東方邪霊蛇 (悪霊さん)
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不幸な事故というのは往々にして起こりうるものである。

偶然であろうと誰かの思惑だろうと、災というのは容赦なく降りかかるものだ。例えそれが誰であろうとも。全能の神ですらそれは例外ではない。ヤドリギをぶつけられて死んだという不死の者のように、巨大な狼に食われて散った軍神のように、道化神のような者が裏で手ぐすね引いていようがいまいがその不幸をおっかぶった者にとっては災でしかない。

その少年も勿論例外ではなかった。

よくある若者の悪戯のようなものだった。結果的にその少年は命を落とす事となったが、誰が悪いというわけでもない。強いて言えば、運悪く窓の近くに立っていたという事ぐらいか。勿論押した側には悪意なんてない。それでも災は容赦なく少年の命を掻っ攫っていった。

だが、災が奪ったのは命とその身体だけに留まったようだ。

少年は俗に言う幽霊となった。怨念で動くような悪霊の類ではなく、其の辺にいる雑多な浮遊霊である。

当初少年は己の置かれた状況に首を捻ったが、直ぐに順応した。元々“成るようにしか成らぬ”的な思考だったので、のんびりとすることにした。

とはいえ身体の無い幽霊生活、食事をする事もできず、他者と会話する事もできない。悪霊なんかに下手に近づいたら自分が危ないというのは本能で察した。せいぜいたまに猫や犬に威嚇される程度である。

ここまではよくある話だ。本人たちにとっては笑い話にもならない、三流小説以下の話だ。

 

いつものようにのんびりしている彼に、ある男が近づいた。

彼は自らをただの暇な霊だと言った。

少年もどうせ暇だからと彼と話をすることにした。

彼が言うには「この退屈を潰したくはないか」、と。

少年はすぐに食いついた。

男は黄土色のパーカーを被っていて表情が伺えなかったが、笑みを浮かべているのは分かった。

男が言うには「幽霊でも生身の人間とコミュニケーションが取れるようになる場所がある」と。

そんな都合のいい話があるか、と一蹴すると、男はこう言った。

「俗に言う心霊スポットという奴だ」と。

成程、確かにテレビでよく見る心霊番組ではそういったものも多い。しかしこの近くにそんな所があっただろうか。

問うと、何やら地元の人間でも知らないようなマイナーな所らしい。

どうせ暇なのだからと少年は行ってみる事にした。

最後に男は「陰陽師には気をつけろよ」とだけ残して去っていった。

今のご時世でもそんな者がいるのか、と考えたが、まぁ会えば分かるだろうと深くは考えず、少年もまた、そこから去っていった。

 

それを眺めていた、日除けの傘を差した女性が男に声をかけた。

 

「よかったの?」

 

男は振り向かずに、何が、とだけ返した。

 

「あの場所を教えて。あそこが何か分かってるのでしょう?」

 

「当然。だからこそだ」

 

男は口元を歪めて笑った。

 

「下手を打てば取り返しのつかない事になるかもしれないのに?」

 

「オイオイ、らしくない心配だな。童心に返ったかァ?冗談は置いとくとして、あの程度でどうにかなってりゃ今頃お前はいないだろうな。」

 

それは貴方もでしょう、と女性が溜息を吐いた。僅かに昔のこと、男が言うような子供の頃ではなくともまだ世の中をよく知らないただの少女だった時の事を思い返した。無論今でも十二分に若いが、普通の人間とは比べようもない年月を重ねてきたな、と思うと若干気が滅入る。

 

「まぁ、結局はどんな結果になろうともそれも一つの確率事象だ。ところで紫こそいいのかよ、こんな所で油売ってて。そろそろ冬眠の時期じゃねーのか?」

 

「あら、そういえば。お暇する事にしましょ。……ああ、私も用事があったわね」

 

扇子で口元を隠しながら、紫と呼ばれた女性は呟いた。その用事が何なのかは気になったが、詮索するのも失礼だろうと思って男はそれ以上何も言わず、歩いて行った。その後ろ姿をしばし眺め、紫もまた何処かへと去っていった。

 

 

 

某所の廃神社、地元の人でも中々知らないというマイナー且つ一部の存在には有名な心霊スポットに、私ことマエリベリー・ハーンは来ていた。隣にいる親友宇佐見蓮子と共に、この神社を調べるためにやってきたのだ。

 

「いい、メリー?この神社は神隠しで有名な所よ。万が一にも私達がそうならないように、できるだけ離れないでいる事。現在の時刻は15時25分14秒。境界が見えたからって一人で歩いていかない事、いいわね?」

 

「私より誰かさんの心配をするべきじゃないかしら。何か見つけると興奮して一人で走って行ったり危険な物に首を突っ込みがちな誰かさんのね」

 

「あら、誰のことかしら?私には分からないわねー」

 

白々しい、そう思いながらも追求しない。このぐらいは日常茶飯事だ、他愛もない言葉遊び。とはいえ、気をつけた方がいいのは確かだ。

鳥居をくぐって境内に入ると、蓮子が空を見上げ、時間と現在の場所を呟く。蓮子は星を見れば現在の時間が、月を見れば現在の場所が分かるという便利な能力を持っている。ちょっと気持ち悪い眼だな、と思わないでもないけれど多分蓮子も私の結界の境目が見える目を気持ち悪い眼だな、と思っているからお相子だ。

 

「うん、場所に大きな変化はなし。行きましょ」

 

「今のところ境界も見えないわね。そういえば神隠しにあったって誰が伝えるのかしら。実際起こったら神隠しかどうかなんて分からないでしょうに。事実だとしてもその本人は神隠しに遭ってるっていうのに」

 

「簡単よ。神隠しがあった、って言いふらす事ができるのなんて二人しかいないじゃない」

 

蓮子は得意げな顔で説明する。この表情が好きで、私はよく蓮子に質問を投げかける。けれども一番好きなのは何かを考え込む仕草で、故に私はこれは解けないだろう、という問題を見せたりする。とはいえ、それが上手くいく事は中々ないんだけど。今回はどんな答えだろうか。

 

「神隠しの実行犯と被害者よ」

 

「蓮子、なんで被害者が伝えられるの?」

 

「戻ってくればできるじゃない」

 

「戻ってこれない前提じゃないの、神隠しって?」

 

「チッチッチ、甘いわねメリー君。大概の物事には例外ってもんがあるのよ。確かに普通の人間じゃあ戻ってはこれないでしょうね、実行犯の気まぐれでもなければ。でも」

 

「もし被害者が普通の人間でなかったら?」

 

「そういうこと。例えば私達のように何か特別な力を持ってたり、とかね」

 

だからといって私達は戻って来れる、というワケではないのだが。だがそう考えると、少なくとも“普通の人間“ではない存在がこれに関与している可能性は高いのだろう。即ちそういった事に使う境界を見つける可能性も高い。

 

「って言っても、それが普通の神隠しだったら、だけどね」

 

「普通じゃない神隠しなんてあるのかしら?」

 

「さぁ?それは分からないわね。兎も角、この神社は普通じゃないらしいわ」

 

普通普通と言いすぎてなんだか普通の定義がわからなくなってきた。それは兎も角として、何が普通じゃないのだろう。

 

「この神社で神隠しに会うと、時間を超えるらしいわ」

 

「そうなの。それで?」

 

「時間を超えるらしいわ」

 

「二回言わなくていいから。それで?時間を超えるっていうのは?」

 

またも得意げな顔になって、蓮子はこう言った。

 

「言葉のとおり、違う時間軸に飛ばされるらしいわ。未来か過去かは分からないけれどね」

 

「……へー」

 

「あっ、何よその目。信じてないわね?」

 

「だってそれ、このあいだカフェでたまたま同席した人が言ってた噂話じゃないの。それなら私だって聞いてたわよ」

 

「あ、そうだった。でもねメリー、噂話の中に真実が混ざってる事は宝くじが当たるよりも多いのよ」

 

「つまりはそれ程高くも低くもないワケね。そういえば、何て言ったかしらあの人」

 

「名前までは聞いてないけど、あの格好は特徴的だから覚えてるわ。屋内でも帽子を被ってて、黒いコートを着てて、それから」

 

「待って蓮子、もしかして貴方私が覚えてないとでも思ってないかしら?」

 

「念の為よ。仮にあの人が実行犯なら、認識の齟齬がある可能性も否定できないじゃない」

 

確かにそうなのだが、神隠しを行うようなたいそれた存在がカフェで呑気に食事をするものだろうか。もぐもぐとサラダを食べていた姿からは想像もできない。美味しそうに珈琲を啜って、満足気な息を吐いていた彼が神隠しの実行犯だとしたら、何もかも怪しく見える。

 

「まぁそれは。兎も角、例え噂話でも、鵜呑みにせず、かといって無視もせずに必要な真実のみを選ぶのは大事な事なのよ。メリーの眼だって万能じゃないでしょ?」

 

「はいはい、私が悪かったわ。そろそろ行きましょ、いつまでも境内にとどまるのも、ね」

 

そう言って歩き出すと、蓮子が待ってと声をかけてくる。まだ視界に入っているのだから見失いはしないと思うのだが。一瞬立ち止まって、蓮子が横に並ぶのを待って再び歩き出す。

 

「賽銭箱は……壊れてるわね。お参りしておけば神隠しに遭う事もないかと思ったんだけど、当てが外れたわね」

 

「そもそもお賽銭を入れたとして、行き着く先は賽銭泥棒ね」

 

そう会話しながら辺りを歩くと、いかにも怪しげな森があった。

 

「あれ、森?地図には載ってないけど……」

 

「古い地図なんじゃないの?真っ直ぐ歩けば迷う事もないでしょ、行くわよメリー」

 

「あっ、ちょ、待ってよ蓮子」

 

スタスタと歩き出す蓮子。慌てて追う私。横に並びながら地図を確認する。別に古くもない、最新版のはずだ。首を傾げながら、何故かポツンと建てられた鳥居をくぐり、再度地図に目をやる。おかしい、やっぱりこの森は地図に載っていない。確かこういうのを知らせたら何かもらえなかっただろうか、そう考えながら視線は地図に向けたまま横に居る蓮子に声をかける。

 

「何回見てもないわ。この森、地図に載ってない場所よ」

 

返事がない。考え事でもしているのだろうか、だとしても声が聞こえないぐらい集中する事があるのだろうか。妙に焦燥感に駆られながら、私は横を見て蓮子に声をかけ――

 

「――え?」

 

られなかった。先程まで横に居たはずの蓮子がいなくなっている。

 

「ちょっと蓮子……悪戯にしても度が過ぎるわよ?出てきなさいよ……」

 

震える声をそう絞り出しても、返事はない。ギャアギャアと鳥の鳴く声と葉鳴りの音がやけに恐ろしく感じる。

 

「蓮子……蓮子!出てきてよ、ねぇ!」

 

ここで、ビックリした?などと暢気に彼女が姿を見せたらどんなに良いことか。その場合は蓮子が私に説教されるだけで済む。でももし彼女が――神隠しに遭っていたら?違う時間軸に飛ばされる、という言葉が浮かぶ。もしそうならば、彼女は今頃過去か未来――

 

「蓮子……出てきてよ、ねぇったら……」

 

急激に心細くなり、涙声になりながらもそう呟く。ああ、さっきまで楽しかったのに、何故こんな事に。

私の気持ちを代弁するかのように、ポツリポツリと雨が降り出す。激しくはないものの、視界を遮る程度には強く降っている。蓮子を探すにしてもまずは雨宿りをしなければ、そう思って来た道を引き返す。廃神社とはいえ、屋根がある分屋外よりはマシだろう。

先程もくぐった鳥居の下を全力で駆け抜け、神社にたどり着き――凍りついた。

 

「う、嘘……なんで……!?」

 

確かに廃墟と化していたはずの神社は、賽銭箱がなくなっているものの、全く崩れていない。おかしい、何かがおかしい。何かが先程までと違っている。

戸惑いと焦りと恐怖が綯交ぜになりながらも神社の中に入ろうとすると、何かの紋様が戸に刻まれている事に気がついたが、そんな細かい所まで気を回せずに急いで中へ入った。

 

中は薄暗かったが、明かりがなくともどうにか見渡せる程度の暗さだった。そこまで考えて、ようやくポケットの携帯の存在を思い出し、取り出した。

これで蓮子と連絡を取れるかも――その淡い希望は、無機質な二文字に打ち砕かれた。

 

「圏外、か……」

 

蓮子と連絡を取れない事がもどかしく感じ、建物の中をうろちょろする――

 

「あっ!?」

 

足元に置いてあった壺に気づかず、そのまま転んでガシャーン、と割ってしまう。しかも1つではなく、2つ。怪我はなかったものの、反射的に青ざめた私の顔をふと冷たい風が撫でた。そして。

 

『ようやく……ようやくだ……!』

 

「だ、誰!?」

 

青ざめた私の顔を更に青ざめさせる事が起きた。割ってしまった壺の中から、緑色の光を放つ何かが出てきたのだ。まずい、これは絶対良くないものだ。逃げなければ――

 

「あー、やっと出られた。ずっと壺ん中いたから肩凝ったな……って身体はないか。……ん?誰だ、お前は」

 

「ヒッ……!」

 

逃げられない。逃げたらこの蛇のような印象を抱かせる男は即座に私の首を食いちぎる、そんな予感があった。故に、震えながらも緑の髪をウニか何かのように逆立たせる彼の問いかけに答えなければならなかった。

 

「ご、ごめんなさい!私が壺割っちゃったんです!」

 

「……」

 

もうダメだ、彼が睨んでいる。お父さんお母さんごめんなさい、私はもう――

 

「……本当にお前が、この壺を壊してくれたのか?」

 

必死にコクコクと頷く。言い方に若干の違和感を覚えたけど、それについて考える前に、彼が手をこちらに伸ばしてきて――私の手を取り。

 

「ありがとう、マジで助かったわ」

 

「……え?」

 

「いや、だからな?オレ、この壺に封印されてた訳よ、クソッタレの陰陽師どもに。で、アンタが割ってくれたから晴れて自由の身ってワケだ。だから、ありがとう。なんか変か?」

 

なんだろう、怖そうな雰囲気の割にはどっちかっていうとチンピラっぽいというか、普通というか。兎も角、彼が私を襲う事はなさそうだ。

 

「あ、あの……」

 

「なんだ?恩人さんよ」

 

「貴方は何故封印されていたの?」

 

そうだ、まずそこだ。彼がもしとんでもない悪党とかだったら、そんな奴を解放してしまった私は一体どうなるのか。そもそも陰陽師ってなんだ、今の時代にいるのか。

 

「あー……まぁ、話せば長くなるが、聞く覚悟はいいか?」

 

頷くと、彼は忌々しげな表情を浮かべながら語りだした。

 

「事の始まりは、オレが知らない幽霊からこの神社の存在を聞いた事なんだが、あ、言い忘れてたけどオレ幽霊な。んで、ここに来れば生者ともコミュニケーションが取れるっていうから来たはいいが、人っ子一人いねぇ。仕方ないからその辺散策するか、と思って森の方を散歩してたら雨が降ってきてよ、慌ててここに引き返したらなんか陰陽師とかその他諸々がいてよ、話しかけようとしたら、禿げたジジイが俺を指して『アイツが禍を呼び寄せるから封印しろー』って叫んでさ。為すすべもなく封印されました、とさ。いやぁキツかったぜ、壺の中は。何もしてねぇのに言いがかりつけられて数百年も壺中生活だぜ?信じられねーわ。当然アイツらの事酷く恨んでな、何回も中で怨念が爆発したもんだ。でもそのやり場のない怨念が結局オレに戻ってきちまうから、どうしようもなくってさ。で、アンタが壺を割ってくれたからこうして出てこれた。いやー、先輩の言う事って聞いといた方いいのかな。マジで陰陽師のせいでこんな事になってるし。陰陽師には気をつけろって言われてたのになー」

 

「……」

 

喋りだすと彼はかなり饒舌だった。なんだか色々と急展開すぎる過去を聞かせてくれた彼は思い出したらまた腹が立ってきたのか唸っている。

ただ、私にとって聞き逃せない言葉があった。

 

「数、百年?」

 

「おお。時間間隔曖昧だが、少なくともそれぐらいは経ってるだろ。なんか見覚えのない壺とかもあるし」

 

「ちょっと待って、一ついいかしら。今は一体西暦何年なの?」

 

彼は押し黙って、考え込んだ。その口から発せられる答えを聞きたいような聞きたくないような、そんな予感がした。

 

「今が何年かってのも、そもそも――西暦なんてもんがあるかも分からねぇ」

 

「――」

 

目の前が暗くなった。なんてことだ、神隠しに遭ったのは蓮子ではなく私の方だったのか――急速に意識が薄くなるが、唐突な頭痛に呼び起こされた。

 

「痛っ」

 

「どうした?何か……おっと、そういえばアンタの名前を聞いてなかったな」

 

「あ、ええ……マエリベリー・ハーン、です」

 

「固くならなくていいぜ。で、何だって?マエ、ええと」

 

「マエリベリー・ハーン。メリーでいいわ。私の友達はそう呼んでる」

 

「メリーね、覚えた。で、どうすんだ?アンタは帰る所があるのか?」

 

「帰る、所……そんなもの、ないわ。私はきっと神隠しに遭ってしまった。ここが未来か過去かも分からない、いえきっと過去ね。賽銭箱はなかったけど、廃屋だったはずのここが綺麗になっているから。携帯が通じないのもそのせいなんだわ。帰る場所どころか、帰れるかも分からない!ひょっとしたらこのままここで暮らすか、それとも直ぐに死んじゃうかもしれないッ!私はッ……!ッ……どうしたらいいのよ!?」

 

帰る、と聞いて今の今まで押さえ込んできた恐怖や哀しみが堰を切って溢れ出す。感情は涙となって、言葉と共に止められない流れになって、ただ嗚咽を漏らし続けた。

彼は、それを黙って聞いていた。慌てるでも怒るでも訝しむでも慰めるでもなく、ただ黙って聞いていた。

 

それから暫く、ひとしきり思いの丈を吐き出した頃、彼が言った。

 

「ちょっと里に降りて、何か食いもん貰ってくるわ。食って、暫く休んどけ。そうすれば少しは落ち着くだろ、落ち着いたらゆっくり話してくれ。メリー、お前はオレの恩人だ。出来る事はなんでもやってやる、お前が元の時代に帰りたいなら手伝おう。オレに出来る事は何でも言え、オレが力になってやる」

 

彼は封印された、と言っていた。確かに彼からは邪気がにじみ出ている。だが、彼の身の上話を聞く限り、その変質の原因は封印された事による強い怨みだろう。兎も角、彼が今現在分類されるのは、俗に言う悪霊。強い怨みを持ち、人に害を成すという悪霊。だというのに、彼はそうとは思えないほど優しかった。恩があるとは言っても、たったそれだけの事なのにここまで言うぐらいには。彼の優しい嘘かもしれない、そう思いたくはない。

雨が降る中出ていこうとする彼を見て、私は反射的に叫んでいた。

 

「待ってッ!」

 

「……どうした」

 

ビクリと驚いたものの、優しげな笑みを浮かべて、彼は私の言葉を待ってくれた。

 

「……私も、私も行く。一人に、しないで」

 

「……勿論、メリー」

 

そう言って私の手を取り、彼は歩き出した。

ありがとう、と先程彼に言われたが、今度は私が言う番だな。そううっすらと考える。

 

 

それから数十分後、里に降りた私達は民家の戸を叩いていた。家屋の造りを見る限り、やはりここは過去で間違いないようだ。

ただ、妙な事があった。

 

「おかしい、人がいない」

 

「雨なのに出歩いてるのかしら、でもこれで4件目だわ」

 

そう、人がいないのである。今の時間は夕暮れどき、住民が出かけているのだとしても、そろそろ家に帰る子供の姿や食事を作る主婦の姿があってもおかしくないはずだ。

そう考えながら、広場に出ようとした時――正面を歩いていた彼に強く肩を押され、たたらを踏む。そういえばまだ名前を聞いてないな、と思いながら私は声をかけた。

 

「どうかしたの?」

 

「……メリー、神社に戻れ、今すぐにだ。こっから先に進むんじゃねぇ」

 

そう低い声で囁かれ、ちょっとムッとした。一体何があるというのだ。

彼を押しのけて覗こうとするが、やはり阻まれる。よく見ると彼が脂汗をかいている。幽霊でも汗はかくのか、と思いつつどうにか広場を見ると――

 

「ッ、バカ野郎!」

 

「――え?」

 

視界に映ったのは一瞬だったが、一瞬見えたのは、真っ赤な血溜まり、そこら中に転がっているどう見ても生きているとは思えない程度にバラバラになっている人の身体、そして――紅く染まった刀を手に持った、白髪の男の後ろ姿。

 

「っきゃあああああああああああああああああああああ!!?」

 

「クソッ!なんで見やがった!」

 

私の眼を手で塞ぎながら、彼が怒鳴りつける。

 

「誰だ」

 

白髪の男、恐らくはこの惨状を引き起こした犯人が振り向いて嗄れた声を発した。その平々とした声が返って恐ろしく、鋭い悲鳴を上げていた私も押し黙ってしまった。

彼が私を後ろに庇いつつ、男に応対した。

 

「悪いな、アンタをどうこうしようって気はない。直ぐに立ち去るよ、オレ達は旅の者でな、ちょっと立ち寄っただけだ。見逃してくれないかね?」

 

「否。うぬらは旅の者ではなかろう。そも、剣を極めんがために人斬りとなった我も、悪霊を見逃すワケにはいかぬ。そこな女のみ、見逃そう」

 

剣を極める?たったそれだけのために、こんな事をしているのか、コイツは。深い怒りに囚われそうになるが、あの剣鬼から滲み出る重圧は半端ではなく、怒りも恐怖も何もかも斬られてしまいそうだ。見逃すと言われた事にも気づかず、私は震え続けた。

 

「そうかよ。んじゃメリー、オレは見逃せないらしいがお前は大丈夫だそうだ。さっさと行きな」

 

「待って……待ってよ、貴方はどうするのよ……!?」

 

「見逃されないんなら、戦って勝つしかねぇだろ。心配すんな、オレ様は幽霊なんだぜ?そう簡単に斬られるワケねーっつの。オラ、行けよ……早くッ!」

 

「ッ……!」

 

大声で怒鳴られ、ようやく私は動き出した。神社に向かって、一直線に。

 

「……それでいい、お前はまだ生きてるんだ。こういうのはオレみたいな奴だけで充分だ。お前は、生きろ」

 

「別れは済んだか」

 

「わざわざ待っててくれるたぁ親切だねぇ。親切ついでに見逃してくれると嬉しいんだが」

 

「それはできん」

 

「ハッ……そうかよ。だが、オレは幽霊だ。簡単に斬られてはやらねぇよ」

 

「我は未だ時を斬る事は叶わぬが、実態の無いモノを斬る事は容易い。悪霊よ、名はなんと言う」

 

「……忘れちまったよ、そんなもんは」

 

「フ……そうか。奇遇だな、我も剣の鬼として生きている間に、真名を忘れてしまった。名無しどうし殺し合うのも面白かろう……もっとも、うぬでは我に勝つ事は出来んがな」

 

「ケッ、言ってくれるぜ。言っとくがな、狩るのは俺で狩られるのはテメーだぜ、おっさんよォ!」

 

「来い、悪霊よ」

 

 

 

私は神社の中でガタガタと震えていた。雨に濡れた事による寒さよりも、強い恐怖によって。

怖い。あの男が、この世界が、蓮子のいないこの世界がどうしようもなく恐ろしい。蓮子がいないというのは彼女にとっては救いだが、私にとっては不安を加速させる要素だ。

一体いつの間にこの時代へと飛ばされていたのだろう。気づかないうちに境界を越えてしまったのだろうか。蓮子、蓮子に会いたい。あの退屈だけど平和な時代へ戻りたい。こんな夢は見たくない、夢であってくれれば目覚める事もできるというのに。

彼はどうなったんだろう。私一人を逃がして、彼は留まった。まだ名前も知らない彼を、私は見殺しにした。幽霊なのだから見殺しも何もない、そう思えたらどんなに楽だろう。

彼もあの剣鬼に恐怖していた。だというのに、私を逃がした。本当は自分も逃げたかっただろうに、壺を割っただけで恩人と呼んで、私の力になると言ってくれた彼を、私は置いてきてしまった。

 

良いのか?本当に。まだあの剣鬼と相対しているかもしれない彼を本当に見捨てても。

だって、どうしようもない。私がしゃしゃり出た所で殺されるだけだ。それは彼の意思を無駄にする。

本当にそうか?何かできる事があるんじゃないか?

うるさい、私なんかに何が出来るっていうんだ。あの鬼にも彼にも怯えていたちっぽけな自分に何が。何もできないだろう。

何もできない?本当に?せめて彼を応援するぐらいは出来るんじゃないか?

馬鹿か私は。応援なんて言って出て行ったらどの道死ぬ。無駄な事だ。

確かに死ぬだろう、でもそんなのは遅いか早いかぐらいの違いしかないんじゃないか。だったら賭けるのも悪くないじゃないか。

賭ける?何に?

無論、アイツを倒して彼を助け、自分も助かるという最“善”に。それとも賭けずに彼が消え、自分も死ぬという最“悪“を黙って待つのか?

冗談じゃない。そんな最“悪“はごめんだ。しかし、賭けると言っても何を賭け金にしようというのか。

BETするのは自分の命とちっぽけなプライドだ。どうせなら彼と一緒に勝ちの二文字に賭けてみようか。

そう簡単な話ではないんだ。賭ける目を間違えれば最“悪”へと繋がってしまう。それだけはごめんだ。

どの道動かなければ未来はない。

覚悟を決めろ、マエリベリー・ハーン。

たった一人、数百年も一人ぼっちだった彼を。

この時代に投げ出されたちっぽけで愚かな私の助けになってくれると言った彼を。

自らの身も顧みず、私を逃がした彼を。

あの粗暴な雰囲気からは想像もつかないような、優しい笑みを浮かべた彼を。

助ける、否。ただ、共に在るために。

恐怖を乗り越えなければならない。恐怖に打ち克たなければならない。

ふー、と長い息を吐いて、柱に思い切り額をぶつける。痛い。でも、気合は入った。

行こう、彼の所へ。

 



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名もなき悪霊と名も知れぬ剣鬼は、マエリベリー・ハーンが逃げおおせた後すぐに戦いを始めた。

とはいっても肉体を持たない悪霊が攻撃する事はできず、だというのに剣鬼の放つ斬撃は悪霊の身を裂く。肉体がないというのにおかしな話ではあるが、兎も角悪霊からすればまず勝目のない戦いだった。

かろうじて致命傷となりうる攻撃だけは避け続けているが、その集中力もそう長くは保たないだろう。

息を切らしながら、必死に身を捩って攻撃を躱し続ける。彼は当初、メリーが逃げ切ったのを確認したら直ぐに自分も転身するつもりだった。だが、目の前の人斬りはそんな隙を見せたら即座にこの胴体を真っ二つにするだろう。背中を向けるとはそういう事である。

 

暫く攻撃を続けた剣鬼は、一度大きく距離を取った。得物が刀である以上距離を取る必要はなく、それも一方的にいたぶる事のできる相手に対して距離を取ったので、何事かと訝しんだ。

 

「……先程から致命傷のみを的確に避けているな。何故だ?」

 

「ハァ、ハァ……ケッ、簡単な答えだ。シンプルな答えだぜ、おっさんよ」

 

精神的な疲れから咳き込みながらも、彼は余裕綽々という体を気取ってみせた。それがただの空元気だというのは火を見るより明らかだが、顔つきはまったくそれを感じさせなかった。

 

「オレ様は悪霊だ、つまり幽霊。ってことは一度死んでるんだぜ?死の匂いにゃ敏感なんだよ、致命傷を受けそうな所からはその匂いがプンプンするからな」

 

「ほう、そのような事があるとは。勉強になるな」

 

「勉強する必要なんざねーぜ、ここで終わらせるからなァ!」

 

吠えながら剣鬼を睨みつける。その程度で萎縮する訳もないが、その気丈な態度には目を見張るモノがあった。

感嘆を示す息が剣鬼から漏れると同時に、何かが空気を切り裂いて飛んでくる音がした。剣鬼に向かって一直線に。

 

飛んできた鎖を後ろに飛び退って躱し、人斬りは吠えた。

 

「誰だ、何者か」

 

答えた声は暗く、冷たかった。悪霊である緑髪の彼からしても、まるで暗闇のような印象を抱かせる声で、その影は言った。

 

『キミに名乗る必要なんてない……僕達はキミに殺されたんだから!ようやく、ようやく彼女の敵を討てるッ!鬼め、あの時はよくも彼女ヲ!』

 

影はガリガリに痩せた亡霊のような、否、正しく亡霊だった。鎖鎌を携え、剣鬼への怨みだけで蘇った悪霊だった。

今となっては知るすべもないが、この亡霊は元はただの農民で、心優しい青年であった。ある時彼が意中の女性と逢引をしていた時、剣鬼に恋人諸共斬り殺された。それ以来彼は鬼を強く怨み、復讐の一念で顕界し続け、狂気に染まりつつも今ようやく敵へと刃を向ける事が出来たのだ。

剣鬼がそれを覚えているか、というのはまた別の話ではある。しかし彼は覚えていた。目の前の亡霊だけではなく、今までに自分が斬り捨てた者達全ての顔を彼は覚えていた。だが、この亡霊は一目見てそうとは分からぬ程に変容していた。

 

「そうか、あの時の……よかろう、二人纏めて来るがよい。これも我が業、背負わねばならぬ」

 

「……イマイチ事情が分からねぇけど、アンタはアイツを倒したいのか?身体はあるのか」

 

『キミは、霊体だね。強く念じるんだ、自分の在り方を。物質的に無いからといって存在しない訳ではない、それを忘れるな。僕のこの武器もそうして生み出した……あの鬼ヲ殺スために!』

 

狂気を感じさせる口調からは考えられない程冷静なアドバイスを受けて、面食らったものの、悪霊は言われた通りに集中し肉体を定着させようと試みた。

隙を見せているにも関わらず、剣鬼はそれを眺めていた。まるで彼が身体を手に入れるのを待っているかのように。いや、実際待っているのだろう。どんな意図があるのか、と警戒した。

程なくして、やや不安定ではあるがしっかりと物に触れる事が出来る程度には確固たる肉体を定着させた。軽く身体を捻って調子を確かめていると、剣鬼が亡霊に尋ねた。

 

「どうやってここを探り当てた。虱潰しに探し回ったか」

 

『コの辺りから強イ怨念が感じらレたから、それを追ってきた』

 

そう亡霊が告げると、得心がいったとばかりに剣鬼は大きく頷いた。

その強い怨念とは、恐らく悪霊の彼だろう。封印された事に対する、数百年分の凝縮された怨みのエネルギーを嗅ぎつけてここへ現れたのだ。

 

「もうよいか。そろそろ終わらせるとしよう」

 

「いいぜ、ただしテメーの負けでの終わりだ」

 

『殺ス』

 

仕切り直して、今度は悪霊が真っ先に動いた。

身を僅かに屈めながら、反転しつつハイキックを放つ。鬼はそれを上体を逸らして回避する。

そこに亡霊の飛ばす鎖鎌が首を狩らんと迫る。今度は刀で素早く斬り払った。その隙に悪霊は大きく距離を取り、体勢を立て直した。

鬼がまず亡霊から仕留めようと大きく刀を振りかぶると、背後からも鎖鎌が飛んできた。身を捩って躱したものの、わずかに身が斬られる。

体勢が崩れた所に、再び悪霊のハイキックが来る。刀で防ぎつつも、大きく跳ね飛ばされた。

僅かな攻防ではあるが、ここまでを見ると悪霊と亡霊が優勢に見えるだろう。だが、彼らからすれば一刀の下に斬捨てられる可能性を考えると楽観視は出来なかった。そもそも先程から彼らは一撃もまともにダメージを与えられていないのだ。

 

「怨みの強さが即ち肉体の強さか……厄介だな」

 

「いやー自分でも驚きだわ。まさかここまでやれるとは」

 

生前の身体よりも大幅にスペックが上がっている為、最初は戸惑ったものの直ぐに慣れた。順応性は高いからな、と呟いてみる。

流石に亡霊のように武器を形作る事はまだ難しいが、この身体ならある程度は応戦出来る。このまま体術で押し切り、亡霊にトドメを任せよう、そう考えていた。

だが。

 

「認識を改めねばな……うぬらは強い。我も思う存分やれそうだ」

 

「ハッ、まだ本気を隠していました、ってかァ?最初っからそうしやがれ、ナメてんじゃねーぞ」

 

「そうだな、謝罪しよう。侮っていた」

 

「……マジに取るなよ」

 

常に人を食ったような態度でいる悪霊は、堅物という印象の鬼がどうにも苦手だった。この状況で苦手も何もあったものではないが。

突然無造作に剣鬼が刀を大上段から振り下ろした。咄嗟に横に大きく飛んだ二人が立っていた所を、剣圧が通り過ぎていった。地面に横たわっている人だったモノ達をズタズタに切り裂きながら。

 

「……マジかよ」

 

『……』

 

「さぁ、存分に死合おうぞ」

 

言葉と共に勢いよく踏み込んでくる剣鬼。咄嗟に地面を蹴って近くの家屋の屋根に逃れた瞬間、家屋の外壁に真一文字の傷が出来上がった。居合の如き速度で振り抜かれた斬撃は、そのまま家屋の反対側まで突き抜けていった。

 

「クソがッ!」

 

毒づきながら飛び降り、刀を振り切った一瞬の硬直を狙って渾身の踵を食らわせようとする。振り下ろした瞬間、剣鬼が半歩退き、悪霊の一撃は空を切った。大振りな攻撃を躱され、隙が出来た。それを見逃す訳もなく、刀が下から斬り上げられようとする。

金属音を立てながら、亡霊の鎖が刀に絡みついた。そのまま奪おうとするが、ギシギシと互いの力が拮抗するばかりだ。その間に悪霊が退避すると、亡霊も退いた。

 

「悪い、助かった」

 

『気にしなくていい』

 

「んじゃ、もっぺんぶちかますかッ!」

 

悪霊が吠え、先程と同じモーションでハイキックを繰り出そうとした。

剣鬼がそれを撃墜しようとしたが、亡霊が鎖で跳ね上げた泥が顔にぶつかり、反射的に目を閉じた。

そこに一瞬の遅れが生まれ、その一瞬が悪霊にチャンスを与えた。

 

「蛇翼崩天刃ッ!」

 

渾身の蹴りが今度こそ炸裂し、刀を大きく吹き飛ばした。悪霊は反射的にそれを目で追ってしまった。

 

「ぬぅん!」

 

刀を拾うよりも先に、剣鬼の拳が悪霊にめり込んだ。ミシミシと嫌な音を立て、勢いのままに吹き飛ばされる。

 

「ガッ……!く、そっ」

 

痛みを堪えながら起き上がろうとした瞬間。

 

「貰った」

 

「――ッ!?」

 

素早く踏み込んだ鬼が懐の短刀を抜き放ちながら、動きの遅れた悪霊にその刃を食い込ませ――

 

「グ……」

 

なかった。剣鬼は呻き声を上げ、左目を押さえながら悪霊から距離を取った。

その左目からは、僅かだが血が流れ落ちていた。流れる血は彼の目を塞ぎ、降り続けている雨にも負けぬ勢いである。

 

その傷を負わせたのは、悪霊ではない。ましてや最も出遅れた亡霊でもない。

 

「間に、あった……」

 

「お前……」

 

「うぬは……ッ!」

 

『……?』

 

三者三様の反応を示す中、息を整えながら手に持った陶器の欠片をしっかりと握り締め、現れたのは。

 

「メリーッ!テメェ、なんで戻ってきやがったッッ!」

 

悪霊が身体を張って逃がしたはずのマエリベリー・ハーンであった。

口調こそ荒いものの、彼はメリーの身を案じ、今からでも再び逃がそうと考えていた。

だが、当のマエリベリー・ハーンは。

 

「考えてみれば、逃げたところで行くあてなんてないじゃない。もし貴方が負けて追いつかれでもしたら結局殺されちゃうし」

 

「だからって」

 

「何もしないまま終りを待つなんてごめんだわ。それに、貴方は私の力になってくれると言ったでしょう?だから!今度は私が言う番よ、貴方の力になるってッ!私の命を貴方に預けるッ!貴方の勝ちに賭けるわッ!!」

 

「ッ!?」

 

最初こそ軽い調子で話すメリーに怒鳴ろうとしたが、突然命を預ける、と言われては怒るに怒れない。しかし、先程鬼が左目を抑えていたのは、メリーが神社に有った壺の破片を投げつけた事によるものだという事に。その破片をいくつも握り締めているために手から血がダラダラと流れている事に。気づいた彼には。

何よりも、守ってやると息巻いていた癖にその彼女に傷を負わせ、あまつさえ助けられた事に気づいた彼は、苛立ちも心配などもなかった。代わりに、深い決意だけがあった。

 

「ああ、そうだな……じゃあよ、メリー」

 

彼女の方を振り向いて、彼は言った。

 

「オレ様は絶対に勝つからよ、賭け金増やしちまえ。……絶対に勝ってやるさ、絶対。だから、お前は心配するな。ただオレが勝つ事を待って、そこで見ててくれ、破片持ってると痛いだろ?降ろしとけ。それと――ありがとうな」

 

「あ――」

 

ありがとう。謝罪ではなく感謝を表した彼の胸中は、彼にしか分からない。だが、メリーはなんとなく分かる気がした。謝罪という悔恨ではなく、感謝を伝えた彼の胸中が。

 

「逃がしてやったがみすみす戻ってきたか……だが、そこな悪霊を救う為とはな。うぬらには、我が理解しがたい絆があるようだ。感服した」

 

「まーた待っててくれたのか。ヘッ、世界広しと言えども、オレ達みたいな奴らはいねぇだろうな。……コイツの為にも、絶対負けられないんだ。悪いがオレは――お前の屍を踏み越えていく」

 

「その意気や良しッ!この剣鬼を超え、我が野望を、命を砕いてみせよ!」

 

悪霊が纏っている怨念が、若干の変質を起こした。

ただただ漂っている、霞のようなぼんやりとした怨念が。

形を作り始めた。主を護る邪蛇の形に。

蛇のように身体にまとわりつく怨念は、うすぼんやりと光を放っていた。道を照らすかのように、淡い光で。

獲物を狙い、大口を開ける蛇のように、その怨念も大口を開け、今にも噛み付かんばかりの殺気を放っていた。

亡霊の放つ怨念と違うのは、その有り様。

殺す為に形作られた亡霊の鎖鎌とは異なり、悪霊のそれは自分を、否。

たった一人の少女を護る為の物。殺すのではなく、護る。ただそれだけのために。

 

「行くぜオイ!」

 

『コレで最後ダ!』

 

「来い、全て斬り伏せてくれるッッ!!」

 

悪霊の放つ蛇が、剣鬼に迫る。即座に斬り払われたものの、すかさず形を取り直して襲いかかる。

左腕に敢えて食らいつかせる事で蛇を止めた鬼は、向かってくる亡霊に向けて、凄まじい剣圧を伴う斬り下ろしを放つ。

高く跳躍する事でそれを回避した亡霊は、下に向けて鎖を放つ。僅かに下がってそれを避けた鬼は、下段から全力で斬り上げようとする。

そんなことはさせないとばかりに、悪霊の蹴りが迫る。危うい所で、その蹴りは刀を捉えた。だが、今度は吹き飛ばす事が出来ず、軌道をずらすに留まった。

その隙に危険域から脱出した亡霊は、足元の影から上半身を出し、鬼を引きずり込もうとする。

 

「ム……小癪な」

 

跳躍して亡霊の腕から逃れた剣鬼は悪霊に狙いを絞った。

同時に相手をするよりも、片方に集中して仕留めようと考えたのだ。

懐の短刀を悪霊に向かって投擲する。

かなりのスピードで迫るそれを避けるか防御した隙を狙って斬り――

 

「なッ、何ィ!?」

 

