧嘩を売ってるじゃねえか!』 

 

 アーチャーは眉を下げた。黒髪をくしゃくしゃにかき回す。

 

『せいぜい高値で買ってくれるといいんですが……。

 それよりなにより、彼らに出てきてもらわないと話になりません。

 我々の同盟に脅威なり、興味なりを抱かせるぐらいしか方法がないんですよ。

 残り一週間ちょっとではね』

 

***

 

 翌朝、冬木駅前に長身の美女が現れた。すれ違う者が男女を問わずに振り返る、絶世の美貌と黄金律の肢体の持ち主だった。冬の朝日に、長い髪が紫水晶の輝きを発する。

 

 メタルフレームの眼鏡さえも、怜悧さを引き立たせる絶妙のスパイスだ。服装は喪服であった。女性を美しく見せると言われるが、その効果は絶大で、彼女が乗り込んだタクシーの運転手は、白日夢を見ているような気分だった。

 

 彼は事故を起こさぬように、必死で安全運転に努め、向かった先は坂の上の間桐邸。

本来は凝った造りの洋館なのだが、老人と、酒浸りの息子、まだ高校生の孫二人という家族構成のせいで、最近は手入れが行き届かない様子だった。伸び放題の樹木に、塀や壁の煉瓦はヒビや苔が目立ち、お化け屋敷と化していた。

 

 それがどうだ、よほど腕のいい庭師と大工をいれたのか、往時の美しさを取り戻している。出迎えたのが、乗客にどことなく似通った、甲乙つけがたい美女。お伽話の一幕のようだった。運転手は昼の休憩で、同僚に朝の幸運を語った。

 

「いや、そりゃもう別嬪なお客さんだったよ。

 この世のものとも思えないぐらいの美人って、いるものなんだなぁ……」

 

「いや、最近はわりと見かけるぞ。別嬪な外人さんさ。

 藤村の親分の隣の家に、銀髪と金髪の美人が出入りしてたろ」

 

「あ、あのリムジンのか! やめてほしいもんだよ。

 あんな狭い路地にまで入っくるんだから」

 

「そうそう、新都の広い道ならともかくな。

 あ、そういや、この前、新都のホテルまで

 宝塚の男役スターみたいな美人を乗せたよ。

 半月くらい逗留するって言ってたが、あれからお見限りで残念だ」

 

「へえ、男装の麗人かい? そりゃ見てみたいもんだ」

 

 最初は、他愛のない雑談だった。

 

「あんた、冬木ホテル前をよく担当するだろ?

 背が高い、ショートカットの赤毛の美人だよ。泣きぼくろが色っぽい。

 見かけたことあるんじゃないか?」

 

 冬木ホテル前担当者は、眉を寄せ首を振る。

 

「……いや、心当たりがない。

 わざわざ冬木まで来て、缶詰になるほどのホテルじゃないんだがなあ」

 

「どこかにホームステイでもしてるのかね?」

 

「それなら、食い物屋か商店街で評判になりそうなもんだが。

 昨今物騒だからな……。念のため、冬木の生安にでも伝えとくか」

 

 思わぬ方向に転がり、池に落ちた小石は波紋を広げていく。 

 

***

 さらに半日後。長い職員会議が終わり、へとへとになった藤村大河は、校門の前に黒いリムジンが横付けされているのに驚いた。

 

「あ、あれ!? イリヤちゃん?」

 

 車の窓が開いて、白銀の妖精が顔を出す。

 

「タイガ、お疲れさま。危ないから、お迎えに来たのよ」

 

「イリヤちゃんが?」

 

 そりゃあ、藤村組の黒塗りベンツよりはいいかもしれないが、後ろから歩いてきた学年主任と同僚の葛木教諭の無言が痛い。

 

「あのね、タイガに助けてほしいの。

 おじいさまに言われて、シェロが来ちゃったの」

 

「シェロ? だあれ、その人?」

 

「うちのシツジ。まだなんにもキリツグのこと調べていないのに、

 わたしのこと連れて帰るっていうの!」

 

「ええーーっ!?」

 

 背後で学年主任と葛木が囁き交わす。間桐への弔問はどうするかと葛木が問うと、学年主任は顎をしゃくった。

 

「……ほら、衛宮の親父さんの隠し子騒動。新局面らしいな。

 間桐の家から辞退の連絡があったし、藤村先生は部活の顧問だ。

 この際いいとしよう」

 

 大金持ちのお嬢様のゴリ押しで、衛宮士郎には金髪のメイドが監視に張り付き、なにやら気の毒である。トイレの前まで彼女がついてくるのだ。率直に言って、学校としても迷惑だった。

 

「話をまとめて帰ってくれるなら、ありがたいじゃないか。

 衛宮だって自分のせいでもなし、あれは可哀想だよ。

 藤村先生には、あちらに行ってもらおう」

 

「……そうですか」

 

「それにな、藤村先生の格好。

 どっちみち着替えに帰ってもらうつもりだったんだ」

 

黒いパンツはいいとして、白いダウンジャケットに黄色と黒のボーダーのセーターは弔問に相応しくない。

 

「今夜は通夜じゃないし、葬式は後にするそうだけど、あの服はちょっとな」

  

 これには葛木も頷かざるを得なかった。

 

「は、では、そういうことで……」

 

「じゃ、藤村先生、衛宮の家のことは頼んだよ」

 

「ええぇーーっ! そ、そんなぁ……」

 

 大河だって、今はちょっと衛宮家に出入りしたくない気分なのだ。初恋の相手には、内縁の妻と隠し子がいた。その娘の可愛らしいこと、奥さんがどれほど美しかったかを雄弁に語ってくれる。

 

 服装も裕福で、言動も上品だ。変な日本文化に染まりつつはあるけど。イリヤの大人バージョンと、女として張り合っても勝ち目はゼロだ。

 

 幸いにもイリヤは懐いてくれて、請われるがままに切嗣の思い出話をするのだが、かつての乙女心と、今の女心に大きな痛手である。まだまだ吹っ切っていないことを再認識して、辛くてしんどい。

 

「ね、ねえ、士郎はどうしたの?」

 

「あのね、一番もめちゃってるのは、シェロとセラなの……」

 

「ああ……」

 

 これは逃げられない。お嬢様至上主義と言わんばかりのセラと、当主の命でやってきた執事では、対立もするだろう。無口なリズと新入りのセイバーでは、とりなしようがなかったに違いない。お人好しの士郎が仲裁役を買って出て、双方から集中砲火を食らうのが目に浮かんだ。だからイリヤはリズを運転手にして、助けを求めに来たのだろう。

 

「うん、じゃあ、おねえちゃんもイリヤちゃんの味方になるよ」

 

「ありがと、タイガ」

 

 そんな大河だったが、衛宮家に帰り着き、水際立った男ぶりの執事に圧倒された。黒い執事服を一分の隙なく着こなし、自己紹介する声は深い響きのバリトン。銀髪とファーストネームからして、イリヤの親戚なのだろう。褐色の肌と銀灰色の瞳は、イリヤやセラ達と異なっているが。

 

「当家の者が、長らく失礼をいたしました。

 お詫びを申し上げます。イリヤ様、お暇のご挨拶を」

 

「ぜったい、イヤよ!」

 

「これは旦那様からの命令です」

 

「おじい様の命令っていえば、わたしがいうことを聞くと思ったら、

 大間違いなんだから!

 キリツグはわたしを捨てたんじゃなかった。

 わたしに会えなかっただけだったのよ!」

 

 イリヤの熱演に士郎は遠い目をしつつ、脚本どおりにパスポートを差し出す。

 

「し、そうだぞ、執事さん。このパスポートに載ってたんだ。

 じいさ、親父は何度もドイツに行ってた。

 俺の運動会や、授業参観も忘れたことがあったぐらい、何度も」

 

 エミヤの心の一部も痛んだ。不幸の輪の一つは、アインツベルンの閉鎖体質であることに間違いはない。

 

「確かに士郎君に罪はない。

 だが、旦那様のご不快は、私も理解ができるのだよ。

 手塩に掛けたご令嬢を嫁入りさせ、日本に帰った矢先に急逝なさったわけですから」

 

 なんという説得力。大河はたじろぎながらも、弁護を開始した。

 

「で、でも執事さん。

 イリヤちゃんが、切つ、お父さんのことを知りたいって言うのは、

 当然のことだと思いますよ。なぜ、こんなに急に……」

 

「セラからの連絡もありまして、これまではイリヤ様の気が済むまではと

 思っておられたようですが、言峰教会の神父の犯罪です」

 

「え!? だって、ドイツから来たんでしょ? ちょっと早すぎません?」

 

 これは脚本の想定にあった質問で、ちゃんと対応の台詞が練られていた。脚本家の慧眼がちょっと怖い。

 

「私がドイツから来たのは間違いありませんが、

 本国で手をつかねていたと思われるのは心外ですな。

 いつでも対応ができるように、私は少し前から日本に来ておりました」

 

「あ、はい……。じゃ、なんで今ごろ来たんですか?」

 

「イリヤ様を刺激するのも逆効果かと思いましてね。

 郊外にある、当家の別荘で待機していたのです」

 

 大河は頷いた。

 

「なるほどねえ……。なんか、納得です」 

 

 イリヤの実家も、一枚岩ではないんだと大河は考えた。アイリスフィールの父なら、切嗣を娘を死なせた男と捉えても仕方がない。しかし、イリヤは可愛いのだろう。唯一の娘の忘れ形見を、憎い義理の息子と切り離したいのだろうな、と思える。 

 

「しかし、イリヤ様と士郎君が仲良くなり、セラまで感化されたようです。

 お帰りになる気配もないまま、待っているうちにあの事件を知りました。

 容疑者は十年前の事件との関連も疑われているではありませんか」

 

 執事は洗練された仕草で首を振り、息を吐いた。

 

「アイリスフィール様は、十年前に冬木で亡くなられました。

 大災害のせいか、その事件によるものかもはっきりわからないままです。

 旦那様のご心痛も察していただきたい」

 

「だ、大丈夫ですよ! 警察だって動いてますし!」

 

「そうでしょうか? ここは女子どもばかりの家です。

 日中は、イリヤ様とセラとリズだけ。

 これ以上、目を離すわけにはいきません」

 

 その言葉に、イリヤが執事の腕に飛びついた。

 

「だったら、シェロも家にいてくれればいいじゃない!

 わたしたちのことを守ってくれれば!」 

 

「イリヤ様……」

 

 渋面を作った執事に、セラが冷静な口調のまま決め台詞を放った。

 

「そうです。今も大事ですが、お嬢様の将来のことも考えてください」

 

 褐色の肌の上で、銀色の眉が角度を変えた。

 

「は? 将来とは……」

 

「このまま、ドイツに帰ってうやむやにしてしまったら、

 お嬢様は父なし子のままになってしまいます」

 

 強烈な一撃に、大河と士郎の膝が砕ける。精神的にはエミヤも同様だった。この小芝居の原案はヤンだが、脚色したのはセラで、切嗣により厳しい内容となっている。それでもショーは続けなければならない。イリヤの命と未来がかかっているのだから。

 

「て、てて、なし、ご……?

 そういう言葉をどこで覚えたんだね、君は……?」

 

「ご近所の年配の奥様が、そう助言してくださいました」

 

 これは事実だ。切嗣の生活ぶりに眉を顰めていた人は多いのだが、遠慮もあるし、士郎自身に面と向かっては言えなかった。だが、可愛い娘が現れたとなれば話は別だ。可愛いは正義だ。陰ながら味方するのも、紛れもない正義ではあるまいか。

 

「イリヤ様のお好きなドラマならよかったのですが。

 とにかく、このまま引き下がってはいけないと」

 

 リズも頷く。

 

「そうなの。……かわいそう、イリヤ……様」

 

「士郎様や切嗣様の名誉にも関わることです。

 イリヤ様の将来には、もっと差し障りがあるかもしれません。

 ご結婚なさってから、そのことでいびられてしまったらどうするのですか」

 

「はうっ……」

 

 大河は胸を押さえた。これは痛い。すごくもっともな理由なだけに。

 

「認知の裁判の準備が整うまでは、ここを離れるべきではないと思います」

 

 とうとう大河は畳に突っ伏してしまった。弱々しく呻く。

 

「う、ううう、もうやめて……。生々しすぎるよう……」

 

「藤村様のお気持ちもわかります。

 ですが、イリヤ様はそれを背負い、生涯立ち向かわなくてはならないのです」

 

「ああああ……ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 追撃はさらに鋭かった。結婚適齢期を迎え、越えつつある身が槍衾になりそうである。  

 

「私にも、イリヤ様を任せられぬという旦那様のお気持ちは

 分からないではありません。

 それでも、旦那様にイリヤ様からお父様を奪う権利はありませんでした。

 先日は、士郎様にも藤村様にも失礼を申し上げましたが」

 

 セラは一礼した。

 

「しかし、これは調べねばわかりませんでした。

 誰にも悪意がなくても、不幸は起こってしまうものですが、

 そこで諦めては何も解決いたしません」

 

 大河の予想とは少々異なり、セラが士郎と切嗣の擁護に回り、帰還を促す執事と対決していたのだった。

 

「し、士郎はどうなのよ?」

 

「俺は、イリヤが思うとおりにするのがいいかな。

 ……まあさ、この執事さんが帰って来いって言うのもわかるけどな」

 

 士郎は乾いた笑いをこぼした。

 

「あと一人ぐらい増えたって、もう誤差の範囲だもんな……。

 だって、アインツベルンの人は、家事やってくれるし、食費も払ってくれるし」

 

「うぅっ!」

 

 何度目になるか、また痛いところを突かれて、大河は再び呻いた。

 

「男手が増えるんなら、まあいいんじゃないのかな。

 いざとなったら、俺、藤ねえんちか、一成んちに行くからさ……」

 

「いや、家主の君を追い出すわけにはいかない。

 それはそれで、イリヤ様の不名誉だ。

 とりあえず、一段落するまでは、私もこちらの警護をいたしましょう」

 

 こうして、アサシンことエミヤシロウは、衛宮邸にまんまと潜り込むことに成功した。士郎にとっては、地獄の特訓の始まりでもあったが、エミヤにとっても過去の自分との対峙となった。

 

「衛宮士郎の本質は作る者だ。――想像しろ。最強の自分を」

 

「……注射器でか?」

 

 憧れという点で、剣の投影よりも数段見劣りするのは否めない。

 

「当然だ。ライダーは、ギリシャ神話のメドゥーサだぞ。

 第五次のサーヴァントでは最古の存在だ。

 ゆえに対魔力も高いだろう。

 貴様の生半可な投影のままで、通用なぞするものか」

 

「……わかったよ。イリヤやセイバーのためにもなるもんな」

 

 エミヤは目を伏せた。衛宮士郎が自分より誰かを優先するのは、相変わらずだった。

切嗣を大事に思うのも違わない。しかし、切嗣に関わった自分を取り巻くものにも目を向け、できることをしようとしている。闇雲に走るよりも、時に立ち止まり、考えながら進む。時速は遅くとも、着実に目標を目指し、結果的に到達時間は短くなるだろう。

 

「――投影開始」

 

***

 白昼堂々出没するサーヴァントに、苦言を呈する監視役は失踪中。平和な世界を楽しむというアーチャーの願いに、他のサーヴァントも感応したかのように動き始めた。

 

 それはヤン・ウェンリーの反乱交響曲の、ゴミ箱に突っ込まれた楽譜の一部。銀河帝国の同盟領征服は、五年ほどで無理が出てくるだろうと彼は考えていた。

 

 内乱からの復興も途上だったのに、同盟を征服し、フェザーンに遷都した皇帝ラインハルト。

 

 しかし、アムリッツァの大敗以前は、人口が倍違う帝国と同盟の生産力はさほど変わらなかったのである。フェザーンなど、宇宙人口の五パーセントで十二パーセントもの富を生んでいた。この二国を併呑したら、経済戦争で負けるのは帝国本土だ。

 

 新帝国の最大の敵は、帝国本土と新領土の距離の暴虐。いずれ後背から襲われるだろう。その時が来たら、動くシャーウッドの森が挟撃を開始する。同盟領の各地を転々とし、星と人の海を味方にした、大規模かつ長期的なレジスタンス運動。

 

 これは準備期間と金銭と兵力の少なさゆえに、生前は断念せざるを得なかった。なにしろ、軍服を脱ぐこと、わずか二か月しかなかったのだから。

 

 そう、今回も本当の敵は時間だった。彼らはこの十年間待ってきた。一方、ヤンたちに残されているのは、最長でも十日足らず。彼らは戦わず、逃げに徹すれば勝てるのだ。

 

 だがそれでは困る。戦ったとしても勝利できるかわからない強敵。しかし、今戦わなければ絶対に負ける相手。

 

 そして、相手にも同じことが言えるのだ。戦わなければ勝てるが、それでは彼らの欲を満たせないのではないか。言峰綺礼が執着した、衛宮切嗣の思想を受け継ぐ養子。英雄王ギルガメッシュが興味を示した、セイバーことアルトリア・ペンドラゴン。両者に現状を与えたであろう、聖杯の器の娘。

 

 この挑発と極上の撒き餌に、食いついてもらわねば。

 

 ――敵をして、その願望が叶えられるかのように錯覚させる。そうしなければと思い込む状況を構築し、落とし穴の上には金貨を。

 

 冬木を舞台に、複数のサーヴァントによる派手な陽動。充分な援軍が見込める状態での、バーミリオン会戦の焼き直しだ。

 

 そして、魚は掛かった。ただし、餌ではなく釣り人に。

 

「道化師め、やるではないか」

 

 落日の瞳が、宵闇の瞳を見据えていた。




注1:ソープオペラ
アメリカで、主婦層をターゲットにした昼時のTVドラマ。日本の昼ドラの原型。スポンサーが石鹸会社だったため、この通称が付いた。

注2:生安
冬木警察署の『生』活『安』全課のこと。


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閑話12:武器よ、さらば

「私の血、ですか?」

 

 凛の申し出に、ライダーはほっそりとした首を傾げた。そんな小さな動きにも、さやさやと音を立て、流れるアメジストの滝。

 

 凛も、衛宮士郎も、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンも一様に見惚れた。ランサーとセイバーも例外ではなかった。

 

 無骨な眼帯に隠されてなお、溜め息が出るような佳人なのだ。そして、アーチャーが嘆くのも無理はない。邪眼を持たず、古代ギリシャの衣装を着ていてくれたら、さらに美しかったことだろうに……。

 

「ええ、桜が助かったのは、半分はキャスターのおかげなの。

 それには対価が必要で、アインツベルンに準備してもらうのが一番いい。

 ライダーには申し訳ないんだけど、その材料として提供して欲しいのよ」

 

 それが、ライダーことメドゥーサの血を原料にした、医神アスクレピオスの死者蘇生の薬の再現だ。

 

 凛の言葉にライダーは口元に手をやった。

 

「それはかまいません。私のマスターを助けてくださったのですから。

 ですが……」

 

 眼帯の上に覗いた柳眉が寄せられた。

 

「私が首を傷つけると、宝具が出てきてしまうのではないかと」

 

「ほ、宝具!? ま、まさか、ペガサス?

 ペガサスが出てきちゃうの?」

 

「はい、そうです」

 

 コクリと頷くライダーを前に、マスターとサーヴァントたちは顔を引き攣らせた。

 

「ちょ、ちょっと、待ってくれ。

 ってことはさ、宝具出すために、首を切っちまうのか……?」

 

「はい」

 

 再び頷く貝紫。聞かなくてもいいことを聞いた赤毛の少年に、緑と赤の非難の視線が降り注ぐ。

 

「もう、シロウったら! デリカシーがないんだから!」

 

 イリヤに教育的指導をされて、士郎は頭を下げた。

 

「う、その、ゴメンなライダー。ヘンなこと聞いちまって」

 

「いいえ、お気になさらないでください」

 

 本当に、そんなの聞きたくなかったし、知りたくもなかった。これほどの美女が、白鳥のような首を掻っ切って、血潮とともに天馬を出すだなんて、あんまりにも酸鼻な光景すぎる。

 

 というよりも、宝具を出す対価としては過大ではなかろうか。セイバーやランサーは言うに及ばす、薔薇の騎士召喚に令呪を費消するアーチャーも、光線銃は簡単に取り出せる。

 

 間桐慎二が、はずれ呼ばわりするのもゆえのないことではなかったのだ。宝具に強さを依存するのが騎乗兵のクラス。彼女の場合、宝具を出せば出すほど、勝ち抜くほどにダメージが蓄積されていかないか。

 

 だが、マスターが慎二では、魔力の回復が追いつかないだろう。人を襲いつつ、抜本的な魔力の蓄積のために、結界を仕掛けたのはその欠陥のせいだ。

 

 力不足のマスターが、強力なサーヴァントを使役する悪い見本だった。士郎も決して他人事ではない。何とかなっているのは、凛とイリヤのおかげ。二人の少女と士郎を結びつけてくれた、アーチャーさまさまだ。

 

 正義の味方が戦隊を組むのって、ちゃんと理由があったんだなあ。大勢で怪人一匹をやっつけるのが卑怯な気がして、戦隊派ではなかった士郎だが、自分が当事者だと納得せざるを得ない。

 

 しかし、今の問題はそこではなく。

 

「じゃあさ、セイバーかランサーに頼んだらどうだろ? なあ、遠坂」

 

 凛は難しい顔で首を振った。

 

「単に血を出すだけじゃ駄目よ。

 アーチャーが彼女と戦った時、血は出たけどすぐに掻き消えたわ。

 サーヴァントという殻から出た魔力は、すぐに世界に修正されるから」

 

「あ! アーチャーの首もそうだったもんな……」

 

 士郎も難しい顔になり、セイバーはこっそりと目を逸らした。

 

「ところで、遠坂は宝石に魔力をどうやって籠めているんだ?」

 

「ああ、注射器で血を抜いて、それでね」

 

 ……こっちも大差なかった。穂群原一のミス・パーフェクトが、夜な夜な自己採血してるのか。それもかなり怖いじゃないか。漂白された顔の士郎に、凛は言った。

 

「仕方ないでしょ。魔術には対価がいるのよ。だから、士郎のは掟破りなのよ」

 

「……じいさんからそんなの教わらなかったぞ」

 

「それはキリツグのタイマンよ」

 

 炎と雪の美少女たちにやり込められて、士郎は反論を諦めた。

 

「じゃ、じゃあ、遠坂みたいに注射器でやれば……」

 

「それも無理よ。言ったでしょ?

 サーヴァントは神秘のない物では傷をつけられないって」

 

 士郎は赤毛を掻きむしった。

 

「うがー! どうすりゃいいのさ!?」

 

「なあ坊主」

 

 士郎の百面相を見物していたランサーが、ひょいと手を上げた。

 

「おまえ、色んなガラクタを魔術で作ってただろ。

 チューシャキってのは作れねえか?」

 

「あ!」

 

 魔術師の師匠と弟子は、口々に声を上げた。

 

「そうだわ、その手があるじゃない!」

 

「たしかに、注射器ならがらんどうでもいいもんな!」

 

 針には刃の要素があるし、これならいけそうな気もする。しかし……。

 

「それにしてもなあ、投影魔術で注射器かあ……」

 

 実用的すぎて、まったく浪漫がない。魔術って幻想じゃなかったのか。ぼやく士郎に、魔術を日常に使用していたランサーは頓着しなかった。

 

「いいじゃねえか。ただし、うんと修行しろよ。

 おまえが作ったガラクタ、俺が持ったら壊れたからな」

 

 神秘は時によって蓄積され、より高い神秘に打ち消される。紀元一世紀のクー・フーリンよりも、さらに数百年昔のメドゥーサに通用する注射器。それは幻想に幻想を重ね、固く結んで創り上げるほかはない。

 

「ものすっごく大変そうだぞ……」

 

「だがその価値はある。刃を作るよりずっと尊いと思うがな」

 

 冴えない顔になった士郎に、ランサーは莞爾と笑いかけた。

 

「アーチャーが言うには、この世界から病が減ったのはそいつのおかげなんだろ。

 最もよき魔術は、人を癒やすものなんだぜ」

 

 それはまもなく昇る、曙光のごとき笑みであった。



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番外編 ヤン先生の課外授業 1時限目:歴史と天文学

注:七夕記念閑話。時間軸は『ステップファーザー・パラドックス』の後になります。


「今日が誕生日ということは、凛は水瓶座か。

 じゃあ、ヘラクレスと縁がないこともないなあ」

 

 アーチャーの言葉に、遠坂凛は一瞬首を傾げたが、すぐに頷いた。

 

「ああ、言われてみるとそうかも。

 よく考えるとガニュメデスって気の毒よね」

 

 衛宮士郎はしおしおと頭を垂れた。

 

「え、えーと、日本語でお願いします……」

 

「わたしは喋ってるわよ?」

 

「が、ガニュなんとかって、なんなのさ。聞いたこともないぞ、俺」

 

 凛は溜息を吐いた。士郎の無知と、そのへっぽこにセイバーを取られた自分の不甲斐なさに。 

 

「……あんたね、十二星座の神話はギリシャ神話でも有名どころよ。

 聖杯戦争を続ける気なら、せめてそのぐらいは知っておきなさい」

 

 士郎の眉が寄る。運動やガラクタいじりは得意だが、調べ物は苦手だ。

 

「む……。じゃあ、アーチャー、わかりやすく頼むよ……」

 

 指名を外されてむっとする凛に、アーチャーは苦笑してみせた。内心で語りかける。

 

『そりゃね、凛。

 君のような美人の同級生に、男はなかなか教えてくれとは言えないよ』

 

 アーチャーにも覚えのある感情だった。 

 

「では、ヘラクレスと、水瓶座との関係を説明しようかな。

 ヘラクレスが死後に神として祀られ、星になったと言う話はしただろう?」

 

 士郎の顔色が冴えなくなった。ギリシャ最高の英雄ヘラクレスの死因。浮気から夫を取り戻そうとした妻が、媚薬と騙されて猛毒をパンツに塗り、皮膚や肉、臓器(!)がベロンベロンに腐れ落ち、苦痛のあまりに焼身自殺したなんて聞きたくなかった。

 

 ものすごく、リアルに痛みが想像できて、いろんなものが縮み上がってくる。怖い、浮気の報い怖い!

 

 ヘラクレスは、大神ゼウスの浮気相手の息子だ。二重の意味で、ゼウスの妻、貞淑の女神ヘラに憎まれていたからでもある。

 

 ネメアの獅子退治に始まる十二の試練だって、ヘラの差し金だ。ヘラクレスに数々の難題を与えた従兄は、ヘラによって早産させられて王になった。難題を克服した偉業でもって、『ヘラの栄光(ヘラクレス)』というのだから、何をかいわんやである。

 

 だがまあ、神の一員に招かれれば、いつまでもそんなことを言ってはいられない。ヘラとゼウスの子である、戦いの神アレスや争いの女神エリスは、出来が良いとは言えなかった。神の世界にも閨閥は重要だ。ヘラクレスの結婚相手として、ヘラは切り札を投入する。

 

「神の一員になって、ヘラも怒りを解いたんだよ。

 娘の青春の女神ヘベを、ヘラクレスに嫁入りさせたんだ。

 この女神は、青春の美そのものの姿でね。

 天上の神々の酒宴で、給仕役に就いていたんだ」

 

「それと、水瓶座に関係があるのか?」

 

「ヘベは結婚したから退職したのよ。

 で、新しい給仕役に目をつけられたのが、美少年のガニュメデス。

 彼は人間だけど、大鷲に変じたゼウスにさらわれちゃったわけね。それが水瓶座」

 

「え、びしょうねんって……」

 

 硬直する士郎に、美少女の手がひらひらと振られた。

 

「ギリシャの神々って、美しければ性別を気にしないのよね。

 アポロンなんか完全に両刀よ。

 美少年を西風の神と取り合って、死なせちゃったりね」

 

 円盤投げを西風が邪魔し、ヒアキントスの頭部を直撃。死因は額からの大量出血で、その血から生まれた花がヒアシンス。アポロンに関わって、木や花になってしまった悲劇の美男美女は他にもいる。彼のかぶっている月桂樹の冠も、求愛を拒んだダフネが変じたものだ。

 

「ストーカーに殺されて、体の一部を身につけられるようなものじゃない。ひくわ」

 

 凛の補足に士郎は遠い目になった。神話や伝説って詳しく知るとコワイ。神様や英雄なんかと、関わり合いになるもんじゃないのかも知れない。

 

「凛、何度も言うけど、もうちょっと歯に衣を着せてあげなさい。

 青少年の心は繊細なんだよ」

 

「あら、言っとくべきでしょ。

 ギリシャ系の英霊がサーヴァントになってたら、何をやるかわかんないわ。

 浮気に同性愛、近親相姦に異種婚。もうなんでもありじゃない。

 性的に寛容すぎる時代だもの」

 

「まあねえ、心理学用語の語源になるぐらい、そっちの幅は広いからなあ」

 

 アーチャーはちょっと困った顔をすると、黒髪をかき回した。士郎は会話から置いてけぼりを食った。だから、日本語でお願いしますと言ったのに。

 

 だが、これは遠坂主従の優しさだった。正直、このぐらい序の口である。例えば、エディプスコンプレックスとか。息子が女児型、娘が男児型と逆転しているが、ばっちりと該当する衛宮切嗣の子どもたちに、今は突きつけるべきではないだろう。

 

「そうでしょ。

 ヘラクレスがいるんだし、古いほど神秘は高く強くなるんだから」

 

「それもあって、東洋系は呼べなくしたんじゃないかなあ。

 古いが強いじゃ、お隣の中国には敵わない。

 日本の英雄だって、強さも古さも西洋に遜色ないのに。

 しかも知名度は圧倒的に勝り、触媒の入手も容易だろう」

 

「やっぱ遠坂のご先祖様、絶対に騙されてるよなぁ……」

 

 凛も虚ろな目になった。術者が西洋人だったから東洋系は呼べないと伝えられていたが、他の二家の願いが叶うまで、遠坂には勝たれては困るという視点で見れば、答えは実にシンプルであった。

 

 日本武尊のセイバーに、菅原道真や安倍晴明のキャスター。関羽はランサーかライダー、アーチャーは徳川家康か。死後に神となった半神のヘラクレスが召喚できるなら、彼らを召喚できる可能性は高い。いずれも凄まじく強力だろう。

 

 神道には分霊という概念があり、どの神社や神棚にも等しく神が降りるという。だから触媒は、神社の朱印やお札でも大丈夫かもしれない。これらの英霊に縁の神社などは、すべて冬木周辺にある。関羽以外ならば、一日あれば総本社に行くことも可能。墓石を削る事だって不可能ではない。この是正が可能ならばいいのに。

 

「そういや、アーチャーは東洋系っぽいな」

 

「私は中国系とフランス系のハーフなんだ。

 だが、国の成り立ちはフランスの方が近いんだよ」

 

「あ、そっか」

 

 士郎は疑問も持たずに頷いた。アーチャーの言葉は嘘ではない。年代を言っていないだけで。

 

「父のルーツの古代中国でも、星を天の神々に見立てたんだ。

 北極星が一番偉い天帝で、北斗七星は天帝に仕える重臣や武将たちなんだ。

 ゼウスの変じた鷲座のα星がアルタイルで七夕の牽牛。

 織女は琴座のベガだよ」

 

 士郎はようやく表情を緩めた。

 

「冬木では旧暦の八月に七夕祭りがあるんだ。

 そういうのを知ってると、七夕も面白いよなあ。

 他にはどんなことがあるのさ?」

 

「じゃあ、こいつは知ってるかい?

 織女は天帝の娘で、嫁さんの方が身分が高い格差婚だってこと」

 

「へぇ、そうなんだ」

 

「ふーん、私も初めて聞いたわ」

 

「天の帝が、真面目な働き者だから愛娘を嫁入りさせたんだ。

 それが、結婚したとたんに、新婚生活にうつつを抜かして怠けたら、

 お舅さんも怒るに決まってるよなあ。

 別居して頭を冷やしなさい、とこうなる。婿に拒否権はないんだ」

 

 あまり知られていない七夕の背景だった。神様にも婿と舅の軋轢があるのだ。ギリシャのように奔放じゃないが、さらに切なく身につまされる。

 

 じいさんは、アインツベルンの婿だった。どうだったのだろうかと士郎は思いを馳せる。イリヤを放置したというより、養育権を取りあげられたという方が正しい気がしてきた。

 

「俺、イリヤにも七夕のことを教えてみる。

 じいさんもそうかもしれないって。

 半年先まで日本にいるか、わからないからさ。

 プラネタリウムにでも連れて行けばいいのかな」

 

「それはいいね。星を見ればよくわかるよ。

 ベガのほうが明るくて北極星に近いんだ。純白の美しい星だ。

 イリヤくんはお母さん似だそうだから、察するんじゃないかな」

 

 宇宙時代の船乗りは星に詳しい。少年少女は思わず感嘆の声をあげた。

 

「ベガは一万三千年前の北極星で、一万一千年後には北極星に戻るんだよ。

 地球の地軸は傾いているから、長い時間をかけて、

 コマの首振り運動のように、天の北極が動いていくんだ」

 

「え……北極星も変わるんだ」

 

 琥珀と翡翠が瞬いた。

 

「そうだよ。さっきの天帝の星は、今の北極星の隣なんだ。

 時代的に、ヘラクレスの北極星もきっとそうだったと思うんだよ。

 バーサーカーでさえなければ、そういう話も聞くチャンスだったのに……」

 

「確かにもったいないわ。

 セイバーも士郎のお父さんと、三回しか口をきいていないっていってたし。

 で、今度はバーサーカーでしょ。

 あの子はすごい魔術師だけど、箱入り娘じゃない。

 強いだけじゃなくて、いい助言者が必要なのに。ヘラクレスならうってつけよ。

 どうして、アーチャーかセイバーで呼ばなかったのかしら」

 

 三人は顔を合わせた。

 

「聖杯戦争に注力するあまり、いろいろなことを切り捨てているのかも知れない。

 士郎君、イリヤ君を大事にしてあげるんだよ」

 

「ああ、じいさんも言ってた。女の子には優しくしないと損をするって」

 

「そいつが北極星よりも変わらぬ真理さ。

 おとうさんの正義の根幹も、その辺にあるのかも知れないね」

 

 正義の対義語は、また別の正義。そう思うヤンが衛宮切嗣に初めて共感できた言葉であった。

 

「士郎君もセイバーの見た星を教えてもらったらどうだろう。

 あとは、何を食べていたか、どんな物が好物だったとか、服の話でもいい。

 パートナーには相互理解が必要だからね」

 

「うん、頑張るよ……」

 

 物凄い美少女で、いかにも高貴で生真面目そうなセイバーは、気軽な会話をしにくい。でも食べ物の好みなら聞けそうだ。朝のおにぎりとサンドイッチ、昼の焼きそば、夕飯のカレーもみんな平らげたから、あんまり好き嫌いはなさそうだけど。

 

 迫り来るエンゲル係数の危機を、衛宮士郎はまだ知らない。




※豆知識※

 ちょっと昔のセキ○イハイムのCMの神様はアポロンである。月桂冠をかぶり竪琴を持っていて、パパがゼウス。アポロンは予知の神でもあるが、彼にも地震は予知できないということも意味しているという……。ほんと、秀逸なCMでした……。




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番外編 ヤン先生の課外授業 2時限目:ライダー今昔

ランサーに続き、ライダーがアレだったことに、アーチャーことヤン・ウェンリーは落胆を隠せなかった。

 

「人生の最盛期の肉体になるんなら、邪眼や猪の牙なんて不要じゃないか……」

 

 そう言ってベレーが落っこちそうなほど項垂れ、深く深く溜息をついた。

 

「ああ、もっともそれじゃ戦闘能力はゼロだからなあ。

 というか、本来のメドゥーサじゃあ、システム上召喚できないか」

 

 聖杯戦争のシステムと言われて、怪訝な顔をしたのは設置者の末裔である。

 

「システムがダメってどういうことなの?」

 

 白銀の少女はつぶらなルビーの瞳を瞬いた。

 

「だって、神霊は呼べないんだろう」

 

「メドゥーサって神様なの?」

 

「うん、元々はポセイドンの妻である地方神の一柱さ」

 

 そう前置きして、アーチャーはギリシャ神話の舞台の歴史をざっと講義した。ギリシャ神話に登場する地名は、地中海を囲んだ広い地域に及ぶ。ギリシャはもちろんのこと、東西に地続きのイタリアからスペイン、トルコ、アラビア半島。海を渡れば、大小の島々と、エジプトを含むアフリカ北部と東岸部、そして黒海の沿岸の国々だ。

 

 この広大な場所を征服、統一する偉業を果たしたのは、現代までただ一人しかいない。それがアレクサンドロス大王である。後継者を持たずに夭折した彼の死後、国は四分五裂した。彼が在位した紀元前三三〇年代の数年を除いて、古代から現代に至るまで、地中海は多くの国家がひしめき合っている。

 

「アレクサンドロス大王って、すごい王様なのね」

 

「歴史に冠たる偉業だよ。

 スケールと文化融合の巧みさでも、史上最高レベルの征服者だろうね」

 

 黒髪の先生と銀髪の生徒の傍らで、金髪の聴講生は複雑な思いだった。

 

「彼がすごいのは、征服地の宗教をぞんざいにしなかったことだ。

 自分の信仰するギリシャの神々と同一視したんだよ。

 たとえば、エジプトの女神イシスは、美の女神アフロディーテと同じだとね」

 

「どうしてそんなことにしたの?」

 

「征服された自分の神が魔物扱いされたら、人間は恨みに思うからだよ。

 すると、その後の統治が難しくなる。征服は終わりじゃなくて始まりなんだ。

 彼は神話の悲劇から逆を行えばよいと学んだ。知識と寛容のなせる業だね。

 アレクサンドロス大王の教師の一人は、アリストテレスだったんだよ」

 

 彼の祖国マケドニアは、父ピリッポス二世によって隆盛を極めた。父は息子に最高の教育を施した。ギリシャ有数の学者を何人も招いたのだ。

 

「アレクサンドロス自身が聡明だったのもあるけど、

 そんな教育環境は羨ましいの一言さ。

 私も親父が死ななきゃ、大学に行って歴史の勉強をするつもりだったんだが」

 

「でもアーチャーはとってもよく知ってるじゃない」

 

「いやいや、こんなの趣味のつまみ食いだよ。体系だった学問とは違うんだ」

 

「う、うう、何という……私より□□年も前の人間だというのに。

 我が国はいったい……それもこれも貧しさなのか……」

 

 膝を抱えてなにやら呟いている出稼ぎメイドに、仮の主人はよその従者と顔を見合わせた。

 

「あら、どうしたの、セイバー」

 

「ええと、その、私が何か気に障ることを言ってたらごめんよ」

 

「い、いえ、結構です。敵となる相手の情報は必要です。続けてください……」

 

 そう言う緑柱石の色も曇りがちな剣の騎士に、弓の騎士は頭をかいた。

 

「さて、メドゥーサに話を戻すが、名前からして『支配する女』という意味だ。

 本来、神格を持つ存在なんだよ。地母神キュベレが原型という説もある。

 彼女の守護した国が、女神アテナの守護する国に敗北したことが、

 神話に織り込まれているわけなんだ。手ひどく反撃を受けたこともね」

 

 それが、メドゥーサを討伐しようとして、石となった数多の勇者たちだ。

アテナやヘルメスに加護を乞うほど、強力な軍備が必要だったというわけだ。

 

「一番怖ろしいのは、彼女『が』見た者を石と化す邪眼だろうね。

 彼女『を』見た者が石になるような容貌ではない以上、

 そちらの能力を持っているだろう。

 つまり、彼女の視線の外からの攻撃か、眼帯を外す間もない奇襲。

 そのどちらか以外は危険が高い。

 それもあって、セイバーやバーサーカーには不向きな相手だ」

 

 石化能力の主体が、見る側ではなく本人となったことで、より厄介であるということだ。

 

「まあ、バーサーカーは霊体化できるから、奇襲が可能な分まだいいんだ。

 でもセイバーは無理だろう。剣の射程に入る前に石にされたら困るじゃないか。

 鯨座やアトラスの神話から察するに、メドゥーサの石化は本人の死後も解けないよ」

 

「私の対魔力を持ってすれば、石になることはないでしょう。 

 いざとなれば宝具を開放します」

 

 セイバーの言に、前回のマスターの娘は半眼になった。 

 

「でもセイバーの宝具は、聖杯を吹っ飛ばしたんでしょ?

 学校とか街の中で使っても大丈夫なの?」

 

「天を征くものであっても、我が剣からは逃れられはしません」

 

「それって、空中に向けないといけないってこと?」

 

 真紅の瞳の凝視に、セイバーは口篭ってから答えた。

 

「そ、そうとも言いますが……」

 

「まあまあ、まだ戦うと決まったわけじゃなし、戦場だって考えればいいさ。

 それよりなにより、士郎君の修行が進まないとね。

 腹が減っては戦ができぬ、さ。そうだろう、セイバー?」

 

 聖緑が淀んだ沼の色と化した。

 

「えー、セイバー、ご飯はたくさん食べてるじゃない」

 

「あ、あれは魔力の補給のためです! 実は、シロウからの魔力供給が、いまだに……」 

 

 悄然とする金沙の髪を前にして、彼の師のサーヴァントは黒髪をかきみだした。

 

「そりゃ困ったなあ。凛の指導がまずいのかな?」

 

 ここにいない二人のマスターは、魔術講義の最中だ。スイッチの切り替えと、ラインを通じてセイバーに魔力を流すこと。それができないと、セイバーが宝具を開放して戦うなど論外だった。だが授業中は、セイバーは苦手な面々のなかに取り残されてしまう。年長者のアーチャーが、すっかりなだめ役に定着してしまっていた。

 

 野郎どもならいざ知らず、美少女らのお相手はアーチャーには荷が重い。生前を思い返して通算しても、私的に交流のあった女性は両手の指で余る。先輩の夫人と令嬢ふたり、後輩の母と姉上三人を含めてもだ。少々侘しいが、こういうことは、量よりも究極の一が勝ると彼は思っている。

 

「シロウはずっとヘンな自己流でやってたからだと思うわ。

 アーチャーじゃないけど、言葉にしないと伝わらないの。

 キリツグ、どうしてちゃんと言わなかったのかな?

 ……セイバーにも」

 

「イリヤスフィール……」

 

 雪の妖精は、徐々に冷たさを溶かしはじめていた。身近に接して言葉を交わせば、一本気で生真面目なセイバーの主従は、悪い相手ではないとわかってくるものだ。不器用で言葉足らずなところはあるけれども。

 

 そんな様子にアーチャーは目元を緩めた。話題を肩のこらないものに切り替えるとしようか。

 

「それにしても、女神アテナも罪作りだ。おかげで我々が苦労する。

 別の説では、ポセイドンとメドゥーサがアテナの神殿でデートをしてたのが、

 怒りに触れたというのがあってね」

 

「そんなことで怒るなんて、アテナは怒りんぼなのね」

 

「アテナは戦いの女神だし、ポセイドンともライバル関係にあるんだ。

 ギリシャは地中海なくして語れない。ポセイドンは海の神だ。

 アテネをどちらが所有するかで争った間柄でもある」

 

「街の名前では、ポセイドンが負けちゃったんでしょう?」

 

「まあね。ただし、アテナの完勝ではなかったんだ。

 贈り物の勝負で、アテナはオリーブの木を、ポセイドンは塩水の泉を与えた」

 

「塩水なんかじゃ、負けちゃうにきまってるわ」

 

 そういうイリヤにセイバーも頷く。海洋国家に塩水を贈っても意味がないではないか。

 

「いいや、これは大変な大盤振る舞いなんだよ。

 塩と馬という、軍備の暗喩なんだ」

 

「塩はともかく、馬ですか?」

 

「ポセイドンは、海水から馬を造った神なんだ。

 だから、ペガサスはポセイドンからの贈り物という説があるわけだ」

 

 金銀の少女の口から、感嘆の合唱があがった。 

 

「王様は、軍備ではなく、平和のオリーブを選び、

 町にアテナの名を冠して、高台に彼女の神殿を建てた。

 だが、ポセイドンにも感謝を捧げ、海側に彼の神殿を建てた。

 そして両方が守護神になった」

 

「じゃあ、人間が一番得をしたのね」

 

 首を傾げる白銀に、おさまりの悪い黒髪が縦に振られた。

 

「そういうこと。でも完璧に勝てないと、神としての沽券に関わる。

 アテナは勝利の女神ニケの上司でもあるからね。

 報復するにも、ポセイドンはアテナの伯父さんで頭が上がらないんだ」

 

「そういう遺恨があったのですか……」

 

 セイバーは遠い目をした。どこかで聞いたような話だ。こういうことは、神も人間も、国も時代もないのか。自分の国だけではないからといって、嬉しくもないし、慰めにもならないが。

 

「ところで、アテナはアルテミス同様に処女神だ。

 そんな自分の神殿で、憎い伯父が綺麗な女性とデートしてたら頭にくるのは当然だ。

 純潔という神格に泥を塗られるようなものだからね」

 

 白銀の妖精は、小さな拳を握り締めて強く頷いた。

 

「うん、わかるわ。モジョのイカリね。リアじゅーバクハツしろでしょ?」

 

「イリヤ君、イリヤ君。

 セラさんではないが、もう低俗な番組はよしなさい。

 君の品格が損なわれるよ」

 

「う……はあい」

 

 静かな口調と眼差しに、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが何を見たのか。

 

 その日以降、衛宮家のチャンネルは国営放送の総合と教育に固定されて、放送された歴史番組に、イリヤとセイバーが見入るようになった。

 

 そしてアーチャーは、メイドの長から、再び深い感謝を受けることになるのだった。  



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72:漆黒と黄金

番外編の前に挿入すると、最新話として探しにくいとのご指摘を受けました。当面は最新話として投稿し、完結しましたら番外編を移動するようにします。ご不便をおかけしますが、よろしくお願いします。


 新都の公園のベンチで、読書に耽る大学生ぐらいの青年。いつしか日は傾き、ページに薄青い影が落ちる。冬の風が吹きつけ、黒髪を乱した。彼は冷たさに眉を顰め、マフラーに顎を埋めた。とりたてて特徴のない、平凡そのものの外見である。混血が進んだ自由惑星同盟では、漆黒の髪と瞳はそこそこに珍しかったのだが。

 

 もっとも、近づいてくる金髪に真紅の瞳の前では、どんな色彩も褪せるだろう。眩く豪奢な、周囲に威を放つほどの美。まばらな通行人が次々に目を向け、ただならぬ雰囲気に萎縮し、視線を逸らすと足を速める。あっという間に、広場に二人だけが残された。

 

 ベンチの青年はマフラーから首を伸ばすと、顔に張り付いた髪を掻き上げた。セイバーの証言は正しかったと思いながら。たしかに大変な美青年だ。別に有難みは感じないが。正直、絶世の美男子は見慣れている。『彼』は生前の敵、この彼は死後の敵になるのだろうか。

 

「失礼ですが、どちらさまでしょうか」

 

「我を知らぬか」

 

 傲慢な口調に、黒い眉が下がった。どうも和解の意図が感じられない。

 

「この聖杯戦争は、名を知られては不利なんじゃありませんでしたっけ?」

 

 金髪の美青年も表情を動かした。遠回しに見当はついていると告げられたのだ。だが、答え合わせは不要ということでもあった。名乗りを上げるつもりもないと。

 

「なるほど……小賢しい男よ」

 

 黒髪のアーチャーの主は、遠坂時臣の娘だ。彼の正体を知っても不思議はないが、彼が存在することに動揺しないのには興を惹かれた。

 

「どうして分かった?」

 

「深山町の事件、あんな真似は人間にはできません。

 さりとて、今回のサーヴァントにも不可能だったんです」

 

 召喚された時間的に、アーチャーとセイバーには不可能。究極の一を宝具とするランサーが、複数の形状の傷をつけることはない。逆にバーサーカーでは、遺体が原型を留めているかも怪しい。ライダーとキャスターは、別の悪事がアリバイとなっていた。

 

 合流したアサシンにも、ヤンは一応訊いている。

 

「やって出来なくはないが」

 

 まじまじと凝視すると、偉丈夫が苦笑した。

 

「キャスターも言ったとおり、私ではありません。

 この身は門番として召喚されたのでね。

 主の許しなしに、山門から離れられなかった」

 

 アサシンが自由に歩けるようになったのは、キャスターが居を移すに伴い、術式に変更を加えてからのことだ。ランサーが補足する。

 

「まあ、信じていいと思うぜ。

 こいつとは一戦交えたが、俺を追う素振りもなかったからな」

 

 マスターと本人、更に交戦したランサーの言が一致する。信用してよかろうと思われた。

 

「だが、第四次には可能なサーヴァントがいました。

 彼は決勝戦に残り、セイバーと対決した。

 でも、セイバーが令呪によって撃破したのは、彼ではなく聖杯だったんです」

 

 学者の講義を思わせる淡々とした口調だった。 

 

「聖杯を斬ったセイバーは、力尽きて消滅しました。

 しかし、彼はどうなったのでしょう?」

 

 空の紙コップを玩ぶ手は、戦士らしさの欠片もなかった。一般的な男性としても頼りない部類の手だ。だが、夥しい血を絞りとっている。黄金のアーチャーにはそれがわかった。斃した者の数を競うなら、かの英雄王も遠く及ばぬだろう。

 

 それを生み出したものが、平凡な顔の静かな表情の奥にある。無言のまま、視線で黒のアーチャーの言を促す。耳を傾ける価値を認めたのだ。

 

「彼の『死』が確定ではない以上、容疑者から外す理由もありません。

 もう一つ気になったのが、言峰神父が口にした、

 サーヴァントの受肉という言葉です」

 

 ヤンは言葉を切って、彼の瞳を見つめた。イリヤとも、ランサーとも、異なる色と輝きの赤。宝玉ではなく炎の色だ。落日の、あるいは赤色超巨星にも似た。

 

「人間というのは、自分に縁がない言葉は口にしないものです。

 言峰神父には、心当たりがあるのではないか?

 たしかに前回のライダー、征服王イスカンダルの願いだったようですが、

 セイバーによると、言峰神父は征服王と直接に接触していないと」

 

 ヤンは紙コップをベンチに置くと、風に乱れた髪をかき回す。完全に日は沈み、急速に寒さが増してきた。右手でマフラーを引き上げ、左手はコートのポケットに突っ込む。

 

「では、どうやって知りえたのだろうか? 

 そう考えると可能な者は少ないんです。

 酒宴に参加した人間で、存命なのはたった一人。

 彼も言峰神父と接触していないでしょう。当のライダーのマスターですからね。

 それ以外には凛の父。もう一人は招かれざる客のマスターに可能性がある。

 アーチャーと連携していたという、アサシンのね」

  

 赤と黒が交わり、前者は目を細めた。 

 

「……ふ、あれの失策だったか」

 

「いいえ、こんな馬鹿馬鹿しい戦いの召喚に応じたことです。

 あなたは生前の栄光を浪費している。

 弱者を虐げることが、英雄王と呼ばれた方に相応しいといえるでしょうか。

 私はそれが残念でなりません」

 

 美青年は、――英雄王ギルガメッシュは憫笑を浮かべた。

 

「あれが勝手にやったことだ。捧げられた供物を拒む謂れはなかろう」

 

「供物、ねえ。猛獣に餌を与え、大人しくさせているようにしか見えませんが」

 

 ヤン・ウェンリーは、その気になればいくらでも剥きだしの皮肉を言えるのである。

 

「私はちょっと後悔しています。死後まであくせく戦争するだなんて。

 馬鹿は死んでも治らないどころか、給料が出るだけ生前のほうがまだましだった」

 

 星の海に進出しても、百五十年も愚かな戦争が続いている世界だった。それでもヤンに給料を出してくれる、守るべき祖国があり、愛する人々がいた。

 

「ここは、私が夢見ていた平和で豊かな世界なのに、

 最も守られるべき子どもたちが孤独で不幸です。

 第四次聖杯戦争のせいだ」

 

「貴様とて、存分に敵の血を浴びた者であろう。隠そうとも我には判るぞ」

 

 ヤンは目を伏せたが、再びギルガメッシュを直視した。

 

「そんな事は百も承知です。

 私が殺した人々の遺族も、同じことを言うでしょう。

 しかし、私は預かった子を虐待したりはしなかった。

 手の届く範囲でしかないけれど、その一点だけはあなたがたに勝る」

 

 宇宙の色が巨星の輝きを静かに圧する。

 

「衛宮切嗣も同じです。彼は衛宮士郎を助け、育んだ。

 問題がなかったとは言いませんが、監禁虐待に勝ることは間違いないと思いますよ」

 

 描かれたような金の眉の片方が上がった。 

 

「冬木の災害の元凶であってもか?」

 

 黒い眉も角度を上向きにした。

 

「戦いは一人では成立しないんですがね。

 元凶を知る者もまた元凶。そういうことでしょう」

 

 美青年は小さく鼻を鳴らすと、皮肉な笑みを浮かべた。

 

「なるほど、我をも嵌めるか」

 

 次いで、形のよい白い手を伸ばす。掴んだのはヤンの胸倉だった。

 

「しかし貴様は甘い。ここでなら殺されまいとでも思うか?」

 

 その手首を光条が貫いた。血飛沫が上がる。ヤンの顔を濡らす前に、世界に還元されて霧消する。

 

「なっ……!?」

 

「その言葉はそっくりお返ししよう。――手を離せ」

 

 深いバリトンがどこからともなく響くと同時に、今度は左右の肩から血がしぶいた。

 

「雑種どもか……!」

 

 夕闇に染まった公園に白の鎧の騎士たちが忽然と現れた。ブラスターや荷電粒子ライフルを一射すると、すかさず霊体に戻る。光の箭が、季節外れの蛍のように乱舞した。

 

「ぐっ……!」

 

 旧自由惑星同盟軍屈指の名手らによる銃撃は、全弾見事に命中した。再び血が吹き出すが、白いレザージャケットを染める事なく消えていく。血よりも赤い瞳が瞋恚に燃えた。

 

 銃撃に手が緩んだ隙に、相手はベンチから転がるようにして逃げ出していた。生前によりも遥かに早いが、サーヴァントとしてはお話にならない鈍足で。

 

「おのれ、謀ったな!」

 

 ギルガメッシュの背後に黄金の陽炎が立ち、幾つもの波紋が浮かぶ。背後から再び銃撃が叩き込まれたが、陽炎を揺らしただけで掻き消えた。数本の剣が波紋から突き出し、飛び出した。逃亡者の頭上を越え、地面に突き立って檻と化し、行く手を阻む。

 

「うわっ!?」

 

 ヤンはつんのめりそうになったが、なんと転ばずに踏みとどまった。方向を転じようとした爪先ぎりぎりに、再び突き刺さる白刃。足だけは方向転換に成功したが、上体が付いていけない。転倒した。

 

 靴音が近づいてくる。

 

「……小賢しい真似を」

 

「やっぱり駄目だったか……」

 

 息はすっかり上がり、偽りの心臓がタップダンスを踊っている。これは短距離走のせいではない。覚悟はしていたが、神秘の薄い光線銃ではさしたる痛撃が与えられない。召喚する人員を絞り、極力霊体化させていたのに、このざまだ。

 

 蹲ったまま肩で息をするヤンに、黄金の王は、端麗な唇の端を吊り上げた。

 

「だが、なかなかに愉しませてくれた。

 我が財で葬ることを赦してやろう」

 

 剣の切っ先が姿を現すさまは、流体金属の海から飛び立つ戦艦のようだ。きっと伝説の名剣の類なのだろう。ヤンにはちっとも有難くはないが。

 

「そいつは遠慮したいなぁ……」

 

 切っ先に続いて、煌く刃の本体、絢爛たる細工の柄が迫り出してくる。宙を飛ぶ剣の動きが、やけにゆっくりと見えた。美しいと思った。剣というより、泳ぐ魚のようだ。銀鱗を閃かせ、音もなく宙を滑り、ヤンを(あぎと)に捕らえようとする。

 

 ――刹那。鋼の殺人魚に、白光の銛が降り注いだ。互いを砕き合う音が連鎖する。

 

「なに?」

 

 ギルガメッシュは、不快と不審が混ざった視線を宙に投げた。狩りを邪魔立てし、宝を砕いたのは異形の矢だった。目の前で蹲る男が弓兵のはずだ。この男の宝具か?

 

 再び矢が飛来した。遥か高所からの狙撃である。恐らく、数百メートルは離れた高層ビルが狙撃手の居場所だろう。にもかかわらず、信じがたいほど正確にギルガメッシュを狙ってくる。

 

「伏兵か」

 

 だが、それだけのことだった。驚愕はしたが、別に脅威ではない。

 

「……鬱陶しい」

 

 ギルガメッシュは形の良い手を払った。古代の城壁を思わせる七弁の盾が出現する。三度降り注いだ白光の矢の雨は、すべて盾に弾かれ、地に落ちる前に幻のように消え失せる。その異常に、名画家が描いたような眉が寄せられた。

 

 用済みとばかりに消え失せる、捻じれた剣の形をした矢。全ての財宝の原典を所有する彼にも、見当のつかない武器だ。

 

 彼の疑問にはお構いなしに、また矢が撃ちこまれた。無策にも程がある。いや、盾を割り砕こうとでもしているのか。ギルガメッシュは嘲笑した。

 

 盾が白い驟雨に晒される。その端に一条、赤い雨が混ざっていたが、彼は気にしなかった。その一筋の赤は、盾に激突する寸前、軌道を変じた。

 

 ギルガメッシュは見過ごしたが、視界を共有していた言峰綺礼は見過ごさなかった。

彼は舌打ちした。アーチャーが蹲っていたのは、味方の援護に備えてだったに違いない。最初の一撃と同時に、さっさと逃げ出してしまっていた。

 

 ギルガメッシュは継戦する必要などなかったのだ。いや、いっそ害悪であった。ランサーのマスターであった彼は、一目で気付いた。あれは物理法則を無視し、因果律を捻じ曲げ、心臓を抉る必殺の槍。

 

 死から逃れるには、類まれな幸運か、更なる因果の上書きが必要となる。因果とは世界の法則。それを書き換えるのが、即ち『魔法』だ。あるいは『魔法』の代替となるもの。己がサーヴァントの不可能を可能に変えるものが要る。

 

 ギルガメッシュの脳裏に、低い声が響いた。

 

『慢心したな、ギルガメッシュよ。――令呪に告げる。私の元へ戻れ』

 

 深紅の槍が到達する直前、美青年の姿が消失した。通常空間から消える移動方法は、ヤンの時代には存在する。亜空間跳躍。それに限りなく近い、令呪による転移だった。

 

「やはり逃げられましたな。

 閣下のご命令でなければ、手首ではなく眉間を撃ち抜きましたものを」

 

 シェーンコップが優雅に肩を竦め、手にした光線銃を消した。ヤンは首を振った。

 

「いや、今斃してしまっては駄目だ。聖杯に中身が入ってしまう」

 

 イリヤが危機に晒されるということだ。アサシンことエミヤシロウからの情報だった。

 

「あの射撃が、アサシンへの目印になったんだし、

 令呪を一つ費消させたんだから上出来さ。

 彼の令呪は、凛の父が最低一つは使っている。実質的に残りはゼロだ。

 英雄王の行動に、マスターの掣肘が効かなくなる」

 

 ヤンも肩を竦めた。

 

「遠坂時臣が難儀をしたことが、弟子にも振りかかるというわけだ。

 それに……」

 

 ヤンのコートのポケットで携帯電話が震動した。ヤンは電話に出た。短いやりとりで通話を終了させる。

 

「さすがは神代の魔術師だね。感知できたそうだよ。――令呪の発動元を」

 

 場所はアインツベルンの森。  

 

「さて、では次はライダーにも活躍してもらおうか」

 

 明るい色の髪と瞳の、冷静な印象の好男子が口を開いた。

 

「スパルタニアンがあれば簡単だったのですがね」

 

「あったとしても駄目だよ、コーネフ少佐、いや……大佐か。

 中性子線ビームにウラン238弾なんて、地上で使うわけにはいかないだろう。

 魔力だって食うし」

 

 シェーンコップが器用に片眉を上げた。

 

「正直に仰ることですな。天馬ペガサスも見られるしとね」   

 

 ヤンはそれには応えず、現代日本出身の未来の英霊に連絡を取った。

 

「さっきはありがとう。見事だったよ。

 で、済まないんだが、これから車でアインツベルンの森へ移動してほしい。

 ライダーと私も乗せてね。ああ、大丈夫だよ。

 この攻撃で敵を仕留める必要はないから」

 

 兵は拙速を貴ぶ。三十分後には、純白の天馬がアインツベルンの森の上空を飛翔していた。紫の髪に黒いボディコンワンピースのライダーと、赤い外套のアサシンを乗せて。

 

 夜の帳はすでに落ち、月の出は遅い。純白の馬体の仄かな白光が、神話的な光景を浮かび上がらせていた。首を掻き切ってペガサスを召喚したライダーに、ヤンが腰を抜かしかけたのは余談である。

 

「すごく美しいんだけど、やっぱり服装が惜しいなあ……」

 

 ヤンはぼやきながら、天上の二人を見つめた。ライダーの手綱さばきは、さすが騎兵の英霊と思わせるものであった。大気を踏み、羽ばたく馬に騎乗しているにも関わらず、ほとんど騎手たちの体が揺れていない。

 

 これならいけるだろう。ヤンは携帯電話に囁いた。

 

「じゃあ、頼むよ。くれぐれも気を付けて。

 危なくなったら、すぐに逃げなさい」

 

 ヤンの合図と同時に、偉丈夫の左手に長大な黒い弓が現れた。それが英霊エミヤシロウの魔術にして武術。つがえる矢は、異形の螺旋の剣。逞しい肉体に力が籠もり、キリキリと音立てて満月の如くに弓弦が引かれる。

 

偽・螺旋剣(カラド・ボルグⅡ)

 

 山の頂を三つも切り飛ばしたという、硬き雷の剣。劣化コピーされ、さらなる変形を加えられてもその威力は健在であった。

 

 白光を発し、空間を捩じ切りながら約ニキロ先の城を直撃する。さらに、二射、三射。神代の魔女の結界さえ撃ち抜く狙撃に、現代の魔術師の防御は通用しない。灰銀の鷹の目には、アインツベルンの城の損傷箇所が見て取れた。

 

 ヤンの指示どおり、地上のポンプ室とボイラー室、屋上の揚水ポンプを破壊したのである。

 

 そして、樹上に黄金の煌きが浮かび上がってくるのも。

 

「提督、英雄王の出陣のようだ」

 

「うん、じゃあ、総員逃げろ!」

 

 かねてからの打ち合わせのとおり、エミヤはペガサスから飛び降り、ヤンと車で、余計な荷物を降ろしたライダーは、人馬一体となって踵を返した。黄金の輝きは、純白に狙いを定めたようである。

 

 鞍上のライダーは、我が子でもある優駿に囁いた。

 

「……もう少しだから、頑張って」

 

 ライダーは馬術の限りを駆使した。高度を下げ、森の中を木々をすり抜けて飛ぶ。常緑樹の森は、冬でも葉を落とさない。ギルガメッシュは、ヤン同様に正統派の弓兵ではなく、視力には恵まれてはいなかった。

 

 機動性で優るライダーは実に狙いにくい的で、上空から闇雲に剣を射出しても掠りもしない。

 

「どいつこいつも小賢しい。あの道化に入れ知恵されたか」

 

 黄金の舟は高度を下げた。流水に乗るかのように樹間を抜け、長くたなびく紫の髪を視界に捉える。眼帯を取り去った白い顔が振り向く。長い睫毛が花開き、灰水晶が落日を射抜いた。

 

「化け物が、そんなものは効かぬ!」

 

 黄金の鎧の加護で、石化は無効。少々の重圧で、舟の速度がわずかに減じた程度だった。しかし、不幸にも彼は知らない。退却するヤン艦隊に注意せよということを。 

 

「――ゲイボルグ」



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73:共同戦線異状あり

「――突き穿つ死翔の槍(ゲイボルグ)

 

 伝承に曰く、数多の鏃に変じ、敵を穿つ赤き雷。真紅の彗星は無数の流星となり、左舷から黄金の王に襲いかかった。

 

 ライダーに放たれようとしていた刃の群れが、方向を転じて迎え撃つ。だが、それでは到底追いつかない密度であった。横殴りの暴風雨の中に、モーターボートで突っ込んだようなものだ。十数本の剣は、窓を拭うワイパーにしかならなかった。

 

 槍の雨が黄金の船体を叩き、切り裂く。散りばめられた緑柱石は割れ、中空に煌きを零す。ギルガメッシュは眦を吊り上げると、船を減速させた。

 

「熾天覆う七つの円環!」

 

 彼は、再び秘蔵の盾を展開した。これこそ、飛び道具に対して無敵を誇るアイアスの盾の原典である。

 

 それを見たランサーは、美しくも獰猛な笑みを浮かべた。

 

「はっ、これだ。俺が望んでいたのは!」 

 

 彼の技量は、ゲイボルグに、原典の大神宣言をも凌駕する威力を与えていた。三人目となるマスターは、神代最高の魔女、コルキスの王女メディア。豊富な魔力で、思う存分に腕を揮える。

 

 戦いへの高揚と、ルーンによって威力が更に増幅された。無数に分かれた真紅の穂先が、盾を粉砕していく。弾かれても、再び敵を目指して突き進む。獲物を仕留めようとする猟犬のごとく。

 

「しつこい槍め。だが、これには通じぬぞ」

 

 六枚目を粉砕し、七枚目に傷をさんざん傷をつけて、ようやくゲイボルグは止まった。ギルガメッシュは無傷。しかし、アーチャー=ランサーの意図は充分に達せられた。

 

 黄金とエメラルドで作られた空飛ぶ舟、ヴィマーナ。いずれも、傷のつきやすい素材である。赤い槍は舟を散々に穿ち、切り裂いていた。左舷は大きく剥がれ落ち、船底にまで穴が広がっている。水上なら浸水、転覆するだろう。大気の上でも、さほどの違いはなかった。

 

 舟はバランスを崩し、ふらふらと蛇行を始めた。襲撃者には、先ほど城を破壊した狙撃手も混じっている。このままでは格好の的だ。

 

「ち……」

 

 ギルガメッシュは舌打ちすると、地上に降り立った。同時に舟は形を失う。騎兵と槍兵は速さの双璧。ほんのわずかな隙でも、彼らが逃げ切るには充分だった。ギルガメッシュでは、宝具の補助なしには追いつけない。だが蛇と狗を狙っても、今度は道化師と狙撃手が邪魔をするだろう。

 

「だが、やはり甘い男よ。我を殺さなかったこと、後悔するがいい。

 次は全力で叩き潰してやろう」

 

 財宝を惜しむことなく、無数の剣で串刺しにしてやる。復讐の念が、瞳で業火を燃やす。あの黒い頭は塩漬けにして、新たな財に加えてやろう。

 

 そのころ、車中のアーチャーは、ランサーらに詰め寄られていた。

 

「息の根を止めればよかったじゃねえか」

 

 もう一つの伝承にある、因果をねじ曲げ必ず心臓に中たる槍。ランサーことクー・フーリンの技量が可能にした宝具である。

 

 銀髪の運転手も賛同した。武装を解いて、執事服に戻ったエミヤである。

 

「それには私も賛成だな。舟を壊して終わりでは……」

 

「いや、それが一番の目的だよ。

 ここに彼を封じて、できるだけ機動力を削ぎたかったんだ」

 

 ランサーが眉を寄せた。

 

「はあ?」 

 

「街のどこにいるかわからず、神出鬼没じゃ分が悪いですよ。

 ……受肉とはどういった状態なんでしょう?」  

 

「はあ? いきなりなんだ」

 

「どうして霊体化せず、盾を出したのかと思ったんですよ。

 さっきも、公園でも、マスターはそばにいない。

 避けるだけなら、そちらでも事足りませんか?」

 

「ん?」

 

 ランサーは眉を寄せ、顎に手をやった。

 

「生者であるセイバーが霊体化できないように、

 彼にもそうした制約があるのかも知れません」

 

 かつて、セイバーのマスターだったエミヤは、小さく声を上げた。

 

「なるほど、ここから冬木の市街地まで一本道だ。距離も十キロ強はある」

 

 ランサーが、車窓から外を覗き見る。

 

「そんなにあるのか? 別に遠いとは感じないが」

 

「たしかに君ならば、自動車並みの速度の長距離走ができるだろうがね。 

 それでも、姿は消して走るだろう」

 

「まあそりゃな」

 

 サーヴァントは人間の数十倍の身体能力を誇るが、移動手段は一緒である。令呪を使わないかぎりは、自分の足を使うか、乗り物に乗るかだ。いずれにしても、霊体化した状態の方がメリットが大きい。人ならぬ速度で走れば目立つし、車や電車にタダ乗りができないではないか。

 

「言峰は指名手配されている。ギルガメッシュは姿を消せないかも知れない。

 ああ、自動車の類いは、私の目視の範囲にはなかった」

 

「そうかい」

 

 ヤンは頷いた。車があれば、最優先で潰すという指示への報告だった。

 

「あの舟がなければ、地上を行くしかなかろう。

 言峰が代行者でも、三十分以上はかかる」

 

「この道を奴が走ったら、そりゃ目立つからな」

 

 ライダーが首を傾げるので、ランサーは説明してやった。言峰綺礼は、胡散臭い目つきをした、並外れた長身の筋肉達磨だと。

 

「俺やアサシンよりも背はでかいぜ。腕なんざ、アーチャーの倍はある」

 

「それが、あのサーヴァントのマスターですか。

 アーチャーとリンのように、とても親戚とは誤魔化せませんね」

 

 運転中のエミヤは、前方を顎で指した。

 

「そら、検問だ。我々と行き違いになったとしても、車で通り抜けてはいないだろう。

 教会も、もう奴の後ろ盾にはならないだろうからな」

 

 ヤンは、凛に聖堂教会の本部をせっつかせていた。口頭と文書の両方でだ。言峰の怠慢だけではなく、上層部の管理体制を問うものだった。児童の虐待監禁が発覚してみれば、『だからあんなに、ちゃんとしてくれって言ったでしょう!』という管理者の主張に首を垂れるしかなくなった。責任の所在を明確にしておく役人の知恵である。

 

「いっそ、聖杯戦争で死んでくれたほうがいいと思っているかも知れん。

 今の教会に、警察に圧力を掛ける余力はなさそうだ。

 ということで、ランサーとライダーに提督。そろそろ霊体化を」

 

 三人が姿を消す。唯一残ったエミヤは、イリヤに都合してもらった国際免許証を差し出し、あっさりと通過を許された。森の中の別荘からの帰りだと告げると、警察官は驚いた。

 

「は、あんな森の中に別荘ですか?」

 

「いや、建設当時はあんな森の中ではなかったそうです。

 戦争や当主の代替わりで、手を入れないでいるうちに、

 庭園が森になってしまったのだとか……。

 庭番小屋があったそうですが、今は場所がわからないほどですよ」

 

「それは凄い。スケールが違うというか、なんというか」

 

「なんでも、百年近く前に建てたものだそうです。

 今となっては少々木を切っても、とても追いつかないので……」

 

「はあ、まあそうでしょうなぁ」

 

 あの森に手を入れるには、林業と製材業を始める必要があるだろう。

 

「しばらく留守にしますので、よろしくお願いします」

 

 郊外の森には、人目を避けられる住居がある。そう警察に知らせることにより、円蔵山の捜索が進まなければ、この情報は重要性を増す。

 

「まあね、森を抜けて行く方法もあるんだろうし、完璧とは言いがたいんだがね。

 道路を封鎖すれば、相手の移動時間を浪費させるメリットがある。

 前線で戦っている最中に、本拠地を落とされるのは避けたいんだ」

 

 検問から離れ、再び実体化したアーチャーは、車内の一同にそう説明した。

 

「英雄王はまさに一騎当千。単独行動ができるうえ、マスターは最強格だ。

 我々がサーヴァントを攻めている間に、

 マスターがマスターを襲撃するのが恐ろしい」

 

 それもあって単独行動スキルを持つか、燃費のよい戦巧者を今回の戦闘部隊にした。

 

「みんな、この平和な世界で生まれ育った子どもたちだ。

 魔術師としての研鑽というが、暴力の前にはどれだけ役立つか」

 

 嘆息するアーチャーに、渋面を作ったランサーも相槌を打つ。

 

「俺を召喚したマスターは、戦士としても魔術師としても一流だったんだぜ。

 それでもあの野郎に敵わなかった。

 なまじ知り合いだったのが裏目に出たってのはあるが、

 坊主らに嬢ちゃんたちじゃ、一発殴られたらおしまいだぞ」

 

「そんなマスターを伴う必要のあるセイバーとバーサーカーは、

 安易に前線に出せません。

 キャスターが前線に出るのは、自分から負けにいくようなものだ」

 

 手数と機動性を駆使し、策に嵌めて目的は果たした。

 

「でも我々だけでは、決定的に火力が足りないんですよね……」

 

 要するにそういうことだった。殿軍を務めたライダーが頷いた。

 

「私の目が全く通じないだなんて……。それにあの剣の矢。想像以上の威力です」

 

 すり抜けていく木立が、次々に断ち切られていった。やすやすと回避したかのように見えて、実のところは背筋を冷や汗が伝っていた。

 

「宝具を開放し、あの仔を突進させて勝てるのか、確信が持てなくて……」

 

 決定打に欠けるために勝ち切れなかった。ライダーの魔眼で石化ないしは動きを止め、騎英の手綱を使うのが第一案。第二案はランサーによる横撃。

 

 ライダーは正しい意味で、高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処した。第一案が通じないと見るや、ランサーの待機ポイントまで、巧みにギルガメッシュを誘導したのだ。

 

 それでもライダーは頭を下げた。

 

「すみません。私の力不足です」

 

「いや、正解ですよ。年代的には、あなたは英雄王に次ぐ。

 そんな貴重な戦力を、一か八かの賭けに投入せずにすみました。

 とにかく、あなたが無事でよかったです」

 

 言いながら、ヤンは胸中で呪詛を吐いた。まったく、アインツベルンはどうかしている。ヘラクレスを狂戦士以外で召喚していれば、もっと楽に戦えたものを!

 

「アーチャー……」

 

 ライダーは、眼帯の下で目を潤ませた。召喚されて以来、いや化け物に変じてから、

こんなに温かい言葉を掛けてくれた者はいなかったから。

 

「まだまだ不確定要素が多すぎますしね。

 あの宝具だって、魔力が充分なら直るかもしれないし」

 

 ランサーがにやりと笑った。

 

「俺の槍が付けた傷は、容易くは癒えんぜ」

 

 ゲイボルグは、受けた傷が治癒せぬ魔槍。一騎打ちなら必ず心臓に中り、多勢相手では無数の鏃と化し、即死しなくても傷が治らない。主に似て、どこまでも殺る気満々の宝具なのだ。

 

「そいつはサーヴァント相手でも一緒だ。それこそ概念ってやつの効果だからな」

 

 毒は効かないが、酒には酔うように。

 

「あの金ぴかの舟、今は本物の金じゃあるまい。

 俺たちの宝具と同じで、魔力で出来てるんだろう」

 

 黒曜石の瞬きは、梟の目覚めを意味していた。

 

「じゃあ、今夜ぐらいは大丈夫かな?」

 

 ヤンはそう言うと、不器用な手つきで携帯電話の操作を始めた。

 

「ああ、キャスターですか。今から大聖杯に行きましょう。

 迎えに行きます」

 

 眼帯をしていてもわかるほど、ライダーは愕然としていた。

 

「……まだ戦うのですか?」

 

「いや、一時間で移動して、一時間だけ調査したら、逃げるとしますよ。

 ……うまくいけばの話ですが」 

 

***   

 エミヤは車を間桐家に回した。キャスターとライダーが交替する。せっかくの天馬も、閉所では充分に動けないというのが理由だった。アーチャーが文献を元に分析した結果、円蔵山には洞窟があり、そこに大聖杯がある可能性が極めて高い。

 

「危険ではあるが、士郎君とセイバー、イリヤ君とバーサーカーにも来てほしい」

 

 選手交替を告げるアーチャーに、三人は頷いた。間桐邸には、衛宮士郎とイリヤたちも詰めていた。守るべきは場所ではなく人だが、そのためのハードウェアも必要だ。

 

 キャスターの陣地作成スキルで、間桐家は堅牢な要塞となっていた。凛とライダー、セラたちが留守部隊を務める予定だ。短時間ならば充分に防衛が可能だろう。

 

 そう続けようとして、アーチャーは自分のマスターの不在に気づいた。  

 

「あれ、凛は?」

 

「遠坂なら電話だよ」

 

 慎二が顎をしゃくった。 

 

「ようやく、時計塔の講師と連絡がついたみたいでね。

 ……途中で携帯の電源が切れちゃって、いまは家の電話で話してる」

 

「ああ、そりゃよかった! 待ってたんだよ」

 

 第四次聖杯戦争で、ギルガメッシュと対峙したライダーのマスターの情報は、アーチャーが喉から手が出るほど欲していたものだった。噂をすればなんとやらで、凛が廊下の奥から足音高く走ってきた。

 

「ちっともよくないわ!」

 

「なんだい、慌てて。何か悪いことでもあったかな?」

 

 第四次聖杯戦争で、最強を誇った英雄王と戦端を開き、あれだけやってしまったのだ。それ以上に悪いことはそうはあるまいに。

 

「憧れの名教師が、しょっちゅう下品な言葉で罵るのはショックだったけどね!

