デート・ア・ライブ 士道デイリーライフ (サイエンティスト)
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よしのんインターチェンジ

 インターチェンジ=入れ替わる、交代。
 本当はチェンジにしたかったのですが、大人の事情により変更しました。
 記念すべき(個人的に)デート・ア・ライブの一作目は、前編後編の二部構成となっています。一本にまとめることも可能でしたが、長々と駄文を見せられるのもどうかと思い、そのままにしておきました。



『――さんっ……士道さん!』

 

「起きてよー士道くーん! 四糸乃とよしのん一大事だよー!」

 

 乱暴に体を揺すられ、士道は眠りから引きずり起こされた。一瞬琴里の仕業かと思ったが、どうやら違うようだ。琴里ならパンチやらドロップキックやらで起こしにくる筈である。少なくとも揺するだけという優しいことはしてこない。それに士道を起こした何者かは、ご丁寧に自分達の名前を言っている。

 

「ふわあぁ……どうしたんだ、二人とも?」

 

 眠気に欠伸を漏らしながら体を起こし、ベッドの隣を見る。そこにいたのはやはり、ウサギのパペットである『よしのん』と、それを左手に着けている四糸乃だった。

 予想していた光景だが、何故か士道は言いようのない違和感を覚えた。

 

『そ、それが……その……』

 

「ん、どうしたよしのん? 何かいつもと違うな」

 

 何か言いた気にもじもじする『よしのん』。普段ならやたらに高いテンションで答える筈だが、今の『よしのん』の様子はまるで四糸乃のようだった。

 

『えっと……私、よしのんじゃなくて……四糸乃、です』

 

「……えっ?」

 

 『よしのん』の口から出てきた言葉(実際には腹話術だが)を、士道は上手く理解できなかった。

 

「よしのんはこっちだよ士道くーん!」

 

 『よしのん』のような口調で、四糸乃が自身を指差しながら言う。

 悪い冗談かと思えるが、自称『よしのん』の四糸乃の顔には、焦りと困惑の色が浮かんでいる。大体四糸乃ならこんな悪戯はしないだろう。ならばこれは一体何なのだろうか。

 

「……は?」

 

 状況が全く理解できない士道は、再び呆けた声を上げるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……簡単に言えば、四糸乃とよしのんの人格が入れ替わっている状態だね」

 

 <ラタトスク>の解析官である令音は、相変わらず眠た気な顔で答えた。

 朝のあのやりとりの後、士道は琴里と共に四糸乃を<フラクシナス>へ連れてきた。最初は琴里も冗談か何かだと思っていたようだが、信じられないほど明るくはきはきと喋る四糸乃――いや、よしのんの姿に、異常事態だと気付いたらしい。今は原因の究明と解決方法を探るため、別の場所でよしのんに様々な検査を受けさせている所だ。

 

「い、入れ替わっている?」

 

「ああ。つまり今は体の支配権がよしのんにあるんだ。恐らくパペットを外すと、四糸乃の人格が発現できなくなるだろう」

 

 普段の四糸乃なら、パペットを外せば発現できなくなるのは『よしのん』の人格だ。その人格が今は入れ替わっているのだから、恐らくそうなる筈だ。確証がないのは試していないからだが、わざわざ確かめる必要はないだろう。

 

「一体何でそんなことに……」

 

「だからそれを今調べようとしてるんでしょうが。このオオアリクワレ」

 

 士道が困惑して頭をかいていると、琴里が医務室に入ってきた。当然ながらその髪を結っているのは黒いリボンだ。朝食前だというのに好物のチャッパチャプスを口にしているが、もう言うだけ無駄だということは分かっている。

 琴里はチュッパチャプスの棒の部分を持つと、口から出して飴玉の部分を突きつけてきた。

 

「士道、あなた今日は学校休みなさい」

 

「おいおい、いきなり何だよ?」

 

 唐突かつ理不尽な命令に、流石に士道も呆れを覚えた。せめて先に理由を説明して欲しいものだ。

 

「こんなことになって四糸乃は不安がってるでしょうし、士道以外のだれがそれを和らげてあげるっていうのよ」

 

「そ、そうか……そうだよな」

 

 琴里の言うことには一理ある。こんな状況になって不安にならない方がおかしいだろう。実際<フラクシナス>によしのんを連れてくる時、今はパペットを介して発現する人格である四糸乃――『四糸乃』の声は不安気に震えているように思えた。

 

「よしのんがいれば大丈夫だろうけど、万一四糸乃の精神状態が不安定になったら、精霊の力が逆流しちまうしな」

 

「ああ、そのことなんだが……」

 

 士道の言葉に、令音は思い出したように口を開いた。

 

「二人の人格が入れ替わっていることを考えると、恐らく力が逆流するのは四糸乃ではなくよしのんの精神状態が不安定になった時だろう。まあ、だからと言って四糸乃をないがしろにしていい訳ではないがね」

 

「ふぅん、なるほど。よしのんなら四糸乃より精神状態は安定してるだろうし、意外と心配ないかもしれないわね」

 

「まあ、確かによしのんなら大丈夫そうだな」

 

 思い出してみると<フラクシナス>に連れてくる時、よしのんからは不安が全く感じられなかった。士道の所へきた時は慌てていたようだが、その後はむしろ普段より上機嫌に見えたほどだ。

 士道の言葉が意外だったのか、琴里は少々驚いたように目を見開いていた。

 

「随分と余裕じゃない。それなら<ラタトスク>のサポートが無くても問題ないかしら」

 

 サポート無し。その言葉に一瞬不安を覚えた士道だが、良く考えれば確かに問題は無さそうだった。今回は精霊をデレさせようとしている訳ではない。ただ『四糸乃』とよしのんの傍にいて、安心させてあげればいいだけだ。それほど難しいことではない筈だ。

 

「ああ、たぶん大丈夫だろ」

 

 お気に召す答えだったらしく、琴里は口の端に笑みを浮かべた。ただし司令官モードの琴里であるため、人を見下すような笑みだったが。

 

「なら一人で頑張ってみなさい、士道。元に戻す方法が分かったら、令音から連絡がいくから」

 

 それだけ言うと、琴里は身を翻して医務室から出て行った。

 よしのんと『四糸乃』、二人の不安を和らげ、安心させること。それが今日の士道の役割だった。しかし『四糸乃』はよしのんがいれば、余程のことが無い限りは大丈夫な筈だ。当のよしのんに至っては不安を感じているかどうかすら怪しい。

 例え『四糸乃』が不安で堪らなくなろうと、安心させるのによしのんが協力してくれるだろう。<ラタトスク>のサポートが無くとも心配はない。

 士道はそう楽観的に考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ行ってくるね~お兄ちゃ~ん。他に誰もいないからって、よしのんに変なことしちゃ駄目だぞー」

 

 玄関で靴を履きながら、白リボンの琴里がからかいを入れてくる。その顔もその声も、司令官モードの時とは違って可愛い妹のものだった。相変わらず二重人格なのではないかと疑いたくなるほど、強力なマインドセットだ。

 

「そんなことしねえよ……いってらっしゃい、琴里」

 

 からかいをいなし、士道は登校する琴里を見送った。

 時刻は既に八時近く。よしのんの検査が始まってから一時間以上経過しているが、訪ねてこない所を見ると、まだ検査は終わっていないようだ。よしのんは朝食をとっていない筈なので、きっと今頃お腹を空かせているだろう。

 よしのんの朝食を用意しようと、士道はリビングを抜けてキッチンへ向かった。一応朝食の残りはあるが、どうせなら作りたてのものを食べさせたい。

 

「シードーー!」

 

 士道がキッチンに入ると、突然聞き覚えのある声が玄関の方から聞こえてきた。何事かと思いリビングに戻った途端、廊下への扉が吹き飛びそうな勢いで開けられる。

 そこに立っていたのはやはり十香だった。士道は切羽詰ったようなその表情に何事かと尋ねようとしたが、口を開く隙は与えられなかった。一瞬で駆け寄ってきた十香に、がっしりと両肩を掴まれる。

 

「どうしたのだシドー! 具合が悪いのか!? 病気なのか!? 何か私にできることはないか!?」

 

 心配でたまらないといった表情で、十香は顔を覗き込んでくる。

 

「お、落ち着け十香! 俺は元気だって!」

 

 恐らく十香は家の前で士道を待っていて、出てきた琴里に士道は休むという話を聞いたのだろう。ただこの反応から察すると、どうも話を最後まで聞かずにきたようだ。

 心配してくれるのは嬉しいが、精神状態に影響しそうなほどだとこちらが心配になってしまう。

 

「ほ、本当か?」

 

「ああ、本当だ」

 

「本当の本当か?」

 

「本当の本当だ」

 

 強く頷いて見せると、十香はようやく両肩から手を離した。

 

「そうか、よかった……士道に何かあったらどうしようかと思ったぞ」

 

 安心したようにため息をつき、見る者の心を癒す可愛らしい笑顔を浮かべる。しかし数秒後には、その笑顔は何かに気付いたような顔へと変わった。

 

「む? 待て、シドー。ならば何故学校を休むのだ?」

 

「ああ、実は<フラクシナス>でやることがあってさ。ちょっと行ってこなきゃならないんだよ」

 

 士道は十香の問いに、あらかじめ考えておいた嘘をついた。本当は正直に言ってしまいたいのだが、それは琴里に止められている。四糸乃のことを話して他の精霊を心配させてしまうより、秘密裏に問題を解決して無かったことにしようと考えているらしい。確かにそれが可能なら話す必要は無くなる上、心配させることも無い。

 

「私も一緒に行っては駄目か?」

 

 どこか寂し気な表情で、十香はじっと見つめてきた。拾ってくれと訴える子犬のような目に、士道の心に鋭い痛みが走る。特に悪いことはしていない筈なのだが、軽い罪悪感を抱いてしまう。

 

「悪い……できれば一人できてくれって言われててさ」

 

 それでもこれは十香のため。十香に余計な心配をかけさせないため。自分に言い聞かせつつ、士道は再び嘘をついた。

 

「そうか……ならば仕方ないな……」

 

「げ、元気出せって十香!」

 

 予想通り、十香は目に見えて落ち込んだ。十香のためとは言いつつ、どうも嘘が裏目に出てしまっている気がしてならなかった。

 このままではまずい。何とか元気付けなくては。

 

「そ、そうだ! 今日一日学校でいい子にできたら、何でも一つだけ言うこと聞いてやるぞ?」

 

 小学生のご褒美レベルだが、暗く沈んでいた十香の表情は、その言葉を聞いた途端に眩しいほど明るくなった。

 

「ほ、本当か? どんなことでもいいのだな?」

 

「ああ。ただし、折紙とケンカするのも駄目だぞ?」

 

 こんな約束をするのは少々不安だが、背に腹は替えられない。これが折紙なら士道の想像もつかない要求をしてくるに違いないが、十香ならその心配は無いだろう。

 

「むうっ……それは難しいが、何とか頑張ってみるぞ。だからシドー! 約束だ!」

 

「おう、約束だ」

 

 士道が頷くと、十香は心底嬉しそうな笑みを浮かべた。

 話も一段落したので、そろそろ学校へ行かせるべきだろう。士道はテーブルに置いておいた弁当を十香に手渡した。

 

「ほら十香。今日の弁当だ」

 

「おお! シドー、今日は何が入っているのだ?」

 

「それは食べる時のお楽しみだ」

 

「むぅ、とても気になるぞ……」

 

 十香は穴が開きそうなほど手の中の弁当を凝視していたが、やがて割れ物を扱うような手つきでバッグにしまった。

 

「ではシドー! 私は学校へ行っていい子にしてくるぞ!」

 

「ああ、頑張れよ。いってらっしゃい、十香」

 

 既にリビングから出て廊下にいる十香に、士道は軽く手を振った。

 

「うむ! いってきますだ、シドー!」

 

 元気に答えると、十香は廊下を駆けて行った。靴を履いたのかと疑いたくなるほど早く玄関の扉が開けられ、足音が遠ざかっていく。扉の閉まる音が聞こえると、家の中には物足りなさを感じるほどの静けさが訪れた。

 

「さてと、よしのんの朝食を作らないと……な?」

 

 キッチンへ向かおうと体の向きを変えた時、士道は視界に映った何かに気がついた。

 リビングにあるソファー。これ自体は何もおかしな所は無いが、そこから目だけを覗かせてこちらを見つめる人物がいた。その隣には同じようにこちらを見つめる、ウサギのパペットの姿もある。

 

「……何してんだ、四糸乃――じゃない。よし、のん?」

 

 分かっていた筈なのだが、言い間違えてしまう。ひょっとするともう元に戻っているかもしれないという考えから、よしのんという言葉自体が疑問形になってしまった。

 

「おぉう、バレちゃったよ。さっすが士道くん、目ざといねぇ」

 

 士道の問いに答えたのは、四糸乃の姿と声をしたよしのんだった。どうやらまだ元には戻っていないらしい。

 よしのんはソファーから顔を出すと、四糸乃の声では違和感のありすぎる口調で続けた。

 

「やー、何か十香ちゃんといい雰囲気だったじゃない? 邪魔しちゃ悪いかなーって思って、隠れてたんだよねー」

 

 その表情も、四糸乃がするとは思えないニヤニヤ笑い。

 士道の心のオアシスのイメージが、音を立てて崩れそうな光景だった。

 

「ま、まあ、それは置いといて。ここにいるってことは、もう検査は終わったのか?」

 

『は、はい……今は結果を調べたり、原因を探ったりしてるみたいです……』

 

 今度は『よしのん』の姿と声をした『四糸乃』が、遠慮がちに答えた。こちらは高い声と口調のギャップが凄まじく、非常にむずがゆい。

 

「そんなことよりこれ見てよ士道くーん!」

 

 よしのんは大事な話をそんなこと呼ばわりして、ソファーの横に躍り出る。

 そこで初めて、士道はよしのんの服装に気がついた。今までソファーの向こう側にいたため見えなかったが、その装いは普段とはまるで違った。普段四糸乃は白を基調とした明るい色の服を着ていることが多いが、今その身に纏っているのはまるで正反対のものだ。ほとんど黒を主体として、紫などの暗めの色を申し訳程度に使ったワンピース。おまけに袖無しな上スカートも相当短く、膝上十センチあるかどうかも怪しい。そのため今四糸乃の白い肌はかなり露出している。

 普段見ることのできない露出の多いその姿は、士道を魔の道に引きずり込みそうなほどの危ない魅力に満ち溢れていた。端的に言えば少々エロかった。

 

「ねえねえどう思う? 似合ってる? 似合ってるっしょ?」

 

 その場でくるりと一回転し、よしのんは期待に輝く眼差しを向けてくる。

 

「え、あ、えっと……」

 

 士道は言葉に詰まった。

 似合わないという訳ではない。むしろ目が釘付けにされそうなほど似合っている。ただ先ほどスカートの裾が翻り下着が見えそうになっていたため、士道は胸の高鳴りを抑えるのに忙しかった。

 

「おんやぁ~、どったの士道くーん? ひょっとして黒で決めた大人な四糸乃の姿に、湧き上がる劣情を抑えきれないのかなー?」

 

 士道の反応をどう取ったのか、少々品の無いことを口にするよしのん。その言葉は四糸乃の声で紡がれたため、士道は一瞬耳を疑った。四糸乃の声でそういったことを口にするのだけは勘弁して欲しい。

 

「ち、違うぞ! その、何ていうか……すごく似合ってるぞ」

 

 何の捻りも無い褒め言葉だったが、それは紛れも無い真実だった。実際目を奪われるほど似合っている。

 よしのんはそんな稚拙な言葉でも満足してくれたらしく、満面の笑みを浮かべて喜んでいた。

 

「イェーイ! やったね四糸乃! 言った通りでしょー!」

 

『………………っ!』

 

 これは意外とありかもしれない。純真にはしゃぐよしのんと、恥ずかしさからか顔を隠している『四糸乃』を見て、不謹慎ながら士道はそう思った。元気いっぱいで明るい四糸乃の姿は新鮮であるし、気弱で引っ込み思案な『よしのん』の姿は中々に可愛らしい。

 見た所よしのんはともかく、『四糸乃』もさほど不安そうには見えなかった。やはりよしのんがいるからなのだろうか。この調子なら、思っていたよりも楽しい一日になるかもしれない。

 そんな予感に浸っていると、どこからか控えめな空腹の知らせが聞こえてきた。

 

『……っ! …………っ!!』

 

 士道は既に朝食を食べ終えているので、当然ながらそれはよしのんのお腹から聞こえたものだ。しかし『四糸乃』からすれば自分のお腹がなっていることになる。見た目は先ほどと同じく顔を隠しているだけだが、内心では顔から火が出そうなほど恥ずかしがっているに違いない。

 

「やー、そういえば何にも食べてなかったんだよねー。士道くーん、何か食べるものが欲しいよー」

 

 『四糸乃』とは対照的に、全く恥ずかしげのないよしのん。やはり性格が反対と言うか、妙な豪胆さが感じられる。

 

「分かった。朝食の残りならすぐ出せるけど、待てるって言うなら新しく何か作るぞ?」

 

『の、残りで、いいです……あんまり士道さんの手を、わずらわせたくないですから……』

 

 ああ、何ていい子。流石俺の心のオアシス。

 自分が大変な状況だというのに、他者を気遣うその美しい心。姿は変わっても相変わらずな『四糸乃』の優しさに、士道は胸を打たれた。

 

「そうか。それじゃ、座って待っててくれ。すぐにできるからな」

 

「オッケーい! なるべく早くお願いねー!」

 

 よしのんは親指を立てて爽やかな笑顔で答えると、椅子に座って『四糸乃』と話し始めた。その光景は二人の人格が入れ替わっていることを除けば、普段と何ら変わらない。別に士道がいなくとも大丈夫なのではないかと思えるほど、いつも通りの光景だった。

 二人の微笑ましいやり取りに穏やかな気持ちを感じながら、士道はキッチンへ向かった。用意にはそれほど時間はかからない。味噌汁や目玉焼きは温め直せばいいだけであるし、サラダなどはそのまま出せばいいだけだ。

 朝食をよしのんの前に並べるのには、五分とかからなかった。

 

「お待たせ、よしのん。できたぞー」

 

「イェーイ、待ってましたー! いっただきまーす!」

 

 言うが早いか、よしのんはパクパクと食べ始めた。することも無いので向かいに座り、士道はその様子をじっと見る。おいしさからか笑みを浮かべるよしのんの姿は、どこか十香に似ていた。

 

「いやー、本当士道くんって料理上手だよねー。きっといいお嫁さんになれるよー」

 

「ほ、褒めてるんだよな、それ……」

 

 女装のことを思い出してしまい、士道は複雑な気分だった。よしのんの言葉は受けを狙った純粋な褒め言葉で、他意は無いと信じたい。

 不意によしのんは箸を止め、じっと士道を見つめてきた。その視線は自身の左手で茶碗を持ってくれている『四糸乃』にも注がれ、数回行ききした後にイタズラを思いついたような笑みを浮かべた。

 

「ねえねえ士道くん。悪いけどよしのん、士道くんに食べさせてもらいたいなー」

 

『よ、よしのん……! わがまま言っちゃ、駄目……!』

 

 よしのんの言葉に驚いたのか、『四糸乃』は白米の入った茶碗を落としてしまった。幸い低い位置から落ちたため中身はこぼれることなく、茶碗も割れてはいない。

 

「いや、まあそれくらいなら……」

 

 別にわがままというほどでも無いし、無理難題という訳でも無い。それに断ればよしのんの機嫌を損ねるかもしれないので、士道は大人しく箸を受け取った。

 箸で目玉焼きを少し取り、それを白米の上に乗せたものをよしのんの口の前まで持っていく。

 

「ほら、よしのん。あーん」

 

「あー――んっ!」

 

 ハエトリソウの如くパクリと口にすると、よしのんはこれ以上無いほどおいしそうに頬張っていた。

 

「ありがとねー、士道くーん。お礼によしのんも食べさせてあげるよー」

 

 箸を返すと、よしのんは士道と同じように目玉焼きを乗せた白米を突き出してきた。その左手では、何故か『四糸乃』が落ち着かない様子であたふたしている。

 

「いや、俺はもう食べ――」

 

「食・べ・さ・せ・て・あ・げ・る・よ」

 

 士道の言葉に被せるように、よしのんは一言一言を強調して繰り返す。表情は満面の笑みであったが、有無を言わせぬ強い圧力が感じられた。

 

「お、お願い、します……」

 

「はい士道くん、あーん!」

 

 大人しく従い、士道は口を開ける。

 よしのんの左手では相変わらず『四糸乃』があたふたとしているが、パペットの表情は読めないので理由は分からなかった。身振り手振りで何となく慌てていることが分かる程度だ。しかし士道の口に箸が入った時、今度は恥ずかしそうに顔を覆った。

 

「……さっきからどうしたんだ、四糸乃?」

 

『か、かんせ……い、いえ! 何でも、ないです……』

 

 前半部分はよく聞こえなかったが、『四糸乃』が何でもないと言うのなら信じない訳にはいかない。少々気になるが、深く追求しない方がいいだろう。

 もっとも、今はそれよりも気になることが目の前にあった。やたらにゆっくりとした動作で食べ物を口に運びながら、意味あり気な笑みを向けてくるよしのんだ。何というかその様子は刀を舐める狂人のようで、士道は寒気を抑えられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻は九時近く。

 遅めの朝食を食べ終えたよしのんは、満足気な笑みでお腹をさすっていた。その左手の『四糸乃』はハンカチを使って、よしのんの口の周りを拭っている。きっと食べかすでもついていたのだろう。『四糸乃』からすれば自分の体なのだから、恥ずかしい姿は見せたくない筈だ。

 

「さぁーて、何しよっかー士道くーん」

 

「うーん、そうだな……一緒にテレビでも見るか。平日の朝だし、あんまり面白いのはやってないかもしれないけどな」

 

 士道が答えると、よしのんは顎に手を当て何やら考え始めた。それがろくでもない考えだというのは、ニヤニヤと笑っている顔を見れば明らかだ。できれば四糸乃の顔でそんな表情をしないで欲しいのだが。

 

「オッケーい! 四糸乃もそれでいーい?」

 

 先ほどまでとは真逆の清々しい笑みを浮かべるよしのんに、『四糸乃』はこくりと頷いた。

 

「ほーら、早く行こうよー」

 

「ちょっ、引っ張るなって、よしのん」

 

 よしのんに手を握られ、士道は強引にソファーの所まで引っ張られていく。

 当然と言えば当然だが、よしのんの手の感触は四糸乃と同じだった。思わずどきりとしてしまうほど滑らかで、暖かい小さな手。その持ち主であった『四糸乃』は、口元を押さえて恥ずかしがっているように見えた。

 

「よっと……」

 

 テレビのリモコンを取り、士道は腰を下ろした。柔らかいソファーに体が沈み込んでいくのを感じながら、リモコンの電源ボタンを押そうと指を動かす。しかし途中で士道はその指を止めた。

 

『……っ!!』

 

「……あの、よしのんさん」

 

「はいはい、どったの士道くん」

 

「……何で俺の膝の上に座るんですか?」

 

 そう。電源を入れようとしたその時、何故かよしのんは膝の上に座ってきたのだ。それも気付くのが一瞬遅れてしまうほど、ごく自然な動作で。

 

「んー、そこに士道くんが座ってたからかなー。四糸乃も座りたがってたしねー」

 

『よ、よしのん……!』

 

 よしのんの言葉に、『四糸乃』は再び顔を隠す。

 そこに山があるから登ると言う登山家のような、ある種哲学的な一つ目の理由は理解し難いが、二つ目の理由には納得できた。ここ一時間の間に四、五回は恥ずかしさで顔を隠している『四糸乃』が、自分からそんなことを口にしたりはしない筈だ。そのため代わりによしのんが行動に移したのだろう。とはいえ、今は四糸乃の体を動かしているのはよしのんなので、代わりという言葉が適切かどうかは分からなかった。

 背負うと首筋を舐めてくるような誰かはともかく、四糸乃なら膝に座るくらいは構わない。しかし今回ばかりは事情が違った。

 

「と、とにかく、下りてくれないか?」

 

「何でー? 何か駄目な理由でもあるのー?」

 

 顔だけこちらに向けながら、よしのんはさらに深く腰かけてくる。

 

「ちょっ!?」

 

 分かっててやってるだろ、と士道は心の中で叫びを上げた。

 今よしのんが着ている服は生地がかなり薄く、露出も多い。そんな状態で密着されれば、よしのんの体の柔らかさがはっきりと伝わってきてしまう。士道も健全な男子高校生なので、何も感じないでいるなど到底不可能だ。現に士道の<鏖殺公(サンダルフオン)>は霊力を高めつつあった。

 

「それとも四糸乃にくっつかれるのは嫌だったりするー?」

 

『……っ』

 

 よしのんの言葉に、今まで顔を隠していた『四糸乃』がつぶらな瞳を覗かせた。無表情かつ無言の視線が士道に注がれる。

 これは誘導尋問だ。返すべき言葉は分かっていたが、口にしてしまえば今の状況から逃れられなくなってしまう。だからこそ他の言葉を必死に探したが、何一つ見つかることは無かった。

 

「……そんなことないぞ。嫌なんかじゃねえよ」

 

 半ば自棄になり、士道は答えた。

 

『ほ、本当……ですか?』

 

「ああ、本当だ」

 

 頷いてみせると、『四糸乃』は僅かに口を開けた。恐らく笑みを浮かべたのだろう。

 何にせよこれでよしのんを下ろす理由が無くなってしまった。無理やり下ろすことはできなくも無いが、それはあくまでも最終手段だ。嫌ではないと言った手前、実行すれば二人の精神状態に影響を与えるのは目に見えている。

 

「嫌じゃないなら下りなくてもいいよねー。さーて、何か丁度いいのはやってるかなー」

 

 できるのは限界まで耐え忍ぶことだけなので、士道はリモコンをよしのんに渡して延々フィボナッチ数列を数えることにした。

 よしのんはテレビの電源を入れ、番組を変えていく。

 

『ジャンジャジャーン! 今明かされる衝撃の真実ぅ~!』

 

『それは人の心を読み、暗示にかける者。思考と行動を、操作する者のことである』

 

『筋肉モリモリマッチョマンの変態だ』

 

『奇人? 変人? だから何?』

 

『抹殺せよ! 抹殺せよ! 抹殺せよ!』

 

『腕の骨が折れた……』

 

 順調に数を数えていく士道。正直テレビは見ていなかった。

 

「おぉーう、これなんかいいんじゃなーい?」

 

 やがてよしのんは気に入った番組を見つけたらしく、リモコンを置いた。そして何故か士道に寄りかかり、背中を預けてきた。膝に乗っている状態でそんなことをすれば、当然よしのんの頭は士道の顔近くへくる。

 

「……っ!」

 

 漂ってくる仄かな甘い香りに、士道の心臓は鼓動を速める。恐らくは四糸乃が使っているシャンプーの香りなのだろう。それが分かったところで状況はよくならないが。

 数学的思考を乱された士道は、何とか落ち着こうとテレビに目を向けた。番組によっては自分を抑えることができるかもしれないという、淡い期待を持って。

 しかしそれは粉々に打ち砕かれた。今テレビに映されていたのは、どう控えめに見てもお楽しみの場面だった。もちろん公共の電波で放送できる程度のものだが、士道にとっては何の慰めにもならない。

 ただでさえ危険な状況だというのに、この上濃厚なラブシーンを見せられるというのは、ある種の拷問に等しい仕打ちだった。

 

「よ、よしのん……番組、変えないか?」

 

「えぇー、どうしてー?」

 

 そう返すよしのんの口調は、明らかに面白がっていた。何が目的でこんなことをしているのかは不明だが、楽しんでいるのは間違いない。

 

「い、いや、俺はもっとこう、面白いものが見たいなーって。よ、四糸乃もそう思うだろ?」

 

『は、はい!』

 

 突然同意を求められたせいか、『四糸乃』は驚いたように体を震わせた。

 流石に『四糸乃』も番組を変えて欲しいなら、よしのんも従ってくれるだろう。しばし悩んでいたが、案の定よしのんは頷いた。

 

「しょうがないなー、もー」

 

 不機嫌そうに頬を膨らませ、よしのんは軽く睨んでくる。

 割と危険な状態にあるにも関わらず、士道はその顔を可愛いと思ってしまった。

 

「じゃー、これでいっかー」

 

『二ページ目で、計算間違いをしていたよ。ひっどい凡ミスだ』

 

 よしのんは番組を変えてくれたが、膝から下りる気もよりかかるのを止める気も無いらしい。

 よしのんのソファーにされながら、士道は再び数列を数え始めた。自分の理性を抑え、【最後の剣(ハルヴァンヘレヴ)】を顕現させないために。

 

「……やっぱり作戦Bでいくしかないかなー」

 

 よしのんの不穏な呟きは、修行僧の如く瞑想する士道の耳には届かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ……何だってんだよ、一体……」

 

 あれから二時間後、士道はソファーに力無く沈んでいた。肉体的な疲労は無いが、精神的な疲労は相当なものだ。まあそれも悟りが開けそうなほど瞑想していれば当たり前のことだろう。

 一体よしのんは何が目的なのだろうか。ただ単にふざけているにしては、少々度が過ぎる。もしも士道の理性が崩壊してしまえば、よしのんもただではすまないと分かっている筈だ。にも関わらず、それを促そうとしているようにしか思えない。

 これが折紙ならいつものことだと納得してしまうが、相手はよしのんだ。折紙と違って無条件に納得はできない。一体、よしのんは何故――。

 

「士道さーん! 助けて下さーい!」

 

 士道が頭を抱えていると、突然二階から助けを求める声が聞こえてきた。

 

「っ!? 今の、四糸乃か!?」

 

 反射的に立ち上がり、上を見上げる。

 今の叫びは声も口調も四糸乃のものだった。もしかすると二人は元に戻ったのかもしれない。しかしそれなら助けを求める必要は無い筈だ。まさか今度は何か別の問題が発生してしまったのだろうか。

 いずれにせよ考えるのは後だ。今は一秒でも早く四糸乃の元へ行かなければ。

 

「士道さーん!」

 

「待ってろ、四糸乃! 今行くからな!」

 

 士道は二階へと全速力で向かった。何故四糸乃が二階にいるのかは分からないが、今はそんなことはどうでもいい。四糸乃が助けを求めているのなら、くだらない疑問など二の次だ。

 階段を一段抜かしで駆け上がり二階に着くが、四糸乃の姿はどこにも無い。その代わり士道の部屋の扉が僅かに開いているのが見えた。恐らく四糸乃はここにいる。

 

「大丈夫か四糸乃!?」

 

 突き飛ばすように扉を開け、士道は四糸乃の姿を探す。しかし部屋の中にも四糸乃の姿は見当たらなかった。部屋の様子も、朝開けた筈のカーテンが閉じられている以外は特におかしな所もない。では四糸乃は一体どこに――。

 

「いらっしゃーい、士道くーん」

 

「――はっ!?」

 

 そんな四糸乃の声が聞こえた瞬間、士道は両手を掴まれ後ろに回された。そして触れ合った両手首に冷たい感触が走ったかと思うと、手錠でもかけられたかのように動かせなくなった。

 

「な、何だぁ!?」

 

 振り向いた士道が見たのは、満面の笑みを浮かべた四糸乃――いや、よしのんの姿だった。しかもスカートの裾をよく見ると、薄い光の膜に彩られている。ほんの僅かだが、霊力が逆流しているのだ。恐らく士道の両手を戒めているのは、よしのんによって作り出された氷の手錠だろう。

 

「とーうっ!」

 

「うわっ!?」

 

 よしのんは扉を閉めると、何の前触れも無く飛びついてきた。押し倒される数瞬の間に、士道はようやく悟った。自分は騙され、罠に落ちたのだということに。

 

「さっすが士道くん。引っかかってくれると思ってたよー」

 

 仰向けに倒された士道の胸の上で、よしのんは両手で頬杖をついて笑う。

 その笑顔はとても可愛らしい筈なのだが、今の士道にはどう頑張ってもそうは思えなかった。むしろその笑顔の裏に隠された不穏な何かに、不安と恐怖を煽られる。

 

「な、何する気なんだ、よし、の……ん?」

 

 恐る恐る尋ねる士道だが、途中で何かおかしいことに気がついた。

 よしのんは両手で頬杖をついている。そう、両手で。右手と、本来パペットを着けている筈の左手で。

 

「お、おい、よしのん。パペット、どうしたんだ?」

 

「よしのんのプリティボディなら置いてきたよー。四糸乃に邪魔されちゃ困るしねー」

 

 その答えに士道は、令音の仮説が正しかったことを知った。だが今問題なのはそこではなかった。パペットが無ければ『四糸乃』の人格は発現できない。そして今、よしのんの左手にパペットは無い。それはつまり、よしのんを止められる唯一の人物がいないということだ。

 自分が逃れようの無い危機的状況に陥ったことを、士道はやっと理解した。湧き上がってくる異様な恐怖から、ごくりと唾を飲む。

 

「邪魔されちゃ困るって……一体、何しようとしてるんだ?」

 

「やー、最近士道くんのまわり女の子が増えてきてるじゃない。こんなチャンスもう二度と無いかもしれないし、今の内に四糸乃の立ち位置を固めとこうかなーって」

 

 世間話でもしているかのような軽い調子で、笑いながら答えるよしのん。

 凄まじく嫌な予感に、士道は体中に冷や汗をかきそうだった。

 

「つ、つまり……?」

 

「やーん。女の子にそんなこと言わせようとするなんて、士道くんたらイケナイ子なんだから~!」

 

 過剰に恥ずかしがるふりをしながら、よしのんは鼻の頭を軽く指で弾いてくる。これが四糸乃本人なら、胸が痛くなるほど可愛いと思えただろう。しかし実際に士道が感じたのは、恐怖による寒気だった。

 

「でもまー、言って欲しいなら言ってあげるよー。四糸乃の体で、士道くんと既成事実を作っとこうと思ってねー」

 

「はあっ!?」

 

 よしのんのぶっ飛んだ答えに、士道は度肝を抜かれた。しかし同時に納得もできた。

 士道の理性を崩壊させようとしていたのは悪ふざけなどでは無く、こちらから襲わせようとしていたのだろう。それに失敗したため、こんな強硬手段を取っているに違いない。

 全ては『四糸乃』のためだったらしいが、どう考えても方法に問題がある。常識を踏みにじるよしのんの考え方は、どことなく折紙と通じるものを感じた。

 

「だってそうすれば四糸乃はもう安地じゃなーい。士道くんのことで悩んだり不安になったりすることも無くなって、いいことづくめだよー」

 

「お、落ち着け、よしのん。ま、まずはれ、冷静に、話し合おうな?」

 

 笑みを浮かべ、何とか説得を試みようとする士道。しかし身の危険に笑顔は引きつり、声は裏返ってしまう。情けないことこの上無いが、それを気にするほどの余裕は無かった。

 

「怖がらなくても大丈夫だよ、士道くーん。痛いのは最初だけですぐに気持ちよくなるからさー」

 

「普通その台詞言うのって男じゃねえの!?」

 

 よしのんがシャツのボタンに手をかけてきたため、士道はよしのんを振り落として後ずさった。

 

「細かいこと気にしちゃ駄目だよー。さぁ士道くん、こっちおいでよー。よしのんと一緒に気持ちよくなろー?」

 

 立ち上がったよしのんは、両手の指を蠢かしながらゆっくりと迫ってくる。その姿はさながら獲物を見つけたゾンビで、士道は捕食される恐怖に息を詰まらせた。

 説得は無意味。<ラタトスク>のサポートも無し。家には誰もいない。考え得る限り最悪の状況だ。

 希望が無い訳ではないが、それはあまりに遠く儚い。だがもう他に頼れるものは無かった。

 

「た、助けてええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 希望に届くことを願って、士道は叫ぶ。その声は家の中に、虚しく響いていった。

 




 前編終了です。いるのかどうかは分かりませんが、最後まで読んでくださった方はありがとうございます。作品中に変なネタを仕込むのは遊び心というか趣味です。テレビの台詞は実在の映画やドラマの台詞ですが、半分以上分かる人がいるでしょうか。
 本当は四糸乃と士道のデート話を書こうとしていたのですが、気がついたらこんな話になっていました。何故そうなったのかは自分でも分かりません。すごく不思議……。


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よしのんランページ

 ランページ = 暴れまわる
 「よしのんインターチェンジ」の後編となっています。
 次作はまだ執筆中なのでここから更新速度が低下します。なお、あらすじに書き忘れましたが「デイリーライフ」は「日常生活」という意味です。


 士道が色々な意味で危機に陥る少し前のこと、五河家隣の精霊用マンションでは、一人の少女がある人物の部屋の前で膝を抱えて座っていた。

 エメラルドのような色の瞳に、多少纏まりの無い同色の髪。そして、不機嫌そうな顔。

 考えるまでも無く、七罪だった。

 

「四糸乃、いないのかなぁ……」

 

 ぽつりと呟き、顔を上げる。そこにあるのは無骨な扉だけで、いくら待とうとそれが開かれることは無かった。最初に玄関のチャイムを鳴らしてから、既に十分以上が経過しているというのに。

 まあそれも仕方の無いことだった。七罪のような存在そのものが罪である者が訪ねてくれば、誰でも居留守を決め込んでしまうだろう。僅かでも言葉を交わして、ウィルスの如く罪をうつされては堪らない。

 とはいえこの部屋の主である四糸乃は、決してそのようなことはしない。七罪だろうと訪ねてくれば、少しはにかみながら嬉しそうに微笑んでくれる。

 だが今は四糸乃が出てくる気配は無かった。間違いなく居留守ではないので、部屋にはいないと考えるのが妥当だ。

 

「でも、どこ行ったんだろ……」

 

 七罪ほどではないが人と関わるのを苦手とする四糸乃が、一人で(『よしのん』がいるので正確には二人)出歩くというのは少々考えづらい。もしかするとすれ違ってしまったのかもしれないが、二つあるエレベーターの内一つはこの階、もう一つは一階にあるようなのでそれも違うだろう。四糸乃が四階から七罪の部屋のある最上階まで、階段で上がったというなら話は別だが。

 他に四糸乃が行きそうな所といえば、士道の家くらいだ。しかし今は平日の昼近くなので、士道は学校へ行っている。四糸乃が行く理由は無い。

 

「まあ、一応士道の家行ってみよ……」

 

 他に行くあても無いので、七罪はとりあえず行ってみることにした。ただ万が一ということもあるので、もう一度チャイムを鳴らして一分ほど待った後、最上階にある自分の部屋の前も確認してみた。結果は予想通りのものだったが。

 士道の家に足を運ぶと、七罪は玄関のチャイムを鳴らそうとした。しかしボタンを押す直前で指を止める。

 家の中に士道がいないのは分かっている。その代わり四糸乃がいた場合、チャイムを鳴らせば相当驚かせてしまうに違いない。他人の家に一人でいる時にチャイムを鳴らされれば、空き巣で無くとも間違いなく驚くだろう。少なくとも七罪なら死ぬほど驚く。

 七罪は手をポケットに引っ込めると、そこから鍵を取り出した。もちろん士道の家の鍵だ。約一名を除き、琴里から精霊全員に渡されている。一人だけ渡されないのは、持たせると確実に士道が危険な目にあうからだ。ただしこの場合危険な目にあうのは命では無く、もっと他の尊い何かである。

 玄関の鍵を開けると、七罪はなるべく音を立てないようにして扉を開けた。

 

「あ、四糸乃の靴……」

 

 扉の隙間から玄関の床を覗き見ると、そこには四糸乃の靴が揃えてあった。ただ四糸乃にしては珍しく、綺麗に揃っていない。yの字のように少々雑になっている。何か靴を揃える暇も無いほど、急いででもいたのだろうか。

 七罪がそんな疑問を覚えると、また新たな疑問が目に飛び込んできた。

 

「って、何で士道の靴もある訳? 学校に行ってるんじゃないの?」

 

 そう、何故か士道の靴もあった。恐らく学校を休んだのだろうが、理由は分からない。体調不良か、はたまた単なるサボりか。昨日見た限りでは特に体調が悪そうには見えなかったので、体調不良ではないだろう。とはいえ、一応真面目な士道が学校をサボるとも思えない。

 あれこれ考えを巡らす七罪は、やがて浮かび上がってきた一つの可能性に息を詰まらせた。

 

「ま、まさか……」

 

 平日だというのに家にいる士道。

 その士道の家に、靴も揃えず上がっている四糸乃。

 そして四糸乃達は二人っきり。

 判断材料は三つしか無いというのに、七罪の妄想は際限なく広がっていった。

 興奮した様子で士道の家に向かう四糸乃。靴を揃える時間すら惜しみ、自室で待つ士道の元をめざす。

 

『士道さん……私、もう我慢、できません……っ!』

 

 四糸乃は士道の胸に飛び込み、士道はそんな四糸乃の体を優しく抱きしめる。

 

『ああ、俺もだよ四糸乃。俺の、心のオアシス』

 

 甘く囁きかける士道を、四糸乃は恍惚とした表情で見上げる。

 熱く見つめあい、引き寄せられるように互いの唇を重ね、やがて二人は暗い部屋の中で体を――。

 

「いや無い無い。それは無い」

 

 そこまで妄想してから、ようやく七罪は我に返った。士道はともかく、四糸乃に関しては天地が引っくり返ってもありえない。だが念のために確認しておいた方がいいだろう。四糸乃の女神のような美しさに、士道が理性を失わないとも限らない。

 七罪は家の中に入ると、そっと扉を閉めた。脱いだ靴は隅に押しやって、リビングの入り口へ足音を殺して歩いていく。空き巣のような真似をしているのは、もしも見つかってしまった時、何を言えばいいか分からないからだ。それに七罪のような存在が許可無く家に上がり込んでいたことを知れば、黒光りする害虫を発見した時より嫌な気分になるだろう。

 細心の注意を払い、七罪がリビングを覗こうとしたその時――。

 

「た、助けてええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

「し、士道!?」

 

 二階の方から、士道の悲鳴が聞こえてきた。どこか情けない悲鳴だったが、必死に助けを求める気持ちが感じられる。一体何があったのかは分からないが、相当危険な状況に違いない。

 考えるのは後にして、七罪は士道の元へ向かおうとした。

 だが、七罪が行って何か意味があるのだろうか。今の悲鳴を聞いたなら、きっと家のどこかにいる四糸乃が助けに向かう筈だ。助けられる人が七罪以外にいないならともかく、他にいるなら七罪は必要ない。行っても邪魔になりこそすれ、役に立つことは無いだろう。

 だが七罪の中にも士道を助けたいという気持ちはある。例え何もしてあげられなくとも、助けに行きたい。せめてその気持ちが伝わることを信じて、七罪は士道の元へ向かった。部屋の隅で石像のように大人しくしていようと、心に決めながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分の目算がどれほど甘く愚かだったか、士道は身をもって痛感していた。楽で楽しい一日になりそう。<ラタトスク>のサポートが無くとも問題ない。そう楽観的に考えていた自分を殴りたいほどに。

 眼前では四糸乃の姿をしたよしのんが、瞳を怪しく輝かせながら迫ってくる。逃げようにも既に部屋の隅に追い詰められ、両腕を後ろで封じられている状態だ。そう簡単に逃げられはしない。

 例えるなら折紙と二人で密室に放り込まれたかのような、絶体絶命の危機だった。

 

「叫んでも助けはこないよー? それともあれー? 悲鳴を上げるようなプレイがお好み?」

 

「どんなプレイだよそれ!? 俺そんな趣味無いからな!」

 

 必死の突込みを入れながら、士道は後ろへ下がろうとする。しかし背中は壁に張り付いていて、これ以上下がることはできなかった。

 

「もー、士道くんたら恥ずかしがり屋さんなんだからー。そろそろ覚悟と体位を決めて、既成事実作っちゃおうよー。それともいっそ形あるものも作っちゃう?」

 

「やめてぇ! これ以上俺の心のオアシスの声でそんなこと言わないで!」

 

 四糸乃の声で繰り出される品の無い言葉のオンパレードに、士道は少々泣きそうになった。

 

「よいではないかー、よいではないかー!」

 