かかろうとした鬼は、驚愕した。

投擲した短刀が掻き消えたのだ。

これは悪霊も予想外だったようで、目を見開いていた。

だが、直ぐに我に返り、無防備な鬼に攻撃を加えに行った。

 

「轟牙、双天刃ッ!」

 

短刀を投擲したままの姿勢で硬直している剣鬼に素早く近づき、中空で強烈な蹴り上げをニ連続で放ち、更に高く吹き飛ばされた鬼を追い越し、全力の踵落としが炸裂した。

地面に小規模なクレーターを作る程の勢いで叩き落とされた剣鬼に、亡霊の鎌が今度こそ首を刈り取らんと唸りを上げて襲いかかる。

小太刀を失い、刀も吹き飛ばされたままの剣鬼は左腕で鎌を防いだ。半ば無理矢理に刃を突き立てさせ、鎖を掴んで全力で引っ張った。

せめぎあったのも僅かな間、抵抗虚しく亡霊の身体は鎖に引っ張られ、剣鬼に引き寄せられた。

それを確認した悪霊は即座に蛇状のオーラを纏い、眼下の鬼へと突っ込んでいき、鬼は亡霊に叩き込む為、右手を強く握り締めている。

亡霊が引き寄せられるのは悪霊が攻撃するより早く、全力の拳がその腹部へと突き出され――

 

「なぁッ!?」

 

突如として空間に開いた裂け目へと打ち出された。当然亡霊に当たる筈もなく、完全に隙が出来た。

 

「まさか、これは先の――」

 

「滅閃牙ァ!」

 

「グオォ!?」

 

大蛇の噛み付きの如き一撃が剣鬼を吹き飛ばした。死角から、完全に意表を突いた形で放たれた攻撃は剣鬼の身体に噛み跡にも似た傷を穿った。

ふらつきながらも立ち上がろうとした剣鬼に――

 

『   』

 

亡霊の鎌が突き刺さった。先程のように防御する事も出来ず、胸をざっくりと切り裂き、血がとめどなく溢れ出した。

無表情のまま立っている亡霊と、剣鬼に殴られた腹を抑えながらも睨みつけている悪霊と、完全に戦力外だと思っていた少女を順番に見つめ、剣鬼はこう言った。

 

「――よくぞ、この我を倒した」

 

どこか清々しさすら感じさせる笑みを浮かべながら剣鬼はそう告げた。

そして、彼が動く事はもうなかった。倒れる事もせず、じっと彼らを睨みつけた姿勢のまま、息絶えていた。

 

「……終わった、の?」

 

「みたいだな……なぁ、アンタ。ありがとう、おかげで助かった」

 

『礼を言うのは此方の方だ……君達のおかげで、ようやく彼女の……篝の敵を討つ事が出来た。ありがとう……』

 

もはや亡霊は狂気を持ってはいなかった。嬉しさと悔しさと、様々な感情が綯交ぜになった顔のまま、悪霊達に向き直った。

 

「でも……」

 

しかし、メリーの顔は優れなかった。

向こうから襲ってきたとはいえ、人が死ぬのを間近で見たのだ。それも、手にかけたのは目の前の亡霊。直接的ではないにしろ、自分や悪霊の彼も同じだ。

平和な時代に生きてきたメリーには、復讐を誓っていた亡霊や、僅かとはいえ人の死を見たり、幽霊となった者に会ったり、憎悪の中で過ごしていた悪霊とは違ってこういった事に対する免疫はなかった。あってはならなかった。

これから先もこんな事があるのだろうかと考えると憂鬱になるが、その程度にしか感じていない自分が嫌になった。そんな冷たい性格だっただろうか。

 

「……心のどこかで、こうなるのを望んでたのかもな。ったく、良い顔で逝きやがって……」

 

『……キミ、何か憑いてるよ』

 

「えっ?」

 

感傷に浸っていたメリーに、亡霊が声をかけた。

きょとんとしていると、徐に悪霊が目を覗き込んできた。

 

「ちょ、ふぇっ?」

 

「あ、マジだ。どこで憑かれたんだ?って、そういや壺が二つあったな。アレに入ってたのか」

 

霊とはいえ異性に突然顔を近づけられて動転するメリーをよそに、悪霊は平然とメリーの頭の後ろに手をやり、何かを掴んで放り投げた。

 

「コイツはオレが先客だ、他所行きな」

 

その途端、剣鬼への恐怖と目の前で起きた人死への忌避感を呼び覚まし。

 

「あ……」

 

「お、おいメリー!?」

 

マエリベリー・ハーンは実にあっさりと気を失った。

 

『心配ない、眠っているだけだね。恐らくさっきの霊が、戦闘中にそういった事にならないよう抑制していたんだろう。焦ってつまみ出さなくても良かったかな』

 

実は悪霊と最初出会って会話をしていた辺りにメリーが感じた頭痛も、その霊が憑いた事が原因だったりするのだが、二人はそんな事は知らない。

さっきの霊も、悪霊と同じように何かの理由で封印されたのだろう。だが、こうしているとやはり悪意を持っているとは考えにくい。

 

「マジかー……悪い事しちまったなぁ。ごめんよー」

 

放り投げた辺りに見当を付けて謝罪すると、亡霊が苦笑した。

 

「あんだよ?」

 

『いや、別に。ただ、悪霊と妖怪の組み合わせは珍しいな、と思っただけさ』

 

何気ない会話。だが、悪霊はその言葉に首を捻った。

 

「何言ってんだ、コイツは人間だぞ」

 

その言葉に亡霊も首を捻った。

 

『そうは言うが、彼女から明らかな妖気を感じないか?』

 

言われてみると確かに妖気を感じた。妖力があるというのは、妖怪またはそれに準ずるモノでなければ持ち得ない物だ。

しかしおかしい。先程封印が解かれた時、そんな物を感じただろうか。

訝しむが、事実である以上どうしようもない。

 

『ましてやただの人間に、それこそ陰陽師や何かのような存在でもないのにあんな事が出来るというのは少々不自然が過ぎないか?』

 

「あんな事?」

 

『なんだ、気づいてなかったのかい?あの鬼が短刀を投げた時、そして僕を鎖で引き寄せて殴ろうとした時。空間に奇妙な亀裂が入って、その空間に小太刀も拳も吸い込まれたのさ』

 

成程、短刀が掻き消えた時は何事かと思ったがそういう事か。

しかし亀裂とは言い得て妙だ。

 

「亀裂ねぇ……なんかこう、良い呼び方は無いもんかね。例えばこう、狭間、とか隙間、とか」

 

『隙間は流石に……』

 

「ハザ、マ……?」

 

呻きながらメリーがゆっくりと目を開けた。

特に外傷やおかしな所もないようで、悪霊はほっと息を吐いた。

 

「目ェ覚めたか。まだ寝てていいぜ、メリー」

 

「うん……おやす、み……」

 

『……あんな戦いがあったんだ、心が疲れているんだろう。暫く休ませてあげた方がいい』

 

「言われなくてもそうするさ。しかしありがとうな、本当。恩に着るよ」

 

『いいのさ、僕は僕の目的があっただけだ。さ、そろそろお別れだ。僕はもう逝くよ。最後に一つだけ……その娘にも伝えてくれ。誰かに簡単に真名を明かしてはいけない、と……じゃあ、そろそろ。お休み……』

 

「おう……じゃあな、今度は彼女とのんびり暮らせよ」

 

亡霊は微笑みながら、ゆっくりと消えていった。

悪霊は最後まで、完全に見えなくなるまでそれを見つめていた。

やがて亡霊の姿が消えた頃、空を仰いで呟いた。

 

「オレは上にも下にも行けないだろうからよ……お前ともあのおっさんとも会う事は無いだろうな。……あばよ」

 

そのままメリーを横抱きしながら、神社へと歩を進めていった。

雨はいつの間にか降り止み、穏やかな月の光が道を照らしていた。

 

 

 

ぷかぷかと浮かぶような感覚の中、私、マエリベリー・ハーンは目を覚ました。

ぼんやりとあの鬼との戦いを思い出していた。

不思議と、今この空間においては恐怖が感じられなかった。

もし違う出会い方ならば、あの鬼も改心させられたのでは、と思う程度には心の余裕があった。

次に思い出したのは、あの悪霊の事だった。

緑の髪にチンピラのような風貌、不敵な笑みとあの優しげな笑み。

どれもが同じ彼のもので、そのどれからも憎悪などの負の感情は感じられなかった。

もし元の時代に帰れたなら、彼を蓮子に紹介してみよう。一体どんな反応をするだろうか。

驚く?いや、案外珍しがって質問攻めになるかもしれない。蓮子なら有り得る。

怯える?いや、見た目は兎も角中身はノリのいい男子とさほど変わらない。やや達観しているような所はあるが、精神的には私達とそう遠くない所にいるんだろう。

興味を示さない?あの蓮子に限ってそれはない、断言できる。

歓迎する?……ああ、これが一番ありそうだ。蓮子ならきっと、彼の事も受け入れてくれるんだろう。

ふと気が付くと、蓮子や彼の事ばかり考えている。その事に気がついて、顔が僅かに赤くなるが、誰も見ていないのだしこの際構わない。

そういえば彼の名前をまだ聞いていない。この時代に来てからというもの、この短時間に様々な事があり過ぎて忘れていた。失念していた、まず最初に聞くべき事だろうに。

ここが私の精神世界だろう事はなんとなく分かる。所謂明晰夢に近い状態なのだろう。

ぽつりと、独り言を呟いてみる。

 

「ねぇ、貴方の名前はなんて言うの……?」

 

昔の漫画に出てくるヘルメットの人よろしく“俺の名を言ってみろ”なんて言われたりはしないだろうが、いや、彼の性格ならノリで言ってくれるかもしれない。なんとなくヒャッハーとか似合いそうだし。

届く筈もない呟きとそんな脈絡のない考えに苦笑していると、うっすらと声が聞こえた。

 

「……狭間……」

 

「ハザ、マ……?」

 

驚いた。声が届いたのだろうか?

ハザマ、漢字にすると狭間だろうか。それが彼の名前?

変わった名前だ。自分の名前も、日本人にとっては変わった名前だという事を棚に上げて、そう感じた。

狭間、狭間。うん、なんとなく彼らしいのかもしれない。

そう考えて微笑んでいると、段々眠くなってきた。

夢の中で眠くなるというのもおかしな話だが、夢の中で起こる珍事には慣れている。最も、ただの夢なのかと問われると否だが。

ああ、だめだ、もう眠い。

おやすみ、狭間……

 

 

チュンチュンと鳥のさえずりに目を覚ますと、すっかり日が昇っていた。

確かここに来たのが夕暮れ頃だったから、もう一晩経過してしまったようだ。

辺りを見舞わしていると、狭間が戸を開けて入ってきた。

 

「おっ、起きたか。おはようさん」

 

「おはよう、えーっと……」

 

「あァ、オレは名前忘れたから好きに呼んでいいぜ」

 

ズルっと帽子が頭から滑り落ちた。忘れるってどういう事だ。

何かの後遺症、という訳でもなさそうだし、やはり単純に忘れてしまったのだろう。

好きに呼んでいい、と言うしここはやはりあの夢の中で聞こえた狭間というのがいいだろう。

 

「狭間?あぁ、悪くないんじゃないか?(それって昨日言ってたあの裂け目の呼び方の事だよな……)じゃあ、オレ様はこれから狭間だ。っと、忘れる所だった。メリー、お前もなんか別の名前考えとけ」

 

「名前?」

 

「そう、名前。昨日の亡霊が、真名を誰かに簡単に教えるな、って言ってたんだ。そこらの本を漁って調べたけど理由は分からん。だが、一応何か考えといた方がいいだろう」

 

名前、か。メリーじゃダメなんだろうか。

そう聞くと、“メリー“はあだ名みたいなモンだからそれとは別に作ってくれ、との事だ。もしやあだ名だからと、作った名前ではなくメリーのまま呼び続けるんじゃないだろうか。

彼の方は、狭間というのが本名じゃないからそれでいいらしいが。私はどうしようか。

 

「紫とかでいいんじゃねェの?服が紫だから」

 

「せめてもうちょっと捻って、漢字をそれにするとしてももっと洒落た言い方があるんじゃないかしら?」

 

苗字を決めるとしても、名乗った時に『ああ、服が紫色だから紫なんだな』と思われるのはなんとなく嫌だ。

実を言うと、苗字の方はもう決めているのだが。

 

「苗字なら決めたのだけれど、どうかしら?」

 

「おっ、なんて言うんだ?」

 

興味津々に尋ねてくる狭間。

ふふん、私の発想に驚くがいいわ。

 

「八雲って言うんだけど」

 

「一応聞くが、その由来は?」

 

首を傾げて尋ねる彼に、私は自信満々に語った。

 

「小泉八雲って知っているかしら?」

 

「まぁ、名前ぐらいならな」

 

小泉八雲、ギリシャ出身の新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者、と様々な肩書きを持った人。

彼の出生名はラフカディオ・ハーン。正確にはパトリック・ラフカディオ・ハーンなのだけれどそこは置いといて、重要なのはハーンという部分。

私はマエリベリー・ハーン。彼はラフカディオ・ハーン。同じ性なのだ。私はそこに親近感を覚えた。

小泉八雲、というのは彼の日本国籍上の名前。私が今いるのも、時代が大きく違うとはいえ日本。

まぁ簡単な理由なのだけれど、彼にあやかって八雲という苗字を使おうと思ったのだ。

 

「ほー、いいかもな。んじゃ苗字は八雲で決定か?後は名前だが……」

 

「ま、そっちは追々考えておきましょ。とりあえず決まるまでは今までどおりメリーでいいわ」

 

「おう。で、どうする?天気もいいし、そろそろ行くか?」

 

「そうね、出発しましょう。早く帰らなきゃね」

 

そう言って外へ出ると、穏やかな風が吹いていた。

遠くの空を見上げると、私の心境を表すかのように綺麗な虹が架かっていた。

狭間と並んで歩き出す。蓮子の所へ帰る為に、情報を集めなくてはいけない。そのためには、立って進まなくては。

 

「改めてよろしくね、狭間」

 

「おう、今後ともよろしく、メリー」

 

こうして、私達の長い旅路が始まった。

 



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あの剣鬼によって壊滅させられた里を通る道中、あれだけあった里人の遺体がなくなっている事に気がついた。

訝しげに辺りを見回している私に気が付くと、狭間はこう言った。

 

「ああ、どうせ寝る必要も無いし、暇だったから埋葬しといたんだ。細かい礼儀作法や宗教は知らんから丁寧とは言えねぇがな」

 

そう苦笑する彼を見ていると、記憶の中の誰かと被った。

一体誰なのだろう。確か……ダメだ、今ひとつ思い出せない。

首を傾げると、彼も“どうしたのか”と言いたげに首を傾げた。

ちょっと可愛いなんて思ってしまった。不覚。

 

「ねぇ狭間、貴方ここに来る前に私と会った事ないかしら?」

 

ストレートに訊いてみる事にしたが、首の傾きが大きくなるだけだった。

 

「いや、無い筈だが。そういやメリーって……おっと、失礼。忘れてくれ」

 

「何よ、ハッキリ言っちゃっていいわよ?」

 

言い淀む彼にきっぱりそう言ってやると、狭間は気まずそうに口を開いた。

 

「いや、そのー……元の時代では学生さんか何かかなーと思いまして、ハイ。い、言っておくが他意はないからな!?」

 

「……」

 

見た目の割には紳士的というかなんというか。

つまり、遠まわしに“女性に年齢を尋ねるのは失礼”と言いたい訳だ。

ガクッとよろけそうになるがそれを抑え、苦笑する。

 

「見た目によらず紳士的ですこと。別に気にしなくていいわ、長い付き合いになりそうだものね。一応大学生だったわ」

 

苦笑交じりにそう話すと。

 

「えっ」

 

「……何よ」

 

「……年上だったのか?」

 

げしっ。

 

「いでっ」

 

まさかの年下。でもまぁ、彼は数百年ぐらい封印されてたらしいし、それをカウントすると私の方が年下に……いや、待てよ。既に死んでいる=年を取らないだとすると……

私に脛を蹴られて蹲る彼を尻目にそんな事を考えていると、ふと狭間の立っている辺りが影になった。

不思議に思って二人して見上げ、視界に入ってきたのは。

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

「んなッ!?」

 

「ちょっ……」

 

真っ直ぐに狭間の上に落ちてくる少女だった。

ドサッと、少女が地面にぶつかる音と、狭間が潰れた蛙のような悲鳴を上げるのはほぼ同時だった。

 

「ちょ、ちょっと大丈夫?」

 

狭間は頭が半分程激突の衝撃で地面に埋まってしまっているが、まぁ大丈夫だろう。

少女の方も気を失ってはいるものの、目立った外傷はない。直に目を覚ますだろう。

ただ、一つだけ目を引く所があった。

 

「翼……?」

 

少女の背には、片方だけの真っ黒い翼があった。

 

 

「いやぁ、まさか人が居るとは思わんでのぅ。すまんすまん」

 

「いいのよ、それより怪我がなくて何よりだわ」

 

「……」

 

まだ年若い風貌の少女は、若干年寄りくさい口調で謝罪をしていた。

もっとも、激突された狭間は未だに埋まっているので応対しているのは私なのだが。

 

「でも、なんで空から降ってきたの?」

 

「あー……恥ずかしい話なんだがの、飛ぶ練習をしとるのだ。天狗って知っとるか?」

 

勿論知っている。天狗は鬼や河童なんかと同じぐらいにはメジャーな妖怪だ。

烏天狗や大天狗、果ては天魔と呼ばれる役職があるぐらいには区分されている。その力や強さも様々だが、それは割愛しよう。

頷くと、少女は満足そうに微笑んだ。

 

「儂も天狗なんじゃがの、見ての通り翼が片方しかなくてな。飛行しようとしても上手くバランスが取れなんだ。だからこうしてこっそり練習しとるのだ」

 

飛び方が分からないという訳ではなく、単純にバランスが取れないのか。

空なんて飛ぶ事の出来ない私にはよく分からないけれど、バランスが取れないのは大変だろう。

そう思っていると、突然狭間が地面から頭を引っこ抜いた。

 

「ぶはっ、はぁ……おいコラ、テメェオレには謝罪なしかよ?」

 

「すまん」

 

「三文字かよッ」

 

若干ノリがおかしい気もするけど、いつもの狭間だ。

思わず吹き出すと、狭間がジトーっとした目を向けてくる。面白い。

 

「そういえば主らは何と……おっとすまん、軽々しく名を訊くなと言われとるんだった」

 

「なぁ、なんで真名とやらは教えちゃあいけないんだ?」

 

やっぱりいつもの調子に戻って質問する狭間。

それに対して、天狗の少女は訝しげに首を傾げた。

 

「何を言っとるのだ、当然であろう。特に儂のような妖者には真名を知られたらそれを媒介に傀儡にされる恐れがあるのだぞ。どこぞにそんな術者がわんさか居ると聞く。もっとも、己より格下の相手でなければ効力はないがの」

 

思わずぶるりと身を震わせた。なんだか思ったよりも恐ろしい効果だった。

名前だけで相手を縛るなど、酷い術もあったものだ。そんな術を使う相手に出くわさない事を祈ろう。

 

「その術を使う者は大体が外道じゃからそこまで心配せずとも良いが警戒するのが普通じゃろうて」

 

「まァオレらは大丈夫だろ、なぁ?」

 

「ええ、貴方のは本名じゃあないし、私もあだ名を教えればいいものね。代わりに貴女も教えてくれないかしら?」

 

「ぬ?そりゃ構わんが……」

 

そう言って私は懐から手帳とペンを取り出した。

物珍しげにそれを見つめる彼女の姿に、やはりここは私のいた所じゃあないんだな、と改めて思い知らされる。

少し胸の痛みを感じたが、気にしない事にした。私の居た時代ではなくとも、今私がいるのはここなのだ。目をそらしてはいけない。

そう考えながら、手帳に“めりー“と平仮名で書く。

 

「私は、メリーって呼んでちょうだい」

 

「おお!心得たぞ、めりー!」

 

やや言いにくいのか、舌っ足らずな口調で言う姿に、自然と口元が綻んだ。

狭間に手帳とペンを手渡すと、慣れた手つきでサラサラと“狭間”と書いた。

 

「オレ様は狭間だ。漢字で書くとこうだ、覚えとけよ」

 

「うむうむ、分かったぞ狭間」

 

今度は滑らかに発音した。ちょっと悔しい。

 

「儂の名はこうじゃ」

 

そう言って書き記したのは、“黒羽”の二文字。なんて読むのだろうか。

 

「儂は黒い羽と書いて、くろう、と呼ばれておる」

 

「黒羽ね、覚えたわ」

 

「黒羽、クロウか。ヒヒッ、ぴったりだな」

 

「そうじゃろうそうじゃろう!」

 

狭間の言葉に気をよくしたのか、嬉しそうに片羽をパタパタと動かす黒羽。ちょっと可愛い。

クロウ、鴉の事か。確かに烏天狗っぽいし、羽の色も相まってピッタリと言える。

機嫌良さげにしている黒羽だったが、ハッと我に返り、咳払いをした。ちょっと恥ずかしそうにしている。

 

「ん、んんっ……それは兎も角として、主らはどこへ行くのじゃ?」

 

「あー、ちょっと時間を超える方法を探しにな」

 

「……頭は大丈夫かの?」

 

「大丈夫だ、オレは正気だ」

 

しょうきにもどった……とかではなく、狭間は素直に目的を言った。

最初こそ黒羽を警戒していたようだが、先程の見た目相応の少女のような動作に毒気を抜かれたのだろう、剣呑な目つきからいつもの蛇みたいな目になった。あれ、字面的には大差ないか。

咳払いしながら、狭間が呟いた。

 

「オレは兎も角、コイツはどうにかして帰してやりたいんだよ……」

 

「何か言ったかの?」

 

「いや、なんでも」

 

聞こえている。しっかりと私の耳に届いた呟きは、私の顔を顰めさせるのに充分だった。彼はもしかしたら、自分を犠牲にしてでも私を帰そう、とか考えてるんじゃなかろうか。自惚れが強すぎないか、とは自分でも思うがそう感じずにはいられない。彼は少々自分を蔑ろにする節がある。人によっては謙虚、美点と映るかもしれないが、私にとってはまるで壊れ物か何かのように、慎重に、触るのも憚られるモノとして扱われるような錯覚を覚えるのだ。

だから。

 

「ていっ」

 

「痛ぇっ!?」

 

ガツリ、と拳骨を落としてやった。

実体化しているならば物理攻撃も有効、というのは分かっていたが実際殴ってみると意外と痛い。主に手が。

 

「なにすんだよ!?」

 

「なーんでもなーいわー」

 

「嘘吐けっ!」

 

ぷいっ、と顔を逸らす。わざとらしい動作に、狭間はしかめっ面で首を傾げた。

 

「いい、狭間?私と貴方は対等なの。実際の強さ、とかそんなのは置いといて精神的な立ち位置の話ね。言ったでしょ、私も貴方の力になるって。だったら守られるだけじゃダメじゃない?私は貴方みたいな力はない。けれど、何かを手伝ったりとか、出来る事なら言って。恩があるからとか、そういうんじゃなく、友人として貴方を頼らせてほしいの……いいわね?」

 

「……悪いな。もっともだ。ったく、オレ様とした事がそんな初歩的な事を教わるとはな。目の前の事すら見えてなかったみたいだ。メリーよ、そう言うって事はオレの事を友人と思っているって取っていいんだよな?」

 

ニヤリと笑って彼が言う。勿論と頷く。笑みを深めた彼は、楽しげに笑って言った。

 

「じゃあメリーよ、オレもお前の事を友人と取ってもいいんだよな。嫌とは言わせねぇぜ、もう決めた。っつーわけで、改めて宜しくな、メリー」

 

「ええ、こちらこそ。今後とも宜しく、ね」

 

「終わったかの?」

 

「あ、すまん」

 

「ごめん、忘れてた」

 

黒羽の存在を忘れかけていたがそれは置いておいて。

黒羽も狭間も怪我はないようなので、そろそろ出発する事にした。

 

「そういえば目的地は決まっとるのかの?」

 

「行き当たりばったりっていいよな」

 

「決まってないのね」

 

「当然!」

 

ドヤ顔で言われても困る。そりゃあつい昨日まで封印されていた彼が地理に詳しい筈もないし、私も分からない。行き当たりばったりになるのも仕方ないと言える。

 

「幸い時間だけはたっぷりとあるからな、焦ることはない」

 

「そうなのかー。それにしても、霊と妖者の組み合わせというのも珍しいのー」

 

 

「……え?」

 

「霊と妖者の」

 

「繰り返さなくていいから、聞き取れなかった訳じゃあないから。そうじゃなくて、妖者って誰のこと?」

 

「めりーに決まっとろう」

 

待て。待て待て待て。誰が?めりーが。

私が妖者。つまり妖怪、人外?

……え?

 

「……狭間?」

 

「オレは悪くねぇ」

 

「いや悪いとか悪くないじゃなく。知ってたの?」

 

「そのー……あの亡霊に聞いて知った。言い出すタイミングがなくてだな……つまり、その……すまん」

 

「……」

 

危うく目の前が真っ暗になりかけたが、いつもの狭間の態度のおかげでどうにか気を保つ事ができた。こういう時は彼の軽薄なノリが役立つ……うん、そうじゃない。

私 が 人外。

どうしてこうなった。私はただのちょっとおかしな眼を持ってるだけの人間だった筈だ。

 

「んむ?もしや……めりーは元人間じゃったのか?それはすまんかったの、配慮が足りんかった」

 

「いえ、良いのよ。貴女は悪くない……というか誰も悪くないんだけどね。ちょっと混乱しただけ」

 

嘘だ。ちょっとどころではない。大混乱だ。

しかし申し訳なさそうに眉を下げる彼女を無下にするのは憚られる。

一体何故こうなったのか。妖怪になっても人間社会に戻れるんだろうか?蓮子は何と言うだろうか。その前にあの子になんて言おうか。妖怪という事は寿命も違うんだろうか。もしかしたら無理に戻ろうとしなくても長生きすればあの時代に……その場合そこに居るのは誰?私?それとも……

 

「……あれ?」

 

「どうしたのじゃ?」

 

「なんか……思ってるほど動揺してない。すんなり胸に入ってきた感じがする……」

 

まさか、妖怪になったということを受け入れているのか。

頭で納得してないのに身体が先に納得するとは何事か。あれ、やっぱり混乱してる?

 

「そういうもんだ、ってな感じでもするのか?少なくともオレ様はそうだったぜ、この身体になった時。なんとなく、”そういうこと”として受け入れちまってる感じがするんだよな」

 

「ええ、そんな感じ。狭間もそうだったのね……」

 

案外普通なんだろうか。いや、普通は人間卒業なんてしないだろう。

ああ、なんだかもう混乱してるのかしてないのか分からなくなってきた。

ええい、この際受け入れるしかない。あの鬼を間接的とはいえ殺した事に比べれば……いけない、血の気が引いてきた。

少なくとも妖怪だから人間を食べなければいけないなんて事はないはず。いけなかったら困る、実に困る。カニバリズムは最大の愛情表現と言うが、好きだからこそ食べずに残しておきた……何を考えてるんだ私は、落ち着け、素数を数えろ。

 

「2、3、5、7」

 

「落ち着け」

 

「落ち着いた」

 

「正直すまんかった」

 

黒羽が頭を下げる。そう申し訳なさそうにされるとこっちも頭を下げなきゃという気分になる。落ち着け私。

 

「……大丈夫か?」

 

「大丈夫……多分」

 

「すまんのー本当に。じゃ、じゃがそう悲観したもんでもないぞ?寿命も人間より格段に長いからの、探し物をするなら都合が良いじゃろうて。それに妖術の適性もあるじゃろうから……」

 

「そう慰めようとしなくても大丈夫よ。うん、ちゃんと落ち着いたわ……大丈夫、しっかり受け止められてる」

 

成ってしまったものは仕方がない。割り切って受け入れるしかないのだ。

成るようにしか成らぬとはよく言ったものだ。どう足掻こうと出来ないものは出来やしないのだ。

しかし妖怪と一口に言っても様々ある筈だが、私は一体何と言う妖怪なんだろうか?疑問に思った私は黒羽に尋ねてみた。

 

「わからん」

 

ですよねー。

 

「そも、儂はまだめりーがどんな力を持っているかも分からんのに知る訳なかろう」

 

「ごもっとも」

 

「……アイツの言ってたのが確かなら、メリーは少なくとも空間に干渉できる」

 

「なにそれこわい」

 

「空間にのぅ……」

 

ちょっとまって私それ知らない。え、私そんな事してたの?

アイツって多分あの亡霊の事よね、いつ聞いたのかしら……あ、私が寝てる時か。

兎も角空間に干渉って字面からしてなんか凄そうなんだけど。というか私の能力って結界の境目が見える程度の能力しかないと思うのだけれど……

 

「あの亡霊が言うには、あのおっさんが攻撃してきた時に空間に亀裂が入って、そこに攻撃が吸い込まれたおかげで勝てたみたいだがな。ま、細かいこたぁ知らんが、メリーにもそれなりの力はあるって自覚できればそれでいいんじゃないか」

 

「まぁそうじゃの。何をするにも自分にできる事を知らんとの」

 

それはそうだ。何ができて何が出来ないかも知らずに事を起こすのはまずい。

敵を知り己を知れば百戦して危うからず……って誰と戦うつもりだ私は。

とにかく、まずは自分の状態を知らなければ。そういえば狭間は自分の力の使い方は分かるのだろうか。

 

「オレか?ああ、一応一通りは分かるぜ」

 

「どんな事ができるの?」

 

「儂も気になるのう」

 

「まず肉体を形作るってのは今もやってるが……オレは怨念を核として存在している。つまり、このオレ様を消滅させようと思ったら怨念の一片たりとも残せない訳だ。怨念イコールオレ様だから、一片でも残ってりゃあ再生できる。いくら潰した所で次から次と怨みのエネルギーが湧いてくるんだから当然っちゃあ当然よな。オレを倒そうとするなら怨念を一纏めにするなり纏めて消し飛ばすなりしなきゃあいけない……ってのが理屈じゃなく心で理解できた、とでも言おうか。オレの力とは即ち怨みそのものだからな、怨めば怨む程強くなる。怨む対象相手なら負ける事はないだろうな。武器も怨念そのものだから……オレが戦えなくなる時ってのは成仏する時、だろうな。ま、そんな事があるかも分からんが」

 

相変わらず喋る時はペラペラと舌が良く回るものだ。

要約すると、狭間が誰かを怨んでいる限りは力は尽きない、という事か。改めて確認すると中々酷い能力じゃあないだろうか。いろんな意味で。

彼はそれ程までに自分を封印した陰陽師とやらを憎んでいるのか。表面上は穏やかだが、その内面では嵐のように憎しみが吹き荒れているのだろうか。私は覚妖怪のように心を読む事はできないが、それが彼に取って良い事なのか悪い事なのかも私には分からない。

彼が理解してもらいたいと思っているか、というと答えは否だろう。しかし、その怨みを晴らしたいか、と問われて是とするのだろうか。私にはそうは思えない。上手く説明する事はできないが、理屈ではないのだ。

 

「中々凄いんじゃのぅ、悪霊とは皆そうなのかのう?」

 

「さてな。オレは他の悪霊なんてこっちに来てからはとんと見てねぇな、亡霊なら見たが」

 

そうだ、彼が異質なのかどうかさえ、私は知らない。

この時代の事だけじゃない、私は知らない事が多すぎる。これから先、知識も、力も、経験も。様々なモノを積み重ねて生きていかなければならない。あの時代のような平和など自分の手で掴むしかないのだ……

 

「……メリーよ、そう重く考え込むな。ゆっくりでいいんだよ、こういうのは」

 

「うむうむ、焦ってもいい事ないぞい。急いては事を仕損ずると言うじゃろう?焦らずにゆっくり歩めば必ず目的地にたどり着ける。そういうもんじゃて」

 

「……私、声に出してた?」

 

「「思い切り」」

 

恥ずかしい。

 

「ん、んんっ……それはそうと、行くあてがないのならまずは自分の置かれた状況やらを確かめるべきだと思うぞい」

 

「そりゃそうだ。その為にもまずは安全な所に行かねぇとな……」

 

「じゃったらここから北東に進むとよい。儂の記憶が確かなら、あの辺りに人と妖怪が共に暮らせる場所があるという。行ってみる価値はあるじゃろうて」

 

人と妖怪が。そんなことがあり得るのだろうか。兎も角、確かに行ってみる価値はあるのだろう、そう感じた私は狭間と目を合わせ、互いに頷いた。

狭間も同じ事を考えたのだろう、興味深げにしていた。

どのみち動かなければ何も変わらないのだ。この後に及んでまだ誰かが助けてくれるなんて思える程私は楽観的ではないのだ。頼れるのは自分と狭間だけ、彼もそれは同じだ。

兎も角、人と妖怪が共に暮らせるというのならば私達が行っても攻撃される事は少ないはずだ。何も分からない所へ行くよりは安全だろう。

 

「よし、んじゃそこに行ってみるか。悪いが案内頼めるか?」

 

「すまんがそれはできん。今もこっそりと抜け出しておるでの」

 

「抜け出すって……」

 

なんだか黒羽の性格が分かるような気がした。アレだ、私を振り回してる時の蓮子みたいな感じだ。きっと活発すぎて枠に捕らわれてじっとしたりなんて出来ないタイプなんだろう。あれ、蓮子もそうじゃないか。狭間はそこまででもないけど活発……というより攻撃的?だし、私の周りにはそういう性格の人が集まるものなのかしら。類は友を呼ぶ、という言葉が脳裏をよぎったが気にしない事にする。

なんだかどんどんズレていってる気がするけどまぁいいだろう。次の……もとい最初の目的地はそこだ。

 

「まっ、目的地も決まった訳だし、そろそろ行こうぜ。時間はたっぷりあるが、その里がいつまでもあるという保証はない」

 

「……諸行無常、ね。癪だけどそれは疑いようがないわね。ええ、行きましょう。ありがとう、黒羽」

 

立ち上がり、ポンポンとスカートの埃を払い落とす。照れくさげに頬を掻く彼女を見ると、幾分か安心できるような気がする。心に余裕が出来てきたのだろう。

狭間も立ち上がり、ゴキゴキと肩を回した。さっき黒羽がぶつかった頭は大丈夫なのだろうか。そう思ったら狭間がジロリとこちらを見た。貴方別に心が読めたりはしないでしょうに、なんでそういうのだけ勘がいいのよ。って、別に悪い意味で言った……もとい思った訳じゃないから別にいいのか。

そう考えていると、黒羽も立ち上がり、大きく伸びをした。片方だけの羽はどこか痛々しく、されど美しく映えて見えた。

 

「では、ここらでお別れかの。またこの辺りに立ち寄った時は顔を見せてくれると嬉しいんだがのぅ」

 

「ええ、いつか。それがいつかになるかは分からないけど、いつかまた会いましょう。もう一度、またここで」

 

「そん時までにゃ帰る方法が見つかってりゃあいいんだがな。っつか、そういう事言うんなら次会うまでに死んでんじゃぁねェぞ?」

 

縁起でもない。でも、これは彼なりのジョーク、或いは気遣いなのかもしれない。どこが、と言われると少し困るけれども。言葉も態度も荒いが、無理するな、と言っていると見ていいんじゃないかしら。

思わず苦笑すると、狭間がハッとしたような表情になってガリガリと頭を掻き毟った。

 

「ったくよォ、こういうのはどうも苦手だ……まぁいいや、また会うっつったら会うんだからな、覚えとけよ!後オレ様の頭に落ちてきた事はぜってぇ忘れねぇ」

 

「アレは嫌な事件じゃったの」

 

すました顔であしらう黒羽。なんだか二人の会話を見ているだけでも結構楽しい。

 

「ほら、行くぜメリー!」

 

「ぷっ、はいはい。じゃあ、またね、黒羽」

 

「うむ、暫しの別れじゃ。さらば、狭間、めりー」

 

そう言葉を交わし、私達は互いに背を向けて歩き出した。

何日ぐらいかかるのだろうか――そう考えた私に、狭間はこう言った。

 

「メリーはこういう徒歩での長距離移動は大変だろうから無理すんなよ」

 

と。

自慢じゃないが私は同年代の人々に比べて体力がある方だと自負している。しょっちゅう蓮子と共に交通網がほぼないような場所まで行ったり、それでなくとも夢の中であちこち逃げ回ったりしているのだ、自然と体力も付いた。勿論、私よりも狭間の方が体力があるのかもしれない。でも、私もさっき気づいたのだが、身体能力が上がっているのだ。妖怪に成った事で身体にも変異が生じたのだろうか、いずれにせよ私はただの人間の時よりも遥かに体力も力もある。そこまで心配せずとも良いのに、狭間は意外と心配性なようだ。

なので、大丈夫だという事を示す為に私は軽く駆け出した。

 

「あっ、おい!」

 

「そんなに心配しなくても大丈夫よー、私は……あら?」

 

走っている最中、地面に金色の何かが落ちているのが見えた。

否、落ちているという表現は正しくない。

正確には”蹲っていた”だ。

 

「ねぇ狭間、これ……」

 

「お前な、急に走りだすんじゃ……あん?」

 

狭間に呼びかけると、彼は眉を潜めながら金色の何かに近づいた。

 

「狐だな、罠にかかってら」

 

金色の何かは、一匹の子狐だった。愛くるしい瞳は諦めたように伏せられ、その尻尾も元気がない。

 

「なんとかできないの?」

 

「このトラバサミ壊しゃあいいだけだぜ。丁度いい練習だ、メリーがやってみろ」

 

「私が?」

 

やってみろ、と言われてもどうしたものか。

ええと、どうすればいいんだろう。子狐は脚を挟まれているのだから、その挟まれている部分をどうにかすれば……

ええい、分からない。こうなれば行き当たりばったりだ、右手の人差し指と中指を揃えて軽く線を引くように、後から思えば子狐と罠の”境界”線を引くように、動かした。

すると、挟まれていた脚がスポリと抜けた。私も子狐もきょとんとしてそれを見つめた。

よく見ると、子狐が囚われていた部分に、隙間が開いている。思わず覗き込んで絶句した。

 

大量の目玉のようなモノが、こちらを見ている。いや、見ていないのかもしれない。その目玉達以外には何もなく、殺風景を通り越して普通の人間が見たら正気度をチェックするハメになりそうな空間が広がっていた。

でも、私はその空間を見て、とても心が落ち着いているのを感じた。例えるなら、満員電車に揺られた後に自宅の私室に居る時間、そんな感じ。理由は分からないが、どうやらこの空間は私にとって非常に落ち着くものらしい。

 

「おい、大丈夫か?」

 

「うぇっ!?あ、え、ええ、大丈夫よ。ちょっとビックリしただけ……ほら、もう大丈夫よ。良かったわね。……さ、行きましょ」

 

「……おう」

 

じっと見つめてくる子狐を置いて、私は足早に歩き出した。あのまま居たら、この子も連れていこうなどと言い出す所だ。

私達は自分の事で手一杯、どころか手が足りていないのだ。だというのに、明らかに野生な小動物を庇う余裕はない。それが分かっていたから、私はこうして立ち去った。

 

「……良かったな、今度は罠に気をつけろよ。オレらはもう行かなくちゃあならないんだ、じゃあな」

 

狭間はそう言って子狐の頭を撫で、私を追いかけ始めた。

去りゆく私達の背中を、子狐はいつまでも見つめていた――。

 

 

ここまでが、大体200年程前の話。

そして今。

 

 

「何か考えごとかい?」

 

「ええ、ちょっとね」

 

「随分と長い間そうしていたが。どうかしたのかい?」

 

「ただ昔を懐かしんでいただけよ。レディの考えを詮索するなんて失礼よ?霖之助」

 

「はは、それもそうだ。悪かったよ」

 

そう悪びれもせずに言う目の前の白い髪の少年、森近霖之助は人と妖怪の間に産まれた、いわゆる半妖である。あの時黒羽に教えられた里、彼はそこの住人の一人だ。

私達が今居るのもその里だ。この200年の間私達はここで情報を集め、腕を磨き、能力を使いこなせるよう練習したり……まぁ、早い話がこの時代、或いは私達の置かれた状況に慣れようとしたのだ。霖之助とはそんな生活を始めた頃に出会ったのだ。

見た目はまだ子供なのだが、これでも300年は生きているらしい。半分だけとはいえ、妖怪の血筋の影響はそれなりに大きいようだ。

他の人妖と比べるとなんとなく話しかけやすい事もあって、今では狭間が出かけている時の一番の話し相手になっている。

 

「そういえば彼、今日は何の仕事だって?」

 

「確か死体が人を襲うから原因突き止めてどうにかしてくれって依頼だったわね」

 

そう言うと、霖之助はやれやれと肩を竦めた。

 

「狭間の強さは知っているが、最近働きすぎじゃあないかい?」

 

「本人は身体の動かし方の勉強みたいなもんだから、とか言ってましたわ。本人がいいんならいいんじゃないかしら」

 

200年も一緒に居るだけあって、もはや狭間の事は我がことのように分かる。

例えば、チンピラみたいな見た目だけど子供には優しかったり。

身体の動かし方の勉強というのが正確には暴れて身体を慣らす為のサンドバッグを求めての事だったり。

まぁ兎も角、私達はこうして元の時代に戻る方法を探しながら、まずは自分を鍛えるのに集中しているわけだ。今のところ収穫は0に等しいが、こうして積み重ねた日々は決して無駄じゃないと思いたい。いや、決して無駄になんてするものか。

 

そして、もう一つ変わった事が一つ。

 

「そうそう、こないだ言っていた本を貰ったんだが読んでみるかい?紫」

 

「……ええ、是非」

 

八雲紫。それが、スキマ妖怪たる私の名だ。



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「アレが噂の人食い死体か?」

 

木の陰から腐肉色をした不気味なモノを見据えた狭間は、傍にいた里の自警団の若者に尋ねた。今回の仕事は、里の人間だけでなく一部の妖怪も同行していた。

小さく頷きを返した若者は、少し震えているようだった。4メートルはあろうかという人食いの化物がすぐ近くにいるのだから仕方ないのだが。

確認を取った狭間は若者の後ろに控えていた赤い長髪の女性に目を向けた。髪の横から二本ずつ角が生えている辺り、人間ではないと見て取れる。

 

「シンギョク、後詰は任せたぞ」

 

「ええ、といっても私の仕事なんて結界張るぐらいしかないでしょうけどね」

 

シンギョクと呼ばれた女性は、狭間の暴れっぷりを知っているだけに苦笑した。狭間と一緒に行くと、たまに”もう全部あいつ一人でいいんじゃないかな”なんて思ってしまうぐらいなのだ。狭間が苦戦したり負けた所など見たことがない。目標が何か術を使おうとしても、狭間の場合はゴリ押してしまう。多少の攻撃ではダメージが入らない身体故にそんな真似ができるのだが、そもそもこの辺りにそれ程の力を持つ人妖がいないのだ。

 

「こちらで集めた情報によると、奴は人間だった頃にも人を喰っていたようです。飢えに耐えかねてなのか、それとも別の要因があるのかは不明ですが……喰った人間の中には、奴の子供もいたそうです。ああなってからも、子供や女性を狙って襲っているとか」

 

「言葉通りの”腐れ外道”ってワケか。だったら思い切りやっても後腐れねぇな。よし、準備できたか?」

 

「ええ、バッチリよ」

 

「周辺の警戒は我々が。狭間さんは、奴を仕留めるのに集中してください」

 

「分かってる。んじゃ、行くぜ!」

 

そう言って狭間は一人駆け出した。流石に音を立てて接近すれば、あの”腐れ外道”も気づいたようだ。即座にシンギョクが死体の前方を除いた全方位を結界で覆う。僅かに空いた穴から狭間が入り込み、蛇を象った鎖を伸ばした。

 

「ウロボロス!」

 

ウロボロス、狭間がそう名付けた鎖は人食いのボロボロの左腕を容易く断ち切った。言葉にならない呻き声をあげる死体に、狭間は容赦しなかった。右腕から突き出た骨に向かって思い切り蹴りを放って叩き折り、死体が口から胃液のようなものを吐き出せば距離を取った後に再びウロボロスで攻撃する。戦いはほぼ一方的に進んでいった。

 

「ヘッ、人食いって言っても所詮は雑魚か、張り合いねぇなァ!」

 

狭間がそう挑発した瞬間、人食いは自分の頭を掴み、そのまま投げつけてきた。流石に驚いた狭間が跳躍して避けると、巨体に似合わぬ速度で狭間を追うように飛び跳ねた。

そのまま狭間を僅かに残っている右腕で掴むと、醜悪な音を立てて大口を開けた。

それを見たシンギョク達は――

 

 

「あら、そろそろ終わりそうね」

 

全く慌てても心配してもいなかった。

今にも狭間を食おうとしている人食いは、ふと首を傾げて自分の右手を見た。

 

「汚ねぇ手で触んな!」

 

右手は、いつの間にか狭間のウロボロスで肉片と化していた。驚いた死体はバランスを崩し、そのまま地面へと落下していった。

その醜く膨らんだ腹に踵を落とし、轟音を立てて人食い死体を叩き落とした狭間は、掴まれた部分をパンパンと払いながら、悠々と地に降り立った。

 

「さて、そろそろ片付けるか……大蛇斬頭烈封餓」

 

そう言って狭間は手元にナイフ状のウロボロスを造り、死体の足元に撃ち込んだ。

撃ち込まれたウロボロスが死体に絡みつき、動きを封じた。ジタバタと暴れるものの、強固な拘束の前には虚しい抵抗だった。

身を屈めた狭間の背後から何百ものの蛇を象った怨念が死体に食らいつく。数秒ほど蛇達に喰らいつかれ、体の殆どが消し飛んでいた。

しかし狭間は手を緩めなかった。手に長刀を生み出し、全力で斬りつける。

身体の大半を消滅させられたうえに残った部分も両断されては、流石のリビングデッドもどうしようもなかった。狭間が結界から出ると同時に、人食い死体はシンギョクによって完全に消滅させられた。

 

「お疲れ様、相手を舐めすぎよ。というか手を抜きすぎ」

 

「ハイハイ、仕留めたからいいじゃあねぇか。それよか俺はさっさと帰って一杯やりたいんだよ」

 

暴れた後は酒に限る、と言いながら首をゴキゴキと鳴らす。結局、あの”腐れ外道”も狭間を追い詰めることすらできなかった。その事に狭間は若干落胆していた。

いつもこうだ。暴れている間は、力を思う存分奮っている間は気分も高揚する。だが、終わってしまえば”楽勝だったな”という思いが広がる。それが狭間には残念でならない。

折角強い力を持ったのだから、もっと闘りあい甲斐のある相手はいないものか、いつもそう考えていた。

勿論メリー改め八雲紫を護るのが最優先ではあるのだが。

 

(そろそろまた旅をするべきか……)

 

「まったく……それじゃあ、後で霖之助の家に報酬持っていくわね」

 

「おう、頼むわ」

 

 

 

という話を、帰ってきた狭間はしていた。

いや、狭間が戦うの好きなのは知ってるけれど、強い相手がいないのが悩みっていうのもねぇ。

しかし、今の私なら……”境界を操る力”を手に入れた八雲紫なら、彼の欲を満たせるんじゃあないかという密かな自信はある。それを言うと、彼はまた笑って『お前と戦う気なんざねぇよ』なんて言うのだろうけれど。

勿論、それは私だって同じだ。誰が好き好んで数少ない友人を倒そうなんて考えるものか。

術の基礎はシンギョクに学んだのだけれど、ほんの半年もしないうちに呆れられた。

才がないのではなく、むしろ逆だと言っていた。才が有り過ぎる、と。そのたった半年の時間で、教授してくれたシンギョクを大きく上回る程度の力量となってしまったのだから、呆れたくもなるだろう。

その時に自分の化物加減が恐ろしくなったけど、それはまた別の話。その件についてはもう落ち着いたし、受け止めた。

 

「それで、君達はここへ来た時と同じように旅に出るのかい?」

 

霖之助が問う。狭間が盃片手に頷いた。

また今回も当てのない旅になるのだろうか?

あれから200年、この辺りでずっと神隠しや時間渡航について手がかりがないか調べ続けてきたものの、収穫は全くと言っていいほどなかった。この辺りには私達が求める情報はないと考えるのが妥当だろう。

それを聞いた霖之助が、眼鏡をくいっと上げながら言った。

 

「それじゃあ僕も準備をしなくてはね」

 

「「ちょっと待て」」

 

「なんだい?」

 

いや、なんだい?じゃないわよ。

 

「お前まさか、付いてくるつもりかよ?」

 

「?君こそ何を言ってるんだ、当たり前だろう」

 

この半妖は何を言っているんだ。

そりゃあ私達だって霖之助の家に居候させてもらってるんだから、彼が世界の色んなものを見てみたい、と思うのを理解できないワケじゃあない。これでも彼の性分は分かっているつもりだ。

ただ、それにしたって唐突すぎるし、そもそも何を当たり前のように付いてくると言っているんだ。

 

「僕は確かに半妖だが、戦う力なんて微塵もないからね。ならば一人で出るよりも、強い君達にくっついていった方が安全というものじゃあないか。何を不思議がっている?」

 

「ああ、そうだったな……そういやお前そういう性格だったよな」

 

げんなりした顔で狭間が肩をすくめる。

確かにそっちの方が安全ではあろうが。それにしたって突然ではないだろうか。

 

「突然すぎるって?当然さ、今初めて言ったんだからね」

 

「「……」」

 

……やれやれだ。

 

「狭間、いるかい?報酬持ってきたよ」

 

「おお、シンギョクか。いるぜ」

 

玄関をあけて入ってきたのは、神社の神主か何かのような格好をした男。

シンギョクである。

彼について説明しておこう。(この先の旅でまた会う事があるのかは分からないが)

シンギョクというものは、男の姿、女の姿、そして陰陽玉のような何かの姿をとっている妖怪だ。

それぞれの形態で人格があり、得意な事も違う。私が術を教わったり、狭間が仕事を手伝わせたりしているのはその中の女性形態。知らない人が見たら何事かと思う、けれど慣れとは恐ろしいもので、最初は驚いたその事実も今ではそういうものとして受け入れている。だって、本当に”そういうもの”なのだから仕方ない。狭間の事だって、私の事だってそうだ。”そういうもの”として受け入れざるをえない。それがこの世界だ。

 

「で、そろそろ旅に出るんだって?」

 

「……お前、さては陰で聞いてたな」

 

「いいや、聞いてたのは僕じゃあなく私さ」

 

「……まぁいいか。んじゃ全部聞いてたな?」

 

「勿論」

 

プライバシーとはなんだったのか。

 

「じゃそういう事だ。明日には発つぞ」

 

「ええ、分かったわ」

 

「思い立ったが吉日、か。額面通りに受け取るなら今日のうちに出るのがいいが」

 

「オレ酒呑んでんだけど」

 

……まぁ、今日ぐらいは私も晩酌に付き合ってあげよう。

 

 

 

次の日、自警団の人達やシンギョク達妖怪に見送られながら、私達は里を出た。

当面は人里を巡って、適当に路銀を稼ぎながら情報を探す事になる。

時間がある、というのはいいのだがそれも無為に長いと気が狂ってしまいそうになる。そう感じる辺り、私はまだ人間の感性なんだろうか。幸いにして私にはその永い時間を共有する友がいるのだが。

ところで、実は霖之助には私達が未来から云々という話はしていない。

理由は簡単、恐らく信じてもらえない事。それに加え、伝えても大した変化がないということ。信じてもらえない、というのは流石に彼を侮りすぎかもしれないが、伝えても変化がないというのもそうだろうか?

情報は受け取ったモノに何かをもたらす。その変化が良いものか悪いものなのかは、さて。

閑話休題、とりあえずあの剣鬼と戦った時のあの村を見に行ってみる事にした。

墓がどうなってるのか気になった、というのは言い訳だ。あの神社に何か見落としているものがないか、それを調べるのが目的だ。

数日かけて村にたどり着くと、あんな惨劇があったとは思えない程に賑わっていた。改めて人間の逞しさを思い知らされる。

 

「さて、どうするの?」

 

「オレと紫は力を隠せばいいし、霖之助も人間と大差ないからそうそう問題もないだろう。よし、解散。自由行動にする」

 

「投げやりだね。兎も角、各々の用事が終わったら門の前へ集合、それでいいかい?」

 

「異議なし」

 

「同じく」

 

そうして、私はスキマを使って単独で神社を調べに、狭間は村中での情報収集、そして霖之助は店などを回って珍しいアイテムなんかを探しに行った。

……霖之助、私達に同行する必要あったのかしら?

 

 

 

「団子3本、それと緑茶」

 

情報収集を一時中断した狭間は、茶屋で暢気に休憩していた。

この辺りの危険な妖怪などはあらかじめ討伐しているから問題ないといえばないのだが、悪霊だという自覚はあるのだろうか。確かに今は怨念を隠しているし、その特徴的な緑髪以外は人間と変わらない。それにしたって気を抜きすぎじゃあないか、彼を知る者がここにいたらそういうだろう。

運ばれてきた団子を受け取り、無造作に口に運ぶ。と、すぐ近くから視線を感じた。

顔を横に向けると、細道から白い布を三角巾のように頭に付けた少女がこっちを見ていた。

 

「……食うか?」

 

こくり。

頷いて少女はすとんと狭間の隣に座った。

そして団子を一本手に取ると呟いた。

 

「あなたは私が見えるの?」

 

「そりゃオレだってそうだからな」

 

「ふーん」

 

もぐもぐと団子を頬張ると、少女の緑髪が揺れた。

狭間も黙って団子を頬張る。二人は暫し無言で団子を咀嚼していた。

 

「ごちそうさま」

 

「おう」

 

団子を食べ終わった少女がそう言って手を合わせた。

 

「嬢ちゃん、名前は?」

 

「覚えてないの」

 

「そうか、奇遇だな。オレ様も本当の名前は覚えてないんだ」

 

「じゃあ、本当じゃない名前があるの?」

 

「おう、狭間って名前だ。付けたのはオレの親友」

 

「親友、かぁ。ねぇ、私にもお友達できるかな」

 

少女が不安げに言うと、狭間はその頭をくしゃくしゃとぶっきらぼうに撫でた。

目を向けると、狭間は目を閉じたまま口角を上げていた。

 

「できるさ、きっと。このオレ様にも出来たぐらいだからな」

 

「ふーん……じゃあお兄さん」

 

「なんだ?」

 

「死んでくれる?」

 

「ハッ、間違っても生者にそれ言うんじゃあねぇぞ?」

 

狭間が冗談めかして言うと、少女も口を綻ばせた。

 

「わかってる」

 

「で、嬢ちゃんはなんでだ」

 

「さぁ?それも覚えてない」

 

「そうか。因みにオレ転落死な」

 

「カッコ悪い」

 

「人間、死ぬ時なんて存外呆気ないもんだ」

 

「そうだね……多分私の時もそうだったもの」

 

そう言って少女は溜息を吐いた。

狭間は正直、生に未練がない。怨みだけで存在しているようなものだから、未練がなくても問題はないのだが。少女はどうなのだろう。気になった狭間は尋ねてみた。

 

「んー……未練がないか、って言われても生きてた頃の事なんて覚えてないもん。気がついたらこの姿でここにいて、誰に話しかけても見えないみたいだし。私を見てくれたのなんて、あなたと陰陽師の人ぐらいだもん」

 

「……へぇ」

 

思わず腕に力が篭るのを自覚した。陰陽師、という言葉についつい反応してしまった。

これも慣れなきゃあな、と思いつつ、茶を啜った。

 

「あいつら、私が幽霊だからって追い掛け回してくるのよ。もう嫌になるぐらい」

 

「それで済んでるうちに、ああいう連中がいないとこに行った方がいいぜ。先輩からの忠告だ」

 

「そう言われたって外は妖怪が出るでしょう?」

 

「ならその妖怪に負けないぐらい強くなりゃあいい。現にこのオレはこの辺りの強い妖怪は大体倒しちまったし」

 

「こんなか弱い女の子がどうやって戦うってのよ」

 

「カッ、懐かしいなぁ。オレ様の親友も最初はそうぼやいたもんだ。強さってのは何も物理的な力の事だけじゃあないんだぜ?」

 

茶を飲み干すと同時に、何か騒がしい連中が来るのを感じた。

顔を顰めると、少女がビクッと身体を震わせた。

目を向けると僅かに青ざめながら震えていた。それを見た狭間は軽く舌打ちをした。

音の方に目を向けると、いかにもな格好をした陰陽師、或いは退魔師の集団がこちらへ向かって歩いてきた。

少女が狭間に隠れるようにして服の裾を掴んだ。最後の団子を手に取ると、口に運びながら少女の頭を撫でた。

ほどなくして目の前までやってきて立ち止まった。

 

「先程この辺りで邪気を感じた。近くにあの霊がいるはずだ、探せ」

 

そう頭領格の男が言うと同時に、集団はバラけた。

それを眺めながら狭間はもぐもぐと団子を頬張っている。

 

「そこな男よ、緑の髪の少女を見なかったか?」

 

「さぁ、私はずっとここで団子を食べてましたが子供は一人も見てませんね。ましてや私みたいに緑髪の子供なんて。それが何か?」

 

目を細め、いかにも自分は無害ですというような体を取りながら狭間は首を傾げた。いつもの毒々しい声を軽い感じの、人懐っこいと感じるような声に変え、丁寧な口調で喋りながら。

陰陽師の頭領はその狭間の後ろに隠れたりしていないか確かめながら、こう言った。

 

「うむ……その少女なのだが、どうにも人を恨んで、或いは酷く恐怖しながら死んでいった霊のようでな。できるならば、あまり苦しまないようにあるべきところへ送ってやりたくてな」

 

「……成る程成る程、お勤めご苦労様です。生憎と力にはなれませんでしたね、引き止めてしまって申し訳ない」

 

「いや、構わない。もしそなたが霊を見る事ができたなら、伝えてくれると有難いが……こちらこそ、食事を邪魔して申し訳ない。では、御免」

 

そう言って頭領はどこかへと歩いて行った。

それを暫く眺めていた狭間は、ぽつりとこう言った。

 

「今日のオレは紳士的だ、運が良かったな。もし問答無用で滅する的な事言ってたら今頃この辺りは血の海だったろうよ」

 

吐き捨てた後、団子の代金を椅子に置いて狭間は立ち上がった。

首をゴキゴキと鳴らしながら、門の方に歩いて行った。

門の前で立ち止まると、小さく呟いた。

 

「悪いな」

 

「このぐらいなら大したことじゃないわ」

 

スキマを開けて紫が出てきた。先程の少女の幽霊を伴って。

紫のスキマは、紫の能力で空間に入口を開く事で入れる、いわば”紫の世界”だ。

どれだけ離れていようと、どんな場所だろうとスキマを介せば紫は侵入できる。それと同時に、スキマの中は何者にも侵入されない安全地帯、即ち何かを守るにはうってつけの空間である。

紫がやったのは、少女の幽霊が存在に気づかれる前にスキマにこっそり引きずり込んだ、ただそれだけである。当然少女は驚いただろうが、様子を見る限り少なくとも今は落ち着いているようだ。

 

「オレがぶっ殺したいタイプの連中じゃあなかったからほっといたが、嬢ちゃんどうする?」

 

「ちょっと待って、今サラッと危ない事言ったわね、里中で暴れたりしないでよ?」

 

「大丈夫だ、自重する……多分」

 

「……どうしようかな。もう暫く、この里で考えてみようと思う」

 

「ん。そうか」

 

少女の答えに満足そうに頷いた狭間は、里の通りの方に目を向けた。

霖之助はまだ時間がかかりそうだ。暫くはこの少女と会話していても問題ないだろうし、また出歩いてもいいかもしれない。

 

「紫、ちょっと見てきたい所がある」

 

「あら、それじゃあ私も行くわ。貴女はどうする?」

 

「私も行く」

 

そう答えた二人が狭間の横に並ぶ。

楽しいところじゃあねぇぞ、と呟いて歩き出した。

 

 

 

 

神社では、収穫と言える収穫は無かった。

分かった事と言えば、あの神社には中々強力な封印が施されていた事。

中は荒れ果て、壺などはもう風化してしまっていたものさえある。

他に変化と言えば、何かの日記のようなものがあった程度。中身はとても読めたものじゃあなかったが。

封印の事だが、あの神社自体が何かを封じるいわば楔の役目を果たしていたようだ。

戸にその封印術の紋様が描かれていたのだが……それは破られていた。というか、多分破ったのは私だ。

 

(まさか、あの時に破ってしまってるなんてねぇ……ってことは、あの時には既に妖怪化していたのね)

 

そう、破ったのは初めて神社に入った時、つまり狭間と会った時だ。

それを思えば、狭間の封印されていた壺を割れたのもそのおかげなのかもしれない。

あの紋様は内部の封印も強固にしていたようだし、関係ないわけではないだろう。

 

複雑な思いで歩いていると、ふと狭間が立ち止まった。どうやら目的の場所に着いたようなのだが……

 

「……ここって」

 

「今は墓場か、丁度いいっちゃいいんだろうがな」

 

「……」

 

墓場、だった。

何故わざわざこんな場所に来たんだろう、と思ったが、すぐにピンときた。

 

「ここに、あの時の人たちを埋葬してたのね?」

 

「ああ、そうだ。あのおっさんに殺された連中のな」

 

やはり、と感じた。

この墓場は、元々あの剣鬼に殺された人々を狭間が埋葬した場所だったのだ。

しかし、何の為にわざわざこれを見に来たのだろうか。

 

「え?いや、なんとなく」

 

「特に思惑なかったのね」

 

「……ねぇ」

 

「なんだ?」

 

不意に少女が口を開いた。

その顔は髪に隠れて、こちらからは伺う事ができない。

 

「私は、お兄さんが言う”おっさん”に殺されたのかな……?」

 

背筋を冷たいものが走るのを感じた。

薄々感づいてはいたが、間違いない。彼女は狭間と同じ。

――悪霊だ。

彼女から発せられる殺意と怨みの力を狭間も感じ取ったのだろう、目が細められた。

いつの間にか少女は手に包丁を持っていた。鈍色の光を放つそれを握り締め、彼女は俯いたまま問いかけた。

それに対し狭間は。

 

 

「それはない、そう断言できる」

 

「……本当に?」

 

「おうとも、わざわざ夜通し一人で埋葬したんだぜ?顔が分かる奴なら一人一人覚えてるからな。髪色だったら当てにならないが、それは確信を持って言える」

 

「……そう」

 

言葉と共に、殺意の波動は収まった。

顔を上げた少女は悲しげな顔で呟いた。

 

「私は一体どこの誰で、何を思ってたのかな」

 

「さぁな。オレには分からない。それは嬢ちゃんが自分で調べて、それで受け止めろ」

 

くしゃくしゃと粗雑に、しかし不器用な暖かさを感じる手つきで狭間が少女の頭を撫でた。

暫くされるがままに撫でられていたが、やがてぽつりと呟いた。

 

「ごめんね」

 

「気にすんな、ガキは感情豊かな方がいいぜ」

 

「もう、子供扱いしないでよ」

 

「ハハハ、そいつは悪かったな」

 

「お姉さんもごめんね、怖がらせちゃったかな」

 

「私は彼と200年ぐらいは連れ添ってますから平気ですわ。狭間じゃあないけど、怒りたい時は怒って、泣きたい時は泣いた方がいいと思うわ」

 

「……うん」

 

幽霊というのは、生者よりも感情豊かなのだろうか。

少なくとも、負の方向には振れ幅がかなり大きいだろう、そう感じた。

暫く狭間が少女を撫でていると、彼女はポツリと呟いた。

 

「何でだろう。なんか、お兄さんの近くにいると落ち着く」

 

「へぇ、何でだろうな?」

 

狭間の近くにいると落ち着く、か。

分からないでもないけれど。でも、彼女の言うそれは私が感じるのとは少し違うようで。

まぁ、こっちに来てからは不思議なことも結構あったし、どんな理由でも驚き……はするかもしれないが、ありえないという事はないのだろう。

”ありえないなんて事はありえない”という言葉があるように、この世界を知ってしまった私には絶対などと否定する事はできない。

思考がズレたが、まぁいいか。そろそろ霖之助も戻ってくるだろうし、待ち合わせ場所に戻ろう。

二人にもそう伝え、門まで戻ると霖之助もちょうど戻ってきたところだった。

 

「やあ、お待たせ。何か見つかったかい?」

 

「めぼしいものは特に。そっちはどうだったかしら?」

 

「上々、といったところか。それなりに楽しめたよ。ところで狭間」

 

「なんだ?」

 

「君は妹か或いは娘でも……おっと冗談だ、ウロボロスなんかで攻撃されたら僕はひとたまりもないんだ、勘弁してくれ。で、その女の子はどうしたんだい?」

 

斯く斯く然然。

 

「成る程、霊か……名前がないのかい?」

 

「うん。私も狭間と同じで覚えてないのよ」

 

「ふむ……何かいい名前でも思いつけばいいんだがね。そうだな、み……いや、まがいいかな……ふーむ」

 

「そういうのいいから。必要だったら自分で付けるわよ」

 

少女が溜息混じりに言う。まぁ、見える者が少なければ名前を必要とする事もないのだろうか。しかし名前は個を指し示す重要なものであるからにはおいそれと付けるワケにはいかないのだ。名は体を表すというが、大体名前自体にも言霊は宿るのであって云々。

因みに私の名前もちゃんと意味があるのだ。

 

「いやいや、名前というのを疎かにしてはいけないよ。僕は物を見ただけで名前が分かるという能力があるんだが、それもあってか名前に関してはちょっと五月蝿くてね」

 

「オイオイ、薀蓄披露は程程にしてくれよ」

 

「うーむ、やはりみから始めるのがいいか……おっとすまない」

 

「それはさておき、そろそろ行くぞ。この辺の凶暴な奴は軒並み蹴散らしてあるから、夜に歩いてもそこまで危険はないだろう」

 

そう言って狭間が外へ向けて歩を進める。私達もそれに追従する。

門を出た辺りで少女が立ち止まった。少し残念そうに微笑んで、口を開いた。

 

「……また、会えるかな」

 

「当然。生きていなくても、また会えるだろうさ。嬢ちゃんも、また会いたいならそうそう消えるなよ?」

 

「まったく、どうしてそう棘のある言い方しかできないんだ君は。確証がある訳ではないが、また会えればいいとは思うよ」

 

「そういう霖之助もなんでそういう言い方が多いのかしらね?また会えるかな、というよりはまた会いましょう、ね」

 

「……うん」

 

幽霊の少女に見送られながら、私達は里を出た。

名残惜しそうに手を振りながら、少女は微笑んでいた。

彼女の持つ怨みのエネルギーがどことなく減ったように感じるのは気のせいではないのだろう。表情からは陰が薄れ、年相応の笑顔を浮かべていた。

しかし、狭間の傍にいると落ち着く、というのはどういうことだろう。確かに私も彼の傍にいると心が落ち着く、というか精神的に安定するのは否めない。

まず考えられるのは、彼の個有の能力によるもの。例を挙げるならば、霖之助の物を見るだけで名前と用途を知る力、私の境界を操る力、それに……蓮子の、星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる眼もそうだ。意外とこういった個有の能力を持っている者は多い。無論それが開花するかどうかは本人次第ではあるのだが。

狭間の能力について、私は”怨念を操る程度の能力”と認識していた。簡単に言うならば、自他の怨念を力としたり武器としたり、そんな力。

でも、もしかしたらそれは間違いなのかもしれない。先程私は、”怨念を操る”と考えた。

こう考えたらどうだろうか。即ち、”怨念を含んだ負の感情を取り込んで力とする程度の能力”と。

これならば色々と説明がつく。

怨みのエネルギーを強く持った少女が、狭間にそのエネルギーを持って行かれたことで安定し、それを落ち着くと感じたこと。

自分が妖怪であることを知った時、初めて凄惨な殺人に出くわしても正気を保っていられた事、自分が規格外の化物であることを知った時……数え上げればキリがないほどに精神的に多大な負荷がかかりかけた私から、その絶望、恐怖、或いは狂気――

そういった負の感情を、意識的……いや、無意識だろう。狭間が取り込んでいたおかげで、こうして自我を、人間としての意識を、そして八雲紫となる以前に、マエリベリー・ハーンという一人の人間を保っていられたのかもしれない。

その貪欲なまでの取り込みが、私を救ってくれているとしたら、私は一生彼に頭が上がらないだろう。いや、正直今もそうではあるのだが。彼自身はあの封印から脱せられたから私に頭が上がらない、なんて思っていそうだけどね。

兎も角、これはあくまで私の想像でしかない。実際のところどうか、なんて私には分からないもの。これが違っていたとしても、私が彼の傍に居て落ち着くと思うのは事実なのだから。能力なんて関係なく、私は彼と共に歩みたいとも思うしね。

なんて考えると、ちょっと気恥しい。そう思う程度には心にも余裕がある。

大丈夫、私はちゃんと自分の頭で考えられるし、彼の背中を守れるぐらいの力は身につけた。もう何も怖くない……訳じゃあないけど。

まぁ、少なくとも狭間が一緒なら何が相手でも行ける気がする。誰かにこう感じるなんて、蓮子以来だ。あの子と一緒の時も、どこまでも行ける、そんな感覚があった。過ごした時間は狭間の方が圧倒的に長いだろうに、蓮子は私の中で大きなウェイトを占めている。まぁ、それも当然かしら?だって、私があの時代に戻る一番の目的が彼女に会う為だもの。

今日も明日も明後日も、私は歩き続ける。もう一度蓮子に会う、その日まで。



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多少遅れてでも一月に一話くらいは更新できるようにしたいもんです。
一応療養中の身なので酷く時間がかかりますが。

6/28追記
上記の事も含めて活動報告にお知らせがあります。目を通していただけると幸いです。


「縄張り争い?」

 

茶を飲みながら狭間が訝しげに声を上げた。

旅の途中で立ち寄った村で、すぐ近くで妖怪が縄張り争いをしているという噂を聞いたのだ。放っておいては村にも被害が広がるかもしれないからと退治を依頼されているのが、今の私達である。村長の家に招かれ詳しい事を聞くと、彼はこう言っていた。

 

「ええ、といってもそのうち一体は特に興味を示していないそうなのですが……他の二匹が部下を使って盛んに争いを仕掛けていまして。三体が三体とも同等程度の力を持っている為に、互いが互いを牽制している状態なのです。興味を示していない……ちょうど、貴方と同じような緑髪の妖怪なのですが、それ以外の二体を退治していただけないかと。勿論お礼は致します、どうか……」

 

「オレぁ構わないが……」

 

「困っているなら助けるのが道理かしら。私も構わないわよ」

 

「僕は戦わないから意見はないよ」

 

満場一致で受ける事になった。緑髪か、そういえばいつぞやのあの幽霊の少女も緑髪だったわね。

まずは情報を集める為に、三人で村の人に話を聞いて回る事にした。

事前に相手の事を知ると知らないとじゃあ、勝手が大きく違うからね。

暫く聞いて回っていると、この村に滞在している退治屋のグループが居たので件の妖怪達について聞いてみた。

 

「アンタ達、悪い事は言わないからあいつらに挑むのはやめときな。命を無駄にするようなもんだ」

 

「俺達だってなぁ、都じゃちょっとは名の知れた一団なんだぜ?それが全く歯が立たなかったんだ、逃げ帰るので精一杯だった。一人も欠けずに帰って来れたのは奇跡だぜ……」

 

「え?連中の特徴?そうだなぁ……まず、緑髪の妖怪の前では、絶対に花を踏んだりするな。死ぬぞ。後、鏡には気をつけろ。死ぬぞ。数で押してきたら、まず逃げろ。一度にかかって来れる数が限られる場所なら、数の上の有利は殆ど無くなる。最後の一体については、俺達も分からないんだ。すまない」

 

「……いや、助かった。忠告感謝するよ」

 

退治屋の一団は八人程度だったが、そこまで力の差があったのだろうか。

とりあえず、数で押してきても私の結界術なら大きさ広さ自由自在だ。親玉一体だけを相手取ったり少しづつ片付けるのには都合がいい。

気になるのは、花を踏むと死ぬぞというところ。花を踏む事を引き金にした術でも使うのだろうか?生半可な威力なら私達には効果が薄いが。精神的な攻撃も基本的に耐性があるし。心配なのは霖之助だが、彼はこれでも運がいいからほっといても大丈夫かもしれない。でも一応結界で囲うくらいしてあげよう。

情報収集を終えた後は準備だ。無くても平気とはいえ、札は準備しておかなければ。術を咄嗟に使うのと予め札などに仕込んでおくのでは、仕込みを入れた方がいざという時にラグがないし、ちょっと手を加えれば触らなくても発動するようにできる。仮に私が動けなくなったとしても、札の何枚かを狭間と霖之助にも渡しておけばいいのだ。拘束された時の対策に、瞬間的に霊力の衝撃で近くにいる相手などを吹き飛ばすいわゆる霊擊札が役立つ。

おっと、考え事をしていたらもう宿に着いたようだ。準備を始めよう。

 

 

 

次の日、私達はまず緑髪の妖怪が住んでいるという花畑へと赴く事にした。

その妖怪の存在が他の二者を牽制しているということは、協力が得られれば戦力になるだろう。縄張り争いに興味がない、という時点でその可能性は薄いが。とりあえず花は踏まないようにしよう。

半刻程歩くと、件の花畑が見えてきた。しかし――

 

「……なぁ二人共、オレはここに花畑があると聞いてきたんだが」

 

「奇遇ね、私もよ」

 

「僕もだ。だが、これは一体どういう事だ?花が潰されていて、実に無惨だ」

 

花畑が荒らされていたのだ。本来ならば美しく咲き誇っているであろう多種多様な花達の殆どが。見るも無惨に踏みにじられている。

一体誰がこんな事を、などと考えるまでもなく犯人は限られている。他の二者が、ここの主を怒らせる為にやったのだ。

しかし、これはマズイ。非常にマズイ。何がマズイかって、辺りに私たち以外の誰も居ない事がマズイ。

 

「ねぇ、ここに留まってると――」

 

犯人と間違えられて襲われるんじゃないか、そう続けようとした時、背後に誰かの気配がした。

振り返らなくとも分かる程の怒気。間違いなく、ここの主だろう。

ヤバイ。これでも私は大妖怪と呼ばれる者達に匹敵する程度の力はあると自負しているのだが、背後の存在はその大妖怪と言われる中でもかなり上位の存在なのだろうか、そう感じる程凄まじい怒気だった。どうにかして誤解を解ければ……

観念して三人同時に振り返ると、そこにいたのは一人の女性だった。

聞いた通りの緑髪を肩まで伸ばし、日傘を差して私達を眺めている。その瞳で射られただけで、霖之助は顔を引きつらせている。かくいう私も気を抜けば膝が笑いそうなくらいだ。どうにか表面上は平静を保っているが、狭間もよく見れば顔が強張っている。

成る程、花を踏んだら死ぬとはこういうことか。

 

「え、ええと、これは」

 

「黙りなさい」

 

霖之助が弁明しようとするも、最後まで言わせてすらもらえない。説得は無理なのだろうか。

どうにか人差し指と中指を揃え、いつでも結界を張れるように整えられた。これで一撃くらいは防げるだろう。

内心未だかつてないくらいに警戒しながら構えていると、彼女はこう呟いた。

 

「成る程ねぇ……全く、アイツらも巫山戯た真似してくれるじゃないの。流石にここまでされて黙ってはいられないわね」

 

「……?」

 

怪訝な顔を浮かべる私達を無視して、彼女は元々は美しい花の咲き誇っていたであろう道を歩き出す。

当然私達は困惑する。犯人と思われるのは避けられないだろうと思っていたのだ、こうもスルーされては誰だって不審に思うだろう。

訝しんでいると、霖之助が声をかけた。自分達について何も言わないのか、と。

 

「……?」

 

「いや、そこで首を傾げられても」

 

「荒らしたのは貴方達じゃあないんでしょう?だったらどうだっていいわよ」

 

サラッと言うが、あの状況でまず私達を怪しみもせずに犯人ではないと断定できるのは何故かしら。いやまぁ、私としてはこのまま去ってもらった方が有難いのだが。

 

「参考までに何故それを知ったか尋ねてもいいかな?」

 

霖之助、なんで貴方そんな引き止めるの。

 

「そうねぇ……貴方達、ここに来たって事は連中の退治でも依頼されたのかしら?」

 

質問に質問で返すと国語のテストは0点らしい。いや、それはどうでもいい。

目の前の彼女は対象外のはずだし、話してもいいかしら?そう思って狭間に目配せすると、軽く頷いた。

彼女の質問に肯定の意を示すと、前に向き直りながらこう言った。

 

「なら、付いてきなさい。あの邪魔な連中を殺すのに一役買うなら、その答えをあげるわ」

 

「……狭間、決めるのは君だ。僕はどちらにしろ君の後ろに隠れるだけだからね」

 

「いっそ霖之助はスキマに放り込んじゃおうかしら……私も狭間の決定に従うわよ?」

 

「あー……まぁ、利害の一致ってヤツか?なら、よろしく頼むぜ。あーっと」

 

「風見幽香。それが私の名前よ」

 

前を向いたまま、彼女――風見幽香は、そう名乗った。

 

 

 

暫く歩くと、小さな山小屋があるのが見えた。

どうやら幽香はそこを目指しているようだ。

 

「あの山小屋にいるのか?」

 

「断定はできないけれども。少なくとも既に奴らの住処の近くよ」

 

そう言いながら、幽香は平然と小屋へ入っていった。

罠の可能性とか考慮しないんだろうか。それともよっぽど自分の力に自信があるのか?

他の二体と同程度という話だったが、彼女はどれくらい強いんだろうか。

気にはなったものの、それを知るのは後でもいいと思い幽香の後へ続いた。

 

「これは……」

 

「あー……なるほどなー。そういう手法かぁ。」

 

小屋の中は、外観からは想像できないくらいには広かった。具体的には、ちょっとした屋敷程度だ。というか内観が完全に屋敷だ。少なくとも私が人間時代、もとい学生時代に暮らしていた所よりは大きい。

幻術か何かだろうか?こういう空間に手を加えて見かけより大きくするというのは、大体が幻でそういう風に見せかけているだけのハリボテである。中にはその幻を使って迷路に仕立て上げるだけだったりもするが。

兎も角、既に敵の腹の中と見ても間違いないだろう。細心の注意を払わなければ。

私はそう思ったのだが、幽香は構わずズンズンと突き進む。待てい。

 

「ちょっと幽香、一人で勝手に進まないでよ」

 

「モタモタしてるのが悪いのよ」

 

「いや、紫の言うとおりだ。確実に相手を仕留める為にははぐれないようにするべきだろう。君は自分の強さに自信があるようだが、相手が何をしてくるか分かったもんじゃあない」

 

「そうね……じゃあ、しばらくは付き添ってあげるけど、勝手に野垂れ死んでても放っておくからね。二人共そこは頭に入れておきなさい」

 

なんというか。ニッコリと笑ってそう言った彼女に対し、私は肩をすくめる他なかった。

大層な自信に加えて、この口ぶり。強者はだいたい笑顔であるというのが通説だが、目の前の妖怪もご多分に漏れずそういう気質であるようだ。

因みに私は笑う時は大体扇子で口元を隠している。ミステリアスな雰囲気を出したいのだ。と言うと、狭間は腹を抱えて笑いそうだが。想像したらイラっときた。ちょっと背伸びしたい年頃なのだ。誰だ、今そんな年じゃないだろって笑ったのは。

その狭間は、私とは逆に思い切り笑う。私がイメージを出したいのと同じで……いや、ベクトルが違うかしら?兎も角、狭間の笑い方は世紀末モヒカンよろしくヒャッハーな感じだ。火炎放射器でも持たせたら言ってくれないものかしら。

と、そんな事を考えていた私は気づいていなかったのだ。幽香の言葉に引っかかる部分があることに。

 

「二人……まぁ、狭間は放っておいても大丈夫だろうがね」

 

「ところで、その狭間は何処かしら?」

 

「「……え?」」

 

バッ、と慌てて振り返るものの、彼のトレードマークである黒コートは影も形もない。特徴的な緑髪も日頃愛用しているナイフも、彼がそこにいたことを示すものは何もなかった。

完璧にはぐれた。この小屋に入って僅か数分の間に、もうはぐれてしまったのか?

というか気づけ私。すぐ後ろにいただろうが。そう自分を責めても事態は好転しないだろう。彼ならきっと大丈夫だ、そう考えて前に向き直った。

 

「迂闊だったわ。まさかもう仕掛けてくるなんて……幽香、霖之助。急いで狭間を探しましょう」

 

「気付かなかった私にも問題があるわね……分断されたなら直接術者を潰してからの方が速いわ。ここで闇雲に探し回るよりも先に片付けた方が楽」

 

「僕には何とも言えないな。ただ、一つ言わせてもらうなら、術者は案外近くにいるんじゃあないか?」

 

その可能性はある。

狭間だけを狙って分断させるなら、近くに潜むか、或いは私のスキマのように何かを使ってこちらを見るはず。前者の可能性は捨てきれないだろう。

幽香も私と同じ考えに至ったようで、頷くと辺りの魔力を探知する為に手をかざした。私も幽香が調べているのと反対側をサーチする。

程なくして幽香が何か見つけたのか、無言で手招きして静かに歩き出した。

 

 

 

紫達が狭間と分断された瞬間。狭間からは、紫達の姿が突然掻き消えたように見えた。

軽く驚いたものの、まぁ幽香がいるなら紫は大丈夫だろう、霖之助もいざとなったら自分でどうにかできるはず。そう思い直し、自分は自分で探索する事にした。

歩いていると、ところどころ蜘蛛の巣が張っているのが見える。顔をしかめて、進むのに邪魔になるものだけ払い落として先に進んでいった。

 

「ったく、アイツらどこに行ったんだ?世話が焼けるぜまったく」

 

悪態を吐きながらも警戒は怠らない。黒いコートを翻しながら颯爽と歩き続ける。向こうからすればどこかへ行ったのは彼の方なのだが。

いつでもウロボロスを放てる状態を保ったまま、狭間は一人探索を続けていた。

 

「しっかし、蜘蛛が多いわ無駄に鏡が設置されてるわ、そのくせ何かが住んでるような生活感はさっぱりない。ここの連中は一体何考えてやがんだ?」

 

首をかしげながら歩き続けていると、カタリと小さく物音がした。

ともすれば聞き間違いかと思う程度の音だったが、狭間は聞き逃さなかった。

物音のした部屋の襖をガラリと乱暴に開け放つと、そこにいたのは。

 

「――あら。お客様でしたか」

 

「……」

 

黒い髪を丁寧に束ねた女性が佇んでいた。

当然狭間は怪しんだ。妖どもの巣窟であろうこの場所にいる時点で、まっとうな人間とは考えづらい。獲物が攫われて来た、というならもっと怯えたりしているだろう。

女を睨みつけたまま、狭間は懐からナイフを取り出した。

 

「あらあら、物騒な御方。そんな危ない物は捨てて、わちきとお話でもしませんか?」

 

「うるせぇ、お前がここの主か。オレ様の連れは何処だ」

 

威圧するように言っても、女は動じない。目の前の存在が目当ての妖怪なのであろうことは確定的である。

 

「まぁまぁ、そう仰らず。わちき、こう見えても」

 

「あんまりバカ言ってると食い殺すぞ」

 

「おお、怖い怖い。そうですねぇ、ではこんな話でもいかがです?」

 

「あァ?」

 

「あるところに女の子がおりました。女の子は普通の人間とは違う力を持っていて、そのせいで周りの人間に馴染めずにいました……」

 

「女の子はとても寂しい思いをしていました。自分のことを分かってくれる人はだぁれもいません。彼女の両親でさえも、彼女の力を理解できませんでした」

 

「……テメェ」

 

睨みつける狭間に構わず、その女は歌でも歌うように語り続ける。

 

「ある時女の子は、自分と同じように他人に理解されない力を持った人と出会いました。二人はとても喜び、直ぐに親友となりました」

 

「でも、運命は残酷なものです。折角出会えた友達とも、彼女は引き離されてしまいましたぁ」

 

「けれども彼女は、一度出会えたお友達を諦められません。もう一度会おう、絶対に再会しようと頑張ります」

 

狭間の表情がみるみる険しくなっていく。

女は目を閉じたまま、愉しげに話し続ける。

 

「けれど彼女の努力は決して報われません。何故なら彼女は既に――」

 

「……黙れよ、いい加減に」

 

「――人間ではなかったのだから」

 

「テメェッ!」

 

とうとう我慢の限界に達した狭間が、手に持ったナイフで斬りかかろうとするものの、腕に何かが絡みついて動かない。

目を向けると、そこには蜘蛛の糸が幾重にも絡みつき、狭間を捕らえていた。よく見ると既に脚や身体などあちこちに蜘蛛の糸が絡みつき、狭間の動きを封じていた。

 

「さてさて、ここで問題。女の子は友達に会えません、それでは彼女はどうやってその孤独を癒せばいいのでしょうか?」

 

「答えは」

 

「理解してくれなかった人間を食べて、自分と一つになってしまえばいいのよ。そうすればみぃんないっしょ、寂しくないわ。ずうっと一緒にいられるでしょう?皆幸せになれるわ」

 

「ケッ、そこらの小学生以下の回答だなァ、お粗末なもんだ」

 

酷薄な笑みを浮かべる妖女に対し、狭間はそう吐き捨てた。

いつだったか、カニバリズムは愛情表現だとメリーから聞いた。

その時から彼はこう思っていた。

 

「そんなもん、愛でもなんでもねェ。ただの自己満足だ」

 

「……」

 

ここで初めて妖女が押し黙った。

狭間の言葉が癇に障ったのだろうか、そう考えたのも束の間、また直ぐに喋りだした。

 

「ええ、ええ。確かに貴方からすれば自己満足かもしれませんわ。でも、きっとあの子も本当はこう思ってるはずよぉ?あのメリーって子だって」

 

「人間を食べたいなぁって」

 

「……違う」

 

「違わなぁい」

 

「違うッ!身体が妖怪でも、アイツの心は人間だッ!」

 

「心が人間でも、身体は正直なもの。欲望には逆らえませんわ」

 

「欲がなんだ、そんなもんはどうだっていい!オレはッ」

 

「はいはい、騒がしくしないの。あの子が起きちゃうでしょぉ?」

 

「テメェやっぱり――アイツに手ェ出しやがったな!?」

 

激昂し叫ぶ狭間とは対照的に、妖女はどこまでも冷静だった。

ゆるゆると首を振り、のんびりと告げる。

 

「出してないわぁ。わちきは貴方を獲物に決めたんだもの」

 

「代わりにあっちの三人はわちきの眷属とあの鏡がもらう事になってるけどねぇ?」

 

「そうそう、冥土の土産に教えてあげる」

 

小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、妖女は愉しげに囁いた。

あまりの憎たらしさに今にもぶん殴ってやりたくなるが、絡みつく糸がそれを許さない。

動けば動くほどに絡みつき、動きが封じられていく。

 

「あの花妖怪、前からずっと目障りだったのよねぇ。あの鏡も同じ事考えてたみたいで、どうせだったら先に始末しちゃおう?ってね。花畑を荒らせば簡単に誘いに乗るし、こうやって分断してゆっくりいただけばいいものねぇ。貴方達は罠にハマったってワケ」

 

「……ケッ、どうせそんなこったろうと思ってたぜ、くだんねェ」

 

「まぁ、これが終わったらあの鏡も叩き割ってやるつもりだけどね。そのためにも」

 

そこで言葉を区切り、狭間の耳元に顔を寄せる。

嫌悪感を顕に顔をしかめる狭間を尻目に、目の前の妖怪は囁いた。

 

「強い力を持つ人間を食べて、力を付けようかなぁって。あの鏡ちゃんが力を奪うには時間がかかるからねぇ。フフッ、わざわざ鏡の世界に取り込んでから魂を奪わないとダメなんて、回りくどいと思わなぁい?」

 

「……その鏡とやらが、アイツの魂奪える程強いたぁ思えないがな」

 

「ウフフ……どうなったかは、ゆっくりと眺めてなさい。私の中でね」

 

首元にゆっくりと顔を近づけ、鋭い歯を剥き出しにして妖女は哂った。

食事が楽しみで仕方ないとでもいうかのように、興奮した面持ちで狭間の顎を抑える。

狭間はそれを冷たい目で見下していた。妖女がペロリと舌舐りをした。

数秒後、畳は真っ赤な血で彩られていた。

 

 

 

 

ガヤガヤと都会らしい喧騒の中、私は一人佇んでいた。目の眩むようなビルが建ち並ぶ中、僅かに残っている自然と言えなくもないような公園のベンチに座って、一人星を眺めていた。

先程まで何をしていたのだろう。さっぱり思い出せない。アルコールが入っていた訳ではないと思う。鞄の中を探ってみる。ガムがあった。眠気覚ましにはちょうどいいだろう。

ミントのガムを一つ口に放り込みながら、ふらふらと立ち上がる。

……私は、何故ここにいるのだろう。

 

「何か、忘れてる気がする」

 

 

朝の日差しはいつの世も眩しい。

眠い目をこすりながら、大学へ行くために電車へ乗る。

ガタンゴトンと、暫く揺られながら微睡む。

夢の中で、蛇に睨まれた。白蛇なら吉兆と思えたのだが、毒々しい緑色の蛇はどうなのだろう。

授業への集中も欠き、ぼーっとしながら学内を歩く。何かを忘れているような喪失感が拭えない。

 

「年取って物忘れが激しくなったんじゃあないかしら?なーんてね」

 

「流石にそこまで年寄りになった覚えはないけどね。何百年生きたってまだ心は若者よ」

 

蓮子のからかいについつい口を突いて出てしまったけれど、私はまだ大学生だ。そんな何百年も生きているような人外じゃあないはず。私は人間だ。

とはいえ、人間と言えるような能力ではないけれど。

 

「ねぇメリー、今夜星を見に行ってみない?」

 

「ええ、いいわよ。場所は?」

 

そのまま星見の予定を立て、私は帰路へと着いた。

家に帰ると、机の上に扇子が置いてあった。

誰のだろうか、少なくとも見覚えは……

……いや、違う。この扇子は私のだ。いつも笑う時に使っていたじゃあないか。ミステリアスな雰囲気を出したいから、と。

まぁ、それはあまり知られたくないんだけど。だって腹を抱えて笑われそうだから……

……誰に?

少なくとも蓮子はそういう笑い方はしないはず。明るく、いつも楽しげな笑い方をしている。

ヒャッハーとか、そんな変な笑い方をする知り合いなんて……

……。

 

 

「どうしたの、メリー」

 

「……なんでもないわ。ちょっと考え事してただけ」

 

星を眺めていると、蓮子に不思議そうに声をかけられた。

何を考えていたんだったか、すっかり頭から抜け落ちた。

ゴロンと草原に寝転がりながら、空に手を向ける。丸くて美しい、けれどどこか空虚な満月が見える。そっと、月を握りこむかのように手を閉じる。あの満月が手中に収まったかのような征服感と、それと同じぐらいの虚しさを感じた。

 

「ねぇ、蓮子」

 

「なぁに、メリー」

 

「今何時かしら?」

 

「え?えーっと……あはは、時計ないから分かんないや」

 

ざわり、と肌が粟立った気がする。

おかしい、そう叫ぶ私と、このままでいいんだ、と叫ぶナニカの声がする。

おかしい、これでいい、違う、何もおかしくなんてない、違う、違う、おかしい、おかしくない、違う、違う、違う――

 

「……ねぇ、一ついいかしら?」

 

「ん?」

 

「どうしても思い出せないんだけど。私、竹林で何を拾ったんだったかしら」

 

「何って、筍でしょう?」

 

「ええ、そうだったわね」

 

一度抱いた疑念は、ふつふつと消える事なく湧き上がる。

かすれる声で、目の前の誰かに問う。

 

「実は相談したい事があるのよ」

 

「なぁに?」

 

「夢を見たのよ」

 

「へぇ、どんな夢?」

 

ざわり。

 

「蛇に睨まれる夢」

 

「なぁにそれ。白蛇?」

 

「いいえ、毒々しい緑でまるで――」

 

まるで――私を呼ぶかのような、そんな目をしていた。

 

「ふぅん……」

 

――ざわり。

 

「気にしなくていいんじゃないかしら?夢なんて所詮ただの夢よ」

 

――。

 

「もうひとついいかしら。これは誰の言葉だったかしら?」

 

「え?」

 

「”夢は現実に変わるもの。夢の世界を現実に変えるのよ”」

 

「……」

 

いつの間にか手に持っていた扇子を畳みながら、私は言った。

 

「答えは、私の無二の親友宇佐見蓮子。言わなくても分かりきっているけれど、あえて言わせてもらうわ」

 

「め……メリー?なんでそんな怖い顔してるのよ、そんなの持ってたら危ないよ」

 

 

「――貴方は、蓮子じゃない!正体を表しなさい、偽物ッ!」

 

言葉と共に、扇子を横薙ぎに振るう。

同時に距離の境界に干渉して”近い”と”遠い”を曖昧にする。離れた所に立っていた偽物が吹き飛ぶ。ああ、もう。私の親友の姿でそんな醜態を晒すな。

苛立ちのままに、力を振るう。鏡が砕ける音がした。人形が持っていた鏡を落としたようだ。

 

「オノレ……もう少しでその魂の全てを暴けたというのに……口惜しや……」

 

気味の悪い青い人形が抱えていた鏡から、そう声が聞こえた。

鏡はひび割れが入り、装飾の殆どが力任せに壊したかのような有様になっている。

こいつが、私の親友の姿を騙って、あまつさえ決して踏み込んではいけない所までも我が物にしようとしたのか。

近くには霖之助も幽香も、そしてこの時代に来て出会った一番の親友である狭間の姿もない。ああ、狭間がいないという事は私の怒りを抑えるのもいないってことね?

 

「馬鹿ね。あの程度で蓮子を気取るなんて、愚かしいにも程があるわ。少し記憶を盗み見たくらいで得意げになって、滑稽ね」

 

「ヌヌ……だが、お前の仲間の緑髪のヤツは既にあの女郎蜘蛛が手中に収めているハズ。少し順番が狂ったが、問題はな」

 

最早声を聞くのも煩わしくなった。

最後まで聞くことなく、つかつかと近寄って、踏み抜いた。

耳障りな音を立てて、鏡が砕け散る。念入りにグリグリと、煙草の火を消すように踏み潰す。

人形も倒れ伏している。鏡が本体のようだから、これだけ念入りに砕けばいいだろう。

面倒な手を取った割には、あっけない最期ね。そう吐き捨てて、友人達を探すべく歩き出した。

 

 

その頃の霖之助と幽香はというと。

 

「全く、数ばかりそろえてきて鬱陶しい事この上ないわね」

 

「その数が僕にとっては驚異なんだがね」

 

鏡の妖の下僕であろう付喪神と思しき妖怪や、狭間を狙っていた女郎蜘蛛の眷属であろう蟲妖怪の群れに囲まれていた。

傘を振るって有象無象をなぎ倒しているものの、一向に数が減らない。

雑魚の攻撃で幽香が致命傷になることは早々ないのだろうが、霖之助は完璧に足でまといであった。そもそも戦わないのに何故付いてきた、と思わずにはいられない。

 

「いつの間にか紫もいないし。この分だとどこかで喰われてそうね」

 

「それはない、と断言させてもらうよ」

 

「あら、自信ありげだけどそれは虚勢かしら?」

 

「いいや、これは信頼というものだよ。一人でいる君には分からないかもしれないが」

 

もっとも、彼らに頼りきりで何もしていない僕が言っても空虚にしか聞こえないだろうね、と自嘲しながら。

会話を交わしながらも着実に敵を仕留める幽香。霖之助はそれを眺めているだけだった。自分の実力で混ざっても、余計に邪魔になるだろうと思って。

傘を振る。付喪神と思しき妖怪が粉砕される。妖力弾を放つ。蟲の四肢が千切飛ぶ。ひたすらにその繰り返しだった。

とはいえ、敵が前方からしか来ないのが幸いだった。背後の霖之助を気にしなくてもいい、そう幽香は考えていた。簡単に言えば、油断だろうか。

背後から、刃物を携えた人形が飛びかかっていった。丁度傘を振り切った所だった幽香は、一瞬遅れて気づいたものの首に突き立ててやろうと向けられる刃を躱せる状態ではなかった。

多少の怪我くらいは我慢するしかないと割り切って、せめて追撃を受けないようにと前に目を向けようとした。霖之助が狙われなかったのが幸いだと自分に言い聞かせながら。

 

しかし、いつまで経っても痛みは来ない。すぐさま振り切った傘を構え直して牽制しながら振り向くと、霖之助が顔をしかめて人形を掴んでいた。自らの腕を盾にして幽香を庇いながら。

呆気にとられていると、霖之助は顔をしかめたままこう言った。

 

「余裕ができたのならこれをどうにかしてくれないか。僕は肉体労働向きじゃあないんだ」

 

そう言われてハッと我に返り、霖之助の腕に刃物を突き立てたままの人形をたたきつぶした。

傷も深くはなく、適切な処置をすれば簡単に治る程度だった。一度前方の敵の群れから距離を取って、彼の腕を治療しながら幽香はぽつりと呟いた。

 

「やればできるじゃないの」

 

「何か言ったかい?」

 

「いいえ、何も」

 

手早く処置を済ませて妖怪の群れに向き直ると、蟲どもの動きが妙だと感じた。

向かってくるでもなく、ウロウロと右往左往しているのだ。他の者にぶつかって転んでいる奴さえいる。

一瞬訝しげに眉を顰めたが、ああ、と頷いた。

 

「どっちが殺ったのかは分からないけれど、蟲の親玉が死んだみたいね」

 

「成る程、妙に混乱していると思ったら司令塔が無くなって狼狽えているというわけか。月並みだがこれは好機じゃあないか?」

 

「ええ。これを逃す手はないわ」

 

蟲が邪魔になって付喪神連中も攻め倦ねている。今なら一網打尽にすることも容易いはず。

幽香は傘を畳むと、その先端を敵集団に真っ直ぐに向けた。みるみるうちにその先端に、彼女の妖力が集束していく。

やがてその集束が収まると、風見幽香はぽつりと呟いた。

 

「マスタースパーク」

 

陽光のような輝きを持った妖力の奔流が妖怪達を包み込んだ。



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まだ9月なのでセー……お待たせしました。
また月1ペースに戻していきたいところです。


ぽたりと血が滴った。徐々に勢いを増したそれは畳を赤く彩り、狭間の足元を濡らした。

 

「……え」

 

「……」

 

その赤は、狭間から出たものではない。その証拠に彼の身体には傷一つ無い。

では誰のものか。それは論ずるまでもなく目の前の蜘蛛の妖女の身体から流れ出た血液であることは明らかだった。

ちょうど腹の真ん中辺りに、決して小さくはない穴がいくつか空いていた。女郎蜘蛛はそれをぽかんと眺めていた。目の前の獲物は十重二十重に糸を絡ませ、動きは完璧に封じた。仲間だって花妖怪とおまけの半妖は眷属に足止めさせているし、あのメリーとかいう娘もあの付喪神が捕らえている筈。ならば、誰が自分にこんな傷を負わせたのだ?

ゆっくりと後ろに目を向けると、そこには狭間が立っていた。

待て、コイツは糸で動きを封じていた筈。なら後ろにいるのは?目の前のコイツは?

段々と遅くなっていく思考を巡らせていると、後ろの狭間が鎖を飛ばし、糸に絡め取られている方の狭間を助け出した。小気味良い音を立てて糸が切断されるのを見ながら、妖女は呆然と呟いた。

 

「な、んで……」

 

「お前、鏡とやらに信用されてなかったらしいな。ま、お前の方も信用してなかったんだろう?お相子だな」

 

「それ、が」

 

「言ってたよなァ、強い力を持つ人間を食べて云々って。テメェ、オレが人間だと思ったのか」

 

「……まさ、か」

 

「オレ様は人間じゃねぇ、怨みを核とする悪霊様だよ」

 

メリーの記憶のほんの一部を読み取った鏡の付喪神は、わざと“狭間は人間だ”という嘘を吐いていた。そうすれば蜘蛛は狭間を侮り、狙うだろうと考え。妖怪である彼女は人間を獲物としか見ていなかった。今まで何人もの退治屋も喰らってきた、だから人間程度に遅れを取る筈がない、そういう思い上がりがあった。蜘蛛が狭間を始末できたならよし、狭間が勝ってもそれはそれでよし。狙い通りに女郎蜘蛛は狭間に倒され、自分はゆっくりと餌に集中できる。蜘蛛にとってはまさに手の上で踊らされていたのだ。

しかし、悪霊だからといって二人いるのはおかしいのではないか。理屈に合わない。そう思いながら蜘蛛はゆっくりと倒れこんだ。

 

「生憎とオレは冥土に逝く予定はないんでな、代わりに土産持ってけ。オレの核は、この怨念全てだ。人の形をしてるだけでこれは怨念がそういう形になってるってだけだ。オレに決まった形なんてねェ、ついでに言やァどんな形にでもなれるし武器の形だって変幻自在!必要とあればこんなふうに何人もいるように見せられる。砂を一粒消しただけで砂漠が消える事はねェ。オレを消したきゃ怨念を一挙に消し飛ばす方法でも考えてこい。分かったか?」

 

そこまで言って溜息を吐き、酷薄な笑みを浮かべて狭間は言った。

 

「テメェの目論見は最初っから最期まで無駄だったんだよ、バーカ」

 

それを最期に、蜘蛛の妖女の意識は闇に溶けた。

 

 

「オレ様は沢山であるが故に、なんてな」

 

女郎蜘蛛の死体を大蛇状にしたウロボロスで喰らい、ゴキゴキと首を鳴らしながら狭間は部屋を出た。霖之助はあれで中々に運がいいから大丈夫だとして、紫を手早く探さなければならない。適当に周囲を見回し、当たりを付けて進んでいった。

暫く進んでいると轟音が、次いで鏡の割れる音が聞こえた。鏡の割れる音ということは少なくとも敵ではないだろう。そう思って音の方に走り出した。

 

「……あら、狭間じゃない」

 

「よう紫、無事だったか」

 

「気分は頗る悪いけどね」

 

予想通り、そちらにいたのは紫だった。いかにも機嫌悪そうに顔を顰めている。そういえば鏡がどうとかあの女郎蜘蛛も言っていたし、何か見られたくないものでも見られたのだろう。そう思って聞かない事にした。

 

「こっちは女郎蜘蛛一匹潰したがそっちはどうだったよ」

 

「鏡の付喪神がいたわ。きっちり粉砕しておいたわ」

 

「そりゃ何より」

 

「そっちは何ともなかったの?」

 

「あ?あー、問題ねぇな。ちょっと糸に捕まった程度だし」

 

「……それって問題ないって言うのかしら」

 

「いざとなりゃ目に見えない程度には細かくできんだ、物理的拘束なんて無駄無駄」

 

あまり調子に乗ってるとそのうち痛い目見るわよ、と紫はため息を吐いた。

調子は乗るものだと返し、二人は仲間と合流する為に歩き出した。

 

 

 

「……という訳で、とりあえず親玉はどっちも潰したわよ」

 

「相変わらずというかなんというか……まぁ、無事で何よりだよ」

 

合流した一行は、いつまでも長居は無用ということで花畑まで戻ってきた。

残された雑魚は親玉を失った事で動揺していることだろう。数にさえ気をつければ村に滞在していた退治屋の一行で十分に殲滅できるはずだ。依頼は達成した。

グチャグチャに荒らされた花畑を見て悲しげに溜息を吐いた後、幽香は狭間達に向き直った。

 

「さて、約束通り何故あなた達がこの子達を潰した犯人じゃないと分かったか、その理由を教えてあげるわ」

 

そう言って彼女がまだマシな辺りに手をかざし、妖力を放射するとみるみるうちに花たちが美しく咲き誇っていった。いくつかの花はそれでも全く反応せず、完全に死んでしまった事を伺わせる。

 

「私は花の妖怪。植物の声を聞く事は私にとって、人間が息を吸い、妖怪が人を襲うのと同じ位当たり前の事。この子達が、仲間を殺した犯人はあいつらだと教えてくれたのよ」

 

「植物の声……成程、言ってしまえば被害者から聞いただけ、ということだね」

 

「まぁ、そういうものよ。さて、これで満足かしら?」

 

「ああ、満足したぜ」

 

そういって狭間は幽香に背を向けて歩き出そうとした。

が、ポンと肩に手を置かれて立ち止まる。

 

「あなた達これから報酬を貰いに行くのでしょう?」

 

「まァ、そのつもりだが」

 

「なら、あなた達に手を貸した私にも報酬を頂く権利はあるわね?私がいなければ連中の住処も分からなかったのだから」

 

「……」

 

ニッコリと微笑みを浮かべての台詞だが、肩を掴まれている狭間にはそれは悪鬼の笑みにしか見えなかった。

あー、と目を泳がせた後、肩をすくめる。

 

「ま、いいか。手を貸してもらったのは事実だ。で、何欲しいんだ」

 

「そう怯えなくてもいいのに、そうねぇ……」

 

怯えてねェ、と喉から出かかったが、一々反論していればキリがないと思って閉口した。揚げ足を取られるのは目に見えているし、幽香もそれを楽しむタイプだ。突っかかってもいいことはない。

それにしても、幽香の笑顔はなんというか、本能的な恐怖を呼び起こす類の笑みなのだがわざとなのか素なのか。

そんな思いを含んだ視線を三方向から向けられても彼女は素知らぬ顔をしたまま、顎に手を当てて暫く考え、そうだわと声を上げた。

 

「それ」

 

「それ?」

 

それ、と幽香が指し示したのは。

 

「……え?」

 

霖之助だった。

 

「ちょっと待て」

 

「何か?」

 

「何か?じゃねェだろ」

 

「予想の斜め上な要求ね」

 

名指しで報酬に要求された霖之助は顔を引きつらせ、滝のように冷や汗を流し始めた。

一体どういう意図なのか、まさか機嫌を損ねたからとぐしゃっとやられてしまうんだろうか。ああ、短い人生だったな、と霖之助が遠い目になった頃、呆れたように幽香は言った。

 

「……私をどういう目で見ているかは分かったわ。殺したりはしないから安心してちょうだいな。別に機嫌を損ねたとかそういうのでもないわよ」

 

どちらかというと気に入った、そう言って幽香は薄く微笑んだ。

霖之助は卒倒しそうだった。

 

「ただのもやしかと思ってたけど、中々根性もあるようだし。自分の身くらい守れるようになるまで鍛えてあげるのも一興かと思ってね。暇つぶしくらいにはなるでしょう?」

 

どうせ妖怪の寿命は長い、ただいたずらに無為な時間を重ねるよりはそういった暇つぶしがある方が精神的にもいい。どうせ霖之助も半妖、時間はたっぷりあるのだし戯れに鍛えてみるのも面白いかもしれない。幽香が言うにはそういうことだった。

そこまで聞いて、ようやく霖之助の冷や汗が止まった。

 

「な……成程、確かに僕は弱い。ハッキリ言って狭間達に着いていくには足でまといだろうね。僕の能力が活躍する機会も少ないし、いずれは一人でも旅ができる程度にはならないといけない。そう考えると理にかなっていると言えるよ、うん」

 

「そう思うんだったらその膝が笑ってるのどうにかしなさいよ」

 

兎に角、当事者含め全員が納得、承諾をした。

これから霖之助は風見幽香の下で、その嗜虐心を満足させるまで修行にかこつけた何かでどんな目にあうのだろうか。先行きが不安だが、霖之助本人が承諾したのだからしょうがない。しょうがないったらしょうがない。

 

「という訳で二人共、ここでお別れということになる」

 

「あれから2……300年か?長いような短いような付き合いだったが、まぁ出会いがあれば別れもあらァな。どうせ殺しても死ななそうな奴だし、そのうちまた会う事もあるだろ」

 

「相変わらずの物言いだね……ま、この数百年で君がそういう言い方しか出来ないのはわかっているが」

 

「うるせェ」

 

扇子で口元を隠した紫が、ツンデレと小さく呟いた。

耳ざとく聞きつけた狭間はじとーっとした眼を向ける。

それを見て霖之助が声を上げて笑い、脛を蹴られる。

そのやり取りを眺めていた幽香は、思わずといった様子で楽しそうな笑みを浮かべた。

 

「……ふふっ、仲がいいのね。今時珍しいわね、あなた達みたいなの」

 

「……」

 

「何よ、三人揃って変な顔して」

 

「いや、普通に笑えるんだなと」

 

「ていっ」

 

思った事をストレートに言った狭間の頭があった場所を、唸りを上げて傘が通っていった。

ぐしゃっという音がしたが、数秒後には何事もなかったかのように元通りになっていた。

肩をすくめ、今度こそ狭間は村に向かって歩き出した。

 

「んじゃな、霖之助。縁があったらまたな」

 

「さよなら、またいつか」

 

「ああ、またいつか。その時には君達の望みが叶っている事を祈るよ」

 

そうして、狭間と紫は依頼を受けた村に戻っていった。

霖之助はあれで中々芯が強い。きっといつかは見違えるような事になっているだろう、そう話しながら。

 

「さて、それじゃあまずは私の攻撃を耐え切ってみせなさい」

 

「え、ちょっと待ってくれまだ準備というものが」

 

この後彼がどうなったかは、想像に任せよう。

 

 

 

 

 

そしてそれからまた幾らかの時間が過ぎ。

狭間と紫は、鬼が棲むという山にやって来た。

鬼は妖怪の中でもトップクラスに有名であり、尚且つ強力である。伝承などで鬼退治が偉業と認識されていることからもそれは読み取れるだろう。鬼一匹の首は数千数万の兵や妖怪のそれと同価値に見られる事もあるという。それ程までに強いのだ。

無論、単純な強さならば同じ位のものだって探せば出てくる。自分や紫だって雑鬼にゃ負けないという自信はある。

では、何が鬼を鬼たらしめているのか。狭間はそう考える。

 

「死ねオラァ!」

 

悪態と共に丸太のような腕で殴りかかってきた鬼を逆に蹴りで吹き飛ばす。吹き飛ばされた鬼は周囲の鬼や木々を巻き込んで地面を転がった。

それを見た周囲の鬼が笑い声を立て、指笛をピィピィ鳴らし、盛んに騒ぎ立てる。

最初に鬼と遭遇してからずっとこの調子だ。どうやら彼らは喧嘩としてこの騒ぎを楽しんでいるらしい。誰かがやられれば、次は自分だと言わんばかりに飛びかかってくる。応戦しなければやられるだろうからと蹴りで吹き飛ばしてはいるものの、どうにもそれ込みで楽しんでいるようだ。

いつも悪意を持った敵を悪意を以て倒してきた狭間にとって、それは非常にやりづらい。向こうは悪意など欠片もなく、ただ純粋に楽しもうと、勝負をしようと襲って来るのだ。どうにもペースを狂わされる。

大勢でかかってくることはないのだが、倒された者も少しすると起き上がって今度は狭間の方を応援しだすのだ。やりづらいことこの上ない。

 

「次はどいつだァ!」

 

「俺だ!」

 

「いや俺が行く!」

 

「僕だ!」

 

紫はそれを少し後ろで眺めていた。

邪険にしながらもしっかり相手をする辺りに狭間の性格が出ているなぁ、と思いながら。

そうしてまた何人も薙ぎ倒しながら進んでいると、流石に数も減ってきた。

狭間は少し精神的に疲れているようだが、自分はまだまだ余力が余っている。いざとなったらすぐにでも撤退できるだけの準備は整えてある。

と、考えていると突然鬼の何匹かが騒ぎ出した。

 

「おい、姐さん達来るぞ!道空けろ!」

 

「テメェらどけどけ、姐さん達のお通りだー!」

 

鬼をかき分けながら姿を現したのは、額から一本の赤い角を生やした女性の鬼、そして頭の横から二本の角を生やした小さな鬼だった。

一本角が近寄ってくると、親しげに片手を上げて声をかけてきた。

 

「いよぅ!アンタらが鬼退治をしようって命知らずかい?」

 

「あァ?オレ様は鬼退治なんざするつもりねェよ。ただ鬼がどの程度のモンか見に来ただけだ」

 

「そうかいそうかい、どうだいコイツらは。戦ってみてどんな感じだ?」

 

姐さんと呼ばれていた一本角も、他の鬼と同じように悪意もなく純粋な好奇心で聞いてきたようだ。

若干脱力しながらも素直な感想を返す。

 

「どんなもなにも、なんつーか真っ直ぐすぎんだろ。オレが戦ってきた他の妖怪やらはもっと悪意や殺意に満ちてたぜ」

 

「そこらの雑魚と鬼を一緒にしちゃあいけねぇ。喧嘩は楽しむもんさ。殴り殴られ、それが終わったら一緒に酒や美味いもんをかっ食らう。後に遺恨を残したりしないで、喧嘩をしたなら友。そういうものだろう?少なくとも私ら鬼はその生き様を誇りにしてる」

 

「……なんだかなぁ、オレ様にゃ眩しすぎるぜ、その生き方」

 

「ハッハ!まぁ細かいことは抜きにして、いっちょ私とも闘ってみようじゃあないか!」

 

「ちょっと勇儀、そりゃズルいよ!私だってコイツと戦うの楽しみにしてたんだよ!?」

 

「早い者勝ちだろ、私の方が早かった」

 

「……先にお前をぶっ飛ばしてやろうか?」

 

「おー、上等だ来いよ!」

 

「おおっ、今度は姐さん達の喧嘩見られるぞ!」

 

「いいぞ、やれやれー!」

 

「行くぞ萃香ァ!」

 

「来いよオラァ!」

 

今度は一本角と子鬼が喧嘩を始めようと怒鳴りあっている。わかってはいたが、この二人も中身は他の鬼とあまり変わらないのかもしれない。少なくとも一本角は姐さんと呼ばれ、明らかにそこらの鬼とは別格な扱いだったのだが。それと対等にしている萃香と呼ばれた子鬼も同格程度はある筈なのだが、はて。

溜息を吐きたくなるのを堪え、狭間は呆れた声で叫んだ。

 

「面ッ倒くせェな、テメェら二人とも纏めてかかって来やがれ!」

 

「……へぇ?」

 

「……言うじゃないか、大口叩くだけの腕はあるんだろうね?」

 

今にも殴りあおうとしていた二人が、ピタリと動きを止めた。

ゆっくりと狭間の方に向き直り、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。

なるほど、鬼達に姐さんと呼ばれ慕われるだけのことはある。そう思わせるようなプレッシャーだった。

 

「そこまで言われちゃあ仕方ない、二人一緒に行かせてもらうかね!」

 

「今更冗談でしたは無しだよ!」

 

「ケッ、いいからさっさと来いやァ!」

 

両手を広げて挑発すると、言葉通り一本角と子鬼が同時に突進してきた。

フェイントを混じえる気もないのではと思うくらいまっすぐ突っ込んできた二人は、これまた同時にその豪腕で殴りかかってきた。

バックステップでそれを避け、蛇状のウロボロスを出して食らいつかせようとする。鬼がそれを腕で防ぐと同時に、狭間は左腕を突き出す。一本角にそれが当たると同時にウロボロスで打ち上げ、即座に地面に叩きつけた。

 

「蛇顎!更に……大蛇(おろち)ッ!」

 

僅かに地面で跳ねた一本角に対し、捻りを加えた強烈な踵を落とすと、そのままの勢いで何度か踏みつけた後、ウロボロスを纏った上に回転を加えた蹴りで大きく吹き飛ばした。

 

武錬殲(ぶれんせん)ッ!ヒャッハァ、どうだッ!」

 

勢いよく吹き飛ばされた鬼は、見物していた鬼も巻き込み、大木にぶつかってようやく止まった。今まで戦ってきた鬼ならばこの程度で沈んだが、一本角はすぐに起き上がった。やはりそこらの鬼とは一線を画す存在のようだ。

 

「ハッハァ!流石にやるねェ、今のは中々効いたよ!」

 

「私を忘れるなよ!?」

 

雄叫びをあげながら子鬼がその腕に絡めた鎖を伸ばしてきた。それをパシリと掴んで引き寄せようとすると、子鬼がニヤリと笑ったのが見えた。

直感的にマズイと感じ、鎖を手放そうとする。だが、それは一手遅かった。

鎖に力が吸われている。明らかに何か術を使われている。

 

「隙有りィ!」

 

力が緩んだ隙に子鬼が鉄拳を叩き込もうと飛び込んできた。

今からでは回避は間に合わないだろう。それこそスキマのような特別な回避手段がない限り。

 

「もらッ……あれっ!?」

 

「当たらねェよ!」

 

子鬼の拳は、狭間の腹を突き抜けていた。ただしその手応えは無く、狭間へのダメージもない。隙を突いた攻撃は完全に空振りとなっていた。

驚く子鬼に狭間が反撃を仕掛けた。下からすくい上げるようにナイフ状のウロボロスで斬りかかる。

 

「蛇縛……!?」

 

「危なッ」

 

子鬼もその反撃を回避した。身体を霧状にする事によって。

狭間が先程の拳を回避したのも同じようなやり方だ。貫かれるであろう腹部のみを、非常に細かい粒子状の怨念にする事で拳を突き抜けさせたのだ。

 

「驚いたなぁ……私と似たような事できるんだね、アンタ」

 

「……霧になるとか反則だろ」

 

「お前が言うな」

 

ブーメランだ。紫はそう思ったが、口には出さなかった。水を差すのも悪いだろう。

 

「ってか今の今まで気づかなかったけど、もしかして二人共人間じゃないの?」

 

「オレ様悪霊、アイツ妖怪」

 

「はー……成程ねぇ。ああいや、別に人間じゃないからって文句を言うつもりもないし、アンタらの関係にもとやかく言うつもりもないからね?」

 

何か勘違いされているのは気のせいだろうか。紫はそう感じたが、狭間は特に気にしていないようだ。しかし、鬼退治は人間じゃなくてもいいのだろうか。要は鬼を打倒できるくらい強い相手と楽しめれば良いのだろう。

 

「さって、続きと行こうじゃないか。まだまだ余裕だろ?」

 

「たりめーだ。そっちこそへたばってる訳じゃあねェだろ?」

 

「当然!勇儀、さっさと戻ってきなよ」

 

「ああ、言われなくても。おっと、そういや名前も聞いてなかったね。鬼退治に挑む悪霊よ、名はなんと?」

 

「退治なんざしねェっつってんだろ……オレ様は狭間だ。っつか人に名前聞くならまず自分達から名乗りやがれよ」

 

「あちゃ、そうだったね。悪かったよ。私は伊吹萃香。こっちのデカイのが星熊勇儀さ」

 

子鬼は萃香と名乗り、一本角は勇儀という名前らしい。

伊吹という姓と星熊という姓を聞いて、紫は僅かに記憶に引っかかりを感じた。はっきりとは思い出せないがひょっとしたら現代でも名が残るような強い鬼達なのかもしれない。

どちらにしてもこれは侮れないだろう、そう思って前に歩み出る。

 

「おい紫、下がってろよ。オレ一人で充分だ」

 

「念のためよ。貴方に何かあったら私も困るのよ」

 

なに食わぬ顔でそう嘯くと、萃香の前に立つ。

 

「ここからは私がお相手致しますわ、伊吹萃香さん」

 

「えー……まぁいいか。挑戦してきたのはそっちなんだから、冗談では済まされないからね?で、アンタはなんて言うのさ」

 

「八雲紫よ。お手柔らかにね、子鬼さん」

 

そう言って紫は妖力を込めた弾丸を無数に打ち出した。

一つ一つは大したことがなくとも、雨のように浴びてしまえばかなりのダメージを負うだろう。そう判断した萃香は、再び身体を霧にして逃れようとした。

が。

 

「……?うわわっ!?」

 

能力を行使することができなかった。霧になって避けるという手が取れない以上、どうにか防ぎきるなり体を動かして回避するしかない。

鎖を弾幕にぶつけて相殺したり、口から炎を吐いて散らしたり。果ては弾幕を萃める事で、萃香はその弾幕を凌ぎきった。

 

「あらまぁ、流石にこんなお遊びでは失礼だったかしら」

 

「びっくりしたぁ……何をやったんだい?」

 

「それは後のお楽しみですわ」

 

「それもそうか。今度はこっちから!」

 

そういって拳大の火球を投げる様を見ながら、狭間は勇儀に声をかけた。

 

「向こうは勝手に始めちまったし、こっちもそろそろ始めようぜ。今のところオレ様が一歩リードだがな」

 

「ああ、ちょいと待ってくれ。オイ、手空きの奴ちょっと来い!」

 

勇儀は片手を軽く上げ、見物している鬼を何匹か呼び寄せた。

数匹集まると、勇儀は酒の用意をするように言った。戦っている間に部下に宴会の準備をさせようというのだろう。

 

「上等な酒はあんだろうな?」

 

「任せな、取って置きのを出してやるよ。喧嘩が終わったら酒呑みでも勝負といこうじゃあないか」

 

「ヘッ、蟒蛇(うわばみ)舐めるなよ?」

 

「そっちこそ、鬼を舐めるんじゃないよ。……さて、やるか!」

 

宣言し、鬼は両の拳を打ち合わせ首を軽く回した。それに倣って狭間も同じ動作を取る。

そして、狭間の蹴りと勇儀の拳がぶつかりあった。

底知れない怨念で作られた狭間の肉体は鬼が相手だろうと一歩もひかぬ強度を持っていた。それこそ鬼に殴られても簡単に折れる事が無い程度には。

だが、それは決して狭間が楽に勝てるというわけではない。

鬼は強者だからこそ鬼なのだ。

 

「今度はそう簡単にはいかないよ!」

 

「クク、そうかよ!来な……!」

 

そう言って狭間は手元でナイフと鎖をクルクルと弄びながら、ゆっくりと勇儀に向かって歩いていった。罠かと警戒した勇儀だが、それならそれで押し通るのみと気合を入れた。

タイミングを見計らい、狭間が踏み出す為に片足を上げた瞬間、雄叫びを上げながら思い切り殴りかかった。

捉えた、そう思った瞬間、狭間の身体がふわりと浮き上がり、自分を飛び越えた。いや、飛び越えただけではなく、同時にナイフとウロボロスでザックリと切りつけられている。

 

皇蛇懺牢牙(おうじゃざんろうが)……」

 

「グゥッ……やるねェ、やっぱ強いな!」

 

「テメェの腕もな、オレ様相手にここまでやるとは褒めてやる!だがコイツはどうだァ!?」

 

言葉と同時に、狭間は勇儀の懐へ飛び込んだ。咄嗟に両腕で急所である頭部と胸部を守る姿勢を取る勇儀。

だが、狭間の狙いはそこではない。僅かに身をかがめた狭間の周囲の地面から、鎖状のウロボロスが数本飛び出し、勇儀を空へと打ち上げる。

 

「なッ……」

 

「千魂冥烙……!」

 

更に地面から蛇を象った怨念が飛び出て、空中の勇儀に食らいついた。

痛みに一瞬顔を顰め、直ぐに蛇の縛めを振りほどく。

その時にはもう遅い。

 

「人世に千の死を齎す冥府の蛇よ、その顎で全ての敵を喰らい尽くせ!!」

 

狭間から立ち上った、一際大きな大蛇が、その巨大な顎を持って鬼に食らいついた。

少量の血液が、狭間の足元に垂れてきた。上を見ると、なんと勇儀は閉じようとしている大蛇の大口を無理矢理に押さえつけている。牙が食い込んで多少出血してはいるものの、狭間が狙ったような大打撃は与えられていない。

 

「チッ、流石は鬼ってところか……まさかこんな力技で防がれるとはな」

 

言いながらも力は緩めない。大蛇の顎と勇儀の両腕は拮抗している。どちらかが一瞬でも力を緩めた瞬間、大蛇の牙は勇儀の臓腑を貫き、勇儀の両腕は大蛇を引裂くだろう。

だが、この耐久勝負は狭間に分がある。大蛇を破られても狭間に大したダメージはないが、勇儀はそうもいかない。勇儀はこの耐久勝負に負けたら、それがそのまま自身の負けになる。

両者ともそれを分かっている為、力は緩めない。周囲の鬼が大声で二人を応援するのも聞こえないくらい集中している。

その拮抗を破ったのは、狭間と勇儀のどちらでもなかった。

 

「ほらほら、コイツはどうだい!?」

 

「その程度の妖力弾なら、容易く防御できますわ」

 

萃香が投げつけた妖力の塊が、紫の展開した結界に弾かれた。

弾かれた弾の一部が辺りに飛び散る。それは勿論、それなりに近くで戦っていた狭間達の方にも。

妖力弾の欠片が、狭間が顕現させた怨念の結集体である大蛇にガツンとぶつかった。実際にはそんな音はしなかったが、そんな勢いでぶつかったのだ。

大蛇は狭間の肉体から立ち上っている。言い換えれば大蛇は狭間の肉体の延長線上ということになる。

拮抗した力比べをしているところに何かがぶつかればどうなるか。などと考えるまでもなく、均衡は容易く崩れた。

バランスを崩した大蛇はそのまま勇儀の豪腕を以て縦に引き裂かれた。そのまま勇儀も、地に落下する。

舌打ちをして、構えを取る狭間。

それに対して、勇儀は倒れ伏したままプラプラと手を振った。

 

「あー、もうだめだ、力入らん。さっきの力比べで全力出しすぎたよ……降参だ」

 

「……おー、そうか」

 

それを聞いた狭間も、ドッと地面に倒れ込む。

勇儀は比較的やりやすいタイプだったから良かったものの、これが萃香だったらどうなっていたか。そう考えると、萃香の相手を引き受けた紫の判断は良いものだったと思う。狭間と萃香は相性最悪だ。狭間も紫も萃香達の能力までは知らないが、汎用性に溢れた紫なら一方的に倒される事はないと思ったのだろう。

 

「くっそぅ、悔しいなぁ!鬼以外に喧嘩で負けたのは久々だよ。死んだ身でよくやるもんだ」

 

「死んでるってのはつまり生きてねェからな。死ぬかもなんて余計な心配しなくていいから気楽だぜェ?」

 

おどけた様子でそう言い放つと、勇儀は豪快に笑った。

 

「生憎私ゃ死んだ事なんてないから分からないね。兎も角、今日の喧嘩はアンタの勝ちだ」

 

「おう……ん?今日の?」

 

「ああ、明日もやろうや」

 

「ぜってぇヤダ、明日にゃ山降りてやる」

 

朗らかな笑みを浮かべての言葉に渋面を作ると、萃香と紫の方に目を向ける。

と、その萃香が狭間に向かって飛んでくるのが見えた。危ねぇなァ、と呟きながら身体を倒して避けようとする。

が、萃香は長い二本の角が頭の横から生えている。身体を倒した狭間の上を飛んでいく際に角がザックリと狭間に突き刺さり、吹き飛ばされる勢いのまま狭間を巻き込んで転がっていった。

その様子を見て勇儀はまた豪快に笑い、狭間と萃香は仲良くゴロゴロと転がっていった。

 

「あらー……狭間も運がないわね」

 

「テメェ紫、こっちに飛ばすんじゃねぇっ!」

 

怒鳴りながら狭間が戻ってくる。手に萃香を荷物のように持ちながら。

角を握ったまま歩いているので、反対側の角が地面をゴリゴリと抉っている。やはり鬼は角の先までも頑丈なようだ。

 

「ふふっ、まぁいいじゃない。そっちも勝ったんでしょ?」

 

「まぁな……って、アイツが体力使い切ってなかったら危うく流れ弾で負ける所だったんだが」

 

「気にしない気にしない、勝ったからいいじゃない」

 

「まぁいいがな……」

 

ぼやきながらポイッと萃香をその辺に投げ捨て座り込む。

ぞんざいな扱いをされた萃香が口を尖らせながら抗議する。子供をあやすかのように適当に相手をしていると、突然勇儀が飛び起きた。

 

「よっし、回復した!」

 

「はえーよ」

 

「鬼って強いだけじゃなく回復力も凄いのねぇ……」

 

「まぁ、最初にアンタらにやられた奴らもすぐ起き上がってたろ?いつまでも倒れてちゃやってられないしな」

 

「ごもっとも」

 

そう談笑していると、鬼の何匹かが酒樽を担いで運んできた。

随分と大きなものが大量に運ばれているのを見るに、鬼というのは随分な大酒呑みなのだろう。

狭間も蟒蛇を自称する程度には酒を嗜むが、これは流石に酔いつぶれるのではないだろうか。そんな事を考えていると、大きな盃が四人の中心に置かれた。

 

「これは?」

 

「私の盃。注がれた酒を上等なものにする盃さ。宴の前にこれで一杯やろうじゃないか。鬼に打ち勝ったお二人さんを称えて、さ」

 

トクトクと酒を盃に注ぎながら勇儀は言う。英雄への賞賛だと。

 

「間接……」

 

「あれ、紫何か言った?」

 

「いいえ、何も。そういうことなら頂きましょうか。ね、狭間」

 

「ン、そうだな。じゃあ……オレ様達と鬼共の闘いに……」

 

「「「「乾杯!」」」」

 

盃に映る月は、四人の心情を移したかのように美しかった。



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お待たせしました。次回も遅れそうです。


伊吹萃香が目覚めると、嗅ぎ慣れた酒の匂いが辺り一帯を漂っていた。胡乱気な瞳のまま昨夜の事を思い返す。確か宴会をやってそのまま酔いつぶれたのだったはず。いつものことだ。そう思って、とりあえず迎え酒と言わんばかりに瓢箪を呷りつつ、顔を洗おうと川のある方に歩き出す。途中に酒樽を抱き抱えて爆睡している親友がいたがこれもいつものことなので特に何もしない。千鳥足で更に歩みを進めると、空間の亀裂から上半身を乗り出した状態で眠りこけている女性を見つけ、そういや狭間と紫が来てたんだっけとおぼろげに思い出す。キョロキョロと辺りを見回したが、どうやら狭間は近くにはいないようだ。まぁいいか、とまた瓢箪をグイっと呷る。

川にやって来て、バシャバシャと大雑把に顔を洗う。ふいー、と気の抜けた息を出すと、自分の息からも酒の匂いがした。もう一杯と何度目かになるが瓢箪を呷る。すると、後ろから呆れたような声が聞こえてきた。

 

「あんだけ飲んどいてまだ飲み足りねぇのかお前」

 

「おう狭間、おはよ。昨日は満足したからこれは今日の分」

 

「鬼が遠ざけられるワケだよなァ……」

 

呆れながら溜息を吐いたのは狭間だ。どうやら既に起きていたらしい。

正確に言えば、そもそも狭間は睡眠を取っていないのだが。

 

「で、今度はどこ行くのさ。良い酒あるところ?」

 

「酒があるかは知らねェよ。だがどうすっかな、さっぱり手掛かりも足掛かりもねェ。困ったもんだ」

 

手掛かり足掛かりというものの、一体何を探しているのだろうか。そう思った萃香はその疑問をそのまま投げかけてみた。

 

「あー?あァ……まぁ、ざっくり言うと未来に行く方法だな」

 

「んー……悪いけど私ゃ心当たりはないねぇ」

 

「嘘だとは思わねぇのかよ」

 

意外そうにしている狭間に対し、萃香は溜息を吐いた。酒臭いという文句に良い事だと返し、

 

「鬼は嘘を吐かない。特に私は嘘ってもんが大嫌いでね、その手の匂いにゃ敏感なのさ。やっぱり正直に正面からぶつかり合わないとね」

 

「……やっぱ鬼は苦手だわ、オレにゃ眩しすぎる」

 

「褒め言葉と受け取っておくよ」

 

「最初から最後まで褒めてるさ」

 

「そりゃどうも」

 

やれやれと頭を振って立ち去ろうと背を向ける狭間。酒が入って少し赤くなった頬を不満げに膨らまし、萃香は呼び止める。

 

「まだ皆起きてこないんだし、ちょっと一戦やろうや。どうせ目も覚めちゃってるだろう?」

 

その言葉にげんなりとした表情を作りながら、狭間は立ち止まって振り返る。表情だけではなく気配全体が”めんどくさい”と言外に語っている。露骨に断りたそうとしているそんな狭間の反応には取り合わず、パシパシと両拳を打ち付ける萃香。早朝から元気なこって、と溜息を吐かれても大して気にした様子も見せない。

 

「オレ様とお前じゃ相性最悪なんだよ。できればもう二度とやり合いたくねぇな」

 

「相性……ああ、私の密と疎を操る能力と狭間の戦い方?」

 

「戦い方以前にオレの肉体の構成的にな。ウロボロスも言っちまえばオレ自身だし、テメェ相手だと何もできねェ」

 

伊吹萃香の持っている密と疎を操る能力というのは、狭間本人が言う通り彼との相性が最悪である。

狭間という個は、狭間の抱く無数の怨念が寄り集まって存在している。彼が扱うウロボロスという武器はその一部なのだ。言い換えれば、その無数の怨念を一箇所に集めてしまうと狭間は肉体が保てないし、ウロボロスを使うこともできない。完全に無力化されてしまうのだ。天敵といってもいいくらいに相性が悪い。

無論、余程特異な能力でもなければそのような芸当は不可能である。しかしそれを可能とできるのがこの子鬼の能力、即ち密と疎を操る能力である。今のところ、狭間が出会った中でそんな真似が出来るのは萃香を含めたった二人だ。

 

「いいじゃん、紫よりはマシなんだから」

 

「まぁアイツの能力も大概だからなァ、インチキ能力もいい加減にしろってとこか」

 

「能力どころか存在自体インチキみたいなもんだよ」

 

そう言って萃香は快活に笑う。確かに紫の境界を操る能力も凶悪だが、天敵という点で見れば狭間にとって萃香の能力も似たようなものである。大体それを言ったら鬼という種族事態冗談のような力を持っているのだ。狭間はお前が言うなと言いたくなったが自分も人の事言えないと思って黙った。

 

「とにかくテメェとはやり合わねぇよ。じゃあな」

 

「まったく、勝てないからって怯えてるのかい?」

 

挑発するように立ち去ろうとした狭間に向かってつぶやいてみる萃香。ピタリと立ち止まるのを見て、密かにほくそ笑む。が、挑発に乗ってきたらそのまま勝負に持ち込もうという萃香の目論見は外れた。狭間が立ち止まったのは少しの間で、そのままスタスタと歩いて行ってしまった。

 

「え、ちょっ待ってよ!」

 

慌てて追いかけると、既に狭間の姿は見えなくなってしまっていた。直ぐ近くにはいるはずだけれどどっちに行ったんだろうと辺りを見回しながら探そうと足を踏み出した瞬間。

 

「ふぇっ?」

 

丁度引っ掛けるように置かれた狭間の足につまづき、萃香は派手にすっ転んだ。ズザーッと勢い良く地面を抉った萃香は顔だけを向け、目に見えるか見えない程度の薄い霧からいつもの意地の悪い笑みを浮かべた姿に変わった狭間にジトーっとした視線を向ける。

 

「クッ、ハハハ!引っ掛かりやがったなバーカ」

 

「なにすんのさいきなり!喧嘩売ってるのか!?」

 

「先に売ってきたのはテメェだろーが」

 

高笑いしながら悠々と去っていく狭間。萃香は地面に寝転んだままそれを眺め、拗ねたように口を尖らせていた。その小さな身体に似合った子供のような拗ね方である。

 

「ちょっとくらいいいじゃんかよー」

 

そう文句を垂れていると、狭間が盃を手に戻ってきた。どうかしたのか、と声をかけると

 

「喧嘩は面倒だが、こっちでなら勝負してやる。それとも負けるのは怖いか?」

 

「そりゃこっちの台詞さ。昨日どっちが先に倒れたか忘れたか?」

 

「先に倒れたのは紫だったな」

 

そう言いながら酒を盃に注いでいく。その間に萃香は身体を起こして胡座をかいていた。

 

「それはそうとさっきの話だが」

 

「ん?」

 

「何もできねぇとは言ったが勝てないとは言ってねェ。そもそも負ける気なんざハナっからねェよ」

 

 

 

「あー……頭ガンガンする。飲み過ぎたわねぇ……」

 

二日酔いで酷く痛む頭を抑えながら起き上がる。辺りには既に目を覚ましている鬼や、まだいびきをかいている者など様々だ。勇儀も既に起きて、迎え酒と言わんばかりにまた飲んでいる。これからは鬼と酒を飲むのは極力避けよう、そう心に決めた……けど、またこうなるんだろうなぁ。

ズルリと隙間から這い出て川の方へ歩く。顔を洗えば少しはマシになるだろうか。

歩いていると、地面に寝転がったまま盃を傾けている萃香といつもの緑色のツンツン髪が目立つ狭間が目に入った。また酒の飲み比べ?よくそんなに飲めるわねぇ……

 

「おはよう、二人共」

 

「おう、おはようさん。大分キツそうだな、二日酔いか?」

 

「おはよう紫。紫も飲むかい?」

 

「勘弁してよ……まったく、あんだけ飲んでおいてまだ飲み足りないの?ほどほどにしないと身体壊すわよ」

 

「私は昔っからこんな調子だよ」

 

「壊れる身体はもうねェな」

 

呆れたものだ。

とりあえず先に顔を洗ってこよう。そう思って、川に行くと伝えてまた歩き出す。程なくしてたどり着き、心地よい冷たさの水を感じながらパシャパシャと顔を洗う。隙間から布を取り出して顔を拭き、水面に映る自分の顔を見て髪を整える。

櫛を髪に通していると、誰かが近づいてくるのを感じた。振り向くと狭間が歩いてくるところだったので少し急いで身支度を整える。丁度終わった辺りで狭間が到着すると同時、次の目的地が決まったと伝えられた。

 

「都?」

 

「ああ、都だ。時間渡航の方法なんざ萃香も知らないってーし、勇儀は萃香と違ってそういう術はサッパリなんだそうでな。都に行って、ある人物に会う」

 

「ある人物?」

 

「ああ、お前も名前くらいは聞いた事あるぜ」

 

首をかしげて考える。私が名前を知っていると断言するには、高名な呪術師か何かだろうか。しかし、ただの人間や妖怪に時間を超えるような方法を知っている者がいるとは思えない。そもそも都にいるある人物と言われても心当たりはない。大体何をそんなに勿体ぶった言い方をしているのか。そう思ってその人物の名前を聞いてみる事にした。

 

「聞いて驚け、なんとあのかぐや姫だ」

 

「かぐや姫って、あの五つの難題の?実在してたって事かしら」

 

「同姓同名の別人かどうかは置いとくにしろ、会ってみる価値はあると思うぜ」

 

かぐや姫、確かに私達の時代でも物語として有名ではある。いつぞやには彼女を題材にした映画もあったはずだし、五つの難題は後世にまで語り継がれる程有名な逸話だ。竹取物語は子供から大人まで広く読まれている、知らない者は殆どいないとすら言えるだろう物語だ。

しかし、だからといって会ってみる価値があるとは思えないのだが。それを口にしようとした時、その竹取物語のラストシーン辺りを思い出した。確か、私の記憶があっていれば(何分数百年も前に読んだっきりだからそれ程覚えていないのだ)かぐや姫は月の住人で、最後は帝に不老不死の薬を残して月に帰っていったとか。

着目するべきは、月の住人であるというところだ。地上の人や妖怪とは一線を画す、月の住人。最低でも不老不死の薬が作れる程度の技術があり、月と地球を行き来する手段もある筈。成程、これは確かに地上の者が知らない事でも知っている可能性はある。

 

「成程ね、そういう事なら私に異論はないわ。でも、時期は大丈夫なの?」

 

「時期?あー……そういや皇子が求婚してるとか聞いたな。って事は、あの物語通りなら五つの難題出されてる辺りか?全員が失敗した後に帝とどーこーだっけか。クソ、あんまり覚えてねェな。何しろ4桁は昔のことだからな」

 

「皇子達全員が失敗した後にどのくらい経ってから帝と文のやり取りをするようになるか、っていうのがねぇ……そういえば竹取物語って学校で習った?」

 

「高校の古文かその辺で習ったような覚えはあるな。けどオレ、授業は基本的に寝てたんだよなァ。こんな所で弊害が出るとは」

 

「まぁ、気持ちは分からないでもないけれど。そんな授業態度で進級できたの?」

 

「多分……いや、その前に死んだっけか。どうにもあやふやだな」

 

「……なんだか、こうやってあの時代の事を話すのも久しぶりな気がするわ」

 

「……そうだなァ」

 

普段狭間は私に気を遣ってか、こういう説明くらいでしか私達がいた頃の事を話題に出さない。しかし、それは必然的に未来の事を話さないという事になる。気を遣ってくれるのは嬉しいのだがそれはそれで少し寂しいという複雑な思いもあるのだ。

とはいえ、悪い気がする訳ではない。空気を変えるように咳払いをし、そろそろ行こうと促す。そうだな、と狭間も頷き鬼達の方に向かって歩き出した。

 

「因みに数学はどんな感じだったかしら?」

 

「……聞くな」

 

 

 

勇儀達に都へ行く旨を告げると、今度は別れの前にもう一度宴会をしようと言い出した。流石にこれ以上飲むのは勘弁したいので丁寧に辞退し、水や食料を補給してから出発することにした。名残惜しそうにしている鬼達も沢山いたが、いつまでも留まる訳にもいかないのだ。私達にだって旅の目的がある。

実際付き合ってみると鬼の気の良さが分かるけれど、同時に厄介さも見えてくる。これじゃあ人間は付き合いづらいなんてものじゃあないでしょうね。まぁ私は大妖怪な訳だからそれ程問題はないのだけれど……

 

「せめてもう二、三日ゆっくりしていきゃあいいのに。お前さん達なら大歓迎だよ」

 

「気持ちだけ受け取っておくわ。私達にも目的というものがあるのよ」

 

「それじゃあ無理に引き留めるのも悪いか……よし、出発の前に景気付けに」

 

「お酒はもういいから」

 

勇儀も萃香も悪い子じゃあないんだけどなんていうか。気のいい奴らなのは兎も角事ある毎に酒が出るのはどうにかならないものかしら。二言目には酒って……。酒と喧嘩は鬼の華らしいけど、付き合わされる方はたまったもんじゃあない。

そうこうしながら着々と準備を整え、昼を少し過ぎた頃にまずは麓まで行く事にした。鬼を代表してということで途中までは萃香が見送りに来てくれた。他の鬼達も手を大きく振っていたり、また来いよと叫んでいたり。ちょっとだけ後ろ髪引かれるような思いだけど立つ鳥跡を濁さずというし、切り替えて行きましょうか。

 

 

「そんじゃあ、二人共。またいつか飲み比べしようや」

 

「その時はのんびり飲みたいのだけれど」

 

「オレ様はいいとして、紫はそれほど飲める訳じゃねェからなァ」

 

あなた達が大酒飲みなだけで私は飲めない訳じゃあないんだけど。そうだ、今度来た時はワインでも持ってこようかしら。って今の時代にはまだないかしら?葡萄があれば作れるかもしれないけど製法は流石に覚えていない。飲んだ事のないような酒を飲ませて驚かせてみたいものね。でもワインだと少し物足りないかもしれない。なにせ文字通り浴びるように酒を飲む連中だから、質より量を取るかもしれない。ううむ、あっと驚くようなものはないかしら……鬼殺しとか、そんな感じのお酒。

そう悪巧みしながら会話しているうちに出発することとなった。一晩だけなのに随分濃く感じる時間だったわね。

 

「じゃあねー!また来いよー!今度は三日三晩くらい宴会しようやー!」

 

「やめろォ!」

 

 

 

というようなやり取りをしている頃。

雨がしとしとと降るとある神社に、一匹の妖怪が潜んでいた。その妖怪は付喪神であり、人に害をなす類の妖怪である。有り体に言えば退治屋が狙うような妖怪だ。

その妖怪は、いつぞやに狭間達が幽香と共に蹴散らした付喪神の妖怪の群れの生き残りであった。紫が踏み潰した鏡の付喪神を持っていた人形、彼自身も独立した一匹の付喪神だったのだ。鏡のみが喋っていた為に女郎蜘蛛や幽香ですらその事には気がつかなかった。故に残党退治にやってきた一団からもいち早く逃れえたのだ。

とはいえ這々の体で逃げ出した上に、ここまでの道中でも他の妖怪や飢えた獣にも襲われた身。手頃な人の子でも喰らって傷を癒したいと考えていた。スキマ妖怪の記憶を見たのは鏡の方のみであるため、どうにかやってこれたこの場所がある意味では狭間という悪霊と紫という妖怪の始まりの地である事は知らずに。

 

醜悪な口を開きさえしなければ、見た目はただの人形である。妖気も隠せばバレはしない。雨宿りをしている幼い少女を見ながら彼はそう考えた。いつかの蛇野郎に似た緑の髪を見ながら、さぞ柔らかい歯応えだろうとタイミングを見計らいつつ舌なめずりをする。隙を見せたらすぐにでも飛びかかってやろうというのだろう。物憂いげに手に持った杖を弄んでいる様を見ていると今にも食らってやりたくなる。今か今かとじっくりとタイミングを見計らっている。

暫く様子を見ていると、少女がふと顔を上げた。視線の先には唐傘を差して歩いてくる人影。少女の親か何かだろうか。少女の顔もぱあっと明るくなり、小さく手を振っている。

 

この隙は逃さんとばかりに、付喪神が背後から首筋を狙って飛びかかった。こいつの親の前で食らってやって、その後親の方も食らってやろう。飛びかかりながらその光景を夢想し、口の端から涎が溢れたと同時、少女が振り返る。もう遅い、せめて美味しく頂いてやると付喪神が大口を開けた。

 

 

「えいっ」

 

「クギュッ」

 

そうして大口を開けた状態の馬鹿面を、少女が持っていた杖を思い切り振りかぶって横向きに叩きつけた。鞠を思い切り棒で殴ったらこんな感じに飛ぶだろうな、というような吹き飛び方で付喪神は神社の壁に勢い良く叩きつけられる。ぐらりと視界が揺れ、床に崩れ落ちる。

 

「お腹が減っていたのかもしれないけれど」

 

激痛が走る顔を抑えながらどうにか上を向くと、よく見ると先端が三日月状になっている杖を高く掲げた少女が立っていて。

 

「私を狙うなんて運が悪かったと思って諦めてちょうだいな」

 

勢い良く杖が振り下ろされ、ただの人形だった頃の名残である部品が辺りに飛び散った。

 

 

 

「やっぱり、狭間やコンガラ様が言ってた通りだ。私でもちゃんと力の使い方を覚えれば妖怪相手でもちゃんとやれる。少し魔力込めて振るっただけでもこの威力、流石私……なんちゃって」

 

「前にも聞いたが、その狭間という霊はそんなに強いのか?」

 

「私が会った時には辺りの強い妖怪全部倒しちゃったって言ってた。私を追い掛け回してた連中でも軽くひとひねりにできるような事言ってたし……うん、今なら分かるけどあの人は本当に強いんだと思う」

 

「私とどっちが強いと思う?」

 

「さぁ。まだそこまでは分かんないや」

 

「そうか」

 

唐傘を差していた男にも女にも見える者が、緑髪の少女を優しく撫でていた。唐傘の者の額からは真紅の角が一本生えており、狭間が見たら星熊勇儀を想起するであろう一本角だった。星はついていないが。

角の者に目を向けると、そこにあるべきはずの足はなく、霧のような不可思議なモノがあった。歩くのには不便はないようで、事実先程やって来た時も平然と移動していた。足がないのに歩くと言うかどうかは置いておく。腰には一本の刀を差しており、剣士であることを伺わせる。

緑の髪の少女は足があるが、本来ならそこに足はない。彼女も狭間と同じく霊であり、その身体は本来とうに朽ち果てているものだ。それを意志の力で創り出し、仮の器のようにして扱っている。

 

「コンガラ様が強いのは知ってるけど、本気出した所は見た事ないもの」

 

「まぁこの辺りの魑魅魍魎相手ならわざわざ全力を振るうまでもないさ。お前を守る時は別だがな」

 

そう言ってコンガラと呼ばれた者が微笑むと、少女は照れたように笑う。少し赤みが差した頬を少し膨らませ、

 

「私だって自分の身くらい自分で守れるもん。さっきだって見たでしょ?後ろから襲ってきた奴をえいっとやっつけたの」

 

「確かに見たが……あのくらいの小物を仕留めていい気になるようではまだまだといったところかなぁ。振りは悪くなかったが、少々隙も大きかった」

 

「むー」

 

苦笑しながら少女の慢心を諌めるように語り、優しく頬を撫でる。心地よさげに少女が目を細める。反応速度は中々良かった、と続けるとそうでしょう?と自慢げになる。慢心は良くないと口から出掛かったが、少女の嬉しそうな笑顔に思わず引っ込んでしまったようだ。

 

こうして一見しただけでも彼女達がまるで親子のような関係を持っているのが分かる。

方や幽霊、方や本来ならば地獄に勤めている者。普通ならば追って追われての関係であるはずなのに、いやはやこれは珍しい。本来の関係を知ればそういった思いを抱くだろう。

だから私も問いかけたい。何故そんなに楽しそうに笑い合えるんだ?とね。口には出さないが。

 

「……私の後ろへ」

 

「え?どうしたの?」

 

コンガラが私に対して警戒を顕にする。当然だろう。まだ私に気づいていない少女はキョトンとしている。どうしたのかと首を傾げる様はついさっき一匹の妖怪を文字通り叩き潰したとは思えないくらいあどけなかった。

さっきからずっとすぐ横に立っていたのだけれどね。時間がかかったとしても私に気づいた事は評価に値するが。

 

「誰だ貴様は、一体いつからそこにいた?」

 

「強いて言えばその娘が雨宿りをしていた辺りからかな。さっきのスイングは正にホームラン級だったね」

 

「……ほーむらん?なんだそれは」

 

「ああ、気にしなくていいよ。どうせまだ野球ないだろうから。あ、作ればあるかな?それで、私が誰かって?」

 

雨はまだ降り続いている。だというのに全く濡れていない私を親の敵でも見るかのように睨みつけるコンガラ。おお怖い怖い、片手に傘を持ってもう片方の手で少女を庇うように立っていて、とても刀なんて抜いてられないだろうに。それとも居合の心得でもあるのかな?いや、そもそも刀を持てなければ意味はないか。

 

「当ててごらん、と言ってみようか」

 

「貴様なぞ知らん」

 

「あらそう。そうだろうね、知ってる筈ないし知ってたとしても呼べはしない」

 

「コンガラ様、一体誰と喋ってるの?」

 

「私の傍を離れるな、コイツは得体が知れないなんてものではない……まるで理解する事を拒否しているかのように正体がつかめない」

 

「おや、分からないなら分からないなりに考えてるんだね。そのまま理解しないでいたまえ、その方が身の為だ」

 

嘲笑うようにそう言ってやると、コンガラの額に青筋が浮かんだ。が、怒りのままに斬りかかってこない辺り精神はしっかりしているようだ。それはそれとして少女にはまだ私は見えていないようだ。今後に期待と言ったところかな?どうせ彼女は未来ではああなっているんだしね。

 

「そもそも私を斬れたとしても私に被害はないからね。無駄な事はやめておこうか」

 

「無駄かどうかは斬れば分かる」

 

「人斬りみたいな発想だねそれ。そもそも斬れないからね?私は今ここにいるけどここにいないんだから」

 

「式か何か……いや、お前のような存在がそんな訳はないか。いたとしたらそれはそれは恐ろしい存在だろうな」

 

「いやー当たらずとも遠からずってやつだね。式ではないけど使いではあるから。従うとは言ってないけど。あ、アイツに関しては警戒しなくてもいいよ、ボケてるから」

 

こんな得体の知れない奴を使いとして扱うような奴がいるのか、それは一体どんな輩なんだ。ボケてるのはお前の方じゃないのか、そんな感じの事を言いたげな眼で睨まれる。眼光だけで人を殺せそうな眼だけど、生憎とこの私は人を殺せる程度じゃ殺せない。僕を殺せたとして私を殺せるとは限らない。

 

「分かりやすいように話してあげてはいるけれども私の正体は分かったかな?正解者には特に何もないが」

 

「知らぬ存じぬ。そもそもなんなんだ貴様は、黒いのは分かるが男か女かどころか人の形をしているかすら定かではないではないか。妖怪か、それとも神か悪霊の類か?」

 

「これでも認識阻害をしているからね、それが分かるだけでも大したものだよ。現にその娘はまだ私が見えていないし声が聞こえてもいない」

 

娘に目を向けると、コンガラが誰と話しているのか確かめようと辺りを見回している。こっちだよこっち、私はこっちだ。少なくとも害意を持った相手だというのは分かるようで、不安げに揺れる瞳ではなくしっかりとした意思を持った強い瞳で辺りをキョロキョロ、実に健気で中々に可愛らしい。

だが生憎と私は彼らに害を成す気はないのだけれど。今だって少しちょっかいをかけている程度であって。

 

「まぁアレだね、なんだかんだと聞かれたら答えてあげるが世の情けって言うじゃないか」

 

「いちいち変わった言い回しをする、狂言師か何かか?」

 

「それも当たらずとも遠からず。だって私はそういうものだから。強いて言えばそう、私は黒幕、元凶、ラスボス、世界の敵。どれがお好み?今なら追加で支配者や黒髪などの属性もつけてあげよう」

 

「……さっきとは別の意味で理解を拒否したくなってくるよ。会話が通じているようで通じていない気がする」

 

「会話のドッジボールってヤツだね、よくある話だ。そもそも君は彼と面識がないから解る筈もないけれど」

 

そう笑いながら言うと、コンガラは辟易としたような渋面を浮かべる。

理解出来ないというならば理解しなくてもいいのだよ?人は自分と違う物を理解しようとしない、君は人ではないけれど。そういえば仏なのか鬼なのかどっちだろう、どっちでもいいけど。

 

「それと本来私はここにはいないしここでは出ない筈なんだけどね。そういう運命だったからついつい」

 

「……もういい、どこかへ行け。貴様と言葉を交わそうとした私が馬鹿だった」

 

疲れたと言いたげにコンガラがげんなりとする。若い者がだらしない、年知らないけどね。でも少なくとも私よりは下だろう。いや、上かもしれない。

もうちょっとからかってもいいけれど私は私でこっちを見て回るという壮大な暇つぶしもあることだし去るとしようか。

 

「まぁ今君に与えられる情報は特にないからこのまま去るとするよ。私について知りたければネットという文明の利器を使い給え。多分あと千年以上しないと作られないだろうけど」

 

「……」

 

おや、耳をふさいでしまった。そんなに聞きたくない?傷つくなぁ。

ま、いいさ。じゃあねーっと。

 

 

 

「……行ったか?」

 

「コンガラ様、一体なんだったの?」

 

「ああ、いや……得体の知れないおかしな奴がいただけだ。もういないようだし、私達も帰ろう。キクリが待っているよ」

 

「あ、そうだった!雨も降ってるし早く行こ、私お腹すいちゃった」

 

「はは……(……はぁ、疲れた。なんだったんだアイツは……)」

 

 

 

実はまだいるけどね!

認識阻害強めただけだからコンガラにも見えなくなっただけでまだここにいる。とはいえ、つらつらと独り言喋っててもつまらないのは事実。聞く相手がいなくっちゃあふざけた言い回しも虚しいだけだからね。だからそう、これは私自身に向かって話しているのだ。一人語りという事だ……ちょっと違う?