 まずいのよ。前回のキャスター討伐には景品があったの。

 だからみんなが乗ったんだわ」

 

「人道上や秘匿の問題による団結のみならずかい?」 

 

 凛は首を振った。

 

「キャスターを退治するのに、

 自分やサーヴァントが死んだりしたら元も子もないでしょ。

 それがなくたって、……士郎とイリヤには悪いけど、

 近代兵器を使う魔術師殺しと共闘したいなんて思わないわ」

 

 士郎は目を剥いた。

 

「な、なんだって!?」

 

「エルメロイ二世に聞いたの。彼は、エルメロイ一世の死で、

 アーチボルト家の後始末のために迎え入れられた人だから。

 死因は銃殺だったんだって」

 

 彼はライダーを失ってすぐ、冬木から離れたという。魔術師としては未熟だったが、その判断力は栴檀は双葉より芳しといったところか。それが彼を救った。冬木の災害に巻き込まれずに済んだのである。

 

 まもなく起こった冬木の災害は、世界中に報道された。帰らぬ当主と婚約者に、アーチボルト家は捜索隊を派遣し、変わり果てた二人の遺体を発見したのだった。

 

 四次ライダー征服王イスカンダルは、元々はケイネスが召喚するはずの英霊だった。その触媒を盗んだのが、師からの冷遇に立腹していたエルメロイ二世ことウェイバー・ベルベット。

 

 天才的な先生は亡くなり、駆け出しの学生は帰ってきた。生死のボーダーが、サーヴァントの差によって設けられた。遺族がそう思ったところで、なんの不思議があろうか。

 

 ――おまえのせいだ、責任を取れ! 

 

 そしてウェイバー・ベルベットは、一気に傾いた名門を必死で支えなければならなくなった。

 

『私たちは愚かにも、魔術師としての腕試しの場と思っていたからな。クソが!』

 

 優秀なサーヴァントを使役し、その傍らでマスターが魔術の技を競う。

 

『その結果、命を落とすことはそれなりに覚悟もしていた。

 今にして思えば、なんたる甘さだ。クソ!

 キャスターの討伐に成功したら、貢献者に令呪を一つ贈る。

 教会の申し出をマスター排除の機会に使ったのだ、あの☓☓☓☓野郎は!』

 

 電話の向こうの声は、歯ぎしりせんばかりの調子だった。

 

『セイバーもランサーもライダーも、巨大な海魔に必死に立ち向かった。

 ランサーは槍を折ってまで、セイバーが宝具を撃つのに協力した。

 ……そのランサーのマスターが、許嫁共々銃殺されている。

 近代兵器を使う魔術師殺し、衛宮切嗣の仕業だろうさ! ☓☓☓☓!』

 

『ええ、ええと』

 

 口篭る凛に、講師は我に返ったのか咳払いをして続けた。

 

『ああ、すまん、話が逸れた。

 私が言いたかったのは、教会は未使用の令呪の管理もしているということだ。

 あれはフィジカル・エンチャントの一種だ。

 奪うことも移譲することもできる以上、相続ができるかもしれん』

 

『なんですって!?』

 

『あの令呪は、当時でも六十年以上前のものだということだ。

 本来の持ち主には、天寿を迎えている者もいたことだろうにな。

 別人に固定されれば、その人物の令呪となるのだろう。

 聖杯戦争の時期でなければ無用の長物だし、

 本来の三画、絶対命令権と同じではないと思うが』

 

 凛は汗で滑りそうな受話器を握り締めた。

 

『じゃあ、綺礼のお父さんが亡くなったのは……』

 

 しばしの沈黙の後で、ウェイバーは低い声で囁いた。

 

『令呪目当ての物盗りかもしれん。

 少なくとも、キャスター討伐の参加者は知っているわけだからな』

 

『だ、誰が……いえ、あなたは違うわ。

 自分が犯人なら、わたしにそんなことを教えてくれないでしょう。

 私の父でもない。本当に必要なら、こっそり融通してもらえばいいんだから』

 

『ほう、なかなか賢いな。付け加えるなら衛宮切嗣でもない。

 せっかくのセイバーを、まともに使っているとは言いがたかった。

 令呪に執着する時間があるなら、銃でマスターを撃つほうを選択するだろう』

 

 凛は唾を飲み込んでから、ウェイバーに語りかけた。

 

『じゃあ、容疑者はランサーかバーサーカーのマスター。

 でもきっと、バーサーカーのマスターじゃありません』

 

 アイリスフィールの誘拐に、バーサーカーと言峰=アーチャーが協力した疑いが濃厚だった。加害者と被害者の遺族が、すぐさま同盟を結ぶとは考えにくい。

 

『ランサーのマスターしかいないわ……』

 

 深い溜息が、海と空を超えて凛の耳を打った。

 

『悪事は己に返る、か。彼は優れた魔術師だったよ。

 聖杯戦争に関わらねば、いや、私が彼の言を素直に聞く耳があったなら、

 こんなことにはならなかったのかもしれん』

 

 だが、歴史にもしもはない。

 

『だから、君たちはよく考えることだ。これからをどうするのかをな。

 とにかく、英雄王の令呪は三つだけとは限らん。そう考えて事に当たれ』

 

 名教師のありがたいお言葉に、アーチャーは天を仰いだ。

 

「簡単に言ってくれるなあ……」

 

 その頼りない背をランサーは叩いた。 

 

「おい、アーチャー、どうする気だ」

 

「どうするもなにも、このまま進めるしかないでしょう。

 むしろありがたいですよ。

 令呪での転移を念頭に置けるし、マスターが戯言だと切り捨てないし」

 

 最悪の情報を得て、なお肯定的に受け入れるとは。ぼんやりした顔に似合わず、苦労をしていたのだろうか。ランサーは、この策士に初めて同情した。

 

「こんなものを有難がるとは、どんな修羅場を潜ってきたんだ、おまえ……」 

 

「まあ、色々と。だが、基本戦術は変わりません。

 彼らがこちらに現れたら、令呪で戻る。

 大聖杯に現れたら、やはりここに令呪で戻る。ね、シンプルでしょう?」

 

 銀髪の執事が腕組みをした。溜息を吐くと、事実を指摘する。

 

「むしろ、それしかできないと言うべきでは……」

 

「ま、やることは変わらないからね。 

 戦力を集中し、マスターを保護し、最大戦力を叩きつける。

 では、行きましょう。多少配置換えをしますが」

 

 調査部隊は、アーチャーとセイバー、バーサーカーの主従。そして、キャスターとランサー。

 

「では、留守を頼んだよ、慎二君と桜君、ライダーとエミヤ君」



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74:Time is no return

※本話の中に、銀河英雄伝説の重大なネタバレが含まれます。ご注意ください。


 衛宮士郎と遠坂凛、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンらは、サーヴァントを伴って円蔵山に向かった。運転手を務めるのはセラ。姿を現しているのがセイバーとアーチャー。バーサーカー、キャスター、ランサーは霊体化している。

 

 戦場においては、可能なかぎり兵力を高速で移動させ、遊兵を作らないこと。そして、進軍と同等以上に重要なのは、退路の確保である。目的地に着いたら、セラは一旦間桐邸へ帰還すべし。十五分ごとに、キャスターからアサシンに心話で定時連絡。目的の達成に関わらず、一時間で現場より離脱する。

 

 アーチャーは一同にそう説明した。

 

「我々が彼らより有利なのは、数で勝ることだ」

 

 英雄王ギルガメッシュの力は、言ってみればイゼルローン要塞のようなもの。こちらのサーヴァントは言わば艦隊。そのままでは勝ち目がない。

 

「だが、力を振るうのはサーヴァントとマスターだからね」

 

 そう言って、彼は長めの黒髪に覆われたこめかみを突いた。

 

「矢継ぎ早に対処を迫られれば、判断を誤ることもある。

 それは我々も同じだ。

 だが、複数の視点で見ることで、誤ちを減らすことができる」

 

 失敗をしない人間はいないが、すべての人間が誤ることも多くはないのだ。

 

「そして、マスターとサーヴァントは、本来は文字どおり主と下僕なんだよ。

 でも、言峰主従はそうではなさそうだ」

 

 かぎりなく同格に近い共犯者。第四次聖杯戦争から今日に至る腐れ縁だ。幽霊を養うために子どもを生贄にする神父と、それを当たり前に受け入れる英雄王。聖杯汚染の可能性と無関係ではなさそうだが、互いに利があるからこそ続いたのだろう。

 

「だって、本来の聖杯戦争は五十年も先じゃないか」

 

「あっ!」

 

「どうしたのさ、遠坂?」

 

 翡翠の瞳を瞠った凛に、士郎は目も目を丸くした。

 

「そうよ、うっかりしてた。今回がイレギュラーだってこと。

 本来の時期だったら、綺礼は九十歳近いわ。

 生きてたって、マスターとして戦うのは無理だと思う。

 わたしもきっと、子どもか孫をバックアップしてたでしょうね」

 

 サーヴァントの使役は体力勝負だ。魔術の研鑽を積み、魔力を蓄積しなくてはならない。マスターにふさわしい年齢は、三十代から五十代の働き盛りになる。いかに頑健な言峰綺礼といえど、五十年経てば相応に老いるだろう。五十年後では、日本人男性の平均寿命を十年も超過している。たとえ長寿に恵まれたとしても、英雄王と共に戦うほどの力はあるまい。

 

 だが、それ以前に。

 

「わたしなら、それまで英雄王を養うなんて真っ平だわ。

 どんなに強くても、そんな手間と犠牲を払う必要なんてない。

 そのために令呪と触媒があるの。

 戦争が終わればおさらばして、五十年後にまた呼べばいいのよ」

 

 きっぱりと言い切る凛に、頷くイリヤとアーチャー、引き攣るセイバー主従が対照的だ。

 

「あ、ごめんね、士郎とセイバー。

 でも、アーチャーを残すために、士郎たちを魔力タンクにするなら、

 わたしはこいつに死んでもらう。そういうことよ」

 

 直截的すぎる喩えだが、凛が言わんとすることは士郎にも呑み込めた。死者の尊厳を一番にするなら、聖杯戦争は異なる形をとっていたことだろう。英霊をサーヴァントとして召喚するのは、死人を二度殺しても何の罪にもならないからだ。罰当たりのかぎりではあるが。

 

「まあ、そりゃそうだ。私だって自分が彼のマスターならそうするよ。

 それをしないってことは、凛、君はどう思う?」

 

 凛は兄弟子のことを思い返した。

 

「綺礼にとって、そばに置いとく価値があるんじゃないかしら。

 わかるような気がするわ。根性曲がり同士、気が合うんでしょ!」

 

 凛は、理性より感情のままに言い放ったが、実のところ正鵠を射ていた。しかし、今の彼らには知るよしもない。

 

「そうだね。

 彼らはこれまで、それなりに利害が一致したから続いた主従だと思う。

 主従というほどには、英雄王はマスターを尊重していないようだがね。

 それが、私たちが付け入る可能性のある点なんだ。

 一軍を同格の名将二人が率いるよりも、凡将一人のほうが勝る」

 

 アーチャー率いるサーヴァントにしてやられたギルガメッシュ。最強を誇った四次アーチャーが、最弱の五次アーチャーに陥れられ、令呪を使う羽目になった。いかにもプライドの高そうな美青年がそれを良しとするだろうか。屈辱を与えた五次サーヴァントどもに、復仇の念を抱かないか。

 

 だが、彼のマスターはもはや楽観するまい。下手に戦うより、時間切れを待てばいい。労せずに強敵は消える。そう言って、アーチャーは指を折った。

 

「この点で両者のぶつかり合いを起こせないか。それがまず一つ目」

 

「ひ、一つ目……」

 

 士郎は裏返りそうな声を押し出した。

 

「ま、まだあるのか……?」

 

 黒いベレーが上下した。

 

「もっとも、言峰綺礼は社会的に死んだも同然だ。

 これを覆すには、それこそ聖杯に縋るしかないんじゃないのかな?」

 

 凛が驚きの声を上げた。

 

「あいつが聖杯を!?」

 

「そこでもう一つの齟齬のチャンスができる。

 英雄王は、蔵から盗まれた聖杯を取り戻すと言ったそうだが」

 

 セイバーは小首を傾げた。

 

「はい、たしかにそうですが……」

 

「例えば聖杯を手に入れ、自分の悪事をなかったことにする方法がある」

 

 時の遡行による、この世界線の抹殺。

 

「実際のところは難しいだろう。

 あの子たちをなかったことにするなら、冬木の大災害、

 つまり、第四次聖杯戦争の結末を取り消さなくてはならない。

 英雄王の存在とも衝突を起こすだろうね」

 

 セイバーの願いと規模の差こそあれ同じだ。士郎は顔を上げた。

 

「でも、そうすると、俺は『衛宮士郎』じゃなくなるんだな……」

 

 あの大災害は起こらず、実の両親がいて、魔術を知らずに生きていただろう。正義の味方への希求を抱かず、今回の聖杯戦争とも無縁だっただろう。

 

「……たしかにその方が、今より幸せなのかもしれない。

 でも俺、じいさんや藤ねえ、イリヤや遠坂に桜、セイバーたちを、

 なかったことにしちまうなんて、そんなのは嫌だ!」

 

 衛宮士郎が衛宮士郎でなくなり、この想いも記憶もこの世からなくなってしまう。世界中がそうなる。じいさんも、イリヤも、藤ねえに遠坂、桜と慎二。みんなみんな変わってしまう。

 

「――時は戻らない。もし時を戻したら、今の俺たちは『死ぬ』んだ」

 

 琥珀が漆黒を見つめた。

 

「あの時、俺、アーチャーの言ってたことがよく解らなかった。

 でも、そういうことなんだな。

 俺たちがそっくりいなくなって、別の俺たちはそれすら知らないんだ」

 

 士郎は拳を握り締めた。

 

「教会の子たちもそうだろ?

 監禁がなかったことになったら、それはもう今のあの子たちじゃない。

 あいつは、なんにも償わずに逃げるってことになる」

 

 傍らのセイバーは、いたたまれなくて顔を伏せた。歴史書を読み、母国の歩みを知って、自分の心と対峙した。自分の治世をなかったことにしたかった、その根底にあったものに気付いたのだ。治世の誤りを正すなら、他にも方法はあった。時を遡るのではなく、優れた者に譲位をする方法が……。

 

 未来に向けてやり直す機会は、自らが潰していた。それを認めたくなくて、愚かな願いに差し出された手を掴もうとした。人は誰しも過ちを犯す。その後に、どうするかが大事だったのに。

 

 セイバーは顔を上げた。

 

「ええ、私の願いと一緒です。だから解ります。

 やり直しを望むのは、今を悔いているからです。

 ですが、間違いもあったけれど、私はああすることしかできなかった」

 

 理想に向けて、戦乱の中をひたすらに走った。 勝利を重ねても国は荒れた。滅びから逃れることは叶わなかったと書にはある。

 

 だが、その一方で、書にはこんな記述がある。

 

『国難が訪れた時、彼は蘇り、聖剣を以って国を救う。

 いつか蘇る王、アーサー。ペンドラゴン』

 

 敵だった者の遠い子孫が、彼女を讃えていた。

 

『聖剣を持たぬ我々は、理性を以て国難を防ごう。

 彼の眠りの安からんことを』

 

 みんなが笑顔で暮らせる国を。セイバーの願いは、自分一人の生涯では果たせなかった。しかし、人と時を重ね、現実のものとなっている。世界のすべてまで広がってはいないけれど、一とゼロには巨大な差がある。

 

 セイバーは、ゼロから最初の一歩を踏み出した者だったのだ。ゴールに到達できないからといって、道程のすべてを否定するのは誤りだった。次に続いた者は、彼女の斃れたところから歩み出したのだから。

 

 アーチャーの故国の建国譚のように、長い永い旅路を迷いながらも、人の世が続く限り進むのだろう。この星の隅から、海を渡り、空を越え、遥か星空の彼方まで。人は歩み続けている。短い生の間をひたすらに。

 

 それは、生贄の子たちにも等しく与えられるべきものだった。十年もの歳月と、彼らの心身の健康を奪った、言峰主従の罪は重い。第四次聖杯戦争さえなければ、普通の子どもと同じように過ごしたことだろう。父母やきょうだい、友と一緒に、喜怒哀楽の中で成長しただろう。

 

 彼らだけでない。士郎、凛、イリヤに桜。慎二だってそうだ。なんと惨いことだろうか。第四次聖杯戦争は、誰も幸せにせず、何らの栄光も齎していない。

 

 それを目の当たりにするのは辛かった。だが、前回参加したセイバーだからこそ、見えてくるものもある。

 

「ですが、あの男たちは、私と違い、『今』を生きています。

 子どもの監禁はいつでも止められたでしょう。

 あの男を座に還せば、生贄など必要なかったのですから」

 

「じゃ、セイバーは、綺礼がやり直しは選ばないっていうのね?」

 

 凛の問いに、金沙の髪が頷いた。

 

「はい。そも、教会が監視役なのは、聖杯を悪用されぬためと凛は言いましたね?

 この聖杯戦争は、一度も成功していないのに、わざわざ監視している。

 つまりは、教会も聖杯を欲しているということでしょう」

 

 アーチャーは、満点のテストを返却する教師のような顔をした。

 

「そうだ、私もそれが言いたかったんだよ。

 聖杯を手土産に、教会に帰順したほうが楽だ」

 

 セイバーの瞳に、厳しい光が宿った。

 

「前回、彼らは裏切りと陰謀で聖杯を入手し、味を占めているのでしょう。

 もう二度と、あんなことはさせない」

 

 セイバーはイリヤに向き直った。

 

「イリヤスフィール、あなたに重ねて謝罪を。

 私は、あなたの父上と共に戦えず、母上を守れなかった。

 今度こそは、その恥を雪がせていただきたい」

 

 白いブラウスと青いスカートのままで、レンタカーの座席に座っていても、堂々たる騎士王の一礼であった。

 

 そして士郎にもセイバーは一礼した。

 

「そして、シロウにも感謝を。

 あなたと学んだことで、私は自分の誤ちに気付けたのです。

 私の生は、すべてが正しくはありませんでしたが、

 全部が間違いではなかった。私のしたことは無駄ではなかった。

 それを無にしてしまっては、やはり世界が変わってしまうのではないでしょうか?」

 

 アーサー王を囲む円卓の騎士。彼らは対等の立場で、意見を交わし、国を治めていた。

 

「私たちの円卓が、今の政の在り方に似ていると思うのは自惚れかもしれません。

 しかし、発祥の地がイギリスというのは、偶然ではないように思うのです」

 

 セイバーは、今度はアーチャーに向き直った。

 

「私の存在をなかったことにすると、年月を経るうちに、

 世界が滅びるほどの変事に繋がるのかも知れません。

 アーチャーの世界の過去が、この世界となるほどに……」

 

 アーチャーは、黒い瞳をきょとんと見開いた。

 

「あ、そりゃ考えつかなかった。しかし、待てよ。

 無限に近いエネルギーの釜が暴走したら、

 核ミサイルの着弾に似た現象が起きないとも限らないよなあ……」

 

 呟かれる剣呑な言葉に、ぎょっとしたのは二人の高校生である。

 

「へっ!?」

 

「ちょ、ちょっと待って、どういうことよ!?」

 

「大爆発して、原子雲、キノコ雲が立つような……。

 私の世界の過去の第三次世界対戦は、

 冷戦中に発射された一発の核ミサイルが発端だったと伝えられてるんだ」

 

「まずいじゃない!」

 

 凛は思わず立ち上がり、車の天井に頭をぶつけた。

 

「あいた!」

 

「大丈夫かい? なにもそんなに慌てなくても……」

 

 呑気な従者に、凛は頭を押さえながら怒鳴った。

 

「あいつが本物の性格破綻者だってこと、あんた知らないでしょう!

 冬木が、ううん、世界が壊滅すれば、教会の事件どころじゃないわ。

 そういう使い方をされたら……」

 

 言いさして息を呑む。

 

「まさか、それが前回の……」

 

 冬木の大災害。マスターたちの死も、児童の連続誘拐殺人も、みんなうやむやになってしまった。言峰綺礼の父の死も。

 

 アーチャーは、難しい顔で髪をかき回した。

 

「なるほど、その手もあったか」

 

 表情に反して語調は冷静だ。軍人ではなく、意外な手を指された棋士のようである。士郎は思わず声を上げた。

 

「どうすんのさ!」  

 

 アーチャーは不器用に片目をつぶった。

 

「方針は一つだよ。英雄王に最大戦力を叩きつけて斃す。  

 彼さえいなくなれば、言峰綺礼はそれほど脅威ではないんだ」

 

 サーヴァントがいなければ、聖杯は入手できない。聖堂教会にとっては、庇う価値がなくなる。魔術協会は敵になる。ランサーのマスターは、時計塔の封印執行者だった。貴重な魔術師、それも宝具を再現できる血脈を断絶させた者を許しはすまい。協会が手を下す必要はない。聖堂教会に抗議し、冬木の監視役を辞せよと主張するだけでいい。

 

「聖堂教会は、自らの権益を守るように動くだろう。

 一頭の迷える子羊のために、群れを残して探しにはいけないものさ。

 教えとは逆でね」

 

 神秘は神秘で打倒しても、犯罪は人の法で裁くべきだ。あるいは、言峰が属する教えによって。

 

「孤児の虐待なんて、教会にとっては背教の最たるものじゃないのかい?

 自首しないなら、彼の元同僚が神の代行をしたりしないだろうか」

 

「え、代行って……。な、なあ、遠坂。 代行者って、そのさ……。

 吸血鬼とかゾンビを狩るんだよな?」

 

「まあ、普通はね。でも、きっと、背教者だって狩るでしょうよ。

 金ぴかサーヴァントがいる間は無理でしょうけど」

 

「そう。だから、英雄王は我々で斃すんだ。

 幽霊を裁くのは無理だが、言峰綺礼は人間だ。

 我々がこれ以上難儀をする必要はないのさ」

 

 アーチャーは辛辣であった。

 

「戦って勝つのが難しいなら、戦わせなければいいんだよ。

 聖堂教会という後ろ盾がなくなれば、

 いくら最強のサーヴァントがいたって、一個人にできることはたかが知れている」

 

 霊体化して同乗しているキャスターは身震いした。講和に応じなければ、この牙がマスターに向けられたのだろう。権謀術数で鳴らした王女メディアだが、上には上がいると思わざるを得なかった。

 

『よかったわ。敵に回さなくて……』

 

 アーチャーは、聖杯戦争を公序良俗というテーブルに載せたのだった。例えるなら、裏カジノのようなものだ。当事者同士は納得していても、現行法では許されない不法行為として摘発される。マスターの罪は法で裁けるのだと。

 

 だが、幽霊を殺しても罪にはならないから斃す。そういう意味でもあった。静まり返った車内を見回し、アーチャーは肩を落とした。

 

「まったく、私も大概ひどいことをやっているな。

 魔術のために、子どもを虐待するなんて許しがたいが、

 その被害者を利用して、言峰主従を陥れている。

 正義の名の下にね」

 

 士郎は声もなかった。目的を持ち、手段を選び、大義を得て、敵を容赦なく叩き潰す。教科書に載っていた、マキャベリズムというものの生きた見本だった。これもまた、『正義の味方』の一つの在り方なのだろうか?

 

 社会を味方にするのが、アーチャーの最大最強の武器であるのかもしれない。

 

「正義というなら、言峰綺礼を殺したところでどうにもならない。

 彼が果たすべき責任、償うべき罪を、我々が手を汚して肩代わりすることになる。

 あの主従にそんな価値はない。

 凛や士郎君、イリヤ君のご両親だって、君たちに人殺しをしてほしくはないだろう」

 

「……でも!」

 

 反論しようとした凛に、アーチャーはほろ苦い笑みを浮かべた。

 

「私は、してほしくなかったよ」

 

 一気に十数歳も年を重ねたような顔に、凛は口を噤むしかなかった。夢で見たアーチャーの最期は壮絶だった。左足の急所を撃ち抜かれ、血の海に座り込み、遺す人々に詫びながら息を引き取った。たった独りで、看取る人もなく。

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーの記憶はそこまでだったが、続きを知る者がここにはいる。宝具として召喚されたヤンの部下たちだ。彼らに教えられて、ヤンを一番打ちのめしたのはそのことだった。よりによって、あの子が自分の死体の第一発見者となり、地球教徒の屍の山を築いただなんて。

 

 沈黙に沈んだ凛に、アーチャーは静かに語りかけた。

 

「とはいえ、これは戦争だからね。

 原理原則といえど、君たちの命に優先すべきものではない。

 だが、君たちが手を汚す事のないように、私は全力を尽くすよ。

 まあ、首から下は役に立たないけれど」

 

 車が静かに停車した。 

    

「到着いたしました」

 

 そこは、柳洞寺を見上げる山道の麓だった。アーチャーはひょこりと頭を下げた。

 

「ありがとうございます、セラさん」

 

「皆様、くれぐれもお気をつけて……」

 

 そして、彼らは少々の行程を経て、洞窟の前に辿りついたのである。呆気なくなるほどの至近距離だった。柳洞寺の参道から、簡単に入ることができる脇道がそこまで続いていた。認識を鈍らせる魔術が掛けてあり、キャスターが解除したが、それもさほどに強力なものではないという。

 

「こんなところに道があったんだ……」

 

 士郎の言葉は、冬木の住民の総意であったろう。凛も不承不承に頷く。設置者の末裔として、複雑な気分だった。世代交代が早い遠坂家は、次代への知識伝達が不十分ではないかという従者の弁が身にしみる。せっかく資料が揃ってきても、次々にアクシデントが発生し、調査に充てる時間はなかったのだ。

 

「いや、むしろ当然だと思うね。

 大聖杯は、御三家の聖地だと言ってもいい。

 教会でも寺院でも、大体は交通の便のよいところに作るものだ」

 

 闇の中に続く道は、幅こそ狭いが、思ったよりも歩きやすかった。運動神経に難のあるアーチャーでも、つまずいたり、藪に突っ込んだりせずに済む程度には。これが日中なら、ちょっとした散策程度だろう。

 

「でも、認識を鈍らせるだけで、よく今まで隠せたよな。

 俺も全然気がつかなかった」

 

「キリツグのお墓のそばなのに?」

 

「うー、ゴメン……。でも、寺に行くのに、寄り道しようなんて思わないぞ」

 

「そうね、坊やの言うことはもっともよ。

 こんな単純な術が効くのは、主にこの場所のせいね」

 

 ここは天然の結界があり、山道を往来するものは自然に寺を目指し、また下へと下る。

 

「弱点はあるけれど、それもうまく折り合いをつけているわ」

 

「なんなのさ」

 

 実はキャスター、小さくて愛らしいものが大好きであった。セイバーやイリヤは、実に彼女の好みだ。将を射んと欲すればということで、士郎への態度もわりに柔らかい。

 

「認識が固まっていない子どもには効きづらいのよ。

 でも、ここに子どもだけで来るかしら?」

 

 寺への用事といえば、葬式、法事、墓参りだ。親に連れられたならともかく、子どもが単独で来るところではない。そして親が一緒なら、寺のお山で冒険ができるはずもなかった。

 

「ここんちに子どもがいたら、っていうかいるんだけどさ。

 一成に山で遊ぼうっていったら、仏罰がーーとか絶対にいうな……」

 

「そういうことよ。信仰に生きる者には、幼い頃から自然に禁忌となる。

 分別の固まった大人ならば、なおさら山には入らないでしょう。

 住人も来訪者も問わずにね」

 

 実体化したランサーが、槍で肩を叩きながら言った。

 

「まあな。今は狩りをせずとも、いくらでも食い物が手に入るからな。

 もっとも、俺の時代だって、墓場のそばで獣や草木を取って食いはしねえが」

 

「あんたねえ……」

 

 呆れ顔になった凛の隣で、アーチャーが髪をかき回してから腕組みをした。

 

「卵が先か、鶏が先か、か。

 柳洞寺の建立と、大聖杯設置の時期の因果関係ね。

 実に興味深いが……」

 

「それは後だな」

 

 ランサーが形の良い顎を上げた。

 

「ほれ、ここだろう」

 

 闇の中に、さらに昏く洞窟が口を開けていた。アーチャーは眉を寄せた。

 

「有毒ガスとか大丈夫かなぁ……」

 

「はあ? なにつべこべ言ってやがる。おら、行くぞ」

 

 山、それも火山のない国の住人としては仕方がないが、到底頷けない意見であった。身体能力が生前の何十倍になっても、空気が見えるようになるわけではないのだ。サーヴァントに毒は効かない。有毒ガスも同じだ。だから質が悪い。アーチャーたちには、炭鉱のカナリヤ役はできない。

 

「いや、我々は平気でも、マスターたちが良くないんですよ」

 

「そのとおり。いや、人生の最盛期の知識というのも嘘ではありませんな。

 戦艦乗りの閣下が、野戦演習の授業内容を思い出すとは上出来だ」

 

 響く声は深みのあるバリトン。アーチャーは嫌そうな顔になった。

 

「まだいたのかい、中将。戻れと言ったのに」

 

 白い装甲に身を固めた騎士が立っていた。

 

「おやおや、お忘れですか。小官の役職は閣下に任命していただいたものですが」

 

 イゼルローン要塞防御指揮官、中将ワルター・フォン・シェーンコップ。

 

「要塞なき今、守るべきは場所ではなく人、つまり閣下とマスターたちでしょう。

 それに、先陣は小官が最も適任なはずですよ」

 

 アーチャーは考え込んだ。凛への負担は避けたいところだが、普通のサーヴァントに不可能でも、今のシェーンコップにはできることがある。彼の装甲服は宇宙服でもあり、生命維持機能は無論のこと、環境測定装置も完備している。有毒ガスの有無の判別ができる。だからこの格好なわけか。

 

 アーチャーは溜息を吐くと頷いた。

 

「言われてみればそうだね。では、頼むよ」

 

「安んじてお任せあれ」

 

 言うが早いか、素早く無駄のない身のこなしで洞窟に潜入していく。シェーンコップは、アーチャーの宝具の一部で、サーヴァントでもある。心話でのやりとりも可能だ。中将を斥候に使うのは、いささか以上に勿体ないが、薔薇の騎士歴代最強の戦闘員の、そのまた最盛期の技量を死蔵するのも愚かである。

 

 シェーンコップが先行してから、秒針が五周ほどもしたろうか。

 

「……コンディション、オールグリーンだとさ。

 幸い、待ち伏せもないようだが、やれやれ……」

 

 アーチャーは座っていた岩から立ち上がると、ベレーをもみくちゃにした。

 

「なにやら問題発生のようだ。こればっかりは、我々門外漢にはどうしようもない。

 魔術師の出番だね。よろしくお願いします」 

 

 頼りない足取りで、それでもアーチャーが一同を先導する。先行したシェーンコップが、的確な指示をしてくれるおかげだ。士郎や凛が持ち込んだ懐中電灯だけでは、到底照らしきれない規模の洞窟だったのに、豪語するだけのことはある。

 

 その道中、ランサーは目を眇め、乱雑に前髪ごとこめかみを揉んだ。

 

「嫌な気配が漂ってやがる」



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75:Boy meets Girl

「大丈夫ですか?」

 

「いや、あまりいいとは言えねえな」

 

 心身共に強靭なランサーの、珍しい弱音だった。彼は光の神ルーの子として生まれ、正義と誓約を重んじた活躍で、敵にすら賞賛された英雄だ。その一方で、闇や悪に対しての相性は良くない。守護のルーンを中空に刻み、息を吐く。

 

「こりゃ難物だぞ。悪い予感しかしねえ。おまえ、よく平気だな」

 

「いや、私は気配とかよくわかりませんから……」

 

 ランサーは目を眇めた。

 

「チッ、ただの鈍感か……」

 

 頭を掻いたアーチャーがふと見回すと、セイバーの頬から血の気が失せ、キャスターも不快そうに眉根を寄せていた。

 

「皆、お待ちなさい。守護の術を掛けるわ」

 

 キャスターの指先が複雑な印を描き、朱唇から不可思議な発音の呪文を発する。それを合図に、すっと不快な気配が退く。しかし、その柳眉は顰められたままだ。  

 

「ひどく不浄な気配がするわね。

 『この世すべての悪』によって、大聖杯が汚染されているのは間違いなさそう」

 

 イリヤから伝え聞いた、第三次聖杯戦争の顛末だ。

 

「でも、どうしてそうなったのかしら?

 『この世すべての悪』の脱落で、なぜ大聖杯が汚染されるの?」

 

「はあ、どういうことでしょうか?」

 

 研究者の顔になったキャスターに、アーチャーは首を傾げながら質問した。

 

「大聖杯はこの奥で、小聖杯はアインツベルンのマスターが担っている。

 全くの別物ではなくて?」

 

「あ、そうか。小聖杯の汚染が、単純に大聖杯に及ぶのは辻褄が合わないんだ。

 エネルギー源が違うんだから」

 

 キャスターは頷きを返した。

 

「ええ。大聖杯は霊脈を薪に、世界の外に働きかける。

 サーヴァントはその寄る辺に従い、英霊の座からこの世に降り立つ。

 死して小聖杯の器に集い、器が満ちれば小聖杯が顕現する。

 それは世界の壁を越え、根源に至るほどの力を持つ万能の釜」 

 

 濃紫の瞳が、闇の先をじっと見据えた。

 

「いえ、写し身が本体へ還るのを利用して、世界の壁を越えるのよ。

 その方が術としても等価。

 ――小聖杯は、本体への帰り道でもあるのでしょうね。

 ねえ、アーチャー。道を断たれてしまったら、貴方ならばどうするかしら?」

 

「そりゃ、来た道を帰りますが……。ああ、なるほど、そういうことか」

 

 第三次聖杯戦争に、アインツベルンが召喚した『この世すべての悪』は、すぐに斃され、聖杯の器を壊されてしまった。彼または彼女は、帰る道を失い、来た道を戻ろうとしたのではないか。

 

「だが、大聖杯は一方通行なのかもしれませんね。

 下りしかないエレベーターのような。

 『この世すべての悪』は帰れないから、大聖杯に留まっているのかな?」

 

「そう考えたほうが説明がつかないかしら?」

 

 問われたアーチャーは腕組みをした。 

 

「たしかにね。

 だが、大聖杯の汚染はそれとして、前回の小聖杯の汚染はなぜでしょう?

 壊れた器を新調しているのでしょうに」

 

 イリヤは必死に悲鳴を堪えた。幸いにも暗闇が表情を隠してくれたが、彼らにいつまで隠せるだろうか。

 

「そうね……。大聖杯はサーヴァントを支えるものでもあるわ。

 我々が死して器に集う際に、大聖杯の汚染が引き込まれるのかもしれない」

 

「還るために?」

 

 問い返して、アーチャーは歩を進める。

 

「さあ? でも、悪の概念にされた『彼』にとっては、

 人界から隔絶した座こそ、初めて得た安住の地なのかも知れないでしょう?

 ……私にも分からなくはないわ」

 

 言葉を切って、彼女も青年の背を追う。士郎たちも後に続いた。神代と未来の魔術師の会話に、目を白黒させながら。伝説の激情の王女メディアと、アーチャーはごく普通に会話している。研究室の同僚のようだ。

 

 ランサーが、凛の腕を突いて囁きかけた。

 

「なあ、嬢ちゃん。あいつ、本当にキャスターじゃないんだな?」

 

「マジシャンと呼ばれたことならあるみたいだけどね」

 

 イリヤも頷く。

 

「うん、わたしも聞いたわ。でも、どうしてマジシャンなの?」

 

「トリックまみれの作戦を使うからだって」

 

「あー、なるほどな……」

 

 先日まで、アーチャーに散々な目に遭わされたランサーだが、味方になればこの上なく心強い軍師だ。だが、あれでもまだまだ本気ではなかったことも知ってしまった。

 

「でもね、本職としては悔しいんだけど、

 あいつの世界には、魔法の領域の技術があるの。

 神秘もなにもあったもんじゃないわ。千六百年後は基礎知識なのよ……」

 

「そいつは俺らが、今の世に感じていることだけどな、嬢ちゃんよ」

 

「ううう……。あいつは魔術を理解してるみたいなのに、

 わたしには、あいつの世界の技術がさっぱり分からないのよ。

 悔しいじゃない!」

 

 携帯電話の操作で四苦八苦している凛では無理だろうな、とはランサーも士郎も口にしなかった。賢明にも。

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーは、亜空間跳躍に重力制御、超光速通信が実在している世界の住人であったという。平行世界や世界の内外という概念を、それなりに噛み砕いて理解しているようだ。

 

 いまもキャスターの意を汲んで、自らの所見を述べている。

 

「数十年に一度、ようやく現れる上りのエレベーターじゃあ、

 密航したくもなるよなあ……」

 

「そんな知性が残っているかは疑問ね。

 でも、人であれ獣であれ、本能のままに動く方が厄介なものよ」

 

「ごもっともです……」

 

 溜息と共に同意して、ヤンは足を止めた。通路はそこで終わり、大空間が広がっている。待機していたシェーンコップが上官らに敬礼し、装甲服に内蔵された照明を点灯した。

 

「うわあ……」

 

 少年少女と、バーサーカー以外のサーヴァントは、異口同音に呻いた。目の前に広がる奇観。広間の中央に巨大な石筍がそそり立つ。その周囲は、棚田のように、鍾乳石でできた池が囲んでいた。だが、石筍を濡らすのも、周囲の池に湛えられているのも、水ではなかった。黒い得体のしれない液体だ。一目見ただけで、汚穢と毒に満ちたものだと直感する。

 

「これは……」

 

 絶句するセイバー。イリヤは小さな手を握りしめた。

 

「そんな、大聖杯が……。こんなの、ひどい……!」

 

 風もないのに池の水面が波立った。イリヤが叫んだ程度では、この規模の揺らぎは起こらない。ライトの反射で気付いたシェーンコップが、警告の叫びを発した。

 

「皆、下がれ!」

 

 シェーンコップの叫びに、キャスターが再び複雑な印を結ぶ。不可思議な音声が響くのと、黒い水面から何かが突き出るのはほぼ同時。鞭のように撓り、槍と化して一行に襲い掛かる汚水を、間半髪の差で透明の障壁が阻む。

 

「くっ!」

 

 キャスターは噛み殺しきれない苦鳴を発した。魔力で構成されたサーヴァントにとって、魔術は伸ばした手に等しい。それを強酸に灼かれたようなものだった。

 

「……これは、私たちを喰い殺す気だわ!

 貴方たち、お止めなさい。武器では歯が立たない!」

 

 武器を携えて前へ出ようとしたセイバーとランサーに、キャスターは制止の声を上げた。水面が再び波打ち、大きく盛り上がる。速度を犠牲にしても、より巨大な質量を叩きつけようというのか。

 

「あれでは、私の結界も長くは保たないわ」

 

 と、黒い波が迷うように波頭を揺らす。士郎たちが向けたライトの光が歪み、煌らかな黄金に反射した。

 

「ほう、面白いことになっているではないか」

 

「うわぁ、やっぱり出たか」 

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーは、緊張感に乏しい呟きを漏らした。出たのはお化けより質の悪い英雄王だった。

 

「……まずいなあ」

 

 予測はしていたが、最悪のパターンになってしまった。美青年が高々と腕を掲げ、背後から無数の剣が切っ先を覗かせている。

 

「チッ! どうすりゃいい!?」

 

 ランサーは焦慮を露わにした。彼の機動性を活かすには、背後の人数は多すぎ、動ける空間は小さすぎて、毒まで充満している。バーサーカーも顕現して斧剣を構えたが、上げる咆哮は苦しげだ。狂化されていても、ヘラクレスは最上級の名声を誇る英雄だ。

五次サーヴァントの中で、最も『この世全ての悪』とは相反する存在であったろう。

 

 淡々とした声が流れた。まるで、不変の公式を述べる学者のような。

 

「逃げるしかありませんね。それには準備が必要ですが。……士郎君」

 

 士郎は頷くと、一歩前に出た。

 

「――第七のマスターが令呪に告げる」

 

 やや低められた声が響く。その声がアサシンに似ていることに、今さらながら凛は気付いた。

 

 なんとしても帰らなくちゃ。誰一人欠けることなく、衛宮士郎をエミヤシロウにしないために。イリヤを、桜を、セイバーを、自分を失わないように。手の中に、残り少なくなった宝石を握り締める。

 

「セイバーに鞘を!」

 

 士郎の右手の令呪の一角が弾けて消え、英雄王にも勝る金色の輝きが、少年から立ち上った。

 

「なに!?」

 

 その光輝は、対面する英雄王の目を眩ませるほどだった。押し寄せようとしていた黒い波も、たじろいで形を失う。黄金の光は、士郎の手の中に収斂していった。黄金と群青。銀の象嵌が、美しい幾何学模様を描く鞘に。

 

「これは……私の鞘……遥か遠き理想郷――」

 

 触媒の鞘を衛宮切嗣が使えたのは、鞘とアーサー王の双方が存在したからだろう。マスターはサーヴァントの上位存在。魔力で構成された宝具ではなく、実物の鞘だから、

もう一人の持ち主として認められたのではないか。だから何とかなるかもしれない。そう言ったのはアーチャーだった。

 

『そんなに簡単に言うけどさあ……』

 

『簡単じゃないか。鞘の持ち主はあくまでアーサー王だ。

 失われた鞘を時を超えて王に返す。

 これはもう奇蹟のようなものだが、マスターにはその手段があるだろう?』

 

『あ、令呪か』

 

 士郎の回答にアーチャーはにっこりと微笑み、アーサー王の伝説の一節を語ってくれたものだ。聖剣と鞘を携えたアーサー王は、十二の戦いに勝利を続けた。最後の戦いで相討ちとなったのは、義姉の陰謀で鞘を失ったから。

 

『鞘が戻れば、セイバーは往時の強さを取り戻すだろう。

 万難を寄せ付けず、無尽の魔力で剣を揮う、

 湖の貴婦人の加護持つ騎士にね』

 

 柔らかな声で紡がれた、不敗の魔術師の予言にして祝福。そしてここに奇蹟は起こった。

 

「長いこと借りっぱなしでごめんな。 

 でも、この鞘のおかげで、俺とじいさんは巡り会えたんだと思う。

 ……いままでありがとう」

 

「シロウ……」

 

 少年は少女に鞘を差し出した。

 

「頼む。アイツに負けるな」

 

「はい!」

 

 セイバーの手の中で、再び鞘の姿が解けた。金沙と緑柱石、白銀に群青が柔らかな光芒を纏う。ギルガメッシュの瞳が愉悦に輝いた。

 

「面白い。それが貴様の真の姿か。わが財を受けてみよ!」

 

 襲い来る剣弾。セイバーは見えざる剣を正眼に構え、振り下ろした。

 

風王鉄槌(ストライク・エア)!」

 

 仮初めの鞘を解除するのと同時に、圧縮されていた疾風が荒れ狂う。剣の矢を相殺するには不十分だったが、針路を狂わせ、勢いを殺すには充分だった。そんな矢を叩き落せぬランサーやバーサーカーではない。前者は精密極まりない刺突を繰り返し、後者は豪放な一閃で複数を跳ね飛ばす。

 

「はぁっ!」

 

 両者にマスターたちを任せ、セイバーは風の余勢を駆って、英雄王へと突進する。水上を歩める精霊の加護と、万難を遮る不壊の鞘が彼女を護る。剣の矢嵐も、その歩をとどめることはあたわぬ。黒い水が無数の触手と化してセイバーに迫ったが、叩き落とされた宝具に斬りつけられる羽目になった。

 

「ほう、いつぞやとは別人のようだが、我の財を甘く見るなよ」

 

 これまでに倍する勢いで、剣弾が飛来した。セイバーではなく、背後の士郎たちが直撃を受ける弾道だ。

 

「くっ!」

 

 セイバーは水上でたたらを踏みかけた。

 

「迷うな! そのまま行け!」

 

 ランサーの檄が飛ぶ。深紅の瞳を闘争の歓喜に輝かせた槍兵は、飛来する宝具を片端から叩き落とした。

 

「アーチャーじゃねえが、こういうのを待ってたんだよ。

 なあ、おっさん」

 

 おっさん呼ばわりされたバーサーカーは、咆哮を上げながら斧剣を振るう。本能のままの剛力に見えて、洗練の極みにある武技で。

 

「……戦いを喜ぶなんて、私には到底理解できないわね!」

 

 結界を補強しながら、キャスターは叫んだが。

 

「ランサー、バーサーカー、かたじけない!」

 

 セイバーは迷いを捨てた。水飛沫を蹴立て、英雄王へと迫る。翻る金沙の髪と群青のリボン、ドレスの裳裾。白銀の鎧が鈴の音を立てる。小さな手を篭手で固め、握るのはセイバーを同じ彩りの剣。聖剣、エクスカリバー。黎明の空と星の輝きをそのまま剣にしたかのように美しく、曙光にも似た輝きを放つ。飛来する剣も、黒い水も一撃に斬り伏せて。

 

 その姿を、衛宮士郎は決して忘れないだろう。

 

「行けーー! セイバー!」

 

 ヤン・ウェンリーの漆黒の目にも、セイバーの輝きが焼きついた。

 

「私の願いも叶ったなあ……」

 

 英雄譚の再演を目の当たりにすることができた。

 

「叶わないほうがよかったのだろうけどね」

 

 戦いなどないに越したことはないのだ。だが、騎士王と英雄王の剣戟に目を凝らしながらも、ヤンの頭脳は回転を続ける。

 

 今ここに、英雄王が出現した理由。令呪に命ずれば、サーヴァントには大抵のことが可能になるという。しかし、曖昧な命令では効果が薄いとも。どこにいるかわからない、ヤン達の前に転移しろというのはこれに当たるだろう。

 

「どう思う、中将?」

 

 剣の矢を落とすのには参加せず、背後に控えた部下にヤンは問いかけた。

 

「魔術以外の方法で監視しているんでしょうな」

 

「だろうね。魔術ならば誰かしら気がつく」

 

 神代最高峰の魔女と、ケルト有数のルーン使い、現代の天才魔術師美少女が二人。 

初心者でへっぽこの士郎だって、世界の異状を感知する能力は高い。

 

「仕掛け人はおそらく言峰神父。だとするとこれは陽動だ。

 ――私が第九次イゼルローン会戦でやったのと同じだよ」

 

 シェーンコップの眉宇に緊張が走った。ヤン・ウェンリーの旗艦の出撃に、冷静沈着な帝国の双璧が勢い込んだ。僅かな隊列の乱れにつけこんで、彼の旗艦トリスタンを強襲揚陸艦で襲撃した。シェーンコップ率いる薔薇の騎士が、彼を白兵戦で討ち取ろうとしたのだ。だが、金銀妖瞳の名将は、シェーンコップと互角に戦った。もっとも、あと三分あったら、勝っていたのは自分だが。

 

 翻ってこの面々はどうか。マスターは少年少女、ランサーとバーサーカーは前からの防衛に手一杯。上官とキャスターは文弱の徒だ。かの双璧、ロイエンタール提督の真似などできないだろう。

 

「――これはこれは」

 

 処置なしとばかりに首を振ると、シェーンコップは背を向けた。戦斧を構え直し、さきほど通ってた通路に目を配る。魔術とやらに、索敵機器が通用するかは心許なかったが。

 

 アーチャーはキャスターに囁いた。

 

「アサシンからの連絡はどうです?」

 

「今のところ、あちらは大丈夫なようだわ」

 

「ではキャスター、彼に連絡を」

 

「ええ」

 

「セイバーにも後退する機会が必要です。士郎君、もう少し頑張ってくれ」

 

「おう」

 

 士郎は、額に浮いた汗を手の甲で拭いながら短く答えた。

 

 鞘の加護を取り戻したセイバーは、襲い来る剣の矢を捌きながら、果敢に英雄王に斬りかかる。弓兵が剣士に肉薄されるのは戦術的な敗北だが、英雄王の宝具は剣戟と等しい性質を持つ。そして、英雄王自身も剣を振るう。セイバーから見れば、練達の剣士数十人を相手取るに等しい。

 

 鞘の加護があったとしても、ランサーと互角に切り結んだ彼女でなくば、ギルガメッシュの元にはたどり着けなかっただろう。セイバーの猛攻に、ギルガメッシュもマスターらを狙う余裕がなくなったからだ。

 

「自慢の財も底を尽いたか、アーチャー?」

 

 剣戟の合間に、セイバーはあえて挑発の言葉を口にした。

 

「財を誇るのなら、出し惜しみするものではない。

 吝嗇では戦さには勝てぬと聞いたぞ」

 

「抜かせ!」

 

 とはいえ、セイバーに抜かせるつもりはなかった。斬り払い、突き、斬り上げる。踏み込み、旋回し、跳躍する。高く澄んだ刃鳴りと、かそけき鈴の音が彩る剣の舞。至高の舞い手に、主なき剣は次々に袖にされていく。

 

「凄い……。これが最優のサーヴァント」

 

 やはり羨ましい凛だった。戦闘になるとアーチャーはすっかりお荷物である。

 

「ああもう、頑張んなさいよ、士郎」

 

 今の凛には、士郎を励ますことしかできない。士郎は苦痛に顔を歪め、魔術回路を限界まで酷使している。 

 

 一見優位に見えるが、セイバーが生身ではなくサーヴァントである以上、限界が存在する。マスターからの魔力供給だ。生前、補給に苦労したヤンは、早くからその弱点に対策を講じた。凛に弟子入りさせたり、士郎の未来形であるアサシンに修行をつけてもらい、セイバー主従には極力戦いを避けさせた。しかし、所詮は十日足らずの付け焼き刃である。

 

 士郎が力尽きるのが先か、セイバーが勝利するのが先か。ぎりぎりの戦いは、後者に軍配が上がろうとしていた。鍔迫り合いを演じていたセイバーが剣を巧みに操り、ギルガメッシュの剣を逸らした。

 

「はぁっ!」

 

 セイバーは瞬速で踏み込み、敵手の眉間を断ち割った。

 

「がっ……」

 

 大理石のような額から血がしぶき、さしもの英雄王が膝をついた。黒い水がさっと波立つと同時に、黄金の姿が消える。

 

「やったか!?」

 

 士郎は拳を握ったが、イリヤが否定の声を上げた。

 

「ちがうわ!」

 

 キャスターが顔色を変えて振り向いた。

 

「令呪よ! 反応が近いわ!」

 

 澄んだ音が木霊した。飛来した短剣を、炭素クリスタルのトマホークが叩き落としたのだ。

 

「ふむ、この馬鹿馬鹿しい戦いも、案外と捨てたものではありませんな」

 

 歴代最強の薔薇の騎士も、生前の無念を晴らしたのであった。危なっかしい上官を、今度こそ守ることができた。

 

「ほら、黒幕のお出ましですよ」

 

 靴音が響く。固い革靴のものだ。

 

「いいサーヴァントを引いたな、凛」

 



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76:無限の剣製

重々しく響くのは、凛には聞き慣れた声だった。その主の姿も良く知っていた。広間を満たす薄闇よりも黒い髪と僧衣。胸の白銀のロザリオとは対照的な、昏く澱んだ瞳。傍らに黄金の王。

 

 凛は、歯の隙間から声を絞り出した。

 

「綺礼……」

 

 こんなに動揺するなんて、言峰が敵だと信じたくなかったのかも知れない。……まったく、これこそ心の贅肉だわ。

 

「やっぱり、あんたがこの金ぴかのマスターだったのね」

 

「ほう、それも予想していたか」

 

 言峰は、凛からアーチャーに視線を移した。

 

「そちらも凛ではなく貴様だろう? 実に賢い。

 だが、そろそろ目障りなのでな。――ギルガメッシュ」

 

「おのれ、雑種め」

 

 黄金の髪は乱れ、秀麗な顔は血に濡れて、憤怒に歪められていた。彼の背後から、変わった形の刃の切っ先が顔を覗かせていた。

 

「これを貴様らごときに使うことになるとは……。――天の……(エル)

 

 アーチャーは、制止しようとした白い騎士を消して進み出た。

 

「そういえば、あなたの願いは聞いていませんでしたね。

 あなたは聖杯に何を望むのですか?」

 

「なに?」

 

 風変わりな刃の動きが止まり、美青年の眉が釣り上がった。エクスカリバーも傷が治りにくい性質を持つ宝具だ。眉間の傷は消えていない。

 

「戯言だ。耳を貸すな」

 

 ギルガメッシュは動かず、アーチャーの問いを一蹴した。

 

「望みなどない。わが財を取り戻すまでのこと」

 

 アーチャーは首を傾げた。

 

「つまり、聖杯があなたの物だったということですか?」

 

 ギルガメッシュは嘲笑を漏らした。

 

「このような紛い物、我が財ではない」

 

 黒髪の青年は目を伏せた。どこか悲しげな表情で続ける。

 

「そうとばかりも言えないでしょう。

 アインツベルンの願いの一つが、魂の物質化という魔法の復活だそうです。

 不老不死、あるいは死者の復活ではないかと、私は推測するのですがね。

 友を亡くしたあなたが、地の果て、海の底まで追い求め、

 一度は手にし、失ったものではないのですか?」

 

 落日の色の瞳が大きく見開かれた。

 

「不死など、蛇にくれてやったわ!」

 

 黄金の短剣と、そこから繋がった鎖が飛び出す。蛇のようにうねり、アーチャーに殺到しようとした。

 

 その一瞬前である。涼やかな声が高らかに命じたのは。

 

「魔術師の英霊が令呪に告げる。

 我が下僕アサシン、来たりて宝具を使うべし」

 

 空間が揺らぎ、真紅の外套が姿を結ぶ。鋼色の瞳が開かれ、最後の一節が唇に上せられる。

 

Yet, those hands will never hold anything.(故に、生涯に意味はなく。)

 So as I pray, unlimited blade works.(その体は、きっと剣で出来ていた)

 

 力が足りないならば、あるところから持ってくればいい。 

 

 アーチャーが時間を稼ぎ、キャスターが令呪でアサシンを転移させたのである。英霊エミヤの魔術には、詠唱時間の長さという弱点があった。それを排除するために、アーチャー、キャスター、アサシンが講じた策だった。主従間の感覚共有でタイミングを合わせ、令呪で転移させることにより、タイムロスをゼロに近付けるのだ。

 

 これが、魔術師たちのもう一つの切り札。

セイバーが戦う間も、他の面々は次の手を打ち続けていたのである。

 

 ――そして世界は変容する。毒に満ちた洞窟から、赤い空と赤い荒野に。空には鉄の歯車、地には無数の墓標のように剣が突き立つ。生者なき世界の剣の王。英霊エミヤシロウの宝具、無限の剣製の発動だ。

 

「なんだ、これは!? おのれ、贋作か!」

 

 激した王の宝物庫から、剣と鎖が打ち出される。

 

「確かにな」

 

 エミヤの前から、倍する数の剣が浮き上がり、迎え撃つ。贋作の剣の幾振りかが砕け散った。しかし、砕けぬものは相手を砕く。白い眉の片側が器用に上げられた。

 

「だが、贋作が真作に劣ると誰が決めた?

 この聖杯だとて同じことだ。

 否定の矢を放つなら、召喚に応じた貴様に落ちてくるだろうよ」

 

「言わせておけば!」

 

 剣の矢の応酬が激しさを増す。両者は拮抗、いやアサシンが僅かに押している。背後から剣を打ち出す英雄王に対し、彼は前面や空中からも打ち出しているせいだ。士郎の目は、その光景に釘付けになった。

 

 自分の未来の可能性の一つが、あれほどの強さを持つのか。逞しい背が、巌のように屹立する。衛宮士郎の一つの到達点。宝具をも投影し、世界さえ染め変える異能。憧れないといえば嘘になる。

 

 だが、なんて悲しい呪文に、空漠たる世界なのだろう。剣と歯車のほかは、地にも空にも何もない。草木や雲も、生き物の姿も。無数の剣は墓標のごとく、天地を赤く染めるのは、戦火と流血の象徴か。

 

 目の前にあるのに、遠い遠い背中だった。夢で見た賢者の言を思い返す。

 

『その剣を抜いたら、もう戻ることはできない』

 

 どこかの世界の衛宮士郎は、彼にとっての選定の剣を抜いたのだ。

 

「士郎! 呆けてないでセイバーを呼びなさい!」

 

「あ、ああ、遠坂……。わかった」

 

 凛はアーチャーの指示に従って動いた。士郎はセイバーを心話で呼び戻す。居合わせたランサーとバーサーカーだが、ギルガメッシュとエミヤの応酬に割って入ることはできなかった。

 

 ランサーは残念そうに槍をしごいた。黄金の王と真紅の将の、剣の軍勢からのはぐれ者か、言峰が打ち込んでくる短剣――黒鍵というらしい――を弾くぐらいしか出番がない。この世界は、エミヤシロウの心象が具現化した固有結界。黒い水は姿を消し、憎い神父を討ち取る絶好の機会が訪れているのにだ。

 

「ちっ、またお預けか」

 

 凛は呆れた。これは想像以上の戦闘マニアだ。背後からランサーに歩み寄ると、指先に魔力を込め、ピアスが揺れる耳を引っ張った。

 

「うぁ!? い、いてて! 嬢ちゃん、痛え!」

 

 思わぬ急所攻撃に、ランサーは涙目になった。ランサーは三騎士の一角。セイバーには劣るものの、ちゃんと対魔力を備えている。かなりの規模の魔術でなくては通じないレベルだ。そして、常人の数十倍の身体能力を持ち、戦士としての絶頂期の技量も再現されているはずだった。

 

 ランサーは、華奢な美少女に畏怖の目を向けた。

 

「……嬢ちゃん、あんた何者だ? アーチャーよりも、絶対に強いんじゃねえか!?」

 

 凛は答えず、引っ張った耳へと囁いた。

 

「ランサーとバーサーカーは今は駄目よ。

 あの鎖は、神の血を引く者を束縛するんですって」

 

 ウェイバー・ベルベットからの情報は、値千金、いや、ダイヤモンドやエメラルドよりも価値があった。

 

「あんたたちは完全にアウト。キャスターとライダーも正直危ないのよ。

 わかった?」

 

「わかった! よーくわかったから、手を放せ! な?」

 

 ランサーの懇願に、あかいあくまは指を放した。

 

「逸話的に、人間を封じる概念はないだろうって、

 エルメロイ二世はおっしゃってたけどね。

 でも、わたしのアーチャーが、あれをどうにかできると思う?」

 

 ランサーは真っ赤になった耳をさすりながら、首を横に振った。

 

「だから、今は撤退のチャンスを狙うの」

 

 凛の視線は、アーチャーに注がれていた。漆黒の目が、剣の応酬をじっと観察している。

 

「そろそろ潮時か」

 

「セイバーが着いたぞ。結界のすぐ外にいる」

 

 士郎がセイバーの到達を告げる。アーチャーは頷くと、イリヤに語りかけた。

 

「じゃ、頼むよ、イリヤ君。アサシンも準備を」

 

 頷いた銀髪が二つ。エミヤの指揮により、夥しい数の剣が打ち込まれた。ギルガメッシュの剣と激突する寸前、もうひとつの命令を下す。

 

壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)

 

 エミヤの射た剣の群れが爆散した。贋作だからできる反則技だ。爆炎の向こうから切れ切れに声が聞こえた。

 

「……おのれ、おのれ! 贋作ごときが……!」

 

 恐らく、ダメージを与えるには至らないだろう。だが、これは煙幕に過ぎなかった。固有結界の解除を悟らせず、イリヤの声を消すための。

 

「バーサーカー!」

 

 雄偉な体格の巨人は、アーチャーとランサーを摘み上げて両肩へと乗せた。次に、もう少し丁重な手つきで、大小の銀の魔女を彼らの膝に乗せる。残りの少年少女は、ひとまとめにして左腕を回し、アサシンの襟首に右手を伸ばす。キャスターの憤慨やら、美少女二人と一絡げにされた士郎の驚愕を無視して、アーチャーの膝に陣取ったイリヤは命令を発した。

 

「アインツベルンのマスターが令呪に告げる!

 バーサーカー、わたしたち全員で、出てきた家に一瞬で帰りなさい!」

 

 小聖杯として膨大な魔力を持ち、過程を無視して望みを引き寄せるイリヤの魔術特性。大神ゼウスの息子、ヘラクレスの体格と膂力。双方が揃ったことで、可能になった荒業だった。複数の人間と、サーヴァントを連れての空間転移。誰も振り落とさず、障害物に激突したりもせずに成功したのは奇跡だ。

 

「うわぁっ!?」

 

 間桐家の客間で、資料を前に苦い顔をしていた慎二の頭上に出現したのは、極小の誤差といえよう。しかしこの落下物、総重量は半トンを超える。

 

「あ、危ない、シンジ!」

 

「ぐぇっ!」

 

 硬直した慎二の襟首を引き、危機から救ったのは居残りをしていたライダーだった。

少年の口から、潰れた蛙のような声が上がった。勢い余ったライダーに宙吊りにされ、床に下りるまでに半回転したからだ。

 

 そんなライダー主従(仮)を尻目に、バーサーカーは巧みに身を捻って床へと降り立った。ちゃんと慎二を避けた位置だった。

 

「……おい、ライダー。僕に恨みでもあるのか」

 

「ないと言えば嘘になりますが、今はそんな場合ではないでしょう。

 アサシンが転移したかと思えば、今度は全員で戻ってきた。

 何かあったのですね」

  

 さらりと食えない答えを返してから、ライダーは戻ってきた調査部隊を問い質した。

しかし、人間組は答えるどころではなかった。空間転移は、亜空間跳躍と似た性質があるようだ。眩暈と吐き気に頭痛が襲う。幼少時のアーチャーも散々に苦しめられた跳躍酔いだ。口を開けたら、話す前に吐く。そういう有り様なので、アーチャーとキャスターが交互に答えた。

 

「一応、大聖杯には到達したんだよ。

 英雄王主従に襲撃された。三連戦とはタフで恐れ入る。

 しかし、それよりも重大な問題が出てきてね……」

 

「もっと質の悪いものが巣食っていたのよ。

 あれが第三次聖杯戦争の名残り。『この世全ての悪』」

 

「やっぱりか……」

 

 慎二は苦り切った顔で癖のある髪を掻き上げた。

 

「……慎二君は心当たりがあるようだが、それは後にしようか。

 追っては来ないと思うが、キャスターは一応防御を固めてください。

 で、手の空いている人はマスターたちの手当を……」

 

 物音を聞きつけて、台所から駆け込んできた桜が困った顔になった。

 

「だ、大丈夫ですか!?

 どうしよう、わたし、治癒の魔術なんて全然……」

 

 ヤンは苦笑いして首を振った。

 

「いやいや、十分もすれば吐き気は収まる。

 それから鎮痛剤でも飲めば充分だよ」

 

***

 第五次の主従らの逃走で、大聖杯の間は再び闇で満たされた。セイバーが放った風の奔流も、澱んだ空気に含まれる毒を吹き散らすには不十分だったようだ。黒い水面のざわめきも治まっていない。

 

「……あれらは何者だ?」

 

 僧衣に身を包んだ長身の男が、低い声が呟いた。

 

「貴様に似た宝具を使う英雄など、聞いたこともない」

 

 黄金のサーヴァントは、忌々しげに吐き捨てた。

 

「大方、我を真似た贋作者だろう。知ったことではないわ」

 

「では、あの黒いアーチャーはどうだ?

 七騎をまとめ、統率し、貴様相手に無傷で逃げおおせた。

 只者ではなかろう」

 

 黒髪黒目で東洋との混血らしき顔立ち。欧州では平均的な身長だが、体重は平均を下回りそうだ。

 

「服装は近代以降のようだが」

 

「知らぬ」

 

 木で鼻をくくったようなギルガメッシュのいらえだが、言峰綺礼も最初から期待してはいなかった。

 

 近現代の戦争に動員された兵員の数は、古い時代の比ではない。有名になるのは後方の最高司令官であり、優秀な前線指揮官の多くは無名だ。なにより、サーヴァントは人生の最盛期の肉体で召喚される。凛のアーチャーが壮年期以降に名声を得たならば、歴史資料と容貌が異なる可能性が高い。

 

「……まあいい。アーチャー自身は、さほどに強力なサーヴァントではない。

 ギルガメッシュよ。次はセイバーにかまけず、さっさとアーチャーを潰すことだ」

 

「綺礼よ、貴様は戦士としては悪くないが、将たる器ではないな」

 

 第四次聖杯戦争とは見違えるようなセイバーの雄姿。伝説に謳われた、騎士の中の騎士たるアーサー王。その名声を裏切らぬ輝きと武勇であった。迷いと苦悩から脱し、主と友を守るために剣を揮っていた。

 

 前回のマスターには不可能だったことだ。あの男には、そうする気もなかっただろうが。あの男の養子の小僧だけで、可能とも思えない。単なる色恋では、女は皆のためには戦えなくなる。

 

 もっと、高みにある感情が不可欠だ。友情に共感、尊敬。一介の少年と、孤独な王を結びつける者がいたはずだ。ギルガメッシュの心に、言葉の矢を射ち込んだ弓兵が。

 

「あれは、見た目よりも遥かに化け物よ。

 死しても、兵を鼓舞することを止めぬだろう。

 ――あの男を斃すには、マスターどもと残りの六騎をことごとく屠ってからだ」

 

 殺す前に仲間を奪い、己の無力を後悔させてやる。そして、聖杯を前に問うのだ。なにを望むのかを。

 



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12章 幾度の戦場を越えて
77:再起


 部屋から移動する手間を惜しみ、サーヴァントの男性陣が家具を脇に寄せ、女性陣はふらふらになったマスターらを横たえた。我に返った桜が、水と薬を準備する。

 

「先輩に姉さん、イリヤちゃん。お薬、飲めそうですか?」

 

 一同は無言のまま、身じろぎもしなかった。覚えのある症状に、アーチャーは頬を掻いた。

 

「ああ、そんなに心配しなくていいよ、桜君。

 ひどい乗り物酔いみたいなものだ。ま、ちょっと待つしかないね」

 

 キャスターが柳眉を逆立て腕を組む。

 

「ちょっと、今はそんな場合ではないのではないかしらね。

 この瞬間に、転移してきたらどうするの!」

 

 かといって、彼女は転移で綻びた結界の制御に手一杯だ。

 

「ランサーにアサシン、なんとかしなさい!」

 

 魔女の下僕ふたりは、とばっちりに困り顔になった。

 

「そうは言うけどな、チョウヤク酔いになんてものに効くルーンはねえぞ」

 

「私も治癒魔術は苦手でな。師にも匙を投げられたものだ」

 

「この役立たず!」

 

 なかなかひどい言い草だが、キャスターも相当に焦っている。そうと察したエミヤは、宥め役に回った。

 

「落ち着きたまえ、マスター。

 我々が費消する魔力は君に依存している。

 この連戦で一番負担が大きいのは君だ。

 彼が待っても大丈夫だと言うのなら、従ったほうが賢明だぞ。

 そら、もう五分は過ぎた」

 

 彼の言葉に、鞘を使おうとしていたセイバーは動きを止めた。士郎にも負担を強いることになる。逆効果だ。

 

「ええ、今は彼らはここには来ないでしょう」

 

 アーチャーは、一同に説明を始めた。

 

「私は、彼らが転移して襲撃する可能性は低いと見ます。

 言峰主従は予想以上に非凡な戦術家でした。

 あそこはこちらの戦力が多くとも、全員が全力を出せる場所ではない」

 

 そして溜息をつくと、ずれたベレーの位置を直した。

 

「正直、あれは誤算でした。

 今回の調査は、大聖杯の場所を確定するだけの予定でした。

 皆さんを危険な目に遭わせて申し訳ない」

 

 そこで頭を下げたはいいが、今度はベレーが床に落ちた。アーチャーは恐縮しながら拾い上げ、付いてもいない埃を払いながら続けた。

 

「大聖杯の汚染が、あれほど深刻だとは思っていなかった。

 『この世全ての悪』は弱いサーヴァントだったと聞いていたのですが」

 

 サーヴァントの時は弱くて役立たずで、斃れてから大聖杯を汚染するとは本末転倒だ。アーチャーがそう慨嘆すると、専門家からの指摘が飛んだ。

 

「逆ではないの? 聖杯の分を超えて、悪神を呼ぼうとしたから、

 聖杯は悪の概念をサーヴァントの殻に押し込めた。

 その結果、生贄の人間分の力しか持てなかった。

 死してその殻が外れ、概念としての力を取り戻した。

 こんなところではないかしらね」

 

「耳の痛い話だなあ……」

 

 現実にもよくある話だった。死者が思想と結びつき、象徴となる。ヤン・ウェンリーが、衛宮切嗣が、養子たちに影響を与えているように。

 

 ランサーが伸びをしながら言った。 

 

「ま、しょうがねえんじゃねえか。

 御三家の嬢ちゃんたちと坊主も知らなかったんだろ?」

 

 慎二は項垂れた。凛とイリヤは横になったまま、悪い顔色が一層冴えなくなった。

 

「だが、言峰綺礼は知っていたのではないでしょうか。

 あの場所の性質を。だから彼らは、令呪を引き替えにしても攻めに来た」

 

 ランサーとセイバー、キャスターは頷いた。なお、バーサーカーは速やかに霊体化している。イリヤの魔力の浪費防止のためだ。

 

「だが、ここは違う。全員で掛かることができる。

 あの汚水もないし、ライダーの目は人間にとっては致命的です」

 

 純白の天馬に騎乗する、煌く髪の魔眼の美女。あまりにも有名なライダーの素性を、逆手に取った牽制である。討ちとれるなら最上、それが無理でも布石として無駄にしない。アーチャーの策の柔軟性に、慎二は舌を巻く思いだった。

 

「……だから、奴らはおまえたちが留守でもこっちに来なかったのか」

 

「今の彼らは、別行動を取ったら負ける。

 いくら言峰神父が強くとも、サーヴァントには敵わない。

 彼が死んだら、英雄王は新たなマスターが必要になる。

 それには私たちを斃し、令呪が残る御三家の誰かと契約するしかないんだ」

 

 御三家のマスターは、凛と桜とイリヤだ。慎二は再び唸った。

 

「なるほどね。自殺行為だよ。親の仇に絶対命令権を握らせるなんてさ」

 

 アーチャーの推理のあらましは、士郎から聞いている。言峰主従は、遠坂時臣とアイリスフィール・フォン・アインツベルンを殺害した疑いが濃厚だ。少女たちのサーヴァントを斃しても、新たな契約を結んだ瞬間に自害を命じられるだろう。

 

「そういうことだよ。

 今ここに乱入しても、彼らにとっては先程よりも不利だ。 

 セイバーとランサーには、彼らも知る切り札がまだある」

 

 名指しされた二騎士は顔を見合わせ、セイバーが代表して口を開いた。

 

「我々の手の内は知られてしまっているのに?」

 

「そのとおりだ。腹が立つがな」

 

 ランサーも渋々頷いた。しかし、アーチャーの意見は違う。

 

「私なら、知っているからこそ慎重になりますがね。

 あなたがたを両方を相手にするのは、あそこだから可能だった。  

 連戦したのは、そういう理由かもしれない。決め付けるのは危険ですが」

 

 ヤンはベレーをかぶり直した。

 

「とにかく、彼らにとっても絶好のチャンスだったんです。

 機を逃した以上、四つ目の令呪を使うのは無意味ですよ。

 あといくつあるのかわかりませんが、貴重で有限な資源なんですから」

 

 この説明で、サーヴァントたちと慎二の肩から力が抜けた。床に転がった凛と士郎、イリヤの耳に入っていたかは定かではない。桜が甲斐甲斐しく薬を飲ませ、クッションの枕をあてがい、毛布を掛けている。ちょっとした野戦病院だ。ベッドで休ませてやりたいが、襲撃の警戒中では不可能だった。

 

「……ただ、我々も同様なのが辛いところですが」

 

 桜がコップを片付けに行ったのを見計らい、アーチャーは溜め息混じりに付け加えた。それを合図に、次に向けての作戦会議が始まった。

 

「令呪が第三次から導入されたなら、二十一マイナスnが教会の保管数。

 そして、英雄王自身の令呪が一個以上。なお、第四次での使用数は不明。

 今日の攻防で使われたのは、敵が二つないしは三つ」

 

 こちらがわは、セイバーとキャスター、バーサーカーで計三つ。アーチャーとランサーが一つ、ライダーが二つ、既に使っている。残りは十四画。だが、使えるのはそのまた半分だ。

 

「ともあれ、誰一人欠けずに帰還できたし、相手の能力も見ることができました。

 大聖杯の実態がよろしくないこともね。

 さて、慎二君、君は何かを見つけたようだね。いい情報かい?」

 

 味方の令呪の数を増やせるとか、敵の令呪の制御を乗っ取れるとか。開発者の間桐として、このぐらいの特権は持っていてもおかしくない。そう言うヤンに、慎二は渋い顔で首を振った。

 

「そんなうまい方法があるなら、前も今度もジジイが参加したと思うね。

 今回はみんなガキだけど、この前のマスターだって、

 若いか余所者ばっかりじゃないか」

 

 余所者はともかく、若いという言葉にヤンは引っかかりを覚えた。

 

「じゃあ、前回、間桐家からも誰かが参加したのかな?」

 

 打てば響くような反応に、慎二は臓硯の戸籍謄本を差し出した。

 

「ああ、そうさ。

 爺が死んで、弁護士に遺産相続の手続きをしてもらってたら、

 怪しい奴が見つかったんだ」

 

 アーチャーは、差し出された戸籍を流し見した。書類上、臓硯には未婚の次男がいることになっている。

 

「間桐、カリヤ、と読むのかな? 君にとっては叔父さんだね」

 

「といっても、僕は顔も見たことがない。

 僕の知ってるかぎりだけど、電話や手紙も寄越したことがないんだ」

 

 慎二は、眉を寄せて腕組みをした。

 

「いくらなんでもおかしいだろ?」

 

「……カリヤくん?」

 

 床に転がり、蒼白な顔のままの凛がポツリと呟いた。

 

「なんだよ、遠坂。知ってるのか?」

 

「なまえ、だったのね。苗字じゃなかったんだ」

 

「凛?」

 

 慎二とアーチャーは顔を見合わせ、凛に視線を転じた。

 

「お母様がそう呼んでたの。小さい頃からのお友達だって……」

 

 慎二は戸籍を凝視した。そして、凛に視線を移し、ここからは見えない台所に顔を向ける。コップの片付けにしては、ずいぶん時間がかかっている。きっと夜食でも作っているのだろう。サーヴァントたちのために。

 

「遠坂と桜のお袋さんが……?」

 

 士郎の記憶に引っ掛かるものがあった。首を振り、吐き気を堪えながら口を開く。

 

「うー……。雷画じいが、美人だったって言ってたぞ。

 すらっとして、遠坂に似てたって。あ、遠坂のほうが美人だとも言ってたけど」

 

 凛の蒼白い頬に、うっすらと朱が差す。慎二は髪をかき混ぜると、ソファに乱暴に腰を落とした。

 

「……衛宮。僕はおまえの、そういう天然なあざとさが嫌いなんだよ。

 桜といちゃこらしてんなら、ちょっとは節操を持て!」

 

 士郎は慌てて起き上がった。

 

「なっ、違うぞ!? 桜は俺の家の手伝いに……」

 

「そんなんで毎日行くもんか! この鈍感野郎め。爆発しろ。そしてもげてしまえ」

 

「まあまあ、慎二君、落ち着いて」

 

 おかんむりの慎二をアーチャーが宥め、士郎のほうはきょとんとしている。もう一人のエミヤはいたたまれない気持ちになった。魔術への劣等感で歪んでいなければ、間桐慎二は癖があるけどいい奴だった。諫言をしてくれる同性の友人とは、なんと貴重な存在だったのだろう。

 

「だけど、盲点だった。当然考えるべきだったんだ。

 僕らが同年代であるように、僕らの親も同年代だってことをね。

 叔父と遠坂の母親が幼馴染でも、なんの不思議もない。

 立派に参加の動機になるじゃないか……」

 

 怪訝な顔の凛と士郎に、慎二は指を突きつけた。

 

「遠坂が母親より美人ってことは、父親の遺伝だろ。

 ハンサムで金持ちの遠坂家の当主と、家から出奔した間桐の次男坊。

 普通は絶対に前者を選ぶんだよ!」

 

 キャスターが感心したように頷いた。

 

「よくわかっているじゃない、巻き毛の坊や。

 私も神に操られなければ、そうしていたでしょうにね」

 

「でも、お母様はふ、二股を掛けるとか、そういう人じゃないわ!」

 

「ですがリン、自分の意志に関係なく、相手に想われることもままあります」

 

 そう言ったのは、ライダーだった。

 

「愛であれ、憎しみであれ。でも、それだけとは思えません」

 

 キャスターの母方の従妹で、臓硯の訃報に駆けつけたというのがライダーの設定である。今は、黒いセーターにパンツ、メタルフレームの眼鏡という飾り気のない格好だ。眼鏡はキャスターのお手製で、石化の魔眼を封じ込める。

 

 おかげで灰水晶の瞳を見ることができる。それにしても、実に美しい女性だ。海神の寵を受け、戦女神に嫉妬されるのも無理もない。そんなメドゥーサならではの言葉だった。

 

「シンジの叔父なら、この家の魔術を知っていたのではありませんか?

