CLANNAD ~Sequel of After Story~ (gachamuk)
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プロローグ

 岡崎家に第一子たる娘、汐が生まれてから最初の春を迎えたある日のこと。その日、岡崎朋也とその妻渚は、愛娘の汐を連れて、久々に渚の実家である古河パンへと向かっていた。

「ちぃ~っす」「ただいま帰りました」「あ~♪ あ~♪」

 三人がパン屋の入り口から、店のレジで欠伸をしながら退屈そうに座っていた古河秋生に向かってそれぞれ声を掛ける。

「いらっしゃ……って、なんだ。我が愛する娘と孫とどっかの馬の骨じゃねぇか。紛らわしいんだよ。今度から客じゃないって分かるように踊りながら入ってこい」

「分かりました。やり直します……」

 秋生の無茶ぶりに素直に従おうとする渚を、朋也が止める。

「いや、やらなくていいから。あと、どっかの馬の骨とか言うなよ。〈お義父さん〉?」

「ぐぉぉおおおおおっ!?」

 朋也が〈お義父さん〉と口にした途端、秋生は背中をものすごい勢いで掻き毟り始めた。そうして一頻り苦しんだ後、今度は秋生が頬を引きつらせながらこう言った。

「悪かったなぁ、〈息子〉よ」

 途端、

「ぬぉぉおおおおおおっ!?」

 先ほどの秋生と同じように、朋也ももだえ苦しむ。そこからは泥沼だった。

 朋也が〈お義父さん〉と口にするたびに秋生が悶え苦しみ、逆に秋生が〈息子〉と言えば朋也がむず痒そうに背中を掻き毟る。

 朋也と渚が結婚して以来続けられているこのやり取りは、数年たった今でも健在だった。

 とそこへ、騒ぎを聞きつけたのか、店の奥から古川早苗がひょっこりと顔を出した。

「渚、汐、お帰りなさい」

 にっこり微笑む早苗に、同じような笑顔で「ただいまです」と答える渚。二人して、店の床で悶える自分の夫を無視する辺り、意外と豪胆な性格をしている。まぁ、朋也と渚が結婚してから何度も見た光景なので見慣れているだけかもしれないが……。

 ともあれ、汐を抱きかかえながら家の中に上がり込んだ渚は、座布団を並べて作った即席のベッドに汐を寝かせると、

「しおちゃん、少し待っててくださいね」

 と優しく言い聞かせてから、母親を手伝うべく台所へと向かった。

 一方、汐はというと、目に映るものが珍しいのか、きょろきょろと辺りを見回してはきゃっきゃと喜んでいたが、やがて近くに誰もいないと感じ取ったのか、その大きな瞳一杯に涙を溜めこみ始めた。涙腺が決壊するまでのカウントダウンが始まり、ついに……。

「ふぎゃぁああ~~~~~~~~~~っ!」

 家中に轟きそうな大声で泣き始めた。それを聞きつけて、渚が慌てて汐を抱きかかえ……酔うとするよりも早く、土間から入ってきた朋也が抱き上げ、汐をあやしはじめる。

「お~、よしよし。汐~、どうした~? 寂しかったか~?」

 朋也が背中を軽くポンポン叩きながら笑いかけると、次第に汐の鳴き声も治まっていき、やがて、きゃっきゃと笑いながら朋也の顔をペタペタと触り始めた。

 それを見て、渚がぺこりと頭を下げる。

「朋也君……、すいません……」

 そんな妻に、朋也は苦笑しながら言った。

「気にするなって。子育ては共同作業だって言ったろ?」

「朋也君……」

 渚が嬉しそうな目で朋也を見つめ、二人の間に甘い空気が流れ始める。が、そんな甘い空気をぶち壊すように、早苗が口を開いた。

「あらあら、二人ともアツアツですね!」

 おっとりとほほ笑む早苗に対して、朋也と渚は顔を真っ赤にしながら慌ててお互いに目を背けた。

「かっ! いちゃいちゃしてんじゃねぇ」

 秋生のジト目がなんとも居心地の悪い二人だった。

 それからしばらくして。

「突然だが問題だ!」

 古河家で夕食をとっていたとき、秋生が突然立ち上がりながらそう宣言した。

 突然のことにぽかんとする家族に向かって、秋生は胸を張りながら問題を出す。

「明日、俺が密かに計画していたことはな~んだ?」

 そのままセンスを三つ取り出して広げると、選択肢を読み上げた。

「一、皆でお花見。二、皆でお尻見、三、皆で揃い踏み」

 センスに書かれた選択肢を見て、渚が真剣に頭を悩ませた。

「どれも似たようなもので迷ってしまいます」

 妻の発言に、朋也がすかさずツッコんだ。

「迷う余地なんてないだろ! というか、揃い踏みって何するんだよ」

「うるせー! テメーは一人でお尻でも見てやがれ」

 秋生が詰まらなさそうに言えば、早苗が微笑みながら提案する。

「では、秋生さんは一人でお尻を見ていてください。渚、朋也さん、私たちはお花見に行きましょうね?」

「ぐあっ! 俺も行くぞ! 早苗!」

 義理の両親のとてもアホなやり取りに、思わず頬を引きつらせる朋也だった。

 

 翌日、爽やかに晴れ渡った空の下を、古川夫妻と岡崎家はのんびりと歩いていた。

「気持ちいいですねぇ~」

 渚が目を細めながら空を見上げ、

「ああ……」

 汐が乗ったベビーカーを押しながらのんびりと応える。ベビーカーの中の汐は、暖かな日差しに当てられたのか、今はすやすや眠っている。

 渚は気分が乗ってきたのだろう、微笑みながら自分が大好きな歌を何となく口ずさみ始めた。

「だんご♪ だんご♪」

 すると、母の歌が聞こえたのか、汐が目をさまし、何かを求めるように手を伸ばした。

 汐の求めるものをいち早く察した渚が、汐を抱きかかえながら言う。

「しおちゃんも一緒に歌いましょう。だんご♪ だんご♪」

 母の言葉に答えるように、汐は「あ~♪」と声を出し、それを見ていた秋生と早苗も顔を見合わせて、一緒に歌い始める。

「「だんご♪ だんご♪」」

 そして、それを苦笑してみていた朋也も、皆に合わせるように歌い始める。

「だんご♪ だんご♪」

 そのまま彼らは、一家全員で〈だんご大家族〉を歌いながら、目的地である桜並木を目指した。

 

 桜並木から光坂高校へと続く坂道。

 その下に、古河夫妻に、朋也と渚、そして渚に抱きかかえられた汐の姿があった。

 さやさやと春の風が流れ、それぞれを包み込む。

「ここから……、俺たちは始まったんだな……」

 高校へと続く坂道を見上げ、朋也が感慨深げにつぶやき、渚が頷く。

「はい。私はあの時、この坂の途中で立ち止まっていました。もし、あの時、朋也君が私に声を掛けてくださらなかったら、今の私はここにはいません。そして、多分……、しおちゃんも……。だから私……、朋也君には感謝してるんです。あの時声を掛けてくれて……」

 えへへと笑う渚の後ろから、秋生と早苗が朋也に笑いかけた。

「私達も朋也さんには感謝していますよ。私達も、朋也さんと渚がここで出会わなければ、今、こうしてここにいなかったんですから……」

「癪だが、そういうことだ。ありがとうよ。渚と出会ってくれて」

 いきなり皆に感謝され、朋也は戸惑う。しかし、微笑む渚と、渚の腕に納まって自分を見上げる汐を見て、笑った。

「いや、俺の方こそ、皆には感謝してる。おっさんと早苗さんは、こんな俺を家族として見てくれて……。渚はこんな俺を好きになってくれて……。本当にありがとう」

 そしてゆっくりと頭を下げた。

 それから、咲き誇る桜を堪能したり、母娘共同作業で作ったお弁当を楽しんだりしてしばらくしたころ、朋也は何となく渚に呟いた。

「なぁ、渚……」

「何ですか?」

「こいつも……、汐もさ……。俺達みたいな出会いをするのかな?」

 渚はしばらく考えた後、ふわりとほほ笑んだ。

「それは分かりません。でも……、しおちゃんにも私達みたいな素敵な出会いをしてほしいです」

「ああ、そうだな……」

 

 ――どうか、汐にも素敵な出会いがありますように……

 

 朋也は心の中でそう願った。

 

 

 

 

 それから時は流れ、五年後の春。

 汐が幼稚園に入園するところから、物語が始まる。



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第1章 第1話 入園式

 その日の夜。汐はずっとテンションが高かった。

 その理由は簡単。翌日に待ちに待った幼稚園の入園式を控えているからだ。

 汐はその日をずっと心待ちにしていた。新しい環境に飛び込んで、新しい友達を作ることができるその日を。

 だから、汐は明日が待ち遠しくて、中々寝付こうとしなかった。

 そんな汐を、風呂から上がってビールを飲んでいた朋也が注意する。

「汐。そろそろ寝ないと、明日起きれなくなるぞ?」

 しかし、汐は首を横に振る。

「やだ。まだねたくない」

「寝たくないって言ったってなぁ……。明日起きれなくなったら、お前がずっと楽しみにしてた幼稚園の入園式に間に合わなくなるんだぞ? それでもいいのか?」

 朋也の問いに、汐はぴたりと動きを止めて考え込む。

「…………やだ。……にゅーえんしきでたい」

 汐の答えに満足そうに頷いた朋也が、優しく言う。

「じゃあ、そろそろ寝ないとな?」

「うん!」

 元気よく返事をした汐は、とてとてと部屋の中を横切って、〈だんご大家族〉のぬいぐるみを持ってくると、ぎゅっと抱きかかえながらいそいそと布団にもぐりこんだ。

「パパ。おやすみなさい……」

「ああ、お休み。汐……」

 汐はそのまま目を閉じてすやすやと寝息を…………立てられずに、困った顔をする。

「ねれない……」

 そこへ、翌日の汐の準備を終えた渚が、明暗を思いついたとばかりにぽんと手を叩いた。

「それじゃあ、しおちゃん! 私がお歌を歌ってあげます!」

「だんごだいかぞく?」

 ことりと首を傾げる汐に、渚が満面の笑みを浮かべながら応じる。

「はい。だんご大家族です。しおちゃんが大好きな歌ですよ」

「やった~!」

 諸手を挙げて喜ぶ汐は、再びいそいそと布団にもぐりこむと、そっと目を閉じた。

 渚は、汐に寄り添うように寝そべりながら、ゆっくりと口ずさんだ。

「だんご♪ だんご♪ だんご♪」

 歌いながら、ちらりと朋也に視線を向ける。

 恐らく、「朋也君にも歌ってほしいです」といいたいのだろうと理解した朋也は、そっとため息をつきながら、渚にあわせて歌った。

「「だんご♪ だんご♪ だんご♪」」

 夫婦の子守唄は、汐が眠るまで小さな部屋の中を静かに満たしていた。

 

 翌日。

「しおちゃん……、しおちゃん……、起きてください」

 渚に揺り起こされ、汐がゆっくりと目を覚ます。目をしょぼしょぼしながら大きくあくびをした汐が一言。

「…………まだねむい……」

 渚はにっこりと笑うと、

「しおちゃん。お顔を洗った後でパパを起こしてあげてくださいね」

 と言い残して、朝食の準備を始めた。汐はそれに「は~い」と元気よく答えると、洗面所でばしゃばしゃと顔を洗った後、まだ寝ている朋也の体を揺すった。

「パパ~おきて~」

 ゆらゆらゆらゆら。汐が県名に揺するが、朋也は一向に目覚める気配がない。

「パパ~。パパ~? …………むぅ……」

 ゆらゆらゆらゆら。いくら揺すっても起きる気配がない朋也に、汐はぷくりと可愛らしく頬を膨らませると、とてとてと朋也から距離をとると、助走を付けて走り出し、

「えい!」

 掛け声と共に、朋也の上に着地した。

 ちなみに五歳児の女の子の平均体重は十七キロ。順調にすくすく育った汐の体重は平均よりちょっと上。そんな汐が助走を付けて、熟睡してる朋也の上に飛び乗ったのだ。いくら仕事で鍛えられた身体を持つ朋也であっても、その結果は明々白々である。

「ぐぶぅぇっ!」

 なんとも表現しづらい悲鳴を上げながら朋也が飛び起きた。……否、目を覚ましはしたけど、そのまま床でぴくぴくと悶絶していた。そのまましばらくして、ようやく起き上がれるようになった朋也が、脂汗をだらだらと浮かべながら汐に訊ねた。

「汐……。あの起こし方は誰に聞いた?」

「さなえさん」

「…………何を教えてるんだあの人は……」

 朋也はため息をつき、渚は苦笑しながら朝食を作り、汐は何のことだか分かってなくて、きょとんとしていた。

 ともあれ、その後、三人揃って朝食を取った後、汐は真新しい幼稚園の制服に身をつつんで浮き足立っていた。

「パパ、ママ。はやくよーちえんいこう」

 汐が今にも飛び出しそうな勢いで朋也と渚を急かすのを、朋也がデジカメを取り出しながら諌めた。

「待て待て。先に写真をとろうな? ほら。ママと一緒に並んで……」

「は~い」

 素直に返事をして、とてとてと渚の下へ駆け寄る汐。朋也はカメラを構えながら、素直な娘に微笑んだ。

「よ~し、それじゃあ撮るぞ~」

「お~!」

「よろしくお願いします。朋也君」

 朋也はデジカメのモニタに二人の姿を納め、

「はい。チ~ス」

 ぱしゃりとシャッターを切った。

 モニタで画像を軽くチェックした後、ガスの元栓を締め、窓に鍵をかけ、最後に玄関の鍵を閉める。そして。

「それじゃあ、しゅっぱ~つ!」

「お~!」

 朋也の掛け声に拳を突き上げて元気よく返事をした汐は、渚と手を繋いで歩いていく。その様子を後ろから眺めていた朋也は、ふと我が家を仰ぎ見た。

 自分が高校を卒業してから入居した我が家。築二十年以上の1DKの部屋は、汐が成長していくにつれ、どんどんと手狭になって来ている。それに今はまだいいかもしれないが、汐もそのうち、自分の部屋を欲する時が来るだろう。

「そろそろ……、限界なのかもしれないな……」

 一人ぼやいた朋也は、遠くから「パパ~!」と呼ぶ汐の声で我に返ると、慌てたように二人の下へと駆け出して行った。

 

「園児入場」

 園長先生の合図で、小さな講堂にぞろぞろと新入園児たちが入ってくる。泣いてる子供、はしゃぎまわって列からはみ出る子供、緊張してぎこちない子供、早速仲良くおしゃべりをしている子供。そんな子供達に混じって汐が講堂に入ってきた。

「朋也君! しおちゃんです!」

「ああ! 分かってる! 汐~!」

 渚がにっこり笑いながら汐に向かって手を振り、朋也が上司の芳野祐介借りたビデオカメラで娘の勇姿(?)を映し出す。元々若い二人がそんな風にはしゃいだりすればこの上なく目立つのは必至である。その証拠に、慌てたように駆け寄ってきた保育士の人から、「静かにしてください」と注意を受け、二人して首を縮めることになってしまった。

 が、その二人よりも目立つ存在がいた。

「うひょ~! 見ろよ早苗! 俺たちの孫が一番可愛いぜ!」

 そういいながら、DJ風の服装と帽子という怪しい姿の(秋生)が、すばやい動きで動き回りながら、デジカメのシャッターを連射していた。しかもそれだけじゃなく、

「そうですね、秋生さん♪ 汐~! 私ですよ~!」

 こちらはまったく変装してない早苗が、笑顔でぶんぶんと汐に向かって手を振っていた。

「お父さんとお母さん!?」

 早苗を発見した渚が驚きに目を剥き、朋也は思わず頭を抱えた。

「何をやってるんだ、あの二人は……」

 そんな朋也と渚に気付かない二人はその後も汐に向かって手を振ったり、写真に収めたりしていたが、やがて、

「静かにしてください!」

 朋也と渚にとって、どこか聞き覚えのある声で叱られ、講堂の外に追い出されてしまった。それを見て、朋也は渚と顔を見合わせてお互いに苦笑した。

 その後、特にトラブルらしいトラブル(園児達が泣き喚いていたりを除く)もなく、無事に入園式を終えた朋也は、汐のクラスに移動し、クラス担任を見て驚きを隠せずにいた。

「はぁ~い。今日からみんなの担任の先生になった藤林杏(ふじばやしきょう)です。みんな、よろしくね~♪」

 そう、汐のクラスの担任となったのは、朋也と渚の高校時代の友人、藤林杏だったのだ。

「うげっ!? 杏!? ぬぉっ!?」

 思わずといった様子で叫んでしまった朋也のすぐ横を、辞書が猛スピードで通過して後ろの壁に突き刺さる。

「父兄の方は静かにしてくださいね~」

 にっこり笑っていながらも、その目からにじみ出る圧倒的な圧力に朋也は気圧され、刻々とうなずいた。

「……?」

 一方、渚は何が起こったのかわからずきょとんとしていた。

 ともあれ、簡単な自己紹介を済ませた杏は、父兄たちに向けての注意事項やら、園児達へ向けた注意事項を伝えていく。その様子は手馴れたもので、朋也は思わず感心してしまった。

「へぇ……。あいつもちゃんと幼稚園の先生やってるんだな……」

「そうですね」

 二人は、杏の先生然とした姿にしきりに感心していた。もっとも、二人の会話は、杏から漂ってきた無言の圧力で、すぐに終わってしまったが。

 そうこうしているうちに入園式全ての行事が終了し、保護者達が自分の子供を連れて三々五々解散していく中、朋也と渚が汐をつれて帰ろうとしたときのことだった。

「朋也、渚」

 杏に呼び止められ、二人は立ち止まった。

「杏」「杏ちゃん」

「久しぶりね、二人とも……」

「お久しぶりです」

 そのまますぐに、渚と杏で会話に華を咲かせ始める。それを見て苦笑していた朋也の手を汐が引っ張った。

「パパたちときょうせんせーはおともだち?」

「ああ、そうだぞ。パパもママも、杏先生とは仲がよかったんだ。最も、パパは先生にいじめられ…………、とっても優しい、いい先生だぞ!」

 杏から圧力を感じて慌てて言葉を紡ぎなおした朋也は、杏からの圧力が消えたことでほっとため息をついた。汐は、何がなんだかわからずにきょとんとしていたが。

 ともあれ、そのまま朋也たちとの会話を楽しんでいた杏だったが、少しして、誰かが杏を呼んだため、

「ごめんね。あたし、まだ仕事が残ってるから。それじゃ、またね。汐ちゃん、明日からよろしくね~」

 と言い残してひらひらと手を振りながら去っていった。

 それを見送りながら、渚がポツリと呟いた。

「しおちゃんの担任の先生が杏ちゃんでよかったです」

「ああ、そうだな……」

 朋也は渚の言葉に同意し、汐は何のことか分からずきょとんとしていた。

 

 幼稚園から帰った三人揃って古河家に顔を出すと、早苗がいつもの笑顔で三人を出迎え、そしてそのまま、汐の入園祝いが行われた。

 朋也と秋生は一緒にお酒を飲み、美味しい料理をたらふく食べて、楽しい会話にみんなが大いに笑った。

 そうしているうちに、はしゃぎ疲れた汐がうとうとし始めたので、朋也と渚は汐を背負ってアパートに帰ることにした。その道中で。

「朋也君……、今日は楽しかったですね」

「ああ……」

「でも……、朋也君のお父さんにも、しおちゃんの入園式をお祝いしてほしかったです……」

「っ!」

 朋也の父の話が出た途端、朋也は思わず顔を顰めた。

 渚も、朋也の反応はわかっていた。しかし、それでもしっかりと、話を続ける。

「朋也君……。お義父さんと話し合ってくださいね?」

「…………ああ、分かってる。分かってるから……」

 朋也の苦い思いが混じった言葉が、夜の闇に溶けた。



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第1章 第2話 友達

 岡崎汐の入園式からしばらく時間が経ったころ。

 汐は大分幼稚園にも慣れ、友達もたくさんできたと喜んでいた。毎日の夕食のときに、その日に幼稚園であったことを、両親に楽しげに話して聞かせている。

 また、汐が幼稚園に行き始めたことを契機に、渚もパートに復帰するようになった。

 朋也は当初、別に自分の稼ぎだけで十分家計を賄えているから、無理をしないでいいと諭そうとしたが、渚は、頑として譲らなかった。曰く、

「朋也君は働いていて、しおちゃんは幼稚園に行ってるんです。私だけ家でのんびりしてるわけには行きません」

 とのことらしい。

 その後、結局朋也が頑固な渚に折れる形でパートの復帰を認めたのだった。

 ともあれ、渚も職場に復帰したということで、それ以降、時々ではあるが、汐を幼稚園へ迎えに行く役目を古河家が担うことになる。

 そんな日々が続いたある日のこと。親子三人で夕食をとっているときのことだった。

「パパ、ママ。あした、よーちえんのおともだちがうしおのいえにあそびにいきたいって……。…………いい?」

 恐る恐るといった様子で伺う汐に、朋也と渚は同時に微笑んだ。

「ああ、もちろんだ」「じゃあ、明日はおやつを用意しておきますね」

 両親から許可を得られたことで、汐の顔がぱっと華やいだ。

「わ~い!」

 諸手を挙げて喜ぶ汐を、朋也と渚は微笑ましく見ていた。

 

 翌日。朋也が仕事を終えて帰宅すると、部屋の中には汐の友達なのだろう、小さな子供達が何人かいた。ちなみになぎさはというと、キッチンでおやつを用意していた。

「ただいま~」

 朋也が玄関から声を掛けると、汐が嬉しそうに笑って飛びついてくる。

「パパ~おかえりなさい」

 汐を抱きかかえていると、キッチンからひょっこりと渚も顔を出して微笑んだ。

「朋也君。お帰りなさい」

「ああ、ただいま渚」

 そう返事を返していると、子供達がわらわらと朋也の周りに集まってくる。

「このひとがうしおちゃんのパパ?」

 女の子の一人が朋也を指差して訊くと、汐がうんと頷いた。途端。

「かっこいい~!」「うちのおとーさんよりかっこういい」「いいな~うしおちゃん」

 女の子達がきゃーきゃーと騒ぎ始め、朋也はちょっと気をよくする。すると、今度は男の子達が騒ぎ始める。曰く、

「うわ、ロリコンだ」「へんたいだ」「はんざいしゃだ」

「待て待て待て待て! 誰がロリコンで変態で犯罪者だ!」

 思わずツッコむ朋也に、男の子たちは揃って朋也を指差した。途端、朋也がほほを引きつらせる。

「お前ら……俺にケンカ売ってるのか!」

 怒鳴り声を上げながら、がーっと威嚇すると、子供達(女の子含む)は「きゃ~!」とどこか嬉しそうに悲鳴を上げて逃げ回った。

 その後、渚のおやつを堪能してからは近くの公園に移動して、今は子供達だけで遊んでいる。どうやら、物まねごっこをしているらしく、汐が両手の握りこぶしをバットを握るように構え、すっと腰を落として「こまだ」と言っていた。

 それをみて、渚がくすくすと笑う。

「あれ、お父さんがしおちゃんに教えたんですよ」

 それを聞いた朋也は思わず苦笑してしまった。

「おっさん、女の子の汐に何を教えてるんだよ」

「でも、しおちゃんもお友達もとっても楽しそうです」

「……ああ、そうだな」

 そのまま、二人で子供達を見守っていると、汐が大きく手を振りながら朋也を呼び始めた。

「パパ~! いっしょにあそぼ~!」

「おう! すぐ行く!」

 そう叫んでから、立ち上がった朋也に、渚が声を掛ける。

「行ってらっしゃい、パパ」

「ああ、行ってくるよ、ママ」

 二人で笑いあった後、朋也は子供達の下へと駆け寄って、子供達の話に混じった。

 

