眷属の夢 -familiar vision (アォン)
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1章 -眠りの中
CSアタック失敗!


需要不明。




その伝説は神々の黄昏の時代よりも遡る――――

 

ある男が居た。誰よりも強く、誰よりも恐れられる男だった。

 

男は何者も恐れず、勝利と征服を求め戦い続ける日々に明け暮れていた。

 

男は数々の武功を打ち立てた。誰もが男を英雄と讃えた。

 

それでも男はただの人間だった。

 

戦士として生き、人間同士の戦いで敗け、命を散らす。それが神に定められた、男の運命だった。

 

やがて、その時は訪れた。かつてなく強大な敵は、男に確実な死の運命を叩きつけようとしていた。

 

しかし、男は生き延びることを望んだ。生き足りなかった。

 

強さを、栄光を、畏怖を欲した。だから、死を拒絶した。

 

男は神に願った。

 

「神よ!我が敵を滅ぼせ!我が魂を――――捧げよう……!」

 

神は男の願いを聞き届け、男の死を退けた。

 

そして男は、更なる力を手に入れた。

 

何人をも滅ぼしうる力を。

 

無限の栄光をもたらす力を。

 

すべてを傅かせる力を。

 

 

 

 

そして男は、力の代償を支払ったのだ。

 

なにものにも代えがたい、究極の代償を――――

 

 

 

 

 

 

失われた英雄譚の断片(著者・成立年不詳)より

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

 

ベルは、ひどい悪夢を見る事がある。その悪夢はちょうど、祖父の死を境として彼の安眠を妨げるようになった。

夢の中の自分は何か、形容しがたい激しく、強大で、恐ろしい勢いを持ったものを内に滾らせていて、それは押しとどめがたい衝動でもって肉体を動かすのだ。もちろん、夢の中で、だが。

あるいはそれだけなのならば、……つまり、思春期特有の、そういった衝動なのかと彼自身も理解するところなのだろうが(亡き祖父の影響とも思うだろう)、それだけで終わらないがゆえに悪夢とベルは認識していた。

夢の中の自分が、意味の取れぬ大声を張り上げ、腕を振り回す。目に映るのは、真っ赤な何かが蠢き、飛び散る光景だ。その度に自分は得も言えぬ爽快感を味わい、そして、理由の分からない不安感が募るのである。

自分が何か恐ろしい事をしているのだという実感は、夢が終わって初めて理解するのだ。夢の中の自分が覚える不安感とは違う……夢の中のベルは、口にするのもおぞましい残虐な行為への良心の呵責など、芥ほども抱きはしない。

ならば、『彼』の抱く不安とは一体何なのだろうか?つまるところ夢の中のベルは、まるでその光景を『かつてあった過去を思い返している』ように眺めていたのだ。ベルはまるで、この狂宴の果てに待つものを知っていて、それをひどく恐れ、悔やんでいるかのように、心のなかを千々に乱れさせた。

夢の中の自分は障害を次々になぎ倒して突き進み、ついにその神殿の前に立った。その時こそ、不安は警告となって夢の中のベルを制止させようとする。

 

『ダメだ。入るな。入ってはいけない。ここに入るな!!……』

 

しかし彼は警告を無視してその扉を蹴破り――――

 

 

 

「……君、ベル君、……ベル君!」

 

「え……」

 

ヘスティアの声が、ベルの意識を現し世へと引き戻した。齢幼い少女にしか見えない姿の女神は、目を見開き、切羽詰まった表情でベルに呼びかけていた。

悪夢にうなされる眷属の姿は、孤独を恐れる弱き神の不安を大いに煽ったのかもしれなかった。

 

「はっ、……ああ、夢、かぁ……」

 

「ベル君……」

 

いつからだったろう?そう、この小さな女神に仕える事を選んでから、ベルが悪夢を見る事は無くなった。

それはやはりこの夢が、家族を失った虚無感が見せる不安と恐怖の顕現でしかないという事の証左なのかもしれない。

そこまで思った所で、安堵の息を吐きつつ未だに、心配そうな面持ちを向けてくるヘスティアに気付いたベルは、慌てて口を開いた。

 

「あ、その……すいません、神様。ひょっとして寝言とか酷かったり」

 

「……まったく、酷いもんだったよ。石のベッドで眠ってる訳でもあるまいし」

 

「ぃえ、はは……」

 

眉間の皺を深めて、ヘスティアは皮肉をぶった。それは、自分の安眠を邪魔された怒りよりも、たった一人の眷属を苛む悪夢の内容を知ることが出来ない焦燥感によって引き起こされた言動だ。

 

「いったい、どんな夢を見たんだか。財布を落としたのかな?迷子になったのかな?小指をタンスにぶつけたのかな?」

 

「な、なんでそんな、現実にありそうな嫌な出来事を挙げていくんですか……」

 

茶化す女神の言葉は、ベルの頭の中から、夢幻の残照を拭い去るのに有効に働いた。それこそがヘスティアの目論見だったのだけど。

そう、神といえども、人の心を縛る悪夢を払うことなど出来ない。ならば内容を問いただして思い出させるより、さっさと忘れさせるのが最良の対処なのだ……。

ヘスティアは、そう考えていた。

 

「ともかく、眠気がすっ飛んでしまったのを償ってもらうよ。全く……」

 

「ちょっと、神様!?」

 

ヘスティアはもぞもぞと、ベルの寝床の中に、潜り込んだ。神様などとは言うが、見た目は紛れもない美少女だ。

この状況はベルにとって、様々な不都合な事象が発生するのだが……。

 

「えい、大人しくするんだ。ボクを蹴り出そうっていうのか」

 

「そ、そうじゃなく。これはっ、ちょっと!待ってください!」

 

ヘスティアは彼女独自の思考論理に従って行動していたが、それはつまり、ともすればコンディションを変調させてダンジョン探索に不測の事態を発生させるかもしれない眷属を思いやっての事でもあるのだ。そう、間違いなく。

だからベルはじきに、自身の抵抗が無意味なものと知るだろう。

 

(そうだ、神様は僕の気を紛れさせようとしてくれてるんだ、間違いない……)

 

そう、間違いない。だから結局、一つのベッドで一組の男女が朝を迎えるにあたって、それ以外は何ら昨日と変わることのない経緯を辿ったのであり、小さな女神がそのことを少し不満に思ったのは、彼女の単なる我儘である。

 

 

--

 

 

『ベル、この物語の中の英雄達が一番重要に思っていたことは何だと思う』

 

『女の子にモテることでしょ?』

 

『違う!……いや違わないが、それはつまりだな……そう、一番おいしい事、であって、ふだん肝に銘じておくべき事とは別のことだ!』

 

『……わかんない。一番強くなるのを目指すこと?』

 

『……』

 

『?』

 

そして、白い顎鬚を蓄えた祖父は黙り込んだ。

故人とかわした他愛無い会話の憧憬をベルは思い出していた。

たまに祖父は、ふと、自分のほうに視線を向けながら、その実まったく違う別のものを見ているような様を見せることがあった。

ここではないどこか遠い場所、今ではないいつか違う時のことを思い出しているような……。

その寂しげな表情は今もありありと蘇らせることが出来る。同じ口による、「女にモテる事が如何に素晴らしいことか」という薫陶にも等しく、だ。

 

(ああ、くそ、なぜ今こんな事を思い出しているんだろう僕は)

 

それはきっと命の危機に晒された人間が見る、思い出の走馬灯なのだろうと、ベルは理解していた。

彼は今、彼自身の抵抗など歯牙も掛けずに屠りうる力を持つ怪物の手によって、その短い人生の幕を閉ざされようとしていた。ベルが必死で脚を動かすのは、それをわずかに先送りにしているだけに過ぎないと、見る者は思うだろう。

見上げる巨体を持つミノタウロスは激しい鼻息とともに涎をこぼしながらベルを追っているのだろうが、そんな姿を確認しようなんて、ベルは毛の先ほども思わない。

 

(そうだ、止まれば死ぬ!振り向けば死ぬ!僕は死ぬ……死ぬ!?死にたくない、死にたくないんだよ僕は!)

 

レベル1の素人冒険者の現実がそこにあった。遥か下階層に棲息しているはずのミノタウロスは――――ベルの及び知らない事だが――――ロキ・ファミリアの不始末により、第五階層に迷い込み、そこに出くわした哀れな供物の血肉を啜る為に今、その本能を露わにしていた。

勝てるはずがないのだ。

 

(僕はここで終わりなのか!これが不純な動機のままオラリオにやって来た報いなのか!?)

 

力なきがゆえ身の丈に合わない望みを抱いた末路に辿り着こうとしていたからこそ、ベルは先の思い出を蘇らせたのだろうか。

古今東西の英雄達はみな、強かった。その力で怪物を斃し、未踏の地を征服し、勇名轟かせ、そしてモテた。

自分は辿るべき道を間違えたのか?そう、英雄とははじめから強き者なのであり、弱者が目指すべき目標などではない。まさしくおとぎ話の中の、隔絶した超越者だったのではないだろうか?……

そこまでベルが思い至った所で、遂に彼の身体にミノタウロスの歩幅は追いついた。大きく硬い蹄が、小さい人間の頭蓋を砕くのを目的にして、蹴り下ろされた。

 

「でええっ!」

 

ベルは間抜けな叫び声を上げた。幸いにして彼の脳髄は迷宮の床を飾る赤い花になりそこねたが、砕けた床の罅が、小さい人間の脚を絡めとった。

勢い余って転倒し、そのままベルは振り向いた。

今生の終焉がそこにあった。高い上背を持つミノタウロスの眼光は、へたり込むベルの目線の高さからは見えなかった。かわりに、ぼたぼたと滴り落ちる涎のしずくが床を黒く染めるのがよく見えた。

ベルは尻だけ動かして、少しでも距離を取ろうと足掻いた。一秒の逃避行は、背に当たる壁の感覚でもって完了を告げた。部屋の隅に縮こまる白髪の少年は、顔色を完全に失った。

 

(ああ、死んだ。終わったんだ……)

 

出会いなどなかった。おぼろげな願い……というのもおこがましい、浅ましい欲望に従った結果がこれだ。

はらはらと涙を流すベルは、持ち上げられる蹄の底面を眺めながら、図らずしもだろうが、ここへ導いてくれたあの祖父の事を思い出した。

そう、黙りこくったままの祖父は、あの後、何と言っただろうか……。

現実感を喪失したままのベルの思考はかつてなく澄み渡り、脳細胞を高速で働かせていた。

ミノタウロスの口から落ちてくる煌きの一粒を見分けるほどに。

 

『……それはな、希望を捨てない事だ』

 

『希望?……』

 

『そう、希望だ。ベル、忘れるな。どんな時でも希望を持ち続ける。英雄達は皆、そうして戦い、生き延び、真に得難いものを手に入れたんだ』

 

『得難いもの……?』

 

『お前にも、いつかわかる。そうだ、忘れるなベル……』

 

『……』

 

『どんな苦難の中でも、絶望の底に居ても、光の届かない暗闇に閉ざされていようとも……希望があれば、戦えるんだ。

 たとえ、全てを失っても……

 希望の光を失わない限り、人間はどんな事だって成し遂げられるという事を……忘れるな』

 

(……こんな場面で、こんな事思い出して、どうしようもないじゃないか)

 

希望。希望を捨てずにいれば、心の内の希望の光が目の前の怪物を消し去ってくれるとでもいうのか?そんな話、ベルは聞いたことが無い。

そう、何かを変えるのは、何かを成すのは、意志ではなく力ではないか。自分の死は意志の気高さも浅ましさも無関係な、単なる弱さの結果ではないか。

 

(……希望。英雄になってモテたい。そんなやましさも、希望の一部だ。甘ったれた心持ちが、こんな状況を呼び寄せたんじゃないのか)

 

ベルは恐怖に包まれ動けない身体の中で、改悛の念を育んでいた。

 

(くそ、くそ、くそ……!こんな終わり方なのかよ、弱いから……強くないから、英雄じゃないから!)

 

後悔がやがて、己が弱さ、至らなさへの怒りへと変質していくのに、ベルは気づかなかった。刹那にも満たない時間で確かに、彼の中の何かが首をもたげつつあった。

それが何なのか……そもそも、その存在への違和感すら、彼が抱くことはない。それは、確かに彼の中に存在したものなのだから。

昔、祖父が居なくなるよりもずっとずっと前から……。

蹄が少しずつ視界を覆っていくのが見える。

 

(希望だって……)

 

瞬時に、ベルの全身に力が行き渡る。短刀を握る指が、柄を握りつぶそうと白んだ。

刃を床に突き立て、ベルは横っ飛びに身体を跳ねさせた。直後、ミノタウロスはまたしても、迷宮の床を砕いた。

つぶてが周囲に飛び散ることで、乾いた音がベルの耳をうった。

床に向けられていたベルの視線は、獲物を見失ったミノタウロスの顔を見上げた。感情の伺えない横顔を睨めつける眼差しは、いつの間にか、炎のような熱と、氷柱のような鋭さを持っていた。

立ち上がり、腰を低く落とす。自然と上体を屈ませた姿勢は、獣が獲物に襲い掛かろうと構える様にも等しく、それに気付いたミノタウロスの自尊心をひどく挑発した。

ちょこまかと逃げまわるだけしか能のない、この小さい生き物は、なんとここに来て自分に立ち向かおうとしているのだ!

ミノタウロスは、咆哮をあげた。弱き者の反逆を許さない傲慢が、怪物の怒りに火をつけた。

ミノタウロスは最早、獲物をいたぶり楽しむ選択肢をとらなかった。前肢を地べたに立て、一気に全身の筋肉を律動させる。一対の白い角は、ベルの息の根を完全に断つ為の槍となって、一直線に迫った。

レベル1の冒険者にとってのその攻撃とは、断頭台に仕掛けられた罪人に迫るギロチンと等しく、完璧な未来予測を可能にさせる代物だ。

ほんのついさっきまでの、怯え縮こまるだけの少年相手だったなら、そうもなったに違いない。

ベルは、歯を食いしばり、息を止め、目を見開いた。

 

(『希望は――――弱者が持つものだ』!!)

 

ベルは意識を断つ瞬間まで、ミノタウロスから目を逸らさなかった。

 

 

--

 

 

ミノタウロスの分厚い喉頭を激しく震わせて吐出された呼気は、ロキ・ファミリアの面々のいずれも聞き及んでいた。それが、二度に渡ったことも、だ。

まんまと獲物を一匹取り逃した彼らは大急ぎでその尻を追いかけて、このフロアまでやって来ていた。

 

「ちっ、先越されたか」

 

獣人族の男、ベートは走りながら悪態をついた。彼はファミリアの中でも名うての戦士だが、それでも頂点ではない。彼を置きざりにするほどの使い手こそ、哀れなはぐれミノタウロスを仕留めた狩人に他ならなかった。

通路を曲がると、視界が開けた。広めの部屋の床に、点々と戦いの跡が残っていた。そして、その先に、赤黒い血溜まりが作られていた。

ミノタウロスの残骸の前に腰を下ろしている金髪の少女が振り向いた。

 

「ベートさん」

 

「ああ、ひでえもんだぜ。本当に容赦ねぇな、お前は……。……なんだそりゃ?」

 

アイズは、白い髪の少年を抱き起こそうとしていた。あどけない顔立ちの人間族だ。二十にも満たないのに違いない……。

鮮血の一筋で顔の左半分を赤く飾っている少年は、目を閉じたまま微動だにしなかった。

 

「運の悪い奴だ。ま、この稼業の宿命だがな」

 

「……死んでません。気絶してるだけ」

 

ベートは夢散らした敗残者への哀れみを口にしたが、アイズがすぐにそれを否定した。そう、心音は途切れてはいない。しかし、頭を打っているようだ。

万難を排そうというのならきちんとした治療を受けさせる必要があるかもしれない。誰がその負担をするのかはさて置くとして……。

 

「はっ、雑魚が一匹。放っとけよ。どうせレベル1のゴミだろ?ロクに刃向かう事もせずに無様にやられて、ここで怪物に殺されるならそれが運命なんだよ」

 

「……」

 

アイズはベートの言葉を無視して、少年を背負った。恐ろしいほどの強さを持ち、感情を露わにするのが少ない彼女は、その人間性もまた並の人間を超えているものだと誤解されがちだ。

けれども、自分達の不始末のせいで負傷し昏倒している同業者を捨て置くような無慈悲さなど彼女は生来から持ちあわせて居なかった。

 

(それに……)

 

「おい、くだらねぇ情けなんて掛けてんじゃねえよ!助けるのはいいが、取り分は――――」

 

「権利なら、あるはず」

 

「はあ?」

 

アイズはミノタウロスの骸の痕に残った魔石の欠片を一つ、ベルの懐に放り込んだ。流石にそこまで看過するのは、ファミリアの一員として絶対にできないと、ベートは声を荒らげたのだが、アイズに遮られて間の抜けた声を吐き出すにとどまった。

アイズは、肩越しに少年の顔を見た。まぶたを縦断する古傷は、閉じられた右目によってつながったままだった。

 

「最初の一撃は、この子のものだったから」

 

「……何だって?おい!?」

 

さっさと足を動かすアイズをベートが追った。彼らが去ったあと、しばらくすると、部屋からは一つの戦いの跡は何もかも消え去ってしまった。生きている迷宮は、一匹の怪物と一人の人間の間で起きた事など、たちまち忘れ去ってしまうのだろう。

けれどもアイズの瞼の裏からはきっと、その光景は消えないのだ。

 

「アイズ、とベート……!?何、誰その……死体じゃないよね?」

 

「さっきのアレはやっぱりアイズが仕留めた時の声か。この子も巻き込まれて可哀想になぁ」

 

追いついたファミリアの面々が囃し立てる中にあっても殆ど反応を返さないのはいつものことだが、アイズが本当に上の空である事に気付いたのはごく少数だった。

そう、彼女はただ、思い返していた。突進するミノタウロスに対して猛然と立ち向かい、自分の何倍もの巨大な質量を受け流しながら、その片目に短刀を突き立てる少年の姿を。

背に掛かる軽さは、柄が眼球に接触するまで深々と、おそらく脳にまで達するほどに刃を突き立てられるほどの膂力を持つとは俄に思えなかった。しかし、その光景は確かに存在したのだ。

ミノタウロスの角ごとその巨大な頭を引き寄せ、血よりも赤く瞳を燃やし、真っ白い歯を割れそうなほどに噛み締める表情……少年はあの時、まさしく獲物を喰らうために牙を剥く一匹の獣だった。

 

(君は……)

 

理解の域を超越した激痛はミノタウロスの肉体を危機からの逃避行動へ走らせたのだろう。自らの生命を害する存在を遠ざけるために、迷宮に生まれ落ちて以来最も強大な力を発揮して、上体を激しく振りかぶったのだ。

そして小さな少年の身体は、短刀ごと木っ葉のように飛び、壁に叩きつけられて倒れたのである。

はたして部屋の入口から始終を見ていたアイズはそこでようやく我に返り、倒れた少年を尻目にもんどり打って苦しむミノタウロスへ引導を渡すことに大した労苦を払わずに済んだ。

 

(……そうだ。名前も知らない……)

 

背を通して仄かに伝わる鼓動を聞きながら、アイズの中で少年への興味が芽生えていた。

強者を見たのが今日この日が初めてなどということは決して無い彼女は、『たかが』ミノタウロス一匹相手に、ともすれば、良くて相打ちの無謀な賭けに挑んだようにしか見えない少年の姿に、何かを感じていた。

ただ敵を倒すだけの強さや、強敵を相手に退かない勇気、強者を超えようとする貪欲さ。英傑が持つものとされる様々な、そして彼女にとっては見覚えのある資質の、そのいずれとも異なる別の何か。

それに対する理解を深めるのは、時間を掛けるだけではきっと出来ない事だろうという確信だけが今のアイズの中にあった。

 

 

 

--

 

 

 

 

ベルは夢の中に居た。

 

青く茂る草原の中の小道を歩いている。緩やかな風が肌を撫でていた。

 

背の曲がった、やや丈の低い、けれどもしっかりと木の葉を湛えた木が、彼の前に現れた。

 

その奥に佇む、石造りの、小さな家も……。

 

(ここは)

 

ぼんやりと、夢の中のベルは思った……懐かしい場所だと。何故だろうか。

 

答えは明らかだ。彼は、この場所を知っているのだから。

 

(そうか)

 

彼は、小さな家の扉の前に立った。

 

(……家、だ。帰って来たんだった……長い旅路だったけど)

 

胸の中に安らぎが溢れ、同時に、全身を心地よい疲労感が包んだ。

 

(心配していただろうか)

 

それは、自分の生き方と切り離せない、ままならぬ悩み事だった。戦地へ征く事は、待つ者に対して、信じ耐える事だけを押し付ける傲慢に等しい。

 

しかし、だからこそ人間は、それを守るために、そこへ帰るために強く在れるのかもしれないと、彼は思うこともあった。

 

(会いたい)

 

逸る気持ちはもう抑え難かった。彼は、扉の把手を掴んで、押した。

 

陽の光が彼の影を家の中に落とした。質素だがしっかりした作りの家具の数々と、磨かれた化粧台の鏡が、ここに住む者の安穏たる営みを証明していた。

 

嗅ぎ慣れた匂いがする。自分の家の……自分が帰るべき場所の、自分の帰りを待つ者の匂いに、期せずため息が漏れた。

 

自分は、生きて帰って来られたのだ……。

 

(会って、触れたい……確かめたい)

 

後ろ手に扉を閉じるのも忘れて、奥に見える寝室へ向かうべく足を踏み出す。

 

(元気にしているだろうか。病気になったりしていなかっただろうか)

 

そうだ。

 

彼は、この小さな家に、待つ者を残していたのだ。

 

小さな家の、……ちっぽけで、脆く、そして、なにものにも代えがたい――――

 

(ああ、やっと……)

 

寝室の中から、影が覗いた。

 

そこには、彼がずっと追い求めていた、大切な――――

 

 

 

 

 

--

 

 

 

「ん……ん……」

 

ベルの意識が開けると、暖かい感触が手の中にあるのをおぼえた。

ベルは、不思議な夢を見た事だけを覚えていた。詳しくは思い出せないが、なにか、とても優しい、そして、今伝わる温度のように心休まる……。

そのぬくもりは、彼の寝床に頭を突っ伏しているヘスティアの手のひらから伝わるものだった。

黒いツインテールが床にだらりと私雪崩れているのが見えた。

 

「神様……」

 

「……?」

 

ぽそりとした呼びかけに対し、ヘスティアはもぞ、と頭を動かして、顔を上げた。ぼんやりとした目の光は、薄黒く汚れた下瞼のせいで殊更に知性のはたらきが鈍いような表情をつくりだしていた。

口を半開きにしたまま暫しして、ヘスティアは眼の焦点を合わせると、かっと瞼を開いた。

 

「ベル君っ!!!!」

 

「うあっ」

 

飛びつかれて抱きすくめられたのだ、とベルは視界が黒くなってから気付いた。

 

(や、柔らかい??)

 

何か、先ほどと違う幸せな感触が顔を包んでいるが、それが何なのか直接確かめるのは、今の体勢では不可能な事だった。

 

「君はっ、何て無茶を……君に、何かあったら、君は……ボクはねぇっ!君が、あんな姿で戻ってきて……ボクはねえ!!」

 

「むぐむぐ」

 

(い、息が、出来ない)

 

意味の取れぬ台詞を必死で紡ぎだすヘスティアは、今こそ自分が眷属の命を奪い去ろうとしている事に気づくのに、少し時間がかかった。

芳しく、心地良い拘束から解き放たれたベルの顔が真っ赤だったのは、酸欠のせいだけだっただろうか。それは、彼自身にしかわからない事だが……。

自分の醜態に気付いたヘスティアはすぐに眷属から離れると、少し顔を赤らめてから狼狽を隠すよう咳払いを一つして、そしてベルのことを睨みつけた。

 

「っ……、何を……考えているんだ君は!!ミノタウロスと戦っただって?馬鹿か!!死にたいのか!?」

 

「うう」

 

いかなる反論も出来なかった。素人冒険者の分際で調子に乗って第五階層にまで足を踏み入れるという暴挙に飽きたらず、更に十階層下に棲息する筈の闖入者と刃を交えるなど、狂気の沙汰と言う他ない。

そう、あの時の自分は何かが狂っていた。あの瞬間、ミノタウロスの蹄から逃れた幸運に感謝し、尻尾を巻いて遁走するのが最良の判断であったに違いないということは、年端もゆかぬ小僧ならずともわかる道理だろう。

それでも、戦わなくては、と思ったのだ。倒さなくては……倒すべきだ、これは逃げるべき天敵などではなく、屠るべき獲物なのだ!という、尋常の理を超えた使命に突き動かされ、ベルは立ち向かったのである。

しかし、自分の力で打ち勝つのを選んだ彼の蛮勇とは、アイズが駆けつけていなければ、怒り狂ったミノタウロスによって物言わぬ肉塊へと変えられる結末だけを残したに違いない。

ヘスティアはそれを含み置いたうえで、憤激を露わにしていた。

 

「いいか!こうして呑気にベッドの上で寝っ転がっていられるのも、偶然!偶然の産物なんだよ!完全な偶然!君の力で掴み取った安息なんかじゃない、あのヴァレン何某とかいう色目使いのいっけ好かない奴が気まぐれで助けてくれたから……」

 

「助け……そうだ神様、僕を助けてくれた人って」

 

「聞けィ!!」

 

ヘスティアの言葉で、ある事実に思い至る。ベルが覚えているのは、逆手で握った短刀を、渾身の力でミノタウロスの眼球に突き刺した感触までだった。

極限にまで研ぎ澄まされた五感は、ベルの認識する時間の流れを何倍にも引き伸ばしていた。全てが鈍重に動いて見え、突進してくるミノタウロスの纏う風の感触をつかむ事すら可能としていたのだ。

絶叫を上げたミノタウロスの凄まじい抵抗により身体が地を離れ……そこで、ベルの記憶は終わっていた。

……何故、自分は命を繋ぐことが出来たのか、という疑問は、やっとベルの頭の中に浮かんできた。が、ヘスティアにとってその疑問を口にされることは、逆鱗を更に撫で付けるのに等しい行いだったようだ。

まなじりを吊り上げていよいよヘスティアは地団駄を踏み始めた。

 

「ああ、まったく!まったく!君は全然わかってない!自分の力でどれだけやれるかを理解出来なくて、迷宮探索なんて出来ると思うのかっ!?大体あんな女、ちょっと背が高くて力があるからって見せつけるようにおぶって、君を寝かせてからもジロジロとねめつけて……うああ許せないな!思い出すだけで不快だ!」

 

「すいません、すいません神様……だから、落ち着いてください……」

 

「君はねぇ……君はねぇ……ふう、ふう……」

 

鼻息を荒らげて非難する女神の口上は後半になると急に意味不明の文言と成り果て、眷属による制止を誘った。

ぶんぶん振り回していた腕を降ろし、激しく肩で息をするヘスティア。ひとたび感情の勢いがおさまると、一気に彼女の肉体を疲労と酸欠が襲った。

やっと、落ち着いてくれた……と、ベルは内心安堵した。しかし、彼は、自分の愚かさをすぐに理解する。自分が何をしたのか、彼は未だに理解していなかったのである。

ヘスティアは、顔を俯かせて、震えだしていた。

 

「……君が目覚めなかったらと思って、もしも君が戻って来る事も叶わなかったらと思って……ボクがどんなに……どんなに……」

 

途切れる言葉が彼女の心情を雄弁に物語っていた。彼女が味わったベルを失うかもしれない恐怖の理由とは、彼がたった一人の眷属だからなのだろうか?それとも、別の理由があるのだろうか?

心のなかを読み取るすべなど持たないベルはしかし、そのいずれかであっても、いずれかでなかったのだとしても、仕えるべき主君を悲嘆に暮れさせるに足る正当性を自分が備えることなど決して無いということを知っていた。

小さな女神の、小さい握り拳が白んでいた。

 

「か……神様」

 

「バ、バカ、バカ、この大馬鹿……、し、死んで……死んだら、終わりなんだぞ……何もっ、残らないのに……何を得られるって……」

 

光るものが床に滴っているのが見えた時、ベルは自分の愚行の意味を真に知った。

どうあれ生きて戻って来れたんだから、それでいいじゃないか。なんて、帰りを待つ者にとって、これほど無責任な理屈などあろうか?

ベルはあの時確かに死んでいたのだ。一矢報いた、それだけの自己満足にすら浸れる事もなく……お人好しの何方かが現れなければ。

それを、目の前の女神に対する不実・最大級の侮辱と呼ばなければ、なんと形容するべきだと言うのか?

その神の最初の眷属は、レベル1にして、単身、無策無謀な戦いに挑み、屍を迷宮に喰われた。一月にも満たない時の間に。

そのような神のもとに恩寵を求む者など、現れはしない。誰もが求めてこの地へ集うのだ。富を、名を、色を。

選択という利己の本能を剥き出しにする行為とは、選ばれる側にとってどこまでも冷徹だという事実など、ベルは誰に言い聞かせられるでもなく知っている。そう、身を以って。

 

(……何も残らない)

 

そう、今の自分が死んでも、何も残らないのだ……。

目の前の彼女が、たった一人の、この寂れた神殿の住民となって残されるだけで……。

 

「神様……ごめんなさい。僕は……」

 

「……っ、……っ、……」

 

抑えた声が、嗚咽となってヘスティアの喉から漏れていた。その一拍一拍が、ベルに罪悪感を積み重ねていった。

 

「ううっ」

 

ヘスティアは、ベッドの上のベルの胴体に顔を埋めた。両手が、すがりつくように、掛布を掴んでいた。

ベルは震えにつかれる細い背を見ていた。

 

(僕がここに戻って来られなければ……神様も、あの時の僕と同じ気持ちを味わう事になるのか?)

 

たった一人の家族……ベルの、大好きだった祖父は、ある日唐突に居なくなった。

いつものようにちょっと出て行くだけの様子だった祖父の背は、陽を背負っていつもよりも大きく見えていたように思う。

誰よりも強い、どんな魔物にだって負けないと思っていた祖父は、それきりベルの人生から隔絶した存在となった。

いつものように出かけ、そして帰って来なかった……それが、ベルの知る、死別という究極の対人関係の形だった。

 

(目を覚ましても、誰も居ない、悪夢に魘されても……)

 

はじめは現実感の無さだけがあった。本当は生きているのではないか。あの祖父が死ぬなんて、きっとどこかで生きていて、今この瞬間にでも扉を開けて……などとさえ、ベルは思う節があった。

当たり前のように存在したものが無い事への違和感は、日を追い募った。一人で起床し、一人で食事をとり、一人で畑仕事をして、一人で湯に浸かり、一人で床につき……。

彼の暮らす家の何処にでも、どんな時にでも、祖父は居た。白い髪と髭を蓄えて、皺を浮かべて破顔し、雷のように怒る事もある、たった一人の家族だった。

それを自覚した夜、ベルは悪夢を見たのだ。

血と、炎と、狂気の虜となった自分が、恐ろしい何か、決して言い表す事の出来ない、名伏しがたい何かのもたらす恐怖に押し潰されるあの夢を――――

あの永遠の暗黒の中に置き去りにされるような恐怖こそが、ひとり暮らす少年の心をオラリオへの逃避に駆り立てた、などと言い換えても、さしたる誇張にあたらないだろう。

そして出会った目の前の小さな女神が持つ、暖炉の篝火のような暖かさによって、確かにベルは救われたのだ……。

 

「神様」

 

「……」

 

彼女を新たな家族と断言することが、ベルに出来るだろうか?出会って重ねた時間とは、確かに絆の強さの測りにもなるのだろう。しかし、そうでない場合もある筈だ。

ただ……ベルは、ヘスティアのことを祖父の代替品のように思いたくはなかった。大切な何かを欠いてしまった自分を満たす、ただの部品のようには……。

彼にそう思わせるようにさせるものこそが、眷属がたった一人だけのファミリアが確かに地上に存在する証だと言えた。

 

「約束します……神様。もう、こんな事にはならないって」

 

「…………」

 

ヘスティアは返事をしなかった。しかし、少年による神への宣誓は、途切れずに続いた。

 

「どんな事があっても、命を投げ出すような事はしません。次からは必ずここに、自分の足で、戻ってきます……必ず……」

 

そう言って、ベルは、硬くこわばったヘスティアの手に、自分の手のひらを重ねた。何か深い意図があるでもない行為だったが、そうすることが、この誓いを何よりも侵し難いものにするように、なんとなく思ったのだ。

それきり沈黙が暫し続いた。

 

「………………」

 

ひたすらに固く重い空隙は、ベルが犯した罪がそのまま形をとったかのようだった。何も無い重圧とはまさに、実体を持たずに人を縊り殺す力を持つ、神にしか赦せない至高の首枷と等しかった。

ベルはただ、耐える事しか出来なかった。己の主が、赦しを求める傲慢な眷属を受け入れる寛容を示してくれるように祈る姿は、見る者の居ない小さな部屋の中に佇んでいた。

ベルは、眷属の誓約とは違う、遥か古の時代の、今やお伽話の中にしか語られない、天上の存在だった頃の神が与える呪いの事を思い出していた。

祖父の持っていた多くの英雄譚の断片たち。その中には、輝かしい勝利と征服の詩のみならず、失敗と悲劇に終わる物語が同じだけ存在した。

ある意味ではオラリオという檻に縛られていると言える神々が冒険者に分け与えている力などとは桁の違ったその恩寵は、多くの人間に栄光と破滅をもたらした。

たとえ背負いきれない誉すら与えられたのだとしても、絶対者に対する裏切り、謀り、欺きがあれば、それらは死ですら償えない究極の罰を呼んだのだ。

 

(それが、神との誓約なんだ……)

 

未だにそのような絶対的な誓約がオラリオで行われているのかどうか、ベルの及び知る所ではないが、己が欠いていたのはそれを背負う覚悟であったのだろう、と彼は思っていた。

それが自分に示せる唯一の、主に対する忠誠の証だとも……。

 

「……バカだな」

 

ヘスティアが呟いて、顔を上げた。少し腫れた下瞼は、彼女の仄かな笑みに翳りを与えず、むしろその柔らかさを強調しているようでもあった。

 

「いずれは破られると解ってる約束を口にされて、信じる奴なんかいやしないよ、ベル君……」

 

「神様」

 

ヘスティアは自分の言動が矛盾している事を知っていた。眷属の無謀さを咎め、激しく動揺するいっぽうで、心の内ではその蛮勇に対する理解もあったのだ。

それが冒険者の性なのだろう。人として生まれ、何かを求め続け、時として身の丈に合わない強大な障害と相対し、取り返しのつかない失敗を経験し……そうやって、変わっていくのだ。

神と人は違うのだ……。

 

「……そこまで言わせるとは、意地悪が過ぎたかな、ボクも」

 

そうヘスティアは自嘲したつもりだったが、ベルにしてみれば、生意気な小僧のたわ言への、諦念を滲ませた台詞に聞こえた。

けれども反駁するだけのものをベルは持たなかった。この小さな女神の持つ言葉の重みを覆し、いかに自分が誠実で、賢く、強い人間であるかを声高に言ってのけるほどの厚顔さも。

打ちひしがれるベルに、ヘスティアは優しかった。

 

「反省しているみたいだし……許してあげるとしようか……今回だけ、だぞ!」

 

ヘスティアはそう言って、上体を起こして、少し崩れていた身形を整えた。いつもベルに見せる、幼い少女のようにしか思えない、あどけない笑顔を浮かべて。

 

「一日寝てたんだ、お腹だって空いてきたろ?そろそろ……」

 

そこまで言った所で、女神の細い胴体から、虫の鳴き声に似た小さな音が漏れ出た。部屋の空気が一気に弛緩した。

ベルが目を丸くしてるのを見て、ヘスティアの顔は真っ赤になった。

 

「わ、ど、どこかの誰かが起きるまでついててやったんだぞ!いいかっ、こんな世話焼きで素晴らしい神なんてオラリオ何処探したって居ないんだから、きちんと報いてくれよなっ!」

 

ヘスティアは腹の虫を必死でごまかしながら、慌ててキッチンへ向かった。小さな背に、ベルが手を伸ばした。

 

「あ、もう大丈夫ですから、準備は僕が」

 

「ああダメだ!寝てるんだ、いいな。特に後を引くような傷だったわけじゃないのは確かだが……今日はもう全休だ。わかったら大人しく待っているんだ」

 

眷属の義務も、首だけ振り返った主にそう捲し立てられては、果たせそうもなかった。ベルは小さく返事をして、ベッドの上で縮こまった。

そういえば、今身を預けているベッドも、本来は自分に所有権の無いものだ。これほどまで主に気を使わせてしまう事に、またベルは不甲斐なさを感じた。

 

(情けない)

 

思索に耽ると、キッチンから聞こえる物音も聞こえなくなった。

全ては、自分の無様への後悔だった。

 

(何も知らない、何も成せない、何も得られない……)

 

半身を覆う掛布を握りしめる。全ては、自分の弱さだ。そうであるからこそ弱く、弱いからこそ数々の不始末はベルの背にのしかかる。

 

(やがては、全てを失うのか)

 

一つの残酷な回答へと至ってしまうのに、時間は掛からなかった。名高き英雄達の影に積み上がる名も無き骸は、英雄が斃した敵だけではない。いま自分を押し潰そうとしている、もっとも恐ろしいものに喰い殺された者達でもあるのだと。

何かを求めて、何かから逃れて、何かを守ろうとして、果たせずに散る……何も残らずに。

そうでなければ、永遠に続く戦いに身を浸す道を歩くのだ。高みを目指して、心血注ぎ、栄光を目指し続ける日々を。

 

(強くなりたい……)

 

もはや、選んだ道から逃れる事などベルには出来なかった。それに、オラリオから離れたとしても、そこにある世界の理は変わらないだろう。

弱ければ喰われ何も残らないというもっとも原始的なルールは、この地上で暮らす全ての存在が縛られている絶対的な律だった。

戦いに勝つ強さ。知恵を働かせる強さ。欲しい物を得る強さ。そして、戦い続ける強さ。

全てが自分に足りないものであり、生きる為に必要なものだとベルは知った。

 

(違う、強くなければいけないんだ)

 

弱い自分が強者を目指している猶予など、与えられていないのだと、ベルは思う。

彼はもう、その背に神の名誉を預けられているのだから。

立ち止まっている暇も、項垂れている暇も無いのだ。それこそが、人が高みへ這い上がる事を出来なくさせる真の弱さではないか。

だから強くなければならない。更なる力を、栄光を、畏怖を求め続けなければならない。

それが、自分の選んだ道なのだ。

 

(神様の為にも……)

 

黙するベルの決意をはかり知る術など、ヘスティアは持たなかった。

愛する眷属を労る為の豪華な晩餐の準備に苦闘する彼女は、己の存在意義を発揮する時だと燃えていた。幾分、不器用なりにだけれども……。

ともかく、いつもより少しだけ量の多い夕食は、それから暫くして恙無く済まされたのである。

 

「それにしても、こんなに沢山、どうしたんですか?まさか、買ったんじゃ」

 

「君の事を話したら、有給ついでに、賄い代わりにくれたのさ……良い職場で助かったよ、本当に」

 

夕食の多くを占めていた、芋を揚げたファストフードの由来をベルは知った。

ベルは主と会話しながら、ベッドの上で上着を脱ぎ去りつつあった。それは勿論、彼が何らかの下世話な期待を抱いてやっている訳ではない。

 

「じゃあ、始めるよ……少しばかり痛くしてやろうかな、今回は……」

 

「お、お手柔らかに……」

 

うつ伏せになったベルの背中を見下ろして、ヘスティアが低い声で恫喝した。勿論、彼女にそんなつもりなど毛頭ないが、要らぬ気苦労を掛けさせてくれた少年への恨みは確かに晴らしたかった。

とまれ……ヘスティアは、針で指先に穿った傷から、赤い雫をベルの背に落とした。オラリオに降り立った一柱の女神の恩寵が、今まさに眷属の身に刻まれようとしていた。

血の一滴で、既に彼女によって書き記された神の文字の数々がゆらりと波紋を作り、矮小な人間(mortal)の運命を浮かび上がらせる。そう、彼の成した過去と、彼に開かれている未来の姿は、主にのみ見る事を許されている。それは、破られてはならないオラリオの律なのだ。

ヘスティアの人差し指が、ベルの背を這いまわる。生涯理解できないだろう言語によって運命が紡がれていく感触だけをベルは味わっていた。

オラリオのあまねく眷属たちは、こうして神の力を魂に刻みつけられ、新たな力と、己の辿る運命の標を得るのだ。迷宮を踏破するという使命を背負わされて……。

或いはそれを神に繋がれた呪いの鎖と思う者も、この都市に存在するのだろうか?ベルはその疑問の答えを知らない。

 

「……」

 

「神様?」

 

唐突に背を撫ぜる指の動きが止まった。今までにない主の挙動に眷属が反応するのは当然の事だったろう。

首だけ動かして、どうにかヘスティアの表情を窺おうとしたが、腰の上に陣取っている彼女の顔を見上げるのはベルの人体の構造上無理があった。

 

「神様……?」

 

仕方なく、ベルは呼び掛ける事しか出来ない。けれども主の返答は無かった。硬直した指の感触が、心なしかじりじりと熱を帯びてきているように錯覚する。それはベル自身の内から湧き出る正体のわからない不安への焦燥の産物なのか、それとも別の何かなのか、それすらベルには掴めない。

水を打ったような静寂。数分にも満たない空隙は、ベルにとってどこまでも永く感じられ……意を決して、彼は三度目の口を開いた。

 

「神様っ」

 

「んっ!?」

 

「うひっ!」

 

強めの呼び掛けで我を取り戻したヘスティアはびくりと身体を震わせ、その拍子にベルの背に思い切り指を滑らせた。

突然おかしな方向へと突っ切って行く感触に、ベルも驚いて素っ頓狂な声を上げてしまう。

はっ、とした様子で指を離したのだろう、とベルには手に取るようにわかった。先ほどの理解不能な有り様と違って。

 

「あ、いやいや、何でもない何でもない。いや少しね、君、いきなりこんなに成長してて……こりゃあ、ビックリするよ、誰だって」

 

「そんなに……ですか?」

 

「うん、うん」

 

ヘスティアは上ずり気味の声で取り繕っていた。それほどに……と、ベルは己の無謀な挑戦を思い返す。

神の刻印によって与えられる力とは、その人の歩んだ道筋の如何により決まる。長い時間を掛けて少しずつ高みを目指すも、命を賭して近道を選ぶも、その人の意思一つなのだ。

此度、主を驚嘆させたものは、図らずしも得られた数少ない実りなのかもしれない。

 

「……もっと危地を潜り抜ければ、近道が出来ると思っちゃいないだろうねぇ?」

 

「っ、ち、違いますよ!思いません!絶対!」

 

「ふぅん」

 

後頭部に投げかけられた痛烈な指摘、半ば図星を突いていたと言えるのかもしれないが……それでもベルは、先刻において行った誓約を昨日の今日で投げ棄てるほどの無責任さを持っていない。

どんな近道でも、途中で命果てれば何も成せないのと同じだ。時間を掛けて積み重ねなければ得られないものの多さを知るにはベルはまだ若かったが、それがどんな物であろうと失う時は一瞬だという事だけはよく知っていた。

ヘスティアはベッドから離れて、机の上でペンを走らせはじめる。

今しがた自分が刻んだ神の文字を、ベルでも読める人の文字に書き写しているのだ。

 

「まあ、いいさ……冒険をしなけりゃ、冒険者じゃないってのも、本当の事だ。あえて危険を冒す選択肢を全部潰してくれなんて、言わないよ」

 

「……」

 

含みのある言葉を、ベルは上着を着ながら、黙して受け止めた。

 

「ほら、おしまい。スゴイぞ。今までで一番の伸びしろだ」

 

手渡された紙を広げて、ベルは目を丸くした。なるほどヘスティアの言葉に偽りは無かった事を、全ての項目において満遍なく上昇している数字が証明している。

敏捷の伸びは、あれほど追い回された以上さもあろうと言うべきだが……。

 

「特に……力と、耐久が、一気に伸びたね。まあ、キツイのを一発貰ったようだからねぇ?」

 

「は、ははは」

 

痛がり屋を自覚する少年が打たれ強さに伸び悩むのはやはり、肉を切らせて骨を断つような戦いとは距離を置いていたからだろう。

ミノタウロスとの戦いは、今までとは全く違う戦い方をベルの身体に覚えさせたのかもしれない。

それを今後どう生かすかは、彼自身の意思が決めることだ。神の刻印は人の行く末までは定められないのだ。

 

「散々あれこれ言っておいてなんだけど、痛めつけられる喜びに目覚めてしまったというのなら、ボクも何も言えないが……」

 

「そんな事あるはず無いでしょうっ!」

 

刻印により強化される度合いにその人の性情がある程度左右する傾向も確かに無くはないが、ヘスティアの口にした危惧は少々誹謗じみており、ベルは精一杯否定した。

割りと必死な眷属の姿を見て、女神はケラケラと笑った。

 

「冗談、冗談。じゃ、今日はもうお休みだね……頑張って休んで、明日の英気を養いたまえよ?」

 

「……はい。ありがとうございます、神様」

 

「うん」

 

ヘスティアは椅子から立つと、いつもはベルの寝床になっているソファに身を沈めた。魔石灯がすう、と光を弱めていく。

広大な都市の片隅の、小さな神殿の、小さなファミリアは、眠りの時間を迎えていた。

 

「あの、やっぱり僕がそっちに」

 

「ベル君」

 

ベルはどうしても、居心地の悪さを感じていた。はっきり言うともう、自分の体の壮健さを充分に感じ取れていた。丸一日も独占しておいて更にもう一晩というのは……と、それほど豪放さの無い少年だから思うことだ。

けれども半身を起こした彼の言葉を、ヘスティアは遮った。

薄暗い部屋の中でも、その穏やかな笑顔は確かに認められた。

 

「おやすみ」

 

有無を言わせない迫力を持つ、などという類の仕草でもない。しかしそれでも、ベルは自分の理の無さを悟るのだった。

一瞬、言葉を失ってから、ベルも口を開いた。

 

「おやすみなさい、神様」

 

それを聞いたヘスティアは、にっこりと破顔し、横になった。

ツインテールが小さな肩と一緒に掛布の中に隠れるのを見て、ベルもベッドの中に身体を潜り込ませた。

目を閉じる。

闇が彼の視界を満たした。

そして、思う。

 

(もっと……)

 

もっと、強く在ろう。

今よりも、ずっと……。

こんなにも優しい主に報いる為にも……。

 

(必ず、ここへ帰る事が出来るように、強く……)

 

帰りを待つ者が居る。そう思うと、少年の胸の奥が暖かくなっていった。

 

(帰る場所を、守ってくれているひとが居るんだから……)

 

そう。もう、一人ではないのだ。

あの耐え難い虚無感に苛まれる事も、あのどうしようもなく恐ろしい夢を見る事も、もう無いのだ……。

じわりとした熱が彼の全身に行き渡る頃、ベルの意識は夢の中へと旅立っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてベルは、夢を見た。

 

 

大声で、自分は何かを叫んでいる。

 

 

松明を投げつける。それは、真っ赤に燃え広がる。目の前に広がる全てを、包み込んでいく。

 

 

それと一緒に、自分の後ろに付き従う多くの影が、いっせいに広がった。

 

 

影は、別の影を突き刺す。

 

 

影は、別の影を叩き潰す。

 

 

影は、更に火をくべ、更に影が濃く、大きく、強くなる。

 

 

もっと、

 

 

もっと、

 

 

もっと……。

 

 

自分の心が燃え盛る炎に魅せられていくのがわかる。

 

 

それは、全ての敵を滅ぼす力だった。

 

 

それは、誰もが目を奪われずにはいられない力だった。

 

 

それは、何者をもひれ伏させる力だった。

 

 

立ち塞がるものに、両手に携えた刃が振り下ろされ、炎よりも赤い生命の証が視界を満たしていく。

 

 

もっと……!

 

 

もっと……!

 

 

もっと……!!

 

 

果てなき行軍の末、遂に、その神殿の前に立った。

 

 

そうだ、この神殿の中に――――

 

 

『ダメだ。入るな。入ってはいけない。ここに入るな!!……』

 

 

しかし彼は警告を無視してその扉を蹴破り――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・mortal
「死すべき(運命の)者」転じて「人間」の意味。TESシリーズのプレイヤーなら「定命の者」という訳でお馴染み。
神またはそれに準ずる超越者が人間を自らと対比した言い方。ネガティブな捉え方をすれば見下した言い方なのかもしれない。
GOWシリーズの神々は人間と自分達を同格だなんて思っちゃいないので、クレイトスは事ある毎にこう呼ばれる(そうでなけりゃ「spartan」)。
ダンまちの神々はどうなのかはわかりません……。


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エイナまじおこ

ダラダラ。




メインストリートのそこかしこに小さな水溜りがあった。昨晩の雨の痕だった。

 

(視線を感じる……)

 

ベルは、少々の睡眠不足を感じながら、仕える神と朝食を共にして、それから街へ繰り出した。立ち並ぶ商店は目覚め始めたばかりでもぽつぽつと人影があるが、夜の賑わいに比べればおそろしく静粛なように思える。

だからこそ、ひとり道を歩く少年は、聴覚以外の五感を幾分鋭敏に研ぎ澄ましたのだろうか。

奇妙な居心地の悪さを、ベルは感じていた。

 

(何だろ?)

 

つい、つい、と、鳥のように顔を左右に振ると、決まってその方向に見える人と、一瞬だけ視線が合う。彼らはすぐに顔を逸らして、何でもないように開店の準備を続けるのだが。

 

(……何かおかしな所でもあるのかな)

 

ベルは、自分の身なりを改めてみる。ぱしぱしと顔を叩き、身体のそこかしこを自分でまさぐる少年の姿は、更なる珍妙さを見る者に印象付けさせるだろうと数瞬後に気付く。

 

(……いいや、気のせい、気のせい……関係無い)

 

ベルは頭を振って、迷宮へと向かう事だけを考えるようにした。浮ついた気持ちで命を賭す地に臨む脇の甘さは、今日この日から永遠に捨て去るべきなのだ。それが、昨晩の誓いの持つ意味だ。

そう思うと居ても立ってもいられず、ベルの足は自然と駆け足になっていた。

戦いの結果だけが、今の自分が主へ捧げることの出来るたった一つの栄光なのだ。時間は幾らあったって足りなかった。

天を衝く摩天楼に挑む小さな影は、一直線に走っていった。

 

 

 

--

 

 

 

 

早朝は、あまり迷宮に人影が無い。だからベルみたいな弱小ファミリアの構成員にとっては、狙い目の時間帯だ。一人の冒険者が相手にする怪物達の数は多くなるのだから、早起きする苦痛を乗り越えれば、多くの見返りが手に入るというわけである。

そしてそれは、命の危機も近くなるという事だ。

たかが半月、冒険者として入口の門から一歩踏み出しただけの存在に過ぎない少年にとって、今彼を襲っている事態を『よくあること』と受け止めるのは難しかった。

コボルトの小隊、計八匹と対面した時、殊更に自分の運が悪いのかと疑ってしまうのが、彼の想像力と経験の限界を物語っている。

 

(数を減らす、先手で!)

 

ベルの、刹那の分析は正鵠を射ている。その後の判断も。彼は戦闘態勢に移る途中の犬頭の頸部狙って、短刀で斬りかかった。

十四歳の少年が、頑強な毛皮と筋肉に守られたケダモノの動脈を一息で斬り裂く事が出来るのも、オラリオの神が起こす奇跡の結果と言わねばならないだろう。

 

(まだ!)

 

息を吐かず、そのまま、跳躍するように一歩踏み出したベルは、もう一匹のコボルトの首根っこを引っ掴んで、息を吐いた。そして、吸い、止める。

 

「っああ!」

 

文字通りの力づくで、ベルは、コボルトを床に伏せさせた。下顎を打った衝撃に一瞬、昏倒したコボルトは、自らを組み伏せた狩人の牙が心臓を貫く感触を知らないまま、息の根を絶やした。

 

(六匹……やばい)

 

事切れたコボルトを足蹴にして、取り巻く状況の変化を理解するベル。浅層の通路は広く、戦力の多さが戦闘の有利不利に直結する。たった一人で迷宮に挑む冒険者にとって嬉しくない建築構造だ。

コボルト達は喉笛からくぐもった嫌な音を漏らした。ゾロゾロと、影がベルを取り囲もうとうごめいていた。

不意打ち気味に頭数を減らすことが出来た戦果に満足して、一度退くべきだろうか、と思う。

 

(いや……)

 

逆の発想がベルの頭の中に湧く。まだ六匹『だけ』だ、と。ここで退いても、彼らはベルを容易く逃すようにはしないだろう。なんとか有利な状況を作り出す前に、別の敵と遭遇した時が、今の決断の誤りを後悔する時だ。

コボルトの背から短刀を引き抜いて、ベルは身構える。

ここで全て仕留めるのを苦と思わない戦い方を身に着ける機は、まさに今与えられているのではないか、と、ベルは思った。

脇を締め、腰を落とすと、コボルト達へ向ける眼差しは自然と険しくなっていく。

 

(斃す!)

 

そうベルが思うのと、コボルト達が唸り声を上げて飛び掛ってくるのは全く同時だった。

爪を振り上げ、牙を剥く獣人のシルエットを視界の中におさめるベルは、最初の一手を既に決めていた。

 

(こいつだ)

 

そいつは両腕を大きく広げて、ベルと同じ目線の高さに居た。距離は、跳べば二歩少し前の所で、両隣の奴よりも、影半分ほど後ろに居た。

ベルは、床を思い切り蹴った。

 

「っだっ、あ!」

 

彼を遮るものが無ければきっと、そのまま床に顔面を強打していただろうほどにつんのめった姿勢で、ベルは一匹のコボルトの腹に組み付いた。周りの連中による一切の横槍も許さずそれを成し遂げられたのは、日々鍛えた敏捷性の産物だ。

高速度による、自らの質量の衝突でコボルトのはらわたを揺らしたベルは、その勢いを殺さず、コボルトの身体を宙に浮かしたまま、迷宮の壁面向かって突進した!

 

「ああああーーーーっ!!」

 

肩と足の筋肉がはち切れそうに膨れ上がって、一歩踏み出す毎に全身に荷物の重量がのしかかり、激しく暴れられて視界が揺れる。

これほどの重量物を肩に担いでの全力疾走は、彼の人生でもかつてない経験だが、少なくとも歩くだけなら祖父との暮らしの中では日常茶飯事だった。薪や農具を背負って歩きづめさせられた過去に、初めてベルは感謝した。

ともかく、その走馬灯を一瞬で掻き消したベルは、いざ壁面が迫るのを認めると、更に上体を前方へ倒した。そう、担いだそれの脳天が、ちょうど壁面に叩きつけられるタイミングを見計らって。

 

「でああっ!」

 

ごがっ、と音がして、コボルトの身体から力が抜けたのをベルは感じ取った。虚脱した獣臭い塊からすぐに離れて振り向き、短刀を構える。その切っ先は、ベルの足跡を追いすがって来た一匹へと差し向けられている。

迫る毛むくじゃらの手の中の、煌めく爪が軌跡を描いているのが見えた。

 

「んっ!」

 

左手の手甲で裏拳気味に、その爪を打ち据えて斬撃を逸らした。硬く頑丈な籠手は、短刀使いにとって器用さを損なわせ攻撃を不利にする面もあるが、こういう箇所で余計な傷を作らせないのは利点だった。

がら空きの胴体だけがベルの目に映っていた。容赦なく、その中心を突き刺す。

 

(あと四匹)

 

ベルは串刺しにした心臓ごと屍を持ち上げて、追撃を迎え撃った。さすがに、名だたる戦士による盾を構えた突進のような致死性は持たないが、レベル1の眷属の供物にしかならないコボルトを止めるには、充分だった。

衝突に踏みとどまったベルは、コボルトがその仲間の骸で吹き飛ばされたのを直感し、即席の盾を蹴飛ばして短刀を自由にした。

 

(やっぱり、連携が下手なんだ)

 

しょせんは、浅層の住民だった。かれらは徒党を組みはしても、それ以上の戦術は持たず、距離をとった相手への追撃は各々の判断を優先するのだった。ゆえに一対一の戦いに手間取る未熟ささえ無ければ対処は可能とベルは踏んだのだ。

次の一匹の牙が迫っていた。そう、そいつは四つん這いで床を蹴って獲物に食らい付こうと試みたのだ。一匹で。

ベルは膝を突き上げて、勢い良くその鼻先にぶつけた。砕き潰す感触が伝わる。牙を届かせることが叶わずに床に倒れたコボルトを踏みつけたベルは、屠殺するようにその横っ腹を一文字に切り裂いた。

 

(まだ起き上がるなっ!)

 

事切れた仲間の身体の下敷きになっていた一匹が、その上体を起こそうとしているのをベルは見たが、迫り来る最後の二匹を迎え撃つからには、今は忘れておくしかないと思った。彼が直面している事態は、意識を分散させたまま対処できるほど容易ではなかった。

右と左。爪を振り上げた方と、爪を突き出す方。左肩で短刀を持つ手を庇いながら、右側に突っ込んだ。爪が肩と背を掠めたのを知りながら、構わずベルはコボルトに体当たりを仕掛けた。

衝撃音と一緒に、コボルトの濁った声が生まれた。よろめき、無防備になった腹に、深々と短刀が突き刺さった。

 

(これで!)

 

短刀を引きぬかれたコボルトが崩れ落ちる所まで見届けずに振り向いたベルは、ようやく起き上がってこちらを見ている一匹と、爪の先を赤く濡らしている一匹を睨みつけた。

後者はともかく、前者の及び腰は、素人冒険者のベルの目にも明らかに思えた。

 

(あとは)

 

戦意を未だに保つほうを見定め、ベルは挑みかかる。人間のものよりもだいぶ裂けた口が大きく開けられている。

 

「っああ!」

 

跳びながら目いっぱいに伸ばされたベルの右腕の先端は、宙に大きな半円を描いて、コボルトの脳天に刃を叩きつけた。頭蓋を貫く一撃で、脳幹を断ち割られたコボルトは、白目を剥いて動かなくなった。

これで、残り一匹、と思ったベルは、首を向けた先にいるそれを見て機嫌を損ねた。

 

「待て!!」

 

背を向ける獣人の姿が、燃え上がっていたベルの闘争本能を、無慈悲な狩猟本能へと変質させた。

大股でコボルトを追う。

一歩、二歩、三歩。

 

「だあっ!」

 

その背に猛然と蹴りをくれてやると、あとは何の憂いも無かった。うつ伏せになった獲物の首を掻き切る事への逡巡も、ベルの中には存在しなかった。

静寂が訪れた。

ひとり、ため息をつく。

 

(痛っ……)

 

左肩から背中にかけて、じわりと走る感覚に、いまさらベルは気付いた。戦いの昂揚が誤魔化していた肉体の救援信号は、やっと機能しはじめていた。

クロースアーマーの上からなぞられた、文字通りの引っかき傷だ。さほど深くはないだろう、と思う。背中側に近いというのは運が良かった、とも。痛覚が鈍く、筋肉が厚く重なっている箇所だ。ひとりで傷の処置をするのに多少の手間は掛かるが……。

 

(まだやれる)

 

動かない八つの骸から魔石を回収する前の雑事が出来ただけだとベルは思った。それに、この程度の傷も厭わずに戦えなければ、冒険者として話にならないだろう。痛がり屋の少年は僅かずつに、自分を変えつつあった。それが彼の意思か、別の何かに基づくものなのかどうかは定かではない。

ともかく、応急処置の道具を取り出しながら、一連のシークエンスの煩わしさに、やはり、誰かもう一人でも仲間が居てくれたなら……とベルは夢想する。

この日の彼の探索はまだ始まったばかりだった。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

(疲れた)

 

すでに夕刻。ベルは、昼食も、持参してきた前夜の残りで済ませて、ずっと迷宮に篭もっていた。勿論、むやみにフロアを下ることはしない。最後にちらりと第四階層へと踏み込みはしたが、きっと許容範囲だとベルは思った。

彼はもう、帰路へとついていた。第一階層の広い広い、入り口へと続く通路だ。

行き交う人の影も増えつつあった。目を引くのが、大きなカーゴを押している集団だった。あれほどの量の戦利品を持ち帰るとは、ファミリアとしての規模の差も甚だしいと痛感する。

 

「あ痛」

 

そこで、背中の傷が疼いた。

八匹のコボルトは、結局この日彼が相手にした連中でも一番数の多いパーティだったというだけで、それ未満の数で襲われた事例はいくつかあった。そうした中で、最初に受けた傷以上の消耗が無かったのは幸いと言えたが、それでもあちこちぶん殴られるし、こっちからぶつかっていく事も多かった。

少し、画一的な戦闘方法が染み付きつつあるのではないか、との危惧も彼の中にはあった。力任せにぶっ飛ばし、防具任せに受け流すというのは、それを恒常的な戦いの手段にしてしまうと、自分の身をベットにして勝利をもぎ取るような、安易な博打頼みの愚か者にばかり近づいていくような……。

 

(もう少しスマートにやりたいけど……なんでこうだったんだか、今日は……)

 

自分の身は自分ひとりだけのものではないと思い知った筈が、昨日の今日でこうも……と、ベルは、自分の鶏頭ぶりに頭を抱えたくなった。それも、迷宮の出口に差し掛かろうとする今、脳が戦いの熱から冷めてきている証とも言える。

そう、妙に、そういう戦いを優先的に選択していたように思えた。複数相手でも、退却を真っ先に除外して、考えるのはまず『どいつを一番先に潰すか』だ。そりゃ確かに、時間が惜しいという思いを忘れているわけではないが……。

身体中そこかしこ生傷と痣だらけだろう自分の姿を見て、あの女神は何と言うやら。ひょっとして、本当に見限られてしまうかもしれない、という恐ろしい未来図まで、ベルの頭に思い浮かぶ。

 

(でも、収穫はあったし)

 

仄暗い先行きをかき消そうと、ベルはバックパックを背負い直す。なかなか、幸福感を呼び起こす重量だった。魔石だけでなく、怪物達の身体の欠片もいくつか手に入った。魔石に比べて、評価額が高く、回収する際の優先順位は高い。

これほどの成果は初めてだとベルは思う。ゆえに多少、身を削った甲斐はあった筈だと、みずからに言い聞かせる。それが第三者への言い訳として通じるかはわからないが。

少し眉間に皺を寄せて歩く少年は、ふと顔を上げた。

 

「……?」

 

前を歩く同業者のパーティが、こちらを肩越しに眺めながら歩いている。しかし、バチリと視線がかち合った瞬間に、かれらはふい、と前を向いてしまった。その先には、地上へ続く螺旋階段があった。

 

(……朝と同じ感じが?)

 

既視感はすぐに浮かんできた。そう、探索が終わって散漫な気持ちで歩いていたから気付かなかっただけなのだろう。ひょっとしたらすれ違った者達も、同じように、こちらに顔を向けていたのかもしれない。

 

(何なんだよ……)

 

いい気はしない。そんなに、一人で迷宮に殴りこむのが珍しいかよ……と、ベルは心のなかで毒づいた。彼のファミリアの構成員は一人だけだが、なにも同じファミリアでなければパーティを組めないなんて話は無い。自分が一人でやってるのが多少なりとも奇異の目を集める事であるのは認識してはいるが、それでもここまで無遠慮に、赤の他人達に観察されては不機嫌にもなる。

とはいっても、日の暮れた往来のど真ん中で泥酔する酔っぱらいのように、見てんじゃねぇよ!と暴れる事もベルはしない。

 

(無視!)

 

意思を明らかにしたまま、ベルは巨大な螺旋階段を昇り切った。大穴の周囲には、同じように探索を終えた人々がたむろしている。ここまで人が多ければ、たくさんの言葉や視線が飛び交い、今までベルを不快にさせていた居心地の悪さもどんどんと薄らいでいくので、気が楽になる。当然、迷宮の住民達の手も、もはや届かない場所だ。

ようやっと、緊張の糸を緩めるベル。身体が重く感じたが、胸の中は軽かった。

 

(どれくらいになるかなあ……)

 

多少の打ち身と切り傷も、見返りを得られたのならば大した懸念でも無かったなと思える現金さが少年にはあった。昨晩の彼が居たら、何を調子に乗っているのだ……と苦言を呈したかもしれない。

だが今、彼の身の上を知り、それでいて彼にわざわざ忠告をくれる親切心のある者もここには居らず……。

 

「あっ」

 

「あっ」

 

しかし、ベルは出会った。まさにその人物に。

何やら職員と真剣な面持ちで話をしていたエイナの身体の向きは、ちょうど大穴から出て来たベルと向かい合うようになっており、二人の視線は正面からぶつかりあった。

瞬時に彼女は、その端正な顔の、一瞬だけ丸くなっていた目を釣り上がらせた。発せられた怒気によって、周囲の空気が歪んだようにベルは錯覚した。彼の足は、自然と後ずさった。この日の探索で、いかなる相手を前にしても、一度たりとも行わなかった動作だ。

ベルは、祖父の言葉を唐突に思い出した。

 

『一番怖いもの?……美人が怒った顔だ。美人が怒るとな……本当に怖い顔になるぞ』

 

エイナの顔はものすごく怖かった。

 

「ベル君!!!!」

 

怒声は広場のあまねく人々の耳を貫いた。一番驚いたのは、彼女と怪物祭の打ち合わせをしていた不幸な職員だろう。その剣幕に突き倒されそうによろめいていた。

ベルはと言えば、巨大な杭を打ち込まれたようにその佇まいを縛り付けられ、直立不動になったまま、ドカドカと大股歩きでこちらへ歩いてくるハーフエルフの顔を見ていた。彼の顔色は真っ白だった。半開きになった口は、歯の根を震わせていて、顔中から汗が浮き出ていた。

ベルの前に立ったエイナは腕を組み、小さく縮こまる少年を見下ろした。

眼鏡の奥の緑色の眼光がレンズを覆い、彼女の目元を隠した。

 

「元気そうで……何よりだね?」

 

「はぃ……」

 

あまりの恐ろしさにベルは顔を俯かせてしまったので、脳天に投げかけられる声音の優しさには殊更に背筋が凍りついた。彼の知る叱責とは、祖父による轟雷のような一喝だけだ。未知の領域とは、時として自分の意志と無関係に現れ全てを飲み込んでしまうものなのだとベルは理解した。そして、それに直面した時、人に出来るのは、ただ怯え、災厄が去るのを神に祈る事だけなのだとも。

 

「聞いたよ?……一昨日は、第五階層まで踏破したって……一人で……まだ、冒険者になって、たった半月の!十四歳の少年が。凄ーいじゃない!」

 

「ぁぅ……」

 

弾んだ口調で語る内容は少年の偉業を賞賛していた。しかしそれを聞かされる当人も、耳を欹てる通行人たちも、彼女が心の底からの喜びとともに言葉を紡いでいるはずがないという解釈で一致していた。寸分違わず。

 

「しかも!しかも!そこに迷い込んできたミノタウロス!第十七階層から逃げてきたっていう怪物を前にして……戦いを挑んだ、って!なんて勇気に満ち溢れた、前途有望な冒険者で……冒険者で……ぇぇぇ……」

 

言葉尻を震わせ、エイナの台詞が途切れる。ベルの視界には、エイナの胴体から下の部分しか映っていないが……彼女の携える資料がものすごい握力でぐちゃりと歪んでいる事は確認出来た。

 

(ああ、何だか大事そうな話してたのに、大丈夫かなあ)

 

ベルは現実逃避をした。許容量を超えたストレスへの対処法は彼の精神状態をある程度快方へと向かわせ、恐る恐る顔を上げる程度の勇気を生み出させた。

何だって、そんな事をしたのか、ベル本人にだってわからない。ひょっとしたら、そんなに怒ってないんじゃないか?という希望に縋ったのかもしれない。

面を上げたベルの視界に、馴染みの、ちょっと憧れの、ハーフエルフのお姉さんの顔があった。

ものすごく怖かった。

 

「こ、ン、の、おバカああああああああああああああああ!!!!」

 

「ひいぃ」

 

バベルの地下一階で起こった噴火の音響は、かつて偉大な芸術家によって彩られた天井の緻密な絵画を揺らした。そんな大声を目の前で直撃したベルの意識が消し飛ばなかったのは、祖父の叱責を経験していたからだろう。しかし、その事がこの場で幸運であったとは、決して言えない。

 

「君はあ!冒険者があ!!冒険しちゃあ!いけないってえ!私の言葉をお!全ッ然!!分かって!!なかったみたいねっっ!?!?」

 

「……!……!」

 

エイナは、ベルのド頭を片手で掴み、ギリギリと絞め上げていた。そこには、数々の冒険者達の密かな憧れの的となっている、麗しい受付嬢の姿は無かった。ベルは声を上げることもかなわず、両手をエイナの指に添えたまま、ぷるぷると震わせた。彼女の手のひらを、全く動かせないのである。

 

(や、夜叉)

 

既に腰を抜かしていた不幸な職員は、迷宮でもその存在定かならぬ伝説の怪物の名を思い出した。怒り狂える、人の形をした人ならぬ魔性、一対の角を生やし、人の肉を喰らう恐るべき精霊……冒険者の中には、その力を借りるために、貌を象る面を被る者も居るという。

その鋭い眼光を前にしたら、一山いくらの木っ端冒険者など我先に退散するだろう……或いは迷宮の住民達さえも。大口を開いて激しくベルを責め立てるエイナの犬歯は、今にも哀れな少年を供物として屠らんばかりに煌めいていた。

この話が終わったら食事にでも誘えたらいいなあ……なんて、へたり込む前の彼が抱いていた淡い思いは、既に霧散している。

 

『ベル……美人を怒らすんじゃないぞ。美人を怒らすと……マジでろくな事が無いからな』

 

ベルの圧迫された脳血管が、彼の意識を薄らがせ、今となっては何の実にもならない遠い教訓を蘇らせている。この日かつてない成果を得て、少しの自信も同時に手に入れた少年冒険者の命脈はまさに今、尽き果てようとしていた。

ベルの両腕がだらりと垂れ下がった。遠巻きに見守っていた人々は、若い同業者の冥福を祈った。

 

「ベ、ル、君っ!?聞、い、て、る、のっっ!?人の、話は!き、ち、ん、とおおぉ!!」

 

「ハイ!ハイハイ!そこまで、そこまでー!エイナ、はい落ち着くー!どうどう」

 

ベルに意識が残っていれば、同僚の制止を成し遂げたミィシャを救いの御手とその目に映し、或いはそのヒューマンの受付嬢に一目惚れしていたのかもしれないが、我に返ったエイナが手を離したのと同時にベルの身体は垂直に崩れ落ちた。

 

「はっ……わ、ベ、ベル君っ?」

 

「あハイハイハイ。もー、こっちはこっちでやっとくから、そっちはそっちできちんとやっとかないとでしょ?ほら、書類グッチャグチャだよ……エイナ、握力すごいわね……」

 

白目を剥いているベルを介抱しながら、ミィシャはエイナの手元を見て少し引いた。正気に戻ったエイナは、己のあまりの醜態に気づき、顔を覆った。彼女を包んでいたドス黒い陰影はあっという間に消え去り、恥ずかしさに身悶えるハーフエルフが後に残った。

広場の喧騒を完全に支配していた超越者はもう居ない。見物していた人々は、怒声が生まれる前に続けていた作業や会話に戻る事にした。尤も、かれらの記憶までは元通りにならないのだろうが。

そういう事も理解していたエイナは、先程までの少年冒険者よりもずっと小さく縮こまって、頭を抱えて嘆くのだった。

 

「あああ……わ、私は何を……」

 

(この子も大変ねえー)

 

ミィシャがその感想を向ける少年が目覚めるのには、エイナが平静を取り戻し、打ち合わせの場所を別に移すのを待つくらいの時間が掛かった。それは、大した猶予でもなかった。

エイナは最後まで、目を回したベルに、心配そうな、申し訳無さそうな視線を向けていたのだった。

 

「よほど、可愛いのねえ」

 

クールに見えた同僚の意外な一面を知り、ほくそ笑むミィシャだった。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

「まあ、あれでスッキリしたでしょ。大体、生きて帰って来て、今だってピンピンしてるんだから、ウダウダ言うない!ってなもんよね」

 

「で、でも」

 

「積もる話は、怪物祭が終わってからすればいいのよ。時間が経てば、大抵の事なんてどうでもよくなるって」

 

「はぁ……」

 

意識を取り戻したベルは目の前に居たミィシャの自己紹介を受けた後、まず姿を消していたエイナへの謝罪を(恐々した様子で)申し出たが、即却下され、一緒に換金所へと向かっていた。

ベルは、少し浮かれていた数刻前の様子はもはや無く、足取りもとぼとぼと重たげだった。

 

(そんな気にしなくてもね)

 

ミィシャは内心で肩をすくめた。冒険者がどう冒険しようが自己責任だ。勿論、守ってもらわなければならない規則もあるにはあるが、ベルは違反したわけではない。職員の説教なんて知ったこっちゃない立場である。

ああやって我を忘れて怒るエイナのほうがむしろ、表立った贔屓丸出しの、眉を顰められかねない側なのだ。

真面目なのだろう。どちらも。

口元を引き結んでいる少年の頬を、指で突いた。

 

「むぁっ」

 

「こんなに沢山の戦利品抱えちゃって、そーいう顔するのは、良くないんじゃな~い?」

 

エイナと違い、柔らかく愛嬌のある印象を抱かせる顔がベルの近くに寄ってきた。彼女の片方の手がバックパックをぽんぽんと叩いている。

 

「いひゃっ、あにょっ」

 

頬を赤らめて、ベルの足取りが蛇行を描く。祖父に叩き込まれた好色の思想と裏腹に、少年は極めて初心であった。

目を泳がせまくって対応に困る姿を見て、ミィシャは心の琴線を僅かにくすぐられた。

 

(おお、面白い……)

 

小動物を弄って楽しむ擁護本能か、それとも残酷さを忍ばせる嗜虐心なのか……いずれにせよ、なかなか見ないタイプの冒険者であるから、接すると湧き出る感情も違ってくる。

いかにも出来る女然としている同僚が心砕くようになる気持ちに少し共感もするミィシャだった。

そうこうしてるうちに、目的の場所に着いた。

 

「あの」

 

「んー?」

 

ひっくり返した背嚢から魔石のひと粒まで換算されていく最中、ミィシャは書類を相手に手を動かしている。内容を理解できる日が来るとはベルは思っていなかった。それよりも気になる事があった。

彼女がペンを置いたのを見計らい、ベルが口を開く。

 

「怪物祭、っていうのは一体」

 

「あ……知らないのか。迷宮から捕まえてきた愉快な連中を集めて、闘技場でワイワイやるのよ。楽しいわよ~」

 

「ゆ、愉快」

 

ギルドの職員は仕事に追われて地獄行だけどね、とミィシャは凄みを利かせて付け加えた。ベルは少し気圧されつつ、疑問を口にした。

 

「危険じゃないんですか?」

 

「それが、主催はガネーシャ様の所なのね。あれくらい大きなファミリアなら、おっかない連中相手でもボコスカと傷めつけて大人しくさせられるような人も沢山居るのよ」

 

ベルは、迷宮の入口付近に居た、カーゴを運ぶ集団の事を思い出した。あれは、捕獲された怪物達の容れ物だったのか……と理解する。

ついでに言えば、普段よりも広場に居る人の数も多かった気がするぞ、と、今更思う。

 

「そうやって上下関係を叩き込んで、飼いならしちゃう事も出来るっていうんだから、スゴイわよね」

 

「へえ!」

 

ベルは感嘆を一声で表現した。そう、ガネーシャと言えばこの都市でも最大級の勢力を持つ神だ。そんな神の眷属ともなれば、まさしく想像の埒外も極まる異能の持ち主達も集うのだろう。果たして、神の権勢も大いに栄えるのだ。このような、壮大な行事を取り仕切るほどに。

自分も、あの小さな主を、そのような存在へと押し上げる事が出来るだろうか?それは途方も無い夢のように思える。だが、成し遂げるべき目標の一つの形でもあるのだ。

平易ならざる道へと踏み込んだばかりの少年は、遥かな到達点に立つ自分と主をおぼろげに夢想した。

 

「ベル・クラネルさん?」

 

「はっ……」

 

現し世の外にあったベルの意識が、戦利品の確認をしていた職員の声で呼び戻された。見ればミィシャがくすりと笑っており、気恥ずかしさで頭のなかが塗り替えられる。

赤ら顔のまま、対応した。

 

「な、何でしょう?」

 

「お預かりしているぶんも、まとめて換金致しますか?」

 

「?」

 

かけられた言葉の意味を理解出来ずにベルは首をひねった。

 

「あぁ~、一昨日のだよ。君が運ばれてきて……診察ついでに、持ってたぶんも預かっておいたんだね」

 

「あ!そ、そういえば……すいません!お願いします!」

 

ペンを取ってクルクル回すミィシャの注釈で、ベルは合点がいった。ギルドは、救助された冒険者の所持品を一時的に保管する職務も請け負っているのだ。尤も無関係の他人に救助された際は、文字通り身一つ拾われただけでも類稀な幸運と言う他ないだろう。冒険者にとっては迷宮の住民だけでなく、同業者の屍もまた戦利品をもたらす存在なのだ。ましてや命を賭けた稼ぎ場。勝手に挑んで、勝手に負けて、勝手に死んで、名前も知らない誰かの選んだ結果など、本来知ったことではない。

気絶したベルは命だけでなく、その財産までも拾われていたのだ。並の幸運ではないことくらい、ベルにもわかっていた。

そして、当然とも言える新たな疑問が生まれた。

 

「……僕を助けてくれた人、っていうのは」

 

そう、主の逆鱗に触れたその言葉を口にする。ベルにとっての真の幸運とは、その人物に助けられた事だ。その人物でなければミノタウロスの餌になり、あの日の稼ぎは全て奪われ、大枚はたいて購入した装備品も失っていたのだ。

或いはその救い手が天界から降り立った偉大なる者達の一柱であったのならば、それと引き換えに誓約の変更を要求されてもベルに反抗など出来ないだろう。それはある意味では彼にとって最悪の予想だ。

 

「ありゃあ、知らなかったんだ?」

 

ミィシャがにやりと笑って口を開いた。「それがね」前置きして、厳かに言葉を紡ぐ。

 

「なんと、あのロキ・ファミリアの、アイズ・ヴァレンシュタイン!レベル5の冒険者にしてみれば、ミノタウロスもただの仔牛ちゃんなのかしらね~」

 

「んなっ」

 

ベルが言葉を失ったのは、必然だ。オラリオの頂点を争う片割れたるロキ・ファミリアの、その中でも一躍名を馳せる英傑たる女戦士の名を知らない冒険者など、この街に存在するのだろうか?

金砂の零れ落ちそうな長髪と、同じ色の瞳を持つ美貌は、神によってそう造られたと評されてもいる……ベルも実物を見たのは、遥か遠目に一度だけだが、その評が正しいことを知っていた。

だからこその驚愕だ。まるで住む世界の違う住人と接点を持った事実は、たやすく受け入れがたい。

唖然とした様子のベルの顔を見て、面白そうにミィシャは語る。

あのミノタウロスがロキ・ファミリアの取り逃した獲物だったこと、

アイズがそれに追いついたのは、ベルが倒されたその瞬間だったこと、

気絶したベルを本部の治療施設に運んだのはアイズだったこと……。

 

「あの『剣姫』に大事そうにおんぶされてね、しかも君のホームにまで送り届けてくれたって話」

 

「うわああっ!?」

 

「あの、お静かに」

 

ベルは、朝から感じていた視線の意味が今、わかった。名高き彼の人にそのような『親切』を受けた事は、公衆の面前での出来事だったのだ……。

衝撃の事実は、猛烈な気恥ずかしさで少年の心を支配し、彼の口から奇声を上げさせた。蹲って頭を抱えるベルに、職員が冷静に注意した。公共の場であった。

 

「羨ましいぞお、少年」

 

「あああ」

 

「……換金の方終わりましたので、ご確認ください」

 

面倒くせぇ事態に付き合う気のない職員は、横目でミィシャを睨みながら、ベルの戦果を領収書とともに差し出した。ミィシャは悪びれない様子でベルを立たせると受け取らせるものを受け取らせ、一緒に換金所から退散するのだった。

 

「そんな隅っこ歩かなくても……」

 

「ううう」

 

おんぶって何なの?いや……確かに人ひとり連れて帰るにはそれが良いってわかりますけどね。それ以外にどうするって言われても……担ぐ?いや、確かにおんぶした方が早いですよね……。

しかもわざわざホームまで……そういえば神様そんな事言ってたな。ああ、色んな人にそんな姿を見られて……ていうか、何でアイズさんがおんぶするの?いや、他の誰かがやるべき事ってわけじゃないですよね……。

 

「おおお」

 

「そんな壁に寄りかからなくても……」

 

なめくじのようにずるずると歩くベル。彼の抱いてる釈然としない気持ちは、解決の糸口の無い問題だ。アイズは正しい事をした。彼女の対応に対し辱めを受けたと思う事こそ、恥じ入るべき狭量さと言えるだろう。

それでも、高みを渇望する少年にとって己の無様さを受け入れるのはまだ抵抗があった。

 

「……弱いって、恥ずかしいですね」

 

ぽつりと口をついて出た言葉は心の底からの本音だ。ちっぽけな矜持だった。男として、冒険者として?……人間として、戦士として?

いずれにせよ、ベルの中の一番弱い部分が顕になっていた。

一瞬、きょとんとしたミィシャは、すぐにムッと口を尖らせて、ベルの頭を抱え込んだ。そして、左の拳骨でグリグリと額を絞める。

 

「うわわっ」

 

「ベル君、今の減点でーす。大減点。駄目駄目。エイナが聞いたらこんなもんじゃないよー」

 

ミィシャのお仕置きは確かに、先のエイナのそれに比べればじゃれついてるだけのようにしか見えない。だが女性に不慣れなベルに与える心理的動揺は多大であるのに違いない。事実、顔を赤くして苦しんでいた。

 

「若い冒険者さん、君はここに来て何日目なのかな」

 

「……」

 

左手首を止めたミィシャの質問の真意を汲めないベルではなかった。何故なら彼にも、そんな事はわかっていた。

でも、逸る。

強者たる事を心が渇望し、脳の理解を承服しないのだ。そのギャップが、彼を苛むものの源泉だった。

 

「高みを目指す事が悪いなんて言ってるんじゃないよ。でも、背伸びしたまま目指して、足元を掬われて、そのままオシマイなんてつまんないでしょ?」

 

黙するベルに、敢えて構わずにミィシャは続けた。

 

「全力で走るのは良いし、ちょっと限界超えてみるのもあるだろうけどさ、それも、しっかり前見て、足の裏も使って走った方が、変な癖もつかなくて、最終的に得だと思うよ」

 

人間族じゃなけりゃ、ずっと爪先立ちで走るヒトも居るかもしんないけどー、と、笑って付け加える。

首元に回されていた右腕が解かれて、ベルの両肩に手が置かれた。

 

「誰でも多かれ少なかれ、今の君の苦しみを味わうんだよ。だからどうした、って話じゃないのもわかるけどね。……もっと、肩の力抜いて、ね?」

 

高い望みを抱いたまま転んで、そのまま立ち上がれずに消えていった者達をミィシャは見てきた。または、そうやって去る事も許されずに命を散らした者達も。

だから、弱さを受け入られずに苦しむ少年を放っておけなかったのだ。

生きてさえいれば取り戻せないものなんて無いはずだとミィシャは信じたかった。うら若き乙女と言っても通すことの出来る齢でも、彼女が触れてきた人間はベルよりもずっと多かったのだ。

 

「…………ミィシャさんは」

 

口を開いてベルは後悔した。いけ図々しい、他人の過去を穿り出して自分を慰めようという、自身の下賎さを思い知る。

けれどもミィシャは怒ることもせず、変わらない、軽々しい口調で言った。

 

「私もまだまだ、新米だよ?掃いて捨てちゃいたいくらいありますとも」

 

「……」

 

「エイナと自分を比べて、あー何で私は……なんて。おっと、今の内緒ね」

 

扶持を得る場所は違えど、自分よりもずっと、『戦う』経験を重ねている者の言葉は、ベルにとって重く、貴かった。

また、己の甘さが浮き彫りになる。事実をありのまま、ただそうあるだけと許容するだけの事に苦心する弱さも……。

今すぐに、全ての我執を乗り越えるなど、ベルには出来ないだろう。それでも、ミィシャの言葉は確かな救いになっていた。

他者は、自分を映す鏡だ。ひとりで戦う時間の多かったベルは、その事もいずれ忘れ去ってしまいかねなかった。少なくとも今日、彼女と出会わなければ、今気付く事はなかったはずだ。

 

『出会いを求める事を忘れるんじゃないぞ。男なら……』

 

……祖父の言いたかった事とは、少し意味が違うのかもしれない。それでもベルは、この出会いに感謝するのだった。

勿論、ミィシャ当人に対しても。

ベルは、彼女に向き直った。

 

「ミィシャさん、ありがとうございます」

 

「どういたしまして、フフフッ」

 

片目を瞑って笑うミィシャの顔は、どこまでもベルの心を解してくれた。弱き自分を呪う忌むべき枷の存在は、消えていった。

二人は止まっていた足を再び動かしはじめ、ミィシャは受付へと戻る為にベルと別れる事になった。

 

「頑張るんだぞ、少年!」

 

「はい!」

 

手を振るミィシャの姿に応える声は、すっかり元気になっていた。

 

「命の恩人にもお礼を忘れずに、ねっ?」

 

「あっ……は、はいっ」

 

出し抜けに宿題を思い出させて、少年の反応を最後まで楽しみ、ミィシャはその場を後にした。

柄にもない事をしてしまったな、などと思うが、少しは役に立てればいいか、とも思う。やや職務を逸しているようにも……。

 

(まー、これくらい良いでしょ。あとはよろしくねエイナ)

 

粉をかけたつもりは無い。存外に思い入れが強いだろう事は、あの怒りようからも明らかだ。それに、と。

 

(私はもーちょっと、がっちりしたヒトの方が……)

 

大きく、強い男にこそ惹かれるのは、少なくともその逆より普遍的であるように彼女は思う。

 

(もっと強面なら、あの傷もワイルドな持ち味に見えるんだけどね~)

 

右目を跨る傷跡は、幼さを残す顔には凄みよりも痛ましさを先立たせるものに、彼女の目に映っていた。

いずれにしても、可愛らしく思いこそすれ、異性としての魅力を感じるには無理のある存在だと、改めて思うミィシャだった。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

「……やっぱりアレか、扉を開いてしまったのかい、ベル君……何てことだ……」

 

「違いますっ」

 

着るものを脱ぎ去ったベルの身体を見て、ヘスティアは愕然とした様子で呟いた。あちこちに青痣作って肩甲骨の上に大きな絆創膏を貼り付けた眷属の姿が、彼女に大いなる危機感を想起させたのだった。

当然、ベルは否定する。

 

「この程度の傷くらい、珍しくもない事ですよ……多分」

 

「……にしてもだ、君が突撃する度に装備も痛めつけられるんだぞ。買い換える宛なんかあるのかな」

 

「う」

 

ヘスティアの言葉は、昨日の今日と来てこんな有り様な眷属への将来を見越した苦言もあるが、単なる過保護に基づく皮肉も混ざっている。

主の言葉の真意をベルが汲めるかはともかく、額面通りに受け取ったのだとしても反論に窮する内容だった。生物の体はある程度勝手に治るが、それを守る防具はそうもいかない。ベルが愛用しているギルドの支給品は無料ではなかったし、壊れてしまったからもう一セットください、などというものでもなかった。

 

「いやっ、その頃には、装備に頼らずとも耐えられる身体になって……いる、ハズです!」

 

「なってみせます、と言って欲しいなあ……」

 

拳を握って希望的観測を宣うベルの姿は、ヘスティアを少し悲しい気分にさせた。

眉を山なりにしならせながら、彼女は荷物の確認を続ける。

今日この日の夜、ガネーシャの主催する神々の交歓会が、バベルで行われる。オラリオの片隅の小さなファミリアの主神も、勿論出席するつもりだった。

 

「よし。じゃ、明日の朝には帰って来るから……お土産には期待してくれて構わないぞっ」

 

「はい」

 

ベルが上着を着替え終わった所で、準備完了とヘスティアが立ち上がった。ヘスティアの言葉でベルが想像するのは、一袋幾らの駄菓子が精々だが……ヘスティアの決意は違っていた。主と眷属、神と人とは、かくも隔絶した価値観を持っていたと言えるだろう。

ヘスティアは己の確たる使命を胸に抱いていた。いざ向かわん、とホームの扉を開こうとして……振り返る。

 

「……やっぱり、更新しておくかい?」

 

「一晩で変わりませんってば」

 

朝、予定を聞いたベルは、それならば今日は余計な時間を使う必要も無いだろうと、自分の力を上書きするいつもの儀式を明日へ繰り越すよう進言したのだった。

ヘスティアが難しい顔をしたのは、それだけ気を揉ませてしまっているからなのだろうとベルは推測した。

事実は、違う。

 

「…………わかった。じゃ、また明日」

 

「いってらっしゃい、神様」

 

屈託の無い笑顔で送り出され、ヘスティアは神殿の地下から出た。天蓋の穴から星の粒が覗いていた。

 

(ヘファイストスも来る筈だ……相談に乗ってくれればいいけど)

 

そう、ヘスティアが抱く心配事は確かに、ベルに刻むべき運命の形についての事だった。けれどそれは、単に彼の力を少しでも伸ばしておいてやりたい、という思いよりも、もっと重要で、そして深刻な案件だった。少なくとも、ヘスティアはそう思っていた。

自分だけで考えて判断出来ないと、彼女は素直に認めていた。それも、たった一人の眷属可愛さだ。彼の未来を大きく左右するだろう岐路の標は今、自分の手の内にあるのだ……。

ついさっきまで目の前にあった、ベルの顔を思い出す。

喜びと安堵、驚愕と悲哀。ヘスティアは彼の全てを知っていない。だから、もっと知りたいと思う。彼とこれからの時間を共に分かち合いたいし、彼の行く道に災いが待っているのならば、それを免れる為に払う労苦など惜しくないと思う。

自分の抱いている思いは神として相応しくないものなのかもしれないと薄々ならずヘスティアは理解していた。けれども、それを押し止める事も出来ないと思っていた。

 

(こういう事についても、ヘファイストスなら何て言うのかな……)

 

隻眼の知己との再会を思うと、期待と不安が入り交じってきたが、いずれにせよ、会ってみなければ話も出来ない。

どうか彼女もバベルへやって来ますようにと、女神は何ものかに祈った。

神すら抗えぬ運命を紡ぐ、何ものかに。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

ガネーシャ・ファミリアのホームに、たくさんの神々が集っていた。

そんな中、ヘスティアは鬼気迫る様子でテーブルの上の料理を持参したタッパーに詰め込んでいった。

恥だの、外聞だの、今の彼女にとっては、ゴミ同然だった。少しでも眷属に良い物を食べさせて、食費を浮かせて、台所事情を改善させて、負担を軽くしてあげたい。その確たる使命の前には、ちっぽけな矜持など何の価値も持たないのだ。

 

「もぐもぐ」

 

同時に自分の胃袋もどんどん満たす。神の身にどれほどの食い溜めが可能なのかは不明だが、今はとにかく倹約のために取れる手段の全てを惜しまなかった。

 

「なんて涙ぐましい事をしているの」

 

「んむっ」

 

ヘスティアの後ろから声を掛けたのは、まさにこの場所へ来たもう一つの目的たる存在だ。眼帯を着けた緋色の美女が、哀れみを湛えた眼をしていた。

 

「んももむ」

 

「待ってあげるから、飲み込んでから話しなさいな……」

 

ヘファイストスは、腰に手を当ててため息をついた。口いっぱいの料理を咀嚼する旧友の姿は、神というか、齧歯類的な小動物に近いように思える。

とはいえその有り様は、かつてどうしようもなく怠惰に、時の流れに身を任すだけの存在だった頃とは違い、固い意思を宿したものにも感じた。やってることは情けないが。

数十秒掛けて、ワインと一緒に固形物を飲み込んだヘスティアが、やっと口を開いた。

 

「んぐ……久しぶり、会えて良かったヘファイストス。実は、折り入って君に……」

 

「もう何もあげないし、貸さないわよ」

 

「違うよっ!」

 

会話ののっけからヘファイストスが出鼻を挫くように断言するので、ヘスティアは怒った。いきなりそれはないだろう、確かに、地上に降りて来てからしばらくは少しばかり……いやかなり……ほぼ生活全部……世話になりはしたが……と、省みるにつけ……。

 

「あ、そのう……違うんだ、今度は本当に違う!ただちょっと、相談に乗って欲しいことがあるんだよ。それだけだ」

 

「そう?それならいくらでも」

 

ばつが悪くなって来たヘスティアが必死な表情で言ってくれば、ヘファイストスもからかう気は無くなった。ファミリア運営の先達として助言を乞うているというのなら、それは彼女としてものぞむ所であった。少なくとも、底の抜けたバケツに水を注ぐような不毛さを齎していた、かつてのヘスティアの世話をする事に比べれば。

少々貧乏臭いなりにも何とかやれているらしい様子に、内心ほっとするヘファイストスだった。あの苦労も甲斐があったのなら、もはやいい思い出だった。

 

「じゃあ、この後に少し時間を……」

 

「あら、相談なら私でも力になれるんじゃないかしら」

 

ヘファイストスの後ろから現れた影を見て、ヘスティアは「はっ」と目を剥いて口上を途切れさせ、渋い顔になった。

 

「い、いやあ……そんなに大人数の知恵が必要なものじゃないから……」

 

豊満な肢体を強調する大胆なドレスを身に纏い銀色の髪を靡かせる彼女こそ、オラリオで勢力を二分する最大勢力の片割れ、その首魁に他ならない。フレイヤは星の数ほどの異性を虜にして来た笑顔をヘスティアに向けていた。美しく、心の底を決して掴ませることを出来なくさせるその笑みが、ヘスティアは苦手だった。

ヘスティアは上半身を引かせて、もごもごと歯切れの悪い返答を口にした。

 

「残念……私、あなたともっと仲良くなりたいんだけど」

 

(気持ちだけにしてほしい……)

 

フレイヤのちっとも残念そうじゃない笑顔を見て、ますます苦手意識が強まるヘスティアだった。

図らずしも二人を引き合わせたヘファイストスは、特に茶々を入れる事もしなかった。概ね、予想通りの会話だったので……。

 

「なんや、女三人集まって、コソコソと。こーいう所なんだから、もっと盛り上がらなあ」

 

「うげえ」

 

そこそこに閑静だった席をかき乱す者がやって来た。ヘスティアはロキの顔を見て、フレイヤに見せたそれよりもずっと、あからさまに、不快感を露わにした。ここで会ったが百年目の怨敵と言うべき存在……というか、実際に付き合いが始まって百年近いが、未だに打ち解ける構図の見えない相手だった。傍から見れば、弄り好きの性悪っ子が、弄られ気のある単純な少女で遊んでいるようにしか映らないのも、ある種悲劇的だった。

ロキの、常に細められた目は、フレイヤの微笑と見た目こそ違えど、本質は同じだ。腹の中を決して明かさないように貼り付いた仮面の奥で、いつも自分が楽しめそうな事象を探り回っている。そしてロキの場合、その趣味の悪さにかけてはフレイヤの好色さなど稚児の砂遊びが精々と言えるほどだ。

根っこが糞真面目なヘスティアにとっては、自分の知らない所でいくらでも楽しんで、そのまま永遠に関係を絶ったままであって欲しい存在だった。

そんな思いなど知ったことではないロキは、ニヤーッと口端を歪めた。

 

「おっと、結構な態度やないか。うちのアイズたんのおかげで、たった一人の『子供』拾われときながら……」

 

「んなっ」

 

ヘスティアは血の気が引いた。一瞬で、怨敵の言葉の意味を理解してしまったのである。愛しい眷属が大失態をかました一昨日の出来事を詳らかに知らしめられていたのは、自分だけではなかったのだ。考えてみなくても、当たり前ではないか!

言葉を失ってぱくぱくと魚のように喘ぐ顔は、ロキに深い充実感を与えた。

 

「ンッハハハハハハハ……ええ?こういう時、何て言うのが礼儀なんやろな?んー?」

 

「うぐぐぐぐ」

 

胸を張って高笑いをするロキと、小さくなって呻くヘスティア。必勝を期した先手により、勝敗は決したように思われた。毎度毎度、かくもくだらない戦いも無いとヘファイストス等は思っているが……。

しかし、いつもならロキの気が済むまで放っておく所だが、今日はあまり話を拗らせておくのを座視したくない理由がある。

 

「あー、そのへんで勘弁……」

 

「けど。そもそもの発端も、ロキの『子供』なのでしょう?」

 

場を収めようとしたヘファイストスの言葉はフレイヤに遮られた。ヘファイストスは意外に思った。フレイヤが耳聡くないとは思わないが、この二人の間に入って口を挟むのは珍しい、と。

フレイヤの言葉を聞いて、ヘスティアとロキは一瞬硬直し、それからヘスティアはくわっと目を剥いてロキに噛み付いた。

 

「そうだ……そうじゃないか!君ん所の連中が取り逃した獲物のせいで危うくベル君は……ぬゎにが礼儀だっ、プラマイゼロじゃないか。足し算引き算も出来ないなんて、胸じゃなくて脳ミソも足りてないんじゃないのかっ!?」

 

「えい、おのれん所のヘッポコ冒険者を助けてやる義理がそもそも無かったっちゅうんや!あと胸は関係あらへんわああああああ!!」

 

喚き立てるヘスティアの反撃のうち最後の一言が、ロキの理性を簡単に吹き飛ばした。怒声とともにヘスティアの頬を抓りあげて伸ばしまくる。

 

「楽しそうよね」

 

「そりゃ、見てるあんたはね……」

 

フレイヤが涼しげに笑っていて、ヘファイストスはげんなりした。結局この二人が顔を合わせると、こうなってしまうのだ。

必死で反撃しようとするヘスティアの姿を見て、少し同情し、同時に、相手にしなければこうもなるまいに、と呆れもするヘファイストスだった。

周囲の連中の注目を浴びる狂宴は、しばらく続いたのだった。

 

 

 

--

 

 

 

「あいつは嫌いだっ!」

 

「知ってるわ」

 

頬を腫らしたヘスティアは吐き捨てるように言った。神々による、極めて低次元の戦いは既に終わっていた。どちらの手に栄光が齎されたのか、それは誰にもわからない。

いずれにせよ過去の事を思い出す気はヘファイストスには無かった。ロキとフレイヤが席を離れて、旧友同士が後に残った。

 

「それで、相談っていうのは、ここじゃ出来ないような事なの?」

 

「ん、その…………うん、出来れば二人きりがいい」

 

「じゃあ、終わったらウチに来なさいよ。予定も無いし、まっすぐ帰るつもりだから……ここでやる事がまだあるんでしょう」

 

ヘスティアの持ってきた荷物の中に見えるタッパーを見ながら、ヘファイストスは言うのだった。その気遣いにヘスティアは痛み入る。

 

「ありがとうヘファイストス!じゃあ、後でっ」

 

「…………」

 

ぱっと目を輝かせたヘスティアはテーブルに向かい、果たすべき使命の為に邁進するのを再開した。非常に前向きに行動していて、それは喜ぶべき事なのだろうが、果たしてこの姿を彼女のたった一人の眷属に見せたら何と言うのだろうか……?

ヘファイストスの心配事はそれだけだった。

 

 

 

--

 

 

 

「やっぱり、『子供』の事?」

 

都市随一の高級武具を取り扱う店舗の一室で、客人を座らせたヘファイストスは、ずばり核心を突くつもりで問いかけた。それは的中しており、ヘスティアは無言で頷いた。そして、神妙な顔付きで口を開いた。

 

「……例えば、大きな力を得るのと引き換えに、何かを差し出すような……そんな運命が、その『子供』に現れたとしてさ」

 

(ああ、そういうのが、出ちゃったわけね)

 

喩え話などという体は一瞬で見抜かれていたが、一々突っ込む無粋さはヘファイストスには無い。黙って先を促した。

ヘスティアの顔は、鎮痛そうに歪んだ。

 

「…………それを……見て、それを、恐ろしいと思った神が……その運命を、『子供』に明かすのを躊躇している……その神は、全てを告げるべきなんだろうか?」

 

「……ふぅーん……」

 

ヘファイストスは、ヘスティアの苦悩について理解した。確かに、たった一人で抱えるには少し、荷が重いものだろう。ましてその問題は、最初の『子供』と出会って幾ばくもの月日も経っていないのに直面したのだ。

とは言え、ヘファイストスにとっては前代未聞の難題などではなかった。然程多くの例を経験した訳でもないし、最適の答えを知っている訳でもない。しかし、最善と思われる対応をして来たつもりだ。

 

「あなたも、聞いたことあるでしょうけど……」

 

「?」

 

ヘファイストスは、ある喩え話を持ち出すことにした。否、喩え話ではなく、ある教訓、と言うべきお伽話だった。

 

「かつて、地上の全ての生命は、運命を神に独占されていたって話……みんな、一寸先も見えない暗闇の中で生きていた。そこに何があるのか、踏み出してみなければわからない。底のない穴があったのだとしても、そうせざるを得なかった……そうしなければ、生きていけなかったのね、かれらは」

 

古いお伽話だ。ヘスティアも知っている。地上の人間達が、神が降り立つ前から語り継いでいた伝承である。それが真実なのかどうか誰も知らない。

 

「やがて神々は、それを哀れに思うようになって、……そして、地上に現れた。大いなる存在にひれ伏した者達に神々は言ったと。我らを崇め敬えば、お前達を待つ苦難と、それを退ける術を授けよう、って」

 

「ああ、知ってるよ。人間はどうやって、そんなお話を零から創ることが出来たんだろう……」

 

それは、黎明の物語とも、黄昏の物語とも呼ばれる。そう、始まりと終わりの内包されたお伽話なのだ。

ヘスティアの合いの手を受けて、ヘファイストスは続けた。

 

「そうして人間は神々に仕える事で、安息の日々を手に入れた訳だけども……かつて自分達の力だけで生きてきたかれらは、神々のしもべとなって命を繋いでいくうちにどんどん弱く、愚かになっていってしまった……」

 

ヘファイストスは連々と口ずさむ。幾度も読み返す物語だ。世界中に少しずつ形を変え語り継がれているそれを密かに読み比べるのが、彼女の小さな楽しみでもあったりするのだ。

 

「神々は知った。全てを自分以外のものに委ねる事は、生きているとは言えない、それは、ただの血と肉で出来た人形だと。――――そして、神々は地上から去る事にした。かれらが未だ、自分達の力と知恵を失っていないうちに」

 

それは、神代の終焉だった。人々は堕落の極限へと至るのを免れたという。神の慈悲によって……。

 

「かれらは深く嘆き、惑い、恐怖の虜になった。一片の光も無い、未知という暗黒が支配する世界の到来は、神の腕に抱かれていたかれらの命なんて、簡単に奪い去っていった。それでもかれらはただ、耐え忍び、命を賭す日々を送る事を選ぶしかなかった……ってね」

 

「……介入するだけして、勝手に去っていくなんて、無責任なもんだよ」

 

物語が結ばれて、ヘスティアは毒づいた。もし、自分が同じ立場なら?決して見捨てなどしないだろう。この身が朽ち果てるまで、自分に忠を捧げる者達の為に力を使うだろう。少なくとも、あの子の為なら……と、たった一人の眷属を思い出す。

ヘスティアの考えている事を察しているのか、ヘファイストスは笑った。

 

「あら、まだ終わりじゃないのよ」

 

「えっ?僕が知っているのは、そこまでで……」

 

「ほとんどの地域で失われてしまっているけど、続きがあるタイプの物も伝わっているのよ」

 

そう。

ヘファイストスがこの物語に魅入られたのは、その『続き』を知ってからだと、自分で思っていた。

けれども、どうして、そこまで魅入られてしまったのか、それは随分長い時間が経ってしまった今でも、さっぱりわからないのだった。

 

「神々が次々に、天へと帰っていく中、……一柱だけ、その神は、地上に残ることを選んだのよ。でも、他の神々はそれを許さなかった。たとえ一柱でも……いえ、一柱だけだからこそね。その神が地上の支配者になってしまいかねないから……そう考えたんでしょうね」

 

その神々の危惧は当然だった。この世ならざる超越者、唯一の存在が、地上の全ての者達の信仰を得るなど、想像を絶する絵面だ。その時その世界は、正しくその神のものになるのだろう。

ヘスティアは、初めて聞くその展開に深く興味をそそられた。

 

「そして、その神は決断したのよ。全てを見捨てて帰る事など出来ないし、地上に残る事も出来ないならば、と……自ら命を断ったの。地上の、最も天に近い場所で」

 

「神が命を断つ……!?そんな事」

 

「お伽話よ」

 

永久不変の存在が死を迎えるという、あり得ざる構図にヘスティアは戸惑ってしまった。彼女もすっかりこの物語に惹き込まれている事の証だ。ヘファイストスは上機嫌になった。自分の好きなものを共有できる存在が出来るのを嬉しく思うのは神も人間と同じだった。

はっと気付いたヘスティアは顔を少し赤くした。

 

「その時――――神の肉体から、光が解き放たれた。眩い光が……天へと昇ったように見えると、それは一気に広がって、小さな粒に分かたれて、世界中へと散らばっていった」

 

ヘファイストスは何度も想像する。その神の屍から、青白く輝く光が立ち昇る光景を。それが空を覆い、全ての命へと降り注いでいく光景を……。

 

「それが何だったのか、地上の誰もわからなかった。ただ全ての神が居なくなった事を嘆くだけだった……けれども、神々には、それが何なのかわかっていたのよ。それが、どれほどとてつもない事なのか……」

 

「……」

 

静かで、けれども確かに熱のこもった語りようだった。ヘスティアは息を呑んで聞き入っていた。長い付き合いの旧友がこれほど真剣にものを語る姿を、彼女は一度も見たことが無かった。

目を閉じているヘファイストス。彼女は瞑目するように、深く黙り込んだ。それはヘスティアにとって、その先の、この物語の結びを口にする事への敬意の形にすら思えた。

そう、ヘファイストスは、この物語が好きだった。

神の居ない時代にあって、懸命に命を繋いできた人間達の創り出した星の数ほどの物語の、ほんの一遍。

苦難の日々を送るかれらが、己の境遇を慰めるために何度も読まれただろう、他愛の無いお伽話。

地上に降り立った神々に愛された英雄達の詩が溢れる今、この物語に価値を見出す者がどれほど居るだろう?

それでもヘファイストスは惹かれて止まなかったのだ。

その一柱の神が決断するに至った、数奇な運命の軌跡を夢想するにつけ――――。

 

 

 

 

 

 

「その神が、命と引き換えに地上に残したもの。それは――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

『私達が、人間の運命全てを見通せないのは、その為なのかもしれないわね』

 

夜半、ひっそりとホームへ帰還し、ヘスティアはベッドに座ったまま夜を明かしたのだった。ヘファイストスの言葉を何度も反芻しながら……。

そして夜が明けた今、ベルと向かい合っている。旧友の薫陶を理解した彼女は、その決断をしたのだ。

全てを明らかにする事を。

ヘスティアは、自分が見た、ベルの中に眠る、未だ開かれていない運命の形……その全てを包み隠さずに、語った。

そこに一切の誤解も与えないように、自分の意思による誘導が入らないように、慎重に、そして、はっきりと。

全てを語り終えたヘスティアは、じっとベルの目を見て、再び口を開く。

 

「ベル君。……それはたぶん、他の冒険者でもよっぽど身に着ける事の出来ない、すごく珍しいものだと思う。それを手にすれば、君はもっと、ずっと強くなれるはずだ……いや、なれる。……でも」

 

「……」

 

『暗闇の中でも、その小さな光があれば、どんな災いにも立ち向かえるのだから……かれらが真に得るべきは、それだったんだって、その神は悟ったのかも』

 

ヘスティアは、その運命を恐れる。それは確かに大きな力をベルにもたらすのだろう、けれども、その先を思うとどうしようもなく不吉な予感があるのだ。それが、彼女の垣間見たベルの運命の形だった。

ヘスティアは真っ直ぐにベルの目を見つめていた。

ベルもまた、主の真剣な面持ちから、この対話の持つ重要性を理解していた。

 

「僕は……怖いんだ」

 

「…………」

 

『その神が残したものは、未だに人間の中に宿って、私達に運命を直接変えさせようと出来なくさせている……なんて』

 

ヘスティアは胸中を満たす全ての感情を明かした。それが、彼女の決断だった。頭を振り、罪を吐き出すように苦しげな表情を浮かべた。

 

「僕は、それを見て、その先にあるものを想像して、怖いと思った……そして、それを君に明かした時……僕の中の恐怖を知った君がもしも失望してしまったら……そう思ったんだ」

 

「神様」

 

ベルは、全身全霊で否定したかった。しかし、果たしてそうなった時、本当に自分は主の懸念を撥ね退けていただろうか?

何者をも寄せ付けないだろう力を齎す道を目の前に与えられ、それをただ、先に待つ『何か』が恐ろしいから、という朧げな忠告だけで選ばないなど……。

自分の中の力への渇望を薄ら寒くベルは思った。

 

「君に選んでほしい。その道を行くのかどうかを」

 

「……!」

 

ベルは息を呑んだ。

そこに、望むものがある。僅か手を伸ばせば届くのだ。

自分がそれを口にすれば、それは手に入る……。

 

(強く……なれる。今よりもずっと……)

 

主へと捧ぐ栄光はずっと輝かしくなり、この小さなファミリアへの畏怖は高まる。

やがて、志を同じくする者も現れるだろう。小さな女神の名を背負って戦う事を望む者が。

ファミリアが大きくなり、この都市を席巻する勢力の一つとなれば、そう怪物祭のような大きな催しを開く事さえも……。

 

(僕は)

 

遥かな高みは、その力を以って踏破するのは容易くなる事だろう。まさに、ベルが夢見る全てが、目の前にある道を行けば、姿を現すのだ。

先行きのわからない闇の中、ただ命を拾われたというだけでちっぽけな矜持に苛まれ一喜一憂している今の自分など、一瞬でただの過去になり、省みられる事も無くなるのだ……。

 

「っ…………卑怯と思ってくれていい。僕は……それでも、知って欲しかった。君に、僕の思いも伝えず……何も知らせずに選ばせて……それを後から、やはり話しておけば……なんて、そんなのは嫌なんだっ」

 

「………………」

 

ヘスティアは最後の葛藤を吐き出した。もう、彼女の中に伝えるべき事は残っていない。

たった半月の付き合いの、たった一人の眷属への執着が彼女に齎した苦悩が、客観的に見てどれほど重いものなのか、或いは軽いものなのか。それは、誰にもわからない。

しかしヘスティアはベルの事を、代わりの居る存在などと思っていなかったし、彼以上に心を砕かせる存在がこの先現れるなどと露ほども思わなかった。

ベルは目を伏せて、何度もヘスティアの言葉を反芻した。

 

「僕は……」

 

主の思いは確かに伝わっていた。庇護する存在が遠くへ行ってしまう事への寂しさだけではなく、心底ベルの辿る道を慮っての言葉である事が。

主への敬愛と、力への渇望が、静かに、激しくぶつかる。

 

(強く……)

 

強ければ、誰かに負ける事も無い。

遥か格上の化生相手に、無様な相打ちを遂げることも。

……家路へつくこと無く果てることを憂う必要も無くなるのだろう。

 

(けど)

 

その果てにあるものとは、何か?

ベルの中に、黒い靄のように蠢く何かが、少しずつ、大きくなっていく。それは、この都市に来て以来既に忘れ去ったと思っていたあの夢の中で、どこまでも彼を追い掛けてくる、あの、名伏しがたい恐怖だった。

すうっと頭の奥が凍り付いていき、それは脊髄を流れて少年の細い体に鎖のように絡みついた。

硬く冷たい幻覚は、五体全てを喰らい尽くそうと皮膚の下を這い回る。

塞がれた喉の奥で、出口を求める呼気がぐるぐると渦巻き、震える肌はいよいよ汗を浮き上がらせつつあった。

 

(なんで、こんなに、怖いんだ?なんで……怖い。わからない。怖い!)

 

恐怖が今、彼の魂を食い尽くそうとした瞬間、その声がベルの耳に届いた。

 

「ベル君」

 

「!」

 

視界が開けて、眼前に少女の顔が現れる。

大きな瞳は揺れていた。それが、彼女の瞳に映る自分の瞳の震えだと、ベルはすぐに気づいた。

ヘスティアは最初から真っ直ぐにベルを見つめていたのだった。

恐怖に呑まれる事無く、ただ、眷属の意思を待ち続けながら。

 

「僕は、誓うよ……君が選んだ運命は、最後まで見届ける。僕の刻んだ標だ。その先に何があっても……君が、導くのを欲するなら、どこまでも」

 

『或いは、それは災いだったのかもしれない。数歩先を照らすだけの小さな光は、無限の闇を更に濃くするだけで……』

 

ベルはいつの間にか震えが止まっていた事を知った。冷たく暗い闇の底に齎された小さな灯火は、少年の目を、思いを確かに明らかにした。それが、恐怖を退ける力となったのだ。

ベルは腰の横に添えていた拳を握り、口を開いた。

 

「神様、……僕は」

 

「ん」

 

『もし私だったら……その思いも、開かれた運命の形も何もかも、その『子供』に話すでしょうね……それほどに大事なのなら、全てを見届けたいし、選んだ道を悔やんで欲しくないって、思うもの』

 

「その道を――――行くのが、怖い、です。だから」

 

「……」

 

『私達に出来るのは、きっと』

 

「今はまだ、その道を選べません――――」

 

「…………うん」

 

『かれらが、自分の運命を切り拓くのを、見守ることだけ、なのかも』

 

今は、まだ……。

それが、ベルの決断だった。

身に余る力に縛り付けられる事に拒絶を示した事は、賢い判断だと言う者も居るだろう。けれどもそれは、恐怖に屈服した敗北宣言であると謗る者も居るだろう。

ベルは、どちらも正しいと思った。

そう、彼は、まだ、と言ったのだ……。

多くを語られずともヘスティアはその意味を分かっていた。そして、それを非難することもしなかった。

 

「……」

 

「大丈夫さ、ベル君」

 

ヘスティアは押し黙るベルの両手を握った。そして、優しく微笑みかけた。

 

「人間には、自分の運命を変えられる力があるんだ。今は恐ろしく感じるかもしれないけど……いつか、こんなつまらない事に怯えてたのか、なんて笑い飛ばせるようになれるさ」

 

「……はい」

 

旧友の受け売りではあるが、本音の言葉だった。そう、いつかは、この運命も姿を変えて、まったく別のものになってヘスティアの目に映るようになるかもしれない。

ヘスティアは、人間の運命は誰にも見通すことは出来ないし決める事も出来ないはずだと思わせる説得力を、ヘファイストスの言葉から感じていたのだ。

きっと、大丈夫だ。ヘスティアはそう思った。

目の前の眷属が、決して自分より大きな力に屈しない、困った性根の持ち主である事を知っていたのだから……。

 

「さ、朝ご飯にしようか!昨晩の戦利品があるから、たっっくさん食べて、元気つけよう!」

 

「はい……!…………な、何ですか、これ!?」

 

ヘスティアはいそいそとバッグを開けて荷物を食卓に並べていった。その光景はベルを仰天させる。見たことも無い料理の数々は……。

 

「もっちろん、交歓会の料理達さあ!まったくどいつもこいつもお喋りばっかりでちっとも口に運ばずに……折角食べられるために手折られた生命達への慈悲ってもんが足りないね、皆!」

 

「かっ、神様っ……」

 

ベルは心のなかで血の涙を流した。嗚呼、嗚呼、何て、何ていじましい、こんな事を、いくら台所事情に余裕が無いとは言え。

そう全ては己の甲斐性の無さだ……しかし、それを明かす事は出来ない。こんなにも誇らしげに、嬉しそうに自慢する主の顔を曇らせようと考えるほど、ベルは冷血ではないのだ。

涙を飲み込む顔の不自然さを誤魔化すために、ベルは料理に食らいついた。

 

「おおおっ、そ、そんなに焦らなくても……しょうがないか、やっぱりジャガ丸君ばっかりじゃ飽きちゃうし、そこにこんな高級料理出されたら……」

 

「うぐっ、うううっ、もぐもぐ」

 

ああ、旨い、なんて旨いんだ。

少ししょっぱいけど。

 

「泣くほど美味しいんだね……いいさ、僕は昨晩詰め込んできて、お腹いっぱいだよ。好きなだけ食べな」

 

かつてなく豪盛で、そして大いなる慈悲と哀しみに満ちた朝餐であった。

腹を膨らませる満足感によって、溢れる涙を誤魔化しきったベルがホームを後にしたのは、もう少し時間が経ってからの事だ。

少しは眷属のために尽力する事が出来ただろうかと、ヘスティアは喜びで胸を満たしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘスティアは、勘違いをしていた。否、気付かないふりをしていただけなのかもしれない。心の何処かで知っていながら、自分の願望に縋っただけで。

 

神は、人間の運命を変えられない。確かに、そうだ。

 

そして、人間もまた、そうなのだ。

 

定められた運命からは決して、何者も逃れる事は出来ない。例え、神をも超える力があろうとも……。

 

人間に出来る事。それは、迫り来る運命を受け入れ、そしてその結果……破滅や喪失を乗り越える事だけなのだ。

 

未知の領域を切り拓く力は、抗えない結末を垣間見せる呪いだった。

 

ヘスティアは終ぞ、その事に気付かなかった。

 

力の更新を施し、迷宮へベルを送り出した彼女の中ではいつまでも、旧友の言葉が繰り返されていた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

『それは――――希望、よ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

迷宮へ向かう少年の背で、目覚めを待つ運命の刻印が、鈍く鼓動した。

 

 

 

 

すべての終焉を意味するその文字が、炉の神のシンボルを囲んで、一瞬だけ浮かんで、消えた。

 

 

 

 

それに気付いた者は、刻印の持ち主も含めて――――誰も居なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【混沌の怒り(rage of chaos)】

・激しい怒りは黎明の幻影を呼び覚ますだろう。

・黎明の幻影は比類なき力をもたらすだろう。

・比類なき力はやがて逃れられぬ運命へと導くだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・連打で脱出
GOWシリーズの密かな伝統?として、「連打表示が出てるクセに連打しなくても展開が変わらないQTE」があります。伝統じゃなくて、IIとIIIだけか。

・ヘファイストス
GOWシリーズではヘファエストス。IIIに登場。シリーズ屈指の鬼畜武器ネメシスの鞭を作ってくれる。

・『子供』
「行くな!子供!」
余談。日本版GOWIIのOPでゼウスがクレイトスをぶっ刺し「他にも道はあったはずだ息子よ」と……有名な誤訳。原語版の「my son」は「小童」とか「若造」と訳すのが正解。
言うまでもなくラストでアテナが明かす衝撃の新事実(……)に引っ掛けた表現だったはずが、カプコンの大チョンボ。まあ初代のオマケ要素でバラされてますけどね……。



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殴る女

本文における「ヘスティアの崩れた表情」のイメージは、ちょぼらうにょぽみ先生の(少々ハーブか何かやつておられる内容の)公式四コマ漫画参照。




 

 

綺麗だと思った。それは、透き通っていた。……自分の色に染めたい、と思う。しかし、どう染まるのかも見ていたい、とも思う。

その時までのフレイヤは小さな少年の行く末を想像して楽しむだけの、ただの観客だったのだ。その時までは。

けれども、その時、彼女は見てしまった。そして、惑いが芽生えた。

自分が見た、あの美しいものは、まやかしだったのか?

自分が見た、あの乱れる、激しい、荒れ狂うものは、錯覚か?

どちらが真実なのだろうか?

その疑問は彼女の心を覆って、晴れなかった。

彼女は自覚せず、心囚われていたのだろうか?

その小さな人間の中にある、量りがたい何かに……。

彼女はただ、ベッドで眠る少年の寝顔を、遥か遠い場所から見つめるだけだった。

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

ミノタウロスに叩きのめされた少年がまだ眠っている頃、その酒場に大世帯がやって来た。

 

「ありゃ、上客がたがいらっしゃったニャ~」

 

「口より先に動かすもんがあるんじゃないかい?」

 

「はいニャ~」

 

オラリオで最も栄光に彩られた冒険者の集団が、店員に案内されて席につき、酒宴を開催する。周囲の好奇の視線をまるで意に介さない豪胆さも、彼らの隔絶した実力によるものなのだろうか。

数の多さからか、テラスと店内に分けられても彼らはよく盛り上がっていた。

 

「はい団長、も一杯。どうぞ、遠慮無く」

 

「……ティオネ、これ、何杯目だっけ?」

 

「いいじゃないですか、何杯でも。大丈夫ですよ、大丈夫」

 

「わたし、世界が終わる日には絶対これ食べるって決めてるのよ~」

 

「何処でも同じ事言ってるじゃねぇかてめえは」

 

「ん、ぐ…………もう、一杯!!」

 

「ンハハハハハ!やるやんガレス!」

 

神が率先して馬鹿馬鹿しい事をするので、引っ張られた団員達も乗っていく。畏怖を以ってその名を語られるロキ・ファミリアの姿は、少なくとも今同じ店に入って来た者ならば、面影すら掴めないかもしれない。彼らを遠巻きに、一挙一動を探るように見つめる者達が居なければ……。

無遠慮な眼差しを殊更に集めているアイズは、しかし、輪に入って騒ぐでもなく、かと言って黙々と胃を満たすでもなく、細い体にさえ見合わない遅さで箸を進めていた。

 

(…………)

 

アイズは長い遠征の憂さを晴らすような団欒を遠くに感じていた。それというのも、彼女の頭の中を占めるある光景のせいなのだ。遠征で壊れてしまった得物の修理に赴いた時も、その様子は気取られていた。一々問いただす無粋さを持たない相手に、だったが。

 

「お気に召しませんか?」

 

不意に掛けられた言葉に意識が引き寄せられた。銀色の髪を持つウェイトレスが、呆けていたアイズを呼び戻した事で、少し悪戯っぽい笑顔を浮かべている。西地区でも有数の繁盛店である所以は、この店員の存在を抜いて説明することは出来ないだろう。はっと目を惹く美しさと、豊かな包容力を併せ持った笑顔は、男達の不毛な期待を煽り、彼らを足繁くこの酒場へ運ばせるのだ。

それはともかく、気の抜けた有り様をはじめて他者に指摘された事で、アイズは少し顔を赤らめた。

 

「そういう訳じゃ……ない、です。お気遣いさせてしまって、すいません」

 

努めて動揺を隠し、アイズはこの場をやり過ごそうとした。しかし、シルは、じっとアイズの顔を見つめる。口の形は、微笑みを保ったままだ。

アイズは奇妙な既視感をおぼえた。なぜだか、見覚えのある表情のように思える……ファミリアに所属するどの冒険者とも違うし、彼女の利用する店の店員達とも違う、思い出の中の誰とも違う……。

そうまで思った所でシルが口を開いた。

 

「――――誰か、気になる誰かの事を思い浮かべてた……んですか?」

 

「!」

 

「ん何やて!!??」

 

核心をついたシルの指摘はアイズの中で芽生えつつあった疑念を一瞬で吹き飛ばした。はっと目を開いてしまった事は失策だったと、次の一瞬で気付く。それは誰の目にもそれが真実だと明らかになる返答に等しい。少し離れた場所で浴びるように酒を飲んでいた筈のロキが、理解した者の筆頭だった。

大きく音を立てて椅子を蹴倒し、席を押しのけて猛然と向かってくる主の姿にアイズは少し圧倒された。

 

「ア、ア、ア、アイズたん、まさかまさか、話に聞いたあのドチビん所の坊主を!?それはぁ!!」

 

「あの、落ち着いて下さい」

 

この世の終わりに直面したかのような絶望を顔に浮かべたロキがアイズに食って掛かった。そう、概ねの話はロキも聞いていた。取り逃したミノタウロスに踏み潰されそうだった少年をアイズが助け、その素性がなんとあのヘスティアの眷属だった事を。

図らずしも宿敵に恩を売れた事実にロキは内心ほくそ笑んではいたが、団員の注釈には少し気掛かりな事があったのだ。あの浮ついた話が一つもない――――だからこそ、主神の寵愛著しい――――アイズが、その少年に対し大いに興味を示していたという、実に不穏であること夥しい話を、ロキはアマゾネスの姉妹から聞き出していたのだ。あろうことかわざわざあの宿敵のホームにまで送り届けたとも!

ソイツがどんな何かをしたのか全てを知るわけではないが、はっきり言ってアイズがそんな容易く男に心惹かれるようなタマではないとロキも思っていた……思いたかった、ので、ここに至るまでは敢えて触れる事もしなかった。彼女の背に文字を刻むその時に知っていれば、それこそ根掘り葉掘り聞いていただろうが……。

その小さな引っ掛かりが、シルの指摘とそれに対するアイズの反応で一気に決壊したのだ。

 

「あーっ!ダメ!ぜっっったいあかん!不許可やーっ!他の男なら……他の男でも容認せんけど、あのドチビの所の奴なんて男だろーが女だろーが世界が崩壊しても絶対許さん!!」

 

「……そういうのじゃないです」

 

これでもアイズは相当必死だった。こういう、収拾のつきそうにない空気が彼女はひどく苦手だった。楽しくないとは思わないが、それよりは静かな方が好ましく思う。ゆえにどうにか押し止められないかと思案するが、他者の目にはあまり真剣に宥めようとしているように見えないのが、彼女にとっての悲劇だった。

辛抱たまらん様子のロキは頭を抱えてうめき出す。

 

「あ、あああ!こ、こんな悪夢が!あんなに可愛かったのに!どんな男も撥ね退けてきたのに!よりにもよって、よりにもよって……う、おお、おおお、うちのアイズたんが……これは夢や……おうっ、おっおっ……」

 

「だから、違うって……」

 

「もう聞いちゃいねえよ、こいつ」

 

崩れ落ちて嗚咽しながら床を叩き始めたロキに対してなお弁解をしようとするアイズをベートが止める。そして、主の首を掴んでもとの席目指して引きずった。

 

「い~や~離して~……うあぁ~……」

 

まこと不遜な態度も、それが彼であることと、酒の席であることで目溢しされていた。そうでなくても、この都市に居る限りは神も人も大差の無い力を持つ存在だ。腕尽くでも、うっとおしい酔っ払いを追い払うのはアイズの力であれば造作も無い事だった。そうしなかっただけで。

起こされた椅子に座らさせられ、くだを巻きながら酒をかっ食らうロキを、周りの団員達が適当に相手をする。彼らも確かに、ロキ同じような懸念を大なり小なりは抱いている。ただ、そういう沙汰に結びつかせようとすると、主の怒りを買いかねないので、突っ込んで触れる事もない。冒険が好きな連中だが、無謀と勇気の違いくらいは知っていた。単に面倒な事態になるのが嫌なだけとも言うが。

 

「すみません、藪を突いてしまったみたいで……」

 

「……構いません、別の切っ掛けでも、ああなったと思います」

 

シルの謝罪に対してもアイズは角を立てずに流した。尋常とは違う自分の様子について、こういう場所ならばいずれは話を振る者が現れたに違いない。ならばとその役目を外部の者が引き受けてくれた事に、恨みを抱く必要もないのだ。

そう今の自分は、少し平静ではないと自覚していた。

 

「アイズさん」

 

隣に座っていたレフィーヤが心配そうに声をかけた。いや、それはアイズを慮る意思というよりは、熱狂に近い尊崇を寄せる相手の心を奪う者が居る事への不安に基づくものだ。

ただアイズは不快には思わなかった。非難されるべきは、色々と想定外の事態の多かった遠征も終わって後輩が思うところも多かっただろうに、そういった鬱憤を晴らす意味もこの席に存在する事を忘れていた己の迂闊さだ。

軽く首を振り、安心させる為に、口元を緩め、そして。

 

「……食べる?」

 

「えっ、えっ!?」

 

取り皿を片手に持ち、料理の切れ端を乗せたフォークをレフィーヤの口に向ける。突拍子もないその行動に、レフィーヤは激しく狼狽した。

 

「そそ、そんな事、させられませんっ!?」

 

「……そう、残念」

 

「あっ……」

 

手を引っ込めて、ぱくりと一口で屠った。なぜだか、レフィーヤが残念そうな顔をして、アイズは少し、おかしくなった。

その気持ちをさすがに察したのか、端麗なエルフの少女の顔がさっと赤らむ。

 

「かっ、からかわないでくださいっ」

 

ぷいっと顔をそむけ、料理に手を伸ばし始める姿を見て、知らずに高まっていたアイズの緊張が緩まっていった。

そうだ、今は楽しむのが先決だ。……無意味な思索を続ける気も、失せていた。

 

(…………ベル・クラネル…………)

 

最後に一度だけ、その名を思い出す。

驚愕に目を剥くギルド職員の表情と、眠る彼を見て真っ青になる小さな女神の顔とともに。

 

「…………ふん」

 

ベートは、横目で一瞬、アイズの方を伺ったあと、杯の中身を飲み干した。問いただすタイミングを逃した僅かな苛立ちで、鼻を鳴らす。

少年が助けられた事は周知の事実だが、そこに至るにあたっての出来事を見たのは当事者のアイズだけだ。ベートの中に残る小さなしこりが取れるのは、少なくとも今ではなかった。

 

(あんな灰っかぶりのガキが、ね)

 

アイズが無駄な虚言を弄する人間ではない事をベートは知っている。なら、あの時聞いた二度の咆哮……そのうちの最初の一つが、あの弱小ファミリアのレベル1によって成さしめられたのは、確実だ。

そして、それ以上の事はもはや知り得ない。彼女がそのときの光景を忘れられないでいるらしい、という事以外……。

ならば、とベートは思う。

 

(……止めだ。くだらねぇ、あんなチビ一匹、もう関わることもありゃしねぇ)

 

アイズと同じように、彼もまた、今はただこの時間を堪能する事だけを優先するのだった。

月が地上を照らす時間は当分は続くだろう。

少年が目覚めたのはそれから少ししてからの事だが、ロキ・ファミリアの面々がそれを知ることはなかった。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

ベルはメインストリートでミアハと出会った。灰色のローブを身に纏う美男子に暫し見惚れてから、慌てて頭を垂れた。

彼こそ地上に降り立った偉大なる者達の一柱だった。木っ端冒険者であるベルにとっては、仕えるべき主以外で唯一親交を持つ神でもあった。

 

「こんにちは、ミアハ様」

 

「うむ、元気そうだな、ベル」

 

迷宮探索を終えて疲れた身体を引きずり気味のベルと並ぶと、ミアハの優雅な佇まいは更に歴然とする。その起源からして人間と違う超存在の気品は、ファミリアの規模がどうという事など無関係に輝かしい。

その手に持つ買い物袋が無ければ、更に引き立った事だろう……。

 

「なるほど、ヘスティアの言っていたとおり、中々、やる気に満ち溢れているようだな」

 

「あ、これは。その」

 

ミアハが目を細めて笑う。ベルは、あちこち血と土に汚れた自分の身なりを省みて、バツの悪そうな顔をした。

相変わらずの肉弾戦によって襲い来る有象無象を蹴散らしているベルだ。文字通り彼の足によって頭蓋の中身をぶち撒けられた住民も居て、その痕は彼の足裏にまだ僅かに残っている。

ここ数日の間そんな様で帰って来ている眷属を見て、ヘスティアはいよいよ愚痴の一つも友人に零したくなったのに違いない。

 

「なに、それでこその冒険者だろう?逞しく育っているのなら良い事だ……私の所の薬も要らなくなる程には、なってほしくは無いが」

 

ミアハが笑う。彼のファミリアは迷宮探索を糧としているのではなく、それを生業とする者達が重宝する物資を取り扱っているのだ。数えきれない程の人と神の跋扈する都市では、財を築くのにあらゆる方法がある。

そして、その中でも零細と言える規模のファミリアとなれば、その主神みずから足を使い、汗を流す。そう、ベルの所属するファミリアも、そういう例のひとつであり、目の前の神が率いるファミリアも……。

 

「その、それ以前に、買い揃える懐事情を用意するのが先になりそうで……」

 

ベルが悲しみを覚えると共に苦笑した。魔法薬は安くはない。効果も当然、値段なりにはあるが、ベルの場合、よほど強力なものは常備どころか一つでも勿体無くて使えないだろう。そして、それ以前に買えない。

経済規模が同じでも食い扶持の単価が違い過ぎるせいで尻込みしてしまうのは、単にベルが取引相手との付き合い方について無知なだけなのだろうか。

 

「成程、なら……サービスに、これだ」

 

「えっ、……えぇ!?ミアハ様?」

 

少年の泣き言めいた言葉を聞いて、ミアハは出し抜けに魔法薬を取り出し、ベルの手を取って握らせた。ベルは、手の中にある物が信じられずに、何度も目線を試験管とミアハの顔を往復する。作るための技術が代え難いとはいえ、材料だって無料ではないし、掛かる時間も含めての値段をつけた商品のはずだというくらいはベルにも想像がつく。或いは、主がそのように頼んだのだろうか?それとも、実は後で請求書が送られてくるのか?いや、そもそも冗談かも。

混乱して表情をくるくる変えているベルを見てミアハが口を開けて笑った。

 

「はは。そんなに驚くほどの値段じゃないのが、うちの商品のセールスポイントだ……おっと、効き目は保証するぞ。気に入ったら、一度来てみてくれ」

 

「あ、あ、ありがとうございますっ!」

 

呆気にとられているうちに踵を返し、颯爽と去っていく後ろ姿に、ベルは深く頭を下げたのだった。

それから、雑踏の中に消えていった群青の長髪と同じ色の試験管を見て、思う。

 

(客として、期待されてるのかな)

 

個人的な好悪だけで貴重な資産を分け与えるほどのお人好しでこの都市が溢れているとは、流石のベルも思わない。勿論、全く無いとも思いたくないが。

ただ、打算か慈悲かのどちらであったのだとしても、それに応えるべく励もうという結論だけは変わらなかった。

顔を上げて歩き出す。帰りを遅くして得する事象など、ベルは知らない。迷宮からの帰り道の見慣れた光景の中を突っ切って行く。

そして、いつも目を引き寄せられる所にまで差し掛かる。そこに立ち並ぶのは、武具が飾られるショーウィンドウだ。強化ガラスの中で煌めく造形品は、わかりやすい力の象徴として、少年の心を魅了してやまなかった。

しかしそれも過去の事だと、ベルは自分に言い聞かせた。

 

(ダメだダメ。手に届かない物を見上げてもしょうがないって……)

 

値札に書かれた現実に打ちのめされるのを繰り返す事も、もうやめにしようとベルは決意し、歩調を速めた。

帰りを待つ者がいる場所へ、一人の眷属が急いでいた。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

「ベル君、怪物祭って知ってるかい?」

 

日課である、迷宮探索で得た糧を眷属の身に刻む時間を終え、ヘスティアはベルに聞く。

唐突な問いかけではあったが、ギルドにおける貴重な出会いで得ていた知識が幸いし、ベルは口を開くことが出来た。

 

「ガネーシャ様が主催するお祭りって聞きました。迷宮の怪物達と戦うのを見世物にするって……」

 

「うん、うん。勿論それだけじゃない。盛大にまぁ、色々と他の商業系のファミリアがお店を出しまくるって話でさ」

 

都市を上げての興行は、比喩でも何でもなく世界中から人が集まる。金も。

多くのファミリアがそれを見込んで独自の販売戦術を駆使するのに違いない。

 

(ミアハ様の所も、お店を出すのかな?)

 

つい先刻に出会ったのだから、当然そう連想する。そして、あの気前の良さについて合点がいったような気がした。この都市でならいくらでも専門店で取り扱っている魔法薬も、外部では貴重な品々だ。それを求める人々はたいそう群がる事だろう。一本二本など、約束された大増益の前では大した損失でもないのかもしれない。

いずれにせよ……迷宮から富を持ち帰るファミリアには凡そ縁の薄い話だ。

 

「あんまり、僕らには関係ないかも、ですよね……」

 

「…………」

 

「神様?」

 

ぽろっと零れた言葉が、ヘスティアの表情を曇らせた。じとっ、と目つきを悪くし、口を尖らせてベルを見つめる。

何か、まずい事を口にしてしまったのかとベルは動揺した。

 

「あ、あの」

 

「……そーうだね。確かにボクらには関係ないね、迷宮で戦って、せせこましくバイトをして……明日も、明後日も、その次の日も……」

 

「…………あ」

 

明後日の方向へ顔を向けて、不機嫌さをむき出しにした様子で恨み言じみたセリフを吐くヘスティア。そんな様を見せつけられれば流石にベルも気付いた、皮肉をぶつけられているのだと。自分の鈍感さを呪うベル。

 

「そーさ、世界中から観光客が集まって、どいつもこいつもお祭り騒ぎ。かたやボク達アリンコみたいなファミリアは遊ぶ間も惜しんで代わり映えせずにいつもと同じ」

 

「あああのっ神様っ!僕もその、毎日こんなんじゃ体が持つかなあ、なんて思うんですよね」

 

露わになっているベルの上半身は、数日前とは見違えるように多くの擦り傷の痕がある。薄っすらと青痣を成している箇所も幾つか……。

すべては迷宮探索で拾ってきた余計な取得物だったが、言葉とは裏腹に彼自身は大して気に留めてはいない。そう、主の言わんとする事に気付いたからこその慌てようだ。

弁明丸出しの、不自然な話題の持ち出し方はしかし、ヘスティアの機嫌を良くした。

 

「そうか!うんうんそうだろうそうだろう、ボクもそう思ってね、バイト先に休みを貰ったのさ。一日だけだけど、ここ最近はキミも本当に頑張ってるんだから、心の洗濯がてら…………その一緒に、遊んで回らないか、なんてさ」

 

花が開くように表情を明るくして、ヘスティアは何度も頷き、その提案を持ち掛ける。最後の方は少々、彼女にとって勇気の居る発言だったので、やや詰まり気味だ。尤も主の葛藤などベルは知る由もないが。

ともかく自分の選択が正解だった事に安堵はする。そして、主の心遣いに深い感謝の念を抱くベルだった。

 

「喜んで!ありがとうございます神様!」

 

「うん!よし!決まりだっ!」

 

グッと両手を握りしめる彼女の喜びは、単なる日々の労働から解放される事だけに由来していない。愛しい眷属と二人きりの行楽という予定は、彼女の未来を明るく照らしていた。

ベルにしてみても、確かにこのまま彩りのない日常を続けていくのは、色々と心の中の余裕が削れていくようにも今更思えた。胸の奥で未だ燻る力への渇望を自覚しつつも、まだそれに全てを委ねてなどいないのだ。

それに、主とはいえ、可愛らしい少女と休日まるごと使って一緒に遊ぶというのは、彼にとって初めての経験だ。畏れ多く思いながらも期待してしまうのが、彼が男である所以だった。肉体的な摩耗を癒やす目的も承知しているが。

……ふと、ベルは気付く。

 

「でも、お金の方は大丈夫でしょうか?」

 

零細ファミリアの悲しさは、主が交歓会から持ち帰った料理で食を繋ぐなどの倹約ぶりが全てを物語る。丸一日の収入を蹴って行楽にいそしめる経済状況なのかどうか、ベルの中で不安が芽生えた。

ヘスティアは眷属の懸念など物の数ではないとばかりに、人差し指を振る。

 

「今までの積み重ねは、そんな生半可なものじゃないよ。それに財布の中身の使い方は、きちんと想定済みさ」

 

毎年、どういう店がどの辺りに置かれ、相場はどの程度なのか……そういうことまで、ヘスティアはアルバイト先で、或いは合間合間に調べていた。その上で、今度の決断に至ったのだ。

それも、二人の蓄財あってこそと言うべきだ。特に、最近のベルの持ち帰る日当の目覚ましい増え方は、彼の中に垣間見た不吉な運命への不安と同じだけの期待も呼び起こす。小さな雛鳥が偉大な空の主となる助けに、少しでも手を貸せたなら……と、ヘスティアは思う。

そう、個人的な願望など二の次で、これは愛する眷属に、更なる飛躍の力を与えるための休息なのだ!と、彼女は胸の中で邪念を退ける。

何も知らないベルは、主の深謀に尊崇の眼差しを向けた。

 

「神様……何から何まで気を使わせて、僕は何も……」

 

「何を言っているんだい……水くさい事言っちゃダメだぞ」

 

恐縮するベルの手を取ってがっしり握るヘスティア。元々は畑を耕す日々を送っていた少年冒険者の強張った手のひらの感触も、彼女は嫌いではなかった。

 

「二人で頑張っているから、二人で楽しもうって、おかしくもなんともない。だろ?」

 

「……はい!」

 

優しく諭す言葉に反論の余地は無かった。ベルは力強く頷いた。

手を包む小さな両手の暖かさは、少年に自己の存在意義を強く自覚させた。

この温もりの為に捧げられるものは、何であろうと厭わないと。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

ローブの奥から見える銀色の目は、底の知れない思慮を含むものに思えた。隣に座る主に似て……。

その目は今、窓の外へ向けつつ、今ではない過去の光景を映しているのだろうと、アイズは推測していた。

 

「……あの子の色……何よりも透き通っていたように思った……けど……」

 

フレイヤが目を細める。その感情の機微の真相を見抜く事までは、流石のロキも不可能だ。いくら、長い付き合いとはいえ。

ただ、知っている旧友の顔ではなかった。気に入った『子供』を付け狙う狩人の目……所有者の事情など考慮せず構わず奪い取ろうとする冷徹さ、その過程自体を楽しむ残虐性、そのいずれとも違う別の何かを秘めた表情。

いつ如何なる時も、ロキの前の美の女神は優雅に振るまい、我を忘れるような醜態も無かった。あまねく男の心を組み伏せる麗しき女神は常に、蹂躙する側に立つ捕食者だった……だが。

 

「違った……のかしら。何かが……違った、あの時、あの子は……」

 

「……おーい?大丈夫か?」

 

遂にフレイヤが自問自答し始めて、ロキは恐る恐る声を掛ける。よほど、その、目をつけた『子供』を気に入ったのだろうか?だとするならばその『子供』は随分と前途多難だ。享楽主義者のフレイヤにとってお気に入りの『子供』とは、遊び道具にも等しいのだから……。

フレイヤははっとした様子で、対面に座る二人の方へ顔を戻した。

 

「まあ、ようわかったわ。なかなかの入れ込みようで……ソイツも運が良いんだか、悪いんだか」

 

「……」

 

小さな懸念が一つ消え去り、ロキは椅子にもたれて呆れ顔で呟く。公の場所に珍しく顔を見せた旧友が何やら面白い……もとい、怪しい企てでもしているのかと思ってここに詰問の場を設けたロキは、既に目的を達した。まあ、真相自体は珍しくもない話だった。彼女自らが動いて情報を集めるというのがやや異例だったと、それだけだ。

期待外れという思いも少なからずあった。どんなとんでもない陰謀でもあるのかと勘ぐってしまったのも、それだけ地上の日々の平穏さが彼女の性根に物足りなく感じているからだ。どれも可愛い『子供』達。かれらは命を賭けて大いなる謎を解き明かすべく、日々戦う。それは一つとして同じものの無い物語の数々を生む……しかし、それも結局、神々にとっては他人ごとに過ぎない。

自分達が当事者になるには、『子供』を使ったウォーゲームが精々なのだ。かつてロキが日常的に行っていた、天界を巻き込んだ大騒動などとは比較にならない矮小な遊び。

 

(ま、そんなデッカイ事なんてそうそう起こらんわな……)

 

拍子抜けしたロキは、フレイヤが依然として沈黙を守っている事に気づくのに、僅かな時間を必要とした。

無表情だが、憮然としている様子でもなく、怒りを押し隠すようなものでもなく、ただこちらを見ているだけの顔。それも、ロキにとっては新鮮だった。

 

「あーっと、スマンスマン。まー正直な、どんな面白い事仕出かそうとしてるんかと、一枚噛ませろってなもんでな……」

 

「そういう事は、真っ先にあなたに教えるつもりだから、安心して良いわよ」

 

背もたれから身体を起こして言うロキに、フレイヤが微笑んだ。いつもの顔だった。

 

「んで……ソイツは一体何処の誰や?」

 

ロキが身を乗り出して尋ねる。ここからは完全な余興だ。数多の悲喜劇を生んだ恋多き女神に見初められた哀れな子羊、それを知っておく事は退屈凌ぎの種の一つにはなるだろう。その口角は自然と持ち上がる。

 

「……内緒、ね」

 

「オイオイここまで来て……かぁ、けち臭い事言わんで~」

 

「フフフ……」

 

素気無く扱われてしまう主の姿に、ほんの少し前に剣呑な空気を纏っていた面影も忘れてしまいそうにアイズは思う。仮面をつけた者同士の探り合いは既に終わったことを知った。

 

(……?)

 

ふと、フレイヤの顔を見る。美しい顔だ。銀色の目とまつ毛が、窓から入る陽で輝き、みずから光を放っているかのような錯覚を呼び起こしている。

……それだけではない、アイズが感じたものは。

 

(何処かで……)

 

どこかで、見たような、何かと、似ているような……主とは違う、誰か……記憶を探り当てるだけの時間は、生憎与えられることはなかった。

 

「それじゃ……私も、このお祭りを楽しみたいから」

 

「なんや~一緒に回ろうとか言わんのか?古馴染みを寂しがらせてどうすんねん」

 

「あら、二人きりのほうがいいんじゃないのかしら?」

 

席を立つフレイヤの視線を受け、アイズは自然と佇まいを改める。緩んだ空気に呑まれそうになるが、今会話してる二柱の神が、この都市の頂点なのだ。この場に相応しくない振る舞いはすまい、とアイズの矜持が邪念を打ち払った。

 

「ま、それはそうやけども……」

 

「ほら、待っていた物が来たみたいよ……それじゃ、また機会があれば」

 

緊迫していた話し合いの空間はいつの間にやら周囲の客を追い立て、ロキが頼んだ朝食が運ばれてくるのも相応の時間を要させていたらしい。恐々とした様子でウェイトレスが料理とともにテーブルへ向かってくるのが見える。

ローブを翻して階段に歩を進めようとしたフレイヤは、ぴたりと止まって、首だけ振り向きアイズを見た。そして、口を開く。

 

「今の所に居るのが疲れたなら……いつでも相談に乗るわよ?アイズ・ヴァレンシュタイン」

 

「……!?」

 

「んがっ!!」

 

「フフ、じゃあね」

 

ひどい置き土産を残し、フレイヤは去った。

下顎を打ち上げられたような姿勢で一瞬硬直したロキは、古馴染みの姿が消えるとともに立ち直り、アイズにかじりついた。

 

「ア、ア、ア、アアアアアイズたん!!アイツだけは、後生やからアイツん所だけはあああああああ!!!!」

 

「……行きませんから、落ち着いて下さい」

 

やはり、似ているように思う。周囲を引っ掻き回す愉快犯ぶりが……と、改めてアイズは思った。しがみつく主の頭を押し返しながら……。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

ヘスティアの心はかつてなく満たされていた。その日は精一杯のファッションセンスを発揮した姿で、たった一人の眷属とともに朝から街を回っていた。

人波溢れる街の中、事前に仕入れた情報に従って要所要所のスポットを巡る。出店で買い食いし、小さなゲームを楽しみ、様々な見世物で驚嘆する。二人きりで。二人きりで。

こうも浮かれに浮かれた状態だと、うっかり気を抜けば涎の垂れたニヤケ面の一つでも晒してしまいそうだった。威厳を保つために彼女は常に必死で気を張っていた。

かたや主の苦労も知らずベルは、祖父に託された薫陶の中から必死で女の子のエスコートの方法について思い出しつつ、この祭りの中を練り歩いていた。

 

『自分から話題を出せ。あれ欲しくない?これ見たくない?だ。素気無くされても何度もやれ!』

 

「神様、あそこのお菓子、食べたことあります?美味しそうですよ」

 

「そうか!よし!食べよう!」

 

『遊ぶ時は自分が先だ。上手くいくにしろ行かないにしろ、初めてのものは先導するのが基本だ!』

 

「神様、輪投げで……うわ、あんな景品もあって……ちょっと、やってみても良いですか?」

 

「そうか!よし!やろう!」

 

『あんまり歩き回ってばかりだと疲れてくるのは当たり前だ。向こうが言う前に、こっちから休憩を切り出せ!』

 

「神様、朝からずっと歩き通しですし、あそこで少し休みませんか?」

 

「そうか!よし!休もう!」

 

概ね上手くいっていた。なんだか主の反応がどれも同じような気もしたが、常に満面の笑顔を保ち弾んだ声を上げるので、きっと正しい筈だと思う。

 

(良いんだよね、こういう感じで……)

 

予めヘスティアに知らされていた都市の見取り図と例年の店舗の出店場所、それと各地の休憩ポイントを頭に叩き込んでおいた事も、主の機嫌を損ねずに居られるのに功を奏していた。

街路樹の周りのベンチに並んで座る二人は、ジュースを飲んで喉を潤していた。傍から見れば少年少女の微笑ましいデートの光景にも映っていたかもしれない。少なくとも少女の方はそう思われて悪くは思わないだろう。

ベルの方も、勿論気を使う苦労も少しはあったが、こうもやることなす事に対し喜色を露わにしてくれる主と一緒にいられる事に比べれば、瑣末に過ぎる問題と言えた。

 

(来て、良かった)

 

ベルは心の底からそう思った。

一息ついたベルの視界に、チラチラと光るものが映った。惹き寄せられる双眸。

 

「あれ……」

 

彫金細工の露店だ。掲げているファミリアの名前までは知らなかったが、小さくとも確かに目を引く精微な造形の数々がよく見えた。

はた、と思いつく。

ベルは、財布の中身を確認した。一応、主と分けて持って来てはいる。二人で稼いだのだから、使うぶんも分けるべきだとの女神のお達しが最初にあったので……。

 

「……神様?」

 

「何だい?」

 

眦を垂れて緩みきった笑顔を向けるヘスティア。糸のように細まった目は、きちんと視界を確保出来ているのか等というくだらない疑問をベルに抱かせたが、ともかく彼は主の手を引いて、露店へ向かった。

 

『タイミングが重要だ。相手のご機嫌が最高潮だと確信した時……それが、プレゼントを選ぶ時だ』

 

「どうしたんだい?」

 

「……その、神様は……どういうのが、好きですか?この中なら……」

 

「!?!!?!?!?!?!??!!?!?」

 

『一緒に選ぼう、と声を掛ける。しかしその実!選ぶのは当然お前だ!全ての力を動員しろ!運命の導きを手繰り寄せて、最善のものを見つけ出せ!どんな強敵を倒すのも、この試練を成功させる困難さには敵わんと知れ!』

 

ヘスティアは耳を疑った、それが幸福の絶頂に居る自分の脳の誤作動による幻聴であったかと。大口を開けて絶句する顔は、天地が逆転するのを目の当たりにした人間だって、これほどの驚愕を浮かべるだろうかとさえ見る者に思わせる。

ベルはと言うと、突如目を見開いたその表情を見て、或いは悪手を打ったのかと勘違いしていた。やはり、こういう物品は贈呈するのに重すぎるものであろうか?と。露店の商品である以上、値段も高が知れる程度の代物であるとふんでの判断だったが……。

 

「やっぱり、こういうのは興味ないですか?」

 

「!!いや!違う!……いや!違わない!……じゃない!大好きだよ!ボクこういうの大好きだっ!」

 

恐る恐る聞くベルに、ヘスティアは高速で横に首を振った。ツインテールが残像を描いた。多少大袈裟な反応ではあるが、今日においては然程珍しくもなかったので、ベルもいい加減慣れつつあり、却ってほっとしていた。

改めて、並んでいるアクセサリーの数々を眺める……値段と見た目の相関関係など、ハッキリ言ってベルにはよくわからなかったが、やはりそれなりに値が張るものは、貴重な鉱石を使っているのかもしれない。或いは魔石を使った、特殊な効果を持つ物も混じっているのだろうか?