この時代では私の事を知っているような存在もそうそういないだろうからのんびり旅行と洒落込めるけど、ただ彼らの後を付けて回るというのも面白みがない。流石にこのタイミングで連中が出たりはしないだろうけど、海の向こうへ渡る時くらいは用心しようかな。そう思って時々こうしてあちこちに出向いているけどやはり向こうとは科学レベルが比べようもないね。魔法などの異能はこの時代割りと盛んだけども、科学が発達するにつれてそういった技術は廃れ、幻想へ、か。物悲しいねぇ。諸行無常ってか。

とはいえそういった時代変化の背景には私が絡んでいる可能性もあるし、或いは彼または彼女がって事も有りうる。私は元凶で黒幕だけど何でもかんでも知ってる訳でもなければ全知全能なんて子供みたいな事を言う訳でもない。こうして私の独白を見て理解できる者がいればできない者がいるようにできることなんてそれによって違うんだから。故に私がこの先どうなるかを知らないのは当然、しかし運命を知るのは必然。更に言えば私の独白を理解できる私がいれば理解できない僕もいる。私に関しては自然と不自然が両立する。そういう存在だと再認識する。

まあ理解させる気があるのかと問われれば笑いを返す事は約束できるが。そも私は主人公ではないのだから云々。

ああ、退屈だ。この後どうしようかな。



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「はい、帽子。こんな感じでいいの?」

 

「おー、バッチリバッチリ。まさにこんな感じのが望ましかったんだ、助かるぜ」

 

「それはいいけど、その黒コートに黒い帽子で黒づくめ……結構怪しい風貌になってるわよ?」

 

「そんなの元々じゃねェか。姫さんに信じさせる為に多少の現実味を持たせないとな。いきなり未来から飛ばされた、なんて言って簡単に信じられるもんでもねェだろうからなァ。まずは気を惹くところからだ」

 

都の宿で、狭間と紫がそんな事を話していた。件のかぐや姫に会う事自体はできるらしいが、求婚する者が後を絶たない為に事前に要件を伝えなければならないらしい。そう言われては仕方なく、姫になんとしてもお尋ねしたい事があるとどうにか会話の機会を作ったのだ。以前は姫を一目見ようと昼夜問わず家の周りを彷徨いたり、酷い者では垣根に穴を開けてまで家を覗き込む有様だったとか。最近はそういった興味本位な有象無象は来ないらしいが、心底迷惑していたのだろう。狭間達にとってもいい迷惑であるが。まずはそこで姫の興味を惹かねば碌に尋ねる事もできないだろう。かといって警戒或いは危険視されるようでは本末転倒、そうなっては協力を得るのは難しい。その警戒と興味のバランスが問題だった。

 

「多少怪しくてもいいんだ。重要なのは姫さんの興味を惹く事だからな、有象無象と同じに扱われないようにほんの少しのエッセンスが必要だ」

 

「エッセンスはあくまでも香り付けの為であってそれが主体じゃないわよ?」

 

「そこまで言うならお前が行くか?」

 

「お願い」

 

語尾に音符やハートでも付いていそうな調子で首を傾げる紫。軽くため息を吐くと、狭間は先程手渡された黒い帽子を被る。ちなみに紫のお手製である。

 

「あー、あー……さて、こんな感じでどうです?上手く猫被れてますかね?」

 

「うわ、胡散臭っ」

 

「貴女も同じくらい胡散臭いと思うのですがねぇ?」

 

眼を薄く開いてじとっとした眼で紫を睨め付ける狭間。普段の粗野な口調は鳴りを潜めて、しっかりと猫を被っている。声も文字通りの猫なで声と言った調子だ。流石に姫に会いに行こうというのに普段の口調では色々問題だろうという紫の提案によるものだが、胡散臭さという点では紫もどっこいどっこいだ。

昔はもっと純朴な少女だったのに、と呟きつつわざとらしく肩をすくめる。扇子が顔に飛んできた。

 

「ほら、そろそろ行ってきたら?私はその間あちこち巡ってくるから」

 

「はいはい、行って来ますよ」

 

隙間から傘を取り出しつつ、速く行けと手をぴらぴらと振る。まぁ、成長してると思えばいいかと考え、宿を出て件のかぐや姫のところへと歩を進めた。

 

 

 

「いやはやしかし……姫と呼ばれているから大きなお屋敷を想像していましたがそうでもないのですね」

 

「輝夜と婆さんと三人で暮らしておりますから。無闇に大きくしても隅々まで使えませんわい。家を大きく立派にするよりも、婆さんに楽をさせて輝夜を楽しませてあげたいのですよ」

 

「なるほどなるほど、いやぁ姫は幸せ者だ。こんな心優しい人が育ててくれたなら、それだけで幸福というもの」

 

姫の住んでいる家までやって来た狭間は、竹取の翁と庭で話をしていた。翁がどんな人となりであるかを調べると同時に、姫に対する感情を知りたいと狭間は考えていた。竹取物語の通りならば悪人ではないだろうし、姫の事も大事に思っている筈だろう。幸い、翁は思った通りの善人であった。竹から見つけた金は殆どが姫の為、或いは家内の媼に楽をさせる為に使われているようだ。これならそう警戒する必要はないな、と考えながら会話を続ける。

 

「では、輝夜に伝えてきますので暫しお待ちを」

 

そう言って翁は部屋に入り、すぐに出てきた。

 

「お待たせいたした、部屋へどうぞ。くれぐれも無体を働かぬよう」

 

「勿論。学はない身ですがその程度の礼は心得ていますよ」

 

部屋に入ると、長い黒髪の女性が座っていた。なるほど、確かに美しい。これは大勢の男が心を惑わされるのも無理はないなと感じる。しかし、狭間は毎日姫と比べても遜色ない(こんな事を考えるのは双方に至極失礼ではあろうが)女性と共に過ごしているのだ。言ってしまえば男を惑わせる蠱惑的な美貌には慣れていた。そもそも狭間は霊となった時からそういった欲望は消え失せていた。代わりに別の欲が強いが。

狭間は慇懃にお辞儀をすると、帽子を取って挨拶をした。いつもの刺々しい髪が、今はどういう理屈なのかペタンと滑らかな見た目になっていた。

 

「どうも初めまして、私、退治屋の真似事をしている狭間です。渾名は、えーと……蛇、だったかな?」

 

「初めまして、お会いできて光栄ですわ。此度はどういったご要件で?」

 

姫は単刀直入に切り出してきた。翁は部屋の入り口から様子を伺っている。これは怪しまれたかな、と思いつつ要件を伝える。

 

「実は姫、貴女の知恵をお貸しいただきたい……いえ、少し違いますね。貴女が、私が求める情報を持っていないか……伺いに来ました」

 

「……情報?それはどういったものでしょうか。私はここからあまり出歩かないもので、貴方が望むようなものが得られるとは思えませんが」

 

「いやいやごもっとも。いいんですよ、それでも。私が聞きたいのは貴女が……おっと、これは失礼」

 

月に居た頃の話、と言おうとして翁の存在を思い出す。流石にこの段階でそれを知らせるのはまずかろう。翁が取り乱しかねないし、何故知っているのかと警戒される。

 

「んー……そうですねぇ、例えばの話……月ってありますよねぇ」

 

「ええ、それが?」

 

月と口に出した瞬間、表に出ない程度ではあるが、姫に動揺の色があった。表に出なくとも、感情に敏い狭間にとってそれは容易く感じ取れた。釣り針に引っかかったのを確信しながら言葉を続ける。

 

「月の民なら、色んな技術があるんでしょうねぇ。例えばエネルギーを増幅させる宝石とか、物体を素粒子にする道具とか」

 

そこで言葉を切り、口の端を歪めながら呟く。

 

「不老不死の薬、とか」

 

「貴方――」

 

「まぁどうでもいいですけどね、不老不死なんて。今更そんなもの手に入れたって髪の毛一本程の価値すらない」

 

上手くかかってくれたな、と内心笑みを浮かべながら狭間は続ける。

 

「私が欲しいのはね、姫。未来に帰る方法ですよ」

 

「未来に、帰る……?」

 

「ええ、未来に。それに比べたら不老不死なんて天と地以上の差ですよ」

 

「まるで未来から来たかのような言い方ね?」

 

「ええ、だってそうですから」

 

そうおどけて言うと、姫は何事か考え込んでいる様子だった。かぐや姫が不老不死の薬を帝と翁に残したという逸話は有名だ。例え今持っていないとしても、それを手に入れる事が出来たから残せたのだ。不老不死の妙薬を残された帝と翁が千年先で生きていないのは薬を飲まなかったからだろう。確かに、大事に想っていた人がいなくなって尚永く生きる事に一体どれほどの価値があるのかと考えれば理解はできる。既に生きていない狭間にしてみれば、存在する限り看取り続ける立場である狭間にとっては、それは恐らく死ぬ事よりも辛いだろうと感じる。

人間の技術では千年経っても不老不死の妙薬は作られていない。人間が作れない物を作れたなら、それは人外の技術の証明。姫自身がそれを会得していなくとも、会得している者が知り合いにいるということになる。先程の反応を見る限りでは少なくとも不老不死の妙薬についての知識はあると見受けられる。後は彼女の出方を見るだけだ。

少しすると、姫は毅然と狭間を見据えた。どうやら興味を惹く事はできたようだ。

 

「……未来から来たなら、私がどうなるかも知っているの?」

 

「ええ、かぐや姫といえば千年先でも有名なお話ですから。ただ……」

 

「……言わなくてもいいわ。結末は、少なくともこの場では話しづらいのね?ちょっと待っていて」

 

そう言って姫が翁の方に歩み寄ると、微笑みながら言った。

 

「お爺様、私は大丈夫だからそんなに近くで見てなくてもいいのよ?」

 

「しかし輝夜、万が一お前に何かあったらわしゃあ……」

 

「何かされそうになったら思いっきり叫ぶわ。騒ぎに気づけば近くの人も助けてくれる筈」

 

「あのー、私そんなに信用ないですか?」

 

「……分かった。お前がそう言うならわしは離れているよ。いいか、何かあったらすぐに助けを呼ぶんだぞ」

 

「ええ、勿論」

 

「無視ですか」

 

そんなに怪しいかなぁ、と自分の服装を鑑みる狭間。全身黒づくめにこの地では見慣れぬ服装に面妖な緑髪。何を考えているか分からない軽薄な態度、おまけに自称未来人。怪しくないはずがない。数え役満だ。

 

「お待たせ。それで、そのお話の最後は私が月に帰る事にでもなっているのかしら?」

 

「ええ、まあ。月から使者がやって来て、不老不死の妙薬を残して羽衣で月に帰る……という感じだったかと。何分最後に読んだのが数百年以上も前なものであやふやですが」

 

「それで充分よ。ただ、不老不死の薬ねぇ……そのお話では私が作ったのかしら?」

 

「さぁ、そこまでは。ただ、その薬を渡された人は姫がいないのに永く生きてもしょうがないと言って飲まなかったそうですが」

 

「……そうよね。人の命は短いから、生きてさえいてくれればまた会えるかもと思ったけど……考えが甘かったのかしら」

 

そう呟いて悲しげに目を伏せる姫。これはマズったかなと内心冷や汗をかく狭間。

 

「生きてさえいれば、ですか。死んでても会う時は会いますよ。私みたいに」

 

「何を…………ああ、今の今まで気付かなかったわ。貴方、霊……それも悪霊と呼ばれる類の者だったのね」

 

「おや、流石に月の民ともなれば気づきますか。とはいえ少々遅くはないですか?今更という感じがしますよ」

 

「穢れが希薄にも感じるし、途轍もない穢れにも感じるのよ、貴方は。いえ、穢れというよりこう言った方が相応しいわね」

 

穢れ、という聞き慣れない言葉に眉を顰めたのも束の間、姫の口から若干の畏怖と困惑を孕んだ言葉が絞り出すように吐き出された。

 

「まるで蛙を飲み込まんとする大蛇の顎のような――死そのものとも言うべき存在」

 

「……」

 

「殆どの月人が忘れている、死という事象そのもの、或いはそれに伴う原初の恐怖……少なくとも、私から見た貴方はそんな存在よ」

 

眉を顰めたまま何も言わない狭間を見て、機嫌を損ねたと思ったのかゆっくりと首を横に振って言った。

 

「気を悪くしたなら謝るわ。けれど聞かせて、これだけは。貴方は未来に帰って何をしようというの?復讐?それとも……」

 

「復讐なんぞに興味はありませんよ。私が悪霊になったのは今より前の時代に飛ばされてからですから。ま、陰陽師連中は大嫌いですがね」

 

「なら、何をしようというの?」

 

そこで狭間は糸のように細くしていた眼を少しだけ開き、外に眼を向けた。鳥の囀りが響き、心地よい風が頬を撫でる。草木の葉が擦れあう音が耳に心地良い。煩わしい人間の声は勿論、人間として暮らしていた頃は嫌でも聞こえていた車や機械の音もここでは聴こえず、穏やかな時を過ごせる。あの頃はこんなのは滅多に味わえなかったな、と呟いてから姫に視線を戻す。

 

「私はね、かぐや姫。正直言えば私自身の事はそれ程未練があるわけではないんですよ。ただ、受けた恩は返すし、友人の助けにはなりたいとは思う。恩を仇で返す趣味はないし、何よりそうでなきゃあ在る意味がないんですよ」

 

「続けて」

 

「どうも。私の目的、それはたった一つだけ。私と同じように未来から飛ばされた友人……彼女を友人の所に帰してやりたい。それだけです」

 

「……嘘はないようね」

 

「どうでしょうね、本当という証拠はありませんよ?」

 

「茶化さなくてもいいのよ。これでもそれなりに生きてきた身、貴方は悪人かもしれないけど自分には正直な人ね。さっきから見ていても騙そうという意思は見えなかったし……そうね、七割くらいは信用してもいいかもしれない」

 

「充分です。それで、何か知りませんか?」

 

「……ごめんなさい、記憶を探ってみたけど分からないわ。少なくとも、私は知らない。知っているかもしれない人に心当たりはあるけれども彼女を頼る事は出来ないわ」

 

「ほう、そりゃまた何故」

 

「月ではね、不老不死の薬……蓬莱の薬を飲むのは重罪なのよ。私が知る限り飲んだ者は私を含めて三人。一人は今も月に幽閉されていて、私は罰として地上に堕とされた。残りの一人が罰せられないのは月に取って欠かせない人物だから。つまり、今の私は犯罪者。心当たりの彼女は月の頭脳とまで言われるくらい月にとって欠かせない重要な人材。ね、頼れないでしょ?」

 

「成程、それは頼れませんね。しかし月も面倒なものですね、たかだか不老不死が罪とは。って、貴女も不老不死なんですか。竹から見つかった時は赤子だったという記述があったような……単に身体を小さくされてただけとか?」

 

「その辺は私も分からないけれど…………蓬莱の薬は飲むだけで穢れてしまうから、穢れを厭う月人には重罪なのよ。不死の誘惑に負けたということでね。月の民に寿命は無縁だけど、死は無縁ではないもの」

 

「では貴女は?」

 

「私は違うわ。飲めば罰を受けるのは分かりきっていた。けれど不死なら処刑しようがないでしょう?月人は地上を文字通り見下しているから、地上に落とす事が極刑なの。それを利用すれば、以前から興味のあったこの地上に来れると思ったから。目論見は成功したわ。お爺様達は良い人だし、来てよかったと思ってる。けれど、この生活の中に一つの懸念事項があったの」

 

そこで深呼吸をすると、姫は狭間をまっすぐ見据えた。

 

「いずれ月から迎えが来たら……ううん、そうでなくとも瞬きの間にこの幸せな時間が終わるんじゃないかって。私と違って、お爺様達はずっと生きられる訳じゃない。いつまでも一緒にいることはできない。……生物が死ぬのは自然な事だから、仕方ないのかもしれない。それでも、最後まで一緒にいたいと、そう思っていた」

 

「せめてその生の終わる時まで、ですか。姫というから世間知らずな箱入り娘というのを想像してましたが……なかなかどうして、達観してますねぇ」

 

「貴方は私が月の民だって知っていたのでしょう?これでも貴方が死んでから過ごした時間とは比べ物にならないくらい生きてるのよ?……話を戻すわね。さっきの貴方の話で、月から迎えが来るのは確定したようなもの。逆に言えば、それさえどうにかできれば私は地上に残れる可能性が出てくるわ」

 

「いやはや、逞しい事で。ですがどうするおつもりで?伝承を見る限りでは羽衣を纏わされた時点でアウトだったようにも感じますし、それ以前に地上のものでは月のものに太刀打ちできないというような描写もありましたが」

 

「羽衣……?確かに地上と月を行き来するための羽衣はあったけれど、あくまで移動用の道具に過ぎなかったと思うけど……対抗手段についてはアテがあるわ」

 

「……まさか私とか言いませんよね」

 

呆れたように呟く狭間に、姫はにっこりと笑って言った。

 

「そのまさかよ」

 

ここに来る前の紫との会話で、語尾に音符やハートでもついていそうだと思ったが目の前の見目麗しき姫も同じ調子で狭間に”お願い”をしてきた。そんな気はしてましたよ、とため息を吐く狭間。女ってのは厄介だな、と思いつつ。

 

「誤解の無いように言っておくけど、地上のものが太刀打ちできないというのはあくまで力量や技術の問題であって、絶対に敵わない訳じゃないわ。事実、かつて月はたった一人の存在によって幾度も危機に晒された。……実際の標的は月の都じゃなかったけど」

 

「実際そうした者がいるっていうならいいんですが。絶対勝てないけど戦えとか、そんな依頼だったらいくらなんでもお断りですよ。で、その月を襲撃したのって本当に一人なんですか?協力者がいたとかでなく?」

 

「ええ、一人よ。割りと単純な性格……いえ、性質だったから罠にかけるのは容易かったそうだけれども、それでも尚月の驚異となるだけの存在だそうよ。様々な分野で高い技術を持つ月の民でも、その中でも桁外れの天才である月の頭脳をもってしても、完全に滅する事を断念するくらい。なんでも自分の憎しみだけで存在している神霊だとか」

 

「自分の憎しみだけで……」

 

狭間は思った。その神霊とやらは、少しだけ自分に似ていると。妖怪が人間からの恐怖などの感情で、霊の場合は欲や強すぎる想いによって、そして狭間が憎悪と悪意で存在を現世に定着させ形作っているのと同じように、その神霊も憎しみだけで存在を自己完結させているのだろう。憎しみはある意味では純粋な憎悪とも言える。存在の在り方としては狭間と非常に似通っているのだ。そう思うと少しばかり親近感が湧かないでもないが、たった一人で月の都を襲撃して尚健在どころか滅ぼす事を諦められるレベルとなると流石の狭間も舌を巻く。最も、狭間とてそう簡単に滅ぼせる存在ではないのだが。

 

「兎も角、時が来たら貴方には月からの使者を追い返してほしい。穏便に済ませられればそれに越したことはないけど、難しいでしょうね。でも、貴方があの神霊と同類だと思わせれば、士気を大きく削ぐ事ができるかもしれない。あの神霊はただの月の民じゃどうしようもないから、恐れている者は少なくないわ。そうなればそのまま勢いに乗って追い払う事が可能かもしれない。一度でも撃退できたなら、少なくともすぐに二度目が来る事は少ないでしょう。その間に行方を晦ませれば逃げおおせる事は十分可能な筈」

 

「……ま、いいでしょう。その依頼を受けるとしましょう。報酬は“借り一つ”でいいですね?」

 

「ええ、構わないわ。とは言っても私に出来る事なんてたかが知れてるのだけどね」

 

「それを言ったら私なんて戦う事しかできませんがね。さて、では今日のところはお暇しますよ。今度来るときは友人を連れてきますので、より具体的に策を練るとしましょう」

 

「分かったわ。そういえばその友人ってどんな人なの?」

 

「え?えー……そうですねぇ、説明するのは面倒ですから自分で見て確かめてください。では」

 

「えー」

 

そう言って狭間はスタスタと歩いて行ってしまった。姫は不満そうに口を尖らせていたが、やがて大きく溜息を吐いた。空に目を向けると、丁度太陽が雲に隠れるところだった。あの雲がずっと月から地上を隠してくれればいいのに、と呟いて立ち上がり、翁の所へと足を向けた。そういえば地上の民には優しくしてもらったり、或いは邪な視線を向けられる毎日だが、冗談を言い合って笑い合える友人というのはいなかったな、と思いながら。求婚された事はあっても友人になってくれと頼まれた事はないし。彼の友人とやらが来たら、ほんの少しだけ勇気を出して言ってみようか。友達になってくれ、と。

 

そんな事があってから一週間。

月の民から姫を守るという依頼を受けるからにはそれまで都に留まらなければならない。既に数百年以上も今の生活を続けてきた狭間と紫は今更数年程度で焦れはしない。特にリミットがあるわけでもない依頼故、のんびりと都で過ごす事としていた。拠点替わりに適当な空家を購入し、その拠点でいつもしているように妖怪退治や商人の護衛など雑多な依頼を手広く受けていた。

 

「それにしてもこれだけ同業者がいても依頼回ってくるなんて、余程荒れてるのかしらこの辺は」

 

「まァ妖怪は倒してもその縄張り奪いに別のとこからやって来る奴もいるしなァ。その新しい妖怪に対応できずに同業者の数が増減するってのもあるんだろ。懇意にしてた奴がある日突然いなくなったりなんてこの界隈結構あるからな」

 

「そうね。それに、相手が妖怪とも限らないし……」

 

手に持った依頼書に目を向けたまま溜息を吐く紫。憂いげにしている様は中々に絵になるものだったが、狭間は指に引っ掛けた帽子をくるくる回しながらいつもの調子で肩を竦めた。

 

「野盗、なぁ。生活苦なのかもしれねェけど襲ってくるんだから仕方ねェさ。つっても殺しはする必要ねェんだ、あんま気にするな。必要ならオレが食っちまえばいいだけだ」

 

「気にしてる訳じゃあないんだけど、慣れないわ。慣れたい訳でもないけども」

 

そう言われると、狭間はなんだかなぁというような表情になって呟いた。

 

「……慣れてるオレはなんなんだって言いたいがまァいいか。んで?その依頼なんだよ、さっきからじっと見つめて」

 

「鵺」

 

「あ?」

 

「鵺が出たからどうにかしてくれって帝から」

 

「……マジかー」

 

「鵺が出たのってこの時代だったかしら……」

 

「出たのが何時からかは知らねェけど、存在自体はもっと昔からあったんじゃねェの?九尾の狐とかだって千年以上生きた狐が成る訳で、ある日突然生まれましたって訳じゃねェじゃん」

 

「ま、そこはどうでもいいんだけど。どうするの?これを受けて帝に顔を覚えてもらうのも手よ」

 

「だな。姫さんの依頼は連中来なきゃ話にならないし、そもそもその時帝が姫のそばにいるだろうから良い方向に覚えられて損はない。受けるとするか」

 

「じゃあ返事出しておくわね。にしてもどこから私達の事を聞きつけたのかしら」

 

「……この近辺の大物根こそぎ狩っておいて目立たない訳ねェと思うんだけどなァ」

 

「あれは狭間が退屈だからって暴れたのが悪いのよ。騒ぎに引き寄せられた雑多な妖怪を襲ってくるそばから返り討ちにして」

 

「オレ様を敵に回すのが悪い」

 

しれっと言い放ちつつ、紫から依頼書を受け取る。民草からの情報らしい声がいくつか上がっていた。“鵺の鳴き声がして恐ろしい”“鵺に怯えた家畜が逃げ出した”“鵺が出てるらしいから狭間にどうにかさせてみよう”など、様々書いてあった。被害はあまり出ていないとはいえ、大人しくさせるにこしたことはないかと考える。ついでに民からの言葉の最後の文を見てイラッとしたようだが。

 

「最後の書いた奴誰だよ……」

 

「同業者……の線は薄いか。わざわざ商売敵に仕事回そうとは思わないだろうし」

 

「いやー案外鵺に食い殺されるのを望んでる馬鹿かもな」

 

ナイフの手入れをしたり、霊擊札を量産したりと手を止めないまま談笑を続ける。程なくして作業を終えた紫が、返事を出してくると言って出かけると狭間はすぐに暇を持て余した。

 

「……出かけるか。書置き残しときゃいいだろ」

 

そう言って紙に外出する旨を書き残し、帽子を机に置き外に出た。

ただの人間だった頃は暇を潰しにゲームセンターなどの娯楽施設に繰り出していたが、この時代にそんなものがあるはずもない。散歩くらいしか暇を潰せるのがないのだけは困りものだな、と溜息を吐きつつ歩いていると、川に架かった橋を見つけた。どうせすることもないしと橋の上から小川を眺める。欄干にもたれかかり、川のせせらぎが耳に心地よく響くのを堪能しながら水面を見つめる。

 

「……平和だねェ」

 

「表面上はね」

 

「うっせ、少しくらい浸らせろ。っつか口にするくらいいいじゃねェか、喋ったら逆転する訳でもあるまいに」

 

「退治屋の台詞とは思えないね、それ」

 

「別に食い扶持にゃあ困ってねェからよ」

 

顔を顰めつつ、隣に立った黒髪の少女に眼を向ける。意地の悪そうな笑みを浮かべた少女は興味深げに首を傾げる。

 

「困ってないならなんで退治屋なんてやってるのさ。自分は強いって誇示したいの?」

 

「食い扶持にゃ困らなくても金を使う時はあんだよ。団子食ったりとか」

 

「結局食べてるじゃないの」

 

「食は数少ない楽しみだ」

 

そう嘯くと少女はガクッと体勢を崩した。呆れたように溜息を吐きながら額に手を当てる仕草を見ながら、狭間は中々面白いリアクションをする奴だと思っていた。

 

「人間らしくない奴ね。人間ならもっとあくせく働いて明日の朝日を拝めるか不安がってればいいのに」

 

そう言ってやれやれと肩を竦める少女を見て、狭間は鼻で笑った。

自分に向かってそんな言葉が出るのか、とでも言いたげな顔で笑われては流石に少女もムッとしたようだ。

 

「何よ」

 

「お前は人間らしいって言われて嬉しいか?」

 

「嬉しくないわね」

 

「ヘッ、そんならお互い様じゃねェか。それはそうとお前、こんな所で何やってんだ?」

 

「人を待ってるのよ。お前と違って暇じゃないの」

 

「ほーう、わざわざオレ様に絡んでくる程度には暇そうだがなァ?」

 

そう言ってムニムニと少女の頬を軽く引っ張る。もちもちとした肌が中々に良い感触だったが、ぺしりと腕を叩かれた。当然だ。

 

「いきなり何するのよ、全く……」

 

「もちもち」

 

「煩い」

 

頬を膨らませて少女が蹴りを入れようとするのをひらひらと避ける狭間。小馬鹿にした笑みを浮かべて鬱陶しい動きをしている。ムキになった少女が更に追撃しようとすると、少女の後ろから声が掛けられた。

 

「楽しそうじゃの」

 

「楽しくない!」

 

「オレ様は楽しいがな!」

 

少女はグッとサムズアップする狭間の親指を掴んで思い切りねじ切った。指はすぐに元に戻った。

 

「傍から見たら子供が近所のお兄さんとじゃれている、という感じだったがの?」

 

「誰がこんな奴とじゃれるか!」

 

「ヒヒヒ、ガキ扱いされてるのは否定しなくていいのかァ?」

 

「煩い、もうお前は黙れー!」

 

「ヒャッハー!黙らせてみなァ!」

 

「まぁまぁ、お前さんもそうからかってやるな。この子もまだ幼いからの」

 

「アンタまで言うか!?」

 

ぐぬぬと肩を怒らせしかめっ面になる少女。頬を膨らませて明らかに拗ねた様子は子供のそれだったが。

 

「ま、からかうのもこのくらいにしといてやるか」

 

「この野郎、後で覚えてろ!」

 

「これこれ、そんなにいきり立つと身体に悪いぞい?」

 

少女の連れらしい女性が少女の頭をポンポンと撫でると、少しは怒りが収まったようだ。まだ狭間を睨みつけてはいたが。

 

「この子も多感な年頃じゃからの、格好をつけてみたいんじゃろ。このくらいの年頃の子供はそういうものじゃ、わしにも覚えがある」

 

「忘れちまったぜ、思春期なんて言葉」

 

「アンタらどうあっても私を子供扱いするのね?」

 

抑えると見せかけて女性も煽りに行った。

 

「まぁそれは置いといてと。そろそろ行かぬか?」

 

「置いとくな!……はぁ、こいつに付き合ってたらそのうち血管切れそう。行きましょ、マミゾウ」

 

ケタケタと愉しそうに笑う狭間。少女がまた蹴りかかるが、今度も容易く躱される。それを見てマミゾウと呼ばれた女性もカラカラと笑う。暫くそうやっていると疲れたのか少女は欄干に体を預け、川に映った自分を見ながら溜息を吐いた。眉間に寄った皺が見えてまた殴りたくなった。

 

「アンタの相手してると本当疲れるわ……ってかなんでマミゾウまで一緒になってからかってるのさ」

 

「つまらなそうにしていたり気取った態度でいるよりも今のお前さんの姿の方が魅力的じゃからな。怒った顔も可愛らしいぞい」

 

「それ褒めてるの?」

 

「褒めとる褒めとる」

 

「……ふぅん」

 

どうやら嘘ではないと分かったらしい少女は心持ち機嫌を治したようだ。そこまで言うなら仕方ないかな、といった風に口元を歪める。後ろから背中を眺める立ち位置だった二人にはその笑みは見えなかったが、見ずとも分かる程度には機嫌を持ち直している。少女に見えないよう二人で肩を竦めると、少女が怪訝そうな声をあげた。

 

「あれって……」

 

「あん?どうした、何か面白いモンでも――」

 

狭間が言い終わるのを待たず、少女は欄干を乗り越えて川へと飛び込んだ。

 

「あ、オイ!?」

 

「どうしたんじゃいきなり……今日はそんなに暑いかの?」

 

首を傾げながら少女の様子を見ようと近づく。と、少女は勢いよく泳ぎだした。どこへ向かっているのかと目を向けると、少し離れた水面でパシャパシャと動く黒いものが見える。

 

「いや、アレは……おいおい、そういうことかよ!」

 

「全く、あやつも無茶をしおってからに……」

 

眼を凝らせばそれが子供である事がわかり、必死に手足をばたつかせている様子から溺れているのも見て取れた。いちはやくそれに気づいた少女は自ら飛び込んで救助に向かったのだろう。なんとか子供が力尽きる前にたどり着いた少女は子供をしっかりと確保した。が、子供はパニックになっているのか少女が落ち着かせようとしても暴れているようだ。

このままでは拙いというのは少女にもわかっているだろうが、子供を抱えた状態では岸辺から上がるというのも難しいだろう、マミゾウも少々慌てた様子で言った。

 

「いかんな、あのままでは二人共溺れてしまう。縄か何かを」

 

「オイ、これに掴まれ!」

 

そう声を張り上げ、狭間はウロボロスを伸ばした。多少距離があったが、ウロボロスはどこまでも伸びる。それこそその気になれば街一つ分伸ばすくらいは容易いのだ。故に多少離れていようと、目視できる距離にいる二人を巻き取る程度は容易かった。普段は中距離からの牽制が主目的故に先端に刃が備わっているが、今は救助が目的なので刃は付いていなかった。掴まれと言いつつ少女の右手に絡みつかせているのはからかいの種にする為かそれとも単純に少女の状態を考慮した故か。兎も角狭間はウロボロスを用いてあっさりと二人を救助する事ができた。マミゾウはおおー、と感嘆の息を吐きながら手をパチパチと叩いている。

 

「ったく、ガキがあんま無茶すんじゃねェよ。オレ様の手が届く距離だったから良かったものの」

 

「え、あれ手に含まれるの?」

 

「どっちかというと口かもな」

 

少女は無言で狭間に右手を擦りつけた。

狭間は無言で手刀を少女の頭に落とした。

 

「何をやっとるんじゃお主らは。ほれ、大丈夫か童よ?」

 

子供は若干放心気味だったが、どうやらウロボロスによって突然宙を浮いた事に驚いてるだけで特に傷もないようだった。それを確認したマミゾウは安堵の息を吐き、何故ああなったのかは分からんがこれに懲りたら事故には気をつけるんじゃぞ、と年寄りくさい口調のまま諭し、子供がコクコクと頷くのを確認し、朗らかに笑って子供の頭を撫でていた。

 

「うむうむ、子供は元気が一番じゃが怪我をしてしまっては元も子もないからの。では、わしはそろそろ……これ、いつまでやっとるか!」

 

ゴツリと鈍い音が響く。マミゾウが二人の頭にげんこつを落とした音だ。少女がきゃんと可愛らしい声を上げて頭を抑え、狭間がぐおぉと呻き声をあげて蹲る。ダメージの差がある所を見るに狭間が大人げないと感じたのだろうか。先程一緒になってからかっていたマミゾウも大人げないと思うのだが。

 

「うぐぐ……だってコイツが!」

 

「だってもなにもありゃせんわ。ほれ、そろそろ行くぞい。ではの、ご両人。わしらはこれで失礼させてもらうよ」

 

「お、おう。じゃァな」

 

ぽかんとする子供と苦笑する狭間を尻目に、マミゾウは少女を連れて立ち去っていった。マミゾウはさしずめあのガキの保護者かと呟き子供に目を向けると、首を傾げて不思議そうにしている子供と目が合った。肩を竦めて手を振り立ち去ろうとすると、子供が頭を下げてお礼を言った。狭間がウロボロスで助けたというのが分かっていたのだろうか。気にするな、子供はやんちゃでなんぼだと言い残して狭間も立ち去った。

 

 

 

「ってのが昨日だったよな」

 

「そうね」

 

「意外に早く再会したなァ」

 

「そうね」

 

「……面倒くせェなァ」

 

「そうね」

 

「お前それしか言えないワケ?」

 

「だってそうねとしか言えないもの。私としてもアンタを相手にするのはちょーっと面倒だし」

 

「オレ様に勝てるって思ってンな?」

 

「そもそもアンタにとっての勝ちって何よ?」

 

「そりゃお前鵺の退治に決まってるだろ」

 

「ふぅん」

 

「ってのは建て前だ。どうにかしてくれとしか言われてねェからな、鵺が都から去ればそれで依頼達成って事でいいだろ?」

 

「……本当、退治屋の台詞とは思えないわ」

 

屋根の上にいる“何か“から少女の声がする。狭間はウロボロスを携えて油断なく立っているが、その声にやる気は見受けられない。

 

「鵺は強大で滅ぼす事はできませんでしたが、痛手を与えて追い払う事はできました。向こう数百年は姿を現さないでしょう。そういう筋書きがお好み?」

 

「ま、それが一番楽でいいな。オレ様は寛大だからお人好しな妖怪まで殺す程見境ないワケじゃあねェ」

 

「誰がお人好しだっていうのよ」

 

「わざわざ川に飛び込んでまで人間のガキ助ける妖怪はお人好しだ。テメェにゃ利はないだろうに。なァ、お人好しのぬえちゃんよ?」

 

その“何か“は妖鳥のようでもあり、獣のようでもあった。十人に聞けば十人ともが違う答えを出すのではないか、そういう姿の存在だった。正体不明という言葉がこれほどしっくり来る存在も中々いないだろう。

その正体不明こそが、正しく鵺だった。そして昨日狭間にからかわれて怒った表情を見せたり、マミゾウに褒められて機嫌を良くしたり、川に飛び込んで人間の子供を助けてみせた少女こそが、大妖鵺だった。

その鵺は今、少女の声で狭間と会話をしながら溜息を吐いていた。正体不明の自分と話すどころかからかったり子供扱いをするなどというこのたわけた悪霊をどうしたものかと。暫しの沈黙の後、ぶすっとした声で鵺は呟いた。

 

「……仕方ないじゃないの。助けなきゃって、身体が勝手に動いたんだもの」

 

それを聞いて、狭間は笑みを浮かべた。昨日のような意地の悪い笑みではなく、例えるなら親戚の幼子の文句を聞くかのような、仕方の無い奴だなぁ、とでも言いそうな笑みだった。黒髪の少女の姿を取った鵺、もとい“封獣ぬえ”は、狭間の笑みを気色悪そうに見て身体を少し引いた。

 

「何よその顔は」

 

「やっぱテメェはお人好しだよ、妖怪向いてねェんじゃねェの?」

 

「……うるさい」

 

「ヒヒッ、こっからでも顔が赤くなってるのが見えるぜ?やっぱりガキだな、お前悪役向きの性格してねェな、悪ぶろうとして背伸びしてるだけだ」

 

「うるさいって言ってんでしょうがッ!いいわよ、お人好しで!元々明日には都を出るつもりだったもんね!」

 

「都出てどこ行くんだ?」

 

「どこだっていいでしょ!海の向こうでもどこでも行ってやるわよ!」

 

頬を膨らませてそっぽを向くぬえ。狭間はまた意地悪げな笑みを浮かべてぼそりと呟いた。

 

「ツンデレ乙」

 

「言葉の意味は分からないけど喧嘩売ってるのは分かったわ。相手になってやろうじゃないの」

 

「ククッ、ガキが無理すんなって。ほれ、さっさと行けよ。さっきのデカイ姿でいれば目立つから追い払ったって分かりやすいだろ」

 

「……そうするわ。アンタと戦り合いたくないのは事実だし、さっさとこことおさらばするか」

 

「オレ様もお前みたいなガキとは戦り合いたくねェな。ヒヒヒ」

 

肩を竦めて溜息を吐くぬえ。溜息吐くと幸せ逃げるぜと茶化され、誰のせいよと言い返す。

そもそも封獣ぬえという少女は、根本的に悪にはなりきれない。大妖ではあるが、狭間のように他人をからかうことこそあれど、誰かを傷つけるのを良しとしない。ぬえは狭間に、退治屋とは思えない台詞などと言っていたが、狭間からしてみれば妖怪とは思えない奴、というのがぬえへの感想だ。狭間自身は、霖之助や神玉との交流があった為にそういう奴もいると受け入れられたが、これが普通の人間、或いは退治屋ならどうか。まず演技であると疑われるのは間違いないだろう。よしんばその考えが信じられたとして、妖怪であると認められるかどうか。どちらにせよ、封獣ぬえという大妖が根は優しい、素直になれないだけの少女だというのは確かだ。せいぜいが悪戯っ子といったところか。

必要とあれば他者を傷つけるどころかその命を刈り取る事も厭わない狭間でも、目の前の彼女のような妖怪を自分の為に殺すというのは憚られた。損や得ではなく、プライドの問題だ。“このオレがこんなガキを利己的な目的の為に殺すなんてのは大悪霊たるオレ様のプライドが傷つく”、というのが狭間の言い分だった。物欲や金への執着が薄い狭間にとって、一時の名声や報酬よりも自分のプライドが大事なのだ。

 

「んじゃ、縁があればまた会おうや。次に会うのは何百年後か知らんが」

 

「そうね、今度会ったら真っ先にその腹ぶん殴ってやるから覚えておきなさい。……じゃあね、悪霊さん」

 

「あばよ、お人好しの大妖怪」

 

ぬえが飛び去るのを見届け、狭間は地上へ降りた。依頼主である帝と相棒に説明をする為の言い訳を適当に考えながら。

その後、大妖怪鵺を追い払った功績により狭間達はそれからも度々帝から依頼を回される事になった。無事帝からの信頼を得るという当初の目的も達成し、その上優しい妖怪を殺さずに済んだ狭間達は万々歳というところか。そうして狭間達はかぐや姫の依頼どおり、月からの使者がやって来るのを虎視眈々と待ちつつ、時が来るのをじっと待っていた。

そして暫くの月日が経ち――。



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3月中に間に合わなかった……


「あれから何年経ったっけ?」

 

「三年……いや四年だったか?最近時間間隔曖昧で駄目だな、これも長生きの弊害って奴か」

 

「あなた生きてないでしょう?」

 

「んじゃなんて言えばいいんだ?」

 

「……現界?」

 

「なんか違う気すんだよなァ……」

 

「……随分と余裕そうね、あなた達」

 

「余裕を持つに越した事はないわ」

 

「そうそう、そっちの連中みたいに脂汗流して怖がる趣味はねェしな」

 

「だ、誰が怖がっているか!」

 

「お前」

 

悪びれもせずにそう宣う狭間。言われた退治屋の男は顔を顰めて睨みつけているが、黄土色のフードを目深に被っている狭間は何処吹く風。そんな様子を見てかぐや姫と紫の二人は額に手を当てて溜息を吐く。

 

「一応協力体制なんだからそういうのは止めなさいな。後ろから斬られても知らないわよ?」

 

「ヒヒッ、んな度胸がありゃいいがな!」

 

「やめなさい」

 

言っても効かないのが分かっている紫はペシリと扇子で狭間の頭を叩く。軽く叩いただけに見えたが、妖力が込められており、基本的に物理攻撃が効かない狭間でも痛みに蹲る程だった。

 

「ってぇ……わーかったわかった、止めりゃいいんだろ、ったく……このくらいでカッカしてたらキリねェだろ、そういう隙を突くのは定石なんだ、慣れるに越したこたぁねェだろ」

 

「だとしてもよ。事を起こす前に要らないいざこざを起こすのは良くない……んだけど、あなたいつもそうだからねぇ……」

 

諦めたように溜息を吐く紫。

 

「この数年であなたの性格は分かってたつもりだけど……何もこんな時にまでそうしなくてもいいじゃないの……」

 

同じく溜息を吐くかぐや姫改め蓬莱山輝夜。姫の言うとおりだとしきりに頷く退治屋の者達。

今現在、彼らは姫の住まう屋敷に集まっていた。それというのも、いよいよ月からの使者がやってくる事が分かったからだ。ある日姫宛に届けられた手紙には、姫の贖罪は終わった、次の満月に迎えに行くというようなことが書かれており、翁や既に姫と懇意にしていた帝を青ざめさせた。その手紙には八意と名が記されていた。その八意こそ月の頭脳と呼ばれる存在なのだと姫は語っていた。帝は兵を集め、その使者を追い返そうと画策した。それに伴い、優秀な退治屋の面々も集められたのだ。兵が二千人ばかり、それと合わせて選りすぐりの退治屋が五十。これだけいれば月の民といえどもと彼らは笑う。だが、その笑いが精一杯の見栄なのは明らかであった。地上の人間を明らかに超えた技術力を持つ月の民を敵に回そうというのだからその畏怖も仕方ないのかもしれないが、戦う前からこれじゃ当てにならねェな、と狭間は独り言ちる。

 

「とりあえず頭潰すのが手っ取り早いか……いや、まずは雑魚を瞬殺してみるのもいいか」

 

「なんでいきなり殺意に塗れてるのよ?」

 

「……物の例えだ。指令役の奴を潰せばちったァ楽に戦りあえるんじゃねェかと思ってな。一番弱い奴を潰して戦意を挫くってのもよくある手だろ?……っつか、いくらオレでも会話くらいできるんですけどねェェ?」

 

「ああ、そういうこと……私はてっきりまたいつものかと」

 

納得したように頷く輝夜。心外だとばかりに狭間は肩を竦める。

 

「さ、お喋りはこれくらいにして。そろそろ準備するわよ、狭間」

 

「おう、任せろ」

 

そう言ってローブを翻し、狭間は屋敷の奥へと消えていった。紫はそこに座したまま何事か考えこんでいる。扇子を閉じては開き閉じては開き、視線は月に固定されている。輝夜は暫くそれを眺めていたが、邪魔しても悪いかと思い立ち上がり、他の退治屋や兵達に声を掛けて回る事にした。

 

 

そうして日付が変わろうかという頃、狭間は黒いコートを翻して戻ってきた。紫はチラリと眼を向けるとまた考え事を続けたようで、時折何かを描くように指を動かしている。隣に静かに座ると、狭間はポツリと呟く。

 

「そろそろですかねぇ」

 

「ええ」

 

紫も静かに返す。満月を見ると、小さな粒のような影が見えた。その影こそ、ここに向かってきている月の使者なのは明らかだった。

紫と翁は姫と共に家屋の中に入り、兵達と退治屋は屋外で待機し、月の使者を迎え撃つ体制を整えた。使者が近づいてくるに連れ、その数も把握できた。遠目から見ても別格な気配の女性が一人、他は大したことのない者が数人程度のようだ。最も、大したことのないと言っても狭間に取ってであり、他の退治屋や兵達には脅威であろうが。気圧されつつも兵達が各々の武器を構える。