 それから数日後。

 珍しく早く仕事が終わった朋也と、ちょうど仕事が終わった渚が、二人そろって幼稚園の汐を迎えに行った帰りのことだった。

 とある公園の前を通りがかったところで、突然声を掛けられた。

「岡崎さん、渚さん」

 朋也と渚が振り向くと、そこにはかつての渚の師であり、朋也の上司の妻、芳野公子がいて二人に向かって手を振っていた。

 朋也と渚が汐の手を引きながら、公子に軽く頭を下げた。

「お久しぶりです。公子さん……」

「先生、お久しぶりです」

「はい。お二人とも、お久しぶりです……」

 そう言ってにっこりと笑った公子が、朋也と汐の間できょとんとしている汐に目を留めた。

「その子が……」

「はい。娘の汐です。ほら、汐、自己紹介しなさい」

 朋也が応じながら汐の背中を軽く叩くと、汐はぺこりと頭を下げた。

「おかざきうしおです。よろしくおねがいします」

「はい。芳野公子です。よろしくお願いしますね」

 にこにこ微笑む公子に、渚が訊ねた。

「先生は、今日はお一人なんですか?」

「いえ。今日は妹と一緒なんです。今もその辺で遊んでるはずですが……。風ちゃん!」

 辺りをきょろきょろ見回しながら公子がそう呼ぶと、すぐ近くの茂みの中から、一人の少女が駆け寄ってきた。

「何ですか、お姉ちゃん? 風子は今、ヒトデの彫り物の材料探しに夢中になっていたところです……。…………この方たちは?」

「お姉ちゃんのお友達の岡崎朋也さんと、渚さん。それに二人の娘さんの汐ちゃんだよ」

「そうですか。初めまして。私は伊吹風子です。よろしくお願いします」

「岡崎朋也だ」

「渚です」

「おかざきうしおです。よろしくおねがいします」

 そうして、それぞれが自己紹介を済ませたところで、風子が汐を見て目を輝かせた。

「汐ちゃんですか。可愛らしいですね! 風子の妹にします! お持ち帰りです!」

 いきなりそんなことを言い出して、汐を抱きしめてどこかへ連れて行こうとするのを、朋也と公子があわてて引き止めた。

「待て待て待て待て! 人の娘を持ち帰ろうとするな!」

「風ちゃん!」

 引き止められた風子はしぶしぶといった様子で汐を解放する。

「お姉ちゃんも岡崎さんもケチです。こんな可愛らしい子なのですから、風子がお持ち帰りしてもいいはずです」

「いいわけあるか!」

「むぅ……。それじゃあ、今回は汐ちゃんと遊ぶだけにしておきます。汐ちゃん、風子と一緒に遊びましょう!」

 誘われた汐が一瞬両親に目を向ける。朋也と渚が揃って頷くと、汐は満面の笑みを浮かべて「うん!」と返事をして、風子と一緒に走り去って言った。

 それを見送った公子が、朋也と渚に申し訳なさそうな顔を向ける。

「お二人とも、ごめんなさい。後であの子には言って聞かせておきますので……」

「いえ。気にしないでください。しおちゃんも、楽しそうですから……」

 渚がそういうと、公子はもう一度走り去っていった風子に目を向けてため息をついた。

「もう……、風ちゃんったら……」

 朋也も同じ方向に目を向けながら、呟いた。

「……変わった妹さんですね……」

 その言葉に、公子は苦笑いを返す。

「ええ。あの子、本当は岡崎さんと同じ年齢なんですけどね……」

「「えっ!?」」

 朋也と同じ年齢という言葉に、思わず朋也と渚が驚いた。

「マジですか!? 俺はてっきり高校生くらいかと……」

「私も……、高校生くらいかな? と……」

 二人は改めて、汐とはしゃぐ風子に視線を向ける。

 汐と風子が楽しそうに遊ぶ姿が、仲のいい姉妹なのか、同年代の友達なのか、どちらに見えていたかは当人達野溝知るところである。

 それからしばらくして、日も大分落ちてきたところで、岡崎家の三人は公子たちと分かれて家路を歩いていた。

「だんご♪ だんご♪ だんご♪」

 汐が大好きな歌を歌いながらスキップする。そんな汐を見て、朋也が訊く。

「汐、風子と遊んで楽しかったか?」

「うん! ふーこおねーちゃん、おもしろい!」

「そっか」

「新しいお友達ができて、よかったですね。しおちゃん!」

「うん! またあそびたい!」

 そうして三人は、夕暮れの仲を我が家の道を仲良く歩いていった。

 

 その日以降、岡崎家にちょくちょく風子が遊びに来るようになった。

 そしてそれと同時に、遊びに来るたびに汐をつれて帰ろうとする風子を、朋也があわててて止めるという光景もおなじみになっていくのであった。



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第1章 第3話 汐の水泳特訓

 季節が変わるのが早いものだと、純白のセパレートタイプの水着に身を包んだ妻と、オレンジ色のフリルが着いたワンピースタイプの水着を着た娘が、水の中ではしゃいでいるのを見ながら岡崎朋也は思う。

「この間、汐が幼稚園に通い始めたと思ったのにな……………ちっ」

 朋也は軽く舌打ちをすると、近くに小さな子供がいるのにも関わらず、愛する渚をナンパしようとする不埒な輩を締めるために、急いで妻の元へと駆け寄った。

 

 なぜ岡崎家がプールに来たのか、その原因は数日前までさかのぼる。

 その日の夕食の時に、汐が唐突にこう言ったのだ。

「およげるようになりたい」

 それに対して、渚が理由を問うた。

「どうして、泳げるようになりたいんですか?」

「えとね、こんどプールびらきがあるからって、きょうせんせいがいってた。でもうしおおよいだことないから……」

 そこまで言われて、朋也はそうかと納得した。

「そういえば、汐を一度もプールや海に連れて行ってやってなかったっけ」

 朋也の言葉に、渚も頷く。

「そういえばそうですね。まだしおちゃんには危ないと思っていましたが……」

「そうだな。汐もそろそろ泳げるようになっておかないとな。よし汐。今度の日曜日は、皆でプールに行こうか」

 朋也が笑いかけると、汐は「おー!」と元気よく拳を突き上げた。

 

 とまぁ、そう言う理由で休日の日曜日に市民プールへ来た岡崎家だったわけだが、今は、お子様用プールの中央で、朋也がちゃらちゃらした格好の渚をナンパした男たちに睨み付けていた。

「てめぇら……、人の嫁に手ぇ出すとはどういう了見だ? あぁっ!?」

 その迫力に、思わず男たちの腰が引ける。そして。

「「す……、すみませんでした~~~!!」」

 ナンパ男たちは謝りながら走り去っていった。

「お~~~~~。パパかっこいい」

 汐がキラキラした目で朋也を見て、渚は苦笑いをしていた。

 ともあれ、無事にナンパを撃退した朋也たちは、水深の浅い子供用プールで早速汐の水泳特訓を始めた。

「いいか、汐? まずはゆっくりでいいから水に顔を付けてみろ。できるか?」

「うん!」

「しおちゃん、ファイトですよ」

「お~!」

 元気よく返事をした汐は、大きく息を吸い込んでそのまま水中に潜り込んだ。そして、そのまま数秒間、水中に沈んでいた後……、

「……ぷはぁっ」

 ざばりと水を掻き分けて浮上し、ごしごしと両手で顔を拭った。

 そんな汐を、朋也と渚が褒める。

「よく頑張ったな、汐」

「しおちゃん、すごいです!」

「えへへ~」

 得意満面の汐の頭を撫でながら、朋也がどこからか持ってきたビート板を汐に手渡した。

「よし、今度は水に浮く特訓だ。汐、いいか? これをこうして持って、ゆっくりと体の力を抜くんだ。できるか?」

 実際に実演しながら訊ねる。汐はそれに頷いてから、ビート板を受け取って、ゆっくりと水に浮かんだ。

「おお~~~~!」

 感動したような汐に苦笑しながら、朋也が次のステップを説明する。

「それじゃあ、汐。今度はそのまま足をばしゃばしゃさせてみろ。前に進むはずだ」

「わかった!」

 返事をしてからばしゃばしゃと足を動かす汐。しかし、一向に前に進む気配はなく、きょとんとしている。

「…………? すすまない?」

 なおも足をバタバタさせるが、やはり前に進まず首を傾げる汐に、朋也が苦笑しながらアドバイスをする。

「汐、膝を曲げちゃだめだ。足をまっすぐ伸ばしたまま、動かすんだよ」

「ほら、こうやるんですよ、しおちゃん。はい、イチニ、イチニ」

 渚が汐の足を持って、掛け声とともに足を交互に動かす。

「いちに、いちに……」

 汐も一緒に声を出して足を懸命に動かしていくと、徐々に体が前に進み始めた。

 渚がそれを見計らって手を放すと、汐はそのまま足をバタバタさせて前に進んでいく。そして、少ししたところで立つと、とてとてと歩いて戻ってきて、

「できた」

 と胸を張った。

「えらいぞ、汐!」「しおちゃん、すごいです!」

 手放しで褒める朋也と渚はやはり親バカなのだろう。

 何はともあれ、その後も、汐に息継ぎの仕方などを教えていき、昼食を食べ終えたころには、汐は一人で泳ぎ回れるようになっていた。

 

 そうしてしばらくして、帰りの電車の中。

 汐は遊び疲れて、渚の膝の上ですやすやと寝息を立てていた。

 そんな汐の頭を優しく撫でながら、渚が小さく笑う。

「今日の朋也君はとてもお父さんらしかったです。しおちゃんに教えるのもとても上手でした」

「そうか?」

 朋也がちょっと照れるように首を傾げると、渚がえへへと笑いながら頷く。

「そうですよ。私がお父さんに泳ぎを教えてもらった時は、『気合だ!』としか教えてくれなかったですから。結局、後になってお母さんが教えてくれたんですけどね」

「それは意外だな……。おっさんのことだから丁寧に教えたのかと思ったのに……」

「お父さんは、一緒に遊ぶのは得意なんですけど、教えるのは苦手なんです。お母さんは、学校の先生でしたから、教えるのもとても上手でした」

「おっさんらしいというか、なんというか……」

 朋也が苦笑していると、渚は少し言いにくそうに少しだけ躊躇った後、それでもしっかりと口を開いた。極力、軽く聞こえるように笑いながら。

「朋也君は……、やっぱりお義父さんに教えてもらったんですか?」

 父という言葉に、一瞬動揺した朋也は、渚から顔を逸らした。

「さぁ……、どうだったかな? そんな昔のことは忘れちまったよ……」

 朋也の様子を見て、渚は真剣な顔で朋也を見る。

「朋也君、まだお義父さんとお話しできませんか? しおちゃんも、まだお義父さんに会ってないです。それは寂しいです。きっとしおちゃんも会いたいと思ってるはずです」

「……ああ、……そうだな……」

 実際、朋也もこのままではだめだということは分かっていた。ただ、怖いのだ。話に行って、自分を息子として見れくれない、家族として見てくれないのではないかと思うと。だから、学生のころに家を出て、今の今まで逃げ続けていたのだ。

 朋也が辛そうに顔を歪めるのを見て、渚は思う。

 どうにかして、朋也と直幸を仲直りさせたいと。でも、普通に話をさせてもだめだろう。彼らの間には、それほどの深い溝があるのだから。事実、自分たちが結婚すると刑務所に報告しに行った時も、どこか他人行儀に「おめでとう」と祝福されただけだったのだから。

 それでも、何かきっかけがあれば、きっと二人は仲直りできるはず。歩み寄れるはず。今度、両親に相談してみよう。

 渚は一人、決意した。

 

 それから数日後。

 幼稚園から帰ってきた汐は、終始ご機嫌な様子で、お気に入りのだんご大家族のぬいぐるみを頭に乗せていた。

「渚、汐のやつ、何かいいことでもあったのか?」

 朋也に聞かれ、渚はにっこり笑った。

「実は、今日、幼稚園のプール開きだったのですが、その時にしおちゃんが泳いで杏ちゃんに褒められたそうなんです」

「へぇ~。よかったな、汐!」

「うん!」

 ぐっと親指を突きだす朋也に、同じような仕草を返した汐は、にっこり笑って、再び部屋の中をとてとてと走り始めた。

 それを微笑ましそうに見た渚が、朋也に顔を向けた。

「朋也君、先にしおちゃんと一緒にお風呂に入っちゃってください。私はお夕飯の支度をしてから入りますので」

「そうか? 悪いな」

 そして朋也は部屋の中を走り回る汐に声を掛けて着替えを用意すると、二人一緒に風呂場に入っていった。

 それを見送った渚は、こそこそと電話を掛ける。

「…………あ、お母さんですか? 私です、渚です。この間お話したことなんですけど……」

 こうして、朋也のあずかり知らぬところで、少しずつ計画は進められていった。



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第1章 第4話 和解への旅路

 朋也は最近、妻が自分に何かを隠していることを感じていた。どうも、自分がいないときに、こそこそとどこかへと電話を掛けているみたいなのだ。

 本人に直接問うてみても、誤魔化すように笑うだけ。だから、何かを隠しているのは分かっていても、その何かが分からずもやもやしていた。

「汐は何か知らないか?」

 ダメ元で娘に聞いてみたが、返ってきた答えは予想通りのものだった。

「ううん、しらない」

 朋也は自然と不安になった。まさか、浮気でもしてるのだろうか。いや、渚に限ってそれはありえない。何か厄介ごとでも抱えてしまったのだろうか。だったら、何故自分に相談しない。一体何を隠している……。

 どんどんもやもやしてきた朋也は、ついに仕事に身が入らなくなって、上司の芳野祐介に怒られてしまう始末だった。

「岡崎。お前、どうしたんだ? 心ここにあらずといった感じだぞ?」

「すいません……。実は最近、渚の様子がおかしくて……。どうも俺に隠し事してるみたいなんですけど……」

 祐介はため息をついた。

「あのな、岡崎。いくら夫婦であろうと、人間である以上、相手にいえないことも出てくるだろう。詮索してやるな。渚さんを信じてやれ。必要があれば、そのうち彼女から話してくれるだろう。それまで何も言わず見守ってやる。それこそが……愛だ!」

 無駄に恰好付けて言う祐介に苦笑しながらも、朋也は納得した。

 そうだ。最後のほうはともかくとして、芳野さんの言う通りだ。自分は何をうろたえていたのか。

「分かりました。芳野さん。俺、渚を信じて待ちます!」

「ああ、それでいい。それこそが愛!」

「ところで、芳野さんも公子さんに黙ってることあるんですか?」

「……? ある。俺が事務仕事が苦手で、書類整理は5分でキレてしまうこととかな……。彼女には決して言うなよ? ああ見えて、彼女は怒ると怖いんだ……」

 ものすごい剣幕でにらみつけてくる祐介に、朋也は思わず頷いたのだった。

 

 それから数日後。

 夕食のときに、渚が「旅行に行きましょう」と話を切り出した。

「何でまた突然……?」

 首を傾げる朋也に、渚はしどろもどろになりながら答える。

「えっとですね……。実は……。お父さんとお母さんが、私達が新婚旅行に行ってないことを気にしていたらしく……。最近は少しずつ余裕も出てきたことだし、いい機会だから行って来いって……」

「新婚旅行か……。確かに行ってなかったな……」

 ずずっと味噌汁を啜りながら朋也が呟くと、渚が上目遣いに朋也を見つめる。

「だめ……でしょうか?」

「いや、いいんじゃないか? せっかくおっさんと早苗さんが気を利かせてくれたんだ。甘えておこうぜ」

 朋也が笑いながら答えると、渚も顔を綻ばせた。と、そこへ、それまで両親の話を話半分に聞いていた汐が首を傾げる。

「りょこー?」

「ああ、そうだ。汐も旅行行きたいか?」

「うん! いきたい!」

「そっか。それじゃ、パパとママと汐の三人で行こうな!」

「うん! たのしみ!」

 満面の笑みを浮かべる汐を見て、朋也と渚はそろって目を細めた。

 その後、具体的な日程を決め、翌日に朋也は、早速職場の親方に休みを申請し、無事に受理された。

 こうして、岡崎家は初の家族旅行に出かけることになったのだった。

 

 旅行初日の朝、前日にテンションが上がりまくって中々寝付けなかった汐を起こして出かける準備をした朋也たちは、事前に早苗に渡されていた旅行プランに従って電車に乗り込んだ。そのプランによると、目指す先は東北らしい。

 なぜ東北と思わなくもない朋也だったが、初めての家族旅行で汐も喜んでいることだし、気にすることもないかと思い直した。

 その後、渚の作ったお弁当を皆で食べたり、楽しく話したりしているうちに、その日に泊まる宿のある街へとついた。そこは、日本でも有数の温泉街で、旅行プランに寄れば、初日はここでゆっくりと過ごすらしい。

 早速宿にチェックインした朋也たちは、部屋に荷物を置いて浴衣に着替えると、そのまま温泉へ入ることにした。

 入り口で渚と汐と分かれて男湯に入った朋也は、垣根を隔てて聞こえてくる汐のはしゃぐ声と、それを諌める渚の声に思わず苦笑いを漏らしてしまった。

 それはともかくとして、のんびり温泉に浸かった後は、美味しい海の幸を堪能し、はしゃぎ疲れて早々に眠ってしまった汐を布団に寝かせてから、朋也と渚は月明かりの下で翌日の予定を確認していた。

「予定表によると、明日はまた電車に乗って移動して、菜の花畑を見に行くそうです」

「へぇ……。あれ?」

 予定表を確認していた朋也は、そこに書かれていた一文に疑問を覚えた。

「なぁ、渚。ここんとこ……。俺だけ別行動って書いてあるけど……」

「本当ですね……。何なんでしょうか……?」

「午後四時くらいに灯台へ俺一人……か……。ま、行ってみれば分かるだろ。この間、汐を頼むな」

「はい。お任せください」

「それじゃ、俺たちも寝るか」

「そうですね」

 そうして夫婦そろって布団に潜り込んだところで、渚が言いにくそうに口を開いた。

「あの……朋也君……?」

「何だ?」

「その……、手を繋いでもいいですか?」

「……? ああ、別にいいけど……?」

 そうして布団から出した朋也の手を渚が嬉しそうに握る。

「えへへ……。朋也君、温かいです」

 そう言ってにっこりほほ笑む妻に、朋也の心臓が高鳴った。そして、

「っ! 渚!」

「わっ!? ちょっと朋也君!? こんなところで……」

 

 ……………………………………。

 

 ここから先は夫婦の時間である。

 何があったかは、翌日の朝に、二人して赤面している様子から察してほしい。

 それはさておき、三人そろって朝食を食べた後は、荷物を纏めてから宿をチェックアウト、そのまま電車に乗り込んで、最後の目的地を目指した。

 何度も電車を乗り継ぎ、山を越え、田園風景を通り過ぎ、一両しかない電車がきしみを上げて停車したのは、小さな無人駅だった。

 駅から出て、地図を頼りに菜の花畑を目指す朋也の目に飛び込んでくる木々が、家が、道が、朋也の脳裏をチクチクと刺激する。

「(この風景を……俺は知っている? いつだったか、この風景を見たことがある気がする?)」

「……? 朋也君? どうかしたしましたか?」

 渚に心配そうにのぞきこまれ、朋也は思考を中断すると、何でもないと首を振った。

 渚はまだ心配そうにしていたが、先に前に行った汐から「お~!」という歓声が聞こえ、そちらに意識を取られた。

「行ってみようぜ、渚」

 そう言って指しだされた朋也の手を、渚も「はい」と返事をして掴み、二人は並んで汐の元へと急いだ。そして、二人の目に飛び込んできたのは、眼前一杯に広がる黄色い菜の花畑。

「へぇ……」

「わぁ……素敵です」

この光景には朋也も渚も思わず感嘆の声を漏らした。

「パパ~! ママ~!」

 汐の声が聞こえ、ふと視線を下におろすと、既に菜の花畑に降りていた汐が、満面の笑みを浮かべてこちらに手を振っていた。

 朋也と渚が手を振りかえすと、汐はにっこり笑うとそのまま踵を返して菜の花畑を走り回った。

「汐~! あんまり遠くに行くなよ~! それと転ばないように気を付けろよ~!」

「わかった~!」

 元気よく返事をして駆け出す汐を微笑ましそうに見た朋也は、近くの木陰に座りながらため息をついた。

「本当に分かってるのかね? あいつは……」

「しおちゃんならきっと大丈夫です」

 隣に座りながらそう言う渚に、朋也はそうだなと頷いて、二人で汐を見守った。

 

 それからしばらくして、日もだいぶ傾いてきたころ。

 ちらりと腕時計を確認した朋也がゆっくりと立ち上がった。

「それじゃあ、渚。俺は、予定表通り、この先の灯台に行ってくる。汐のこと、頼むな」

「はい。行ってらっしゃい」

 朋也は行ってきますと答えて歩き始めた。そうして、灯台へと続く道を歩いていると、再び朋也の脳裏を、周りの光景がチクチクと刺激した。

「やっぱり……、俺はこの光景を知っている……。この先に、何が待ってるっていうんだ……、早苗さん……」

 朋也はこの光景をいつ見たのか思い出せず、もどかしい思いをしながらも歩を進めていく。そして、一陣の風が吹き、突如視界が開けた。

 木の柵で囲われた小さな広場のような場所、目の前に聳えたつ灯台とその先に広がる夕焼け色に染まった海。

 朋也がその光景に呆然としていると、灯台の下に立っていた一人の女性がゆっくりと朋也を振り返って、口を開いた。

「岡崎……朋也さんですね?」

 朋也はゆっくりと頷いてから、言葉を絞り出す。

「え、ええ……。あなたは……?」

「私は、岡崎史乃(しの)といいます」

「岡……崎……?」

 朋也の問いに、史乃と名乗った女性がゆっくり微笑んだ。

「ええ、あなたの父、直幸の母です。つまりはあなたの祖母です。古川さんというお方から、あなたがここに来ると言われて、お待ちしておりました」

 どうやら、秋生と早苗が仕組んだことらしいと気付いた朋也は、二人に対して舌を巻きながら、目の前の祖母に訊ねた。

「どうして……俺を?」

「それは、あなたに、直幸のことについてお話ししたいことがあるからです」

「親父の?」

 史乃は頷いた後ゆっくりと語りだした。

 直幸と、母である敦子あつこが学生の時に出会い、周囲の反対を押し切って結婚したこと。直幸は愛する妻のために学校をやめ、一生懸命働いたこと。そのうち、朋也が生まれ、幸せだったこと。しかし、敦子が事故に遭い、失意のどん底に落とされたこと。それでも、息子だけは自分の手で育て上げると史乃に誓い、朋也の手を引いてこの地から旅立っていったこと。朋也を育てるために、何度も仕事を首になりながら、それでも懸命に働いて、時にはなけなしのお金からおやつやおもちゃを買い与えたこと。

 それを聞いて、朋也ははっとする。

 そう、確かに自分はこの場所を、まだ若かった父に手を引かれて歩いていったことがある。そして、自分がかつて住んでいたあの家で、父の下手くそな料理を食べて育ち、おやつやおもちゃをもらって喜んでいた。

 そう、自分をここまで育てたのは、ほかでもない自分の父なのだ。お小遣いをくれたのも、ご飯を食べさせてくれたのも、家に住むためにかかる費用すべてを負担したのも。全部父がやってくれたことじゃないか。

 それに気付いたとき、自然と朋也の目からはらはらと涙が流れた。そして、痛感する。結局、自分は子供だったのだと。自分だって汐を育てて、親という物がどれだけ大変かを知っていたはずなのに、父を理解しようとしなかった。

 そんな朋也に、史乃が言葉を掛ける。

「朋也さん、あの子はダメな父親だったかもしれません。ですが、あの子は十分頑張りました。頑張りすぎました。だから、伝えてやってくれませんか? もうここに戻ってきてはどうかと。後はここに戻ってきて、ゆっくりしなさいと」

「……はい。必ず伝えます」

 朋也は涙を流しながら、史乃に頭を下げた。そして、思う。帰ったら、父と話をしようと。

 と、そこへ。

「パパ~!」

 渚に連れられた汐が、とてとてと走って朋也に抱き付いた。そして、朋也を見上げる。

「パパ、ないてる?」

 朋也は慌てて涙を拭うと、何でもないと笑った。

「その子が……」

 史乃の声に、朋也は振り返って汐を紹介する。

「はい。俺の娘、汐です。汐、挨拶して」

 朋也に促され、汐がぺこりと頭を下げる。

「おかざきうしおです。よろしくおねがいします」

「そうですか。私は岡崎史乃。あなたのひいおばあちゃんです」

「ひーおばーちゃん?」

 よく分からない汐がきょとんとすると、史乃はくすくす笑いながら汐の頭を撫でた。

「おばあちゃんでいいですよ」

「わかった!」

 汐が大きく頷き、史乃が満足そうに笑う。そこへ、渚が追いついて史乃に頭を下げる。

「朋也君の妻の渚です」

「そう……。あなたが……。朋也さんをよろしくお願いしますね」

「はい。こちらこそです」

 そして渚と史乃はお互いに笑いあった。

 その後、その日の宿である史乃の家に移動した三人は旅の疲れを癒して、夜を明かした。

 

 翌日。

 朋也たちは、史乃に玄関で見送られていた。

「それじゃあ、朋也さん。あの子のこと、よろしくお願いしますね」

「はい。必ず伝えます」

 しっかりと史乃を見据えて返事をする朋也。それから三人は手を取り合って、彼らが住む街に帰っていった。



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第1章 第5話 和解

「ちぃ~っす」「ただいま帰りました」「ただいま~」

 旅行から帰ってきた岡崎家の三人はその足で古河家に顔を出し、それを早苗がいつもの笑顔で出迎えた。

「お帰りなさい、三人とも。旅行は楽しかったですか?」

「うん!」

「そうですか。それは何よりです。お疲れでしょう。中で休んで行ってください」

 早苗に促され、三人は中にリビングへと上がりこむ。もっとも、渚は早苗と一緒に、お茶の準備をするために、キッチンへと入っていったが。

 それはともかくとして、朋也と汐がリビングに入ると、そこには秋生がいた。

「おう、帰ったか。楽しかったか?」

「うん! 楽しかった! また行きたい!」

「そうか。じゃあ、今度は俺様と早苗と渚の四人で行こうな」

「何言ってやがるおっさん!」

 自分だけ外された朋也が、あわてて秋生にツッコむが、秋生は朋也に食って掛かった。

「やかましい! 俺だって娘や孫に囲まれてハーレム状態で旅行したいんだよ!」

 それに対して朋也が何も言わず自分の後ろを見ていることに気付いた秋生が、ゆっくりと振り返ると、そこには目に涙を一杯に溜めた早苗と、苦笑いを浮かべながら立っている渚がいた。