 

「冒険者さんかい?こいつらぁ、迷宮に持って行くには役に立つような代物じゃないよ。……っと、神様へのプレゼントなら、関係無いか」

 

店主が、少年の意図を汲んでにやっと笑う。ベルは心を見透かされ少し頬を赤くしたが、隣のヘスティアは色とりどりの輝きを放つ品物に目移りしまくり、耳に入ってはいないようだった。

 

(ベ、ベル君がプレゼント、ボクに!アクセサリーを…………やはり、指輪か!?指輪!ち、誓いの……いや!待て!まだ、まだ早いぞベル君、そういう物を贈るのはもっと時間を掛けて仲を深めてからじゃないと重みってものが……ああ、でも!嬉しい!これがボクらの絆の証になるのか!素晴らしい!!)

 

依然、混乱した頭で瞳をくるくる動かすヘスティアは、品定めという目的など完全に喪失していた。尤も、ベルにとっては好都合だった。祖父の言葉を実行に移すにあたっては。

ごく、と唾を飲んで、意を決するベル。

 

「か、神様。迷ってるのなら、僕が選んでも、いいですか?」

 

「ええっ!?!」

 

素っ頓狂な声に、ベルの方も驚いて縮こまった。店主は、初々しい二人のさまを見て、笑いを抑えていた。

 

「いえ、欲しいものが決まったのなら、それでも……」

 

「はっ!そっ、そうしてくれ!ぜひ、君に選んで欲しいなっ」

 

「、はい」

 

両拳を握って迫る主の顔は真剣そのもので、ベルは気圧されてそのまま倒れそうになる。

ともかく、ここまでは見事に祖父の言葉通りに進んでいた。そう、全てはこの最後の一手に掛かっているとベルは知っていた。じいっと目つきを鋭くして、黒い布の上に並べられた品々を見渡す。

指輪からはじまり、ネックレス、イヤリング、ピアス、髪飾り、と、一通りは揃っている。彫金だけで造られた物もあれば、透き通る宝石を据えられた物も。こんな値段で売って、大丈夫なのだろうか?とさえ思えてしまうのが、貧乏ファミリアの構成員の性だが、今はその事を必死で忘れて、ベルは目を凝らしていた。

 

(一番高いの!……なんて、駄目か。……神様に、似合うような物……)

 

少しだけ瞳を動かして、主の姿を目に入れる。ものすごく真剣な目でこちらを見つめており、その期待の高さが伺えた。黒い髪、あどけない顔付き、細い手足……その、少し発育の良い胸部……は、あまり関係無い。煩悩を振り払った。

 

「……?」

 

そのおかげで、広げられた商品の隅のそれを見つける事が出来たのかもしれない。真鍮のリングに取り付けられた翡翠の輝きは、他の宝石達に比べると、一段と地味だった。飾り気の薄い、どこか無骨さをも感じるその指輪は、こうして目に止めるよう意識しなければ、すぐに忘れ去られてしまうような作りだ。しかし不思議な事に、値段について他の品とも大差無い……。

 

「それ、ウチで作った奴じゃないんだ。外から仕入れた、骨董品枠、ってところかな」

 

視線だけを観察してベルの疑問を推測し、店主は口を開いた。ベルは、顔を上げる。

 

「そういうのも扱うのがウチの特色って訳さ。意外と物好きが居るもんなんだよ……他にない魅力をビビッと感じるのか……特に今日みたいに人が集まれば尚更」

 

手入れも大変だけど、と店主は付け加えた。ベルの目はもう一度、その指輪へ落とされた。遠い何処かで、知らない誰かに作られた指輪。どれほどの年月を経て、どれほどの人の手を渡ってきたのだろうか?或いは、人の手から離れ、どれほど眠り続けていたのだろうか?それは今こうして、二十も齢を重ねていない子供の前に置かれている。そう思うと、言葉に出来ない感傷が仄かに芽生えた。

それは、遥かな時を重ねた遺物への純粋な畏怖なのだろうか。それがこうして自分の前にある数奇な運命への感嘆なのだろうか。それとも、別の何かなのだろうか。

ベルは自分の気持ちを分析することは出来なかった。ただわかっていたのは、これよりも主に捧げるに相応しいものはここに無いだろうという奇妙な直感だけだ。

 

「これ、神様は、どう思いますか?」

 

「……うん。良い。すごく」

 

君が選んだものなら、何だって。と続けそうになるのをヘスティアは堪えた。偽らざる本音は、相手の気持ちを軽んじてしまう事もあると彼女は知っている。それに、事実としてその指輪はヘスティアも好ましく思った。無闇に派手ではない落ち着いた意匠のほうが、大人っぽい魅力を引き立ててくれるはずだろうし、きっとベルもそれを見込んで選んだのだろう、とも。

事実はともかく両者の口にする意見は一致していた。財布を開いてベルは目当ての物を手に取った。

 

「まいどあり」

 

店主は上機嫌で、主従の背を見送った。

 

「す、すいません。サイズ考えてませんでした……」

 

「良いさっ、指輪だからって、指にしか着けちゃいけないなんて決まりは無いだろ?」

 

眷属のうっかりも、ヘスティアにとっては大した問題にならなかった。細い指ではスカスカになってしまう指輪を大事に握りしめると、そこから身体中に感動の波が広がっていくのがわかる。大切な眷属に捧げられた初めての品は、彼女にとっては彼の分身そのものと言えた。

両手で贈り物を大事そうに抱える姿を見て、ベルも充実感に包まれた。同時に、祖父の薫陶に、深く感謝していた。彼は、一番の難関を突破出来たのだ。

 

(またこんな風に、神様を喜ばせられる機会があったら良いな……)

 

遠い目をするベルの口元は緩んでいた。主の心を満たす事が出来た達成感は、少年に新たな目標をもたらしていた。それともそれはひょっとしたら、神に仕える者の義務感ではなく、可愛らしい異性と重ねる時間への憧憬なのかもしれないが、その事を自覚はしていなかった。

そんな風に思いを馳せていた彼は、右手の甲を何かがつついているのに気付くまで、少し時間が掛かった。

何だろう、と視線を右手側に落とす……小さな、真っ白い手の甲が、触れていた。目を丸くしてその持ち主の顔を見る。

ほんのりと、頬を赤らめているヘスティアは、もごもごと口を開いた。

 

「そ、そろそろ、闘技場に行くじゃないか。その、人も増えて来て、はぐれたら大変だし……」

 

主の申し出に一瞬、ベルは呆けた。

手。手を?

どうするって?はぐれたら??

察することの出来ない少年の脳裏に、その言葉が蘇った。

 

『手を握るタイミング……これがまた、難しい。さりげなく接触し、流れでそのまま行ければ文句なしだが……いや、お前にはやはり無理が……』

 

眉間に深い谷を刻む祖父の顔が消え去ると、ベルは全てを理解した。

 

「あっ…………は、はい」

 

頷く彼もまた、少し顔を赤らめた。

小さな柔らかいものが、手のひらにするりと入ってくるのを感じる。

 

(いや、神様は、僕の事を心配してるだけだ。別に、変な意味なんかじゃなくて……)

 

少しでも力を入れれば壊れてしまいそうにも思える主の手を包みながら、ベルは言葉少なげに、足を動かすのだった。

恥ずかしそうに少し俯いて歩く姿は、隣のヘスティアも同じだった。

小さな二つの影が、怪物祭のメインイベントの会場へと向かっていく。ほんの少しの時間は掛かるだろう。

けれども、二人にとって感じられる長さが、それ以外の者の観測する長さと同じなのかどうかは、どんな存在にだってはかり知れない事だった。

 

 

--

 

 

 

「人、多くなって来ましたね……その、神様、手を放したら呑まれそうですので……」

 

「うん!うん!わかってるとも!きちんと握っていないとなっ!」

 

東のメインストリートは同じ事を考える人々によって激しく混雑していた。

ベルは右手の柔らかい感触に少し鼓動を早くしつつ、行く先にそびえ立つ闘技場を見上げた。都市の中央に陣取る摩天楼にも劣らず、その威容は小さな少年を圧倒する。

 

「こんなに沢山の観客も収容出来るんでしょうか?」

 

「大丈夫、まだ、この時間なら入れるはずだよ。……例年通りなら」

 

とは言うヘスティアだがそろそろ周囲の雑音で会話も危うくなりそうな状態であるのを理解すれば、もう少し早めに足を運んでおくべきだったか、との懸念が湧く。しかしそれを今まで忘れさせてしまうほどに、二人で分かち合う観覧の時は心躍らせるものだった。

思えばこうして全ての重荷を気にせず楽しむ時間は地上に降りて初めてだ。何かに追い立てられる焦燥感も無く、ただ代えがたく大切な存在とそれを分かち合う時間も……。

 

「えへ」

 

それも、二人で重ねた努力の報酬だ。降って湧いた幸運などではないからこそ、その価値を計り知れないものにヘスティアは思っていた。かつて旧友に居候先を叩きだされた時は途方に暮れたものだが、全ては今手のひらで繋がる存在との出会いから始まったのだ。

小さな偶然の出会いをもたらした運命に深く感謝せずにはいられなかった。大いなる幸福感が、ヘスティアの表情を崩した。

それが小さな不幸を呼んだ。

 

「あっ!」

 

「……ああっ!」

 

口元と一緒に緩んだのか、ベルもまた目的地に意識を奪われていたのか、人波の大きな撓みが二人を揺らした時、互いの手が離れた。ベルはすぐに手を伸ばしたが、一瞬の遅れを待ってから正気に帰ったヘスティアはすぐに、押し寄せる通行人の影に飲み込まれていった。戻ろうとしても、すでに闘技場を目の前にした人々の流れをかき分け逆らう事は、今のベルには不可能だった。

 

「神様っ!」

 

「――――っ!――――!!」

 

呼び声は雑踏の中に吸い込まれ、二度と彼のもとに戻って来なかった。そうしている間にもどんどんと流されていく。ベルは己の失態に歯噛みする。

 

(馬鹿!)

 

「こら、押すな!」

 

「あ痛たたた!ちょっと!」

 

「やめてよ!」

 

決断は早かった。無理矢理に流れを横断して、いよいよ闘技場の入り口へ至ろうとするところでその脇に飛び出した。罵声など届かなかった。

屹立する偉大な建造物を見上げる暇もなく、ベルは大声を上げる。

 

「神様ーーっ!」

 

返事は無かった。小さなツインテールの少女の姿も、止めどなく入ってくる人々の姿に埋もれて、決して見つける事が出来なかった。

 

(どうしたら……)

 

途方に暮れそうになる。ヘスティアがそうであるように、ベルもまた今日という日、二人で楽しむ休日の行楽は久しぶりの骨休めとして、そして、例え相手が神と言えども美しい少女と一緒に過ごす時間の充実感を満喫していた。それが、一番大事な催しに訪れる時に至ってこのアクシデントだ。

どうにか解決策を頭の中から引き出そうと必死で思案する。

 

『一度握った女の子の手を離すのは、一度手にした金貨を手放す以上の間抜けだぞ、忘れるな!』

 

(じゃない!)

 

何の実にもならない祖父の言葉を思い出してしまうのは、それだけ今のベルが焦っているからだ。早く主を見つけて闘技場に入らなければ、席が無くなってしまうかもしれない。折角、主自ら建てたスケジュールを台無しにしてしまうのは眷属として、男としての自尊心を保つ為に避けねばならない最後の使命だ。

しかしその為にとるべき手段が悲しいかな思いつかず、その最中も絶えず人波が闘技場へ流れ込む。……そう、あの中に主が居るのならば、きっと、と思い至ったのはすぐだ。

 

(でも、今から並んで入ろうったってなあ……)

 

もう、闘技場の中に入ってから探した方が早いに違いない。先の判断の失敗を知り後悔した。頭を抱えてしゃがみ込みたくなる手際の悪さだった。もしここが迷宮だったら……二手もの過ちは、命という代償を払うには充分過ぎる、とまで思い、背筋が冷える。

どうあれこれ以上の失敗を重ねる事は避けたかった。なら、一番堅実で、時間の掛かる方法を取るだけだとベルは思った。そして、遥かメインストリートの後方へと足を向けようとした瞬間、目の端に何かが掠めた。

 

「?」

 

煌めく何か。それは、闘技場の入り口を外れて、建物に沿った横道の先に一瞬見えた。銀色の何かが。

ベルはその先に、闘技場の中へ入る通路があるのを発見した。観客用ではない、おそらく関係者専用のものだろう。

抗い難い誘惑が彼を襲った。近道……。

 

(……駄目だよ、犯罪じゃないか)

 

入場料は入り口で取っているのだ。それを知っていて侵入するのは彼の良識が許さない事だった。ベルは、ため息をついてから行列の果てへと走った。

瞳の片隅に残る残像は、すぐに消え去った。

 

「…………」

 

小さな通用口の影の中で、銀色の瞳が、少年の背を見つめていた。

ローブの下で、唇が引き結ばれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

「おや?あれって」

 

闘技場では既にメインイベントが開催中だった。レベル1の冒険者など歯牙にも掛けない凶悪な怪物達は、ガネーシャの擁する中でも精鋭に位置する強豪テイマーの手で華麗な演舞を披露している。それは外部から来た観光客は当然として、冒険の日々の気晴らしにやって来た者達の驚嘆の声をも容易に引き出すのだった。

ロキ・ファミリアの所属するその三人娘も、今この場所を包む熱狂のさなかにあったが、そこで些かこの場所に不釣り合いなものを見つける。

その少女の姿はティオナの記憶にも残っていた。いい加減満杯にも近い闘技場の観客を掻い潜り、黒いツインテールをふるふると振り回し、不安気な表情で何かを探し回っている……服装こそ違えど、その(やや幼げながら)整った容姿と、小さな背丈に実った豊かな胸は……。

 

「ヘスティア様ー?」

 

「!っな、え、キミらは……その」

 

「あ、そっか……はじめまして、ロキ様の所でお世話になってる者です。以前顔だけお見せしたんですけどー」

 

ヘスティアが覚えているのは、ベルを背負ってホームにやって来た金色の女冒険者だけだった。ロキは知らないもののその時に礼の一つ位は済ませていたのだが、その少女のやたらに無遠慮な少年に向ける視線ばかりがヘスティアの印象に残っており、一緒にやって来たアマゾネスの姉妹の事など目に入っていなかったのだ。

そんなんだから、仲の悪い神の名前を出されてヘスティアは少し警戒心を抱いた。ただでさえ、楽しい時間が唐突に途切れてしまった不幸を嘆いていた所だった。

 

「うっ、……そ、そうか。すまない、忘れてて……じゃ、ボクは用事があるから」

 

「あ、ちょっとちょっと!待ってくださいよ!」

 

「わあっ」

 

あっという間に踵を返して立ち去ろうとするヘスティアだったが、両肩をがばりと抱きかかえられ素っ頓狂な声を上げた。ティオネの豊満な胸部がヘスティアの後頭部を包んだ。

 

「何をするんだっ、ロキの差金かっ?くそっよりによってベル君とはぐれてしまった所を狙うなんて!何とでもしてみろ、ボクは屈したりなんかしないぞっ!」

 

「何もしませんよ~……そこまで嫌わなくってもいいじゃないですか……何か、お困りの事でもあるのかと思って」

 

ティオネは、さては怨敵の陰謀と疑うヘスティアを宥めた。少し話を聞こうとしていただけでここまで拒絶されると、ファミリア同士の関係というものの煩わしさを感じる。あんなに困ってますという顔をした少女を放っておくような性質ではないティオネは、特にそう思った、この時。

 

「ベル君って、あの、アイズが助けた男の子ですよね?一緒に来ているんですか?」

 

「……か、関係ないじゃないか、そんな事」

 

女神のこぼした名前はティオナにも聞き覚えがあった。白い髪と、右目の古傷を持つ幼い冒険者だ。ギルドに運んでいった際には、彼の担当職員がひどく動揺していた事をよく覚えている。特に大事無しという診察結果を知った安堵の表情も。

んが、その彼の行方について、素気無くヘスティアは突っぱねる。それも、あのロキの『子供』だからという理由もあるが、あの時に同伴していた人間というのも彼女にとっては立派な理由の一つだった。客観的に言ってそれは理不尽も極まっていたのだが。

さて、ここまで不審を露わにされてしまえば、この姉妹もどうしたものかと困った。善意を受け取って貰えないのは悲しい事だが、それは与える側の身勝手な感情だという事はわかってる。最初から席についたままのレフィーヤも、先輩達のそんな様を見てどう収めたものかと狼狽するだけだった。

硬直した空気の中に、新たな風を吹き込む者は唐突に現れた。

 

「あ……皆さん、奇遇ですね、こんな所で。……その方は?」

 

「シルさん?」

 

レフィーヤは後ろから掛けられた声の持ち主を見て目を丸くする。先日の酒場で、主の疑念を焚き付けてくれた美人店員がそこに居た。アマゾネスの姉妹も、振り返る。一緒に、ヘスティアも。

 

「うう、今度は誰だよ……」

 

「……えっとお、一緒に来た眷属の子とはぐれちゃったみたいで」

 

「そうだ、シルさん、……白い髪の男の子を見かけませんでした?右目に、縦に傷跡が走ってる、15歳くらいの」

 

一人きりで、面識のない連中に取り囲まれる状況に、元々それほど豪胆ではないヘスティアは、急に心細さを感じ始めた。これが最初から一人でここの観戦にやって来ていたのならまた違っていただろうが。そんな姿を晒されていよいよティオネも罪悪感が芽生え、肩を抱いていた手を離した。

レフィーヤの放った問い掛けは正直、この居た堪れない空気を変える意味もあった。この広い闘技場の中で、確かに特徴的ではあるが少年一人の身柄を、偶然居合わせた人間が知っているなどという幸運などありようはずもないと。

しかし。

 

「ひょっとして、赤い瞳の子ですか?さっき、入り口の辺りで……」

 

シルの言葉は確実に、探し求めるあの子を示したものだとヘスティアは直感した。この場から逃避したいという願望も多分に含まれた反応だった。

 

「そ!その子だ、間違いないよ!案内してくれないかっ」

 

ぱっとシルの目の前に移動するヘスティア。こうも引かれてしまうとは、やっぱり最初の印象が悪かったかな、と姉妹は思った。それとも、そこまで自分達の主を嫌っているのか、と。実態はもう少し子供じみた、彼女らが知れば笑ってしまうような感情の発露の結果なのだけれども、それを知ることはない。

結果的にヘスティアを導く事になったレフィーヤはと言うと、まさか的中するとは思わずにただ驚くだけだった。

そんな有り様の三人が黙っていたのに気付いたヘスティアは、やっと自分の態度の拙さに思い至り、激しい改悛の念にとらわれる。慌てて振り返った。

 

「と、と……そ、その!済まなかった、君達、あまり冷静じゃなかった……せいで、個人的な感情が……ええと……」

 

わたわたと身振り手振りで必死で弁解しようとする神の姿は、許容量を超えた事態に直面した幼い少女にしか見えない。ティオナは、くふっ、と吹き出した。

 

「や、こちらこそ変な絡み方して申し訳ありません。また会った時にでも、ウチの神様のお話、色々しましょ。ヘスティア様」

 

何しろ、同じ存在によって要らない気苦労をちょくちょく掛けられているのは実のところファミリア構成員達にしても共通の話題だ。それも絶妙に、ファミリアの運営に影響を及ばさない範疇というのが、小さな悩みの種だ。

そう考えれば、意外と話の合う相手なのかもしれないとヘスティアも思った。

 

「ああ……うん、ありがとう!…………す、済まない、君達の名前は……」

 

初対面での誰何を失念していた事に気づき、気まずそうにしてヘスティアは言葉を途切れさせる。そしてそれは対面する冒険者達も同じだ。

 

「ってえ、名乗ってなかったですねわたし達……」

 

「ひ、非礼をお許し下さい!」

 

ティオネが妹につられ笑い、そして神相手の無作法にようやく気付く。レフィーヤなどはいつの間にか席から立って「気を付け」状態だった。

 

「ティオネです。で、妹のティオナと、期待の新人レフィーヤです。これからも、宜しくして下さい」

 

「サイン貰うなら今のうちですよ~」

 

「ティオネさん、ティオナさんっ」

 

自己紹介ついでに茶化す言い方でレフィーヤが声音を強めた。

彼女達の仲の円満さは見るに明らかだ。ヘスティアは、ベルが未だに一人で迷宮探索をしている事を思い出した。彼にも、こういう仲間が必要なのかもしれない、という考えが頭の中によぎる。いくら自分が思いを寄せようとも、仕えるべき主とは仕えるしもべにとって、じゃれ合いながら共に娯楽に興じる事のできる相手にはなり得ないのではないだろうか……と。

 

「ありがとう、君達……。……もしもまた、うちのベル君が変な事やってるのを見たら、その場で叩きのめしてくれると嬉しいな」

 

「あはっははは、任せといてくださいよ!」

 

手を振って、ヘスティアはシルとともにその場を後にした。ほんの少しの寂寥感が彼女の中に残っていた。二人きりのファミリアである事への疑問など、これまで露ほども抱かなかったというのに。

周囲の歓声も耳に届かず、ぼんやりとしたままシルに歩調を合わせるヘスティア。

ロキの『子供』達との会話の間から何も言わずに見守っていたシルは、小さな女神の隣を歩きながら、その横顔を見つめる。

 

「大事なんですね、その子の事が」

 

「……えっ?」

 

掛けられた言葉の意味が一瞬とれずに、ヘスティアはシルの顔を見た。優しい微笑みだ。きっと、これを向けられた異性は一目で彼女の虜になってしまうのだろう。

 

「たった一人の事について、思いつめている顔をしてましたよ。そういう顔をしている人、よく見るんです」

 

「ん、うん。大切で……とても、大切な『子供』だから」

 

シルが連想していた存在の名前を口にすればヘスティアは口を尖らせて不貞腐れたのに違いないが、幸いそのような会話の運びには至らない。

ヘスティアの万感の思いの篭った返答を聞いたシルは、少し黙してから、口を開いた。

 

「シル・フローヴァです」

 

「?」

 

「名乗り遅れて申し訳ありません。西のメインストリート沿いの酒場で働いていますので、機会があればご贔屓にしてください、ヘスティア様」

 

「あ、……君達は売り込みが上手だね」

 

口上を最後まで聞き届けたところで、ヘスティアは理解して、曖昧に頷いた。もし、自分が神ではなかったら、シルは助力を買って出ただろうか?という訳だ。少々強引さも感じる営業ぶりだが、彼女の纏う雰囲気は、その強かさを畏怖に感じさせる不思議な力がある。

或いはそれは、彼女もまた仕える神によってそのような力に目覚めたからなのかもしれない。そこまでいちいち聞き出そうとする事もヘスティアはしないが。

そんな思いを見ぬいたのか、シルは微笑みを絶やさずにまた言う。

 

「安心してください、ウソはついてませんよ。まだ行列の中に並んでいるはずですから、入り口で会えますよ」

 

「んー……任されてくれよ、頼むから」

 

何だかやりにくい相手だとヘスティアは思った。先程の三人娘と比べなくても、何というか、本能的にうまく打ち解けられそうにない存在にも感じられてしまう。こういう、腹に一物抱えていそうな者は……。銀色の髪の色がその思いを助長しているのかもしれないと、当人の意思とは無関係な責をすら脳裏を掠める。

それでも今はとにかく、はぐれてしまった彼と合流するのが先決だった。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

エイナはここ数日、憂鬱な気分を払えずに居た。それも一人の少年の引き起こした事象が原因だ。……さりとて、彼に全ての責を負わせる事もできなかった。少なくとも衆目に自分の醜態を晒した事に関しては。

そんな中でも仕事を手抜かりなく行える彼女の評価はギルド本部からも高い。まあ、担当冒険者への多少の贔屓くらいは、お目こぼししますよ、という温情が却って彼女を縮こまらせていたが。

そして迎えた怪物祭の当日、闘技場の誘導係として彼女はその役務を果たしていた。今また一人、彼女の案内を受ける観客がここに居る。

 

「この前はその、本当にすいません、僕は」

 

「もういいってば……私も何というか、ちょっと頭に血が上っちゃって……もう!この話は終わり!今後は触れない事!」

 

この日の準備に追われて受付業務から外れていたエイナとは、あれ以来の再会だった。顔を合わしてから小さくなって何度も謝罪するベルの姿を見ているにつけ、エイナの中で羞恥心と罪悪感が募る。というわけで、まずは過去全てを消し去る事を彼女は宣言するのだった。

そう何度も縋るような目で見上げられては、何というか、もっと別の感情が湧き出してきてしまうという不都合もあった。

いかんいかん、とエイナは頭を振る……イメージの中で。

 

「ほら、到着。ようこそメインイベントへ、冒険者君?」

 

「わ、――――っ!」

 

緩いスロープ状の廊下を上がった先に開かれた光景は少年の目を奪う。数えきれない人々の注目が一つに集まる事で生まれる熱狂は、単なる大勢の喧騒とはまったく違っていた。様々な意思がうねり渦を成す空気の中心で、これを主催する偉大な神の栄誉を背負うその冒険者が、ベルのような木っ端冒険者では逆立ちしても敵わない怪物相手に華麗な演舞を披露する。

昆虫にも似て歪な外骨格装甲に全身を包まれた怪物が、頭部から屹立する角を使って小癪な人間を串刺しにしようと踏み込み、それを紙一重ですり抜ける男は自慢の得物で強かな一撃を叩き込む。手に汗握る光景の一工程毎に、彼の四方八方から歓声が轟き渡った。

ベルの驚嘆するのは、彼の並外れた技術と、その豪胆さだ。この尋常を超えた量の注目を浴びてなお、あれほどの技を披露し続けられるのに、どれほどの経験が必要だろうか?もはや想像もつかない。

あれこそ主の偉大さを万人の前で証明し、名声を知れ渡らせるに相応しい眷属のあるべき姿、の一つだとベルは理解する。

 

「凄い――――」

 

目を皿のようにして、観客席の出入口に立ったままのベルは感動に打ち震えている。その姿を横で見るエイナとしては、やや複雑な気持ちを胸に秘めていた。

 

(……そうよね、こういう人の為の催しでもあるんだし)

 

はっきり言ってエイナは怪物祭があまり好きではなかった。怪物を封じるために作り出されたオラリオでこんな祭りを開くのは、いかにも矛盾の極みだと思うのだ。冒険者に迷宮を攻略するための活気を与えるという目的はわかるが、何しろ彼女ら職員に与えられた仕事というのは、今はああやって忠実に劇俳優をつとめる怪物がいつ不慮の事態を引き起こそうとも、適切にリカバリを行うという一点に尽きる。その為にあれやこれやと雑務に明け暮れていると、何だか波打ち際の砂浜をキャンバスにして絵画に打ち込んでいるような気分になってくるのだ。

しかし、目の前でこうしてまんまとガネーシャの意図に嵌っている冒険者の姿を見れば、まさしくかの神の目論見が成功していると自覚する以上に、ここ数日の労苦が報われたような達成感が生まれてしまう。

ふう、とため息が零れた。

 

(……これ以上仕事人間になっちゃうのは嫌ね)

 

エイナは出し抜けに、目を輝かせて鼻息荒くする少年の傍に寄った。

 

「わっ、エイナさん?」

 

「疲れちゃうし、座る場所探しましょ?」

 

馴染みの受付嬢の顔がいきなり近くに現れて驚き、頬を赤くして慌てるベル。エイナの言葉は職務放棄も連想させるものだったが……。

 

「で、でも」

 

「観客の案内が仕事だもの。大丈夫」

 

これくらいの息抜きくらいは許容してほしいとエイナは思った。しかし彼女自身すらも与り知らぬ本音とは、横にその少年が居なければ、そんな選択を採らなかっただろうという一点に尽きる。右も左も分からなかった素人冒険者は命の危機という洗礼を経て、僅かずつに変質しつつあったが、彼女にとってはやはり、どこか頼りなく、幼い庇護欲を刺激する年下の少年なのだった。

 

「そうじゃなくて――――」

 

「ベルくーんっ!」

 

地を揺るがす歓声の中でも、ベルはその声を聞き分ける事が出来た。そう、彼はある目的を抱いてこの闘技場にやって来て、そして偶然エイナと再会したのであって……勿論、このメインイベントを観戦するというのは目的の一つに含まれるが。

兎に角、不運にも逸れてしまった主を探し当てる必要性を僅かな間とはいえ失念していたのは、どうあっても弁護の余地の無い失態である。

全力で走るヘスティアはベルの眼前で立ち止まり、激しく肩で息をする。そして、恨みがましい目つきでベルの顔を見上げた。

 

「……仲良くやっていたみたいじゃないか、ベル君。ボクの事放ったらかして」

 

「あぃいやっ!ちち違います、い、今から探そうと」

 

「本当かな~~~~?……ちょっと、ハーフエルフ君。うちのベル君と、どういう関係なのかな?」

 

じとっ、と眷属を睨めつけていた双眸が、隣のエイナに向けられる。先のアマゾネス姉妹へ向けていたものよりも更に、不審を剥き出しにしていた。

それを受けるエイナは表情にこそ出さないものの、巡り合わせの悪さと、それ以上に自分の迂闊さを省みる。ベルが一人きりでここに来たという先入観を抱いたまま、余計な色気を出してしまったのは、己の愚かさだ。

ツインテールの少女の素性を勿論知っていたエイナは、その女神による少年への思い入れの強さを一瞬で感じ取り、ならばとなるたけ事態が面倒臭い方向へ行かないように努める事にした。少し、ベルから距離を離しつつ。

 

「はじめましてヘスティア様、私はエイナ・チュール。ベルさんの担当職員を務めさせて貰っています。ここには初めていらっしゃった様子でしたので、ご案内しようかと」

 

「……そうか。いつもありがとう。それじゃあ、案内はこの辺で」

 

ヘスティアは、すうっとベルの間に滑りこむと、その手を重ね合わせた。女神の目の奥に光る疑念を払拭するのには、そこそこの困難が立ちはだかるだろう事をエイナは知った。尤も、ヘスティアの懸念は強ち的外れでもないのがややこしい所だった。少し気になる男の子、放っておけない危うさを持っている新米冒険者という印象以上のものを抱いているかどうかは、エイナ自身にもわからないのであって……。

 

「?」

 

唐突に、その場に屯す面々は、その違和感に気付いた。

かれらの鼓膜を震わせていた音響は、いつの間にかなりを潜めていた。歓声はどよめきに変わり、人々の不安と混乱を更に煽った。

それも全ては、彼らが見つめる舞台に現れた異物の成さしめた事だった。

ベルも、ヘスティアも、エイナも、そして、三人から少し離れた場所に立つシルも、その光景を見て、呆然としていた。

 

「あれは――――」

 

ようやく怪物を手懐け、それを恙無く退場させた調教師の周りに、どす黒く、底の見えない闇の穴が、幾つも穿たれていた。

穴から滲み出る闇はざわざわと蠢き、その形を少しずつ確かにしつつあった。

その、例えようもなく凶悪で、残虐な性質をそのまま象ったような、この都市の誰もが目にしたことのない、真の怪物の姿を。

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

栄えあるガネーシャ・ファミリアでも彼のテイマーとしての腕は上位に位置する。それだけではなく、純粋な戦士として、冒険者としても……例え鼻持ちならないとの誹りを受けようとも、凡百の冒険者とは文字通り格が違うと自称出来る位の経験を、彼は積んでいるつもりだった。

 

(何だ、こいつは)

 

まずは牛に似た、一対の曲線を描く角だ。それは、そいつの顔を覆い隠す鉄仮面から天に向かって伸びていおり、殊更に特徴的なシルエットを形成するのに一役買っている。

左の肩当て以外の上半身は血色の失せた肌を晒していたが、それは両手に持つその武器の異質さと合わせて、形容しがたく不気味な印象を見る者に与えるだろう。

 

(天秤刀……しかも、二刀流だと)

 

片刃が柄を挟むように生えた武器だ。それは振り回すには危険過ぎ、断ち切るには力を込められず、突くにもリーチが足りない。見掛け倒しの一語に尽きる工芸品であり、余程の腕を持っていなければ、命を賭けて迷宮に挑む冒険者が手にするような得物ではない事を彼は知っている。それを両手に携える怪物の姿はしかし、先程から彼の首筋に舐めるように貼り付いて離れない悪寒を呼び起こしていた。

腰から下、ボロ布に包まれた下半身は、未だに闇の穴から全てを明らかにしていないまま、ひらひらと揺らめく。その怪物が全身から吐き出す、紫紺色の呼気に合わせて。

 

(まずい)

 

当然、こんな奴が闘技場に現れる予定などありはしない。彼の思い至る結論は一つ。迷宮から這い出でた侵入者だ……それも、きっと、いや、間違いなく、危険な!そう、かなりの深層を探索した経験がある彼なればこそ察知できる本能的な予感は、確実に当たっていた。

 

「非常事態!!観客は直ちに退出!!誘導急げ!!」

 

困惑に満ちた闘技場に、神の怒声が響き渡った。一番上の観覧席に座っていたガネーシャは立ち上がって、あらん限りの声量を絞り出していた。

瞬間、その、『角の』は、一瞬で彼の目の前まで間合いを詰め寄らせたのだ。

鉄仮面に刻まれた、視界を確保するためのスリットから、真紅の眼光が一瞬だけ垣間見えた。

 

「は!!」

 

反射的に退く。銀の軌跡が眼前で交差した。紙一重のところで、刃は彼の命を刈り取るのを逃した。

 

(疾い!――――!?)

 

辛うじて『角の』の全身を視界に収める距離で、相対する怪物の脚部は存在しないという事実を彼は認識した。はためくボロ布は何も守っていない、漏れ出る、禍々しい色をした靄以外の物は……。

肉体的な攻撃への耐性の高い、所謂霊体タイプの敵だという分析を行う。彼は舌打ちした。手持ちの得物が有効な相手かどうか、極めて疑わしい。せめて、すぐにでも駆け付けてくれるだろう増援まで持ちこたえられるかどうかという危惧さえ抱く。それほどの相手と彼は見抜いていた。

彼の思惑を、『角の』が考慮する事はなかった。乾いた上半身をねじる姿を晒したのは一瞬。それを目にして、彼の首筋はいよいよ凍りつく。――――来る!

 

「!」

 

『角の』は、得物を投げ放つ。二回。

楕円に見える死の刃の回転は、屈んだ彼の頭上を通り過ぎた。……彼でなければ、何が起きたのか理解せずに、その頭を宙に舞わせていただろう。

 

(投擲用かっ)

 

ただでさえ扱いづらいその得物を遠距離攻撃の手段としても活用している。厄介極まる相手だ。しかし、付け入る隙はあると知った。地を這うほどの姿勢で、『角の』の懐に跳ぶ。髑髏を模した鈍色の手甲が見えた。

手甲から伸びる爪が、得物を投擲した姿勢から腕を引き戻す勢いで彼の顔を掠める。

彼の耳に、風切り音が届いていた。

 

(戻ってくると分かってて、正面きって挑むかよ!)

 

天秤刀の形状は、その攻撃方法と合わせて、彼に一つの推論を与えていた。あれは、近接武器であると同時に巨大なブーメランでもあるのだと。それは正しく、最初の一振りを避けたまま『角の』に挑めば、彼はその無防備な背を貫かれ事切れていただろう。

だから彼は、『角の』の背後を取る事を望んだ。碌な防具も身に着けていない上半身に、憂いなく一撃を叩き込む為に採った選択。それは、妥当だった。

けれども彼の犯した過ちとは、もっと根本的な部分だ。

 

「後ろだ!!」

 

(ああ、後ろから来るって、わかって――――)

 

彼の過ちとは。

様子見に徹しなかった事だ。

全く知識を持たない、得体の知れない敵に対して、単身挑む。冒険者として最も初歩的なミスだった。

数のアドバンテージを得るのを待たなかったのはきっと、彼が未だに演舞の熱狂を脳に宿したままだったからという一点に尽きるだろう。衆目を沸かせる快感は、冒険者としての冷静な判断力を奪い去っていたのだ――――。

彼は、どん、という衝撃と同時に、自分の身体が意図せず動きを止めた事に、困惑した。

『角の』の剥き出しの背に回り込んだまま、彼の足は一切の命令を拒絶していた。背筋を斬り裂く為の剣を持つ手は、構えたまま微動だにしない。

 

(あれ)

 

「――――!!」

 

自分の名を呼ぶ声がする。忠誠を誓う主の声。大きく、優しく、厳しい、何よりも敬愛する主の声だ。駆け出し冒険者だった自分を目にかけ、ここまで導いてくれた最も偉大な存在の声が、彼の脳裏に様々な憧憬を呼び起こした。迷宮の苦難、受けた傷の痛み、仲間を失った悲しみ、手に入れた栄光、目覚めた力、はじめて怪物を手懐けた時の感動。自分が代え難い存在であるとその存在意義を確信した瞬間。

 

遠い故郷の記憶。

 

小さな家の、小さな家族。

 

全ては一瞬の事だった。腹から熱いものがせり上がり、彼の口からあふれた。

 

「ぶっ、グフッ」

 

紫色の、靄に包まれた刃が彼の腹腔から飛び出ていた。暗くなっていく彼の視界に、振り向く鉄仮面が手に握る得物を振り上げるのが映っていた。

崩れ落ちそうになる身体を、姿の見えない背後の敵がまた刺し貫いた。熱い、と感じた。痛みを感じるのは、もうすぐだろう。

けれども、その前に、自分の命の火は消え去るだろう事を彼は知っていた。

 

(なんて、あっけないんだろう)

 

自分の終わりを、どこか他人事のように彼は感じていた。ついさっきまでは、万雷の歓声を浴びていたのが、いきなり正体の分からない怪物の相手をする事になって、……一つの選択の間違いで、この有り様だ。

儚いなんて一語で片付けられる程に、自分の重ねてきたものは、取るに足らないものだっただろうか?けれども、彼はそう思っても、もう何も覆すことは出来なかった。

一人の人間は、そうして死んだ。

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「きゃーーーっ!!」

 

「ひいい!!」

 

「早く!早く逃げろーーーっ!!」

 

信じがたい事態は確かに目の前で起きていた。エイナが見たことも聞いたこともない怪物……否、怪物達は、あっという間にテイマーの命を刈り取った。

 

「押さないで!押さないでくださーいっ!」

 

動揺している暇など、彼女に与えられなかった。すぐに自分のすべきことを悟る。ギルド所属の従業員として、観客の安全確保だ。怒涛のように押し寄せる避難者の波を必死で整列させようと、片手を口に添え大声を張り上げる。

誰も彼もが、恐慌夥しい表情を浮かべていた。さもあろう、かれらの目の当たりにした一人の無惨な死に様は、自分達の身にも降りかかろうとしている無差別の災厄に他ならないと理解しているからだ。

 

(迷宮の怪物達が、直接地上に現れたというの!?そんな事が……!)

 

『角の』に引き続いて、闇の穴は次々に穿たれ、そこから挨拶する新顔ども。『角の』に似たシルエットの下半身を揺らめかせる、両腕が抜身の刃になっている怪物と、錆びついた鎧兜と剣で武装した、青白い肌の亡者兵。

主催者の声を聞いてもなお、その目を殺戮の痕から離せなかった者達は、亡者兵によって放られた赤熱する砲弾が観客席の手前で炸裂したのを見て、やっと、この事態が他人事ではないと知ったのだ。

 

「ベル君はやく!ぼっとしてる場合じゃないよ!」

 

ヘスティアは、人混みの勢いに入らず立ち尽くす眷属の腕を引っ張って急かす。ガネーシャの指示が飛ぶや否や本分を全うすべく動いたエイナは、とうにこの場に居ない。出入口からほど離れた場所に取り残された一組の主従など、必死の思いで避難をする人々は省みようとはしなかった。

 

「あれは」

 

「聞いてるのかっベル君!アレは然るべき連中が対処するんだから、ボクらはさっさと逃げるんだっ!」

 

ヘスティアの視界の端に、観客席から颯爽と飛び降りる影が幾つもあった。その中には見覚えのある、あの怨敵の恩寵を受ける娘達も居る。ガネーシャは助太刀代わりに、丸腰の彼女達の為の得物を闘技場の頂からばら撒いている。丸腰でこの場所へやって来た冒険者達の中には幸運にも、凶悪極まる実力を持つ闖入者に対抗出来うる筈との希望的観測を抱かせる手練が何人か存在していたのだ。

そう、いくら専門的な前衛でこそなかったとはいえ、いま血の海の中に沈んでいるのは、ド素人のベルなど及びもつかない程の実力を持っていたはずの戦士だ。もしも、と考える事すら陰鬱な想像だが、ベルがかれらの後に続こうなどと思っているのならば、何をおいてもそれを阻むのが自分の義務だとヘスティアは思った。

 

(逃げる?……逃げる、逃げる……?)

 

ベルの中に何度も響き渡る、主の言葉。しかし、心の何処かから、その山彦に混じって、疑念が滲み出る。逃げる。何故?あんな連中相手に、遅れをとる事など、あるのか?……あの程度の……?

それはベルの足を退かせまいとその場に縫い付ける。それどころか、あそこへ飛び込めと急き立てる。

 

(逃げる……?違う、違う。倒す……倒す、敵だ、あれは……敵だ……)

 

腕を引く女神の力など、何の障害にもならない。ベルは、一歩踏み出す。逃げる事など出来ない。許されない。あれは自分が倒すべき敵ではないか。何故、そんな選択を採る必要があるのか?

彼の中でずっと眠り続けていたものが、首をもたげる。目覚めを待つ何かは、静かな身じろぎとともに、少年の身体を、心を、支配しつつあった。

 

「ベル君……?ベル君っ!!」

 

主の声も彼の歩みを止める力にならなかった。既に戦端の開かれている舞台を見つめ、取り憑かれたようにそこへ向かおうとする眷属に対し、遂にヘスティアは両手で腕を掴んで踏ん張りはじめた。しかし、思い虚しく彼女の足は少しずつ、観客席の床を滑っていき――――。

 

「ベ――――」

 

「っ!」

 

乾いた音がベルの耳をうった。衝撃で視界が大きく揺れ、危うく倒れ込みそうになるのを足腰が踏ん張って持ちこたえる。ベルは我に返った。殴られたのだ。

急に視界がハッキリと澄み渡った。舞台で死闘を演じる者達の姿しか映らなかったのが不思議に思えた。彼の目を覚まさせたシルは、頬を打ち据えた右手を下げると、にこりと微笑んだ。

 

「男性として、こういう時は……きちんと、女性を先導するのが、マナーだと思いますよ?」

 

「……っ」

 

有無を言わせない威を放つシルの言葉は、ベルを自責の念で潰れそうにさせるのに有効に働いた。

自分は、主を忘れたのだ。あの時、ミノタウロスと対峙した時に自分を支配していた時と同じ、訳の分からないあの衝動に囚われて。

ベルは、呆然とした表情をヘスティアに向けた。

ヘスティアもまた、ゆっくりとこちらを向くベルの顔を見て、はっとした。突然、目の前で可愛い眷属の顔面を引っ叩かれれば、そうもなる。直後に、こんなにも思いを寄せる彼が、この緊急時において自分の事を完全に忘失していた事への悲しみが湧き出した。それと同時に思い出すのは、彼の背に浮かんだ運命の刻印のこと。あまりにも不吉極まる、予言じみたその文面……。

ベルの顔に浮かぶ激しい悔恨の想いを理解しながらも、ヘスティアの心は戸惑いと悲嘆、そして僅かな怒りと綯い交ぜになり、黒く渦巻いていた。

それでも、辛うじて声を絞り出すことが出来たのは、得体の知れない衝動から少年を開放してくれた第三者の存在があったからだろう。

 

「……早く、避難しよう」

 

細い喉を通ったかすれた声は、観客席に溢れ返る悲鳴にもかき消されることなくベルの心を揺さぶった。弁護の余地など与えられなかった。俯いた顔で背を向ける主の後を追う以外に、彼に出来る事は何もなかった。

 

「……」

 

シルは無表情で、人混みに消えていく主従を見つめていた。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

ティオネは『角の』の一番ヤバイ特徴を目に捉える事が出来た幸運に感謝していた。ゆえに、今自分達に襲い掛かる災厄を切り開く突破口を見出だせないのは、単なる実力不足だとも自覚させられる。

 

「分身きたっ!」

 

「はいっ!」

 

レフィーヤは、音もなくそこに現れた昏い紫色の影目掛け、炎を放つ。弾ける爆風が影を包んで、後方に吹き飛ばした。

彼女が押し戻したそれこそ、不幸な犠牲者の臓腑を引き裂き屠った当事者、『角の』の影……姿を象る分身だ。前触れ無く次々に現れる影に囲まれる『角の』は、まるで奏者を導く指揮者のように両手を構え震える。

総勢二十人弱の戦士達が相手をしているのは、『角の』に呼び出される分身のみではなかった。『角の』に似た怪物の『手刀』と、舞台を取り囲んで絶えず砲弾を投げつける『擲弾兵』。数はそれぞれ、七体、十体ほど。

更に襲い来る分身を全力の横薙ぎで吹き飛ばす二人のアマゾネス。

 

「多くないっ!!?」

 

「こっちだって数は増えてく筈でしょっ!」

 

姉妹が手に取ったガネーシャの助太刀は、槍。後方の魔導師を主砲として据え防衛する戦術を選んだ事が正解か不正解かは、未だに定かではない。視界の端には自分達と同じようにツーマンセル、スリーマンセルで怪物達の相手をする冒険者の姿があった。

それでも、相手にする連中はかなりの強さだと一目でわかる。半端なコンビネーションの攻撃ははためく反物の如く回避され、踊るように振り回す両手の刃はかれらの碌な武装も無い身体を切り刻む。それだけで済むのならまだ事態は容易いと言えるのも質が悪い。

ティオネは火の粉の弾ける音を耳にとらえた。

 

「レフィーヤ、伏せてっ!」

 

「っは!」

 

振り返り、腰を捻りながら跳躍する。槍は天頂方向目掛けて回転し巨大な車輪を描いて、石突き部分が砲弾に叩きつけられた。

打ち返された火達磨の弾丸はあらぬ方向へ飛び去り、空になった観客席にぶつかって爆裂する。着地したティオネの槍を握る手が、びり、と痺れた。

恐怖を顔に浮かべ屈むレフィーヤの後方で、『擲弾兵』がニヤリと笑みを浮かべたように見えたのは、ティオネの目の錯覚である。鼻も唇も削ぎ落ちた亡者が嘲笑など出来ようか?

そう思わせてしまうほどに厄介なのが、この絶妙な火力支援によって人間どもによる反撃の手を封じてくるという点だ。或いは直撃すれば、火傷程度ではとても済むまい。包囲殲滅戦という、あまりにも有効な戦術を採った敵側に明らかな利があった。

それを悟れない者などこの場において一人足りとも居はしない。僅かな隙を見ては、『擲弾兵』を狙って必殺の一撃を撃ち込む。そう、今しがた、恐怖を振り払い立ち上がったレフィーヤがそうしているように。

 

(行け!)

 

エルフの放つ炎は糸のように真っ直ぐに伸び、亡者兵士の顔面を貫く。兜の下の乾いた表皮は、立ち所に吹き上げる灰となった。業火に顔を舐められ身悶える最中に、右腕は爆ぜた砲弾と共に消し飛ぶ。果たして面倒な問題が一つ片付いたように誰の目にも映るのだが、それがぬか喜びすら呼び起こさない事は既に証明されていた。

倒れ伏した全身を黒いコケラ屑と変貌させて消滅する『擲弾兵』。その痕にまた、闇の穿孔が開き、青白い手が床をついて現れる……それは、ロキの眷属達でなくとも、既知の光景だった。故に、実体の朧げな『手刀』を屠る事を第一に動かざるを得ないのだ。

レフィーヤの顔が蒼白に染まる。迷宮内部であっても、これほどの速度で新たな怪物が生まれ落ちるケースは稀だというのに、入り口たるバベルから離れたこの場所に直接現れてくる。余りにも異例づくしの事態だ。

 

「……!あと、幾つ倒せば……!?」

 

「これじゃあ半端に数揃えても、ジリ貧じゃないのっ!」

 

「やっぱりアイツ!親玉を何とかしないと、をぉっ!?」

 

『手刀』の一体が視界の外から躍り掛り、三人の戦列に割り込む。両腕を広げ独楽のように回転すると、窪んだ眼孔の中の禍々しい光が歪んだ軌跡を残した。

 

「くうっ!」

 

浅く腕を切り裂かれ、一筋の傷から血が零れ落ちた。レフィーヤの顔が痛みに歪む。『手刀』の双眸がそれを捉え、理解したのだろうか。人間で言うところの橈骨をそのまま肥大化させ研ぎ澄ましたかのような形状の刃は、若いエルフの更なる血を求めて振りかぶられた。

死がそこにある、その実感が、かつてない危地に放り出された少女の心身を舐り、強張らせる。だが、『手刀』の両肩口に、小麦色のシルエットが絡みついた。

 

「――――!!」

 

「んっの!!」

 

「捕まえたぁあ!!」

 

『角の』の相手の最中にも横槍を入れまくり、ちょこまかと攻撃を避けまくりやがっていた相手を遂にその手に収め、ティオナとティオネは恐悦に顔を崩す。遡れば戦神の系譜とされる戦士の血が、彼女達の中の残虐性を今この瞬間だけ、顕にしていた。

どちらが合図するでもなく、二人して一息で肺を膨らませ、全身の筋肉を張り詰めさせる。それぞれで刃を羽交い締めにする両腕が巌のように硬化し、しなった。

 

「「おぉっ、っらああああああああああああっ!!!!」」

 

『手刀』の錆びた肩当ての下で、大量の筋繊維がブチブチと音を立てる。両腕に掛かる強大な引力は、凄まじい反作用との相乗効果により、亡霊の体を木切れ人形のように分解しようと襲い掛かる。

そして――――!

 

「ギイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

どす黒い血が『手刀』の両肩から溢れ出る。正確にはもう、そこに肩は存在しなかった。肩口から両腕を引き千切られた痛みを感じることが出来るのかどうか、一堂に会する誰も知ることは出来なかったが、ともかく亡霊の絶叫は、そいつの起こした最後のアクションとなった。

 

「レフィーヤ!大丈――――」

 

「、後ろですっ!」

 

紫色の靄がティオナの後ろに現れる。天秤刀を交差させたまま振り上げる『角の』の分身は、罪人の咎を贖わせる処刑人の似姿そのもののようにレフィーヤの錯覚を呼んだ。

 

「せぇやああああっ!!」

 

ティオネの渾身の突きが、分身の胸を貫く。跳びかかりながら体重を乗せた一撃は分身の体勢を大きく崩した。だん、と着地したティオネが、獲物を串刺しにしたままの槍を握り、歯を食いしばる。彼女の目に映るのは、こちらに向かって天秤刀を投げつけようと上体をよじる『角の』の姿だ。

 

「お――――おおあああっっ!!」

 

ぶんっ、と重い風切り音と一緒に、槍から放たれた分身が本体向かって宙を舞う。そう、両者を結ぶ線の間には、『角の』が放つ二つの刃が待ち構えていた。両断、もう一度両断。三つに切り分けられた分身は地に落ちる事なく、その場で煙のように消え去る。

そして、両腕を失った『手刀』の身体が、地に崩れ落ちる音を立てた。

妹の危機を退けたティオネは、達成感に浸る事もなく、石突きを地面に撞き立て、顔を歪めた。

 

「うーっ、ヤバ、痛」

 

「ティオネ……!」

 

脹脛をしとどに濡らす血は土まで広がり、ティオネの左足を中心に黒い染みを作り出す。真っ赤な傷口の奥には黄色い脂肪が僅かに顔を覗かせる。かなり、深い。筋肉まで達している可能性を考慮するべきだ。ティオネの顔の血色の悪さからして、戦いの昂揚による鎮痛作用も期待できない。

いつの間に……と、ティオナの心胆は底冷えした。いつ、こんな深手を与える攻撃をされたのか?視線の先に居る『角の』は、戻って来た天秤刀を受け止めたばかりだった。

他方、レフィーヤは唇を噛みちぎりそうな程に歯を食いしばる。自分の鈍重さが敵の不意打ちを呼び、それをフォローした先輩は奇襲を受け、この様相……碌な戦果も出せずに足を引っ張る己の無力さを呪う事しか出来ない。

 

「ってー……はは、これでもわたし、食いしばった方みたい……なんて……」

 

「っ……!」

 

脂汗を浮かべるティオネが、半笑いの口で揶揄する。その意味を理解するには、周囲で死闘を演じている者達の姿から推察すれば瞭然だ。ティオネ程ではないにしろ、いずれも浅くない傷を負い、その動きは明らかに当初より鈍っている。……うち一人などは、利き腕を真っ赤に濡らして武器を取り落としていた。そう、あれが居る組が相手にしていた『手刀』が、次の標的をこちらに変えたのだろう。この怪物達が何を考えてるのか等理解したくもないが、目的は一つ、ここに立つ全ての人間の死という事だけはわかる。傷つき、戦力に穴を空けまともに戦えなくなった連中などいつでも狩り殺せるというわけだ……。

三人のみならず、人間達は戦況を理解した。辛うじて保たれていた均衡は崩れ、今こそ自分達は迷宮の子供達の供物として捧げられようとしている事を。

 

(駄目、まだ!)

 

姉に取り付いて動きを止めたティオナ目掛け、砲弾が迫るのをレフィーヤは見た。瞬時に精神力を高める。諦めれば全てが終わる。仲間の命も、自分の命も、取り零す訳にはいかない。覆い被さらんとする悔しさを振り払って、指先から火球を放った。

 

(アイズさんなら、挫けたりなんかしない――――!)

 

爆音。そしてまだ、もう一投が背後に迫ると感じ取る。その耳が、砲弾の纏う火の粉の音を逃さない。目で追うより先に右手で指し示し、視線を合わせた瞬間に放つ。直撃!

 

(次!次は!?そうだ、今の状況を変える手は……!)

 

「駄目レフィーヤ!止まらないで!」

 

半手先を取ったと判断しての一瞬の思索を自分に許すレフィーヤ。しかし、それが彼女の限界だった。ティオネの悲痛な叫びを聞いた瞬間、彼女のうなじの肌が粟立った。風の感触が届くと同時に地を蹴る。――――熱い。

 

「うあっ……!」

 

アマゾネスの姉妹の目にするのは、エルフの細い胴体を両断するべく右腕を袈裟斬りに振った『手刀』と、命と引き換えに背の皮を裂かれたレフィーヤ。何の防御効果もないお洒落な服は柔肌とともに赤く染まった。それでも踏みとどまろうとする彼女の頭上で、飛来した砲弾の爆音が轟いた。衝撃に脳を揺らし、彼女の身体は遂に倒れる。

もはや座して見守る義務も無い。断腸の思いで姉から離れ槍を握るティオナはしかし、背後の空気が乱れるのを感じる。振り返れば、『角の』の分身。朧げなシルエットは、天秤刀を掲げてこちらへ迫り来る。

 

「糞!!」

 

目一杯の悪罵がティオナの口から溢れた。まずい、非常にまずい。やれるかどうか?という自問は即座に否との答えを導き出す。『角の』は絶えず分身を生みつつ後方で嘲笑い、『手刀』は『擲弾兵』と同時に、戦力を残す者を集中的に狙う。分散してそれぞれで敵を潰すのは完全な失敗だったのだ。戦力を固め、指揮を執る者を置いておけば……と、無意味な仮定が過ぎる。緊急時の寄せ集めの軍勢を取りまとめられる人材も、果たしてこの場に居るのかどうかとも思うが。

腹をくくり眦を吊り上げる妹の顔を横目に、ティオネもまた激痛をおして構えた。やるしかない、どうあっても。選択肢など無かった。

 

(団長、ロキ様、皆……。せめて、斃れるのは私だけで!)

 

地に手をつき、まだ立ち上がろうとするレフィーヤの姿を見て、ティオネは強く願った。妹とレフィーヤが聞けば憤慨するだろう悲痛な願いは、いまの彼女にとっては何を引き換えに実るのも惜しくなかった。

『手刀』が両腕を開き、吠える。それが、処刑の合図だった。刃を持つ独楽と、斜め十字を掲げた執行者が、三人の闘いを終わらせる為に迫った。

 

(立て……立たなきゃ……どうして、私は!!)

 

レフィーヤが思い返すは、つねに出遅れ守られていた、先の遠征の記憶だ。あれほど悔いていたのに、全く変わっていないではないか。そのまま終わって、良い筈が無い。握り拳で地面を押し、身体を捻って背を起こそうと試みる。しかし、空を向いた彼女の目に、見たくないものが映る。

 

「ぁ……っ!」

 

砲弾を包む炎は陽に溶けそうに白熱し、自らを解き放つ瞬間を待ち受ける。それは地に這いつくばる若いエルフの身体を吹き飛ばす時だ。レフィーヤは揺れる脳幹を鎮め、精神力を研ぎ澄ます。が、撃ちだされた炎は、空を切って天に消えた。

 

(そ、ん、な……)

 

最期の一矢を外した絶望が、レフィーヤの心に歯をかけた。彼女は、自分の死を、ひいては傍に居る二人のアマゾネスの暗い未来すらも幻視した。

恐怖は遂にその瞼を落とさせ、一縷の希望の光すらも、彼女の心から消し去ろうとした。

 

(――――もう、終わり、なの――――)

 

全てが闇で覆われていった。思考も、感覚も、記憶も、何もかも。

死の運命から逃れられぬ者は、審判の時に追いつかれたのだった。

 

 

 




・アマゾネス
アセンションに登場。ちゃんと片乳が削がれているが、弓矢は使わない。アレスの血を引く部族とされ、復讐の女神達のしもべとしてデロス島に現れクレイトスの行く手を阻む。

・ハデスフィーンド
擲弾兵。GOWIIに登場したグレネードゾンビ兵。よく見りゃ女である(IIIのオリュンポスフィーンドは乳丸出し……)。

・レイスオブアテネ
手刀。初代GOWでは地上投げ→空中投げ三セットで倒せてしまう。やる気あんのか!?

・レイスオブハデス
角の。アセンションのレイス。遂に地上投げへの耐性を手に入れたが、潜行モードからは普通に引きずり出されて投げられてしまう。そしてそのまま空中投げが入る。意味ね~。


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大乱闘スマッシュファミリア

なんでこんなに長くなるんでしょう?二度と集団戦なんか書かんぞ!




 

 

ベルはヘスティアから影一つぶん離れて後ろを歩いていた。その距離がどれほど遠いのか、眷属の身に計り知れるものではなかった。

一つの言葉もなく、自然と二人は闘技場からの帰路についていた。尤も、既に都市全体に注意報が出ており、今年の祭りは意図せぬ災厄によって幕引きを迎えつつあった為、行く宛なく出歩いていてももう、かつての行楽気分は戻って来なかっただろう。

けれども自分が主の傍に行くことが出来ないのは、そんなちんけな理由なんかではないとベルは理解していた。激しい罪悪感……あの時手を離してしまった事はまだいくらでも取り返しなどついただろう。しかし、その後。あのおぞましい惨劇を目の当たりにした際の、心のどこかから突如芽生えて全身を支配した衝動。それは何をおいても優先すべき存在の事を一瞬で忘却の彼方へ追いやり、空白になった自分を戦場へ向かうように、耐え難く駆り立てたのだ。

 

(なんで……)

 

何であんな事に。どうして、こんな事に。ベルの頭を埋め尽くす何故、の渦。無意識のままホームへ向かう道を歩く最中、闘技場から広がっている騒ぎに踊る人々と何度もすれ違うが、その姿も、周りの光景も、何も目に入らなかった。

 

「……」

 

前を歩く少女の後ろ姿だけを見つめて足を動かす。ほんの少し前までの自分はその横に並んで歩いていたのだ。蘇るのは、屈託のない笑顔、未知の娯楽に驚く顔、立ち食いを口に含んで蕩けそうになっている顔……どれも、遥か遠い過去の出来事のように思えた。

かつ、かつ、かつ、と石畳を踏む音は、ベルの中の罪悪感と、もう一つの暗い感情をどんどん呼び起こしていく。彼の隣には誰も居ない。彼が心を開く相手は誰も居ない。彼を省みる者は誰も居ない……。

黒く絡みつく何かは、少年の心を着実に覆っていく。それは渇きを、飢えを、苦しみを呼び起こす。どんなに肉体を満たしても贖えない毒は、やがて少年の身体の動きを止めさせた。

 

「――――」

 

ベルの足音が止まったのを感じ取ったのか、ヘスティアも僅かに遅れてその歩みを止めた。期せず、二人の立つ場所は、かつてのベルがいつも目を奪われていたとある武具店のショーウィンドウの前だった。

 

「……神、様」

 

「…………」

 

強張る喉から漏れ出る呼び声は、ヘスティアの耳に届いたのだろうか?その中に込められた、深い懺悔と哀願の念も……。

背を向けたままじっと立ち尽くす主の姿を見るだけの時間はベルにとって永劫の長さににも感じられた。

やがて、ヘスティアは、振り向いた。

その瞬間のベルの心臓の稼働速度は、爆発しそうに高まった。恐怖に縛られた肉体は、粉々に砕かれてしまいそうになった。

しかし、予想と違う表情に、彼の肉体は緊張の逃がしどころを失った。

眷属にひどい侮りを受けた女神の表情は、怒りとも、悲しみとも違う、しかしそのいずれをも含んだものだった。困惑と、不安。

見覚えのある顔だった。それは、あの日の朝、主が出かけた夜の次の日の朝。

眷属の身に浮かび上がった運命を告げる時に、一言一言、絞りだすようにその刻印の文言を語った際に浮かべていた顔。

 

「やっぱり……駄目だな、ボクは。……こんな怖がりじゃ……いけないって、わかっているのに……」

 

「え……?」

 

どんな非難の言葉だってぶつけて欲しいと願っていたベルは、自嘲する主の口調で、更に戸惑う。ヘスティアの口はまた開いた。

 

「君が、ボクの知らない何処かへ行ってしまう気がしたんだ。さっき、あの怪物達の事だけを見ていた君の姿を見て」

 

「そ、れは」

 

主の危惧は寸分と違わない真実を言い当てているのをベルは知っていた。あの時、自分は確かに主のことを忘れていたのだ……。

矮小な人間の心など完全に見透かされていた事への畏怖が芽生え、それは彼に更なる罪悪感をもたらす。

 

「怖くて……たまらないんだよ。ボクは……あの刻印を見た時から、ずっと不安が離れないんだ。君はいつか、知らない何処かへ続く……一人きりでしかたどり着けない場所へ続く、今とは違う道を行って、そしてそのまま二度と、ボクの居る所に戻って来なくなるんじゃないか、って……」

 

「そっ……ん……!!」

 

乾いた喉が塞がれ、ベルは反駁を絞り出すことすら出来なかった。ベルは、本心をここで、都市の全ての者に伝えられるような大声で、叫びたかった。

 

そんな事は、絶対にない!!

 

必ず、絶対に、どんな戦地へ赴いたって、帰って来てみせる、自分の足で!!

 

彼の中で、それを妨げる何か皮膚の下で蠕動した。

それはヘスティアに、自分に示された運命の事を聞かされたあの時に、彼を絞め殺そうとしたもの。抑え難い力への渇望を生み出す――――恐怖。

 

 

『逃れられぬ運命へと導くだろう――――』

 

 

「……っ、…………!」

 

眼の奥に泥水を流し込まれたように、彼の視界が混濁する。黒く、赤く、白く、青く、その夢ははじめて、眠りの世界を超えて少年の前に現れた。

 

 

 

襲い来る闇。中に潜む無数の怪物の双眸が揺らめく。

倒せ、倒せ、倒せ……。

怪物どもが口を開けると、その牙から血が滴り落ちる。

殺せ、殺せ、殺せ……。

血は闇の中でも禍々しく赤く大地を染め上げ、それは彼の影を覆い尽くしていった。

自分の全て呑み込もうとする巨大な狂気。逃れられないのか。何処に居ても、どれほどの時を重ねようとも。

彼の身体が血と、闇に沈んだ時……彼は、遂に思い至るのだ。

 

――――ならば、全て滅ぼしてやる、と。

 

彼の目に、炎が宿る。

それは、全てを焼き尽くし、全てを混沌へと還す、無限の怒りだった――――。

 

 

 

「ベル君っ?」

 

「…………っ!!、……っは……あ……」

 

両腕を掴んで呼び掛ける主の声で、ベルは我に返る。汗で前髪が額に貼り付き、心音がうるさく高鳴っていた。この場所に存在しない幻影は、もう思い出せなかった。ただ、小さな手に抑えられてもなお細かく震える腕が、失われた記憶の概要を物語っているようだった。

荒い息を繰り返す少年の手をとるヘスティアには、彼を苛む何かの正体などわからない。けれども、尋常でないその様子は不思議な事に、先に闘技場で見せた姿とどこか似ていた。目に見えない何かに怯え震える姿と、一直線に敵を見据え進軍せんとする姿の、奇妙な陰影の一致……。

けれどもヘスティアは、蘇る不安を抑えつけた。そう、正体のわからない――――きっと、あの刻印に起因するものなのかもしれない――――恐怖を振り払えずにいるのは、自分だけではないのだ。神として怯え縮こまる眷属を守り、安らぎを与えるという義務感が、彼女を動かす。

震える手を包んで、それが収まるのをじっと待った。片時も、揺れる瞳から目を逸らさなかった。いつもの、少しあどけなく、優しい表情を少年が取り戻すまで。

 

「……大丈夫かい?」

 

「う……、……」

 

どうにか呼吸を落ち着かせたベル。弛緩した腕を主に預け、項垂れて息をつく。いやに身体が重く感じられた。

 

「……帰ろう。楽しんでた所で、急にあんなのを見せつけられたら、おかしくもなるよ。少し、疲れただけさ……」

 

血の海に沈むガネーシャの眷属の姿を思い出すベル。あの凄惨な光景が精神の平衡を乱したのだろうか。

どのみち、今日これ以上遊び歩けるようなコンディションではないのは明らかだった。両者とも……。

 

「最後はともかく、今日は楽しかったよ……素敵なプレゼントも貰えたし。それに、こうやって楽しめるのも、今日という日に限った事じゃないだろ?」

 

優しい声がベルの顔を上げさせた。労りを込めた微笑みが少年の心を少しだけ、軽くした。同時に、不甲斐なく思う。

 

(……こうして貰ってばかりだ、僕は)

 

事あれば怯懦を晒す事、そして自分の力で立ち上がれない事にも、ベルは悔しさを覚えた。大きな慈悲で包まれる事の安心と等しく。けれども、僅かな矜持を振りかざせる程の積み重ねも、彼は持っていないのだ。女神の優しさに抱かれる事を屈辱とする思い上がりすら許されない。弱きが故に。

そう思ってから、ぎゅっと目を瞑った。

 

(……駄目だ。こんな事考えても……神様にこれ以上気を使わせる気か)

 

舌っ足らずなギルド職員の言葉を思い出す。足りぬ事を嘆くのではなく、今出来る事をするべきなのだ。それは、どんな事象においてもきっと通じる理屈に違いない。

ベルは、閉ざされた視界の中で、暖かく、眩しい記憶を探り出す。今日の出来事。期待に満ちた表情で神殿の扉を開く主の顔。甘ったるいお菓子で頬を零れ落ちそうにさせている顔、輪投げを盛大に外して地団駄を踏み悔しがる顔。

……指輪を抱き締めるように握り、目を閉じている穏やかな顔……。

目を開いた少年の顔は、ヘスティアのよく知る、穏やかな、荒事からは程遠そうに見える朴訥な少年そのものの様だった。

 

「はい……神様、ありがとうございました。今日は、僕も楽しかったです。また……」

 

ベルの口調は落ち着き払って、確かな活力があった。眷属の心はようやく平らかになる事が出来たと、ヘスティアは喜びを顔に浮かべた。

そう、不安なんて、いくらでもあって当たり前だ。だからこうして、二人で励まし合って、支え合えば良いだけの話じゃないか。

こんな事、なんて事はない。あんな刻印が何だ。何が運命だ。あんな、あやふやな妄言めいた注釈に振り回されてるから、この子も怯えてしまうんじゃないか。

そう思って、ヘスティアはベルの手を握った。

サイズの合わないリングの嵌った指に、自分とは違う体温を感じた。

 

「じゃ、帰ろっか」

 

「はい」

 

そうだ。今日はもう、帰ろう。

また明日からは、それぞれの戦いの日々だ。けど、今日のような潤いを忘れずにいれば、大した苦難では、ないのだ。

ヘスティアのその思いは、確かにベルと同調していた。

今この瞬間だけは、主従の思いは一つだった。

 

「……え?」

 

ショーウィンドウに映る大きな影の主が現れた瞬間まで。

 

「…………え?」

 

呆けた二人は、振り返った。

そこに降り立った巨大な、猿に似た生き物は、銀色の体毛を陽に反射させて、静かに佇んだ。ほんの少しの間だけ。

そして、それから、腕を振り上げた。

手枷から伸びた鎖が、不規則な金属音を鳴らした。

 

「………………!!」

 

ベルの運命はまだ、目覚めてはいなかった。

ただ、その時を待つだけだった。

遅かれ早かれ、それが必ずや訪れる事は、世界の初めから定められていたのだから。

神を超えた何者かによって。

 

 

 

--

 

 

レフィーヤは耳を貫く風の音で、瞼を開いた。そして、『手刀』の横に降り立つ金色の少女の姿に目を疑う。

 

「あ……!」

 

ヒュアキントスの放った矢は、ロキ・ファミリアの戦士を吹き飛ばそうとしていた砲弾を射抜いて、そのまま遥か観客席まで到達した後に微塵と消えていた。

それでもまだ彼女らを襲う生命の危機は、流星と紛う勢いで現れた一人の助っ人により、打ち払われる事となる。それは彼女達に限った事ではなかった。やっとこの場に駆けつけた増援達。観客席から取り囲んで弓矢を番える者の数は計十。舞台へ降り立ち、直接助太刀及び救出に向かう者が計十一。

 

(足りるか?)

 

レベル3という実力の持ち主であるヒュアキントスは、この怪物祭をぶち壊してくれた謎の闖入者達の危険度の程を薄々ながら理解していた。毎年ここでの主役を務めるには半端者のテイマーでは果たせないと知っていたから。その一人はもう、何も語る事なく血の海の中だ。

 

(……彼の神も、ただ人を増やすだけで対処しようという訳ではあるまい?)

 

舞台を見下ろす座から立ち上がって絶えず周囲に指示を送っている主催者をちらりと見る。ヒュアキントスがここに来たのは、完全な打算だ。この規模の催しの突然のアクシデント。その収拾をつけるのに恩を売っておくことは、何よりも焦がれる主にとって、少なくとも損にはなるまい、と。ギルド本部で耳にした、見たこともない怪物が現れ、ガネーシャの眷属があっという間に殺されたという報告が、戦士としての好奇心を刺激してもいた。

 

(いざとなれば……)

 

ひょう、と弦を弾く音を置いて、矢が『擲弾兵』目掛けて翔ぶ。それは、彼の狙いに違わず、亡者の黒い口腔を射抜いた。弓から与えられた力は尚も収まらずに、その身体を地へと引きずり倒す。的はそのまま、黒く崩れ消えた。

戦士として、眷属として、仕える主の畏怖を示すには充分な腕だ。しかしこの弓矢すら、彼にとって最も敵を滅ぼすのに適する得物ではない。そう、助っ人達や、ガネーシャの更なる策による戦況の変化如何によっては、ヒュアキントスもその力を振るう事を考える必要が出てくるはずだ。

第一射をとった光明神の眷属に続けとばかりに、観客席の射手達が、舞台の怪物達相手に弓を引く。いずれも狙いは『擲弾兵』だ。全身に突き刺さる矢弾は怪物を容易く屠っていった。

 

(……彼女が来ている以上、そんな危惧も無意味かもしれんが、……見知らぬ怪物共め、お前達が大人しく滅びねば、我が神の光で消し去ってくれる)

 

ヒュアキントスは引いた右手をまた離し次の矢を構えながら、刃を振るう剣姫の姿を見やる。

アイズは目いっぱいに腰を屈め、『手刀』のがら空きの胴体に瞬速の突きを叩き込んでいた。三発。真横からの、強烈な衝撃を伴う刺突で、『手刀』は濁った声を上げて吹き飛んだ。

 

「ア、アイズ!」

 

「アイズ、さん……!?」

 

「、ふ、うっ!」

 

ロキの眷属に迫る審判はまだ、終わっていない。返事もなく、アイズは一息で二人を飛び越え、ティオナの頭上まで達する。分身が見ているのは、アマゾネスの槍一本のみ。

ティオナが見たのは、紫色の影が、金色の光跡によって瞬きする間もなく脳天から一直線に切り裂かれる姿だった。唐竹割りを決めて跪くアイズが、顔を上げた。

 

「……大丈夫?」

 

振り返っていた二人も含めて三人分の双眸が丸くなり、アイズに向けられる。一瞬の間。それは、ティオネに破られた。

 

「ア、ア、アイズゥゥ~~ぃいぃい痛つつつっっ!!っつう!」

 

安堵と感動で、たまらず救世主に齧り付こうと足を踏み出した彼女は、最初の一歩で激痛に屈し、全身から冷や汗を吹き出してしゃがみ込んだ。目尻に光るものがあった。左足からの流血は未だに絶えていないのだ。

慌てて、ティオナが姉の傍に寄り、肩を貸した。一流の冒険者は、自分の成すべきことを既に悟っていた。周囲の状況の変化と合わせて。

 

「アイズ!ごめん、ちょっとだけ待ってて!レフィーヤの事頼むわ!」

 

「ま、待って、お礼くらい……痛」「馬ッ鹿!」

 

顔を青くしてもまだ戯ける姉を叱責してから無理やり負ぶさり、ティオナは観客席側へと走った。怪物達の格好の餌食も、それを数だけ増した小癪な人間共が阻んで毒牙を止めていた。

アイズは、未だ辛うじて背を地から離しただけのレフィーヤに手を差し出す。

 

「……」

 

情けなさで、その金色の目を見ることが出来ないレフィーヤ。自分の無様さを一番見て欲しくない存在がそこに居るのだ。生命を拾われた事への感謝よりも、無力感が上回っていた。

直々に教えられた後衛としての役目。それを果たせていたかどうかは、今しがた去ったアマゾネスの姉妹の姿が答えだ。拳を固く握る。背と腕に走る痛みが罰だというのなら幾らでも受け止められる。しかし、何よりも恐ろしいのは、憧れの彼女に失望される事だった。

……だから、レフィーヤは、その言葉で目を覚ます。

 

「ありがとう、二人の事、守ってくれて」

 

「……!……わ、私は」

 

感謝される資格など無いと反駁しようとするも、強く見つめてくる顔を見て、口を閉ざした。本心からの言葉と悟ったのだ。否定する事は出来なかった。自分の、つまらない虚栄心をこそ真に恥じるべきとレフィーヤは気付いた。

泣き言を垂れる暇など、今与えられていようか?自分はまだ、死地の只中に居るのだ。

レフィーヤは真っ直ぐにアイズを見返して、その手をとり立ち上がった。

 

「ティオナが戻るまで、お願い」

 

「はいっ」

 

戦士としての使命感が滾る。傷など浅い。至らぬ事を嘆く意味など、無い。まだ精神力の余裕を感じた。アイズの視線の先に居る、『角の』をレフィーヤもまた見つめる。周囲で怪物と激突している者達の声も姿も捨て置いて二人は意識を一点に集中させた。

既に、『手刀』の何体かは、新参の加勢もあって断末魔の叫びを上げている。流れは再び変わった。

 

「撃ちます!」

 

応と言う代わりにアイズは一直線に駆けた。彼女を先導する火の玉が、『角の』の仮面を焼き尽くそうと猛る。

――――着弾!しかし――――!

 

(分身……!)

 

炎が飛び散る瞬間、『角の』を守るように現れる紫色の靄をレフィーヤは確かに見た。胸中で舌打ちする。当たったのは、身代わり。

だがアイズは躊躇せず、トップスピードを保ったまま、残存する熱波に突っ込み、『角の』に仕掛ける。抜き打ち――――

 

「!」

 

火花。弾かれた。最速の一撃を!

アイズが目を見開いたのは刹那の間にも満たない。地を割りそうになるほどに踏み止まり姿勢を整え、天秤刀を支える、剥き出しの右腕を狙う。逆袈裟――――

 

「!!」

 

甲高い音とともに、もう一方の天秤刀の曲線をなぞる刃。今一度アイズは驚嘆する。火花の反射した鉄仮面が冷たく光った。次こそ。身体をひねり、右足を軸にして回転する。目の向きは固定したまま。全身の感覚で、敵の方向を捉えたまま、腕を引き戻した。一回転と同時に、残像を纏う剣姫が、左足を踏み出して防御を許さない必殺剣を打ち出すべく、その短い詠唱をつぶやく。

 

「【目覚めよ】――――!」

 

魔法を纏った音速の突き――――!

 

「!!!」

 

それは、空を切った。下半身のボロ布をはためかせ、瞬時に間合いの外へ逃れた黒い残像がアイズの視界に映る。

そして『角の』は――――消えた。

 

「――――!!!!」

 

ぞわりと全身に怖気が駆け抜け、反射的に左に跳ぶ。

紫色の閃光が走った。それは、自分の真横をすり抜けていった。その事を認識した瞬間、右の脇腹に熱を感じた。

 

「アイズさんっ!!」

 

後輩の悲鳴で、取り落としそうになるレイピアを強く握りしめ、両足に力を込めて振り向く。ちょうど、レフィーヤとで挟まれる位置に立っている『角の』はもうこちらを見つめていた。鉄仮面の下に双眸があるのならば、だが……。

じわりと血が広がる感触。傷は、深くない。まだ。しかし……。

 

(強い……とてつもなく……!)

 

アイズは戦慄し、背を冷や汗で濡らす。必殺を期した剣戟の数々は、完全に見切られていた。剰え、その後の反撃である、目にも止まらない速度による一閃。

レベル5相当を上回る怪物である事は明白だった。それはどうやってか迷宮の不文律を蹂躙して今も地上に君臨している。

絶対にここで倒さなくてはならない存在だとアイズは確信した。そうでなくとも、自分以外の何者かに繋ぐことの出来る闘いをする必要が絶対にある。こいつを自由にさせれば、この都市の存在意義が揺らぐ事になるのだ。迷宮を封じ怪物を閉じ込めるという存在意義は。

それは、神に仕える身として何としても避けねばならない未来だ。自分ひとりだけの問題ではない。失敗すれば自分も、自分の所属するファミリアも、それを纏める神も、威信を失うのだ。かつて、斃すべき敵相手に壮絶な敗北を喫し、すべての権勢を失ったファミリアがあるということはアイズも知っていた。

そうでもなくとも……。

 

(街に出られたら、とんでもない事になる)

 

オラリオに溢れる人々。冒険者もあれば、商売人もある。この日であれば観光客だって。口下手で人付き合いが苦手ながらも、千の人には千の喜びと悲しみがあるとアイズは知っていた。彼らにとっての絶望をもたらす存在は、ここで食い止めなければならないのだ。

 

(――――彼も、)

 

白い髪の中から垂れる一筋の赤い血と、閉じられた目を跨ぐ傷跡を思い出す。……言い表す事が出来ない何かが、彼女の中に生まれる。

眷属としての責任感と、人間としての使命感、そして、それらとは別の何か、がアイズから力を奪わせない。

鋭く『角の』を睨めつける彼女は、レフィーヤの後方、観客席と舞台を阻む断崖から飛び降りたティオナの姿に気付くのにも少しの時間を要した。

 

「アイズッ……!……レフィーヤ、行くよっ!」

 

「ティオナさん……!待ってください、こいつは一人じゃ!」

 

間近で繰り広げられた刹那の攻防は、アイズを信奉するエルフの少女にとっては受け入れ難いものでもあった。あの、誰よりも強いと思っていたアイズ・ヴァレンシュタインの振る刃を完全に捌き切る怪物が存在するという、あり得ざる光景!

それでもレフィーヤは救助に来た先輩に具申する冷静さを失わなかった。彼女の中の生物的な本能が、目の前に佇む敵の危険さを大音量で警告し、憧れの戦士へ抱く勝手な幻想、それに基づく現実逃避――――それでもアイズ・ヴァレンシュタインならば!という希望――――を容易くかき消してしまったのだ。

しかし、それはティオナも同じ事だ。ただし、レフィーヤと違う点がある。

 

「ガネーシャ様がまだもう一手、用意してあるのよ!いいアイズ!?『その時』まで待って!ソイツはあんた一人じゃ絶対に勝てない!!」

 

「……っ」

 

意図せずに言い切らなかった言葉をハッキリと叫ばれて、レフィーヤの心臓が大きな音を立てる。絶対的な信頼を寄せていたものがひび割れる感覚。それは存在し得ない蜃気楼だったと突きつけられたようだった。ただ常人よりも強く、美しい。アイズはそれだけの、ただの人間の冒険者なのだった。それを、ティオナは知っているのだ……。

同時に、前段の言葉の意味も悟る。無策のまま、アイズを一人にするわけではないと、ティオナは言っているのだ。抗う意味は無かった。レフィーヤは是非もなく、ティオナの背に身を預ける。

 

「大丈夫!」

 

強く言い切るや、ティオナは降り注ぐ支援射撃も無視して再び観客席へ走り出す。その背で揺られるレフィーヤは一度だけ、肩越しにアイズのほうを見やる。角を生やした禍々しいシルエットの奥に居る少女はレイピアを構え、双眸険しく敵を見据えていた。

 

(どうか、無事で――――!)

 

レフィーヤがそう願った瞬間、事態をまたしても急変させる要素が、舞台に姿を現した。本来この場所の主役だった、手懐けられるために用意された怪物達が出入りする搬入口が音を立てて開く。

その奥から、猛々しい咆哮が幾つも入り混じり、舞台を揺らした。近づく地響きとともに。

 

「!?ティオナさん、あれは!」

 

「来たわね~っ!あとは上から援護頼むわよっレフィーヤ!誤射は勘弁よ!」

 

ぐっ、と、しがみつく背筋が強張ったと思うと、重力に逆らう感覚がレフィーヤを襲った。一飛びで観客席まで登頂したティオナが積み荷を優しく下ろす。駆け寄るギルド職員が応急処置とばかりの魔法薬を取り出したのをいくつか受け取ってから、ティオナはまた舞台に飛び降りて颯爽と走って行った。

 

「まだ支援出来ますか!?」

 

「はい!」

 

戦力を削がすのを避けたいという判断は、冒険者に少々の無理を強制させる事となる。それはレフィーヤの望む所だった。さっさと上着を脱ぎ捨てて傷を露わにする。外気に触れて再び熱が染み出すように感じた。

背中に魔法薬を塗られる所から少し離れた席に、寝かされたティオネが居た。

 

「あっいったいっ!!も、もちょっと優しいヤツ使って!!」

 

「効力優先です!」

 

なんとか止血させた脹脛の傷はまだ、痛ましく開いたままだ。塗りたくられる臙脂色の液体の感触でティオネが身体を跳ねさせている。それでもどうやら、命の危機を回避はしたらしい事に僅かな安堵を抱くレフィーヤ。

そこへ駆け寄る影。

 

「レフィーヤっ、ティオネっ!」

 

「ロキ様!」

 

観客席の中をたん、たん、と跳ねて越え、ロキは二人の間に降り立つ。肩を落として息をついた。

 

「はあ、間に合って良かったわ」

 

仲良く街をうろついているさなか、俄に騒ぐ闘技場の方角に引き寄せられたロキとアイズは、入り口の職員にその素性を一目で見抜かれて半ば泣きつかれる形でこの場にやって来たのだ。話半分で事情を聞いていたロキだが、何とまあそこに居たのは大ピンチの『子供』達なのだから、自分を引っ張って来てくれたアイズの判断に感謝していた。

 

「でもアイズさんが……!」

 

すがる思いを主にぶつけようとするレフィーヤの口上が途切れたのは、舞台に現れた新たな闖入者による鬨を聞いたからだ。闘技場からオラリオ中にも轟き渡りそうな音量の声を上げる、本来の主役達が続々とその貌を晒していく。

先陣を切る巨体。人間の胴よりも太い腕は、突如現れた影に振り向く『手刀』に振り下ろされ、衝撃とともに周囲の地面に罅を走らせた。次いで、巨体の影から飛び出した四足獣は、靭やかな脚を軽やかに駆動させて、舞台を取り巻くように配置されている『擲弾兵』に猛然と頭突きを仕掛ける。頭部から伸びた角は鎧を貫く突撃槍にも等しく、一撃で標的の息の根を絶やしていく。

その後からも続々と、テイマー達の誘導に従って迷宮の住民が雪崩れ込む。舞台で戦っていた者達も、少々気圧され気味になるほどの光景だった。

 

「行け!!『人間と神』は傷つけるな!!他はすべて殺せ!!」

 

先頭のテイマーが怒声を張り上げる。深い絆で結ばれた同胞を惨殺された憤りが、彼らを突き動かしているのだ。その感情が使役される者達に伝わっているのかわからないが、怪物達の暴れぶりは、狂気すら感じられる。目を血走らせ涎を撒き散らす凶相。果たしてテイマーの言葉を守って身体を動かしている個体は居るのだろうか、と疑わしく思わせる姿だ。

 

「いやあ、ガネーシャもその『子供』も、ガンギレやな。こんな手まで使うとは……」

 

「う、うはあ。ちょっとロキ様、これ、中に居る人達のこと、考えてなくないですか?」

 

寝っ転がったまま首を上げるティオネ。彼女が思うのは勿論、戦場に舞い戻った妹と、あの強敵と対峙しているであろう少女の事だ。既に目敏い連中が必死の形相で舞台からよじ登っている姿が見られる。幸いにも、負傷者は粗方救出済みのようだ。妹と同じ判断を下した者の数は少なくなかったのだろう。

ロキは細い目を少しだけ広げて、舞台の中央付近を見つめる。周囲で人外の狂宴が繰り広げられるさなかにあっても、二人は一切の雑念を捨てて構えを崩さなかった。すべては、相対する『角の』の計り知れない実力ゆえに。

 

「……んなヤワな子らとは、思わんわ」

 

「……」

 

少し低まった声が、主が言葉に込めている真摯さを物語るようでもあった。ならば何も言うまい、とティオネは首を下げたが、レフィーヤはぐっと握り拳に力を込めた。落ち着け、落ち着け。傷ついた片腕を差し出して、巻かれる包帯を見ながら、逸る気持ちを抑えつけ、集中する。そう、まだだ。その時に合わせるために、今は……。

一方、ほど離れた所でこの大乱闘を見下ろしいるヒュアキントスは眉をひそめる。でかい図体の的が増え、狙うべき連中がどんどん吹き飛ばされていけば、狩人としてはあまり面白くもない展開ではあった。

……だが、もっとも興味をそそられる要件は未だに残ってくれている。ヒュアキントスはそこに照準を合わせて、冷や汗を一筋垂らした。

 

(……あのスピード……今射ったとしてもおそらく、仕留められまいが……)

 

『角の』は天秤刀を下げ、自分の周囲の喧騒が生み出す気流に任せボロ布を揺らしている。無防備そのものとしか思えないその姿をもう、ヒュアキントスが信用する事はない。あのアイズ・ヴァレンシュタインの剣を上回る技の持ち主である事を認めている者の一人としては。

ならば、と思う。

 

(機は……)

 

猛禽の目を象り、引き絞った右腕を固定したまま、ヒュアキントスは動きを止める。最低限の呼吸だけで姿勢を保ち、見据える先にある物から決して狙いを逸らさずに、その時を待つ。

相対する二人の戦士と考えが共通していたのは、彼ら上級冒険者が持つ戦術眼の奇妙な同調の結果に他ならない。

咆哮。

衝撃。

爆音。

悲鳴。

既にほとんどの人間が退場した舞台で、迷宮のしもべと人間のしもべが凄惨な殺し合いを演じる。脚部を切り刻まれても荒れ狂う巨人、砲弾で片角を折られても脚を止めない獣、砕けた牙で獲物を噛み千切る竜。

砕かれ、突かれ、射抜かれようとも次から次へと補充される『擲弾兵』に対して、『手刀』は一体、また一体と確実に数を減らしていく。斬られ、千切られ、潰され……後には何も残さずに。

そして、その時は、来た。激戦に加え、未熟な射手による流れ弾を喰らい血を流す巨人は、遂に、頭目と思しき、『角の』を見据え、その腕を振り上げる。咆哮が轟く。

 

(――――今!!)

 

ヒュアキントスが目を見開く。

レフィーヤの精神力が臨界に達する。

ティオナの両腕がはち切れそうに膨らむ。

アイズは、レイピアの切っ先を今一度、鉄仮面の中央に合わせた。

張り詰めた緊張の末に、汗がひとしずく垂れ落ち、地面にぶつかる。

同時に、その光景が生まれた。

 

「!!」「!!」「!!」「!!?」

 

叩きつけられる腕と、吹き上がる砂煙。トロールの一撃は、的確に『角の』の身体を寸分違わず捉えていた。

そう、確かに、その場所に振り下ろされたのだ……そうでないのならば、砂煙の晴れた後に、トロールの腕以外の何もそこに無いという光景など、生まれるだろうか?

その事を信じられないと思うのは、全ての人間の共通する思いだ。レベル5の剣士による連弾をいとも容易くいなした存在が、レベル3相当の怪物の一撃をまともに受け、そのまま散ったと?

 

「ウソ」

 

(有り得ない……)

 

零すティオナと、呆然とするアイズ。これで、終わりか?あれほどの強敵が、たった一撃。間違いなく自分を超えていた実力の持ち主が、『たかが』トロール一匹の手によって……。

拍子抜けどころか、失望の思いすら脳裏に生まれ――――瞬間、それに気付いた。

トロールの持ち上げられた腕。影の中に見える、大地の傷跡。黒い帳に包まれた、巨大な罅……そこに蠢く何か……。

彼女の全身の感覚が一気に研ぎ澄まされた。

その音に気付いたのだ。

使役されるしもべ達の声、屠られる怪物の声、テイマー達の掛け声……幾多もの音に混じって、その音は確かに存在した。何かを……削る音だ。

 

「っ!!」

 

ばっ、とアイズは周囲を見渡す。『手刀』の数は?

もう、居ない。

一体も残らず、消えている。その骸も残らずに。

舞台そこかしこに突き刺さる矢。血の跡。抉れた地面……それが作る、影。

 

「アイズ……すっっごい、嫌な予感がするんだけど、わたし……」

 

同じように、全方向に意識を張り巡らせているティオナが、顔をひきつらせている。彼女も、それに気付いたのだ。

 

「影が……」

 

「動いている……のか!?いや……!」

 

観客席に立つレフィーヤとヒュアキントスは、遂にそれを認めた。戦場に潜む影の正体。刃の擦れる不協和音を立てて、それは縦横無尽に駆け巡る。

全身を地面の下に潜行させ、血と錆でささくれた剣だけを闇の底から顕して盲滅法に動きまわる。地を這う者共の脚を切り刻もうと、無差別に荒れ狂っているのだ!

人間達が見抜いた闇の軌跡の数は三つ。そして、気付く。斃れずに姿をくらました『手刀』の生き残りが混じっているのだ。おそらく、『角の』と同じように、肉体を叩き潰されたとの欺瞞を纏って。

 

「コイツらっ、モグラじゃあるまいし!……ちっ!」

 

(地面を掘り進んでいるスピードじゃない!)

 

迫る刃をかわしたティオナが舌打ちする。地を削る丸鋸とも見紛うこの攻撃の実態が、単なる力技の産物であるとはアイズも思わない。そう、迷宮の怪物達が大なり小なり備える異能の一部と見るべきだ。その証拠に、『手刀』或いは『角の』の刃が通った後には何の痕跡も無い。

直後、刹那の推理を続ける彼女達の意識を引き戻す出来事が起こった。

 

「ヴヴォオッ!」

 

獣の悲鳴。血塗れた片角を掲げていたソードスタッグは、自らの蹄が、足首もろとも切断されたのを理解した。次いで、それを成さしめた骨の刃が刀身すべてを闇の底から曝け出し、その勢いで自分の胴体を刺し貫いた事も。

錐のように回転して飛び出した『手刀』の右腕はその先にある内蔵をズタズタに引き裂き、一撃で虫の息になった獲物をそのまま天高く掲げた。大量の血液が『手刀』の全身にかかる。

鬨とばかりに、おぞましい嗄れ声を発する『手刀』。死の化身と形容するのに相応しい姿だった。

 

「怪物の分際で、勝利に酔うというのか!」

 

隙だらけの有り様を見たヒュアキントスは憤怒を口から漏らし、矢を放った。既に十数体を無に帰した『擲弾兵』に向けたものと等しい、必殺の一矢。音よりも疾い一撃は、決して逃れる事を許さずに標的を仕留める筈だった。

けれどもそれは叶わない。瞬時に、再び土の下に潜り込む『手刀』。物言わぬ骸に矢が突き刺さる。ヒュアキントスも目を見張った。

 

(手を抜いていたとでも……!)

 

屈辱に臍を噛む。支援射撃に徹しながらも脇目に捉えていた『手刀』の動きは、確かに自分の矢から逃れられるようなものではなかった筈だというのに。さもなくば、あの攻撃こそ奴らが真に得意とする動きと見るべきだろう。安全地帯からの一方的な牽制攻撃を繰り返して消耗させ、必殺の一撃で供物の血肉をばら撒くという残虐かつ狡猾な戦術だ。

そして、また響く絶叫に、人間達は視線を奪われる。音を立てて地に倒れたトロールの足の裏は、花びらのように皮と肉を裂き開かされて骨まで覗く深手を負っていた。横向きになり激痛に身悶えるトロールは右手を地についた瞬間、更なる叫び声を上げる。否、それは断末魔だった。地に接する脇腹を貫いて体内に侵入した凶刃は、宿主の生命機能を司るあらゆる器官を蹂躙し、破壊し尽くす。声も途切れてただ断続的な痙攣をするだけになった巨体の臍を破って這い出す姿のおぞましさを形容するには、生命への冒涜に尽きる連想図を引き合いに出さねばならないだろう。

 

「【目覚めよ】!」

 

――――産声もなく、母体のはらわたと共に生まれ落ちた『角の』に躊躇せず吶喊するアイズ。鼻をつく血のにおいも、赤黒い内容物に塗れる怪物の姿も、今の彼女を恐怖で縛る事など出来ない。レイピアが鉄仮面の中央のスリットに迫る。今度こそ、逃げ場は無い。トロールの死骸に包まれたその立ち位置ならば、との算段が、彼女の決断を呼んだのだ。

しかし、それを阻む者を考慮しなかったのは、彼女の失敗だった。

 

「ッ!!」

 

突如立ちはだかる『手刀』。飛び散る血とはらわたで汚れた土に紛れ、『角の』を守るようにそこに潜って隠れていたのだ。双刃を振り上げ、剥き出しの歯とともに狂喜するかのように誇示する姿は、アイズの矜持をひどく刺激した!

 

(仕留めたつもりなら――――!!)

 

歯を食いしばり、限界まで瞼を剥く。彼女の従える風が荒び、地を蹴る全身に更なる加速度をもたらす。

待ち伏せに嵌った、だからなんだ。諸共、くたばれ!

 

「ググォッ!」

 

「ああああああああっ!!」

 

振り下ろされる両腕を遥かに超えたスピードで、アイズは『手刀』を貫く。突き出されたレイピアは怪物を串刺しにしたまま、真の標的を喰らわんと一直線に翔ぶ。

 

(構わない、どの道かわせは……!?)

 

『手刀』の身体がボロリと灰のように崩れ去り、視界が僅かに開けた先に、その姿が見えた。トロールの裂けた腹腔から這い出る複数の影――――分身!アイズは、己の浅慮を悟った。待ち伏せは二重……!

分身の振る腕から紫色の閃光が走る。人の足で五歩分は離れた距離から届くその攻撃を初めて彼女は見た。まだ手を隠し持っていたのか!?

アイズが息を呑むのと同時に、突然、眼前で発生した爆風が全身の軌道を変えた。

 

「ッが!」

 

吹き飛ばされる衝撃に息を吐くアイズ。自分の身の上を悟り、すぐに空中で体勢を直し、なんとか着地する。直角に近い、無理矢理の軌道修正。しかし、辛うじて命を拾ったのだ。そうさせたのは――――

 

「アイズさんっ……すみません!でも、私は!!」

 

観客席の上から、泣きそうな顔で悲痛な声を上げるレフィーヤがこちらを見ていた。アイズは、自分の愚かさを悟った。相手は、これまで刃を交えた者共全てとは格が違うのだ。僅かな隙を一人で突いて勝利をもぎ取ろうなどという傲慢さの代償は、死以外の何物でもなかった筈だ。それを力ずくで、あのエルフの少女が覆してくれたのだ……。

何たる無様さだろう。アイズは自らの思い上がりに対し、静かな怒りを燃やす。脇腹から染み出す血は既に下半身まで達していたが、今の彼女にそんな事を気にする余裕は無い。

 

「アイズっ、カムバーック!!」

 

「!!」

 

ティオナの叫び声は、アイズの身体を一気に跳躍させる。そう、同胞を残して単身突っ込んだ代償は、まだ全て贖ってなどいないのだ。

分身の放つ斬撃は、またしてもアマゾネスを切り刻むべく幾重にも連なって飛来していた。そう、それが姉に深手を負わせた刃の正体という事をティオナは今、理解した。

 

(生きてりゃ儲けモンかな!)

 

槍一本で防げる速度と量の攻撃とは思わない。アイズに分けたぶんを引いても、魔法薬はまだ残ってはいるが、縦しんば切り落とされた腕がくっつくまで待ってくれる優しさを持った相手だとも思わなかった。

そんな風に腹を括った彼女は、自分の前に立ちはだかって斬撃を受け止める人影に驚く。

 

「いッでぇ!」

 

「ちくしょっ、痛えな!」

 

「んな!」

 

重装備のテイマー二人組が毒づいた。僅かに散る血飛沫は背中越しにも見える。正面からまともに喰らってまだ立っていられるのは、彼らの鍛えぬかれた肉体と、積み重ねられた恩寵の力による。

なんで、とティオナは口にしようとした所で、それを遮った二人に顔を向けられた。

 

「俺らの祭りの不始末、ムチだけ振って、あとは女の子に任せて、これ以上ガネーシャ様の顔に泥塗れるかっての!!」

 

「色々と、腹が立ってしょうがねえのよ。仲間ブチ殺されて、苦労して手懐けた奴をこうも簡単にやられちゃな」

 

「……っ頼もしいっ!」

 

口角を上げるティオナだが、そこに馳せ参じたアイズの、強く歯を食いしばり思いつめた表情は、遠征におけるどんな強敵を前にした時よりも固い。やれやれと思い、その細い顎向けて指で輪を作り、弾く。

 

「っ」

 

「力試しの場所じゃない、でしょ?ここは一致団結よ」

 

もっと信頼してくれ、と言外に仄めかされたアイズは、ふううっ、と首を落とし深く息を吐いて、顔を上げた。いつもの平静さを保つ顔。少なくとも、表面上は……。

だが、ティオナにしてみれば、おっかないしかめっ面をしているよりもずっと、頼りになる顔だ。そう、今は観客席に立っているエルフの少女が憧れている、穏やかで、確かな熱を秘めた顔。

 

「って、レフィーヤ、あんた!」

 

その当人が、いつの間にか舞台に降りて走り寄って来る姿を晒しており、ティオナは面食らった。

 

「お願いです、外から見てるだけなんて……ここでなら、もっと戦えます!」

 

「……」

 

「ロキ・ファミリアにも、将来有望なのが居るじゃねえか」

 

ぎん、と一切の否定を退ける威を放たれると、事態が事態なだけに、誰も帰れなどと言えるはずもない。実際、彼女の真価を封じていた敵側の砲撃は、観客席から放たれる支援射撃と、未だ斃れずにテイマーに従うドラゴンによって封じられているのだ。

言葉は必要なかった。一様に頷くと、皆は決着をつけるべき相手へと向き直る。

祭りの終わりも見えてきたこの時、闘技場の頂にロキは居た。主催者に胡乱げな眼差しを向けている。

 

「もっと人よこしゃあ、こんな手間掛からんやろが」

 

「もともと舞台に降ろした面子は時間稼ぎと救出が目的だ。主力による矢の雨と、テイマーの突撃命令で終わらせるつもりだったんだがな……」

 

ガネーシャの誤算は何と言っても戦う相手の実力を測り間違えた事だ。尤もそれはこの場に居る遍く神も人も非難出来ない失敗だった。迷宮にあってはレベル3相当の住民を一方的に屠り、勇名轟かすレベル5の剣姫を子供扱いする輩が地上に現れるなど誰が予測できるというのか?

ロキは憮然とした。

 

「はーん、ウチの『子供』は特攻用の捨て駒かいな?」

 

「うちのファミリアにアイズ・ヴァレンシュタインが十人も居れば、もう少し早く終わってたが……まあ、ここは高い利子つけて貸してくれ」

 

普段の豪胆さもなく平然とほざく象の頭を蹴っ飛ばしたくなるロキ。大規模のファミリアを率いるヤツというのはどいつもこいつも、こういう連中だった。それは彼女が指摘したって鼻毛の毛先程もの説得力も持たないのだけれども。

それに、戦術としては特に指摘する箇所も無い。全員外に出して大規模魔法で消し飛ばそうにも、そんな力のある冒険者なんてここに居ないし、一番最悪なのは敵がここから逃走する事だ。どうしたって下で引きつける要員が居なければならないのだ。

本当に本当の切り札には、自分達の神の力を解放するという手もあるが……。

ほんの僅かな思索の隙に、ガネーシャが職員と何か話すのを聞き逃したロキ。ちら、と視線を戻す。

 

「何やねん」

 

「地下から一匹、舞台に上がらなかった、未調教のヤツが消えた。追わせている」

 

ロキは細目を剥いた。

 

「……これが仕込みっちゅうんなら、マジモンの戦争でも起こす気かいな、そいつは?」

 

「さて」

 

ガネーシャは被り物の下で、舞台をじっと見つめる。この騒動が始まってから常に冷えた頭で最善手を打ってきたつもりの彼は、胸中でずっと収まらない感情を持て余していた。

大切な『子供』を、虫けらのように引き裂いて殺した怪物への、果てしない怒りを。

それに比べれば、祭りを台無しにされた事など、瑣末に過ぎる懸念だった。

もしもこれが何者かの謀りというのなら、決して許しはしないとも、強く思うのだった。

そこから遠く、対面側の観客席。

ヒュアキントスは雑魚散らしに徹する現状を苦々しく思う。敵の主力は僅かあと二体のみだが、相変わらず絶えない『擲弾兵』を無視する事は出来ないと知っている。

 

(不愉快極まるな)

 

それもあの一矢を防がれた屈辱感に端を発する。しかし挽回の機会はまだ訪れてはいない。撃ち漏らした獲物は刃を持つ影となって舞台を這い回っている。その軌跡を、光明神の『子供』は決して見逃さなかった。彼の主が見れば、流石自分の『子供』だとしたり顔になるかもしれない。狩人の本能を受け継ぐ寵児と……。

ともかく、いくら攻防一体の姿であるとはいえ、ああしているだけで致命傷を負ってくれるような輩はもう舞台には居ないのだ。焦りを抑える。必ず、もう一度そのチャンスは来るはずだ、と。

 

「!!」

 

「来るか!」

 

『角の』が動いた。ヒュアキントスのみならず、正面から注視していた面々に緊張が走る。トロールの血で黒くなった地面に溶けて消える姿を見て……。

やはり、と誰もが思う。正面から突っ込んで来てはくれまいという予測は的中する。

 

「あっちも手の内は全部見せてるって思いたいね!」

 

「同感!」

 

地中に潜った本体を捉えさせない為にか、分身達が一気に距離を詰めてくる。先走る二体と、後衛の一体。その魂胆を見抜くにはわかりやすすぎる陣形である。

その三体が、『角の』の作り出せる最大戦力と、舞台に立つ者達としては信じたい所だった。

 

「受けてやるから、ちゃんと仕留めてくれやっ!」

 

前衛同士がぶつかる。怪物との肉薄は、それを見世物に出来る程度には彼らの得意種目ではあった。多少の手傷を負う事など躊躇していられない。牽制のによる刃の打ち合いが一合。動作の図り辛い天秤刀を操り素早く身をくねらせて滑るように動く相手を釘付けにする事の難しさと、始終これを相手にしていたロキの眷属達の実力に肝を冷やすテイマー二人。

 

(おまけに!)

 

分身の後ろから、刃が飛んで来た。やはり……と思う。しかし、避ける訳には行かない。これが踏ん張りどころだ。相打ち上等、敵の頭数は少ない。腰を落とし、片腕で半身を塞ぐ。

 

「今だ!!」「やったれぇ!!」

 

それぞれ、腕と手首を貫く感覚と同時に、もう片方の腕に握る剣を振りかぶる。一気に踏み込んで、目一杯!

 

「ッ!」「やアァッ!!」

 

紙一重で空を切った!しかし、構わない。控えていた二人の少女が跳びかかり、紫色の亡霊は、剣と槍の切っ先に貫かれる。寸分違わず、胴体の中心部を。そしてそれが煙となって消えるよりも早く、灼熱が二人の間を通り過ぎる。レフィーヤの放った一発は、与えられていた詠唱時間のおかげで、先程までのものが豆鉄砲かと思える業火だ。赤い奔流は瞬時に後衛の分身の周囲を呑み込み、包まれた贄を燃やし尽くした。一切の容赦もない処刑方法を憐れむ者など居はしない。

汗を垂らすレフィーヤ。これで分身は消したが、視界が一瞬、霞がかったようにぼやける。魔法の源泉である精神力にも限界はある、尽きるのはまだ早いと目を凝らした。……覚醒する意識が、迫り来る危機を察知する。

地を這う刃の音が、振り向いたエルフの少女に食らい付こうとしていた。逆向きの牙を生やした影はたった一人の後衛を挟むように走る。

 

(……!避け、られ!)

 

刹那の判断。レフィーヤは及び腰の佇まいを改め、狙いを片方に絞る。脚の一本二本ならばくれてやる。けれども、必ずや代償はもぎ取ってくれると、戦士の双眸がぎらついた。来るなら来い、と。

しかし、突如そんな覚悟もろとも覆い尽くす巨体が現れた。咆哮とともに。

 

「グア゙オ゙オ゙オ゙オ゙オォォーーーッ!!」

 

「ひああ!?」

 

「失礼っ!」

 

見上げる高さの鎌首を振り下ろしたドラゴン。土を巻き上げて大地をえぐったその顎は、何かを銜えたまま再び天高く持ち上がった。彼が捕えたものを確認する間もなく、その主にレフィーヤは腕を引かれてアイズ達の元へ走る。獲物を喰らう機会を逸した刃はすぐに軌道を逸れて、あらぬ方向へと遁走した。そう、片割れを地面から引きずり出された牙は……。

無事、即席のパーティの陣列に帰還するレフィーヤ。アイズが真っ先に駆け寄って来た。魔法薬を一息で飲んでから、口を開く。

 

「エサにした。ごめん」

 

少し表情を翳らせての正直な告白だが、レフィーヤは失望など抱かない。彼女自身、後衛である自分がターゲットとして上位の優先順位となっているだろうと予測していた。

 

「いえっ、構いません。それで……」

 

「……」

 

ただ贖罪を求めるためだけに仲間の傍に来るような状況ではない事くらい、レフィーヤにもわかる。何らかの策を伝えに来たのだと察した。アイズがすう、と近づいて耳打ちする。目を見開くレフィーヤ。

 

「……!!」

 

「お願い、レフィーヤ」

 

視線が交わる。短い懇願に、激しい闘志と固い決意があった。真っ直ぐにその瞳で射抜かれれば、断ることなど出来なかった。レフィーヤはぎゅっと目を瞑って、そして開く。

 

「はい」

 

(あんまり悪巧みしてほしくないなー)

 

ティオナがあえて話に割り込まなかったのは、時間と意識を裂くのも惜しいからだ。レフィーヤにだけ話すのは、二人だけで完結する作戦だからなのに違いない。とはいえ一応、この場のケツ持ちのポジションの自覚はあったティオナは、心の中でため息をつくのだった。姉やリヴェリアがいつも味わう責任者の気苦労というものをほんの少し、理解した。

片や、テイマー達は、しもべの高い頭を見上げていた。

 

「あれが親玉なら、今日の大手柄は俺だが」

 

「あんなマズイもんをペットに食わせる気かよ、お前はっ!」

 

ドラゴンの閉じられた口からはみ出ている下半身だけでは、それが『角の』か『手刀』か判別出来ない。願わくば前者である事を祈るテイマー達。どちらにしても、為す術なくもがきはためくボロ布は、完全にそいつの命運を決した証明にも思えた。

だが、それはあまりにも、敵を見くびった判断だとすぐに見る者は知るのだ。

 

「ギッ、アア゙ア゙ァア゙ア゙、ア゙ア゙ーーーッ!!!!」

 

「ええぇ、ウソお!?」

 

「!!そうか、しまった!!」

 

ボロ布を口の中に完全に収めたと同時に、激しい苦悶の声を上げるドラゴン。長い首と尾を前後左右に振り回し、舞台に風を起こして荒れ狂う。やがて白目を剥き、大口開いて血を吐き散らしはじめた。どんな苦痛を与えられれば、生物はこれほどの絶叫を上げられるのだろうか?口腔に、喉頭に一対のささくれ立つ刃をねじ込んでそれを滅茶苦茶にかき回す事で、疑問の真実に到達出来るだろう。

食道内から発せられる想像を絶する激痛は、もはやテイマーの意思など完全に無視してドラゴンの全身を我武者羅に突き動かした。薙ぎ払う尾が『擲弾兵』を壁に叩きつけ、健在の四肢は守る筈の冒険者達の居場所に振り下ろされる。

 

「オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙!!オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙!!!!」

 

「おいヤバイぞ!」

 

「ヤバイな!」

 

「畜生!!」

 

慌てて身を翻すテイマー三人が悪態をつく。うち二人は実はかなり重傷を負っていたりするのだが、大振りで無思慮なドラゴンの攻撃を避けるには支障の無いあたりが手練の所以である。しかしそんな事はどうでもいい、この状況の悪化は、まずい。残り一体は未だに影に紛れて何処かを這い回っている。この混乱に乗じて攻撃されればいよいよ致命傷を貰う者が現れるだろう、彼らとしてはそれは自分達が引き受けるべきだとも思っていた。

いい加減に回避を続ける陣列の足並みも乱れてくる。しかし、なればこそと、この状況に機を見出す者も居た。

 

「やるっきゃないか……恨まないで頂戴よ、アンタ!!……アイズ!レフィーヤ!野郎さん方!あと任せたわよっ!!」

 

ティオナが、槍を右肩に担いで腰を落とし、左手で照準を作る。暴れるドラゴンとの距離を測り、ひたすらもだえ苦しむ姿にも眉を動かさずに姿勢を崩さず……。

その構えで全てを悟った面々は、一撃を溜めるアマゾネスを囲んだ。うち、レフィーヤとアイズは刹那のアイコンタクトを行う。全ては、一瞬で決まるとの意思の共有。

振り抜かれた尾が頭上を掠めても、彼らは決して怯まずにその時を待つ。人間のせいで味わわされている凄まじい痛みに身体をのたうち回らせる者への憐憫を秘めながら。

砂が舞う。

気流は渦巻く。

大地は揺れる。

血と唾液が混じった反吐が飛び散る。

支援射撃をする者達も、この混沌の最中に合わせて必死で『擲弾兵』を潰していたのは、流石の手腕だった。しかし、ただ一人、舞台に立つ者達と思いを同じくする彼は、その呪文を口の中で紡ぎ続け、一心不乱に弓を引く。必ずその時は来ると信じつつ……。

そして。

 

「ア゙アア゙アア゙アオ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙ッッッッ…………!!!!」

 

ドラゴンが後脚を使って立ち上がり、天高く一直線に首を伸ばす。それは、天に坐す神々の王に慈悲を乞う信徒のような悲痛さを纏う姿だ。

ティオナの眦がつり上がる。見逃さなかった。ドラゴンの首、腹側の白い鱗の脈動。不自然に蠢くその場所を!

息を止め、右腕の筋肉を硬く張り詰めさせる!

 

「――――――――ッッッッッッ!!!!」

 

踏み出した左足が大地に罅を作り、その一投を成し遂げさせた。音の壁を突き破る勢いで放たれた槍は、鱗と筋肉と脂肪組織に守られた不可視の獲物を貫くためだけに風を切る。決して、逃れる事を許さない、打ち手の意思を宿して。

 

(当たれ、いや……当たる!!)

 

ティオナが歯を食い縛って目を見張る。

刹那の願いは、届いた。

穂先はその場所を確かに、穿った。

 

「ア゙ア゙ア゙…………ッ!」

 

凶刃の息の根を止める楔を、その喉笛に打ち込まれたドラゴンは、がくがくと震える。その槍は、確かにティオナの狙った点に突き刺さった。

しかし……浅い!そう、流れる一筋の血が映える鱗肌は未だ不規則な凹凸運動を見せて、その下でもがく怪物の健在さを示していた……否、それどころか、明らかに先程よりも激しく暴れ回っているだろう事は、外から見ても明白だ。まさかの狙撃を成さしめられた怒りが、その反応の根源に違いない。

収まらぬどころか更に増した激痛で、ドラゴンが再びその身をよじり、激しく地団駄を踏み始める。

 

(そんな……!?)

 

ティオナの顔が青くなる。武器を犠牲にした一投は仕損じた。となれば、もはや自分は戦力にはならない。この場に留まるのは危険だと即座に判断する。しかし、揺れ動く地面と、失敗した事へのショックは思いの他大きかったのか、足をうまく動かさせない。

動け、動け、はやく、ここを離れなければ、足手まといになるだけだ。

そう思っても焦りだけが募り、幾度もの二の足を踏む自分にティオナが真に絶望しかけた瞬間、その怒声が闘技場に轟き渡った。

 

「ヒュアキントスぅぅぅぅ!!!!今!!!!合、わ、せ、な、さあああああいっっっっ!!!!」

 

同時に、観客席の上で先の妹と全く同じ構えをしていたティオネは、閉じきっていない左足の傷から血を流しながら、全身全霊の一投を放ったのだった。

 

(言われずとも……顎で使われているようで、癪だが!!)

 

ヒュアキントスが弓を背に掛け、右腕を掲げる。矢を射つ一方で絶やさず口ずさんで来た詠唱呪文は既に、彼の中の魔力を放出寸前まで励起させていた。光は、太陽へ向けられた手のひらの上で高速で渦巻いていく。

これこそ彼の持つ最高の魔法。それでもレベル5の剣技をいなす超越者にまともに当てられるとまでは思わない用心深さによって、彼はこの機を掴んだのだと言えた。完全に無防備となり、必殺の一撃を叩き込む絶好の機は、今と確信するヒュアキントス。

上体を思い切り、ひねる。

 

(行け!!)

 

「【アル・ゼフュロス】ッ!!」

 

腰のバネが弾け、高速回転する光球は、突き刺さる標を目掛けて飛んだ。あまりの遠心力でそれは楕円状に歪む。

その円盤と同じ速度の投槍が別方向より迫る。

二本目の槍は今一度、蠢く刃を貫く。先の一投に引き続いて串刺しになった怪物が動きを止めるのと同時に痛みが引き、ドラゴンもその動きを止めた。

命運は決まった。

苦痛からの救済を理解したのか、彼は四肢を踏みしめ天を仰ぎ見ていた。

ヒュアキントスは、ぽつりと呟いた。

 

「……許せよ」

 

そして、直後に駄目押しの一撃がはじけた。鱗にぶつかり炸裂する円盤が小さな太陽を地上に作り出す。

粉砕された頸部に詰まっていた血と肉片が舞台に降り注いだ。その中に混じる、バラバラになった『手刀』の残骸を、アイズは見逃さなかった。2分の1の確率は外れだった。あれが『角の』ならば、勝負は決まったと見て良かったが……。

 

(来る……!)

 

『角の』は、必ず……と思う。ドラゴンの残骸が空を覆っている、このタイミングで!

直後、背を守るテイマー達が構えるのを感じ取った。

 

「懲りねえ野郎めっ!」

 

確信は的中した。倒れゆく巨体の陰から音もなく現れた分身が三体、囲うようにこちらに迫る。

そして、それは囮だ。奴の狙いをアイズは知っている。恐るべき刃の使い手。己などゆうに超越する腕を持つ、想像を絶する実力者……しかしその性根はどこまでも狡猾で、効率的。必ず、最もリスクに対する効果の大きい手を打ってくると、アイズは見抜いていたのだ。

今最も仕留めるのが容易い、脅威となる者を必ず狙ってくる、と。

そのターゲットもまたそれを理解していたからこそ、引きつった顔でその光景を見ていた。生臭い無数の欠片がスローモーションで落ちていく中、携える双刃を構えて、上半身を地中から乗り出させる鉄仮面……。

 

(今度こそヤバイかなあ~……)

 

丸腰ではどうしようもない。ティオナはまるで他人事のような感想を抱いた。ここまでどうにか無傷でやって来られたツケか、絶体絶命、というか絶対絶命の窮地に晒されている。

『角の』が、跳ねた。水面から飛び立つトビウオのような様だ。尤もトビウオは、刃を突き出して錐揉み回転しながら飛んだりはしないが……。

 

(ああ~っ、あれ絶対痛いよ。っていうか、死ぬでしょ……身体グチャグチャに吹っ飛ぶだろうし……)

 

鋭い切っ先に映る陽が乱反射するのが見えた。かつてない危機にあって高速で働くティオナの思考と五感が現状を分析するが、答えはどれも同じだった。

避けられる距離とスピードではなかった。気付くのが遅すぎたのだ。姉による尻拭いに見惚れた間抜けぶりの代償。そうでなくても、後ろで武器をとる者達の事を考えれば、この身一つで受け止めなければ、誰が彼らの背を守れるのかと思った。

 

(恋の一つでも、しとけば……)

 

詮無い事を思うティオナ。

けれども、彼女の運命の糸は、まだここで途切れなかった。

彼女が失念していたのは敵の存在だけではなかったのだ。

 

「――――【目覚めよ】ッ!」

 

割り込んだ金の影を認めた瞬間、甲高い金属音、そして、血肉を貫く濁った音が混ざってティオナの耳をうった。

 

「……あ、アイズ、あんた!!」

 

二つの刃を受けたレイピアは、いとも容易く根本から折れた。それでも柄から生える僅かな残滓が、『角の』の左手の天秤刀を噛んで止める。

そして、右手の天秤刀は……剣姫の腹を、深々と穿っていた。

それでもアイズの左手は、自分を貫く刃の根本を握り潰さんばかりに強く絞め上げている。全てを悟った『角の』は、そこから逃れる為に、鍔迫り合いから離れようと必死で腕を引く。しかし、それを決して許さない剛力をアイズの手のひらが発揮している。

血走った金色の目で、鼻先の触れそうになるほどの距離にある鉄仮面を睨みつけ、アイズはその名を呼んだ……腹から逆流する血を惜しまず吐きながら!

 

「……ッレ゙ッ、フィーヤッ!!」

 

全てはこの瞬間の為にあった。この手に掴む腕は、自分の力では決して上回る事は出来ない。……だがそんな事をせずとも、勝つ為に取れる手段など、幾らでもあった。

レフィーヤはドラゴンが暴れている時から続けていた詠唱を遂に完成させる。アイズの耳打ちが、蘇った。

 

『私が止める。私諸共、凍らせて……リヴェリアの、あの魔法で』

 

躊躇は、無かった。

この死地を切り抜けるのに、全てを託すと、レフィーヤは決めていたのだ。

 

「――――【ウィン・フィンブルヴェトル】!」

 

ロキ・ファミリアの副団長、オラリオ最強の魔道士たるエルフの女王の秘技を借りて、そこに顕現させた。全てを凍てつかせる猛吹雪がレフィーヤを元に解き放たれる。白銀の瀑布は一瞬で、組み合う人間と怪物を丸ごと呑み込んだ。

間一髪でそこから逃れたティオナは、アイズの愚行に臍を噛んだ。何故、こんな……自爆に等しい戦術だ。それを後輩に加担させるなんて、と。

しかし、直後、吹雪を貫き立ち昇る竜巻に目を剥き、アイズの目論見を真に理解した。

そしてやっぱり思った。馬鹿な事をする、と。

 

「…………ッッ……!!」

 

「グヴォォォォォッッ!!、ォ、ォ、ォ……ッ!!」

 

渦巻く冷気の中心でアイズは息を止め、両腕に渾身の力を込める。内蔵を引き裂こうとする『角の』の右手。剣の柄を必死で押し切ろうとする左手。極寒の世界に包まれ全身を凍てつかせていく最中で、もはやその怪物を突き動かすのは、自分より劣るはずの眼前の獲物に対し、まんまとしてやられた怒りをぶつけてやるという執念のみだった。

アイズの発動させた風魔法はレフィーヤの放つ氷魔法による急激な温度変化を周囲に受け流して肉体を守り、それは外部からは氷を吹き上げる竜巻となって観測されていた。そして彼女の目と鼻の先に居る怪物は、暴風による更なる極低温にモロに晒されていたのだ。

流れる血が固まり、まつ毛が凍り付いていくのをアイズは感じる。怪物の身体はどんどん白く彩られ、それでもなお両手に感じる凄まじい膂力は緩まない。

 

「ォ、オ、ォ、ォ、ォ、ォォ…………!」

 

鉄仮面の下から漏れる、恐ろしいうめき声は未だ収まらなかった。

肺を守るために固く気道を閉ざし、少しずつ暗くなる視界の中で、ぽつりと思う。そんなにも、殺したいのか……なんという執念だろうか、と。アイズは体だけでなく、心胆までも凍てつく思いだった。

組み付き、一つの彫像にもなったかのように、両者は風の中で凍り付いていった。

 

「…………っ、アイズッ、アイズーッ!!」

 

「……ハッ、ハアッ、ア、アイズ、さんっ……!」

 

竜巻が消え去ると同時にテイマー達が引き受けていた分身は消滅し、『擲弾兵』の増援も遂に打ち止めになった。それの意味する所を理解出来ない者など居なかった。あの最悪の敵が遂に打倒されたのだということを。

吹雪は晴れ、氷原の中に跪く少女目掛けてティオナとレフィーヤが全力疾走する。

滑って転びそうになるのを堪えてアイズのもとに辿り着いて二人は肩で息をした。ぼうっとした様子でアイズは、目の前の崩れた氷像を見つめている。

荒い息に気付き、アイズがゆっくり振り返った。髪の毛はところどころ凍り付いて、普段よりも更に真っ白な肌は雪よりも白く、唇から喉にかけてこびり付いた吐血の痕は凍り付いても尚赤く、それによって死人のような貌を晒していた。

二人と目が合う。

沈黙。

主が、職員や治療要員と一緒に観客席から飛び降りてくるのが見えた。

それをぼんやりと眺めて――――暫し。

アイズは、口を開いた。

 

「……寒い……」

 

「…………は?」「えっ」

 

それきりアイズの身体はぐらりと傾き、地面に突っ伏した。

 

「ア、アイズーーーーーーーーッッ!?」

 

「アイズさっ、あ、あ、い、ず、……さ……ん……?」

 

「ちょっ、レ、レフィーヤっ!?」

 

白目を剥いてぶっ倒れたアイズを見て狼狽するティオナに、レフィーヤが追い打ちをかけた。多大な精神力の浪費は、とっくに彼女の肉体の限界を超えていたのだった。

いきなり呂律を絡まらせたと思うと、そのまま倒れて人事不省に陥る後輩。寝っ転がる二人に挟まれて、ティオナが頭を抱えた。

 

「うわーーーーーっ!ロキ様ーーーーーーっ!どおしよおおおおおおっ!!」

 

「あーもう!ほんと無茶しよって!」

 

嘆く『子供』の呼び声に眉をしかめてロキは走った。観客席の上でも今頃、傷が開いたティオネが、治療係によるキレ気味の処置を受けて悶絶している事だろう。

まあ、そんなでも、どうにか命を繋いだままこの苦境を打ち破ってくれたのだから、良しとしたいところだが……。

 

(誰かの企みでなけりゃ、素直に喜びたいんやけどな……)

 

テイマー達が治療の手を押しのけ、乾いた血溜まりに駆け寄っていた。無惨に切り刻まれた同胞の遺体を見る目に、生き延びた喜びは見えなかった。

 

「ん……」

 

後ろからの気配に振り向けば、ガネーシャが走ってくる場面があった。逝った『子供』を送る時までふんぞり返っているような輩でもないという事だろう。

 

「……」

 

「……」

 

無言ですれ違う。しかし、思う所は一つのはずだ。

この騒動の元凶を探し当てようという意思は……。

 

「……ふ、う」

 

祭りの終わりを知ったヒュアキントスは踵を返し、ため息を一つついた。

濃い時間だったと思う。レベル5の冒険者達との共闘は、この場を呼び込んだ神に売った恩よりも大きな糧を得られたと思いたい。死力を尽くす事の意味とは、瞬時の状況判断と連携、戦術の組み立て等……明らかに自分達を上回る技量の敵を打ち破る為に、打てる手の全てを尽くす事だと、ヒュアキントスは知った。

 

(我が神に捧ぐ頂は……遠い、か。まだ……)

 

レベル3という称号にはいつまでも満足してはいられないと、彼の中に小さな熱が宿っていた。レベル5の冒険者であっても綱渡りに等しい戦いを強いられた苦境を見せつけられては、優男ぶるのが常の彼であっても、戦士としての本能が疼くのだった。

弓を降ろして後始末に奔走し始めるガネーシャの眷属達を尻目に、一人、闘技場を後にするアポロンの眷属を呼び止める者は、居なかった。

 

「……はあ、面倒臭い事の始まりでなければ、いいんだけどね……」

 

職員に担架で運ばれるティオネは一言こぼすと、どっと疲れが湧いてきた。楽しい休日の筈が、まさかこんな騒動に巻き込まれると、どうして予想出来ただろうか?

見たこともない怪物。それらの迷宮外での出現。レベル5を超える実力。全てが規格外の出来事だった。

それを乗り越えるにあたって得たものも無かったでは無いと思うが……と、妹や同輩、後輩の奮迅ぶりを思い返す。その辺りで観客席から通路に入り、陽が陰ると、急激に意識が薄らいでいった。

とにかく、疲れた。

 

(……団長に、なんて言おう……)

 

そうしてティオネは、眠りに落ちていった。

 

 

 




・弓を使うヒュアキントス
(6巻)ヒュアキントスがパリス役かーと思ったら全然弓使わねえでやんの!そのエンブレムは飾りか!?悲しいから捏造。

・凍らせて破壊
降誕の鳥退治以外で使う人は居るのでしょうか。



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尿

アニメ化すると聞いた筆者は、「書籍化にあたって変更されたプロローグが復活するのでは?」と期待しました。
儚い夢でした。






衝撃は石畳を伝って、強化ガラスを揺らした。同時に、街の一角に人々の悲鳴が上がった。

ベルは、叩きつけられた巨大な平手からヘスティアを押し倒すようにして庇い、道路を転がった。腕の動きに合わせのたうつ、枷から延びる鎖は毒蛇の牙のように危うくベルの身体を掠める。

淡い想いを寄せる少年の腕の中に抱え込まれる感覚に浸るような状況ではないと、流石にヘスティアもわかっていた。四つん這いになって顔を上げる。

陽を背に立つ大きな、何か。それは少なくとも、人間には見えない。

 

「な!」「!な!な!?な!」

 

その大きなシルエットは、正体を二人に理解させるより先に、また腕を振り上げた。

 

「駄目だ、神様!」

 

「うあっ!」

 

瞬時に立ち上がった眷属に突き飛ばされた主は、また転がった。今度は一人だった。

視界が空と街並みと石畳と、次々に切り替わる。耳が地面に擦れる音に混じって、何か、重い物がぶつかる音がした。それはヘスティアにとって、とてつもなく不穏な予感を与える音だった。

無理やりその場で手をつき、起き上がる。見たくないものがそこにあった。

 

「あぁああぁぐっ!」

 

怪物の右手に胴体を握られたまま掲げられる眷属の顔は苦悶に歪んでいた。ベルの身に着ける衣服に、レベル2相当の怪物の握力に抗する力など無かった。

 

「ベル君っ!?」

 

「オオオーーーーーーッ!」

 

怪物はヘスティアの悲痛な声をかき消す雄叫びを上げてから、渇望する寵愛を押しのけて手の内に割り込んできた不要物を苛立ち紛れに握り締め、それから地面に投げつけた。渾身の、力任せに。

 

「ぁがっ」

 

「あっ、あぁ……!」

 

硬い石畳にベルの小さな身体が跳ね返って少し浮き、それからごろりと地に臥す。動かない。

ヘスティアは目を見開いて、伸ばした手をわなわなと震わせる。一気に、頭の中は真っ黒く染まった。それを成したものの正体、それは、絶望と言った。

ジジジッ、と、鎖を引きずる音がして、影が小さな女神の身体を覆った。恐怖に満ちた顔が、陽を隠す者を見上げる。

 

『私を探して……私を、捕まえてみせて』

 

その声だけが、シルバーバックの行動原理を支配していた。銀色の女神の姿形など頭の中から消えていた。ただ、女神を探し求め、ここに来た。そして、見つけたのだ。ただ、それだけだった。

再び右手を振り上げる。もう、妨げるものはなかった。

 

「ぐえっ」

 

自分と同等以上の質量を持っている腕に高速で掴み上げられたヘスティアは、その一撃で肺の中の空気全てをひり出させられた。意識が一瞬飛ぶ。避けるどころか、自分の身に何が起きたのか、理解する事すらも危うい、それほどにか弱い存在だった。地上における、神というのは……。

肩から下すべてをすっぽりと手に収められたヘスティアは、ぎゅう、と締めあげられる苦痛ですぐに我に返った。

 

「うっ、ああ、ぅあぁあああっ!!」

 

「オオオオオオーーーーーーーーー!!」

 

遂に求めるものを手にした喜びを全身で表すシルバーバック。天に掲げる右手の中の神の悲鳴など聞こえはしない。何故、それを求めていたのか、手に入れて、何をしたかったのか。そんな疑問は、今の彼の頭の中には存在しない。ただ嬉しくて、その巨体で小躍りまでしている。既にその存在が現れた瞬間からパニック状態となっている周囲の人々の目には、餌山の中に立って威嚇する猛獣そのものの姿にしか見えないが。

 

「ぐぃぎ、ぃぎぎぎぃぃ……」

 

息を止めて全身に力を入れても、全く解けそうにない。それどころかどんどん自分を握る力が強くなるのを身を以て理解するヘスティア。自分の持ち主は獲物を気遣う繊細さなど鼻糞ほども備えてはいないという、見た目通りの存在だとも痛感していた。このまま自分の全身の骨が砕けるのは、既に時間の問題だろう。しかし、そんな事などヘスティアは全く恐れていなかった。今の彼女の頭を塗りつぶす定まりきった未来への恐怖と絶望は、まるで別種の懸念に端を発していた。

 

(このままだと、このままだと……っボクはっ……!!)

 

神は死なない。絶対に、死なない。地上のいかなる存在であっても、神を殺すことは出来ない。傷つけることは出来ない。それを為そうとした時、地上で何の力も振るえないか弱い存在は、天上の住民へと変貌するのだ。何者も触れ得ざる絶対者へと。

その瞬間、地上の全てと隔絶した存在になる。

神は、在るべき場所へと帰るのだ。

その、当の神が何を思うのかに関わらずに……神は、地上から去る。それが、定められた律だった。

そして天界に帰った神は、地上の如何なる災厄とも無縁な、平穏無事な生活に戻るのだ。そう、地上の如何なる生命、事象とは、一切の繋がりを断たれたまま……。

 

(イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ!!)

 

狭まる空間により、腕が胴体に押し付けられる。その中にあっても、ヘスティアは指に嵌るリングの存在を決して忘れなかった。縋るように、その感触へと意識を集中させる。それが、この危機を脱するにあたって何の意味もない事と知りながら……。

けれども、彼女にとってそれは、確かな……何よりも意味を持つ行為だった。

地上から去れば、もう二度と、それに触れる事は出来ないのだから。

 

(い、や、だ…………)

 

もう二度と、ベル・クラネルに会う事は、出来ないのだから……。

 

「ッエ゙ホッ」

 

最後の一息が、気道から絞り出された。もう、息を吸うことも出来ない。みしみしと、全身の骨が軋む。

痛い。

苦しい。

……そんなもの、彼女にとって、意味など持たなかった。肉体を襲う苦痛によって、訪れる絶望を贖えるというのなら、幾らでも耐えられると彼女は確信していた。

真っ赤な顔に二筋、閉じられた両方の眦から涙が流れ落ちる。

 

(こ、ん、な……こ、れ、で、……さ、い、ご、な、ん、て……)

 

悲しみだけが残った。

視界も意識も、何もかも闇に溶けていく中、彼女は、その名を呼んだ。

何よりも愛しい、たった一人の眷属の名を。

 

「ベ、ル……く、ん……」

 

 

--

 

 

 

そこが何処なのか、彼にはわからなかった。周囲の風景は泥流の中にあるように濁り、入り混じり、目まぐるしく変化する。

硬い地面を踏みしめて立つ彼は、今自分が何をしていたのか、何をしようとしていたのかすらさえも定かではなかった。

戸惑い、狼狽するだけの彼の耳に、その声が届いた。

 

『――――!――――!』

 

『!?』

 

振り向く。切羽詰まった声。遠い所から聞こえたようにも思えるし、すぐ傍から発せられたようにも思える。どうしてか聞き逃したその声の元へ向かおうとしたくても、どこに行けばいいのかわからない。

焦燥が彼の中を満たす。

行かなければ……。

 

『―――て、―すけて!』

 

『!!』

 

再びの声。今度は、はっきりとわかった。その声のした方向へ、矢も盾もたまらずに、走る。一直線に。

 

『――――助けて!――――助けてーっ!』

 

「おおおおおおっ!」

 

前のめりになり、腕を大きく振って、大股で地面を蹴り走る。行かなくては……早く、早く、早く。逸る気持ちが雄叫びを上げさせる。いや、それだけではない、その声を上げさせた感情は……。

 

『――――、助けてっ!――――ーっ!』

 

『待て、待てええええええっ!』

 

思いの丈を全霊で吐き出し、その声の元へ更に走る!絶対に、絶対に取り戻さなければ。何としても。

そう、彼は知っていた。自分に助けを求めている声の正体を。

それを捕らえている者の正体を――――。

影が、現れる。

大きな影。

とてつもなく強く、

すべてもひれ伏させる威を放つ、

この世の如何なる者に対しても恐怖を抱かせる、その影。

それは彼が、絶対に倒さなくてはならない存在だった。

何を犠牲にしてでも……。

 

『その子を、離せえーーーーーっ!!!!』

 

彼を突き動かす怒りは、彼の抱く矛盾を覆い隠していった。

全てを失ってなお、守るべきもの、取り戻したいものに囚われているという矛盾を。

 

『おあああああああああーーーーーーーーーーーっ!!!!』

 

影に向かって、地を蹴り飛びかかる。

あまりにも強大な存在に挑む無謀さへの躊躇など微塵も無かった。

ただ、怒りだけがあった。

どんなものでも決して贖えない、底知れぬ怒りだけが、彼を支えていた。

それはきっと、世界の全てを滅ぼしたとしても、決して消えないものだった。

もう、彼の目には、影の手の中にある光など、映ってはいなかった――――

 

 

--

 

 

「ンギャアアッ!!」

 

「っは、あっ!」

 

大きな悲鳴を聞いたと思った瞬間一気に手の力が緩められたヘスティアは、わけも分からず生理的な反応に従い、肺に空気を送り込んだ。次いで、宙を落下する感覚に囚われる。

 

「あいたっ!」

 

どてん、とお尻を石畳に打ってそのまま身を転げさせる。何が起きたのかと振り向くと、そこには、彼女にとって何よりも大切な……そして、この地上におけるどんなものよりも断ち難い未練として存在する人間が、居た。

ベルが地を掠める低さで振り被って突き上げた右の拳は、シルバーバックの生殖器官のある部分を的確に、打ち抜いていた。体内に収納されているとはいえ、外皮にほど近い内臓を、思い切り。

 

「ベっ、エ゙ッ、げっほっ、エ゙ホッ!」

 

その名前を呼ぼうとしてえづくヘスティア。あと一瞬、解放されるのが遅れていれば、彼女は文字通り天に召されていただろう。それほどに締め付けられた身体のダメージは、まだ抜けきっていない。

けれども、主の様子など眷属はまるで省みなかった。首を上げるベルが見ているのは、目の前の敵だけだ。

腹の中を揺らす耐え難い苦しみと激痛で昂揚から目覚めたシルバーバック。そして、気付く。それを齎した者の存在に。

小さな人間。握り潰すも、踏み潰すも容易い、取るに足らない獲物に過ぎない筈の……。

白猿の思考は一瞬で屈辱と憤怒に染まった。

 

「ッッガアアアアアーーーーーーーーーッッ!!」

 

一切の手加減もない拳骨が、股ぐらに陣取るベルの頭蓋を砕き割るべく振り下ろされる。しかし真っ赤な瞳は迫る拳の速度を的確に見切っていた。

シルバーバックの視界から少年の姿が消えた。石畳に罅が走る。

 

「!?」

 

獲物を見失った怪物が瞳を左右に振る。それが、致命的な隙だった。頭皮が後ろ向きに思い切り引っ張られる痛みで、彼は全てを悟り、急いで振り向く。

そこには遠巻きに怯えた様子でこちらを見つめる、貧弱な獲物たちばかり……しかし、その中から驚嘆の声が上げられていた。前屈気味の姿勢を保つシルバーバックの背に一息でよじ登る少年の姿を眺めているのだ、人間達は。

痛みが緩んで、代わりに背を踏む感覚が生まれた。これ以上好きにさせる事は、檻から解き放たれ野生の矜持を取り戻しつつあったシルバーバックにとって、許容せざるに過ぎる屈辱だった。

 

「グォララアァッ!!」

 

背筋を思い切り反らし、両手を頭の上に伸ばす。今まさに自分の頭頂部に到達した小癪な人間を振り払い、あわよくば再びこの手の中に収め、そのまま五体を引き裂く為。

しかし、それは果たせない。シルバーバックはそのまま空振った両手を頭上で打ち合わせた。手拍子が街の一角に響き渡る。

 

「ああ!」

 

紙一重で、自分の肉体を砕く一撃をすり抜けたベルは、シルバーバックの額を蹴り、空中に躍り出た。その姿を認めてヘスティアはただ、驚愕するだけだ。あの、初めて会ったあの日……行く宛無く心細そうに道路の端を歩いていた少年は今、歯を食いしばり、真っ赤に瞳を燃やして、どう見たってレベル1の冒険者が相手に出来るはずのなさそうな怪物を見下ろしている。

……その片手に、自分が蹴り捨てた相手の、長い銀色の後ろ髪を掴んだまま。

ベルの狙いは、戦士としての心得など芥ほども持たないヘスティアにだって、容易にそして瞬時に、理解出来た。

 

「せえええああああっ!!」

 

「ガォヴッッ!!」

 

地面に落ちゆく重量物によって無理やり脳天越しに引っ張られた後ろ髪は、そのまま頭皮で繋がる額を道路に叩きつけた。

掲げられた両手と伸ばされた背筋では一切の受け身も取れずに、大猿の頭蓋は己が重量による衝突エネルギーを思い切りぶつけられる。

鈍い音を上げる衝撃は怪物の見当識を一瞬、完全に奪い去った。そうでなくても脳を揺らすダメージは暫く残り、駆け出し冒険者が自分の主を抱えて逃げるだけの時間を稼ぐのには、一連の攻撃の成功は充分過ぎる成果を上げたと言えた。

そう、ヘスティアは、そう思ったのだ。

 

「……っ!べ、ベル君っ、このまま逃げっ……」「うおおおおっ!!」「!?」

 

女神の提案は、少年の掛け声に食われあっという間に途切れた。

ベルはシルバーバックの髪の毛を両腕で掴み、未だ地を舐める顔を力任せに持ち上げる。白目を剥いて鼻血を垂らした大猿の、半開きの口までもが見物人の目に映った。

目の前で何が起こっているのか、自分の眷属は何をやっているのか、ヘスティアの脳は一瞬、理解を拒否した。少年の腕から胸に至る筋肉の興りが、衣服の上からでもはっきりと見えていた。

横顔を向けているベルの双眸。それは今刃の如き鋭さを象り、頭から流れ落ちる一筋の血が左目を跨いで、瞳を更に赤く染めていた。彼は自分の腕の中にある敵の事だけを見ていて、他の何かを考慮する隙間など一分足りとも残っていないように、ヘスティアには思えてならなかった。

それは、正しかった。

 

「はああああアアアーーーーッ!!」

 

石畳に、怪物の顔面が再び叩きつけられる。何かが潰れる濁った音とともに、僅かに赤い液体が飛び散った。

 

「ッ、ッバッ!!グォガッ!!ガギャアアッ!!」

 

意識を呼び戻す衝撃で顔を上げ、シルバーバックは何が起きているのかもわからず本能的に四肢を動かす。自分が今、うつ伏せに倒れている事すらも理解するのにままならない有り様の怪物に対し、ベルはその顔の正面に陣取った。

視界に映った存在の正体に気付くより先に、その人影が足を振りかぶるのだけをシルバーバックは理解した。

 

「ヴギェ……ッ!!」

 

「…………っ!」

 

ばらばらに広がった後ろ髪の一房を掴んだまま、ベルは鉄板入りの爪先をシルバーバックの鼻っ面に渾身の力で蹴り込んだ。軟骨を砕く音はヘスティアの耳にも届き、その露骨に凄惨な光景と合わせて、彼女の身を強張らせる。

戦慄が女神の身体を覆い尽くしていた。あの、優しく、穏やかで、少しアプローチをするだけで顔を赤らめて慌てる純情な少年の姿は、どこにも無い。

目と鼻の前で、一片の躊躇も見せずにこれほどにも残虐で容赦の無い戦いを演じる戦士が、自分の知る眷属と本当に同一の存在なのかどうかという、現実逃避じみた疑念さえ、彼女の中に芽生えていた。

そしてそれは、ほんの少し前に抱いていた、ある懸念……恐怖を再び思い出させる呼び水として、充分過ぎた。

あの、どこまでも不穏な、刻印として現れた文言への、拭いがたい恐怖……。

身体を小さく震えださせる主の姿など一瞥もせず、ベルは怪物の顔の中心に少し埋まっていた爪先を引き抜いた。血液が断続的に吹き出す。再び急所を打ち抜かれた痛みと、酸素の交換機能の低下で、シルバーバックの思考は更に錆びつく。この苦痛をもたらす存在の認識と排除よりも、とにかく身を起こして体勢を立て直すという消極的な判断を選ぶほどに。

 

「ン゙ア゙ァッ、ン゙バッオ゙!」

 

顔をそむけて地に四肢を押し付け、身体を持ち上げようとした瞬間、首が上がるのを妨げる力に気付く。違う、それは、前髪を掴んで引き寄せているのだ。ぎりぎりと頭皮を伝わる、そのまま剥ぎ取りそうなほどの凄まじい力。やっとシルバーバックの双眸が、眼前の存在に照準を合わせた。自分の顔の横に立つ、その人間。

下がった口角。噛み合わされた白い歯。深く谷を作る眉間。そして、何より。つり上がった真っ赤な目が、燃えていた。

全てを焼き尽くそうな程な業火は鋭く、そして、どこまでも、それを向ける相手に対し、冷たい。……永遠に溶けない氷を地獄の炎で包んでいるような、瞳の色……。

シルバーバックの中に、ある感情が生まれた。

人間の口が、大きく開かれ、その奥から声が絞り出される。

 

「おおおオオオオオッ!!」

 

「ッ、ア゙ア゙ッ……!」

 

恐怖という感情を理解した瞬間、シルバーバックは、反射的にそれを振り払う為に、渾身の力で右腕を振るった。反射的な行動は相手の回避運動やそれを考慮した軌道など全く持たなかった。けれども、だからこそ、それはベルにとって極めて有効な、意識外からの完全な不意打ち足り得たのかもしれない。

 

「ッグぅっ!」「ゲア゙ッ!」

 

右手のひらに思い切り叩いた獲物の感触が伝わると同時に、真横から与えられた下顎への凄まじい蹴撃で生まれた振動によって脳を頭蓋の中に叩きつけられ、シルバーバックは意識を失った。

しかし盲打ちの一発を貰ったベルも無傷とはいかなかった。大猿の手のひらの、小指側の厚い側面で殴られた少年は、道路の反対側の本屋の軒先にまで転がりながら吹っ飛び、そこで両膝をついて止まった。

 

「ッ……、ッ……!」「ベ、ベル君!」

 

頭を下げたまま、ダメージで震える足を堪えている眷属の姿に、ヘスティアははっとして、立つこともまだおぼつかない足に鞭打ち、ふらふらと駆け寄った。

 

「ベル、君っ……もういいっ、もう、充分だ!逃げよう、逃げるんだっ!」

 

その肩に手を乗せて、懇願じみた制止を呼び掛ける。地に這いつくばろうとするのを必死で押し止めている様のベルの身体は近くで見れば、あちこち衣服は擦り切れ、そこから血が滲んでいた。武器も防具も何も無く、レベル2相当の怪物相手に二発の直撃を貰ってこの程度で済んでいるのは、類稀な幸運と言うべきだ。片や、その怪物は今、尻を突き上げた間抜けな格好で身を横たえ、白目を剥いていた。

自分の眷属がとんでもない快挙を成し遂げたのだという事くらい、ヘスティアにだって理解できた。レベル1の冒険者など容易く捻り潰す強さを持つだろう存在を、丸腰で相手にしてここまでやったのだ。周囲から俄に湧き上がりつつある歓声は、彼女の確信を証明しているようだった。

 

「あ、あんた達、大丈夫か??手が必要か?」

 

観衆の一人が恐る恐るとした様子で主従に声を掛ける。純粋な気遣いと、慈悲の欠片も無い戦いを見せた者への畏怖の混じった声だ。しかしどうあれ、手を貸してくれるのはヘスティアにとって有難い事だ。彼女自身、まだ大猿に絞め上げられたダメージが抜けきっているわけではなかった。

 

「今、ギルドに行って、助けを呼んだところだ……さっさと逃げたほうがいい。素手じゃあ、あれが限界だろう、その子だって」

 

「あ、ありがとう。ベル君、ほら……っ!?」

 

ヘスティアとは反対側の肩を貸そうと、男が屈んだ。しかし、彼の思惑は果たされなかった。ぐん、と首を上げるベル。そう、あの凶相を全く変えずに、倒すべき敵だけを目にいれたまま。その仕草を見た瞬間、主は眷属の次の行動を理解した。ぞわっ、と首筋に走る悪寒が、彼女に自分の果たすべき使命を呼び覚まさせた。

 

「ちょっと、おい!君、無茶だ!!」

 

男の手に構わず、石畳についた手に込めた力の反動でベルは大きく足を踏み出した。そのまま地を蹴る彼がシルバーバックに追撃を入れられなかったのも、その腰にかじりついたヘスティアの判断あってこそだ。

 

「駄目だっ、駄目だっ!!ベル君っ!お願いだ、目を覚ましてくれ!!もう帰ろう、……ベル君!!」

 

声は全く、届かない。

悲しいほどに無力な神の姿があった。

周りの事など見えも聞こえもしない少年は、全力で足腰を踏ん張る主の身体を引きずって、一歩、一歩と足を踏み出す。その先に待つ、倒すべき敵のもとへと。その光景はまさしく、先の闘技場において繰り広げられたものの再現だった。

少年の発するただならぬ威容と、顔を真赤にして、細い腕に血管を浮き出させ止めようとする少女の姿に、一種鬼気迫る異質な空間が形成されているような違和感を、傍から見る男は覚えた。未だ意識を取り戻していない怪物が暴れていた先ほどとは違う、更に切羽詰まった様子の雰囲気に。

 

(イヤだ、行っちゃ駄目だベル君、こんな戦い方じゃ……違う、このままじゃ、君は……)

 

言い知れぬ不安がどんどん膨らむ。それは、少年の身を案じての事だけではなかった。思い起こされるのは、あの刻印。

激しい怒り。黎明の幻影。比類なき力。逃れられぬ運命――――。

そして膨らむ、消えない恐怖。彼が知らない何処かへ、ただ一人行ってしまう事への恐怖。……取り残されてしまう事への恐怖。

しかし……それ以上にヘスティアは、彼が行くその先に待ち受けるものに、直感的な確信に基づく恐怖を抱いていた。

 

(……きっと、とてつもなく恐ろしい事を……何か、取り返しのつかない、決して、贖うことの出来ない過ちを犯してしまう、そんな気がする……!!)