 満面の笑みで悪代官のようなことを口にしながら、よしのんは上着を掴んで脱がそうとしてくる。

 もうおしまいだ。抵抗もできない上に助けもこない。このままでは確実に尊いものが奪われてしまう。

 絶望的な心地で諦めかける士道。だが希望は潰えた訳では無かった。階段を駆け上がってくる誰かの足音が、はっきりと聞こえてきた。助けがきてくれたのだ。

 

「士道! 大丈夫!?」

 

 乱暴に開かれた扉の向こう、そこに立っていたのは七罪だった。助けにきてくれるとしたら七罪しか考えられなかったが、まさか本当にきてくれるとは。精霊用マンションの核シェルター並みの防壁を通り抜け、声が届いたのだろうか。

 理由はどうあれ助けにきてくれたことが何よりも嬉しく、士道は涙さえこぼしそうになった。

 

「一体どう……した……の……」

 

 部屋の中の様子を見て、七罪は言葉を切った。まあそれも当然と言えば当然だ。七罪の目には四糸乃が士道を襲っているようにしか見えない筈だ。信じ難いというか、受け入れ難い光景なのは間違い無い。

 時間が止まったかのように誰も動かず、言葉も発しない。最初にその状況を破ったのは、士道とよしのんの視線を一身に受けていた七罪だった。

 

「……ごめんなさい。お邪魔しました」

 

 居心地悪そうに視線を彷徨わせ、扉を閉めて出て行こうとしている。これは明らかに正しく状況を理解していない。

 

「ま、待て七罪! お前誤解してるぞ!」

 

「だ、大丈夫よ、士道。誰にも言わないから……」

 

「だから違うってえぇぇぇぇぇ!!」

 

 悲鳴に近い叫びを上げる士道。流石にその様子に何か変だと気がついたのか、七罪は半ばまで閉めていた扉を僅かに開けた。頭上にクエスチョンマークが出そうな顔をしているが、この状況をどう説明すればいいのやら。

 

「誰かと思ったら七罪ちゃんかー。びっくりしたよー、もー」

 

 ほっとしたように胸を撫で下ろし、よしのんは七罪の元へ駆けていく。

 

「よ、四糸乃……?」

 

「ざーんねーん。よしのんはよしのんだよー」

 

 よしのんの言葉に、七罪はさらに困惑していた。事情を知らない七罪からすれば、突然四糸乃が饒舌になったように見える筈だ。その驚きは士道にも覚えがある。

 

「……え? 何これ? どういうこと?」

 

「理由は分かんねえけど、四糸乃とよしのんの人格が入れ替わっちまったんだよ! それで今俺はよしのんに襲われてる! だから助けて七罪!」

 

 少々混乱気味の七罪に、士道はざっくりと説明しつつ助けを求めた。かなり省いている気もするが、大体あっているので問題は無い。

 

「そ、そうなの?」

 

「えー、人聞き悪いなー。よしのんはただ四糸乃の体で士道くんと愛を育もうとしてるだけだよー」

 

 よしのんの答えに、七罪もやっと状況を理解したらしい。驚きを隠せない様子で士道とよしのんを交互に見つめ、やがてよしのんの方を向いた。

 

「え、えっと、こういうのは、その……よくないんじゃない? 士道もちょっと、困ってるみたいだし……」

 

「ありがとう、七罪。ありがとう……」

 

 何とかよしのんを説得しようと努力する七罪に、士道はただ感謝することしかできなかった。

 流石によしのんといえど、この状況では諦めるしかないだろう。これが折紙なら七罪を気絶させ、縛り上げて邪魔をさせないようにしてでもことに及ぶかもしれない。だがよしのんならそんなことはしないと、士道は信じていた。というよりも信じたかった。

 

「むぅ……」

 

 よしのんは悩んでいるようだった。士道からは後ろ姿しか見えないが、悔し気に顔を歪めているに違いない。

 きっとよしのんはすぐに敗北を認め、両手の戒めを解いてくれる。士道は勝利を確信していた。だが、よしのんは予想外の行動に出た。

 

「……七罪ちゃんさあ、士道くんの周りには大人っぽい女の子が多いと思わない?」

 

 七罪の首に腕を回し、引き寄せるようにして肩を組む。その状態でよしのんは七罪の顔を横から覗き込み、怪しく笑いながら囁いていた。

 

「へっ? ま、まあ、確かに……」

 

「そんな中で七罪ちゃんや四糸乃は不利だよねー。全体的にロリで、大人の魅力ってものが悲惨なほど無いもんねー」

 

 よしのんの視線が七罪の顔から胸の辺りへと向けられる。それにつられて七罪自身の視線も下へ行き、表情が暗く沈んでいく。

 士道はとてつもなく嫌な予感に見舞われた。七罪と肩を組むよしのんの姿が、何故か気弱な少年にタバコを勧める不良に見えたからだ。まるで少年を、悪の道に引きずり込もうとしているかのような。

 

「だけど、もしも有利になれるとしたらどうするー?」

 

「……有利、に」

 

 七罪は顔を上げて士道を見ると、すぐに恥ずかしそうにうつむいた。

 

「そうそう。ここで既成事実を作っちゃえば、七罪ちゃんも四糸乃も将来約束されたようなものだよー。士道くんとの将来を、ね」

 

「き、既成事実……っ!」

 

 その単語で七罪の顔は真っ赤に染まる。

 予感は確信に変わった。よしのんは間違い無く七罪を仲間に加えようとしている。

 考えてみれば簡単なことだった。障害を排除できないなら、別の方法で無力化してしまえばいいだけだ。例えば言葉巧みに心を惑わし、味方につけてしまうなどして。

 

「頼む七罪! お願い助けて! お前だけが頼りなんだ!」

 

 もしよしのんの企みが成功してしまえば、士道の末路は先ほどよりも悲惨なものとなってしまう。いざとなったら泣きながらすがりつこうと覚悟を決め、士道は七罪に助けを求めた。

 

「士道……」

 

「さあ七罪ちゃん、一緒に作っちゃおうよー。友達でしょー?」

 

「よ、よしのん……」

 

 明らかに七罪は迷っていた。だが七罪がよしのんと同じことを考える訳が無い。恐らく士道の味方をしたいが、大事な友達であるよしのんに嫌われたくないのだろう。それが分かっていて友達という言葉を使ったなら、よしのんは相当質が悪い。

 

「七罪!」

 

「ねえねえ七罪ちゃーん。友達だよねー」

 

 必死に呼びかける士道とは対照的に、余裕を感じさせるよしのんの呼びかけ。

 何かおかしい。常識的に考えれば七罪がよしのんの側につく可能性は低いというのに、何故よしのんは必死にならないのか。七罪を仲間に引き入れてまでことに及びたいのなら、もっと焦ってもいい筈だ。それなのによしのんは、余裕の笑みを浮かべている。

 

「う、うぅ…………」

 

 その理由を、士道は七罪の苦し気な呻き声によって理解した。

 今七罪は自分がどうすればいいのか迷い、選ぶことができずに混乱している。つまり精神状態が不安定になっているということだ。その結果、七罪にはある変化が起こってしまう。この状況ではそれだけは好ましくない。

 

「七罪! 落ちつ――」

 

 落ち着かせようと声をかけたが、遅かった。あるいはそれが引き金になったのかもしれない。

 突如七罪の体が光に包まれ、士道は眩しさに目を瞑う。光が消え去り目を開けた時には、七罪の姿は様変わりしていた。モデル顔負けの体つきと美しさを持った、大人の姿へと。

 

「それいいわね! 素敵な考えだと思うわ、よしのんちゃん!」

 

「ちくしょおおぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 変身した七罪の第一声に、士道が抱いていた希望は粉々に打ち砕かれた。少年よ、これが絶望だ。そんな声がどこかから聞こえたような気がした。

 よしのんは最初からこれを狙っていたに違いない。生来のネガティブ思考から解放され、士道のベッドに下着姿で入ってくることもできるようになる、大人の姿の七罪へ変身させることを。実現してしまった今、もう士道に打つ手は無い。完全に詰みである。

 

「七罪ちゃんならそう言ってくれると思ってたよー。じゃあ早速始めよっかー」

 

 にこにこ笑いながらにじり寄ってくるよしのん。もういっそのこと全てを受け入れた方が楽になるかもしれない。

 抵抗を諦めた士道が半ば放心しながら考えている時だった。よしのんの背後にいる七罪が、人差し指を口に当てて片目を瞑った。任せて、とでも言っているかのように。

 

「待って、よしのんちゃん。その前にちゃんと準備はしたの?」

 

「んんー、何の準備ー?」

 

「もうっ、女の子なんだから体を綺麗にしておかないと駄目でしょう? 士道くんに見られちゃうのよ?」

 

 七罪の言葉に、よしのんは自分の頭を軽く叩いた。

 

「おぉーう、ミステイク! よしのんったらエロい服と下着のことしか考えてなかったよー」

 

「それ以前にもっと考えるべきことあるよな!?」

 

 七罪の助けによって少々余裕を取り戻した士道は、大仰な仕草で驚くよしのんに叫んだ。どうやら露出の多い服も計算の内だったらしい。

 

「ふふっ。それじゃ一緒にシャワーを浴びに行きましょ?」

 

「オッケーい! あー、でも士道くんが逃げ出すと困るなー」

 

 そう口にすると、よしのんは士道に歩み寄ってきた。目の前に膝をつき、両足首に手を伸ばしてくる。抵抗することもできるが、しても結果は変わらない。ここは大人しくしていた方が懸命だ。

 

「いぃっ!?」

 

 やがて足首に氷の足かせが現れ、士道はその冷たさに喘いだ。手足を封じられてもう完全に自由は無いが、七罪のおかげで一人にしてもらえる。逃げ出す方法はその時考えればいい。

 身動きの取れない様子を見て、よしのんは満足気な笑みを浮かべた。

 

「これでよしっと! すぐ戻ってくるから、大人しくしててね士道くーん。じゃあ七罪ちゃーん、行こっかー」

 

「ええ。私が背中を流してあげるわね」

 

 よしのんは七罪の手を引いて部屋を出て行く。扉が閉まる直前、士道は確かに見た。こちらに向けて、イタズラめいた笑みを浮かべる七罪の姿を。

 

「ありがとう、七罪……」

 

 士道はぽつりと呟くと、手錠と足かせを外す方法を考え始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論から言うと、手足の戒めは正攻法で外すことはできなかった。ベッドの柱に手錠を打ちつけようと、柱がへこむだけで手錠には全く変化が無い。精霊の力で作られた氷のためか、そう簡単に壊れはしないようだった。一応手首と手錠の間には僅かな隙間があったが、引き抜けるほどの余裕は無い。士道の手首がもう少し細く無い限りは。

 だからこそ、士道は搦め手を用いた。自身に封印した七罪の力を用いて子供の姿となり、手首を細くするという荒業を。確実に成功するという自身は無かったものの、以前に一度変身したことがあるのでコツはある程度掴んでいた。

 

「よし! 抜けた!」

 

 思わず口をついて出た言葉は、普段と比べると声が高くなっていた。

 手錠を外し、今度は足かせを外す。この時点でもう子供の姿でいる必要は無いのだが、相変わらず戻り方は分からない。ひとまずそれは置いておくことにして、士道はポケットから念のために渡されたインカムを取り出した。まさか使うことになるとは思ってもいなかったが。

 

「令音さん! 令音さん! 令音さん!」

 

 耳につけたインカムを人差し指で連打しながら、何度も令音の名を呼ぶ。少し時間がかかるかと思いきや、すぐに令音の声が聞こえてきた。

 

『……聞こえているよ、シン。説明しなくとも大体の事情は把握している』

 

「へ? どうしてですか?」

 

『少し前から回線を繋いでいたんだ。機嫌や不安を指す数値に問題は無いのに、霊力が逆流しているのが気になってね』

 

 確かにそれは士道も気になっていた。ただ差し迫った身の危険に、半ば忘れかけていたが。

 

「それは俺には分からないんですけど、令音さんには分かりましたか?」

 

『……ふむ。よしのんは元々、四糸乃が自分の力を抑えるために作り出した人格だ。もしかすると力の扱いに長けているのかもしれない。それこそ封印された霊力を意図的に引き出すことができるほどにね』

 

「なるほど……」

 

 令音の仮説に納得する士道。ただこの状況ではあまり嬉しくない仮説だ。それが正しければよしのんは手錠や足かせ以上の拘束もできるということになる。例えば両手両足を完全に凍りつかせるなど。もう一度捕まったら二度と逃走のチャンスは無いだろう。

 

『……とりあえず、逃げたらどうだい?』

 

「……ですよね」

 

 もっともだ。一旦話を切り上げると士道は静かに部屋を出た。風呂場でシャワー中の二人には余程大きな音で無い限りは気づかれないだろうが、慎重になるにこしたことは無い。

 耳をすませて階下の様子を窺いながら、そっと階段を下りていく。下りてしまえばこっちのものだ。後は玄関に向かって全速力で走っても逃げられる。だが士道は、玄関に広がっていた予想外の光景に息を飲んだ。

 

「れ、令音さん!」

 

『……ん、どうかしたのかい?』

 

「そ、その……玄関が凍ってます」

 

 他に表現のしようが無かった。玄関の扉は、枠を含めて完全に氷に覆われていた。近寄って様々なことを試すものの、扉は開くどころか一ミリも動きはしない。もちろん壊せないのは、試す前から分かっていた。

 地獄からの出口が目の前にあるというのに、出られないというのは何とも歯がゆい。いっそ<鏖殺公(サンダルフオン)>を顕現させて扉ごと氷を破壊しようかという物騒なことも考えたが、それだけは止めておいた。仮に<鏖殺公(サンダルフオン)>を顕現させられたとしても、下手をすると振るった時に直線上の民家が吹き飛ぶかもしれない。

 

『……ふむ、裏口や窓はどうだい?』

 

 令音の言葉に、士道は一階をくまなく調べてみた。だが裏口は元より、窓も全て凍りついていた。一縷の望みをかけて二階も調べてみたが、結果は同じ。先ほどまでいた士道の部屋すらも、カーテンの下は凍りついていた。

 

「だ、駄目です……どこも凍ってます……」

 

 絶望的な心地だった。逃げ出せると確信した矢先に無理だと判明したのだから、上げて落とされた分ダメージも大きい。

 恐らくよしのんは部屋を出た後に、二階の窓を全て凍らせていたのだろう。そういえばよしのん達が階下へ向かう足音は、一分近く経過してから聞こえていた。てっきり部屋の前でこちらの様子を窺っているのかと思っていたが、まさか逃げ道を塞いでいたとは考えもしなかった。 

 

『……シン、まだ諦めるのは早い』

 

 声音から諦めを感じ取ったのか、令音の眠た気な激励が届いてくる。

 

『……考えてもみたまえ。君を逃がさないためなら、君の部屋の扉と窓のみを封じればいい。なのによしのんは家全体の扉と窓を封じた。そんな面倒なことをした理由が分かるかい?』

 

「えっと……外からの助けがこないように、ですか?」

 

『……それもあるだろうが、一番の理由では無いな。恐らくよしのんは楽しみたいんだ。君が部屋から逃げ出したら、かくれんぼのように君を探してね。簡単に見つけてしまってはつまらないだろう?』

 

 それを聞いた士道は、背筋に寒気が走るのを感じた。

 かくれんぼなどという楽しいものでは無い。何せ鬼に見つかったら終わりなのだから。今度こそ両手両足を氷付けにされ、強制バッドエンドを迎えさせられる。

 これは狩りだ。よしのんは狩る者。そして士道が、狩られる者。

 

「……余計に諦めたくなってきました」

 

『……まあ待ちたまえ、これはチャンスだ。実は検査結果の中に少々気になるものが見つかってね。それを調べれば人格が入れ替わった原因、延いては元に戻す方法も判明するかもしれない』

 

「ほ、本当ですか!?」

 

 喜びのあまり大きな声をだしてしまい、士道は咄嗟に口を覆った。

 よしのんと『四糸乃』を元に戻すことができれば、この地獄は文字通りオアシスへと早代わりするだろう。純粋で可愛らしい四糸乃が戻ってくれば、もうここから逃げ出す必要は無い。それにこれ以上四糸乃のイメージが壊れるような言葉を聞かなくてすむ。

 

『……ああ。だがそれにはもう少し時間が欲しい。三十――いや、十五分』

 

「じゅ、十五分……」

 

 家の中で十五分もの間隠れるなど、外国の大豪邸でも無い限りは到底不可能だ。相手が普通の人間なら鍵をかけたトイレに篭城する手もあるが、相手は水と冷気を操る精霊だ。下手をするとトイレ内を冷蔵庫のような状態にして、じわじわと追い詰めてくるかもしれない。かといってどこかに隠れるとしても、精々数分が限界だろう。

 難題を突きつけられ呻く士道だが、他に時間を稼ぐ手があるとも思えなかった。

 

「……分かりました。何とか十五分、隠れてみます」

 

『……頑張りたまえ、シン。回線は繋いだままにしておくから、何かあれば呼ぶといい』

 

「ありがとうございます、令音さん」

 

 礼を言うと、士道は早速隠れる場所を探そうとした。だがその前に、どうしても一つだけ聞いておきたいことがあった。

 

「でも、調べても何も分からなかった場合はどうすればいいんでしょうか?」

 

 仮に十五分見つからずにいたとしても、二人を元に戻す方法が分からなければ無駄な努力だ。やがてはよしのんに見つかり、ゲームオーバーを迎えてしまう。七罪が助けてくれる可能性はあるが、そうそう何度も上手くはいかないだろう。

 

『……頑張りたまえ、シン。幸運を祈っているよ』

 

「流した! 今流したよな!?」

 

 令音はたっぷり五秒以上沈黙して、何事も無かったかのように言葉を返してきた。要するに他に手立ては無いらしい。

 泣き言を言っても仕方無いので、士道は隠れる場所を探し始めた。十五分というのは相当きついが、ここは勝手知ったる自分の家だ。何度も場所を変えていけば、ぎりぎり時間を稼げるかもしれない。

 散々悩んだ末に士道が隠れたのは、一階のキッチンにある食器棚だった。正確に言えばその下側、戸棚になっている部分。本来ならどう頑張っても入れる筈は無いが、幸い士道は今子供の姿になっている。それでもかなり狭いものの、問題無く入ることができた。

 一見すぐに見つかりそうな場所だが、士道が子供の姿になっていることに気付かない限り、よしのんにも見つけられない。ただ気付かれていた場合は、終わったも同然なのだが。

 しばらく息を潜めていると、五分ほど経過した所で洗面所の方から音がしてきた。よしのんと七罪がシャワーを浴び終え、出てきたに違いない。つまりここからが正念場だ。

 

『……ああ、そうだ。シン、私も一つ聞きたいことがあったのだが、いいかな?』

 

 こっちが聞いた時は答えなかったくせに、という言葉は飲み込んでおいた。この状況で令音の機嫌を損ねるのはあまり好ましくない。

 

「何ですか?」

 

『……君の声が普段と違うように思えるのだが、気のせいかな?』

 

「遅っ! 今更かよ!」

 

 反射的に突っ込みを入れてしまい、士道は口を塞いだ。よしのんに聞こえてしまったかと肝を冷やしたが、幸い声は届かなかったようだ。戸を少し開けて耳を傾けると、二階へ上がる足音が聞こえる。

 

「……手錠と足かせを外すために、七罪の力を使って子供の姿になったんです。戻り方は分からないんですけど、そのうち元に戻ると思います」

 

『……なるほど、そういうことか』

 

 安堵のため息をつき、士道は令音に答えた。一瞬自分の言葉に、この狭い戸棚の中で元の姿に戻ったらどうなるのかという恐ろしい考えが浮かんだが、なるべく深く考えないようにしておいた。

 やがて三十秒も経たないうちに、階段を下りる足音が聞こえてくる。士道が逃げたことを知って、よしのんが狩りを始めたに違いない。せめて二階の方から探して欲しかった。

 足音はリビングにまで入ってくると、様々な物音を立て始めた。棚を開ける音。物を動かす音。それらの音が近づくにつれ、士道の心臓は鼓動を早めていく

 

「す、すごい緊張感だな……スニーキングミッションじゃあるまいし……」

 

『……音楽でもかけようか?』

 

 単なるひとり言だったのだが、令音の声が返ってきた。同時に何やら音楽が流れ始める。気分の落ち着くクラシックならともかく、今インカムから聞こえてくるのはどう考えてもスパイの大作戦的な曲だった。

 

「そんなのいいですから調べて下さい! てか逆に落ちつかねえし! 何でそんなのかけるんですか!?」

 

『……雰囲気を出そうと思って……』

 

「出さなくていいです! 十分出てます!」

 

 声自体は低くしたので、戸棚の外には聞こえていない。だが注意が薄れて足を動かしてしまい、桃か何かの缶詰を倒してしまった。

 

「あ……」

 

 缶詰は確かな重い音を発し、それは間違いなく戸棚の外に聞こえていた。足音がゆっくりと近づいてくるのがその証拠だ。

 終わった。士道が思い、戸棚が開けられ、偶然だろうが曲が終わるのは同時だった。

 

「あら、士道くん。こんな所にいたのね」

 

「な、七罪……」

 

 戸棚を開けて覗き込んできたのは七罪だった。その髪や肌は湿っていて、少々刺激的な色香を振りまいている。普段なら士道も顔を赤らめただろうが、今は青くなりそうな気分でよしのんの姿を探した。

 

「ふふっ、心配しなくても大丈夫よ。よしのんちゃんは二階を探してるから、しばらくは下りてこないわ」

 

「そ、そうか、よかった……」

 

 やはり七罪は味方のようだ。

 一瞬迷ったものの、士道はとりあえず戸棚から出た。冷静に考えれば缶詰や醤油の瓶で足の踏み場が無い所に隠れるというのは、少々無謀だったかもしれない。

 士道が戸棚から出るなり、七罪は目の色を変えて抱きついてきた。

 

「きゃー! 士道くん可愛いわー! お姉さんお持ち帰りしちゃいたいくらいよー!」

 

「ちょっ!? 七罪!」

 

 身長差のせいで上からのしかかられるような形になり、膨大な質量を持つ二つの物体が顔に触れた。その柔らかさと甘い香りに、流石にこの状況でも焦りを隠せない。

 

「あ、ごめんなさい、取り乱しちゃったわ。予想はしてたけど士道くんのその姿、とっても可愛かったから」

 

 離れてもなお、うっとりした目を向けてくる七罪。

 口振りから察するに、七罪は士道が子供の姿に変身していることに気付いていたらしい。変身能力を持つ七罪だからこそ気付いたのだろうか。

 

「なぁ、ひょっとしてよしのんは知らないのか? 俺が子供の姿になってること」

 

「うーん、どうかしら。たぶん気付いてないと思うけど……」

 

 それならまだ希望はある。子供しか入れないような場所に隠れ続ければ、よしのんの目を欺ける筈だ。

 

「そうか……ありがとな、七罪。お前が助けてくれなかったら、今頃……」

 

「いいのよ、お礼なんて。士道くんのためだもの。私、何だってしちゃうわ」

 

 口に笑みを浮かべ、片目を瞑る七罪。だが次の瞬間には申し訳無さそうに顔を歪めた。

 

「――って言いたい所だけど、これ以上の協力はできないわ。ごめんなさいね……」

 

「へ? な、何でだよ?」

 

 七罪に力を貸してもらえば、ここから逃げ出すことは容易い。よしのん同様、意図的に霊力を逆流させることができるので、氷を消すなり新しい扉を作り出すなりすることが可能になるからだ。しかし肝心の七罪が協力できないと言っている。

 

「だって士道くんを逃がしちゃったら、よしのんちゃんに嫌われちゃうもの。大切なお友達に嫌われたら、七罪泣いちゃうわ……」

 

「う……」

 

 世の中そう甘くは無いらしい。やはり令音が結果を出してくれるまで、隠れきるしかないようだ。

 残り時間は八分ほど。仮によしのんが後二分二階を探したとしても、残りは後六分。よしのんが下りてきたら隙を狙って二階へ行けば、何とか稼げるかもしれない。

 

「……分かった。けどその代わり、俺を見つけても見なかったことにしてくれ。もう少し時間があれば何とかできそうなんだ」

 

「そのくらいならお安いご用よ。でも士道くんがよしのんちゃんに見つかったら、その時は……」

 

 妖艶な笑みを浮かべ、舌なめずりする七罪。それ以上言葉は続けなかったが、何を言わんとしているのかは大体分かった。

 

「お、おう。じゃ、じゃあ俺はどっか別の場所に隠れるから……」

 

 士道は半ば逃げるように七罪から離れた。

 折紙によしのん、七罪。程度の差こそあるが、何故こうもある意味で危険な者たちが多いのか。唯一の安らぎをもたらしてくれる四糸乃が、恋しくてたまらなかった。

 隙をついて二階に上がるなら、なるべく階段に近い場所がいいだろう。とはいえ隠れられそうな場所は少ない。階段下の物置と風呂場のバスタブの中の精々二つしか無く、どちらも簡単に見つかってしまう。

 他の隠れ場所を探していると、士道は洗面所で最適な場所を見つけた。大人の体では入ることができず、そもそも人が入るとは思えない場所――洗濯機だ。横ドラム式で蓋は黒みがかった透明なため、外の様子も確認できる。タオルや上着を使えば、あたかも洗濯物が入っているかのようにカムフラージュできる筈だ。

 士道は脱いだ上着と大き目のタオル数枚を持ち、洗濯機の中に入った。中はかなり水垢臭い上に窮屈だが、贅沢は言っていられない。

 

「あと、七分……」

 

 無事に生還できたら掃除しておこうと心に決めつつ、携帯で時間を確認する。せめて後一分上にいて欲しかったが、無情にもよしのんの声が徐々に近づいてきた。

 

「痛い! 痛いって四糸乃ー! 自分の体叩くなんて自傷行為だよー!」

 

『士道さんに、変なことしちゃ駄目……!』

 

「あいひゃひゃひゃ! ほっぺらつねらないれー!」

 

 どうやらよしのんはパペットを付け直したらしい。『四糸乃』がよしのんの奇行を止めようと頑張っている姿が目に浮かぶ。

 

「ふぇーい! やっはりよひのにはほとなひくひててほらうよー!」

 

 その言葉を最後に、『四糸乃』の声は聞こえなくなった。恐らくパペットを外され、人格が発現できなくなったのだろう。

 

「全くもー、全ては四糸乃のためなのにさー。七罪ちゃーん、二階にはいなかったよー」

 

「あら、変ね? 一階にもいなかったわよ?」

 

「そっかー、じゃあ今度は二人で一階を探そっかー」

 

「ええ、そうしましょ」

 

 七罪の呟きが聞こえた所で、士道は洗濯機の中から外の様子を窺った。黒みがかってはいるが、視界は良好だ。洗面所の入り口から廊下もよく見える。

 階段との位置関係を関係を考えると、よしのんが最初に探し始めるリビングだ。万一リビングでは無かった場合、洗面所の方へくる筈なので注意しなければならない。

 

「でも、その前にこうしておかないとねー」

 

 よしのんが言った直後、士道の耳に何かが急速に凍りついていく音が届いてきた。だがもう扉も窓も全て塞いである。一体何を凍らせているのだろうか。

 

「さー、まずはリビング行こっかー」 

 

 足音が離れ、こちらでは無くリビングの方へ向かっていく。

 チャンスだ。士道は洗濯機から素早く、音を立てずに出て階段へ向かった。だがそこで待ち受けていたのは、今日何度目かの絶望だった。

 階段が、封鎖されている。氷のシャッターによって、二階への道は一部の隙間も無く閉ざされていた。

 

「……っ!」

 

 これは恐らく、一階にいる士道を二階へ逃がさないためのものだ。ただよしのんが士道は一階にいると確信しているかは分からない。念のためか、あるいは七罪を信用していないということも考えられる。いずれにせよ予定が狂ってしまったのは確かだ。

 だが対応に悩んだのは一瞬のことで、士道はすぐに洗濯機の中へ戻った。あの氷をどうこうできないのは確かめ無くとも分かっている。二階へ行けなくなった今、もうここに隠れて祈るしかなかった。

 あと六分。よしのんはリビングを探している。

 あと五分半。よしのんはまだリビングを探している。

 あと五分。よしのんが洗面所に現れた。

 

「さー、士道くんはどこかなー? 怖くないから出ておいでー?」

 

 あからさまな嘘だ。はっきり言って相当怖い。

 鼻歌交じりに士道を探す物音が、すぐ近くで聞こえる。タオルと上着で身を隠す士道は、未だかつて無い恐怖に震える体を抑えるのに必死だった。

 

「ここかなー?」

 

 呑気な声と共に洗濯機の戸が開かれ、士道は息を詰まらせた。だがろくに調べもせず、そのまま閉じる。どうやらノリで意味も無く開けたらしい。

 

「んー、いないなー。七罪ちゃん次行こー」

 

「あぁん、置いてかないでぇ、よしのんちゃん」

 

 やがて足音が遠ざかり、士道はほっと一息ついた。胸の鼓動はしばらく収まらないだろうが。

 狙い通りとは言い難いものの、よしのんは洗濯機を調べなかった。やはり士道が子供の姿に変身していることを知らないようだ。洗面所を調べ終えたからには、他の場所を探して一分は時間を無駄にするに違いない。その後二階へ探しに行ってくれれば、残り時間も消化できる筈。そうなれば令音がよしのんたちを元に戻す方法を突き止め――

 そこまで考えた時、士道は気付いてしまった。

 

「令音さん!」

 

『……何だい、シン?』

 

「その……よしのんたちを元に戻すのに、特殊な設備とか必要になると思いますか?」

 

 方法を突き止めたとしても、それがこの場で実行できるものだという保障は無い。仮に特殊な設備が必要になった場合、それをよしのんの元まで運ぶか、よしのんを設備の元までつれて行かなければならない。だが現在封鎖されている五河家では、どちらも可能とは思えなかった。

 

『……いや、それは無い。心理的な問題の解消に必要なのは言葉や行動だ。特殊な設備は必要無いよ』

 

「そうですか、よかった――って、ちょっと待ってください」

 

 令音の答えに安心しかけて、士道は何かおかしいことに気がついた。今、令音は何と言ったろうか。

 

「今、心理的な問題って言いましたよね? ひょっとして、もう原因が分かったんですか?」

 

『……ああ、ついさっきね。丁度今伝えようとしていたんだ』

 

 何と有能なのだろうか。感動を通り越して尊敬すら覚えた。最初に提示してきた時間を半分にし、更にその三分の二の時間で結果を出すとは、まるで映画か何かのようだ。

 

「ということは、元に戻す方法も分かったんですね」

 

『……原因から導き出したもので、絶対に戻せるという確証は無いが……聞くかい?』

 

 確証が無いというのは痛いが、仕方無い。よしのんたちの人格が入れ替わるということ自体、前例が無いことのだから。むしろ確証があっては有能を通り越して怪しさを感じてしまう。

 

「……お願いします」

 

 他に手段がある訳でも無い。士道は令音の言葉に耳を傾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――よしのん!」

 

 二階へ上がろうと階段に足をかけていたよしのんに、士道は背後から声をかけた。自分から出てくるとは思っていなかったのか、振り向いたよしのんの顔には驚きの表情が浮かんでいる。まあ士道の姿を見た途端に、その表情は好奇に満ちたが。

 

「自分から出てくるなんて、ついに覚悟と体位を決めちゃったのかなー? おまけに四糸乃と体を合わせてくれるなんて、士道くんたら優しいんだからー!」

 

 さも嬉しそうに笑いながら、よしのんが歩み寄ってくる。その背後では、七罪が不思議そうな顔でことの成り行きを見守っている。

 

「じゃー、もう三人でベッドインしちゃうー?」

 

「……いや、その前に少しだけ四糸乃に話したいことがあるんだ」

 

 よしのんは考える素振りを見せたが、すぐに頷いた。

 

「オッケーい! 受け答えはできないけど、四糸乃にはちゃんと聞こえてるからねー」

 

 パペットを着けて会話をさせてくれないのは、『四糸乃』に邪魔されたくないからだろう。これでは会話できないが、今はそれでも問題ない。言葉が『四糸乃』に伝わればそれでいい。

 

「……四糸乃、聞こえてるよな?」

 

 よしのんの瞳を覗き込み、その奥の『四糸乃』に語りかける。恥ずかしくてたまらないが、一気に言葉を続けた。

 

「例え俺の周りにどれだけ女の子が増えても、四糸乃の代わりは絶対いない。無理に理想の自分にならなくたっていいんだ。俺は、そのままの四糸乃が一番好きだよ」

 

 恐らく誰が聞いても、士道が何故告白じみたことを言っているのか理解できないだろう。実際、七罪もそんな顔をしている。

 だがよしのんだけは違った。悔しそうな表情を浮かべて後ろへ下がろうとしている。やはりよしのんは人格が入れ替わった原因も、元に戻す方法も知っていたようだ。そしてこの反応から、今行っている方法が正しいものであると確信できた。

 士道は逃がさないようによしのんを強引に抱き寄せると、熱を込めて言葉を続けた。

 

「だってお前は、いるだけで俺の心を癒してくれる、特別な存在なんだからな。大好きだぜ、四糸乃」

 

「わー! 駄目だって士道くん! 駄目――」

 

 言い終えた士道は、体を振り乱して逃れようとするよしのんの唇を塞いだ。手や指ではなく、自分の唇で。

 四糸乃と『よしのん』の人格が入れ替わってしまった原因は、強い不安にあると令音は言っていた。その不安とは、士道の周りに増えてきた女の子たちのせいで、士道が自分を見てくれなくなるのではないかという不安。そして今の気弱で引っ込み思案なままでは、きっとそうなってしまうという不安。それらを解消するために四糸乃が無意識に行ったのが、理想の自分となること。自分とはまるで正反対で、どれだけ女の子がいようとも決して埋もれることの無い理想の自分――『よしのん』となること。その結果として、人格が入れ替わってしまったらしい。

 話を聞いた時には突拍子も無い説だと思ったが、令音は裏づけを取っていた。過去の四糸乃の不安感の推移を調べ、士道の周りに精霊――女の子が増える度に、数値が増しているという事実を。ただ増す度合いがそれほど大きく無かったため、今回調べるまでは四糸乃の高い不安感に気付けなかったらしい。

 二人の人格を元に戻す方法は、直前に令音が口にした方法と同じだった。言葉と行動で、心理的な問題を解消すること。つまり不安を言葉で取り除き、更に行動で安心させてあげればいい。

 士道は令音の指示通りに行動したものの、言葉は自分で考え口にした。ほとんど士道が原因なのだから、自分の正直な気持ちを伝えたかったからだ。ただ最後の台詞とキスだけは、特に恥ずかしかったが。

 やがて体に何か暖かいものが流れ込んでくるのを感じ、士道はキスを止めた。逆流していた霊力を再封印したからだろう。窓や扉を覆っていた氷も、限定霊装も消えている。

 

「……四糸、乃?」

 

 瞳を閉じているよしのんに、士道は恐る恐る尋ねた。人格が戻っていないなら、全力で後方へダッシュして外に逃げなければならない。いつでも走り出せるよう、腰を落として足に力を込めておく。

 だがゆっくりと開かれた瞳を青い瞳を見た時、それは杞憂に終わった。サファイアのように美しい瞳は、夢心地に揺れていた。よしのんのままなら、こんな純真な反応はしない。

 

「……士、道……さん……」

 

 小さく開かれた口から出てきた声は、大きさもたどたどしさも間違いなく四糸乃のももだった。

 

「本当……ですか? さっきの、こと……」

 

 顔を赤らめながらも、どうしても知りたそうに尋ねてくる四糸乃。その様子はとてもいじらしく、懐かしい。

 戻ってきた。俺の、心のオアシスが。

 

「ああ、本当だ」

 

 嬉しさを込めて笑いかけると、四糸乃も笑いかけてきた。本当に嬉しそうな、あどけない笑みを。やはり普段の四糸乃が一番だ。

 

「ふふっ。よかったわね、四糸乃ちゃん」

 

『よくないよー! もう少しで士道くんをものにできたのにさー!』

 

 七罪が何気無い動作で四糸乃の左手にパペットを着けると、『よしのん』は悔しそうに体を震わせた。だがひとしきり暴れると落ち着いたらしく、長いため息をついた。

 

『まー今回はこれでよしとしておくよー。士道くんの四糸乃に対する熱ーい気持ちが聞けたし。もっと熱ーいものも貰っちゃったしねー』

 

 表情は分からないが内心にやけているであろう『よしのん』の言葉に、四糸乃は真っ赤になってしまう。そんな顔を隠そうと額の辺りを探るが、帽子が無いのでただうつむくしかない。

 ここは普段どおりの四糸乃の可愛さに心洗われる場面だが、士道の心はむしろ邪な気持ちで満たされてしまった。何故なら四糸乃の服装はよしのんの選んだ、露出の多い黒のワンピースのままだからだ。その服と四糸乃の恥らう表情の組み合わせは、イケナイ魅力に満ち溢れていた。

 端的に言ってしまえば、犯罪になりそうなほどエロかった。

 

 




 よしのんの話はこれで終わりです。何というかおかしな終わり方になってしまいました。個人的に一番難しいのは書き出しと書き終わりだと思います。
 ちなみに構想段階では七罪ではなく折紙が助けにくるという展開もありました。ただ折紙は十香が良い子にするのを全力で邪魔しているという裏設定があるので、助けにはこれませんでした。こられれば話しがよりカオスになったのに……。


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七罪ストライヴ

 ストライヴ = 努力する、励む。
 よしのんの話の後という設定ですが、一応そちらを読んでいなくとも問題はありません。今回も二部構成となっていますが、後編はまだ真っ白です。
 原作に近いノリで書けていればいいのですが……。



 天気の良いある土曜日、士道は約束の場所へ向かっていた。天宮駅東口前にある犬の銅像、通称『パチ公』の所だ。本来の名前は別にあるのだが、士道も正式名称は覚えていない。というか近隣住民の間では『パチ公』で定着しているので、誰も正式名称など気にしないだろう。

 

「なぁ、本当にもう待ってるのか? 十時までまだ一時間以上あるぞ?」

 

『間違いないわよ、こっちでモニターしてるんだから。全く、何を思ってこんな早くにきてるのかしら……』

 

 右耳に装着したインカムから、やや呆れた琴里の声が聞こえてくる。その気持ちは士道にも分からないでもなかった。

 折紙でさえくるのは約束の一時間前だというのに、今回の人物はそれ以上だ。<フラクシナス>のクルーが気付いた時には、八時半頃にはすでにいたらしい。もしかすると八時頃から待っていたのかもしれない。

 約束の時間の一時間半以上前から待っているというのは、琴里を信じない訳ではないが少々疑わしい。待ち合わせ場所に向かう間半信半疑の士道だったが、到着して自分の目で見れば信じない訳にはいかなかった。

 

「本当にいるし……」

 

 待ち合わせスポットとして機能している『パチ公』の周りには、多くの人たちがたむろしている。その中の一人の姿を見て、流石に士道も呆れるしかなかった。

 『パチ公』がお座りしている台座の隣、それも影になっている部分に、士道を待つ者の姿があった。周囲に油断無く視線を巡らせる、挙動不審な少女――七罪の姿が。はっきり言って今にも倒れそうなほど緊張しているように見えた。

 

「さぁ、私たちの戦争(デート)を始めましょう」

 

 インカムから琴里の決め台詞が聞こえてきたが、その声は普段より張り詰めているように思えた。まあそれも仕方の無いことだった。すでにデレさせた相手とはいえ、今回はネガティブの塊ともいえる、七罪とのデートなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発端は三日前、夜九時頃のことだった。

 

「ん? 誰だこんな時間に?」

 

 士道がソファーに座ってテレビを見ていると、玄関のチャイムが鳴らされた。隣で寝転がって本を読んでいる妹様(白リボン)は出てくれないので、やむなく士道がインターホンに向かう。

 しかしインターホンの画面には外の様子が映っているだけで、訪問者の姿は見当たらない。通話のボタンを押して呼びかけても、答えは返ってこなかった。まさかピンポンダッシュだろうか。

 念のため外へ確認しに行こうと、士道は玄関へ向かった。玄関の扉を開けて外の様子を確認するものの、誰の姿もない。やはりイタズラか。

 

「――わっ!」

 

「うわっ!?」

 

 扉を閉めようとしたその時、突然横から一人の女性が現れた。扉の陰に隠れていたのだろう、大人の姿に変身した七罪が。

 すでに逃げたと思っていたためまさか扉の陰にいるとは気付かず、士道は飛び上がりそうなほど驚いた。その様子が余程おかしかったのか、七罪はさも面白そうに笑う。

 

「あははははっ! 引っかかった引っかかったー!」

 

「七罪、お前なぁ……相当驚いたぞ、今の」

 

 激しい鼓動を抑えるために、士道は心臓の辺りに手を当てた。こんな単純なイタズラに引っかかってしまうとは、少々悔しい。

 

「ふふっ、ごめんなさいね。じゃあお詫びに、士道くんも私にイタズラしていいわよ?」

 

 誘うような笑みを浮かべ、胸の下で腕を組む七罪。ただでさえ大きな胸がより強調され、士道は思わず見入ってしまう。だがそれは男の子なら当然の反応だろう。きっと誰も士道を責めることはできない。 

 

「い、いや、やめとく……それより、こんな時間にどうしたんだ?」

 

 実に魅力的な提案だったが、士道は意思の力で断った。誘いに乗らなかったのが不満だったのか、七罪は唇を尖らす。

 こんな夜更けに、それも変身した状態で訪ねてくるとはただごとではない筈だ。とはいえイタズラをする余裕がある所を見ると、緊急の用事という訳でもないらしい。

 

「実はね、士道くんにお願いがあってきたの」

 

「お願い……?」

 

 少々拍子抜けして繰り返すと、七罪は頷き言葉を続けた。

 

「今度の休みに、私と――デートしましょ?」

 

「デ、デート!?」

 

 お願いの内容に、士道は先ほどと同じかそれ以上の驚きを覚えた。まさか七罪がデートに誘ってくるとは。

 変身しても人格が変わる訳ではないらしいので、今の発言は冗談でない限り七罪の本心だ。デートに誘いたくて変身したのか、変身したから誘ってきたのか前後関係は不明だが、デートをしたいと思っているのは間違いない。

 

「だって良く考えてみたら、私だけ士道くんとデートしてないんだもの。それってちょっと不公平じゃない?」

 

「は、はぁ……」

 

 言われてみれば、確かに七罪とはデートをしていない。もっともデートの定義によっては七罪以外も含むかもしれないが。

 

「それに恩着せがましいでしょうけれど、私この前士道くんを助けてあげたわよね。七罪、ご褒美が欲しいわぁ……」

 

 この前とは『よしのん』の一件のことだ。確かにあの時七罪が助けてくれなければ、士道は既成事実を作らされていただろう。

 感謝してもしきれないのは事実であるし、デートくらいなら別に構わなかった。お礼らしいお礼もしていなかったので、丁度良い機会かもしれない。ただ不安要素があるので多少迷ったものの、ねだるような目でじっと見つめられては頷くしかなかった。

 

「……分かったよ。じゃあ次の土曜の朝十時、駅前にあるパチ公の所でな」

 

「きゃー! やったー! 何を着ていくか迷っちゃうわー!」

 

 体を振り乱して喜ぶ七罪。やはり冗談などではなく本心だったようだ。しかし三日後の服装を迷うとは随分と気が早い。

 ひとしきり喜びを表現すると、七罪は小指を立てた右手を差し出してきた。

 

「それじゃあ約束よ、士道くん。私とのデート、忘れないでね?」

 

「ああ、約束だ」

 

 士道も右手を出し、互いの小指を絡めて指切りする。

 七罪はデートに誘うためだけに訪ねてきたらしく、おやすみを言うと精霊用マンションへ戻って行った。部屋で元の姿に戻った時にどんな反応をするのか非常に興味があるが、そこには触れないでおくのが優しさというものだろう。

 士道は家の中に入ると、一連の事柄を琴里に伝えるためにリビングへ向かった。

 

「誰だったのおにーちゃん。牛乳配達の人ー?」

 