 だから出奔した。そこに、愛した女性の娘が引き取られた。

 黙って見ていることができるでしょうか?」

 

 慎二は鼻を鳴らした。

 

「最初から逃げなきゃ済んだ話だけどな」

 

「ひ、否定はできませんが……」

 

「だけど、逃げる気になっただけでも立派かもしれないけどね。

 親父も、僕も、桜もジジイに飼い慣らされちまってた。

 この叔父も、結局、ジジイから逃げきれなかったんだろう」

 

 慎二はもう一枚の書類を差し出した。これもまた、士郎が最近見たばかりのものだ。

 

「あれ、これ、戸籍の附票だよな?」

 

 士郎の反応に、慎二は眉を上げた。

 

「よく知ってるじゃないか」

 

「じいさんの戸籍を調べてて、これも雷画じいに見せてもらったんだ。

 でもなんで線が引いてあるんだ? しょ、職権消除? へ?」

 

「その住所にいないって届出があると、

 役所が調べて住民登録を消されちゃうんだってさ。

 要するに、失踪中ってこと」

 

 士郎と凛は顔を見合わせた。

 

「それが十年ちょっと前。これで辻褄と人数が合う」

 

 慎二の指が附票を弾いた。そのまま指を折る。

 

「遠坂の父親がアーチャー。衛宮たちの父親がセイバー。神父はアサシン。

 ランサーとライダーが時計塔からの参加者で、

 キャスターのマスターは、冬木の連続児童誘拐殺人犯。

 残るのはバーサーカー。……そいつが間桐からの参加者だ」

 

「ちょ、ちょっと、今はそんな場合じゃ……」

 

 反論しかけた凛を、慎二は制して続けた。

 

「いいから聞けよ。

 そのバーサーカーが、セイバーのマスターの奥さんを攫ったんだろ?

 どうして、アーチャーのマスターに協力するんだよ。

 元恋敵かもしれない相手だぞ」

 

「あっ!」

 

 凛とセイバーは同時に声を上げた。サーヴァントという『点』しか見ていないと気づかない。しかし、サーヴァントの背後にはマスターがいる。今回の面々と同じく。

 

 遠坂と間桐、冬木にある二つの魔導の家。双方に同年代の魔術師が生まれ、性を同じくし、同じ女性と異なる関わりを持つ。夫と幼馴染。一方は恋の勝者。他方はその立場をよしとしたのだろうか。

 

 慎二なら、よしとはできない。

 

「敵対するかどうかは別として、協力しようとは思わないね。

 この家に戻って聖杯戦争に参加するってことは、

 聖杯を手に入れようとしたからだろう」

 

 間桐の魔術を知る慎二の言葉には、重いものが篭められていた。

 

「聖杯が欲しいんなら、あのアーチャーと組んでも、

 絶対に自分の物にはならない。

 六騎がかりでも倒せなかった奴じゃないか」

 

 その言葉にランサーは嘆息した。

 

「そりゃ、俺たちも全力が出せなかったからな。

 それを含めて、連中が一枚上手だったってことだが」

 

 強大な宝具を所持し、追加の令呪という反則まで使える。五次の面々が結集してなお、引き分けに持ち込むのが精一杯。調査部隊は一人を除いて悄然とした。だが、残る一人は、あっさりと言い放った。

 

「つまり、普通でない方法を使えば、その限りではないということでもある。

 組んだ上でのマスター殺しだ」

 

 ヤンの疑いは、先ほどの一戦でほぼ証明された。言峰綺礼は、遠坂時臣の死に関与していると断定してよかろう。

 

「まともならできないけどな」

 

 元恋敵――相手の眼中になくとも――は、愛した女の夫で、義理の姪の父だった。彼を殺して、聖杯を手に入れても、人の心は決して手に入らない。そこまで考えて、慎二は自嘲の笑みを漏らした。

 

「でも、僕には人のことは言えないよ。

 聖杯戦争に首を突っ込めば、まともじゃなくなる。

 それこそ、どんな望みでも叶うってのが謳い文句だ。

 ジジイのいない、遠坂の親父のいない世界にだってできるんじゃないか?

 間桐雁夜夫妻と、娘たちのいる世界にも」

 

「そうかもしれないね」

 

 人の心の働きには、計り知れないものがある。ヤン・ウェンリーは知っていた。

 

 ある女性は、痴情の縺れで、二百万人以上の帰還兵を道連れに恒星に飛び込もうとした。

 

 ある青年は、姉を奪われた怒りで古い王朝を滅ぼし、友を失った悲しみを戦いで癒すかのように、二つの国を滅ぼして、宇宙を統一した。

 

 従ったほうが楽なのに、名君が率いる圧倒的な大軍と戦うことを選んだ者たちもいる。

 

「聖杯を入手すれば、あるいは叶うのかもしれない」

 

 士郎は思わず叫んだ。

 

「でも、自分のいいように世界を変えるなんて、世界を滅ぼすのと一緒だ!

 自分の思いどおりにならない人は、いらないってことじゃないか!」

 

「馬鹿だな、衛宮。それができれば、ケンカや戦争なんか起こらないね」

 

 ばっさりと切り捨てられて、士郎は一瞬カッとなり、次にハッとした。それこそが、じいさんの願いだった。誰をも切り捨てぬ正義の味方。すべてを救って、みんなを幸せにする。未だ人が辿りつかぬ、遥けき理想。

 

「神様にだって不可能なことだぜ」

 

 光神の息子と海神の孫娘たちは、一斉に頭を上下動させた。群青、貝紫に青銀。空と海を映した、人ならぬ色彩は、彼らが神の系譜に連なるからかもしれない。彼らは神の血を受け、その生においても神々と深く関わっている。

 

 どうにか結界の修復が終わったキャスターは、長い睫毛を伏せて愚痴をこぼした。

 

「死してなお、『神』のとばっちりを受けるだなんて、まったく嫌になるわ。

 聖杯が降臨したとして、あれをどうにかしなければ、

 きっと役には立たないでしょうね」

 

 イリヤが青褪めた。

 

「願いがかなわないの!?」

 

「どう叶うかが問題なのよ、アインツベルンのマスター。

 人の分を超えた願いを神が聞き入れると、破滅の元でしかないわ。

 ミダス王は黄金を欲し、触れるものを黄金にする指を得た」

 

 キャスターもまた、優れた語り部であった。妙なる声が、歌うように神代の物語――彼女にとっての史実――を紡ぐ。

 

「触れるものはみな黄金になるのよ。家族も民も、水や食べ物までも。

 王は無数の黄金に囲まれて、孤独の中で飢えて死んだわ」

 

 棒を呑んだように硬直したイリヤに、彼女は存外に優しい口調で語りかけた。 

 

「聖杯が、単なる魔力の坩堝なら、思うとおりになるかもしれないわね。

 でも、大聖杯の汚染は、悪神が巣食っているようなもの。

 無色の力ならいかようにもできても、神への願いとなればそうはいかない。

 神が叶える願いは一つだけなのよ」

 

「そ、それは、聖杯だって同じことでしょ?」

 

 イリヤの反論に、魔女は首を振り、小さな銀の頭を撫でた。二人の髪の色が似ているため、歳の離れた姉妹にも見える。 

 

「いいえ、全然違うわ。触れるものを黄金にするという願いには、

 人や食事は黄金にしない、という願いは含まれないのよ。

 不老不死を欲したら、死なず老いない石になるかもしれないでしょう」

 

 キャスターの意見にアーチャーはこくりと首を傾げ、理系の学生のようなことを言った。

 

「不滅というなら、原子に分解されるんじゃないですかね。

 質量保存の法則的に」

 

 悲鳴の大合唱が聞き慣れた声で奏でられ、驚いた桜は再び台所から駆け戻った。

 

「今度はどうしたんですかっ!?」

 

 義妹の問いに、慎二は震える指を問題発言の主に向けた。

 

「こ、こいつ、地味な顔して超えぐいぞ!」

 

 アーチャーはちょっと傷ついた顔をした。

 

「私の顔は関係ないだろう……。えぐいのは聖杯戦争そのものだろうに」

 

「それを汚染したのが『この世すべての悪』じゃないか?

 ジジイがそれを知ってたなら、参加しなかったのも納得できるんだよ」

 

 慎二の推理に、アーチャーは髪をかき回した。

 

「なるほど、たしかに筋が通っているよ。

 それにしても、『この世すべての悪』なんて、

 そんな都合のいいものはないんだけどね。

 ゾロアスター教の最高神、アフラ・マツダはインドでは悪神のアスラ。

 アンリマユが従える悪魔ダエーワは、やっぱりインドの善神デーヴァ」

 

 高校生たちは呆気に取られた。

 

「私は、正義の対義語は、悪ではないと思うんだ。

 強いて言うなら、逆方向の正義だと思っている。

 ペルシアでは、確かにアンリマユは悪神だ。

 でも、ちょっと東西にずれれば、神として信仰を集めている」

 

 インド発祥の神デーヴァが、ペルシアでは悪魔のダエーワになる。そして、さらに西に行くと再び神になる。デウスの語源でもあるのだ。

 

「インドとペルシアが、いかにユーラシア大陸で覇を競い合ったかということだがね。

 ペルシアの脅威に晒されていた欧州の人には、強大な敵の敵として崇拝されたのさ。

 実に逆説的だが、ペルシアがあるかぎり直接侵攻は受けないからね」

 

 呆気に取られるのも無理はない。まるで世界史の授業だ。それも、かなり面白い内容の。 

 

「だから私には、絶対的な悪だとは思えなかったんだ。

 しかし、キャスターの説を聞くと、なるほどとも思う。

 思想や信仰を根絶やしにするのは不可能に近い。

 ゾロアスター教そのものは薄れても、別の宗教に吸収されて……」

 

 言いかけて、ヤンは顎に手を当てた。――別の宗教。あるではないか。アスラもデーヴァも吸収して、等しく信仰の対象とした宗教が。日本で最も広く信仰されている仏教だ。あの洞窟の真上にも、その拠点の一つが鎮座している。『この世すべての悪』が、大聖杯内に留まっているのは、それが理由かもしれない。

 

「……サーヴァントを召喚し、維持するのは大聖杯でしたね。

 そちらを何とか出来ないものでしょうか。

 英雄王に、魔力が行かないようにするとか」

 

 キャスターが首を横に振る。

 

「あれは魔力で飽和寸前。いつ暴走してもおかしくないわ。

 英雄王への供給路を切れば、その分魔力の飽和も早くなってしまう」

 

 灰水晶の瞳が瞬いた。薔薇色の唇が開く。

 

「……では、更に大元から供給を減らすのはどうでしょうか。

 地脈から魔力を吸い上げられないように、大聖杯の手前で邪魔をする」

 

 一同はギリシャ神話きっての美女の顔を、まじまじと凝視した。

 

「私が学校に張った結界は、中の人間を融解させ、魂を回収する宝具でした」

 

 桜が息を呑み、義兄と従者に視線を往復させた。

 

「そ、そんな結界を学校に……」

 

 ライダーは立ち上がると、優美な長身を二つに折った。

 

「サクラ、そして皆さん、申し訳ありませんでした。

 でも、シンジもシンジなりに戦おうとしたのです」

 

「……悪かったよ。遠坂たちのせいで、不発に終わっちまったけど、

 先に武器を突きつけたのは僕らだからな」

 

 慎二も歯切れ悪く謝罪をし、癖毛の頭を下げた。

 

「ああ、だがもう済んだことだ。今さらそれがどうしたってんだよ」

 

 ライダーとヤンの一戦の間接的な被害者は、実はランサーである。双方が壊した校舎の修理を、言峰綺礼に命じられたからだ。それは口に出さず、彼は疑問を口にした。

  

「あれは地脈の力を吸い上げて発動し、その地を枯れさせるのですが、

 人がいないところで使っても、地脈に与える影響は同じです」

 

「使えそうじゃねえか!」

 

 膝を打つランサーに、黒髪の魔術師たちは首を捻った。

 

「でもあの結界、発動までに結構時間がかかったわよね」

 

「だから我々も邪魔することができたんだが、聖杯戦争の残り時間では……」

 

 ライダーは、仮の主をちらりと見た。

 

「あの、それはシンジの魔力が足りなかったせいです。

 仕掛ける範囲も広すぎましたし……」

 

 だから吸血鬼事件を起こすことにもなったのだが。

 

「その、重ね重ね、すみません……」

 

 萎れる美女に桜は首を振った。

 

「ううん、兄さんとライダーだけのせいじゃない。

 お爺様の命令だったけど、わたしの呼びかけに、ライダーは応えてくれたでしょう。

 わたしもちゃんと責任を取らなくちゃいけなかったのに」

 

 今までマスターであることに目を背けていた桜も、足を踏み出したのである。

 

「ごめんね、ライダー。兄さんも。それから先輩と、……姉さんも。

 ほんとうにごめんなさい」

 

 際限なく謝罪合戦に突入してしまいそうな雰囲気に、ヤンは咳払いをしてみた。

 

「まあ、それは当事者同士で、後で気が済むまでやればいいよ。

 じゃあ、本題を進めようか」

 

「あ、す、すみません。話が途中でした。

 サクラが私の主となってくれましたから、魔力は充分足りています。

 結界の大きさを調節すれば、もっと時間も短縮できます」

 

 ライダーの宝具『他者封印・鮮血神殿』は、人体を融解させ、魂を回収するという危険な宝具だ。しかも、ひどく霊脈を痛めつける。その欠点を逆用できないかという提案だった。

 

「……なるほど、霊脈のうち無人の場所を狙う、ね」

 

 アーチャーはベレーをかぶり直した。

 

「これは妙手かもしれない」

 

 そういって席を立ったアーチャーは、一冊の本を手に戻ってきた。

凛の荷物に加えてもらった、図書館から又借りした本だった。

ページを開き、挟んであった紙を凛に差し出す。

 

「ところで凛、霊脈とやらとこれは一致するのかい?」

 

 アーモンド形の瞳が大きさを増す。

 

「えっ……。う、嘘!? なによ、これ!? あんた、魔術なんて知らないって……」

 

 それが雄弁な回答であった。

 

「こいつは、冬木の地図に断層図を書き込んだものだよ。

 ほら、冬木の霊地は、高台に集まっているだろう?

 水の流れとは逆にね。下から上に上がるものというと、

 ほかには地殻変動ぐらいしか思いつかなくって」

 

 凛の口がぽかりと開いた。

 

「士郎君は霊脈をよく知らないし、イリヤ君は地学を学んでいないそうだ。

 でも、君は両方の知識があるからね。……どうだい?」

 

「う、うう……」

 

 凛は眉間に皺を寄せ、アーチャー手製の地図とにらめっこをした。

ぶつぶつと呟きを漏らす。

 

「ええと、ここが私の家でしょ。こっちがこの家で、これが教会……。

 や、やだ、大体合ってるかも……。っていうか、こっちのほうが詳しいような……」

 

「ならよかった。これで手間が省ける」

 

 アーチャーの指が、円蔵山を横切る赤い線をなぞった。

 

「主にはこのライン。まあ、山の近辺はあの主従も警戒していると思う。

 だから、これに繋がるラインを探したい」

 

 赤線を離れた指が、山の周辺で円を描く。

 

「この範囲内の断層で、あの洞窟と同じ石灰岩質の土壌で、

 かつ人家のない所が有望なんだが」

 

 冬木在住の魔術師(自称を含む)らの目と口は開きっぱなしになった。

 

「……地図を読むのが給料のうちって、本当だったんだな」

 

 感心する士郎に、アーチャーはばつが悪そうな笑みをこぼし、黒髪をかき回した。

 

「いや、ごめん。あれは全部が本当じゃないんだ。地図じゃなくて星域図だから」

 

 慎二はたまらず叫んだ。

 

「そういう問題じゃないよ! なんだよ、もう。

 門外漢に、科学的に丸裸にされちまうなんて、

 神秘は秘匿するって何だったんだ!?」

 

「しかしね、慎二君。

 科学や医学は魔術から派生していったものだろう?

 科学で魔術を解明するのも、不可能ではないと思うんだよ。

 形は違えど、世界の謎に人間が挑戦しているんだから。

 それに所詮は人間、考えることにそんなに差はないものさ」

 

 そんなことを、このサーヴァントに言われて誰が頷けようか。

 

「……絶対に嘘だ」

 

「嘘じゃないよ。人の個人差は大きいが、人間の集団の差は小さい。

 そして、個人では集団に勝てないんだ。

 君たちマスターが打破すべきは、英雄王ではなくそのマスターだ。

 慎二君を含めて、力を結集することが鍵だと思う」

 

 この言葉を皮切りに、高校生と元高校生は、冬木の地形という宿題を解くことになった。いかに聖杯の加護があっても、地元民の土地勘には敵わないということで。疲労困憊した士郎と凛とイリヤ、今後の要となる桜に休息をとらせ、忌引中の間桐慎二とアサシンがその作業にあたった。

 

 この組み合わせは、ライダーの護衛役として、アサシンこと衛宮士郎が最適だからである。数キロを見渡す鷹の目と、その目に映す範囲を射程とする弓術。盾の宝具を持つ英雄王に決定打とはならないが、逃げるための時間は稼げる。

 

「騎馬というのは、兵力の高速移動のためのものだ。

 それを活かすには、弓矢なり、槍なりがないと。

 アサシンにはそれがある。

 いまの言峰主従が最も警戒しているのは、恐らく君だ。

 英雄王と酷似した宝具を持っているアサシンなんて、私なら一番おっかないね」

 

 そう説明されて、エミヤは心中で唸ったものだ。

 

「……なんか、うまく乗せられたような気がするな」

 

 慎二は本をめくりながら、癖のある髪をかきあげた。

 

「アーチャーもちゃっかり霊体化しちまったし」

 

 しかも、桜が用意した夜食をしっかりと味わってからだ。他の面々に比べると、かなり控えめな量ではあったが。

 

「それは仕方がなかろうよ。彼は非常に魔力を喰うサーヴァントだ」

 

「確かにね。ついでに遠坂の財産も食い潰してる」

 

 アーチャーの召喚に際して、凛は財産の半分を注ぎ込んでいる。そして英雄王との交戦にあたって、アーチャーは宝具を準備していた。つまりは凛の魔力である。これ以上令呪を費消できないので、他の方法で魔力を調達した。

 

 十年物の宝石の五個目は、アーチャーの口に突っ込まれることになった。

 

「あんたがつべこべ言うから、ダイヤを選んだんだからね。

 二番目に高いのよ。もっと感謝しなさい!」 

 

 腰に手をあて、顎をそびやかす黒髪の美少女に対し、黒髪の青年は礼は言わなかった。宝石が変な所に入ったようで、激しく咳き込んでいたからだ。気の毒な話である。

 

 彼の生前を知るエミヤにしてみれば、冷や汗ものの一幕であった。ヤン・ウェンリーは遥か未来の英雄で、今は無名というか架空の存在に近い。早すぎる晩年を迎えても、威厳など欠片も所持しない青年だったが、サーヴァントになって若返り、さらに頼りなげな容貌になっている。一国の元帥閣下に対して、凛はずいぶんと手荒く接しているが、世が世なら即座に銃殺される狼藉だ。

 

「もっとも財産といえば、うちもまずいことになってるけどな」

 

 失踪中の叔父、間桐雁夜は生きてはいまい。慎二はそう確信していた。『祖父』間桐臓硯の戸籍を取ったところ、彼の生涯に三人の臓硯が存在する。彼の祖父、彼の父、彼自身として。家系調査を念入りに行なえば、さらに多くの臓硯が見つかるに違いない。

 

 戸籍上では当主が死んで、跡取りが名前も継いだことになっている。臓硯が五百年もの生を生きてきたということは、慎二も知っていた。だが、それを可能にしたのは、肉体を蟲の群体に置換するという魔術だった。それだけでも充分におぞましいが、蟲の材料は他人の肉体。

 

 真実を知った慎二は、彼らが天寿を全うしたのか疑わしくなってきた。蟲の群体なら、容貌も変えられるのではないか。行方不明の叔父なんて、入れ替わりにうってつけだ。だから臓硯が放置していたのかとも思われる。

 

 父 鶴野の病状も回復の兆しがなく、遺産の処理はさっぱり進まない。この叔父がいてくれれば、どれほど心強かったことだろう。

 

「でもきっと、爺に乗せられちまったんだろうな。僕みたいにさ」

 

 彼にとって一番の敵は、甥の初戦の相手の父だったことだろう。彼が愛する女を妻とし、彼女との間に生まれた娘を間桐に与えた。自分が切望しても得られぬものを、妬む相手が尊ばぬことほど腹が立つことはない。――慎二のように。

 

 もしも臓硯が五百年も生きていた人妖でなかったら、叔父も穏当でありながら必勝の方法を取っただろう。実家には近づかず、臓硯の寿命を待つことだ。それが不可能だからこその絶望であり、無謀ではなかったか。

 

叔父は、魔術師として慎二の父よりマシだったのだろうが、狂戦士はもっとも魔力を浪費するクラスだ。慎二の推理を聞いたセイバーが、ぽつりぽつりと語ってくれたところによると、四次バーサーカーの真名は、湖の騎士ランスロット。セイバーの部下だったそうだ。セイバーの素性が、慎二を仰天させた。

 

「は!? じゃ、まさか、この子ってアーサー王か!?」

 

 無作法に突きつけられた指に、セイバーはたじたじとなった。

 

「う……。……はい」

 

 口篭りながら返された肯定に、慎二の細い顎が落ちた。

 

「……む、無理がありすぎるよ! そりゃ、王妃も不倫する……いやちょっと待て」

 

 項垂れる金髪に続いて、藍色の髪も同じ角度になった。

 

「自分と似たサーヴァントを召喚する、か。嫌なシステムだな、おい……」

 

 マスターとサーヴァントの共通項が、夫ある女性を欲した点なのか。心底に沈めた願望が、サーヴァントとして顕現したのかもしれない。『夫』よりも強くあれ、凌駕せよと。アーチャーの剣の矢をものともせず、セイバーを武技で圧したバーサーカー。

 

「でも、結局はセイバーが勝ち残ったんだよな。

 ――バーサーカーの魔力切れで。こりゃ、絶対に死んでるよ」

 

 十年前のこの時期、慎二は海外に遊学中だった。

 

「衛宮、こいつは桜には言うなよ。

 遠坂が知ってたってことは、桜も叔父に会ってると思う。

 覚えているかわからないけどな。

 でも、叔父のほうは、あいつのお袋が誰か知らないはずはないんだよ」

 

 桜の存在も、彼の戦いの動機になりうる。

 

「やりようによっちゃ、遠坂の親父とも共闘できたんだろうけど」

 

「……イリヤの母を攫ったのが、その共闘だと?」

 

 慎二は肩を竦めてみせた。

 

「いや、僕は違うと思うね。

 もしも共闘するなら、前回のアーチャーとバーサーカーは、

 ものすごく相性のいいコンビになるんじゃないか?

 あのセイバーでも、きっと敵わないよ」

 

「確かにな。その厄介さはわかるぞ。

 私の魔術は担い手の技量ごと、剣を複写するものだ」

 

「凄いじゃないか!」

 

 色を失った赤毛が振られた。

 

「いや、模造品である以上、どうしても格は落ちる。

 担い手の技量も、私の身体能力と魔術で再現できる範囲内だ。

 ランサーの槍の贋作を私が振るっても、本物には勝てんということさ。

 それをカバーするための種類と数というわけだ」

 

「おまえって、変なところが器用貧乏だよなー。

 頑固で融通の効かない性格のくせに」

 

 かつての友人の的確すぎる人物評に聞こえぬふりをして、エミヤは続けた。 

 

「宝具の原典を用意できる者と、それを己の宝具の如く使いこなせる者か。

 同時にかかられたら、確かに前回のセイバーでは負けただろうな」

 

 衛宮切嗣とは、三回しか会話がなかったどころか、共闘もしていないというセイバー。この世界の衛宮士郎とは、語り、学び合い、家族のように触れ合っている。英雄王を前にして、士郎は令呪を使って、彼女に鞘を返した。

 

「今回は勝てるって?」

 

 秀でた褐色の額に皺が寄った。

 

「サーヴァントの能力が、マスターに左右されるのは、

 アーチャーやライダーだけの問題ではないということだ」

 

 衛宮士郎のへっぽこぶりは、一朝一夕に改善できない。セイバーに鞘を返して、不死に近い再生能力も失った。彼女の奮闘は素晴らしかったが、なけなしの魔力も空っけつだろう。

 

「いま我々に必要なのは時間だ。

 味方の魔力を蓄積し、敵の魔力を削ぐという点で、

 ライダーの結界宝具は理にかなう」




一口メモ:
ペルシアとインドの攻防は、田中芳樹先生のもう一つの代表作『アルスラーン戦記』の舞台のモデルです。『アフラ・マツダー』と『アスラ』は、『戦士の中の戦士』と『猛虎将軍』の対比を考えていただければ分かりやすいでしょう。


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78:適材適所

 強大無比な敵に対するには、心もとない味方の戦力。そんな手札を最大限効果的に運用するために、まず調査を行う。情報を重視した、アーチャーことヤン・ウェンリーらしい方針だった。

 

「で、やることが小学生と大差ないとはね……」

 

 慎二は、テーブルに乗った本に、懐疑的な視線を向けた。召喚されたアーチャーが、まず向かったのは、役所に図書館だったという。冬木の断層や地質に関する書籍は、彼が図書館に行った時は、あいにく貸し出し中だった。

 

 士郎とイリヤが借りに行った時には、タイミングよく返却されてきたところだった。なんでも、小学校の五年生だか六年生が、地域を調べる授業で借りていたようだ。図書館の女性司書は、イリヤが借りに来たと思ったらしい。

 

「失礼しちゃう。わたしは立派なレディなのに」

 

 唇を尖らせるイリヤにアーチャーは苦笑していた。彼に言わせるなら、歳より若く見られて怒るうちはまだまだ子どもだ。

 

「いやいや、本物のレディなら若く見られたら喜ぶものだよ。

 そうか、小学生が借りていたのか。……そういえば、彼も小学生だったな」

 

「へ、彼って?」

 

 丸くなる琥珀に、漆黒が伏せられた。

 

「深山の一家殺人の被害者の一人は、小学生の男の子だった」

 

「え、まさか……」

 

「この本はなかなか面白いんだ。化石の採取スポットが載っている。

 よく見つかるのは貝の化石だが、サメの歯なんかも出土するらしい」

 

 アーチャーの一言に、慎二はあることを思い出した。

 

「それなら見たことあるよ。小学校の時、理科の先生が見せてくれた」

 

「む……。見た覚えがないぞ」

 

「それはクラスが違うせいだろうな。

 僕の組、理科の授業は別の先生がやってたからね」

 

 小学校は、学級担任がほとんどの授業を行なう。だが、専門教科の関係などで、別の先生が教える場合もある。

 

「六年の時の担任が、音楽の先生だったからさ。

 他のクラスを教えてる時間に、理科の授業が入ってた」

 

 慎二の補足にアーチャーは首を傾げた。

 

「日本ではそうなのかい?」

 

「アーチャーの国は違うんだ?」

 

「いやぁ、私は中学校まで通信教育だったんだよ。

 それに音楽の授業なんかなかったからなぁ。

 慎二君が教えてくれなくちゃ、分からなかったよ」 

 

「ふうん、なるほどね。

 その理科の先生が、自分で採ってきた化石を見せてくれたんだ。

 それこそサメの歯の化石もあったな。

 昔の人は、龍の牙だと思ってたって。それがなんなんだ?」

 

 琥珀が見開かれた。士郎の脳裏で、いくつかの単語が繋がり、火花を散らす。死人を復活させるため、人の臓器を洞窟へ集めたという柳洞寺の怪談。日本の洞窟の多くは、石灰岩の侵食によってできていると言ったアーチャー。石灰岩は、海底が隆起した地層に多く含まれているとも。そして、冬木から海の生物の化石が出土すると書かれた本。

 

「龍のはらわたって……。

 『牙』がそばで見つかったから、そういう名前になったのか!?」

 

 アーチャーは曖昧に頷いた。

 

「蓋然性はかなり高いね。

 実のところは不明だが、地名にはそれなりの理由があるんだ」

 

 温暖で、冬も木が健やかに育つ『冬木』。暴れ川で、橋を架けるのもままならず、渡し舟が通うのも大変だった『未遠川』。

 

 慎二は再び頷いた。

 

「いかにもありそうだよね。化石なんて、男子小学生が大好きじゃないか。

 僕の時は夢中になったヤツが何人もいたよ」

 

「だがその割に、被害者が少ないように思うんだ。

 だから仮説としてはちょいと弱い」

 

 小中学校の頃のことを回想した士郎は、あることに思い当たった。

 

「じゃあ、アーチャーって、調べ学習なんかもやってないのか?」

 

「なんだい、それは?」 

 

「こういう地域の調べ学習とかの行事はさ、学校だと班別でやるんだ。

 慎二は理科の授業で、クラス全員が見たんだろうけど」

 

 一学級は約四十人で、一班はだいたい五、六人だ。

 

「はあ、そうなのかい。その辺は、士官学校と大差がないものだね」

 

「班の中で特に興味を持った子が化石を探してさ、

 大聖杯に行き着いちまったのかもしれない」

 

 大洞窟発見! 子どもが大興奮するスペクタクルだろう。 

 

「もし俺が見つけてたら、じいさんに話したと思う。夕飯の時に……」

 

 士郎と慎二とアーチャーは顔を見合わせた。

 

「まずいなあ。英雄王が霊体化して監視することができたなら、

 色々と前提が狂ってしまう」

 

「そうとは限らないわ」

 

 キャスターが黒いドレスの腕をしなやかに伸べ、指先から現れたのは黒と紫の蝶。まさに夢幻のような魔術だ。慎二が羨ましげな顔をした。

 

「そうだよ、こういうのがいいんだよ」

 

 今は名目上の家庭教師だが、彼女が戦後に残留するなら、肩書を実現化するのも悪くない。アーチャーの言うとおり、桜が実技、慎二が研究をするのも一案ではないか。だったら美しい術のほうがいいに決まっている。

 

 オオムラサキにも似た蝶は、ひらひらと舞うとおさまりの悪い黒髪に止まった。あの夜の記憶を喚起されて、アーチャーははたと手を打った。 

 

「ああ、そうか、その手もありました!」

 

「この方がずっと効率がよいでしょう」

 

 凛は固い表情で頷いた。

 

「綺礼は、お父様の弟子だったのよ。

 宝石魔術で、使い魔を作る方法もあるの。

 でも、べつに監視カメラでも何でもいいのよね。

 見張ってて、秘密がばれた時に使い魔で追いかけるようにすれば」

 

 いかにもプライドが高そうで、豪奢で享楽的な雰囲気の英雄王を、ずっと山中に留めておけないだろう。公園に来た時は、流行りの服装に身を包んでいた。凛の誕生日の度に、全く同じ服を贈ってくる言峰には不可能なコーディネートだ。英雄王には、行動と経済の自由があるに違いない。

 

 ランサーがあの神父に従わざるを得なかった時には、無縁だったものである。

 

「アーチャーの言い草じゃねえが、

 ガキが秘密を知っても親まで殺す必要はない。

 効率うんぬんを言うなら、その場で口封じをすりゃあいい。

 かくいう俺も、他人に見られたらそうしろと命じられていたんだが」

 

 現在と未来。二人の衛宮士郎の明暗を分けたのは、アーチャーとランサーの一戦だったのだ。赤の弓兵は校庭で干戈を交え、黒の射手は食事に誘った。次からは後者に倣おう。エミヤシロウは心に誓った。

 

「剣を出さなくても、ガキ一人殺すなんざ造作もねえさ。

 いくらでも事故に見せかけられる。

 あれだけの人死にを出したのは、それができなかったんじゃねえか?」 

 

 大聖杯のそばに、誰もいなかったことで発生したかもしれないタイムラグ。英雄王を使ってまで、三人の犠牲を出したのは、重大な秘密が漏れそうになったからではないだろうか。聖堂教会の代行者にして監視役、前回のアサシンのマスターなら、情報の重要性を熟知していることだろう。

 

「証拠もなにもないし、決めつけるのは危険だがね。

 だが、我々の作戦のヒントになるかもしれない」

 

 ライダーの睫毛が、眼鏡の下で羽ばたいた。彼女のマスターも、隣でそっくりな表情をしている。

 

「どういうことでしょう?」

 

 怒るな。慎二は自らに言い聞かせた。マスターは、自分に似たサーヴァントを召喚するのだから。髪や瞳の色と豊かな曲線美だけでなく、ちょっと天然なところまで似てしまったのだろう。わかる者が通訳してやればいいだけの話だ。

 

「つまりな、化石スポットのどこかから、

 大聖杯に行き着く場所があるんじゃないかってことさ。

 それを探しながら、結界を仕掛けたら一石二鳥だよな」

 

 黒髪の青年は、穏やかな微笑みを浮かべて、慎二を讃えた。

 

「いや、凄い。慎二君は参謀向きだね。

 ライダーの作戦に力を貸してあげてくれないか。

 君なら、その先生に連絡を取っても不自然ではないし」

 

 そして、さっさと面倒事を任せたのだった。   

 

「あいつめ。サーヴァントのくせに、他のマスターをこき使うなんて。

 ……たしかに遠坂に似てるよな!?」

 

 エミヤの目が曇天の色と化した。 

 

「……慎二。折角の命を粗末にするのは勧められんぞ」

 

「お前が言うな! ……ところでそれは肯定だよな?」

 

「おしゃべりはこのぐらいにしておこう。彼の課題が片付かん」

 

「衛宮のくせに、大人の言い訳をしやがって。

 ふん、わかってるよ」

 

 この調査は重要だった。ライダーには作戦行動を完遂してもらわねばならない。大聖杯への魔力供給を断ち、できるなら自軍へと引き込む。こちらのサーヴァントの多くは、高火力で高燃費だから、魔力はいくらあってもいい。慎二たちが戦いの帰趨を左右するのだ。

 

 ぶつくさ言いながらも、けっして悪い気分ではなかった。誰かに自分を認めてもらいたい。今までの慎二に、ついて回っていた劣等感。才能を認めてくれたのは、遥か未来の異世界の異星人の宇宙一の名将だった。少々信じがたいけれど。

 

「……とりあえず、あの先生に連絡だな。

 いつ、あの化石を採ったのか。

 十年以内なら、その場所は一応安全だ」

 

 そうと決まれば、慎二の行動は早かった。納戸をかき回して、当時の連絡ファイルを引っ張り出す。

 

「よかった、捨ててなくって」

 

 小学校の学級連絡網が残っていた。朝になったら、適当な理由をでっちあげて聞いてみよう。だが、それ以外にもできることはしておくべきだ。地図と化石スポットを見比べ、地図に書き込んでいく。

 

「ずいぶん手際がいいな」

 

 エミヤの賛辞に、慎二は鼻を鳴らした。

 

「ふん、褒めたって何も出ないぜ。小学生にもできたことだろ」

 

「小学生は何週間もかけていると思うのだがね」

 

「あんなの、週に一度か二度の授業の中での話だろ。

 高校生にもなって、ちんたらやってられないよ」

 

「……流石だな」

 

 エミヤの感嘆は、旧友とアーチャーの双方に向けられたものだ。間桐慎二は、天才肌の人間である。頭の回転が速く、勘所を掴むのがうまく、ゆえに行動が速い。

 

 紛れもない美点だが、自分が基準なので他者への要求が厳しい。出来ない者を見下したり、せっかちになる欠点と表裏一体だ。ヤンは、あえて慎二一人に任せた。それは彼の士気を高揚させ、自由に才能を揮うことになった。

 

「でも意外にあるんだよ。ほら、見ろよ」

 

 慎二の指が、未遠川の支流を指差した。

 

「ここからも化石が出るんだって。

 いくら小学生でも、冬に川で化石探しはしないと思うけどな」

 

「ふむ。だが、通路と考えるとわかりやすいな。

 この上流の山は有望ではないかね?」

 

「そういえば、採石場があるよ。

 でも、山一つ離れてる。これが繋がってるのか、おまえ知ってるか?」

 

 慎二の問いに、偉丈夫は咳払いした。

 

「あー、その、な。

 私が日本人でありながら召喚されたのは、主に中東で活動していたからだろう」

 

「それがどうした」

 

 慎二は知らないが、これは宇宙最強の問いだ。

 

「非常に言いにくいのだが、私はアーチャーと違って若返ってはいない」

 

 慎二の滑らかな額に、くっきりと縦皺が寄った。目の前にいるのは、衛宮士郎の未来形。変形して変色し、だが顔立ちには少年の面影を残している。だいたい二十代後半といったところか。

 

「じゃ、おまえ、そんなに若死にしたのか!?

 で、守護者になるような活動してたって、一体何をやらかしたんだ!」

 

「その質問は時間があったら答えるとして、……わからんかね?」

 

「だから、それがどうした!?」

 

 エミヤも誰かのように銀髪をかき回した。

 

「私は聖杯戦争の後、高校を卒業して、冬木を離れた。

 それからほとんど戻っていない。つまり、その手の知識は……」

 

「ここの衛宮と大差ない?」

 

 位置の高くなった頭が上下動した。

 

「この役立たず!」

 

「まさにな。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶというそうだ」

 

「……経験に学べたら、充分賢いと思うんだけど」

 

 自嘲が混じった慎二の反論に、エミヤはほろ苦い笑みを浮かべた。

 

「まったくだ。それさえも容易くはないが、

 この格言の肝は、愚者にとって、経験のないことには手も足も出んということさ」

 

 自らが体験した聖杯戦争の知識。教会の地下の子どもたちの存在は、本来は言峰主従しか知りえぬことだ。だが、聖杯戦争を潜り抜けた未来の衛宮士郎は知っていた。

 

 それが思いもかけぬ死角からの攻撃に繋がり、彼らの退路を一刀両断にした。しかし、これだけ展開が異なると、エミヤの知識ではいかんともしがたい。彼は養父同様、魔術使いであって魔術師ではないからだ。

 

 様々な資料を駆使して、分析と思考で聖杯戦争の本質に迫ろうとするアーチャーは、まさしく賢者であった。それで給料を貰っていたとは本人の弁だ。こういう調査は慎二向きの仕事であったが、素人と玄人では差があって当然。癖のある髪を乱暴にかきあげてから、慎二は頭を切り替えた。

 

「そうか。じゃあ、考えるのは奴にさせればいいや。

 僕をこき使ったぶん、僕もあいつをこき使ってやる」

 

「……大したものだ」

 

 実現すれば、かの獅子帝にも成し得なかったことだ。そして、朝を迎え、彼はその快挙を達成した。慎二のまとめた情報にアーチャーは小躍りして喜び、少年の手をとって下手なダンスを踊りだしたほどである。

 

「ありがとう、慎二君! 素晴らしいよ」

 

「これがかぁ?」

 

 賞賛された本人が、一番疑わしそうだったが。

 

「調べれば調べるほど、何が正しいのかわからなくなってきたんだけど」

 

 アーチャーは、不器用に片目をつぶった。

 

「それだよ。よく調べてくれたのが素晴らしいんだ」

 

 作戦を立てるには、複数の情報が必要だ。慎二たちの調査結果を基礎資料とし、魔術の専門家であるキャスターに諮る。有力そうな候補地に目星を付け、ライダーが移動や施術に必要な時間を計算する。ややあってから、ヤンは桜に顔を向けた。

 

「そうだ、この家には自転車はないかな?」

 

「え?」

 

 桜はつぶらな瞳をさらに丸くした。

 

「自転車ですか? わたしのと兄さんのがありますけど」

 

「じゃあ、ライダーの移動用に一台貸してもらいたいんだ」

 

「ライダーが自転車に? ライダー、乗れるかしら……?」

 

 首を傾げる桜に、美女は眼鏡をきらめかせて答えた。

 

「サクラ、問題ありません。この世に私が動かせぬ乗り物はないのです」

 

「そいつは頼もしいね。では、作戦を説明しよう」

 

 キャスターの従妹というライダーの設定に、地質学専攻の留学生という項目が加わった。弔問は終わったが、一週間ほど冬木に逗留して、フィールドワークを行うというのが表向きの理由だ。行動は日中。目的地までは、人家のそばを自転車で通行する。

 

「えー、聖杯戦争は夜にやるんでしょ?」

 

「いや、これは戦争じゃないだろう、イリヤ君。

 ライダーを守るためにも、人目を味方に付けたほうがいいんだよ」

 

 人みな振り返る美貌と、陽光の下で一層輝きを増すアメジストの髪。こんな女性が自転車で往来したら、街中の注目の的になる。

 

「さすがに日中は、街の上空を黄金の舟で飛ぶのは難しいだろうからね。

 まず、ほどほどに人目があり、だが人が来ないここに施術を行う」

 

 ヤンが指さしたのは、慎二が疑問符をつけた河原だった。

 

「ここに小規模な結界を施術してもらいたいんです」

 

 夏場ならともかく、冬の川辺に人はいない。だが、土手には道があり、近くには橋も人家もある。

 

「ここも霊脈なのですか?」

 

 ライダーの問いに、キャスターが唇を開いた。

 

「ええ、霊脈といえば霊脈ね。大聖杯とは繋がっていないけれど」

 

「なのに結界を?」

 

 ヤンは頷いた。

 

「ここは彼らの出方を占う、陽動の一手になります。

 我々の企みに、すぐに気付かれては困る。

 だが、無視されて、引っ込まれるのはもっと困る」

 

 理想なのは、こちらに都合のいいタイミングで、相手に気づかせること。

 

「虚実を織り交ぜて仕掛けます。こちらは陽動」

 

 地図に書き込まれたのは、いくつかの青い点とそこまでの経路を示す青い線。最終的な目的地は、慎二が小学校時代の恩師に聞いた、例の化石の発見場所だ。その先生(すでに定年退職していたが)によると、上流の採石場も同じ年代の地層に属するらしい。 

 

「下流から上流を目指すのは、それほど不自然ではありません。

 それを見せておいて、本命を狙う。これはキャスターにお願いします」

 

 菫色の瞳が瞬いた。

 

「あら、私が?」

 

「はい。といっても、もう一箇所、いや二箇所は完了しているのかな?」

 

 聖杯降臨の場所となりうる霊地は四つ。その霊脈は、大聖杯から繋がっているものだ。

 

「一つ目はキャスターがいた柳洞寺」

 

「ではもう一つはどこかしら?」

 

 アーチャーは、人畜無害そうな笑みを浮かべ、すいと人差し指を立てた。

 

「後は、現在無人で警察が監視している教会」

 

「あっ!」

 

 凛は慄いた。

 

「あ、あんた、まさかその為に……」

 

 子どもを救助するのを、公権力に任せたのか。

 

「……そこまで腹黒いと思われるのは心外だなあ。 

 我々の力では、ミイラ取りがミイラになるだけだと思ったのさ」

 

 第八の陣営の強さもさることながら、監禁されていた子どもたちは一人や二人ではなかった。魔術の秘匿に固執していたら、凛たちが彼らと交替するはめになったかもしれない。

 

「それ以上に、知りえぬ秘密を凛や士郎君が知っているのはまずいんだ」

 

「なんでさ?」

 

「いつ、どこで、どうやって知ったのか、ということになる。

 言峰神父に、士郎君とエミヤ君の関係を悟られるのはぞっとしない」

 

 アーチャーの静かな口調が、士郎に息を呑み込ませた。

 

「彼は切嗣氏に強い執着心を持っている。

 第四次聖杯戦争の、切嗣氏の動向を知っているのがその証拠だ。

 そんな彼が、君が守護者になりうるのだと知ったら、

 喜んでそうなるように仕向けるだろう。

 それだけは避けなくてはならない。今後もだよ」

 

 これを聞いたランサーは、不機嫌な表情になった。

 

「だから俺に小芝居を打たせやがったな」

 

「ええ、まあ。あなたならば、知りうる機会がありますからね。

 私と組んで、警察に注進するのは不自然ではないでしょう。

 あれが明るみに出れば、教会の庇護はなくなります。

 そうすれば、警察と市役所は丸め込めない。前回と違ってね。

 今回は働いてもらいますよ」

 

 決して激してはいないのに、どこか鬼気迫るものを感じ、ランサーは口を噤んだ。

 

 アーチャーに仕事を割り当てられた警察と市役所は、これまでの放置のツケを払わされている。目玉の飛び出るような利子つきだ。両者には世間の非難が浴びせられた。

 

 それ以上に叩かれたのは、聖堂教会である。神は罪人にも門戸を開くと言うが、無辜の孤児の苦しみに目を向けないのか。無論、これは神のせいではなく、人間のやったことだ。

 

 しかるべき管理体制を取っていたら、教会上層部は言峰の犯罪を見抜けただろう。聖職者の元締めが、なにをやっているのか! これでは後任者を送り込むことはできない。

 

「遅きに失した感はありますが、最悪の手遅れにはならずに済みました。

 せっかく席が空いたのだから、座らない手はないだろう、凛?」

 

 敵のいないときに、その場所を使わせてもらう。これも宙域管理の応用である。

 

「まあ、相手もやっていることだがね。

 アインツベルンの城は水を断ったから、動かざるを得ないだろうけど」

 

 軍事上、水の確保は最重要といっても過言ではない。人間、水さえあれば一か月は生きられるが、水がなければ一週間で死ぬ。

 

「あの洞窟なら、お寺から水を拝借できる。

 残りの候補は遠坂家だが、拠点にするには労多くして実りは少ない。

 ここと衛宮家と並んで、襲撃には注意が必要だがね」

 

 冷静を通り越して冷酷な分析に、凛は圧倒された。鋭く苦い。このサーヴァントの提言を受け入れるのは、結構骨が折れることなのである。

 

「え、ええ。あと、他にどこか思い当た場所があるの?」

 

「あとは、外来のマスターが拠点にしようとした場所かな。

 そちらの探索は、時計塔からの情報次第になるね。

 我々には、闇雲に手を広げる時間はない」

 

 黒い瞳が菫色にちらりと向けられ、キャスターはわずかに顎を引く。彼女のマスターが言峰らを見かけても、見て見ぬふりをするようにという言外の忠告だった。

 

「こちらは英雄王たちより人数で勝るが、彼らを籠城させては不利になる。

 弱い方につけこむしかない。彼らを引きずり回し、マスターを疲弊させる。

 一番いいのは、彼を警察に捕まえてもらうことだけどねえ」

 

 日中にライダーが自転車で行動すると、彼らの移動手段を狭めることになる。世界最高のマラソンランナーでも、自転車に勝つのは難しいものだ。自動車なら追いつけるし、ぶつけることもできるが、ライダーはサーヴァント。単なる物理攻撃では傷一つ付けられない。

 

「考えたな……」

 

 慎二は唸った。

 

「でも、相手も自転車を持ちだしたらどうするんだよ。

 英雄王が自転車で追っかけて、剣の矢を射ってきたら」

 

 それを想像した士郎は、表情の選択に困ってしまった。

 

「……シュールすぎるぞ」

 

 王の財宝の威厳もへったくれもない。ついでに秘匿もあったもんじゃない。アーチャーは苦笑いをした。

 

「だからこそ、アサシンに同行を願うのさ。

 ついてはね、桜君。後ろに荷台が付いている方を貸して欲しいんだ」

 

 かくして、ライダーの霊脈枯渇作戦は始まった。長い髪が絡まないようにまとめ、前の籠には地図と弁当、後ろの荷台に霊体化したエミヤシロウ。

 

 赤い外套の偉丈夫は文句を言った。

 

「……いや、これはあんまりでしょう」

 

「昨夜の森と、ちょっと乗り物が違うだけじゃないか」

 

「いいじゃねえか。どえらい別嬪の後ろに乗れるんだからよ」

 

 この場に白い騎士がいたなら、青い槍兵に同意したことだろう。

 

「ならば君が代わってくれ! 喜んで交代するとも」

 

 エミヤはすかさずランサーの言葉に飛びついた。すり減りかけた記憶層のどこかから、警鐘がフルボリュームで鳴り響いていたからだ。

 

「それはイヤです」

 

 だが、ナビゲーターの交代希望は、ドライバーに一蹴された。

 

「私は、神の血を引く男にいい思い出がありませんので。

 その点、あなたはサクラのセンパイですからね」

 

 ライダーはアサシンの首根っこを掴むと、軽々と荷台に載せた。悲しいかな、エミヤシロウの筋力はあくまで普通の人間基準。神の血を引き、怪力スキルまで所持する神代の美女には敵わないのである。

 

「さあ、行きましょう」

 

 言うが早いかペダルを踏んで、ライダーは矢のように飛び出していった。ママチャリの常識を超えるスピードで。

 

「じゃあ、気をつけてねーー」

 

 声を掛ける桜に、ライダーが右手を上げて応じた。霊体化したエミヤの反応はわからずじまいだった。だが、喜んではいなかったと思われる。日の傾く少し前、二人は無事に戻ってきたが、アサシンのほうが消耗していた。

 

「アーチャー、この地図の箇所は、すべて施術が終わりました」

 

 アーチャーは黒い目を瞬いた。

 

「え!? ず、随分早かったですね」

 

 彼としては、一両日中に余裕をもって終了する作戦を立てたのだが。床に座り込んだエミヤが、呻くように告げる。

 

「制限速度の倍近い早さで走れば当然だ……」

 

 アサシンの告げ口などお構いなしに、ライダーは目を宝石のように輝かせていた。

 

「あの仔に不満などありませんが、自転車というのは素晴らしいですね。

 自分の思うがまま、自らの足で操れるのですから」

 

 アーチャーは、アサシンから視線を外すと髪をかき回した。 

 

「ええと、交通安全にはくれぐれも気をつけてください。

 では、明日からの作戦は、施術箇所を増やしてもいいかな?」

 

 その夜には、キャスターがランサーを連れて、教会の霊脈を掌握。翌朝からは、機動力に物を言わせたライダーの施術が再開された。霊脈に繋がるポイントと、そうではない場所。せいぜい数メートル範囲だから、術もすぐに終わる。絶命する小動物の魂は、少ないながらもライダーの糧となった。糧といえば、桜が用意してくれる弁当はたいそう美味である。

 

「私の力が、こんな形で役立つのも悪くはありませんね……」

 

 ライダーの呟きを、後ろに座るアサシンは聞いた。魔物に変じてから、二人の姉と洞窟に隠れ潜み、サーヴァントになっても夜に活動するしかなかったメドゥーサ。かつての姿を取り戻し、青空の下を自由に歩ける。思いもかけぬ幸せだった。

 

 そして、マスターにもこの幸せを享受してほしい。臓硯という庇護者がいなくなっても、桜の類まれな資質はなくならない。それを狙う有象無象に立ち向かうために、魔術師となるしかないのだとしても。

 

「それでも、この世界には、サクラがどんなに美しくても、

 理不尽に嫉妬する神はいませんし」

 

 ライダーたちに残された砂時計の砂粒は、刻々と減っていく。なのに今になって、ライダーに願いが生まれた。

 

「だから、幸せになってください。敵は私たちが斃しますから」

 

 姉を巻き添えにした自分だが、誰かを幸せにしてあげたい。それもまた一つの正義の形だった。

 

 エミヤシロウの薄らいだ記憶の底から、黄金の輝きが立ち上ってくる。ヒーローが、くたびれた笑みで傍らにいた少年の頃。正義の味方を目指したのは、最愛の人を喜ばせたかったから。夢を継ぐと誓い、正義を求めて戦った。

 

 だが、戦いが衛宮切嗣の願いだったのだろうか。『誰をも切り捨てず、みんなを救う』手段は、衛宮士郎の魔術では戦うことしかなかった。

 

 そう、自分だけの力で叶えたかった。誰かと、皆と協力すれば、可能だったかもしれなかったのに。 

 

『……そうだな。この世界の桜が幸せになれば、

 衛宮士郎も違う道を歩むかもしれん』

 

 そして自分にはならない。この世界での『衛宮士郎殺し』は成功といえる。この記憶も、座に戻れば記録となってしまう。しかし、再び記憶になるまで、何度となく刻みつければいい。

 

 再び聖杯戦争に召喚された時に、最善を尽くせるように。ランサーの槍も、キャスターの短剣も、エミヤには投影できる。

 

 この世界のアーチャー主従が複数の手を借りて行ったことも、エミヤと凛には可能なのだ。

 

『そうとなれば、この戦いに勝たなくてはな。

 さて、言峰にギルガメッシュはどう出てくるか……』



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79 女神の名の下に

 サーヴァントたちの活動を、彼らは冷笑交じりに眺めていた。六騎がかりで令呪を三つ費やした挙句、勝つこともできぬ烏合の衆だ。烏を指揮した道化師は、間を置かず蛇使いを始めた。

 

 騎乗兵のサーヴァントを、自転車で移動させている。彼女の姿を使い魔で捉えた言峰は、失笑を禁じえなかった。

 

「神代の神秘もなにもあったものではないな。

 さしずめ、あのアーチャーの仕業だろう」

 

 ギリシャ神話で最も高名な女妖に、現代の衣服と道具を与え、人間のように振舞わせる。衛宮切嗣によく似た手法だ。使うのは武器ではなく、ありふれた日用品だが、それは第五次陣営の限界を示すものでもあった。

 

「マスターらが高校生では、他に選択肢もないか」

 

 アインツベルンからの潤沢な資金で、複数の拠点や銃器、移動手段に助手まで用意できた衛宮切嗣のようにはいかない。バイクや自動車ではなく、自転車なのはそういうことだろう。

 

 しかし、子ども達の無力を見くびっていられたのは短い間のことだった。ライダーの行動に疑問を抱いた言峰が、使い魔で追跡したが失敗に終わった。すぐに気付いたライダーは、わずかに眼鏡の位置を直すだけで、使い魔を石にしてしまったからだ。

 

 自転車は、運転者が外気に身を晒しているので、ずっと視界が広い。バイクや自動車と違い、エンジンがないので周囲の音にも鋭敏だ。とんでもない速度の自転車に追随するには、使い魔は終始飛び続けねばならず、虫も鳥も少ない冬に、ずっと追ってくる使い魔は見破られてしまうというわけだ。

 

 どうしてどうして、貧者の苦し紛れではなく、思いのほか洗練された作戦行動ではないか。使い捨ての使い魔では、尾行に限界が生じる。より高性能で、隠密性に優れる使い魔は、アインツベルンの城の二の舞になるであろう。

 

 今回のキャスターは、恐ろしく有能な正統派だった。聖杯戦争のシステムを解析し、サーヴァントがサーヴァントを従える反則をやってのけている。あの女が、令呪の発動を探知したに違いない。

 

 キャスターの探索能力によって、彼らは迷わずアインツベルンの城に攻め寄せてきた。自軍には被害を出さず、城のインフラのみを破壊して、長期間の居住を不可能にした。そして、大聖杯への速攻。堅守しての勢力固めから一転し、鮮やかな波状攻勢だ。

 

 六騎と戦い、退けはしたが、言峰には決して楽観できなくなった。思い返してみれば、あの夜の連戦で、彼ら主従は一度たりとも勝ってはいない。

 

 最弱のアーチャーにおびき寄せられ、隠れ家を暴かれ、大聖杯への侵入を許した。大聖杯の毒で相手サーヴァントは精彩を欠き、ギルガメッシュは初手から王の財宝を使った。なのに、勝ちきれなかったのである。

 

 指揮をしていたアーチャーは、勝利よりも生存を優先し、それに皆が自然に従っていた。他のマスターは思い切りよく令呪を費消したが、セイバーは真の強さを取り戻し、アサシンは王の財宝と互角の勝負を見せ、バーサーカーは仲間を護って逃げおおせた。どれも単独では不可能だったろう。それがアーチャーの力だ。

 

 サイクリングするライダーの背後に、黒髪の下から出された思惑があるのは確実だ。それが言峰を考え込ませる。苦し紛れの陽動か、あてずっぽうの索敵かもしれない。そうではないかもしれない。

 

 前者ならば、過剰な反応は逆効果だし、後者ならば一層慎重に身を処すべきだ。

 

 結局のところ、凛たちの勝利の方程式はただ一つ。サーヴァントが現界している間に、英雄王を斃す以外にはない。多少の誤差はあろうが、期限は一週間弱。すでに二回失敗し、あの場で使われた令呪は三つ。実のところ、第五次陣営の方が後がないのである。

 

「さて、どうする、ギルガメッシュ。次を待つか?」

 

 その頃には言峰の寿命も尽きているだろう。聖杯によって受肉したギルガメッシュが、言峰と生死を共にするのか否かは不明だ。まあ、試すわけにはいかない。

 

「どんな魔術師も、貴様との契約は拒むまい。御三家の娘たち以外はな。

 今回のサーヴァントどもが消えれば、例外を除くのは容易いことだろう」

 

「綺礼よ、我を見くびるでない。

 サーヴァントもマスターも、悉く斃せばいいだけのことだ」

 

 豪語するギルガメッシュに、言峰は頷いた。 

 

「ふむ。だが、アインツベルンの小娘は殺すなよ。

 母同様、あれが今回の聖杯の器だろうからな。

 そうとなれば、バーサーカーが厄介か」

 

 図抜けた力を漂わせる鉛色の巨人は、さぞや名のある英雄に違いない。前回のアインツベルンは、アーサー王を召喚し、それでも勝利を掴めなかった。必勝を期すならば、彼女以上の存在を選ぶだろう。

 

 アーサー王よりも古く、知名度も高く、抜群の武勇と神秘を誇る者。そして、狂戦士となる素質を持つ、人を超えた巨体の持ち主。そのすべてを満たす英雄は、さほどに多くはなかった。正体はヘラクレスと見てよかろう。

 

「アインツベルンの横紙破りも、こうなると感心するしかない。

 あれはオリンポス十二神の一柱だろう」

 

 ヘラクレスは生まれながらに半分は神だった。生前の功績により、死してから神の座に迎えられた。ゼウスの娘を娶り、オリンポスの主要な神となっている。

 

 神の血を三分の二引く黄金の美青年は鼻を鳴らした。彼は、神の試練に唯々諾々と従ったりはしなかった。神の理不尽に武を以って対した彼からすると、ヘラクレスは神の飼い犬も同然だ。

 

「だからこそ、あえて狂化させたのだろうよ。

 神とは完璧なもの、狂ったあれは不完全。不完全だから人間というわけだ」

 

「そして、人間だからサーヴァントにできる、か。

 ずいぶんと幼稚な三段論法だ」

 

 言峰は分厚い肩を竦めた。

 

「聖杯が穢れた原因に、まったく懲りていないのか?

 もっとも、そうでなければ千年も失った魔法を追い続けられんだろうが」

 

 ギルガメッシュの脳裏に、黒髪の青年の言葉がよぎった。一度は手にして蛇に盗まれた、永遠の若さをもたらす秘薬。それは、アインツベルンの悲願の魔法と酷似している。彼の宝物庫から盗まれ、人界において変容したのかもしれないと。召喚の目的を果たすなら、アインツベルンの願いを叶えることになるのか。

 

「……不老不死など馬鹿げたことだ。

 愚か者どもが、知恵なき野獣を呼んだに過ぎぬ。

 獣は鎖に繋ぐまでだ」

 

 ギルガメッシュはそうして、女神の遣わした牡牛を屠った。英霊の劣化品ごとき、どうして恐れる必要があろうか。たとえ、彼と肩を並べた友がいなくとも。

 

 ――あなたが地の果て、海の底まで追い求め、一度は手にし、失ったものではないのですか? ――

 

 どこかから、穏やかな声が聞こえた気がした。ここにいるのは彼らだけだったが。

 

 あれを手に入れんと欲したのは、最も大切な者を喪ったからだ。神に翻した叛旗の代償は、唯一無二の友の命だった。冥界まで追っても連れ戻すことは叶わず、彼は自らの死を恐れるようになった。

 

 世界中を旅して手に入れた不死の薬は蛇に食われ、彼は悟った。

 

 人の命の儚さを。死の不可逆性を。人が唯一であることを。

 

 だが、アインツベルンの『魔法』は、死さえも覆すものなのだろうか? 彼の蔵にはない『聖杯』。遠坂時臣の召喚に応じたのは、聖杯を取り戻すためだった。十年の歳月で、いや、生前の半生で薄れかけていた、不死への執着。 

 

 アーチャーの問いは、ギルガメッシュの心を微かに揺らしていた。それが、ライダーの霊脈枯渇の施術の効果であることを彼らはまだ知らない。干上がった池に細波は立たぬ。彼の心は人間性を取り戻しつつあった。

 

***

 

 アサシンことエミヤシロウ=シェロ・アインツベルンの日常は多忙である。家主の士郎よりも早起きをして、過去の自分を歯軋りさせるほどの朝食と弁当を準備し、掃除洗濯を済ませ、霊体化してライダーのサイクリングに同行する。周囲に鷹の目を向けながら、悲鳴を上げる自転車も強化してやらねばならぬ。 増えた施術を終えて間桐家に帰着すると、指揮官に報告だ。もちろん、紅茶付きで。

 

「こんなに聖杯戦争は過酷だっただろうか……」

 

 湯が沸くのを待ちながら、鋼の色を鈍らせたエミヤは独語した。自分殺しのチャンスだとばかりに、召喚に飛びついた本体をぶん殴ってやりたい。武器による戦いは少ないが、自らの過去の『もしも』が無限の剣製のごとく突き刺さる。

 

 イリヤの父への怒りを解こうと努めたら、慎二の非道の裏側を推し量っていたら。彼はセイバーを愛したが、彼女のことを理解しようとしただろうか。人々から魔力を搾取したキャスターも、心ないマスターの虐待や陵辱に反撃し、必死に幸せを掴もうとしていた。

 

 知らずにいたから戦えたのかもしれない。知っていたら、戦わずに済む方法を模索しただろうか。自問したエミヤは、自嘲の笑みを浮かべた。

 

「……いや、それ以前の問題か。敵を理解しようとも思わなかった」

 

 だが、理解しても、争いはなくならないのだろう。溜息を吐きながら、彼はふりむきざまに、茶菓子を掠め取ろうとした不届き者の手を叩いた。

 

「いて!」

 

「つまみ食いとは情けない。準備ができるまで待てんのかね」

 

 だが、ランサーにはランサーの言い分がある。

 

「そこまで待ってたら、敵が大勢になるじゃねえか」

 

「充分な数を用意してあるが」

 

「じゃあ、なんでいっつも最後が奪い合いになるんだよ。

 で、だいたい、俺の口には入らないじゃねえか!」

 

「それは君がジャンケンに弱いからだ」

 

 これだ。争いは減るかもしれないが、ゼロにはならないのだろう。たぶん。

 

「まあ、それは善処しよう。大皿に盛ると、一番の魔力不足が遠慮するからな」

 

「……アーチャーか」

 

 ランサーとの一戦の後は、実体化できなくなるほど消耗していたが、今の状態もあまりよくない。ライダーやエミヤに施術を任せ、間桐家でごろごろしながら文献を読んでいるのはそのせいだ。忌引中の間桐兄妹は、彼の助手を務めている。二人は、キャスターの弟子にもなった。彼女の魔術には薬学も含まれている。

 

「せっかく、赤毛の坊やがライダーの血を採ってくれたのだから、

 有効に使わないとね。

 貴方たち、父親に治ってほしくはないの?

 完璧には無理だけれど、そうね、書きものができるぐらいには」

 

 要するに、各種書類に署名捺印ができる程度には。兄も妹も頷いた。期待できない父だが、死んでしまうより、生きて責任を果たしてもらいたい。

 

 なお、桜はキャスターの家事の師になった。立派な等価交換である。お姫様がお嫁さんになるには、魔術以上に修行が大変そうだった。

 

 士郎と凛は高校に通っている。相変わらずセイバーが監視役を務め、夕方はイリヤが迎えに来る。もちろん、バーサーカーも一緒だ。

 

 ランサーは遊撃を担当し、街で情報収集にあたったり、学校周辺を監視している。

 

「あいつらもあれからダンマリを決め込んでやがる。

 俺たちと違って、猶予があるからな」

 

 エミヤは頷いた。

 

「そうだ。それを利用して、ぎりぎりまで時間を稼ぎたいところだな。

 アーチャー主従もそうだが、セイバーもバーサーカーも、

 我々のマスターも魔力が乏しくなっているのは同じだ」

 

 そうこうしているうちに、ケトルが口笛を吹く。蓋を開け、泡の状態を見切って、温めて茶葉を入れたティーポットに勢い良く注ぐ。ポットの蓋を閉じ、注ぐまでの時間を計算しながらランサーに指示を出す。

 

「茶菓子を取り分けるから、先にこちらを運んでくれ」

 

「へえへえ」

 

 そして、お茶会を兼ねた報告と、作戦会議が開かれるのだった。

 

「使い魔を見かけました」

 

 口火を切ったのはライダーだった。

 

「少々可哀想ですが、石にしてしまいました。これです」

 

 テーブルに置かれたのは、非常にリアルな烏の石像だった。いや、石と化した本物の烏だ。

 

「こ、こんなの持ってくるなよ!」

 

 身を引く慎二。口を押さえた桜には言葉もない。

 

「いや、私がそうするように言ったんだ」

 

 とりなしたのは同行したエミヤだった。

 

「こんな石像が転がっていたら目立つからな」

 

「……だねえ」

 

 アーチャーは、烏をつついてみた。硬い。完全に石になっている。

 

「なにか、痕跡を辿れないかと思いまして」

 

 ライダーはキャスターに眼鏡越しに視線を向けたが、キャスターは両手を上げた。

 

「さすがに無理よ。神秘はより強い神秘で上書きされるから。

 視界共有型の使い魔では、術者も無事では済まないと思うのだけれど。

 都合よく、石になってくれないかしらね」

 

 エミヤは首を振った。

 

「伊達に前回のアサシンのマスターではないな。残念ながら、そう甘くはないようだ」

 

 次にテーブルに置かれたのは、小型のCDDカメラだった。

 

「烏の足に付いていた。魔術師に対しては有効な方法だ。

 アインツベルンの森で、ペガサスを出した以上、

 ライダーの正体は知られているからな。当然、対策も練るだろうよ」

 

 イリヤにカメラマンを仰せつかったことのあるランサーが、顎をさすった。

 

「なあ、こいつもカメラなんだろ? 写したものを見られるんじゃねえか?」

 

 慎二は眉間に皺を寄せると、カメラをつまみ上げた。

 

「どうかな? 

 こういうカメラって、撮った画像を本体に送信するタイプだろ。

 本体がなきゃダメなんじゃないかな」

 

 ランサーは髪をかきむしって嘆息した。

 

「やっぱり、そううまくはいかねえなあ」

 

 一方、エミヤは鋼色を鋭くした。

 

「だから私も望み薄だと思っていたが、慎二、もう一度見せてくれ」

 

「ああ、ほら」

 

 褐色の手に落とされたカメラに、エミヤは解析の魔術をかけた。メーカーや機種の文字が削り落とされていても、彼の魔術なら機能を知ることができる。

 

「……軍用品ではないな。受送信の有効範囲は、ふむ、数百メートルか」

 

「たったそれっぽっちか。大して役に立たたんように思えるがな」

 

 そう言うランサーに、エミヤとアーチャーが同時に首を振った。

 

「いや、大いに役立つぞ。機械の利点は、簡単に数を揃えられることだ」

 

「そういうことだよ。受信機を複数用意すればいい」

 

 ヤンは、書き込みの増えた地図を広げた。

 

「ライダー、この烏を見かけたのはどこです?」

 

 ほっそりと美しい指が、地図の一点を指した。

 

「ここから、数百メートルの範囲内か……」

 

 アーチャーは地図を凝視した。言峰の資金能力は不明だが、今回の聖杯戦争がイレギュラーなのは、彼らにとっても同様だろう。第四次聖杯戦争並みの隠蔽工作が可能なら、もっと高性能なカメラを用意できそうなものだ。

 

 凛からの又聞きだが、ウェイバーの話では、自衛隊の戦闘機二機が海魔に撃墜されている。十年前の新聞にそんな大事件は掲載されていない。つまり、ロストした戦闘機の帳尻を合わせたということではなかろうか。

 

 アーチャーは開いた口が塞がらなかったものである。戦闘機二体、いくらすると思っているんだ!? それ以上に難しいのが、搭乗していたパイロットの死の糊塗だ。国家機関と、パイロットの関係者や遺族の口封じに、どれだけの金を積んだものやら。

 

 それに比べると、今回の隠蔽工作はどうにも小粒な感が否めない。

 

「まあ、前回からの予算不足に、足を引っ張られている可能性はあるでしょうね。

 それにランサー、言峰神父には面倒くさがりなところがありませんか?」

 

「なんだよ、急に」

 

「校舎の修理をあなたに押し付けたでしょう。

 あなたの横取りにしたって、能動的に動いた結果ではありませんしね」

 

「たしかに、俺のマスターが訪ねて行ったところを騙し討ちしたからだが」

 

 言いながらランサーは渋面になった。遊撃役にお鉢が回ってくると直感したのだ。

 

「で、その仇をこういう形で取れってか?