 

その予想には何の根拠もなかった。強いて言うのならば、今の彼の尋常でない様子だけが、その予想を単なる誇大妄想と決めつけられない状況証拠たり得ていた。人が変わったかのような、という比喩どころではない変貌ぶりは、平素のベルの姿を見知る者に対し、己が目を疑わさせるのに充分すぎた。

切なる主の思いなど無意味だった。ベルは一歩、また一歩と足を踏み出していく。その度にヘスティアの身体は上下に揺れ、深い絶望感と無力感に打ちのめされた。

どうしよう、どうすればいい?

どうすれば、止められる?

どうすれば、目を覚まさせる事が出来る?

目を……。

 

「…………!!」

 

ヘスティアは、導き出した結論を実行するのに、一切躊躇しなかった。

坂道を転げ落ちる馬車を必死で引くような不毛さを持つ行為を止める。引き留める力が一瞬緩まった事で、ベルの足が変速する。全ては、目の前で地に臥す獲物を屠るために。

しかし、彼女の出せる精一杯の力は、その小さな身体を無理やり、ベルの身体の前に滑りこませる事に成功した。

胸にしがみついた自分に対し目もくれない眷属の様子は、ヘスティアに例えようもない悲しみを与えた。けれども、感傷に浸っている暇など、無かった。

ヘスティアは、意を決した。右手を振り上げ――――

 

「――――ッッ!!」

 

乾いた音は、いやに鮮やかに、周囲に響いた。

同時に、少年の歩みは、止まった。

左手で胸ぐらを掴んで振りぬいた右手をそのままに、ヘスティアはベルの瞳を真っ直ぐに見つめていた。

衝撃で傾いたまま呆け、丸くなった、赤い瞳を。

それはゆっくりと、身体の正面に立つ者に、焦点を合わせた。

彼にとって、何者にも代え難い存在に。

 

「…………え……?……神様……?」

 

突如、それが出現したようにしか、ベルには思えなかった。彼に見えていたのは真実、唐突に現れ、主を傷つけようとした敵……憎い、何よりも、自分の中の憎しみを煽り立てる存在だけであって……。

 

(……え?)

 

ベルはふっ、と顔を上げる。数歩先にまで迫った、その身を地に横たえるシルバーバックの姿。

自分が倒した。……倒した?

違う。

 

(……まだ、生きている……)

 

黒い何かがベルの視界を、思考を覆い始めていく。

瞬間。

 

「ベル君っっっっっっ!!!!」

 

いよいよベルの襟を両手で掴んだヘスティアは、自分の残った力全てを声に変えて放出した。これで力尽きてしまい目的を果たせなくなるかもしれないだとか、もはや立って歩く事も叶わなくなるかもしれないだとか、そんな懸念など無かった。これでも眷属の心を呼び戻せないのだとすれば、もうヘスティアは何も必要としなかったのだから。

全てをなげうった声はやっと少年に対し、今また自分がつい先刻と同じ失態を演じていたのだという事実を自覚させた。それは底抜けの絶望感を与える冷たい首枷でもあった。

身体を硬直させたベルの目の中に、彼の自分自身への失望と激しい狼狽、声のない慟哭があるのをヘスティアは確かに見た。

今しか無い。

眷属が今一度悲嘆に沈むのを、座して見守り慰める事などヘスティアはしなかった。

使い果たした筈の力が再び、彼女の肺を膨らませた。

 

「逃げるんだっっっ!!」

 

「…………!!」

 

ベルはやっと、何もかもを悟った。自分自身をしこたま殴ってから全身をバラバラに引き裂いて殺したくなる衝動を抑えこむために、割れそうなほどに歯を噛み締める。少し腰を落としてから、自分にしがみつく主の肩と膝の下にそれぞれの腕を通して、一気に持ち上げた。

軽い。

それは、羽根のように軽かった。

そして、そのまま彼の心臓を押し潰してしまいそうに重かった。

 

「ッ…………!!!!」

 

走った。

飛ぶように地を蹴って、道路を駆けて行く。

 

(逃げるのか?)

 

走る。

ただ走る。

 

(逃げるのか!)

 

黙って走る。

ひたすら走る。

 

(敵から背を向けて、逃げるのか!?)

 

何も言わずに自分の身体にしがみつく、暖かく柔らかいものの感触だけを思って。

今も頬に残る痛みだけを思い出して。

 

(戦わずして、恐れをなして、逃げるのか!!?)

 

「あああああアアアアアーーーーーーーーーーーーッッ!!!!」

 

「…………っっ!!」

 

都市に響き渡る咆哮を上げて、少年は走った。

その肩にただ顔を埋める女神は、きつく目を閉じ、眷属の首に固く手を回して、ただ、一刻も早くその場所にたどり着けるよう祈った。

二人の帰る場所。

あの小さな神殿の、小さな部屋へ。

決して、何が起ころうとも……世界がこの瞬間滅びようとも、今自分を抱いて走る少年から離れまいと誓いながら。

正体のわからない恐怖と戦いひた走る少年の孤独を、少しでも紛らわせられるようにと、願いながら……。

 

 

 

--

 

 

 

「おっかねぇな、冒険者ってのは……」

 

脱兎の如く走り去った影を見失ってから、男は零した。先程まで繰り広げられていた戦いの喧騒。その中心に居た少年の顔を思い返し、彼は今一度、肝が冷えた。背丈からして自分の半分ほどもあろうかという齢で、武器も持たずにあの身のこなし。見上げる巨体を前に一歩も退かずに怒涛の連撃を叩き込む少年の凄まじい形相。

思い返すにつけ、つくづく住む世界の違う住人だと改めて思った。そんな者にこそ自分の生活は支えられているとも自覚はしていたが、これほど間近で見せつけられる機会は初めてだった。

 

「あんな毎日じゃあ、そうそう身も持つかねえ……」

 

必死で縋りついていた可愛らしい少女こそが、あの少年が忠を捧げる主なのだろうとも気付いていた。故に、少女への同情も抱く。あれほどに気を揉ませるような戦いを繰り返すようじゃ、どちらも早晩寿命が擦り切れてしまうに違いない、と。

 

(まあ、関係ないがね)

 

彼はただの野次馬の一人だった。ほんの少し、その場に居合わせた面々よりも、好奇心が優っていただけの……。

ともかく、これ以上ここに留まる理由は、彼も持っていなかった。やがて、後始末をつける連中はやって来るだろう。邪魔にならないうちに退散しようと、彼は振り返った。

壁があった。

 

「は?」

 

突如現れた障害物の正体を確かめるより先に、彼は全身を襲う衝撃で意識を失った。

冒険者ですらない一人の人間は、そのまま、立ち並ぶ商店街の、防具屋の軒先の陳列棚に飾られた防護服の中に突っ込み、微動だにしなかった。

道を阻む小石を払いのけたシルバーバックは浅く口呼吸を繰り返し、真っ赤に充血した目を見開いて、道路に残る足跡を見つめた。

黒い、右足の爪先の形だけが点々と続く、血の跡。

再び街の一角は、人々の悲鳴で満たされる。しかし、それを呼び起こした者は、煩わしさなど覚えなかった。

彼の中にあるのは、全身をぐつぐつと煮えたぎらせる激しい怒りだけだった。

鳴き声も発さずに、巨体は四つん這いになって、鎖を引きずって真っ直ぐに走った。

あの、白い、小さな者に対し、今自身を満たす激情の全てを叩きつけるべく。

その脳裏からはもう、銀色の女神の存在など、残滓すらもなく消え去っていた。

 

 

 

--

 

 

 

 

ヘスティアは今度こそ、眷属に対してかける言葉が見つからなかった。ホームの扉を開いて、ベッドに主の身体を降ろして、それからベルは俯いて立ち尽くしていた。両手の拳から血が滴り落ちていた。シルバーバックの不意打ちで残る全身の鈍痛などよりも、ずっと癒しがたい痛みが彼の胸を冒していた。

かつてないほどに、彼を今苦しめている彼自身の愚行を諌めれば、それが僅かな救いになるかもしれない。しかしどうしてもそれを出来ないのは、単なる甘さなどではない。

今日二度も見せたあの、心優しい少年の全てを支配して突き動かしていた何かの事を思えば……。

 

(……やっぱり、あの刻印だ。絶対に、おかしい。単なる強さだけじゃない、もっと根本的な所が……)

 

ベルが演じた戦いは明らかに、冒険者になって一月も無い素人に出来る動きではないとヘスティアにはわかっていた……神の刻印によって成長していく身体能力とは違う。力や速さに任せたものではなく、頭の中で完成された独自の戦闘論理に基づく動きだ。敵の弱点を瞬時に見抜き、それを的確に突いて隙を作り出し、そこから更なる致命傷へ続く攻撃の機を呼ぶ。

……もしも、ベルの発現させた異常さがそれだけだったのならば、ヘスティアも或いは……なんとか、それこそが彼自身の中で目覚めた新たな異能なのかもしれないと許容する事が出来ただろう。

しかし、違う。

眷属を突き動かしていたものはそんなものじゃないという確信はもう、揺るがなかった。

まるで、彼という人格、意識を、彼ではない何かが丸ごと乗っ取ったような光景に、ヘスティアは底知れない恐怖を感じていた。

考えられる原因は一つしか無い。あの、彼の背に浮かび上がった、未だ目覚めるのを待たされている運命の刻印……しかし、と思う。

 

(でも、アレはまだ刻んでいないはずだ……なのに……)

 

あの時、真っ赤に輝く巨大な文字とともに、それは炉のエンブレムをかき消して、ベルの背中に浮かび上がったのだ。

予言じみた、不吉さしか呼び起こさない刻印……。

そこで、もしやの可能性が女神の中に芽生えるのは必然だった。

 

(……有り得るのか?神の力無しに、発現させるなんて……!)

 

一瞬で、その懸念がヘスティアの頭の中を覆い尽くした。

がばりとヘスティアは立ち上がって、ベルの震える肩を掴んだ。

 

「ベル君、脱いで!」

 

「……?!」

 

「はやく、背中見せてくれ!」

 

罪悪感と卑下、何よりも、訳の分からない衝動に身を任せ二度も主の事を忘れた今日の己自身への怒りに震えるベルは、突然のヘスティアの行動にただ困惑した。

そのまま、反抗も許されずにベルはベッドに引きずり倒されて、あちこち破れた上着を無理やり剥かれる。

未だに全身を支配する黒い感情の渦と主のただならぬ気迫によって、ベルは一言も言葉を発せないままだった。

そのまま眷属の腰の上に座ったヘスティアが、針を探すのも惜しく親指の皮を噛み切る。

滲んだ血が、少年の硬い背に押し付けられた。

溢れる光が漣となり、神の文字が浮かび上がる……。

 

「…………」

 

矢継ぎ早に指を動かし、ヘスティアは神の恩寵を発現させていく。力。速さ。器用さ。打たれ強さ。いずれも、あの恐るべき大猿との戦いによるであろう成長が見られていた。ここ数日のそれに比べれば、僅かな伸びしろではあったけれども。

ともかく、そんな瑣末な数字の多寡などどうでもいい。遂に本題へと辿り着く。空白のままの、発現を待つ運命の眠る箇所。

震える指で、その、未だ目覚めぬ運命の形に、ヘスティアは触れた。

赤い、血のように赤いその刻印が、音もなく、人間の背に現れた。

そして、ヘスティアは、見た。

再び、そこに現れた、運命の形を。

あの時見た文言に続いて綴られる、新たな文字を。

 

 

 

 

 

 

『目覚めを退ける事は叶わないだろう』

 

 

 

 

 

 

『その時を免れる事は能わないだろう』

 

 

 

 

 

 

 

『因果を覆す事は果たせないだろう』

 

 

 

 

 

 

 

『決して』

 

 

 

 

 

 

 

 

『何者も』

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――!!!!」「神さ――――?」

 

「ッッバァオ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙!!!!」

 

「!?」「わっ!」

 

部屋を揺るがす大音響でベルは跳ね起きた。その反動で不敬にも主を危うく床に転がす所だったが、そんな事にもベルは気づかなかった。声の持ち主を知っていれば、それほどの反応も見せた。

間違いない。どうして忘れられようか?ほんのさっきまで、その顔を突き合わす距離で聞かされていた咆哮の事を。

あの大猿は、自分を追ってここまでやって来たのだ。そう理解した瞬間、ベルの全身の筋肉の興りが皮膚に浮かび上がる。あたかも彼の身体そのものが、戦いを求めているかのように……。

行かなくては。

……倒さなくては。

…………今度こそ殺す。

ベルが一歩、踏み出した。

 

「……ッ!」

 

がたっと音がして、ベルの頭が一瞬で澄み渡った。振り返る。

床に座り込み、縋るような目つきを向けて、手を伸ばしかけている、小さな少女の姿……。

 

 

 

--

 

 

 

 

 

『……!お願い!』

 

 

 

 

『一人にしないで!……』

 

 

 

 

『行かないでーーーっ……!』

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

視界に一瞬だけ、何かが重なった。同時に、何かが、聞こえた。遠い何処かから、誰かの……。

――――身体中を這う黒い何かの感触を今、ベルは理解した。自分の心を容易く覆い尽くす……何か。

 

「ア゙ア゙ア゙ーーーーーーーーオオ゙オ゙ーーーーーーーーッッ!!!!」

 

再びの咆哮、そして、地響き、上から聞こえる倒壊音!それに突き動かされるように、ベルはヘスティアに駆け寄って、発作的に、小さな身体を包み込んだ。

 

「っは……っ!」

 

「…………!」

 

発作的な衝動だった。戦場へと急き立てる足を力づくで従え、体の奥から溢れる激しい戦意を振りきる程の。

細い肩に乗せる両手は、その中にあるものを決して傷つけまいとという繊細さと気遣いを持っていた。

少年の硬い胸板に視界を覆われたヘスティアは、再び眷属が我を忘れようとしていた事への不安を覆された驚愕で、何が起きたのか一瞬、理解が遅れた。

そして、鼻から頭の中に送られるにおいで、自分の置かれた状況を知る。濃い、汗と、血のにおい。激しい戦いの痕。彼の中に潜む何かの証……。

ずん、と、また部屋が揺れて、天井から埃が落ちた。びくりと二人の身体が震えた。それは、恐怖が引き起こした反応だ。しかし、ホームに乗り込んできた怪物に対してのものではない事は明白だった。

反射的にヘスティアは、ベルの背中に少しだけ腕を回し、捲られた状態からずり落ちていた肌着をぎゅっと掴んだ。瞼を閉じる。

怪物の憤怒の叫びも、どこか遠い世界のできごとに感じた。主従の間に無言の、一瞬の安らぎが、確かに生まれていた。

けれども……。

 

「ガア゙ァァーーーーーーーーーーーッ!!!!」

 

もう一度、部屋が揺れて、ベルはもう、悟ってしまった。

もう、駄目だ、と。

これ以上、ここに留まれば、いずれこの場所も探り当てられる。そうなれば、この小さな、ベルの帰るべき場所は、たった二人の住民もろとも、いよいよ蹂躙されるだろう。

たとえ命に代えようとも、それを座して待つ事は出来なかった。

自分がこの災厄を呼び寄せた以上、やることはもう、決まっていたのだとベルは思った。

……その認識は、彼の主も、また……。

自分の肩から眷属の手が離れるのを、ヘスティアは止めなかった。

止められなかった。

顔を上げ、大きな瞳は、ベルの赤い瞳と向き合う。その揺れる光に宿る葛藤と罪悪感は、どうすれば拭い去ってやれるだろう?

彼の背負った……或いは、その中に既に巣食っているのかもしれない巨大な、計り知れない何かに対しての憤りすらも、ヘスティアは抱いていた。

それが、神が一人の人に対して向けるには、哀れまれるべきほどの矛盾に満ちた思いだという事を、ヘスティアは知らなかった。

 

「…………ベル君」

 

一緒に行く事を眷属は望まないだろうということを知っていたヘスティアは、しかしそれでも、隙あらば彼を喰らいつくそうとするものから遠ざける術を、精一杯思案していた。

今、自分が差し出したものなど、ひょっとしたら、何の意味も持たない浅知恵ですらないのかもしれない、とも予感していた。

それでも、縋りたかった。

重ねた時は浅けれど、彼の贈ってくれたものに込められた思いに。

そんな、儚い希望が、真鍮のリングに嵌る翡翠を一瞬、煌めかせたのかもしれなかった。

 

「………………僕……は……」

 

「必ず…………」

 

震える喉から搾り出そうとした言葉が遮られた。ベルは、聞き苦しい釈明と懇願を飲み込んで、主の顔と、その前に掲げられる指輪を見つめる。

 

「約束、してくれ……帰って、これを……その手でボクに返しに、自分の足で……帰ってくる、って……」

 

一語、一語、噛み締めるように、紡がれる言葉。白く細い指がわずかに震えているのをベルは見た。

その決意のほどの片鱗を知れば、背くことなど断じて許されない使命と彼の心に刻み込まれる。

それは、あの恐ろしい衝動に身も心も委ねる事への楔でもあるという真意も。

かつて女神の目の届かぬ遥かな闇の底で、ミノタウロス相手に演じた蛮勇の結果……あれを上回る最悪な予想図こそが、自分を塗り潰す黒い何かのもたらす未来と、決して、忘れないように……。

 

「……守ります。必ず、ここに、自分の足で、帰って来ます」

 

目覚めたあの日、自分が立てた誓いを、再び口にする。

手に落とされた指輪の硬い感触は、偽りを看過せざる誓約の鎖とも紛う。ベルはそれを、右手の中指に嵌めた。

拳を握って確かめる。主から託された信頼の証を。

言葉もなくベルは立ち上がり、片付けられていた武具を取り出して素早く身に着けていく。いい加減に着こなし慣れてきた供与品達は、あのレベル2相当の怪物をここから連れ出すのに、どれほどの役に立ってくれるのかどうか、ベルにもわからない。第五階層で辛くも命を拾われた駆け出し冒険者の身では……。

棚の中の試験管をひとつ取り、飲み干した。身体に残っていた痛みが引いていく。馴染みの神の気遣いを思い出し、ベルは感謝した。残ったもう一本を腰袋のポケットに仕舞う。

 

「オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙!!!!」

 

細かい傷に覆われたナイフベルトを締めた瞬間、また、大きく部屋が揺れる。猶予の無さは明らかだ。

 

「―――――」

 

神殿の一階部分の荒れ果てようを想像し、ベルの中でざわりと何かが揺らめく。それは握った右手の中の感触ですぐに消え去り、本人の自覚を免れたが。

とにかくベルは狭い部屋の中を移動する時間さえも惜しかった。駆け足で、扉の前に立つ。

そして、振り向いた。

何も言わずにただ、戦いの準備をする眷属を見守っていた女神は、両手を腹の前で握り、図らずしも何かに祈るような姿を象り、ベルの事を見つめていた。

視線が交差する時間はわずかだった。

何よりも失い難い絆を手の中に感じるベルの瞳は、決意で固く引き締まり、主の姿を映す。

 

「ベル君」

 

「はい」

 

最後の会話だった。

 

「君が行く場所に待っているのは、とんでもない強敵なのかもしれない、けど」

 

「……」

 

「勝たなきゃ、生きて戻って来れない、なんて事だけは、考えないでくれ……」

 

「…………」

 

「逃げて、失う物なんか何も無いんだ。あれを片付ける動きも出始めているはずなんだから……」

 

ベルがシルバーバックと対峙せねばならないのは、この場所を守るためなのだ。何をおいてもここから奴を追い出して……あわよくば、本来この珍事を収める義務を持つ者と引き合わせる事が、彼の役目と言えた。

戦う必要など、無い……そう、主は眷属に対し、最後の忠告をしたのだった。

それが彼女に出来る、少年に潜む何かを退ける為の最後の力添えだった。

ベルは、黙って、力強く頷く。

そして、扉を開いた。

戦地へ続く暗い道の先の階段目掛けて、地を蹴る。

閉じていく蝶番も省みなかった。

獲物を探す大猿の地団駄で、把手が戻る音は、かき消されていった。

眷属の姿が扉に阻まれると、遂にヘスティアは床に膝をついた。

小さくなって、自分の両肩を抱いて、そこに残る少年の温もりを思い出した。

そして、ただ祈った。

天界の絶対者は、ただ、そうする事しか出来なかった。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

祭壇の奥から飛び出したベルの前には、無惨に荒れ果てた神殿の内装が広がっていた。申し訳程度に残っていた装飾や、朽ちてもなおその役目を保っていた椅子、机、棚。全てが破壊されていた。

辛うじて、石造りの祭壇だけが、その形を保っていた。

それを成さしめた者は今、ベルに背を向けて、神殿の中央に佇んでいた。

 

「…………ッッ!!」

 

心の中から湧き出す激情の奔流は少年を一気に支配しようとのたうった。帰るべき場所を滅茶苦茶にされた激しい怒りが、彼の身体を突き動かそうと急き立てる。

しかし、抜いたナイフを握る右手の中指を締め付けるリングが、彼に自身の役目を思い出させた。怒気を鎮めるように、静かに、深く息を吐く。

 

(こいつは、僕を狙って、ここまで来たんだ)

 

ならば、やる事は決まってる。あの木偶の坊を、外へ誘いだして――――

そう思案に耽けようとした瞬間、巨体が振り向いた。

 

「――――――――」

 

ベルの身体が、思考が、止まった。

白い体毛の中に浮かぶ、黒い顔面。引き結ばれた口元は、先程まで喉を潰すような怒声を発していたものとは思えない穏やかさを保っているように見えた。

しかし、そこから、シルバーバックが唐突に慈愛の悟りに至ったなどと読み取ることなど、どんな愚か者にだって出来ないだろう。

血走った血管で真っ赤に染まる、限界まで見開かれた両目を見れば。

己が対面したことのあるどんな人物でも発した事のない、果てしない怒りがそこに宿っているのだと、ベルは瞬時に、理解した。

祖父に幾度もぶつけられた叱責や、先日のエイナが爆発させた癇癪とも違う。

 

(死、――――?)

 

殺意。

底知れない憎しみの生み出すそれは、ただ散漫に、目についた者に襲い掛かる迷宮の怪物達の放つものとは、桁が違った。

まして、ベルがこれまで倒してきたのは、レベル1の冒険者ですら倒されるのも珍しい連中ばかり。

明確な指向性を持った、格上の存在にぶつけられる復讐心は、あっという間に少年の心を蹂躙した。

ぶる、ぶる、と、ベルの足が笑い始めた。本人の意思と関係なく。

 

「ぁ…………ぅ…………っ」

 

硬直した喉から意味のない声が漏れた。

悪寒が全身を駆け巡っていた。

 

(……!?)

 

そしてベルは、自分の股間が濡れているのに気付いた。

それが、レベル1の冒険者が、レベル2相当の怪物と対面した時の正しい反応なのだと、今ようやく、彼は気付いた。

全ては、遅きに失していたのだけれども。

 

「ア゙ーーーーーーーーーーーーーッッ!!!!」

 

咆哮は、凍り付いたベルの身体を打ち砕くように揺さぶった。瞬間、ベルは、手の中にあるその感触を思い出した。

片や遂に、遂に怨敵を見つけ出したシルバーバックは、狂喜と憤怒に全身を任せて、祭壇の裏に立つ人間目掛けて跳びかかる。

 

「うわあああああああああああっ!!」

 

悲鳴を上げ、ベルは身体を転がす。かつての彼を満たしていた戦意は、霞のように消え去っていた。

シルバーバックの振り下ろした両拳が、祭壇の上に立つ、半身を崩れさせ由来も知らぬ神像を粉々に打ち砕き、ベルの身体に破片を降らせた。

 

「ああああああああああああああっ!!」

 

恐怖が少年を突き動かしていた。それはかつて第五階層で見せた姿の再現だった。かつてない生命の危機。いや、それだけではない。

叩きつけられる激情の波に呑まれた事は、あれから幾分かは成長したはずの彼から、反撃や抵抗の意思を根こそぎ奪い去っていたのだ。

思考を満たすのは、逃避の一念だけだった。

バネが戻るように身体を起こしたベルは、全力で、出口に走る。破壊された両開きの扉から見える都市の光景へ向かって、彼の全身の筋肉が稼働する。

引き裂き、噛み砕き、磨り潰しても足りない相手が逃げていく姿は、祭壇の痕に立つ怪物の充足感よりも、虫を潰しそこねた屈辱を呼び覚ます。

 

「グッバァア゙ア゙ア゙ッ!!!!」

 

「ひいいいいいいいいいいいいい!!」

 

疾風を纏い走る彼の顔は、正面から吹き付ける風圧と、何よりもただ、後ろで吠える怪物に対する恐怖に歪み、涙と涎を止め処なく溢れさせていた。

あっという間に神殿の外へと脱出する事に成功したベルはしかし、何の安らぎも得られていない。後ろから迫る重い足音は、むしろ彼の生命維持本能を更に刺激する。

敷地から飛び出し、全身を傾けて曲がると、直後、角に巨体が激突する音が聞こえた。

振り向く事など出来ない。その瞬間、自分は死の招き手に捕らえられ、逃れられない終焉を迎えるとベルは知っているのだから。

なぜ自分は、あんなのを相手に立ち向かったりしたのだろうか?

なぜ自分は、あんなのを相手に逃げられると思っているのだろうか?

浮かんでは消える疑問について腕を組み考える時間など無かった。街の外れの路地を駆け抜ける捕食者と被捕食者のチェイスは、幾多もの曲がり角を越え、周囲の住民達に恐怖をばらまいていく。

 

「なっ、何だあ!?」

 

「怪物だ!!

 

「どうして街に現れるんだ!?」

 

「誰か何とかしてくれ!」

 

巨体が靡かせる鎖は、狭い路地を方向転換するたびに建造物に衝突し傷跡を残した。目的地などまるで念頭に無いベルの逃走劇の終わりがいつ訪れるのか、誰にもわからない。

しかしその終わりの瞬間の画は、誰にも明らかな想像が可能だろう。

小さな獲物を手中に収めた大猿が、怒りとともに握り潰すその光景は。

ベルの頭の中を占めるのは、未来への絶望だけだった。

 

 

 

--

 

 

 

なんだか、不穏な物音がスラム街のほうから聞こえていた。リリは嫌な予感がした。

そうでなくても、今日という盛大な祭りの日で浮かれている冒険者達から、少しばかりのお零れをちょろまかして回るのに勤しんでいた所で、何やら慌ただしく職員が闘技場の方角へ走って行くのを少し前から見かけている。

変な緊張感が街全体に漂っているのだ。娯楽など眼中にない彼女でも、周囲に意識を巡らせる人間が増えるのは好ましくない状況だった。

 

(何だっていうんですか……)

 

心の中で舌打ちをして、俯いたまま道路の端を歩く。その姿は、うだつの上がらないサポーターそのものだ。向けられる蔑みと疑念の裏をかいて幾人もの冒険者を謀ってきた食わせ者とわかる人間など、居ない。絶対に。

大きな背嚢を背負い直す。がちゃっ、と重い音がした。

 

(こう中途半端な時間じゃ、迷宮に行っても仕方ない、ですか……)

 

リリは、馴染みの骨董品屋に向かう事にした。幅広の道路を挟んで反対側に見える細い路地へ入るべく、一歩、踏み出す。

瞬間、彼らはリリの前に初めて、姿を現した。

遥かな古代より伝わる偉大な建築家の名を冠する薄暗い旧市街から飛び出す、小さな影。

 

「ああああああああああああああ!!!」

 

それを追って、構造物を肩で押しのけ、生み出す瓦礫もろとも道路に躍り出た巨大な影。

 

「ジャァア゙ア゙ア゙ーーーーーーーッ!!!!」

 

それが何なのかリリは一瞬、理解が遅れた。白い少年のシルエットは、その全体像を把握するより先に、彼女の鼻先を掠めて過ぎ去った。刹那遅れて風が吹き、リリのフードの下の髪を揺らした。呆然と、少年の背を見つめる。

 

「!?……っ!?、!?、!??!」

 

次いで、どどん、どどん、どどん、と、道路を重く鳴らす足音が、リリの足裏を通じて鼓膜に届く。振り返った瞬間、彼女は自分の愚鈍さを呪った。

その怪物の存在をリリは知っていた。レベル2相当の怪物だ。迷宮においても一度しか見たことのないそいつは、片手で数えられる数のレベル1の冒険者のパーティなど、まとめて物言わぬ肉塊に変えられる実力を持つ事すら。

シルバーバックは全力の四足歩行による追走の勢いを殺すのを許容して、獲物の前に立ちはだかる障害物を右手で掻っ攫った。

 

「っがは!!」

 

巨体の質量に、その四肢が生んでいた速度を乗じたエネルギーは、大きな背嚢で若干の軽減を経てもなお、ホビットの姿をした小さな生き物の抵抗を無くすだけの衝撃を持っていた。

立ち止まったシルバーバックは、ブラックアウトしているリリの身体を、背嚢ごと振りかぶる。

視線は真っ直ぐ、その先に在るのは愚かにも直線道路に迷い出た憎き獲物だ。

シルバーバックの口角が上がる。双眸は、目論見の成功を幻視していた。本能を優先して働く怪物の脳味噌も、今は足を動かして脅威から遠ざかる事しか考えていない人間の虚を突くのには、充分過ぎる出来だった。

 

「ッッヂャァァ!!」

 

その姿が現れてからパニックに陥る通行人達の耳に届く掛け声と、低い風切り音。物言わぬ投擲物となった少女の身体は、一直線に、目標へと向かった。

背を丸め、今にもつんのめりそうなほどに必死さを滲ませて走る、レベル1の冒険者のもとへ。

 

「ぐっ!?」「うげッ!!」

 

噴石のようにリリの身体はベルと衝突して、両者はごろごろともみくちゃになって道路を数秒転がり、止まった。それぞれの背嚢と腰袋の中身が周囲に飛び散る。

臥せり、衝撃に軋む全身。何が起きたのか、ベルは状況を考えるよりも、自分を覆う大きな何かを必死で押しのけた。人ひとり収まりそうな背嚢の下から這い出す。

その持ち主もまた、激突に脳を揺らされた事で意識を取り戻しており、慌てて身を起こした。

互いに図らず胡桃色の瞳と真紅の瞳は向き合い、困惑が走る。しかし誰何をする暇はどちらも持たなかった。……それどころか、目を合わせたその一瞬すらも、迫る大猿から逃れるのにあたり、致命的な隙と言えたのだ。

石畳を伝わる振動のリズムに気付いた時、シルバーバックの凶相はもう、道路の真ん中に座する二人が、開かれた口から覗く牙の一本すら見分けられる距離まで在った。それを認めた瞬間、ベルの身体は再び恐怖の虜になった……しかし。

 

(――――違う、狙いは僕だ。――――この子は違う!!!)

 

傍にある小さな身体の存在を理解したからこそ、そう思ったのだろうか。あるいは……彼の右手にある小さな絆の先にある者の事を思い出したからなのか……。

かっ、と目を開いたベルは立ち上がって、少女の前に陣取る。

 

「逃げてっ!!」

 

「あ、あっ!?」

 

既に中腰になっていたリリは、全てを察知し、頭を抱えて地べたに貼り付いた。

背嚢に潰されるようにうつ伏せになる少女の姿まで捉えずに向き直った瞬間、ベルの視界は、逆転した。

 

「ッぶっ」

 

自分の身体が宙に浮いているのだと、ベルは気づけなかった。振り上げ気味の軌道を描くシルバーバックの右の拳は、少年の腹に直撃していた。破裂した内臓は、即座に少年の口まで血液を送り込んだ。

すべては無意識の反応だった。防護服の緩衝効果など全く意味も成さず、その一撃は彼の意識を瞬時に刈り取っていた。握られていた短刀は、いずこかへ放り出された。

与えられたベクトル量によりベルの身体は、空中に吐血を散らしつつ大きな放物線を作り出し、その先にあった露店に衝突することで止まった。

商品を片付けている最中だった店主はとっくにその場を離れていたので、屋根と骨組みを破壊された以上の損失は無かった。

 

「ごボっ!」

 

迫り上がる血塊を再び、惜しげも無くベルは吐き出した。屋台の残骸の上に寝そべったまま、その四肢は全く動かなかった。視界はぐるぐると回り、ぼやけ、空の青い色すらも判然としない。

指一本も動かすことすらかなわない少年は、ずし、ずし、と、ゆっくり近づいてくる巨大な者の気配だけを理解し、必死で身体に鞭を打った。

 

(立て。立て。動け。動け!……逃げろ、逃げろ!)

 

真に迫る生命の危機は、すでに少年の身体を恐怖から解き放っていた。しかし、肉体はそうはいかない。無防備な腹に受けた拳の威力は、事前に彼が口にしていた魔法薬が無ければ、今頃ベルの意識を完全に絶っていただろう。ひょっとしたら、命さえも。

しかし、そんな幸運も今この状況を覆すには何の力も持たなかった。シルバーバックは、崩れた建材の上で苦しむ獲物の前で止まった。

躊躇なく、右手を伸ばす。それを妨げる者は誰も居ない。観衆は、これから何が始まるのかを全て、悟っていた。

少年を掴む大猿が目尻を下げ、歯を剥き出しにした恐ろしい笑顔を浮かべているのを見れば……。

次の瞬間、壊れた人形のような体で囚われたベルは、焦点の合わない目を大きく見開いた。

 

「あっっぐあアァァアアアアアアああぁあガアアアァァァアアッ!!!!」

 

悲鳴の痛ましさに人々は目を背け耳を塞いだ。シルバーバックの凄まじい握力がベルの身体にバキバキと嫌な音を上げさせた。少年が受けている責め苦は、先の主が受けたものなど、比べ物にならない。激しい恨みと憎しみに基づく握撃。全身を砕かれそうになる痛みに歪んだ表情は、シルバーバックの溜飲を大いに下げた。

その満面の笑みは、拷問を行う刑吏達がなぜ仮面を被るのかという疑問を抱く者に対し充分な答えを示していた。これほどにおぞましき愉悦は、決して人間が浮かべて良い表情ではないと神も断じるに違いない。

 

「ッ、ぼおッ、お゙えぇっ」

 

「!ッギッ!」

 

大猿の笑顔は、獲物の吐き出す大量の血液で曇った。左目が赤く塗りつぶされると同時に、多少は満たされたはずの復讐心は再び、燃え盛る。

 

「ガアアッ!!」

 

「がっ」

 

左手で目を擦りながら、右手は後方へと振る。投げ捨てられたベルは、石畳で顔面を打ち、その後、怪物の右手首の撓りを受け跳ねた鎖によって、背中を打ち据えられた。

地面との口付けのせいで鼻血を流している顔は、歪んだ。

 

「ぎゃ、……っ!」

 

背中側の防護服も突き抜ける激痛。否、それは比喩ではない。怪物が意図せず反射的な速度の手首のスナップを利かせた鎖は、鋼鉄の鞭となって文字通り、ベルの皮膚まで切り裂いていた。

人体の中でも最も痛みと衝撃に強い箇所で受けてすら、彼に立ち上がる意思を一瞬奪わせるほどの痛み。皮膚を伝って走る衝撃は、声すらも上げさせ難い。背筋が伸び、四肢が石のように強張る。痛みを和らげ逃す為の、無意識の反応である。

呑み込まれた悲鳴は、シルバーバックの耳に確かに届いていた。振り向き、うつ伏せのままぶるぶると細かく震え悶える人間の姿と、その上に伸びたままの鎖に付いた血、人間の背を切り裂いた跡を見て、彼の頭脳は素晴らしい名案を弾き出した。愚かにも自分に挑み、あろうことか地の味まで味わわせてくれた生意気で傲慢な生き物に対し、簡単に死をくれてやる慈悲など彼は持たなかった。

シルバーバックは右手で鎖を掴んだ。そして、手首の筋肉を律動させる。ほんの少しだけ、上下に動かす為に……素早く。

すると、鎖に与えられた力は、蛇が移動する際の姿勢にも似た形を保ち、そのまま、鎖の先端へと伝わっていく。

……その途中に居る、くたばりかけの少年の上を通過して。

 

「ぎゃあああっ!!」

 

今度こそ、ベルは悲鳴を上げた。うつ伏せのまま首から背筋までの脊柱をピンと反らして、大口を上げて絶叫する。道路の中央で生まれる光景の凄惨さには、遠巻きに見る人々も口を噤んで、恐れ戦くだけだ。しかし彼らは自分の命を代わりに差し出そうなどと思わない。それは賢明さと言われこそこそすれ、臆病さと誹る資格を持つ者等居ない。どうして、勝てるはずがない相手に挑む意味があるのか。

彼らは知らないが、今まさにその愚行の代償を支払っているのが、地に臥して鎖でしばかれる少年その人なのだ。

 

「ギャハアッ」

 

下劣な歓声を上げて、大猿は右手をまた振る。鎖が撓った。

 

「っぎいいぃっ!!」

 

少年の身体が跳ねる。裂けた防護服の中から筋繊維が覗いていた。痛みで握られる両手のひらは、彼自身の指が食い込んで血が流れだしていた。

背中側の留め金が破壊されて、身につけていた防具が石畳に落ちた。

 

(……立て、……立て!!)

 

痛みは意識を奪わなかった。肉体に与えるダメージ自体は、少ない。ベルは、やっと四肢に力を入れる事が出来るようになっていた。立ってどうする、逃げられると思っているのか、等、そんな疑問も抱けないほどに思考は鈍っていたけれども。

腹に力を入れる。血が迫り上がる。それでも、震えながら四つん這いにまで持ち上がる身体。

 

「ぐっ、ブフッ」

 

ベルは、産まれたての子鹿を象る姿から、全力で片膝をついてその首を持ち上げた。

まったく無駄な、抵抗とすら呼べない努力をあざ笑う大猿の顔があった。

振りかぶられる鎖を、毒蛇の姿のようにベルは幻視した。

 

「…………ッ!!」

 

反射的に左腕を盾に掲げ頭を下げた。それは確かに、彼の身体の皮膚をこれ以上切り裂かせるのを防ぐことは叶った。しかし、鎖を受け止めた下膊は、そのまま鉄の身体を持つ蛇によって一気に骨まで絞め上げられる。

破裂しそうな圧力を左腕に受けて、ベルは歯を噛み締める。鎖は封じた。

 

(それで、それでっ……!?)

 

続く策など無かった。ただ、痛みから逃れる為の行動は、何の活路も開かなかった。シルバーバックは嗜虐心を顕にした顔を崩さずに、鎖で繋がれた人間を思い切り、引っ張った。

未だ震えるベルの足では、大猿の引力に抗する事など不可能だった。少年は空を舞う。

手枷を中心に描かれる歪な半円軌道を辿ったベルの身体は、喫茶店の看板に背を叩きつけられた。長い半径と大猿の腕が生んだ角速度の生む破壊力を食らったベルの脊柱が破壊されなかったのは奇跡と言えた。

 

「ぐげっ……!お、ゲ、ぶっふ、ヴッ、ボォッ!」

 

破裂した内臓からまた血液が口まで吹き出す。びしゃびしゃ、と吐き散らされた血は道路に落ちるとすぐ黒くなった。それはあと片手で数えられるだけ繰り返されれば、彼の生命活動は停止するだろう量だとシルバーバックは本能的に察知している。一度でも辛酸を嘗めさせられた存在がその命を確実に減らしていく姿はまことに、彼を喜ばせていた。ぴくぴくと痙攣している瀕死の虫ケラを、しばらく見守るほどの悪趣味に目覚めるほどに。

身を横たえるベルの視界は闇に侵されつつあった。ここに至って、全身の力はどれだけ彼が立ち上がるのを望んでも空回り、壊れた風車のように錆びついて僅かに震えるだけだ。横向きに倒れたまま、ぼーっと、大きな影を見つめる。

潰れた鼻には息を通せず、血を流す口の端から、かひゅ、かひゅ、と、僅かな呼気を漏らす事しか出来ない。

 

(死、ぬ、……?)

 

痛みも苦しみも感じなかった。ただ、漠然とそう思った。

それはちっとも不自然な結果ではなかった。当然の帰結だった。むしろ、ここまで耐えられた事への驚嘆を呼びこそしただろう。

かつて天才アイズ・ヴァレンシュタインは、齢一桁にして冒険者の道を選び、一年かけてレベル2の座によじ登った。それは奇跡と讃えられた。

神に仕え一ヶ月にも満たない少年も、職員に聞かされたそんな逸話にか細い憧憬を抱いた事もあった。しかしどうして、そんな奇跡を自分が上回れるなどと思い上がれる?……確かに自分の使命は、逃げて、生き延びるだけで良かった。けれども本当に、それだけで済ましたくないという無謀な野心を抱かなかったのか?

……こんな怪物を相手に、どうして対等に戦えるなどと、思えたのだろう?

 

(……な、んで、……だろう……?)

 

ベルの頭の中は何故の一言で埋め尽くされる。脳の血が足りなかった。思考の中の時系列は乱れていた。今の彼の姿は戦った結果などではない。一方的な蹂躙を受ける贄に過ぎない。

彼の中に蘇っていた『戦いの記憶』とは、巨体の髪を掴んでその顔面を石畳に何度も叩きつけて、鼻の骨を蹴り砕く感触の事に他ならない。

 

(…………あ、れ、は)

 

そうだ、戦った。あの時の自分には、必ず殺すという決意があった。

……今は、違う。ただ恐怖に囚われて逃げ果せる事だけを目的に、無様を晒し尽くして――――その結果が、これだ。

 

(――――、?)

 

暗くなっていくベルの視界に、陽が反射するものが映った。ほんの少し、眼球を逸らすと、繋がれた鎖で浮く左腕と、胴に挟まれ無造作に投げ出される右手があり――――それを、ほんの少し伸ばせば届く場所に、それがあった。

彼の手から離れたはずの短刀。そして、腰袋から放り出された、ガラス管。

 

(――――!!)

 

まだ、瞼の力は失われていなかった。皿のように開かれた目で捉えられた、僅かな救いの糸口。

けれども、今のベルには、そこに手を伸ばす事すら出来ない。

 

(ち、畜生……!)

 

ほんの少し。

ほんの少しで、届くのだ。その蜘蛛の糸より細い希望の光に……。

あまりにも出来過ぎた話だと、自嘲する余裕など無かった。ただ、自分を呑み込もうとする死の導き手から逃れたい一心だった。

しかし、運命が彼にこの巡り合わせを用意したのだとするのなら、あまりにも残酷に過ぎると、この光景を見る者は思うかもしれない。

魔法薬一本で立ち直り、その貧弱な短刀一本だけを手に、戦え、と宣う者の意思を……。

ベルの虚ろな目は必死で、短刀のきらめく刀身を映し続ける事しか出来なかった。

 

(あ、あ、駄目、だ……だ、め、だ…………あ、れを……取らない、と……)

 

左腕に絡み付く鎖は逃走を許さず、散々痛めつけられた身体では立ち上がる事すらおぼつかない。そんな状況を受け入れられない現実逃避にも等しい願いも、どんどん霞んでいく。

赤い瞳は少しずつ焦点を失っていった。

涙が流れ落ちる。

無力感と、悔しさは、透明なしずくになり、横向きの彼の顔を伝って石畳に落ちた。

 

(…………だ、め……だ……)

 

視界の光は消えていく。闇は、ベルの全てを覆い尽くしていった。

ベルは、気づけなかった。消え行く彼の意識に残っているのは、戦いの意思だけだった。

 

(……た、立て……たっ、……て……あ、い、つ、を……)

 

そう、気付けなかった。

どうして自分がここに居るのか。

なぜ、生命を失うかもしれない戦場へと、自ら足を運んだのか。その疑問に。

右手の中指にある小さな輝きも、彼の目にはもう、映らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

粘着く闇の中に居るのを彼は知った。そこはどれだけ藻掻いても決して抜け出すことの出来ない、果てしなく広がる、深い、暗黒の海だった。

自分を引きずり込もうとうねる幾つもの渦を避けて泳ぐ。

水平線の果てにあるものを求めて……。

 

『――――っ!』

 

『……!』

 

声。か細い声。……彼はそこへ行かなくてはならないと知っていた。全身に力を込めて、タールよりも重く黒い水をかき分けて突き進む。

 

『――――っ、――――……』

 

『はっ、はあっ』

 

手足を漕いで、漕いで……どれほどの時間を経たのか。声は少しずつ、少しずつ大きくなっていく。

それが、彼の中に、一筋の希望の光を見出させた。

否、それは、真実、彼の目に映るものだった。

 

『っ、くっ、はあっ、はあっ!』

 

酸素を求めて息は激しくなる。あそこへ、行かなくては。何としても、行かなくてはと、全身が逸る。

水平線すらも定かではない闇の世界にたった一つだけ見える、小さな、青い灯火のもとへ……。

しかし、彼の努力もむなしく、四肢に絡み付く澱は、その動きをどんどん鈍らせていった。水は泥のように反発し、それはいつしか土のように固くなっていき、彼を阻んだ。

 

『ふっ、ぐっ……うっ、お、おおおっ!』

 

声を上げて腕と足を動かそうとしても、もはやかなわない程に、その黒い何かは彼の身体を縛り付けていた。

闇の中に身体が沈んでいく。彼を導く仄かな光もろとも。

 

『――――っ!…………っ!』

 

必死に呼ぶ声は、隔たる闇にかき消され、遠ざかる。歯噛みして手を伸ばしても、それは決して、届かない場所へと去っていくのがわかった。

伸ばした左手が縛り上げられる。黒く、固く、幾つにも連なった鎖。次いで、右腕にも同じように絡みついて、瞬く間に彼の動きは完全に封じられてしまった。

どんなに力を入れて解こうとも、それらは両側から彼の身体は強く引っ張る。張力は彼の全身にいきわたり、激しい痛みを与えた。

鎖はそのまま、彼を硬い何かに叩きつけた。ごつごつとした、岩肌のような壁面に。

 

『がはっ……!』

 

背骨を砕こうとする衝撃により、肺を絞った一声が出る。ぎりぎりと、鎖の引く力は強くなる。彼の両腕をいずれ胴から千切り取ろうと目論んでいるかのようだった。

彼を襲う責め苦はそれでもまだ、終わらない。

 

『ぐあっ!』

 

壁面を突き破って現れる、無数の干からびた手。鋭い爪を備えた、誰のものとも知れぬ手が、彼の身体を引き裂こうと掴み、ねじり、爪を食い込ませる。

自由を許さない戒めの中にあっても、彼は必死で身をよじって、抵抗を続ける。

諦める事など出来ないのだ。何が立ちはだかろうとも……。

首を掴もうとする指に噛み付き、その咬筋力と首の筋肉の働きによって、ひからびた腕を千切り、吐き捨てる。

手のひらを無くした手首から血が吹き出して彼の顔を汚した。

その血煙の奥に、何かが見えたのを彼は感じた。

そして気づく。断崖に縛り付けられる自分を正面から眺めている、無数の気配、視線を。

 

『…………!』

 

ぎらぎらと輝く双眸は幾つもの大きさと色を持ち、吊り上がった三角形を象りこちらへ向けられていた。

揺らめく歪な光。先の彼が望んで止まなかった、か細くも確かで、安らぎを湛えた灯火とは全く違う――――敵意、を宿した、憎しみの光。

 

 

 

 

 

死ね……。

 

殺す……。

 

よくも……。

 

痛みを……。

 

苦しめ……。

 

報いを……。

 

許さない……。

 

逃がさない……。

 

忘れるものか……。

 

 

 

 

 

 

 

――――恐れよ……!!

 

 

 

 

 

 

 

『ッ…………!!!!』

 

しかし、叩きつけられる念は、彼を臆させるどころか、その両腕にさらなる力を与えたのだ。鎖をその手に握り締めさせ、繋がれた何かを渾身の力で引き寄せる。

重く、硬い――――何か。彼と繋がり、決して離れることのないそれは、彼にとって、支配こそすれど服従するべき存在ではないのだ。

闇の住民達を睨み返す。この世の全てを切り裂くどんな刃よりも鋭く研ぎ澄まされた眼光は、彼の見る者全てに恐怖を与えた。

彼の身体を苛む何もかもも、もう何の枷にもなりはしなかった。

ただ、彼の中に、怒りが満ちていた。

この苦しみを与えたものへの。

この痛みを与えたものへの。

 

『う、おおおおお、おおおおおオオオオあああああああーーーーーーーーッ!!!!』

 

鎖が解き放たれた。

壁を蹴り、彼は更なる闇の中へ跳ぶ。

憎い。

全てが憎い。

目につく何もかも。

身も心も、魂も何もかも、その衝動に呑み込まれていった。

全てを、滅ぼすために。

彼を縛る何もかもを、消し去るために――――

 

 

 

 

 

 

『――――そうだ、忘れるな――――』

 

 

 

 

 

 

『――――全てを失っても――――』

 

 

 

 

 

 

 

『――――希望があれば、戦える――――』

 

 

 

 

 

 

 

どこかから聞こえたその言葉も、彼を覆い尽くす闇の中に、あっという間に、溶けていった――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

--




スパルタ人に学ぶ弱点講座

・金的
GOWシリーズでの主な被害者はサイクロプス。特に落日と降誕の場合ブレイズでザクっとやられるので痛いどころじゃ済まなそう。

・髪の毛
エウリュアレ、タナトス等、びろーんと伸びた髪はクレイトスに狙われるが、特に私怨があるわけではないハズ。
ラノベのキャラの場合下手に切ると大変な事になるので、狙われる事は少ない。安心。

・顔面
口、目玉、脳味噌と、弱点てんこ盛り。とにかくここを殴りまくるか刺しまくるかすれば勝てる。
非常にエグいし名有りキャラクターに対して行われるのを見ると可哀想になる(でもボタンは連打する)。



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シルバーバックミニゲーム

「シルバーバックこんなに大きくなくない?」
ノリで書き終えて気付いたけどもう直せない 許してチョーネンテン
アセンションのジャガノよりちょっと小さめサイズって事で……




(……バカな人ですね)

 

道路の端で一連の流れを見守っていたリリは心底そう思う。あの状況でみずから盾になる事を選ぶのは人として立派なものだが――――愚かだ。

冒険者なのだろう。

彼が自分の素性について概ねの見当をつけていたら、あの聖人じみた判断をしたかどうか怪しいものだ、とさえ思うリリだった。あそこで使い捨てのサポーターを盾にして逃げる事をしなかったのは、彼が常識知らずのバカか、それとも底抜けにお人好しなバカかのどちらかなのだ。

自分の頭上を飛び越えて屋台に落ちる姿を確認するより前に、リリは全力でシルバーバックの前を横切ってその視界から消えるよう努めた。その試みは功を奏し、今、間抜けな新米冒険者は、逃れられぬ死の運命に驀進している。

 

(……もしくは、とんでもない不運か……まあ、過程はどうあれ、よくある出来事ですね)

 

おそらくは怪物祭のメインイベント会場から逃げ出してきたのであろう、レベル2相当の怪物に目をつけられた不運。その瞬間に、名も知らぬ少年の運命は決まっていたのだろうと思う。それは地上にあっては類稀な不運ではあるが、冒険者の主な活動場所においてはありふれた光景だった。

まさか、こんな相手が、こんなに沢山、こんな所に…………すべては生への執念を欠いた者達の断末魔だ。

 

(それは私も同じようなものですか、全く……)

 

リリは憮然として目を細め、背嚢や衣服のポケット、腰袋からこぼれ、道路に散らばってしまったものを見回す。釣り糸、ピック、鉄球、ヤスリ、鋏……金品は守れたが、細かい道具が多いのは舌打ちを誘う事実だった。余計な出費など彼女の望むところではない。

どうにか、おっかない奴の目を逃れて回収してしまいたいところだ。依然としてシルバーバックが死にかけている囮だけを見ているのは、リリにとっての幸運だった。血反吐で石畳を汚す少年に対し、心の中で罵倒と冷笑を捧げる。お前がこんな所に来たせいで、余計な気苦労だ。しかしそうやって釘付けにしてくれているのは有難い事ですよ、と。

 

(……)

 

同時に、自分の前に立つ背中の事も思い出す。嫌な感情が生まれるのをリリは抑えた。不要なものだった。彼女が生まれて、育てられて、ここまで生きてくるのに、最も不快で無意味な感情だった。

 

(あなたもこんな災難に遭わなければ、いずれは……)

 

そこまで考えた瞬間に思考を打ち切るリリ。くだらない感傷だった。どんな冒険者も同じだ。それはいちいち、確認する必要など無いのだ。無知や気まぐれの善意に縋る純真さはもう、彼女の中に残っていなかった。

少年の声も、姿も、無いものとして、リリは音もなくシルバーバックの死角に転がる落し物に近寄った。

最初の遺失物に手を伸ばす。磁石だった。

さっさと回収して、今日は帰ろう。

そう思いながら、彼女の指が、磁石に触れた。

 

「――――!?!」

 

その時、空気が変質したのをリリの鋭敏な生存本能が感じ取る。ざわわっ、と後ろ髪が撫で上げられるような不快感が走ったのだ。

中腰の状態で、リリは振り返った。

信じられない光景はそこに存在した。

左腕を、シルバーバックの右手首の枷と鎖で繋いだまま、右手に短刀を逆手持ちに構える、少年の姿。

彼は両足の裏をしっかりと地に押し付けて、まるで、鎖の先にある巨体を従えようという傲慢さすら体現したかのように悠然と直立していた。

それは間違いなく、彼が睨みつける存在を倒す事だけを考えている姿だと、リリは一目で理解した。

その、シルバーバックの股越しからでもハッキリと見える、真っ赤に燃える双眸を見るにつけ……。

 

(……あの状態から、立ち上がるなんて……!?……あれは)

 

少年の足元に転がる、空のガラス管を見る。魔法薬……もちろん、リリのものではないという事は見ればわかる。あんな重体からも一本で立ち直れるとは、相当の品と見えるが、しかし……。

 

(それだけじゃ、ない?……)

 

一瞬の対面で見た、如何にも朴訥そうな作りの顔の面影すら消えているのに違和感を覚えた。驚愕の表情の中に残っていた、生命の危機に対する恐怖も、もう彼の顔には存在しない。

下がった口角と吊り上がった眦を持つ凶相はただ、征服と蹂躙を求める闘争本能だけを顕にしている。

一つの推論がリリの頭に浮かんだ。

 

(……キマっちゃうタイプの魔法薬、ですか)

 

一時の力と引き換えに、判断力と痛覚を鈍らせる昂揚成分を含む代物は、確かに存在する。激しい破壊衝動を引き出して前衛の能力を大幅に高める効果は、確かに状況によっては危機を脱するのにこれ以上無く頼りになるかもしれない。

だが、それは、効果が切れたその後の安全が担保されていればこその話だ。

彼の場合は?

……確かに、本来、あの怪物を相手にするべき者達がここに来るまで生き延びられれば、それで良いのだろうが……。

リリが思い返すのは半死半生どころか、痙攣しながら血を吐く、九割は死んでいた少年の姿だ。かりそめの闘争本能は或いは、僅かな生命力を薪にした、消え行く灯火の最後の輝きにも思えた。

 

(ま、好きにしてください)

 

顔を背ける。

リリにとっては、全てが他人事だった。

……彼女の認識が変わるには、まだ少し、時間が必要だった。

ほんの少しの時間が。

 

 

--

 

 

 

シルバーバックは覚えのある感情に戸惑いを隠せない。そう眼前で佇む小さな人間から発せられ、猛烈に吹き荒ぶ嵐のように自分の巨体を呑み込みつつあるものに対し…………それを、恐怖と理解するにはあまりにも、怪物には謙虚さが足りない。

理解するわけにはいかないのだ。自分こそが狩人であり、鎖で繋がれたのは、小便を漏らして逃げ惑うしか出来ない供物なのに決まっているのだから。

しかし、それを愚者の傲慢と断ずるかのように、右手首は全く動かない。大陸を引きずろうかという無謀さすらも呼び起こす剛力が、あの小さな身体の、左腕一本によって発揮されているなどと、容易く受け入れられなかった。

犬歯を剥き出しにして、額に血管を浮かせる怒責の表情を浮かべるシルバーバック。右手を鉄塊のように固く握り締めて、下肢の筋肉を膨らませる。

 

「ンンッ、ッッガアアアアァァアアアァッ!!!!」

 

「……~~~~!!

 

半歩、人間の身体が滑る。掛け声を伴う全力の綱引きの成果はそれだけだ。いよいよ黒い顔面を赤熱させようかという屈辱が、シルバーバックの表情を満たし、そして次の瞬間、それは驚愕へと変貌する。

人間は左腕の鎖を握り直し、一気に上体をひねった。

 

「っ、ふッンっ!!」

 

「ッガ!ウヴグッ……!!?」

 

大猿が半歩、引き戻された。十数倍もの差はあろう質量を、腕一本の力で制する、信じがたい光景。目を剥く大猿は、その衝撃を更なる憤怒で上書きする。

たかが、人間が、と。

大岩の連なったような猛りが浮かぶ腕でもう一本、鎖を掴むという判断こそ、自分がその、『たかが』人間ごとき相手と互角程度の膂力しか持たないのだという証左だということすら、もはやシルバーバックには気付けない。

彼が思うのは、ついさっきまでは踏み潰されて自分を喜ばす以外に出来る事の無かった筈の獲物の身体を再び空に舞わせ、地に臥させた無防備な五体を引き千切ってやろうという残虐な欲望だけだ。

味わわされた千の屈辱など、そいつの命を使えば如何様にも贖わせられるのだから。

 

「ン゙オ゙オ゙オオオオオオオオオオオオオッ!!!!」

 

根っこがわを右手で握り、添えた左手は固く鎖を掴む。腰を思い切り、ひねる。一切の容赦もない、全身を使った全力の引きとともに、肺腑に残る全ての空気をシルバーバックは吐き出す。

勝つ。そして、殺す、必ず、再び地に寝転がらせたあの貧弱な五体を踏み潰し、細切れに引き千切ってやる。

底知れぬ憤怒が、迷宮で生まれ落ちて以来発揮する、最大の力を生む。石畳に罅を入れるほどの踏み込みを以って。

後ろ向きになった上半身を屈めて数秒。ず、ず、ず、と、断続的な感触が鎖から両手に伝わる……それが、大猿に最後の一引きを決断させたのだ。

 

「ーーーーーーーーフッッンン゙ン゙ッッ!!」

 

シルバーバックの想いは結実する。愚か者は遂に抵抗を諦めたのか、手首に感じる反発が一気に消えた。砕けそうになるほど張り詰めていた鎖の反動が、人間の身体を跳ね上げたのだ。歓喜とともに姿勢を戻しつつ、シルバーバックは、期待に胸を躍らせていた。力負けした悔しさに顔を歪ませ、為す術無くその身を宙に投げ出す獲物の姿を夢想して……。

 

「――――ッッグッ!?」

 

その瞬間、左目の光が永遠に奪われる事など、露ほども思わずに。

残された右側の視界は、顔面に取り付いた――――その目には突如、瞬間移動して来たようにしか見えなかったが――――人間の、血まみれになり、あちこち破れた防護服と、自分の物に比べればそれこそ小枝のような細い腕、そして……深く眉間に谷を作る、何もかもを射殺すのを望む鏃の如き、鋭い眼差しが、映っていた。

次いで、前髪を掴む小さな左手が白むのを、確かに見た。左肩を踏むそいつの足裏が、より強く押し付けられたのも。

 

「ッ、あああぁっ!!」

 

「ギッ…………!!!!」

 

掛け声を上げる人間の顔が、噴き出す血で赤く染まった。引き抜いた短刀は赤い飛沫で尾を作る……大猿の左目を刺し貫いた凶刃が、陽を浴び、禍々しい残光を纏っていた。

立ち所に、灼熱はシルバーバックの左目のあった箇所を支配した。

 

「ア゙ッア゙ア゙ア゙ッ……!!」

 

「せッ、ああああああーーーーーッ!!」

 

少年はもう一度、振り下ろす。

柄まで眼孔に埋まる程の渾身の一刺しは、左手に掴む毛をむしり取りそうな程に握り引き寄せる事との相乗効果が成さしめた、会心の一撃だった。

再び、新たな切れ目を深々と刻まれた眼球からは、大量の血液と硝子体が飛び出す。

真っ赤な噴水が石畳に降り注いだ。

 

「ッッッッ!!!!」

 

「ぐッ!!」

 

かつてない痛みに絶叫を発しそうになるのを抑えるシルバーバックの根性は大したものだった。それどころか、即座に、その痛みをもたらした者を捕らえようと左手を顔面に向かわせる判断力を過ちと断ずるのは、全てを見通す超越者の傲慢だ。

そう、声を上げてその巨大な手の中に収まった者は、その大猿が屠ってきたどんな人間とも違うのだ。瞬時に、その時とるべき最適な行動を見抜き、躊躇いなく実行し勝利への道筋を切り拓く力を持つ……知性という武器を極限まで研ぎ澄ましたうえで、その攻撃本能を振るうことに一切の妥協をしない、完成された戦士、なのだ。

枷から繋がる鎖は、左手の握力を発揮させるのを僅かな暇、妨げる。それすらも、この手の中にある人間の狙いだったのか否か、シルバーバックはそんな疑問すら抱かなかった。しょせんは、獣に過ぎないのだ。迷宮から生み出され、目につく弱者を蹂躙することしか能のない……。

そして、少年にとっては、その一秒にも満たない手間取りこそ、この戒めを解き放つ為に必要な、充分すぎる空隙だった。

胴ごと掴まれるのを免れた右手を振り上げ、短刀は体毛が途切れ、大猿の薄い皮膚がむき出しになっている親指の付け根を穿つ――――根本まで、深く。

 

「ッギャアッ!!」

 

「おおおおおおおッ!!!」

 

悲鳴に構わず引き抜く。もう一度、振り下ろした。

シルバーバックの血潮は少年の顔を更に赤く塗りたくる。生臭く香る化粧はむしろ、ベルの闘争心を更に煽る。足りない。まだ足りない、と。

もはや、狩る者と狩られる者の関係は逆転しつつあるとすら、その光景を見守る者達は錯覚する。

 

「あああああああッ!!!」

 

「ギッアアアアアアーーーーーーッ!!!」

 

振り下ろす、引き抜く、振り下ろす、引き抜く、振り下ろす、引き抜く。

幾度も繰り返される激痛は遂に、シルバーバックの手のひらからベルの身体を解き放った。彼の両足は再び石畳を踏みしめる。

しかし左手から噴き出す血にいつまでも怪物の意識は向かなかった。まだ、その全身を満たす闘争本能は衰えてなどいない――――どころか、更にその貌は険しく、怒りに満ちる。

人間が、ただの、人間が……自分に、手傷を負わせた。

許しがたい事実だった。

 

「ッオ゙オ゙オ゙オ゙ーーーーーーーーーッッ!!!!」

 

持ち上がった足裏は、人間ひとり分など容易く包み込む影となって、ベルの身体を覆い隠した。もう、嬲り殺すための余興などシルバーバックの望みではない。こいつを殺す、絶対に殺す。小さな生き物を道路を飾る血肉の染みにする感触だけを夢想してその左足を振り下ろす大猿。

だがそれこそ、片目を失った事による遠近感の欠如が生んだ致命的な判断ミスなのだ。赤く汚れた白い髪は、石畳を踏みしめようとする槌から容易く逃れた。

傍らでそれを驚嘆しながら見守っていたリリの身体を跳ねさせる衝撃は、ベルの望んだ好機に他ならない。紙一重で掠めた踵に向かって、両手に握った短刀を突き立てる。やはりそこは毛の無い、剥き出しの肌だ。並の業物など弾くだろう銀の毛皮も、存在しない。

 

「グギイッ!!」

 

深々と突き刺さり、柄だけになった短刀を握る両手に更なる力を込める。

ベルは背を伸ばし、渾身の勢いで、地に向かって肩口と腰の筋肉を弾けさせた。

 

「ンンンッッ!!」

 

「ッッギ、グギャアア!!!!」

 

巨大な切創となった刃の痕から、また血が噴き出す。遥かな英雄の名に由来する、直立哺乳類共通の弱点にも届くであろう無惨な傷を生み出された痛みは悲鳴となって街の一角を覆った。

片足の機能を事実上半減させられたシルバーバックは、それでもまだ、怒りに任せて肉体を稼働させる。それこそが獣の強みであり弱みでもあると、一流の冒険者ならば常識として理解する。だが今の彼が相手にするのは、そんな枠組みなど関係ない、別次元の存在なのだと、誰が知りうるだろう?

右足を大きく踏み出し腰をひねって、背後に未だ佇むベル目掛けて右手を振る。瞬時の判断から繰り出されたその平手から逃れるには、少年の力量はあと一歩のところで足りなかった。左脚の後ろへと振り抜かれた掌底は、確かに、シルバーバックの目論見通り、怨敵を直撃した。そう、確かに、その肉厚の手のひらは、ベルの身体を正確に捉えていたのだ。回避の意思など全く持たない少年の身体を。

 

「ッッギャッ……!?」

 

「……ッ!!」

 

両手に握る刃が、大猿の肩の振りをそのまま刺突する為のエネルギーに変換し、黒い肌で覆われた右掌に突き刺さっている。全身の筋肉を使うのを怠った、攻撃とすら呼べない反射的な行動は完全に、見抜かれていたのだ。そう、先の戦いで受けた不意打ちを、ベルは忘れてなどいなかった。下肢を使わぬ苦し紛れの抵抗を受け止め、逆撃の一手に利用する判断の正しさは、巨大な手のひらに深々と突き刺さる刀身が証明していた。

目を剥くシルバーバックの間抜け面など委細構わず、少年の双眸はかっと開かれる。全身を使わなかった一撃とはいえ、巨体の膂力を直撃した小さな身体が悲鳴を上げる。しかし、今の彼は、そんな事に気を遣う繊細さなど持たない。

彼が今手に掛ける獣と、全く等しく。

 

「せっああああッ!!」

 

両手の肘と肩は再び硬くこわばり、その本領を発揮する。ベルの体内で炸裂した筋肉の反射が、シルバーバックの右掌に、縦の一文字の切創を生み出した――――深々と刻まれ、その握力を奪うには、充分すぎるほどの。

 

「ギェエエエエエッ!!」

 

またしても。

矮小な、自分に屠られるだけの運命を持つはずの存在に彼は、幾度目の逆襲を受けたのか?それを数えるほどの冷静さなどシルバーバックは持たない。そんなものを備えていれば、彼はとっくにこの場を離れる算段を巡らせている。

片目、左手、左足、右手。何れも手痛く食らわされた反撃は浅くない。それでも、怒りに目を曇らせた怪物は、自分を突き動かす衝動をぶつけることだけを求めて、少年に牙を剥く。知性も理性も持たぬ恐ろしさは今こそ、ベルにとってかつてない強敵を討ち滅ぼす為の弱点となって顕となっていた。

どこまでも澄み渡ったベルの赤い瞳は、次に狙うべき箇所を既に見定めている――――その、振り上げられ、思い切り引かれた、右腕の肩口を。

 

「ン゙ヌ゙ゥッ!!」

 

強靭な喉をひりつかせる声は大猿の硬く閉じた口の隙間から漏れる。

瞬間、ベルは地を蹴った。それは、先において怒りに支配され思考を放棄した怪物が没頭した綱引きの終わりに見せた動きと同じだった。大猿の凄まじい膂力を使った、瞬間的な吶喊。跳躍による左目への一撃の正体だ。

 

「ッギヒッ!」

 

かかった!と、シルバーバックは胸中舌なめずりをする。手傷の存在はあれど、右肩の力を加減したのは、引き寄せた標的をその反動で殴り返そうという企みによる判断だ。羽根もなく足を地から離れさせた者に、握り締めた己の拳を避けうる手段など持たない筈であると。

僅かなスウェーに留まった上体の揺れ戻しとともに、渾身の正拳突きを放つ。釣り上げた雑魚の内臓を今度こそ、完膚なきまでに叩き潰す為に。或いは、頭蓋を砕き、脳髄をまき散らさせる為に。

……この時まで怒涛の連撃を叩き込まれた大猿の、相手の力を大きく見誤った一手は、これが最後となったのである。

刃を通さない剛毛に覆われた拳骨と、右手に握る牙を振りかざす人影が交差する――――瞬間。

火花が生まれた。

 

「なっ……!」

 

一連の剣舞に目を奪われていたリリはその絶技に言葉を失う。その少年は、姿勢もロクに整えられようはずもない空中で、凄まじい相対速度を誇る致死の一発を短刀一本で受け流し、自らの跳躍軌道を逸らす事に成功したのだ。

幾層にも重なった、毛皮という天然の鎧をなぞる刃は表面を擦り切らせ、微小な破片が高熱を帯びて飛び散る。その光が、空を切る拳に困惑するシルバーバックの目を一瞬だけ、釘付けにした。右手の鎖の先にあるものを失念させて。

刃で拳を受けた衝撃はベルの身体を更にもう一段跳ね上げ、伸ばされた白銀の大腕を掠めて飛ばす。そして彼は真紅の瞳でその場所を認めると同時に左手を伸ばした……その部分を掴むために。

開かれた肩口の後ろに取り付いた少年は、左手だけで背中にぶら下がり、その場所を睨みつける。碌な体毛も無い、薄い皮膚しか妨げるものを持たない、腋の下。

シルバーバックが理解した時には、全てが遅すぎた。

左手を使って少年は全身を揺らし、その反動を右手に乗せて、突き刺す。二足歩行哺乳類の急所へと。

 

「ッッ、っハアアああッ!!!」

 

「ッッッッ!!!!」

 

いよいよその激痛はシルバーバックの声を奪った。神経の集中する明確な急所を貫かれた事で、歯は砕きそうに噛み締められ、眼球を飛び出させそうな程に瞼はぎりぎりと広がる。

そして当然、その一撃だけでは終わらないという事をシルバーバックは知っていた。しかし全身を走る痛覚が、彼の抵抗を封じる。まるで、絡み付く鎖のように。

突き刺さしたままの短刀に左手まで預け、両足でシルバーバックの胴体を挟んだベルは、肺を膨らませてから両腕に渾身の力を込め――――

 

「フッッ!!!!」

 

一気に、裂いた。

 

「ン゙ギィィア゙ア゙ア゙ァァァア゙ァァァァァア゙ア゙゙アアアアアーーーーーーーーッッ!!!!」

 

大量の漿液節と血管、そして神経節を一息にぶった切られた衝撃を受けてすら失神を免れた大猿の精神力は驚嘆されるべきと言えた。しかし、大口を上げたその姿を見て哀れみこそすれ、賞賛の言葉を送る者など居はしないだろう。

切り裂かれた動脈から真っ赤な血が、凄まじい勢いで噴き出していた。右腋を全開にしたままのシルバーバックは、苦痛の雄叫びを堪えることなどしなかった。

末端部分を抉る刃の味がいずれも浅かったなどとは彼も思わない。しかし、桁が違った。右目を貫かれた時をもはるかに超越する、耐え難い痛みだった。それは大猿の戦意を著しく削ぐだけに留まらず、尋常ならざる出血量からして、生命機能に重篤な障害をもたらすほどの深手でもあるのは明白だ。

開いた傷を脇腹に至らせるよりも先に短刀がすっぽ抜け、怪物の身体から振り落とされて石畳に立つ形となったベル。左手で致命傷を抑える敵へ向ける眼差しの鋭さは、全く緩まない。手心も、油断も、優越も、その瞳には存在しない。

左腕の鎖がとっくに服を破り、皮を切り裂き肉まで食い込んでいるのがリリの目に見えた。鎖を伝ってぽたぽたと赤いしずくが落ちる痛ましさも、少年の纏う殺気にかき消され、その凄絶な威容を強調するだけに思えた。

真っ赤な短刀を握り腰を深く落として、真正面でもがき苦しむ怪物――――否、獲物――――に対して、その命脈を完全に断つ為の機を伺う背を前にしたリリは、とっくに彼に対する認識を修正していた。それも、大幅に。

 

(キマってるだけで、こんな動きが出来る筈が無い!)

 

一方的にいたぶられるだけだった少年に対し、無謀と紙一重、神がかりとしか言いようのない巧みな戦術をとらせるのは、薬物による破壊衝動の増幅効果だけでは到底不可能だ。もしそうであれば、こうまで的確にシルバーバックの弱点を狙った戦い方など決して出来ない。ただ正面から、相手の攻撃を避ける事などせずに蛮勇を示し、そして即行で死んでいただろう。

さもなくば、と考えれば、その可能性は一つとの結論へとしか行き着かない……神の刻印によって目覚めた異能の技と。

見るからにお粗末な装備からしても、明らかにレベル1と思われる冒険者だ。狩る者と狩られる者の関係を完全に逆転させた今の状況を作り出せるほどの、十把一絡げの冒険者に与えられたものとは格の違う、底知れぬ奇跡の顕現としかリリには思えない。

いつの間にかその、どこまでも凄惨でありながらも荒々しく、雄々しき奮戦ぶりに自分が魅入られているのだと彼女は自覚すら出来なかった。道路のそこかしこに未だ放置されている小道具達の事も忘れて、両者からほど離れた位置で逃げ腰を保ちつつ、固唾を呑んで見守るリリ。それは、安全を確保している位置に集まる者達とも共通する心情だ。

或いは遠目にあってこそ、少年の残虐さは力強さに映り、己が身を省みる意思の欠如は勇猛さを極めた戦士の心意気と見紛うものなのだろうか?

それとも彼らは――――リリも含めて――――この戦いを、自分達とは隔絶した場所で行われている見世物とすら思う向きも、果たして芥ほども無かったと言えただろうか。

ともかく、やっと右肩を下げて、呼吸を整え始めたシルバーバックの表情は、既にその闘争心を恐怖の色で塗り潰されていた。そう、左目と右半身の攻撃力を失った彼は、立ちはだかる相手との明確な戦力差を遂に理解したのだ。

 

「……ッ、イ゙ッ、ギギィッ!」

 

腰を落として自分を見つめる小さな身体を覆う、黒い、大きな、禍々しい何かをシルバーバックは幻視した。血よりも赤く滾る獄炎を双眸に宿し、この世の全てに対する怒りを発しているようにすら思える凶相こそ、大猿の心に牙を突き立てようとする恐怖の正体だ。

巨体は後ずさり、踵を返そうとまで試みて、その身体をひねる。

 

「ッフンッ!!」

 

「アギャアッ!」

 

それは、ベルの一息とともに成した動作で阻まれた。鎖で繋がる右手首をグンッ、と引かれただけで、大猿は無様に尻もちをついた。もはや、人間一人の膂力に対し踏ん張る事も覚束ないのだ。

ざ、と足を踏み出す音に首を振り向かせる。

 

「……」

 

「ヒッイ、イ゙イ゙ィッ!」

 

獲物の血で全身を彩って、一切の慈悲も持たぬ眼差しを差し向けてくる処刑人を相手に、へたり込んだ腰を持ち上げる事もせず左手で石畳を擦って逃げようとするシルバーバック。全身から流れる血が、ずり下がる身体によって道路に奇妙な模様を作る。

目を疑う光景と言わねばならなかった。しかし、誰もが受け入れざるをえない事実は、そこに存在していた。レベル2相当のモンスターを、屠殺から逃れようと足掻く家畜の姿に変えてしまう少年の姿は……。

決着は、今まで何とか目を見張って視線を外せなかった者達でも、顔を背けるのを避けられない無慈悲さに満ちたものとなるに違いなかった。

――――そう、やはり彼らはこの戦いを、自分達の身の危険を及ぼす事象と捉えていなかったのだ。

その時まで。

 

「――――!?」

 

……祭りの熱に浮かされた者達の失念は、唐突に打ち砕かれる事となるのだ。それを成す存在の鼓動を、リリは感じた。……音がする。何処からか……。はっ、と、少年と怪物から目を離す。左右。前後。空。

違う、地鳴りだ。

それは、確かに自分の足の下から響いている。仄かな揺れは、未だに健在である道路脇の屋台の骨を確かに揺らしている……。

何かが、石畳の下に、居るのだ。

彼女の視線が足元に降ろされていたのはほんの僅かな時間だけだった。

 

「っっ……うわああああーーーーーーーっ!!」

 

何処ぞの誰かの悲鳴を皮切りに、破砕音が続々と生まれ、心の何処かで第三者を気取っていた者達は一斉に絶叫してていた。身に迫る危機を知った人々はいよいよ本気でこの一帯からの逃走を図る。

ずっと遠くですら蜘蛛の子を散らすような有り様のかれらの中心で、リリは絶望に顔色を無くした。大通りを覆う石畳を突き破って次々に『生える』何か。

その中でも一際巨大な一本は、彼女と少年の間に屹立していた。

人間の胴体よりも二回りは太く、天に延びる柱に似たシルエットは土煙の中でも明らかだが、それはどう考えたってこの街に備え付けられた何らかの防災設備であるなどと思い到れるはずがない。

それらは風もなく撓り、頭を垂れる。砂の帳を破ってリリの眼前に現れた、僅かに膨らんで尖った先端部分。……蛇の鎌首か、とまず連想する。しかし次の瞬間、リリは自分の予想が外れた事を知った。

五条の切れ目が、蛇の頭に走り、開いた。

 

「ひいいっ!?」

 

咄嗟に後ろに飛び退いて、その顎をやり過ごすリリ。それは、蛇ではない。開かれた口は極彩色の口唇を五ツ又にめくれ上がらせ、中心部には人間の歯茎を歪に象り巨大化させた捕食器官が備え付けられている。

花、だ。その花冠の奥には、人間一人ぶんは余裕で通行できる広さの大穴が、見える。

鋭い牙を目一杯に開かせる悪趣味な巨大植物は、粘着く液体を口腔から滴らせ、ホビットの少女にまたしても襲い掛かる。

 

「こ、この!!」

 

我が身に襲い掛かる突如の災厄に対し、リリは狼狽する事などとっくに止めていた。とはいえ、威勢の良い声色に対してやる事は、とにかくこの場から離れる為に全力を尽くす事だけなのだが。

見るからに、リリはこの正体不明の盲蛇達が、身を突き破らせた石畳の痕から移動できない事くらいは理解できる。だったらコイツの牙が届かない場所まで退散すればいいだけだ。その牙が再び振るわれるのを待たず、踵を返し走り出そうとする。

だが、彼女の不幸もそこそこに、大猿と戦う羽目になった駆け出し冒険者にも迫るかもしれないくらいには、深刻だった。

 

「……ウソ、ですよね?」

 

進行方向には、行く手を阻むように立ち昇る黄緑色の竿だらけ。花を咲かせる茎よりはずいぶん細く見えるが……その分析も最後までさせないスピードで、リリにほど近い触腕の一本が横薙ぎに振られた。

 

「っほおっ!?」

 

素っ頓狂な声が、思い切り腰を屈めた拍子に漏れた。フードをめくる一撃に直撃すればただでは済まないだろう。おまけにこの数だ……倒れたら最後、五体を締め上げる鞭は立ち所に群がり、ホビットの身体一つなど容易く引きちぎる事だろう。

 

(あああ!さっさと逃げれば良かった!)

 

歯噛みし、悪態を押し殺して、リリはいざ、伝家の宝刀を抜くしかないと判断する。コートの裏に縫い付けた鞘から取り出す一振りのナイフ。目を引く紅色の刀身を持つそれは、何も知らなければ単なる宝飾品との区別もつかないかもしれない。

だが真の使い途を知れば、その価値は同じ重さの金でも代え難いものと知るはずだ。

 

「は!」

 

振ったナイフから火炎が放たれる。彼女が携えるのは、尋常の鍛造術の枠を逸する異能により生み出された、魔法の武器……いわゆる魔剣だ。持つ者の意思ひとつによりノータイムで放たれる範囲攻撃は、故あって単独行動する機会の多いリリにとっては最後まで残したい奥の手である。

だがそれは今こそ惜しむべきではないと彼女は判断した。炎は行く手を阻む一本の蔓を舐め、その動きを鈍らせる。

流石に一撃で焼き尽くすのは叶わないだろうと予めふんでいた彼女にとっては、それで充分だった。建造物の小さな隙間に潜り込めれば、あとはそのまま、コイツらの手の届かない所までおさらばだ。

落とし物の回収などもはや眼中にない。幾ばくかの金品の詰まった背嚢も命には代えられずに投げ捨てる。蔓の余熱を身を包むコートで耐え、真横を突っ切るリリ。

目指す横道まであと三歩、二歩……。

それは彼女にとってかつてなく長い距離の危地だった。

……彼女の力量で太刀打ち出来る難易度を容易く上回るほどに。

 

「がうっ!?!」

 

最後の一歩を踏みだそうとする右足は、持ち主の敏捷ではどう足掻いても逃れられない蔓の一振りに絡め取られる。倒れ、顎を地面に打つリリ。次いで、左足首に更なる拘束が果たされた。

 

「あああっ!」

 

一気に、全身が持ち上げられるのを理解する。掴んでくれたのが両足だったのは、巨大花の慈悲であろうか?だが逆さ吊りにされたリリは最悪の想像図を思い浮かべる。そのまま、あの真っ黒い口腔の上まで持って行かれてから放り出され、自分の脳天を噛み砕く花冠の顎の動きを……。

 

「いやあああああっ!!」

 

畏れ慄いて必死に身体をくねらせて脱出しようとするが、がっちりと巻き付いた両足首の蔓は緩まるどころか、その力をどんどん強める。表皮に生える鋭い棘は、リリの足首を更に抉り、圧力とは別の痛みをリリに気づかせた。足から脛、太ももを伝って、首まで垂れてくる血を見れば、更に彼女の苦痛は煽られる。

 

「痛つううっ……、糞、このっ……、あ!?」

 

顔を歪めるリリに更なる責め苦の手は止まらなかった。蔓はまた一本、二本、三本と増え、右腕、左腕、胴体に巻き付く。少女の顔は蒼白に染まった、我が身に襲い掛かる災厄の重さに。

荊鞭はホビットの細い肢体を、一斉に締め上げる。

 

「ぐうあああっ」

 

突き刺さる棘は、巻き付く蔓自体に引っ張られて薄く延びるリリの皮膚を深々と切り裂く。黄緑色の呪縛は贄の血を吸うかのように、赤黒くその貌を変えつつあった。

リリはこの状況の先に待つものを知っていた。たった一つの結末……バラバラになった五体を道路に投げ出す自分の光景。

受け入れがたい未来だ。

右手に力を込める。

 

「はっ、離せっ、このおおおーーーっ!!」

 

魔剣の力を放った。ちょうど、右腕に襲い掛かってきていた蔓の根元部分に当たり、縛めが弱まるのを感じとった。力の限りで右腕を振り回す。かえしになった棘によって皮膚が切り裂かれる痛みで涙を浮かべたくなるが、それを許容しなければ死あるのみだ。

いざ残りの蔓も焼き払って脱出するべくリリは魔剣を無茶苦茶に振り回す。脱出する事だけが念頭にある今の彼女に、狙いを定めて魔剣の力を節約するなどという考えなど無い。

 

「わああああっ!!」

 

しかし盲滅法放たれる炎は、周りを取り囲む密度ゆえによく当たり、左腕と胴に巻き付く蔓を離れさせる。彼女の持つ刃の業物ぶりの賜物だったが、それは幸運とは言えない事だと彼女はすぐに理解した。

いよいよリリの足を掴んでいる蔓も根本に灼熱を浴びると、激しくその身をくねらせたのだ。

 

「~~~~~~~!?」

 

加減の壊れた振り子と化したリリは脳天を激しくかき混ぜられた。そして。

 

「っーーーーーーーーーーっ!?」

 

苦しみのたうつ蛇のような様を見せ、細い足とそこから繋がるホビットの全身を散々に揺さぶった蔓は、その勢いのままリリを放り投げた。

声を出す間もなく、風圧で頬を歪ませるほどの速度で空を飛ぶ。その先に、更なる苦難が待ち受けているという悲惨な未来など、リリは考えもしなかった。

ただ、ぐるぐると回転する視界に引きずられ、思考を混乱させるだけだった。

 

 

--

 

 

突如の状況の変動はベルの佇まいに芥ほどもの動揺を与えなかった。しかしシルバーバックにとっては地より這い出でるこの得体の知れない者達こそ天の助けに等しかった。

全身に負った傷。殊に片腕はもはや使い物にならず、流血もまだ収まらぬ状況。ここから逃れられても彼の行く場所など何処にもありはしなかったが、それを憂慮する能など迷宮の怪物には存在しなかった。ただ、脅威からの逃避を求め、期せぬ助太刀に縋る事を躊躇なく選んだのだ。

そう、ベルの後ろで花弁を開き、おぞましき牙を剥く巨大花の姿を見て。

その巨大な幹がひねられたのを確認した瞬間大猿は、痺れて動かない右腕を左手で掴み、思い切り引いた。

 

「グァルァアーーーーーーーッ!」

 

「ッ!」

 

大地を薙ぎ払う巨大花の一撃。自らの前後を挟んで存在する二本足の獲物を屠るための攻撃を、両者が食らう事はなかった、少女は鼻先をかすらせ、そして少年は――――。

 

「ぐっ!」

 

上体を屈め、薙ぎ払いで髪の毛を数本持って行かれたベルは、直後の左腕を引く力にたたらを踏んだ。一瞬の重心の変化を狙った大猿は自らの目論見が嵌った事を理解する。姿勢を崩した人間に迫る幾つもの蔓を見る事で。

だが全身を血化粧で飾る戦士は、巨大花の触腕が行う思考の伴わない直線的な攻撃の数々を、みすみす喰らう趣味など持たない。

 

「――――ふッ!」

 

四肢を、胴を狙う蔓は尽く空を切っていた。ベルの一蹴りは、黄緑色の帳から瞬時に脱出し、大猿の眼前にまでその身を跳ねさせたのだ。シルバーバックは顔色を失う。迎撃か、回避か。恐怖に鈍った頭では、即座の判断も果たせない。

不具になった右腕の下をベルは一瞬でくぐり抜けて、巨体の後ろ側に回り込んだ。獲物を逃して惑っていた触腕は、如何なる感覚を以ってか少年の気配を察知し、同調したそれぞれが一本の巨大な蛇の身体を模した激流となって、ベルに迫った。

 

「ガアアッ!?」

 

お粗末な策を破られた事に気付いたシルバーバックが振り向こうとして、右足に追突する大蛇にその身を引きずり倒される。大猿の開いた傷跡もろとも右半身を抉るようにその身を躍らせる蔓。無数の棘が、開いた腋を切り裂いた。

 

「ギャアアアアッ!!」

 

死にかけている怪物の悲鳴などベルは無視した。迫る蔓の切っ先はなおも少年を追い、大猿の腰を回る軌道を描く――――ベルの思惑に違わず。そう、蔓がシルバーバックを囲んでちょうど一周目に辿り着く瞬間、ベルは再び跳躍する。巨大な縄を飛び越える為。

――――大蛇の作る輪が、大猿を締め上げた。

 

「グギエェエエェエッ!!」

 

そしてようやくシルバーバックは気付いた――――奸計に嵌ったのが自分という事に。両足は蔓の勢いで崩れ落ち、左腕は胴体共々、巨大な荊鞭で封じられ、片目を失った頭部と、痺れてもなお激痛を失わない右腕だけが今の彼が自由にできるものだった。

しかし、処刑の準備は終わらない。残虐な戦士は確実を期するべく、呪縛に絶望する大猿の周囲を更に回る。繋いだ鎖が巨体の右肩を可動領域の限界まで引っ張る。否、それ以上に!

 

「ア゙ア゙ッギャギャアアア゙ッ!!!」

 

余計な獲物のせいで追撃を妨げられている蔓は、それでも一度退くなどという思考など持たない。少年を追おうと猛る先端部は力任せに輪の中の大猿を更に締め上げる。それがまるで磔刑の鎖を絞める刑吏の如き役割を果たし、右腕をねじるベルの更なる助けとなっていた。

大猿の背中側……左後方にまで辿り着いたベルは、抵抗を続ける肩関節に引導を渡すべく、腰を入れてからがっしりと両手で掴んだ鎖を全力で引きに掛かる。歯を食いしばる怒責の表情が、少年の顔に更に険しく刻まれる。

 

「ん゙っっ……ぬああぁああーーーーーーーーっ!!」

 

内臓を潰そうとする軸力と、右肩にかかる凄まじい引力。

苦悶の叫びを上げる以外に、シルバーバックの出来る事は何も無かった。

 

「ン゙ッッギャア゙ア゙ア゙ア゙ァーーーーーーーーッ……ア゙ッッッ!!!!」

 

鎖を通じて、その障壁を破った感触はベルの手に容易に伝わった。がくん、と揺れる手元。右肩を破壊された衝撃に一際大きな声を上げたシルバーバック。完全に動かなくなった片腕は、彼の命運を刈り取る者の足を駆け出させるのに充分な視覚情報だった。

だがそこに闖入者が現れる。空から落ちてきたリリの身体は、ベルの数歩先の石畳に叩きつけられた。落下の衝撃で手放された魔剣が、ベルの足元に転がる。

 

「はっ、ひいゃっ!!」

 

慌てて起き上がり、鼻血を出した面をきょろきょろと振り回す滑稽さをベルはまるで気にかけなかった。

 

「……ッ!!」

 

「ひえっ!?」

 

鎖を辿って走る少年はリリを横に突き飛ばし、未だ蔓に縛り上げられたまま激痛に泡を吹くシルバーバックの後頭部目指して、跳躍する。幾層にも重なった蔓を駆け上がり、あっという間に、大猿の後ろ髪を掴んだ。そのまま蔓を蹴って、もう一段、跳ぶ。

黄緑色の拘束具を踏みしだいて、虫の息の獲物の顔面に回り込んだベル。それを目にしたシルバーバックは、もはや霞みつつあった意識を一気に覚醒させた。……ひたすらの、恐怖で。

自分の前髪を掴む左手。逆手に持った、赤黒い短刀を振り上げる右腕……そして、果て無き憤怒と、底知れぬ殺意に満ちた、その凶相……。

顔の左半分を覆う返り血は、齢十四を迎える少年の顔を正しく死の化身と見紛う威で飾っていた。

片目に映るその光景を理解した瞬間、シルバーバックの思考は後悔と絶望に染まり、思った。

なぜ、自分は、こんな奴を相手に、戦おうと思ったのか?

答えは、与えられなかった。

ベルの口から、咆哮が絞り出される。

 

「あああああアアアアアアアアアアッ!!」

 

「ンギャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

刺す。刺す。刺す。刺す。刺しまくる。

少年の下膊ほどもの刃渡りを持つ短刀が、巨大な顔面に幾つもの穴を穿つ。シルバーバックには、その大口で目の前の獲物を噛み千切ろうという判断さえ出来ない。恐怖の虜になっている彼は、駄々をこねる幼児のように激しく首を振るだけだ。

頬、鼻、唇、涙袋、額。突き刺す側も只管に右腕を全力で振り下ろすのを繰り返すだけで、目標など見定めない残虐な拷問刑がそこに演じられる。

跳ぶ血飛沫。戦士の怒声。獲物の悲鳴。

辛うじてメッタ刺しの嵐から逃れている右目も、噴き出す血に覆われて視界を失っていた。赤い闇がシルバーバックを覆い、痛覚は更に鋭敏になる。この脅威から逃れろという脳の警鐘はしかし、何の意味も持たない。

いつ、その苦痛が終わるのか?疑問の答えは、大猿の命が尽きる時を定めた者だけが知ってた。少なくとも、刃を食らわせる少年にしてみれば、その時が来るまで手を緩める気などありはしなかった。

だが、彼らの意の外に在る存在が、この場に突如割り込んで来ようと、その身をよじらせた。前触れもなく。

……いや、それを予感していたのは確かに、居た。

 

「!……」

 

ベルに突き飛ばされたリリはそのまま、痛む足を絡ませないよう必死で大通りの端まで辿り着き、へたり込んだまま、道路の真ん中で繰り広げられる恐ろしい演舞を眺めていた。

だから、彼らの横でゆっくりと首を持ち上げる花冠の姿と、その動きの意味するところを理解できたのだ。

だがそれを口に出して少年に助言出来るような精神状態は、既にリリから失われていた。コートを貫いて刻まれた全身の傷と、今なお続く修羅場の光景は、彼女の身も心も完全に萎縮させてしまっていた。

それは或いは、レベル2相当の怪物を、家畜を前にした屠殺者のように血を流させる少年へ抱いた恐怖も、関連していたかもしれない。

ともかく、歪な色彩を持つ花弁が顎を開いて迫るのを、ベルもその瞬間、確かに横目で捉えていた。

 

「んっ!!」

 

左手の鎖を掴んだまま蔦を蹴り、ベルは瞬時に、大猿の後頭部に回り込んだ。ゴウ、と風を切って眼前を通る牙。……大猿の手枷から伸びた鎖の中にある、大きな輪を潜って。

このうざったい植物どもの頭目をとっくにベルは見抜いていた。相手にしなかったのは単に、今の獲物を殺すことを優先していたからに過ぎない。そっちから仕掛けてくる以上、順番が同時になっただけだと割り切る彼の判断を傲慢と見なす者などこの場に居はしない。なお戦意を燃やすその真紅の瞳を見れば、なおさらだ。

纏めて片付ける布石は、あとひとつ。

 

「はっ!」

 

左腕を一息で振り、空中で輪を作り出す。それはシルバーバックの頑強な筋肉で覆われた太い首を囲んで落ちた。

眼前で何が起きているのかも理解出来ない大猿でも、自分の首を取り囲む冷たく硬い感触は本能的に理解できた。自分の背後から発せられる強烈な殺気もその時、やっと知ったのだ。

――――これから、自分は、死ぬのだ。

後頭部に立つ、小さな、そして彼が知るどんな存在よりも――――かつて自分を捕え鎖で繋いだテイマーよりも遥かに――――恐ろしい処刑人の手によって。

 

「ッッギャアアゥッ!!、!ギャヒッ!!」

 

最後の力を振り絞って、必死で首を振るシルバーバック。もしも先まで行われていた凄惨な拷問が無ければ、こうも容易くこの刑罰の準備をさせはしなかっただろう。目が血で塞がれていなければ、顔面に取り付かれなければ、縛り上げられなければ、蔓を使って陥れようとしなければ……。

全ての手を誤ったことを今、怪物は知った。いつから?……最初から、だったのかもしれない。彼が真に呪うべきあの銀色の女神の顔は既に、忘却の彼方だった。

だが彼に約束された筈の残酷な結末を覆そうとする動きが現れた。

 

「ギッ!?」

 

蔓の力が緩むのをシルバーバックは理解した。能無しの触腕どもは、やっと捕えるべき獲物の違いに気付いたのだろうか?どうあれその僥倖は何としても生還の標としたい大猿が、必死で左肩に力を込める。この首に巻き付く鎖を外さなくては、と。

広がる肺。胴体が緩まる。一気に左腕を持ち上げ、抜いた。

 

「ハアア゙ッ!」

 

自由になった喜びが歓声となって現れた。

あとは、首を――――

そう思った瞬間、大猿は、自分の身体が持ち上がる感覚を理解した。

もう完全に動かない右腕が、ひとりでに、その方向を指さした。

 

「ゲッ」

 

息が、止まる。

 

「エ゙ッ」

 

いつしか血は眦から流れ落ちていて、右目の視界は晴れていた。

自分の右腕が引っ張られる先にあるものを、見る。

巨大な茎が立っている。少し首を持ち上げる角度の場所には、手枷から伸びた鎖が巻かれて、それはまた此方に戻っていて――――。

 

「ヴッ、ヴォボッ」

 

気道が潰れ視界が真っ赤に染まり、最後の吐息が絞り出された。ばたばたと、手足は空を切った。

何故、こうなったのか、シルバーバックには、何一つ、結果の分析は出来なかった。

目玉は裏返り、閉まる喉頭が口腔から舌を放り出す。頑強な首の筋肉に鎖は刃のようにめり込み、それでもなお彼の首に掛かった輪は更に小さくなるのを望んだ。

びんっ、と鎖は一層張力を増し、大猿の巨体を高く吊り上げる。その力は、巨大花ののたうつ胴体をも断ち切ろうと猛る。大通りに立ち並ぶ蔓は、本体の苦痛を共有しているかのように、無力に戦慄いていた。

大猿の後方で、必死の形相で地を足で踏みしめて左腕を引き寄せている、白髪の少年の意思によって。

息を止め、歯を食いしばっていたベルは、大口を開いて、怒声を上げる。

 

「っ――――ッッァアアアアアアアアアアっっっっ!!!!」

 

両手の筋肉をはち切れさせんとする膂力の、最後の一引き。

みしみし、とベルの左腕に、その音が伝わる。

――――そして。

 

「ッッッセアアアァッッ!!!!」

 

「オ゙……ッ」

 

ぼきり、と、音がした。シルバーバックはそれを最後に、あらゆる音声を発さなくなった。

脳幹を潰された巨体は、全ての力を失い、宙吊りになる。

抵抗の余韻が、ぶらぶらと、大きな影を揺らしていた。

一つの戦いの終わりを示す光景。しかし、それを見届けた処刑人には、休む間もなく次の試練が襲い掛かる。

ベルとの間に繋いだ鎖で絞首台を作り出した巨大花が、本懐を遂げてもなお未だに自分の胴を締め付ける鎖に対し、激しい抗議を行った。その、全身を以って。

 

「オオオオオオーーーーーーン!!」

 

「……!」

 

生前のシルバーバックとも遜色ない……どころか、或いは上回るほどの力で左腕を引かれるベル。踏み出してもいないのに少しずつ茎へと引き寄せられる彼の両足こそ、その推測の根拠だった。

……だが、それだけではない。大猿の骸を吊り下げながらも、食いしばる少年の抵抗を無にする原因は。

そう、鎖の繋がる先。ベルの左腕の形こそが、全ての理由だった。大猿と繰り広げた幾つもの凄まじい綱引きの応酬、そしてその命脈を断ち切る為の絞首刑を執行した代償は、誰の目にも明らかな光景として、そこにあった。

無惨に拉げ、折れ曲がった下膊の姿が、そこにあった。

 

「ッ……!!」

 

歪な形の左腕の、筋肉まで達するほどに食い込む鎖から止め処なく、血は流れ落ちている。鎧は既に無く、叩きこまれた衝撃や鎖の斬撃でボロボロのクロースアーマーは、彼が吐き、或いは流し、流させた血で赤黒く染まっていた。

のみならず潰れた内臓は魔法薬でも快癒出来てなどいない。常人であれば既に昏倒を免れない激痛に、口端から血を流すほどに歯を噛み締めて彼は耐えていた。

倒す。

倒さねば。

敵は全て、この手で……完全に。

ベルの全てを支配する衝動が、痛みに屈することも、それを理由に戦いから退く事も決して許さない。

それは、更に彼を急き立てる。立ち向かえ。

全てを、滅ぼせと。

短刀の柄が、持ち主の握力で悲鳴を上げた。

少年は、屹立する巨大花に向かって走りだす。

戦いは終わっていない。全ての敵を殺す、その時まで……。

急き立てる意思が、脚力を爆発させる。

 

「あああアアアッ!!」

 

茎の引力に勝る加速度で走るベルの身体は、延びる鎖を僅かに弛ませ、彼のくぐり抜けた跡に大猿の身体を墜落させた。真っ赤な弾丸のように、立ちはだかる茎に突撃する少年。接触の瞬間、右手に振りかぶった短刀を、渾身の力で突き立てる。

根本まで、刃が埋まった。

同時に、巨大花が叫び、暴れる。

 

「オオオ゙ーーーーーーー!」

 

「ぐううっ!」

 

刺さったままの短刀に片手でしがみつき、少年の身体はたやすく前後左右に激しく揺さぶられる。離すな。手を離すな。彼のボロボロの肉体は、激しくのたうつ茎に振り回されて、更なるダメージを内部に負う。

視界が滅茶苦茶に揺れる中、迫り上がる熱い液体を必死で飲み込むベル。噛み合わされる歯はいよいよ割れそうなほどに音を上げる。

耐えろ。耐えろ。

機は、必ず、来る。

彼は、そう思っていた。

それは、大きな過ちだった。

彼の誤算。それは、携えるその得物の存在だった。

ギルドからの支給品は、今日この日における激闘を耐え切れるような作りではなかったのだ。

――――彼の想定していた、彼の意思何一つ違える事なく、手足となって敵を屠り、決して、切れ味は落ちず、折れることのない刃。

そんなものは、この世界のどこにも――――存在しないのだ。

甲高い破砕音が、ベルの右手から生まれた。

 

「ッ!?」

 

ベルは目を剥いて、それを見つめていた。根本から折れ砕け、柄を握り締めたまま宙に投げ出される瞬間は、時が止まったかのように彼の目に映っていた。

それは本当に、刹那の暇にも満たない時間だった。

次の瞬間、彼の身体に、屈んで横薙ぎに花冠を振りぬく巨大花の胴体が直撃していた。

 

「っっぶっ」

 

ぐしゃっ、という音を、ベルは自分の体内から聞いた。衝撃で遥か彼方へ飛んで行く筈だった少年は、左腕の鎖によって、その動きを空中で止める。彼の身体に残っていた運動エネルギーの全てが、拉げた左腕に襲い掛かった。

細い肘と肩の関節は、簡単に壊れた。絡み付く鎖は今再び、彼の苦痛を啜る呪いの楔に変貌していた。

張り詰めた戒めによって巨大花と繋がれたベルの身体は、腹這いの体勢で道路に叩きつけられる。

 

「っがっ……!」

 

視界が混濁する。全身を槌で叩き潰されたような痛みに、声も出せない。次いで脳天にコルク抜きを突っ込まれてかき混ぜられるような、耐え難い気持ち悪さが生まれる。

口を開いて酸素を取り込もうとした瞬間、喉頭が蠕動した。

 

「うぼっ、オえ゙エ゙っ、ヴゲえぇぇッ……」

 

びちゃびちゃ、と音を立てて溢れる赤黒い吐瀉物が、罅だらけの石畳を汚した。洗面器を満たす量の血の上に突っ伏す少年の手足が意図せぬ痙攣を起こしていた。

 

「ぼぁハッ、ア゙ッッ」

 

気道から鮮血が溢れた。両肺は、砕けた無数の肋で貫かれていた。

酸素の急激な欠乏で、ベルの視界は暗くなる。

しかし、それでも、彼の中に、その衝動は猛る。

一切の勢いを失わずに、燃え盛るのだ。

 

(立て)

 

震える腕に鞭を打つ。

 

(立って、戦え)

 

失禁する下半身を再び、意思のもとに従える。

 

(まだ、敵は居る)

 

瞳は赤く、赤く……血よりも、炎よりも、禍々しく、輝く。

 

(すべて、滅ぼせ!!)

 

右手が、持ち上がる。手のひらを、割れた道路に押し付けた。

どす黒い幻影が、少年の身体を包んで動かそうとざわめいている。

今一度、彼を戦場へと征かせる為に。

立たなくては。

戦わなくては。

勝たなくては。

……殺さなくては。

痛みも苦しみも、闇に覆われていく。

横向きになった彼の顔に映るのは、大地に立とうと震える自分の右腕だけ……。

……その先に、何かが光った。

 

(…………?)

 

何故?

何故、だ?

 

「……グ、ヴふッ……」

 

また、血を吐く。消化器も循環器も潰れ、死を目前とする彼の中に、出し抜けに現れた疑問。

同時に、痛みは蘇る。戦意を大幅に削ぎ、ベルを覆う何かも、白黒する眼球から追い出された。

 

(――――な、ぜ)

 

なぜ、戦う?

なぜ?

 

(倒す、為――――?)

 

倒す為に。

勝つ為に。

殺す為に。

……何故、そうしなければ、ならないのか。

右手が力をなくして投げ出された。手の甲に触れる、地面の感触。

――――中指を打つ、硬い、何か――――。

その言葉は、闇の中に、ぽつりと蘇ったのだ。

 

『約束、してくれ……』

 

「……!」

 

右手に力を込める。渾身の力だ。ひっくり返してもう一度、地面を掴む。

また、光った。

陽を受けた青白い輝きが、ベルの瞳に映り込む。

どれほどの血で汚れても、失われずに湛え続ける小さな煌きが、少年の中に、何かを与えた。

先程まで彼を突き動かし、レベル2相当の大猿を狩り殺す力を与えたもうたものとは、別の……。

 

『これを……その手でボクに返しに』

 

か細く震える声。他に何も縋るものを持たない者が、ありったけの勇気を振り絞り、紡ぐ言葉。それは今の今まで、完全に、彼の脳裏から失われていた言葉だった。

なぜ、忘れていたのだろう。

どうして、忘れられるのだろう。

 

 

 

 

『自分の足で……帰ってくる、って……』

 

 

 

 

どうして自分は、その誓いを、忘れていたのだろう。

 

 

 

 

『……守ります。必ず、ここに、自分の足で、帰って来ます』

 

 

 

 

 

闇が、少年の瞳から、消え去った。

 

(ち、が、う……!)

 

握り締められた右手が、地面に突き立てられた。

 

「ッガ、っ……ヴほっ、……ぐっ、ぐグ……っ!!」

 

閉じた歯で血反吐を抑え、両膝を持ち上げる。三本足の獣を象る少年は、風に揺れる木切れ細工のような震えを抑えられなかった。

 

「――――フウ、――――フウ、――――フウーーッ!」

 

幼子がつつけば崩れ落ちそうな死に損ないは、穴だらけの肺を必死に伸縮させて、顔を持ち上げる。

 

(……倒す……もう、倒、したんだ……)

 

地に五体を投げ出し、微動だにしない大猿の姿は、少年の使命が完全に果たされた事を意味していた。どうして彼はその事を理解出来なかったのだろうか。

 

(…………そうだ……だ、った、ら……)

 

汚れた白銀の骸の奥にそびえ立つ、黄緑色の柱を見る。

 

(かえ、らな、きゃ……)

 

もう、あの神殿を脅かす者は、居ないのだ。

あの小さな部屋の、そこを守る者を襲う恐怖は、消え去った。

ベル・クラネルが、それを成し遂げたのだ。

なら、もう、ここに居る意味など、無い。

全く、無い。

刃を喰らったあの巨大花など、今のベルには、何の関係もない。

だから、もう、ベルのするべきことは、一つだけだ。

赤い瞳に、光が灯った。

真紅の奥にある、小さな光。誰も、その色を知れない、か細い光は、確かに燃えていた。

 

「ぶ、ぷっ」

 

口から血が溢れる。しかし、倒れない。頭を覆う靄が晴れていくのと同時に、全身の痛みは更に増し、内側に無数の針が生えた拘束具で余すところなく覆われているような錯覚をベルに与えていた。

……それは、彼をまた地に臥させる力には、ならないのだ。

決して。

 

(あ、の、……あそこ、へ……か、え、る、ん、だ……!)

 

膝が、持ち上がる。地に立つ右足が、腰を持ち上げるために、必死で踏ん張る。

意思が、力を与えたのだろうか。あの黒い衝動が無ければ、虫の息のまま、ただ死を待つ以外に出来る事など何もなかった少年に。

帰るべき処を目指すという、固い意思が。

 

(どうして……)

 

その光景を見るリリの顔は、痛ましさに歪み、目には深い哀れみだけを浮かべていた。

よくやった。それ以外の形容など見当たらない。

もう、無理だ。それ以外に掛ける言葉など見当たらない。

なのに……。

 

(どうして……?)

 

そのまま倒れて目を閉じれば、全ての苦しみも尽きるというのに。少年がなぜ、立ち上がろうとするのか、リリには理解出来ない。

だがその疑問は、単なる感情移入の結果だと、リリ自身は心の底で知っていた。

リリは、あの少年のように、ああまでして今生に執着させるものなど、何もないのだ。だから、思う。諦めてしまえばいいのに、と。

しかし、両親から愛も信頼も与えられずに一人放り出され、ただ主の気まぐれか、ファミリアの残酷な律に則った酬いを手に入れるべくひたすら他人を騙し奪い陥れる日々を送る……贔屓目に評価してもクソみたいな人生を積み上げて来た彼女の目に、その少年の軌跡はありありと蘇らせる事が出来た。

到底勝てるはずのない存在相手に全く退かず、いっそ清々しい程に残虐でありながらも鮮やかな戦舞を演じた挙句にその命を刈り取り、休む間もなく現れた新たな強敵を前にして血みどろの死に体となりながらも、決して諦めようとしないその姿。

どうしようもなく眩しかった。

羨ましいとさえ思った。

そこまで執着出来るものを持っている事に。

 

(でも、もう……)

 

大通りの真ん中に転がる魔剣を拾うのも躊躇し、縮こまるホビットの少女は、その光景を見守ることを遂に諦めた。

巨大花の、ぎりぎりと音を上げながらゆっくりとねじ曲がる茎を認めれば、それは仕方のない事だった。

少年の死を見届ける勇気は無かったのだ。

掃き溜めの底のような人生を見切る勇気も、自分の盾になった少年を助ける勇気もない少女は、ただ恐怖の虜になったまま、瞼を閉じた。

蔓に締められた痛みの残る全身を、掻き抱いて。

巨大花が、茎に溜まった捻じれを解き放つ瞬間、放たれる風切り音を聞きながら、リリは思った。

 

 

 

(……名前くらいは……あとで、調べておいて、あげますよ……)

 

 

 

そんな風にしか考える事の出来ない自分を、どうしようもなく嫌悪しながら。

 

 

 

 

--

 

 

 

重い音がした。

ベルは、目の前に立つ影の正体を知らなかった。ぼやけた視界には、そもそも人の顔も、体型も、色すらも曖昧に映っていた。

 

「ッッ……くっっ、…………ソッ……ッッがああッッ!!」

 

振り下ろされた巨大な茎を受け止め両足で石畳を砕いたベートは、悪態を吐くと同時に思いっ切り、屈んでいた膝と、曲がった両肘を跳ね上げた。

 

「だあッッ!!!!」

 

レベル5の全力による反発を食らった巨大花は一気に反対側に倒れる。巻き込まれた家屋が粉砕されていたが、ベートは無視した。

振り返る。

 

「…………?……」

 

焦点の合わない真紅の瞳。何が起きたのかも理解出来ていないのだろう。だが彼の身体は、今にも崩れ落ちそうなのに逆らうどころか、右手を膝に乗せ、必死で立ち上がろうとしているのがわかった。その為の力が全く入らずに、ぶるぶると盛大に震えているのを見れば……。

口元から下――――遥か足元、靴までをもベットリと赤黒く濡らす様を見るでもなく、少年が強烈な死のにおいを放っているのを、ベートの鼻は遥か彼方から捉えていた。こうして目の前に来れば、下半身を濡らす血以外の液体の正体もよくわかった……それは、余計な情報ではあったが。

ともかく、舌打ちをする。

 

(……これで死んだら、それまで……って訳かよ。ハッ)

 

いつだったか、自分の言った台詞を心の中で反芻した。だが、もう動かないシルバーバックの骸と、そこから伸びる鎖の行き着く先を見れば、あの時とは全く、言葉の意味が違うのは明らかだ。

全てを使い果たして、少年は快挙を成し遂げたのだろう。そして更なる試練に挑み、この有り様というわけだ。ベートは一瞬で全てを察していた。闘技場に何某か、とんでもない怪物が現れたと聞き急いでいた彼は、街の一角に立ち昇る影を見つけるや、立ち所に方向転換してここに馳せ参じたのだった。

道路の端で、訝しがりながら瞼を開けて、こちらの姿を認めて以来目を丸くしているホビットの少女を目敏く見つける。

縮こまりながら、驚愕と、罪悪感をはっきりと浮かべる彼女の目の色に、ベートは少しの苛立ちを覚えた。それは、ずいぶんと身勝手な感情だったが、勘違いに基づくものでもなかったのが、リリにとってはたちの悪い事だった。

 

「おい、チビ」

 

「…………っ!?」

 

びくりと震える様に、更に苛立ちは募った。言葉に棘を含ませる事にベートは躊躇しなかった。

少年の折れ曲がった左腕から伸びる鎖を手に取り、引き千切りながら再び口を開く。

 

「聞こえねえのかグズ!とっととこいつを本部に連れて行けってんだよ!!」

 

ここに来る最中に現れた二本の巨大花を相手にしているガレスとリヴェリアが聞けば、また要らん短気で他人からの印象を悪くしているベートに眉を顰めるだろう。

しかし、こういう言葉遣いを治す気など芥ほども抱かないのが、ベート自身が歩んできた道で作られた人格なのだ。

言葉一つで売り買い出来る確執など、彼にとってクズ同然だった。

僅かな困惑すら愚鈍と断じて罵る獣人に対し、しかしリリは歯噛みして反論を耐え、ベルの元に駆け寄った。

……言い返す口など持たない。この口の悪い――――リリは、彼がロキ・ファミリアの誇るレベル5の冒険者とまでは知らないものの、先の光景からその実力の程は理解していた――――獣人が来なければ、この場から脱出出来るかどうかも危うかったところだ。

今まさに命の火を絶やそうとしている少年を見捨てたことへの、ほんの僅かな罪悪感を消せないまま……。

無言で、膝をついたままの少年を無理やり背負う。何の力も持たない身体は容易く、リリの小さな背に乗った。微かで、ゆっくりとした鼓動が伝わる。濃厚な血のにおいが鼻をついた。

依然消えない、棘に穿たれた傷の痛みも、ボロ屑のような有り様の少年を思えば、幾らかは忘れることが出来た。

地面から伸びた蔓は、ブン投げられて昏倒した本体の影響を受けてか、萎びて寝ていた。いざ、足を踏み出すリリ。

瞬間、彼女の耳に、息が吹きかけられた。

いや、違う。

少年が、何か、囁いたのだ。

 

「…………っ」

 

「……え?」

 

リリにはその、あまりにもか細い、声帯を震わせる事すら出来ない言葉を理解する事は出来なかった。

 

「早く行け、ボケ!!嫌ならテメエの恩人見捨ててとっとと消えろカス!!」

 

「っ!!」

 

足を止めたホビットの少女を急かす怒声。リリはまた、ベートに対する印象を悪くした。彼の鼻はしっかりと、リリのコートに着いたベルの血のにおいを嗅ぎ分けていた。そこから導き出された推測の確度を疑わない傲岸さが、ベートの人格の全てを物語っている。

ともあれそのまま、何らリリを引き留める要素がこの場に無ければ、もはやベートの機嫌もこれ以上悪くはならなかっただろう。

 

(――――あ、)

 

だが、そうはいかなかった。前を向いたリリは、舗装も盛大に破壊されている道路の真ん中に転がるそれを見て、使命を後回しにせざるを得なかった。

……魔剣。

彼女の最も手放しがたい財産だった。

少なくとも、今背中にあるものよりも、ずっと。偽らざる未練は迷いなく彼女を素早く、そこに導く。

 

(――――良かっ、た……)

 

少年を落とさないよう屈んで、紅い刀身を手に収めた。安堵が生まれた。

他人の命のことなど、刹那忘れてしまうほどに……。

 

 

 

 

「ッッッんな時でもゴミ拾いたあ、熱心だなあっっ!!??サポーターの鑑がよおッ!!!」

 

 

 

 

遂に、ベートが苛立ちを爆発させて叫ぶ。声量だけでも、その気になればリリのような木っ端サポーターの鼓膜を破るのは容易かっただろう。尤も、飛び上がって走りだすリリは、そんなベートの優しさなど感じ取れようはずもない。

ただ、レベル5の冒険者に対する憎悪じみた卑下だけが、彼女の心を満たしていた。

 

(ええ、そうですよ、私は自分がかわいいんですよ、一番!!)

 

リリは全力で走った。後ろで自分を睨みつけているだろう者から、一刻も早く遠ざかるために。

背に感じる僅かな呼吸が少しずつ弱っていっている事も、彼女から、足に刻まれた傷の事を忘れさせる助けになっているのだろうか?それは、彼女自身にもわからない。

 

(……あなた『達』みたいに、疑いなく他人を助けられる事もしない、クズなんですよ、ええ、ええ!!)

 

ぎりぎりと歯を噛んで、ホビットの少女は走る。

コート越しにも感じる、大量の血液で背が濡れる気持ちの悪い感触も、その足を全く鈍らせなかった。

 

(…………ああ、ああ、嫌いでしょうね、あなた『達』は、私のような、クズなんて!!)

 

街の中央目指して、風を切って走る少女。血みどろの死体を背負っているようにしか見えない、一陣の風とも紛う影に、騒動から避難していた人々はぎょっとするだけだ。

リリは、自分にもたれ掛かる者の体温がほんの少しずつ失われているような気がするのは、自分に吹き付ける風のせいだと思いたかった。なぜだか、無性に。

 

(………………私だって、私だって――――あなた『達』なんか…………!!)

 

視界が滲む理由を、リリはわかりたくなかった。

クズ。

ゴミ。

カス。

雑魚。

ノロマ。

能無し。

役立たず。

穀潰し。

使えねえ。

足手まとい。

盗人。

ペテン野郎。

悪意塗れの言葉の数々は、どういうわけだか脈絡もなく、こんな時に蘇り、彼女の鼓膜に何度も反響していた。

うるさい、うるさい。黙れ、黙れ。

耳を塞ぎたくても、両手は少年の膝を掴み、決して果たせない。血と尿で汚れきったズボンが、ぎゅうと握られ、誰の目にも見えない箇所に深いシワを作っていた。

何も思い出したくなかった。何も聞きたくなかった。

只管、彼女は走った。

何もかも、忘れてしまいたい。その一心で。

 

 

 

(あなた『達』なんか――――大っ嫌い、ですよっ……!!)

 

 

 

その一言を、呑み込んだまま。

そうしてひた走る彼女は、気付かなかった。

背中の少年が、蚊の鳴くような声で口にしたその言葉に、終ぞ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………帰………………じ、ぶん、…………の…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

血塗れの右手にあるリングの感触だけが、最後の言葉を発したベルが感じ取れる、唯一の存在だった。

目を閉じた彼は、消え行く意識の中で、その、光景を、思い出した。

幼い少女。

ツインテールの黒髪を振る、白い服を着た、大きな瞳の少女。

その声は、彼の耳にいつまでも、残り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

『……さぁ、ベル君。頑張っていこうぜ――――』

 

 

 

 

 

 

 

金色の光が、部屋に舞う埃をちらちらと、煌めかせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

『ボク達の【ファミリア】は――――』

 

 

 

 

 

 

 

 

小さな、暖かい部屋。あの、祖父と一緒に暮らしていた、小さな家と、どこか似た――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ここから、始まるんだ――――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

「フン」

 

ベートが、起き上がった巨大花を見上げた。

五つの花弁は魅せつけるように、目一杯に開かれていた。その中央の、歪な顎も。

口腔から涎がぼたぼたと垂れ落ち、ベートの立つ場所のすぐ手前、彼の爪先と触れそうな所を黒く濡らした。

険しい双眸が、ぎらついた。

 

「クセエ息吐きかけんじゃねえよ、雑草がよ」

 

下がった口角から吐き捨てられたその言葉を合図にしたかのように、花冠が獣人の青年に向かって迫った。

ベートは眉一つ動かなかった。

戦いが終わるまで。

それはきっと、他の二挿しの花を相手にした二人も同じ事だったろうと、ベートは全てが片付いた後で思った。

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は、あの道を歩いていた。

 

草原に囲まれた、小さな道だった。

 

彼は、あの家の前に辿り着いた。

 

草原に囲まれた、小さな家だった。

 

やっと、戻ってこれた。

 

そう、自分の足で、ここまで、帰ってこれたのだ……。

 

長い道だった。とても、危険に満ちた……。

 

しかし、それはもう、終わったのだ。

 

彼はたとえようもなく、満ち足りた気分だった。

 

扉を開けようと、彼は足を踏みだそうとした。

 

そこで、気付く。道の脇に立つ影に。

 

はっとして、首を向ける。人。……男、だ。はっきりと、その姿を認識できないのに、なぜだか、男だとわかる。

 

それは突如、この場に現れたように錯覚する。だが、危険は感じなかった。

 

むしろ、……親しみを感じた。

 

ともに苦難を乗り越えた戦友に対して抱くような、労いと、賞賛にも似た、この先の家の中にあるものとは、また別種の安らぎを、男から感じた。

 

男の肩を抱き、もう片方の手で、男の手を握った。

 

自然と、笑みが零れた。

 

やったのだ。自分は……そう、この手を借りて、とてつもない困難を乗り越えたのだ……。と、彼はやっと、思い出したのだ。

 

だが、男は……どうしたことか、その表情を曇らせていた。

 

遣る瀬無さ。どうにもならない運命への諦念……。

 

男が首を振り、口を開く。

 

『――――まだ、結ばれている……』

 

彼は、驚き、反駁する。

 

『――――何を――――』

 

男は、天を仰ぎ見、目を閉じる。そして、上着を少し、開けさせた。

 

彼は、雷に打たれたように目を剥き、そして……全てを、悟った。

 

無念を滲ませる口調で、男の言葉が、紡がれる。

 

『――――誓約を――――』

 

誓約……。

 

神との、誓約……。

 

彼は、男に手渡された短剣を握る。

 

男は、万感の思いを目に込めて、懇願した。

 

『――――頼む。最後の――――』

 

彼は、目を閉じる。

 

こうしなければならないと、彼は知っていた。

 

他に道はないという事を、彼は知っていた。

 

すべては、彼が望んだ事だったのだから……。

 

彼は、短剣で、男の腹を突いた。

 

『――――』

 

男は、夥しい血を流し、石畳の上に斃れた。

 

黒い、黒い何かが、男の身体から溢れ出た。

 

それは、一気に、彼の身体を呑み込んだ。

 

『――――!!!!』

 

その瞬間、彼の頭の中に、無数の映像と、言葉が流れ込む。

 

闇に覆い隠された、真実が――――!

 

 

 

 

 

 

 

 

『どうすれば――――!?いつ――――!?』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

『栄光が――――!』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

『――――!我が敵を――――!!』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

『この村は――――!!』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

『――――気をつけよ、――――。そなたが――――』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

 

『――――!やめて――――!!』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

『やめて――――!やめてーっ!!』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

『今夜からのち――――』

 

 

 

 

 

 

闇。

 

 

 

 

 

 

 

 

『決して――――!』

 

 

 

 

 

 

 

 

――――底のない、無限の――――闇。

 

 

 

 

 

 

 

『うあああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は、全てを失った事を知った。

 

炎に包まれる小さな家が、項垂れる彼の前方に、長い影を落としていた。

 

松明を投げ捨て、力なく、彼は歩き出した。

 

(何処へ……?)

 

帰るべき場所もなく、

 

行く宛など、何処にもなく、

 

ただ、足を動かしていた。

 

彼の求めてやまなかったもの。

 

何よりも得難かったもの。

 

それは、もう、この世の何処にも、存在しなかった。

 

それでも、彼は、歩みを止めることは出来なかった。

 

それは――――ひょっとしたら、という、儚い、幻想の成さしめる事だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

望んでしまった、究極の力。

 

 

 

 

犯してしまった、許されざる過ち。

 

 

 

 

 

 

その贖いの方法が、どこかに残されているのかもしれないという、淡い希望は、彼を何処へともなく、導いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠い何処かから、雷鳴の音が響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

まるで、彼を断罪する為に振り下ろされる、神の槌のように――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

目覚めたベルの視界は、涙で歪みきって、何も見えなかった。

 

底抜けの絶望と、喪失感だけが、彼の知る全てだった。

 

何者も傍に居ない。

 

待つべき者は、誰も居ない。

 

帰るべき場所は、何処にも無い。

 

決して内容を思い出させてはくれないその夢は、少年に対し、ただ理由のない悲しみだけを残して、永遠に消え去っていた。

 

目を開いた事で眦から溢れだしていく涙。

 

やがて、視界が開けた。

 

顔に落ちる、熱く濡れる感触も、理解した。

 

「――――………………」

 

右手は、暖かく、柔らかい……とても安心する感触のものに、固く、固く包まれていた。

 

「――――――――………………」

 

焦点の合わない目にも、自分を見下ろしている顔の正体は、すぐにわかった。

 

ベルにとって、何よりも――――何を引き換えにしても、守るべき存在。

 

彼に、失われたものを与えてくれた存在。

 

彼に、生きる意味を与えてくれた存在。

 

彼に、帰るべき場所を与えてくれた存在。

 

あの、暖かくて、小さな、……新しい、家の、主。

 

仕えるべき、彼の主は、くしゃくしゃになった表情で、大きな二つの瞳から、止め処なく涙を溢れ落とすまま、ベルを見下ろしていた。

 

「――――――――――――………………」

 

ベルもまた、再び、鼻の奥から熱いものを溢れさせた。

 

どうして。

 

どうして、あんな事をしてしまったんだろう?

 

どうして、こんなにも……何よりも大切な存在を、悲しませる事をしてしまったんだろう?

 

夢の残滓が、彼に再び、深い寂寞を呼び起こした。それは、決して抑える事の出来ない悲しみの発露となり、双眸から流れ出す。

 

「――――ごめんなさい…………」

 

開いた口からは、それ以外の言葉を発することなど、出来なかった。

 

「ごめんなさい……………………」

 

朧げな視界で、もう、主の顔はとっくに見えなくなっていた。

 

それでもベルは、ただ、そう言う以外に、出来る事は何もなかった。

 

言う最中も、全身の水分が眼孔から流れ出てしまいそうな勢いで、涙が溢れてこめかみを伝った。

 

暫しして、右手から離れた暖かいものが、自分の首に縋り付いたのを、触覚だけでベルは知った。

 

「ゔ、ゔぅゔゔ、ゔゔあ゙ぁあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁあ゙あ゙ーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」

 

慟哭は誰にも抑える事など出来なかった。

 

恥も外聞も、神としての挟持も何もかも、全て、彼女の悲しみの叫びを阻む力を持たなかった。

 

「っあ゙っ、あ゙あ゙っあ゙っ、……っ、……ゔゔゔゔっ、ゔあ゙あ゙ーーーーーーーーーーーーーッ!!」

 

深く、激しく、噎び泣く主の姿は、ベルに対し、決して涙を止めることの出来ない悲しみを与え続けた。

 

ごめんなさい。

 

ごめんなさい……。

 

「あ゙あ゙ぅぅゔぅっ、ゔっ、ゔっグッ、エ゙っ、ゔゔっ、……ゔあ゙ぁーーーーーーーーーーーーーッ!」

 

…………ごめんなさい…………。

 

ベルは、只管そう繰り返し、哀願し続けていた。

 

主と同じだけの量の涙を、仰向けになったまま、流し続けながら……。

 

力なくベッドの上に置かれた右手の中にある、己の罪の証を握り続けて……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――どうか……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――どうか、許してください…………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バベルの中にある、重体患者用の病室で寝そべり、ただ、彼は乞い、願い続けていた。

 

自分の胸の上で泣き伏せる主に対して。

 

贖い難い罪を犯した自分への許しを、ただ、願い続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その罪が一体何だったのかも忘れ、眠りの世界へ落ちてしまう、その時まで、ずっと……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・鎖の長さ
世の中には気にしないほうがいい事だってあるはずなんだ。

・ミニゲーム
アセンションですばらしく大不評だったらしいですが、筆者は大好きでした。




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2章 -罪人
未成年者の飲酒は法律で禁止されています


遅い。長い。くどい。反省しない。

原作に合わせて改変するのが面倒くさいのでもうオリキャラオリ設定オリ展開突っ込むけど許してや城之内





 

 

月明かりに照らされる街道。そこからほど離れ、茂る叢をひとりの罪人が走っていた。

 

「ふう、ふう、ふう」

 

荒い息は、虫達の声に隠されていった。

歪な巨体の影を明らかにする事は誰にもかなわず、草を踏む彼の足は止まらなかった。

 

「はっ、はっ……」

 

汗を散らして、彼は走る。ただ一つのものを目指して。

月と星が覆う夜空を貫く、偉大なる者達の住処を望みながら。

遥かな地平線にそびえる神々の塔は、その膝元の住人の帰還など知らず、ただ静謐に、世界の全てを見下ろしていた。

 

「っ……、っ……」

 

一陣の風が草原を撫ぜる。大きな背中を隠す外套が、一瞬だけはだけた。

クジャクの羽根を模したエンブレムが、天空の輝きによって、青く煌めいていた。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

神々の緊急招集が行われた。本来なら三ヶ月に一度と決まっている会合は、もう少し先だった開催予定日を前倒しにされたのだ。

ただ、今度のものは、定例通りの歓談じみた雰囲気とはいかなかったし、集った面々の数も、普段よりずっと多い。

それも、オラリオを揺るがした事象に端を発する緊急招集ゆえに。

 

「なのに、いの一番に、ここに来て説明しなきゃあかん奴が居らんのは、どーいう事や?」

 

円卓の一席にて、机に肘を立て傍若無人な様子で腰を据えるロキは、ものすごく低い声で言った。

バベルの地上三十階にある会議室には、オラリオの遍く神々でごった返してはいるが、喧騒もなく彼女の言葉は響きわたっていた。

それに応えるように立ち上がる神が、一柱。象の仮面の男神は、今日の議題における司会となる資格を得るに充分な存在である。……ロキの言うとおり、一番ではないが。

 

「ウラノスとは、私が事前に話をつけている。彼の見解もここで代理として皆に周知させていだたく」

 

「……」

 

ロキはジト目でガネーシャを見つめた。その視線は事実上ギルドの主神である欠席者への非難を意味しており、それを最も承服せざるはずの者がガキの使いじみた役割まで許容している事への軽蔑も少なからずあった。

 

(お祈りで忙しいってか、あのじじい)

 

ロキは鼻を鳴らして、背もたれに身を預けた。

不機嫌さを隠そうともしない仕草も、ガネーシャの口上を止める事はなかった。

 

「この緊急招集は、ご存知のとおり、先日の怪物祭を襲った災禍と、我がファミリアの醜態についての説明が主な目的となる。……質問が無ければ、続けさせていただくが」

 

象の鼻がゆっくりと、ホールの外周をなぞった。

返答は、無い。

無数の視線が、議題の進行を促していた。

 

「まず結論から言う。闘技場における、過去の記録に一切存在しない未知なる怪物達の出現。……ウラノスの『祈祷』ですら御せぬ、迷宮の強大な意思の顕現、が、ギルドの公式な見解だ」

 

駆け抜ける衝撃は、神々が息を呑む一瞬、空気を張り詰めさせる。直後に、戸惑いと驚愕の声が一斉にざわめき、部屋を満たした。しかし、その中には、やはり、という声も混じっていた。

かれらの不安の的中とは、予測を逸した程度のものではなかったのである。迷宮を封じてきた千年の間において、その事例は確かに存在していた。迷宮が秘める底知れぬ憎しみは、いかなる法則に基づくのかは詳らかではないが、時折、自らを封じる者達を滅ぼすべく、溢れ出すのだ。

生きとし生ける全てのものの血肉を喰らう事だけを望む怪物という貌で。

 

「が、記録に無かったって話じゃないか?その連中……と」

 

「『角の』『手刀』『擲弾兵』……。確かに、いずれも、過去いずれの冒険者達も……世界中どこにおいても、遭遇記録が無い。似たような特徴を持つ例もなく、まったくの新種、と見て間違いないとも、返答を貰っている」

 

月桂冠を着ける美青年――――アポロンは、質問を途切れさせて、手元の資料を捲る。二の句はガネーシャが継いだ。

それを聞き届けたアポロンは、もう一度、資料に目を落とした。精微なイラストと、怪物の特徴が細やかに箇条書きで記されている。

曰く、分身を操る。影に身を隠す。頭目を倒さねば無限に現れる。最低でもレベル3相当。……レベル5の剣を、容易に退ける。

直接刃を交えた者達の貴重な証言に基づくデータだった。

アポロンと仕草を同じくしていた神々は、驚き半分、疑念半分の態度を表して、真偽の是非を各々問うわ、語るわ。百家争鳴と言うには、論客は野次馬根性が過ぎた。

 

「加えて、これほどの量、これほどの強さの連中がというのはね。いかにも何らかの……」

 

「あー!問題は!」

 

周囲を代表して更にアポロンが好奇心を満たそうとするのを、ロキは黙って待ってはいられなかった。

両手を卓に振り下ろし、やいのやいのと勝手な憶測で盛り上がろうとするその他大勢の目を集める。

 

「これからどーする、っちゅう事と違うか?何故いま、どうやって、誰が。ここでワアワアやってわかるような話かって?」

 

まこと、その通りである。彼女が睨む先に、視線がまた集まる。

腕を組んでいたガネーシャが厳かに口を開いた。

 

「当分、街全体への注意喚起と情報収集につとめる、との事だ。諸ファミリアの助力も大いに期待すると」

 

「はあー」

 

ロキがぐったりと上体を突っ伏させた。わかりきった、くそ面白くもない対応だった。そんな彼女に他の面々も同調し、幾つものため息が重なった。結局、オラリオの人間どもを恐れさせる前代未聞の事件も、天界の住民にとっては、退屈しのぎの他人事なのだ。堅実な対応よりも、突飛な推論を期待する者が多数だった。

……その態度を最初に顕にしたロキに関して言えば、意見は、異なる。

 

(気に食わん……)

 

迷宮の意思。なるほど、疑いようのない理屈だ。しかし、何かが引っかかっていた。天性のトリックスターであるがゆえの感覚が察知したのだろうか。

自分達……神々の絶対性など気にも掛けずに、平然と揺るがし、蹂躙せしめようとする、ひたすらに強大で、傲慢に満ちた何者かの意思の存在を、彼女は朧気に捉えていたのだ。

あの、とてつもない悪意と残虐さを剥き出しにしたような、未知の怪物達の姿から……。

 

「と、この件については、以上。あとは各自、ギルドに掛けあっていただきたい。……そして、次」

 

ガネーシャが頭を上げ、また一同を見渡した。一通り、その首を動かしてから、ある一点に視線を向ける。

 

「このたび我が膝元から、一匹の猛獣が逃走するのを許した件。結果、負傷者を数名出し、旧市街含む建造物を損壊させ、果て――――」

 

その目は、一柱の女神――――うつろな目をしたまま、何処かに心を置き忘れた有り様のヘスティア――――に、しっかりと、固定されていた。

 

「一人の勇気ある冒険者を、瀕死の重体に追い込んだ……この不始末。私の責任だ。すべての償いは、する。……すまなかった!」

 

高らかな謝罪とともに、ガネーシャは腰を直角に曲げた。彼の言葉の意味する所を悟れない者はこの場に居ない。祭りを脅かした大騒動は闘技場のみにとどまっていなかったが、……それに立ち向かった勇敢で、無謀な愚か者の存在は、既に神々の間に知れ渡っていた。尤も、オラリオに足を踏み入れ一月も満たないその少年の功績とは、概ね半信半疑に受け止められていた。

ともかく、注目を浴びるのは、ガネーシャの頭が向けられる先である。

未だ現世から意識を離れさせている、少女の姿をした神は……無反応、だった。

 

「ちょっと」

 

隣のヘファイストスが人差し指で、ヘスティアの顎をつついた。

 

「……ほぁ?」

 

「……」

 

まるで知性の篭っていない返答と眼差しを向けられても、黙って眉をひそめ正面を指さすヘファイストス。ヘスティアは、口を半開きにしたまま、視線を前に戻した。

 

「女神ヘスティア!!」

 

「んぉおっ!?」

 

仮面の奥の目が合った瞬間、大音量で名前を呼ばれヘスティアは身体を跳ねさせた。そして、きょろきょろと首を振る。かち合う無数の視線。戸惑いが彼女の思考を満たした。

だが、それも、すぐに収まる。ガネーシャの言葉によって。

 

「責められるべきは私だけだ。どうか、……『子供』達の事は、恨まないでやってくれ!」

 

「……!」

 

また、頭を下げるガネーシャ。ヘスティアは、一瞬で、現状を把握するのだった。蘇るのは、ベッドに寝かされた、包帯でぐるぐる巻きになった眷属の姿。今一度思い返すだけで、胸が潰れそうに痛む。だが、さすがに、この場で取り乱す分別の無さまでは持ち合わせていないのだった。

目を閉じ、俯いてから、ヘスティアはかぶりを振った。

 

「……い、いや……別に……いいさ。……君の方こそ……大切な『子供』を、亡くしたって話じゃないか。それに、比べれば……なんて事ないさ」

 

ぽつ、ぽつ、と、言葉を紡ぐヘスティア。それが、彼女の精一杯の強がりだと気付けた神は、いったいどれほどの数にのぼった事だろう?しかし、あえてそれ以上追求する者など居なかった。ガネーシャも、また。

 

「すまない、ヘスティア。君の眷属の治療費も、失った武具の補償も、確かに受け持たさせてもらうとしよう。そして、君の慈悲深さに痛み入る……ありがとう」

 

もう一度、ガネーシャは深く頭を下げた。だが、ヘスティアはもう、意識を外界から離れさせていた。

その後の議題――――大猿と冒険者の戦いに割り込んだ、謎の巨大花について――――への興味など、芥ほども沸かずに、ただ、会合が終わるまで、茫漠とした様子で佇んでいた。

涙を流し、ひたすら許しを請う少年の顔を、何度も反芻しながら……。

 

 

 

--

 

 

 

「いったい、どうしたっちゅうねん。例の話がフカシでないんなら、大喜びで触れ回りもせんで、このドチビは」

 

遥か遠くを眺めたままのヘスティアは、既に多くの神々が席を立ち、疎らな円卓に未だに座ったままだった。終始訝しがっていたロキが、ヘファイストスに尋ねた。当事者の真横に居ることなど、全く考慮せずに。……何しろ、全くこちらの存在を気にも留めていないのだ。

ロキがこんな風に戸惑うのも当然の反応だった。彼女は既に、眷属から聞き及んでいたのだ。闘技場から逃走した大猿の死骸は、ボロクズのような姿になったヘスティアの眷属の前に転がっていたということを。

その情報から導き出される事実が本当なら、まさしく快挙と言う他ないだろう。その神の初めての眷属は、街を襲った脅威に単身、生命を捨てる覚悟で挑み、見事に打倒した。尋常の感性を持つ人間であれば、これ以上なくその冒険者と主への畏怖を抱くところだが……。

 

「ん、まあ……ショックも大きかったんじゃないのかしら。相当の深手だった、って話じゃない?レベル1の身で挑んだくらいだものね」

 

会議室へ足を運ぶ最中に見つけた幽鬼のような有り様で歩く旧友の姿に、慌てて付き添ったヘファイストスは、ヘスティアの心境全てを把握してなどいない。だから、そんな他愛のない推測しか出来ないのだ。

ロキが、頭を掻きながら、眉間に皺を作った。

 

「あー、調子狂うわ……おい、もう終わりや。起き!」

 

「……おゎっ?へっ?……あっ?」

 

後ろから頭を抱えられたうえにぺしぺしと頬を叩かれて、やっと正気に戻ったヘスティアの顔に、神の威厳も何も見出だせはしないだろう、何者も。

 

「オハヨーございます、お嬢ちゃん?」

 

「なっ、わっ、何するんだっ!」

 

「おっと」

 

見上げた視界に思い切りこちらを揶揄する宿敵の顔を捉え、ヘスティアは両手を上げて身を捩る。さっさと身を離したロキは、ヘファイストスを挟んで隣側に陣取った。その短い動作の間にヘスティアは、とっくに会合が終わっていた事を知った。

そして、胡乱げに自分の事を見つめるヘファイストスの視線も理解した。

気恥ずかしさと、何となしのばつの悪さで、両手を下ろして少し背を丸めてしまう。

 

「あんな。ちょっと死にかけただけでそんなんなって……籠の中に入れて飼ってるのと違うやろ。イヤなら冒険者やめさせたれ」

 

「そっ」

 

無思慮ともとれるロキの言葉でヘスティアは顔を上げた。しかし、反駁が詰まる。正論なのだ。命を賭す道を許容した以上、その『子供』の辿るいかなる末路も想定しておくべきだという、当然の道理をロキは説いていた。

……だが、ヘスティアを苛むのは、彼女自身の過保護さに基づく我執じみた悲しみとは――――それが全くないとは言えないが――――別のものだった。さりとてそれを詳らかに語るのは、煩わしさ以外にも、『子供』の運命について部外者に明かす事にも繋がってしまうので、容易く口を開かせるのも憚られるのだった。

諸々の葛藤をうまく言語化出来ずに、変な形にした口を蠢かせるヘスティア。

 

「何や面白い顔して」

 

「……」

 

ロキの訝しげな視線を受ける旧友の内心について、ヘファイストスは概ね理解するところはあった。先日の相談。眷属の背に現れたという、大きな力と引き換えに何かを差し出すと示唆する運命のことだ。

さては、今度の快挙とは、その力を目覚めさせた事で得られたのだろうか……その代償としての、深手も……とまでは察する。

すべてを見通せてまでは、いなかったけれども。

 

「……自分のせいで、なんて思うのはやめなさい。その『子供』の為にならないわよ」

 

「!」

 

その簡潔な指摘に、ヘスティアは目を見開いて口をつぐんだ。ヘファイストスの言葉はヘスティアの罪悪感の真の原因を見透かしたものではなかったのだが……結局、その指摘を免れられないという点では、同じだ。自分の背負わせたもののせいで、大切な少年を苦しめる結果を引き起こした事に、ヘスティアは深く打ちのめされていたのだ。

辛うじて死の淵から脱した少年は、しかし、その時以来、自分と顔を合わせる度に、激しい自己嫌悪と深い後悔、贖罪の糸口を見出だせない苦しみを幼い顔に顕にしていた。

それは、主にとっても、身を裂くような胸の痛みを呼び起こすのだ。

 

『必ず、戻って来てくれ。自分の足で』

 

課した誓約が、どれほど重い枷となるのかも知らなかった浅慮は、神であっても逃れられない呵責をヘスティアに与え続けていた。

全ては、子を案じるという名目で親が押し付けた鎖の生んだ結果だ。

喜劇にも等しかった。

旧友の言葉は、更にヘスティアの精神状態を深く、冷たい所へ突き落とす一押しとなった。

 

「ああ、その……あのね、だから……」

 

「……地雷踏んだか?」

 

いよいよ目から光を失い、顔を俯かせてどんよりと淀む空気を漂わせ始める姿に、ヘファイストスも慌てた。ロキも気まずさを表情に浮かべる。

椅子の上でうなだれ、ツインテールを床に付きそうなほど沈み込む少女、それを挟んで困り果てる妙齢の美女。珍妙な光景を演ずる三柱の女神を後ろ目に捉えながら去りゆく者達。いよいよ、会議室の住民は彼女らだけになりつつあった。

そこに、近づく影がひとつ。

 

「親が『子供』を思い、悩むのは、悪い事では、ないんじゃない?」

 

銀の輪郭を持つ女神の登場は、ヘファイストスに既視感をおぼえさせた。はて、彼女は、かくもこの旧友に興味を示す理由を何時見出したのだろうか。そんな疑問について彼女が思いを馳せる暇もなく、フレイヤはヘスティアの肩を抱いた。ロキなど、口を縦長の楕円に開いてその姿を見ている。

 

「思う為に苦しい。……そして、それは『子供』も親も同じ。そんな姿を見て、互いにもっと苦しくなっていく……そんな所でしょう」

 

ぴくり、と、肩を震わせる。わかりやすい反応をするヘスティアだった。見透かされた驚嘆と、全てを剥ぎ取られる事への恐怖の浮かぶ眼差しを、フレイヤに向けた。

男であれば心奪われずにはいられない優しげな微笑みは、逃れられぬ獲物を腕の中に収めた肉食動物のようにもヘスティアには見えた。

 

「そんなに怖がらなくてもいいでしょう。落ち込んでしまった男の子を奮い立たせる方法なら、いくらでも教えてあげられるわよ?」

 

「えっ」

 

現金にも目の色を変えたヘスティアに、ロキは呆れ顔になった。ひらひらと片手を振る。

 

「良かったなあ。コイツならよおく助兵衛な事教えてくれんぞ、ドチビ」

 

「えっ……えぇ!?!な、なに、そんな!ボクが……べ、ベル君と……ダメだ!!いや、ダメじゃ……違う!!そんなのダメだっ!!」

 

宿敵の言葉に与えられた刹那の困惑と思考が、またヘスティアの表情を変える。立ち上がると顔を真っ赤にして、揺れる心をそのまま口から吐き出した。

だが、すぐ傍から漏れる、くす、くす、という押し殺した笑い声を聞くや、ヘスティアは正気に戻り、また別の羞恥に顔を赤らめさせたまま、口をとがらせる。いかにも男を囲う女神らしい戯言に、危うく乗せられるところだった、と。貞節を重んずる炉の女神にとっては、大っぴらに語るのも憚られる考え方なのだった。

 

「そんな顔しないでよ。嘘でも冗談でもなく、その方法が一番良いのよ。男と女は、そういうふうに作られてるのだから」

 

「そ、そ、そんな関係、ダメに決まってる、不健全だっ!ボクとあの子はもっと、深くて、心の中で通じていてっ……」

 

フレイヤの諫言に抗し、ヘスティアはなおもトマトのような顔色で強弁する。だが、美を司る女神は、銀の双眸を少しだけ鋭く光らせた。

 

「心も、肉の器と繋がっているのよ、ヘスティア。死すべき運命の者(mortal)ならばなおさら強く」

 

「うっ……!」

 

数え切れぬ男と情交を重ねた女神の言葉には一定の説得力を感じた。心を隔てる溝を埋めようというのなら、身体を触れ合わせる事が一番の近道になるだろうという理屈。はじめは突拍子もない冗談のように思えたそれは今、尤もらしい根拠付けにより、少なからず、ヘスティアを魅了した。

しかし尚も肯定するのを妨げるのは、彼女の生来の倫理観と合わせて際立つ、眷属に対し誠実であろうとする挟持だ。相手の弱った心につけ込み……或いは自分の弱さを盾に寄りかかって、なし崩し的に関係を持つ事への嫌悪感は、根底から清廉な異性関係を尊ぶ炉の女神を固く支配する。

口を閉じて、ヘスティアはぷるぷると細かく揺れた。

 

「う、ぬぬぬ……!」

 

爆発しそうなほどに顔を赤熱させること、暫し。

もしも、あんな物騒な刻印が現れなければ、もしも、あんな惨劇に巻き込まれなければ、もしも、彼が純粋に、男女としての慕情に基づいてそれを望むのならば……ヘスティアはおそらく、自分は拒まないだろうと自覚していた。

しかし、現実はそうではなかった。愛しい少年は正体の分からない何かに取り憑かれ、身勝手な主の誓約に縛られ、そのせいで苦しんでいる。

激しい葛藤を見守っていたフレイヤが、肩をすくめた。

 

「なら仕方ないわね。その子が自分で立ち上がるまで、見守ってあげるしか、ないわ」

 

「うう」

 

怜悧でもある最後の助言により、ヘスティアは空気が抜けるように萎れた。結局のところそこへ戻って来てしまうのだろうと、最初から、彼女はどこかで悟っていた。或いは、それを確認させてくれる誰かの言葉をも欲していたのかもしれなかった。

他者との関係を拗らせたのはこれが初めて、などと宣う気など無いヘスティアだが、かくも苦しい我執を呼び起こし、そこから脱する展望を一切見出だせない憂鬱さをもたらす関係も、全くの未知の領域の出来事だった。

 

「大きく構えていればいいのよ。あなたが愛する『子供』なら、信じてあげれば?」

 

それが、主の出来る一番の事なのだから、と言い、フレイヤは不安を打ち払えぬ様子のヘスティアの背を軽く叩いた。

答えを持たずに揺れる瞳は一呼吸の間だけ、フレイヤの視線と交錯して、それから会議室の扉へ向けられる。

小さい身体は少し猫背になったせいで更に小さく見えるままに、とぼとぼと去っていった。

 

「ねえ……」

 

「なあに?」

 

少女の姿をした女神が扉の向こうへ消えるのを待ってから、緋色の女神がフレイヤに声をかける。その目は猜疑に満ち満ちており、横からそれを見るロキは、フレイヤとヘスティアの問答の中で生まれた推測の正しさを確信した。

 

「どこまでが、貴女の仕業なの?」

 

「……」

 

ヘファイストスは直感していた。先の騒動のうちの幾許かは、眼前に佇む者が関わったものであることを。

その理解は旧友を謀った事に対する義憤の芽を心の中に育んだ。

詰問を涼し気な顔で受け止め、少ししてから、整った口元を開くフレイヤ。

 

「鍵」

 

「?」

 

「??」

 

放たれた単語の意味を図りかね、二柱の女神が面食らう。フレイヤは構わず、口上を続けた。

 

「鍵を……開けただけ、ね。私は。囚われていた獣を、解放する為に」

 

それきりフレイヤは口を噤んで、視線を遠くへ飛ばした。

その様を見てロキは、これ以上の有意な返答は得られまいと、長年の付き合いから悟る。……ヘファイストスも、同じ思いを抱いていた。だが釈然とはしない。成る程、怪物を一匹逃し、今も旧友を苦悩させてくれている下手人の正体は掴んだのだ。気分は良くない。

自然と、隻眼は非難が込められた目つきになる。

 

「そんな怖い顔しないでよ。もう手出しはしないから……あとは見守るだけにするわ。本当よ」

 

横顔で平然と受け流すフレイヤ。こうまでいけしゃあしゃあと言われて言葉を失っているヘファイストスを置いて、不敵な笑みを浮かべ麗美な佇まいを崩さない足取りで、扉へ向かう。ぽかんとしたまま、その背を見送る視線など意に介さずに……。

静かに、扉が閉じるまで見届けた女神達。

耳鳴りがしそうな沈黙は少しの間だけ、会議室を支配した。

 

「……ガネーシャにチクったろ」

 

会議の最初から溜まっていた鬱憤を晴らす昏い企みをぼそっと呟いたロキ。片や、それを聞き流しつつ、しおれたアジサイのような表情をする旧友に思いを馳せる。

 

(あの子に、話したほうがいいのかしら)

 

しかし、と思う。いまのヘスティアの心にのしかかるものの根源は、きっともっと別の所にあるのではないだろうか、と。

 

(あの時の相談も、関係している……?)