 リビングに入るなり、くつろぎまくっている琴里が間の抜けた声で尋ねてくる。

 

「普通こんな時間にこねえし、そもそもうちは牛乳取ってないだろ。七罪だよ、七罪」

 

「ふーん、何の用だったのー? まさかデートのお誘いだったりしてー!」

 

 ソファーの横から顔を出し、琴里はへらへらと笑う。七罪がデートに誘ってくるなど、到底ありえないことだと思っているようだ。

 

「……そのまさかだ」

 

 少々格好を付けて答えると、琴里の顔から笑顔が消えた。一拍置いて表情のない顔がソファーの向こう側に引っ込む。僅かな衣擦れの音が聞こえたかと思うと、すぐに黒いリボンに付け替えた琴里の姿が現れた。数秒もかけずにリボンを付け替えるとは凄まじい早業だ。

 

「……冗談のつもりだったんだけど、まさか本当だとは思わなかったわ。まあ変身した七罪から誘われたんでしょうけど」

 

「ああ。断れないからオーケーしといたけど……どうすりゃいいんだ?」 

 

 相手が十香や四糸乃なら、デートといえどさほど難しいことではない。だが今回は歩くネガティブとも言える七罪とのデートだ。多少はましになったとはいえ、まだまだ性格は改善されていない。正直デートができるような状態とは思えなかった。

 

「そりゃあデートするしかないでしょ。今更断る訳にもいかないし……」

 

「だよなぁ……」

 

 今更誘いを断れば、当然七罪の精神状態に悪影響が及ぶだろう。とするとやはりデートするしかないが、果てしなく不安だ。

 

「……サポート、頼めるよな?」

 

 そう尋ねると、琴里は自信に満ちた笑みを浮かべた。

 

「もちろんよ。<ラタトスク>が全力でバックアップしてあげるから、大船に乗ったつもりでいなさい」

 

 口調から溢れる揺ぎない自信。<ラタトスク>と自分自身の力を全く疑っていないのだろう。

 せめて七罪にこの十分の一でも自信があれば。士道はそう思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、デート当日に至る。正確に言えばまだデートは始まっていないが、七罪の様子を見ていると早くも先行きが怪しく思えてきた。

 

『それにしても、大人の姿でこなかったのには驚いたわ。てっきり緊張して変身してると思ってたのに』

 

「このまま放っといたら変身しそうだけどな。というかその前に気絶するんじゃないか?」

 

 そう思えるほど、七罪の様子は悲惨だった。例えるなら大学受験を翌日に控えた受験生のように緊張している。傍から見ても心配になるほどだ。

 ここで士道が声をかければ、緊張がピークに達する可能性もある。流石にこの場で変身させてしまうのはまずい。声をかけるよりも、七罪に存在を気付かせた方が良いだろう。

 あえて視界に身を晒すと、七罪はすぐに気が付いて駆け寄ってきた。

 

「士道!? 何で、こんなに早く……」

 

「それは俺の台詞だ。何だってこんな時間から待ってたんだよ」

 

 七罪に言われる筋合いはないので、士道は尋ね返した。驚きの表情を浮かべていた七罪だが、伏し目がちに頬を赤く染める。

 

「そ、それは、その……私から誘ったんだから、士道を待たせる訳にはいかないし……」

 

「ん、何だって?」

 

「な、何でもないわよ!」

 

 後半は蚊の鳴くような声でほとんど聞き取れなかった。思わず聞き返すと、七罪は真っ赤になって顔を背けてしまう。これ以上は精神状態に影響しそうなので、深く追求しない方が良いかもしれない。

 数秒迷って話題を変えようとした時、士道は七罪のおかしな行動に気が付いた。指で髪先を弄りながら、ちらちらとこちらに視線を向けてくる。その目は何かを期待しているように見えた。

 

『何やってんのよ士道。あからさまにアピールしてるじゃない。さっさと誉めてやりなさいよ』

 

「ああ、そういうことか」

 

 琴里の焦れた声が聞こえ、士道は納得した。七罪はきっと服装や髪型の感想を言って欲しいに違いない。確かに今日の七罪はどちらにも気合が入っている。

 

「え、えーっと……」

 

 士道は改めて七罪の姿を見た。

 白いブラウスの上に深緑のカーディガンを纏い、膝下まである紺色のフレアスカートという服装だ。どれも女の子らしい意匠が施されていて、特にブラウスの襟元にある空色のリボンが可愛らしい。余程念入りにとかしたのか髪は滑らかに仕上がっており、それを首の後ろで一本に纏めている。

 

「その、なんだ……可愛いぞ、七罪」

 

「べ、別にお世辞なんか……」

 

「お世辞じゃないぞ。本当に可愛い」

 

 それは紛れもない本心だった。七罪自身は絶対に否定するだろうが、どこかのお嬢様学校の生徒に見えるほど可愛らしい。ただし失神しそうなほど緊張していなければの話だが。

 七罪は一瞬瞳を輝かせたように思えたが、すぐに俯いてしまったのではっきりとは分からない。やがてかろうじて聞こえる程度の大きさでぽつりと呟いた。

 

「そ、そう……あり、がと……」

 

「どういたしまして。さてと、少し早いけど行くか?」

 

 少しというかかなり早いものの、七罪はこくりと頷く。

 さて、まずはどこへ向かうべきか。

 

「ねえ……行きたい所があるんだけど、良い?」

 

 琴里に指示を仰ぐべきか迷っていると、七罪が遠慮がちに尋ねてきた。行きたい所があるのなら、そちらを優先するべきだろう。

 

「良いけど、どこ行くんだ?」

 

「……映画館」

 

「映画館か。なら天宮クインテットの方だな。行こうぜ、七罪」

 

 士道が歩き出すと、七罪は真横についてきた。士道の陰に隠れるように、妙に体を縮込ませながら。どうも人の目が気になって仕方ないらしい。

 だが皮肉なことに、七罪はそこそこ注目を集めていた。明るい緑色というただでさえ目立つ髪と目を持つ上に、相当に可愛らしい格好をしているせいだ。良い意味で注目されているのだが、七罪自身は真逆の意味で捉えているに違いない。

 

「それにしても、まさか本当にきてくれるなんて思わなかったわ」

 

「……こないと思ってたのか」

 

「だって私とのデートなんて拷問と変わりないでしょ。マゾでもない限りくる訳ないし……」

 

「自分から誘っといてそこまで言うか。ていうか俺はマゾじゃないからな」

 

『え? 違ったの?』

 

 答えは七罪ではなく琴里から返ってきた。そんな趣味は微塵もないのだが、どうも二人はそう思っていないらしい。とっても失礼だ。

 

「誘ったって言っても、あれは私じゃ……」

 

「変身してたって七罪は七罪なんだろ? デートしたかったんじゃないのか?」

 

 図星だったようで、七罪は恥ずかしそうに顔を背けてしまった。それと同時にインカムから琴里のため息が聞こえてくる。

 

『ちょっと士道、あんまり七罪を辱めるのはやめなさい。さっきから感情値の振り幅がえらいことになってるわ』

 

「う……わ、悪い……」

 

 七罪に聞こえないよう、士道は小声で答えた。別に辱めているつもりはないのだが、結果的にそうなっているのだろう。

 

『でも、機嫌や不安感の数値は七罪にしては悪くないわね。士道が約束通りきてくれたことに安心したのかしら。とりあえず今の所は問題ないから、この調子で続けなさい』

 

「おう、了解」

 

 この調子と言われても普段通りなのだが、とりあえず士道は頷いておいた。

 なるべく七罪の感情を刺激しないよう注意を払い、会話を続けて歩くこと数分。士道たちは天宮クインテットの映画館前に到着した。休日のためか映画館に入っていく人の姿はそこそこ見受けられる。

 

「ちょっと込んでそうだな。でも観る映画にもよるか。七罪、観たい映画はもう決まってるのか?」

 

「えっ……う、うん」

 

 何故かかすかに頬を赤らめ、頷く七罪。

 この反応からすると聞かない方が良いのかもしれないが、教えてもらわなければ映画のチケットは買えない。

 

「どんな映画なんだ?」

 

「……ホラー映画」

 

『ちょっと、それ大丈夫なの?』

 

 琴里の心配はもっともだった。ホラー映画はものにもよるが、大抵は観る者を驚かし、恐怖させる類のものだ。その性質上、精神状態にも少なからず影響を及ぼしてしまうので、七罪にとっては危険ではないだろうか。

 

「その、大丈夫なのか? ホラーなんて観ても……」

 

 七罪の精神を気遣って言ったのだが、どうも気に障ったらしい。むっとした表情で睨みつけてくる。

 

「馬鹿にしないでくれる、士道? いくら私でもホラー映画くらいで変身したりしないわよ」

 

 ふて腐れたように顔を背け、一人で映画館の方へ歩いて行く。士道は後を追おうとしたが、その前に七罪の状態が気になった。

 

「琴里、七罪の機嫌どうなった?」

 

『数値が少し下がったわ。意外とショックだったみたいね。さっさと追いかけてフォローしなさい』

 

「あ、あれくらいで下がるのかよ……」

 

 やはり機嫌を損ねたようだ。軟弱極まりない精神を自覚している七罪にも、一応プライドはあったらしい。

 

「おーい、待てよ。七罪ー」

 

 琴里の指示通り追いかけ、声をかけたその時――

 

「ふぎゅっ!?」

 

 何故か開かなかった自動ドアに、七罪は盛大に顔面をぶつけた。衝撃によろけて数歩後退し、顔を押さえてうずくまる。

 

「ちょっ、おい七罪! 大丈夫か!?」

 

 士道は駆け寄り、七罪の様子を窺った。余程痛かったのか無言で体を震わせている。一部始終を見ていた通行人たちも、痛みを想像したように苦い顔をしていた。まあ中には面白がっている性格の悪い者もいたが。

 何と声をかけるべきか迷っていると、七罪の口から念仏のような呟きが聞こえてきた。

 

「……七罪?」

 

「ははは、そうよね……どうせ私なんて赤外線センサーも反応しないくらい存在感ないわよ。完全に空気よ。出席とる時に私の名前だけ飛ばされたり、学校にきてるのに休日扱いにされたりなんて日常茶飯事じゃない。それなのにちょっと誉められたからって調子に乗って、ドアにぶつかるとか馬鹿みたい。せっかくのデートだったのに……もう駄目、死にたい……」

 

 これはまずい。そう悟った時にはインカムからけたたましいアラームが鳴り響いてきた。当然ながらそれは非常事態を知らせるためのものだ。より具体的に言えば、精霊の精神状態が危険なレベルで乱れている時。

 

『士道! 七罪の精神状態が乱れてるわ! 早く落ち着かせなさい!』

 

「落ち着かせるって言ってもどうすりゃ良いんだよ!?」

 

 肩を揺すっても、呼びかけても全く反応しない七罪。変わらず卑屈極まりないことを呟き続けている。七罪にとってはいつものことだが、今回はかなり重症のようだ。

 一体、どうすれば――

 

『っ! 士道、選択肢が出たわ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 士道たちの遥か上空、一万五千メートル。そこに浮遊する<ラタトスク>の空中艦<フラクシナス>の艦橋には、緊迫した空気が漂っていた。その理由は巨大なメインモニターに示されている。

 モニターに映し出されているのは、顔を両手で覆ってうずくまる七罪と、対処できずにおろおろしている情けない士道の姿。その周囲には七罪の機嫌や好感度などの情報を数値化したものが表示され、一部の数値が目まぐるしく減少していた。このままでは士道の中に封印された七罪の霊力が、相当な量逆流してしまう。

 だがその問題を解決できる可能性のある選択肢が、モニターに三つ表示されていた。

 ①「痛いの痛いの飛んでけー」額にキスする。

 ②「この野郎! 俺の七罪に何しやがる!」ドアに蹴りをいれる。

 ③「いつまでやってんだ! 置いてくぞ!」厳しい言葉をかける。

 

「総員、選択! 三秒以内!」

 

 琴里が指示を出すと、クルーたちはすぐさま最善と思われる選択肢を決定する。指定通り三秒以内に全員が選択を終え、結果が艦長席のディスプレイに表示された。

 結果は②が数票、残り全ての票が①に入っていて、③には一票も入っていない。皆、琴里と同じ考えのようだ。七罪には多少刺激が強いかもしれないが、今は精神状態を回復させるのが最優先だ。

 

「士道、①よ!」

 

 マイクを通して琴里が指示を出すと、モニターの中で士道が苦い顔をした。そのまま視線を気にするように周囲を見回している。

 

『ま、まじかよ……』

 

「人の目なんて気にしてる場合じゃないでしょ! さっさとやりなさい!」

 

 確かに白昼堂々は気が引けるだろうが、もうそんなことを言っている状況ではない。それに年端もいかない少女たち(琴里含む)の唇を奪っておいて、今更この程度で音を上げるなど許さない。

 

『あー、もうやけだ!』

 

 士道はしばらく逡巡していたが、やがて行動を起こした。七罪の目の前に膝をつき、ぎこちなく指示を実行する。その様子ははっきり言って爆笑ものであったが、効果は想像以上だった。数値の減少が止まったかと思うと、一拍置いて瞬間的に急上昇していた。僅かではあるが好感度も上昇している。やはり少々刺激が強かったらしい。

 

「何とか危機は脱しましたね」

 

 艦橋下部にいるクルーの一人が、ほっとしたように息をつく。

 ドアに顔をぶつけた程度で精神状態が乱れるとは、やはり七罪のメンタルは問題だ。まあデートが始まった直後でないだけましと言えるだろう。むしろ七罪にしては良く持った方と言える。

 

「……ところで神無月、あなたどっちに入れたの?」

 

「無論①です。合法的に幼女にキスできる機会など、絶対に逃す手はありません」

 

 艦長席の隣に直立不動で立つ神無月が、くそ真面目な顔でふざけたことを口にする。いつものことなので慣れているものの、相変わらずの変態である。

 

「③も考えましたが、叱咤するよりされる方が好きですので」

 

 罵っても喜ぶだけ。かといって殴る蹴るといった暴行を加えても更に喜ぶだけ。一体どうすれば良いのやら。

 

「ああ! 司令の蔑みの篭った視線も堪りません!」

 

 琴里が冷めた気分で視線を向けていると、神無月は恍惚とした笑顔で体をくねらせる。

 

「……ふんっ!」

 

「あふんっ!」

 

 何もしないというのもむかつくので、とりあえず足を力いっぱい踏みつけておいた。もちろんピンポイントで小指を狙って。

 床に倒れて痛みに悶絶する神無月であったが、その表情はこれ以上ないほど幸せそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうなったらやるしかない。

 やけくそになった士道は、七罪の前に膝をつくと顔を覆っている手をどけた。その下の瞳は生気を失ったように虚ろで、表情は果てしなく暗い。確かにこれは人の目を気にしている場合ではなさそうだ。

 覚悟を決めて、七罪の両頬に優しく手を添える。どうやら肌の手入れもしたらしく、中々に瑞々しい。

 ごくりと唾を飲み、士道は口を開いた。

 

「い、痛いの痛いの、飛んでけー!」

 

 多少裏返った声で言い終え、ぶつけたために赤くなっている七罪の額へ口付ける。通行人からどう見えているかは、あまり考えたくない。

 キスした瞬間、呪詛の如き七罪の呟きが止まった。まだ状況が理解できないらしく、凍りついたように固まっている。恐る恐る顔を覗き込むと、呆然としているのが分かった。

 

「な、なな、なななな――」

 

 やがて七罪の頬に少しずつ赤みが差し、表情も恥ずかしそうに歪んでいく。

 正直士道も恥ずかしい。七罪ほどではないが、赤くなっているのが顔の熱さで分かる。

 

「な、何するのよ士道!?」

 

 素早く立ち上がり、自分自身を抱きしめる格好で睨みつけてくる七罪。変に顔が赤いせいか、慌てふためているように見える。

 

「いや、その、落ち着かせようと思って……」

 

「あんなので落ち着く訳ないでしょうが! 何考えてんのよ!?」

 

「す、すみません……」

 

 落ち着きはしなかったが、少なくとも精神状態の低下は食い止められた。安定しているかどうかは非常に疑わしいが。

 居心地の悪さに視線を逸らすと、こちらを見ている通行人たちの顔が目に入った。疑念や好奇に満ちた視線、あるいはにやけ顔を遠慮なしに向けてくる。こちらはこちらでかなり居心地が悪い。

 

「と、とりあえず中に入ろうぜ、七罪!」

 

「そ、そうね! 行きましょ!」

 

 七罪も同じ気持ちだったらしく、力いっぱい頷いた。人々の視線から逃れるため、二人で迅速に映画館へと入る。ちなみに七罪は士道の背後にぴたりとくっついてきたため、今度はドアに顔をぶつけずにすんだ。

 映画館の中はキャラメルポップコーンの甘い香りが充満していた。食欲を誘うその香りに、士道の胃袋は鳴りそうになる。とはいえ士道はポップコーン派ではなく、フライドポテト派なのだが。

 

「思ったより人いないな……で、観たい映画のタイトルは?」

 

 何事もなかったように尋ねると、七罪は映画のパンフレットのある棚へ向かった。戻ってきた時には、その手に一枚のパンフレットが握られていた。

 

「これなんだけど、ちょっと問題があるのよね」

 

「問題? どれどれ……」

 

 映画の内容は良くあるゾンビもののようだ。あまり詳しくは載っていないが、何やらB級の匂いがする。恐らく怪し気なウィルスが広まり、主人公たちが逃げ惑い、最後は爆発オチといった所だろう。内容はともかく、特に問題はないように思える。

 不意に士道の頭の中に疑問が浮かんだ。大抵のゾンビものはグロいので年齢制限がある筈だ。となるとこの作品にも――

 

「……これ十五禁じゃねえか」

 

「そう、それが問題なのよ……」

 

 士道の指摘に、七罪は顔を曇らせる。

 精霊の年齢はあくまで外見から判断したものであり、本当の所は本人たちにも分かっていない。外見以上でも以下でもある可能性があるが、何も知らない一般人は外見で判断してしまうだろう。そして七罪の外見では、どう贔屓目に見ても十五歳には見えない。

 

『ゾンビものの十五禁ねえ……デートには適さないんじゃないかしら。士道、他の映画じゃ駄目か聞いてみなさい』

 

「七罪、他の映画じゃ駄目なのか?」

 

「だ、駄目よ。これじゃないと駄目」

 

 頬を染めて首を振る七罪。何かどうしてもこの映画でなければならない理由があるらしい。

 

「けど十五禁じゃ七罪は入場口で止められ――」

 

 そこまで口にして、士道は気付いた。四糸乃や琴里には無理だが、七罪には誤魔化す方法がある。入場口を通る前に、大人の姿に変身してしまえば良い。

 

「……ひょっとして、同じこと考えてるか?」

 

「たぶんね。必要な霊力はさっき戻った分があるから、それを使えば問題ないでしょ?」

 

 やはり同じことを考えていたらしく、七罪は得意気に笑う。確かに先ほど逆流した霊力を用いるのなら、問題はないような気もする。まあ一応琴里に聞いてみた方がいいだろう。

 

「なぁ、良いのか?」

 

『良いんじゃない? どうしてもその映画じゃないと駄目みたいだし。ただし、バレない所で変身させなさい』

 

「分かった……七罪、変身する時は人気のない所でな。俺は先にチケット買っておくから」

 

「分かってるわよ、それくらい」

 

 七罪は頷くと、希望の座席を口にしてからトイレの方へ向かった。希望したのは一番上の段の端で、映画の観やすさより位置的な安心感を優先しているようだ。

 あまり人が並んでいなかったため、チケットはすぐに買うことができた。劇場の座席表を見るに、どうもこの映画はマイナーらしい。上映二十分前だというのに席は空きの方が多く、劇場そのものも小さい。まあ七罪にとっては人が少ない方が精神的に良いかもしれない。

 

「お待たせ、士道くん」

 

 天井の巨大スクリーンに映る映画予告を観ていると、士道は後ろから声をかけられた。振り向くとそこにいたのは、大人の姿に変身した七罪。しかし本人の外見だけでなく、服装にも大幅な変化が見られる。

 胸元の大きく開いた白いワイシャツに、その上から着込んだ黒いジャケット。体にぴったりした紺色のタイトスカートには深いスリットが刻まれ、タイツに包まれた太股が覗いている。変身前がお嬢様学校の生徒なら、こちらはセクシーなキャリアウーマンといった所か。相変わらず絵に描いたような美しさだ。

 

「あら、士道くんたら顔が赤いわよ? 私の魅力にあてられちゃった?」

 

「う、いや、まあ、そんな所だ」

 

 頬を指で突つかれ、士道はどもりながらも答えた。その反応に満足したのか、にっこりと微笑む七罪。

 

「それじゃ、次は飲み物でも買いに行きましょ? もうすぐ映画が始まっちゃうから、急がないと」

 

 そう口にしつつ、何気ない動作で左腕に抱きついてきた。

 

「ちょっ!?」

 

 二の腕に触れる柔らかな感触に、士道の心拍は急上昇する。まるでぬいぐるみか何かのように強く腕を抱きしめられ、必然的に二の腕は七罪の両胸に包まれる形となっていく。

 

「お、おい、七罪! くっつきすぎだって!」

 

「良いじゃない、せっかくのデートなんだから。皆に見せつけてあげましょ?」

 

 見せつけるまでもなく、士道たちは既に注目を浴びていた。この映画館の中にもカップルは何組かいるが、変身した七罪ほどの体つきと美貌を持った女性はいない。注目を浴びるのはごく当然と言える。

 ただし視線の多くは七罪ではなく士道に向けられ、嫉妬や敵意といったほの暗い感情に満ちていた。これ以上見せつけたら殺意に膨れ上がりそうなほどだ。男の嫉妬はかくも醜い。

 

「な、七罪、少し離れような? その、当たってるからさ……」

 

「ふふっ。当たってるんじゃなくて、当ててるのよ?」

 

 恥ずかし気もなく言うと、更に強く抱きしめてくる七罪。その豊満な胸の間に、士道の二の腕はほとんど埋まってしまう。動かすと余計に悲惨なことになるので、そのまま固まらせるしかない。かといって無理に振り解けば、七罪の機嫌が悪くなってしまうかもしれない。

 殺意の込もった鋭い視線が注がれる中、士道はいたたまれない気持ちで売店の方へ歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んー、席はここね。お先にどうぞ、士道くん」

 

「ああ、それじゃ……」

 

 何とか男共の嫉妬の眼差しを潜り抜け、劇場へと辿り着いた士道。七罪に促され、劇場の左端の席へと座る。

 最上段の端だけあって、比較的スクリーンが良く見えた。劇場内の様子もほとんど見渡せる。見た限りでは人はまばらで、映画のジャンルが問題なのかカップルは一組もいない。そのためか最上段の端で仲良く並んでいる士道と七罪は、またしても注目の的になっていった。

 

「はい、士道くん。あーん」

 

 しかしそんなことは全く気にせず、七罪はフライドポテトを食べさせようとしてくる。

 

「あ、あーん……」

 

 当然断れないので、素直に口を開けるしかなかった。座席を探す若者のグループが凄まじい形相で睨んでくるが、決して士道は見せつけようとしている訳ではない。これは精霊の機嫌を損ねないためなのだ。断じて恋人のいない男たちを馬鹿にしている訳ではない。まあ傍から見ればそう見えるのかもしれないが。

 

「それじゃ、次は士道くんの番よ。私にもその長くて、硬いの、食べさせて?」

 

「や、やめろ! 変なこと言うな!」

 

 何やら別のものを連想させる言葉を、七罪は甘く囁いてくる。確かにこのポテトは長いがどちらかといえば細長く、揚げたてなので表面は硬いというよりカリカリだ。間違っても何らいかがわしいものではない。

 

「ほ、ほら、あーん」

 

「あ――んっ、むぅ」

 

 これはポテトだと心で念じながら、士道は七罪に食べさせた。七罪は半ばまでポテトを口にすると、残りの部分を指で口の中に押し込んだ。最後にその指を妙に艶かしく舐めると、にこりと笑う。

 

「ん、おいしい」

 

 今の七罪は楽しんでいるようだが、元の姿に戻った時はどうならことやら。少なくともしばらくの間は羞恥と後悔に悶えるだろう。そのせいでまた変身するというループに陥らないことを祈るしかない。

 

「ほらほら、士道くん。そっちお願いね?」

 

 その声に再び七罪に目を向けると、あろうことか口にくわえたポテトをこちらに突き出している。どう考えてもこれは棒状の菓子を使ったあれな遊びだ。

 

「いやいや、それは流石に……」

 

「もうっ、士道くんたらノリが悪いんだから」

 

『そうよ、いいじゃない。キスだってしたんだから』

 

 頬を膨らませる七罪と、明らかに面白がっている琴里。食べさせあうくらいならともかく、これはノリ以前の問題だ。とりあえず話題を変えるべきか。

 

「そ、そういえば、そのままの姿で映画観るのか? それとも一度元の姿に戻るのか?」

 

「んー、そうね。このまま士道くんとイチャイチャするのもいいけれど、やっぱり一度元に戻るわ。だってこのままじゃ目標が達成できないもの」

 

『目標?』

 

 士道と琴里の声が重なる。今のは口を滑らせたのか、七罪ははっとして口元を押さえた。

 

「な、何でもないわ。それじゃ私そろそろ元に戻らないといけないから、行ってくるわね!」

 

「あっ、ちょっと待てよ七罪――」

 

 誤魔化すような笑みを浮かべて席を立ち、逃げるように階段を下りていく。大人の姿の七罪にしては珍しく、少し取り乱しているらしい。その姿が完全に見えなくなってから、士道は琴里に尋ねた。 

 

「なぁ、目標って何のことだと思う?」

 

『普通に考えればデートの目標じゃないかしら。内容は分からないけど、たぶん元の姿でやらないと意味がないみたいね』

 

「うーん、内容が分かればそれとなく協力してやれるんだけどな……」

 

 大人の姿の時にすら喋らなかったことを、本来の七罪が喋る訳はない。やはりここは自力で頑張らせるしかないのだろうか。

 

『ひょっとしたら四糸乃には話してるかもしれないわね。仲良いみたいだし。ちょっと聞き出してみるから、待ってなさい』

 

 それは実に頼もしいが、四糸乃が知っていたとして聞きだせるかは疑問である。七罪が話したというのなら、間違いなく誰にも言わないよう念を押しているはずだ。『よしのん』はともかく、四糸乃がその約束を簡単に破るとは思えない。

 

『分かったわよ、士道』

 

「早っ!」

 

 だがいかなる手段を用いたのか、琴里は三十秒もかけずに結果を出してきた。

 

『七罪は今日のデートで、自分から士道の手を握ることを目標にしてるらしいわ。もちろん変身せずによ。簡単すぎて欠伸がでそうだけど、七罪には難易度高そうね』

 

「そうか? 意外とできそうな気もするけどな……ていうか、どうやってこんな早く聞き出したんだ?」

 

『四糸乃は約束守るタイプでしょうし、面倒だからちょっとカマかけたのよ。おかげで簡単に聞き出せたわ』

 

「……最低だ」

 

 清廉潔白な四糸乃を騙し、約束を破らせるとは最低の行為だ。せめて騙されたことに四糸乃が気付いていないのを願うしかない。

 

『どうしてもその映画を観たがってたのは、怖がるふりして手を握るためじゃないかしら。普通は恋愛映画にするべきだと思うんだけど……』

 

「回りくどいというか、七罪らしいというか……」

 

 琴里と共に、士道は少々呆れた。別に無理に理由を作らずとも、手を握るくらい構わないのだが。

 

『とりあえず今は自力でやらせてみましょ。七罪がどこまで変わってきてるか、確かめてやろうじゃない』

 

「……了解」

 

 士道は頷き、七罪を待った。今頃は元の姿に戻り、自分の発言や行動を思い出して現実逃避しているのかもしれない。

 やがて劇場が暗くなり、新作映画の予告が始まる。それから二分ほどたった頃だろうか、階段を上がってくる小さな人影が見えた。その挙動はゾンビのようにふらふらとしていて危なっかしい。たぶん、いや間違いなく七罪だ。

 

「七罪、大じょ――」

 

「言わないで士道。何も、言わないで。お願い」

 

 虚ろな目をした七罪が心配で声をかけたが、言い終える前に片手で制された。もう片方の手で自分の額の辺りを覆っている。これ以上傷をえぐられたくないのだろう。その気持ちは琴里に何度も古傷をえぐられた身としては、痛いほど分かる。

 隣に腰かけた七罪に、士道は無言でポテトとジュースを差し出した。同様に七罪も無言で受け取る。

 

『その様子じゃしばらく放っておいた方が良いわね』

 

「……そうだな」

 

 抱きついて胸を押し当ててきたことか、ポテトを食べさせあったことか、いわゆるポッキーゲームをしようとしたことか、あるいは全てか。いずれにせよ大人の姿の時にしたことを思い出し、精神的に相当なダメージを受けたに違いない。琴里の言う通り、しばらくそっとしておくべきだ。

 映画本編が始まって二十分ほどたった頃だろうか。少しずつ怖めのシーンが出てきた。七罪が手を握ってくるとしたら、こういったシーンに乗じるはずだ。

 士道は座席の肘かけに右手を置き、ひたすら待った。だがそこから十分、二十分、三十分と経過しても、手を握られることはなかった。横目でちらりと七罪を見ると、左手を右往左往させているのが分かる。士道の右手に左手を近づけ、すぐに引っ込めるのを何度も繰り返している。それなりに怖いシーンが出てきているのだが、未だ決心がつかないらしい。

 

『駄目っぽいわね』

 

「駄目っぽいな」

 

 士道も琴里と同意見だった。かれこれ三十分、七罪はこの調子だ。心なしか呼吸も荒く、今にも倒れそうなほどだ。

 一度キスしたことがあるのだから、手を握るくらい七罪にもできる。そう思っていたのだが、乙女心というものは複雑極まりないものらしい。

 

『これは少し後押しするべきかしら――あ、ちょうど選択肢が出たわ。グッドタイミングね』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 <フラクシナス>艦橋のメインモニターに、再び三つの選択肢が表示された。

 ①何気なく手を握る。

 ②「ぎゃー! 怖い!」怖がるふりをして抱きつく。

 ③「すまん、怖くて駄目だ。終わるまで抱きしめさせてくれないか?」膝に座ってもらう。

 

「総員、選択!」

 

 琴里が指示を出すと、数秒ほどで結果がディスプレイに表示された。僅差で①が最も多く、次いで②、③といった具合である。本来なら最も票の多い①を選ぶのだが、ここまで票がばらけると迷ってしまう。

 

「どうするべきかしらね……」

 

 口の中で飴を転がしながら悩む琴里。艦橋下段ではクルーがそれぞれの意見を主張し始める。

 

「ここは①にすべきでしょう! こちらは手を握ることに抵抗がないとアピールするべきです!」

 

「いえいえ③ですって! ここは士道くんに大胆な行動を取らせて、手を握るくらい何でもないことだと思わせるべきですよ!」

 

 確かにどちらも一理ある。士道の方に抵抗がないと分かれば、七罪もいずれ行動を起こすかもしれない。あるいは七罪の感覚を麻痺させ、手を握るくらい平気だと思わせるのも良い。

 だがこれでは決められない。もっと的確な意見が欲しい。

 

「令音、あなたの意見は?」

 

「……ふむ、確かにシンに抵抗がないのをアピールするのは良い考えだ。だが七罪がためらっている理由は、恐らくシンではなく七罪自身にある。これでは①を選んでもあまり意味はない」

 

 令音の言うことはもっともである。七罪が手を握れないのは、自分は汚いから人の手に触れるべきではない、などと卑屈なことを考えているせいに違いない。

 

「……その点②と③は期待できる。怖がるシンを安心させるため、という大義名分が得られるからね。これなら七罪も手を握るかもしれない」

 

「ふぅん、なら令音はどっちを選んだの?」

 

「……②だ。③も悪くはないが、七罪には刺激が強そうだ。それに終始膝に座っていたら、手を握りにくいだろう?」

 

「なるほどね……」

 

 流石令音だ。相変わらず的確な意見である。それに比べて、自身の趣味全開の神無月はまるで役に立たない。どうせおかしな理由で③を選んだに違いない。

 

「で、あなたは③に入れたのよね神無月。全く……」

 

「それは誤解です、司令。私は今回②を選びました」

 

「ふーん、どうして?」

 

「村雨解析官と同じ理由です」

 

「へー、そう。本音は?」

 

「できれば膝ではなく私そのものに座って頂きたいからです」

 

 すまし顔で答える神無月。毎回毎回ふざけているとしか思えない。琴里は隣にくるように神無月を促し――

 

「ぎゃうんっ!」

 

 前回踏みつけた場所をもう一度踏みつけた。幸せそうにのたうち回る神無月を尻目に、マイクのスイッチを入れる。

 

「士道、②よ。怖がるふりして抱きつきなさい。あなたが怖がってるって知れば、七罪も手を握ってくるかもしれないわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「怖がるふり、か……」

 

 具体的にどの程度怖がるふりをすれば良いのか分からず、士道は頭を抱えた。いっそ無言で抱きつくという手もあるが、表情だけで恐怖を表現できるほど演技力がある訳でもない。やはりここは恥ずかしくとも、悲鳴を上げながら抱きつくしかない。

 

「ぎ、ぎゃー!」

 

「きゃあああぁぁぁ!?」

 

 タイミングを見計らい、士道は七罪に抱きついた。存外可愛らしい悲鳴が腕の中で上がる。七罪の体から微かに漂ってきた柑橘系の香りは、恐らく香水か何かだろう。間違いなく周りの人々から視線を向けられているが、劇場内が暗いため確認できないのは幸いだった。

 極限まで気を張り詰めた状態で抱きつかれたせいか、七罪は尋常でないほど驚いたらしい。暗くともはっきり分かるほど顔は赤く、瞳には涙さえ浮かべている。

 

「す、すまん七罪! 怖くてつい……」

 

 離れると七罪は動悸を抑えるように胸に手を当て、荒い呼吸を繰り返し始めた。ここまで驚かれると軽い罪悪感を覚えてしまう。

 十秒ほど経つと落ち着いたのか、七罪はこちらを睨みつけてきた。だがその表情に怒りは感じられず、どちらかといえば士道を心配しているように見える。

 

「全く……私の心配しておいて自分の方が怖がってるじゃない。大丈夫なの?」

 

 どうやら本当に心配していたようだ。怖がるふりで騙しているせいか、非常に胸が痛む。

 

「ああ、大丈夫だ……たぶん」

 

「自信なさげね。良く分かるわ……」

 

 自分に自信を持てないせいか、七罪は深く共感しているらしい。

 罪悪感で胸が痛むものの、士道が怖がっていると思わせることには成功した。映画は最低でも後一時間ほどあるはずなので、その間に七罪が手を握ってくることは十分考えられる。後は怖がっているふりをしつつ待つだけだ。

 しかしいつまで待とうと、手が握られることはなかった。七罪の左手は相変わらず宙を泳ぎ、士道の右手には一度たりとも触れない。そのまま時間だけが無駄に過ぎ去り、ついに映画はエンドロールを迎えてしまった。

 

『駄目だったわね』

 

「駄目だったな。まあ努力はしてたみたいだけどな」

 

 ただしその努力が無駄になったせいか、七罪はがっくりとうなだれている。インカムからアラームは聞こえてこないので危険ではないだろうが、かなり落ち込んでいることは間違いない。

 

「七罪。おい、七罪?」

 

「ふぇっ!? あ、何? どうしたのよ、士道?」

 

「もう映画終わったから、劇場が明るくなる前に出ようぜ」

 

「あ、ああ、そうね。行きましょ」

 

 少々反応が鈍かったが、七罪は頷いて席を立った。しかしその表情は変わらず暗い。

 本当にこんな調子で、七罪は目標を達成できるのだろうか。最初は簡単ではないかと思っていたが、今は疑わしいことこの上ない。とはいえデートは始まったばかりなので、可能性がない訳ではない。もっと後押ししていけば、きっと七罪も目標を達成できるはずだ。

 七罪と共に劇場の出口へ向かう中、士道は次にどこへ向かうか考え始めた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 前編終了です。お疲れ様でした。
 作中にあった自動ドアのくだり(目の前にいるのに開かない)は実体験です。子供の頃の話ですが、何度もぶつかりそうになったのをよく覚えています。
 今回は服装を決めるのがとても難しかったです。わざわざ絵を描いて決めましたが、私の知識と表現力ではあれが精一杯でした。もっと女性の服装を勉強しないと駄目かな……。

 ※追記。ご感想にあった挿絵を投稿してみました。出来は酷いのでご覧になる方は心してください。髪の量が足りない? 仕様です。


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七罪リザルト

 リザルト = 結果、結末。
 「七罪ストライヴ」の後編です。本当はリザルトではなく別の単語にする予定でしたが、よくよく考えると明らかなネタバレだったので止めました。投稿に異様に時間がかかったのは、プライベートが忙しくなったせいと、自然にイチャつかせる展開を考えていたせいです。まあ結局はさほどイチャつかせることはできませんでした。もっと私に文才と感性があって、七罪が折紙並みに積極的ならなぁ……。



「お待たせしました。ご注文のフルーツパフェでございます」

 

 七罪の目の前にフルーツ満載のパフェを置くと、店員は一礼して去っていく。

 映画を観終わった士道と七罪は、近くのレストランへと昼食をとりにきていた。一応映画館ではジュースとポテトを口にしたが、それだけでは少々物足りない。かといってたくさん食べられるほど空腹ではなかったので、軽くデザートでもということになったのだ。

 ただし席に座るに当たり、七罪はまたも映画館と同じような席を希望してきた。今回の希望は隅のテーブル席、窓側ではない場所。ちょうど店の奥に希望通りの席があったため、今回はそこに座っている。更に壁を背にしているため、安心感は抜群のはずだ。

 しかし向かいでパフェをもそもそと食べる七罪の表情は、どこまでも深く沈んでいた。沈み具合を物理的に表すなら、地球の内核あたりまでといった所か。もう気の毒になるほど沈んでいる。映画館で目標を達成できなかったことを、いまだに引きずっているようだ。

 

「なぁ、大丈夫か七罪? ずっと元気ないみたいだけど」

 

 流石にこれ以上見ていられず、士道は声をかけた。だが七罪の目標について知っていては不審に思われるので、知らない風を装うしかなかった。

 

「え? へ、平気よ。ただちょっと疲れてるだけだし」

 

「ならいいけど、きつくなってきたら言ってくれよ? 早めにデートを切り上げるからさ」

 

「それは駄目よ! だって、まだ……」

 

 声を荒げたかと思うと、顔を赤くして突然黙り込んでしまう七罪。口振りから察すると、目標達成はまだ諦めていないらしい。

 普通ここは理由を尋ねる場面だが、続く言葉は分かっているし、何より尋ねれば精神状態や感情値を乱すだけである。士道はあえて追求せず、何事もなかったようにお冷をあおった。

 

「……ねえ、聞いてもいい?」

 

「ん、何だ?」

 

 こちらが尋ねないでいると、逆に七罪が尋ねてきた。ただしその視線は士道には向けられていない。目を合わせるのが恥ずかしいのか、完全にそれている。

 

「そもそも何で私とのデートをオーケーしたの? 別に断っても良かったのに……」

 

「何でって言われても、断る理由もなかったしな。それにお前がごほうび欲しいって言ったから、一応お礼のつもりだよ。あの時お前がいなかったらどうなってたか分から――いや、分かるな……」

 

 四糸乃の姿をした『よしのん』に襲われたあの時、もし七罪が助けにきてくれなければ、士道は間違いなく尊い何かを失っていた。その最悪の結果を想像してしまい、士道は恐怖に身震いした。

 

『まあ、めでたく性犯罪者の仲間入りだったでしょうね。ちなみに子供に対しての性犯罪は、刑務所でも嫌われるらしいわよ』

 

 なるほど。とてもためになる情報だ。一応こちらが被害者にあたるのだが。

 

「ふーん……なら、ずいぶん高いお礼になったわね。四糸乃みたいな可愛くて性格の良い子ならともかく、私とのデートなんて苦痛でたまらないでしょ」

 

「あーもう、お前いい加減その卑屈な考え方止めろよな。別に苦痛なんかじゃないし、今日のお前は誰から見ても可愛いぞ」

 

 自虐的な笑みをもらす七罪に、士道は多少強く言って聞かせた。もちろんこれは本音である。デート自体は大変だが苦痛には感じていない。それに今の七罪は、間違いなく四糸乃にも引けを取らないほど可愛い。死んだ魚のような目をしていなければ。

 

「……そりゃ士道はそう言ってくれるでしょうね。でも、誰の目から見てもなんてありえないわよ」

 

 だが素直に誉め言葉を受け入れるほど、七罪は前向きでも自信家でもなかった。

 

「もっと自信持てよ、七罪……」

 

『本当筋金入りのネガティブ思考ね……』

 

 もう呆れるしかなかった。間違いなく今の七罪は可愛いというのに、七罪自身がそれを否定してしまっている。

 今七罪に必要なのは自信だ。もっと自信を持たせることができれば、目標達成に一歩近づくはずだ。しかしその方法が思いつかない。一体どうすれば――

 

「お待たせしました。ご注文のチョコレートケーキでございます」

 

 士道が頭を抱えていると、ちょうど注文したケーキが運ばれてきた。一ホールの八分の一程度にカットされたケーキを置き、店員は再び一礼して去っていく。

 その姿が見えなくなってから、士道は小声で琴里に知恵を求めた。せめてこのデート中だけでも、七罪に自信を持たせることはできないかと。向かい合った状態で虚空に呟くのは怪しさ満点だが、七罪はそもそもこちらを見ていないので不審には思われない。

 

『んー、そうね。私に考えがあるわ。こっちで準備を進めるから、指示するまでそのままデートを続けなさい』

 

「ああ、頼んだ」

 

 士道は小声で頷いた。琴里の方で作戦があるのなら、今士道がすることは何もない。とりあえず今は食事をしておこう。

 皿を引き寄せ、ケーキにそえられたフォークに手を伸ばす。すると何故か七罪の視線がその手に注がれた。いや、どちらかといえば視線はもう少し横、つまりケーキに注がれているようだ。それに若干物欲しそうな表情をしている。

 

「……よかったら少し食べるか?」

 

「……まあ、くれるなら」

 

 七罪は多少迷っていたが、結局は頷いた。フォークと皿を差し出すと、それを手元に引き寄せ、ケーキの端の部分を少し切り取り口にした。

 

「ん、割とおいしいわね」

 

 そんな感想をもらし、皿をこちらに戻してくる。それを受け取りいざ食べようとした時、士道は気がついた。食べるために使う肝心のフォークがない。何故かまだ七罪の手に握られたままだ。テーブルには割り箸は備えられているものの、フォークやスプーンは見当たらない。とりにいくのも面倒なので、七罪が持っているフォークを使うのが一番だろう。

 

「七罪、そのフォーク使うから貸してくれよ」

 

「えっ? や、やめた方がいいわよ? これ私が使ったやつだから」

 

 若干顔を青ざめながら、七罪は首を横に振る。

 

「あ、悪い。俺が使ったら間接キスになるよな」

 

 顔を青ざめているのはそれが理由だろう。七罪も女の子だ。気にするのは当然のことである。

 

「いや、それは構わないんだけど……私が使ったから汚いし……」

 

 その呟きを聞いた瞬間、士道は確信した。間違いなくこの卑屈な考え方が、目標達成の障害となっている。七罪が自分を汚いと決めつけているせいで、映画館でも行動できなかったに違いない。自信を持たせるのも大事だが、まずはこの考えを改めさせる必要がある。

 

『……士道、分かってるわね』

 

 言われるまでもない。士道は身を乗り出して七罪の手からフォークを奪い取った。

 

「えっ、あっ、ちょっ――」

 

 不意を突かれて反応が遅れる七罪。奪い返そうとこちらに手を伸ばしてきた時には、すでにフォークの先端は切り取ったケーキと共に口の中にあった。もう手遅れと悟ったのか、困ったような顔で手を引っ込めていく。

 

「……別に汚くなんかないぞ。お前が卑屈に思ってるだけで、誰もそんな風には思ってねえよ。むしろ喜んで間接キスしようとする奴の方が多いんじゃないか?」

 