 探すったって、俺のルーンは機械にゃ反応しねえからなあ。

 手当たり次第に使うのも、ちょいと骨が折れるな」

 

「いや、面倒くさがりは、有用性の高い場所に仕掛けるものです。

 それも、できるだけ設置が簡単なところに」

 

 アーチャーの指が、数百メートル圏内にある幹線道路に向かう。

 

「この道路上の街灯が怪しいと思うんですよ」

 

 ライダーの行動は、この道を通ることが多い。受信機は、障害物が少ない場所の方が設置に適している。少々細工すれば、街灯の電気を拝借することもできないか。

 

「……ほう、ここを探すのか。で、潰すのか?」

 

「いえ、気づいていないふりをしましょう。

 受信機を探したうえで、ライダーの陽動を効果的に見せつけるんです」

 

 全員がアーチャーを凝視し、視線に串刺しされたほうは瞬きをした。

 

「……意味がわかんない」

 

 沈黙の天使の飛翔をぶった切ったのは慎二である。アーチャーは小首を傾げた。

 

「うーん、何と言えばいいのかな。

 ギルガメッシュ叙事詩になぞらえて、喧嘩を売るといったところか」

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

 

「ギルガメッシュ王が入手した不死の薬を盗み食いしたのは蛇なんだけど、

 蛇は地母神イシュタルの化身なんだ。

 神話学的には、ライダーはイシュタルの末裔だからね。

 ギルガメッシュ王が挑発に乗ってくれるんじゃないかと思ってさ」

 

 桜が目を見開き、エプロンを握り締める。

 

「そんな、ライダーを囮にするなんて……」

 

「もちろん、我々で彼女をバックアップする。

 ただね、桜君。

 一番恐ろしいのは、時間切れで我々が消えた後、

 彼らが君たちを抹殺することだ。

 このまま、引きこもらせるわけにはいかないんだ」

 

 桜はアーチャーを再び見つめた。慎二や士郎とさして変わらぬ外見の、どこにでもいそうな青年を。その中には、冷静な学者と不屈の戦士が同居していた。

 

「我ながらひどい手段だと思う。

 だが、我々に残されている時間と手段はあまりに少ない。

 その中では、ギルガメッシュ王のプライドを逆撫でし、

 聖杯入手へ誘導するぐらいしか思いつかない」

 

「そ、そうですか……」

 

「今回の面々で、時代の古さで彼に勝てるサーヴァントはいないからね。

 だが、ライダーならば概念で優位に立てるかもしれない」

 

 首を傾げる桜にアーチャーは語った。

 

「バビロニア神話は周辺地域に拡散され、

 時代を経て、それぞれの地域の神話になっていくんだ。

 大地を支配し、金星に象徴される豊穣と美の女神。

 海や水と深い関わりを持ち、多くは蛇や龍、魚をトーテムに持っている。

 バビロニアのイシュタルが、アナトリア半島ではキュベレーとなり、

 ギリシャのアフロディーテになった。

 そのキュベレーが、ライダーと同根の女神だという説があるんだよ」

 

「だからですか」

 

 桜に頷いて見せると、アーチャーは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

 

「一応、私もイシュタルに関わりがあるんだ」

 

「え?」

 

 バビロニアとギリシャの中間点、フェニキアではアスターテと呼ばれる。ヤン・ウェンリーの異称のひとつは、『アスターテの英雄』であった。




※一口メモ※
イシュタル≠アスターテ≠アフロディーテ。音もよく似ています。考えてみれば、近接し、古くから交易が盛んだった地中海~中東地方で、それぞれが全く無縁だというほうが不自然です。人間の考えなんて似たようなもので、前例に深く影響されますから。
メドゥーサの魔眼は、邪視からの魔除けとして、紀元前五世紀ころには広く地中海地方に広がりました。魔除けとしてメドゥーサの顔を屋根に飾った神殿もあります。
魔除けとしてメドゥーサの顔を飾る風習は、シルクロードを経て、中国から日本にも伝わっています。ずばり、『鬼瓦』のルーツです。日本で一番普遍的に取り入れられている英霊は、実はメドゥーサかも知れません。


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80:望みのかたち

 現代戦に精通し、鷹の目を持つエミヤシロウにとって、CDDカメラの受信機を探すのは難しくはなかった。アーチャーの推測どおり、街灯のてっぺんに取り付けられていたのだ。

 

 普通の人間にとっては死角であり、簡単に登れる場所ではないが、代行者やサーヴァントの身体能力をもってすれば容易い。

 

「そう言えばあのアーチャー、前回の初戦では街灯の上に現れましたから……」

 

 学校の帰路、間桐邸に立ち寄ったセイバーは、さもありなんと言わんばかりだった。

 

「それ、バカとなんとかは高い場所が好きっていうのでしょ?」 

 

「……イリヤ、伏せるのは煙の方じゃないぞ」

 

 士郎は乾いた笑いを浮かべた。戦いの準備の重要性は、アーチャーから嫌というほど学んだ。資金に機材、人的資源の配置と活用。言峰陣営はセオリーを実行しているわけだが、あの二人が高所作業をしているかと思うと……。

 

「世界最古の王様と、教会の神父がやることじゃないよなあ」

 

 ぼやく士郎に、アーチャーは言ったものだ。

 

「まあ、戦争っていうのは、時に滑稽になるものなんだよ」

 

 アーチャーの世界は、光を超えた速度で通信できる一方、通信妨害技術も現代の比ではないという。数万キロ先でも観測できる宇宙より、地形や気候に左右される地上数キロが厄介なことになるそうだ。

 

 最先端の通信機器も用をなさない場合、原始的な手段に頼るしかない。千六百年先でも、人間の伝令や、伝書鳩や軍用犬が使われているのだとか。

 

「つまり、彼らとさほどに違いはないのさ」

 

 だから相手の手の内を読めたというわけだ。

 

「これは、特に凛をターゲットにした準備のような気がするなあ。

 君の師なら、機械音痴は知っているだろうからね」

 

「うー……」

 

 凛は膨れっ面になったが、反論もできなかった。五属性所有という天賦の才に加えて、ミス・パーフェクトの猫をかぶりとおす頭脳と努力。魔術に関しては、手ほどきした言峰をとうに追い越したと自負している。使い魔だって、宝石魔術でもっと完璧なものを作れる。

 

 だが言峰に、凛と魔術で真っ向勝負する義理はないわけだ。

 

「凛が希望どおりにセイバーを引いていたら、確かに優勝候補だったろうからね。

 君を見張って、漁夫の利を狙ったほうが手っ取り早い」

 

「……ごめん」

 

 思えば、彼がアーチャーだったことに不満をぶつけたものだ。

 

「いや、別にそれはもういいよ。

 彼らの手口を推測するに、成功体験に拠って立つ比重が大きい。

 経験は貴重なものだが、それに固執するのは失敗の元だ」

 

 魔術師は現代技術に背を向ける。生粋の魔術師と呼ばれた父、時臣の教えを踏襲する凛は、特にその傾向が強い。そして、高名で強い英霊ほど、遠い過去の存在だ。いかに聖杯の加護があっても、現代の機器を完璧に理解するのは難しい。そうした弱点を衝く策だったはずだ。あるいは、衛宮切嗣に倣ったのかもしれないが。

 

「君がいてくれてよかったよ」

 

 ヤンの感謝の言葉と裏腹に、エミヤの表情は冴えない。

 

「しかし、たしかに見つけたが、あれは無線でデータを転送するタイプだった」

 

 場所は、幹線道路と冬木市街を通る主要道路の交点。やはり、電波の有効範囲は数百メートル。まずいことに、周囲に新興の住宅街が広がっていて、深山町よりもマンションやアパートの比率が高い。百戸以上が隠れ家の候補になりそうだった。

 

 ヤンは頬杖をつくと、逆の手で髪をかき回した。

 

「木を隠すには、か。やはり、敵さんも考えているなあ」

 

「どうするのよ!」

 

 声を荒らげた凛に、のんびりとした答えが返ってきた。

 

「うーん、手近なところから調べてみようかな」

 

「手近なところ!?」

 

「そう。凛、君のお父さんの財産目録と土地の権利書なんかを一式持っておいで」

 

 思いもかけない品名を並べ立てられて、凛は面食らった。

 

「なんでそんな物を……、警察と同じことを言ってるじゃない」 

 

「この範囲内に遠坂家所有の不動産がないだろうか。

 過去に所有していたものを含めて」

 

 ヤン・ウェンリーは、十六歳になるやならずで、事故死した父の負債の清算を行なった経験がある。そして、捕虜収容所の汚職の解明に立ち会ったこともあった。

 

「遺産の管財人なら、空き家にさせておくこともできないかな。

 ダミーを立てて買うという方法もあるがね」

 

「警察が聞いていたのはそういうことなのね!」

 

 事情聴取のあとで、色々な書類の提出を求められていた。

 

「うん。でも、彼らは英雄王という共犯者を知らない。受信機の存在もね。

 他にも厄介な事件を抱えているし、遠坂家の不動産を全部調べるには時間もかかる」

 

 凛は長い睫毛を瞬いた。

 

「厄介な事件?」

 

「児童集団監禁以外に三つもあるじゃないか。一家殺人に集団昏倒に連続通り魔」

 

 美しき二人のサーヴァントが身を縮めた。口ごもりながら謝罪し、頭を下げる。アーチャーは軽く両手を挙げた。

 

「いや、謝罪すべきは被害者にですが、我々は幽霊ですからね。

 自首するわけにもいきませんし、謝罪されても相手は困惑するでしょう。

 おまけに、厄介事を処理する監視役がいなくなったわけですから、

 警察もあちらの捜査を続けざるを得ない」

 

 いなくなったというか、アーチャーが排除した。監禁された子どもが、英雄王の魔力の源だと聞かされれば、人倫的、戦術的に最優先で潰すのは当然だ。

 

 だが、その結果、隠蔽工作がおざなりになり、警察が言峰の事件に注ぐべきリソースが削がれている。痛し痒しであった。

 

「この国の警察はかなり有能ですから、

 言峰神父だけなら早晩発見できるとは思いますよ」

 

「だけ、ではないですからね」

 

 ライダーが眉根を寄せた。

 

「今日も使い魔を見かけました。幸い、妨害はありませんでしたが……」

 

 アーチャーは頬杖を突き、テーブルの地図に目を落とした。

 

「それはそれでありがたいんですが、

 ここまでで行った術が、彼らの打撃になっていない可能性があります」

 

「私がしたことは無駄だったのでしょうか?」

 

 消沈したライダーに、穏やかな声が掛けられた。

 

「いいえ、逆です。捜索範囲が絞り込めているということですから。 

 むしろ、これから一層危険になるでしょう。

 だが、警察ではサーヴァントに対抗できません。

 英雄王だけは、我々がどうにかしなくてはいけない。

 聖杯戦争が終わった後に、マスターたち、いや冬木の街に危機が訪れる。

 それを防ぎ、謝罪に替えませんか?」

 

 ライダーのみならず、キャスターも表情を引きしめ、色合いの似た髪を上下動させた。マスター想いの彼女たちに、アーチャーは司法取引の機会を与えたのである。電波の届く範囲内の、過去も含めた遠坂家の不動産。手分けをして書面を調査すれば、それほど時間はかからなかった。

 

「アパート一棟と一戸建てが三軒か」

 

 ここにいればよし、いなくても候補はぐっと減る。百戸のうち、このアパートが三分の一弱を占めているのからだ。本来は地道な捜索が必要であり、多くの時間と人数を費やすものだった。

 

「その点、聖杯戦争という知識のある我々は、あっさりとズルができるわけだ」

 

 アーチャーは候補地と霊脈の位置と照らし合わせ、アパートを除外した。これも戦争である以上、補給を重視するのは当然のことだ。孤児たちの監禁と虐待も、英雄王への補給だろう。霊地の教会というアドバンテージがあっても、それだけでは不十分だったのではないか。

 

 黒髪の従者の言葉に、黒髪の主人は考え込んだ。残る候補は三軒。

 

「たしかに一理あるわ。綺礼の魔術の腕は、まあ普通ってぐらいなのよ。

 魔力の量もね」

 

 へっぽこ魔術使いの士郎と、魔術師未満の桜は顔を見合わせた。

 

「そりゃ、遠坂を基準にしたら、なぁ……」

 

「そうですよ」

 

 凛は苦笑した。

 

「ちょっと言い方が悪かったわね。

 要するに、あんなに魔力を食いそうな金ぴかのマスターには不足なの。

 ちょっとでも霊脈が活発な場所を選ぶと思う」

 

 凛が指差したのは、深山町に近いほうの家だった。

 

「わたしならこっちにするわ。ここ、あいつが売り払った家なのよ」

 

 複数の情報を多角的に分析し、より高い可能性を求める。ヤン・ウェンリーの手法は、すっかり凛に沁み込んでいた。末恐ろしい。エミヤは、この世界の士郎にはじめて同情を覚えた。

 

「なるほど。だが、凛の裏を掻くかもしれないよ」

 

「あの」

 

 桜がおずおずと携帯電話を差し出した。

 

「こっちの一軒は、わたしの同級生の家なんです。

 昨日、メールをくれました。これです」

 

 アーチャーは小首を傾げ、口にしたのは物騒な内容だった。

 

「こういうのはなりすましが不可能じゃないからなあ。凛はどう思う?」

 

 友人の桜ではなく、弟子の凛に聞くのは、最悪を想定しているからだと桜は悟った。桜の顔色がさっと青褪めたので、凛はアーチャーを睨みつけてから、妹に優しい口調で頼んだ。

 

「ごめんね、桜。こいつ、超悲観的なヤツなのよ。

 一応、メールを見せてくれる?」

 

 いかにも女子高生らしい、絵文字に顔文字を多用した文面だった。凛には不可解かつ不可能な高等技術のオンパレードだが、それはひとまずおいておこう。

 

 最初に悔やみの言葉が、次に学校のことなどが、流行りの略語混じりに綴られている。凛は引き攣った笑いで請け負った。

 

「う……大丈夫。絶対に綺礼には無理だから」

 

「この子の家、そのアパートのそばなんです。

 そんなに綺麗な男の人を見かけたら、絶対に大騒ぎすると思います。

 この前も、遠坂先輩がイケメンな彼氏と歩いてるって、とっても興奮してて……」

 

 ランサーがにやりと笑うと顎を撫でた。

 

「お、嬢ちゃんも隅に置けねえなあ」

 

「ああ、間違いよ、間違い。アーチャーのことだもの。

 ――ところで、その子だったのね」

 

 アーチャーを彼氏と間違えて、それを言い触らしやがったのは。凛は完璧な笑みを浮かべた。英雄王にも負けない威圧感を漂わせながら、あくまでにこやかに妹と弟子を問い質す。

 

「ねえ、誰かしら? 弓道部の子でしょ。

 士郎に聞けば安否がわかるんじゃないかしら」

 

 友人の現在より、未来が心配になる桜だった。

 

「え、ええと」

 

 同じ危機感を抱いた士郎が、間髪を入れずに答えた。

 

「だ、大丈夫だ! ちゃんと部活に出てきたし!」

 

 脱線しつつある状況に、アーチャーは咳払いをした。

 

「私がイケメンとは光栄な話だが、その子の目は信用できるのかい?」

 

 桜は頷いた。

 

「はい。視力が2.0もあるんですよ」

 

「いや、そういう問題じゃなくね……」

 

 確かめたいのは審美眼のほうだが、桜の天然な返答にそれ以上の追及を諦めた。一応の傍証として採用してもよかろう。自分でも彼女の琴線に触れるなら、英雄王の美貌なら、さぞや大きな音を立てるだろうから。

 

「あとですね、こっちのお家はお菓子屋さんなんです」

 

 凛が目を丸くした。

 

「え、こんなところにお菓子屋さん? 住宅街じゃないの?」

 

「ちょっと、隠れ家みたいな感じなんですよ。

 焼き菓子が美味しいんですけど、喫茶室も素敵なんです。

 一段落したらまた行こうねって、このメールで」

 

 つまり、昨日の時点では、店も平常どおり営業しているということだ。黒い瞳が瞬き、ややあってからアーチャーは口を開いた。

 

「ありがとう桜君。とても貴重な生きた情報だよ。

 では、ここを最重要候補として考えよう。

 ライダー、この霊脈に施術してください」

 

「いいのかよ? 敵の本拠地候補のそばで、周りは家だらけだぜ」

 

「私は反対です。

 術が終わる前に、英雄王が出てくるかも知れません。

 私たちが守るにも、街中では限界があります」

 

「そうなんだよな。あの野郎、普通の服でも宝具を使えるようだが、

 俺たちはそうはいかんだろうが」

 

「私ならその点は大丈夫だ。私がバックアップすればよかろうよ」

 

「奴がいきなり現れたらどうすんだ。ちんたら呪文を唱えられるのか?」

 

「あの男は、格下を甘く見る悪癖があります。

 洞窟の戦いは我々を見くびった隙につけ込みましたが、

 次はそうはいかないでしょう。アサシン、いえシロウが互角だからです」

 

 セイバーとランサーが口々に反対意見を述べた。二騎士たちは、エミヤの宝具の弱点に気づいていた。

 

 キャスターの令呪で転移してからも、呪文に二節を要した。固有結界という大魔術は発動に時間がかかる。即時性に優れた、投影魔術による刀剣の射出もできるとのエミヤの弁だが、ランサーが叩き落とした十七本ぐらいが限界だろう。それでは数の優位が確保できない。

 

 数に絶対の一で対抗できるのは、剣と槍の騎士だけなのだ。

 

「シロウの魔術で対抗できたとしても、

 街中で英雄王を相手にしたら、どれほど被害が出るでしょうか。

 私の剣もそうですが、ライダーの宝具は一層使いにくくはありませんか?」

 

 紫水晶の髪が遠慮がちに頷く。アーチャーはひらひらと手を振った。 

 

「ああ、別に戦って勝つ必要はありません。

 あちらさんが出てきてくれるのかも不明ですしね。

 だが、出てきたくなる、いや、隠れていられないように仕向ける必要はある。

 いくつか、準備するものがありますが」

 

 アーチャーは桜に顔を向けた。 

 

「ところで桜君、その菓子屋は何時までやってるのかな?」

 

「あ、ちょっと待って下さい」

 

 桜は自室に戻ると、財布を持ってきた。中から取り出したのは、菓子屋のポイントカードだ。

 

「……今日はちょうど定休日ですね。夜は七時までです」

 

 アーチャーは肩を竦めた。 

 

「なるほどね。都合がいいんだか、悪いんだか。

 では、今夜は準備と休息に充てるとしましょうか。

 明日の午前中に必要な買い物を済ませ、昼食後にこの反対側を施術。

 こちらの霊脈の施術は、夕方六時過ぎに決行します」

 

 夕飯のメニューを決めるような、あっさりとした口調だった。 

 

「で、イリヤ君とエミヤ君にお願いしたいものがあるんだよ。

 それはね……」

 

 アーチャーが要求したのは、本物と偽物。意外な取り合わせに色とりどりの瞳が丸くなった。そして、次の言葉で一同の頭上を大量の疑問符が旋回した。

 

「で、明日の午後、ライダーとキャスターは、

 桜君おすすめのお菓子屋さんで、お茶をしてもらいましょう。

 時間が来たら、作戦決行ということで」

 

「え、ええと、私とキャスターで、ですか?」

 

 戸惑うライダーに、ヤンはおっとりと微笑んだ。

 

「私の時代の格言に『美は力なり、可愛いは正義』というのがありましてね。

 あなたがたお二人はその点において、英雄王に勝ります」

 

 突拍子もないことを言い出すアーチャーに、凛は呆気に取られた。

 

「それには同意するけど、あいつも物凄い美形じゃないの?」

 

「男女で腕力が異なるように、美の力も異なるのさ。

 世間は、美男子よりも美女に味方をする」

 

*****

 かくして翌日、偽りの従姉妹たちは、優雅な喫茶室でティータイムと相成った。

 

「説明をされれば、なるほどと思わされるのだけれどね……」

 

「大人しそうで、とても優しい人ですよね。……普段は」

 

「ええ、普段はね。戦いとなったら、あんなに敵に回したくない男はいないわ」

 

 彼女たちは母国語でぼやきあっていた。

 

「よくもまあ、こんな手を思いつくこと」

 

「オデュッセウスも顔負けでは?」

 

 ライダーは、知恵者と名高いギリシャの英雄の名を挙げた。キャスターは苦笑した。

 

「それこそ、その名の船に乗っていたそうよ。ユリシーズだったかしら。

 オデュッセウスはちゃんと奥方の元に帰ったのにね。

 ……同じ船乗りなのに、どうしてこうも違ったのかしら」

 

 かつての夫を思い返し、彼女は上品に口元を抑えて嘆息した。

 

「悔しいですが、アテナの加護があったからでは?

 アフロディーテに負けた仇を取ってもらったようなものですし」

 

「ああ、私の夫に加護を与えていたのは、……そのアフロディーテだったわ。

 美も愛も移ろいやすいものなのよね……」

 

 自らの言葉でダメージを受け、双方の面持ちが暗くなった。キャスターが首を振る。

 

「……やめましょう、こんな昔の話は」

 

「……ですね」

 

 注文の品が運ばれてきたので、二人の美女はそちらに集中することにした。どちらも桜おすすめの一品だ。キャスターが頼んだのは、ドライフルーツたっぷりのパウンドケーキとミルクティー、ライダーはベイクドチーズケーキとレモンティー。

 

「とても美味しいわね。でも、見てごらんなさい。

 私たちが食べていた物が今も変わっていないわ」

 

「本当に。ずっと美味しくなっていますけれど」

 

 パウンドケーキには、干しいちじくに干しぶどう、胡桃がぎっしりと入れられ、シナモンと蜂蜜の風味が調和している。チーズは最古の加工食品の一つで、ライダーたちの食卓にもあった。こんなに濃厚な甘味は、一国の王女でも味わうのが難しいことだったが。レモンの薄切りは、ライダーが知る物よりも色も香りも濃い。

 

 二人は美味に顔を綻ばせた。あまりの麗しさに、店内の人々の視線は釘付けである。

 

「セイバーとランサーが虜になるはずね」

 

「あちらの地は、私たちの国よりもずっと寒かったそうですからね」

 

 古代地中海地方出身の彼女たちのほうが、古代ケルトや中世ブリテン出身者よりも、ずっと都会的な文明人である。特に食生活の面で。

 

「こんなに豊かな世界で、戦うのは馬鹿らしくなってきたわ。

 私が勝つには、英雄王を下して、あの男も出し抜かなくてはならないのよ」

 

「……それは、不可能と同義ではないでしょうか?」

 

「貴女もそう思う? それで手に入るのは欠陥品。

 どう考えてもわりに合わないでしょう。

 御三家を後ろ盾にして、サーヴァントのまま現界したほうがましよ。貴女は?」

 

 ライダーは、カップをソーサーに戻して答えた。

 

「私は、サクラが幸せになってくれるのが望みです。

 ……ついでにシンジも。リンやシロウたちもです。

 サクラは優しい子ですから、周囲が不幸では、きっと幸せになれないでしょう」

 

「私にも幸せにしてあげたい人がいるの。

 そして、私も幸せになりたいわ。

 悪名を轟かせる英雄としての生はもう充分よ。

 静かに、平凡に暮らしたいの。あの人と」

 

 美味しいお茶とお菓子、共通の話題があれば女同士のお喋りは弾むものだ。三時間近くも席を占拠したが、お代わりを頼み、ライダーはお土産だとクッキーを沢山買い込んだからよしとしてもらおう。

 

 そして、決行の時間を迎えた。旅装に手荷物、菓子の紙袋をぶら下げて、ライダーは目的地へと歩を進める。アーチャーが提示した場所は、あの家に繋がる霊脈の上、住宅街のバス停のそばにある。一時間に三本のバスが出発したばかりで、路上に人の姿はない。

 

 ライダーはベンチに荷物を置くと、簡単な人払いの術を施した。路上に屈み、手早く呪刻を刻む。有効範囲は約五メートル。数分で完了するはずだ。

 

 彼女の視線の先に、人影が落ちた。弾かれたように顔を上げる。夕闇になおも輝く黄金の髪、落日の色の瞳。

 

「まずは、蛇、貴様からだ」

 

 しなやかな長身の背後には、曲がりくねった鎌のような刃が顔を覗かせていた。



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81:ジョーカーの価値

『やはり出ましたね……』

 

 予想していた強敵の出現。ライダーは胸中で呟くと更に姿勢を低めた。クラウチングスタートで、斜め前に飛び出す。射出された剣は、ライダーの背をすれすれを飛び、深々とアスファルトに突き刺さった。

 

 剣を回避したライダーは、飛び込み倒立前転から跳躍し、電柱の横木へと短剣を投じる。狙い過たず鎖が絡み、ライダーの身体は宙へと躍った。長く美しい脚の下を、第二波が横殴りに吹き抜けていく。

 

 剣雨をすり抜ける空中ブランコは、一瞬の遅滞も許されぬ。振り子の頂点で、左手の短剣を別の電柱へ投げつけた。道路標識と街灯と街路樹を踏み切り板に、強引に運動ベクトルを変える。

 

 三発目の剣群は誰もいない空を射抜き、辛くも逃れたライダーは、バス停のベンチの背後に降り立った。

 

 襲撃者の眉根がわずかに寄り、ライダーは小さく息を吐き出した。

 

『……遅い?』

 

 一昨日の追跡劇の時より、速度が落ちているように思える。魔力の枯渇か、ライダーを嬲る気なのかは定かではなく、それを確かめる余裕もない。白いジャケットの背後から、黄金の波紋を従えた、白銀の切っ先が突き出る。無尽の財を誇るに足りる数が。

 

「よくぞ避けた。だが、これは――」

 

 美青年の口上を遮ったのは、飛来してきたベンチだった。ライダーがその脚力で蹴り飛ばしたのだ。

 

「小賢しい!」

 

 サーヴァントにとっては、直撃してもなんの痛痒もない。だが、ギルガメッシュは剣を揮い、ベンチを一刀両断にした。哀れなベンチだった物は、青年の左右に落下し、けたたましい金属音を立てる。一拍遅れで、それを上回る電子音が夕食時の住宅街を席巻した。 

 

 ベンチでの蹴撃は、英雄王の注意を逸らし、防犯ブザーを押す一瞬の隙を作るためだったのである。ガラガラと周囲の家の窓が開く。玄関の扉も開く。大勢の住人が、目を丸くして美女と美青年を注視していた。

 

「だ、誰か、助けてくださいっ!」

 

「なっ……!」

 

 助けを呼ぶ知的な眼鏡美人と、長い刃物をぶら下げた金髪の若い男。世間がどちらの味方をするかは明白である。

 

 慌てふためき、近所に大声で助けを呼ぶ中年男性、室内に取って返して、電話を掛けようとする夫人。玄関先にあった傘を握り締め、右往左往する老人。二階の窓から見下ろしているのは、中高校生だろうか。何人かが携帯電話を金髪に向け、フラッシュを瞬かせる。

 

「おのれ!」

 

 目撃者全員を根絶やしにするのは、ギルガメッシュにとって難しくない。いっそと考えた瞬間に、冷たく研ぎ澄まされた殺気が彼を貫いた。常人の数十倍の視力が捉えうるぎりぎりの端、二つのマンションの屋上から、群青と真紅が睥睨している。

 

 王の財宝にも弱点はある。所持者であって、担い手ではない彼の限界というべきか。それが超遠距離への精密な攻撃だった。ランサーの槍、アサシンの弓術、いずれにも及ばない。

 

 ライダーや目撃者を皆殺しにはできよう。だが、皮肉なことに、騒ぎ立てる住民たちがギルガメッシュの盾になっているのだ。住民を殺した瞬間に、連中は一切の遠慮を捨て、最大限の攻撃を叩き込むのは明白だった。

 

「ち!」

 

 舌打ちしたギルガメッシュだったが、このまま退散する気などなかった。十人や二十人、殺したところで何ほどのことか。ランサーとアサシンの宝具を防ぐのは容易い。

 

 まずは、目障りな蛇を誅してやろう。

 

 彼は右手を高々と上げた。 

 

「王の……」

 

 蒼白い閃光が奔った。ギルガメッシュの肩先を掠め、夜のどこかへと消え去る。傍目には懐中電灯の光条にしか見えなかっただろうが、対峙している二人には見覚えのある色だった。

 

 ライダーの美貌に生色が蘇り、ギルガメッシュの秀麗な面は怒りで歪んだ。

 

「卑怯者め! 出てくるがいい!」

 

 黒髪のアーチャーが応えることはなく、代わりに響いてきたのはパトカーのサイレンだった。

 

 一瞬の隙を衝いて、ライダーは近所の家に飛び込み、住人たちもあたふたと家に引っ込んだ。ランサーとアサシンは狙撃の姿勢を崩していない。

 

 言峰が令呪を使う気配はない。教会という後ろ盾を失って、これほどの人数の情報操作が不可能なせいか。潜伏せよという指示を無視した懲罰かもしれないが、ギルガメッシュには踵を返して、駆け去る以外の選択肢は残されていなかった。

 

「――捕まえた」

 

 路地の影で、魔女が口の端を吊り上げた。だが、忘れ物を届けに来た従姉のふりで、奇禍に遭った従妹を慰めるのだった。

 

 駆けつけた警察は色めきたった。被害者の美貌のせいだけではない。殺人未遂犯は、どうやったのか見当もつかないが、アスファルトや電柱、民家の塀に傷を付け、ベンチまで両断している。(ベンチの位置まで違うのも謎といえば謎だったが。)

 

 それは、深山町の一家殺人の不可解な手口に合致するのである。  

 

「今日中に家に戻って、明日から大学に行くつもりでした。

 電車の指定券も取ってあるんです。もう帰ります!

 こんな物騒なところ、これ以上いたくありません!」

 

 駆けつけた警察に、ライダーはイリヤが準備した乗車券を突き出した。パスポートと外国人登録証もだ。こちらはエミヤの投影による贋作だが、夕暮れの中でちらりと見せるだけなら充分だろう。そして、小さく嗚咽を漏らしながら手に顔を埋める。

 

 いかにもか弱そうなうら若き美女の涙に、住民から同情の視線が集中した。警察に浴びせられるのは非難の眼差しだ。昨今の警察の不手際に、みなが辟易していた。

 

「このお嬢さんの言うとおり、家に帰らせてあげたらどうですか」

 

「そうだ、そうだ。まったく弛んどる」

 

「不良外人をのさばらせておくくせにに、真面目な学生さんには強く出るんだから……」

 

「なんで被害者に更に迷惑をかけるんだ。冬木の恥じゃないか」

 

 それを宥めてすかし、集まったのは、長身で細身、年齢は二十歳前後、金髪に赤い瞳の美青年だという目撃証言。髪と瞳は染色などかもしれないが、顔立ちからして外国人と思われる。

 

 住民が撮影した携帯電話の写真は、夕闇と距離に阻まれてあまり鮮明ではなかったが、証言の補完には充分であった。女性襲撃の現行犯、一家三人殺害の有力な容疑者の浮上に、警察は早急に公開手配に踏み切った。

 

 同報無線で注意を報じ、夜のニュースが緊急速報で画像を映す。

 

 アーチャーは、英雄王も捜査線上に乗せたのである。言峰と英雄王の共犯関係は、警察の知るところではないし、立証も不可能だ。英雄王がいる限り、いくらでも物資が調達できる。彼らの補給を断ち、戦場に引きずり出すには、その抜け道を塞がなくてはならない。

 

 ならば、彼によると思われる一家殺人に酷似した事件を再現させる。囮役は、街中での宝具や魔眼の開放が難しいライダー。魔物としての身体能力は大したものだが、元が姫君である彼女は武芸の達人ではない。

 

 だが、ライダーの真価は別にある。アーチャーの射撃は確かに下手だが、閉所でのブラスターの飽和攻撃で、致命傷を負わせることはできなかった。武器の格が低かったせいもあるが、ほぼ光速の射線を逃れるのは、サーヴァントの身体能力だけでは不可能だ。

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーは、彼女に似た能力の持ち主を知っていた。スパルタニアンを駆る宇宙の撃墜王たち。彼らと同じく、ライダーには卓越した空間把握能力があるのではないか。だからヤンの射線を見切り、変則的な動きを駆使してすり抜けられるのだろう。

 

 『小官ならば、そんな余裕は与えません。一発で眉間を撃ち抜きますな』と毒舌な部下が皮肉るに違いないだろうが。

 

 あの動きを、もっと広くて高低差を稼げる空間で、ずっと遅い剣の矢に対して行なえば?

 

「私の世界の小型戦闘艇は、仮想の球面を想定して動けと教えられます。

 教わったって、そうそう出来るもんじゃありませんけどね。

 私なんて、何度シミュレーションで撃墜されたことか……。

 だが、あなたなら出来そうです。

 高低差を生かして、できるだけ変則的な動きをしてください」

 

 そして、ヤン・ウェンリーは囮を孤立させるようなことはしない。キャスターが住民の防御を担当し、ランサーとアサシンを遠距離からの援護役につけ、自分も霊体化して現場を見守っていた。

 

 凛は、『負ける戦いはしない』という言葉の意味を思い知った。自らが負ける要素と、敵の勝機を計算し、双方を限りなく減らして戦いに臨む。そのためには、あらゆる手段で自分に有利な舞台を構築する。

 

「あいつ、ドSだわ……」

 

 信号待ちの車中で、凛は呻いた。

 

「勝てない戦いはしないって、ガチで勝ちに行くって意味だったのね」

 

 約束された勝利の剣の主は来し方を思い返した。

 

「……私も勝利のために手段を選ばないと非難されたものですが、

 彼ほどではなかったと思いたいです」

 

 ここも三段重ねの包囲網の一角だ。セイバーたちの待機場所として準備されていた。目立たないように間桐家の車を借り、運転手はセラ。逃亡したギルガメッシュを追ったが、夕方の交通量の多さにすぐに断念せざるを得なかった。

 

「それでいながら、あれほど部下に慕われる。不思議ですね」

 

「わたくしには解る気がいたします。

 先日も今日の戦いでも、皆様は誰一人傷ついていません」

 

「未来のシロウはボロボロですが」

 

 セイバーは苦笑した。

 

「でもセイバー、戦いのせいじゃないわよ。

 ライダーの自転車よりも、シロウとのシュギョウが一番きてると思うの。

 次がタイガのアタックかな」

 

 そう言う冬の妖精も、なにかと大きな義弟を構い、困らせているのだった。

 

 そんなエミヤシロウにとっては、戦いのほうがなんぼか楽であった。車での追跡は信号に引っかかり、数百メートルで失敗。もっとも、英雄王が地上を駆けていたのは、ほんの最初のうちだけだった。野次馬の視界から遠ざかるや否や、屋根へと飛び上がり、飛び移っていく。追跡を続けていたとしても、すぐに見失ったことだろう。

 

 高所にいたエミヤは、もっと長く英雄王を視界に捉えていた。

 

「やはり、遠坂が候補に挙げた家のほうに向かったぞ。

 途中で屋根から降りたがね。狙撃すれば、片が付いたものを」

 

 携帯電話で告げるエミヤに、ヤンは答えた。

 

「それでは駄目さ。

 英雄王は最強のサーヴァントだが、言峰綺礼を冬木に繋ぐ鎖でもある。

 捕縛する前に鎖を断ち、彼を自由にしてやる必要はない」

 

 父と教会、遠坂時臣に英雄王。言峰綺礼にはいつだって大きな後ろ盾があった。しかし、立派な黄金の盾も、逃げ隠れるには目立つ重荷とならないか?

 

「まだ残り時間はある。あと、五日かそこらだがね。

 だが、たとえ数日でも、時間を稼ぐに越したことはない」

 

「――なぜと伺っても」

 

「結局のところ、サーヴァントはマスターに依存する。

 腹が減っては戦が出来ぬとは至言だよ」

 

 兵糧と魔力供給を断つ。味方が行なうのはその逆だ。強大な敵をできるかぎり弱体化させ、弱小な味方との差を少しでも埋める。ヤンの魔術の種は、兵法の基本にある。

 

「四件の未解決事件のうち、最も凶悪で急を要するのが一家殺人だ。

 有力な容疑者が発見されれば、要所要所に手配書が出る。

 あれだけ特徴的な容貌の持ち主だ。人前に出たらすぐに通報されるさ」

 

「だが、ギルガメッシュは霊体化できるかもしれない」

 

「ああ、その可能性は否定はできないね」

 

 携帯電話から、淡々とした声が流れてくる。まるで、不変の公式を述べるような。

 

「だがねえ、姿を消せば買い物もできないよ。荷物が持てないじゃないか」

 

「は?」

 

 エミヤは色褪せた瞳を丸くした。

 

「アインツベルンの城から、どのくらい物資を持ち出せたかにもよるが、

 永遠に保つわけではないだろう。

 いずれ、何らかの方法で補給をしなくてはならない。

 これは主に言峰神父への対策だが」

 

「では、ギルガメッシュには!?」

 

 語気を強めたエミヤに、穏やかな答えが返される。

 

「忘れたかい? 

 ライダーの施術は、大聖杯をなんとかするための準備だよ」

 

「……そういえば」

 

 エミヤは眉間を揉んだ。肝が冷えっぱなしのサイクリングのせいで、頭から吹っ飛びかけていた。

 

「君たちの頑張りのお陰で、早く準備が整ったからね。

 キャスターには、英雄王への対抗策を考えてもらいたかった。

 だが、さすがの彼女も、所在のわからない相手では、対策の立てようがないらしい」

 

「そちらが目的でしたか……」

 

 罠の中に罠があり、逃げ道に最大の罠が口を開けている。悪辣極まりない。

 

「無視されたら困ったが、乗ってくれてありがたいね。

 蛇は地母神の象徴なんだ。若返りの薬を蛇が盗み食いしたっていうのはね、

 女神が許さなかったという意味だ」

 

「は?」

 

 再び間抜けな声を上げるエミヤに、ヤンはギルガメッシュ叙事詩の一節を語ってくれた。

 

 ギルガメッシュが友と一緒に退治した天の雄牛は、女神イシュタルが遣わしたものだ。美と豊穣、大地と金星を司る地母神で、蛇は彼女の眷属。不老不死の喪失は、女神の意志が働いているのだろう。

 

「不老不死の探求と喪失には、別の話があるんだ。

 冥府に落ちた宝を探しに行った友が、

 禁忌を破って冥府から戻れなくなってしまうというね」

 

「はあ……」

 

 いきなりの歴史講義に、エミヤに答えに詰まった。

 

「すべての財宝の原典を持つなら、

 不老や若返りの薬に相当する物は持っているはずだ。

 王女メディアには可能な術なんだから」

 

 あくまで落ち着いた声に、エミヤは慄然とした。 

 

「ということは、『聖杯』とは……』

 

「アインツベルンの第三魔法を成就する術だ。

 完全な不老不死、あるいは死者の無からの蘇生(・・・・・・・・)

 後者が『この世界の内側』で叶えられるのだとしたら?」

 

「いや、しかし……。あなたの推理が正しいとしても……」

 

「私の推理の正否は問題じゃないさ。

 彼にそう思わせて、言峰神父との足並みが崩れればいい。

 ちなみに、メディアは若返りの術の使い手だし、

 メドゥーサの血は、死者蘇生の薬の原料でもある」

 

 そんな二人が、なにやら動き回っていたらどうだろう。

 

「英雄王には、彼女たちを無視できなかろうと思ってね。

 ああ、これも一種のハニートラップになるのかな」

 

「ははは……」

 

 惚けた言葉に、エミヤは引き攣った笑いを返すことしかできなかった。

 

 ――悪魔だ。悪魔がいる。

 

 エミヤの抱いた感想は、この世界の士郎と全く同じだった。戦場の心理学者の異称にふさわしい、容赦もえげつもない戦術。英雄王に、異常性犯罪者のレッテルを貼り付けたに等しい。

 

「……ギルガメッシュが知れば逆上するぞ」

 

「そりゃするだろうねえ。だが、マスターはどうかな?」

 

 霊地から追われ、警察が警戒している中で、生贄の調達は難しい。食料などの生活物資も無限ではない。店先に二人の手配書が、並べて張られるようになるだろう。

 

「私だったら連戦は避ける。決戦に向けて力を温存するよ」

 

「言峰が? 我々の消滅を待つ可能性が高いと思うが」

 

「私が彼ならそうは思わない。英雄王が犯罪者として追われている状況ではね。

 我々と英雄王が戦い、共倒れになるのがもっとも望ましい」

 

 エミヤは息を呑んだ。

 

「聖杯戦争はもうじき終わるが、児童監禁や連続殺人の時効まで、

 この街で逃げ隠れ続けられるものじゃない」

 

 マスターの命を担保するのがサーヴァント。サーヴァントは冬木の聖杯に縛られる。英雄王が存在している状態で、言峰は市外に逃亡できるのだろうか?

 

「言峰にとって、ギルガメッシュが負担になるということか?」

 

「たしかにジョーカーは最強の札だ。ポーカーならね。

 だが、やりようによっては、ゲームをババ抜きに変えてしまうこともできる。

 彼らは強敵だが、限界も存在するんだ」

 

 それを見極め、的確に攻撃していけばいい。

 

「呉越同舟は長続きはしないものだよ。

 今回は令呪の発動もなかったし、意見が対立しつつあるのかもしれない。

 もっと両者の足並みを乱したいところだね。

 そしていざ決戦という時に、あちらさんが空っけつだといいんだが」

 

 キャスターの魔術の首尾を確認すると結んで、電話が終わった。 

 

「おい、何ぼやっとしてる」

 

 隣のマンションから飛び移ってきたランサーの声で、エミヤは我に返った。

 

「いや……。世の中、上には上がいるものだと……」

 

 まったく世の中、なにがあるかわからない。エミヤシロウが言峰主従を哀れに思うことがあろうとは。

 

「十倍の敵と戦っても、彼が『負けない』意味がわかった。

 ……恐ろしい人だ」




同報無線をご存知でしょうか? 
屋外に設置された無線による放送設備のことです。
筆者の住む町では、災害情報や行方不明者のお知らせ、振り込め詐欺の注意喚起などを放送しています。

ギルガメッシュの事件については、こんな感じで放送されることでしょう。

「こちらは広報ふゆき、冬木市役所です。
 警察署よりお知らせします。
 先ほど、刃物を持った男による殺人未遂事件が発生しました。
 犯人の年齢は20歳前後、身長は180センチ前後で痩せ型、
 金髪で白いジャケットを着ています。
 外にいる方はすぐに帰宅し、戸締まりに注意しましょう。
 お心当たりの方は警察署までご連絡ください。繰り返します(リピート)」


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82:烏鷺を競え

 キャスターの魔術の成果は、まずまずとのことだった。

 

「マスターとのラインに干渉する術を仕掛けておいたわ。

 派手に宝具を使うと不足する、といいのだけれどね」

 

「はあ……」

 

 しかし、少々歯切れが悪い。

 

「術は一応成功したのだけれど、

 英雄王はアーチャーとして十年も現界しているのでしょう?

 アーチャーの中には、魔力の蓄積能力がある者がいるそうよ」

 

 思いがけないことを言われて、アーチャーは面食らった顔になった。

 

「そんな便利な能力、私にもあるんですか?」

 

「マキリの文献に載っていたことだから、貴方については何とも言えないわ。

 ただ、あの男が蓄積能力を持っていると考えたほうがよいのではなくて?」

 

 魔女の提言に、魔術師は顔を曇らせた。

 

「ごもっともです。十年分の蓄積か……。どの程度のものでしょう?」

 

「あの男、単独行動スキルは高いし、恐らく受肉している。

 不確定要素が多すぎて、何とも言えないのよ。

 令呪について、もう少し研究すればいい手があるかもしれないけれど」

 

「ははあ……」

 

 同じアーチャーでも、魔力に余裕のないヤン・ウェンリーには何とも言えなかった。

 

「彼らの現状から推測しうる穴は塞いだつもりですが、

 十年というのは決して短くないんですよね……」

 

 世の中には、十年たらずで少尉から皇帝になって、宇宙を統一する人間もいるのである。身元をでっちあげ、現代社会に基盤を築いていても何の不思議もない。英雄王の才気やカリスマ、美貌は、皇帝ラインハルトにそうそう劣るものではない。社会の公平化が進んだ平和な日本では、あれほど急速な成り上がりは不可能だろうが。

 

「正しい判断には、正しい情報と正しい分析が欠かせません。

 一番重要なのは情報ですが、それが何も手に入らない。

 実のところ、塞いだつもりが穴だらけという可能性が高いんですよ。

 私は魔術について、全くの素人ですから」

 

 浮かない顔のアーチャーに、キャスターも似た表情を作った。

 

「あら、玄人だから苦労をしていないとでも?

 私の時代は世界に魔力が溢れていて、強大な魔術の行使も容易かったわ。

 今は無理よ。あの男に服を贈る理由も手段もないし。

 それにしても悪趣味な服よね。どうにかしてやりたいものだこと」

 

「ははは……」

 

 アーチャーは苦笑を相槌がわりにした。当然のことだが、神代と今ではすいぶん勝手が違うらしい。むしろ、適応できているのが凄い。そんなキャスターの実力をもってしても、新たな魔術に挑むのは難事業のようだった。

 

「それより、貴方はいいの?

 聖堂教会や魔術教会にまで喧嘩を売ったようなものよ」

 

「彼らが動いてくれるなら、むしろ願ったり叶ったりですがね。

 我々ではなく、主たる原因の改善に努めてもらいたいものだ。

 もっとも今回の目的は、住民への注意喚起なんですよ」

 

 戦場に民間人がいる。いや、民間人の中で戦闘をしている。生前のヤン・ウェンリーは、エル・ファシルやイゼルローン要塞から数百万人を避難させることができたが、サーヴァントの身では、冬木市の数万人でも不可能だ。

 

 警察に協力を願おうとも、魔術は一般人にとって空想の産物である。末端に訴えたところで、一笑に付されて終わりだろう。だが事実であることを知り、警察を動かせる権力は存在するのだ。それが聖堂教会であり、魔術協会だった。

 

 騒ぎを起こすことで、権力者サイドが重い腰を上げてくれるのを期待しつつ、この一件が住民の注意喚起となることを祈るのみだ。ガス中毒や吸血鬼騒ぎよりも、刃物で人を襲う犯罪者のインパクトは凄まじい。外出や夜歩き、ひいては英雄王の援助者の出現を抑制したいところだ。

 

「貴方にしては気の長い話ね……」

 

「勝算が掴めませんから、私たちが負けた後のことも考えないと。

 その為には、あなたに生き残っていただきたいんです。

 間桐の令呪を、桜君たちが引き継ぐことができるかもしれない。

 アインツベルンの大聖杯、遠坂の霊脈からのアプローチの研究。

 こうした対抗手段ができれば、長期的には勝てるんです」

 

 キャスターの片眉が上がった。

 

「長期的?」

 

「言峰神父は凛たちの倍以上の年齢ですよ」

 

 いずれは、寿命というリミットがやってくる。

 

「まあ、四半世紀後に全面核戦争が起きなければですが」

 

 余計な一言に、今度は眉が寄る。

 

「嫌なことを言わないで。どのみち、大聖杯の研究は必要ね。

 あれを浄化しないと、いずれひどいことになるわ。

 私の下僕が本来の役割を果たす羽目になるかもしれない」

 

 世界の滅亡要因を殲滅するのが、エミヤシロウが世界と結んだ契約。

 

「ある意味でアサシンの願いが叶うわけだけれど、

 私の願いより尊重するはずがないでしょう」

 

「ありがとうございます。

 そのほうがずっと建設的ですよ。

 さっきも住民に被害が出ないよう、サポートもしていただいて」

 

 キャスターは優雅に手を振った。

 

「これが、魔力搾取の贖罪ということでいいかしら?

 私を呼んだ男を殺したことを、詫びるつもりはないけれど」

 

 黒髪が傾げられた。

 

「しかし、そうおっしゃるということは気になさっているんでしょう?

 あなたのマスターが、パートナーとなる日のためにも、

 負い目を抱かないようにしたほうがいいと思いますが……」

 

 キャスターは目を細めた。菫の紫が、毒の花の色に変じる。

 

「貴方も私の下僕にならないこと?

 この世界に残留することも不可能ではないわよ」

 

「いやあ」

 

 アーチャーはベレーを脱ぐと髪をかき回した。

 

「お誘いはありがたいんですが、私は戦い以外に能のない人間です。

 聖杯戦争が終われば、役に立つ部分がなくなってしまいますよ。

 それどころか、きっと害になる」

 

「つれない男ね」

 

 キャスターは華奢な肩を竦めた。

 

「平和な世界を見るのが、望みだったのでしょうに」

 

「だからですよ。私が居残れば、あの子たちは平和から遠ざかる」

 

 黒い瞳には愛情と静かな諦念が同居していた。

 

「聖杯戦争の期間が終了したら、恐らく宝具は使えなくなるでしょう。

 そうなったら、私には落第ぎりぎりの軍人の能力しかない。

 執行者やら代行者やらが来ても、対抗なんてできませんよ」

 

 やはり、彼にはわかっていたようだった。自身の価値と、それに反する無力さ。遥か未来から招かれた英霊。本来はあり得ない、だが実在するなら途轍もない価値がある。魔術師にとっては等身大のダイヤモンドのようなものだ。

 

 一方、聖堂教会にしてみれば、世界の滅びを告げる悪霊だ。二週間程度で消えるから、目こぼしをされているだけであって、この世に残留したら狩るべき存在となる。

 

 彼の身柄を巡って、争いが勃発する可能性が高い。誇り高く、心優しく、だが、ちょっぴりケチな彼のマスターは、はいどうぞと差し出しはしないだろう。しかし、宝具が使えなければ、凛たちを守る術はないのだ。

 

「その点、あなたは魔術が使える。

 そうした勢力と抗争するより、知識の伝達を選べば八方丸く収まります」

 

「私の魔術、今の世では使えないものも多いのだけれど……」

 

「それは相手の問題なので、あなたが気にしなくても平気です。

 失われた魔術を復元するのも、後世の人間の役割ではないですか?」

 

 最たる例はアインツベルン。

 

「もっともね。今に合わせて術を考えるのも面白そうだわ」

 

 未来人の言葉に、神代人は頷いた。さすがは当時最高の研究者だ。現代の魔術師よりも進取の気性に富んでいる。アーチャーは頭を下げた。脱帽したままの頭を。 

 

「イリヤ君の目指す魔法についても、協力してあげていただけませんか?

 ……あの子が器になんてならないように」

 

「ならば、あなたも一緒に考えてあげたら?

 私のサーヴァントにおなりなさいな」

 

「いや、それはそれは魔術師(メイガス)にお任せしますよ。

 魔術師(マジシャン)には出来ないことだ。

 私は出来ないことはやらない主義なのでね」

  

 銀の睫毛が瞬いた。

 

「頑固ね、貴方は。もう少し動揺するかと思ったのに」

 

「私にも色々と経験があるんですよ」

 

 穏やかな微笑みには、キャスターの追及を諦めさせるものがあった。

 

「今日のところはここまでにしましょう。でも、時間までよく考えて頂戴。

 私のほうがいい主になるわよ」 

 

 アーチャーは微かな微笑みを浮かべた。

 

「あなたを主と仰ぐより、友人のままでいたいんですがね」

 

 穏やかな水面の下、広がる深淵がキャスターの前に現れる。咄嗟に切り返せないでいると、アーチャーは携帯電話を差し出した。

 

「じゃあ、これをお願いします」

 

 そして姿を消す。やはり魔力不足のようだ。時間を稼ぎたいのはこのせいだろう。

 

「なんて男」

 

 キャスターは独語してこめかみを押さえた。一見無害で平凡な顔で、とんでもない殺し文句を吐いてくる。意図しているのか否か、口説き文句へのお断りにもなっているではないか。

 

「どうやって捕まえたものかしらね……」

 

***

 

 昨晩の殺人未遂事件から、ほぼ一日が経過した冬木の街には、パトカーや警官が目立つようになった。マウント深山商店街も例外ではなく、夕食の買い物時間の割に、普段よりも人気が少ない。減った買い物客の中で、金銀に赤毛の取り合わせはとても目立った。

 

「あいつら、捕まるかな……」

   

「それが一番いいって、アーチャーが言ってたわ」

 

 赤毛の少年に、銀髪の少女が言う。

 

「それがヒガイシャのためだって。

 でも、キャスターのお薬ってすごいね」

 

「ん」

 

 慎二たちの父は意識を取り戻し、簡単な受け答えができるようになった。鸚鵡返しに近いものだが、一定の意志を有すると認められるだろう。

 

 次に薬が与えられたのは、監禁の被害者たちだった。長期間の拘束と低栄養で衰弱し、植物状態寸前だったのが、意識を取り戻した。

 

『メドゥーサの首は、切り落とされても石化の眼光を失わなかった。

 その血で作られたアスクレーピオスの死者蘇生の薬は、死者を完璧に蘇らせた』

 

 これらの神話のエピソードから、彼女の血には脳細胞の復元効果があるのではないか。そうアーチャーは考え、キャスターも同意した。寿命を伸ばす魔術は存在するが、老化を遅らせての延命に過ぎない。結局年は取るわけで、身体機能は低下するし、思考や行動もそれに引きずられる。杖が必要な老人は、十メートルだって走れないし、走る気も失せてゆく。

 

『一気に不老不死は難しいけれど、

 ずっと頭脳明晰というのは次次善ぐらいにならないか?』

 

 今回のマスターが、次回の聖杯戦争まで詳細な記憶を持ち越せたら、御三家は本来の形に返って協力し、目的を達することもできるだろう。まだまだ研究中だけれどと、キャスター謹製の魔法薬が使われたのだった。

 

「確かにすごいな。慎二と桜もビックリしてた」

 

 キャスターの説明は、半分も分からなかったけれど。

 

「魔術師が科学者や薬学者の元祖って、本当なんだな」

 

 セイバーは魔術師マーリンのことを思い返した。

 

「彼は天候を操るのが得意でした。

 今でいう、ええと、気象学ですか? 

 その知識があったのかもしれません」

 

「それは凄いぞ、セイバー。今の天気予報は、スパコンで計算してるんだからさ。

 そう思うと、俺、才能ないのかも……」

 

 キャメルの学生服の肩が落ちる。会計を終えて、店から出てきた執事が右の眉を跳ね上げた。

 

「もとより衛宮士郎に才能などない。精々、学び、悪あがきすることだ」

 

 木で鼻をくくったような台詞に、士郎はむっとして言い返した。 

 

「そう言うお前はどうなのさ!?」

 

 鋼が琥珀を見据える。

 

「恩師の勧める進路を選んでいたら、こうなってはいないと言っておこう」 

 

「うっ……」

 

 凄まじい重さの発言だった。

 

「で、でも、アーチャーを見てると、進学も公務員も、ものすごく大変だって思うぞ」

 

 エミヤとアーチャー、どちらかの道を選べと言われても、どちらも遠慮したい。ぼやく士郎を、エミヤは冷然と突っぱねた。

 

「安心しろ。

 あの人の学校のレベルは、貴様が東大にストレート合格するよりも難しい。

 進路指導の選択肢にさえ上がらんよ」

 

「ム、ムカつく……!」

 

 未来の英霊のエミヤには、残された事績から自分の歩んだ道を見つめなおすことはできない。目の前のかつての自分の相似形が、黒歴史真っ最中を歩んでいる。

 

 抹消してしまいたい思いで一杯だったが、遠坂凛と英霊たちの言葉がエミヤを変えた。衛宮士郎を導くことで、エミヤシロウと違う道を歩ませる。無限の並行世界の中で、守護者に至らぬ士郎ばかりになれば、英霊エミヤは消えるかもしれない。

 

 そう考えたエミヤは開き直った。ギルガメッシュなど何するものぞ。もう逢えない人々と再会し、あの頃の自分に物申してやるチャンスではないか。

 

「悔しいなら、もっと考えろ。

 厄介なマスターに呼び出され、もっと厄介な同盟者に振り回され、

 さらに厄介な師匠と身内に酷使されて、

 時速70キロのサイクリングをしたいか、衛宮士郎」

 

 褐色の右手には、食料品と酒と紅茶の袋がぶら下げられ、左手にはファンシーショップの紙袋。精悍な偉丈夫ぶりが台無しである。

 

 士郎は固く誓った。

 

「お、俺、頑張るよ」

 

 生者たちとサーヴァント、もしもいるなら守護霊に。

 

 士郎もまた、変わりつつあった。ただ一人生き残ったことを負い目にするのではなく、生きているからできることを探す。一人ではなく、みんなと協力し、大人の知恵も借りて、彼方の希望に一歩づつ近づいて行こう。

 

 自分だけでは果たせなくても、いつかきっと届く。セイバーの理想のように。

 

「ならば、決して気を抜くな」

 

 エミヤの視線が白刃と化す。夕空をよぎる蝙蝠に、魔力の痕跡を認めて。

 

「連中はまだ諦めていない」 

 

*****

「こちらは広報ふゆき、冬木市役所です。警察署よりお知らせします。

 昨日の午後六時頃、刃物を持った男による殺人未遂事件が発生しました。

 犯人の年齢は20歳前後、身長は180センチ前後で痩せ型、

 金髪で白いジャケットを着ています。

 外にいる方はすぐに帰宅し、戸締まりに注意しましょう。

 お心当たりの方は警察署までご連絡ください。繰り返します――」

 

 昨夜から何度目だろうか。すっかり聞き飽きた同報無線のアナウンスが流れてくる。普段は散歩から帰ってこない老人や、悪質商法や詐欺の注意を呼びかける程度だった。雑音として聞き流していたが、これほど音量のあるものだったのか。

 

「……煩い。止めさせろ」

 

「ふむ、どうやってだ? 警察に電話で抗議でもするか?」

 

 いらだちを募らせるギルガメッシュに対して、言峰綺礼の口調はそっけない。

 

「匿名の苦情は無視されるのがオチだ。ライダーなど捨て置けばよかったものを」

 

 赤色巨星の表面に、プロミネンスが燃え立った。

 

「我は王だ。地を荒らす蛇を捨て置けぬ」

 

「なに?」 

 

 言峰は呆気にとられた。そして舌打ちする。考えてみるべきだった。黒いアーチャーは、ただの一言からランサーの真名を悟った。言峰と衛宮士郎たちとのやりとりから、言峰に不審を抱き、第八のサーヴァントの存在を予測していたようだ。

 

 そして、あの陣営には前回と同じセイバーがいる。彼女が鮮明な記録を持っていても不思議ではない。第四次アーチャーの出で立ちや言動、戦闘方法から英雄王の正体も推測していたのだろう。その言葉の矢は見事に的を捕らえ、核心を抉り、ギルガメッシュを揺り動かした。

 

『友を亡くしたあなたが、地の果て、海の底まで追い求め、

 一度は手にし、失ったものではないのですか?』

 

 ギルガメッシュの英雄としての伝承に訴える言葉だ。神の理不尽に友と抵抗し、神の報復で友を喪い、世界中を旅したギルガメッシュ。

 

 ――しかし。思い返してみれば、あれは痛烈な皮肉だったのではなかろうか。アーチャーは、彼ら主従が孤児を監禁し、虐待していたことを非難した。一方、今回の衛宮主従は確固たる信頼関係を築いている。マスターの力添えで、迷いを振り切り、真の力を揮ったセイバー。それを目の当たりにさせての一撃だ。

 

 国は滅び、民は死に、しかし不朽の英雄譚が今も伝わる。そこに謳われているのはエルキドゥとの友情と冒険の日々。今のおまえの行いは、かの友に羞じないものなのか、と。

 

 強大な身体能力を誇り、凄まじい宝具を所有していても、サーヴァントは元は人間だ。人として、分かち難い感情を狙い撃ちされた。ギルガメッシュの生前の事績からすると、地を荒らす蛇の女妖を無視できないのは当然だった。

 

「……してやられた」

 

 言峰も無視しろとは言ったが、強く禁じたわけではない。天馬が最大の宝具と思われるライダーは、市街地では全力の戦闘はできまいと思ったからだ。英雄王の宝具と能力をもってすれば、簡単に決着がつく。陽動か索敵か、ライダーの動向は目障りであったし、石化の魔眼は言峰には致命的だ。片が付くなら重畳と考えたことは否めない。

 

「一般人は聖杯戦争を知らん。

 傍目には、男が女を刃物で襲っているとしか写らんだろう」

 

 凛のアーチャーは魔術とは関係のない英雄に見える。軍人のような服装に、兵卒ではなく、高級士官を窺わせる言動。彼の思考や感性は一般人のものだ。それが魔術師の思い込みを掻きまわす。

 

「それがなんだ」

 

「恐らく、貴様の宝具の痕跡を警察に見せるのが目的だ。

 警察が調べれば、深山の一家殺人の傷との一致はすぐに明らかになる」

 

 つまるところ、言峰と同じく全国公開手配になる。ギルガメッシュが担っていた物資や移動手段の調達が、著しく困難になるだろう。

 

 しかし、それだけが目的か? 抜け道はいくらでもある。あの黒い瞳がそれを見逃すとは思えない。

 

 言峰は顎に手をやった。アーチャーの目的を推測し、そこから行動を逆算することにしたのだ。こちらの出方を読み、さらに誘導してくるような輩に対抗するには心もとないが。

 

「たしか、凛は、いやアーチャーは、大聖杯の調査を提案していたな。

 衛宮士郎は凛の弟子、アインツベルンの娘は弟子の義理のきょうだい。

 三者には密接な関係があり、協力のうえで利益を享受したい、だったか」

 

 そして、間桐臓硯が死去してもライダーが残存している以上、彼女のマスターは孫のどちらかだ。メドゥーサという高名な英霊を呼べるのは、強力な魔術師でないと不可能。マスターは間桐桜の方だろう。――間桐慎二の妹であり、遠坂凛の妹でもある。

 

 ここにもまた、密接な関係が存在している。衛宮切嗣の娘と義息と、遠坂時臣の二人の娘。愛憎の坩堝と化してもおかしくないのに、遺児たちは一致団結し、知ってか知らずか親の仇を追っているではないか。言峰の面に、歪んだ笑みが浮かんだ。

 

「何を笑っている?」

 

「――運命とは、なんとも皮肉に満ちていると思ってな。

 前回の聖杯戦争で、親らがああ振舞っていたら、

 あの子どもたちは存在しなかったかもしれん」

 

「ふ、よくも言う。それでは貴様も本性に目覚めず、

 悦びを知らずにいただろう」

 

「たしかにな」

 

 そして、ギルガメッシュも退屈を知らずに済んだだろう。工房に篭り、漁夫の利を狙っていた父に比べて、娘は攻防の緩急が巧みだ。他のサーヴァントと同盟するなぞ、あの征服王にもできなかった。

 

 ――この男はどうであろうか。己に迷い、虚ろな心を満たそうとしていた十年前のほうが、今より面白かったのは間違いない。

 

「では綺礼、貴様、奴の目的をどう思う?」

 

「無論、聖杯戦争の成功だろう。戦争ではなく儀式としてのな。

 今の状況で、あちらは我々以外と殺しあう必要はないわけだ」

 

「ほう……」

 

「聖杯に賭ける願いがあったとしても、バーサーカーになす術はない。

 あの様子では、アーチャーは聖杯を欲していないだろう」

 

 ギルガメッシュは無言で頷いた。

 

「アサシンの主はキャスターだ。ランサーを奪ったのもあの女だな。

 二騎が邪魔になれば、令呪で始末できる」

 

 サーヴァントの七騎のうち、四騎の欲求を除外できるなら、あとはマスター同士の折り合いの問題になる。遠坂凛、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン、間桐桜(または慎二)、そして衛宮士郎。非常に近しく、密接な関係にある面々だ。彼らの間に交錯する、師弟という縦の線、きょうだいという横の線、友情や愛情という対角線。

実に堅牢だ。

 

 揺さぶれそうなキャスターは、ちゃっかりと間桐家の師におさまっている。ライダーの存在も、キャスターの親戚ということで通し、当主を喪った間桐と陣地が欲しいキャスターにとって、相互に利益をもたらす組み合わせだ。

 

 あの戦力をアーチャーが指揮すれば、ギルガメッシュを下せるかもしれない。そうなればあとは簡単だ。最終的に聖杯を欲するマスターとサーヴァントが組み直せばいいのである。

 

「となると、これはもう駒を潰しあう戦争とは呼べん。

 より多くの利益を、自陣に引き入れるパワーゲームだ」

 

 将棋やチェスではなく、碁やオセロのように、数を多く取ったものの勝ち。御三家の少女たちと衛宮士郎が、言峰主従を相手取って、着々と盤面を削り取っている。盤面の名は社会的地位という。たとえ勝利しても、世間に居場所はない。裏のルートを使って逃走しても、一時しのぎにすぎず、いずれ枯死する運命だ。

 

 黄金の王は傲然と言い放った。

 

「我には関係ない。団結されるのが厄介なら、個々に蹴散らすのみよ。

 先じてキャスターのマスターを討てばよい。

 一石二鳥どころでなく、三羽を脱落させられる」

 

 言峰は首を横に振った。

 

「いや、それも上策ではなかろう。

 キャスターのマスターが知れないことを除いてもだ。 

 今回の器も、アインツベルンの小娘だろう。

 一気に三体を取り込んだら、母親のように衰弱するかもしれん」

 

 前回のセイバーは、マスターに蚊帳の外に置かれていた。聖杯の器の担い手は、器そのものだと知らされていなかったろう。しかし、今回は遠坂凛やキャスターという優れた魔術師がいる。アーチャーとバーサーカー以外の英霊たちは、魔術の造詣が深い者ばかりだ。

 

「さすがに今回は気付かれる。

 衛宮切嗣は妻を犠牲にできたが、衛宮士郎にはできまい。

 我々と敵対する前ならば、そこを衝いて離反させることもできたのだろうが……」

 

 二人は苦い顔になった。ランサーを奪われて一時的な避難のつもりが、地下室の孤児の存在を暴かれて目算が狂った。逃避行が続き、攻めれば攻め返され、挙句の果ては異常犯罪者扱いである。ギルガメッシュの我慢も、とうに底を尽いていた。

 

「小細工は要らん。バーサーカーを屠り、器を押さえてしまえばいい」

 

 遠距離攻撃を得意とするアーチャーは、接近戦限定のバーサーカーに対して有利だ。

 

「アーチャーは弱い陣営の防衛は手厚くしたが、

 セイバーとバーサーカーのマスターは自由にさせている。

 その油断を衝くのだ」

 

「……ほう。悪くない」

 

 衛宮夫妻の子どもたちは、父母と同じ思いを味あわせてやれる。再び招かれたセイバーは、また慟哭を繰り返すことになるだろう。いや、マスターらとの絆が深いぶんだけ、痛みは激しさを増すはずだ。

 

「やってみるがいい」




※烏鷺を競う
(カラス)は黒で、(サギ)は白。黒白で競う碁のことである。


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83:ピノキオの目覚め

 エミヤが目にした使い魔を、イリヤも見ていた。寒さのせいではない冷たさが、指先に訪れた。コートの袖の陰で、拳を握り締める。

 

 戦いが再開される。それも、最後の戦いが。

 

 英雄王の存在を知るまで、イリヤは亡き父を知ることに日々を費やしていた。士郎とセイバーを学校に送り出して、お隣の藤村家で父の話を聞いたり、はたまた衛宮家の家捜しをしたり。

 

 執事に扮したエミヤが合流してからは、セラとリズも連れて商店街に繰り出し、数少ない切嗣の馴染みの店を探すこともあった。

 

 さらさらの銀の髪、長い睫毛のルビーの瞳に雪の肌。妖精のような美少女と、よく似たメイドの二人の一団は人目を引いた。

 

 ここにエミヤが加わっても、認知騒動に新たな端役が加わった程度の扱いである。彼の執事ぶりがまた、セラも驚くほど堂に入ったもので、 執事服を見事に着こなし、イリヤをエスコートしていた。その立ち居振る舞いには、非の打ち所というものがない。商店街で女性客の注目を浴びたが、褐色の肌に白い髪、灰銀の目という異相はカバーされることになった。

 

 エミヤの存在は、意外な恩恵をイリヤにもたらした。イリヤや士郎ではどうしたって得られない、大人の男性による安心感である。イリヤの問い掛けに、彼が二言三言添えることで、話し手の口が解れる。

 

「まあまあ、衛宮さんにこんなに可愛いお嬢ちゃんがいたのねぇ……」

 

 煙草屋の老婦人は、皺に囲まれた目を瞬かせたものだ。

 

「うちでも時々煙草を買ってくれたけれど、

 無口な人で、特に話をした覚えがないわねぇ。ごめんなさいねぇ。

 他に馴染みのお店と言うと、さてさて、どこで見かけたかしら……」

 

 士郎によると、切嗣の好物はジャンクフードだったそうだが、その手の店は従業員の入れ替わりが激しいし、接客時間は短いし、店舗がなくなっていることさえある。

 

「キリツグのことを知っている人って、

 シロウとタイガとタイガのおじいちゃんぐらいなのかしら……」

 

 落胆して家に帰ってきたイリヤは、エミヤに愚痴をこぼした。

 

「キリツグのお父さん、コセキにはのってるけど、

 今どうしてるのかはわかんないんだもの」

 

 イリヤは小さな手の指を順に折り曲げた。

 

「……でも、会えても、子どもの頃のキリツグしか知らないよね。

 キリツグは五年前に死んじゃって、その前はアインツベルンにいたから」

 

 それだけでも、衛宮切嗣は父親と十五年以上離れて暮らしている。さらに、魔術師殺しとして名を馳せた期間がある。彼の享年から逆算すると、暗殺者になったのは十代半ばだ。尋常ではない。イリヤの祖父にあたる、切嗣の父が健在とは考えにくかった。

 

「アハトおじいさまは、なんにも教えてくれなかったわ。

 ねえ、大きいシロウはなにか知らない?」

 

 褐色の額に縦皺が生じた。

 

「いや……、はっきり覚えてはいないが、爺さんの過去は調べなかったと思う。

 あの頃の私には、そんな発想さえなかっただろう」

 

「ふうん……」

 

 別の世界のおとうとは、切嗣の遺言をひたむきに追い、英霊へと至ったのかもしれない。視野を集中させ、一心にゴールを目指す競走馬のように。

 

 そして、その速さで人生を駆け抜けた。間桐慎二がこっそりと教えてくれた。エミヤシロウの外見は享年と等しいのだと。アーチャーの歴史の、四半世紀後の核戦争までエミヤシロウは生きていない。

 

 イリヤは、ずっと距離の離れた瞳を見上げた。琥珀から鋼に色を変え、鋭さを増しても、本質は変っていない眼差しを。

 

「じゃ、これが終わったら、わたしシロウと一緒に調べるね」

 

「……ああ、私のぶんまで頼むよ」

 

 エミヤはそっと頭を下げた。それにイリヤはむっとした。ちょうど手の届く位置になったのを幸い、エミヤの頭を抱え込み、撫で付けられた髪を思い切りくちゃくちゃにしてやった。

 

「い、イリヤ!?」

 

 驚きにやや高くなった声と、丸くなった瞳、額に落ちた前髪。大人になり、色さえ変じても、やっぱり士郎だ。イリヤは彼の額に、自分の額をくっつけ、囁きかける。

 

「もう、あなたもわたしと一緒にやらなくちゃいけないのに! 

 ……でも、仕方がないね。

 わたしはおねえちゃんだから、あなたのぶんまでやってあげる」

 

 交わされる、小さな重い約束。それを果たすには、この戦争に勝つことだ。そして、イリヤが生き延びる方法を見つけることだ。

 

 ――強くならなくちゃ。バーサーカーだけが強くてもだめ。わたしは最強のマスターだけど、最強の魔術師じゃないんだもの。

 

 寝付けぬまま寝返りを打ちながら、イリヤは考え続けた。

 

 バーサーカーが、お話しできたらよかったのに。アーチャーが言うように、ヘラクレスはギリシャ神話で最強で、とても賢い英雄なのだから。きっと、イリヤの助言者になってくれただろう。リンにとってのアーチャーのように。

 

 そう思った時、買ったきりで放置していた携帯電話が伸びていた。コール音が十回を超え、朝になってから掛けなおそう思い始めた頃、電話がつながった。

 

『……もしもし……』

 

「もしもし、リン? あのね、アーチャーに話したいことがあるの」

 

『ん……イリヤぁ? どうしたのよ、こんな時間に……』

 

 凛の声はいかにも眠そうだった。欠伸交じりに断りの文句が続く。 

 

『あいつ、今霊体化してるのよ。

 多分寝てると思うんだけど、起こすのにものすごく手間取るの。

 明日、こっちから掛け直すわ』

 

 非力なのに、魔力を馬鹿食いするアーチャー。召喚した当初から、凛は疑問に思っていたのだが、多数の部下を使役する宝具の仕業であった。それを使っての連戦で、凛もアーチャーも消耗した。凛が倒れないようにするなら、アーチャーが引っ込まざるを得ないわけだ。

 

 だからといって、イリヤも引き下がるわけにはいかない。必死で食い下がった。

 

「待って、リン、切らないで!

 もぅ、残りの宝石も食べさせちゃったら?」

 

『勘弁してよ。この先、何があるかわからないんだからね。

 わたしの切り札としても、節約しなくちゃならないの』

 

「そんなこと言って、使う前に死んじゃったら意味ないじゃない。

 リンもアーチャーも。宝石ぐらいなら、わたしが買ってあげるから」

 

『言ってくれるわね……、このブルジョワめ』

 

 凛は形のいい唇の端を引き攣らせた。もちろんイリヤには見えなかったが。

 

『単に宝石だけの問題じゃないのよ。

 惜しいには惜しいけど、命あっての物種だってことぐらい承知してるわ』

 

「じゃあ……」

 

 言いかけたイリヤに、凛はきっぱりと答えた。

 

『アーチャーに残りの宝石を食べさせても、大して足しにはならないわ。

 わたしの武器にしたほうが、まだ生存確率が上がる。

 アーチャー本人がそう言ってるの』 

 

 非情なほどの戦力算定を告げた口から、小さな欠伸が漏れた。

 

『ぁふ、魔力の回復は、結局わたしとあいつが休まなくちゃならないんだから、

 もう寝させてよ……。あ、アーチャーが起きた。

 え、生存確率が下がるのは、窒息死の危険があるから?

 死ぬかと思ったですって!? 大袈裟ね、あれぐらいじゃ死なないわよ!』

 

 イリヤとしては物申さずにいられない。

 

「ううん、ホントに死んじゃうよ!