 

今一度、その推測にまで思い至る。自分の『子供』の運命について切々と語る、不安気な表情も。

 

(折を見て、また話をするべきかしら……って)

 

そこまで考え、指をこめかみに当てて、かぶりを振った。

 

(……私も、こんな甘くして、偉そうに説教出来ないわね……)

 

自嘲は小さなため息となって口から漏れた。地上に降りてきてから怠惰も極まるまで面倒を見ていた旧友を、どうにか雨風防げるだけの住居まで確保して放り込んだ頃から、あまり変わっていない事に気付くのだった。

彼女ももう、一人の『子供』の親だ。彼女の側から接触してくるまでは、何も手出しをするべきではないのだろう。

怪訝そうな顔を向けるロキに気づかず、ヘファイストスはほんの少しの郷愁に耽るのだった。

 

 

 

--

 

 

「ねえ、オッタル」

 

フレイヤは己の居室……バベルの最上階、この都市の頂点に在る者に与えられる座、の褥に腰を下ろしていた。

傍らに控える従者は、古よりそこにある巌のように、威と忠節を同居させた佇まいを持ち、黙して主の言葉を受け止める。

 

「私はね……あなたの事、好きよ」

 

母親が子供に語りかけるような口ぶりだった。その表情も。

主の言葉に嘘偽りなど無いであろうと、オラリオ最強の冒険者は確信している。

 

「誰よりも強いものね、あなたは……」

 

立ち上がって、鎧越しに、大きな胸板へと指を這わせる。恐ろしい密度で束ねられた筋繊維を隠す肉体は、いかなる脅威も受け止められるだろう。いかなる障害も打ち崩すだろう。その事を主は知っているのだ。この世界の誰よりも。

 

「でも」

 

オッタルは、自分を見上げる二つの眼光から、決して目を逸らさない。

 

「たったひとつだけ、恐れているものがある。……それは、何だったかしら」

 

「……貴女です。我が主よ」

 

逡巡の無い返答は、フレイヤの予測を寸分も違わない内容だ。

そうだ。

どれほどの力を持とうとも、どれほどのものを得ようとも、それから逃れる事は出来ないのだ。何者も。

レベル7の、世界最強の人間であったとしても。

……たとえ、天上の住民であったとしても。

自分の心を捧げたものを失うかもしれないという恐怖からは、どうやっても……。

忠誠、愛情、畏敬。どんな言葉にも置き換えられるだろう、執着という宿業とは、それを与えるものへの恐怖という枷でもあるのだ……。

笑みを浮かべて身体を離し、再び褥に腰掛ける主に対し、オッタルは真意を問う事などしない。

全てを捧げた存在に対し、問う事も、疑う事も、欺く事も、決して許さない。それが、彼が己に課した義務だった。

 

「でしょうね……私にも、怖いものはあるもの」

 

ぴくり、と自分の言葉に反応する従者の姿を見て、フレイヤの心は満たされた。笑みが溢れる。

 

「あなたが守ってくれるから、心配はしていないけど」

 

含み笑いをする主を見て、刹那オッタルの全身を覆っていた緊張が解ける。こういう事をよくする女神なのである。

フレイヤは、男が安らぐのを見るのが好きだった。ひたすらに強さと栄光を求める男が、全てを自分の身体に委ねる姿は、例えようのない充実感を覚えさせてくれる。

それが自分以外の何かに対してであっても、彼女は別に良かった。生来の男好きというのは、単なる欲望だけではなく、すべての男を見守る母という存在意義をも内包しているのかもしれなかった。

そして、当然、その楽しみを全て無くしてしまうかもしれないとなれば、自分はきっと恐怖するに違いないだろうとフレイヤは思うのだ。

 

(誰かが、そのように作ったのかしら。私達のことを)

 

出し抜けにそんな事を考える。人も神も、その精神性にどれほどの違いがあるのだろうか、とさえ。

失う事への恐怖を決して捨てられず、喜びを見出す事を決して諦められない。

あまねく人と神に宿ったもの。

恐怖と、希望。

それは、世界のはじめの誰かが与えたから、全ての者の中に根を下ろしたものなのだろうか。

突拍子もなく、壮大な仮定に飛んで行く自分の思考に自嘲する。

 

(あの子が呼び起こしたのかしら)

 

透明な、ガラス球にも見紛う純粋さを、一人の少年の中に見出したフレイヤ。

陽を浴びて虹色の偏光を湛えた、無色の宝石。それは確かに一度、女神の目を奪ったのだ。

……それは偽りではなかった。

しかし、全ての貌では、なかったのだと、彼女はあの日、知った。

鎖を破って現れたものは、玻璃のように穏やかで繊細な少年の心を一瞬で、混沌に染め上げた。

それはきっと、水に落ちたわずか一滴のしずくに過ぎなかったのに違いないのにも、かかわらず……。

赤く、

青く、

黒く、

白く、

そして何よりも、ただ激しく……ひたすらに狂おしく少年を猛らせていた。

容れ物すら打ち破る事への危惧など、まるで忘れたかのように。

ただ、破壊を求めていた。

ただ、征服を求めていた。

ただ、勝利を求めていた。

それは確かに、少年の中に宿っていた、彼の持つ別の一面そのものだったと、フレイヤは見通していた。

雄々しく荒ぶ衝動、その奥にあるものさえ。

 

(そんなにも勇敢なあなたは、何を恐れているの?)

 

疑問は、彼女の心から決して消えなかった。血に濡れ、真っ赤に燃え盛る瞳の奥にほんの一瞬垣間見た感情。

恐怖。

何かをただ、ひたすらに恐れていた。

知りたい、と思った。その根源を。

けれども、介入しようという気にもならなかった。

恐怖とともにある、自らを引き裂くように哭き叫ぶ深い悲しみと後悔の色を知ってしまったからには……。

 

(壊してしまうのは、趣味じゃないもの……)

 

自らの中に潜む獣の咆哮で、激しく震える脆い心。それはきっと、神にしてみればほんの少しつつき回す程度の悪戯で跡形もなく砕け散り、二度と元に戻らないだろう。

もしも少年の本性が、最初の見立て通りの透き通った無垢の水晶であったならば、フレイヤはそんな危惧など放り出していたに違いないが。

 

(あなたがその獣に全てを委ねるのか、斃して追い出すのか……)

 

見届けるくらいは許して欲しい、と、少年の主である小さな女神を思った。

なにしろ、ちょっとくらいは罪悪感はあるので……。

 

(迷い疲れた時は、少しだけなら手を貸してあげる)

 

夜を支配する月の女神は、闇に囚われ標を失った戦士を導く事への煩わしさなど生来から覚えなかった。

小さな主従の行く末を思い、フレイヤは今一度、趣味の悪い娯楽への期待により、笑みを浮かべるのだった。

オッタルは相変わらず、黙してそれを見守るだけだった。

 

 

--

 

 

 

 

ゴブリン三体など、今のベルの実力から言えば、狩られる事はおろか、正面からぶつかって戦果を取り零す事すらもあり得ないのである。

まして、身に着けている武具は、あの強敵との戦いで無惨に砕けたものに代わってガネーシャ・ファミリアから供給された業物揃いだ。

少年は、粗末な棍棒を振り回す一体目の手首を、新品の短刀で切り飛ばし、傷口から血を吹き出させるより先に刃を返して、そのまま喉を貫いた。

息を入れず、後ろに控える二体目に飛び掛かる。左腕による裏拳は、側頭部に直撃した。頭骨は砕け、ゴブリンの右眼球が飛び出る。

 

「……!」

 

手の甲の衝撃は、波紋のようにベルの全身を伝う。冷たい何かが、胸の奥で疼いた。

奥歯を噛み、短刀を強く握る。中指に嵌められた罪人の証が、少年の身体にもう一つの波紋を生んだ。

二つの波紋がぶつかり、せめぎ合う。

 

「グッ!」

 

倒れたゴブリンが、うめき声を上げた。健在である最後の一体を、ベルは睨みつける。肺から脱出しようとする呼気を押しとどめ、全身を支配しようとする何かに必死で抗いながら。

その葛藤は双眸を吊り上げさせ、独り残された獲物を恐慌状態へ陥れる威となってベルの身体から溢れ出る。

 

「ゴッ、ゴァッ!」

 

恐怖に屈した獲物が遁走を選ぶ姿は、瞬時に少年の脳髄を沸騰させた。

 

「ッ待っ…………っ!!」

 

足を踏みだそうとした瞬間、その記憶が蘇る。

顔に滴り落ちる涙。

悲しみに歪みきった表情。

胸の上に縋りつく温度。

そして。

 

『必ず……戻って来てくれ』

 

その、言葉。

 

「っ、っ……う、…………ぅぅう……!」

 

血液が鉛に入れ替わったかのように、身体が重く、動かなくなる。

冷たい鼓動は、右手の中指から、どくどくと音を立てて全身に運ばれていくようにベルは錯覚した。

眼球が映す、逃げゆく贄の背は、そのまま神経を通って彼の頭蓋の中身を覆う灼熱を呼び起こす。

 

追え。

 

逃すな。

 

とどめを刺せ。

 

敵は、殺せ……全て!

 

「う、ぅ、うううっ、………………っ!!」

 

永劫とも紛うその時間は、ほんの刹那の出来事だ。存在しない挟持になど縛られずに生命への執着に縋り付いたゴブリンは、いよいよ通路の角に逃れベルの視界から消えた。

そこまで律儀に見守ってからベルはようやく、背後に気配を感じた。

 

「!…………あっ!?」

 

「ゴギャアアッ!!」

 

ゴブリンの平衡感覚を失調させた先の一撃は、同時に感情や理性の箍を完全に破壊する効果も持っていた。左目を明後日の方向へと向ける獣人は、ただ己の破壊衝動に突き動かされて立ち上がり、千鳥足のまま両腕を振るう。

幼児の駄々こねに似た動作を持つ稚拙な攻撃。だが、見えない鎖で縛られている少年に対する不意打ちとして、それは充分に機能した。

 

「ぐっ!」

 

振り向きざまに、肩の付け根に棍棒が叩きつけられる。碌な踏み込みも篭っていない一発だが、まるで戦いの方法を忘れたかのような無防備を晒したが為に、そのダメージは大きかった。

殴りつけられた衝撃で体勢が崩れる。膝関節は氷を詰められたように動かずに、ベルの胴体をそのまま地に引き倒した。

 

「はっ、あっ……!」

 

無様に尻餅をついた少年は、自らを見下ろす迷宮でも最下級の雑魚の影を、引導を渡しに冥府から現れた使者の姿に重ねた。口から泡を吹き、左目をぐるぐると動かしまくるゴブリンの狂気の表情は、少年の顔から色を無くさせる。

生命の危機を理解したベルの身体に、その指令が下った。

 

(に、逃げ……!)

 

立て。

 

(そうだ、立って、……!)

 

戦え。

 

(……!……ち、違……!)

 

逃げるな。

 

(ち、が、う……!)

 

胸の奥の業火が、ベルの心と身体を支配しようと盛る。

右手の中の冷たい枷が、ベルの心と身体を支配しようと凍てつく。

歪む視界。

呼吸が乱れる。

蜘蛛膜の血流が、がつんがつんと音を立てて耳を塞ぐ。

 

「う、あ、あっ…………!」

 

混沌の坩堝と化した彼の思考など、他者に推し量れるはずもなかった。そこにあるのは、ゴブリン相手に腰を抜かして涙を流し、恐怖に屈した情けない冒険者の姿だけだった。

あの時、この地においてはじめて死を間近に感じた、あの牛頭の怪物を前にした際におけるものとは比較にならない絶望感が、ベルの心身を蹂躙する。

がちがちと震えるベルの前に立つゴブリンが、倒れこむようにして足を踏み出した。

 

「ガアアッ!」

 

「――――っ」

 

ゴブリンの足から伸びる影は、ベルの身体を一息で呑み込んだ。

瞼を閉じる。闇が、彼の視界を覆い尽くした。

 

「……………………っ……!?」

 

だが、予想していたその時が訪れることはなかった。

へたり込んだ姿を石像のように動かせずにしている少年の股座目掛けて、ゴブリンは頭から地面に突っ伏した。硬く鈍い音は、握り締める右手の中の冷たい感触とともにベルの意識を外界に向けさせる力となった。

 

「……な、何が……」

 

目を開き、周囲を見回す。少年は、突然の状況の変化によって、しばらくはただ狼狽していたが、臥したゴブリンの後頭部に突き刺さったものを見て、この場で起きたことを理解する。

その黒いボルトは、鏃すべてをゴブリンの脳髄に埋めていた。誰かが、少年の命を救うべく放った、必殺の一矢だった。

 

「だ、誰、が……?」

 

すぐ右の曲がり角に、人影は無かった。親切心か、ただの気まぐれか、いずれにしてもベルは姿の見えない誰かに感謝し、同時に、情けなさに臍を噛んだ。たかが、ゴブリン相手に。……仕留めきれたのは一体だけ。一体には逃げられ、残り一体の最後の足掻きに腰を抜かし、殺されかける有り様。

 

(……冒険者なんだぞ。何やってんだよ……)

 

幼い頃、ゴブリンに襲われた時の事を思い出した。山へ足を運んだ際に現れた獣人の群れは、年端もゆかぬ子供を恐怖で縮こまらせる以上の抵抗など許さなかった。雷光のごとく駆けつけた祖父が一瞬で制圧しなければ、ベルは今ここに居なかっただろう。

脅威から守られた安堵に涙を流して縋り付いたあの時の自分と、今の自分。いったい、どれほどの違いがあるというのか。

座り込んだまま、郷愁の混じった自己嫌悪に耽るベルのもとへやって来る所帯の姿があった。

 

「どうした、僕ちゃん。大丈夫か?」

 

戦いに慣れた風体の、四人の冒険者達。がっしりした体型と、年齢なりであろう皺を少し刻む肌を共有していた。

……顔に浮かべる、侮蔑の表情も。

 

「頑張ってゴブリン倒して、もう疲れちゃったのかあ?」

 

「一匹逃してたぜ、しっかりしろよ」

 

めいめい、歪んだ口端から溢れる労りの言葉。一人が、血の滴る剣を見せて笑っていた。そこに込められたのは、自分達にとっては取るに足らない事象を相手に苦心する者への優越感、哀れみだ。

 

「そんな事言ってやるなよ。泣きべそかく位怖かったんだからよ、なあ?」

 

先頭の男が、細い目でベルを見下ろした。口ではいかにも優しく後輩冒険者を気遣う風だが、揶揄と嘲笑を隠そうともしていない顔だった。

ベルの顔は恥ずかしさに赤らみ、伏せられた。この状況をどう言い繕おうとも、それは己の無様さを上塗りするだけの徒労になると彼にはわかっていた。

しかし、そんな真っ当な分析以上に、自分の失態を無関係な人間達の前に晒し、論われる事への経験など持ち合わせていなかった少年の純朴さが、ただ縮こまる以外の反応を許さなかったのだ。

口を引き結んで辱めに耐える素人冒険者の姿に、男たちは自尊心を少しばかり満足させていた。

 

「オイオイ僕ちゃん、腹でも痛くなったか?今日は帰ってお休みしたらどうだあ?」

 

げらげらと、無遠慮な笑い声を何人かが上げていた。それは、仕方のない反応でもあった。彼らが格別に悪意に満ちた人間である事の証明にはならなかった。

たかが、ゴブリン相手に、なのだ。ベルの今の姿に対する、最適な論評とは。

冒険者の常識とは、そういうものだった。

それを知っていたからこそベルは、自身の弱さを激しく責め立てていた。心のなかで。

――――それは、世間知らずの少年が他者から受ける、刃のように心を抉る評論から自らを守る鎧でもあった。

 

「ひでえなあ。あんまり虐めてやるなよ。かわいそうだろ?」

 

せせら笑いながら、先頭の男は向きを変えて歩き出した。つられて、三人が後を追う。ベルに向ける嘲笑もそこそこに。

所詮は、路傍で這いつくばる、知らない誰かだった。迷宮探索の疲れを少し紛らわす為の、笑い話の種くらいとしか思わない程度の存在なのだ、彼らにとってのベルは……。

 

「向いてねえよな、あんなのは。やめちまえば楽なのによ」

 

歯噛みし、未だ顔を上げられない少年の耳に届いた、最後の言葉。

それは、彼の鼓膜にこびりついて、ずっと消えなかった。

悔しさに突き動かされる足で、重い腰を持ち上げてからも、ずっと。

 

(畜生)

 

情けない。

 

(畜生……)

 

恥ずかしい。

 

(畜生…………)

 

弱い。

 

(……畜生…………)

 

右の握り拳の中の冷たい感触も、今の彼を苛むものを紛らわせる力にはならなかった。

 

 

 

 

--

 

 

 

少年が及んだ暴挙とその結果を聞いた時、一気に血の気が引いたエイナはそのまま倒れそうになった。同僚に支えられて、すぐに持ち直したが……。

そして駆けつけた病室で、その光景を見て、怒りよりも悲しみが先立った。全身包帯に巻かれて深い眠りの中に居るベルと、その傍らに座り込み、涙を流す小さな女神の姿を目の当たりにして。

どうして、立ち向かったのか。

どうして、同じ轍を踏まねばならなかったのか。

自らの命を失いかねない危地へ踏み込み、現れた脅威に立ち向かう。ありふれた英雄譚だ。彼は、その中の一つに加えられるべき偉業を欲したのだろうか。

一つの英雄の影に、それになれなかった万余の骸があると、わからなかったはずがないと、エイナは信じたかった。

或いはわかっていても、この結末へ突き進まざるをえない何らかの事情もあったのかもしれない、しかし……。

 

(あなたを失くして悲しむひとだって、居るのよ)

 

その事は、彼を止める助けにはならなかったのだろうか。

この街で彼が得たものとは、その程度のものだったのだろうか。

……自分の存在さえ。

そんな風にすらエイナは思い至って、また、小さな、それでいて確かな悲嘆に暮れるのだった。

 

「……」

 

視線の先に、俯いたまま、重い足取りで歩くベルの姿があった。多くの冒険者達が迷宮から引き上げてくるこの時間帯、数多の人影の行き交うロビーでも目についたのは、単にそれだけ彼の存在がエイナの心を占めていたからだ。

声を掛ける事が、出来ない。

 

『放っとくしかないと、思うけどなあ~』

 

運び込まれたベルが退院するまでの三日間、気が気でない様子の同僚に対し、ミィシャはそう言い放った。

それは事情を知らない者の無責任な戯言などではない。

 

『あの子と、あの神様の問題っぽく見えるし……』

 

他者が立ち入れるような話だろうか、と、独自の見解を示した上で、言うのだ。お前は、私達は、そこまで世話をする義務があるのか、と。

退院してからも少年は冒険者として迷宮に挑む毎日だ。しかし、その顔は常に薄暗く、切羽詰まり、重苦しそうに伏せられていた。

……担当職員と碌な会話も、交わしていない。

恐ろしい怪物に蹂躙されたのは身体だけではない。心や、彼と関わる者の繋がりすらも、きっと歪に変質してしまったのだろうと、仔細まで語られずとも、職員達は察していた。

だが、よくある話だ。

踏み潰された者がそのまま消え去るのは、この街において格別に耳目を集めるような顛末などではない。

お前は萎れた草花ひとつひとつに気を揉みながら職務を果たせられるほどの器を持っているつもりなのか、などと詰問できるほどの傲慢さまでは、さすがにミィシャも持っていなかったが、究極はそれである。

エイナは、たった一人の冒険者の為に働いているのではないのだ。

助けを求められ応じるのはいいが、そうすることすら出来ない者の手を引いて立たせるのはただの甘やかしだと、エイナにだってわかる。

 

(……情を切り捨てるのが、正解なの?)

 

小さな背が、換金所に向かうのが見える。

 

(……立ち上がるのを信じるしか、無いの……?)

 

答えの見えない疑問は、エイナの思考に暗い影を落とした。

それを自覚すれば、自分よりも更に深い暗闇の中に在るだろう少年の心中を思い、また気が重くなる。

どうか彼の歩みを止めさせない希望の灯火が尽きぬよう祈るしか、今のエイナに出来ることはなかった。

 

 

--

 

 

幾つもの恐怖が、ベルの心にまとわり付いて離れない。迷宮を出てからも、ずっと……いや、それは、病室で目覚めたあの時から在り続けたものだった。

全身を巡る激痛、熱が失われていく感覚、抜けていく呼気。生命の終わりを目前に感じた死神の足音は、今の彼を真に苛むものによって既に遠い忘却の彼方にあった。道の終わりを齎すものなど、今歩き続けるこの身に繋がれているあらゆる枷に比べてどれほど慈悲深い導き手であるか知れないとベルは思っていた。

 

自分の中に潜む何か。夢の中でだけ自分を支配していたはずが、前触れ無く顕在した狂える衝動。確かに己の中にある未知の存在への恐怖。

 

誓約を、忠を、信頼を踏み躙られた事に由来するだろう悲しみに暮れる主の顔。再びあの顔を見る事への恐怖。

 

恐怖に屈し、ゴブリン如きすら相手にするのもおぼつかない醜態と、浴びせられる嘲笑。冒険者として、役立たずになってしまう恐怖。

 

(……!!)

 

出し抜けに、足を止めるベル。

メインストリートの端で俯く少年の顔が青褪めていた。人波の中、世界中の全てから切り離されるような絶望感が容易に想起されたのだ。

それは、彼が何よりも恐れる事だった。

辿り着いた一つの危惧は、妄想と呼ぶにはあまりにも現実味のある幻影としてベルの脳裏に現れる。

 

小さな女神が、悲しげな表情とともに顔を背け、そのまま遠くへ去っていく姿。

 

待つ者の居なくなった小さな部屋。

 

身も心も凍りつかせる光景を呼び起こすのは、ごく自然な仮定だった。

 

もしも、主に見捨てられてしまったら。

 

もしも、また、一人になったら。

 

不安は腐った藻のようにベルの心にへばり付いて、彼の中の挟持や自信、勇気、そして希望を、陽の届かぬ水底まで引きずり込もうと蠢く。

立ち上がり、前に進もうとするのを阻む力。それは真実、彼の中にだけ在り、彼以外の誰にも見えない、決して彼以外の何者にも克服できない怪物だった。

ベルは遂に膝を屈した。心の底から滲み出す恐怖は今、現実の世界にある彼の肉体まで魔手を伸ばしていた。

 

「――――」

 

「――――――――」

 

幾つもの会話がベルから遠く離れた所で交わされていた。それは全て、彼とは全く関係のないものだった。目を曇らせ、顔を冷や汗で濡らし街の片隅に座り込む少年を、誰も、見向きはしない。これまで同じように道を失ってきた無数の有象無象にして来たのと等しく同じように、雑踏は小さな影を覆っていった。

誰も、今の彼に傷つけられる事はない。

誰も、今の彼に翳らされる事はない。

誰も、今の彼など――――見て、いない。

その、はずだった。

 

「大丈夫、ですか?」

 

「え?……」

 

腰をかがめて、ベルと同じ目線で顔を突き合わせる。少年は、憔悴した自分の顔を映す銀の瞳の持ち主と面識がある事を思い出すことができなかった。

けれども、純粋にこちらを気遣っているのだろう、心配そうな顔つきは、劣等感と自責の念に潰れそうになっている少年にある既視感をもたらした。

 

「気分が悪いんですか?ひどい顔ですよ」

 

「……なん、でも……」

 

ベルは反射的に、顔を伏せた。目を合わせられなかった。そこに映る弱い自分を見たくなかった。

顔に重なる、誰よりも優しい、主の幻影を見たくなかった。

うつむいて絞り出された言葉が途切れて、石畳に吸い込まれる。

はたから見れば、小さくなっていじけるだけの子供の姿があった。

 

「……」

 

シルは少しの間それを見つめてから、了承なく子供の手をとった。

突然の温かい感触に驚いたベルが、顔を上げた。

 

「……!?、あ、あの?」

 

シルは、にこりと笑って、口を開いた。

 

「お腹空いてません?いいお店、あるんですよ」

 

「はっ?」

 

返答をする間も与えられず、ベルは手を引かれるまま、萎えた足を立ち上がらせてしまう。

闇色の澱のように淀んでいた心地をかき乱される事への戸惑いが、彼をまだ気後れさせていた。

 

「いや、僕はその、別に――――」

 

言いかけた瞬間ベルは、自分の意思の及ばぬ肉体反応によって胃袋が呻き声を上げるのを聞いた。

目を丸くして足を止めたシルは、それからくすくすと笑った。

ベルは、顔を真赤にして硬直する。

 

「すぐ近くですから」

 

手を振り払う気を起こせなかったのは、それだけ気が沈んでいたからなのか、それとも、自分を導く彼女の善意に縋りたかったからなのか、ベルにはわからなかった。

それでも、ある一つの真理は彼の前に屹然と現れていた。祖父の居ない、独りの日々を過ごしていた時においても気付けなかった、簡単な真理。

悲しくても、どんな時でも腹は減るのだと、歩きながらベルは思った。

 

 

--

 

 

 

「こんな、しなびた灰かぶりを連れ込むなんて、シルも物好きだニャ~」

 

「は、はは……」

 

「ちょっと!」

 

「うひャ~」

 

キャットピープルの店員は口があまり良くなかったが、いまさらベルも打ちのめされたりはしなかった。ただ、よほど酷いツラをしているのだなと改めて自覚させるだけだった。

乾いた笑いを浮かべる少年に、シルが慌てて割り込む。ねめつける眼差しを受け、慌てて店員は離れた。

 

「ごめんなさい、嫌な気分にさせたいわけじゃないんです……皆、いい子ですよ」

 

申し訳無さそうに眉を撓らせて謝りつつ、同僚のフォローもするシルの人柄の良さは、既にベルにも伝わっていた。

……いつの間にか、出された料理は半分ほどまで量を減らしている。空腹だったという理由以外には勿論、味自体もベルの口に合ったからでもあるが、それ以上に、店の雰囲気の暖かさに促されたという面も大きかった。

街灯が陽に取って代わる時間にあって、冒険者達は疲れを癒やしに飲み、食い、語らい合うべく、集い始めていた。彼らの輪からほど離れたカウンター席でただベルは胃を満たしていたが、客の一人として居場所を与えられている安心感によって、先程までの不安が少しずつ消えていくのを自覚していた。

誰か一人、たった一人であっても、その人に気遣われる事の暖かさは、たちまち恐怖と迷妄に凍える心を溶かしていったのだ。

シルは、カウンター越しに立ったまま、黙ってベルを見つめるだけだった。その様は何も聞かずにいてくれる事への感謝と同時に、少しの気恥ずかしさとある疑問を心のなかに浮かび上がらせた。食器を置いて、ベルは、おずおずと口を開く。

 

「……どうして、僕に声を掛けてくれたんですか?……面識のない、僕みたいな、……そんなに、お金持ちって見栄えでもないですし。自分で言うのも、ですけど」

 

卑下は消えずに未だ彼の心に纏わりついていた。気遣いは嬉しい。けれども、自分はそれを受けるに値する人間なのかどうか、と。

 

「うん?……んー……」

 

上目遣いで尋ねられたシルは微妙な表情になり、返答に窮した。その反応の根源について、ベルは見当もつかない。

暫く顎に指を当てて思案する様子を見せてから、シルは不敵な笑みを浮かべる。

 

「……私と初めて会った時の事を思い出してくれたら、教えてあげます……ベル・クラネルさん」

 

「へ?初めて……って」

 

名前を呼ばれて面食らうベル。

掘り起こされる記憶は、道端で座り込み石畳を見つめる自分と、頭の上から掛けられる声。つい先程の対面しか、ベルには思い出せない。

初めて。それ以前の?

疑問符で頭の中を満たし目を瞬かせる少年を見て、シルは口元を抑え、笑う。

そして、呆けてるベルの前に、コップを差し出した。

 

「どうぞ、奢りです」

 

「あ、どうも……、……」

 

中に何が入っているのか、少なくともただの水ではない事くらいはベルも察せた。それは人生で一度も口にしたことがない飲料であると気付き、一瞬だけ躊躇する。しかし、施しを突き返す勇気も、子供と侮られる事を許容する器も、ベルは持っていなかった。

小さな決意とともに杯を呷る。

 

(に、苦)

 

舌の奥を痺れさせる未知の味で顔をしかめそうになるが、見目麗しい店員に対する小さな見栄がそれを隠す。結果、喉を灼く感覚に必死に耐えて目を白黒させる、わかりやすい少年の虚勢が残った。

一口で脳を火照らせているベルの姿を見守っていたシルは、腕をカウンターについて、口を開いた。

 

「じゃあ、次は私の質問の番ですね」

 

「はっ、ハイ」

 

初めて飲む酒の味に戸惑うベルは、うっかりシルの求める対価を了承してしまう。自分の返事の意味に気付いたのは、一呼吸置いてからだった。

 

「あなたを今悩ませている事……その一番の原因について、ここで話してみる気、ありません?」

 

「!」

 

シルは、前触れ無く核心を突いた話題を持ちだした。ともすれば、ろくに親交も無い他者の心に無神経に踏み込む図々しい女の姿にも思われる切り出し方だが、それを感じさせない雰囲気を彼女は持っていた。酒場で働く店員ゆえ、斯くの如く迷える冒険者の相談相手の経験も豊富だからなのか、それとも、別の理由からなのか、ベルにはわからないが。

……ともかく、酒の力もあってか、ベルの脳は、ごく自然に彼女の質問を受け入れていた。その反応は、闇に目を覆われた少年の心の中の、何者かに助けを求める本音に拠ったものだった。……回答を引き出すために思索の海へと意識を漕ぎ出していくベル。

目を、遠くへ向ける。喧騒に満ちる酒保から遥か離れたところへ。

 

「――――」

 

同業者の嘲笑。

敵の狂態。

主の涙。

幾つもの光景。

劣等感。

恐怖。

後悔。

幾つもの感情。

 

(違う……)

 

上澄みにある記憶は一瞬で通り過ぎていった。もっと、深くを求める彼の思いによって……。

 

(……一番の原因、……)

 

苦痛に端を発する絶叫。

大きな影。

振るわれる腕。

肉を穿つ刃。

真っ赤な、自分の手のひら。

胸の中から沸き上がる激情。

全身を満たす破壊衝動。

血を、戦いを、勝利を求める自分。

自分。

自分の中に居る、別の、自分……。

夢の中に居る、別の、自分……。

 

「こ……」

 

自分の喉が震えているのをベルは自覚した。見開かれた目は焦点がぼやけている。それは、酒のせいだけではない。

ぶり返す感情が、彼の心を揺さぶっているのだ。

だが、それに屈する事は出来ないと彼は強く思った。また、あの無様を晒す事への忌避感が、ベルの告白を続けさせる力になっていた。

 

「怖い……んです。……僕自身、が」

 

決死の思いと言っても誇張のない意思で、ベルはその言葉を零した。嘘偽りのない本音だった。

すべては、そこに帰結するのだ。倒すべき敵を前にして身体を凍りつかせる恐怖の根源。主に見捨てられるかもしれないと心を凍りつかせる恐怖の根源。

――――帰るべき場所を、自分という存在を形作る何もかもをも忘れ去り、ただ戦いだけを求める別の自分へと変質してしまう事への恐怖。

そう、ベルは、知っていた。自分の中には確かに、別の自分が居るという事を。

それが単に、冒険者となってはじめて見つける事の出来た、知り得ざる己の側面だったのだとしても、今の彼にとっては、ひたすら、未知の存在への困惑と恐怖を呼び起こすもの以外のなにものでも無いのだ。

 

「それに任せて、行き着く先に何があるのか……それを考えると、ただ、怖くて……それが、情けなくて……そんな自分が、嫌で……」

 

吶々とベルは、そんな事を語った。……何もかも詳らかに話したわけではなく、固有名詞は抽象的な表現に置き換えたうえで、だった。迷宮での不幸な邂逅から、帰路に立ちはだかった強敵、守るべきものの為の無謀な決断と、その結果。

熱に浮かされたままずるずると吐出されるまことに稚拙で、要領を得ない説明に対して、シルは只、うん、うん、と、相槌を打つだけだった。

ひとたび話し出して止まらず、まるで急流のように溢れる自分の言葉にベルは驚いてもいた。思考は言葉として形を持つことで更に明瞭になり、自分の中に渦巻いていた澱のような苦悩を心から分離していくように彼には思えた。

 

「……」

 

シルは口を挟まずに聞き手に徹した。そんな彼女の態度、またはそもそも彼女の纏う雰囲気に当てられてか、ベルは、自分でも不思議に思えるほどに、己の我執を吐き出す事への抵抗を無くしていた。

少年の口上が途切れた頃には、それなりの時間が経過していた。息を整えて、乾いた口に水を流し込む。話す内に上気していた顔が冷えていく。

そこまで待って、ようやくシルは口を開く。

 

「変わっていく自分が怖い、っていうのは……男性には、珍しい悩みかもしれませんね」

 

開口一番のその言葉を、言外に自分の腑抜けぶりを指摘されているようにベルが解釈するのは自然だった。

さ、と顔が赤らんで、うつむく。

すると、シルが慌てて、少年の握り拳を両手で包んだ。

 

「あ、違いますよ……悪い意味じゃないんです。……つまり」

 

柔らかい感触に驚いて顔を上げる。ベルの目に映るのは、真っ直ぐに向けられる、優しい微笑みである。揶揄も、侮蔑も感じない。……表面上は。

 

「男性の場合、……大きく環境が変わったり、打ち込む何かに熱中しはじめてドンドン変わっていくのに、本人は全然それに気付かない、ずうっと後になってふと、他人の言葉や、大きく自分を見つめ直す出来事で気付く……っていうのが多いですけど」

 

「……女性の場合は、違うんですか?」

 

ベルは質問以上の他意など持たなかった。それは真実である。だから、シルが少しだけ言葉に詰まり、億劫そうに口を開いた理由もわからないのだ。

 

「え……と、やっぱり、その、中から変わっていく、っていうのをまず経験しますし、ね。そういうのに敏感かどうかというのに、性差による部分も大きいんじゃないか、って思って……」

 

「??中から?変わる??女性は??」

 

「ですから……」

 

真実、ベルは単なる疑問を口にしているだけなのだが……シルはどんどん、言葉を濁し、答えあぐねて、やがて頬を赤く染めていった。

まっっったく、その理由を察することが出来ずに、少し据わった眼を向けるだけのベルと、それを前にして困り果てる女性店員の間に、キャットピープルが割り込んだ。

 

「シルがセクハラされてるニャ!セクハラ!セクハラ!店員へのセクハラは直ちに出入り禁止ニャ!!」

 

「えっ!?えぇっ!?な、何で……!?」

 

「ああ!もう……あっち行ってて!」

 

シルは、両手を振り回して割り込んできた同僚を必死で追い返した。そして酒気も無く赤い顔をごまかすように、咳払いをひとつ。

 

「と、ともかく……今はひとまず座り込んで、じっくりと自分の中を見つめてみる機会と考えれば、悲観的な現状とも言えない、なんて、考えてみませんか?」

 

「……」

 

落ち着き払った穏やかな微笑みを取り戻して、諭すようにシルは言った。

ぼんやりと、アルコールの染み渡った頭でその言葉を咀嚼するベル。

 

「また歩き出すにも、何のために歩いていたのか、何を目指していたのか、きちんと定めておかなきゃ……ただ我武者羅に走り回っても、疲れちゃうだけですよ」

 

シルの言葉は、何もこの世全ての男女に適用しようという暴論を含むものではないが、ある程度の理を少年の鈍った思考に感じさせた。

男は自己の変質など省みずひたすらに戦い、歩き続ける。女は座してそれを消化し理解するのを待つ、と。……それが、深い傷であれ、大きな飛躍であれ。

 

「もしくは、その悩みにぶつかる前の貴方自身が、何を思って歩いていたのかを、思い返してみたりとか……」

 

何のために、何を思って。その問い掛けが投げ込まれたベルの心の底に波紋が現れる。

――――なぜ、この街へとやって来たのか。

――――なぜ、迷宮に挑んでいたのか……。

浮かび上がるのは、遠い祖父の言葉だ。真っ直ぐに向けられる眼差しで見つめ、決して聞き逃してくれるなと固い思いを込めたような表情で、口にした言葉。

 

『出会いを……』

 

(出会い、……)

 

それは本当に、自分を導いた言葉だったのだろうか。見知らぬ地に一人の少年を追い立て、そこで身を立てる事を選ばせた真実の理由とは、何だっただろうか。

 

(なん、だっけ……?)

 

思いの丈を吐き出した昂揚と、いよいよ全身に巡り始めたアルコールの熱のせいで、彼の頭のはたらきはどんどんと鈍っていった。

手持ち無沙汰になっていた左手を、右手に握るものに添えて、口に運ぶ。なんとなく。

 

(苦い……)

 

喉が熱い。眼輪筋が弛み、瞼と目尻が下がる。

 

「ベルさん……?」

 

何故。自分への問い掛けだけがベルの頭のなかを回り続ける。酒で鈍った今の彼の思考では、決して辿り着けない答えを求めて。

遠くを見て呆けてる顔に、シルが恐る恐る声を掛けたが、それを聞いているのかも怪しい様を改める事もせずにベルは口を開いた。

 

「わかんない、です……」

 

「え?」

 

ベルは双眸を店員に差し向けると同時に、かくんと首を傾けた。

それからカウンターに上体を預け、右肩に頭を乗せた少年は、どろどろとつぶやき始めた。

 

「ぼく……なんで、ここに、来たんでしょうね~……」

 

「あの」

 

「なんで、あんな、おっかないところに、通って……なんで、でしたっけ……」

 

「の、飲むのは早かったかな」

 

呂律の怪しくなって来た客の姿に焦りを感じたシルは、一度差し出した杯に手を伸ばしたが、それは空振る。またベルの口に杯が運ばれた。

未発達の喉仏が一瞬だけ隆起して、細い食道に酒が流し込まれる。それから、口を開いた。

 

「はやくないですよっ……ぜんぜん……んぐ、ぼくは……あんな、かっこうわるい……」

 

ベルの視界が滲む。目の前の店員の輪郭がどんどんぼやけ、様々な過去の記憶と混濁していく。

どこまでも続く迷宮の壁面。現れる敵。

バベルの荘厳な造形。冒険者達。

街並み。行き交う人と神。

小さな神殿。小さな部屋……。

乱れる網膜は、周囲を引っ切り無しに飛び交う客の声によって、幾多の像を結んだ。

遠くに聞こえる声。

声。

……笑い声。

楽しそうに会話する声。

自分を囲んで、見下ろし、笑う声が、蘇る。

ベルの口角が歪む。

 

「いぇへ」

 

くっ、くっ、くっ、と、脈絡無く、背筋を震わせて笑い始める危ない姿は、今の彼の中だけでは合理的な行動だった。

理由などどうでもいい。楽しいから、笑う。当たり前の事なのである。酔っぱらいの行動に他者が合理性を見出すことなど出来ないのだった。

 

「ふ、ふ、あっははは、ふっくくくく……ねえ?うへへへへ……ばかみたいで、はははは……」

 

「……」

 

ベルは、顔を上げてへらへらと笑う。明らかな卑下と自嘲を感じ取ったシルは、言葉を掛けるのに躊躇を感じた。落ち込んだ気分を紛れさせられれば良いと思って一杯奢った判断の誤りを悟る。

酒によって枷をこじ開けられた少年の心は、鬱積した暗い感情を茶化して発散する道を選んだのだろうが、傍目には幾分痛ましくもある姿だった。

ただそれでも、このように一人管を巻く事で重荷から解き放たれる時間を過ごせるというのなら、そっとしておこうというシルの判断も間違ってはいなかっただろう。

実際には、違った。

 

「よう、見覚えあると思ったら、やっぱりあの僕ちゃんじゃないかよ」

 

「ふあ?」

 

不躾に肩を掴んで振り返らせた男が誰であったのか、ベルは思い出せなかった。男の後ろに居る面々についても、ぼんやりした視界と思考のままでは、終ぞ面識がある事に気付けなかった。

ただ察せたのは、かれらの浮かべる、あまり善意の込められていなさそうな笑みだけだった。それが、酔い潰れ、だらしなく表情を崩している新米冒険者への嘲笑と理解するのは、今のベルの頭では困難だった。

ぐらぐら揺れ動く天地の狭間で記憶を洗う様に構う事無く、男は馴れ馴れしく語りかける。

 

「お前みたいな坊主がこんな、ちびちびと一人で酒盛りなんてして、見てるこっちが不憫でしょうがねえな」

 

「飲むならもっと派手にやろうぜ。悩みだって吹き飛ばすには、そうするのが一番だ」

 

「うあ……?」

 

男の連れも現れる。彼らは、力なく突っ伏している少年を、自分達の囲う酒の席に呼ぼうというつもりだった。それは、袖振り合っただけの縁とはいえ、一応の後輩である存在に対し芽生えた憐憫による行動なのか、傍目にはわからなかった。

シルは、止めるべきかどうか、躊躇を隠せぬまま、連れて行かれそうになるベルに手を伸ばす。

 

「あの、……」

 

「あんたも付き合ってくれるんなら、大歓迎なんだけどなあ」

 

「かははっ」

 

あまり品の無い顔と台詞を向けてくる男たちに、シルは怯んだ。客商売をしている身の上で、嫌悪をあからさまに表す事はしないが……。ただ、安易に迎合して際限なく付き合う事もしない勤務態度が、彼女の常だった。

そう平素のシルであれば、ここで流水のように客の誘いを避けているところだが、酩酊状態で彼らに連れられる少年に気を揉む姿を、男たちも察知していたのだろう。いつもなら上手い事逃げられてしまう美人店員をたらし込む出汁としてベルが捕まったという面は確かにあった。

言葉に詰まるシルに、男の一人の手が伸びた。

 

「なあ?偶には仲良くしてくれよ」

 

「あっ……」

 

男の大きな腕にシルは小さく尻込みして、それから反射的に、テーブル席に連れて行かれるベルを見た。顔を赤くし、眼と口を半開きにした、なんの役にも立ちそうにない姿の少年だけがそこに在った。

すう、と、自分の中の何かが冷えるのをシルは感じた。小さな落胆……。

一瞬の忘我に囚われた彼女が野卑な手に触れられる前に身を引いたのは、自身の意思による反応ではなく、別の店員の成さしめた事だった。

 

「楽しむなら、どうぞお客様がただけでお願い致します」

 

シルを引き寄せたエルフの店員は男に対し、慇懃無礼に言った。

 

「……チッ、勤勉なこって」

 

男は眉をひそめて手を引き、席に戻っていく。有無を言わさず同席させた後輩を囲んで騒ぐ、仲間のもとへ。

 

「……」

 

「……シル。客は彼だけではないと、貴女はわかっているはずです」

 

空色の瞳が、シルを射抜いていた。

シルは、反駁する理を持たなかった。

彼女の顔にはただ、少しだけ、少年への後ろめたさだけが浮かんでいた。

 

 

 

--

 

 

 

 

ぬるま湯に浸されている錯覚はベルの全身から離れなかった。

火照り霞がかった思考は、掛けられる言葉に対し、至極単純な返答か、適当な感情の発露――――緩んだ表情筋をまた綻ばせて、理由のわからない可笑しさに任せて笑う事――――しか、彼にさせなかった。

 

「まだ十四歳たぁ、立派なもんだな、僕ちゃん。でもよ、ゴブリン如きにあんなザマじゃあな」

 

笑う。

笑い声が自分の周りをぐるぐる回っている。

それが誰のものなのか、ベルにはわからない。

 

「一人でねェ。まあ、現実が少しは見えただろ、夢見る若者くんよ」

 

肩を叩かれる。衝撃が視界を上下に揺らした。それは何時まで経っても収まらなかった。

 

「珍しくもねえ話だよ。でもな、甘いんだなあ……どいつもこいつも。しょせん、あの程度って事なんだよ、僕ちゃんは。なあ?」

 

杯を目の前に出された。だがベルは、それを手に取ろうという気にならなかった。

頭の芯から、舌の根っこ、食道の奥にかけて篭もるように留まり膨らむ熱の正体は、未発達の肉体による飲酒への拒否反応だった。

自分の注いだ酒をボケッと見てる少年の姿に、男は苛立ちを感じた。

 

「バカ、こういう時は何も言わずに飲むんだよ。つまらねえ事も忘れたいんだろ?」

 

「うぐ」

 

もう一人の男が、ベルの頭を掴んで、無理やり飲ませようとする。杯に口を付けさせ、後頭部を引くと、少年の目が白黒に瞬いた。それから、年齢なりの細い喉が、大きく鼓動した。

全て飲み干した事で解放されたベルが、舌をだらりと垂らして、大きく息を吐いた。

 

「げはぁ」

 

「いい飲みっぷりだなあ、ハハハハッハハ!!」

 

「そうそう、これくらいはやれなきゃ、やって行けねえぜ」

 

背中を叩かれる痛みもどこか遠い世界の出来事にベルは感じた。意識から切り離された身体は今にもテーブルに崩れ落ちそうに揺れている。

それでも四方八方から聞こえる様々な声は、頭のなかでどんどん反響して大きくなり、決して消えない。

 

「俺なんかな、お前が生まれるより前からこの稼業やってんだよ。あの頃のオラリオに比べりゃ、今なんか信じられねえ生ぬるさだ。装備品だって、あの頃は全部自前だぜ」

 

「こーんな良いもん着けてる新人に、やっかんでるだけだろお前は?ぎゃはははは!」

 

「でもよー、このナリであんな、お前……ベソかいて、腰抜かしてよお!洒落になんねえぞ?俺達が来なかったら……」

 

好き勝手に言い合い、笑い合う。

 

「ええ?なあ、僕ちゃん。どうしようもねえよなお前は。あっはっはっはっはっは!」

 

時折、顔を覗きこまれて、大笑いされる。何が面白いのか、ベルにはわからない。

ただ、ベルもなんとなく、笑う。

 

「そ~ぅでふねぇ……うっ、うひひっ、えへへへへへっ……」

 

意思を持たない反応は、ベルの無様な過去を肴に盛り上がる者達を止めなかったし、寧ろその勢いを肯定するように捉えさせた。

 

「やっぱり、駄目だろうなあ……お前みたいなのじゃ。冒険者なんて、やめな!頑張っても届かないものなんて、世の中には溢れかえってるもんなんだよ、わかるか?」

 

「ふはあ……」

 

「ほら、もっと飲め」

 

男達がベルに語り聞かせる薫陶とは、前途ある若者を思いやったものなのか、それとも、彼ら自身の抱える後ろ暗い情念――――若い、無謀で、無様な、何処にでも居る、嘗ての己への苛立ち――――に基づくものなのかは、誰にもわからないものだ。

ただ、今のこの席の光景に、少年への気遣いを感じ取れる人間は、あまり多くはないかもしれない。

しかし、割って入ろうという気を呼び起こす程の、劇的な有り様などでは、決して無いのだ。

酒を流し込まれるベルの胃と食道の許容量は、いい加減に限界を迎えていた。

 

「故郷に帰って、鍬持って、真面目に働いて、嫁さん貰って、慎ましくやりゃあいいだろ?お前みたいなのがウロチョロしてるとよ、俺らまで……」

 

(……)

 

男の台詞の最後の方まで、ベルの耳には入らなかった。ただ、前半の部分だけを聞いてから、唐突にその光景が思い浮かんだのだ。

 

小さな家に住む自分。

 

小さな畑を耕す自分。

 

終日、鍬を振り続け、へとへとになって、家の扉を開ける。

 

……誰かが、それを出迎える。

 

誰かが。

 

腰の高さほどの小さな影と、その後ろの、肩の高さほどの、もう一つの影が……。

 

……そうだ。こんな生き方だって……。

 

そこで映像は途切れた。顔中にかかった冷たい感覚は、ベルの意識を、朧気な現世へ引き戻したのだった。

 

「……?」

 

唇に染み込む液体の正体が盛大に引っ掛けられた酒だと知るのにも、今のベルには猶予が必要だった。

 

「先達の話はよお!ちゃんと聞いてなきゃいけないぜ、僕ちゃん!」

 

「ヒヒヒッ。ホントお前、後輩に優しくねえな」

 

あーっはっはっはっはっはっは、と男達が、酒に濡れるベルを囲んで笑った。

 

「しかしまあ、こんな所でもボンヤリしてるようじゃ、確かにな」

 

「でも僕ちゃん、ここでやっていきたいって言うんだろ?」

 

ん?と、視線も定まらなくなってきているベルに、話が振られる。

口を開けて、前髪から酒のしずくを垂らしながら、質問の意味を理解する為に思考する事、暫し……。

 

「……はぃ……ぼくぁ……ここで……」

 

そうだ。

ベルは、この街に来た。何かを求めて。

何か。それは、何だったのだろうか。

自分は、何になりたかったのだろうか。

もう、蕩けきった今の脳味噌では、決して答えに辿り着けない疑問なのだった。

ベルの途切れた口上の続きを待つ者はおらず、男達はため息をついて首を振った。

 

「あぁ、もういい。もういいんだよ、僕ちゃん。肩肘張って頑張る必要なんかあるか?誰にも身の丈にあった生き方ってのがあるんだよ……」

 

「まあ、一人でやれなきゃ、誰かと組むって考えもあるだろうけどよ。今のお前みたいな奴じゃ、精々……」

 

男達が顔を合わせてから、顔を真赤にして酔いつぶれる少年のほうを向いて、鼻で笑った。

 

「ゴミ拾いがいい所、だよな」

 

「っぎゃーっはっはっはっはっは!結局お前もひっでえの!」

 

「ひーっひひひひひっ!そーだ、そーしろ!転向しな!サポーターなら、お前みたいなのでも、快く迎え入れてくれる連中も居るだろうさ!」

 

万雷の笑いの渦が、ベルの中に芽生えていた疑問を根こそぎにしていった。どうでもいいじゃないか、と、ベルは思った。

面倒くさいし、どうでもいい。

なんだかわからないけど、面白いみたいだ。

なら、笑って忘れてしまえばいいではないか、と、彼はただ思った。

 

「ま、まかり間違っても、ウチには要らねえけどなあ!」

 

「あーーーーっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!」

 

「……はは、あはははは、んふ、ははははは、はははははは……」

 

 

--

 

 

一人のホビットが、苛立ちをむき出しにした表情のまま、酒場を後にした。

時間と手間を無駄に浪費した自分への憤りが彼女の中に渦巻いていた。

過日に目の当たりにした偉業の輝かしさの全てが夢まぼろしであったのかとの疑いさえ抱くほどの光景を、リリはこの日、余すところなく見届けていたのだった。当の少年に、一切気取られる事無く。

改めて自分に問いかける。ベル・クラネルに、何かを期待していたのだろうか。

ゴブリンに囲まれて腰を抜かしベソをかく子供に。

ロクデナシ共に絡まれ、嘲笑され、酒を浴びせられてもヘラヘラと笑っている腑抜けに。

ゴミ拾い、が、精々と、値踏みされても、その意味を理解出来ない愚か者に。

……あの、目の前に立つ全てを蹂躙し征服せんと燃え盛る、禍々しい瞳の光。数日経っても、それは瞼の裏から消えるどころか、日を負う毎に強く輝きを増しているかに思えた。

批難も、軽蔑も、打算も、優越も、逡巡も、何もない。純粋な、……狂気じみた破壊本能を湛えた眼差しというものの実在を、リリは確かにあの時理解したのだ。

その輝きに囚われて、勝手に何かを期待して、失望した……それだけだ。

 

(あんなのに付きまとって、一番の大馬鹿は私でしたね……)

 

リリは自嘲して、夜の街をひとり、歩いて行った。

失ったのはクロスボウの矢一本と、丸一日ぶんの稼ぎだけだと、自分を慰めつつ。

 

 

--

 

 

無様な後輩を散々弄り回した連中は、いい加減に飽きると、適当なところで飲むのを切り上げてから、揃って引き上げていった。

 

「ああ、いい、いい。僕ちゃんの分まで払っといてやるよ。こうやって付き合うのも、これっきりかも知れねえんだ」

 

テーブルには、宴の跡に突っ伏している少年だけが座っていた。ひっくり返ったコップを頭の上に乗せたまま、低下した脳機能が身体を起こす事を阻み、その意識は酒気の興奮と眠気との狭間で揺蕩っていた。

シルは、酒に濡れた少年の肩を揺らした。

 

「お客様……、お客様、起きてください」

 

「ん……ぅ…………ぅぁ」

 

鈍く光る赤い瞳は、一片もの正気を見出すのも苦労出来そうな濁り具合だ。初めての酒は、質はともかく、その量で彼の容態を危うくするものでなければ良いが……と、シルは思った。同時に、彼を囲んでいた面々の歓待――――と呼ぶにはあまりにも無思慮に過ぎるのではないか、と思えたのは、シルの主観に拠る判断だが――――が与えた、幼い少年の心根への影響についても、暗い予感を抱いていた。

とはいえ、それを明らかな態度にして接するのも憚られた。まだ、飲む人は多かった。呼び込んだとはいえ、初めての客に対して構い過ぎるのは、良い勤務態度とは言えない。

いち店員として、つぶれてしまった酔っ払いを起こすのに苦心する姿をシルは暫し、演じた。

彼女のそういう御為ごかしを看過するつもりの無い者が割り込んで、ベルの首を掴み上げるまで。

 

「あぐっ」

 

「リュー!?あ、ちょ、ちょっと!」

 

「お客様。いつまでも居座られては、困りますので」

 

片手で少年を持ち上げて卓から引き剥がすと、リューはそのまま店の入口まで歩く。足取りは力強く、シルと共有出来る感情の一切を持たない様子であるのは明らかだ。

ぶらぶらと揺れるベルの足は、放り出された道路に立つ事もせずそのまま崩れ、腰を地面にへたり込ませるのに任せた。

 

「う……」

 

「……貴方は」

 

涎を垂らして俯く聞き手に、自分の声が届いているかどうかの確証など、リューは持たない。

それでも、口を開かずにはいられなかったのは、珍しくも恩人が一人の男に肩入れする姿に、思うところがあったからだ。何を思ったのか、彼女自身にも掴み切れてはいなかったのだとしても。

ただ、男に対して抱いている感情は明白であり、それが言葉の端に顕れてしまうのは、どうしても避け難いことだった。

 

「なぜ……冒険者になろうと思ったのですか?」

 

「……」

 

返事は無かった。

 

「なぜ、冒険者を続けようと思っているのですか?」

 

「…………」

 

返事は無かった。

 

「……貴方は、何を目指しているのですか?……何になりたいのですか?」

 

「………………」

 

返事は、無かった。

目を伏せ、小さな溜息をつくリューの後ろには、居た堪れない様子のシルが立っている。

 

「リュー……」

 

物言わずに座り込むベルの姿は、欠片ほどもの生気も無かった。人形のようだった。シルは、かける言葉が見つからなかった。

 

「……店の前で座り込まれるのは迷惑ですので、さっさとお引取り願えますか」

 

「…………」

 

少年はひどく億劫そうに、四つん這いになってから、腰を持ち上げる。白い前髪から、酒のしずくが一滴落ちた。

それから、店の外壁に手をついて身体を預けながら、重い身体を引きずっていく。

消え入りそうな小さな背中に向けて、リューは最後の言葉を投げかける。

 

「…………この街でなければ生きていけない、などという運命を背負っているわけでは、無いでしょう……貴方は……」

 

とある事情によって酒場で働く彼女の性情とは、一見から受け取れる冷淡な印象とはむしろ正反対のものだと、同僚達の誰もが理解するところだ。ゆえに、少年へかけた言葉も、温情から生まれたものだとシルにもわかっていた。

若く、弱い、小さな新米冒険者が、これ以上傷を負い、その人間性をすり減らしていくだろう道を歩むことへの異議は、真にベルを思いやったものであるという事が。

それでも、それをどうしようもなく悲しく思うのは、単なる自分の甘さなのだろうか、とシルは思うのだ。

命を賭する意味を知っている者達なりの慈悲を、あまりにも残酷だとさえ思えてしまうのは、彼らの気持ちを理解していない部外者の戯言に過ぎないというのだろうか?

 

「戻りましょう、シル。まだ、店じまいには早い」

 

「……」

 

リューが店の中に戻るのを横目に、シルはただ、少年の背を見つめていた。

それが闇に溶けて消えていくまで。

 

 

--

 

 

天地が何者かの手でひっくり返されそうに揺らされている錯覚の中、ベルは歩いていた。自分がどこへ向かっているのかもわからないまま。

 

『ははははは、あーっはっはっはっはっはっは!』

 

だれかの笑い声は、ベルの見ている世界を一際大きく揺らした。

街灯は幾筋もの光跡をベルの赤い瞳に焼き付けて、渦巻く。

 

『向いてねえよな』

 

声が、頭のなかで反響していた。

誰のものかもわからない。

 

『なぜ……』

 

誰かが、何かを問う。

何故、……何故。

 

(……なんで、ここに?……ぼくは、……?、ど、こ、へ……?)

 

夜更けにあっても眠らぬ街を歩く人々は、目の焦点も危うい赤ら顔でびっこを引く少年のことなど、見向きもせずに通り過ぎていく。

歩く道の果てを知らず、なぜ自分が歩いているかも知らないベルは、ただ、壁伝いに、街の隙間の、光の届かない奥へと進んでいった。

 

『…………運命を…………』

 

どこかで聞いた単語が蘇る。ついさっきだったような気がする。ずっと遠い昔だったような気もする。

 

「な、ん、だっけぇ……わかん、ない、な……ぇへ、あははは……ばぁか……」

 

薄まった理性は、卑下が口から溢れるのを阻む事も出来ない。路地裏の闇は、力ない笑い声を、ただ黙して受け入れていた。

……屋根によって星明かりも差さない暗がりは、まるで、彼自身の思考と、その運命の前途を顕にしたようでもあった。

 

「ふ、ふは、ぁ、ぁは、はは、は……は、あ…………」

 

やがて、空気の抜けていく風船のように、ベルの吐息は勢いを失っていった。辛うじて身体を支えていた、その足腰の力も。

手のひらが壁面をひきずり、そのまま、汚れた地面へ向かい落ちていく。鈍った彼の頭でも、このまま自分は路上に身を横たえるのだろうという予測はついた。

けれども、酒によって霞がかり、陰影も判別出来ない視界では、突っ伏していく上体の先に斜面があるという事に気付けなかった。

 

「あっ!?ああっ……!」

 

ベルは、崩れた階段を転げ落ちていった。ごろごろと回りながら、奈落の底へと。それ止める術など無かった。突如襲い掛かった災厄に対処しようという発想すら、今の彼の頭には浮かんでこなかった。

 

「ーーーーーーーーーーーっ!」

 

朽ち果てた段差はスロープ状に近い体となっていたために、滑落によるダメージ自体は少なくて済んだが、待ち受けていた切り返し部分からの落下に対しては、そうもいかなかった。

そのまま宙に投げ出されると、下水道の床にベルの身体は叩きつけられた。

 

「ぐ…………っ!」

 

右肩で吸収しきれなかった衝撃が、ベルの視界に火花を散らした。一切の明かりも無い視界に、残光が長く残るのを、痛みに呻くベルは眺めていた。

 

「くっ、う…………う、っぐっ、うっ……」

 

ちかちかと明滅する脳は、酒気の霧で覆われていた様々な感情、記憶を無作為に、次々に、思い出していた。

何のために。

何度も尋ねられた。

わからないと言った。

嗤われ、哀れまれた。

 

違う。

……本当は、違う。

 

噛み締められた歯の隙間から漏れる呻き声が、嗚咽へと変わっていくのに、さほどの時間は掛からなかった。

同時に、過度の飲酒で既にイカレ気味だった三半規管が、不意の衝撃によって更にかき混ぜられ、痙攣する喉が悲鳴を上げた。

 

「ゔぐっ、え゙え゙ぇっ」

 

ベルは、胃から逆流するものを堪える事が出来なかった。

 

「え゙え゙っ、げほっ、お゙、え゙え゙え゙っ」

 

這いつくばり、片肘で上体を持ち上げた格好のまま、つい先程まで流し込まれていた胃の内容物をぶち撒けていくベル。

古い下水道の生臭いにおいも、今は鼻の奥から溢れる胃酸のにおいによって全く感じられなかったが、ベルの嘔吐はとどまる所を知らなかった。

口を目一杯に開くために頬が上がり、下瞼が閉じられる。眦から、止め処なく涙があふれた。

 

「お゙ッ、おぅゔっ、ゔぐっ、ゔえ゙っ、え゙え゙え゙っ……」

 

広がる吐瀉物に透明なしずくが幾つも落ちる。

嗚咽はまた、喉を震わせる。胃が揺れ動き、食道の蠕動が逆転する。

 

「お゙え゙え゙っ、げへっ、はっ……げえ゙え゙え゙え゙っ」

 

汚濁の底にあるような光景とは裏腹に、ベルの頭のなかはまるで、血管に溶けたアルコールまで絞り出していくかのように、明瞭に澄み渡っていった。

 

なぜ、この街に。

 

英雄に憧れたから?違う。

 

なぜ、冒険者に。

 

モテたかったから?違う。

 

なぜ、続ける。

 

それは……。

 

「うぐうぅっ、うああっ、あ゙あ゙あ゙っ……」

 

背中を丸めて、ベルは噎び泣く。

一筋もの光も無いオラリオの闇の底に衝かれた、一人の少年の小さな右手。そこにある青白い宝石の輝きは、持ち主に全ての答えを与えていた。

いっそ、残酷に過ぎるほど明確に。

 

なぜ、この街に。

 

一人で生きるのが、怖かったからだ。

 

なぜ、冒険者に。

 

祖父の影を感じたかったからだ。

 

あの日、自分を助けてくれた大きな影……祖父が何処にも居ないという事実が、怖かったからだ。

 

なぜ、続ける。

 

……一人になるのが、怖いからだ。

 

あの、小さな、新しい家で待つ、新しい家族。

 

彼女に失望され、見放されるのが、ベルは何より怖いのだ……。

 

「うっ、ウッ、うう、ヴっ、え゙え゙え゙っ、お゙え゙えっ……」

 

ただ恐怖に追い立てられて生きる、卑小で愚かで、弱い自分の事を、ベルはどうしようもなく嫌悪した。

嘲笑されても何も言い返せず、ただ笑って誤魔化し、自分の弱さを守ろうとする浅ましさに、激しく憤怒を滾らせた。

そんな自分を苛む全ての苦悩は、立ち上がって挑む事でしか打ち払えないと知っているからこそ、彼は底のない煩悶の中から逃れられなかった。

今の自分の姿はいったい、何なのだろうか。

 

(わかってるのに。わかってるのに、わからない……)

 

無明だけが、ベルの周囲に広がっていた。

 

「ッ、……っ、うっ、どっ、どうっ、すりゃっ、……どうすればっ、いいんだよおっ…………!」

 

血を吐くようなその言葉は、人影を映さない下水道の、果ての果てまで届き、決して答えは戻らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……で、大ぇ丈夫、か……?」

 

「え…………?」

 

 

 

 

 

青い、深く青い瞳の色は、どうしてか、はっきりとわかった。すべての光に見捨てられたような、闇の中にあっても。

 

声の主を見上げたベルは、ひどく大きさが不揃いになっている、一対の青い双眸を目にして、ずっと昔、祖父と交わした会話を思い出した。

 

 

 

 

 

『……そうだな、とてつもなく広いぞ。この世の果てまで広がっていて……それで、……心が安らぐ』

 

『心?』

 

『ああ。どんなに苦しい時も、悩んでいてもな。決して、どんな奴でも拒まない……誰も彼も、そんな懐の深さを見出すのかもしれんな……』

 

『……いつか、見てみたいなあ』

 

『おう、そうだ、それがいいなぁ。……白い砂浜、たむろすナイスバディの美女たち。そう、そこは出会いの場所でもある、わかるなベル!?』

 

『う、うん』

 

 

 

 

 

海。

 

自分を見つめる瞳の色は、未だ知識としてしか存在しないはずの、青い命の褥をベルに連想させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

クジャクの羽根を模したエンブレムは、罪人の背中で青く煌き、一瞬だけ、下水道を照らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうしてベルは、異形の罪人アルゴスと出会ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目覚めを待つ運命は、その時に至る歩みを一つ刻んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・アルゴス
事実上オリキャラ扱いで行きます。ケータイ版GOWに登場。
IIIにも出る予定だったが没になった(庭園のボスだったと思われる)。
3Dモデルまで完成していたのに、勿体無い。

・アポロン
GOWシリーズではアポロの名で登場……が、実物は結局出なかった。
オレステイアをなぞったシナリオであるアセンションでは事実上クレイトスの味方として復讐の女神達に対抗する力を貸してくれる役目(真実の眼でバリアを打ち消すギミックは、オレステスが親友ピュラデスの助けでアポロンに罪を許してもらうくだりのオマージュ)。

・男の子を奮い立たせる方法
「どれだけのワインを飲もうと、どれほどの女を抱こうと、心を苦しめる恐怖から逃れる事は出来なかった」

・クジャクの羽根のエンブレム
オリ要素。何という名の神のエンブレムなのだろうか??

・下水道
一.怪物の住処。主にゾンビ兵、ミノタウロス、サイクロプスが生息。
二.古き文献によれば、オラリオにおいてここを根城としたファミリアが確かに存在したとされる。
しかしその文献は既に失われ、記憶に残す者も僅かだという。
果たしてその神は何という名だったのだろうか?



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下水道で遊ぶな

ちょい修正しました(2016/10/27)




大きな瞳の湛える青色は、少しの間だけベルの意識を吸い込んでいた。ほんの少しの間だけ、だ。

 

「んぐッ……」

 

一瞬麻痺しただけの嘔吐中枢は、そう簡単に活動を止めてはくれなかった。

既に一度開いていた栓は、たやすく再度の逆流を許した。

 

「おッ、お゙え゙え゙っ」

 

「!お、お゙い……」

 

いい加減、胃の中身も尽き果てそうな頃合いであったが、一度どん底まで落ちきったベルの精神状態は、肉の器に対して容易な復帰を促すようにはしない。名前どころか、その顔すらも判然としない他人の前で醜態を晒しまくる自分への嫌悪感と羞恥心は、少年の心と体を更に辱めていった。

涙と吐瀉物で顔面を滅茶苦茶に汚すベルは、心の堰を押し流して溢れる様々な苦悩をも吐き出しはじめる。

 

「うぐっ、げええっ、ウッ、ぅ、ううぅっ、ずっ、ずいまっ、せッ、んん……っぐ、ヴえっ……すい、すいまっ、ぜっん……ふぐうっ」

 

「……」

 

それは初対面、開口一番にしてゲロを吐き散らす無礼への謝罪だけではなかった。

彼が真実、何よりも大切な存在に対して、何をおいても伝えたく焦がれる言葉でもあったのだ。そして、己が決して、その言葉を伝える資格を持たぬと自覚していたから、今こんな風に、見知らぬ誰かに対してしか開かせない本音として口から紡ぎ出されていた。

歪な双眸は、這いつくばる少年の心の中など見えなかった。しかし、そんな情報など無くても、眼前の何某が深く傷つき、苦しんでいる事くらいわかるのだ。

大きな、暖かいものが、ベルの背に乗せられ、優しく擦られる。

大きな、とても大きな手のひらだった。

 

「……良゙い。好ぎなだげ、吐ぎ出しでしまぇや……。その方が、楽だ……」

 

ひどい濁声に似合わない、深い気遣いをベルは感じた。そしてそれは、彼が永遠に失ったあの、大きな背中を持つたった一人の家族の姿を思い出させた。

 

「っは、……うっ、うぐぐっ、ぅえぐっ、ぅげえぇっ、っはあっ、ううっ、うっ、ぶっ、……」

 

たった一人の家族への深い罪悪感と、たった一人の家族への深い郷愁は、ベルの心で雁字搦めになった一番弱い部分を、どんどん解きほぐしていく。

それは、見知らぬ誰かに対する唐突な懺悔と告白の形となり、深い闇の中で吐瀉物とともにベルの口から流れ落ちていった……。

 

「うっうっ、うぇええっ、すいっ、ませんっ……っ、ずっ、ずっ、ゔぐゔぅ……」

 

溢れ出る涙はベルの顔をしとどに濡らし、図らずしも、口の周りの汚れを洗い流していく。

 

「……っ、ごっ、ごめ゙っ、んッ、ん゙っなっ、ざ、い……ぐ、っぐっ、おえっ……」

 

「…………」

 

目を閉じて、ベルは必死で許しを請う。

こんなにも無様な自分である事を。

こんなにも弱い自分である事を。

愚かで、ちっぽけで、どうしようもない不義理な不忠者である事を。

ここには居ない、あの小さな家の、たった一人の住民に対して。

 

「ごべん゙、な゙ざッ、い゙……ゔゔぅ……げほっ、ゔぅぅっ、ッ、が、がみ゙ざま゙、ごっ、ごっめん゙な゙、ざい゙ぃ……うっあああっ、ああああっ……」

 

すがりつく細腕と、掛布越しに押し付けられる頭、そこから広がる熱く濡れた感触を思い出す。同時に蘇る激しい慟哭。

あんなにも悲しませた罪の重さとは、灼けつく喉からどれほどの言葉を搾り出そうとも決して贖えはしないと知っていた。決して、彼女の目も耳も届かない、この闇の底に在っては……。

 

「……」

 

「ッ、ひっく、うぐっ、っっ、はうっ、うぅっ、うぇっ、ぐっ、っ……んっんぐっ……」

 

そして、自分がどれほど不毛な事をしているのか理解しながらも、ベルは、撫でられる背中の感触によって、自分の荒廃した胸の内に暖かいものが注がれていくように錯覚していた。それは同時に、心を縛る枷を溶かして両目まで押し流し、そこから剥がれ落ちるのを促していくようにさえ思わせていた。

いつしか逆流するものは枯れ果て、下水道には子供がしゃくり上げる声だけが断続的に響くようになっていった。

その合間に、遥か離れた小さな主の許しを請い続ける言葉を垂れながら、ベルはずっと泣き続けていた。

いま激しく波打つ自分の心の、ずっと奥底に積もった全てが、この涙と一緒に押し流されてしまえばいいのにと期待しながら。

 

(弱くて、ごめんなさい……)

 

(馬鹿で、ごめんなさい……)

 

(……約束を破って、ごめんなさい……)

 

青い瞳を持つ罪人はただ、少年の細い背をさすり続けた。

何も言わずに。

 

 

 

--

 

 

 

胃の中身も、涙も流し尽くした。心身のストレスを大幅に解消するそれらの行為は、おそろしく体力と精神力を浪費する行為でもあった。

心地良い気怠さを感じながら、ベルは目を覚ました。あれこれと液体でびしょ濡れだったはずの顔はどうしてか乾いていて、後を引くこびり付いた感触も無かった。

顔に触れていた右手を見やる。中指の真鍮が、差し込む月影で青白く輝いた。

 

「……?」

 

そう、見えるのだ。自分の手のひらが。暗く湿った、破棄された下水道の跡地に注ぐ光によって。鼻の奥に僅かに残るよどんだにおいも、ここには届かなかった。

尻の下に敷かれた厚手の外套も、僅かな安らぎの暇を少年に与えた要因の一つだったに違いない。

 

「目、覚めだ、か?」

 

ベルは、壁面に背を預けて足を投げ出したまま、その声の持ち主に首を向けた。

崩れた天蓋に撞きそうな錯覚を抱かせる上背を丸めた、異形の巨躯がそこに立っていた。彼こそ自分をここに運んだ下手人であるとベルは理解出来たが、その礼を述べるのも忘れたまま、口を半開きにした間抜け面を晒していた。

巨大な顔面の左半分を大きく占める青い左目は、ひどく曲がった鼻筋で区切られ、反対にある標準的なサイズの右目のおかげで、実面積以上にその大きさを主張しているように思えた。

歪な鼻筋の下にある、めくれた不完全な口唇裂から覗く不揃いな歯並び。一語喋るにあたって、それは随分と常人の紡ぐものとの違和感を聞く者に覚えさせるだろう事は、既にベルの耳も知っている。

そして、彼の全身を改めて、ベルは検分する。――――月の色を浴びてより、恐ろしい程に白く映える肌。大いに明瞭に、透けて見える青い血管の色と、崩れた頭部に一筋残る白金色の毛髪とともに、何らかの疾患を連想させる病的さを孕む外観と言えるだろう。

……腰巻きだけ身に付けた彼の、極めて発達した筋肉の鎧さえ無ければ、だが。

殊に、辛うじて常識的な範疇で鍛えられた結果だろう右腕と比して、その三倍の太さを持つだろう巨大な左腕。それは、人間の頭蓋骨など容易く握り潰す迷宮の怪物達の腕と並べても、如何程の遜色を見出だせるだろうか?

異様な左腕と同じ太さの両脚が、名も知らぬかたわ者が決して、大地に倒れる事の無いように支えている所まで、ベルはしっかりと見通した。

 

「…………は」

 

「……」

 

赤い瞳と青い瞳は、言葉も無く向き合う。

もしも。もしも、この出会いが、血に飢えた怪物の跋扈する迷宮であったなら、男こそその住民であると看過する事にベルは躊躇しなかっただろう。それから戦いを挑むにせよ、あまりにも歪な図体から一目散に逃げ出すにせよ。

実際にはそうではなかった。いきなり地上から転げ落ちてきた少年の最も弱い姿を見て、騒ぎ立てる事も、邪険にする事も、根掘り葉掘り問いただす事も決して彼はしなかった。

つい先程まで自分の背を撫でていた大きな手の持ち主の異形に対し、ベルは驚嘆こそ抱こうとも、少なくとも恐怖やそれに類する悪感情を芽生えさせることは無かった。

 

「っ、り、がとう、ございます……その、すいません……」

 

今更弁解のしようもない醜態を見せつけた事への謝罪だけではなく、生臭い闇の底に比べて随分と落ち着ける場所に連れて来てくれた感謝も口にしようと、ベルは鈍った頭から指令を出した。じろじろと無遠慮な視線を向けていた無礼な態度の気まずさもあり、言葉に詰まる。

対し男は、身動ぎもせず、瞬きをひとつした。常人とはまるで異なる造形の顔立ちから、ベルはその心情を察することは出来なかった。ただ、その目の深い青色に吸い込まれそうに、視線を縫い止められるだけだった。

 

「ん、や……落ち着゙いだんだら、良がった、な」

 

「あ……」

 

少し開けられた口の、疎らな歯の間から言葉を漏らした男は、ゆっくりと身を翻した。湾曲した脊柱が作る瘤の谷間にある、孔雀の羽のエンブレムが、ベルの目を奪った。否、それは、自分に向けられていた穏やかな青い双眸が、今を以って決して己の人生と交わらぬ場所へ行こうとしているという不安の呼び起こした反応だった。

反射的に、手を伸ばす。そんな行為に意味など無いと気付くのに、刹那もの時間もベルには必要なかった。

 

「あ、あのっ」

 

呼びかけにより男が足取りを止めたのは、ベルにとって幸運な事だった。

だが、去ろうとする機を引き寄せる術までは彼の頭に無かった。

止めて、どうする。

あんな、最低な姿を晒し、必要も無い介抱まで貰って、何を求める。

誰かに縋りつく前に、なぜ自分の足で立ち上がろうとしない。

流し尽くした筈の暗い思いが、ベルの口を塞ごうと滲み出てくる。右手から、胸の奥から……。

 

「っ、……ぅ……」

 

途切れた声はどうしても、続かなかった。開いた口は、乾いた吐息だけを行き来させる。少年の悲痛な顔は、考え無しな自分への遣る瀬無さと、微かに見えた標が去ろうとしている事への絶望感が浮かんでいた。

……或いはその大きな背に重なる、失われた過去への惜別の念が一人きりに放って置かれる恐怖を呼び起こしたか、さもなくば酒場で見目麗しい店員に乗せられて行ったのとは違う、弱り果てた心の底からの我執の吐露をぶつけた相手からの同情を望んだのかもしれない。

何も問わない、知らない誰かであるからこそ、一切の挟持も虚勢も投げ捨てて縋り付いてしまいたいという、十四歳の少年が抱くには決して不自然でない衝動は覆い隠せずに溢れ出しそうだった。

それらの全てが、単なる甘ったれた性根に因るものだと自覚しているから、ベルは声を上げられないのだ。

 

(なんで、なんで、こんなに、弱いんだ……)

 

伸ばした手に見える、自分の弱さの証を握り締める。

 

(強くなきゃ、何も、取り戻せない……このまま、消えていくだけなんだよ。わかってるのかよ……!?)

 

俯く少年は、失望と、怒りに震える事しか出来なかった。

それは、どれほどの時間だっただろうか。

青白い帳の作る影が、ほんの少しだけ傾いていた。

ずっと遠くの梟の鳴き声が、崩れた下水道にまで届いてから、沈黙は破られた。

 

「怖ぐ、無え゙、のか」

 

「え?」

 

顔を上げたベルの視線は、肩越しにこちらを見る異形の瞳と交わる。

怖い。

何が、怖いのか。ぽかん、と口を開けたまま、男の質問の意味を、ベルは掴みあぐねた。

男はもう一度、口を開いた。

 

「おでの、事、怖ぐ、無え゙の、か」

 

男はそう言って、全身を振り向かせた。ひどく不均衡な陰影は、再びベルの目に晒されていた。

そこでようやく、男の真意を、ベルは悟った。

彼が今日ここに至るまで、周囲の存在から受け取ってきたものの片鱗すらも。

 

「……」

 

ベルは、欺瞞の無い本音であっても、それが薄ら寒い綺麗事にしか聞こえないほどに心が荒んでしまう悲しさを、多少なりとも知っているつもりだった。

ただ、それでも少年の心には、男の異形への恐怖など無かった。それは、真実だ。

思い出すのは、幼き彼が読み聞かされた、様々な英雄譚。合間に彼は、祖父に尋ねることもあった。

 

『……と、こうして、ポラックスは、カスターのもとへ召された。深い絆で結ばれた兄弟は、永遠に分かち難く……』

 

『……ねえ』

 

『ん?』

 

『ふたりは、こんなからだに生まれて、つらくなったり、いやになったり、しなかったのかな?……』

 

『…………』

 

一つの身体に融合して生まれ落ちた双子の兄弟の物語に思いを馳せ、ベルは忌憚なき疑問を口にした。

祖父は、少しの間だけ考えこんでから、口を開いた。

 

『きっと……彼らにとって、その身体は、神に与えられた特別なものなんだと、そう感じていたからなのかもしれん、な』

 

『……』

 

人とは違う身体を持ち生まれた事への疑問とは、神の意思という理由によって贖われるものなのだと、幼いベルはこの時、朧気に理解した。

それはつまり、髪の色が違うとか、目の色が違うとか、鼻の形が違うとか、そういうものと似たようなものなのだろうか、とも……。

髪の毛が炎のように燃え盛っていたり、黒目の無い真っ白い瞳を持つ人間なども存在するのか?などという夢想に怖がったりもしたのは、幼いベルの勝手だ。

 

「僕は……」

 

ともかく、そんな幼少期におけるなんて事はない思い出の一つも、ベルが目の前の男に、少なくとも害意を持つようにはさせなかったのだ。未知なる何かを排しようとするのを愚かさと言うならベルは立派な愚か者だったが、少なくとも、その青い目を持つ異形の本性とは、小さい人間へ見境なく敵意を向けたり、侮ったり、蔑んだりするようなものではないとわかっていたのだから。

だからこそベルは、安易な返答をする選択を拒絶した。それは計算された思考ではなく、もっと本質的な部分から導き出した結論だった。

目の前の男の失望を買う事への忌避感は、少年の口から、別の本音を紡ぎ出させた。

 

「……今は、もっと、怖いものが、あるんです。だから」

 

「……」

 

途切れた言葉は、赤い瞳が継いだ。ベルは、男の視線から決して目を逸らさなかった。

少年の思いは伝わったのだろうか。男はゆっくりと、壁際に足を踏み出した。

そして敷かれた外套のそばに、巨躯を沈めた。

 

「……聞く事゙しが、出来゙ねえ。けど、それ゙でお前ぇの助げになるんな゙ら……」

 

腰を下ろし、じいっ、と男はベルを見つめて言った。

それは、ただの同情に過ぎないのだろう。名も知らない、小さく弱い子供への。

それでもベルは、男の慈悲に感謝せずにはいられなかった。

ただ、誰かに聞いて欲しかったから。

 

 

誰かに、知って欲しかったから。

 

 

心のなかに渦巻き、己を苛ませるすべての事を。

 

 

ずっと昔に使われなくなった下水道の一角で、一人の少年と、一人の異形が向き合った。

ベルの告白は、そう手短に終わらせられるようなものでは、なかった。

 

 

自分を縛り付ける全ての枷の存在を伝える作業は、決して、他の何者にも知られず、阻まれる事も無かった。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

酒場で、初めての酒に呑まれた勢いで……優しく美しい女店員に対して、体裁を捨てきれずに、要所要所を濁して話した時とは、違った。

名前も知らない、初めて出会った異形の男に対して、芥ほどもの見栄も虚飾も、韜晦もなく、ベルは喋った。

 

「……孤児だった僕を、祖父が拾って、育ててくれたんです」

 

自分という存在の始まりから。

 

「祖父は、とても強くて、大きくて、優しくて……」

 

心に焼きつく影の事も。

 

「……出会いがあるって、言っていたんです。ここに。それを信じてやって来た、って、思いたかった……」

 

主にすら明かせない、心を覆っていた欺瞞すら。

 

「どこにも受け入れてもらえなくて……けど、神様と出会えたんです。……家族になろう、って、言ってくれたんです……」

 

新たな家族は、優しかった。新たな家は、暖かかった。ベルが失ったものと似ていて……確かに違う、別のもの。それでもベルは、そこに安らぎを見出した。

 

「神様の為なら、神様の名前がこの街に、世界中に知れ渡るようになる為なら、どんな事だって……そう思って、冒険者に……」

 

戦い、勝ち、征し、畏れられる。

少年が冒険者という道を選んだのは、祖父の言葉だけに導かれた結果というわけでもなかった。

最も単純な理は、不思議と彼の心を惹き付けていたのだ。

戦士としての自分を望む事に、何の疑問も抱かなかった。

それも、あの夢が再び現れる時までの事だった。

 

「でも、……怖い、わからない、夢……祖父が居なくなってから見ていた、怖い夢が、また……」

 

全てが炎に包まれていく中で、血塗れになって進軍する自分。その先にどうしようもない過ちが待ち受けていると知っているのに、それを押しとどめる事が叶わない。

――――深い絶望と悲しみに塗り潰されると同時に目を覚ます、あの悪夢。

 

「神様が、言ったんです。僕の中に、目覚めていない、大きな力があるって……。……思ったんです。きっと、あの夢と、何か関係があって……」

 

それは、根拠の無い推論だった。生来眠っていた秘めたる力の片鱗が、生命の危機において顕れ……など、まるで出来の悪い、ご都合主義に塗れたお伽話だ。

だがベルが理解するあの感覚は、神に類する清らかな何かに与えられた祝福などとは違う、激しく、狂おしく、荒々しい、別のものに由来しているようにしか思えなかった。夢の中の自分を支配するものとの関連を疑うのは、必然的な帰結だった。

 

「ミノタウロスに追い詰められた時も、シルバーバックと対面した時も……まるで、夢と現実がひとつになったようで、周りの何も見えなくなって……」

 

目の前の敵意を滅ぼす事だけを望むあの衝動を、ベルは決して忘れてなどいなかった。それは、自分が別の存在に置き換わる現象と形容するのも語弊を感じた。

五感全てが研ぎ澄まされ、脳細胞は余すところなく戦いと勝利の道筋を求め、それ以外の他の何もかもなど涅槃の彼方に放り投げてしまったかのような異常な感覚は、今も容易く思い返すことが出来るのだ。それは、間違いなくベル・クラネルという人間の持つ一面である事の証左なのだった。

あれこそ、自分の持つ本性、秘められた真の人間性なのではないだろうか?

ただ力を、勝利を、征服だけを求め、それ以外の何も持たない、人の形を持った怪物にも等しい……。

果たして、その時の自分の中に、何よりも省みるべき存在が影も残さず消え失せているという真実は、この上なくベルを打ちのめすのだ。

 

「それでっ……神様の事も……あんなに、心配させて……悲しませて……」

 

強く在る事を求め、にも関わらず、大切なものを悲しませ、それを失う事を激しく恐れる弱さを克服できない自分がいる。

矛盾は耐え難く苦痛をもたらす鎖となって少年の心を締め上げていた。

 

「本当はっ……怖くて怖くて、仕方ないんです……また、一人になるのが。こんな弱い姿を、知られたら……見放されるかもって……」

 

強くなくてはならない。弱く在ってはいけない。……一人になりたくないから。

あの夢と同一のものに由来するのだろう未知の力に委ねれば、きっと自分は、どんな敵をも恐れないだろう。……本当に忘れたくないものを忘れ、失いたくないものを失う結末を許容するならば。

だからベルは、自分の中の力を恐れる。

 

「強くなくちゃ、いけないのに……弱かったら、駄目なのに……!」

 

弱い自分への怒りで語気を強めそうになるのを、ベルは必死で抑える。握り拳から、血が滴っていた。悲しみを吐き出し切った胸の中は、煮え滾る別の黒いものが満たしつつあったのだ。

それもまた、彼を出口のない苦悩の途へと誘う衝動の一つなのだった。

 

「なのに、なのに……強く、強く在りたくて、でも、それが怖い……どうすればいいのか、わからない……!!」

 

激しい怒りは足を急き立て、その眼を曇らせる。

深い悲しみは眼を見開かせ、その足を絡めとる。

相反する二つの感情を生み出すものの正体を知っているベルは、どうしようもなく、自分を貶めるしかなかった。

 

 

 

決して消えない恐怖の虜囚となっている弱い自分など、居なくなってしまえばいいのに、と。

 

 

 

 

「……お゙前ぇ、は」

 

男は、うつむき震える少年の言うこと全てを理解してなど居なかった。しかし、何を言いたいのか、どれほどの苦悩の中に在るのかまでを察することは可能だった。

同時に、名も知らない少年の人格について――――それは概ね、他者を思い遣る優しさと、喪失を恐れる繊細さと、弱さを許せない傲慢さ、で形成されたもの――――をも、朧気に、理解した。

そこまで知った彼の口からは、自然と、その言葉がまろび出たのだ。

 

「一人、で、やっでるの、が?」

 

「え?」

 

「一人で、誰ども組まずに、迷宮に、行っでるの、か?」

 

傍に誰も居ない彼は、全てを自分ひとりで背負わなければならない労苦を味わっているのではないか、と、異形の男は思いを馳せた。

それは正解だった。

ベルは、目を丸くして、男と向き合い、……少しして、頷いた。無言で。

 

「…………」

 

男は、項垂れる少年を前に、天を仰いだ。

石造りの下水道跡の割れ目から見える星粒達。

……世界のどこでも、その輝きは等しく、いつも男を見守っていた。

 

「……おでも、……ずっとむがし、ここで、神゙様゙のため゙に、戦っでだんだ……」

 

――――唐突な独白に、ベルは目を剥くだけだった。

しかし、目の前の異形の男が、冒険者として身を立てていた証拠を、既にベルは見ていた。背中に刻まれた青い瞳として。夜空を眺めるその煌きはまた、ベルの顔に向けられた。

 

「ひどりになっだおでを、拾っで、育てでくでだんだ……」

 

それは、どこかで聞いた話だった。

 

「皆゙に゙、バカにされだ。でも、や゙める事゙な゙んて、出来な゙がっだ。かみ゙さま゙に返゙せる゙のは、ほがに、何も無がったがら……」

 

つい最近……とても近しい所で、聞いたような話だった。

 

けれども。

そこから先は、ベルの知る『誰かの話』と、違っていた。

 

 

--

 

 

 

『Mi stamatas. Dose to telos』

 

リューの夢の中でその歌の一節は絶えることなく繰り返されている。無数の声は空を覆う闇の切れ目から重なり合って響いてくる。全ての光を飲み込んで逃さない闇の隙間は、鮮血を流す傷痕のように赤く、凶々しく脈動していた。

ひたすらに血腥く、悍ましく、救いのない古き歌に合わせて歩は急かされて止まらない。その先にあるものに追いつくべく、真っ直ぐ見据えるものを逃さないよう、両脚を激しく動かし、地を蹴る。空の色を映す瞳だけが、漆黒の陰影に包まれたエルフの宿す光だった。

遂に肉薄された獲物が、振り返る。恐怖に染まり引き攣った表情。許しを請い、過ちを悔い、己が愚かさを心の底から悟った、滂沱に濡れた惨めな泣き面。

 

『やめっ、やめてくれええっ!頼む、頼む、頼む!俺はっ、し、仕方なく……』

 

地面に転げて這い蹲る男は片手を翳して釈明するが、眼前に在る者への恐怖によって既に呂律が回っていなかった。尤も、リューにはそれを聞き届けようという気などなかったが。

今の彼女の耳に入るのは、その声だけだ。

 

『Telos』

 

左手に持つそれを掲げ、右手に握る刃を振った。

 

『ぎゃあああっ!!』

 

男の右手の指が四本、宙に舞って周囲の闇へと消える。ドス黒い血を噴き出す指の付け根を見て男は泡を吹いて絶叫した。街の片隅の、誰の目も届かぬ路地のどん詰まりは、幾多もの死体が積み上がって人々の目を通さない監獄としてそこに顕現していた。

血塗れの短剣を突きつけるリューは、口を開いた。

 

『答えろ』

 

『あああああっ、ああああああぅああっ、ここ、殺っ、殺さっないでっ、い痛い痛い、いぃ~~~~……』

 

男は自分の精神を支配する狂乱の渦に抗う事も無く、右手を抑えて蛆虫のようにその場でのたうつ。

 

『Skotose ton skotose ton empros. Skotose ton skotose ton empros』

 

リューにしかその声は聞こえない。我が身を焦がしすべてを焼き尽くそうとする怒りを必死に制するべく歯噛みするが、それがどれほど無意味な努力であるか彼女は知っていた。

憎い。許せない。必ず償わせる。

猛る業火を象る彼女の凶相が、かつては神の街の多くの住民を魅了した美貌と同一のものと、無関係な誰かがこの場に居たとしてどうして信じるだろうか。

 

『答えろ!!!!』

 

『あ、あ、ああ、ああああ、あ、そ、そうだ。俺だ。金を、渡されて、それで……でも、俺は、場所を教えた、それだけだ、それだけじゃないか!!??こっ、これで、満足だろう!!??俺はっ』

 

男の口から繰り言が紡がれるや、左手の掲げるそれは真実を知らしめる。誰もその奇跡を欺く事など出来ない。

リューは双眸を凍りつかせたまま、右腕を振った。一陣の風は男の右手首を包んで消え去る。

 

『ぐっっがあ゙ばあ゙あああああああ゙あああああ゙あっ!!!!』

 

『生命よりも真実が惜しいのなら、望み通りになるか……!!』

 

切断された手首から流れ出す生命の迸りは更に量を増していた。男の顔は青く白く変わっていく。血の海が地面に広がる。海。赤く粘着く、底の見えない、地上の骸の流れ着く最後の場所は、いつの間にかリューの立つ小さな場所を囲んで無限に広がっていた。

 

『ぐぼっ、ぶっ、ぐ、ぶ、ぅ…………ぇげっ…………』

 

そこに呑まれた男の身体は、やがて数え切れないしかばねの中の一つと成り果てて力なく漂う。光を失くし血を流すだけの無数の眼孔は全てこちらへと向けられていた。

 

『Empros aose mas lytrose, eisai o timoros』

 

リューは躊躇などしなかった。血の海に身を浸し、前へと進む。からみつく死者の腕を振りほどき、必死で泳ぐ。

止める事など出来なかった。どれほどの困難がこの先続こうとも、リューは己の身を支配する激情を忘れる事など、たとえその先に死だけがあるのだとしても、決して出来なかった。

 

 

 

手に、足に、胴に、首にしがみ付く血塗れの腕。すべては、その持ち主達こそが望んでいる事――――自分でなければ、その者達の誰かが成していた事――――だと思えば。

 

自分に居場所を与えてくれた者達の記憶は、リュー・リオンの魂を縛り、歩むべき道を他に選ばせない枷として、そこにあった。

 

 

 

『Ooo thanatos. Ligei os edo』

 

 

 

彼女の背負うものが口を閉じることはなかった。

彼女が全てを終わらせるその時まで。

 

 

 

--

 

 

 

 

「…………」

 

男の語りを全て聞き終えたベルは、何も言えず、ただ青い光に心奪われて呆けていた。

 

「頼みが、あ゙るんだ」

 

男の語る経歴はベルの心を軽くはしなかった。唐突な独白をした事への疑問はあってもだ。

己の身に降りかかるよりもずっと深い不幸と苦難を慰めにし、立ち上がる為の糧に出来る強さなどベルは持っていなかったのだ。

呆ける少年に構わず、男は続ける。

 

「おでのこどを、誰にも゙、話さね゙え゙で、ぐれ」

 

それが、男の真意すべてなのかどうかまで、ベルには計り知れなかったが、……それでも、男の独白が、単なる同情だけに基づくものではなかったのだと知って、確かに安堵したのだ。

 

(――――)

 

そう、誰からも恐れられ、世界のどこからも居場所を無くした男の懇願を聞いて、ベルの心は軽くなった。それに気付いた瞬間、再び、黒く粘着くものが――――

 

「代わりに゙、お゙前ぇ、ど、一緒に゙、組んでや゙る、がら」

 

耳から入り込み胸の中に落ちてきた言葉が、澱む何かを打ち消した。

 

「――――え……」

 

顔を上げる。穏やかで、深い青色が自分の中に溶けていくように、ベルは思った。澄んだ、清らかな何かの感覚はとても、懐かしく感じた。

 

「なんで……」

 

彼は今日だけで何度、そう呟いただろう。

惑い悩む者はそうして、無意味な問いを繰り返して、抜け出せない迷妄の渦の底へと落ちていくものだ。

苦しみの理由を知る時……真に目覚めに至る、その時まで、ずっと。

 

「……放っどけねえ゙、ぐで、な゙」

 

青い瞳が、遠くを見た。

 

「見つかりたく、ないんじゃ」

 

「んだ、隠れながら、夜中しか、手伝えね゙えげど……」

 

弱い心は、素直に、それを理解するのを拒む。

けれども、……男の過去を知ってしまったベルは、自分のつまらない挟持が解けていくのを感じ取っていた。差し出される手を拒む、薄っぺらな自尊心が。

 

 

 

「ひどりは、つれ゙え、だろ……」

 

 

 

ベルは、異形の男が、自分の苦しみを知ってくれているのだという理解が、勘違いだと思いたくなかった。

安易な同情を向けられ、良心を満たすための道具として扱われてるのだとも思いたくなかった。

ただ、それを認める事を、自分に許したかった。

 

 

 

出口の見えない迷い路の中に示された灯火の存在を。

 

 

 

一筋、頬を伝う涙は、少年が今日流すそれの、最後の一滴だった。

歯を噛み締め、嗚咽を封じて、ベルは、少しの間だけ、俯くのだった。

 

 

 

--

 

 

誅罰者は罪人の血と臓腑に塗れ、光の届かない場所でその身を横たえていた。定められた筈の命運の尽きる時に見放されたのだという確信は、残された激しい怒りと深い悲しみを贖わせる道だけを選ばせ――――そしてリューは全てを終えたのである。

それは、残された時間の使い途も無くなったのに他ならないと彼女自身は思っていた。

生と死に見放された美貌の剣士は、一切の光の消えた瞳に遥か高い空を映していた。如何なる思考も飲み込んで燃え盛る情動も消えてしまえば、その姿は朽ち果てた抜け殻も同然だった。

 

『……あなたは』

 

建造物に挟まれた狭い青空を遮って、その顔が現れた。見下ろすその表情がどんなものなのか、影になっていて見えなかった。見えていても、リューは何も思わなかっただろう。

吹けば飛ぶ灰のように儚く、虚ろな表情で転がるエルフの女を見て、銀色の髪を細やかに波打たせるシルはまた口を開く。

 

『…………お腹、空いてません?……』

 

服が汚れるのも厭わず、傍に座り込んで手持ちのバスケットを開く様は、リューの理解の及ばぬ領域にある光景だ。誰に対して言っているのか、自分が何者か知っているのか?

しかし湧き上がる疑問も、すぐに泡のように消えていった。全てがどうでも良かった。全てを失った死すべき者は、全てから見放された場所へと自ら堕ちた。

何もしようと思わなかったのだ。

喋る事も動く事も、生きる事すらも、今のリューにとって義務たりえなかった。

 

『ほら、お口、開けないと食べられませんよ』

 

新鮮な具を使ったサンドイッチは、焼いた小麦の香りが未だ濃く漂う。眼前に差し出されたそれに、リューはどんな反応も起こさなかった。

――――それは確かに、彼女の意思だった、はずなのだ。

 

『…………ぅ…………――――…………』

 

永遠に、ここで命尽きるまでとどまり続けようと選んだはずの意思に反し、リューの細い肢体の中心から、呻き声に似た間抜けな音が漏れ出た。

今までどれほど、物言わぬ肉塊を積み上げただろう。それが果たせれば今生に何の未練があるだろうと信じて歩き続けた道の果てが今、ここなのだというのに。

空色の双眸から、さらさらと涙が流れ落ちていく。

 

決して贖えない罪を犯した自分は、如何なる報いも受け入れようと決めてこの場所へと辿り着いたのにもかかわらず、この期に及んで――――恥知らずにも、まだ生きたがっているのだ。

 

浅ましき己の性情に戦慄し、ただ後悔と慚愧に泣き濡れるエルフは、やがて噛み合わされた歯の間から嗚咽を響かせた。

 

『……ッ、ぐ、ぅ、ウウッ、……っっは、あぁ、うくっ、…………っ~~、うっゥゥゥ…………、ッ、……!!』

 

『……』

 

首だけ動かし顔を俯かせる。滂沱が溶かす血は薄汚れた前髪を肌に貼りつかせていた。

シルは何も言わず、その顔を覆い隠すように、胸の中に抱いた。

 

 

 

遥かに過ぎ去った時、誰の耳目も届かない場所で、その出会いはあったのだ。

 

 

 

 

 

--

 

 

青く降り注ぐ月影の波は、乾いた下水道跡に命を与える水流のようにベルは思った。闇は、いつの間に退けられていたのだろうか。

安らかな双眸の色は、向き合う者の目に映る光景すべてまで溶けていったかのような錯覚をすら呼び起こしていた。

 

「名前……言っで、無がっだ、な」

 

立ち上がった男は、突っ張った口を開いた。

互い、他者には決して踏み込んでは欲しくないと願う略歴を語り聞かせ合った。その出逢いから、一夜も経たぬうちに命を預け合う約定まで交わしたのに、二人は名乗ってすらいなかった。

 

「アルゴス、だ」

 

草木も眠る刻にあって、地上の声の届かぬ場所でベルはその名を心に刻んだ。

何処からか流れ込む夜風の残滓がベルの頬を撫でた。

 

「ベル。ベル・クラネル……です」

 

小さな少年と、巨躯の異形は、この時、ともに力を合わせ迷宮に挑む者とする事を選んだのだ。

互いに、打算は確かにあった。

けれども、かれらにその決断をさせたのは、もっと、人間として、生きとし生けるものとしての、根源的な衝動だった。

それは、多くの災難の中を歩いてきたかれらを今日この日まで生かしていた、確かに存在するものだった。

 

 

 

希望という、遠い昔、何処かの誰かがこの世界に残した、弱き者が生きる為の、たった一つの力だった。

 

 

 

--

 

 

 

 

ロキは近頃、忙しなく街中を歩きまわって、顔見知りにもそうでない者にもあれこれと聞き込みを続けていた。しかし、今日の予定は違う。

 

「あーもうあの娘達は。あんなデンジャラスな目に遭っといて、もう少し大人しくせんと思わんのかなあ、なあベート?」

 

「知るか」

 

ロキ・ファミリアの本拠地で、取り残されていた一人の『子供』に絡む主。

怪物祭で負った傷も、神の力を与えられた者にとっては、半日もあれば快癒するのも容易かった。まして彼女らの所属するロキ・ファミリアの有り余る財力を用いれば……。

すっかり壮健な身体に戻った姦しい『子供』達は、財布の中身とか、気分の問題とか、財布の中身とか、その他色々な事情により、団長・副団長もろとも迷宮探索へとしけ込んでいたのだ。

 

「……何の用だよ」

 

ベートの仏頂面は、仲良くしたい特定の人物からハブにされて拗ねているという理由もあったが、他の要因のほうが多分だった。そしてそれは、主の身体を突き動かすものと共通していた。

……人差し指を天頂へ向けるロキの返答など、ベートは予測済みだった。

 

「探偵ごっこ、しよ」

 

そう。本音を明かせば、ソファに寝っ転がる自分の顔を見下ろす主の意図を、ベートは全て知っているのだ。

怪物祭の日、街に現れたあの、見知らぬ巨大花への懸念である。

断る理由は何一つ無かった。誰かに引っ張られるのを嫌がる彼の性格にそぐわない提案であるという点以外、何一つ。

豪奢であまり統一性の無い内装が、にっこりと笑う主の後ろに見えた。つかみ所のなく、いつだって唐突な思いつきを欠かさない彼女の心を模したような設えは、眷属に対し無言で忠節を促しているようでもあった。

 

「くそっ」

 

ベートは、悪態をついて身を起こした。それに、ロキが抱きついた。

 

「んっふ。ええわあ、阿吽の呼吸ってヤツ。今、心が通じ合っとるわあ~」

 

「うぜぇ!離せ!あーっ、クソ!」

 

言わずとも要件をわかってくれる『子供』の心を知っているのは、その主も同じことだ。じゃれつく彼女の顔は、ベートの手のひらを押し付けられながらも、喜色を満面にしていた。

そこに、近付く影がひとつあった。どいつもこいつも出払ってがらんどうの黄昏の塔に残っていた冒険者は、一人ではなかった。

 

「ガレス?」

 

「儂もついていくぞ」

 

すっかり茂って髪と繋がった茶色い髭を撫でながら、筋骨逞しいドワーフの男は言う。

落ち着きのない娘達と一緒に出払ったフィンとリヴェリアに後を任されていたガレスの意思表示の意味を、ベートは理解した。目を合わせるまでもなく、ガレス自身も、主と後輩の同意を及び知る。

それを敢えて、きちんと口に出して確認するのは、何より堅実さと慎重さを是とする彼の性情ゆえである。

 

「あの巨大花の事じゃろ」

 

「そゆこと。ヨッシャ、イケメン二人に囲まれて心強いムードで、いざ行くとしよか」

 

ロキは、薄目を開いてガレスに答えると、さっさとベートから離れて、外出の準備に取り掛かるのだった。

ベートは如何ともし難いような顔で、主の背を見送る。それから、ガレスの顔を見る。

 

「なんじゃ、儂じゃ不満か?」

 

「ちげーよ、……」

 

怪物祭の日、あの巨大花と対峙し、それを片付けた三人のうち二人が、ここにいる。ベートには、今から行う事についての懸念などがあるわけではない。

ぶんむくれる獣人の青年を見てガレスは、少し笑った。

 

「わかっとる。何かわからん、気持ちの悪い感じが消えないんじゃろ。……それを今からとっちめに行く、それだけの事じゃ」

 

「……わかってるよ」

 

心の中を見透かされる嫌悪感も覚えなくなるだけの縁は、両者の間で確かに存在した。

溜息をついて立ち上がり、装いを改める後輩の姿を見ながら、ガレスは笑みを浮かべていた。

暫くしてから、黄昏の塔から人の気配は消えた。

 

 

 

--

 

 

 

 

三人は東のメインストリートを歩いていた。街は一見、平穏無事な営みを続け、賑やかな声で満ちているように思えるが、その裏に隠されている、張り詰めた冷たい猜疑の空気は、決して消えない。

例年にないアクシデントで死者を出した催しの影響がオラリオから拭い去られるには、もう少し時間がかかるだろう。

 

「調べるんじゃねーのかよっ」

 

「なんやあ、折角いい男二人に囲まれてん、ちょっと楽しんでもええやろ。なーガレス」

 

寄り道しまくりの買い食いしまくりの主に不平を垂れるベート。ロキの空気を読まない無邪気さとは、可愛い『子供』の慰問をも講じての振る舞いだと、ガレスにはわかっていた。差し出されたものを、遠慮なく手に取る。

 

「心にゆとりが無いベートには、ジャガ丸くん分けてあげんもーん」

 

「のお。勿体無い」

 

「要るかっ!」

 

騒ぐ三人は、向けられる視線も気にしない。オラリオ最強を冠する群団の二人の戦士と、その主の名をわからない人間は少なかった。

磨き上げられた足甲を長い脚にまとう、長身の獣人。精悍でありながらも僅かに幼さを残す顔つきは、贔屓目を抜いても道行く女達の意識を向けさせる凛然さを持っている。

かたや、腰の両側に片手斧を帯びた巨漢。すらりと伸びるプロポーションを持つ他二人と比べれば、横幅の大きさはより誇張されて見えたが、それが無用な脂肪の作る虚像などではないのは、整然と歩を進める太い足腰からして明らかである。

両者を従える細目の、軽口の絶えない美貌の女性こそ、あまねく英雄集うこの街の、更に一握りの高みに在る戦士を率いる神なのだ。

かれら自身の名の威容など欠片も纏わずに和気藹々と歓談の時間を過ごす輪に割り込む意気も、誰も持たない。

 

「さて、残る場所はこの先くらいではないかの」

 

主より賜った贈り物を腹に収めたガレスは、出し抜けに話題を放った。狭く、中天に日が輝く時間でも、仄暗い影に覆われた路地に通りかかったところだった。

 

「ん……」

 

ロキはベートを弄るのを止めて、曲りくねる道に足を踏み入れる。建造物に挟まれて、青空が高く見えた。三人は幅のない道を、期せず整列して歩を進めていく。

 

「ガネーシャの所の連中は遊んでやがるのかよ?」

 

「とりあえず、サルを逃した犯人は、突き止めたみたいやけど」

 

『子供』の皮肉に、招集で成された会話を思い出すロキ。意地悪な女神の企みを告げ口した後の顛末までは、己の関知するところではないと思った。

そんな事よりも、ずっと引っかかる案件の手がかりを探るのが、今日の目的なのだ。

 

「ま、いくらあの色きちがいでも、地上で出来る事なんか檻の鍵開けるくらいやって……おっと、今のオフレコな」

 

上体だけ振り向かせチョキチョキと指を開け閉めする主の姿を見て、その事実上のライバルという立ち位置にあるだろう女神の奔放さに、内心呆れる戦士二人。

ふと、ガレスは唐突に湧いた疑問を口にした。

 

「と言えば、その逃げた何某を斃したという子供は無事で済んだのか?ベート」

 

闘技場を襲った前代未聞の事態にすっかり覆い隠されてしまってはいるが、賑やかな街をかき回した騒動の一端に関わった者として気になるのは、奇妙な縁で以て今一度、ベートの前に姿を現したという少年の事である。

もっぱらファミリア内でも話題になるのが、剣姫の刃を歯牙にも掛けなかったという強敵の由来についてであるのは致し方のない事だったが、それ以上にベート自身があまり口を開きたがらない為に、顛末全てを知る者は少ない。

 

「……さあな。運が良けりゃ、生きてるんじゃねぇのか」

 

血糊の入ったバケツを被ったような化粧と、必死で立ち上がろうと震える手足、そして、消え入りそうな命のにおいを思い出して、ベートの心の奥で、何かがうずいた。ミノタウロス相手に一矢報いたというアイズの言を信じざるを得なかった光景は、未だ彼の心から消えなかった。

遥か強大な力を持つ相手に決して屈せぬ意思を顕にする姿へ、素直に賞賛の意を抱いたと述べるのは、なかなか難しい。それが、彼の口を固くさせる理由なのだった。

 

「ああ、その子なら、ちょっと前に復帰出来たみたいやな。まあ、以前と同じようにやれるかは、知らんけどな」

 

神の坐す地にあって傷めつけられた身体を治すことは出来ようが、欠けた心を直す奇跡までは、ロキも知らなかった。広いオラリオ探し回ればあるかもしれないが、果たしてあのちっこいツインテールの女神が辿り着ける場所かどうか……。

 

「ふん。怖えのが嫌なら、とっととやめちまえばいいんだよ」

 

意地っ張りな性情が、自然とベートの口を尖らせた。平常運転な憎まれ口には、ロキも肩をすくめるだけだった。

尤も、反論しようと思わないのは、ガレスも同様だった。冒険者として古参も古参であるドワーフの戦士は、この地を去る者を見送った回数を覚えていない。

命を拾われただけの幸運を祝福出来ても、その後の進退について、個人の選択に口を出す気も、起こらなかった。

 

「また、何か縁があれば良いがな」

 

会話が終わった頃に路地は突き当たる。そこにある石造りの小屋は、囲むガラクタとともに、街の誰からも見放されたような孤独を漂わせていた。

ロキが鍵のない鉄の把手を引くと、厚い木板に隠されていた螺旋階段の入り口が見えた。

 

「さあさあ……開けて仰天玉手箱か、またまたスカか、どっちやろな?」

 

口角を吊り上げるロキ。地下へ続く道を降りていく一行。

 

「なんじゃ、タマテバコとは?」

 

「知らんの?タケミカヅチの故郷に、そんな怖い話があってな。恐ろしい怪物に連れ去られた男が、冥府の女王に囚われて幾星霜……」

 

ふたりの会話を聞き流すベートは、薄暗い階段の奥から染み出す水音に対し、毛だらけの耳を立てるだけだ。六つの靴底と石床のつくる不規則な音響は、闇の底へと到達しても絶えなかった。

 

「備えあれば嬉しいねえ、っつって……」

 

ロキの軽口も、果ての見えない洞の中に消えた。山彦は無機質な足音と、遠くから届く無数の水飛沫の声でかき消される。

神の手の中にある魔石灯の光が、暗い下水道を歩く三つの影を揺らしている。……ずっと、硬い足音と、淀んだ空気を伝わる低い水音だけが、そこに響いていたのだ。

街の地下に張り巡らされた人造の迷路では、不自然と言わねばならない事だった。

 

「そうなん?」

 

「……汽水湖から遡ってここに住み着いてる筈の連中が、居ない。まるで……」

 

水路は広い石床の道の真ん中を刳るように造られており、眷属は水路側を歩いて主を守っていた。水に潜む、あまり友好的でない魚介類の襲撃に備えるために。

しかし、その徴候はとんと見られなかった。灯りによって水の中に見えるのは、浄水用の魔石だけだった。

既にガレスとベートの顔は、不測の事態を待ち引き締まっている冒険者のそれであった。

 

「逃げ出したか」

 

「……」

 

二人の鋭い眼差しは、闇の奥へと向けられた。ざあざあと流れる水の音は、地下道に潜む邪悪な何者かの呼び声にも思えた。

張り詰める空気に当てられ、ロキは静かに確信めいた予感を抱いた。

当たりは近いと。

 

 

--

 

 




・ディオスクロイ
アセンションに登場。いわゆるシャム双生児(モリオネが元ネタか?)。GOWではすげえ仲悪いけどダンまちではきっと違うのさ、多分、おそらく……そういう設定という事でよろしくお願いします。
実際に出ちゃったらどうするって?あ~聞こえんな!

・アルゴスの外見
都合上エレファントマンもどきに留まっているけど、ホントは全身目玉だらけ。テラトマ?
原典では「巨人」だが、別にタイタン族とかそーゆー血筋ではない辺り、元になった人物が存在したのかもしれない。

・螺旋階段
いつものアレ。



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フィルヴィス「タロスハダメデス」




ダンまちって回復魔法あったっけ。まあいいや……
GOWにもMPHPコンバートなんて無かったし……





 

 

 

探索の末に見つけたいかにも怪しい、重い鉄扉の向こうには、水浸しになった旧水路が広がっていた。区画整理の末に打ち棄てられた過去の遺物は、いよいよ設置された明かりも少なく、その構造は混迷に満ちているようにロキは感じた。

ここは、どれほど放置されてきたのだろうか。誰も立ち入らせず、誰からも省みられなかった壁面にびっしり生えた苔は、焼き付いた影のように見る者の目に映った。まるで異形の存在を象ったような……。

 

「はあ、こんなんも、ホンモノの迷宮に比べれば子供騙しっちゅうんやから、頼りになる『子供』が居て助かるわぁ」

 

脛を濡らして歩く二人の眷属。ロキは、ガレスに背負われて嘆息した。彼女の持つ魔石灯の光は、濃くなる闇の中で一層強く、導かれる者達の影を浮き上がらせる。かれらを包んで後方へと流れてゆく漆黒の水もろとも。

天界においても地上においても、かくのごとく陰鬱な空気に満ちた場所を探索した記憶など、ロキは持たなかった。それゆえの素直な賞賛だったが、ベートは仏頂面で、口を開いた。

 

「ったくよ。いい身分なもんだぜ」

 

「神様やし」

 

事も無げに言い返されて、ベートは増々憮然とした。ガレスが笑う。

 

「羨ましいならそう言えば、譲ってやるのにのう」

 

「そうなん!?ああでも、あかんわ~ベート、うちにはアイズたんがおるねんな~。気持ちは嬉しいけど……」

 

「殴るぞ!?」

 

尻尾の毛を逆立てて声を荒げながら、ベートはその残り香を辿って足を止めなかった。彼の嗅覚は、扉に残っていた何者かの落とし物が作る道を見逃さない。緩やかとはいえ、水流の絶えないこの場所での追跡を成すには、生まれ持った種族的特性のみでは到底不可能な芸当だった。

流れに逆らう足腰が、ほんの少しの疲労を覚え始めた頃、遂にベートはそのにおいを捉えた。

足を止める一行。かれらの眺める、水路の横っ腹に穿たれた大穴は、明らかに人の手で施された工事の結果ではなかった。そこから流れ出る黒い水と合わせて、幾分ばかりか陰惨な比喩表現を思い浮かべるロキだった。先日、前代未聞の凶事に飛び込んだ果て、その柔肌を刃で貫かれた可愛い『子供』の姿すら……。

物思いに耽る主を背にして、眷属同士、眼差しは濡れた刀身のように冷たく光っていた。

 

「当たりか」

 

「間違いねえ」

 

主語も無しに言葉をかわす両者は闘志を漲らせ、走った。巻き上げる白い飛沫を主に確認させる暇も与えぬ勢いで、幾つもの水路をぶち抜く開口を突き進んでいく。

ガレスの広い背に揺られるロキは、眷属の肩の奥にある闇が更に濃くなっていくように見えた。

やがて、水をかき分ける音が収まり、短い階段を上がったところで視界が開ける。

太い柱が物言わずに立ち並ぶ広大な空間は、薄暗い照明によって異様な圧迫感と歪な光陰の幾何学模様をつくり、光の届かない場所に潜む何かの存在をここに立つ者達に幻視させた。

それが、心のなかを支配しようと首をもたげる、恐怖という鎖の産物などではないという事を、誰もがすぐに知った。

 

「……とっとと決めるとするか。少し、隠れといてくれますかな」

 

「ムチャせんでな」

 

ロキは、各々得物を構える『子供』から離れ、入口付近まで身を退いた。

ベートの鼻が捉えた、水路に漂う微かな標……忘れもしない、怪物祭の日、眼前で嗅いだ、あの生臭い吐息の残り香。それは、一つの枝分かれもなく、この場所に通じていたのだ。

凶狼の異名を持つ戦士の双眸は、遂に闇より這い出た獲物の姿を認めた。

まだら模様を描いてささくれ立つ多層の表皮、太く長く伸び、撓り蠢いて石床を擦る全身。その先端部を見なければ、巨大な蛇かと錯覚させる影を持つ隠遁者は、貯水槽の遥か高い天蓋を以ても頭を垂れるほどの巨体を持ち上げ、追跡者達の前に立ちはだかった。

かつて、その二人が対峙した時と同じように、花冠を開いて咆哮を上げながら。

 

「オオオーーーーーーーーーオオオオ!!」

 

それを合図にしたかのように、幹の後ろから二本の鎌首が現れた。小さな餌を噛み千切るべく牙を見せて迫り来る大口を見て、眷属は遁走の選択を採らなかった。

 

「ッシ!」

 

ベートは倒れこむように両手を床に撞いて真正面から突っ込む巨大花の下に潜り、腕の反動を使って痛烈な蹴り上げを叩き込む。十把一絡げの怪物であれば脳天まで弾け飛ぶだろう蹴撃によるカウンターは、膨大な質量を持つ観葉植物の全身を大きく跳ね上げた。

衝撃は空を伝い、荒れ果てた大広間に散らばる砂利を巻き上げる。

 

「ぬ、うっ!!」

 

同じタイミングで、涎を垂らす醜怪な齶の片割れを迎え撃つガレスは、両脚を石床に押し付け、鉄塊の如く興り強張る右腕を以て、片刃の戦斧を振り上げた。刃は床と、毛先ほどの範囲だけ接触し、火花を生む。半月を描く軌道は、真正面から突っ込んできた花冠を、真っ二つに切り裂く。

半分以上の花弁ごと口腔部を切断された巨大花は、ドワーフの身体を逸れて貯水槽の分厚い壁に激突した。

 

「ハア゙ッシャアアーーーーーーーアア!!」

 

「いかんな。仕留め損ねた」

 

痛覚を持つのか定かではない巨体をのたうたせる様は、ガレスにとって少し不本意な結果だった。かつて同じ敵を打倒した経験から、切れ味と取り回しの良さを重視した得物による一撃必殺を期していた為に……。

重傷を負った苦悶の声と、土手っ腹を蹴り上げられて床に身を投げ出す轟音に構わず、ベートは腰元の鞘から緋色の短剣を抜いた。

炎の力を持つ、魔剣であった。

 

「逸るのお」

 

「しらふでやると、ダルイんだよっ」

 

ベートの判断もまた、ガレスのそれと根拠を同じくしていた。確かに、レベル5の実力であれば、然程の相手ではなかったが、何しろあの硬い皮に包まれた先端部分を潰すために何度も何度も蹴りつけるのはあまり愉快な記憶ではなかったのだ。

刀身はあてがわれた足甲に、灼熱の魔力を流し込む。あの日の騒動の後に行われた報告の場で明らかになった、巨大花の特筆すべき性質の事を、二人とも決して忘れてはいなかった。

打撃に強い。

魔法に弱い。

斬撃にも弱い。

核となる魔石は、口腔の奥にある。

そして……。

未だ傷もなく屹立する最後の一本が、明らかにベートの行動に対して反応した。

 

「あっ、ベート。魔石取っておいてくれん?」

 

広間の入り口から顔を出すロキが緊張感の無い頼み事を口にすると同時に、天から牙が迫った。

 

「ガレスに頼みなっ!!」

 

魔力に反応する性質は、ベートに蹴り倒されたもう一本の幹をも再び起き上がらせて、今一度、馬鹿正直な軌道を描いて獲物に襲い掛かろうと歯茎を剥く。

――――もう一人の戦士の存在を忘失した愚かさなど、ただの植物には省みることが出来ないのだ。

並のドワーフ二人分はある自重を物ともしないすさまじい跳躍力で、既にガレスは手負いの一本に肉薄していた。

 

「ふん!!」

 

斧を構えた砲弾は一片の躊躇もなく、巨大花を両断した。伐採された幹が傾き、すぐに床を揺らす衝撃が訪れる。次いで、ガレスの両足は大地に帰還した。

研ぎ澄まされた刃により鮮やかな切断面を晒した胴体が、もう一度だけ首を持ち上げようと、うねった。

 

「ボオオ、オオオ…………!」

 

「さて」

 

恨みがましく吐息を漏らす死に損ないを尻目にしなければならない案件は未だ存在した。斧を差し向ける先には、五つの花弁を床に激突させ押し広げる生き残りの姿があった。

その光景を見て、憎まれ口ばかり叩く後輩の不運な末路を連想するガレスではなかった。

 

「ありゃ!」

 

ロキは、驚嘆の声を上げる。

常人の目には影すら捉えさせないだろうファミリアきっての俊足は、上方より猛烈な加速度で来たる顎より、床を砕く一踏みで後方に跳び去って逃れていた。靴底の刻まれた床に顔面をぶつける巨大花は今、ベートの眼下にあった。

貯水槽の壁面……床から数えて己の身長の五倍近い高さに、地を蹴って得た運動エネルギーで張り付くというシークエンスを追うのは、地上にあってはただの人間に等しい肉体を持つ神の目には不可能であった。

入り口から首を捻って見上げる主の目を奪う、白熱する右脚。まるで、薄暗い天空を照らす、天狼星の輝きのように。

 

「雑草が!!」

 

壁を蹴った流星が、地を舐める巨大花の花冠に落ちる。爆炎が噴き上がった。花弁の一つも残さずに焼きつくす業火は、魔石もろとも砕け散った先端部を灰燼へと化させせしめていく。

生木を無理やり炭に変える熱は、大量の不純物を煙として撒き散らし、誰の手にも触れさせず朽ちゆくだけだった循環施設の天蓋を汚していった。

 

「何が起こったんか、半分もわからんかったわ」

 

「バカ、まだ残ってるだろ。入ってくんな」

 

貯水槽に足を踏み込む主に、ベートは眦を吊り上げたまま言い放つ。とはいえ、レベル6の斬撃で泣き別れした胴体の方はもう動かないし、頭部を半分失った方はその身悶えぶりから攻撃の意思を感じ取るのが難しい有り様だった。

 

「ガッ、バババッ、バッ、ハ……」

 

「こら、魔石も少しイッちゃってるんと違う?」

 

ぬらぬらした粘液と一緒に泡を吹く巨大花の対面側にある壁まで、一息で辿り着くロキ。物的証拠は多く確保出来るに越したことはないので、些細な危惧を口にする。未だ白く右脚を光らせて陽炎を纏うベートが、鼻で笑った。

 

「てめーの目で確かめてみりゃあ、いいだろが」

 

「ありゃあ、そーんな事言う。こんなか弱い乙女捕まえて、あんな気持ち悪い花に触れなんて、そんな趣味って知ったらアイズたんが何て言うやら……」

 

「アホか!」

 

すっかり、鉄火場は過ぎ去ったように、ガレスには思えた。用意しておいたもう一本の投斧は杞憂の産物だったかと、後輩の活躍に内心胸を撫で下ろす。

やいのやいのとじゃれ合う主従を置いて、いざ、苦しみ喘ぐ哀れな供物を屠ろうと、足を踏み出した。

瞬間。

 

 

 

 

それは、前触れ無く、かれらの前に姿を現したのだった。

 

 

 

 

「ボッギャアアアッッ!!!!」

 

「!!」

 

巨躯は絶叫を上げ、広間の奥へ吹き飛んだ。首を引き千切って花冠部分を吹き飛ばす衝撃は、立ち並ぶ柱に叩き付けられてもなお収まらず、幾つもの石柱を砕いた末、壁に衝突することでそのエネルギーを使い果たす事が出来た。

ずん、と貯水槽が揺れて、荒れた天蓋から石片が落ちた。

 

「…………!」

 

ロキは、巨大花の寝ていた場所に舞う砂煙の中のシルエットに、得も言われぬ既視感を覚えた。手に持つ魔石灯の光では未だ曖昧にしか照らせない筈の、その姿。

似ていた。

姿かたちではない、もっと、根本的な、何かが……。

 

「コイツは……!?」

 

「下がってろッ!!」

 

薄い煙幕はすぐに晴れ、その存在は幽冥の帳より、天界の住民としもべの前に足を踏み出した。

斧を構える眷属を、更に一回り大きくした輪郭……鎧と見紛う頑強さを印象づける、筋肉の形を浮かせた太い手足と胸板。否、事実、それは確かに、青銅色の鎧を身に着けていた……その下の肌と、同じように薄明かりを反射する光沢を持つ、腰巻きと手甲、足甲のみを。

高い襟に囲まれる頭部は、はるか昔から既に使われなくなって久しいコリュス式の兜に似た形を持っていた。大きな鶏冠は、羽毛ではなく、鎧と同じ素材で鈍く輝いている。鼻当てによって刻まれた二本のスリットを満たす、禍々しく揺らめく黄金の光が、三つの人影を射抜いていた。

腹は、その中に渦巻く魔力の奔流を誇示するように、格子状に鉄棒が嵌め込まれた造りをしていた。

……造られて、いたのだ。

命を吹き込まれた戦士の像と形容すべき、未知の怪物。

両手で携えるは、その体長ほどもの尺を持つ大槌だった。ヘッド部分だけで持ち主の体躯の胴体部分の容積は持つだろう得物。それこそ巨大花を一撃で物言わぬ押し花へと変貌させた大いなる要因である事を、誰しもが看過出来るだろう。

バチリ、バチリ、と、『戦士像』は、まるで息遣いのように、腹より漏れ出すプラズマを弾けさせている。

大槌に纏う雷光とともに。

 

「とんだ大当たりやわ。コイツ、……闘技場に出たヤツらと、同類や!」

 

「根拠は!?」

 

「無い!!」

 

瞳孔を開いたロキの口走る推論は、彼女にしか理解出来ぬ独自の筋道を辿ったものであった。だが、どんな時も余裕の笑みを失う事の無かったその表情を青褪めさせる様は、長年付き従った眷属に対し充分すぎる説得力を与えていた。

あの日、そのどうしようもなく凶悪で、獰猛で、芥ほどもの慈悲も生まれ持たぬであろう性質を遺憾無く見せつけてくれた、誰しもの目に初めて姿を披露した怪物達。奴等の放つ威容と、いま眼前で闇を纏い佇む彫像のそれが全く同質の代物であると、あの時、あの場に居た全ての者であれば理解するに違いない。

 

(どーする?ここは……!?)

 

刹那の逡巡がロキを支配する。見える限りでは、現れたのは相対する一体だけだ。だがその実力は全くの未知。剣姫の技を寄せ付けない実力を上回らない保証など、誰が持つだろう?まして、あの時のように続々と増援を呼び出す可能性だって。

そこまで考えたところで、眷属の吶喊が生む光輝の跡が、彼女の顔をひきつらせる。

 

「ってぇ!?ちょ、ベートっ!?」

 

瞬きする間もなかった。バリスタから放たれた鏃のように、ベートの踏み込みは振れない直線を描いた。一気に視界を占有する鉄兜に対し、ベートは全身をひねる。決してその加速度を減衰させない、流れるように靭やかな動きだった。

 

「ッッらァッ!!」

 

車輪のように胴体を回転させる獣人の右脚が、『戦士像』の首の付根部分に振り下ろされた。常人になら残像も掴ませない豪速を、そのまま角速度に変換して叩き込む浴びせ蹴り。

爆炎。直撃である。

貯水槽に小規模のクレーターが生まれた。

大音響のなかに埋もれる重い音は短く、響いた。

中身の詰まった金属同士のぶつかる衝撃が、ベートの全身に伝わる。反作用が生む痛覚と振動に痺れた。

 

「――――ッ!!」

 

『戦士像』は、与えられたエネルギーで床を踏み砕いた以外、微動だにしなかった。手心など一片も無い渾身の一撃を入れた下手人は、白熱する足甲を右肩に乗せられて平然としている怪物の、兜の奥の光と目が合った。

揺らめき滾る、すべてを燃やし尽くさんと盛る炎のような、歪な光。

目を奪われた一瞬は、『戦士像』が腰を回して大槌を振りかぶるのを見逃させた。

 

(まず――――!)

 

最早全てが遅いと知ったベートは、敵の肩に乗せた右脚を支点にぶら下がっている姿勢のまま歯を食いしばり、両腕で頭部を庇う。

耐えられるだろうか?

あの巨大花を吹き飛ばした一撃を。

自らの問いに対して肯定出来るほど、彼は楽天家ではなかった。

息を止め、来たる負債の勘定を待ち受け――――

 

「ぬゥうんっっ!!」

 

それを阻んだのは、幼き頃からの彼を見守り続けてきた、歴戦の勇士の一撃。

振り下ろされた片手斧と、振り上げられる大槌のぶつかる衝撃波が、ベートの身体をふっ飛ばした。

巨大花の焼け跡に落ちて膝をつく眷属に、ロキが駆け寄る。

 

「この、きかん坊~……。聞いとったやろ、この前のは総員がかりの相打ち覚悟でやっと斃せたっちゅうに!」

 

「ッ……、……クソッ!」

 

炎の消えた右脚を抱えて、ベートは悪態をついた。迂闊な単独行動へと走らせた原因として、主の語る出来事が多分を占めている事を省みねばならなかった。

しかしそれでも、常に張り合い、肩を並べて高みを目指したいと焦がれる女に引け目を感じる在りようとは、彼が何をおいても忌避すべき生き方なのだ。

己が若さゆえの愚行のつけを他人に支払わせているという現状と等しく。

矛盾する衝動を持つ自分への怒りに顔を歪ませつつ、壮絶な押し合いを続ける一対の巨漢を見やる。

 

「ン、ンンぬぅぅぅ……!!!!」

 

ガレスは斧を握る右手に、左手を重ねた。目を真っ赤に血走らせ、髭に覆われている歯は万力よりも固く噛み締められている。額に青筋が浮かび、オラリオ一二を争う膂力を産む足腰の筋肉が唸りを上げた。

数秒の、間。

片手斧の刃と、大槌の柄の押し合いの結果は、はじめからわかりきったものだったと言えた。

 

「んん、んぬぉおっ……!?お、おおおお…………ッ!!」

 

「あ、ああ!?」

 

多少なりともロキ・ファミリアに縁を持つ者であれば……いや、この街で糧を得るべく生きる者全てが、目を疑うだろう光景が生まれる。

鍔迫り合いで押されているガレス・ランドロックの姿に、その主は口に右手を当てて戦慄いた。

大槌のヘッドが発する、電離する大気の焦げ臭いにおいが戦士の鼻をついた。

 

「ぬぅえいっっ!!」

 

ガレスは息を吐くと同時に、斧で押す力の反作用に身体を任せた。鉄靴が床を蹴るのと、彼の顔面など一撃で粉砕するだろう質量が鼻先を掠るのは同時の出来事だった。

紙一重で空振った大槌は、それに投げ飛ばされる形になったドワーフの巨躯に暴風を叩きつける。

千人のラキア王国兵もまとめて吹き飛ばす力を持つ超人が、木っ葉のごとく空を舞う。くるくると、ネコのように回転する巨体は、ロキからほど離れた地点に降り立った。

砲丸の落着を思わせる鈍い音。石床に小さく、二つの蜘蛛の巣を生み出して、ガレスの両膝は衝撃を吸収する。

角兜の下にある双眸が、眉間の皺も深く、敵を鋭く射抜いた。

 

「マジかい……」

 

『子供』の中でも随一の怪力自慢を相手に、この結果。ロキは、引き攣った顔で、胸中に浮かんだ感想をそのまま呟いた。

思い返すのは、『角の』相手に怒涛の剣閃を尽くいなされた金髪の少女の姿だ。だが、ここに居るのは、いくら英雄と褒めそやされようともまだ二十も歳を重ねていない小娘などではない。彼女の生まれる前から日々、血で血を洗う激闘に身を浸し、必ずそれを制してきた豪傑である。

ロキの知る人間の中でも、間違いなく五本の指に入る強さを持つ実力者がタイマン勝負で押し負ける光景は、今眼前に存在したのだとしても容易に受け入れがたいものだった。

だが、神の心に過る一抹の不安など刹那にかき消させる眷属の姿も等しく、存在を確かとしていたのだ。

 

「こりゃあ、ちと辛い、……かのう?」

 

口角を吊り上げて、白い歯を晒すガレス。腰を降ろした低い姿勢は、眦を縁取る闘志の形を一層険しく誇張させた。

彼は今、滾っていた。

大いに。

左手が、腰の得物をとる。正弦波で上下を挟んだような斧刃を持つ、貫通式の投斧だ。その柄の木目が軋む握力は、右脇腹の裏側まで振りかぶって張り詰める左腕の筋肉が生む、必然の結果に過ぎない。

 

「ふンァッッ!!」

 

風を割る重低音は刃を伴い、不均衡な重心の生む千鳥足のような軌道で標的に迫る。投擲物を迎え撃つべく大槌を構えた『戦士像』は、首の向きを変えずに全身をひねる。

芸術品じみた幾何学模様で飾られる六面体のヘッドが、巨大な稲妻のような残像を率いて振られた。それは確かに、飛来する投斧を寸分違わぬタイミングで捉えたものだった、が――――

 

「ウッソや!?」

 

目を剥くロキは、『戦士像』の目と鼻の先でその軌道を大きくしならせ、真横にカーブして飛んでいった投斧に視線を縫い止められる。

……ゆえに、自らが放った一撃を追って敵と肉薄する眷属の姿へ気付く事も無い。常人であれば振ることはおろか持ち上げる事も叶わぬだろう大槌を振り切った姿が、ガレスの夢見た機であった。

柄を握ったままの両手と、その胴体の右側面が晒す腹部――――漏れ出す魔力を封じ、山吹色に輝く格子――――を狙い澄ます。

 

「ゥラアッッ!!」

 

地を滑るような踏み込みとともに、胴打ちが決まる。離れて佇む主のもとまで届く衝撃は、得物を伝わりガレスの腕を痺れさせる。

……なんという頑強さだろうか。ロキはいよいよ、自分が異次元の物理法則を目撃してるのかと疑う。レベル6の冒険者の全力を打ち込まれた巨体は、傷を刻まれるどころか、その身を揺らす素振りも見せなかったのだ。

振り抜いた両腕はいざ引き戻されんと軋んで甲高い悲鳴を上げ、狩られるべき獲物を見下ろす邪悪な双眸はぎらりと揺らいだ。

ロキは、総毛立って手を伸ばした。それが、どれほど無意味な事か理解していたが、……『子供』に訪れる審判の時を、座して見守る理由など、彼女は持っていなかった。

 

「あかん……――――!?」

 

同時に、明後日の方向より『戦士像』に翔んで来た影を、やっと視界に入れることが出来たのだ。

 

「――――おおおおおおぉぉおッッ!!」

 

「――――!?、あ、アレっ??」

 

金属音は短く轟く。音を破る勢いで、その蹴りは今一度、巨体に叩き込まれた。大槌の質量と速度を受け止めて根を張る如く地を噛む左脚に、新たな力が加わる。ベートの足裏は頼りない光源に照らされた戦場にあって、標的の膝裏を寸分違わず打ち抜いていた。

その姿を見てようやく、ついさっきまで自分の後ろで跪いていたはずの眷属の目論見を理解したロキである。投斧を使った不意打ちは二重の激突を以て完遂させるという認識を、言葉もなく二人の『子供』は共有していたのだ。

強制的に膝関節を作動させられ、『戦士像』は遂に姿勢を崩した。

攻撃の手を止めさせたと見た判断は、二人の戦士に、躊躇の概念を消去させる。

一瞬で、かれらは破壊衝動に身を委ねた。

 

「せァアアアアアアアッ!!」

 

「ぬォアアアアーーーーーッッ!!」

 

充血した目を見開き、雄叫びをあげて二頭の獣が『戦士像』に全霊の追撃を加えていく。

斧が、伸ばされた右肘に。

踵が、締められた左肩に。

 

「フゥンッッ!!」

 

「っっだァッッ!!」

 

崩れた膝のせいで位置の下がった側頭部に。

その反対側に。

 

「ッッおォ!!」

 

「っっせェ!!」

 

渦巻く魔力の光を漏らす、脇腹に。

両側から叩き込まれたその一撃が、二人の演じた戦舞の幕だった。

 

「――――ァアアアア゙ィ!!」

 

「ッ!」

 

「ちぃ!!」

 

兜の下から咆哮が漏れ、『戦士像』は左脚を持ち上げて大槌を振るう。一流冒険者による壮絶な連打のダメージなど、まるで意に介していないかのような姿がそこにあった。

左手で柄の先端を握ったフルスイングは、取り囲む羽虫を打ち払うのに充分過ぎる破壊力と威を放った。瞬時の判断で飛び退った二人は、巨体の左後方から右後方までカバーする攻撃の生む突風にあおられる。

同時に、嘲笑った。

 

「オマケも、あるでな」

 

ガレスの不敵な笑みから捨て台詞が零れると同時に、空中に在る彼の身体の下を円盤が通り抜けた。

それが、最初の一手として、単なる目眩ましで放たれた筈の投斧であるとその眼に映ったとしても、誰が容易く受け入れられるものだろうか?

常人には想像もつかない質と量の練武を重ねてきた男は、碌に足を動かさない標的に対する時間差攻撃の布石を最初から打っていたのである。

 

「――――!!!!」

 

かつて自らの迎撃を逃れ、それから大きな円軌道を描いた末に再び正面より飛来する刃。脅威を打ち砕く為の大槌は、既に振り抜かれた後だった。

『戦士像』は、甘んじてその一撃を、脳天に喰らった。

恐ろしい硬度の金属がぶつかって生まれた低い音は、弾かれた投斧とともにガレスの手の中に戻ってくる。

距離をとって着地した二人の戦士は、かつてない強敵を挟んで眼差しを更に険しくした。

 

「お、おお……」

 

目まぐるしく攻守入れ替わる戦いは、きらびやかな街から遠く仄暗い地下壕で、一柱の神の驚嘆の声を漏らさせる。

そして、その口に恐悦を浮かべる眷属の顔に、呆れもするのだ。この、バトルジャンキーめ、と。

それでも念の為に、ある提案を行う。

 

「一旦退かへん?」

 

「有り得ねえな」

 

「見逃せば並の被害では済みそうもないし、のう」

 

わかり切った答えが返ってくるが、主は溜息をつかずにいられない。ガレスの言葉は正論だ。見た目と違わぬ鈍足とはいえ、レベル5とレベル6の戦士に袋叩きにされても悠然と佇んで……否、全身に滾らせる殺意を更に濃くして大槌を構える『戦士像』。広大な地下迷宮を使って逃れるのはいかにも容易い事に違いないだろうが、遺棄された旧水道が地上のどこに抜け穴を残しているのか、この場に居る者はまるで知らないのだ。獲物を求めて彷徨う怪物が街に迷い出た果て、顕れるだろう惨劇とは先の闘技場で起きたそれと比較にならないものとなるに違いない。

……そんな尤もらしい理屈など、『子供』にとって退かぬ根拠たるには二の次なのだろうと、ロキは知っていた。

戦士としての、挟持だった。かれらは、恐るべき存在を前にして逃走する事を、決して自らに許さなかったのだ。

 

「ホントにヤバい事んなったら逃げんで」

 

未だ『子供』達は、一撃も貰ってはいないのだ、幸いにして。対峙する存在もまた無傷そのものであるようにしか見えない事はさて置き、きちんと線引はしておきたいロキだった。

 

「との事じゃぞ、ベート」

 

「ジジイの冷や水を諌めてんだろーが、よッッ!!」

 

大声で皮肉を投げ返すや、ベートは地を蹴る。天まで届く柱のような威容を持つ背中目掛けて――――狙うは勿論、先と同じ箇所、その膝関節。

果たして彼の意図は標的と相対するガレスも理解していた。

低く身を屈め、頭から突っ込むように、ドワーフの戦士は駆ける。

振りかぶられる大槌に雷光が迸るのを見ながら。

 

「ふっん!」

 

むざむざ打ち返されてやる趣味など、ガレスには無い。ブレーキ代わりに振り下ろした右脚によって床が砕かれ、全身は宙を舞う。

大幅に減じられたスピードは、またしても『戦士像』の空振りを促した。吹き上がる突風も届かない高度にて、両手で斧の柄を握るガレス。

天を仰ぐ、揺らめく双眸。瞬間、巨体の後ろから追突する凶狼。その牙が今一度、左膝窩へと突き立てられていた。折れる脚。傾く上体。

 

「っっしゃあああーーーーーーーっ!!!!」

 

体勢を崩されて迎撃の手を封じられた相手に手心を加える者など、この場に居なかった。ガレスは全体重を乗せた断ち割りを『戦士像』の右肩へと叩き込んだ。

 

「――――――――!!!!」

 

二度目の、全く同じ戦術を許した愚かな彫像は、そのつけを払う事となった。はたまたそれは、幾度と無く刻まれた、か弱き者達による必死の抵抗の実りであったのかもしれない。全く効いていないようにしか見えなかった数々の攻撃はしかし、着実にその巨体の身体機能を低下させていたのだろうか?

与えられた凄まじい衝撃により『戦士像』は膝を屈するところで止まらず、遂にはそのまま地に背を投げ出したのだ。

 

「や、やった……!?」

 

さては遂に眷属が勝利を得たかと、ロキの声に喜色がまじる。

即座に腕を手について立ち上がろうとする『戦士像』を見下ろし、二人は仕上げとばかりに得物を振り上げる。

 

「どおォォっ!!」

 

「うらァァっ!!」

 

それは誰がどう見たって、勇気ある冒険者が恐るべき怪物を打倒する絵面そのものであったに違いない。

破壊力著しくはあっても大振りの攻撃しか能のない木偶の坊。戦士達は華麗な動きで傷一つ負わずに、絶妙なコンビネーションを以て確実なダメージを与え続け、遂にはその巨体を張り倒した。

哀れ鈍重な身体が災いした怪物は、雪崩のように降り注ぐ追い打ちに為す術もなく滅び去る――――

 

 

 

其のような英雄譚を残す優しさを、この怪物は持っていないのだ。

 

 

 

「!!がああぁっっ!!」

 

「ッッッッ!!!!」

 

「っ……!?」

 

何かの破裂するような乾いた音は、ロキの鼓膜を破りそうなほどに強く鳴った。同時に二人の『子供』の間に閃光が走り、注視していた主の瞼を閉じさせる。

反射的に手をかざしたロキが、網膜の焼け跡に眩みながら目を開けると、理解不能な光景がそこにあった。

悠々と立ち上がる『戦士像』と、その前後で跪いている眷属の姿が、そこにあった。

 

「う、ウソ!?ベート、ガレスッ!?」

 

一瞬で立場が入れ替わったような状況に目を疑う。よくよく見れば二人とも、その頬に火傷の痕が走っていた。稲妻の形を直接焼き付けられたかのような、鋭く折れ曲がった焦げ目……。

あの彫像の身より、恐ろしい量の火花放電が発生したのだ。かれらほどの力量の戦士を一撃で跪かせる……それは、迷宮の怪物であっても、容易ならざる事おびただしい難事であると、ロキは知っていた。

そして気付く。『戦士像』の様相の只ならぬ変化に。

 

「こ、い、つ、が……奥の手、かよ……くそ!?」

 

「これほど、とは……ぬかったわ……!」

 

惰弱な贄どもの呪詛を聞き流し、再び両脚を大地に屹立させた『戦士像』。その全身に漲り弾ける、異様な光。……天を切り裂く稲妻は今、怪物の五体を守護するヴェールとなって荒ぶり、何者をも寄せ付けない傲慢な意思を露わにしているようでもあった。

ロキは言葉を失う。そうだ、目の前のコイツが、闘技場のアイツ等と同質の存在であるならば、斯くの如く計り知れぬ異能を隠し持っていて当然ではないか。レベル6の腹心が居る事で己の迂闊さが浮き彫りになった現状に、ただ歯噛みするしかない。

 

「あかん!ここは増援を……!?」

 

「……ぐ、くっ、ソッ!!」

 

至近距離で稲光を浴びせられたダメージは、二人の皮膚と筋肉を焼き、目と耳を通じて脳を激しく揺らしていた。床を見て必死で呼吸を整える眷属の姿に、主は自分の提案の無意味さを知った。

そして、立ち上がるのも数秒の間を要する脆いいきものに対する慈悲など、『戦士像』は持たなかった。

ゆっくりと振り返る巨体の、燃える眼光がベートを射抜く。

弾けるプラズマによって陰影を瞬かせる怪物は、その緩慢な歩をひとつ、踏み出した。

ぞわり、と、獣人のうなじに悪寒が走る。

今、彼を支配しようと首をもたげたもの。

それは、恐怖と言った。

 

「ベートォ!!立て、立って退けェ!!!!」

 

「……ッ、ぐ、がッ、…………ッッ!!!!」

 

処刑人を挟んで反対側にある音源から発せられた怒声が、貯水槽を満たす。

流し込まれた電撃の余波で、手足の筋肉が震える。

 

(立て、立て、立て!!)

 

心が、屈する事を拒絶する。

歯を噛み締め、眦を吊り上げて敵を睨みつける。

ずしん、と、巨体の足音が手のひらに伝わる。

 

(畜生、立て、立て馬鹿野郎!!こんな所で…………!!)