「そ、そんなことある訳……」

 

 俯きながら七罪は否定する。行動で示して見せたというのに、まだ信じられないらしい。まあ一筋縄ではいかないのは最初から分かっている。こうなったら効果も刺激もより強い行動を取るしかない。

 

「……実はさっき、その、ちょっと興奮した」

 

「はあっ!?」

 

 ぽつりと本音を呟くと、七罪の顔は一瞬にして耳まで真っ赤に染まった。もうどんな反応をすればいいか分からないようで、ただただ目を白黒させている。

 

『大胆なカミングアウトね、士道。まさか本当にロリコンだとは思わなかったわ。神無月といい酒が飲めそうね』

 

『何故話してくれなかったのですか士道くん! 同好の士として、是非後ほど語り合いましょう! 特に司令の未成熟な肢体の描く、緩やかな曲線美について――』

 

『黙れ変態!』

 

『ぎゃいんっ!』

 

 何か騒がしいが、とりあえず無視しておくべきだろう。今は混乱している七罪への対処が最優先だ。仮に一つだけ言うとすれば、士道は断じてロリコンではない。

 

「あー、えーと、つまりだな……それくらい今のお前は可愛いってことだ。だからもっと自信持てよ」

 

「そ、そう……一応、努力はしてみるわ」

 

 目をそらして呟くと、七罪はぐいっとお冷をあおった。その冷たさによるものか、顔から赤みが引いていく。

 否定しなかった所を見ると、少しは前向きに捉えているらしい。しかしまだ思う所があるのか、難しい顔をしてもくもくとパフェを食べている。

 無理にその原因を聞きだすのはよろしくないので、士道は一旦置いておくことにした。七罪と同じく、食事を再開する。そこからはずっと無言だったので、店内の喧騒がなければ非常に気まずい時間だったかもしれない。

 

「……ごちそうさま」

 

 数分もすると完食した七罪は、空になったパフェの器にスプーンを置いた。士道の方は運ばれてきたのが遅かったので、食べ終わるにはもう少し時間がかかる。少し待っていてくれるように頼もうと顔を上げた時、それは士道の目に映った。

 士道から見て左側の七罪の頬、そこに白いクリームが僅かについている。本人は気付いていないらしく、拭き取る様子はない。お冷を飲んで一息ついている所だ。

 

「おい、七罪。ほっぺたにク――」

 

『ちょっと待ちなさい、士道。選択肢よ』

 

 何気なく教えようとすると、士道の言葉は途中で琴里に妨げられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 <フラクシナス>のメインモニター。そこには二人用の席に向かい合って座る士道と、七罪の姿が映っている。その映像に被さるように、本日三度目の選択肢が出現した。

 ①頬にクリームがついていることを普通に教える。

 ②優しく指で拭い取り、それを舐める。

 ③ダイレクトに舌で舐め取る。

 

「司令、ここは③しか考えられません」

 

 琴里がクルーに指示を出す直前、神無月が口を開いた。常に直立不動の神無月だが、今は右足に体重をかけ、左の膝を曲げて立っている。左足を踏まれすぎたせいで両足では立てないようだ。いいざまである。

 

「聞くまでもないことだろうけど一応聞くわ。どうして?」

 

 琴里は艦長席の椅子を回し、神無月の方を向いて尋ねた。

 

「舐めるという行為は愛情表現の一種。まして相手は未成熟な子猫ちゃん。頬といわず、全身くまなく舐め回すのが、究極かつ至高の愛情表現かと」

 

「……ふっ!」

 

 浅い呼吸と共に、琴里は変体の鳩尾に捻りを加えた拳を叩き込んだ。渾身の一撃を食らった神無月は、声すら上げずに崩れ落ちる。

 突っ伏して痙攣する神無月は無視して、琴里はディスプレイに視線を戻した。すでにそこには有能なクルー達による選択結果が表示されている。②がもっとも多く、①が僅か。ここまでは予想通りだったが、不思議なことに何故か③に二票入っていた。

 

「③の一票は神無月よね。もう一票は誰なの?」

 

 琴里が問いかけると、艦橋下段から恐る恐るといった様子で手が上がった。手の主は<次元を超える者(ディメンション・ブレイカー)>中津川だった。

 

「わ、私でござります、司令……」

 

「びくついてないで理由を言いなさい。真面目に考えた上での選択なら、神無月のような目には合わないわ」

 

 琴里は無意味に暴力は振るわない。振るうのは隣で悶えている救いようのない変態や、腑抜けな義理の兄に対してだけだ。

 中津川はほっと胸を撫で下ろし、口を開いた。

 

「やはりここは嬉し恥ずかしなラブコメ的展開が一番かと存じます。好きな相手にこれを

されて、喜ばない女の子はいません! 二人の距離もぐっと縮まり、目標達成に大きく近づくことでしょう!」

 

「いえ、それで喜ぶのは漫画やアニメの中でだけだと思いますよ? 実際にやられたらたぶん引きますけど……」

 

「なん……ですと……!?」

 

 力説する中津川だったが、<藁人形(ネイルノッカー)>椎崎の言葉に驚愕を露にした。更に艦橋の女性クルーのほぼ全員が頷き、追い討ちをかける。ただし令音だけは我関せずといった様子で、全く反応を示さなかった。もしかすると嫌ではないのかもしれないが、琴里にもいまいち判断がつかない。

 驚愕に打ちのめされる中津川を、<早過ぎた倦怠期(バッドマリッジ)>川越が呆れを含んだ声で笑った。

 

「全く、女心が分かっていないな中津川くん。そんなことでは結婚できないぞ?」

 

「四回も離婚した川越さんが言う台詞じゃないと思います。あ、五回でしたっけ?」

 

「うぐぅ……」

 

 あんたが言うな、と言おうとした琴里だったが、<保護観察処分(ディープラヴ)>箕輪が代弁してくれた。痛い所を突かれたであろう川越は、中津川以上に打ちのめされている。今に限って言えば、七罪よりも<フラクシナス>の男性クルーの方が精神状態は悪いだろう。

 不意に鉄を叩くような音が艦橋内に二、三度響いた。その重厚な音は士道がインカムを小突く音だ。長く待たせたせいで痺れを切らしているらしい。琴里を急かすとは随分と偉くなったものだ。

 

「ああ、②よ士道。指でクリームを拭い取って、さもおいしそうに舐めてあげなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「な、何よ士道。私の顔に何かついてる? それとも顔そのものが気に入らない?」

 

 じっと見つめていたせいか、七罪はしきりに頬の辺りに触れ、何かついていないか確認している。クリームのついている側とは反対側の頬を探っているが、早く行動を起こさなければすぐに自分で拭ってしまうだろう。

 七罪のためとはいえ、恥ずかしいことばかりさせられるのはどうにかならないものか。

 

「ああ。頬っぺたにクリームついてるぞ。ほら、ここに」

 

「ひゃっ!?」

 

 たぶんどうにもならないので、士道は諦めて七罪の頬に手を伸ばした。曲げた人差し指の外側でクリームを拭うと、思いのほか柔らかい頬の感触にどきりとさせられる。もちろん七罪はそれ以上にどきりとしたようだ。触れられた頬を手で押さえながら、目を白黒させている。

 気の毒だがこれで終わりではない。士道は指についたクリームを舐め取った。

 

「なっ!?」

 

 顔を赤くして目を見開く七罪。気持ちは分からないでもないが、いちいち過剰に反応していて疲れないのだろうか。

 

『んー、感情値は乱れまくってるけど、それ以外の数値は割と安定してるわね。もっと積極的にいってもよかったかしら』

 

「おい、何させる気だ」

 

 士道は疑惑に満ちた声を投げかけた。これ以上積極的な行動といったら、ラブコメで良くある展開しか思い浮かばない。年端も行かない少女に対して、人前でそんなことをする勇気など持っていない。映画館前で行った額へのキスが限界である。

 七罪は何か言いた気に顔を歪めていた。主に羞恥と混乱が見え隠れしていたが、結局何も言わずにお冷に手を伸ばした。ごくごくと一気に飲み込み、熱を持った顔を体の芯から冷却している。

 本当に感情の浮き沈みが激しい。こんな調子でこの先大丈夫なのだろうか。士道はそう思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目つきが問題なのか、七罪は常に不機嫌そうな表情に見える。だがそう見えるだけで、実際に不機嫌であることはほとんどない。大抵は自己嫌悪やネガティブ思考に陥っていて、機嫌以前の問題だからだ。

 しかし今こちらを睨みつけてくる七罪は、普段よりも数段不機嫌そうな顔をしていた。程度は不明だが間違いなく機嫌が悪い。

 

「……で、何でこんな所につれてきた訳?」

 

 その声もどこか刺々しく感じられる。まあそれも仕方のないことだ。外見にコンプレックスを抱えた七罪を、説明もなしにこんな所へつれてくれば。

 

「ここブティックじゃない! ここで一体何するつもりよ!?」

 

 目と鼻の先にそびえる大き目のブティックを指差し、七罪は語気を荒くする。

 ここへきたのは琴里からの指示だ。ここで七罪を更に可愛くきれいに変身させ、もっと自信を与えるというのが琴里の考えらしい。要するに以前実行したことを再現するつもりなのだろう。

 七罪が若干怯えているのは、店先から漂う圧倒的なオシャレ感のせいに違いない。ショーウィンドウに飾ってあるドレスやスーツ等は、結婚式で新郎新婦が着ていても違和感がないほどだ。正直士道も一人では入りたくない。

 

「そりゃあお前に似合う服を選ぶに決まってるだろ。それ以外何するんだよ。冷やかしか?」

 

 七罪は何度も首を横に振った。その顔は世界の終わりがきたかのように青い。

 

「む、無理よ。無理無理。こんな所に私に似合うようなボロ布ある訳ないわよ。他の所行きましょ」

 

『駄目よ。ここじゃないと意味がないんだから』

 

 そのまま逃げるように後ずさりしていく。七罪が怖がる気持ちは多少理解できるが、琴里に指示された以上ここに入るしかない。何とか引き止めなくては。

 

「そんなの見てみないと分からないだろ? とりあえず入ってみようぜ」

 

 できる限り優しく促したものの、七罪は頑として首を縦には振らない。

 

『予想はしてたけど面倒くさいわね。士道、首根っこ引っつかんででも店に入りなさい』

 

 心の底から面倒くさそうに琴里は言う。いくら何でもそんな乱暴なことはしたくない。とはいえ多少強引な手段を用いなければ難しいことなのは確かだ。

 

「なぁ七罪、どうしても嫌なのか?」

 

「嫌よ! こんなとこ入るくらいなら、トイレでぼっち飯してた方がまだまし――」

 

 叫ぶ七罪だったが不意に言葉を切り、何かを考えるように目をそらす。心底嫌そうな顔をしていたのだが、こちらに視線を戻した時にはその表情は消えていた。代わりに浮かんでいたのは、どこか恥ずかしげな表情。

 

「いや、まあ……うん。後で私の頼みを一つ聞いてくれるっていうなら、我慢してもいいけど……」

 

 そのまま歯切れ悪く呟く。

 恐らくは手を繋いで欲しいと頼む気なのだろう。七罪には再びチャンスが巡ってくる上、士道は琴里の言いつけ通りブティックに入ることができる。断る理由は一つもない。

 

「分かった。俺にできることなら何でも聞いてやるから、入ろうぜ?」

 

「う、うん……」

 

 士道がブティックの入り口へ向かうと、七罪は怯えながらも後についてきた。背後にぴたりとくっついてくる様子は、お化け屋敷で怖がる子供のようでどこか可愛らしい。

 店内に足を踏み入れた瞬間、士道は七罪が怖がる理由を理解した。店内にはオシャレの化身のような衣服が所狭しと並び、ある種の重苦しい空気を作り出していた。デートのために気合の入った服装をしている七罪はともかく、ただの私服の士道には耐え難い空気である。自分がとんでもない場違いに思えてきて、冷や汗が出てくるほどだ。というかどう考えても場違いだった。

 

「いらっしゃいませー。本日はどういったご用ですかぁ?」

 

「うぉっ!?」

 

 不意に横から声をかけられ、士道は飛び上がりそうなほど驚いた。声の方向に目を向けると、そこにはエプロンドレスに身を包んだ一人の女性が立っていた。恐らくはここの店員なのだろう。腰まである長い黒髪と、大きな茶色の瞳、店の制服が窮屈そうに思えるほど大きな胸が特徴的だ。

 だが何よりも特徴的なのは、その声質だった。聞いただけで脳の奥深くまで浸透し、中毒にさせられそうな危険な感覚を覚えてしまう。声自体に聞き覚えはないのだが、士道はこの感覚に心当たりがあった。この女性、まさか――

 

「お客様ー?」

 

 考えを巡らす士道の顔を、その女性が覗き込んでくる。それも二十センチあるかないかの超近距離から。明らかに客と店員の距離感ではないし、見知らぬ異性との距離感でもない。

 ほぼ間違いなく、この女性は変装した美九である。声自体が変わっている所を見るに、以前士道も使用した<ラタトスク>製の変声機を装着しているらしい。重要な声質が変わっていないのであまり意味はないものの、その変声機を使用している時点で<ラタトスク>が一枚噛んでいるのは分かる。つまりこれは琴里の差し金ということだろう。色々と聞きたいことはあるが、それは今触れるべきことではない。

 

「ああ、えっと……こいつに似合う服を探しにきたんですけど――って、あれ? どこいった?」

 

 ひとまず客と店員の関係を装うことにして、士道は美九に答えた。しかし肝心の七罪の姿が、背後から消失していた。周囲を見回すとやや離れた場所にある柱に身を隠し、こちらを不安気に覗く姿が確認できる。

 恐らく七罪も声質で美九だと分かったのだろう。七罪はやたら美九に絡まれることが多いので、苦手意識を持っているのかもしれない。

 

「あららー、恥ずかしがり屋さんですねー。でも大丈夫ですよー。私が問答無用で着替えさせちゃいますからぁ」

 

 言うが早いか、美九は七罪の元へ駆け寄っていった。驚いて逃げ出そうとする所を強引に捕まえ、ずりずりと引っ張ってくる。

 

「は、離してよ! 離してってば! はーなーしーてー!」

 

「ふふふ、怖がらなくても大丈夫ですよ。私があなたにぴったりの服を選んであげますからねー」

 

「私にぴったりの服って何!? 刑務所の囚人服!? 精神病院の拘束衣!?」

 

 七罪は必死に足を踏ん張っているが、抵抗虚しく引きずられている。やがて士道の隣までくると、助けを求めるようにこちらをじっと見つめてきた。何だか今にも泣きそうな顔をしている。

 

「士道ぉ……」

 

「そんな顔するなよ……後でちゃんと頼みを聞いてやるから、少しくらい我慢してくれ」

 

「うううぅぅ……」

 

 恨みがましい声を上げながらも、七罪は抵抗を止めて自らの足で歩き始めた。しかし美九は解放する気などないらしく、掴んだ手首を離そうとはしない。

 

「うーん、どんなお洋服がいいですかねー。お客様、何かリクエストはありますかぁ?」

 

「んー、そうだな……可愛いの、かな」

 

「分かりましたー。それじゃあ、とびっきり可愛いものを選んできますねー」

 

 試着室の前でそう言い残すと、美九は店のどこかへと駆けていった。

 やっと解放された七罪は以外にも大人しくしている。もちろん乗り気ではないようだが、少なくとも逃げ出す様子はない。どうやら目標の優先度は何よりも高いようだ。

 

「……あれ、美九よね」

 

 美九の姿が見えなくなるなり、七罪は静かに尋ねてきた。流石にこれにはどう返答すればいいのか迷った。

 確かにあの店員は美九だ。それは間違いない。だが七罪が問題にしているのはそこではなく、何故美九がブティックの店員をしているのか、ということだろう。これが一般人ならアルバイトという理由で誤魔化せるかもしれないが、精霊であり今をときめく大人気アイドルでもある美九では不可能な相談である。

 

「何でこんな所にいる訳?」

 

 七罪は予想通りの言葉を続ける。

 しつこく粘ってこの店に入らせたのだから、知らぬ存ぜぬで通じるはずはないだろう。士道は何気ない動作でインカムを小突き、助けを求めた。

 

『んー、職業体験とでも言っておけばいいんじゃない? ちょっと苦しい言いわけだけど』

 

 ちょっとというか、かなり苦しい言いわけだ。しかし<ラタトスク>の指示と言うわけにもいかない。やむなく士道は言いわけすることにした。

 

「職業体験できてるらしいぞ。あの変装はたぶん客にバレないためだな。声質でバレそうな気もするけどな」

 

「ふーん、なるほどね」

 

 相槌を打ってはいるが全く信じていない。睨むとまではいかないものの、蔑むような目で見つめてくる。別に士道が美九を呼んだ訳ではないので、やましいことは一つもないのだが、こんな視線を向けられていると嫌な汗が出そうだ。

 

「お待たせしましたぁ。お洋服持ってきましたよー」

 

 気まずい空気を和らげるほんわかとした声と共に、美九が戻ってきた。安心した士道とは対照的に、七罪は恐怖としか思えない表情を浮かべる。

 

「そ、それは……っ!」

 

 激しく動揺しながら、少しずつ後ずさりしていく。その顔は貧血を起こしたかのように血の気がない。

 七罪の視線の先にあるのは、美九が手に持っている洋服。それは別に囚人服でも、拘束衣でもなかった。何の変哲もない、水色のドレスだ。しかし七罪にとってはよほどハードルが高いらしい。

 

「無理よ! それだけは絶対無理!」

 

「無理じゃありませんよー。きっとお似合いですから、着てみましょうよー」

 

 じりじりとにじり寄る美九。つめられた距離だけ後退する七罪。両者の睨みあいは数秒ほど続き、やがてどちらからともなく追いかけっこを開始した。

 

「あーん、どうして逃げるんですかぁ? 待ってくださいよー」

 

「待たないっ! ドレスなんか着るくらいなら、水着にエプロンの馬鹿っぽい格好の方がはるかにましよー!」

 

「いいですね、それ! じゃあドレスの次はビキニと黒のエプロンにしましょうね!」

 

「ちくしょおおぉぉぉぉ! 墓穴掘ったあああぁぁぁぁぁ!」

 

 悲鳴を上げながら逃げ回る七罪と、嬉々として追いかける美九。まばらにいる他の客や店員が咎めない所を見ると、どうやら全員が<ラタトスク>機関員のようだ。相変わらず無駄に大掛かりな作戦である。

 

「捕獲しましたー! それじゃあお着替えさせてきますねー」

 

「ぎゃあああああああぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 やがて捕らえられた七罪は、美九の小脇に抱えられて試着室という名の檻に連行されていった。最後まで手足を振り乱して抵抗していたが、あまり意味はなかったようだ。

 

「……で、何で美九がいるんだ?」

 

 一人取り残された士道は、琴里に尋ねた。

 

『もちろん私が呼んだのよ。七罪が士道とデートしてるから、少し後押ししてやって欲しい、って言ってね。喜んで引き受けてくれたわ』

 

「だろうな……」

 

 士道は試着室に視線を向ける。

 

「ぎゃー!? ちょっと、どこ触ってんのよ!?」

 

「ふふふっ、ほーら脱ぎ脱ぎしましょうねー」

 

「あー、もうっ! 脱げばいいんでしょ!? 自分で脱ぐから変な所触んないでよ!」

 

「変な所ってどこですかぁ? こことか、こことか、こことかですかぁ?」

 

「きゃはははははははは! ちょ、やめ、くすぐるなあああぁぁぁぁ!」 

 

 七罪の後押しをするのが目的なわりには、美九はやたらに楽しんでいるような気もする。まあ趣味と実益をかねてやっているのだろう。

 

『最初は機関員に任せようとしたんだけど、七罪の性格を考えると美九が妥当だと思ったのよ。美九のペースに飲んじゃえば、七罪もネガティブする暇なんてないでしょ』

 

「うーん、まあ、確かに……」

 

 琴里の思惑通り、七罪は今の所ネガティブ思考に陥っていないようだ。精神状態が悪化していればインカムからアラームが聞こえてくるはずなので、それは間違いない。しかし感情値などはあまり芳しくないだろう。試着室から聞こえてくる二人のやりとりから、手に取るようにそれが分かる。

 

「あー、何してるんですかぁ? ちゃんと下着も着替えないと駄目ですよー」

 

「はあっ!? 何で下着まで着替えなきゃいけない訳!? あ、こら! 脱がそうとするなあああぁぁぁぁぁ!」

 

「心配しなくても大丈夫ですよー。ちゃんと可愛いの選びましたからぁ」

 

「そういう問題じゃ――って、どこが可愛いのよ!? ほとんど紐じゃないそれ!」

 

「まあとにかくつけてみてくださいよー……はあっ……はあっ……」

 

「息荒くしてんじゃないわよ! っていうかこっち見んな!」

 

 中の様子を想像しそうになり、士道は必死に頭を振って煩悩を追い出した。二人は声が外に届いていると知らないのだろうか。

 これ以上二人のやりとりを聞いていると精神衛生上よろしくないので、士道は試着室から数メートルほど距離をとった。それでも七罪の悲鳴染みた声は届いてくるが、断片的にしか聞こえないので先ほどよりはましである。

 

「はーい、お着替え終わりましたよー」

 

「お、やっとか」

 

 店内の服を見て時間を潰すこと数分。試着室から美九が出てきた。一仕事終えたような清々しい笑みを浮かべている所を見ると、結果は上々らしい。これはかなり期待できそうだ。

 

「それじゃあお披露目です。そーれ!」

 

「えっ!? ちょっと待って! まだ心の準備が――」

 

 七罪の制止も虚しく、美九は容赦なく試着室のカーテンを引いた。

 

「おおっ……」

 

 現れた七罪の姿を目にして、士道は息を呑んだ。驚きではなく、その美しさに。

 身にまとうのは高級感漂う薄手のドレス。細い腕には肘の上から指先まで包む純白のミトン。頭の上には黄金色に輝くティアラ。そのどれもが七罪を素敵なお姫様へと変身させていた。フリルで裾を彩られたスカートで見えないが、ガラスの靴を履いていたとしても違和感はないほどだ。

 しかし何よりも士道の心を掴んだのは、七罪の必死に恥ずかしさに耐える様子だった。真っ赤な顔で俯き、お腹の辺りで合わせた指を落ち着きなく蠢かしている。その様子が今の服装と相まって、恥ずかしがり屋のお姫様という一種の属性を作り出していた。そんな七罪の姿を見ていると、胸に心地よい痛みが走ってくる。何と素晴らしい姿なのだろうか。

 

『ちょっと士道。アホな顔で見惚れてないで、さっさと何か言いなさい』

 

「うおっ!?」

 

 右耳のインカムから琴里の冷めた声が聞こえてくる。その声に驚いてしまったことから考えると、見惚れていたのは本当のことらしい。ただしアホな顔をしていたかどうかは定かではない。

 

「あー、えっと……すごいな、七罪。本当のお姫様みたいにキレイだぞ」

 

 何か気のきいた言葉を探すものの、予想外の美しさに当てられたのか頭は上手く働かなかった。やむなく自分が抱いた感想をそのまま口にする。

 だがそれで十分だったようだ。士道の言葉を聞くなり、七罪は無言でカーテンを閉めた。表情は見えなかったが、僅かに口元が緩んだのはしっかりと見た。

 

『機嫌、好感度、急上昇。感情値は地震計みたいになってるけど、案外素直に受け入れたみたいね』

 

 それはそうだ。士道も見惚れてしまうほどの美しさだったのだから、七罪もその三分の一くらいは自分でも思ったに違いない。

 これで少しは自分に自信を持ってくれたはずだ。もう士道にできることは何もない。後は七罪が勇気を出すだけだ。

 過程はどうあれ結果を出したのは事実なので、美九にも礼を言っておくべきだろう。士道は隣に立つ美九の方を向いた。

 

「って、あれ? いないぞ?」

 

 しかしつい先ほどまで隣にいた美九の姿は、いつのまにか消えていた。もしかすると先ほど口にしていた水着とエプロンを取りにいったのかもしれない。

 

「だーりん、だーりん! 見て下さい! いっぱい持ってきましたよー!」

 

 興奮気味な声に振り向くと、そこには笑顔で駆けてくる美九の姿があった。もう正体を隠す気は毛ほどもないらしい。どの道七罪にもバレているので関係ないが。

 危惧した通り、美九の両手にはやたら面積の少ない水着とエプロンが抱えられていた。しかもそれだけには留まらず、メイド服やバニースーツといったおかしなものまである。これは明らかに美九が楽しむためのものではないだろうか。

 

「待ってて下さいねー、すぐにお着替えさせちゃいますからぁ!」

 

「うぎゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 返事を待たずに試着室へ突進していく美九。直後その中から七罪の悲鳴が上がったのは予想できたことだが、下着姿の七罪本人が飛び出てきたのは予想外のことだった。

 無論その肌色成分九割の姿は、士道の目にばっちりと映りこんだ。ただし直線上に立っていたためか体当たりをくらい、押し倒されて頭を打ち、幸か不幸か鮮明には記憶に残らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はあっ……どっと疲れたわ……」

 

 それがブティックを出た七罪の第一声だった。

 注射を嫌う子供のように大暴れしていた七罪だが、結局は美九に無理やり着替えさせられていた。試着室の中から聞こえてきたやりとりは、思い出すだけで七罪が可愛そうになってくる。

 それだけのことがあって何も買わないというのも癪なので、恐らく着ることはないが最初のドレスだけは買っておいた。財布に会心の一撃並みのダメージを受けたが、そこは<ラタトスク>が何とかしてくれるはずだ。

 

「全く……何だってあんなもの着なくちゃならないのよ」

 

「機嫌直せよ。一応全部似合ってたぞ」

 

「ふん。そんなこと言われたって、嬉しくも何ともないし」

 

 不機嫌そうな顔でそっぽを向く七罪。しかし本心では嬉しがっていたことは、琴里からの報告で知っている。とはいえメイド姿はともかくバニー姿を似合っていると言われても、素直に喜ぶことはできないだろう。あれは得も言えぬ背徳感が漂う、危険極まる格好だった。

 

「ほら、早く次の場所に行きましょ」

 

 行き先を決めていないというのに歩き出す七罪。もしかすると照れ隠しなのかもしれない。

 後を追おうと一歩踏み出した時、士道はおかしなことに気がついた。先を歩く七罪の姿が、不自然にゆらゆらと揺れている。

 

「おい、大丈夫か七罪? 何かふらふらしてるぞ」

 

「別に何でもないわよ。それより次はどこに――わっ!?」

 

「七罪!」

 

 こちらを振り向いた途端、七罪は足をもつれさせてバランスを崩した。咄嗟にドレスの入っている紙袋を放り、駆けよって倒れる体を抱きとめる。

 

「ふうっ、危ねえ……」

 

 何とか間に合った士道は、安堵の息をもらした。もし七罪が顔面でも強打しようものなら、映画館前の時と同じ悲惨な結果になっていたかもしれない。とはいえそんな合理的な理由があって助けたわけではないが。

 あのふらつきようと転び方。恐らく七罪は疲労が相当溜まっているに違いない。考えてみれば当然のことだった。デートが始まる前から神経を張りつめさせ、デート中も極度の緊張状態で過ごし、あまつさえ先ほどは大暴れしたのだ。むしろ今まで疲れが出なかったのが不思議なほどである。流石にこんな状態ではもうデートを続けることはできない。

 

「なあ七罪、今日はもう帰ろうぜ? お前疲れてるみたいだしさ」

 

「だ、大丈夫だってば! まだまだ平気よ!」

 

 腕の中で真っ赤になって固まっていた七罪は、飛び退るように離れて声を荒げた。明らかなやせ我慢なのは、何もない所で転びそうになった点からはっきりと分かる。

 

「……駄目だ。もう帰るぞ」

 

「嫌よ! せっかくのデートなんだから! それに、それにまだ……」

 

 七罪の気持ちはよく分かる。せっかくの初デートをこんな不本意な形で終わらせたくないのだろう。精神をすり減らすほどの努力を行ってきたというのに、未だ目標を達成していないのだから。

 

「デートなんて、またいつでも何度でもしてやるよ。今はお前のことの方が心配だ」

 

 今は何よりも七罪の方が大切だ。その気持ちを素直に伝えると、険しい顔で反対していた七罪は胸を突かれたように押し黙った。

 

「ほ、本当……?」

 

 小さく開かれた唇から、震えた声が微かにもれてくる。

 

「ああ、本当だ。だから今日はもう帰ろうぜ?」

 

 士道は迷いなく頷いた。本当はどの言葉に対しての問いか分からなかったが、いずれの言葉にも嘘はない。

 たっぷり五秒ほど何か考えていたようだが、やがて七罪は無言で頷いた。

 

『さて、これが最後のチャンスね。これで駄目だったらせめて士道から握ってやりなさい』

 

 琴里の言う通り、今この瞬間が七罪にとって最後のチャンスだ。これから家に帰るのだから、この場か帰り道で手を握れなければもうチャンスはない。そして七罪の性格ではこの場を逃したらそれで終わりになるかもしれない。

 もちろんまた挫折するという可能性も十分にあるだろう。だが今の七罪には二つの後ろ盾がある。一つはブティックに入る前に交わした、頼みごとを聞くという約束。もう一つは、今の七罪は何もない所で転びそうになるほど疲れているという事実。転んでしまうから手を繋いで欲しい、という頼みは理由づけとしては十分のはずだ。

 

「あ、あのさ……士道……」

 

 不意に黙り込んでいた七罪がか細い声をもらした。頑張れ、と応援したいのを必死に抑えながら優しく答える。

 

「ん、どうした?」

 

 もじもじしながら、再び沈黙する七罪。どうやら後一歩が踏み出せないらしい。だが数秒後、意を決したように(あるいは自棄になったように)はっきりと口を開いた。

 

「その、約束してくれたわよね? 私の頼みを聞いてくれるって。あれは本当のこと?」

 

「おう。俺にできることなら、だけどな」

 

「そ、そう……じゃあ、一つ頼みたいことがあるんだけど――」

 

 その頼みを一体どれほど待っていたことか。

 七罪の努力がようやく実る嬉しさを、顔に出ないようにするのはとても大変だった。

 

「――別に強制はしないわ。約束でも嫌なら嫌で断ってくれて構わないし、断っても別に恨んだりしないし……でも私疲れてて転ぶかもしれないから、迷惑じゃなければ聞いて欲しいんだけど……」

 

『前置きが長い! さっさと言いなさいよ!』

 

 琴里の怒声が鼓膜を突き抜ける。気持ちは分かるが七罪にしては飛躍的な進歩なのだから、これくらいは大目に見てやってほしい。

 更に数秒ほど口をつぐみ、ようやく七罪はその言葉を口にした。

 

「手……繋いでくれない……?」

 

 たどたどしいながらもはっきりと聞こえたその言葉に、インカムから<フラクシナス>クルーたちの弾けるような歓声や拍手が鳴り響いてきた。無論士道も同じ気持ちだったが、流石に七罪の前で諸手を上げて喜ぶ訳にはいかない。そもそも七罪の目標は本人と四糸乃以外知らない秘密なのだから。

 

「ああ、いいぜ。ほら」

 

 士道はゆっくりと左手を差し伸べた。真っ赤な顔で不安気に視線をそらしていた七罪は、その手を見て驚いたように目を見開く。もしかすると断られると思っていたのかもしれない。

 やがて士道の左手に、おずおずと小さな手を伸ばしてきた。緊張のためか微かに震える指先が触れる直前、一瞬動きを止めてためらっていたものの、迷いを振り払い手を重ねてきた。

 これで目標達成である。本当は労いの言葉の一つもかけたい所だが、ここでそれを口にすれば秘密を知っていることがバレてしまう。

 

「それじゃ、帰るか」

 

「……うん」

 

 暖かいを通り越して熱い七罪の手を握り返し、士道は放った紙袋を拾ってから帰路についた。手を引いているせいなのか、重かった七罪の足取りは先ほどよりも軽く感じられる。

 

『士道、七罪の顔を覗いてみなさい。珍しいものが見られるわよ』

 

 どこか穏やかな琴里の声に従い、士道は横目で七罪の顔を見てみた。そして僅かな驚きを覚えた。

 七罪が、笑顔を浮かべている。満面の笑みというほどではないが、とても嬉しそうな笑顔を。七罪のこんな顔を見るのは、もしかすると初めてのことかもしれない。その笑顔はことによると、ドレスを着た姿よりも可愛らしい。

 

『士道と手を繋いでることがよっぽど嬉しいみたいね。私も七罪のこんな顔を見るのは初めてだわ』

 

 労いの言葉をかけることはできない。だが代わりにできることが一つだけある。それは少しでも長く、七罪が嬉しさを感じられるようにすること。

 士道は歩調を緩め、なるべく遠回りになる道を歩き始めた。

 

 

 




 七罪のお話はこれでお終いです。お疲れ様でした。
 できればキスの一つもさせたかったんですが、自然にそこまで持っていく展開は思い浮かびませんでした。ちくしょう、絶対にいつかキスさせてやる……。
 次のお話も今回と同じかそれ以上に時間がかかると思います。細々と続けていきますので、見かけたら読んで下さるとありがたいです。一応活動報告も書き始めたので、気になる方は冷やかし程度に読んでみてください。
 ちなみに次は美九か十香のお話を書く予定です。少なくとも七罪よりはイチャイチャさせられる……はず。


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十香ミッドナイト

 「ミッドナイト」=「深夜」
 今回は十香のお話です。意味ありげなタイトルですが全年齢対象なので気にする必要はありません。思ったよりも早く投稿できた……。
 明言していませんでしたが、この「士道デイリーライフ」は「鳶一デビル」後の設定です。そのため「五河ディザスター」であったことはまだ起こっていないので、お読みになる場合はその点を踏まえてくださると助かります。



 その日、士道は学校でいつも通りに過ごしていた。昼休みにトイレへ行き、戻ってくるまでは。

 

「夜のデェトだと? それは昼のデェトと何か違うのか?」

 

 教室に入る直前、十香の不思議そうな声が聞こえて入り口で立ち止まる。嫌な予感に見舞われてそっと中の様子を覗き見ると、そこに予想通りの光景を見つけた。自分の席に座ってきょとんとした表情を浮かべている十香と、その周りに立つ三人の姦し娘。亜衣、麻衣、美衣。

 

「もちろん大違いよ。んー、何て言えばいいのかな」

 

「昼のデートはイチャイチャできるけど、夜のデートはラブラブできるって感じかな」

 

「そーそー、雰囲気が違うって言うか、ロマンティックになるって言うか」

 

 どうやらこの三人娘はまた何か入れ知恵しようとしているらしい。話が怪しくなる前に止めるべきかもしれないが、今のところは大丈夫そうに見える。それに何より、デートについての女子の会話に割り込むなど、よほどの勇気と男気がなければ不可能だ。あいにく士道はそんな剛の者ではない。とりあえず話の成り行きを見守ることにして、耳を傾けた。

 

「むうっ、よく分からんがそれはいいことなのか? 私はシドーと一緒にいられればそれでいいのだが……」

 

 いまいち理解できていない顔の十香が、恥ずかしげもなくそんなことを口にする。十香のその気持ちは嬉しいものの、少々むず痒いというか、逆にこっちが恥ずかしくなってきてしまう。

 十香の反応に胸を打たれた三人が、三方向から同時に抱きつく。

 

「ああ! 何て純粋なの十香ちゃん!」

 

「もちろんとってもいいことよ! 手を握ってもらえたり、もしかしたらキスだってしてもらえるかもよ!」

 

「そうそう! 十香ちゃんのファーストキスが五河くん如きに奪われると思うと虫唾が走るけどね!」

 

 士道にとっては酷く失礼な美衣の言葉に、十香は顔を輝かせた。

 

「それは本当か!? またシドーにキスしてもらえるのか!?」

 

 そしてダイナマイト級の爆弾発言を教室に投下する。まるで衝撃波のように沈黙が広がり、次いで爆風の如くざわめきが広がった。

 

「ち、違うよな十香! キスなんてしたことないよなぁ!?」

 

 これは傍観している場合ではないと判断し、士道はダッシュで教室に入ると驚愕に凍りついた三人娘から十香を引き剥がした。

 

「何を言っているのだシドー! 私とは何度もキスをしたではないか! 忘れてしまったと言うのか!?」

 

 途端に傷ついた表情を浮かべ、教室全体に響く声で訴えてくる十香。追加のダイナマイトに教室内のざわめきが増していく。飛び交う声の多くは真偽を疑うものだったが、中にはどうやって士道を殺すかという物騒な相談も聞こえた。

 

「わ、忘れてねえって。そうじゃなくて、人前であんまりそういうこと言うべきじゃないんだよ」

 

「む、そうなのか?」

 

 注射針の如く鋭い視線(主に男子の)を全身に感じながら、士道は十香に耳打ちした。

 もちろん士道と十香が恋人同士なら、いくらキスをしていようと誰も文句は言えないだろう。だがその言い訳をした場合、確実に異議を唱える者が一人――

 

「……士道、どういうこと」

 

 今まで沈黙していた折紙が、絶対零度にも等しい呟きをもらした。教室中に聞こえるような大きさではなかったというのに、皆凍りついたように口を閉じる。

 

「お、折紙? どういうことって……どういうことだ?」

 

 席を立ちにじり寄ってくる折紙に本能的な恐怖を覚え、士道は後退りながら尋ね返す。

 何故折紙は怒っているのだろうか。キスによって精霊の力を封印できる士道の能力も、それによって折紙自身を含む精霊の力を封印したことも、すでに知っているはずだ。事情を知らないクラスメート達はともかく、全て知っている折紙が怒る理由など思いつかない。

 

「あなたが十香とキスをしたことは知っている。でもそれは必要に迫られた一回だけのはず。何度もしたことがあるとは聞いていない」

 

 『そっちか!』と士道は内心頭を抱えた。

 確かに霊力を封印するならキスは一度でいい。だからこそ折紙も、士道は精霊と一度しかキスしていないと思っていたのだろう。

 もちろん十香と交わしたキスは必要に迫られた際のものだ。十香の霊力を封印した時と、反転した十香を元に戻した時。少なくともこの二回は。しかし折紙の言い方から察すると、どうも十香が反転した時のことは知らされていないようだ。

 まあ一度十香からキスしてきたことがあるのだが、それを口にしてもいい結果にならないのは目に見えている。

 

「十香だけが何度も士道とキスしているのは不公平。私は一度しかしていない」

 

「な、何だと!? 嘘をつくな!」

 

 TNT並みの威力を持った折紙の爆弾発言に、再び教室内は騒然とした。男子は嫉妬と殺意剥き出しの視線を、女子は怒りと軽蔑に溢れた視線を向けてくる。

 しかしそれを気にする余裕は士道にはなかった。何故なら士道を壁際まで追い込んだ折紙が、ゆっくりと顔を近づけてきたからだ。まるでキスをしようとしているかのように。

 

「待て折紙! 何をしようとしているのだ!」

 

「公平を期するため私もキスしなければならない。怖がる必要はない。私がリードする」

 

「何!? どんなキスするつもりなの!?」

 

 士道は恐怖に体を震わせた。顔を背けようと必死に首を動かすが、両頬にそえられた折紙の手に固定されて全く動かせない。封印したとはいえ精霊化の影響が強く出ているらしい。

 

「おのれ、シドーから離れろ!」

 

 危うい所で十香が折紙を引き離す。解放された士道はすぐさま二メートルほど距離をとった。正直今のは十香が助けてくれなければ終わっていたかもしれない。

 

「あなたに私の行動を止める権利はない。卑怯な泥棒猫」

 

「な、何だと!? 私は猫どろぼうなどしていないぞ!」

 

「そういう意味ではない。泥棒猫とは人の男性を奪い取る女のこと。つまりまさにあなたのこと」

 

「いつからシドーが貴様のものになったのだ! そういう貴様こそ猫どろぼうだ!」

 

 そしていつも通りの喧嘩が始まる。この二人は相変わらず仲が悪いが、以前と比べればましになった方だろう。フルネームではなく名前で呼び合っているのがその証拠だ。よく考えるとそれ以外変わっていない気もする。

 

「五河くん」

 

 二人を止めに入るべきか迷っていると、士道は後ろから肩を叩かれた。振り向くとそこにいたのは、三人娘を筆頭とした女子の集団。皆一様ににっこりと笑っているが、全員同じ表情なのが逆に恐ろしい。

 

「ちょっと話聞かせてもらおうか」

 

「まあとりあえず座って」

 

「場合によっては大事なところが使い物にならなくなるから覚悟してね」

 

「……はい」

 

 そんな恐ろしい脅しを聞いては素直に従うしかない。麻衣が指差す床に正座し、士道は自分を取り囲む女子集団を見上げた。見下ろしてくるいくつもの瞳は怒りの炎を宿している。今のところは弱火程度の炎だが、対応を誤れば山火事の如く燃え盛るだろう。すでに嫌な汗をかいているというのに、これ以上の熱さは耐えられない。

 

「その、あれは誤解なんだって。俺も十香も折紙も、キスなんてしたことないからな」

 

 もちろん真っ赤な嘘である。実際には十香と折紙だけでなく、他にも六人の精霊――もとい女の子(うち三人は犯罪になるかもしれない)とキスをしている。もちろんそれを口にすれば確実に袋叩きにされてしまうので、嘘をつくしかない。

 

「ん、私達まだ何も聞いてないけど?」

 

「何、自白? カツ丼食べる?」

 

「情状酌量して欲しいの? 極刑から去勢に減刑してあげようか?」

 

 ひょっとすると話を聞く気はないのかもしれない。このままではこれからの人生を士織として生きることになりそうだ。流石にそんなバッドエンドは避けたい。一人歓迎しそうな人物に心当たりがあるが。

 とはいえ助けてくれそうな人物はこの教室にはいない。十香と折紙は喧嘩をしているし、友人である殿町は他の男子と共に『ざまあ』といった表情を浮かべている。まさに孤立無援の状態だった。

 

「歓喜。今日も夕弦たちの勝利です」

 

 しかし天は士道を見捨てなかった。特徴的な喋り方のする方向を見ると、そこにはちょうど教室に入ってくる夕弦と耶倶矢の姿があった。二人とも袋詰めのパンと紙パックの飲み物を手にしている。恐らく購買部で手にした戦利品だろう。

 頼れるのはもうこの二人しかいない。士道は視線で必死に助けを求めた。

 

「くくく、当然ではないか。我ら八舞の絆の力の前では、群れた亡者どもなど障害にすら――うん?」

 

 視線に気付いたのか、耶倶矢は言葉を切ってこちらを見た。あるいは円になっている女子たちが目に入ったからなのかもしれない。状況が理解できないらしく、顎に手を当て首を捻っている。

 

「……何をしているのだ士道。何かの儀式でも執り行っているのか?」

 

「疑問。集団いじめでしょうか」

 

「違うわ、これは制裁よ。うら若き乙女二人の唇を奪った、卑劣で最低なゲス野郎への」

 

「いや、だから誤解なんだって。二人も言ってやれよ。俺は誰ともキスなんてしたことないって」

 

 できればこれで状況を察して欲しい。士道は縋りつく思いで二人を見つめた。耶倶矢の方は相変わらず首を捻っていたが、夕弦の方は察してくれたらしい。喧嘩中の十香と折紙に目を向けると、納得したようにポンと手を打った。

 良かった、これで助かる。士道は思わず安堵のため息をもらす。

 

「告白。実は夕弦と耶倶矢も士道に唇を奪われました」

 

「はあっ!? おい夕弦!?」

 

 だが夕弦の起爆させたC4(お徳用二個セット)によって、期待は粉々に吹き飛ばされた。十香と折紙以外の教室中の生徒の視線が夕弦に集まる。二人は喧嘩に忙しくて周りの話が耳に入っていないらしい。

 

「補足。更にその後服を剥ぎ取られ、あられもない姿を見られてしまいました。夕弦と耶倶矢はもうお嫁にいけません。しくしく」

 

「お前分かっててやってるだろ!」

 

 わざとらしく両手で顔を覆い、泣く真似をする夕弦。誰も騙される筈のない臭い演技だ。しかし怒りで目が曇っている女子達は、あっさりと騙されてしまったようだ。怒りの炎の温度が急上昇している。