 魔力のこもった物なら、サーヴァントを傷つけられるんだから」

 

『わたしの魔力を篭めた宝石よ。自己血輸血みたいなものでしょ?』

 

「でもそれって、リンがライダーを凍らせた魔力の素だったよね!?」

 

 サーヴァントの急所は頭に心臓だ。頭に繋がっている気管だって、立派な急所ではあるまいか。

 

『――あ。そういうものなの? ごめんごめん』

 

『やれやれ、宝石の件は忘れてくれないかな。

 敵と戦う前に、マスターのうっかりで死ぬのはごめんだよ』

 

 そこで、ようやく相手が代わった。不穏な会話で、完全に目を覚ましたアーチャーことヤン・ウェンリーである。マスターとの感覚共有能力が高い彼は、イリヤの声も聞こえていたようだ。

 

「むー、わかったわ。でも、リンはオーボーなマスターね。

 やっぱり、わたしのサーヴァントにならない?」

 

『そいつはバーサーカーに申し訳ないよ。

 ところでイリヤ君、こんな時間に私に何の用かな?』

 

 夜は魔術師の時間だが、他人に電話するのにふさわしい時間ではない。

 

「……あの、あのね。わたしにも金ピカとの戦い方を教えて」

 

 イリヤのバーサーカーは、第五次最強のサーヴァントだ。だが、英雄王の戦いぶりを目の当たりにして、歴代最強と豪語することはできない。

 

 その英雄王を、アーチャーの献策と少々の小道具で、身一つで切り抜けたのがライダーだ。力のみで勝てない相手にもやりようはある。イリヤが衝撃を受けるには充分だった。強いバーサーカーがもっと強くなれば、イリヤがみんなを守れるかもしれない。  

 

『私は構わないが……、ちょうど君に聞きたいこともあったしね』

 

「なあに?」

 

『この世すべての悪のことさ』

 

 イリヤは息を呑み込んだ。

 

「え……」

 

『正確には、アインツベルンが第三次聖杯戦争に参加した時の記録が欲しいんだよ。

 ここで即答してくれとは言わないが、なるべく早く知りたいんだ』

 

「どうして?」

 

『彼もサーヴァントだった。つまりは人間だ。

 生前の私や、今の君と同じ人間なんだ。

 そして、何らかの望みを持って、聖杯戦争の召喚に応じている。

 それが分かれば、交渉の余地があるかもしれない』

 

 思いもかけない言葉だった。

 

「で、でも、アレは……」

 

『もちろん、無理かもしれない。

 でも、彼も人間だったんだ。根本は私たちと大差ないと思うんだよ』

 

 イリヤは答えられなかった。沈黙を破ったのはアーチャーだった

 

『まあ、こいつは君のおじいさんに聞いておいてくれればいい。

 さてさて、金ピカとの戦い方か……。

 あっさり言ってくれるなあ。とても難しいことだよ』

 

 洞窟を席巻した剣の嵐が目裏に蘇る。イリヤは携帯電話を握り締め、声を絞り出した。

 

「うん、わかってる。よく、わかってるわ」

 

 今度はアーチャーが無言になった。ややあって、穏やかな声が耳朶を打った。

 

『では、君に頼みがある。

 これからたぶん、イリヤ君が重要な役割を担うことになる。

 重要なだけじゃなく、大変危険な役割でもある。

 そのために必要なんだ』

 

「なあに?」

 

『失礼だとは思うが、バーサーカーの宝具を教えてほしい。

 彼の戦力が分からなければ、私も戦術が立てられない』

 

 彼の質問に、イリヤは長い睫毛を瞬いた。バーサーカーの宝具は、これまでアーチャーが目にする機会はなかった。核心に迫るような推測を口にされたことはあったが、彼は同盟者としてのルールを守り、それ以上の詮索はしなかった。

 

 情報が武器になることを知っているからだ。公開し、あるいは秘匿する。それがこれまで剣となり、盾ともなってきた。

 

 イリヤは逡巡した。アーチャーは信じられるのか? のんびりで穏和な態度で、実は悲観的な毒舌家。味方には公正で優しく、時に厳しく、敵には常に冷徹で、陰謀を駆使する矛盾の塊。

 

 どうしよう。でも、それは短い間だった。このアーチャーは、簡単に方針を替えないだろう。子どもをできるだけ戦わせない、他人の血で汚したくないという願いには、とても頑固なのだから。

 

「……うん、あのね、バーサーカーの宝具はね……」

 

***

 

 しんと冷え切った夜の土蔵で、赤毛と白髪が向かい合う。

 

「――まだだな。骨子の想定が甘い」

 

 打ち合わされた亀甲紋の黒い短刀は、一方が一方をやすやすと砕いた。褐色の手が握った短刀は無傷。肌色の手からは、刃のみならず柄まで消えた。

 

「っつ!」

 

 顔を顰めて、痺れた手首を擦る少年に、偉丈夫は刃を突きつけて言い放った。

 

「もう一度だ。それにしても、見本を前にさっぱり上達せんとは……」

 

「うぐぐ……」

 

 未来の自分の嫌味に、衛宮士郎は歯噛みした。過去の自分の様子に、エミヤシロウは嘆息した。

 

「まあ仕方がない。言っただろう、衛宮士郎に才能などないのだと。

 私と同様にな」

 

「お、おまえが……? じゃ、どうやってできるようになったのさ」

 

「出来るまでやったに決まっている」

 

 士郎は褐色の面をまじまじと見返した。このエミヤシロウは、高いバーに延々と挑み続けたのだろう。そして、努力の果てに到達したのだ。それはたしかに凄いと思う。

 

「でも、この剣で俺があいつらに勝てるのかな……?」

 

「なにをたわけたことを……。無理に決まっているだろう」

 

「んな!?」

 

 エミヤの左手に、白い短刀も現れた。右手にあった黒い短刀とあわせて、士郎に向けて構えをとる。

 

「これは、私の能力を最大限に運用する戦法のための剣だ。

 言っておくが、今の貴様ではなく今の私だぞ」

 

 身長で二十センチ、体重は二十キロも士郎を上回る偉丈夫のための剣だ。体格だけではなく、腕力や握力も当然違う。

 

「この投影魔術を極めれば、使い手の技量さえも再現できる。

 いや、そうでなくては真に迫る剣は再現できんといったほうがいい」

 

「む、無茶苦茶難しくないか……」

 

 たじたじとなる士郎に、エミヤは眼光を鋭くした。

 

「当然だ。私が生涯を掛けて至った魔術だぞ。

 二三日修行をつけただけの貴様に出来てたまるか」

 

「じゃあ、なんで……」

 

「この剣のみでは、私でも英雄王には勝てん。

 だが、次の一手を打つまでのつなぎになるかもしれん。

 衛宮士郎、おまえが目指すべきは戦いに勝つことではない。

 大事なものを守ることだ。そのためには、おまえ自身が弱点とならないことだ。

 長い話になる。座れ」

 

 士郎に促すと、自分も床に胡座をかく。

 

「私も聖杯戦争を体験した。今の貴様よりもお荷物だったことは否めん。

 もっと力があれば、いや、もっと様々な道を模索していたら、

 友人を、家族を失わずにすんでいたのではと思ってな」

 

 琥珀が大きさを増す。

 

「かぞく……って、まさか、イリヤが!?」

 

 白い髪が無言で上下に振られた。

 

「イリヤは器の担い手だ。

 これほど状況が膠着すれば、連中が狙ってくるのは自明の理だ。

 前回もそれで成功しているのだからな」

 

「成功体験に拠っているって、アーチャーが言っていたようにか」

 

「そうだ。柳の下に二匹目のドジョウが出てきたようなものだ。

 アインツベルンが、十年一日の戦法を選んでしまったからな。

 平常どおりの六十年周期ならいざしらず、

 今回は前回のマスターが参加するのもあり得ることなのに、だ」

 

「あ!」

 

「少なくとも二人は警戒すべきだろう。

 ライダーとアサシンのマスターは生存が明らかだ。

 もっと言うなら、キャスターとバーサーカーのマスターの身元や死亡を、

 アインツベルンは確認していないはずだぞ」

 

 士郎は、アーチャーの言葉を反芻した。

 

「一般論で考えないといけないって、こういうことなんだな……」

 

 千年の孤独を選んだアインツベルンは、明らかに思考が硬直化していた。彼方にある魔法を探し続けるあまりに、足元がお留守になっている。

 

 士郎は、ようやく、アインツベルンの異常性に気付いた。前回の聖杯戦争に切嗣が関わっていたこと、父にこだわるイリヤに目を眩まされていたのだ。迂闊だった。

 

「だ、駄目じゃないか……。 

 いくらバーサーカーが強くたって、イリヤはまだあんなに小さいのに。

 ……まともじゃない」

 

「バーサーカーの必勝にそれだけ自信があるのだろうが、

 前回有利だったサーヴァントを、再び召喚することも考慮していないな。

 英雄王は遠坂陣営のサーヴァントだったと推測できるだろうに」

 

「あ、触媒か! 俺とセイバーもそういうことになるんだもんな」

 

 サーヴァントの触媒が、召喚によって消滅するわけではない。セイバーの鞘しかり、斧剣になったヘラクレス神殿の柱しかり。ギルガメッシュの触媒となりうるなら、更に古く貴重な遺物のはずだ。いくらなんでも、遠坂時臣が捨ててしまうことはないだろう。

 

「遠坂は家探ししたけど、いい物がなかったって言ってたぞ。

 言峰のヤツが隠したのかな」

 

「まあ、遠坂のことだ。うっかり捨てていても不思議はないが」

 

 二人の士郎は顔を見合わせた。後者のほうが説得力があるような気がする。

 

「じゃ、遠坂のアーチャーはあいつだったかもしれないのか。

 うわぁ……最悪だ」

 

 顔を顰める士郎に、エミヤはもうひとつの可能性に触れないでおいてやった。自分が遠坂のアーチャーだったかもしれないことを。エミヤの救い手は終生それを明かさず、真紅の宝玉は今も彼の胸で眠っている。  

 

「確かにな。悪いことに、件のアーチャーのマスターは遠坂ではなく言峰だ。

 前回、イリヤの母を攫った連中だ」

 

 士郎の喉仏が動いた。危険性を思い知らせておいて、エミヤは続ける。

 

「バーサーカーは最強のサーヴァントで、イリヤは最強のマスター。

 それは間違いないが、イリヤは最強の魔術師というわけではない」

 

「たしか、アインツベルンの魔術は戦闘向きじゃないって言ってたっけ。

 だからじいさんが婿養子になったって」

 

 思い返せば、これまでイリヤが使った魔術は、姿隠しに人避けだった。凛のように、魔術そのもので攻撃はしていない。

 

「それになんといっても、肉体的には外見相応だからな」

 

 イリヤには、小学校高学年の華奢な少女並みの身体機能しかない。エミヤは士郎に顔を寄せると、声を低めて囁いた。

 

「いいか、遠坂を基準にするなよ」

 

 士郎は無言で頷いた。黒髪の師匠は色々とおかしい。魔術だけじゃなく、腕力とか腕力とか腕力とか。

 

「おまえがイリヤを守れ。

 この剣は、おまえが目指すべき魔術の入り口だ」

 

 士郎は黒白の短刀を見詰めた。作り手の意志を感じさせる、鉈にも似た質実剛健な形。黒に赤い亀甲模様の干将、滑らかに白い莫邪。鍔元に、円に収まった黒白の二つの勾玉の紋がある。華麗ではなく、無骨な、だからこそ美しい剣だった。

 

「これが入り口なのか……」

 

 双剣を携えた遠い背中を思い返す。到達点はあの剣の連なる丘なのだろうか。

 

「それは貴様次第だな。固有結界は術者の心象風景の具現化だ。

 貴様の歩む道がどうなるかはわからんが、

 私と同じ場所に到達するとは限るまい。

 ――おまえは守るべきものを失うな。俺のように」

 

「……わかった。あ、ありがとな」

 

 士郎は再び心に誓った。こんな捻くれて嫌味な大人にはなるまい。最初から、最後の一言を言えばいいじゃないか。

 

「ふん、さて、おしゃべりはここまでだ。さっさとやれ」

 

「……うん。――投影、開始」

 

 そして、やっぱり男のツンデレは可愛くない。この剣は、衛宮士郎がそうなる過程も見てきたのだろうか。

 

 ――創造の理念を鑑定し、基本となる骨子を想定し、構成された材質を複製し、 制作に及ぶ技術を模倣し、……成長に至る経験に共感し――。




――こ、これはイリヤを守るためなんだからな。おまえのためを思ってるんじゃないんだから!――


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84:真なる望み

 聖杯戦争の終末が迫るなか、奇妙な凪が訪れていた。それは、第五次陣営と言峰主従が膠着状況に陥ったことに他ならなかった。

 

 六騎がかりでも英雄王には敵わず、しかし彼らも自分たちを斃せなかった。アーチャーは次なる手を打った。ライダーの術で、地脈の枯渇を試みたのだ。これは、大聖杯への魔力の供給を阻害し、ついでに英雄王を挑発しようというものであった。

 

 単なる挑発には留まらない。

 

 霊地の管理を司る遠坂が、間桐のサーヴァントの力を借り、大聖杯の設置者、アインツベルン名代の了解も得て、霊脈の供給を断ち切ろうとしているとも解釈できる。大聖杯に潜む『この世全ての悪』に、抜本的な対策に乗り出すのだと。

 

 袂を分かった始まりの御三家が再び結集すれば、聖杯戦争で戦う必要などない。元来、七体のサーヴァントを生贄に、魔力の釜を作り上げる儀式でしかないのだ。一回につき一個の願いしか叶わないせいで、闘争が発生したに過ぎないのだ。

 

 過去二百年で四回も開催し、争いを繰り返しても誰の願いも叶わない。御三家で協力して、順番に願いを叶えたほうが早くはないか?

 

「もっと言うなら、聖杯戦争のシステム自体を改善できないんだろうかとね。

 第三魔法を復活させたいなら、その使い手を呼んだ方が早い」

 

 間桐慎二はアーチャーの言葉に眉を寄せた。

 

「不老不死になっていて、サーヴァントとして呼べないのかもしれないがね。

 だが存命なら、世界中のメディアで呼びかければ、

 子孫のSOSに応えてくれそうなものじゃないか?」

 

「……即物的なこと言うなよな」

 

「いや、金で片が付くなら、こんなに安いものはないよ。

 人命に時間に感情、そうしたものは決して取り返しがつかない」

 

 すぐに思い浮かんだのが、義妹のことだった。魔術の修練という名目で、蟲に体を蹂躙されていた桜。

 

「じゃあ、どうすればいいんだよ……!」

 

「取り戻せないから、新たに作っていくしかないんだ。

 二つとないものだから、別のものになるがね。

 君たちにしか作れない、新しい唯一のものを」

 

 心の核に、染み入るような声だった。

 

「同じかそれ以上の時間が掛かるだろう。

 壊すのは一瞬だが、何かを作るのは大変だ。

 私がこの世界に望むのは、そのための時間なんだ」

 

 この時間は、嵐の前のほんのひと時の静けさ。

 

「私の世界では、あと四半世紀の後に全面核戦争によって、

 人間社会がほぼ壊滅する」

 

「な、なんだって!?」

 

「あれ、言っていなかったけ?

 私は千六百年後の人間なんだ。

 正確には、異世界の異星人だと思う」

 

「はぁっ!?」

 

 とぼけた口調で突拍子もないことを言われて、慎二は間抜けな声を上げてしまった。にわかに鋭くなった聴覚に、黒髪のアーチャーの言葉が突き刺さる。

 

「二つの超大国間の戦争によるものだったようだ。

 ようだ、というのは、資料らしい資料がなくてね。

 核戦争によって焼失するか、その後の百年の紛争で散逸してしまったのさ。

 その後、人類は宇宙に進出し、また戦争を繰り広げて……」

 

 アーチャーは肩を竦めた。

 

「私にも詳細に述べられるほどの知識はないが、

 この世界は私の世界と、現時点の情勢は大きく違っている」

 

 現在の南北アメリカ大陸諸国とヨーロッパ西側諸国、アフリカ大陸諸国からなる|ユナイテッド・ステーツ・オブ・ユーラブリカ《三大陸合衆国』。

 

 旧ソ連、ヨーロッパ東側諸国、中国、朝鮮半島の連合であるノーザンコンドミニアム(北方連合国家)

 

「どちらの国もないし、これから四半世紀後に成立しているとは考えにくい。

 とはいえ、この先がどうなるかは誰にもわからない。

 多極化した世界で、環境問題や貧富の差、宗教紛争によって、

 私が知るよりひどい未来が訪れる可能性は否定できない」

 

 慎二は唾を呑み込んだ。信じがたい告白だが、彼に抱いていた疑問の辻褄は合うのだ。光弾を撃ち、特殊相対性理論を解する不可思議なサーヴァント。その正体は、遥か未来の人間だという。

 

「未来をよりよくできるのは、君たちしかいないんだ。

 核戦争によって地球は荒廃し、我々の祖先は宇宙へと進出した。

 その過程で、多様な思想や歴史遺産も失われたことだろう。

 そうした多様性が片鱗でも残っていたら、

 我々の世界も違った道を歩んだかもしれない」

 

 慎二は目を見開いた。

 

――マスターは、自らに似たサーヴァントを召喚する――

 

 遠坂家の大師父、宝石翁キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。第二魔法、『並行世界の運営』に至った魔法使い。

 

 アーチャーの望みは、魔法とは全く異なる方法で、極めて近しい結果を齎すことではないか? 凛や士郎、慎二たちに、自らの世界の過去を伝え、この世界により良い未来を招来する。

 

 いや、これは『並行世界の運営』とも呼べまい。『並行世界創成』に至るかもしれない、叶わないかもしれない。賭け金はささやかすぎるが、当たったら莫大な配当となるだろう。

 

 英霊となったアーチャー自身は、決して享受することのない配当だったが。

 

「君たちの持つ可能性には、英雄王も聖杯も遠く及ばないよ」

 

 怪訝な顔をする慎二に、アーチャーは不器用に片目をつぶった。

 

「どっちにも参政権がないからね」

 

「……なるほどね。

 核戦争なんて信じられないけど、おまえが聖杯を欲しがってないのはわかった。

 で? 僕になにをさせる気だ?」

 

「それはだね……、お父さんの代わりに、臓硯翁の葬儀の手配を進めてほしいんだ。

 キャスターにも同行してもらってね」

 

*****

 

「……聖杯戦争はどうなったんだよ」

 

 慎二はごくごく小さな声で毒づいた。右隣りに、神妙な顔付きの黒衣の美女。左側には当惑した表情の桜。慎二たちの前には、間桐家の弁護士が正座し、柳洞寺の住職と相対している。

 

 アーチャーの提言そのものは、過ぎるぐらいに常識的だった。父が入院中で、ろくに身動きできない状態では、たしかに慎二たちがやるしかないだろう。だが普通の高校生には、葬式や墓の手配なんて見当も付かなかった。

 

「私に言われても困るわよ」

 

 キャスターも及び腰になった。間桐家の葬式は、大聖杯によるサポートの適応外だ。

 

「僕らだって同じだよ! なあ、桜」

 

 桜にも名案はなく、兄の不平に頷くのみだ。事情が呑み込めないライダーは、視線を左右に彷徨わせた。 

 

 困惑する一同に、アーチャーは苦笑した。

 

「いきなり葬式だなんて困るだろう? それが普通さ。

 弁護士とかお寺とか、専門家に相談しても全然不自然じゃない。

 未成年の君たちが、親戚の大人に付き添ってもらうのもね」

 

 キャスターは目を細めた。

 

「つまり、私に陣地に戻れというわけかしら?」

 

「戻るというか、通ってほしいんですよね。

 救援が見込めない状況で籠城するのは下策ですが、

 予備兵力がある場合は、拠点を増やしたほうがいい。

 敵の椅子を奪うんです」

 

 思い出して、慎二は頭が痛くなってきた。アーチャーは、千六百年後に未来人で、異世界の異星人だと自称する。だが、そんな肩書よりも何よりも、頭の中身が異質すぎる。複数の策を考え、状況に応じて柔軟に切り替え、戦い抜こうとしている。

 

「一体、あいつは何者なんだ……」

 

 知っている素振りのエミヤに聞いてみようか。

 

 さらに頭が痛いことに、この提案にキャスターが乗り気になったのだ。現世に残留したい彼女は、臓硯の親戚という立場を維持するつもりのようだ。当主を欠き、まともに魔術を使える者のいない間桐家にとっても、悪い取引ではなかった。

 

 鶴野は退院の見通しが立たず、間桐家代々の墓を誰も知らない。一から用意するとなると、墓地を買い、墓石を立てているうちに、四十九日が過ぎてしまう。キャスターは短期の手伝いで、近々一旦帰宅する予定である。今のうちに、葬儀や墓の手配をしておきたいと。 

 

 妙齢の美女が困り果てた様子で頼めば、顧問弁護士は首を縦に振り、柳洞寺の住職夫妻も身を乗り出した。実際、相談に乗ってくれる普通の人々がキャスターには必要だった。

 

 荼毘に付した遺骨(蟲の外殻?)は、見えないところへやってしまいたいし、肩書を装うなら、慎二や桜、身を寄せている凛のことも放ってはおけない。身を寄せるなら快適な場所がいいし、安楽で平穏な未来のためには、周囲の評判は上々であるほどよい。

 

 そのためには、寺の人々の記憶を挿げ替えておく必要があった。ついでに、作りかけの神殿に手を入れておこう。

 

 アーチャーは複数の拠点、複数の手段を用意し、リスクの分散化を図ろうとしていた。誰かは生き延びて、英雄王を斃せるように。あるいは長期の防衛が可能となるように。

 

 籠城戦を前提とするキャスター以上の適役がいるであろうか。王女メディアは願いのために戦い抜いた女性だ。彼女の望みに凛たちが寄与し、言峰主従が反するならば、きっと前者に味方する。ヤン・ウェンリーの反省からの防衛策だった。

 

 同時に、言峰たちの椅子を奪う。聖杯降臨に必要なものは三つ。聖杯の器とサーヴァントの魂、そして霊地。その二つまでを押さえたなら、敵がどう動くかは明らかだ。

 

「まったく、ろくでもない」

 

 アーチャーは自嘲した。あれだけ人を殺して、きっと自分は地獄に落ちるだろうと思っていた。死んでからまで、戦い、陰謀を巡らすだなんて、地獄で償ったほうがましかもしれない。

 

「でも、英雄王を倒したって、根本的な解決にはならないんだよなぁ。

 『この世すべての悪』をどうにかしないと……」

 

 慎二たちが出掛けてから、アーチャーは衛宮家に赴き、イリヤと話し合いをした。バーサーカーの宝具のこと。これから相手が取り得る手段と、その対処法。話し合いは長引き、日付が変わっていた。

 

 イリヤが欠伸を漏らしたのを契機に、アーチャーは辞去することにした。外に出て、霊体化する前に伸びを一つ。

 

 ふと夜空を見上げて気付く。夜は暗いものだが、今日はなおのこと暗い。

 

「あ、そうか。月がまだ出ていないんだ……」

 

 ランサーと最初に対峙した夜から、二週間近くが経っている。月の出は遅くなり、星座も位置を変えていた。瞬く星は、大気の仕業だ。アーチャーが行き来した、瞬かない星の海とは違う。

 

 その時だった。鋼の打ち合う音が微かに聞こえてきた。夜空を見上げる、宇宙と同じ色の瞳が大きさを増す。形のない思惟が立ち上り、少しずつ形を成していく。

槌音と共に刃が鍛えられていくように。

 

 アーチャーは音のする方に振り返った。白壁の土蔵は、衛宮士郎の魔術工房。

 

「……世界の内側と、外側」

 

 サーヴァントは大聖杯の寄るべに従い、世界の外側から内側へと降り立つ。死して聖杯の器に集い、七騎の魂魄によって小聖杯が顕現する。そして、根源への道を開く。 

 

 アーチャーは霊体化することも忘れ、刃鳴りに耳を傾けていた。魔法に最も近い、魔術使い達の鍛錬を。



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閑話13:Dear Friends.

 遠坂凛が召喚したアーチャーの真名はヤン・ウェンリー。自称、千六百年後の人間だという。そのうえ、異世界の異星人だとも。

 

 物凄く胡散臭い。ちょっと前に流行った山姥ギャル風に変貌した、衛宮士郎の未来形が知っている口ぶりなので、より疑わしい。

 

 その衛宮士郎の未来形だって、肌や髪はともかく、文字どおりに目の色まで変わっている。身長は二十センチは伸び、筋肉は隆々、真っ赤な外套を着込み……。現在形の一応の友人として、声を大にして言いたい。

 

「どうしてそうなった!?」

 

 アサシンことエミヤシロウは、銀灰色の目を逸らした。

 

「いや、その、正義の味方を目指してだな……」

 

「だったらさ、それなりの格好ってものがあるだろう!?」

 

 社会的正義の執行者を意味するなら、警察官でも消防士でも自衛隊員でも、医師に弁護士、もちろん政治家だって選択肢だろうに。

 

「なんだよ、それは。アメコミのヒーローかよ!」

 

 的確な突っ込みに、遠坂凛は小さく拍手した。

 

「あ、慎二、あんた凄いわ。当たらずしも遠からずよ」   

 

 この衛宮士郎は、虐げられた弱者救済のために、戦乱の国で戦いに身を投じたのだと聞いた。確かにそれはアメコミヒーローに近い在り方だ。己の力で、弱者と正義のために奉仕するボランティア。

 

「馬鹿か! あれはものすごい超人の、大金持ちがやるものさ。

 どっちか一方があるだけのヤツがやったって、なんの得にもなりゃしない」

 

 反論に口を開きかけたエミヤに、慎二はずばりと言い切った。

 

「僕が言っているのは、ヒーローに救われたヤツじゃなくて、

 ヒーローにとって得になるかってことだからな。

 そいつの家族や恋人、友達もだけどね」

 

 身長や体格は、成長ということでいいだろう。しかし、肌に髪、瞳の色の変化。親しい者、彼を案ずる者が傍らにいたのなら、そのままにしておいただろうか。

 

「おまえにとっての、そういう連中はどうなったんだよ」

 

 生前のエミヤは、慎二の同盟を撥ねつけた。戦いの末に、ライダーと彼は落命した。

しかし、失ったのはそれだけではなかったのかもしれない。間桐慎二の死後、衛宮士郎にアンチテーゼを叩きつける同性の友人はいなくなり、再び現れることはなかったのだから。

 

「……いなくなってしまったよ。

 思えば、それも私が守護者となる発端だったのだろうな」

 

「ってことは、おまえの時の僕は死んだわけか。

 それにしても守護者だって!? 

 ……はん、だから、千六百年後のアーチャーを知ってるのか」

 

 このエミヤは、アーチャーにだけは敬語を使っている。

 

「つくづく鋭いな……」

 

 慎二からの誘いの背後を考えていれば、違うやり方と別の未来があったのかもしれない。 ……自分にはもう遅いが、この世界の士郎にはチャンスがある。そして、エミヤシロウが聖杯戦争に召喚されるなら、別の士郎にもチャンスを与えることができるかもしれない。

 

「今ごろ気付くとは、まさに皮肉だがな。

 しかし、私にもまだできることはあるのかもしれん。

 ――ありがとうな、慎二……」

 

 礼を言われた少年の頬に朱が刷かれた。

 

「……やっぱり、おまえは衛宮だな。

 そのあざとい天然ぶり、全然変わっちゃいない」

 

 傍らの凛も、腕組みして眉を顰め、首を振った。

 

「そうよね」

 

 根っこの部分が、小さな少年のままなのだ。自分の能力のみに目を向け、自分が与える影響を度外視している。

 

「僕に礼を言う前に、もっと考えろよ。

 多少違っていても、おまえには聖杯戦争の知識があるんだろ。

 それを使ってさ」

 

 誰も失わなければ、衛宮士郎は孤独な英雄にはならないかもしれないのだから。

 

「僕だって死にたくないけど、桜を泣かせるなよな」



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85:冬雷来たりなば

 遠坂凛の日常は、表向き平穏に流れていた。水に浮かぶ白鳥のように、見えないところで足掻きながら。

 

 衛宮家の認知騒動にも、間桐家の不幸にも、凛には何の権利もない。裏でがちがちに結びついていようとも、聖杯戦争の真っただ中であろうとも、学校にちゃんと通わなくてはならないし、課題だってやらなくてはいけない。

 

 後見人の言峰の不祥事について、担任の葛木教諭に相談したのは正解だった。実妹の桜を頼る形で、間桐家に避難したのもだ。

 

 病気療養に忌引きで、学校を休んでいる慎二と桜にバックアップしてもらうことができたのである。今にして思えば、凛の認識は大甘だった。サーヴァントと二人で、二週間も戦い続けるのは不可能だ。パートナーがアーチャーではなく、セイバーやランサーであったとしてもだ。後方支援があってこそ、戦線は維持できるのである。

 

 ――あいつらは、綺礼と英雄王はどうしているんだろう……。

 

 彼らの環境が、自分たちに勝っているとは思えない。綺礼は児童監禁虐待を暴かれ、英雄王は通り魔になるように仕組まれた。帰りのホームルームでも、彼らに関する注意喚起がなされ、警察からのチラシが回ってきた。

 

 凛はチラシに目を落とした。詳細な捜査状況が載っているわけではない。高校生にまで配っていることが、警察の苦境を示すものだろう。始めから期待はしていなかったが、内心で溜息を吐く。

 

 そして、鞄に入れるため、チラシを折ろうとして裏面の印刷に気付いた。チラシが行き渡るのを確認して、教壇の葛木が口を開いた。

 

「今配ったのは、警察からのお知らせだ。裏まできちんと読んでほしい。

 先日の通り魔事件に関することだ」

 

 教室に紙をめくる音が満ちる。

 

「学校側の対応としては、当面の間、放課後の部活動を休止する。

 場合によっては、高校受験、年度末考査以降も延長となるかもしれん。 

 早急に帰宅し、寄り道をしないようにな。

 休日の際も、遅くまでの外出は控えるように」

 

 まばらに肯定の声が上がったが、承服しかねる面持ちの生徒のほうが多い。

 

「今週末から受験休みが重なるから、外出を予定している者もいるだろう。

 それに載っている行方不明者は、外国人の女性旅行者だ。

 先日の通り魔事件の被害者も、旅行中で手荷物を持っていた。

 そういう人物を狙う犯人かも知れないとのことだ」

 

 凛はまじまじとチラシを見つめた。似顔絵が載っている。あまり達者な筆致ではないが、それでも美人だと思える顔だった。短髪にきりりとした目鼻立ち、左目下には黒子。耳元の大振りなピアスは滴を思わせる形で、凛にも見覚えがある。

 

 絵の下には、身長と服装、髪と瞳の色が記載されていた。読むかぎりでは、ワインレッドの髪と鳶色の瞳に、長身でスタイル抜群の男装の麗人らしい。

 

「だが、誰もが被害者になる可能性がある。そんな不幸は、皆も望まないだろう。

 遅くなったら、家の方に迎えに来てもらうか、タクシーを利用するように」

 

「ええーっ、タクシーですかぁ!? そんなの高くて乗れないですよぉ」 

 

 女生徒から不承の声が上がった。次々に追従と頷きの輪が広がる。だが、葛木は落ち着いたものだった。

 

「小遣いを惜しむなら、なおさら早く帰ることだな。

 もっとも、先日の通り魔はまだ夕方だったが」

 

「うー……」

 

「バス停で、バスを待っていたところだったそうだ」

 

「えええー」

 

 学級にざわめきが広がる。一般的な高校生にとって、これほど危機感の募る状況はそうはない。

 

「ほんの短い時間、短い距離でも安心できんということだ。

 この行方不明者も、タクシー会社からの情報で明らかになったそうだ」

 

 凛は驚きに目を見張った。無名のタクシー運転手も、決して無力ではなかった。美しく目立つ女性客を覚えていて、彼女が見当たらないことを気にしてくれたのだろう。その通報に、警察は奇禍に遭ったライダーとの相似を見たのだ。

 

 まさか、これもアーチャーの狙い? 考えすぎかも知れない。だが、そう考えてしまうのがアーチャーの怖さだった。

 

 凛の思いを知る由もなく、葛木は言葉を継ぐ。

 

「君たちも、これらの件で何か知っていることがあれば、

 学校や警察に相談してほしい。私からの連絡は以上だ」

 

 間桐家に帰った凛は、そのチラシをランサーに見せた。

 

「ねえ、この人、あなたのマスターでしょ?」

 

「あぁ!? ……そうだ。だが、なぜ……」

 

「条件がライダーと似てるのよ。外国人で、旅行者で、物凄い美人」

 

 ランサーの赤い瞳が丸くなった。

 

「や、それは……。いや、そういえばそうなるのか?

 まあ、たしかに別嬪といえば別嬪だがなあ……」

 

 ワイルドすぎたマスターと、淑やかなライダーが似てるとは咄嗟に考えつかなかった。だが、条件範囲を大きくすれば、ライダーと彼女の特長は重なるのだ。

 

「きっと、金ピカの被害者じゃないかって思われてるんだわ。

 犯人は、好みのタイプを狙うっていうもの」

 

 実際の加害者は英雄王ではない。だが、当たらずしも遠からずだ。

 

「アーチャー、出てらっしゃい! あんた、これを狙ってたわけ!?」

 

 金切声を上げた凛の前で、空気がモノクロに色づいた。

 

「いや、これはむしろ必然だろう。

 こんな人口密集地で、秘密裏に戦うほうが無理ってものだ。

 だから、二百年は長いって言ったじゃないか」

 

 溜め息交じりに毒を吐かれ、凛は言葉に詰まった。

 

「外から冬木に来た人間は、まず駅に降りるだろう。

 ライダーに、そうしてもらったように」

 

 だが、否定していない。凛は眉を吊り上げた。

 

「やっぱり狙ってたんじゃない!」

 

「狙うというか、そうならざるを得ないのさ。

 自然を装うなら、おのずと手段は限られる。

 外国人の美女が襲われる事件が起これば、結びつけて考える人が出てくるんだ。

 吉と出るか、凶と出るかは分からんがね」

 

 アーチャーはそう言って、凛の手からチラシを取り上げた。余白になにやら書き込み、ファックスに乗せようとして、逡巡を見せた。

 

「あれ、どっちだっけ?」

 

 首を傾げるアーチャーに、桜が応じた。

 

「アーチャーさん、送りたい方が下ですよ」

 

「ああ、ありがとう」

 

 アーチャーはメモを片手に、ファックスのボタンを押した。

 

「あの、どこに送るんですか?」

 

「時計塔にだよ。彼女はあちらの職員だからね。

 救助なり、応援なり、寄越してくれてもいいと思わないか?」

 

「本当にそうですね。

 ランサーのマスターさん、早く見つかるといいのに……。

 ランサーさんも、心配ですよね?」

 

「お、おう、そうだな……」

 

 それは大いに同意するが、正直望み薄だとランサーは思っていた。

 

「そいつは置いといてだ、いつの間に仲良くなってんだ?

 嬢ちゃんの妹とアーチャーは」

 

 ランサーは声を潜め、凛に囁きかけた。

 

「……いつの間にかよ。慎二とも結構、うまくやってるの」

 

 ランサーの言うとおり、いつの間にか、凛と桜、慎二たちは打ち解けていった。サーヴァントたちと一緒に。

 

 食卓を囲んで、キャスターの料理を皆で論評する。アーチャーとライダーが地図を睨む傍らで、キャスターが魔導書の解読を担当し、凛は頭を絞り尽くす。そして、学校の課題に唸る高校生たちに、アーチャーが講師を買って出た。

 

 こんな触れ合いは、凛たちが始めて知るものだった。知って気付いたのだ。今までがいかに孤独であったのか。魔術師としての生き方以外、なにも知らないに等しかった。

 

 士郎の『正義の味方』願望を批判しようとしたのは、いかにおこがましいことだったか。凛は、先人たちの願いをただ受け継いだだけで、自ら考えてはいなかった。

 

 自らを取り巻く環境としての世界を変えるには、魔法は不要だ。他者と交わることで、自分が変わり、世界も変貌していく。輝き、時に影を帯びて、幾層にも色彩を重ね、厚みを増す。

 

 たとえ拙くとも、それは凛だけの世界。そんな世界を、皆が持っている。それぞれに全く異なるものを。

 

 凛には、これがアーチャーがこだわった思想のように思えるのだ。誰かの唯一を認めながら、自分の唯一も認められる、そんな世界を、と。

 

「士郎とイリヤもそうだけど、セイバーもよ。

 最近、学校の授業を楽しそうに受けてるみたい」

 

 一時の触れたら切れそうな切迫感が消え、セイバーの表情はずっと柔らかになった。士郎のクラスの面々も、セイバーの存在に慣れ、女子に可愛がられているらしい。

 

 ランサーは顎をさすった。

 

「いっそ、あいつらが諦めりゃいいんだがなぁ……」

 

「そうね……」

 

 だが、凛は知っていた。言峰綺礼という男を。彼は、他人の心の傷を切開し、痛みを収集することに喜びを感じるのだ。これ以上ない機会を前に、引き下がるだろうか。

 

 誰もそう思っていないからこそ、凛は令呪の解析を続け、士郎はエミヤとの鍛錬に励んでいる。 その中で、アーチャーはなんとか時計塔に連絡を取り、じっと何事かを考えていた。

 

 そして、ついにその日は訪れた。

 

「――こちらアサシン。連中が金貨に手を出したぞ」

 

それは街に出掛けたイリヤたちが帰宅し、士郎らが学校から戻ってくる前の時刻に起こった。イリヤとセラたちが車から降り、エミヤは駐車場に車を置きに行く。その空白を裂き、白刃が飛来した。

 

 最速で反応したのは、イリヤの忠実な従者だった。鉛色の巨体が顕現し、斧剣を縦横に揮い、十を超える剣を弾き飛ばす。しかし、それは全体の半数あまり。残る剣の矢から主人を庇うため、彼はその体を盾にした。両腕に剣が突き立ち、やがて断ち切られ、がら空きになった胸郭に数本が埋まる。すさまじい出血はすぐに霧散し、同時に従者の姿も掻き消えた。

 

「やっ、いやあぁ! バーサーカー! ――くっ……」

 

 悲しみと苦しさに顔を歪め、小さな体が倒れかけた。それを逞しい黒い腕が抱きとめる。礼を言いかけてイリヤは気付いた。白手袋をつけた執事の腕ではない。視線を巡らすと、昏く淀んだ瞳と目があった。抱え上げられたイリヤは、細い手足をばたつかせて、必死の抵抗を試みた。

 

「いやっ、放して! あっ」

 

 執事を超える体躯の言峰にはなんの効果もなく、当て身を食らわされて気絶する。

 

「行くぞ」

 

 ギルガメッシュに声を掛けて身を翻す。異変に気づいたか、革靴の音が速度を早めて近づいてきた。低い声が切れ切れに聞こえる。あの固有結界の詠唱をしているのかも知れない。されば長居は無用、執事に扮したアサシンはギルガメッシュの天敵だ。

 

 エミヤが飛び込んできたのは、まさに一足遅れだった。衛宮家の屋根を越えていく、黒髪と金髪の主従。黒い肩に揺れる銀髪。追いかけようとして、牽制に打ち込まれた剣を投影した剣で弾き飛ばし、貴重な一瞬をロスしてしまった。もう足では追えない。黄金の舟が現れ、悠々と夜空へ漕ぎだしたからだ。

 

「予想より早かった。連中も焦っているということか」

 

 エミヤは懐から携帯電話を取り出した。ワンコールで出た相手に、早口に告げる。

 

「――こちらアサシン。連中が金貨に手を出したぞ」

 

***

 それからきっかり三分後、エミヤの携帯電話にメールが着信した。

 

 発信者は遠坂凛。

【あるふあ くりあ】

 

 その二分後に間桐桜から【ブラボー クリア】の報告が届く。

 

「遠坂邸と間桐邸は無事だったか」

 

 これはアーチャーことヤン・ウェンリーの予測のとおりだった。聖杯戦争は三つを揃えないと真の勝者にはなれない。

 

 一つ目は、自分のサーヴァントを最後まで勝ち残らせること。二つ目は、聖杯の器。

そして三つ目が、聖杯降臨の霊地。柳洞寺地下の大聖杯、遠坂家、教会のいずれか。

 

 しかし、器があっても中身がなければ話にならない。中身となるのは敗退したサーヴァント。残り時間は少ない。サーヴァントを倒すなら、器と霊地を抑えてしまったほうが合理的だ。

 

「彼らがいかに強かろうとも、手足は二本ずつしかないからね」

 

 イリヤに起こされた後、バーサーカーの宝具を教えてもらうに及び、急遽、作戦会議が開かれることになった。

 

「できることは限られるのさ。

 いっそ器を渡してしまい、我々は防衛に徹して終戦を待つというのも手だが」

 

「……渡せないの。聖杯の器はわたしだから」

 

 口ごもりながら伝えたイリヤに、アーチャーは目を伏せた。 

 

「ごめん、言いにくいことを言わせてしまったね」

 

 いつものとおりの優しく落ち着いた口調だった。アーチャーは驚いていない。イリヤは逆に動揺した。

 

「え、ど、どうして……?」

 

「なんとなく、そうではないかなと思っていた。

 でも確信が持てなかった。教えてくれてありがとう」

 

 確信が持てないまま、アーチャーは戦いを避けた。第三魔法『魂の物質化』が不老不死を指すなら、『天の杯』とはなんなのか。『無限の魔力の釜』がそれに当たるのではないか。

 

 千六百年後の未来には、近い物が存在する。水素の核融合反応によって動力を生み出す核融合炉。それは恒星とメカニズムを等しくする。恒星を『不老不死』『無限の力の釜』と呼んでも差し支えなかろう。むろん星にも寿命はあるが、たかだか一万年少々の人類史と比べるのも愚かだ。

 

 もっとも、ヤンの時代の核融合炉は、燃料の補充が必要だったから、厳密には無限ではない。人間の手では、恒星並みの質量や寿命のあるものは作れない。だが、不完全な極小の星でも、人間が手にするためには様々な技術が必要だったのである。

 

 核融合反応に必要な、十億度の熱をプラズマによって発生させ、熱が漏れないように強力な電磁場で封じる。英霊を燃料兼プラズマ、器を核融合炉と考えると、器にこそ尋常でない性能が要求される。

 

 用意するのは、錬金術の大家アインツベルンの役割だ。錬金術は冶金(やきん)学の祖でもあるから、頷けなくはない。だが、それなりの大きさが必要ではないだろうか。少なくとも、サーヴァントという無形のエネルギーを溜めて封じておく、電磁場に相当するものは欲しい。

 

 周囲にそれと知られずに、小柄な少女が携帯できる大きさだろうかというのが、ヤンが最初に抱いた違和感だった。

 

 その小柄な少女は、桁外れの魔術回路と魔力を持っていた。バーサーカーのマスターの、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。第四次聖杯戦争に参加した母と酷似した、白銀の髪に真紅の瞳の持ち主だ。父は黒髪黒目なのに、傍系らしきメイドたちが同じ色彩を持っている。

 

 髪や目は濃い色が優性遺伝するのに、いくらなんでも不自然だ。ヤンはさらに訝しんだ。

 

 そして考えた。神話や伝説で、不老不死そのものを得た者はいない。しかし、死者蘇生のアスクレピウスに、山羊を若返らせた王女メディアなど、違うアプローチを取れそうな英雄はいる。

 

 素人のヤンでも思いつくのに、二百年もその手段を考えないのは、アインツベルンの第三魔法とは、個体としての不老不死とは違うのか。永久機関としての不老不死ではないのか?

 

 ならば、まさしく魔法だ。地上に意志ある恒星が現れるのだから。

 

「……ほんとうに、あなたは賢いのね」

 

 疑いながらも、イリヤが口にするまで面と向かっては何も言わなかった。

 

「まあ、私は宇宙で長く生活をしていたからね。

 宇宙船の心臓が、その核融合炉なんだよ」

 

 彼は、父の船の事故の原因は、核融合炉の故障だったと続けた。

 

「それだけじゃなくて、こっちにはピュグマリオンの同時代人もいるし」

 

 イリヤは口を開閉させた。彫像の美女を恋して、神に祈り、人にしてもらったギリシャ神話の登場人物だ。さりげない暗喩で、一番言いにくいことを言わずにすんだのだが、イリヤがホムンクルスということまで、彼に察知されていたわけか。

 

「アーチャーが味方でよかった……」

 

「こちらこそ、同盟のお礼を言わなくちゃならないよ。

 もう一つ言っておくよ。君は器じゃなくて人間だ。それが強みになる」

 

「え?」

 

「近いうちに彼らは動かざるを得ない。

 聖杯戦争の勝者となる賭けに出たほうが、まだしも分がいい」

 

 今はジリ貧になっている状態だろう。水や食料は嵩張って重い。拠点を転々とすると、どうしても目減りするものなのだ。

 

「士郎君たちを呼んでもいいかい?

 これから起こりうることと、対処法を説明したい」

 

***

 

 まずは、相手が狙えそうな状況を見せつける。

 

「私が彼らなら、君たちの行動パターンをしばらく観察する。

 我々の活動期間のなるべく後までね。

 旗色が悪くなったら、逃げて時間を稼げるだろう?」

 

 イリヤは頷いた。

 

「その上で、イリヤ君が在宅し、セイバーとアサシンが揃っていない時を狙う。

 一番いいのは士郎君たちが学校から戻る前で、アサシンが離れる時だ」

 

 この条件が成立するのは、土日よりも平日だ。

 

「英雄王がバーサーカーと対決し、その隙に言峰がイリヤ君を確保。

 アサシンの剣と射術から逃れるためのは、黄金の舟を使うだろうね」

 

「あの舟ですか? こんな街中で?」

 

 驚くエミヤに、ヤンはくすりと笑った。

 

「君はゆっくり夜空を眺めるかい? 帰宅や夕飯の準備で忙しい時間に」

 

「いや、それは……」

 

「それに、黄金の輝きも光あってこそさ。

 人家より高く浮いてしまえば、一般の人にはほとんど見えなくなってしまう」

 

「む……、たしかにそうかも知れません」

 

 エミヤは生前から鷹の目を持っていたから失念していたが、サーヴァントの身体能力は常人の数十倍だ。五感も相応に強化されていて、生前より遥かに夜目が効く。アインツベルンの森で、ヤンはその違いにびっくりしたものだ。生前の自分だったら、暗い森を飛ぶ照明のない舟などろくに見えなかったろう。

 

「行き先は、イリヤ君を隠しておける霊地か拠点。

 警察に封鎖された教会は除外していいと思う。

 近くて拠点となりうるのが間桐邸だが、キャスターの陣地だから順位は低いかな」

 

 アーチャーの脳裏に、マスターの引き攣った声が響いた。

 

『……ちょっと待ちなさい。わたしの家はどうなのよ!?』

 

『だと楽なんだがねえ……』

 

『なんですってぇ!』

 

 メールの様子を見るとそれは回避されたようだ。事が起これば、最も近い遠坂邸に襲撃を連絡する。凛から各人にメールを送り、舟の予想到達時間にも安否連絡をする。あの機械音痴が、三分で二件もメールを送れたのは、ヤンよりも桜のおかげだろう。

 

 エミヤは屋根へと跳躍した。遠坂邸と間桐邸は無事。新都の方へと目を凝らす。教会を目指すなら、舟は未遠川の橋の上空あたりか。だが、船影はない。エミヤからもメッセージを送る。

 

【チャーリー クリア デルタ アテンション】

 

 投影していた執事服を解き、紅い外套へと変じる。エミヤの懐で携帯電話が三回振動し、沈黙する。それはデルタ地点の斥候が敵を発見したことを意味していた。

 

「結局あの人の手の内か。イリヤ、今行くからな」

 

 屋根をひた走り、目指すは(エコー)地点、柳洞寺の地下の洞窟。

 

 要塞化された間桐邸に凛が避難し、遠坂邸を空にしたのは誘いに見えたのだろう。あのふたりは、遠坂時臣の弟子とサーヴァントだった。歴史ある壮麗な邸宅は、悪辣で強力な魔術の罠の複合体だと知っている。その知識が彼らを警戒させ、知らず知らず誘い込まれてしまったのだ。

 

 無策は見切られ、対応を練ると術中に嵌る。銀河帝国軍の諸将らを恐れさせた、魔術師の思考誘導だった。

 

 魔術儀式はさっぱり分からなくても、戦争に関してはヤン・ウェンリーはプロ中のプロである。限られたリソースは決して無駄にはしない。

 

「そりゃ、やっぱり神父と王様は本職じゃないからね」

 

 間桐慎二は胸中で呟いた。魔術師でなくても出来ることは多々あり、それが幸いすることもある。魔力がないから見張りをしててもばれないのだ。高性能の双眼鏡と、暗い色の毛布と、大量のカイロがあれば事足りる。凛と桜にメールを送り、アサシンの携帯を三度鳴らして切った。これで増援が来るはずだ。

 

 黄金の舟が、木々の海へと潜っていくのを確認し、慎二はそろそろと立ち上がった。

 

「さてと、僕は今のうちに逃げるとするか。

 戦場でドンパチやるだけが戦いに非ず、か。

 僕らは僕らの役目を果たすとしよう」

 

 それは、戦力にならないことを気にした桜にアーチャーが掛けた言葉だった。

 

「私たち軍人だって、全員が戦闘に参加するわけじゃない。

 白兵戦部隊や宇宙艦隊を支えるのは後方なんだが、

 突き詰めるなら、軍人でない市民全員だ。

 後方を落とされたら、前線が勝っていても負けなんだよ。

 そうなることのないようにするのが我々の役割で、

 我々を支えるのが桜君たちの役割。そこに上下はない」

 

 言ってから、彼は黒髪をかき回した。

 

「いや、むしろ、後方の人が偉いかなあ。

 だって、軍人の主人は国民だからね。

 軍人だって国民だけど、私はわざわざその道を選んだんだしなあ」

 

 惚けた口調だったが、マスターとしての凛と桜の違いを端的に述べていた。

 

「とにかく、自分に出来ることをすればいいのさ」

 

 慎二と桜は、最後の砦として、間桐邸の防御を固めなくてはならない。滅んで欲しかった化け物は消え、守るべき者がいるのだから。

 

「おまえも本当に大事なものをを守れよ、衛宮」



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86:絆の数

 地に降り立った黄金の舟は、三人の乗客を降ろした。洞窟に入ろうとした言峰の背に、快活な声が掛けられた。

 

「よう、元マスター。神父を辞めて、人攫いになったのか?

 随分と落ちぶれたもんだな」

 

 無言で振り向く言峰主従に、群青の槍兵は獰猛な笑みを浮かべた。

 

「待ってたぜ。なあ、セイバーの主従よ」

 

 ランサーの声に応えるように、蒼銀の少女騎士と、学生服の少年が姿を現した。

 

「ランサー、訂正を。

 落ちぶれたわけではなく、卑怯者が使い古しの手を使っただけでしょう」

 

 ランサーの形のよい鼻梁に皺が寄る。

 

「そういや、初っ端っからそうだったな。いいや、十年前からか」

 

「とにかく、イリヤを返せ!」

 

 士郎は眼差しを険しくして、更に一歩進み出た。

 

「もう逃げられないぞ」

 

 虚を突かれていた言峰だったが、士郎の言葉に喜色を浮かべる。

 

「ふ、待ち伏せとはな。義妹を囮にしたわけか。

 たしかにおまえは衛宮切嗣の息子だ」

 

 言峰の言い草を、士郎は一蹴した。

 

「人のせいにするな。

 おまえらがこんなことしなきゃ、寒いだけの遠足だったさ!」

 

 手足が二本ずつなのと同じく、目や耳が一対ずつしかないのが言峰たちの弱点だった。彼らは士郎の家の周囲を見張っていた。士郎とセイバーのみならず、隣家の教諭も出勤したので、何の不審も抱かなかったのだ。

 

 今日は、穂群原高校の入試で、在校生は休みだった。凛が、一月の終わりに渡した学校だよりに、きちんと書いてあるように。言峰がそのプリントに、きちんと目を通していたら負ける勝負だった。

 

 だが、凛はあえて賭けに出た。深山の一家殺人が起きたのは、ちょうどその頃ではなかったか。ランサーのマスターの失踪も同時期だ。興味の薄いことには大雑把な言峰が、一大事の前の些事をどう扱うか。被後見人として、凛は熟知していたのだ。

 

 凛の指示で、士郎とセイバーは登校したふりをして、ここで待ちかまえていた。

 

「イリヤを危ない目に遭わせるぐらいなら、無駄足になってくれればよかった」

 

***

 

 アーチャーに作戦を明かされた時、士郎は猛反対した。

しかし、アーチャーは譲らなかった。

 

『事が起こってからでは遅いよ。

 あらかじめ対策を練っておくべきだ。

 無駄になるならそれに越したことはないが、

 必要になった時に危険を減らせる』

 

 士郎の反論を封じたのは、エミヤが漏らした述懐であった。

 

『そうだ。おまえの、いや、俺の力では、奴らに勝てなかった』

 

 磨耗したという彼の記憶の中で、どんな色彩を放った光景であっただろうか。士郎より低くなり、感情を抑える術を身につけた声に、隠しようのない悔恨が滲んでいた。

 

『俺と同じことをやっても、おまえも同じ轍を踏むだけだ。

 違う結果を望むならば、俺とおまえの違いを生かすしかあるまい』

 

『違いって、なんなのさ!?』

 

 問い詰めた士郎に、未来形がシニカルに笑んだ。

 

『いや、むしろ、おまえと英雄王の差だな。

 全ての財を手に入れようと、手に入らぬものがおまえにはある』

 

 見開いた琥珀に、鋼が細められた。

 

『人の心だ。少なくとも、おまえはセイバーに嫌われてはいない』

 

 そうして、士郎とセイバー、自分とイリヤにメイドたちの綿密な行動テーブルを作りあげ、そのとおりに行動してみせた。相手を煽り、狙うなら今日この時になるように。

 

 無視される可能性は否定できなかった。だが、先じて行なっていた、言峰の犯罪の暴露と、英雄王によるライダー襲撃。この二件が、別の事件と連鎖的に結びつき、警察の捜査を促すことになった。

 

 警察には、魔術師には決してできないことができる。交通機関の検問、商業施設への張り込みに、運送会社などの捜査などである。この平和で自由な日本で、彼らの行動を制限するには、それしかなかった。

 

 食料や物資を削るのも、目的のひとつではあった。だが、自分が逼塞している傍らで、五次陣営が日々を謳歌しているのを見せつけられては、楽しかろうはずがない。

 

 聖杯戦争の期間が過ぎれば、士郎や凛たちを一掃するのは容易い。だが、聖杯の顕現には、少なくとも六騎のサーヴァントの命が必要である。言峰主従は、相反する二つの命題のどちらに重きを置くのか。

 

 士郎たちの行動は、天秤の片方に心理的な錘を乗せていくものだった。ここまでの賭けには一応勝ったが、士郎にはとても喜べなかった。

 

「でも、手を出さないことだってできたじゃないか!

 おまえらはイリヤを攫った。

 イリヤの母さんを攫った黒幕も、おまえらだったんだろ!?

 二人して、遠坂の父さんも殺したのか!?」

 

「なにを根拠に……」

 

 歪んだ笑いを浮かべた言峰に構わず、セイバーが硬質な印象の唇を開いた。緑柱石の瞳に、複雑な色を浮かべて。

 

「シロウ、そう決めつけたものではありません。

 私と同じく、主を守れなかったのでしょう。

 その男が言うには、王とは無謬の存在だそうです。

 たしかに一面の真実です。王が過てば国は滅び、王は王でなくなる。 

 ……私のように」

 

 ギルガメッシュは微かに瞠目した。国が滅びんとしていることを嘆き、足掻いていた、あの少女ではないのか?

 

「王として生を全うした者が、

 おのれの失敗を認められぬのも無理からぬことでしょう」

 

「なんだと!」

 

 白皙に朱を昇らせた英雄王に、騎士王は穏やかな微笑を送った。

 

「私はずっと、過ちを受け入れることができなかった。

 だが、王ではなく、サーヴァントとなり、シロウたちのお陰で認められたのです。

 おのれの失敗と罪を。

 イリヤスフィールは、私の謝罪を受け入れてくれました。

 リンの度量も、彼女に劣るものではないと思います」

 

 セイバーがギルガメッシュに初めて向けた笑顔には、好意ではなく、憐みが籠っていた。

 

「英雄王よ、亡き主のご息女に謝罪し、裁定を仰ぐとよろしい。

 我々はもはや王ではない。

 いまの過ちは、生前の威光で取り繕えはしないのです」

 

 名画家が描いたような金の眉が吊り上がった。背後から浮かび上がった宝剣を抜き放つ。

 

「小娘を奪われた貴様が減らず口か! よかろう、思い知らせてやる」

 

 煌めく白刃が、倒れ伏したイリヤの細首へと振り下ろされた。

 

「イリヤーーッ!!」

 

 しかし、届かない。士郎の絶叫も、――英雄王の刃も。

士郎の声が、もう一つの名を呼んだから。

 

「――遥か遠き理想郷(アヴァロン)

 

 其は絶対の防御。真名開放と同時に光の微粒子となって展開し、使い手を妖精郷へと匿う。どんな武器も、魔術も、魔法とて届かず、その身を害することは能わぬ。

 

 エミヤに黒白の剣を示された士郎は、作戦会議の後で考え込んだ。未来の自分の可能性は、この剣で勝てない相手にも、次の手を生むつなぎになるかもしれないと言った。でも、次の手を出す前にやられてしまう可能性のほうが高くないだろうか。悔しいけれどあの金ピカは強い。

 

「どうせなら、もっと確実性の高い方法のほうがいいよなあ……」

 

 士郎は気づいていなかったが、これはきっと黒髪の怠け者の影響だろう。

 

 『努力をしたってだめなものはだめ』という、やる気のなさそうな言葉の裏側には、『戦場で努力をしない者などいない。努力が必ず結果を生むなら、みな生きて帰ることができる』という意味があった。

 

 彼がいたのは、実らない努力には死が待つ世界。努力する時間があるのは、平和だからこそだと羨ましげに言っていた。

 

「――投影開始」

 

 手の中に黒白の刃が現れる。さっきよりはましだが、まだまだなっていない。

 

「これじゃ駄目だ。でも、今の俺に、あいつの奥の手は使えない。

 もし固有結界が使えたって、呪文唱える間は持ちこたえなきゃならないんだよな。

 あの剣の弾幕相手に。……無理だぞ」

 

 令呪を使って、詠唱時間をフォローしてくれたのはキャスターだし、彼女に令呪を使うタイミングを指示したのはアーチャーだ。彼らぬきで、同じことをへっぽこな士郎にやれと言うに等しかった。

 

「それになぁ、固有結界は優位っぽかったけど、

 金ピカの宝具って、要はコレクションを射ってるだけだよな。

 どの剣も凄かったけど、もっとすごいコレクションがあったりして……」

 

 どうやら悲観主義も伝染していたようである。洞窟では、剣に混じって鎖らしき物が顔を覗かせていた。セイバーの聖剣を超える宝具すらあるかも知れない。

 

 ではどうする? 魔術師らしく、あるところから持ってくればいい。勝てる手段はあるのだから。セイバーの聖剣の鞘、遥か遠き理想郷が。

 

 十年余りも士郎と共に在った、衛宮切嗣の形見。士郎の体内に溶け込み、ずっと士郎を見守っていてくれた。

 

 その想いを、じいさんの娘に返すのだ。じいさんが士郎にくれた愛情の代わりに。だって、たった一人の妹なんだから。

 

 ――家族なんだから。

 

 創造の理念を鑑定し、基本となる骨子を想定し、

構成された材質を複製し、 制作に及ぶ技術を模倣し、

成長に至る経験に共感し、 蓄積された年月を再現し、

あらゆる工程を凌駕し尽くし――――

 

 ここに、幻想を結び鞘と成す――――!

 

 試行錯誤を経て、曙光の中で投影の鞘は形をなした。無駄な手間になることを望みながら、粒子化させてイリヤに託したのだ。世界の修正に影響されない、士郎の投影魔術が可能にした奇蹟であった。

 

「なに!?」

 

 ギルガメッシュと言峰の驚きは、何に向けられたものか。刹那に、複数の動きが交錯した。色合いの異なる青が、黄金と黒衣へ迫る。短剣が空を裂き、真紅の槍が弾き飛ばす。

 

「坊主っ、下がってろ!」

 

 ランサーやセイバーではなく、士郎を狙った投擲だった。足を止め、手を緩めて、防がざるを得ない。

 

「で、でも!」

 

「馬鹿野郎、おまえが死んだら、セイバーも道連れだ」

 

 再び短剣が飛来し、槍が閃く。

 

「そうなりゃ、みんな死ぬ」

 

「わ、わかった」

 

 士郎はじりじりと後ろに下がり、ランサーとセイバーが射線を塞ぐ。ギルガメッシュも剣を飛ばし始め、にわかには近づけなくなった。言峰は洞窟の入口へと後退し、指示を出す。

 

「セイバーの宝具はどうなっている」

 

「ふん……」

 

 ギルガメッシュは、うつ伏せたままのイリヤを、軽く足で突いた。 

 

「今は触れる。魔力切れか」

 

 先ほどは、姿が見えていたのに剣が届かず、触れた感触もなかった。

 

「ならばこちらに連れて来い。まだ早いが仕方がない」

 

 二騎士の後ろで、士郎は歯噛みをした。十年も共に過ごしたとはいえ、やはりアーサー王の鞘は桁外れの宝具だった。真名開放を行うと、どうしても長持ちしない。

 

「構わん。中身はこれから注いでやる」

 

 剣の矢で足止めした面々を嘲笑いながら、ギルガメッシュは優雅に長身を屈めた。

 

「やめろ!」 

 

 士郎の絶叫に構わず、ギルガメッシュは少女に手を伸ばした。その黄金の篭手を、鉛色の腕が阻む。

 

「なに……!?」

 

 腹に響く咆哮と共に、零距離から拳が振るわれた。形容しがたい音がした。頭部を潰される寸前、英雄王も宝剣を応射したのだ。だが、全く通用せずに弾かれた。英雄王ともあろうものが、狂戦士の殴打を、自らの腕で防御することしかできなかった。

 

「ぐぅっ!」

 

 バーサーカーことヘラクレスの腕力は、天球を支えられるほどのものだ。黄金の篭手は紙のごとくひしゃげ、右腕も同じ運命を辿った。そして、痩身が宙に吹っ飛ばされる。

 

「バーサーカーだと!?」

 

 驚きの声を上げたのは、言峰のみだった。ギルガメッシュは地面に叩きつけられ、苦痛に顔を歪めていた。サーヴァントにとって、腕の一本や二本は致命傷ではない。魔力さえあれば再生する。しかし、連戦のせいか傷の治りが遅い。

 

 攻撃が途切れた貴重な一瞬。天上から純白と紫の彗星が急降下し、バーサーカーが抱き上げたイリヤを受け取った。イリヤと入れ替わりに、同乗者が黒髪を靡かせ、身軽に地へと降り立つ。

 

「やぁっと会えたわね。とりあえず、これでも食らいなさい!」

 

 開口一番に、遠坂凛は残る宝石をギルガメッシュ主従へと叩きつけた。

 

Neun(九番),Acht(八番),Sieben(七番)――――!

 Stil,sciest(全財投入),Beschiesen(敵影、 一片、)

 ErscieSsung――!(一塵も残さず……)」 

 

 煌めく万華鏡のように魔術が炸裂した。立ち上った炎が凍結し、氷は雷撃を発して砕け散り、風刃に変じて襲いかかった。サーヴァントをも殺しうる、凛のとっておきだ。

 

 その援護は、プラスにもマイナスにも働いた。止めを刺そうとした青い騎士たちが、顔をひきつらせて飛び退る。

 

「あっぶねえ!」

 

「リン、無茶です!」

 

 ランサーにとっては致死だが、セイバーがキャンセルしてしまっては元も子もない。

 

「ほんのご挨拶よ! ちっ、やっぱり効いてないか」

 

 全属性融合による魔術の嵐を、刃の編隊が突破する。しかし、凛の一撃は、バーサーカーが体勢を立て直す時間を稼いだ。最後に起こった爆風が、迫ってきた鎖を弾いて彼を守る。言峰の短剣を吹き散らし、四次主従の合流も阻んだのだから、儲けのほうが若干大きいか。

 

 守られたバーサーカーは、凛を守るように剣の群れへと立ちはだかった。低く唸り声を上げて、斧剣を一閃。襲い来る宝剣、名剣を叩き伏せた。

 

「馬鹿な……、貴様は斃したはずだ……」

 

「貴様に答える義理はない!」

 

 答えたのはセイバーだ。剣の矢を掻い潜り、英雄王に肉薄する。

 

「ち!」

 

 ひしゃげた篭手を振り落とした右腕は、再生が終わっていない。剣士と切り結べる状況ではなかった。更に後退し、矢の密度を上げる。だが、バーサーカーの前で、藁屑のように散らされた。

 

 衛宮家の攻防では、彼は実力の全てを発揮できなかった。門から玄関までの空間は、バーサーカーが自在に動くにはいかにも狭い。イリヤの策もあったが、彼が本能でマスターを巻き込むことを避けた結果でもある。さっきの鬱憤を晴らすかのように、鉛色の颶風となって荒れ狂う。

 

「謀りおったか。ならば、今度こそ仕留めてやろう!」

 

 ギルガメッシュは、再び真っ向から剣のシャワーを浴びせかけた。バーサーカーは縦横に剣を揮ったが、防御網を掻い潜った一本が、彼の首を半ばまで切断した。血が吹きあがり、大きく開いた傷で首が傾ぐ。

 

「うっ……」

 

 凄惨な光景に凛は口を押さえた。剣と槍の騎士さえ歯を食いしばる。しかし、真に戦慄したのは一瞬の後だった。絶命したはずの巨人がひょいと手を上げ、首の位置を直す。瞬く間に傷が消え、目に光が戻る。そして、なにごともなかったかのように剣戟を再開した。

 

「おいおいおい……」

 

 バーサーカーの背後で奮戦していたランサーは、思わずぼやいた。

 

「殺しても死なないなんざ、反則が過ぎるだろ」

 

 それは居合わせた皆が等しく抱いた感想である。さすがと言うべきか、対峙していた英雄王が真っ先に立ち直った。

 

「それが貴様の宝具か……。よかろう、死ぬまで殺してやる。天の鎖よ!」

 

 英雄王の背から、黒光りする鎖が飛び出した。咄嗟に凛は叫んだ。

 

「バーサーカー、避けて!」

 

 あれは神の眷属に対する絶対の枷だ。ウェイバー・ベルベットのライダーが、敗北するきっかけとなったもの。

 

 だが、凛の警告は一瞬遅かった。巨人の四肢に、首に絡みついて締め上げる。バーサーカーは抵抗しようとした。だが、いかに彼の武勇でも、手足を封じられてはどうしようもない。頸部を締め上げられ、咆哮が細り、立ち消えになる。とどめとばかりに、無数の剣が浮かぶ。

 

「バーサーカー!」

 

 ペガサスの鞍上で、イリヤが悲鳴を上げた。バーサーカーの宝具『十二の試練』は、十一回もの蘇生魔術の重ねがけだ。蘇生するごとに、絶命させた武器への耐性も獲得する鉄壁の防御である。

 

 だが、数多の宝具を所持するギルガメッシュには、十二回殺すのは容易いことだ。

先ほどの襲撃で、約半数の命が奪われている。令呪ももう後がない。

 

 イリヤは叫んだ。

 

「お願い、誰か、バーサーカーを助けて!」

 

 バーサーカーへの命令ではなく、仲間への願いを。

 

「承知!」

 

 イリヤの願いに、銀風が鈴の音を伴って吹き抜けた。

 

「はぁっ!」

 

 抜かれた聖剣が鎖をぶつ切りにし、降り注ぐ剣の矢を弾き飛ばす。

 

「よっしゃ!」

 

 小躍りしたのはランサーだった。彼も神の血を引くため、鎖と相性が悪いと凛に釘を刺されていた。仕方なく後詰めに回っていたのである。

 

「これで俺も槍の揮い甲斐があるってもんだ。

 ――突き穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルク)!」

 

 無数の真紅の稲妻が、剣の雨を迎撃する。宝剣、名剣といえど、面の防御力は盾に劣る。雷のいくつかは、剣の間をすり抜け、英雄王へと到達した。

 

「ぐっ!」

 

 篭手を失った腕を切り裂き、鎧の肩当てに大きな陥没が生まれた。右頬に傷が口を開け、血が流れる。ランサーが舌打ちした。

 

「チッ、外されたか」

 

「おのれ、おのれ! よくも天の鎖を……」

 

「友の名を冠するなら、大事にしまっておくんだな」

 

 ランサーの口調には、少なからぬ同情が篭っていた。

 

「あんな腐れ外道に、よく我慢ができるぜ。

 ま、令呪があるから仕方がねえが、こんな誇りのない真似に使うとは、

 貴様の友は嘆くだろうよ」 

 

「黙れ!」

 

「よっと!」

 

 打ち込まれた剣の群れを、ランサーは身軽に避けた。もう受ける必要がなくなったということだ。庇うべき少年少女らは、広場の隅に避難を終了していた。ライダーと合流した士郎は、天馬の鞍上からイリヤを抱き下ろす。

 

「無事でよかった。イリヤ……」

 

「うん、シロウのおかげよ。でも、こういうお芝居はイヤね。

 本当だったら笑えないって、リズの言うとおりだったわ」

 

 最初に気絶したのは本当だが、士郎が投影した鞘の効果で、イリヤはすぐに意識を取り戻した。狸寝入りをしながら、恐怖と戦い、じっとチャンスを待っていた。

 

***

 襲撃に先駆けて、イリヤは令呪を使っていた。

 

『バーサーカー、わたしが次に名前を呼んだら、霊体化するのよ』

 

 予測が外れたら、貴重な令呪が無駄になるかもしれない。だが、イリヤはアーチャーを信じた。彼の助言によって、バーサーカーの宝具が絶対のものではないと気付かされたのだ。

 

 イリヤが彼に告げたバーサーカーの宝具は『十二の試練』は、蘇生魔術の重ねがけという規格外のものだ。しかも、半神であるヘラクレスを殺せるのは、最高級の神秘を持つ宝具のみ。更には蘇生するごとに、殺された武器に耐性が付くというおまけ付きだ。

 

 サーヴァントが所持する宝具は、通常は多くて三つ程度。たとえ三つ持っていても、全部が最高ということはまずない。バーサーカー以外のサーヴァント全員と戦っても、十二に届かないだろう。想定上は、バーサーカーを殺しきることはできないはずだ。

 

 しかし、アーチャーの意見はイリヤとは異なっていた。

 

『まずいなあ。英雄王の宝具を見たろう。バーサーカーとの相性は最悪だよ』

 

『でもバーサーカーは、ギリシャ神話のヘラクレスなのよ』

 

『それなんだが、ギルガメッシュ王と比べるとまず年代で負けているよ。

 ギリシャ神話は、紀元前千五百年代には成立していたと考えられている。

 一方、ギルガメッシュ叙事詩は、紀元前二千六百年頃のものとされている。

 もっと古いとの説もあるが、少なくともヘラクレスより千年は先輩だ』

 

 年月を経るほどに神秘は勝るという原則からすると、この時点で不利だ。

 

『次に本人たちの神性だ。ヘラクレスはゼウスの息子だ。

 彼の母はペルセウスの娘。要するにゼウスにとっては孫娘だね、

 父系ではゼウスの子、母系ではひ孫ってことだ』

 

 ペルセウスの母ダナエは、ゼウスが見初めたほどの美女だったし、ペルセウスの妻は、神話に名高いアンドロメダだ。娘のアルクメネが美人なのは必然だろう。当然、ゼウスも目をつけたわけだ。実の孫娘に。

 

「……よく考えなくても、ゼウスって最低ね」

 

『いやもう、まったく、下半身に節操のない神様だよね。

 つまり、ヘラクレスに流れる血は八分の五がゼウスのものだ。

 三分の二が神のギルガメッシュはそれを上回る。

 算数だとちょっとの差なんだけれど、パイの分配だと大違いだろう?』

 

『……むー』

 

 イリヤは唸った。エミヤのケーキを後者の率で分けたら、セイバーとタイガが血で血を洗う抗争を起こしそうだ。

 

『そんな相手が、あれだけの数の宝具を持っているんだ。

 最強の矛と最強の盾、どっちが勝つんだという諺があるが、

 人類の戦史上、防具が武器を凌駕したことはない』

 

 アキレスの踵、ジークフリートの背中。どんな防具を持とうとも、一つでも弱点があるなら人は人を殺せる。セイバーの不死の加護の鞘とて、諍いをした義姉に盗まれ、カムランの丘で敗北することになったではないか。

 

『どうすればいいの!?』

 

『まず確認したいんだが、バーサーカーは死んでも、十一回は復活するんだね?』

 

『うん』

 

『では、蘇生にかかる時間はどのくらいなんだろう』

 

『すぐよ。一分か二分くらいだと思うわ』

 

『そいつは困ったなあ。人、いや君を殺すには、ほんの一瞬で充分なんだよ』

 

 蘇生するといっても、イリヤが無防備になる時間はできる。

そこでイリヤが殺されてしまえば、バーサーカーの蘇生能力は意味をなさなくなる。

 

『大丈夫よ。器を手に入れるまでは、わたしを殺せないんだもの』

 

『なるほど、普通の参加者ならそうかもしれない。

 だが、連中は器のありかを知ってる』

 

『もう、アーチャーのいじわる! どうすればいいの!?』

 

『とりあえず、死んだふりをしたらどうだろう』

 

「え?」

 

 アーチャーの奇想天外な発想に、イリヤは呆気に取られてしまった。

 

『奴さんたちは、バーサーカーの宝具を知る機会はないんだろう?

 君たちはランサー以外と戦ってないし、

 ランサーは小手調べで撤退したと聞いたよ』

 

『ランサーったら負け惜しみね。全然勝ち目がなかったんだから』

 

『いやあ、そりゃ私だって逃げるよ。

 なかなか殺せないうえ、生き返るなんて反則だ。

 ま、これは幽霊の戦争だから、今さらかも知れないがね。

 それでも命は一つってのが常識だろうに』

 

 その常識、もしくは先入観を利用するのだとアーチゃーは言った。

 

『死んだふりをして、蘇生のタイミングをずらし、

 反撃のチャンスを待つ。

 彼らも、空の器を手に入れて終わるつもりはないだろう。

 中身だって欲しいに決まっている。

 せっかく中身が入った器を、壊すことはしないと思う』

 

 イリヤはぞくりとした。アーチャーは、バーサーカーの死によって、器としてのイリヤの価値が高まると言っているのだ。

 

『バーサーカーが死んだら、残りは六騎。

 前回はお母さんが誘拐された時点で、三騎が脱落している。

 早い段階で君が死んでしまっても、

 器として機能するのか、判断材料にならないんだよ。

 だから、なるべく生かして攫おうとするだろう。

 嫌な言い方だが、殺すのはいつでもできるからね。

 それに、士郎君たちへの人質にもなる』

 

 無言のイリヤに、アーチャーは言葉を続けた。

 

『そんなことがないのが一番いいが、襲撃に備えは必要だ。

 その上で、イリヤ君は冷静になること。

 バーサーカーの致命傷を数えて、死んだふりをさせ、

 反撃のタイミングを計らねばならない。

 難しいし危険だが、そのためには準備や協力を惜しまないよ』

 

***

 それがここに結実した。抱き合う士郎とイリヤに、馬上のライダーが眼帯の下で目を細めた。

 

「……きょうだいとはよいものですね。姉様たちを思い出します」

 

 天馬が小さくいなないた。ここまで流れてきた剣を、はためく翼の風が逸らす。

 

「ふふ、そうですね。可愛い私の仔。

 リンはサクラの姉で、シロウは兄貴分でしたね」

 

 そこでライダーは首を傾げた。

 

「では、シロウの義理の妹は、

 サクラにとってはどうなるのでしょうか……?」

 

 再び天馬がいななく。

 

「みんなで帰ってから、サクラに聞いてみましょうか」 

 

 この夜を越えて、平穏な日常の中へ帰りたい。自分に叶えられなかった願いを、サクラとサクラが愛する者たちへ。メドゥーサの願いには、地母神の慈愛が込められていた。

 



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87:女優登場

 ギルガメッシュは後退を余儀なくされていた。いつしか、背後に洞窟の入口が迫る。彼のマスターに至っては、入口の壁で身を支えていた。無表情に右腕を押さえている。闇に紛れても、はっきりと顔色が悪くなっているのを、凛は見て取った。

 

 成功したのだ。この数日、苦心惨憺して考え抜いた魔術が。それは、苦みを伴う成功でもあった。

 

「――降伏しなさい、綺礼」

 

 夜の底に、澄んだ声が響く。

 

「サーヴァントとの契約を破棄し、リタイヤしなさい。

 監視役が機能していないから、代わりに警察に自首してちょうだい。

 魔術協会や聖堂教会の粛清よりはましでしょう」

  

 凛の勧告にも、言峰は悠然たる様子を崩さなかった。

 

「私の罪だと?」

 

「教会の子どもたちの監禁と虐待よ。あとは、お父様の殺人容疑」

 

「ほう、おまえも衛宮士郎のように私を疑うのか?」

 

 翡翠の瞳が冷気が降りた。

 

「ええ、疑ってた。今ので決定的になったわ。

 どう? 私なりに再現した、衛宮切嗣の魔術は。ちょっと、アレンジしてあるけど」

 

「――なに?」

 

 言峰主従のラインに、キャスターが掛けておいた魔術。凛はそれを利用して、英雄王を介して、言峰への攻撃を試みたのだった。

 

 狙いは委託令呪の排除だ。他者から入手した令呪は、本人の魔術回路から独立している。英雄王本来の令呪と、若干の違いはあるだろう。凛とキャスターはそう推測した。

 

 間桐の文献を引っくり返し、時計塔の講師に情報をせっついて、神代の魔女が監修を加えた。使用できる触媒(宝石)の数を考えると、心臓の再生よりも難しい。

 

 ぶっつけ本番。だが、凛は、アーチャーに相応しいマスターなのだ。才能に加えて、強運と勝負強さを併せ持っている。術は見事に成功し、狙いどおり標的を射抜いた。

 

 英雄王への一撃は、ラインを伝って言峰に襲い掛かり、彼が励起した魔力回路とは独立した委託令呪を削り取った。

 

 いけ好かない鉄面皮が、一瞬だけ驚愕に歪み、すぐに無表情に戻った。だが、凛にはそれで充分だった。

 

「英雄王はたしかに失敗してはいないわ。

 そいつとセイバーが戦っていた時、

 お父様と衛宮切嗣は戦ってなんかいないんだから」

 

 セイバーが答えるよりも早く、言峰が疑問の声を上げた。

 

「セイバーの言を、どうしておまえが知っている?」

 

 ギルガメッシュが激発した時、凛はまだ到着していない。凛の指が両耳に触れ、小型のイヤホンを外す。

 

「……ふむ、そういうことか」

 

「ええ、そういうことよ。こういううやり方も真似てみたわ。

 エルメロイ二世から伺ってね」

 

「エルメロイだと?」

 

 予想外の人名に、言峰は表情を改めた。

 

「その男は、衛宮切嗣が殺したランサーのマスターだ」

 

「そっちは一世。二世はライダーのマスターのほうよ。

 さすがに覚えてるでしょ、英雄王さん。

 彼もね、今は時計塔の講師なの」

 

 凛は、コートのポケットから、警察のお知らせを取り出した。紙を広げ、女性の似顔絵を二人に向ける。

 

「これを送ってたら、上から対応役を押し付けられたんですって。

 でも、色々と教えて下さったわ。

 アサシン、キャスター、ランサーの脱落後に、

 征服王と英雄王が戦った時、お父様の姿は見ていないって」

 

 冷え冷えとした視線が、ギルガメッシュに向けられた。

 

「嘘じゃないと思うわ。

 セイバーも、あなたが誰のサーヴァントか知らなかったもの。

 単独行動スキルを活かす戦術だけど、

 そうすると辻褄が合わなくなる」

 

 赤いコートが地に落ちた。凛が脱ぎ捨てたのだ。実に自然で優雅な所作で、敵の視線も釘付けにする。凛は、セーターの左袖をまくり上げた。

 

 現れたのは、抜けるように白い肌だった。セーターの袖の赤、魔術刻印の蒼白い線画。どこか例の万暦赤絵にも似ている、遠坂家五代の魔道の結晶。

 

「どうして、これがわたしに伝わったのか。

 あなたとセイバーの戦いの直後に、あの一帯は大火災に見舞われた。

 お父様がその時に死んでいたら、遺体は焼けてしまったでしょう。

 この魔術刻印だって、継承できなかった」

 

「何が言いたい?」

 

 思いがけない切り口が、ギルガメッシュの手を止めさせた。

 

「セイバーがあなたと戦っていた間、マスター同士も戦ってたとわたしは思ってる。

 お父様が負けて死んでしまったなら、誰が遺体を回収してくれたの?

 五百人も亡くなって、一キロ四方が焼け野原になった火元から!」

 

 ギルガメッシュは呆れ顔になった。

 

「なに今さら……詮無きことだ」

 

 凛が話す間にも傷は癒え、再び財宝の門を開こうとしていた彼を言峰は制した。

 

「待て、ギルガメッシュ。言わせてみろ」

 

「綺礼、お父様と一緒に士郎のお父さんと戦ってた?」

 

 言峰は肩を竦めた。

 

「私が何か言ったところで、おまえは信じるのか?