 

死は間違いなく、ベートの眼前にあった。あと数歩の場所に。

その客観的事実が、彼の脳裏に、ある記憶を蘇らせる。

 

(……!!あの、灰かぶり野郎……、なんで、てめぇの事なんか、思い出させるんだよ……!!)

 

脈絡のない幻影。それに対する理由のない怒りも、彼の手足を動かす力にはならない。

顔に刻まれた刺青は、万余の言葉でも表せない屈辱に歪んだ。

 

(糞…………これで、終わりかよッッ!!)

 

己への憤怒に満ちた心が、全ての幕を理解しようとした。

その瞬間。

 

「ぬおォオオオオオオオオオオオっっ!!!!」

 

「!!」

 

ドワーフの野太い掛け声が、『戦士像』の背にぶつけられる。

渾身の勢いで振り下ろされた斧と同時に。

冒険者としての年季の違いか、一足先に後輩よりも肉体の自由を取り戻したガレスの、必殺を期した不意打ち。

相も変わらず、その鈍重さを改めない彫像である。直撃は疑いようもなかった。

 

「ぐ――――ぅおッ!!??」

 

「――――!?!?」

 

だから、その結果は誰もが目を疑うのだ。

唖然とする一同。

何が起きた。音がした。何かが弾ける音。

攻撃を、弾いた……効く、効かないの話ではない。

跳ね返したのだ。

 

『戦士像』を覆う山吹色の障壁は、ガレスの攻撃を、クッションに弾かれたボールのようにそのまま跳ね返したのだ。彼の握り締める片手斧の刃を砕くとともに。

 

反動で肩を持ち上げられた戦士が呆然とする一瞬。

『戦士像』は、振り向いて、大槌をくるくると、棒切れのように弄び、掲げた。

まるで、勝鬨をあげる征服者のように。

 

「――――ッアアアアアア゙ィ!!!!」

 

その時、地の底にて、真の雷光が生まれた。

瞬時に弾けて消えるプラズマの断末魔とは違う、罪人を貫き磔にする神の雷霆が。

 

「ぐっがああああああああああああああァァァアァァァァァ!!!!」

 

『戦士像』の周囲に放出される轟雷が数秒間、死すべき者(mortal)に然るべき定めを負わせるべく荒れ狂った。

大気の絶縁を破壊しても尚有り余る猛烈な電位エネルギーは、血の詰まった一体の肉人形を容赦なく蹂躙する。

絶叫を上げるガレス・ランドロックの意識は、抗いようもなく絶たれた。細胞を焼き尽くすイオンの暴風に晒された当然の結果だった。

 

「…………――――ッッ!!!!」

 

見物人の眼球を襲う閃光が消える。それからややあって、黒く焼け焦げた塊が、どうと音を立てて倒れ伏した。

 

「……ガ、ガレス……!」

 

「ジジイっ!!」

 

悲痛な呼び声はすぐ、再び『戦士像』の全身から発せられる一瞬の放電でかき消された。大気を震わす破裂音とともに、巨体を覆う稲妻は霧散する。それは、捧げられた供物達にとってどれほどの慰めになるだろうか。

少なくとも、煙を上げて寝そべる者が喜んで起き上がるような事は決して無かった。

 

「そんな、……!」

 

朱色の瞳は今や完全に見開かれていた。大切な『子供』のかつてない危機は、自らの稚拙な判断によって呼び込まれたのだという絶望がロキの心を覆い尽くそうとする。

しかし、硬直するその身体を突き動かそうと足掻くのは、彼女自身の中にある残された希望そのものの姿だった。震える足腰を両手で叩く狼人が、琥珀色の眼光を狂おしく輝く月のようにぎらつかせる姿は、底の無い闇に囚われそうになった主の意思を呼び戻す。

 

「ベート……!」

 

「はやく、呼んでこい……!!誰でも良い、そのジジイを叩き起こせなきゃ、病室まで引きずっていける奴が来るまで――――ッッ!!」

 

言い終える暇も惜しむベートが遂に立ち上がると、息もつかずに飛びかかり、巨体の腰に回し蹴りを食らわせた。脊椎の無い、がらんどうの腰回りに嵌る格子へと。

左足の立方骨に伝わる衝撃は、電撃傷による浅くないダメージを残す全身に響き渡る。だが、止めるわけにはいかなかった。

怪物の双眸の先に、倒れ微動だにしないガレスの姿がある限り。

 

「ここで止めるしかねえんだよッ!!早く行け!!」

 

「…………!!」

 

果たして『戦士像』は、眼前で辛うじて虫の息を残すボロ屑へのトドメよりも、後ろでやかましく騒ぐ塵芥を消し去るのを優先して、ゆっくりと振り返る。ベートの狙いどおりに。

 

「……命令。死んだら、許さんかんな!!」

 

「おおおおォォォォーーーーーッッ!!」

 

毛を逆立て足を振りかぶる凶狼の咆哮を背に、主は地下水道へ消えた。膝まで浸かる水をかき分けて走る彼女は、闘技場の惨劇と、異例の事態を目の当たりにしながら即座に、数を揃えて迎撃するという対応を選択して被害を最小限に抑えた象頭の神を思い出していた。

情けない、オラリオが至高の神の片割れという称号は、今の自分の姿には到底値しないに違いない。

それでも、走るのだ。全力で。

失態の挽回だとか、至らぬ自分への怒りなど、そんな瑣末な感傷など投げ捨てて。

すべては、愛する『子供』を失わないために。

 

(頼む、持ちこたえといてくれや……!!)

 

はるか後方より聞こえる金属音の連打は、いっそう彼女の全身を急かすのだった。

仄かな光だけを頼りに、闇の小道の果て目指して。

 

 

 

--

 

 

 

 

「ッ!」

 

胸板に叩き込まれた一撃を物ともせず、『戦士像』は得物を振りかぶる。

ベートの身に着ける特注のメタルブーツの悲鳴は、これで何度目であろうか。彼は今、首の皮一枚を残して、己が命を刈り取らんと踊り狂う死の刃と対峙していた。

迅雷を象る速度のスイングは全く休む間を与えず繰り出される。それは掠っただけでも其の部位の骨を容易に砕く破壊力を秘めているだろうと、ベートは疑わない。

凄まじい質量を誇る大槌の乱舞を前に、なお喰らいついて攻撃の手を緩められない理由は、幾らでもあった。

横薙ぎを通り過ぎさせるべく、倒れるような角度のスライディングで『戦士像』の左腋の下に潜り込んでから、両手で床を撞き脚を振り上げる。長身の先端部にあるつま先の速度は、亜音速に達した。

 

「らアッ!!」

 

彫像の左後肩に与えられた衝撃はその全身に対し、虫の止まった草花ほどもの動揺も齎さない。

 

(くそったれめ)

 

もう一度両腕を屈伸させ、その反動で敵の懐から脱する。

着地した彼のすぐ後ろには、一言も発さずに地に伏す老兵が居た。

一瞬、唇を噛む。振り向く彫像を見ながら、ベートは牙を剥いた。

 

「、さっさと、起きろやボケジジイ……!」

 

巨体が足を踏み出すのを待たずに、ベートは地を蹴る。右脚に纏う長靴を振りながら。

 

(壊れるんなら、道連れにしてやる……恨むなよ)

 

肌に伝わる得物の声は彼に対し、逃れられぬ確かな未来図を思い描かせた。無惨に砕けた、ガレスの斧。あれと等しい結末を。だが、その事を憂う余裕など抱かせない状況は今、彼を取り巻く現実として在った。

金で贖える武器とは決して釣り合わないものが、今のベートの背負うものだった。

薄暗い孤独の中での彼の戦いは、まだ終わりそうもなかった。

 

 

あらゆる者を恐怖させる事を望む怪物の双眸は、瞳の無い金の炎として、一人の贄へと向けられていた。

 

 

 

 

--

 

 

 

「ディオニュソスッ!」

 

長い黒髪のエルフを連れた優男は、振り返った。見紛うはずもない、オラリオの頂に立つ女神の片割れがそこにおり、手を膝について盛大に、肩を上下させていた。

汗を流してぜえぜえと荒く息を整える姿に、自分の視神経の誤作動を疑う。あの、どんな時も余裕を忘れないトリックスターが、これほど切羽詰まった様相を晒したことなどあっただろうか、と。

何が、と口を開く前に、がしりと肩を掴まれた。

 

「頼む、手え貸して……この子も!!」

 

目を剥く顔には、有無を言わせぬ迫力があった。神の力とは違う、純粋な懇願。隣に立つフィルヴィスに対しても、それは等しく向けられていた。その意図するところは、あまりにも明白だった。

冒険者が必要な、緊急事態。

思い当たる節は大いにあった。

それは、並び立つ彼の『子供』もまた、同じだった。

 

「行くぞ!」

 

「……!、はい!」

 

「おおきに……!」

 

瞬時の判断は、決して零細とは言えぬ軍団を率いる首魁としての、利害への聡さもある。あのロキに恩を売れる機会を見逃す愚鈍さは、ディオニュソスに無かった。『子供』とともに、踵を返すロキに続く。

しかし、それ以上に彼を動かすのは、単純な情動だった。

レベル6の超戦士を抱える女神の顔を青褪めさせる危機は間違いなく、自分の想定する場所で起きており、それは或いは、この街をも即座に脅かしかねない災厄の呼び水なのではないかという、深い憂慮であった。

彼の眷属も抱くその推測は、赤色のポニーテールを揺らす後ろ姿を追って小さな路地へと飛び込んだ時に確信へと変わる。

 

「あの巨大花ですか!?」

 

「……もっと、ヤバイ!闘技場の、聞いとらん!?アレのお仲間や!」

 

小屋の中の螺旋階段を、飛ぶように駆け下りていくさなか、フィルヴィスは、ロキの言葉に生唾を呑んだ。ディオニュソス・ファミリアが最強の戦士、レベル3を誇る彼女なればこそ、剣姫すら深手を覚悟の連携攻撃に依らねば斃せなかったという強敵の存在には、話に聞くだけで戦慄を覚えたものだ。直接目にしたわけではないとはいえ……。

やがて降り立った薄暗い地下道において駆けて行く順路は、既知の道のりだった。ロキに話していないが、主の命によって広大な循環施設を探索し、あの醜悪な巨大植物との対峙をも果たしていたフィルヴィスである。

結局、恐るべき花冠に喰らわれた仲間の無念を果たす事は叶わなかったが、今自分が向かっている場所には、そんな苦々しい記憶など命ごと刈り取られかねない、強大な悪意が待ち構えているに違いない。生来の正義感と、後ろめたさの反動により、拳を握る力は強まる。

同じ末路を迎える者が増える事など、逝った家族達が望む筈がないと固く信じて。

 

「先に行きます!」

 

「ぶち抜かれた横穴や!辿った先の貯水槽に、二人が戦っとる……頼む、助けたって!」

 

矢も盾もたまらない思いが、エルフの全身を突き動かした。地上における神のそれとは比較にならない脚力は、フィルヴィスの背をあっという間に二柱の影から引き離す。

何をおいても時間が惜しいロキにとって、有り難い判断だった。地下から地上への全力疾走の末に掴まえた最初の相手が彼女とその主であった幸運に、深く感謝する。

爆発しそうに伸縮する肺と心臓は依然として、闇の浅瀬を走らせるのを止めさせなかった。

黒い水飛沫を上げる眷属を見送ったディオニュソスも、また。

 

 

 

--

 

 

 

兜の側面を打ち据える上段蹴りは、やはり大槌の一撃を振り切らせた隙を狙った渾身の瞬閃であったが、『戦士像』がそれによるリアクションを起こす事は無かった。

比して、左脚のフロスヴィルトは、遂に悲鳴を上げる。

 

「……ッ!!」

 

亀裂の走る音は皮膚を伝ってベートの鼓膜まで届いた。

何発目だったか、彼は数えていなかった。互いに空を切り裂く勢いの一挙手一投足を以て作られる怒涛の戦舞は、いま稲妻を纏って突き出される巨大なヘッドを躱す演目へと移り変わる。

 

「しッ!!」

 

横にまろぶ勢いを右脚に乗せた振り下ろしは、伸ばされた太い右肘に叩き付けられ、全ての衝撃を吸収されて止まった。すぐに、全身のばねを弾けさせて、相手の間合いと紙一重の位置まで下がる。

汗が飛び、眼はまばたきも忘れて血走る。息継ぎも吹きかかる距離での肉弾戦で狼人の放つ技は尽く直撃し、そして彼自身の纏う一対の得物にも着実なダメージを与えていた。其の限界が、片方に訪れた。それだけなのである。

かくして、重傑の異名を賜るつわものによる斬撃でさえ、それだけでは決して揺らがず、怯まず、傷つかない謎の合金で造られた体躯に対し、レベル5の小童がくれてやった損害は如何許か。

ミスリルで覆われた両脚は、その非力さへの怒りに打ち震えるのを黙して堪えていた。

支払った労力の対価を見出だせない事による精神的な消耗は、彼の肉体や武装の負うそれよりも、ずっと深刻であると言えた。未だ目覚める様子のないドワーフを背にして、ベートの意思に翳りが差し始める。あと、どれだけ……と。

瞬間、その耳がぴくりと跳ねた。

 

「!」

 

そこに現れる闖入者が無ければ、鼻っ柱の強さにかけては譲る者の居ない狼人は己が挟持を守りぬいた末、その身体に二度と贖うことの出来ない敗北を刻まれることになっていただろう。

広大な面積で全てを呑み込む闇を生んでいるような地下壕へと飛び込んできたフィルヴィスは、切り倒された巨大花など目に入らぬ衝撃に見舞われる。自らの知識と経験の中に一切記されていない怪物と、それと対峙している第一級冒険者の姿を目の当たりにする事で。

殊に、倒れ動かない黒焦げの戦士の正体が、あのガレス・ランドロックだと気付けば、尚更である。

 

「これはっ……」

 

「てめえは見物に来たのかっ!?でなきゃさっさとこのジジイを退かせろ馬鹿エルフ!!」

 

初対面にして不遜極まる物言いを浴びせるベートは、脇目もふらずに『戦士像』の懐に突っ込み、そのスピードに全体重を乗じたローキックを打つ。踏み付け気味の一発は分厚い合金の詰まった脛を、髪の毛一本程度の細さは凹ませたかもしれない。

勿論、それを座して観覧する趣味を持たないフィルヴィスは、すぐに我に返ると全速力で倒れ伏す巨体に駆け寄り、肩に腕を回した。全身に掛かる重量は、彼の者の人事不省を雄弁に物語る。レベル6の眷属をここまで追い詰める敵の実在に、黒髪で覆われた首筋が粟立った。

はたして小さき者どもの涙ぐましい救出劇を、由来の知れぬ怪物が見逃す理由も無かった。踏み出される足腰によってひねられた上半身が、既に振りかぶられている大槌の間合いに、三体の肉人形を捉えていた。

消えない痺れを押し殺して立ちはだかる白銀の両脚は、か細い希望の灯火を絶やさせまいとする意思を顕すように、暗晦の中で危うく光る。

 

(さっさと来やがれ!!)

 

ベートは、犬歯の隙間から冷たい風を吸った。退かない。幾度にも渡り、紙一重でその激突をいなし切って来た。……今度は、違う。

――――狙うは一点。

 

「……っ!!」

 

真正面。迫り来る大槌の直撃する軌道に立つ愚行が、彼の目論見を完遂するために必要な代価だった。圧される空気が先走り、ベートの全身を縛り付けようと左半身に襲い掛かる。

だが、動かない。怯まない。

尋常の戦士を超越する動体視力はかつてなく研ぎ澄まされ、少しずつ視界を占有する死の招き手をコマ送りのように捉えていた。刹那もの遅延も早とちりも許されない、その一手を成功させるために。

 

「――――!」

 

来た。右に、倒れる。右手を床につく。全てが、ゆっくりに感じた。左耳は、その上を通り過ぎる巨大な質量により、一時的に聴覚を喪失する。

側転の姿をとるために横向きになった狼人の上を、大槌が掠めてゆく。

果たして、天へと向かうは、その両脚……。

 

「――――おッ!!」

 

しなる左脚は音速を超えていた。罅割れたメタルブーツが、空振ったヘッドの裏側の面へと叩き付けられる。『戦士像』の豪腕によるスイングスピードに、閃光の如き一撃を加えたのだ。絶技と形容すべきだった。

振り抜かれた大槌は、更に持ち主の身体を引っ張る。想定を上回るスイングの反動が、『戦士像』の全身のバランスを大きく崩した。

ガレスとの鍔迫り合いを制する力に対し、前からぶつかるのではなく後から押すという選択。それは得られる結果も明らかに異なっていたのだ。

柔を以てして、剛を砕く力をすり抜けたベートは、両手で床を支えながら、たたらを踏む彫像のがら空きの腹を強く、睨みつける。逆さまの双眸を、吊り上げて。

 

「――――らアアアッッ!!!!」

 

両肘を曲げ、手で踏み込みながら、其の一撃を打ち込んだ。長い右脚は全身のバネを受けて、弾けた鞭のように格子部分にぶつかる。

よろけた巨体は、渾身の力で激突したミスリルの長靴を黙して受け止める姿勢制御術など持たない。頼りない足元はまるで振り子の糸のように、上体を仰け反らせ――――

 

「ちっ!」

 

二歩、三歩と後退してから、『戦士像』は大槌を杖のように地面に立てて止まった。すさまじい重量を叩きつけられた石床が砕かれ、罅が走る。

失敗すれば確実な絶命が訪れていただろう、決死のカウンターで得られた結果がそれだった。

逆立ちからもとの体勢に戻ったベートは、舌打ちを一つした。暫し俯いてから持ち上がる兜と、目が合う。燃え盛る金の眼光は、激しい怒りと憎しみだけを湛えているように見えた。

左足に、じわりとした鈍痛がある事に気付いた。安くない代償は確かに、彼の身体に刻まれていた……いや、足の甲から発せられる信号ひとつが、ひとまずは窮地を脱したにあたっての対価と考えれば、彼の抱く苛立ちは傲慢に過ぎるとも言えただろう。

実際、刹那の攻防によって本懐を遂げることが出来たフィルヴィスは、仰向けにしたドワーフに魔法薬を塗りつつ、遠く離れた場所で対峙する二つの影への畏怖を否認しなかった。

 

(なんという……!)

 

そして今一度、まだ意識を取り戻さないガレスの身体を見やる。痛ましく刻まれた感電の痕は防具を外して露わに見える皮膚を焦がし、血を焼き、内部の筋組織まで切り裂いているのがわかる。倒れても尚手放さない斧がどれほどの業物であるのか、砕け散った刃を見ても推し量る事は出来ないが、それでも自分のファミリアの財政ではとても賄えない価値の武器であるのは間違いないだろう。

いま自分は、死すべき者の到達しうる至高の座をここまで蹂躙せしめ得る怪物の牙を前にしているのだ。

……彼女が思い起こすのは、卑劣な策略によって生み出された惨劇の過去。あの日以来、誰かの命を背負うことへの忌避感はへばり付いて離れない。

再び、かのごとき死地に半歩踏み入れている事実で細い肩を震わせそうになった瞬間、戦場の均衡は既に、此方側の有利に傾いていることを知った。貯水槽に飛び込んできた新たな影を見て。

 

「ベート!ガレス!」

 

「フィルヴィス……無事かっ!」

 

その命だけを案じて、二柱の神はそれぞれの眷属に呼びかける。

黒髪のエルフは、主の顔を見て、闇に呑まれそうだった意思に平衡を取り戻す。それを理解したディオニュソスもまた、可愛い『子供』の大事無い姿に、ため息を漏らしそうになった。

比してロキのおぼえた安堵の程と言ったら、闘技場でなんとか生き残っていた三人娘を見た時の比ではない。道具入れから魔法薬を取り出す。同時にこぼれ落ちる有象無象の品物は、彼女の心境を表現する光景だった。

焦げ固まった皮膚に、追加で緑色の液体が惜しげ無く浴びせられていく。もしもの備えについて、より高等な代物を持ってくるべきだったという悔恨は、無意味だ。どのみち、『戦士像』の重い脚から全力で逃げるのが、今自分達に与えられた命題なのであり、戦線に復帰させられるまでの治療をする必要など無いと、ロキは思っていた。

命題を成すには、真剣な眼差しを緩めずに治療を続ける黒髪のエルフの助力があれば、いとも容易いだろう、とも。

そうまで思ったところで、眷属の口髭が動くのを見た。瞼が、ゆっくりと開く。

 

「……ン……こ、ここが、ヴァルハラか、な?……フ、ハッ」

 

「ガレスぅ……」

 

破れた皮膚から見える赤黒い表情筋を動かして笑顔を作る『子供』の様は、絶えない危惧と不安で縛られていた主の心を一気にほぐした。

とはいえ、感動に打ち震えているような場合でもないのだ。どうにか、命を繋いてくれた助っ人への感謝さえも、後回しにせねばならない状況だった。

顔を上げて、叫ぶ。

 

「ベートっ、撤退!撤退や!」

 

切羽詰まった形相は、己が命に背かれることなど芥ほども想定していなかったものかと問われれば、虚である。

……ロキの悪い予感は、見事に的中していた。

 

「…………」

 

『戦士像』が、持ち上げた大槌を両手で携えていた。相対し、毛だらけの尾をピンと張ったまま、銀色の前髪の中の双眸を動かさない眷属の姿に、ロキは顔を歪めた。

 

「聞いとんのかアホタレ!!んなバケモン、今の戦力でどうにも出来んやろが!!さっさとここは逃げ――――」

 

「……出来んのよ、それが。なあ、ベート」

 

罵声の混じる主の命令を遮るガレスは、両手を床について、のったりと上体を起こした。

黒く稲妻の影が張り巡らされる彼の全身は明らかに戦いを続けられる容態ではないと、フィルヴィスは理解していた。

 

「!、駄目です、そんな傷で……!」

 

「…………申し訳ないですが、のお……。……性分、というやつ、ですな」

 

ガレスは、口角を吊り上げ女達を見やる。その動作の中に、彼の確かな意思表示があった。主を落胆させる、残酷な返答だった。

言葉を失うフィルヴィス。ロキは眉間に皺を刻んで、拳を握った。

 

「あれだけ散々ブチ込んで、ハナクソ程も効いとらんのに、どうやって倒すっちゅうねん!?」

 

それは、一見正鵠を射た指摘だ。かの彫像に対して行われた怒涛の攻勢の結果は、主の目には、青銅色の肌に薄い引っかき傷を与えた程度のものにしか映らないのだ。

……眷属達の認識は、違っていた。

 

「どんな巨木とて、倒れん道理なんぞ、ありゃあせんよ……それに、」

 

立ち上がるガレス。防具は着けない。それが命綱になるような相手ではないと、身を持って知っているから。

その目は、この機を引き寄せてくれた後輩の方に向けられている。

 

「ここまで持ち堪えたあいつが、勝算ありと見たんなら、そりゃ、黙って見てられん」

 

言葉には強い意思があった。幼子がこの時に至るまでの歩みを間近で見てきた者が抱ける、確かな信頼があった。欲目とか過信とも解釈させるのを拒む、戦士としての見立てと、等しく。

鋭い眼差しで、『戦士像』を見つめる。

 

(確かに、効いているはず……!)

 

自分にとって都合の良い願望と思わないのも、あの凶悪な放電攻撃を目の当たりにしたからこそだった。自分達の攻撃を真に寄せ付けない実力の隔たりがあるのならば、まとわり付く虫けらを払うのにあんな大層な技など見せるだろうか?

大槌の一発は、確かに受け切れない破壊力を持つだろう。生み出す雷は、今度こそ自分の魂まで焼き尽くすだろう。

だが、もはや相手は底知れぬ存在などではないはずだという推測は、長き戦いの日々を生きてきた老兵にとって、疑いの余地を挟ませ難かった。

 

「ああ、もお……!!」

 

眷属の目に宿る、この難局を打破する事への激しい渇望を知った時、もはやロキは、頭を抱えるしかなかった。

 

「仕方のない事、なのだろうな」

 

黙して会話劇を見ていたディオニュソスが、呟いた。ものわかりの良い風の台詞だった、他人事であるがゆえの。

言われずともロキだって、『子供』らの気持ちをわかっているつもりだ。戦士としての本能が、数を以て征すという単純な損得勘定を超越して彼らを突き動かしているのであろう事くらい。似たようなケースは、過去に幾度かあった。

それでも、あの怪物の得体の知れなさは、ファミリアの首魁として重ねてきた経験則をたやすく吹き飛ばす恐怖を呼び起こして止まないのである。闘技場で出会った時は、こちらの戦力もだいぶ違っていたから、薄まっていただけであって……。

恨みがましげな目は、自然と優男に向いた。

 

「すまんフィルヴィス、もう少しだけ、手を貸してやってくれ」

 

「私に出来る事なら……ですが……」

 

各々の視線は三角形を描いた。自分のもとに帰ってきた遠慮がちな眼差しに、ロキは俯いて髪をかき回し……顔を上げる。

これじゃあ、あのドチビの事を笑えない、と、一瞬だけ思った。

 

「ゴメン、ゴメンなあ、バカ男どもは、もうほんとに……イヤやったら、見捨てたってや……」

 

「いえ」

 

真実、こんな修羅場に巻き込む気など毛頭なかった女神の謝罪に対し、フィルヴィスはただ凛然としていた。ドワーフの横顔を見る。

 

「ヴァルキリヤの加護か、心強い事よ。……しかし、あのデカブツの前に放り出す訳にも、いかんなあ」

 

罅だらけの皮膚を割りつつ、ガレスは笑みを浮かべる。

 

「えぇ?あとはどうぞお任せします、ってか?おい、どう思うベート」

 

「うっせぇボケジジイ!!脳ミソまで焦げ付いてんならそのまま寝てろ!!」

 

大口開けて笑い、ガレスは構えた。討ち死にした片刃の斧を腰に下げ、投斧を両手で握り締める。

顔の向きを変えずに、呟いた。

 

「一発。思いっ切り溜めた、撃てる限りでの一番デカイのを、あの木偶の坊に叩き込んでくれんか。儂らの事は考えるな」

 

「……はい」

 

白いドレスは纏う者の決意を示すように、刹那、闇を払うきらめきを瞬かせた。死妖精と呼ばれ恐れられるエルフの姿はそこに無く、ただ、オラリオ最強の戦士達すら死の淵に追い込む凶悪な存在と対峙する、一人の戦士の貌のみがあった。

ディオニュソスにとっては、期せぬ奇貨と言うべき事態だった。勿論、とんでもない難事ではあろうが、これが、眷属の抱える苦悩が和らぐ一助になるのならば、悪い機会ではない、と。ロキにしてみればふざけんなボケとでも言いたくなるだろうが。

主の冷徹な計算など露ほども知らず、フィルヴィスはまぶたを閉じて詠唱をはじめる。地上の誰にも知れない危機が潰えるかどうかが自らの力に掛かっているという自覚は、思い上がりではなかった。

構えられた短杖は動かず、ただ持ち主の精神力の奔流を湛えていく。

 

「さあて、儂が寝てる間、小僧はどれくらいやってくれたやら?」

 

「死に損なった老いぼれがつつけばぶっ倒れるくらいは、くれてやったよ」

 

『戦士像』を挟んで、ゆっくりと、立ち位置を合わせていく。言葉のやり取りは使わなかった。巨大な地下壕の苔むす壁に、大きな影の動きがぼんやりと揺れていた。

入り口から一直線に、三つの影が並ぶ。膠着は、一呼吸の暇も与えない空隙だった。

固唾を呑んで見守る二柱の神にとって、長すぎる猶予が終わる時が来た。

 

「……!!」

 

青銅色の足が踏み出される。一歩一歩が、世界を揺るがす錯覚を与える。

二人の戦士は、示し合わせる事もしないで、同時に動いた。

誰もが、それは最後の演舞の幕開けであると知っていた。

 

「然らば……、トドメは、頂くぞ!!」

 

ドワーフの巨体は、骨の髄まで灼かれた重傷者とは思えない豪速で、巨壁の如き背中目掛け突進する。両手を右肩の後ろまで振りかぶりながら。

向かう先に居るのが、目が届かないだけで来るべき刃を看過するような相手ではないと知っているのなら、それはただのヤケクソの特攻にしか見えないだろう。

『戦士像』は、大槌を持つ両腕を軋ませつつ、左足を軸にして全身をひねった。振られる得物の軌道は、持ち主の全周囲を射程内に収めたものと化す。

振り向く金色の炎と視線がぶつかる瞬間、ガレスは、恐悦に口を歪ませた。

 

「ッ……は、ああああァァーーーーッッ!!」

 

掛け声とともに振り下ろす。背筋と、両腕の肩から手のひらに至るまでの筋繊維が、一気に律動した。

轟音と、衝撃が、貯水槽を揺るがした。神々は手を床につき、巨大花の骸は数度跳ねる。

凄まじい膂力の生んだ攻撃の反動は、オラリオ有数の鍛冶師が生んだ投斧の刃を、柄とともに粉砕していた。

惜しくはない成果と、引き換えに。

それは、彼の想定通り、標的を破壊したのだ。

目と鼻の先を通り抜ける死の一閃を振るった者の立つ、厚い、厚い石床――――その下に広がる岩盤もろとも。

 

「ッッ!!!!」

 

地下壕を引き裂かんと手を伸ばす巨大な地割れが『戦士像』の足をからめとる。空振りに持ち堪えようと踏ん張る下半身が、大きく揺らいだ。

眼前で跪くような姿勢を保つガレスは顔を上げて、笑う。

鉄兜の後ろから飛んで来る、白銀の流星を正面から見据えて。

 

「ウッッらあああああああっっ!!!!」

 

音は、長く響いた。打たれた金属が、振動を抑えられなかった事の証左だった。

それを成し遂げた左脚のメタルブーツもまた、青銅色の巨体と似た結果を享受した。決定的に違ったのは、その強度の差だった。右後頭部を踏み付けると同時にミスリルの長靴は砕け、破片を飛び散らせたのだ。

だがベートが悲嘆を抱く事は、無かった。

一気に怯んだ『戦士像』の上半身に対する追撃を、蹴りの反動で得た刹那の滞空時間で決断する。

足裏から返ってきた反動を使って全身を回転させ、長い右脚を思い切り、振る。

 

「でぇいッ!!」

 

同じ箇所を、もう一発。同じベクトルを向くように叩き込む。

どつかれた脳天に引っ張られて更に傾く上体。崩壊する床に足を取られながら喰らった必殺の二発は、いま再び『戦士像』を地へと倒そうと――――

 

「ァアァアアアア゙ィッッ!!」

 

しかし、小癪な企みを真っ向から打ち崩すだけの力は、なおもその四肢から失われていなかった。地の底に生まれる奈落への入り口は、はるかな深淵よりも暗き場所からやって来たその怪物に対し、芥ほどもの逡巡を与えない。

崩れかけの断崖を躊躇なく右足で踏みしめて、佇まいを持ち直す。左半身の後ろに隠された大槌は、両腕の力を受けて復路をたどる軌道を描いた。

狙うは、眼前にて地に手をつく、死に損ない。

二度目の追撃を成せぬまま地へと降り立とうとするベートは、頭上から見える光景に顔色を無くす。

 

「――――避け――――!」

 

その言葉を遮る雄叫びは、すぐにガレスの大口から搾り出された。

 

「――――るァァアアアアアアッッッッ!!!!」

 

疾風は、その抜打ちによって周囲に放たれた。砕けた刃を持つ片手斧は、電熱による不可逆変化が今も残るドワーフの腕の筋肉により、不本意な吶喊を強要された。

狼人の動体視力ですら残像の見えない右腕の動きは、圧倒的な質量差を笠に着た絶死の一撃に対して成せる、ガレスの最後の抵抗に他ならなかった。

 

「ッあ!!――――!!」

 

耳を劈く金属音。

その一瞬は、確かに観衆の目に、しかと焼き付けられた。

巨大花の胴体を千切り飛ばす鉄槌を、壊れかけの斧一本で受け止めた、刹那の光景は。

 

「――――――――!!!!」

 

両手で柄を握るガレス。目を見開き、髪と髭を逆立て、下った口端から一筋血を流す形相は、破裂寸前まで怒張した腕の中で粉砕する骨の痛みが生み出すものとは、違った。

一瞬。

得物同士がかち合う一瞬。

その一瞬で充分だったのだ。

ヘッドから溢れる稲妻が、か弱き、死すべき運命から逃れられぬ者の身体を蹂躙するのには。

手に持つ不具の斧から、必殺の衝撃と一緒に、覚えのある感触が逆流してくるのをガレスは理解した。

火花が、生まれた。

それは老兵の主観と、第三者の観測において共通する結果だった。

 

「ガ――――!!」

 

電流は、流し込まれる者の脳細胞の意思とまったく無関係に、その肉体に対し無秩序な運動信号を誤認させようと荒れ狂う。

床を踏む下半身は力を失い、両腕は即座に筋肉の緊張を消し去る。

今や巨躯を誇るだけとなった木偶人形は、『戦士像』のスイングに耐える事などできなかった。

 

「――――レ――――!!」

 

帯電する巨大なヘッドは、瞬きも与えぬ暇その加速度を確かに、ゼロまで減退させ……それから、即座に揺り戻させた。

大槌に縛り付けられた重傑は、掬い上げられたボールのように吹っ飛ぶ。

完全に破壊された斧を衝撃で放り出し、折れた両腕を風に揺らさせるのに任せて。

 

「――――――――ス……ッッ!!」

 

主の悲痛な呼びかけを遠くに感じながら、ガレスは思った。

 

(……あとは、……任せたぞ……)

 

眼下に残された二人の若人の姿を確認する事も出来ぬまま、地下壕の壁に叩きつけられて、ドワーフの戦士の意識は途切れた。

 

「っ…………!!」

 

「おおおおああああああああ!!!!」

 

割れ目の真上で、狼人の咆哮が生まれていた。先達の生死を気に掛ける理由など、一つも無かった。今壁から剥がれて地に落ちた男がそれを期待している筈がないと知っていたから。

残された右のメタルブーツは執拗に、背中を晒す『戦士像』の無防備な脚部を打ち据える。

脹脛、膝裏、腿。

踏み込む左足の痛みなど、全開になった脳内物質の鎮痛効果の前には、猛り狂う一頭の獣の前には何の戒めにもならなかった。

渾身の一振りを終えた隙に叩き込まれる怒涛の連打。

そこには確かに、『家族』の仇討ちを望む、ベートの怒りがあった。

怒りは肉体を突き動かし、足から伝わる反動がさらに、強敵に対する執念を燃やす。

けれども、それをもってしても届かぬ境地があると、彼は知っていた。

 

「だッ!!」

 

「ッッ!!」

 

太い、青銅色の膝が折れた。それでも、地に臥させるには、足りない。すぐに片膝を起こそうとする『戦士像』。息をつく狼人は追撃を入れる事が出来ない。

まだ、あと一押しが足りないのだ。決定的な、もう一押し。レベル6の戦士に成せてレベル5の戦士に成せぬという冷酷な現実を突きつけられたのは、これで何度目だろうか。

貼りつく前髪が煩わしい。ベートは歯噛みする。一人の男が生命を捨てる覚悟で与えてくれたこの機を、絶対に逃すわけにはいかないのだ。

肉体と精神、そして残されたたった一つの得物さえも、蓄積した疲労は限界へと至ろうとしていた。

 

(糞……!)

 

一呼吸の間で姿勢を整え、振り向く死の化身。横顔に輝く金の炎。

戦いの終局を垣間見るベート。

己の、死を。

……それは、彼の持つ、尋常よりもやや肥大した自分本位ぶりのせいで勝手に陥った、錯覚に過ぎなかったのだ。

 

「――――【ディオ・テュルソス】!!」

 

ベートは、斜め後方にて生まれた光源で作られた自分の影を見た瞬間、一瞬で、頭を覆う霞を消し去った。

火花が大気を打ち破る音よりも早く、彼はその存在を掴んだ。

否、彼は、忘れていただけだったのだ。

遥かな神代すら遡る混沌と黎明の時において、何者かが残したその力のことを。

 

 

 

闇を照らす標、己の中に宿る、希望の灯火を。

 

 

 

 

(――――遅えんだよ、馬鹿エルフ)

 

『戦士像』目掛け一直線に迫る雷光。それをわざわざ目視することもせず、ベートは右脚を振りかぶった。

光源と怪物を結ぶ直線上に、その軌道が重なるように。

 

「!!」

 

胴を狙った中段蹴りが巨躯に触れる瞬間、フロスヴィルトから光が放たれる。

深き、憎しみと恨み、死と破壊の満ちるところからやって来た怪物を消し去らんと迸る聖なる雷は、ミスリルの長靴による直撃と完璧にシンクロしていた。

目が眩んだ瞬間、フィルヴィスは凄まじい轟音に脳を揺さぶられた。かつてない修羅場で高められた集中力で練り上げられた精神力の奔流は、彼女自身も知らぬ強大なエネルギーを内包していたのだ。

炸裂する轟雷のインパクトは今、手負いの凶狼の振るう最後の牙となって『戦士像』へと突き立てられる。

 

「~~~~~~~~……ッ!!」

 

反動で、全身が揺れる。視界がぶれる。蹴りを支えている素の左足が、みしみしと悲鳴を上げた。大音響と閃光は、生み出す側にさえ少なくない衝撃を齎していた。

だが、得られるものの大きさを考えれば、どれほど安いか知れない。

格子が覆う横っ腹に喰らった、黄金に輝くメタルブーツの一撃。それは、『戦士像』の巨体を一気によろめかせる。

 

(決める!!)

 

一歩、踏み込む。

 

「ベート!!」

 

主の声。

 

(わかってるよ……この、糞野郎が!!)

 

悪態を向ける相手は、地割れを挟んで両脚を床に撞き立てる。

両肩が広がり、天を仰ぐように兜は上げられた。

腹の中にある魔力の渦が溢れだす。

来る。

あの、全身に纏わせる稲妻の防壁を生み出す為の、刹那の放電――――隙だらけの姿を晒す、最大の機が。

 

「らァーーーーーーーッッ!!!!」

 

雷光が宿る右足が振り下ろされる。フロスヴィルトに込められた超高密度の魔力が解き放たれ、爆裂するプラズマは地雷のように罅割れた床を吹き飛ばした。

それは巨大花を消し飛ばした流星の衝突すらも凌駕する破壊力だった。ドワーフの戦士にこじ開けられた闇の入り口により大幅に強度を失っていた石床が、衝撃地点を囲う巨大な同心円を描いてささくれ立つ。

クレーターの中心に生まれる山吹色の鉄槌。余波を貯水槽の天井まで吹き上がらせるそれは、対峙する『戦士像』の放出する光も覆い隠し、鬨を上げようと胸板を張る身体を突き倒す。

巨体が仰向けに倒れる音は、踏み割られる岩盤の悲鳴でかき消された。

 

「…………!!」

 

成し遂げた悲願にベートは笑みなど浮かべない。右脚の激痛は、既にその筋繊維と骨が致命的なダメージを受けている事の証左であると理解していたから。

まだ、相手の息の根は止まっていないと、知っているから。

両拳から血が滴り、噛み合わされた歯が軋んだ。

砕けた床から右脚を抜き去る。禍々しく弾ける電撃の薄布を纏ったまま立ち上がる『戦士像』を、睨みつける。

戦いを終わらせる為の道筋は、この瞬間にしか開かれていなかった。

前へと、踏み出す。

 

「おらあ!!!!」

 

ハイキックが兜に炸裂する。

爆音、閃光。猛烈な電位を誇る金属同士の激突が、遥か地下通路の果てまでとどろき渡る。

立ち上がりかけていた巨体がまた怯んだ。大きく仰け反る上半身とともに後退する両足。

二者を繋ぐ直線上にある、貯水槽の出入り口目掛けて。

あと、数歩。

琥珀色の眼光は、右脚を輝かせる光を一方向に束ねたような芯の強さを湛える。

 

「ア゙アアアアアアイ゙ッッ!!」

 

踏みとどまって叫ぶ怪物。両手に握られた大槌が迫り来る。

何度も見た。

何度も躱した。

スピード、高さ、間合い。全ての予測が、狼人の身体を反射的に突き動かす。

この瞬間、ベートは完全に、果たし合いの支配者だった。

 

「――――!」

 

伸びた背すじの上にあった頭は、一瞬で地べたに顎を触れさせ、残像だけをスイングの軌道上に残した。

両脚に溜まった疲労も損傷も、今の彼を縛る錘にはならなかった。

ヘッド部分が四つ脚で屈んだ上を通り過ぎ、銀髪を数本、薙いで刈り取る。

次いでベートの両腕の筋肉が、鋼鉄よりも固く張り詰めた。まっすぐに伸ばされたそれは長駆を一気に振りかぶる。

 

「せえええっ!!!!」

 

巨大なスリングショットを象る回し蹴り。ミスリルの迅雷は、再びのカウンターとして『戦士像』の胴体の中心へ叩き込まれた。

 

「…………!!」

 

莫大な電磁気力の暴発は、遂に巨体を浸水部分まで押し切った。階段を踏み外し、浅瀬に落ちて飛沫を上げる『戦士像』。

造営物を焼く火花と鼓膜を破りそうな轟音は、それでも遠くで怪我人を囲む面々の顔を釘付けにしていた。

訪れる決着の時は、誰しもの脳裏に予感させた。

しかし。

 

「――――あ、マズイ!!……あかん、ベート!!」

 

稲妻の中で踊り狂う眷属の姿を固唾を呑んで見守っていたロキ。何をおいてもその無事を祈っていたからこそ、闇の奥へ突き落とされた影が見せた仕草に、声を上げずにいられなかった。

地を蹴って入り口へ飛び込もうとするベートの先にあって、神の目にはほんの一瞬しか映らなかったが、確かにそれは見えていた。

短い階段の下で立ち上がり、大槌を掲げる彫像の姿が。

 

(耐える。耐えられなきゃ、死ぬ。それだけだ!!)

 

主と同じ視覚情報を得ていたベートはそれでも、突撃する身体を止めなかった。

これから自分に襲い掛かる攻撃の正体を知っていても。

レベル6の戦士を一撃で半死状態にさせるプラズマの奔流。

彼が覚悟を決めてから刹那もの時も経ずに、それは放たれた。

 

「ァアアアァァアア゙イ゙ッッ!!!!」

 

「ああっ!!」「――――!!」「うおっ……!?」

 

闇の奥にあるずぶ濡れの大胸筋が雷光で照らされる瞬間、底抜けの絶望が女神の心を包んだ。

隣に座る二つの影も、網膜を潰すほどの光量に驚愕する。狼人が繰り出す打撃の余波すら霞む、桁外れの電圧が吹き荒れる様に心胆を震わせる。

撃ち出される雷霆は、大広間の出入り口を決壊させるほどに溢れ出していた。天地が横向きになったかのような凄まじい放電は、その中に在る遍く生命の死を確実視させて余りある光景だった。

 

「あ、あぁぁ…………!」

 

「ロキ、待て!」

 

熱波が過ぎ去り、ようやく目を開いたロキは青ざめる。稲妻によって粉砕され大幅に開口面積を広げられた出入り口と、貯水槽内にぶち撒けられた無数の瓦礫が、陰惨極まる予感を彼女に与えていた。

たまらず駆け出そうと立ち上がる手をディオニュソスが掴もうとしたが、寸でのところで空を切った。

信じたくない気持ちと、どんな結果でも受け入れねばならない気持ちを心のなかでぶつけ合いながら、舞い散る砂煙の中に突っ込む。

未だ健在であろう怪物の待つ場所へと単身足を踏み入れる愚行も、すべては『子供』の無事を願う思いが生む衝動が生むものだった。

 

「ベート――――……!?」

 

そして、刮目する。直立したまま佇む背を見て。

焼き尽くされた装いの下には、巨大な爪で掻きむしられたように黒く火傷が走っていた。

だがロキが驚愕したのは、その傷の痛ましさではない。ガレスを問答無用で昏倒させたあの電撃に、レベル5のベートが耐え切ったという事実こそが、真に主の言葉を失わせていた。

 

「…………バカ。危ねえだろが…………まだ、終わってねえんだよ……」

 

振り返らずに、かすれた声を紡ぐ狼人は、防具も無く焼け焦げた左足を踏み出す。

その先に立つ、黒く波打つ水面に囲まれた『戦士像』。下ろした大槌から、幾つもの水滴が落ちるのをロキは見た。

 

(…………!!水……!)

 

主は悟った。眷属はただ我武者羅に押し切る事を考えて怪物を水路に叩き落としたのではなかったという事を。

無謀としか思えない吶喊は、根拠の無い精神論に基づいたものなどではなかったという事を。

ガレスに対して今一度の応急処置を施しつつ、遠く壮絶な戦いぶりに目を奪われているフィルヴィスがその推理に思い至ったのも、同時だった。

 

(確かに、電気は濡れた身体を伝って水路へ向かう……けど、それを差し引いてもあの量の放電を、耐えられると踏むなんて……!?)

 

笑みを浮かべたまま気絶しているドワーフは、何も答えなかった。

迷宮における生死を賭けた凄絶な研鑽の日々を重ね続けた二人の戦士による戦術理論は、今、黄金色に輝くミスリルの長靴を持ち上げる青年の姿に宿り、定められた結論へ至ろうとしていた。

座して待つ事などしない敵も、それを迎え討とうと得物を持ち上げる。しかし――――

 

「うっ!?」

 

巨体を覆う稲妻の防護壁が弾けて消える音が、ロキの鼓膜を叩いた。その衝撃で『戦士像』の構えが緩む姿は、闇の奥で瞬き消える閃光とともに、彼女の目に確かに映っていた。

最も近い場所でぎらつく、琥珀色の双眸にも。

 

「――――お」

 

ベートを遮るものは、何もなかった。

左足で、煤塗れの床を蹴り砕く。同時に、全身をひねった。

崩れた階段の上から、銀色の影は弾丸のように撃ち出される。

無防備な巨体の中心と、彼の正中線が符合する。

 

「――――おおおおお――――!!」

 

長い左脚は、きらめくメタルブーツの軌道を、貯水槽と地下道の境目において、はっきりと輝かせていた。

 

口は耳まで裂けようと開かれ、濡れた牙が呼気を切り裂く。

 

声無き悲鳴を上げる体中の骨が、決して折れない意思によって統べられ、撓った。

 

凶狼の咆哮は、紛れも無い終幕の一撃とともに、雷鳴を思わせる怒号となって怪物に襲い掛かる。

 

(あ……)

 

目に映るものすべての動きがゆっくりと見えるロキは、あるものを思い出していた。

遥か旧い仲である、同郷の者達の中で、最も強大な力を持っていた知己。

比類なき剛勇。

怒れる戦士。

雷の化身。

 

 

 

……戦いの、神(god of war)。

 

 

 

 

(――――トール――――)

 

 

 

 

「――――ーーーーーーーーーーっっっっ!!!!」

 

 

 

 

 

振り抜かれた雷神の大槌は、『戦士像』の腹部に叩きつけられ――――格子を突き破り、中に渦巻く光を解き放つ。

同時に、フロスヴィルトに宿っていたエルフの雷霆は、遂に自らを封じていた容れ物を破壊し、荒れ狂った。

まるで星がそこに生まれたかのような光は廃道だけを照らしだすものだったがゆえに、貯水槽の中にとどまっていた一組の主従は直視する事を免れたが、『子供』を待つ女神は、そうも出来なかった。

水路を爆破解体するつもりかという衝撃波とともに吹っ飛んできた一つの影。両手を広げて、それを受け止める。眩む目を決して閉じぬまま……。

そのまま一緒に背中から倒れ、石床に皮をすり卸されそうなほどに引きずられて――――数秒。

 

(……大きくなりよって)

 

仰向けになったまま胸に抱かれる『子供』の重さに、ロキは、唐突な郷愁にかられた。

動くのをやめた視界には、高く薄暗い天井があった。

はあ、とため息をついた。

 

「この~、おおばか……」

 

焦げ目と煤で汚れた銀髪を見下ろし、つぶやく。

毛だらけの耳が、ぴくりと跳ねた。

 

「……わるかった、よ…………」

 

ベートの目は前髪に隠れ、その色を伺うことは誰にも出来なかった。

 

 

 

 

再びヴァルハラに片足を踏み込んでいたガレスが意識を取り戻したのは、それから少ししてからの事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

「ディオニュソス様、やはり私が……」

 

「い、いや、これくらい……あと、少しだからな、ははは……」

 

「申し訳ありませんなあ……」

 

長く入り組んだ旧水道を抜け、一行は下水道の通路まで戻って来ていた。その道程において、ガレス・ランドロックの巨体――――全ての武具を捨ててきたとはいえ――――を背負い歩き続けるというのは、ディオニュソスの身体能力から鑑みて驚異的な偉業と言うべきだった。

 

「ちょっと休もか。もうちょっと行ったら、階段昇らなあかんしな」

 

「ゔっ……」

 

ロキの提案は、ディオニュソスから最後の力を奪い去ったようだった。崩れ落ちる優男に、フィルヴィスが駆け寄る。

床に足をつけたガレスが、よっこらしょっと腰を上げた。

 

「そろそろ、自分で歩くとしますわい。これ以上世話を掛けられませんでな」

 

「……俺も降ろせよ」

 

不機嫌そうな声は、ロキの背中から発せられた。

死闘の末にぼろぼろになった狼人は、応急処置だけ施されて力なく主に背負われたまま帰りの途へとついていた。

眷属の懇願に、主は首を動かさずに、口を開いた。

 

「ダメー」

 

「……何でだよ」

 

「ダメなもんはダメー」

 

「…………降ろせ――――ッッ!!?!」

 

ベートが暴れたが、瞬間、全身に走る痛みに悶絶し、硬直する。

殊に右脚からの信号は強烈だった。間に合わせに巻かれた包帯を剥ぎ取れば、火傷を突き破って折れた骨が飛び出す無惨な脛と腿が見えるだろう。

 

「ダーメです。お馬鹿なベートはおウチまでこのまま~」

 

「……クソッ」

 

憮然として吐き捨てると、それきりベートは黙った。戦士としての自尊心を守った代償を甘んじて受け入れる物分りの良さは、さすがの彼も失っていないのだった。

大人しくなった眷属を背負って立ちっぱなしのロキ。その目は、出し抜けにディオニュソスが取り出した、歪な色の魔石を射抜いていた。

 

「……ヤツらは、あの巨大花と、……いや、迷宮の怪物達とすら、根本的に異なる存在なのだろうか?」

 

「ん……」

 

ヤツら。

闘技場と、そして今日、さっき、貯水槽で対峙した、途方も無い強さを持つ怪物達。その異質さとは、単に振りまく威や、突拍子もなく現れる無秩序さもあるが、それも巨大花が辛うじて保つ尋常さと比して明らかに際立つのだ。

 

「……魔石を、持たない…………ひょっとして、闘技場に現れた連中も、そうだったのですか……?」

 

「うん……なーんか引っ掛かってたけど、なんで気付かなかったんかな。……ギルド側も、わかっててしらばっくれたんかな」

 

遍く怪物の生命活動を司る器官を持たないという異常性は、同じ未知との遭遇ではあっても確かに魔石を隠し持っていた植物達とも違うのだと、この場にいる者達に否応なく理解させる。

 

「こら、根が深そうやなあ。アッタマ痛くなって来たわ」

 

「……また、アレの同類が現れたら……」

 

フィルヴィスの漏らした危惧は、更に場の空気を張り詰めさせる。レベル5の冒険者が生命を捨てる覚悟で挑まねば打倒せしめ得ぬ、強大な相手。

震えが、走る。迷宮に挑む者として、――――拭い切れない後ろ暗さを抱えてはいるが――――多少なりとも、場数の経験を自負出来る程度の力は持つと自覚する彼女。それでもあの彫像との戦いにおいては、決して一人で立ち向かえる気骨も根拠も持てなかった。

自らを苛む罪悪感とは決定的に違う、純粋な、暴虐極まる存在への恐怖が、ひとりのエルフに確かに刻まれていた。

 

「しかし、倒せない相手ではない、と。それで充分ではないか?」

 

あっけらかんとガレスは言い放ち、フィルヴィスは面食らった顔を晒す。

手に持つ灯りで照らされるドワーフは、火傷の走る顔に、無邪気な笑顔を浮かべていた。

 

「のう、お若いの。儂らみたいなバカ男の真似をしろとは言わんが――――」

 

あんたのおかげで、勝てたのだぞ。

その言葉は、フィルヴィスの胸の奥に、透き通るように響き渡っていった。

純粋な戦士としての賞賛と励ましの気持ちは、心に生まれた暗い淀みを、流れる下水に乗せて押し流していくようだった。

 

「はい――――」

 

口端が緩むのを感じた。

それを見ていた弄り好きの女神は、更に口角を吊り上げた。

 

「おや、おやおや~ガレス~なるほど、そんな若い娘が……リヴェリアが怒るでぇ~」

 

「えっ、ち、違います……私は!」

 

変な茶々を入れるロキと、慌てるフィルヴィス。ガレスは何も言い返さず、大口を開けて笑った。

 

「……そうか、フィルヴィス……いや、何も言うまい。『子供』の選んだ事はっ……!?」

 

「~~~~~!!!!」

 

軽くなった空気にあてられてかディオニュソスが神妙な顔で言を紡ごうとして、眷属の発する凄まじい怒気に遮られた。

 

「いや、待て、待ってくれ。今のは冗談」

 

「知りません!!!!」

 

向けられる懸想を知っておきながら茶化す主に対し、一瞬で激おこ状態と化すフィルヴィス。大股歩きで去っていくのを、ディオニュソスが慌てて追った。

愉快な主従を見送る形になったロキ・ファミリアの面々が、顔を見合わせ、笑う。

 

「まあ、生きててなんぼやな。……無事にやってくれて、ありがとな、二人とも」

 

「あの二方にも、改めて伝えておかねばなりませんな」

 

「……」

 

ガレスは、主から少し距離をとって、前を歩き出した。四つの靴音が、流れる水の上に乗って消えていく。

 

「な、ベート」

 

前を歩く『子供』に聞こえないくらいの小声で、ロキは呟いた。

 

「……んだよ」

 

主に負けないくらいにか細い返答。

視界が揺れる毎に、全身に鈍い痛みが走った。

命を繋いでいる証拠だった。

 

「今日、世界で一番カッコ良かったの、自分やかんな?」

 

振り向かずに、ロキは微笑みを浮かべていた。

 

「…………知るかよ……」

 

「んふふっ」

 

 

 

 

『子供』を背に乗せた女神が太陽の下に戻るまで、まだ時間が必要だった。

 

 

 

 

 

 

 







・エレメンタルタロス
戦士像。アセンションのタロス。炎氷雷の三種いるが、最強はどう考えても炎。アルキメデスの試練に出て来たらかなりのクソゲーになってたであろう。
本文での無敵モード突入と同時に転倒させる描写はゲーム中でも可能な半バグ技。ゲームだと弾き状態を保って通常の攻撃パターンが持続するようになる(弾かれない攻撃ならダメージを与えられる)が、話の都合って事で勘弁して。

・ディオニュソス
サテュロスの親玉。GOWシリーズでは散々プレイヤーを苦しめた報いを受けクレイトスに惨殺され……なかった。登場どころか、名前すら出なかった。そもそも存在しているのかどうかさえ謎。
ただ存在していた場合、ヒキコモラーなヘスティアに十二神の座を譲られたという原典のエピソードからして、オリュンポス崩壊に巻き込まれてお亡くなりになった可能性は限りなく高いと思われる……。

・カウンター
無印のチャレンジ最終ステージではこれ使わないと本当に地獄。使っても地獄か。
アセンションだと相手を一撃で気絶させられるが、しない奴も居る。しなくても、大きく怯んだりはする。でもダメージは無い。悲しいねえ。





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無敵状態




「ここまで書いたんだから……」という心理が無駄な時間の浪費としょうもない長文だけを残す。
俗に言うコンコルド効果である(ウソである)。






 

 

 

幾輪もの荒ぶる巨大花が水晶と建造物をなぎ倒し、数多の冒険者達がそれを鎮めようとリヴィラの街を駆け抜ける。刃と鏃が飛び交い、炎と氷が弾け散る。話にこそ聞き及んではいたが、大蛇とも見紛う巨躯を惜しげなくのたうたせる植物の凶暴性はロキ・ファミリアが誇る手練の冒険者をも驚嘆させて余りあった。第十八階層に撒かれた災厄の種は今こそ芽吹き、死すべき定めを負う全ての者を食い尽くさんと花開いて牙を剥いていた。

狂乱の中心に立つアイズの項が粟立っていた……目を灼く電子の奔流と、凄まじい爆風を生む魔力の炸裂を前にして。その魔法を生んだ者は毛先ほどの逡巡も慢心も、ましてや憐憫すらも抱かなかっただろうという確信を抱いたからこそ。

左手一本でレフィーヤ渾身の光魔法を跳ね返した謎の女は、砕け散る水晶の破片が鎮まるのも待たず躍り掛ってくる。

それは、ゆっくりと、見えた。振られる長剣の軌跡、真っ直ぐその先にある自分の肉体を目指して突き進む、明確な殺意が。

刹那か須臾か、それにも満たない極限まで分解された単位時間の一幕で、アイズの脳細胞はその幻を網膜に映し出す。

 

刃を携え紫色の影を纏う、どこまでも凶悪で無慈悲な怪物の姿を。

 

「――――ッ!!」

 

「――――!!」

 

絶望の名を冠する剣は、名も知らない殺人鬼の毒牙をなぞって火花を散らした。

全身の毛が逆立つ。金色の髪の一本一本の根元の感覚までもを理解する。しかしそれは鋼の削れる甲高い音と等しく、今の彼女の気勢を削ぐ力とはならない、決して。

アイズの中から、街を破壊し暴れまくる巨大花の存在も、すぐそこに転がる謎の宝玉のことも、遥か彼方へと去っていた。

 

「!」

 

「っ!!」

 

弾かれた一閃に怯まぬ女の追撃は、更なる速度を得た袈裟斬りで顕れ――――空を切る。腐ったマスクの下、徹底した無感情を保つ左眼ははじめて動揺に色を変えた。そう見えた。アイズ・ヴァレンシュタインの金色の双眸は、そこまで見通していた。

臓物を撒き散らす筈だった細い肢体が瞬時の足運びで凶刃を逃れ、仰け反る上体が纏う鎧の表面は並行に通り過ぎる軌跡を反射する。踏みしめた足の脹脛から腿、腰までが一気に強張り、放つべき一撃を支える剛体と化す。

まばたきも許さない攻防の中で、整った唇からその言葉が紡がれる。

初めて、死すべき者に対して放つその魔法。それを躊躇させるいかなる倫理も道徳も、アイズの中からは消え失せていた。どんな姿かたちを持とうが、それが敵であればただ屠る事のみを望む、血煙を礫に凍りつかせる氷河のような、冷たい表情――――それを生むものとは、果たして彼女がこの街で培ったものであるかどうか、誰も知らない。

 

「【目覚めよ】――――!!」

 

「ち!」

 

女に対して左半身を晒す姿勢は、右手で振り上げる得物のリーチを見誤らせる意図もあった。アイズの振る剣の切っ先が豪速で三四半円を描いた。風を断つ渾身の斬撃に対し、女は予備動作無くバク転をこなして避け切る。間合いが広がった。

仕切り直しである。その視線をぶつけ合う無傷の二人。否。女の兜はアイズの振り上げた刃の勢いに吹き飛ばされ何処かへ、そして……。

 

「……お前は」

 

「……!」

 

マスクが真っ二つに割れ、血のように赤い髪が現れた。その下にある緑色の両目に、はっきりとした驚愕の感情が映し出されている。対峙する戦士の、予想だにしなかった力量を目の当たりにしたからなのか……。

それはアイズの中でどういうわけか、闘技場の残滓と結びつく。何の関係があるのかなどわかりはしないのに、一瞬でその奇妙な同調が生まれた。

しかしすぐ、思う。

 

(違う……)

 

その直感がアイズを支配する。違うと感じる。似ていた、いや違う。……何が違う?

赤い色の髪。血のような、赤い色を見て、胸の奥から溢れるその声。何かを思い出す。

赤。飛び散るどす黒い血の色。燃え盛る目を灼く炎の色。

……瞳の色。……刺青の色。瞳。刺青。誰のだ?誰だ。血と炎の飛沫が、絡み付くよう渦巻く鎖となって連なる。

赤い呪縛が形をなすいくつもの像がぼやけて重なり、離れるのを繰り返す。あれは、誰だ?赤い刻印で結ばれた……誰か。

……違う。目の前の女とは、関係ないはずだ、それは。

何の関係も、無い。

 

(……違う?)

 

根拠もなく、緑色の目がそう言っているのがわかる。違う?誰が。誰と違う?自分を、誰かと見間違えているのがわかる。

金色の輪郭は確かに、歪と澱みを湛えた双眸に映り込んでいるように見える。その影は、誰だ。……決まってる、他ならぬ自分ではないか。ロキ・ファミリアの眷属が一人、アイズ・ヴァレンシュタイン。……何が、違う?

生まれ育った場所と、自分を挟んで両手に繋がる感触がよみがえる。優しい声、胸を満たす安らぎ、穏やかな日々……。

去りゆく、人影。

鼓動が早まる。考えるなと自分の中の別の自分が言っている。

耳を塞げ、目の前の存在を倒せ……殺せ、と!

だが、その思いは決して女の口上を止めることは出来なかった。

 

「――――『アリア』、か……いや、ちがう、……!!」

 

(――――違う、黙れ!!)

 

その単語が、アイズの意識を支配しようとする幻影を決定的に、顕現させる。血流の音が大きく、全身に響き渡った。例えようもない激情が、麗しき剣姫と讃えられる少女の全身に満ちる。

金眼の修羅は息を止め、敵の懐へと踏み込んだ。頭と胸に宿る渇望が喚き立てる。闘技場で現れた怪物達の骸が、血の海に沈みながら叫び続ける。もっと力を求めろ、もっと、もっと。もっと血を求めろ。魂に、真に刻まれたものを欺こうなどとするな。何もかも切り刻み、焼き尽くせ。

遥かな眠りから、呼び覚ませ。

目覚めの時を齎すのは、お前なのだと。

アイズの叩き込むしろがねの光跡は、腹に手を添えた剣により受け止められ、女の肉体まで届かない。

十字になった二本の刃を挟んで生まれる、噛んだ歯を剥き出しにした凶相を前に、女が目を見張り、忌々しげに呟いた。また。

 

「ああ、……なるほどな。目覚めの『鍵』、というわけだ、お前は……!」

 

アイズは鼓動を更に大きく感じた。膂力を絞り出す押し合いでわななく刃の悲鳴も煩く感じるほど、耳が澄まされていた。

『鍵』。『鍵』とは。

 

「どう、いう……!!?」

 

「ン゙アアアアアアッアアアアアアーーーーアアアアアア!!!!」

 

胎児の泣き声が上がった。相対する二人の意識は一瞬で、その力の発露に呑まれた。邪悪な宝玉は如何なる方法でか自ら飛び跳ね、飛び退ったアイズの身体を掠めて巨大花の骸へと激突する。そのまま粘液を飛び散らせながら茎に根を張り同化していく光景のおぞましさは、尋常の神経の持ち主であれば戦慄に身を震わせるだけだったろう。

しかし今のアイズは違った。巨大花を取り込み見る見るうちに生長していく胎児を意識から振り落とす選択は、もはや狂気の成す仕業と言わねばならなかった。今の剣姫はただ、自分の心に踏み込まれた怒りを償わせる事しか考えていなかったのだ。

今一度、アイズが吶喊を試むべく右手を強く握り締め――――

 

「アイズさ――――ぁあっ!!」

 

「っ!?」

 

理解を超えた剣舞を見守っていたレフィーヤの叫び声が、深淵へと踏み込んでいたアイズの意識を呼び戻した。瞬時のことだ。振り向いた金眼が、胎児の乗っ取った巨大花に押し潰されそうになる人影をしかと捉える。

 

「【目覚めよ】っ!!」

 

一陣の突風となり、通り過ぎざまに手を伸ばす後輩と気絶した犬人を抱えたアイズは、そのまま必死の逃避行を決め込んだ。

なんとか逆撃の機を得るための道筋を脳内で巡らせる最中、恐怖と不安の満ちる視線を理解しながら、己の不覚を悔いる。後輩の心境を慮るにつけ、胸の内側を掻きむしられるようだった。

 

「アァアアーーーーーーーーーーーン゙!!!!」

 

街を破壊し、立ち塞がる別の茎を取り込んで肥大化していく胎児、それはかつて第五十階層で見たあの怪虫を想起させる……女体を据え付けられ触手を折り重ねていく巨体は、さながら蛸の怪物と変貌していた。聞くに堪えない絶叫の奏でる不協和音とともに、背筋を舐めるような悪寒を周囲に振り撒いていた。

団長らと合流しなければならないという決断はすぐに下る。猛り狂っていた衝動はもう無かった。そこに居るのは、オラリオで命を賭す冒険者としての使命を思い出した一人の戦士だけだった。

 

「……まんまと邪魔されてしまったが……」

 

狂い咲く巨大花に立ち向かう死すべき者達、それを遠巻きに見つめる赤髪の女は臍を噛んだ。しかしすぐ、苦々しげな表情を変質させる。

細まる目の光は、確かな憐憫を湛えていた。

 

「『アリア』……哀れなやつ。せめてこの地に囚われる事も無ければ、別の道もあっただろうがな……」

 

女の姿を目に収める者はもう、どこにも居なかった。その言葉を聞く者も。

冒険者達の繰り広げたリヴィラ全地区を巻き込む攻防が終わった後、女の痕跡はチリ一つとして探し出せなかった、誰も。

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

真っ直ぐに迫り来る三本指に対して、少年はほんの少しだけ全身の軸をずらした。風を切る一突きは頬の薄皮に赤い線を残す。

全開になった細い肘を掴む。渾身の握力は、そこから肩まで伸びる筋肉を一気に張り詰めさせた。

息を止め、漲る衝動に全身を委ねる。

 

「は、ア゙っ!!」

 

息を吐くとともに、腰をひねった。

長い腕から繋がる身体が宙を舞う。半円を辿り、迷宮の床に叩きつけられるまで。

 

「……!」

 

仰向けになったウォーシャドウは、自分の上半身を表裏から挟む衝撃に、声も無く呼気すべてをひり出した。

そして、気付く。

自分を見下ろす、真っ赤な眼光に。

肘を握り潰しそうに締めあげてくる力も忘れて、その輝きに意識を奪われる。

あたたかい血を持つ貧弱な生き物への侮蔑は消え、重く冷たい恐怖が、怪物の中に芽生えた。

 

「っ、ぁあ゙、ああッ!!」

 

「!!」

 

響く咆哮と同時に、靴裏で固定された胴体から、怪物の右腕は引き千切られる。

黒い体液を肩口から吹き出させて身悶えるその姿に、多くの駆け出し冒険者を恐れさせる強敵の面影は無かった。

 

「ッ、ッ……!!」

 

「……」

 

決死の抵抗によって踏む力が一瞬だけ、緩む。その隙は、怪物に脱出の選択肢を与えた。身軽さを活かした闇討ちを常套手段とさせる身体は、三本だけの脚でもレベル1の眷属では到底反応出来ない速度を発揮できただろう。

ウォーシャドウの不幸とは、今対峙する相手がそれを許さないだけの動体視力と判断力を持っていた事だった。

 

「――――!?」

 

片足が、地面と鎖で繋がれたように、動かなくなる。その鎖は、渾身の握力と膂力を発揮して、影の全身を引っ張った。

 

「ッお!」

 

「――――!」

 

肉屋の仕事のようだった。食材の詰まった袋をまな板に叩きつける光景は、黒い影を象る異形の生命体が、脚を掴まれて振り回されるという形で再現されていた。

硬い床面に激突した顔面は、埋め込まれていた鏡を砕く音だけを上げる。

すでに怪物の意識は消失していたが、無慈悲な執行者はそれでも、右手の力を緩めずに――――左手を添えて、黒く細長い肢体を引きずる。

それは迫り来る刃を迎え撃つために、必要な行動だった。

 

「ふっ!」

 

少年の細腕が、もがく影を抑え付けようと硬く強張る。下肢が床を突き刺すように、踏みしめられる。

赤い瞳は、相方を昏倒させた憎き仇を屠るべく爪を突き出すもう一体のウォーシャドウを、鋭く睨みつけていた。

怪物の長い腕が誇るリーチは、たった一本の短刀で以て渡り合う判断を愚挙と謗られるべき脅威と言えただろう。

だからこそベルは、ただ血への渇望だけを抱いて襲い掛かるという短慮を見せた者への手心など芥ほども見せず、この場で最適の得物を手に取った。

ねじられた腰関節に溜まった力は、繋がる上半身まで逆流する。

 

「ン゙ッ!!」

 

鼻息を漏らすと同時に、彼の両手に握る獲物が周回軌道を描いた。

 

「!!」「ッッ!!」

 

持ち主と同程度の質量を持つ黒色のフレイルが、怪物の横っ面に直撃する。

鈍い音を立てまとめて吹き飛ぶ二つの影を見ながら、攻撃の反動にベルはたたらを踏み、危うく尻餅をつきそうになった。

一瞬ののち、ガシャン、と、鏡が砕ける音がした。

 

「ふう、……ふゥ……っ」

 

息が荒い。それは、単純な肉体疲労だけが生む反応ではなかった。

ぎらつく双眸の先に、迷宮の壁面に叩きつけられて致命傷を負った二つの影が折り重なっていた。それぞれ半壊した頭部を痙攣させながら、必死に体勢を整えようとしている。

逃げようとしているのだろうか。

それとも、再び立ち上がり、その爪を振るうのだろうか。

足を踏み出す。

手甲で強張る手のひらを、強く握る。

硬いグローブの中に、冷たい感触が生まれた。

 

「う……!」

 

燃え盛る破壊衝動を、無理やり凍りつかせようとする枷の存在が呼び起こされる。

 

「うっ、ぐ……!」

 

歯を噛む。腕の筋肉が膨張と収縮を繰り返す。

巻き付く鎖を打ち破る為に、血流は更に激しく酸素を求めた。それが、口角を下げた必死の形相を少年に作らせるものの正体なのだ。

それは、狂気なのだろうか。

敵を殺せと昂ぶるものも、激情を呑み込み縛り付けるものも。

葛藤で震える少年の目は、影が遂に起き上がるのを捉えていた。

 

(――――前を、見ろ!!)

 

ベルは、知っていた。この世すべてのものは、自分が答えを出すまで待つ都合の良さなど持たないという事を。

戦わねば、勝利は得られないという事を。

死ねば、全てを失うという事を。

否応無しに突きつけられる現実の光景は、四肢を支配するものを振り払う力を思い出させた。

小さく縮こまって消えてしまいそうだった少年に、もう一度立ち上がる意思を育ませた力は、全身へと行き渡る。

 

(流されるな、引き込まれるな!!)

 

瞼を全開にして、床を蹴る。

振り下ろす刃が、影の細い頚椎を貫いた。

腕を伝う痙攣。生命を断つ感触が爽快感と、嫌悪感を湧き上がらせる。

 

「ふうっ!」

 

だが、止めない。すぐに引き抜きつつ息を吐き、一直線に短刀を突き出す。

息を絶やした相方を省みずに爪を光らせる、残り一体との対峙は今、彼の越えるべき試練として存在した。

赤い瞳は瞬きせずに、伸びる腕の交差を捉える。

砕けた鏡面に短刀が突き刺さる瞬間、肋骨を貫こうとする衝撃をベルは感じた。

 

「う……ッ!!」

 

今際の際、ウォーシャドウの最後の一撃は、狩人の胸を掠めて右腋へと吸い込まれる。並の業物とも匹敵する鋭い爪は、軽鎧の継ぎ目を憎らしくすり抜け、少年の側胸部へと浅く突き立てられていた。

しかし、それまでだった。

 

「……」

 

黒い頭部は既に短刀で貫かれ、首の下へ一切の信号を発さなくなる。

それを成した者は、流れ出す血の感触と同時に生まれる痛覚を味わいつつ、ひとつの結論へと至った。

……終わった。

痛みをおして難局を征した安堵を味わう瞬間、ベルの首筋に悪寒が走った。幼く、芽生えたての戦士の感覚でも理解できる、確かな殺意だった。

 

「ぐっ!?」

 

振り向きざまに、両腕で防御する。裂傷こそ腕当てにより免れるが、その衝撃は一発で肩関節を跳ねさせた。

――――未熟な冒険者には感知出来なかったもう一体のウォーシャドウは、音も無くすぐ後ろまで距離を詰めていたのだ。がら空きになる懐。開けた視界を占める、歪なヒトガタ。表情を持たない鏡面の光が、黒刃を照らしていた。

防げ、いや、避けろ。

下される脳からの指令を果たせぬ証が、肋骨まで達する創の痛みとなって肉体の反応を遅らせる。

自他から得られるすべての情報は、少年に確かな死を予感させた――――が。

 

「あ――――っ!?」

 

約束されていた未来が、一瞬で塗り替えられるのをベルは見た。巨大な腕は、獲物まで目と鼻の先まで至っていた爪を、その持ち主もろとも一撃で叩き潰したのだ。

アルゴスは朽ちゆく灰を吹かせる余韻を湛えて、乱れた外套を直した。隙間から、青い眼光が覗いている。

 

「危なかっだな」

 

「は、ぁ……」

 

今度こそ危機を脱したと理解し、ベルの全身が弛緩した。弾かれた両腕の痺れを、今になって感じる。

心臓の鼓動が大きく聞こえた。

 

「うっ、く」

 

それは一拍毎、負傷の発する信号を全身へと行き渡らせる。麻痺した痛覚が正常の働きへと戻るにつれて、苛む痛みが強くなっていくのをベルは理解していた。

ひとすじ伝う冷や汗に粘り気が増してゆき、左手を右脇に伸ばす。

そんな仕草を見せるベルの頭の上から、濁声が掛かった。

 

「今日は、もう帰゙れ」

 

「っ、まだ」

 

すべてを看過した青い瞳を見上げて、ベルは反駁を口にした。

まだ。戦える、止められない、この程度、こんなんじゃ……。

そう続こうとした言葉も、喉で止まった。大きな陰影の中心にある青い輝きは、ただ真っ直ぐに少年を見つめていた。

大きくかぶりを振るアルゴス。外套が擦れる音は、周囲の人気の無さを証明していた。

 

「駄目だ、帰゙れ」

 

「……」

 

「神様が、待っでんだろ」

 

迷宮の中まで伸び、決して眷属の心を離さない枷の存在を口にするアルゴス。それが、ベルのあらゆる抵抗を無意味にするものと知っていながら。

 

「自分の足で帰゙るのまでは、助げられねぇ……お前゙が、自分の力でやりでえってんなら」

 

――――ふたりが出会って、数日が経っていた。

誰の目も届かぬオラリオの片隅で生まれた奇妙な縁は、一組の冒険者をともに迷宮の探索へと連れ立たせるようにしていた。

しかしアルゴスは、ベルの隣で戦う事をしなかった。

 

「…………」

 

それが、ベル自身の望みだったから。

振り向いて息絶えた怪物を見やりながら、回顧する。自分の背を守る者との関係について。

……かつて、ある事情を抱えたままオラリオを去った男。すべてに見放された錯覚に打ちのめされ、闇の底へ転げ落ちていったベルが出会った男。

長い旅の末、ここに帰ってきた異形の放浪者の持つ力は、少なくともレベル1の冒険者など比較にならない代物である事を少年はすぐに知ったのだ。先において繰り広げられた、ベルにとっては自らの肉体を賭して打倒せねばならない怪物を一撃のもとに葬り去る光景も、既知のそれだった。

肩を並べて戦うには、二人の力の差があまりにも隔絶していることも……。

ベルは、引き結んだ唇の下で、歯茎を白ませる。

 

(そうだ……これ以上、寄り掛かる訳には、いかないんだよ……)

 

由来の知れない幻影に取り込まれる不安と、見放されひとりになる未来への恐怖は、己の強さによってしか打ち払えない弱さだと思う。

極まった身勝手を押し付ける事への自責の念を抱きつつ、迷宮ではじめて協力者と一緒に戦った日、少年は自分の考えを伝えていた。

一人で戦わせて欲しい。

自分の力で立ち上がりたい、と。それは、守るべき最後の一線だったのだ。

夜、怪物の産声を恐れる者達の居なくなる時間であっても、アルゴスが此処へ足を運ぶ事は途方も無く、彼自身にとって望ましからざる事態への危険を高める行為と言えた。剰え、そこで行うのは――――ようは、単なるガキの御守りに過ぎないのだ。

明らかな窮地以外にあっては、決して手を出すなという傲岸な要望に対し一切の逡巡も浮かべずに首肯した協力者の思いを計り知るには、ベルの持つ洞察力では不可能だった。

どうあれ、はじめて組む相方に対し大いなる負担をかける迷宮探索というのは、潔癖な性根を捨てきれない少年にとって愉快なものと言い難かったのは確かだ。そう望んだのが自分であるにも関わらず、である。

確実に生命の危機から守られている安心感は、それが過ぎ去った後の屈辱との引き換えだった。

だが、今の自分は、そんなちっぽけな挟持――――いや、見栄など認めるべきではないのだ。

それは、弱さだ。

恥じるべき、捨て去るべきものなのだ。求めてやまない、あるべき自分を得るにあたっては……。

じくじくと体の芯まで穿つ鈍痛も忘却しそうなほどの不甲斐なさが、少年の心にのしかかる。

 

「……あんま゙気負って、急ぐんじゃねえ。胡散臭え゙奴なんが、おで以外いぐらでも、居るみてえだしな。昔と、変わらず。……それに」

 

陽も月も知らず死の影が常に傍に在る場所とは、彼がかつて神のしもべとして戦っていた頃よりろくでなし共の最後の居場所でもある事に違いは無かった。

このような夜半に怪物の巣へ挑む常識知らずの馬鹿野郎の生死などギルドにとってはどうでもいいことなのである。姿を隠して闇の底向かう者一人ひとりの後ろ暗い事情と等しく。

出入りする連中の検分など、少なくともそのせむし男にとっては大した障害になっていないようだった、今は。

 

「他の奴゙の事なんが、気に掛げる余裕もねえだろ……今のお前ぇは……」

 

黙するベルを置いて、外套に覆われた巨体は去っていく。残された者は、口数少ない協力者に掛けられた言葉を深く反芻するだけだ。

逸るばかりの気持ちを見透かされる事を、辱めとは感じなかった。その気遣いに報わねばと思うことはあっても。

息を入れ直して、ベルは気を張り詰めさせる。目は、アルゴスの去った方角へと向いた。

情けでも、打算でも、何でもいい。彼は一人のまま闇の底へと落ちそうだった自分の前に、確かに現れた、何かなのだ。もう一度やり直させる為に与えられた機か、道を照らす一筋の光明か……どうあったとしても。

立ち上がらなければならない。歩き出さなければならない。

強くなければならないのだ。

自分の背負うものの為にも、それは決して覆せない掟と少年は何時だって自戒する。

あの青い目との出会いが降って湧いた都合の良い幸運だと言うのなら、何があってもそれを不意に出来なかった。へばりつく後ろめたさや情けなさに囚われる暇など、無いのだ。

心を覆い、身体を縛る恐怖を克服する為にも。

 

 

きょう、遂に第六階層へと踏み込んだベルは、ただ更なる強さを求め、弱い自分を消す事を望むのだった。

 

 

空が白み始める時刻よりも遥か前。幼い顔に険を浮かべる少年は、やはり、下ってきた時と同じように、慎重に階層を上っていく。

外套を被り光の届かぬ場所を行く巨体との関連など、誰も勘ぐろうとしないだろう。やがて路地裏に消えていくかれらの素性も。

だが、誰に見られていなくても、ベルの戦いは確かにいま、ここに存在していた。

 

 

神の眷属として、背負う名に恥じぬ者であろうとする、孤独な戦いだった。

 

少なくとも、彼本人にとっては……。

 

 

--

 

 

口を開けない。

 

――――傷が痛むのかい?

 

――――どうして、夜に行くようになったんだい?

 

――――悩みがあるなら、何だって言ってくれよ、だって、ボクは……

 

 

 

 

 

――――赤い瞳と見つめ合うだけで、言葉が封じられる。どの口でほざけるのかという呵責の声は、紛れも無く女神自身の心の中から生まれるものだった。

朝焼けも見えない夜明けの前にホームの扉を開く少年。そのままソファで泥のように眠ったまま主を送り出し、帰宅した女神が食事を終えてからやっと目を覚ます。

そして碌な会話も無く……新たな力の刻印だけをその身に与えられると、沈痛そうに、まるで口を開くだけで胸を切り裂かれるのに等しいかのような表情を押し隠し、彼は背を向けて扉の向こうへ消えていく。

宵闇の支配する時に迷宮へ征くようになった眷属に何を問えばいいのか、何をすればいいのか、小さな主にはさっぱりわからないのだ。

過去の間違った選択を贖うよりも先に突き付けられた新たな難題は、一柱の女神を日々悶々と、思索の迷い路へと引きずり込んで手放そうとしない。

 

「じゃが丸くんのー、……クリームふたつお願いします」

 

「ふぁー……」

 

「あの」

 

屋台に立つツインテールの少女は、注文に対して、碌な反応も示さない。口を半開きにして、目は遥か遠くへと向けられている。

慌てて、店主が割り込んだ。

 

「ああごめんなさいね!はいふたつ、毎度あり!」

 

「ふぁーー……」

 

ヘスティアは仕事中もすっかり腑抜けていた。勤務形態の本分も覚束ない状態が続いているのだ。

加えてこの屋台は、そこまで余裕のある経営状態というわけではない。切羽詰まってもいないが。

客が去りゆくのを見届けると、ある決断を胸に、店主は腕を組んでため息をついた。

 

「ヘスティアちゃん」

 

「ふぁ?」

 

名前を呼ぶ声に、何の思考も働かせずに振り向くヘスティア。

今頃地下道で大変な難事に直面している仇敵が見れば、よっぽどデコピン一つでも叩きこみたくなるだろう間抜け面だった。

当然だが、ただの人間である店主はそんな不敬を働かない。だからって不真面目な従業員を放置する事もしなかった。

 

「もう帰っていいよ。君、しばらく休みね」

 

「……え゙っ」

 

耳に入った言葉が危うく反対側から零れ落ちそうになるのを免れ、一呼吸使って意味を理解する。

顔を引き攣らせる少女の様子を見ても、店主は粛々と続けた。

 

「うちも、道楽ってワケじゃないからさ……調子治したら、またその時に、ね」

 

「ま、待ってくれ……く、下さいっ。ボ、ボクぁ……」

 

悲壮な声音で言い募られても、毅然と手のひらを突きつけて店主は首を振るだけだ。ヘスティアは、全てを受け入れるしかなかった。

近ごろ、小さな屋台の小さな名物娘としてひっそりと好評を博しつつあった売り子は、かくの如くして職を失くしたのである。

 

 

 

--

 

 

暮れなずむ夕日は街を照らすとともに、揺蕩うように道路を歩くなにか見窄らしい、小さな人影をもミアハの目に映し出す。まるで行き交う人の間をすり抜ける枯れ葉のようにしなびた、小さな姿を……。

恐る恐る近づいて、声を掛ける。誰もがそれを見てあからさまに避けて通っていく知己の顔とは、この世の終わりを明日と知らされた神官であっても、ここまでしょぼくれはしないだろう。

 

「なんという顔を、ヘスティア……いったい」

 

「ふぁぁ……」

 

眉から目から口から、何もかもが重力に引かれて垂れ落ちそうに傾く表情。黄昏時、街灯の作動する直前のいま、殊更に彼女の心を満たす悲愴さを際立たせる陰が顕になる。

休職を言い渡されて数時間、茫然自失のまま街中をさまよい歩き続けていた少女は、ついに出会った顔見知りを前にして、凍りついていた感情の波を決壊させた。

 

「うぉおお、うおおおぉおん!ううっ、うぐぐっ、うわああっ、ああああっ、ゔぐぐぐぐっ、ええええええっ」

 

「ど、ど、どうした!何があったんだ!?」

 

いきなり跪き、天を仰いで号泣する女神の姿は衆目の更なる好奇とドン引きの視線を呼んだ。眼前で、一番の驚愕を覚える優男もろとも。

 

「うあ゙ああああっ、ああああああっ、ぐっ、うぶぶっ、うおおおおん、おおおおおん!」

 

「ちょっ、いやっ、落ち着け、落ち着けヘスティア!……と、とにかく、ここじゃ埒が明かないな」

 

しゃくり上げ、堪えるのを抑えきれずに吐き出される嗚咽とは違う。全力のマジ泣きが街道に轟き渡る。その中心に、くしゃくしゃに顔を歪めた美少女の前に立つ男。

ミアハにとっては、断じて望まぬ風評を生み出させかねない状況が形成されつつあった。というか、事実野次馬にとってはそういう認識だった。あんな可愛い娘を弄んだわけだ、イケメン死ねと。

ミアハは両手の荷物を無理やり片手で握り、もう片方の腕に涙と涎と鼻水でぐっちょぐちょの顔を晒すヘスティアを抱える。その後の彼が払った労苦とは、凡百の冒険者が日々課せられる代物と等しかったと、主観的な感覚を比較出来れば断言出来ただろう。

ぽつ、ぽつ、と魔石灯が光り始めるメインストリートを疾走する一柱の男神は、恐るべき苦行に端正な顔を真っ赤に染めて喘ぐ様を、決して泣き止むことの無い付属物の姿とともに人々の記憶に強く刻まれた。

 

 

 

--

 

 

「はあ、つまり……ベルに対して、申し訳が立たないと」

 

「うぇええええええ」

 

ホームへと連れ帰ろうにも、大事な眷属に任せている商売の邪魔になること夥しいだろうと思ったミアハは、とりあえず適当な酒場に駆け込んだ。

 

「どころか、ろくに話をする事すら覚束ない。夜中に出掛けるようになった理由もわからない……」

 

「うぇええええええ、えっ、えっえっ」

 

いま片手に握ったグラスをテーブルに叩きつけている少女からの聴取は、至難を極めた。何か口に入れさせれば気分も落ち着くかとの策は実らず、結局、手足をじたばたさせてびゃーびゃー騒ぐ酔っ払いの言葉を地道に復号化させるしかなかった。

飲ますんじゃなかった、とミアハは心底思ったが、そんな後悔も、一頻り泣き喚いてから肩を震わせる姿を見ている内に薄れていく。

落ち着いてくれば、この案件についての本質的な問題へと思いを馳せる。

 

「うっ、うっ、うっ、うっ」

 

(ベルよ、お前は……)

 

哀れにもすれ違うだけの主従、この悲劇の発端を知る者として幾許かの責任を感じるミアハだった。あの時渡した魔法薬が無くば、別の未来があったのだろうか?と。同時に、そのふたりに対して自分が出来うる助力の小ささも。

そうわかっていても口を開く。

 

「このまま、ただ待つつもりなのか?」

 

「うぶぶ……うううぐぐぐううう~~~~っ……」

 

横顔を卓上に押し付けて呻く女神の返答は期待出来そうもないとミアハは知る。

言いながら、ふと思うのだ。

もし、自分が同じような状況に陥った時、どうするだろうか?いや、今まさに注いでいる愛情、信頼が、あの『子供』にとっての枷になっているのだとしたら、それが彼女自身にとって重荷となっているのだとしたら。

可愛い『子供』の為に、何が出来るだろうか。

気にするな、の一言で、人間は救われるのだろうか。

 

(なぜ話してくれない、などと、言えればそのような労苦などはじめからあるまいに……しかし)

 

「問えぬほどに、耐え切れないほどに苦しいというのならば、……みずから動いて、その心を探るしかないかも、な」

 

「…………」

 

意図せずに、口をついて出る言葉。待つことができないのも、問うことができないのも、相手を信用していないだけに過ぎないのではないか、という自嘲を抱きつつ、きっと自分はそうするだろうという結論だった。

喧騒の絶えない安酒場は、偉大なる天上の住民がつくる沈黙など目もくれない優しさも同時にあった。万余の人と神の溢れる地で、腐るほどに存在する光景だったのだ。

無力である事にのたうつ者の姿とは。

 

「…………そうだよ」

 

「ん?」

 

「そうだっ!!!!」

 

「うおっ!?」

 

相対する者ですら聞き取れない微かな声を出したヘスティアは、すぐに立ち上がって叫んだ。その剣幕で椅子ごと一歩分後ずさる音が、ついでに上がった。

酒気で濁りきった瞳に、歪な光が宿るのをミアハは見た。

 

「そうだっ!!!!こっそり!!!!こっそりついて行けばいいんじゃないかっ!!!!どーせクビになったんだ、夜寝て朝起きる必要なんか、ぁあったく!!ありゃしないじゃないかああああ!!!!ベル君、今行くぞおオオオオ!!!!」

 

「待て!待て!待て!」

 

キレた女神の蛮行を止めようと、非力な薬屋は追いすがる。口の端に泡を作って酒場の出口に向かおうとするヘスティアの表情は、自分を苛むあらゆる問題の最終的な解決方法へと思い至った人間が浮かべるものとよく似ていた。アッパラパーだった。

 

「神は迷宮へはついて行けないのだぞ、そもそも、怪物一匹すら倒す事も出来ない身体で……」

 

「うるっさああああい!!!!今のボクはあ、ああああ、むっ、むっ無職なんだ!!!!そう無職!!!!つまり無敵だ!!!!失うモノなど無いから無敵なんだ!!!!残ってるのはあの子への想い……愛!!!!それだけだ、だから無敵なんだ!!!!誰にも止められはしないんだああああああ!!!!」

 

「わかった、わかったから待て、今日はやめろ!明日にしろ……もうベルだってとっくに迷宮の中だろう、今追っていったって」

 

「ああああああああ!!!!離せええエエエ!!!!何が待つだ、いつまで待つんだっ!!!!フレイヤのヤツにしろそんな変な事言うから、何していいのかわかんなくなっちゃうんじゃないかあああああ!!!!」

 

「なんだあ、痴話喧嘩か?」「オイ神様がた、出るならいいけどお代は頼むよ」

 

タガが外れて八つ当たり気味な激情すらぶち撒けるヘスティア。そーだ、思えば、あの時アレコレと吹き込まれたせいで、問題がごっちゃになってしまったのだ、と。あの子に酷い事をしてしまったのは、今あの子が何か、これまでと違う探索形態をとっている事を窺い知れないのと切り分けて考えるべきなんだ、と。

確かにその結論は明らかに正当なものだったが、何しろ目を血走らせ唾きを散らす怒号で以て宣言する姿に、神としての聡明さを見出せる者はこの場に居なかった。

悪酔いした客へ向けられるのは、珍しくもない光景に対する微笑ましげな視線だけだった。

小さな身体に似つかわしくない怪力を発揮した少女が疲れて眠るまで、ミアハの災難は続いた。

 

(というか、クビになった事は話さなくていいのか?)

 

 

 

--

 

 

「なるほど、楽しく騒いで、きちんと家まで送り届けたんですかあ……、律儀なことで……」

 

「……ああ、そうだ。そうとも……本当に今日はすまなかっ、……た……」

 

ミアハが自分の帰りを待つ者のもとへと辿り着く頃、彼は言い訳の一つも出来ないくらい困憊し果てていた。機嫌を損ねる眷属に全てを自供しソファに座ると、すぐに夢の世界が彼の意識へと迫る。高級とは言えない座り心地でも、投げ出された身体が沼の底へと落ちていくような錯覚を呼び起こしていた。ヘスティアに対して軽率な行いは避けるよう極めて強く念押ししており、その労力も並ではなかった。

それでも、眠気に因るものではないだろう垂れ目の中に光る、鋭い眼光を受けながら口を開くのだ。

 

「ナァーザ……」

 

「……何です」

 

外した義手に視線を落とすと、長耳も垂れて落ちる。就寝前の習慣になっている点検も忘れて主の帰りを待ち焦がれていた眷属の心すべてまで、ミアハは見通しているわけではない。

ない、が……。

 

「……もし、……私も、かれらのような、苦しみを……、お前に、負わせているの、な、ら……」

 

夜更けもいいところで、酒も少々入り、おまけに大暴れするじゃじゃ馬を必死でなだめすかした疲労のせいで、もはや彼が覚醒を保つのは限界だった。

互いを思うゆえに迷妄の虜囚と成り果てる主従の姿へ、確かに自分自身とその『子供』の影を重ねていた神は、全てを口で紡げず瞼を閉じる。

言葉を途切れさせた主が静かな寝息を立てるのを聞き届けて、暫し。

 

「……ミアハ様?」

 

呼び声は、返らない。

中身の無い右袖を揺らし、ナァーザは毛布を優男の身体に被せた。左手だけで器用に寝床を整えると、それを見下ろす深紫色の双眸に多くの感情が渦巻いた。

 

「…………」

 

全てを話せば、それは何かの救いになるのだろうか。

自分とほんの少しだけ、境遇を似通わせている真紅の瞳の少年を思う。お得意様というほどの客ではない、顔馴染み、か、そうでないかも、怪しい……。

しかし、彼が見た目通りの純朴さに満ち溢れた人間であることを、この街においても一、二を争うほどに知っているのがナァーザだった。

だから、彼の近況を聞くにつけ、心のなかがざわめくのだろうか。

 

「………………」

 

途切れた右肩を、服の上から掴む。

主の、穏やかな寝顔を見つめる。

冷たいものと、暖かいものが胸の奥から湧き出した。それこそ、目の前の存在に与えられた枷なのだと彼女は知っていた。

決して背く事の出来ない使命感は、しょせん自分を縛り付ける罪悪感を裏側から眺めたものに過ぎないのではないか、と自嘲する。

今は存在しない右腕のむず痒さに、頬を軽く掻いた。消失した腕部の感覚が蘇る。

 

「……でも……私は、あなたみたいな馬鹿じゃ、ない……ベル……」

 

誰に聞かせようというものではない呟きは、貧乏くさい薬屋の居住スペースの中ですら響かずに、消えた。

梟が何処かで鳴いていた。

 

 

 

--

 

 

その日の探索は終わろうとしていた。

 

「……」

 

行き先に向く短刀の刃が零下の細氷を想起させる冷たさを放つように見えただろう、そこに何者かの目があれば。

それはきっと、携えている人間の纏う緊張感が生む幻覚なのだ。

 

「……」

 

容量の半分も満たしていない背嚢に音を立てさせず、駆け出し冒険者は歩く。鎧の上から加えられた幾多の傷の鈍痛も逆に、強張る表情を更に凍りつかせ、全身の五感を研ぎ澄ます助けとなっている。

正中線を揺らさず、下半身を何時でも跳ねさせられるよう低く保っているのは、彼が誰から学んだものでもない、意図せず身につけつつある戦士の性だった。

ただ漫然と散策し、会敵してはじめて武器を構えるような迂闊さは、帰還の途にさえある今でもベルは見せないのだ。

己は一人だとただ言い聞かせ戦う。

迷宮の敵と戦う。

自分を支配するものと戦う。

僅かな緩みが、一瞬で肉体と精神を蹂躙するのだと常に自覚せねばならないのだ。

……たとえその背を守る者が居るのだとしても。いや、居るからこそ……。

 

(……アルゴス)

 

今日もまた、助けられつつの探索だった。隙あらば支配権を握ろうとする冷たく凍てつき、それでいて焼き尽くそうと燃え盛る二つの衝動は、何度も少年の身体を絡めとる。

その度、あの青い瞳の持ち主は全ての脅威を取り除き、じい、とこちらを見つめるのだった。

多くを語らぬまま。多くを問わぬまま。

来る時も、帰る時も……。

 

(もう、帰ったのかな)

 

亀の歩みが差し掛かっているのは、第二階層である。ベルは、ひとりきりだった。

歪な巨躯は決まって、帰る頃合いと見るとそれを告げてすぐに姿を消し、気配すら感じ取れなくなるのだ。彼の俊足は既に、夜の街へと消えていったのだろうか。

同じフロアの何処とも知れぬ場所からか一瞬で協力者の危機に現れる姿も、ベルが見込んだ彼と己の隔絶する能力差の一つだ。詳しくは聞いてないものの、或いは彼の体得している異能の生むものかもしれない。それが、彼を今日まで生き延びさせた力なのかも知れぬとも思う。

どうあれ外套に覆われた怪しい影にとっての、レベル1の冒険者と道中を共にする理由を、少年は思いつかない。怪物の跋扈する窖でならともかく、だ。

そう、いかに無法者の隠れ住まうとはいえ曲がりなりにも秩序というものが存在する路地裏の暗がりと違い、誰もその底を知れない迷宮は、後ろ暗い事情を抱いた冒険者の存在など幾らでも等しく、贄として受け入れているのだから。

そんな連中はベルの元にいきなり現れたのだ。

唐突に近づいてくる激しい足音に気付き、反射的に振り向く。

 

「!?」

 

「あっ!?」

 

通路の角から飛び出した、くすんだクリーム色の塊が、すわ会敵かと短刀を構える少年を見て動きを止めた。フードの下にある双眸は此処に在らざるべき存在を理解し、驚愕に見開かれる。

かたや赤い瞳は、下からぶつけられる視線に明らかな理性の光を見出す。

怪物、ではない。

同業者だ。

硬直してから数瞬、ベルがそう思い至った刹那、目の前の某は後ろから蹴り倒され、這いつくばった。

 

「この、糞アマ!!」

 

「あぅ!!」

 

「なっ」

 

うつ伏せになった小さな身体を踏み付ける男は、見下ろす眼差しに浮かぶ深い憎悪と侮蔑を隠そうともしなかった。ベルよりもずっと背丈の高い、がっしりした体格の冒険者だ。背負う鞘の大きさが、その実力を誇示しているようでもあった。

彼の心情について、芥ほどもの理解を持たないベルは、突如そこに出現した修羅場を唖然として見つめる事しか出来ない。いつ降りかかるとも知れぬ襲撃への警戒も、頭の片隅へと追いやられてしまう光景がそこにあった。

男が、フードもろとも栗色の髪を掴んで、少女の顔面を地に叩きつけた。

 

「ぐブ……っ!」

 

「ええっ、一杯食わせてくれたな!すぐ楽にさせてくれるなんて、思っちゃいねえよなあ!?この阿婆擦れがっ!!」

 

「ちょっと……!」

 

真っ赤な顔色は口から吐かれる罵声とともに、男の怒りを雄弁に物語る。それほどの理由は、確かにあるのだろう。ベルは、自分が部外者だとわかっていた。

わかっていても、繰り返される硬い音に嫌な水音が混じり始めるのまで聞き及べば……いや、そうでなくとも、こんな小さな女の子が、これほどの激情をぶつけられるのを前にすれば、ベルは自分を止められない。……倒すべき敵を相手にはどこまでも残虐になれる凶暴性を隠し持つ少年は、幼い頃から育まれた確かな道徳も同時に備えていたのだ。純粋な、人としての倫理かどうかは(彼の祖父の性格からして)ともかく。

自分に向けられているものではないと知っていても僅かに怯む程の怒声の元に対し、ベルは意を決して話しかける。

 

「待って……下さい!何か知りませんけど、そこまで酷い事を……!」

 

「んだあ、テメエ」

 

荒い鼻息が顔を上げたほうへ向けられる。沸騰した思考は、人道に基づいた制止の声への明らかな反感を抱いた。男が目の前の『子供』に敵意を向けるのに、あと一押しのところまで来ていた。

それほどに男は、組み伏せる少女への怒りを滾らせていたのだ。

 

「こいつの仲間か、ああ!?」

 

その威圧的な質問は、戦意を緩めずに帰路を歩いていた少年の心を確かに逆撫でした。人の間の諍いとはかくして起こるのだという典型が、そこに現れる。

歯茎を剥き出しにした怒りの表情を前にして、ベルは自然と胸を張って目つきを険しくする。

 

「知りません」

 

「じゃあ口出すな、とっとと消えろ!!」

 

「その娘が何をしたのか、こんな仕打ちを受けるほどなのか教えてくれたら、そうします」

 

「ああそうかい!こいつはなあ――――っ!?」

 

張り詰める空気を割ったのは、足蹴にしている力が緩むのを知った少女だ。声を出さずに、ただ息を呑んで身体を跳ねさせる。その勢いは確かに一瞬だけ、この危機的状況から脱する光明を掴ませようとした、が……。

 

「クソがあっ!!」

 

「ぐッえ!!」

 

靴裏から逃れようとする獲物に加えられる一撃は、いよいよもって殺意の片鱗を見る者に感じさせた。

カエルのような声が、首の付根を踏まれた少女の口から出る。

それを見下ろす男の目に生まれた残忍な光は、遂に背より抜き去った長剣の煌めきよりも情けが薄かった。

 

「こいつでも喰らわなきゃわかんねえみてえだな、オイ!」

 

言うが早いか、切っ先が振り下ろされる。まこと唐突な凶行は、見開かれたベルの目に一瞬一瞬、焼き付けられるようにゆっくりと映しだされていた。

刃が、真っ直ぐに、少女の背へと向かう……。

 

「……!」

 

顔。少女の顔が、持ち上げられていた。鼻血を流し、土で汚れた顔に、凍てついた表情が貼り付いていた。

恐怖があった。

諦観があった。

そして――――懇願が、あった。

胡桃色の瞳の奥にあるものを、確かに少年は、理解したのだ。

どうして理解出来たのかまでは、わからなかったけれども。

 

「――――!」「ッ……て!?」

 

反射的な行動だった。一瞬で詰め寄ったベルは左手で男の利き手を掴み、短刀を顎下へと突きつける。

誰も知らぬ内に、少年の真紅の瞳は、理性を持つ獣のそれに変貌していた。

 

「め、え……!?」

 

男は、目の前の存在もまた、仇成す者であるという認識の確信を得る。それは、燃え上がる激情に焚べられる薪となって握り手を震わせた。

然るべき誅罰を下す正当性を汚された彼の怒りは、その根源を詳らかに聞かせられた万人も賛同するところだったに違いない。

しかし不幸なことにこの場に居るのは、自分の利の為ならどんな手を使うのも厭わない狡猾な罪人と、そして、いま男を支配する感情などたやすく呑み込む程の、底知れぬ混沌を抱える者の二人だけだったのだ。

 

「……!!」

 

――――真っ赤な眼光は、立ちはだかる意思すべてを完全に無視する溶岩の奔流のようだった。

のぼせ上がった思考が一気に冷えていくのを、男は理解した。

 

「こ、この……」

 

「……」

 

ベルは、自分が男に恐怖を与える存在と化している事に疑いを持たなかった。

支配し蹂躙するのが自分であり、その生命を自由にする権利を持つ事の確信すら抱いていた。

 

(……そうだ)

 

短刀を握る力が増す。

 

(……邪魔だ)

 

視界が赤く滲む。

何かが燃え、何かが飛び散る。

叫び声。怯える瞳。背を向けて逃げ出す影。

 

(邪魔だ)

 

「ッで、……!!」

 

男は、潰されそうなほどに締め上げられる利き手の痛みで声を上げた。

 

(こいつは)

 

幻影が重なる。黒い影、……敵、では、ない。

敵ですら、ないのだ。

短刀を首に当てる。

 

「ま、待て」

 

正しく、目の前の男とは、ベルにとって、真に無価値で、省みる必要など全く無い――――

 

(これ、は――――)

 

 

 

『来るな、あっちへ行け!』

 

『ぎゃあああっ!』

 

『もうおしまいだ……!』

 

 

 

(――――ただの、――――人間、だ……!)

 

何かが、目覚めようと首をもたげた。

弱く、脆く、優しい少年が、情け容赦無い、心を凍てつかせた戦士へと変貌していく。

……祖父に聞かせられた物語の中の、憧れてやまなかった、怪物を斃す勇者とは違う。

容赦なく人を屠る、狂乱の征服者が姿を顕す。

なぜ、男に食って掛かったのか、その最初の理由はもはや塵となって消え失せていた。

ベルの頭には、故こそ知らぬも理不尽としか思えない仕打ちを受ける少女の存在は無く、ただ目の前に立つ男への苛立ちだけが残っていた。

 

「よ、よせっ!!」

 

震える首筋の汗は刀身へと流れ落ちる。

男は、己に向けられる確かな殺意を感じ取っていた。

いや、その本質は、殺意と呼べるほどに情の満ちたものなどでは、なかったのだ。

真紅の瞳は、どこまでも冷えきった輝きの奥で、その理屈をぎらつかせる。

死すべき定めを負う者すべてを絶望させる、酷薄極まる律――――即ち。

 

 

今握る刃の一振りで断ち切れるか細い命脈。それは路傍の草花や虫けらのそれと、どれほどの違いがあるのか、という。

 

 

「や、止め――――え!?」

 

 

無意味と知りつつも男は命乞いしようとして、そのまま開け放った口を停止させる。

大きな何かが、再びこの空気を揺らしたのだ。

男の目は処刑人の後ろにあるものを捉え、更に大きく見開かれた。

 

 

「――――は!?」

 

 

ベルは、突如として背後に現れた圧倒的な存在感を理解し、振り向いた。

 

「……!」

 

音も無く馳せ参じていたアルゴスは何も言わずに、三つの影を見下ろしていた。

短刀を向けられた眼光が、真っ直ぐに少年の全身を射抜く。青色のさざなみが、一息で心を浚っていった。

自分は今、何をしようとしたのか。

何を考えていたのか。

……何者だった、のか?

疑問が頭の中を満たす。

 

「あっ、がっ、あっ、う、わ……!!」

 

茫然自失となるベルの頭の後ろで呂律を絡ませる男が、遂にその言葉を発した。

 

 

 

「ッ――――ばっ、化け物おっ!!」

 

 

 

「ッ……!!」

 

また首を戻したベルの目に、身体の自由を得て一目散に駆け出そうとする男の姿があった。

男の言葉とは間違いなく、自分の生命を刈り取ろうとした者に対してではなく、突如その場に現れた異形の存在を形容するものに他ならなかった。浅層に巣食う連中と全く違う風体は曲がりなりにも冒険者として身を立てる男にとって、既に恐怖の鎖で締められつつあった心で対抗するのに無理のある衝撃を与えて余りあった。

だが、どうしてその事をベルが理解できただろう。

 

「う、ひっ、いいい……っ!」

 

恐怖に震える高い声とともに、男の足元にあった小さな影もまた、遠くへ去った。

迷宮の仄暗い陰へと消えていく者達の背を、ただ立ち尽くして見やる。

ベルが思い出すのは、あの夢の光景……その、小さな破片達。

恐ろしい、あの夢の中の自分。

ただ、荒れ狂う衝動に身を任せ突き進み、立ち塞がる全てを切り伏せ、焼き払い、大地を赤く染め上げ、それでも渇き、渇き……なお尽きない衝動に全てを委ねる自分。

その先には、目を見開いててのひらをこちらに向け、どんな言葉よりもまさる感情のほどを表現する、無数の人間たちの姿。

 

 

 

『うわああーっ!』

 

『な、何をするんだ……!?やめてくれ!』

 

『皆、あいつに……!』

 

 

 

激しい拒絶だけが、己の所業の結果を表していた。

 

(僕は、……)

 

いつの間にか、自分の腕が震えているのに気がついた。

俯き、視線を落とす。

腕。

その手に、握るもの。

揺れて、血のしずくが滴る刃。

ベルは、悟る。自分がしようとした事を。

 

(人を、殺そうと、したのか)

 

自分が、何を思っていたのかも。

 

(……それを、なんとも思ってなかった)

 

それは至極当たり前の、――――呼吸をするような――――日常の行為のひとつとして、間違いなくつい先程のベルは感じていた。

敵も味方も、無い。

邪魔だからという理由で、

取り除くという目的の為に、

目障りだと思う傲慢のまま、

殺す。

 

(ぼ、く、は……)

 

急な怖気が全身に走る。震えが止まらなかった。

冷たい。心臓から氷河が噴き出し、脊柱を走って五体を凍てつかせていくようだ。

やがて短刀を握る手まで達すると、中指に嵌められた枷が一際低い温度の鼓動を生む。

 

(人を、人を……人、を…………)

 

 

 

『人殺し』

 

『人殺し……』

 

『人殺し……!』

 

 

 

何処からか聞こえる。自分のすべてを言い表す言葉が。

黒く赤く濁った悪夢のなかで、無数の雑音に混じりその声は――――いつだって、常にベルの耳に届いていた。

枯れ果てぬ血の河を生む殺戮の演舞場で、天をつく屍の山を踏みしだく者――――怪物へ与えられる、最も相応しい称号。

 

「ベルッ!」

 

 

 

『人殺し!!』

 

 

 

大きな濁声で、顔を上げる。取り巻く全てが、夢うつつの少年を恐慌状態へと陥れた。

 

「ッ……は、あ、うああああああああっ!」

 

「!」

 

瞳孔を広げて、武器を振り回す。それは冒険者の姿でも戦士の技でもなく、ただ得体の知れない恐ろしい何かと出くわした子供の有り様そのものだ。少年を恐怖の坩堝へと追い込んだ張本人たる巨大な影にとってみれば、座して受けるのを待たねばならないほどに稚拙な動きと言えただろう。

だが、アルゴスは、避けなかった。その小さな刃の軌道の先に、ただ大きな左腕を翳したのだ。

 

「あ、あ――――!?」

 

ガネーシャ・ファミリアによる補償として与えられた業物はその切れ味をロクに発揮する事なく、色素の薄い肌に突き刺さる。

硬い、しかし確かに水気を含んだ、肉の感触。

視界を塞ぐように突き出された手のひらを前に、ベルは得物を引き抜く力も出せずに戦慄く。

 

「あ、あああ、……」

 

口を半開きにした表情は、贔屓目に見ても錯乱の極致と言えた。

だが、動きを止めた今こそ、彼の脳は外部の情報を受け入れる僅かな余裕を得ていた。

 

「ベル」

 

腕の根元から、双眸が覗いた。歪で不揃いな、けれども、どこまでも澄んだ、穏やかな青色の……。

 

「あ、あ、ル、ゴ、ス……?」

 

「……」

 

ようやく、ベルは我に返る事が出来た。真紅の瞳を揺らす波紋は、小さな身体を震わせる恐怖とともに消えていく。指輪によって凍り付いた右手が、融けるように握力を失う。

自分の手のひらに突き立てられた短刀から持ち主が手を放すに至って、アルゴスはのっそりと、脱ぎ捨てた外套を再び羽織った。

覆い隠された異形の顔は、いかなる感情を抱いているのかベルには図りかねる。

わかるのは、またしても訳の分からない衝動の台頭を許した自分への、後悔と、無力感、怒り――――そして。

 

(なんだ、それ)

 

立ち尽くしたまま、愕然とするベル。

 

(自分の事、だけなのか、僕は……)

 

縋り付いて、凭れ掛かって、助けられた所で乱心し刃まで向けて、まずは自分可愛さという自分自身の卑しき性情に絶望する。憎むべき弱さは、ほんの少しの隙間から滲み出るのだと理解せねばならなかった。

 

「アルゴス、僕は」

 

「ほら゙」

 

決死の発言を遮って、ベルの眼前に、短刀の柄が突っ返される。

刀身を摘む大きな指に目を奪われ、次いで、垂れ落ちる血の色を見た。

 

「……大した傷じゃねえ゙。気にすんな゙」

 

「っ……、僕は……」

 

謝罪も弁解も受け付けぬ冷淡さなのか、それとも、何も問わない優しさなのだろうか。

背を向けて去ろうとするアルゴスの姿にどうしようもない不安を呼び起こされたベルは、自然とその問いを投げかけた。

突拍子の無い疑問。それでも、口にせずにはいられなかった……。

 

「僕は、人間、なのかな……?」

 

「あ゙……?」

 

つぶやかれる言葉で、アルゴスは動きを止めた。

意味を理解しようとしているのか沈黙する異形を置いて、もう一度、ベルは口を開く。

 

「それとも、本当は、……怪物、なのかな……」

 

「…………」

 

ずっと、頭の片隅に存在した疑問だった。脱走した大猿との戦いの後、目覚めたあの時。

何よりも大切な存在の激しく悲しむ姿を見たあの時から。

自分は、"マトモ"な人間なのだろうか。

何もかもを忘れ、ただ目の前の敵を滅ぼす事だけに全てを注ぐ自分。

それを成さしめるものの源泉……万余の言葉でも表すことの出来ない、無限の憤怒がたしかに存在した。人間性のすべてを燃やし尽くす業火のような激情。それは果たして、およそただの人間が抱きうるほどの代物であっただろうか。

ひょっとしたら、という考えに行き着くのは、必然だったのだ。

ここに居る自分とは、人間ではない何かが、ベル・クラネルという人間の皮を被って、成りすましているのではないだろうか?と。

そして自分はその事に気付かないまま、必死で人間の真似事をしているのではないだろうか?

あの恐ろしい夢の正体は、自分のふりをした、本当の自分の持つ本性……或いは、……

 

(ほんとうにあった、過去の出来事……本当の僕の、記憶……)

 

「……おでは」

 

頭の中で果てしなく荘厳な妄想が膨らむのを、アルゴスの声が止めた。

はっとして、厚い布に隠れた横顔を見るベル。

片方だけ向けられる青い光は、相変わらず平らかなまま、こちらに向けられていた。

少年の抱えるものの全てを計り知る事など、誰にも出来なかった。自分の居場所を求め、世界中彷徨い歩き続けてきた男であっても。

だから、ただアルゴスは、自分の持つ知識の範疇だけを以て、その答えを導き出すだけだったのだろう。

 

 

 

「…………そんな゙、悲゙しそうな顔をする、怪物な゙んて……見たごと無゙えや……」

 

 

 

 

 

--

 

 

ベルが寂れた神殿の前に辿り着いた頃、もう東の空が赤くなりはじめていた。

ぼんやりとした頭は、ぼんやりとした視界から、いかなる情報も受け付けていなかった。何度も繰り返される疑問と、与えられた言葉だけが巡っていた。

 

(悲しい、か)

 

それの尽きた時が本物の怪物になる時だというのなら、この扉の先で待っている存在こそが、ベルの人間性を繋ぐ最後の枷なのに違いない。

だが拳の中の冷たい感触は、猛ろうとする戦士の魂を幾度となく縛り付けるものでもあった。彼自身の罪深さを知らしめるように。

思い出すだけで心が千切れ飛びそうになる、小さな主の悲しみに満ちた顔。会話すらも覚束ない、バラバラになりそうなファミリア。

すべては自分の弱さが招いた事だった。

すべてを贖う事が出来た時、自分はどうなるのだろうか。

誰に恥じることも無く、誰に侮られることも無く、誰に負けることも無い、最強の戦士になった時。

闇に包まれた未来に、未だベルは光明を見出せなかった。堂々巡りになる思考を打ち切るようにかぶりを振って、壊れた扉の間に入り込む。

荒れ果てた内装が、彼の心を描写したように寂しく広がる。

待つ者のもとへ帰る為、身体を休めて、再び戦いの場へと発つ為に、足を動かす。

どうあれ、今はただ、のしかかる悲しみと苦しみに耐えるしかないのだと、ベルは思っていた。

 

(強くなくちゃ、何も、取り返せないんだ……)

 

それが何よりも正しい理なのだと、信じていたから。

 

小さな部屋に帰ってきたベルは、未だ眠りの中にある主を起こすまいと、静かに床に就いた。

夢を見るのも出来ないくらい疲れ果てるまで戦えたらどれほど楽だろうか、などと思いながら……。

 

 

--

 

 

その日の夢は、ベルを苦しめるいつもの悪夢と少し違っていた。

 

 

 

男が言う。

 

『来るな!お前の助けなどいらん!あっちへ行け!』

 

女が言う。

 

『やめて!近寄らないで!』

 

皆の目は、彼に対する恐怖に満ちていた。

 

誰もが、彼を忌み嫌った。

 

誰もが、彼を同じ人間とは見なかった。

 

彼が、人間の生命を奪う事をなんとも思わない、人間の心を捨てた者だったからだ。

 

どんなに強くなろうとも、どんな困難を乗り越えようとも、それは覆せない事実だった。

 

怪物と呼ばれる彼の心が癒される事は、決して無かった。

 

膨れ上がる狂気から解放される事は、決して無かった。

 

ただ――――広大な潮騒の最中に揺られている時だけは、荒れ果てた心が慰められるように、思い込むことが出来た。

 

海は何も言わないから。

 

海はただ大きく、彼を見つめるだけだったから。

 

『――――』

 

激しい戦いを終えた彼は、傍に寝る女の体よりも、寝床の隣に置かれるワインよりも、船にぶつかる波の音だけに意識をゆだねる。

 

不意に思い起こされる幾つもの記憶。泡のように浮かぶそれらはしかし、次々に飛沫と消え、押し流されていく。

 

無数に切り替わる夢の光景を眺めるベルは、ただまどろみの中に揺蕩っていた。

 

彼が生まれる前からずっと続いていたさざなみの声は、いまと遥かな過去の狭間にあって、何を伝える事もせずに唄い続けていた――――。

 

 

 

--

 

 

 

目を覚ましたベルは、奇妙な心境を持て余した。恐ろしいような、寂しいような、……懐かしいような、安らぐような、そんな気分だった。

ソファのうえで寝ぼけ眼のまま佇む時間は、短かった。

 

「おはよう、ベル君」

 

寝起きで霞がかった思考は、一瞬で明瞭さを取り戻す。首を向けた先に優しく微笑む主の顔があった。

 

「っお……はようございま、す」

 

「うん。ご飯は用意しておいたからね。きちんと食べて、今日も頑張りなよ」

 

違和感を覚えないはずが無かった。昨日までは、こんな簡単な挨拶も緊迫した空気を保って交わされていたのである。引き攣った顔をにこやかにしようと一所懸命になる主の顔は、ただ眷属の罪悪感を膨らませ、よそよそしい態度を互いに誤魔化し合う猿芝居を生むだけだったのに。

安らぎの場所を欺瞞の坩堝に仕立て上げた者の罪など、まるではじめから無かったかのような朗らかさを纏う女神の姿がいま確かに存在していた。

 

「神様」

 

「うん?」

 

食事を終えて、卓を挟んで座っている主に声を掛ける。

だが、僅かな翳りも見出だせない、かつてベルの孤独を忘れさせてくれていた柔らかい笑顔は、そこにあるだけで続こうとする口上を遮る力を持っていた。

彼女がどんな悟りを得て、こうも優しくなれるのかは検討もつかない。けれども……。

 

――――こんなにも情深い神に比べて、お前はどうだ?

 

罪悪感が生む自責の念が蠢く。

 

「……、なんでもないです……」

 

「なんだい、変なの」

 

ケラケラと笑う主を見ているだけで、胸が締め付けられる。

全てをぶちまけてしまいたかった。苦しい。怖い。悲しい。恥ずかしい。千の言葉で、自分の思いを伝えたい。

泣き喚いて許しを請えればどれほど楽だろう。

……それが拒絶されれば、ベルはもう、何処にも帰ることが出来なくなってしまうのだ。

自分のつくる鎖で身動きの取れずにいる愚か者が、そこに居た。

その背に刻印を与える作業のさなかも、ヘスティアは言葉も手つきも軽やかにしていた。

 

「うん、うん……順調に伸びてるよ。このまま行けば、ヴァレン某だってあっという間さあ」

 

さり気ない励ましも耳に入らないベルは、ひとつの決意を固めつつあった。

早めに出発する理由として、良心を苛むあたたかい空気から逃れたい思いもあったかもしれないが……。

 

「じゃあ、気をつけて、行ってらっしゃい」

 

「はい、神様……いってきます」

 

与えられる気遣いに報いる笑顔を、自分は浮かべる事ができていただろうか?

扉を開きつつ、振り向きざまに挨拶を残して、ベルは夜の街へと繰り出していった。

 

「…………」

 

扉が閉じられた瞬間、ヘスティアは跳ねるように箪笥へ向かい、外出用の服を引っ張りだす。暗色系の、地味な、それでいてあまり高級感の無い装いに着替えるまで数秒。

一息も惜しんで支度を整えた彼女の目的は、たった一つであった。

 

「ふ、ふ、ふ、ふ……そう、無敵、無敵、ボクは無敵……」

 

意味不明な文言がぶつぶつと繰り返される。ぐるぐる回る瞳を見れば、この女神が正気を失っている事を誰しもが理解出来るだろう。しかしここにそれを指摘する者は居ない。

なぜかほっかむりまで着けたその顔に、数瞬前まで浮かべていた安らかな笑みは無く……剣呑な光を宿す青い瞳と吊り上がる口端が、その狂的な風貌を引き立てるのみだった。

みずからの内と外にある要因により追い詰められた者は、この街の律を侵す事への逡巡など抱いていないのである。

恐ろしいスピードの忍び足で以て一切の足音を立てぬまま、ヘスティアは扉を開けてベルの後を追う。

夜風と一つになり雑踏の中に見える白い髪を追う彼女は、すべての問題を一挙に解決する手段をとっている確信を疑わなかった。

 

「そおだ、ボクぁ、君の事が心配なだけなんだよ。悪い奴と何か企んでるのか、悪い奴にいじめられてるのか、悪い、悪い、……悪い、おんな……女、女だって!?」

 

看板の陰に隠れながら際限なく妄想を加速させるヘスティアを見て、夜の街の住民達がぎょっとしながら通り過ぎていく。

彼女の疑問が氷解するのは、もう少し先のことだった。

 

 

--

 

 

眠そうに垂れた瞼のせいで碌な気概など一見感じ取れなかったが、確かに深紫色の眼光はベルに対する無言の非難を主張していたのだ。

此処最近のように、店じまい直前の時刻に駆け込んだわけでもないので、そんな目つきを向けられる謂れなどあるだろうかとベルは思ったが、口を開くナァーザにより己の浅慮を知る。

 

「あなたん所のグダグダは、気の毒に思うし、ヘスティア様の憂さ晴らしに付き合うのも、ミアハ様の勝手なんだろうけどー……さァ」

 

聞き慣れた粘質な喋り方で皮肉られて、ベルはさっと顔を赤らめ……すぐに青くした。頭の中が真っ白になる。なんと返せばいいのかわからなかった。自分の不始末が波及し無関係の者まで迷惑を被る事実に、小さくその身を縮こまらせる以外の反応を引き出せない。

しかし、ナァーザの指摘は止まらなかった。事の本質を引きずり出す躊躇いなど、彼女は持たなかった。

 

「ベルが、何考えていろいろと内緒にしてるかはわからないけど……結局、神様の事を信用してないから喋れないって事なんじゃあないの?……」

 

静かな声が、稲妻に貫かれたような衝撃をもたらす。自覚するのを無意識に避けていた真実の重みは、第三者によって突き付けられてこそ罪人の心を糾弾する槌として姿を変えた。

塗り固めた欺瞞を一撃で崩された時、その人が取れる反応というのは、概して今のベルの姿が答えの一つだ。

黙って俯く客を見て、ナァーザの胸の奥に小さく、針で刺したような痛みが生まれる。

 

「まあ、他人事だから、私も……そう言えるんだけど、ね……」

 

辛辣な物言いの裏にある罪悪感。確かに自分と同じ貌を見出したからこそ、彼女はベルにとって直視したくないであろう内なる矛盾を指摘したのだ、強かに。

誰もが他者の中に己の弱さや醜さを垣間見て、……時によりそれを嫌悪し、侮蔑する。自分を守るため。

そして、そのような浅ましさをすべて受け入れたくないとも思うナァーザの心情もまた、死すべき者の真実の姿の一端と言えた。

 

「今日は、まけてあげる。……またのご来店を、お待ちしています」

 

来訪を迎える時よりも優しげな目つきになる店員ではあったが、今のベルが見つめるのは此処ではない別のものばかりだった。

出掛けに送られた優しい言葉と笑顔。今日になって明らかに変化した態度は、何も語らぬ不忠者に対しても決してその信は揺るがないと言っているのに等しいものだった。

いよいよ情けなくて涙が出そうになる。

それでも、今すぐに引き返してしまいたくなる衝動を抑えてベルは足を動かす。

誰の目と耳からも秘さねばならないという約定を身勝手な感情で投げ捨てるのは、それこそ這い上がれない最低の場所へ落ちゆく選択だと知っているから。

それでも募る焦りは鎮めがたかった。

意識せずにその足取りを早める程度に。

 

「……幸せなんだよ、ベル。君は」

 

暗く細い路地の果てへ消えるベルと、それをこそこそと追う女神の背を見ながら、ナァーザが零した。

それは、紛れも無く、自分自身へと向けた言葉でもあった。

 

 

--

 

 

「はひい、はひ……」

 

入り組む小道は、街明かりや月の光を拒む日陰者達の意思を体現したようだった。足元の視界も覚束ない暗く狭い迷路を、ヘスティアは駆け足で突き進む。肺腑は軋み、足裏はドタドタと絶えず重い音を上げている。

曲りくねって、幾つにも分岐し、わけのわからんガラクタの転がる道を踏み越え、――――行き止まりに、突き当たる。

ほっかむりの下の表情が凍り付いた。

 

「み、み、み、見失ったァァァ!!??ベ、ベル君んんんーーーーっ!!何処だーーーーっ?!」

 

頭を抱えて己が失態を告白する女神の姿があった。はじめて踏み込んだ旧市街の内部は、ただでさえ足腰の出来の違う少年を追いかけるにあたり、元来ウルトラ引き篭もりな気性を持つヘスティアにとってアウェーに過ぎた。

ベルの影が視認出来たのは最初の何秒ほどだっただろう。それを思い返す気力すら削がれそうになる疲労は、見渡す限りの闇とともに彼女を押しつぶそうとする。しかし、それを跳ね除ける力を生む意思は、未だにその瞳に燃え盛っていた。少々、危うい勢いで。

両拳を握り、天を仰いで叫ぶ。

 

「うがあーーーー!!こんな、こんな障害で、ボクの愛が尽きるかあーーーー!!ベル君、こんな所で怪しい連中とつるんでちゃ、ダメなんだぞおおーーーー!!!!」

 

「うるせえぞ!」「また怪物か?」「酔っ払い!」

 

ヘスティアは間違いなくしらふだった。しかし、目はグルグル回っていた。

希望の光は彼女の歩みを止めさせなかったが、アッパラパーにさせる意図まであったかどうかは、定かではなかった。

 

 

--

 

 

全力で迷子になっているヘスティアにも、そして勿論それを知らず一心不乱に走るベルにも気取らせない尾行術をリリは発揮していた。ダイダロス通りに入っても、灰かぶりの仄かな影を胡桃色の瞳は逃さない。

 

「――――!!」

 

「……ご苦労様ですね……」

 

遠くから聞こえる、小さな女神の絶叫に皮肉を返す。そして、ため息をついた。

それは高い壁に阻まれ、誰も居ない闇の中消え……いや、前方を走る少年の背だけが彼女の確かな標として存在していたが、少年の耳には決して届くことは無いだろう。

 

(というか、何をやってんですか、私は)

 

夜の街を歩く、見覚えのある背中。小さな背中。消え入りそうになっていたあの背中を、またしても追っている自分。その行動の根拠がわからないリリ。

レベル1。冒険者になって、まだ一月経つか。仕える神は、恩寵はヘボヘボで、自分からはロクに行動しない穀潰しで、眷属は累計一人きりの、ちびっ子女神。

オラリオ有数の超零細群団たるヘスティア・ファミリアについて調べれば、そんな目を覆いたくなる彼の境遇が続々と明らかになったものだ。

……わざわざそんな事を調べずとも、壮絶な死線にそびえ立つ、血みどろになったあの背中はきっと幻だったのだと、数日前に理解したはずだったのに。

なのに彼は、またリリの前に現れたのだ。

まるで、迫り来る審判の時から逃れるのを阻むように、迷宮の中で立ち塞がったのだ。

面識があると理解していたのはきっと、自分のほうだけだったのだろうけれども。

鼻に貼ったパッチを、なんとなく撫でる。

 

(変な因縁ばっかり、あなたとは……)

 

昨晩、処刑台に掛けられたのに等しい状況だったリリは、自分を足蹴にする男と相対した少年の変貌までは見えなかったし、どうにか悲惨な末路から逃れる事が出来たのも突発的な要因のおかげだと知っていた。見たこともない、思い出すだけで冷や汗をかく風貌の怪物。はたして取り残されたレベル1の冒険者がどうなるかという危惧さえ投げ捨てて、一目散に遁走したリリである。

這々の体で辿り着いた閨で眠り――――目を覚まして気付いた罪悪感に、胸くそが悪くなったものだ。見知らぬ誰かを勝手に助けて、勝手に危機に陥るのは、お人好しの馬鹿が選んだ結果のはずだ。後ろめたさを感じる必要がどこにある、と。

なのに、焦燥が消えなかった。

会える保証などあろうはずもない、あの日と同じように、小さな背中を忘れられぬまま街へ出た彼女は、自分の愚かさを理解するより先に、見つけたのだ。

いま、決して待つことなど出来ない思いを両足に纏わせているであろう、少年の背中を……。

言い表しがたい波打つ心境を抱いたままのリリは、闇の奥へといざなわれていく。どこへと繋がるのか及び知れない無明の小路へ。

 

 

--

 

 

うっすらと薫る苔のにおいは、彼の者と出会った日にはまるで感じ取れなかったと今更ながらベルは思う。

朽ちた旧水道跡に立ち、割れ目から注ぐ月明かりの中を見渡す。

 

「アルゴス?」

 

返事は無かった。まるで生活感の無い石造りの空間で虚ろに消える呼び声に、少しの寒さを感じる。

やはり、既に迷宮へと発っているのだろうか、と思うが、未練はベルの首をしつこく振らせた。

出来ることなら、誰の耳目に触れないだろうこの場所で話したい事だったからだ。今のベルが抱えているものとは……。

 

「アルゴス――――?」

 

青白い帳の届かない、深い廃路の奥に足を踏み出そうとした瞬間、ピンと張った鼓膜が物音を捉えた。微かな、砂が擦れる音。

振り向く。誰何もせずに、闇の中に身じろぎした小さな影をじっと見据えた。怪訝そうな眼差しが少しずつ険を帯び始めるのに、さしたる時間はいらなかった。アルゴスが何故、このような場所で隠れ住まねばならないのか、その理由を知っているから。

ベルが腰に手を回し、鞘に指を触れさせた瞬間――――その影はやっと、みずからの置かれた状況を打開する覚悟を決めたのである。

その、胡桃色の瞳が煌めくのを認めて、ベルは意図せず満ちていた昂揚が霧散するのを理解した。

 

「君は……」

 

細く、己より少しだけ嵩の低い身体。大きな目と鼻に貼ったパッチによって、やや齢は下かとの印象をベルは受ける。月の下に晒された少女の顔は、フードの陰にあってもただ緊張と当惑に強張っているのが明らかだった。弁解の言葉をひり出す為に思考を稼働させるばかりだった少女の頭脳は、表情筋を動かすのを忘れさせていた。

 

「……ええ、その。先日は、どうも」

 

紛れも無く、精一杯の挨拶であった。リリは、自分の会話の切り出し方がひどく稚拙なものだということをすぐに理解し、心中で盛大に舌打ちした。そも、まさか気付かれてしまうとは……と、何かを呼ぶ声に刺激された好奇心を呪う。

が、彼女の後悔も消し飛ぶ反応が、すぐに上がった。

 

「…………あの、誰、だっけ?」

 

「はい?」

 

冷や汗を垂らしながら尋ねるベルは、対面する少女に負けないくらい、間の抜けた面を晒していた。ぽかんと口を開けたふたりが、暫し、時の流れに置き去りにされたままになる。

闇の奥から飛び出して足元を駆け抜けるネズミが、気まずい空気を破った。

大急ぎで少女の後ろへ逃げていく姿が、ベルの中の記憶と朧気に重なる。ひょっとして、と思い至るもいまいち釈然としなかったのは、記憶の中の体格が、目の前のそれと微妙に一致しない事に因った。もう少し、小さく、細かった気がする……。

しかし、真っ直ぐにこちらへ向けられる瞳の色によって、どうしてもベルは自分の中に芽生えた疑念を確かめたくなる。

 

「ひょっとして昨日の」

 

「――――まあ、そういう事です。気難しい御仁と組んだせいで、とんでもない目に遭う所でした。で、今日にきて、あなたを街で見かけまして……お礼の一つでもしようかと」

 

ひどく虐げられていた少女。結局どういう因縁があったのかは聞きそびれてしまったし、あまり愉快でもない記憶ではあったが、それでもどうやら無事に済んだらしいとだけは理解出来たベル。いちいち仔細まで問いただす気も無かった。

実際のところ、ふたりの初邂逅についての認識の齟齬は確かに存在したが、少女――――リリは、いちいちそれを指摘しなかった。まあ、あの時は相当切羽詰まっていたのだし、忘れていたのだとしても致し方無い事だろう、と。さて置き、自分も随分とおかしな事を口走っているものだと思う。考えてみれば、いずれの出会いにおいてもその危機に引きずり込んでくれたのは目の前の少年に他ならないではないか。昨日だって、あの瞬間の再会が無ければきっと大事なく自分は逃げ切れていただろうに、とも。何故だろうか。

 

「お礼なんて、されるような事は……してないよ」

 

謙遜には感じなかった。伏せた目を逸らす顔からは、悔しさと無力感が滲んでいるように思えてならなかった。

それが仄かに、リリを苛立たせる。何故だろうか。

 

「いえ。助かりました。あなたのおかげで」

 

「……そっか。それなら、良かった」

 

翳りを全て打ち払うには至らないものの、少しだけ胸の内が軽くなったようにベルは思った。

断言しながらも自覚できない感情の波を無意識に抑えつつ、あまねく冒険者に警戒心を抱かせないよう訓練された笑顔を浮かべるリリは、そのまま話を続けることを選ぶ。

 

「改めまして、本当に、ありがとうございました。うだつの上がらない、サポーター風情でも……ゴミ拾い、なんて言われたりもしますが、自分の命まで拾うのは、なかなか難しいもので」

 

「うん、わかるよ。一人だと……」

 

形式張って感謝の念を伝えながら戯けてみせる。その軽薄さとも取られかねない態度も、警戒心を薄らがせるのには充分のように見えた。

少し口ごもった隙を突くように、少しの強引さを発揮する事をリリは決めた。純粋に疑問符を浮かべる表情をつくり、会話を続けていく。

 

「いつも、お一人でやってらっしゃるんですか?」

 

「……そうだね、今は一人で」

 

「何かと、苦労なさるでしょうね」

 

ベルの返事の歯切れの悪さとは不慣れな虚言に由来していたが、過日の醜態を知るリリにしてみれば成る程、口が軽くなるような事実ではないだろうとの認識を得るにとどまる。

肉体のみではなく、その精神も容易に蝕む孤独という病。それに耐えられるのは、もはや減らすほどの人間性も残っていない者だけなのだとリリは知っている。

 

「僕みたいな新参じゃ、なかなか相手にしてくれる人も居ないから……仕方ないよ」

 

はじめてこの街にやって来た日……どのファミリアからも門前払いを喰らい、途方に暮れて彷徨う記憶がベルの頭の中によみがえる。

命を賭けた食い扶持の奪い合いの場において、誰だって役立たずなんか欲しくない。温情とは、自分にとって真に大切な存在以外に分け与えても、決して報いが得られるものではないのだから。

 

「けれども、あぶれ者同士、手を取り合う余地も残されていない訳ではないでしょう?」

 

「?」

 

過去へ飛びかける思考が呼び戻された。意味を理解する間も無く、リリの口がまた開く。

 

「私で良ければ、お手伝いさせていただけませんか」

 

「へええっ?」

 

素っ頓狂な声を上げてしまうベル。そこまで驚く事かと思いながら、あまりの反応に素でおかしくなってしまい、リリの口端が緩んだ。

 

「昨日の人とは、もう組めませんし。ゴミ拾い一人じゃ、なんともなりません。助けていただいたついでにもう一つお力添えして貰えたら、嬉しいのですが」

 

そのように宣う彼女自身は、やはり自分にそう言わせる根拠を掴みあぐねていた。もっと、マトモな金づるを探すべきではないのか。いかにも唐突で、不自然な提案ではないか。迂闊だ。いつもの警戒心はどうした。笑顔の裏の自問自答は、決して目の前の人間には悟らせなかった。

リリの葛藤など露知らずに、ベルは眉間に皺を刻んで考え込む。

 

「う、……」

 

本音を言えば、彼の心を占めるのは、嬉しさだった。助けた女の子が、力を貸してくれるという。まあ、色々と彼女なりの事情があるのだろうとは思うが、それは置いておくとして……。近ごろ消えかかっていた祖父の教えが息を吹き返すのを感じるが、それを考慮しなくても、純粋に自分という存在が認められたようで嬉しかったのだ。

しかし、そのまま二つ返事で了承する自分を看過できない理由もまた、あった。

 

(アルゴスの事は、どうしよう)

 

その存在は誰にも明かすべきではないのだ。ならばと思いつくのは、彼に対しては事の次第を告げ、交互に協力して探索する、という形式にでもしてもらうか。

 

(でも、この娘だって稼ぎに来てるわけだろ)

 

……これ以上、身勝手を通すのは、彼自身の良心も限界だった。器量の小ささを隠す狡さも、今のベルには許せなかった。

結論はひとつと決めるのに、さしたる時間は掛からず……ベルは、顔を上げた。

 

「まだ、一緒には行けないんだ。まだ、ひとりで戦えるだけの力があるって、思えなくて」

 

「……そうですか?でも、昨日は」

 

ベルは、首を横に振った。

すべてを語る事も出来ない。それは不誠実さと言えるのかもしれない。今の彼の限界が、そこにあった。

 

「正直、……上手く言えないけど、自分の面倒も怪しくて……今のままだとこっちが足手まといになっちゃうから、もう少し、時間が欲しい」

 

「もう少し、ですか」

 

「うん。それで、その時、君と一緒に組めるようになったら……」

 

それはいつなのだ、と期限を問う事の出来ない問題なのだと、リリはなんとなく察した。ベルの中にある奇妙な何かの片鱗を垣間見たからこそ。

 

「ここがダメだと思ったら、言って欲しいんだ。僕、ただ我武者羅にやってるだけで、何とか今は持ってるけど……ここでの探索の仕方だとか、そういうのはまだ、全然だから」

 

そりゃあ、一月もやってない新米でしょうしね、とは、リリは返さなかった。ただ、真摯な思いを告げるベルの、真紅の瞳を見つめていた。

 

「でも、……君の命を守る盾としてなら、せいぜい使えるように働くつもりだから、さ」

 

いつまでも、誰かに頼れない。自分が誰かの前に、あるいは背を合わせて立ち、戦う事を知らなければならないのだと、ベルは思っていた。そして悲しいことに、今の自分は決して、それを成し遂げるに足る力を持たないのだとも。

 

「……」

 

リリが思い出すのは、遥かに格上の相手を圧倒し、恐怖させ、残虐に誅した処刑人としての姿。遥かに格下の相手に圧倒され、恐怖し、危うく命を絶たれそうになった敗残者の姿。

どちらが、目の前の少年の真の姿なのだろうか?

知りたかった。

それこそが、近ごろの自分を突き動かす奇妙な衝動の正体だと、いまリリは理解した。

胸にすとんと落ちるものを感じながら、笑みが零れた。作ったものではなかった。

 

「振られてしまいましたか」

 

「うっ」

 

少し意地悪な言い方をして、たじろぐベルの姿を楽しむリリ。

 

「いや、あの、君みたいな可愛い女の子が一緒にやってくれるなら、そりゃ本当に、嬉しいよ。これは絶対に本当!」

 

結論こそ祖父に叩き込まれた教えに反していたものではあったが、身に染みこんだ常識によって……その、ものすごく惜しい事をしちゃったんじゃないかとの思いがベルの中に渦巻く。必死で取り繕う姿が、更に滑稽だった。

リリの大きな目が細まり、妖艶な印象すら浮かばせるようにベルには思えた。仕えるべき主の輝くような笑顔や、何かと世話を焼いてくれている職員の知的な微笑みなどとも異なった魅力に、胸の鼓動が高鳴る。なんというか、今の自分が抱えるものを差し置いて、無節操なものだと心のなかでぼやきながら……。

 

「フ」

 

薄い唇から、ため息とも笑いともつかない声が出た。袖にしておいて口説き文句を垂れる不可思議な挙動。図太いのか、何も考えていないのか。あの凶悪さも情けなさも、本当に同一の存在が秘めている代物なのか疑わしくなる。

変な人だ。とても、変な人だ、と、リリは思った。

 

「仕方ありませんね。今日は、おとなしく引き下がりますよ」

 

なぜだか、清々しい気分だった。底抜けのお人好しか、ただの馬鹿か――――その両方だろう少年との僅かな会話は、虚言と欺瞞に満ちた掃き溜めを生きてきたリリにとって、毒気を抜かれ過ぎるものであった。だが、不快感は、あまり無かった。

むしろその終わりに少しの寂しさを感じる程には、名残惜しさを覚えていた。

 

「ごめん。次会った時には、もう少しだけマシになっておくから、さ」

 

「期待してますよ?」

 

次とは、いつだろう。その言葉に、どんな保証があるのだろう。交わす言葉の内包する空虚さも、しかし、いまのリリには遠いものに思える。

いつか、きっと。いつか、きっと……そう信じ続けて生きてきて、久しく忘れていた……いや、最初から存在しなかったかもしれないものは、確かに今の彼女の中でその輝きを取り戻しつつあった。異性へ抱く懸想のような甘ったるいものの萌芽なのだろうか。それとも別の何かが発するものなのだろうか。

そのどちらであったのだとしても、どちらでもあったのだとしても、彼女はじわりと、その存在への愛しさを感じていた。

 

何時訪れるか知れない淡い期待を齎す出会い。このままこれが何もなく終わっていたなら、それはリリにとって幸福だったのだろうか?

それは、この世界の誰にも計り知れない事だった。

万物の辿るべき、定められた運命を知る方法……そして、それを覆す方法は、遠い昔、時間の意味すら持たない程の過去において、永久に失われていたのだから。

 

 

--

 

 

 

息も絶え絶えとなったヘスティアは、それでも全身を突き動かす使命感を失わずに、気付けばこの旧水道へと足を踏み入れていたのだ。それは、誰かに導かれたものなのか、はたまた彼女に言わせるところの何者にも断ち難い絆が成した奇跡なのか、誰も知り得ない。ともかく、彼女の目前に、その光景は現れた。

月の光を浴びながら対峙するふたつの影が……。

 

「!?!?!?」

 

ヘスティアの見開かれた目が、確かにそれを捉えていた。疲れ果てた身体は、決定的な場面においてその五感と推理力(妄想力とも言う)を極限まで研ぎ澄まさせていた。

大事な大事な『子供』と向き合っている小柄な輪郭。フードの下に覗く顔。大きな瞳、柔らかい曲線を描く頬。

瞬時に導き出された確信は何者の異論をも退ける重みで、ヘスティアに突き付けられる。

女だ。

女だ。

お・ん・な、だ!

 

「それじゃあ、また……」

 

「ええ、また」

 

また。

また。

また、また、また……また!?!?

ふたりの口にする言葉が、ヘスティアの頭の中を埋め尽くす。パンパンに詰まった脳内のそれは一瞬で弾け、彼女の逞しい妄想を第二宇宙速度に匹敵するスピードで彼方へとぶっ飛ばした。

こんな、暗がりで、一組の男女が密会して、いったい、…………何を!??!

 

『心も、肉の器と繋がっているのよ』

 

幻聴は弔鐘にも等しく幾重にも――――かつてなく悲壮的な音色で響き渡り、虚空へと放り出された彼女の意識を絶望の底へと叩き落とす衝撃を与える。

そう深く傷ついた可愛いあの子は癒やしを求めて行きずりの女と……あ、あんなことやこんな事を。下唇を噛んで、瞳を眼孔の裏側までひっくり返す彼女が見るのは、全裸になってベッドの上に女を侍らせる眷属の姿。女どもも全員裸だ。フレイヤが居る。ハーフエルフ君が居る。ヴァレン某も居る。なんで!ボクが!居ないんだよ!?超むかつくう!!!!

情動の全てを混沌の怒りに染めたヘスティアは、その荒ぶる魂の命ずるまま二人の前に飛び出した。

 

「ベル君ンンンンンン!!その、その娘は誰だあーーーーっ!?浮気は許さんぞおおおおオオオオ!!!!」

 

「は、!?」

 

「ええ!?神様!?な、なんでここに??」

 

鼻の穴を膨らませて絶叫する主の登場は、完全にベルの理解を超越した事象であり……身体をびくんと跳ねさせて、平凡極まる疑問を返すのみだった。リリとの会話ですっかり冒険者としての佇まいを緩めていた今の彼は、ただ保護者の怒りに戸惑う『子供』そのものの姿しか象れなかったのだ。そのほっかむりはなんですか?とまず思う有様である。

当然、同席するリリも概ね同じように硬直していたが、少なくとも状況の把握にあたっては前提を異にしていた。それなりに入り組んだ道程であったろうに、どうやってここまで辿り着いたんだろうか?と思った。単なる山勘の生んだ偶然だという見地には、そう至れない。

とにかくそうやって立ち尽くす二人の姿はまさしくヘスティアにとっては、後ろめたい場面を抑えられた不埒者どもの狼狽としか映らなかった。怒りその他の感情によって顔面は真っ赤に染まり、拳を振り回し地団駄を踏んでその思いの丈をぶち撒ける。

 

「ふんヌおおおおオオオオオ!!何故だ!何故!何でこんな事があああ!?どおしてだよおおお、ボクはこんなに君が好きなのに、どうして別の女なんかああああああっ、あっ、あっ、かはっ、ひっ、うっ、うっ、浮気なんてっえっ、ウソだあ、夢なんだあ……」

 

「違っ……おち、落ち着いて、神様!浮気って……あのですね、この娘とは昨日会ったばかりで」

 

「嘘だあああああああ男はいつもそう言うってゆってたあああああああああうわああああああああああ!!」

 

「誰が!?」

 

大噴火する主を止める手段を、ベルは持たなかった。テンションの乱高下に合わせ爆発する有様に辿々しく弁明し、それが更なる癇癪の呼び水となる繰り返しだった。嘘ならすぐそうとわかるはずの絶対者の混乱ぶりとは、それほどのものを失うかもしれない不安の大きさを容易に感じ取らせるものだ。

終いには女神の眦に光るものが浮かんでくるに至って、もはやこの修羅場を収拾する手段は永遠に失われるのではないかとの危惧もベルは抱いたが――――当事者の一人が、冷えた目で全てを見渡しているのに気付かない。

 

(大事なんですねえ)

 

何かが勢いを失っていくのを感じた。

当人達にとっては極めて切実な、(些か一方的ではあるが)生の感情のぶつけ合いも、第三者たるリリの目には、誰よりも互いを思い合う者同士の痴話喧嘩としか映らないのだ。

 

その光景は、その光景を作るものは、自分が決して得ることの出来ぬものであると、リリは知っていた。

 

ほんの数秒前まで彼女の中に揺らめいていた何かは、風に吹かれた蝋燭の炎のように他愛なく消え去っていた。

代わりに、どうしてだか、粘質で、淀んだ、昏いものが滲み出てくるのを感じる。

それは彼女にとり、とても馴染み深いものだった。

フードの下の胡桃色の瞳を覆うそれは、いつだってリリの目に映る全てのものに、たった一つの注釈を与えるのだ。

 

(結局、私とは違うところに居るひとなんですよね、あなたは……)

 

ぎゃーぎゃーぴーぴー騒ぐ主への後ろめたさと、その悲劇的な妄想を打ち払いたくあらゆる手立てを案じる苦難で困り果てている少年が、他の何もかもを忘却しているのは明らかだった。

自分は、何を期待していたのだろうか。何か、を期待していたのだと、リリは理解した。

想像するのもバカバカしい、何か、を。

冷笑に歪む口元は、少なくとも、彼女の前に居る二人が気付けないほどの仄暗さを湛えてはいた。

さて置き狂乱の渦でもがく主従は、白熱する問答にのみ没頭していた。リリの見立てと違わずに。

 

「お願いだよ見捨てないでくれよううううううクビになったの取り消してもらうからああああうああああああああ」

 

「見捨てっ……!」

 

取り乱しきった主の懇願で、いよいよベルは言葉を失った。直後の不穏な供述も耳に入らなくなる驚愕で、頭が真っ白になる。

 

(見捨てる、誰が?誰を?)

 

鳩が豆鉄砲を食ったような表情のまま、全身を停止させるベル。

このひとは、何を言っているんだ。そんな事、世界が滅びたって有り得ないのに。心の底から、そう思った。刹那の硬直は、その思いを如何に伝えるかを逡巡する為の猶予にすぎなかった。

 

実際、ベルがそれをそのまま口から発する事は、無かったのだけれども。

 

「きっ、君がっ、君がっ居なくなったらっ、ボクぁっ、…………っ!?」

 

「……?」

 

ヘスティアの大口は、突如その口上を中断した。涙を浮かべた瞳は瞬きするのを忘れ、対面する眷属のほうを向いて目一杯に見開かれる。振り回していた両腕が、おかしな角度で止まった。

主の豹変をすぐに察知したベルは、その青い瞳の先にあるものを突き止めた。自分の、後ろ。

 

「ひっ、いっ」

 

身を翻すと同時に耳に入る、甲高く詰まった……聞き覚えのある叫び声。それの発せられた元が、いったい何を見て、どんな感情を抱いたのか、ベルはもう、わかっていた。

ベルの横で、逃げ腰のまま足を震わせるリリの頭からは、持たざる者の粘着く感情など消し飛んでいた。

 

宵闇も届かない場所で、物言わずに立つ異形の青い双眸に射竦められる者達は、ただ驚愕だけをその顔に浮かべていた。

 

「なんで」

 

「……」

 

弛みと瘧で不均衡に歪んだ顔を見つめても、ベルは自ら発した問いの答えを掴めない。この街の片隅でひたすら身を隠し、ただその時を待ち続ける事を選んだ男の望む状況ではないだろうに、と思えば……。

それを口に出して聞く事自体も下策極まるに違いなければ、もはやベルは何も語れないのだった。

誰もが口を開けて言葉を忘れる時間が生まれる。打ち破ったのは、この場における唯一の絶対者だった。

 

「だ、誰、かな。この子と、……ベル君の、知り合いなのかい」

 

「……一緒に゙、迷宮゙に行っでる」

 

リリが真に驚愕したのは、この、自分と齢を近く見せる少女の姿そのものの女神が、目の前の怪物を意思疎通が可能な存在と看破した事に他ならなかった。

と、言うか……。

 

「に、人、間……なんです、か」

 

「……」

 

「ひ」

 

巨大な右目が、ギョロリと動いてこちらを見やる。両生類や爬虫類を連想させる仕草に、リリは息を呑んだ。迂闊な失言と後悔する余裕も無い。そこに居るのが間違いなく昨日、あの命の危機において現れた謎の怪物そのものだと理解している彼女は、ただ恐怖の虜となり身を凍りつかせるだけだ。

 

「待って、この娘は……」

 

ベルの釈明は僅かに言い淀められた。この娘は、何なのか……いや、それより、なぜアルゴスが姿を現したのかという疑問の答えも得ていない。そして、主には何と説明するべきなのかも、まだ整理がつかなかった。

だが、まとめて押し寄せる事象の処理に、ベルが労力を払う事はなかった。

アルゴスは大きく頭を振って、裂けた口を開く。

 

「黙っでで、悪いが……ぜんぶ、聞いでだ」

 

「……案内するために、ここに来たわけじゃないんだ。僕は……神様に話して良いのか、聞きたくて」

 

「待で」

 

巨躯と不釣り合いの細さを印象づける右腕を掲げて、ベルの言葉を制止するアルゴス。

 

「先゙に、おでから、話してえ゙んだ。いや゙、話すべき、なんだろ゙う」

 

「…………」

 

屈み気味になってもその背丈はヘスティアが充分見上げねばならないほどに高く、横幅は少なくとも、あの小さな居の扉をくぐれないだろうほどにはある。どう見たって、穏やかな対話など望むべくもない外見だがしかし、そこからヘスティアは少なくとも敵意を感じ取れなかった。

老人のように乾いた肌と、幼子のように澄んだ瞳を向ける目の前の男が如何なる存在であるか、愛する『子供』との会話から幾許かの理解を得てすらいた。

彼は何を話すのか、彼に何を問うべきなのか、身体は硬直しながらもその頭脳は全力で稼働する。

剥き出しの歯が動くのが見えた。

 

「神様゙、こいづに、黙るように言っだのは、おでなんだ」

 

「君は、」

 

ヘスティアは見た目に相応しい低く重いがらがら声を耳にして、更に萎縮するリリとは対照的にその佇まいを改める。闖入者を迎え撃つためにかとっていた変なポーズから、直立して両手を腰の横に当てる姿勢に。顔と胴は、同じ方を向いて。

 

「訳あり、なんだね?」

 

「……あ゙あ」

 

一語で以て来歴のすべてを問い質され、アルゴスは頷いた。至尊の存在の前に、言葉の偽りは無為に等しい。そしてヘスティアにとって重要なのは、何処から来た誰なのか、などではなかった。そんなものは、彼女の心を平らかにさせるうえで何の拠り所にもならないのだ。なぜ身を隠して住まわねばならないか、なぜ黙るよう言伝ていたか、……その外見が疑問の答えを推測するのを容易くさせるのは、ヘスティアの場合にしたってそうだ。しかし、彼女にとってその真偽などどうでもよかった。

 

「何よりも、まず聞きたい。君は――――」

 

伸ばした背筋と、一寸の振れもなく相手と視線を突き合わせる瞳を持つ姿は、それを傍らで見るベルにとって紛れも無く――――少なくとも、己のように吹けば揺らぎ崩れそうになる精神性などとは無縁のものに映っていた。

 

「君は、ベル君を害しようとしているわけではないと、言えるかい?今も、これから先も」

 

静かで、強い意思を込めた言葉が、誰しもの耳をうつ。

曖昧な答えを許さない問いかけである。真実、この女神の知りたい事はそれだけなのだ。少なくとも、今、この場では。

 

(神様……)

 

無音を煩く感じるほどの張り詰める空気は、いつしかそこに顕れていた。其の只中にある少年は、ただ拳を握る。不安ではなく、改悛に突き動かされるままに……なぜ、自分は、これほど情の深い主相手に口を噤んでいたのかと。

そんなベルの姿を置いて、拉げた粘土細工のような顔面を持つ男は、決して小さな女神から目を逸らさずに、口を開いた。

 

「言え゙る。おでの神様゙に、誓ゔ」

 

一片の翳りも含まずに、アルゴスは言い放つ。

その答えが真であると理解するのに、これ以上の問いは不要とヘスティアは知った。

 

「信じるよ」

 

語られる来歴がそのひとの性情を推し量る最も大きな役割を果たすのは、あくまでも尋常の理においてなのである。ヘスティアは――――少なくともこの場でこれ以上の――――詮索はしなかった。神の住まう街に生きる者が幾千も居れば、その歩みも等しい数だけあるだろうというわけだ。

どうあってもこの男は、ともに迷宮へと征くという大切な存在に仇をなす者ではないのだ。その一点だけで、信を置くには充分すぎた。

そうなれば、この場で彼女のするべきと思うことはあと一つだけだった。

決意の深さは、暫しの瞑目が物語る。

 

「ベル君は」

 

向けられる顔に非難の色を見出すのは、自分に疚しく思う心があるからだとベルは思った。まっすぐに見つめてくるだけの目を恐れる弱さなど、今すぐに消えてしまえばいいのにとも。

 

「どうして、この子と一緒にやろうと思ったのかな」

 

この子、と来たもんだ。神にとって姿形とは所詮、魂を詰めた肉塊として等しく見えるのだろうか?と少し離れて控えるリリは思う。自分が蚊帳の外に立っているのを理解した彼女は少しの冷静さを取り戻していた。口を挟む野暮を知る以上、黙する以外の事はしない。ただ、胸の奥に、寒さを感じた。自分には関係無いと言い聞かせても、それを忘れられないのが不快だった。

 

「……」

 

はたして部外者の心境など、見つめ合う主従の頭には無かった。ただ、その時が来たのだという事実だけが、ベルの頭を占めていた。

後で、いつかと先送りにしていた懸念がもしも、何の前触れも無く突き付けられていたならば、最も慮るべき存在を蔑ろにしていた報いにただ頭を垂れ打ちひしがれるだけだったかもしれない。後ろめたい隠し事を暴かれた小さな子供のように。

しかし、そうはならない理由があった。自ら明かさねばならないという決意は、既に彼の中にあったのだから。

こんな、弱い自分でも、力を貸そうとしてくれる者が居るのだと、知っていたから。

大きな青色の眼光は、顔を上げて見つめ返される小さい者に何の意思も伝えない。

ただ、出会った時と同じ、どこまでも穏やかで、果てなく広く……その色を湛え続ける揺り籠のように、ざわめこうとするベルの心を鎮めていくようだった。

 

「今のままじゃ、ダメだと思ったんです。強くなくちゃいけない、一人でも戦えるように、立って歩けるように……ならなきゃいけないのに」

 

それが泣き言に過ぎないのか、問われたから吐き出すだけの弁明なのか、紡ぐ本人にとって区別のつかない言葉だった。ただ一つだけ……最早それを隠し通す事とは単なる背信に過ぎぬのだという確信が、主への後ろめたさに抗う力を与える。

 

「約束一つ守れず……ただその過ちを悔いて、取り戻そうとして……足掻いても足掻いても、答えがわからなくて、どこまでも転げ落ちて行きそうだった……」

 

ベルは、思い出していた。傍らで、自分の告解を見守っている男との出会いの事を。

ほんの数日前、この場所で起きた事を。

瞑目する少年の沈黙は、彼を中心にその空間を塗り替えていくように広がる。

 

「…………」

 

ただ、流されただけなのか。憐れみに縋り付いただけなのか。

アルゴスはたまたまあの時、ここに居ただけだろう。それに対して抑えきれない、苦悩の迸りをぶち撒けた。ただそこに居た、知らない誰かだったから。黙って聞いてくれていた姿に見出した慈悲など、ただの幻影なのだろうか?

ベルは、そうは思いたくなかったけれども、しかし、そうであったのだとしても、何よりも立ち上がろうとする自分自身に対して不実を重ねるのは我慢ならなかった。

赤色の双眸がまた、主に向く。

 

「彼――――アルゴスが居なければ出来ない事なのか、は、わからないです。けれど」

 

闇の底へ沈んでいくだけの自分へ示された、最後の何か。ベルがアルゴスに見出したもの。

それは何なのか、わからない。誰が与えたのかも、わからない……彼が理解している事など何一つ、あるだろうか。

 

「自分の力で……自分を無くさずに、一番大切なものを忘れることなく、戦えるようになりたいんです」

 

それでもただひとつだけ、わかっている事があった。

真っ直ぐな眼差しを向けてくる、少女の姿をした、たった一人の家族。ベルは、今自分の感じる事の出来る世界における、唯一の存在として、ヘスティアの事を見つめていた。

 

「神様と一緒に居るのに、ふさわしい存在になりたいから……」

 

言葉とは、決して人の手で触れ得られない、心という概念に対してすらどこまで漸近できるのか、ベルにはわからない。

ただせめて、自分のこの気持だけは曇りなく伝えられたらと切に願う。新たな家族に対して示せる、唯一の誠意として。

誰にも恥じることのない姿でありたいという思いは、つまらない見栄と謗られようとも、中身の無い絵空事と断じられようとも、彼の偽らざる本心だったのだ。

 

「……」

 

人ひとりの胸に潜む言い尽くせぬ澱の数々をかき分けて掴み出されたものに対し、さてはこれは、プロポーズというやつなのか!?などと浮かれてはしゃぎ回るほどの分別のなさは、ヘスティアも持っていない。その程度の重みを確かに感じ取っていたから。

その理解力の範疇を超越した、……何か、極めて大きな不安を予感させる……数奇な運命を内包しているように思えてならない少年が出した、精一杯の答え。何もわからないまま、勝手に決めて、勝手に進もうとしたのか、と叱りつける事だって、彼女のとるべき選択としては、正解の一つでもあっただろう。しかし……。

 

「……」

 

『子供』の抱えてるであろう数々の問題とは、まさしく己にも等しく課せられるべき重荷でもあったはずなのだ。

なし崩し的に全てが暴かれた――――その切っ掛けが自分の暴走じみた決意であった事にはヘスティアも気づいてはいたが――――この場所で、どうして一方的な非難を投げつける資格を得られるだろうか?

捻れてしまった信頼関係を見つめなおすのを恐れ、怠惰にも全ての忘却を期待していたのは、どちらも同じことだったのだ。すべて、まぼろしであったなら、どれほど楽だろうか、と。

それは今、確かに両者の間で共有された真実だった。

言葉の途切れた空間で交わる主従の視線は、此処に在る者達に時の歩みを暫し、忘れさせていた。

 

「わかった」

 

短い返事だけを口にしたヘスティアは、首の向きを変える。弛みと瘧に歪んだ、大きな顔へ。

 

「ボクの『子供』の為と思うことを、君の好きなようにやってくれ。アルゴス君」

 

いかなる逡巡も含まない声色で言う。少なくとも、表面上はそうだ。死すべき者にとってはそう聞こえた。

 

「――――おでに出来る事゙なんで、大しだ事じゃ、ね゙えと思うけど、な……」

 

隙っ歯が顔を覗く瞬間、青い瞳が少しだけ動いたように、ヘスティアには見えた。その揺らぎが、此処に居ない何者かの姿を見出しての事とは、流石の神といえども見抜けはしなかったが……。

ともかく、張り詰めていた糸が緩んだ気がして、少し固形化した吐息を漏らす。他意なく、疲労がそうさせたのだ。半開きの口が崩れる。

 

「こんな神様じゃあ、皆に侮られるのも、当然だとも思っちまうかい、ベル君?」

 

「そんな」

 

主が柄にもない卑下を見せつけるのに、黙ってはいられなかった。ベルの、無意識に抑圧していた思いの丈が溢れそうになる。

 

「僕は……何も伝えないのが一番いけないって、わからなかったんです。自分が恥ずかしくて、許せなくてっ……」

 

震える声。不安と恐怖を宿す真紅の眼光。握られる拳。

喉が粘着く水で満ちそうになるのを必死で堪えて心情を吐露する姿は、主に対して、腑に落ちる安堵を齎した。

 

「そりゃ、ボクだって同じだよ。……ああ、駄目だね、面倒な事を放っておくから、苦しい気持ちになるんだ。簡単な事だ……ちゃんと話せば良かったんだ。君の事を縛り付けて、そのままにして……どうしようもないねぇ、まったく」

 

は、は、は、と、腰に手を当てて笑う。虚勢だ。だが、必要な事だった。

 

「……色々とまぁ、あるね、気になることは。そいつは……ボクが何とか、調べてみるよ。だからね、ベル君は……自分の出来る事だけ、自分のしたい事だけ、考えるんだ。何もかも抱え込てちゃあ、駄目だぜ」

 

死すべき者は、その腕で抱えられるもの、背負うことの出来るものも限られているのだ。そんな事すら忘却していた身でようもほざくかと自分で思うが、そんな不甲斐なさ等、この子は知るべきではないのだとヘスティアは思った。

自分の弱さに打ちひしがれ、それでもなお必死で立ち上がろうとしている『子供』。赤い瞳に灯りかけている光が、どうか消えぬようにも願う。

 

「なっ?」

 

「――――はい」

 

『子供』が感じる負い目は、傲慢なのだろうか。当人には決してわからない。言えるのは、今から変えられる未来において、きっとあれで正しかったのだと思えるように歩を重ねていくしかないという事だ。

今の自分は、どんな物をも覆しうる力を持たない。

けれども、必ず……。

ベルはそう、心の奥底で固く思うだけだった、主への感謝と等しく……。

 

「……あぁ、おほん。それでだ。うーんと、……失礼。キミは」

 

なんとか、一段落つけたとばかりにヘスティアがリリに話を振った。割りとほったらかしにした以上、少々のばつの悪さを感じてはいる。

漂う気まずさを吹っ飛ばす言葉を少女が紡ぐまで。

 

「ええ、そのかたが、良い事をするのにお誂え向きな場所があると言ってここに」

 

「ぇあァ!?なななな何やっぱりベル君キミはぁあああ!?!?」

 

「ちがっ!違いますよっ!!ちょっと君も、なんだってそんな嘘つくの!?」

 

また焚き火に放り込んだ栗のように暴れ始めた女神の姿に、リリは暗い溜飲が少しだけ下がる思いだった。俯き口角だけ上げる表情は、ベルの目には悪戯を成功させたほくそ笑みにしか見えない。

 

「冗談ですよ神様……ちょっとした御縁があって、お力添え出来るか尋ねたんですけれども……どうやら、私の出番は無いみたいで」

 

「はぅ?」

 

傾いだ首を上げて含み笑いを漏らし、食いつかれるベルから一歩退くリリ。肩をガクガク揺らされていたベルは、抜けた声をあげる主と同じほうを向く。

 

「またの機会に、ですね」

 

「あ。その……名前を、まだ」

 

亡き祖父が居れば遅すぎるわ!とでも叱咤しそうな台詞だが、別にやましい心に基づいたものではない、多分。いつかまた、というのならば、ごく自然な問いであろうとベルは思う。

が、それは叶わなかった。

 

「名乗るほどの人間じゃあ、ありませんよ」

 

俯き気味になって首を横に振る少女は、溢れ出そうなものに蓋をするのもそろそろ草臥れる頃合いだと感じていた。言葉に出来ない、ふつふつと沸き立つその黒いものは、今にも胸を食い破りそうに思える。決して理解してはいけないし、受け入れてはいけない、どんな方法でも洗い流すことなど出来ないそのどす黒い何かは……。

少女の葛藤など露程もわからないベル。あっさりとかわされた彼の中に次いで芽生えたのは――――不安だ。

秘しておかねばならないものをこうして晒してしまったのは自分の不覚なのである。それを贖う義務は自分にしか果たせないと、強く感じた。後ろに控える青色の光を意識する迄もなく。

恥も外聞も、今のベルには必要なかった。少女が踵を返そうとするのを見て意を決し、声をかける。

 

「あのっ。ここで見たことは、誰にも言わないで欲しいんです……お願いです!」

 

「……」

 

なんと情けない姿だろうか。しかし眉尻を下げて懇願するさまは、酩酊の末の無気力さゆえではなく、ただそうしなければという意思の賜物だということくらい、リリにもわかった。それが、更に内なる何かを刺激する。じりじりと弱火で焦がされているような錯覚を抱く。その何もかもを吐き出せれば、どれほど楽だろうか。

どれほど、惨めだろうか。

自嘲を堪え切れずに歪む口から、渾身の思いで言葉を紡ぎ出した。

 

「……別に、誰ぞに言いふらすほどの事でも無いじゃないですか」

 

脛に傷持つ者など掃いて捨てるほど溢れ返る、この街で。それに……。

 

「――――っ……」

 

そんな事を伝える相手だって、自分には居ないのだ。そう続ける事も出来ずに、少女の身体は月影から離れる。

心の底から生まれた真実を言い残したリリは闇の中へと駆けていく。振り返ることもしなかった。

異形の光らせる青い瞳への恐れと、……それ以外の何かを振りきりたかった。

自分は最初からひとりで、かれらは違った。それだけだと言い聞かせる。

それは決して揺るがない事で、何も思う事も、無い。あってはいけない。

あたたかいものとは、それが無くなったあとに残される冷たい現実に耐える方法など決して教えてくれないのだから。

枯れた水道の果てに仄かな街明かりを見出そうとも、リリの中で凍り付き、なおも蠢く闇は決して晴れなかった。

 

「……」

 

――――見送った者達の沈黙が、そこに残っていた。

 

「ベル君。どこの『子供』かも知れないのに手を出そうなんて、考えてくれるなよ。ロキなんかヴァレン某に手を出す奴はちょん切ってやるとか言ってたんだからな」

 

「しませんって、だから違うって言ってるじゃないですか!」

 

別れの余韻も霧散させてしまう空気が醸成されていたが、その最中であってもベルは仄かな寂しさを抱いていた。また、会えるだろうか?

どんな事情があるかはわからないが、彼女も彼女なりの背負うものがあり、この街で生きている者の一人で……助力を申し出てくれた、数少ない奇特な輩の一人でもあった。

そしてそのうちのもう片方が、黙って闇の奥を見つめていることに気付く。

 

「あの娘は――――」

 

「……いい゙。出て来だのも、話しだのも、おでだからな゙……」

 

はからずも無関係の人間を連れて来てしまった不始末をアルゴスは咎めなかった。少女を信用しているのか、また別の思惑があるのか、ベルにはわからない。

 

「さて。それでだね、今晩はどうするんだいベル君。これからこの子と一緒に行くのかな?」

 

「はい。そのつもりで来て……」

 

「そうかそうかそうだったのか。あの娘も紛らわしー事をしてくれたなハハハハハ、ハ、は。……いや、そうじゃなくてだね、ちょっとアルゴス君と、もう少しだけ話したい事があるんだよ。ベル君は先に行っておいてくれないかな」

 

一番大騒ぎしていた失態を誤魔化す笑いがやや寒々しく響いたが、我に返ったヘスティアの口上が続いた。

話とは?と聞く事はしなかった。優先すべき事はそれではなかったからだ。

 

「わかりました。行ってきます、神様」

 

右手の中の枷を強く感じた。凍り付くような冷たさも、焼き尽くされそうな熱さも思い起こさせない、ただの金属の輪の感触だった。

 

「気を付けるんだぞ」

 

にこりと破顔する主の言葉が、少年の背を軽く押した。それがどれほど心を軽くするのか、彼自身は伝える事が出来ないのを歯痒く思った。

一人ではない事の替え難さを彼は知っていた。ずっと昔から。

重荷を分かち合ってくれる者の為に、ベルは迷宮へと走るのだった。

 

 

--

 

 

「さあて、まあ、一つ二つくらい聞きたいだけさ。すぐ終わるから」

 

「……」

 

特に気負うものも無いような顔で言うヘスティア。真実そうだと思わせるだろう、少なくとも、死すべき者には。

アルゴスは決して目を逸らす事なく、小さな女神との問答に臨んだのである。

 

 

 

 

 

 







・ただの人間
一.遍く創作において、死んでも誰も気にしないキャラのこと。
二.初代GOWにおける回復アイテム。日本語版には居ない。
三.初代GOW日本語版にのみ存在する、強制タゲ取り機能を持つ無敵キャラ(当たり判定が無い)。ダンまち世界に現れたら熾烈な争奪戦は必至。
  PS3版でも居る。VITA版でも。これがおま国ってやつ?

・男はいつもそう言うって
アイアコス「誰が言ったんですか?」
ミノス「誰が言ったんですか?」
ラダマンテュス「誰が言ったんですか?」
ダルダノス「誰が言ったんですか?」
イアシオン「誰が言ったんですか?」
アルカス「誰が言ったんですか?」
アムピオン「誰が言ったんですか?」
ゼトス「誰が言ったんですか?」
エパポス「誰が言ったんですか?」
ヘレネー「誰が言ったんですか?」
ペラスゴス「誰が言ったんですか?」
アエトリオス「誰が言ったんですか?」
オプス「誰が言ったんですか?」
テーベー「誰が言ったんですか?」
ティテュオス「誰が言ったんですか?」

・世界が滅びたって有り得ない
ペルセポネ「は(笑)」






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アカイア人がやって来た




今更ですけど「下水道で遊ぶな」の一部をちょっと変更しました。
読み直す人なんか居ないとわかっていても手を加えずにはいられない病!!






 

 

 

「ガヴィッ!!」

 

ゴブリンの顎を砕いた握り拳が、そのまま天蓋目掛けて振り抜かれる。仰け反って倒れゆく敵の姿と、飛び散る歯、噛み千切られた舌までベルの目は捉えていた。視界の端より迫る煌めきは、脳よりも先に五体が理解する情報となってその手を動かす。

硬質化させた舌で獲物を打ち据える生態を持つフロッグシューターは、その口を開いたまま驚愕するのだ、狙いすました一撃を避けられ、素手で掴み取られた事に。瞼から飛び出しそうな単眼が、一瞬でその死すべき者がこちらへ距離を詰めてくるのを見ていた。

 

「ゲッ」

 

最期の光景が錯覚だと気付けないまま、フロッグシューターは眼球もろとも脳幹へと刃を突き立てられ、命尽きた。伸びた舌を一引きでたぐり寄せた少年の膂力と判断力は、闇深き迷宮にあって讃えられる事も無く、そして恐れを知らぬ蛮勇さと咎められる事も無い。ただ、彼の身に宿る戦士の在り方がそこに顕れているだけだった。

短刀を引き抜くと眼球と脳髄に詰まった体液が吹き出し、顔に掛かる。拭う気も起きなかった。仰向けの姿勢のまま、床に手をついて立ち上がろうとするゴブリン目掛け、跳ぶ。

 

「ふん!」

 

「ガ!!」

 

その頚椎を喉仏ごと踏み砕いても、ひり出された断末魔の吐息を聞いても、右手に在るのがただの真鍮の輪と、レベル1の冒険者が持つには過ぎる業物だけだとベルは認識していた。

瞳孔が開いているのがわかった。すべての視覚情報が脳の奥を燃やしていき、全身に循環していくのも。

滾る戦意を抑えずに刃を振るう事は、こんなにも身も心も軽やかなまま出来たものだっただろうかとさえ思う。

息をつく間もなくまた闇の中から現れ、迫る影。昂揚する五体は、反射的に動く。容易い敵とは言えない。だが、敗れ地に臥す未来図などベルは描かない。それは彼自身の生まれ持った、或いは何かに培われた確かな性情の生む無謀さなのか、誰も知り得ないのだ。だが、少なくともレベル1の冒険者がこれほどの戦闘技術を発揮するにあたっては、その恐れを知らない判断力は欠かせぬものであるのに違いない。

大きく踏み込んで、胴体に前蹴りを叩き込んだ。吹っ飛び、床に背を打つゴブリンは、休む間もなく頭を掴み上げられる。

瞳が映し出したのは、狩る者の浮かべる、食いしばった歯と開いた鼻の穴でつくられた凶相だけだった。

 

「んっ!ふっ!んん゙っッ!!」

 

「ゴッッ!、グッ!、ッ……!」

 

思い切り床を踏みつけた勢いで腰を捻り、ベルはゴブリンの顔面を壁面に叩きつける。一度では終わらない。腕と肩までの筋肉が興り、引っ掴んだ頭部を何度も、何度も叩きつけた。

硬い破砕音に水音がまじる頃にはもう獲物の息の根は止まっていた。

死骸を投げ捨てて、通路の奥を見る。生命の気配を感じる。自分の存在を感知し、排除すべく向かってくる……或いは、逃げようとする者達の気配だ。

闘争心が研ぎ澄ます五感は、更に少年の身体を突き動かそうと急き立てる。それが、自分でない、自分の中の『何か』の意思なのかどうか等、今のベルは考えもしない。何を迷う?戦わねば、進まねば、得られるものなど何も無いというのに。主に託された確信が、縛ろうとするあらゆる戒めの存在を忘却させているのだ――――

 

「ベル……そろそろ゙、時間だ」

 

「えっ?」

 

濁った声に振り返る。敵意を感じない巨体に気付かなかったベルは、言葉の意味を理解するのも少し遅れた。

まだ第四階層ではないか――――と思うが、主との間に横たわっていた溝を何とか埋める事が出来たのがつい先程の事と顧みれば、ここらでアルゴスが撤収せねばならない頃合いになっているのも道理だ。

 

「先に゙引ぎ上げるぞ」

 

「あ、うん。ありがとう」

 

燃え盛る衝動がすう、と引いていき、穏やかな水面のように心が静まるのを感じた。

前回までの、ぐつぐつと煮えたまま渦巻く感情を持て余していた有様が嘘のようだった。

 

「……いい神様゙だな。おでの出る幕゙じゃ、無がったかも知れね゙え」

 

外套を翻しつつ、アルゴスが口を開く。

不穏な会話の流れを感じて、ベルは目を剥いた。

 

「そっ、それは……」

 

「いや゙、付き合うのを止め゙る訳じゃあねえ゙。ただ……お前ぇの神様゙は、お前ぇの事が、本当に大事で……優しい゙んだって、思ったん゙だ」

 

焦燥を浮かべたベルに掛けられた言葉の中には、明らかな憧憬が込められていた。

 

「アルゴス」

 

「……神様゙には、何でも話しでやれや……」

 

それきり会話は途切れ、アルゴスは通路の奥へ去る。

彼の積み重ねた時間や想いとは、どれほどのものなのだろうか。

それを少しでも理解できる日は来るだろうか……などとさえ、ベルは思った。

 

 

--

 

 

「……覚えのない事で、追い掛け回されて、……ひたすら彷徨い歩いて逃げまわって、ようやく帰って来た、か。……ここが、キミの生まれた場所なのかい?」

 

アルゴスは首を振った。

 

「違え゙………………でも、元々、こごで待っていなきゃいけない゙理由が、あったんだ……」

 

「それは、なんだい?」

 

「…………」

 

アルゴスは、静かに、ゆっくりと語り始めた。

どんなに追い立てられても、ここに戻って来なければならなかった理由。

守らなければならなかった使命の事を。目の前の女神の『子供』に聞かせたものと変わらない……遠い昔の、とるにたらない記憶を。

 

 

--

 

 

「あんた、またとんでもない値段を吹っ掛けたんですって。苦情が来たわよ」

 

「一振り一千万くらい、大騒ぎするような値段かよ?嫌なら他所行けば良いって話だろ」

 

「……椿の一言であんたの仕事は無くなるって、わかってるの?」

 

『子供』達の告白を受けてから一晩明けて、目覚めた街を練り歩く小さな女神は、その場所へとやって来た。

今の懐具合では生まれ変わったって手の届かないだろう高級武具店の扉を開くと、何やら剣呑そうな雰囲気の会話が聞こえる。片方は昔馴染みとして、もう片方は誰であろうかとヘスティアは首を傾げた。

 

「ちょっと、まだ話は……ヘスティア?」

 

「はいじゃっお疲れさんでした~っと。失礼、神様」

 

「……お、っと」

 

やる気なさそうにこちらに歩いてくる赤い短髪の男。ヘファイストスの眷属に違いない彼の人相とは、まず目を奪うその濃い隈取り……それが、万人におそろしく不健康な印象を抱かせるだろう。化粧かと思うヘスティアだが、一瞬合ったその瞳はひどく充血しているのを見た。寝不足だろうか?

ともかくたいへん不真面目で不遜な態度を隠さずに、彼はヘスティアと入れ違いになって出て行った。ひらひらと手を振る後ろ姿は緩みきった無気力さを大いに醸し出す。

しかしこうして本拠地に出入り出来るのであれば、それなりの腕の鍛冶師なのであろうとヘスティアにも想像はつく。耳にした、いっせんまん!という単語が聞き間違えでないのならば――――おそらく先の会話は商談についてのことであろう。次元の違いすぎる話題に直面すると、たいていの者はひどく客観的になる――――随分ボッてる悪徳鍛冶師らしい。

 

「キミの所にもあんな不良君が居るんだなあー」

 

「……生まれ持ったものに振り回されて、腐ってるのよ。で、何か用?」

 

深い溜息をもう一つついて、ヘファイストスが胡乱げな目つきになる。またわざわざここに足を運んで来たのは、世間話の為ではあるまい、と。いつかの時と同じような表情になったヘスティアを見れば明らかである。

ただ別段、重苦しい気分にはならなかった。ほんの数秒前まで顔を突き合わせていたどうしようもない『子供』の抱えるままならなさと比べれば、あれと話し合うより気勢を削ぐ事など余程あるまいというわけだ。

腕を組みこちらを見上げるヘスティアが、口を開いた。

 

「例えばだけどさ……『子供』が、神の血を使わず、自分の意思だけで力を書き換えたり、発現させたりする事って、あり得ると思う?」

 

「……は?何ですって?」

 

耳を疑う発言にヘファイストスは一瞬理解を拒否した。意図せずに反射的に漏れ出た自分の言葉で、目の前の顔が一気に不安に歪むのがわかった。

何と言ったか。

神の血を分け与えられる事無く、奇跡を宿す者……それは。

 

「……古代の英雄達」

 

千年の昔に神々が地上に降り立つ前より、この地に穿たれていた大穴。そこから溢れ出す怪物を前に、死すべき者達は為す術もなく蹂躙されていく定めにあった。特に、生まれながらにして魔の力を持つ事も無い、毛の抜け落ちた、貧弱で、愚鈍な、二本足で歩く死すべき者の中で最も憐れまれるべき種族。逃げ惑い、隠れ生きる事だけが、かれらの生きる道だった……。

だがかれらがそのまま滅びの途を辿らなかったのは、その散っていく大勢の命の中で、襲い来る凶悪な怪物を次々に斃してゆく英雄達が居たからだ。その光景はまさしく奇跡としか伝わっていない……神の血も借りずに目覚めさせたその力の根源も、今となっては誰も知らない。しかし、確かにその者達は存在したのだ。

いま迷宮に挑む冒険者達と較べてさえなお眩く、その偉業を語られる者たちが。

 

「こ、古代の」

 

「さもなければ全然聞いた事無いわ。ギルドに記録は残ってるかもしれないけど。……そういう天然モノは、良かれ悪しかれ名を残さざるをえないものだし」

 

真なる絶対者の君臨せざる世界におけるかれらは、往々にして並ぶ者無き存在として振る舞うか、さもなくば縋る寄る辺として死すべき者達を守り導いたという。心、生命、歩むべき道をも。

――――その最期は決まって、幸福なものではなかったというのが、ヘファイストスの知るところだが……それは、今話していることとは関係あるまい、きっと。

 

「そっ、そう、なのか……」

 

顔の幼さを色濃くさせる大きな瞳が、動揺で染まっていた。

幾千、幾万もの、散っていった冒険者達が求め信じたかっただろう、己こそが、この世界に名を残す運命を背負っているのだと。或いは、神の力さえ超越した存在たらんとすら夢を見たかもしれない。

しかし本当にそれを手にした時、どう思うだろうか?

その座を与えられる事で、何が満たされ、何が叶うのだろうか?

 

(それを望むかとは無関係ってのが常なのよね。そういうのは)

 

降って湧いて得たものとは、望まざるものを押し付けられることと同義だ。今さっき口論の末に出て行ったあの野郎の姿を思い出すまでもなくヘファイストスにはわかる。ヘスティアもそうに違いない。

そして――――口を噤んで冷や汗を流すヘスティアの顔を見て、ある推論が、いや、確信にも近い予感が生まれるのだ。と言うよりも、わざわざこうして聞いて来た以上、そう理解せざるを得ないではないか?

 

「……」

 

ヘスティアの『子供』は、まさにその運命を背負う存在なのではあるまいか、と。

尋常の理を超越した、巨大な運命に選ばれた存在……。

当人がそれを有難がるかどうかや、それが幸福かどうかは全く別だという事は、きっと小さな女神も理解しているのだろうとヘファイストスは察する。

 

「まあ、どうあっても、その『子供』が選ぶ事じゃないの?得たものをどうするかは……私達の出来る事なんて、大したものじゃないわよ、きっと」

 

「ん~~~~……」

 

俯き、やがて頭を抱え始めるヘスティア。苦悩の程は深そうだ。さもあろう。

如何にも軽く結論してしまったが、これを聞いたのが他の神であったらどうだっただろう。目覚めさせる力が前例の無いスゴイものだったとか、そんな次元の話にとどまらない異常事態としか言いようが無い。みながその『子供』への好奇心をむき出しにして、小さな女神はそこから始まる怒涛の日々に一瞬で飲み込まれるだろう。

それを薄々ならず理解しているから、彼女はここに来たのではないだろうか……?

 

「……仲直りは出来たの?」

 

「……んんっ?な、何か言ったかいっ?」

 

「いえ、何でもないわ」

 

何にしてもこうやって相談に来ている以上全てが解決したわけではないらしいが、とりあえず前向きにはなったようで少しの安堵を感じるヘファイストス。だが先日の抜け殻同然だった有様と比べれば、随分とまともな姿だ。……そして、すぐに、自分の人の良さに辟易したが。

大体、どこのファミリアだってこういう蟠りを大なり小なり抱えてるものではないか?死すべき者はいつだって、神々の思いもよらない姿を見せる。少し目を離しただけで、万華鏡のように変わっていく。だからこそ、天上における永遠の存在は魅了され、見守り続けているのだ。

自分だって、そんなあれやこれやの悩みが無いわけでは無いのだ。これ以上付き合おうという気も、いい加減にしぼんできた。

 

「それだけ?だったら」

 

「あ、それともう一つあるんだ」

 

さっさと帰るよう促そうとした途端、眉間に皺を刻んでいた表情をぱっと切り替えて言い放つ姿に、往年の図々しさを思い出してしまう。それに応じてしまう自分もどうなんだと、つくづく思うヘファイストスだった。

 

「まあ、いいけど。ところで……あなた、仕事は?」

 

 

--

 

 

視界を占める程の広さを誇る屋敷を前にヘスティアは立ち尽くしている。閉められたままの大きな扉の造りだけでも、打ち棄てられ荒れ果てきった自らの住居と比べる事の無意味さを悟らせる豪奢ぶりである。

傾き始めている陽できらめく装飾が、いっそう女神の心境を暗くさせている。本当はこんな所来たくないと、その表情が物語っていた。

 

「ううっ、会いたくない……やっぱ帰ろうかな」

 

「誰にかな?」

 

「ぎょっ!?」

 

ぼそっと呟いた独り言のはずが、思わぬ返答であった。ヘスティアは驚いた拍子に左足を上げ、右手は頭の上に、左手は右腰を掴むように動き、右足一本を軸に振り返るという器用な真似をしてみせる。

 

「いやあ麗しのヘスティア、まさか君の方から私を訪ねてくれるなんて、これは天地開闢以来の出来事に違いないな!……ところでそのポーズは何だ?」

 

「かっ、勘違いしてくれるなよっ。ちょっと調べ事があるだけだっ」

 

佇まいを直したヘスティアは慌てて訂正を促した。苦手な相手だった。いや、それは結構なオブラートに包んだ表現方法である。頭に月桂冠を乗せた顔は女性とも紛う美しさを湛え、小さな女神では見上げる必要のある整った長身は何故か胸に手を当て気取ったポーズを取っている……かくの如き姿を持つ古馴染みの神相手にまるで心を揺り動かされざる理由は、幾らでもあった。

 

「ははっ!相変わらずツンデ」

 

「帰る」

 

「あああ待った!わかった!真面目に話すとも!」

 

ロキ程ではないにしろ……いや、方向性の違いだけであり、ヘスティアにとっては会話の端から愉快でない気分が重力加速度に導かれるが如く増加していく相手であるのは同じだ。うんざりした顔の彼女を必死でなだめすかすアポロンの姿は、そびえる豪邸の主とはとても思えない軽薄さである。後ろのヒュアキントスはただ押し黙り控えていた。

 

「じゃあ立ち話もここまでにして、続きは中でゆっくりしようじゃないか」

 

「けっこう!時間は取らせないよ!」

 

隙あらばモーション掛けてくる色ボケ野郎という認識はおそらく永劫覆るまいとヘスティアは固く信じていた。ともかく、聞きたい事だけ聞いてさっさと終わらせるべきなのだとも……。

そう思いながらヘスティアは口を開いた。

綺羅びやかな神の住処を遠くに眺めて通り過ぎる人々が、街に溢れる喧騒の中からその言葉を拾い取る事は無いだろう。

 

「――――」

 

ヒュアキントスとともに侍らされていたダフネは、その問いを投げ掛けられた瞬間の主の顔について、少なからず、いや、正味かなりの、驚きを感じた。

瞼を大開にして眼球は飛び出し、鼻梁が縮んで鼻の穴が無様に開き、唇はめくれて半開きの口の中の歯茎が丸見えになった――――身も蓋もない言い方をすれば、崩れきった不細工なツラである。驚愕、嫌悪、恐怖?どの感情を呼び起こされたものか、或いはその全てなのか。

彼女の知る限りにおいてはいつも余裕たっぷりで知性豊かな言動を絶やさない姿か、気障ったらしくかっこつけて腹立たしくも決まっている姿か、そうでなければ熱っぽい目に恍惚とした空気を漂わせる色男然としている、実際見てくれだけは良いこの神の心を大いにかき乱す存在とは一体……。

 

「……なんだよその顔は。知ってるのか?知らないのか?」

 

「へっ、ヘスティア……どうして私にその名を聞かせ……いや、なぜ私が知ってると思うのだ!?私が奴をどう思ってるか……」

 

いよいよ青ざめた顔で後ずさるアポロン。まるで突如そこに怪物が現れたのを前にした一般人のような有様である。

 

「奴とはねえ。まあ、キミがどう思ってるかは大体わかるけど。それなりの規模のファミリアで顔が利く連中を当たってるからさ……でも、ヘファイストスも知らないって言うし、ヘルメスは出掛けてたし、じゃあ後はキミなら知ってるかな~って」

 

「知らん!知らん!誰がアレの行方だの、まして好き好んで関わろうなんて……うう、考えただけで体調が悪くなってくる」

 

「アポロン様」

 

「おお、ヒュアキントス」

 

額を抑えてよろめく主を忠勇なるしもべが支える。寄り掛かるアポロン。美青年二人が密着している構図……交差する互いの目に妙な熱を感じる。ヘスティアはそーいうのを見て楽しむ趣味はぜーんぜん無かった。げんなりした。ダフネも同じ表情だった。

 

「ああ、すまないヘスティア。この話はここまでだ。いや残念……またの機会には、もっと楽しい話題を頼むよ。では」

 

「あっそう。変なコト聞いてごめんよ」

 

全然ごめんなさいなんて顔してないヘスティアだが、背を向けて大扉を潜るアポロンには見えなかった。続くダフネが来客に小さく頭を下げて、家の中へと消えていく。重い音を立てて閉まる扉の前で、小さな影が小さく息を吐いた。

また、別の伝を頼らねばならない。ヘスティアはその場を後にした。

 

「デメテルにも聞いてみるかなあ~」

 

 

 

--

 

 

最近のエイナの心の中には晴れない靄がずっと漂っている。おくびにも出さない様子で業務をこなすその実、少し気になるあの少年について胸中如何ばかりか、とミィシャは察しているが……。

 

「エイナ、知ってる~?あの子、最近はずっと夜に篭ってるんだって~」

 

「……かれらがどんな風に扶持を稼ぐなんて、私達の決めることじゃないでしょう。ベル君にはベル君の事情が」

 

「わたし、その子の名前言ってないけど」

 

メガネの下で緑色の眼光がぎらついたので、ミィシャは黙った。気になるなら勤務時間を変えてもらえば、もっと顔を合わせて話す事だって出来ようにと思いつつ、手仕事に意識を戻す。

 

「ねえねえ。あの話本当かな……リヴィラの街が大変な事になったって」

 

「もう、次の人来てるわよ!」

 

僅かな駄弁りも貴重に感じるくらいには、今日も盛況なギルドの相談窓口である。冒険者どもは入れ代わり立ち代わりにやって来て、受付嬢達の対応もそれぞれ変わる。やって来る仕事をこなすだけでなく、めんっっっどくさい書式の紙とひたすら戦う。やれ攻略進捗だ、やれ相談履歴だ、やれ報告書だ。ああ、お金稼ぐって大変だとミィシャの頭がパンクしそうな頃合い。定時が過ぎて、もう少し。

 

「よっし、終わりっ!」

 

ようやく区切りがつき、引き出しを閉じて息をつく。伸びをして肩を抑えながらぐりぐり回す姿は、多少慎ましさが足りない。が、疲れ切った人間は大体、細かいことを気にしなくなる。少なくとも彼女はそのたぐいだった。

 

「ふううヴッ、お疲れぇぇ……」

 

「お疲れ様……。……」

 

「……会いに行けば?」

 

「……誰に」

 

ちょっと気を抜くと遠い目をする同僚はいつもこうすっとぼけるので、ミィシャはお手上げなのであった。

あんな僕ちゃんでも、好き者は居るんだなあと改めて思う。自分の好みと言えばもっと背は高く、もっとムキムキで……と他愛の無い夢想に浸ろうとした時に、その訪問者が現れた。

 

「もし~……えーと、何て言ったかなエ、エイミー……じゃなくて」

 

ぱっと、同僚の目に光が灯るのをミィシャは見た。はて、彼女はかくも現金であっただろうか。実際怜悧そうな見た目と面倒見の良さの落差が人気ではあるけれども……。

 

「ヘスティア様っ?どうしてここへ?」

 

「おっと久しぶり、ハーフエルフ君」

 

ツインテールを揺らすちっちゃな背と可愛らしい表情、そして大人しくない大人な胸部を揺らす女神は片手を振って挨拶し、軽やかな足取りでカウンターへ向かってくる。まこと深刻さの伺えない様子である。

はて同僚の言によれば彼女こそあの悩める新米君の主であろうに、担当職員の気の揉みようと比べてどうだ。それとも『子供』の問題については放任主義なのであろうか?とまでミィシャは思った。

 

「あの、ひょっとしてベルく、いえクラネルさんのお話ですか?」

 

「や、ベル君の事は……んまあ、何とかやってるからさ、そんなに心配しなくてもいいよ。ここに来たのは……」

 

短く簡潔な質問に、ミィシャは素知らぬふりで耳をそばだてる。怪訝そうな表情に同調してしまいそうになりながら引き上げる準備をして、他の職員やら冒険者やらと挨拶を交わした。それなりに働いていれば、すっかり馴染みの顔も出来てくるもので……。

 

「エイナちゃん、まだ上がってないだか?」

 

「あ、ドルムルさん。も~少し掛かりそうですねぇ。でも話はすぐ終わるって……アレ?」

 

世間話を散らせるどよめきがロビーに広がっているのに気付く。一日の稼ぎを終えた冒険者達も、かれらの相手をする職員達も、その中をかき分けて走る小さな集団を見ていた。

中心には、よく肉のついた身体と顔を上気させている見覚えのある人物が。

 

「なんだ?いったい何の騒ぎだか?」

 

「あれは、ロイマンさんに……皆ギルドのエライ方々ですね。どうしたんでしょう」

 

高級なスーツを汗で濡らすのも厭わず急ぐ面々は、そのまま街へと繰り出していった。

普段は奥に引きこもって何をしてるんだかさっぱりわからない連中の行脚に目を奪われてるのは同僚と小さな女神も同じと横目で知るミィシャ。

口頭では望む答えを得られなかったヘスティアは、顎に指を当てて、つぶやいた。

 

「今のうちに、ウラノスのところへ言って聞いてみるのも……」

 

「ダメですよ。今調べてますから、おとなしく待ってて下さいね!」

 

良からぬ企みを阻止するべくエイナは語気を強めた。それが時間外拘束される事への苛立ちではなく、ほんの少しだけ心のつかえが解けた事の安堵を隠すためのものと知る者は、少なかった。予期せぬ訪問者に待つようきつく言うと、ロビーの奥へと消え資料室へと向かった。

望みの情報を引っ張り出してくる作業が終わるまで暫しの時間が掛かるだろう。

 

「……エイナちゃん」

 

「今日は駄目っぽいですね~」

 

同僚への懸想を隠さない純情なドワーフの背を見送る。いと寂しげな姿は憐憫を誘うが、こういう場面でも融通を利かせて真摯に働くからこそ、彼のような輩は絶えないのだとミィシャは知っていた。

気になる店に一人で行くのが心細いからというやや情けない理由で、ミィシャはエイナを待ち続けた。

 

 

--

 

 

夕日に照らされるオラリオを囲む巨大な城壁の切れ目で異様な空気が漂っている。日々、数え切れない人々が出入りする城門は開け放たれたままだが、当然誰も彼もを何の妨げもせず通しているわけではない。その証拠が、今群れをなして道を塞ぐ門衛達である。

警戒を隠そうともしないいくつもの険しい視線の先には、街の境目まであと一歩の所に佇む二つの人影があった。

分厚い革と青銅で造られた鎧兜の上からもわかる隆々とした筋骨は、鼻当てを挟んでぎらつく双眸と相まって彼らの陰影をさらに鋭く研ぎ澄ます。十を越えるオラリオの秩序の守護者達を前に僅か二人で対等の威を放つ者達の携えるは、右に長槍、左に大盾。防具と同じく、余計な装飾を排した実用本位のシンプルな拵えが、貧相さよりも精悍さを引き立てている。

そう。全身をも覆い、半端な刃や矢弾などものともせず――――或いは、相手の肉体に叩きつけ粉砕するのも容易い重量を持つだろう大盾。そこに刻まれた文字が、傲岸なる訪問者の出自全てを物語っているのだ。

二本の線が生む鋭角を上向きにした、彼らの呼び名を意味する頭文字が。

 

「やはり、ラケダイモン――――ラキアの狂犬ども、か。神々の都を、たった二人で攻め落とそうと思い立ったというのか、あの戦神は?」

 

門衛の一人が呟くのを聞いているのか否か、ラキア兵の片方が長槍の石突きを地面に叩きつける。その振動が形を持ったかのように、遠巻きに見ている人々は揺れた。

直後、兵が口を開く。

 

「何度も言わせるな!!!!ラキア領内で手配中の大罪人がこの街に逃げ込んだ、奴を捕縛する為に我々はここに来た!!!!オラリオは我々に協力するのか、しないのか、意思表示をしろ!!!!」

 

街の一角、いや、街中すべてに轟き渡ろうかという怒声である。興味本位の野次馬達は鼓膜を貫かれ悶絶するほどだった。神々の寵愛を受ける戦士達すらも怯ませる気迫は、隣でまるで動じていないもう一人の兵の姿とともに空気をいっそう張り詰めさせる。

高まる緊張は、あと一押しで血を見させる事態を招くものと見る者全てに予感させるほどだった。流れる血はどちらのものが多くなるのか、恐るべき事に彼らはそれすら判然としない。

 

「ああ、待たれよ!ラキアの使者達よ、どうか……オラリオの戦士達も、静まられい!」

 

恰幅の良いエルフの男が必死の形相で割り込んでいなければ、目を覆う惨劇がそこに生まれていたのだろうか?日々の修羅場で鍛え上げられた戦士の心胆がぶつかり合う光景にあって、贅肉を揺らしながら情けない顔で懇願するロイマンの姿は場違いに過ぎ……しかし、空気を白けさせるのには有効に働いた。それこそが、彼の目論見であったのかもしれない。

流れ落ちる汗を拭いつつ、ギルドの長はラキア兵に向き直る。

 

「ウラノス様の名代として、要望は確かに聞き届けましょうぞ。結論は……」

 

「餓鬼の使いで来たのでは無いのだぞロイマン・マルディール。既に触れが出ている以上、事の次第は知っている筈だろう……くだらん駆け引きなど考えるな」

 

腹芸か本心からの狼狽か、どちらであっても一切の誤魔化しも許さないという口調は、先の怒鳴り声を真横で聞き流していた方の兵が放つものだ。静かで、圧倒的な重圧を纏う台詞。兜の下に見える濃い髭を、口の周りからもみあげまで蓄えた男。その眼差しは一寸のぶれもなく正面を射抜いていた。野次馬達はようやく、立ち並ぶ二人の兵の上下関係を理解する。

しかし首へ刃を突きつけるような率直な物言いを浴びせられても、ただ情けない顔で舌を動かすのがロイマンという男だった。

 

「触れが出ていようが出ていまいが、それはラキア領でのみ通じる話でありましょう。この街が協力するかどうか私の一存で決められるものではなく、更に言えば罪人とやらがこの街に逃げ込んだという話も本当だか……おホっ!」

 

空気が穿たれ、口上が途切れた。

弁舌滑らかな丸い顔を掠めた一撃は、後退した生え際を僅かに剃り落とし夕空へ向かい消えたのである。門衛が臨戦態勢をとるのも半瞬遅れる技は、間違いなく彼らが相対する者の一人が放った必殺の一閃だった。

右手に握る長槍を僅か上方へ傾けて突き出した構えのまま、一際鋭く、重く、空気を引き締める言葉が続く。

 

「まだとぼける気か?奴が何者であるのか、奴がここに逃げ込む理由は何か、全て掴んでいる。目撃情報だけで敵のはらわたに飛び込み探るなどと思うのか」

 

「……あなた方がこの街で行使出来る権利は、罪人を捜索・連行する事のみですが。こちらの捜査方法への口出しも、人員の要請も出来ない。一度街から出たらそれまでと」

 

纏う雰囲気を一変させるロイマン。百五十を超える齢で培った老練さが、感情を消した能面から滲み出る。

如何に数え切れない絶対者達を擁し擁される地であろうと、それだけで立ち行く道理など存在しない。神の膝元へ逃げ込めば重ねた罪も帳消しなどという不条理を受け入れた時、神の都はあらゆる威信を失うだろう。オラリオの治罪法および周辺都市との条約の一文一文字に至るまで叩き込まれた脳細胞が、眼前の狼藉者へ繋ぐべき鎖を瞬時に導き出す。

取り巻きの職員達も門衛も、贅肉だけ貯めこんだ無為なる事務役と思っていた男が、かくも苛烈なる暴虐の輩と渡り合っている光景に驚きを禁じ得なかった。

 

「貴様がこれ以上口にして良い言葉は、我々を受け入れる事の是非だけだ」

 

「この、言わせておけば……!」

 

「誰も動きなさるな!……滞在期間は三日ですね。ギルド本部へとご案内致します」

 

不遜も極まった振る舞いにはいよいよ門衛の額に青筋が浮かび始める。だがそれでも決して得物を抜かないだけの矜持は神々の『子供』として、この街の住民として身に着けた得難きものだった。

ともかく男二人はロイマンに促され、遂にオラリオへと足を踏み入れた。身体を揺らさない力強い歩みは、迷宮の怪物を屠る冒険者とも区別のつかない足運びと映る。……それを身に着けさせる技の目的は、神のしもべ達とは全く異なるものと知っていても、人々の目はそのように理解するのだ。

髭面の男とその部下を囲うように門衛が侍って行列を成し始めた時、部下のほうの兵が突如口を開いた。

 

「オラリオの住民達よ!!!!我々の追う大罪人について僅かな手掛かりでも持つ者はすぐに来い!!!!確かな報酬を約束する!!!!」

 

「っ、おい、誰が喋って……!」

 

「その巨体はふた目と見られぬ醜さを湛えたせむしの片端者!!!!挙げられた罪状は領内だけでも二百件を超えている!!強盗!!傷害!!殺人!!強姦!!人の心を持たぬ怪物だ!!!!」

 

今また耳をつんざく音量が街中へと轟く。部下の兵を制止しようという声も刹那に消えて無くなり、また野次馬達は耳を塞がなければならなかった。

足を止めずに歩きながら、ラケダイモンの兵はその名を叫んだ。

 

「罪人の名は――――乳飲み子(alkeides)アルゴス!!!!かつてこの街で神の名を背負い、戦った、お前達の同胞の一人だ!!!!」

 

 

--

 

 

「なにこれ。落書き?」

 

「げえっ、本当に人間かよ」

 

「あいつらの装備を見たか?貧弱なもんだ」

 

「わざわざ招き入れるなんて、ギルドは何考えてるんだか。罪人の捜索なんて、偵察の間違いだろ」

 

ロビーに集まった冒険者達は好き勝手な寸評を述べていた。ラキアからの訪問者がギルド内に設けられている専用の居室へ移され、手配書の発布が行われた頃既にオラリオは夜の顔に染まっていた。年齢、性別、人種、全てがバラバラの顔ぶれであったが、その中の誰一人でさえも、その人相書きに載せられた男の顔と比べれば、まさしく神の創りたもうた芸術品と言うべき風貌と言えた。

そんな連中の応対に追われる同僚を尻目に、さっさと交代と引き上げていく人影が二つ。彼女らだって、この突然の事態のおかげで幾分かの残業を課せられた身であり、後を任せた者達の恨みがましい視線など気にかけるほどの善良さを発揮出来はしないのだ。

 

「ねー。もー、さっさと上がっていれば、巻き込まれずにあのお店に行けたのにいい、ねえ?」

 

「そうね……」

 

上の空のエイナには、肩をすくめざるを得ない……しかし、察しはする。あの小さな女神は、遠くラキアよりやって来た騒動の次第を聞き及ぶや目を見開いて顔色をなくし、脱兎の如くこの場を後にしたのだ。それはもう、恐ろしい勢いだった……小さな身体なりに、という前提だが。しかし、重要なのは絶対的な基準と照らした速度ではない。

 

(絶対、何か知ってるよねぇ……)

 

その女神の口にした質問と合わせて考えれば、あまり穏やかではない想像を容易にしてしまうのも仕方ないとミィシャは思ってしまう。あらぬ方向を見ながら足を動かす同僚に、それとなく話を振る。

 

「その、罪人?容疑者?の神様の事を、聞いてたよね。ヘスティア様は。ずっと昔にオラリオから居なくなったファミリアのメンバーの行方について……」

 

つまり、すでに何らかの情報を掴んでいたうえで、こちらに接触を図ったのではあるまいか?という、ごく自然な推察へと移ろうとしたミィシャの台詞がエイナによって阻まれる。

 

「……既にラキアが懸賞金を掛けてるのを知ってただけかもしれないわ。懐事情が厳しいみたいだから、臨時収入の当てとして探ってたとか」

 

「あぁ~なるほど」

 

ああも焦ってたのは、おいしい話を横から掻っ攫われかねないと思ったがゆえなのか。可愛らしいナリで存外がめつい所もあるのだなあ、等と少々けしからん感想を抱く。

望外の訪問者の噂でいつもより少しだけ大きな喧騒に満ちる夜の街道を歩きながら、二人の受付嬢の会話は続いていた。

 

「ラキアの人達、スゴかったよね~。腕も足も筋肉カチコチなのが見えたけど、皆あんな軽装なのかしら?」

 

「あれは多分ラケダイモンだけよ。あの集団は、ラキアの中でも特別だから」

 

「そうそう、そのラケ、ダイモン。私よく知らなくって……皆、なんであそこまで警戒してるんだろうね」

 

他に理解出来た彼らの人となりと言えば、コリュス式の兜の下から見えた猛禽のような険しい目つきくらいである。確かに、只者ではないという雰囲気はわかる。が、世界中に名を馳せる冒険者達の集う街にあってその実力が決して突出しているようには思えないのだった。

まだ年季は浅いが、確かにギルドで勤務して数多の荒くれ者達の応対をしてきたミィシャだからこその感想だ。しかし、それこそが肝要なのだとエイナはすぐに指摘する。

 

「だから、特別なのよ。ラキア最強の軍団ラケダイモンは、その強さを維持するために独自の文化を長年、頑なに守り続けてる……装備も、戦い方も、普段の生活も何もかも。結果、質量ともにこの街の冒険者達とも遜色のない実力を身に着けてるって話。少しは聞いたこと無い?」

 

「ぜ~んぜん……オラリオ侵攻の事は習ったけど、そんなの授業で出たっけ?」

 

「授業に出なかったら知らなくていい、ってことじゃないでしょうが……そうね。じゃあ、アカイアは知ってるでしょ」

 

眉間を狭く必死に学生時代の記憶を思い出そうとするミィシャ。呆れたエイナが、頼りない同僚のおつむを豊かにするための作業を続けていく。夜闇を照らし星々を隠す魔石の輝きとすれ違いながら、エイナの頭に叩き込まれた知識の数々が紐解かれつつあった。

 

「あ~、え~とラキアの属州のひとつ……だっけ」

 

桃色の前髪を指で弄りつつミィシャは、顔をくしゃりと歪ませる。かなりの困難を伴う作業に挑んだ結果だ。

 

「はい、正解。かつては独立した都市国家群だったけど、『魔剣』の力に屈して纏めて取り込まれて……それでもなお、各々強固な自治の気風が強いのね。ラケダイモンはそこに住む彼ら自身が名乗っている呼び名よ」

 

へ~、ほ~、と。感嘆する声からして、どうやらマジで知らないらしいとエイナは察して、少しの危機感を覚えた。大丈夫だろうか、この同僚は……それともこんな教養など身につけないのが、むしろ一般的なこの年頃の女というものなのだろうか?そんなくだらない杞憂をひとまず置いて、口上が続く。

 

「その文化と言えば……生まれた時点で、見込みの無い赤子は捨てる。子供のうちから家族と引き離して、兵士として肩を並べる者達と共同生活を送る。それからずっとずっと、ひたすら訓練の日々ですって。贅沢だの娯楽だの、一切禁止らしいわ」

 

「うえっ。楽しくなさそー……何でそこまで?王様もそんな独自の共同体を許してるの?オラリオを攻め落とす為?」

 

「そこの所は、よくわかってないわ。ずっと昔からそうだったみたいだし……彼らは未だにラキア自体を信用してないからだとか、古代から信仰していた別の神に定められた風習だとか……ともかく、彼らにとってはその生き方、強さが何より誇るべきものみたいね」

 

ラキアによる過去五度に渡るオラリオ侵攻についてだけなら、学び舎の必修課程に含まれる内容だ。しかしそれらの戦火の渦において常に神々の戦士達と互角に渡り合っていた戦闘集団についてまではいちいち触れる事は少ない。そういう薀蓄を喋りたがる物好きな教師も居ないではないにしろ。

ともかく誰もが認めるのは、東の軍事大国が万を超え擁する兵士達とは、怠惰と愚鈍の輩などでは断じてないということだ。それでも、人外蠢く迷宮を踏破する英傑達の前には塵芥に等しき価値と貶められてしまうのがラキアとオラリオの戦争なのだ。

ならば、怪物と矛を交えるという篩も与えられずにそれほどの力を持つに至った連中の異質さとは、この街の遥か地下に眠る者の正体と等しく計り知れない。戦闘民族ラケダイモン。その飽くなき力への渇望を支えているものとは一体なんなのか。不信、信仰、矜持、或いは、別の何か……少なくとも今ここで他愛無い会話の種としてしか扱わない者達では永劫掴めないものだと言えたし、彼女達もそう自覚する。

 

「ふーん。とにかく、スゴイ人達なんだねえ。指名手配犯もけっこうな元冒険者らしいし、たった二人でしょっ引くっていうなら、確かに適任なのかな?」

 

「まあ、本当に捜索に来たってだけなら、そうでしょうけど。数日でどうこうなんて無理よ」

 

かなり以前から囁かれている噂を念頭に置いてのエイナの言である。ラキアはまた、この街への侵攻を目論んでいるという……。斥候代わりに送り込んだと見るのが尋常の視点であろう。

 

「それにしてもね~、あの、特にヒゲの人の筋肉!見た?はぁ、惚れ惚れしちゃったよ~。昔見た『テルモピュライ』っていう演劇に出て来た主人公思い出しちゃった。もうね、ムッキムキで、目つきもギラギラしてて、傷だらけになって戦う姿がかっこ良くてぇ、あれが私の初恋だったなぁ~」

 

「……それ、ラケダイモンの繰り広げた戦いが元になった話よ。知らなかったの?」

 

「えぇ!?うそお、だって見た目が全然違うじゃない、演劇じゃ皆パンツ一丁でマントだけ羽織ってて……!」

 

それは演劇だからでしょう、と突っ込むのも馬鹿馬鹿しくなる同僚の残念さに、エイナは少しだけ頭が痛くなった。ついでに好みの男性のタイプについても、少々理解し難い趣味があるのだとも知って……。

好み。好みと言えば。いや、関係ない、関係ない……が、あの少年は、どうしただろう。どうしているだろう?その主は大丈夫、と言っていたし、それを信じたいと思う気持ちはある。

果たして今宵も彼は迷宮へと征くのだろうか。隣で続く尽きない歓談に相槌を打ちながら、エイナは家路を歩くのだった。

 

 

--

 

 

目が覚めても誰も居ないという経験は、随分久しぶりであるようにベルは感じた。思えば主はどんな時も、眠りの中から戻る自分の前に居たのだと理解する。

何者の気配もない家の中は仄かな寂しさ以外の、別の感情も想起させる。それは……。

 

(……いや、早く準備して、行かなきゃな)

 

遥か遠くに過ぎ去ったもの……そうでなければ正体のわからないもの、に振り回されるのは御免だった。やらなくてはならない事があり、辿り着かなければならない境地がある。その為の力を貸してくれる者が、心を預けてくれている者が居るのだ。

作り置きされた食事ごと胸にあるつかえを飲み込み、手入れされた装備を着ける。いざ、少年は一人の冒険者となって迷宮へと赴こうと扉を開いた。

 

「ベエェェル君んんんっ!!ストップストップ!!ダメだ今日は休み!!今日の冒険は病欠だあっぶぐっ!!」

 

「うわっ、神様!?」

 

開いた瞬間、強烈なタックルを食らって部屋の中に逆戻りした。辛うじて踏み止まったベルは、勢い余って抱きついたままの柔らかい存在の肩を掴んで狼狽する。

 

「あの、神様?どうしたんですか?今日は駄目って言うのは、一体」

 

「……はっ!ああ、そうだよ大変なんだ。こいつを見るんだ!」

 

『子供』の胸の中で浮かべていた恍惚とした表情を消して、ヘスティアは持っていたその紙を広げてみせた。瞬間、ベルは目を見開きそれを手に取った。

 

「……!」

 

手配書に大きく描かれているのは人間よりも爬虫類をまず想起させる異相。下に並べ立てられる罪状の数々。言葉も絶えたホームに、繊維が握り潰される音がいやに大きく響く。

手の震えを抑えられない。それを生む、心の中で首をもたげる激情も。目が険しく吊り上がってくるのは、ベル自身にもわかった。それが主にどんな印象を与えるかも推し量る余裕は、今の彼には無かった。

 

「嘘だ」

 

「そうともさ。あの子はそんな奴じゃ……っておいベル君!何処行くんだい!」

 

「何処、って……知らせなくちゃ。こんな!」

 

ベルの思考が混沌としていた。駆け出そうとするのを抑えるのも必死に振り向き、切羽詰まった形相を主に向ける。言わずとも知れているだろうと、声にならない批難をも含ませる非礼すら、彼は気付けないのだ。

その衝動を生むのは、縋るものが失われるかもしれないという恐怖であり、それを齎すものが脈絡無く現れた事に対し座視する事が出来ない焦燥でもあり、そして――――

 

「落ち着くんだよベル君!君が行かなきゃ、あの子だって迷宮へは降りないんだろう。……今の君は、あの子からの否認を引き出して、自分が安心したいだけじゃないのかい!?」

 

「そ……!!」

 

ヘスティアの核心を突いた指摘で、ベルの身体は凍り付いたように立ち止まる。疑心は一目で見抜かれていた。生命を預けると決めた筈の相手に抱いた、吹けば飛んでしまうほどの小さな、……確かな不信など、高々十と少しの齢しか重ねていない子供の、幼稚な義憤では隠しきれるはずも無いのだ。

思い切り図星を突かれて顔を赤らめる。拳を握る音が聞こえそうになった。自分の浅はかさへの怒りが爆発しそうになって吹き荒れるのをベルは感じた。

 

「っ、っ……どう、しろって、それじゃあっ……!」

 

「大丈夫だ、ベル君。落ち着いて」

 

硬く掌に爪を立てる両手に小さく温かい感触が触れると、その熱が嵌められた枷の冷たさを際立たせる。それが、煮え立つベルの心を冷ましていった。

今の自分の中で勢い付こうとしているのは、怪物と戦う時に燃え盛っているものと同じなのだろうか?ベルには、わからない。

知らずに荒げ出していた呼吸が穏やかになり、手に送られる力は緩む。

 

「ラキアからやって来た連中がギルドで話してるのを聞いたんだ。滞在するのは三日間だって」

 

「三日……」

 

ベルは己に言い聞かせるよう復唱する。三日。三日経てば、全てが元通りになるのか。前触れ無くやって来た、この不安は消えてくれるのだろうか?ベルは知っている。それは、違うと。自分はいつ切れてもおかしくない、本当に細い糸にぶら下がっているだけの虫に等しいのだ。

そう、あの二人が去れば全てが無かった事になる等とはヘスティアも思わなかった。掛けられた嫌疑を晴らさねば死ぬまで日陰者なのは同じ事だ。だが、なにより今は彼の無実を証明する事よりも、自分の『子供』に力を貸し与えてくれる猶予を稼ぐほうが先決だと思っていた。兎角、アルゴスの境遇をどうにかするのは後回しだった。その判断が冷淡と謗られようと、いま選択すべき手段は変わらないではないかと自分に言い聞かせながら……。

 

「あの子がこの街に帰ってくるまでどういう道筋を辿ったか……少なくともその最中好きこのんで誰かを傷つけたり、何もかもを薙ぎ倒して突き進んできたワケじゃない筈だろう。今も街の隅っこの、あんな入り組んだ所で息を潜めて……たかが三日、見つかるなんてよっぽど運が悪くなきゃ」

 

すべては都合の良い推論だ。縋りたくなる魅力に満ち溢れている……そう言って跳ね除けここを飛び出し、アルゴスに会いに行って、いったい自分に何が出来るというのか?

下手に接触して、その場面を誰かに見られたら?そう、例えば、あの少女。絶対者たる眼前の女神は決して偽りを看過させ得ぬ力を持つというが、しかし……。

滾る感情が今度はどんどん冷たく暗いものに変質し、後ろ向きの考えが止まらなくなっていく。

 

「この事は……ボクが伝えておくから。だから、ベル君……信じて待つんだ」

 

穏やかな声にも、その強い意志を主は隠さない。揺らぐ『子供』の心を繋ぎ止める為の精一杯の言葉だった。それくらい、ベルにもわかる。

それでも、たやすく収まりがたく、胸中は波打つ。続くその言葉を聞くまでは。

 

 

「待つことしか出来ない苦しさは、わかるよ。いつだってそうだ、いつだって……。……でも、耐えなきゃいけない時だって、あるはずだろ?」

 

 

 

--

 

 

『はっ、はっ……』

 

リリは必死で走っていた。頼りない灯りを片手に、迷宮の出口を探し求め、ひたすらに脚を動かす。一寸先も明らかでない深い闇を我武者羅に突き進む暴挙をけしかける存在は、すぐ後ろまで迫って来ている。

途切れ途切れに吐き出す息が、流れる汗とともに身体にまとわりつく。

 

『待ちやがれェ!』

 

『このペテン野郎っ!』

 

『よくも……!』

 

『許さねえぞ、テメエだけは!絶対に!』

 

『殺してやる!!』

 

『うわあああああああああーーーーッ!!』

 

耳を塞いでしまいたい。しかし、それだけで何もかも無かった事に出来ればどれほど楽だろうか。

フードを貫いて聞こえてくる怨嗟の叫びは幾重にも響き、決して消えないのだ。

 

(うるさい、うるさい……黙れ、お前達なんか、知らない!)

 

そう、何度も心の中で唱える。

知ったことではない。

騙されるのが馬鹿なのだ。陥れられたのは、己の無能さが招いた災禍だと知ればいい。

 

(ずっと、そうやって生きてきた、私は!)

 

迷宮において生命を賭けて事に挑むのが尊く讃えられるべき姿だと言うのならば、幼い頃からそうしてきた自分だってその栄誉は等しく与えられるべきであるはずだ。

相手が人間か、怪物か、それだけの違いだろうに。なぜ批難されなければならない?

 

『そうしなければ、生きて来られなかったんですよ――――!』

 

叫ぶ。誰に聞かせたいのだろうか。闇の中に消えていった者達は、それを聞いて納得するだろうか?了解し自分を許すだろうか?そんな事あるはずがないとリリは知っている。どんなに仰々しい止むに止まれぬ事情も、他人にとっては塵芥同然なのだから。

走り続けた脚はもう、震え出してその動きを止めたがっていた。止まるわけにはいかない。止まれば、どうなる。

自分が捨ててきた何もかもに、追いつかれるのだ。

 

『はあっ、はあっ、はあっ!』 

 

頭を鐘撞きで叩かれているような痛みが襲い、視界は明滅して更に覚束なくなってくる。全力で収縮する肺が、開かれた口の端に泡を生んだ。

早く、逃げなければ。ここから出なければ。帰らなければ……。

酸素が尽きかけた脳は、彼女自身の求めるものさえ定かでなくさせていく。

闇の奥に、その姿を認めさせるほどに。

 

『あっ、ああっ!』

 

手の中の青白い灯りよりもずっと明るく、暖かそうな光がそこにあった。無限に広がる闇の中で遠くに、しかし、確かに存在する救い。それを見た瞬間、リリの顔は安堵と歓喜で花開くように綻んだ。それが、全身の力を奪う。

 

『あうっ!』

 

脚がもつれ、転倒するリリ。持っていた灯りが、何処かへと消えていく。痛みを覚えるよりも先に顔を上げた。

 

『――――!』

 

視界を縫い付けるように奪う光に、必死で呼び掛ける。

 

『――――!――――!!』

 

血走った目でそれを見つめ続け、喉が千切れても構わないとばかりの大声で呼ぶ。うつ伏せになり、最早指一本も動かせないほどに困憊した身体が震える。

闇が遂に、自分の全てを包み込もうとしているのにも関わらず、リリは叫び続けた。

 

『償え……!』

 

『返せ……!』

 

『元に戻せ……!』

 

どす黒いものがのしかかって来る。同時に、身体の芯まで響く冷たい怨嗟の声は心臓を撫でる指のようであり、少女の中の根源的な恐怖を呼び起こすのだ。

 

『やめてっ!やめてっ!嫌っ!』

 

涙が溢れる。どうして。今更。何で私が?胸の奥で無尽蔵にわき出す疑問に、答えは決して帰って来ない。

振り向けない。全身が凍り付いたように動かない。闇に囚われたリリは、叫び続けた。

 

『お願い!助けて!助けてっ!!』

 

リリは知っていた。

今自分を包み、喰らい尽くそうとしているものの正体を。

今自分が求め、決して届かないものの正体を。

 

『ああああっ!やだ、やだあ!もう、……許して、許して!!どうして?!なんで私だけ……!!――――おかあさん!!おとうさん!!助けてえっ!!』

 

なりふり構わずに助けを求めるリリの姿は、いつしか重ねた年月を遡り、ずっとずっと小さな少女となっていた。

泣き叫ぶ彼女の見つめる光の中に、永遠に失われたものが在った。

闇に覆われていく視界の中に立つ二人は、リリの記憶の中にある、いつもの表情を浮かべていた。

 

『子供』の事など決して省みていないだろう、別の何かに心奪われ、ぼんやりとしたまま、遠い所を見ているあの表情を。

 

闇の中の罪人は、己が業に全てを蹂躙され消えていくまで、ずっとその光から目を離せなかった。

かつて在った、自分が帰るべき場所と、そこで待つ家族の幻影から。

 

 

--

 

 

「……最低」

 

目を覚ましたリリは激しい動悸と呼吸を整えるのにも苦心した後、その一言を絞り出した。全身が汗で濡れている。衣服の貼り付く感触が更に不快感を増大させていた。

悪夢だ。

クソみたいな夢だった。

クソみたいな足跡を辿らされる夢だった。

何の意味も持たない憧憬。何の役にも立たない感傷。うんざりだ、かつて幾度と無く蘇っては苦しめられた、くだらない記憶の数々。

とっくに忘れ去ったと思っていたのに……。

 

(あれのせいだ……あのひと達の姿が……)

 

狂気じみた烈しい戦いを演じる力を持ちながら、愚かしさともとれる優しさと、どうしようもない弱さに苦しみ歯噛みする姿を持つ少年。

それらをただ大きな慈悲と許容で受け入れる神。

人外そのものの姿からはとても想像出来ない穏やさを併せ持ち、それが却って底無しの不気味さを漂わせる男。

光満ちる神の住まう地を恨めしく見上げる事も叶わない、暗く深い見捨てられた場所で、彼らが不可思議な結束を築いているのをリリは見た。

 

どうしてその光景が、あの、永遠に届かない場所に在るものと重なってしまうのだろう?

 

自分の両親は、あんなにも自分以外の誰かを思って泣き、怒り、笑い、会話する事があっただろうか。思い出せない。

リリは、思い出したくもなかった。

思い出そうとする度に、胸の奥が膿んだ傷のように鈍く疼くから。

縋りたい、頼りたい、助けて欲しいと泣きつく相手はもう何処にも居ないと、思い知らされてしまうから――――いや。

 

(私には最初から、そんなもの、在りはしませんでしたけど)

 

自嘲に口元を歪ませようとしても、それがひどくぎこちないものであるとリリは自覚したくなかった。

 

「……ッ」

 

たまらなくなって、上着を脱ぎ去る。乾きかけた汗のせいで、室温が低く感じた。

手が、肩を越えて背まで伸びた。抑えがたい衝動が身体を突き動かすのだ。そこに刻まれた証を、この爪で刳り、掻き毟り、皮ごと引き剥がし、滅茶苦茶に千切り裂いてしまいたいと。

 

(糞、糞、糞……)

 

突き立てられた爪から流れ落ちる血も、閉じられた瞼の端から流れる何かも、この世界の誰も見ることは叶わないものだった。

 

(私には、関係ない。関係ない。忘れろ……あんな連中……出会った事も……思った事も……何もかも)

 

部屋の端に、丸めて放り捨てられた手配書が転がっていた。

それは、今のリリとは、決して関係のない事象の記載された、ただの紙切れだった。

褒賞金だの、容疑の真偽がどうだの、被害者の感情だの……何もかも、彼女には関係のない事だった。

 

自分の重ねたものに対しても、誰しもがそう思ってくれればいいのにと、暗く狭い、彼女の唯一の居場所で、ただリリは願い続けていた。

 

 

--

 

 

ベルは、夢を見ていた。

陽炎の中にあるように朧気な幻影のかけら達は、戒めの鎖を軋ませている。

過去を消す事など出来はしないと囁くように。

 

 

 

 

 

彼は長い旅を続けていた。その旅がいつ終わるのか、決して知らなかった。ひとつ言えるのは、自分はこの旅を終わらせない限り、決して帰るべき場所へと辿り着けないのだという事だ。

立ち塞がる障害を踏み越えた脚も、襲い掛かる牙を全てへし折って来た腕も、ひたすらに疲れ果て、冷えた鉛で覆われたようだった。

だが。

それでも、歩みを止めることは出来ないのだ。

全身を引きずるように歩く彼に、何処からとも無く声が掛けられる。

 

『化け物!』

 

罵声だった。軽蔑の目が向けられている。誰も彼には近づかない。

 

『罪人め、ここから去れ!』

 

彼の姿を見た者は誰もが、そう言った。おぞましき所業の証がへばり付き、決して許されることの無い罪を背負ったその姿に恐怖しない者は居なかった。

 

『呪われし者よ、お前が救われることは決して無いぞ』

 

歯を食いしばる。彼は反駁する事の無意味さを知っていた。正しき道理を宣い責め立てる者全てを縊り殺せようとも、その力は己を救う何の手立ても掴めない事も。

 

『神よ、どうして、このようなケダモノを……!』

 

みなの言葉は、全てが真実だった。全ては地の果てまで知らしめられていた。彼が何者か……その名も姿形も、何処から来たのか、何をしたのかも。だから、彼は決して何も語らずに歩き続ける。

突如、行く先の大地が割れ、巨大な影が現れる。

 

『うわあああーーーーーっ!!!!』

 

悲鳴が重なり、人々は逃げ惑う。なぎ倒される家々とともに松明が倒れ、こぼれ落ちた火は一気にその勢いを増していく。黒雲で覆われた天に稲妻が走り、荒れ狂う風雨が何もかもを押し流す。現実に同居し得ないはずの光景が彼の前に現れても、疑問など抱かない。抱く暇など決して無い。

――――そのすべてが討ち滅ぼし、乗り越えるべき関門であることに、何の変わりもないではないか。

あまねく死すべき者の血肉と魂を蹂躙する存在は巨大な顎門を開き、対峙する罪人を冥府へと誘う呼び声をあげた。それは、天地とそのはざまを丸ごと揺るがすように鳴り響いた。

 

『――――オオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!』

 

だが、どんな怪物と対峙しようとも、どれほどの災厄に見舞われようとも――――

 

『はアああああああああっ!!!!』

 

彼は、その歩みを止めない。

終わりなき殺戮と破壊の日々を生き抜く為に、戦い続ける。いつか、その日が来ると信じ続け、地を蹴り、両腕を振るう。聞く者の心を凍てつかせる咆哮がとどろき渡る。襲い来る牙。降り注ぐ火炎と雷鳴。すべてを飲み込もうと押し寄せる瓦礫と瀑布。それらは決して、彼の歩みを止まらせる事は無い。

そのさなかにも彼は、数え切れない罪を更に重ね続けるのだ。携える刃で血肉を裂き、骨を砕き、目につく何もかもを焼きつくし、自分以外の生命の痕跡を黒い大渦の中へと叩き込んで。

果ての見えない旅を、彼は歩き続けた。

 

誰しもの目を奪う姿になっても、

 

誰に恐れられるようになっても、

 

誰よりも強い力を手に入れようとも、

 

今の彼にとって、それらはもう、何の価値もありはしなかった。

 

彼が失ったものとは、そんなものを手にしなくとも、いつだってそこに在り続けていたものだったのだから。

 

『…………』

 

立ち並ぶ廃墟の中で、しかばねが堤防のように積み上がって続いていた。どれほどの時と叡智を注ぎ築き上げられたのかも知れない荘厳な建造物の数々とともに。小さくとも、確かな安らぎとぬくもりが営まれていた家の数々とともに。

すべては崩れ落ち、死以外の存在を見る者に伝える事は無くなった場所で、彼は暫し立ち尽くした。

黒焦げになった人間の欠片を舐める残火が、彼の足元を照らしている。もとは泣き喚く赤子だった黒い塊を抱く骸を蹴飛ばして、彼は再び歩く、ただ、前に進む。更に重くなった全身を、真っ赤な血で染めたまま。

 

 

彼が背負う罪がいつ無くなるのか。

彼がいつ、人の心を取り戻せるのか。

彼が故郷へと帰る日は来るのか。

誰も知らなかった。

 

 

傷だらけの彼は、歩き続ける。

世界の果てまでたどり着こうとも、その歩みを止めることは出来なかった。

 

 

いつか示されるかもしれない救いの道を求めて。

 

 

身体の奥に宿る、小さな希望。それは、彼を支配して消えない呪いのように在り続けていた。

 

 

 

 

--

 

 

「ベル君!」

 

闇が切り裂かれて現れたものにより、ベルの心臓は大きく鼓動し、身体がソファから跳ねた。

 

「――――はぅ、あっ!!」

 

「わっ」

 

寝床から転がり落ちそうにもがく眷属の姿に驚いて、ヘスティアは怯んだ。がたん、がたん、と、震える空気が髪を僅かに揺らす。

荒く不規則な呼吸音を漏らすベルの口は、言葉を紡ぎだすのにもそれなりの時間を要した。

 

「っは、はあ、はぁ……は、夢?……神様?」

 

身体じゅうの重さが一気に消えたような違和感と、虚無に満ちていた胸に流れ込む現実の五感で、ベルの思考が乱れる。夢。見慣れた悪夢。現実に引き戻されると同時に燃え尽きて無くなる幻影。

理解した瞬間、眼前に在るものを認識した。灯りの消えた部屋でも、不安に歪む主の表情はよくわかるくらいに近かった。……頭が、酷く痛んだ。

眼の奥から生まれる信号を抑えるように額に手を当て、それから自然と右目の古傷をなぞってしまう。

 

「すっ、すいません……また、煩くしてましたか?」

 

「……どんな夢を見たんだい?」

 

いつだったかの際と違い、単刀直入な質問である。酷いうなされようだった。固く閉じた歯を軋ませ、眉間は深く谷を作り、掌がソファを引き千切りそうなほど握られ、傷により生きながら手足を腐らせてゆく獣と紛う深い悲痛の声を上げる。その姿は、どう見たって尋常の寝相と理解する事は出来なかった。

そこから呼び起こされるヘスティアの疑念はもはや抑えがたい、『子供』の抱えている……極めて個人的な問題の数々、は、全て繋がっているのではないか?この恐ろしい悪夢も、敵を前に見せる全てを省みない凶暴性も。或いは……それらは全て己の与えた血と不可分のものであるのかも、という、突拍子もない妄想さえ浮かび上がるのだった。

あの日の闘技場での変貌からはじまった明らかな異変は、これ以上座して見守ることはしない。さもなくば今後更なる溝が生まれ、またそれを埋めるのに苦しみ、悶える事になるのは間違いないのだ。彼自身が自分を変えようともがいているのに、ただ黙っていていいわけがない。

ヘファイストスの述べた推論を思い出す。それは、遥かな古代の英雄達が顕現させていたという、誰もが夢見る無類の奇跡そのものなのか?

……率直な意見を口にできるのならば、絶対に否だとヘスティアは叫びたかった。これが、英雄の姿だと?わけのわからない苦しみに苛まれ、みずから死へと突き進むような内なる衝動に支配され、深く傷つき、眠りの安らぎも妨げられる。それが、死すべき者達の望んでやまない、歴史に名を刻む誉の代償だというのか。

英雄譚とは悲劇と決まっているということか。誰が決めたのか?大いなるものを得るために差し出さねばならないのはその人間性以外に無いなどと、そんな運命を許容するのは、決してヘスティアの望むところではなかった。

 

(英雄になりたい、そうキミが望む限り、ボクはどんな協力だってするさ!でも、こんなの納得出来るかっ!!)

 

知らなければならないのだ。眷属の中に潜む闇の正体を。それが計り知れない栄光へと導く、生まれ持った祝福なのだとしても――――その全貌を知り得ざる限りそれは、何者も拒絶する闇にすぎない。

真剣な面持ちを突き付けられて、ベルは言い淀む。それは、怖い夢に怯える本音を明かしたくない、というものより、別の理由があるのだ。

汗のしずくが顎から一粒落ちる。心臓の鼓動が痛いほどに大きく感じた。

 

「よく、わからないんです。いつも、目を覚ました瞬間に、殆ど忘れてしまって……なんだか、凄く苦しい、疲れる夢だって事はわかるんですけど」

 

断片的に思い出せるのは、どうしようもない虚無感と、酷い罵りの言葉、燻ぶる激情の残り火――――そして、底無しの恐怖――――だった。

見たことも、聞いたことも、感じたことも無いはずの憧憬のかけら達は、繋ぎ合わせられるだけの数も大きさも、あまりにも足りなかった。

暗い部屋で、荒い呼気のリズムが静まるにつれ、かち、かち、と置き時計の音が聞こえるようになる。その間もヘスティアは横に座り、ただ『子供』の背に手をあて、彼の心身を労っていた。心から。

――――だからこそ、それを問うのだ。

 

「いつから見るようになったのかな」

 

 

ベルは息を呑む。いつから?答えなどわかりきった質問だった。開きかけていた瞳孔が窄んでいく。身体の芯が冷えていくような、或いは、脳の奥に火がつくような、形容しがたい感覚が生まれるのがわかった。

大きな影。大きな背。大きな手。真っ白い髪と髭。深い皺を刻んだ笑顔。力強い声は、村中何処に居ても聞こえる。

その声で褒められ、その手で背を叩かれる事を知っていれば、畑仕事も、炭焼きも、道具の手入れも、どんな仕事の手伝いにも何の苦労も覚えなかった。

その声で叱られ、その拳で頭を叩かれる事を知っていれば、どんな虚偽も、怠惰も、思い上がりも、どんな悪徳の芽生えも立ち所に憚られた。

何も知らない幼子だった自分が学び得たあらゆるものは、そこにあった。

 

 

それらは、ある日、ウソのように消えてなくなったのだ。

 

 

「……祖父、が……居なく、なって、から……」

 

失ったものの生む虚無、失うかもしれない不安。自分に手を差し伸べてくれたあの異形の男に、自分は何が出来るか。何も出来ないのか。信じて待つ以外に?そんな、すぐ揺らぐ弱い心根が、こんなくだらない悪夢を見せるのに違いない……そう、続けたかった。

なのにどうしてか、言葉が閊えているのに気付いた瞬間、ベルの視界が塞がれた。

何が起きたのか理解するのは、その声が聞こえてからになる。

 

「わかった、ベル君。……わかったよ。変な事聞いて、ごめんな。もう、お休み……」

 

ヘスティアは、その頬を伝うものが見たくなくて『子供』を胸の中にかき抱いたわけではないのだ、と自分に言い聞かせたかった。もっと根源的で、尊い衝動がそうさせたのだ、と。

さりとて、自分の質問の無神経さを悔いる分別もあった。聞き出さねば何もわからないし何も出来ないと知っていても……。

癒えない傷痕を覗き込む咎は必ずや、贖わなければならないだろう。その方法は、全てを明らかにし、この子の闇を打ち払う以外に無いのだ。

小さい震えが、穏やかな寝息の感触へと変わっていくさなか、ヘスティアはそう決意していた。

 

 

 

 

それは、途方も無い困難と苦痛と、悲嘆と絶望、破壊と死を知らねばならない道であるとは、決して知らずに。

 

 

 

 

--

 

 

 

招かれざる客のせいで、街全体の空気が張り詰めているのだと信じる者は少なからず居た。

 

「知らないね、何も。わざわざ来てもらって悪いけど」

 

「……失礼、貴女はこの男と面識があると聞いていますが」

 

「だから何だい?ロキ・ファミリアのあの三人なんて、よくまあ世話されてたもんだよ。で、ある時を境にさっぱり行方知れず、それっきりさ。生きてた事が驚きだよ。で、まだあるのかい!?」

 

「い、いえ。わかりました、はい。では、これにて……」

 

強くなる声で相手の機嫌の傾き具合を察知したのか、捜査にやって来た職員達が慌てて店を去るのをシルは見送った。街中駆けずり回り、本来の職務であるテナント査察もこなさねばならない彼らの心労がその小さな背に感じられる。

他方、鼻息一つついて仕事に戻る店主の影から、ぴこぴこと動く毛だらけの耳が覗いた。

 

「なんか嫌な雰囲気だニャ~。ラキアのパシリ共、さっさと帰って欲しいニャ。ホントにこいつが潜んでるにしたって、どうせ見つかりっこ無いニャ」

 

クロエは自分で指差した手配書を見てしかめっ面を浮かべる。他のキャットピープル達もつられて縦長の瞳孔を注いだ。裂けた口と剥き出しの歯、顔中に皺と瘤を浮かばせ異様に大きな左目を持った人相。見る者達の顔をひきつらせるのに充分な異形である。

 

「うーん。つくづくひでェ顔……母ちゃん、マジでこんな人間いるのかニャ?」

 

「迷宮で会ったら間違いなく怪物と勘違いするニャ……」

 

「きっと、若い頃に不幸な事故に遭ってこんな顔になってしまったんだニャ……可哀想ニャ」

 

「ああ、今でもよく覚えてるよそいつの事は!!アンタ等も同じ顔にしてやろうかい!!??」

 

「ヒーッ!!」

 

好き勝手ほざきまくった末、いよいよ猛烈な怒気を当てられ、ネズミのように散らばる店員達。ただでさえ日の高い時間では客入りも疎らなのに、今の街を包む状況が状況であり、商売人達にとっては大変よろしくない。くだらない話に花咲かせるのもわかるが、そうそう見逃すような女に仕切られてる店ではなかった。

しかしシルの推測するに、店主の一喝を生んだのは、娘達の弛んだ態度を引き締めるためだけのものではないようにも思えてならない。

 

「リューを呼んできてくれるかい、シル」

 

「はい」

 

心を見透かされたようなタイミングで頼まれる。努めて平素のふりを保ちながら扉を開いてバックヤードへ向かったシルは、机に向かって書類仕事に勤しむ若草色の後頭部に声を掛けようと口を開いた。

 

「あ……っ」

 

そこで計ったように振り向くリュー。偶然だった。視線がぶつかり、言葉に詰まる。気心知れたふたりだからこそ、互い、無防備な瞳に浮かんだ胸の内を読み取ってしまうのだ。

なぜこの日、リューが表に出ていないのか……ギルドの職員から、なるたけ姿を隠さねばならない理由。そしてラキアの兵士が探す者は、店主ミアにとってどう映る存在であったか……。

短い沈黙の後に、リューは乾いた笑いを漏らした。

 

「……正当な因果の齎されるべき者は未だそうならないというのに。ラキアの探す『乳飲み子』がミア母さんの言う通りの者であるのならば――――また、とんだ笑い話ですね」

 

「やめてよ……リュー。あなたは……」

 

「あなたの見込んだ、あの小さな冒険者に対して言った台詞の、なんと中身の無いことか」

 

口端を歪めるリュー。その空色の瞳の奥……彼女の脳裏ではいつだって、その声が渦巻いて消えない。恥知らず、お前はその身に刻まれた血に値しない者だと。

己の全てを私怨で満たして成し遂げた愚行を償う方法を、未だに彼女は知らない。それはひょっとしたら、死ぬまで見つからないものなのではないかとさえ、思うことがあるのだ。決して口には出来ない、偽らざる本音だった。

自己否定とは承認欲求を満たす最も安易な道であると知っていても、もはや自嘲は止め処のない勢いを得つつあった。最も信を置く存在を前にしてこそ顕れる、リュー・リオンの最も弱い姿。

シルは、どうにもならない気分に歯噛みした。

 

「死すべき者の本質というのは、決して変わるものではないのかもしれませんね」

 

「そ――――」

 

「なに、グダグダやってるんだいっ!!」

 

怒鳴り込んできたミアの姿で、底を知らない場所へと沈みかけていた空気が霧散した。

目尻の吊り上がった憤怒の表情は、今も必死で表の掃除をする店員達をへたり込ませるのに充分だろう迫力を放つ。

 

「あんたみたいな小娘がわかった風な事ほざいて、俯いてるヒマがあったら仕事しなっ!!なんでシルがあんたをここに連れてきたのか、忘れてるんなら兎も角!」

 

「!……はい、申し訳ありません!」

 

伏せられていた目が開かれ、リューはすぐに立ち上がるとカウンターへと出て行った。疾風のようだった。

残される二人。事務所がいやに広く感じられる。

 

「ミア母さん……」

 

「……たまには甘えるのも甘やかすのもいいけどね。仕事は別さ」

 

真顔に戻り、ミアがつぶやいた。その人の全てを知っていようがいまいが、自分に出来る事はその背を叩く以外知らないとわかっている女の言葉だった。

そう。

全てを知る事など出来ないのは誰しもが同じなのだ。報いや、救いがやって来る日はいつなのか……それは死ぬまで来ないのかも。だったら、今出来る事に全力で取り組むだけだと、ミアは思っていた。

それこそが、未来を切り開く為に出来るたった一つの事なのだと。

 

「変わるさ。誰だって変わる。空っぽだったリューがああなれたように……あの『乳飲み子』だって、どうなったかなんてわかりゃしないよ。実際に会いでもしなきゃね」

 

「……でも、それは、悲しいですよ」

 

シルにもわかる理屈で、それはとても素晴らしい事だと思う。しかし、変わって欲しくないと願う事も、等しく尊く罪のない事ではないかと思うのだ。

かつて肩を並べ戦った冒険者が街を去り彷徨い続けた果て、心を失くした怪物となって帰ってきた。そんな事を聞かされてああ、そうなんだ、とたやすく受け入れてしまうのは、無情過ぎると……。そんな自分の願いは、ただ現実を受け入れられないだけの唾棄すべき弱さなのか?

遣る瀬無さを溢れさせるシルの言葉に対し、ミアは、目を細めて言った。

 

「人生だよ」

 

開かれた扉を出て行く店主の、大きい背をシルは見送った。

――――あの、小さな少年は、どう変わっていくだろうか。

そんな、脈絡のない事を思いながら。

 

 

--

 

 

アイズは夢を見ていた。

ずっとずっと昔の夢だった。

 

 

 

 

穏やかな風の吹く草原に自分はただ一人残されている。鳥の声。降り注ぐ柔らかい日差し。そんなものは、彼女の心を決して慰めてくれないのだ。

たった一人。このままずっと、たった一人なのだ、自分は。優しい彩りの花々に囲まれ、あらゆる災いから隔絶されたこの場所で、世界の終りが来るまでずっとこうしているのだと、アイズの中に奇妙な確信があった。

ずっと遠くに見える眩い光をただ、眺めることしか出来ない。

痛みも苦しみも、飢えも渇きも無い無慈悲な牢獄で、アイズは這いつくばり、涙を流し続けていた。

どうして。

どうして、私を置いていったの。

いつまでも、そう問い続けていた。

孤独が生む絶望に、全てを食い尽くされる日まで、ずっと。

 

 

 

--

 

 

リヴィラの戦いからもう数日が過ぎていた。一度地上に戻った者達が知ったのは、あの巨大花が街の下水道に姿を現した事。アイズが遭遇した謎の女と合わせて考えれば大いなる陰謀を容易く想起させる事態だが、それ以上の衝撃として、重傷を負わされたレベル5の狼人とレベル6のドワーフの姿が眷属達を出迎えていた。

フィリアを鮮血で染めた謎の怪物達の、同類。リヴィラを襲った災禍ともどもギルド側は調査を進めると同時に緘口令を出しているようだが、それが正しい対処法かどうかまでは誰にもわからなかった。

こと主神の鼻息荒さはすさまじく、何としても尻尾を掴んでやるわと目をギラつかせていたが、そんな中でも深層への探索を許すのだから大胆なのか、『子供』の自主性を尊重しているのか、やはり誰にもわからない。

ともかく迷宮は三十七階層の一角。

ティオナは、団員達の作る休息用の陣地の隅、皆から少し離れた暗がりの中、縮こまるように身を抱えて眠るアイズの顔を覗き込んで、一瞬だけ言葉を失くすほどの驚愕を覚えねばならなかった。横顔に一筋、閉じた瞼から流れ落ちるものを見て……。

 

「……アイズ」

 

「……っ?」

 

びくりと上体を跳ね上げたアイズ。そのまま寝ぼけ眼も改めずに、きょろきょろと周囲を見回す金色の瞳にティオナは再び面食らう。まるで親の姿を探し求める幼子のような、無防備な仕草だった。

それなりの付き合いはあるつもりだったという自負も僅かに揺らぐ光景だが、敢えて深く問いただそうという時と場合ではないとティオナは知っている。丸くなった目にようやく理知の光が宿り始めたのを見計らい、声をかけた。

 

「おはよう。お腹減ってない?」

 

「う…………ん。……」

 

目を抑えて俯くアイズに背を向けて、ティオナは少し残しておいた食糧を取りに離れた。

どんな夢を見ていたの?たとえこの探索が終わった後だとしてもそれを口にするのはなんとなく、憚られる気がする。友人が時々見せる、ひどく思いつめた表情や、力への底知れない執着と関係しているのかもしれない……。

そんな思いを巡らせながら、手渡したものをもそもそと口に含むアイズの事をじっと見つめる。

 

「そろそろ発つぞ。準備しておけ」

 

武具の手入れを終えたリヴェリアの声。張り詰めた気持ちが伝わる。冒険者としての本懐を果たす気持ちと、地上に向ける心配事の間で揺れているのか……ベテランもいいところの大魔法使いにとっては、決してはじめての葛藤などではないのだろうが。

すっくと立ち上がったアイズが、剣を抜いて調子を確認していた。

眉間に皺を寄せるティオナに、こっそりと近づく者が居た。

 

「大丈夫でしょうか」

 

レフィーヤが不安げだ。まずいまずい、と心中で首を振る。近頃まったく規格外過ぎる出来事が立て続けに起きまくる、それに動揺するのは誰だって当たり前だ。

 

「心配ないって。おねーさん達に甘えときなさい!」

 

グッと手を握る。カラ元気だのなんだの言われようが、ムカつく狼人に脳天気バカだのほざかれようが、自分の最大の取り柄をみずから捨て去りたくないティオナだった。後輩の顔から少しだけ緊張が抜けるのを見届ける。

さて、置いて。

 

「――――来たな」

 

休息を終えた冒険者達は、やがて部屋から伸びるたった一つの通路に集う怪物達の姿を認め、それぞれの得物を手に取っていた。

未来に待ち受ける、あるかないかもわからない無貌の影に思いを馳せる時は終わろうとしていた。

 

「――――!」

 

無心で胃の中を満たした後の剣姫が、一番に突撃を仕掛ける。

それはまるで、自分の中にある迷いを断ち切りたいかのように、ティオナの目に映っていた。

どこまでも飢え渇く、獣のようでもあった。

 

 

 

消えざる、微かな夢の残滓――――泣き伏せる、弱く幼い自分――――を打ち払うかのごとく、アイズはただ、剣を振るっていた。

 

 

 

 

--

 

 

「隊長。西地区の見取り図になります。交通情報も調べてあります」

 

ギルド本部の一室、必要最低限な家具だけが置かれまるで飾り気の無いそこに、机を挟んで偉丈夫の男が向かい合っている。どちらも彫り深い顔に締まった表情を浮かべ、眼光は刃のように鋭い。その生命を預ける得物は今でこそ壁に掛けられてはいるが、使い古された軽鎧までは仮眠の時でさえ外さなかった。しかし彼らがこの街にとって明らかな敵対者であり、彼らにとっての此処がまさに胃袋の中と言うべき場所なのだと考えれば、それでも不用心である事夥しい姿と言わねばならないだろう。

若い男の出した紙を取って広げ、隅々まで羽ペンでなぞっていく髭の男。街道の広さ、立ち並ぶ店舗の種類、如何なる神の管轄であるか?同時に広げた資料と照らしあわせて、ラケダイモンの隊長は正確に情報を書き込んでいく。ギルドの職員が見れば、顔色を失うだろう光景だ……街が街ならば、その場で処刑である。それを成さしめさせるのは恐れを知らない勇敢さか愚かさか、ひとつ言えるのはたとえどんな事態になろうとも彼らは座して裁きを待ったりはしないだろうという事だ。

そう、相手が神であっても。

 

「ヤツの情報は?」

 

「……ありません、一切。やはり、街ぐるみで匿っているのでは」

 

「フン……」

 

口髭の中から吐かれる低い声が、ずしりとした重さを錯覚させる響きを残す。それから暫く、ペンの走る音だけが続く。魔石灯の光は、人の営みの温かさなどまるで解さぬかのごとき冷たく鋭い光陰を部屋に落とした。

大岩の睨み合うような空気は、若い男が口を開いて破られる。

 

「あなたほどの方が、このような任務に……王は愚かだ。我ら以外にオラリオと渡り合える力を持たない以上城壁を破る事はおろか、それと対峙するのもおぼつかない、なればこそ常備軍の質をもっと高めるべきなのだ。あなたを将として――――」

 

若い男は忌々しげに吐き捨てる。ラキアの支配者への不満が、ありありと感じられる言葉だ。城壁内の構造を探らせるのに、ラキア最強の戦士を使う意味がどこにあるのだろうか?いや、わかる。わかっているのだ、今回の仕事のもう一つの目的は。しかし、それでも止まらない口が、自然と根本的な問題まで言及するに至れば、それを一瞬で押しとどめる声が短く与えられる。

 

「くだらん妄言は許可していない」

 

顔を上げずに手を動かす隊長に、頭を垂れた。

 

「申し訳ありません」

 

「褒賞金を上げると伝えろ。いずれ口を割る者が出る……冒険者に誇りなど無い、所詮は金以上に価値あるものを理解出来んクズ共だ」

 

侮蔑を隠そうともしない物言いはオラリオの戦士達に拳を握らせるに充分であったろうが、実際彼の場合、それに躊躇を抱くような性情ではなかった。口を利く意義すらも見出していないだけなのだ。その傲慢さも、ラケダイモンとして生まれ育つ事によって培われた賜物である。彼らは皆がそうであり、自らよりも信頼し尊ぶのは血よりも固き絆で結ばれた兄弟達だけだった。その中でも最も深く広く、大きく威を抱かれる男の言葉とは、妥協と平安にのみ心砕く国の長などよりも重く優先すべきものと男達は疑わない。

 

「了解!」

 

拳を胸に当て溌剌と返事をすると、若い男は得物を取って部屋から去る。瞳だけ動かして見送った隊長は、やはり何も言わずに、すべき事のみに取り組む。愚かで傲慢な、それでも仕えねばならない主から与えられた使命に。

近く行われるだろう、この神々の住まう街への侵攻、その真なる目的を果たすための布石を打つという役目が、今の彼の背負うものだった。

今また街へと繰り出し、住民達すべてから猜疑と軽蔑のまなざしを向けられているだろう部下と、全く同じ……。

 

「……」

 

血、勝利、征服。それらをただ求めるよう育ち、今もなおひたすらに飢える戦士は、しかしその衝動を充分に制御出来る理性も併せ持っていた。自らの率いる者達の抱く不満をすべて理解し、受け止めるだけの器も。

彼らの肉体に宿る、眼前の敵を滅ぼす為の知恵も力も、今はまだ振るわれる事は無かった。

今は、まだ。

 

 

--

 

 

確かに、今のオラリオは小さな異物を囲んでいて、それが小さな波紋を呼んでいた。けれどもそれは、ほんの少しの間だけしか続かない事だと誰もが知っていた。

小さな営みの中で生きる者達の小さな懊悩など、精々その者の命が尽きるまでしか続かないのと同じように。

ベルは、結局その三日間を休養に充てるべしという主の提案に従う事となった。タダ飯だけ貪り寛ぐだけというのは、故郷においても日々を勤労に注いできた少年にとっては気後れがする時間であったが。

 

「神様。やっぱり、少しだけ潜って稼いだほうがいいと思うんですけど」

 

「いーやっ!キミは頑張り過ぎたんだよ!あんな暗い穴ぐらで日がなうろついてるのを続けてたから、心も元気が無くなっちゃってたんだ。たまには街をぶらついてみたり、こうして家で少し羽根を伸ばしてダラダラしてみたりしようじゃないか!」

 

机に座って食事をとりながら、そういうものか、と思い直すベル……納得出来ない理屈でもなかった。いつ自分の全てを飲み込もうとも知れない激情は、こうして主と団欒の時を過ごしている限りはまったく無縁のものに思える。恐ろしい夢の片鱗のことを吐露出来たのも多少、楽観的な視点に立つにあたり良い方向にはたらいたのかもしれない。

 

「たかが三日くらい。蓄えだってそんな切羽詰まってなんかいないんだから良いんだよ。もっと楽しい話でも……。そうだね、昨日知り合いのところにちょっとお邪魔してねぇ……アポロンって神なんだけど、まぁコイツと来たら男女かまわず気に入った『子供』を囲い込む愉快な癖があるんだけど。ねぇ?ハーレムなんて囲われる側にしてみりゃどんな気分なんだか……」

 

「ぼっ、僕を見ながら言う事じゃないですよねっ!?」

 

「おやっ、おかしいね。別に特定個人の事を思い出していたわけじゃないんだが……どこかで聞いた話と似ていたからかなぁ、モテたいだの、素敵な人と出会いたいだの……まあ関係なかったね、失礼、失礼」

 

「うう……」

 

赤面するのを抑えられないベルだった。過去を変えることが出来るならば、あんなとんでもない事を恥ずかしげもなく言ってしまった自分を殴り倒すのがたった一つの望みだと思う。そんな微笑ましい感情の発露は、ケラケラと笑っている主の顔とともに、かれらに背負わされた多くのものを少しの間だけ、忘れさせてくれていた。

現実の何かが変わる訳ではないにしても、今のかれらにとってそれより大切な事を、誰が知っているだろうか。

心身をひたすらに擦り減らす日々にいた者達にとっては少なくとも、今この時よりも愛おしいと思えるものは無かった。

 

「そういえば……神様、バイトは大丈夫なんですか?」

 

「ぎっっっくうううっっっ!!!あそれはそれはだねベル君、手配書が出たって知ってその足でなんとか頼みこんで休みを貰ったんだよ、もうキミが心配でしょうがなくて……。いやあほんと、足を向けて寝られないねあの店には……」

 

ふと思い至る疑問への返答はすぐだった。そこまで心配していたのか。いや事実、主が止めてくれなければ自分はその危惧を実現させていたのに違いないのだ。

ベルは感謝と懴悔の念を深くして、決意を新たに固める。こうして息を潜めて待った結果がどうあろうと、必ずその歩みを止めはしまいと……。

忠節の揺るぎない『子供』を前に、内心ヘスティアはやべーマジやべーどーしよーいつホントの事を話せばいいんだよーとのたうち回っていた。斯くの如き有様を演じながら街の片隅で、主従は待ち続ける。今はそれしか出来なかった。移ろう時の流れは誰にも止められない。審判の時は誰のもとにも等しく訪れるだろう。世界の生まれた時から紡がれる運命の糸車を止める手段を持つ者は居ないのだ。

 

「……」

 

リリは迷宮を出入りする無数の冒険者達の影を縫って歩く。闇の中で生まれ闇の中に生きる少女は、あまりにも儚いたった一つの希望を追い続けて彷徨う。いつ自分を捕らえるとも知れない無数の牙と爪を掻い潜り、その持ち主たちの生き血を啜りながら。

もう二度と戻らない幻影を憎みながら。

広いロビーを早足に去るサポーターの姿を省みる者は居ない。誰しも思う事は、己の日々の糧、強さ、誉。誰が悪い奴だ、誰が陥れられた、傷つけられた、苦しんでいる……そんな話に立ち止まって、振り向くほどの余裕は無いのだ。そのどれもは、死すべき者が等しく繋がれた枷なのだから。

 

「……」

 

酒舗の奥で仕事を任されているリュー。彼女は時たま思う事がある。過去――――何よりも大切なものを踏みにじられ、その喪失と絶望はどんな言葉や法でも贖えないと信じ、最もおぞましく究極的な清算方法を成し遂げる事を選んだあの時。真っ赤に染まる視界と手のひら、恐怖に歪む『罪人』どもの顔――――、今も決して消えない記憶のかけらを、振り返りながら。

――――自分の前には確かに、他に選ぶべき道があったのではないだろうか?と。

復讐の念に曇った眼では決して見つける事のかなわなかった、もっと、別の道。身も心も捧ぐと誓った高潔で慈悲深い主の想いに応え、その悲しみを濯ぐ為の方法はきっと、どうしようもなく長く、苦しく、辛い、実りの遠いものであったのに違いない。だから、自分はそれらを背負う事を拒絶したのではないか?ただ胸の中に吹き荒れる憤怒の嵐に全てを委ねる安楽な道を選んだ自分は、優しいぬくもりに満ちたこの場所に身を置くに値するのか?

リューには、わからない。わかるのは、過去を変える方法など決して無いということ。そして、あるべき運命の形というのは、死すべき者には決して知り得ざるものだということ。

そして、信じたいのは、選択に過ちも正しいも無く、未来になって、あれが正しかったのだと信じられる行いを積み重ねるしかないのだということ、それだけだった。

それが、虚無に取り憑かれた自分へと与えられた、最も尊い答えだった。

 

「……」

 

街外れの廃水道の奥で、追い立てられるべき罪人は息を潜めてそこで待ち続ける。女神からの言伝に対し、その提案を拒絶する事もしなかった。

彼にとっては、たとえ自分を探す者が一人足りとも居なかったのだとしても、変わらない事だったのだ。

一度背いてしまった、主の命に従う事は……。

 

 

 

 

 

何者も知らない何処かにある運命の鏡の中で、すべての死すべき者……いや、神々ですら外れる事の出来ない、辿るべき道が紡がれていく。

 

 

運命の糸車は、誰も彼もの意志も寄せ付けずに、回り続けていた。

 

 

世界が始まる前、かつて自らを滅ぼした者と、再びまみえるその時を待ち望みつつ。

 

 

 

 

 







・ラケダイモン関連
完全に捏造設定。

・誰が決めたのか?
ホメロス「俺俺」

・金以上に~
史実のスパルタも経済的には後進国だった。らしい。






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嘘つきは誰だ




こんなに投稿が遅くなったのもオビ=ワンが悪いってお祖父ちゃんの幽霊が言ってました。






 

 

 

かつてなく消極的で、己の権能やら性情にふさわしい対処法であったとヘスティアは自覚するし、ヘファイストスもまさに呆れてそう評するであろう。が、実際この三日間で他に何が出来たかと考えても、他に取れる手段なんて無いじゃないかよ!と言い返す自信がある。

この短き引き篭もり期間が、大事な大事な『子供』と仲を深めるのに大きな役割を果たしたとも思いたいが……それは、まあ置いておこうとヘスティアは判断した。

 

「つーわけでだベル君。ちょっとギルドに偵察へ行ってくるから……いいかい、出かけるのは良いけど、まだアルゴス君の所には行っちゃダメだぞ。ラキアの連中が完全に居なくなったと確認するまで……」

 

「……わかりました。僕は買い出しに行ってきます」

 

遂にこの日が来てしまったと、内心気が気でないベル。休みの間何度か外出はしていたが、この広い街ではたった二人のラキアの兵と邂逅することも無く、何らかの動きがあったかどうかという話も回っては来ていなかった。本当に、アルゴスは見つかってはいないのか?ギルド側が、余計な波風を立てさせないよう情報を止めているのか?出来るものなら目につく人片っ端から訪ねて回りたい衝動を抑え続けた。下手に動けば誰が告げ口するか……そんな疑心暗鬼に囚われて平素に振る舞う一住民の仮面を捨てられずに居たが、本当はもっと他にするべき事はあったのではないだろうかと思わずにいられない。

影のある表情は、主にその心境を悟らせるのに充分だった。

 

「大丈夫さ。夜中にコソコソしてる奴なんていくらでも居るし、直接居場所を知ってるのはボクらだけで……ああ、あの娘も居たけど、誰にも言わないっていうあの言葉は嘘じゃあないぜ。ボクにはわかる」

 

腕を組み、自信ありげに言い放つヘスティア。元来の気質に沿った自堕落な時を過ごしオマケに愛する『子供』との親交も大いに回復した(と思ってる)結果、少々気が大きくなっていた事は否定出来ない。だが無根拠な言い分でもなかった。今更ああすればこうすればなんて、考えてもしょうがないと。

真っ直ぐな視線が有無を言わせない得心を眷属の中に生んだ。頷いたベルは、黙って主を見送る。

 

「いずれ、アルゴス君の無実だって証明出来るさっ。あの子の主神さえ帰って来れば……じゃ、行ってくるよ!」

 

扉が閉じて、軽い足音が遠くへと消えていくのを聞き届ける。

それから大した間も置かずに、ベルも街へと繰り出すこととなった。

荒れ果てた神殿に見送られた小さな人間は、忙しなく迷宮へ向かう者達を横目に街中を練り歩く。……ここ三日間の過ごし方と変わらない、非生産的な振る舞い。冒険者の本分を放棄したような様は誰にも咎められない。ベルは自由だった。自由とは、そういうものだった。誰の目にもとまらず、誰かに陽の下を歩くことを制されるわけもない。

……誰から相手をされる事の無い姿も、それは自由という檻を与えられた結果の一つなのだ。

 

「……無実の証明、か」

 

出る間際に主が残していった言葉がベルの中で再生され、口をついて出た。すでに、その手提げ袋は幾らかの重みを湛えている。空は高く日が昇り、主役達の居ない街の静かさに慣れないベルは所在無げな気分を味わっていた。もし、今直面している問題が大過なく去って行ったのだとして、その後はどうするのか?アルゴスの力を借り、力をつけ、自らの中に眠る衝動を飼い馴らせるようになって……それで、終わりか?

小さく首を振る。

 

(それで、良いはずがない)

 

無償のまま、無実の罪で引っ立てられるかもしれない危険を背負い、いつ暴発して自分に襲い掛かるとも知れないバカな『子供』のお守りを引き受けてくれた恩を返すのに、出来ることはたったひとつだけだろう。

だが今のベルには、その方法は全くわからなかった。

少ない人影と幾度かすれ違う。前を見て歩くひとびと。誰も彼もが、きっと今すべき事に注力しているのに違いない。扶持を得るにしろ生活の支えにしろ、自分の歩む道をしっかりと踏みしめて前に進んでいるのだ……。

 

(……帰ろう)

 

まるで、いつかの夜の時を思い出してしまう。自分の出来ることも、その居場所も、何処にもないように思えたあの時の気分が蘇ってくる気がした。誰の目にも見るに耐えなく映っただろう醜態の事も。

無意識に、人通りの少ない道路に並ぶ店や人影を視界から除いて足を動かす。その歩みも、自然と早まっていく。

帰ろう、あの小さな家に。

そう思った時だった。

 

「あ……おい、おい、ちょっと、そこの!」

 

不躾な、聞き覚えのある呼び声が、ベルの耳に飛び込んで来た。

 

 

--

 

 

ロキの歩幅は大きく、ドスドスと大袈裟な足音を立ててその感情の程を表現していた。額の青筋は太く浮かび上がり、真一文字に引き結んだ口の代わりに呼吸を引き受けるその鼻息はとても荒かった。

ギルドのロビー奥から顔を出した一柱の女神を見て、応対していた職員や冒険者達も驚き後ずさる。神威を発さずとも彼女の放つ怒気はそれほどの力を持っていた。

 

『あの、バカでかい花はギルドの植えた観葉植物か?』

 

『違う』

 

『……あの、見てるだけで胸くそ悪い新種の怪物は?』

 

『……過去の例に無い。言えるのはそれだけだ』

 

カッ、とその細まった瞼が開かれる。

 

「ンなああーーーーもん!!もっと!!必死で調べんかいっ!!教えんかいっ!!危機感無いんかいっ!!ラキアの使いっぱなんか、相手にしとるヒマがあるんかおのれらっ!?」

 

「ひいいいっ、わ、私らに言われましても……!」

 

万神殿の最深部でふんぞり返る役立たずとの会話を思い出すにつけ湧き上がるもどかしさ。ロキは頭を掻き毟って、たまたますぐそばに居ただけの運の悪い職員に怒鳴り散らした。オラリオの『子供』の中でも最前線を張れる力を以てしてなお膝をつく程の存在が、いつまた地上を闊歩するかも知れないのに、遥か離れた国でお山の大将気取る脳筋アホ戦神がせっついて来て、それがどうしたという?ロキの発想を切実で的確と評する声は決して少なくは無かっただろう。

大声によって溜飲も少しは下がったか、明瞭な視界では向けられている好奇の目がさっと引いていくのを感じられる。頭に血が上ったままなら、その居心地の悪さを感じられなかっただろうが……と、ロキは額を抑えて唸った。

 

「あったく、話にならんわ……こっちで調べていくしか無いかな……おや」

 

不満を口にしつつ足早に本部を抜け、ささくれ立つ心を落ち着かせるには強制的に寝床に放り込んでいる『子供』の所に戻るべきかなと往来に佇み思い巡らせた折に、朱い瞳が目敏くそれを見つけた。

街道の向こうから懸命な表情を乗せて走ってくるちっちゃい背丈、それに見合わないものを胸部に揺らしている人影は……。これは好都合と口端を歪めるロキだった。

 

「はあーん、よお、ドチビ。そんなに急いで、何ぞギルドに用でもあるんか?また、自分とこの『子供』がぶっ倒れたか?」

 

「のおおっ!?なっ、何で君こそ、こんな所に居るんだよっ、タイミングを考えろっ!」

 

宿敵と顔を突き合わせる事態を全く予期していなかったのか、ツインテールを跳ねさせて驚くヘスティア。開いた口から意味不明過ぎる挨拶をかます。

なんつう無茶言いよるわ、と呆れるが、こんなバカな返答も真っ黒な腹を持てない純真さが生むものに違いないとロキはニヤける。もっと弄ったれと、本性の猛りを抑えられず……。

 

「まあまあ。ウチの『子供』もな、最近めんどくさい事に巻き込まれたりで大変でなあ。アイズたんは腹に穴開けるし、ベートは足折れるし、ガレスは黒焦げになるしで……ドチビの気持ちもちょっとだけわかるようになったっちゅうか?可愛い『子供』が目の前であんなになるのは、辛いもんやなぁってな。ウラノスのタマ無し野郎に文句も付けたくなって……自分もここに来たのは、そんな所やろ?」

 

「えっ、?、??、……あ、いや、まあ、うん。そうだ、そうそう!まったく、しっかりして欲しいよな!ベル君だって、あんな事が無けりゃあ……」

 

何度も瞬きをした挙句に、明らかに不自然な乗り方をしてくる。が、そうさせているものの正体への興味も芽生えたロキは、ただよく動く小動物を構うような好奇心に身を任せた。おっと、つつけばもっと面白い事を言いそうだな……と。

果たして前に会った時の半死半生の有様もどこへ放り出したやら、聞かれてもいないのにベラベラと話を続けるヘスティア。

 

「だ、大体ねえ。ラキアの追ってるっていうあの『子供』の話さ!聞いたかい!?」

 

俄に市井を騒がせる話題を振られる。ロキは、かの渦中に置かれる者について思考を巡らせた。

 

「あー、……あーーー、ああ、ああ、あのババアの手下やったな、ソイツ。よー覚えとらんけど、まあ、あのババアからして碌でもなかったしどうせ」

 

「ンな訳あるかっっ!!」

 

ロキも、ラケダイモンの二人が探している例の罪人について朧気な知識はあった、えらい昔の事に感じるが。でかい図体で、あんまり血の巡りの良くなさそうな喋り方をしていたのは覚えている。しかしなにぶんここ十数年でのし上がっていく間の出来事ひとつひとつの濃ゆさか、随分と記憶も薄れるものだ。今思い出せるのはその主がまっこといけ好かない捻じくれ根性したクソッタレの陰険ヒスババアだった事くらいである。そんなヤツの『子供』と来ればな、と。

そのように正直な感想を述べようとしたのを、ヘスティアが大声で遮った。鬼気迫る表情だった。

 

「あ、あ、あの娘の『子供』だぞっ。いっつも意地悪でちゃらんぽらんな君と違って、あんな真面目で優しくて誠実で一途で気立てが良くて可愛らしい娘の『子供』が、悪党のハズが無いだろっ!あんな罪状ぜーんぶ嘘っぱちだっ!!いつか抗議してやるぞっ!!」

 

「お、おう」

 

地団駄を踏んで怒り出すヘスティアの姿はただならぬ憤激ぶりを察させた。言われたい放題である事への腹立たしさすら霞むのは、どうもその特定の神に対する認識の齟齬を覚えざるを得ない為である。それも、多大に。腕を組んで首を傾げるロキ。

 

(……まあ確かにクソ真面目やったけど。他は……そんなんか、オイ)

 

そう言えば目の前の女神とは縁浅からぬ仲だったかな、とも思い出した。やたらと融通の効かないというか、軽い冗談でも爆発しまくる所は確かに似てる。ただ、あの底意地の悪さと執念深さ、敵対した際のタチの悪さを考慮するに、身内の欲目丸出しとしか受け取れないという当事者の感覚は消せそうもない。散々いびり抜かれた者共としか共有できないだろうこの得心しがたさよ。

まあ、全ては遥かな過去だった。そう、アレに比べてなんとまあ、コレの可愛いことよとロキの目は遠くなる……。

 

「なんだよその目は?」

 

「ん~~~~?いやいや。ま……こんな騒ぎになってるんなら、あのババアも今に戻って来てギャースカ喚き立てるんと違うか?本当に『子供』が可愛いんならな」

 

適当な誤魔化しを口にする。尤も、かつての座を追い落とした自分がこの街に君臨している限り、あの雲より高いプライドの持ち主が再び姿を表すなどとはロキには毛頭思えなかった。大体、追われている『子供』も本当にその本人だか、そもそもこの街に本当に居るのか、あれから何年、本当に生きているのか。というか全てはラキアの戦神の適当な口実ではないか……いずれにしたって全ては霞に包まれた遠い絵空事のようにしかロキには思えない。もっと言ってしまえばどうでもいい、というのが本音だ。

それより大事なものなど、いくらでもあるのだ。そう、例えば。

 

「んじゃっ、ウチは家に帰って可愛い『子供』の看病する時間なんでな。もう、ウチの為に血ィ流すわ骨折るわ内臓まで生焼けだわで、全く神様冥利に尽きるってもんやな~ドチビも例のヘッポコ君のお世話しとけや~」

 

「へっぽ……!!ベッ、ベル君はなあっ、今はちょっと疲れてるだけで、すぐ立ち直れるさっ!!そしたら今に君の『子供』達なんか追い抜いてやるんだからなっ!!その時の吠え面が、ああっ、楽しみだなあっ!!」

 

いや容易く発火するその幼さは、百年経っても変わらない。真っ赤な顔のヘスティアへともう一発、ロキは叩き込む。ニヤける口を抑えつつ、もう片方の手をひらひらと振って。

 

「うっひょ~怖いわ~凄いわ~めっちゃ吠え面かきそうやわ~レベル1のボウヤがいつまで生き残れるのか、皆で賭けてやるわ~」

 

「!、!!、!!!!、あの子はっ!!ボクの愛があればっ!!どんな困難だって乗り越えられるに決まってるんだあああああーーーーっ!!」

 

大噴火するちびっ子を置いて、足取り軽くロキは立ち去った。衆人はああ、いつもの組み合わせかと微笑ましく見守っている。そうそう、こういうのが自分のあるべき姿、自分が作り出すべき空気なわけだ。まったく、心の健康に欠かせない存在だと目を更に細めてロキはホームへと向かう。

両脚ともども躍る心は、うざったい、正体の見えない、重々しい問題の全てを放り出して、ただ楽しい事だけを考える。それが、彼女の生まれ持つ性情だった。

 

 

 

 

『目覚めの『鍵』――――この言葉に心当たりは、あるか?』

 

 

 

『――――無いな』

 

 

 

 

誰の目にもわかる大嘘をほざかれた怒りも、今のロキの頭の中からは消え去っていた。

 

 

 

 

--

 

 

リリにとって、神とは何か。どんな存在か。手の届かぬ天界の住民。死すべき者の擁護者。害すること能わざる絶対者。……地上の常識でいくら語られても、身に刻まれた認識は覆せない。

即ち。

自分が生まれ落ちた時からその歩む道全てを縛り付け、

どんなに声を上げてもその言葉を聞き届けず、

血よりも濃い労苦を注いで得た実りを毟り取る事に、何の痛痒もおぼえない者。

――――姿を見せず、声を聞かせず、されどかくも死すべき者の全てを支配するというのは、まさに人智の及ばざる力を持つ超越者の仕業以外にリリには例えようもない。

あの――――死すべき定めという枠の中にあって到達でき得る限界の領域という前提こそあれ――――ただの醸造したアルコール飲料を作っているだけで、彼女の主神ソーマは、その権利を得ているのだ。

リリルカ・アーデの人生をどれほど蹂躙しようとそれを省みる必要を持たないという、絶対的な権利を。

目深にフードを被った少女は、その光景を見ながら、繰り広げられるバカな口喧嘩を聞きながら、己の境遇を否が応でも振り返り、それは彼女の胸の奥でいつも粘つき蠢くものをかき混ぜて揺さぶる。遥かな底から湧き上がる気泡。それはさながら、汚濁を湛えた肥壺が腐臭を吐き出すようだった。人の心ほど移ろうものなどこの世に無いと、あの小さな女神は知らないのだろうか。あの、廃水道における対話では確かに、自分とは関係ないと固く信じて言った、誰にも明かさないと。しかし……。

偉大な神。

捧ぐものを得るために、困難へ挑む勇敢な『子供』達。

与えられたものを、与え返す関係。

可愛い『子供』。

愛。

幾つもの思いが浮かんで消える。

 

(くだらない……)

 

ここ最近で、何度目だろう。こうして、何の価値も無いものを思い出してしまうのは。何の関係も無いはずのものを思い出してしまうのは。

反吐が出るのを堪えなければならないのは……。

 

(嘘っぱちの罪状、ですか)

 

よくも言い切れるものだ。巨大なせむし男の姿を思い出す。あんな化け物の弁解の言葉を信じる人間など居るだろうか?死すべき者では決して触れ得られぬ領域にもたやすく踏み込む事が出来るからわかるのだろう。地を這い回る虫けら共といかに隔絶した存在であることよ。

もう、その感情を抑えきれないのだ。暗く凍てついた自分の顔が歪んでいくのを理解する。

リリは思う。自分が持たないあらゆるものを見せつけられたのは、自分の咎が呼び込んだ罰であるはずがないのだと。自分は充分に努めたはずだ、それを決して、表に出すまいと。あの、優しく、凶悪な、謎に満ちた少年に対して。

だから、これは、かれらが撒いた種……持たざる者を知らない愚かさであり、報いなのだと言い聞かせる。ただ偶然目撃してしまっただけの光景に対し、果てしなく身勝手な逆恨みと自己弁護が募る。もはや、その流れは止められない。二柱の女神が言い争うのを背にして、路地裏へと忍び込むと、その呪文を淀みなく唱えた。

彼女が主に与えられたものの中で唯一と言っていい、感謝すべき贈り物……変身魔法。一瞬にして欺瞞の衣を得る力を使う度に、リリは自嘲するのだ。もしも今の主と繋がる鎖を持たねば、こんなにも便利な力は得られなかった。

だが、この力で以って、自分はどれほどの価値あるものを得られただろうか?この力でなければ得られなかったものとは一体何なのだろうか?

 

――――真に欲してやまぬ得難いものを手にする為に、こんな力などどれほどの意味があるというのだろうか?

 

背丈は一気に伸び、耳は毛だらけになってフードを押し上げる。直前までとは人種さえ異なる貌を得た彼女の正体を知り得る者など、世界中の何処に居ようか。

ファミリアの団員?かれらはいつも互いを疑い押しのけあい、自分達が見下す最底辺のサポーターに何度も謀られ、欺かれ、同行者もろとも出し抜かれている事すら気付けない、この世で最も愚鈍で蔑まれるべき輩だ。

あらゆる嘘を見抜ける主?それは、ただそこに居るだけの存在で、自分の声も姿も、きっと名前さえ知らないに違いない、誰に対しても平等で、慈悲を持たない絶対者だ。見抜いたから、どうするというのだろう。何もしないに決まってる。次の瞬間には死すべき者の事など忘れてしまうだろう。

 

(――――あの人は?)

 

そこまで思った瞬間、黒い澱がひときわ大きく泡立つのを感じる。路地裏の薄暗さの中で濃く渦巻く、奈落への穴が開いたかのような闇が顔を覗かせていく。

心の中に居る、もう一人の自分……本来の姿の、小さな少女が叫ぶ。考えるな、これ以上、何も。全て忘れろと。何度もかぶりを振って、フードがずれる。下から出た顔に、もはや彼女本来の面影などかけらも無い。どこまでも冷たく、それでいて現し世のあまねく苦しみを内に秘めたような、昏い、昏い笑みを浮かべた美女がそこに居た。

彼女は願い、夢見る。いつか真の自由を得る日を。身も心も、その歩みも、すべて自分の意志のままに出来るようになる事を。

絶対者の繋いだ鎖から解放されるその時を。

 

罪を重ね続ける生き方が、永遠に過去のものとなる未来を。

 

その為に必要なものを得るべく、リリは素知らぬ顔で、ヘスティアとロキの横をすり抜けて歩いていった。

 

彼女が今、心の底から求めているのは、何も言わず、何も見ず、決して裏切らない絶対的な力を持つ、死すべき者が生み出した、神とは違う……この街においては、神よりも信ずるに値するものだけだった。

 

 

--

 

 

「おい!あんた!……やっぱりそうだ、あの時のだ!」

 

「え……?」

 

男の顔と声は、ベルの記憶の中でも、ほんとうに隅の隅にしか残っていなかった。あの時。どの時か。少し日焼けした、額に皺を持つ顔の、中年の男。誰だと口にするのも忘れて、ぽかんと口を開けて佇むしか無い。間抜け面に構わず、男の口上が続いた。

 

「フィリアの時、怪物と戦ってただろ?それから、神様を連れて一目散に逃げて……聞いたぜ、その後また戦って、何だかんだで死に掛けたってよ。生きてて良かったなあ」

 

そこでようやく、記憶の糸を繋いだベル。底知れない怒りだけに支配され動く身体、真っ赤に染まる視界、敵の心音まで聴き取ろうと澄ませた耳。それらの全てを一瞬で吹き消した、主の一発と、大声……確かに、その後ろにあった顔が、今そこにある。

 

「……あの時の……止めに入った、人」

 

「そうだよ!あの後すぐ俺も大猿にぶっ飛ばされてな。ガネーシャ様のところの連中が治療してくれなきゃ、そのままあの世行きだったぜ」

 

ベルの両肩を叩く男は、何故か笑っている。何故か、だ。……ベルの思い出すに、男を襲った災禍の根こそ、眼前に在る少年冒険者ではないのか。何故こんな笑い話に出来るのか、理解するのに苦心した。

お前のせいで、お前がここに来たから、お前が災いを呼んだ。夢の残滓が脳幹にパシパシと閃く。

額を抑えて表情が翳る少年の様子に、男はただ訝しがる。

 

「ん?どうした?調子が悪いのか」

 

「え、いや。何でもないです。……お互い、災難でしたね。あんなのがいきなり現れて」

 

「そりゃあな。でもあんた、あんなの相手に戦って稼いでるんだろう?大したもんだよまったく。俺なんか、とても無理だね……ゴブリン相手だって、一目散に逃げっちまうよ。まして誰かを守るなんてなあ」

 

商売人として糧を稼ぐ男にしてみれば、遠い場所で命を賭ける者達に対しては羨望と賞賛を送りこそすれ、恐怖や侮蔑など芽生えもしない。それは間違いなく、殆ど関係ない場所で生きているからこその振る舞いに過ぎない。しかし、故に正当で、客観的な評価だと言えた。出し抜けに降り掛かった災厄。それに対し勇敢にも立ち向かって神を守る戦士の姿は確かにそこに存在していたのだと。

率直な賞賛がベルの心の中に染み渡る。自分が何者なのか見失いかけ、居場所を探し続ける虚ろな心に生まれる誇らしさと温かさを感じた。弱い自分を過去に出来る力を得ても、それを誰かの為に使わねば何の意味があるだろうか……。それがわからなければ、今危うく掴んでいる救いの糸の有無など関係なく、自分はすぐに闇の中へと舞い戻っていくだけだろう。男とともに巻き込まれたあの死闘の時のように。

ともかく少し照れくさくなったベルは笑みをこぼした。

 

「まだ、半人前にもなってないですよ、ど素人もいいところで……。神様にも、心配かけてばかりなんです」

 

「ど素人!?あれだけやってど素人と来たかよ。凄いな。……すまん、あんたと、あんたの神様の名前、なんだった?」

 

「ああ、それは」「おおい!君!」「??」

 

会話を中断させられる呼び声に、既視感をおぼえるベル。男と一緒にその方向を見やると、健康的な体格をした獣人の女性が手を振って走ってくる光景があった。

期せず男と顔を見合わせてしまう。誰だ?と通じ合う心。今度こそ全く面識の無い存在だった。そうしている間に、女性はもうそこに立っていた。ふう、と一息つく丸い顔はいかにも人柄の良さを滲み出させる。

 

「や~、思った通り。君、ヘスティアちゃんの所の『子供』だろ?白い髪と赤い目と、その古傷……ベル君、だっけ?」

 

「はっ、い……?すいません、以前お会いしましたか?」

 

主の名前を出されてますます面食らう。……いや、ひょっとしたら、とその推測に思い至る暇を置かずに、男は指差して口を開いた。

 

「ん?アンタは、確か……ウチから仕入れてくれてる所の店員だったよな。あの、じゃが丸くんの露店!」

 

「え!?じゃあ、神様のバイト先の方ですか?」

 

「そうそう!いつもいつも、どうも助かりますよって店主さんも言っててねえ……ああ、もちろんヘスティアちゃんにもね。本当さ」

 

驚嘆に口を開けるベルを他所にして、面白い偶然の渦中にある男は感心して頷くばかりだった。

 

「ほおお。狭いもんだな、世間ってのは。どんな神様なんだ、ヘスティア様は?」

 

「そりゃあ可愛い女神様さ。小さくて一所懸命に働いてねえ……まだ少し足りないところもあるけど、みんな元気づけられるし、お客さんからも好評なんだよ。ザシキワラシなんてアダ名がついたりね」

 

「???、ザシキ?なんですか、それ?」

 

奇妙な縁で繋がれた者達の、とりとめのない会話が続いていく。ベルは気付きもしなかったが、陽の下で営まれるこの時間とは、彼が忘れかけていたもの……彼の道を照らすものと等しく代え難いものだった。それを思い出させてくれるものは、彼の身の回り、いや、この世界すべて……死すべき者達を繋ぐ鎖でもあるのだ。出会いで結ばれる鎖の意味を真に理解するには、彼はまだ、若すぎたのだが……。

ともかく、少年を挟んで、その二倍は齢を重ねた男と女との歓談も、かれらを温かく包む日差しのように緩やかで、何者も害せぬものとして続いていた。概して食い扶持の話題であり、ベルにとっては語るのも苦痛な淀んだ思い出もあったが、不思議とそれは意識の何処かへ追いやられ、口をついて出るのは初めての探索の日、初めての戦いの時、初めての帰還の途、続く試練の数々を早くも懐かしがるか、さもなくば……主との、賑やかで慈しみの溢れる新たな生活の記憶ばかりだった。

 

「……神様。危うく屋台を全焼させるなんて……」

 

「竈の女神様にしちゃあ、火の扱いは苦手なんだなあ、ははは!」

 

「アッハハハ。まあまあ、何とか消し止められたから今じゃ笑い話さ……失敗も多いけど、何と言っても前向きで、へこたれないんだねぇ、ヘスティアちゃんは……」

 

翳りのない話はいつまでも続きそうにベルには思えた。しかし、そうもいかないままならなさは、別段彼に限って付き纏う問題などではなく……つまるところ、獣人の女性が声を掛けてきた本当の理由を知るべき時が来た、というだけの事だ。溶けゆく語尾を少し置いて、女性が言葉を紡いだ。

 

「……だからさ。店主さんも、あたしも、皆も、待ってるから。また働けるくらいに元気が出たら教えてくれるように、伝えてくれないかい?」

 

「……え?……え?」

 

「ん?……あら」

 

意味が取れずに目を丸くするベル、その様こそが女性に対して、真実へ至るに充分な道筋をもたらす。

 

「――――ひょっとして……ヘスティアちゃんったら。ここ数日お休みを貰ったこと、話してなかったみたいだねぇ。フィリアの後、もう、魂が抜けたみたいになっちゃってたんだよ。『子供』が、つまり、君、がね……大変な事になった、ってのは聞いててね。それが関係あるんじゃないか、ってのは皆も思ってたけどさ」

 

「そんな……神様は、そんなの一言も……」

 

呆然として声を絞り出すベル。衝撃的な事実として受け止めねばならなかった。しかし、思わず口をついて出そうになった感想をそれ以上続けさせなかったのは、彼の羞恥心がそれほどに強固であったからだ。手前の事を棚に上げてどれほどの台詞を吐けようかと。

だが、そのまま沈みそうになるのを放置する者ばかりではない。それは、彼自身の行いが招いた幸運なのである。

 

「……明日から来なくていい、なんて言われたら確かに話すのに勇気は居るだろうよ」

 

とっさに口を噤んで顔を曇らせる少年の姿は、見守る大人の理解をよりたやすく、促すだけだった。咄嗟にフォローを入れていく人生の先達らは、見た目に違わずに青く育ちかけたばかりの心根を慈しむだけの余裕があったし、それだけの好感も抱いていた。

 

「そうそう。誰も言いづらい事くらいあるもんじゃないか。それにもう、君もすっかり元気そうだし、ヘスティアちゃんだって大丈夫そうで、安心したよ……そんな顔しちゃ、駄目駄目」

 

俯き加減の首を直すように、強めに背を叩かれるベル。二組の双眸と目が合う。男の顔は、先ほどと同じ……人好きのする、陽気で、それなりの経験を皺と刻んだ中年のそれは、破顔したまま、口を開く。

 

「おう、まあ、色々あるもんだ。頑張る時はよ、せめて良いもん食って元気つけとくんだぜ。気持ちだけはサービスしてやるから、いつでもウチで買ってけよ!」

 

獣人の女性も、情の深さを体現したような濃く硬い髪を陽に煌めかせて、笑った。

 

「ほれ、難しい事なんかありゃしないさ……頑張れるだけ頑張って、疲れたら休むんだよ誰だって。今さっきまで元気にしてたんじゃないか?さ、前向いて、行かなきゃね」

 

ベルは視線を交互に送った。軽く、言うものだ。まったく、簡単そうに。……それがかくも確かな導のように思えるのは何故なのか?言葉だけでは計り知れない説得力は、少なくともベルが真似したって全く再現出来はしないだろう。

背を押される感触は物理的な反応以上に、少年の歩みを強く推し進めるだけの力を持っていた。ベルは、溜まった何かを押し出すように、胸を抑えた。それから息を大きく吸って吐き出すと、織り重なっていた幾千もの澱も一緒に消えていくように思えた。いま発するに必要なものはそれではないと、彼は知っていた。

 

「……ありがとうございます。何度も立ち上がれる強さが無くちゃ、どこでも、どんな時でも前に進めないし、誰かと支え合えばそれを得るのも、簡単なのに。すぐに忘れてしまうんです。――――不安なのは、神様だって同じだって事も」

 

廃水道での主への告白でも語り切れなかった思いの丈でもあった。改めて自分へ理解させるためでもある言葉が、聞く者の耳にしっかりと届いていた。ちっぽけな人間のちっぽけな意志とは、その歩みを続けさせるのにどれほど欠かせぬものであるか、かれらは知っていた。期せずとも同じように深く頷く。

 

「それがわかってるなら、大丈夫だよ。ヘスティアちゃんによろしくねぇ」

 

「死なない程度に、頑張れよ。若いうちは何度もずっこけるもんなんだからな」

 

手を振って、二人はそれぞれの場所へと歩いて行く。ベルは、知っている。かれらの道は、自分とは遠く離れた所にあるものだ。だからこそ言えること、見えるものがあり、本来交わらざる何者かに新しい光明をもたらしうるのだろう。

この街で得たあらゆる出会いが、そうなのだ……。

 

(そうだ、だから……きっと、大丈夫だ)

 

遠くに微かに揺れている希望がもしも失われるかも知れないのだとしても、その時ただ、出来る事をすればいいだけだ。

ベルはそう思い、家路へついた。

そこで、待たねばならないのだ。主の帰りを。

 

 

--

 

 

怒り心頭のまま去ったロキと入れ替わるようにロビーにやって来たヘスティア。それを迎えるのに適任なハーフエルフの職員は残念な事に所用で外していた。然らばとミィシャが相手をする事になる。

未だ女神の頭から仄かな湯気がたっている理由など、この場に居る誰もが知り得ないことだったが、多分それは自分達とは関係ないことだろうとも思ってはいた。カウンター前できょろきょろと視線を移ろわせながらも少し震えて鼻息を漏らすヘスティアに対し、ミィシャはなるたけ刺激をしないように声をかける。

 

「三日ぶりですね~ヘスティア様……あ、はじめまして。ミィシャ・フロットです。エイナから色々と聞いてますよ~。今日はどんなご用件でしょう?」

 

ヘスティアは桃色の髪の毛の持ち主に見覚えは無かったが、纏わせる抜けた雰囲気はわかりやすい人懐っこさを醸し出していたし、その言葉から嘘も感じ取れなかった為、冷めやらぬ興奮も少し落ち着かせるように努める。あの宿敵は遠くへ去ったのだから……。

 

「ん……と、ハーフエルフ君の同僚かな。いや、ほんとにとるに足らない質問なんだが……つまり、連中はもうラキアに帰ったのかな?」

 

「え?ああ、情報提供ですか?あの人達なら――――」

 

もしもその答えが、彼女にとってあまり都合の良くないもの――――ラキアの兵士の滞在期間は伸びるのかもしれない、等――――であったとしても、結局のところヘスティアとその眷属のする事はここ三日とさして変わる事は無かったと思われる。どうせ、捜査の延長もすぐに限界になるはずだ。さっさと引き上げるに違いないと。

目を丸くしたミィシャが口を開こうとした瞬間、女神の予測を浅はかと断ずる現実は、すぐにそこに顕れる事となった。

前触れ無くカウンターのずっと奥に見える扉が開き、その男は不遜なる威風を以て一瞬でロビー中の視線を奪ったのである。

 

「あ――――!」

 

誰のものとも知れない声とともに沈黙が訪れた。人々を一瞥する、口を引き結んだ硬い表情。兜に覆われて一層その怜悧さを増し、半端な時間帯のおかげで和気藹々としていた空気を張り詰めさせるに充分な気迫を漂わせる。

槍と大盾で武装した戦士は、衆目の好奇心を跳ね除けるような力強い歩みでギルドの正面入口へと向かっていく。思わず口を噤んだ小さな女神の事など目もくれないのは、当然だった。しかし……。

 

「ついさっき、タレコミがあったんですよ。背の高い、獣人のかたから。で、滞在も延長になるとか」

 

「!?………!?!?、誰……いや、違う……!?延長……!どれくらいなんだい……?」

 

暫し目を奪われていたミィシャが我に返って連々と解説しはじめるのを聞き、ヘスティアは小声気味に尋ねる――――すぐにそれを後悔した。芽生えた疑問を解くには、今この瞬間で無くても良いはずなのだ。あの獰猛な光を目に宿した猟犬は、まだ出口まで足の届かない場所に居る。彼らの耳に届かないはずがないではないか。

 

「……?あっそうか。褒賞金の事なら焦らなくても多分大丈夫ですよ。この街へ来る前に事前勧告があったぶん、もっと日数を使った捜査を続けられるとかで。それに今なら奥にもう一人……」

 

「あ!あ!あっ、いや、いい!気のせいだった、じゃあありがとう、失礼するよ……?!」

 

これ以上続けると確実にボロが出まくるだろうと自覚したヘスティアは、無理やり会話を打ち切って踵を返した。そこで、硬直する。岩壁がそこに立ったような幻視を生ませる屈強な肉体が目の前にあった。体の芯まで叩き込まれた規律のように真っ直ぐな背筋が通り過ぎて、ミィシャの隣に居る職員と相対する。

ヘスティアは、自分の顔以上にその職員が表情を凍てつかせているのにも気付けないほどに心中を波立たせていた。石突きが床に当たり、冷たい音を立てた。

 

「旧地区の下水道……管理用の入り口は、さっき聞いた通りの場所で間違いないな?」

 

「はっ、はいっ……」

 

「――――!!!!」

 

誰だ、誰が喋った?誰に見られた?どこで……無数の疑問が浮かんでは消え、それでもこの場から逃げ出そうとせずにただ棒立ちになるヘスティア。ここで動けば、更に怪しまれるだろう。まだ目をつけられた訳ではない。はずなのだ。落ち着けと自分に言い聞かせる。

職員と兵士の会話の残響が、絶対者の頭脳を全力で回転させる。どうする?すぐ隣の兵士はどこまで知っている?場所を尋ねていた。街の隅、その打ち棄てられた場所は路地が蟻の巣のように別れ、その地下は更に底が知れない……少なくとも自分の場合は、そこを隠れ家にする者の案内が無ければ脱出も覚束なかった程だ。余所者が押し入って目当てのものを探し当てるのに、どれほどの時間が掛かるか……。

 

「ヘスティア様……?」

 

「はっ……!」

 

意識を呼び戻す声は、ヘスティアの目に兵士の後ろ姿を認めさせた。悠然とロビーから去っていく背。その光景が、渦巻いて定まらない心情を一瞬で固めさせた。

 

(――――アルゴス君に知らせるんだ。いつ捜査が切り上がるかもわからないのに、このまま待っていたらまずい!)

 

別の場所に隠れるか、それともこの街から去るのか……彼がどうするにしろとにかく伝えなければならないと決意する。何もせずにいた方が良い時もあるが、何もせずにいるべきでない時もあると彼女は知っている。人波をかき分けるように威を放つ男が街道を曲がって消えるのを見て、ヘスティアは遂に走り出した。場所は覚えている。一直線に行けば、あの兵士の鼻がいかに利こうとも先回りするなど不可能だろう。

僅かな間立ち尽くしていた小さな女神が、伸びる手から逃れようとする子猫のように走り去っていくのを見て、ミィシャはただ首を傾げるだけだった。

 

「どうしよう?あの隊長さんに教えておくべきかなあ?」

 

「……あのヒゲの人なら、さっき裏口から出て行ったけど」

 

「え?」

 

こぼれた独り言に意外な返答を受けて、目を丸くする。不幸にもあの気迫を正面から受け止めた同僚の姿は、今なお少しばかり草臥れて見えた。

 

「旧下水道の入り口って、一つだけじゃないの?なんで二手に分かれるのかしら?」

 

「あの辺は迷路みたいになってるし、あちこち崩れてて危ないからね……。後ろ暗いものを抱えてる人が潜り込む隙間も多いらしいよ」

 

「へぇ~……」

 

遠い他人事に思いを馳せて、ミィシャは息を漏らした。

ともかく、空気を硬く張り詰めさせる者が消えて、いつも通りの緩やかな貌がロビーに戻りつつあった。

 

 

--

 

 

「――――ベル、君ッ!!」

 

「神様――――!?」

 

ベルが知ろうか、帰路を行くさなかこうして主と街中で対面出来たのは、完全な幸運に基づく偶然であったと。汗を散らす全力疾走を止め、思い切り肩で息をするヘスティアの様子は、一目でベルにある予感をもたらした。

 

「はあ、はあっ、……マズイ、マズイぞっ、あいつら、下水道に……おわあっ!?」

 

「すいません、失礼しますっ!!」

 

もはや、詳らかに始終を聞く必要はなかった。ベルは、いつかと同じように主を抱え上げて、両脚の筋肉を弾けさせる。一気に上がった目線に映るものが引き伸ばされて消えていく光景で既視感をおぼえるヘスティア。これが平時であればおお我が世の春が来たと愛しい『子供』に抱きつくだろうが、そんな場合ではないのもあの時と同じなのだ。尻に火がついたような焦燥感をともに分かち合いながら、一つの影になった主従はオラリオの平穏な空気を突っ切って行く。すれ違う好奇の眼差しも忘れて。

風を切る音と、自らの肺腑の悲鳴と、二つの鼓動が、地を蹴る冒険者の聞くすべての音だ。早く、もっと早くと脳幹が喚く。追いつけ、追い縋れ、間に合えという思いは、あの時ただ逃げる為に身体を突き動かしていた衝動とよく似ていた……戦う事を求める自分をひたすらに抑えつけ、守るものの為にと言い聞かせ、自分が変質する恐怖を忘れるべく走ったあの時。

そう、恐怖だ。失うかもしれない恐怖。そこから逃げる為に、消えそうなそれに飛びつこうとひた走るのだ。遥か先にある、微かなものを目指して……。

 

(――――いや、無駄な事は考えるな……今、出来る事だけを考えろ――――もっと、早く走れっ!!)

 

しがみついてくる温度。それを認識するだけで、ベルの中からすべての雑念は消え失せた。脳裏に地図を生み出すエネルギーも両脚に流れ込み、身体に覚えさせた道順を辿って動かさせるだけだ。壁に挟まれた薄暗さも、転がるゴミも、狭く無秩序な分岐点も、ベルを止まらせる事はない。たとえここが一片の光の無い闇であったとしても、彼は止まらなかっただろう。

どれほどの時間が経っただろうか、やがて現れる崩れた割れ目と、その中に続く階段。影に融けて日中に眼前まで迫ろうとも朧気な入り口に、躊躇なくベルは飛び込んだ。何よりも、主の身体に傷と衝撃が無いよう配慮しつつ……。

 

「うはっ……だ、大丈夫かな!?こっちで!?」

 

「っ、はい――――!!」

 

どこかからか差す陽によって、廃水道の視界は淡く見えるが、それが却って不気味さを醸しだしてもいた。尤も切羽詰まった極みにあるふたりにとっては、そんな感傷を得るだけの余裕もない。主への返事も一声で済まして、ベルはその場所へと向かう。いつもの待ち合わせ場所だ。腕の中にある安らぎの象徴を、辛うじて取り零すのを免れたあの時と同じ場所。

三日ぶり、はじめて日中にやって来るそこはやはり、かつてと同じように誰の気配も感じられない虚ろな空隙があった。だが、構わずベルは口を開く。全力疾走の疲れも、酸素を求める肉体の声も無視した。

 

「アルゴス!!アルゴス、聞いてくれ!!ラキアの兵士が探してるんだ、この、辺りにもすぐ、に、来るっ!!――――……っ、っ……!」

 

「おいっ、ベル君、落ち着いて!息が切れてるだけだ!」

 

急に視界が暗まり、意思に逆らって傾く身体をなんとか片膝で支えるに及んだベル。主はすぐに原因を悟って、腕の中から降りて『子供』を気遣った。喉頭を激しく往来する呼気が、薄明に陰影を落とす地下に響く。だがその返事は決して無い……。ヘスティアの決断は、すぐだった。

 

「アルゴス君……居ないのか?……いや、聞こえてるだろう?すまないが、ボクらもここにはいつまでも居られないし、もう引き返すけど……」

 

「ッ、神さ、まっ」

 

主の言い分はもっともだとわかっていても、そうベルは縋らずにいられなかった。姿までとは言わない、返事だけでも聞きたい。まだ帰れないと、蘇ってきた不安が首をもたげて弱気な本音が顔を覗きだしていた、主の言葉を遮ろうと。

だがヘスティアは構わず口上を続けた。この思いとそれを伝える事は何よりも、愛する『子供』と、そしてこの闇の中人知れず隠れている彼の為――――

 

「どうか!あんな連中に捕まってくれるな!この子の為にも、キミの主神の為にも――――」「そうは行かんな……神ヘスティア。その『子供』ベル・クラネル」

 

「――――!!??」

 

突如。

後ろからその低い声が掛けられて、主従は振り返る。割れた天蓋より差し込む光の帯が埃を煌めかせており、その奥に佇む影を隠していた――――すぐに、その欺瞞も消え失せる。男が、一歩前に足を踏み出した事で。

ぶつかる金属音と、硬い皮革の摩擦音、そして、苔を生やす石畳を撞く音が生まれた。ラキア兵は、長槍と大盾を携えてそこに立った。倒すべき敵を前にしたのと等しい、空気を破裂させそうな緊迫感が生まれるのをベルは知った。

鼻当てを挟んで光る双眸は、小さな女神と小さな眷属を真っ直ぐ射抜いていた。

 

「なっ、なんで……こんなに早く。本部じゃ、ボクの事なんか見向きもしてなかったじゃないか!?」

 

震える唇で紡がれる言葉は、侍る『子供』への弁解じみた疑問となって男にぶつかった。男は鼻息をひとつだけ吐いた。

 

「気付いていないと思ったのかバカめ。あのせむし男の主神と貴様との関係。貴様と『子供』、その姿と名前。全て知っているというのにな。しかしあんな簡単な芝居に引っかかるとは、余程の頭弱か」

 

「……!!!!」

 

ヘスティアは完全に言葉を失う。それも、露骨過ぎる侮蔑に対してではなく、完全なる自分の失態に気付いたが故だ。この兵士は天下の往来で大騒ぎした末にのこのことやって来た自分の存在を認めたからこそああもあからさまに情報を漏らし、そして呑気に街へと繰り出す姿を晒したのだ。まんまと紐を掛けられた事に気付かずに、大急ぎで獲物の場所へと案内した己が間抜けぶりに気が遠くなる。

顔色も頭のなかも真っ白になる神を前に、男の不遜な態度はなおも改められる事無く、声が続く。

 

「しかし、ロキかフレイヤか……さもなくばデメテル辺りが匿ってると思ってたがな。確かに貴様らも目星をつけたうちの一つだったよ。だがこれほどの惰弱の……軍団とすら呼べぬ雑魚に縋るほどとは。哀れむな、あの化け物も」

 

「!!、!!!!ざ、ざこ……っ!……あ、哀れっ……!!」

 

溢れそうな自責の念も、出される旧知の名前も、続く台詞により一瞬で吹き飛ぶ。確かに、ヘスティアは、その外見だとか、その性情だとかを、色々と他の連中に揶揄される事は多かったし、それにあまり気分を良くする事もなかった。だが、ここまで冷たく、はっきりとした悪意に基づく言葉をぶつけられたのは初めてだった。それも、死すべき者に、だ!

いや、それよりも何よりも許せないのは……そう、自分の事など、幾ら馬鹿にしようが、貶そうが、見下そうが、心底どうだっていいのだ。関係ない道を歩いている関係ない奴が何を言おうが、それは自分の歩く道に何の影響を与えられるというのか?

しかし目の前の男が踏み込んだ領域とは、そんな達観も消し飛ばさせるのに容易な、その女神にとって誰にも侵させざらんと振る舞うべき神聖さに満ちていた。

 

「アルゴス君を信じて共に戦う事を選んだこの子が、どんな気持ちだったか、何を背負ってるか、そんな事も知らないで――――惰弱だ、哀れむだって!?」

 

傍らの少年の耐える屈辱は、自らにも等しく科せられるべきものだとヘスティアは疑わない。振り向いてその顔色を伺うのも忘れるほど、彼女の『子供』へ向ける思いは深いのだった。それを解する気など無い男の冷たい目はただ鋭く、吠え立てる犬を見下す如き無慈悲さを隠さない。

 

「……御託が過ぎたな。ともかくあの罪人が居ないのであれば、さっさと来てもらおうか……共犯者ども。言いたいことは本国で幾らでも言うがいい」

 

なおも恐れを知らない言葉だった。ジビエに鉈を振るうが如き物言いに、いよいよ目を剥くヘスティア。無音の地下空間にてどこまでも鋭敏な聴覚を疑うのである。

 

「は……共犯!?なにを言ってるんだっ!?いぃいやっ、それより!あの子が罪人だなんて絶対に有り得――――」

 

「……それが、本当の狙いなんですか、ラキアの……!?」「えっ?」

 

現れた追跡者を前に固い沈黙を守っていたベルは、その実ただ思考の海へ潜っていた。主の無様さを論おうなどと思いつきもしない、探り求めたのはこの場を切り抜ける方法だけだ。目の前の敵の備える正当性を覆す道、罪人を追う者を退けるには?

答えはまだ出ない、しかし、男の言葉はその導でもあった。至った真実の一端を口にして揺さぶりを掛ける。男の纏う威に、重さが加わったような気がした。迷宮で出会ったどんな敵よりも組し難い存在だということは、既に理解しているベルだった。

 

「罪人を捕らえるのは名目……協力者をあぶり出して連れ帰る……人質として」

 

「ァえぇっ!?」

 

田舎の農村から出て来たばかりのまるで世間を知らない少年は、だからこそ職員に教えこまれた様々な一般教養をスポンジのように吸収した。大国ラキアと神々の街オラリオの長年に渡る対立も、そのうちのひとつだ。エイナにしてみればとるに足らない無駄話だったが、今組み上げる論理の立体模型を作る欠片としてベルの中で繋がっていく。

『子供』の推測がいかにも尤もらしく、そして悪辣極まる戦神の策と理解させるに充分な筋立てであったがために、ヘスティアは裏返った変な声を上げた。

怒りと驚愕の余り硬直する神を差し置いて、死すべき者はその視線をぶつけ合う。

 

「主と違って、それなりの頭はあるらしい。――――わかっていても、無駄な抵抗をする愚かさに克てないと見たが」

 

「ッ……!!」

 

無意識に、ベルの右手は腰のホルスターに触れていた。男が看破せしめるはその仕草から透ける、一人の戦士が宿す無謀なる蛮勇ぶりだ。歯噛みして見上げる赤い瞳は、吊り上がった眦と相まってもはやその害意を隠せない熱を発しているのだ。

ヘスティアに比べればというだけで、その眷属はちっとも冷静ではなかったし、憤怒は収め難く滾っている。ここまで馬鹿にされる謂れを背負うのは自分だけだと。短刀の柄を握る力が、腕の筋肉を爆発させそうに膨らませる。ざわざわと胸の中で蠢く黒い何かは、彼の気付かぬ内にその全てを呑み込もうと全身に染み渡りはじめている。

すでに臨界状態にあったベルに対して、男は最後の一押しを突き付けるべく口を開いた。

 

「どの道、貴様らに選択の余地など無いだろう。何の役にも立たぬ神と、寄る辺を持たぬというだけの理由でそれにぶら下がる屑を省みる者も、必要とする者もな」「――――!!!!」「ベルくっ……!!」

 

広くなった視界が真っ赤に染まる。その端で自分を制止しようと手を伸ばす主の存在も、ベルの中から消え失せた。噛み合わさる歯の根の反動が顎を開き、屈んでいた足腰が一気に引き伸ばされる。猛獣のように飛び掛かる少年が望むのは、刃の先にある無礼者が流す血による贖罪のみ。

声も出せない怒りに支配された『子供』の凶行を映すヘスティアの瞳は、全ての光景をコマ送りにして脳へと送り込む。地を蹴る足、抜かれた短刀、迎え撃つべく得物を構える兵士――――そこに現れた、巨大な影。

 

「あっ、~~~~っ!?」「んん゙ッッ!!」「!!」

 

三つの影が重なる。男の長槍が掴まれて逸れ、少年の振り下ろす短刀は色素の薄い右腕の皮を浅く裂いて柄で止まった。瞬時の沈黙で、外套が落ちる音も煩く響く。男とベルの間に割って入ったアルゴスは、肩越しに燃え盛る瞳を青く見据え、叫ぶ。

 

「ベル゙ッ……退けえ゙っ!!」

 

「!!……っあっ!」

 

長い腕に引っ掛けられた手首により空中で止まっていたベルは、振られる剛力に抗う術を持たなかった。いや、もしも、彼の中にある消せない業火が滾ったままであったなら、きっとこんな情深い制止などやすやすと飛び越え――――そして、歪な巨躯を睨みつける兵士の喉笛を切り裂かんと舞うだけだっただろう。

凄まじい力で固定された槍の持ち手を支点に男の全身が僅かに引き、一気に戻す反動の勢いで左手にある大盾を突進させる。それだけで半端な冒険者は全身の骨を砕かれるだろう衝撃は、アルゴスが瞬時に引き戻した右腕へと叩きつけられた。

とてつもなく鈍く、重い音は、宙を舞うベル、そしてやや離れたところで呆然と見守るヘスティアの全身まで揺るがし、主従の及び知れない領域にある戦士達の真の姿の一端を垣間見せるのだ。

 

「……!」

 

「ベル君っ」

 

床に転がる少年はそれでも、文字通りレベルが違う二人の男から目を逸らさない。辛うじてその視界は青いさざなみと触れて明瞭になり、怒りに任せ吶喊する愚を理解するだけの分別は取り戻せていた。しかし、それもすぐに去りゆくのが定められた運命だった。

ベルを跳ね除けた一手の遅れは、それこそアルゴスの失策として顕れていた。巨大な左腕は剥き出しのまま碌な備えを得ずとも、多少の攻撃に対する防壁として充分過ぎる機能を持つだろうが――――それは今、槍を掴んで離せぬままであり、そして何より相手は一山幾らで片付く迷宮の雑魚とは比較できない実力を持つ、ラキア有数の実力者だ。少なくとも、最強の戦士に目をかけられるだけの……。

大盾の一撃は相手の防御姿勢をたやすく破壊するに留まらず、大きくその巨躯を仰け反らせる。すぐさま握力の緩んだ大腕から槍が引かれ、がら空きの胴体目掛けて、一歩踏み込んだ男の渾身の薙ぎ払いが見舞われた。

 

「ハッ――――ッァアア!!」

 

「グゔっ!!」

 

腰巻き以外何も身に着けるものの無い彼は、その腹に食らった衝撃でさすがに堪えた。槍の胴金は真っ白い円弧の残像を描き、獲物の内臓を破裂させるべく全てのエネルギーを注ぎ込む。

全身を駆け巡る震動で巨大な左眼が更に見開かれ、不揃いな歯が交差する――――戦士の掛け声と呻き声、そして先よりも低く震える打撃音が、傍観者の理性を消し飛ばした。

 

「ッッ!ーーーーーーーーッッッッ!!!!」

 

咆哮。全てを怒りに任せて、ベルが今一度、敵に向かって跳んだ。低く、地を滑るような踏み込みは、彼に刻まれた神の力を優に超えた速度であったと見る者が評するならば謂うだろうが、主にしてみればただ底無しの絶望を想起させる蛮行に等しかった。また、彼は遠くを見ている。ここでないどこかを。そして、そこへ踏み込もうとしているのだ。激しい怒りのもたらす破滅的な未来へと。ヘスティアが思い出すのは、大猿との死闘の末に全身を砕かれ引き裂かれたあの姿だけだ。残酷な死以上の悲劇的な末路など、彼女は想像だにできないのである。ただ、現実今においてその危惧は的確ではあった。

 

「駄ッ……!!」

 

やはりヘスティアは制止の声を出し切る事も出来ず、そのままベルは兵士の間合いへと肉薄する。罪人との組手を一度制した男にとっては、見下ろす白い髪の奥にある赤い目など、恐るるに値しない輝きだ。突進の軌道に合わせ、右手の槍はその脳天を穿つ軸と重なって突き出された。幾万も重ねた修練と戦いの生んだ、寸分もぶれない一刺し。そして、思う。泡沫の如き弱小群団にしがみつく虫けらの怒りなど、この程度で絶たれよう……と。しかし、その僅かな慢心が、忘れがたい不名誉を招く結果を生むのだ。

 

「ッ!」

 

「――――なっ!?」

 

完全なる不覚だった。いや、その槍のリーチを完全に見切られていた事への驚愕は、この街の誰もと共有する反応ではあったに違いない。穂先と眉間が交わる寸前、低姿勢の疾走で溜まっていた下半身のバネを弾けさせたベルは、跳躍した己が肉体とすれ違うように足下の空を穿つ槍の事など瞬時に忘却していた。

右手を伸ばしたまま、盾で身体を庇う男。狙うは――――兜の隙間。ベルから見て鼻当ての左側に光る右目、だ。一直線に突き出される短刀。ベルの目論見は完全に達されたかと、少なくともその本人は確信していた。

だが、それは自身の貧弱な肉体に対する、余りにも大きな過信であったのだ。敵の実力への見誤りに等しく。

 

「――――らッ!!」

 

「がっ……!!」

 

瞬き程の間も必要な予備動作を経て、男の右脚が蹴り上げられた。爪先は細身の少年の胸筋に直撃し、その中にある肋と肺まで軋ませる。空に在った全身が大きく軌道を変え、ベルは短刀を握ったまま男の右半身をすり抜け、陽の帯を外れた闇の中に落ちて転がった。

 

「がはっ、ゲホげほっ!」

 

鶴橋を打ち込まれたような痛みに耐え、潰れた胸を必死に広げようとベルは咳き込む。その最中にも震える四肢に活を入れて立ち上がろうと足掻くのを忘れられなかった。

 

「貴様……!!」

 

すぐ振り返った男の声はどんな言葉でも言い尽くせぬ怒りで満ちていた。その原因は、ベルの身体が描いた低い丘陵を辿るように、滴り落ちて染みを作っていた。男の顎に薄く刻まれた朱い線から雫が流れる。敵の握る刃を濡らす屈辱の証左を見出して、更に男は激した。レベル1の雑魚相手の不始末は、彼自身こそが最も許し難い。それほどの自負は、全てのラケダイモンが等しく身に着けているのだ。戦士としての誇りと裏返しの傲慢さにつけられた疵を贖う方法は、最も単純で容易い道理を彼に悟らせる。即ち――――

 

「ぁぐうああウっ!!」「!?」

 

血への渇望に槍を折ろうかという力を右手に込めた男も、這いつくばる姿勢をすぐに立ち直らそうと手に床をつくベルも、ダメージに膝をついて歯を食いしばるアルゴスも、その呻き声のもとを見やった。

地上に在る絶対者は項を鷲掴みにされ、まるで兎のように持ち上げられて四肢をばたつかせていた。苦しげな表情は、脊髄を握り潰すのも厭わない握力が生むものに他ならない……皆の薄暗い視界に映る、女神の背後に立つ陰影。それが放つ迫力は雄弁に、この場を支配せしめんというその者の強い意思を物語るのだ。

だが、右手で主を掴み上げた者の姿をすべて目に収めて認識するより先に、ベルは動いた。自らの縋るか細い希望を捕らえようとした者への怒りよりも更に深く、濃く、激しい感情のうねりは、瞬時に彼の全身に満ちた。

 

 

 

『――――その娘を降ろせ!!――――』

 

 

 

「ッッあああああああああああっっっっ!!!!」

 

それを手に掛けようという意思の存在を、彼は決して許さなかった。幻影の生む力がベルの全身に迸る。眼前の大きな影は、その短刀が吸った最も新しい血の持ち主よりも高い背でベルの跳躍を待ち受ける。

 

「ベ、ル、君……っ!」

 

先に見せた、神の力に定められた領分を遥かに超えた瞬発力……それを更に上回る閃撃はいよいよ、痛みに耐えつつ然と真正面から見つめるヘスティアの心をも覆い尽くすような影として迫る。たとえベルが初めての眷属であろうと、理解出来ない筈もない。この身体能力の尋常でなさ、そして、刃を振りかぶる少年の凶相――――真っ赤な双眸を吊り上げ、剥き出しの犬歯を光らせる、飢えに狂った獣でさえ慈悲深く見えるだろう表情――――は、神の血が生む奇跡といかにかけ離れた禍々しいものであるかを!

ヘスティアの抱いた底無しの危惧はしかし、彼女自身の見識の浅さとして瞬時に退けられる事となるのだ。それはまことに皮肉な話だった――――彼女は、神の血によって引き出される人間の力の限界など、まったく知らないのだ。

 

「――――!!!!」

 

ベルの失策は、暗がりの中にあってその者の得物を見逃した事だ。怒りに覆われた浅慮に基づく必殺の一振り……ガネーシャ・ファミリアからの償いとして与えられた業物の短刀は、振り上げられた分厚い大盾と凄まじい相対速度でかち合う。

跳躍からの落下と、レベル1にあるまじき筋力で以て振り下ろされる豪速を湛えた刃は――――瞬間、甲高い断末魔を上げて、短きに過ぎる生涯を閉じる事となった。

 

「っぐ、あッ……!!」

 

その衝撃は、健気にも刀身という犠牲を以て霧散させんと願った短刀の柄を通り、少年の細腕を貫く。ベルは右腕の筋肉が断裂する音より先に、骨に亀裂が走る音を聞いた。

全ては、刹那の出来事だ。ベルの身体は容易く攻撃を受け止められるに留まらずにそのまま弾き飛ばされ、壁に叩きつけられて垂直に落ちる。重い音の直後に、砕けた鋼の散らばる透き通った重奏が廃水道に響いた。

 

「――――隊長……!!」

 

「……」

 

構えを解かないまま、男は計り知れないほどの畏怖を込めて、闖入者を迎える言葉を紡ぐ。ラキア最強の戦士は、右手の中にあった邪魔者をその場に放り捨てて足を踏み出した。

 

「あ゙ふうっ、うっ……ぐうっ、えほっ……!っ……」

 

「……随分と手間取るものだな」

 

置き去りにしたものが咳き込む姿など見向きもせず、濃い口髭を僅かに動かす隊長。また踏み出す一歩ともども、部下の佇まいを立ち所に改めさせる言葉は重く昏い余韻を湛える。得物と背筋を平行に直立させる男は、上官の下す沙汰を黙して待つだけだ。

勿論、地の底に這いつくばる者共にとってはそんな遠い国の規律など全く関係が無い。開かれた気道と動脈で目を白黒させながら、それでもヘスティアは四つ足で駆けて『子供』に縋り付く。

 

「だいっ、じょうぶか、ベル君……ボクの事、わかるかいっ!?」

 

「うっ、ぐ、…………!、……!」

 

右腕を抑えて呻くベルは、その痛みに抗しているのでも、主の言葉に我を取り戻しかけているのでもない。握力が失われ麻痺している手のひらの感触に歯噛みし、意思のもとに従わない手首から腕、肩までの筋肉へのもどかしさに身を焼くほど焦がれているのだ。立ち上がれ、戦え、倒せ。全てを奪おうとする敵を全て滅ぼせと、闇の中の声が叫んで荒ぶ。

 

「連れて行け」

 

「直ちに」

 

箍が外れて溢れ出す怒りに支配される少年の何もかもを気に留めない世界の有り様が、すぐ傍で続いていた。忠勇なる部下は短く指示を受けると、臥してなお戦意を宿らせる瞳に槍を差し向ける。その昏い煌めきは共にあるヘスティアの目に例えようもない絶望感を映し取らせた。どこへ連れて行くのか……決まっている、ラキアだ。あの脳筋横暴バカ戦神の膝元……いや、それだけなら許容出来ない事ではない、死ぬほど嫌だが。だが、この手で抱いている少年は?少年が冒険者として共に戦いたいと願った男は?かれらを闇へと引き込もうとする悪夢の使者達を退けるすべを全力で考えるヘスティア。

かくも静かに迫る審判への異議は、遂に放たれる。

 

「――――そい゙づはっ、……そいづも゙っ、その゙方も……おでと、なん゙の関係゙も、ねえ゙ッ!!」

 

「……!」

 

出来の悪いホルンを鳴らしたような、低く響くだみ声。精一杯の弁護を申し立てる思いがどれほどのものか――――少なくとも、それは血と炎の畝る闇の渦に囚われかけた少年の目を開かせるだけの真摯さはあった。鼓膜から脳を揺らされたベルがそれを見る。瞳の奥に広がる青色に浚われて、煮え滾る幻影が鎮められていく。

眷属の全身から力を緩まるのを理解したヘスティア。しかしそのほんの僅かな安堵は、酷薄なる詰問を成す者達こそが蹂躙する権利を持つのだ。

 

「よくもほざける……その愚かさは底を知らないらしい。全ての状況が示す事だ、罪人アルゴス。貴様を庇い立てするはオラリオのヘスティア・ファミリア。匿う者も連行の対象だとラキアの事前勧告に盛り込まれている……納得したいならこれで充分だろう」

 

声はどこまでも、冷たかった。あるべき律がある。従わねばならない掟がある。それに歯向かえば、相応の報いを受ける……まことに、正しい。一分の隙も見当たらない理屈を男は口ずさむ。隊長はその後ろで黙して佇み、会する者全ての一挙手一投足も見逃さない眼差しを研ぎ澄ましていた。

素晴らしい正論を流し込まれるヘスティアの中に、抑えがたい熱が生まれる。違う、と叫ぶ心の命ずるまま、女神の口が開かれた。

 

「――――何なんだ、君たちは……間違ってる、こんなの間違ってるっ!!」

 

根本的に違うのだ。この者達の言い分と、自らの認識は全くかけ離れているのだと彼女は理解する。納得だと?それ以前の問題だ。

身体の芯で燃え盛る炎は顔面まで真っ赤に染めていた。地上に在っては何の力も持たない零細ファミリアの首魁は己が迂闊さの招いた事態への後悔は確かにあって、それでも後ろめたさもみっともなさも、何かも吹っ飛ばしてただ喚くのだ。正義は我にありと。

 

「ああ、そうだよっ……全ての始まりからして間違いだらけじゃないか!アルゴス君が罪人なんて――――いいか、教えてやるっ!!あんな、手配書に書かれた罪状――――ぜんぶデタラメなんだよっ!!ボクは聞いたんだぞ。アルゴス君はウソなんか言ってない、全く、絶対に、潔白だ……君達のやってる事はみんなウソの上に築かれた徒労で、鼻くそほどの正当性も有りやしないんだぞっ!!!!」

 

ヘスティアがベルの告白を聞いたあの日、アルゴスに尋ねた、二、三の事柄。その素性、この街へ来た経緯。それだけで彼女は充分だった。充分、その男に手を貸すだけの理由を得られたのだ。

彼女の言葉は、このオラリオで暮らす全ての死すべき者が理解し受け入れるだろう。神に偽りを伝える事は、どんな奇跡でも能わざる所業なのだと誰もが知っているのだから。

 

 

 

その常識がいとも簡単に崩されようなどと、少なくともヘスティアは考えたこともなかった。

 

 

 

「――――神ヘスティア。貴様の言葉を真実だと担保するものは、何だ?」

 

 

「………………は?」

 

 

 

一切の音が絶たれた薄暗い帳は、女神にとってあらゆる生命の存在をその瞬間忘れさせていた。たった一人――――地の底の業火で鍛え上げられた刃のような恐ろしい輝きを持つ眼を向ける、ラケダイモンの隊長以外の、何もかもを。

 

「なに、言っ…………は?……担保?」

 

「貴様ら神々に偽りは通じない。では死すべき者は、貴様ら神々が紡ぐ虚言をどうやって暴ける?」

 

ヘスティアはその質問の意味が理解出来ない。こいつは何を言っているのだ、と心底思った。神に嘘はつけない、確かにそうだ。それで、虚言を……誰が?神?どの神が嘘をついたって?

ゆっくりと、ゆっくりとヘスティアの頭の中が回転する。どれほどの時間が経ったのかも、わからなかった。それほどの衝撃が小さな身体に駆け巡っていた。自らの追う罪人を庇う女神の言葉への異議……いや、違う。一柱の神がくだらない駄法螺をぬかしてそれを糾弾するというような、ごくごく狭い範疇での例を言っているのではないのだ、目の前の男は。

貴様ら、神々。そう言った。本心から、そう言ったのだ、この男は。

髭面の男の全身が発する、圧倒的な威の中に在るものとは――――神という存在そのものへの、不信。何があろうとも、己の全てを他者に委ねまいという、固い誇り――――どうしようもなく愚かで、傲慢な確信、なのだ。

 

(なんだ、それ――――信じられない。こんな人間が、存在するのか!?)

 

「偽り……は、そっちだ……!!……アルゴスは、罪人なんかじゃ、ない!!」

 

「!」

 

俯く少年の言葉は魂を削り出したかのように、切実で、悲痛で、激しい怒りの満ちた代物だった。振り返ってその顔を覗き込むヘスティアは、赤く燃える目を認めながらしかし、彼が確かな正気である事を知る。赤黒く腫れた右手首を抑え、痛みに流れる冷や汗を拭うのも忘れ――――ベルはただ、吠えた。心の底から。

だが主従の姿をただ映していた大きな青い瞳は、歪んだ顔面に似つかわぬ無念をただ浮かべていた。巨体に相応しく大きな馬鈴薯のような、貧相な頭髪の生えた頭が横に振られる。

 

「ベル…………もゔ、良゙いんだ。お前゙ぇはもゔ、関係無え゙んだ……だから゙早ぐ、こごから」

 

「関係無く、ないっ!!」

 

ベルは、アルゴスの懇願を一喝で退けた。この場において最も幼く、弱く、歩むべき道を探すのも覚束ない少年の身体には、狂気の炎の奥に隠されたもっと激しく燃える別の何かが宿っていた。それは彼という人間の、救われ難い弱さの根幹でもあった。赤い、血よりも炎よりも赤い虹彩の奥に燃える何かは、この場の誰しもの目でも捉えられない微かなものであり……そして、誰もが知る力でもあった。

 

「餓鬼の駄々こね等付き合う暇は無い。あるいはラキアを納得させる潔白の証明を成せるすべがあるとでも言うか?」

 

隊長は、この世で最もくだらないものを眺める時におぼえる感情を、その声に込めて言った。神の手を借りても這いつくばって虚勢を張ることしか出来ない塵芥にどうして配慮など出来るだろうかという思いは、何者にも覆し難くそこにあった。

ベルが顔を上げるその時まで。

 

「ある――――ある筈だ……神の、英雄の住まう街なら、そんな方法くらい……!!」

 

ハッタリだった。

だが、世界のことも、他人のことも、自分自身のことについてすらも理解の遠い『子供』には、選択の余地は無かった。力では決して覆せない壁、どんな情を通すのも拒む扉がそこにある。それでも最後の最後まで、何もかもを失おうともあがき続け、自分の歩みを止めてはならないとベルは固く信じていた。目指すものに辿り着けず道半ばで斃れるとしても、それは地に背をついた負け犬としてではない、立ち向かう意思を宿し続けた戦士としてでなければならないと。

見苦しい愚かしさしかこの世に残せないのであっても、死すべき者の出来ること、すべき事はそれだけだと……。

 

「その言葉こそ信じる根拠も無いと、何故わからない?」

 

穂先を突き付ける男はそう切り捨てる。そう、ベルが口にするのは徹頭徹尾稚拙も極まる詭弁であり、一笑に付す価値もないと誰もが断ずる言葉だ。だが――――

 

「本当に、あると思うのか」

 

「……隊長?」

 

上官の言葉は男にとって耳を疑うのに充分過ぎた。ただ強きを求めよと己にも他者にも等しく課し、常に行動だけを尊び、力無き意思に価値は無しと断ずる、まさにラケダイモンの模範そのものである彼は今、……信じられない。まったく信じられない、が――――

男が真意を問うより先に、ベルは口を開く。

 

「見つけてみせる!!」

 

「……」

 

兜の下より向けられる光から、寸分も目を逸らさずにベルは言い切った。必ず、恩人の無実を証明してみせると、心の底からの宣誓だった――――頑として、ぶつかる意思を退けるのも逸らすのも拒むがゆえに、ベルは気付かなかった。

蓄えられた口髭の下で引き結ばれている唇がほんの少しだけ、緩むのを。

そう、男はまったく信じられなかった。こんな、……確かに、所詮はレベル1と軽く見た報いを刻まれた事への遺恨があるのを否定はしない……だがこのような、神に庇われる事への辱めすら持たないだろう愚昧な『子供』相手に、尊崇する隊長は施しを授けようとしているなどと。

 

「正気ですか」

 

「こいつはそうではないらしいな――――その主はどうだか」

 

まったく未知の思考形態を突き付けられた衝撃はもう、ヘスティアの中から過ぎ去っていた。『子供』による精一杯の叫び、壮語で以って願望が垂れ流される今こそ、この暴虐なる収奪を覆す糸口を手繰り寄せかけている――――そこまで理解していた。

剣呑な眼光を向けられ、それを跳ね除けるようにヘスティアは声を張り上げた。憚る悪意が消し飛ぶのを願う無意識が、そのただならぬ威容を大いに盛り立てた。

 

「あるとも!!絶対に、ある!!キミ等の過ちを皆に知らしめる手段くらい、幾らでもあるに決まってるさっ!!」

 

幼い顔は一所懸命に強面を作り出す。大きな目を釣り上げ噛んだ歯を僅かに覗かせる様は、全く蚊ほども誰の恐怖を誘うものでなかった。ただ、自らの言葉に一片の疑いも持っていないだろうその愚かさを知らしめるだけで。

暫し誰もが黙して、主従同士を包んだ固い空気が互いを押しのけ合っているかのように、遠けき街の雑音をかき消していった。四つの眼光と四つの眼光がぶつかる火花を幻視したのは、其の者達が求める化け物じみた外観の片端男だけだ。

 

「ラキアは法治国家だ。人が法を以って人を裁く権利を持つ。神がそれを許している、という名目だが」

 

一息も空気を緩ませぬ重さを持った口調のまま、隊長は語る。隣に立つ男は、誰の目にも明らかにならぬよう祈りながら、動揺に身を震わせた、ほんの僅か。

 

「この件の全ては私が預かっている。……冤罪の疑いが濃厚と見れば、本国に捜査のやり直しの必要性を伝える義務もな」

 

「……!」

 

誰が息を呑んだか、沈黙を保つ者達は自らの声なき声以外察知出来ない。隊長は、目だけ動かして壁に凭れ掛かっているアルゴスを見た。

 

「罪人の身柄はこちらで抑えさせて貰う。……三日だ。三日後のこの時間までに貴様らの戯言を現実に用意出来なければ、ヘスティア・ファミリアはこの街から消えると知れ」

 

「!!、っ……」

 

ベルは、動かそうとした右手の痛みに呻くのを堪えて、左手で懐中時計を取り出した。正午だ。三日後のこの時間、と脳髄に刻まれるやその針が動き始めた。それからすぐに顔を上げる。アルゴスは、信じられないものを見るような目をしていた。他の誰もがわからないのだとしても自分にはそうわかるとベルは思い上がる。幾らでも驕ってみせると、決意が胸の奥に宿っていた。

 

「……お前゙ぇは……何で……」

 

「……必ず」

 

理由を口にするのを躊躇うのは、それを口に出したら燃え尽きて無くなってしまう気がしたからだ。本当はそんな事は有り得ないのだが、そう受け入れるにはベルは幼すぎたし、まだ潔癖で、脆い心を捨てられなかった。アルゴスの問いを遮って、ベルはただ、決意だけを言葉に紡いだ。

 

「必ず、証明する、アルゴス、あなたが着せられた罪は全て――――まやかしだって」

 

決して理で諭せない頑迷さは、善良な性根が生む美しき報恩の顕れだっただろうか。それは、喪失を拒む恐怖と愚かさそのものだと断じられて、誰が否定出来ただろう。だが、少なくともアルゴスは何も言い返す事はしなかった。ただ、頭を垂れた。

 

「歩け」

 

二人の兵士は、のろのろと立ち上がる罪人を挟んで、光の無い洞の奥への歩みを促した。手傷の癒えやらない僅かなびっこ引きの足音と、力強く己が道を疑わない足音が混ざる。

未だ跪いて見送るベルは、太い黒眉の下に光る金色の眼光と今一度、鍔迫り合いを演じる。刹那――――だが、決して、変わらない。自ら退く事は決して無く、それでいて過ちも後悔も疑わない意思を、言葉を持たず理解させるように。

闇の中に影が溶けて消え、耳に届く音も地上の微かな雑踏だけが残るようになって、どれほど経ったか、……ベルは、やっと、首を動かすことにした。どんな顔をすればいいのかわからないし、どんな事を言えばいいのかわからない。それでも主の顔すら見る事の出来ない弱さなど、もう二度と手にしたくないのだ。

そこにある表情は不安も軽蔑も無く、眉尻を形良く引き上げ、目は熱く燃える太陽のように煌めいていた。

 

「かみさ」「ベル君っ……よくやったぞっ!!あとは、無実を証明する方法を探すだけだっ!!」「えぇ!?」

 

ベルはちょっと所じゃない驚嘆で目を剥いた。確かにさっき渾身のハッタリに乗ってくれた姿を忘れた訳ではないが、『子供』による悪足掻きとしか思えない素っ頓狂な言動を諌めるでもなく、主は拳を握って声高らかに言うのだ。

 

「なんだよ、ええ!?って。ボクが雰囲気に流されて援護しただけだと思ったのか。……ベル君よう、確かに、頭に血が上って訳が分からなくなる事は怖い、わかるさ、それくらい。でもあんな乱暴な連中相手に、怒らないのがおかしいんだよっ!逆にそれくらいじゃなきゃ、あんな自信満々に威勢よく啖呵切るなんて出来なかったしな!」

 

ヘスティアは――――ここで敢えて、その議題を持ち出す。今、彼は間違いなく、恩人の救出という神聖な御旗を掲げ、そのための戦いに一歩踏み込んだ。それは、血塗られた運命への入り口などではない。間違いなく、皆に讃えられるべき偉業を成す英雄の姿へ続く、光り輝く道だ。だからたとえ、本質を意図的に違え矮小化するという欺瞞に満ちた詭弁なのだとしても、その憂いを少しでも取り除く機会なのだと思った。

きみの中に渦巻くものは、少し他人よりも激しいだけの感情の発露に過ぎないのだ。遥か格上のラキア兵を相手にあれほど堂々と渡り合う姿が、その証だと!ならばそれを生む正義の心こそ、ベル・クラネルという人間の本質に違いないと、ヘスティアは彼を苛む苦悩についての解釈のすり替えを目論んでいた。そのように明確に意識するのは無いまでも。……こうでもしなければ、彼女の、彼女の『子供』の背負うもの、辿るべき運命はあまりにも重く険しきものに過ぎた以上、誰がそれを責められようか。

 

「それより!今はそんなしみったれた顔してる場合じゃないんだぜ……アルゴス君が居なくなっても良いなんて、そう思うのか?彼が有りもしない罪状で引っ立てられて、そうでなくてもお天道様に隠れて生きなきゃいけない、キミはそれでも良いって?」

 

「――――思いません、絶対にっ!!」

 

気の抜けて、己の決断への不安に満ちていた少年の目に力が宿るのがヘスティアにわかった。そうとも、今……これからする事は決まっている。三日間。長いか短いか……この街の規模を考えれば少なくとも、最強にいけ好かないあのヒゲ野郎の慈悲に感謝する気にはなれない。だが、やるしかないし、やらずにはいられない。全ての手を尽くす覚悟は、今の主従の分かち合う最も激しく近い衝動だった。

 

「よっしゃあ、やるぜベル君!絶対にあの悪党どもの鼻を明かしてやるんだっ!!アルゴス君も堂々と表を歩けるように!!」

 

「はっ…………!!、い、あ痛たっ、う、う……っ」

 

もう一度手を振り上げる主に倣おうとした間抜けな『子供』が、一気に冷や汗を噴出させて右腕を抑える。立ち上がりかけた膝がまた地に触れて、その温度を下げた。

 

「!!、ああっ、忘れてたよ……ごめんよベル君。ボクがあんな奴に……とりあえずミアハの所に行こうか……」

 

すべてはヘスティアの思うように運んだように、少なくとも傍目そう見えるよう収まった会話。其の最後についてしまった味噌の始末に、二人はひとまず零細ファミリア仲間のもとへと向かう事にするのだった。

そう、主と心は一つという理解が、ベルの中からあらゆる懸念を忘れ去らせていた――――己の中の、燃え盛る破壊衝動、狂気。それは確かに常軌を少し逸していて、けれどそれだけの代物なのだと、そう思い込むことで。

眷属の中で今も静かに揺らめく業火とは、遍く死すべき者の命など、すべて塵芥に等しく映るものなのだという事実を主に伝える事もせず……それを自らが垣間見たできごとについても。

熱く疼く手首から下膊までの痛みは、そんな生ぬるい逃避を拒絶するように拍動していた。

まるで、骨まで食い込んで絡みつく鎖のように。

 

 

 

--

 

 

ミアハは『子供』との昼食を終えて、午後の業務の準備をしていた。忙しないのはいつもと同じだが、何よりも大事な存在と労苦を共にする時間は安らかな休息でなくても代えがたく思えるものであり……言葉には決して出さないが、ナァーザも同じだった。

大通りから少し離れた店には、今この時街中を騒がす事案について知るのに少しの時間がかかることだろう。

 

「じゃ、行ってきますので」

 

「うむ」

 

生身の腕に袋を持ったナァーザが、注文した材料を取りに行こうと――――買い物のついでである――――把手をとった瞬間、その扉が叩かれた。

 

「おおおーーい、ミアハっ!居るかい!?居るよな!?開けてくれっ!頼む、急ぎの用なんだっ!」

 

「……だ、そうですよ」

 

振り返った顔は、いつもの気だるげな雰囲気に小さな棘を隠しているように見え、ミアハはそれが錯覚であるよう願うばかりだった。私は巻き込まれてるだけだぞと。そのような懸念も、現れたものを見て主従ともども消し飛んだが。

迷宮へ挑む戦士の姿とは明らかに違う、使い古された軽装を更に汚れさせた少年は、腫れた右腕を抑えて固く表情を強張らせ、小さな主とともに薬屋の裏口から歓迎された。

 

「……懲りないね」

 

「うっ……あ、痛たたっ!」

 

何も言われずともナァーザは察して、処置に取り掛かった。もと冒険者であるし、人体の構造に明るい彼女は、さっさと上着を捲らせると固定具と包帯と治療薬を棚から引っ張り出す。痛そうにするのも構わずに手際よく治療するのはそれだけ慣れてるからか、或いは別の意図があるのか。

『子供』らをさて置き離れたところで、ミアハは少しばかり声を抑えるよう努めて尋ねた。

 

「ヘスティア……また、何か」「ミアハ!!自白剤あるかい!?一発で全部ぶち撒ける強力なヤツをくれっ!!幾らでも出すからっ!!」「何と言った?」

 

こちらを見上げる顔は鬼気迫る勢いを纏っており、開口一番理解出来かねる要求を宣う。痛ましく手傷を負った眷属と、また悶着を引き起こしたのかという予測の遥かな外を突き抜ける言葉でミアハは一瞬、停止した。

そして――――思い当たると、更に声量を潜めて囁くのだ。訝しげにこちらを見やる眷属達の耳には届かないようにするのが、女神のためと。

 

「いいか、ヘスティア……いくらベルが心配だからって、秘された思いとはそのようにして知るべきではないと私は思うぞ。大切にしたいという気持ちがあればこそだな……」

 

「何言ってんだよ!?そっ、それは……そう、もう解決済みだよ、見りゃわかるだろ!?ボクらにゃもう何の蟠りも無い、一心同体なんだから、なっベル君!!」

 

「えっ!?は、はい??」

 

ヘスティアの大声だけではそれがどういう会話なのか観衆にはいまいち判別出来なかったので、突如呼ばれたベルもただ戸惑う。少なくとも其の様は、少し前まで見せていた沈みぶりの面影を漂わせなかった。

 

「神様、ちゃんと事情を話しましょう。すぐにでも、街中に知れ渡ると思います」

 

「あ、そうだね……うん」

 

すぐ面持ちを固くした眷属の進言で、ヘスティアは誤解を招く自らの物言いを省みるのだった。

はたして、掻い摘んで事の顛末は語られる。終わる頃、少年の腕に包帯を巻かれるのも済んだ。

 

「というわけだよ。一時はもうダメかと思ったけど……これでもう万事解決さ。あいつら、まさかこんなにアッサリと覆るなんて思っちゃいないだろうぜ!」

 

説明を終えたヘスティアは、両手を腰に当ててふんぞり返った。まったく連中も主に似てノータリンだぜと、その思考は今や楽勝至極とどこまでも軽くなっている。だが一通り聞いていたミアハも、その『子供』も、決して倣わなかった。そんな空気を敏感に察知したベルもまた、同じだった。

 

「よくわかったヘスティア。そちらの思惑も……それで、こちらとしても重要な事を言わなければならないが……」

 

「ん?ああ、やっぱり値は張るかな……」

 

引き換えにするものなど無くとも幾らだって楽天的な展望を抱けるのがその精神の有り様だけであるのは地上の神も同じである。ヘスティア・ファミリアの懐事情は決して余裕があるとは言えない。だが、足りぬものは手を尽くして賄おうという覚悟に躊躇は無かったし、対面する主従もきっと、それを受け入れてくれるだろうとヘスティアは信じていた。

彼女の愚かさは、そんな部分ではなかった。

ミアハは表情を沈痛そうにしたまま、真実を語った。

 

「……残念だが、薬による証言では何も覆せない、というのがラキアの法なのだ。そなたの望むような力には、なれない」

 

「……、えっ、…………!?!?」

 

開かれていたはずの栄光への道筋が一瞬で閉ざされたという衝撃に、ヘスティアは棒立ちになった。無防備なその心への更なる追撃が、少し離れたテーブルに座る少女より放たれる。

 

「そーいう、非人道的な取り調べはダメって事ですよ……。拷問とか、恐喝とか、法定期間以上の拘禁とか、……薬物投与もね。ロクデナシ達の悪用も凄く厳しく目を光らせてるから、あっちで商売なんてろくに出来やしない」

 

「非……――――ヒ、非…………!!!!」

 

「か、神様」

 

非人道的非人道的非人道的。大きく揺れる鐘がヘスティアの頭のなかで何度もナァーザの台詞を繰り返して轟かせた。わなわなと震え、目を皿のように見開き口をパクパクさせながら顔色を白く、青く、赤く変えていく主の姿は、精神的な失調をすら『子供』に危惧させて――――その、瞬間。

 

「非っっ!ーーーーッヒひっひひ、!!……ひィひ非、ッッッ!!!!ヒ!!!!じ・ん・ど・うっっ!!、だとうおおおをおおおをおおお!?!?ベル君とアルゴス君にあんな事こんな事したロクデナシ連中が、人、道!!!!それを差し向けたあの無体無神経傍若無神超馬鹿野郎がどの口でンな事嘯いてっっ!!??」

 

小さな薬屋を揺るがす大音響だった。いや、カウンター側の通りを歩く人々すらその絶叫を聞いて一瞬身を竦ませる。立て掛けている『休憩中』の看板がぐらぐらと動いて倒れそうになっていた。

 

「おっ、落ち着けヘスティア!」「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 

「……神様が元気になって、良かったね。ベル」「……」

 

台風のように荒れ狂う心をそのまま肉体に映し出そうと、羽交い締めにされたまま藻掻いて喚くヘスティア。ベルは知りようもないが、激しい既視感を抱くミアハだった。他方ベルは、すぐヒートアップしてパーになりやすいのはひょっとしたら主譲りなのだろうかという、不謹慎極まる安堵すら芽生えさせるだけだ。

茹だった頭から湯気を放出し激発に身を委ねるヘスティアがやがてぐったりと両足を床に投げ出すまで、大した時間は掛からなかった。既に本日で数えて三度目の大爆発であり、未だ昼食もとっていなかったのだ。

 

「はああ、ふうう」

 

「すまん。だが、出来るだけの協力はするつもりだ。誰ぞ手掛かりを知らないかと、客に尋ねていくくらいだが……」

 

「いえ、ありがとうございます。いつも申し訳ないです……」

 

目を回してグロッキー状態なヘスティアはソファに寝かされ、顔の上半分に濡れタオルを被されていた。どこまでも穏当な対応を貫くミアハに対し、小さくなって頭を下げるベル。

 

「それでさー、次どうするかは、考えてるの?アテはあるの?……話した事は無いけどさ、あの連中、半端な事じゃ引かないよ、きっと」

 

「……」

 

白けた視線を保ったままのナァーザは、決してただの意地悪からベルの前に事実を並べ立てているのではない。神々の奇跡と迷宮から得る無二の力、資源、技術を抱えるオラリオの経済力と並ぶべくも無いが――――それでもラキアがあれほど広大な版図と多くの人口を持ってそれなりの歴史を重ねているのは、その頭目の圧制の凄まじさを意味しているのでは決して無い。従う者達の積み上げた統治機構がいかに優れているかを証明する事はあってもだ。異なる土俵に引きずり込まれた戦いの勝機が限りなく薄いというのは、誰の目にだって明らかなのだ。

だが、ベルの心はどうあっても変わらない。相手がどれほど強大な存在であるかを知ろうとも、それは着せられる理不尽を承服する理由にならないと、そう信じていたからだ。

自分の出せる全ての力を注ぐ以外に、すべき事など無いとも。

 

「だからって、うずくまって悩んだり考えたりしても、きっと道は開けない。手当たり次第、動いてぶつかるしかないよ。……方法はきっとある、僕はそう信じてる」

 

「…………ベル、君は」

 

鋭い目つきをして、ベルはナァーザに返答した。意思を形にするに充分な表情は、それ以上の忠告を無意味と断ずる……ナァーザはそう理解した。だからこそ、言う。深紫色の輝きが細まる瞼で色を濃くするように、ベルには見えた。

 

「やっぱり、馬鹿だねぇ。たった三日で、この街中盲滅法駆けずり回ったって、あるかどうかもわからない奇跡に辿り着ける訳ないでしょ」

 

「ぐ……」

 

曇りない筈の決意へ辛辣に冷水を浴びせられ、ベルの顔は流石に渋くなる。そりゃ、そうだ。わかってるが、あくまで口にしたのは諦める訳にはいかないという心の持ちようであって、などと女々しく返そうともしたが……。

 

「人の心を読み取る技なんて、そんなのよっぽどのファミリアじゃなきゃ生み出せる奇跡じゃないよ。……そういう人達が寄り合う所を重点的に当たるとか、具体的な方針くらい立てなくてどうするの」

 

全く道理にかなった助言だった。ベルは羞恥より、知慧の光明を与えられる感謝を覚えて、それに頷いた。そっぽを向いたナァーザはいつの間にか筆記具を手にして、紙に何かを綴っている。

 

「――――ギ、ギルドに行くんだぁ、ベル君。ボクもすぐ、知り合いを回ってみるから、ナァーザ君の言うように、キミは冒険者達から情報を集めてくれないか……」

 

「はい……神様、あまり無茶しないでください」

 

へろへろな声がソファから上がった。言われるや三角巾に右手を預けて立ったベルは、まるで自分を省みない台詞をほざくのだった。内心呆れ果てながら、ミアハは苦笑した。そうせずにはいられない主従の心を誰よりも理解していたのだ。この小さな薬屋の住民達も。

ナァーザは、手描きの小さな地図をベルに手渡した。

 

「私の知ってる、それなりの人が集まる盛り場。規模は小さいけどね……。そこで何を聞き出せるかまでは、面倒見ないよ」

 

「……うん。ありがとう」

 

単に愚かし過ぎる者への隠し切れない憐憫であるのかも知れない、だが例えそうであっても得られるもの何もかもをかき集めていかなければ、望むものには決して届かないのだ。真っ直ぐ視線を向けて感謝の念を告げる少年に、ナァーザは相変わらず、斜めに構えて冷めた目つきを返すだけだ。

彼女の本心を知っているのは、その主だけだった。いつもどこか厭世的で皮肉っぽいが、それに隠された本質を知る者だけ……。

 

「……何ですか。言いたいことがあるなら言ってください」

 

「ん、いや、いや何でもないぞ、何も思ってない」

 

大嘘を垂れる主の心も計り知れる方法とは、果たしてこの街に存在するのだろうか?ニコニコと気持ち悪く笑うミアハに見送られて裏口から出て行くベルを、視界の端に収めながらナァーザは詮無い事を思った。去り際に残された治療費がきっちり耳を揃えてあるのを確かめる。

 

「なんとお礼を言えばいいやら、わからないよ、君達には……」

 

「そういう大袈裟な台詞は、ぜんぶ丸く収まってからで良いですよ」

 

ヘスティアに返事をしつつナァーザは本音で思う、きっと不可能だろうと。やかましくて、やたらと世話を掛ける小さな主従と関わりを持つのも、これで最後のものとなるかもしれない。……勘定した料金は、普段ベルに払わせている分よりもずっと少ない。これで終わりなのならせめて最後くらいはボらずにおいてやろうか、という人の良さだった。

しかしミアハは、相変わらず笑顔だった。そのまま通りに出れば、女達の目を奪う優男は、『子供』の神経を逆撫でる表情を崩さず、言った。

 

「そうだな――――こういう時に高く貸しておくのも、商売だ」

 

少ししてから、ヘスティアは小さな薬屋を後にした。一本、元気の出る薬をつけで買わされて。

小さな借りだった。その気になれば、今すぐにでも返せるだろう。

これから更に、想像だにしないほどの借りを、想像だにしない相手からする事になるなど、彼女は考えもしなかった。

 

 

 

--

 

 

小さな薬屋の騒動なぞ誰も耳を貸さない理由が今まさに、ギルドへ向かう通りを闊歩している。一級冒険者と遜色ない気迫は、その列の一番目と三番目を歩く者を大きく覆う冷たい鉄塊のように道を満たし、人々を自然に退かせていく。

そして彼らはふたたび、目を剥くのだ。ラケダイモンに挟まれてびっこを引く、異形の大男を見て。

 

「ぎょえっ!なんであんなバケモンが地上に居るんだニャ~!」

 

「馬鹿、よく見るニャ、ラキアのパシリに連れられてるニャ、あれが噂の罪人アルゴスだニャ」

 

「おい、止せニャ、また怒鳴られるニャ」

 

異様な雰囲気でもって固く沈黙に支配されている表通りを、窓に齧りつきながら眺めている人影は絶えなかった。この酒保以外の店でも、概ね同じような光景が繰り広げられていたことだろう。

クロエは神妙な顔で、好奇心に敗北する同僚達を見回した。

 

「……あれはきっと、極東に伝わるフクワライの刑を受けてしまったからなのニャ、あんな見た目のせいで内面も歪んでしまったのに違いニャいのだから、悪く言うのはやめるのニャ……」

 

「フクワライって何なのニャ」

 

「きっといま思いついた適当な駄法螺だニャ~」

 

「おミャあ等が無教養なだけなのニャ!よく聞くニャ、極東の国では不始末をした者の目を隠して、輪郭だけ残してパーツをバラした似顔絵を復元させ、出来上がった顔のとおりに整形してしまうという恐ろしい刑罰が……」「「あっ」」「えっ」

 

限りなく胡散臭い高説も何処かへと消え失せる光景が彼女らの目に映った。丸い眼球の割れた瞳孔が大きくなる。カウンターの中に立つシルも、遠くに見える窓の向こう側に目を奪われていた。

三人の巨漢が店の前を通り過ぎようとするのを、通りの脇に立つミアが腕を組んで睨めつけていた。

まるで戦士たちの正面に立ちはだかっているかのような威容を、外壁を挟んだ店員達は確かに感じ取っていた。

 

「……」

 

足音が止まる。ただの酒場の女主人は、神の街にずけずけと上がり込んで我が物顔で練り歩く免罪符を手にした者共を前にしても気圧されることはなかった。どころか、獣のような四つの眼光を一瞥しただけである。いかなる意思も交わす気は無いとばかりに。

彼女が見つめていたのは、歩を進めるに連れ項垂れ気味だった首を再び持ち上げた、罪人の顔だった。歯を生やした奇形の蟇蛙が如き作りの顔は、口を小さく開いて乾いた息を吐いた。

 

「また…………懐゙かしい顔だ、な゙……」

 

「……本当に帰って来てたなんてね。何年ぶりかねえ?」

 

短い会話で、青い瞳が揺らいだ。かつての日々を思い出しているのだろうか。旧知の異形だが、その機微まで窺い知れる程の仲でも無かったミアだ。

しかし、ただ一つだけ確信出来る事はあった。

 

「……店゙……お前゙ぇの、か……大ぇしだも゙んだ……」

 

「…………馬鹿だね。こうなるとわかってたろうに、何だって戻ってきたんだか。アンタくらいの力があるなら、何処でだって」

 

アルゴスは、後ろの窓に貼りついている連中をちらりと見て、だみ声に感慨深さを滲ませた。視線を刹那合わせただけでぎゃーぎゃーと騒いでる声が中から聞こえたが、ミアにとってはどうでもいいことだ。問いかけを与えられた太い首が僅かに、横に振られた。それだけを見ていた今の彼女にとって、他の情報など無価値だった。

ミアは全てを悟って、無念を表情に浮かべた。踵を返し、扉の把手を握る。

 

「ああ、本当の馬鹿だよ。今更、何かが元通りになるわけでもないのに」

 

「……」

 

扉が閉じられる音は、誰も固唾を呑んで眺めているだけの通りの一角で、大きく聞こえた。それからすぐに、また二つの規則正しい足音と、重いびっこ引きの音が生まれ、去って行った。

戻ってきた店主の大目玉を恐れて壁際に固まるキャットピープル達を他所に、シルはただ吐き出せない言葉を堪え、ミアを見つめる。そして、その小さく緩んだ口元からこぼれる、力ない台詞を聞いた。

 

「……男ってのは、皆そんなもんなのかね……」

 

死すべき者であるならば、誰しもが変わるものだ。しかし、誰しも変わらないものを持ってもいるだろう。その周りが変わるだけで、立場も変わるという事もあるだろう。誰しもそうだ。

シルには、店主にどんな言葉をかければいいのかわからなかった。

それだけの知恵も、積み重ねも、持っていなかった。

 

 

--

 

 

好奇と生理的嫌悪の眼差しを浴びながら、罪人は街の中心部まで連れられた。専用の通用口からギルド本部へ入ったおかげで人集りに阻まれはしなかったが、少なからずすれ違う職員達も例外なく目を剥く。既に騒ぎは届いていたとはいえ、迷宮の住民とも縁深いと言えないかれらにとっては、出来損ないの巨漢の姿は同種としての近親憎悪じみた得も言われぬ恐怖を想起させた。おとなしく頭を垂れさせて歩かせる二人の戦士への畏敬の念とともに。

一行は更に奥へと通される。魔石灯の点在する長い階段を歩いた末に、凶悪犯を収容する地下牢の一角までたどり着き、そこでひっそりと実検が成されていた。

薄暗さの続く空間は、地上に溢れる欲望の掃き溜めが澱んだが如く、ここの住民達の心を苛む空気を保っている。しかし咎を持たない者にとっては、ただ少し湿っぽい、厳重なだけの手入れされた集合住宅に過ぎない。

 

「ああ……間違いない、このエンブレムは。乳飲み子アルゴス……まさか生きていたとは。……その、彼女からの伝言でもあってかね?」

 

ロイマンは大きな背を見上げて、驚きと郷愁を抱きながらため息をついた。その青い瞳を模した孔雀の羽の画がかつてこの街を牛耳った二つのファミリアの片割れたる証と、覚えている者はどれほど居るだろうか。激烈極まる性情で多くの神も人も恐れさせた主たる女神の振る舞いも。

しかし複雑な感情を含んだ問いかけに対しても、手と首に頑丈な枷を嵌められて獄吏達の手から伸びる鎖に繋がれたアルゴスは、何の返事もしなかった。

太い格子の扉が重い音をたてて開き、罪人はそこに収容される。機械と魔法による二重の仕掛けは、必ず特定の人物が立ち会わねば解くことは叶わないものであり、また人智の生み出すいかなる力も砕くのに及ばない。それこそ、迷宮に蠢く者共の牙すらも退けるだろう。鎖が壁に繋がれた。

 

「思い出に浸るのは、ここでなければ出来ない事か?」

 

「おっと、失礼しました。さて、そちらの用件は全て済んだと見て構いませんか?今日が期限という事になりますが、いつお帰りになると?」

 

眼光と同じように研ぎ澄ました声色にも、ロイマンは平然と受け答えした。余計な衆目も無い、陽の届かないオラリオのもう一つの闇の底では、侮られる為の仮面など必要なかった。本音を偽る意味もだ。

 

「延長だ。匿っていた共犯者を探す。拒否出来る道理は無いだろう」

 

「熱心な事で……ではもう三日ばかり、どうぞ存分に」

 

冷めた感情が口調に表れるのを、ギルドの長は取り繕わない。ラキアの目論見などはなから見通している彼は、戦神の浅ましき貪欲さには呆れ果てるだけだ。糞真面目に従う眷属への憐憫は、彼らの徒労を見越しているゆえに生まれた。哀れな罪人に悪意こそ抱きようはずもないロイマンだが、しかし今のオラリオの住民達の中でこの乳飲み子の人となりを理解しており、あまつさえ匿おうと考える者など居ようかと思うのだ。

その共犯とやらは、何の利があって、怪物そのものの風貌の、恐るべき罪状の知らしめられている大男を庇うだろうか。ロイマンには及びもつかない。ましてや今こうして獄に繋がれ然るべき裁きの時を待っている状況を覆そうなどと考えるものだろうか?尋常の理性の持ち主なら今頃はただ全てを諦め、出会ってしまった不幸、情けをかけてしまった過ちを後悔しているだけだろう。

前を歩くラケダイモンに続いて暗く冷たい石の廊下を歩くロイマンの頭からは、街に生まれた小さな波紋の原因など消え去りつつあった。もっと切実な問題など幾らでもあるのだから。

足音が途切れて聞こえなくなってから、牢の前に佇む獄吏は口を開いた。

 

「……この街の誰も、あんたに恨みがあるわけじゃないし、あんたに掛けられた容疑にしたって、少なくともロイマン様は信じちゃいないだろうさ。ただ、守らなきゃいけない決まり事があるからあんたはこうなってるんだ。悪く思ってくれるな」

 

獄吏達は同情心を失くした怪物などではなかったが、ただそれだけだった。果たさねばならない使命に従い、この場所を守り続ける。資格無き者の一切の出入りを阻もうと。

死すべき者が勝手に作り出した枷は彼ら自身を縛り付ける。神の街が誇る権勢も関係無い。真偽の程も、個人の意見も、……地に降り立った絶対者すらをも超越してそれは存在するのだ。

 

「……」

 

鎖が、床と擦れて音を立てた。鈍い痛みに耐えながら、座り込んだアルゴスは静かな息遣いを続けていた。大きな瞳が瞼で細まり、その焦点は今この場所ならぬどこかへと向けられている。

時刻を告げる鐘の音が地下牢に響いても、アルゴスはじっと座り込んだままだった。緊張の糸が緩んで眠りにおちる頃にはすっかり地上も夜闇と星明かりに覆われていたが、勿論彼がそれを知ることはなかった。

 

 

 

 

 







・役立たず、タマ無し野郎
ダンまちのウラノスはどうなのか。深い謎に包まれている。

・捻じくれ根性したクソッタレの陰険ヒスババア
それでも研ナオコ似ではないだろう、少なくともダンまちでは。

・神々が紡ぐ虚言
「許すとは言いましたが記憶を消すとは言ってません」
嘘ではありませんよクレイトス。

・ラキアの法、オラリオの法
全部捏造。全部。





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大きなお世話




上げまんた。





 

 

 

まだ陽は落ちていないけれども、エイナの気分はあまり明るくは無かった。それは決して表情には出さないが……。

それと云うのも、遂に捕縛されたという罪人の話で持ち切りの本部の空気だ。

 

「見たか!?あれが人間なんて、信じられるか」

 

「どーいう病気でも貰えばあんな風体になれるんだろう?」

 

「いや、怪物の呪いって聞いたぜ。昔はそんなとんでもねえ奴が迷宮に棲んでいたとか」

 

「どうあれ罪状に違わない化け物ってわけか」

 

「まあ大人しいもんだったけどな、ラケダイモンってのも伊達に精鋭呼ばわりされてないのか」

 

先日における小さな女神の妙な様相によって刺激された好奇心は、この一件についてのひとつの見地を養わさせていた。失われたファミリア、長い時間を経て帰って来た男……罪人の正体、その過去。かつて彼は確かに、この街において神々の為に命を賭す戦士の一人でもあったということ。それは、彼女の良心を密やかに、確実に蝕むものだ。いくら面識も無いとはいえ、かつての同胞に向ける言葉がこれか……と。そして、そんな綺麗事を胸中で宣うへの自己嫌悪も生まれる。確かにその風貌に息を呑んだのは、自らも同じことだと。やり切れなさに項垂れたくなる。

ハーフエルフの職員は、果たして自分はこれほどにナイーブな性情であっただろうかと些か苦悩する向きすらあった。おそらくここに集う人々は、単に見たまま、感じたままの事を口にしているだけだろうに。遠き戦神の奸計など、いちいち理解に労を費やすほどの価値など無いとは、確かにわかるが。

 

(ちょっと前までは、こんな風じゃなかった……筈なのよね。どうしてまた)

 

良かれ悪しかれ、多くの死すべき者たる剥き出しの感情と向き合わねばならないこの仕事で、そこそこに業務に揉まれていれば慣れてゆくものだというのに。割り切れるようになり掛けていた自分が、まるで世間知らずの乙女か?彼女自身気付けないその原因は、すぐ目の前にやって来ていた。

灰をかぶったような白い髪と、血のような赤い瞳を持つ少年は。

 

「エイナさん?」

 

「――――ベル君。……また、そんな怪我して!君は……!!」

 

あらぬ方角を向いていた意識から戻された瞬間、彼女は職員としての態度も忘失してベルに食って掛かった。固定具と三角巾を着けた右手は、怪物祭における知られざる勇者の末路を再び思いださせるのに充分過ぎた、少なくともエイナにとっては。

無意識下で荒げられた声に気づくのも速く、慌てて口を噤む。幸い、周囲の人集りが意識を向けているのは、相も変わらず罪人についての事だった。

醜態を無かった事にするように、エイナは眼差しを厳しくして駆け出し冒険者と相対する。それは、あの凄惨な戦い以来ろくな会話も出来なかった事への自覚なき不満もあってだが、そうと理解するだけの時間も彼女は与えられなかった。

だがベルの顔には、遠くからは飼い主に捨てられた犬の如く見えたかつての有り様などまるで感じさせない、確かな意思を秘めて引き締まった表情が浮かんでいた。

 

「この前は散々心配かけてしまって、本当にすみません。ろくに話もしないままで……そんな手前でとわかってるんですけど、お願いがあって来たんです」

 

「っ……はぁ、もう。冒険者らしく、ハチャメチャになっちゃったねベル君も。いつかとんでもないことになっても、知らないよ?」

 

その慇懃な態度には、口をついて出そうになった様々な説教を飲み込まさせるものが感じられる。散々に気を揉ませた報いを受けさせるにはどうしてくれるのが良いだろう?少なくとも、彼が今抱えている面倒な案件が済むまでは、その時は来るまいとエイナは思った。

額を指で抑える職員の様に躊躇せずに、ベルの口上は続いた。

 

「……助けたい人が居るんです。その人に着せられた罪が本当かどうか、証明する手段を探してます」

 

「え、罪が?、て…………、……………………!!!!」

 

エイナは一瞬だけ、その言葉の真意を図りかねた。だがすぐに火花が散るような感覚が頭の中に生まれて、帰って来た罪人と、其処彼処で囁かれるラキアの真の目的と、深夜に潜るようになった駆け出し冒険者と、小さな女神の奇妙なふるまいが結合する。彼女は今度こそ、開いた口が塞がらなくなった。

脳の血流が不安定になるのを感じる。頭を支えるよう右手の肘を机に立て、低くうめいた。

 

「……私と君を引き合わせた運命を恨みそうになるわ」

 

恐るべき頻度で厄介事を引っ張って現れる少年に対する、率直な感想が漏れ出た。エイナは眉間に皺を寄せたまま、じろりとベルを睨めつける。冒険者が危険を冒す愚を省みなければその命は容易く尽き果てようという教えを、彼は未だに理解していないというのか。それは、職員として、いや対等な人間としての自分の意見を軽んじている事に他ならないではないか。胸の隙間に入り込む、仄かな失望。

だが彼女の視線を正面から受け止めるベルは、やはり、迷い無くその言葉を口にする。

 

「僕は、エイナさんに出会えたことを感謝してます。何も知らなかった田舎者が、今ここで冒険者を名乗っていられるのは、エイナさんが色んな事を教えてくれたからです。……本当に、どんなにお礼を言ったって足りないし、どれほど失礼な事をしてるか、謝っても謝っても元に戻せるなんて思ってません」

 

彼にはやらなければならない事があった。歩かなければならない道があり、得なければならないものがあった。それら全ての為に必要な事が、今自分のしている事なのだとベルは知っていた。

 

「……それは、あの人に対しても同じなんです。何も無い僕がここに居られるのも、また立ち上がって前に進もうと思えたのも、あの時あの人と出会えたからなんです。このまま諦めるなんて出来ません。そんな事をしたら、僕は本物の腰抜けのままなんですっ!!――――!!」

 

「!――――」

 

固く握られた両拳は、カウンターに叩きつけられて大きな音を立てた。瞳を燃やして右手の包帯から血を滲ませる姿に、エイナは完全に呑まれる。激情に焚べられた使命感は、彼のあらゆる身勝手さを見る者に許容させる威とすらなって顕れ、そして同時に周囲の人々の意識を漏れなく集めてもいた。水を打ったような沈黙が訪れる。とても、僅かな間だけ。

 

「――――っ!い、あ、あ、い、痛、~~~~っっ!!」

 

「!!あ、ちょ、ちょっとベル君!……っひょっとしてこれ、やっぱり折れてるの!?まったくもう……!!」

 

自らの持つ肉の器がいかなる状態かを失念していた間抜け野郎が涙を浮かべてうずくまる光景は、それを見ていた者達の緊張感をすぐに消し去ってしまった。――――かれらが自覚できなかった確かな危険信号とともに。

職員に左手を引かれて本部を後にし、そのまま駆け出し冒険者は医務室へと急き立てられた。

二つの人影が消えた後、ロビーはまた、平時の有り様を取り戻していた。自分達とは関係無い事象を肴に談笑する冒険者達が他に口にするのは、手にした扶持の程くらいだった。

 

「君は、アレか。血と一緒に記憶も流れ落ちる部類の冒険者か。意外と多いんだよ、そういう奴は」

 

容態を診た医師が表情を変えずにつぶやいた。折良く治療を待っている者はいなかったので、それだけの皮肉を飛ばす余裕もあったということだろう。まして先日、死の淵に立ったベルを担当したまさに当人であるのならば、さもありなん。

だいたい自分の爪で掌を刳った傷など、絆創膏ひとつあれば人の手を借りる必要も無いとは誰だってわかる。無理やり引っ張ってきた職員の動転ぶりがどれほどのものか伺い知れよう。

 

「しかし、よく処置されてるな。こうじゃなかったら君、手首が外れて取れてたかもな。そっちのほうがエイナちゃんにしてみてもザマミロってなもんか」

 

それはやはりただの冗談だったが、ベルは返す言葉が見つからずただ歯噛みして黙った。かたやそうもいかないのは、横に立つ職員である。

 

「わ、私は本当に心配だっただけですよ!!……あの時だって、本当に……」

 

「……」

 

これ以上ベルに余計なものをおっ被せたくない一心で、エイナは大慌てでまくし立てる。僅かに本音が漏れたのは、それだけ彼女の心は大きく動かされていたからだ。蘇るは全身を血に染めた惨状、潰れそうになる胸の痛み。そしてほんの先刻に垣間見たただならぬ決意の程と、内に秘める純粋なその思いの丈。少しばかり冷めつつあった年下の冒険者に対する感情が再び熱を取り戻し、いやさ更に猛って吹き出しそうかとエイナは危惧していた……主に顔面を中心に。

が、ちらりと目線を寄越せば、その変調を呼び起こしてくれた当人はただ真剣な面持ちでこちらを見つめているだけだった。はた、と畝る心境が急に平らかになるのをエイナは感じた。

そして理解する、自分がするべき事とは――――という、使命感。小さな少年が為そうとしている事の無謀さもエイナはわかる。だが、それを知ってなお、いやだからこそだ。自分の事を頼って来たのだ。応えないわけにはいかない、と、緑色の双眸に凛とした煌きが宿る。

 

「……私は、君の担当だから!その責任の範囲でなら!手伝う。それだけ。いーい?ベル君、君が何処をどんな風に突っ走るにしても、その結果は全部、君と……ヘスティア様が、背負わなきゃいけない。わかってるよね?」

 

エイナは薄々感じている危惧も口にして、念を押すように詰問する。この愚かな少年は、自分の身が自分だけのものではないという事をもっと深く理解するべきなのだと。そうでなければ、彼が掴み取るものは以前のそれよりずっと残酷で無意味で、そしてこの街では極々ありふれた最期だけだろう。そんな心胆の凍てつく想像が彼女に対し、明らかに職務を逸脱した個人的な思い入れを顕現させる。いや、これは、あくまでも小さな女神の事も慮った言葉なのだと自分に言い聞かせつつ。しかし――――

 

「エイナさん」

 

三角巾に腕を通したベルは、強い言葉と眼光に決して怯まなかった。静かな意志は、カウンターを揺らした際の激情が燻ぶる灰のようでもあり、今にも燃え上がりそうと全身に満ちていた。

 

「結果なんて、決まってます。……あんな罪状、全部嘘に決まってる。ありもしない罪を着せて枷を嵌めるなんて過ちが、まかり通るはずがない。証明は必ずしてみせます」

 

「――――」

 

医師の存在も忘れて、エイナは赤い瞳に釘付けになる。一瞬だけ、確かにそうなった。

それから、たまらなくなって両手で髪をかき乱す。

 

「、ああー、もおおっ!!」

 

はじめて会った日、吹けば飛びそうな、つつけば折れそうな、あどけない顔をした少年。同じ顔の……当然である。少し目を離していた間にここまで印象が変わるものだろうか。度し難い頑迷さと傲慢さを隠そうともしない物言いをさせるものとは、いったい何なのだろう?だいたい主はこの蛮行を許容しているのだろうか?

様々な疑問が渦巻き、エイナの身体は震えてその頭を垂れた。おおおおお、と呻き声が出る。外聞も関係無い、そんなものはバベルの窓から投げ捨てちまえというべき姿だ。怪訝そうな顔つきになったベルは流石に手を伸ばしそうになり、医師は黙って面白そうに見ていた。

そして、勢い良く顔を上げる。

その目は据わっていた。

 

「わかった、よおっくわかったわよ!もう好きにしなさい!お馬鹿な君が行き着く所まで行くのを、私が見届けてあげるからっ!」

 

目一杯の虚勢を張って、エイナは敗北宣言を行った。いっそ潔くもあろう、少なくとも医師はそう感じた。

 

「はい。よろしくお願いします、エイナさん」

 

「はいはい!よろしくされました!わかった事は後で届けてあげるから、もうどこへでも行っちゃいなさい!」

 

表情を緩めて頭を下げるベルに、エイナはシッシッと手を振った。歳よりも幼く見える人懐っこい笑顔からあえて目を逸らしていた。これ以上心乱されるのは望む所ではない。そんな思惑など及びもつきはしないだろう少年は、振り返るや早足で歩き去る。怪我人とは思えない強い足取りの後ろ姿は、屹然とした陰影をエイナの薄目に見出させた。揺るがない思いは確かにそこにあるのだと。

 

「……っっっ、は、あ゙あああああっ~~~~…………、……あ、あああーーーーああああ゙、……」

 

扉が閉まると同時にどっと疲労感が押し寄せて、そのままエイナは椅子に座り込んだ。腹の底から鬱憤を吐き出すかのような声は、誰かに聞かせられるようなものではない。それでも誇り高きエルフの血をひく姿かとここに居ない母は言うだろう。

 

「気になる奴があんなのなんて、エイナちゃんも大概に物好きだね」

 

「!!!!、違いますよっ!!」

 

医師が薄笑いを浮かべて囃し立てて来るので、エイナは髪を逆立てて応戦する。彼女自身知らぬ本音を突かれた過剰反応なのは言うまでもない、しかし、そうと見抜いている医師は気圧されずに続けた。

 

「ああいうのは、長持ちしないんだよ。何人か同じようなのが居たんだ」

 

「……そんなの、誰にもわからないですよ」

 

エイナは身だしなみを整えながら、忠告じみた台詞を聞き流そうとする。尤もらしい理屈など余計なお世話というものだ。それは自分も彼に対して行い、叶わなかった。同じようにして何が悪いと開き直る。過去の例などいくら重ねたって、それが未来を確定させるなどという事は有り得ないだろうに、と。

 

「勘違いしちゃ駄目だよ。君が知っているような輩じゃない。アレはね、自分が死なないと思ってるような甘ったれなんかじゃなくてね……もっと救い難い愚か者だと私は見るよ」

 

冷え切った声色に微かな怖気を感じ、エイナは振り返った。

医師の表情は消えていた。

ベル・クラネルを死の淵から引き戻した者は、その確信を疑わずに、口にした。

四肢も臓腑も拉げさせ、その血を全て絞り出したかのような様だった少年が、なぜそこに至るまで立ち止まれなかったのか、その理由を察していたから。

 

 

「ああいうのはね……目の前のものをブチ壊す為なら、他の何もかも……自分の命さえ、忘れてしまえるような――――」

 

 

--

 

 

エイナの目つきは、ばらばらと捲っていく資料の、その情報の一欠片さえも漏らさず脳に取り込もうという貪欲で深い闇を湛えているかのように同僚には見えた。

ここまで一心不乱な様子は、同期の誰も、そして彼女に懸想を寄せる冒険者達も、その記憶に無かった。こうもさせる理由とは如何なるものなのか、それを尋ねるのも憚られる真剣な面持ちで、彼女はこの街のあらゆるファミリアが目覚めさせた奇跡を調べていた。

そんな最中にも脳裏には、医師の言葉がいつまでも反響していた。

 

 

『――――人の皮を被った、怪物に近い連中なんだよ』

 

 

エイナの没頭ぶりは、その言葉を忘れてしまう為にこそ顕れたものなのだと、誰も知らなかった。

 

 

--

 

 

「成る程、……よく、わかったわ。ええ。でもヘスティア、あなたもそうとう思い切った決断をしたのねえ。ちょっと信じられないわ」

 

青果店の裏手で秘密の会話が行われている。蜂蜜色の髪を日陰に隠し、デメテルは腕を組んで渋い顔をしていた。頼みがあると前触れ無くやって来た小さな女神に対し当初は施しの拒否を表明したが、すぐに事情を説明された。顔を真赤にされたまま。

それはまったく驚くべき内容だった。少し前までは他のファミリアに集ってグータラ三昧していた彼女は、あろうことかこの街に向ける牙を研ぐ連中を正面から退ける手段を探していると。

正直な感想はヘスティアの誤解を招いた。

 

「んな、何を信じられないんだよ!?デメテルだってわかるだろ、あの娘の『子供』が――――」

 

「ああ、違うのよ。私だって例の子の事を疑ってなんかいないわ。ただ、単にね……つまり、算段もついてない賭けみたいなものでしょ?あなたのやってる事は」

 

デメテルは、ヘスティアの顔をじっと見つめた。まさしく必死そのもので、その決意の固さ、抱く主張の正しさへの確信を揺るがすには、どんな言葉だって無意味だとわかる。

 

「そんな大胆さもあったのね、って驚いているのよ。それだけ」

 

「……ボクの『子供』が選んだ道だ。何をしたいか、どこへ行くかにしたって、思いは一つだよ」

 

静かな言葉は、通りの喧騒から離れた場所において、そこに込められた気持ちの重さが知れた。デメテルは、ふと遠い憧憬に思いを馳せた。

 

「そうね……そういうものよね。大切な『子供』なら」

 

「?」

 

含みを持たせた言葉なのだという事以外、ヘスティアにはわからなかった。首を傾げて疑問符を幾つも浮かび上がらせる顔に、デメテルの神妙な表情も緩む。

 

「――――まあ、私の手の届く範囲で調べてはみるけれど。正直言うわ、期待はしないでね。人の心を知る奇跡の業なんて……この街じゃ需要なんか無いでしょ」

 

デメテルの指摘は結局のところ核心を突いたものだった。神の御前ではあらゆる偽りなど無意味だというのに、誰がそんな奇跡を選んで生み出すだろうか。誰か必要とするだろうか。

殊に世界の経済の中心たるこの街では金を生む力こそ誰もが望む奇跡なのだ。道徳の是非について、教科書で学ぶ以上の意味を考える者はどれほど居るやら。

 

「……くそっ、なんだ、需要需要って。みんな、自分が必要ない、知らないものは無いのと一緒だと思い込んでるだけだっ!絶対あるに決まってるっ」

 

「そうね。あなたも頑張ってねヘスティア……。……もしラキアに行く事になったら、餞別くらいは寄越すから」

 

「なんて事言うんだよ!?そんな事はぜえっっったいに有り得ないんだからなっっっ!!」

 

不穏な事夥しい励ましを送るデメテルに対し、ヘスティアはぷんすかと怒りながら背を向けてさっさと歩いていった。尋ねなければならない場所は幾らでもあり、そして時間は決して止まってくれないのである。

路地の隙間を抜け表へと消えた背に視線を固定して、デメテルは何事かを思案し続けた。

 

「本当に大切な『子供』なら、どうしてそれを放っておけるのかしらね……」

 

店の裏口に入った女神のつぶやきは、傾く陽に覆われた広い街の陰に溶けていく。誰に知られる事も無い、その思いと一緒に。

 

 

--

 

 

街の南側に広がる繁華街は、夕闇の迫る頃合で増々人通りも多くなっていた。娯楽施設の林立するここいらは、迷宮のある街の中心部と比肩でき得る経済規模を誇る。

かつて住んでいた村とはケタ違いの人口密度を誇る場所でもしかし、ベルは未だ望むものの手がかりを得られずに居た。

 

「注文も無しに居座ってアレコレと情報だけ頂こうなんて、見上げた図太さだなァ、坊や」

 

「お、お願いします、なんでもいい、何か心当たりのある人でも……」

 

粗末な服を着た手負いのレベル1の冒険者は、どう贔屓目に見ても高級酒場に相応しくない客だったが、従業員の対応は比較的温情のあるものだった。ベルは、自分よりもずっと背丈のある男の手で表に放り出され、それでもいじましく縋り付く。

短く髪を刈り上げた男は軽く鼻を鳴らした。

 

「無えよ。在ったとして、タダで教えるようなお人好しが居たら……そりゃ、坊やをだまくらかして、オカマを掘っちまおうって奴だろうさ。生憎ウチはそういうのお断りだ、よそ行きな」

 

「……!!」

 

分厚い木の扉が閉まり、精微な彫金の把手が音を立ててそれきり外界を遮った。少なくとも、その前に佇む少年を決して通さない防壁と成って。

男の残した台詞はその中に含む果てしない憐憫と侮辱をベルに理解させて余りあった。今日顔を伏せてただ怒りに耐えるのは、これがはじめての事ではなかった。

誰もが彼を侮る。女も知らぬような子供を。

誰もが彼を知らない。レベル1の冒険者が如何なる功を立てたかも。

誰もが彼を哀れむ。一人で街を彷徨う怪我人を。

そして、誰もが、それらを理由に施しを与える事もしなかった。

それでもベルは再び足を動かして、通りの雑踏に混ざって歩き続ける。ナァーザに貰った地図を手に、次の場所へ向かう。立ち止まる理由など何も無かったし、彼はまだ何も失ってなど居なかったからだ。

何かを失うとすれば、その歩みを止め、全てを諦めた時だけだ。骨の髄まで染み込んだ信念が、今のベルを突き動かす。大通りに溢れ返る言葉、視線、温度、それらは容易に人ひとりの意思を呑み込んで消し去る力を持っているが、少なくとも今はたった一人の少年を押し止める事はしなかった。

 

「は~、知らんなあ。んなナリで、注文ひとつも出来ねえ財布でこんな所にご苦労なこったけど、本当に知らん。悪いな」

 

「は?心を覗く方法?お前さん、ここがどういう場所かわからんか?まさにその望みが叶う場所と思わんかな……こいつを飲み交わして叶わないなら、そりゃ儂らは知るべきではないという事よ。おっと、奢らねえぞ」

 

「ウソツキなんて、アタシのカミサマにかかればイッパツだし~。イミワかんない~。バカみた~い」

 

「金だ」

 

「なんだってそんな力を手に入れる必要があるんだ?他人の本心なんて知っても碌なもんじゃないぞ、やめとけ」

 

「ボク、好きな女の子の気持ちでも知りたいの?」

 

じっさい慈悲に縋って手に入るのなら幾らでもベルはそうしただろうが、結局のところその尽くは実らなかったし、大体ナァーザの示した店はそもそも零細軍団の一員が溶け込むには金額的に無理がありすぎたのだ。ベルの話をまともに聞こうとする者はそうそう居ないし、探すだけの時間も多くは得られなかった。

ナァーザはもちろんこの結果を予測するのは容易かっただろうが、彼女への恨み言を紡ぐ気にはならないベル。示された道筋の先にあるものを手に出来るかは、そのひとの力次第であり、保証など誰も持っていないではないか。

 

(……今日はこれで、最後だ)

 

いくら時間が惜しいとはいえ、休息も無しに駆けずり回るわけにはいかなかった。戻って主と情報の整理をしなければならないだろう。ベルは決意とともに足を速めた。

繁華街の外れは空まで照らすような灯りも収まり、代わりに多くの間接照明の放つ光が立ち並ぶ妖しい景観が広がっていく。色街との境目にある区域にはそういう目的でやって来る男達と、そういう男達を目的に立つ女達の姿が僅かずつ見られた。或いは、そんな連中を相手にする盛り場も少なからずあった。

レールに囲まれた二枚の板で作られた扉は枠の中を曇りガラスで覆われていて、はじめて目にするベルにとってはどのように開けばよいか少しだけ思案させた。

 

「あのっ」「お゙え゙~~~~~~~~~」「おい!絶対汚すんじゃねえぞゲロ女!!」

 

「チッ、だらしないね。迎え酒なんて意味無いって言っただろうに……ん?」

 

開いた引き戸から店の中へ投げかけたベルの声が、濁った嗚咽と水音で遮られた。顔を覗かせて硬直する一見の客を、紫紺の短衣と薄布で着飾ったグラマーなアマゾネスが出迎えた。整った吊り目と膨らんだ唇が、挑発的な色香を濃く形作っている。これが、街中の曲がり角での出会いならばその姿に暫し見惚れていただろうが、生憎その美女は座敷にあぐらをかいたまま、もう一人のアマゾネスの背中を擦っていた。色気も糞もない。

苦々しくそれを見ていた店主は、新客の存在に気付くと一瞬でにこやかな表情に変わった。

 

「あ~すいませ~ん。カウンター席へどうぞ~。その人らは気にしないで……オイさっさと便所に行けよ、お客様の邪魔だろ淫売ども」

 

「はっ!その淫売が居なけりゃとっくに潰れてるボロ酒場の主人が、偉そうなもんだ。おら、立ちな」

 

「うげえええ……ゔぼお゙お゙お゙…………」

 

盥を抱えたままのアマゾネスは、酸鼻なる香りを仄かに残して店の奥へと消えた。見送る美女とも遜色ない麗しさも台無しの有様は、万人による冷ややかな視線を博した。未だ店内に足を踏み入れていないベルを除いて、二人だけの。

 

「ほら、ぼーや。さっさと入ってきなよ。安酒ばかり揃ってるところだし、いざとなりゃ踏み倒して逃げちまえばいいのさ」

 

「アッッハハハハハお客様、こいつらは脳味噌に精液が詰まっちゃってるんで、もちろん何を言っても聞き流してくださいな。ご注文お決まりになりましたらお呼びください……てめーらはさっさと帰って働けよ」

 

「フン」

 

目の前で繰り広げられる一連の流れは今日訪れたどの場所とも異なり、凡そ最低限の礼節も格式も感じられないやり取りばかりであった為に、ベルはひょっとして入る場所を間違えたのかとさえ思う。それを差し置き無精髭を生やした主人は営業用の笑顔と顰めっ面を使い分けつつ厨房に引っ込んだ。

ともかく入り口を塞いでいるわけにもいかなかったので、言われるままにベルは戸を閉めカウンター席のほうへと歩を進めた。壁に敷き詰められた品書きはこじんまりとしながら猥雑な店内の雰囲気を演出する。それはきっと、妙に素朴な作りと似合わない褐色肌の美女の存在あってのことだろう。

 

「おやおや、冷たいもんじゃないか。二人きりなんだから、仲良く飲もうとか思わないのかい」

 

「え、その……」

 

座敷に立ち上がる長身は、それと見合う歩幅であっというまにベルに肉薄した。妖艶な肢体を惜しげなく晒すような服を纏う彼女が、そういう職業の人間なのだとベルは既に理解している。胸の鼓動が大きく脈打って――――漂うアルコール臭は、蘇る苦味とともに少年の理性に冷水を浴びせた。頭半分ほども低い背丈の少年がいかなる胸中であるか、知るはずもない彼女は持っていた杯を差し出す。

 

「いいよ、奢りさ――――おっと、ご指名されたいって訳じゃないから勘違いしてくれちゃ困るよ。今日はそういう気分じゃないからね……あんたみたいなのも興味あるけど、フフフッ」

 

「…………っ」

 

挑発的に軽口を叩く彼女の心情などベルには窺い知れないが、今日巡った酒場に居た多くの人々とさして変わらないだろうとは察した。衝動的に杯を取ると、湧き出し溢れそうになる昏い感情もろとも一息で飲み干す。

 

「へェ。思い切りがいいね……けっこう強いんだけど」

 

褐色の美女――――アイシャは、意外な勢いの良さに少しだけ印象を改めた。傷つき疲れ果てた兎のような少年だが、それともこの姿は自棄の作り出す虚勢だろうか?……そんな見立てが誤りだと知るのは、すぐだった。

熱が喉を通り、胸の奥に染み渡っていくのを感じるベルは、その更に奥……彼も、彼以外の誰も未だに知らないその場所で蠢く、凍てつき、畝り、全てを縛り付けて――――焼き尽くそうとするものに、アルコールの生み出す一切の興奮作用が打ち消されたのを理解した。むしろそれは、彼の心臓から逆流し、脳と爪先まで覆い尽くすようでもあった。

アイシャは、顔を上げた少年に少し瞠目した。引き結んだ唇と上がった眦、眉間の皺、そして瞳に赤く揺らめく光に、閨の中の男達ならよほど浮かべないだろう激情の片鱗を感じた。

 

「――――こんなもの目当てに来たんじゃありません。絶対に見つけ出さなくちゃいけないものがあるんです」

 

「……こんなもの、ねぇ。まあいいさ、言ってみなよ。泣き言聞くのも慣れてるよ」

 

向けられる真剣な表情を受け流すように、ベルの隣に座ったアイシャは水を一杯注いで口にする。自分の感じたものはきっと、酔いと物珍しさが生んだ幻覚だろうと思いながら。

それに構わずベルは掻い摘んで……ただ、今の自分の目的だけを話すのだ。他の場所で別の者達に聞かせたのと同じように、誰が必要として目覚めさせるかも、それを得ようかも知れたものではない奇跡を求めている事を。

大した時間は掛からなかった。店主が食器を洗う水音と、店の奥から漏れる嗚咽は相変わらず絶えなかった。

 

「ふん?で、こんな場末の酒場にまでやって来たのかい。……ちょっと気になったんだけどね」

 

「なんですか?」

 

硬い表情は融けずに、むしろ口調まで引っ張られて冷えていくようにもベルは自覚した。酒に関する苦い記憶がそうさせているだけなのだろう、と推測して、またそれを目の前の人間にぶつけるのは単なる理不尽だとも理解していたから、なんとか鎮めようともしているつもりだったが。

ただアイシャは特に気にした様子を、少なくとも表に見せてはいなかった。

そのままただ、思った事を、口にした。

 

「あんたが『それ』を見つけたとして、それでどれだけ懐が温まる算段――――」

 

「――――違うッ!!」

 

発火するものにベルは抗いようもなく、吠えた。立ち上がって歯を剥き、その凶相を隠さずにアイシャに向ける。イシュタル・ファミリアの中でも指折りの手練と認められる女戦士は、確かに刹那その怒気に怯んだのだ。勿論、自分が話しているのは大方は夢破れかけた少年冒険者であろうという侮りで気が緩んでいたというのもあろうが――――

 

「僕はっ……そんなものの為に、探しているんじゃない!いや、それが手に入るなら何を差し出したって……!」

 

喉が焼け付きそうな錯覚に任せて、思いの丈を絞り出すベル。

だが彼は、目の前の美女の言葉を下衆の勘繰りと決めつけて正義の立場から一蹴できるほどの潔白さを自分が持っていない事を本当は理解していた。怒りのままに口から飛び出す言葉がいかにも曖昧で、どこか上滑りしたものであるかが、決して溶けない氷のように在る自分の半身で感じていたのだ。

 

「……本気で言ってるのかい?何も見返りを期待せずに?本当に?」

 

「…………!!」

 

アイシャの感じたのは、込み入った事情の全貌よりも何よりもまず、少年の言葉は確かに真実もあるのだろうという事、そして、ただそれだけでは決してないのだろうという確信である。幾多もの男達の情欲と、その内にある小さく脆いものを受け止める生業が、彼女にそれだけの洞察力を育んでいた。そして芽生える好奇心が、純粋なその質問を紡ぎだしたのである。お前の本心は、それだけか、と。

強かに本質を突く質問でベルは言葉に詰まり、その心が激しく揺れ動いた。まったく、簡単に。

恩を返したい、それだけか。

……違う。

ただ、恐ろしいだけなのだ。

失う事が、恐ろしい。また、あのどうしようもなく弱い自分に戻ってしまう事が、何よりも恐ろしいのだ。

自分が本当の意味で自分以外の誰かの為に尽力しているのだと思いこめるような器用さなど、ベルにとって何よりも程遠く得難いものに違いなかった。

そのようなベルの心境を、期せず本音を掠めた言葉を放った当人は理解など出来なかった。だが、それでも、人は察する力を持っている。得られるのだ。

それは、神の力など頼らずとも、手に出来る。だから、誰もこの街では求めはしないし――――きっと、手にする者も、居ないのではあるまいか。

 

「ぐ、っ……っ!」

 

「おい……」

 

また、包帯の中に血が滲むのを感じた。悪い方向へと進んでいく思考に膝をつきそうになるのを堪える。手首に走る痛みは、彼に為すべきことを思い出させる天の声のように鋭く疼いていた。

無様で、弱い自分に、ベルはこれ以上耐えられなかった。かくも儚く脆い心は、最早ここでは求めるものの手がかりなど有りはしまいという判断で以て自らを守ろうと浅ましく案ずる。それは肉の器を突き動かし、小さく、暖かい、どこかあの帰るべき場所に似た雰囲気を持つ酒場から一刻も早く去るよう急き立てた。

それは一瞬前まで在った、飢え猛る獣のような姿とまるで異なる、雨に打たれた犬ころのごとき物哀しさをアイシャは見出した。背を見送る目が自然と細まる。

 

「何にしたって、求める事自体は悪徳なんかじゃないだろ。何も望まなきゃ、何も手に入らない……ただ、自分が見返りを求めていないからって、相手に同じように期待するのだけはよしなよ」

 

見返りもなくこれほどの、素晴らしい善行だ、お前こそ死すべき者のあるべき姿だ!!神々によるそのような賞賛だけで命を繋ぐ事が出来れば、それこそ楽園というべき世界であろう。アイシャは、現実はそうではないとベルに伝えたかった。それは単なる憐憫であったかどうか、はたまた別の何かか、彼女はまだ知らない事だ。しかし、僅かな興味が湧いて、それは暫し尽きそうに無いかもという予感はあった。

引き戸が閉まる音と同時に、店主が奥から顔を出した。

 

「おいテメー!!なに逃してやがんだ、その身体は飾りかッ!?あのガキが何か手ぇ付けてたらイシュタルの所に勘定送りっつけてやるからなあ!!!!」

 

「あんなぼーやが、食い逃げなんてするようなタマに見えるとはね。ああ、こんな崩れ落ちそうな酒場の大将ってのは、誰彼構わずそう見えるんだろうさ……ま、上客になるとも思えないけど」

 

目を血走らせて口角泡を飛ばす顔は、歴戦のアマゾネスにとって蚊が止まった程もの動揺も覚えないものだ。座敷に戻って酒をつぐと、一口呷る。脳の奥が痺れ、そのまま髄液にアルコールが混じって全身を内から茹でていくような錯覚が生まれた。

この店で、一番強烈な酒だった。口端が緩む。

 

「……ソーマに比べりゃ泥水だなんて言う奴も居るけど、やっぱりこっちの方が私は好きだよ」

 

「はあっ!今更何言いやがる。酒ってのはわかる奴に飲ませる物だけ値をつけてりゃいいのを、あの神はわかってねえな。おかげでイカレた連中がすっかり幅を利かせてよ、今に潰されて送還されるだろうぜ」

 

安酒とは桁の違う値を持った数種の酒、それがこの古く小さい、悪い立地において挙句に歓楽街や繁華街とはまったく場違いな雰囲気を漂わせる店を生き延びさせていた。

密かな穴場に通う楽しみとは、勇名を頂く冒険者達にとっても長く味わうに値するものなのだ。

 

「しかし、『こんなもの』とは、ねぇ」

 

「あ?」

 

「なんでもないよ」

 

半分ほどに中身の減った酒瓶を振って、苦笑するアイシャ。『こんなもの』を月に一度の楽しみにする高級娼婦とは、あの少年にとってどんな存在に見えるだろう。

 

「うえ~~~~。水、水くれ水……ああ……」

 

「それとも、あんたみたいに、これの楽しみ方がわからないただのアホ野郎って事かい?」

 

「んぐ、んぐ、んぇあ、何……あ゙ーーーーっ、アッタマ痛え…………ちょっと、一杯くれ……」

 

二日酔いと空きっ腹に沁みる酒のせいで、トイレから戻った彼女の美貌は見る影も無かった。これでもそれなりの人気と実力を備えた眷属であろうに、主が目にしたらまさしくこれこそ憎くてたまらぬあの月の女神との格差と理解し怒り狂うに違いない。

水を飲み干し、涎も拭かずにまだ酒を食らおうとするのを、瓶と杯を遠ざけて阻止するアイシャ。

 

「あんたに飲ますくらいなら、その辺の兎にでも飲ますよ。身の丈に合わないものなんか手にするもんじゃないって、何度言えばわかるのさ?」

 

「うる゙せえ゙ーーーー、私の金で買った酒だろーーーー。なにが兎だ、うううぅ…………」

 

逆立ってぼさぼさの髪の毛を卓に押し付けて恥も外聞もなく呻く同僚の姿とつい、比べてしまうのだ。

あの少年の姿とは、何者の手も届かない道を求めるゆえの、身の程知らずが陥るだけの無惨さを描いたものに過ぎないのだろうか。

明星の光から遠く離れた酒舗で、どうでもよい事に思いを馳せつつアイシャは他人の金で買った酒を楽しんでいた。

 

 

--

 

 

「うーーーーむ。成果無し……いや、まだ明日、明後日、明々後日まであるんだ。余裕だ余裕!!安心して今日は寝るぞベル君」

 

いつもの就寝時間にあたる時刻のホームで、腕組みして豪放に言うヘスティア。ただの脳天気さがそうさせているのではないとベルは知っている。だからこそ、その言葉は受け入れる必要があるだろう。

 

「……しかしだな、デメテルもタケもヘファイストスも揃って心当たりなしと来るとは予想外すぎて……いやいやまだ他に伝はあるぞ、いくらでも…………アポロンの所にも行くべきかなやはり……」

 

「神様」

 

「んっ?」

 

自分に聞かせるよう独り言を唱えるヘスティアは、ソファに腰掛けた眷属の言葉に顔を上げる。決して部屋の照度だけが生むものではないだろう薄暗い表情がそこにあった。

 

「アルゴスは……どうして、僕に力を貸してくれたんでしょうか?僕みたいなのに……」

 

「………………」

 

目一杯の卑下が、ベルの口から自然とこぼれ落ちた。それがいかに返答に窮するものであるかと知りながらと、己の身勝手さをすぐに悔いる。

主はきっと、未だに知らないのだ。たった一人の眷属の演じた醜態も、それに手を差し伸べた男との出会いがどんなものであったかも。先の見えない道を歩く徒労に、ベルの精神は着実に磨り減りつつあった。他者からの肯定が欲しかった。それは前に歩く為の力として、おそらく最も儚いものであるのに違いないのに。

それでも力なく下がった肩に、小さな掌が優しく置かれた。

 

「それは、聞いてみなけりゃわからないだろうね……でもさ、ボクの見立てを言うと」

 

まっすぐ見つめてくる、薄闇を照らすような双眸の煌きは、ベルの心を繋ぎ止めるもっとも強く断ち難い鎖でもあった。

 

「あの子はねぇ……きっと、誰かに、助けてほしかったんだと思うよ」

 

「助ける。……今?」

 

「ああ、違うよ」

 

ヘスティアは、ベルの思い違いを諭す。因果関係が違うと。アルゴスは、謂れ無き罪に追われる自分の境遇をどうにかして欲しかったからそこに居た誰かに手を貸したわけではないだろう、というわけだ。

即ち。

 

「……こんなに広い世界なのにさ、…………誰とも寄り添えず、誰からも必要とされないなんて……辛いじゃないかよ」

 

短い言葉は自嘲も込められていたのだろうが、それ以上に根深く、真に迫る感情が耳を通して全身に響くようだった。そして少しだけその目に浮かんでいる寂寥をも、ベルは確かに理解していた。

この小さく暖かい場所に住む、大きな優しさを持つ主との出会いは、彼にとっても決して忘れることの出来ないものなのだった。

口を僅かに開けた、間抜けな顔をしていたのだろう。ベルがそうと気付くより先にヘスティアは、微かに生まれていたしめやかな雰囲気をかき消すように、破顔した。

 

「ほら、もう寝よう。今日はボクがこっちだからな。こんな怪我、ベッドでぐっすり眠れば元通りだよ」

 

「あ」

 

ベルを退かすと、ヘスティアは毛布を被って寝っ転がった。崩れそうな弱い心から溢れたつまらない疑問の答えに静かな震えをおぼえてる事を、ベルは暫くしてから気付く。何か、気の利いた返事をしようとしても、もうそれを聞く相手は小さな寝息を立てているだけだった。

やむなくベルは、随分と久しぶりに感じる柔らかく大きなベッドに身を横たえる。

 

(誰とも寄り添えず、誰からも必要とされない……)

 

何度もその言葉は繰り返された。蘇る熱い何かの正体とは、胸を満たす苦いものばかりのようでもあり、同時に自身が得た替え難いものの温もりのようでもあった。

――――その、誰しもが自分に向けてくる蔑みも慈悲も全て、あの夢の中に迷い込んだかのような激情に囚われた状態であれば、それは決して地に膝をつかせない怒りの業火となってベル・クラネルを突き動かすだろう。

そしてそれは、決してあってはならない事なのだとベルは思う。

自分の得た何もかもを薪と焚べて何かを成し遂げる力を得たとしても、きっと最後に残るのは血の海に沈んだ灰の残骸だけなのに違いない。怪物祭の日、まさにベルはその一歩手前まで辿り着いたのだ。

 

『そんな゙、悲゙しそうな顔をする、怪物な゙んて……見たごと無゙えや』

 

瞼の閉じられた闇の中、近づく夢の足音を感じながら、ベルは強く思った。

たとえそれが万人から向けられる侮蔑であろうと、それは確かにベル・クラネルの人生で得たものであり――――彼が得た屈辱、迷妄、苦悩、……そして悲しみも等しく、決して手放してはいけないものなのだと。

それが無ければ、この小さな家も、主との生活も、あの大きく穏やかな青い漣を瞳に湛えた男との出会いも、きっと存在しなかったのだから。

だからベルは、思った。ただ、思った。

彼との出会いが、こんな終わり方で途切れて良いはずがないと。

助けたいと。

今のベルが望むのはただ、それだけだった。

 

(そうだよ、だから誰に、何を言われたって……関係無い。ただ、やること、出来ることだけ考えなきゃいけない……)

 

アルゴスもきっと、そうしてきたのだ。いや、それは『当たり前』の事だ。誰であっても、そうやって前に進んでいく。蹲っている暇など無い。全てを焼き尽くすような業火の影を退けられたとして、後に残るのが言葉一つで揺らぐ意志ではいったい何が成し遂げられるだろう。世に名を残す者達の最も強い力が何であるか、ベルは何度も祖父に聞かされて育ったのだ。自分の境遇など、今は無実の罪で冷たい獄に在る虜囚に比べてどれほどとるに足らないだろうか。

 

たとえ自由の身となった彼がこの街を見限り、永遠に去ってしまったとしても、それはただ彼がそう望んでするだけの事であり……残された惰弱なる駆け出し冒険者がいかなる道を行くかなど、今考えるべきではないはずだ。

 

自分の心を蹂躙しようとする何よりも御し難いものを押し返すように、瞼を更に強く閉じて毛布を頭から被るベル。

 

(……………………)

 

眠りの闇はいつしかベルの思考を塗りつぶし、奈落よりも底知れぬ場所へと彼を導いていく。

現実の全てを忘れてしまう理も、どうかこの思いを成し遂げる時までは追いついてくれないよう、彼は願った。

それが叶ったかどうかは、この世界の誰であってもわからなかった。

 

 

--

 

 

『アルゴス』

 

『…………』

 

果てなく続く黄昏色の空に、ぽつりぽつりと星が輝き始めている。そこに届いてしまいそうな高さの鐘楼で、出来損ないの身体を持つ男は林立する無数の建造物と、そこに行き交う雑踏を黙って見下ろしていた。

いつだって向けられる奇異と嫌悪、憐憫と侮蔑の感情。それらも決してここには届かない。この世界の何処よりも栄華を誇るという神々の都はただそこに広がるばかりで、何者をも害しようという意思など最初からありはしないのだと、少なくともここにいる間は思わせてくれた。

影の中に座り込むアルゴスは、聞き慣れた呼び声を耳にしても振り向かなかった。

 

『どうせ、ここに居ると思っていたわ。お前が帰って来る場所はここではないと、何度も言っているのに』

 

誰にも媚びない気高さを秘めた、凛々しい声色。それは、異形の死すべき者が聞いたあらゆる声を合わせても届かない数ほどに聞いたものだ。

アルゴスが仕える主とは、天上にあって遍く知らしめられていた栄光をそのまま地上に行き渡らせる名声として恣にする、神々の都の最も偉大なる存在の片割れでもあった。

その数え切れない『子供』達もまた、途方も無い苦難に満ちた試練に挑み数々の偉業を打ち立てる誉れ高き英雄として名を馳せる。その誇りは神から与えられともに分かち合う血の量よりも、強大な敵を前に流した血の嵩で計られ讃えられた。

――――曇りなきその誇りは、図体ばかり大きい愚鈍な出来損ないひとりが背負うのに、時として支え切れない重みとなってのしかかる。

誰もが言う、お前には無理だと。

誰もが言う、お前は現実の見えない盲者だと。

誰もが言う、お前よりも憐れまれるべき死すべき者は存在しないと。

 

 

――――なんで、神様はお前みたいなのを拾ったんだか。

何の得にもなりゃしないって、何度も言ったのに聞かず……イカレちまったのかね。

 

 

『また誰ぞがいらない事を吹き込んだのでしょう?くだらない。愚か者どもの戯れ言など耳を貸すのはやめなさい』

 

『……神様゙は……どうも゙思わね゙えんでずか……おでの事゙゙で、みんなに馬鹿にされで……』

 

死を以て忠を捧げよと言われれば逡巡も覚えず出来るとアルゴスは信じている。だがたった一度きりで済むその決断と比して、冒険者となる事を選んだ己の道の険しさはどれほどのものなのか、誰が語るのを許せるだろう。我武者羅に求める勇名はすべて主の為、しかし自分の力の及ばざる故に何も叶わず、得られるのは侮蔑のみだった。

その苦しみはきっと一人であれば決して得られなかったものだと理解しながらも、不揃いの歯を噛み締めて震える事しか出来ない時が、まさに今なのだった。

 

『アルゴス……私を見なさい。立って、振り返りなさい』

 

背く事の出来ない下知にアルゴスは従う。顔から身体まで余すところ無く均整のとれた、完璧な造形の絶対者の姿がそこにある。太陽の残火と荘厳な鐘楼の生む影は、それでも遍く死すべき者が理解すべきその女神の麗しさ、偉大さを覆い隠す事は出来ないだろう。生まれた時から曲がった骨と崩れた肉を持っていた者の姿と等しく。

柔らかい両手が頬に触れられる感覚を得ながら、アルゴスはぼんやりと思う。主の背丈を追い越してしまったのはいつだっただろうかと。

 

『ええ、私がお前を拾った時は、脚は萎えて立てなかったのに。瞼は腫れて腐りかけていたのに。息は今にも絶えそうで、痩せきった身体はこの細腕で抱き上げるのもたやすかった。……それが今、こんなに大きくなったお前はただいじけて、永遠に座り込もうとしている』

 

翳りの中にある主の表情はどうしてだか見えない。なぜだろうか。これほど真剣に自分へ語りかけているのに、その顔を見ることの出来ない弱さを、どうすれば無くす事が出来るのか……アルゴスには皆目検討がつかない。

 

『誰かにお前の何かを貶されて、それがどうしてお前が歩みを止める理由になると思うの?あんなに小さかったお前をここまで育てた私が、何もしてない何も知らない者達に、何を言われて何を感じると思うの?みんな?それはいったい、何処の誰の事です?』

 

どこまでも強い言葉は、自分の弱さに心を打ち砕かれそうな者を立ち上がらせるのに決して能わざる場合もあるだろう。

しかし、アルゴスが主に見出すものとは、弱きを悪徳と糾弾する刃のような正しさではない。

 

『失い、傷ついたのならば休みなさい。……けれどお前は何も失っていないし、傷ついたのでもないわ……それは、私と同じ。ならば』

 

両手に温もりが触れた。小さく、今の自分ならば一握りで潰してしまいそうに繊細なてのひら。それこそが自分の命を拾って繋いでくれた、この世で最も尊く偉大な力なのだと、アルゴスは理解していた。

 

『前を向いて歩き続けなさい。誰にも恥じず、戦いなさい。お前が本当に得難く思うものを――――希望の光を、放さず持ち続けなさい』

 

 

その力がおまえを裏切る事は、決して無いのだから。

 

 

星の坐す夜空よりも広く、大きく、深い慈悲が、アルゴスの心に流れ込み、身体を震わせた。

返事もせず、ただ涙を流す事しか出来ない『子供』の頭を、女神は黙って撫で続けた。

青色の瞳は、鐘楼の柱の影で小さく瞬き続けていた。

 

 

--

 

 

夢だった。

ずっとずっと昔の記憶から、アルゴスは現実に引き戻された。

陽も月も見えない薄暗い牢獄に、時刻を告げる鐘の音が響き渡っている。おそらく……朝だ。

 

「……神様゙……」

 

「?」

 

口の中で生まれた呟き。牢番は一瞬だけ罪人を注視し、しかしすぐ無意味な呻き声と理解して視線を外した。

座り込むアルゴスの脳裏に、夢の中の言葉が何度も浮かんで消えていく。

自分は何を失い、何に傷つけられたのだろう。

彷徨いの旅路はいつも周囲を伺い、人目を忍び、光の無い時に影の中を這いずり回り続けていた。

掛けられた謂れ無き嫌疑に、決して立ち向かわずに、ただ逃げ続けた。

ひたすらに故郷を目指して。

失くしてしまったものを取り返せる事を夢見て。

すぐに消えてしまう身体の傷よりもずっと深く癒えがたい傷を抱えて。

なぜ、そうなってしまったのか。アルゴスは知っていた。とっくの昔に知っていたのだ。

 

 

他の何をおいても従うべき主の命に、自分は背いた。その報いがただ、訪れた。

 

 

それだけなのだと、アルゴスは思っていた。

 

「………………」

 

そして今胸の奥を褥瘡のように蝕む痛みの正体は、ラキアの戦士が与えたものではないのだという事すらも、アルゴスは知っていた。

後悔。どうして自分はあんな事をしてしまったのだろうか。

どうしてあのどうしようもなく弱く、小さく、消えてしまいそうだった少年に力を貸したのだろう。

あんな事をしなければ、今の不条理な扱いも決して存在しなかったのに違いないのだ。

……そこまで思って、裂けた唇が自嘲に歪んだ。不条理、不条理とは。全ては正当な報いではないか。あの時ただ息を潜め、何も見ず何も聞かず何もしなければ、報いは通り過ぎてそのまま消えてなくなり、いずれ罪が贖われるとでも思っていたのだろうか。この期に及んで自分は、この現実を呼び込んだ弱い心を受け入れようとしていないのだ。浅ましく、醜いことだ。

自己嫌悪が過ぎ去ると、あとは例えようのない無念だけがあった、本当の意味で何の罪も無い主従を巻き込んでしまった事への。別れの際に瞳を燃やしていた少年の叫びが、その無力感を更に煽るのだった。罰せられるべきは自分だけのはずなのに、ただ関係無いと見苦しく訴える事しか出来なかった己が低能さを呪った。

もうアルゴスは、ただ座り込んで項垂れる事しか出来なかった。

 

 

願う事も出来なかった。

どうか彼らの希望が絶たれ、せめて罪人と呼ばれるのは自分ひとりだけであってくれるようにと。

そんな僅かな希望すら、抱けなかった。

 

 

--

 

 

「占い……」

 

「うん。……いやその、そういうのはあてにしないっていうなら、あえて行くことも無いと思うけどさ」

 

「いえ、行きます。是非行きましょう」

 

夜が明け、既に真昼。これで、丸一日が経過した。朝日が顔を出すのも惜しく、ベルとヘスティアは街を駆けずり回った。成果は、無かった。ギルド本部でも、いずれのファミリアでも、冒険者達の集いでも。

疲労ばかり携えて昼餐を囲みに戻ってきた主従は、ともすれば求めるものの遠さを嘆きあうような光景を演じかねなかったが、ふと意を決したかのような口調でヘスティアはその話を切り出したのである。一も二も無く、ベルは乗った。

 

「ああ~と、……ちょっとした昔馴染みのところなんだけど。まあなんだ、あちこち走り回ってたらそいつがいきなりやって来てさ、ちょっとくらいは力になれるとか言ってきて……あんなに嫌がってたくせに……、……ともかく、それじゃあ一緒に行こうか……」

 

「?……あ、僕が片付けますよ」

 

なんだか奥歯に物が引っかかったような物言いをしている由来に考えを巡らせる前に、ベルは食器を纏める主を止め、自分の仕事に意識を取られていった。昨晩の宣告どおり、もはやその右腕は湿布一つで抑えられる程度の痛みしか残していなかった。

はたして行く場所がどこであれ、僅かな手がかり一つもあえて逃す理由などありはしないと思うベルは、すぐにヘスティアとともに小さな神殿を後にする事となる。ふたりは少々の疲労を足取りに反映させながら、しかし忙しなくもある様子を隠さず通りを歩き続けた。

 

「ここ、ですか」

 

閉じられた玄関だけで自分達のホームより投影面積が大きく見える豪邸を前に、ベルは呆然としてつぶやいた。純粋な感嘆に基づいたものだ。精微な彫刻の柱は、それひとつ設えるだけで自分らの一年分の稼ぎも吹っ飛ぶのではあるまいか?

目を丸くしている眷属の姿に、主は要らぬ危惧を感じてそれをそのまま口にした。

 

「……ボクだってこれくらいの知り合いがいるんだぜ。いや、だからウチの規模がどうとか、そういうのは関係無いと思うがね――――」「ヘスティア。やはり来てくれたか!ああ、信じていたとも。ふふふ……」

 

よく通る美声に台詞を遮られた主がものすごい顰めっ面になった。何事かとベルはその声の方を見やると、眩しい笑顔を浮かべた美青年が立っていた。稀代の芸術家によって生み出された彫刻のような完璧な造形を持つその者こそが、主の知己にしてここに在る豪邸に住まうその神であるとベルは容易く理解した。

 

「なんでキミはいつも背後から現れるんだよ。ちゃんと玄関から出迎えろよっ」

 

「いやさ偶然だよ。そも招き入れて堅苦しく話すより、こういう場所のほうが『子供』同士も変に気を使う事もないだろう?で……ほう、君がヘスティアの『子供』か。はじめまして、私はアポロン」

 

「は、い。はじめまして、ベル・クラネルです。お招き頂いてありがとうございます、力添えしてくれるというお話を聞いてやって来たんですけれど」

 

「フフッ、勿論……私は下らぬ虚言を並べる趣味などないとも」

 

気を置かずに会話する神々に流されること無く、ベルは礼儀を守って挨拶を返す。同時に下げられた両者の頭だが、その動きの流麗さと言えばまさしく天と地か雲と泥か。洗練された立ち振舞を惜しげ無く魅せつけるすらりと伸びた長身と、そこに纏う爽やかな雰囲気は、どうして対面する主が渋い顔を保っているのかまったく見当もつかないくらいには友好的な印象をベルに与えていた。

眷属の胸の内を察してか、増々ヘスティアの中で胡散臭さが募っていた。

 

「……やっぱり怪しいな。ベル君よ、こいつはアルゴス君が捕まったと街中に広まってから急にボクに接触してきたんだぜ。それより前に別の事を聞きにここを訪ねた時はさっさと追い払われたってのに。丸め込まれてくれるなよ」

 

「なんて事を!ヘスティア、私は思い直したんだよ。あの女神の大事な『子供』だという乳飲み子が帰って来た、君達はそれを救うために無償で街中を「馬鹿!!大声で話す事じゃないだろっっっ!!!!」……」

 

ヘスティアはすんごい大声でアポロンの気障ったらしい賞賛を阻んだ。大手ファミリアの居は通りからずいぶん離れて耳目も少ないだろうが、確かに何処でつまらない火種を生むとも知れない話題なのである。ベルにしたって、あくまでも手段を探し回っている体だけを晒すよう努めており、その目的まで知るのは精々ナァーザとエイナくらいだろう。肝を冷やして身を竦ませたベルは、思わず首を振って周囲を窺う事しか出来なかった。

大いに憚る正論に暫し閉口したアポロンは、咳払いをひとつした。その仕草だけでもひとつの絵画になる決まりようだが、由来を知ればそれを題材にする絵描きはいないだろう。

 

「ま、御託はこれくらいにしておこう。要は、君達の助けになるならと思って、彼女を連れてきた次第だ。少し、手間だったが」

 

「彼女?って」

 

どこのどいつだ、と聞く間もなく、その『子供』がそこに居たのを小さな主従は知った。アポロンの影の中に潜んでいたのか、はたまた別の奇跡の業であるか、どうあっても計り知れない力量という事しかわからないが……。

暗い緑のローブを纏って紫の長布を細身に巻きつけた少女は、フードの中に見える垂れ目でじいっ、とベルの顔を見つめていた。その小さな口は固く閉ざされ、雄弁なる主との奇妙なコントラストを作り出している。

 

「カサンドラ。私の『子供』であり――――君達に、その行く先をほんの少しだけ垣間見せてくれる――――比類なき預言者…………かも、しれない」

 

それはもう胡散臭い紹介をかますアポロンに、いよいよヘスティアは限界だった。

 

「なんだよ、かもしれない、ってのは。……やっぱりおかしい、絶対あやしい!!帰ろうぜベル君。こいつは見た目と違って本当にタチが悪い奴なんだ。当たるかどうかもわからない占いなんか頼んだら、後でとんでもないものを請求されるぞっ!!」

 

「そんな、ちょっとっ、神様っ、待ってください!!」「おわっ」

 

付き合ってられないと踵を返した主の手を、ベルは咄嗟に掴んだ。切実さはその力と静止の言葉に宿り、小さな女神の身体は一気に引き戻されて半ば強制的に顔を突き合わさせられる。構わず、ベルの口からはその思いがまろび出た。

 

「途方も無い代償を背負わされるのだとしても、けど、手掛かりを掴めるかもしれない機会は、今この瞬間を逃したらもう次は無いかもしれないじゃないですかっ。僕は何もせずに後悔するのは嫌です!」

 

後にやらなきゃいけない事を恐れ、今目の前の手掛かりを放棄するのは断じて望まない事だとベルは訴える。曇りなく向けられる眼差しにヘスティアは刹那心奪われ、そして自らを恥じるのだった。まったく、この子の言う通りだ。あんな不条理な扱いをされている乳飲み子を救い出す手段は、どんなものでも引き換えに出来るのなら差し出す以外に選択肢などあろうかと。

ヘスティアは瞼を閉じて恥を飲み込み、そして瞳には恐怖を退ける確かな力を込めて自分の表情を整える。

 

「そうだったね……ごめんな。参ったもんだ、私情なんて今一番どうでもいいものなんだよなあ。……おいアポロンよう、出すものは出すけれどね、その娘に適当な事言わせてくれたら承知しないからな」

 

なんだか微笑ましげに自分達をを見ているアポロン(ヘスティアは非常にむかついた)に向き直って、ヘスティアは釘を刺した。

 

「大丈夫だとも。大体、何を払うかなんて考えなくてもいいというのに……私と君の仲じゃあないか?」

 

「おいベル君、勘違いしちゃダメだぞ。こいつとボクはただ天界に居た頃からの顔見知りってだけだ。それ以外の関係なんてまーーーーったく無いからな。ちゃんと理解してくれなきゃ困るぜ、いいね!?」

 

「は、はあ」

 

こいつだこいつ、とアポロンの方に人差し指だけ残してヘスティアはベルに熱弁を振るっていた。それはとても重要な事だった。

 

「さて始めようか。頼むぞカサンドラ」

 

「…………」

 

茶番も一頻り済んだと見て、アポロンは『子供』の肩を軽く叩いた。少女は決して返事をせぬまま、するすると歩いてベルの正面に移動した。

対峙する瞳は片方が長い前髪に覆い隠されていて、主とは正反対の仄暗い粘質さを湛えているような深緑色の光に、如何なる思考をもベルは見出だせなかった。

ただ少なくとも――――きっと今の状況を面白くは思っていないのだろうという憶測以外、ベルがカサンドラの人格について伺える事は無いのだ。

 

「あの、カサンドラ……さん。よろしくお願いします」

 

「……す、少し、黙ってて……」

 

「…………」

 

「ん、何だ。気難しいのだよ。不快に思ったらすまない」

 

挨拶を突っ返された眷属の姿にヘスティアは鼻白んだが、アポロンが事も無げにフォローを入れていた。まあ、それは許容出来るヘスティアだが、なんか釈然としない。何でだろう。何でだ。何でそんなに距離が近いのだ。平然と主従の間に割り込んで、額も触れ合いそうに見える所まで顔を突き合わせている。すごく面白くないぞ。ヘスティアはざわめく胸中を持て余した。

沈黙ばかりが、光明神の住処の入り口を支配している。それがどれほど続いたかと言えば、大した時間でもなかったと小さな主従が知るのは後になってからだ。しかし、特にベルにとってただ片目の光を鋭く睨めつけてくるだけの少女の姿は、さながら獲物の時間を止める蛇のようにも思えてならなかったのだ。

 

「…………っ、……」

 

いい加減息苦しさを感じ始めたベルは、出し抜けにひときわ大きな生唾を飲み込む衝撃を味わう。

白い、滑らかな感触がいきなり両頬に添えられたのだ。

カサンドラは両手でベルの顔を掴み、その顔を更に近づけていた。黒髪に隠された片目の光までもわかる距離だ。

見開かれた垂れ目は、その美少女ぶりよりも、ただ驚愕の色のみを見る者に印象付けていた。

 

「なに……………………?…………君は…………?、……これは……?」

 

「え…………あ……あの、?」

 

只ならぬ様子に辛抱出来ず声をあげようとしたベル。

 

 

それは、少女の声なき叫びに遮られた。

 

 

 

「…………………………!!」

 

 

 

 

物理的な意味で異性に迫られている事実よりも、ただ瞳を伝わる動揺にベルは困惑した。カサンドラは何を見ているのか、何を感じているのか。

わかるはずもない。

未来を知る奇跡を与えられた少女が、それほどの恐慌に包まれたかという事も。

 

「っ!!!!、は、…………あぅ、っ…………!!」

 

「む、どうした?」

 

たたらを踏みながらカサンドラはベルから後ずさる。脚を縺れさせて倒れそうになった『子供』の細身を受け止めたアポロンは、怪訝そうに死すべき者達を見比べた。

呼吸を乱し、フードの下に脂汗を幾筋も流しているカサンドラのただならぬ様相は、矮小な嫉妬心に機嫌を傾かせていたヘスティアもその身を案じた。

 

「ちょっと、大丈夫か。何がどうなったんだ。ベル君、何かしたのか?」

 

「いえ、何もしてないです。……カサンドラさん?」

 

「ひっ……」

 

一番わけがわからないのはベルだ。いきなり飛び跳ねてその主に抱きついた少女の思惑を窺い知れる方法など持っていない。刺激しないように、努めて落ち着き払いながら声を掛けるベル。

なんてことはない少年の呼びかけに、カサンドラは再び身体を跳ねさせて、激しく震え始めた。

 

「な、なんだよ。いったいどうしたっていうんだ。占いの結果はどうなんだ?それともどこか体調が悪いのかい?」

 

「………………や、闇…………」

 

「はっ?」

 

業を煮やしてヘスティアは詰問する。カサンドラは明らかに恐怖を抱いていた。ただの少年でしかない――――少なくとも今は――――眷属に向ける目は、まるで人間ではない別の存在を前にしたかのようで、……はっきり言って、不快に思えた。

女神の胸中を知ってか知らずかカサンドラは、震える暗い青緑の眼光を伏せて、命懸けのような様子で口を開いた。そして、言った。

 

 

 

「…………闇、だけが……見え、た…………君の、未来…………」

 

 

 

カサンドラは、芥も偽りを含めずに、そう告げた。

それが決して、地上の誰にも信じられない言葉であったとしても、彼女はただ、真実を告げていた。

真実だけを見通す瞳が捉えた、小さな少年の未来に待つ確かなものを。

 

 

--

 

 

「何だよありゃ。未来が闇だって?ボクらのやってる事が全部ムダってわけか?そんな占い信じるもんか!!……すまんベル君、やっぱりあんな奴のところなんて行くべきじゃなかったよ」

 

ヘスティアは憤激を露わにして街道を歩く。がに股だ。それも肩を怒らせるのに疲労を覚え始めてから改めたが。

頼れる姿を演じられない悔しさを、謝罪する主の声色からベルは感じ取った。痛いほど、よくわかった。その苦しさは骨身に染みていた。故に、それを和らげるのに幾らかマシな応対も知っていた。

歩調を合わせて顔を覗き込み、なんでもないような顔をする。

 

「闇っていうのは……きっと、まだ闇の中、つまりわからないって意味だと思います。いくらでも塗り替える事は出来るんだって」

 

「…………それはそれで、行った意味なんかまるで無いな」

 

気を使わせているのは明らかだったが、それでもヘスティアは憮然とした。誰だってわかることだ、未来なんて誰にもわからないと。だから今必死で、あるべきと願う未来を作ろうと誰もが足掻くのだ。んな当たり前な事をあんな大袈裟な格好で言うとは、悪趣味も甚だしい。きっと意に沿わぬ形で引っ張りだされたのだろうとはいえ、気の毒な預言者への不信感も募った。当然、その主に対しても。

 

「あんな凄いファミリアに後押しされたと思えばいいんじゃないでしょうか。少なくとも……失敗して終わるなんて、そう言っていたわけじゃないんですから」

 

「……そう……だな、うん。そうだ、そういう事にしとこう。でもあいつの手なんか二度と借りたりしないぞ。次こそヤバイ事になりかねないからな……」

 

なおも前向きな展望を語られて、ようやくヘスティアは絆された。終わった事に愚痴を零すのは無意味だ。後の判断の材料にはするだろうけれど。

そして、誰よりもあの不穏な宣託に動揺して然るべき者の前で晒した醜態を挽回すべく、眉尻を上げて凛々しく表情を引き締める。

 

「よしベル君。あんなのはスッパリ忘れて、情報収集と行くぞ。ボクは……もう伝は全部使い切ったし手当たり次第やるしかない、街の北側から虱潰しにしていくから――――」

 

「はい。僕は、まだ回ってない所がありますので、……子夜には戻ります」

 

さして広くない友好関係をいまさらヘスティアは呪った。地上にやって来てからもう少し能動的になっていれば、今の苦境も無かったのかもしれないと。詮なきことだが。

陽のまだ高く在る時間、幹線道路の交わる広場で主従は別れた。

手を降って走っていく主の姿を見て、その機嫌もどうにか直ってくれたと安堵し、ベルも駆け出した。

 

「……」

 

人も物も視界に留めずに風を切る。忍び寄る不安の影から逃れたいかのような早足だった。眷属もまた、同じなのだ。怪しげな預言に心動かされているのも、それを出来るだけ前向きに解釈したいのも。

闇。

その単語が今一度呼び起こされて、全身を震わしそうに身動ぎするのを、ベルは感じた。

 

(……知らないよ、そんなの……)

 

何かが、蠢いていた。理性を必死に働かせ、抑えつける。

それは不要なのだと、ベルは固く信じていた。

 

 

 

少なくともその判断は、正しかったのだろう。今は。

 

 

 

--

 

 

 

ベル・クラネルの瞳の奥には、定められた、彼自身の辿る未来の光景があった。

 

 

 

カサンドラ・イリオンは、そこに、闇を見た。

 

 

 

一片の光も無い、深く、濃く、覗き込もうとする者全てを引き込もうと蠢く、果ての見えない無明の世界だけが広がっていた。

 

 

 

--

 

 

ヘスティアの質問とは多くの神々にとって理解不能な内容だった。嘘を見破る奇跡、言葉の真偽を審判する奇跡。そんなもの誰が求めるのかと。

大体、まずもってなぜそんなことを聞くのか、求めるのか、目的は何だ?という当然の疑問に対しひたすら口を噤んでくる。それでもまともに相手にしたいと思う者はそうそういなかった。

とぼとぼと、街明かりの影に溶けて歩く女神。その足は歩きっ通しで棒のように固く張っていた。幾多のファミリアを訪ねて全戦全敗という精神的な疲労も反映していたのだろう。

 

「うぅ~っ、皆なんて冷たいんだ。……やっぱり全部話してしまうべきなのか。でも……」

 

どんなにしつこく問い質されようと全てを明らかにしなかったのは、たとえ好奇心が満たされたとしてもかれらが手掛かりを教えてくれるかどうかは別だろう事をヘスティアは知っていたからだ。かつての同胞だからというだけの理由で、下手を踏めば巻き込まれて連座させられる危険を冒してまで罪人を助け出す協力など、そんな奇特な神はよっぽど居ないだろうと。アポロンはなんか怪しいし碌でもない事考えてたからに違いないとも。

殊にそれらの発想は、ヘファイストスの影響が大きかった。昨日に訪ねた時のいつにも増した怪訝そうな顔と、一連のあらましを聞かせた際の目の見開きようを思い出す。最後に訪ねた伝だと希望を募らせるヘスティアに、隻眼の女神は伏目がちに口を開いたのだった。

 

『――――まあ、おかしな巡り合わせもあったものよね。……とりあえず今言えるのは、私は協力出来ないって事。勿論、その手段を知らないからっていうのもあるけど。で、他の連中も大概そうだろうから、会う度いちいち全部話す必要も無いだろうって事ね……』

 

多くの守るべきものを抱える者達は、いくらその大半が享楽主義に抗わない絶対者だからといって――――いや、だからこそだ――――被る必要もない火の粉に近づこうとする道理は無い。賭けに乗った結果がこの街から遠い、つまらん辺境の国に眷属ごと引っ立てられる結末など、誰もが御免被る未来だ。事の次第が広まれば、或いは声を掛ける事すら困難になるのかもしれない。

……或いは、痛くもない腹を探られかねない。お前達はあの罪人の為に、関係無いファミリアを巻き込んで何とかしてしまおうというわけか?と。

釈然としないヘスティア。

 

「チクショウ、ヘファイストスだって、あの馬鹿には恨み骨髄じゃないのかよ。皆も、ここで弱気になったらラキアに良いようにされっぱなしって思わないもんかな?そうだ、そうやって焚き付けて回っていけば――――、?」

 

追い詰められつつある思考が良からぬ案に至る辺りで、形の良い耳がぴくりと揺れた。立ち止まって周囲を見渡すツインテールの少女は、ラキアの兵士の存在も忘れかけて夜の街を歩く人々の気に留まる事は決して無い。

無数の言葉と音の中から、確かにその鼓膜で感じ取ったものにヘスティアは集中していた。

 

「――――、――――」

 

「――――、――――……!」

 

「……やっぱりベル君の声だ。この辺に……?」

 

理解できるはずもない内容だが、確かにその声だと直感する。誰ぞとの会話であろうか、ともかくそこに届いていたベルの声色は、どこか気ばかり逸るようなものにも聞こえてならなかった。もしここにヘファイストスやタケミカヅチが居てその聴覚に驚嘆したら、愛の力に決まってるだろ!!!!とか返していただろう。

行く宛も気力も尽きかけているヘスティアは、ここらで合流して帰宅しようかと思って『子供』の声のした方へと歩き出す。両手は耳に添えたまま……仄かな不安を胸に宿して。

 

「ベル君……大丈夫、だよな?無茶なんかしてないよな……」

 

零しながら歩き、歩き、すれ違う遍く者共には目もくれないヘスティア。『子供』への想いの中に燻ぶり続ける多くの懸念が、一筋の冷や汗を生んだ。

斯くして、女神が地を這い回る距離は、彼女自身が思ったより随分と短くて済んだ。

 

「――――ここ、だな。……多分」

 

転がったバケツと景気よく撒かれた水の跡が路面に広がるその場所に、ヘスティアは辿り着いた。酒を求める冒険者達の憩いの場だ。

開きっぱなしの扉の中からはかれらの団欒が漏れ出しているのがわかる。愛する者の、か細い静かな声も。最初、満ちる喧騒の中でそれを聞き分けられたのは、単に場所が近かっただけなのだろうか。ヘスティアはちょっとだけ落胆しながら、その酒場の扉に手を伸ばした。そこまで極まった冒険者達が集うような場所とは思えなかったが、相手など選んでいられないのは『子供』も同じ事と違いない、と納得させつつ。

瞬間、中から飛び出した怒声は絶対者の脳天を劈いて、全身を竦ませたのだった。

 

 

--

 

 

書き加えられた印で殆ど判別出来なくなってしまった地図は強く握り潰され、そのままポケットの奥に押し込まれた。

得られたものは疑りと憐れみと、嘲り。昨日と同じだった、全く。

すべてが徒労に終わった事実は、なお少年の歩みを――――辛うじて――――止めさせてはいなかったが、骸に集う蟲のように焦燥感は胸の内を侵しつつあった。

標は尽きた以上、あとは手探りだけでこの世界一広い街の中を歩きまわらねばならない。滲み出す不安を退ける為の虚勢を張るようにベルの拳は固くなり、歩は力強く踏みしめられる。

幾つもの灯火の揺れる夜の街も、今のベルには果てしなく続く闇と見紛うようだった。

慌ててかぶりを振る。

 

(……やめろ。そんな事考えるな。神様が別の手掛かりを掴んでるかもしれないじゃないか……)

 

「オイ少年」

 

「は?」

 

意識の外から飛んできた呼び声が自分に向けられたものと、不思議な事にベルは理解した。

そこに堂々と立っているキャットピープルは、閉じた唇を小さく、たぶん彼女なりの引き締めた表情を以て通りすがりの冒険者を見つめている。

 

「やーっぱりそうだニャ。あの時のセクハラヘタレ灰かぶり。あそこまでバカにされまくってまだ冒険者やってんのかニャ?なら、大した奴だニャ~」

 

夜目で膨らんだ瞳孔と声色が、記憶の片隅に追い遣られていた苦い味を思い出させた。どうしてそこだと気付けなかったのだろうか、その店員が立っているのは、今自分が居るのは、あの酒場の目と鼻の先の場所だったのだ。あの時に比べれば中から聞こえる喧騒も、然程ではないかもしれない。しかし、忘れがたい感情が滲み出てくるのがわかる。

 

「そんな顔してくれんニャよ……にしたって、シルもどうしておミャーみたいなしょぼくれたボンクラに構ったのか全然わからんニャ!」

 

「……」

 

自分はどういう顔をしていたのだろうと、そんな思案を巡らせるだけの冷静さすら失いそうなのをベルは自覚していた。泣きそうな顔か、辱めに破裂しそうな顔か、凍てついた能面であろうか。しかしどうあろうとここに居る理由にはなるまいという、逃避に近い衝動だけが膨らんでいく。すぐ気を抜けば蘇りそうな無惨な姿を今一度演じようという気は決して無くとも、頭の中でだけそうなるのを抑える難しさを彼は知っていた。

――――それでも。

 

 

『本当に、あると思うのか』

 

 

それでも抗うだけの力を、小さな身体はまだ失くしてはいなかった。

背負う使命は、何の役にも立たない羞恥心の為に、そこにあるかもしれない機から目を逸らさせるのを許すようなものでは、決してないのだから。

幼稚な葛藤を飲み込んで押し黙っているようにしか見えなかった少年はすうと顔を上げると、街明かりの生む影を纏めて切り裂くような眼光をそこに宿していた。

 

「席、空いてますか?この街で探しているものがあるんです。誰が知っているかもわからないけれど」

 

「お、お、何ニャ。……ただのグズのままじゃあニャいって事かニャ。お一人様ならカウンター席に行って貰うニャ……生憎シルは休みだから、おミャーに構う奴も居ニャいからニャ」

 

意外も極まる様子で、同時に面白そうに口角を上げるクロエ。顎で扉を指し示して、意地の悪い事を宣った。挑発は明らかだったが、ベルは只管に、あの穏やかな青い瞳を思い出して沸き立つ心臓の表面を抑え込んでいた。その努力は、握りこぶしの中の感触とともに、燃える網膜と繋がる脳髄を冷たくしていく。

いま一度足を踏み出したベルはそのまま敷居をまたごうと――――振り返って、口を開いた。

 

「……あの、気になってたんですけど、どうして両手を縛られて、頭の上にバケツを乗せられているんですか?」

 

「うっっっせえニャ!おミャあには何の関係もない事だニャっ!!知りたい事がそれなら、とっとと帰るニャ~!!」

 

古典的な仕置きを加えられている最中のクロエががなり立てるのを、ベルは目を丸くしつつ受け流して、そのまま店内へと入っていった。

 

「おかしいニャ。こういうのはアーニャの役割の筈ニャ、ニャんでミャーはあの時頭の上に皿を……」

 

後方から聞こえるボヤキが途切れると、ベルは隔絶した空間に放り込まれたような錯覚に囚われる。見覚えのある光景がありもしない嘲笑を呼び覚まそうとして、それを跳ね除けるように顔つきは自然と厳しくなった。それに気付く者はごく、僅かだ。そして気に留める理由を持つ者はもっと少ない。

店内の和やかな雰囲気は、ラキアからやって来た連中の生んだ波紋が消えつつある事の証左だったが、ただ前を目指して歩く者には気付けない事だった。そのまま、真正面まで一直線に進み、空き気味のカウンター席に座る。

 

「何だい、おっかない顔して。誰かと喧嘩しに来たってんなら場所間違えてるよ」

 

侮りを退ける為か、迫る刻限への焦燥が顕れただけか、とにかく少年が隠さない張り詰めた雰囲気をカウンター越しに店主が諌めた。対面するのが彼女であった事はベルにとっての幸運だったのだろうか。彼と面識のある店員は少なくとも、この場には居ない。尤も安堵を覚える事もベルはなかったが。混沌とした感情の生み出す熱を必死で抑えて、彼は口を開きかけ――――思い改める。

 

「……一杯頂けますか」

 

「ミルクは出してないねぇ」

 

ベルは、躊躇わずに財布から有り金全てを取り出した。自分が使えるぶんの全てだ。これを以てもたった一杯届かないのが、彼の巡ってきた場所なのだった。ならもう後のことなどどうでも良いという、どこか捨て鉢じみた衝動が確かに存在した。しかしそれを見てもミアが表情を変える事は無かった。

 

「これで買える一番高いのをお願いします」

 

「酔い潰れても介抱なんてしないよ、うちは」

 

知っているし、そう返事もしなかった。きっとあの時と同じようにはもう、ならないだろうと知っていたからだ。ベルにとって酒など値ばかり無駄に張るだけの液体だ。皆何が楽しくてあんなものを飲んでいるのか、きっと一生理解できないとすら思えた。どれほど飲んでも浴びても、温く蕩けさせるのは思考の表面だけで、一番奥で冷え固まった人間としての本質までは決して届かない偽りの安らぎだと知っていた。いま実際そうだった。出された杯を一口で空にしても、胸の燻りはその勢いを増す事も失う事も無い。喉元であっという間に霞となって消えていくようだった。

 

「探しているものがあるんです」

 

「へえ。落し物ならギルドに行きゃあ、対応してくれるかもよ」

 

どこか剣呑な空気がそこに漂い始める。普段より少ない客のうち何人かが、もうそこに注目していた。

 

「頼んで待ってるだけじゃ間に合わないから、ここに来てるんですよ。……」

 

こんな腹の探り合いみたいな会話だって、望むところではない。かつて勇名を馳せた女ドワーフの巨躯など、小さな少年の気概を憚るものではなかった。

 

「人の心を計り知る方法を知りませんか。神々の前に立たせずとも、それを成せる奇跡、道具、……聞き覚えがある程度の事でも構いません」

 

「……何のためにそんなもん探してるんだい。誰がそんなもん、求めると思う?それがわからないほどのバカには見えないけどね」

 

ミアの返答はまったくわかり切ったもので、何度も何度も何度も聞かされた言葉でもあり、苛立ちが赤い瞳から溢れ出した。

 

「知っているのか知らないのか、僕が聞きたいのはそれだけです」

 

いやに静かに感じた。強気に言い放つ自分の台詞に驚いただけなのか……いやそれはきっと違うと、ベルの中の冷静な部分が判断していた。これは、ただ目の前の女丈夫との対話だけが今の自分が気を払う全てであり、他のいかなる事象も無価値という理解だ。

柄にもないと省みる余裕も持たないベルの示威的なまなざしに、ミアはただ目を細めた。

 

「しつけの悪いガキだね。誰に対してもそうやって聞いて回った挙句にここに辿り着いたってわけだ。そりゃ、誰しも得にならないものに興味なんか示さないだろうけどさ、それが全てじゃないって事くらい、親に教わらなかったのかい?」

 

「そんな…………御託にっ!!金を払ったんじゃないって、言わなきゃわからない事ですか!!」

 

なけなしの金は自分ひとりだけで得たものではなかった。代価を求める気持ちがいよいよ逸る心に火花を浴びせ、声を荒げさせる。

 

「何ニャあ?誰がケンカ……って……え……マジか……」

 

机に両拳を押し付け牙を剥く姿は震え、細かいそれが空を伝い、やがて何事かと店内に飛び込んだクロエの肌をも冷やした。コイツ何やってるんだ、あのミア母ちゃんに突っかかって、自殺志願か。

しかし当然そんな危惧の存在は中心に居る二人のやり取りと無関係だった。

 

「言わなきゃ、ああそうだね。あんた、まだ言ってない事があるだろ?こういう仕事してりゃ、誰だってわかるもんさ。だから気に入らない。だから話さない。そんなのこっちの勝手だよ」

 

「…………!」

 

手前勝手極まる正当な理屈を打ち崩す方法など、ベルは知らなかった。表情が消えるのを理解する。皿のように目は丸く、瞳孔は広く、全ての色が消えていく錯覚ばかり強まった。図星と知らしめるには充分過ぎる反応だった。

しかし続く口上を聞いた瞬間、真っ白になった彼の視界は、一瞬で業火に包まれたのだ。

 

「おおかた、皆様に聞かせられない理由なんだろうけどね。ん?神様の前に立てないような、後ろ暗いロクデナシの為に?そんなのをどうこうしようなんて、悪どいことを考えるのはやめときな――――」

 

憤激が、全てを真っ赤に染め上げた。

 

 

 

「――――救われたから救いたいと思うのが、悪い事だって!?この街の誰も、アルゴスの事を罪人だと決めつけて関わろうとしないで…………ラキアに連れて行かれたらどうなるか!!このまま見過ごせるわけがないッ!!!!」

 

 

 

店内にびりびりと轟く音量は、全ての客と店員の意識を虜にした。いや、店の前を歩く者すら、驚いてその顔を向けていた。

それはきっと、話すべきではない事だったのかもしれないし、遍く人々に知れ渡って何かが変わるという事でもなかったのかもしれない……むしろ目指すものからより遠くなるばかりではあっても。しかし、そんな考えを巡らせる脳味噌など、ベルは自ら引きずり出して踏み散らかす事が出来た。

冷淡な態度を保っていたミアはようやくそこで、瞳の奥を僅かに揺らした。誰も、気付かない奥深くで、とても小さく。

 

「はあ。罪人アルゴス……成る程、あの可哀想な乳飲み子を助けるために、ね。あんたみたいのが」

 

そう言うとともに伏せた目にどんな感情が浮かんでいるか、ベルの興味を惹くものではなかった。薄笑いは、非力な癇癪持ちの少年への侮蔑か、そうであったから何だという?

射殺すのも厭わない視線を受け止め直し、ミアが挑発的な表情で続ける。

 

「大きく吹かすじゃないか……しょうもない連中にコケにされて潰れてた『子供』だなんてほざいてたうちの連中が節穴なのか……」

 

ベルにとって拭いがたい恥部を語りつつ、外されるミアの視線。双眸に映り込む陰影を理解した時、それは怒れるベルの目に舞うどす黒い何かを吹き払った。

反射的に、首が、上体が――――両足は床に立ち、全身が振り返った。

 

「ようこそいらっしゃい神様。この『子供』が駄法螺吹きの酔っ払いなのか、それとも本物なのか、どうも私にゃわからなくてね――――教えてくれたら、一杯奢るよ」

 

「……」

 

小さな身体はその決意を湛え、みなの目を一身に浴びてもただ毅然として揺るぎはしなかった。ヘスティアは、『子供』の繰り広げていた会話から、自分の今すべき事を知ったのだった。

 

「全部、本当の事だ。偽りなんか、なにひとつ無い……この子とボクの二人だけでも、ラキアの連中の行いは止めてみせるさ」

 

静かな宣誓が誰の耳にも届いていた。神威も発さぬただの少女の姿である絶対者に侵しがたい高潔さを見出すのは、その『子供』だけだったかどうか、それはヘスティアの関知するところではない。重要なのは、この戦いが存在するのを知らしめる事なのだ。

姦譎なる大国が尖兵どもに立ち向かう事を選んだ、小さな戦士がここに居るのだと。

一拍、その言葉の意味を解するに充分な時間を置いてから、ざわめきが酒場を満たした。本気なのか。あの罪人に。確かにラケダイモンは気に食わないけどな。あの女神なんつったっけ?大体あのガキ誰だよ?いや思い出したぜ、あの時の情けない僕ちゃんだ。何だそれ、教えろ。

無関係の聴衆の言葉まで、中心に立つ者達の耳は拾わなかった。ただ、それぞれの存在だけを感じていた。

 

「ラキアの法は神の言葉を退ける。かつての同胞にかけられた咎が偽りと証明するには、真実を明かす奇跡が要る。……なるほど、耳当たりの良い美談も、成し遂げられなきゃただ身の程知らずの無謀と終わるだけだろーに」

 

表向き感心するミアの舌は事の次第全てを知らしめるように、滑らかに動いた。今はただ前だけを見つめているヘスティアにも、その意図は容易に察せた。もはや何の躊躇もなく、腕を組んで胸を張る。

 

「そーゆーのを、負け犬思考って言うんだっ!……おい、君たち。聞いてくれたな!!ボク達ヘスティア・ファミリアは、あんな非道なんか許しておかない、必ず覆してやるぞ!!みんな存分に触れ回るついでに、知ってる事があるなら是非とも教えてくれるようにも伝えてくれよな!――――それと!!」

 

首を振り、大見得切って言い放つ姿はいっそ清々しさも感じる虚勢と受け取る者も居た。しかしここまで断言して後でしらばっくれるような性情と見通す者は居なかった。

 

「いいかっ!!あの子は罪人なんかじゃない!!まだ……まったく、本当に、とんでもなく腹に据えかねるけど、ラキアの言い分を飲み込んだとしても!……まだ容疑者、だろっ!!長い旅から帰って来たあの子は、ずっと日陰者のままでも、居なくなってしまった家族を待ち続けようとしてただけなのに……この街の仲間に掛ける言葉くらい、もう少し考えてくれよっ!!」

 

互い、近くの者と顔を見合わせて駄弁る者達全てを睨めつけるような、鋭い眼光を宿す双眸で以てヘスティアは酒場中を見渡した。面白そうに笑みを浮かべて視線を受け止める者も、少し罰が悪そうに目を逸らす者も区別なく、その言葉を深く理解するよう望みながら。

そうして義憤に身を突き動かされたまま、尽きぬ不満をこの際全てここで洗いざらい吐いてしまおうかとさえ小さな女神は猛りつつあった。どいつもこいつも知らないあるわけない時間が無いだの薄情な事ばかり言いやがる!!許せん!!しかし肩に置かれる手の感触が、そんな衝動を打ち消す。

 

「神様。……もう充分です、ありがとうございました」

 

全身を覆いそうだった黒い何かを、全て正当な怒りとして主が代弁してくれたのだとベルは知っていた。

はたして毒気を抜かれた様子の『子供』の声は、いつもの優しげで、幼さを残した響きと相違ないものとヘスティアは感じた。脳を煮やす熱が一気に失せて、明瞭になる思考。注がれる視線を強く感じながら、己が役割を終えたと理解する。もう、ここに居る理由は無いのだとも。

 

「あっ、あ、あぁ……そうだね、うん。……じゃ、そういう事だから。お邪魔したね、君たち」

 

少し声量を落としてそう言い残し、『子供』を連れて女神は店から去っていった。時間にすれば一刻にも遥か届かない間に巻き起こった嵐だった。

 

「おい今の、マジかよ!」

 

「大きく出たなあ、あの神様と坊や」

 

「つってもなぁ、お前知ってる?」

 

「さァ。というかさ、ラキアってそんな面倒臭い決まりがあったんだな、それ自体初めて聞いたぞ」

 

「ああー、思い出した。あのガキ、いつかの時、剣姫に背負われてたアイツじゃないか?あんなのがよくまあ、吠えるもんだぜ」

 

二人の影が夜の街へ溶けていった後、一瞬で店内は大騒ぎになった。いけ好かん筋肉ダルマ二人のせいでつまらない雰囲気に満ちていた筈のオラリオでこんな面白い出来事が蠢動していたのだとなれば、少なくともこういう場に集う者達の格好の餌食たりえるのは自明である。

店の外で聞き耳を立てていた連中まで当然のように雪崩れ込んでくる光景に、腕の紐を解かれたクロエはぼやいた。

 

「あの灰かぶり、どうかしてるニャ。まんまと街中巻き込んだつもりだろうけど、うまく行かニャけりゃいよいよ居場所なんて消えっちまうのにニャ」

 

「……こうやって知れ渡るのが無かったとしても、ラケダイモンどもはあの神様と『子供』を連れて行くつもりだったろうさ」

 

「はぇ?ミア母ちゃん、どゆ事ニャ?」

 

一気に増えた客の注文に対応しながら呟いた店主に、怪訝そうな顔を向けるクロエ。

 

「あいつらがまだこの街に居るのは共犯者を探し出す為、なんて言ってるけどね。実際は、あの小さなファミリアと話がついてるんだろう。どういう経緯かは知らないけどもあの乳飲み子を匿っていたのを取り押さえて、覆そうというならラキアの法に則った手段で、ってね」

 

推測は容易だった。そこそこに栄える酒舗の主は、日々流れ込んでくる膨大な情報を整理して論理を組み立てる術を身に着けていたのだから。

 

「はぁ~それじゃ、逃げても追われ続ける運命ってワケで、増々八方塞がりニャ。だいたい神様の前に出さず本心を知る方法なんて、聞いた事無いニャ。明後日にはあのふたりも、乳飲み子も、纏めてラキアの人質かニャ~」

 

「………………」

 

憐れむクロエは料理の乗った盆を取ると踵を返してテーブルへと向かう。予期せぬ繁忙時の到来は、すぐに店員達から要らぬ思索に耽るだけの余裕を奪い去る事だろう。

その、僅かな空隙の中で、ミアが何を思うのか。

虚を湛えたその表情に気付く者さえ、今この場には居ない。

 

 

--

 

 

「不思議だよな、ベル君」

 

あの後家路へついた主従は最中ひっきりなしに声を掛けられ、阻まれ、引っ掴まれ、大言壮語の真偽を問い質される運びとなった。そして、どちらも同じ返答をするのだ。本当だ。正気だ。やってやる。無いはずがない。聞いた者達の反応は様々だ。感心もするし、嘲笑もするし、ただ驚愕もする。興味深そうに首肯するだけの者も居た。

そのように夜更けの騒ぎの渦中にあったベルとヘスティアだったが、街の外れ、寂れた神殿に近付くにつれ人波もおさまってゆき、舗装の荒い道を歩いているのはいつの間にかふたりだけになっている。とっくに未明を過ぎている頃合だった。

 

「これまでろっくに相手されなかったのが、ああやってぶち撒けた途端に、野次馬だらけでさ。いや、最初からこうすれば良かったのかもな~、なんて」

 

戯けてみせるヘスティア。けれども、その本心は違っていた。隣を歩くベルの面持ちは同じ思いを物語っていた。

声を掛けてきた遍く人々、それはふたりの尋ねて回った人数を合わせた数にも届こうかというほどで――――その誰もが、求める情報を知らなかったという事実は、少なからぬ落胆を主従にもたらしていた。

 

「――――みんな、意地悪で教えてくれなかった訳じゃあ、無いんだなあ……」

 

「ッ……」

 

ぽつりと零れた台詞がベルの心を打った。それは、自分の中に確かにあった感情をそのまま形にしたものだった。最初からこうすれば。なぜ、そうしなかったか。

信じられなかったからだ、この街に住む者達の事を。

どうせ本当の事を触れ回っても誰も協力してくれないだろう、という、とるに足らない、ばかげた見栄、猜疑心、疎外感。そんなものに囚われていたのがまさに自分達だったのだと、僅かな時間であっても押し寄せる人集りが物語っているようだった。

そして何より、結局そういったくだらない葛藤を踏み越えたのだとしても、得られたのは万人の好奇心ばかりだという結果が、より色濃い失望感を与えていたのだけれども。

 

「あれが……あの人達がこの街に住む全てなんて、そんなわけ無いですよ。明日になればもっと、沢山の人の耳にも届く筈です、それならもっと可能性は……」

 

「…………そうだよな。うん。はあ、疲れてくると悪い方向に考えが行っちゃうんだよなあ。早いところ帰って寝ようか…………ぁ?」

 

道の脇に立つ人影に気付いたのは、灯りの少ない郊外で、その獣人の双眸がいやに煌めいて見えたからだった。ベルよりも僅かに高い背を持つ冒険者風の身なりをした女は、先程まで散々向けられた値踏みをするような目つきとも違う、その感情を努めて隠そうとしているような冷たい色を眼光に滲ませていた。

 

「ええと、キミも、さっきの騒ぎを聞いたクチかな。何か知ってる事があるなら――――」

 

不穏な雰囲気を感じても、それを無視してヘスティアは声を掛けたのだ。たとえ実りが得られなくとも失うものは無いのだから。

 

「可哀想ですよね、あなた達って」

 

抑揚の無い女の声色は冷え固まった凍土のようであり、女神の口上を阻んだ。嘲りは薄布程もの憚りを纏わず主従に突き付けられ、刹那その時間を停止させた。

女の胡桃色の双眸は酷薄な感情をベルに幻視させた。それは、直感だ。

 

「ねぇ神様。そこの僕ちゃんが、さっきのあの酒場で……ちょっと前、どんな姿を晒してたか、知ってます?」

 

「……!」

 

ベルは面識のない彼女がそれを知っている理由に思いを馳せる無意味を知っていた。幾つもの視線と笑い声。あの場に居た知らない誰かがどれ程居たかなど、最早記憶の遥か彼方だ。あんなものは何でもない、小石に蹴躓いたほどもない出来事なのだと容易く飲み込めるのなら、今ベルはこうして街中を駆けずり回るような事はしてない。無数の嘲笑を浴びせる何処かの誰かは、未だその苦味を忘れられない少年の心を揺らした。

 

「ゴブリン一匹相手に腰を抜かして、涙目になって、それを散々バカにされて、酔い潰されて、頭に酒をかけられて、ヘラヘラしてるだけ。下見て笑うカスみたいな連中相手に言い返しもしない……そんなちっぽけな『子供』が、あんな化け物といじましく傷を舐め合って、身を寄せ合う事を選んだ……何の取り柄もない神様の膝元で……。誰からも相手にされない者同士の友情なんて、泣けるお話ですよねぇ」

 

薄笑いを浮かべた口から、暗い愉悦の混じる台詞が紡ぎだされていく。それはベルの両腕の筋肉をを言い尽くせない感情で硬く興らせる。やめろ、話すな。それ以上口を開くな。そう叫ぼうとしても、噛み合わされた歯が許さない。わなわなと震える全身を必死で抑えつけていた。

その怒りは、いったい誰に――――何に向けられるべきものであるかを、知っているから。

 

「居場所の無い連中が、自分を慰める為の猿芝居を続けてるうちに、本気になっちゃってるんですか?あれだけの野次馬からも手掛かり一つ掴めないのに、いい加減無駄だって気付いてるんでしょう?出来もしない事に必死になるフリなんか、見苦しいだけだって、わからないんですか?あなた達なんて――――」

 

「おいキミ」

 

ヘスティアは、短く声を上げて女の長台詞を遮る。はっきりとした威勢を含みながら、それでいて萎縮させて相手の意志を挫こうというものでもない、単純な呼び掛けだ。自分の言葉に酔いかけていたのかもしれない女はハッとした様子で小さな女神の視線を受け止める。暗く膿む憤懣の澱に沈みかけていたベルもまた、辛うじてその声によって外界と意識を繋ぎ止められた。

 

「キミはそんな、可哀想なボクらの求めてるものについて、何か知ってる事はあるのかな?」

 

「…………見当もつきませんよ……いやさ、存在するわけが無いじゃないですか。この街の誰も、同じ事を言うに決まってます」

 

女は顔を逸らすと、吐き捨てるように言った。昂ぶりを消す為か、不遜なる振る舞いを今一度思い出す為か……。いずれにせよちらりと戻された横目はすぐ、その冷たさを取り戻していた。だが、そんなものは眼前に在る絶対者の心を揺るがすのに何の力も発揮していないのだと、ヘスティアの作る真顔は証明していた。ベルにはそう見えた。

 

「ふーむ。そうかい」

 

腕を組んで首を傾げていたヘスティアは、それから神妙そうに頷くと、固く握られているベルの手を取って足を踏み出した。軽く引かれるだけの力なのに、どうしてかベルの重く凍りついたように動かなかった身体は、容易く歩を進められた。その理由は、すぐにわかる。とても簡単な事だ。

 

「ご忠告痛み入るよ。でも、もう誰かに聞いたと思うけど、そうと決まってるわけじゃない以上ボクらは諦めたりなんかしないし、それにね」

 

胡桃色の瞳を下から覗き込む女神の顔は、対面する相手をただの下衆と断罪するような傲岸さなど欠片も無い、ただ己の確信だけを告げようとする真摯な表情を浮かべていた。

 

「この子はまだ、小さくて、か弱くて、少し傷つきやすいだけの『子供』かもしれない。けど――――知りもしない誰かにつまらない謗りを受けても、それを理由に足を止めたりしないって、ボクにはわかってるからね。……余計な心配は無用だよ」

 

「――――」

 

見開かれた女の目にどんな感情が宿っていたか、それはヘスティアにとっても、連れられるベルにとっても、何の関係も無い事だった。

損得勘定で繋がるものも、思いで繋がるものも、何も無い相手。そんな存在にここまで言われてどうするべきか。

何もする事など無いのだと、自分の手を引く存在は語り聞かせてくれた事をベルは理解した。

 

「じゃ、失礼」

 

「……」

 

もうヘスティアは一瞥もくれなかった。強く引くでもない小さな手に抗わず、ベルは足取りを辿って女の横をすり抜ける。俯く顔の色など、読み取れようはずもなかった。

それでも、絞り出すようにその言葉を口にした。

 

「……ありがとうございます。……さようなら」

 

彼女は何者であっただろうか。どこで出会ったかもわからない。わざわざ扱き下ろす為だけに姿を表させるような悪行を自分はいつ積んだか、ベルにはいくら考えたってわからないことだった。

少年の中から、いつの間にか煮え滾る怒りと屈辱は消え去っていた。

ただ、あっという間に冷えて乾いてしまった自分の感情への虚しさだけが……いや。

 

「…………っ」

 

女の、引き結ばれた口元を見て、確かにそれは感じられた。

どうしようもない物悲しさだけが、ベルの中に一筋流れ込み、そして止まることのない歩みを重ねるとともに身体の奥へと染み渡って霧散していった。

 

 

--

 

 

「神様。……あの人の言った事は……全部、本当で……」

 

「ん、わかってるよ。……わかってるとも。本当の本心だったろうね」

 

「…………」

 

「でもね……ボクが言った事だって――――証明なんか出来ないけど、――――本当の本心なんだぜ、ベル君。誰に何を言われたって、それは変わらないさ」

 

「……………………僕は」

 

「うん?」

 

「僕も……神様のように、強くありたいです。それが出来なくて、悔しくて、膝を折ったりするような弱さなんて、消してしまいたい……」

 

「……………………簡単だよ、ベル君。ボクみたいになる方法なんて」

 

「?」

 

「同じ思いで頑張ってるひとが居るとわかってるなら、知りもしない他人に何を言われて、何を気にするんだよ?って事さ」

 

ヘスティアにとっては、『子供』の抱える弱さも迷妄も我執も何もかもが愛おしく思いこそすれ、侮蔑し見放すのに値するものとは芥ほども思わなかった。それはどんな時でもともに分かち合うべきものなのだから。

それに潰されそうになる苦しみを払う為ならば何だってするだろう。どんな無様を晒そうが成し遂げたい何かがあるのならば、手を貸すのに何を苦しく思うだろう。いま直面する困難など、何でもないのだ。

立ち上がるのに必要なものが時間以外に無いのであれば、世界の終わりが来ようともただ傍らで座し続けられるという確信さえ決して揺るがない。

 

 

彼自身が、その命脈尽き果てさせる道を選ばないかぎり。

 

 

 

 







・その命脈尽き果てさせる道
「神々はかような大業を成した人物が自ら死ぬ事を許しません」
感謝しなさいクレイトス。





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膝枕




書いてる奴が未完と言わない限りエタった事にはならんのだ。
でも誰にも相手されなくなるのとは別。





 

 

 

「エイナ~。眠いよ~。もう帰ろうよ~。あの子達も忙しいんだよ~、今夜はきっと戻って来ないよ~……」

 

「先に帰っていいって、言うのは何回目?」

 

「やだよ~。暗いよ~。怖い人居るかもしんないじゃん~……」

 

「…………とにかく、これを渡すまでは帰る訳にはいかないのよ。どうせ明日は休みでしょ」

 

「ん~なのポストに入れとけばさぁ、あ、」

 

ミィシャの抜けた声で顔を上げたエイナは、背丈に差のある二つの人影を認めて立ち上がった。扉の壊れた神殿の庭は、僅かな整地の残った場所も雑草の絨毯を作れるほどに見窄らしい。おかげで職員の尻が土で汚れるのも避けられたのだけれども。

 

「ん、キミは」

 

眷属を連れて帰参した神を前に、腰を低くエイナは挨拶をひとつする。

 

「ベル君……ヘスティア様、夜分遅くに申し訳ありません」

 

「――――エイナさん?こんな時間に何で…………っ」

 

駆け寄ってきた顔は煌々と照らす月明かりのおかげでその端正な作りを映えさせ、ベルの言葉を刹那奪った。主のジト目に気付いたのは、それを正面から見ている二人の職員だけだ。尤も片方は、脳天気な発言に目元を引き攣らせながら、だったが。

ファイルを握る手がわなわなと震えている。失言に気付くと同時にその消えようもない既視感がベルの脳味噌を支配し、身体を凍てつかせた。

ベルは、祖父の言葉を今一度思い出した。

エイナの顔はものすごく怖かった。

 

「こぉんな時間、ねぇぇ。えぇ、こぉんな時間まで大変な事をしてる誰かさんからの頼まれ事をお届けに来ただけですものねぇ。お忙しいクラネルさんは、お忘れになってしまったのかもしれませんねぇぇ……!?」

 

「あっ、えっと、その、違います今のは」

 

顔色を失くして見苦しく言い募るベルの姿をヘスティアは相変わらずジト目で眺める。

何が違うんだよ。今のは何だよ。どうせ見惚れて一瞬全部忘れたまま口を開いたんだろ。きみはじつにばかだな。とヘスティアは思ったが、口を噤んで『子供』が制裁を受けるのを見届けようという算段に行き着く。だって、これは別じゃん。これだけはキミの抱えてるアレやコレやとは全然別じゃん。ボクは知らんぞ。

誰の手にも制止されず、眦と口角をつり上げた執行者は今まさに愚かな仔兎の命脈を絶たんと牙を剥こうとしていた……が。

 

「エイナぁぁ、はやく渡して帰ろうよホぉ……あふ……」

 

「…………はあ」

 

単なる好奇心でついて来ただけの同僚は、欠伸混じりの進言ひとつでエイナの怒気を散らしてしまった。ここまで遅くなるとわかっていたら決して来なかっただろう彼女こそ小さな冒険者の救い手足りえた運命は、誰が紡いだものであったか。

ため息をついて、エイナは危うくまた間抜けを晒しそうになった自嘲を隠す。だらだらと冷や汗を流すベルの姿は、いつかの如く歳なりの肝を持つ少年そのものだ。今臨む、無謀に過ぎる戦いへの決意を口にした際の毅然とした表情など決して見出だせない。

 

「私の辿り着けた手掛かりはこれくらい。あとは君達が「ふああ~~~あ」……ちょっとあっち行ってて。邪魔」

 

半分夢の世界へと足を踏み込んでいるミィシャが庭の隅へと追い払われる。フラフラとした足取りを見せた後座り込んで顔を伏せる彼女は、外界のいかなる話題に興味も示さぬであろう。

改悛の念を表情に滲ませながら、恐る恐るベルは資料を受け取った。開くと街の地図があり、見たことの無いエンブレムが書き込まれている。

 

「これは……」

 

「…………んん?聞いたことの無いファミリアの名前だね………………いや、天界では…………ああ、この名前は……でも、この街では会った事が無い気が……」

 

横から覗き込んだヘスティアは、もう一枚捲って、そこに書き綴られるファミリアのリストを見ながら、必死で記憶を漁る。今になって後悔しているほど交友関係の少なさを自負する彼女にとって、並ぶ神々の名前を思い出すのは中々に困難な作業と言えた。

主従による意図を問う視線を注がれたエイナは、応じて口を開く。

 

「ええ、もうこの街には存在しないファミリアですから。知らないのも無理は無いと思います」

 

その返答がどういう意味を持つか、ベルはすぐに理解した。かっと双眸が見開かれる。

 

「存在……して、いたんですか!?その方法が!」

 

漂わせていた引け目を瞬時に霧散させ、貪欲な光を目に宿して食って掛かる少年。その上体を迫らせる姿にエイナは内心苦笑した。彼の頭にあるのは、今度こそ自分の背負う使命だけだろうとこの上なく理解できる光景ではないか。そういう人間なのだろう、良きにつけ悪しきにつけ。

 

「落ち着いてよ。……ベル君、重ねて言うけれども、結局私が辿り着けたのは……それがあったかもしれない、っていう痕跡だけ。あったとして、それは一体何なのか、今も残っているかどうか、それを知っている人が居るかどうか……私の力でわかるのは、ここまでだった」

 

諭すように、或いは冷水を浴びせるが如き返答だった。だが目の前の主従が既に己等の逃げ場を完全に絶っている事など露知らぬエイナは、それでも過分な期待を抱かせる残酷な振る舞いを望まなかったのである。わざわざ言う事ではないが、仕事の合間もひたすらに探し、寝る間も食う暇も惜しく調べまくったのは、彼女の職場に通う殆どの者が知るところだった。

その結果がこの程度だという落胆は、確かに彼女の中にあった。

あれほどの傲慢な決意を言い放った少年への弁明とも言える態度は、自然とその口調に顕れてしまうのだ。

 

「……このファミリアの共通点、というのはいったい何なんだい?」

 

「それは……」

 

ヘスティアは、核心に迫る質問を投げ掛ける。失われた群団の痕跡を探れという意味は容易に読み取れる。然らばその由来を問うのは必然だ。

真っ直ぐに向けてくる思いに対し、エイナは少しだけ、時間を使う昔話を語り始めるのだった。

 

「zzz……」

 

座り込んで膝を枕にしたミィシャが目を覚ますのは、まだ先の事だ。

 

 

--

 

 

「悪どいパルゥム共が居るらしいのー。騙して、盗んで、陥れて、煽って、消える。ちょいと前はそんな連中も珍しくはなかったが、な」

 

品物の鑑定をする老いぼれノームの言葉などリリの頭には入らなかった。万余の屈辱と後悔に血液は煮立ち、口を開いた瞬間にも三千世界遍く存在への呪詛が噴き出すのを留める事は出来ないだろうと知る――――男のパルゥムの姿をした――――彼女の自制心は、奥歯を割るのも厭わない咬合力を生んでいた。

何度目だ?何度目だろう、この感情に飲み込まれるのは。主従ともどもどん底を這い回る、今やその命脈も一日半と迫ったファミリアは、会う度に、それを思い出させる。リリの魂を縛る鎖、温かい安らかな全てを奪い去っていく闇色の枷の事を。

呪いだ。

生まれながらに繋がれた縁とは、そうと形容する以外なかった。

 

「その頃はな、そういう噂が出れば、真っ先に喰らい付く輩も居たんよ。片っ端から悪党を成敗して、この街を秩序の光で正そうっちゅう……たいそう物好きと思っとったがな、ワシは」

 

救いたい。罪人じゃない。それを理由に足を止めたりしない。

眩い、甘い、愚かしい、かれらの姿は、それを前にした真に罰せられるべき者の影を更に濃く描き出し、膿んだ傷を曝しださせる。

闇の中でしか生きる事の出来ない者の都合など、きっと及びもつかないのだろう。

 

「おかげで、今は随分とマトモな暮らしも出来るようになったもんでな……軟弱が増えたとか言うヤツもおるけども」

 

誰に気を許せばその瞬間全てを奪われるかも知れない無明の世界で、リリが頼れるのは己の力だけだった。自分以外の誰かに何かを預ければ失敗と喪失が返って来るだけだという信念。それこそが彼女の歩んできた道すがらにおいて、その心身に、神の血よりも濃く深く刻まれたものだったのだ。

神の街の栄光に惹かれてやって来た、生ぬるい揺り籠の中にある赤子の如きおめでたい頭のバカ共など、彼女にとって一瞥くれるのも値しないカスだった。

――――そう言い聞かせる彼女の獲物はいつだって、自分を見下し、嘲り、欺こうとする悪逆の輩のはずだ。毟り取られたものを毟り返しているのだという正当性が、彼女の中に残されたか細い救いの糸だったのだ。それがどれほど度し難い欺瞞であったのだとしても。

 

「のお。この街から居なくなっても、連中のやった事は今でも、この街に根付いとるんかもな?」

 

勘定が済んで質札を作り始める姿も、目に映らない。

リリは、それを忘れ去る事は決して出来ないと知っていた。

自分はあの時、あの主従との約束に背いた時、あのせむし男の情報を売った時、遥かな希望へと至る道を照らしていた、小さな灯火を投げ捨てたのだということを。

ずっとずっと守ってきたたった一つの矜持も放り捨てた自分への怒り――――それが、今のリリの全身を満たす炎の、最も激しく燃える薪だった。

 

「……いずれお前さんのお友達も、痛い目見るかも知れんぞ。この街のモンは、例のアカイアの荒くれ共みたいに糞真面目ばかりじゃないからのー」

 

その言葉が吹きかけられた瞬間、昏い炎の中から火の粉を弾けたのをリリは感じた。

それは、売り渡したものの代価を受け取る時にラケダイモンの隊長から向けられた、虫ケラを見るような眼差しよりも――――否、それがあったからこそ――――、御し難く彼女を激させたのだ。

目を見開いて、昂ぶるまま噛み付く猛犬の表情を作り出すリリ。

 

「は……お綺麗な事を仰るもんですねえ?カネのやり取りだけで生計を立てている俺様は清く正しいと。自分より劣った者から何をどれだけ奪おうが飽きたらないヤツでも、法に触れなきゃ悪党じゃないと。そんな素晴らしい考え方を残してくれた、かつて居らっしゃった正義の味方がたは、さぞや鋭く公平にものを見るお目目を持っていらしたのに違いありませんねえ……!?」

 

「……」

 

質札を引っ手繰るリリの口端は目元まで繋がって歪み、右の犬歯を剥き出しにしていた。

何が悪だ、何が正義だ。そんな問いなど、彼女にとってゴミクズに等しかった。

いつしか、溢れ出る怒りの炎はその口を更に歪ませ、不意に笑みを作り出していく。ふ、ふ、ふ、ふ、と、断崖の谺のような、低い哄笑が漏れ出す。

 

「そもそもがおかしな説教なんですよ。悪どいパルゥム?友達?私が?アハハハハハ、誰が言ったんです?是非知りたいものですねえ?私が誰に何を話して、あなたはどこでそれを聞いたのか。つまりは私が悪党とつるんでるって事でしょう?証拠もなくそう決め付ける訳ですね。クククッ、ラキアの馬鹿共よりもよほど図々しい事をやってのけるものじゃないですか、そんな顔して!」

 

ケラケラケラと、溢れる感情の波を全て笑いに変えてリリは老いぼれノームを小馬鹿にする。偉そうに言ってのける訓告がどれほど的外れな下衆の勘繰りであるかを論い、知らしめるように。おかしくてたまらない様子のまま言いたい放題言い切っても、まだその笑い声は絶えなかった。

対する万屋の主人は、何の反駁も無く――――ただ、悲しげに、それを見つめていて、やがて口を開いた。

 

「そーだのー……ワシにはわからんともよ。ああ、何も。だから、どうもせんわい…………ただ、思い出しただけのことよ」

 

腹を手で抑えて笑うパルゥムから目を逸らした彼は、相手の事情に首を突っ込む気概も消え失せて、ただ、郷愁に浸っていた。

 

「――――いつだったか。そんな連中が拵えたっちゅう……怪しい品物を持ち込んできた輩がおったわ。死すべき者の言葉を計るとかいう、そりゃあ粗末な天秤でな……」

 

「――――」

 

リリの嘲笑は、一瞬で消えた。

 

「神様の前に引きずり出しゃあいいだけだろうに、何だってそんな物を作ったんだか…………それも、知りようもない事よな、もはや」

 

そっぽを向いて、誰に聞かせるでもなく独り言つ台詞の一語一句が今ここでどれほどの意味を持つか、彼は決して理解できないだろう。

絡み付く闇も導きの光も消えた虚無だけをリリにもたらす衝撃は、今暫し限り彼女の中から去ろうとはしなかった。

 

「……………………」

 

大時計の鐘が鳴るまで、偽りの姿を持つ死すべき者の意識は、何者の手も及ばない場所に立ち尽くしていた。

 

 

--

 

 

「ホラ、歩いて。帰るわよ」

 

「むぅん……」

 

半分寝ているままのミィシャを引きずりながら、エイナは一度だけ振り返った。だが、壊れた扉の向こうへ去る主従がその仕草を見る事は無い。伝えられる事は全て伝えたはずなのに、多くの含みを残したように思えるまま、エイナは帰路につくのだった。

 

「ほい急げ、やれ急げ!」

 

靴音を立てて小さな居に戻った二つの影は、小さな扉を閉じるのも惜しい速さで机に資料を広げて中身を写し出す。丸められた地図をポケットから引っ張り出して、そこに新しく印をつけていくベル。

 

『しつこいようだけど。これらの場所に彼らが住んでいたのは、この街にしてみればもう一昔前と言ってもいいくらいだから……何かが掴めるとは、ハッキリ言って私は思わない。でも、もしもという可能性がゼロであるとも…………思わない』

 

夢の中へ落ちゆく時間は潰えた。少なくとも自分に関してはそうだとベルは確信を持っていた。冴え切った目と、滑るように動く手首が正確にその記述を書取らせる。その様を眺める事もなくヘスティアがペンを走らせて、今は消え去った正義の味方達の頭目と、その擁護者たる神々の名を記していく。

主従は知っていた、きっと、これこそが残された最後の希望であるということを。

果たせるだろうか。

辿り着けるだろうか。

……違う、必ずや、遂げなければならない事だ。後がどうなろうとどうでもいい、あの場で全てを知らしめたのはその覚悟の為すものと、今更省みるほどもない事実だった。

インクが紙に刻み込まれていく音だけが、ふたりだけの場所に流れ続ける。不規則な摩擦音は、机にかじりつく両者の眠気が永遠に消し去られてしまったかのように絶えず奏でられていた。

やがてそれは、かれらの知らぬ外界に薄明が忍び寄る頃に遂に途切れた。

 

「……おっし終わりっ!」

 

「!」

 

差し出された写し紙を受け取り立ち上がるベル。座り込んで眺める暇も無いという思いが、全身を急き立てる。

 

「あっと、ベル君ちょっと待った…………これだ、これ」

 

「えっ?」

 

何を聞くでもなく『子供』に続こうとしたヘスティアは、はたと思い出して台所へと踵を返した。そこから持ち出してきた、包み紙に覆われたそれは二つあり、片方を差し出す。

 

「作っといたんだ。大した足しになるかはわからないけどさ……ちょっと早い朝ゴハンって事で」

 

主の破顔は、前のめり気味のまま、ともすれば転げそうな危うさも未だ孕む少年の心を平らかにするに充分能うものだ。

少々不格好な、じゃが丸くんとよく似た携帯食を手にしたベルは、少しばかり面食らった顔をして、それから、口元をゆるめた。

 

「神様。……………………これが済んだら、神様のお店に行ってみてもいいですか?どんなふうに仕事をしてるのか、見てみたいんです」

 

「っっっっえ゙!?!?!?、…………!?!?、……あ!?いや、うん!?……うん、まあ、ああ、その、ええと、…………よし!!うん!!大丈夫だとも!!全然!!いっ、いくらでも来てくれよ!!じゃんじゃんサービスするぜっ、わははははははっ!!」

 

眷属がとっくに真相を掴んでいる事を知らない女神は、その心の有り様をそのまま態度に映し出して、最後は冷や汗をしとどに流しながら渾身の虚勢を張る。ヤバイ。どうする。くそっこうなったら土下座でもなんでもしてもう一度雇ってもらうしかない!!と。

自分の抱えていた暗く低俗な欺瞞と比べるべくもない微笑ましき姿を見るにつけ、今この場所と時がどれほど得難い、手放さざるべきものであるか、ベルは理解を改たにするばかりだった。

 

 

--

 

 

リリが所属するソーマ・ファミリアは毎月、団員から各々能力に応じた金を巻き上げる。それは絶対に守るよう厳命されている。足りなければ、制裁を喰らう。それは少なくとも今月においては、リリと関係ない事だった。裏切りで得られたものは、それなりの酬いを彼女にもたらしてくれたのだから。

ひと時の安寧を得た彼女は、街の隅の使われなくなった下水道の一角、ボロボロに崩れて倒れた扉の後ろにある、小さな空間に佇んでいた。

そこが数日前、灰かぶりの少年と、片端の罪人と、小さな女神とはじめて対話した場所のすぐ近くであったのを、彼女はついさっき知った。

誰が使っていたか知れない家具だったものが散らばり、誰が揃えたか知れない食器だったものが散らばり、誰の営みを支えてたか知れない崩れた台所と合わせて、この場所がどれほどの時間放置されてきたかを物語る荒廃ぶりを晒している。

 

「…………」

 

ほつれきった布と飛び出す綿はホコリまみれだったが、構わずリリはその、かつては寝床だっただろう残骸に座った。ふと思う、今はどれくらいの時間だろう。かれらとの会話から、どれくらい経っただろう……。倒れた扉に描かれたエンブレムは今やそれを知る者でなくば他の誰も判別できないほどに色褪せている。今となってはそれがこの街に記された場所は、最早ここしか無かった。

打ち棄てられた、何処の誰の温もりがあったとも知れない安息の場所。それは、リリの心をかき乱す多くの懸案を容易く呼び起こす光景だった。長い旅の末に帰って来た冒険者は、この場所で微かな既視感に心慰めつつその羽を休め、そして誰にも正体を明かそうとせず主の帰りを待ち続けるつもりでいたのだろうか。いつまで?

彼に、かれらに何があったのかなどリリは知らない。だが、十数年も前に追い落とされ、放逐された群団がもう一度戻って来るなどと、どうして本気で思えるのか。信じられない愚か者だ。他の理由があったとしか考えられないのがリリルカ・アーデという死すべき者の性情だった。

だが――――

 

「どうして、…………」

 

呟きはクロスの全てが剥がれ落ちた壁に染みこんで消える。

あの小さな主従は、決して、異形の乳飲み子の事を疑わず、勝算など毛の先ほども見えない、無謀極まる戦いへと身を投じる事を選んだ。

全ての事象は、まるで如何に自分が惨めな存在であるかを指摘しているかの如く移ろい、リリの心を苛み続けていた。どこまでも弱く、虚無のみが待ち受ける夜闇へと消えゆくだけだったはずの少年は今、果たすべき義に従い、信じてくれる者と手を取り合い、確かにこの街に在るに違いないその方法へと辿り着く為にあがき続けている。

どうして。どうして。どうして。

どうして諦めないのか。どうしてそこまで信じられるのか。どうして歩き続けられる強さを持てるのか。どうして……。

 

(……私には)

 

どうして?

何度唱えても足りない疑問。その答えを知らないからだ。どうやっても、知る手段などリリは得られないからだ。

だが――――答えは存在する。誰も知り得る手段を持たないだけだ。

運命が、そう定めたのだ。

リリルカ・アーデという死すべき者は、ただの酒に心奪われ、一時ばかりの情欲の猛りに任せて子をなし、それに人格を認めず、心奪うものを手に入れる道具としか見ず、そのまま曇った眼を晴らす事無く生命を散らすような男女の間に生まれ落ちる。ひとり残されても誰からも施しは与えられず、ただ憐憫と侮蔑と失望だけを投げつけられ、欲する全てを奪われていく道を歩む。

誰も、彼女を見ない。誰も、彼女を慮ることはしない。誰も、彼女の居場所など知らない。

やがて、死ぬ。いつとも知れないその時に……どんな手段でも免れられぬ形で。

 

「フ、フフフッ……」

 

どこまでも壮大でありふれた妄想を膨らませるリリの頬に、冷たい何かが流れ落ちていく。

どうしてだろう。

今ここに、自分を害するものなど何も無いのに。

リリにはわからなかった。

何もわからなかった。

永遠に湧き出し続けるあらゆる疑問についての答えは何ひとつ得ることは出来なかった。

 

 

放心したまま、ふらふらと街を彷徨い歩いた果て、気付いたら辿り着いていただけの場所。かつて、他のどの群団よりも弱く、小さく、見下され続ける主従が救いを見出した、小さな聖域のすぐ傍。

そこでたった一人で膝を抱え座り込むリリは、笑いとも啜り泣きとも区別の付かない奇妙な声を漏らし続けていた。

 

 

疲れ果てた彼女がそのまま眠ってしまうまで、もっと時間が必要だった。

いっそ夢さえ見ることの出来ないほどの心身の憔悴だけが、いま彼女の求める全てだった。

 

 

--

 

 

目覚めの時も迫る頃合は、街の中心であってもよほど人影は少ないもので、だからこそ日陰者達がこそこそと出入りするのも容易かった。今は違う。

ギルドに雇われた冒険者達は城壁の門やギルド本部はもちろん、迷宮入り口から神々の居住区を除いたバベル全体にかけてまで配置されており、虫一匹も逃さないと目を光らせている。それも共犯者とやらを見つける為、というのが建前だ。奥にある真の目的を知る者はどれほど居るだろう?少なくともギルドの長の抱く懸念は街に持ち込まれた謎の巨大花だけに注がれていた。

 

「くそーっ、あの筋肉め。今に見てろよっ。罪人だの共犯だの決めつけてからに、今に赤っ恥かかせてやる」

 

秩序の為の建前など正面から打ち崩す者のつぶやきは、それぞれの目的を持ってここに集いつつある者達の耳に否が応でも入ってくる。――――偶々そこに居ただけか、あるいは既に顛末を知ったうえで待ち構えていたのか――――朝一番と本部にやって来たヘスティアとすれ違ったラケダイモンの副官は、冷え切った眼差しを一瞬だけ向けて、それから何も言わず建物の奥へと去ったのだ。

主神と眷属の性情が必ずしも寸分違わない事などあるはずもなかろうが、それにしたって第一印象からして最悪極まっていた感情はそのままラキアを束ねる戦神へのそれと重なり、慎ましやかな居の擁護者を憤慨させていた。

 

「……おうい、そこな君!そーとも君だよ君。毎日お勤めご苦労さん、ボクは…………えっもう知ってるのか。じゃあ話は早いな、このファミリアについて何かああっ!?」

 

面白くない気分を改めるように、いざヘスティアは目についた不運な第一冒険者を捕まえて一気に捲し立てる。一人攻略に勤しもうとしていた彼は、危うく捕食されそうな錯覚を抱かせる眼光に気圧されそのまま飲み込まれそうだった。

そこに現れた救いの御手は唐突に、小さな女神の広げる資料を掻っ攫う。

 

「面白い事をしているのね」

 

「かっ、返せよっ!何だってキミがこんな所に……また変な事を吹き込みに来たのかっ!」

 

取り上げられた紙束はフレイヤの長い腕で高く掲げられ、ぴょこぴょこと跳ねるヘスティアの哀れな姿を演出する小道具となった。

 

「人聞き悪い事を言うものじゃない?そうやって元気になったのなら、私の言った事も悪いようにはならなかったという事でしょう……ほら」

 

不敵なる振る舞いは、先日街中を騒がせた一端の報いとして団員を駆りださせられている事への不満など、おくびにも出さないものだ。そんなフレイヤの『子供』の一人は、前触れ無くやってきた主から離れた場所で只、その職務を全うしている……女神達に見惚れかける名も知れない中堅冒険者を、ひと睨みで退散させる程度には。

肩をすくめる銀色の女神から没収品を取り戻したヘスティアは非常に渋い顔をしていた。おめえがおかしな事を言ったのが今の発端ではないかと因縁をつけたい気持ちは、結局は己の間抜けさが全てを招いたのだという罪悪感と打ち消し合ってしまう。しかし、それでも一言くれてやるくらいは許されて然るべきではないかとも思うのだ。

 

「…………少なくともキミのおかげなんかじゃ無いんだよ……そんな事言いに絡んでくるなんて良い身分だよな全く。もう知ってるかもだけど、ボクはとおっっっても忙しいんだ」

 

「ええ、頑張ってるらしいじゃない。私の出る幕じゃないみたいだけど……応援してるわ。本当よ」

 

「そうかい……」

 

果てしなく嘘くさい事をかくも真顔で言うものだと、ヘスティアのテンションは下がった。このまま続けても有力な手がかりなど得られそうもない相手でもあると思えて仕方なかった。

 

「じゃあ、お邪魔したわね。一晩『子供』と仲良くしてるうちに気付いたらこんな時間になって、暇だったのよ……ふふ、あなたも同じ口じゃない?」

 

「は?……………………………………………………、!?!?、!!!!、――――~~~~~~~~!!!!」

 

手をひらひらと振り、フレイヤは去る。残されたヘスティアが不埒な冗談を理解して顔を真赤にするのも、銀月の化身の目の届かぬ場所で起きたできごとであった。

とんでもない誹謗に呼び起こされる恥辱と憤激は、近頃味わってばかりな気がするそれらとは比較にならない。言葉を失い、その場で腕をぶんぶん振り回して地団駄を踏むばかりだった。

 

「あ、あのう神様。なにかご用件があるのでしたら――――ひぃ」

 

「ッッッッ!!!!この!!このファミリア!!名前!!覚えがあるかなっっっっ!?ぜひ!!教えてくれ!!というか!!写してそこら辺貼っつけてくれたら!!嬉しいんだけども!!!!」

 

たまの早番の職員は見兼ねて話し掛けて、すぐに後悔した。小さな女神の強烈な怒気を受けあの(ちょっと狙ってた)ハーフエルフの受付嬢や街一番のファミリアが首魁を思い出し、なぜ俺ばかりがこんな恐ろしい目を見なければならないのかと世の不条理を呪うのだった。

義憤その他の要因によって灼炎を滾らせるヘスティアの存在は、すぐにでも朝日に照らされゆく街中より、噂好きな住民達を呼び寄せるに違いなかった。

フレイヤはすれ違う『子供』の勤勉さを流し目だけで労いながら、今どこで駆けずり回っているか知れない少年の事を思い、口元を緩める。彼女の楽しみは、まことに尽きる事も無くこの街には溢れているのだった。

 

 

--

 

 

「わざわざてめえの足で探し回ってるくらいだから何度聞き返されたんだか知らないけどよ、言わせてくれ。お前よ、本気なの?」

 

「本気です」

 

「そうか……。……気の毒だと思うがな、助けにはなれねえよ。コイツらの事は確かにちょいちょい覚えてるが……私がこの場所を借りた時点で、建物は焼けちまってたしな。住んでた連中はどこに行ったんだか」

 

かつて、そこにはその群団があったという。今は違う。何度そこに居を構える者が入れ替わったかも、ベルはしつこく訪ねて回る。

地図に写した印を辿るベルは、その周辺も含めて聞き込みを繰り返した。激しい焦燥を隠し切れない熱心さはそれを嘲る声など忘れさせたし、そんな姿は一夜明けて知れ渡る蛮勇ぶりとともに、決して衆生に対する悪印象をばら撒きはしなかった。何もせずとも消え失せそうな泡沫の輩からは掠め取れるものを期待出来ようもなく、そこに付け入ろうとする者も居ない。

ゆえに、道を遮る誰ぞの悪意よりもずっと征しがたい、そこには結局何も無いのかもしれない闇の帳の中を突き進む難行にベルは挑み続ける。

 

「嘘か真かを裁定する、ね。確かに、ああいう連中でなけりゃあ作りそうもねえのかもな。――――ま、頑張れ。ギルドもあんな脳ミソ筋肉相手にハイハイ言ってよ、そのせいでオラリオがなめられたらたまんねえしな」

 

刻限はあと丸一日と少しと迫る中でこのような反応を得たのは何度目かも、ベルは数えてない。昨晩までに出会った者達のそれとはまた違う、仄かな無念を滲ませる表情と返答だ。ただ僅か遠くを重ねて見るまなざしを向けてきたり、或いはむず痒く感じる声色で紡がれる申し訳程度の励まし。それはかれらの感情がいかなるものであるかを幼い少年にも察させるに充分なのだ。

 

「……ありがとうございました。うちの神様はギルドに居るはずですから、何かわかったら、ぜひお願いします」

 

パイプを蒸す女に頭を下げてベルは店を出た。あと少し、あと少しと自分に言い聞かせ、万度その手が空を切ろうとも歩みを止めまいと戒める。

路地裏からふたたび街道に出れば立ち所に、陽に照らされる少年へと好奇の視線が注がれていく。圧巻の質量にすら感じる雑踏の衆目だが、この程度の事にかかずらう理由などどうして見出だせようか。ただ目は前を向き、脚は立ち止まる人々の間を割るのに躊躇なく踏み出される。あまねく罪を明らかにしようとする白日は少年に、沈黙のまま闊歩する己の影を濃く、大きく錯覚させる。

無茶だな、無謀だ、売名だろう、確かに不憫だけどなあ、知らねえよな。ベルを振り向かせる事もなくそれらは通り過ぎていく。聞き飽きた言葉だ。けれどもそれらはどれだって、戯言と一蹴するのもベルには憚られた。昨晩の、主の呟きに込められた万感の思いを察するにつけ、……即ち、冷淡、無関心ともとれる街の住民たちの反応も、結局はそれを知らないから、そして如何にラキアの思惑を覆すのが困難であるかを物語っているのに他ならないからではないか。

開かれて畳まれて擦り切れそうな地図に目を落としたまま、ベルは前へ前へと突き進んだ。

何度も何度も尋ねた。

 

「懐かし。ごろつきから助けられた事もあったよ。……でも、どこ行ったかは知らない。リーダーが死んだってのは聞いたけど」

 

「あったなこんなファミリアも。まだ自治組織が機能してなかった頃だ。こいつらか?怪物に全員まとめて食い殺されて、服の切れ端も残らなかったんだってよ」

 

「確かにここを拠点にしてたんだろうけど。オレが来た頃には、宿無し連中の溜まり場だったからなァ。金になりそうなものは何ひとつ無かったし、取り壊し中にもそれらしいものは……」

 

正義の味方達はすべてこの街から消え去ってしまったのだろうか、記録と記憶だけ残して。かれらの生命の痕跡はベルの辿る足跡の半ばにあって、髪の毛一本ほども見出す事は出来ない。世界中から死すべき者が集って犇めき合う地においては、失われたものが存在する隙間もすぐに埋められてしまうのだという歴然たる事実ばかり積み上げられてゆく。ただそれを噛み締め、ベルは歩き、いやさ走り続ける。息を切らし、汗を飛ばし、薄暗い路地裏で怪しげな連中にまで聞いて回るのも全く厭わない。

 

「クククッ。なんだ、餓鬼。こんな連中頼りにしてるのか。ああ、覚えてる。役立たずの癖に鬱陶しくてしょうがないカス共だったってな。今のお前みたいに」

 

「胸糞悪いヤツらの事思い出させやがって。テメーもそいつらと同じように、負け犬呼ばわりされてオラリオから逃げ出すだけだ」

 

「正義の味方はねぇ~、悪い奴の事を味方してくれないんだよぉ~、ウヒヒ……ボクちゃんはきっと悪い子だから、この人達も助けちゃくれないわけさぁ~……」

 

彼らは確かに居たのだろう。そしてそれを疎む者達も居たのだろうと、目つきの悪い者達の態度が示していた。彼らはこの街を去り、そして何処かで安息の地を見つけたのだろうか。その主とともに、そこに骨を埋めようと今も暮らしているのだろうか。折れてしまった錦の御旗をこの街に残した事も、永遠に忘れたまま。

その末路全ては各々が理由に基づくものであり、かくも身勝手な等と拳を握られる謂れなどあるはずがないだろう。そう言い聞かせるベルは、苛立ちを消せない未熟な精神性を恥じ、消し去ろうとするように我武者羅に走った。

道すがらすれ違う者達は今や、中天に差し掛かる陽で汗を流す少年の姿形をすっかり及び知るようになりつつあり――――そして既に面識のあった数少ない者は、沈痛な面持ちばかりを浮かべる。

 

「ヘスティアちゃんも無茶するな。正直言うと、同情するよ」

 

「また店長は、そう薄情な事を!…………今そうやって必死で足掻いてるのを助けられないのが心苦しいよ。どうか、叶うように祈る事しか出来ないなんてね……」

 

「いえ、いいんです。全部済んだらこんなの笑い話ですよ、きっと」

 

「そりゃ、笑うしか無いだろうな……餞別くらいなら包んでやれるけど、どうする?」

 

屋台の人々の本心はともかく、そうやって言ってくれる人々がゼロではないだけでもベルにとっては僅かばかり心が軽くなる事実であった――――それが現実を変えるわけでもないと、わかっていてもだ。

見送る視線に振り向かずにベルの脚は地を蹴る。まだ、尋ねるべき場所は残っているのだ。

 

(……何処かにあるはずだ。きっと、手掛かりはあるはずなんだ)

 

何か一つでもいい。何か一つでも掴めなければ、欲するものに辿り着く事は決して出来ない。固く重くベルの全身に絡みついて軋む鎖は、彼の脚を更に早めていく。

眠気も空腹も忘れさせ、ただ赤い瞳に消えない炎を宿させたまま。

 

 

--

 

 

「…………なんでだよお??」

 

ギルドのロビーの端っこに小さな机と椅子まで用意されたヘスティアはそこで突っ伏し、シンプル極まる疑問を口にするのだった。行く人来る神捕まえて聞きまくり、行く神来る人捕まえられ聞かれまくり、合わせていったい何回目だったか、そう聞けば、三桁は確実に超えているハズだぞと自己申告するだろう。こんなに働いたのは屋台仕事でだって無かったとも。

それなのに、誰も知らねえでやんの、とも。

掴ませる金も無い以上、主に死すべき者の偽りを見抜く瞳だけが頼りではあったが、それでも誰も彼もが口を揃えて言うのだ。いやそんな方法全然知りません、そいつらがまだ居るかどうかさえ聞いた事ないです、どこへ行ったかだって。

 

「なんでだよお…………」

 

白目を剥いたまま、口からは重い溜息が漏れ出していた。放心しかけの女神は昼食抜きの苦難ゆえ、その体力も風前の灯だった。皆はただそれに、気の毒そうな視線を送って通り過ぎる。概ね知れ渡った噂では、新しもの好きの好奇心もそろそろ呼び起こせなくなりつつあったのだ。掲示板の新しい貼り紙も虚しく揺れていた。

しかしそんな折に接触を図る者は、未だに絶えず存在していた。世界の中心の、神々の都であるがゆえに。

 

「ヘスティアアアアア!!聞いたぞおおおお!!なぜ、何故この俺に最初に相談しないのだっ!?俺に!この俺!!ガネーシャに!!何故だ!?」

 

「うあっ」

 

どこからかどかどかと地を踏み鳴らす音がしたと思ったら、象頭が大股歩きで突進して来たのだ。ヘスティアは粗末な木イスに座ったままひっくり返りそうになった。

そういえば、こんなやかましい奴ともそれなりの縁はあった、と言えた、のだろうか、と、少し霞がかっていた思考は飛び飛びに結論を導く。いずれにせよでかい身体で机に手をついたままの、その仮面の奥の真剣な眼差しを見返せば、彼の決意は既に固まっているようだと察せた。

 

「俺は今義憤に燃えている、偉大なる小さな女神ヘスティアと、その『子供』の姿が如何に高潔であるか、それに手を貸さない理由があろうかと!!遥かな旅路から戻った昔日の勇者を救う手立てを求めない理由があろうかと!?そう、俺はこの街を、この街に住む者を愛しているからだあ!!」

 

「……あ、はい」

 

エネルギーが枯渇しかけている状態のヘスティアは、大仰に持論をぶって注目を集めてくれるガネーシャに圧倒されていた。なんか褒められているらしいぞベル君、と、ここに居ない者にそう心のなかで呟いた。ぼんやり気味だった。

 

「応、言葉は要らない、そうだろう!?約束する、必ずお前達の道は拓かれようと……何しろそれくらいしなければ、俺の不始末を雪いでくれた借りはまだ返したと言えないだろうからな!」

 

「え、」

 

勝手に捲し立てた挙句にどかどかと地を踏み鳴らして去っていく象頭。背もたれの後ろまで肩を放り出したヘスティアは唖然とするだけである。漸く心音が刻み始めるのをその耳で捉えてから、がっくしと身体を弛緩させた。

 

「……好き放題言うだけ言って、まったく。助けてくれるのは、ありがたいけど」

 

高い天井の豪奢な絵画を仰いだ口から力ない呟きが漏れていた。希望的観測を得られない心情とはひょっとしたら残り少ない精魂を短い会話の間に意図せず預けてしまったからではないかと仄かな危惧すら芽生えてくる。ここでこれ以上何かして、どんな手掛かりを掴めるだろうか、とも。

……ふと、遠巻きに眺める者達が何か言っているのが聞こえた。

……まあ、無理だよなあ……。

 

(――――いかん、駄目だ。弱気になってどうする!今もベル君は走り回っているのに違いないんだ――――!!)

 

一瞬で両眼に力が戻り、自堕落に凭れかかった姿勢を揺り戻すヘスティア。二本脚だった椅子が音を立てて垂直になり、上体は正しく前方へ向けられる。焦燥に耐え忍ぶ力すら欠いてしまえば自らの果たせる事は何ひとつ無くなってしまうではないかと、その自覚はまだ存在した。

真正面を見据える視界に映る細い両目と赤髪……組んだ腕を机に乗せた仇敵の顔を理解するまでは。

 

「ぐっわ!なっ、あっ、…………!!」

 

「お~~、やる気充分やったのがそんなビビって、何、ウチが嫌がらせするとでも思てんか?あの色きちがいみたいに」

 

ガタガタと音を立てたヘスティアは、今度こそ椅子ごと後ずさっていた。ロキの後ろに立つドワーフの巨漢も、その更に後ろで呆れ顔を見せているヘファイストスとデメテルの姿も、認識の外にあった。パクパクと口を開け閉めするのもすぐに控えて、立ち上がった小さな背丈は犬歯を剥き出しにして吠える。

 

「はっ、……く、わ、どうせそのニヤケ面で冷やかしに来たんだろう!?笑うなら幾らでも笑えばいいじゃないかっ!くだらない上辺だけの言葉で惑わそうなんて、そうはいかないからな!」

 

「何や、そんな性悪みたいな顔に見えるんか?これが?なあ~ガレス?ウチはいつも笑顔が一番やて思うてこうしとんのにぃ~、まったく切羽詰まって見苦しいわ~」

 

とても一所懸命に意思表示をするヘスティアに対し、ロキは人差し指で両頬を上げながら煽った。『子供』に同意を求めまた向き直るその仕草でヘスティアの怒りは心頭に発した。

 

「なんだとをぉう!?!?」

 

「……落ち着きなさいよ」

 

果てしなく続きそうな舌戦を諌めるヘファイストス。困り眉ばかり見せて口出ししないデメテルに恨み言もぶつけたいが、それは後にするべきだろう。

ともかく荒く鼻息を吐く旧友に冷静な思考を育ませる為に、改めて会話を持ち出すことにする。

 

「皆、あんたがここまで派手にやっちまったのを笑う為に来た訳じゃないんだから。……それにしてもまあ、正直なところ、案の定というか……そんな方法、よっぽど無いものとは思ってたけど」

 

広まった噂とその根源が置かれる状況を照らし合わせれば、明るくない展望は容易に感じ取れるものだ。精一杯言葉を濁してフォローしようと苦心しても結局それは叶わない。それを皮切りに続く者を呼ぶだけだ。

 

「でも最初からこうしていれば、もう少しマシな感じにはなってたんじゃないかしら。確かに、損得勘定ばかりの連中なんか信用出来ないって気持ちは、わからなくもないけどね。ヘファイストスが変な事言ったせいで……」

 

「ンハハッ、そりゃ違うやろ~。つまらん意地張って自分らを追い込んで、まぁ……事なかれ主義、やなくて……引きこもり特有の秘密主義?溜め込み気質?とにかく、全部ドチビの決断が招いた事やろ?違うか?」

 

「んぐ、う」

 

連続で行われる厳しい寸評に音を上げ、ヘスティアは唇を引き結んだ。わかってるからこそ他者から指摘されると痛くて仕方ないし、返す言葉も見当たらない。特に、二柱の女神から事情を聞き出していただけのロキの台詞はそれでも恐ろしく的確で強かだった。

 

「う、……でも!だ!!だからってどうやってもやり直せないから、ここに居るんじゃないかよ!それが間違ってるとでも――――」

 

「時間の無駄だという、麗しき友情の成す睦言を理解出来ないようだな」

 

レベル6の超戦士もただ控えるだけの、絶対者達による会話へと割り込む野暮天はそこに居た。既にロビー中で屯す者達の視線を俄に奪って久しい小さな界隈は、そこに漂う和気を一瞬で塗り替えられた。

鍛え上げられた肉体と装備だけに依るものでは決してない質量は、その男の足音を通して全ての者達に理解させる。

神々の都を闊歩する不信心者は、ヘスティア達から少しばかり離れた、その間合いの触れ合う場所で立ち止まった。

 

「……不退(leonidas)」

 

ガレスはごく自然に、主を自分の影に隠すよう足を動かしていた。思わずつぶやいた、ラケダイモン最強の戦士のみが戴く異名。それはオラリオ屈指の益荒男に背き退く事を憚らせるのにあたり、少なくともただの虚仮威しとして振る舞うような看板ではない。

神々と相対する金色の双眸は、足ることを永遠に奪われた餓狼の如く燃えていた。少なくとも友好的な意思など欠片も感じ取れない気迫は一同を包み込もうと揺らめき、遍く観衆の言葉すら奪わんと満ちつつある。

 

「ハ、目ン玉腐っとんな~……なあドチビ、友情やて。碌な友達居らなんだら、オモチャにして楽しむ関係もようわからんくなるんか?主神によう似とるわ~」

 

『子供』の意図を敢えて汲まないロキは、あからさまな挑発にここぞと乗ってみせる。それは一見誰に対しても向ける小馬鹿にしたような笑顔であっても、薄くチラつく眼光を絶やさないものだった。その意図を窺い知れる者はこの場においては少なくない数だけ在ったが、割合としては僅かだ。それほどの野次馬はロビー中に居た。そしていかなる輩であろうと等しく、オラリオの頂に立つ女神とラキアの頂に立つ戦士の対面が生む危うい緊張感を理解していた。

かくして生まれた、意思も力も全て呑み込まれそうになる重圧の中において、しかし断じてそれに身を任せるのを拒む者は居た。

 

「――――無駄の筈が無いだろっ!!なに、勝手に決めつけてるんだよ、キミらは……性懲りなく!!」

 

「……」

 

怒鳴るヘスティアが机を叩く仕草からは、自らを鼓舞するかのようないじましさが透けて見えた。それほどにちっぽけな存在である悲しさ、無謀さをこそ、ラケダイモンは侮るばかりなのか……それとも。

無言のままその双眸は、憐れむべき零細群団の首魁へと叩きつけられる。だがそれに動じる程度の決意など、最初からヘスティアは持っていない。大きな瞳の中にある煌きはますますもって抑えがたい勢いで燃え上がっていた。まっすぐにそれを射貫く視線とともに、口髭の中で紡がれた言葉が向けられる。

 

「無力さを思い知る事を恐れ、無能ぶりを受け入れる器も無い故に、ただ動かず口を開けて餌を待ち続ける雑魚が、何を手にする?何を成せる?地に引きずり降ろされた不運を嘆くばかりの神が、死すべき者の何を導くと思い上がれる」

 

「――――!!」「今は、違うわ。そうでしょヘスティア」

 

この世の道理に外れた蛮行への引け目を持たないケダモノの台詞とは、その他大勢の唱えるどんな侮辱よりもヘスティアの怒りを煽り滾らせて余りあった。

髪を逆立てて牙を剥く旧友の肩を、ヘファイストスが抑えた。唇を噛み切ろうとする程の怒りを諌めるのには、まさにその隻眼の女神以外に適任者は居なかっただろう。ヘスティアは悪罵の迸りを既の事で押し留めた。両肩を掴む手の硬い感触に抗う程の恥知らずではなかったのだ。

ひたすらに怠惰だった自分の姿を誰よりも近くで見てきた者の制止は力強く、重かった。

 

「今がどうあろうと……貴様も、あの出来損ないも、ラキアの虜囚になるという運命は、変わりようもない……最早な」

 

「?、この娘の『子供』には、興味無いのかしら」

 

神々の抗議に満ちた視線を受けてなお、戦士の宣告は鋭利で冷厳だった、そう、血煙も凍てつかせる氷河の如く。とぼけた顔で質問を投げ掛けるデメテルに対しても、態度を改める余地は誰にも見出だせなかった。顔は動かないまま、金眼が向きを変える。

 

「……」

 

無言。その答えの意味するところは誰も知らない。

足はロビーの出口へ向けて踏み出される。行く手を阻む何者もそれだけで散らせんとばかりの、傲慢な意思を込めた歩みだった。

 

「おやおや、ま~た熱心に偵察かい。ゴシュジンサマによう飼い馴らされとんな~」

 

「共犯者は全て連行し取り調べの対象となる。……そこに居る貴様の『子供』など、疑わしい一人だが」

 

「んなッ」

 

筋骨逞しい背に放った皮肉を打ち返されて、ロキは一瞬言葉に詰まりガレスの後頭部を見やった。キラーパスを喰らった当人は何も言わず微動だにせず、主の盾となるようそこに屹立するばかりだ。

見事な失態を演じてしまった事にロキが気付いた時には、もうラケダイモンの隊長は穏やかな会話の成り立たない距離に居た。

 

「くぁ、腹立つ。ガレスぅ、ちょっとあの偉そうなトサカだけここから斬り落とせん?あの花みたいに……」

 

「無茶言いなさるな」

 

とっくに眷属の陰から全身を乗り出していたロキは苦い表情を作って囁く。ガレスの溜息は気勢の変わらぬ主への安堵だけかどうか。

会話の途切れた空気の中では和やかさや間抜けさより、向け場のない感情を持て余す遣る瀬無さが募った。関わりのない観衆にとってみても、畏れを知らない戦士の居丈高な物言いは鮮烈に焼き付いたままだ。

こと心理的な空隙の中心に在るヘスティアは胸中渦巻く感情を整理できずに、両拳を握ってぶるぶる震えている。投げつけられた言葉は夜闇の稲光が如く唐突に蘇っては思考をかき乱した。渦巻く雷雲は今確かに小さな身体に詰まっていた。

 

「……連中、乳飲み子を連れ帰ったらどうするのかしら。あの罪状ぜんぶ被せるとするなら、まさか処刑」「ぬあっ!?処刑っ!!」

 

何となしに呟いたデメテルによる穏やかでない単語で、落ち着きかけていたヘスティアにまた火がつく。恨みがましい隻眼の目つきを作ったヘファイストスはデメテルを見やりつつ、また両手に力を入れた。

 

「有り得ないわよ。交渉材料か、そうとも期待できないなら、懲役と称して奴隷にでもするんじゃない」「奴隷!!奴隷だって!!」

 

ぜんぜん効果的でない訂正をしてしまった過ちを知るのは遅きに失した。ヘファイストスは、その手の戒めを打ち破って飛び出す小さな影を呼び戻す手段を思いつかなかった。

 

「待ちなさい!街の中はあんたの『子供』が尋ねて回ってるんでしょうが!」

 

「あー!あー!もう我慢出来るかっ!ベル君一人に任せてこんな所に居るなんて……キミだって、待ってて手に入るものなんて何もありゃしないって、ボクを追い出した時に言ってたじゃないかっ!!あいつら、目にもの見せてやるうぁあああっ!!!!」

 

ヘスティアが幻視するのは、鎖に繋がれボロ布を纏い巨石を引きずる『子供』と乳飲み子の姿だ。肩当てのある黒い革服を着たラケダイモンが鞭を振るい、戦神の巨像を完成させるべく奴隷達を急かしている。なんてこった、こんな世紀末国家にあの子達を連れて行かれてたまるかと、自分の境遇がどうなるかなど抜け落ちたままにただ義憤を滾らせた。誰の言葉にも耳を貸すなとその衝動は全身を急き立て、ただそれに従う。

机に広げた資料を掴むと、煙を舞い上げる勢いで彼女は走り去っていった。

 

「ヘファイストス、あなたって言葉の選び方がヘタよね」

 

「なー。鍛造しとる手はいつも繊細なんに、不思議なもんやな」

 

「……鉄は喋らないし勝手に動かないのよ」

 

生命の無いものの形を作り変える力など、付き合いの長い知己を御するのに何の役にも立たないと彼女自身がよく知っていた。だが好き勝手言いまくって煽ってもいた連中に論われる覚えは無いと、鋭い眼差しを向ける。

何処吹く風の様子で、ロキはロビーの入り口のほうを見ていた。

 

「まあこうやって遊べるのもこれで最後かもしれんしなぁ。ドチビもどえらい不運やわ……なあガレス」

 

「……儂が先に乳飲み子と出会っておっても、同じようにしたかどうかはわからんですぞ」

 

「どうやろな~~~~?リヴェリアやったら、フィンやったら?自分ら、よう世話になっとったもんなあ」

 

向き直るロキは別に悪意を込めて『子供』に話を振っているのではない。実際立場が入れ替わっていたら、自分もまた『子供』らの思いを後押ししていただろう事に疑いを持たなかった。

 

「夜な夜な鐘楼の麓で、ヒヨっ子三人入れ替わりであのヒスババアの可愛いデカブツに挑みかかって、蹴散らされて……はじめて見た時は、そらあ驚いたわ」

 

「忘れ申したな。そんな昔の事は……」

 

誰が言うでもなく主従の足は踏み出されカウンターへと進んでいく。戻らない過去への郷愁を口ずさむふたりの思いに水を差す者は居なかった。

 

「はァ、やっぱりベートも連れて来れば、もっと面白い事になっとったかな」

 

「今のアイツは、あんな連中なぞ目に入りゃせんでしょうよ」

 

ほんの先程までの緊迫感などはじめから無かったかのようにロキは振舞っていたし、その『子供』も、別の窓口で所用に精を出す二柱の女神もそうだった。

恐る恐る、オラリオの筆頭ファミリアの主神から差し出された書類を受け取る職員。

そこに記載された事実は、碌に間も置かず街中を駆け巡ることになるだろう。今、風よりも早くあれと脚を動かす小さな主従の思いも通り過ぎて。

 

「も~、アイズたんも何処に行ったんだか、折角なんやから無理やり引っ張ってくれば良かったわ~」

 

「……アイズは、多分……」

 

三柱の女神がここにやって来たのは、遥かな王国の尖兵に喧嘩を売る為などではなかった。

オラリオから消えてしまうかもしれない零細ファミリアや、濡れ衣を着せられた哀れな乳飲み子の行く末などよりも切実な問題など、彼女らにしてみれば他に幾らでもあった。

少なくともロキにしてみれば、腹の立つ事案ばかり積み上がるように思える今日においては、ここに来なければ出来ない事はとても重要で、いま挙げた二人の『子供』にとってもそうだろうと思っていた。

 

「ま、ええか。お祝いはおウチに帰ってからやな」

 

ロキはにっこりと破顔した。

つまらない、くだらない、気に食わないアレコレなど、遠い何処かに投げ捨ててしまおうと、そんな同意をガレスに求めるようだった。

口に出さないその思いにガレスもまた、ただ口元を緩めるだけで対応した。

 

 

 

 

 

この日ロキ・ファミリアの申告により、オラリオにレベル6の戦士が二人同時に誕生したと明らかになった。

 

 

 

 

 

 

--

 

 

かつて暴虐を尽くしたとある王への怒りの為に、その若者は無謀な試練に臨む事になったという。彼は身代わりとなった友の為に昼も夜もなく走り続けたと。

ベルは故郷で学んだどうでもいい、今と全く無関係な昔話を思い出していた。誰に聞いたか、決まってる。忘れがたく少年の有り様を定めたたった一人の男にだ……。

さて置きその若者も人であったならば、同じく人である自分に成し遂げられよう筈があるかと、それこそ蒙昧の生む思考さえ今のベルを支配する。白目まで充血で赤く染まる双眸は鬼気迫る印象を見る者に与えていた。それはレベル1の冒険者が纏うのに過ぎる代物と誰もが知っていたのに。

白昼をとうに過ぎてなおも走り通しのベルは、どんな制止にも妨げられずにただ探し求める。

 

「イカレてやがるぜ」

 

人差し指で頭の横で回しながら言う誰か。虫や鳥の鳴き声とひとしく聞こえるだけだ。道路に面した短い階段の突き当り、半地下階に間借りしている酒場の扉を開く音は、くだらない雑音を一瞬でかき消していく。ベルの鼓膜から、微塵も残さずに。

 

「……ああ客か。はあ」

 

すでに店を開いている点からして熱心な経営方針があったのだろうが、従業員の意識とは剥離しているようだった。照度の足りない空間と無精髭のせいで年嵩を増して見えている彼は狭いカウンターの中で足を組んだまま視線を扉によこして、再び椅子の背にもたれた。

 

「このファミリアのこと、知りませんか。昔、ここに住んでいた……その人達や神様について、何か知っている事があったら、教えて欲しいんです」

 

「…………」

 

相手の気力の多寡など関係無かった。ベルはカウンターまで歩み寄るとそこに地図と資料を広げ、幾多のファミリアの名前とエンブレムを指差す。従業員の男はいかにも面倒臭そうに身を起こすと、じっとりとそれを眺め――――言う。

 

「知らね……」

 

落胆もいい加減慣れつつあるベルは、鼻白む様もおくびにも出さない。ただ一瞬、ぎゅっと目を閉じて、無念の程を僅かに伺わせる表情を作った。

 

「……そうです、か」

 

かすれた声はそれだけしか紡げなかった。首を少しだけ下に傾けるが、両手の握力はただ強まる。失望に身を浸している時間は無いのだ、そう思って踵を返そうとしたベルを踏みとどまらせる言葉が放たれた。

 

「待ちな。……切羽詰まってんな。理由ぐらい教えろよ」

 

男は虚ろな笑みを浮かべていた。肘をカウンターに乗せて上体を預けている。それから鄙びた店内を見渡した。

 

「なあオイ。念願叶える為、お前みたいに必死な顔でやってた時もあったさ。それが今はこうだ。明日にはここも明け渡して、栄光に満ちたオラリオから永遠におさらばよ。ああ、店のモノ全部差し出せば負債はチャラだってな!お優しいもんだ……」

 

くっくっ、と笑いを堪える男の過去や胸中など計り知れない。見れば、幾つもあるテーブルには薄っすらと埃が見えた。切れた魔石灯の代わりに差し込む西日が例えようもない寂寥をこの店に満たしているようにだけベルは思った。

 

「……助けたい人が居る、それだけなんです……僕は」

 

誰からも忘れられ街から去りゆく定めにある店主は、きっと市井に巡る噂話とも無縁のままなのだ。ベルはただ時間が惜しいという思いだけを短い言葉に込める。

 

「つまり、その為に必要な何かをこのファミリアの連中が知ってるわけか。……なあ?聞いたか」

 

ここに居る従業員と客はたった一人ずつだけなのだとベルは思っていた。事実は、違う。店の隅の、濃い影の中に置かれたテーブルにその男は居た。

髪と髭を彩る灰色はまるでその全身を包む外套のように見える。話題を振られてもこちらを見ることもせず、初老の男はただ酒を飲んでいた。

 

「なあ?爺さん。俺が店を開いて、最初に来た客があんただった。毎日毎日やって来て、才能の無い馬鹿野郎は勘違い。俺の店を好いてくれてる奴が居るんだ、だから続けてやる、いつか、なんてな。気付けば何も残らねぇと来たもんだ」

 

ベルはただ黙って聞いていた。誰かが口を挟むべきではない事だと知っていたからだ。

 

「いよいよ首が回らなくなった時に聞いたよな。なんでこんな店に通ってくれてるんだ、って…………返ってきたアホ臭い答え、お前わかる?」

 

乾ききった笑いを向けられてもベルは言葉を発さない。何かを期待した問いではないとわかったからだ。

 

「昔、ここにあったファミリアの生き残りだから、ただその思い出の残骸に浸りたいだけだから、とよ。何度も危ない橋渡って叶えた夢が、夢破れた年寄りの肴とはな。笑えるぜ」

 

瞬間、ありったけの自嘲を慮る余裕もベルの中から消えた。煤けた灰色の男を血走った双眸で射抜く。

 

「くだらん。自分の力が及ばなかっただけの事だろう。私のせいにするな」

 

男の吐き捨てる台詞は冷淡さだけを滲ませている。消えるものを惜しむ思いも、ぶつけられる恨み言への後ろめたさも無い、全てに飽いた人間がどんなふうに見えるのか、いま学んだのだとベルは後で知るだろう。

 

「ならよお、強く正しく美しく在ったお方がいかに悪い奴らに陥れられたか、その恨み言くらい聞かせてくれませんかねえ。どうせ、最後なんだから」

 

「……」

 

杯に落とされた目に光は無く、灰色の影を濃くするばかりの姿が、店主に与えられる答えだ。だが自分もまたそれを受け入れようという気などベルには到底なれない。目の前の微かな導に、噛みつくような勢いで迫った。

 

「お願いですっ……何でも、引き換えに出来るものなら、どんなものだって出せます!!絶対に手に入れなくちゃいけないんです!!」

 

「…………何でも、か」

 

軽々しく口にするような事ではないと冷静な思考を保っていたら思いとどまるところだ。それでも、その赤い目の奥で滾るものを持つ者でなくば今の暴挙などはじめから臨みはしないのである。自分よりもずっと齢を重ねた男と睨み合うベルは、心の底から思う真実だけを口にしていた。

暗く乾いた空気は途方も無い間そこに漂って答えを遮り続けているようだった。ベルの錯覚がやがて消える瞬間は、出し抜けに訪れる。座ったまま微動だにしなかった男は、ゆっくりと口髭を動かした。

 

「坊主。お前は自分が正しい事をしていると思っているだろう…………そして、それだけが何かを変える力にはならない事くらいはわかってるか?」

 

ベルは答えなかった。

正しいからそうしている、謀略にかけられ無体にされる過ちを覆す為……それは、ベルを動かす一番の衝動などではないのだから。

そのような本心はきっと、男にとってどうでもいい事だったのだろう。少なくとも後段の言葉についての理解は明らかなのだ、渇望の狂いだけで塗りつぶしたような表情から。

いつの間にか男の冷たい双眸は、燃え盛る双眸と突き合わされている。

 

「善を、正しい事を成すために、悪を、過ちを覆すために、この街を駆けずり回った馬鹿共が居た。倫理、道徳、……死すべき者のあるべき姿というやつをあまねく知らしめようってわけだ。輝かしきは真実と秩序。嘘と混沌の満ちる闇を残らず暴いてしまえとな」

 

居なくなった正義のファミリアの構成員全てがそう思っていたかはともかく、かれらは確かにその使命に燃え、戦っていたのだと男は語る。

背負う神の名に相応しき者であろうとかれらは戦い続けた。それは決して安楽な道ではなかった。

 

「当然、面白く思わない奴らが出てくるのだ。昨日まで吸っていたうまい汁を取り上げられて我慢出来る賢しさってのは、そう身につくもんじゃない」

 

対立する悪党達との抗争は日に日に激しくなる。昼も夜もなく襲撃を受ける。無関係なファミリアも巻き込む。余計なお世話だと非難を浴びせられる。

 

「正しい事だけで生きていけるのは、それだけの力があるからって事だろ?煙たがられるのは当たり前だ。バカな連中、そんなこともわからねえのか」

 

店主の冷やかしに、男はぎらつく眼光を差し向ける。

 

「……馬鹿たれが」

 

「…………」

 

ただその一語だけ返す。ベルは、計り知れない思いの片鱗だけを感じ、夢想を芽生えさせるのだ。彼らは、自分達の驕りすらも理解してなお、その歩みを止めなかったのではあるまいか、と。

 

「謂われなく踏み躙られ、喰らわれる者の声など、あの頃であったってこんな場末の酒場になど届かんだろうな」

 

悪を誅する事は実り少なく、敵は多く、かつ尊崇を集めるのに遠い苦行だったという。迷宮でどれだけ深く到達したか、どれだけ強くなったか、どれだけ稼いだか……誰しもの耳目を集めるのはそういう事ばかりだ。

それでも彼らは歩みを止めなかった。なぜか。

 

「いつか必ず、という希望は……覆い隠そうと、途絶えさせようと害されれば、それだけ強く激しく猛ったのだ。負けるものか、と――――少なくとも、同じ思いを持つ者が居る限り。……私もそうだった」

 

男はそこで酒を口にした。

何かを忘れるために、そうベルには見えた。

 

「けれども力及ばず、希望は尽きた。正義は滅び、残った死にかけの悪党はギルドに一掃されて、まんまとおいしいところを奪われた間抜け達はその名前も碌に残せずじまいか。はっはっはっは!!」

 

店主は、おかしくてたまらない様子で――――ひどく芝居がかった印象を強く感じさせながら――――笑った。その姿はベルにとって既視感をおぼえさせて仕方なかった。

ひとしきり虚ろな笑い声を絞り出した彼は、顔を片手で覆いながら、覚束ない足取りのまま店の奥へと消える。

夢破れた先駆者の語らいが、そうさせたのだろうか。

燃え尽きて風に浚われる灰のように、ベルには見えた。

 

「まだ話は終わってないのだがね。あんなのだからこの店も、今日でおしまいになるのだ。……ま、これ以上の内容など、聞いても仕方あるまいよ、女神ヘスティアの眷属よ」

 

「……知っていたんですね」

 

「あんなにもロビーで大騒ぎして、目につく冒険者にも神々にも等しく食って掛かっていればな」

 

表情を変えないで男はまた杯に口をつける。何でもない様子だ。

何の感情も、必死で足掻く主従に対して抱いていないのだろう。

 

「はっきり言うぞ。私はお前の求めるものなど知らん……いやそもそも、そんなものはな……死すべき者が手にするべき力ではないのだ。他のどんな代物よりもな」

 

「何故、そう思うんですか」

 

自らの意思を真っ向から否定する言葉を投げかけられても、ベルの目が憤懣に曇る事は無かった。相手の言葉の奥底に流れる虚無感は浅慮な怒りなどたやすく飲み込むだろうと理解していたから。

ゆえにベルはただ、問うた。真実を知らしめる力を求めるのが、手にするのが、なぜ憚られるべき事であるか……なぜそう思い至ったのか。

男はまだ語っていない事があったのだ。

 

「聞かせてやろうじゃないか。あの馬鹿たれもお前も、どうせ身を以て知る事など無いんだろうからな」

 

そうつぶやく男の目はそれまでよりもさらに暗く、冷えた、情の無い色を湛えていた。

そうしてベルは聞かされたのだ。

なぜ正義のファミリアは尽くオラリオから消えてしまったか、その真の理由を。

 

 

 

ある大志を持った連中の顛末を、男は無感動に喋り始めた。

 

ありふれた昔話でしかなかったのだ。

 

この世の全てに彩りを見いだせなくなった男にとっては。

 

 

 

--

 

 

西側の城壁の一帯は、隣接してそびえ立つ鐘楼に反射する夕陽の中に全てを溶けさせてゆくかのような眩い黄金色を湛えていた。

その中に立つ一人の少女の姿は街のどの住民も認める事は出来なかった。アイズはただ押し黙り、瞑目する。

 

(――――……)

 

思い浮かべるその姿。剥き出しの歯、窪んだ眼孔に宿る悪しき光、血錆に覆われた大きな刃。得体の知れない強敵の姿は、レベル6に到達した剣姫の脳裏に今も踊り狂う。

何もかもを蹂躙する事だけを望むあの怪物達から受けた傷は、その肉の器ばかりにとどまるものでは決して、ない。

 

「――――!!」

 

遠い地平から注がれる光は、なお暗い幻影の姿を克明に蘇らせるばかりであり、記憶に焼き付くその剣戟を征しようと足掻くアイズの滑稽さを照らし出すだけだった。

柄を握る手の筋肉は手首に、肘に、上腕に、肩に……上半身、下半身、足運びに至るまで力を伝えていく。それらは剣の切っ先まで張り巡らせた感覚と固く結合し、眼前にある――――彼女にしか認識出来ない――――敵を滅ぼすべく律動するのだ。

 

『オ゙オ……!』

 

「っ、……!!」

 

銀の軌跡は何も捉えない。昏く呻く影はその輪郭を朧に散らし、レベル6の動体視力をも逸した速度で突進する。

すれ違い様にその天秤刀は少女の鮮血を啜り、持ち主は仮面の下から瘴気を吐き出して嗤うのだ。

 

 

かくも鈍い。

 

かくもか弱い。

 

かくも愚かしい。

 

それがお前の本当の姿だ。永遠に変わることのない――――

 

 

「ッ――――ああああああっっ!!!!」

 

全ては幻影で、存在しない偽りだ。しかし死すべき者の罪悪と全ての真実を見通す陽の光も、今のアイズの目を覚まさせられない。彼女の意識の中にある、自分の持つ力。それは立ちはだかる全てを滅ぼす為の刃だけなのだから。

狂気的とも言える練武の舞は、全身が疲れ果て全てを忘れ去ってしまうまで止める事は出来なかった。

 

『『アリア』――――』

 

(黙れ)

 

剣を振る。ただ振る。謎の女は消え去る。

 

『ア゙アアア゙ァア゙ーーーー!!』

 

(黙れ……)

 

城壁の上に、剣風吹き荒ばせる妖精が舞い踊る。おぞましい精霊の出来損ないはバラバラに切り刻まれて血の海に沈む。

 

『オオオオオオオオオオオオオ!!!!』

 

(黙れ!)

 

血を啜る竜牙の化身を貫く穿孔。砕け散る骨。骸は灰となって風に飛ばされていく。

 

『――――』

 

(……!)

 

灰。

吹かれて消えていく、真っ白い、灰……。

巻き上がる灰が集まって生まれた大きな影が、アイズの前に立つ。

 

『――――、――――』

 

「ぅ……」

 

声がする。どこかで聞いた声だ。とても、懐かしい。

金眼は横から差す夕陽で視界を妨げられてもなお、その幻影から目を逸らせない。立ち尽くし震えるアイズ。全身に伝う汗。それは、疲労ばかりが生むものではない。それは……。

 

『――――もう、どこにも――――』

 

「うっっっっ、あ、あ、ア、ああああああああああああああああーーーーーーーーっ!!!!」

 

瞼で目を、叫ぶ声で耳を塞いだアイズは、全てを拒絶して渾身の一閃を、その影へと叩きこんだ。

まるで、恐ろしい亡霊を幻視した幼子の癇癪が如き姿だった。それも今見ている者は、ただ一人として存在しない。それを知っているから、アイズはここで剣を振っていた。かつてファミリアの三頭目が使っていたという訓練場……街の隅、時計塔の影に隠された城壁の一角。

怪物祭の日から燻り続けている、誰の目からも隠そうとして果たせぬその焦燥を理解していたリヴェリアに教えてもらった場所だ。

 

「……はぁ、……はぁ……」

 

剣を鞘に入れるのも忘れ、肩で息を吐く。呼気に合わせて汗が滴り落ち、石畳を黒く濡らした。熱されたままの筋肉は脳の命令と無関係に震えていた。

 

「…………」

 

長く伸びる自分の影は何も語ろうとはしない。塔にぶつかり壁伝いに伸びていく分身をぼんやりと見つめる。やがて呼吸が穏やかになり、燃え盛る何かが勢いを無くしていくのも感じ取れるようになる。

いつからそれはあったのだろう。最も古い記憶は色褪せて重なり合い、真の姿を思い出すことはもはやかなわない。だがここ最近で、急激にその何かは激しく猛りはじめていることをアイズは自覚していた。

 

(どうして、だろう)

 

そのきっかけは何だっただろうか。絶えざる力への渇望は幼い少女に怪物の骸を踏みしだく道を歩ませる根源として確かに最初から在った。だが今のように熱く狂おしく畝る激情の渦に呑まれそうになった事は、かつて体験しただろうか。

何故、何が呼び覚ましたか、……誰かが?あの謎の女か。巨大花と宝玉。竜牙兵達。――――闘技場の、おぞましき影。それとも――――

 

「?」

 

光の無い水底を彷徨うかのような徒労を伴う思索は、後頭部に感じる視線に気付いた瞬間に終わった。首を上げてアイズはその方向を見やる。赤い陽で煌めく陰影は煉瓦の塔の頂に吊られた大鐘の袂に小さく、確かにそこで動いた。

瞬間、アイズは引っ掛かっていた何かが一段ズレて、そこに収まる感覚を理解したのだ。

 

「……あぁ」

 

鐘楼から見下ろしているその小さな影は、こちらに気付かれたのを知ったためか慌てた様子で引っ込んでしまった。きっと、自分が漏らした得心の溜息だって聞こえやしていないだろうとアイズは思いつつ、一歩踏み出した。

どうしてか、彼女の表情は、ほんの少しだけ、穏やかだった。

何もかもに見放された『子供』のような絶望など、今のアイズの顔には無かった。

 

 

--

 

 

(……なんでボクが隠れなきゃいけないんだよ?)

 

ヘスティアは大いなる不平を抱いていたが、もはやそれに任せて動く力を残していなかったのだ。そも、なにゆえこんな場所に辿り着いてしまったのか思い出す事さえ億劫だ。鐘楼の柱の影に座り込んで、小さな女神の身体は更に小さく、遥か下に広がる街と比べれば塵芥の如き矮小な有り様だった。

憎々しきラキアの尖兵の悪意を跳ね除けようと『子供』に倣ってその足を使う労苦を選んだ結果は、あまりにも芳しくなかった。あのままロビーで目につく誰しもに聞いて回っていた場合と何が違っただろう?そう思うだけで気は重くなる。

そこへ更なる追い打ちとして、冷酷な現実は街を彷徨うヘスティアを襲ったのである。レベル6冒険者の誕生……それも、二人同時に、同じファミリアに。その話題は一瞬で人々の関心を掻っ攫っていった。

 

『なあ』『レベル6だとよ、あの凶狼、それに剣姫。ッたく、また調子付かせる訳だろ?』『こいつ僻んでやがるぜ!』『うるせぇーよ!』

 

『きみ』『だから!ここで私らも一発、どでかくやってやらなきゃ、いつまでもこの立場で……いや、周りもどんどん前に進んで、置いてかれちゃうってのよ!……ん?』『あぁ……』

 

『ちょっと』『アイズ・ヴァレンシュタインは一人でウダイオスをブチのめした。それがどうした?ヤツは所詮血に飢え、力を合わせて戦うのを知らないケダモノに過ぎんだろうが!』『あーヘスティア様?すんません、俺らは知りませんわ、悪いですけど』

 

『……あのさ』『おっしゃあお前ら行くぞオオオオオ!!ロキ・ファミリアばかりに名を売らせてんじゃねえぞ!!』『ま、待ってください団長……何日ぶりの地上だと……』『死ぬ……』

 

誰に聞いても素気無くされるばかりでなく、疲労だの空腹だの眠気だの、様々な要因もあり、それらはヘスティアの足を自然と、街の喧騒から遠ざからせていった。それが、愛する『子供』の主足りうるのに最も在ってはならない姿であるとわかっていながら、力無い逃避行は打ち棄てられた鐘楼の元まで女神を導いたのだ。

この世界の何処よりも栄華を誇るという神々の都はただそこに広がるばかりで、何者をも害しようという意思など最初からありはしないのだと、少なくともここにいる間は思わせてくれた。

そのような夢想の果てにぼんやりと、街を見下ろしていたところでまさかの人物を目撃してしまったが――――膝を抱えて蹲る今の彼女にとって、それは大した懸念などではなかった。

ただ、渦巻く遣る瀬無さを、別の感情へと変質させていくだけで。

 

「……なんだ皆して。敵をやっつけるのがそんなに偉いのかよ。凄くて、強くて、数が揃っていて……そうじゃない事なんか、どうでもいいのかよ……?」

 

世界に名を轟かせる偉大な神ロキが『子供』たる、麗しき剣姫と勇猛なる凶狼。二人はその若さ故の貪欲さと無謀さに任せ遂に頂の座に手を掛けたという。事実を並べ立てるだけで充分な途方も無い偉業だ。いけ好かない連中の姑息な企みの事などよりもよっぽど面白く、耳当たりの良い話題なのだろうとはヘスティアにだってわかる。

ちっぽけな美徳の為に個人の動向や思想を制限する権利など誰だって持ってはいないのだ。明日にも街から消え去るかという連中の行く末に興味を急速に薄らがせていく現実が悪しきことなどと、どうして言えるのか。

……それでもヘスティアの胸の中に例えようのない悲しみが満ちていた。

あるかどうかもわからないものを求める者より、確かにそこに在る偉大な英雄の誕生を誰もが褒めそやしていた。かれらの目が小さな女神に向けられる時、確かな憐憫が浮かぶ。何の得にもならないとわかっていながら、勝ち目の無い戦いに踏み切った群団のいと気高き姿よと。

大きな瞳に熱いものが溢れそうになった。

 

「ッ、っ、……ベル君……アルゴス君……もう、ボクら、おしまいなのかなぁ…………」

 

それは決して吐いてはいけない言葉だとヘスティアは知っていた。知っていても、その灯火は風からも見放された無明の道の半ばで、遂に燃え尽きようとしていたのだ。どこにあるか、誰が手にしてるか、いつそこに現れたか……何一つそれはわからない。それでも求め続ける事の真の苦難の片鱗でしかなかったのだとしても、一つだけ到達できた理解は、追い詰められたヘスティア自身の心を打ちのめすのに充分過ぎた。

世界で最も大きな街からそれを見つけ出すのには、あまりにも足りなかったのだ。手も、時間も、……力も。

 

『……誰かの為にやってるってわかってるなら、知りもしない他人に何を言われて、何を気にするんだよ?って事さ……』

 

偉そうな口上は跳ね返って彼女自身を押し潰そうとのしかかる。今の自分はどうだ。誰に何を言われなくとも、かくも簡単にその意思は朽ち果てようとしている。誰しもから忘れ去られ消えていくのを許容しようと……。

惨めだ。

もう誰にだってこんな姿を晒したくなかった。全身を強張らせて更に縮こまる。濃い影の中に消えてしまいそうに小さく。

 

「っっ……」

 

必死で声を抑え、その思いを頬に伝わせるヘスティア。愛する『子供』が、あんなにも渇望していたのに。それを叶える事が出来ない。こうやって泣き伏せる事しか出来ない自分の、無力への悲しみ、苦しみ……怒りを。

死すべき者の望むものを与えられない神に、どんな存在意義があるだろう。終わることのない自責の念は螺旋を描いて、ヘスティアの心を奈落の底まで導いていく。

それを留める手段はもう、どこにも残されてはいなかった――――少なくとも、彼女の中には、一片も。

 

「……」

 

「…………、?、……はぅ!?!?んんっ!?」

 

鐘楼に満ちた空隙が突如かき乱される感覚に気付き、ヘスティアは顔を上げた。……すぐ隣に、しゃがみ込んでこちらの顔を覗く金色の美少女が居た。

驚きのあまり横向きに倒れ、目を白黒させる女神の顔に残る、その内に抱える感情の迸り。アイズはそれに、じっと真っ直ぐな眼差しを向ける。尤も慌てふためくヘスティアは期せず覗き見してしまっていた後ろめたさや、一瞬前まで渦巻いていた嫉妬や羨望などの黒い感情との折り合いなどで、なぜか尻だけ動かして距離を取ろうと苦心している始末だった。

 

「ほおっ、うぅっ、なな、何だ君はっ。こっ、ここに先に来ていたのはボクなんだぞっ。出歯亀なんかしちゃいないぞっ!本当だっ!本当の、本当に、……うっ、羨ましくなんかっ、ないんだっ!そうだっ、君らなんか……君らなんか……ボクとベル君なら……ぅ、ぅ……」

 

動揺するヘスティアは意味の分からない言葉を口ずさむ。それは明かしたくない恥部の呼び水とすらなって、稚拙な弁明に苦心する当事者の自尊心をいっそう辱めていく。やがて言葉を途切らせ、つり上げた涙目でアイズを睨みつけた。

 

「………………」

 

「……な、何だよぅ……」

 

だが、それに対する反応は些かも得られなかった。……いや、依然表情を変えず……何を考えているのかさっぱり読み取れない眼の色に、ふと既視感を抱く。もはや随分と遠い昔のことにも感じてしまうのは、それだけ濃厚な体験を矢継ぎ早に済ませてきたからなのだろうか?ヘスティアが思い出すのはたった一人の眷属が謎の美少女に背負われて帰還した際の光景だ。目を閉じて力なく四肢をぶら下げている少年の姿を見た瞬間の、あの、自分の肉体と精神が丸ごと氷漬けにされたかのような衝撃も、今となっては随分と生温くお目出度い境遇の証左ではなかったかとすら思えてならない。

呆気にとられる自分を差し置いて最小限の説明だけ口にする金色の少女。衝撃を打ち消す安堵に思考能力を奪われている自分。後ろに立つアマゾネスが困り顔で何か言っている。やおら金色の少女は灰かぶりの少年をソファに、壊れ物を扱うかのような手つきでそっと寝かせたのだ。

 

「……………………」

 

そう、この目だ。吸い込まれそうな鮮やかな金色。惜しげ無くそれを煌めかす、至玉の人形細工が如く整った表情には些かの歪みも見出だせない。ただそれは、大事な大事な『子供』へと向けられていたのだ。

まるで、他のあらゆる存在など忘れてしまったかのような、熱く、深く、果てない憧憬を見出しているかのような、その目つきは……。

それを理解して抑えがたい感情が迸ったのはまた別の話として、意識を現在に巻き戻したヘスティアは釈然としない思いに囚われつつ、そうと悟られまいという矜持を奮い起こす。

 

「笑いに来たなら……好きにすればいいじゃないか。もう、誰に何言われたって、どうでもいいさ。もう……」

 

「……もう、おしまいかもしれないから?」

 

なけなしの見栄を張る気力も尽きた小さな女神の言葉をアイズが継ぐ。何も考えていないようで、何もかもを見通しているようでもある眼差しのまま。

息を呑む音を小さく漏らして、ヘスティアは目を見開いた。

 

「どうせっ!無謀で、最初から無理な事だったってっ、言いたいんだろうっ!わかって、るんだよっ!それくらいっ!……でもっ、あっ、諦めっ、るっなんてっ、……あの子っ、達を、見捨てるっ、うっ、なんてっ、えぇっ……」

 

何をおいても侮られたくない相手の手下にまんまと弱音を聞かれてしまった事で生まれる悋気が、みずからの行いへの呵責と残酷な現実、そして、決して捨てる事の出来ないものへの執着と混ざり合い、やがて限界まで張り詰めていた感情の堰を穿つ。遂にヘスティアは顔をくしゃくしゃに歪めてその奔流を解き放ってしまった。

 

「ううううううっ、うぐうううっ、うえっ、うっ、うっ、っっ、ん゙ゔぅぅぅぅ…………」

 

顔を覆ってさめざめと泣き咽ぶ姿は何処に出しても恥ずかしい『子供』の癇癪そのものだと、少なくとも当者は自覚していた。ぼたぼたと流れ落ちる恥辱の涙が鐘楼の床を黒く濡らす。

 

(なんでこんなに、みっともないんだろう、ボクは……)

 

情けなさに震え、無力感に震え、そんな主を持ってしまった『子供』への申し訳無さにヘスティアは震え、それでもただ蹲るだけだ。見るに耐えない醜態がまさにそこにあった。

声を必死に押し殺しつつ世界中の何者よりも自分自身を責め立てている女神は、きっと自分を見下ろす少女だってもはや呆れ果て言葉も無いだけに違いないのだと信じていた。

笑いたくば笑え、いくらでも軽蔑してくれ。

もう、ほっといてくれ。

ひとりにしてくれ。

口に出せないその思いは、丸める背が物語っていた。

――――が、ただ黙してそこに居る死すべき者は、そんな下知を解する気など、無かったのだろう。

 

「……ヘスティア様。私は……あなたと、あの子……彼の事情は、知りません。私には、関係のない事なんだろう、とも思います……」

 

「……うっ、ゔる゙ざい゙っ、ぞ、ぞん゙な゙の゙っ……」

 

アイズは何も知らない。誰からも聞いていない。ロキの眷属の誰も、話すような事だとは思わなかったからだ。

そして眼前にて臥す当事者からそれを聞き出そうとも思わなかった――――聞いて、自分が何かを出来るような事だと思わなかったからではない。

 

「けど――――」

 

アイズは思い出す。

 

自分達の不始末によってそこに呼び寄せられた、恐ろしく理不尽な運命を前にしてなおその戦意を滾らせていた小さな少年の姿を。

 

その小さな身体と重なる、遠いいつか、どこかの、誰かの姿を。

 

「何かが終わるのはきっと、……それを始めたひとが、そうと望んだ時、だけですよ。きっと」

 

遥か深きに潜む怪物どもの血肉と臓物を積み上げて作る、死すべき者の歩む最も険しき道であったのだとしても、アイズはそれを選んだ。

あの時の少年も、きっとその決断の重きは決して劣るものではなかったろうとアイズは思う。

お節介な救い手が割って入らねば、そのまま途切れる道だったのだとしてもだ。

アイズは何も知らない。彼の事も、その主の事も。かれらの目指すものも。

 

しかし、みずから選んだ道の険しさに膝を折りそうになる苦しみだけは、よく知っていた。

 

齢一桁で冒険者を志した時から、この座まで上り詰めるまでの道のり全てを思い出すまでもなく、はっきりと。

 

「ッ…………」

 

ヘスティアは涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃになった顔を上げて、アイズと目を合わせる。

さっきと全く変わらない顔だ。どこまでも真っ直ぐな金色の輝きを湛え、その奥にとても深い憧憬を秘めた、美しい瞳。

その言葉の偽りなど、芥ほども見出だせぬ貌がそこにあった。それは、たとえ死すべき者が目の当たりにしたとしても、同じ思いを抱くところに違いない。

ヘスティアは己の中で千々に乱れ重なりあっていた多くの感情と言葉が一瞬で、大きな、熱く燃え上がる何かに呑み込まれるのを理解した。

 

「……!、……!!、きっきっ!キミに言われるまでもっない事だいっ!!ぼっボクはあ、はぁっ、ぁはぁ、はあらららっ」

 

「あっ」

 

ぐしぐしと乱暴に顔を手で拭って、威勢よく立ち上がる。瞬間、脳髄が眼球を巻き込んで丸ごと捻転したような感覚がヘスティアを襲った。明滅する視界。膝から力が抜けて、両脚は勝手にその場でワルツを踏む。血液不足の脳は全身の操縦を満足にこなせなかった。

力を失った独楽のような動作をなぞる小さな肢体を、目線を合わせようとしゃがみ込んでいたアイズは危なげなく受け止める格好になる。ヘスティアは足を投げ出したまま、上体をかき抱かれるのに抗えない。

 

「大丈夫ですか」

 

「はあう、こ、こんなの。ちょっと疲れた、だけだあ。寝てない、し、だからちょっと、弱気に」

 

息継ぎ激しい弁明を途中で遮ったのはその細い胴の中程から響く、胃袋の鳴き声だった。小さい身体に似つかわしい、可愛らしい音だとアイズは思った。その感想は期せず口元に現れる。

絵になる微笑を認めたヘスティアは顔を真っ赤に染めて歯噛みした。

 

「うっ、く、くそお。こんな屈辱、ラキアのあの連中相手にだってよっぽど……はぅ、駄目、だ、力、が、出なぃぃ…………ぅぅ……」

 

「少し、休んだほうがいいですよ」

 

「そんな、時間なんてっ、無い、んだっ……」

 

何しろ今置かれている状況の芳しくなさを思うにつけ、既に火のついた衝動は抑えがたく昂ぶるばかりだ。だが悲しいかな、肉体はその思いに応える力も無い。いけ好かん少女の言葉は真実ばかりだった。

手を床について首を起こそうと足掻く姿に向ける金色の双眸は、すうと細まった。

 

「休むのも、大事な事です」

 

「うゎ」

 

ヘスティアは、横になった頭の高さが少し下がるのを理解する。少女の膝が床に敷かれ、まるで恋人同士がするというアレの再現を演じさせられているのだと気付いた。

驚きで抗議も出来ずにいる女神の様を慮らず、アイズはその手を自分を見返してくる両目に優しく乗せ、視界の全てを覆い隠す。

 

「……どんなに強くても、休まず戦い続けることなんて出来ないですよ」

 

「う…………」

 

その言葉の説得力がどれほどのものか、ヘスティアにだって推し量れた。芽生えた得心が緊張を僅かに撓ませると、同時に意識も闇へと引き寄せられていくのを感じる。底知れない恐怖を呼ぶものではなく、優しく全てを包む黒い帳のような闇が。

 

「ぁ、待っ、た……まだ……言いたい、事が……あ…………」

 

急激に勢いを増してきた眠気に翻弄されながら、ヘスティアは最後の力を振り絞って口を開いた。

全ての恥を晒し切った哀れな女神にも、まだ残された矜持があった。いくら、それが不倶戴天の敵の一番のお気に入りで、愛する『子供』に何やら只ならぬ興味を抱いているように見えてならない……大いなる危機感を想起させて余りある存在なのだとしても、それは伝えるべき事だと思っていた。

 

励ましてくれて、ありがとうと。

 

「……」

 

それは、叶わなかった。言葉が途切れてからややあって、アイズは手を退かす。長い睫毛に残る雫は夕陽で煌き、閉じられた瞼を彩っている。微かな寝息が掌に当たっていた。

アイズは黙って、膝の上のあどけない寝顔を眺めつつ、小さな主従が今直面しているのだろう困難について、思いを馳せるのだ。それは、どんな試練だろうかと。自分が乗り越えてきた如何なるもの……自分が味わったあらゆる辛苦と決して比べられるようなものではないのだと知っていても。

そして、思う。果たせるだろうかと。

 

「…………」

 

アイズは顔を上げ、夕陽に目を向けた。

地上の全ての災厄と無縁のままそれらを照らすだけの存在は、誰の目も届かずに在り続ける鐘楼の陰に居るふたりの存在など、きっと知りもしないのに違いないのだ。

少なくともアイズにはそう思えた。

 

 

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リリはぬるま湯に浅く浸かるような眠りを終え、顔を上げた。一片の光も差さない闇の中に揺蕩う記憶は全て消し去られていて、ただぼんやりとした垂れ幕が意識を丸ごと包んでいるようだった。

脳の深遠が生む幻影を司る大いなる某への感謝を思いつくよりも、虚ろなる情動に任せてここに辿り着いた時からその薄暗さを更に増している部屋の様相を見るにつけ、自分はどれ程の間寝ていたか思い巡らせる。今、どれくらいの時刻であるか。

未だ光を宿す魔石灯の微かな導きのおかげで、リリは廃水道の横穴を後にすることが出来た。遠くに見える崩れた天蓋から、濃く、燃え尽きそうに昏い茜色の光が見える。こんな闇の底すらも暖かく照らしてくれる陽の恵みは、本来の住民が居た頃には決して届きはしなかったのだろう皮肉――――誰からも見捨てられ崩れ落ちたものを衆目の前に引きずり出す無慈悲さ――――をリリは感じた。

そして同時に認めるのは、流れ込む夕闇の中に立つ者の姿だ。

 

「…………どうしてまた、こんな所に……って」

 

(私の言えた台詞じゃ、ないですね)

 

零れ出た言葉はその少年の耳に届いていた。俯き加減の顔が向けられる。その煌きが陽に呑まれて消えそうに見える双眸が。

 

「君は……?」

 

声は腑抜けていた。リリにはそう聞こえた。それはどうしてか、彼女の心をざわめかせる。まことに、不可思議極まった反応ではないかと思う。もはや言葉をかわすのはおろか顔も見たくないとすら思えた相手だからか。

 

「忘れ物でもありましたか?……よろしければ、お手伝いでもしますよ。落し物には目敏いものですから、私」

 

「……いや、そう、じゃないんだ……そんなんじゃ、ないんです」

 

「へえ。もっと重要な用でも?」

 

募る苛立ちが会話を急かしているのがわかる。その一方で、こんな奴を相手にするなとも囁いているのだ。何の利がある、関係ないだろう、何を期待しているのか……。

あらゆる衝動を努めて封じるリリは、だからこそか平素におけるそれと比べれば稚拙な運びで、自分の望む会話の流れを作ろうと試みる。

何故、何故?何故、何故……と、頭の中をその言葉でいっぱいにしながら。

ベル・クラネルの浮かべるその疲れ切った表情への不満を、沸々と募らせながら。

 

「少しだけ、休みたかったんです……求めてるものが、どうしようもなく遠くに感じて……それで」

 

「休む?あなたが休むために帰るおうちは、ここではないのでは?」

 

言葉に棘が混じる。自分が持っていないものを持っている少年は、分不相応な望みの果てに待ち受ける失敗の大きさを今更自覚したのだろうという理解が、そうさせるのだ。

昨晩とまるで同じ口調であるのを隠せない自分の愚かさにリリは内心自嘲する、声も風体も違うのを見抜かれる筈がない……が。

しかし、かくの如きリリの看破や期待など、全くの無意味と断ずるかのように少年は首を横に振る。

 

「ここで始めた事だから。もう君は知ってるかもしれないけど……ラキアの兵士にこの場所を案内してしまって……罪状が全て嘘だと証明するなんてぶち上げて。その時の事を思い出したかった……の、かも、なんて」

 

力無い笑みだ。街を駆け回る彼は何を見て、何を聞き、何を感じたのだろう。その全てはリリにとって、この街から与えられるごくありふれたものでしかなかったのだろうけれど。

 

「……あなたとあの、彼、がはじめて会った時の事も?」

 

「そうです、ね。……あなたとも」

 

「リリ」

 

過去を思い伏せられつつあった少年の目が自分へ向くのを見て、リリの心がまた波打った。決して表情には出さないが。

 

「名前。なんだか、やっと教えられたって、ホッとしますね。……」

 

「はい……リリ、さん」

 

「さん、なんて、柄じゃないですよ」

 

くっくっ、とリリは含み笑いをした。自分へと向けられる嘲笑だ。何の意味も無い事をしている徒労への……。この少年の未来は決まっているとわかってるのに。その優しい主も、心穏やかで醜い出来損ないの身体を持つ男も。そんな連中を相手に時間を割く理由などありはしないのに。今日という日まで、持ちうる全てを、望んでやまないものの為に使ってきた自分が、どういう風の吹き回しだという。

辿るべき末路を受け入れようとしない愚物共は、それと接した自分へと知能のお粗末さを伝染させてくれたのだろうか。ありがたくないことだ。こんな状況に追い込まれてなお真っ直ぐ歩き続けられる強さなど、耐え難い苦しみだけを呼びこむ枷でしかないとリリは知っているのだ。

だがリリの足はこの場から離れようと動く事は決してなかったし、舌はくだらない言葉を紡ぐだけだった。話せば話すだけ、自分の昏い澱みが明らかになっていくばかりのような相手の事を知りたくてたまらない。すべては惨めな自分を慰めたいからだと自覚すればなお、リリの胸は焦がされて熔ける鉄のように泡立つ。

 

「で。その大事そうに抱えてるものに頼りつつ、どうにか前へは進めてるって事ですか?」

 

「……これは、ギルドの知り合いの方から貰ったんです。昔、この街の秩序を守る為に戦っていたファミリアの情報だって」

 

「それは、また」

 

リリは自分の目が勝手に細まるのがわかった。互い知らずに得てしまった手掛かりの一致までもを定めた某の存在などあり得るだろうか?馬鹿げた考えなど一蹴すべきと知っていながら、リリの中で動揺は収まらない。

 

「けど――――最早そのファミリアもこの街には無い。という事は結局、かれらの中で燃えていた情熱は、とっくに灰になって散らばっていってしまっているのでしょうね」

 

「……」

 

皮肉を止めることが出来ない。少年の俯く姿に胸がすく。同時に熱く粘着くものが喉までせり上がりそうになる。

 

「ご立派な方々のご立派な意思も……半ばで潰えてしまえば、誰とも知れないロクデナシの抱いた夢の燃え滓と変わらずに……この街に埋もれていくだけ……」

 

そんな奴らを何人も思い出しながらリリはわかった風な口を叩く。栄光眩しき神の都が持つもう一つの姿、焼き捨てられた死すべき者の夢の灰が積もる楼閣で生きてきた少女の言葉は、彼女自身にとっては誰に否定出来るものかと胸を張れるこの世の真実に他ならないのだ。そうと自覚してまではいなくとも、少なくともこの瞬間だけはそうだった。

 

(あ、……そうか)

 

リリはようやく、腑に落ちるものを理解した。

真っ直ぐに敵を討ち滅ぼす強さと、迷い悩み己の道もわからない弱さを持つ少年に対し、ずっと抱いていた感情の正体が、やっと掴めたような気がしたのだ。

 

「あなたも――――その中の一粒になって、誰からも忘れられるだけなんじゃないんですか?叶わない夢ばかり追い求めて。何も得られず、何も残せずに……。……私は……」

 

(……私は)

 

やめろ、口に出すな。リリは胸の中で叫んだ。

自分に向かって。

精一杯。

それは、無駄だった。彼女の人生において努めたあらゆる物事よりも、無駄だった。

 

 

「自分の恩人が……そんな風になったら、きっと、嫌ですよ」

 

 

言ってしまった。

なんとつまらない台詞だ、くだらない感傷だ。未練は何よりも自分を痛めつけるだけの酷薄な刃にしかならないとわかっていながら、どうして口に出したのだ!リリは思いつく限りの悪罵を自分に浴びせたかった。そこに自分が居れば殴り倒し、顔面を踏み蹴り、喉を締め潰していただろう。

もはやリリは猛烈な虚無感と後悔を表情に出すのを隠そうとはしなかった。この世で最も惨めな存在になった気分だった。

とっくの昔に諦め切り捨てた筈の人間性を思い出しても、それまで我が身に被り続けた数多の傷の痛みを彼女に思い知らせるだけだった……。

 

「…………っ、僕、は」

 

ベルは、リリが口に出せないあらゆる事も知りようがない。それでも、投げかけられた疑問と、消え入りそうな声で紡がれた惜別は、全てを捧ぐべき主と、いま救うべき男の姿を思い起こさせるに充分過ぎた。

灰色の老人から語られた無惨なる真実によって揺らぎかけていた固い決意が、音を立てて亀裂を走らせたように感じる。

何も恥じる事など無い、正しい事を成せば必ず結果はついてくるという倫理に基づく確信も、どんな相手だろうと、戦うのを諦めて逃げるくらいならという蛮勇も、冷厳な現実を覆すのに及ばざる代物であったのかという危惧は確かにあった。それは今目覚め姿を垣間見せる。何も果たせず終われば、何が残る。どうなる。どうする?

一人で立ち上がる力も持たない塵芥は、罪人の名を着せられていかなる末路を辿るか。その擁護者たる女神は――――?

凍てつく闇色の鎖が折り重なり、赤い瞳の映す視界を埋め尽くそうかという海嘯のように、ベルの心を飲み込もうと巨躯を明かす。

見るな、聞くな、考えるなと必死で念じても、大渦から顔を覗かせる黒い怪物は叫ぶ。お前は無力だ。何も成し遂げられはしない、何も得る事はない。……敗北は決まっている。全てを失う事も!この街に来るのを選んだ――――いやお前が生まれ落ちたその時から!

 

(間違えたのか?)

 

冷えていく思考が、取り戻せない過ちを仄めかし、抗いがたい恐怖を呼び起こす。

 

(このまま、終わりなのか?)

 

手を壁について、崩折れそうな足を必死に直立させる。

 

(嫌だ……違う!こんな、まだ……!)

 

まだ終わってない、最後まで戦うと決めたのだ。だがどんな嘲りや徒労よりも、いま注がれる深い同情を帯びた視線はベルの決意を激しく揺るがしていた。

贖い難い悲しみと無念の深さは、どうしてかただの少年でしかない彼にさえそのまま心に流れ込んでくるようだった。ただの幻覚、勘違い、思い上がりと切り捨てる事も出来ない未成熟な心根は明けない闇の迷い路の奥へと深く落ちていく。

最後、最後とは。すぐそこまで迫ってきている刻限。辿り着けるのか。道は途絶え、進む意思は挫けそうになる。

 

(僕は……!)

 

「もう、いいじゃないですか……あなたは、よくやったじゃないですか。これ以上頑張ったって……」

 

心の底から慮っている言葉だ。優しくて、残酷な。

 

(……!!)

 

その温かさが、ベルの中にあった――――闇に隠れかけていたもの、を思い出させる。

手の中にあった、冷たく光る、硬い、鎖。自分の心を何よりも縛り付ける枷のことを。

 

 

 

『――――そうだ、忘れるな――――』

 

『――――約束、してくれ――――』

 

 

 

「――――駄目なんだ。それだけは、出来ない……諦めるなんて、出来ないんだ」

 

「……どうして」

 

リリには、わからない。少年が歩みを止めようとしない理由が、全くわからない。続けてどうなるのだろう。彼に何の枷があるというのか。何処へも逃げ場の無い自分とは違う、彼は何処へだって行ける。

……役に立たない小さな女神など放り出してしまえば、この世の果てまでたどり着き、そこで誰の目も向けられず平らかに命繋ぐのも難しくは無いのにとリリは思う……神の血を授かった者であれば。ラキアは、この街に掃いて捨てるほどやって来て消えていくレベル1の冒険者志望の事など見向きもしまいとも。

 

「逃げてしまえばいいじゃないですか、馬鹿正直にあるかどうかわからないものを探し出す約束なんて、あっちだってまともに受け取っちゃいないでしょうに!彼奴等を納得させられなきゃ全部おしまいなのに!一緒に罪人として連れて行かれて、あの乳飲み子と同じ扱いなんてされやしないですよ!あんな、ボロ屑みたいな姿になってやっと、猿一匹倒せるような、新米冒険者なんて……」

 

ベルが未だ思い出せぬ最初の邂逅まで持ち出し、リリは食い下がる。理性は感情に取って代わられていた。口から飛び出す思いの丈がどれ程真摯であるかは、荒げられる声と固く閉じられた瞼が生む眉間の皺が物語る。

ベルは、リリの口走った嘲罵について何故それを知っているか尋ねるような間抜けを晒さなかった――――と言うよりも、それよりもずっと重要な事を口にせねばならないと心は決まっていたのだ。少女の切なる思いに基づく諫言の全てについて少年の理解は行き渡らなかった。ただ、上げられた面に、双眸の宿す意思ばかりが一切の欺瞞でも憚られぬかのように湛えられていた。

それは、愚かさだ。

リリが遠い昔に捨て去ったはずの。

 

「おしまいなんかじゃない。たとえ、真実を明らかにする術に辿り着けなくて、ラキアに連れて行かれる羽目になっても……それで全てが終わりなんて……そんな事、あるわけが、ない」

 

「ッッ…………!!バカですか!?本物のバカか、それともやっぱりただのキチガイなんですか、あなたはっ!!??誰がどう考えたって、そこで終わりで――――!!」

 

ベルは、首を横に振った。

そして、言った。

静かに、その言葉は放たれた。

 

「僕が始めた事だから。神様が、一緒にやり遂げようと言ってくれたから。――――一人で戦っているんじゃ、ないから。たとえ」

 

「……!、!……」

 

目を見開くリリ。

ベルは構わずに、その言葉を続けた。

それは自分自身に言い聞かせるために、決して諦めないために、必要な事だったからだ。

 

「神様と離れてしまっても……同じ思いでつながっているなら、一人なんかじゃない。それを忘れないかぎり……希望を捨てないかぎり、何かが終わるなんて事あるはずがないんだ」

 

拳を握れば一層その鎖は固く強く存在を誇示し、忘れがたい苦痛と絶望を今一度彼に思い知らせる。それを跳ね除けるための、唯一の力もまた等しくだ。

凛然と向けてくる、澄み切った赤い瞳の奥で燃える何か。それは自分の纏うあらゆる欺瞞を剥ぎ取っていくかのようにリリには思えた。とてつもなく眩しく、狂おしく焦がれる、残酷な光。偽りの中でしか生きることの出来ない者の何もかもを焼き尽くし、後には灰の山ばかり残す無慈悲な力。

その強大さの前に立つ罪人はただ唇を噛んで、頭を垂れる事しか出来ないのだ。

この上なく強く正しく美しい、誰もが望む、死すべき者のあるべきその姿。決して汚す事の出来ない愚かさを理解すれば……。

 

「――――なら、好きにすれば、いいですよ……」

 

それが渾身の負け惜しみだとわからないベルではなかった。彼女はどんな気持ちで自分の事を見ていたのだろう。その救い難い愚かさに取り憑かれた無謀さを正面から諌め、罵られる程に深めた交友などきっとありよう筈もないと思うが――――それは、ここで出会ったあのせむし男との間柄においても同じなのに違いないだろう。

 

「……ありがとう。気にかけてくれて……。また会えたらその時は、一緒に」

 

優しい声が、背を向けた少女へと送られる。踏み出そうとしたその足が止められた。

また、だって。次なんて、あるものか。どこまで、馬鹿なのだ。そう返して嘲笑を残す事もリリには出来た。それはどうしても出来なかった。首だけ振り向く。胡桃色の眼光は、惑いに揺れても射竦めてくる赤い双眸から逸らせられない。

 

(そうだ。どうせ、無理に決まってる、のに)

 

葛藤の結果ははじめから決まっていたのだとリリは理解していて、ゆえに歯噛みし、己が中で燻ぶる無用な感傷をただ呪うのだ。

自然と、その言葉は紡がれていった。

 

「昔。ええ、あなたみたいなお馬鹿さんが山程居らっしゃったそうですね。それが気に食わなくてしょうがないロクデナシ共と散々殺し合っていらしたと……頑張って頑張って戦い続け、でも結局は滅びた」

 

消えかけの酒舗で聞かされた、ただの歴史をベルは思い出す。正義の御旗を掲げる者達は、真実の光を忌避する罪人達をも惹き寄せて、壮絶な抗争を街中に起こしたという。その結末も……。

しかし、語り部の意図する本質は、別の所にあった。少年の意思を何としても挫いてしまいたいという哀れな足掻きを行う力など、もはやリリには残っていなかったのだ。

 

「生き残った悪党どもは、正義の群団の骸から何もかも奪い去っていった、金になる物は、全部。……表に出せない物は、そういうのを取り扱う所に持ち込んでいったわけですが」

 

「……?」

 

リリは知っている。

ベルの口にした、決して捨ててはならないもの――――それがが齎す苦しみをも。

 

希望を持ち歩き続ける事の難しさが、どれほど計り知れないものであるか。

 

「……その中には、何の役にも立たない、何に使うか、誰が使おうと思うか知れたものじゃないガラクタも山程あったと、知り合いの古物商が言っていました。例えば――――」

 

 

 

死すべき者の言葉の真偽を計る道具、とか。

 

 

 

「――――え?」

 

リリの口にしたその言葉に、ベルは他のあらゆる情報から切り離されたような感覚に陥った。色も、音も、記憶も、全て消え去り、フードの中で弱々しく光る瞳のみを見つめる。

この上なくわかりやすい反応だった。リリは苦虫を噛み潰したような顔を作るのを堪えた。

何故か。

 

「けど、それも、すぐに買い戻されてしまったそうですが……何処ぞの誰かもわからない。そういう相手ばかりに商売する所ですから……」

 

「その、古物商の場所を教えて下さい!まだ手掛かりが……」

 

「十年以上前の話ですよ。あのボケ老人がこれ以上何かを覚えてるなんて、私には思えないですね……それでも行きますか?」

 

「ぅっ……」

 

増した気勢を瞬時に削がれて肩を落とすベルを見るにつけリリは自嘲し自分に言い聞かせるのだ。見ろ、期待を抱くだけ――――絶望は深まるばかりだろうが。

希望とはとても強大な力だ。リリにもわかる。希望さえあればどんな困難も乗り越えられると、昔どこかで聞いた。親から教え込まれた数少ない道徳であったか、遠い昔のお伽話であったか。

そして、とても残酷な力だとも。希望にすがる者は、それを失くした瞬間に闇に包まれる。……温かく優しい、明るい何かは、それが失われた後に歩く方法など決して教えてはくれない。いつか消えてしまうものに、どうして縋れよう?それでも死すべき者は、別の希望を追い求め見出そうとするのだ。それが無ければ、生きていけないから、歩き続けることができないから。

自由のため、金のため……リリを突き動かす浅ましい欲望も結局は希望の光だ。他の誰かを謀って毟り取るのも厭わせない、全ての死すべき者にかけられた呪いに等しい力に違いないとリリは思っていた。それは闇の中であっても決して消えず輝き、どんな罪人も焦がれずにはいられない。それが、全てを無くしても残る最後の力であるのならば、求め乾き続けるその衝動から解放されるには――――死ぬしかないのだ。

今のリリを苛むのは、目の前の弱く優しい少年を、望んでは失うのを繰り返す惨苦の輪へと引き入れる事への罪悪感なのだ。

 

「どんなに尊敬を集めていたか、人々の希望となって輝いていたか、それを背負うに足る気高い方々だったか――――けどもう何も、残っちゃいないんです。わかる事は……その道具を買い戻しに来たのが見るにお美しいエルフの方だった、とか。その程度ですよ」

 

百万回正しい事を行ったって、負けて消え去れば、誰だってそうなるのだ。重ねた偉業も全ては積もった灰の山となり、何の意味も見出されなくなり、……誰から傷つけられる事も、最早なくなる。お前だってそうなるだろう……リリの伝えられる事はそれで全てだった。今度こそそっぽを向いてこの場を後にしようと駆け出す。振り返らせるだけの未練は残っていない。

廃水道を満たす闇は沈んだ日によって更に深く、粘着くようにリリの心に絡み付く。

 

(結局私も、あの連中と同じ……)

 

もうやめてしまえ。辛いだけじゃないか。自分の物言いは新米冒険者に酒を浴びせるろくでなし連中の嘲弄を御為ごかしただけの代物だという自覚が、惨めなパルゥムの心をずっと責め立てていた。

 

 

--

 

 

ベルは何も言わずに立ち尽くす。リリがもう少しの根性を振り絞ってこの場にとどまっていれば、突き付けられた現実に放心しているだけかと思っただろう。

実際は、違った。

少年が俯き瞑目する時間など、それこそ瞬きともさしたる差など無かったのだ。

双眸に宿るのは、諦念に呑まれそうな、霞んでいく弱々しい輝きではない。

 

「…………エルフ」

 

どれ程の絶望の中にあっても、それは決して絶えない。

全ての死すべき者が宿す、闇を照らして歩くための、最後の力は。

 

 

 

 

 







・何かが終わるのは
戦神の椅子に座るのも、オリュンポスを滅ぼすべく運命の鏡に飛び込むのも、復讐を終わらせるのも、プレイヤーの意思によって行われること。
オルコスを刺すシーンも操作したかったぞ。




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あーでもないこーでもない




冗長さは頭の悪さだ。皆は手遅れにならないようにしようね。





 

 

 

『うわぁーっはははははははは!さあもっと運べぇ!積めぇ!世界中に我が偉大さを見せつけるように、天まで届く高さの像をここに建てるのだ!休みたければ好きにしていいぞ、永遠に楽にしてやる!』

 

『働けえ、働けえ!!』『ううっ……』『ぐう……』

 

『ああああああ!!ベル君、アルゴス君……!!おいやめろっ!!こんな馬鹿丸出しなモン作って、キミはずかしくないのかよっ!?見ろ、皆爆笑してるぞっ!!』

 

『あいつ馬鹿だよな』『本当にな』『おもしれーよな』『世界レベルだな』『金メダル級だな』『天まで届くよな』『いつ崩れるかな』『賭けようぜ』

 

『ふん!!関係ない連中が何をほざこうが、知ったことか!!大体貴様はなんだ立場もわきまえず偉そうに、しもべ共の心配などしている場合か?』

 

『は?立場……んっ!?何だ!?何だこれ!?こんなのいつ繋いだんだ、はやく外せよっ!い、いやボクより先にあの子達を……』『刑吏ィ!このチビに思い知らせてやれ!』『はァ!?何……!』

 

『おーっす。ほんなぁ、ちょいとドチビはお勉強の時間やなぁ?』『こういうのはあんまり趣味じゃないんだけど』『!?!?!?!?、な、何だ君達は!?何だその格好は!?!?いつこの馬鹿の手下になったんだよ!?!?!?』

 

『あ~罪人の質問なぞ聞こえんなぁ~ケッケッケ……』『どう、似合うかしら?フフフ』

 

『うぐっ、よっ、寄るなっ!!あっち行けっ!!この悪党どもめっ、こんな事してただで済むと思ってるのかっ!?』『は!手前が始めた戦いに負けたくせ、グダグダと。見苦しい、聞き苦しい!これがこの世の理だと知るがいい!おい、やれ!!』

 

『それじゃあ~最初はどうしたろっかなぁ~、ムチにするか、縄で縛るか……おっとこんな所に蝋燭が』『まぁ、何にせよ……まずは、脱がしてあげなきゃ駄目じゃない?』

 

『嫌だあああああああああ!!触るなあああああああああああ!!だっ誰か、ベル君っ!あっ、くそっ、違う、畜生っ、ボクが、ボクが助けてあげなきゃっ、でもっ、うっ、うぐうううっ!!こんなの、こんなの、うわああああああああっ!!』『…………ア…………』

 

『いいザマだな!ふはははは、はーーーーっはっはっはっはっはっはっはっは!!』『……ィア…………』

 

『身の丈に合わん望みなんざ、抱えるもんやないなあ?うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!』『…………スティア……』

 

『大丈夫よ、痛いのも苦しいのも、すぐに忘れるものだから。フフフ、アハハハハハハハハ…………』『…………い、起きろ…………』

 

『ああ、ああああああ……う、ぐ、う、く、くうっっっそおおおおおおおおおおあああああああああああっっ!!!!』『ヘスティア!』

 

 

 

 

 

「うっだらあああああああーーーーっっ!!!!」「ぐぶぇっ!?」

 

女神の全身に満ちる怒りは、起き抜けに上体を跳ね上がらせて、握り拳を全力で振り抜かせた。それは象頭の顎へと直撃し、彼の脳を激しく揺らした。

 

「。…………ん?夢?」

 

「うわあ、これは……神様、災難ですねぇ」

 

床に崩れ落ち昏倒しているガネーシャの身体を持ち上げながら、医師が零した。ヘスティアは我に返って、周囲を見回す。白い床とカーテンとベッド、薬棚。白衣。椅子。細部は違えど見覚えのある作りの部屋である。両手首をきつく締め上げる枷も、両足首から伸びる重い鎖も、猛烈に腹が立つ無数の嘲笑も、すべてヘスティアの脳裏から塵も残さず消え去っていた。

 

「?、?、?、……医務室?なあ、キミ。何でボクはこんな所に居るんだい?……ガネーシャ?どうしたんだ?いったい……」

 

「これって、私が片付ける事案なのか」

 

医師は溜息をついた。寝息を立てながら、あの剣姫に抱きかかえられてやって来た女神と、それが床に就かされて暫ししてからやって来た神の間にどんな事情があるかなど、知ったこっちゃない。とても疲れているようだから寝床を貸してあげて欲しい等と、それだけ言って押し付けてくれた美少女冒険者への恨み言は密かに募った。

とりあえず夢の住民を呼び戻す代償に夢の中へと旅立った者の目覚めを促すのは、急務だったと言えよう。

 

「ガネーシャ、ごめん。ええと……実はどんな夢を見てたか思い出せないんだけど……なんだか、ものすごく腹が立って、そのまま、つい」

 

「ふ、いいパンチだ。踏み込みも合わせていたら、首まで飛んでいた所だな、ははははははは!!、と、まあそれは置いておくか」

 

ガネーシャの飛ばした冗談の意味などヘスティアには皆目検討がつかなかった。眉をひそめた心底訝しげな顔つきを流し太い腕で鞄を探る彼の神の心境を、唯一の立会人である医師は少しだけ慮った。

 

「これだな。確かに渡しておくぞ」

 

「え、何だい、こりゃあ……??」

 

ベッドに座りながら受け取った、その分厚く重い紙束を腿に乗せたヘスティアは、それをよこした相手と視線を交互に動かしてから、中身に目を通す。

 

「お前の持っている資料を更に細かく調べあげたものと思ってくれていい。その連中の生死問わず、それぞれの名前、種族、出身、実力、異名、現状。どれも、把握している範囲でしかないが、……俺に出来るのはここまでだ」

 

「……これが、全部、か。……すごい」

 

凡そ女神の手首ほどの厚みはある製本した資料は、世界最大の都市を丸ごと熱狂させる催しを幾度も大過なくやり遂げてきた群団の持つ力の強大さ、そしてまたハーフエルフ一人の成し得られる事の限界をも雄弁に物語る。だが、ヘスティアはその力の比較よりも、この大きな糸口へと繋ぐ道を示してくれた事への感謝の念ばかりが湧き上がっていた。勿論、一日も待たずにこれほどの量の情報を集めてくれた存在に対してもだ。

固く重く閉ざされた栄光への扉を開くための鍵は確かにここにあるのだと、そう確認するようヘスティアは資料を胸に抱えた。引き締まった表情をガネーシャに向ける。

 

「ありがとう。必ず、この恩には報いるよ」

 

「おっと!違うぞヘスティア。これで貸し借りは全て無し、だ。わかるだろう?」

 

腕を組むガネーシャの心境を理解出来ない者など、オラリオに果たして存在するだろうか?大いなる不始末の原因の片割れこそとある密告によって突き止めることが出来たものの、大猿の鎖を外した事をあっさり認めて謝罪した彼女は頑として主張した。やったのはそれだけ、後は知らないわと。以来、八方手を尽くして『子供』の仇討ちに執念を注ぐ彼の姿は、その血を分け与えられた者達もまた等しく倣うところだ。

神の街で俄に醸しつつある不穏な空気とは、たかが一戦神のくだらぬ企みなど及びもつかない領域から生まれ出づるものに他ならないのである。

尤もヘスティアはそこまでの見地も思索も至らせるだけの余裕など無かったが――――重要な事は、それではないから。

 

「そうだね。……そうとも。ボクはね、必ず成し遂げるよ。アルゴス君が無罪で、それを信じて証明してみせた英雄の名は皆に知れ渡るんだ。その時誰だって思い知るだろうさ、この街の住民なら、こんな横暴に対して傍観者なんて気取るべきじゃないんだってな!!見ててくれよっガネーシャ!!」

 

「あ、女神様。…………行っちゃったよ。元気なもんだ」

 

ベッドを降りながら力強い宣誓を医務室に響き渡らせ、ヘスティアは大急ぎで走り去っていった。いくらも時間は残されていないと知っているのは彼女だけではない以上、その猛進ぶりを努めて止めようとは医師も思わなかったが……。

 

「あの資料の人物全員あたっていくつもりでしょうかねェ、ガネーシャ様?あと半日も無いのに。出来ると思います?」

 

呆れ顔でベッドを整えている死すべき者の質問に、やおら部屋を出ようと踵を返していたガネーシャは立ち止まる。

そして、言った。

 

「俺は、その機が尽きぬうちに義理を果たした。ならば後は、連中次第ではないか?」

 

出来なくば、それはその程度の事だったというだけの話だろうというわけだ。

寸分の隙も見当たらない正論に、医師は肩をすくめ、小さく鼻で笑った。

ガネーシャは振り向く事なく、医務室を後にした。

 

その程度、でしかなかった顛末などその神は幾らでも知っていた。省みるのも億劫なほど。道半ばで力尽きた者共の夢の残骸を踏みしだいて歩み続けた末に、今があるという事も。

それをともに成し得た愛する『子供』の事だけが、今の彼にとって何よりも優先すべき事項だった。

 

 

 

 

--

 

 

 

突如手渡された膨大な量の情報をどのように扱うべきかと、いざ冷静な思考で途方に暮れる時間もヘスティアに与えられなかった。バベルから飛び出て全力疾走した末に辿り着く万神殿、入り口からごった返す人集りは、こんにち彼女がこれ以上なく思い知らされた、徒労をのみ与えてくれる第三者の群れとの認識から些かも本質を違えてなど居ないのに。

けれども、ヘスティアは躊躇しない。まだ何も終わってなどいない、歩くのをやめる理由は何一つありはしないとわかっているからだ。

まるでラキアとの小さな諍いなど完全に無かった事になっているかのように、かれらはその話題に口さがなく熱中する。ロキ・ファミリアが。レベル6が。地下水道で。正体は……?

人波に埋没する小さな女神は、思い切り息を吸い、いざや再び我が存在をこの場所に知らしめんと、腹の底に力を滾らせた、そして。

 

「諸君っ!!どうか静聴――――」「神様」「っ、っっ、っ??」

 

仰々しく掌を翳したヘスティアの、威勢よく張り上げられた声は思いもよらない存在によって遮られた。変なタイミングで息を呑んでしまい目を白黒させている主に構うこと無く、ベルは真剣な顔つきを崩さずに真っ直ぐ向き合う。

途切れた呼び掛けに対し訝しげに向けられていた数知れない視線はすぐに外れていった。ヘスティアは目の前の『子供』だけを確かな存在として感じ取っていた。

言葉を忘れさせる気迫があった。

 

「ひとつ、……手掛かりを、見つけたんです。神様はどうですか?」

 

『子供』の掴んだものの全容を問うよりも先ずは、女神は携えるそれを差し出すのだった。分厚い冊子を開いたベルは、すぐ記載されている概要を知った。

 

「ガネーシャから。ハーフエルフ君の言ってた、もう居なくなってしまった連中ひとりひとりに至るまで調べてくれたんだよ。……なんとかして、ここから繋がるものを見つけ出さなきゃ……」

 

主の声さえ遠くに感じる。それは、彼の中にあった大きな欠片と繋がり合い、目の前の闇を照らしていく微かな輝きを放つような、そんな幻覚をすら呼び起こすのだ。それはとてもか細く、遠い。しかし、確かに見出した達成への道筋に他ならぬと信じる以外、今の彼にはなかったのだ。

出し抜けにベルは冊子を床に置き、ポケットから草臥れきった紙を取り出して広げた。公然の礼を弁えない突飛な行動にヘスティアは面食らう。ロビーに満ちる衆目の幾つかも、それを見て訝しげに細まった。

主に理由を問われるより先にベルは口を開いた。

 

「あったんです、居たんですよ、その方法と、作り出した人達が……!」

 

「何だって!?」

 

声を上ずらせるヘスティアも『子供』に倣って床に這いつくばり、開かれた頁とそこから写し取られていく冒険者の名前を見やる。一心不乱のようすを崩さないベルの双眸は絶えない輝きと、消えそうな揺らめきの双方を危うく両立しているように見えた、その主には。

 

「エルフ……?」

 

書き写される名の共通点をすぐに見出したヘスティアは、その単語を呟いた。その奇跡を齎した血を分け与えし者の名よりも、各々の肉の器に宿る血のみを以て『子供』は選別している事に気付いたのだ。

 

「生き残りのうちの、エルフの誰かが、それを持っているって事かい?」

 

「っ……はい、きっと。いや、必ず、そのはずです」

 

僅かに、苦渋をその顔に浮かべるベル。その胸中、自分の掴んだ手掛かりがどれほど心許ないものであるかぐらいわかっているからだ。この分厚い資料から、雑把もいいところの公約数で拾い出せる情報量はどれ程であろうか。それらに行き当たって、それでも望むものへと続かなければ……?

だが決して、そんな弱音など表に出すべきではないとその手と目は動きを止めない。迷妄は歩みを止めさせ決して抜け出せない闇へ引き込むばかりの、忌むべき悪徳なのだとベルは断じて、頑なに滾る衝動へと薪を焚べ続ける。

その時間はどれ程続いたか――――ヘスティアは見守る事しかしなかった。そして、唐突にその瞬間は訪れたのだ。

 

「――――え?」

 

恐ろしい速さで頁を捲るベルは、その記述を目にした瞬間、動きを止めた。指し示す紋章。その下に、ずらりと名前が並んでいる……視線は交互に移されて、やがて更に目を見開いて止まった。

 

「おいベル君、どうした。何か……このファミリア?…………もう団員すべてが……ん?」

 

当然だが、すべてが硬直した少年の様を見ただけでは、未だヘスティアはその所以を理解できなかった。紙に押し付けられている人差し指の先を見やる。剣と翼の紋章。正義の女神とその『子供』達。方々から恨みを買った挙句に壮絶な滅びを迎えて久しい群団……そのうちのひとつだ。

描かれた紋章の下に箇条書きされている名前の数々。現況:死亡。死亡。死亡。死亡。死亡。無惨だ。だが、憐憫の芽生える暇も無く、『子供』の視線を奪うものにヘスティアの意識は注がれた。一人の冒険者の名前。それに覚えなどあるはずもなかったが。

 

「……行方不明。指名手配中………………って、?」

 

たった一人の生き残り。ヘスティアはベルの顔を見て言外に問う、キミが掴んだものと、これとの関係は?その返答はなされずに、また頁を捲る音が奏でられる。周囲の喧騒も、たった二人きりのファミリアには決して届いていなかった。

そしてベルはその記述へと行き当たる。その人物の似顔絵、種族。来歴、末路まで、そこにはしっかりと刻まれていた。

時が止まったような感覚をベルは味わった。突如道がそこに開かれたような、…………そしてその先にある、深い闇も。どうせそこには何も無いだろう、無駄な努力はもうやめろと囁く何かの気配も。

だが、今のベルの瞳には、あらゆる諦めの理由を退けるその力が宿っていた。

 

「おわっ、ベル君っ?ちょちょっと、せめて何処へ連れて行くのか」

 

「あとで説明しますっ!!」

 

誰の理解も及ばざる熱狂が眷属を支配していた。柔らかい手の感触は、ベルの右中指から伸びる鎖となったかのように固く繋がって、小さな主従を同じ速さで走らせるよう互いの心身に働きかける。抱きかかえられ、寄りかかられてではなく、ふたりはそれぞれの足を必死に動かした。

ベルは走った。主とともに、遂に見出した救いの光明へと向かって。

ヘスティアも走った。前だけを見つめる『子供』の手から伝わる、何者にも覆せざる確信が実るよう、その一心だけを胸に秘めて。

 

 

そして、誰も、かれらの道を阻む事はしなかった。すれ違った数だけ理由はあれど。

 

 

 

--

 

 

 

「やっぱり。剣姫は只者ではなかったニャ~。ミャーははじめて見た時から知ってたニャ、あいつはこれくらいやるって」

 

「そんな事より、あのオオカミ男が倒したっていう『戦士像』ってのは何なのニャ。怪物祭に出た連中と似てるって噂だニャ~」

 

夜も更けて酒場は盛況だった、平素とさしたる違いもなく。歓談に満ちる店内においてすれ違った店員達の何気ない駄弁りに、酔いも回っている客のうちの某が乗った。

 

「そういや、昨日のちっこい連中はどうしたんだろーな」

 

「知らんニャ~」

 

「そりゃお前、頑張って聞いて回ってるんだろ?朝から見たぜ、必死な顔してまぁ。泣かせるこった……」

 

その蛮行はきっと、たった一人で竜牙兵の王を滅ぼす事よりもずっと実りの少なく、また果たせる見込みなど誰も見出そうともしない愚挙と評するべきであると、かれらは誰に言われるでもなく知っていた。

しかしその見立ても、単なる嘲笑の的として挙げられるべき事としての所以だけではないのだとも、理解は等しいのだ。

 

「どう考えても無理だよな」

 

「あんな坊やと神様じゃ、な」

 

「……何もかもが足りず、届かなかった訳だ。結局、まんまとラキアの連中に乗せられちまったって事だろ?余計な面倒に繋げてくれないことだけ祈ろうや」

 

男達は肴を口にしながら、冷ややかに、それでいて僅かに感じるものがあるのをその口調に忍ばせている。

そうだ、もしもかれらに残された時間がもっと有れば、さもなければ、ラキアの要求が此度のそれを遥かに超えて誇大であったならば、捕らえられたのが誰からも忘れられかけていた出来損ないの身体のせむし男でなければ、それに味方せんと立ち上がったのがレベル1の木っ端冒険者のみではなく、或いは今まさに遍く羨望を集める栄光に満ちた若人達か、共に並び立つ者達であったならば?

希望は今よりずっと大きく明るく有り、義の元に集う者を呼び、野次馬を惹きつけ、一口乗ろうとする目敏い連中も群がっていただろう。

ヘスティア・ファミリアは、正義を掲げるにはあまりにも、力が足りなすぎた。

俗欲無くして動かぬ死すべき者を味方にする力こそが、地に引きずり降ろされた絶対者に最も必要なものであると、あの小さな女神は気付くのが遅すぎたのだ。

市井の者達はすぐに看破したのである、傲慢で粗暴なだけではない、巧妙さと賢しさを持つアカイアの戦士は、身の程を知らずに喧嘩を売ってきた相手を、誰に憚られる謂れもなく屈服させる手段を通したのだと。

 

「お気の毒だニャあ。シルの目が節穴だったとは言わニャいけど、……多分、物珍しさで曇ってただけなんだニャ~。気を落としちゃ駄目なんだニャ」

 

「そうそう、あの灰かぶりに絡んでたボケ共も、シルがしょーもないヤツに引っ掛からないように、誰かが巡り合わせてくれた運命のカタチなんだニャ~。きっと、もっといい男が居るニャ」

 

「まあ、ミア母ちゃんにケンカ売るあたり、見込みが全然って事はニャいかもだけどニャ……」

 

「……」

 

愚か者への寸評とは当人のあずかり知らぬ場所で繰り広げられていた。うら若き店員達はせいいっぱいの配慮を忍ばせて、銀糸の如く細やかに煌めく前髪の奥で情薄く眼光を宿したまま勤めに励む同僚へと話を振るのだ。それに返答が無いのも、ただ居た堪れなさだけを各々に湧き上がらせるだけだった。

 

「ありゃあただのモノ知らずか、癇癪持ちなだけだと思うぞ俺は。おかみさん相手にあんな剣幕で。見てるほうが寿命が縮んだぜ」

 

「右に同じく」

 

「と言えばなあ、なあおかみさん。例の乳飲み子と面識あるって、本当なのかい」

 

取り留めの無い、酒の席での会話にすぎない。皆はそれぞれの相手とのそれらに夢中であり、店主に話を振ったかれらにしたってそれは同じ事だ。ミアの様子はいつものそれとまったく同じで、如何なる事象にも揺るがない性根を顕す体躯で忙しなく注文に応えつつ、口を開くのである。

 

「ふん。見た目通りの気の毒なうすらバカ野郎さ。それ以外の事なんか忘れたよ」

 

一太刀でその話題は切って捨てられた。素気ない返事に、客も苦笑いだけして別の話題に移っていく。微かに揺れる照明の下で生まれる、軽々しく気怠い空気は、決して絶えずこの店にあるべきと誰もが思う事だ。この店に通う誰もが。

酒気に委ねあらゆる苦難を忘却させるためにこの空間はあると、皆が知っているのだ。

その理に歯向かう蒙の輩は、三度、そこに現れたのだった。

 

「――――……!!」

 

一番にその来訪者を感知したシルはただ、言葉を失くして視線を釘付けにさせられるだけだ。鮮烈に蘇る記憶は、彼女に対していかなる反応も封じるようはたらきかけた。灰を被ったような白い髪と、柔らかな店内の灯りを受けて凶々しさすら秘めるよう映る真紅の瞳は、些かの翳りも見出だせないあどけない表情といっそう不釣り合いな印象を放つ。

そう、ベル・クラネルの顔には無用な気負いも消え入りそうな儚さも見出だせないのだ。気まずさと怪訝さを隠さないようすでその手を握る女神と比さずとて明らかなほど。揺れない決意をまっすぐに感じ取れるシルは、己の動揺を殊更に自覚させられる。どんなことばで呼び掛ければ良いだろうと愚かな考えを巡らせる自分への嫌悪は、余計な世話を焼いた結果味わわせた失態の苦酸を我が身の如く感じ、未だ後悔する彼女の情深さによって尽き果てず湧くのだ。

――――が、だ。

そんな、無条件に弱きを慈しむばかりの美徳も、しょせんは力ある者による選択、差別に過ぎぬという確たる主張を、彼女以外の店員は翻しはしない。

 

「くぉ~の、ノータリンの灰かぶり坊主。おミャあの欲しいものなんてここには無いって何べん言われりゃ理解するんだニャ。どうせもう浴びる酒だって買えニャいだろうに、頑張ってるのを褒めてほしいんならテメエの神様にでも泣きついてろニャ」

 

必要以上に粗暴な言い方であるのをクロエは自覚していたが、それなりの理由もあれば誰に咎められようと主張するべきだというのは、彼女のあらゆる言動を裏打ちする信条なのである。甘ったれのガキに連れられる女神が眉間と鼻根を狭めるのが見えたが、知ったこっちゃない。むしろこうして誰かが言い聞かせるのに誂えられた機会と受け止めるべきではないかとすら思う。不遜と言いたくば言うがいい、お前の『子供』こそ、敬虔であれこそすれ他の死すべき者による安穏の場をかき乱すのを厭おうとしない愚物ではないかと。

威圧する意味もあった声音の強さは、馬鹿げた後ろめたさに煩悶するシルへの当て付けも目論んでの事だ。隠しようもない侮蔑の念を発する店員は我こそこの場の代弁者であると、ベルの前に立ちはだかって腕を組む。

そして傍観者達は言葉に出さずとも思うだろう、哀れなことだと。責め立てようとはしない、ただ、あの矮小なファミリアにこれ以上の徒労と不幸が齎されぬようにと、半ば諦観の混じる憐憫のみを送るのだ。

 

 

そして、それらのすべてが、主を連れ立ってここに立つただの少年にとって、今燃え盛るものを消し止めさせる理由になりはしないのだと、誰が知っているだろう。

 

 

「確か、店員のかたの中にエルフの女性が居たと記憶しているんですけれども、少し話をさせてほしくて来たんです。会わせていただけますか?」

 

「オイつんぼ野郎、もっと大きな声で言わんとわからんのかニャ?」

 

ベルは全く悪びれない様子で店員に尋ねるのだった。そんな姿を見て僅かに鼻白むがすぐに、より直截にクロエは凄んでみせる、ぬけぬけとほざくなと。猫人の発達した表情筋で作る威嚇の面相には、少年らに対し無為に時間を浪費させまいという気遣いすら含んだものだったが――――

 

「……嫌がらせのためにここに来ている訳じゃないって事だけはわかって欲しいんです。僕は」

 

「諦めるわけにはいかない?……正しいと信じてるから?あの乳飲み子に何かを期待しているから?途中でやめるのはみっともない事だと思うから?は……どれにしたって、あんたの手に負えない事だった、それだけの話で終わりじゃないか。得られず遂げられず、蔑まれて疎まれて、それだって何かを終えた結果のひとつだ。敗けて失うのを受け入れるのがそんなに嫌かい。新しい別の道を踏み出すのが、自分の歩いた道が間違いだったと理解するのがそんなに怖いのかい」

 

少年の明瞭な意思表示を女店主の大きく、よく通る声が遮り、継いだ。その全ては正しい言葉だとベルは知っている。反駁し説き伏せようなど、齢二十も無い童貞にとり、無意味極まる大業という事もだ。だからベルはただ、自分の求める事をのみ口にするしかないのであるが、その主としてはもはや我慢ならんのだった。

ぷつん、とヘスティアは自分の頭のなかの何かがキレる音を聞く。本日これで何度目かは知らない、数えてない。誰ぞの知ったことか。怒るべき時に怒るのがなぜ悪い?血の気を失くした顔の双眸は瞳孔を縮まらせ、酷薄な展望ばかりを口にする無責任な傍観者達への非難のみで満ちる感情を克明に映し出す。

 

「ッッッッ、だからっ!!なんでっ!!まだ何も終わっちゃいないのをキミ達はっ、勝手に決めつけてっ……!!」

 

「待ってください、……ミア母さん、神様。…………クラネルさん」

 

腕を振り上げて威嚇しつつ、カウンターにかじりついて喚き立てる小さな女神。何らも畏れを顕さずに対峙するミアの間に、シルが割って入った。そのまなざしは穏やかであっても決して媚びようというものでなく、多くの客達を真に虜にする、遥かな場所から注ぐ月光のように柔らかく、揺るがずに在る事を錯覚させる光を持つものだ。そしてミアは、もはや何も言わずに退く事にする。ヘスティアも、その真剣な面持ちで流石に憤激を押しとどめた。

迷宮のいかなる怪物をも屠る力など持たぬだろう(ヘスティアにはそうとしか見えない)彼女は少なくとも今、弱く小さな『子供』へのあらゆる負い目を排したたたずまいで、一組の主従と相対しているのだ。その口から紡がれるものを憚ろうとするべきでないと理解出来ない者はここに居なかった。

 

「あなたは……」

 

一挙に満たされた静謐の中、真っ赤な瞳を見据えるシルは、その実己の心の奥をそこに見出しているのだと気付くのだ。ベル・クラネルの纏う義憤と虚勢、懇願、容易にそれらを見透かせても、その奥に揺らめくものとは、彼女自身が遠いいつか、遥かなどこかで、確かに見ていたものであるかの如く、魂の奥深くがざわめく感触を湧き上がらせる。そうだ、それは――――この少年をはじめて見た、あの日も。再び見たその時も。打ちのめされ消えていきそうに見えたあの後ろ姿にすら、その微かな幻影は重なっていた。

触れれば崩れ落ちそうなほど不安に揺れている心根と同居するその、何か。シルは僅かに瞑目し思い改める――――それは今、問いただすべき事か?くだらぬ負い目を帳消しにしようという浅はかな目論見と等しく、この時において無用な事とだと彼女は知った。

今彼に聞くべき事は。

 

「何のために、この街にやって来たのであれ、冒険者になったのであれ、――――何になりたいのであれ。ここに来たのも、すべてを投げうってでも、手に入れたいものがあったから、なんですね」

 

「はい」

 

果断に、ベルは答える。

 

「諦めるつもりもない」

 

「はい」

 

迷いはあれど、今それにとらわれる事は無意味だと――――少なくとも今はそうだと――――ベルは知っていた。

 

「たとえ、その先に何があろうと。……何も無くても?」

 

「はい」

 

シルはそれ以上何を聞く事もしなかった。

何も言わず、ベルとヘスティアに背を向けると、それから店の奥へ続く扉を開いた。

 

「どうