壁に×印をつけるだけの簡単なお仕事 (おいしいおこめ)
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01 その笑顔は、芸術品という作り物

 エレイン・アーキン、17歳。好きなものは甘いお菓子とダージリンティ。エリア11にあるアッシュフォード学園に通う、ごく普通の女子学生だ。

 そんな私は、ごく普通に学校生活を送って、ごくごく普通の恋をした。

 

 ルルーシュ・ランペルージ。

 彼はこの学園の生徒会副会長で、その容姿の良さもあってモテる。そりゃもうとにかくモテる。凡人の私からすれば高嶺の花、そんな人。

 そんな彼を、どうして好きになったのか。

 元々、私は決して惚れっぽい方ではないし、美形には弱いといっても、顔のよさだけで一方的に惚れ込んでしまえるような、そんな器用な人間ではない。

 では、なぜ好きになったのかというと、これが本当に分からない。自分でも、不思議で仕方がない。一目惚れではなかったことだけが確かだ。正直、初対面での印象は、「なんだこの格好つけた奴は」だったし、その格好が妙に様になっていたところも腹立たしかった。イケメンだから許してやるか、なんて、その時は思っていたくらいだ。

 多分、あの目。彼の目に、私は囚われてしまったのだろう。最初に彼を意識してしまったその時点で、私の運の尽きだったのだ。

 中身? 知らんなそんなものは。第一私は同じクラスであるにも関わらず、彼と今まで一度も会話をしたことがない。

 

 

「うう……今日も相変わらず格好いいとか、ずるい、ずるいわ……」

 

 自分以外の人間に向けられた、まるで精巧な芸術品のようなお綺麗な笑顔を遠くから眺めては、自然と頬を緩ませる。ああ、今日も一日頑張れる。頑張れてしまう。悔しいかな、これも惚れた弱みか。ぐぬぬ。

 

「まーた、あんたは今日も見てるだけなのね~」

 

 にやにやと楽しそうな顔を浮かべて、そう声をかけてきたのは、私の親愛なる友、アナ・ローレンスだ。

 

「うるさいわねぇ。いいでしょー、別にぃ。誰にも迷惑かけてないし、減るものじゃないし」

「そりゃ、減りはしないけれど。…とられちゃうわよ、シャーリーに」

「……お似合い、だよねえ」

 

 ズキンと痛む胸に苦い気持ちになりながら、笑う。アナはコツンと小突いてきた。

 

「ばーか。何弱気になってんのォ? アタックよアタック、押せ押せで捕まえちゃいなさい」

「そんなこと言ったって……まだまともに話すらしてないのよ、名前だっておぼえてくれてないって絶対」

 

 ぐったりと机に伏す。動こうとしない自分が、この膠着した関係を作り出しているのはわかっている。分かっているが、抜け出せない。なんだかんだいって、ただ遠くから見ているだけの今が心地よくて、変わるのは怖いのだ。

 この気持ちに応えてもらえるものなら、どれだけ、そう、どれだけ幸せだろうか。なんて甘美で、なんて現実味のない、それでいて、希望が捨てきれない。捨てたくない、捨てられたくない。だから、伝えない、だから渡さない。

 悟られるのも癪だ。彼の一人勝ちは面白くないし、私の矜持が許さない。だから、勝負はしない。絶対に、絶対に。

 

 早く、この恋の上手な諦め方を知れたら。この恋が諦められるものなら。この苦しみを手放せるのだろう。

 

「……はぁ」

 

 深く、深く。溜息をついた。

 

 

 

 ×

 

 

 

 その日の私は、橋の下、外で一人声出しをしていた。

 ここ、アッシュフォード学園では部活動への所属が義務付けられていて、私は中等部から惰性で演劇部に所属している。一応、これでも主演をすることもある、役者担当だ。

 今は近い公演予定もなく、次の台本も決まっておらず、ただなんとなくであてもなく自主練習に勤しんでいたのだが。

 

「こんにちは。エレイン・アーキンさん、だよね」

「ぷあッ!?」

 

 それがまさかこんなことになるなんて、私は思ってもみなかった。話しかけてきた人物、振り返った私の目の前にいたのは、私の恋の相手。ルルーシュ・ランペルージ氏だった。

 あ、名前おぼえてくれていたんだ、なんて、そんな感動がこみ上げて、次の言葉が出てこない。どうしよう、泣きそうだ。

 

「いきなり話しかけて、驚かせてしまったかな。ルルーシュ・ランペルージ、同じクラスだよ」

 

 存じておりますとも、ええ、その名はよく知っていますが。一体全体どうしてこうなった。

 

 高揚した気持ちは私の冷静な思考を掻っ攫い、頭の中はまるで砂糖と蜂蜜でも大量に突っ込んでミキサーにかけたのかと思うくらいぐちゃぐちゃで、形どれないのに溶け合うこともできず、何を話せばいいのかも分からない。ただただ、食い入るように彼のアメジスト色の瞳をみて、その妖しさと美しさに、恍惚としていた。ああ、顔が熱い、これじゃあ熱があるみたいだ。

 どくんどくんと、さっきから、自分の心臓の音ばかりがきこえてきて、周囲の音なんてちっともきこえてくれやしない。

 

 彼が、口を開いた。

 心臓の音が煩いせいか、せっかくの彼の言葉も掻き消え聞こえない。折角、彼が話しているのに。何て勿体ないんだろう、今だけは、この鼓動が鳴りやんで死んでもいいとさえ思った。

 

 突然、彼の左の瞳が、不意に不気味な血の色を帯びた。いや、本当に変わったのかもわからない、そんな気がしただけで、気のせいかもしれない。けれど、何故か私は、彼の仮面が剥がれた、そんな気がしたのだ。ぞくりと、全身総毛立つのがわかる。それが恐怖のせいなのか、興奮のせいなのかは分からない。ただひとつ言えるのは、その時の私は自分では御せないほどに、どうしようもなく気分が高揚してしまっていた、ということか。

 

 優等生で好青年な仮面の剥がれた彼の声は相変わらず聞こえないが、その唇の動きで内容は何となく察することができる。

 

 

 これから毎日、この壁に一日一つ×印の傷をつける?

 

 

 なんだそれは、どうしてそんなことをするんだ。普通ならそこを気にするところ、しかしそんなことを尋ねられるほど私の頭は正常に回っておらず、その場で跳ね回りそうな気持ちを必死に出すまいと、ただこくこくと頷いた。

 要件を話し終わったらしい彼は、いつものさわやか優等生面で、あろうことかその笑みを私に、ほかならぬ私に向けてくる。殺す気か。

 

「演劇部、らしいね。会長が衣装協力に感謝していたよ。次の公演も応援してる」

「ふぁい! がんばりましゅ!」

 

 

 ……やってしまった。

 盛大に噛み噛みな役者あるまじき台詞。それが、彼と初めて交わした言葉だった。 

 

 

 

 ×

 

 

 

 「あれ、何かいいことあった?」

 

 教室でクラスの様子を一瞥後、私の顔を見たアナが、変なものをみてしまったというような反応をする。

 

「わーかーるー? わかっちゃうー?」

 

 流石は私の大親友アナ様である。おお心の友よ。

 昨日、ルルーシュ・ランペルージ氏と会話した熱は今日まで尾を引いており、気を抜けば私はすぐにでも顔面崩壊する勢いだった。思い出すだけで息は苦しくなるし、頬は緩んでにやけそうになる。我ながら気持ちが悪い。

 ちなみに、私のこの上機嫌な調子はアナのお気に召さなかったらしく、「うわ、そのキャラうざ」のお言葉をいただいた。なにおう失礼な。

 

「まあ、そんな顔されてちゃ、分かって当然よねえ」

「そんなに分かりやすい顔してた?」

 

 頷き肯定され、「間抜けな顔してるわよ」とまで言われてしまえば認める他ない。私は今盛大ににやけている。役者として、自分の表情筋くらい制御可能でありたかったのだが、幸せお花畑一色の頭でそれを行うのは難しかった。ふへへ。駄目だこりゃ。

 今の緩んだ顔を一番見られたくないルルーシュ・ランペルージ氏が、未だ教室にきていないことだけが救いか。

 自然と持ち上がってしまう口角を誤魔化すように、私は自分の両頬を揉んだ。

 

「で、何があったわけ?」

 

 にやりと笑ったアナが問う。私は満面の笑みで一言返した。

 

「秘密」

「…………は?」

 

ぽかんとした顔をしたアナに、悪いわねえと私は笑った。

 

「何があったかは秘密だけれど、私にとってとてもいいことがあったのよ」

 

 そこで思わず笑い出しそうになり、声を出すまいと息を殺せば、くひんと奇妙な声が漏れた。……くしゃみとして誤魔化してしまおう。ついでに咳払いもしておく。

 彼のあの頼みごとは、なんとなく。なんとなくだが、彼と私だけの秘密にしておきたいのだ。もしかすると、彼が他の人に話している可能性だってあるが、それでも。私は二人だけの秘密だと、そう思いたかった。

 ……なんて、考えているだけで恥ずかしくなってくるが。それでも、その考えるのがどうしようもなく幸せで、わくわくで胸がいっぱいになるのだから、恋とは困ったものである。

 

 一方、目の前のアナとはいえば、その説明ではご納得いただけなかったらしい。眉の間に皺を4本引っ張って、今すぐ秘密を吐露するようにと怖い顔をする。対する私の答えはノーだった。これは墓まで持っていくつもり、いくら彼女でも内緒の内緒な秘密なのだ。

 

「……ま、どうせルルーシュ関連で何かあったんでしょ。話でもできた?」

「何で分かったの!?」

 

 いや、会話ができたこと、それ自体は別に秘密にしているわけでもないのだが。何故分かる? まさか、我が親愛なる友人アナはエスパーか何かだったとでもいうのか。

 

「へー、いや、そんなことだろうなとは思ってたけど。よかったね」

 

 半分投げやりにアナはそう言ってから、私をからかうような目で見る。

 

「告白はいつかにゃ?」

「しない」

「え?」

 

 目を点にしたアナに、私はきっぱり言い切った。

 

「絶対しない。こっちから、好きだと言うことは絶対にない」

「まさか、何もせず相手から告白してもらえるとか、甘っちょろいこと考えてんじゃないでしょうね」

「そんなわけないでしょ。…私は、あの人に私が好きなことを悟られたくないだけ。私ばっかりが好きだなんて、なんだか、惨めじゃない。そんなのは、嫌なの」

「……惨め、ねえ。あんた、意外とプライド高いんだ」

「生憎人間は出来ていないもので」

「そ。まあ、それじゃいつまで経っても気持ちが返ってくることはないでしょうね。私は、報われる気のない一方通行な恋心なんて、なんて生産性がないんだと思うけれど」

 

 アナの声は、少しだけ怒り気味。私の挑戦しない姿勢が気に障るのだろう。他人のことだからか、簡単に言ってくれるものだと、苛立ちが芽生えてムキになる。

 

「自分で自分が惨めになってしまうくらいなら、後悔するくらいなら。最初から何もしない方がいいの、私は」

 

「あっそ」

 

 素っ気ない返事。それ以上彼女は反応せず黙り込んでしまった。

 アナは後ろ向きの人間には冷たい。どちらにせよ、優しくしてくれとは、言えないけれど。他のことはいくら平気でも、これだけはどうにもダメなのだ。どうか許してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

(エレインの日記 1)

 今日、初めてルルーシュ・ランペルージ氏と話した。なんと、彼の方から話しかけてくれたのだ。今日一日だけで、私は今まで生きていた甲斐を得たくらいの気分だった。そして何より、彼の新たな面をみられたことが非常に収穫だった。ヒトは幾つもの己を抱えているものだが、彼は、後幾つの彼を抱えているんだろうか。

 あと、声をきちんと聞けなかったこと、しょっぱなから噛んだこと。反省しなきゃだわ、次はおちついて話できるように、失敗は繰り返さない。頑張れ私。うん、無理な気がする。

 何はともあれ、明日からの壁への印づけ。彼に任されたことだ、一生続けるくらいの姿勢で頑張ろうと思う。ていうか、実際死ぬまで続けてやろうと思った。思ってしまった。私はなんて純情で健気でバカなんだと思うほかない。惚れた弱みって言葉は便利だ。

 そんなことを頼んだ理由は、後々きけたら…いいなあ。なんて。はあ。

 会話、がんばろ。

 

 

(エレインの日記 2)

 早くこの恋の諦め方を知りたいと思った今日この頃。

 ちょっぴり、アナとぶつかった。他のことなら、妥協だって譲歩だってするけれど、こればっかりは、本当駄目。この気持ちが知られるようなことがあればと考えると、こわくて、どうしようもなくて、拒否反応だとか、心が破れるだとか、そんな感じがする。どうにも、苦いのだ。

 好きなことを知られても恥をかくだけだと思うし、それがとてもつらい。アナは同情してくれない。さらにつらい。

 せめて他人からの免罪符があれば、自分で自分を許せるでしょうに。と、そんな負い目があるうちは、きっとどこかで彼に好かれたいと、思っているのでしょう。彼が諦め切れていないのでしょう。私ってば、馬鹿ねえ。

 だって好きなのだもの、どうしようもなく好き。……あー恥ずかし。ふへへへ。

 

 うわどうしよう、何だこれは。一瞬で暗い気持ちが吹っ飛んでいってしまった。すごい。

 ああ。本当に私は、ルルーシュ・ランペルージ氏が好きなのだなあ。うーん、にやけてしまう。

 

 多分私は、心地いい恋をしていたくて、知られることでそれを失いそうで怖いんだろう。

 



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02 「役者」と諦め

 あれから数日。アナとは、きちんと納得し合えるような話はできていない。けれど、アナと口をきかなかったのは最初の三日間だけで、三日過ぎればいつもの調子のアナだった。たまに、お互いに距離を探り合うような、ぎくしゃくした感じはあれど、多分きっと誤差範囲。そのうちなくなる、と思いたい。

 昼食を一緒に食べようと誘われたのは、そんな時だった。普段は、特に約束もしないのに、その日は朝一でそんな誘いをしてきた。もちろん、私を昼食に誘う物好きなどアナくらいしかいないので、その誘いを快くうけたのだが、アナは、何か考えている風だった。

 

 午前の授業が終了したと同時に、アナが私の方をみて笑った。手には昼食のはいっているらしき袋を掲げている。彼女は機嫌がいいみたいだ。私もそれを見て、ほっとしてサンドイッチのはいったランチボックスを広げる。窓際のこの席は、吹き込む風が心地いい。

 

「エレイン。ランチにもう一人誘おうと思ってるんだけど、いい?」

 

 駆け足気味で私のいる場所まで来たアナは、椅子には座らずそんなことを訊く。

 

「ん、いいけど」

 

 彼女はぼっちな私と違って友人が星の数ほどいるので、こういうことも珍しくない。私が一緒ときいて、断る輩も多いようだけれど。……何故なのか。

 

 と、今回は断られなかったらしい。アナは、鮮やかなワインレッドのストレートヘアの美少女を捕まえてきていた。美少女が戸惑い気味なところをみるに、アナに半ば無理やり引きずってこられたとか、アナのゴリ押しの勧誘を断るに断れなかったといったところか。

 

 しかしこの美少女、羨ましいことに顔のみならずスタイルもやたらといい。ただひょろいというわけではなく、運動してそうな感じなのも加点対象、私の目指すわがままパーフェクトぼでぃに近い。私は、彼女のウエストをみつつ、何気なく自分の脇腹をそっと掴んだ。……掴まなければ、こんな悲しい現実知らなくて済んだのに。

 

「あ、あの、どうかしましたか?」

 

 おどおどとか細い声で声をかけてくる美少女。発声はダメだな、もっとお腹から声を出さないと。今は敢えて声を出していないようにも感じたけれど。

 

「お気になさらず。この世界の現実が如何に残酷であるかを感じていたまでで」

 

 そう言いながら、私は儚げに微笑んだ。気分は悲劇のヒロインである。悲劇にしては悲しみの種がちっぽけすぎるけど。

 しかし、この美少女。クラス、メイト…だと思うのだが、彼女の顔に覚えはなかった。アナに視線で説明を求めると、やれやれとした顔をしつつも取り持ってくれた。

 

「変な奴でしょ。この子はエレイン・アーキン。急に噛み付くような悪い子ではないから安心して、カレン。

 エレイン、こちらはカレン。カレン・シュタットフェルトよ。ほら、ずっと休んでたクラスメイト、いたでしょ」

 

 カレン・シュタットフェルト。そういえば、確かにそんな人物はいた。シュタットフェルト家の御令嬢さんだとか、なんとか。出欠確認で、名簿に名前はあるのに、名を呼ぶのをとばされていた人だ。

 病弱で自宅療養中ときいていたが……病弱? 目の前の彼女をみていて、少し引っかかった。

 まあ、他人が見た印象だけでは、当事者の実際の苦しみなど分かるはずもないので、きっと、本人しか知らない苦しみを今まで味わってきたんだろう。

 

「最近学校に来ているようだから、この機会に仲良くなりたいと思って。身体はもういいの? あ、座って座って」

 

 アナはカレンさんの座る椅子を引くという心配りを見せた。私にもそのいたわりと優しさを一割でいいから向けてくれないだろうか。

 

「最近は…少し、調子がいいから」

「それはよかった! 学園は、どう?」

「……まだ、よく分からない、です」

 

「私ができることなら力になるわよー、何でも聞いちゃってー! …っと、時間も限られていることだから、少し行儀は悪いけれど食べながら話しましょ」

 

 アナはうきうきとした調子で椅子に座り、パンの袋を開けた。それにならうように、カレンさんは、手のひらほどの小さな長円の箱のようなものを取り出した。どうやらそれが彼女のランチボックスらしい。その小さなスペースに、焼いた卵や不思議な形をしたウインナー、サラダが綺麗に盛り付けられている。

 珍しいなと見つめていると、それに気づいたカレンさんは少し考えた後、まだ使っていないフォークでひょいとウインナーを刺し、こちらに手向けた。

 

「どうぞ」

「えっ? えっと、いただきます」

 

 成り行きで受け取ってしまった、片手のこれはどうすべきか。

 

「……ちなみに、これは?」

「タコさんウインナー」

「タコ…?」

 

 いわれてみれば、確かにそんな形にも見え、いやいや、でもこれ、足が6本じゃないか。変わった調理法だなと思いながら、そのタコさんウインナーとやらをフォークから摘み外して口に放り込む。味は普通にウインナーだった。

 

「ありがとう、カレンさん」

 

 フォークを返し、ついでにサンドイッチを差し出す。これは海老とアボカドと玉ねぎのやつだ。

 

「よかったらどうぞ。アレルギーでなければいいのだけれど」

「ありがとうございます」

 

 サンドイッチは、はにかんで受け取っていただけた。……口に合うといいのだが。

 そのやりとりをみたアナが、パンを食べるのを止め、じっと私の手元のランチボックスを見始める。

 

「……海老はもうないから、ハムかヨーグルトか」

「ハム!」

 

 アナは嬉々としてハムサンドを掻っ攫っていった。さよなら私のハムサンド。

 不意に、カレンさんは、目線をランチボックスからハムサンドを頬張るアナへと変える。

 

「……少し、人について聞きたいです」

 

 アナはサンドイッチを急ぎ飲み込んで、真面目な顔になった。

 

「誰について、かしら」

 

「ルルーシュ・ランペルージについて」

 

 真剣な目でそう言ったカレンさんの言葉に、その出てきた名前に、私はガツンと後頭部を殴られたような気分になった。

 

 今、彼女はルルーシュ・ランペルージ氏について知りたいと言った。一体、どういうことだ? 一体、どういう……

 頭がくらくらする。混乱する私を他所に、話は進む。

 

「ルルーシュ。ルルーシュ・ランペルージ、ね。皇暦2000年12月5日生まれのA型、身長は178cm。ここのクラスに所属してるわ。

 生徒会の副会長…ってのは、カレンも生徒会所属してるし、知ってるわよね」

 

 ルルーシュ氏と、同じ生徒会。彼女も所属していたのかと、私よりもよほど近い場所にいるじゃないかと、あまりの衝撃の事実に気を失いそうになる。

 

「頭脳明晰、成績優秀おまけに顔もいいとあってモテるイケメンさん。と、いっても、実は授業中居眠りしてることあったり、流されやすかったり、意外と真面目じゃなかったりして、とっつきやすいところもあるわよ。うまく立ち回ってるって印象ね。

 あとは…そうねえ、寮暮らしで、妹さんがいるらしいとか、その辺?」

「……そう」

 

 カレンさんは、それだけ言って、何か考える風に黙ってしまった。

 アナはそれをみて、「もしかして」と至極軽い調子で言い出した。

 

「あの話、本当だったの?」

「『あの話』?」

 

 カレンさんは、それが何だか分からないという顔をして、アナと私の顔を見比べた。私だってわからない。一体何の話だか。そもそも、今が何の話だか。私の頭の中では、ただ、わからない、わからないとだけ繰り返し響いている。どうしようもない不協和音で、ガリガリと処理落ちの音さえしてきそうだ。

 

「噂にきいた話なんだけど。カレンがルルーシュとキスしてたって」

「キっ…は、はは、まさか」

 

 さっきから何言ってるんだろうアナ、もう、全部全部意味わかんないや。

 まあ、こんな冗談みたいな話、カレンさんはさくっとばさっと切り捨ててくれるだろう。

 

 そんな風に考えて、私はカレンさんの方を見る。しかし、そこにあったカレンさんの表情は、私の想像していたものとはかけ離れたものだった。

 

 彼女は、恥ずかしさや耐え難さみたいなものと戦うような、そんな表情をしていた。頬は紅潮していて、戸惑いも大きいようで。それは側から見れば、まるで恋する乙女のようだった。

 

「あれはあっちが突然勝手にっ――あ」

 

 失言した、とでもいうような顔。それだけで、私にとっては十分すぎた。

 真っ赤な顔をさらに濃く赤くして、違うの違うの誤解なのと必死にまくしたてる彼女。対する私は、今顔が真っ青なこと間違いない。

 

 すっと血の気が引くのがわかった。心が冷えていく。つられて、手足の先から、冷たくなっていくような感覚がした。

 息がとまりそうで、苦しい。

 

 酷く、寒い。

 

 

「そういえば今日はいい天気だよね。なんだかこの青空みてると空も飛べる気がするわ」

 

――何を、言っているんだろうか、私は。

 

 青い青い空をみながら、窓枠を掴み、縁に右足をかける。

――何を、やっているんだろうか、私は。

 

「何やってんの! エレイン!」

 

 アナの叫ぶ声が聞こえた。

――本当に、私は何をやっているんだろう。

 

 後ろが騒がしい。誰かが悲鳴をあげた。なんて耳障りなのか。うるさい。

 それも、どこか別世界の声言葉のようで。なんだかふわふわとしていて、落ち着かなくて。

 

――ああ、空が綺麗だ。

 

 

 

 

 

 

「やめないか!」

 

 私を現実の世界に引き戻したのは、教員の鋭い声だった。

 

「…………あ」

 

 あ、れ?

 目下に広がる、見慣れたようでどこかいつもより近い景色に足が竦む。

 

 次の瞬間、自分は尻餅をついていて、そこで自分がクラスメイト数人に後ろから掴まれる形で、引き戻されたのだと理解した。

 急速に理性が戻ってきては、事態を把握し、嫌な汗をかく。

 覚えのある顔の教員が、むすっとこちらをみていた。名は、何といったろう。泣きそうな顔したアナと、心配そうにしたカレンさんも見える。少し離れたところに、ルルーシュ・ランペルージ氏とその友人であるリヴァルの姿を発見した。

 

 ああ、ああ。どうしてこんなことに。

 いや、間違いなく私が引き起こしてしまったのだけれど。

 

「……さて」

 

 教員がじろっとこちらを睨んだ。思わず身を縮ませる。

 

「ち、違うんです。大丈夫です、大丈夫ですからっ」

「いいから来なさい」

 

 廊下に集った野次馬達を、教員はどいたどいたと蹴散らし退けていく。私はそんな教員に、ただ引き摺られるようにして着いていっていた。

 

 

 

 ×

 

 

 

「さて」

「はい」

 

 連れてこられた先は、生徒指導室だった。

 

「まあ。……あー、なんだ。座れ」

 

 教員が座るのに倣い、私も向き合う形で椅子に座る。教員は、ぽりぽりと頬をかいて溜息をついた。

 

「何か、悩み事か。先生も知恵を貸すから話してみろ。…や、話しづらい事なら、友達でも、家族でもいい。

とにかく、まず、誰かを頼れ。な?」

 

 ぽんと両肩に置かれた手に力がこもる。

何て親身になって私のことを考えてくれている人なんだ。私はこの教員の名前すら思い出せないというのに。少し苦手な感じがするから、数学か国史の授業の先生だろうか。あの辺りの授業はいつもきいてて眠くなる。

 

「ありがとうございます。でも、本当に何でもないことで。空があんまりにも青かったので、飛べるかなって。ちょっとどうかしちゃってました」

 

 物凄く奇妙なものを見るような顔をされてしまった。

 いやだって、馬鹿正直に、今日知り合った病弱美少女が、今自分の想いを寄せている人に興味を持っているようで、それどころかその想い人からキスされたときいて、混乱と動揺から現実逃避してしまったが故の行動だなんて、恥ずかしすぎて言うに言えないではないか。

 しかし、私のこの回答は教員の心配を深めるだけだったらしい。仕方ないので、適当に嘘でごまかすことにする。

 

「……飼い猫が、最近足を怪我したんですけれど、三日前から姿が見えなくて。ずっと不安で。

小さな頃から、ずっと一緒だった家族の一匹、ううん、一人だったのに…。もし、このままいなくなってしまったらどうしよう、死んじゃってたらどうしようって。そのことばかり気にしていたら、もう、怖くて、いてもたってもいられなくて…私…」

 

 そう言って表情を崩して、わざとらしすぎない程度に嗚咽を漏らす。

 自殺を図る理由としては、一般的にみれば少々しょっぱい理由ではあるが、下手に重いものや他人が関わってくるとなると話が面倒だし、これくらいの方が、思春期の少年少女特有の、情緒不安定故の向こう見ずな行動『らしさ』があっていいだろう。

 ……実際、このところルルーシュ・ランペルージ氏に関すること全てに情緒不安定になっているし、窓から飛び出しそうになったのも向こう見ずの行動だったのだが。

 この自分を持て余し律せない現状は、私が子供故なのだろうか、それとも恋とはそういうものなのだろうか。どちらにせよ、理性だとか全部すっ飛ばしてくるのだけは勘弁してほしい。

 

 ちなみに、飼い猫が最近足を怪我したことと、三日前から姿を見ていないのは本当だ。しかし、それについて心配はしていない。奴がそう簡単に野垂れ死ぬとは思えないし、奴は姿を消す前に、数日留守にすると言ったのだ。

 留守にするということは、奴にとって帰る場所は私の家であり、奴にも帰る気があるということ。なら、何も心配することはない。いつものように、ふらっと帰ってくるだろう。猫とはそういうものだ。

 奴は、私に猫扱いされるのは嫌がっているようだが、実際猫なのだからそれが相応だと思う。

 

 教員は、ぽんぽんと優しく背中を撫でてくれた。なぐさめ、というやつらしい。

 今日はもう帰るようにとの指示を受け、おとなしく帰らせてもらうことにする。部活についてきけば、教員の方から私の欠席の話を通しておいてくれるとのことだ。部活より、授業の方を気にしろとお小言ももらってしまった。そのお小言の内容で、私はようやくその教員が、国史の担当であったことを思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

(ブリタニア帝国歴史学教員の職員日誌より抜粋)

 12:40分頃発生のエレイン・アーキン自殺未遂騒動について。

 側にいた生徒によると、突然今日は天気がいいだとか、空も飛べそうだなどと言い出して窓から身を乗り出したらしい。

 アーキンに事情をきくと、飼い猫が最近怪我をし、かつ、帰ってこないのが心配だったという。それが何故飛び降りることと関係するのだろうか。いや、空を飛ぶという点では、そうして探しに行きたかったのかもしれない。

 彼女は、私からすれば、いつも授業では眠そうにしているか、何を考えているのか分からない顔をしている生徒である。その生徒が、ああして表情を崩し、すすり泣く姿は衝撃的で、少々事態を客観的にみることが難しくなってしまった。

 再発の可能性については、彼女の気分次第なところがあるので、彼女のメンタルケアや周囲の人間の配慮は必要だろう。そのあたりの対応の仕方について、具体的な内容は専門の教員に任せるのがいいのではないかというのが私の考えだ。職員会議の時にでも提案することにする。

 彼女の保護者には、13:30頃連絡をいれたが留守だった。



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03 猫は気まぐれ

「ただいま」

 

 一人では広すぎるその家で、誰もいない廊下に向かってエレインは帰宅を告げる。もちろん、それに返事をする者はいない…はずだった。

 

〈早かったな、今日は通常授業だろう。何かあったのか〉

 

 脳内に直接響くような、その独特の聞きなれた声にエレインは おやと片眉をあげた。

 

「アーサー。帰ってたの」

 

〈つい先ほどな〉

 

 二階への階段の手摺りの上を優雅に歩いてきた『彼』は、すたんとフローリングの床に着地し、ナーオと一声鳴いた。

 

 『彼』はアーサー。猫であり、もう一人の私である。

 

 

 

 ×

 

 

 

 さて、どこから話そうか。

 これについては、どうにも現実離れしたファンタスティックなものなので、正直話したところで信じてもらえるとは思えないのだ。

 私だって、自分自身が疑わしく、何が本当で何が幻想なのかわからないのだから。

 

 私には、遠い前世の記憶がある。

 それは、まだブリタニアが神聖ブリタニア帝国ではない頃、ブリタニアの英雄として剣を抜き戦い、ブリタニアを治める王として生きた記憶だ。

 その者の名こそ「アーサー」。神聖ブリタニア帝国の歴史学では教えられない、古い古い時代の王である。

 いや、教えられたには教えられた、か。この神聖ブリタニア王国が興る随分前、皇歴500年ほどの頃だったか? 現在ではE.U.が支配する小さな島国ブリテンを統治していた者として、「アーサー」は名を残している。

 「アーサー」はブリタニア皇族の系譜の一員だともいわれているが、少なくとも私の記憶では、そんな血が自分に入っているとは聞いたことがなかった。まずブリタニア皇族なんてものを知らなかった。

 多分、考えるのは野暮なのだろう。

 

 まあ、こんな風に話しはしたが、私の記憶も割とおぼろげなものであるし、その扱いは別に気にならない。あくまで過去は過去、前世は前世というやつで、「アーサー」は『エレイン・アーキン』ではない。記憶を思い返すことだって、懐かしさというよりは、他人の記憶を覗き見ているような、そんな感じがする。

――と、『エレイン・アーキン』は考えている。

 

 『アーサー』はそうではないらしく、ブリタニア皇帝には、やれ傲慢だの、やれ悪君だのと文句をたれている。

 そう、その『アーサー』こそがこの黒猫。右目に濃い黒縁があるのが特徴だ。

 一体どういうことかといえば、彼もまた、私と同じくアーサー王としての前世の記憶を持っているのだ。ただ、彼は前世を前世と思ってはおらず、今世は前世の延長だと考えているようで、故に、彼は自らを『アーサー』と名乗っているし、私も彼を『アーサー』と呼ぶ。

 『アーサー』と「私」は、考え方も、知識量も、前世の記憶の濃さも全部違う。ここまで違えば、それこそ、他人も一緒なくらいに。

 

 きっと、その情報量を全て押し込むには私一つの身体では足りず、私の身体からは『アーサー』が追い出され、彼は猫の身体を借りる形になったのだ、というのは彼の弁だが、実際のところどうしてこんな風になっているのかはわからない。彼だって、気付けば猫だったらしいのだ。全くもって謎である。

 

 ちなみに、猫の声帯では人語を発することはできないらしく、アーサーは念話を使う。これは誰とでもできるというわけではなく、彼が私と同じ波長だから可能なのだとかなんとか言われた気がする。

 残念ながら私は、念話は専ら受け取ることしかできないので、彼との会話は側から見れば私が一方的に猫に話しかけている危ない図となる。つらい。

 

 まあ、これが受け入れ難い方には「エレイン・アーキンには虚言癖があり、猫と会話する妄想をよくしている」とでも思って貰えばいいだろう。

 

 私は、『エレイン・アーキン』は、そんな秘密…ともいえない事情を持っている。とはいえ、私は別に伝説の剣を抜いたわけでも、魔術が使えるわけでも、古の魔王の血を引くわけでもない。ただ、ちょっと遠い前世の記憶があるだけで、ただそれだけで。私はごく普通の人間で、特別なんかじゃないのだ。

 

 

 

×

 

 

 

 ここ数日のアーサーの外出の理由は、近頃世間を賑わす「ゼロ」とかいうテロリストを気にしてのことだったらしい。猫という身を存分に活かして、洩れ聞き盗み聴いて情報を集めてきたようだが、その肝心の「ゼロ」とやらの素性は結局わからなかったそうだ。何でも、仲間相手にも常に仮面を付けっぱなしで本名も名乗らないんだとか。たいそう悔しがっていた。

 

 普段は現皇帝の悪口文句しか言わないのに、皇帝へたてつくこの手の輩を嫌うから不思議だ。反皇帝派とは気が合いそうなものだけど、どうにもそれは違うらしい。アーサーはブリタニア大好きっ子だから、きっと無闇に民が争ったり死ぬことに耐えられないんだろう。

 

 彼の言う『ブリタニアの民』は、このブリタニアという土地で息づき暮らす人たち。「ここ、アーサーのおさめてたブリテン島じゃないよ」と言えば、ルーツがあるならそれは国に同じだとか何とかいう。なんとも規模の大きな考え方だ。それが彼の彼たる所以、いわゆる王の器というやつなんだろうか。

 

「そういえば、アーサー。あなた、その足の包帯どうしたの?」

 

〈まあ、少し、な〉

 

「少しって…何よ」

 

〈心やさしき乙女に手当てをして貰った〉

 

「いや、だからその怪我の理由を」

 

〈だというのにあの小僧、折角の乙女との触れ合いを邪魔しおって〉

 

「おーい、きいてる?」

 

〈ゆ゛る゛ざん゛!!〉

 

 アーサーは、まるでそのうらみの相手の顔を引っ掻くかのように、爪研ぎ板をバリバリと引っ掻いた。

 

〈おっと、忘れるところだった。どうして今日はこんなにも帰宅が早かったんだ?〉

 

「自分は答えないくせ、ひとには訊くのね」

 

〈答えたくないからな! だがお前は洗いざらい吐けよ〉

 

「横暴だわー」

 

 肩を竦めながら、私はアーサーに、今日の私のうっかりを話した。ルルーシュ・ランペルージ氏の名前が出た時点でアーサーは苦い顔をし、私が混乱と勢いのままに窓枠に足を掛けたあたりで、毛を逆立てふしゃあと鳴いては爪研ぎ板を引っ掻いた。あの板、そろそろ買い換えないといけないな。

 

〈だからやめておけと言ったんだ、お前に恋はまだ早い〉

 

 にゃにゃにゃ、とまくしたてるアーサーの毛並みを私はこねくり撫で回した。

 

「奥さん寝取られた人間が何言ってんの」

 

〈ぐおおおおおおお〉

 

 ばたばたと悶え転げたアーサーをみて、そしてその指摘は多大なるブーメランであることに気付いて、私も一緒になってカーペット上を転げた。私が恋愛ごとに駄目になるのは前世からだったか。つらい。

 

 

 カーペットを暫く転げていたところ、制服のポケットから携帯が落ち、あろうことか私はそれを転げた勢いで蹴り飛ばしてしまった。部屋の壁に、いい音をたててぶつかった携帯に、壊れていないかおそるおそる近付く。手に取ろうというところで、携帯から着信メロディが流れた。

 壊れてはいなかったらしい。電話の主は――アナだ。

 

 躊躇いながらも、鳴り続ける着信音を無視できなくなって通話ボタンを押す。アナの、私の名を繰り返し呼び叫ぶ声が聞こえた。少し、涙声だ。「どうしたの」ときけば、猛獣が唸っているかのような泣き声をあげながら、彼女は謝りだした。聞き取るのも困難な言葉を断片的に拾ってそれらを整理すると、アナは、私の自殺騒動の原因を自分が作ったものだと思い、自責の念に堪えられなくなったらしい。

 やはり、数日前の私との衝突を気にしていたのだとか、カレンさんという新たなライバルの存在で発破がかかればいいと思っていたのが、噂の事実確認が甘く、カレンさんが実際にルルーシュ氏とき、き、きっすを、していたという事実を私に知らせてしまうようなことになってしまった、だとか。私に、恋を諦めて欲しくない、だとか。そんなことを、散々言われた。

 

 思いついたことを思いついた端から考えなしに叫び出しそうになるのを堪え、深呼吸をした。不思議なもので、冷静じゃない人間を相手にしていると、自分が冷静でいられるような気がする。ところでカレンさんとキスすれば私はルルーシュ・ランペルージ氏と間接キスできるんじゃないか? あっ冷静じゃなかった。

 

「別に、私が馬鹿やっちゃっただけのことで、アナのせいじゃないわ。気にしないで、あのときの私は冷静じゃなかったの」

「それは私が」

「でも、それは私自身の自制の効かなさが原因。死にたかったんじゃないの、本当に」

 

 アナの言葉を遮って、言い切る。ここは本当に、はっきりさせておかなければいけない。あれは、決して死にたかったのではないのだ、私は生を諦めてなどいなかったのだ、ただちょっとどうにかしてた、それだけだ。

 もしかすると、無意識に死のうとしてたのかもしれないが、表の意識に浮上してこなかったんだから、きっと大したことなんてないんだ。本当に、本当に。なんというか、改めて考えてみると、自分のことながら謎すぎる。

 

「噂が本当だったって件は、事故みたいなものだし。まあ、だから、自分を責めないで」

「でも」

「でもじゃない、アナがそんなじゃ私が気負うんだよ。重いの嫌い」

「……うん」

 

 ぐずぐずと音をさせていたアナは、そこで酷い音をさせて鼻をかんだ。……通話口から離れてかんでほしかった。

 

「ライバルは私の発破にはならない。自信を喪失していくだけだから、これ本当に」

「うん、よく分かった。ごめん」

「朝の件は…私も、悪かった、かも」

 

「私が、自分の感覚を基準に考えて言いすぎてたよ」

「それは思う、けど私も強情なのかも。いや、だからって譲れる気はしてない。こればっかりは、許して。

だって叶えられるわけないんだもん。そんなのを頑張れなんて酷いじゃん、諦めたいって思うに決まってる!」

 

 いっそ、諦めさせてくれと思う。本当に、本当に、この恋が諦められるなら。そう思う度、胸が締め付けられるような、苦しみと苦さが押し寄せる。

 あれ、すごく、泣きたい気分だ。

 

 そんな私の気も知ってか知らずか、すすり泣きにまで落ち着いたアナはぽつりと呟いた。

 

「……あんたの分かりにくさ、知っていたつもりだったけど、相当だわ。エレインが、恋愛ごとに自信持ててないっての、今やっと分かった」

「それ、は」

 

 そう、なのだろうか?

 びりびりと、何かが震えたような気がした。

 アナに指摘されて、初めて気付いたというか、本当にそうなのかまだ半信半疑だというか。心当たりがあるような、ないようなというやつだ。アナの言葉を鵜呑みにしたくない、私がこんなに苦しんでいるのを、簡単に分かってたまるかというのもあるかもしれない。

 

「恋愛ごとに、私は自信を持てていない、のか」

 

 確認するかのように、口にする。アナはパズルのピースを埋めるように、ぱちりぱちりと私を当ててはめていく。

 

「まるで、何かあったみたいに、怖がって尻込みしてる。自分が好かれるわけないみたいなとこがある」

 

 恋愛ごとに自信なんて、確かに私が持てるわけはなかったけれど。

 

「別に、それが諦める理由じゃないし。恋してる私、馬鹿みたいなんだもん。惨めで馬鹿なのは嫌なの、諦めたいの」

「馬鹿みたい、って……惨めって、よく言うわ。あんなに幸せそうにしておいて?」

 

 その言葉に、反論はできなかった。

 彼が好きだというそれだけで、私は簡単にも幸せな気持ちになれてしまう。それは、紛れも無い事実だった。

 

「どうして惨めだと思うのか、考えたことある?」

 

 考えたことはなかった。それには答えず、今更に考えだし、その場で思いつくことを並べる。

 

「……自分が、彼を好きなように。同じくらい好かれたいと思ってる自分が、馬鹿みたい。もし好きになってもらえたらと期待する自分が馬鹿みたい。返ってくるわけないのに、こんな思いするくらいなら、好きでいたくない」

 

「好きでいたくない…そう。本当に?」

 

 ひとつひとつ、確認事項を順番に確かめるようにアナは訊く。

 

「苦しい、だってこんなにも苦しんでる! 私は、こんな気持ちを味わうくらいなら、恋なんてしたくない。この好きって気持ちが綺麗なままで、諦めたいよ」

 

 諦めたいんだよ、と繰り返し口にした。ああ、胸が痛い。

 

「諦めたいの?」

「諦めたい、諦めたいよ。何度も、同じこと言わせないでよ…苦しいじゃんか」

 

 こんなにも、こんなにも苦くて苦しい。

 

 

「じゃあ、諦めるの?」

 

 

 アナの声が、どこか遠く聞こえた。首の後ろが痛むような感じがした。ひゅう、と息が漏れる。言葉は、出なかった。

 

 諦める。そう、この苦さも、あの甘さも、全て捨てて、好かれない自分を認めて、報われないことを思い知って。血も何も通わないで、冷たくなって、さよならして。

 

「あ、諦められるなら、諦めてるよ馬鹿ぁ!」

 

 気付けば叫び出していた。隣にいたアーサーが、なんだなんだとそばに寄ってきたのを足で追い払い、尚も叫ぶのをやめない。己の中の激情そのままに、言葉を吐き出していた。

 

「できるわけないじゃんか、何言ってんの、捨てられるわけないじゃんか、そんなの死んでるのと一緒じゃんか、私は死にたくない、諦めたいのに諦めたくないからこんなに苦しんでるんだよ!」

 

 叫んだ自分に、数拍おいて唖然とし、叫んだ内容に、また呆然とした。

 

「……ははっ。あー、もう。ばっかみたい…」

 

 私はそのまま、ばたりとソファに倒れこみ、身を埋めた。

 

「あきらめ、たくないけど、あきらめたい」

「はいはい」

 

 呆れ混じりに慰めるような、アナの優しい声がする。余計に、切なくなった。

 

「だってむりだよお。わたしのこと、すきになんて、なると、おもわないよお」

 

 ずびずびと泣き出す私に、アーサーが気を利かせたのかティッシュ箱を持ってくる。噛み跡のできたティッシュ箱を受け取り、たれる鼻水を拭く。今の私は、ひどい顔をしていることだろう。

 

「でもすきなのお…だから、すきになってくれないとやだあ…やだのお」

「駄々っ子かお前は」

 

 失笑するアナの声は、何だか微笑ましいものを見守る、大人びた人間のようで、やさしくてあたたかくて、つい、甘えるようにわがままを言った。

 

「好きなのは、気付かれたくないけど、上手に諦められる気もしない。やっぱり、好きなだけで満足したくない」

「なら、諦めなきゃいいじゃん」

 

 無責任にもほどがあるアナのその言葉も、今は心地よくて、難しいことなんて考えないで、気持ちのままにそのままに、素直に受け取ろうと思えた。

 

「諦めなくてもいいのかな、私」

 

 胸が震えた。もちろん、物理的ではなく。

 アナは色々とおさまったらしく、いつもの調子のよさをだしてきた。

 

「気付かれるのが嫌、なのよね。

私、考えたんだけど、好きなのに気付かれないようにしつつ、好かれるようなアプローチをする、ってどうよ?」

 

 天才か。

 反射的に、思わずいつものテンポでそう返せば、アナは電話越しに笑い声を漏らした。私も、つられて笑った。何故だか、少し涙がでた。

 

「どうすれば、好かれるかな?」

「さあ? でも、ま、恋に理由を探すことって、割と難しいもの。あんたも、言ってたんじゃん。どうして好きになったのか分かんないって」

「……それは、まあ、そうね」

 

「だから、いつ好きになるかなんて分かんないわ。分かんないってことはある意味希望があるってことよ。可能性があるってんのなら、実現だってできるわ、きっと。行動には結果が伴うものだし、エレインから行動起こしたんなら尚更ね」

 

 あまりにも堂々とした、アナの希望的観測宣言に、私は吹き出してしまった。

 どこまでも前向きな彼女には、呆れるけれど、救われる。前を向くのは、前に進むのは、大変だけれど。今なら、大丈夫な気がした。

 

 もしかすると、私はこの恋を諦めなくていいのかもしれない。

 

 矜持については、少しだけ譲歩して、それでも、守れるところはそのままに。私の一人勝ちを狙うことにしよう。

 ああ、なんて無謀で、なんて叶いそうにない話なんだろう。それなのに、今の私はそれに挑もうとしている。

 

 この恋が、叶えられたら。この恋が、叶えられるものなら。私は、私は。

 

 

「……エレイン? 黙っちゃって、どうかした?」

「別に。ただちょっと、楽しいなっていうか、嬉しいなっていうか」

 

 ふふ、と笑い声が自然と鼻から漏れた。

 

「ごきげんね」

「……うん。今、私ごきげんだわ」

 

 不思議なことに、私の心内は妙にすっきりとしていた。

 

 

「ありがと、アナ。アナのお節介に元気もらっちゃった」

「お礼は海老アボカドサンドでいいわよ」

 

 なんとも、調子のいい言葉が聞こえてくる。

 アナ、食べたかったのか、あれ。確かに海老とアボカドの組み合わせは美味しいけれど。

 

「オニオンスライスもつけてあげる」

 

 一体、電話で謝りにきたのか、サンドイッチをたかりにきたのか分からないな、なんて思いながらも、快くそれを請けた私は、「また明日」の挨拶で通話を切ったのだった。

 

 

 通話が終わったのを確認してか、隣にいたアーサーは、私の膝の上にまで移動してきてまるまった。もふもふと撫でてやると、気持ちよさそうに喉を鳴らす。暫くそうしていると、ふっとアーサーは此方を向いた。

 

〈エレイン〉

 

「何?」

 

〈やれ、私もルルーシュとかいう奴を、一度みておいてやろう〉

 

「いや、保護者じゃないんだから…」

 

〈お前は、私の半身のようなものだ。心配くらいさせてくれ〉

 

「むう」

 

〈いいな? ま、嫌と言っても行くがな。前々から、その学園もみておきたいと思っていたんだ〉

 

 にやりと笑ったアーサーに、私は彼を止めることを諦めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

(エレインの日記 3)

 この間、アーサーの言っていた『ブリタニアの民』に、少し引っかかったので、自分の中の考えや思いついたことをまとめてみようと思う。

 

 アーサーの中では、『ブリタニアの民』は、ブリタニア全土に息づく人々、つまりブリタニア人のみならず被支配エリアの人間も含まれるようで、日本人だとか、ブリタニア人だとか、人種なんて関係ないみたいだ。懐が広いというか、考えが緩いというか。アーサーはそうでも、大多数の人々は多分そうではないし、それを無視してひとまとめにしてしまうのは、危うい気がする。

 実際、日本人は日本人、インド人はインド人、ブリタニア人はブリタニア人だ。国が違えば、立場も育つ環境も、持っている価値観や文化も違う。それらを線引くことだって、時には必要なんじゃないか?

 

 アーサーの『ブリタニアの民』という表現は、ブリタニア被支配エリア民が人間扱いされるようになってから言え、という感じがする。被支配エリア民への、ブリタニア人の差別は相当に強い。そんな現状をそのままに、彼らを『ブリタニアの民』として扱うのは少々横暴というか、押し付けがましいというか、被支配エリア民からすれば何言ってんだこいつな感じで、たまったものじゃあないと思うのだけれど。

 ああ、思い出した。兄が、言っていたんだ。

『違いがあること自体が問題なのではない、優劣をつける行為が問題なのだ』

 兄からの受け売りそのままだなんて、私も芸がないけれど。きっと、問題はそこなのだ。きっと。

 この手のことは、お互いに適度に干渉しつつ、一線は引いて放っておくのがいいんじゃないかと思うのだけれど。どうしてそうならないのか、認め合えないのか、対等でいられないのか。

 

 「人は平等ではない」、か。もう、わかんないや。頭が痛くなってきたので、考えるのをやめる。私は、穏やかに生きられれば、もうそれでいいよ。

 

 

(エレイン・アーキンの日記 4)

 今日、私はこの恋を諦めることを諦めた。代わりに、この恋を叶える方法を考える。

 これはアナに煽てられたせい、ということにしておこう。そのくせ、妙に自分が乗り気なのが分かるというか、本当は諦めたくなかったんだなと今更のことを感じている。ああ恥ずかしい。

 ただ好きなだけで満たされて幸せなのも、確かにこの上ない事実であり、一方的な恋をずっと続けていたかったというのも本心である。しかし、好きになってもらわなくていいなんて聖者には、私はなれなかったようだ。

 欲が出てきてしまっているな、と思う。愛とは、もっと献身的で自己犠牲的なものだと思っていた。だのに、私が求める愛はなんとも利己的ではないか。

 ここで何とも呆れてしまうのは、欲のままに動こうとしている自分に、罪悪感が毛ほども生えないということである。この私の行動は、正しいのか、間違っているのか。そんなことよりも私は、ルルーシュ・ランペルージ氏に振り向いて頂くにはどうすればいいのかが気になっている。今の私は彼に夢中、ぞっこんすぎて他のことまで順序立てて考えることも煩わしい。正しさなんて、優先順位の下の下なのだ。ああ、開き直ることのなんたる気楽さ心地よさ! 後が怖いほどだ。

 怖い。そう、きっと、落っこちるのは一瞬なのだ。落っこちた下にクッションでもあればいいけれど、と思う。

 ああ、いけない。気を抜いたらまたこうだ。不安がそっと這い寄って、私を喰らい尽くしてしまう。

 この私の気持ちが、この憧れが、この想いが。純粋に、己から湧き出るこの私にとっての幸せが。ルルーシュ・ランペルージ氏にとっては大したことのないもので、一笑して捨ててしまうような、そんなものだったとしたら。

 確かめたくは、なかった。

 根は変われない、恋に弱気で弱腰な自分に少しだけホッとして、そんな自分に呆れた。




(今日のアーサー王物語 1)
 愛する妻グィネヴィアは、信頼していた騎士ランスロットと不倫していた。不倫現場をおさえられ、ランスロットはその場を逃げだしたが、グィネヴィアは捕えられる。
 不義は死罪、処刑されようとしていたグィネヴィアを、ランスロットが颯爽と助けにくる。ランスロットを止めようとした者は、斬り殺されまくりんぐ。
 さすがにそれにはアーサーもおこに。騎士を集めてランスロットを倒そうとする。一方、ランスロットの元にも騎士が集まり、大きな争いに。
 そうしているうちに、本当の反逆者が現れる。アーサーはこれを、血みどろになりながら倒すも、戦死してしまう。


アーサーは、長いこと不倫に気付かなかったというので、それを恋愛下手という風に作品反映させて頂いております。

アーサー王物語は、編者や諸説で色々なエピソードがありますが、こちらの「今日のアーサー王物語」では作品内で取り上げるものについてさくっと取り上げたいものまとめるつもりです。(と、いいつつ2以降があるかは不明)
ここに書いてる分は、あんまりにもさくっとしすぎているので、詳しく知りたい方はご自身で調べられることをお勧めします。面白いよ!!


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04 青い春、朱い夏

「随分増えたなあ。……いつまで書くのかしら」

 

 ずらりと縦横に並ぶ壁の印を見ては、この行為がすっかり日課になってしまったことをしみじみ感じながら、私は壁を愛おしげに撫でた。

 なぜ書くのかは相変わらず謎であったが、この儀式のような行為が永遠に続けばいいと思った。

 ちなみにアーサーは、学園に着くなり、ルルーシュ・ランペルージ氏をみるべく探索してくる、と、ぶらりと何処かへ行ってしまった。……顔を知ってるんだろうか。

 

 さて、ひと段落して教室に向かおうというところで、すれ違った司書教諭に呼び止められる。

 

「アーキンさん、本の搬入のお手伝いお願いしてもいいかしら」

 

 手元の時計の時間を確認するが、朝のHRまでまだ余裕がある。この司書教諭には、演劇部の脚本探しに度々お世話になっているし、ここで恩を売っておくのも悪くないだろう。恩を返す、の間違いかもしれないが。

 

 作業を始めて数分、司書教諭は突然大きな声をあげた。どうしたのかと聞けば、この本の配達時に渡された書類に、必要なサインがされていなかったのだという。問い合わせてくるので、この作業は暫く私1人に任せるとのこと。離れる背を見送りながら、戻ってくるのが遅くならないといいなと思った。

 

 せっせかと本の入ったダンボールを台車に乗せては図書室へ運びこむ。本とは、紙の束とはいえ結構重量あるもので、さすがに三往復ほどする頃には腕も疲れてきた。二の腕を揉みながら、肘を曲げたり伸ばしたりする。明日、筋肉痛になるかもしれない。

 ついつい怠けたくなるところを、気合いを入れて、ぐっとダンボール箱を抱えた。

 

「あの、それ手伝おうか」

 

「ぴゃい!」

 

 突然の第三者の登場に驚いて、抱えていたダンボール箱を落としかける。それを、声の主は素早く下から支えて、そのまま受け取った。

 私の奇声を肯定ととったらしい彼は、この作業を手伝うつもりのようだった。

 

 突然声を掛けてきた彼は、いかにも爽やかな好青年といった風貌をしていた。どこかで見たことのあるような顔だが、はっきりとは分からない。制服からして学園の生徒のようだし、顔だけ見たことのある別のクラスの男子かもしれない。

 彼は本の詰まったダンボール箱を軽々持ち上げ、台車に乗せていく。そのあまりの手際の良さに呆気にとられていると、彼は乗せ終わったことを告げ、ついでに残った数箱のダンボールは自分が抱えていく風に言った。数箱…4箱は、数箱と言っていいのだろうか。

 

「キンタローだとかキンピラみたいな力持ちだな…」

 

 その常識離れしたあまりの力持ちっぷりに、思わずつぶやいたのは、演劇部で数月前にやった演目の登場人物だ。

 日本文化オタクの部長が、ジョウルリという日本独自の人形劇に影響されて、ほぼ部長一人の独断でやることになったあの演目は、実のところはっきりいって不評だった。主人公がべらぼうに強く、ばったばったと敵を倒すというシナリオが、どうにも、普段ラブロマンスやドラマチックな感動ものばかりみてきた観客には受け入れられなかったらしい。私は吹っ飛んでいく熊役が割と楽しかったので、好きだったのだが。

 

 と、そんな私のつぶやきに、目の前の彼は思わぬ反応をした。

 

「金太郎…? 君、知ってるの?」

「あら、貴方も知ってるんですか? もしかして日本好きさん?」

 

 私が「実は知り合いに、日本文化大好きな人がいるんですよ」と部長のことを紹介し笑うと、彼は複雑そうな顔をした。喜んでいるような、それでいて喜べないというような、なんとも微妙な顔だった。

 

「んん、良くない話題でしたかね? ごめんなさい、配慮が足らずご気分損ねてしまったようで」

「ううん、大丈夫。気にしないで」

 

 ぱっと表面上、笑顔に戻った彼だったが、どこか無理しているように思った。それを指摘するのも悪い気がして、話題をずらす。

 

「鍛えてるんですか?」

「まあね」

 

 会話終了。なんてこったい、もうちょっと何かなかったの私!

 そうして話題を出そうとうんうん考えているうちに、図書室に到着した。

 

 アナならきっと、悩むことなく話題提供し和気藹々と会話できたのだろうなあと思いながら、運んできたダンボールを積み上げる。ちょうど目線くらいの高さだ。

 彼はその上に、とんとんと持っていたダンボールを乗せていく。ダンボールの塔は、私の背を頭一つ分ほど越えた。

 

 

「助かりました。ありがとうございます」

「いえいえ、どういたしまして」

 

 爽やかな笑顔でさらりと言ってのけた彼は、きっと「どういたしまして」を言い慣れている人間なんだろうと、何故だか思った。

 

「それでは。私は先生にこの荷が全て運べたことをご報告しなければなりませんのでここで」

 

 解散のつもりでそう告げた私に、彼は、慌てて引き止める言葉を投げた。何でも、今日が彼の転校初日らしく、学内が把握しきれていないので最初の場所まで一緒に戻りたいのだと。

 

「転校生だったんですか」

 

 転校初日から慈善事業に勤しむ彼のお人好しさに驚いた。

 きけば、同じ年、かつクラスも同じではないか。何という偶然だろう、お互い笑ってしまった。

 

「私はエレイン。エレイン・アーキンです」

 

 そう名乗り手を差し出すと、彼は目を見開いて、戸惑う素振りを見せたので、少し強引ながらもこちらから手をとる。彼は困ったように眉を寄せながらもまんざらでもないようで、笑って手を握り返してくれた。

 ああ、複雑さという点では似たような笑顔にしたって、こっちの笑顔の方が彼には似合う。

 

「スザク、――枢木スザク。よろしくね」

 

 スザク。

 その名前をきいて、脳を電流が駆け抜けたような感覚がした。そう、これは閃き。そして、一つの予感。

 

「もしかして、スザク君って夏生まれ?」

 

 ついつい、きいてしまった。案の定、彼は目をまるくしてきょとんと小首をかしげた。本当に物理的に傾げるその様は、どこか可愛らしくてちょっと悔しい。

 

「どうしてわかったの」

 

 ふふ、あっていたらしい。となれば、きっとそうなのだろう。

 予感が的中した心地よさを味わい噛み締めながら、私は昔々に部長からいやというほど語られた内容を掘り返していた。

 

 そう、何を隠そうあの日本オタクの部長からの入れ知恵…入れ知恵? 違った。受け売り、というやつだ。

 彼の名前、スザク。確か、日本や中華連邦の『ゴギョーシェス』とかいう考え方に、幾らか神獣がいたのだが、そのなかに『スザク』もいたはずだ。鳥、だったか。

 

「朱雀という鳥は、夏を象徴することもあると、きいたことがあるよ」

「へえ」

 

 詳しいねと彼はしきりに感心した風に頷いた。自分が褒められているというより、部長の手柄を奪ったようで、少し後ろめたかった。

 

 ふむ、しかし。このスザク氏。今までの話を通して考えると、日本には割と詳しいようなのに、そのことに関しては複雑な感情を持っているようだ。そして、この名前。

 

 もしや、彼に名前をつけた人物が、日本文化の熱狂的なファンだったとか? でも、その人とは仲が悪くて、故に、日本文化と聞くとその人を思い出して嫌な気持ちになるとか! 名付け、親族…父親? …なんて、的外れもいいところであろう推測か。

 妄想が過ぎていけないなとコツンと自分の頭を小突いた。

 

 

 元の場所まで戻ってきたところ、丁度司書教諭も戻ったところだったらしい。スザク君を見て、妙に慌てているので説明する。

 

「彼が手伝ってくれまして」

 

 それをきいた司書教諭が目を白黒させて「あばばば」なんて言っているが、一体どうしたというんだろうか。

 スザク君は甘いマスクな爽やかイケメンだし、イケメンオーラにあてられたのかもしれない。きっとそうだ。スザク君、おそろしい子!

 

 どこか心ここに在らずだった司書教諭は、少しの間の後、はっとした風に私の方へ向いた。

 

「アーキンさん、今日は朝のHR参加不要ですよ」

 

 どうして司書教諭からそんな連絡が、と首をかしげれば、ここに私がいるときいたクラス教員から伝言、連絡をたのまれたらしい。

 

「午前のうちは、カウンセリング室でカウンセリングを受けられるように手配されているそうですよ」

 

 それ『受けられる』というより、『受けろ』というやつですよね、なんて口走りそうになるのをおさえながら頷く。

 

「分かりました」

「暫くは、周りもあなたも落ち着かないでしょう。どうすべきか、なんて難しいことは今は休憩して、ただ気楽に、ほんの少し肩の力を抜けばいいと、私は思います」

 

 司書教諭はそう言って、眼鏡の奥で両目をギュッと閉じた。

 

 ……もしかしてこれ、ウインクのつもりなんだろうか。スザク君が反応に困っているではないか。この司書教諭、たまに狂ったように発揮されるお茶目も程々にしてほしい。これ、去年の学園祭で突然蔵書1000冊ドミノをゲリラ企画した以来じゃないだろうか。

 

 とはいえ、そんな彼女の気持ちこもった優しいアドバイスには感謝の意を告げる。もう手伝うこともないとのことで、その場を後にし、カウンセリング室のある西棟へと向かうことにした。スザク君も、クラス教員を今から訪ねるそうなので、途中まで一緒だ。

 

 廊下を二人並んで歩く。ぐるりとあたりを見渡し、周りに人気がないのを確認したらしいスザク君が私へ疑問を投げた。

 

「カウンセリングって?」

 

 それきいちゃうのかスザク君!

 あまりに遠慮のない踏み込みに、後ずさりしたくなるところを、その双眸が許してくれない。逃げることを諦めて、私は答える。

 

「昨日、ちょっと色々あって二階の窓から空に飛び出しかけたら、自殺未遂だと勘違いされてしまって。それをうけてのことだと思う」

 

 パニックに陥ったあのときの私のことを思うと、確かに精神安定を図るためにカウンセリングという手法をとるのは悪くない。が、しかし、既に昨日のアナとの通話であのときの気持ちはまるく私の中で収まって落ち着いている。今更掘り起こしたり、一から説明するのも億劫だ。

 

「それくらいの高さじゃ、余程打ち所悪くなければ死なないのにね」

「怖いことをさらっというー!」

 

 あと、気にするところはそこではないと思う。

 確かに、実際そうかもしれないけれども。それだって、打ち所が悪ければ死ぬのだ。

 

「死にたかったんじゃ、なかったんだけれど」

「じゃあ、どうして?」

 

 スザク君の問いかけに、黙る。しかし、数秒もあれば、答える言葉は用意できた。

 

「空が綺麗だったから、飛べるかなって思ったんだよ」

 

 いわゆる現実逃避、どこまでも遠い空に夢をみたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

(エレイン・アーキンの日記 5)

 今日、スザク君と知り合った。苗字はクルルガー…だったか、ちょっと自信がない。

 爽やか系の甘いマスクなイケメンさん、あれは年上のお姉さんにモテるに違いない。

 転校してきたばかり、同じクラスだなんてラブコメでも始まりそうな設定だけれど、私はルルーシュ・ランペルージ氏を見つめるのに忙しいのであった。完。

 

 男友達は初めてで、というか、友達というのがアナを含めて二人目で、なんというか、嬉しいことだなと思う。あれ、これ文章に起こしてみたら悲しいことのように思えてきたぞ? 多分気にしたら負けってやつだ。

 一応、中等部からの持ち上がりなのもあって顔なじみの教員はそれなりにいるし、先輩達には割と可愛がってもらっていたのだ。仲の良かった先輩達は、ほとんど残っていないけれど。部長がいるからセーフだ、セーフ。

 何故私に友達が少ないのかは永遠の謎としておこう。

 

 友達から親友に昇格すれば、スザク君の「日本」に対する反応について知ることになるのかもしれない。昇格…そもそも、友達って昇進制なんだろうか。アナにきいたら、憐れむような目で肩を叩かれた。なぜだ。



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05 過ぎ去りし空を見る

 ユフィ改めユーフェミア皇女殿下の配慮もあり、今日、ここアッシュフォード学園にスザクは転入することになっていた。事務的な手続きは既に終え、ルームメイトたちに紹介されるまでに時間もあり、今から学園内を自由見学、というところでひとつ問題が起こる。

 見学中、事前には教員が一人付き添いできてくれるという話だったのだが、当日になって人員がさけなくなったとのこと。なんでも、昨日学園で少々事件があったらしくその後処理があるらしい。

 

 そう、事件だ。

 スザクの持ち前の人の良さが働いたのか、世間話から話が弾み、教員が口を滑らせて女子生徒の自殺未遂があったという話をきいてしまった。詳しいところまでは、誤魔化されて話は聞かせてもらえなかったものの、その女子生徒の名は分かった。「エレイン・アーキン」というらしい。

 

 死ねなかった女の子。

 それが、エレイン・アーキンに対してスザクが抱いた第一印象だった。

 

(何故だか、全く知らないはずの人間に親近感が湧いた気がしたのは、自分があまりに死に近い場所に身を置き過ぎたせいか、それとも。)

 

 

 

×

 

 

 

 結局、一人での学園内自由見学となったわけだが。下手に歩いて迷ってもいけないので、そう遠くへは行けないだろう。

 早朝の学園は、しんとして静かだ。人がいない時間帯なだけだというのに、まるで自分だけが異世界に迷い込んでしまったような心地がする。

 

 と、何かを引き摺るような、落とすような鈍い物音が近くにあるのに気がついた。人の気配がする。

 ついつい気になって見に行ってしまったのは、案外自分がこの静かな空間で人恋しくなったからなのかもしれない。

 

 そこでは、女子生徒がダンボール箱を抱え、一人で台車にせっせかと積み込んでいた。随分と重そうだ。

 どうして一人でこんなことをしているの、だとか、こんな時間にどうしてここにいるの、なんて疑問は幾つかあったが、それよりも先に言葉が出ていた。

 

 

「あの、それ手伝おうか」

 

 その女子生徒はスザクの言葉に驚いたのか、肩を跳ねさせて「ぴゃい!」と奇声を発した。その拍子に彼女がダンボール箱を落としかけたので、下から支えそのまま受け取る。駄目とも言ってこないので、きっと手伝っても構わないだろう。

 ダンボール箱には、本が詰められていた。これでは確かに、軍で身体を鍛えた自分ならまだしも普通の人には重い荷だったろう。

 まだ驚きが冷めないのかポカンとしている彼女を他所に、スザクは手早くダンボール箱を乗せられるだけ台車に乗せた。残った箱は4箱。両手は埋まるだろうが、一気に運べないことはない。

 スザクがそうしてダンボール箱を抱えた時、女子生徒がぼそりと呟いた言葉をスザクは拾い聞いていた。

 

「キンタローだとかキンピラみたいな力持ちだな…」

 

 およそ彼女の口から出そうもない言葉に、スザクは目をぱちくりさせた。

 金太郎、といえば旧日本では有名だった昔話であり、小さな頃によくよく語り聞かされていた。金平というのはその金太郎の息子、という設定だったか。実在はしなかったはずで、物語では、父親同様剛力な人物として描かれており、旧日本料理であるきんぴらごぼうの語源にもなっていた、と思う。

 

「金太郎…? 君、知ってるの?」

 

 懐かしさをを通り越して、封をして埋めたはずの昔の手紙をを意図せず掘り起こしてしまったような、遠い遠い記憶に触れる出来事に、目眩がする。

 

 その言葉を発したのが、他ならない目の前の女子生徒である。その西洋人形のような碧の瞳と、如何にもブリタニア人といういでたちは、言葉の内容とちぐはぐだった。

 スザクの問いに、女子生徒は興味を芽生えさせたのか、視線を台車上のダンボール箱からスザクへと向けた。

 

「あら、貴方も知ってるんですか? もしかして日本好きさん?」

 

 日本、という響きに心臓が跳ねた。彼女は、イレブンではなくエリア11でもなく日本と言った。ますます、噛み合わない。

 日本好きかという問いにも、答えられない。その問いに答えを出すことは、何も知らなかった無鉄砲な頃の幼い自分にならまだしも、今の自分には難しすぎた。

 

 彼女は、自分の知り合いに日本文化好きがいると説明した。ここでもまた、エリア11ではなく、日本。

 

 先日、自分にクロヴィス皇子殺害の容疑がかかったことで、自分が今それなりに顔の売れた有名人になってしまっていることは自覚している。

 しかし、それにしたってこんな、一歩間違えれば地雷を踏みかねないような煽り文句にも似た言葉を、向けられるようなことになるだろうか。

 彼女とのファーストコンタクト時を思い返してみるが、あの時の彼女の驚きようは単純に声をかけられたことによるものであったと思うし、自分のことを知っているにしては警戒心がなさすぎる。考えすぎかとも思うが、それにしても偶然が過ぎる。

 

 考え込んでいたスザクに、その原因となった女子生徒は申し訳なさそうな顔をした。

 

「んん、良くない話題でしたかね? ごめんなさい、配慮が足らずご気分損ねてしまったようで」

 

 この言葉で、ようやく彼女が本当にスザクの事情を一切さっぱり知らないのだと確信した。良くないことは分かっても、それが何故かは分かっていないようだった。

 

「ううん、大丈夫。気にしないで」

 

 反射的に笑顔を浮かべる。長年で身についたことだった。

 彼女のせいではない、偶然だったのだ。それにしても、スザクのことを知らないことへの違和感は拭いされなかったが、案外こちらが名乗っていないせいかもしれない。

 

 その後は何気ない会話を一言二言交わし、荷も問題なく運びこめた。

 一仕事終えたといった雰囲気で、その場で解散の旨を述べはじめた彼女に、スザクは慌てて今日が転校初日で学内の施設位置が分からないことを伝え、彼女と最初にあった場所まで連れて行って欲しいと告げた。

 

「転校生だったんですか」

 

 彼女は今日一番の驚いた顔を見せた。戻り路で、どこのクラスになったのかを尋ねられたので、学年とクラスを述べれば、彼女も同じクラスだという。幾ら何でも先ほどから凄い偶然だ、スザクが思わず吹き出すと、彼女もつられたように笑った。

 ふ、と彼女は思い出したように自ら名乗る。

 

 

「私はエレイン。エレイン・アーキン」

 

 そう言って、手を差し出した彼女に、スザクは唖然とした。

 

 エレイン・アーキン、死ねなかった女の子。

 

 いくらなんでも、できすぎていた。

 にこにこと目の前で笑う彼女は、どこからどう見ても死にたがりには見えない。

 いや、見て分からないだけなのかもしれない。けれど、彼女が「エレイン・アーキン」であることがスザクには信じられず、目の前の存在がとても奇妙なもののように思えた。

 戸惑い迷うスザクを他所に、彼女――エレインは待っていられないという風にスザクの手をとった。その行動に、また戸惑う。

 どうしよう、なんて頭の中で繰り返してはみたものの、そんな彼女の行動に喜びを感じたのは事実で、自分のとるべき行動というのはとうにでていた。

 

 

「スザク、――枢木スザク。よろしくね」

 

 そうして、その手を握り返す。思いの外ふにふにしていて、そういえば女の子とはこういうものだったなと思った。

 スザクが名乗っても態度の変わらないエレインに、スザクは安堵する。しかし、あまりに警戒がないことには、やはり違和感をおぼえてしまう。世間知らずなのだろうか、その割に日本については博識のような。よほどその「日本好きの知り合い」とやらが筋金入りなのだろうか。

 

 彼女はスザクという名前から、夏生まれということを推測してきた。朱雀が鳥の姿をした神獣だというのは自分も知っていたが、夏を象徴するなんて話は初めて聞いた。彼女の「日本好きの知り合い」とやらは一体何者なのだろう。謎だ。

 

 

 エレインとはじめに会ったところまで戻ってくると、眼鏡をかけたショートカットの女性がいた。どうやら、エレインに本の搬入手伝いを頼んだ司書教諭らしい。

 司書教諭はスザクの顔を見て慌て、エレインからスザクが手伝ったことを聞いてふためいた。先日の事件のことを知っていれば、これが普通の反応だろう。

 しばらくそうしていた司書教諭は、ハッとしてエレインに朝のHRは出席の必要がないことと、カウンセリングを受けられるように手配されていることを伝えた。スザクの前で伝えたのは、まだ混乱が抜けきっていなかったからかもしれない。司書教諭のその言葉を聞きながら、やはり彼女はあの「エレイン・アーキン」本人なのだと思った。

 エレインにアドバイスのようなエールのような言葉を贈った司書教諭は、両目を閉じた。

 ゴミでも目に入ったのか、それともまだ混乱しているのか…これは自分のせいなのだろうか。曖昧な反応で場を濁しつつ、その場を後にした。

 

 スザクはこれから、クラス教員の元まで行く予定だった。エレインの行くカウンセリング室の方向も途中まで同じとあって、一緒に行くことにする。

 

 

 廊下に自分たち二人だけの足音が響くのをききながら、ふと、彼女は昨日の件について訊けばどう答えてくれるだろうかと興味を持った。当事者として語ってくれるだろうか、それとも、話すのを拒むだろうか。

 周りに人がいないのを確認して、しかし転校初日の自分が昨日の騒動を知っているのも変だと思い直し、先ほどの司書教諭の話題から投げかけてみることにする。

 

 

「カウンセリングって?」

 

 エレインが足を止めたので、スザクも立ち止まる。彼女をじっと見つめていると、その瞳に戸惑いがみえた。それも、数秒で観念したらしく諦めた風に告げる。

 

「昨日、ちょっと色々あって二階の窓から空に飛び出しかけたら、自殺未遂だと勘違いされてしまって。それをうけてのことだと思う」

 

 色々、の内容まで聞こうとするのは流石に野暮だろう。そして、思いの外あっさり核心を告げられたことに驚いた。

 勘違いというと、事故か何かだろうか?  それはともかく、なるほど、彼女は自殺を図ったわけではなかったのだ。そうしてやっと、目の前の彼女と「エレイン・アーキン」が繋がった。彼女は、死にたがりとは縁遠い。スザクには、この短時間でそれがよくわかっていた。

 

「それくらいの高さじゃ、余程打ち所悪くなければ死なないのにね」

「怖いことをさらっというー!」

 

 テンポのいい返しに失笑してしまう。彼女は、そんなスザクにむっとしながら言った。

 

「死にたかったんじゃ、なかったんだけれど」

「じゃあ、どうして?」

 

 スザクの問いかけに、数秒の間の後、彼女は答えた。

 

「空が綺麗だったから、飛べるかなって思ったんだよ」

「空?」

「そう、空」

 

 言われ、屋根の下から顔を出し見上げる。

 

「うん。確かに、綺麗だよね」

 

 まだ朝方で白さの際立つ青空だが、これから昼に向かって深い色になっていくのだろう。その色は、何にも代え難い平和だった昔の記憶の中の空と同じ色をしている。

 

「……綺麗だ」

 

 少しだけ、あの頃に戻りたくなった。

 



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06 嘘は嘘のままに

 空を見てどこか寂しそうな顔をしたスザク君に、また自分は気付かないうちにまずいことをやってしまったかと頭を抱えたくなる。エスパーアナ様に助けて欲しい。

 

 それでもクラス教員のいる教室に着く頃には元気を取り戻したようだった。ほっとしながらスザク君に到着を告げる。教室の中でこちらに向かって何か言い掛けていたクラス教員には、分かってますよという態度で「今からカウンセリング室行ってきます」と告げておいた。

 さて、少し遠回りになったが向かうとするか。何気なくスザク君を先導する形で案内できたことに満足しながら、目的地へと向かった。

 

 

 カウンセリング室は西棟の割と端だった。この辺りの教室には来る機会がないとはいえ、他の教室とたいして備品も変わらず興味を惹かれるようなものも見つけられなかった。

 カウンセリング室の扉をノックする。名前の確認の後、入ってもいいと返事があった。

 

 中を見て、驚く。小さな喫茶店のような雰囲気で、通常の教室と違いお洒落な机と椅子が置かれていた。ソファまである。壁紙もお揃いのモダンな感じだった。ライトだけは、他の教室と同じ仕様だったが。

 

「趣味ですか?」

 

 思わず口にした言葉に、カウンセラーの女性はくすりと笑った。

 

「生徒が寛げるように、なんだけれど私が一番寛いでしまっているかもしれないわね」

 

 カウンセラーの女性は、ビーアと名乗った。どうぞ座ってと椅子を案内され、おとなしく座っているとショートケーキが出てきた。赤いイチゴが艶やかだ。はて、喫茶店にきたおぼえはないのだが。

 戸惑うエレインに、ビーアは「学園長からよ」と言った。なんでも、「生きている限り希望がある」の言葉と共に、悩める少女エレインちゃんに贈ってくださったのだとか。やったぜ。

 その優しさに喜びを感じると同時に、そこまで心配される事態ではないのだよなと思う。どうしよう、優しさが重い。後ろめたい。

 

「あの」

「コーヒーと紅茶、どっちにする?」

「……紅茶で」

 

 カウンセリングとは一体。私の知っているカウンセリングと違う、カウンセリングってもっとこう質問責めで、そのくせ答えると「それは」「でもね」と反対してきて、そのうち自分の意見を言い出してこちらがそれに同意しないと嫌な顔してくるやつじゃなかったのか。

 あれ、でもそれってどちらかというと洗脳? 説得? ともかく私の知ってたカウンセリングは、カウンセリングじゃなかった! 疑問解決である。

 

「まあ午前中がお休みになったものだとでも思って楽にしててね」

 

 なるほど、こうして生徒の気をほぐし相談しやすい空間を作って、相談に乗り信頼関係を築くのだなと妙に感心してしまう。

 さて、相談したいことといえば何だろう。本来ならば昨日の件を話すべきなんだろうが、話すことがなさすぎる。

 

 目の前のショートケーキをつつき、そのスポンジの弾力を楽しみながら、取り敢えず伝えるべきことだけ伝えておくことにした。

 

「猫は戻ってきました。もう元気です」

 

 ビーアは虚を食らったような顔をした。

 

「それは、エレインさんが? 猫が?」

「私も猫も元気です」

 

 ぐっ、と親指をたててみせると、ビーアは穏やかに笑ってみせた。それから、申し訳なさそうな顔で「それでも、」と口にする。

 

「エレインさんのお話聞かせてほしいし、一応お仕事だから、暫く付き合ってくれる?」

 

 特別断る理由もなく、私は素直に頷くのだった。

 ベルガモットの香りが広がる。耐熱ガラスのポットで踊る茶葉が、明るいブラウンの波模様を描く。その模様もすぐに溶けて消えてしまった。

 カップに注がれた紅茶を口にして、私はその味にやっぱりかと息を詰まらせた。

 

 アールグレイ。昔、兄がよく飲んでいたお茶だった。懐かしさをケーキと一緒に喉の奥に流し込む。生クリームの甘味が幸せだ。

 

「お砂糖とミルク、要るかしら?」

 

 ビーアがそう言って砂糖とミルクを見せるが断る。必要を感じなかったのもあるし、今これを飲むのには、砂糖やミルクは邪魔になってしまうような気がした。この苦味を、独特の風味を、熱を味わいたいような、そんな心地だった。

 

「食べながら、でいいわ。話したくないことがあれば、話したくないと言ったり、伏せてくれて構わないからね。

ではまず最初に。確認事項なので、違っていたら訂正してね」

 

 そう言い、ビーアは正面に座って、記録帳らしい赤いノートを開いて、ファイルから書類を数枚取り出した。書かれているのはきっと、学園で保管されている私の個人情報だとかだろう。

 

「ご両親はすでに他界されていて、親権者が…チャールズ・アーキンさん。これはお兄さんね」

 

 肯定の意を含めてこくりと頷く。両親の訃報が届いた時、兄も私も二人だけで生きていくには幼すぎて、頼れる親族もいなくて。

 それぞれ『善意で』他人の有志に引き取られることとなったのだが、心配屋の兄は私と離ればなれになるのが嫌だったのだろう。成人と同時にそこを飛び出して、一人で生計を立てて、いつの間にやら家まで買って私を迎える環境を整え、私の親権まで得ていた。

 それを機に私は兄に引き渡されることになり、アーサーの食料事情も改善して、私の生活も随分と文化人的になったのであった。

 

「お兄さんと暮らしているの?」

「いえ、兄は今出張中でして」

 

 出張とは言ったが、実際はなんというか。彼は軍属故に、各国を転々としているのだ。

 私が中等部の頃は、兄と私とアーサーの二人と一匹で、あの家で暮らしていたのだけれど。昇進したとかで仕事が忙しくなってしまったらしい。多分、何処かの戦場にでも駆り出されているんだろう。

 

「あら、じゃあ一人暮らしね」

「いえ、猫と二人暮らしです」

 

 奴を、アーサーをカウントしないとどうにも違和感がある。数え忘れ、いないことにするには存在が大きすぎるのだ。

 

「一匹と一人暮らしね」

 

 さらさら、と記録帳に文字が増えていく。

 

「……二人暮らしです」

 

 あの猫を一人と数えるのは癪だが、私が一人暮らしをしているというのは、どうにも違う気がして告げる。ビーアは苦笑しながらも、ノートに書いていた『一人暮らし(猫がいる)』に二重線を引いて、『二人暮らし(一人は猫)』と書き直した。

 

「貴女と猫の二人暮らし、ね。大変じゃない? 困っていることとか、ないの?」

「いや、別に…慣れました。金銭面は兄から送られてくる分で十分すぎるくらいですし、生活面も。自分一人の家事と猫の面倒みるくらい楽なものです」

「そう、立派ね」

 

 なんだか、その表現にむず痒さを感じた。別に大したことじゃない、兄が家にいた頃とあまり変わらない。二人分か一人分か、交代制か毎日かの違いだ。

 

「自宅通いなのね。……学園寮って選択肢もあるから、考えておいてね」

 

 ビーアの言葉に、悪いと思いながらも首を横に振る。

 

「学園寮では、動物は飼えないとききました。それに、兄が帰って来た時、帰る家がないと可哀想ですし。家って、住んでないとすぐ寂れちゃうものですから」

 

「ペット禁止、ね。……アレルギーの生徒からの抗議で、問題にあがったのが切っ掛けだったかしら」

「そうだったんですね」

「その生徒も卒業しているでしょうし、今打診すれば案外融通がききそうよ」

 

 それは、なんというか。それが通ってしまうというのは、今いる猫アレルギーの学園生徒に横暴だというか、可哀想なことだと思うのだが。

 

「一応考えておきます。今の所必要に感じてはいません」

「そう」

 

 それから、ビーアはエレインに昨日の件について数個の質問をした。エレインは、昨日話したのと同じような内容をここでも話す。

 

「空が綺麗だった…ね。貴女の友人のアナさんが、自分のせいだと言っていたことについては、何か心あたりあるかしら」

 

 ああ、それがあった。空が綺麗だったなんて、他の人からしたら理解し難い理由を挙げるくらいなら、そっちの方が周りも納得しやすくてよかったかな、と、少し考えながらも、別に彼女のせいではないのだし、アナは関わらせるべきではないとすぐにその考えを捨てる。

 

「彼女とは、一週間ちょっとくらい前に、一度小さな諍いというか、考えがぶつかることがありまして」

 

 譲るつもりはないが、理解してもらえるとも思っていない、あの時の私はそう考えていた。

 

「アナは、それを気に病んでいたようで。そのことについては、昨日の夜、じっくりアナと話して、お互い遺恨はないですし、それが原因ではなかったことも話せています」

 

 カレンさんの件は伏せる。理由を言い出すとどうしてもルルーシュ・ランペルージ氏の話になってしまうので、だ。何故それがまずいのかといえば、私が恥ずかしさや惨めさ諸々で耐えきれないからである。

 

「関係はなかったのね」

 

「はい。……あれは、別に死ぬつもりではありませんでした。そもそも、飛び降りるつもりもなくて、あんまりに空が綺麗だったので、こう、変な気起こしてしまったんですよ。空が飛べるかもって」

 

 エレインの言葉に、ビーアはノートに走らせていたペンを止めた。

 

「確かに昨日はいい天気だったわ」

「今日も一日晴れてそうですね」

「そうね…」

 

 窓の外を見て、ビーアはノートを閉じた。

 昨日の件に関する話はこれでおしまいらしい。お皿もカップも空になったところで、ビーアは膝の上で手を組みエレインに問いかける。

 

「最後に。昨日の件に関わらず、今悩む…までいかなくとも、考えていることだとか、何でもいいから話したいこと、ないかしら」

「考えている、こと」

 

 何かあっただろうかと思いを巡らせ、自分では答えの出せなかった、気になることをきいてみることにした。

 

「どうすれば、人から好かれるんですかね」

 

 私は、ルルーシュ・ランペルージ氏を理由もわからないまま好きになってしまったもので、彼に自分を好きになってもらおうにも、そのやり方だとか切っ掛けというものがさっぱりなのである。自分のことが参考にできないのだ。ここはひとつ、他人様の意見もきいてみることにする。

 が、しかし、ビーアの意見は私にはとれない方法だった。

 

「好意を抱いていることを、態度で示すことかしら」

 

 私はそれをしたくないのだ。きゃあきゃあ黄色い声をあげるつもりはない。第一、彼の前では否応なしに緊張してしまって会話もままならないというのに、無茶だ。

 とはいえ、その理由については参考になるかもしれないと真剣な顔をする。

 ビーアは、あくまで一般的に考えてであること、参考程度にとどめることを前置いて、それを話した。

 

「人っていうのはね、好意を抱かれて、まず嫌な気持ちになるってのは珍しいことなの。その人に好かれている、と思ったら、警戒もとけて気を許しやすくなるのが自然よ。まあ、それを押し付けるだとか、あまりに重いものを最初から示すのは逆効果だけれど」

 

 ビーアの話したそれは、好かれるためというより、どちらかというと嫌われないための方法のように思えた。

 そのことは告げずに、感謝の意だけ述べる。それから、もう一つ。アナにもいつか訊いたことを、彼女にも問うことにした。

 

「友達の作り方、ご存知ありませんか?」

 

 ビーアはそれをきいて、目に見えて焦り困ったような顔をして、目線を泳がせながら申し訳なさそうな声で言った。

 

「『つくるものではなく、できるものだ』と、ある人は言っていたわね」

「なるほど……哲学ですね」

 

 確かに、分かるような気のする言葉だけれど。じゃあ、友達はどうすればできるのだろう?

 分からないままに、そのままに。カウンセリングの時間は終わってしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

(エレイン・アーキンの日記 6)

 自分の例を参考に、どうすれば友達ができるのかを考えてみようとしたが、データが二人分しかなかったので考えなかったことにした。せつない。スザク君に関しては私が勝手に友達認定してしまっているようなところもあるので、下手するとデータは一人分である。なんてこったい。

 それは置いておくとして、カウンセリングではケーキも食べ、授業もサボれ、なかなかお得だったのではないかと思う。昨日の件での要らぬ誤解を受けた分はこれでチャラ、だというか、もともと自業自得みたいなところがあったのだ、これだとお釣りが出る。

 私の知ってるカウンセリングとも違ったし、いや、あれは私の知ってたカウンセリングがカウンセリングじゃなかったのだな。勉強になった。

 アールグレイといえば。すっかり忘れていたが、兄がこの前の手紙で、お気に入りのメーカーの茶葉が近場で売っていないと嘆いていた。次に手紙が届いたら、手紙の返事と一緒に送ってあげることにしよう。

 

 

 

 

(ある学校カウンセラーの呟き)

エレイン・アーキン。事前に聞いた話では、彼女の自殺未遂原因は愛猫がいなくなったことによるとされていた。しかし、彼女自身は自殺を否定している。不本意な出来事であっただとか、事故だったという可能性も考慮すべきだ。

とはいえ、そうなると突然の猫の話は不自然である。詳しい話を、と思ったのだが、本人にとっては全て済んだことのようで、説明するのを避けているような節がある。

悩み事も、問題も、全て自分で解決できてしまうと思いこんでいる、いや、実際解決はできたのかもしれない。しかし、全ての物事を自己完結させるというのは、大人子供関係なく難しい。いつか限界がくるのではないか、心配だ。

自分のことを話す、という習慣が彼女にはないらしい。彼女の生い立ちから、一人で過ごす時間というのが長かったのも影響しているだろう。話を聞いていた私が、彼女から感じたのは、遠回しな拒絶だった。幸い、現在はアナ・ローレンスと親しくしているようである。社交的な友人が、いい影響を彼女に与えてくれるといいのだが。私も力になれることを願う。

 



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07 風の色は何色か

 カウンセリング室から出た頃には太陽は随分と高い位置までのぼっていた。とはいえ時計を見れば正午までは時間があり、授業も中途半端な時間だ。

 

「昼休みまで、適当に時間潰しちゃおうかなあ」

 

 ふらりふらりと外を歩いていると、ばったりアーサーと出くわした。

 

「ごきげんよう、アーサー。彼とは出会えた?」

 

 そう言い、しゃがみこむ。アーサーはぷいと目をそらした。

 

〈会ったのやもしれず、会わなかったのやもしれん〉

 

「……もしかしなくとも、誰が彼か分からなかったんでしょう」

 

〈うぎぎ〉

 

 予想的中、まあそんなことだろうと思ってはいた。

 

「艶のある黒髪で、アメジストみたいな色の目をしていて」

 

〈説明はいい、連れて行け〉

 

「流石に教室に猫を連れ込むのは…どうなんだろ」

 

 猫を連れてきてはいけない、なんて校則はなかったとは思う。とはいえ、まず普通連れてこないのを前提に校則は書かれているだろうし…いや、そもそも学業に関わりのないものは基本持ってきてはいけないのだから、きっとアーサーは持ってきちゃいけないものだ。

 …取り敢えず、アーサーがここにいるのは、彼が勝手についてきたから。私のせいじゃない。私はアーサーを持ってきてないし、連れてきてもない。そういうことにしておこう。

 

「ついてこられたら、まるで私が猫を連れてきたとかいうあらぬ誤解を生みそうだわー」

 

〈誤解も何も事実だぞ〉

 

「ゴカイダヨー、ワタシハワルクナイヨー」

 

 ホントダヨーシンジテヨーと続けるも、アーサーは呆れたような顔をして、全く信じてはくれなかった。

 

 彼のいそうな場所にいけばいいのではないかとそこで思い、どこにいそうかを考える。

 

「放課後の生徒会室には、結構いることがあるみたい」

 

 生徒会室で生徒会メンバーを連想してはカレンさんを思い出し、また気分をずんと重くした。

 ああ、もう平気なつもりだったのにな。キスか……キスかあ。

 ぎゅうと胸を締め付けるような、その上捻られ搾り取られるくらいの苦しさに、息が上手くできない。

 もやもやと、嫌だという気持ちは胸の内の黒い霧を濃くしていくけれど、同時に、そんな思いを抱く資格など自分にはないと宙に放り投げられたような気持ちがして、悲しくなる。

 

〈どうした、突然へらへら笑いだして〉

 

 アーサーのその言葉に、その目は節穴かと叫びたくなった。殴ってやろうかと思った。

 こんな心情で、どうしてと笑えるいうのか。からかっているのか。そうして怒る己を極力外に出さぬよう、諌め鎮めて問いかける。

 

「そんな顔にみえる?」

 

 自分でも驚くくらい、その一言を発するのに難儀した。声が半分掠れてしまっていた。きっと言葉も震えていたことだろう、演劇部員として情けない。まるで入部してすぐの頃みたいだ。

 

〈ああ、そう見えた。その問いをきくに、違っていたのだな。すまん〉

 

「『アーサー』が他人の気持ちに鈍感なのは、よくわかっているよ」

 

 アーサーはそれをきいて、バツが悪そうに唸った。私も唸る。鈍感なのは前世から、これはお互いさまなのだ。

 顔色ひとつにとったって、言の葉ひとつにしたって、その心の内は分からない。人は、仮面をつけてしまえる。私には、その人が素顔か仮面かなんてわからない。仮面の下の素顔の想像なんて、尚更。

 仮面をするということは、素顔を隠すほかに、仮面そのものを相手に見せたいということでもある。

 ならば私は、仮面でもいい。そうして、精々、何の疑いもなく馬鹿正直に信じてきたつもり。裏切られるときは裏切られるのだもの、見えているものが素顔か仮面かなんて、どうせ私には分からないのだもの。仕方ないのだもの。そう、仕方がないのだ。

 ……正直なところ、諦めて泣き寝入りしているのだ、私は。その人が私の目に見えた通りではない『素顔』を持っているとしたら、それが私に牙を向けるものだとしたら。それがどうしようもなく怖くて、それでも見たままを信じずにはいられない。どうせ後で泣くんだわなんて思いながら、期待せずにはいられない。信じながらも、疑っていて、心から許せる誰かを探している。

 

〈酷い顔だな〉

 

「……貴方もね」

 

 アーサーを抱き抱え、頬ずりして。結局、私には私しかいないのだなと自嘲した。

 

 

 

×

 

 

 

 廊下で立ち止まり、私はなんとなく掲示板に貼られた例のテロリストさんの指名手配ポスターを眺めていた。出で立ちはどうにもおかしな趣味としか思えないのだが、このテロリストは自分を道化師か何かと勘違いしているのだろうか。それとも敢えて、なのか。

 その仮面のつくりは一見してそれなりに手が込んでいると分かるくらいには器用なもので、演劇部で衣装から小道具一般まで作ることもある身としては、後頭部側がどういう仕組みになっているのか少し気になったりもした。

 

 授業終了を告げる鐘が鳴るのをきいて、ポスターから視線を外し教室に向かった。お昼ご飯の時間だ。足はスキップを踏んでいた。

 意気揚々と教室に入る。授業が終わってすぐだからか、まだ教室に人は多い。いつもとは違い、どこか静かで、張りつめた空気に首を傾げる。

 そんな疑問も、窓際にアナの姿をみつけたことでどこかへ消えてしまう。アナの隣には、カレンさんがいて一言二言話し終わったというようなところだった。

 

「やっほー、アナ!」

「あら、来たのエレイン。今日は休みかと思ってたわ。もしかしてえびアボカドサンド持ってきてくれた?」

 

 あんまりに食べ物本位なアナの言い方に苦笑する。それじゃあ私が、アナにえびアボカドサンドを渡すためだけに学校に来たみたいだろう。

 私はアナに学校側の指示でカウンセリングを受けていたがために授業に出ていなかったことを告げた。

 

「あと、サンドイッチは具材が足りなかったから、また今度ね」

 

 それから隣のカレンさんに、ぺこりと頭を下げた。昨日の件、アナとは電話で話したからいいとして、彼女には昼食タイムを慌ただしくさせてしまったことを、ここで謝っておきたかった。

 

「カレンさんも、こんにちは。昨日はお騒がせしちゃって、ごめんね」

「いえ、気にしないで。…大丈夫?」

 

 こちらを心配する声に、考えることなく「大丈夫」と返す。その優しい言葉が嬉しいやら、苦しいやらで困る。

 その場のアナの提案で、今日も三人で一緒にお昼を食べることとなった。昨日の件で警戒しているのか、窓から遠い席にと手を引かれ思わず苦笑する。周りのクラスメイト達も、私が窓際から離れると目に見えてほっとした顔をしていた。心配されているんだろう、的外れな気が否めないけれど。

 

 ランチボックスを広げる。今日はキッシュのタルトだ。パイ生地でもよかったが、パイシートは丁度切らしていたし、一からパイ生地を作るには時間が足りなかったのだった。

 ベーコンしめじにほうれん草、ここにチーズとクリームソースを加えた組み合わせの美味しさは異様だと思う。ああ、幸せだ。惜しむらくは、学校では温めなおせないことか。

 同じ味ばかりでは飽きるだろうとミートソース味も作っておいたのは正解だった。玉ねぎとトマトとひき肉って、どうしてこんなに合うんだろう。下味の塩胡椒がいい仕事をしていた。

 一心に食べていた私は、ふと目線の先――昨日私が昼食時座っていたあたりにスザク君がいるのに気付いた。観察がてら暫く見ていると、スザク君はまるで私の視線に気付いたように此方に目を向ける。お互い、ばちりと目があった。

 私がにっこり笑顔を浮かべて手を振ると、スザク君は少し困ったような笑顔で、周りからは見えないくらいに小さく手を振り返してくれた。まるで目立ちたくないみたいだ、恥ずかしがり屋さんだったのだろうか。今朝は急に話しかけてきて有無を言わさず手伝ってくれた程の積極性をみせてくれたのに。

 彼なら私と違って転校初日から友人の10人や20人くらい作りそうだ、なんてことも思うのだけれど。彼の周りには、彼に話しかけようとする人すらいないようだった。

 

 私が手を振っていたのに気付いたらしいアナは、私の視線の先を確認して顔を顰めた。

 

「エレイン、迂闊な真似はやめたほうがいいわ」

「え?」

「今日きた転校生よ、あれ。気になることでもあった?」

 

 私が今朝、彼に本の荷運びを手伝ってもらったことを告げると、アナは呆れと憂いの混ざった溜息を吐いた。

 

「彼、殿下殺害の容疑者にあがっていた名誉ブリタニア人よ」

「そんな事件あったっけ」

 

 アナに残念なものを見るような目を向けられた。いやはや、世間知らずで申し訳ありませんね。

 しかし、名誉ブリタニア人ときたか。彼が日本に詳しいのに、常にどこか複雑そうだったのはこの辺りの事情が関わっていたのだろう。

 

 思考が脱線して、あさっての銀河へ向かう私を、アナが引き留め事件について説明しはじめる。「ゼロ」という単語が出てきて、そこでようやく例のテロリストの起こした事件の一つかと合点がいった。「ゼロ」がその事件の犯人だと名乗り出たことも思い出す。

 

「別に、誤認逮捕だったんでしょ。犯人はそのテロリストなんだから」

 

 何が問題なの、と首を傾げて訊くと、アナは眉間に深い皺を寄せ、口をぐっと結び閉ざしてしまった。

 アナが口にするのを葛藤している言葉がどんなものなのか、私が察することなんてできるわけもなく。さっさと諦めて、優しいカレンさんが何か教えてくれないかとそちらを見るが、彼女は彼女で何か考え事をしているらしく反応すらしてもらえなかった。つらい。

 と、アナがようやく話してくれた。話づらそうに、それでもきっぱりと。

 何でも、彼は風当たりが強い立場だから、あまり関わると巻き込まれて痛い目に合うかもしれないし、相手にも迷惑がかかるかもしれない、とかなんとか。

 

「ふうん。面倒くさいね」

 

「あんたって子は、何というか、もう、…まあいいわ。とにかく、世の中はエレインみたいな奴ばっかじゃないの。面倒臭いのはたくさんいるの。そういう人とのトラブルにあいたくなかったら、関わらないのが一番ね」

 

「……」

 

「正直私も怖いのよ。彼、何をするか分からないのだもの」

 

 あんまりな言い分に、私は誰に向かってでもなく肩を竦めた。

 “何をするか分からない”。確かにその感覚は、私も似通ったものを覚えたことがある。ただその感覚の対象は、他でもない『自分以外のすべての人間』だったけれど。

 

 

 

×

 

 

 

 放課後、アーサーは生徒会室に行ってみるらしかった。

 私はこれから部活。その後、兄に送りつける紅茶葉を買いに街に繰り出すつもりだ。

 

 部室に行くと、次の公演作品は『スカーレット・ピンパーネル』に決まったことが 連絡用のホワイトボードに書かれていた。

 

 スカーレット・ピンパーネル。フランス革命中、革命軍の手により無実の貴族がギロチンにかけられるのを、「スカーレット・ピンパーネル」なる正体不明の集団が手引きしてブリテン島に亡命させている、というところから始まる、愛に闘いになかなかお熱い物語だったか。最終的に下町に落ち延びていた皇太子を保護して国外逃亡を手引きする、とかなんとかだった気がする。部長が目を輝かせ魅力を語りながら、私に小説版を押し付けてきたのは記憶に新しい。

 

 この作品、実は初出の小説版は禁書扱いされている。今現在、神聖ブリタニアがブリテン島を領土としていない発端とも原因ともいえるナポレオン絡みの題材なのがまずいのだろう。(そんなものをどうやって部長が入手したのかは謎だ。)

 ただ、文学作品としての評価は高いし、ヒーロー的立ち位置にいるのは神聖ブリタニア人貴族だし、何より面白いものだから、ナポレオンを連想させるものを徹底的に排除し、史実は連想されぬよう架空の地名に全て置き換え手直しされた。それが演劇作品として国立劇場で公演され、大流行りしたのが半世紀ほど前。今では演劇作品として、メジャー…とはいかないまでも、それなりに有名どころな作品となっている。

 

 部長の独断だな、と私はひとりごちた。

 いつもなら、公演作品は部員と相談の一つや二つしてから決めるものなのだが、たまに発作を起こしたかのように、部長は独断で公演作品を決める。一度決めたら譲ってくれない、部員が折れるしかない。

 この発作のようなものは、何か社会現象であったり、大きな事件があった時、それに煽られたように起こる。今回はきっと、あのテロリスト、ゼロの宣言があってのことだ。

 テロリスト、革命軍、ギロチン。なんてきな臭いんだろう。はてさて、このタイミングでそのチョイス、部長は一体何を見ているのか。私には想像もつかない。

 

 そうやって部長の部長らしい残念な行動力と自分勝手さに、やれやれと私が肩を落としていると、広報物作成兼小物係のストークス先輩がやってきた。

 先輩が演劇部に入部したのは半年前のこと、何があったかは知らないが何かやらかして手芸部に居られなくなったのを部長が捕まえてきた、らしい。顔立ちは悪くないので、部員達はことあるごとに舞台へ引っ張り出そうとするのだが、彼は毎回拒み断り続け、今の所裏方しかしていない。趣味はレース編みだそうですよ、奥さん。

 

「アーキン、連絡をみたか? 部長がご乱心のようだ」

「あの人のアレはいつものことでしょう」

 

 ストークス先輩は、「確かにそうなんだが」と苦笑いして、ホワイトボード用のマーカーを手に取ってコツコツとボードを叩いた。

 

「今回は、部長手づから台本に手を加えるそうで」

「……うわー」

 

 楽しみなような、怖いような。さて、一体どんなスカーレット・ピンパーネルになってしまうのだろう。

 

「明日は、部長が台本改編に集中する故、『部室には来ないでくれ』とのことだ」

「了解です」

 

 ああ、部長はいつも以上に気合いが入っているらしい。あまり過激な内容にならなければいいのだけれど。

 

 ストークス先輩は、連絡ボードに 明日は部室入室禁止であることをキュッキュと書いてから、ふと思い出したように言った。

 

「僕はこの、スカーレット・ピンパーネルという作品は知らないが、部長が書いている『スカーレット・ピンパーネル』は確実に『スカーレット・ピンパーネル』じゃあない」

 

 怖い話やめてください先輩。何ですかそれ、もしかしなくとも部長のせいで演劇部取り潰しもあり得るようなくらいの台本ですか? ナポレオンを絶賛でもしたんですか? 部長ならやりそうだから困る。このご時世この国でその名は割と禁句、名前を言ってはいけないあの人となりつつあるのに。

 

「……学園に公演認可頂けることを祈っておきます」

「この世に出ない方が世の為な気もする」

「……」

 

 連絡ボードに、「部長自重」と切実な気持ちで書いておいた。

 

 

 

×

 

 

 

 帰り際、街に行ってはみたものの結局買ってきたのは紅茶葉だけだった。

 帰宅すると、庭の郵便ポストから、馴染みの白い封筒がひょっこり飛び出していた。取り出して差出人を確認すれば案の定、兄だった。夕食後にでも開封しよう。

 

 玄関のドアを開ければ、すでにアーサーが帰ってきていたらしく、彼用の足拭きマットがぐしゃぐしゃにちらかされていた。…奴の猫用玄関塞いでやろうかしら。

 

 さて、リビングでいつも通りくつろいでいるアーサーに、今日の学校侵入での収穫を問いかける。主に、ルルーシュ・ランペルージ氏への印象だとか、感想だとか。しかし、アーサーの返答は思わしくなかった。

 

「会えなかった?」

 

 見ていないものについては話せない、というアーサーに、私は眉根を寄せる。

 アーサーはお気に入りの爪研ぎを引っ張り出してきては、どこか澄ました態度で爪を丁寧に削りながら言った。

 

〈ああ。生徒会室だろう、いなかったぞ〉

 

 ……おかしいな。一時期サボっていたところ、最近は割と熱心に生徒会活動に参加しているというようなことを誰かが言っていたのだけれど。今日はたまたま居なかったのだろうか。

 無駄足だったな、と嫌みたらしくたらたら今日のことを言うアーサーに、悪かったわねとその額を何気なくがしがし撫でる。どうやら彼にとって気持ちのいいツボだったらしく、不本意な快感に悔しそうに身体を捩り暴れるアーサーは、みていて愉快だった。

 

「今日はあいにく用事か何かだったのよ、きっと。

寮に妹さんと住んでるってきいたから、明日はそっちをあたってみたらいいかもね」

 

「さて」と、私は手を洗い、先ほどアーサーを撫でたことでまとわりついてしまった毛を丁寧に落とす。綺麗になったところで、気をとりなおして夕飯の支度をはじめた。

 

 なかなか上手くできたトマトソースを堪能した夕食後、私は兄からきた手紙を開封した。

 

 相変わらず何をやっているのかはわからない。仕事のことは一言も漏らさないあたり、根が真面目な兄らしい。

 同室の同僚がモテて癪だとか、淹れたてのコーヒーを飲んで舌を火傷しただとか、とりとめのない日常的なことの報告を少ししたかと思えば、あとは私をひたすら可愛がり心配するような内容。いつも通りだ。

 

 読み終えて早速に筆をとった。便箋はシンプルなデザインのもの。ワンポイントの黒猫が気に入っている。どこぞの猫とは違って、変な模様もついていないデフォルメされた可愛い猫だ。

 

 さて、何を書こうか。最近の出来事で話題にできそうなことといえば、友人ができたことか。……スザク君にも私のことが友人と認識されているといいのだけれど。これで一方的にこっちが勘違いしていただけだったら、悲しいなあ。

 好きな人については、書けるはずもない。兄に知られるのは、どうにも恥ずかしいし、報せたら兄がどんな行動に走るか分からない。第一、軍関係の施設に届くであろう手紙だ。兄に届くまでに誰が読んでいるか分からないのに、態々醜態を晒す必要もない。

 結局、それ以上新たな話題は書くことなく、紅茶を一緒に送ることを書いて締めた。

 

 ソファに身体を沈ませる。なんだか疲れてしまっているようだ。このところの慌ただしさが原因だろうか。

 どうにも、落ち着かない。何かを予感している。――一体何を?

 言葉にできない妙な不安感を洗い流すように、水をかぶるようにシャワーを浴びに行く。早く寝て、忘れてしまおう。目が覚めた時には、この不安が消えていることを願って。

 

 そんなことを考えていた筈なのだが、布団に入った頃には全てが全て忘却の彼方で、不安感など一切なくて。消えたものはどこへいってしまったのか不思議に思いながらも、自分の図太さには感謝しながら穏やかに眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

(エレイン・アーキンの日記 7)

 兄へ、アールグレイの紅茶葉付きで手紙を送った。もしかすると紅茶に手紙がついているのかもしれないけれど。喜ぶ兄が見えるようで、嬉しいような、照れ臭いような、調子に乗るなと小突きたいような。そんな気分だ。

 

 スザク君への皆の態度は不思議でならないけれど、そういうものらしい。本当に不思議。

 アナに「私たちに危害を加える気があるか、スザク君に聞いてきてあげようか」なんて言ったら叩かれた。その質問がスザク君に失礼だったというのはわかるけれど、多分アナが私を叩いたのは、そういうことではないんだろう。スザク君がどう答えようと、疑うことはやめない気がした。

 私も、彼を疑わないのは、肝心のところ彼を信じていないからかもしれない。いや、信じてはいるのかな。ただ、裏切りを最初から甘受する気でいるだけで。酷い話だ。とはいえ、実際裏切られることなんてそうそうあったことではないので、大概が杞憂なのだが。ああ、アナ達も似たような感じで疑うことがやめられないというなら、少しわかるような気がしなくもないかもしれない。スザク君にとってはどっちもいい迷惑だろう。ここで謝ってもどうしようもないだろうけれど、ごめんね。

 

 部活の次の公演、スカピンなのが嬉しい。しかし、ストークス先輩が言われていた不穏な言葉は、やはり気になる。部長は一体何を書くつもりなのだろう。部長が変わったことを書くのは今に始まったことではないけれど。最近の部長はどこか調子がおかしいような気もして、少し心配。もっとも、それなりに付き合い長いはずながら一ミリも理解できない部長の考えているであろうことなんて、予想がつくはずも理解が及ぶはずもないのだけれど。




(スカーレット・ピンパーネルについて)
「紅はこべ」とも。イギリスの小説、バロネス・オルツィ作。フランス革命時期が舞台。
残念ながら作者は原作小説は読んだことがありません。宝塚星組公演で惚れ込みました。

作中でいう『スカーレット・ピンパーネル』はざっくり公演ストーリー寄り+神聖ブリタニア風味です。尚、それをこれから部長が捻じ曲げ料理するそうですよ。ぶるぶる。

現実では別に禁書扱いなんてされてません。戯曲化されて流行るまで、小説出版させてもらえなかったとかなんとかはあったみたいです。せちがらい。
神聖ブリタニアは、ナポレオンさんに割と散々な目に遭わされてる(海戦敗北・ロンドン侵攻)ようなので、妙な苦手意識がある、その話題は腫れ物扱いしている…という勝手な設定を盛りました。


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08 偽りと仮初め

 今は放課後。アーサーはといえば、麗しのルルーシュ・ランペルージ氏を一目見に行った。

 彼とは後で、学園の外れの建物で落ち合う予定だ。あの辺りなら普段から人通りも少ない。私とアーサーが結びつけられて、猫持ち込みを咎められるなんてことにはならない、はずだ。多分。

 

 私がここに来たことに、特に理由はなかった。ただ、来たことで、部長の様子はなにとなく察することができた。随分と筆がのっているらしい。部屋の外にまで聞こえる高笑いが怖い。

 

「ああ…これは酷い」

 

 部室前に放り出されたらしい連絡用のホワイトボードには、本日入室禁止の旨と昨日の私のメッセージへの返事があった。

 己が昨日書いた『自重』の字の下には部長の筆跡で力強く『しない』と書き足されている。いや本当自重して下さいよ部長。

 まだ見ぬスカーレット・ピンパーネルに、私はまともであれと切に祈った。

 

 

 さて、アーサーとの待ち合わせの時間も近くなり、まったり階段をのぼりはじめる。

 何も、最上階で待ち合わせなんて しなくていいと思うのだけれど、ナントカと煙は高いところが好きという言葉に漏れず アーサーは高いところが好きらしく、昨日の探検で見つけた、屋根に繋がる窓のあるこの建物がいいとのことだった。

 

 普段この建物の鐘の音は聴いたことがあったにしても、中になんて入ったことがなかったから、今はちょっぴり冒険気分だ。誰もいないようで、しんとした空間に自分の足音だけが響く。

 どれくらいの段をのぼったろうか、もう数えるのもやめてからしばらくして、階段が途切れた。代わりに梯子が上に続いている。ここから鐘の方へ出られるらしい。

 梯子にはのぼるかどうか少し迷って、結局やめた。アーサーが屋根から来るとしても、鐘があるところまでは一度この辺りを通ることになる。ここで待っていても合流には問題ないだろう。

 

 窓を開けて外に顔を出せば、吹き込む風が肌をなぜた。その心地よさに気を緩めた時、ことは起こった。

 

 

―― こちら生徒会長のミレイ・アッシュフォードです。 ――

 

 

 突然耳に飛び込んだ威勢のいい会長の声に、私はびくりと肩をはねさせる。しかし、本当の衝撃はこの後だった。

 

 

―― 猫だ! ――

 

 

「……猫。」

 

 

 嫌な予感しかしない。

 

 

―― 校内を逃走中の猫を捕まえなさい! ――

 

 

 私はこめかみをおさえた。アーサーには、誰にも見つからないようにと強く言い含めていたはずなのに、どうやら見つかるどころか、追いかけられるようなドジを踏んだらしい。しかし、あの生徒会長に目をつけられるなんて、また厄介な。

 生徒会長のお祭り好きは有名だ。遊び心のある人で、あの融通のききっぷりには演劇部は非常にお世話になっているけれど。悪ノリが過ぎることが玉に瑕だと思う。

 

 さて、私はこれからどう行動しようか。

 

 

―― 部活は一時中断! 協力したクラブは予算を優遇します ――

 

 

 この一言で、私の次に起こす行動はアーサー捕獲の方向になった。彼には演劇部予算の尊い犠牲になってもらうのだ。

 彼は約束には律儀であるから、待ち合わせ場所に来たところを捕まえて突き出すことにしよう。

 

 

―― そしてぇ ――

 

 

 まだあるのかと私は耳を澄ませる。続いた言葉は、私の思考を止めさせるのに充分な衝撃を抱えていた。

 

 

―― 猫を捕まえた人にはスーパーなラッキーチャンス! 生徒会メンバーからキッスのプレゼントだー! ――

 

 

『きっす』…?

 

「生徒会、カレンさん、ルルーシュ・ランペルージ氏、キッス…うっ頭が」

 

 例の一件を思い出した私は、その場に崩れ落ちた。いくら立ち直ったつもりでも、ショックなものはショックであって、キーワードすら鋭いナイフとなり容赦なく柔なハートに刺さってくる。とてもつらい。

 数分経って、ようやく放送の内容に理解が至る。――アーサーを捕まえれば、もれなく生徒会役員の誰かのキッスが着いてくる。

 私はカッと目を開いた。

 

 

―― 猫をー! 猫を捕まえたら所有物は私に私に私にげっふげふ ――

 

 

「ええ会長、お待ち下さい。アーサーは必ず私めが貴方様のもとへ」

 

 舞台の上で台詞を口上するがごとく、劇調がかって私は言った。数秒前の落ち込み様は、今頃星の彼方だろう。

 はてさて、今か今かと私が待ち構えていれば、何やら珍妙な仮面を被ったアーサーが窓から飛び込んでくる。

 

「御機嫌ようアーサー、気分はいかが?」

 

 ガシッと捕まえ、仮面を剥ぎ取った。

 所有物…ってこれかしら? 所有というより装着してるけど。ともかく、これをアーサーと一緒に届ければミッション・コンプリートだ。

 

「変な仮面ね。どこかで見たことがないこともないような気のするようなしないような」

 

〈ゼロの仮面だ〉

 

「へー、よく出来た模造品ですこと。再現率高いんじゃない?本物の形詳細忘れちゃったけど」

 

〈本物だ〉

 

「まっさかぁ。なんで本物がこんなところにあるのよ」

 

 ちゃんちゃらおかしいことをアーサーが言うので、私はつい笑ってしまった。

 笑いながら私は、手にした仮面を弄り遊び始める。ひょっこり飛び出たボタンがあったので、ぽちっと押した。

 

「おおー、こうして外せるようになってるのねえ」

 

 よく出来ている。小道具の参考にでもさせてもらおうかしら。

 

〈ルルーシュ・ランペルージの部屋で見つけた〉

 

「なん、ですって」

 

 もしや、まさか、ルルーシュ・ランペルージ氏は、ゼロの隠れファンだったのか!

 

「どうしよう…趣味悪いと思ってた仮面すら良く見えてくるわ」

 

 これが恋の魔法! なんて言っていたらアーサーに呆れた目を向けられた。何よ、いいのよ、恋は盲目。きっとそういうものだから。

 

「しかしこれ、自作したのかしら…」

 

 そう思うと感動に手が震えてくる。はあ、力の入りようのわかるクオリティ、彼のイメージに違わず実際器用なのだなとときめいてしまう。

 それにしても、ゼロに対してなかなか社会的には批判の目が向くところ、彼がゼロの隠れファンだなんて。ダークヒーローに憧れるお年頃なのかもしれない。男の子だもんね、けどこの歳になって表にして言うのはきっと恥ずかしいよね、黙っておくから安心して! なんて、心の中で叫んでおいた。

 

〈おい、本物だと何度言えば。ルルーシュ・ランペルージがゼロの正体なのだ〉

 

「はっ、本物のはずないでしょって。現行犯ならまだしも、仮面一つで判断するのは早計というものよ」

 

 ぺちんと額の模様に向かってデコピンしてやれば、アーサーは悔しげに唸った。

 

〈うぐぐ〉

 

「それより、実際彼を見た感想をききたいわ。私の麗しの君はどうだった?」

 

〈……あれは、簒奪者の目をしているな。気に入らん。〉

 

「ええ? 私は革命者の目をしていると思ったのだけれど」

 

 意見が割れるなんて、珍し…くもなかったか。アーサーとは味の好みで喧嘩しっぱなしだ。

 

「まあいいわ、帰るわよ」

 

 お前は帰れないだろうがな、アーサー! さーあ生徒会室に直行だ!

 なーんて、思っていたら。階下から足音と人の話し声が響いてきた。

 私は、階段を降りようとしていた足を止めた。

 

 

「なななな、なんでルルーシュ・ランペルージ氏の声が聞こえるのかな? それにスザク君のも」

 

 息を荒げそうになるところを必死に抑え、耳を澄ます。自分の呼吸音で麗しい声を掻き消すわけにはいかない。そして彼の言葉は、一字一句聞き漏らすわけにはいかない。

 

〈ここに向かっているのだろう〉

 

 アーサー、念話邪魔!

 ルルーシュ氏は、スザク君に古い話を持ち出すな、だとかスザク君が体力馬鹿だとか言っていた。確かに、聞こえてくる二つの足音のうち、一つは止まる気配もなく近付いてくるけれど。これがスザク君だろうか。

 そこまで考えたところで、アーサーの言葉の内容にまで意識が向く。ここに、向かっている?

 

「は? なんでルルーシュ・ランペルージ氏とスザク君がここに来るのよ!?」

 

〈追われていたんだ〉

 

「もっとそれ早く言ってよね! あああ、ええと、逃げる場所、逃げる場所…」

 

 

 鐘にまでのぼる梯子か、屋根に出る窓しかない。抜け道なんてないので、私には上にのぼるほかないのだ。上にのぼったところで、追い詰められるのを先延ばしにすることしかできないのだけれど。

 屋根の上は少々怖かったので、梯子をのぼることにした。アーサーに仮面を被し、肩に乗せては駆け上る。ハシゴの先は、吹き抜けて青い空、そして鐘。

 

 何だか、煙突掃除屋にでもなった気分だ。チムチムニィ。

 

 下の方では、スザク君が到着したらしい声がする。早い。次いで、ルルーシュ氏も着いたらしい。彼らは、窓から屋根をつたいこちらに登ってくる気のようだった。勇気ありすぎるわ。

 

 アーサーを囮にして、私は鐘の後ろから彼らの様子を伺う。――ルルーシュ氏が、バランスを崩したのが見えた。

 悲鳴が聞こえる、野次馬がいるらしい。けれども私は、この状況でも不思議と落ち着いていた。取り乱しもせず、考える。思い出すのは、昨日の朝、スザク君に言われた言葉。

 ――それくらいの高さじゃ、余程打ち所悪くなければ死なないのにね。

 確か、そう。私が窓から飛び出しそうになったことを話した時、彼は確かに、そう言っていた。

 

 でも、もし当たりどころが悪かったら?

 そもそも、死ななかったにしてもここから落ちれば怪我の一つや二つは免れないよね?

 

 なら放っておけないじゃないかと思うと同時に、私は屋根を駆け出していた。ルルーシュ氏の名を呼ぶスザク君を追い抜き、そのまま飛びつくようにルルーシュの手を掴む。

 

 ああこの手洗えない。私が至福の気持ちでいたところ、スザク君が叫んだ。

 

「無茶するなぁ!」

 

 その言葉には、少しの呆れが混じっている。そうして彼に腰のあたりを抱えるように引き上げられるのに、私は状況を理解した。

 私の両手はルルーシュ氏を掴んでいる。急傾斜の屋根の上に腹這いで止まっていられるはずもなく、スザク君に支えられているから、私は落ちずに済んでいるわけだ。

 そうか、何だか飛べる気でいて。彼を掴んだその後のことはちっとも考えていなかった。スザク君がいなければ、私もルルーシュ氏と一緒に転がり落ちているところだったのか。

 

「いやあ、助かったよスザク君」

「その言葉は、本当に、この状況から、助かってから、言ってくれる?」

 

「それは失敬」

 

 二人分の体重はきつかろう、それを片手で支えているのだ。ここは少しでも負担の軽減をしてあげないと。

 自分にできることは何かと考えた私は、ルルーシュだけでも引き上げ屋根に乗せてしまおうと腕に力を込めた。

 

「動かないで」

「ゴメンナサイ」

 

 スザクからストップがかかり、私は身体を止める。

 

「腰を支えておくから、屋根にゆっくり足をつけて、そう。そのままルルーシュのこと、引っ張れる? 僕も一緒に引くから」

「やってみる」

「じゃあ、せーのでいくよ。せーのっ」

 

 カラーンと、まるでタイミングを合わせたかのように鐘が鳴る。にゃあん? なんてとぼけた鳴き声が聞こえた。お気楽アーサーめ。

 

 ともかく、無事に。ルルーシュ氏と私は助かって、私達は屋根の上から建物内まで戻ることができた。

 

「で、どうしてあんなところにいたの?」

「知り合いか、スザク」

「うん、昨日知り合った。友達だよ」

 

 あっ、泣いてもいいかな。スザク君の友達認定が嬉しすぎて辛いや。

 

「ここには、その、えへへへへ」

 

 笑って誤魔化す作戦を実行したが、ルルーシュ氏に物凄く怪訝な顔をされた。

 

「もしかして、また飛べる気がした、とか?」

 

 ナイス、救いの手だよスザク君! 私はこくこく頷いた。

 

「飛べた?」

 

 スザク君の問いに、私は笑って答えた。

 

「人に空は飛べないね」

 

 

 

 

 私がそう答えた頃。にゃあん、とまたひとつ鳴き声が聞こえたかと思えば、その鳴き声の主が鐘に繋がる梯子を落ちてくる。

 

「あっ、猫」

 

 スザクの上げた声に応えるように、私はアーサーを捕まえ抱き上げた。

 

「確保しましたっ!」

「だね」

 

 私は背筋を伸ばしてから、確保をアピールするように、二人の目前にアーサーを掲げる。二人はそれを見て、ふっと安心したように息をついた。

 それから、ルルーシュ氏は柔らかな表情で、私とスザク君に告げた。

 

「俺は少しやることがあるから、二人は先に行ってほしい」

「やること?」

 

 首を傾げるスザク君に同じく、私もきょとんとしておく。演劇部で鍛えた演技力は伊達じゃないのだ。

 

「……見ていないのか」

 

 ぼそり、と呟かれたルルーシュ氏の言葉にも、私は聞いていない振りをした。

 そう、私は何も聞いてない、私は何も見ていない。いやもう本当に、特に仮面なんてものは一切見てないから、安心して回収するといいと思うな!

 

 一方そのルルーシュ氏の呟きを拾ったスザク君は、不思議そうに問いかけた。

 

「何かあるの?」

「いや、大したことじゃないんだ」

 

「スザク君」

 

 彼らの話を断つように、私はスザク君に話しかける。

 

「会長さんが待ってるよ、行こう」

「あ、うん」

 

 彼はルルーシュ氏を気にしながらも、私についてくるように階段を降りはじめた。

 

「会長さん喜ぶかなぁ」

 

〈おおお~エレイン貴様謀ったなこの薄情者ーっ〉

 

「おっと」

 

 私の腕の中で暴れだし逃げそうになったアーサーを、スザク君はひょいとつまみ抱えた。

 

「駄目だろう、暴れちゃ」

 

〈ぬおー!お前は先日のっ。小僧、またしても邪魔するか!〉

 

「おーよしよし」

 

 うにゃんにゃと怒りの猫パンチがスザク君に繰り出されるが、スザク君は軽くあしらってしまう。

 

〈ぐっ…俺は、無力だ…〉

 

「はっはっは」

「どうしたの急に笑い出して」

「いやなんでも」

 

 スザクに不審がられたことをおしゃべりなアーサーのせいにして、私はアーサーを睨んだ。とばっちりだと抗議の念話が飛んでくるが、あーあーきこえない。

 

 建物から出て、私達は人々集う庭へと出た。すぐさま人が駆け寄ってくると思われたそれは、猫を抱えているのがスザク君だったからか、どこか戸惑い迷う様子である。英雄の凱旋だぞ! もっと熱狂したような歓迎ムードでいいと思うのだけど。

 思い切ったようにシャーリーが、一歩前に出てきては、スザク君に礼を言った。それを切っ掛けに、周囲の者達も彼を讃え歓迎する雰囲気になってゆく。――ピンときた。これは皆に避けられていたスザク君が、一気に友達を増やすことになるイベントだ!

 

「わ、私も…」

 

 お友達欲しい、とスザクの方へふらふら歩みかけた私の頭をぺちりとはたいて止める者がいた。アナだ。その側にはカレンさんの姿もある。

 

「あんたはお荷物だったでしょ」

「そうでした」

 

 悲しきかな、屋根上では戦力にすらならなかったのだ。

 

「でも、とにかく無事でよかった」

 

 そう言ってふわりとカレンさんが優しく微笑む。天使か。

 

「ところでさあ。エレイ~ン? 誰とキスするつもりだったの?」

 

「きす…生徒会メンバーとキス…」

 

 アナの言葉で、ふっと真顔になる。

 ――そうだよ、キッスだよ。

 まるでフラッシュバックでもするように、その時私の脳裏に浮かんだのは、ほんの数日前に考えた、それもほんの気の迷いとも思える内容で。

 

「……カレンさん、カレンさんって生徒会メンバーだよね?」

「えっ、待ってまさか」

 

 カレンさんの肩に、私は手を掛ける。げっ、とアナが数歩下がり、周囲ではキマシタワー!とざわめきが起きた。

 艶やかに、恐ろしいまでに美しい微笑みを浮かべることを意識して、カレンさんの頬をなぞる。頬がほんのり熱いのは、間接キッスが目の前だからだろうか。

 

 カレンさんの表情が引き攣り、彼女が悲鳴をあげたところで、私はトントンと肩を叩かれた。後ろを振り向けば、スザク君と車椅子の少女がいる。確かこの少女は、ルルーシュ・ランペルージ氏の妹様、ナナリー・ランペルージ氏。その妹様が手をこまねくので、一体何かと私が顔を寄せると。

 ちゅっと頬にキスが落ちた。

 

 ――かわいいキッスを貰ってしまった。

 私はキスの落とされた頬に触れる。妹様は、にこにこと穏やかに微笑んでこちらを見ていらっしゃる。そんな妹様に、なんだかふわふわとした気分になる。

 

 (ルルーシュ氏の妹様となると、ルルーシュ氏と親は同じ、つまり同じ血の流れる…同じ? つまり妹様とルルーシュ氏は、同じ?)

 

 私が正気だったなら、混ぜるな危険、明らかに同じにしてはいけないものだとの判断ができたのだろうが、この時の私は真っ当な思考を放棄していた。

 上ってきた熱に顔をぽっと紅く染め、私はその場にへたり込む。

 あの、あのルルーシュ氏の妹様、ひいてはルルーシュ氏からの頬キッスである。(違う) 一生分の運を使い果たした気さえする。空が綺麗ですね! 私死んでもいいわ。

 ただ、心残りがあるとすれば――

 

 私はカレンさんをちらりと見る。

 

 (……間接キス、できなかったな)

 

 じっとその唇を見つめていると、カレンさんは逃げるように人波に隠れてしまった。残念。「あんたそういう趣味だったの」とアナの言葉が聞こえたが、一体どういう趣味のことを言っているんだろう? これがさっぱり分からない。余談だが、この後からカレンさんにはやんわりと距離をとられるようになった。何故だ。

 

 

 

 

「エレイン、いつもお世話様ね」

「ああ、会長さん。皆さんも。いえ、お世話になっているのはこちらです。どうされました?」

 

 ミレイ会長に声を掛けられ、そちらを振り向く。先程まで、アーサーを抱えたスザク君と話をしていたと思うのだが。

 

「ちょーっと聞きたいことがあってね」

 

 ミレイ会長はそう言い、真面目な顔をする。まさか私が飼い主とばれた? それとも部費の予算優遇の件?

 

「猫を捕まえる時、その猫何か持ってなかった?」

「いえ、何も」

 

 ゼロの仮面なんてどこにもありませんでしたよ?

 

「そう。……あーっ、ルルーシュの恥ずかしい写真ーっ」

「ポエム手帳!」

「ラブレター…」

 

 生徒会の皆様は、どうやらアーサーがそんなものを持っていたと想像していたらしい。なるほど、それで追われていたわけか。別に学園に猫を持ち込むことが禁止されていたわけではなかったのだ。私はほっと息を吐く。これで万が一飼い主だとばれてもセーフだ、セーフ。

 

 

 その後、アーサーは奇しくもルルーシュ氏の妹様によって「アーサー」と名付けられ、どういうわけか生徒会で飼われることになった。……うちの猫だとは言い出せない空気になってしまった。

 

 そうして、私が空を飛び損ねた件は幕を引く。

 

 

 

 

 

 

 

 

(エレイン・アーキンの日記 8)

 二人目の友達ができた。堂々断言できてしまう。相手も公認なのだ。何て素晴らしい。

 ほら私はぼっちじゃないんだぞー! と思っていたら、スザク君は持ち前の人の良さと明るさで、すぐに友達を増やしてしまった。いや、良いことなのだが、良いことなはずなのだが。そうか、彼が私と友達になり得たのは、彼の力が大きかったのか。

 

 友達といえば。ルルーシュ氏はスザク君が転校してくる前から、彼と友達だったんだろうか。7年前がどうだとか、スザク君が言っていた気がするのだけれど。出会う前から友達だとか、スザク君の力凄まじいな。それとも、既に出会っていたのだろうか。…普通に考えて、出会っていたとみるべきだわよね。会わずに友達になってたとかいうんなら、私は血の涙を流すわよ。

 7年前。その頃日本はブリタニアの属国になっていたろうか? エリア11の発足年は、いつだったか。自分のことすら朧げなのに、世界がどうとか思い出せないわ。考えるのをやめる。

 

 ルルーシュ氏に飛びついたことに関しては、冷静じゃなかったのね、なんてアナに言われたけれど。至って冷静だったわよ、私は。



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09 紅はこべ

 スカーレット・ピンパーネルの脚本が遂に仕上がったと聞いて、戦々恐々部室に向かう。もう嫌な予感しかしていない。

 部室前の連絡ボードには――「本日部長欠席」の文字。私は思わず小さく呻いた。

 部長は、部長にとって満足いく脚本が仕上がった時、そこで燃え尽きてしまったかのように、次の日から暫く学園を休むのだ。数日すればいつも通りなのだが。

 つまり、この「本日部長欠席」の文字は、スカーレット・ピンパーネルが部長の満足いく作品になったことを表しているわけである。

 

 部室に踏み入ると、部員達は力尽きたように机に突っ伏したり、この世の絶望でも見たように虚ろな目をしていた。

 

「アーキン、来たか」

「遅いぞヒーロー」

「パーシー役はお前だ」

「待って下さい先輩方、どうして男の役が私に回ってくるんですか」

 

 ちなみに、パーシーはイギリス貴族にして「スカーレット・ピンパーネル」のリーダー、要は劇の主役である。

 正式な配役は部会議で話し合い決まるわけだが、こんな空気では私が問題作の主役を務めることになりかねないではないか。

 

「やー、これはアーキンにしか任せられないって。なあ?」

「ああ、そうだな」

「似合うと思うぞ」

「それ、絶対厄介を押し付ける気なだけですよね」

 

 皆貧乏くじはひきたくない(the straw long is better)のだ。ああ、普通の台本だったなら、こうはならないだろうのに。

 余程の内容なのかとため息をつきながら、エレインが視線を何気なく横にやると、一人だけ生き生きとしていた後輩と目があった。彼女は、ずっとこちらを見ていたらしい。目があったことに気づいて、何かに期待するように、目をキラキラさせていた。いや、キラキラというよりギラギラかもしれない。獲物を見る獣の目だ。えっ、怖い。

 

「エレイン先ぱ――」

「ストークス先輩!」

 

 (こうはい)から逃げるように、私はストークス先輩へと声をかけた。台本をめくる度、こめかみを揉んで唸っていた彼は、私の呼びかけに顔を上げると、私へと台本を押し付けてくる。それから、死んだような目で私に問いを投げかけた。

 

「スカーレット・ピンパーネルとは、パワードスーツを着て高笑いしながらギロチンアクスを振り回すような話なのか?」

 

 違うと思います。

 

 

 

 

 押し付けられた台本を一通り読んだ私は、乾いた笑いを漏らした。

 

 市民革命でフランスを追われたルイ皇太子殿下は、一度市井に身を隠し、その後名を変え身分も偽り、ブリタニア貴族のパーシー・ブレイクニー准男爵を名乗る。

 

 この時点でちょっと意味がわからない。いくらなんでも無茶苦茶だ。どうして身を隠さなきゃいけない皇太子殿下が突然貴族を名乗れるのやら。もちろんのこと、そんな設定は原作にはなかった。

 

 パーシーは、表の世界・ブリタニア社交界では伊達男を演じ、裏では「スカーレット・ピンパーネル」の首領として、革命軍に捕らえられた罪なき貴族を、鮮やかな手際と大胆な知略で助け出していた。

 

 そんな「スカーレット・ピンパーネル」を撲滅しようと、革命政府はブリタニアに革命政府全権大使ショーヴランを送り込む。

 その後、なんやかんやあってパーシーが危機に陥るも、真実の愛と一欠片の勇気が革命政府の企みを打ち砕く。……打ち砕くというか、徹底的な破壊だった。

 

 ラストシーンで、パーシーが革命政府から略奪したナイトメアフレームで、ショーヴランと一騎討ちするあたりは、もうどうかしているとしか思えなかった。

 

「これ、フランスとは名ばかりのブリタニア帝国で、革命政府がまさしく現ブリタニア政府、『スカーレット・ピンパーネル』はゼロの率いるテロリスト集団ですよね」

「それに気付いてしまったか」

「だってこれ、思いっきりパーシーがゼロって名乗りをあげてるじゃないですか。仮面とマントまでつけて!」

「さてアーキン、マントの規格を測るから準備室へ行こうか」

 

 ストークス先輩の唇が綺麗な弧を描く。彼の端整な顔も相まって、完成された一枚の絵のような笑顔だった。

 彼の手は、私の肩に置かれていた。私を見る部員たちの視線が、もう逃げられないよといっていた。

 

「先輩の男装楽しみです」

「君の狙いはそれか!」

 

 わきわきと手を動かす後輩を避けながら、私はストークス先輩に連れて行かれるのだった。

 

 

 

 ×

 

 

 

「ただいま」

 

 どっと疲れた身体を、ソファの上に投げ出す。革張り生地に打ち付けた肌が痛かった。

 

 ペット禁止とはなんだったのか。アーサーはルルーシュ氏の妹様に見初められ、ついでにミレイ先輩にも気に入られ、生徒会で飼われることになったらしい。翌日には生徒会室に猫タワーが運び込まれていた。財力を感じる。ちなみに、妹様によって奇しくも『アーサー』と名付けられたそうだ。

 

 そのため、この家に私は一人となった。

 ひどく静かで広い空間に、恐ろしくなって窓を開ける。それでもなんだか、心が落ち着かなくて、気持ち悪くなってキッチンに駆け込んだ。

 冷蔵庫に耳を当てて、稼動音で頭の中をいっぱいにした。ついでにオーブンのタイマーを目一杯捻る。目盛りが0になりかける度に、またぐるんと捻る。捻って、捻って、それを何度繰り返しただろうか。

 チン、となってしまったオーブンに、現実に戻ってきたような心地でハッとする。戻ってくるも何も、自分はずっとここにいたはずなのに。気味が悪いような、釈然としない気分だった。

 

〈エレイン〉

 

「何よ、アーサー。……アーサー?!」

 

 いつの間にか、目の前にいたアーサーがにゃあんと鳴く。

 

〈猫祭りのお知らせだ、エレイン〉

 

「何それ」

 

〈近日行われるらしい祭りだ。生徒会の者共が猫に扮するらしい〉

 

 猫耳と猫尻尾をつけたルルーシュ氏を想像する。似合うなあ。鈴のついた首輪つけたいなあ。そのままおうちで飼いたいなあ。おっと、これ以上の妄想はいけない。

 思考を戻して、「いやそんなことより」と、気になるところをアーサーに尋ねる。

 

「どうしてここに」

 

〈修羅場を見たのでな、報告をせねばならんと思ったのだ〉

 

「修羅場?」

 

 疑問符を頭上にたくさん並べた私に、アーサーはカレンさんとシャーリーが、ルルーシュ氏のことでひと悶着起こしたことを話す。最終的に、シャーリーの誤解であってカレンさんはルルーシュ氏に何の感情も抱いていない、という風に話はまとまったらしいが。「女と女の戦いは怖いな」とアーサーは尻尾を揺らす。お前も雌だよ、アーサー。

 

〈あとはあの小僧が、ラッキースケベをかましおった故、手を噛んでおいたぞ。こう、がぶりとな!〉

 

 フフンと、まるで武功をあげたかのように、得意げにゴロゴロ喉を鳴らすアーサーだが、どうも私には八つ当たりとしか思えなかった。

 

 

 

 ×

 

 

 

 週末。部長が台本の件で停学中であるため、本日の部活は活動自由だった。とはいえ、皆顔をだす様子だったので、私も学園に来ては部室に向かう。

 

 部室からは数人の声。聞こえた内容が雑談なところから推測するに、小道具作りでもしているのだろう。

 

 部室に入れば、案の定皆ちくちくペタペタ小道具作成中だった。台本の読み合わせに誰か誘おうかな、なんて私が考えて部員達を見ていると、ストークス先輩と目が合った。

 彼は小さく手をこまねく。何か用事があるらしい。私がひょこひょことついていけば、彼は黒い布の塊を渡してきた。これは何だと首をかしげる私に、衣装にレースを縫いつけていた女子部員が口を挟む。

 

「それ、ストークス先輩が三日間夜なべして縫い上げたマント」

「えっ夜なべ?! 三日も?!」

「思いの外楽しくて…つい」

 

 先輩はそう言うと、照れくさそうに視線を彷徨わせた。彼のお肌は相変わらずつるっつるで、夜更かしの影響は見られない。羨ましい限りである。

 制服の上から羽織ってみれば、これまた私にぴったりのサイズだった。採寸したからには、当たり前といえば当たり前なのかもしれないが。自分専用に仕立てられたということがどこか嬉しい。長い丈は床に触れそうで触れない絶妙な調整具合だ。

 

 周りを少し空けて貰い、その場でくるりと回ってマントを翻し、キュッと靴の音をさせてはポーズを決める。小道具を作る手を止めた部員から、ぱらぱらと拍手が起こった。

 

「どうだろうか」

「ピッタリです」

 

 先輩は、ふむと頷いた。

 

「マントの下に着る衣装も、制服と同じくらいの厚さの布地を使う予定だ。肩幅もそれに合わせて作るし、問題なさそうだな」

「あれ、新しく作るんですか。てっきり、いつぞやの軍服を流用するものかと」

「あれは男用だろう。サイズを合わせて仕立て直すより、新しく作ったほうが早い。第一、ゼロは軍服なんて着てないだろ」

「そこ拘っちゃいますか…」

「拘ってるのは専ら部長だがな」

 

 呆れたような先輩の台詞に、確かにと私も頷く。部長はいつもそうだ。あれは、中等部の頃。部長のこだわりでかぼちゃパンツをはかされたことは未だ忘れていない。あの頃から、どこか変な人だった。それよりも濃い変人が上の代にはいたから、部長は浮くことなく、むしろ部に溶け込んでいたけれど。

 

 と、部室に急ぎ駆け込む影があった。いつぞに私に獣の目を向けてきた後輩だ。彼女はひとつのDVDケースをその手に持っていた。

 

「本国のスカーレット・ピンパーネル舞台公演映像借りてきました!」

 

 ケースを掲げ、彼女は誇らしげに胸を張る。

 

「おー、噂の。これで本来のスカピンが分かるわけだ」

「今から観るのが怖いんだけど」

「演出メモは用意できてるわよ」

「テレビつけようテレビ」

 

 ガタガタと椅子や机を動かして、皆でテレビの前に集まった。さて、DVD再生画面に切り替えようという時に、偶然流れていたニュースに、ぽつりと誰かが呟きを漏らす。

 

「あれ、会長?」

 

 一度はDVDの再生画面になったものの、その声にすぐに誰かがリモコンボタンを押してニュース画面に切り替える。

 

 そこには、確かに我らがアッシュフォード学園生徒会会長、ミレイ・アッシュフォードの姿があった。側には生徒会役員であるシャーリーとニーナの姿がある。周りにも、何人もの人がその部屋には詰めており、全員がその場での自由を奪われていることが見てとれた。

 ニュースキャスターは、「日本解放戦線」を名乗る旧日本軍関係者が、ホテルジャックを行っていることを告げる。つまり、先ほど映った彼ら彼女らは、人質というわけだ。

 

 暫く皆だんまりで、画面を見ていた。事態は動く気配がなく、画面は現場中継とテロリスト達の犯行声明を行ったり来たりしている。

 

「DVDは、明日にしましょう」

 

 テレビの一番側でDVDデッキをいじっていた後輩が、そう言ってDVDを取り出す。否を言う人はいなかった。

 その日の部活は、その場で終了となった。

 

 部室に残った部員の幾人かは、ニュースの続報を待ちテレビを見守るらしかった。私は、そんな彼らに背を向ける。

 

「来て早々帰る羽目になるとは思ってなかった…」

「仕方ないですよう、あんなニュースみちゃったら」

 

 へらりと笑って、私の呟きに反応したのは、例の獣の目を向けてくる後輩だ。

 

「えっと、」

「ふふ。先輩、私の名前覚えてませんよね」

「……ごめん。どうにも私は、記憶力がよくなくて」

「うわ、毎回台本の台詞さくさく覚えちゃう先輩がそんなこと言っても説得力ないですよ。 アリッサです。覚えてください」

「善処するね」

 

 私の記憶力がよくないのは本当だ。いや、正確には忘れっぽいのだが。

 文字に起こされたものならばそうそう忘れないのだが、人の顔や名前、思い出といった類のものはよく忘れる。帰ったら日記にアリッサ後輩の名前を書いておこうと思った。

 

 アリッサ、アリッサと私は歩きながら頭の中で繰り返す。そのアリッサ後輩は、私を追いかけながら言った。

 

「イヤですね、テロ続きで」

 

 頭の中での繰り返しをやめて、私は彼女に言葉を返す。

 

「そうだね。よくあんなくだらないことする」

 

 くだらない、という表現に彼女は不服そうに眉根を寄せた。

 

「……エリア11がブリタニアの植民地になって以来、原住民達がブリタニア人に虐げられているのは事実ですから、原住民が蜂起するのも当然のことです」

 

「虐げられているのは事実でも、武力に訴えるのは愚かだと思うよ。だってそれは、『殴って勝った方が正しい』というのを認めるということだもの。

 それって、殴られてもし負けたらどんな道理であろうと相手が正しくなっちゃうってことでしょう? なんか嫌じゃない? まあ、シンプルで分かりやすくはあるけどね」

 

「武力ではなく他の手段で訴えるべきだった、と?」

「そうだね。ま、ブリタニアにおいて『殴って勝った方が正しい』ってのは、あながち間違いではないのだろうけど」

「ああ。いえてますね」

 

 肩を竦めた私に、アリッサ後輩はこくんと頷いた。私は、くすりと笑って背ろで両手を組む。

 

「だからこそ、ブリタニアに喧嘩売るなら、その『殴って勝った方が正しい』って主張を真っ向から否定しちゃえばいいのにって思う。ほら、『正しい方が正しいに決まっている』とか言って」

「何かちょっとマヌケですよその発言」

「そうかな」

 

 小首を傾げた私に、アリッサ後輩は苦笑した。

 

「どちらにせよ、こうして好き勝手言えちゃうのって、私達がどこか他人事だと思っているからなんでしょうね」

「だろうね。愚かであろうとくだらなかろうと、当人達からすれば懸命に良くない現状を打破しようと考えた結果なわけだから。そう思うと、私の発言は失礼極まりなかったなあ」

「自覚あったんですか先輩」

「あるけど、彼らにどんな事情があろうと、『正しい方が正しいに決まっている』でしょう」

 

 そして正しいのは、いつだって勝った方なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

(エレイン・アーキンの日記 9)

猫祭りはいつですかと生徒会長にきいたら、少し驚いた風ではあったけれど、すぐに愛嬌たっぷりな表情で「楽しみにしておいて」とウインクしてくれた。ウインク上手いなあ、会長。生徒会役員皆が猫に扮した写真をとっておいてくれるそうだ。これはもう生徒会長に足を向けて寝られない。さすがは我らがアシュフォード学園生徒会長である。

 

ちなみに。スカーレット・ピンパーネルの主役は、結局本当に私がやることになってしまった。ほんの数分で終わった部会議が悲しい。全身の採寸も終わってしまった。もう逃げられない。元から逃げる気もなく諦めてはいたのだけれど。

今回私が作成を担当する小道具は、ゼロの仮面になった。ルルーシュ氏もあの模造品を作っていたことを思うと、今からちょっと楽しみである。

 

そしてそして。ここ暫く部長の姿を見てないなと思っていれば、停学措置を受けたとか何とかで、学園自体に来てなかったらしい。そりゃあ、見ないわけである。

どうして停学なんかになっているかというと、他でもない「スカーレット・ピンパーネル」の台本が原因らしい。台本は部の顧問の先生にも提出されたわけだが、まあその内容があまりにも不味かった。職員会議に出すことすら憚られると、その件は学園長と密に相談され、部長にはやんわりと内容に関する注意がされた。しかし部長は、内容を曲げる気はないと宣言した。それが、どういうわけか国のちょっとしたお偉いさんの耳に入ってしまったらしい。国での学園の立場もあり、学園は部長を停学にした。個の生徒よりも組織をとったこの選択、誰が学園を責められるだろう。むしろ部長が悪い。

そのまま「スカーレット・ピンパーネル」の公演が中止になるかと思えば、そんなことはなく、台本を手直しして公演の運びになるらしい。部長は、常識的範囲に則った内容の台本を、顧問の先生に再提出した。

……私は知っている。顧問の先生に渡した台本と、私達部員に配られた台本の内容が違うことを。



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10 黒の騎士団

「私は用事があるからここで」

「あら。お疲れ様です、エレイン先輩」

「お疲れ様」

 

 アリッサ後輩に別れを告げて、私は目的地へと向かう。日課にしてお馴染みとなった、壁にばつ印を書くだけの簡単なお仕事をするのだ。

 

 壁を傷つけ、今日の分の印をつける。たくさん並んだ印に、意図せず笑い声が漏れた。この壁の印の数は、ルルーシュ・ランペルージ氏と初めて話した日から経った日数だ。そう考えると、壁の印ひとつひとつが愛おしく思えた。

 

 ふと、誰かに見られている気がして後ろを振り返る。特徴的な緑髪が揺れるのを見て――

 ぶつん、と意識が途切れた。

 

 

 

×

 

 

 

 目を開けたそこには見慣れた扉があって、私はどうやら自宅前で立ち尽くしていたらしかった。いつの間に帰宅したのか、その道のりの記憶がないことを不思議に思いながら解錠する。

 荷物をソファに投げ出して、リビングのテレビをつけた。途端、聞こえだす人の声。

 

 ああ、静かすぎる家ではテレビをつければよかったんだ。

 

 オーブンのタイマーを必死に回していた自分が馬鹿みたいで、私は小さく声を上げて笑う。

 

 テレビは、未だ例のテロリスト立てこもりのニュースを報道していた。依然として、生徒会長達も人質のままらしい。

 すぐに軍が突入して人質救出なりテロリストの捕縛なりするものかと思っていたが、どうやら「何か」あるらしかった。それが人だか物だかまでは分からないが、下手に突入できない理由なのだろう。

 

 事態を甘く見ていた自分を呪う。思わずテレビを掴み、ガタガタと揺らした。

 彼らが安全に解放されるかどうか。それが私には気掛かりで仕方がなかった。テロリスト達の声明が発表されてからは、既に三時間が経過しており、人質の中にも死者が出始めていた。

 

「お願い…お願いします…」

 

 それは、誰に願ったものだったのか。気付けば、私はそう口にしていた。

 生徒会長達がこのまま解放されなかったら、害されたらと思うだけで心の内が荒れ狂う。

 

「このままじゃあ」

 

 ひく、と喉の奥が震えた。

 そう、このままでは――

 

「猫祭りが! 私の猫祭りが! 写真が!!」

 

 ――無事では済まない!!

 

 私は、己の欲に忠実だった。それは当事者達の状況を何ら鑑みない、己の都合だけの、なんとも身勝手な言葉だった。

 その時の私は、彼らの無事を、他でもない、己のために祈っていたのだ。

 

「……我ながら、酷いわね」

 

 願うだけ、祈るだけ、思うだけ。「エレイン・アーキン」に出来ることというのは、とても少ない。

 

 もしも自分が英雄(アーサー)騎士(ランスロット)などであれば、あそこに乗り込み、囚われの姫でも何でも助け出せたのだろう。

 しかし生憎、今の(エレイン)はごくごく普通の女子学生だった。

 

 滓が澱んでいくように、気持ちが沈んでいく。テレビを消してしまおうと、私はリモコンを手にした。

 

 

《「あの子は何も悪いことはしていないのに!」》

 

 突然聞こえた切なる叫びに、私は目を瞬かせる。声の主はテレビだった。

 

 電源ボタンの上にあった指を退けて、リモコンは手放し画面を注視する。その人は、シャーリーの父親だった。

 マスコミにしても、政府にしても、人質の身内からのこういったコメントを報道して、テロリストへの批判をより高めたいのかもしれない。

 

「『悪いことはしていない』かぁ」

 

 本当に、そうだろうか。

 現状を享受しているブリタニア人すべてが、彼らにとってみれば悪なのではないか。故に彼らは、「ブリタニア人である」ということを理由に、人質となったのではないか。

 

「……うわ、ないわ。ないない」

 

 私は首を横に振って、すぐにその考えを打ち消した。

 「アーサー」の記憶にでも引き摺られたのだろう。私は彼ではないのに。

 

 

 テレビは付けたまま、夕食の用意を始める。夕食という割には、今日はまるで朝食のような手抜きっぷりになりそうだったが。

 

 オーブンのタイマーを捻り、半分に切り分けたベーグルを置く。片側にチーズを置くのも忘れない。ベーグルが焼けるのを待ちながら、熱したフライパンにベーコンを乗せた。

 はじけるような小気味いい音がして食欲を誘う匂いが広がった。頬がゆるむのを自覚しながら、そこに卵を落とす。スクランブルにすることも考えたが、止めて半熟の目玉焼きにした。ベーコンエッグの完成だ。

 ベーグルの焼け具合もちょうど良さげになったところで、洗ったレタスを千切りそこに乗せていると、目を離していたテレビからホワイトノイズな音が聞こえだす。

 

「放送事故?」

 

 何も映さないノイズ画面に目を向けた私は、頭と一緒にフライパンを傾けて、レタスの上にベーコンエッグを乗せる。

 ケチャップとマヨネーズをとりに冷蔵庫まで行き、テレビの前まで戻ってきた頃には、ノイズ画面はなくなっており、しかしニュースが再開されたという様子ではなく、画面にはでかでかと話題のテロリスト・ゼロが映っていた。どうやら、放送事故は続行中らしい。

 

 マヨネーズとケチャップの格子に胡椒を振り、ベーグルで挟み込む。完成したベーグルサンドを両手でしっかりと持って、私はテレビの前のソファに移動した。

 

 

 さて、画面に映るゼロはというと、民衆に演説でもするかのように言葉を紡ぐ。ゼロの話によると、ホテルにとらわれていた人質達は全員救出されたということだった。私の猫祭りは守られたらしい。おお神よ!

 

 ところでこの放送事故は、テロリストの声明を編集もなしに生中継で垂れ流していることになるんじゃなかろうか。そもそも、どうしてゼロが出てきたのやら。

 分からず、私は首をかしげる。

 

 他の局のニュースを観れば状況も分かるだろうか。リモコンを探せば床にあった。ところで、私の両手はベーグルサンドで埋まっているのだが。

 考えたのはほんの数瞬。ものぐさにも私は、足でボタンを押すことにした。この時間にニュースをしているのは…とチャンネルを回せば、その局では現場が中継されているようで。ついでにいえば、何故だかホテルが湖に水没していた。

 一体何故。画面から目を離しているうちに何があったというのか。

 

「いや本当どうして!? えっ、本当に人質無事なの!?」

 

 戦々恐々と画面を注視すれば、湖の上に幾らか小舟の影のようなものがあることに気付く。人質達はそこにいるのだろう。

 ホッと息をついてから、またボタンを足で押してはチャンネルを変えるのだが、他の局のニュース番組ではこの件に特に関係のなさそうな報道内容だった。

 確認もしたところで最初の局に戻すと、未だゼロの演説、もとい放送事故は続いていた。

 

《「人々よ、我らを畏れ求めるがいい」》

 

 ばさりとマントを広げ、ゼロが言う。

 内側の生地色といい、質といい、演劇用に仕上げられた例のマントを思い出す。いや、元はというとゼロのマントが発祥ではあるのだけれど。ストークス先輩の仕事っぷりには惚れ惚れする。

 

《「我らの名は、黒の騎士団」》

《「我々黒の騎士団は、武器を持たない全ての味方である!」》

 

「そんな殊勝な人、というか集団だったのか」

 

 そんな言葉が思わず口を突いていた。

 ゼロの背後には、彼の仲間と思われる者達が控えている。一端の騎士団を名乗るだけはあるということだろうか、揃いの制服までもあるようだった。ご丁寧に、目元を隠す仮面もつけて。

 

「そう、黒の騎士団ねぇ」

 

 私は目を細める。眉間には、否応なしに皺が寄った。

 

 守るものあってこその騎士、それがなければただの暴力集団だと思うのだけれど、彼らは何を守っているのだろうか。

 参考までに、自分の知っている騎士のことを思い出してみたのだが、奴の場合、国や主君を守ると言いながら実際は他人の――要するに(アーサー)の――妻を守るとか宣誓してくれちゃっていた。ランスロットあいつ許さん。主君の預かり知らぬところで何してんだよ。

 要するに彼は愛を守った訳だ、どこかの誰かが国の為愚直に戦っていた頃に。まあ、戦いに明け暮れる夫より、愛を囁いてくれる騎士の方が女性には魅力的だったんだろうな。あれ、目から汗が。いらないところでダメージを負ってしまった。

 

 ……話を戻そう。

 彼らは正義の執行者のように自らのことを言うが、彼らの言い分からすれば、この集団は断じて“正義の味方”などではなく、“弱者の味方”だろう。

 

 今のブリタニア帝国、もといブリタニア皇帝は“力こそ正義”を掲げているからして、この国においての弱者は暴力によって蹂躙されている。

 勝てば官軍、勝った方が正義な世の中に、物申したいというのはよく分かる。あまりに横暴な今のやり方を、歓迎している者というのは、数でいえばきっと少数だろうから。

 

「なまじ理解の得られることをしているだけあって、彼らがテロリストだったのは惜しいなあ」

 

 これで世論が動いたとして、世界が変わったとする。その時、世界を変えたのはテロリスト達となるわけだから、どういう形であれ、結局は“力”を肯定することになる。多少形は変わっても、その本質は変わらない。

 

「いや、それとも、彼らは自らをテロリストではないとでも言うのだろうか」

 

 革命が成功した暁には、確かにテロリストの称号は消えるだろう。革命家の称号でも代わりに授けられて。そうして新政府でも立てれば、そちらがもう正義だ。

 

「まあ、今更ではあるのだろうけれど」

 

 革命は、武力をもって行われる。それは、今も昔も変わらない。

 引き金は、引かれてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

(エレイン・アーキンの日記 10)

忘れないうちに。後輩の名を記しておこう。アリッサ。

 

猫祭りは、多少延期したものの、会長の強い意向で中止だけは避けられたらしい。さすがは我らがアシュフォード学園生徒会長、今後もついていきます。

 

ちなみに。例のゼロ達の声明を受けて、部長は「スカーレット・ピンパーネル」を「黒の騎士団」と名称を挿し変えることを決めた。スカーレット・ピンパーネルとは一体。

 



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11 涙の日、その日は

 ゼロをトップとした黒の騎士団が、ナリタ山のゴタゴタで世間様を賑わせている頃のことだ。アナは、どこからともなくその情報をつかんできた。

 ――シャーリーがルルーシュ氏をコンサートに誘ったらしい。

 

 あまりの衝撃に暫く何も考えられなくて、やっと私が平常心を取り戻した頃には、私の手の中にはコンサートのチケットがおさまっていた。

 

 おかしい。

 ……そういえば、その情報の裏をとった後、コンサートホールや楽団の類に繋がりのある演劇部OBの先輩方という伝手を屈指して、ルルーシュ氏の行くというコンサートを調べ上げ、チケットを購入したような気がする。二人の席位置も調査済みだ。何やってるんだ私は。

 ルルーシュ氏とシャーリーに悟られぬよう秘密裏に行われたそれに、アナはドン引きしていた。……ちょっと心が乱れていたのだ、やってしまったものは仕方があるまい。

 

 入手したチケットの席位置は、二人の席を離れたところからよく見られる絶好の場所だった。彼らの側でなかったことにほっと息をつく。乱心中の私は、それでも変わらず私らしく、小心的に二人を遠目から観察することを選んだらしい。

 私服ルルーシュ氏が楽しみである。

 

「エレイン、それ下手しなくともストーカーよ」

 

 私の言い訳のような話を聞き、例のチケットを見たアナはそう言った。

 

「本人達に実害を与えなければセーフ」

「アウト」

「そんなー」

「それよりエレインが気にするべきはカレンさんよぉ。もともと病欠続きの人ではあったけど、彼女がお休みの日、狙ったみたいにルルーシュまで休んでるじゃない。これは何かあると見た」

 

 にやりと笑ってアナが言った。エスパーアナ様が言うことだ、本当に何かあるかもしれない。

 

「どどどどうしようアナ、私まだルルーシュ氏と朝の挨拶を交わす仲にすらなれてないのに!」

 

 今のリードはトップから、カレンさん、シャーリー、私とその他有象無象といったところだろうか。泣きたい。彼が名前と部活を覚えてくれていたのだって、大きな理由はなかったろうから。私への頼み事だって、私だけが必死に続けていて、彼は頼んだことなんて忘れているかもしれない。

 ああ、くるしいなあ。

 

「あんたもなんかアプローチしなさいよ」

「無理無理無理! 無・理!」

 

 なんて無茶ぶりをしてくれる。同じ教室にいるだけでもドッキドキだというのに。いやでも、そうよね。相手に悟られず、さりげなく、好かれるように頑張るって決めたところだものね。行動には結果が伴うものだし。……こんな虫のいい条件なんて、自分を好きになるよう頭の中弄りでもしないと実現不可能じゃないかなあ。

 今更ながら、無謀なことをしようとしていることを自覚した。

 

 

 

×

 

 

 

「スカーレット・ピンパーネル」が「黒の騎士団」に書き換えられた(ついでに手も加えられた)台本が、ついに部員達に配られた。ちなみに本国の「スカーレット・ピンパーネル」を観たことで、部員達は既にこれが「スカーレット・ピンパーネル」ではない何かだということを知っている。

 

「あれ、奥さんが妹さんになってる」

「皇太子の頃はショーヴランと竹馬の友だった設定どこから出てきた」

 

 カオスだ。

 

「さすがにこれを『スカーレット・ピンパーネル』の名で公演するのはまずいんじゃないかなあ」

「むしろこの内容、公演すること自体まずいだろ」

 

 なんてったって、現時点での物語は、フランスの皇太子が身を偽ってブリタニア貴族となり、かつての親友とバトルするとかいう展開なのだ。

 

「私の『スカーレット・ピンパーネル』を返して」

「本国の公演、良かったよなあ」

「わかる。普通のスカピンやりたい」

 

 私もやりたい。元々のスカーレット・ピンパーネルは、それはもう素敵な話なのだ。どうしてこうなったんだろう。それもこれも、部長をそそのかすような真似をしでかしてくれたゼロのせいだ。いや、部長が悪いのだろうけど。

 

 

 

×

 

 

 

 件のコンサートの日。私はルルーシュ氏を鑑賞する上で、この会場一の特等席と思われる場所から、例の席を観ていた。まだ開演一時間前とあって、二人は来ていない。

 もしかすると早めに待ち合わせて早めの夕食を一緒に摂ってから来るだとか、ショッピングを楽しんでいたりするのかもしれない。が、それを追いかけるようなストーカー精神を、私はあいにく持ち合わせていないのだ。だから私は、ひたすらに、二人が来るのを待つだけだった。

 

 時間の経過とともに会場の席は埋まっていくというのに、いつまでもその二席が空席で、私は何度も時計を確認した。15分前、10分前、そして5分前になっても、二人は現れない。

 学校行事では時間にきっちりしている二人のことだ、いくらオフの日だからってコンサート会場に開演直前になってやってくることがあるだろうか。

 まさか私はシャーリーにブラフを捕まされ、今頃二人は別の場所でイチャラブデート中だとでもいうのか!! ……さすがに妄想が過ぎるか。というか、当たって欲しくない想像だ。

 そんなくだらないことを考えているうちに、二人が不在のままでコンサートは始まってしまった。

 

 目当ての人もおらず、コンサートがクラッシック系だったこともあって、すぐに瞼が重くなる。別に聴くのが退屈なわけではなく、この手の曲を聴くとどうにもリラックスしてしまうのだ。思考は沈み、音楽を聴いているその感覚だけが残る。この眠るとも起きるともつかないまどろみが、私は好きだった。

 ふと、天上にでも誘われるような心地がして、私は意識を取り戻す。そのときに演奏されていたのは鎮魂歌だった。これは本当に天に召されてしまう。

 曲は確か、モーツァルトが楽譜を書きかけで息絶えたとかいう、「涙の日」。荘厳な合唱曲としての印象が強かったので、少ない人数で演奏と歌唱を成り立たせながら曲の雰囲気を失わないのは見事だった。

 

 まだコンサートは続いている。時計をみれば、開演からは結構な時間が経っていた。そして、例の席に二人はいない。

 

 コンサートは途中だったが、これ以上ここにいて鑑賞を続けたいような気分ではなかった。曲の合間に席を立ち、私はホールを抜け出した。

 随分と外が暗いので、不思議に思って空を見れば、どす黒い雲が空を占めてどしゃぶりの雨を降らせていた。空がそうして大泣きするので、なんだか私も泣いてしまいたい気分だった。

 

 エントランスのソファに座って、ぼうっと外を見つめる。ガラスが分厚いからか、雨音は殆ど聞こえてこない。

 じっとしていることも億劫で、ホールの受付で売られていた割高の傘を買い、外に出た。傘に叩きつけるような雨の音は、まるで誰かの悲しみのようで、痛みすら伴うほど苦しい。

 歩くうちに冷え切った身体は、ぬくもりを求めるけれど、そのぬくもりを与えてくれる誰かなんていなくて、手を伸ばせるはずもなくて、私は身を縮こませるしかなかった。

 

 

 

×

 

 

 

「コンサートはどうだった?」

 

 ニヤニヤ顔のアナは、どうやら今ばかりはエスパーアナ様モードでないらしい。

 

「二人とも来なかった」

「えーー!」

「アナうるさい」

 

 クラスメイト達の視線が集まることに恐怖を覚えて身を震わせた私は、八つ当たりのようにアナの額をぺちりと叩いた。

 この話題は終わり。私にしてみてもあまり掘り下げられたくないことだったから、すぐに別の話題を出す。

 

「演劇部の公演近いんだけど、アナはお暇?」

 

 ぺらりと広報用のミニポスターを取り出しアナへと見せる。ストークス先輩の力作のこれは、ポスターからではまさか、あんな紅色なんて欠片のないスカーレット・ピンパーネルではない何かが公演されるとは思えない。

 

「三日目ならいけそう」

「おぉー」

 

 あの内容で三日も公演続くだろうかと私は内心考えながら、今日も空席のそこを見る。

 

「カレンさんも誘いたかったなあ」

「ていうか、それこそルルーシュ誘いなさいよ」

「え、だってきっと来ないよ。こういうの、ルルーシュ氏って優先順位低いだろうし」

 

 ゼロの隠れファンのようだし、ゼロが出ると言えばきてくれるのかもしれないが、私がそれを知ることは彼に知られるわけにはいかない。第一自分が主役やるからって言って見に来てなんて告げられるわけない。

 

「それに、最近何かに入れ込んでるのか忙しいみたいだから」

 

 これはアーサー情報。生徒会の仕事もせず、寮の自室にもいないことが多いとか。

 

「何かって?」

「わかんない」

 

 私も気になるところだけれど、アーサーは彼がゼロとして黒の騎士団の活動に励んでいるんだなんて、そんなので笑いがとれると思っているのかと叱りたくなるような面白くないジョークしか言わないので、実際彼が何をしているのかはわからない。こういうところで役立ってこそのアーサーなのに。

 

 忙しいといえば、スザクくんも一応の軍人さんだからか、欠席が多い。今日は珍しく学園に来ていたが。

 彼も公演、誘ってみようかな。一応、と…と、ともだち、認定、いただいてるし。へへ。なんだか、変な笑い声がでそうなくらい頬が緩む。来ることに期待はしないけど、一応お誘いは形だけしておきたい。アナ以外を公演に誘う貴重な機会だし。

 そんなこんなで、私は彼に誘いの声をかけた。

 

「ああ、その日なら。初日の午後の公演、行けそうだよ」

「ふえっ?」

 

 予想外なことになった。

 

 

 

×

 

 

 

 『スカーレット・ピンパーネル』のリハーサルは、制服のままという服装で、靴のみ本番と同じものを使って行われた。台詞は口にせず、立ち位置だけを確認するかたちをとったこともあり、顧問の先生はリハーサルの最初から最後まで、これがかなりの問題作であることに気付かなかった。……遂に止められることなく、公演本番が迎えられてしまうというのは、幸か、不幸か。

 

 

 公演時間は一回あたり二時間少し。午前と午後に一回ずつ、1日二公演を土日ひと月計八日間全十六回公演。

 

 さて、その第一回目の公演、それも始まって5分も経たないうちに、「待った」が掛かった。……私がゼロの仮面で登場するシーンだ。部長が無言で続けろと訴えてくるが、無視である。

 それから10分後、正式に中止とするようにとのお達しが届く。要はようやく「アウト」認定が来たわけだ。顧問の先生は頭を抱えていた。

 

 部長が書いた問題ある台本が原因で、公演中止になるのは珍しいことではなかったが、その中でも、初日の初公演の途中で中止というのは最短記録だった。部員達みんなで大笑いだ。部長だけはしょんぼりしていたけれど。

 来てくれたお客様方には悪いので、こんなこともあろうかと用意しておいた(とはいうが、部長が台本を書いた作品を公演する際には絶対に用意されていたりする。ちなみに、使われなければ皆のお腹の中におさまる)お詫びの袋詰めクッキーを配った。

 

 さて、ここからが私達の本番だ。

 まず、喚く部長を隔離して、副部長が顧問の先生に、二日目から普通のスカーレット・ピンパーネルを公演できないかの打診をする。

 この時のポイントは、『どれだけ私達が部長の被害者であったか』を訴えることだ。部長を生贄に、私達の「スカーレット・ピンパーネル」は守られるのである。あ、もちろん本家の、ちゃんと紅色をした「スカーレット・ピンパーネル」の方だ。断じて黒の騎士団じゃない。

 

 いつもの慣れたやりとりに、顧問の先生もあっさり頷き、許可をもらえるかきいてくるからとホールを出て行った。

 あとは、許可が下りることを祈るだけだ。

 

 正直なところ、部長の台本は、部員達に嫌われているわけではない。むしろ、好かれてすらいる。

 盛り上げどころは熱く、しんみりさせるところは静かに、観客に適度に気を抜かせる部分を作りつつ、クライマックスには目を離させない。なんともツボを押さえるのが上手い、演劇向きな台本を書くのだ。ただ、内容がアレなだけで……それが一番問題なのだが。だから皆、内容に関しては諦めて、それでも台本に関しては、信頼をおいているのだ、と思う。

 

 部長を生贄に、私達が公演しようというのは、部長が「これなら止められないだろう」と顧問の先生や学校側に事前に提出したスカーレット・ピンパーネルの台本。普通のスカーレット・ピンパーネルとはいっても、実際に部で公演できるようにと部長が再編したものだから、その質は言わずもがな。こんなところでも手を抜けないのが部長らしい。おかげさまでチラシが無駄にならない。

 

「エレイン、台詞は覚えられそうか」

「もう全て入ってますよ」

「……相変わらず早いな」

 

 私の取り柄といえばこれくらいですから。

 そんなこんなしている間に、顧問の先生が戻ってくる。遠くから彼が出すのはOKサイン。歓声が上がった。

 

「一応明日からの公演許可を貰ってきたが」

「じゃあ明日からってことで決定!」

「間に合うの?」

「間に合わせるの!」

 

 そうとなったらこうしてはいられない。大急ぎで準備を始めなければ。衣装や道具類の大体は、流用がきくように作られていたが、部長版の台本で名前が消えていた役数人は、まず誰が演じるかということから決めなければならなかった。

 

「あっ、皇太子とパーシー、同じシーンに出てくるところある」

「エレイン! ニンジャになれ! 影分身だ!」

「無茶言わないでくださいよ!」

 

 わいわいがやがやと明日に向けての準備を始める私達。ホールが貸し切られているのは幸いだ、この広い場所で作業ができる。

 

「そういえば、部長はどこに?」

 

 数人に引きずられ連れて行かれていたところは見たのだが、それ以降の彼についての情報がない。

 

「袖に吊るしてあるって」

「吊る…?!」

「ほら、生贄セット」

 

 言われて、ああと頷いた。生贄セットというのは、いつぞの劇で使った大道具の一つ。ヒロインが生贄として「龍の大口」と呼ばれる谷に吊るされるシーンに使われたものだ。いまこの部にヒーローなんていないから、部長はこのまま助け出されることなく生贄になるんだろう。部長の安息を祈ろう。

 

 衣装や道具類を、使い回せそうなものとできないものに大別して、使い回せそうなものはどこで使えそうかと、台本を塗りつぶし確認する。これで、これから用意しないといけないものが洗い出せた。

 その用意しないといけないものは、使い回せなかったものの内から、手直しすれば使えそうなものを探して用意する。それで駄目なら一から作ることになるのだけれど、今回それは必要なさそうだった。

 やはり、皆こうなることは予測して道具や衣装を作ってたんだろうか。ちなみに私の作った仮面は全くといっていいほど使えそうにもなかった。悲しい。

 

 話もまとまり、衣装や道具類の手直しにかかろうかという頃にはもう、時計の針はお昼の12時を回っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

(エレイン・アーキンの日記 11)

 まあ、予想していたことではあったが、スカーレット・ピンパーネルとは名ばかりの謎の台本は公演中止となったわけである。「何がいけなかったのだろう」なんて部長は呟いていた。…ゼロや黒の騎士団を出さなければよかったのではなかろうか?

 まともなものだって書けるのに、どうして部長は毎度こうも、香ばしいとでもいうか、危険思想的とでもいうか、誰もが触れたがらないものを扱いたがるんだろう。今回は特に、いつもより思い入れが強いようだった。

 

 使えなかったゼロの仮面は、部の備品にしておいた。もう絶対使われる機会はないだろう、彼らの革命が成功でもしない限り。



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12 斬首台

 昼食を摂る為、お昼休憩として一度解散することとなった。集合は一時間ほど後だ。

 気分転換も兼ねて、ランチボックス片手に、ホールからは少し離れた見晴らしのいいところへ向かう。ハンカチを敷いて一人、ランチボックスの蓋をあけた。

 ……どうすれば誰かと一緒にご飯を食べられるのか、これが本当にわからない。アナには、自然と誘われて、いつの間にか彼女と一緒に食べることになっているから凄いと思う。まあ、一人で食べたからって別に何だという話なのだけれど。

 

 ふと食後に紅茶が飲みたくなって、部室まで行ってお湯とカップを使わせてもらった。時間もそうあるわけではないので、ティーバッグを湯の中でおどらせる。耐熱ガラスのティーポットが欲しいななんて思いながら、部室の時計で蒸らしの時間をきっかり数えた。

 そのままのほほんと息抜きをしていたら、集合時間まであと10分を切っていた。慌ててカップを洗って干して駆け出す。

 よし、滑り込みセーフ。

 

 副部長が、「明日の公演まであと9時間」なんて、なかなか心臓に悪い宣言をしてくれた。小道具が使い回せそうなのが本当に救いだ。大道具はちょっと頑張らないといけないようだけど。ギロチンとか。

 なんだかんだ、みんなコレが楽しいんだろう、すごくいい顔で走り回っているものだから、私達今青春してるなと思った。

 

 手すきだった私は、副部長に言われて午後の部にきたお客さん用のクッキーを袋に詰める。そういえばスザク君、来てくれるんだったなあ。折角来てくれたのに、申し訳ないなあ。

 

「副部長、午後の部に友達来てくれる筈だったんですけれど、そのまま帰しちゃうのも忍びないので、中の見学させていいですか?

「んー……、まあ、いいでしょう。衣装や大道具の手直しに貴女の出番はないだろうから、案内についてていいわよ。長くて30分かしら」

「ありがとうございますー!」

 

 許可ももらえたので、私は制服の上にゼロのマントを羽織った。

 

「……なんでマント着てるの?」

「友人を驚かせようと思いまして」

「そりゃあ驚くでしょうけれども」

 

 他にもあったでしょう、と副部長が呆れたように言った。

 アリッサ後輩にクッキーの袋たちを託した私は、鼻歌を歌いながら仮面を被る。フルフェイスという形のままで音がこもらないようにするのは難しく、舞台では仮面の内側にピンマイクをいれていたのだが。……ゼロは音周りの問題をどうしているのだろう? 仲間内で話すときは仮面を外しているとか?

 

 なんとなくその場でぴょんと跳ねた私は、調子に乗ってマントを翻し、その心地よさに酔いながら、ホール正面扉の手前までアリッサ後輩についていった。そこで立ち止まった私は、扉の外でアリッサ後輩が午後の公演中止の旨を伝える声を聞きながら、人の群れの中にスザク君の姿を探す。――見つけた。

 

 クッキーを配って早々戻ってきていた部員に、スザク君を呼んできてもらえるか尋ねる。

 

「それはいいけど、エレインちゃんはなんでそんな格好してんの」

 

 部長にも言われたことだったが、この部員の尋ね方はなんだか詰問みたいで、私はドギマギしながら答える。大して何も考えず着てしまったのだけれど、何かまずかったんだろうか。……下は制服とはいえ、テロリストのコスプレしてるとか、あっ、すごい駄目だこれ。

 

「友人を脅かしたかったのです」

「そりゃいいや。驚くぜ、あの名誉ブリタニア人」

 

 途端ににやりと人の悪い笑みを浮かべたこの部員は、確か部長のトンデモ台本にも毎回肯定的な、所謂面白いこと好きな人だった。私のコレも、彼の琴線に触れたのか私の試みに賛同してくれた。駄目じゃん。そこは止めてくれなきゃ駄目じゃん。いや、ここまできては私も引けないので止められても困るのだけれど。

 

 部員に声をかけられ、スザク君は不思議そうな顔を浮かべた。あの部員、何を言ったのだろう。「君に会いたがっている人がいる」とかだろうか、何それ怪しい。

 ともかく、スザク君が来た。ならば私は思う通りに演じるだけだ。ホールに踏み込んだ彼の前に、颯爽と姿を現した。

 

「ゼロ…!!」

 

 仮面を見て目を丸くしたスザク君が、間を空けず構えるのが分かった。流石は軍人さんである。ところでその、戦闘対象は私ですかね?

 なんだか失敗したかなと、私が冷や汗をダラダラ流していると、彼は人並み外れた跳躍をもって棒立ちしていた私に飛びかかり、ものの見事に身柄を拘束のち床に押さえつけてしまった。なんだあれは。人間業じゃなかった。

 

 身動ぎひとつさせてくれないので、仮面を脱ぐこともできない。制服越しに、床の冷たさが伝わっては身体を冷やした。お腹冷えちゃう。

 声までは制限されていないが、私の処理能力が追いつかないせいで、言葉を紡ぐどころか呼吸もうまくできない。出そうになった悲鳴は、つい癖で呑み込んでいた。

 

 早く誤解をときたいと思っていたら、スザク君の手が私の首筋を撫でた。色気も何もない変な声がでた。悲しい。

 

 スザク君は、どうやら仮面を外すつもりらしい。惜しい、もうちょっと横、そう! そこのボタン! ポチッとしたら外れるから!

 ずるりと仮面の脱げる感覚がしたと同時に、私の腕の拘束も緩んだ。頬が外気に触れる。ほっと息を吐いたら、息もあたるくらい近い距離にスザク君の顔があった。その近さがなんだかいたたまれなくて、私は両手で顔を覆う。

 

「エレインさん?」

 

 あ。名前で読んでもらった。

 

「す、スザク君…これ、劇の衣装なんだぁ…とかって……」

 

 するりとマントがはだけて、制服が覗く。今更ながら、この制服にこのマントなんて、ミスマッチな組み合わせだなと思った。せめて男子の制服なら、まだあわせようもあったろう。

 へへ、と必死の笑顔を浮かべたら、スザク君は真っ赤な顔でその場を飛び退いて――この時も人外じみた運動能力を発揮していた――、ピシッとそれはもう綺麗なお辞儀を決めた。

 

「ごめんっ!」

「いや、こちらこそ。むしろ、変に悪戯心を働かせた私の自業自得かなって。そしていい上腕二頭筋でした。鍛えてるー」

 

 まだ心臓は激しくばくばくと音を立てていたが、冗談を言うくらいの余裕はあったし、そのうちおさまることだろう。

 

「でもよかった。すぐにゼロじゃないって判断してもらえて」

 

 そう、決定打は仮面の下の顔をみた際に得たようだったけれど、私を床に押さえつけた時から、その腕に籠る力が戸惑うように強められたり弱められたりしていた。弱まったところで痛いものは痛かったし動けもしなかったけどね!

 

「よくみたら、背格好が全然違ったから」

 

 まるで本物のゼロを見たことある人の発言だ。軍人さんなら、一般の私達より知っていることも多いというわけか。

 

「まあ、見ての通り、こんなものが出てくる劇を演じようとして、問答無用で公演中止になったわけであります」

 

 床に転がっていた仮面を拾い、顔の横まで持ち上げると、スザク君は苦笑した。

 

「せっかく来てくれたのにごめんね」

 

 私が謝ると、彼は気にしないでとでもいうように首を横に振った。

 初めて会った時の印象からして、彼は人がいいのだと思う。小道具や衣装を見ていかないかという私の誘いにも、快く乗ってくれた。ゼロの仮面を小脇に抱えた私は、スザク君を舞台裏へと導く。気分はお姫様をエスコートする王子様だ。スザク君には姫より騎士の役がお似合いな気もするけれど。

 

 舞台裏に入った途端、スザク君の視線が一点に向かう。

 

「それ、小道具。主人公パーシーが装備しているって設定の小型銃」

「本物かと思った」

「……そんなに似てるの?」

「正直、かなり。軍でも採用されてる種類の銃だ」

「へー」

 

 確か、部長が担当者に色々と注文をつけていたことはおぼえているが、台本には銃を撃ち合うシーンなんてなかったので、何のためにあるのだろうと思っていたものだった。部長のことだから、ゼロが軍から奪ったとかいう裏設定でもつけていそうだ。

 

「やっぱりこういうの興味ある?」

 

 スザク君にそう尋ねると、困ったような顔をした。遠慮しているのだろうか?

 

「台本は回収されちゃったから見せられないけど、じゃーんこんなのもあって」

 

 彼の手を引いて、色々と見せて回る。箱に詰まっていた衣装を広げたり、カーテンに隠されていたナイトフレームの舞台装置を見せると、感心した声を上げて、その後で首を傾げた。

 

「どうして、ゼロなんて出てくる劇を?」

「部長の趣味だね。あの人、時事を取り入れたがりで。だからってテロリスト主役にすることもないと思うんだけど」

「主役?」

「無罪なのに市民にギロチンにかけられそうになる貴族を、外国に逃がす主人公ポジション」

 

 私の告げた内容に、スザク君はどこか苦くて悲しそうな顔をして視線を落とした。

 

「だからって、市民を殺すことは許されるのか」

「うーん、人によるとでもいうか。主人公は貴族達を助け出すと決めた、その過程で市民の犠牲が出た。それをスザク君が許せると思えるかどうかじゃない?」

 

 スザク君の上げた顔は、険しいままだった。多分、彼は正義のための犠牲という奴が嫌いで、一人でも多くを救いたい、守りたい人なのだろうと思う。その姿勢は私には眩しく、そしておそろしい。私は許されない側の人間だろうから。

 

「貴族を見殺しにしたら、よかった?」

「そんなわけない!」

「だよねー。市民と貴族が共存できるものならよかったのだけれど」

 

 それは非現実的とでもいおうか、できて貴族の隔離といったところだろう。互いが理解と譲歩しあえるケースは酷く珍しい。

 

「台本じゃ新天地へ逃げ出して終わるんだよね」

 

 それは、“人は分かり合えない”とでもいうような結末で、悲しいことではあるのだけれど。全てを理解し合おうとするのも疲れることなので、これはこれでいいのだろうと思う。

 

「うん、なんか気疲れするような話しちゃったな。他を見ようか」

 

 そう言って、いつかの公演で使ったアリスのウサギのぬいぐるみを見せる。スザク君の表情が緩むのに、私もホッとして息を吐いた。

 

 

 

 スザク君との舞台裏見学中、舞台袖に吊るされた部長にスザク君は大変驚きをみせていた。まあ、荒縄でぐるぐる巻きにされた人間が、まるで子供向けの絵本かアニメの一シーンが如く吊るされているのだから当然な反応なのだが。

 

「あの人は?」

「生贄、じゃなくて。この演劇部の部長。なんか重度の日本マニアなの。ほら、私がキンピラーとか言ってたでしょう、そういうの全部この人の影響でね」

「この人が」

 

 スザク君は神妙に頷いているけれど、よく極端なことを考えている危ない人だからね?

 部長は、スザク君の姿を見ては、その瓶底眼鏡の奥の目を見開いてもがいていたけれど、ここでスザク君との話の場を設けようものなら部長が喜ぶ結果しか出ないであろうので、私はそれを見なかったことにしてスザク君の手を引いた。

 

「えっと……いいの? 部長さん」

「いいの、いいの。部長はただ今罰則中。きっとスザク君が話し掛けるだけでご褒美になっちゃうから、今は近づかないであげてね。

 それとあんな見た目はしているけれど、一応いつぞの舞台セットで使った装置だから体重負荷までちゃんと考えてあるし、頭を下にはしていない、とっても温情ある措置なんだよ」

「温情……?」

 

 吊るし晒すこの装置は、確かにえげつないものではあるけれど、部長の鋼の精神はこれくらいじゃちっともそっともへこたれない。ただ、こうして身柄を拘束されていることで、公演の準備に関われないことが彼への罰になっている。

 

 舞台の中央あたりでは、大道具の運び込みや手直しがされていた。どうにもロベスピエールが貴族一派として処刑されるシーンのギロチン作成で人手が足りてなかったようで、困っていた部員たちを見て、スザク君は手を貸してくれた。いい人すぎる、そしてさりげなく自然に人の輪に入り込むこのコミュ力。見習いたい。だが真似できない。

 

 ギロチンは、ナイトメアフレームが振り回してたギロチンアクスを改造したものとなった。刃はそう重量のあるものではないし、演者に当たらないように、刃は落ち切らずある程度の高さで止まるようになっているが、高いところからスライドして落ちるギミックがついているので扱いには注意が必要そうだった。

 

「元々処刑用の斧というのはうまく首を断てないことが多くて、そのことで処刑される罪人が、死ぬに死ねず痛みに苦しむというようなことがあったんだそうです。

 ギロチンは、その問題を解決するべく編み出されたもので、スパッと首を斬れるすごーい発明なのですよ」

 

 出来上がったギロチンのセットを見たアリッサ後輩が意気揚々と言う。そんなうんちく私は聞きたくなかった。

 スザク君はこの後お仕事があるということで、ギロチンが完成を見たところで舞台裏そしてホールを去って行った。

 

 彼の去った舞台裏で、私は部員たちから少しだけスザク君に関しての質問を受けた。

 

「あれって今をときめく枢木スザク一等兵じゃん。『天誅じゃ』とかいって斬られなかった?」

「殿中でござる殿中でござる」

 

 カタナを持ってなかったのは幸いであった。

 紅はこべの紋章型の彫刻に忙しそうだった副部長も、その手を止めて私に声を掛ける。

 

「友達って、アナちゃんだと思ってたら。いつの間にあんなのとお知り合いになってたのよ」

「いつの間にかなってました。あと知り合いじゃなくてお友達です」

 

 えっへんと私が胸を張ると、副部長は驚愕に口に手をやって、「信じられない……」と漏らした。

 

「あの誤解に誤解を重ねっぱなしのエレインが……」

「誤解されてるのは、私の方だと思うのですけれども」

 

 友達を欲するにも、私に積極的に関わってくれるのはアナくらいで。私はクラスで浮くとか、どこか一歩引かれているとか、怖がられているとか。理由は謎だけれど、誤解されている、のだと思う。

 しかし副部長は私の言に、仕方ない諦めを感じているかのように肩をすくめた。

 

「分かる人には分かる、いえ、小さいことを気にしない気質? 何はともあれ、よかったわね。貴女の事を心配しながら卒業していった先輩方も喜ぶでしょう」

 

 最後は笑みを添えて、副部長はそう言ってくれたけれど、私は副部長の言わんとしているのが『スザク君がおおらかなだけ』ということであるように思えて。実際、私はスザク君のおおらかなところに助けられてお友達となっていたから、そんな自分の何もしていなさというのは自分でも気になるところだった。

 だからといって、私という個人に何ができるわけでもないのだけれど。少しくらいは自分が何か、友達らしいことができているといいなと思った。

 



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13 湖の娘は塔から出られない

 それは、「スカーレット・ピンパーネル」の公演期間も後半に差し掛かろうという時期だった。

 私は、その男がいつ、私の描いたバツ印だらけの壁の前に立ったのか、全くと言っていいほどわからなかった。

 

「気持ち悪い。どうしてお前みたいなのが生きてるの?」

 

 その男は私に、忌々しげにそう言った。

 ヘッドホンで耳を塞ぎ、直線的な形のゴーグルでその目を隠した、まるで世界を拒絶せんとでもいう男。これで口でも塞げば日本の叡智サンザル――見ざる聞かざる言わざる――である。

 もちろん私は初対面、こんな変な格好の男に知り合いはない。……つまり今先程私は、初対面の男に「気持ち悪い」と言われたわけか。辛い。私が何をしたというのか。

 

「煩いのに聞こえない、これは何?」

 

 男の言うことは、私にはよく分からなかった。ただ困惑することしかできない私に、男はぽつと漏らした。

 

「まるでC.C.の紛い物じゃないか」

「しぃ、つー…?」

 

 復唱した、その言葉の響きに。“何か”の奔流が私を襲った。

 

冷たいベッド。

――ステンドグラスと、奇蹟を騙る/*(発音不可)*/の魔女。

――――たく※んの電※コードが※えて、白衣の、血が、

――――――アメ※ス※の瞳と、王の英※を※※して、殺※れる。聖女に、

――――――――猫、※え、※※な、※

 

「、ひっ」

 

 悍ましい。惨たらしい。それは忌々しくも醜悪たる“何か”で、触れてはいけないモノだった。

 その“何か”に私の心は掻き乱されてもみくちゃにされて恐ろしくて仕方なくて逃げたくて逃げなくてはいけなくて捕まったらきっと私は私でなくなってしまうのだろうと、私――…――「 私 」?

 

〈エレイン!〉

 

 はっ、とアーサーの呼び声に、頭の中が晴れたような心地がする。いつの間にか、私はもう壁の前にはいなかった。自分が肩で息をしているのに、そういえば無我夢中に逃げ出したのだったかと思い出す。……逃げる? 何から?

 

〈今にも死にそうな顔をしていた〉

 

「珍しく合ってる気がするわ、それ」

 

 アーサーの言葉にそう返して、けれどもどうしてそんな羽目になったのかは思い出せなくて。

 

「……男。ヘッドホンにグラサン、いやゴーグル?」

 

〈何がだ?〉

 

 アーサーの疑問の声に、私も首を傾げる。何だったのだろうか。

 もう、よく、思い出せない。

 

「あっ! 壁っ! 印っ!」

 

 今日の分がまだつけられていない!

 私はアーサーを抱きかかえて、今日の×印をつけるべくまた、例の壁の場所へ向かった。

 私がそこで見たと思った男は、最初からその存在が私の思い違いであったかのように壁の前から姿を消していた。

 

 

 

×

 

 

 

 

 どうしてだろうか。学園に久しぶりに姿を見せたルルーシュ氏は、救いを求めてでもいるかのような、どこか危ういところがあった。

 ……いや、私がそう勝手に思っているだけで、表面上彼の言動は至っていつも通りだった。あまりに彼が“いつも通り”過ぎたから、それが私には、彼が意識して“いつも通り”でいようとしているだけに見えて。

 そう思って見た彼の横顔は、まるで大事なものを失ってしまったときのように、寂しい顔をしているから。私までが寂しく、悲しい気持ちになってしまった。

 ああ、酷い。あまりに酷い話じゃないか。私はこんなにも、彼が救われることを望んでいるのに、この私では彼に寄り添えないというのだから。私では、彼を埋められないというのだから。それが、こんなにも悲しい。

 

 だからせめて、自ら孤独の道を歩まないでほしいと、私は自分勝手にも彼に望んだ。

 ……これで全部私の杞憂だったら恥ずかしいな。いや、それで済むならそれに越したことはないのだけれど。

 

 

 

 

「他人ごっこ?」

 

 アナの言葉に、私は思わず訊き直した。私のサンドイッチボックスからえびアボカドサンドを攫って行ったアナは、ふふんと鼻を鳴らすとそれに齧り付く。食べてないで早く話してほしいのだけれど。

 

 事の起こりがいつだったのかは分からない。ただ、私が気付いたころには、シャーリーのルルーシュ氏への態度は明らかにおかしいものになっていた。ルルーシュ氏を相手にして、まるで、他人の。知らない人を相手にするような、そんな反応をシャーリーはした。

 体温が失われていくようだった。ルルーシュ氏のあの寂しい横顔がちらつく。そんな、まさか、ねえ?

 それが、私にとっていいことなのか、悪いことなのか。私には分からなかった。アナは「ライバルが減ったんじゃない?」なんてお気楽なことを言っていたが、シャーリーのあれは、そんな単純な『退場』とは違うだろう。消えるならば、彼の中に残らないでほしかった。こんなもの、どう対抗しろというのか。諦めろと言われているようで、乾いた笑いしか出てこなかった。

 

 サンドイッチを咀嚼し飲み込んだアナが語ったのは、シャーリーとルルーシュ氏は痴話喧嘩をしていて、シャーリーはルルーシュに他人のふりをしているということだった。「痴話喧嘩だって、残念ね~」と、アナが苦笑する。……ふり? ごっこ? まさか。あれが演技なら、私はシャーリーを何が何としても演劇部に入れた後、演劇部を辞める。あまりに、迫真が過ぎる。

 

「あれじゃ、本当の他人みたい。……なかったことに、した、みたいな」

「なに? 『私たち、無かったことにしましょう』って?」

「そういうのじゃなくて。本当に、忘れてるんじゃないかな」

 

 私の言葉に、アナがきょとんとして言った。

 

「どうしてそんなこと分かるのよ」

「だって、シャーリーのあれは、恋をしている人間の目じゃないもの」

「うわ。恋する乙女は言うことが違うわあ~」

 

 そう言って、アナは笑って肩を竦めたけれど、私には笑えなかった。ルルーシュ氏とシャーリーは、二人は、私の目からすれば他人にしか見えなかった。他人が知り合いになることはあっても、知り合いが見ず知らずの他人になることなんて、おかしいのに。

 

 急に、恐ろしさを覚えた。彼らの仲が、変わってしまった? 変化というよりもこれでは消失といったところだが、どちらにせよ、以前のままでないことは確かだ。それが、私には恐ろしくて仕方ない。

 私はルルーシュ氏を諦められない気持ちを持ちながら、ルルーシュ氏とシャーリーの仲を認めていた。シャーリーが相手だから、仕方ないと思っていた。それが、私の信じていたものが、なくなってしまった。――じゃあ、ルルーシュ氏はどうなる?

 私には、何ができる? ……私が、何かできる? こんなの、自嘲するしかなくて、そんな自分に泣いてしまいそうだった。

 

 

 

 ×

 

 

 

 スザク君がユーフェミア殿下の騎士様になった。大出世だ! おめでたい。

 叙任式の生中継を観ていると古傷の痛むような思いがして、アーサーと一緒にテレビの前で呻きもがいてしまったけれど。円卓、忠誠、騎士、ウッ頭が。いや、あれは『アーサー』のことであって、私の事ではないので。

 

 スザク君の騎士叙任を祝して、学園でも「おめでとうパーティ」なるものが開かれた。企画はルルーシュ氏の妹様なんだそうな。

 ピザだ! ピザ! たくさんの人に囲まれ祝われるスザク君に近づいてお祝いを言うというのはちょっとハードルが高かったので、私は遠巻きに見てピザを頬張っている。既に本人にお祝いは述べて、アップルパイをホールで贈りつけ済みなので、この場では許してもらおう。

 ちょっと調子に乗って詰め込んだせいか、早々お腹は膨れてしまった。……ウエスト周りが苦しい。

 悔しいが、制服のベルトを緩めようか。そう思ってホールを抜け出て人目のない場所を探していると、上から声が降ってきた。

 

「もしかして、君のお兄さんはチャールズというんじゃないかい?」

 

 驚きその場を飛び退いて、声のした方を見ると眼鏡をかけた白衣の男性がそこに立っていた。穏やか、ともどこか違う目。私に話しかけるその様子は自身の知的好奇心に身を任せているようで、けれどもその根底には何かを見通すだけの冷静さがあるような気がした。白衣、というのが嫌なものを思い出しそうになる。研究者の類に思えるけれど。

 彼の隣には生徒会のニーナさんの姿が。ダブル眼鏡だ。パーティ会場ではそういえば確かに彼女を見なかった。

 

「軍の、研究開発員の方ですか」

 

 私は眼鏡の彼を見上げ、問いかける。彼は嬉しそうに唇で弧を描いた。

 

「ぴんぽーん、大正解~。君は彼の妹ちゃんだね?」

「チャールズ・アーキンは私の兄です。あの、兄とはどうして?」

「ちょっとした実験に協力してもらったことがあってね。凄く極端な数値を見せてもらったから、印象に残っていたんだよ」

 

 世界は狭い、とでもいうのだろうか。それよりも『実験』という単語に私は身の竦む思いがした。

 

「君の写真を見たときの、彼の変化は著しかった」

 

 彼の手が私の前髪を掻き上げた。顔が近づくことにどきりとする。

 

「額の痣は消えたんだねえ」

 

 痣、なんてあった覚えは、だってあれは痣ではなくて、文様、だけれどあれは不完全の証で――。

 

 ……証? 何のことだろうか。自分が数秒前に考えたことが、よく理解できない。

 

 思考の海に沈みそうになっていたところで、私を見据える二つの瞳に、はっと息を呑む。私の苦手な、忌むべき種類の瞳に似ていると思った。その視線から逃れるように、私は顔を逸らす。

 

「怖がらせちゃったかな?」

「いえ、驚いただけです」

 

 ただし、その驚きようは私の中で結構な大きさだったが。軍の方だというから、スザク君に用事だろうかと予想する。彼とニーナさんはホールへ去って行った。私も本来の目的を忘れて戻りかけた。ベルト、ベルト。

 

 私がベルトを緩めてホールに戻ろうとしたところで、先ほどの眼鏡の彼と再会した。後ろにはニーナさん、ではなくスザク君。私の予想は当たっていたらしい。スザク君に手を振って、私はホールへ向かう。

 パーティの主賓の抜けた会場は、しかし、騒がしさを失ってはいなかった。むしろ余計に騒がしくなっている気がして、私は首を傾げる。こういう時アナがいてくれれば理由が一発で知れるのだが、彼女の姿はこの人の群れの中ではすぐには見つけられそうになかった。

 

 お腹はいっぱいなのに、ピザが目の前にあると手を伸ばしてしまうのだから不思議だ。私はピザをちまちまと齧りながら、その辺の人の話に聞き耳を立てる。会場が騒がしい理由は割とすぐに分かった。

 あの眼鏡の彼は、スザク君を会場から連れ出す時に、スザク君の受ける軍務が、機体ランスロットとユーフェミア公女殿下と共に客賓を迎えるものだと明かしたらしい。……その軍務内容が事実なのだとすれば、私はあの眼鏡の彼の正気を疑うのだけれど。

 眼鏡の彼についても、幾らか話は拾えた。名はロイドというらしい。スザク君の上司で、伯爵位を持つお貴族様。そして我らがミレイ会長の婚約者。インパクトの強い情報が混在しすぎではなかろうか。

 

 オレンジジュースの入ったグラスを傾ける。詰め込んだピザが苦しいが、美味しかったのだから仕方がない。口端についたピザソースを指先で拭って、暫く会場に視線を彷徨わせたが、一人でいる自分が寂しい存在だと思わされるだけだった。圧倒的にやることもなかったので、会場を去る。

 これじゃあ、ただピザを食べて帰っただけだと気付いたのは、自宅リビングのソファで、重たいお腹を下に寝そべってからだった。

 

 

 

 ×

 

 

 

 寂しさを埋める術を知らない子供だった。他人にそれを求めることも苦手だった。

 

 悪意に晒されることは、『善意で』引き取られた先での生活で慣れていた。正常な感覚が麻痺していたともいえる。やがて私は、物言わず心動かぬようになった。

 

 《器、王に正しき栄えを齎さん》

 

 私を空っぽだと判断したその人は、私のことを『器』と呼んだ。私が空であることは、その人の『実験』に都合がよかった。その人のことが、私は恐ろしくて仕方なかった。私を見るその人の瞳が、私は苦手だった。

 私は空ではなかった。ほんの僅かでも残っていた。そのことに、誰もが気付かなかった。

 

 

 私の目が覚めたのは、夕日も赤く染まる頃。……スザク君のおめでとうパーティから帰宅して、ソファで寝転んでいるうちに、そのまま寝てしまっていたらしい。

 懐かしくて、忌まわしい、嫌な夢をみたような気がする。するのだが、思い出せるのは夢で抱いた感情ばかりで、内容は綺麗さっぱりと忘れてしまっていた。何かもわからないものに、不快感ばかりが募り、気持ちを澱ませる。

 不意に、ソファの下の影が動いた。驚く私を余所に、その影はにゃあんと鳴く。アーサーだった。

 

「驚かせないでよ」

 

 呆れとも怒りともとれないもやもやとした気分を抱きながら、私は部屋のカーテンを閉めた後に部屋の電灯をつける。

 

〈そのつもりはなかったのだが〉

 

 そう言い、アーサーは揺れる尻尾でてしてしとカーペットを叩く。その尻尾をふん捕まえてやろうかと右腕を伸ばしかけたところで、私はふと浮かんだ疑問を、独り言でも呟くようにアーサーに投げかけた。

 

「“あれ”は何の『実験』だったのだっけ」

 

 両親が死んだのが五歳。兄と離れていたのが五歳から九歳の頃で、『実験』は七歳からあの人が死んだと聞かされるまでの、一年と少しの間。

 その一年と少しの『実験』で、私が何をしていたのか。欠片も思い出せないなんて、気味が悪い。急に肌寒さのようなものを覚えた。

 

「私が失敗だったことは知っているの」

 

 私を『器』と呼んだあの人は、そう言っていた。奇しくもそれが、私が聞いたその人の最後の言葉になった。

 『実験』も終わって、引き取り先に返されて。それから間もなくして、兄が迎えに来て。ようやく両親の死を過去にできた私は、私を取り戻し始めた。そうして今に繋がってきた。

 

「覚えている。覚えているのよ。忘れてなんていない、忘れられるはずもないのに、“思い出すこと”ができないの」

 

 忘れっぽい性質の自分でも、確と覚えている。記憶は確かにあるのだ。私は、その『実験』がどういった内容で、何を目的としたものであるかを知っている。知っているのに、それが何なのかが分からない。

 引き出せない記憶に、私の中では奇妙な矛盾が起きていた。

 

「トラウマ、ってやつなんだろうなあ」

 

 人は、精神的に強い傷を受けるような経験をしたとき、自己防衛のためにその経験を忘れるということがあるという。これもその類、なのだろうか。

 どうせ思い出せないのなら、そんなものがあった事実ごと丸々忘れてしまいたかった。そこにあると知れてしまえば、思い出せない記憶にも手を伸ばしてみたくなる。

 

 ……手を伸ばして、みようか。

 それは、出来心のようなもので。実際、そこにあるものに、手を触れるだけなら難しくなかった。手繰り寄せようとしたところで、見えない何かが、私に圧しかかる。

 ――ああ、これは。不安だとか恐怖だとか呼ぶものだ。

 

 重くて、大きくて、陰鬱なそれは、私を磔にした。

 恐怖に竦む身体も、不安に押し潰されて止まりそうになる息も、どこか他人事のようで、けれども感じる胸の痛みが、息苦しさが、これは私自身のことなのだと訴えていた。びりびりと痺れを感じる手の指には、力も入らない。これ、痺れじゃなくて、震えなんじゃない?

 

 上下が分からなくなって、頭がくらくらした。乗り物酔いのようなそれに、胃がねじれてひっくり返ったような感覚を味わう。気持ち悪い。

 吐き気にえずきながら、私は食べ過ぎたピザに、どうか戻ってくれるなと祈った。

 

 ――思い出してはいけない、思い出さなきゃいけない、思い出したくない。思い出せない。

 何が、何だか分からないのに、辛くて辛くて堪らなかった。自分では消化できない感情が込み上げては、生理的な涙も手伝ってあふれ、零れ落ちていく。

 

 ざらりとしたものが私の頬を撫ぜ、伝う水滴を掬った。アーサーが私の頬を舐めたらしい。

 

〈思い出さなくていい〉

 

 アーサーのその言葉は、不思議とすんなり受け入れられた。決して強い調子ではなくて、どちらかといえば私をあやすようなその声に、逆らう気は起きなかった。……私も、その記憶を思い出さないことに、心の底では賛同しているということなのかもしれない。

 苦しかった息は緩やかに楽になり、吐き気もおさまっていった。私はアーサーの背を撫でる。手に触れた生き物の温度に少し安心して、また泣きそうになった。どうにも情緒不安定でいけない。これはさっさと寝て忘れて元気を出すに限る。

 

 ソファから身体を起こした私は、寝室に向かう。何も言わずともアーサーが着いてくるのは、私を心配してくれてのことだろう。

 今だけは、アーサーが私でもあるということを忘れてしまいたい。私を私が心配していることに、私が喜ぶなんて構図は滑稽だし、私が孤独な人間なのだと知らされるようで、どうにも寂しいから。

 

 ベッドに潜りこめば、睡魔はすぐにやってきた。重くなる瞼に意識まで沈みゆく。

 ……そういえば、アーサーはいつから私の側にいたのだっけ。ふとアーサーに訊きたくなるけれど、眠りの波に邪魔されて、口に出しかけたその言葉は不明瞭なまま、私は眠りに呑まれた。



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14 学園祭

 時間に流されるようにして過ごしているうちに、学園祭の時期になっていた。世情はどうにも不安定というかきな臭い感じではあるのだけれど、それを忘れるように、あるいは知らない振りでもするかのように、学園祭の会場は盛況していた。

 日本人、ブリタニア人関わらず、人々の顔には笑みがある。それを見て、なんだかこの学園らしいと思った。流石は東京疎開一オープンな学園祭だ。

 

 演劇部は劇の公演が昼前に一幕。公演の無い時間はホールの側のスペースで、衣装と台本展示を行う予定だ。

 今回の公演の台本は人魚姫、なのだが部長の手が加わって、随分と別の話になっていた。

 

 確か、王子の母国と人魚の国は戦争中とかいう設定で、人魚姫が声じゃなく記憶を対価に脚を手に入れていた。王子は人魚姫が敵国の姫だと気付きつつ、人魚姫のことが好きで諦められないとかだったかな。船から落ちた王子を助けるために、人魚姫が嵐の海に飛び込んで、それを切っ掛けに記憶と尻尾を取り戻すところからが怒涛の展開で、アイーダやロミジュリに似た流れをなぞって悲劇を思わせつつ、最後に意表を突くようなハッピーエンドをくれるのが良い裏切りの憎い作品だ。

 人魚姫なのに悲恋じゃないし、部長の手が入っている割に話がまともすぎるものだから、顧問の先生はもう何も信じられないとでもいう様子で恐慌状態に陥っていた。先生、先生。今回は大丈夫です。部長だっていつも狂ったような問題作を書いているわけじゃなくて、あれは発作のようなものなんです。ただ少し、その回数が多いだけで。

 

 今回私に劇の役柄は当たっていない。学園祭での役割といっても、リハーサル時間中展示の係員を担当するくらいか。

 さて、魔女のとんがり帽子を被り、襟付きのマントを羽織れば、魔女っ娘エレインちゃんの完成だ。その格好で私は展示スペースに立った。

 係員は私の他に魔女が二人とかぼちゃが一人。……魔女三人か。「綺麗は汚い、汚いは綺麗(Fair is foul, and foul is fair)」とか言って、将来王になる人に荒野で予言を下してみたい。舞台でやるには曰くがある作品だし、かぼちゃもいるからシンデレラが無難なんだろうけれど。

 

 係員が四人もいれば、展示スペースは充分回る。トラブルの気配はなく、大変穏やかで、ついでに割と暇だ。

 客の呼び込みがてら、展示スペースの入り口がある通路付近にまで移動してみれば、通りがかったクラスメイトにぎょっとされて逃げられた。ちょっとへこんだ。

 要らぬ傷を負ってしまった落ち込み気分のまま、早々に展示スペースの奥へと引っ込む。

 

 奥の方では、並べられた台本を前に、立ち止まって熟読している人がちらほら見えた。その中に顔見知りの司書教諭の姿を見つけ、声を掛ける。が、反応はない。相当読むのに集中しているらしい。

 手にしているのが、部長の手掛けた作品の中でも私イチ押しの台本とあって、反応できないのも仕方ないと、思わず大きく首を縦に振ってしまった。是非存分に入り込んで読んで頂きたい。

 

 

 

 

 リハーサルは、予定通りの時間に終わったらしい。私は次の担当者にバトンタッチ、交代だ。

 さーて着替えと舞台の幕まで行けば、そこにいた人魚姫ルックの副部長に着替えを阻止された挙句、『演劇部』とでかでか書かれた札を持たされた。

 

「……ええっと、これは?」

「宣伝よろしく! それ持って会場歩いてくるだけでいいから、ね?」

 

 人魚姫の宣伝に魔女っ娘ルックでいいんだろうか。

 結局着替えないまま、半ば追い出されるようにして、私はホールを出た。

 

 

 会場には、私の他にも仮装している人の姿がちらほら見えた。他部の呼び込み要員のようだが、宣伝の札を見れば展示品と明らかに関係ない服装だ。呼び込みに関わりなく仮装しているであろう人もいる。学園祭はいつの間にハロウィン会場になったのやら。

 

 今日の分の×印が未だ書けていなかったので、例の壁の場所に向かう。美味しそうなホットドックの屋台の横をすり抜け、会場を外れたルートを速足で歩いた。辺りに他人目がなくてよかった。今日の分の×印を刻めば目的は達成だ。

 また会場に戻るついでに、ホットドックでも買っていこうか。

 

 演劇部の札を脇に挟んで、手に持ったホットドックにかぶりつく。程よく焼けたウインナーの皮がパリっとはじけた。

 ケチャップの甘味と酸味がウィンナーの塩味に合わさり最強に思える。パンはしっかり味の緩衝材を果たしてくれていた。マスタードはもうちょっと辛い方が好みだけれど、大衆向けとしては間違ってない。

 

「丁度いいところにいたわ、エレイン!」

 

 ホットドックも消え、指に付いたケチャップを舐め取っていたところで、己が名を呼ぶ声に顔を上げる。我らがミレイ会長様様だ!

 

「何かお困りですか?」

「ええ。急な話なんだけど、演劇部にあるゼロのマント、生徒会に貸してもらえないかしら?」

「マントを?」

 

 そういえば、生徒会の展示は『ゼロ特集』だった。……本気だったのか、その特集。

 ミレイ会長が仰るには、学園祭が始まって数時間ながら、展示の受けは悪くないらしい。なるほど、部長のスカーレット・ピンパーネルは時代を先取りしすぎていたのか。時代が部長に追いついたんだな。絶対ろくな時代じゃない。

 

 会長は、今朝になってスザク君から、ゼロのマントが演劇部にあると聞いたらしい。「受けもいいし、これはマントも欲しいわ~」とのことだ。……まあ、今からでも、部長に言えば貸し出しはどうとでもなるだろう。

 一応、限りなくゼロのマントに近いだけの、スカーレット・ピンパーネルのマントだと断りをいれながら、私は会長に部長の許可を得てくる旨を告げる。感謝のハグを頂いた。大変やわらかかった。

 

「仮面もお貸ししましょうか?」

 

 私の力作ですよ。あ、いらない。はい。

 会長の回答に若干落ち込みつつも、私は部長に会いにホールへ向かった。

 

 

 意外なことに、部長は控室にも舞台袖にもいなかった。近くの部員に訊けば、部室にいるらしい。マントが部室にあったので、今から探し回るよりは都合がいいと言えば都合がいいが、公演の時間が近いのにホールを外しているなんて、部長にしては珍しい。

 

 部室にいた部長は、何か書きものをしていたが、私が部室に来たのに気付いてすぐに作業を止めた。マントの持ち出しと、生徒会への貸し出しのことを言えばあっさり許可が出る。仮面は要らないのかと訊かれてしまった。ええ、要らないらしいんです。

 

 力作なのになあ、と思いながらよくよく見える場所に仮面を飾り直しつつ、マントを手にとる。ベルトと銃のホルダーは余分だろうか。

 

「あれ」

 

 ゼロの所持品との設定だった、例の小型銃の模倣品が無い。ホルダーにかけっぱなしで仕舞われていた記憶があるのだが。

 部長に行方を問うと、部長が個人的に持ち帰ったとのことだった。何に使う気だ。

 

 

 生徒会の人にマントを託した頃には、劇の公演時間も近くなっていた。……客の呼び込みを言いつかったのに、このままホールに戻るのでは、流石に怠慢が過ぎる気がする。

 私は申し訳程度に演劇部の札を掲げながら、ホールへの道を急いだ。

 

 幸い客入りは悪くなかった。魔女っ娘ルックが他人目を集める。通常入口からの入場には時間がかかりそうだったので、ホールの裏に回り、関係者入口の扉から入らせてもらうことにした。

 

 控室に札を置き、魔女っ娘ルックをキャストオフする。帽子と襟付きマントを脱げばいいだけというお手軽さだ。

 ハンガーラックには、服の掛かっていないハンガーがいくつも引っ掛けられていた。そのうちの一つに襟付きマントを掛ける。そうして部屋を出て、舞台袖に着いたところで開演のブザーが鳴った。時間ぴったり。いつの間にかホールに来ていた部長も、袖から舞台を観ていた。さあ、開幕だ。

 

 

 公演は、途中音響機器の接続トラブルによって音楽の流れなくなるアクシデントがあったものの、演者たちがそれをものともせずに演技を続け、場を繋いだことにより、無事復活した音楽と共に幕を引けた。観客たちは、背景音楽のない時間を一種の演出だと思っているようですらあったのだから、演技を続けたのは英断だったろう。率先して演技を続けようとした人魚姫役の副部長は、そもそも緊張で音楽がはなから耳に入っていなかったのだと、後で零して苦笑していたが。全てを冠する終わりだったのだ。反省点はあれど、公演は成功だったと言っていいだろう。

 

 公演が終わってからの方が大変だった。部員皆で舞台の片付けをしていれば、副部長が一人、舞台衣装のままおろおろと控室の前をいったりきたりしている。どうしたのかと尋ねれば、なんと彼女の制服が見当たらなくて着替えられないとのことだった。

 幸い部室には、いつかの公演で使った彼女の私服が置いてあったので、それを部員がとりにいくことで、彼女が人魚姫の服装のままで学園祭会場を練り歩くようなことは避けられた。……あの会場内なら、人魚姫の尻尾つきドレスで歩いていても浮かない気もした。

 

 その後もトラブルは続く。

 学園祭の様子を記録している生徒会が、公演前に展示の撮影に来るものと思われていたのが来ず、公演後に確認をとってみれば、記録はどうやら映研が請け負っていたようで。

 

「そういえば、映研の人がカメラ持って来てたの…展示品は撮影禁止ですって追い出しちゃったわ」

「あちゃー」

 

 情報の伝達が上手くいっていなかったらしい。額をぺちんと押さえる展示撮影時担当の女子部員から、私はインカムを受け取り、映研へと連絡を取る。

 

「あの撮影禁止ってそもそも、外部の人に生徒の写真と部長の問題作を盗撮されるの防止に設定したやつだろ?」

「うー…ごめーん。でも、毎年生徒会がカメラ回してたから、今年も回してるものだと思ってた」

「なんか今年はTV局とかきてるし、例年通りとはいかないんだろ」

 

 唸る女子部員に、インカムを外して私は告げた。

 

「映研の人達、今から来てくれるらしいよ。『折角の学園祭ですからね、思い出が映像に残らないのは寂しいでしょう』って」

「今から!?」

「あーう、ありがたいことだってのは分かってるのにありがたくなあい……」

 

 女子部員はそう言って肩を落とした。

 

「私これから巨大ピザ作り観に行くつもりだったのよ。撮影時に突っ立っているだけとはいえ、一応担当だし、抜けられないわよね」

 

 突っ立っているだけとは言うが、演劇部の展示品として、記録に残しても問題ないものと、映しては色々とまずいものを、撮影者に伝える大事な役割である。展示品の選別時に一度確認しているからと慢心していると、展示開始時にはなかった部長の紛れ込ませた品々によって痛い目を見る。今日の午前は、部長はほぼ部室にいたようなものだったそうだが、油断はできない。

 

「そういうことなら、私が代わろうか?」

 

 ピザならこの前散々食べた。直径十二メートルのピザは確かに気になるが、あれは多分食べる方でなく、制作過程のパフォーマンスを楽しむものだろう。学園祭の大目玉、確か部員達もほとんどが観に行くと言っていた。

 

「本当に? お願いするわ、エレイン!」

 

 女子部員が私の両手を掴み、力強く縦に振った。そんなに嬉しかったのか。

 手を離した途端に駆け出した彼女に、私は苦笑しながら、その背を見送った。さて私は、心の内でスザク君の健闘を祈るとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

(エレイン・アーキンの日記 12)

 この学園の行事、やけにピザ推しなのはどうしてなのだろうか。

 映研の人達が到着するのを待つ間、そんなことを呟いたら、それを聞いていたらしい部長が、スポンサーがどうだとか言っていた。

 はて、学園の経営陣にピザの店でもあったかな?

 

 果たして例の巨大ピザだが、完成は見なかったらしい。

 ユーフェミア皇女殿下が会場にいらっしゃったとかで、騒ぎになって学園祭は中断、ピザ作りなんて場合ではなくなってしまったんだそうな。ピザ……。

 皇女殿下も、お忍びでいらっしゃってたんだろうのに。とんだ災難だっただろう。……お忍びだったんだよね? 炎上商法みたいな、そういう真似を狙ったわけじゃないよね? テレビ局の集まった、その場所での彼女の宣言のせいで、どうにも疑心暗鬼になってしまう。

 

 副部長の制服は、学園祭の翌日にトマトのシミがついて返ってきた。

 血かと思った。どうしてトマト。そんなことを彼女は愚痴っていた気がする。一応、被害届を出したらしい。

 シミが落ちずに制服は買い替えとなったが、学園内で起きたことだからと、学園側が制服代を肩代わりしてくれたんだとか。この学園の、こういうところが好きである。気が回るとでもいうか、生徒が困っていれば当たり前のように手を貸してくれるとでもいうか。

 

 どうにもトラブルが続く。部長情報では、こういう時、日本の人は『悪霊に取り憑かれている』と考えるらしい。突然の悪霊登場。何故。東洋の神秘だ。悪霊憑き…悪魔憑きのようなものだろうか?

 地震雷カジキトーお祓いをすれば、悪霊は退散するらしい。私もここでひとつ、教わった悪霊退散の呪文を唱えておくことにする。ナンマイダブ。

 




間違った日本の知識を植え付けられたエレインちゃん……。


・なんちゃって人魚姫
王子と結ばれないと泡になる設定が空気。儚さと童話感の欠片もない。王子と扇、一音違いだなってふと思ったのでした。

・魔女が三人
マクベス。ヒーッヒッヒ。スコットランド王になるけど最終的に破滅ってマクベスの運命、雀の涙くらいはルル氏と似てるかなって思って入れた小ネタ。……本当に雀の涙しか似てない、というか別物だね! ルルさん自分で自分の運命拓いた感あるもんね、予言とか持ち出してごめんね。

・舞台でやるには曰くがある
なんかイギリスの演劇界隈じゃ劇場内で『マクベス』って言うと悪いことが起きるとかいうジンクスがあるとかないとか。

・魔女とかぼちゃ
シンデレラ。びびでぃばびでぃぶー。


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15 行政特区日本

死人が出る回になってしまった。



 学園祭の片付けも終え、帰宅し、ポストを覗くと、久々に兄からの手紙が届いていた。

 封を切り、手紙の一文目を視界にいれた瞬間、覚える違和感。――…これは、これを書いた人物は、兄ではない。

 読み進めていくうちに、予感が確信に変わる。これは、兄の言葉ではない。これは誰だ? 兄を名乗る、この人は、誰?

 

 ぽろりと零れ落ちた涙の大粒に、漠然と、兄は死んだのだなあと思った。

 

 

 夕食には、兄の好んだスクランブルエッグを作って、そうして今更私は、それが目玉焼きをうまく焼けなかった頃の私への気遣いだと思い知る。

 多分あの人は、私に負い目を持っていた。あの人のために、私が犠牲になったことを知っていた。知らないふりをしていればよかったのに。私が犠牲になったのは成り行きで、兄への献身ではなかったのに。

 兄に与えられたものが嬉しくて、兄のしてくれたことが嬉しくて、それがこんなにも悲しい。

 

 

 

 ×

 

 

 

 「彼」は私に似ていた。「彼」は独りだった。そのことを嘆き悲しみ、寂しがっていた。寂しがっているのに、誰にも寄り添わせなかった。

 ――私も独りになれば、貴方は少しでも気が晴れる?

 

 だって、なんだか悲しくて。そのままには、放っておけなくて。

「彼」の気持ちは誰にも分かりはしないかもしれないけど、みんな寂しくなっちゃえば、相対的に寂しい人は居なくなるよねなんて、そんな不幸の量産をするみたいな考え方で、私は孤独を選んだ。――そうして私は、「彼」になったのだ。

 

 

 

 

 目が覚めると、枕が濡れていた。涎だろうかと首を傾げながら、洗濯機に枕カバーを投入する。

 テレビをつけて、今日のニュースを見ながらトーストを齧る。そういえば、例の行政特区が成立するのは今日だったか。

 飲み込めないパンをセイロンティーで流し込み、制服に着替えた私は家を出た。

 

 

 今日も今日とて壁に印をつけていると、酷い顔をしたアーサーがやってくる。私の脚に摺り寄る彼は一端の猫のようだ。いや、実際猫なのだが。

 

「どうしたの、そんなに死にそうな顔をして」

 

 まるでいつかの私みたいだ。らしくないと思いながら、しゃがみ込んで彼をわしゃわしゃと撫でる。心地よさそうに目を細める彼は、けれどもいつものように喉を鳴らすことも興奮状態に陥ることもなく、沈んだままの調子だった。

 

〈すまない……〉

 

「本当にどうしちゃったの」

 

〈俺がお前を孤独にしてしまった〉

 

「私がぼっちなのは今更じゃない?」

 

 胸を占める寂しさ、時折覚える孤独感。一体幾年、私がそれを感じてきたと思っているのか。

 

〈だが、ひと気のない場所で猫に話しかける奴は相当寂しいぞ〉

 

「なるほど私は、アーサーと話さなければいいのか」

 

 返ってきたのは沈黙。やっぱり、このアーサーは変だ。私が彼と話さなければ、彼の話し相手はいなくなってしまうのに。今度は、アーサーがぼっち街道をいくことになってしまうではないか。

 

「そこは却下しなさいよ。馬鹿ね、話すのをやめたりなんてしないわよ」

 

〈……お人好しめ〉

 

 そう言いながらも、手首にじゃれ付く彼を私は撫でてやる。しなやかな背は撫で心地が良い。

 

「それでどうして、今更そんなことを気にしたの?」

 

〈夢見が悪かったのだ。嫌な予感がする〉

 

「……こんなに良いお天気なのに」

 

 まさか、血の雨でも降るのだろうか。

 

 

 

 

 今日は部の活動日でないにも関わらず、演劇部の部室には部長がいた。彼のトレードマークでもある、グルグル模様の瓶底眼鏡をズラして手元の本を見ている。製本の甘いそれは、二十年近く前の演劇部の台本のようで、物語はアーサー王の伝説を下敷きにしているようだった。

 

「その話だけは、絶対にやりたくないです」

 

 ちょっとした黒歴史集である。部長も、劇の題材にするつもりでそれを読んでいたわけではないらしく、私の言葉に苦笑して頷いた。

 なんでも、部長の知るアーサー王伝説と、その内容が違うらしい。部長の知る伝説の中では、円卓の騎士にしてアーサーとその異父姉モルゴースの間に出来た子・モードレッドが謀叛を起こしたことにより、アーサーの治めるブリテンは瓦解し、滅びるのだとか。えっ、姉上との間に子供、えっ。姉弟で? えっ。いや、そもそも、姉の名がおかしい。私の知る彼女の名はアンナだ。

 己がアーサーだった頃、確かに姉に溺愛されていた自覚はあるが、その愛は男女の間にあるような類のものではなく、あくまで姉弟愛だったように思われる。思いたい。彼女の夫は大変な愛妻家で、自分が目の敵にされていたことは憶えているのだが。その辺りの話が、伝わるうちに歪曲したのだろうか。

 

「その台本はどうなっているんです?」

 

 部長に示された部分には、ランスロットとの争いの間に真の反逆者が現れ、アーサーがそれと戦ううちに、ブリテンに外敵が侵攻。アーサーの死と共にブリテンが滅亡したことが記されていた。姉との間に子が出来たくだりは部長の話と一致している。そこは違っていてほしかった。

 

「……私の知るアーサー王伝説では、その反逆者はティンタジェル公ゴーロイスの血縁の者でした。ゴーロイスは、ブリテン島最西端のコーンウォール地方を治めていた者です。アーサー王の父ウーサーに、妃イグレーヌを寝取られた人でもあります」

 

 そうして産まれてきたのがアーサーだ。……妃を寝取られ、うっ頭が。

 

「アーサーが王になった経緯をご存じですか。マーリンの予言により、王に成る者として産まれてきたアーサーは、『この剣を引き抜く者はブリタニアの正当なる王として生まれた者である』と記された選定の剣を抜いた出来事を切っ掛けに、自身がブリタニアの王であることを主張し始めることになります」

 

 生き急ぎ過ぎたような気もするし、調子に乗りすぎていたようにも思う。だが、あの頃は万事が上手く運んでいたのだ。順調だった。……順調すぎた。何者かが裏で糸を引いていることを、疑いたくなるくらいには。

 案の定というか何というか、台本ではその選定の剣をエクスカリバーとする勘違いがかまされていたが、エクスカリバーは湖の乙女から授けられた聖剣であって、選定の剣とは別のものである。選定の剣はすぐに折れたし、マーリンには上手いことはぐらかされたが、あれはマーリンが仕込んだものだったんじゃないかと思う。

 

「外敵は、なんてことはない、当時ブリタニアに侵攻してきた異民族ですね。タイミングが悪く、といったところでしょうか。ブリタニアの土地こそ蹂躙は免れましたが、王を喪い、国として成立しなくなったのでしょう」

 

 そう述べながら、私は台本をぺらぺらと流し読む。私の知るアーサーの経歴と台本は、大きな流れこそ違わないものの、幾らか異なる点があるらしかった。あっ、愛人いたのばれてる。いや、あれは不可抗力だったから、うん。現代人の視点からしてみれば、「お前よくもランスロット責められたな」みたいな話ではあるのだが。あの時代の妻の不義と騎士の裏切りは、王が愛人作るのとはわけが違うのである。

 マーリンの関わるくだりも違うような気がするのだが、あの性別不明な食えない狸みたいな魔術師のことは私自身よく憶えていないこともあって、それを確かめることは叶わなかった。アーサーに尋ねれば分かるだろうか。

 部長の知るアーサー王伝説は、幾パターンかあるらしく、ものによってはアーサーが女性という設定になっていた。どこから出てきたんだそんな話。

 

 

 

 ×

 

 

 

 行政特区日本の式典は、ジェノサイド・パーティだったらしい。

 ――えっ、何これは。本当に何。ドッキリ?

 報道される内容に、頭がついてこない。あの式典会場やその周辺には、行政特区を肯定する、多くの日本人が集まったはずだった。その行政特区を提案したはずのユーフェミア皇女殿下によって出された、日本人虐殺命令。被害人数は、一万人を超えるという。

 ……現実感が酷く死んでいる。実感が湧かないのだ。突拍子もなさすぎる。誰がこんなシナリオを書いた?

 

 ブリタニア側には利がない。日本人にも慕われていた『ユーフェミア皇女』のイメージ像を打ち壊し、その駒を使い潰してまで、会場の日本人を虐殺し、ブリタニアとの軋轢を大きくする理由が分からない。酷い話だが、執政者の観点からすると、日本人を管理するだけならば、行政特区日本で程々に彼らの自尊心を満たし、国としての独立心を起こさせず、支配者であるブリタニアへの不満を解消してしまったほうが余程飼いやすいというものだ。

 あのお花畑みたいな皇女殿下の本性が獣であり、この虐殺が彼女個人の虐殺欲からくる独断だという可能性はある。むしろ報道側は、その可能性を一番高いとして、いや、それで確定として、報道している。……それを私は、鵜呑みにはできなかった。何かがおかしい気がしてならない。

 何者かの陰謀というには杜撰で、ただ、むごいだけの出来事。

 カップを持つ手が震える。中の紅茶は冷めていた。

 

 一万人の被害者の中には、部長の名があった。

 彼はブリタニア人ながら式典会場の近くにいて、銃撃に巻き込まれたらしい。あの日、彼は私と共に部室を出たから、その後式典会場に向かったというわけか。殺しても死ななそうな人なので、そのうちひょっこり戻ってきそうで、どうしても彼が亡くなったとは信じられなかった。その癖部長なら、日本好きの性質が引っ張って、日本人を庇い死ぬなんて真似もやりそうだから困る。

 ……暫く、外には出たくない。

 

 

 

 ×

 

 

 

 頭が痛い。重い身体を引き摺るようにして、私は学園へと足を運ぶ。壁の印を、数日付け忘れてしまった。違う、忘れてなんていなかった。けれども、家から出たくなくて、私は印をつけることをさぼった。

 ……酷い、裏切りだと思う。ルルーシュ氏の頼みを、私は果たさなかった。

 

 誤魔化すように、つけられなかった数日分もあわせて壁に印を刻む。多分、彼は私が彼の頼みをきいていようと、きいていなかろうと、大して心を動かすこともないのだろう。彼にとっては、どうでもいいことなのだろう。

 それでも、私が、自分のことを許せなかった。この誤魔化しに、自身の醜さを感じて仕方ない。胸を占めるのは後悔で、彼に不義理を働いてしまったような気持ちになる。救えない。もう遅い。

 こんな気持ちになるくらいなら、さぼらなきゃよかったのに。自分の馬鹿さ加減に泣いてしまいそうだ。

 こんな苦い泥みたいな気持ちは、二度と味わいたくない。

 

 

 ここ数日の間に、様々なことがあったらしい。ネットのニュースサイトによると、式典会場に突撃した黒の騎士団が、例の騒ぎを鎮圧したということだった。……マッチポンプの可能性が見えてきた。

 ゼロは民衆を前にして、ブリタニアからの独立を宣言。日本の復活ではなく、合衆国日本の設立を発表した。黒の騎士団はその勢いで、一般民衆を吸収しつつ、トウキョウ租界を襲撃。情報が錯綜しているのか、テレビでははっきりとしたことは言われていなかったが、ブリタニア側の戦況はあまりよくないようだ。

 命の惜しい人間ならば、とっくにエリア11を発っている頃か。学園には、思っていたよりも生徒が残っていて、少し驚いた。残る生徒の中には、アナの姿もあった。久しぶりね、と声を掛けられる。

 

「どうしたの、ぼーっとしちゃって」

「いや、別に」

 

 何かしらの原因がある、というわけでもないのだが。色々なことがありすぎて、少々、心が疲れてしまった。

 

「癒しが欲しい」

「残念でしたー。あんたの麗しの王子様は、ここ暫く学園に来てません」

 

 同じ時期から、カレンさんも姿を見せていないらしい。彼女の場合、体調不良の線もあったが、時期が時期だと、アナはルルーシュ氏がシャーリーから彼女へ乗り換えたという説を推していた。エレインってば出遅れたわね、とも言われた。怒ってもいいだろうか。私は、二人とも普通に避難したという説を推したい。多分、外れているけれど。

 

「世の中って、ままならないわ……」

「思い通りになるものの方が少ないわよ」

 

 だからこそ人は、現実を前にして、理想に敗れるしかないのだ。……理想を実現できるのは、よほどの人でなしだけらしい。

 

 

 

 

 

 

 

(エレイン・アーキンの日記 13)

 兄を名乗る誰かさんとの文通は、相変わらずに続いている。

 兄が本当に兄本人であればよく知っている筈の、私の好きな物の話から、趣味や学校の話をした。「知っていると思うけれど」と前置きして、それらのことを書く。

 「もちろん知っているが、そうなのか」という反応を返すこの人は、兄を騙っていることを隠す気があるのだろうか。

 毎々話題に律儀に返してくるあたりも、兄らしさとはかけ離れている。兄の手紙はいつだって、近況報告のような内容で、私との受け答えは少ないのに。この人は私の手紙に対して、何とも律儀に返信していた。

 

 ふと、出来心と興味から、「お兄ちゃんそんな口調だったっけ、いつも『にゃん』って文末につける癖はどうしたの」と尋ねたら、次の手紙から文末に『にゃん』がついていた。……どうしようこの人面白いぞ。

 

 全てが全て、杜撰な騙りというわけでもないのだ。封筒や紙、ペンのインクは同じものを使って、筆跡は兄のものを真似られている。むしろ、その面ではやけに手が凝っているといえるだろう。それでどうしてこうなるのか。

 この、用意周到なのに、肝心なところでどこかその人のよさに失敗してしまうとでもいおうか。任務に忠実なマシンになりきれない、人間臭さのようなものがある。単純に大雑把な性格なだけかもしれないが。

 少なくとも、兄を騙るその人が、その役割に向いていないことは確かだった。




今更な話ではありますが、エレインちゃんにギアスはかかっていません。


(今日のアーサー王物語 2)
寝取られ王は、そもそも寝取られた妃イグレーヌから産まれてきたのでした。かなしいなあ。
アーサーの母親を、湖の乙女とする説もあるそうな。

エレインちゃんの知るアーサーの経歴は『マビノギオン』『ブリタニア王列史』寄り、捏造含む。そうは言っても、マロリー版の要素も結構入っているちゃんぽん麺。
台本もとい神聖ブリタニアで広く知られているのはマロリー版。
部長の知識は、原典ではなく、アーサー王伝説を下敷きにした様々な創作物が大元。


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16 紫水晶

抱えっぱなしになっていた設定を、どう明かしたものか悩みに悩んだのですが、結局いい案は浮かばず、このようなかたちになってしまったのでした。考えなしに書きはじめたばっかりに…!


 部長の遺品は、ぐるぐるビン底眼鏡ひとつ。彼の身の回りのものは、どういうわけか、まるでこうなることが分かっていたかのように粗方処分されていたらしい。尤も、彼が死ぬ前に処分したのか、彼が死んだから何者かに処分されたのかは分からないのだが。

 辛うじて彼の遺品と呼べなくもない、血に濡れた制服は、見つからない部長の遺体の代わりに、彼の墓とされている場所に埋められている。その制服を私が目にしたことはないが、顧問の先生の談では、散弾でボロボロになっていて、とても見れたものではなかったそうな。「ちゃんと赤い血だった」と涙ぐみつつ語る先生は、部長を青い血の流れる人外生物か何かだとでも思っていたんだろうか。その気持ちはわからでもない。

 それはいいのだが、何故そのぐるぐるビン底眼鏡が、顧問の先生の手にあるのだろう。その眼鏡を、部員集まる演劇部の部室に持ってきた先生は、部員の誰かがそれを引き取るようにと言ったのだった。

 

 詳しい話は言葉濁され聞けなかったが、部長はいわゆる名家の出身で、貴族のおぼっちゃまという存在だったらしい。ただ、その変人性と親イレブン派な性質から、本国での生活が肌に合わず、家出同然に、ここエリア11のアシュフォード学園へと転がり込んだのだとか。

 実家では爪弾きにされていたようで、遺品の受け取りも拒否されたというわけらしい。なるほど、道理でお墓がこちらにあるわけだ。それで遺品も、こちらに回ってきたと。

 そうはいっても、実家に縁を切られていた、というわけではなかったそうだから、やっぱりよく分からない。部長のお家事情は、複雑怪奇そうである。

 

 兎も角も、そうして部長のぐるぐるビン底眼鏡は、部員たちの間で貧乏くじを押し付け合うようにあっちへこっちへ回されることになったのである。誰だ、あのレースのリボンを巻いたのは。

 

「これじゃ、きりがないわ!」

「なら、副部長が受け取ってくださいよ」

「嫌よ!」

 

 きっぱり全面拒否した副部長は、手にしていたビン底眼鏡をストークス先輩へと押し付けた。

 

「いや、渡されても困るんだが。……部室に飾るのでは駄目なのか?」

「駄目です」

 

 今度は、顧問の先生からのお言葉。理由は「部室に置いていると、部長の幽霊が化けて出そうだから」だった。先生……それはさすがに……。いや、部長なら確かに出そう、出そうですけれど。

 ストークス先輩は少しの間逡巡して、私の手を取ると、そっと手の平の上にそれを置いた。「プレゼントだ」って、ちょっと照れくさそうな顔をするのはやめてもらえますか先輩。紳士的な動作を装ってはいますけれど、厄介なものを押し付けたい本音が隠せていませんよ?

 私は苦笑してビン底眼鏡を見やる。分厚いガラスは意外と重量があり、私の手の平に重みを伝えている。長時間掛ければ耳の付け根が痛くなりそうなものだが、部長は平気だったのだろうか。

 

 さて、何故逃げるのかね、アリッサ後輩。

 

 

 

 

 結果からいうと、私がアリッサ後輩にビン底眼鏡を押し付けることは叶わなかった。

 アリッサ後輩は、部長がいつかに話した日本のニンジャもかくやという素早さで部室から逃げ出し、他の部員達も一抜け二抜けでいなくなってしまったのだ。必然と、私の手元に残ったのは貧乏くじ、もといビン底眼鏡である。よろしく頼むと私の背をぽすぽす叩く顧問の先生に、私はがっくりと肩を落とした。

 部員達が受け取りたくない気持ちも分かる。これを見てしまえば、嫌でも部長のことを思い出してしまうからだ。無碍にも扱いづらいだろうし。

 皆、なんだかんだで部長のことを慕っていたから、この眼鏡を見る度に悲しくなってしまいそうだ。現に私は今、とても悲しい気持ちになっている。つらい。

 その日の私は、しょんぼり気分で帰宅することとなったのだった。

 

 

 帰宅した私を出迎えたのは、開いた封筒、そして、兄を名乗る誰かからの手紙だった。机の上に置いたままになっていたらしい。ただでさえ沈んだ気持ちがドン底行きだ。

 最悪な気分で、その手紙をゴミ箱に投げ入れようとして――できなかった。怒りも湧いてこない。疲れが勝っていた。

 私は棚を漁って、新しい便箋と封筒を取り出す。返事をしたためることにしたのだ。さて、相手は兄ではないから、いつもの定型文はいらない。――書きだしの言葉は何にしようか。

 

 感傷に浸りながら、綴る言葉には表さず、私は手紙を書き上げる。無知な少女の仮面をかぶり、明るさを装った。

 なんと他人行儀な手紙だろうか。弱音の一つもない。悩みなど知らない、気楽な少女がそこにいる。羨ましい。

 ペンを手放し、ソファに身を投げる。鼻奥がつんとするけれど、涙の出る気配はなく、それが余計に苦しい。溜息ばかりが、私の口から漏れていく。

 重い頭を少し持ち上げて、机に手を伸ばす。手に取った部長の眼鏡のつるを指先でなぞった私は、それを何気なしに掛けてみた。

 部長はこの眼鏡越しに、何を見ていたのだろう。部長には、この世界がどう見えていただろう。

 

「――あれ?」

 

 その眼鏡には、度が入っていなかった。

 ……何のために掛けてたんだ、あの人。

 

 

 

 ×

 

 

 

 エリア11の各地では、暴動が起きているという。ネットでは、その暴動を起こしている最大勢力である黒の騎士団が、近々東京疎開へ突入するのではないかという推測が飛び交っていたか。テレビの放送局が次々と黒の騎士団に占領されている今、情報入手はネット頼りだ。

 まだ生きている放送局は、朝から晩まで新宿ゲットーの治安悪化を話題に挙げ、危険だから市民は外に出るなと伝えている。授業も全て休講となってしまった。こんな様子では、気が滅入ってしまう。

 多分、賢い人はとっくに本国へ帰った頃だろう。こんな場所にいては、戦火に巻き込まれてしまう。

 そう、大きな争いが、今起ころうとしていた。

 

 戦前のピリピリした空気に、前世を思い出しては、うっかり殺伐とした気持ちになってしまう。感情を削ぎ落として、ただ等しく正しく在ろうとした、あの日々を。

 ――果たして、正しいことは良いことだったのだろうか。

 ふと、そんなことを考える。誰かの嘆きも、訴えも、耳にいれることはなく、理想のために己の正しいと思った道を常に選択してきた。

 それで、誰が幸せになれただろう。

 

 自然と、息が詰まった。

 過ぎ去った過去の話、取り戻しようもないことだ。分かっていた、分かっていたことだったのに。涙がこみ上げるのは、どうしてだろう。自責の念を抱いたところで、何にもならないと分かっているのに。ただ、苦しい。

 ああ、感情が煩わしいと、王である私は、そう思っていた。

 

 ――違う、私は『アーサー』じゃない。

 前世を否定するように、私は目の前のプレーンドーナツに齧り付く。アイシング前だったが、気にしない、気にしない。しかし、まあ、甘いものって偉大だ。自然と頬が緩む。

 もぐもぐと咀嚼しながら、アールグレイの紅茶を淹れる。香りのよさに、気分まで良くなってきた。我ながらチョロいものである。

 

 ご機嫌で紅茶を飲みながら、ソファに腰を落とす。

 寮暮らしならば、部屋から出ることを許されないか、体育館に集められるかしていただろう。

 その点、自宅暮らしは悠々自適である。学園地区に自宅があることを、喜んでおくべきだろう。だからといって、未だ黒の騎士団の影響の少ない学園地区をほっつき歩くのは褒められたことではないのだろうが。

 私は今の所、毎日学園に行っては、例の壁に印をつけることを続けている。学園が黒の騎士団に占領でもされない限り、この習慣を続けるのに支障は出ないはずだ。

 

 

 ……そんなことを考えていたのが悪かったのだろうか。

 テレビの全てのチャンネルで、黒の騎士団の紋章が表示されるようになった頃。アシュフォード学園が、黒の騎士団に占領されたと、学園寮にいるアナから連絡が届いた。学園に近付くな、とも。

 

 数日ほど前に、爆発音を聞いて嫌な予感はしていたのだ。音源は、二つほど離れた地区からだったようなのだが。結構遠くまで聞こえるものだなと、変なところに驚いている場合じゃなかった。もっと危機感を持つべきだった。後悔したって遅いけど!

 建物の倒壊音が、あまり分からなかったからと、私は呑気してしまっていた。地響きは届いていたのだから、そちらでもっと焦れと、過去の自分に言いたい。

 いやでも、学園地区に干渉するとは思わなかったというのも確かなのだ。距離的には、主要施設に近いとはいえ、ブリタニアの政治的拠点とは、あまり関わりの深くない場所なはずなのに。謎である。

 

 

「……まあ、行くしかないわよね」

 

 忠告してくれたアナには悪いが、学園が黒の騎士団に占領されていようと、いなかろうと、私は壁に印をつける所存である。

 制服の上から黒いコートを羽織った私は、自宅を出る。日の落ちる時間帯も相まってか、街は見事にひとけがない。嫌な空気だ。変に身を潜めても怪しいだけだろうと、私は目立たないようにだけ気をつけつつ、堂々歩いて学園の側までやってきた。

 さて、どうやって学園の敷地に入ろうか。学園寮に入っていれば、この手間もなかっただろうに。正門にも、裏門にも、見張りがいる様子だ。演劇部の部室にあるであろう、ゼロの衣装が手元にあれば、変装して楽々侵入出来たのかもしれない。……さすがに声でバレるか。

 

 そこに現れ、堂々と裏門の前に立つのは、黒の騎士団とは違う身格好をした女性だ。髪色からして、ブリタニア人ではなかろうか。えっ、大丈夫なの?

 案の定、見張りに止められ、彼女は何処かへ連れられていく。……あれ、追い出されるんじゃないんだ。入れるんだ。

 なるほど、学園内部に入るだけが目的なら、見つかってしまっても問題は無いわけだ。いや、私は見つかると印が付けられなくなるという問題があるけれど。

 

 ついでに、というべきか。彼女を連れていくために、裏門の見張りが減っている。風向きが変わった。これは侵入のチャンスだ。

 どこかで聞こえる諍いの声。残る見張りが、そちらに視線を向かせているうちに、私は学園に侵入を果たした。

 

 目的の壁までは、まだ距離がある。はやる気持ちをおさえつつ、茂みの中を腰をかがめて走る。金属がぶつかり合う音がして、心臓が跳ねた。空に飛ぶのは、ナイトメアフレーム。

 

 恐怖に身体が竦みそうになる。あれは生身で相対したいものではない。幸い、こちらに近付く気配はなく、あのナイトメアフレームは学園の校舎の方へと向かっているようだが。

 何気なく視線を外して、私は気付く。生徒会室のある辺りの部屋に、明かりがついている。

 ルルーシュ氏はどうしているだろう、彼もあの場にいるのだろうか。ふつふつと湧いてくる、嫌な予感からは目を逸らし、蓋をした。

 

 

 無事、目的の壁へと到着した私は、いつものように壁にバツ印をつける。壁一面を埋める印は圧巻で、自分でやっておきながら、その執念みたいなものがちょっぴり怖かった。そのくせ、ルルーシュ氏の頼みだと思うと、この印が愛おしく思えてくるのだから正気の沙汰ではない。恋は人を狂わせるとは、本当のことだったのか。

 どこからきたものか分からない震えに、ぶるりと身体を一度震わせる。自覚のないうちに、息が上がっていた。ゆっくりと息を吐き出して、深く息を吸いこむ。冷たい空気が、私の肺を満たしていく。

 

 あの時と、少しだけ似ている。あの長い緑髪を見たのも、あのゴーグルを見たのも、この壁を前にしていた。それをいうならば、ルルーシュ氏と初めて顔を向かいあわせて話したときのことも、加えなければならないか。

 強い予感が、私にその訪れを告げている。いや、既にそこにいるのだ。ただ、恋に盲目になって、見えるものにさえ瞼を閉じてしまっている私には見えないだけで。

 輪郭が歪む。心臓が早鐘を打つ。手足の震えが止まらない。だが、私は彼に会わなければならない。

 ――彼? 誰に?

 

 目を開いた。

 そこに立っていたのは、一人の少年だ。プラチナブロンドの髪を地面に届きそうなほどまでにのばした彼には、どこか現世離れした雰囲気がある。私の思考は止まった。

 

 

「わたし、あなたのことを知ってる」

「やあ、久しぶりだね、※※※※※」

 

 言葉は右から左へと通り過ぎていく。その意味を理解することもできない。その瞳の色に、私は釘付けになっている。

 柔らかい笑みを浮かべた彼は、幼い声と似合わない、まるで大人が幼子にでも語りかけるような調子で告げた。

 

「そして初めまして、エレイン・アーキン」

 

 

 ×

 

 

 ――昔々、一人の女の子がいました。女の子は一人でしたが、独りではありませんでした。お父さんとお母さんとお兄さんがいたのです。

 お父さんは愛情深い人で、娘と息子のことを大切におもっていました。お母さんは強かな人で、家族の皆を引っ張っていました。お兄さんは明るい人で、いつでも家族に優しい陽だまりのような気持ちをくれました。

 そんな三人に囲まれて、女の子は幸せに過ごしていたのです。

 しかし、その幸せな生活は、あっという間に終わりを迎えます。女の子の両親が死んでしまったのです。

 

 女の子とお兄さんは、別々の人に引き取られることになりました。女の子を引き取ったのは、若くして軍を退役した男性です。彼は片足が悪く、日常生活の中で他人の手を借りることを必要としていました。

 男性は、よく怒る人でした。女の子に手をあげることもありました。女の子は彼の怒鳴り声が苦手でした。

 彼は女の子を家族として扱う気がないようでした。体のいい召使いが精々といったところで、奴隷といっても差し支えのない扱いを女の子は受けていました。

 不満や抵抗は、男性への恐怖に押し殺されてしまいました。彼女はただ理不尽に耐え、従順でいることを選びました。苦しみから逃避するために、彼女の心は感じることをやめました。

 

 

 

 

「そうして人の心が分からなくなった君を、その男は気味悪がって売り飛ばすことにした。それが身を滅ぼすとも知らずに」

 

 朗々と、彼の語るその物語を、私は自身が体験したこととして知っていた。人魚姫にもシンデレラにもなれなかった女の子。英雄にも、騎士にもなれない、非力な少女。それが私、エレイン・アーキンだった。

 

 その男は死んだと、私は知っている。彼は私の目の前で殺された。

 彼の名すら思い出せないのは、それが私の忘れてしまいたい記憶だったからか、それとも、私の記憶に残るほど、彼の存在は私にとって重要ではなかったからか。

 

 ――あれは、始まりでしかなかったから。

 あれほど開き難かった私の記憶の引き出しは、あっさりと開いた。いつかの頭痛が嘘のようだ。

 開けられて、思い出して、理解して、腑に落ちた。――そうか、私は。

 

 あの頃から何も変わっていない。今も、あのアメジストに囚われたままでいる。



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 呼吸が酷く億劫で、海にでも沈んでしまったみたいだった。ばくばくとはねる心臓がうるさい。

 目の前の少年は、絵画の中の住人のような笑みを浮かべる。彼らの浮かべるこういう笑みは、一様に芸術品のようで――ああ。

 

「彼は、ルルーシュ・ランペルージ氏は、あの人の息子なのか」

 

 気付きたくはなかった。知りたくはなかった。私はその場に膝をつく。身体の震えは、おさまりそうにもなかった。

 鈴を転がすような笑い声が聞こえる。

 

「案外鈍くはないんだね。尤も、すぐに忘れてしまうのなら同じかな」

 

 彼は近付いてくると、私の頬をそのやわらかい手で撫でた。顔を覗き込まれ、その目に見つめられてしまえば、私は磔にでもされたように身動きも取れない。

 くすくすくす。酷く楽しげに彼は笑うが、私には何が面白いのかも分からない。

 

「この目が怖いのは、相変わらずかい?」

 

 舌は重く動かぬ鉛のようで、私がその言葉に答えることはなかった。

 

「マリアンヌの目は好きだったんだろう?」

 

 息が止まる。名前ひとつで、心の内は大荒れだった。酷く懐かしくて、忌々しいあの人の名前。

 

「何が違うのかな」

 

 ぽつり、と彼が呟く。声は不思議とその場に響いた。

 

「僕と彼女の、何が違う?」

 

 心底疑問でならないような、何か不満を抱いているような、そんな表情を彼はしていた。繰り返されたその疑問は、彼にとってどうにも重要なことらしい。

 

「違わないわ」

 

 掠れた声で、私は言った。

 そう、何も違わない。少なくとも、私にしてみれば同じことだった。多分、私が彼の疑問に答えることはできないのだろう。彼が答えを欲しがっているのは、私ではないのだろう。

 そもそも、私は好きじゃない。目の前の彼の瞳も、あの人のアメジストの瞳も。

 

「好きなんかじゃ、なかった」

 

 唇が自然と動いていた。思い出すのは、あの人のこと。

 あの目に見つめられると、私が私でなくなるようで、怖くて、頭の中はぐちゃぐちゃで、言葉を紡げなくなる。甘い声に、優しい態度に、心をほどかれてしまう。

 恋にも似ていて――、愛だと思っていた。痛いのはいやで、苦しいのもいやで、だから、好きになってもらいたくて。自分はどうなってしまうのか、心が不安に苛まれるから、その人に安寧を求めた。安心が欲しかった。

 

 ……笑い声が零れる。ただの錯覚、恐怖を恋と錯覚する吊り橋効果。とんだストックホルム症候群ではないか。

 思えばあの時、私という人間は、恐怖という感情であの人に支配されていた。

 紫玉の瞳と烏の濡れ羽のような髪をもった、うつくしいあのひと。畏れという感情は、崇拝にも似ている。感じることを忘れていたはずの心が、あの人を相手にした時ばかりは恐怖を覚えていた。

 

 目の前の彼は、興味深そうに片眉をもたげて、私に話の続きを促すような姿勢をとっていた。しかし、懇切丁寧に教えてあげるような親切心を、私は持ち合わせていない。

 それよりも私には、彼に訊くべきことがあった。

 

「貴方はここに、何をしに来たの」

「少なくとも、君と話をするためでないことは確かだね」

 

 そんなことは分かっている。彼にとって、私は既に用済みの人間だろうから。最初から、私に用事があるとは思っていない。だから思い至るのは、その人物のことだった。

 

「ルルーシュ氏をどうする気?」

 

 その問いに、彼はその顔から表情を消した。冷たい瞳に見据えられ、私の心は恐怖に凍る。

 

「僕は君を連れていくつもりはないよ、エレイン・アーキン。君が踏み入っていい領域じゃない。舞台を降ろされた人間は、大人しく客席にでも座っておけばいい」

 

 彼は、それが絶対のことであるかのように告げる。声ばかりは穏やかだった。

 私は小さく震えて、首を横に振る。

 

「ダメだよ……」

 

 絞り出せたのは、そんなちっぽけな一言だけだった。情けなさに涙が出る。駄目だと思うのに、行かせてはならないと思うのに。目の前の彼を止める手立てが思いつかないのだ。

 今も、背を向けた彼の腕を掴もうとして、すり抜けた。彼が遠くなる。私には何もできない、することを許されない。干渉できない。その資格がない事実を突きつけられてしまう。

 

「解せないな。君にどうして彼に執着する理由がある? マリアンヌの遺児という点では、ナナリーも同じだろう」

 

 ――分からない。ただ、私は彼が好きで。

 涼やかな声が、そんな私の思考を乱す。

 

「君はただ、マリアンヌの瞳に執着しているだけなんじゃないか」

 

 違う、あの人はもういない。私はもう、あの人に支配されていない。この気持ちは嘘ではないと言いたいのに、思いたいのに。考えるほどに否定する材料はみつからず、私は途方に暮れるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 その後の記憶は、あまり定かではない。いつの間にやら彼の姿は見えなくなっていて、私はとぼとぼと来た道を戻っていた。おかしな色をした空の下では、よく知るはずの学園も異質の土地に見えてしまう。遠くの街では、煙が立ち上っていた。

 そんな折、そう遠くない位置から聞こえてきたのは誰かの抗言だった。私はすぐにしゃがみ込み、繁みに身を潜める。どうやらお取り込み中らしい。あそこにいるのは、ミレイ先輩にリヴァル、シャーリー。幾人か足りないが、あれは生徒会メンバーか。相対する黒の騎士団の一員らしき男は、無骨な銃を手にしている。

 彼らのやり取りを見るのに夢中になっていた私は、背後から近付く黒ずくめの騎士団員に気付かなかった。

 

「こんな場所にも隠れていやがったか」

 

 背後から、制服の襟を掴まれる。強制的に立ち上がらされ、私はその場の視線を一身に受けた。どうして此処にと驚く生徒会メンバーの顔。私だって彼らが此処にいることに驚いているのだ、許してほしい。

 

 銃を向けられ、私も生徒会の三人同様両手をあげては頭の後ろで組む。今更ながら私は、彼らの側に聳え立つそれが、白い機体のナイトメアフレームであることに気付いた。空中戦をしていたのではなかったか、いつの間に地に足をついたのだろう。

 そちらを見てばかりというわけにもいかないので、銃口を向けてきた人物へと私は視線を戻す。彼の口から発されるのは、「ブリタニア人」を責める言葉。つまり彼は、この行いを報復と呼ぶのか、それを正義と言うのか。私は呆気にとられてしまう。

 現状を看過してきたブリタニアの民達に責がないとまでは言わないが、彼の論では、一般人の学生を捕まえて殺すことすら正当化しかねない。彼が言葉を重ねるほどに、私の不満は膨らんだ。それが騎士を名乗る者のすることか、これではただのテロリストだ。統制も何もあったものではない。

 私を含めた学生達の処遇を相談し始める騎士団員らに、シャーリーが叫ぶ。

 

「ゼロを呼んで! ゼロは絶対に私達を守るから、でなきゃ変だもの! 今までのことだって――」

「うるせェ! ゼロのことはこの俺が一番よく知ってんだよ。こんな時あいつなら、迷わないってこともな」

 

 第六感が警鐘を鳴らしている。撃たれる覚悟のない人でも、引鉄を引くことはできるのだ。

 

「やめろ!」

 

 制止をかけたのは、聞き覚えのある声だった。

 ナイトメアフレームから出てきた人物に、私は瞠目する。私が彼の名を呼ぶとほぼ同時に、銃口が彼へと向いた。

 

「スザク君!」

 

 私が地を蹴る前に、小さな黒い影が私達の間を俊敏な動きですり抜けていった。そしてその影は、騎士団員の手元へと飛びかかる。

 上向く銃口。火花が弾け、耳慣れぬ銃の連射音が地に空に響く。その弾丸はスザク君を外れ、あらぬ方向へと飛んでいった。

 

「アーサー!」

 

 スザク君が彼の名を呼ぶ。アーサーよくやった! 己の片割れの功労が、自分の手柄であるかのように誇らしい気持ちになる。その小さな身体を抱き寄せ、彼の身に怪我がないかを確かめた。

 

〈俺は無傷だ。それよりもエレイン、何故ここにいる〉

 

 日課をこなしていたら、巻き込まれてしまったとでもいうべき状況か。何にせよ、その説明は後にすることになるだろう。

 バツン、と舞台照明でもつけた時のような音がして、白い光が照射された。空から現れたのは巨大な船影だ。ついでにその側には、ナイトメアフレームらしきものも飛んでいる。なんとも豪華イベントが盛りだくさんなことで。おちおち気を休めることもできない。

 

「こんばんはァ〜」

 

 スピーカー越しに、気の抜けるような声が聞こえてくる。思わず乾いた笑いが零れた。

 

 

 

 ×

 

 

 

 飛行船の揺れが眠気を誘う。落ちそうになる目蓋を、私は軽く擦った。

 ナイトメアフレームの乱入もあり、あの場を逃れた私は、同じく逃げることに成功したミレイ会長達・生徒会のメンバーの誘導で、一般生徒と共に大型飛行船へと避難することと相成った。アーサーは置いてきている。

 その後の地上のあらましは分からない。だが、会長達はまだ地上に残っているようであった。

 かくん、と傾いた頭に、またしても自分が眠りに落ちかけていたことに気付く。いやでもだって、眠すぎる。色々なことがあり過ぎた。身体が酷く疲れている。

 眠りにつけば、私はきっと、全てを忘れてしまうのだろう。忘れたくないことも、知りたくなかったことも。

 ……目蓋が重い。

 

 

 泥の中に沈んでいくような微睡みが、ゆるやかな落下感へと変わる。

 ――落ちていく。何処へ?

 鼻をくすぐるのは、深い森の匂い。郷愁の念が胸の奥を突く。薄らと開いた瞳からは、透き通るような空の青が見えた。

 もこもこしたシルエットが視界で踊る。白銀のそれを辿るように視線を動かせば、ひとつの人影へと行き着いた。

 

「ほう、久方振りじゃな」

「げえっ、マーリン!!」

 

 しかも彼女、いや彼は今老人の姿をしている。ニヤリと笑う、その顔に苛立ちが湧いた。その髭、ふん掴んでむしり取ってくれようか。

 すたん、と足音を立てて、私が着地したのは石畳の上だ。羽織っていたマントは重力を無視したように遅れて降りてきた。まて、なんだこのやたら装飾の多い服装は。私が身につけていた服は、騎士服をワンピースに仕立てたようなデザインだった。どこの舞台衣装だ。

 

「随分可愛らしくなったのう」

 

 からかうようにマーリンは言った。無性にイラっときて、その髭に手を伸ばすが、ひらりと躱される。それどころかこちらのスカートに手を伸ばしてくるので、その手を強く叩き落とした。

 

「何をしやがるか!」

「ほっほ」

「ほっほじゃねーよこの色ボケ! 毟るぞ!」

「お主口調が崩れておらんか」

「誰のせいだ、誰の」

 

 全くもって調子が狂う。私はアーサーだった記憶を持つだけの人間であって、アーサー本人ではないというのに。

 

「ふふふ、来客は久しぶりじゃからのう。爺が飴をやろうな」

 

 孫扱いはやめろ、ポケットに飴を詰めるな。やめろというのに何処から出したのか、マーリンは色とりどりの飴を、私の服の飾りじみたポケットに詰め込んでいく。

 ついでと言わんばかりに、私の腰につけようとしているのは、眩く光る黄金の剣だ。物凄く見覚えがあるそれは、我が剣エクスカリバーではないか。

 

「いやいやいやいや、それ出してきちゃ駄目なやつ。待って、私ちゃんと返してくれるように頼んだよね?」

 

 元は湖の娘、エレインから借り受けていたものである。妖精からの借りパクはマズいと、死に際に騎士ベディヴィアに託したはずだった。

 彼はきょとんとして、それから一転、ニヤニヤとした笑みを浮かべた。

 

「やだなあ、よく見ておくれよ。それとも手に持てば、違いが分かるかい?」

 

 いつの間にやら、彼は青年へと姿を変えていた。髪の色は相変わらずの白銀だが、声は随分と若いものになっている。貫禄は薄まり、言葉の軽薄さが目立つ。胡散臭さが倍増だ!

 彼は恭しく私の片手をとって、その剣の持ち手に触れさせた。ゆっくりと握れば、それはやけに手に馴染む。寒いわけでもないのに急に鳥肌のたった私は、すぐに手を離した。

 

「これ、選定の剣じゃないの」

 

 岩から抜いた後、いつの間にやら行方知れずになっていた剣だ。やはりマーリンが保管していたのか。しかし、この剣が王を決めるものだとすれば、尚更私が持つことはできない。

 

「私が持ってちゃ、まずいでしょ」

「君はかつて、この剣の持ち主になることを受け入れた。ならば、その時点でそれは君のものとなるはずだ。なーに、気にすることなんてないさ。それ、量産品だから」

 

 量産品なのか。

 

「でも、私はもう王様じゃ、アーサーじゃないよ」

「だからその剣があるのさ。その剣は、君が王であることを証明する」

 

 彼の唇が美しい弧を描いた。その端整な顔も相まって、人ならざる者の雰囲気を漂わせている。

 

「歯痒かったんだろう? 力のないことが。その剣は、君が望む相手と同じ舞台に立つための力になる」

 

 そう述べ、彼はらしくもなくその場に傅くと、首を垂れ、まるで従者のようにその剣を私へ差し出す。劇の一幕とでも錯覚してしまいそうな空気と、あまりにも魅惑的な誘い。直感的に罠だと悟る。彼がそんな殊勝な真似をするはずがないのだ、何か確実に裏がある。

 

「私に、何をさせるつもりなの」

 

 彼が首を持ち上げた。その私を見つめる瞳にぞっとする。人間味のない無機質な目は、ヒトではないよく似た生き物が人の真似事をしているような不気味さがあった。

 彼の纏う空気が変わる。清涼な草花の匂いに、人を惑わせるような色香が混ざり始める。

 

「面白いなあ」

 

 彼の姿が揺らぎ、吹く風が強まる。転ばぬように私は地を踏みしめた。

 

「昔の君は、あれほど素直で可愛らしかったのに」

 

 うふふ、と笑う声は艶やかだ。またしてもフォルムチェンジを迎えた彼は、彼女へとその姿を変えていた。出たなお色気担当魔女め! 私がアーサーだった頃はスタイル抜群な彼女に迫られる度にどぎまぎしていたものだが、今はその豊満な胸が嫌味にしか映らない。

 

「その素直な少年は、さぞや誑かしやすかったことでしょうね」

「導いた、と言って欲しいものだわ」

「その導きはもう必要ないの」

 

 拒絶を含んだ声色に、彼女は肩を竦める。

 

「どうやらそのようね。お姉さん、寂しくなっちゃうなぁ」

「塔に一人幽閉されておきながら、孤独死も叶わなかった奴がよく言うわね」

 

 私の嫌味に、彼女は笑い声を零す。何をしたわけでもないのに、げっそりと疲れた気分で私は近くの切り株に腰掛けた。

 

「どうすれば覚めるのかしら、この悪夢」

「悪夢呼ばわりなんてひどーい! 昔のよしみで親切心を働かせただけなのに」

「今のところ迷惑しか感じていないのよね」

 

 ぷくうと頬を膨らませるマーリンに、私はジト目を向ける。それに気付いた彼女は苦笑した。

 

「これを逃せばもうないチャンスよ? もう少し有り難みを感じてほしいところだわあ」

 

 一体なんのチャンスなのだか。あの選定の剣絡みのことだとすれば、大きなお世話だという他ない。アーサーは死んだのだ。それとも、今がアヴァロンからの目覚めだとでもいうつもりなのだろうか。

 瀕死の重傷を負ったアーサー王は、傷を癒すべくアヴァロン島に運ばれた。一度眠りについた彼はその島で、未来のいつかに目覚めることを待っているらしいのだ。自分のこととも他人のことともとれないこれは、諸説あるらしいアーサー王の話のうちの一つ。

 さすがに死後のアーサーがどうなるかまでは、私には確かめようがない。ただ、ひとつ言えるとすれば、私は『エレイン・アーキン』であって、決してアーサーなんて人間ではないということだった。

 

「残念、時間切れね。あーあ、つまらないの」

「ってことは、お別れの時間というわけね。やった」

 

 こことは別の場所で、意識がゆっくりと浮上していくのが分かる。なるほど、目覚めが近いのだろう。

 

「やだ、エレインちゃん本気で言ってる?」

 

 傷つくわあ、と零したマーリンは、しょんぼりしたのも束の間、すぐに立ち直って私の前髪に手を伸ばした。そのまま前髪を搔き上げた彼女は、私の額に口付けを落とす。

 

「これはサービス」

 

 ――何がサービスだ!

 そんな抗議の声を上げる前に、私は急速に現実へと引き戻された。叫びかけていた私は、学園生の姿を周囲に確認し、慌てて閉口する。やはりマーリンのすることだ、碌なことがない。

 夢見心地を断ち切り、思考を巡らせる。やはりあれは夢の中、随分と考えることに制限がかかっていたように思う。その時と比べれば、今は随分と頭の中がすっきりしていた。

 

 覚えている。夢の中の出来事も、その前の出来事も、欠けなく。

 マーリンは変わらず企み屋の非人間であったし、シャーリーはゼロに関して何かを知っている様子であった。嚮団関係の古い顔とまで接触したし――と、そこまで考えたところで真顔になる。

 何故、私は忘れていないのか。いつもなら、そう、常ならば、忘れていることだ。忘れる決まりだったから。

 私は自身の額へ触れる。私への祝福だとでも言うつもりだろうか。

 

「余計なお世話」

 

 ポケットの中からは、飴玉が零れ落ちた。




シーズン1はここまで。イベントも残り少な、R2はあっという間かもしれません。なお執筆速度は亀の歩みの模様。
この世界線にストックホルムってあるのだろうか(謎)

・黒ずくめの騎士団員に気づかなかった
あれれ〜おかしいぞ〜

・それは、我が剣エクスカリバーではないか
その声は、我が友李徴ではないか

・飴玉
どんぐりあめ。夢だけど、夢じゃなかった!


(今日のアーサー王物語 3)
アーサー王物語において、エクスカリバーの出所は諸説ある。よく知られているのは、石に刺さった選定の剣を抜くタイプと、湖の乙女に授けられるタイプ。
マロリー版は、この両説を取り入れるような形となっており、選定の剣もエクスカリバー、湖の乙女に授けられるのもエクスカリバーと、同じ名前の別の剣が登場する形になっている。

本作のマーリンの年齢性別不詳っぷりは作者の趣味ですごめんなさい。幼女にもなるマーリン。誰得。形状変化的な意味で変態属性です。


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18 おはよう、世界/R2

 長い眠りにでもついていたみたいだ。世界は、こんなにも鮮やかだっただろうか。

 マーリンからのお節介もたまには役に立つ。いや、頭痛の種を増やされただけといえば、たしかにそれだけのことなのだが。今までは愚鈍でいられたのに、考える余地を持ってしまったから。気にしないことで守られていた平穏もあるのだと、私は思い知ることになった。

 そういう意味では、より私が苦しむ方へと突き落とされたように思えてくるので、やはり終わりには「おのれマーリン」という言葉に帰結する。一発くらい殴っておくべきだった。

 

 

 海には水が満ちている。わけがわからないほど。

 引いたり、押したり。波の感覚は消えないでいる。地上に降り立ったというのに、身体は未だ揺られているようだった。

 エリア11に訪れるのは、果たして幾月振りだろう。数えてみて、そこで初めて、あれから一年ほどが経とうとしていたことを知る。世間では『ブラックリベリオン』と呼ばれた、黒の騎士団率いる反ブリタニア勢力によるエリア11――日本の独立戦争。

 ブリタニアにいた頃には、どうにも後見人が私に届く情報を制限していたようなところがあるので、あまり多くのことは知らないのだが、反抗勢力はブリタニア軍に制圧され、黒の騎士団幹部も軒並み捕縛されたという話であるから、日本の立場はさぞや厳しいところにあることだろう。

 

 久しぶりに帰ってきた我が家は、随分と小ぢんまりとして見えた。後見人の屋敷が大き過ぎただけかもしれない。あれを別荘呼ばわりしていた人だ、やはりあの人は違う世界の住人だったのだ。私と価値観の違うところで生きているあの人を、私は天敵認定している。

 冷え切った廊下を歩きながら、ブリタニアでの記憶を振り払う。気にするだけ疲れてしまう。兄のことも絡むので、冷静に相対できていない自覚はあった。今はただ時間と、あの人との距離が欲しい。先に届いていた荷物の山を崩しながら、気を紛らわせるように今夜の夕食のことばかり考えた。

 

 正直なところ、ここエリア11での生活にそこまで執着する理由というのは、私にはないのかもしれない。ブリタニアに滞在している間に、兄の死は、事実として確かめられた。

 兄が私のもとに帰ってくることはない。そのことが、ただ酷くさみしい。多分私は、兄に側に居てほしかった。それだけのことだった。

 私がここにいることは、叶うことのない望みに縋っているようなものだ。叶わないと分かっていれば、ある程度の妥協もできる。

 

 明日着て行く制服をハンガーに掛け、小さく気合を入れなおす。久しぶりに会う面々が楽しみで、すぐに私の表情はふやけた。

 ブリタニアに強制帰還させられたその後、国に留まっている生徒も少なくはないらしい。けれども、あの学園に愛着を抱いている者は、私以外にも存在していて、そういった人たちは遅かれ早かれ国の許可を得ては学園に戻っているという話だ。

 ミレイ会長の姿があることは、学園のホームページで確認済みであったので、おそらく彼女の周りには他の生徒会のメンバーもいることだろう。……いてほしい。

 自分の気持ちと決着をつけるためにも、ルルーシュ・ランペルージという人物を、もう一度この目で見たいと思っていた。

 

 ルルーシュ氏に対する、私の気持ちは複雑だ。

 偽りの恋心だったと言われれば、それまでのことで、けれども私の心は、未だにその事実を受け入れられないでいる。彼に感じていたものが、恋心でないのだとすれば、私が今まで信じてきたこの気持ちはどこに置けばいい? 

 

 

 気づけば日はすっかり沈んでいて、空には欠けた月が浮かんでいた。

 窓辺に近付き、窓を開ければ、夜風が吹き込んできた。さわさわと草木を揺らす、その音に耳を傾けながら、涼しげな風が肌を撫ぜる感覚を楽しむ。その静けさが心地よい。そうして、しばらくの時を過ごした。

 孤独を紛らわせるのは、それなりに得意だ。寂しいことに変わりはないけれど。

 孤独そのものを楽しめるほど、強くはなれない。……その孤独を他人に埋めて欲しいと願うのは、高望みというものだろうか。

 

 ふと、何に呼ばれたわけでもないのに意識を引かれ、私の視線は夜闇に向けられる。庭の木陰に人影が見えた気がして、私はひゅっと息をのんだ。

 存在しない、気のせいだと自分に言い聞かせるも、不安は消えない。恐怖に縮まる己の心をなだめながら、私は部屋の電気つける。万が一、物盗りか何かがいるという可能性もある。そんな風に考えだすと、ちょっとした物音まで、そこにいる「誰か」が立てた音のように思えてしまう。

 今もまた、ガサリと草の大きく揺れる音がした。風のせいだ、と口の中でだけ呟いた。

 

「――あ」

 

 私の口から間抜けな声が漏れる。玄関の鍵をまだ閉めていない。

 急に這い上がってきた不安に、血の気が引いていくのが分かる。安心欲しさに、私は玄関へと向かった。扉の向こうに、誰も立っていないことを確認してから、慎重に鍵を掛ける。

 ほっとしたのもつかの間、戻ろうとしたところで、部屋の中から物音がした。気のせいなどではない、生き物の動く気配がある。

 闇の中に漠然と存在した、不確かなものとは違う。明確に、何かがそこに居た。

 

 部屋を離れた際、窓は開け放したままだった。

 まさかそこから侵入された? 考えた可能性にびくびくと怯えながら、そっと部屋の中を覗く。

 その瞬間。モフッ、としたものが顔にのしかかった。

 

「……アーサー?」

 

 どうしたって、声が震えた。私が急にブリタニアに帰国することが決まった際、いくら探しても彼は見つからず、結局そのまま置き去りにしていたのだ。

 無事かどうかも、ずっと知らずにいた。こうしてまた会えるかも、分からなかった。それが今、こうして目の前にいる。

 

〈久しぶりだな、エレイン〉

 

「幽霊? 幻? 嘘じゃない?」

 

 食い気味に問いかける私に、アーサーはその尻尾で私の額をてしっと叩いた。しなやかな毛並み、熱を持った実体が私に触れている。

 

「ほんものだ……!」

 

 むぎゅうのぎゅうっと抱きしめて、その背中に頬を擦り付けた。今までずっとノラ猫生活を送っていたにしては、栄養状態もよさげなので、もしかすると生徒会のお世話になっていたのかもしれない。

 私の気が済んだのを確認して、腕の中からするりと抜け出したアーサーは、尻尾をゆらゆらさせてにゃあんと鳴いた。

 

〈無事で何よりだ。本国に戻っていたのか? 〉

 

「うん。……半分強制送還みたいなものね、あれは」

 

 私は肩を竦める。果たして、あの時の私に選択肢はあったのだろうか。

 

「チャールズ・アーキンを騙って手紙を送ってきていた、例の誰かさん。遂にメールまで送ってきたの。明日の正午、『友人』をエリア11に迎えに行かせるだとか、そんな内容だったかな。当日迎えに来たのは、その例の誰かさん本人で、兄と友人だったのは本当だったみたい」

 

 そこまで伝えてから、これを伝えたのであれば、あのことも伝えなければなるまいと、私は口を開く。

 

「兄の御墓参りに行ってきた。拠点に襲撃を受けて、撤退の殿をつとめたというのが、凡そのあらましらしいわね。例の誰かさんも、その撤退した部隊にいたらしくて。それで、何故か、いや、兄の遺言らしいんだけど、その例の誰かさんが、私の後見人になった」

 

 後見人は、手紙で兄を騙った件や兄の死亡の隠蔽に関して問い詰めると、あっさりとその事実を認めた。墓の場所に率先して連れて行ってくれたのも彼だ。

 しかし、兄の死の状況については頑なに口を割らず、ただその死が自分のせいなのだと言い張った。

 おかげで私は、事実を確かめるために軍事機密にまで探りを入れることになってしまったのだが。いい時間潰しとなったと考えるべきだろうか。古巣の伝手があったとはいえ、人の情につけ込めば引き出せてしまう情報管理体制も問題である。

 

 

 

 ×

 

 

 

「アナ! 久しぶり、元気してた?」

「もちろん。そういうエレインも元気そうでよかったわ」

 

 クラスメイトの顔ぶれはさほど変わりなく、私にとっては随分と久しぶりに日常が戻ってきたような心地だった。ひらひらと手を振るアナに、私も笑みを返す。

 

「でも意外、あんなことの後で学園に戻ってこようなんて人、ほとんどいないと思ってたから。正直アナもいないと思ってた」

「あら。私は順当だと思ったけどね。あんたが思っているよりもずっと、学園に愛着持ってる人はいるってことよ」

「愛着はあると思っていたけど、身の安全には代えられないでしょ」

「それ、戻ってきたエレインが言う? ま、思ったほど被害もなかったみたいだしね」

 

 至極軽い調子でそう言うアナに、私は少しの違和感を覚える。テロリスト達の学園襲撃に巻き込まれたにしては、あまりに他人事のような言い振りだった。あの時彼女は学園寮にいたはずで、間近でそれを感じたはずなのに。危機感をどこかに置き去りにしている。

 芽生えた不安を考えすぎだと掻き消して、私はランチボックスを掲げた。

 

「今日のお昼に、多めにパイを焼いてきてるの。スティックタイプで、ミートパイと、バジル風味のチーズパイ」

「ナイスエレイン! よくやった! 今から食べていいって?」

「言ってないから、まだ一限目も終わってないでしょ。これはお昼よお昼」

「ちぇー」

 

 唇を尖らせながらも、アナはうきうきな様子だった。私も作った甲斐があるというものだ。今回は特に生地が上手く焼けたので、感想を聞くのが楽しみだ。

 

「それでね。久しぶりだから、今日はカレンさんも誘ってお昼を一緒にと思うの」

 

 どうかな、と尋ねた私に、アナは興味深そうに目を細め、にんまり笑った。

 

「お。エレインから言うなんて珍しいじゃん。カレンさん、ね。私は大歓迎よ。どこのクラスのコ?」

「え、……うちのクラスの」

 

 アナが瞬きを繰り返す。きょとん、と浮かべた表情は、まっさらな様子でいて、裏がない。まるで、知らない人の名前を聞いたかのような反応だった。

 

「カレンさん……カレン……苗字は?」

「ええっと。確か」

 

 シュタットフェルト。シュタットフェルト、だったと思う。そう告げた私に、アナは困ったような顔をする。

 

「シュタットフェルト家の? カレン・シュタットフェルト……うーん、ごめん、誰か分かんないわ」

 

 近くのクラスメイトに、「知ってる?」とアナはカレンさんのことを尋ねる。クラスメイトは首を傾げたり、横に振ったり、カレンさんを知らない様子だった。

 

「名前、間違えてるとかじゃない?」

 

 アナに冗談を言っている様子はなく、不思議そうに、そして申し訳なさそうに、そう言った。

 始まりはといえば、アナがカレンさんを誘ったのに。

 

 血の気が引いていく。日常の中に戻ってきたと思っていた。ごく普通の学園生活を、取り戻したと思っていた。

 

「大丈夫?」

 

 心配そうにアナが問う。私はすぐに笑顔を装った。上手く演じられている気はしないが、振る舞いだけでも普通を模さなければ、正気を保てそうになかった。

 

「うん、何か勘違いしていたのかも。あはは」

 

 そう、私は勘違いしていた。日常を取り戻してなどいない、戻ってきてなんていない。ここは未だ、非日常の最中にある。

 ……自分の記憶に関して、私は自信がない。マーリンのお節介が施される前の記憶については、特に信用ならないと思っている。

 重要なことは忘却続きの穴だらけ、真実を捻じ曲げる自己暗示的思考誘導。そんなものを伴っているので、ちっとも頼りにならない記憶だ。本当は私の方が、私一人が間違っているのかもしれない。

 それでも、そんなこと、おかしい。忘却や歪曲はあれど、人ひとり増えるような記憶の捏造をしたつもりはない。そんな決まりもない。

 

 カレンさんは居た。確かに、ここに居た。そのはずだ。

 

「もー、しっかりしてよねエレイン」

「ごめんごめん。アナの方で誘いたい人とかいる?」

「そうね、敢えて誘うとすれば……」

 

 ――前にもこんなことがなかったか。

 アナと言葉を交わしながら、私はふと思い立つ。特定の人物のことだけを、きれいさっぱり忘れている。知り合いのはずなのに、他人のように扱う。肌の粟立つような感覚。

 そう、これは、シャーリーがルルーシュ氏のことを忘れていた時のような――。

 

「エレイン?」

「ああごめん、考えごとしちゃってた」

「へー、エレインが考えごと」

「何その言い方」

「別にー。それより、そろそろ席に着いた方がいいわよ。もうすぐ授業時間だし」

「うわ、本当だ」

 

 荷物もまだしまえていない。私は授業準備に急ぐことにした。

 

 

 あっという間に時間は過ぎて、放課後。ここでも私は非日常の洗礼を受けることとなった。

 知らない人間が演劇部にいる。それも、さも最初からいましたと言わんばかりの様子で。部長は、瓶底眼鏡ではなくノーフレーム眼鏡でご存命だ。誰だこの人。

 瓶底眼鏡な部長の存在はなかったことになっていた。案の定というべきか、部長の残した台本も無い。

 演劇部だったはずの人達が、別の部にいたりもする。ストークス先輩が手芸部にいてソワソワしてしまった。演劇部の貴重な衣装小物製作戦力が。

 

 果たしてそこに、私の知っている、私が愛着を持っている演劇部の姿はなかった。久しぶり、だなんて声をかけてくる知らない人たちが恐ろしくて、それを違和感なく受け止めている部員たちが信じられなくて、上手く受け答えできない。

 

「まだ本調子じゃないみたいね」

「ええ、うん。はい。……あの、今日は帰ります」

「それは残念。まあ、無理はしないでね」

 

 慮るような言葉にも、私は頷くのが精一杯で、逃げるように部室を後にした。

 ――どうして。

 分からない。理解できない。知らない、私は知らない。

 戻ってきたかったはずの場所にいるのに、私の居場所はここではないと言われているようで、怖くてたまらない。これでは、何のために戻ってきたのか分からない。

 

 あの人は、これを知っていて、私がエリア11に戻ることを許したのだろうか。後見人の姿を頭に思い浮かべて、私はすぐ首を横に振る。あの人は、そんな器用で悪趣味な真似のできる人じゃない。善意ではないとも思っているが。

 私にどう見えるかで振る舞いを決めているところがあるのだろう。他人の目に映る自分ばかり見ている。そういう生き方は、私も覚えがある。だからこれは、きっと単純に、あの後見人が鈍いだけだ。

 視線を持ち上げる。俯いたままでは泣いてしまいそうだった。泣きたくない、折れるつもりはない。

 

 ふと、×印の並ぶ壁が視界に入る。そういえば、今日はルルーシュ氏の姿を一度も見なかった。目当てを果たせなかったと落ち込むべきか、猶予期間ができたと喜ぶべきか。彼自身は学園に在籍中となっていたので、学園に通っていれば、いつか会うことはできるだろう。

 私は私の気持ちに答えを出せていない。彼の瞳を忘れられない。錯覚といえばそれまでのことだが、心動かした事実は否定し難い。どこからが嘘で、どこから本物か。疑わずに、鈍感に生きてきたから、見極めることが難しい。

 それでも、逃げるわけにはいかないのだろう。

 本物はどこから始まるのか。正当性は何が保証してくれるのか。何を信じるのが正しいのか。

 

 ――分からない。

 

 考えているうちに気分が鬱々してきて、そんな気分でいるのも嫌で。考えを意識の外に放り出してしまいたくなるけれど、思い出せなくなるのも怖くて、先送りリストに追加した。こうして私は負債を抱えていくのだ。

 マーリンのお節介以来、ツケは溜まっていく一方だった。考えたって分からないことが多すぎる。捨ててしまわなければ生きていけないだろうのに、捨ててしまっては私ではいられない。困ったものだ。

 

 仕方がないので、屋台でチョコチップのアイスクリームを買った。単純なもので、一口食べれば、私の気分はすぐに晴れやかになる。ごろごろ入った甘さ控えめのクッキーが美味しい。ほろ苦くも甘いチョコアイスと、ミルクチョコレート。さくさくのワッフルコーンの先まで夢中になって食べて、それだけで幸せになれてしまう。

 自分の安易さに、少しだけほっとした。何も解決していないのに、今は気分が前向きだ。分からないなりに、その方がよい方向に進めることを知っている、否、信じているのだ、私は。

 

 

 帰宅した家は静かだった。アーサーはまだ帰っていないらしい。アイスを収めたお腹が、今度は塩気のあるものを食べたいと言っている。

 よろしい。ならばベイクドポテトだ。芽は入念に取り除いて、土を洗い流したところで皮は残した。本来なら丸ごとほっくり焼くのが正道な気はするが、焚き火などはできないので、蒸す工程を入れることにする。串がすっと通るようになったところでジャガイモを取り出し、耐熱皿の上で割れば、ほくほく湯気がたった。

 このままでも美味しいに決まっている。バターのかけらを乗せて、黄金色に溶けていくのを眺めながら塩胡椒を振った。ちょっとだけ、ちょっとだけ味見することにする。美味しい。

 四分の一ほど減らしたところで、チーズと刻んだベーコンをトッピングしてオーブンに掛けた。チーズがとろけて、浅く焼き目がついた頃に取り出せば、ベイクドポテトの完成だ。

 

 付け合わせ、にするものは。何があったか。取り敢えずの買い出しには出かけたが、まだ食材は充実していないのだ。酢キャベツでも添えたいところだが、生憎一年前から切らしている。

 そこで、チーズ風味のニョッキを買っていたのを思い出して、少量だけ揚げることにした。チーズ被り、何なら素材的に芋被りまで果たしているが、芋もチーズもブリタニア人の血と魂に近しい食べ物なので何の問題もない。周りはサクッと、中はもちもちでふにふにだ。もちろん美味しい。味見を交えつつ皿に盛り付けて、ジャーマンポテトとともに卓上に並べた。

 せっかくなので、作り置きしていた玉葱のスープも温めて添える。これは、なかなか充実したのではないだろうか。

 

 さて、料理が熱々のうちにいただくことにする。美味しいうちに食べるのが、作ったものの義務というものだろう。

 料理を口にする私は、先ほどから頬が緩みっぱなしだった。




・海には水が満ちている。わけがわからないほど。
エリック・サティを特集した何かしらの映像で見かけたフレーズ。なんだったのか思い出せない。ただこのフレーズだけがやけに印象に残っている。ジムノペディ第二番の指示は「ゆっくりと悲しさをこめて」

グラブルのギアスコラボで見せられたIFに殺されました。血涙。
二年前の自分など実質他人なので何を考えていたのかわかりません。エレインちゃんに歳上の弟ができる回は、何かしらの形でやろうとしていると考えていたことなら覚えているんですが。(わけがわからない)


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