しかし、弓を携えた銀髪の女性を中心にゆっくりと降下してくると同時、屋外にいた者は狭間を除いて全員が倒れてしまった。驚いた輝夜が思わず声を上げると、狭間は変わらぬ調子で返す。

 

「狭間!」

 

「私は問題ありません。が、これは……何かの薬でもバラ撒かれましたかね。生きてはいますが戦力としては期待できませんね。ま、元から宛にしてませんが」

 

「あら、地上の民ならこれで十分昏倒するはずなのだけど……おかしいわね?」

 

「おやおや、月の頭脳とやらにも計算ミスはあるようで。高い所から見下ろしてばかりいるからモノが良く見えてないんでしょうねぇ?」

 

口の端を歪め、毒々しく挑発する狭間。事前に輝夜から聞いた特徴から鑑みるに彼女が月の頭脳こと八意永琳なのだろう。狭間の言葉にさほど反応も見せず、八意永琳は顎に手を当ててブツブツと呟いていた。

 

「……なんですかねぇ、もしかして聞こえてません?やだなぁ、若々しいのは見た目だけって事ですか?」

 

「……随分と舌が回るのね。貴方、何者?」

 

「はて何者と言われましても私は私、それ以上にも以下にもなく」

 

「……今の地上にはこんなのがウヨウヨいるのかしら。ちょっと鬱陶しいわね」

 

そう呟いて弓に矢を番えようとすると、取り巻きの月の民が永琳の前に躍り出た。

 

「八意様、下賤な地上の民如き私めで充分にございます。この者は私にお任せを」

 

「そう。お好きなように」

 

その月の民は羽衣を纏っていて、武器も短刀を一つ腰に着けているだけのようだった。何か隠し玉があるのかと警戒したのは紫のみで、狭間には目の前の男は本気でその短刀でどうにかできると思っているようにしか見えなかった。

 

「……はあ。月の頭脳とやらは兎も角、取り巻きの雑魚がこれじゃあ月の民とやらもたかが知れてますね。あ、もしかしてわざと弱いのだけ連れてきました?それなら納得納得、有能な者が無・駄・死・にしても困りますからねぇ?」

 

「なんだと貴様ァ!」

 

「あらら、怒っちゃいました?そうですよねぇ、いくら木っ端のようなお馬鹿さんでも自分の弱さを晒されるのは嫌でしょうからねぇ?」

 

「貴様……これが見えんのか!?」

 

そう言って男は短刀を抜き放ち、狭間に向けて驚かすように向けられた。どうでもよさそうな顔をしながら狭間は笑う。

 

「見えますよ、チャチな玩具がね」

 

「フフン、減らず口もここまでだ。安心しろ、殺しはせん。少し眠ってもらうだけだ」

 

狭間の思惑通り、挑発に乗って怒った男が短刀を狭間に向かって突き出した。殺しはしない、と言っていた割には殺意が出ているような気もするが、突き立てたと思っているのは男だけなので問題はないだろう。実際にはその短刀は刺さりもせず、ウロボロスの顎であっさりと止められているのだ。

 

「フン、所詮穢れた地上の」

 

「あ、もういいんで黙っててください」

 

「たガッ!?」

 

得意そうな顔をして何事か宣っている男の顎に蹴りを入れ、ついでに爪先に引っ掛けて邪魔にならない位置へと吹き飛ばす。男は一撃で昏倒したようで、ピクリとも動かない。

 

「あらら、だーいじょーぶでーすかー?まさか月の民ともあろうものがあんな軽く蹴られただけでおねんねとは……些か過大評価しすぎでしたかねぇ?」

 

永琳以外の月の使者は、ぽかんと大口を開けたまま呆けていた。仲間があっさりとやられた事に動揺が隠せないのだろう、吹き飛ばされた仲間の方へ視線を向けたまま固まっている者もいた。そんな大きな隙を晒している者は皆同じように狭間に蹴り飛ばされてあっさりと沈められた。瞬く間に取り巻き達がやられても、八意永琳だけは顔色一つ変える事がなかった。

 

「で、あなたもやるんです?力づくで姫を連れて行くっていうんなら相手になりますよ、それが依頼なので」

 

「……いいえ、戦闘の意思はない……と言いたい所だけども」

 

いつの間にか番えていた矢を狭間の頭に向け、月の頭脳は静かに呟く。

 

「彼らとて曲がりなりにも月の民。唯の地上の人間如きにどうにかできる程柔ではないはず。それに貴方、最初に私が散布した薬も効いていないようね。一応あれは人間が僅かでも吸えば即座に意識を奪う、殺さずに無力化するのにもってこいの薬品だったのだけれど」

 

「あぁ、それなら簡単ですよ。吸ってませんから」

 

「呼吸をしていないと……?……自分は神だから、とでも言うつもりかしら?」

 

「神?」

 

キョトンとした顔をした狭間は、一種の間を置いてクックッと喉を震わせて笑いだした。その不気味な気配に気圧されたか、それとも単に警戒しただけか永琳は数歩の距離を開ける。

 

「神……神と来ましたか、フッククク……」

 

蛇のような眼を見開きながら狭間は低い声で呟いた。

 

「私はね、神というものが嫌いなんです。農耕の神とかそういうのならまだいいんです。でもね……こう、例えるのもなんですが聖書に出てくるような唯一神とか、ああいう傲慢な手合いが大嫌いでして。自分を最上位に据えてそれ以外を貶めたり自分の信徒だけに良い顔をするようなカミサマって奴が嫌いなんですよ」

 

「……理由を聞いても?」

 

「神話なんか見てても結構マッチポンプが多いじゃないですか、神ってのは。横暴だったり傲慢だったり……いやまぁ、一概には言えないってのは分かりますよ?でもねぇ……どうしても思ってしまうんですよ」

 

そこで言葉を切り、月を見上げると一段と低い声で呟いた。

 

「全知全能のカミサマとやらはなんで救える筈のモノを救わねェんだ、ってなァ。カミサマがもっとしっかりしてりゃァ今オレがこうしている事も、アイツがこんな目に遭う事もなかっただろうによォ!だからよ、八意永琳だったか?神なんかとオレ様を一緒にするんじゃァねェよ」

 

「貴方……霊なのは気づいていたけども、これは……」

 

「あァ?どうかしたのか月の頭脳さんよォ」

 

密かに永琳は冷や汗を流していた。確かに狭間は脅威ではあるが、自分が全力を出せばどうにかできる範疇だ。八意永琳はそれ程の力を持っていた。

故に狭間の異質さに気づいた。唯の悪霊の持ち得る悪意や怨念では、これほどドス黒い気配を放つ事はないだろう。その時点で規格外の霊だということは把握できた。問題なのはそこではない。

月の頭脳とも呼ばれる程の八意永琳をして驚愕せしめるのは、狭間がこれ程の怨念や悪意を内包してなお、その奔流に飲み込まれていない事である。例えば低級な霊は殆ど自我を持たず生前の行動を繰り返したり、命を落とした場所に留まっている。ある程度格の高い霊でも、それが悪意ある霊なら誰かを道連れにしようとしたり、文字通り悪霊と言える行動をする。彼らがそうしているのは、自身の感情に飲み込まれているからだ。だからこそ、そこから掬い上げて諭す事で成仏させたりその感情の奔流ごと滅する事で退治ができるのだ。

しかし狭間は、常人ならまず間違いなく飲み込まれ、吹き荒れる嵐となるであろう感情を制御しているばかりか自分の力としている。悪意を以て敵から某かを奪い、怨念によって存在を固定化している。もし本気で相手をするとなったら、常に精神を貪られるかのような感覚に耐えつつ戦わねばならない。いくら蓬莱人とはいえ、核である魂を潰される、或いは喰われる可能性を考慮すると月の都を度々襲撃する彼女よりも遥かに厄介だ。他の悪霊とは一線を画す、というような優しいものではない。月の頭脳をして規格外と言わざるを得ない怪物だ。例え月の科学力を用いた兵器を持ち出したとしても、この存在を完全に抹消できる未来が全く見えない。これでは最早悪霊などではなく――

 

「邪悪の結晶……邪霊とでも呼ぶべきかしらね、これは。貴方、本当に元人間?」

 

「ええ、元人間でしたとも。で?私の正体か何か、分かりました?」

 

「貴方は危険だという事が良く分かったわ。それも、ここでどうにかするより関わらない方が懸命だということも」

 

「……自分で言うのもなんですが、そこまで警戒する程ですか?私からすれば貴方も敵に回さない方がいい類の相手なんですよ」

 

「なら、今のこの状況は何かしら?」

 

「私はこう見えてもお人好しなのでね、友人からの頼みとあらば可能な限り聞き入れてやるのが人情ってものでしょう?」

 

「……霊が人情を語る時代なのかしら。なら、輝夜と話がしたいからそこをどいてちょうだい」

 

「だそうですが。どうします?」

 

顔を向けずに声を張り上げる狭間。少しの間を置き紫と帝が傍に付きながら、輝夜はゆっくりと歩み寄ってきた。二人は明らかに警戒していたが、輝夜は警戒というより、申し訳ないといった浮かない表情だった。一緒に月に帰ろう、そう話すつもりだったけどこれは断られるだろうな、と永琳は少しだけ悲しそうな顔をした。狭間でなければ分からない程度のごく小さな変化だったが、輝夜にも何となくそれを感じとる事ができた。短くはない時間を共に過ごしてきたからだろうか。

 

「……姫。やはり、私と共に月に戻る事はできませんか」

 

「……ええ。私はこの地上で過ごす内に、いつの間にか情を抱いてしまっていた。……確かに地上の人々は月の民と違って寿命がある。それでなくとも蓬莱人となっている私は、いつか彼らに置いて逝かれるのは分かってた。だから情なんて抱けない、抱いてはいけないと思っていたの。なのに、月の民が穢れていると断じるこの地上をどうしようもなく愛してしまった。愛してしまったのよ、永琳」

 

「……」

 

恋情を告白する少女のような表情で輝夜は語る。

 

「私達が無くしてしまった何かを、地上の人々は今も持っているの。……人間の生は短い。短いからこそ、一瞬の輝きが美しいのよ。まるで闇の中の一筋の閃光のような、その命の輝きに魅せられてしまった私はもう月に戻る事なんてできない。できないのよ、永琳」

 

「姫……いえ、輝夜。貴女が地上に残るというなら、私も残ります。貴女は贖罪が終わったけれど、私は罪を贖っていない。だから……ううん、詭弁はやめましょう。貴女の言う命の輝き、私も見てみたい。それに、また貴女を一人にしたくない、する訳にはいかない。ごめんなさい、輝夜。貴女だけに罪を押し付ける形になって、貴女が月から追い出されるのを止められなかった。ずっと悔やんでいたけど、ようやく伝えられる……お願い、輝夜。貴女の傍に居させて」

 

「永琳……」

 

ぎゅっと、輝夜が永琳を抱き締める。少し驚いた顔をしたものの、永琳は特に抵抗しなかった。

 

「謝るのは私の方よ、永琳。そもそも私が蓬莱の薬を作ってなんて永琳に頼んだのが全ての始まりじゃない。地上に来たのだって元々望んでいた事だし、貴女が謝るような事なんて何もないわ」

 

「輝夜……私は、あなたの傍にいてもいいの?」

 

「勿論。なんなら嫌でもいてもらうわよ」

 

そう言って輝夜が見た目相応の笑みを浮かべると、永琳も釣られて薄く笑みを浮かべた。おずおずと輝夜の背に腕を回すと、遠慮がちだがしっかりと抱き返した。

 

「でも輝夜、貴女がここに居続ける事は難しいわ。ここは既に月にバレているから、追手が来る筈。今すぐにこの地を離れるべきなのよ……」

 

「そう……よね。やっぱり、もうお別れしなきゃいけないのよね」

 

輝夜が寂しげに俯くと、帝は悲しげに顔を歪めた。引き止めては輝夜の為にならないと分かっているからこそ、何も言えなかった。自分が喚いても、兵を掻き集めても、先程いとも容易く月の民数人を戦闘不能に追い込んだ狭間の力を借りたとしてもどうしようもないのだと、帝は悟った。輝夜の言う通り、もう別れの時なのだ。

 

「……永琳、せめて皆に別れの挨拶をさせてちょうだい。何も言わずに去るのは、嫌」

 

「分かっていますとも。私もやることがあるから、しっかりと伝えてきなさい。……ごめんなさいね、輝夜」

 

「もう、さっきから何回目?謝るの禁止するわよ」

 

寂しげではあるものの、確かに輝夜は笑顔だった。別れが寂しくない訳ではない。辛くない訳でもない。辛いからこそ、寂しいと思うからこそ、笑顔で去りたいと輝夜は考えていた。今まで、この地の人々に沢山の笑顔を貰ったからこそ。

帝と共に、輝夜はゆっくりと地を踏みしめ、皆の所へ回っていった。その背を眩しそうに見た後、永琳は狭間に向き直った。

 

「貴方にも謝らないとね。地上の民だと見下した物言い、ごめんなさい。それと……あの娘と仲良くしてくれていて、ありがとう。……また、どこかで会えるといいわね。そうしたら、きっとあの娘も喜ぶわ」

 

「……まっ、そうですね。個人的にはそこまで嫌なタイプじゃないですし。せいぜい再会を楽しみにさせてもらおうじゃないですか。さ、行きますよ紫」

 

そう言って紫に向き直る狭間。紫からの返事はない。

 

「……紫?」

 

再度声を掛けるも返事はない。様子がおかしいと察した狭間は紫の肩を掴んで軽く揺さぶる。

 

「おい紫……紫!」

 

何度も呼びかけるが、返事はない。紫は青白い顔で、何かを思いつめるような表情だった。

 

「おい……チッ、おい……メリー」

 

メリー、と小声で呼びかける。懐かしい名だ、と僅かな感傷に浸るが、そんな場合ではないと思い直す。

先程よりも小さな呼び掛けだったが、果たして紫は反応した。

 

「あ……狭間?ごめんなさい、少し考え事をしていたわ」

 

「考え事ってお前……顔真っ青だぞ。大丈夫かよ」

 

狭間は珍しく焦っているようだった。紫も大妖怪として大成してきて、こんな状態に成るのはここ数百年で一度もなかったほどだ。それ故に紫の状態は狭間に取って見過ごせない程酷いものだった。

 

「大丈夫……大丈夫だから。心配しないで」

 

「……大丈夫なら、大人しく休んどけ」

 

ポスンと自分の帽子を紫の顔に被せ、ぶっきらぼうに言う。紫からは見えなかったが、永琳には狭間がとても心配そうな顔をしているのが見えた。逆立った髪も心なしか力を失っているようだった。

 

「体調が悪いなら適当な薬を処方するから、欲しいなら私達が発つまでに言ってちょうだい」

 

「ああ、悪いな。ほれ紫、とりあえず横になってろ。歩けるか?」

 

「大丈夫だってば。まったく、心配性ね」

 

「んな死人より青い顔されてたらいくらオレだって心配するっつの」

 

そう話しながら歩いていく二人を見送ると、永琳は踵を返して歩き出した。向かう先は、他の月の使者達が吹き飛ばされた方向。狭間は全員を同じ方向に向けて蹴り飛ばしていた。これからすることを思えば、若干ありがたく感じる。

人目につかない位置までやってくると、使者達の姿を探す。が、どういう訳だか一人も見つからない。

 

「おかしいわね……全員気を失っていたなら動く筈はない。一人でも目が覚めていたなら他の者を起こすなり私の下へ戻ってくるなりする筈」

 

永琳が連れてきたのは、月の民の中でも特に傲慢で、今回連れ帰る対象であった輝夜に対しても、罪人が月の都に戻ってくるな、など散々罵倒しているような連中だった。それだけでも許しがたい事だったが、彼らはそれに加え他者を貶めたり足を引っ張るような行動が目立つ、分かりやすく言えば厄介者達だった。

実を言うと、永琳は始めから月へ戻る気などなかった。月は最早自分がいなくとも回っていく。自分にばかり頼っていては、何らかの事情によってその頼りがいなくなった場合、どうにもできなくなる。自分の重要性を理解している永琳は、だからこそ月から去る事にした。このまま八意永琳という個人に頼りきりでは月は永い永い年月を掛けて腐っていくだけだと思ったから。既に教えを授けた弟子達も頭角を現し始めている。だから、永琳は彼女達を信頼して身を引く事にした。

彼らを連れてきたのはついでに不安の芽を摘み取る、その程度の理由だった。彼らを殺害する事で八意永琳を明確な離反者と理解させる為、そして月の膿を始末する為。故に永琳は明確な殺意を持って、彼らを探している。輝夜や弟子達の未来と天秤にかける必要もないほど、永琳は彼らにとって何も感じていなかった。

だが、その殺害対象がいない。これはどういうことだ、そう永琳が呟くと同時、ほんの僅かな血の匂いが鼻をついた。

 

「……向こうね」

 

音を立てないよう静かに匂いの元まで走っていくと、そこにいたのは一人の男だった。黄土色のローブを纏っていて、覚えのある気配の男。

 

「待ちなさい」

 

「あん?」

 

声に振り返った男の顔を見て、永琳は戸惑った。先程紫と一緒に歩いて行った筈の狭間と全く同じ顔だったからだ。

 

「よう月の頭脳さんよ、何かお探しかい?」

 

「貴方……さっき向こうにいなかった?」

 

戸惑いと警戒を含んだ疑問に対して、狭間は肩を竦めて答えた。

 

「向こうにいるのもオレ様で、ここにいるのもオレ様だ。どっちも正しく狭間だよ」

 

「……分霊、のようなものかしら?興味深いけど……今はそれよりも、他の月の使者を探しているのだけど知らない?」

 

「月の使者?ああ……」

 

探している理由を言わずに問いかけると、狭間の身体に黒い蛇状の怨念が纏わりつき、血のように紅い舌をチロチロとさせながらそこから声を発した。

 

「食っちまったよ、一人残らずな」

 

「……食った?」

 

「ああ、ごっそさん」

 

酷薄な笑みを浮かべて嗤う狭間と対照的に、安心したというような笑みを浮かべて笑う永琳。

 

「そう、ありがとう。始末する手間が省けたわ」

 

「ってーと、わざと弱いのを連れてきたってのは間違ってなかった訳だな」

 

「ええ。いても他者の邪魔をするだけ、研鑽を積むでもなく誰かに媚びへつらい、その誰かがいなければ陰口を叩く。これからの月には必要のない膿よ」

 

「……膿なんざ食っちまったのかオレ。吐き出そうかね」

 

うげぇ、という顔をする狭間。思わず吹き出すと、狭間はローブを目深に被り背を向けた。

 

「……お前に一つ聞きたい事があるんだ」

 

「……何かしら。私に答えられる事ならいいけど」

 

「月の頭脳なら知ってるんじゃないかと思ってな……未来に行く方法はないか」

 

「……何故かは聞かないでおくわ。可能よ。理論上は、という但し書きが付くけれども」

 

「……理論上か。卓上の空論ってワケか?」

 

「少なくとも私は未来に行った事はないもの。同様に過去に行った事も。でも、だからと言ってそれが不可能な理由にはならない。可能性がゼロではない以上、理論上は可能というだけなのよ」

 

「……そうか。残念だ。だが、希望はあるって事は分かった。それで充分だ」

 

「そう……ごめんなさい、あまりお役に立てなくて」

 

「謝ってばっかだなお前……気にすんな。それよりオレはもう戻るぜ。ああそうそう、紫は薬要らないって言い張ってるが一応風邪薬みたいなもんもらえるか?」

 

「はいはい。えーと代金は……どのくらいが相場かしら?」

 

「金取るのかよオイ」

 

「勿論。これから旅をするにもお金が必要だもの」

 

「……ちゃっかりしてんなァ」

 

がくっと項垂れると、屋敷の方へ向けて歩き出した。永琳もそれに続く。

屋敷へ戻ると同時、ローブを纏った狭間は姿を消した。入れ替わるように黒コートに帽子を被った狭間が歩いてくる。

 

「ほら、前払いです。これだけあれば暫くは大丈夫でしょう」

 

「あらありがとう。貴方、そうやって紳士的にしてる方が女性に好かれるんじゃないの?」

 

「生憎とそんな欲は数百年以上前に忘れてしまいましたよ」

 

「あら、あの紫って妖怪と仲睦まじくしているようだったけど?」

 

「……そりゃ、彼女には恩がありますからね」

 

「……そうらしいわね。でも、たまにはそういうの抜きでも接してみてもいいんじゃない?」

 

「はぁ?ちょっと、そりゃどういう……」

 

言い終わる前に永琳はスタスタと歩いて行ってしまった。なんなんだと首を傾げながら紫の所へ戻ると、ちょうど輝夜がやって来る所だった。瞳の下に涙の跡が残っていたが、狭間はそれには触れなかった。

 

「狭間」

 

「ああどうも、どうかしました?」

 

「もう皆に別れの挨拶をしたけれども、出発する前に貴方にもお礼を言っておこうと思って。貴方のおかげで初めて友達ができた。この数年間、本当に楽しかったわ。最初は怪しい人だって思ったけど、本当は優しい人だっていう事が分かった。ぶっきらぼうだったり皮肉を言うのは、心配している姿を見せたくない気持ちの裏返しだっていうことも。狭間、本当にありがとう。いつか、また会いましょう」

 

「ええ、また……ってかなんでそんなに高評価なんです!?ムズ痒くなるからやめてくださいよ!ああ、鳥肌が!」

 

「……そういうとこ、相変わらずね。褒められるのに、いえ……人の好意に慣れてないからついそういう反応をする。案外子供っぽい所もあるのよね」

 

「だぁー!もう、行くならさっさと行ってください!ほら、しっしっ!」

 

「ふふっ!別れの時も湿っぽくさせないのはそういう空気が嫌いだからかしら?……さよなら、狭間。またね」

 

「……ああ、またいつか」

 

多くの人々が悲しむ中、輝夜と永琳はどこかへと旅立っていった。人目もはばからず号泣する翁、静かに涙を流す帝。陰のある顔ではあったものの、別れを惜しみ笑顔で送る紫。そして狭間は、珍しく、本当に珍しい事に誰かを嘲る類ではない、心からの笑みを浮かべていた。



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「……いってェな、オイ。生きてるか?」

 

「……なんとか……」

 

「一応ね。で、あの子は……いないみたいね。最初からこれが目的だったのかしら」

 

地面に転がっているのはいつもの黒一色の衣装を纏った狭間。その上に折り重なるように、紫と男が倒れている。山を下りようとした際、一人の少女に突き飛ばされて三人は山道を転げ落ちていったのだ。咄嗟に狭間が自分の身体を使い、二人の身体を覆い込むようにして守った為二人に大きな傷はない。狭間もその程度で支障が出るような身体ではなく、ピンピンしている。やがて勢いが弱まり、今ようやく滑落が止まった所だ。二人がどくのを待って立ち上がると辺りを見回す。紫の言葉通り、件の少女はいない。男が持っていた荷物と共に、消え失せていた。

 

「さてな。直接聞かねば分からぬだろうが、既に影も形もないときた。……やれやれ、帝に何と言って報告すればよいのだ」

 

「オレ達も説明しなきゃだよなァ……ああメンドくせェ、やっぱりアイツ殺してすぐさっさと下山しておくべきだったか」

 

「今更そんな事を言っていても何も変わらないわよ。兎に角今は都に帰りましょう、二人とも」

 

三人がこうして重い身体を引きずりながら帰路に着く数時間前――

 

 

 

「蓬莱の薬?」

 

「ああ、永琳が残した不老不死の薬らしい。使わないのが分かっていても、もしかしたら……って思ったのかもな。で、案の定輝夜に会えないのでは意味がないといって受け取り拒否だとよ。その薬を処分する為に霊山の火口に投げ入れて来て欲しいって依頼だ」

 

「山の火口にねぇ。映画であったわね、そういうの」

 

「ありゃ確か指輪だったか?道中で一大スペクタクルが巻き起こる訳でもねェだろ。それにいざとなったらオレ達だけで空路で運べばいい……と言いたいところなんだが、帝直属の者に運ばせるから護衛だけでいいそうだ。運んで処分するのもオレらだけでいいのによ」

 

「まぁ、そうしたら事情を知らない者がとやかく言うんじゃないかしら。途中で逃げて自分達が飲んで不老不死になるつもりだー、とか言って」

 

「無為に不老不死なんざ得たって一銭の得にもならねェっつの。人間辞めて初めて浅ましさが分かるっつゥのもなァ」

 

「……そうねぇ、人間なら兎も角私達が飲んでもあまり意味はないものね」

 

何か引っかかるものを感じた狭間は一瞬眉を顰めたが、直ぐにそれを消して言った。

 

「んじゃ、依頼受諾してくるぜ。それと……調子悪いなら言えよ、オレ様一人でも充分なんだからな」

 

「はいはい、私は大丈夫だからいってらっしゃい。……全く、心配性なんだから」

 

親しい仲でなければ分からない程度だが、微かに心配そうな顔をした狭間は帝の所に戻ろうとローブを翻して歩き出す。その背を見つめながら、紫はポツリと呟いた。

 

「……人間なら、か……そういえばあの子は、もし不老不死になれる薬があったら飲むって言ってたっけ……」

 

 

数日後、蓬莱の薬の運搬を任されたという男が挨拶に来た。男は岩笠と名乗り、ある程度の事情を知っている事を語った。岩笠と共に都の外へ出ると、岩笠の部下が数人壺と共に待っていた。部下達は狭間と紫に怪訝な眼を向けたが、岩笠に二人の立場を説明されると、幾人かはそれを改める。が、「そこらのごろつきと変わらん癖に」と呟いた者が居たのを、二人は聞き逃さなかった。帽子に手を当てつつ、あまり歓迎されていないようで、と狭間が冗談めかして言うと、岩笠は部下の非礼を詫びた。岩笠はある程度は信用できるな、と考えた狭間は気にしていないと告げた。

 

さて、到着までに数日掛かったものの、山までは大したアクシデントもなくたどり着く事ができた。問題はその山道だ。当然ながらこの時代、道がアスファルトで舗装されたりはしていない。つまるところ例え荷車を引いて進むにも道がデコボコしていたりして非常に進みづらい。薬の入った壺が落ちたりしないようにしっかりと抱え込みながらゆっくりと坂を進み、獣が飛びかかったり妖者がちょっかいをかけてこないよう気を配る。困難というよりも、ひたすらに面倒なのだ。そもそも登山という形式上、この霊山の急な勾配を進まなければならない。そう簡単に身の危険が訪れない狭間達と違い、岩笠達はふとした弾みで命を落とすかもしれない恐怖に怯えているのかもしれない。そういったところも含め、こんなのよりも暴れまわっている方が気が楽だ、と狭間は周りに聞こえないようにぼやく。狭間にこういった事は向いていないと思うのだが、と紫は呟く。しかし、考えてみればあの頃からずっと紫を護ってきたのだ。向いていなくとも、面倒であろうとも。なんだかんだ言ってやると決めたなら最後までやり通す男だ。狭間のそういった所を、紫は何となく嬉しく思っていた。

 

ある程度山を登ると、段々と木々も低いものばかりになり、更には植物すらなくなって岩ばかりとなっていった。身を隠す物が殆どなくなりようやく。事ここに至って狭間はようやく、背後を尾行している何者かの存在に気がついたのだ。最初こそ警戒していた狭間だが、その何者かが少女だと気づくと、加えて言うなら妖怪の類ですらないただの人間の少女だと気づくと、チラチラと気がかりそうな表情で背後を伺うのだった。トゲトゲした態度を見せつつもなんだかんだ子供に甘いのがこの男だ。普段の依頼でも子供の妖怪などは殺したがず、追い払って済ませる。これがあの傍若無人な蛇だったか、と笑い転げたくなるくらいだ。

そして、そんなに分かりやすく気にするものだから紫や岩笠も気づいてしまった。

それは山を八合程登った頃だった。

疲れ果てて座り込んでしまった少女の下まで引き返した岩笠は、水を彼女に手渡した。少女は酷く驚いた様子だったが、ごくごくと心底安心したように水を飲み干した。岩笠は静かに、笑顔でそれを見ていた。そしてその少女を連れ立って戻ってくると、部下を鼓舞しながら先へ進もうと促す。兵士達と励ましあいながら、狭間はいつもの軽い調子で主に紫と少女の空気を和ませ、ゆっくり、着実に山頂へと進んでいって。

やがて一同が疲労困憊ながらも山頂にたどり着くと、岩笠は兵達に命じて壺を地面に置き、紐を括りつけ始めた。少女は不思議そうにしながら、何故わざわざここまで登ってきたのかと岩笠に尋ねた。

 

「勅命である」

 

短い言葉だったが、岩笠は少女の問いにはっきりと答えた。すると少女は自嘲した。自分は山賊で貴方達を付けていたが、とんだ失態を見せてしまったと。兵達や狭間は笑っていたが、狭間はその貼り付けた笑みの奥で薄く眼を見開いていた。

そして火口に壺を投げ入れる為兵達が近づいた時、それは現れた。

 

「その壺を火口に入れてはいけません」

 

静かな口調で恫喝したそれは、火口で燃え尽きるのではないかという儚さとこの世のものならざる美を纏っていた。その女神は咲耶姫と名乗り、この山の噴火を沈める女神であると言う。兵達は動揺し、ひれ伏す者すらいた。そんな中、紫は扇子で口元を隠しつつ袖に仕込んである札に意識を向け、狭間は見るからに不機嫌そうな顔に変わっていた。

しかし岩笠は動揺することもなくはっきりと女神に向けて言い放った。

 

「私は壺をこの霊力のある神の火で焼かなければならない。これは帝の勅命である」

 

それに対し、咲耶姫は儚げな、しかしはっきりとした軽蔑の視線で彼を射抜いた。

 

「その壺をこの山で焼かれてしまうと、火山はますます活動を活発にし、私の力では負えなくなってしまうでしょう。その壺は神である私の力をも上回る力を持っています。貴方達はその壺に入っている物がどのような物なのか理解しているのでしょうか?」

 

兵達は沈黙した。狭間達はてっきり、兵達にも中身が知らされているものだと思い込んでいた。信頼できる者だけを遣わせたのだろうと。だがそれは岩笠だけで、兵達は中身の事など何一つ知らされていなかったのだ。

 

「その壺に入っている物は」

 

と、咲耶姫が言うと、岩笠はそれを静止した。言ってはならぬと。しかし咲耶姫は、ここまで担いできた兵士達には知る権利があると言い、その中身を暴露した。即ち、お前達がここまで運んできたのは不老不死の薬だと。

兵達と少女は動揺した。理由は様々あっただろうが、全く動じていない狭間達を見ると問い詰めた。知っていたのか、と。

 

「知っていました。それが何か?服用する者のいない薬なんて毛ほどの価値もないでしょう、それを処分するだけの話ですよ。むしろ何故貴方達が知らなかったんですかねぇ。余程信用されてなかった、とか?」

 

狭間がそう言い放つと、何人かの兵は何事か叫ぼうとした。それを先んじて制するように、岩笠は壺に近寄って壺を焼却しようとした。しかし、いくらやっても火が付く様子はない。狭間がギロリと咲耶姫を睨みつけると、女神は声を立てずに薄く笑った。狭間が舌打ちして苛立たしげにその辺に転がっていた石ころを蹴りとばすと、岩笠は仕方ないからこの場で一晩過ごしこれからのことを考えようと発言した。皆の精神状態を案じたのだろう。狭間は一瞬逡巡したものの紫や兵達が賛同すると渋々従った。皆で円陣を組み、中心に壺を置く。狭間が不寝番を申し出ると、何人かの兵も自分も不寝番を務めると言った。寝ている隙に狭間に取られるのではないか、とでも思ったのだろうか。先の彼の発言を聞いていれば、彼が心底不老不死に価値を感じていない事が、或いはその薬によって齎される利益について考えようという意思すら湧かない程興味がないことが分かるだろうに。

少女が何故、不老不死の薬をわざわざこの山に上ってきて処分しようとしているのか、と聞く。岩笠は重苦しい声で語りだし、兵達はそれに耳を傾けていたが、狭間は火口に鋭い眼を向けたまま押し黙っていた。

睡眠を必要とせず精神的になら兎も角肉体的な疲れとは最早無縁な狭間を除き、少女や紫達も次第に眠っていった。

 

 

そうして殆どの者が寝静まり、狭間と他に僅か一人だけが不寝番として壺を眺めていた時。

狭間は殺気を感じ、咄嗟に紫と少女、ついでに近くにいた岩笠を自分の身体で覆い包んだ。瞬間、唯一目覚めていた兵が力の奔流に飲み込まれた。兵は悲鳴を上げる間もなくその神力に焼き焦がされ、屍となった。ついで他の寝静まった兵達にもその力が降り注ぎ、あるものは腹に大穴を開けられ、あるものは身体の四割を失い、またあるものはバラバラに砕け散った。その神力の雨は狭間にも容赦なく襲い掛かり、その怨念の一部を塵と変えられた。帽子はどうにか無事だったが、お気に入りの服に穴がいくつも空いてしまった。激昂した狭間が憎々しげに目を見開きながらこの惨状の犯人を睨みつけると、血を吐くような声で叫んだ。

 

「クソがッ!だから神ってのは嫌いなんだ!平気で人を切り捨てやがる、これが神のすることか!」

 

「悪霊が神の是正を問うのは滑稽ですね。私は争いの種を無くそうとしているだけですよ」

 

「その為にガキまで殺そうとする神なんざ誰が求めるってんだ?」

 

「放っておけば彼らは不老不死の薬を巡って争う。人間は浅はかで欲深い。いずれ薬を自分のものにしようと殺し合いを始めていたことでしょう」

 

「ハッ、起きてもいねェ事を憶測で言いやがる。仮にそうだとしても、わざわざ皆殺しにする必要があンのかァ?」

 

「貴方がいなければ、そこの男と少女は見逃す予定でした。あの薬をここに捨て置かれても困りますから、八ヶ岳にでも持って行かせるつもりでしたとも。他の者は生憎と信用できませんでしたので」

 

「つまり紫は見逃さねェって事だな……なら、オレ様がテメェを殺る理由は充分だ!」

 

狭間がそう吐き捨てると、咲耶姫は嫌悪感を顕に顔を顰めた。

 

「私が貴方を滅する理由も充分だということをお忘れなく。穢らわしい悪霊が、よくもぬけぬけとこの私の前に顔を出せたものです。貴方がここにいるだけでこの霊山が穢れてしまう」

 

「嫌なら出てくんじゃねェよワガママ駄神」

 

「さっさと絶えなさい悪霊」

 

これ以上言葉を交わす気はないとでも言うように、咲耶姫は神力を弾幕状にして放った。自身の一部を切り離し、盾代わりにと未だ眠っている三人を護る形にすると、狭間はひょいひょいとステップを踏んでその弾幕を回避しつつ咲耶姫に近づき始める。

 

「ケッ、引きこもりのクソ駄神にオレ様が滅ぼせるかよ」

 

「減らず口を。貴方とてこの私を滅ぼせるものですか」

 

「できるさ。オレ様だからな」

 

「言葉も解さぬ獣が……疾く去ね!」

 

憎々しげに端正な顔を歪めると、咲耶姫は神力の一部をレーザーのように集束させ、それを何本も狭間に向けて解き放った。それは狭間の持つナイフに当たると、彼が愛用していた得物を一瞬で砕いてしまった。咲耶姫は一瞬で融解させるつもりだったのか、眉間の皺が更に深くなったが。

 

「随分上等な得物を持っているのですね、悪霊の癖に」

 

「テメェこそ引きこもりにしちゃァよくやるじゃねェか……だが、オレ様の武器がこれだけと思うなよ!」

 

ニヤリと笑って言った狭間は、大きく腕を振るうと共にその懐からウロボロスを伸ばす。咲耶姫の首筋目掛けて放たれたそれを小さく横に飛んで回避すると、ウロボロスは空中に向かって喰らいついた。レーザー状の弾幕を放って迎撃しようとする咲耶姫の真横を黒と緑の一陣の風が吹き抜ける。空中に固定したウロボロスを即座に縮める事で高速移動を可能とした狭間はすれ違いざまに咲耶姫を思い切り蹴りつけ、不定形のまま纏わせた怨念を叩き込む。吹き飛ばされたもののくるりと体勢を立て直した咲耶姫は先程よりも強い嫌悪感を顔に浮かべていた。

 

「つっ!よくもこの私に……」

 

「蹴られるのも殴られるのも嫌だってか。ふざけんなよクソッタレ」

 

火口の直上に浮遊する狭間は心底腹が立つという風に吐き捨てた。その相貌を睨みつけようとした咲耶姫は息を飲んだ。顔の半分が無くなっている。先程迎撃しようとしたとき、直撃していたのだろう。しかし、生物であれば重症或いは即死するような傷も意に介さず、ただただ不愉快げな表情を浮かべているソレに、神は恐怖を覚えた。この程度の事は痛手の内にも入らない、というのだろうか。本来精神体である筈の彼に、自分の攻撃が物理的にも精神的にも通じていないという事実に、咲耶姫は震えた。

 

「殺しているんだから殺されもする、それが当たり前だ。退治屋が退治しようとした妖怪に返り討ちに遭って年に何人死んでるか知ってるか?殺される覚悟もない癖に手にかけてんじゃあねェぞ」

 

「ッ……私は神なのですよッ!」

 

「だからどうした。テメェは神とやらの自尊しかねェ。テメェにゃ誇りがねェ。敬意もねェ。おまけに人心が分からんと来た。人間よりも妖怪よりも、悪霊よりも。テメェは薄っぺらいんだよ、“神”」

 

その言葉を最後まで聞く事もなく、憤怒の形相を浮かべた咲耶姫が神力を手当たり次第に放ち出す。必死に狭間を遠ざけようとしているようにも見えるその弾幕を、彼は対照的に冷静に淡々と回避する。反撃をすることもなく、宙に浮いたままただ淡々と。

 

「ハァッ、ハッ……ハァッ……」

 

やがて息が切れ、放つ弾幕も数が少なくなる。それでも必死に放とうとし続け、やがては弾としての体すら保てなくなった。そこまで消耗して漸く、狭間は動き出した。

ゆっくりと前進し、神に近づく。咲耶姫は思わず短い悲鳴をあげた。今の今まで、自分を害せるような存在に出会った事はなかったのだ。人間は畏怖し、崇めた。妖怪は恐れ、牙を向ける事もなかった。同じ神だろうと、自分の美しさに見惚れるような者ばかりだった。咲耶姫は凍えるような恐怖というものを、今初めて感じていた。目の前の蛇の顎から逃れられないと分かった時の蛙というのは、こんな気分なのか。或いは、もっと深い恐怖なのだろうか。

 

「……情けねェ面しやがって。チッ、興が削がれた。ぶっ殺そうかと思ってたがやめだ。んなメンドくせェ事してられッか」

 

その言葉に、咲耶姫は安堵した。命を脅かさないと、その独白を聞いた咲耶姫は無意識ながら、確かに安堵した。僅かな希望を見出した咲耶姫の視界にいつの間にか存在していた緑の輪が映る。なんだろう、とそれに焦点を合わせると、その輪は狭間を中心にゆっくりと回っていた。紋様か何かのある輪だ。輪に見えたけど、ひょっとしたら球体かもしれない。

 

「……殺しはしねェが。ケジメはつけてもらうぜ」

 

一瞬呆けた。咲耶姫はその言葉が理解できなかった。殺しはしないと言った。ケジメとはなんだろう。近づいてくる狭間から目を背けられずに震えていると、緑の輪がより鮮明に映る。よくよく見てみると、それは蛇だった。己の尾を噛む、一匹の大蛇。狭間の纏っている力の流れが、そう形作っているのだ。目の前まで近づいてきた狭間の纏う輪の中に、咲耶姫もすっぽりと入り込む。

 

「……ぁぇ?」

 

踵を振り上げる狭間の姿が、とてもゆっくりに見える。自分の力が失われていくのが分かる。先程闇雲にばら撒いた故の疲労や消耗とは違う、身体から抜け落ちる感覚。まるで何かに吸われるかのような――