 おまえの考えはどうだ、凛?」

 

「あんたとお父様が共闘してたら、死んでるのは衛宮切嗣よ。

 セイバーの鞘の加護があったとしても」

 

 凛は、士郎の怪我を思い返して語った。バーサーカーに負わされた傷が、瞬く間に治癒した士郎だが、弓道部のいざこざの元になった怪我は、治るまでに相応の日数がかかったそうだ。鞘の加護の発現には、セイバーの現界が必要条件だということだろう。

 

 そして、バーサーカーが負わせたのは瀕死の重傷ではあったが、人体が原型を留めなくなるようなものではなかった。――だが。

 

「真名開放をしないと、傷は負うのよ。

 相手が銃使いなら、きっとお父様は初手から大魔術を使う。

 あんたがサポートしてたら、魔術が直撃してるわ」

 

 衛宮切嗣が使う銃よりも、魔術は速度で劣る。しかし誰かの、例えば腕利きの元代行者の援護があれば、その差は簡単に覆る。対人戦闘における二対一の差は、それほどに大きい。

 

「全身が粉々になって、再生できるとは思えない。

 あんたの攻撃なら、復活できなくははなさそうだけど、

 それでも二度目の蘇生は無理ね。

 どっちかが止めを刺すでしょうから」

 

 言峰は反論しなかった。

 

「それに疑似的な不死は、セイバーがいなくなれば消えるんだわ。

 だって、士郎のお父さん、五年前に亡くなっているんだもの」

 

 士郎は拳を握りしめ、イリヤがその手をそっと包む。

 

「マスターとサーヴァント、二組の戦いがあったのはほぼ同時刻。

 セイバーの戦闘中に、衛宮切嗣は令呪で聖杯を破壊させてる。

 直後にセイバーは消滅した。合ってるかしら?」

 

 セイバーは唇を引き結び、頷いた。  

 

「彼が士郎を助けたのは、その直後よ。

 鞘の加護が消えるまでの、ほんの短い間だわ」

 

 ランサーが士郎と凛に交互に目を向け、得たりとばかりに頷いた。

 

「なるほど、そいつが坊主に古傷がねえ理由だな」

 

「でも、最大の疑問は残ったままよ。

 衛宮切嗣が、わたしの父と綺礼、二人を相手にどうやって生き残ったのか。

 ……二人とは(・・)戦っていないからよ。 

 生き残ったのは彼だけど、負けたのはお父様じゃないわ」

 

 凛は右手を持ち上げた。ほっそりとした指が前方の一点を指す。

 

「彼に負けたのはあんたよ、綺礼。

 お父様は、ライダーやセイバーと顔を合わせていない。

 アサシンはライダーが、キャスターは、セイバーたちみんなで斃してる。

 ランサーのマスターは、衛宮切嗣が殺した」

 

 士郎とイリヤは、いつしか手を握り合い、凛の糾弾に聞き入っていた。

 

「エルメロイ二世から聞いたのよ。死因は銃殺だったって。

 でも、魔術回路や刻印まで破壊されてたそうよ。

 きっと、銃が衛宮切嗣の礼装だったんだろうとおっしゃっていたわ。

 魔術回路や刻印を損なう効果がある、ね」

 

 凛はそれを再現した。父から受け継いだ刻印と、自身の才はもちろん、先達たちの知識と情報抜きには不可能だっただろう。

 

「衛宮切嗣に負けて死んでいたら、この刻印は継げなかった。

 お父様を殺したのは、衛宮切嗣じゃないわ」

 

「……ほう」

 

 言峰の声が更に低められた。

 

「衛宮切嗣と戦ったのは、アーチャーのマスターだけれど、遠坂時臣とじゃなかった」

 

「たしかに今は私のサーヴァントだが、それを以って結論を出すのは早計だな。

 いま一騎、バーサーカーの可能性はどうだね?」

 

 もってまわった台詞に、凛は片眉を上げた。

 

「へえ、バーサーカーねえ……」

 

「彼だけはあり得ません」

 

 セイバーが言下に否定した。

 

「彼は私と全力で戦い、魔力切れで消滅しました。

 アーチャーと戦っても、同様の結果だったでしょう。

 私より先に戦っていたら、私と戦いようもない」

 

 セイバーの体感時間で、まだ一月も経っていない痛みの記憶。最も信頼し、だが裏切った湖の騎士。サーヴァントとして召喚された彼は、心を捨てた狂戦士となって、

セイバーに再び剣を向けた。あの絶望と衝撃を前に、考えることもできなかった。

 

――だが、今は。

 

「私との戦いの後なら、なおのこと不可能です。

 バーサーカーを失って、どうして英雄王に守られた者を殺せるのです!」

 

 彼女が手にする、聖剣のごとき一刀両断であった。

 

 凛はギルガメッシュをひたと見据えた。

 

「だ、そうよ。

 バーサーカー主従が犯人なら、あんたは救いようのない間抜けってことね」

 

「……貴様、我が間抜けだと!?」

 

 眦を引きつらせるギルガメッシュを意地悪く観察しつつ、凛は続けた。

 

「あら、それ以外に聞こえたかしら?」

 

 この問いは、実のところ逆効果でしかなかった。凛たちは、前回の参加者から複数の証言を得ることができたからだ。犯人探しには、消去法を使うのが効果的だ。

 

 話を聞いて、アーチャーが最初に容疑者から外したのはライダー主従。次がバーサーカー主従であった。

 

「でも、無能者のほうが裏切り者よりはましだわ。

 お父様が亡くなったのに、あんたがこうしてここにいること。

 この刻印が、わたしにきちんと受け継がれたこと」

 

 この腕に宿る、遠坂時臣の最高の遺産。

 

「どちらもお父様が市民ホールで戦わなかった証拠よ。

 お父様は、もっと前に亡くなってたのね。

 たぶん、ライダー戦の前には」

 

 アーチャーと凛は情報の断片を集め、丹念に繋いで、過去を読み解いたのだ。

 

「色々な情報を繋ぐと、そういうことになる。

 だから、お父様を殺して、英雄王と再契約できるチャンスがあるのは、

 ……言峰綺礼、あんただけなのよ!」

 

「――見事なものだ。

 魔術師ではなく、まるで探偵だな。だが、それが今さら何になる?」

 

 凛は、兄弟子であり、後見人であった男に目をやった。彼の顔ではなく、足元に目を落として、もう一度降伏を勧告する。

 

「あんたに、裁きを受けさせることはできるわ。

 さっきも言ったけれど、英雄王を自害させて、警察に自首してもらえない?」

 

 言峰は失笑した。

 

「おまえらしくないな、凛。

 仇を前にしたら、復讐を考えるのがおまえだろうに」

 

 凛はさらに俯いた。暴れ狂う内心を押さえながら、声を絞り出す。

 

「あんたには、わたし以外にも償うべき相手がいる。

 ……この十年、あんたにはそれなりに世話になったわね。

 あんたのお陰だけじゃないけど、わたしは決して不幸じゃなかった」

 

 誕生日に繰り返して贈られる、同じデザインの、ぴったりサイズの合った服。どんな成績を取ろうが無関心なくせに、きちんと納められる学費。後見人の義務を果たしているだけかもしれない。だが実の親といえども、心を壊した葵には出来なかったことだった。

 

 凛は勢いよく顔を上げた。

 

「それと同じ間、あの子たちはどんな目に遭ってた?

 そう考えると堪らなくなるの」

 

 ――戦いを重ね、勝ち進むたびに、増えていく敵味方の死者。死者に数倍するだろう遺族の悲嘆。寝付けぬ夜が続き、紅茶とブランデーの割合が徐々に逆転していく。

 

 凛が夢で垣間見た、アーチャーのもう一つの戦いだった。人の心を誰よりも読み解けるからこそ、誰よりも強く、多くの人を殺せる。

 

 ずっとささやかだけれど、凛は彼と同じジレンマを味わった。第四次聖杯戦争の謎に迫るために、死者に問いかけては、自らの思考で内側から突き刺されるのだ。

 

「あんたを殺したら、あんたの家族もわたしに同じことを思うでしょう。

 そんなの真っ平よ!」

 

「……なるほど、おまえの言い分は理解した。だが、我々がそれに従うと思うかね?」

 

「思わないわ。だから、そうしたほうがいい状況を作ることにしたの。

 あんたたちの行動が読めるなら、先回りなんて簡単だと思わない?」

 

 凛は、耳から抜いたイヤホンのコードをくるくると回した。

 

 言峰は眉を顰めた。学校に行くふりをした士郎たちには、充分な時間があった。たしかに、盗聴器の設置もできたろう。言峰らを呼び止めたのが、盗聴器を仕掛けた地点だったのだ。

 

 奇術師が、客の選ぶカードを巧みにコントロールするようなものだ。現代戦に適応し、精通した、衛宮切嗣を思わせる戦法だった。

 

 だが、実子の魔術師にも、養子の高校生にも出来るとは思えない。可能な者がいるとすれば……。

 

 言峰は左右に目を走らせた。いるべき者がいない。

 

「凛、おまえのアーチャーはどうした」

 

 桜色の唇が、上弦の月を形作る。

 

「なんのための単独行動スキルだと思ってるの?

 朝からここにいたのは、士郎たちだけじゃないわ」

 

 細く形のよい顎が言峰を指した。

 

「というか、あんたたちをここに来るようにしたのよ」

 

 いや、正しくは言峰の背後。闇の奥にある大聖杯。言峰は肩を揺らし、低く笑い声を上げた。

 

「ほう、なかなか威勢がいいな。ハッタリだとしても立派なものだ」

 

 聖杯に蟠る黒い泥は、サーヴァントにとって致死の毒。 

 

「おまえのアーチャーは、たしかに賢い男だ。

 この前の戦いで、それぐらいは見抜いているだろう。

 わざわざ危険を冒すとは思えんのだよ」

 

 凛は髪を掻き上げ、艶然と微笑んだ。

 

「あら、信じないわけ? ま、無理もないわよね。

 あんたたちを追い詰めてるのは、わたしたちより警察だものね」

 

 ギルガメッシュの眉が吊り上がったが、凛は無視して続けた。これはマスター同士の交渉だ。兄弟子の力量を凛はよく知っている。魔力の量は魔術師としては平均的。亡き父に及んでいない。その父が呼んだ英雄王を、委託令呪ぬきで使役し、戦い続けるのはもう限界だろう。

 

「でもね、わたしのアーチャーはあんたの言うとおり賢いの。

 だから生前の反省点を改善するわけなのよ」

 

 長い睫毛の下で、翡翠が意味ありげに煌めいた。

 

「……どういう意味だ、凛」

 

「アーチャーに言わせると、いくら戦場で勝ってても、

 最重要拠点を落とされたら負けなんですって。

 あいつの国は、戦力が足りなかったからそれで負けたの。

 敵国の親玉を叩きのめす寸前に、その部下に首都を攻められたってね」

 

 凛は飛び切り人の悪い笑みを浮かべた。

 

「今はせっかく人手があるから、自分でやってみたいんですって」



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88:不敗の魔術師

「大聖杯を落とすとは、また大きく出たものだ」

 

 凛は、完璧な笑みを浮かべた。

 

「あら、教会であいつが最初に言ったでしょう。

 わたしとイリヤ、士郎で協力して、聖杯に不備がないか調べたいって。

 その目的に変わりはないわ。

 あんたたちとの対決だって、大聖杯へのコンタクトを邪魔されないためよ」

 

 凛たちの一連の動きは、アーチャーに大聖杯を獲らせるための作戦だ。凛の大言壮語を要約するとそうなる。イリヤを狙わせることで、言峰主従が確実に大聖杯から離れる時間を作り出す。この一戦はイリヤの奪回に非ず、大聖杯を獲得のための遅延が目的だと。

 

 虚勢としか思えなかった。

 

「――あれにはこの世全ての悪がいる。サーヴァントを汚染する悪性の塊だ。

 おまえのアーチャーに耐えられるものではないぞ」

 

「わたしはそうは思わない。あいつ、ああ見えてかなりの悪なのよ。

 なにしろ、アスターテの英雄ですもの」

 

 ギルガメッシュが眉を顰めた。

 

「そのような二つ名、聞いたこともないわ!

 あの道化師は何者だ!?」

 

 鋭い詰問にも動じることなく、凛は悠然と頷いた。

 

「ええ、知らないのは当然よ。

 わたしのアーチャーは未来の英雄だから。というか、並行世界の異星人なのよ」

 

「……ふざけたことを」

 

「本当よ。真名はヤン・ウェンリー。

 知ってる? 同姓同名の英雄はいないと思うけど」

 

 ギルガメッシュは眉を顰めた。聖杯が答えを返さない。 

 

「あいつはね、二百五十億人から敵として畏怖された人間よ。

 たったの一個艦隊で、母国の希望を一身に背負って戦って、決して負けなかった。

 だから戦争に負けたら母国から邪魔にされて、その国を滅ぼす原因になったの」

 

 救国の名将が、亡国の敗将となるのは、歴史上珍しいことではない。だが戦勝国の皇帝が認めるほどの強さが、彼に数奇な運命を歩ませることになる。

 

「百三十億の国家でも、滅びる時は滅びるのね。

 結局、世界の九割を相手にして戦ったわ。

 それでもあいつは負けなかった。『不敗』『奇蹟』もあいつの異称よ」

 

 そうまでしても、彼は思想を守ろうとした。人が平等に、幸福に生きるため、自由を認める民主主義を。彼に従った軍勢はたったの三百万人だが、その死は数億人を覚醒させ、未来に余波を広げていったと、エミヤに聞かされた。

 

「まあ、結局死んじゃったから、ここにいるわけだけど。

 それは千六百年後、地球から七千光年離れた宇宙の出来事」

 

「は?」

 

 荒唐無稽な話に、さすがの言峰主従も呆気に取られた。

 

「その時代は、恐怖政治や戦争が長く続いてて、ずいぶんと人口が減っていたそうよ。

 それでも直径一万光年に、四百億人が住んでたそうだから、

 なかなかすごい知名度じゃない?」

 

 サーヴァントは、本人の実力以外にも、概念が武器になる場合がある。ライダー・メドゥーサが、自分の死後に生まれた天馬に乗り、キャスター・メディアが裏切りの概念を短剣として揮うぐらいだ。

 

 伝説による過大解釈が許されるのなら、彼の言葉に触れ、夢を垣間見た凛だけは、信じて誇ってやろう。たった一人、でも唯一のマスターの信頼。きっとアーチャーの力になるはずだ。

 

「あいつがいる未来は、今は存在しない。

 あいつは、自分の世界の過去をわたしたちが再現しないように願ってる。

 でも、あいつが、百三十億の味方の希望を背負い、

 二百五十億に敵として畏怖された。それは本当なのよ」

 

 胸を張る凛に、言峰は熱のない口調で反問する。

 

「ふむ、妄想としか思えんな。おまえは信じるのかね、凛?」 

 

「ええ。信じないのも、あんたの自由ですものね。

 でもね、英雄王さん、アスターテって聞き覚えがあるんじゃないかしら?」

 

 黄金の眉が神経質に引き攣った。彼が敵対した女神イシュタルが、フェニキア神話に引き継がれた。金星の女神アスターテ。後年台頭したキリスト教には、悪魔アスタロトと呼ばれる存在である。

 

 キリスト教の勢力が強まるにつれて、イシュタルは敵として強大化していく。神たる太陽に背く明けの明星。アダムとイヴを誘惑した知恵ある蛇。堕天使ルシファー、悪魔サタンにまで変貌するのだ。

 

 アーチャーは彼女の僕だった。互いに尾を食む蛇(ウロボロス)と化して敵を退け、その腕に竜を宿して、星空を翔け抜けた。

 

「わたしのアーチャーは、叛逆の星の女神に愛されてるの。

 友と鎖を失ったあんたに勝てるかしらね」

 

「言わせておけば……」

 

 剣を動かしかけたギルガメッシュを、言峰は制した。

 

「まあ、待て。妄想や啖呵としては面白い。

 おまえの口が悪くなったのが、あの男のせいならば嘆かわしいがな」

 

「ふん、言ってなさいよ」

 

 この男を父の仇と憎んだこともあった。だが、復讐する価値もない。この男にとっての世界は、自分の中で閉じている。

 

「わたしはこの十年で、小学生から高校生になったわ。

 あんたたちが虐げてた子にも同じ権利があったのに。

 ねえ、英雄王。あの子たちの命を搾り取って、この十年何をしていたの?」

 

「王が貢物を受けるは当然よ。

 我が何をしようと、貴様に関係がなかろう」

 

 歯牙にも掛けないギルガメッシュに、凛は冷たく言い捨てた。

 

「関係ならあるわ。

 わたしには冬木の管理者として、霊地の平穏を守る義務がある。

 あんたたちが裏切者であろうとなかろうと、とっくにわたしの敵なのよ」

 

「我を敵と言うか、時臣の娘よ。

 ならば、敵として振舞うとしよう」

 

 宝剣が空を裂く。身を固くした凛の眼前で、聖剣と魔槍、斧剣が一閃した。バーサーカーが咆哮を上げ、セイバーとランサーは英雄王に白眼を向ける。

 

「堕ちたものだな、英雄王が」

 

「セイバーよ、その呼び名は今のこいつには相応しくねえ。

 奴隷商人か牢名主が精々だろうよ」

 

「ランサー、どこでそんな言葉を覚えたのですか!?」

 

「ん? ちっこい嬢ちゃんが見てたテレビ」

 

 セイバーはイリヤに目をやった。ルビーがさりげなく逸らされる。後でセラに報告しなくては。メイドとしての使命感がよぎるセイバーである。そのためにも、ここからみんなで帰らなくてはならない。最後の仕上げは、凛とアーチャーにかかっていた。

 

「アーチャーは『この世全ての悪』になんか負けないわ。

 だって、あいつは『不敗の魔術師』なんだから!」

 

 凛の宣言と同時に、洞窟の奥から空気が動いた。淀んだ気配が凝り、集中していく。ギルガメッシュは無言で身を翻し、洞窟の奥へと疾駆した。

 

「待て!」

 

 しかし、言峰も後に続くしかなかった。彼ら主従は、最強のマスターとサーヴァントと言ってよい。連携することによって、特に力を増す。だが、言峰のみでは、最弱のサーヴァントにも勝てぬ。まして、牙を剥き出し、槍を構えた猛犬には。

 

 二人の走力にとって、大聖杯までの道程は短いものだった。

 

 大聖杯中央の巨大な石筍の前に、黒髪のサーヴァントが行儀悪く座っていた。周囲を満たしていた黒い泥が消え、彼は柔らかな声で誰かと語っている。

 

「『この世全ての悪』……?」

 

 アーチャーは苦笑した。収まりのわるい髪をかき回す。

 

「私は、そんなに都合のいいものはないと思うんだがねえ……。

 善神アフラ・マズダーも、インドでは悪神アスラ。

 悪魔アンリ・マユは、インドの神ディーバの一人。

 とても強い戦士が、両方の国にいたのではないかな。

 君の国の戦士は神格化され、インドの戦士は悪にされたってところだろうか」

 

 大聖杯のある空間は、発光性の苔がわずかな光を放っている。元代行者やサーヴァントにとっては、充分な明るさだった。黒い軍服の袖に、同色の何かが抱かれている。小さな子どもの大きさと形をした……。

 

 その影がぷいと顔を背けた。

 

「人間ってのはそういうものなのさ。

 紀元前から今までもそうだし、私の時代もそんなに変わりゃしない。

 私も君と一緒だからね」

 

 背けた顔が、アーチャーに向けられ、穴が開きそうなほど凝視しているように見えた。影に目はなかったが。

 

「――だが、どんな美辞麗句を連ねたところで、

 私が人殺しだということに変わりはない。

 君も、前回の聖杯戦争でそうなってしまった。

 不可抗力ではあるんだろう。

 だが、制御できないエネルギーは、人間には脅威なんだよ」

 

 影が言葉らしきものを発した。

 

『セイハイ……ネガウ……』

 

「その聖杯も、君がいたら君の色に染まってしまうだろう。

 それでまた災害が起きたり、

 たちの悪いサーヴァントが残ってしまったら元も子もないじゃないか」

 

『……オマエ、ノコル?』

 

 黒い瞳をまぶたが半分に区切った。

 

「私が、たちが悪いって?

 こんな善人をつかまえて、そりゃあんまりだろう」

 

 影がケタケタと笑い声を上げた。

 

「私にそのつもりはないよ。

 仰せのとおり、私の存在は害にしかならない。

 それが嫌なのは、君には判るよね」

 

 笑い声が消え、影の動きが止まった。ややあって、小さく頷く。 

 

「だから、私と一緒に帰ろう」

 

 何とも優しい笑みを浮かべ、軍人らしくない白い手が影の頭を撫でた。『この世全ての悪』は、ヤンを取り込もうとした。しかし、『この世全ての悪』は、地球上の一地方で信仰された神だ。

 

 地球を遠く離れ、宗教がほとんど消え失せた時代のヤンに、神への本能的な恐怖がないのが幸いしたのだろう。

 

 また、ライダーがせっせと地脈を涸らしたのも決して無関係ではなかろう。アンリ・マユは、古代ペルシアのゾロアスター教の悪神。

 

 一方、メドゥーサはペルセウスに討伐された。ペルセウスの息子、ペルセースはペルシア王家の祖とされている。つまり、両者はペルシア帝国の敵同士だ。

 

 共通する概念を纏ったものからの、一種のメッセージ。施術のポイントは、冬木の大地にやや歪な五稜星を描いていた。

 

 それに興味を惹かれたのか、泥はヤンを取り込むよりも対話を選んでくれた。漠たる概念ではなく、意思らしきものがあるならしめたものだ。

 

 ヤン・ウェンリーの人格汚染力、もとい、人格影響力には恐るべきものがあるのだ。

 

「君が力を貸してくれたら、私も宝具を使えるようになるから」 

 

 影が再び頷いた。今度は大きく、何度も。

 

 そして、黒い軍服の胸元に消えてゆく。呼応するかのように、左胸のオレンジの徽章が輝いた。

 

***

 

 洞窟に響く足音に、黒髪のアーチャーは視線を向けた。軽く溜息を吐き、くしゃりと髪をかき混ぜる。

 

「やれやれ、あれだけ準備したのにおいでなすったか……。

 ここでも、辺塞寧日なく、北地春光遅しだね」

 

 言峰綺礼は愕然としていた。よっこらせと言いながら立ち上がったアーチャーは、

相も変わらず隙だらけで、非力そうなままだ。魔力に満ちた聖杯の泥を飲み込んだのに、あのエネルギーはどこへ行ってしまったのだ。

 

「あれは、自我も形も持たぬ泥だ。なぜ貴様と……」

 

 アーチャーは小さく傾げた。

 

「そこに矛盾があると思いませんか?

 彼は『この世全ての悪』として、聖杯に巣食っていた。

 しかし、悪は善なくしては成立せず、それを判断するのは人間のみです。

 つまり、他者からの認識は受け取っていたことになる。

 現に、他者を取り込もうという欲求は見受けられましたから」

 

「――ほう、貴様が『この世全ての悪』の代弁者となったか」

 

 言峰に好奇心が湧いた。これは『この世すべての悪』を飲み込んだ。いったい、何を話すのか。ギルガメッシュを後ろ手に制し、言葉を目で促す。

 

「いや別に、そういうわけでは……。

 なんらかの意志があるなら、コンタクトが取れるかも知れないと思っただけです。

 彼も元々はサーヴァント、いや、人間だった」

 

 絶対の善または悪。そんなものはこの世のどこにもないとヤンは思っている。

 

「彼だって、最初からあの泥ではなかったはずだ。

 人として生き、喜怒哀楽を持ち、死を迎えたのだと思った。

 そこに、私となんら違いはないんですよ」 

 

 とりあえず、ヤンは話しかけてみたが、なかなか一筋縄ではいかなかった。

 

「危うく取り込まれそうになりましたがね。

 ああ、こりゃまずいと思ったら、

 おぼろげながら意志を持つ存在が触れてきた」

 

 ヤンは目を伏せた。

 

「あの日に失われた、士郎君の心の一部のようでした。

 いや、本当はそうではないかもしれないが、私にはそう思えた。

 私は咄嗟に彼に語りかけた。彼は耳を傾けてくれた」

 

 心の片隅で、いざとなったら凛に令呪を使ってもらい、宝具を出して、動力源に突っ込もうかと思っていたことは、ここで語る必要はないだろう。

 

「きっと、彼も孤独だったのでしょう。

 ここは暗くて狭くて、語らう相手もいない。

 ……だから、士郎君の心の残渣を元に、形を成したのでしょうね。

 泥のままでは、耳や口がありませんから」

 

 あの影は、ヤンが想像した、災害当時の士郎を形どった。その小ささが、ヤンの心に痛みを与えた。あんな小さな体で、ひたすら逃げて、自分を生かすだけで精一杯だっただろう。他人には、決して彼を責めることはできない。

 

 しかし、彼は今も自分を責め続けている。それは、救えなかった人、失ってしまった人への愛情の裏返しだ。

 

 士郎は本当は忘れてはいない。箱の蓋を閉じても、ありかは覚えている。いつか蓋を開き、悲しみと真っ向から対決することで、失くした自分や家族を取り戻すことを願った。

 

 死者は二度と還らないが、生きているなら、新たに愛する者を得ることはできるのだから。

 

 影は、そんなヤンの思惟に興味を示した。彼も、きっと家族を失った存在だったのだろう。血を分けた者を、『この世全ての悪』の形代にしたい人間がいるものか。愛情のみの問題ではない。『この世全ての悪』の家族として、差別や偏見を受けるに決まっている。

 

「それから、色々な話をしました。

 私たちは、ここにいるべきではない死者です。

 一緒に帰ろうと誘ったんです」

 

 言峰は鼻を鳴らした。

 

「帰るだと? 座にか?」

 

「まあ、座というか、いわゆる死者の世界になるのかな。

 どこかに、彼の家族が待っているかも知れない。

 私が最後に聞いたのは、名を呼ぶ懐かしい声でしたから」

 

 ヤンではなく、ウェンリー。亡くした家族以外からは、呼ばれなくなったファーストネーム。

 

「生きている時は、死後の世界なんて信じなかったが、

 ああいうことがあると、いるんじゃないかと思うんですよ」

 

 死者の語る経験に、生者は答えようもない。だから、口に出したのはアーチャーの見解への感想だった。

 

「……つまらんな。貴様という殻を得た泥が、どんな悪を語るかと期待していたのだが。

 存外に人間らしいことを言う」

 

 アーチャーは肩を竦めた。

 

「そりゃ、私は元々が人間ですからね。

 それ以外の物にはなりようがありません」

 

 味方の生の反対に敵の死があるように、人の善悪は複雑に絡み合って分かち難い。だからこそ、善悪二元論の宗教が生まれたとも、ヤンには思えてくる。自らを善、敵を悪と割り切れたら、こんなに楽なことはないのだ。

 

「彼は、そういう人の業の象徴だと思います。

 彼も間違いなく人間だった。……私と何も違わない」

 

 味方の生の反対に、敵に死者が生まれる。母国で名将と讃えられ、敵国には悪魔のごとく恐れられる。 ヤンには、よく覚えがあった。

 

 言峰は落胆した。このアーチャーは、自らの悪行を自覚している。だが、そこに狂気も歓喜もない。ただただ冷静で理性的で、言峰が望んだ悪の象徴の発露ではなかった。

 

「……泥で狂わぬとは、貴様はたしかに巨大な存在なのかもしれん。

 しかし、あの泥のほうが遥かに面白かった。

 『殻』を壊せば、元に戻るか」

 

 アーチャーは応えず、微かに表情を強張らた。それこそが最も雄弁な肯定だった。

 

「いや、貴様を殺せば、聖杯の器も満たされるな。

 凛の言葉が妄想ではないなら、貴様の方が巨大な悪なのだろう?」

 

 言峰はギルガメッシュに頷いてみせた。

 

「悪いが、おまえの我儘を聞いてはやれん。――殺せ」 

 

「仕方がない。貴様は最後に殺すつもりだったが」

 

 英雄王は、左手で剣を抜き放った。この男を殺すには、それで充分だ。剣の矢を飛ばす余力が惜しい。

 

 秘蔵の絢爛たる鎧は、そこここが破損し、整えていた髪も崩れている。バーサーカーとランサーに傷つけられた右腕と肩、顔の傷もまだ癒えていない。泥が消えた今、攻め込まれては不利だ。泥を蘇らせるためには止むを得ない。

 

「あの下郎共は、まとめて後から送ってやる。――死ね」



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13章 魔術師来たれり
89:蕩児たちの再臨


 ギルガメッシュが剣を振り上げるの同時に、アーチャーの姿が掻き消えた。斬られたのではない。その前に、さっさと霊体化してしまったのである。

 

「むっ……」

 

 このアーチャーがよくやる手だった。サーヴァントは普通、戦闘中に霊体化しない。マスターの防御がおろそかになるし、戦闘動作を中断することにもなる。だが、マスターの凛は不在、銃は極小のモーションで攻撃できる武器だ。

 

 言峰にとっては、充分な脅威であった。ましてや、あの未来の英霊は光弾を放ち、複数の部下を召喚することもできる。それをやられては、代行者といえど防御を不可能だ。言峰は身を翻すと、手近な石筍の陰に屈み込んだ。

 

 言峰の行動は、優れた戦闘者であることの証明だった。が、ヤン・ウェンリーの誘導は、優れた者にこそ著効を発揮するのだ。マスターの挙動に、ギルガメッシュが気を取られた一瞬に、微かな気配が遠ざかる。英雄王の攻撃に対峙するより、逃げたほうがずっとましというものだ。勝算なくして戦うよりは、ずっと。

 

 とはいえ、やられた側には、これほど腹の立つ行動もない。金髪に縁どられた額に、くっきりと青筋が浮かび上がった。

 

「姑息な手を……。出て来るがいい、卑怯者め!」

 

 返答は、石筍の奥から聞こえてきた。

 

「あなたに言われる筋合いはありませんね」

 

「そこか!」

 

 しかし、虚しく地に刺さる音が聞こえるのみ。離れた所からまた声が響く。

 

「まあ、凛の父に責任がなかったとは言いませんが」

 

「ほう、道化師よ。貴様に何がわかる?」

 

 再び、洞窟に金属音が木霊する。残響を縫って、淡々とした声が問い掛けてきた。

 

「彼の目的を果たすために、あなたをサーヴァントに選んだのが間違いでした。

 根源に行くため、七騎の犠牲を必要とする遠坂時臣と、

 死を厭って、世界を巡って不死の方法を探求したあなたでは、

 望みの方向が正反対だ」

 

「何が言いたい?」

 

 主に劣らず、思いがけないことを言う従者だ。ギルガメッシュの攻撃がふと止む。

 

「歴史にもしもはない、というのが私の考えですが、

 それでも、選択の皮肉さに考えてしまいますよ。

 第三次のアインツベルンがあなたを呼んでいたら。

 あるいは、セイバーが前回、凛の父に呼ばれていたら、と」

 

「なに……?」

 

「前者であるならば、第三魔法が復活していたかもしれません。

 後者ならば、セイバーは我が身を引き替えにしても、

 願いを叶える道を選ぶでしょう。

 凛の父が生き残るとは断言できませんが、

 セイバーは、あなたがたのような行動はしないでしょうね」

 

「言わせておけば!」

 

 剣軍を突進させようとしたギルガメッシュを、言峰は制した。

 

「待て、ギルガメッシュ。言わせてみろ」

 

 どこに身を隠したのか、彼らの視力でも姿は見えなかった。あるいは、何らかの機器を用いているのかもしれない。ただ、声のみが響いた。

 

「こうして、私が呼ばれることもなさそうです。

 だが、聖杯を以てしても、過去は決して覆りはしないでしょう。

 この世界を生きる人々に可能なのは、未来へ向けての選択だけです」

 

「ほう、主が主なら、従者も従者だな。

 弓兵ではなく、哲学者のようなことを言う。

 だが、貴様の言を容れたところで、私に利はあるとは思えんのだがね」

 

「ここで私に斃されるより、司直の裁きを受けたほうが長生きできますよ。

 私からも提案しますが、英雄王との契約を解除し、警察に自首しては?」

 

 凛と同じ勧告だった。いや、凛のほうが、この男に影響を受けたのだろう。それにしても、未来の異世界の異星人、しかも幽霊とは思えぬ常識的な発言ではないか。

 

 言峰は、低い笑い声を立てた。

 

「我々を斃すとは、また大きく出たものだ。

 だが、貴様にはそれほどの力があるのに、私に警察に自首しろとはな。

 戦う気がないのか、それとも虚言か。どちらだ?」

 

「正直に言うと、戦いたくないんですよ」

 

 アーチャーは煮え切らない台詞を吐いた。

 

「あなたは一応、凛の恩人です。

 私の父がしたように、三回は忠告すべきだと思うんです。

 それで考えを改めてくれるなら、私も楽ができますし」

 

「三回の忠告か。だが、アーチャーよ。

 私が貴様と顔を合わせたのも三度目だな。

 貴様なら、三回会っただけの相手の言を容れるかね?」

 

「……まあ、普通はそうなんですが」

 

 アーチャーの口調は、穏やかでありながら鋭い棘が混じっていた。

 

「これは忠告ではなく、降伏勧告です。

 生きているあなたの諸々の権利を、幽霊の私が奪いたくない。

 英雄王の同類になるのは遠慮します」

 

 ギルガメッシュは応酬した。

 

「綺麗事をほざくな、道化師!」

 

「ええ、綺麗事です。でも、別にいいでしょう。

 私は国家の命令で、人殺しをしていた人間ですが、

 ここには私に命令できる母国はありません。

 平和的な交渉を選ぶのも、私が好きにできるわけです」

 

 戦争で、ヤンが敵を殺すことを担保していた法もないということだった。

 

「戦ったところで、給料も出ないってことですしねえ……」

 

 仕事だから嫌々やっていたのに、無資格無給でやってられるか。ヤンの本音の一端だが、言峰主従を呆れさせただけに終わった。

 

「痴れたことを。――いいぞ、やれ」

 

 言峰はギルガメシュに頷いて見せた。宙に留まっていた剣の群れが、獲物を屠るべく飛び出した。広間を満たすような飽和攻撃。ギルガメッシュの財宝には、魔や悪霊を斬った剣の原典が数多く含まれている。たとえ霊体化していても、逃れられるものではない。

 

 轟音を立てて、剣の雨が降り注いだ。石柱や石筍は断ち切られ、鍾乳石の棚田は畦が壊され、溜まり水を涙のように零した。そして、広間の地面が針山と化す。

 

 ようやく追いつき、通路に身を隠していた士郎は、叫ぶのを必死で堪えていた。英霊エミヤシロウの固有結界そのものの光景だった。あいつもきっと、これを見たのだろう。そして、セイバーを失ったのだろう。荒れ果てた地に立ち並ぶ剣は、あいつがセイバーと、失った人々に手向けた墓標ではないのか。

 

 士郎にとっては、優しい黒髪の青年の墓標になったのか。

 

「あ、……アーチャーは」

 

 士郎は凛に目を向けた。豊かな長い黒髪が横顔の半ばを隠し、引き結ばれた唇だけが見えた。広間から声は絶え、剣の群れが輝きを放っていた。

 

 ――いや。士郎は目を瞠った。

 

『黄金の輝きも、光があってこそさ』 

 

 なぜ、闇の中で、剣の輝きが見える? 士郎は弾かれたように視線を上に向けた。真紅と深紅、翡翠と緑柱石も、琥珀に倣った。洞窟の天井に銀色の月が浮かび、清かな光を放っていた。

 

「え、つ、月……? さっきの攻撃で、天井が抜けちまったのか!?」 

 

 銀色の月は真円を描き、銀砂を敷き詰めた漆黒の夜空に君臨する。

 

「……月じゃねえ」

 

 切れ長の目を裂けんばかりに見開き、ランサーが唸るように呟いた。

 

「まだ月が出る時間じゃねえし、出てもあんな風に丸くはならんぞ!」

 

「へ!?」

 

 ランサーがアーチャーと最初にまみえた日の月は、半月を少し越えていた。アーチャーの騎士と一騎打ちした日が、ちょうど満月だった。

 

 キャスターのサーヴァントになり、凛の頼みを聞いた。桜の心臓を貫いた槍を見下ろしていた居待ち月。士郎とエミヤが刃を交わす間にも、月は細り続け、昇るのが遅くなっていった。

 

 そして今、細い下弦の月が昇るのは、日付を超えた明け方になる。

 

 ランサーは呆然と空を指さした。

 

「それに、よく見ろ。……星が瞬いてねえ。あれは、なんだ?」

 

 洞窟を照らす、鏡のように滑らかな銀の月。漆黒の夜空に、星々が瞬くことなく輝く。

 

 ありえない光景だった。月は満ち欠けに反し、冬の星座が一つも見当たらない。いや、この洞窟の天井すべてをぶち抜いたところで、これほど空が広く見えないはずだ。

 

 もう一人の赤き瞳の美青年も、眦を割かんばかりに月を凝視していた。

 

「なんだ、これは……?」

 

 言峰は、ギルガメッシュの死角を補うかのように周囲を見回した。微かに息を呑む。

 

「……どうやら、凛の言葉は妄想ではなかったようだ」 

 

「なに?」

 

「未来の、異世界の、異星人。……見ろ」

 

 言峰が足元を指さす。ギルガメッシュは視線を下げ、思わず半歩後ずさった。

 

「な……!?」

 

 地面の感触はある。だが足の下、さらにその奥まで闇が広がっていた。瞬かない星々の群れと一緒に。

 

「夜空に浮かんでいるのか……?」

 

「いや、違うな。……星が瞬いていないだろう。 

 星が瞬くのは、地球に大気があるからだ。つまり、大気のない場所の光景だ」

 

「大気のない場所?」

 

 怪訝な顔をするギルガメッシュに、言峰は意味ありげに笑った。

 

「宇宙空間だろうな。だが、私がこうして話していられるからには、

 本物ではないということでもある」

 

 真空の宇宙空間、その温度は絶対零度。生身の人間はたちまち窒息死し、全身が凍りつく。

 

「ふ、こけおどしのまがい物か」

 

 ギルガメッシュは鼻を鳴らした。

 

「時臣の娘は、あの男を不敗の魔術師と言っていたな。

 征服王や贋作者と同種の宝具、――固有結界か」

 

 それは魔法に最も近い大魔術。術者の心象風景を以って、現実世界を塗り替える。四次ライダーも使い手であったが、彼には魔術にまつわる逸話はない。サーヴァントの宝具は、後世の逸話によって形づくられることがあるのだ。

 

 征服王イスカンダルこと、アレクサンドロス三世は、万軍を率いて、地中海地方を征服、統一した、唯一の覇者だ。数千年を経て、今も語り継がれる、人類史上最高峰の軍事的天才である。

 

 凛の言葉を信じるなら、アーチャーは近現代の無名の軍人ではない。人類が直径一万光年に居を広げた遥かな未来、一軍のみを率いて、数倍する敵を屠ったという。

 

 軍才については、非常によく似ているではないか。征服王の戦場が広漠たる大地だったように、ヤン・ウェンリーの戦場は、深遠の宇宙だったに違いない。

 

 術者の瞳の色を映す虚空に、月と星々を浮かべた幻想の世界。一際目立つ銀の月は、ことのほか美しかった。

 

 真紅の瞳が愉悦に輝く。

 

「だが、面白い。褒めてやろうぞ、道化師よ。

 固有結界を使う相手は三人目だが、貴様が一番興をそそる。

 我が剣で、直々に相手をしてやろう」

 

 ギルガメッシュの背後に、巨大な波紋が生じた。引き抜かれたのは、異形の宝具であった。自身が剣と言うからには、剣なのであろうが、翼を重ねた意匠の黄金の柄から、刀ではなく三段重ねの円柱が突き出ている。円柱は、赤と黒が溶岩流のように渦巻き、明滅を繰り返し、桁外れの魔力を放っていた。

 

「貴様の力を見せるがいい、道化師!」

 

「……っ、な、なんだ、あれ……!」

 

 無意識に解析しようとした士郎は、脳が焼きつくような苦痛を味わった。ギルガメッシュが放った名剣、宝剣の大半の真名は読み取れたのに、異形の剣はまったく理解が及ばない。

 

 対する固有結界内に、武器らしきものはなく、銀の月が星々を従えて輝く。玲瓏と微笑む、黒衣の女王のように。

 

「と、遠坂……。アーチャーは……」

 

 凛は頭を振った。

 

「わからない。呼びかけてるのに、うんともすんとも言わないの」

 

「リン、あれもアーチャーの宝具なの?」

 

「だから、わかんないのよ! なんで夜空なんかが……」

 

 マスターたちの困惑をよそに、セイバーは決断を下した。

 

「とにかく、アーチャーに助太刀しましょう! ランサー!」

 

「応よ!」

 

 セイバーが先陣を切り、ランサーもその後に続く。しかし二人が移動できたのは、極めて短い距離だった。

 

「入れねえ!?」

 

「くっ、見えているのに……」

 

 彼の声も聞こえているのに。

 

「もう一度、これが最後の勧告です。降伏せよ。しからざれば攻撃す」

 

 ギルガメッシュは昂然と応じた。

 

「ふ、武器を抜いたか? 我を殺すならば、貴様の力をもってせよ!」

 

「言峰神父、あなたはいかがです」

 

「事ここに到っては愚問だろう?」

 

 言峰に契約を解除する気はなかった。要するに、ギルガメッシュを令呪で自害させろということだからだ。逆に殺されかねず、また、命令が成就しても丸腰になる。

 

 そして、アーチャーが矛を収める保証もない。不確定要素の塊よりは、勝ち抜いて全てを手に入れる可能性に賭けたほうがいい。

 

「……残念です。ごめん、凛。

 偉そうなことを言ったが、私はまた人殺しになってしまいそうだ」

 

「案ずるな、道化師よ」

 

 ギルガメッシュは、剣を振りかぶった。刀身が輝きを増し、赤と黒が激しく渦巻いた。

 

「我が勝つ。エアよ」

 

 凛は息を呑んだ。桁外れの魔力。恐らくは、四次ライダーの固有結界を切り裂いた宝具だ。――対界宝具。固有結界にとっての天敵。

 

「アーチャー! 駄目! 逃げて!」

 

 凛の叫びも虚しく、英雄王は高らかに真名を告げる。

 

「――天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)

 

 そして、開放された魔力が嵐となった。星の原初のすがた、高熱のガス雲が宇宙ジェットを発するように。魔力の奔流は、真っ直ぐに漆黒の中天に向かう。

 

 すかさずアーチャーの指示が飛んだ。

 

「フォーメーションD」

 

 と、月の周囲に輝く星々が動きを見せる。瞬く間に、月よりも二回りほど大きな円環を形作った。通路の入口で立ち往生していた二騎士の瞳も、星と動きを同じくした。

 

「ほ、星が動きやがった! まさか、あれも星じゃねえのか!?」

 

「もしや……、あれが、アーチャーの言う船では!?」

 

 二人の叫びを聞いた凛は、素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「えっ!? 船って、あれが船!? 

 あいつの船って長さが一キロぐらいあるって言って……」

 

「は?」

 

 バーサーカーを除く全員が顎を落とし、同じ声を発した。

 

「で、でも、あいつの船は、普通の船の倍ぐらいはあるって言ってたけど……」

 

「……ちょっと待ってくれ、遠坂。半分でも何百メートルってことじゃないか!」

 

 数百メートルが光の点にしか見えない。この結界は、途方もない広がりを持っているのだった。ギルガメッシュが放った魔力の奔流は、音速に数倍するものであったが、宇宙での戦闘は光速が基準だ。ヤン・ウェンリーが迎撃態勢を整えるには充分であった。

 

「――射て!」

 

 完璧に統制のとれた攻撃は、幾何学的でさえあった。無数の流星が、銀沙の環の中心に向けて流れ落ち、天頂に銀輪が出現する。原初のエネルギーの奔流を、集束された光の矢が削り取っていく。だが、完全には相殺できていない。

 

「イゼルローン、砲撃準備は?」

 

 アーチャーの声に応じたのは、聞き覚えのある深いバリトンであった。

 

雷神の槌(トゥール・ハンマー)、エネルギー充填完了。

 照準も完了いたしました」

 

「全艦、指示の位置に散開せよ。――雷神の槌、発射用意」

 

 アーチャーが引っ込めた美丈夫の声が、月から響いてくる。凛は月を見上げ、再び形を変えた星座に目を瞠った。

 

「え、ええっ!?」

 

 星の空隙を、赤と黒の嵐はなおも突き進んでいた。あれだけの砲撃を物ともしないことに戦慄すべきか、果て無きがごとき結界に驚愕すべきか。

 

「……う、嘘。なんて無茶苦茶……」

 

 マスターの動揺をよそに、アーチャーと部下のやりとりは続く。

 

「雷神の槌、発射用意よし」

 

 淡々と指示するテノールに、バリトンが唱和した。そういえば、アーチャーは言っていた。

 

『含まれたんだよね……。宝具の操作要員も』

 

 すっかり忘れていたけれど、あの騎士たち自身も宝具だが、別の宝具の操作要員でもあったのか。

 

「って、何の宝具なのよ!?」

 

 エミヤが到着したのは、凛が喚いた瞬間であった。

 

「ば、馬鹿な、ヤン艦隊に、イゼルローン要塞だと……」

 

 ようやく到着した赤い外套の偉丈夫が呻いた。

 

「あの人は正気か!?」

 

 守護者であるエミヤシロウは知っていた。美しき面に隠された、白き女王の恐るべき正体を。

 

「――射て(ファイア)

 

 黒い魔術師の呪文が、彼女を慈悲なき女神に変貌させる。銀色の表面に眩い白光が灯り、極大の稲妻と化して夜空を翔けた。そして、赤と黒の竜巻と衝突した。

 

 エミヤは額の汗を拭い、大きく息を吐いた。

 

「……やはり固有結界か。本物でなくて助かった……」

 

「そう言うってこたぁ、おまえは本物を知ってんのか?」

 

 ランサーの問いに、エミヤは額の汗を拭いながら頷いた。

 

「守護者としての知識だがね。

 あの月が彼の本拠地たるイゼルローン要塞だ。

 星が彼の率いたヤン艦隊だろうが……、いったい、どれほどの兵士が来ているのか……」

 

 セイバーは聖緑を細め、星の群れを透かし見ようとした。

 

「万軍を召喚する固有結界というわけですね

 あなたや征服王と一緒で、白い騎士たちはその一部分だったと」

 

 エミヤは手を振った。

 

「いや、私などとは規模がまるで違う。恐らく、征服王でも敵わんよ。

 あの星の数に数百人を掛けるのが正しい」

 

「は?」

 

 セイバーから表情が抜け落ちた。 

 

「あの光が戦艦を再現しているなら、一隻に数百人が乗っている。

 ヤン・ウェンリーは、我々のような意味での魔術師ではないからな。

 恐らく、実際のヤン艦隊を再現しているのだろう」

 

「つまり、アーチャーの奴は、ああいう戦いをしてたって訳か」

 

 ランサーは空を指差した。二人のアーチャーの争いは、未だに決着していなかった。無音の虚空に、赤と黒、白光が入り乱れ、互いを引き裂こうとせめぎ合う。貫かんとする白光を赤と黒が締め上げ、白は二色の鎖を引きちぎって進もうとする。凄まじい光景であった。

 

 しかし、エミヤは首を左右に振った。

 

「いや、あんなものではない。

 あの月が実物なら、冬木どころが地球が滅亡している」

 

 今度はライダーとバーサーカー以外が、目と口でOの字を描いた。彼らの視線の先で、ぶつかり合う魔力が遂に相打って大爆発を起こした。しかし、音は聞こえず、空は一瞬で漆黒の色を取り戻し、偽りの月と星々は変らずに輝いている。

 

「あれは月ではなく、イゼルローン要塞というのだ。

 直径60キロメートルの人工天体だ」

 

 エミヤはイゼルローン要塞の概略を説明した。表面は、耐ビーム用鏡面処理を施した超硬度鋼と、結晶繊維と、スーパーセラミックの四重複合装甲で覆われ、射程百五十万キロの中性子線ビームでも傷一つ付かない。

 

 ヤン・ウェンリーの時代、宇宙人口四百億にとっての難攻不落の代名詞。

 

 凛はアーチャーとの雑談を思い出した。

 

「ああ、そういえば、あいつ言ってたっけ……。宇宙要塞の司令官だったって」

 

「嬢ちゃん、思い出すのが遅かねえか!?

 というよりもだ、マスターのくせに、奴の宝具を知らなかったのかよ!?」

 

 ランサーの抗議に、凛は口篭った。

 

「だ、だって、宇宙要塞なんて、てっきりもっとメカっぽいと……。

 あんなに綺麗だなんて思わなかったのよ。

 アーチャーが嫌がっていた戦争なのに、……まるで流れ星の雨みたい」

 

「ん……」

 

 士郎は言葉少なに頷いた。光点の一つ一つが宇宙船で、それぞれに大勢の乗組員がいる。あの星の数ほどの船は、彼が率い、死なせた人々そのものだ。彼らは、そしてアーチャーは、戦場で最善を尽くし、それでもあれほどの犠牲を出した。

 

「あんなに部下に死なれて、戦いなんて嫌って言うのも当たり前だよな。

 でも、みんなアーチャーのとこに来たんだ。

 凄いけど、それはそれでとっても辛いだろうな……」

 

 頼りない背に、数百万の人命と願いを背負って。だが、彼は誰にも縋れない。ただ一人、思考を研ぎ澄まし、より良きを追うしかないのだ。剣の群れを率いる赤い背中と、どちらが孤独なのだろう。

 

 セイバーは誰にともなく呟いた。

 

「征服王もそうだったのでしょうか……。

 あちらは世界征服の夢を抱き続けていましたが」

 

「あいつにとっては、平和こそが夢だったのよ。

 だから、イゼルローン要塞を攻略したのに、

 逆効果どころか二千万人が死んだって言ってた」

 

 そう言ってから凛は青褪めた。アーチャーは雷神の槌についても語っていた。

 

「ちょっと待って……。

 たしか、雷神の槌は、何百の戦艦を一瞬で蒸発させるそうなんだけど……。

 それが金ぴかの宝具と互角だなんて!」

 

 一同は息を呑んだ。重苦しい雰囲気の中、ライダーが唇を開く。

 

「では、彼が負けたら、私には打つ手がありません。

 英雄王に魔眼は効きませんでしたし、

 あの宝具に私の仔を突進させても……」

 

 イリヤも項垂れた。

 

「悔しいけど、バーサーカーもダメ。

 残りの命がいっぺんでなくなっちゃう」

 

 二騎士と暗殺者は顔を見合わせた。

 

「この固有結界さえ解ければ、手がないことはねぇが……」

 

 金沙と白銀も頷いた。しかし、それはアーチャーの敗北を意味するのだ。双方の切り札は今のところは互角だが、世界の修正に晒される固有結界は、時が経つほど不利になってゆく。

 

「は、ははははは!」

 

 ギルガメッシュは哄笑した。

 

「ついに本性を露わにしたな!

 認めてやろう、アーチャー、いや、魔術師!

 貴様は『この世全ての悪』を食らうにふさわしい化け物よ!」

 

 落日が爛々と燃え、右手の剣を再び振りかぶる。

 

「イシュタルの使い魔め、王たる我が討伐してくれようぞ!

 天地乖離す……」

 

 ギルガメッシュの高揚に、ヤン・ウェンリーは何の感慨も抱かなかった。

 

「雷神の槌、次砲準備は?」

 

 答えたのは先ほどとは異なる声だった。士郎とイリヤには聞き覚えがある。たしか、パトリチェフと名乗った巨漢の声だ。

 

「すでに完了しております。しかし、よろしいので?」

 

 言峰綺礼は結界の隅に退避しているようだが、雷神の槌を撃てば、巻き込むことは必至だろう。

 

「……よくはないが、もう時間がない。全艦、全速前進」

 

 星が整然と動き出す。

 

「全砲門開け。主砲斉射。――射て(ファイア)

 

 光の矢が一点に集中する。目標は黄金の王。夜空に砲手たちの叫びが木霊した。

 

『くたばれ! 英雄王!』

 




アーチャーのステータスが更新されました

【CLASS】マジシャン
【マスター】遠坂 凛
【真名】ヤン・ウェンリー
【性別】男性
【身長・体重】176cm・65kg
【属性】中立・中庸

【ステータス】
筋力E 耐久E 敏捷E 魔力A 幸運EX

【クラス別スキル】
単独行動:A
マスター不在でも行動できる。
ただし宝具の使用などの膨大な魔力を必要とする場合はマスターのバックアップが必要。

対魔力:D
一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。
魔力避けのアミュレット程度の対魔力。

【固有スキル】
カリスマ:A
大軍団を指揮する天性の才能。
Aランクはおよそ人間として獲得しうる最高峰の人望といえる

軍略:A+
一対一の戦闘ではなく、多人数を動員した戦場における戦術的直感力。
自らの対軍宝具や対城宝具の行使や、
逆に相手の対軍宝具、対城宝具に対処する場合に有利な補正が与えられる。

心眼(真):A
修行・鍛錬によって培った洞察力。
窮地において自身の状況と敵の能力を冷静に把握し、
その場で残された活路を導き出す“戦闘論理”。
逆転の可能性がゼロではないなら、
その作戦を実行に移せるチャンスを手繰り寄せられる。

【宝具】

『制式銃』
ランク:D 種別:対人宝具 レンジ:0~30 最大捕捉:10人
別名『使えそうな宝具』。レーザー光線による攻撃を行う銃器。
本来は大量生産の兵器だが、現代から千六百年後の未来という、
時間と技術の格差により、神秘を纏う事になった。
使う者が使えば、地味ながら非常に強力な武器になりうるが、
使い手がヤンだということで威力をお察し下さい。
だからこそ、ひっかけの釣り針にもなるのだが。

『三つの赤(ドライロット)』
ランク:B+~C+ 種別:対人・対軍宝具 
レンジ:1~100 最大補足:約1,700人

別名『使えない宝具』。
宝具『ヤン艦隊』のイゼルローン要塞操作兵員のうち、薔薇の騎士連隊を出撃させる。
彼らは、勇名と悪名を轟かせた、宇宙最強の陸戦戦員である。
レーザーと小火器無効の装甲服に、炭素クリスタルの戦斧や荷電粒子ライフルなどで武装している。
大威力の反面、秘匿性は皆無、展開には相当の面積が必要。 
魔力を大量に必要とし、令呪による補給も不可欠である。
彼らはアーチャーのサーヴァントであり、アーチャーが死亡すると消滅する。
非常に運用が困難な宝具である。

『ヤン艦隊(イゼルローン要塞防衛軍兼イゼルローン要塞駐留艦隊)』
ランク:EX 種別:対軍・対城宝具 レンジ:?? 最大補足:??

別名『本当は使えない宝具』
『この世全ての悪』を取り込んだ結果、使えるようになった。
とはいえ、実物を出すのは不可能。固有結界という形で再現している。
9億2千四百万メガワットの雷神の槌を擁するイゼルローン要塞と、
約一万隻のヤン艦隊がセットになっている。(注:イメージです)
理由は「イゼルローンがないと、艦隊が出せないから(ヤン談)」
なお、ヤン艦隊は戦死者によって構成され、ヤンが全体の指揮、
フィッシャーが艦隊運用、メルカッツが攻撃を担当している。
要塞の運用はシェーンコップ&パトリチェフ担当。強い。(確信)

 触媒は、遠坂家にあった万暦赤絵の壺。
ヤンの父のコレクションで、唯一の本物で形見として相続していたもの。

 聖杯にかける願いは特になし。
召喚に応じた理由は、人類史上にも珍しい平和な時代を見ることと、
伝説の英雄たちに会ってみたいから。したがって、戦闘意欲はあんまりない。

 知識欲の赴くまま、聖杯戦争のあれこれを考察しているが、
本当は、英雄たちと時代を超えたバカンスを呑気に楽しみたい。
と思って、各陣営の取り込みに乗り出し、成功しかけていたのだが、
とんでもない強敵の出現に戦わざるを得なくなってしまった。

 残り時間も短いし、バカンスと少年少女たちのために、本気出したヤンである。


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90:四度目の勧告

「全艦、全速前進」

 

 星が動く。黒い画布に、銀色で点描された凹字陣が出現し、全く形を崩さず突進する。宇宙一の智将と、艦隊運用の名人による絶妙の艦隊運動だ。

 

「全砲門開け」

 

 通信オペレーターたちが、矢継ぎ早に司令官の指示を伝達し、ある者は陣形の構築に尽力し、別の兵士は主砲の照準を目標に向けた。砲門が指すのは、傲然と屹立する黄金の王。

 

「主砲斉射。――射て」

 

 一斉に光が弾け、一点に向けて降り注ぐ。

 

『くたばれ! 英雄王!』

 

 それはまた、将兵たちの切望でもあった。彼らは、ヤンの下、あるいは死後に、新銀河帝国軍との激戦で散った戦死者である。

 

 生前の敵は、自軍に数倍するほども多く、精強であった。だが、どんなに数が多くとも、同じ人間が同様の兵器を扱っているに過ぎない。司令官の指揮に従い、攻撃を当てさえすれば、倒すことができたのだ。

 

 金髪の美青年という共通項はあれど、目の前の敵は勝手が違った。手にした異形の剣が、再び赤と黒の魔力の渦を立ち上らせている。あれが放ったのは、雷神の槌に匹敵する威力のエネルギーの塊だ。

 

 ヤン艦隊の面々にとっては、常識を超えた化け物だった。蚊帳の外に置かれた凛たちにしてみれば、どっちもどっちだったが。

 

 光の驟雨で、洞窟の広間が漂白される。見守っていた凛たちは、口々に眩しさを訴えつつ、目を閉じ、顔に手を翳して、目を守るのが精一杯だった。

 

「こりゃ、まずいかなあ」

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーは小さく呟いた。旗艦ヒューベリオンの光量調整されたスクリーンは、剣を携えた孤影を捉えていた。

 

「神秘は、より高い神秘で打ち消される、か。厄介だな」

 

 このヤン艦隊もイゼルローンも、ヤンによって再現された固有結界である。本物にはほど遠い、書割りの月だ。知名度だって、凛とエミヤのたった二人分しかない。

 

「『彼』が応援してくれても、世界最古の王相手は荷が重い。

 あの剣の力なんて、まるで航行不能領域(サルガッソースペース)じゃないか」

 

 銀河帝国と自由惑星同盟の国境線。それがサルガッソースペースだ。暗黒物質に満ちた宇宙空間は航行できず、主力兵器の中性子線ビームが効果を発揮しない。大量の暗黒物質によって散乱され、威力や射程が著しく減殺されてしまうのだ。ただし、敵がいない場所でもあるから、生前の艦隊戦では問題にならなかった。

 

 しかし、今は非常に困る。神秘の格差と、宝具の性質。双方の要因により、艦砲射撃はエアに対して非常に相性が悪かった。死の光を雨と浴びせかけても、赤と黒の渦に阻まれて、英雄王に到達できない。

 

 ギルガメッシュの美貌に、嘲笑が昇った。  

 

「どうした、魔術師? それが貴様の全力か?」

 

「うそでしょう……。効いてないの!?」

 

 ギルガメッシュの声に凛は愕然とする。網膜を漂白するような眩しさで、戦況はまるで把握できないが、アーチャーの攻撃に優位を確信していたのだった。

 

「畜生、眩しすぎて見えやしねえ。ルーンも通じねえときやがる。

 どうだ、アサシンよ。何か見えるか?」

 

 舌打ちしたランサーは、鷹の目を持つ同僚を問い質したが、相手は首を横に振るばかりだった。

 

「光の御子たる君にも無理なのに、私に見えると思うかね」

 

「おまえも似たような宝具を使うだろうが。

 おまえのは、金ぴかと互角だった。アーチャーと違ってよ」

 

 ランサーの評に、エミヤは溜息を吐いた。

 

「それは大いなる誤解だ。単なる相性の問題だよ」

 

 エミヤの固有結界は、無限の剣を内包している。一方のギルガメッシュは、剣を蔵から取り出すため、一工程が余分にかかる。その時間差によって、エミヤはギルガメッシュの手を見てから、有効な武器を準備できる。

 

 未来の自分の説明に、士郎は少なからず幻滅した。

 

「それって、つまり、後出しジャンケンじゃ……」

 

「……否定はせん。だが、先日の局面では有効な戦術だろう」

 

「そうかも知れないけどさ……」

 

 不服そうな士郎の頭を、エミヤは軽く小突いた。

 

「だから、貴様はたわけだと言うのだ。

 王の財宝には対抗できた。奴があの剣を出さなかったからだ。

 出されたら即座に敗北していただろう。結界を切り裂かれてな」

 

「じゃ……」

 

 落ち着いたというより、緊張感を感じさせない指示が響く。

 

「全艦、落ち着いて砲撃を持続せよ。

 決定打ではないが、効果は上がっている。

 あの宝具の魔力が、敵を守っているように見えるが、

 攻撃に転じられないということに他ならない。

 両手で『盾』を握っていては、『剣』は振れないんだ」

 

 ギルガメッシュの眉が吊り上がった。アーチャーの言葉は正鵠を射ていた。途切れることのない砲撃を前に、エアは彼と言峰を守る盾と化し、力を開放するチャンスを掴めていない。

 

「宝物庫がネタ切れなのかな? まあ、射ってもここまでは届かない」

 

「言わせておけば……」

 

 王の財宝に関してなら、砲撃は十二分に効力を発揮していた。倉から宝具を射出しようとしても、出鼻を挫かれる。ほぼ光速のビームに、完全に速度で負けてしまう。アイアスの盾を展開すると、エアを揮う妨げになる。

 

 近現代に英雄が生まれにくい理由は、武器の発展によるものである。刀槍や弓、馬術で秀でるためには、本人の資質と長年の修練が必須だった。しかし、引き金を引くだけで足りる銃、一発で複数の人間を殺せる爆弾やミサイル。乗り物は、馬よりも遥かに運用が容易くなり、地のみならず海や空をも制覇した。

 

 ヘラクレスやクー・フーリンのような勇者でなくとも戦える時代になり、個人の武勇が戦局を左右しなくなった。個の力が同等なら、数を揃えたほうが勝る。

 

 凡人が兵士となれるから、戦争の規模は大きくなり、長期間続くようになった。第一次、第二次世界大戦のように。ヤンの時代の百五十年戦争のように。

 

 ヤン艦隊は、まさに『数』の究極といえた。神秘の格でも、威力でも劣る。しかし、個対多の戦闘において、もっとも差が出るのは手数なのである。一の百発百中よりも、百の百発一中が強い。そして、ヤン艦隊の砲撃の精密さは、宇宙に比肩するものがない。司令官の言葉に士気を高められ、砲撃がさらに密度を増した。

 

 数多の白光の矢が、無音で赤と黒の渦に叩きつけられる。驚くべき練度であった。

 

 言峰は、目を庇いながら呟いた。

 

「なるほど、ライダーではなくアーチャーというのは頷ける」

 

 これほど密度の砲撃にも関わらず、言峰を見事に避けている。おそらく、完全な善意からではない。最後まで、契約解除という選択肢を引っ込めない気なのだろう。一緒に結界内に閉じ込めておいて、脅迫以外の何物でもない。

 

 光の直撃を受けたギルガメッシュは、堪らずに目を眇めた。

 

「くっ……」

 

 痛みを感じるほどの眩しさだ。攻撃自体の威力は無きに等しいが、視覚への影響は大きい。白い残像が眼裏に染みを作り、染みが折り重なって視界を塞ぐ。漆黒だった世界は、青白い輝きに満たされていた。

 

「これが貴様の戦か、魔術師よ」 

 

 宇宙と大地の違いこそあれ、征服王の『王の軍勢』と非常によく性質の宝具だ。マスターの能力の差によるものか、大聖杯を満たした魔力を取り込んでいるからか、堅固さは桁違いであるが。

 

「だが、所詮は真の戦場を知らぬとみえる。

 天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)!」

 

 再び、赤と黒の乱流が放たれた。星の群れへと突き進む。

 

「『盾』で殴り殺してやろうぞ!」

 

 再び、ヤンの指示が飛ぶ。

 

「両翼は撃ち方止め。右翼二時、左翼は十時は方向へ前進。

 中央部隊は天底方向へ移動。誤射に注意。急げ!」

 

 砲火が減少したせいで、士郎たちは、固有結界の様子を再び見ることができるようになった。空中の凹が、その両腕を斜めに伸ばし、中央が沈みこむ。 魔術師の右腕、会心の艦隊運動であった。一瞬にして変形V字型の縦深陣が完成する。

 

「両翼、砲撃再開」

 

 エアの斬撃に正対せず、左右が包囲して横撃を加える陣形である。ヤン直属の中央本隊は、地上のギルガメッシュへの牽制を続行する。

 

 宇宙での艦隊戦など、過去の英霊にも現代人にも未知のものだ。だが、その動きの素早く鮮やかなこと、尋常ではない。それだけははっきりと分かった。

 

「なんだ、あれ!? な、なあ、遠坂。

 アーチャーって、実はもの凄く強いんじゃないか……?」

 

 凛からの応えはなかった。目を見開き、口も全開にして、心の底から驚愕している。その顔を見た士郎は諦めるしかなかった。当のアーチャーのマスターが一番驚いている。これじゃダメだ。

 

 と、ただ一人驚愕していない者がいた。眉間に皺を寄せ、鳩尾をさすり始めた未来の自分だった。

 

 それをランサーとセイバーが見咎めた。

 

「……そういやおまえ、ヤツの事を知ってるよな。よし、吐け」

 

「そうですね。とっくりと訊かせてもらいましょうか」

 

 逞しい赤い肩を、左右からがっちりと掴む腕が二本。意匠は異なれど、青と銀に鎧われた筋力Bの主たちである。

 

「……正直、こちらが訊きたいが、

 そんな呑気なことを言っている場合ではないぞ!」

 

 衝撃波は左右から削られながら、凄まじい勢いでイゼルローンを目指していた。 

 

「雷神の槌、発射用意。迎撃のタイミングはそちらに任せる」

 

 淡々とした声が、エミヤの胃を痛めつけた。ヤン艦隊がヤン艦隊となる以前は、旧同盟軍にとって死と恐怖の象徴。そして、ヤン艦隊=イゼルローン駐留艦隊となってからは、不敗の方程式。

 

「はい、閣下。安んじてお任せあれ」

 

 恭しく貴族的な返答は、薔薇の騎士の長のものか。

 

「――撃て!」

 

「撃て」

 

 バリトンに応じて純白の雷が、テノールに導かれて銀色の流星が降り注ぐ。赤と黒と黄金に。渦流と雷が再び虚空で争い、流星が黄金の鎧に牙を立てた。渾身の一撃を放ち、ギルガメッシュの魔力の障壁が薄らいでいた。神秘の格差を手数で突き破り、黄金の王に白光の花が飾られる。あたかも弔花のように。

 

「ぐっ……くっ! 熾天覆う七つの円環!」

 

 しかし、無尽の財は未だに健在。傷ついた身を、七重の花弁が包み込む。その陰でギルガメッシュは膝を突き、肩で息をついた。

 

「お、おのれ……。綺礼! 令呪を使え!」

 

「ふむ……。そうしたいのは山々だが、残りが一つになってしまってな」

 

「なに!?」

 

 燃え盛る瞳が言峰を睨みつける。

 

「先ほどの凛の魔術の仕業だ。

 キャスターか、征服王のマスターか、

 どちらかの入れ知恵かはわからんが……、してやられた」

 

「何を言うか! 奴を斃せば、残るは烏合の衆よ。

 サーヴァントとマスターを、尽く屠れば令呪などいくらでも……」

 

「アーチャーに勝つには、その剣で固有結界を切り裂くしかあるまい」

 

 二度の斬撃を放った異形の剣は、輝きを鈍らせている。溶岩流が冷え固まりかけているようだった。

 

「だからだ。ここがどこか忘れたか? 洞窟の最奥だ。

 奴は自らが負けても、私が死ぬ状況を作ったのだ。

 さほどに惜しい命ではないが」

 

 固有結界を切り裂けば、現実の事象が戻ってくる。地上で戦った征服王とは異なり、現実が彼らに牙を剥く。魔力の嵐は、洞窟の天井を吹き飛ばし、大量の土砂を落とす。

 

 ギルガメッシュは傷つかなくとも、言峰を殺すには充分だ。大聖杯にも、少なからぬ被害が出るだろう。マスターと大聖杯を失って、ギルガメッシュが現界を続けられるかどうか。

 

「この状態で、令呪を使ったところで勝ち目はない。

 まずは、貴様が勝機を掴まなければならん」

 

 ギルガメッシュの瞳が、憎悪の輝きを放った。

 

「謀りおったな!」

 

 あの男が、四次ライダーのマスターから得た情報を甘く見すぎていた。対ライダー戦で、ギルガメッシュはマスターと行動を共にしていない。

 

 時臣の死を追求していたヤンは、それにひっかかりを覚えた。マスターの交代を糊塗するためだとしても、高威力の宝具を使うなら、言峰が同行したほうが有利ではないか。

 

 マスターの交代が、ライダー主従にばれても構わない。二人とも殺してしまえばいい。ウェイバー自身がそう言っていた。あの場にアーチャーのマスターがいたら、自分は生きてはいなかったろうと。

 

 では、マスターがいなくてもいい、いや、いないほうがいい理由があるのではないか?

 

 その疑問に、軍人が出す答えはシンプルである。武器は適正に運用しなくては意味がない。戦艦主砲の操作を、砲門の前でやる馬鹿はいない。そういうことではないのか。

 

 英雄王最強の宝具を、全力で使えないように追い込め。マスターと一緒に戦わざるを得ない状況を作り出せ。そのままでは勝てなくとも、勝算が成立するように準備を整えよ。

 

 基本的にはバーミリオン会戦と同じだ。補給線を断ち、圧倒的な敵を何度となく撃破し、ついには総司令官を戦場に引っ張り出した一連の軍事行動と。

 

 陰に潜む言峰主従に対して、公権力を動かして社会的な基盤を奪った。こちらに一人の犠牲も出さず、監禁されていた被害者らが救済されるおまけつきである。

 

 そして、相手が逆襲したところを撃退し、逃れた先へ攻め込み、素早く逃げて、大聖杯での戦闘。この三連戦にも被害らしい被害は出していない。その後も、虚実織り交ぜた戦術で、粘り強く相手を翻弄した。

 

 ヤンはあの夜の撤退戦後も、ここを決戦の地にすべく行動してきたのだった。 一回目の敗退にも犠牲を出さず、粘り強く防戦して補給線を叩いた五次陣営の戦略が、ついに彼らを追い詰めた。

 

「ええ、それがどうしました?」

 

 王の非難に、魔術師は宇宙最強の台詞で応じた。嫌味たっぷりに。

 

「遠慮せず、全力を出していいんですよ。できるものならね」

 

「言わせておけば……」

 

 剣を握る腕に力が篭もる。

 

「私が負けたら、あなたはともかく、言峰神父の無事は保証できません。

 ……父が言うには、三度言っても駄目だと、大抵駄目だそうですが、

 もう一度うかがいましょう。英雄王の契約の解除をする気は?」

 

 落日の瞳が、漆黒の空と言峰を交互に見やる。砲撃が止み、空は漆黒を取り戻し、銀の月が静かに見守っていた。

 

 言峰が口を開く。

 

「随分な温情だな、アーチャー。強者の余裕か?

 私にギルガメッシュを除かせれば、貴様が最強のサーヴァントだ。

 無欲なふりで、聖杯を欲していたか」

 

「聖杯なんて要りませんよ。

 あなたも含めた皆に、こんな戦いと縁を切って欲しいだけです」

 

 言峰は不審な表情になった。

 

「私もだと?」

 

「ええ。あなたもある意味で、凛に桜君、士郎君たちと同じ存在だからです」

 

「なに?」

 

 上げた眉が顰められた。

 

「教会のお墓を拝見しましたが、あなたの父上も十年前に亡くなっていますね。

 前回の聖杯戦争と無関係だとは思えない。

 あなたも聖杯戦争が生んだ、もう一人の孤児ではないでしょうか。

 そう考えれば、あなたの行動も理解できなくはありません」

 

「貴様が私を理解するだと?」

 

 黄金のアーチャーは、言峰に愉悦の在処へ導いた。では、黒白のアーチャーは、なにを齎すのか。

 

「凛の父を殺したのは、父上の復讐ですか?

 遠坂時臣が聖杯戦争に巻き込んだせいで、

 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトに殺害されたから」

 

 言峰の目が一瞬だけ大きくなった。

 

「……見てきたようなことを言う。

 どうして断言できる。父は銃殺されていたのだがね」

 

 イリヤは士郎の手を握りしめた。言峰が仄めかしているのは、衛宮切嗣犯人説だった。しかし、アーチャーは静かに自説を話し始めた。

 

「衛宮切嗣には、教会を敵に回すメリットがありません。 

 彼は御三家のマスターの一人ですし、セイバーの令呪には余裕がありました」

 

 士郎とイリヤの視線に、セイバーがそっと頷きを返した。

 

「彼女からはそう聞いています。しかし、魔術ではなく銃殺でしたか……。

 暗殺のエキスパートなら、日本で人を殺すのに銃は使わないと思いますが」

 

「何が言いたい?」

 

「だってそうでしょう?

 ここは平和で、銃が珍しくて、相手は老齢の神父さんです。

 建物ごと爆破すればいい。

 預託令呪も霊地も潰せて、火の不始末による事故で片付くでしょう。

 例のホテルのようにね」

 

 言峰には二の句が告げなかった。衛宮士郎たちに、衛宮切嗣のやり口を告げたのは彼自身だ。

 

 ――ビルを爆破し、婚約者を誘拐し、騙し討してライバルを殺した。それを言峰が知っているということが、ヤンの疑念を招いたのだが、衛宮切嗣には、銃殺以外の手段があるということも示していた。

 

「むしろ、そうした技能を持たない人間の仕業だと思います。

 ただし、銃を手に入れる財力などは持っていて、

 それ以上に令呪を心から欲している。

 三つの条件を満たすのは、先代エルメロイのみなんです」

 

 言峰は右腕を見下ろした。預託令呪は焼け焦げて失せ、まだ痺れが残っている。

 

「やはり、言峰璃正神父は殺害されたのですね。

 それを恨んで?」

 

「恨むだと? いいや、そんなことはない。父が死んだ時、私は――」

 

 言峰の脳裏の隅で、なにかが声を上げた。

 

「もっと自分の手で苦しめてやりたかったほどだ」

 

 あの日、何かが崩れ始めた。そして、遂に自分の悪性を自覚するに至った。幼い頃から、人の言う快や美や幸福が綺礼には分からなかった。

 

 どうしたら自分も皆と同じように、喜びを、幸福を感じることができるのか。それを追い求めて、信仰の門を叩き、武道を修めた。しかし、わからなかった。黄金のサーヴァントに、愉悦の源を示唆されるまでは。

 

 言峰綺礼は、人の不快に快を、醜に美を、不幸に幸福を覚えるのだ。アーチャーが再び問いかける。

 

「そうですか……。では、どうやって苦しめようと考えましたか?

 あなたがその手で殺したかったのですか」 

 

 言峰は蓬髪を左右に振った。

 

「あの時湧き上がった衝動は、その程度のものではない」   

 

「あるいは、あなたと一緒に苦しんで欲しかったのですか?

 凛の父や教会よりも、息子のあなたの歪みと、

 一番に向き合って欲しかったのですか?」

 

 戦場の心理学者は、言峰の心にメスを入れはじめた。 

 

「……なにを」

 

「そうでなかったら、別のことで時臣氏を恨みましたか?

 あなたの父上は、あなたよりも彼と親しかったようだ。

 資産家で、美しい妻と可愛い娘にも恵まれていた。

 あなたは奥さんを亡くされ、お子さんとも離れて暮らしているそうですね。

 これだけでも妬むには十分ですが、聖杯戦争に引っ張り出し、

 父上を失う原因を作った」

 

 言峰は言下に否定した。

 

「そんな俗な感情は私にはない」

 

 そうであったら、長年に渡って苦悩はしなかったはずだ。苦悩を断ち切ったのは、十年前、英雄王が愉悦を追うことを是と語ったからだ。

 

 しかしあの時、最初に興味を引いたのは、手に入らぬ女に執着する間桐雁夜の悪あがきではなかったか。時臣を裏切ることに、快楽を覚えなかったか。知らず知らず、嫉妬をしていたのか。

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 

「そうですか。まあ、あなたの心の問題はさておき、

 きちんと裁きを受けて、償いをしてほしいんです。

 遥か昔の亡霊ではなく、今ある人々に心を向けてほしい。

 あなたは生きているのだから」



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91:Last Order

 宝玉と鋼の色が見守る中、言峰の口から低い笑いが漏れた。

 

「生きているから、か……」

 

「率直に言って、羨ましい限りです。

 この日本は、人類史上、稀に見る平和で豊かな国だ。

 できるものなら、私もこんな時代に生まれたかった」

 

 言峰の胸に歪んだ歓喜が沸き起こる。飄々として、捉えどころのない未来の英霊が吐露した内心だった。この男の傷を開いてやりたい。

 

「それが貴様の望みか? 叶うぞ、アーチャー。

 聖杯に望むまでもなく、貴様には資格がある。

 『この世全ての悪』を飲み込んだ貴様には!」

 

 返答には、一拍の間があった。 

 

「――英雄王のように?」

 

 言峰は笑いを浮かべて頷いた。笑顔というには、なんとも陰鬱なものだったが。

 

「そうとも。聖杯の泥は生者を焼いたが、死者を蘇らせた。

 ギルガメッシュは肉体を得た。貴様にも可能性はある。

 あとは生贄を捧げるだけだ。今の貴様には容易かろう。

 ただし――」

 

「……ただし?」

 

「それ以上魔力を費やし、大聖杯を破壊しても、出来るかはわからんな」

 

 ヒューベリオンの指揮卓の上で、ヤンは髪をかき回した。

 

「ひょっとして、私は誘惑されているのかな?

 手を引き、味方殺しをすれば、受肉できるって」

 

「ひょっとしなくてもそうでしょう」

 

 月から響く低音の呆れ声。

 

「だから、マスターの後見人と遠慮せず、さっさとやってしまえば良かったのですよ」

 

「いや、しかしね……」

 

 反駁しかけたヤンを遮るように、雷光が放たれた。エアを相殺したものよりはずっと細いが、言峰とギルガメッシュを割るように地を叩く。

 

「くっ!」

 

 網膜を灼く白光に、ギルガメッシュは顔を庇った。宝物庫を開けようとして、すかさず牽制されたのである。

 

「私が受肉したら、君たちや『彼』はどうなるんだ?」

 

「英雄王の宝具のような塩梅になるのでは?」

 

 朗々とした副参謀長の声に、ヤンはベレーを揉みしだいた。

 

「冗談じゃないぞ。武器ならまだしも、この兵員をどうすればいいんだ?」

 

「艦隊とイゼルローンもお忘れなきよう」

 

 シェーンコップも、さすがに今回は煽動しなかった。

 

「閣下のマスターは、なかなか将来有望なレディですが、

 こればかりはいかんともしがたいでしょうな」

 

「まったくだ」

 

 ヤンは足を組み直し、溜め息混じりに告げた。

 

「夢見ていた平和な世界ですが、私たちの存在が争いの火種になりかねない。

 ここに私の居場所はありません。

 戦争ばかりでしたが、この光景が私たちの生きた場所です」

 

 永遠の夜に浮かぶ星征く船と、美しく無慈悲な白の女王。これこそが、ヤン・ウェンリーたちの故郷(ホーム)

 

「私たちには、もう戻れませんが。だからこそ、あなたに無駄にしてほしくない。

 あなたは、加害者であると同時に被害者でもあります。

 きちんとした手段で償い、償われるべきです。

 聖杯戦争に頼らずとも、可能なことです」

 

 凛は、詰めていた息を吐き出した。情理に富んだ、いつものアーチャーの論調だった。いくら念じても反応がなく、これまでと打って変わった戦いぶりに、『この世全ての悪』のせいではないかと疑っていたのである。

 

 そう口にすると、士郎とランサーは手や首を振った。

 

「や、遠坂。もうこれ、説得じゃない」

 

「応よ。得物を突きつけて、降伏しろ、さもなくば殺すと言ってるんだ」

 

 凛が見回すと、セイバーまでこくこくと頷いているではないか。

 

「たしかに。彼は勝算のない戦いはしないと言っていましたね。

 これが真相だったとは、なんと容赦のない……」

 

 ライダーががっくりと肩を落とした。

 

「……では私は、銃しかなくても勝てると思われたわけですか……」

 

 その滑らかな肩を、ランサーが叩いた。

 

「そう気に病むなよ。俺なんざ、三度は嵌められたんだぜ」 

 

 鼻に皺を寄せるケルトの大英雄に、士郎は頬を掻き、イリヤは肩を竦めた。同情すべき点はあるが、二人が読んだクー・フーリンの伝説によると、自業自得は否めない。

 

「やっぱさ、ランサーのアレ、食い合せが悪いんじゃあ……」

 

「わたしもシロウに賛成よ」

 

 犬を食べないと誓っておいて、目下からの夕食の誘いを断らないというのは無理がある。一国の王の甥っ子で、父親は光の神。大多数の人間は、彼よりも身分が低いのだが……。

 

「うるせ!」

 

 またも赤毛を小突かれる士郎だった。

 

「あた! でも、食い放題、楽しんでたじゃないか」

 

「……ま、まあな。ありゃ、伝説の常若の国の宴以上だろうぜ。

 奴の部下とは、望みどおり全力の戦いができたしなあ。

 だからあの野郎は憎めねえんだけどよ」

 

 ライダーはランサーの手を払い落とし、眉を吊り上げた。

 

「私がようやく解凍されて、シンジの血で我慢していた時に、

 あなたは酒池肉林の宴ですか。なんという差でしょうか!?」 

 

 こんなことで仲間割れされては困る。セイバーは慌ててライダーを慰めた。

 

「い、いえ! 確かに、量も質も申し分ありませんでしたが、

 サクラのきめ細やかな料理のほうが更に上です!」

 

 凛も同意した。 

 

「そうでしょう。わたしの自慢の妹なんだもの」

 

 二人のやりとりに、ライダーの完璧な形の唇がいとも美しく綻んだ。

 

「リン、その言葉は、サクラに直接伝えてあげてください。

 セイバーも。私も、サクラに伝えたいことがあるんです」

 

 ここから皆で無事に帰還するという意志の表明だった。身長も、髪の色もまちまちな面々が一斉に頷いた。

 

「ではどうする? ここで戦いの結末を見届けるか、ここから退き、備えをするか」

 

 ランサーが凛を見据える。凛はほっそりとした手を握り締めた。

 

「アーチャーを置いていけないわ。あいつを戦わせているわたしの責任だもの。

 いざとなったら、令呪を使わなくちゃならないし」

 

 ランサーは莞爾と微笑んだ。

 

「見上げた心意気だな、嬢ちゃん」

 

 その笑みがすぐ真顔に変わる。

 

「だが、あれほどの宝具、そう長くは展開できんだろう。

 あの広間が崩れりゃ、ここも無事では済まん。

 俺たちには霊体化する手があるが、無理な連中は外で待ったほうがいい」

 

 ランサーは退避を促した。

 

「結末は俺が見届けてやる。気にすんな、キャスターの仰せだ。

 それにあの外道神父には、俺にも貸しがある」

 

 落盤以外にも問題があるのだ。アーチャーが勝てなければ、残りのサーヴァントが言峰主従と戦うことになる。彼らの宝具は、この固有結界ほどに堅牢ではなく、さらに周囲に危険を振りまくだろう。

 

 察しないわけはなかろうに、長い黒髪が左右に振られた。

 

「それだけじゃないわ。あいつ、目を離すと、何をしでかすかわからないでしょ?」

 

「おう……」

 

 魔術師の異称のとおり、意表を突いてくるのだ。

 

「戦いに関しては、綺礼よりよっぽどえげつないのよ!」

 

 凛の激白に、一同は顔を見合わせ、深く深く頷いた。ここにいる面々は、アーチャーの被害者の会に入る資格がある。敵対すれば容赦なく嵌められ、味方であっても出し抜けに心を抉ってくる。

 

 凛もなにかと痛いことを言われたし、士郎にイリヤ、セイバーも例外ではなかった。丈高い銀髪の主は、小さく咳払いした。

 

「仕方がなかろうよ。彼の国は劣勢で、あの艦隊が最後の兵力だった。

 後がないから、どんな手を尽くしても負けられない。彼の不敗は、そういう意味だ」

 

 凛は、整然と隊列を組んだ星の群れを透かし見ようとした。あのどれかが、星々を率いる高みを行く者(ヒューベリオン)

 

「……あいつね、二言目には戦いを嫌がるし、

 大体寝てるか、お茶を啜りながらゴロゴロして……。

 勝てない戦いをするぐらいなら、逃げるって言ってたのに……」

 

「それは嘘ではないが、真実でもないんだ」

 

 褐色の口元がほろ苦い笑みを浮かべる。

 

「本音ではあるだろうがね。

 この平和な時代、よほどに戦いたくなかったんだろうが……」

 

 聖杯戦争の歴史を紐解き、少年少女らに遺してきた被保護者を重ねて、様々なことを教えて、自らの力で歩むことを考えさせた。エミヤの紅茶に黒い瞳を細め、ランサーやセイバーの武勇伝に輝かせ、ギリシャの美女二人には、若干及び腰で、でも礼儀正しく接していた。

 

 そんな姿しか、凛たちは目にしていないのだろう。戦場での本当の姿を、見せたくなかったに違いない。

 

 だから、四度目の忠告に及んだのだろう。

 

「聖杯戦争に関わったばかりに父と友人を失い、

 さらには無辜の孤児を犠牲にして、あなたが何かを得たようには思えません」

 

「得たものならあるとも。

 私はギルガメッシュに、愉悦を追うことを教えられ、

 快や美を見つけることができた。人とは、いささか違うところにあったがね。

 私は、不幸や醜に快や美を見つけたのだ」

 

「……それは、本当にあなた自身の感情ですか?」

 

 アーチャーは疑問を返した。

 

「人の心は、自らを守るために、思いがけない働きをします。

 肉親を亡くし、精神的な支柱を失ったとき、

 その存在を忘却したり、他者の考えを自分のもののように思い込んだりもする」

 

 ふたりの士郎は目を瞠った。唇を引き結び、固く拳を握る。まるで、大きさの異なる陰画(ネガ)陽画(ポジ)

 

 アーチャーは、言峰も士郎の反転だと言っているのではないか。

 

「偉そうなことを言いましたが、私は素人です。

 こうしたことも、警察に自首すれば、きっと無料でやってくれるでしょう」

 

「どういう意味だ?」

 

「精神鑑定というやつですよ。

 あなたの悩みに、古代人の王よりは現実的な答えが出ると思うんですが」

 

 口調は柔らかいが、強烈な毒舌だった。さすがの言峰も鼻白む。

 

「……狂人扱いとはな。貴様も存外凡人のようだ。

 そうまでして、ここで殺されるよりもましと言う気かね?」

 

「生きているかぎり、可能性があるからです。

 あなたの心は、他人の不幸で満たされるようですが、

 いつか、変わる日が来るかもしれない」

 

「詭弁だな」

 

 物心ついて以来、言峰は二十年以上も葛藤にもがき続けていたのだ。楽観論が過ぎると言わざるを得ない。

 

「だが、どんなにわずかでも可能性があるから、私は戦ってきた。

 死ねばゼロになってしまう。死なないために等価の命を奪い合う。

 欲しいものは平和だったのに」

 

 アーチャーはぽつりと続けた。

 

「ここは、私たちが五百年追い求め、届かなかった理想郷のような時代です。

 私の世界の歴史では、四半世紀後に失われてしまった平和です」

 

 ――『異世界』とはこのことか。言峰もギルガメッシュも、はっと星空を振り仰いだ。凛も、皆も同じ動作をした。

 

「全面核戦争が勃発し、地球人口の九割以上が死滅。

 生き残った人類は、核の冬の中で、残された僅かな資源を争い、

 百年近くも戦乱が続く。

 そんなに不幸が好きなら、生き残って体験したらいかがです?

 我が身に降りかかって、楽しいかどうかは知りませんが」

 

 凛は呻いた。

 

「え、ここでそれを言うわけ!?」

 

 言峰の誘惑へ、ヤンの答えは辛辣だった。

 

「この子たちは、こんな戦いにうつつを抜かしている場合ではないんです。

 きちんと学び、大人になって、社会を担っていかなくてはならない。

 私にとっての過去が訪れないように、自らの責任でよりよい選択ができるように」

 

 言峰の胸に、落胆と愉悦が同時に広がった。心の傷を開くもなにも、この男は満身創痍を自覚し、聖杯戦争を越えた先を見ていた。破滅の予言を携えて。しかし、まだ終わりではない。

 

「これにも、魔術も聖杯もサーヴァントもいりません。

 私の望みは、この子たちが戦場に立つことなく、幸せに暮らすことです」

 

 あの子には、叶えてあげられなかった見果てぬ夢。

 

「これで、話は終わりにしましょう。どうなさいますか?」

 

 言峰は右手を掲げた。

 

「先のことは、貴様の願いを砕いてから考えることにしよう。

 ――令呪に告げる。ギルガメッシュ、全力を以って宝具を開放せよ」

 

 言峰の令呪の、最後の一角が弾け飛んだ。満身創痍のギルガメッシュに魔力が横溢する。

 

「天地乖離す……」

 

 冬の夜空のように澄んだ声が、結界を超えて響いた。

 

「令呪に告げる。アーチャー、全力で宝具を使って!」

 

 円から放たれた矢が弾け飛ぶ。――そして。

 

「ありがとう、凛。みんな、危ないから逃げなさい」

 

 月が続けざまに凄まじい輝きを放った。星々からは、光が滝のように雪崩落ちる。先ほどまでの戦いは、まだまだ全力ではなかったのか。

 

 これは、ヤン・ウェンリーの戦いの、ごく僅かな規模の再現だった。それでも、サーヴァントとしての分を超えた力だ。通路にまで震動が伝わり始めた。結界が綻びつつある。

 

「遠坂!」

 

 立ち尽くす凛の右手を、士郎は左手で引っ張った。右手はイリヤに繋がれている。

 

「ここにいたら危ない。きっとアーチャーも全力を出せないぞ」 

 

「……わかってるわ」

 

「ここにいても、俺たちにはなにもできない。

 でも、俺考えたんだ。遠坂とセイバーにも手伝って欲しい」

 

 凛は士郎の顔を見つめた。真摯な眼差しだった。セイバーに鞘を返したときの、イリヤに鞘を使ったときと同じ。誰かを助けるために、ひたすらに考え抜く者の顔をしていた。

 

「俺たちでアーチャーを助けるんだ」

 

 凛はもう一度、架空の夜空を見上げると、何かを振り切るように踵を返し、走りだした。肩越しに最後の命令を発しながら。 

 

「必ず勝って! ちゃんと帰って来るのよ!」

 

 最後の一角、中央の円が消えた。これでアーチャーを縛るものはなくなった。『この世全ての悪』を取り込み、英雄王以上の脅威が誕生したのかもしれない。

 

 それでも。

 

「つぎ込んだ財産の分、最後まで働いて貰うんだから!」



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92:決着

 凛の無茶な命令に、アーチャーことヤン・ウェンリーは肩を竦めた。

 

「そいつが一応、給料ってことになるのかな?

 私の懐には一銭も入ってないんだがねえ……」

 

 守銭奴のようなぼやきに、律儀に相槌を打ってくれるのは、副参謀長のパトリチェフ少将だけだ。

 

「はあ、そうですなぁ。

 ですが、閣下の懐に入ったとしても、この兵員を賄うには到底足らんでしょう」

 

「まあ、仕方がないか。凛も苦学生なんだから」

 

「閣下が珍しくやる気を出されたのは、そのせいですかな?」

 

 混ぜっ返すのは、要塞防御指揮官のシェーンコップ中将。その間も砲撃の手は休めない。イゼルローン要塞にあるのは、主砲『雷神の槌』だけではない。砲塔群を総動員し、ヤン艦隊を援護している。

 

「二百年続いているといっても、まだ五回目の、たった七組の小競り合いだ。

 しかも今回のマスターは、ほとんど子どもだ。

 過去への遺恨は、あまり多くない。

 帝国との戦争とは違って、当事者の努力で解決ができるかと思ったのさ」

 

 『給料分の仕事をする』が口癖のヤンは、自らの裁量の及ぶことはちゃんとやるのである。エル・ファシルの脱出行しかり、第七次イゼルローン攻略戦しかり。シェーンコップから見れば、自らを枠に嵌めてしまう欠点であったが。

 

「こういう方法は、できれば選択したくなかったんだが……」

 

「強大な敵が存在する以上、無抵抗主義など絵空事ですな。

 そいつがサーヴァントに求められる仕事で、

 結局のところ、生前となにも変わらない。

 今さら気に病むこともないでしょうに」

 

 実も蓋もない、だが、的を射た言葉だ。ヤンは溜息を吐いた。

 

「分かっているさ。

 何百万人も殺して、今さら迷うのが偽善だってことは。

 だが、あれは生存権を賭けた戦いだった。

 この戦いにはそれさえもない。

 我々は幽霊、あっちは人間。どうしたものかと思ってね」

 

 だが、心は迷っても、彼の指揮に淀みはなかった。ギルガメッシュの攻撃を回避するためのV字型縦深陣は、中央が左右に分かれ、逆ハの字型へと姿を変える。艦隊運動の間も砲火は途切れない。各部隊が巧みに砲撃をシフトし、互いに援護する。魔術師と呼ばれた名将にふさわしい用兵であった。

 

「やれやれ、仕方のない人だ。

 嫌だ嫌だと言いながら、このうえなく上手いときている」

 

 シェーンコップは尖り気味の顎をさすった。ヤンは巧みに陣形を変化させ、イゼルローン側が艦隊を気にすることなく、ギルガメッシュに攻撃できるようにしたのである。 

 

「各区画の砲塔担当者に告ぐ。もう遠慮はいらん。

 ありったけのビームを叩き込んでやれ。――撃て!」

 

 イゼルローン要塞の武装は、雷神の槌のみではない。戦艦主砲と同じ、中性子線ビーム砲を多数備えている。それが一斉にギルガメッシュへと襲いかかった。

 

 自由惑星同盟軍に六度の大敗をもたらした、要塞と駐留艦隊による連携攻撃。『イゼルローン回廊は、数百万の叛徒の血で塗装された』と、帝国軍は豪語したものである。

 

「効かぬぞ!」

 

 薄紅色の七弁花に、光の雨が降り注ぎ、露を結んで零れ落ちる。居残り組は場違いな感想を抱いた。

 

「嬢ちゃんじゃねえが、綺麗なもんだ。

 ――敵の血も骸も見えず、悲鳴も聞こえねえ戦いか」

 

「彼の世界で、戦争が百五十年も続いた理由かも知れんな。

 ほとんどの場合、遺体も戻らん。

 一戦で数万人単位の死者が出るが、船と共に宇宙に消えてしまうんだ」

 

「船が沈んだら助からねえってことか?」

 

「そうだ」

 

 ランサーは後頭部を手荒く掻いた。

 

「そりゃ、坊主らには見せられんわな」

 

「なぜだね」

 

 髪も目も肌の色も違う。しかし、目を瞬かせる偉丈夫には、確かに赤毛の少年の面影があった。

 

「剣ならまだしも、こいつを真似されたら困るだろうが」

 

 エミヤは苦笑した。

 

「それは無理だ。何でも投影できるわけではないぞ」

 

「おまえと坊主が全く同じとは限らんだろ。

 だいたい、当のアーチャーが違うんだ。その技もな」  

 

 人工の月と星座が、光の矢を投げかける。必殺必中の弓の腕を誇る、月の女神のごとく。光に射抜かれた者は、死から逃れることはあたわぬ。

 

 そんな悲惨な戦闘が、漆黒と光の糸で織られたタペストリーのように美しい。生死と美醜が、背中合わせに存在する光景。

 

「こいつは綺麗すぎる。目の毒ってやつだ」

 

 言峰綺礼も目を奪われた。

 

「これが……」

 

 四次と五次のアーチャーの戦いは、醜や不幸に快美を覚える彼を満たす。  

 

「これが私が求めていたものだったのか……?」

 

 黒髪の青年の言によるなら、目の前の光景は、四半世紀後の全面核戦争から連なる千六百年先の未来図だ。宇宙へ手を伸ばした、魔法の領域の技術が、人を殺すためだけに使われている。力によらぬ聖杯戦争の解明を訴え、子どもに平和な未来を望んだアーチャーによって。

 

「貴様ではないが、この世界に生まれていれば……」

 

 この戦いに身を投じれば、言峰の乾きは満たされたのだろうか。言峰は、平和の退屈さに耐えらない者だったのかもしれない。

 

 ヤンの願いとは裏腹に、その戦術は凄まじいの一語に尽きた。イゼルローンの攻撃が奏功しないと見るや、両翼はギルガメッシュの頭上左右を突進。側面から砲火を浴びせかける。

 

「小うるさい真似を!」

 

 彼我の位置の変化によって、光の矢は盾の縁をすり抜け、黄金の鎧で弾けた。しかし、致命傷にはほど遠い。側面攻撃は敵の虚を衝けるが、使える艦砲も少なくなる。

 

 敵に反する舷と射角外の正面主砲、およそ半数が攻撃できないのだ。ヤン艦隊の砲術をもってしても、こればかりはいかんともしがたかった。

 

 ギルガメッシュは盾を横にまで広げ、薄くなった光の雨は遮断された。だが、それこそがヤンの狙いだった。アイアスの盾は、七枚の花弁が重なり合った形をしている。直径を広げると、中央の重なりは薄くなる。そこにイゼルローンからの砲撃が突き刺さった。

 

 宇宙空間を模した結界は、着弾音がしない。しかし、衝撃による震動は洞窟を揺るがし、生じる閃光が闇を白く染め上げる。残ったランサーとアサシンの視界から、ギルガメッシュらの姿を掻き消すほどに。

 

「やったか!?」

 

 歓声を上げたランサーを嘲笑うように、赤と黒の龍が光の滝を遡上し、左翼へと迫る。

 

「左翼、中和磁場を全開。九時方向に回頭、俯角三十度で前進。

 右翼は三時方向へ転回、高度そのままで後尾から前進せよ。

 イゼルローン、援護を」

 

 星の群れは、魔術師が命じるがまま、滑らかに向きを変える。ギルガメッシュの放った衝撃波は、位置を低くした左翼の上を抜け、白き女王の鉄槌と激突した。高度を保ったままの右翼が、左翼の上へと移動する。あれよあれよという間に直線陣が構築された。

 

「――射て」

 

 定理を述べるような命令に、全軍はすかさず呼応した。

 

『くたばれ英雄王!』

 

 光の矢がギルガメッシュの背に突き刺さる。

 

「くっ!」

 

 ギルガメッシュが膝をついた。姿勢を低くし、頭上にアイアスの盾を広げる。屈辱に、秀麗な眉を鋭角にしながら。

 

 軟弱者と見くびっていた黒髪のアーチャーは、四百億人に名を響かせるほどの戦上手だった。この瞬間、彼は慢心を捨てた。力を惜しんで勝てる相手ではない。

 

 魔女のサーヴァントの片方は顎を落とし、もう一方は眉間を揉んだ。

 

「……あいつ、なんでライダーじゃねえんだ!?」

 

「彼女のほうが先に呼ばれていたからだろう」

 

 簡潔ながら、凄まじく説得力がある推測だった。ランサーは天を仰いだ。

 

「セイバーにはなれんから、アーチャーになったのかよ……。

 だとしたらこの聖杯、ポンコツだろう……」

 

 そんな二人の脳裏に、マスターからのお声が掛かる。

 

『聖杯に多くを期待しないほうがよくてよ。

 これを作った者は、悪念を巣食わせた元凶の先祖なのだから』

 

 ぐうの音も出ないとはこのことだ。彼らが残っていたのは、言峰主従への因縁のみが理由ではない。キャスターの目となり、耳となるためでもあった。

 

 ここにいない神代の魔女は、別の場所で戦っていた。ヤンが彼女を間桐家に配したのは、令呪システムの開発者だったからだ。なんとかそれを解析し、令呪から言峰主従を攻められないか?

 

 残念ながら、術の開発は間に合わなかった。間に合ったとしても、固有結界内の言峰主従に干渉できたかは謎だ。とにかく、言峰の最後の令呪は先ほど費消されてしまった。ランサーらの耳目を通じ、それを知ったキャスターは、善後策を練るべく二人を残したのだ。

 

『こんなものに期待して、招きに応じた私も浅はかだったわ。

 けれど、関わってしまった以上、切り抜けなくてはならないでしょう。

 私のマスターのためにも』

 

「あー……」

 

 二人の主はキャスターだ。彼らは当然、キャスターの主を知っていた。この上には彼の住居がある。今日は中学生の受験日だったから、まだ帰宅していないだろう。

 

『アーチャーが負けると私も困るのよ。それはもう、色々と』

 

「う、うむ……」

 

 キャスターの願いは、マスターと添い遂げることだ。そのためのエネルギー源として、彼女は聖杯を欲した。彼女のマスターは魔術師ではないからだ。

 

 だが、優秀な魔術師がマスターとなってくれるなら、聖杯の必要性は低くなる。さらに遠坂=アインツベルン陣営には、聖杯に願っただけでは手に入らない、現代人としての身分を用意できるというのだ。それがないと、四半世紀後の全面核戦争から逃れられないとも。

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーの知る歴史からカンニングすると、核戦争を生き延びるには、南半球にシェルターを作り、大量の物資を用意するのが最も正答に近い。

 

 一にも二にもお金が必要になる。真っ当な手段で準備するには、マスターのつましい給料をやり繰りする以外にない。それには、きちんと身分証明書を用意し、婚姻届を提出しなければならない。配偶者控除が年三十八万円も違う。さて、二十五年後はどうなる?

 

 アーチャーの説得にキャスターは陥落した。それがドミノ倒しのようにランサーとエミヤ、ライダーらを巻き込んでいった。キャスターも、この同盟のもう一つの核なのである。

 

 神代の魔女は、未来の魔術師からの更なる対価を欲していた。婚姻届の書き方もそうだが、冬木の地形と霊脈との関連を、活断層ではないかと推測した点だ。

 

『洞穴が潰えたら、柳洞寺も無事では済まないでしょうね。

 もっと悪いのは、その男共の目論見どおり、

 『この世全ての悪』が垂れ流しになることよ。

 アーチャーの推論によるなら、活断層の巣に』

 

「そら恐ろしい話だな。十年前の災害が小火に思える被害が出かねん」

 

 エミヤは深々と嘆息した。

 

「そうは言っても、どうすればいいのかね。

 この結界がある以上、我々が手出しする余地はないぞ」

 

 結界内は見えているが、外界から隔てられていて干渉ができない。たとえ可能だとしても、アーチャーにとっては邪魔でしかないだろう。

 

『私が見るところ、月の雷も剣の嵐も、あと一発が限度だわ。

 恐らく、アーチャーは勝ちきれない。

 結界が解けたら、おまえたちが英雄王を斃しなさい。

 能う限りの力で。令呪を以って命じます』

 

 心話と共に、莫大な魔力が二人に流れ込んだ。

 

「へ、気前のいいことだ。だが、このままでは洞窟が先に吹っ飛ぶだろうぜ」

 

 ランサーの視線の先で、今なお攻防は続いていた。

 

「王の財宝!」

 

 背後からの光の驟雨は、展開された王の財宝の数々に弾かれた。艦隊を狙うと出鼻を挫かれるが、迎撃には使えるとギルガメッシュは発想を切り替えたのである。しかし、満身創痍だった。

 

 美しかった黄金の鎧は、そこここが凹み、ひび割れて傷つき、輝きも曇っている。それでも英雄王は傲然と立ち、闘争の興奮に笑みさえ浮かべていた。

 

 その凄絶な美しさよ。彼もまた、戦いで名を成した王者だった。

 

 形の良い手が、高々と異形の剣を掲げる。赤と黒の渦がじわりと巻き起こり、ゆっくり膨れ上がる。対する星空は薄れて始めていた。光の雨が止み、月のみが煌々と輝き出す。互いが最大の武器で、最後の一撃を放とうとしていた。

 

『洞窟の崩落は私が何とかするわ』

 

「なに?」

 

『今、柳洞寺に来ているの』

 

 人間としての肩書はこういうときに便利だ。当主が死去し、跡取りが入院中の間桐家で唯一の大人。足繁く柳洞寺に通っても、誰も不審に思わなかった。ちなみに今日は、勤め先への復帰を口実にして、ちゃっかり長居をしている。

 

 そうした傍らで、彼女は陣地の完成に励んでいた。凛と桜から魔力を分けてもらい、中途になっていた柳洞寺の陣地に手を入れたのだ。

 

『そう大したものは作れなかったけれど、ここは私の神殿。

 そのぐらいの術、造作もないことよ』

 

 アーチャーは、勝てなかった時のことも構想していたのだ。誰かが生き延びて英雄王を斃すか、あるいは長期の防衛が可能となるように。籠城戦を前提とするキャスター以上の適役がいるであろうか。

 

 だが、そうした配慮も、足元で戦われては意味がない。戦いによって、彼女のマスターが家財を失ったら、幸せな生活に深刻な影響を及ぼすだろう。この世のおおよその不幸をもたらす、最大最強最悪の敵、その名は貧困。英雄王よりも、よほどに本気を出して戦うべき相手である。

 

『おまえたちも備えをなさい。

 アーチャーが負けたら、結界の消滅に巻き込まれかねない』

 

 天には白い輝きが、地には赤と黒の明滅が、膨れ上がりつつあった。ふたりのアーチャーが渾身の力を練り上げている。真名開放は両者同時。

 

「――雷神の槌」

 

「天地乖離す開闢の星」

 

 赤黒の竜巻が剣から放たれた瞬間。白光は無防備となったギルガメッシュを貫いていた。

 

「なっ!?」

 

 赤と青のサーヴァントは驚愕した。

 

 ヤンが、この戦いで仕掛けたトリックだった。雷神の槌はエアへの迎撃に使われた。見た者たちは互いの威力にばかり気を取られた。双方ほぼ互角、いや、ギルガメッシュがやや有利かと。

 

 実のところは違う。

 

 ギルガメッシュの先制に、ヤン側が迎撃できる速度の差が魔術の種だ。種を悟られないように、艦隊も駆使して誤魔化した。ミスディレクションの壮大さに、観客さえも騙された。超音速と亜光速。同時に撃てば、雷神の槌のほうが先に当たる。

 

 その状況へと誘導するためには、強大な英雄王と互角に戦い、本気にさせなくてはならなかったが、ともかくヤンは成功した。この世すべての悪と契約し、二つの令呪を費消するほどの膨大な魔力を代償に。

 

 雷光で漂白された夜の底に、色彩が戻ってくる。屹立するのは黄金の王。満身を灼かれてなお、瞳は超巨星の色に輝いている。彼が放った竜は、消えることなく宙を進み、白の女王を噛み裂かんとしていた。

 

「我の勝ちだ!」

 

 輪郭を揺らがせた月は、火竜の顎に捉えられる前に消えた。ランサーは槍を握りなおした。

 

「くそ、魔力切れか!」

 

 結界の消滅によって、現実が戻ってくる。エアの斬撃は洞窟の天井を噛み砕き、地上へと抜けた。爆音を響かせ、お山を揺るがせ、大量の土砂や岩石を降らせる。

 

 ――そして、清かな鈴の音も舞い降りた。

 

 其は、いつか蘇る王。仄かな輝きに包まれた、黄金と白銀と深青。展開された鞘に守られ、その手に星の剣を携えて。

 

約束された勝利の剣(エクスカリバー)

 

 研ぎ澄まされた一閃が、ギルガメッシュの左頸部から右胸郭を断ち割った。苦鳴すら立てることなく、英雄王の身は魔力へと還った。

 

 地下と地上に轟く破砕音の中で、エミヤの耳には、セイバーが着地する音がやけにはっきりと聞こえた。

 

 膠着していた時間が流れ出した。妙なる声が、複雑な韻の呪文を響かせる。落下した岩石は、大聖杯を避けるように積み重なっていく。

 

 姿を現した鉛色の巨人が魔女の手伝いをした。天球を支えたその豪腕で大岩を受け止め、意外な繊細さで降ろす。彼のマスターにとって、大事な場所だということが伝わっているのだろうか。

 

 ランサーとエミヤは、広間へと踏み込んだ。アーチャーと言峰の姿を探す。キャスターとバーサーカーは落盤の被害を減らしたが、細かな砂塵にまでは手が及ばない。

それが二人の視界を塞ぎ、入り混じった魔力の残渣が感覚を鈍らせる。

 

 ランサーはルーンで灯りを灯したが、闇から浮かび上がったのはもうもうたる埃だけだった。

 

「くそっ! アーチャー、いるんなら返事しろ!」

 

 そこに鈴の音が近づいてくる。

 

「ランサー、無事でしたか!

 私がやってみますから、少し下がってください。

 風王鉄槌!」

 

 セイバーは威力を抑えつつ、風の鞘を開放した。清涼な風が、砂塵を吹き払った。姿を現したのは、数十本の松明のように輝く剣。

 

 ランサーは賞賛の口笛を吹き、エミヤは複雑な気分になった。伝説の魔術師が送った鞘をエアダスターに、星の意志が育んだ剣をサーチライト代わりにするとは。柔軟な発想は結構だが、明らかに有能な怠け者の悪影響だ。

 

 たしかに彼女は彼のセイバーではない。  

 

「やるじゃねえか。さっきは見事だったぜ」

 

「シロウの策です。

 アーチャーが、わざと月を狙わせようとしているのではないかと」

 

 さすがは弓道部一の腕前といったところだろう。士郎は、アーチャーが、相手の狙いをイゼルローンに誘導していると考えた。

 

 アーチャーの戦法は、実のところシンプルである。敵よりも多くの兵力を用意し、できるだけ予想外の方向から連鎖的に襲いかかる。固有結界が破られ、洞窟の天井をぶち抜かれるのは、彼にとっては負けだが、予備兵力にとっては新たな突破口になる。

 

『あいつなら、きっとそれを考えてる。

 遠坂、そのチャンスを作るように、心話であいつに伝えてくれ。

 それからさ、セイバー。

 ――第七のマスターが令呪に告げる。

 足元に穴が開いたら、宝具を二つとも開放して、英雄王をやっつけろ』

 

 それが士郎の命だった。

 

 凛の心話に答えはなかった。焦りながらも、できるのは待つことだけ。一秒が永遠にも感じる沈黙を破り、轟音と共に足元の地面が吹き飛んだ。

 

 それは、二人のアーチャーの戦いが決着したことを意味した。鬼が出るか、蛇が出るか、地上の者たちには見当も付かなかったが。

 

 それでもセイバーは間髪を入れずに、二つの宝具を開放して突入した。士郎と凛が、必死に頭を絞って計算した着地地点へと。

 

「け、計算!?」

 

「はい。電話でシンジにも手伝ってもらいましたが」

 

 彼女がエミヤのセイバーではないように、士郎もエミヤではなかった。孤独で、なんでも自分でやろうとしていた少年が、人を頼り、人に任せることを、人を信じることを知ったのだった。 

 

 そんな感傷は長くは続かなかった。聖剣の起こす風と光が、探し人の姿を露わにした。

 

 倒れ伏す偉丈夫の前に、立ち尽くす薄れかけた姿の青年。

 

「……ごめん、凛」

 

 とても悲しそうな声で、黒髪の青年は呟いた。

 

「やはり、死なせてしまったよ」



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93:真の勝者

「……ごめん、凛」

 

 とても悲しそうな声で、黒髪の青年は呟いた。

 

「やはり、死なせてしまったよ」 

 

 うつ伏せに倒れた言峰には、外傷らしきものは見当たらなかった。だが、横顔から覗く目は、見開かれたままで聖剣の輝きにも反応していない。逞しい胸も背も微動だにせず、それは絶息していることを意味した。

 

「……あなたが?」

 

 セイバーの問いに、黒い睫毛が伏せられた。

 

「そういうことになるね。

 あれだけの宝具を連続して撃ったら、マスターが無事では済まない」

 

「なっ!?」

 

 洞窟の上部が吹っ飛んだのを見て、遮二無二に飛び込んだセイバーである。その前後の凛の様子はどうだっただろうか?

 

 一気に血の気が引いたが、近づいてきた三つの足音に振り返り、ほっと胸を撫で下ろした。黒髪を揺らす赤いコートの少女と、赤毛に褐色の制服の少年。銀の髪の少女はライダーが抱きかかえていた。

 

「リンは無事なのに……」

 

 アーチャーの睫毛が上がり、薄っすらと笑みを浮かべた。

 

「うん、私はずるをしたからね。その一方で、彼らの抜け道は塞いだ。

 こうなることも期待して。……ひどい話だろう?」

 

 消沈した言葉に隠された凄みに、セイバーは絶句してしまった。アーチャーは言峰主従との決戦に際して、教会という霊脈を奪い、生贄を解放し、預託令呪を剥ぎ取っていた。魔術的な兵糧攻めを行い、英雄王を全力の戦闘に駆り立てた。

 

 サーヴァントが手強いなら、マスターを狙う。聖杯戦争の定石だった。

 

「どういうことですか……」

 

「『受肉』がどういうことかはわからないが、サーヴァントはサーヴァントだ。

 マスターは令呪を持っている」

 

 セイバーは沈痛な面持ちで頷いた。四次の槍兵を思い返したのだ。

 

「だから、あなたは降伏を促したのですね。

 普通ならば、サーヴァントと己の命を引き換えにしない」

 

「そうだ。言峰神父も戦闘に巻き込めば、自分の命を選択するだろうと」

 

 ギルガメッシュを自害させれば、私刑は行なわず、司直の手に委ねる。アーチャーが何度も繰り返した勧告だ。

 

「だが……」

 

 アーチャーは言葉を切ると、倒れた言峰を見下ろした。

 

「彼はそうしなかった」

 

「あなたのせいでは……」

 

 黒髪が左右に振られた。

 

「それもありうると私は知っていた。

 四次アサシンを使い潰した言峰神父が、英雄王は十年も厚遇している。

 英雄王も従っていた。

 半月も経たずに、凛の父から乗り換えた彼がだよ。

 それなりに気が合う、特別な存在だったのだろう」

 

 醜悪に美を感じるという言峰だが、英雄王には美に美を感じ取ることができたのではないか。特異な価値観を肯定する物差しだったのかも知れぬ。

 

「こうなってしまっては、知る術もないが」

 

 アーチャーは疲れたように屈み込み、言峰の瞼を閉じようと手を伸ばした。その指先が言峰の顔面をすり抜ける。

 

「アーチャー……!」

 

「やっぱり駄目か。ご覧の有り様で、蘇生の処置ができなくてね。

 ……蘇生のリミットは過ぎてしまったかな」

 

 洞窟の天井が吹き飛んでから、10分近くが経過していた。蘇生の成功率は5分を過ぎると急速に下がり、10分で0%になる。救命処置をしたくても、エーテルが綻び始めたアーチャーには手の施しようがなかった。

 

「君の鞘で、どうにかならないかい?」

 

 セイバーの髪が左右に揺れた。聖緑が切なげに伏せられる。

 

「この鞘は、持ち主を死から遠ざけます。

 ですが、死者を蘇らせることはできません」

 

 アーチャーは微かに頷いた。セイバーの言葉の二つの意味を、アーチャーことヤン・ウェンリーは覚った。言峰の蘇生は無論、死者であるヤンを癒やすこともできないということだ。死んでから宝物を手に入れることはできない。

 

「……勝手なことを言って済まなかったね。

 殺しておいて、蘇生させようなんて偽善の極みだが、

 それでも言峰神父には生きて償って欲しかったんだ」

 

 深紅を眇めたランサーは、忌々しげに吐き捨てた。

 

「この外道に慈悲は不要だ。

 おまえがやらなければ、俺が心臓を抉ってやったものを」

 

 アーチャーは首を振る。

 

「慈悲などではありません。

 教会の地下の子どもたち、凛や桜君の父、イリヤ君の母のこと。

 償うべき罪と、明らかにすべき過去の、唯一の手がかりだったんです。

 彼の死で、真相は永遠にわからなくなってしまった。

 私の力不足だ。ごめん、みんな」

 

 言葉もない士郎たちに、黒髪が深々と下げられた。

 

「戦うことはできても、本当の意味で君たちの助けになることはできなかった。

 私は本当に役立たずだ」

 

 彼の言葉に凛はぞっとした。アーチャーは自分のことを過去形で語っている。薔薇の騎士を召喚した時と異なり、霊体化もせずに。

 

 これは遺言だ。激闘の果てに、彼の命数が尽きかけている。

 

「だったら、だったら、ちゃんと最後まで働きなさいよ!」

 命令したじゃないの。それとも、私の命令が聞けないっていうの!?」

 

 凛の剣幕に、士郎ならば竦み上がったろうが、アーチャーは苦笑いして肩を竦めた。

 

「令呪もなしに、そんな無茶な命令は聞けないよ」

 

 その間にも、どんどん姿が薄れてゆく。『この世全ての悪』と二つの令呪の補助があったとはいえ、彼もギルガメッシュに匹敵する宝具を続けざまに使ったのである。

凛が無事なぶん、彼の負担はより大きかった。魔力を使い果たし、消滅しようとしている。

 

 凛はアーチャーに駆け寄った。

 

「そんな勝手なこと言って、許さないわよ!」

 

 凛は最初の夜と同じく、頼りない腕を掴もうとしたが、その手はすり抜けてしまった。煙に手を突っ込んだように。そして、かき乱された煙のようにアーチャーの右手が消えた。

 

「う、嘘……」

 

 凛は息を飲み、アーチャーは目を丸くした。苦笑を漏らしながら、右腕を軍服のポケットに突っ込む。

 

「……たしかに、私は幽霊なんだなあ」

 

「ば、馬鹿、呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ!」

 

 凛はコートのポケットをまさぐった。十年ものの虎の子は、ライダー戦で三つ、桜とアーチャーの回復に一つずつ、ギルガメッシュへの襲撃に三つ。全財産と言いながら、あと二つを残していた。

 

「これ飲んで!」

 

 突きつけられた宝石に、アーチャーは首を振った。

 

「悪いが遠慮しておくよ。きっと、すり抜けてしまう。

 これからのために取っておきなさい。

 魔術師の勉強に留学したいんだろう?」

 

「それはそれ、これはこれよ!

 わたしが勉強に打ち込むには、聖杯戦争にカタを付けなくちゃならないの。

 さんざん引っ掻き回したんだから、ちゃんと責任取ってよ」

 

 宝石片手に詰め寄る凛に、アーチャーは首を振った。

 

「年長者として、ひとつ忠告させてもらうおうかな。

 幽霊よりも、今を、家族と友人を大切にというのは、

 君たちにも当てはまることだ。

 私の心配よりも、言峰神父を心配すべきじゃないかい?」

 

「う……」

 

 黒い視線が下に落ちた。士郎はビクリとした。消え行くアーチャーを前に、言峰の死は意識の隅に追いやられていた。

 

 『全てを救う』のが正義の味方なら、真っ先に救うべきは言峰だったろう。

 

 だが、イリヤが攫われ、殺されそうになって、士郎は思い知った。全てを救いたいなら、戦いを選択するのは間違っている。救うという選択肢は勝者にしか与えられない。しかし、勝利は相手を打倒しなくては得られない。人類が生まれ、存続するかぎりはついて回る矛盾。

 

 戦いを選んだアーチャーは、言峰ひとりと士郎たち五人を比べ、後者の未来を選択した。

 

 『全てを助ける正義の味方』にはほど遠い、将としての当然の選択。セイバーが、衛宮切嗣が、エミヤシロウが行い続けた選択でもあった。ぎりぎりまで説得に努め、翻意を促したのは、士郎に知らせたかったのだろうか。

士郎の理想は、戦いの中では手に入らないと。

 

「やった私が言うのはなんだがね」

 

 アーチャーは、左手で髪をかき回そうとしてやめた。髪が消えるのは嫌だったし、そんな動作も億劫になるほどの脱力感に襲われ始めていた。

 

「途中で放り出すのは心苦しいが、そろそろ無理そうなんだ」

 

「そんなのダメよ!」

 

 ライダーに抱かれていたイリヤが、声を張り上げた。取り込んだギルガメッシュの魂は重く、駆けつける途中で座り込んでしまったほどだ。一人で置いてはおけないと士郎が背負ったが、洞窟を進むにはいかにも危なっかしい。見兼ねたライダーは代わりを申し出た。

 

『兄貴分の義理の妹は小姑である』

 

 聖杯の囁きもあってのことだ。サクラのために、イリヤも敬するべきだ。遠縁の美女の話を聞くと、恋愛は当事者の周囲をいかに取り込むかが大事らしい。シンジと一緒にやってしまった悪行の数々を、ここで挽回しておきたい。

 

 そんな思惑を知ってか知らずか、イリヤはライダーの申し出を受け入れてくれた。ライダーと触れ合ったことで、皆の誤解も解けていた。服装こそ扇情的だが、愛情深く、生真面目で天然、そして受動的な性格。

 

 マスターを大切に思うがあまり、慎二の無茶な命令にも従ってしまったのだ。悪いのは慎二だが、間桐の事情を知れば彼も被害者だった。

 

 直接的には十年前に始まった、二百年かけて生み出された悲劇。願いを叶える手段としての聖杯戦争が、いつしか勝利を目的とするようになっていた。不老不死あるいは根源への到達。人としての究極の幸福を追求していたはずが、当事者たちの幸福を顧みなくなった。

 

「な、なんでさ?」

 

「シロウには黙ってたけど、聖杯の器はわたしなの」

 

「は?」

 

 琥珀が真ん丸に見開かれた。

 

「わたしのお母様はホムンクルス。わたしも半分はそう。

 聖杯になるために作られたの。

 アーチャーたちは気がついていたみたいだけど」

 

 他者を食らった臓硯と、ホムンクルスを作り使役するアハト翁は本質的に同じだ。聖杯戦争を是とし、未来の勝利を期して、幼い娘を養女に出した遠坂時臣も。御三家は同じ轍を踏み、行き先は異なれど破滅へ進んでいたのである。

 

「イ、イリヤが器って、一体どういうことさ!?」

 

 もつれる口を必死に動かし、士郎は血の繋がらない妹を問いただした。

 

「シロウ、説明は後よ。とにかく、さっき、わたしは金ピカを取り込んだの」

 

「それで具合が!?」

 

 銀髪がこっくりと上下動した。

 

「あいつをやっつけたアーチャーが来たら、わたし……、どうなっちゃうのかな……」

 

 潤みを帯びたルビーが、ライダーの胸元から士郎を見上げていた。目を逸らすのも、凝視するのも難しい位置だ。凛は雪の妖精を横目で睨んだ。あざとい。あざとすぎる。

 

 案の定、搦め手に弱い士郎は真っ赤になった。自然、質問もしどろもどろになる。

 

「あ、え、その、どうなるのさ?」

 

「わからないけど、わたしのなかでケンカしない?」

 

 衛宮姉弟に視線を向けられて、薄れかけたアーチャーも目をぱちくりさせている。

 

「いや、それは何とも言いがたいんだが……」

 

 今わの際に訊かれても、ヤンとしても困惑するしかない。

 

「ふうん、わからないんだ。わたしたちの未来を望むって言ったくせに、無責任よ。

 アーチャーが死んだら、わたしもすぐ死んじゃうかもしれないのに!」

 

 金ピカこと英雄王ギルガメッシュは、その強大さにふさわしい魂の質量の持ち主だった。『この世全ての悪』を取り込み、彼に拮抗したアーチャーの質量はいかばかりか。

 

 聖杯の器として調整を重ねたイリヤだが、これほどのサーヴァントが揃うとは想定外だった。勝者と敗者を間を置かず取り込んでも大丈夫か。

 

 エミヤは、何度目かの驚愕を味わった。彼の知る義姉は、儚げな雪のように、器という運命を、従容と受け入れて死んでいった。

 

 こんな風に真実をぶちまけ、なりふり構わず未来を望むことなどなかった。それは希望を知ったからだ。愛するものを得たからだ。

 

 この世界の士郎は、かつてのエミヤに比べてもずっと弱い。だが、イリヤに生への執着を与えることに成功している。衛宮切嗣の子どもとして、共に父の真実を探し求めようとしたからか。

 

 声もない同僚にランサーは髪をかき回し、専門家にお伺いを立てた。

 

「ちっこい嬢ちゃんはこう言ってるが、どうなんだ、キャスター」

 

『器本人にもわからないのに、私が知るわけないでしょう』

 

 そっけないが、至極当然の言葉だ。だが、付け加えられた一言で皆が血相を変えた。 

『ただ、お嬢ちゃんが心配するように、

 異質な魔力同士、衝突する可能性がないとは言えないわね。

 それよりも、『この世全ての悪』を取り込んでしまうのではないの?』

 

「おいおいおい! そりゃまずかねえか!?」

 

「――あ。そこまでは考えていなかった」

 

「だ、駄目だ! 死んだら駄目だぞ、アーチャー!」 

 

 慌てる士郎を尻目に、セイバーが進み出た。ぽかんとしているアーチャーを羽交い締めにする。サーヴァントであるセイバーは、凛と違ってすり抜けなかった。

 

「な、何をするんだ!?」

 

「今です、リン!」

 

「ええ。全財産、持って行きなさい!」

 

 驚き喚いたその口に、凛は宝石を突っ込み、治癒魔術を掛けた。すり抜ける前に魔力にしてしまおうというわけだ。効果は覿面、アーチャーの輪郭がしっかりとした質感を取り戻す。

 

 ただし、アーチャーはふたたび咳き込むことになった。砂状になった宝石を、うっかり吸い込んでしまったので。

 

「ちょっと乱暴すぎるぞ、二人とも! もうちょっと、こう、優しく……」

 

 手を握り合う凛とセイバーに、士郎は抗議した。咳き込むアーチャーの背をさすりながら。相変わらずの薄い背だが、士郎の手がすり抜けることはなかった。

 

「消えかけてたんだからさあ……」

 

「アーチャーが考えなしなのが悪いのよ!

 今死んだら、これまでのことがご破算じゃないの!」

 

「む……」

 

「『この世全ての悪』をどうにかしないと、イリヤが死んじゃうかも知れない。

 最悪、また災害が起こるかも知れない。どうするのよ!」

 

 そう言われると、士郎にも反論の術はない。

 

 アーチャーはなんとか息を整えると、弁解めいた言葉を口にした。

 

「一応、私も考えてはいたさ」

 

「何をよ?」

 

「何度も降伏を勧めただろう?

 もともと、戦うつもりで出したわけじゃなかったんだ。

 『彼』も乗せて、帰るつもりだったんだよ」

 

 そう言って、形を取り戻した右手で髪をかき回す。

 

「帰るって、どこに!?」

 

「『英霊の座』だよ。

 固有結界は、世界を術者の心象で塗り替えるんだろう?

 私の『世界の内側』ならば、『世界の外側』に行けると思う。

 『世界の外側』が、いわゆる亜空間ならば、さっきの船で行けるんだ」

 

「宇宙船でって、まさかワープする気だったの!?」

 

 アーチャーは疲れたように頷いた。

 

「そう。そのために艦隊が必要だったんだ。正確に言うなら、副司令官の手腕がね。

 説得に失敗して、戦わざるを得なくなってしまった。

 英雄王があまりに手強くて、逃げ出す余裕もなかったんだよ」

 

「ええっ!?」

 

 凛は言葉を失った。虎の子で一時的に延命しても、なんの解決にもなっていない。要塞と艦隊ほどではないにしろ、全長一キロ近い船を顕現させる魔力なんて、どうやって工面すれば――。

 

 立ち尽くす弓の主従の足元を、黒く細いものが這っていく。それはアイボリーと黒に包まれた足に辿り着き、呟きを漏らした。

 

『……ツレテイッテ。オイテイカナイデ』

 

 ヤンは屈んで手を差し伸べた。

 

「おや、もう一人いたのか……。君も力を貸してくれるのかい?」

 

 黒い影はするりとアーチャーに溶け込んだ。ランサーが呻く。

 

「増えてるぞ、おい! 状況が悪化してねえか!?」

 

 エミヤは力なく首を振った。

 

「頼む、言わんでくれたまえ。……そんな事実を」

  

 おたおたする男どもに、女主人がぴしゃりと言い渡す。

 

『アーチャーが平気なら、さしあたって問題はないでしょう。

 彼をどう生かしておくか、そちらのほうが難問よ』

 

 ライダーの胸で、しろいこあくまがにっこりと笑った。

 

「そんなの簡単よ。わたしのサーヴァントになればいいんだわ。

 魔力なら金ピカのがいっぱいあるもん。

 それでアーチャーが元気になれば、サイコーのフクシュウじゃない?」

 

「イリヤ君、イリヤ君。そんな言い方、誰に教わったんだ……」

 

 ものすごく傷ついた顔をして、アーチャーは問いかけた。答えは言葉ですらなく、向けられた全員分の視線(眼帯越しも含む)だった。黒髪の青年は肩を落とすと、どうにか反論を捻り出した。

 

「君にはバーサーカーがいるじゃないか」

 

「でも、ほかにマスターになれる魔術師はいないわ。

 リンは令呪がないし、シロウは魔力が足りないもの。

 ねえ、ライダー、アーチャーがサクラのサーヴァントになってもいい?」

 

 ライダーは、腕に抱いた少女に首を振ってみせた。

 

「あの、それは無理です。サクラは魔力を搾取されていましたから、

 まだ本調子ではなくて。とはいえ……」

 

『あの子が万全でも、アーチャーまで養うのは無理よ』

 

 間桐家の家庭教師は手厳しい。

兄と妹に魔術を教え始めたキャスターは、二人の力量を把握していた。

無論、己の魔力についても。

 

「ねえ、キャスターはどう?

 アーチャーのこと、スカウトしてたんでしょ?」

 

『あの晩の誘いのことならば、撤回させていただくわ。

 まさか、こんなに底なしの大喰らいだなんて』

 

「は、はぁ」

 

 魔女の矛先は、煮え切らないアーチャーに向けられた。

 

『四の五の言わずにお受けなさい。

 貴方という殻が消えたら、『この世全ての悪』は概念に戻り、

 魔力と共に聖杯の器に流れ込むのよ。

 英雄王の魔力が渦巻いている中にね』

 

 こうまで言われて、理解できないヤンではなかった。まことに不本意だったが。

 

「つまり私は、前回か前々回の、

 もしくは相乗された害をもたらしうるってわけですか?」

 

『そうよ。さっさと再契約して、『この世全ての悪』と一緒に出て行ってちょうだい。

 とりあえずはそこから!』

 

 キャスターの言葉は二重三重に切実だった。 ここでヤンが消滅したら、冬木の地脈の中枢にどんな影響を及ぼすことか。よりにもよって、キャスターの神殿の真下でもある。

 

 しかし、それ以上に切迫した問題があった。

 

『あんなに大きな音を出して、さっきからこちらの電話は鳴りっぱなしよ!』

 

 洞窟を突き破った一撃は、冬の夜に轟音を響かせた。柳洞寺は深山町のランドマークだ。檀家はもちろん、警察に消防、市役所からの問い合わせが殺到している。

 

『寺に被害がないと言っても、あちらは納得しないようだわ』

 

「まあ、それが行政の役割ですが、いや、実に優秀だなあ……。

 平和の豊かさとはこういうことか」

 

 羨ましがるアーチャーに、キャスターは金切り声になった。

 

『呑気なことを言わないでちょうだい。

 その優秀な面々が、半時間後には到着するのよ!

 大聖杯が衆目に晒されて平気なの? 

 今の世は、魔力が乏しいからこそ秘匿しているのでしょう。

 そこを踏み荒らされたら、私たちはどうなるのよ!?』

 

 凛とイリヤは顔を見合わせた。

 

「そんなこと言われても、想定外だわ……」

 

「うん、よくわかんないよ。

 一番ありそうなのは、みんなが消えちゃって、

 わたしに取り込まれることかなあ」

 

「んなっ!? って、みんな金ピカと敵対してるじゃないか!」

 

 洞窟の面々に動揺が走り、アーチャーに向けられた視線に非難の色が混じる。

 

「それによ、その神父もどうにかしないとならんぜ」

 

 ランサーが、倒れたかつての主を顎で指した。

 

「下手すりゃ、坊主たちが追われる身になる。

 おまえの悪知恵が要るんだよ」

 

 逃げ場を失ったヤンはうろうろと視線を彷徨わせ、鋼色とぶつかる。褪せた白髪が深々と下げられた。

 

「私からもお願いする。私の世界のイリヤも聖杯の器だった。

 器として作られて、人として長くは生きられなかった」

 

 士郎は息を呑んだ。自分の未来の可能性が語る、たった一人の家族の末路。

 

「今思うと、何体かのサーヴァントを取り込んでいたからだろう。

 あなたが拒む気持ちは分かるが、()げて受けていただけないか。

 イリヤのために、……衛宮士郎のために」

 

 黒い瞳が瞬いて、優しげに細められた。

 

「……エミヤシロウのためにもなるかい?」

 

 エミヤは頷いた。一番に自分の味方をしなさい。自分が救われて、誰かも救える。それが一番冴えたやり方。そう言ったのは、この世界の遠坂凛だった。

 

「そして、遠坂凛のためにも。あなたが消滅し、イリヤにもしものことがあったら……」

 

 エミヤは言葉を濁したが、ヤンには分かった。凛は士郎に顔向けできなくなり、家族と友人という(おもり)を失くした士郎は、遺された唯一へ突進するかもしれない。養父との原初の誓いに。

 

 それを防ぐのがエミヤシロウの願い。

 

 黒い瞳が瞬き、ゆっくりと周囲を見回した。穴の開いた洞窟の天井、地面に倒れた言峰。彼の周囲にいる人々。黒髪の少女、銀髪の少女、赤毛の少年。

 

 そして、サーヴァントたち。金髪の少女、銀髪の偉丈夫、青髪の美丈夫に紫髪の美女。鉛色の巨漢も現れた。みながヤンを凝視している。

 

 ヤンは溜息を吐き、眉を下げ、髪をかき回した。イリヤの申し出を拒むと、言峰主従に切った啖呵を自らひっくり返すことになる。

 

「仕方がないか……。お願いするよ、イリヤ君」

 

 イリヤは微笑み、凛と声を張り上げる。

 

「―――告げる!

 汝の身は我の下に、我が命運は汝の弓に! 

 聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら、我に従え!

 ならばこの命運、汝が弓に預けよう……!」

 

「……アーチャーの名に懸け誓いを受ける。

 君を我が主として認めよう、イリヤ君」

  

 かくて、イリヤの目論見どおり『リャクダツアイ』は成就したのであった。



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終章 新たな旅路へ
94:回帰


 それからのヤンは撤退の準備に追われた。言峰を大広間の入り口の外に横たえ、バーサーカーに岩で通路を塞いでもらう。ただし、大広間の内側から。

 

 そうしておいてから、ライダーが駆るペガサスで天井の穴から上に出た。そして、霊体化できる者は霊体化し、不可能な者はそそくさと山道を駆け下りた。

 

 近づいてくるサイレンと回転灯に冷や冷やしながら。キャスターの予想より、警察や消防の到着は10分は早かったのだ。

 

 士郎たちはそれで済んだが、柳洞寺に残ったキャスターは一世一代の演技をする羽目になる。遠い親戚の不幸の相談をしに来たところに、至近距離で起きた災害に怯える美女という役どころだ。

 

 寺から離れられない住職夫妻と息子たちに代わり、帰宅してきた葛木宗一郎がタクシーで送ってきてくれた。彼女の教え子たちは、彼にとっても生徒で、先ごろの不幸をきっかけに顔見知りとなった。(という暗示をかけるのも、キャスターの寺通いの理由である。)

 

 教師という安定した職業、年頃もよく、人柄も申し分ない。無愛想なのが玉に瑕、いい人なのに……と思っていた住職夫人は、キャスター嬢と葛木の様子に脈ありと思ったそうな。

 

 それが、円蔵山の洞窟崩落事故における、まだしも明るい話題だった。夜が明けるのを待って、洞窟の捜索を開始した消防と警察が発見したのは、落石で埋まった通路に倒れた言峰綺礼であった。

 

 孤児の監禁と虐待、そして十年前の連続児童誘拐殺人の容疑者。医師による診察の結果、数時間前に死亡したことが確認された。

 

 当初、目立った外傷はなかったが、検死の結果、心臓破裂が判明した。急性心筋梗塞などでまれに起こる病状である。

 

 落盤事故による死ではなく、たまたま洞窟の崩落が重なったのだろう。大いなる意志が罪人を告発するかのように。

 

天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして漏らさず、か……」

 

 警察官らは肩を落とした。

 

「しかし、これじゃ、子どもがあんまりにも可哀想だ」

 

 被疑者死亡で刑事告訴はできず、書類送検に終わるだろう。孤児たちの救済は、民事訴訟に託されることになる。言峰が所属していた聖堂教会は支援を申し出ているが、世間の目は冷たい。犯行を見抜けなかった組織を信用できるか。

 

 結局、子どもたちは行政の手に委ねられることになりそうだ。

 

 そして、言峰綺礼の犯罪との関連は不明だが、警察が捜索していた空き家から、左腕を失った外国人女性が発見された。発見当初は意識不明の重体だったが、現在は回復に向かっているとのことだ。

 

 そうしたニュースがテレビから流れてくる。もう明日は期末考査。高校受験の翌々日、教職員はその採点に追われ、在校生は休みだ。期末考査の最後のテスト勉強の日である。

 

 それを口実に、衛宮家には聖杯戦争に関わった高校生が一堂に会していた。勉強にはろくすっぽ手を付けていなかったが。

 

「なあ、この女の人って、ランサーのマスターか?」

 

「おう。あの野郎に腕をバッサリ切られてな。

 逃げはしたが、てっきり死んじまったとばかり……」

 

 戦場を駆けたランサーの経験は正しい。四肢を切断するほどの重傷は、すぐに手当をしないと間違いなく死ぬ。間違っているのは、ランサーの本当のマスターの頑丈さだ。

 

「……こう言っちゃ悪いけど、ジジイの同類じゃないだろうね?」

 

 疑惑の視線を向ける間桐慎二に、ランサーはひらひらと手を振った。

 

「それはねえな。やたらと頑丈で力が有り余ってるだけだ」

 

 ではバーサーカーの同類かと士郎は思ったが、賢明にも口には出さなかった。

 

「そ、そうか。……ランサー、見舞いに行くのか?」

 

「さぁて、どうすっかねえ。俺ももうすぐ消える身だ」

 

 ランサーの視線は、炬燵で微睡んでいる黒髪の青年に向けられた。残りの召喚期間で、出来るかぎり魔力を補充し、イリヤの令呪でブーストして船を呼ぶ。それに希望する者を乗せ、出航すると彼は言った。

 

「サーヴァント召喚のシステムから考えると、

 『世界の外』に出れば、座に自動的に戻るんだろう?

 本物だったら、アルゴルやヘラクレスαぐらいは行けたんだけどなあ」

 

 こともなげに言われて、現代人は呆気に取られたものだが。

 

「とにかく、ここで我々が消えてはイリヤ君が困るわけだ。

 セイバーの望みは叶えてあげられないが……」

 

「いいえ」

 

 セイバーは首を振った。

 

「もう必要がなくなりました。

 私は力の限り、戦い、歩んできました。

 私が歩みを止めても、人は歩き続けてくれる。

 だからよいのです。やり直しなどしなくても」

 

 セイバーは士郎の参考書を開いた。

 

「私の国に襲い来た蛮族も、必死に生を選ぼうとした人々だったのですね」

 

 ページに記されていたのは、『ゲルマン民族の大移動』。

 

「正義とは時と場所、立場によって異なるとあなたは言いました。

 それは正しい。ですが、全てではない。

 もっと、(あまね)く広く、理想となるものはある。

 『皆が笑顔でいられる国を』」

 

 アルトリアの抱いた最初の願い。

 

「キリツグの願いもそうだったのでしょうか。

 その答えの一つがこの国にはあります」

 

「君は何だと思う?」

 

「豊かさです。皆で分かち合えるなら、争いはずっと少なくなる」

 

 セイバーは切なげに微笑んだ。

 

「私は十年で十二の戦いを経験し、勝ち続けて来ました。

 乏しい糧を争い、争いが続き、さらに国が貧しくなっていく。

 剣を捨て、鍬を握っても追いつかない。また、奪われるのです」

 

 気候の変動という、人の抗えぬもの。それがセイバーの真の敵だった。

 

「鞘を取り戻しても、聖杯に願っても、

 この星そのものは変えられないでしょう」

 

「……そうだね。私の時代ではなおさら無理だ。有人惑星が沢山あるんだよ」

 

 翠の瞳を瞠ったセイバーに、ヤンは不器用にウインクした。

 

「それでも、凛の家にあった壺が、私の時代まで残ったんだ。

 この奇蹟のような時代も、少しでも長く続くといいね。

 核の炎に失われることのないように。

 士郎君たちの子孫もそうなることを願っている。

 何か、残せるものがあるのだとしたら、平和が一番だ」

 

「そうですね……」

 

 戦いを駆け抜けた王と智将は、見果てぬ夢の世界に降り立ったのだ。それがなによりの報酬だと、セイバーは考えるようになっていた。

 

「そう願いながら、私は逆のことばかりしてきて、死んでからまでやってしまった。

 まったく度し難いことだよ。せめて、これ以上の犠牲は出したくないんだ」

 

 聖杯を入手しないかぎり、セイバーは死の寸前へと戻る。ヤンの船には乗せられず、イリヤに取り込まれることもない。それを知っての言葉だったのだろう。

 

「さて、エミヤ君はどうするかい?

 君はキャスターが招いたサーヴァントだ。

 彼女には、何らかの算段があるかも知れないが……」

 

「……私もあなたの船に乗せていただくとしよう。

 イリヤの体のことを考えると、負担は少ない方がいい」

 

「俺もそうするぜ。あの結界の本物をこの目で見られるんだろ?

 ちっこい嬢ちゃんのことを思うなら、

 バーサーカーのおっさんも乗るだろうよ」 

 

「はあ」

 

 ヤンは髪をかき回した。

 

「じゃあ、ちょっと、休んで力を蓄えないと……」

 

 そう言ってから、微睡むか、横になっているかのどちらかだ。目を覚ますと、イリヤや凛に取り巻かれ、エミヤは茶を淹れと、下にも置かぬ扱いだった。ぎりぎりで消滅を免れたとはいえ、瀕死に近い状態なのである。

 

 ウェイバー講師からの情報提供で、イリヤとヤンのラインを分割し、凛も魔力を供給してはいる。だが、栓をしていないプールに給水するようなものだ。

 

「ううー……。くらくらする……」

 

「大丈夫ですか、姉さん?」

 

 目の下に隈を作った凛を桜が気遣う。

 

「こんなんでテストなんて無理かも……」

 

 嘆く穂群原学園二年の不動のトップに、万年二位も溜息を吐いた。

 

「チャンスと言いたいところだけど、僕もさ。

 期末直前に一週間も休んじゃね。

 ところで衛宮。ノートはもっと要点を押さえて取れよ!

 黒板を全部写したって意味ないぞ!」

 

「へっ!?」

 

「僕と同じ選択科目だから借りたのに……」

 

「す、すまん」

 

「原文なんて、教科書にあるだろ。

 そっちにも書き込んで、要点をノートに抜き出すんだよ。

 どうせ、復習の時は一緒に見るんだから」

 

 士郎はビシリと固まった。高みにいる人間は、平均点のやや上にいる士郎と勉強のやり方が違う。

 

「……すみません。部活とバイトと鍛錬でそういうのあんまり……」

 

「まあ、いいじゃないか。落第さえしなければ」

 

 うたた寝から覚めたアーチャーが仲裁に入った。

 

「私なんて、興味ない教科は及第ぎりぎりだったよ」

 

 ほっとする士郎に、慎二は眉を逆立てた。

 

「そこで安心するな!

 普通の普通と、トップクラスの下には巨大な差がある。

 おまえ、フルマラソンを二時間半で完走できるのか?」

 

「や、フルマラソン自体がちょっと無理かも……」

 

「そりゃ私も無理だ」

 

 のほほんとしたアーチャーにも慎二は噛み付いた。

 

「通信教育で、東大相当に合格するような変態は黙っててくれよ!

 聖杯戦争を隠すには、遠坂と衛宮は普段どおりの成績でないとまずい。

 衛宮は藤村先生に突っ込まれる。遠坂なんてもっと厄介だ」 

 

 黒髪の青年は肩を竦め、黒髪の少女は頭を垂れた。

 

「やっぱりまずいかしら……」

 

「たしかにその顔なら、体調不良で追試にできるかもしれないけどね。

 ……凄い隈だぜ。大丈夫か?」

 

「あんたに心配されるだなんて……。ありがと、慎二……」

 

 そうしたやりとりに、ヤンは微笑んだ。凛に新たな友人が生まれようとしている。複数の海流が交わり、豊かな幸を君にもたらさんことを。

 

 そして……。



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閑話14:学校の怪談

 日は昇り、また沈み、時は移る。そして、期末考査も刻一刻と近づいていくのであった。居間の座卓の問題集を前に、士郎は赤毛を抱え込んだ。

 

「ああぁぁ~~。こいつが残ってたんだっけ。ほんと、マジにどうしよう……」

 

 聖杯戦争は一大事だったが、こっちも人生を左右する戦いだ。

 

「ホントにもう、アーチャーが言ってたけど、

 聖杯の加護が俺にもあったらいいのに……」

 

 弟子の嘆きに、同じくテスト勉強に取り組んでいた凛の眉が吊り上がった。

 

「……言わないで!」

 

 設置者の子孫として、心の底からそう思う。なぜ、マスターにも使えるようにしなかったのかと。不可能な理由は重々承知しているが、納得できるかは別の話だ。

 

「サーヴァントは霊格が高いから、膨大な知識を受けても平気なのよ。

 人間ではたちまち脳みそがパンクして、発狂しちゃうでしょうね」

 

「それを魔術で調節するとかさ……」

 

「あんたね、それができたらアインツベルンは第三魔法を自力で復活できるでしょ」

 

「そっかぁ、そうだよな……。でも遠坂はいいよな。

 アーチャーに、勉強教えてもらえばよくないか?」

 

 士郎は、熱心に世界史の教科書を読み耽るアーチャーに目をやった。士官学校というのは、様々な教科があったようだ。さっき、物理の問題に頭を捻っていたら、後ろから覗きこんでいたアーチャーが教えてくれた。

 

「いや、これが絶頂期ということか。

 物理の授業なんて忘れてたけど、今なら解けるんだなあ」

 

 と言いながら。物理は平均点レベルだったそうだが、彼の偏差値はかなり高そうだ。

 

 慎二が参考書から顔を上げ、凛に据わった目を向けた。

 

「おまえが羨ましいよ。

 そいつに霊体化してもらえば、テストだってバッチリじゃないか」

 

 士郎もまじまじと凛を凝視した。彼らは暗黒面に足を突っ込みかけていた。そのぐらい切羽詰まってます。

 

「家庭教師はまだしも、カンニングなんて却下よ!

 フェアでも優雅でもないわ。

 神秘は秘匿するものだけれど、ばれなきゃ魔術で非道をしてもいいって、

 そういうものじゃないでしょ。そんな考えだと、行き着く先は封印指定よ」

 

 凛の厳しい一言に、男ふたりはびくりと背筋を伸ばした。アーチャーも教科書から顔を上げた。

 

「まあ、これは凛が正しいが、こんな状況で勉強どころじゃなかったのは、

 よーくわかるよ。

 私なんて好きな教科以外は及第点を取れればいいやって、

 ぎりぎりまで手を抜いたもんだ」

 

 こっちも問題児か。学年一の成績の遠坂凛は、座卓に拳を打ちつけてから、従者に説教した。

 

「あんた、その結果が今だってわかってんの?

 射撃が下手で、白兵戦もだめ。

 だから、サーヴァントとして呼ばれる羽目になったんでしょ!」

 

「だって、船が沈めば死ぬような戦場では、どっちも意味がない。

 相手も自分も遥か彼方から砲撃しあうんだから。当時はそう思ってね。

 ああ、その二つは手は抜いてないよ。努力しても落第しないのがやっとだった」

 

「なんですって、なお悪いわ!」

 

「そんなことを言っても、私は船育ちの本の虫で、

 ろくに運動なんかしなかったんだから、仕方ないだろう。

 親父が死ななかったら、大学に行ってたし」

 

 二人の言い合いを聞いて、慎二の手からシャープペンが転がり落ちた。

 

「手抜きして及第点って、それは劣等生と違うだろ!?

 っていうか、アーチャーは小学校とか中学校に行ってないのか?」

 

「ああ、うん、通信教育なんだよ。

 修了判定を受けて合格すれば、大学受験はできるからね。

 結局士官学校になってしまったけど」

 

 慎二は黒髪の青年を凝視した。なにそれ怖い。ほぼ独学で大学合格レベルの学力があった、ということではないか。

 

「おまえの志望校って、どんな大学だったんだ?」

 

「首都にある国立大だ。私が尊敬していた国父の名の学校だった。

 父が進学を許してくれたけど、商人だからシビアでね。

 一番学費が安く、一番いい大学にしろ、でないと学費は出さんぞって」

 

 ……それって東大相当!? 高校生三人は揃って平伏し、異口同音に懇願の声を上げた。

 

「お願いします! 勉強教えてください!」

 

「まあ、だいぶ内容も今と違うから、私のわかる範囲なら……」

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーは、首から上はまことに役に立つサーヴァントだった。

 

***

 

「ところで、アーチャー。どうすればそんなに頭良くなれるんだ……」

 

 高校生たちの臨時家庭教師となったアーチャーだが、とにかく賢い。未来人のくせに、古文にも対応。これは聖杯のおかげもあるんだろうが。

 

「学校が厳しかったんだよ。

 衣食住を賄ってくれて、少々だが給料も出る。

 そのかわり、55点未満を取ると即座に退学になるけど」

 

 潔癖な印象の眉が寄せられた。

 

「ホントに厳しいな……!」

 

 穂群原の赤点の基準は、平均点の六割未満。だいたい30点から40点の間だ。それに即退学なんてことはない。補習授業というものがある。士郎たちが頑張っているのは、それを回避するためだ。

 

「だろう? 苦手な実技はもう必死だったよ。

 学校を追い出されたら、食いっぱぐれて宿なしになってしまうからね」

 

 生活がかかれば、船育ちのもやしっ子も必死になるのだ。

 

「もっとも、数学は船乗りの必須科目なんだ。

 大航海時代の船乗りは、三角法で進路を計算し、未知の海を越えたんだ。

 その間に必要な食料や水の配分なんかもそうだ。

 そいつは、今も、私たちの時代も大きな違いはないんだよ」

 

「へえぇ……。でもそんなの数学の授業じゃ習わないぞ」

 

「こっちは戦史の授業で習ったのさ。

 人間の歴史は戦争の歴史でもあるんだ。切ないことだがね」

 

 アーチャーことヤン・ウェンリーは溜息を吐いた。まったく、死後まで戦いに呼び出されるなんて、なんの因果だろうか。私が一体何をしたと言うには、心当たりがありすぎる。

 

「せっかく、人類史上でも稀な、平和で豊かな時代なのに、

 なんだってこんな戦いをするんだろう……」

 

「それ、俺に言われても困る」

 

「だよね。士郎君はとばっちりもいいところだもんなあ。

 あ、その計算、間違ってる」

 

「げ、マジ!?」

 

 それを居間の隅っこから、セイバーとランサーが畏怖を込めて見つめていた。

 

「いくら聖杯の加護があっても、あれは無理です……」

 

「おう……。あいつの時代の武人ってのは、学問もできないといけねえのか……」

 

「……あなたは、原初のルーンを習得していると聞きましたが」

 

「アホ抜かせ、あれとは全くの別モンだ。

 それを普通に学んでいる、坊主らも凄くねえか?」

 

「確かに……」

 

 彼らも生前は国内屈指の文化人であった。ただ、時代と国の違いは大きい。ヨーロッパの文明の中心は、長らく地中海地方であり、彼らの故国は辺境もいいところである。

 

 古代ローマ帝国が東西に分裂し、ゲルマン人やサクソン人の侵入に耐えきれなくなったのがセイバーの時代。

 

 それより五世紀ほど遡るが、ランサーはケルトの人間だ。神代に生きたキャスターやライダー、バーサーカーのほうが、文化的にはずっと洗練されているのだった。

 

 それをも凌ぐのが、現代の高校生である。先人たちの知恵よ、ありがとう。そのお陰ではありますが、だからとっても大変です。

 

 士郎は髪を掻きむしった。

 

「と、とてもじゃないけど間に合わないぞ……」

 

「じゃあ、山を賭けるかい?」

 

「へ?」

 

「授業の内容と先生の言葉から、出題傾向を予測するんだ。

 私はそれで乗り切った。六割当たればなんとかなるし」

 

 実戦的なアドバイスに、士郎の顔に喜色が昇った。

 

「お、おお! いいな、それ。なんとかなりそうだ」

 

 黙々と問題集に取り組んでいた凛と慎二が、顔を上げた。

 

「馬鹿ね。なんともならないわよ」

 

「なんでさ!?」

 

「山を六割も当てて、全問正解しなきゃいけないんだぞ。

 非現実的だね」

 

「あ!? ああぁ~~!! そうじゃないか!」

 

 それがわかる二人だって、とっくにハマりかけた落とし穴というわけだが。

 

「普通にやったほうがずっとマシよ」

 

「そうさ。山を賭ける時間、勉強したほうがまだ捗るね」

 

「遠坂、慎二……。それができたら苦労はしないんだ」

 

 そんなのは優等生の言い分だが、この二人はまさしく優等生なのだ。入学以来、穂群原学園二年の不動の一位と二位である。だからこそ、プライドで自縄自縛なのだが。

 

「私も士郎君に賛成だ。

 それは、出題範囲をまんべんなくカバーできる人が言えることだよ。

 そうでない者にとっては、寡兵で大軍に立ち向かうようなものだ。

 戦力を投入すべきポイントを選択し、集中を行わないと」

 

 アーチャーの言い分のほうが、士郎にはずっと賛同できた。

 

「うんうん。で、どんなふうにやればいいのさ?」

 

「なにも闇雲にやるわけじゃない。

 授業内容を見返し、重点を絞り込み、その周辺をカバーする。

 これならずばり的中しなくても、大ハズレはしないよ」

 

 士郎は衝撃を受けた。

 

「ち、違うぞ、アーチャー。

 それ、きっちりと授業がわかっている人のやりかただ……。

 わかんないから山を張るんだ!」

 

「でしょ。だから詰め込んだほうがマシなのよ!」

 

 天才は模倣できないが、秀才の真似はできる。結局、士郎はコツコツと問題集に取り組むことにした。学問に王道はないのである。

 

 そんな学生たちに、ランサーがぽつりと一言。

 

「その山を、アーチャーに張らせたらいいんじゃねえか?」

 

 がばりと顔を上げる士郎に、凛は力なく頭を振った。

 

「無理よ。教えるのはできるけど、山を張るには内容が違いすぎるんだって。

 数学と物理以外は」

 

「なんでそんなことがわかるのさ?」

 

「わたしの隣で授業を受けてたからよ!」

 

 とんだ学校の怪談だ。幽霊のほうが優等生だなんて、笑い話にもならなかった。




注:同盟軍士官学校は一学年五千人弱。東大の合格者数は約三千人。
  自由惑星同盟の人口は百三十億。寿命は百年ぐらい。
  単純計算で、一億人以上は同い年の人間がいる。
  なお、日本の18歳人口は約百二十万人。
  かなりの狭き門であることは間違いない。


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95:Question&Answer

「凛、イリヤ君、短い間だったがありがとう」

 

 黎明を迎える前の空に、白く輝く有明の月。泣き腫らした目の少女たちに、アーチャーは軽く頭を下げた。

 

「お願い、行かないで!」

 

 イリヤは彼に飛びついた。

 

「おっと……」

 

 アーチャーは衝撃でよろけかけたが、なんとかイリヤを受け止めた。生前の十倍の力があるなら、小揺るぎもしなかったろうに。

 

 凛は悲鳴を飲み込んだ。サーヴァントとしての身体機能を失い始めている。彼は最後の力で船を呼んだのだ。

 

 黒いベレーの遥か上方に、二重写しになった仮想の夜空。そこに彼の船が姿を現していた。英雄王との決戦の際は星にしか見えなかったが、濃緑をベースに鋼色を配した、直線的な形をしている。いかにも兵器らしく、無骨だが研ぎ澄まされた機能美があった。

 

 イゼルローン駐留艦隊旗艦、ヒューベリオン。この一隻が、ヤンが出せる最後の宝具だった。

 

「大丈夫かい? 突き抜けなくてよかったよ」

 

「ご、ごめんなさい」

 

「いや、平気さ。でも、今のままじゃ体を治せないだろう?

 認知の裁判をやるためにも、元気でいなくちゃならないよ」

 

 アーチャーの説得に、翡翠と琥珀が点になる。

 

「あ、本当にやるの、それ……」

 

「そんなことしなくても、イリヤは俺の家族だ!」

 

 勢い込む士郎に、アーチャーことヤン・ウェンリーは微笑んだ。

 

「でも、そうして始めて、君たちは本当の家族になる。

 法律上というか、戸籍上のね。こいつは重要だよ。

 お父さんのことを、もっと深く調べることができるんだ」

 

 黒いジャンパーにしがみつく銀髪が、向きを変え、黒髪の青年に問いかける。

 

「南の島にいる、キリツグのお父さんとか?」

 

「そう」

 

 温度を失い始めた手が、銀髪を撫でた。

 

「探してごらん。切嗣さんの過去を。

 士郎君に託した彼の理想の意味を。君に伝えられなかったことを。

 どうして、彼はそういう願いを抱くに至ったのか。

 それをよく知ることで、

 士郎君の目指すものも明らかになっていくのではないかな?」

 

 未来の魔術師が、若き魔術師たちに謎をかける。

 

「その中で、第四次聖杯戦争も明らかになっていくはずだ。

 イリヤ君のお母さん、凛のお父さん、慎二君の叔父さん。

 士郎君の本当の家族のことも」

 

「あ……」

 

 揺れる琥珀に、黒曜石は静かだった。

 

「私たちに出来たのは、当面の危機を除くことだけだ。

 実際のところ、大事なことはなにも解決していないのさ」

 

「そんなこと……!」

 

「あるんだよ、凛。聞いてくれないか?」

 

 反論しかけた凛を、珍しくヤンは遮った。 

 

「君は後見人を失った。彼は前回の聖杯戦争の重要な証人で、

 聖堂教会の監視役でもあった。

 この戦争の後始末が君たちの肩にかかってくるんだ」

 

 そう言うと、ヤンは指折り数え始めた。

 

「とりあえずは、聖杯戦争に関連する賠償だね。

 キャスターとランサーの本当のマスターや、

 キャスターとライダーが起こした事件の被害者たちの救済。

 聖堂教会や魔術協会、時計塔なんかとも折衝しなくちゃならない」

 

 一本、二本と指が折られ、中指が曲がる。

 

「それから、間桐翁と言峰神父の死によって、遺族には重荷がのしかかってくる。

 こうした償いは、私たちにはできないんだ。

 存在するはずのない幽霊だから、法に拠ることはできない。

 賠償しろと言われても、私に財産はないし」

 

 ヤンは肩を竦めた。

 

「あの宝具の数々も、英雄王と一緒に消え去ってしまったものなあ。

 残念だったね、凛」

 

「うっさいわよ! ……この金食い虫。

 そんなの、これからいくらでも元を取ってやるわよ」

 

 凛の憎まれ口は、機先を制されたからだ。『あんたが残ってなんとかしなさい!』と喉元まで出かけていた。凛がそんなことを口にしたら、彼に名を二度呼ばれることになるだろう。そんなの、プライドが許さない。

 

「うん、その意気だ」

 

 強がる元マスターに、アーチャーは微笑んだ。この子は逆風に翼を広げ、高みへと昇るのだろう。見届けることができないのは残念だけれど、せめて言葉を残そう。

 

「どんなに辛いことがあっても、

 君たちが力を合わせ、知恵を絞ればきっと乗り越えられるさ。

 過去を探し、知り、今がよりよくなるように考えてごらん。

 その先の未来は、君たちのものだ」

 

「アーチャー……」

 

 しゃくり上げるイリヤの髪をもう一度撫でて、手が離れた。そして、イリヤから彼の体温が離れる。弾かれたように顔を上げるイリヤに、見つめる凛と士郎に、アーチャーは敬礼した。

 

「君たちの人生の航海の無事を祈る。……今まで、ありがとう」

 

 ヤン・ウェンリーとしては、みんなに伝えられなかった言葉を。 

 

 それが最後の言葉だった。染み入るような笑みを残し、黒と白が薄らいでいく。

 

「そ、そんな、ちょっと、待ちなさいよ」

 

 伸ばした凛の手は空を切った。

 

「……わたしこそ、なんのお礼も言ってないのに!」

 

「俺もだ、遠坂」

 

 別れの言葉も言えなかった。天空の船は、音もなく飛翔を始めた。

 

「あんなに急いで、みんなを乗せてくのにギリギリだったのかな」

 

 船の窓に、青と紫と白の髪、鉛の腕に抱かれた黒い影がちらりと映り、士郎の目にもすぐに見えなくなった。船はみるみるうちに遠ざかり、光の矢となって瞬かぬ星の海を突き進む。光速を超え、士郎たちの視界から、『世界の内側』から消えた。

 

 彼らの船出を寿ぐように、永遠の夜は曙光の空へと姿を変える。

 

「美しい夜明けですね……」

 

 アーチャーの別れを見守っていたセイバーは、昇る朝日に金の睫毛を瞬いた。二月の下旬、朝の訪れは早くなった。冬はもうすぐ終わり、春が巡り来る。豊穣の女神の娘が、空け()めた空に麦の穂を掲げていた。彼女の導きで、枯れた草木が残した種が、芽吹いて野山を彩り始めるだろう。

 

 そんな当たり前のことも、セイバーは忘れていたように思う。もう、きっと忘れはしない。

 

「……シロウ、リン、イリヤスフィール。

 私もお別れです」

 

「セイバー……」

 

 言葉に詰まる士郎に、青いドレスと銀の鎧も凛々しい騎士の王が一揖した。

 

「私はここで、聖杯よりも尊いものを得ました。

 真実を明かし、語らえる友です。

 あなたたちがいたことで、私は孤独ではなくなりました」

 

 女であることを隠し、王位に就いたセイバーには、どちらも得られなかったものだ。

 

「選定の剣を抜いた時、そうしていればと思わなくはありません。

 ですが、真実を明かしていたら、私は王になれなかった。

 十年どころか、最初の争いで命を落としたことでしょう。

 偽りでも、わずかな間でも、国を守ることができた。

 それは、決して無駄ではなかったと思います」

 

「……うん」

 

 セイバーは再び空を見上げた。

 

「ですから、後悔することははしません。

 残りの時間を精一杯に生きます。たとえ、短い時間であっても」

 

 セイバーが浮かべた笑顔は、それまでで一番美しかった。

 

「ありがとう、シロウ。リン。イリヤスフィール。

 答えを得ました。

 私の願いは、大勢の人の手を経て、ここに到るのです。

 皆が笑顔の争いのない国を。その理想は間違いなどではなかった。

 ただ一人、剣で成し遂げられると思ったことが、誤りだったのだと」  

  

 セイバーの髪が、鎧とドレスが、そして聖剣が、輝きながら、静かに解けていく。

 

「シロウのいう『全てを救う正義の味方』という理想は尊いものです。

 シロウだけではなく、皆がそうなればきっと届きます。

 ……別に、正義の味方が大勢いても構わないのでしょう?

 イリヤスフィールの好きなテレビのように」

 

「セイバー……」

 

 声を揃える姉弟に、セイバーは珍しくいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 

「私の轍を踏まないよう、シロウたちは仲良くしてくださいね。 

 さようなら、友よ。

 あなたたちと出会えたことが、聖杯にも勝る宝です。

 本当にありがとう……」

 

「俺も、ありがとう……。俺、頑張るから。きっと頑張るから」

 

 それは煌めく夢の終わり。生あるものは再び歩み出す。長いか、短いかの違いはあろうとも。過去を訪ね、今を生き、やがて未来へと続く。

 

 そして始まる、新たな物語。



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エピローグ
?:Butterfly Effect


「君の言うとおりなら、なぜ連中は軍隊に志願しないんだ?」

 

 憂国騎士団が家を襲撃しているのに、なかなか出動せず、やって来たかと思えば、犯人たちを愛国者団体だと評した警官に、ユリアン・ミンツの保護者は不愉快そうだった。

 

 しかし、いくら不満を言ったところで、家屋破壊弾を撃ち込まれた居間は元通りにはならない。少年は散水器のスイッチを切り、惨憺たるありさまの室内を片付け始めた。

 

「私もやろう」

 

「いえ、かえって邪魔になりますから」

 

 手伝いを申し出た黒髪の青年は、ユリアンと血のつながりはない。戦争で孤児になったユリアンを、引き取ってくれた若き准将である。

 

 名前はヤン・ウェンリー。21歳の時に、軍に置き去りにされた民間人三百万人を脱出させ、先日はアスターテの会戦で、同盟軍の全面潰走を阻止した英雄だった。

 

 しかしこのヤン准将、家事の才能には全く恵まれていなかった。手伝ってもらったら、逆に被害が拡大すること間違いなしである。

 

「そうだ、そこのテーブルの上にでも乗っていて下さい」

 

「テーブルってね、おまえ……」

 

「すぐにすみますから」

 

「テーブルの上で何をやっていればいいんだ?」

 

「じゃあ、紅茶を淹れますから、それでも飲んでいてください」

 

 ぶつぶつ言う保護者を、好物で釣るユリアンだった。室内のものは、あらかた壊れ、がらくたと化してしまった。こうなると、ヤンに怪我をされるほうが困る。

 

 今日は、アスターテ会戦の戦没者慰霊祭で帰宅が早かったが、明日からまた、敗戦処理で遅い日が続くだろうから。

 

 ようやく、ヤンはテーブルの上で胡座をかいた。家事の邪魔になる、でも一番の貴重品がようやく避難してくれたので、ユリアンは割れた陶磁器の片付けに着手することができた。

 

 これは、ヤンの亡き父が自慢していたコレクションだったが、相続したヤンが鑑定してもらったところ、贋作だらけだったそうである。1ディナールの価値もなく、鑑定料のぶんだけ損をした。ヤンはそうぼやいていたが、飾っているところを見ると、それなりに愛着はあるのだと思う。

 

 手入れをするのはユリアンの役目だったが、不器用なヤンが信頼して任せてくれたのだ。ユリアンとしても腹立たしい。家族の思い出の品を失うのは辛いものなのに、家屋破壊弾のせいで、ほとんどが原型を留めていなかった。

 

 だが、奇跡的に難を逃れた物があった。亜麻色の髪の少年の、繊細な美貌に光が差す。

 

「あ、よかった。これは割れてないですよ」

 

 ユリアンが差し出した壺に、ヤンは眉を上げた。

 

「万暦赤絵だな。そいつは親父の遺品の中では、たったひとつ本物だったんだ。

 よく無事だったなあ……」

 

「じゃあ、この壺は地球時代の物なんですか?」

 

「ああ、二千年ぐらい前、私のルーツである中国で焼かれたものさ。

 眉唾もののいわれがあるんだ。

 なんでも、そいつに願うと、黒い服の魔法使いが出てきて」

 

 ヤンが父から聞いた与太話を語ると、被保護者は疑わしげな表情になった。

 

「魔法使いが出てきて、願いでも叶えてくれるんですか……?」

 

 ヤンは首を振った。父から聞かされたのは、もっと呆れた結末だった。

 

「いや、そうじゃない。

 一応、願いを叶えるための知恵は授けてくれるらしい。

 叶うかどうかは、本人の努力次第。

 でも、きっちりと全財産を奪っていくんだとさ」

 

 ダークブラウンの瞳が眇められ、壺と保護者を交互に見やる。

 

「どちらかと言うと、魔法使いじゃなくて悪魔じゃありませんか?」

 

「おや、おまえもやっぱりそう思うかい?」

 

 蝶の羽ばたきは、時の河の果てでさざ波を立てる。

 

 銀河の歴史がまた一ページ。

 

――完―― 




拙作にお付き合いいただき、ありがとうございました。


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番外編
宝具選定幕僚会議


あるいは、英霊たちのろくでもない密談。
2月1日 23:00実施?


「ヤン・ウェンリーと言えばイゼルローン。

 イゼルローンと言えば雷神の槌。これは譲れませんね」

 

 灰褐色の髪と瞳の美丈夫は、そう主張する。銀の髪と口ひげをした初老の提督は、まばたきをしてから、物柔らかに反論した。

 

「要塞防御指揮官のおっしゃることには一理ありますが、

 閣下の勇名は、やはりヤン艦隊あってのものでしょう。

 宇宙で唯一、ヤン艦隊だけが運用に成功した一点集中砲火。

 こちらもなかなかのものだと思うのですが……」

 

「なるほど、甲乙つけがたいですなあ」

 

 陽気な巨漢が、朗々とした声で双方に頷いた。

 

「ところでこの聖杯戦争、古今の英雄と戦うんだそうです。

 それにあたっては、知名度が重要だそうですが、未来の我々にはありません。

 ですが、ひとつだけ、そういう連中にも通じそうなものがあります。

 そいつはどうでしょうか?」

 

 黒とアイボリーの中で、ただひとり黒と銀の軍装の老紳士が首を傾げた。

 

「申し訳ない、小官はそういう話には疎いので……」

 

「客員提督どのは、まだ同盟においでになっていませんでしたからなあ。

 銀河帝国なんたら政府の命令で、ハイネセンに行かれた時にはなくなっていた。

 ご存知なくても仕方がありませんがね」

 

 魔術師のクッションの言葉に得心した右腕が、ぽんと手を叩いた。

 

「ああ、思い出しました。アルテミスの首飾り。なるほど、長征一万光年作戦ですか」

 

 客員提督の顔には疑問符が増える一方である。

 

「……どんなものか、教えていただけないか、副参謀長」

 

「ハイネセンの周りには、一ダースの軍事衛星があったんですよ。

 それがアルテミスの首飾り。由来はギリシャ神話の月の女神の名前なんだとか」

 

 巨漢の解説に、美丈夫がにやりと笑う。

 

「ほう、副参謀長の知識は閣下譲りのようだな。

 そいつに、長さ一キロの一ダースの氷塊をぶつけて壊しました。

 同盟のクーデターの時だ」

 

 ヤンは、自由惑星同盟の建国の神話ともいうべきエピソードに倣ったのだ。建国の英雄アーレ・ハイネセンは、酷寒の惑星で奴隷として重労働に従事していた。ある日、彼は液体ヘリウムの川に氷の船を浮かべて遊ぶ少年を見て、天啓を得る。調達が極めて難しい、逃亡の宇宙船の材料にドライアイスを使うことを。

 

 そう解説して、巨漢は気の良い笑みを浮かべた。

 

「そうそう、一石何鳥かの策だったんです。

 艦隊の兵員、ハイネセンの住人、どちらにも犠牲を出さないように。

 建国のエピソードを連想させて、市民の反目を加速させ、

 さらにはクーデター首謀者の気を挫くために。

 あの時は、参謀部も頑張りましたからなあ」

 

 亡命の名将は、普段は眠そうな目を見開き、開いた口も塞がらず、なんとか首を左右に振った。

 

「……私が属していた貴族連盟の大貴族と、なんたる違いだろうか。

 しかし、それを地表に落としたら、門閥貴族の蛮行と変わらぬ結果になる。

 その宝具はお止めになった方がいい」

 

「そうですかねえ? なにせ、燃料にあたるものが限られてるでしょう。

 どれを使っても、実物の威力には到底及ばないんじゃないですかね」

 

 副参謀長の言に、副司令官も気遣わしげに若返った上官を見やった。

 

「失礼ですが、閣下ご自身は非力でいらっしゃる。

 抑止のために、強力な宝具を提示なさったほうがいいのではありませんか?」

 

「……どれもやめてくれ。貴官らはこの街を焦土にする気かい……」

 

 黒い頭を抱えて無言だった司令官が、ようやく口を開いた。

 

「こんなの子どもの、それも身内の小競り合いだよ!

 五年もすれば、思い出して羞恥心で転げまわる類のね。……だめ」

 

 不服そうな要塞防御部の長が、優雅に腕組みして司令官に反論した。

 

「子どもの小遣いを断るのではあるまいに、駄目はないでしょう」

 

「とにかくだめ」

 

「では、小官ら連隊は宝具になる資格はありますな」

 

「今度は何を言い出すんだ、君は!?」

 

「閣下が雷神の槌を撃ったのは、生前一回、二射しただけです。 

 それでアーチャー扱いされるならば、

 最も実戦で撃っている小官らを、除外するのはいかがなものでしょうな」

 

 控えめな年配者らを代表し、ヤン艦隊派が異議を差し挟んだ。

 

薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊ばかり、抜け駆けはいけませんなあ。

 それはヤン艦隊も同様ですよ」

 

 ヤンはベレーを毟り取って叫んだ。 

 

「ああ、もう、話が一巡してしまったじゃないか! 

 わがまま言うんなら、マスター権限による許可制にするから!」 

 

 このままでは、帝国時代のイゼルローン駐留艦隊と要塞防御部門の反目に逆戻りではないか。

 

 こういうときは、お財布(補給部門)の威を借りるにかぎる!

 

 遠坂凛は、ここにいない要塞事務監の代わりをこっそり押し付けられていた――。 




注:この話はあくまで本作中のIF話です。  


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剣に斃れ、剣を捨て

時系列はライダー戦後。


 人間の個人差は大きい。しかし、集団になると、差は小さくなるものだ。アーチャーは凛にそう言った。

 

「例えば、バーサーカーは文句なしに強力だし、

 イリヤ君も、凛が驚くほどの魔術師なんだろうが……」

 

「そのとおりじゃない。文句なしに最強の陣営よ。

 うちとは大違いだわ」

 

 むくれる凛に、ヤンは苦笑した。

 

「しかしね、ヘラクレスから理性を奪うなんて、もったいないにもほどがある。

 マスターのイリヤ君だって、いかにも深窓の令嬢だ。

 あの二人のネックは、戦いの知識や判断力の欠如だね」

 

「あんなに強かったら、小手先の手段なんていらないと思うけど」

 

 その言葉に、ヤンは首を振る。

 

「いやいや、十二の試練を思い出してごらんよ。

 再生能力を持つヒドラの首を、落としては焼き潰し、

 三十年も掃除していない牛小屋は、巧みな土木知識と技術で水を引き入れて、

 一日で洗い流してしまった。

 ヘラクレスは武勇だけの英雄じゃないんだよ」

 

 おまけに男性美に溢れる偉丈夫。嫉妬深く、底意地の悪い従兄の王に尽くした忠義の人でもある。

 

「セイバーと切嗣氏の不仲を聞くにつけ、

 前回に彼を呼べばよかったのにと思うんだがね……」

 

「三回しか口をきかなかったってあれね」

 

 遠坂家の居間のソファが、アーチャーのお気に入りだ。背もたれに寄りかかると、脚を組み直して腕組みする。

 

「まあね、中世の高貴な騎士を普通の人間が使うのは難しいさ」

 

 未来の偉い軍人を、高校生が使うのと同じぐらいに。凛は瞳に険を滲ませて、二百万人の司令官の顔を見た。

 

 外見は、そのへんにいる平凡な青年そのもの。しかし、前身はやり手社長の息子。根っから人を使う側の人間だ。いいように使われているのはマスターらの方である。

 

「セイバーだって、あんたに言われたくはないと思うけど。

 セイバーは最優のサーヴァントよ。清廉な英雄でないとなれないの」

 

 凛の言葉に、アーチャーは得たりと頷いた。

 

「そいつが水と油なんだよ。切嗣氏は暗殺者だったんだろう」

 

 イリヤにとっては甘く優しい父親で、士郎にとっては手のかかるヒーローだったようだが。

 

「余計なことを言わないための沈黙かもしれない。

 時代が違い、身分も違う相手だ。

 接触が少なく、彼女が律儀で、聖杯を強く望むから不和ですんだ。

 しかし、一歩間違えば、王への不敬で手討ちになってもおかしくない。

 令呪に願う前にこうだ」

 

 童顔に人の悪い笑みを浮かべて、立てた親指を首の前で横一文字に動かす。

 

「抜く手も見せずどころか、抜いた剣が見えないんだからね。

 暗殺者だからこそ、警戒したってのはありうるよなあ」

 

「ああ、確かにって……そういう問題じゃないでしょ!

 もういや、この真っ黒サーヴァント!

 でも、待って。……セイバーが王?」

 

「騎士とは支配者階級だよ。

 それも、名剣、宝剣で名をなすのは、中世の半ばまでだ。

 そんな剣を用意できるのは、大小の差はあれ一国の主。

 使役するにはなおさら難しい相手だね。士郎君にも言えることだが」

 

 アーチャーのひねくれた聖杯戦争論に慣れてきた凛には、ピンと来た。

 

「じゃあ、それがセイバーを取られた場合の安全対策なのかしら?」

 

「戦術と戦史の観点からだと、私にはそう思えるんだよなあ。

 剣で名を成した英雄は多いから誤解してしまうが、

 斬り合いは戦いの最終局面だ。戦いは飛び道具の打ち合いで始まる」

 

「弓矢とか?」

 

「もっとシンプルで威力があるのは投石だね」

 

「い、石? そんなもので!?」

 

「馬鹿にしちゃいけないよ。訓練いらずで、準備もいらず、なのに威力は高い。

 で、ここで人員と物量に劣る方が負け、だいたいは勝負もつく」

 

「……は?」

 

 あまりにあっさりとした結末ではないか。

 

「中世中期までのヨーロッパでは、兵士の多くは農民だ。

 劣勢と見たら、さっさと逃げてしまう。勝者側は深追いしない。

 反撃を受けたら損だ。戦争は経済行為の一種なのさ」

 

 瞬きをするマスターに、黒髪のサーヴァントは言葉を続けた。自分たちが貧しいから、他の村や国を襲う。防御側の方が有利だし、多くは勝者となる。

 

 長期戦は、ある程度生産力の高い時代の産物だ。 貧しい時代に長い戦さをしていたら、勝っても国の方がぼろぼろになるだろう。最後の一言は、自嘲するように目を伏せて。

 

「戦争にはお金がかかるって、昔も同じなのね……」

 

「そうなんだよ。だから稼ぎ時に戦争なんてやってられない。

 農閑期が戦争のシーズンだが、冬に向かうのに長期戦はできない。

 通常の戦さなら、敵を追っ払えばカタがつくんだ」

 

「じゃあ、剣や槍はどこで出てくるのよ」

 

「負けた側が逃げない、逃げ出せない場合だね。

 ここからが領主たる騎士の出番だ。槍や剣を投入して残敵を掃討する。

 劣勢な方は大将首を狙い、逆転に賭ける」

 

 名剣を謳われる騎士の多くは、大小はあれ一国の領主。それが意味するのは――。

 

「王様が戦うのは、国家存亡の状況だ。

 それで名を成した英雄を呼んで使役するなんて、難しいに決まってる。

 本来は相当に練れた人物でないと無理だよ」

 

 凛は黒髪を手櫛で梳き、ついでにこめかみも揉んだ。

 

「じゃあ、士郎は……」

 

 外来者に取られた時の罠に嵌ってしまっているのではないか。

 

「セイバーは強いけど、まずいじゃないの!」

 

「いいや、実はそうでもない。もう一つ、方法があるんだ。

 部下ができた人間の場合は、駄目な上司を支えてくれるものだよ。

 仕事をさぼるには、仕事を任せられる相手を作らなくちゃね」

 

 管理職の役割は、部下の仕事を考えて割り振ることだと、アーチャーは悪びれもしない。

 

「あのね、そんなの高校生に望まないで」

 

 特に、士郎には絶対に無理。あのお人よしの貧乏くじ引きに、誰かに任せるなんてできるわけない。

 

「でも、セイバーには部下を育てた経験があると思うんだ。

 彼女は真面目だし、戦いを知る人間だっただろう。

 士郎君も真面目で、強くなりたいと言う思いが強い。

 なんだかんだで、いいコンビになりそうだよ。

 互いが不得手を埋めるから、集団の差が少なくなるのさ」

 

 強いけれど迂闊なマスターを、弱いが優秀なブレーンが巧みに舵取りをするように。

 

「そのためには、二人が交流を深めるのが前提さ。

 士郎君とセイバーは、互いの性格を呑みこんで、

 自分の思いを伝えないといけない。

 アインツベルンの主従にも伝えるんだ。聖杯の器の担い手にね」

 

 複雑な物事は、割り算で処理する。その前に、くっつけられそうな物は同じカテゴリーに置く。 

 

「かっこいいこと言ってるけど、

 要するに衛宮切嗣への思いを互いに吐きだせってことね?」

 

「うん、よくできました」

 

 人間関係は最強の武器だ。時に心を切り裂く剣に、心を包む温かな盾にもなる。

 

 戦うのも人間、平和を尊ぶのも人間。心の持ち方ひとつで、ベクトルを変じるのだから。

 

「勝敗を度外視すれば、敵と戦うのは容易いんだ。

 戦いを捨て、味方につけるのが最も難しい。私の生前は不可能だった。

 百五十年も争っているとはそういうことでもあるんだよ」

 

「……二百年やってる私たちは?」

 

「聖杯戦争の開催はたったの五回目だ。

 御三家の君たちが和解し、協力すればいいんだよ」

 

「でも……」

 

 俯く凛の肩に、温かな手が置かれた。

 

「次は、間桐にできることはないか探してみよう。

 ライダー戦はこちらの正当防衛だ。マスターには手を出しちゃいない。

 だから落とし所は必ず見つかる」

 

「それが、戦いを略する戦略上の勝利ってわけ?」

 

 戦いたくない怠け者は、もっともらしい顔をして大真面目に頷いた。

 

「そいつを生前できてたら、ここには来なくて済んでたよ」

 

「はい?」

 

「退役して、年金生活を謳歌してたさ。きっと死因は老衰だ」

 

 凛も思い知った。英雄とは非命に斃れた者。会話に気を遣わないと……。

 

「その失敗を幽霊になってまで繰り返すんじゃ、

 馬鹿は死んでも治らないの見本じゃないか」

 

 穏やかな口調で、痛い毒舌を吐かれるのであった。衛宮切嗣の方法にも、一応の理はあったのかもしれない。



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変わるもの、変わらぬもの

ランサー加入し、アーチャーが素性をばらした後の話になります。


 アーチャーことヤン・ウェンリーは未来人である。それも千六百年先の。

 

「……飛び立った船だもんなあ。飛行機じゃなくて」

 

 衛宮士郎は嘆息するが、他のサーヴァントに言わせると、現代人も同じ穴の狢である。

 

「いや、坊主。鉄の固まりが、地を駆けたり、空を飛ぶ今だっておかしいぜ」

 

「そうだよ。その進歩が、聖杯戦争のシステムと齟齬を来すようになってるのさ」

 

「へ?」

 

 赤毛の少年と蒼髪の美青年は、口々に声をあげ、黒髪の青年に視線を向けた。

 

「また何を言ってんだ、てめえはよ」

 

「そうだぞ。もっと簡単な単語で言ってくれ」

 

 ランサーは士郎を軽く小突いた。

 

「齟齬のほうじゃねえ。聖杯戦争のシステムって方だ」

 

「や、俺はそっちも……」

 

  磊落で快活な兄貴分が逗留者に加わったおかげで、士郎のストレスは激減した。これで衛宮家の男女比は三対五。ただ一人というなかれ、ダブルスコア以上の差とは大違いだ。

 

 外見的にはアーチャーより年長のランサーだが、性格はずっと若々しい。そして常識人だ。ときおり真っ黒なことを口走るアーチャーに対して、ようやくできた仲間だ。一人じゃないって心強い。

 

「要するに、食い違いだよ。

 この二百年で、もっとも変わったものの一つが移動手段だ。

 二百年前の日本では、ほぼ徒歩のみだろうからね。

 だから、騎乗兵というクラスが設定されたんじゃないかな。

 主催者のうち二人はヨーロッパ人で、馬車に慣れ親しんでいただろうから」

 

「ほう、一理あるな」

 

 ランサーは形の良い眉を上げた。

 

「しかし科学技術の進歩で、馬はいなくなりました。

 秘匿が重要な聖杯戦争では、運用が難しいクラスになってしまった。

 いかに夜でも、こんなに人家があるところでは、馬や戦車を出せないでしょう」

 

「あ、だからランサーに頼んだのか!」

 

 怪訝な顔のランサーに、ヤンは説明を重ねた。

 

「通り魔事件は街中で発生しています。

 おいそれと乗り物を出せない以上、ライダーは身一つで行動する。

 となると、俊敏なライダーに追いつけるのは、あなたかバーサーカーしかいません」

 

「セイバーもいい勝負だと思うがな」

 

 ヤンは首を振った。

 

「セイバーは持久戦にはむいていませんし、士郎君を伴う必要がある。

 この子は巻き込まれた初心者ですよ」

 

「そのわりに、咄嗟の判断は悪かねえ。鍛えれば、ひとかどの戦士になれるぜ」

 

 大英雄クー・フーリンの太鼓判に、士郎は大いに照れた。

 

「サ、サンキュな、ランサー」

 

 しかし、未来の智将の査定は厳しかった。

 

「士郎君の将来性は認めるが、問題なのは今現在がどうかということだ。

 神話の魔物と対決するのは荷が重すぎる。あの時、私はそう判断したんだ。

 ペルセウスだって、神様からたくさん道具を借りたんだから」

 

「……でもそうだよな。

 あの時、みんなで押しかけてうまく行ったのは、

 ライダーを遠坂が凍らせたからだし」

 

「凍らせただと? おまえら、主従そろってえげつねえことするな」

 

 アーチャー主従は、存外に似たもの同士なのかもしれない。

 

「戦争自体がえげつないから、今さらですがね。

 バーサーカーが論外というのは、言うまでもありません。

 彼が追跡劇を演じたら、これまた秘匿なんて不可能です」

 

 士郎とランサーは頷くしかなかった。市街地で巨象が暴走するようなものだ。

 

「明治から平成の百年ちょっとで、日本の人口は三倍になっている。

 単純に考えても、家の数だって三倍は必要です。

 サーヴァントが全力で戦える場所が、どれだけありますか」

 

「確かにそうだよな。俺が昔遊んだ空き地も、今はみんな家が建ってる」

 

 言ってから士郎は頭を掻いた。

 

「後は公園とか、学校の校庭とか、河原ぐらいだ。

 でもさ、どこもすぐそばに道路があって、夜も車が走ってる」

 

「だな。あの明かりは厄介だ。かなり遠くから届くからな……」

 

 特に二騎士の武器や防具は光を反射する。完璧な秘匿は難しい。

 

「そうなんですよ。現状のままではもう限界です。

 そういう改善こそ、六十年の間にやるべきことだと思うんですよ」

 

「ほう、おまえなら何をやる?」

 

「そうですね……。私なら、聖杯のシステムの改良を考えますね。

 七人も呼ぶから厄介なわけなので、キャスター一人を呼べるようにする」

 

「いきなりそれか」

 

 げんなりとするランサーに、アーチャーは頷いた。

 

「アインツベルンの魔法使いなり、そのほかの魔法使いなりを呼んで、

 戦争ではなく学会をやるようにしたらどうでしょう?

 七分の一の周期にすれば、魔法の研究も進むんじゃないかと……」

 

 士郎とランサーは顔を見合わせた。

 

「っていうと、九年に一回ぐらいか? 

 二百年だと二十回ちょい。

 ……確かにそのほうが、歴史ある伝統行事だよなぁ」

 

「それによ、魔法を求めるなら、魔法使いに教えを請うたほうが早くねえか?」

 

「む、教えてくれるかはわかんないぞ」

 

「それは令呪でなんとかするのさ。

 ま、教わっても実現不可能ということはあるだろうがね。

 だが、少なくとも、七組と戦争するより平和的じゃないか?」

 

 顔を見合わせていた二人の眉宇に、苦渋の影が落ちる。もしも、聖杯戦争ではなく、聖杯学会だったら。

 

 例えば、ある晩訪ねてきた少女の、お供の巨人にミンチ寸前にされなくて済む。

 

 あるいは軽い気持ちの腕試しが切っ掛けで、苦渋の連続を味わう羽目にもならない。

 

「……もういっそ、おまえが取り仕切って改善しろ」

 

「いや、私は魔術は全くの門外漢ですから、それをキャスターに頼みたいんですよ。

 餅は餅屋というではありませんか」

 

 思いもよらぬ諺の出現に、士郎の目と口がまんまるに開いた。

 

「え!? 未来にも餅はあんのか!?」

 

「うん、あるよ。私の部下の一人が日系イースタンでね。

 ニューイヤーの行事にご馳走してくれた。

 わざわざ、他の惑星から餅を手配してね」

 

「はあぁ……すごいな。餅が宇宙を飛んでるんだ……」

 

 時を経て、変わるものと変わらぬものを知る、ある日の午後。

 

「なあ、モチってなんだ?」

 

 そして、ランサーの疑問がまた増えていくのだった。




注:銀英伝原作には、ジャスミンティーに月餅、グルテン(要は生麩)のカツレツ、雑炊などが記載されています。餅だってあるだろうと筆者は思っています。


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素人歴史探偵奮闘記

本編の合間に、サーヴァントの正体を考えたりしている遠坂主従です。


***ランサー編***

ドレスコードの過去未来

 

 セイバーの服をどうするかという難題をどうにか解決し、一息ついた凛は思ったものだ。

 

 自分のサーヴァントが、割と普通の服装でよかったと。黒いジャンパーとベレー、アイボリーのスカーフとスラックスの軍服。

 

 あんまり似合っていないのは、アーチャーの容貌の問題で、ベレーを脱いで、マフラーでも巻けば、普段着として通用する。スラックスは冬用としてはやや色が薄いが、コットンパンツにはよくある色だ。

 

『それにしても、千六百年も先の未来で、宇宙で戦争してるんでしょう。

 SFアニメとかでは、体にぴったりしたボディースーツを着てたりするけど、

 あなたの世界ではそうなっていないのかしら?』

 

 凛の心話に、アーチャーはきょとんとした顔になった。

 

『ええと、あのランサーみたいな格好かい?

 あのね、凛、みんな若くてスタイル抜群の美男美女の集団じゃない。

 軍隊の平均年齢は四十歳というところだ。……厳しくないか』

 

 その答えに、凛は脳内で職員室の教諭にランサーの格好をさせてみた。瞬く間に地獄絵図が展開された。四十人弱の教諭で、ぎりぎり許せるのは片手の指ぐらいだった。

 

『うん、厳しいわ。というか、ないわ。ごめんアーチャー、わたしが間違ってた』

 

『そうだろう。君の学校の制服がああだったらどうだい?』

 

 凛は想像の翼を羽ばたかせ、襲ってきた寒風に打ち震えた。隠しておきたいアレやソレが、白日の下に晒されることになるではないか。

 

『た、たしかに無理よ、無理。ああいう制服のとこになんて、絶対入らない』

 

『ああいう格好は、彼のように一点非の打ち所がない容貌だから許されるんだよ。

 それ以上に、我々軍人は国家公務員だ。

 税金でそんな制服を作ったら、政治家みんなクビだ。

 軍人だって有権者なんだから、何千万人がリコール署名を提出する』

 

『あ、今一番納得した。

 じゃあ、日常の服はどうなの? 今とそんなに変わらないわけ?』

 

『それはそうさ。

 私なんか軍服があれば事足りてしまうが、

 女性が色々と着飾りたいと思うのは変わらないよ。

 本屋に置いてあったような、ファッション誌もまだあるしね。

 ただ、この国は平和なせいか、痩身願望が過剰だよね。

 君ももっと食べて、もう少し肉をつけた方がいいと思うんだがなあ』

 

 体重に一喜一憂する乙女としては、聞き捨てならない台詞だった。

 

『なんですって……。あんたの国はふっくら型が美人なの!?』

 

 歴史的には、そちらのほうがずっと長く美の主流だったが。肉付きの良い者は、充分に食える者。豊満な肉体が富の象徴でもあったのだ。

 

『おかめ』は、色白くふくよかで、黒髪豊かな美人の戯画である。

 

 痩身が美とされるのは、社会全体が豊かで平和な、人類史上数少ない時代なのだ。日本で言うなら江戸の元禄時代や大正時代の中盤まで。そして、昭和後期から平成の現代。

 

 むろん、ヤンの時代はそうではなかった。

 

『ちょっと違うなあ。私の国は、いざことあれば国民皆兵って、二百年もやってきた。

 社会もメディアも、理想的な兵士を美の基準にするのさ。

 男女とも、長身できちんと筋肉がついていて、

 彫りの深い大人びた美貌の持ち主が人気だ。

 たおやかな美女の人気は不変だが、細身の男性が許されるのは子役の間かな』

 

 つまり、日本のアイドルの逆、ハリウッドスターのような容貌でないともてないというわけだ。ちょっと顔がよくて細身の、間桐慎二や柳洞一成がイケメン扱いされるのと比べれば……。

 

『き、厳しい美の基準だわね……』

 

『凛はたおやかな美女に分類されるから大丈夫さ。言動に気をつければね』

 

『うるさくってよ、アーチャー』

 

『いや、それは違う。気をつけたことにならないよ。

 多人種の混血国家だから、そういうタイプの美男美女が多いんだ。

 現代で言うと、南米みたいな感じでね』

 

 その言葉で納得した。アーチャーの世界の美人とは、ミス・ユニバースの優勝者のようなタイプなのだろう。道理で、セイバーにも動じず、ランサーの美貌にもコメントがない。

 

 ――こいつ、無自覚に面食いだわ。で、奥さんのこと美人だって言ってるし。

 

 どれほど美人だったのかというと、数千万人の同盟軍人の中で、一番の美女だった。女性軍人の割合は全体の十分の一ぐらいだが、分母も大きいのである。裾野が広い山の頂は高くなるものだ。これは、惚れた欲目かもしれないけれど。

 

『あなたの敵国はどうなの?』

 

『もっとすごいよ。上層階級は美男美女の巣窟だ。

 専制国家で皇帝や貴族が絶大な権力をふるっていてね。

 古来より、権力の使途っていうのも変わらないんだ』

 

『なにに使うのよ』

 

『金と女さ』

 

 凛はデリカシーのないアーチャーを睨みつけた。肩を竦めたヤンは、説明を補足することにした。

 

『あちらには、遺伝子異常の持ち主を排除する悪法があったしね。

 美しい人間は、遺伝子の変異が少ないというのも、昔からの知恵なんだ。

 美男美女ばかりが集まった上流階級の中で、婚姻を重ねていけば、

 とてつもない美男子が生まれたりするんだよ』

 

『へえ、ランサーよりも?』

 

『いいや、男性だがセイバーよりも美しいと思う。迫力が違うよ。

 ああ、こういう人が宇宙の覇者になるのだろうと、誰しも納得する存在だった』

 

『それって、皇帝よね……?』

 

『そう、残念ながら私の敵だった。だが、もう一度話をしたかったよ。

 彼がライダーなら勝てる者はいないと思うが、召喚するのは無理だろうね』

 

『どうして?』

 

『彼は、最大で十五万隻の艦隊を動員できた。兵員は二千万人以上。

 私で干物になってしまうなら、到底不可能だ』

 

 その十倍の敵にも負けたことがない、『不敗』の二つ名を持つ司令官が凛のサーヴァント。

 

『ねえ、なんで、あんたアーチャーなのよ!』

 

『そりゃ、ライダーが先に召喚されていたからじゃないのかな?』

 

 凛は打ちのめされて、畳に手をついた。ああ、言峰綺礼の言う事も時には正しかった。

さっさと召喚しておけばよかった――!

 

 

***アサシン&キャスター編***

原点にして頂点

 

「ねえ、アーチャー。

 あんた、キャスターとアサシンの格好にはとやかく言わないのね」

 

 ふと疑問に思って、凛はアーチャーに問いただした。

 

 この男、神話や伝説の英雄に夢を見すぎていて、ファッションチェックがことのほかうるさいのに。問われた方は、黒い瞳を潤ませてぽつりと言った。

 

「……いいんだ、もう。タイツやボディコンじゃなければ」

 

「そんな、なにも泣かなくてもいいじゃないの」

 

「だって、ここは私の未来に続く世界じゃなさそうだし、

 サーヴァントは魔術という幻想の産物だ。

 アサシンが真っ赤な外套着てても、仕方がないんじゃないのかな……」

 

 諦めの入った発言だった。真名究明の意欲が急降下したらしい。突っ込みどころがありすぎて、思考停止になるのもわかる。

 

「確かに、ものすっごく目立つわよね」

 

 凛は、イリヤに送ってもらったメールの添付写真に眉を顰めた。

 

「うん。たとえこの服装じゃなくても、どこの国でも目立つ容貌だ。

 推定身長は百九十センチ弱、顔の骨格からして、人種はおそらくモンゴロイド。

 髪はともかく、この褐色の肌で銀灰色の瞳というのは相当に珍しい。

 かなりの美男だし、暗殺者の条件にことごとく合わないよ」

 

 スパイや暗殺者は、そこらにいそうなタイプのほうがいいのだ。たとえばヤンのように中肉中背で、ありふれた髪や目の色の。

 

「あら、銀髪は?」

 

「私の恩師は、ネグロイド系だが若白髪でね。

 もっと肌の色は濃いが、ちょうど彼のような配色だった」

 

「このアサシンは違うのね?」

 

「アラブ系はコーカソイドだ。顔の幅や鼻の形が違うな。

 ネグロイド系ならば、唇の色がもっと濃い」

 

「なるほどねえ……」

 

 多人種国家の人間ならではの観点だったが。

 

「でも、あんた以上に正体不明よね」

 

「時代考証には合致しないが、キャスターは非常にそれらしいのになあ」

 

 凛はまじまじとアーチャーを見つめた。

 

「ええ? あんた、ライダーのことはボロクソに貶してたじゃないの。

 デザインはともかく、色は似たようなものでしょ。なんなの、その差は?」

 

「彼女がコルキスのメディアならば、わりと納得のいく服装なんだよ」

 

 コルキスの王女メディアが仕えるのは、夜と魔術の女神、ヘカテー。冥府の神ハデスの部下であり、夜と月、水と幽霊、出産と辻を守護する。

 

「ヘカテーへの捧げ物は黒い動物なんだ。彼女を象徴する花はトリカブト」

 

 猛毒を持つが、非常に美しい紫の花を咲かせる。その名のとおり、花の形が烏帽子のようだ。

 

「あのフードのデザインにも似てるよ」

 

「あんた、よく知ってるわね……」

 

 凛はびっくりした。花とは縁遠そうなくせに、変なことを知っている。 

 

「いやあ、実は失敗しそうになったことがあってね。

 私の先輩の奥さんは、とっても料理が上手だったんだ。

 それだけじゃなく、家事全般の達人で、賢く白い善き魔女って感じでね。

 独身時代は、ユリアンともどもよく手料理をご馳走してもらったよ。

 結局は先輩の惚気なんだけど」

 

 凛の何気ない質問に、彼は黒髪をかき回しながら答えた。

 

「あ、マダム・キャゼルヌね。じゃあ、先輩がムッシュ・キャゼルヌ?」

 

「そのとおり。夕食に招いてもらって、手ぶらというわけにもいかないから、

 お礼に花や菓子、酒なんかを持って行くんだ。ある日、花屋に寄ったら……」

 

 ぱっと目を引く、美しい紫の花があった。

 

「とにかく初めて見る花でね。すごく綺麗な色だったんだ。

 派手ではないんだが、上品で美しい。夫人のイメージに合うなと思ってねえ」

 

 包んでもらおうとしたら、女性の店員がにっこりと花の名と毒性を教えてくれた。そこは、イゼルローンの行きつけの店だ。当時のヤンが花を贈る相手は一人しかいなかった。店員もそれを知っていた。

 

「もちろん買うのはやめたよ。小さな子が二人もいる家には危なすぎる」

 

 彼の言葉に凛は首を傾げた。

 

「それが失敗? 未遂で済んだんでしょう」

 

「問題はこの後さ。なんで売ってるんだって、思わず聞いてしまったんだ。

 水仙や鈴蘭にも毒はあるが、トリカブトのは強力すぎる」

 

「たしかに……日本でも狂言になってるぐらいだものね」

 

 ちなみに狂言のタイトルは『ぶす』。トリカブトの根『附子』のことだ。現代でも漢方薬として使われている。毒をも薬にする人間の英知は凄い。

 

 しかし、ヤンが遭遇したのは、『ぶす』の正体の砂糖のように甘いものではなかった。

 

「店員が個人的に買ったんだって。売り物ではなかったんだ」

 

「え……?」

 

 おさまりの悪い黒髪がかき回された。

 

「彼女には贈りたい相手がいたんだ。花言葉がぴったりな人だとね」

 

 トリカブトの花言葉は、美と毒という相反する要素を反映したものだ。

 

「あなたは私に死を与えたとか、復讐や人間嫌いなんて物騒な意味もあるが、

 美しい輝きや騎士道や栄光というのもあるそうだ」

 

「あ、そうなのね。だったらありかも……」

 

「とんでもない!」

 

 今度は黒髪がブルブルと振られた。ヤンには心当たりが濃厚にあった。そのものずばり、美しい頭という意味の姓の美丈夫だ。

 

「たしかに『彼』にはぴったりな花だ。

 しかし、順調な交際なら毒花なんか贈らないよ。

 女性から男性になんて、脅迫にしかならないじゃないか!」

 

 『彼』はヤンの部下だ。好きこそものの上手なれを地で行く男である。

 

「彼は女好きだが、その手のトラブルを起こしたことはないんだ。

 彼ならば、彼女の店で真紅の薔薇を買って、支払いを済ませたその手で渡すね」

 

「う……、すごい。モテるの納得するわ」

 

「映画俳優並みの美男子で、軍でも一二を争う武勇の主でもある。

 そんなことを言う女性を、相手にしなくても引く手あまたさ」

 

 これはまずいと直感し、憲兵に調査を依頼したら、ストーカー行為の常習者だった。

 

「……おっかなかった。当事者として関わりたくなかったよ」

 

 花屋のサービス会員リストには、ヤン艦隊の主要な幕僚の名が並んでいた。

 

「聞けば聞くほど、生きた心地がしなかった」

 

「でも、あんたが一番危なかったんじゃないの?」

 

「いや、彼女の好みは、すらりとした筋肉質のハンサムだったんだ」

 

 なんと言うべきか、凛は必死で舌を動かした。

 

「ア、アーチャーもいい線いってると思うわよ。

 日本の基準なら、あんたのほうが受けるし!

 ええと、それに、ストーカーに受けても仕方ないじゃない」

 

「……ありがとう。まあ、そのとおりなんだけどさ。

 私を含め、自力でなんとかできそうな連中はまだいいんだ。

 本当に怖かったのは、うちのユリアンに対してだよ。

 そのころは随分背が伸びてきて、彼女のタイプに近づきつつあったんだ」

 

「ご、ごめんね。そりゃ、怖いわよね……」

 

「王女メディアは、そういうタイプの神話上の原型だ。

 ええと、イリヤ君が言ってた、ほら、ツンデレじゃなくって、

 なんだっけ……」

   

 

※答え:ヤンデレ。手に入れるためなら、手を汚すのも厭わないタイプ。

 又は、手に入らない相手なら、自分で殺すタイプ。

 日本では八百屋お七や道成寺の清姫が典型か。

 

 なお、ヤンにデレデレの意味ではないので注意。

 ヤンにデレデレは、戦争をおっ始めるタイプ。

 

 

***黄金のサーヴァント編****

黄金を狙い打て!

 

「黄金のサーヴァントねえ……。一体誰なんだろう。

 凛、お父さんは何か書き残したりしていないかい?」

 

 アーチャーの問いに、凛は憮然と首を振った。

 

「それがさっぱりよ。

 ……もっとも綺礼が怪しい以上、いくらでも隠す時間はあったものね」

 

 その言峰綺礼は、停戦の呼びかけはしないわ、居留守を使うわ。凛の心証はもはや漆黒だった。

 

「黄金の全身鎧、雨あられと宝具を撃ち出す、か……。

 なんだか、とっても成金っぽいなあ」

 

「あんた、お得意の英雄譚ネタから心当たりはないわけ?

 黄金の鎧の誰それとか」

 

 アーチャーは瞼を半分下ろし、おざなりに手を振った。

 

「そんなのあてになるもんか。黄金ったって本物じゃないだろうし」

 

「やだ、メッキってこと?」

 

「あるいは生前の富や力の象徴とかね。

 全身鎧ってのはとても重い。

 凝ったデザインだと、五十キロぐらいになるんだよ」

 

 成人女性約一人分の重さである。

 

「それ着て戦うんだから、騎士って凄いわよね」

 

「馬に乗るのが前提だし、重さが全身に分散されるから戦えるらしいがね。

 しかし本当に金で作ったら、約三倍も重くなってしまうんだ」

 

「……150キロの金!? 1グラム四千円として、六億……」

 

 咄嗟に凛は暗算し、首を捻った。

 

「あ、あれ? 

 凄いといえば凄いけど、マンションだったら一棟建つかなって額ね。

 そいつを斃して、身ぐるみ剥いで売っぱらっても、買取額はもっと低いかしら……」

 

 阿漕な呟きを漏らすマスターに、黒髪のサーヴァントは溜め息を吐いた。

 

「いやいや、そういう勘定はよしなさい。それに幽霊の服だけ残るとは思えないよ」

 

「やっぱりそうよね……。それに、刻印のない金じゃ売れないわね。

 でも、キャスターもいるし、どうにかならないかしら。

 礼装に加工して売れば……いけるわ。うふふふ……」

 

 脳内の算盤を弾く凛の瞳は、完全に雌豹のものだった。アーチャーは髪をかき回し、肩を竦めた。 

 

「まあ、金かは疑わしいよ。重いし、鎧にするには柔らかすぎる。

 それに、君のお父さんは教会と同盟していた。

 キリスト教圏の中世の英雄を呼ぶのは避けるんじゃないだろうか。

 生贄にするには、心理的な抵抗もあるだろうし」

 

「ええーー!? じゃ、どこの英雄よ」

 

「金色の金属は、黄金だけじゃないんだが、

 真鍮は近代に生まれたから除外できそうだ。

 となると、青銅じゃないかと思う」

 

「青銅? 銅鐸とか銅鏡に使うのでしょ。あれは緑っぽい色してない?」

 

 すぐさま模範解答が返ってくるあたり、凛の試験勉強はそれなりに順調らしい。

 

「緑なのは錆の色で、鋳造したては金色なんだ。

 祭祀の道具なのは、その色が尊重されたという説があるんだよ」

 

「じゃあ、黄金じゃなくて青銅なら、あんたは誰だと思うの?」

 

 アーチャーは小首を傾げた。

 

「青銅器時代のシュメール文明あたりを象徴してるとかかな」

 

「象徴って、やっぱり生前の武装じゃないってこと?」

 

「当時の技術じゃ、着用できる全身鎧は作れないと思うんだよ。

 型に流し込んで作るやりかただからね」

 

 どうしても地金が厚く、重くなる。関節を曲げられるように、細かな部品を作るのも難しい。全身鎧らしきものは作れても、人間が着脱するのは恐らく無理だ。

 

「なによりね、凛もこの世界の湾岸戦争の記録を見たことはあるだろう?」

 

 凛は頷いた。青空と黄色い砂の砂漠に、散りばめられた砲火と黒煙のコントラスト。

 

「中近東の気候で、全身鎧なんか装備したら、戦う前に熱中症で死ぬ。

 こいつは十字軍の敗戦原因の一つなんだ」

 

 身も蓋もない元戦史研究科生の台詞であった。と、いうことは。

 

「やだ……。お父様も残念な人だったのかしら……」

 

 どんなイメージを抱いて、謎の黄金のサーヴァントを召喚したのやら。頭を抱える凛の隣で、ヤンはなおも首を捻るのだった。

 

「これは単なる空想だから、凛も気にしなくていいよ。

 プロフェッサー・ベルベットに連絡が取れればわかるかもしれない。

 それにしてもエジプトかあ、いいなあ。私も行きたいなあ。

 そうそう、ツタンカーメンの黄金のマスクは、推定価格三百兆円だそうだ。

 歴史と学術的価値のおかげで」

 

 凛は顔をあげた。

 

「その鎧を埋めて、掘り出せばそうなる?」

 

 凛の高揚に、ヤンは氷水をぶっかけた。

 

「そいつの正体もわからないのに、どこに埋める気だい?

 ツタンカーメンの墓だって、歴史資料と一致するからこその価値だよ。

 黄金のサーヴァントの資料を探し、正式に学説と認められるには、

 六億ぐらいじゃおっつかない」

 

「うー」

 

 存在が疑われる黄金のアーチャーの正体探しは、まだまだ難航しそうだった。 



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メディア先生の課外授業 

勉強会に桜がいなかった理由


「あ、あの……。わたしはテスト勉強しなくていいんでしょうか?」

 

 桜は眉を寄せ、対面に座すキャスターを見つめた。青みがかった銀の髪、長い睫毛にけぶる瞳は深い菫色。華奢な肩が優雅に竦められ、形良い朱唇に微苦笑が上る。

 

「貴女には、勉強よりも大事なことがあるのよ。これをご覧なさいな」

 

 繊細な指先が差し出したのは、冬木市民病院のロゴの入った大判の封筒だった。

 

「え……?」

 

 桜は、面食らいつつ封筒を受け取り、キャスターに視線で促されるまま、中身を取り出した。

 

 それは『診断書』と書かれた一枚の紙だった。表面には桜の名前の下に、病名が列挙されている。治癒とあるのは、上気道感染症。経過観察が貧血と心筋炎。

 

 それから、疑いを付けられた、聞いたこともないような病名の数々。

 

 桜は唖然とした。

 

「な、なんですか、これ!?」

 

「……貴女を蝕んでいたものの名残よ」

 

 桜の喉が鳴り、見る見るうちに顔色が褪せていく。キャスターは下手人を呪った。こんな貧乏くじを引きたくはなかった。

 

 だが、彼女以上の適役もいなかった。アーチャー主従に頼まれたのだ。対価と引き替えに。

 

「貴女がどんな目に遭わされていたのか、私は大体分かっているつもりよ。

 貴女の義兄と姉もね、恐らく想像はついていることでしょう」

 

 蝋細工のような顔の中で、水気を含んだ薄墨色の瞳が揺れていた。

 

「身内だからこそ、面と向かうことを憚るものよ。

 弱さではなく、貴女のために。

 貴女は第一に治療が必要な病人なの。

 いまは、体を治すことだけを考えなさい」 

 

 瑞々しい頬を伝い、零れる涙にキャスターは目を細めた。自分が最後に泣いたのは、いつだっただろう。

 

 たしか、玉座を狙って叶わず、子どもたちを失った時に枯れ果てるほど泣いた。夫に捨てられた時には、泣いただろうか、怒っただろうか?

 

「でも、どうして、キャスターさんが……」

 

「あら、私は貴女たちの世話役でしょう?

 それもあって、貴女の姉に頼まれたのよ」

 

 その時のことを思い出し、キャスターはくすくすと笑った。

 

 同盟に与している、アーチャー ヤン・ウェンリーと、ランサー クー・フーリン。

キャスター メディアとバーサーカー ヘラクレス。

 

 容貌も性格も全く異なる彼らにも、共通点がひとつあった。全員が生前は既婚者だということだ。

 

「国際結婚に必要なのは、パスポートと婚姻要件具備証明書ですね。

 パスポートが準備出来たら、外国人登録をしないといけません。

 あと、就労ビザも必要です。これもアインツベルンに頼みましょう」

 

『国際結婚のQ&A』を片手に、アーチャーがつらつらと説明してくれたのだが、策謀を謳われた彼女でも、青褪めるほど大量の書類を必要とした。

 

 想像以上に煩雑で、とても魔術で誤魔化せない。なにしろ、婚姻届などの書類は三十年近くも保管され、戸籍のデータは役所のコンピューターに登録するという。

 

 パスポートにはICチップが組み込まれ、十年前はともかく、現在偽造はほぼ不可能。役所と法務局、双方の審査をくぐり抜けるのは、まず無理だ。

 

 当事者にとっては一生の一大事でも、役人には見慣れた毎日の仕事。すぐに見抜かれてしまう。真っ当に、本物を用意してもらったほうが早い。架空の人物用だけれど、アインツベルンには前例があるだろうと。

 

「た、大変なのね……」

 

 曇りがちな菫の瞳に、漆黒が穏やかに微笑みかけた。

 

「この日本は人間の身元に関しては、世界最高レベルできっちりしてます。

 国際結婚が最も難しい国だと思いますよ。

 でも、システムが確立しているからこそ、手順に従って粛々と進めればいい。

 役所だって、相談に乗ってくれますよ。だから大丈夫です」

 

「ありがとう……。本当に助かるわ」

 

 神代最高峰の魔術師も、現代社会のシステムには歯が立たなかった。メディアの望みは、最愛の人と平穏に暮らすことであり、悪目立ちは断じて避けたいのだ。

 

 愛の女神の加護持つイアソンに、引っ掛かってしまった生前の若き日よ。エロスの矢に射られると、人は恋に盲目になる。

 

 もうあんな失敗はしない。神のいないこの時代は、本人の魅力が全てだ。だからちゃんと判断ができる。 顔でも地位でもなく、男は中身が一番大事なのだ。

 

 歳若い美少女に、外見上はうら若き美女が力説した。

 

「肝に命じておきなさい、管理者のお嬢ちゃん。

 いくら見目よく、武勇に優れていても、数多の女に手を出す男は最低よ。

 ヘラクレスの末路を考えてもごらんなさいな」

 

 パンツに毒を塗られて、苦しみ抜いての焼身自殺。これは彼に射殺されたケンタウロスの復讐が招いたことだが、浮気をしなければ、騙された妻が毒を持ち出すこともなかったわけで。

 

「あの坊やにも気をつけなさい。私の夫だった男と同じで、父を知らぬ者よ」

 

「ええーっ、士郎が? あいつ、ものすごいファザコンなんだけど。

 アーチャーもだけど」

 

「子どもが男になる時にこそ、父親が必要なのよ。

 坊やには今はいない。アーチャーには十五までいたのでしょう。

 その差はとても大きいわ」

 

 じつは王女メディア、教育ママのはしりでもある。息子の一人をギリシャ神話最高の賢者、ケイロンに師事させているのだ。

 

「よき師がいればいいのだけれど、坊やの師はどうかしら?」

 

 凛は不承不承に頷いた。

 

「確かに……。藤村先生はいい人だけど、いい先生かって言うとね……。

 あいつの家に出入りしてるの、その藤村先生と桜だけみたい。

 朝ごはんと夕ごはんをみんなで食べてるって……。

 時々はどちらかだけみたいだけど。よく考えなくても変よね?」

 

「とても危ういと思うわよ。自分の身に置き換えてみなさいな」

 

 葛木教諭と、衛宮士郎(または柳洞一成や間桐慎二)が凛の家に朝夕出入りするようなものか。

 

「あ……。完全にアウトね」

 

 それも、ど真ん中直球を三振する勢いだ。

 

「でしょう。どちらも嫁入り前の娘なのに、噂になっていない。

 続けていたということはそうでしょう?」

 

 凛はまたも頷く。

 

「ということは、あの坊やは本当に孤独なのよ。

 たった二人、黙っているだけで気づかれず、

 他に意見をする者がいないということよ」 

 

 メディアは、凛の肩に両手を置いて言い聞かせた。

 

「いいこと、そういう男を選ぶと、とてつもなく苦労をするのよ!

 王位のために、冒険するような履き違え方をする。

 譲位する気はないから、野垂れ死ねという思惑が汲み取れないの。

 だから、師匠としてきっちりと教育しないと駄目よ」

 

 凛は三度頷いた。今度は力強く。

 

「ええ、そうする。だからキャスターも、桜のことをよろしく頼むわ。

 士郎とうまくやれるように。ついでに慎二も調教してやって」

 

 二人の魔女はしっかりと右手を握り合い、ここに最凶タッグは成立した。

視界の隅で赤い外套の大男が悶絶していたが、彼女たちの知ったことではない。

 

 キャスターは微笑んだ。

 

「私の失敗から忠告するけれど、一方的に尽くす関係は、いずれ破綻するわ。

 尽くしているように見えて、縋っているのだもの。

 体を治して、負い目を捨てて立ち上がり、相手と一緒に歩まなくては。

 私もそうでありたいと思っているのよ」

 

 シンデレラにドレスと靴を贈る魔女のように。

あるいは、ガラスの靴にぴたりと足が合ったシンデレラのように。



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星に願いを

「なあ、星々の中を飛ぶってのは、どんなもんなんだ?」

 

 衛宮家の縁側で、夜空を見上げたランサーが、同じく星を見ているアーチャーに問い掛けた。

 

 上限の月の出は遅い。まだ宵の口、月光に邪魔されることなく、星々が天空を彩る。剣帯を下げて、天空を行くオリオン。彼の足元に寄り添うのは、鋭く輝く二頭の猟犬の目。

 

 オリオンの右肩のやや上に、星々が寄り添うプレアデス星団。ミューズの六姉妹だ。目の良いランサーには、七人目の姉妹が見える。

 

 日本名は昴。清少納言が、星の筆頭にあげた美しい星団だ。

 

 左肩の上に並ぶのは、双子座の兄カストルと弟ポルックス。弟の方が明るいのは、彼は不死の神であり、兄が人間であったからだ。

 

 兄を失って、永遠に生きることを厭うたポルックスは、自分の不死の半分を兄に分け与えた。星としての生を。

 

 澄んだ冬の大気の中、星はせわしなく瞬く。瞬かないのは惑星だ。純白の金星、黄金の木星。

 

 アーチャーからの答えはない。

 

「おい」

 

「あ、ああ、すみません。星に見惚れていました」

 

 ランサーは首を傾げた。

 

「それこそ、星空を飛んでいるのにか?」

 

「宇宙空間には空気がないんです。だから、星が瞬かないんですよ。

 私には逆に珍しくて」

 

「俺にも逆に想像がつかねえ。星が瞬かないとはなあ……」

 

「宇宙では、星は光の点のように見えます。

 それが頭上だけではなく、周囲や足の下にもあって、包み込むように輝いている。

 星の海という表現は、言い得て妙だと思いますよ」

 

「ほう……。おまえはなかなか詩人だな。

 さぞや絶景だろう。俺も見てみたいもんだ」

 

 アーチャーは頭を掻いた。

 

「生きていた時なら、ご期待に添えたんですがね……。

 お見せできないのが残念ですよ。

 本当に美しい光景なんです。

 ところでこの星座は、私の国では見られないものなんですよ」

 

「星は星だろう? なんでまた」

 

 アーチャーが伸ばした指は、オリオンの下の一際明るい星を指さした。

 

「星座というのは、惑星に固有のものです。

 この星空と、私の母国では見える星が違うんですよ。

 たとえば、あのシリウス。地球から近いので明るく見えます。

 一万一千光年離れた私の故郷では、肉眼では見えません。ここの太陽と同じくね」

 

 ランサーは口をあんぐりと開いた。

 

「お、おお、そ、そうか……」

 

 黒髪のアーチャーは、色々おかしい奴だが、つくづくと思い知らされた。この大地に生きたランサーとは、感覚のスケールが全く違うのだ。時代を越え、夜空に輝く星さえ違う場所からやってきた英霊。

 

「私の故郷の恒星バーラトも、ここからでは見えないでしょうね」

 

「じゃあ、この星空に、おまえの国から見える星はあるのか?」

 

 アーチャーは腕を組み、小首を傾げた。オリオンの右膝を指さす。

 

「強いて言うなら、かろうじて見えるのがリゲルかなあ……。

 私の故郷からよく見える星は、地球からだと望遠鏡がないと見えないのでね」

 

「ここの土蔵にあったな、そういや」

 

 好奇心旺盛なランサーに、アーチャーことヤン・ウェンリーは苦笑した。

 

「士郎君の望遠鏡では、きっと無理ですよ」

 

 ランサーは唇を尖らせた。

 

「なんでだよ。実物を見ていないくせに、おまえらしくもねえ」

 

「現代の技術ですと、レンズの直径が五メートル以上はないと」

 

 尖った口が、たちまち大きな輪になった。

 

「は?」 

 

「それから、レンズに見合った焦点距離が必要なので、

 ここの土蔵に入らない大きさになります」

 

 ランサーの想像以上にとんでもなかった。

 

「宇宙って、凄えなあ……。空恐ろしくなってくるぜ」

 

「ええ、未だに恐ろしいところでもあります。

 真空と絶対零度に支配された永遠の闇。

 この地球は、一万光年の中では唯一の奇蹟だった」

 

「だった?」

 

「この大地から、人類は飛び立ちました。

 新たな星を目指し、星の波濤を超え、暗礁を抜けて、私の星まで至る。

 千六百年後には、百を超える惑星に人が住んでいます」

 

 ヤンは昴のそばを指さした。

 

「あのあたりに、銀河帝国の首都星オーディーン」

 

 次に示したのは、青白いシリウス。 

 

「シリウスは、私の世界のもっと古い時代、宇宙の中心だった」

 

「じゃあ、ここはどうなってんだ?」

 

 黒い瞳が瞬いて、淡々と告げる。

 

「全面核戦争によって、地球は壊滅の危機にさらされました。

 だから、人間の宇宙進出が早まったんですよ。

 千六百年後の地球は、荒廃した辺境の一惑星になっています」

 

 そして、地球の復権を目論む狂信者の巣となっていた。ヤンを暗殺したのは、その地球教徒だ。

 

「全面核戦争が起こらなければ、まったく違う未来になるのかもしれませんが」

 

 そこは平凡で芽の出ない学者として生き、天寿を全うするヤン・ウェンリーのいる世界かもしれない。そうでないかもしれない。

 

 しかし、現在から未来をリレーする人々の中に、凛や士郎やイリヤたちと、彼らの子孫がいるといい。

 

 それがアーチャーの、ささやかで大それた願いであった。




大欲は無欲に似たり。


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姫君と騎士王の休日、再び

「わたしもちゃんと魔術の勉強をしてればよかった……」

 

 ファンシーショップの店先で、イリヤがぽつりと呟いた。

 

「金ピカみたいに、アーチャーを受肉できたかもしれないのに……」

 

 真剣な眼差しに、士郎は背筋が寒くなった。

 

「イリヤ、それはやめといたほうがいいと思うぞ……」

 

「あら、どうして?」

 

「だ、だってさ。イリヤに将来好きな人が出来て、結婚するとき困らないか?

 アーチャーを連れて一緒に住めないだろ?」

 

 きょとんとした大きな赤い瞳が、士郎を見上げる。

 

「連れていくって、わたしの家に住むのに?」

 

 士郎は目を瞬いた。そういえば、じいさんもそうだったっけ。

 

「余計に旦那さんが大変になると思うけどな……」

 

 イリヤが首を傾げた。

 

「んー、イリヤの好きなテレビで説明するとさ。

 サザエさんに、すごく頭のいい兄さんがいるようなものだろ?

 兄さんとサザエさんは、とっても仲がいいんだ。

 代わりに、優しいフネさんも、ムードメーカーのカツオくんや

 ワカメちゃんもいない」

 

「ナミヘーさんは、アハトお爺様?」

 

「そうそう。イリヤのじいちゃんは、波平さんみたいに気さくな人か?」

 

 イリヤは眉を寄せ、首を振った。

 

「ううん」

 

「磯野さんちがこうだったら、マスオさん、大変だと思わないか?」

 

 イリヤは頷くしかなかったが、すぐに閃いた。

 

「じゃあ、タマならいいんじゃない?」

 

「タマぁ?」

 

 イリヤが手に取ったのは、くたりとした素材のぬいぐるみだった。やる気のなさそうな顔をした白猫だ。

 

「これにアーチャーのタマシイを移しちゃうの」

 

「そんなことできるのか?

 それもちょっとどうかと思うけどなぁ……」

 

 士郎の常識論に、しろいこあくまは澄まし顔で囁いた。 

 

「ずっとじゃないわ。勉強して、もっといいやりかたを考えるもの。

 リンの魔力の節約にもなるよ」

 

 士郎は考え込み、とぼけた顔の猫を凝視した。

 

「……緊急避難としてはありかも。遠坂ボロボロだしなあ……」

 

 ふと視線を転じると、色違いのぬいぐるみが並んでいる。三毛に茶トラ、そして黒。

 

「だったらこっちのほうがいいんじゃないか? そっくりだ」

 

 持ち上げられた黒猫に、イリヤとお供のセイバーは吹き出した。

 

「シロウ、サイコーよ!」

 

「ええ、本当に似ています。よくぞ見つけましたね」

 

「……イリヤお嬢様。不穏なことをおっしゃらないように。

 衛宮士郎とセイバーも、失礼なことを言うんじゃない」

 

 苦りきった顔で注意するのは、執事服がぴたりと決まったアサシンである。 褐色の肌の偉丈夫は、パステルカラーの店内で浮いていること夥しい。執事と名乗ったからには、イリヤの我がままに振り回されるのは必然だった。

 

「拉致監禁と大差なかろう。彼の部下が、赤いカスケードを作りかねん」

 

「カスケードって何さ。カスタードとは違うのか?」

 

「――貴様、ちゃんと勉強しておけ。

 分からない言葉に生返事して、冬のテムズ川に蹴り落される羽目になっても

 知らんぞ」

 

「……それ、おまえの体験か?」

 

 アサシンは無言で目を逸らし、セイバーが助け舟を出した。

 

「シ、シロウ、カスケードは水の流れる階段のことです。

 そうそう、カスタードといえば、あの大判焼きは実に美味でしたが」

 

「お、おう、サンキュ。大判焼きは帰りに買おうな」

 

 セイバーが拳を握りしめたのは、マスターの感謝と大判焼きとどちらに反応したのだろうか。

 

 イリヤは執事服の裾を引っ張った。 

 

「ねえ、どうして水が赤いの?」

 

「水ではないからだよ」

 

 はぐらかすような答えに、衛宮姉弟の眉が寄る。

 

「階段に赤い水が流れるってこと?」

 

「でも水じゃないんだろ」

 

 今度はセイバーが視線を逸らした。

 

「……彼の宝具ならば、容易いでしょうね。

 恐らくは、ランサー相手に出したあれです」

 

 士郎とイリヤは棒立ちになった。

 

 アーチャーの宝具の一つは、千人以上もいる騎士たちの集団だった。赤薔薇の紋章の白い鎧に、金剛石の斧を携えた、一騎当千の猛者たちだ。 

 

 ものすごく、よく切れそうだった。――人体が。それが、階段を流れる赤い水の正体なのだろう。

 

「わかったな。滅多なことは言わないように」

 

 紅白と金が小刻みに上下動し、白はそのまましょんぼり頭を垂れた。

 

「うう、アーチャーはやめとくね。じゃ、シロウはどれがいい?」

 

「俺もか!? それはやめてくれ」

 

「じゃ、こっちならいい?」

 

 差し出された柴犬のぬいぐるみに、セイバーの表情が解ける。

 

「何と愛らしい……。イリヤスフィール様はセンスがいいですね」

 

 士郎は座り込みたくなった。

 

「だからセイバー、そういう問題じゃないんだ。俺の魂の危機だ」

 

 そんな寸劇にエミヤは額を押さえた。

 

「……まったく、付き合っていられんよ」

 

 小さな義姉は、艶然と微笑んだ。

 

「大きいシロウのも選んであげるから、すねないの。

 ねえ、これはどう?」

 

 イリヤが抱き上げたのは、妙に鋭い目つきの、実物より大きいシャム猫だった。セイバーは力強く頷いた。

 

「完璧です」

 

「でしょ? ねえ、セイバーはどれが好き?」

 

「え、では、あの獅子が……」

 

 時を超え、母から娘に受け継がれる、騎士王との休日。微笑ましいが、ついて行けない大小の衛宮士郎だった。




第82話でエミヤがぶら下げていた、ファンシーショップの袋の正体です。


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