 これはまずいと一瞬で判断し、士道は一目散に逃げ出した。

 

「地獄に落ちろ五河あああぁぁぁぁぁ!!」

 

「貴様の死に場所はここだあああぁぁぁぁ!!」

 

「切り取られるか潰されるか、どちらか選べえええぇぇぇぇ!!」

 

 僅かに遅れて鬼のような形相の女子たちが追ってくる。捕まれば間違いなく男としての人生が終わる。そして始まるのは皆大好き、士織ちゃんの人生だ。

 

「覚えてろ夕弦うううぅぅぅぅぅぅ!!」

 

 せめてもの抵抗に捨て台詞を吐き、士道は怒り狂う女子たちから全力で逃げ回った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はあっ……今日は酷い目に合ったぜ……」

 

 夕刻。何とか午後の授業を乗り切った士道は、女子たちに捕まらないように速攻で帰路に着いた。去り際に放送コードに引っかかりそうな罵声をいくつも浴びせられたが、あえて聞かなかったことにしている。

 あの後士道が教室に戻ったのは授業開始直前で、夕弦の爆弾発言を取り消そうにも本人が自分の教室に戻ってしまったため、結局誤解を解かせることはできなかった。

 

「心配。何があったのですか、士道」

 

「いや、惚けてんじゃねえよ! 主にお前のせいだからな夕弦!」

 

 左隣を歩く夕弦が完全にすっ惚けているので、士道は思わず語気を荒くしてしまう。

 

「だが表現に問題はあれど、お主が我ら八舞に働いた所業は純然たる事実であろう?」

 

「ぐ……いや、それは……」

 

 今度は右隣を歩く耶倶矢が冷静に指摘してくる。確かに夕弦の言葉に嘘はほとんどなかった。霊力を封印するためとはいえキスをしたのは事実であるし、その結果霊装が消滅してあられもない姿を見てしまったのも事実だ。ただ一つ間違いがあるとすれば、唇を奪われたのは士道の方だということだろう。

 しかしそれ以外に間違いは見当たらず、返す言葉がなかった。

 

「と、とにかく、ちゃんと皆の誤解を解いてもらうからな。さもないと今日の夕食は二人とも抜きだぞ」

 

「懇願。それだけはご勘弁を」

 

「ちょっ、私何もしてないのに酷くない!?」

 

 よほどショックだったのか、目を丸くする夕弦と素に戻る耶倶矢。多少可愛そうな気もするが、女子たちの誤解を解いてもらわないとこっちが可愛そうな目にあってしまう。

 ちなみに耶倶矢は本当に何もしていないらしいが、否定もしていなかったので同罪としておく。連帯責任というやつだ。

 

「それが嫌なら、上手い言い訳を考えといてくれ。俺の話誰も聞いてくれないしな……」

 

 もちろん士道もただ逃げ回っていた訳ではない。誤解を解こうと努力してみたのだが、誰一人として話を聞いてくれなかった。しかし発言の主である夕弦たちの言葉ならきっと届くだろう。

 

「了承。致し方ありません」

 

「くっ、士道ごときの命に従わねばならぬとは……」

 

 夕弦は存外素直に頷き、耶倶矢は心底悔しそうに睨みつけてくる。完全にとばっちりを食った形の耶倶矢だが、夕弦のためか逆らう気はないようだ。この二人は本当に仲がいい。

 

「提案。どちらがより多くの方の誤解を解けるか、勝負をしませんか、耶倶矢」

 

 唐突過ぎる夕弦の言葉に、勝負大好きな耶倶矢の眉がぴくりと動く。

 

「ほう? 面白い。受けてたとうではないか、夕弦」

 

 二つ返事で引き受けると、歩いてきた道の方を向いて僅かに腰を沈める。同じように夕弦も腰を沈め、二人の姿が士道を挟んで左右対称の格好となった。二人の間に流れるのは妙に張り詰めた空気。西部劇なら草玉が転がってきそうだ。

 まさかこの二人、今から勝負を始めようとしているのではないだろうか。

 

「おい――」

 

 別に今行けなんて言ってないぞ。

 そう続けようとしたのだが、呼びかけた途端に二人が猛烈なスタートダッシュを決めてしまったため、口にすることはできなかった。風そのもののような速さで遠ざかって行く二人の姿を、士道は遠い目で見つめることしかできない。

 まあこうなっては仕方ない。今更後を追ってもあの二人に追いつくのは不可能だ。満足するまで放っておくのが一番いい。

 そう決めた時、士道は今まで後ろを歩いていた十香の様子がおかしいことに、初めて気がついた。両隣を夕弦と耶倶矢が駆け抜けて行ったというのに、何の反応も示していない。

ただただ俯いて何か深刻そうな顔をしている。そういえば夕弦と耶倶矢と話していたため気がつかなかったが、帰路についてから十香は一度も口を開いていない。

 

「どうかしたのか、十香。具合でも悪いのか?」

 

「む、違うぞ。少し考え事をしていたのだ」

 

 流石に心配になって声をかけると、思いのほか元気に返事をしてきた。何を考えていたのかは分からないが、それほど深刻なことではないらしい。

 

「考え事って何だ? 今日の夕食のおかずならハンバーグだぞ」

 

「おお、それはいいな! 楽しみだ!」

 

 少しからかうと、予想通り十香は顔を綻ばせる。だが数秒たつと間違えたように表情を変えた。

 

「いや、夕餉のことではなくてだな……亜衣麻衣美衣の言っていたことを考えていたのだ。夜のデェトのことをな」

 

 そのことか、と士道は昼休みにあったことを思い出す。確かにあの三人が十香にそんなことを話していた。というか吹き込んでいた。毎度毎度怪しげな知識を十香に吹き込むのは勘弁して欲しいものだ。

 

「なあ、シドー。シドーは夜のデェトがどんなものか知っているか?」

 

「……いや、全然知らないな」

 

 少し考えてから、士道は当たり障りなく答えた。

 実際には言葉の響きから大人な世界を想像してしまったので、口に出すことなどできなかった。

 

「おお、そうか……よし!」

 

 そんな答えに満足したのか、何故か嬉しそうな笑みを浮かべる十香。そして強く頷くと、真剣な瞳を向けてきた。

 

「シドー、以前私と交わした約束を覚えているか?」

 

「ん、約束?」

 

 今度の答えはお気に召さなかったようで、十香はむっとした表情を作る。しかし思い当たる節がないので仕方ない。

 

「一日学校でいい子にできたら、何でも一つだけ言うことを聞いてくれるという約束のことだ! 忘れたとは言わせぬぞ!」

 

「ああ、あの時の……」

 

 そういえばそんな約束をした。四糸乃と『よしのん』入れ替わり事件の時だ。<フラクシナス>へ行かなければならない(と嘘をついた)士道についてきたがっていた十香を、学校へ行かせるために交わした約束である。

 多くの波乱があったらしいが一応祖約束を果たした十香は、見事一つだけ言うことを聞いてもらえる権利を手に入れた。しかしそれを使う機会を見極めるためか、ずっと保留にしていたのだ。正直もう十香も忘れていると思っていたのだが。

 

「悪い悪い、だってお前何も言ってこないからさ」

 

「むー……」

 

 頬を膨らませて不満を露にする十香。しかしその頭を撫でてやると徐々に表情は緩んでいき、最終的には心底嬉しそうな笑みへと変わった。犬なら間違いなく尻尾を振りまくるほど嬉しそうだ。

 

「それで? 何か頼みたいことでもあるのか?」

 

「ん? おお、そうだ。忘れるところだったぞ」

 

 十香が思い出したような顔をしたため、士道は撫でるのを止めて手を引いた。一瞬名残惜しそうな視線を手に向けてきたが、すぐにこちらをまっすぐに見つめてくる。

 まあ話の流れからすると、頼んでくることは一つしかない。いくら士道でもそれくらいは分かった。

 

「シドー、私と夜のデェトをしてくれ!」

 

 僅かに頬を染めながらも、十香は遠くの民家にも聞こえそうなはっきりとした声で言い放った。恥ずかしさを感じながらもそんな声で口にしたのは、それだけ真剣なお願いということだろう。

 予想通りとはいえ、女の子からのデートのお誘いはやはり気恥ずかしい。しかし答えは最初から決まっている。ここで断ろうものなら十香の精神状態は乱れ、琴里から容赦のない罵声を浴びせられるだろう。士道は険しい目つきで答えを待つ十香に、笑顔で頷いた。

 

「おう、いいぞ」

 

 答えを聞いた途端、十香はこれ以上ないほど嬉しそうな笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『もうすぐ時間よ。準備はいい、士道?』

 

「ああ、大丈夫だ」

 

 インカム越しに尋ねてくる司令官モードの琴里に、士道は小声で返した。周りに人がいる訳ではないのだが、少々静か過ぎたからだ。

 時刻は午後九時。完全に夜中であり、良い子はそろそろ寝る時間だ。暗い夜道は電灯に照らされ部分的に明るくなっているものの、よほど曇っているのか月明かりは一筋も差していない。空にはただ黒い雲が広がっているだけである。

 あの後、十香は今日この時間を指定してきた。今回は夜のデートなので、休日まで待つ必要はなかったらしい。少々急ではあったが、琴里を筆頭とする<ラタトスク>のメンバーは問題なくサポートをしてくれるようだ。

 

「……にしても結構冷えるな」

 

『でしょうね。あと一時間半もすれば雪が降ってくるし』

 

「へ? 何でそんなこと分かるんだよ?」

 

 不審に思い、士道は尋ねた。

 確かに雪でも降りそうなほど寒く、空には分厚い雲が広がっている。しかし雪が降るなど断言はできないし、ましてそこまで正確に時間など分からないはずだ。

 

『顕現装置(リアライザ)を使って調べたに決まってるじゃない。天気予報なんて当てにならないわ』

 

 納得はできたが、また新たな疑問が沸いてくる。いくら<ラタトスク>の司令官とはいえ、空想を現実にする夢のような機械、顕現装置(リアライザ)をたかだか天気を調べるために使っていいのだろうか。まあCR-ユニットなどの兵器に使われるよりは平和的な利用法だが、年中無休で働いてくれている気象衛星の存在意義がなくなってしまう。

 

「そんなことに使っていいのかよ、あれって……」

 

『私がいいと言えばいいのよ』

 

 当然といった口調で疑問を一蹴してくる琴里。何だか空の向こうから気象衛星の泣き声が聞こえてきそうだ。顕現装置(リアライザ)が一般には秘匿技術なのがせめてもの救いだろう。

 

『にしても、夜のデートねえ……士道、ホテルの予約でもしといてあげましょうか?』

 

「余計なお世話だ! ホテルなんか絶対行かないからな!」

 

 冗談めいた口調だったが、琴里ならやりかねない。実際十香との初デートでは大人のホテルへ行かせられる所だった。

 

『あら、そこらの路地裏の方が好み? 人の視線を感じると興奮するタイプなのね。神無月と一緒だわ』

 

「人を変体みたいに言うな!」

 

 反射的に返してから気付いたが、今の言い方では神無月を変体呼ばわりしているように取られてしまうかもしれない。まあどちらかといえばそう思っているし、恐らく本人は気にしていないだろう。インカムの向こうから『ありがとうございます!』という神無月の感謝の声が聞こえた。

 

『まあ士道の特殊な性癖は一旦置いときましょう。十香が今そっちに向かってるわ。まずはちゃんと服装を誉めてやりなさい』

 

「いや、置いとくな。俺にはそんな趣味は――」

 

「おーい、シドー!」

 

 訂正させようとした所、途中で自分を呼ぶ声が聞こえてきた。声のした方向を見ると、丁度十香が精霊用マンションから出てきた所だった。

 駆けてくる十香の首元にはマフラーが巻かれていて、端の部分が動きに合わせてゆらゆらと揺れている。手にはマフラーと同じく、ピンク色の手袋。どちらも毛糸で作られていて、とても暖かそうだ。

 とはいえ十香の着ている薄紫色のセーターほどではないだろう。ケーブル編みというやつだろうか、縦に模様がいくつも入っている。これだけ暖かそうな格好をしている割にはミニスカートなのだから、女の子というものはよく分からない。スカートと同じ色の、黒いニーハイソックスに包まれた白い太股は何とも寒そうだ。

 

「すまんな、シドー。待たせたか?」

 

「いや、俺も今きたところだよ。十香、その格好は……」

 

 士道が指差すと、十香は自分の姿を見下ろし、次いで手袋とマフラーを交互に見やった。

 

「おお、これのことか。夜は冷えるから身に着けていけと言われてな。どうだ、似合うかシドー?」

 

 手袋を見せびらかすように両手を顔の前まで上げ、無邪気に笑う十香。正直その笑顔には寒さも吹き飛びそうなほどの破壊力があった。気のせいか普段より笑顔が輝いている気がする。

 

「あ、ああ、似合ってる。可愛いぞ、十香」

 

 笑顔にやられて心拍が速まっていたが、士道はあくまでも冷静に返した。分かりやすい反応を示せば、容赦なく琴里に馬鹿にされてしまう。例えば僅かに目を見開き、頬を染めている十香のような、分かりやすい反応では。

 

「お、おお、そうか……よし。では行くぞ、シドー! 夜のデェトに!」

 

 照れ隠しなのか妙に語気を荒くして、十香はまっすぐ手を伸ばしてきた。これは恐らく手を握れ、ということなのだろう。七罪が半日かけたことをたった一瞬で行われると、七罪の涙ぐましい努力が虚しく思えてくる。まあ十香と七罪を比べても仕方がないことなのだが。

 差し伸べられた手を少々複雑な気持ちで取り、軽く握る。

 なるほど、確かにこれは暖かい。そこそこ厚手らしく、手の平から指先にかけて柔らかい感触が伝わってくる。

 

「それじゃあ、行くか――って、どうしたんだ十香?」

 

 視線を繋いだ手から上に戻すと、そこには何故か不機嫌そうな十香の顔があった。口を一文字に引き結び、繋いだ手をじっと睨みつけている。何も間違ったことはしていないはずなのだが、無言で睨まれると流石に不安を禁じえない。

 

「……少し待っていろ、シドー!」

 

 そう口にすると、十香は手を離して精霊用マンションへと走っていく。赤いリボンで結ばれた夜色の髪が、その背中で不満を表すように揺れていた。

 

「……どうしたんだ、十香の奴?」

 

『さあ?』

 

 行動の真意がさっぱり分からなかったので聞いてみたものの、琴里にも分からないらしい。一応士道は手の平を見てみたが、別に汚れているという訳ではなかった。ならば一体何が気に障ったのだろうか。そもそも何故戻っていったのだろうか。

 首を捻って待っていると、三十秒もたたずに十香が戻ってきた。

 

「待たせたなシドー! では今度こそ行くぞ、シドー!」

 

 そして再び、手を差し伸べてくる。ただしその手は毛糸の手袋に包まれておらず、白い肌が夜の空気に晒されている。どうやら手袋を部屋に置いてきたらしい。

 

『あー、そういうこと。士道の手の温もりを感じられないのが嫌だった訳ね』

 

 琴里が納得いったような声をもらす。確かにこの状況ではそれ以外考えられない。しかしわざわざ手袋を置きに戻る必要はなかったのではないだろうか。 

 

「ん!」

 

 せかすように、更に手を突き出してくる十香。

 ここまでされたら手を握らない理由はない。士道は再び十香の手を取り、優しく握った。途端に女の子特有の柔らかさと暖かさが伝わってきて、どきりとさせられてしまう。確かにこれなら手袋など邪魔なものに思える。

 念のため十香の顔色を窺ったが、いらぬ心配だったらしい。これ以上ないほど満足そうな笑みを浮かべ、何度も頷いていた。

 

「それで……どこか行きたい所とかあるのか?」

 

「むうっ、実はあまり考えていないのだ。私はシドーと夜のデェトができれば、それでいいのでな」

 

 十香が恥ずかしげもなくそんなことを口にすると、インカムの向こう側からはやし立てる声と口笛が聞こえてきた。それも一人や二人のものではない。

 

「茶化すな!」

 

「ん、何か言ったかシドー?」

 

 声を抑えたつもりだったが、いかんせん周りが静かすぎたため聞こえたらしい。

 

「あ、いや。何でもないぞ。じゃあどこに行くかな……」

 

 士道はインカムを指で突つこうとした。流石に夜のデートというものは初めてなので、助けなしでは難しい。

 その直前、女の子にしては少々力強い腹の音が、十香のお腹から聞こえてきた。これには士道も反応に困ってしまう。つい三時間ほど前に常人では考えられない量を食べたはずなのだが。

 

「おっと、選択肢よ士道」

 

 困惑する士道の耳に、慣れた口調の琴里の声が聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 分厚い雲の遥か上、高度一万五千メートル。そこに姿を隠して浮遊する空中艦<フラクシナス>の艦橋には、いつも通りの光景が広がっていた。メインモニターには仲良く手を繋いで並ぶ、士道と十香の姿。艦橋下段にはそれぞれの持ち場につき、琴里からの指示を待つ令音やクルーたち。そして艦長席に座る琴里自身と、隣に立つ変体、もとい神無月。

 夜九時という遅い時間に召集をかけたにも関わらず、誰一人として欠けている者はいない。流石は自慢のクルーたちである。とはいえ中には酒臭かったり、タバコ臭かったりする者はいる。まあこれくらいは大目に見てやるべきだろう。アニメの予約をちゃんとしてきただろうかと不安がっているのが一人いるが、そっちは特に何もしてやることはない。

 

「さて、選択肢ね」

 

 口の中で好物のチュッパチャプスを転がしながら、琴里はモニターに表示された選択肢を見つめた。

 ①暖かいラーメンを食べに行く。

 ②お腹に溜まる焼肉を食べに行く。

 ③聞こえなかったふりをしてデートを続ける。

 

「各自選択」

 

 琴里が指示を出すと、すぐさまクルーたちの選択結果が艦長席のディスプレイに送られてきた。結果は①と②がほぼ同数、③にも僅かだが票が入っている。

 

「①と②が半々ずつか。まあ妥当な所よね」

 

 琴里が感想をもらすと、艦橋下段でクルーたちが意見を主張し始めた。

 

「いやいや、やはりここは定番のラーメンにすべきでしょう!」

 

「笑止! 我らが十香ちゃんの胃袋をラーメン如きで満たすことができるとお思いか! やはりここは焼肉でござりましょう!」

 

「聞こえなかったふりをする優しさはないんですか!? 女の子にとってはすごく恥ずかしいことなんですよ!」

 

「ならあんたには関係のない話でしょう! 女の子っていう年じゃあるまいし!」

 

「ああ!? 今何て言った!?」

 

 選択肢がほとんど半々に分かれているせいか、なかなか意見が纏まらない。というか段々と口げんかに移りつつあるようだ。

 

「どうしたもんかしらねえ……」

 

 頬杖を付き、琴里は一人呟いた。

 少なくとも③はない。空腹の十香を放置すれば、まず間違いなく精神状態に影響が出てしまう。となると①か②になるのだが、夕飯のおかずがハンバーグだったことを考えると、同じ肉よりはラーメンの方がいいかもしれない。しかしそれでは十香が満足する量には至らないのも事実だ。果たしてどちらにするべきか。

 

「ここは②にすべきでしょう。焼肉屋といえど平日の夜間なら空いていますし、二人きりでテーブル席に座れる筈です。それに焼肉屋のテーブル席は隣と仕切られていることが多いですから、よりよい雰囲気を作ることができます」

 

 琴里が悩んでいると、神無月が口を開いた。驚くべきことにまともなことを言っていて、しかも的確な分析である。顕現装置(リアライザ)で調べたので間違いはないはずだが、もしかすると雪ではなく雹が降ってくるかもしれない。

 

「ふぅん。珍しくまともなこと言うじゃない、神無月」

 

「お褒め頂きありがとうございます、司令。ちなみに補足すると、私はできたてのラーメンの熱さより肉を焼く鉄板の熱さの方が堪りません」

 

「士道、②よ。焼肉でも食べに連れて行ってあげなさい」

 

 やはり顕現装置(リアライザ)に間違いはなかった。どうやら誉める必要も無かったらしい。とはいえ発言は的確なものであったため、琴里は怪しい補足を無視して士道に指示を出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……十香、焼肉でも食べに行くか?」

 

「おお、それはいいな! ちょうどお腹が空いていたのだ」

 

 十香は瞳を輝かせながら頷く。わざわざ口にせずとも空腹なのは知っている。

 喜んでくれて何よりなのだが、十香と違い常人の胃袋を持つ士道は空腹ではなかった。まあ夕食から三時間たっているので胃に多少の空きはあるものの、焼肉などという重いものを詰め込むのは到底無理そうだ。ここはお茶でも飲みながら十香が食事を終えるのを待つのが賢明だろう。

 そう決めた士道は、十香と共に住宅街を歩き始めた。もちろん手は繋いだままである。

 流石に昼間歩く道とは雰囲気が違う。暗い夜道に響くのは自分と十香の足音だけであり、あまりにも静かで少々不安になってくる。時折横を通る車やバイクの騒々しさが、妙に心地よく感じてしまうほどだ。

 

「しかしあれだな。本当に夜のデェトはいつものデェトとは違うな」

 

「そうだな。ちょっと静か過ぎて落ち着かないよな」

 

「む、そうか? 確かに少々静かだが、私は特に何とも思わんぞ?」

 

 答えが意外だったのか、驚いたような顔をしてこちらを見る十香。

 

「……何故だろうな、むしろ私はこの方が落ち着く。もしかするとシドーと二人きりでいるのだと、強く実感できるからなのかもしれないな」

 

 そして穏やかな口調で続け、繋ぐ手に力を込めてきた。まるでより強く温もりを感じようとしているかのように。

 夜なのでテンションがおかしいのか、再びインカムから<フラクシナス>クルーたち(恐らく琴里も含む)の口笛その他が耳に入ってくる。怒鳴り返したい所だが、十香との距離と周囲の静寂を踏まえると、小声でも間違いなく聞こえてしまうだろう。

 仕方なく士道は怒りと羞恥、そしてクルーたちの煽りに耐えながら歩き続けた。せめて十香が何か話してくれれば気が紛れるのだが、穏やかな笑みを浮かべたままほとんど喋ろうとしなかったため、あまり紛れることはなかった。一体何がそんなに嬉しいのだろうか。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわ、すごい匂いだな……」

 

 店に入った途端、これでもかというほど焼肉の芳ばしい香りが押し寄せてきた。店先にも漂っていたが、やはり内部の方は比べ物にならない。空腹ではない士道にとっては、この香りだけでお腹いっぱいである。

 

「うむ、食欲が沸いてくるな!」

 

 店中に広がる香りと肉の焼ける音に刺激されたらしく、十香は今にも涎を垂らしそうな表情をしている。果たしてどれだけ食べるのやら。

 店内はそれほど混んでいないようだった。店の中心付近とカウンターに客が四、五組ほどいるだけだ。皆自分の席で肉を焼くのに忙しいらしく、士道たちの方を見る者はいない。しかし遠くにいた女性店員がこちらに気付き、すぐさま駆け寄ってきた。

 

「いらっしゃいませ。二名様ですね。テーブル席になさいますか?」

 

「あ、はい。じゃあテーブルで」

 

「かしこまりました。ではこちらへどうぞ」

 

 案内されたのは店の隅にあるテーブル席だった。隣の席とは木版で仕切られていて、ちょっとした個室のようになっている。恐らくこの店員は士道と十香をカップルと勘違いして、気を使ってくれたに違いない。まあ勘違いされるのも無理はなかった。十香が手を離してくれないので、未だに手を繋いだままだからだ。

 

「ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい。それでは」

 

 最後に妙に穏やかな笑みを浮かべ、店員は一礼して去っていった。冷やかしが面白くないのは言うまでもないが、これはこれで恥ずかしいものがある。

 

「流石に店の中は暑いな。これはいらぬか」

 

 席に座るなり、十香はマフラーを外した。店内は常に肉が焼かれている状況なので、換気しているとはいえ暖房がかかっているのと同じことである。マフラーをしていては熱くてたまらないはずだ。

 マフラーを横に置いた十香に、士道はテーブルに備えられていたメニューを手渡した。

 

「ほら十香。何か食べたいものあるか?」

 

「むう、どれもうまそうで迷ってしまうな……」

 

 メニューを広げ、真剣そのものといった表情で凝視する十香。この分では全て見終わるまで決まらないだろう。

 

「おお、これはいいな! シドー、私はこれにするぞ!」

 

 そう思いきや次のページをめくった途端、十香は興奮気味に声を上げた。

 

「早いな……何にしたんだ?」

 

「うむ! これだ!」

 

 見せてきたページにあったのは、とにかく巨大なステーキの写真。比較対象がないので分かりづらいが、厚みと幅が尋常ではない。どう軽く見積もっても百科事典くらいはありそうだ。

 

「時間内に完食すれば金子がもらえるのだぞ! どうだ、とてもお得だろう!」

 

 肉の異常さに目が行ってしまい気付かなかったが、確かにそのようなことが書かれている。三十分以内に完食すれば代金はただになり、賞金までもらえると。

 ついでに肉の重さは二キロあると書かれている。百科事典という例えは火力不足だったかもしれない。

 

『二キロを三十分か……十香なら楽勝ね』

 

「だな、話にならないぜ」

 

 とはいえ十香なら苦もなくたいらげてしまうに違いない。

 

「シドーもこれにしないか? とてもうまそうだぞ」

 

「いや、俺は腹へってないしいいよ。ていうか腹へってても食える気しないし……」

 

『お馬鹿。いくら十香でも士道が何も食べなかったら遠慮するでしょうが。後で吐いてもいいから無理して食べなさい』

 

「吐くまで食うこと前提なのかよ!?」

 

 慈悲の欠片もない琴里の指示。確かにいくら十香といえど、自分一人だけ食事をするのは抵抗があるかもしれない。二キロあるステーキを食べること自体に抵抗はないだろうが。

 

「そうか……では私だけ食べる訳にはいかんな……」

 

 案の定、おあずけをくらった犬のような悲しげな顔をする十香。

 これはいけない。十香に空腹を我慢させれば、間違いなく精神状態や感情値に乱れが生じてしまう。

 

「い、いや! 何か急に腹がへってきたな! やっぱり俺も食べようかな!」

 

 棒読みで不自然なことこの上ないが、幸い十香は不審に思うことはなかったようだ。沈んでいた表情を途端に明るく輝かせる。

 

「おお、そうか! よし、では私がシドーの分も頼むぞ!」

 

「へっ? いや、ちょっと待った十香――」

 

「おーい、注文だ! この大きなステーキを二人分頼むぞー!」

 

『残念、手遅れよ。覚悟を決めなさい、士道』

 

 制止が間に合わず、十香は店中に響くほどの大きな声で注文を口にした。当然ながらその声は他の客たちにも聞こえた訳で、こんな馬鹿げた注文をするのはどんな奴か一目見ようと、カウンターや仕切りの向こうからこちらを覗く顔がいくつも見える。最も多い表情は驚きだが、声の主である十香の姿を目にした途端、先刻に倍する驚きを示していた。

 

「嘘だろ……あんな可愛い子があの化け物肉を食べるってのか?」

 

「待て、決め付けるのは早い! ひょっとしたら一緒に座ってる男が食うのかもしれないだろ!」

 

「いや、あの子さっき二人分って言ったぞ。てことはやっぱりあの子も食うんじゃないか?」

 

「そ、そうか……いや待て! あの男が二人分食べる可能性もあるぞ!」

 

「君ら何大騒ぎしてんの? 大食いの女の子とかマジ最高じゃん。好みどストライクだわ」

 

 まあ彼らが驚くのも無理はない。士道も実際に十香が膨大な量の食事をしている場面を目にしていなければ、こんなにきれいでスタイルのいい子がとんでもない健啖家だとは露ほども思わなかっただろう。

 

「待ち遠しいな、シドー!」

 

「あ、ああ、そうだな……」

 

 嬉しそうな笑みを向けてくる十香。不安を忘れさせてくれそうなほど純真な笑顔だったが、残念ながら士道の不安は簡単には消え去らなかった。

 

「お、お待たせしました……こちらがご注文の品に、なります……」

 

 十分後、先ほどの女性店員が重さに両腕を震えさせながらそれを運んできた。心なしか顔色が悪い。まあ横に長い二キロの物体を片手に一個ずつ持てば当然だろう。

 

「おおっ!」

 

「おおぅ……」

 

 テーブルに置かれたすでに焼かれている肉を目にして、十香は感嘆の声をもらす。しかし士道の口からは絶望に近い呻きしか出てこなかった。

 やはり実物は写真とは違う。これは百科事典より一回りは大きい。皿ではなく鉄板に載せられているが、明らかに鉄板からはみ出ている。添えられたフォークとナイフが爪楊枝に思えるほど巨大だ。

 

「そ、それでは今から三十分となります。頑張ってください!」

 

 多少息を切らせながら言うと、店員はタイマーを押して去っていった。どうやら相当重かったようだ。少々申し訳なく思ってしまう。

 

「よし、食べようシドー! いただきますだ!」

 

「あ、ああ……いただきます」

 

 全く気が進まないが、注文した以上食べない訳にはいかない。フォークとナイフを手に取り、士道は改めてその肉の塊を見つめた。

 大きさに目が行きがちだが、とてもおいしそうに焼けている。肉の表面に焦げはなく、多少の差はあるが全体的に見事な狐色だ。未だに鉄板の上で音を立てている点も実に食欲をそそる。

 しかしどう頑張っても士道が食べられる量ではなかった。というかどこから食べればいいのかさえよく分からない。

 

「うむ。おいしいな、シドー」

 

「あ、ああ……」

 

 一口でかなりの量を食べていく十香に、反射的に頷く士道。気のせいか十香のステーキはすでに一割ほど減っているように見える。

 

『生返事ばかりしてないでさっさと食べたら? 冷めたら余計辛くなるわよ』

 

「こんなもの食えるか! 何だよこの医学書みたいな大きさの肉!?」

 

『そりゃあ二キロもあるから当然でしょうね。大丈夫、全部食べろとは言わないわ。半分で許してあげる』

 

「いや三食抜いてても半分いけるかは怪しいぞ!?」

 

『ごちゃごちゃ言ってないでとっとと食べなさい。十香に怪しまれるわ』

 

 冷徹極まりない琴里の命令。司令官モードになっているとはいえ、本当にこれが可愛い妹の言葉なのだろうか。あんなに優しかった(ような気がする)のに。お兄ちゃんはとっても悲しかった。

 しかしこのままでは十香が不審に思うのも事実だ。もう行けるところまで行くしかない。士道は覚悟を決め、二本の得物を携えて怪物へと挑みかかった。

 その十分後。

 

「ごちそうさまだ!」

 

 二キロのステーキをきれいにたいらげた十香が、満足そうな笑みを浮かべた。当然ながら店内はその快挙に騒然としている。

 

「はええ! まだ十分もたってねえぞ!」

 

「会話しながらで十分とか……フードファイターか何かなの?」

 

「フードファイター? やばいな、余計俺好み」

 

 遠巻きに見ている客達が何か言っているが、気にするほどの余裕は士道にはなかった。

 

「ははっ……早いな、十香……」

 

 無理に笑ってみるものの、胃の中の沸騰するような感覚は薄れない。

 もちろん士道は怪物を打ち倒すことなどできなかった。何とか四分の一程度は胃の中に押し込んだが、正直もう限界である。後一切れでも肉を口にすれば、確実にリバースしてしまう。というかすでに喉の辺りまで出かかっている。

 

「士道は少し遅いな。先ほどから手が止まっているぞ?」

 

「……実はあんまり好きな味じゃなくてな。食欲出ないんだよ」

 

 実の所非常にうまかったのだが、この際そんなことはどうでもいい。この悪夢のような食事を終えられるのならもうどんな嘘でもつく。そして最低でも一年はステーキを口にしない。

 

「む、そうだったのか……」

 

 納得したように呟く十香。しかしまだ何か言いたいことがあるらしく、ちらちらと視線を下の方に向けている。その先にあるのは、士道が食べ残した呆れるほど大きな肉の塊。

 まあ何が言いたいのかは考えれば分かるし、考えなくとも物欲しそうな顔をしている十香の顔を見れば十分である。

 

「……良かったら食べるか?」

 

「おお、食べる! 食べるぞ!」

 

 力いっぱい頷く十香に、士道は残ったステーキ(およそ一キロ半)を押しやった。『まだ食えるのか!』という声が店中から聞こえたような気がした。

 そして五分後。

 

「ごちそうさまだ、シドー!」

 

 一キロ半のステーキを完食した十香が、再び満足そうな笑みを浮かべた。四分の一へっていたとはいえ、食べ終わるのが先ほどより早いのはどういう訳なのだろうか。

 

「マジで食いやがった!」

 

「どうなってんのあの子の胃袋!?」

 

「あの少女こそ我が女神!」

 

「お前恋人いたよな、確か……」

 

 計三キロ半のステーキを制限時間の半分で食べ終えたことに、もはや客たちは驚きを通りこして動揺を露にしている。悲鳴に近い声が店中で上がっていた。

 

「満足したか、十香?」

 

「うむ。満腹ではないが、腹八分と言うしな。このくらいでやめておこう」

 

 流石十香だ。肉三キロ半をこのくらい呼ばわりするとは。客たちはもはや言葉も出ないらしい。

 不意にどこかから拍手が鳴り響き、士道は音のする方向を見やった。白一色のコック姿をした中年の男性が、拍手をしながら近づいてくる。その顔に浮かんでいるのは人の良さそうな笑みと僅かな悔しさ。たぶん彼は店長か料理長なのだろう。妙に長いコック帽が頭の上で揺れているのを見て、士道はそう判断した。

 

「いやー、まさかほとんど二人分食べる方がいるとは……しかもこんなに可愛らしいお嬢さんが……」

 

「あ、すいません。俺の分はちゃんとお金払います」

 

 テーブルまできて何故か嬉しそうに言う店長(そう決めつけた)に、士道は頭を下げた。あのステーキは一人で制限時間内に食べ終えなければいけないものだ。十香は見事それを成し遂げたが、士道が残した分はその条件に当てはまらない。

 だからこそ代金を払おうとしたのだが、店長は制するように片手を上げた。

 

「いえ、いいんですよ。久しぶりにいい食べっぷりを見せてもらいましたし」

 

「そ、そうですか……ありがとうございます」

 

 どうもこの店長は人がいいというか、随分と気前がいい。二キロ分のステーキの値段はどう軽く見ても辞書七、八冊分に相当していたというのに。

 もしかするとあのステーキは儲かるためというより、店長自身が楽しむためのものかもしれない。それなら嬉しそうな笑みを浮かべていた理由も納得がいく。

 

「どうです、記念に写真を撮りませんか? 完食できた方の写真をあそこに飾るようにしているんですよ」

 

「な、何!? 写真だと!?」

 

 店長の指し示す方向を見ようとしたのだが、十香が顔を真っ赤にして驚いていたため後回しにした。前にも教えたというのに、まだ勘違いしているようだ。士道は少々呆れながらテーブル越しに耳打ちした。

 

「いや、前にも言ったけど服脱ぐ必要はないからな、十香……」

 

「お、おお、そうだったな……よし! シドーも一緒でよければ撮るぞ!」

 

「ええ、恋人さんも一緒で構いませんよ。ではお二人ともこちらへどうぞ」

 

 どうやらカップルだと思われているらしい。否定しようかとも思ったが、十香が満更でもない表情を浮かべていたので止めておいた。精神状態が乱れる危険を冒してまで否定することではない。

 

「行こうシドー! 写真を撮りに行くぞ!」

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ十香……」

 

 軽い身のこなしで席を立つ十香。しかし士道の方は腹が重くて立ち上がることができなかった。

 

『情けないわねえ……』

 

 そんな士道に琴里が優しい言葉をかけてくれることなど、当然ありえなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おお……写真というのも、なかなかいいものだな」

 

 感動したような声をもらす十香の手には、一枚の写真が握られている。もちろん焼肉屋で撮った士道と十香の写真だ。店に飾る用以外にも印刷してくれたのでもらっておいたのだが、十香は非常に気に入ったらしい。隣を歩きながら、ためつすがめつ見入っている。

 その様子を微笑ましく思いつつも、士道はどことなく寂しさを覚えてしまった。たった一枚の写真を大切そうに抱え、顔を綻ばせるその姿。それはまるで、あの七夕の日にいなくなってしまった少女のように儚く思えて――

 

『……士道、いつまでも感傷に浸ってないで、十香と何か話をしなさい』

 

 感情が顔に出ていたのだろうか。琴里は相変わらず命令口調だったが、声音には慰めるような優しさが感じられた。

 十香にも琴里にも心配をかける訳にはいかない。士道は微笑みを作ると、十香の顔を覗き込んだ。

 

「写真、そんなに気に入ったのか?」

 

「うむ。この写真を見ていると何というか、こう……胸が温かくなってくるのだ」

 

 こちらを見て答えた十香は、言い終えるなり再び写真に目を戻した。写真に写っているのは、満面の笑みでピースサインをしている十香の姿。そして十香に左手を抱かれ、恥ずかしそうに目を逸らす士道の姿。

 確かに微笑ましさで胸が温かくなりそうな光景が切り取られている。もっとも写真の中の士道は肉の詰め込みすぎで顔を青くしているので、微笑ましさより痛々しさが感じられた。ちなみに店に飾ってあった写真の多くにも、同じように顔の青い人たちが写っていた。案外あの店主は性格が悪いのかもしれない。

 そんな写真を大層気に入っている十香の純粋さに、士道は思わず苦笑した。

 

「ははっ。それなら写真立てに入れて枕元にでも飾ったらどうだ? 起きた時とか寝る前とかに見られるぞ」

 

「おお!? それは……いいな! 起きたらすぐシドーの顔が見られるのか!」

 

「あ、ああ、まあそうなるな……」

 

 予想以上の驚きと喜びを示す十香に、士道は少々気圧されてしまう。起きてすぐに士道の顔を見られることが、そんなにも嬉しいことなのだろうか。確かに寝起きに十香の眩しい笑顔を見られたら、とても爽やかな気分になれるかもしれない。しかし気分の悪そうな士道の顔に、そんな効果があるとは思えなかった。

 

「よし! では行くぞシドー!」

 

「えっ、ちょっと待てよ十香! 行くってどこにだ?」

 

 突然繋いでいた手を引っ張られたため、士道は尋ねた。振り返った十香は当然といった顔をして、なおも手を引っ張ってくる。

 

「写真立てだ! 写真立てを買いに行くぞ!」

 

「い、今からか?」

 

「善は急げだ! 行くぞシドー!」

 

「うわっ、ちょっ! 引っ張るなって十香!」

 

 はしゃぐ十香に手を引かれ、夜の街を駆けていく。その横顔に浮かぶ楽しさ全開の笑みに、士道は呆れの笑いをもらした。どうやら十香には儚さは無縁のようだった。 

 

 

 

 

 




 ちょっと見せ場が少ないような気もしますが、前編終了です。というかステーキ食べただけですね。何はともあれお疲れ様でした。短編集なのに毎回二部構成になっている気もしますが、それもたぶん気のせいでしょう。
 そういえばもうすぐ「デート・ア・ライブTwin Edition 凜緒リンカーネイション」が発売されますね。前二作を持っていなかったのでこの一本でとても楽しめそうです。できればゲーム版のキャラクターのお話も書きたいなぁ……でもそろそろ期末試験の勉強に集中しないと駄目か……。


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十香グッドナイト

 「グッドナイト」=「おやすみ」
 十香にとってのグッドなナイト(良い夜)と、夜のデートの終わり(おやすみ=グッドナイト)をかけた、言われないと分からないノーグッドなタイトル。何でグッドナイトでおやすみなんだろ……。
 今回の出来は少し自信がないというか、何とも言えぬ出来になってしまいました。後編に見せ場が集中したせいか、詰め込み過ぎてまとめられていないかもしれません。悪ノリし過ぎたことも原因かも……。


「むっ、真っ暗ではないか。停電でも起こっているのか?」

 

 エレベーターを降りるなり、十香はその階の暗さに首を傾げた。

 時刻は午後十時。雑貨屋で写真立てを購入した後、十香が夜のデートらしいことをしたいと言ったので、天宮タワーからの夜景を見に行くこととなった。本当にそれが夜のデートらしいことなのか、士道にはいまいち分からなかったが。

 

「いや、これは景色が見やすいようにわざと暗くしてるんだよ。ほら、町の方が明るくてよく見えるだろ?」

 

 士道が窓の方を指差すと、つられてそちらを見た十香は訝しげな表情を浮かべた。まあエレベーター前からではガラス張りの壁の向こうに見えるのは暗闇だけなので、そう思われるのも無理はない。

 

「まあここからじゃ見えないよな。もっと近くに行こうぜ、十香」

 

 頷いた十香の手を引いて歩き出す。途中までは士道が引っ張っていたのだが、夜景が見えてくるなり十香は驚きの声を上げ、一人で走って行ってしまった。

 

「おお! すごいぞシドー! ぴかぴかしていて綺麗だぞ!」

 

「と、十香! ここでは静かにな……」

 

 興奮した様子で声を上げる十香に、士道はすぐさま駆け寄って注意した。どうもこの場所では静かにするのが暗黙の了解らしく、話し声さえほとんど聞こえなかったからだ。周りを見れば非難するような視線がそこかしこから向けられている。ただ視線の主たちはカップルが多かったので、デート場所のチョイスは間違っていなかったらしい。

 

「ぬ、すまん。つい興奮してしまってな……」

 

「はは、まあ仕方ないよな。十香はこういう景色を見るのは初めてだもんな」

 

 思い返すと十香と見たことがあるのは、夕焼けに染まる町並み程度だ。一緒に夜景を見たことは一度もない。

 ガラスに手をつき、興味津々といった様子で景色を見下ろす十香にならい、士道も隣で眼下に目をやる。そこに広がっていたのは、地上にできた星空とでも表現すべきものだった。

 暗い町並みに明るく輝くのは信号やネオンサイン、車のライトといった人工の光。普段意識することはないがこうして遠くから見てみると、小さな星々の如く瞬いているのが分かる。それらが密集している渋滞した道路などは、まるで天の川のように美しい光景だ。ただ視点と距離が変わっただけだというのに、見渡す限り幻想的な光の園が広がっている。これほどの光景ならば、十香が興奮を覚えるのも無理はない。

 

「なぁシドー、シドーの家はどの辺りにあるのだ?」

 

 夜景に見入っていた十香は、ガラスに手をついたままこちらに顔を向けてきた。楽しそうな笑みを浮かべているところを見るに、ここにつれてきたのは正解だったらしい。

 

「そうだな……大体あの辺かな? 多分あれが精霊用マンションだろうし」

 

「おお、そうか。ということは学校は……あそこか!?」

 

「うん、逆方向だな。ていうかそんなビルの密集したところにはないだろ」

 

 自信満々に明後日の方向を指差す十香。どうやら方向感覚に難ありのようだ。

 

「先ほどの焼肉屋があそこで、ラーメン屋があそこで、パン屋があそこで……」

 

「何で食べ物関係のところだけピンポイントで分かるんだよ!?」

 

 学校の場所は間違えたにも関わらず、食品関係の店舗は驚くべき精度で当てている。何というか、実に十香らしい。

 その後も次々と店舗(やはり食品関係)の位置を十香は正確に指し示していく。きっと天宮市食べ歩きマップなるものが頭の中にあるのだろう。士道は呆れと感心が混ざり合った複雑な気持ちでそれを見ていたが、やがて十香の手がぴたりと止まった。不思議に思ってその手を辿って見てみると、今まで浮かんでいた眩しい笑顔は慈しむような穏やかな笑みに変わっていた。

 

「やはり世界は美しいな、シドー。以前までの私なら、こんな美しい光景に気が付くことなどなかっただろうな」

 

 どこか遠い目を眼下の夜景に向ける十香。確かに以前までの十香なら、こんな素晴らしい光景も知りえなかっただろう。現界する度にASTに攻撃を加えられ、ひたすらに存在を否定され続けていたあの頃は。