そこまで思考した瞬間、邪霊の振り下ろした踵に打ち据えられ、霊山の火口に叩き込まれる。力を多少失ったとはいえ、火口の内部に落とされる程度で命を脅かされる事はない。もしそんな事があったなら彼女はここに住まわなかっただろう。しかし、その踵の威力よりも、火口に叩き込まれた事による衝撃よりも、ほんの一瞬だけ入り込んだ輪によって奪われた神力や生命力の消耗によって、彼女は意識を失う。神は邪霊に落とされた。

 

「……テメェが殺した分にゃこの程度じゃ足りないが。精々良い事でもして贖うんだな。背負う覚悟もないなら償いやがれ」

 

未だにその相貌の半ばが存在しない彼はそう火口に向けて吐き捨てる。聞こえていないであろう事を予想しながら。

そしてこれだけ騒いでも目覚めない同行者達に呆れながら、その下まで飛来する。この惨状をどうやって説明しようか、と溜息を吐きながら。

 

 

 

三人を揺り起こした狭間は、三人が完全に覚醒する前に帽子で顔の半分を覆い隠す。少女と岩笠への配慮だ。直ぐに治さないのには訳がある。この惨状が起きた事実をただ伝えた所で、狭間が彼らを襲って皆殺しにしたのではないかと疑われるのではないか。そう考えたからだ。無論紫なら信じてくれるだろう。だが付き合いの浅い二人はどうだろうか。先程起こった事をありのまま話したとして、身体に一片の傷もない男の言葉はどう映るだろうか。一つの傷もないのに、三人を庇って助け、惨劇を起こした犯人である咲耶姫という神を打ち倒したなどと言われても信じがたいだろう。酷い手傷を負わされてしまったもののどうにか撃退できた、そう伝える方がまだ受け入れやすかろう。少なくとも自分はその方が理解できる。狭間はそう考えた。

慇懃な口調で事態を説明すると、岩笠と少女は言葉を失った。血の海に動揺し悲鳴を上げなかっただけまだ大人しい反応だ。紫は顔を俯かせて何事か考え込んでいる様子であったが。

 

「兎にも角にも一度下山しましょう。咲耶姫は八ヶ岳にでも持って行かせるつもりだったそうですし、ここが駄目だというのならそちらに持っていくのも手かと」

 

「そう……だな。そう、しよう」

 

岩笠は憔悴しきった顔で頷く。自分が眠りこけている間に部下が全員物言わぬ屍と化し、雇われとはいえたった一人に神を相手取らせたと感じているのだから無理もない。狭間にとってはむしろ大人しく寝ててくれたのは有難いのだが。

 

そうして足取り重く下山を始める四人。自分は疲れていないからと壺を後ろ手に抱える狭間。紫はまだ余裕がありそうだったが、岩笠と少女は思いつめたような顔をしていた。やがて木々が再び疎らに見えるようになった頃だった。急な下り坂で一瞬バランスを崩しかけた狭間が、背に抱えた壺を抱え直そうと少し持ち上げた時。後ろに立っていた少女が狭間の背を蹴りつけた。

 

「あ?」

 

「な」

 

「ちょ」

 

バランスを整える為、壺に対して上方向にのみ力を込めていた狭間はそれだけであっさりと壺を取り落とした。次いで狭間の身体が前方に向けて倒れ出す。前を歩いていた岩笠と紫が振り返った時にはもう遅い。何事か言おうとした二人を巻き込み、狭間は急勾配を転がり落ちていった。

 

「おうああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」

 

 

 

そして冒頭へ至る。

 

「ガキのやる事にあんま言うのも大人気ないとは思うが、オレ様は兎も角岩笠が死んだりしたらどうすんだまったく」

 

「狭間、帽子帽子」

 

「お、すまん」

 

紫が狭間に帽子を手渡すと、彼は礼を言って受け取る。ポンポンと汚れを払い、穴が空いたりしていないかチェックする。自身の顔の傷はいつの間にか消えていた。

 

「いやちょっと待て、今どこから取り出した」

 

「スキマからよ?さっき転がり落ちた時に置き去りにされてたもの」

 

「ああそうかそうかそんじゃあスキマ使って蓬莱の薬取り返せるんじゃねェのかよ」

 

至極最もである。先程までは急勾配を滑落していた故にそんな余裕はなかったが、今なら問題ないだろう。そう思って言った狭間に対し、紫は溜息を吐いて頭を振った。

 

「無理よ」

 

「あァ?」

 

怪訝な顔をする狭間だったが、ハッと何かに気づくと呆れたように顔を顰めた。

 

「おいおい、まさかたァ思うが」

 

「そのまさかよ」

 

「すまない、どういう事だ?話が見えないのだが」

 

困惑する岩笠。彼は紫の能力を知らない故、この反応も当然だろう。

 

「あの子、もう飲んじゃったのよ。蓬莱の薬」

 

「……な」

 

「やっぱりかー……んじゃあ仕方ねェか」

 

「ええ、仕方ないわ」

 

仕方ない仕方ないと言って溜息を吐く二人に対し、岩笠は狼狽する。

 

「待ってくれ、あの少女が……蓬莱の薬を飲んでしまったと……?それはつまり」

 

「ええ、残念ながら。彼女は不老不死ね」

 

「何ということだ……」

 

ガックリと膝を付く岩笠。その心情はいかなるものだろうか。

 

「で、どうする岩笠。帝に包み隠さず報告するか?」

 

「その場合……どうなるのだろうな。あの少女を重罪人として捕らえるのだろうか」

 

「それだけで済めばいいけどね」

 

「どういう事だ、紫殿」

 

簡単な問題よ、と指を一本立てて講釈する紫。岩笠は神妙な顔つきで耳を傾けるが、狭間は分かりきっていると言わんばかりにガリガリと頭を掻き毟っている。

 

「罪人として捕らえるだけならいいわ。でも、彼女が不老不死だと知れたらどうなるのかしら。何をしても死んだら蘇るなら何をしてもいいと考えるのか。都合のいい道具として扱う?それとも化物として遠ざける?……その辺は個人によるでしょうけども。パッと思いつく限りでもひたすら神風特攻させる事くらいはできるでしょうし、誰かがやるでしょうね。死なない怪物ならばどう扱っても罪には問われないと欲の捌け口にするとか、薬の実験台か何かというのもあるかもしれない。どのみち彼女はもう人の世では生きられない、ということよ」

 

サッと青褪める岩笠。その表情を見て狭間が言葉を繋ぐ。

 

「かと言って妖怪の世で生きるのも難しいだろうな。不老不死以外何も持たないガキだ。しかも食い殺しても何度だって蘇る。多少知恵の回る小物でも考えつく下策だが、自分の棲家に幽閉して気の向いた時に食う、なんて使い方もされるだろう。どこに行ったって道具か餌か化物扱い、それがアイツが送るこれからの人生だ」

 

「もしも優しい人達に会えたとしても、彼女が不老不死である以上必ず死という別れが訪れる。一時の安寧を得ても、その後に訪れるのは絶望……自業自得という言葉で片付けるにはあまりに重いわ」

 

岩笠は地面に俯き、肩を震わせている。強く握り締めた拳がぎちぎちと音を立てる。絞り出すように吐き出す言葉は、この男の人間性を理解するに充分な言葉だった。

 

「そんな……そんな事はあんまりではないか。あの娘だって、不老不死にならなければ人並みに……生きる事もできたのに……あの薬さえ、処分できていれば……ッ。私の、私のせいだ……!」

 

「……違ェよ。あの駄神のせいだ。テメェは悪くねェ」

 

「それでも、私が何かしていれば変えられたかもしれないのだ!」

 

「結果としてこうなった。それだけだ。たらればなんて言っても意味はねェんだ、たらればは現実にできない。幻想のままだ」

 

「私は……ッ」

 

最早言葉を吐き出す事も出来ず、岩笠はただ肩を震わせるのみ。狭間も紫も言葉をかける事は無く、ただ彼の無言の慟哭を聞くばかりだった。

狭間は思う。死を受け入れ、邪悪な悪霊となった自分が目の前の生者に何を言ってやればいいというのだ。死人に口なし、死者である自分に生者の人生を語る資格があるのかと。自分が口を出さなければいけないというような事象ではないというのに、知ったふうな口を利いていいものなのか?不老不死は、死が無くなるのではなく生と死の境界が無くなって生きても死んでも居ない状態だという。完全な死人の癖に未練がましく現世に留まっている己の出る幕なのだろうか。

紫は思う。人間として死に、妖怪となって生きる自分が何故人間を語れるのかと。人間が、先程自分が言ったような者ばかりだと言うのか。そんな筈はないと思いたくも、この数百年で人間の浅ましさや醜さは嫌というほど見てきた。目の前の男はそうではないが、それでもこの善人を慰める言葉は紡げない。空虚な言葉で飾る事はできない。

 

そうして暫し佇んだ頃、岩笠はポツリと呟いた。

 

「……決めたぞ」

 

「……」

 

「私は都へ帰ったら暇をいただく。そして、あの少女を探し出す」

 

「探して、どうするつもりだ」

 

「私が死ぬまで、彼女と共に生きる。例え不老不死という人の身を超えた者となっても、受け入れてくれる者はいるんだと、彼女に伝えたい。私が死んでも、彼女が無事に……平穏でなくとも、人並みに幸福な人生を送れるように。例え一時でも、穏やかに。幸せになってもいいのだと。ただそれだけを、私の生涯を以て伝えたい」

 

「……チッ、このお人好しが。好きにしやがれ」

 

「ああ、そうする。誰に頼まれたもでなく、他ならぬ私自身がそうしようと思い至った事だ。……感謝する」

 

礼に舌打ちで答えた狭間に対し、岩笠は微笑を浮かべる。止めろとは言われなかった。無駄だとも、愚かな事だと笑う事もせず、お前の好きにしろと。そう言ってくれた狭間の湾曲した善意が、それでも暖かかった。

 

「その事でお二人に頼みがある。……お二人は人外の者なのだろう?」

 

「……あー」

 

「……狭間……」

 

隠していたつもりだったのだが。そう顔に書いてある狭間とは違い、紫は心底呆れたような顔で狭間をジト目で見つめる。

 

「……えーと」

 

「顔を見れば分かる」

 

「顔……あ、あー」

 

そういえばもう既に顔の傷を治して、それを晒していた。帽子をどうやって回収したのかが気になって、それを隠すのを忘れていたのだ。それを気づいていたのに、流石にこの短時間で治癒するのはおかしいだろうと指摘しなかった紫もそうだが、妙に間が抜けている。見れば岩笠も若干生暖かい眼でこちらを見つめている。狭間は帽子で顔全体を覆ってしまった。

 

「……それでだな」

 

空気を誤魔化すように咳払いしたあと、岩笠は言葉を繰り出した。

 

「もし、これから先。あの少女に出会う事があったら、彼女に良くしてやって欲しい。恐らくその頃には私は既にいないだろうからな……」

 

「……おう、それくらいなら任せとけ」

 

「感謝する。欲を言えば、都に帰り着いたら帝への報告の際に同行してもらいたいの所だが」

 

「そのくらい構わないわよ。私達も一緒に頼み込んであげるから、それまでよろしくね」

 

幸いというべきか、急勾配を転がり落ちた事により麓まではかなり近い。まずは山を降り、都に帰り着く為に三人は歩き出した。



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蓬莱の薬の一件から数年。人外者の感覚ではあっという間に過ぎ去る程度の時間だが、人間にとっては決して短くはない時間が過ぎていた。都を離れた狭間達は、西へ西へと歩んでいた。海に向けて、正確にはその向こうの大陸目指して。

 

「海の向こう、か。オレ様海外旅行なんて経験ねェぞ?」

 

「私も旅行の経験はないわね。まぁ、あまり心配しなくても大丈夫でしょう」

 

「言葉……はお前の能力でどうとでも出来るのか。ホント便利だよなァ……」

 

「そうねぇ、水と油を分けるのも容易く異国の言葉を学ぶ必要もなく応用が効き過ぎる。我ながら反則地味た能力……いえ、反則そのものよね、これ」

 

狭間の懸念の一つであった言語の壁は、紫の境界を操る能力によって容易く打ち崩された。彼女の力を以てすれば、バベルの塔にてバラバラにされた言葉を一つに纏め直すなど息をするように容易なことなのだ。第二の懸念であった文化の違いは、そもそもこの時代においてそれは今更だという事でスッパリ片付けられてしまった。

 

そもそも何故、この国を離れて大陸に足を運ぼうというのか。

それは、ある日の紫の言葉が切っ掛けだった。曰く、“もしかしたら未来に帰る方法などこの島国にはないのではないか”。本人としてはらしくもない弱音を吐いたつもりだったのだろう。が、相棒はそれならばとこう言った。“じゃあ海の向こうにでも行ってみるか”と。

紫は当惑した。もう未来には帰れないのではないかと暗に言ったつもりだったのに、この男は大真面目に実際に渡る場合どういった行路を通るか、などと呟いていた。理解した上でそう言ったのか、それとも微妙に勘違いしての言葉なのか、とんと見当がつかない。何せ狭間の場合、どちらの可能性も十二分にあり得るのだ。そこらのチンピラ程度の頭かと思えば不意に賢しらな事を言ってみせ、実は賢者かと思えば苦笑を起こすような事も言う。そんな男だから、紫は何とも言えなかった。

そうしてあれよあれよという間にこうして海に向けて進路を取る事になってしまっていた。まぁこういうのもいいか、と思いながら紫は彼の後ろを歩く。確かに、ひょっとしたら諸外国になら何か近しい物が見つかるかもしれない。そう考えるのは間違いではないだろう。半ば心が折れかけていたというのに、狭間の飄々とした一言で容易く持ち直せてしまった。本当に、彼には頭が上がらない。妖怪の根幹を成すのは精神だという。ならば自分が今尚マエリベリー・ハーンでもいられるのは彼のおかげに他ならないだろう。

 

「この時代ならパスポートだなんだとメンドくせェもんもないだろうしな、のんびり船旅を楽しむのもアリだと思うが」

 

「そうねぇ、適当に交渉して乗せてもらうのもいいとは思うわ。でも海で妖怪にでも出くわしたら面倒じゃない?」

 

「ンなもん食えばいいだろ」

 

「私はグルメですわ」

 

「それはオレが悪食ってことか」

 

「否定できるの?」

 

「いや、しないが」

 

他愛ない会話を交わしながら山道を歩く。やがて視界の果てに、美しい蒼が見えてきた。

 

「おっ、見えてきた。どうせだから釣りでもしないか?」

 

「途中で飽きる方に2ポンド賭けるわ」

 

「んだよ、ツれねェなァ」

 

「釣りもいいけど、少し運動ができそうよ」

 

「今正にウォーキングしてるじゃないか」

 

「あのね、そういうことじゃなくって。アレ、船よね?」

 

「それ以外には見えねェな」

 

「じゃあアレは?」

 

「……残骸、だな」

 

紫が指し示す先には小さめの漁船、その直ぐ近くに積み重ねられた大小さまざまな木材の破片。有り体に言って船の残骸だろうものがあった。

嵐にやられたというなら分かる。だが、唯の嵐だけであんな壊れ方になるものなのか?そう思わせるような破壊の跡だった。

 

「ま、いいじゃねェか。何にせよ行ってみようぜ」

 

「ええ、それもそうね」

 

そうして少しペースを上げ、その小さな漁村にたどり着く二人。村に踏み込むと、暗い顔をした村人が声をかけてきた。

 

「……アンタ達、旅の人か?悪いことは言わん、早くここから立ち去りな」

 

「何やらただならぬ事とお見受けしますが、一体何事でしょうか?」

 

紫がそう問いかけると、村人は弱弱しい声で答えた。

 

「最近、この辺りの妖どもが凶暴で。漁に出れば巨大な蛸に船が壊され、かと言って山で山菜でも採ろうとすると鳥妖の群れに襲われ……どうにか蓄えで食いつないでるが、このままじゃ飢えて死ぬか妖の餌になるか二つに一つだ。奇跡的に導士様が来てくださったが、お一人じゃどうにも……」

 

どうやらそういった手合いに悩まされるのはいつの時代もどこの人間も変わらないらしい。憔悴しきった顔で語る村人を安心させるように、紫は優しい声で語りかける。

 

「実は私共、都では少々有名な退治屋でして。良ければ協力させていただけないでしょうか?無論、報酬は頂きますが」

 

「おお、アンタら退治屋だったのか!奇跡だ、こんな時にやって来た旅人が三人ともそのような方とは!ささ、こちらへ!」

 

パアッと顔を輝かせた村人が慌てて紫達を招く。行きましょう、と後ろに声をかけるが返事がない。訝しんだ紫が振り返ると、そこには。

 

「……何やってるの?」

 

「……オレ、猫苦手なんだよ。助けてくれ」

 

大量の猫に囲まれ冷や汗を垂らす狭間の姿が。成程ここは漁村だ、漁師の獲ってきた魚を頂く為にこの辺りで群れているのだろう。近頃漁に出れていないとなると、腹を空かせているのだろう事は想像に難くない、それで食べ物の一つも持っていないかと囲まれて狭間は困っているのだ。だからといってこの愛くるしい生物達を力で無理矢理追い払うというのもどうなのだろうか。そんなわけで。

 

「……置いて行くわよ」

 

「待て!コイツらどうにかしてくれ、これじゃ動け……オイ待て、待ってェー!」

 

いつになく悲痛な声で懇願する狭間に溜息を残し、紫は村人の後を追う。急がなくては置いていかれてしまうと早足で歩く紫。後ろから猫の鳴き声と聴き慣れた声の悲鳴が聞こえてきたがそれを無視し、漁村の中でも一際大きい家に入る。と、先程の村人が大声で要件を伝えるのが聞こえた。

 

「村長!今さっき退治屋のお二人が来てくれた!導士様、これでどうにかなりますか!?」

 

部屋の前まで歩いていくと、村長らしき老人と何事か会話を交わしていた山吹色の衣の女性が振り返る。見た所、中華系とでもいおうか、そういった雰囲気の女性だった。傍らに大きな箱が置いてあるのが気にかかったが、村長に促され、部屋に入り床に座り丁寧に礼をする。

 

「お初にお目にかかります。私は八雲紫と申しまして、都の方からやって来た者です。先程こちらの方からこの村の置かれている状況をお伺いしまして、何か力になれればと思い至った所存」

 

「ご丁寧な挨拶痛み入る。儂がこの村の長をさせてもらっているジジイだ。有難い事だが、生憎とこんな状態だ。礼もろくにできないが構わんのかね?」

 

「私共は金銭や物品には然程興味がなく。ある術を求めて世界を彷徨い歩いているのです。ですから、船の一つ……いえ、残骸でもお譲り頂ければ、それで」

 

「ふむ……そんな異なことを要求するのは他におらんと思うたが、まさか日に二人も見るとは」

 

「というと……」

 

横に座る導士の女性に目を向けると、彼女は笑顔でヒラヒラと手を振った。

 

「私も大陸の方に用があってね、海を渡ろうと思って来たら……ってとこ。どのみちどうにかしなくちゃいけないし、アナタも手伝ってくれる?」

 

「奇遇ですわね、私も大陸の方に渡ろうかと思っていましたの。これも何かの縁、お力添え致します。ではまず、鳥妖を片付ける算段を付けたいと思うのですが……」

 

「うむ、奴らは……」

 

紫が導士と村長と計略を練っている頃、狭間はというと。

 

 

「あー、そこのお嬢さん。どうかこの毛玉の群れをどうにかしてくれないでしょうか?」

 

「おじちゃんだれ?」

 

「お兄さん、です。決して怪しい者じゃあないのでご安心を」

 

「おかあさーん、変な人がいるー」

 

「ちょっ、待っ!たすけてー!」

 

あちらこちらを猫に噛み付かれ、どうにか取り繕った慇懃な口調で子供に助けを求めた所を変人扱いされて逃げられていた。

 

 

 

 

「で、まずは村の人達が安全な所に避難してから迎え撃つ手筈よ。結界に一箇所だけ穴を開けるから、そこで待ち構えましょう。ちょっと、聞いてるの狭間?」

 

「……もうそんな気力は消え失せましたよ」

 

「あの……大丈夫なの?アナタの相方なんでしょ?」

 

「ああ、大丈夫大丈夫。本当に気力が消えてたら死んでいますもの」

 

結局紫は助けてくれず、導士が猫を追い払ったことで緑と黒の猫じゃらしは救出された。猫の毛が付いた帽子を被り、恨みがましい眼でジトっとした視線を向けると、あんな様子初めて見たから新鮮でついつい放置してしまった、と宣う。ご丁寧にコツンと自分の頭に手を当て、可愛らしく舌を出した上にウインクまでして。ぼそりと一言、似合わねェという音が発せられた瞬間、紫の右ストレートが元猫じゃらしの真ん中を突き抜けていった。

 

「これ、仲がいいって言っていいのかな。微妙な所よね」

 

「まぁ、悪くはないですね」

 

「嫌だったら直ぐにでも離れてるものねぇ」

 

「……訂正。アナタ達夫婦か何か?」

 

「まぁずっと二人でやってますし、似たようなものかと。ところで一つ聞きたいのですが、何故わざわざ村人の避難を?」

 

「確かに結界を張るのなら避難する必要はまずないでしょうけども。あまり見られたくはないでしょ?」

 

「成程、要するに厄介払いですか」

 

歯に絹着せぬ物言いに導士がやれやれと肩を竦める。紫も苦笑するが、狭間は先程の猫の件をまだ根に持っているのかぶすっとした表情だった。

そんな雑談を交わしながら移動を開始し、村人の避難が終わった頃を見計らう。まずは紫が村全体に結界を貼り、次にその外で鳥妖を引き寄せる為に特殊な香を焚いて誘き寄せる段取りだ。準備をする紫の傍らで、導士はゴソゴソと荷物を弄っているようだった。何をしているのかと目を向ければ、村長の家でも見たあの大きな箱の封を解いているようだった。今にして思えば、箱という表現は相応しくない。この箱の大きさは人間大。つまり、これは棺桶だ。

 

「……なんです、それ?」

 

「私の商売道具って所かな。正確には違うけど」

 

そう言って棺桶の蓋を開けると、まず目に付いたのは青だった。死人のような、という比喩をよく聞くが、それは正しく死人の色。青い肌をした中華系の少女の死体、それが棺桶の主だった。導士とよく似た顔、よく似た背格好の少女がそこで静かに眠っていた。

 

「ま、これが私達の見られたくない理由ってワケ。キョンシーって知ってるカナ?こっちじゃあまりいい顔されないのよね」

 

「ま、死者への冒涜だなんだと煩い連中も少なくありませんし?どう受け取るかなんて死者次第なのになんで生者がとやかく言うんですかね。しかし、キョンシーといったら制御用の札が額に貼られているものと記憶しているのですが」

 

「ありゃ、お兄さん詳しい人?」

 

導士はキョトンとした顔を見せたあと、ケタケタと笑った。

 

「そうだよ、まぁ札はここにあるんだけどさ。そんなに心配そうな顔しなくても暴走したりなんてことはないよ。普通のキョンシーと一緒にされちゃ困るからネ!」

 

そう言って導士が何かの印を切る。それが術の引金なのだろう、導士の姿が一瞬で変化する。見慣れた人間の姿から、別の意味で見慣れた札の姿に。その二つの姿に似通った点など、唯一その色彩だけだった。導士が着ていたのと同じ、山吹色の札。御札と化した彼女はヒラリと浮遊し、一直線にキョンシーの額へと飛び、ペタリと張り付いた。瞬間、キョンシーの眼がパチリと開かれる。

 

「ちょっと、誰が商売道具よ!私が道具ならそっちは小道具じゃない、御札のクセに!」

 

「まぁまぁ、それより挨拶よ。会話、ちゃんと聞こえてたんでしょ?」

 

「おっとそうだった」

 

騒がしく起き上がった彼女は、おおよそ狭間の、そして紫の知るキョンシーとは掛け離れていた。通常キョンシーとは死体を素材として造る、いわば操り人形のようなものである。会話もままならない場合が多く、身体も硬直していて飛び跳ねて移動するものが殆どのはずだ。それがどうしたことか、この暫定キョンシーはよっこいしょと言いながら棺桶を普通に跨ぎ、狭間の目の前まで歩いてきた。おまけに饒舌で、生きている頃と変わりないであろう調子だった。

 

「えーと、コンニチハ!で合ってたよね?見ての通り私はキョンシー、よろしくねお兄さん」

 

「……えー、様式美としてまず一言言わせていただきたい。お前のようなキョンシーがいるか……と、それはさておき私は悪霊なのでそこの所はお間違えのないように、お嬢さん」

 

「あ、何か私に近い気配してると思ったらお兄さんも死人なんだ。ちょっと親近感」

 

へへへ、と見た目相応の笑みを浮かべる彼女がキョンシーだと言って一体誰が信じるだろうか。少なくとも肌の色さえ度外視すれば生きていると言っていいのではないか?狭間はそう感じていた。若干ぽかんとしているように見えなくもない表情を浮かべていると、紫が会話に混ざり始めた。

 

「いやぁ、まさかこの場に人間が一人もいないとは思わないわよね」

 

「御札と死体と悪霊と妖怪……ホラー系のラインナップにしか思えませんね」

 

準備を終えて和気藹々とした雰囲気の雑談が始まる。

 

「さっきお兄さんはお前のようなキョンシーがいるか、って言ったけどさ。多分他にはいないんじゃないかな?私らはこうなる過程がちょっと特殊だったからさ」

 

「へぇ、どう特殊なのかしら?」

 

「一言で言えば生きたままキョンシーとその制御札になった、ってとこね。私達の一族に伝わっている中にそういう……異種族になる術があるんだけど、あの時はそれを使わなきゃどうしようもない状況だったからね」

 

「本人の力量でどうなるか変わるって話だったよ。私達がこうなったのは姉妹二人でやったから、っていうのもあるんだろうけど」

 

私達のお母さんなんて龍になったんだよ、と自慢げに話すキョンシー妹。御札姉は額に張り付いたまま会話しているが、見えない筈の表情がなんとなく浮かぶような声だった。糸のように細めた眼をほんの僅かに見開きながら、感心したという風に狭間は呟く。

 

「……いやぁ、世界は広い。そんな術聞いた事もありませんでしたよ」

 

「ま、中国と言えばとりあえず4000年だから。探せばもっとトンデモな術もあるかもねー。そういえばアナタ達の探してる術って……」

 

どんな術?と。キョンシー妹がそう続けようとした瞬間、キィキィと耳障りな声が聞こえ、言葉はそこで途切れた。そういえば既に香を焚いていたんだったな、と思いだす。

 

「おや、獲物がやって来たようで。話の続きはまた後でと行きましょうか」

 

「そうね。行くよ!」

 

「では、結界に穴を開けますね。討ち漏らしは私が処理しますのでどうぞ遠慮なく」

 

村を覆う巨大な結界、その一部分にだけ穴が開く。それを見た鳥妖の群れは、高笑いのような声を上げながらそこに向かって飛来する。それが罠とも知らず、自分達が常に狩り続ける側だと思い込んで。人と似た形をしているものの、それが人間でないと決定的に理解させる翼をはためかせながら、鳥妖達は空を飛ぶ。

いちはやく穴に滑り込んだ一匹は、眼下に見える三つの人影を見とめると、他の者に取られまいとして降下を開始し、その最中に自慢の翼が根元から引きちぎられた。

 

「グエェェッ!?」

 

「耳障りだなぁ、もっと良い声で鳴いてくださいよ」

 

無論それはウロボロスを伸ばした狭間の仕業である。何をされたかは理解できずともアイツが犯人だと理解した鳥妖だが、翼が無くては飛ぶ事もできず、無様に地に落ちた。その瞬間彼の頭上から降ってきた刃物がいくつも突き刺さり、既にウロボロスによって生命力を奪われていた彼は呆気なく息絶えた。

その様子を見ていた何体かは結界に入らず踏みとどまったが、血気盛んな若い個体は気にもとめずに突撃する。

 

「全く、馬鹿の相手はやりやすい。今日は鳥肉にしましょうかね?」

 

「え、食べるの?悪食―……」

 

「失礼な」

 

会話を交わしつつも既に何羽かはウロボロスの顎に捉えられ、骨の砕ける音を立てながら咀嚼されている。グロテスクな状態になっているそれを見てキョンシー妹はちょっと引いた。紫はよくある事と気にせず、スキマも駆使して縦横無尽に弾幕を放っている。

 

「……マズっ」

 

どうやら鳥妖の肉はお気に召さなかったようだ。

 

「何やってんだか……ほら、どんどん来るわよ」

 

呆れつつも着々と撃墜数を増やす紫。負けじと袖口から大量の暗器や鉄球を飛ばす妹キョンシー。やっぱり焼き鳥の方がいいかなぁ、と呟きながら暴れまわる狭間。今度は鳥妖も引いた。

 

「ま、食う食わないに関わらずとりあえず皆殺しですかね。今まで散々殺して来たんでしょうから、文句はないでしょう?」

 

「それが通じちゃうのが私達の生きる世界なのよねー。世知辛いわー」

 

「殺しているから殺されもする、なんて頭のネジが足りてない人間の台詞にしか思えないけども大体その通りだから困るわ。ま、私達がここに立ち寄ったのが貴方達の運の尽きって事で」

 

そうして飛ぶ鳥を落とし続けると、最後に残ったのはどうやら群れの頭に当たる個体だったようだ。敵わないと見たか既に飛び去って空の彼方、丁度太陽の方向に小さな影が見える。

彼に取って何よりも不運だったのは、狭間という怪物がいた事ではなく、元気な死体がいた事でもなく、八雲紫という存在が敵だった事だ。何故なら、彼女を敵とした時点で逃げ帰るなんて事が出来るはずもないのだから。突出した飛行能力を駆使し、例え空の彼方にいたとしても、境界を操る力はそれを容易く捉える。彼は最期に、真っ二つに避けた太陽のスキマから青白く光る無数の弾丸が飛来する、そんな幻想的な光景を見た。

 

「片付いたわよ。思ったより楽だったわね」

 

「お疲れー。楽勝楽勝」

 

「焼き鳥はやっぱり塩ですかねえ。タレも捨て難いけど塩をパラッと振り掛けた方が……」

 

コイツまだ言ってるよ、という眼で見られた狭間は我に帰って咳払いをし、では次は大蛸ですねと誤魔化すように明るく声を上げる。今度は蛸焼きでも食べたいの?と紫が茶化す。

 

「で、蛸って事は海に出ないとダメだよね。船どうするの?」

 

「借りるしかないんじゃないかしら。空飛んで襲撃してもいいけど、誘い出すなら船よね」

 

「うーん、何かの神話に大蛸とかそんな感じの神格がいたような……それはともかく海中から一気に船破壊されたらちょっと厄介ですね。いっそ私に乗ってみます?なーんて」

 

そんな訳ありませんが、そう続けようとした瞬間紫は、それだわと手を叩く。

 

「……あの、ちょっと?」

 

「狭間がウロボロスの要領で大きな海蛇にでもなればそれに乗っていけるじゃない。船を借りなくて済むわ」

 

「……お兄さんも結構トンデモなのかなー……私達と比べて規格外すぎない?」

 

「いや、あの」

 

「何よ、まさか無理なんて言わないわよね?」

 

「いやいや、できますとも。そのくらいお安い御用ですって。ただ……いえ、やめましょう」

 

じゃあ別に依頼受けて船の残骸貰ってそれ直したり、とか手間暇かけなくてもいいんじゃないか。とは言えず、狭間はただ頷くだけであった。気づいているのかいないのか、紫はいい案だと満足気に一人頷いていた。

 

 

 

さて、その後であるが。

大蛸はやはりというべきか、あっさり討伐された。というより、食われた。紫の言ったようにウロボロスを形作る要領で大蛇と化した狭間に、パクリと一口で。紫は焼かなくていいのか、と笑い。キョンシー妹と札の姉は考えるのを辞めてただ笑っていた。三人分の笑い声を聞きながら、狭間は一人、蛸の刺身は食った事ないなぁ、とか、さっきの鳥肉と違ってそれなりにイケるな、などと考えていた。肩透かしというか拍子抜けというか。殺伐としているようなほのぼのとしているような、そんな一幕。

 

村に帰還し、依頼を完遂したことを告げる紫達を村人達が歓声を持って迎える。キョンシー妹は既に棺桶に戻っており、札の姉は人間の姿に戻っているが。村人達が精一杯宴を開き、村を救った英雄達を称える。見目麗しい女性が二人に、性格が悪いとはいえ顔立ちは整っている狭間。おまけに村人達を絶望の淵に叩き込んだ憎たらしい妖怪共を一蹴できる程の強者とあれば、酒の肴には充分だろう。酔った男達による女性二人へのお世辞二割本音八割といった美辞麗句が贈られる中、狭間は再び天敵である猫の群れに囲まれていた。今度はちゃんと助けられたが。導士姉に。紫は既に盃を傾けていた。

その日は蛸を討伐もとい食べてきた時点で日が傾きかけていた為、そのまま夜通し酒宴が続き、朝日が昇る頃には二日酔いを量産していた。勿論狭間と紫はピンピンしているが、導士姉は酒に強い訳ではないらしく力尽きている。

気晴らしにと海辺に向けて歩むと、何人かの少なくない数の村人達が船の残骸を修理していた。話を聞くとどうやら酒宴に参加しなかった者達が恩人達の為にと徹夜で修理していたらしい。これでやっと猟に出れると息巻く漁師達は、勢いのままに譲る分どころか自分達が使う漁船の何隻かまで修理してしまっていた。人間やれば結構な事ができるものだな、と人間の強さの一面を再確認した狭間であった。

 

 

「さ、忘れ物はないわね?」

 

「こちらはオーケーです」

 

「こっちも大丈夫よ。操舵は任せてね」

 

修理され、ある意味では破壊前より強靭になった船に乗り込み一行は漁村に別れを告げる。大きく手を振る漁師や、キラキラとした瞳でこちらを見つめる子供。にゃあにゃあと鳴く狭間の天敵達。村の全てが、彼らとの別れを惜しんでいた。猫から目を逸らしつつ手を振り答える狭間。そんな狭間を微笑ましげに見やる紫。船の操縦の為にこの場を離れている導士姉。そんな光景に混じれない事を、キョンシー妹は棺桶の中でぶつくさ言っていた。

 

「いやぁ、悪くない所でしたね。老後はああいった所で暮らすのも悪くないかも……なんて」

 

「貴方老後なんてないでしょう?ふふっ」

 

そう会話しながら、徐々に小さくなっていく漁村を見つめる。その影がどんどん小さくなり、やがて見えなくなった頃。キョンシー妹が棺桶の蓋をどけながら不満げに会話に混じる。そのまま流れで()()の会話が始まった。

 

「私も老後なんてないけどさ、これ永遠の16歳って言っていいと思う?」

 

「どちらかというと享年16歳でしょうか?というか貴女、札もないのに起きてていいんですか」

 

「あーダイジョブダイジョブ、お姉ちゃんが付いてるのって基本的に能力向上と記憶やら人間性やらの保持の為だもん。ちょっとくらいヘーキヘーキ」

 

「それはそれで興味深いのだけれど。聞けば聞くほど私が知ってるキョンシーとは掛け離れてるわねぇ……」

 

「人生なんてそんなものじゃない?可能性の否定なんてできやしないんだし。そういうのもいる、それだけの話でしょう?」

 

「まぁそうなんだけどねぇ、どうにもイメージが固定化されちゃってて。こう、体が硬くてピョンピョン飛び跳ねるアレが」

 

「一般的なキョンシーはそんな感じネ。喋れる個体もいないワケじゃないだろうし、言う程特異じゃなかったり?」

 

「それはないと断言させてもらいますが」

 

「逆に考えるのよ、世のキョンシーが皆こうなれば特異じゃなくなると」

 

「それを実現するのには途方も無い可能性が必要そうね」

 

「なによぉ。大体それ言ったらそっちのがよっぽどじゃない、今まで見た中で一二を争うくらいだよ?……ところでさ、さっきから気になってたんだけど」

 

「何かしら?」

 

そこで言葉を切ると、狭間がナイフを、紫が扇子を、キョンシー妹が爪状の暗器を三方向から一斉に向けた。いつの間にかそこに存在していたその女は涼しげな態度を崩さず、漆黒の扇をひらひらとさせながら言葉の続きを待った。

 

「……アナタ、誰?」

 

黒い女はクスクスと笑い、扇で口元を隠して言った。

 

「名前は秘密。今は名乗るべきじゃあないもの」

 

「じゃあ、何者?」

 

 

 

「んー……そうねぇ、メリーちゃんがこうなってる原因ってとこかしら?」

 

その言葉を聞いた瞬間、狭間から放たれた力の奔流が、貪るように黒い女に食らいついた。キョンシー妹も、紫ですら反応できない程の速度で、喉元どころか身体の半分以上を飲み込みながら。しかし、そんな状態で尚女は笑い声をあげる。悍ましい程美しく。

濃密な殺気と“死“の波動に当てられ、死体でありながら死の恐怖を感じたキョンシー妹は動けなくなってしまっている。そんな彼女には目にもくれず、黒い女は哄笑する。

 

 

「アッハッハッハッハ!短気ねぇ、いい男が台無しよ?見方によってはその怒り一色の顔も素敵だけど!」

 

「テメェ……!!」

 

黒い女は、メリーと言った。つまりそれは、この時代に生きる者ならば記憶を盗み見でもしない限り知り得ない名前。その名を知り得るのは彼女が八雲紫である前から知っている狭間、当の本人であるマエリベリー・ハーン、そうして最後に残るのは元凶。悪意を以て彼女を陥れた張本人のみ。

それはつまり、即ち。狭間が最も強く殺意を抱く対象に他ならない。以前聞いた純粋な神霊にとっての怨敵のような、そんな存在を前にして彼は冷静さを完全に失った。帽子と猫を被って尚取り繕う事ができない程に。

しかし、メリーは。紫はあくまでも冷静であった。

 

「落ち着いて、狭間」

 

「落ち着いてられるかッ!コイツが……!」

 

「だから落ち着いてと言ってるんじゃない。貴女、私をこうした原因が自分だというのなら戻す事も可能なのかしら?」

 

いきり立つ狭間を手で押さえながら、八雲紫が問う。

頬に指を一本当て考える仕草をしながら、黒い女が答える。

 

()()()

 

「……そう。なら今すぐ戻しなさい……と言った所で聞く訳もないわね」

 

「当然。だってつまらないじゃない、まだまだ物語を続けてもらわなくっちゃ」

 

狭間とは違った方向に飄々としている黒い女。ケラケラクスクスと笑いながら、紫を見やる。“死”に蝕まれているというのに、それを微塵も感じさせない態度で。

 

「ここで仕留められれば良かったのだけど。どうやら貴女を消滅させたとして解決できる訳ではないようね」

 

「そりゃそうよ。実行したのは私じゃなくて僕だし。念の為言っておくけど、私とは関係ない方法で戻る方法もあるわよ。タイムリミットは元の時代になるまで、ってとこかな?」

 

「それは違うわね」

 

「お?」

 

既に身体の大部分が死んでいる黒い女に、一筋の亀裂が入る。頭の天辺から爪先まで、一直線に。スキマに吸い込まれるようにして消滅していく黒い女に対し、紫は冷たく言い放つ。段々と消えていく身体を気にもとめず、黒い女は笑う。

 

「私達に負けはない。タイムリミットなんてのも存在しない。そして貴女に――貴女達に勝利はない。戻れないというなら受け入れる。戻れるというなら足掻く。どの道私達は何があろうと前へ進むしかないもの。でも、アナタ達の求めるものなんて一片たりともくれてやらない」

 

最早顔だけとなって尚歪んだ笑みを浮かべる黒い女を見下ろし、八雲紫は、マエリベリー・ハーンは。全ての始まりであったあの日、その元凶と語るソレに対し毅然と言い放つ。

 

「――絶望なんて、絶対にしてやるものか」

 

その言葉と共に扇子が振り下ろされ、黒い女は霧散した。楽しみにしているとも、不愉快だとも取れる笑い声だけを残して。



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