「あ……」

 しまったとばかりに声を上げる秋生だが、説きすでに遅し。早苗はそのままぽろぽろと涙を溢れさせると、

「私は……、私は……仲間はずれなんですね~~~~~~っ!!」

 脱兎のごとく外へと走っていってしまった。その際、お茶をこぼさないようにテーブルにおいている辺り、意外と余裕があるようだ。

 ともあれ、秋生は舌打ちをすると、まだ熱いお茶を飲み干しながら、

「あち~っ! 俺は愛してるぞ~~~~~~~っ!!」

 外へ走っていった早苗を追いかけていった。

 このいつもの光景に、朋也と渚はお互いに顔を見合わせて苦笑し、汐はきょとんとしていた。

 その後、早苗は何食わぬ顔で、秋生はぜぇぜぇと息を切らして戻ってきたてから、秋生からの「ウチに泊まってゆっくりして行け」という言葉に素直に甘えることにした朋也たちは、秋生と朋也で酒を飲み交わしたり、二人にお土産を渡したり、汐の身振り手振りを交えた旅行のお土産話に花を咲かせたりして楽しく過ごした。

 明けて翌日。

 古川家で朝食を取った朋也が、軽く渚に声を掛けた。

「渚、それじゃ俺……行ってくるよ」

「あ、それなら私も一緒に……」

 行きます、と続けようとした渚を、朋也が手で制する。

「いや……、今回は俺一人で行かせてくれないか?」

「朋也君……」

 心配そうにする渚に、朋也は安心させるように笑いかける。そこへ、秋生がお茶をすすりながら訊ねる。

「なんだ小僧? どっかでかけるのか?」

「ああ、ちょっと実家……、親父のところへな……」

「そうか……」

 秋生は一瞬だけ真顔になり、そして。

「これは、お前の問題だから俺たちは何も言わねぇ。けどな、真剣に思いをぶつければ、きっと相手にも届く。それを忘れるな?」

「…………ああ、ありがとう」

 朋也は頷いた後、すっと立ち上がった。

「それじゃ、行ってくる」

 そう言って出ていこうとする朋也に、秋生がサムズアップを向けた。

「おう、行ってかましてこい!」

「何をだよ!」

 シリアスな空気が台無しだった。

 

 実家の前に立った朋也は、複雑な思いで実家を見上げた。

 高校三年の時にこの家を出てから、今まで一度も寄り付かなくなった家は、自分の記憶にあるものより、少し寂れているように見える。

 朋也はゆっくりと玄関の戸に手を掛け、がらがらと開け放つ。

「ただいま……」

 小さく声を掛けてみるが、反応はない。が、朋也はそれに構うことなく靴を脱ぎ、父親がいるであろうリビングに入る。

 果たして、そこに父・直幸はいた。

 白髪だらけになってしまった髪、こけ落ちた頬、薄汚れたYシャツと擦り切れたスラックス。どれも朋也の記憶にある通りの姿だ。ふと、周りに目を向ければ、リビングはゴミだらけで、机の上には小さなラジオが競馬の実況を垂れ流している。窓は開けておらず、かといって電気を付けているわけでもないので、部屋の中は薄暗かった。

 そんな家の有様に、朋也は悲しげな表情を浮かべると、座ったまま項垂れている直幸に声を掛けた。

「親父……」

 軽く揺すってみるが反応はない。そこで朋也は、垂れ流しになっているラジオを切って、もう一度声を掛けてみた。

「父さん……」

 ぴくり、と反応が返ってきた。

「ああ、朋也君……」

 ゆっくりと顔を上げた直幸をみて、朋也は様々な思いを込めて呟いた。

「ただいま……」

 そして、朋也はゆっくりと語りだす。

 渚と汐、三人で東北に旅行に行ったこと。かつて父と一緒に歩いた道を、三人で歩いたこと。一面の菜の花畑に、汐が喜んでいたこと。そして、灯台で祖母・史乃にあっていろいろと聞いたこと。

「父さんの母親から聞いたよ。昔のこと。俺もいろいろ思い出した。こんな親不孝な俺のために一生懸命になってくれてたことも、おもちゃとかお菓子とか、いろいろ買ってくれたことも……。母さんを亡くして辛かったんだろうけど……。それでも俺を手放さずに一人で育ててくれた……。俺もさ……、親になって初めてわかった。子供を育てるのがどれだけ大変なことか。親になってやっと父さんの凄さに気付いた。俺……、今になってすげぇ、感謝してる。ありがとう……」

 ちらりと見えた直幸は、話を聞いているのかどうかも分からない顔をしていた。それでも、朋也は感謝を述べた。仕事だけでも大変だったなのに、自分をきちんと育て上げてくれた父に対して、朋也は精一杯の感謝をこめて頭を下げ、そして話を続ける。

「だからさ……、もう……十分じゃないか? もう休んでもいいんじゃないか? 田舎に帰ってさ、あんたの……、父さんの母親のそばでゆっくり過ごしてもいいんじゃないか? 父さんの母親も、昔、父さんが誓いを立てた灯台で父さんを待ってる。だから……」

 自分の言葉は父に届かないのだろうか。どれだけの想いをこめても、二度と届かないのだろうか。そんな思いが浮かび始めたその時、

「……もう……、いいのだろうか……?」

 ぽつりと漏れた直幸の言葉に、朋也が慌てて顔を上げる。

 直幸は、遠くを見るように天井を見上げ、再びぽつりと呟いた。

「俺は……やり終えたのだろうか……?」

 目に涙が溢れてくるのを必死にこらえながら、朋也は大きく頷いた。

「ああ……! もう十分だ! あんたは……十分立派にやってくれたよ……。何もかもを犠牲にして俺を育ててくれたじゃないか。俺を見ろよ。今では嫁さんをもらって、子供もできて……。まだ立派とは言えないけど、それなりに頑張ってるんだ。こんな俺をここまで育ててくれたんだ。十分やり終えてくれたさ……」

「そうか……、よかった……」

 それまで細められていた直幸の目が大きく開かれ、この日この時。親子は何年かぶりにお互いに笑いあった。

 それから二人は、散らかった部屋を片付けながらいろいろなことを話しあった。朋也が家を出てから数年間、どのような暮らしをしていたのか、どんなものを見てきたのか。

 そんな時だった。

 来訪者が途絶えて、ならなくなって久しいインターフォンのチャイムが鳴らされた。受話器を取り上げようとする直幸を制して朋也が玄関まで向かうと、そこには渚と汐、そして古河夫妻がいた。

 きょとんとする朋也に向かって、渚が言う。

「心配で来ちゃいました」

 えへへと笑う渚に、朋也は苦笑を返した。その様子を見た秋生が何かに気付いたように確認する。

「うまくいったのか?」

「ああ……。皆、上がってくれ。だいぶ散らかってたから、今片付けてるけどな」

 朋也に促されて全員が上がり込み、リビングで一人片づけていた直幸と対面する。

「親父……。紹介するよ。渚……はもう知ってるよな? それから、娘の汐。あんたの孫だ。汐、おじいちゃんに挨拶しなさい」

 朋也に促され、汐がぺこりと頭を下げる。

「おかざきうしおです」

「岡崎直幸です。君のお祖父ちゃん……になるのかな?」

「おじーちゃん?」

「そうだよ。よろしく」

 にっこり笑って、優しく汐の頭を撫でる直幸。朋也はそれを微笑ましそうに見た後、今度は古河夫妻を紹介する。

「それで、こっちが渚の両親で……」

「古河秋生だ。よろしく頼むぜ」

「妻の早苗です。朋也さんにはお世話になってます」

「ああ、ご丁寧に。朋也の父の直幸です。こちらこそ、いつも朋也がお世話になってます。今までご挨拶にもうかがえず、面目ない……」

 直幸がすまなさそうな顔で頭を掻くと、秋生がその背中をばしばしと叩く。

「気にすんなって。俺たちは家族なんだからよ」

「家族……?」

「小僧の父親ってことは、渚にとっても父親なんだ。だったら俺たちは家族。そうだろ?」

「……ああ、……そう……ですね」

 家族という言葉に、直幸の目にじわりと涙が浮かぶ。それを誤魔化すように、直幸は部屋の片づけを再開した。

「お客さんが来てるのに、こんなに部屋が散らかっていたら申し訳ない。朋也、すぐに片づけるぞ」

「はいはい」

 苦笑気味に返すと、渚も片づけを手伝い始め、それに習うように、秋生や早苗、汐も片づけ始めた。

 それからしばらくして、一通り部屋がきれいになったところで、今は秋生持参の酒を男連中で飲み交わしていた。

 キッチンでは、渚と早苗が料理を拵え、朋也の膝の上には汐が座っており、ジュースを片手に父親と祖父たちを眺めている。それは、この家に久々に流れる暖かい時間だった。そしてその日。朋也は随分と久しぶりに、風呂で父親の痩せた背中を流した。

 

 その翌日。

 田舎に帰る準備を終えた直幸が、外で朋也たちに見送られていた。

「じゃあな、親父。元気でやれよ?」

「ああ」

「酒もたばこも、やりすぎるなよ?」

「分かってる」

「あんたの母親に、迷惑かけるなよ?」

「大丈夫」

「長生きしてくれよ? 恩返しに行くから……」

「ああ、待ってるよ」

「家の後処理は、俺がなんとかするから……」

「すまないな……」

 少ない言葉のやり取り。だけど、そこには確かに親子のきずなが感じられて、渚は自然とほほ笑んでいた。

「ああ、そうだ。渚さん……」

 直幸は渚に声を掛けながら、カバンの中を探り、小さな箱を取りだした。

「これを……、渚さんに持っていてほしいんだ」

 差し出されたものを受け取った渚がその箱を開けると、中には蒼く小さくカットされた石が取り付けられた一組のイヤリングが入っていた。

 渚が戸惑いを隠せないままに訊ねる。

「あの……これは……?」

「ああ、それはね……。敦子……、亡くなった妻の形見なんだ」

 それを聞いて渚は慌てる。

「そんな大事なもの、いただけません」

 そう言って返そうとする渚に、直幸は静かに首を振った。

「あなたに持っていてほしいんだ。私が持っていても仕方ないからね。敦子もその方が喜ぶし……」

「…………分かりました」

 渚は結局納得し、小さな箱からイヤリングを取りだして、自分の両耳につける。

「朋也君、似合ってますか?」

 訊ねる妻に、朋也は頷いた。

 そして、別れの時はきた。

「それじゃあ、俺はもう行くよ。古河さん、渚さん。朋也のこと、よろしくお願いします」

「はい」

「おう、任せとけ」

「ええ」

「じゃあ、朋也。たまにはあっちにも遊びに来いよ?」

「ああ、行くよ。渚と汐と一緒に」

「汐ちゃん。ばいばい」

「ばいばい」

 それぞれに別れの挨拶を済ませ、直幸は静かに去っていき、朋也たちは直幸の姿が見えなくなるまで、その背中を見送った。

 渚の両耳に付けられたイヤリングが小さくきらりと光った。



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幻想世界物語 Ⅰ

 何も生まれない、何も始まらない、そんな終わってしまった世界。

 ここにはかつて、一人の少女がいた。

 少女は、この世界になぜか散らばっているガラクタを集め、一体の人形を作り出した。そしてその人形に、一つの魂が宿り、その日から少女は一人ではなくなった。

 少女と人形は、いろんなことを語り、ガラクタを集めては他の人形を作ってみたり(結局魂が宿ることはなく、人形は埋葬されたが)、少女と人形が楽しく遊べるように様々な遊具を作ったりした。

 人形は楽しかった。毎日少女といろんなことをするのが。だが、そんな楽しい日々も長くは続かなかった。

 終わってしまった世界の空を、徐々にどんよりとした灰色の雲が覆い始めた。それにあわせるように、気温は徐々に下がっていき、やがて冬が訪れた。

 その冬の訪れは、徐々に少女の身体を蝕んでいった。

 人形は考えた。彼女を助けるにはどうしたらいいのか。そして思い付いたのは、彼がかつていた、遠い過去あるいは遠い未来の世界。

 そこに少女を連れていけば、少女は助かるのではないだろうか。あの優しく暖かな場所に行けば。そう思った人形は、少女に提案し、一人と一体で空を飛ぶ乗り物を作り始めた。

 人形が終わってしまった世界に落ちているガラクタを拾い集めてきて、少女がそれを組み立てていく。そんな日々が続いた。

 だけど、少女の身体が蝕まれていくにつれて、少女の活動時間がどんどん短くなり、作業は遅々として進まず、その結果、とうとう彼らがいる場所にまで雪が降り始めた。

 このままでは彼女が完全に動けなくなってしまう。そう思った人形は決意した。少女を連れて、歩いてこの世界から脱出することを。そして、少女と人形は旅立った。終わってしまった世界の出口へと向けて。

 それからどれくらい歩いたのか、雪はいつの間にかたくさん降り積もり、とうとう少女は雪の中に倒れ込んで動けなくなってしまった。

「ごめんね……」

 そう謝る少女を背負って、人形は歩き続けた。ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ。

 しかし、あまり進まぬうちに、人形も雪に足を取られて倒れ込んでしまう。

 力なく空を見上げながら、人形は思った。

 

 ――あとどれくらい歩けば、この世界から出られるのだろう

 

 そんな時、少女が人形に言った。自分はもうすぐ人ではなくなり、世界そのものになる。だから、君はこの世界から出ていかなくてはいけない。ありがとう。

 そして、少女は口ずさんだ。少女が好きな歌を。同時に、人形にとってとても大切な人が大好きだった歌を。

 

 ――だんご♪ だんご♪ だんご♪

 

 その時、それまで終わった世界を覆っていた雲の隙間から光が差し込み、強烈な突風が人形をバラバラに破壊する。

 人形は身体を破壊されながら、少女が最後につぶやいた言葉を聞いた。

 

 ――ばいばい。パパ……

 

 そこで人形の意識は途絶え、彼らの長い、長い旅は終わった。否、本来は終わるはずだった。

 だが、人形は最後の最後で心残りができてしまった。

 人形は少女に伝えたかったのだ。少女と一緒に過ごせて楽しかった。この世界に産まれることができてよかったと。

 しかし、その手段はもうない。人形は元の魂だけの状態に戻り、世界から消えつつある。

 そればかりか、少女はこの終わってしまった世界そのものになってしまった。

 だから、人形は思った。彼女に伝えることのできる人を探そう。探して、お願いしよう。彼女に伝えてほしいと。

 

 こうして、世界から消えた人形の魂は、新たなる世界へと旅立っていった。



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第2章 第1話 岡崎汐がモテるわけ

 突然だが、岡崎汐は幼稚園で男の子達にモテる。それはもう、汐のクラスの男子の半分は彼女に密かな思いを寄せているのではないだろうかというくらいだ。

 さて、何故突然そんなことを言い出したのか、その理由は幼稚園のとある教室にある。

 その教室にいるのは一人の女の子と一人の男の子。女の子は岡崎汐。そして、男の子は彼女が所属するクラスの一人。

 今、その男の子が緊張した面持ちで汐と向かい合っていた。男の子はしばらく黙っていたが、やがて勇気を振り絞るように口を開いた。

「お……、おかざきうしおちゃん!」

「…………?」

「ぼくは……、うしおちゃんがだいすきです! だからぼくのかのじょになってください!」

 幼稚園のころから彼女になれというのはなんともませた子供である。それはともかくとして、告白された汐は良く分からずきょとんとしていた。それはそうだろう。何せ二人ともまだ五歳児である。五歳児が惚れた腫れたの感情を理解できるはずもない(いや、告白した男の子はそういう感情を理解しているのかもしれないが)。したがって、汐から放たれた言葉はある意味当然といえる内容だった。つまり、

「かのじょってなに?」

 それを聞いた男の子は、毒気が抜かれたような顔をして、なんでもないというととぼとぼと去っていった。

 そして、その日の夕方にたまたま早く仕事が終わった朋也と渚の三人で幼稚園からアパートに帰って少しくつろいでいると、早苗から皆で夕食を食べないかと誘われた。特に反対する理由もなかったので、三人で古河家にお邪魔して夕食を楽しんでいるときのことだった。

「汐は今日は、幼稚園でどんなことがありましたか?」

 早苗が何気なく汐に質問した。

 汐は、ハンバーグに齧り付いてもぐもぐと咀嚼した後、ごっくんと口の中のものを飲み込んでから答えた。

「きょーは、きょーせんせーといっしょにおうたをうたった。それとくらすのおとこのこにかのじょになってくださいっていわれた」

 無邪気に答える汐。しかし、話の中に混じっていたある単語に、彼女の父親と祖父がピクリと反応する。

「汐、もう一回話してくれないか? クラスの男の子が何だって?」

 ぎぎぎと音がしそうなほどぎこちなく首を動かして汐のほうを見る朋也。よく見れば、秋生も顔を伏せて位空気を纏っていて、二人からは剣呑な空気を感じる。

 とはいえ、五歳児の汐にそういう空気を読めといっても無駄な話であり、実際に、汐は素直に答えた。

「くらすのおとこのこにかのじょになってくださいっていわれた。かのじょってなに?」

 ことりと首を傾げる汐の質問には答えず、朋也と秋生はゆらりと立ち上がった。

「おっさん……」

「ああ、分かってる。行くぞ、小僧……」

「ああ。なぁ、汐? その『彼女になってください』って言った男の子はなんていう名前なんだ?」

 汐が父の問いに答えようとするよりも早く、渚が慌てたように夫に呼びかけた。

「朋也君! ダメですよ!」

「だがな渚……」

 朋也が言い訳をしようとする前に、渚がたしなめるように呼ぶ。

「朋也君!」

 朋也は一つ息をつくと、肩をすくめた。

「分かってるって。冗談だよ、冗談」

 そう言って苦笑いを向けると、渚は「冗談だったんですか」と納得して矛を納めた。ちなみに秋生はというと、自分は悪くないとばかりにいつの間にか晩酌に戻っていた。

 そんな中、うやむやになってしまった汐の告白事件を、早苗が蒸し返した。

「それで? 汐はその子に対してなんて答えたんですか?」

 再びピクリと反応して聞き耳を立てる朋也と秋生に気付かない汐は、今度はふりかけのかかったご飯を頬張ってから答えた。

「『かのじょってなに?』ってきいたらかえっちゃった」

 このときばかりは、朋也も秋生も相手の男の子に少しばかり同情を向け、この騒動は一応の収まりを見せた。もっとも、後日、なぜか風子がこの話しを聞きつけ、

「汐ちゃんは風子の妹にする子ですから、どこの馬の骨とも分からない男の子になんて上げれません!」

 と言って朋也からツッコミを、渚からは苦笑をもらっていたが。

 

 それから数日後。

 仕事を終えた朋也がアパートの玄関を開けると……。

「にげろ~~~!」「まて~~~~~!」「ぎゃ~~~~~!」「風子のヒトデアタックを喰らうのです!」「あははははははは!」

 子供達で部屋の中が騒がしく(若干一名、朋也と同い年の子がいたが)、渚が困った顔をしていた。

「あ、朋也君、お帰りなさい」

 朋也に気付いた渚が出迎える。

「ああ、ただいま渚。……それでこれは一体どういう状況なんだ?」

 朋也が部屋の中を見ながら訊ね、渚が説明してくれた。

 それによると、汐が幼稚園の後で友達をうちに呼んで遊ぶ約束をしたらしく、渚と汐と一緒にうちに来たらしい。その途中で、風子にばったり会い、皆でうちの中に上がりこんで、いつの間にか鬼ごっこが始まり、現状に至るらしい。

「そうか……」

 朋也は部屋の中に視線を戻すと、子供達(+風子)が楽しそうに部屋の中を走り回っている。その光景自体は微笑ましいのだが、いくらボロアパートとはいえ、他にも住人がいるのだ。それなのにこれだけ暴れまわっていたら、他の人たちの迷惑になる。

 朋也はため息をつくと、玄関から声を掛けた。

「汐! 部屋の中だと狭いだろう? 公園に行ってきたらどうだ?」

「パパ?」

 汐がとてとてと朋也に走り寄ってきて、そのまま抱きつく。

「おかえりなさい」

「ああ、ただいま汐。ほら、パパも着替えたらすぐに行くから、皆と先に公園に行ってなさい」

「うん、わかった」

 素直に頷いた汐は、そのまま皆を引き連れて公園へ出かけていった。

 それを見送った朋也は、改めて部屋の中を見てぼそりと呟く。

「そろそろ……、限界かもしれないな……」

「え? 何か言いましたか? 朋也君?」

「ああ…………、いや、後で話すよ……」

「そうですか」

「それじゃ、俺、行って来るな」

「はい。気をつけてくださいね」

 そして朋也は妻に見送られ、子供達の元へと向かった。

 

 公園に着いた朋也が見た光景は、汐をはさんで二人の男の子が言い合っている光景だった。

「おいおい、これは一体どういう状況だ?」

 近くにいた風子に訊ねてみると、

「あの子達は汐ちゃんの可愛さにやられてしまった男の子たちです。汐ちゃんが可愛いからどっちが彼女にするかでもめてるんです」

「…………ほう……。俺の娘に手を出す……ねぇ……」

 朋也の暗い言い方に、普段は能天気の風子ですら、後ずさりをする。

「あの……岡崎さん? 落ち着いてください」

「おかしなことを言うな、風子。俺はこれ異常ないくらいに落ち着いてるぞ? そんなわけで、ちょっと話して(こらしめて)くる」

「岡崎さん! 読み方が違います!」

 つかつかと汐の元へ歩み寄ろうとする朋也を、風子が懸命に押しとどめる。普段は子供っぽい行動をすることが多い風子だが、実はこういうときにはきちんと空気を読める子なのだ。

 それはともかくとして、朋也が汐を取り合っている男の子たちに声を掛けようと口を開いたときだった。

「おい、ガキ共……。汐に手を出そうなんて百年飛んで三十年はえぇんだよ」

 いつの間にか現れた秋生が、子供たちをにらみつけていた。ちなみに朋也は一瞬あっけに取られた後、「それ、飛んでねぇからな」とツッコミを入れていたが聞いているものは誰もいなかった。

 ツッコミを無視されて朋也がうなだれている間にも状況は進んでいく。

「いいか、小僧共。汐を嫁にしたければな、俺を倒してからにしろ!」

 胸を張りながら言い切った秋生は、どこからともなくバットを取り出すと、

「俺の剛速球を打てた奴に、汐を嫁にする権利をやる」

 と宣言した。

「待て待て待て待て! おっさん! 勝手に汐の貰い手を決めてんじゃねぇ!」

「あん? だったらてめぇが俺様の球を打って阻止すりゃいいじゃねぇか。それともできねぇか?」

 挑発され、朋也はこめかみを引きつらせた。

「くっ、言ってくれるじゃねぇか。いいぜ? やってやるよ」

「へっ、ほえ面かかせてやるよ」

「そっちこそ」

 こうして、大人二人によるとても大人気ない勝負が始まった。

 ピッチャーの位置についた秋生がにやりと笑い、バットを構えた朋也が不適に微笑む。

「秋生さ~ん、朋也さ~ん。お二人とも頑張ってくださいね~」

 いつの間にか現れた早苗が、子供達を近くに集めながら応援した。

「汐はどっちが勝つと思いますか?」

 早苗の問いに、汐は少しだけ考えた後、

「あっきー」

 と答えた。それに対する秋生と朋也の反応は、

「へへ~ん。見たか!」「ぐぁっ!」

 見事なまでに対照的だったが、次の瞬間、汐が放った言葉で態度が逆転した。

「でも、パパにかってほしい……」

 この言葉に、秋生は怒りに震えると、大きく振りかぶった。

「喰らえ! この俺様の落差一メートルを誇るフォークを!」

 秋生の宣言に、朋也は心の中で「大リーグにでも行ってろ」とツッコミを入れてしっかりとバットを構える。そして、秋生から放たれたボールをしっかりと見据え、思いっきり振るスイングした。

 

 ――かきん!