 だが次にこちらへ顔を向けた十香は、そんな辛い日々を過ごしていたのが嘘のような無垢な笑みを浮かべていた。

 

「だが今は違うぞ。シドーのおかげで、こんなにも素晴らしい光景を目にすることができるのだ。それもシドーと一緒にな。だから私はとても幸せだぞ?」

 

「そ、そうか……よかったな……」

 

『そうか、よかったな。じゃないでしょ、士道。もっと気のきいた台詞を言いなさいよ』

 

 本当は自分でももっと気のきいたことを言ってやりたかったのだが、十香の笑顔に当てられて上手く言葉が出てこなかった。もしかすると周りが暗いからこそ、十香の笑顔が何倍にも輝いて見えるのかもしれない。これが夜の魔力というやつなのだろうか。

 

「じゃあどんなこと言えばよかったんだよ?」

 

 なるべく十香に聞こえないよう、士道は小声で知恵を求めた。流石に先ほどの言葉ではあんまりだ。

 

『そうね、例えば「俺も幸せだぜ、十香。この夜景の美しさが霞んじまうくらいの美女が、隣にいるんだからな……」とか言ったら面白いんじゃない?』

 

「面白さは求めてねえよ!」

 

『まあ、とりあえず言ってみなさい。前にも言ったけど、女の子は気持ちを言葉にして欲しい生き物なんだから』

 

 色々と怪しく思うことはあるが、先ほど自分で口にした台詞よりはましな筈だ。正直あまりにも臭すぎて引かれそうな気がするものの、他に何かいい言葉がある訳でもなかった。

 

「と、十香……」

 

「ん、何だシドー?」

 

「その……俺も幸せだぜ? この夜景の美しさが霞んじまうくらいの……美女が、隣にいるんだからな……」

 

 うん、どう考えても臭すぎる。

 こちらを見ていた十香も、嫌悪にも似た感情を露にする。と思いきや、瞬間的にその顔を真っ赤に染めた。

 

「な、なななななな何を言っているのだシドー!」

 

「いや、すまん。俺にも分からん……」

 

 あまりにもばつが悪く、士道は十香と同時に顔を背けた。気まずい沈黙が場を支配していたが、士道の耳には琴里の馬鹿笑いが絶え間なく響いていた。まさか本当に面白いと思って言わせただけなのだろうか。

 隣を見ても十香は向こうを向いているので、その心情を表情から判別することはできない。だが正面のガラスには、顔を赤らめながらも嬉しそうな笑みを浮かべている十香の姿がはっきりと映りこんでいた。琴里には一応お礼を言っておくべきかもしれない。

 

「……でも、残念だな。曇ってなければ星空も見えて、もっと綺麗に見えたのにな」

 

「そうなのか? これでも十分綺麗だと思うが……」

 

 沈黙を破るために話題を出すと、幸い十香は話に乗ってきてくれた。妙に上機嫌に思えるのは気のせいではないようだ。

 

「いやいや、世の中にはもっと凄い景色があるんだぜ。夜景だって、百万ドルの夜景って言うくらい凄いものがあるんだからな」

 

「何だと!? そ、それは凄いな、シドー……」

 

 十香は驚愕に目を見開く。しかしどこか驚き方がおかしい。より美しい夜景が存在することに対する驚きではなく、どちらかといえば恐ろしいものを目にした驚きに近い気がする。もしかすると何か勘違いしているのかもしれない。

 

「しかし、それは近づいても大丈夫なのか? 百万度もあるのなら燃えてしまうのではないか?」

 

「ドルなドル。度じゃなくてドル。温度じゃなくて通貨の単位だからな。ていうか百万度って……どっかの宇宙怪獣の吐く火じゃあるまいし……」

 

 やはり聞き間違えていたらしい。というか百万度もあれば燃える程度ではすまないだろう。一瞬で蒸発するかもしれない。

 間違いに気付いた十香の顔から恐怖が消え、ただ純粋な驚きと期待が浮かんだ。

 

「何だ、違うのか。しかしそんな高そうな夜景もあるのか……いつか見に行けたらいいな、シドー?」

 

「おう。いつか一緒に見に行こうな、十香」

 

 別に夜景そのものが百万ドルするわけではないのだが、まあとりあえず頷いておいた。実際のところは何故百万ドルと謳っているのか士道にも分からなかったからだ。

 

「うむ。約束だぞ?」

 

 念を押すように繰り返し、笑みを向けてくる十香。

 冷静に考えてみると、これはなかなか大変な約束かもしれない。少なくともここ天宮市とその近辺には、百万ドルの夜景に数えられるほど見事な夜景は存在しない。要するにいざ見に行こうものなら、かなりの遠出をする必要があるということだ。気軽な日帰りデート、というのは難しい。

 

「おう、約束だ」

 

 それでも士道は頷いた。十香の喜ぶ顔が見たかったし、何より綺麗な景色をもっと見せたいからだ。そのためなら多少の苦難も望むところである。まあ<フラクシナス>で目的地に転送してくれるなら、その限りではないが。

 

「……ところで、シドー」

 

「ん、どうした?」

 

「百万ドルとは高いのか? きなこパンがいくつ買えるのだ?」

 

 当然と言えば当然の疑問だった。あまりお金の価値を分かっていない十香が、現在の為替相場を知っているはずがない。

 首を傾げる十香の様子に呆れやら微笑ましさやらを感じながら、士道は頭の中で計算を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なかなか順調みたいね。まあ私たちのサポートがあるんだから当然でしょうけど」

 

 <フラクシナス>艦橋のモニター上の情報を見やり、琴里はそんな感想を抱いた。好感度はもとより、精神状態や感情値も非常に良好な値を示していて、文句の付けどころがない。

 士道たちがデートを始めて一時間弱。特に失敗やアクシデントもなく、夜のデートは順調に進んでいる。たまに士道が女心を理解していない寝ぼけたことを言う点を除けば、とても理想的なデートだ。精霊攻略の時にもこれぐらい頑張って欲しいものだが、士道にそこまで求めるのは酷というものだろう。

 

「……琴里、問題発生だ」

 

 順調と思っていた矢先、艦橋下段の令音が眠たげな声で告げてきた。その言葉に琴里は少々緩んでいた気を引き締める。

 

「何があったの、令音?」

 

「……まあ、まずはこれを見てくれ」

 

 そう口にして手元のコンソールを操作する令音。するとメインモニター一面に簡素なマップが表示された。具体的には道路などの通路や、ビルなどの建築物の位置関係を表したマップだ。見た目はRPGによくあるミニマップに近く、非常に分かりやすい作りになっている。

 

「……シンたちの後方、約十五メートルの地点だ」

 

 琴里は令音の言う通り、士道の位置を表す光点の後方へ目をやった。

 特におかしなものは見当たらない。あるのはせいぜい一般人を示す光点くらいだ。その数や動きにもこれといっておかしなところはない。少なくとも問題と言えるほどの何かは発見できなかった。

 

「ちょっと令音、一体何が――えっ?」

 

 痺れを切らして尋ねた瞬間、士道たちの後方にあった光点の一つが、何の前触れもなく消滅した。例え生命反応が消えたとしても光点は色を失うだけなので、消滅することなどありえない。つまり考えられる理由は一つ。その光点を表す人間が、文字通り完全に消え去ったということ。

 少なくとも人間は自然に消え去ったりはしないので、恐らく何者かが何らかの目的で消し去ったに違いない。精霊か、あるいはDEMの仕業か。判断はつかないが放っておけば士道たちに危険が及ぶかもしれない。すぐに士道たちを<フラクシナス>に回収しなければ。

 

「おや、また反応が現れましたね」

 

 いざ指示を出そうとしたその時、神無月が驚いたような声を上げた。見れば確かに消えたはずの光点が復活している。しかも今度はその近くにあった光点が消え去り、再び現れていた。

 これは一体どういうことなのだろうか。次々と消えていくだけなら、肉体の欠片も残さない大量虐殺で説明もつく。とはいえ周囲の光点には逃げるような動きは見られなかった。おまけに一度消えたはずの光点が再び現れるというのだから、どうにも分からない。流石に琴里も理解が追いつかず、首を傾げた。

 

「……数分ほど前に気付いたんだが、どうもこの反応の消失と出現を繰り返す現象がシンたちを追うような形で発生しているんだ」

 

「ふむ、常に十五メートルの距離を保っている辺り、どうやら何者かが士道くんたちを尾行しているようですね」

 

 顎に手を当て、神無月が冷静に分析する。天気や周囲の状況によって多少前後するが、確かに十五メートルというのは徒歩での尾行に最適な距離だったはずだ。

 

「反応が確認できないのは、自身の存在を察知されないよう電子妨害をかけているからでしょう。他の光点が消えるのは、効果範囲に一般人が入ってしまうためだと思われます」

 

「……何か嫌な予感がするんだけど、確認しなきゃ駄目よね」

 

 二人の話から考えると、尾行している人物が何となく予想できた。正直確認したくはなかったのだがそういう訳にもいかない。自律カメラを飛ばして妨害を受けない距離から確認すると、やはり予想通りの人物がそこにいた。元AST隊員にして、霊力を封印された精霊。そして士道の恋人(自称)。

 

「あーもう、一体何してるのよこの女は……」

 

「それはもちろんストーキングでしょう。私もよくやります」

 

 さらりと答える神無月。琴里はこの事態で湧き上がってきた苛立ちを、その鳩尾へと肘鉄に乗せて叩き込んだ。

 

「ごはっ!」

 

「令音、一体いつからストーキングしてたか分かる?」

 

「あ、ありがとうございます……司令……ぐふっ」

 

「……遡って調べてみたんだが、どうやらデートが始まった時から尾行しているようだ。とはいえ何をするでもなく、ただ遠くから見ているだけのようだがね」

 

「ふぅん、邪魔をする気はないのかしら?」

 

 ただ遠くから士道たちの様子を眺めているだけなら、放置しておいても問題はない。だが今後も邪魔をしないという保障があるわけでもなかった。とはいえ連絡をして帰れと言っても素直に頷くとは思えないし、そもそも携帯が繋がるかどうかも怪しい。<フラクシナス>に強引に回収する手もあるが、周囲には一般人もいる上、転送装置の射線を分厚い雲が見事に阻んでいる。これではどちらにせよ回収もできない。

 

「どうしましょうか、司令?」

 

 クルーの一人が困ったような顔を向けてくる。大いに不安だが他に選択肢はなかった。

 

「放っておくしかないわね。神無月、無能で役立たずなあなたでも折紙の行動を監視することくらいはできるでしょう? 何かおかしな行動をとろうとしたらすぐに報告しなさい」

 

「はっ! お任せ下さい、司令!」

 

 イスを回してそちらを見ると、うつ伏せで倒れている神無月がその状態で敬礼してきた。

 

「……ところで司令、今日は白と水色の縞パンですか。とても良くお似合いです。しかし私的には、くまパンなどのより子供向けなものも司令にお似合いだと思います」

 

 琴里の組んだ足の間に視線を向けながら、無駄に輝く笑みを浮かべる神無月。琴里は無言で右足を上げ、その鼻っ面に思いっきり叩き込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「十香……本当にそれ全部食べる気か?」

 

「む、そうだが……何故だ? シドーも食べたいのか?」

 

 胸に抱いた紙袋からきなこパンを取り出しかける十香を、士道は必死に制した。

 

「いや、聞いてみただけだよ。ていうか俺はもう頼まれても食えん……」

 

 多少時間が経過したとはいえ、まだまだ胃の中には無理につめた肉が残っている。この上水分まで奪うパンなど口にできるはずもない。

 天宮タワーを出た士道と十香は、閉店直前だった近くのパン屋へと足を運んだ。個数は多くないもののきなこパンが残っていたので、十香はかなり上機嫌である。今はおいしそうにきなこパンにかぶりつく十香と共に、特に目的地もなく道を歩いていた。まあ目的地がないというよりは、もう選べないといった方が正しいのだが。

 

「それでシドー、次はどこにつれて行ってくれるのだ? 早く行こう!」

 

 楽しくてたまらなさそうな笑顔を向けてくる十香。そんな表情をされると非常に言いづらいのだが、どうしても言わなければならない。

 

「それなんだけどな、十香……そろそろ帰った方がいいと思うんだ」

 

「な、何故だ!? まだデェトは始まったばかりではないか! まさか……私とのデェトはつまらなかったのか!?」

 

『十香の言う通りよ。まだ二時間もたってないじゃない。何? 士道ったら早漏?』

 

 琴里の言葉に顔を引きつらせながらも、士道は何とか声を荒げずに答えた。

 

「違う違う。十八歳未満は夜遅くまで出歩いちゃいけない法律があるんだよ。だからそろそろ帰らないと駄目なんだ」

 

「何だと!? くっ、何と忌々しい法なのだ……」

 

『あー、そういえばそんな法律があったわね。確か夜十一時以降だったかしら』

 

 琴里はともかく、十香が知らないのも無理はない。そして知らなかった分、反応も大きかった。デートを続けられないのがよほどショックなのか、白くなるまで拳を握りしめている。その顔はどことなく悔しそうだ。

 

「とにかく、今日はもう帰ろうな? デートの続きはまた今度にしようぜ」

 

 優しく諭して、士道は帰り道へと足を向けた。

 

「ま、待ってくれシドー!」

 

 歩き出そうとしたところで、服のすそを掴まれつんのめった。振り返ってみれば、そこにあったのは悲しみに歪んだ十香の顔。おまけに上目遣いなのだから破壊力は抜群だ。

 

「もう少しだけ……もう少しだけ一緒にいては駄目か?」

 

 そんな顔でそんな言葉を、頭に超がつくほどの美少女にかけられては、拒める者などいるわけがない。当然、士道も拒むことなどできなかった。

 

「ま、まあ、もう少しだけならな……」

 

「そうか! まだ一緒にいてもいいのだな!」

 

 頷いた途端、喜びを露にする十香。通行人からの冷やかしの視線に耐えられず、士道は目をそらした。実際のところは十香の笑顔が眩しすぎたからなのだが、まあそういうことにしておいた。

 

「よし! ではシドー、ついてくるのだ!」

 

「おわっ!? いきなり引っ張るなって!」

 

 一秒でも無駄にしたくないのか、十香は士道の手を取り走り出した。驚く通行人たちの間を駆け抜け、人気のない方へと向かっている。やがて何の変哲もない公園に辿りつき、十香は足を止めた。士道も何度か訪れたことのある公園だ。あるのはせいぜいベンチにブランコ、滑り台やシーソー、それからグヨグヨ揺れる動物の何か(正式名称不明)程度の普通の公園である。

 

「よし、では座ろうシドー」

 

 十香に誘われ、士道は二人でベンチに腰掛けた。ベンチは詰めれば五、六人は座れそうな幅があったものの、十香は肩の触れ合いそうな距離まで詰めてくる。しかしそこから十秒がたち、二十秒が経過しても他の行動はなかった。一分たっても一言も喋ろうとしない。

 

「なぁ、十香。何でここにつれてきたんだ?」

 

 静寂に耐えられず、士道は疑問を口にした。

 

「うむ。どうせもうどこかへ行く時間はないのであろう? ならばせめて二人きりで過ごしたかったのだ。ここならシドーと二人きりになれるからな」

 

『ひゅう! 十香も言うようになったわね』

 

 実際には外野が空の上にかなりの人数いるので、二人きりとはとても呼べない。唯一の救いは十香がそれを知らない、ということか。

 

「それに、あれだ……見られていたら恥ずかしいではないか……」

 

 不意に十香は俯き、顔を赤くして呟く。まさか二人きりで過ごしたいと笑顔で口にした十香が、その場面を誰かに見られた程度で恥ずかしがりはしないはずだ。となると何を見られていると恥ずかしいのだろうか。

 

「そ、そうか。確かに二人きりだよな?」

 

「うむ。二人きりだぞ!」

 

 呟きを聞こえなかったことにして言葉を返すと、十香は何度も大仰に頷く。

 どうも様子がおかしい。うずうずしているというかそわそわしているというか、妙に落ち着きがない。それに何故か期待するような目をちらちらと向けてくる。

 

『うわあ……分かりやすいわねぇ』

 

 耳に笑いを含んだ琴里の声が届く。しかしその笑いは司令官モードにしては珍しく、蔑みを含んだ笑いではなかった。どちらかといえば微笑ましさにもらす笑いに近い。

 

『ねえ、士道。あなたまさか、分からないとか言わないわよね?』

 

 残念ながらそのまさかである。口にすると十香に聞こえてしまうので、インカムを二度小突いた。それで伝わったらしく、呆れたため息が聞こえてくる。

 

『夜の公園! 二人っきり! このおいしいシチュエーションでデートの終わりに女の子が求めてくるとしたら、キスしかないでしょうが! そんなことも分からないなんて、やっぱり一から訓練させ直すべきかしらね……』

 

 できれば訓練(恐らくペナルティあり)だけは勘弁して欲しいが、今はもっと気にすべきことがある。琴里が若干熱を込めて口にした、キスという言葉だ。

 学校での亜衣麻衣美衣と十香の会話を思い出すと、確かに思い当たる節があった。キスして貰えるかもしれないと言われた時、とても嬉しそうにしていたのを覚えている。となるとやはり琴里の言う通り、キスを期待しているということになるのだろうか。

 

「……む?」

 

 考えを巡らせていると、不意に十香が声を上げた。その目は黒雲の広がる空に向けられている。一体何を見ているのかと疑問に思った士道は、やがて僅かな驚きと共に理解した。

空から降ってくる、白い小さな粒を目にして。

 

「ああ、雪か。この辺りで降るなんて珍しいな」

 

「おお、これがそうなのか」

 

 黒い空から緩やかに降ってくる粉雪。それが十香の見ていたものだった。

 舞い落ちる雪の一粒に手の平を差し出し、それを受けとめようとしている。しかし肌に触れた時点で溶けてしまったらしい。興味深げに手の平を覗くものの、そこには僅かな水滴しかなかった。そういえば四糸乃の天使<氷結傀儡(ザドキエル)>の起こす吹雪を除けば、十香はもしかしすると初めて雪を見るのではないだろうか。

 時刻を確認すると、琴里が予報した通り本当に十時半だ。疑っていた訳ではないものの、流石に驚きである。天宮市は南関東に位置するので、それほど雪は降らないのだが。

 

「むうっ、溶けてしまうぞ……」

 

 十香は何度か頑張っていたが、やがて諦めたらしく頬を膨らませた。そして寒気を感じたのか、微かに体を震わせる。雪はまばらですぐにやみそうだとはいえ、少々気温が下がってきたのは確かだ。

 

「……少し冷えてきたな、シドー」

 

「そうか。じゃあ風邪引くといけないし、そろそろ――」

 

 帰るか。と続けようとした途端、琴里の怒声に耳を貫かれた。

 

『違うでしょ、士道! 女の子が寒がってるのよ? 他にするべきことがあるでしょうが!』

 

 他と言われても、せいぜい上着をかけてやるくらいしか思い浮かばない。それが正しいことなのかはともかく、寒がっているのは事実なので暖かくしてやるべきだろう。

 

『無知で無能な士道のために選択肢が出たわ。ありがたく思いなさい』

 

 いざ上着を脱ごうとした時、琴里の報告が聞こえた。とてもおかしなことをさせられそうなのは、今までの経験から何となく察していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ①「それじゃあ、もう帰るか」デートを終えて家に帰る。

 ②何も言わずに上着をかけてやる。

 ③「これで寒くないだろ?」ぎゅっと抱きしめてやる。

 メインモニター上に表示された三つの選択肢。どうやら士道はキスするべきか迷っているようなので、雰囲気を良くして逃げ場をなくしてやればいいだろう。そのために選ぶべき選択肢は考えるまでもなく明らかである。

 

「各自、選択。どうせ一択でしょうけどね」

 

 琴里の予想通り、艦長席のディスプレイに表示された結果は満場一致で③だった。②でも悪くはないが、③ほどの劇的な効果は期待できない。

 

「まあ当然ね。キスに持っていくにはこれが一番だわ」

 

「寒空の下、熱い抱擁を交わす二人は、どちらからともなく唇を近づけ、そして――」

 

 熱っぽく語る<藁人形(ネイルノッカー)>椎崎の言葉に、クルーたちから歓声と口笛が上がる。もうすぐキスシーンが拝めるためか、皆一様にテンションが高い。もっとも琴里の方もテンションが上がってきたので、人のことは言えないのだが。

 

「士道、③よ。「これで寒くないだろ?」って熱く囁いて、抱きしめてあげなさい」

 

 琴里が指示を伝えると、モニター上の士道は明らかに困惑の表情を浮かべた。そのまま視線を彷徨わせる辺り、本当に実行しても平気なのか悩んでいるようだ。

 

「早くしなさい、士道。あなたが優柔不断だから、段々十香の機嫌が悪くなっていってるわ」

 

 実際にはかなり高い状態で安定している。これは逃げ場をなくすための嘘だ。

 なおも士道は迷っていたが、ついには覚悟を決めたらしい。一度大きく深呼吸すると、緊張した面持ちで十香に両手を伸ばしていった。何だか妙に痴漢臭い手付きだが、贅沢は言っていられない。

 やがて士道は十香の体に腕を回し、軽く抱き寄せた。横合いから突然抱きしめられたためか、僅かに頬を染めて体を硬くしているのが見て取れる。

 

『シ、シドー? 何をしているのだ……?』

 

 口調にはあまり驚きが感じられない。どちらかと言えば軽く混乱しているように思える。恐らく突然のことに反応が追いつかないのだろう。

 

『……これで寒くないだろ?』

 

 負けず劣らず赤い顔の士道が答える。その甘い(かもしれない)囁きを耳にした十香は、瞳を閉じて穏やかな笑みを浮かべた。

 

『うむ……とても暖かいぞ……』

 

 そして体の向きを士道の方に変え、その背中に手を回していく。正面から抱き合う形になったところで、十香は士道の肩の辺りに頭をもたれさせた。もう完全に安心しきって身を任せている。士道の方はともかく、十香の方は恋愛映画のワンシーンのように絵になっていた。

 

「十香ちゃんの機嫌、上限値に達しました!」

 

「感情値や精神状態も同様です! いつでもいけます、司令!」

 

 口笛や歓声に混じって、報告が艦橋内に上がる。

 シチュエーションも十香の状態も完璧だ。ここまできたら実行あるのみ。琴里は艦長席から身を乗り出し、マイクに向かって声高に告げた。

 

「さあ士道! 十香にキスしなさい!」

 

 途端に士道は目を見開き、驚きを露にする。ここまできて何を尻込みしているのだろうか。お膳立てはこの上ないほど完璧だというのに。

 

「今さら純情ぶってるんじゃないわよ。これまで何人もの精霊の唇を奪ってきたくせに」

 

 それは仕方ないだろ、みたいな顔をしているがそんなことはどうでもいい。重要なのは一刻も早くキスをさせ、その光景を目にすることだ。そうでもしなければ琴里を含め、<フラクシナス>クルーのテンションは治まらない。

 

「ほら、キース! キース!」

 

 段々楽しくなってきた琴里は、士道を追い込むためにキスコールを始める。指示は出していないがすぐにクルーたちもコールに加わり、艦橋内はさながらライブ会場のような騒々しさに沸いた。

 

「キース! キース!」

 

 多重のキスコールに眉をひそめながら耐える士道。しかしすぐに限界が訪れたらしく、大きなため息をついて表情を引き締めた。十香の背中に回していた手を両肩に移動させ、僅かにその身を遠ざける。

 

『……シドー?』

 

 士道の行為に疑問を覚えたらしい十香が、瞳を真っ直ぐに見据えながら尋ねる。

 当然ながらこの時点でキスコールは止んでいた。艦橋内には声どころか物音一つしない。ここからは見逃せないシーンなので、皆集中して事の成り行きを見守っている。

 

『……十香』

 

 名を呼ぶだけで答えない士道。いや、この状況で言葉など不要だ。その証拠に二人は見つめあうだけで、言葉を交わそうとはしなかった。

 まるで琴里たちを焦らしているかのように、見つめあったまま動かない二人。もどかしさでとてもイライラする。二人が動いたのはおよそ五秒後だったが、異常なまでに長く感じる五秒だった。

 両目を瞑る十香。僅かに顔を傾け、十香に迫っていく士道。縮まっていく二人の唇の距離。

 誰もがモニター上に目を釘付けにされ、最早呼吸すら忘れそうになるほど見入っている。だからこそ二人の唇が触れ合う寸前、モニターから一切の映像が消えてしまった時には、<フラクシナス>全体を揺るがす凄まじい怒声が上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 がんがんと耳の奥まで鳴り響くキスコールに、士道は段々と頭が痛くなってきた。もう少し音を小さくしたいところだが、あいにくこのインカムには音量調節機能はない。<フラクシナス>の方で調節しているので、今この場では必死に耐える以外の選択肢はなかった。しかしそれももう限界かもしれない。

 抱きしめている十香の体から感じる、温もりと柔らかさ。それだけでもすでに頭が沸騰しそうなほど熱い。心臓に至っては胸から飛び出そうなほど強く鼓動を刻んでいる。そんな状態でキスをしろなどという指示をされたせいで、より強い興奮を覚えてしまったからだ。十香の唇はどんなに柔らかいのか、どんな味がするのか。邪な思考が次々と浮かんでくるほどに。

 それでも士道は何とか自分を抑え込んでいた。別にキスをするのが嫌な訳ではない。むしろ嬉しい。十香のような美少女とキスできるのだから、嬉しくて当たり前である。ただ霊力を封印するためでもないのにキスをするというのは、何と言うかいけないことに思えたのだ。

 しかし琴里の言葉を信じるなら、十香はキスを望んでいる。同意の上なら問題はないはずだし、何よりこれは精霊の精神状態を安定させるためのものなので、とどのつまりキスは必要不可欠なものであり――

 

「はあ……」

 

 もはや理性的な思考もままならなくなってきた士道は、ついに根負けしてため息をついた。ここまできた以上、望みを叶えてやらなければ精神状態に悪影響が出る恐れがある。色々思うところはあるが、十香のためにやるしかない。決して士道が邪な気持ちに負けたわけではない。決して。

 

「……シドー?」

 

 十香の両肩に手を置き、押すような形で体を遠ざける。その顔に浮かんでいるのは疑問と期待、そして僅かな恥じらい。正直言って異常に可愛かった。見ているだけで胸に心地よい痛みが走る。

 

「……十香」

 

 名を呼び、夜色の瞳を真っ直ぐに見つめる。

 しかし続く言葉は口にできなかった。というのも肝心の言葉を決めかねていたからだ。キスするぞ、と告げるべきなのか。キスしていいか、と尋ねるべきなのか。どちらにするべきなのか全く分からない。無理に引き締めていた表情が、焦りで今にも崩れてしまいそうだった。

 何とか表情を保ち時間を稼ごうとすると、全身に無意味な力が入った。それは十香の肩に置いていた手も例外ではなく、微かに力が込もってしまう。だが十香はそれをキスの前兆と感じたのか、瞳を閉じて顔を僅かに上向けた。もしかすると、言葉を続ける必要はなかったのかもしれない。

 流石に士道ももう迷わない。十香の桜色の唇へと、自身の唇を近づけていった。

 耳の奥に響く心臓の鼓動がとてもうるさい。例えインカムから声が届いても分からないほどだ。十香との距離が縮まるにつれて、鼓動はさらに大きさと速さを増していく。

 吐息が感じられるほどの距離まできたところで、士道も瞳を閉じた。もう見なくても唇を重ねることはできる。そして士道は最後の距離を詰め、唇を重ねた。

 だがその直前、不思議なことが起こっていた。手の平に感じていた十香の肩の感触が消えたのだ。それだけならあまり不思議とは呼べないものの、口付けを交わす十香の腕が、不自然なまでに激しく体に絡み付いてきたのなら別だろう。

 不審に思って目を開けた士道は、一瞬自分が幻覚でも見ているのかと本気で心配した。何故なら今キスしている人物が、どう見ても十香ではなかったからだ。その人物の髪の色は白、長さは肩口程度までしかない。唇を重ねているので視界が限定され、その程度の情報しか得られなかったが判断材料としては十分だった。

 今キスしている少女は十香ではない。間違いなく折紙だ。

 

「ぷはっ! ちょっ、折――むぐっ!?」

 

 即座に離れる士道だったが、折紙の反応は早かった。すかさず腕を首の後ろに回され、そのままかき抱くように引き寄せられる。必然的に一度離れた唇は再び触れあい、言葉は途中で遮られた。

 

「んぐっ! んー!?」

 

 拘束から逃れようともがくも、絡められた腕はびくともしない。さらに恐ろしいことに、折紙は興奮した様子で士道の唇を開こうとしている。一体何をするつもりなのか。

 

「何をしているのだ折紙!」

 

 十香の怒声が響いた瞬間、折紙はもの凄い勢いで後ろに吹き飛んだ。開けた視界に映ったのは、ボールを投げた後のように腕を振り下げた十香の姿。こちらに背を向けている状態なので、恐らく折紙を放り投げたのだろう。軽く見積もっても高さ四メートル、距離十メートル程度は放り投げられた折紙だが、二、三回宙返りを決めて難なく着地した。この二人、やはりどう考えても人間ではない。

 

『神無月……何かしそうだったら報告しなさいって言ったわよね。私の話聞いてなかったのかしら?』

 

 怒り心頭といった様子で十香が折紙の方に足を踏み出すと同時、インカムから琴里の冷たい声が聞こえてきた。<氷結傀儡(ザドキエル)>もびっくりするほどの冷たさに、士道は思わず身震いする。

 

『とんでもありません! 私は司令のご命令通り、ストーキングしている折紙さんから片時も目を離さず、じっくりねっとりと監視を続けていました。当然十香ちゃんの邪魔をしようとしていたことも、いち早く察知しておりました』

 

 どうやら折紙は突然湧き出てきた訳ではないらしい。真面目な口調だが少々気持ち悪い神無月の答えに、士道は納得したものの驚きは感じなかった。別に折紙がストーキングしていようと、今さら驚くような理由などどこにもない。

 

『そう……ならどうして報告しなかったの?』

 

 明確な怒りを感じる問いに、神無月はさらりと答えた。抑えきれない興奮を滲ませながら。

 

『報告しなければ司令にお叱り頂けると思ったからです!』

 

 仕事しろよこの変態! 

 反射的に叫びそうになったが、士道は何とか抑え込んだ。不思議なことに誰よりも早く罵倒しそうな琴里も、沈黙を決めている。たぶん本気で呆れて言葉もないに違いない。

 

『……<灼爛殲鬼(カマエル)>』

 

 違った。本気でキレてる。何か天使を顕現させようとしてる。

 おまけに本来琴里を止めるべきクルーたちは、むしろその逆に煽っていた。『やっちゃって下さい司令!』とか『火葬だぜヒャッハー!』とか色々聞こえてくる。いつから<フラクシナス>は無法地帯と化したのだろうか。

 

「何故邪魔をした折紙! シドーは私にキスするところだったのだぞ!」

 

「それはありえない。寝ぼけて夢でも見たに違いない。早く帰ってベッドに入るべき。私はこれから続きを始める」

 

 気が付くと十香と折紙の言い争う声が聞こえてきた。どうやら<フラクシナス>で交わされる会話に気をとられていたらしい。見れば異様に険悪な空気を漂わせながら口げんかを始めている。とはいえ十香の声には常人なら恐怖で腰を抜かすほどの、殺気に近い迫力が込もっていたので、口げんかという表現はかなり甘めだったかもしれない。

 

『……今はあっちの状況をどうにかするのが先決ね』

 

 十香たちの会話が聞こえていたらしく、平静を取り戻した琴里の声がインカムから届いてきた。その直後に爆発音染みた凄まじい轟音も響いてきたが、何があったのかは定かではない。

 

「大体貴様は――むっ!? どこへ行った折紙!?」

 

 数秒後、折紙の姿が音もなくかき消えた。恐らく<フラクシナス>に回収されたのだろうが、それを知らない十香は鋭い目つきで辺りを探し始めた。

 

『あとお願い、令音。ちょっと行ってくるわ』

 

『……ん、任せたまえ』

 

 短いやり取りの後、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。ついでに何かを引きずっていくような怪しい音も。そういえば先ほどから神無月の声がしない。

 

『……聞こえるかい、シン。すまないね、こちらのミスだ』

 

「いや、令音さんたちのせいじゃないですよ。神無月さん一人のミスじゃないですか。しかも話を聞く限り意図的みたいですし……」

 

 そもそも誰があんな変態――ではなく、少しおかしな人を副司令などという重要な立場に任命したのだろうか。誰がどう考えても人選を間違えている。

 

『……聞いていたのなら状況を説明する必要はなさそうだね。とりあえず十香のフォローに向かってくれ』

 

「分かりました。でもその前に一ついいですか?」

 

 一つ気になることがあったので、向かう前に士道は尋ねてみた。

 

『……ん、何だい?』

 

「その……神無月さんはどうしたんですか?」 

 

『……ああ、彼なら――』

 

 そこで令音の言葉は途切れる。何か言いにくいことなのか、たっぷり五秒は沈黙していた。

 

『……人の形は保っているよ?』

 

「そりゃあ保ってなきゃヤバイですからね!? 何したんですか一体!?」

 

 驚きの返答に追求を重ねたが、令音からははっきりとした答えは返ってこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十香のフォローに向かって十秒後、どうしたことか士道は帰路についていた。

 理由は分かっている。歩み寄ったところでいきなり十香が「帰ろう」と言ったからだ。その言葉だけならフォローを続けようとしたのだが、有無を言わさぬ迫力が込もっていたので断念した。たぶん琴里がいたら腰抜け呼ばわりしただろう。

 現在、十香は士道の二メートルほど前方を歩いている。歩調はかなり早く、まるで士道を置いていこうとしているかのようだ。令音に状態を尋ねるまでもなく、機嫌が悪いのは明らかだった。

 

「な、なぁ、十香?」

 

「何だ。さっさと帰るぞシドー」

 

 その証拠に返ってきたのは、怒りを抑えた低い声。不可抗力とはいえ折紙とキスをしてしまったせいだろうか。かなり怒っている。

 

「は、はい……」

 

 素直に頷くことしかできず、士道は肩を落とした。

 

「令音さん。十香がもの凄く不機嫌なんですけど、今どんな状態なんですか?」

 

 機嫌が悪いのは一目瞭然だ。ただ精神状態や感情値については士道にも分からなかった。普段ならそれらが低下すればインカムを通じてアラームが聞こえてくる。しかし今回はインカムが不調になったらしく(恐らく折紙のせい)、アラームは聞こえてこなかったのだ。

 

『……ん、ほぼ全ての値が霊力逆流の一歩手前というところだね。まあそう悲観したものではないよ』

 

「どの辺が!? 問題大ありじゃないですか!?」

 

 予想の上を行く答えに声を上げてしまい、とっさに士道は口をつぐむ。しかし人も車もほとんど通らない静かな住宅街では無意味だった。当然声の聞こえていた十香が、こちらを振り向き怪訝な視線を向けてくる。

 だがそれも一瞬のことだった。十香はすぐに興味を失ったように顔の向きを戻し、歩みを進めていく。もはや口も利きたくない、ということか。

 

「……今無視されたんですけど、本当に悲観したものじゃないんですか?」

 

『……ああ、断言してもいい。理由は――ふむ。ちょうど戻ってきたようだから琴里に聞くといい』

 

 一旦艦橋を離れた琴里が戻ってきたようだ。何故離れたのかは知らないが、恐らく回収した折紙に注意でもしに行っていたのだろう。まあ折紙が素直に聞き入れるとは到底思えないが。

 

『いい、士道? 確かに十香の状態は最悪の一、二歩手前ってところね。でもあなたに対する好感度だけは変化してないわ。この意味が分かる?』

 

「……俺に怒ってるわけじゃない、ってことか?」

 

 もしも十香が士道に対して怒りを抱いているのなら、少なからず好感度も下がるはずだ。それがないということは、この怒りは士道に向けられているものではない。恐らく折紙に対しての怒りが、行き場を失っているだけなのだ。

 

「そうよ。つまり士道なら十香の機嫌を直すことができるってわけ。方法は当然キスしかないから、とっととキスしなさい。早く」

 

「いや、待て。何でそうなるんだ」

 

 まくし立てるような指示に、士道は僅かな疑念を抱いた。機嫌云々より、単純にキスさせたいだけに思えたからだ。

 

『キスで機嫌を損ねたんだから、キスで解決するのが筋ってもんでしょうが。それとも何? 折紙とはしたのに十香とはしないわけ?』

 

 前半はともかく、後半の言葉には一理ある。途中で邪魔が入って雰囲気は台無しになったが、期待させてしまった責任はとるべきだ。

 

「……分かった。それで機嫌が直るんならな」

 

『分かってるじゃない、士道! あ、飲み物持ってきたから、皆好きなの取ってていいわよ。残念ながらつまみはないけど』

 

 色々突っ込みたいことはあるが、いい加減疲れてきたのでもう何も言わないことにした。

 好感度は変化していなくても、その他の値は危険なまでに低下している。あまり長い時間放っておくこともできない。士道は心の準備も雰囲気作りも諦めた。

 

「十香!」

 

 なりふり構わず十香に駆け寄り、その手を掴んでこちらを向かせる。ただ名前を呼んでも無視されるかもしれないからだ。

 

「シ、シドー?」

 

 驚きで怒りを忘れたのか、十香の声はいつもの調子に戻っていた。まだ期待が残っていたのか、微かに顔が赤い。

 流石にもう邪魔は入らないと思うが、念を入れるにこしたことはない。士道は一瞬湧き上がってきた迷いを振り払い、一気に十香と唇を重ねた。

 

「んっ――」

 

 僅かに身を震わせた十香が、小さな喘ぎをもらす。それは唇を重ねているせいで声にはなっていない。代わりに十香の唇が形を変え、柔らかさと温もりを伝えてきた。触れ合っているだけでも相当な興奮を覚えるというのに、さらに刺激されては理性がかなり危うくなる。

 だが士道は理性を保ったまま口付けを続けた。保てた理由は歓声を上げる見学者がいるからか、見るのも嫌になったステーキの味がしたからか。詳しいことは分からなかったが、胸に流れ込んでくる暖かさの前ではどうでもいいことだった。

 どれほどの時間がたった頃だろうか。キスを終えて目を開けると、もう十香の顔には怒りなど微塵もなかった。あるのは妙に色っぽく思える、夢心地な表情のみ。琴里に確認するまでもなく、機嫌が直っているのは疑いようもない。

 

「……よ、よし。じゃあ早く帰ろうな?」

 

 興奮で火照った顔を背けながら、士道は提案した。目当てのものが見られて奇声を上げている<フラクシナス>クルーはともかく、十香もきっと満足してくれたに違いない。

 そう思っていたのだが、何故か両手で胸倉を掴まれた。

 

「えっと……どうかしたのか、十香?」

 

 意図が分からず、乾いた笑みを作って尋ねる。何か気に障ったのかもしれない。そうでもなければむっとした表情で見上げてこないはずだ。

 

「……まだだ」

 

「へ?」

 

「まだだ! こんなものではまだ足りんぞ、シドー!」

 

「むぐっ!?」

 

 叫ぶなり十香は体を引き寄せ、もう一度キスをしてきた。

 

『おっと、第二ラウンド開始ね。これはずいぶんと見ごたえがありそうだわ』

 

 再びヒートアップする<フラクシナス>艦橋のボルテージ。しかし士道にはそれを認識する余裕はなかった。何故なら十香の唇が先ほどより激しく動いていたからだ。このままではかなりヤバイ。ものを食べるような色気の欠片もない動きだがかなりヤバイ。

 必死に逃れようとしたものの、十香に力で勝てるはずがなかった。抵抗虚しく、士道は背後にあったブロック塀に背中を押し付けられ、激しい口付けに晒される。そのうち抵抗する気力も思考する余裕も奪われ、頭の中は真っ白になっていった。

 

「――うむ! 今日はこのくらいで勘弁しておいてやろう!」

 

 キスを止めた十香は、捨て台詞のような言葉を嬉しそうに口にした。時間の感覚すらなくなっていたので、どれほどの間キスをしていたのかは分からない。分かるのはやっと解放された、ということだけだった。

 

「さあ帰ろう、シドー」

 

 今度こそ満足したらしい十香は、とびっきり嬉しそうな笑顔で手を取ってくる。

 

「お、おう……」

 

 正直まだ頭がぼうっとしていてふらふらするのだが、十香が手を引いてくれたので何とか歩くことができた。キスでこんなことになってしまうとは、情けなくて涙が出そうだ。

 

「なぁ、シドー。また夜のデェトをしような?」

 

 振り向き、笑いかけてくる十香。学校では夜のデートがどんなものか分からなかったようだが、実際に体験してみて理解できたらしい。ただしそれが正しく理解されているのかは疑問である。

 夜のデートではキスをしてもらえるもの。亜衣麻衣美衣の怪しい吹き込みにより、恐らく十香はそんな風に思っていたのだろう。そして今回は実際にキスをされてしまった。きっと誤った形で定着してしまったに違いない。夜のデートでは、必ずキスをしてもらえるのだと。

 

「……ああ、そうだな。またしような」

 

 しかしその間違いを訂正しようとは思わなかった。あまりにも上機嫌な十香の笑顔を前にして、間違っているとは口にできなかったからである。

 そしてもう一つ。たまにならそれも悪くはない、と士道も思ってしまったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっ!? 昨日五河くんと夜のデートに行ったの!?」

 

「流石十香ちゃん。何という行動力……」

 

「それでキスしてもらえた? 口付けを交わした? 接吻を受けた?」

 

 翌日、登校するなり十香は亜衣麻衣美衣に囲まれていた。話を聞きたそうにしているのは一目瞭然だった。三人の目は一様に輝いている。

 顔を合わせても士道に襲いかかってこなかったところを見るに、夕弦と耶倶矢はこの三人の誤解も解いてくれたらしい。ただ三人がポケットに手を伸ばしかけたのが気になった。そのポケットが怪しげに膨らんでいて、何かがはみ出ていればなおさらだ。とりあえず見なかったことにしておいたものの、あれは一体何が入っているのだろうか。

 

「む……いや、キスはされなかったが、とても楽しいデェトだったぞ?」

 

 十香はちらりとこちらを見ると、登校前にも言っておいた通りの嘘をついた。この様子なら放っておいても昨日のような騒ぎは起きない。士道は安心して席を立つことができた。

 

「それに、あれだな。シドーが私を抱いてくれたのは、とても嬉しかった……」

 

 うっとりとした十香の声に、教室中が静まり返る。士道には何故皆が凍りついているのか全く分からなかった。抱きしめたくらいでここまで驚くことはないだろう。

 

「最初は突然だったので驚いてしまったが、シドーは優しく抱いてくれたからな。とても暖かくて、気持ちよかったぞ……」

 

 待て。何かおかしい。大体あってるのだが何か違う。

 頭をフル回転させること数秒。殺意の込もった視線が殺到してくると同時に、士道はその何かを理解した。

 

「待った! 抱きしめて、だからな!? 抱きしめただけだからな!?」

 

 最も近くにいた三人娘が口を開く前に、慌てて訂正した。先ほどの十香の言い方では、違う意味に取られても仕方ない。というか反応を見る限り、教室中の生徒が間違った意味で捉えている。

 

「何故言い直すのだ、シドー? 意味は同じではないか」

 

「いや、うん、そうなんだけどな!? ちょっと十香の言い方は他の意味もあるっていうか……」

 

 他の意味が分からないらしく、首を捻る十香。その様子で勘違いだと納得したようで、三人娘の目から殺意が引いていった。教室にもいつもの騒々しさが戻っていき、危機が去った安心感に士道は安堵のため息をもらした。

 

「おはよう、士道」

 

 だが新たな危機が迫っている。抑揚のない挨拶が背後から届き、士道はそう直感した。

 

「昨日のキスは……素晴らしかった」

 

 再び沈黙する生徒たち。振り返れば、そこにいたのはやはり折紙だった。あろうことかその表情は恥らう乙女のものであり、誤解させるには十分な魅力を持っていた。これは色々な意味で言い訳のしようがない。

 

「出たな折紙! 昨日はよくも邪魔をしてくれたな! シドーは私にキスするところだったというのに!」

 

 おまけに頭に血が上ったらしい十香が、言いつけを完全に忘れている。

 士道は冷静に現状を分析し、最善の行動を選択した。

 すなわち、逃走を。

 

「この女たらしがああああぁぁぁぁ!!」

 

「この色魔がああああぁぁぁぁ!!」

 

「この万年発情プレイボーイがああああぁぁぁぁ!!」

 

 各々の叫びを上げ、三人娘がそれぞれの得物を手に追ってくる。無駄にでかいハサミと、凶悪な突起のついた金槌、そして禍々しい形状のペンチ。恐らくあれらがポケットに入っていたものの正体だ。

 ふと、あれらで処理されても再生するのだろうか、という疑問が頭をよぎる。しかし試してみたくはないし、士織ちゃんにもなりたくない。

 足が折れようと肺が破れようと走る覚悟で、士道は恐怖の鬼ごっこを始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 お疲れ様でした。十香のお話はこれで終了です。
 やはり動きの少ない場面は書くのが非常に難しく感じます。夏休みなのにほとんど進まなかったのは、後半で度々詰まったことも要因の一つです。ちなみにキスシーンはもっと濃厚にしたかったのですが、R指定に引っかかると嫌なので止めておきました。分の悪い賭けはしない主義。
 それから活動報告の方でちょっとしたアンケートを取りたいと思います。ゲーム版のキャラクターのお話を考えたりしているのですが、少し決めかねていることがありまして。「力及ばず何の決定も下せませんでしたぁ、手伝って下さいってかぁ!? 手伝ってやるよぉ!!」という方は是非ご協力をお願いします。


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美九エンジョイ

 「エンジョイ」=「~を楽しむ、満喫する」
  今回は美九のお話。もっと原作の雰囲気が出せないか色々試行錯誤してみましたが、逆にクオリティが下がったような気が……。
 今回はちょっと見せ場が少ないかもしれません。過度な期待はしない方が良いと思います。後半で挽回できるかな……。




『だーりんへ

今度のお休みの日に私とデートしませんか?

この前、七罪さんとのデートのお手伝いをしましたし、ご褒美に美九ともデートをして下さい!

だーりんの行きたい場所ならどこへでも行きますけど、美九は遊園地に行きたいです。

前に遊園地でデートをした時は、ファンの人たちに追いかけられてだーりんはあんまり楽しそうじゃありませんでしたから。

でもあの日はだーりんがお姫様抱っこをしてくれましたから、美九はとっても楽しかったです。

だから今度はだーりんにも楽しんで貰いたいんです。一緒に遊園地で遊んで、いっぱい楽しみましょうね、だーりん♪』

 

ある日の夜、士道がリビングのソファーでまったりしていると、携帯にメールが送られてきた。差出人は美九。顔文字などを取り払って美九語に直すと大体こんな感じだ。ちなみにメールには洋服屋で撮ったと思しき七罪の写真が何枚か添付されていた。色々な服装で生気を失った顔をしている辺り、本人には見せないのが優しさというものだろう。

確かにあの時は逃げ回るのに必死で、楽しんだ記憶はほとんどない。それに七罪とのデートを手伝って貰ったのは事実なので、デートくらいなら構わない。ただしそれは少しばかり難しい相談だった。

美九は仮にも今をときめく大人気アイドルだ。男とデートなどスキャンダルになってもおかしくない。美九本人はあまり気にしないようだが、士道としてはそうもいかない。

それでもデートに行かなければならないのなら、何らかの対策を講じる必要があった。とはいえ方法はすでに一つ思い浮かんでいる。士道が考えているのはそれ以外の方法だ。

 

「さっきから何難しい顔して唸ってるのよ、士道。うーうーうーうー、うるさいんだけど」

 

不機嫌さの滲む声に振り向いてみれば、背もたれの後ろから乗り出すように琴里が覗き込んできていた。当然リボンは黒で、口には好物の棒つきキャンディを咥えている。

 

「ふーん、美九からのデートの誘いねえ……行けば良いじゃない」

 

「いや、行くかどうかで悩んでるわけじゃねえよ」

 

「じゃあそのアザミウマタマゴバチなみにちっぽけな脳みそで何を悩んでるのよ」

 

 相変わらず酷い言い草だ。まあ今に始まったことではないので、特に言うことはない。そんなことよりも目先の問題だ。

 

「美九はアイドルなんだし、男とデートなんてヤバいだろ」

 

「そうね」

 

「だからデートするなら何か対策を考えないといけないんだが……」

 

「考える必要なんてないでしょ? 士織ちゃん」

 

「それ以外の方法を考えてるんだよ!」

 

ニヤリと笑う琴里に、士道は悲鳴に近い叫びを返した。

もちろん士織ちゃんとしてデートに向かえば、問題は解決する。男とデートではなく、女友達と遊びにきているように見えることだろう。美九の場合それはそれで危ない気もするが、男と出歩くよりは幾分マシな筈だ。

しかしそのためには女装する必要がある。できればそれは最後の手段にしたかった。色々と黒い歴史を持っている士道にも、好き好んで女装をする趣味はない。

 

「あら、そう。で、何か思いついた?」

 

「それは、その……美九に変装させるとか……」

 

とりあえず思いついたことを口にしてみるが、琴里に鼻で笑われる。

 

「じゃあその変装がバレた時はどうするのかしら? お忍びでデートしてると思われて、状況はもっと悪くなるでしょうね。安全策として士織ちゃんになるのが一番だと思うけど?」

 

確かにそれはマズイ。琴里の言う通り、一番の対策は美九に変装させた上で士道が女装することだ。

それは分かっている。分かっているのだが、女装は避けたい。

 

「まあ、あなたの好きにしなさい。ただし美九のファンにす巻きにされて海に放り込まれても知らないわよ」

 

「ぐうっ……」

 

 流石に海に沈められても生きていられるかは自信がない。だからといって試す気にもならない。

 それに他の方法が思い浮かばないのも事実。やはり女装以外に方法は残されていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ……」

 

休日の昼近く、士道――もとい士織は遊園地へと向かっていた。足取りは泥がまとわりついたかのように重く、気分も相当沈んでいる。表情にまでそれが表れているのか、道行く男たちに視線を注がれていた。心配してくれているだけで、見とれているのではないと思いたい。というか見とれられても困る。

 

『何大きなため息ついてるのよ、士道。これからあの大人気アイドル、誘宵美九とデートなんだから、少しは喜んだらどう?』

 

「琴里……お前、分かってて言ってるだろ?」

 

右耳のインカムから聞こえたからかう声に立ち止まり、士道は精一杯不機嫌さを込めて答える。しかしその声にはあまり迫力がなかった。<ラタトスク>謹製の変声機で、多少ハスキーだが声もばっちり女の子だからだ。泣きたい。

 

『さあ? 何のことかしらねー』

 

おどけたような口調の琴里。今にも笑い声が聞こえてきそうだ。

もういっそ開き直れば楽になるのかもしれないが、流石にそれは嫌だった。そんなことをしたらもう元に戻れなくなる気がする。

結局できることは何もなく、もう一度深いため息をついて歩き出す。こうなったら一刻も早くデートを終わらせるしかない。士道は待ち合わせ場所である遊園地の前へと、足早に向かった。

 

『そういえば今回はどうして私達にサポートを頼んだわけ? 美九は比較的精神状態が安定してるから、あなた一人でも十分なはずだけど』

 

「それは、まあ……念のためというか、前みたいにならないようにというか……」

 

 以前『よしのん』の事件の折には、<ラタトスク>のサポートがなかったために悲惨な目に合いかけた。もう二度と同じ間違いを犯す気はない。少なくとも美九や折紙相手なら是が非でもサポートが欲しかった。

 

『ああ、そういうことね……』

 

 濁した答えでも琴里は理由を察してくれたらしい。少し同情を孕んだ声で頷くと、それ以上何も追求してこなかった。

しばらくしてたどり着いた待ち合わせ場所は、休日のせいか多くの人々で溢れていた。家族連れ、カップル、待ち合わせをしていると思われる人々。それらの人混みから少し離れたところに、美九が立っていた。多少ましになったとはいえ男嫌いの美九にとって、男女が入り乱れているあの人混みは苦手だったのだろう。

士道は待ち合わせをしていたから美九だと分かったが、傍目から見るとそうだとは思えない姿をしていた。休日なのに制服を着込み、薄い紺色の髪は三編みにしてお下げにしている。この時点で普段とはだいぶ印象が異なるものの、顔には丸メガネまでかけている。一昔前の文学少女といった地味な装いだ。これが大人気アイドル、誘宵美九だと言われてもちょっとピンと来ない。まあ士道も人のことは言えない格好なのだが。

 

「……待たせたな、美九」

 

「はっ! そ、その声は……」

 

 横から声をかけると、美九は長いお下げを跳ねさせるように飛び上がった。そうして期待に満ちた呟きをもらし、緩慢な動作で振り向いてくる。

瞳に士道を写した途端、顔に広がっていた期待は喜びへと変わった。まあこうなることは最初から分かっていた。

 

「士織さん! 士織さんじゃないですか! 驚きです! だーりんとデートの約束をしたら士織さんが来てくれました!」

 

「ははっ、美九が嬉しそうで何よりだよ……」

 

 喜びにきらきらと輝く瞳で、美九は士道の姿を上から下まで眺めてくる。

 今回の士織ちゃんは制服ではない。適当に選んだ私服だ。襟のあるブラウスの上にセーターを着込んでいる。ブラウスは水色で、襟元を飾るのは可愛らしい赤のリボン。薄く桃色がかったセーターは無地ではなく、前面と肩から袖までの三箇所に、重ねたハートのような刺繍がある。そして下はズボンではなく、ブラウスよりやや濃い色のプリーツスカート。

 制服の時は仕方ないが今回は私服なので、士道は当初ズボンを選んだ。だが無慈悲にも琴里は許可を出してくれず、泣く泣く今回もスカートを穿いている。まあスカートは膝の辺りまで長さがあるし、短パンも穿いているので制服の時よりは幾分マシだった。あくまでマシなだけだが。

 

「士織さん、とっても可愛いです! 制服も堪りませんけど、私服の士織さんも良い感じです!」

 

「ああ、うん……ありがとな……」

 

 私服でも可愛らしいと言われると、女装が板についてきたように思えて無性に悲しくなってきた。誉められてるのに涙が出ちゃう。

 

『何で美九に誉められてるのよ。あなたが美九を誉める側でしょうが。ああ、士織ちゃんなら仕方ないわね』

 

「そ、それよりその格好、なかなか似合ってるな美九。普段と違って良い感じだぞ」

 

「えー、 それって普段の美九は駄目ってことですかー? 士織さんったら酷いですぅ。しくしく……」

 

「わ、悪い……そういう意味で言ったんじゃ……」

 

両手で顔を覆って肩を震わせる美九。どうやら言い方を間違えてしまったようだ。謝ろうとした士道だが、美九はすぐに顔を上げて満面の笑みを浮かべた。

 

「ふふっ、分かってますよー。士織さんは可愛いですから、ついいじめたくなっちゃうんですよねー」

 

「いじめるのは構わないから可愛いとか言わないでくれ……それよりも美九、お前目が悪いのか? その眼鏡レンズ入ってるみたいだけど」

 

「あ、これは伊達眼鏡ですよー。レンズは入ってますけど、そういうレンズじゃありません。士織さんもかけてみますかー?」

 

外して差し出してきた眼鏡を受け取り、士道もかけてみた。視界が歪むかと思いきや、特に何も変わらない。薄いガラス窓を通して見るよりも鮮明だ。

 

「お、本当だ。見え方は変わらないな」

 

「わー、士織さんとっても似合いますねー。すごく知的な感じがします」

 

「そ、そうか?」

 

そういう類の誉め言葉なら嬉しい。士道は素直に喜んでおいた。

 

「はいー、ちょっと気弱な学級委員長の女の子みたいな感じで」

 

そしてがっくりと肩を落とした。どうあっても女の子から離れられない。やるせなさにため息をついて、眼鏡を美九に返す。

 もう気にするだけ無駄に思えてきたので、士道は気を取り直してデートを始めることにした。

 

「じゃあそろそろ行くか。人も増えてきたみたいだしな」

 

「そうですねー。行きましょうか士織さん♪」

 

「お、おい!」

 

言うが早いか、美九が腕に抱きついてくる。そんなことをすれば当然体が密着して、美九の発育の良い胸に二の腕が包み込まれる。腕に伝わるふんわりとした柔らかさは、女装による無気力さを幾分和らげてくれた。

 

「お、おい美九。当たってるから、その……もう少し離れような?」

 

 とはいえ歓迎して良いような感覚ではない。丁重にお願いする士道だったが、美九は笑みを広げて余計に強く抱きしめてくる。

 

「ふふっ、恥ずかしがることないですよー? 女の子同士なんですからー」

 

「いや違うだろ! 俺は女装してるだけだから!」

 

「でも皆さんはそう思ってないみたいですよー?」

 

見れば周囲の男共に怪しげな視線を向けられている。嫉妬や怒りといった類いのものではないが、残念ながら心地よい類いのものでもない。はっきり言ってちょっと気持ち悪い。

 

「何でこんな目で見られてるんだよ、俺たちは……」

 

「きっと皆さんもそういった趣味があるんですよー? 士織さんも目覚めてみませんかー?」

 

「断る! 俺は普通でいたい!」

 

『女装してる時点でアブノーマルだってことに気付きなさいよ。いい加減』

 

男共のまとわりつくような視線も、琴里の指摘も、士道は何もかも無視して遊園地へと足を進めた。もちろん美九に腕を抱え込まれたまま。

幸運なことにカップルやら女の子の集団が目立つ遊園地の中では、あまりそういう視線は向けられなかった。皆の興味がアトラクションに向いているせいかもしれない。

 

「さ、士織さん。最初は何に乗りましょうかぁ?」

 

「そうだな……まずはジェットコースターにでも乗ろうぜ。あ、美九は乗り物酔いとか大丈夫か?」

 

 乗り物酔いが激しい体質だと、ジェットコースターに乗るなど自殺行為でしかない。念のため尋ねておくと、美九は笑顔で頷いた。

 

「平気ですよー。でも仮に乗り物酔いしやすい体質だったとしても、士織さんがいるなら平気です。士織さんとなら例え火の中水着の女の子たちの中、どこへでもついていきます!」

 

「それ俺がいなくても自分から飛び込むだろ」

 

 火の中はともかく、水着の女の子たちの中など美九にとっては天国でしかない。自分から嬉々として突撃する姿が目に浮かぶ。

 まあどこへでもついていくというのもあながち嘘ではないだろう。士織ちゃんの格好をしていれば地の果てまで追ってきそうな気がする。

 ジェットコースターは遊園地の顔とも言えるアトラクションだ。長蛇の列ができていたとしても不思議ではない。だが士道たちを待ち受けていたのは多少長い程度の行列だった。並んで待っていれば十数分で順番が回ってきそうなほど空いている。

 休日の遊園地だと言うのにこれほど人がいないのは、季節柄ということもあるのだろう。今日は比較的暖かいが、もう冬は目前だ。もしかしたら大浴場や屋内アトラクションのある隣のウォーターエリアの方が混んでいるのかもしれない。

 

「そういえば、今日はどうして士織さんがきてくれたんですかぁ? 美九はむしろオールオッケーなんですけど、てっきりだーりんがきてくれるものだと思ってましたよー?」

 

「何で別人みたいな言い方なんだ……?」

 

 二人で順番を待っていると、美九がそんなことを尋ねてきた。

 メールでは変装してきてくれと頼んだだけなので、こちらがどんな姿で向かうかは伝えていない。そのせいで士道は士道のままくると思っていたのだろう。実際士道もそうしたかったのだが。

 

「まあ美九の変装がバレた時の保険みたいなもんだよ。お前が男とデートしてるところを見られるとマズイからな」

 

「えー、何度も言ってるじゃないですかぁ。美九はそんなこと気にしませんよー?」

 

「お前が気にしなくても他の人が気にするんだよ! お前のファンとか、マネージャーさんとか!」

 

 あまりの危機感のなさに、思わず声を荒げてしまう士道。

 本人がこの調子なのだから始末に終えない。以前一度だけ美九のマネージャーの仕事をしたことがあるが、これが原因でかなり苦労した。これが常だとすれば、マネージャーの暮林さんの気苦労は計り知れない。

 

「むー、士織さんったら美九よりも他の人のことを気にするんですかー? 酷いですぅ」

 

 むくれてぷいっと横を向く美九。

 もちろんそんな意味で言ったのではない。士道はその両肩に手を置き、こちらを向かせた。

 

「そういうわけじゃない。スキャンダルにでもなったら、またお前が傷つくことになるかもしれないだろ。俺が気にしてるのは……心配してるのはお前のことだよ」

 

『ふぅん……なかなか良いこと言うじゃない』

 

 飾り気のない自分の思いを口にすると、珍しく琴里が誉めてくれた。誉めるだけあって効果はてきめんだったらしく、むっとしていた美九の表情に嬉しさが広がっていく。

 

「ふふっ、心配してくれてるんですねー。ありがとうございます、士織さん♪」

 

「うわっ! お、おい……」

 

 喜びのあまりか、人目もはばからずに抱きついてくる。幸い正面から抱きつかれたので、<ラタトスク>謹製の胸パッドが間に挟まり、柔らかな感触は伝わってこなかった。ちょっと残念な気がしたのは秘密だ。

 

「でも大丈夫ですよー。今の私には士織さんとだーりんと、七罪さんとかわいい女の子たちがいますからー」

 

「同一人物だってこと、分かってるよな……?」

 

 何気に七罪が特別枠に分類されていることも気になるが、それ以上に周囲の目が気になる。傍から見れば女の子同士で熱く抱き合っているようにしか映らないのだから、好奇の視線を向けられるのも当然かもしれない。本当は片方が男で一方的に抱きつかれているだけなのだが、居心地が悪いのは確かなのでとりあえず離れてもらった。

 

「もちろん分かってますよー? でもそれがちょっぴり残念なんですよねー。士織さんと美九とだーりん、三人でデートすることができませんからー」

 

 美九はとても寂しげな顔をして、がっくりと肩を落とす。

 実に美九らしい願いというべきか。士織と士道に挟まれ、恍惚とした笑みを浮かべる美九の姿が容易に想像できる。

 

「はっ!? 七罪さんにお願いすればあるいは……それなら七罪さんともデートしていることにに……うふふ……」

 

『とてもアイドルとは思えない顔してるわね……』

 

「……そうだな」

 

 残念ながら士道も同意見だ。正に先ほど想像した通りの危ない笑みを浮かべている。

 

「でもどうせなら七罪さんも交えて四人でデートしたいですねー。この場合はどうすれば良いんでしょうかぁ……」

 

「どうもしなくて良いから前に詰めような。列進んだし」

 

「あぁん、士織さんも一緒に考えて下さいよー」

 

 最早話についていくことができず、そしてついていく気もなかった。士道は妄想に耽る美九の手をとり、呆れながら引きずっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「楽しかったですねー、士織さん」

 

 ジェットコースターを降りた後、美九は満面の笑みで同意を求めてきた。

 もちろん士道も同じ気持ちだ。急降下やループはスリルがあって癖になりそうだったし、他の乗客と同じように喜びの悲鳴を上げたのも一度や二度ではない。士道は迷いなく頷いた。ただし、ひとつだけ楽しめなかったことがあった。

 

「ああ……けどカツラが飛びそうでちょっと怖かったぜ」

 

 ウィッグの位置の調整もかねて、頭に手をやりながら答えた。

 簡単に脱げるような被り方はしていないが、どうしてもそれが気になってしまった。女装が周囲にバレる心配もさることながら、脱げたウィッグが後方の乗客に飛んでいくというコントのような事態も引き起こしたくはない。

 

「もうっ、そんな夢のないこと言わないで下さいよー」

 

「ははっ、俺はこれが夢であって欲しいけどな……」

 

 今更だが何故女装などしているのだろう。どこかで人生の選択肢を間違えたとしか思えない。性質の悪い夢ならまだ良いほうだった。

 気が滅入った士道を励ますように、美九は手を握り身を寄せてくる。

 

「それじゃあ次はどこに行きましょうかー?」

 

「んー、そうだな……」

 

『とりあえず動きの激しいアトラクションを先にこなしなさい。食後に乗るのはあまり懸命とは言えないわ。まあ空中に嘔吐物を撒き散らしたいなら話は別だけど』

 

 二の腕に押し付けられる柔らかさを極力無視しつつ、士道は心の中で何度も頷いた。特に酔いやすい体質ではないが、そんなトラウマになりそうな凄惨な光景を作り出す気は微塵もない。

 

「よし、じゃあ……あれなんかどうだ?」

 

 そう言って士道が指し示したのはフリーフォール。簡単に言うと垂直落下型のジェットコースターだ。またしてもウィッグが飛びそうなアトラクションだが、そう簡単に脱げないのは先ほど証明されているので大丈夫なはずだ。

 

「きゃー、とっても怖そうですぅ! 士織さん、美九を勇気付けてくださーい!」

 

「お前さっき普通にジェットコースター乗ってたよな!?」

 

 指し示した先を見た美九は、当然のように抱きついてきた。もちろんその表情に恐怖など欠片も見当たらない。間違いなく抱きつきたいだけだ。言っても聞かないのでこれはもう諦めるしかない。

 その後フリーフォールを終えた士道は、美九と共に様々なアトラクションを満喫した。コーヒーカップ(美九が限界まで回そうとした)や、回転ブランコ(遠心力でむしろウィッグが押さえつけられた)などで夢中になっていると、楽しさに自然と笑みが零れてしまう。女装による気の重さは、雰囲気に当てられていつのまにか軽くなっていた。

 気が付いた時には、いつのまにか正午を回っていた。どうやら時間を忘れるほど楽しんでしまったらしい。さっさとデートを終わらせようとしていた気持ちも、どこかへ吹き飛んでしまったようだ。

 

「もう昼過ぎだな……でも空いてるみたいだし、その前に観覧車に乗っておこうぜ」

 

 士道は高くそびえる観覧車に目をやった。遠くからでも順番待ちの列が少ないのが分かる。それに確か十五分程度で一周するはずなので、あまり時間も取られない。どうせもう昼は過ぎているのだから、今更十五分伸びたところで変わりはないだろう。

 

「良いですよー、お昼はその後ですねー。でもどこで食べましょうかー?」

 

「レストランで食べるのも悪くないけど、せっかく遊園地にきてるんだしな……何か買って外で食べるか」

 

 レストランなどでの食事はどこででもできる。だからこそ遊園地でしか味わえない雰囲気の中で食事を楽しみたい。

 美九も同じ気持ちらしく、両手を合わせて嬉しそうに微笑んだ。

 

「そうですねー、開放的な気分が味わえますし。観覧車に乗るんですから、良さそうな場所も探せますしねー」

 

「お、そういえばそうだな」

 

 食事を取る場所を探すなら、歩き回るよりも上から眺めた方が手間はかからない。その点から考えても観覧車に乗るのは良い選択だろう。

 

「あっ、士織さん見て下さい。ソフトクリームが売ってますよー?」

 

 観覧車に向かう途中、美九が道の脇を示した。見ればソフトクリームの屋台が開かれている。時期的にちょっと遅い気もするが、今日は暖かいので買っている人も少なくはない。実際ここを通るまでに何度か食べ歩く人を見かけた。

 

「観覧車に乗るのは良いんですけど、その前に少しだけ食べておきませんかぁ?」

 

「うーん、どうするかな……」

 

『まあ観覧車だし、それくらいなら問題ないでしょ。ジェットコースターみたいに激しく動くわけでもないし』

 

 少し悩んだが琴里がオーケーを出したので大丈夫だろう。観覧車が駄目ならジェットコースターに乗れるわけがないし、何より小腹を満たすのには賛成だ。

 

「そうだな。良し、買いに行くか」

 

「はーい、それじゃあ行きましょうかぁ」

 

 美九と共に進路を変更して、ソフトクリームの屋台へと向かう。

 味の種類は意外と多く、基本的なバニラからチョコ、六種類を超える様々なフルーツの味がある。これだけあると流石に迷ってしまう。

 

「士織さんは何味にしますかぁ? 美九はイチゴ味が良いですー」

 

「んー、どうするかな……」

 

『ん、選択肢が出たわよ。ちょっと待ちなさい』

 

 士道が頭を悩ませていると、琴里からの指示が聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 <フラクシナス>艦橋のメインモニター。ソフトクリームの屋台で仲良く立ち並ぶ二人の女の子(に見える)を背景に、三つの選択肢が表示された。

 ①「俺も美九と同じのにするかな」普通にイチゴ味を注文する。

 ②「なら俺はチョコにするかな。良かったら二人で半分こしないか?」あえてチョコ味を注文する。

 ③「ふっ、俺はソフトクリームなんかより美九が食べたいぜ」キザっぽく決める。

 琴里の有能な部下(一部無能あり)たちはすぐさま選択を始めた。数秒後には艦長席のディスプレイに選択結果が表示される。ただ今回は妙な偏りがあった。

 

「ふぅん、②と③がほぼ同数ね……」

 

 ①は一票のみ。残りの票は全て②か③に均等に分かれている。正確には僅かに③の方が多いものの、誤差の範囲と言える程度だ。

 

「ここはやはり③でござりましょう。相手は美九たんなので好印象でしょうし、最低でも笑いをとることができるでしょう」

 

「いえ、私は②にした方が懸命だと思いますけど……③では士道くん、ちょっと危ないですし……」

 

 <次元を超える者>中津川の発言に、<藁人形>椎崎が反論する。

 どちらの言い分も間違いではない。士道は元より士織ちゃん大好きな美九なら、③を選べば諸手を上げて喜ぶだろう。その結果逆に士道が危ない目にあう可能性は大いにある。

 

「まさか。ここは遊園地なのですよ。そんな間違いを犯せる場所はありませんよ」

 

「えっ、人気のないところなんて十分あるじゃないですか。女子トイレとか、それこそ観覧車とか……」

 

「いやいや、そうだとしても③を選ぶべきでしょう。大体――」

 

 <早過ぎた倦怠期>川越が異議を唱え、<保護観察処分>箕輪が訂正し、<社長>幹本が口を挟む。

 一見②と③を選んだものたちが、各々真剣に導き出した答えで議論し合っているように見える。だが琴里にはそうは思えなかった。

 

「……③を選んだ奴は手を上げなさい」

 

 冷めた声で命令するとクルーのほぼ半数が身体を震わせ、おずおずと手を上げる。それは予想通りの結果で、琴里は呆れて溜息をついた。

 

「真面目に選びなさいよ。あなたたち一体何を期待してるわけ?」

 

 手を上げていたのは数人の女性クルー。そして艦橋の約半数を占める男性クルーの九割近くだった。どうも美九と士織ちゃんの良からぬ絡みを期待していたらしい。その証拠に手を上げたクルーの約半分が縮み上がっている。

 

「まあ、良いわ。で、①の一票はあなたね、神無月」

 

 背後に目をやると、神無月は見かけ上礼儀正しく一礼する。

 

「お気づきになられましたか。流石は司令。やはり私と司令の心は、言葉を交わさずとも理解しあえるほどに深く繋がっているのでしょう」

 

「そんなわけないでしょうが、この変態」

 

「かふっ!」

 

 気持ち悪いことを口走る神無月の喉元めがけ、琴里は胸ポケットのペンを投擲する。ペンは正確に喉仏を直撃し、神無月の歓喜の声を吐き出させる。

 

「……無意味なのは分かってるけど、一応理由を聞いてあげるわ。この状況に則った最善の選択肢である可能性も、素粒子くらいの小さな確率であり得るかもしれないから」

 

「はっ、確かに分け合うというのも悪くない選択肢です。ですがそれよりは、自分の分のソフトクリームを踏みにじって頂き、その靴裏から味わわせて頂く方が赴きがあると言えます。欲を言えば足の裏や指の間も味わえるよう、素足が好ましいところですね」

 

 若干ダミ声で膝をつき、拾ったペンを恭しく差し出してくる神無月。琴里はそれを受け取り、出したペン先を容赦なく眉間に打ち込んだ。

 

「ありがとうございます!」

 

「もうあなたは黙ってなさい。八日目のセミみたいに」

 

 額を押さえ恍惚とした笑みを浮かべる神無月を一瞥し、琴里は正面に視線を戻した。

 ②を選べばソフトクリームを分けあった時、ちょっとディープな間接キスを意識させておいしい展開に持っていくことができる。普通に考えれば②だろう。

 

「士道、③よ。『俺はソフトクリームなんかより美九が食べたいぜ……』。あなたには荷が重いだろうけど、なるべくカッコよく言いなさい」

 

 だが琴里は③を指示した。

 ③は注文ではないからだ。③を終えて、改めて②を実行することもできる。まあ③は士道が悲惨な目にあう可能性もあるが、その辺はたぶん大丈夫だろう。それにそんな面白い光景、見逃すわけにはいかない。

 ③が選ばれたことに軽くガッツポーズを取って喜ぶクルーたちを尻目に、琴里は口の端を吊り上げて笑みを零した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、おい! それマジで言わせる気かよ!?」

 

 琴里からの指示は恥ずかしくなるようなキザっぽい台詞。人によっては余りの寒さに引くこともありそうなほどだ。口に出すのは躊躇いがあるが、一番の問題はそこではない。

 

『大マジよ。言うだけならタダだし、何の問題もないでしょ』

 

「大ありだろ! 美九相手にそんなこと言ったら絶対つけを払わされるぞ!?」

 

 恥ずかしさもあるが、やはり一番の問題はそこだ。平時ならともかく士織ちゃんになっている今、美九がどんな反応を示すかは予想もつかない。

 

『つべこべうるさいわね。いいからさっさと言いなさい。本当に危険な時は助けてあげるから』

 

「ほ、本当だろうな……?」

 

「士織さん、どうかしましたかぁ?」

 

 いつまでも返事がないことを不審に思ったのか、美九が顔を覗き込んでくる。

 そんな状況に陥ったときは本当に助けてくれるのなら、危険を冒す価値はあるだろう。危険を冒すものが勝利する、という言葉もある。覚悟を決め、士道は口を開いた。

 

「お、俺はソフトクリームなんかより、美九が食べたいぜ……」

 

 口の端を吊り上げ、できるだけ鋭くした眼光を向ける。

 美九は顔を赤くして息を呑んだが、それは一瞬のこと。すぐにさも嬉しそうに微笑むと、イケナイ色に染まった瞳を向けてきた。

 

「うふふ、士織さんったら大胆ですぅ。良いですよー、先にお食事を済ませましょうかー?」

 

「あ、いや、今のは冗談で……」

 

 訂正しようとするが、興奮した面差しの美九には聞こえていないようだ。腕をがっちりとホールドされ、有無を言わさず引きずられる。一体どこにそんな力があるのか。

 

「あ、見てください! ちょうど良さそうな場所がありますよー! あそこに行きましょうかー!」

 

「どうも本当に食われそうな気がするぞ!?」

 

 道の外れにある女子トイレを指差す美九。一体何をするのに丁度良さそうな場所なのか、恐ろしくて考える気になれない。士道は必死に美九の腕を叩き、意識をこちらに向けさせた。

 

「美九! さっきのは冗談! 冗談だから!」

 

「えっ、そうだったんですかー? もー、士織さんったらイケナイ子ですねー。冗談でも言って良いことと悪いことがあるんですよー?」

 

「ああ、肝に銘じておくよ……」

 

 ぷんぷんと怒りながらも、美九はわりと素直に聞き入れてくれた。一瞬インカムから舌打ちのような音が聞こえてきたが、たぶん気のせいだろう。士道は胸を撫で下ろした。

 結局士道は美九と共に屋台へ戻り、ソフトクリームを購入した。琴里からの指示で味は別々。美九がイチゴ味で士道がチョコ味だ。

 

「……何かやけに嬉しそうだな、美九」

 

 ソフトクリームを手に再び観覧車への道に戻ると、美九はやたら嬉しそうに隣を歩いていた。足取りは軽く、今にもスキップを始めそうなほど上機嫌だ。

 

「はいー、何だか下校途中にデートしてるみたいで、とっても楽しいですからー」

 

「あー、まあ確かにそんな感じするよな」

 

 士道も似たような雰囲気を感じ取り、頷いた。士道はともかく美九は制服姿だ。その状態で二人仲良く食べ歩いているのだから、雰囲気はかなり出ている。

 それだけのことなのに少し喜びすぎにも思えたが、美九は十香たちと違って士道と同じ学校に通っているわけではないのだ。こういった経験は初めてなのだろう。

 

「士織さんも私と同じ学校に通ってくれれば、毎日こんな風にデートできるんですけどねー」

 

「いや、お前の学校って女子高だよな。通えるわけないだろ……」

 

 そもそも通う気などない。女装して女子高に通うなど、敵国にスパイとして潜入するくらいの緊張感と恐怖がある。正体がバレれば袋叩きにされるか社会的に抹殺されるか、あるいはその両方だろう。

 

「うー、残念ですぅ……じゃあ今の内に楽しんでも良いですかぁ?」

 

「ああ。そういうデートの代わりに、今は好きなだけ楽しんで良いぞ」

 

 士道は美九に頷き、笑いかけた。女子高には死んでも通ってやれないが、その分今楽しませてやりたい。

 

「ありがとうございますー。それじゃあ早速楽しませてもらいますねー?」

 

「――っ!?」

 

 美九は悪意の欠片も感じられない微笑を浮かべると、顔を寄せてぺろりと舐めてきた。ソフトクリームではなく、唇の方を。発生した刺激的な感触が、イチゴの風味と共に脳へと届く。

 衝撃の光景だったらしく、すれ違う人々の何人かが目を剥いている。カップルならともかく、女の子同士でのこれは早々見られるものではない。

 

「な、なな何するんだよ美九!? 口についてたって他に取り様はあるだろ!?」

 

「大丈夫ですよー、口には何もついてませんでしたからー」

 

「なお悪いわ!」

 

 混乱と困惑に後退った士道は、理由を聞いてもう一歩離れた。

 つまり先ほどの行為に必要性は何もなかったということだ。単純にやりたいからやったに過ぎない。

 

「もー、士織さんったら目が怖いですー。分けてあげますから機嫌を直して下さいよー」

 

 軽く睨みつけていると、美九は少しうなだれた。反省しているなら良いのだが、口元が微かに笑っているように見える。警戒するに越したことはない。

 恐る恐る美九に近づき、差し出されたソフトクリームに顔を近づけていく。

 

「――うおっ!?」

 

 案の定、もう少しというところで美九が素早く顔を近づけてきた。予想はしていたので今回はギリギリ避けられた。

 

「ふふふ。楽しいですねー、士織さん」

 

「お、お前なぁ……」

 

 奇襲に失敗したものの、美九はご機嫌な笑みを浮かべている。今にも鼻歌を始めそうなほどだ。流石にここまで楽しそうにされると怒ることはできなかった。

 仕方なく一連の行為を水に流し、士道は再び観覧車への道を歩き始めた。その際美九との間で盾になるよう、ソフトクリームを持つ手を替えて。

 観覧車の元までくると、やはり遠目から見た時と同じく行列は短かった。まあ観覧車に一人で乗り込む者が少ないというのが原因だろう。大抵は家族連れやカップル、友達同士で乗っているのだから。そんな中一人寂しくゴンドラに乗り込むのはかなりの勇気が必要だ。まあ今の士道には美九がいるので、乗り込むのに勇気は必要なかった。

 直径百メートルを誇る観覧車だけあって、ゴンドラそのものも大きい。片側の席に軽く四人は座れそうなほどの広さだった。ただ逆にその広さが仇となっているのか、向かいの席がちょっと遠い。たぶん向かいの美九に身を乗り出して、限界まで手を伸ばしても届かないだろう。広すぎるというのも考え物だ。

 

「わー、士織さん見てください。とっても良い眺めですよー」

 

 向かいでは美九がガラスに張り付くようにして、眼下に広がる遊園地の全景を眺めている。ソフトクリームを味わいつつ雑談を交わしている間に、意外と上の方にきていたらしい。時計で言えば大体十時の辺りに差し掛かっているようだ。もう少し待てば眺めは最高のものとなるだろう。

 

「そうだな。ジェットコースターとかじゃあんまり眺める暇ないし。お、あそこなんて昼を食べるのに良さそうじゃないか?」

 

「良いですねー、じゃあお昼ご飯を買ったらあそこに行きましょうかー。あ、見て下さい士織さん! ウォーターコースターで女の子がずぶ濡れになりましたよ!」

 

「何で嬉しそうなんだよ。ていうかこの距離で良く見えるな……」

 

 高低差を含めると三百メートル前後離れているはずだ。それでもはっきり視認できるのは、きっと女の子好きの心が成せる技に違いない。

 

「でもあれ大丈夫なんでしょうかぁ。あんな風にスケスケのエッチな格好で歩いてたら、変な人に襲われちゃいますよー?」

 

「それってお前が筆頭なんじゃないか?」

 

「うふふ、そんなことしませんよー。ちょっとペロペロするだけですよー?」

 

 とりあえずウォーターコースター周辺に美九を近づけるのは避けた方が懸命だろう。もっとも美九が心配するようなことは何もない。

 

「心配しなくてもあそこには着替えが売ってるし、全身ずぶ濡れになっても平気だろ。まあそんなに濡れることはほとんどないけどな」

 

「えー、そうなんですかー?」

 

 どうやら心配はしていなかったようだ。至極残念そうな声を出して情けない顔をしている。むしろ着替えが売られていないことを期待していたらしい。着替えてしまう前にその姿を目に焼き付けようとしているのか、じっと邪な視線を注いでいる。

 ちょっとその姿に気持ちが揺らぎそうになるものの、美九との遊園地デートはなかなか楽しめる。アトラクションそのものも楽しいし、何より美九がとても楽しそうに過ごしているのが大きな理由だった。無邪気にはしゃぐ美九と遊園地を回っていると、どことなく小さな子供と回っているように思えて笑みが零れてしまう。まあ子供はこんな涎を垂らさんばかりに欲望をむき出しにした表情をしないが。

 

『ちょっと、なに母性本能溢れる顔してるのよ。ついに心まで女の子になった?』

 

 表情が緩んでいたのか、琴里のからかう声が聞こえてくる。

 

「違う! ていうかせめて父性って言え!」

 

『そんな完璧に女の子の姿をしてるくせに、父性って言われてもねえ……』

 

 必死に訂正を促すが、返ってきたのはあざ笑うような声。

 まあ琴里の言い分にも一理ある。不本意ながら今の士道はどこからどう見ても女の子なのだから。おまけに一番大事な要素である顔を女の子風に仕上げたのは、他ならぬ士道自身。それを考えるとあまり怒る気にはなれなかった。

 士道はやるせない気持ちを抱え、現実逃避もかねて視線をそらした。

 

「……ん、何だあれ?」

 

 すると視線を向けた先に見慣れぬ構造物を見つけた。今まで目に入らなかったのは、見ていた方向が真逆だったからなのだろう。

 建物ではないようだが、アトラクションにも見えない。屋根のない平屋のような構造物だった。上から見ると横にも縦にもかなり広い長方形で、内部の仕切りは幾何学模様に見えるほど複雑で多い。そして外周には入り口と思しき穴が開いており、その反対側には出口と思しき穴が開いている。

 あの構造物は恐らく――

 

「迷路、なのか?」

 

『ああ、それは最近できたみたいよ。意外と複雑な作りになってるから、自力で脱出できないことも多いらしいわ』

 

 確かにかなり複雑に作られているようだ。上から眺めて道順を考えても、すぐには出口に辿りつけない。

 

「へー、結構面白そうだな。脱出できない時はどうするんだ?」

 

『中にいる係員に頼めば出口まで送ってくれるのよ。まあ迷路の広さに係員の数が釣り合ってないみたいだから、見つけられなかったら一生彷徨うしかないわけだけど』

 

「運営方法に問題あるんじゃないか、それ……?」

 

 どうも仕切りや壁は木材以上の硬い素材で作られているように見えるので、強引に突破することはできないだろう。もう最初から地図でも渡しておけば良い気もする。

 ちょっと不安を覚えたが、士道たちなら迷う心配はない。自律カメラで上から写せば、係員はもとより出口まで誘導してもらえる。これなら挑戦しない手はない。

 

「なあ美九、後であそこの迷路に――って、何見てるんだ?」

 

 視線を正面に戻すと、今まで座って外を見ていた美九が立ち上がっていた。そうしてかつてないほど真剣な表情で眼下に目を凝らしている。

 視線を辿ってみると、その先にあったのは隣のウォーターエリア。その屋外にある、人のいないプール施設。それを目にすれば、美九が何を考えているのかは大体分かった。

 

「……言っとくけど、水着の女の子は屋外プールにはいないと思うぞ?」

 

「えぇー、どうしてですかぁ?」

 

 案の定、水着の女の子を捜していた美九。今にも泣きそうなほどがっかりした表情をこちらに向けてくる。

 

「時期を考えろ、時期を。今日は暖かいけどもうすぐ冬なんだぞ。中ならともかく外にいるわけないだろ」

 

「ぶー、がっかりですぅ」

 

 肩を落とし、美九は席に座りなおす。だがその顔を上げて士道を視界に収めた時、何かに気付いたように瞳を見開いた。ついで機嫌をなおしたのかにっこりと微笑む。ただしそれは、ちょっと純粋とは言い難い笑み。例えるなら、何か悪戯を思いついたような怪しい笑顔。

 理由は分からないが、士道は猛烈に嫌な予感がした。

 

「そういえば士織さん、さっきは何を言いかけたんですかぁ?」

 

「あ、ああ。後であそこの迷路に行ってみないか? 結構複雑で楽しめそうだぞ」

 

 迷路にちらりと視線を向ける士道。目を離した時間は一秒にも満たない。

 にも関わらず、視線を戻した時には美九の姿はなかった。

 

「本当ですねー。でも時間がかかりそうですし、あそこは最後にしませんかー?」

 

 声が聞こえてきたのはすぐ隣。見ればいつのまにか美九が隣に座っている。しかも相当近い。肩と肩が触れ合うほどの距離だ。そしてやはり、その瞳には怪しい光が揺れている。

 何故だろうか、寒くもないのに身体が震えそうになる。

 

「……そう、だな。せっかく楽しくなってきたんだし、時間が潰れるのは嫌だからな……」

 

「士織さん、楽しんでくれてるんですねー。美九はとっても嬉しいです」

 

「……ところで、美九さん」

 

「はい、何ですかー?」

 

「……一体、何をしてるんですかね?」

 

 先ほどから二の腕の辺りを美九に擦られている。

 優しく可愛がるような撫で方なら良いのだが、そんな純粋な撫で方とは程遠い。纏わり付くようなねっとりとした撫で方だ。

 

「いえー、水着の女の子より素敵な子が目の前にいたので、美九もちょっとだけお楽しみになりたいなーと思いまして」

 

 そう口にすると、美九は二の腕から太股へと指を滑らせてきた。

 

「いや、ちょっと!? お楽しみって何のことだよ!?」

 

 蛇が這うようなぞっとする感触に鳥肌が立ち、跳ね上がるようにして美九から離れる士道。

 

「ふふふー、決まってるじゃないですかー。せっかく密室に二人っきりなんですよー?」

 

「げっ!?」

 

 言われて初めて、士道は自分がどれだけ危険な状況に置かれているかを理解した。

 士織ちゃん大好きな美九と、地上百メートル近い密室に二人っきり。人目もはばからずに抱きついてくる美九が、こんなおいしい状況で何もしないわけがない。

 

『確かに邪魔は入らないわね。密室じゃ転送装置も使えないし』

 

「はは、は……じょ、冗談だよな……?」

 

『残念ながら本当よ。観覧車を止めることならできなくもないけど』

 

 琴里の無情な言葉に、最後の望みも潰えた。こんな状況に陥らないようサポートを頼んだというのに、これでは全く意味がない。というか観覧車を止められるなら、速度を速めることくらいできるのではないだろうか。

 明確な身の危険を感じて、背筋を冷たい汗が流れる。もう飛び降りることも視野に入れて扉を開けようと試みたが、びくともしない。不慮の事故が起こらないよう、乗客の安全を考えた素晴らしい作りになっている。できればゴンドラの中の不慮の事故も考えて欲しかった。