 

 快音を響かせて飛んで行くボール。それを目で追った後、朋也は汐に向けてガッツポーズをした。

「見たか、汐!」

「うん!」

 秋生は悔しがり、朋也が全身で喜びを表現する中、遠くで「ぱりん」と硝子を割った音が響き、その場にいた全員が同時に声を上げた。

『あっ』

 

 

 その日の夜。はしゃぎ疲れた汐が眠るのを見ながら、朋也は以前から考えていたことを渚に話した。

「引越し……ですか?」

「ああ、今はいいかもしれないが、汐もだんだん成長してくるとこの家では狭くなるし、そのうち、一人部屋もほしがるだろう。そろそろこの家だと限界かなと思うんだ……」

「そう……ですね……」

 渚は少しだけ寂しそうな顔で頷いた。

「ま、今すぐというわけにはいかないけどな。それでも、今度、いいところがないか探しに行こうぜ」

「はい……」

「それじゃ、もう寝るか。お休み、渚……」

「おやすみなさい……、朋也君……」

 引越しという言葉に、渚は少しだけ引っかかりを覚えていた。



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第2章 第2話 思い出の家

 朋也は引越しの話を渚にしてから、渚の様子が少しおかしいことに気付いた。引越しに関する話を極端に避けているようだ。

 そんな日々が続いたある日のこと。汐が寝静まった後で、朋也は思い切って渚に聞いてみることにした。

「なぁ、渚……」

「何ですか、朋也君?」

「この間話した引越しのことなんだけどさ……」

「あ! そうでした。明日のしおちゃんのお弁当の準備が……」

「渚……」

「しおちゃんは何が入ってたら喜んでくれるでしょうか? 朋也君も一緒に……」

「渚……!」

 話をそらそうとする渚に対して、朋也は少しだけ強い口調で名前を呼んだ。

 渚はゆっくりと目を閉じた後、真剣な顔で夫に向き合った。

「なぁ、渚……。正直に話してくれ。お前……、引越ししたくないのか?」

 朋也の言葉に、渚はゆるゆると首を振る。

「いえ……、そういうのではないんです。ただ……」

 渚はそこで一度言葉を途切れさせ、すやすやと寝息を立てる汐をそっと見た。

「ただ……寂しいのだと思います……」

「寂しい?」

「はい……。この家は、朋也君と私が一緒にスタートを切った家です。いろんな思い出がたくさん詰まった家ですから。離れてしまうのが少し寂しいなって……。それに、ここはしおちゃんが生まれた場所でもありますから……。そんな場所を離れるのが、私は寂しいんだと思います……」

 渚は、「えへへ」と困ったように笑って話を続ける。

「だけど、朋也君の言うことも分かります。しおちゃんがこれから大きくなっていくのに、いつまでもこの部屋で暮らしていたのでは、狭くなってしまいます。窮屈です。しおちゃんにそんな思いはさせたくありません」

「渚……」

「だから、しおちゃんのためにもいいお家を探しましょう」

 そう言ってほほ笑む渚の頭を、朋也は優しく撫でるのだった。

 

 翌日から、朋也は早速、引っ越しのために動き出した。

 仕事の空き時間や、仕事が終わった後などに不動産屋を巡ったり、上司の芳野祐介や社長にいい物件がないかを聞いたりして回っていた。

 そんなある日のこと。渚の実家に顔を出した朋也が、引っ越しを考えていることを秋生に伝える。

「引っ越しだと~~~~~~~~っ!?」

 秋生は大声を出していたが、これは別に引っ越しに驚いたわけではない。その証拠に、朋也に背を向けて、視線はテレビ画面に固定されている。

「へへ~ん。どうだ、今のドリフトは?」

 背中越しに振り返って、自分のゲームテクニックを自慢する秋生。朋也はそれを呆れたような目で見ながらぼやいた。

「ゲームを止めないか?」

「ちっ」

 秋生は渋々といった様子でゲームの電源を切ると、タバコの火を着けながら朋也を振り返った。

「小僧。俺たちは、お前の言い分も分かるし、いつまでもあの部屋のままじゃ、いずれ汐が窮屈な思いをしてしまうということも分かってる。つまりだ。お前たちの引っ越そうという考えに、反対するつもりはねぇよ」

「そうか……、ありがとう……」

 ぺこりと頭を下げる朋也。それに対して秋生はタバコを大きく吹かせた後、箪笥を漁って一冊の通帳を取りだすと、それを朋也に差し出した。表面には、〈古川渚〉と印字されている

「これは……?」

「見ての通り、通帳だよ。俺たち夫婦が、渚の結婚資金にとためておいたものだ。これを引っ越し資金に充てろ。本当は、結婚式のためにと思ってたんだがな……。まぁ、引っ越しのための資金に充てるなら、早苗も納得するだろ」

 朋也は差し出された通帳をじっと見つめた後、ゆっくりと首を振った。

「悪いがそれは受け取れない」

「何でだ?」

 ピクリと片眉を持ち上げて反応する秋生をしっかり見据えて、朋也は口を開いた。

「これは俺たち一家の問題だ。だから、俺たちだけでなんとかしなきゃいけない。そう思うんだ。それに……」

 朋也はゆっくりと、しっかりと言葉を紡いでいく。

「それは、おっさんと早苗さんが必死に働いて渚のためにためてた物だろ? だからそれは渚のために……、渚だけのために使わなくちゃいけない。そんな気がするんだ」

 そう言った朋也の頭を、秋生はため息とともに「ぺしっ」と叩いた。

「バカか。小僧が一丁前のことを言ってんじゃねぇ。いいか、小僧……いや、朋也。お前が渚と結婚した時にも言ったが、俺たちはもう家族なんだから、お互いに助け合っていく。それが家族ってもんだろ? 俺も早苗も、渚……、家族のために働いてこの金をためたんだ。つまりだ、今回の引っ越しのために使うということは、俺たちの家族のために使うということだ」

「おっさん……」

「だから、変に気を使う必要はねぇってこった。ほら、言いから受け取っちまえ」

 朋也は秋生が差し出す通帳をじっと見つめた後、そっとそれを受け取った。

「……分かった。ありがたく受け取るよ」

 と、そこへタイミングを見計らったかのように、早苗、渚、汐がリビングに入ってきた。

「お話は終わりましたか?」

 早苗の問いに頷いた朋也は、お茶を一口飲んでから、秋生と早苗に向かって深く頭を下げた。

「二人とも、ありがとうございます」

 それに対して、秋生は照れ臭そうに顔を逸らし、早苗はにっこり笑うだけだった。

 

 それから数日後のある日。仕事を終えた朋也は、父の元同僚の木下さんから電話を受けていた。

「…………はい。……ええ、はい。…………そうですか……。……いえ、ありがとうございます」

 電話向こうの相手に対して頭を下げた後、ゆっくりと受話器を置いた朋也はほうっとため息をついた。

 その様子を見た渚がことりと首を傾げる。

「なにかあったんですか?」

「ん? ああ、いや。俺の実家のことで木下さんから連絡があったんだ。やっと実家の後処理が全部終わったって……」

「そうなんですか……」

「ああ、親父の借金は俺と、史乃さんでなんとか処理できたし。これで、あの家のことは全部終わった。ま、木下さんにはだいぶ迷惑掛けちまったけどな……」

「それで……、あの家はどうなるんでしょうか……?」

「木下さんの話だと、少しの間、不動産が管理して、売れなければ家を壊して新しい家にして売り出すんだと……」

「寂しくないですか?」

 渚に言われ、朋也は言葉を途切れさせる。

「朋也君……、あの家が無くなると寂しいと思います。あの家は、朋也君が長い間過ごして、お父さんとケンカして、でも仲直りした思い出の家ですから……」

 渚に言われるまでもなく、朋也は寂しかった。渚の言う通り、長い間過ごした家なのだから。

「それは、寂しいに決まってる。あの家は、嫌なこともいっぱいあったけど、それでも俺が育った家だから……。けどな、あの家が無くなったからと言って、俺の中の思い出までなくなるわけじゃないんだ。それに、今がすげぇ幸せだからさ。大丈夫」

「朋也君……」

 渚は、朋也の笑顔がどこか無理しているように感じた。

 

 数日後。

 この日、朋也は休日だったので、朝から少し不動産屋を覗こうと思っていた。しかし、

「朋也君、私としおちゃんと三人でちょっとお出かけしませんか?」

 珍しく、渚の方から外出に誘ってきた。朋也は、まぁいいかと思い直し、それを了承。間に汐を挟んで、三人で仲良く家を出た。そして、しばらく歩いたところで、渚に訊ねる。

「それで? 一体どこに行くんだ?」

 渚は「内緒です」と誤魔化して歩いていく。これは聞いても無駄だと悟った朋也は、今度はダメもとで汐に聞いてみた。

「汐は、ママがどこに行としてるのか知ってるか?」

「ううん、しらない」

「だよな……」

 予想通りの答えが返ってきた。

「ま、行ってみれば分かるか」

 そうぼやいた朋也は、軽く肩をすくめた。

 それからさらに歩くことしばし。朋也は、自分のよく見知った道(正しくは、過去に何度も歩いたひどく懐かしい道)を歩いていることに気付いた。

「(この道は……)」

 朋也は渚の背中に声を掛ける。

「渚……」

「何ですか、朋也君?」

「今から行こうとしてる場所って、もしかして……」

「えへへ……。やっぱり分かっちゃいましたか……」

「当たり前だ。……それにしてもどうして?」

 朋也の問いかけに、渚はそっと目を伏せた。

「だって……、朋也君のお家が無くなってしまうかもしれないんですから……。その前に、ちゃんと見ておきたいなって思ったんです……」

 妻の答えに、朋也は呆れたようにため息をついた。

 そうこうしているうちに、三人は朋也の実家の前に辿り着いた。すると、そこには、

「やぁ、待っていたよ、朋也君」

 直幸の元同僚、木下さんがいた。

 どうやら話を聞く限り、渚が前もって連絡していたみたいで、知り合いの不動産屋から鍵を預かったらしい。

 ともあれ、木下さんから鍵を借りて家の中に入った三人は、ゆっくりと家の中を回ることにした。

 朋也が懐かしい思いを感じながらゆっくりと部屋を回っていくと、昔朋也が使っていた部屋を興味深げに眺める汐の姿を見つけた。

「どうした、汐?」

 朋也が声を掛けると、汐は目を瞑ってひくひくと鼻を動かした。

「パパのにおいがする……」

「パパの匂い?」

 朋也も鼻をひくひくとさせてみるが、特に匂いらしきものを感じることはなかった。

「気のせいじゃないのか?」

 そう言ってみても、汐は首を振るだけだった。そこへ、渚も部屋の中に入ってくる。

「二人とも……、ここにいたんですか……」

「ママ……、ここ、パパのにおいがする……」

 汐が言うと、渚も鼻をひくひくさせる。

「……、本当ですね。確かに朋也君の匂いです」

「俺の匂いねぇ……」

 もう一度、朋也も鼻をひくひくさせた後、やっぱり分からないと言わんばかりに首を振った。

 その後も、あちこちを見回って、朋也の思い出話を聞いたりしているうちに時間は過ぎていき、そろそろ帰るかという朋也の言葉に賛成した岡崎家は、玄関の戸をしっかりと施錠してから、鍵を木下さんに返却した。

「今日はありがとうございました」

 そう言って頭を下げる朋也に倣うように、渚も汐も頭を下げ、三人仲良く家路につく。

 その途中で、渚が汐に訊ねる。

「しおちゃん、今日は楽しかったですか?」

「うん! パパのおへやもみれてたのしかった!」

「そうですか。それじゃあ、しおちゃんはあのお家に住んでみたいですか?」

「……うん!」

 にっこり笑う汐に微笑みを向けた渚は、今度は朋也に視線を向ける。

「私もあの家になら住んでみたいです。朋也君はどうですか?」

 渚の問いに、朋也はしばし考え込んだ。

 別にあの家に蟠りがあるわけでもないし、汐も住んでみたいと言っている。それに自分にとっては住み慣れた家でもある。反対する理由もない。ならば。

「そうだな……。あの家でいいかもしれないな」

 こうして、岡崎家の満場の一致で引っ越し先が決定された。



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第2章 第3話 引っ越し

 引越し先を朋也の実家に決めた岡崎家の面々は、早速引越しの作業に取り掛かった。

 まずは不動産屋に連絡してあの家に引っ越すことを話して契約。その後、具体的な引越しの日取りを決めて、その日に向けて荷物をまとめていく。そんな作業をしているうちに、気がつけば引越しを翌日に控えていた。

「それにしても……、ずいぶんと物が増えたものだな」

 引越しの手伝いに来ていた秋生が、部屋に所狭しと並べられたダンボールや家具、その他雑貨などを眺めてため息をつく。

 朋也も、秋生の言葉に頷いた。

「ああ、最初に俺と渚がここに引っ越してきたときは、本当に数える程度のものしかなかったんだけどな……」

 最初に来たときは、この部屋には布団とたんす、食器や調理器具。本当にそれくらいだった。それから、必要なものを買い足していって少しずつ物が増え、やがて汐が生まれてからはさらに物が増えていった。

「人ってのは、そうやって思い出を積み重ねていくんだ。今までも……、これからもな」

 秋生のぼやきに、朋也は黙って頷いた。

 そんなことを話していると、荷物を纏めていた汐が朋也の袖を引っ張った。

「パパ……、おかたづけ……」

「ん? ああ、そうだな。よし、がんばるぞ!」

「お~!」

 拳を突き上げて元気よく返事をする汐だった。

 それからは全員でてきぱきと片づけをしていく。そんな時に事件は起こった。

「……? これは何でしょう?」

 押入れの奥に仕舞われていた段ボール箱を、渚が引っ張り出した。箱には何も書かれておらず、また、ガムテープで厳重に封印されているため、中身が何かは分からない。自分に心当たりがないのならこれは朋也の物だろうと判断した渚が、朋也に声を掛けた。

「朋也君、これ……何ですか?」

 呼ばれて、朋也も段ボールを覗き込んでみるが、生憎記憶になかった。

「…………? いや、俺にも分からないな……。開けてみたらどうだ?」

 朋也の提案に頷いた渚が、慎重にガムテープをはがしていき、箱を開けて中を覗きこんだその瞬間。

「っ!?」

 渚は息を飲んで固まってしまった。

「どうした渚。中は何だったん……!?」

 朋也も横から箱を覗き込み、不自然に言葉を途切れさせた。

「なんだなんだ? 一体どうしたって言うんだ?」

 不自然に固まる娘夫婦の様子を訝しんだ秋生と早苗も近寄ってきて、ひょいと横から覗き込み、

「こ、これは……!?」

「まあ……」

 箱の中身を見て動揺していた。その様子を見て不思議に思ったのだろう、汐がとてとてと四人に近づいてきた。

「パパ? ママ? あっきー? さなえさん?」

 そして、箱の中身を見ようとしたところで、いち早く復活した早苗がひょいと汐を抱き上げた。

「汐にはまだ早いから、あっちで私と一緒にお片づけをしましょうね」

「…………? わかった」

 よく分からないままに頷いた汐はそのまま早苗と一緒に片づけを再開させた。

 ここで、箱の中身についてふれておこう。その中身とはやたらと露出度の高いセパレートタイプの水着を着た女性や、生まれたままの姿で惜しげもなくその悩ましげな肢体を晒している女性が多数掲載された本、つまりは〈エロ本〉が箱の中に大量に納められていたのだ。早苗が汐を遠ざけた理由もむべなるかな。

 さて、そんなものを見てしまった彼らの反応はというと……、

「朋也君……」

 今にも地に沈みそうな声で渚が朋也に呼びかけ、

「小僧……、てめぇ……」

 秋生が「ごごごごご」と効果音が付きそうなほどの空気を纏いながら、ゆっくりと朋也に視線を向け、そして、その朋也はというと、

「ち、違う! 俺はこんなものは知らない!」

 必死になって言い訳をしていた。

「朋也君……、酷いです……」

 渚が目から涙を溢れさせながらぽつりと言う。

「いや……、だから俺じゃねぇって。ほら、昔、お前が汐を妊娠した時に、おっさんからもらったエロ本をお前に捨てられたときがあっただろ?」

 渚は少し思い出すように視線を上に向け、やがておずおずと頷いた。

「ええ、そういえばそういうことがありました」

「俺はあの時以降、この手の本を手にしたことはない!」

「…………本当ですか?」

「ああ、本当のことだ。誓ってもいい」

「…………分かりました。朋也君を信じます……」

 どうやら渚は朋也の無実を信じたらしく、「疑ってごめんなさい」と頭を下げていた。一方の秋生はというと、

「ほう……これは中々の……。いやいや、これなら早苗の方が……。だがこれも……」

 一人エロ本を読みふけっていたが、やがて、ぱたりと本を閉じると、

「小僧、中々いい趣味してるじゃないか」

「あんたは黙っててくれないか? 状況がややこしくなる」

「なぁ、小僧……、いや、朋也……」

 急に真面目な口調に切り替えて朋也を振り返る。

「俺たちは、もう家族だよな?」

「あ、ああ……」

「なら……」

 何だか妙に真剣な空気に、朋也と渚がごくりと喉を鳴らす。秋生は、十分に間を取ってから、ゆっくりと口を開いた。

「なら、このエロ本、俺が貰っていいか?」

 秋生から出た思わぬ言葉に朋也と渚はがくっと脱力してしまった。

「別に好きにしていいけど……」

「マジか!? うっひょ~~~~!」

 朋也が答えると、秋生は目を輝かせて本を物色し始める。

「お父さん!」

 渚が抗議の声を上げるが、秋生は夢中で聞いていなかった。と、そこで、朋也と渚が、秋生の後ろで目を潤ませて立っている早苗に気付いた。

「あ……、おっさん?」

「あの……、お父さん?」

「あんだよ、今いいところなんだから……」

 邪魔しないでくれと続けようとした秋生は、朋也と渚の視線が自分の後ろにあることに気付き、ゆっくりと振り返って、直後に口をあんぐりと開けた。

 その瞬間をまるで狙っていたように、早苗は顔を覆う。

「秋生さん……、私より……、私より……、エロ本の方が大事なんですね~~~~~~~っ!!」

 そのまま涙を溢れさせながら、勢いよくアパートから飛び出して行ってしまい、一瞬呆気にとられてしまった秋生も、すぐに舌打ちして、近所に轟くような大声で早苗を追いかけはじめた。

「お前は最高だ~~~~~~~! 早苗~~~~~~~~~!」

 それを見送った朋也と渚は、苦笑してから片づけを再開したのだった。

 

 翌日、どうにかすべての荷物を纏め終えた朋也たちは、部屋の掃除をしていた。高いところを朋也が、低いところを渚と汐がそれぞれ掃除をする。

 そんな時だった。汐が壁に何かをこすりつけたような傷跡があるのを発見した。

「ママ~」

「何ですか、しおちゃん?」

「ここ、きずがある……」

「これですか……。この傷はですね。朋也くんと私がこの部屋に引っ越してきたときに、部屋の中に布団を運んだんですけど、その時に朋也君が付けちゃった傷です」

「あの時の傷か……。懐かしいな……」

 二人の会話に、朋也も交じる。

「あの時は、引っ越した早々壁に傷を付けちまったから、マジでひやってしたよ」

「あの時の朋也君の顔はおかしかったです」

 渚が思い出し笑いをしてくすくす笑う。それが悔しかったのか恥ずかしかったのか、ともかく、朋也も反撃とばかりに、汐をキッチンに呼び寄せた。

「汐、いいこと教えてやる。ママもな、ここで包丁を落として……、ほら。この傷。床に包丁がざっくり刺さって、すごく慌てたんだぞ。ママは昔っからおっちょこちょいなところがあるからな。あの時のママの慌てた様子は今思い出しても笑えるんだ」

「ママ、あわてもの~」

 汐がきゃっきゃと笑うと、渚はぷくりと頬を膨らませる。

「朋也君! しおちゃんに変なことを教えないでください!」

 朋也は苦笑してから、汐に言う。

「この家にはな。パパやママ、それに汐、お前が付けた傷がたくさんあるんだ。この家にはそれだけたくさんの思い出が刻まれてるんだ……」

「…………?」

 よくわからずきょとんとする汐を見て朋也はくすりと笑うと、汐の頭をくしゃりと撫でてから、掃除を再開した。

 それからしばらくして、手伝いに来てくれた芳野夫妻と秋生が借りてきた軽トラックに乗って姿を現すと、どんどんと荷物を運び出していく。

 箪笥や棚、渚の化粧台などは男性陣が、食器やその他軽いものは女性陣が運ぶ。ちなみにその際、風子が汐を連れて行こうとして、全員に全力で止められていたことを追記しておく。

 閑話休題。

 とりあえず、全ての荷物を運び出し終えた後、最後に朋也が忘れ物がないかをチェックして、ゆっくりと鍵を閉める。

 そして、階段を下りて、渚と汐のそばまで歩いたところで、くるりとアパートを振り返ると、アパートに向かって深く頭を下げた。

「今までお世話になりました。ありがとう……」

 朋也のその行動に倣うように、汐と渚も頭を下げる。

「ありがとーございました」

「あびばぼうござびまじだ……」

 号泣しながらもお礼を言う渚に朋也が思わず苦笑してしまった。

 それからさらに少しして、引っ越し先である朋也の実家に辿り着いた一行は、今度はどんどん荷物を運び入れていく。

 そして、荷物をすべて運び終えて、後は荷を解くだけという段階になって、朋也が汐に呼びかけた。

「汐、お前の部屋はどこがいい?」

「うしおのへや?」

「ああ、お前の部屋だ。お前がこれから小学校に入って勉強したり、寝たりするために使う部屋だよ。どこがいい?」

 朋也の問いに、汐はしばらく考え込んだ後、いきなりだっと走り出した。

「汐?」

 朋也が慌てて追いかけると、汐はある部屋の前で立ち止まり、朋也に告げた。

「ここがいい」

「ここは……」

 そこは、朋也がかつて使っていた部屋だった。

「本当にここでいいのか?」

 朋也の問いに、汐は元気よく頷く。

「ここがいい。パパのにおいがするから……」

「そっか……。それじゃあ、今日からここが汐の部屋だ」

「わ~い」

 汐が嬉しそうに部屋の中を走り回り、朋也といつの間にか隣にいた渚が微笑ましそうにそれを見ていた。

 そうして、粗方の引っ越し作業が終わり、秋生と芳野夫妻(+風子)が帰った後、岡崎家の三人は玄関の前に立って、今日からの我が家を見上げていた。

「二人とも、いいか?」

 朋也が訊くと、汐も渚も揃って頷いた。朋也もそれに頷き返した後、

「よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げ、汐と渚もそれに倣った。

「おねがいします」「よろしくお願いします」

 こうして、新たな家に引っ越した岡崎家の、新たな生活がスタートした。



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第2章 第4話 引っ越し祝い

 岡崎家が新しい家(朋也の元実家)に引っ越してから一週間後。

 岡崎家の手入れされた庭にバーベキューのコンロが置かれ、肉や野菜が香ばしい匂いを漂わせながら、美味しそうな音を奏でている。

 その中で。

「それでは、朋也たちの引越しを祝って…………、乾杯!」

 藤林杏の音頭にあわせるように、バーベキューの参加者全員がグラスを掲げ、

『かんぱ~い!』

 一斉にグラスをぶつけた。それから、おのおのバーベキューを楽しんでいく。

 肉をひたすら確保しようとして杏やことみに片端から奪われていく陽平とそれを笑う芽衣、ビールを飲みながら談笑する古河夫妻と芳野夫妻。どさくさにまぎれて、汐を連れ去ろうとする風子。皆から一歩はなれたところでいちゃいちゃしだす柊勝平とその妻の柊椋(旧姓藤林)。智代は喧騒に我関せずと言った様子で黙々と食べており、縁側では、朋也と渚が高校時代にお世話になった幸村先生が、のんびりとお茶を啜っていた。

 朋也は渚と一緒にそれらを眺めながら、なぜこうなったのかを思い返した。

 

 事の起こりは、引っ越しが終わって二日後のことだった。

 仕事が早く片付いて、渚と一緒に幼稚園へ汐を迎えに行った朋也に、杏が声を掛けてきた。

「あ、そうだ朋也、渚。あんたたち、引っ越したんだって? 汐ちゃんに聞いたわよ」

「ん? ああ。引っ越したと言っても、俺の元実家だけどな」

「何で、それを早く言わないのよ」

「いや、何でって言われても、ついこの間引っ越したばっかで、バタバタしてたし……」

「そうじゃなくて。引っ越したなら、引っ越し祝いをするのが当然でしょ」

「引っ越し祝い?」

 朋也と渚がきょとんとしながら顔を見合わせ、慌てて首を横に振る。

「いやいや、別にそんなことやらなくていいって!」

「そ、そうですよ。別に大したことじゃないですし!」

 遠慮する朋也と渚に、杏が深くため息をついた。

「あんたたち、全然わかってないわね」

「何がですか?」

 首を傾げる渚に、杏はびしりと指を突きつける。

「いい? 引っ越し祝いはただの名目なの。本当は皆で集まって騒げるきっかけが欲しいの」

「名目かよ!」

「何よ。何か文句でもあるわけ?」

「いえ、何でもございません」

 ツッコミをした朋也は杏にぎろりと睨み付けられ、即座に謝った。

「そんなわけだから、あんたたち、次の日曜日開けておくのよ? ああ、心配しないでも人集めも材料もあんたたちに出させはしないわよ。あ、呼びたい人がいたら呼んでおいてね」

 強引に話を進めた杏は、汐に目線を合わせるとにっこり笑って、

「それじゃ、汐ちゃん。気を付けて帰るのよ」

 そう言って、ひらひらと手を振るのだった。

 こうして、あれよあれよという間に岡崎家で引っ越し祝いという名のバーベキューをやることになり、杏に声を掛けられたり、朋也や渚が誘ったりした結果、岡崎家の庭に、多くの人が集まることになったわけである。

 

「朋也君? どうかしたんですか?」

 渚に呼ばれて朋也は我に返ると、何でもないと首を振った。

「いや、ただ単に、皆よく集まったなと思ってさ」

 朋也がそう言うと、渚がくすりと笑った。

「そうですね。私、まさか幸村先生まで来てくれるとは思いませんでした」

「ああ、俺もだ」

 ちなみに、幸村がなぜこの場にいるのかを説明すると、杏から岡崎家でバーベキューをやると聞いた朋也たちが、前日に材料の買い出しに行った帰りに偶然、幸村と出会ったからである。その際に、幸村に二人の結婚と娘の誕生を祝われ、その話の流れで朋也がバーベキューに誘ったからである。

 なお、汐に幸村を紹介したところ、汐が「おじーちゃんせんせー」と呼んで、幸村が微笑ましく目を細めたりしたことを追記しておく。

 それはさておき、騒がしくも楽しい時間に朋也たちが微笑んでいるとき、事件は起こった。

「杏も智代もことみちゃんも、いい加減彼氏できたの~?」

 相当に酔っぱらっているのだろう、陽平が顔を真っ赤にしながら訊ねる。

「お兄ちゃん!」

 妹の芽衣が慌てて窘めると、陽平は今度は芽衣に矛先を向けた。

「お前もだぞ、芽衣。お前も早く彼氏を作らないと、こいつらみたいに行き遅れに……」

 そこまで言ったところで、杏と智代にがっしと肩を掴まれる陽平。

「陽平……あんた、今なんて言った?」

「春原……、お前という奴は……」

「春原君、とってもとっても失礼なの」

 杏と智代の指がぎりぎりと食い込んだことで、ようやく陽平は酔いからさめて、自分の湿原に気付いた。しかし、時すでに遅し。

「陽平……、あんた……、覚悟はできてるわよね?」

「お前をしばらく地上の人じゃないようにしてやろう」

「ひぃっ!?」

 万力のような力で肩を掴まれている陽平が、主に女性二人の殺気に情けない声を出した瞬間。

 

 ――ドカバキグショメキドゴガツ!

 

 智代の強力な蹴りを連撃で叩き込まれ、陽平の身体が浮かび上がる。そして、とどめとばかりに叩き込まれた、体重、遠心力、スピード、その全てが乗った綺麗な回し蹴りが、陽平の身体を思いっきり吹き飛ばした。

「ほげぇっ!」

 筆舌に尽くしがたい叫び声を上げながら吹き飛んだ陽平が、渚目掛けて落下してくる。

「渚! 危ない!」

 咄嗟に朋也が庇うように前に出ると、飛んできた陽平の身体を蹴り返した。

 

 ――コンボがつながった!

 

 返ってきた陽平の身体に再び蹴りの嵐を叩き込む智代。そして、今度こそとばかりに回し蹴りを叩き込むと、次は汐目掛けて陽平が落下する。

「汐ちゃん! 危ないです!」

 風子が汐を背中に庇うと、どこからともなく木彫りのヒトデを取り出し、陽平の顔面に思いっきり叩きつける。

 

 ――コンボがつながった!

 

「またか!」

 再び自分の方へと飛んで行く陽平に、智代は躊躇なく蹴りを叩き込んだ。そして、最後に回し蹴りを叩き込んで吹き飛ばす。と、次に飛んで行ったのは肉を食べて幸せそうな顔をする杏のところだった。当然、杏は辞書を取りだして顔面に投げつける。

「こっち来るな!」

 

 ――コンボがつながった!

 

「しつこい!」

 またまた返ってきた陽平に、更に蹴りの嵐を見舞った智代は怒気を発散させながら、回し蹴りで吹き飛ばす。その先にいたのは、勝平と椋夫婦。

「椋さん! 下がって! この気持ち悪い!」

 見た目は女の子のような勝平が椋を庇って、陽平を蹴り返した

 

 ――コンボがつながった!

 

「いい加減に……」

 何度も帰ってくる陽平にさらに蹴りを叩き込み、どこかへ吹き飛ばす智代。今度の陽平の落下地点いたのはことみと芽衣のいるところ。ちょうど、芽衣にヴァイオリンを聞かせようとしていたことみは、ヴァイオリンを構えると、そっと弓を引いた。途端、ヴァイオリンからこの世の物とは思えない音波が発生し、陽平の身体を押し返した。

 

 ――コンボがつながった!

 

「死にたいのか!?」

 何度も戻ってくる陽平に、更に蹴りを叩き込んで、思いっきりどこかへ蹴り飛ばす智代。次に陽平が飛んで行った場所は、秋生と早苗のところだった。

「この野郎!」

 秋生が叫びながら背中からバットを取り出し、思いっきりフルスイング。

 

 ――コンボがつながった!

 

「まだ来るか!」

 そろそろ蹴り足が疲れてきたので、左右の足をスイッチさせた智代に蹴り飛ばされた陽平が飛んで行ったのは、無駄に格好つけて臭いセリフを吐く祐介とそれを困った顔で見つめる公子のところ。

「むっ!?」

 妻の危険を察知した祐介が懐からスパナを取り出し、飛んでくる陽平の顔面目掛けて思いっきり叩きつけた。

 

 ――コンボがつながった!

 

「っ!?」

 何度でも戻ってくる陽平に辟易した顔をしながらも蹴りを叩き込んだ智代が、

「はぁぁああっ!」

 裂帛の気合と共に蹴り飛ばす。そろそろ顔が表現しづらい造形になってきた陽平が飛んで行った場所は、縁側でのんびりとお茶を啜っていた幸村のところ。

「爺さん!」

 さすがに危ないと思った朋也が慌てて駆け寄ろうとした途端、幸村はきらりと目を光らせながら素早く立ち上がり、

「ほわちゃっ!」

 そんな気合の声と共に、陽平に鋭い拳を当てた。

 

 ――コンボがつながった!

 

「これで! 終わりだ!」

 返ってきた陽平に向かって思いっきり飛び上がった智代が、空中で何度も蹴りを叩き込み、最後にサッカーのオーバーヘッドキックの要領で、上から下に、陽平に蹴りを叩き込んだ。

 ずしん! と音が聞こえてきそうなほどの勢いで地面に叩きつけられた陽平は、そのまましばらくぴくぴくと痙攣した後、がばりと立ち上がって子供には見せられないような顔のまま、全員に向かって叫んだ。

「あんたら、ひどすぎますよねぇ!?」

 そして陽平はそのまま涙を流しながらどこかへ走り去っていった。

 それを見送った汐が一言。

「すのはらのおじちゃん、かわいそう……」

 純真無垢な子供が放った一言が、陽平が走り去ることになった原因の人物たちの胸に突き刺さった。

「確かに……少しやりすぎたかもしれない……」

「さすがに可愛そうだったかしら……」

「椋さんが危なかったからで、僕は悪くない」

「俺は知らないぞ?」

「これも〈愛〉だ!」

「ほっほっほ……」

「あそこまで行くと春原が哀れだな……」

 一部反省の色が見られない者もいるが、それ以外は流石にやりすぎたと反省したらしく、陽平を連れ戻しに出かけた。

 そうして、連れ戻された陽平に反省したと謝ったところ、陽平が調子に乗り出してあれこれと地雷を踏んで、また空を飛ぶ羽目になったのは別の話である。



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幻想世界物語 Ⅱ

 魂だけの存在となった人形は、あてどなく世界を巡った。人形の願いをかなえてくれるだけの力を持った、自分と同じ魂を持つ人間を探して。

 人形と同じ魂を持つ人間はすぐに見つかった。その人間は、なぜかヒトデが好きだという女の子と一緒にいて幸せそうに笑っていた。けれど、見つけた彼には、人形の言葉は届かなかった。

 人形が落胆し、別の世界へ行こうとしたそのとき。その人間から光の玉が飛び出し、そっと人形に寄り添う。

 ――僕を慰めてくれるのかい? ありがとう

 人形の声なき声に、光の玉は小さく瞬いてふっと消えた。

 それを見届けた人形は、また違う世界へと旅立った。

 その世界でも、人形は同じ人間を見つけた。今度の世界では、その人間はよく似た双子の女の子の姉のほうと幸せそうに歩いていた。けれど、この世界の人間も、人形の言葉を聴くことはできなかった。

 落胆した人形が、別の世界へと旅立とうとしたとき、先ほどと同じように、光の玉が人形に寄り添って、ふっと消えた。

 

 その後も、人形は、その人間がいるいろんな世界を旅し続けた。

 その人間が、双子の妹と歩いている世界、ヴァイオリンが好きな頭のいい女の子といる世界、年下の桜並木を護ろうと必死な女の子といる世界、大勢の強面の、だけど心はとても優しい人たちに囲まれて笑う女の子と一緒にいる世界、年上で不思議な猫を抱く女性に微笑を向けている世界、とても妹思いの、だけど素直になれない不器用な友達を見て笑う世界、走るのが好きだけど走れなくなった男の人を励ます世界、人間の日々の生活をとても心配してくれた恩師に感謝する世界。

 そのどの世界の、どの同じ魂を持つ人間でも、人形の声を聞くことはできなかった。彼を見つけるたびに、彼から光の玉が飛び出して寄り添ってくれるけど、人形は徐々に疲れてきていた。

 それでも諦めるわけには行かないと、元気を振り絞ってたどり着いた世界は、あの終わってしまった世界の少女とよく似た雰囲気を持つ少女と、小さなアパートで幸せそうに暮らしている世界だった。

 その世界の人間は、どこか人形に反応しているような、そんなそぶりを時々見せた。だから、人形は、彼と少女を見守りながら、時々、声を掛けるようにした。

 けれど、ある日、少女が原因不明の病に倒れ、た辺りから、人形の声は届かなくなった。

 人形が悲しくなりながら、そっとその世界を旅立とうとしたそのとき、旅行に行こうとした途中で倒れ付した人間と少女から、小さな光の玉が飛び出し、人形に寄り添って小さく瞬いた。まるで、励ますかのように。

 

 そうしてたどり着いたのは、人形と同じ魂を持つ人間が、妻と娘と一緒に幸せそうに暮らす世界だった。

不安に思いながら、人形は人間に声を掛ける。

 

 ――僕の声が聞こえる?



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第3章 第1話 運動会

 岡崎家が引っ越ししてしばらくたったある日、朋也は不思議な夢を見た。

 いつだったか、朋也と渚がまだ高校生だった頃に、文化祭で渚が演じた〈幻想物語〉。あの演劇で聞かされた話とよく似た世界の夢……、いや、もしかしたら、その物かもしれない。ともかく、その夢はどこかもの悲しい、不思議な夢だった。

 

「パパ~! パパ~! おきて!」

「…………」

 汐がいまだに寝ている朋也を必死に起こそうと、身体を揺り動かしたり、ぽかぽかと叩いてみたりするが、朋也は一向に起きる気配がない。

 さてどうしたものかと頭を悩ませた汐は、いつの日だったかに杏に教えられた起こし方を思い出し、実践することに決める。

 汐は朋也が寝ているベッドの上でゆっくりと立ち上がると、思いっきり上に跳ぶ。目標着地地点は、寝ている父親のお腹の上。

「おきろ~~~~!」

 汐はそんな掛け声と共に、父の無防備なお腹にヒップドロップを決めた。直後、

「ぐぅぇっ!?」

 まるで蛙が潰されたような声を上げながら、朋也が飛び起きて咳き込む。

 当然、朋也のお腹の上に乗っていた汐は、朋也が飛び起きたことでそのまま後ろに転がり、「わ~~~~っ!」と可愛らしい悲鳴を上げながらベッドから転がり落ちた。

 一方の朋也はというと、何が起きてどうなったのかさっぱり分からないといった様子で、寝室をきょろきょろと見回した後、ベッドの下で転がりながらきょとんとしている汐と目が合い、ようやく状況を理解した。

「……………………」

「……………………」

 お互いに数秒間沈黙した後、朋也が気まずそうに頬を掻いて口を開いた。

「あ~……、汐……おはよう……」

「…………いたい……」

 ベッドから落ちたときにどこかでぶつけたのだろう、汐が頭を押さえながらポツリと呟くと、朋也があわてて汐を抱き上げた。

「悪い汐! 大丈夫か!?」

「うん、へーき」

「そうか……。よかった……。ごめんな汐……」

「もういい」

 娘が許してくれたことで、朋也はほっとした顔になると、ゆっくりと汐を下ろした。

「でもな、汐。寝てる人をあんなふうに起こすのはいけないことだからな。今度からはもうちょっと優しく起こしてくれ」

 朋也が汐に目線を合わせながらそういうと、汐は素直にこくりとうなずいた。

「うん、わかった」

「よし、いい子だ」

 素直な汐の頭を撫でた朋也は、汐と一緒に朝食を用意して待っている渚の下へ向かった。

 それからしばらくして、その日の仕事の昼休み中。

 朋也は渚が作った愛妻弁当を急いで食べると、ランニングをしたり、腕立て伏せをしたりし始めた。

「お前は一体何をやってるんだ?」

 上司の祐介に訊ねられ、朋也はその場で足踏みをしながら答える。

「今度、汐の幼稚園で運動会があるので、それのトレーニングっす」

「運動会? 別にお前がトレーニングをする必要はないだろう?」

「いやぁ、それが……」

 朋也は昨夜のことを祐介に説明し始めた。

 

 朋也が昼休憩にトレーニングを始める前日の夜。

 三人で夕飯を食べているときに、渚がふと思い出したように話しはじめた。

「そういえば、幼稚園にしおちゃんを迎えに行ったときに、杏ちゃんに聞いたんですけど、再来週の土曜日に、幼稚園の運動会があるそうなんです」

「へぇ~、そうなのか……。汐は何に出るんだ?」

 朋也に訊ねられた汐は、ふりかけご飯を飲み込んでから答えた。

「えっと……、いろんなの!」

「そっか。頑張れよ、汐」

「うん!」

「しおちゃん、応援しますね」

「わ~い!」

 楽しみだと言わんばかりの笑顔を浮かべる汐に朋也が和んでいると、渚が言いにくそうに話を切り出した。

「それでですね……、実は……」

「……?」

「その運動会の父兄参加競技で、父兄側のアンカーとして、朋也君が出てほしいって言われたんです」

「俺が? 別にいいけど、そう言うのはおっさんの方が得意じゃないか?」

「いえ……、それが……お父さんは教員チームのアンカーになってしまったみたいなんです。どうも、園長先生がぎっくり腰になってしまったみたいで、その代わりに……ということみたいです……。それで、お父さんが、だったら父兄側のアンカーは朋也君にしてほしいと言ったみたいで……」

「そうか……、おっさんと直接対決か……。いかにもおっさんがやりそうなことだな」

「パパ、あっきーとたたかうの?」

 汐がことりと首を傾げると、朋也は汐の頭に手を置く。

「ああ。汐は、パパとおっさんとどっちが勝つと思う?」

「ん~…………」

 汐はしばし悩んだ後、邪気のない笑顔で答えた。

「あっきー!」

「ぐぁっ!」

 娘の予想に、朋也はダメージを受けたように胸を押さえるが、そのすぐ後に放たれた汐の言葉に闘志を燃やしはじめた。その一言とはつまり。

「でも、パパにかってほしい」

 である。

「……とまぁ、そう言うわけなので、娘に格好悪いところは見せられないんですよ」

 朋也が説明を終えると、祐介はゆっくり顔を伏せた。

「ふっ……、娘のために全力で勝負を挑む……。これぞまさに……愛だな!」

 本人は格好よく決めたつもりらしいが、生憎朋也は既にその場を走り去っており、まったく話を聞いていなかった。

 何はともあれ、朋也は、朝早く起きて近所をランニングしたり、家で汐を背中に乗せて腕立て伏せをしたり、休憩時間を利用して筋トレをしたりと、地道にトレーニングを重ねていった。

 

 そして時は流れ、汐の通う幼稚園の運動会本番当日。

 朋也と渚が汐を連れて幼稚園に行って汐と別れた後、家族用の観覧スペースに向かうと、そこにはすでに秋生と早苗がいて、朋也たちに手を振っていた。

「お二人とも~、こちらですよ~」

「おう、やっと来たか。遅かったな」

 朋也と渚が二人の元へ歩み寄る。

「遅かったなって、まだ始まるにはだいぶ時間があるぞ?」

 朋也が周りを見回しながらそう言う。ちなみに周りは、まだ早い時間帯のためか、それほど園児たちの家族の姿を見かけることはなく、観覧用スペースも、まだまだ余裕は十分にあった。

 それを朋也が指摘すると、秋生は立ち上がって、熱く語りだした。

「ばかやろう! いいか、こういうのはな。最初が肝心なんだよ。汐の雄姿を全てこのカメラに収めるためには、他の誰よりも先んじて最高の場所を確保する! それが常識ってもんだろ!」

 胸を張って弁舌する秋生に呆れた視線を送った朋也は、隣で微笑む早苗に訊いてみた。

「今日は何時に来たんですか?」

「そうですね……。今日は五時に起きて、張り切ってお弁当を用意しちゃいました」

 微笑んだまま答える早苗と、その隣で「どうよ」と言わんばかりに胸を張る秋生を見て、朋也は内心で「孫のために張り切りすぎだろ」とツッコんだ。

 そうこうしているうちに、父兄も次第に集まり始め、ついに幼稚園の運動会が始まった。

 園児たちが緊張した面持ちで入場して、運動場に整列。

 簡単に先生が挨拶をした後、軽く準備運動をしてから、競技が始まった。

 最初の競技はかけっこだ。

「位置について、よ~い……どん!」

 杏の合図をもとに、園児たちが一斉に駆け出していく。それを友達が、あるいは家族たちが懸命に応援する。

 一着を取った子は全身で喜びを表し、取れなかった子たちには家族たちが健闘をたたえる。そんな中で、いよいよ汐の出番がやってきた。

 緊張した顔でスタートラインに立つ汐は、きょろきょろと視線を動かして、朋也たちを探し当てると、元気に手を振ってからしっかりと前を見た。

「位置について……よ~い……」

 杏の合図で、みんなが一斉に前傾姿勢になり……、

「どん!」

 一斉に駆け出した。

「いけ~! 汐~!」

「しおちゃん! 頑張ってください!」

「汐~! 負けんな!」

「汐~、ファイトですよ~!」

 朋也たちも観覧席から声を張り上げ、汐を全力で応援する。その声が汐に届いたのか、汐はどんどん加速してついに先頭に躍り出て、そのままゴール……する寸前で転んでしまった。

『あっ』

 朋也たちが声を上げる中、汐の横を無情にも他の園児たちが走りすぎていった。

 汐はゆっくりと立ち上がるととぼとぼと最下位の列に並ぶ。その様子は明らかに落胆している。朋也と渚はそれを何とも言えない顔で見ていた。

「朋也君……」

 心配げにする渚に、朋也も頷く。

「ああ、戻ってきたら慰めてやろうな」

「はい」

 その後も、汐は落ち込んだ様子で運動会に参加していた。

 そして、お昼休み。

 とぼとぼとした足取りで朋也たちのところに来た汐が目に涙を一杯に浮かべながら言った。

「しっぱい……、いっぱいしちゃった……」

 今にも泣きだしそうな汐の頭をそっと撫でながら、朋也が慰める。

「大丈夫だ。失敗は誰にでもある。これからまた頑張ればいいだろ?」

「そうですよしおちゃん。しおちゃんはとても頑張ってました」

「小僧の言う通りだ汐。まだこれから頑張ればいいじゃないか」

「そうですよ、汐。ご飯を食べてお昼からも頑張ってください」

 まだ少し泣きそうな顔をしていた汐だったが、やがて、涙を拭って「うん」と元気良く頷いてお昼を食べ始めた。

 そうして、お昼休憩を挟んで最初の競技。

「ただいまより、父兄の方々による障害物競走です。参加される父兄の方は、入場門にお集まりください」

 アナウンスが流れ、朋也と秋生がすっと立ち上がる。

「渚、汐。行ってくるな」

「頑張ってくださいね、朋也君」

「パパ、がんばれ~」

 朋也は愛する妻と娘に見送られて。

「よっしゃ! 行ってくるぜ」

「はい。頑張ってくださいね」

「古河の旦那! 手加減してやれよ!」

 秋生は妻と商店街の面々に見送られて、それぞれ戦いの場へと赴く。

 そして、二人が集合場所でバチバチと火花を散らせる間に、競技内容がアナウンスされる。

「え~、今回の障害物競走は、走者が変わるたびに障害物が変更されます。それでは、父兄チームと教員チームの第一走者は位置についてください」

 そして競技が始まり、盛り上がっていく。ネットくぐりで絡まる人、平均台から滑り落ちる人、飴喰い競争で顔を真っ白にする人たちが出るたびに、園児たちの笑い声が響く。

 そうこうしているうちに、競技も終盤。いよいよ、朋也と秋生の出番となった。

「小僧、テメェにはまけねぇ」

「こっちこそ……引導を渡してやるよ」

 至近距離でにらみ合う二人は、杏によるアナウンスを聞いて愕然とした。

「アンカーの障害物を発表します。最初の障害物はパン喰い競争。なお、このパンは古川パンからご提供いただきました。次の障害物は、風船割り。相手に取り付けられた風船を割ってください。なお、自分のが割られたらやり直しです。次は彫刻。判定はヒトデマスター、伊吹風子さんにお願いしております。そして最後は借り物競争です」

 何だかいろいろとカオスな障害物に、朋也と秋生はいがみ合うのも忘れて、お互いに苦笑いをした。

 そんな二人をよそに、準備ができたと合図があり、教員の案内でスタートラインに立った朋也と秋生は、紐につるされたパンの一部から異様な空気を感じ取った。

「おっさん……」

 朋也がごくりと喉を鳴らす。

「ああ、早苗のパンが混じってるな」

 秋生も緊張した面持ちになる。

 そしてついに、スタートの合図が下された。

「「うおおぉぉぉぉぉおおおっ!」」

 咆哮を上げながら、一気にパンに向かって突進する朋也と秋生は、長年の経験から早苗のパンを的確に見抜き、それを避けて飛びつく。

 朋也がもしゃもしゃとパンを咀嚼しながらちらりと後ろを振り返ると、見事に早苗パンを引き当てた他の走者が地面に倒れ伏しているのを見て、思わず心の中で合掌し、次の障害物、風船割りに突入。係りの教員に頭に風船を付けてもらい、ゴム製の刀を受け取った朋也は相手を見て目を見開く。

「岡崎……、お前の相手は俺だ!」

「芳野さん……」

 祐介が悠然と立っていた。

「藤林先生からお前の相手をしてほしいと頼まれてな。上司として部下の相手をすることにしたんだ。これも、俺からお前に送る……愛「芳野さん、隙だらけっす」……あいた!」

 いつものように愛を解こうとした祐介の隙を突いて、さっさと祐介の風船を割った朋也は、同時に障害物を突破した秋生と並走、次の障害物「彫刻」に辿りついた。

「お待ちしておりました。お二人に彫っていただくのは、ずばり〈ヒトデ〉です。より可愛く彫刻してください」

 朋也は内心、「何でヒトデなんだよ!」とツッコみたくなったが、今は勝負の真っ最中。頭を振って、目の前の木片に集中し始めた。

 周りの声援が届く中、黙々と彫刻に集中する大人たちという、中々にシュールな光景が展開される中、

「「できた!」」

 同時に完成した朋也と秋生が、風子に仕上がったものを見せる。

「それでは拝見します……。これは……、なかなか甲乙つけがたい……ふぁ~~~」

 二人の彫刻を見ていた風子が、突然うっとりした顔になって止まってしまった。その様子に、朋也がどうしようかと悩んでいると、

「へへ~ん、お先に~」

 にやりと笑って、秋生がさっさと先に進んでしまった。

「あ! こら、汚ねぇぞ!」

 慌てて追いかけはじめた朋也だったが、スタートが遅れてしまい、先に秋生に最後の障害物に辿り着かせてしまった。

 秋生は、お題の紙を見てどこかへ走っていくのを横目に、ようやく借り物のお題を一つ開いた朋也は、そこに書かれていた内容を見て固まった。

 ――辞書

 そこにはそう書かれていたのだ。朋也は素早く頭を巡らせる。

「(どうする、教室や職員室に行けば、辞書くらいは置いてあるだろうが、おっさんは既にお題を見つけてこっちに走ってくる。今から探しに行ってたら確実に敗ける…………。そうだ……、この手があった!)」

 何かを閃いた朋也は、大きく息を吸い込むと、思いっきり叫んだ。

「皆! 聞いてくれ! 今、ここにいる藤林杏は実は……バイなんだぜ!」

 瞬間、朋也と急いで身をかがめると、その朋也の頭を掠めて辞書が飛来、地面に突き刺さる。

 計画通り! 内心ガッツポーズをしながら辞書を拾い上げてゴールに向かいながらちらりと後ろを振り返った朋也は思わず冷や汗をかいた。何せ、杏が禍々しいオーラを纏って朋也を思いっきり睨み付けていたのだ。

「(ああ、俺、死ぬかも……)」

 そんなことを思いながら、朋也はゴールを走り抜けた。

 歓声と疑念の声が上がる中、朋也は一瞬で杏に連れ去られ、人目につかないところでボコられることになったのは別の話。

 その後も、競技は続いた。

 幼稚園で飼っている猪の〈ボタン〉と全幼稚園児による綱引きや、クラス対抗リレー、組体操などで、運動会は大いに盛り上がりを見せた。

 

 やがて、すべてのプログラムが終わり、閉会式を終えた園児たちは、三々五々、両親に手を引かれて帰っていく。

 その中に、岡崎家と古河夫妻の姿もあった。

「汐、楽しかったか?」

 両親に手を引かれて、楽しそうに歩く汐に朋也が訊ねると、

「うん!」

 満面の笑みを浮かべて汐が返事をする。

「またパパとあっきーのきょーそーみたい!」

 汐の思わぬ提案に、朋也はふっと微笑んだ。

「今度は、お前のパパに絶対に勝つからな!」

「へっ! 次も負けねぇよ!」

 大の男二人がいがみあいながら、一行は夕暮れの中を帰っていった。



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第3章 第2話 夢

 岡崎朋也は、ここ数日、同じ夢ばかりを見ていた。否、正確には毎回内容は違うが、登場人物は同じというべきか。舞台は決まって、何も終わらない、何も始まらない、終わってしまった世界。

 その夢の中では、朋也は小さな人形として存在し、傍らには一人の少女が常にいた。

 人形となった朋也は、あるときはガラクタを集めて他の人形を作り、あるときは遊具を作って遊んだりしていた。

 しかし、その夢もここ最近は、その様相を大きく変えていた。

 世界に冬が訪れ始め、少女は眠っていることが多くなったのだ。

 人形(朋也)は、少女を連れて外の世界に出て行くことを決め、二人一緒に世界の端に向かって歩き始めた。

 だけど、冬の寒さ、厳しさが容赦なく少女を襲い、ついに少女は倒れてしまう。

 そして少女の口から開かされる、少女自身と、人形の秘密。

 その秘密が明かされた瞬間、人形は突風に吹き飛ばされ、体が崩壊する。しかし、人形の魂が世界から消える瞬間、人形は強く願い、その願いをかなえられる人間を探して、光となっていろんな世界を巡り、ついに……。

 

 ――見つけた……

 

「……はっ!?」

 朋也は荒く息をしながら目を覚ました。ゆっくりと周りを見回せば、そこは見慣れた自分と渚の寝室。窓の外は、まだ薄暗く、隣では、渚と汐が静かな寝息を立てていた。

 その二人の寝顔を見てふっと微笑んだ朋也は、先ほど見た夢を思い返して、小さく頭を振った。

「ったく……、変な夢だな……」

 軽くため息をついた朋也は、

「……寝なおすか」

 もう一度布団にもぐりこむのだった。

 

 その日、朋也はどうしても今朝に見た夢のことが頭から離れず、仕事にも身が入らなかった。そのおかげで。

「こら、岡崎。しっかり集中しろ」

 かつん、とヘルメットごしに祐介にスパナで叩かれる。「あいた!」と悲鳴を上げる朋也に、祐介が懇々と説教を始めた。

「以前にも、この仕事に気を抜くことは許されないと言ったはずだ。気を抜けば、お前の大切な人が傷つくかも知れない、そうじゃなくても大切な人を傷つけられて、誰かが悲しむかもしれない。常にそう意識しろと教えたはずだ」

「……はい」

 しゅんと項垂れる朋也。祐介は軽くため息をついた後、

「分かったなら、それでいい。今日は汐ちゃんが職場見学に来るんだろう? だったら、格好悪いところを見せるな」

 そう言って踵を返す祐介の背中に、朋也は「芳野さん」と呼びかけた後、

「ありがとうございます!」

 勢いよく頭を下げた。それに対して祐介は、照れたようにヘルメットを目深にかぶった。

 それからしばらく、二人で仕事をこなしているときのことだった。

「パパ、いた!」

「本当ですね」

 汐と渚の声が下から聞こえてきた朋也は、祐介に軽く断ってから、工具をしっかりとベルトに納めて、ゆっくりと電柱から降りた。そして、ヘルメットを脱いでから汐と渚の方へと歩み寄って、汐の頭を軽く撫でながら言う。

「ごめんな、汐。パパ、もうちょっと仕事してくるからちょっと待っててな」

「うん!」

 素直に頷いた汐に満足そうな微笑みを向けた後、

「それじゃ、渚。危ないから電柱周りに汐を近づけないように気を付けてくれ」

 と言い残して、再びヘルメットをかぶって電柱にするすると昇っていった。

 それを見た汐が「お~」と感嘆の声を上げ、渚は逸れに苦笑しながら、汐の手を引いた。

「しおちゃん、パパのお仕事の邪魔になるから、もう少し離れていましょうね」

「は~い」

 そうして少し離れた場所に二人一緒に座って、朋也の仕事ぶりを観察し始めるのだった。

 一方の朋也はと言えば、妻と娘が見学していることで、何だかむず痒さを感じていた。

 左手のスパナでナットを締めながら、朋也が上司に声を掛ける。

「…………芳野さん……」

「何だ?」

「なんだか……、こう……、むずむずしません?」

「奇遇だな。俺もそう感じていた。普段、俺たちの仕事は人に見られることなんてないからな。ま、愛する嫁さんと娘さんのためだ。我慢することだ」

「それは分かってるんですけどね……」

「何よりも、渚さんや汐ちゃんに格好悪いところなど見られたくないだろう? 愛する者たちの前では、たとえどんな時でも格好悪いところは決して見せない……。これこそが……愛だ!」

「そうですね。気にしても仕方ないですし、俺、頑張ります」

 祐介の後半のセリフ(具体的には『愛だ』あたり)をスルーした朋也は、サクサクと作業を進めていった。それに対して祐介はというと、

「………………」

 せっかくいいことを言った(と本人は思っている)のに、スルーされたことで、しばらく沈黙していたが、やがて、すごすごと自分の作業に戻った。

 それからしばらくして、昼休憩の時間。

 渚が作ってきた弁当を皆で食べているときのことだった。

「しおちゃん、朋也君のお仕事はどうでしたか?」

 渚が訊くと、汐は興奮したような顔で答えた。

「すごかった! パパ、かっこよかった」

 目をキラキラさせながら答える汐に、渚はくすりと笑った。

「そうですか。パパは格好良かったですか」

 朋也は聞いていて恥ずかしくなったのか、ひたすら口に食べ物を詰め込むことに集中し、祐介はそれを微笑ましそうに見ていた。

 そして昼食を終えて渚たちが帰り、だけど、作業再開までまだ少し時間があるという時のことだった。

「くぁ……」

 朋也が大きく欠伸をする。

「何だ、岡崎? 眠いのか?」

 祐介の問いに、朋也は困ったように笑った。

「はい、すいません……。何だか思ったより緊張していた……みたいで……」

 朋也がうとうとし始めたのを見て、祐介はふっと笑った。

「昼休みが終わるまでまだしばらく時間はある。少し横になるといい。時間が来たら俺が起こしてやるよ」

「ありがとうございます……」

 祐介の言葉に甘えて横になった朋也は、そのまますぐに眠ってしまった。

 

 夢の中で、朋也は何もない真っ白な空間にいた。

「ああ、これは夢か……」

 そんなことをぼんやりと呟いていた朋也の目の前に、小さな光の玉が一つ降りてきた。

 その光の玉は、朋也の目の前で止まると、明滅を繰り返す。それが不思議と、朋也には言葉となって聞こえた。

 ――僕の声が聞こえる?

「……ああ、聞こえる」

 誰だとか、どういう状況だとか、そういう疑問は何故か浮かばなかった。

 光の玉は、明滅を繰り返して話を続ける。

 ――よかった。やっと僕の声が届いたんだね。本当に良かった……。僕は君に願いがあるんだ

「俺に願い?」

 ――そう。できれば君に、その願いを叶えてほしいんだ。それは、君にしかできないことだから

「俺だけ? どういうことだ?」

 ――それは、この世界の君だけが、唯一、僕の声を聴くことができたから……

「この世界の……? ちょっと待ってくれ。俺にはお前が何を言っているのか分からない」

 ――僕は君の……

 人形が何かを言いかけた時、朋也は身体が何かに引っ張られる感覚を覚える。

 ――ああ、君はもうすぐ目覚めてしまうんだね……

「ちょっと待ってくれ! どういうことなのか教えてくれ!」

 ――また次に君が深い眠りについたときに教えるよ。それまで少しのお別れだね……

 小さく明滅する光の玉が、朋也には寂しそうに見えた。

 

「岡崎……起きろ。時間だぞ」

「っ!?」

 祐介に身体を揺すられて、朋也は目を覚ました。

「はぁ……はぁ……、芳野……さん?」

「悪夢でも見たのか? 妙にうなされていたぞ?」

「悪夢……? ……すいません。よく覚えていません……」

「……そうか……」

 祐介はそれだけ言った後、朋也にヘルメットを投げてよこす。

「うわっ!」

 慌ててそれを受け止める朋也に背を向けながら、祐介が言った。

「何にしても、仕事を始めるぞ。早くしろ」

「あ、は、はい!」

 朋也は慌てて祐介の背中を追いかけた。

 それからしばらく、二人は黙々と作業を続け、どうにか日が暮れる前にすべての作業を終えることができた。

 その後、事務所に戻って簡単な報告と着替えを終えた朋也は、祐介に昼間のことを謝ってから事務所を出た。

 そして、家路を歩きながら昼間見た夢のことを思い出そうとした時のことだった。

「あ! パパだ!」

「朋也君!」

 道路を挟んで反対側の歩道に、買い物袋をぶら下げた渚と、朋也に向かって手をぶんぶん振る汐の姿が見えた。

「渚! 汐!」

 朋也も顔を綻ばせながら手を振り返し、横断歩道の前で立ち止まる。

 渚と汐も同じように立ち止まり、少しして信号が青になったことを確認してから、汐が朋也のところに走り寄ろうとした瞬間。朋也は、猛スピードで横断歩道に突っ込もうとしている車を見つけ、思わず叫んだ。

「汐! 危ない!」

 向かってくる車に、汐は動けずにいる。

 咄嗟に道路に飛び出した朋也は必死に手を伸ばし、渚の方へと突き飛ばす。

 感覚だけが加速する中、耳をつんざくようなブレーキ音が響き、朋也の身体が跳ね飛ばされる。

「朋也君!」

 渚の悲鳴を遠くに感じながら、朋也は意識を手放した。



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第3章 第3話 涙

「朋也君!」

 朋也が車に轢かれた直後、渚は悲鳴を発して慌てて走り寄った。

「っ!?」

 ぐったりと動かない朋也に近づいた渚は、朋也からどくどくと流れ出る血を見て顔を蒼白にする。

 一方、朋也を轢いてしまった車の運転手はと言えば、動転した様子でどこかに電話を掛けた後、朋也の様子を見て「ひっ!?」と情けない声を上げてへたり込んでしまった。

 何事かと野次馬たちが集まる中、汐が動転する渚に近寄って、不安げに渚の袖を引っ張る。

「ママ……?」

「しおちゃん…………」

 困惑する娘を見て我に返った渚は、ぎゅっと汐を抱きしめると、周りの人に声を張り上げた。

「誰か……! 誰か、救急車を呼んでください! お願いします!」

 そうしてしばらくして、到着した救急車に朋也と一緒に渚たちも病院へ向かった。

 そして現在。

 朋也が入っていった緊急処置室の扉は固く閉ざされ、上に設置された〈手術中〉というランプが赤々と点っている。

 渚と汐は、処置室の前に設置されたベンチに座っていた。

 ――朋也君……

 まるで神に祈るように、きつく目を瞑って、ぎゅっと手を握り締める渚。汐も、今にも涙をこぼしそうになりながら、不安そうに母親の袖をきつく握り締めている。

 そこへ、連絡を受けて駆けつけた秋生と早苗が到着する。

「渚! 汐!」

 名前を呼ばれて、ふと顔を上げた渚と汐は、秋生と早苗の姿を見て、思わずといった様子で涙をこぼした。

「お父さん……、お母さん……。朋也君が……」

「パパが……パパが…………うえぇぇえええっ!」

 泣きつく汐をしっかりと抱きしめながら、秋生は視線を巡らせる。隣では、しゃくりあげるように泣く娘を、妻が辛そうに顔をゆがめながらも優しく慰めている。目の前には、赤々と点る〈手術中〉という文字。

 ――小僧……、何やってやがんだ!!

 悔しさやら悲しさやら、いろんな感情があふれ出しそうになるのを、秋生はぎりっと派を噛み締めてこらえる。

 それからどのくらいの時間が経っただろう。

 秋生は、それまで赤々と点っていたランプが音もなく消えるのを見て、勢いよく立ち上がる。と同時に、緊急処置室から、手術衣を着た医者数名と移動式ベッドに乗せられて、身体のあちこちに包帯を巻かれて痛々しい姿の朋也が出てきた。

「朋也君!」「パパ!」

 慌てて駆け寄った渚と汐が呼びかけるが、朋也の反応はない。そのままガラガラとどこかに運ばれていく朋也についていく渚と汐。それを何とも言えない表情で見送った古河夫妻は、「ご家族の方ですね?」という医者の問いに静かに頷いた。

「先生……、あいつは……、朋也の容体は……?」

 秋生が問いかけると、医者はマスクと帽子を取りながら答えた。

「不幸中の幸いというべきでしょうか。命にかかわるような怪我はありませんでした」

 その言葉を聞いて、顔を綻ばせた秋生と早苗は、しかし次の瞬間、医者から「ただ……」と言いにくそうにしながら続けられた言葉に凍り付いた。

「ただ……、不思議と彼の意識が戻る気配がみられません……」

「っ!? ……どう……いう……ことだよ……?」

 息を飲みながら、ゆっくりと問い返す秋生に、医者は分からないといった様子で首を振った。

「それが……、我々にも分からないのです。脳波を調べてみたのですが、彼の脳波は深い眠りについている状態に酷似していて、目覚める兆しがないのです」

「そんなっ!?」

 早苗が悲鳴を上げて崩れ落ちるのを支えながら、秋生は医者に食って掛かる。

「てめぇ! 適当なこと言ってんじゃねぇぞ! 医者なんだろ!? だったら何とかしろよ!」

「落ち着いてください! 我々だって、全力を尽くしましたが、理由が全く分からないんです。こんなことは言いたくはありませんが……。後は祈るくらいしか……」

 秋生はゆっくりと顔を伏せた。

「ちくしょう……、何だってこんなことに…………。ちくしょう!」

 秋生の慟哭が病院の静かな廊下に響いた。

 

 一方そのころ、渚と汐は朋也が眠る集中治療室に併設されている面会室から、朋也の様子をじっと見つめていた。

 静かな部屋に、集中治療室の心電図モニターと人工呼吸器の音が小さく漏れている。

 そこへ、控えめなノックが聞こえ、ついで一人の看護師が静かに入ってきた。

「失礼します」

 入って来た看護師は渚と朋也の友人、柊椋だった。

「椋……ちゃん……」

ぽつりと呟いた渚に椋は複雑な顔を向けた後、ちらりと隣室の朋也に視線を向けて、静かに話しかけた。

「岡崎君……大変な事になっちゃいましたね」

「はい……」

「私も、運ばれてきたのが岡崎君だって知らされた時はびっくりしました」

「そう……ですか」

「あ、それで私、婦長さんにお願いして岡崎君の担当にしてもらったんですよ」

「そう……なんですか。朋也君をよろしくお願いします」

 どこか生気のない目で受け答えする渚に不安を覚えつつも、椋は目線を汐に合わせてしゃがみこむ。

「汐ちゃんは大丈夫?」

 黙ったままこくりと頷く汐。しかし、その顔は焦燥や後悔、動揺、その他もろもろの感情がないまぜになっており、汐がひどく混乱しているのがうかがえた。

 椋も空気に引き摺られるように沈痛な面持ちで黙り込んでしまって少しした時、再度扉が軽くノックされ、医者と古河夫妻が姿を現した。

「岡崎朋也さんの奥様ですね?」

 医者の問いに、こくりと頷く渚。それを確認した医者が、秋生と早苗に目配せをすると、二人は頷いて汐に言う。

「汐、俺と一緒にジュースを飲みに行こう」

「私も一緒に行きますよ?」

 汐は突然のことにきょとんとしながらもこくりと頷いて、二人と連れ立って部屋を出ていった。

 それを見送って少しした後、医者が重々しく口を開く。

「岡崎渚さんですね?」

「……はい」

「旦那さんのことで、大事なお話があります……」

 その瞬間、渚は嫌な予感がして顔を青褪めさせる。

「朋也君に……何か?」

 不安そうに尋ねる渚に、医者は慌てたように手を振った。

「ああ、安心してください。事故の怪我自体は思ったよりも酷くありませんでした。我々も十分に手を尽くしましたし、このままいけば、ひと月くらいで退院できるでしょう」

 その言葉に渚は安どのため息をつくが、

「ただ……」

 と医者が続けると、訝しげに首を傾げた。

「ただ……?」

「非常に申しあげにくいのですが、旦那さんの……朋也さんの意識がいつ戻るのか、それが分からないのです」

「……………え?」

「我々も手を尽くしたのですが、これだけはどうしようもありません。あなたのご両親にもお伝えしたのですが、後は祈るくらいしか……」

「そう………………ですか」

 ぽつりと呟いた渚に、医者は意外そうな顔をする。正直に言えば、先ほどの秋生のように食って掛かるか、泣き崩れたり、下手をすれば暴れるかもしれないと思っていたのだ。だというのに、渚はそのどれでもなく、(少なくとも表面上は)事実を淡々と受け入れているような様子だった。

「我々も、これからもできるだけ手を尽くしていきます。お辛いでしょうが、樹をしっかり持ってください」

「はい……。朋也君をよろしくお願いします」

 そう言ってぺこりと頭を下げた渚に頷いて、椋に何事かを指示した後、部屋を出ていった。

 しんと静まり返る部屋の中で、渚はガラス越しに朋也の姿を見る。途端、渚の両目から涙が溢れ出し、渚はそのままガラスに縋りつきながら泣いた。

「朋也……君……!」

 静かな部屋に、渚のすすり泣く声だけが響いた。

 

 

 

 汐は祖父母に挟まれる様にベンチに座りながら、ジュースを口に含んでからぽつりと呟いた。

「パパがおきないの、うしおのせい……」

「汐?」

 突然の独白に、秋生が眉を潜める。汐はそれを無視するように、淡々と、それでいてまるで懺悔をするように独白する。

「パパがくるまとぶつかったの、うしおのせい。うしおがどーろをわたろうとしたときにくるまがきて、うしおとぶつかりそうになった。パパはうしおをたすけてうしおのかわりにぱぱがくるまとぶつかった……。だから、ぱぱがおきないのは……うしおのせい……。うしお、わるいこ……」

 大粒の涙をいくつも流しながら汐が言うと、早苗が汐の頭をしっかりと掻き抱いた。

「そんなことはありませんよ、汐。朋也さんが車とぶつかったのは、汐の所為なんかじゃないです」

「でも、パパはうしおをたすけようとした……」

「それは、朋也さんが汐のお父さんですから。お父さんが子供を助けようとするのは当たり前のことですよ」

「あたりまえ?」

「はい。朋也さんは汐を愛していますから。だから、何が何でも汐を助けようとするんです」

「でも、うしおがいなかったらパパはくるまにぶつかってない……」

「そうかもしれませんね。でもね、汐。汐がいなかったら、朋也さんにも渚にも会えないんですよ? それでもいいのですか?」

「………………いやだ。うしお、パパもママもだいすき」

「それなら、自分がいなかったらとかそう言うことは言ってはいけませんよ? 分かりましたか?」

「うん」

「素直ですね、汐は」

 褒めながら頭を撫でる早苗。汐が自然と嬉しそうに笑うのを見て、秋生は流石だと感心した。

「なぁ、汐。親ってのはな。いつだって子供には笑っていてほしいものなんだ。だから、もし小僧が……、朋也が今のお前みたいなしけた面を見たらどう思うだろうな?」

 秋生の問いに、汐はしばらく首を傾げた後、

「パパ、かなしむ?」

「そうかもしれねぇな。そんなのはお前だっていやだろ?」

 秋生の確認に頷く汐。秋生は、汐の頭をくしゃりと撫でながら、にこりと笑った。

「だったら、あいつが起きた時に笑っていられるようにしないとな。皆で笑ってあいつを驚かしてやろうぜ。俺たちはお前のことで全然心配なんかしてなかったんだぜってな」

「うん!」

 元気よく返事をしながら、汐は花が綻ぶような笑顔を見せ、秋生は満足そうに頷いた後、徐に立ち上がった。

「さてと……。今度は我が愛する娘のところにでも行くかな」

 そうぼやいて、秋生は歩き出した。

 

 少しして、渚がいる部屋に辿り着いた秋生がドアを開けようとした時のことだった。

「朋也……君……!」

 悲痛な叫びと、その後のすすり泣く渚の声に、秋生は一瞬扉を開けるのをためらった。しかし、いつまでもこうしているわけにもいかないと思い直し、自分の頭をがしがしと乱暴に掻きまわした後、あえてノックもせずに勢いよく扉を開けた。

 秋生は、ビクッと身を竦ませる渚に構うことなく部屋の中に入ると、「渚……」と静かに呼びかけた。

「渚……、そのままでいいから聞くんだ。悲しければ泣いていい。辛ければ泣いていい。涙ってのはな、辛いものや悲しいものを流すためにあるものだと俺は思ってる。だから、今は思いっきり泣け。けどな。泣いたまま立ち止まったらだめだ。どうしたって、人間てのは前に進まなきゃいけないからな。どうしても立ち上がれない、前に進めないというのなら、俺と早苗が助けてやる。俺たちは家族だからな。助けあって生きていく。そう言うものだ……」

「お父さん……」

「あ~、その何だ……。つまりだな、何が言いたいかと言えばだな……。あ~だめだ。俺には早苗みたいにうまく言えねぇ! とにかくだ! 何でもいいからお前は笑ってりゃ、それでいいんだよ! 小僧もそれで安心するだろ!」

 何故かイライラした口調に変わる父に、渚は一瞬呆気にとられた後、思わずくすりと笑った。

「……ありがとうございます、お父さん。そうですね。私がいつまでも泣いていたら、朋也君もしおちゃんも心配します」

 涙を塗った渚は立ち上がりながら、言った。

「私、頑張ります!」

 秋生はふっと笑って、愛娘にぐっと親指を突きだす。

「おう、頑張ってかましてこい!」

「はい!」

 朋也が聞いたら、「通じるのか!?」とツッコミを入れるであろうやり取りを交わし、父娘は笑いあった。



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第3章 第4話 二つの世界

 車に撥ねられたはずの朋也は、自分の置かれた現状を見て酷く混乱していた。

「えっと……、俺は確か、車に撥ねられそうになった汐を助けて、代わりに撥ねられたはずだよな? あれ? でも怪我がない? というか、なんだここは……? 何もない……? まさか俺は死んだのか……? あれ? でも、この場所はどこかで見たような……?」

 混乱しながらもぐるりと周りを見回すが、朋也の目に飛び込んでくるのは、いっそ痛いくらいの白のみ。それ以外には、床も壁も、上も下も右も左も、光や闇さえもない。そんな場所だった。

「確かに俺はこの場所を知っている……」

 何かを思い出そうとするように、必死で頭を巡らす朋也の目の前に、小さな光の玉が一つ舞い降りた。

 ――よかった。また会うことができた……

 光の玉が安心したように明滅する。

「なぁ……、俺は……死んだのか?」

 朋也が問いかけると、光の玉は再び明滅しながら答えた。

 ――ううん、君はまだ生きてるよ。でも……、君の意識は、今とても深い眠りにあるんだ

「深い眠り?」

 ――うん。そして多分、しばらくは目覚めることができないと思う……

「どういうことだ……?」

 朋也が低い声で問い返すと、光の玉は小さく明滅した。

 ――それはきっと……、僕が君の魂に干渉してしまっているから……

 朋也は無言で先を促す。

 ――僕と君は魂が同じ存在なんだ。だから、僕の強い思いが、君に影響を与えている

「……つまり……、あんたがいる限り、俺は目覚められないと?」

 ――……うん……、ごめん……

 申し訳なさそうに小さくなる光の玉の話を聞いて、朋也はため息をついた。

 以前の朋也なら、「ふざけるな!」と怒鳴り散らしていたかもしれない。だが、今の朋也は違った。どうしたら早く目覚められるか、どうしたら一刻も早く、愛する家族の元へ戻れるか。それを考え、

「俺は……、俺はどうしたら戻れる?」

 光の玉にそう問いかける。

 ――それは……、僕の願いを叶えてくれたら。そうしたら僕は世界から消えるし、君も戻れると思う

「願い?」

 ――そう。僕の願いは、あの〈終わってしまった世界〉に一人でいるあの子に、伝えたい。『君と一緒にいられて楽しかった』、『世界に産まれることができてよかった』って……

「あんたが直接言えばいいじゃないか」

 ――ダメなんだ。僕の声はもう……、彼女に届けられないから……

「他の奴じゃダメなのか?」

 朋也の問いかけに、光の玉はゆっくり明滅する。

 ――うん……。僕の声が聞こえるのは、僕と同じ魂を持つ人だけ。そして、僕の願いを叶えられるのは、それだけの力を持った人だけだから……

「俺にはそんな力はねぇよ」

 ――ううん、君は……君だけは持っている。ただ気付かないだけ。君は今まで、いろんな人を幸せにしてきた。そしてその分だけ、君には願いをかなえる力が集まっていったんだ……

「…………?」

 まったく心当たりがない朋也は首を捻る。

 そんな朋也に苦笑するように明滅した光の玉は、一際強く光り出す。

 ――さぁ、そろそろ時間だ。今から、僕に残された最後の力で、君をあの世界に送る。だからあの子に必ず伝えてほしいんだ。『君と一緒にいられて楽しかった』、『世界に産まれることができてよかった』って

「ちょ……、ちょっと待ってくれ!」

 自分の身体がふわりと浮く感覚を覚えた朋也は慌てて抵抗しようとするが、それもむなしく、徐々に体がどこかへ引っ張られて朋也はその場所から〈終わった世界〉へと旅立って行った。

 一人、白い空間に残った光の玉は、最後にポツリと呟いて消えた。

 ――頼んだよ……。もう一人の僕……

 

 

 

 朋也が〈終わってしまった世界〉に飛ばされたころ、現実の世界では、渚と汐が朋也のお見舞いに来ていた。ちなみに、朋也は数日前に集中治療室から(椋の計らいで)個室に移されていた。

 静かな病室の中で、渚と汐は朋也の意識が戻るのを見守り続けている。そんな時だった。

 

 ――こんこん

 

 控えめなノックが聞こえた渚は、入り口を振り返りながら声を掛ける。

「どうぞ、入ってください」

「おじゃまするわよ~」

 がらりと扉を開けて、病室にどやどやと入ってきたのは、藤林杏、一ノ瀬ことみ、坂上智代、春原陽平、そしてすまなさそうな顔をする椋だった。

「皆さん……」

 渚が目を丸くする中、杏が明るく声を掛ける。

「何よ……。渚も汐ちゃんも元気そうじゃない……って、うわっ! 本当に朋也の奴、包帯でぐるぐるね」

「お姉ちゃん……、岡崎君は重症なんだから……」

「私、とってもとっても心配したの。朋也君のことももちろんだけど、渚ちゃんと汐ちゃんのことも」

「私もだ。とりあえず渚さんも汐ちゃんも元気そうで何よりだな」

「あの……それより、いい加減この荷物、どうにかしてくれませんかね?」

 いつも通りの騒がしい彼らに、渚の顔も思わず綻んだ。

「皆さん、座ってください。今お茶を入れますね」

「いや、渚さんは座っていてくれ、それは私がやろう」

 立ち上がろうとした渚を手で制して、智代がお茶を入れに向かう中、杏が眠っている朋也の顔を覗き込んだ。

「しっかし、朋也もよわっちくなったわね。高校時代なんて、私が原付でぶつかってもぴんぴんしてたのに……」

「お姉ちゃんそんなことしてたの!?」

 妹の椋が慌てたようにツッコむと、杏は笑いながら「冗談よ、冗談」と誤魔化していた。

「本当に冗談か? 僕は杏ならやりかねないと思うけど?」

 荷物を降ろした陽平がそう言うと、杏は眼だけは笑っていないほほ笑みを陽平に向けた。

「陽平? 何か言ったかしら?」

「ひぃっ!? 何でもありません!」

 陽平は、慌てて土下座をしながら全力で謝る。そんな中、ことみの痛烈なひと言が、陽平にとどめを刺した。

「春原君……、とってもヘタレなの」

「ぐはっ!?」

 さらに、

「よーへーおじちゃん、へたれなの?」

 あどけない汐の容赦ない追い打ちが陽平に突き刺さった。

 何はともあれ、全員にお茶が行き届いて場が落ち着いてきたところで、改めて杏が話を切り出した。

「それにしても、渚も汐ちゃんも思ったより元気そうでよかったわ。椋からあんたたちの話を聞いたときは、本気で焦ったわよ?」

 渚は「えへへ」と笑った後、その場の全員に向かってぺこりと頭を下げた。

「ご心配をおかけしてしまったみたいで申し訳ありません。でも、私もしおちゃんも大丈夫です。朋也君の意識が戻った時に、私達を心配しないように笑顔でいようってしおちゃんと二人で決めましたから」

「うん、だいじょうぶ!」

「そう……。ならいいわ」

 安心したように杏が微笑んでいると、ことみが朋也を覗き込んだ。

「意識がない状態でも、外部からの情報は取得、認識できてるの。だから、一杯話しかけてあげれば、その分、意識が戻るのも早くなると思うの」

「そうなんですか?」

「そう。だから音楽なんかも聞かせてあげるといいかもなの。というわけで一曲……」

 そう言ってことみが取りだしたのは、高校時代にここにいる友人たちからもらった愛用のヴァイオリン。それを顎で抑え、弓を構えた瞬間、ことみのヴァイオリンの破壊力を知っている全員が慌てて取り押さえた。

「やめなさいことみ!」

「病室の中ではだめです!」

「春原! お前はどさくさに紛れてセクハラをするな!」

「酷い誤解ですy……ぶべらっ!?」

 一気に病室内が騒がしくなってしまった。

 

 

 

 朋也は〈終わってしまった世界〉で、人形に宿り、自分が〈岡崎朋也〉であることを思い出せないでいた。

 そのまま数日を過ごしていたある日、ふと自分が何かを忘れている気がした。

 ――何か……、大切なことを忘れている気がする……

 人形(朋也)は世界に漂う光を見ながら、ぼんやりと思う。

「どうしたの?」

 前を行く少女が振り返り、首を傾げる。

 人形(朋也)は、ぎぎぎっと音を立てながら、何でもないと頭を横に振る。

「なんでもないの? そう……。もう、大分ガラクタも集めたから、そろそろ帰ろうか」

 そう言って少女は片腕にガラクタを抱え、人形(朋也)にそっと手を差し伸べた。

 人形(朋也)は音を立てながら頷き、少女の手を取り、二人はゆっくりと二人が暮らす小屋へ戻っていった。

 そしてその日の夜。

 少女が眠る傍らで、眠る必要のない人形はぼんやりと月明かりを眺めながら考える。

 ――何だろう……。何でこんなに、何かを忘れてる気がするんだろう……

 人形(朋也)の身体を意味の分からない焦燥感が支配する。外で無数に舞っている光を見ると、特に焦ってくる。

 だがしかし、いくら考えても、何を忘れているのかを全く思い出せなかった。

 ――いったい、僕はどうしたというのだろう……

 当てのない思考を人形(朋也)は幾度となく繰り返した。

 そうして数日を過ごしたある日の夜。人形(朋也)がぼんやりと月を眺めながら、自分が何を忘れているのかを思い出そうとした時のことだった。

 ふと、彼の身体を光が通り抜けた際に、声が聞こえた気がしたのだ。その声は、自分に向かって、こう呼びかけていた。

『朋也君……』

 人形(朋也)ははっと顔を上げる。脳裏に、誰かの姿がぼんやりと浮かび上がった気がしたのだ。ひどく懐かしく感じる誰かの顔。

 ――誰? 君は誰なの?

 頭の中に問いかけるが答えはない。

 ――なぜだろう……。僕はこの人のことがとても大切に思っていた気がする……

 その時、別の光が人形(朋也)を通り抜け、再び脳裏に声が響く。

『パパ……』

 今度は、もっと幼い声。人形(朋也)には自分をパパと呼ぶ人はいないはずだ。だというのに、さっきの人と同じくらい大切に思っていた気がした。

 その後も次々と光が人形(朋也)を通り抜けていく。

『小僧……』『朋也さん』『朋也……』『岡崎……』『岡崎さん……』『朋也君……』

 光が通り抜けるたびに、いろいろな人の影が脳裏で自分を呼んだ。

 そして人形(朋也)の意識にノイズが走り、イメージが流れ込む

 ――ザッ……! ザザッ……!

 坂の下で頷きながら「アンパン」と口にしたか弱いけれどとても強い少女。いつも自分たちとつるんで、乱暴だけど面倒見がいい少女、内気で、だけど自分をとても慕ってくれた少女。頭が良くて、だけど変わり者でヴァイオリンがとても大好きな少女。大切な家族を傷つけてしまい、だけどきちんと分かりあえた強い少女。いつも自分と馬鹿をやって一緒に怒られて、とても仲の良かった親友。そして、一人の少女との間に生まれた小さな自分の子供。

 まるで割れたガラスが、逆再生で元通りになっていくかのように、次々と蘇っていく記憶の欠片たち。そして、最後のピースが埋まった瞬間、人形は……否、朋也は全てを思い出した。

 ――ああ、そうだ。僕は……俺は〈岡崎朋也〉だ。俺は、あの光の願いをかなえるためにここにやってきた。あの光の願いは……

 そこへ、人形(朋也)がいないことを察知したのだろう、小屋の中からこの世界に一人ぼっちの少女が出てくる。

「思い……出したの?」

 少女の問いに頷く人形(朋也)

「そう……。何を思い出したの?」

 ――僕は……、いや、俺は……。君に伝えに来たんだ。あの光に変わって……。聞いてくれるか?

 聞こえないはずの朋也の声を、何故か少女は聞き取れたようで、ゆっくりと頷いた。

「聞かせて」

 ――俺は……、この身体に宿っていた魂から願いを託された。君に伝えてほしいことがあると……

「伝えてほしいこと?」

 ――『僕は、この世界に生まれてくることができて本当によかった。この世界で一人ぼっちだった君と一緒に過ごせて、とても楽しかったよ。ありがとう……』

「っ!?」

 少女は涙を浮かべて息を飲むと、ゆっくりと胸に手を当てた。まるで大切な何かをそこへ刻み込むように。

 そして、少女はそっと微笑む。

「ありがとう、伝えてくれて」

 少女を中心に風が渦巻く。

「ありがとう、あの子の願いをかなえてくれて……」

 風が徐々に強さを増していく。

「ありがとう、私と一緒にいてくれて……」

 朋也の人形の体がふわりと舞い上がる。

「君を元の場所に返してあげるね」

 風の塊が、朋也が宿った人形をばらばらにしていく。

「ありがとう、パパ……。逢いにきてくれて……」

 朋也の意識は光に包まれた。

 

 

 

 

~おまけ(没ネタ)~

 

「確かに俺はこの場所を知っている……」

 何かを思い出そうとするように、必死で頭を巡らす朋也の目の前に、小さな光の玉が一つ舞い降りた。

 ――よう、よくきたな。自分を犠牲に他人を助ける偽善者

 酷く皮肉な口調で、光の玉がしゃべる。

「誰だお前……」

 訝しげな様子の朋也に、光の玉はにやりと笑うと、大げさに答えた。

 ――おお!よくぞ聞いてくれました!! 俺はお前達が〈世界〉と呼ぶ存在。あるいは〈宇宙〉。あるいは〈神〉。あるいは真理。あるいは〈全〉。あるいは〈一〉そしてオレは〈おまえ〉だ。

 

ここに、新たに真理を見た錬金術師が誕生した。

次回、CLANNAD。「絆の錬金術師」。お楽しみに!



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第3章 第5話 目覚め

 朋也が事故に遭ってから、すでに二週間が経過したある日のこと。

 その日は秋にしては気温が高く、渚と共に朋也の見舞いに訪れた汐は、少ししてからうとうとし始めた。

 それに気付いた渚が問いかける。

「しおちゃん、眠たいですか?」

 目をごしごしと擦りながら小さくうなずいた汐に優しく微笑んだ渚は、ソファの端によって汐を横たわらせると、汐をそっと膝枕する。

 きょとんとしながら見上げる汐に、渚は笑いかけた。

「少しお昼寝をしましょう」

 渚はそういうと、優しく汐の頭を撫でながら、子守唄を歌い始めた。

「だんご♪ だんご♪ だんご♪」

 生まれる前から耳にしていた子守唄を聞いた汐は、まもなく小さな寝息を立て始めた。

 

 夢の中で、汐は不思議な場所にいた。

 晴れ渡る蒼い空と、流れる白い雲。足元には青々とした草が視界一杯に広がり、いくつもの小さな光の球がふわふわと風に漂っていた。

「…………おそと?」

 きょとんとしながら、きょろきょろと辺りを見回す汐はやがて、一匹の獣を見つけた。白いもこもこした毛に覆われ、どこか羊にも似たその獣は、汐をじっと見つめた後、踵を返してとことこと歩いていく。

 初めて見る生物に、汐は興味津々で後を追いかけた。

 とことことてとて。

 獣は汐を引き連れて歩き続け、やがて小さな小屋の前までやってきた。その小屋の前には誰かが立っており、汐が追いかけてきた獣をひょいと抱き上げた。

 それは、汐の知らない少女だった。白いシンプルなワンピースに身を包み、汐と同じ色の髪をストレートに垂らした少女は、どこか汐と似た雰囲気がある。

 そんな少女をきょとんと見つめた汐は、ことりと首を傾げながら訊ねた。

「おねえちゃんだれ?」

 少女は獣を抱きかかえたままふっと微笑む。

「私はあなたと同じ。だけど別のあなたでもある」

「……………………? うしお? おねえちゃんもうしおっておなまえなの?」

 よく分かっていない汐が首を傾げながら訊ねると、少女は困ったように笑った。

「ごめんね。分からないよね。うん、私も汐って言うんだ」

「うしおとおんなじ!」

 わーいと喜ぶ汐にそっと微笑んだ後、少女は獣を下ろしてから、汐に目線を合わせた。

「あのね、汐ちゃん。今、汐ちゃんのパパはどうしてる?」

「パパ? パパはいま、ねてておきない。うしおのかわりにくるまにぶつかってからずっとおきない」

 途端、しゅんとなる汐の頭を、少女はそっと撫でた。

「そう……。大変だったね……。でも、もう大丈夫だよ。汐ちゃんのパパはもうすぐ起きるから」

「ほんとう……?」

「うん。パパはこの世界での役目を終えたから……。次に汐ちゃんが目が覚めたら、パパもきっと起きるよ」

 朋也が起きると聞いて、汐は喜びをあらわにする。

「だから汐ちゃん。あなたも自分の世界に帰るの」

「かえる? どうやって?」

 首を傾げる汐を優しく撫で続けながら、少女は笑った。

「大丈夫。あなたは眠ればいい。そうしたら次におきたときには、元の世界に帰って、パパも起きてるはずだから……」

 少女はその場に足を伸ばして座ると、自分の膝をぽんぽんと叩いた。

「ほら、おいで」

 少女に誘われ、汐はゆっくりと身を横たえて頭を少女の膝に乗せる。そして、少女は優しく汐を撫でながら口ずさんだ。少女にとっての思い出の歌を。汐の大好きな歌を。

「だんご♪ だんご♪ だんご♪」

 汐が徐々に目を閉じていく中、少女は小さく呟いた。

「ごめんね。今までパパを借りてて……。最後に、パパに伝えて。ありがとうって……」

 その呟きが汐に届いたかどうかは、少女は知らない。

 

 

「…………ぅゅ……?」

 周りがにわかに騒がしくなり、汐はゆっくりと目を覚ました。

「ママ……?」

 寝る前は大好きな母親に膝枕してもらっていたはずなのに、今は傍にすらいない。

「ママ……?」

 渚を呼びながら不安そうに辺りをきょろきょろと見回す汐を誰かが呼んだ。

「汐!」

 その声は、汐にとってとても待ちわびた声。呼ばれた汐は一瞬だけ身をすくませた後、ゆっくりと振り返り、自分を呼ぶ人物を見て、ぱっと顔を綻ばせた。

「パパ!」

 汐は、ベッドから半身を起こしている朋也に向かって思いっきり飛びついた。

「うぉっ!?」

 慌てて抱きとめた朋也は、自分の胸に頬擦りするウシオの頭を撫でる。

「おかえりパパ!」

「ああ、ただいま」

 その横では、渚が嬉し涙を浮かべていた。

 その後の朋也の病室は大変なことになった。

 朋也の意識が戻ったことで、検査と質問のために医者が、そして、朋也が起きたと椋から聞きつけた杏が、ことみが、智代が、芳野夫婦が、(汐目当ての)風子が、勝平が、そして古河夫妻と直幸、史乃までもが一気に病室に訪れ、病室内は一気に賑やかになった。

「皆……、心配かけてすまなかった!」

 集まってくれた人たちに対して、朋也はベッドの上から画張りと頭を下げた。そして、渚と汐に視線を向ける。

「特に、渚と汐にはすげぇ迷惑かけちまったな……」

 そう言って深々と頭を下げる朋也を、秋生が軽く小突いた。

「ばーか。何度も言ってんだろうが。家族ってもんはお互いに迷惑を掛け合って、それでも助け合って生きていくもんだってな。これが、お前がわざとそうしようと思ってやったなら俺がブチキレてたところだが、今回は車に轢かれそうになった汐を助けようとした結果だろう? だったらてめぇが謝る必要なんてねぇんだよ」

「おっさん……」

 秋生の言葉に朋也が顔を上げれば、朋也を見つめる全員の顔が、昭雄の言うとおりだと物語っていた。

「皆……。本当に……ありがとう……」

 朋也はもう一度、しかし、今度は違う理由で頭を下げた。

「ま、それでもてめぇが迷惑掛けたって思ってんだったら、今後、何かしらの形で帰してもらう。それでいいだろう?」

 秋生がぐるりと見回せば、集まった全員が頷いた。

「そうね。ま、どうしても朋也がお返ししたいって言うんだったら、私は断らないわよ?」

「それは私も同じだな」

「何をしてもらうか、楽しみなの……」

「お姉ちゃん、智代ちゃん、ことみちゃん……」

「ああ、これぞまさしく愛!」

「ゆー君はちょっと黙っててくださいね」

「それじゃあ、汐ちゃんを妹にさせてください!」

「僕も何か考えて置こうっと」

一部どさくさにまぎれて変なことを言ったりする人もいたが、それでも彼らの心の温かさに、朋也はもう一度静かに頭を下げるのだった。

 

 それからさらに二週間後。

 朋也は怪我がある程度治ってきたこともあり、リハビリを始めていた。何せ、二週間も意識が戻らず、その間はずっと寝たきりだったのだ。すっかり筋肉が衰えていても仕方ないことである。

 ともあれ、順調にリハビリもこなし、医者からの許可も無事にもらえた朋也は、やっと退院することができた。

「……これでよしっと」

 渚が持ってきてくれたスポーツバッグに着替えやら日用品やらを詰め込み終えた朋也は、部屋全体をぐるりと見回し、忘れ物がないことを確認する。

「汐、忘れ物はないよな?」

「ない!」

「よし」

 元気よく答えた汐をくシャリと撫でて朋也はバッグを肩に担ぐと、渚と汐に手を差し出す。

「さぁ、帰ろうぜ。俺達の家に」

「はい!」

「お~!」

 こうして親子三人は仲良く手を繋いで病院を後にした。



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エピローグ

 朋也が退院してから、数ヶ月が過ぎた。

 三月に入ってしばらくして、汐が生まれて六年目になるその日。

 岡崎家では、汐の誕生日を祝うために秋生と早苗が駆けつけ、ささやかながらも賑やかな誕生日パーティーが催されていた。

 早苗が焼いてきた誕生日ケーキにろうそくを立て、部屋を暗くしてからろうそくに火を着ける。暗闇の中で、ろうそくの炎でぼんやりと照らされる光景は、どこか幻想的なものを感じる。

 朋也、渚、秋生、早苗の四人は誰からともなく頷くと、静かに歌いだした。

『ハッピ~バ~スデ~トゥ~ユ~♪ ハッピ~バ~スデ~ディア汐(しおちゃん)~♪』

 歌い終ったと同時に沸き起こる拍手。

『お誕生日おめでとう! 汐(しおちゃん)!』

 汐はそれに対して満面の笑みを浮かべて「ありがとう!」と返すと、大きく息を吸い込んで、ろうそくを吹き消した。

 再度拍手が沸き起こり、朋也が部屋の電気を付けた。テーブルに所狭しと並べられた料理に汐が目を奪われる中、「よし、食べるか!」という朋也の合図で一斉に食事に手を伸ばしはじめた。

「しかし、汐ももう六歳か……、早ぇもんだな……」

 大口を開けて好物のハンバーグにかぶりつく汐を見て、秋生は目を細めながらつぶやいた。

「俺も早苗も歳を取ったもんだよな……」

「そうですねぇ。私もおばあちゃんですからねぇ……」

 祖父母を名乗るには、彼らの見た目が若すぎると朋也は思った。何せ、彼らは出会った当時から全く更けていないように見えるのだ。

 そんなことを思いつつ、ちらりと渚の方に視線を向けて、朋也はふと気づいた。

「(そういえば、渚も高校時代から全然老けてないよな……。高校時代と違うところといえば、せいぜい髪が伸びたくらいか……)」

 まさかこの一族には不老の遺伝子でもあるんじゃないかと疑いたくなった朋也だった。

 そんな中、早苗が何かを思い出したようにポンと手を打つと、鞄を漁っていくつかのパンを取りだした。

「うっかりしてました。ケーキを焼いたついでに、新作のパンも焼いてみたんです」

 その瞬間、早苗以外の全員の顔が曇る。だが、それに気付かない早苗は、にこにことほほ笑む。

「今回の新作パンは自信作なんです。食べてみてください」

 早苗が悪意のない笑顔を向ける中、秋生が頬を引きつらせながら早苗に言う。

「早苗、せっかくの汐の誕生日にこれはまずい。こんなめでてぇ日にこれを喰ったら最悪の思い出に……」

 口が滑ったのだろう。秋生は途中で言葉をとぎらせて、しまったという顔をし、朋也と渚は何とも言えない表情を浮かべていた。そして早苗はというと、目に溢れんばかりの涙を浮かべると、

「私のパンは……、私のパンは…………、最悪の思い出なんですねぇ~~~~~っ!!」

 徐に立ち上がり、叫びながら玄関から走り去っていった。

 秋生は舌打ちをした後、早苗のパンを朋也たちから奪い、口にくわえると、

「おふぇふぁふぁふぃふふぃふぁ(俺は大好きだ)~~~~~~っ!」

 猛然と早苗を追いかけはじめた。

 朋也はそれを見送ってから軽くため息をついた。

「まったく……、ホント、あの二人はぶれないよな」

 渚が困ったように笑いながら頷く。

「そうですね。お父さんとお母さんはいつまでも仲良しです」

 その言葉に羨望を感じ取った朋也が、渚に訊ねる。

「羨ましい……のか?」

「いえ……、そう言うわけではありません。私だって、朋也君といつもラブラブですし…………って私恥ずかしいこと言ってます!」

 自分で言っておいて自分で照れるな、と朋也は声に出さずにツッコんだ。

「パパとママはラブラブ?」

 それまで黙っていた汐がことりと首を傾げながらそう言って、朋也と渚はついつい照れてしまった。

 と、そこへ、ひとしきり走って満足したのか、息一つ乱さない早苗と、ぜぇぜぇと肩で息をしながら汗を掻いている秋生が戻ってきた。

「そうそう、汐。私と秋生さんから、お誕生日プレゼントがありますので、渡しておきますね」

 何事もなかったかのようにそう言った早苗は、どこからか大きめの箱を取りだして、汐に手渡した。

「ありがとうございます!」

 丁寧にお礼を言って箱を受け取った汐は、早苗の「開けてみてください」という言葉に従って、嬉々としてプレゼントを開け始めた。がさがさと包装を破り、箱から中身を取りだした汐は、「お~」と感嘆の声を上げる。

「俺と早苗からは野球セットだ!」

「お友達と一杯遊んでくださいね」

 朋也は女の子に野球セットはどうなんだと思いながらも、まぁこれはこれでおっさんや早苗さんらしいかと思い直し、渚に視線を向ける。

 渚がこくりと頷き返し、朋也は「今度は俺たちからだな」と立ち上がって、庭に面する窓に汐を呼び寄せると、渚と呼吸を合わせて勢いよくカーテンを開いた。

 そこにあったのは一台の補助輪付の自転車。買ったばかりで、まだ傷一つ着いていないピカピカの自転車を見て、汐は目を輝かせた。

 そんな汐に渚が言う。

「しおちゃん、早速乗ってみてください」

「うん!」

 満面の笑みを浮かべた汐は、早速玄関から靴を履いて庭に回ると、いそいそと自転車に跨った。そして、ゆっくりとペダルに足を乗せると、緊張した面持ちでそっとこぎだした。

 ゆっくりと進み始める自転車に最初は戸惑っていたが、次第に慣れてきたのだろう、少しすると、笑顔を浮かべながら庭をぐるぐると走り始めた。

「わ~い!」

 実に楽しそうな汐の笑顔を、秋生がいつの間にか用意していたデジカメでパシャパシャと撮影をしていた。

 それからしばらくして、一通り満足した汐がゆっくりと自転車を降りて家に上がると、満面の笑顔を浮かべた。

 

 その後、残った料理とケーキを食べ、片づけも終えて一息ついた頃、はしゃぎ疲れたのだろう、汐がうとうとし始めた。それをきっかけにささやかな誕生日パーティーはお開きになり、秋生と早苗は満足そうに帰っていった。

 先ほどまでとは打って変わって、静かな部屋の中で、月の光を浴びながら傍らで眠る汐をそっと撫でながら、朋也がぽつりと呟く。

「汐……、喜んでたな」

「はい。来年のプレゼントを聞いたときにはさすがに驚きましたけど……」

 その時のことを思い出した渚がおかしそうにくすくす笑い、朋也は苦笑いをした。

「ああ、あれは流石にビビったな……」

 彼らが驚いたのは、来年のプレゼントは何がいいかと気の早いことを秋生が汐に訊いたことに端を発する。

 その時、汐は少し考えた後、こう答えたのだ。

「ん~……、おねえちゃんになりたい」

 一瞬、汐の答えを聞いた大人たちが首を傾げる中、汐は無邪気な顔で繰り返した。

「うしお、おねえちゃんになりたい。おとーととかいもーとのめんどーみたい!」

 つまりは弟か妹が欲しいということであると理解した朋也が、口に含んでいたお茶を思いっきり秋生の顔に吹きかけてしまった。その後、てんやわんやの騒ぎになって、この事はうやむやになってしまったのだが。

 ともあれ、汐の発言を思い出した朋也が、何とも言えない顔でぽりぽりと頬を掻いた。

「し……、しかし、お姉ちゃんになりたい……か……」

 朋也が気まずそうな目を渚に向けると、渚は顔を真っ赤にしながら俯いていた。

「わ、私は……どちらでも構いませんが……」

 その言葉に、朋也はドキリとして、慌てて立ち上がった。

「ま、まぁ、そのことはまた後で考えようぜ!」

「そ、そうですね!」

「じゃ、じゃあ俺、汐を運んでくる」

 そう言って汐を抱え上げた朋也は、顔を赤くしながら汐の部屋に向かい、渚も顔を赤くしながらそれを見送った。

 その後、この夫婦がどうしたのかは、二人だけの秘密である。ただ言えることは、岡崎家はこの後も幸せな毎日を変わらず過ごすということである。

 

 

 

 

 

~十年後~

「行って来ま~す!」

「気を付けるんだぞ?」

「行ってらっしゃい、しおちゃん!」

 〈私立光坂高等学校〉の真新しい制服に身を包んだ汐が、両親に見送られて元気よく家から飛び出していった。

 朋也は、仕事の準備をしながら嘆息する。

「全くあいつは……。高校生になったんだから少しは落ち着けばいいのに……」

「元気があっていいじゃないですか」

「ま、それもそうか……。それにしても、あいつももう高校生なんだな……」

「はい……」

「あいつにも……」

「……?」

「あいつにも、俺達みたいな出会いがあるのかな?」

 朋也の問いに、渚はそっと目を細める。

「そうですね……、あるかもしれませんね……。お父さんが聞いたら怒りそうですけど」

 最後につけたされた言葉に、朋也は違いないと笑った。

 

 そんなことを言われているとはまったく知らない汐は、足取りも軽く、学校へ続く道を歩いていた。

 そして学校へ続く満開の桜並木の坂道を登ろうとしたところで、足を止め、大きく息を吸い込む。

「今日から私も高校生か……。頑張るぞ!」

 一人で気合を入れた汐は、長い長い坂道を登り始める。




あとがき
作者のgachamukです。
この度は拙作「CLANNAD ~Sequel of After Story~」を
読んでいただきありがとうございます。
本編はこれをもちまして終わりとなります。
初めての二次創作ということで、拙いところも多々あったとは思いますが、
それでも最後まで読んでいただいた方々には、感謝してもしきれません。
本当にありがとうございます。


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EXTRA1 岡崎汐の大冒険

 その日、仕事中の朋也に、渚から連絡が入った。曰く、

『ちょっと他のパートの方が急病で休んでしまいまして、代わりの人が来るまで私が働くことになってしまったので、しおちゃんをお迎えにいけないんです。お父さんやお母さんにも連絡してみましたが、ちょっと連絡が取れなかったんです。ですから、申し訳ないですが、朋也君、お迎えお願いできますか?』

 とのことらしい。

 朋也は、ざっとその日の工程を思い浮かべてみたが、幸い途中で抜けて戻ってくるくらいなら何とかなりそうだと判断し、念のために上司の祐介に了解を取ってから、渚に了承を伝えた。

 そして、ちょうど汐の幼稚園が終わるタイミングを見計らって、祐介に断りを入れてから汐を迎えにいった。

 それからしばらくして、幼稚園に着いた朋也は、門のところに立って園児を見送る杏を見つけ、声を掛ける。

「杏! 汐はいるか?」

 朋也の声にくるりと振り返った杏は、珍しいものでも見たといわんばかりに、朋也をじろじろと見た後、園内で猪の〈ぼたん〉と遊んでいた汐に向かって声を掛けた。

「汐ちゃ~ん! 甲斐性なしが迎えに来たわよ~!」

 その台詞にあわてたのは朋也だ。

「コラコラコラコラ! うちの娘に妙なことを吹き込むな!」

 嬉しそうに走り寄ってきた汐を抱きしめながら抗議の声を上げる朋也を、杏は華麗にスルーして、汐に笑いかけた。

「それじゃ、汐ちゃん。気をつけて帰るのよ? また明日ね」

「きょーせんせー、さよーなら」

 ぺこりと頭を下げた汐は、朋也と連れ立って家へと帰っていった。

 やがて、家に帰り着いた朋也は、玄関で汐に見送られる。

「それじゃ、汐。パパはまた仕事に行ってくるからな。ママが帰ってくるまで一人で留守番できるか?」

「うん」

「そうか。玄関の鍵は、誰が来ても開けちゃだめだぞ?」

「わかった」

「何かあったら早苗さんに電話するんだぞ? 電話の掛け方は知ってるな?」

「うん」

「よし、それじゃ、パパ行ってくるな」

「パパ、がんばって!」

「おう、行ってきます!」

「いってらっしゃい!」

 がらがらと玄関を締めて鍵を掛けた朋也は、若干心配になりつつも仕事場へ急いで戻っていった。

 一方、お留守番を任された汐はというと、最初は家の中をうろうろしたり、だんご大家族のぬいぐるみで遊んだりしていたが、やがて飽きたのか、外をぼうっと眺め始めた。そして。

「よし」

 一人で頷いたかと思うと、とてとてと玄関から自分の靴を取ってきて庭に出ると、そのまま家を出て散歩を始めた。

「だんご♪ だんご♪」

 大好きな歌を歌いながら、当てのない散歩に出かける。汐の趣味だった。

 そうして歩くことしばし、汐は一軒の喫茶店の前で立ち止まった。看板には〈喫茶ゆきねぇ〉と書かれている。

 じっと看板を見上げる汐に、誰かが後ろから声を掛けてきた。

「こんにちは。うちの店に何か御用ですか?」

 おっとりしていてかつ丁寧な口調に汐が振り返ると、そこには一人の女性がいた。宮沢有紀寧である。

「あら? あなたは岡崎さんの……」

 有紀寧は小さなお客さんが汐であることに気付くと、にっこり笑って、汐を中に招き入れた。

「どうぞ。中に入ってください」

「いらっしゃいませ!」

 言われるがままに中に入った汐は、中にいた野太い声を発する強面店員たちをみて思わず有紀寧の後ろに隠れてしまった。

「ゆきねぇ、その子は?」

 リーゼントに革ジャン、ジーパンというおよそ店員らしからぬ格好の男が訊ねると、有紀寧は困ったように笑いながら汐を紹介した。

「この子は、岡崎さんの娘さんです。汐ちゃんっていうんですよ」

「岡崎って言うと、あの兄ちゃんですか? へぇ……、全然似てねぇですね」

「あはは……。汐ちゃんはお母さん似なんですよ」

「へぇ、そうなんですかい。おう、嬢ちゃん。そこに立ってねぇで座んなよ」

 リーゼント男が、有紀寧の後ろに隠れていた汐をひょいと抱え上げ、カウンター席に座らせる。するとすかさず、目が細い坊主頭の男が、グラスによく冷えたオレンジジュースを注ぎ、汐の前に出した。

「まぁ、飲みな」

 きょとんとしていた汐は、ゆっくりとグラスに口を付けた。みるみる減っていくオレンジジュースと、美味しそうに飲む汐を見て、坊主頭の店員が笑いながら訊いた。

「どうだ? うめぇか?」

 一気に飲み干した汐は、にっこり笑いながら頷いた。

「おいしい!」

 その後、すっかり警戒心を解いた汐は、強面だが気のいい店員たちに遊んでもらい、すっかり満足して店を出た。

「嬢ちゃん。また来いよ!」

「いつでもジュースを奢ってやるぜ!」

「またいつでも来てくださいね」

「うん!」

 彼らに見送られ、汐は散歩を再開させた。

 

「だんご♪ だんご♪」

 歌を歌いながら、交差点を渡り、歩道橋を渡って、坂道を上り、犬と触れ合って、狭い小道を通り、気が付けば見知らぬ民家の庭に迷い込んでいた。

「…………?」

 見覚えのないきょろきょろ視線を彷徨わせる汐に、誰かが声を掛ける。

「一昨日は兎を見たの……」

 汐が振り向くと、そこには見知った人物、一ノ瀬ことみがいた。ことみは、にっこり笑いながら続きを口にする。

「一昨日は兎を見たの……、昨日は鹿……、今日はあなた……。あなたは汐ちゃん」

「ことみおねーちゃん!」

 汐は破顔しながらことみに駆け寄る。

「こんにちはなの、汐ちゃん」

 ゆっくりと頭を下げることみに対して、汐も同じようにぺこりと頭を下げる。

「こんにちは」

「よくできましたなの」

「えへへ」

 母親そっくりの笑顔を浮かべる汐の頭を、琴美は優しく撫でてから、ことりと首を傾げる。

「汐ちゃん、今日はどうしたの? 私に何かご用?」

「ううん」

 汐は首を振って否定する。

「きょうは、うしおひとりでおさんぽしてた」

「ひとりで? 汐ちゃんはすごいの」

 褒められて得意げに胸を張る汐に、ことみはいいことを思いついたとばかりにポンと手を打った。

「それじゃあ、ご褒美にアップルパイを上げるの」

「わ~い!」

「じゃあ、汐ちゃんはまずあそこの水道で手を洗ってきてほしいの。私はその間に用意しておくから」

「わかった!」

 元気よく返事をして、庭に設置された水道まで走っていく汐を見て微笑んだことみは、ゆっくりとお茶の準備を始めた。

 それから少しして、庭に設置されたテーブルに切り分けたアップルパイと、ホカホカと湯気を立てる紅茶を用意したことみは、汐と並んで椅子に座ると、

「「いただきます」」

 両手を合わせてから食べ始めた。

 思い切りよくアップルパイにかぶりついた汐は、しばらくもぐもぐと咀嚼した後、ことみに向かって満面の笑みを向けた。

「おいしい!」

「それはよかったの」

 それから二人は、朋也のことや渚のことを話しながらゆっくりと過ごした。

 そうしているうちに徐々に日が暮れだしてきたことに気付いたことみが、ゆっくりと立ち上がると、汐に手を伸ばす。

「そろそろ帰らないと、朋也君と渚ちゃんが心配するの」

「うん」

 差し出された手を、汐はしっかりと握って、二人は歩きはじめた。そうして、ことみの家を出て、光坂高校の男子寮の前を通りかかった時のことだった。

 突然、二人の若い男がことみと汐の行く手を遮り、更に二人を取り囲むようにわらわらと男たちが姿を現した。

「なぁなぁ、姉ちゃん。俺たちと遊ぼうぜ? そっちの子も俺たちが面倒見てやるからよ」

 下卑た笑いを浮かべながら、ゆっくりと包囲の輪を縮めていく男たち。

 汐は怯えて、しっかりとことみの服を掴む。それに対して、ことみはというと、怯えた表情を見せながら、「いじめっこ? いじめっこ?」と言いながら、震えている。

 当然、そんなことで男たちが止まるはずもなく、ゆっくりとのばされた男の手が、正にことみの肩を掴もうとした瞬間。

 ――ばきゃっ!

「ぐへぇっ!?」

 激しい音とともに短い男の悲鳴が響いた。全員がそちらに注目する。

 そこには地面に無様に倒れ伏した一人の男と、ものすごいプレッシャーを発しながら近づいてくる一人の女性がいた。その女性の名は坂上智代。男たちが汐とことみを取り囲んでいた場所、男子寮の寮母をしている。そして、とっても強い。

 そんなことなど知らない男たちは、仲間がやられたことで色めき立ち、智代を取り囲み始める。

「ねぇちゃん。いきなり現れて仲間をやるとか、どういう了見だ?」

 凄みながら理由を問う男に、智代は怒気を発しながら答えた。

「お前たちが寮の前でバカなことをやっているからだろう? それにそこの二人は私の知り合いだ。知り合いが困っているなら助けるのが人として当たり前のことだろう」

 ごく正論を言われ、言い返せない男は、強硬手段に出ることにした。

「ちっ! 御託なんざしらねぇよ! とりあえず泣かせてから、俺たちが遊んでやるよ!」

 それを合図に、一斉に智代に跳びかかる男たち。が、智代はため息をついてから、怯えることみと汐に告げた。

「二人とも、目を瞑っていてくれ」

 言われた通り、目を瞑ることみと汐は、しばらくの間、肉を殴打する鈍い音と、男たちの悲鳴だけを聞いていた。

 それから少しして、最後の一人を片づけた智代は、律儀にしっかり目を瞑って、お互いに抱き合っている汐とことみをみて少し苦笑した後、

「二人とも、もういいぞ」

 と、声を掛けた。

 汐とことみはゆっくりと目を開け、倒れ伏した男たちの前で平然としている智代に気付き、安堵のため息をついた。

「ありがとうなの。智代ちゃん、とってもとっても強いの」

「ともよおねーちゃん。ありがとうございます」

 二人にお礼を言われ、智代は少し顔を赤くする。

「よしてくれ。私は当然のことを下までだ。それよりも……」

 ふと、智代が空を見上げれば、すっかり暗くなっていた。

「ことみさんは、汐ちゃんを朋也の家に送っていく最中なのだろう? 物騒だから私も一緒についていこう」

 と提案した智代に、汐とことみはお互いに顔を見合わせた後、揃って頭を下げた。

「「おねがいします(なの)」」

 智代は逸れに微笑んで、三人は連れ立って岡崎家へ歩いていった。

 しばらくして、岡崎家についた三人は、折よく帰ってきた渚と家の前で鉢合わせた。

 ことみと智代が事情を放すと、それならばお礼にと渚が夕飯をごちそうすることにし、直後に帰ってきた朋也も交えて、にぎやかな時を過ごした。

 

 ことみと智代が帰り、先に汐と風呂に入るように言われた朋也が、浴室で汐の頭にお湯を掛けながら問いかける。

「汐、今日は楽しかったか?」

「うん! ゆきねおねーちゃんも、ことみおねーちゃんも、ともよおねーちゃんもやさしかった!」

「そっか。それはよかったな。……お湯、掛けるぞ?」

「うん」

 ゆっくりと娘の頭にお湯を掛けながら、朋也は娘が無事に帰ってきたことを改めて友人二人に感謝した。



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EXTRA2 結婚式

 それは、朋也たちがいつものように古河家に顔を出していたときのことだった。

 秋生が、倉庫からアルバムを引っ張り出して、汐に見せながらそのときのエピソードを語って聞かせていた。ちなみに、早苗と渚は買い物に、朋也は荷物もちについていった。

 そんなとき、汐がふと一枚の写真に目を留めて、秋生に訊ねた。

「あっきー、このしゃしんなに?」

「ん? ……ああ、この写真か……」

 汐が注目していたのは、白いタキシードを着込んだ芳野祐介と、その隣で幸せそうな笑顔を浮かべる純白のウェディングドレスを着た芳野公子、そしてその周りでいろんな人が笑顔で写っている写真だった。

「これはな……、渚の恩師の伊吹って先生の結婚式の写真だ。確か、俺達や小僧たちもいたはずだが……ああ、いたいた。ここに俺と早苗がいて、こっちに小僧と渚がいる」

「けっこんしき?」

 ことりと首を傾げる汐に、秋生は少し考えた。

「結婚しきってのは……そうだな……。俺と早苗や、小僧と渚みたいに、夫婦になるための誓いをみんなの前でやるんだ」

「ふ~ん……」

 納得したのかしてないのか、良く分からない顔をしながら、芳野夫妻の結婚式の写真をじっと見つめた汐は、何とはなしに訊いてみた。

「じゃあ、パパとママもけっこんしきやったの?」

 そこで秋生は顎に手をあて、そういえばと思い出す。

「いや……、そういやぁ、あいつらはやってねぇな……」

 秋生がそうつぶやいた丁度その時、タイミングよく朋也たちが戻ってきた。

「ただいま~」「ただ今戻りました」「ただいまです」

 戻った朋也たちは冷蔵庫に買ってきた物を仕舞ってから、ひょいと今に顔を覗かせた。

「あら? アルバムを見てるんですか?」

 早苗が懐かしそうな顔をしながら秋生の隣に座り、渚と一緒に懐かしそうにぱらぱらとページをめくる。

 そんな中、秋生が朋也に声を掛けた。

「なぁ、小僧……」

「何だよ……?」

「お前たち、式を挙げる気はないか?」

「…………は?」

「は? じゃねぇよ。だから式だよ! 式!」

「いや、式って言われても……、何の式だよ?」

「んなもん、結婚式に決まってんだろう」

 (いや、決まってるのかよ……)と内心ツッコミを入れつつ、朋也は考えた。

「そういやぁ、やってなかったっけ……。結婚式……かぁ……」

 朋也の脳裏に浮かんだのは、上司の祐介と渚の恩師、公子の結婚式の様子だ。あの時の二人は本当に幸せそうだった。もちろん、自分たちは今でも十分幸せなのだが……。

 ちらり、と、早苗や汐と一緒にアルバムをめくっている渚に視線を送る。

「なぁ、おっさん……」

「あん?」

「やっぱり……やった方がいいのかな……」

「さぁな。俺には分からねぇよ。実際、俺たちもやってねぇわけだし……。まぁ、俺たちは結婚してからも、渚が生まれてからもとにかく余裕がなさ過ぎたからできなかったわけだがな。けどな……、こういうのはやっておいて損はねぇと俺は思ってる」

「そうか……」

 朋也は何かを考え込むように黙り込んでしまった。

 その日の夜。

 汐が寝静まった後で、朋也は渚に向かい合っていた。

「なぁ、渚……」

 渚が淹れてくれたお茶をすすりながら、朋也が声を掛けた。

「なんですか?」

「その…………、お前さ……」

 ことりと首を傾げつつ見つめてくる妻に、朋也は言いにくそうに口をパクパクさせた後、思い切って聞いてみることにした。

「お前さ、ウェディングドレス着たいと思わないか?」

「…………え?」

 渚が困惑するのも構わず、朋也は話を続けた。

「その……な。今日、おっさんところでアルバム見てただろ? その中に、芳野さんと公子さんの結婚式の写真があったの覚えてるか?」

「はい。とっても懐かしかったです」

「ああ、俺もだ。それでだな、その時にふと思ったんだが、俺たちは結婚して汐も生まれてるのに、まだ結婚式をやってなかったよな? それで、お前はどう思ってるのかなと思ってさ……」

 それを聞いて、渚はくすりと笑う。

「朋也君……」

「何だ?」

 問い返す朋也に、渚は微笑んだ。

「私は、今でも十分幸せです。朋也君がいて、しおちゃんがいて、お父さんやお母さん、それに朋也君のお父さんにおばあさんがいる。他にもお友達の方がたくさんいる今がとても幸せです。だから、結婚式なんてしなくても全然平気です」

 それに、と渚は続ける。

「これから、しおちゃんにたくさんお金を使わなければいけません。だから、今は少しでもしおちゃんのためにお金をためておいた方がいいと思うんです」

「渚……」

「それじゃあ、そろそろ寝ましょう。朋也君、明日もお仕事です」

 そして渚は湯呑を片づけ始めた。

 朋也は、その背中を目で追いながら小さく呟いた。

「ああ……、そうだな……」

 

 翌日、朋也は昼休みに祐介の隣で、渚お手製の弁当を食べながら何となくつぶやいた。

「やっぱり……、結婚式はしたほうがいいんですかね……?」

「はぁ?」

 突然のことに、祐介がぽかんとした表情になる。

「お前は突然何を言ってるんだ?」

 呆れたような顔をする祐介に、朋也は事情を説明した。

「ああ、いえ。昨日、渚の実家に帰った時に、おっさんにやらないのかと聞かれたんですよ。それで、昨夜に渚に訊いてみたら、別にいい、今は汐のお金を貯めた方がいいと言ったもんですから……」

「お前は何を言ってるんだ?」

「え? あ、だから昨日……」

「違う、そうじゃない」

 朋也の言葉を遮って、祐介は呆れたようにため息をついた。

「いいか、岡崎。女性はな、いつだってウェディングドレスに憧れてるもんなんだよ。人生の中で最もきらびやかに着飾って、最も注目を集め、誰もが認める主役になれる瞬間。それが結婚式なんだ。それだけじゃない。神の前で、人の前で永遠の愛を誓うことで、より一層、お互いの愛を確固たるものにする。それもまた結婚式だ! そして、それこそが究極の愛の形!」

 最後の言葉は聞き流しながら、朋也は思う。やはり、渚も憧れるものなんだろうと。

 朋也は渚のお手製弁当を頬張りながら一人決意した。

「(後で、おっさんと早苗さんに相談してみるか)」

 そうして朋也は、その日から渚に隠して、いろいろと準備を始めた。

 秋生と早苗に相談し、準備資金を援助してもらい、渚に内緒で友人たちに招待状を送り、早苗に協力してもらってウェディングドレスづくりの採寸をしたりと、日夜動き回っていた。

 そうして順調にことを進め、全ての準備が整ったとの連絡がきたその日、朋也は夕食の席でできるだけ平静を装って、渚に提案した。

「渚、今度の休みの日、家族で出かけないか?」

 それを聞いて、渚は顔を綻ばせる。

「いいですね。どこに行きましょうか? しおちゃんはどこに行きたいですか?」

 渚に問われ、「ん~」と唸りながら頭を悩ませる汐に、朋也はこっそり汐にウィンクを飛ばす。

 それに気付いた汐は、朋也に向かって頷くと、

「パパにおまかせ!」

 と言いながら笑った。朋也は内心で娘をべた褒めにする。

「よし、任せろ! パパがとびっきりのところに連れて行ってやる!」

「わ~い!」

「どこに連れて行ってくれるんでしょうか……。楽しみですね、しおちゃん」

「うん!」

 渚と汐は、無邪気に笑いあった。

 

 それから数日後。

 前日に緊張感からよく眠れなかった朋也は、寝不足の頭を抱えたまま、愛する妻の作った朝食を食べ、戸締りを確認してから、親子三人で連れ立って出かけた。

 家を出て少ししたところで、渚が訊ねてくる。

「それで朋也君。今日はどこに行くんですか?」

「ん? ああ、それはついてからのお楽しみだ。な、汐?」

「うん、おたのしみ!」

「えぇっ!? しおちゃんはどこに行くか知ってるんですか!? 私だけ仲間はずれです!」

 ぷりぷりと抗議の声を上げる渚をあしらいながら、親子三人は歩いていき、やがて。

「ほら、着いたぞ」

 朋也が立ち止まった場所を見て、渚は首を捻った。

「ここは……、学校……ですよね? 今日は学校で何かありましたっけ?」

 自分の学生時代のことを思い返しながら訊ねる渚に、朋也は微笑みを向けてその背中を押した。

「いいから、行こうぜ」

「……………?」

 何か釈然としないものを感じながらも、渚は朋也と汐と一緒に坂道を登る。

 やがて、坂の上に近づくにつれ、渚は校門のところにたくさんの人がいるのが見え、目を丸くする。

「やっほ~、渚。来たわね」

「杏ちゃん……? それに皆さんも……、どうかしたんですか?」

 しかし、杏は渚の質問には答えずに、渚の背中を押しはじめた。

「いいから、あんたはこっちに来て。汐ちゃんもママと一緒においでね」

 戸惑う渚をよそに、杏は何人かと連れ立って校舎へ歩き出した。その背中に、朋也が声を掛ける。

「杏! 渚と汐、頼むな!」

 朋也の言葉にひらひらと手を振って応えた杏たちは、校舎に消えていった。

 それを見送った朋也の肩を、祐介が叩く。

「お前もそろそろ準備を始めるぞ」

「はい」

 そして、朋也も校舎の中に入っていった。

 

 それからしばらくして。

 白いタキシードを着た朋也は、式場として選ばれた元三年D組の教室で緊張した面持ちで待機していた。

「少しは落ち着け」

 神父服を着込んだ幸村が窘めるように言うと、朋也はますます居心地が悪そうにする。そんな中、杏が教室の後ろのドアから姿を現し、朋也に向かってサムズアップを見せる。

「お待たせ。準備できたわよ!」

 杏がそう言ってから着替えを手伝った椋やことみらと共に席に着くと同時に、幸村が厳かに宣言した。

「うむ。それでは新婦入場」

 その合図で秋生に手を引かれてはいってきた渚を見た瞬間、その場に居た全員からどよめきが走った。

 純白のウェディングドレスに身を包み、うっすらと化粧を施した渚。その姿がとても綺麗で、朋也は目を丸くした。

 やがて、赤い絨毯の上を歩き終えた秋生は、ゆっくりと渚の手を朋也に渡しながらつぶやく。

「渚を頼むぜ、朋也・・」

「……はい!」

 いつもの軽口を叩かずに、しっかりと朋也は頷き、渚の手を引いて壇上に上がる。そして、粛々と式は始まった。

 幸村のそれらしい説法に始まり、讃美歌の合唱、指輪の交換。そして、永遠の愛を誓う宣誓。

「岡崎朋也は妻を永遠に愛することを誓います!」

「岡崎渚は永遠に朋也君を愛します!」

 二人はしっかりと皆の前で宣言し、そっと唇を重ねた。その瞬間沸き起こった拍手喝采に二人して照れる羽目になったが。

 その後の、校庭に出てライスシャワーを浴びせられた後のブーケトスでは、杏、ことみ、智代、ついでに元男子寮寮母の相良美佐枝がブーケを取ろうと躍起になった挙句、ちゃっかり汐が手に入れてしまい、嘆く羽目になったのは別の話である。

 そうこうしているうちに式が終わり、私服に着替えてから家に戻る途中で、渚が朋也に言った。

「朋也君、今日はありがとうございました。とてもいい思い出になりました」

「ああ、俺もやってよかったよ」

「でも、私に内緒にしたのは酷いです」

「うぐっ……、そ、それはお前を驚かせようと思って……」

「はい。私、とても驚きました。だから、今度は私が朋也君を驚かせます」

「……ああ、楽しみにしてるよ」

「パパ! ママ!」

 少し前を行く汐が二人に向かって大きく手を振った。

 二人はお互いに笑いあうと、

「行こうか、渚」

「はい」

 手を取り合って、汐を追いかけた。



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