 

「だ、出してえええぇぇぇぇぇ! ここから出してえええぇぇぇぇぇ!」

 

「ふふふー、安心してください。ちょっとペロペロするだけですからー」

 

 微塵も安心できないことを口にして、美九はゆらりと立ち上がった。そうして恐怖を煽るような、ゆったりとした歩調で近づいてくる。こんな光景をどこかで見たことがあるなぁ、と現実逃避しかける士道。しかし良く考えると逃避できていなかった。どちらも状況がほとんど同じだ。いや、助けがこられない分こちらの方が状況は悪い。

 

「ひっ……こ、来ないでぇ……」

 

 正に襲われる女の子のような声を出して、士道は恐怖に震えながら反対側の席まで後退る。それが美九の目に一体どう映ってしまったのか、明らかに興奮した様子で身体を震わせた。

 

『地上に着くまで後七分くらいね……グッドラック、士織ちゃん』

 

 面白がっているような声音の琴里。

 サポートを頼んだ自分が馬鹿だった。こいつは味方じゃない。

 

「さあ、脱ぎ脱ぎしましょうねー。大丈夫ですよ、大人しくしてればすぐに終わりますからー」

 

「い、いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 瞳を怪しく輝かせた美九に覆い被さられ、士道は地上百メートルのゴンドラの中で、自分でもびっくりするほど女の子らしい悲鳴を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 




 後編終了です。何かどこかで見た終わり方ですけど、たぶん気のせいです。気のせいです。
 アトラクション中の描写がない最大の理由は、アトラクションに乗った経験がないということ。乗り物酔いが激しすぎてタクシーやバス、車で一分も経たずに酔います。ジェットコースターに乗ったらどうなるかなぁ……。


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美九ストラテジー

「ストラテジー」=「計略、策略、戦略」
 何だかんだで一年ぶりの更新になりました。最近は妙に湧き上がる性欲を発散するためにずっとR18の方で書いてましたからね。他の作品に浮気もしてましたし……。
 ちなみに続きを書くに当たって読み直しましたが、何故か読んでて恥ずかしかったです。あと今回かなり気をつけましたがR18の時のノリが抜けずに書いてしまった部分があるかもしれません。もうエッチなことを書く時の初々しい羞恥心なんてなくなっちゃったので。もしかしてまだ初々しかった時に書いたものだから逆に恥ずかしいのかな……?
 ご期待に添えなかったり不快な気分にさせてしまったら申し訳ありません。





「ひ、酷い目にあった……」

 

 扉が開くなり脇目も振らずにゴンドラから飛び出し、安心感のある固い地面を踏みしめて盛大に一息つく士道。

 ゴンドラが揺れるほどの必死の抵抗により、地上に到達するまで何とか尊いものを守り通すことができた。とはいえ完全に無事というわけではない。胸元のリボンは解け髪は乱れ、ブラウスもセーターも肩が覗くほどずりさがっている。

 その様子が果たしてどのように映るのか周りの男達がちらちらと視線を向けてくる。理由はあまり考えたくない。

 

「えー、とっても楽しかったじゃないですかー?」

 

「そりゃあお前は楽しかっただろうよ……」

 

 士道とは対照的におしとやかとも取れるほどゆっくりとゴンドラから降りてくる美九。満足気な笑みが浮かぶ頬や肌の色艶が増しているのは気のせいではないだろう。

 最早声を荒げる気力もなく、士道は着衣の乱れを直しつつ溜息をついた。

 

「そういえばずっと疑問に思ってたんですけど、士織さんはどうしていつもショートパンツをはいてるんですかぁ?」

 

「いや、聞かなくても分かるだろ!? 言っとくけど履くのが駄目ならもう女装はしないからな!?」

 

 しかし男として譲れない一線を理解していない美九に再び荒げる気力が湧き上がってくる。

 

「えー、士織さんは女の子なんですからちゃんと徹底しましょうよー?」

 

「違うから! 女の子じゃないから! ていうかこれ脱いでも舌は男物の下着だからな!」

 

「そうなんですかー? 残念ですぅ、士織さんなら可愛い下着が似合いそうだと思うんですけど。うーん、どうすれば士織さんに穿かせることができるんでしょうかぁ……」

 

 そんなくだらないことを呆れてしまうほど真剣な様子で考え始めた美九。

 似合う云々の前に履いてしまったら男として何か越えてはならない一線を越えてしまう。なので女装は今の姿が限界だった。レベルアップして最終段階に突入する気は毛頭なかった。

 

「はあっ……冗談はここまでにして早く昼飯にしようぜ。何か声出しすぎて喉渇いてきたぜ」

 

「――っ!? そうですねー、冗談じゃなくて本気だったんですけどお昼を買いに行きましょうかー!」

 

 士道の提案に一瞬息を呑むような様子を見せ、満面の笑みでさらりと答えた美九。何やら反応がおかしかった気もするが、それより少し気になることがあった。

 どうやら美九は士道の女装があまりにも似合っているせいで女装の限界に思い至っていないらしい。無いものをあるように誤魔化すことはできても、あるものを無いように誤魔化すことはできないということに。

 

「あのなぁ、美九。仮に履いたとしてもお前の想像してるように可愛くはならないって分かってるか? もの凄く見苦しいことになるんだぜ。男と女じゃ、その……下半身の、構造が違うから……」

 

『うわっ、それセクハラよ士道。まぁ言ってること自体は間違ってないわね。あなたに見苦しくなるほど立派なモノがあるとすればの話だけど』

 

「お前の台詞こそセクハラだろ! 仮にも年頃の女の子がそんなこと言ってんじゃねぇ!」

 

 言い淀みながらも教えてやった士道に対して、琴里がわりとスレスレの言葉をかけてくる。

 あんなに純粋で可愛かった幼い妹がこんな下ネタを口にしてしまうとは。おにーちゃんとしてはかなり悲しかった。

 

「そうなんですよねぇ。でも士織さんかだーりんなら平気です。というかもう士織さんが恥ずかしがって震える姿が見られるなら何でも構いません! というわけでお願いします、士織さん!」

 

「分かってて本気で言ってたのかよ!? 何度頼まれたって絶対それだけは嫌だからな!」

 

「うぅ、士織さんったら意地悪ですぅ……えーん、ぐすぐす……」

 

 瞳を輝かせ拳を握って力説したかと思えば、今度はその場に蹲って泣き始める美九。

 もちろん嘘泣きだが会話を耳にしていない通行人にはまるで士道が本当に泣かせたように見えることだろう。一応女装によって周りからは女の子だと思われているので視線はさほど刺々しくないが、居心地が悪いことに違いは無い。

 

「あー、もう……それだけは絶対嫌だけど譲歩はしてやるよ。普通の女装ならたまにならしてやるから、もう嘘泣きやめて立ってくれよ。周りの視線が痛いぜ……」

 

「本当ですか士織さん!? いつでも女装してくれるんですかぁ!?」

 

「たまにな!? たまに!」

 

「ありがとうございます! 士織さん大好きですぅ!」

 

 再び瞳を輝かせながらガバッと身を起した美九の反応に、さすがの士道も譲歩したことを後悔せざるを得なかった。嘘泣きだろうとなんだろうと女の涙は武器になってしまうのだから恐ろしい。

 上機嫌で当たり前のように腕に抱きついてくる美九にほとほと呆れながらも、士道は昼食を買いに二人で歩き始めた。

 店の中などで食べるわけではないので、昼食はファーストフードにすることとなった。要するにハンバーガーやポテトといったジャンクフードだ。食事を摂る場所は観覧車から見つけた園内の端の休憩所。視界が広く園内の様子が良く見渡せるので、食事と同時に景色も楽しめるなかなか良いロケーションだ。

 二人用の小さな丸いテーブルに向かい合って座り、ドリンク片手にジャンクフードを頂きながら景色を楽しむ。別に高価なものを食べているわけではないがささやかな贅沢と思えるほど良い気分だった。

 

「うーん、おいしいですねー! 青空の下で可愛い女の子と一緒に食べるご飯は最高ですぅ!」

 

「女装してる男は女の子にカウントするべきじゃないと思うんだけどな。それよりも美九、本当にそれ全部飲むのか?」

 

 士道はおいしそうに少しずつハンバーガーを頬張る美九の傍らに視線を注ぐ。そこにあるのは美九が注文したドリンクだ。ただし大きさは最も大きいLサイズ。声を荒げまくったせいで喉が渇いている士道でも全部飲むのは気が引けるような大きさである。

 

「はい、そうですよー? 何だか今日はとっても喉が渇いてるんですぅ。うふふふ……」

 

「明らかに棒読みじゃねぇか。さすがに多いって言っただろ?」

 

 士道の疑問に美九は棒読みで答えてきた。その上表情は明らかに作り笑い。多分士道とのデートで開放的な気分に浸っていたせいで欲張ってしまったのだろう。

 一応自分でも失敗したと分かっているらしい。美九はストローのささったプラスチックのフタを外して中を覗きこみ、残っている量を見て表情を暗くしていた。

 

「そうですねー、さすがに美九一人だと多すぎでしたぁ。これだけいっぱい残すなんて罰当たりですぅ……」

 

「まぁ、確かにちょっともったいないよな。もう飲めないって言うなら俺が飲むよ。さすがに全部は無理だけどな」

 

「本当ですかぁ! ありがとうございます、士織さん!」

 

 カップのフタを戻さずテーブルに置き、満面の笑みでドリンクが並々と注がれたコップを差し出してくる美九。

 自分の分のドリンクもまだ残っているがさすがに半分以上残っているものを捨ててしまうなど気が引ける。多少無理をしてでも量を減らすことに決めた士道はコップを受け取るために手を伸ばした。

 

「――あっ!」

 

「うわっ!?」

 

 だがコップの側面を濡らす水滴で滑ってしまったのか、受け取る直前に美九の手からコップが離れてしまった。士道の方に、フタの無い飲み口を向けて。

 

「きゃー! 手が滑って飲み物を零しちゃいましたぁ! 大丈夫ですかぁ、士織さん!?」

 

「あ、ああ、少し濡れただけだから平気だって。けどこれは着替えが必要だな……パンツまでグショグショだし……」

 

「本当ですか!? 本当にそんなに濡れちゃったんですかぁ!? 本当に着替えが必要なほど濡れちゃったんですかぁ!?」

 

「何でそんなに興奮した表情してんだよ!? 何か別の意味で取ってないか、お前!?」

 

 鬼気迫る表情で身を乗り出してきたかと思えば、今にも涎を垂らさんばかりの危ない表情で呼気を荒くし始める美九。

 別の意味についての話題はさておき着替えが必要なのは確かだ。何せ半分以上中身が残っているLサイズのドリンクが全て士道の膝目掛けて流れ落ちてきたのだから。

 幸い上着は無事だがスカートはもちろんのことショートパンツも下着もびしょ濡れで、糖分を含むジュースだったせいもあり肌に張り付く感触はベトベトで非常に気持ち悪い。

 

「とにかくそのままじゃ風邪を引いちゃいますからすぐに着替えないと駄目です! 一旦お手洗いに行きましょう、士織さん! 着替えを用意してきますからそこで待っててください!」

 

「お、おう。ていうかお手洗いってもしかしなくても女子トイレの方だよな……」

 

 さすがに美九が着替えを持ってきてくれる以上、男子トイレには入れないだろう。女装の上に女子トイレに足を踏み入れなければならない気まずさに襲われながらも他に選択肢は無く、士道は美九に手を引かれるまま連行されていった。

 

『濡れるだとか女子トイレだとか、何さっきから嫌らしい想像してるのよ。今日は女装で欲求不満を解消してるんじゃなかったの?』

 

「い、嫌らしい想像なんてしてねぇよ! ていうかそんなことして不満を解消できるほど性癖は捻じ曲がってないからな!?」

 

『それはどうかしら。もしかしたらこれから開放感の味を占めて目覚めるかもしれないわよ?』

 

「はっ? それって一体どういう意味だよ?」

 

『さぁ、自分で考えてみれば? ああ、さすがに女子トイレの中までモニターはしないから安心してゆっくり着替えなさい。ふふっ……』

 

 美九に女子トイレへと連れ込まれる直前、琴里の意味深な笑い声が耳に届く。多少疑問に思ったが覗かれないのなら文句は無いので、特に士道は追求しなかった。

 そうして半ば無理やり個室に押し込まれ、美九が着替えを持ってきてくれるのを待つ。濡れたショートパンツやら下着やらを脱ぐことも考えたが、美九から着替えを受け取る時のことを考えるとまだ履いていたままの方が懸命だ。

 仕方なく士道は便座に腰を下ろし、美九が着替えを持ってきてくれるまで濡れた座布団に腰掛けているような不快な感触に耐え忍んでいた。

 

「お待たせしました、士織さん! タオルと着替えを持ってきましたぁ! はぁっ……はぁっ……!」

 

 しばらく待っていると数分もしない内に息を切らした美九が戻ってきた。

 着替えの用意なかったものの、幸いウォーターコースターのアトラクションの近くでは着替えが販売されている。濡れた女の子がいそうなあの付近に美九を近づけるのは少々気が咎めたが、緊急事態なのでやむを得ない措置だった。

 

「ああ、サンキュー。じゃあ着替えるから外でちょっと待っててくれ」

 

「いいえー、ここで待ってますぅ。士織さんが着替えた姿を一瞬でも早く目にしたいですからー」

 

「そ、そうか。何かやけに嬉しそうだな……?」

 

 着替えとタオルの入った紙袋を受け取った士道は、扉を閉める前に目にした笑顔で佇む美九の様子に妙な胸騒ぎを感じた。目だけ笑っていないというわけではないのだが、若干邪な感情が見えたからだ。まるで士道が着替えるこの瞬間を狙っていたとでも言うような、途轍もなく邪な感情が。

 

「――っ! ま、まさか……!」

 

 ここにきて士道は最悪の可能性に思い至り、破けそうな勢いで紙袋に手を突っ込み中身を調べた。

 

「……やられた」

 

 そして深く溜息を零し、額に手を当て呻く。

 何故なら用意されていたのはとても短いミニスカートと、可愛らしい三段フリルの下着だったのだから。しかもショートパンツは無し。

 念のため紙袋を引っくり返して揺さぶったりしてみたが、当然他の着替えは出てこなかった。

 

「……なぁ、美九」

 

「はい、何ですかぁ?」

 

「これ何だ?」

 

「士織さんの着替えですよー?」

 

「じゃあ何で下着が女物なのか詳しく教えてくれ。あとスカートの短さと短パンが無い理由も」

 

「士織さんがそれを身に着けた姿を美九が見たいからです!」

 

「ちょっとくらい誤魔化せよ! さてはお前ジュース零したのもわざとだな!?」

 

 返って来たのは全く悪びれもしない欲望に忠実な返事。

 たぶん昼食の最中に士道の膝に飲み物を零したのはわざとなのだろう。下着やらスカートやらをわざと汚して着替えざるを得ない状況を作り、ウォーターコースター近くの売店で着替えを購入。後は持ってくればもう士道にはそれを着る以外に選択肢は残されていないわけだ。あざといにもほどがある。

 

「すみません、士織さん! 他に方法が無くて……! どうしても……どうしても、見たかったんですっ!」

 

「何で人の女装姿をそこまで切実に見たがるんだよ、お前は!」

 

 ドアの向こうから返ってきたのは唇を噛んで喉の奥から搾り出すような切実な願い。

 そこまで真剣に願われたら叶えてやりたい気持ちになるがさすがにこれは無理だ。女の子用の可愛いふりふり下着を履いてショートパンツ無しのミニスカート姿で園内を回るなど、考えただけで羞恥心で叫びだしそうになってしまう。

 紙袋に問題の着替えを詰め直した士道は琴里に助けを求めることにした。

 

「琴里、替えの着替え用意してくれよ。さすがにこんなもの履けねぇよ……」

 

『何馬鹿言ってるのよ。せっかく美九があなたのために用意してくれた想いのこもった着替えなのよ。あなたも男ならこれくらい受け止めてや――ぷっ、くくっ……!』

 

「今吹き出したろお前!」

 

「士織さん士織さん! 早く出てきて士織さんの晴れ姿を美九の網膜に焼き付けさせてください!」

 

 極めて真剣な声音でたしなめてきたかと思えば耐えられずに笑いを零す琴里と、ドアをドンドン叩いて急かしてくる美九。

 ノックの連打を無視して頭を抱える士道に突きつけられた選択肢は三つ。

 濡れてしまった着替えを身に付けること、七罪の能力を使って着替えをまともなものに変化させること、現実を受け入れること。

 一つ目の選択肢が一番常識的な対応かもしれないが大きな染みのできたスカートとショートパンツという粗相をしたような状態で歩くのは女装以上に恥ずかしいし、今は一応冬なので風邪を引いてしまうかもしれない。

 二つ目の選択肢はかなりの荒業でありつつもまともな格好になれる素敵な考えだが、こんなくだらない状況で精霊の能力を用いるなどあまりにも馬鹿げているし、何より例え悪ノリしていなくとも琴里が許してくれないだろう。

 三択と謳いながらも実質選択肢はたった一つしかない。

 今日一番の重い溜息をつき、士道は紙袋の中からとても可愛らしい着替えを再び取り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うふふふ。素敵です、士織さん。とっても良く似合ってます。はあっ、はあっ……!」

 

 背後から届くのは美九の興奮を隠そうともしない荒い息遣い。確かめずともその視線が士道の下半身を舐めるように眺めていることが邪な気配ではっきりと分かった。

 

「た、頼むからあんまり見ないでくれ、美九! 恥ずかしさでどうにかなりそうだ……!」

 

 視線を注がれている後ろ側のスカートの裾を右手で押さえ、同様に前は左手で押さえ決して下着が見えないよう必死に隠す。

 悲しいことに士道はついに可愛い下着とミニスカートを履き、大人の階段的なものを一つ上らされて強制レベルアップを果たしてしまった。最初はまともな着替えを買いに行くための一時しのぎのはずで着替えたのだが、少しでも買いに行くような素振りを見せると美九がアメフト張りの巧みなディフェンスで以って妨害してくるのでもう諦めた。

 なお、その際の美九の手つきは左右に広げるのではなく腰の辺りで自然体。たぶん抜こうとするとタックルされるのではなくスカートを捲られるので危険を冒す気にはなれなかった。

 とりあえず今日の記憶は壁に頭を打ち付けてでも速やかに抹消する予定である。

 

「その反応も堪りませんっ! 恥ずかしがって縮こまる士織さん、グッドです!」

 

「ちくしょう、こんなのほとんどパンツ一枚と変わらないじゃねぇか……何で女っていうのはこんな格好で恥ずかしげも無く出歩けるんだよ。もっと恥じらいを持ちやがれ……」

 

 軽く涙目になりながら最初の女装で抱いた感想と同じような感想を改めて抱く士道。しかし今回は以前よりも酷い。ショートパンツが無いので下着が直に外気に触れて驚くほど寒いし、ヒラヒラのミニスカートはあまりにも頼りなく身に着けている感覚が全く無い。おまけに男女の下半身の構造の違いは三段フリルで輪郭を誤魔化すことによってクリアされている。美九の執念を垣間見た。

 これだけでも相当神経に来る惨状だというのにちょっとでも風が吹けばスカートが捲れて下着が露になりそうで一瞬たりとも油断できず、歩幅すら狭めて段差にも気をつけて歩かねばならないのだから緊張しっぱなしだ。一挙一動に気を遣い涙目で恥らう女装した士道の姿はたぶん完璧に女の子のそれだろう。

 

『ふふっ、とても良く似合ってるわよ士織ちゃん。ほら、美九のためにセクシーなポーズでもとってやりなさい』

 

「士織さん、士織さん! こっちに視線お願いします!」

 

「いつのまにか写真撮られてる!? 頼むからこれ以上辱めないでくれ、美九!」

 

 瞳を輝かせ生気に満ち溢れた表情で前後左右から携帯で容赦なく連写してくる美九。レンズから逃れるために逃げ出したいところだが、うっかり走りでもすると下着が見えてしまいそうなのでその場で恥じらい身を捩ることしかできなかった。しかもその恥らう様子が美九を更にヒートアップさせているのでもうどうしようもない。

 結局士道は美九が満足するまで被写体にならざるを得ず、ついには羞恥に耐えられず道端に座り込んでしまった。

 

「ふー、良い汗かきましたぁ。可愛い下着がチラッと見えてる写真も何枚か撮れちゃったみたいですー。皆さんにも見せてあげないといけませんねー」

 

「ううっ……俺に何の恨みがあるっていうんだよ、美九……もうお婿にいけそうにない……」

 

『婿にいけないなら嫁に行けば良いじゃない、士織ちゃん。美九ならきっと貰ってくれるわよ?』

 

 変装用の伊達メガネを外し、一仕事終えたような清々しい笑顔で汗を拭う美九。これ以上無い辱めを受け、もう士道は本物の女の子のように顔を手で覆い泣こうとした。それくらい精神的なダメージが大きかった。

 

「もう一思いに殺してくれ……って、今皆に見せるって言ったか!?」

 

 恐ろしい言葉に気付き顔を上げると、瞳に映ったのは一心不乱に携帯を弄る美九の姿。それが意味する所を考えた士道は顔から血の気が引いていくのをはっきりと感じた。

 

「待て美九! それだけはやめてくれ! 何でもするから!」

 

「……士織さん、とっても魅力的な提案ありがとうございます。でも言うのがちょっと遅かったみたいですぅ」

 

『おっと、メールが来たわ。これでもかって言うくらい大量の写真が添付されてるわね。宛先は十香に四糸乃に七罪に……ばっちり全員に送られたみたいよ』

 

「うわああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 見られる人数分倍化した羞恥心に最早耐えることができず、士道は人目もはばからず地面に突っ伏して叫んだ。たぶん後ろから見たらパンツが見えている。

 

「元気を出してください、士織さん。一緒に遊園地を回って気分転換しましょう。次はどこに行きたいですかぁ?」

 

 自分が辱めた張本人だと言うのにとても優しげな微笑みを浮かべて手を差し伸べてくる美九。もう泣こうが喚こうがどうにもならないので、士道は涙を拭うとその手を取って立ち上がった。

 

「……家に帰りたい。さっきまではそう思ってた。けどこうなるともうどんな顔して皆に顔合わせれば良いのか分からない……」

 

「そうですかぁ、じゃあ一日中美九と遊園地で過ごしますかぁ?」

 

「……それはそれで嫌だ。もう何もかもが嫌だ。ちくしょう……」

 

 美九と一緒にいると引き続き視線で辱められるだけだし、写真では飽き足らず動画を撮られてしまうかもしれない。かといって家に帰っても写真を見たであろう十香たちと顔をあわせることになってしまう。

 人の噂は七十五日と言われているのだから皆がそれを忘れてくれるかもしれない七十五日間くらい家出しようかとも思ったが、明らかに現実的ではないしさすがに琴里や十香を飢えさせるわけにも行かない。正直もう考えるのも嫌になってきた。

 

「あーん、士織さんったらいつになくネガティブですぅ。でもこれはこれで七罪さんみたいで堪りませんねぇ」

 

「もうどんな反応しようが関係無いんじゃねぇか。ていうか散々写真撮ったんだからもう見るのやめてくれよぉ……!」

 

 ぴったり寄り添い絡みつくような視線を向けてくる美九へと涙ながらに懇願しつつ、士道は当てもなく道を歩く。

 本当に当てはなかったがその内足はデートの最後の行き先と決めていた場所へと自然に向いていた。

 皆に顔を会わせづらい気持ちは変わらないものの、遅かれ早かれ顔を会わせることに変わりはないのだ。どうせその残酷な未来が確定されているものなら、公共の場で百パーセントの女装をしている今の悲惨な現実をさっさと切り上げたかった。

 

「ふぅっ、やっとついた。近かったはずなのに妙に時間かかったように感じたな……」

 

 迷路のアトラクションに辿りついたところで、士道は足を止めてほっと一息つく。

 ここに来るまでに要した時間は数分も無かったはずだが、体感ではその十倍くらいの時間がかかったような気分だった。やはり周囲の視線と自身のスカートを過度に気にして歩いていたせいで時間の感覚すらぼやけるほど緊張感があったのだろう。

 

「士織さん、ここはどういうアトラクションなんですかぁ? 何だか壁しか無いように見えますよー?」

 

「ああ、ここは等身大の迷路らしいからな。美九、悪いけど今日は最後にこの迷路に挑戦してデートはおしまいにしようぜ」

 

「へー、ここ迷路なんですかぁ。良いですよー、迷路の中で二人きりっていうのも何だか凄く興奮するシチュエーションの気がします!」

 

 テンションが上がってきたかのように拳を握り、瞳を輝かせる美九。ただしその星のような瞳が見ているのは士道の身体、具体的には下半身の辺りだ。道中は不特定多数の人間がいたので多少控えめだった気もするが、幾重にも壁で遮られ他者の姿をほぼ見ない迷路の中なら本気を出してくるに違いない。

 

「……美九、良かったらどっちが先に迷路を抜けられるか勝負しないか?」 

 

「わー、それも結構面白そうですねぇ。良いですよー、でもせっかくですから負けた方は勝った方の言うことを何でも聞くっていう罰ゲームもありにしませんかぁ?」

 

 美九は二つ返事で了承し意味ありげな笑みで付け加えてきた。何でも、というのは普通に考えてもかなり重い罰ゲームだ。相手が美九だからこそ特に。

 

「ああ、俺は構わないぜ。どうせ勝つのは俺だからな」

 

 だが士道は躊躇い無く唇の端を吊り上げ不敵な笑みを返した。

 予想外の反応で驚いたのか美九は息を呑み頬を染めてたじろぎ始める。

 

「し、士織さんったら自信満々でカッコイイです……! とっても男らしくてびっくりです……!」

 

「そりゃあ男だしな。じゃあ先にゴールで待ってるぜ、美九。あ、係員に出口まで連れてってもらうのは反則だからな。やったらおしおきだぜ?」

 

 そして気障っぽく言い残して背を向け、迷路の入り口へと一人で歩みを進めて行く。もちろんスカートの裾をしっかり押さえながらなので、全く絵にはならなかっただろうが。

 

「た、大変です。士織さんが攻めに回りました……! 反則したら一体どんなおしおきをしてくれるんでしょうか……!」

 

「いや、おしおき目当てで反則したりするなよ!? お前が期待するようなおしおきはしないからな!?」

 

 妙に期待に満ちた不穏な言葉が聞こえたので振り返って釘を刺し、最初の分かれ道を左に進む。

 しばらく曲がり角で待っていると美九が慌てて右の道を走っていく姿を目にした。さすがに後ろをこそこそついてきたりはしないらしい。

 

『まさか私にナビさせようなんて思ってないわよね? 間違ってもそんなことはしないから期待しても無駄よ。美九に反則するなって言いながら自分が反則するのはフェアじゃないわ』

 

「そんな期待はこれっぽちもしてねぇよ。俺が期待してたのは一人になることだからな。これでやっと落ち着けるぜ……」

 

 ようやく心の平穏を得られたことで、士道は迷路の壁に背を預け安堵の吐息を吐く。

 狙い通り美九は美九で迷路の攻略に挑戦しているので、一緒に歩いて視線で舐めまわされ辱められることもない。道行く人々の視線も壁に遮られた迷路の中にまでは届かない。完全無欠の女装をさせられてから初めて安心できる状況だった。

 

『落ち着くのは結構だけど早く迷路を脱出しないと美九の勝ちになるわよ。敗者に何でも言うことを聞かせられるっていう罰ゲームを忘れたわけじゃないでしょう?』

 

「今更何を命令されたってもう恥ずかしくも何ともねぇよ。女物のパンツ履かされて短パン無しのミニスカート姿で歩くことに比べれば何だってマシだ」

 

『ずいぶんとまぁ破滅的な思考に陥ったものね。なら勝ちは捨てたってことで良いのかしら。美九にどんな淫らな要求を突きつけられても、ある種の猥褻な行為を強制させられても平気ってことね?』

 

「いや、それは……」

 

 士道の不安を掻き立てるように、琴里はゆっくりはっきりと口にしてくれる。

 罰ゲームは今現在の状況に比べればマシなだけであり、平気というわけではない。それに美九のことなので士道の予想の上を行くとんでもない要求を突きつけてくる可能性も十二分にある。そしてその要求が今現在の百パーセントの女装よりも凄まじい辱めになることも可能性としてはゼロではない。

 このまま勝ちを譲るなどとても愚かな行為だ。士道ははっきりとそれを理解した。

 

「言われるまで気付かないとか本当に破滅的になってたな……よし、そうと決まればさっさとこんな迷路脱出してやる。これ以上の辱めはもうごめんだぜ……!」

 

 やっと正常な判断力が戻ってきた士道は、休むのを止めてすぐさま迷路を走った。

 

『息巻くのは結構だけど走るとパンツ見えるわよ』

 

「っ!」

 

 そしてすぐに立ち止まってスカートを押さえ、誰にも見られていないか背後を振り返って確認した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「可愛いもの、エッチなもの……うーん、迷いますねぇ」

 

 迷路に突入してからおよそ五分。美九は物理的にも精神的にも迷っていた。

 精神的な迷いはともかく、物理的な迷いはどうにもならない。ゴールの方向も全く分からない美九には分かれ道では適当に進む以外に選択肢は無かったのだ。あとは女の子の声がした方に進むとか、男の声がした方は避けるとかそれくらいである。

 

「あ、また行き止まりですぅ。まずいですねー。この調子だと士織さんへの罰ゲームが実行できません……」

 

 幾度目かの行き止まりにぶつかり、がっくりと肩を落としてうな垂れる美九。せっかく素敵な罰ゲームを思いついたというのに勝負に勝てなければ意味が無い。

 いっそ係員に出口まで案内してもらうという反則をして勝負に勝ち、罰ゲームを行った後に反則したことを打ち明け士道からのおしおきを受けるという二重のおいしい思いをすることも考えたが、そもそも美九は一度も係員なる者を見かけなかった。

 まぁ仮に見かけたとしても大好きな士道との約束だ。案内してもらうという反則は決してしないつもりだった。

 

「……あらー?」

 

 少なくとも、自分から話しかけて自分を案内してもらうつもりは決してない。

 泣きじゃくる子供の手を引き案内している綺麗なお姉さん係員の姿を見つけた美九は、抑えられない頬の緩みを感じながら約束の内容を反芻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くそっ、また行き止まりだ! さっきからずっと同じ所回ってる気がするぞ……」

 

 迷路に突入してからおよそ十分。士道は度々悪態をつきながら未だ迷路の中を彷徨っていた。

 一応観覧車との位置関係からゴールの方向自体は分かるのだが、方向を意識すればするほど遠ざかっている節がある。たぶん方向を意識して進むと余計に迷うような作りになっているのだろう。何とも趣味の悪い迷路である。

 

『あなたには分からないかもしれないけど一応出口に近づいてはいるわよ? だけどその調子だとまだまだ時間がかかりそうね』

 

「近づいてはいるのか……なぁ、琴里。少しくらい案内してくれても罰は当たらないんじゃねぇか?」

 

『案内したとして私に何のメリットがあるっていうの? そんなことをしたらつまらないわ。せっかく迷路の中で彷徨い途方に暮れるあなたの無様な姿を見て悦に浸ってるっていうのに』

 

「空の上から見下ろしてるお前にはさぞかし愉快な光景だろうな……!」

 

 晴れ渡る青い空の向こうに<フラクシナス>の艦橋でニヤニヤ笑いを浮かべふんぞり返っている琴里の姿を幻視し、眉を歪める士道。

 実際のところ上空からモニターしている琴里には正しい道が分からず困り果てて右往左往している士道の姿はさぞかし愉快に思えることだろう。ある種の娯楽にされている士道としては全く面白くなかった。

 

『ええ、さしずめ何かの実験で迷路をひた走るラットを見てるような支配的な気分ね……ところで士道、あなたどんな水着が好み? 露出度の高いビキニ? それともマニアックにスクール水着かしら?』

 

「……さっきから一体何なんだよその質問? 俺の趣味でも探ってんのか?」

 

 今の状況と全く関係の無い質問をしてきた琴里に、士道は逆に尋ね返す。

 どういうわけか琴里は二、三分ほど前から何度かこんな質問を士道にぶつけてきている。運動着はどんなものが好きかとか、ネコ耳とウサ耳どっちが好きかとか、明らかに衣装やそれに類する関係の質問だ。

 

「もしかして俺に着せようってんじゃないだろうな? 言っとくけど今は仕方なくこんな格好してるだけで目覚めたりなんかしてねぇからな」

 

『それはどうかしら。実物を目にすれば考えが変わるかもしれないわよ? それであなたはどっちが好み?』

 

「そうだな……スクール水着、かな」

 

 一瞬の間を置き、そちらを答える。

 間を置いたのは水着とそれを着た人物を想像したからだ。具体的にはこんな変な質問を面白そうに口にしている琴里の姿を。

 何故ビキニではなくスクール水着を選んだのかというと、別にマニアックな趣味があるわけではなくもっと単純な理由である。ただし詳細に触れると琴里の怒りを買いそうなので理由は答えなかった。

 

『ふぅん、そう。やっぱりマニアックね。スクール水着を選ぶなんて』

 

「お前が何て言おうが絶対着ないからな。それより美九の方はどうなってるんだ? まだゴールしてないのか?」

 

『それを教えたら面白くないでしょう? すでに勝負がついてるとも知らず無駄な努力を重ねる面白い姿が見られないじゃない。そして今みたいに思わせぶりな答えに嘘か真実か見抜けずに苦悩する姿もね』

 

「要するにどう転んでも教えないしお前は笑うだけってことだな。頼った俺が馬鹿だった」

 

 美九がゴールしていようといなかろうと、一刻も早くこんなふざけた格好から着替えたい士道が取るべき対応は変わらない。

 文字通り高みの見物を決め込んでいる琴里にサポートを求めるのは諦め、スカートを手で押さえつつ捲れないギリギリの範囲で複雑に入り組んだ迷路を駆けずり回っていった。

 そして更に五分後――

 

「遅かったですねぇ、士織さん。お疲れ様ですぅ」

 

 出口に辿りついた士道を待ち受けていたのは、美九の労うような可愛らしい笑顔。その手には小さなペットボトル飲料が握られていた。迷路を抜けてから飲み物を買いに行く余裕まであったらしい。勝負は完璧に士道の負けだった。

 

「俺の負けみたいだな。反則は……してないんだよな?」

 

「はいー。士織さんとの約束どおり、係員さんに話しかけて案内してもらうなんてことはしませんでしたよー? 信じてくれないんですかぁ?」

 

「良く考えると信じる信じないの前に確認する方法が無いよな……琴里は教えてくれねぇだろうし」

 

 ぼやきつつも美九が差し出してくれた飲み物を受け取る士道。

 だが美九の手は離れず、疑問に思って顔を上げると明らかに含みのある笑顔がそこにあった。

 

「士織さん士織さん、罰ゲームなんですからちゃんと美九の言うことを何でも聞いてくれるんですよねー? 何でもー」

 

「じょ、常識の範囲内でならな? 何でもっていうのはさすがに言いすぎだ」

 

『自分が負けた途端とんだ弱腰になったわね。あれだけ気障に啖呵を切ってた男勝りの士織ちゃんはどこに行ったのかしら』

 

 男勝りではなく実際男なのだが、もうツッコミを入れるのも疲れたので何も言わないことにした。

 約束の履行を確認した美九は満足気に微笑み、飲み物から手を離した。

 

「大丈夫ですよー、ちゃんと常識の範囲内の罰ゲームですから。別に美九に身体中をペロペロさせろーなんて言いませんから安心してください」

 

「俺の常識と美九の常識がズレてないことを祈るぞ……それで美九は一体俺にどんな罰ゲームさせるつもりだ? ていうかいつやらせる気なんだ?」

 

「それはまだ秘密ですぅ。今教えたらきっと士織さんに逃げられてしまいますからー」

 

「常識の範囲内なのに逃げるようなことって一体何やらせるつもりだよ!?」

 

 士道の当然の疑問に対して人差し指を唇に当て、悪戯めいた笑みを浮かべる美九。

 それは小悪魔染みたとても魅力的な笑顔。

 だが何故だろうか。不思議と士道の目には鳥肌が立つほど残酷で恐ろしい表情にしか映らなかった。

 しかし次の瞬間には普通の可愛らしい笑みに戻っていた。たぶん先ほどの笑みは目の錯覚だったのだろう。そうであって欲しい。

 

「それはともかく今日はありがとうございましたぁ、士織さん。デートとっても楽しかったですぅ」

 

「ああ、うん。美九が楽しんでくれたなら何よりだよ。けどその舐めるような目で見るのはもう止めてくれ。顔から火が出そうなくらい恥ずかしいから……」

 

 絡み付くような美九の視線に晒され、士道は縮こまってスカートを押さえ懇願する。

 聞き入れてもらえないと確信していたのだが、意外にも美九は視線を士道の顔へと移してくれた。

 

「恥ずかしがる士織さんはとっても可愛らしいですねー。こんな風に食べちゃいたいくらい可愛いです」

 

 その代わり互いの鼻先が触れ合いそうなほどにまで距離を詰めてくると――

 

「え、こんな風にって――っ!」

 

 ――その柔らかい唇を士道の唇に軽く押し当ててきた。要するにキスしてきた。大胆にも公衆の面前で、女の子にしか見えない士織ちゃんに。

 

「ちょっ!? お、おい、美九!?」

 

「うふふ、士織さんとキスしちゃいましたぁ! 真っ赤になって慌てる姿も最高です! それじゃあお家で待ってますからねー、士織さん!」

 

 慌てふためく士道にそう言い残し、美九は満面の笑みで駆けて行った。

 後に残されたのはそうそう見られない女の子同士のキスという光景を目にしてざわつく人々と、その視線を一身に注がれている士道。

 下着まで女物という完璧な女装をしている羞恥に視線による居心地の悪さが拍車をかけ、今すぐこの場から走り去りたい衝動が湧き上がってくる。

 

「……家で待ってる?」

 

 だが美九の言葉に引っかかる部分があり、士道は状況も忘れてしばし思案に耽った。

 家というのはたぶん士道の家のことだ。デートを終えた美九が何故帰宅せずそこで待ち構えているような言葉を口にしたのだろうか。

 何だか胸騒ぎがしてきた士道はその悪い予感を振り払うように全力で駆け遊園地を後にした。もちろんスカートが捲れないよう、細心の注意を払って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デートの最中には色々あったが、あそこで話が終わればギリギリ良い感じの締めになる終わり方だったに違いない。だがそう甘くはないのが現実というものだ。

 恥辱の遊園地デートを終えた士道は、一刻も早く着替えるために真っ直ぐ帰宅した。着替えるまでに十香や四糸乃たちと顔を会わせてしまうくらいのことは覚悟していた。十香や四糸乃くらいならまだ良かった。

 だが覚悟と願いに反し、帰宅した士道を玄関で出迎えたのは――

 

「待っていた士織、あなたが帰ってくるのを。写真を見た。素晴らしかった」

 

「折、紙……!」

 

 ――よりにもよって今一番会いたくない相手だった。

 だが悪夢はそこで終わらない。

 

「ほう、歌姫からの神託は真だったか。士織め本物の女神の羽衣を纏っておるわ」

 

「驚愕。コラージュ画像ではなかったようです」

 

「耶倶矢に夕弦!? よりにもよってお前らまで……っ!」

 

 肉食獣のような恐ろしい眼光を向けてくる折紙の後ろから現れた八舞姉妹が、ニヤニヤ笑いながら下半身に視線を注いでくる。

 予想通りの三者二様の反応と静かに距離を詰めてくる折紙の姿に羞恥と恐怖を覚えた士道は、もうスカートが捲れることも気にせず回れ右して逃走を始めようとした。

 

「――どこへ行こうとしてるんですかぁ、士織さん?」

 

「ひっ……!」

 

 そうして玄関の扉を開けた瞬間瞳に映ったのは、とても可愛らしい残酷な笑みを浮かべた美九の姿。その隣にはサディスティックな笑みを隠そうともしていない琴里。

 すでに退路は完全に塞がれ、士道もとい士織ちゃんに逃げ場は無かった。

 

「さあ士織さん、楽しい楽しい罰ゲームの時間ですよー! 士織さんによるファッションショーの始まりですぅ!」

 

「まずはあなたのお好みの衣装から始めましょうか。確かスク水にご執心だったわね? 邪道かもしれないけどパレオでも巻けば良い誤魔化しになるかしら」

 

「何か変なこと聞いてくると思ったらそういうことかよ!? お前ら最初からグルだったんだな!?」

 

 美九が両腕を広げ高らかに開催を宣言すると、周りから盛大な拍手が湧き上がる。ちなみに約一名無言でありながらもかなり情熱のこもった拍手だった。それが誰かは言うまでもない。

 やはり悪い予感は的中した。美九は完璧な女装姿だけではお気に召さなかったのだ。もっと様々な衣装を身に着けさせ恥じらう士織ちゃんの姿をじっくり鑑賞して楽しむつもりなのだ。しかも一人ではなく、皆で。

 

「女物の下着を身に着けたあなたならこのくらいは平気でしょう? 自分で言ってたものね。何を命令されても恥ずかしく無いって」

 

「そりゃ確かに言ったけどこれはないだろ!? 他のことなら何でもするからこれだけは勘弁してくれ!」

 

「何でも? 士織、今あなたは何でもと口にした?」

 

「やっぱり食いついた!? お前に言ったんじゃないからな、折紙!?」

 

「素敵な提案ですけど今回は遠慮させてもらいますぅ。もう準備はすっかり整っちゃってますからー」

 

「じゅ、準備って……!」

 

 苦渋の末に出した提案をニコニコ顔であっさり一蹴され、一段と鋭さを増した折紙の眼光に晒されつつ美九にリビングへと追いやられていく。

 そしてリビングで待ち受けていたのはうず高く積まれた怪しげな衣装の山と――

 

「むぅ、シドーはこういう服を着るのが趣味だったのか。その、何だ……シドーが着てみたいというなら私も色々と協力するぞ。うむ、これなどシドーに似合いそうだ!」

 

『えー、士道くんならこっちの方が良いんじゃないかなー? 四糸乃はどう思うー?』

 

「えっと……士道さんには、可愛い方が似合いそう……」

 

「十香に四糸乃まで!? ていうかお前ら十香たちに一体何吹き込みやがったんだよ!?」

 

 ――あることないことを吹き込まれたらしく、決して悪意は無く健気に真剣に衣装を選び出す十香と四糸乃の姿。

 

「もう諦めなさいよ。恥ずかしいのは最初の内だけですぐに死にたくなってきて何もかもがどうでも良くなって、途中から記憶も意識も曖昧になってくるから……」

 

「抵抗したくなるリアルな体験談ありがとな、七罪!?」

 

 そしてつい先日のデートで似たような目に合った経験者である、心からの同情を瞳に映し痛々しい笑みを浮かべる七罪の姿。

 最早どこにも逃げ場は無く、助けてくれる味方も誰一人として存在しなかった。

 

「さーお着替えしましょうねー、士織さん! まずは可愛い水着からいきましょう! エントリーナンバー一番はスク水姿の士織さんですぅ!」

 

「オプションも忘れてはいけない。まずは犬耳と尻尾。もちろん首輪も用意してある」

 

「い、いやああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 様々な衣装を手ににじり寄ってくる美九や折紙たちの前で、士道は女の子のような悲鳴を上げた。

 観覧車の中で上げたのと同じびっくりするほど女の子らしい悲鳴を、今度は下着まで女物の百パーセントの女装姿で。

 

 




 美九のお話終了。女装男子の恥ずかしがる姿とか一体誰が得するんだろう。ちなみに話の展開自体はまだ私が汚れてなかった頃とほぼ変わりません。
 自分ではあまり良く分かりませんがたぶん作品の雰囲気が変わっていたかもしれません。そのせいでつまらなくなってしまったかもしれないです。というかいまいち盛り上がりにかける気がする……やっぱり前編の時点でパンツ穿かせた方が良かったか。
 一応次に書くとしたら八舞姉妹か折紙のお話のどっちかになる予定です。ただ折紙のお話を書く時はうっかりR18にならないように気をつけないと……。




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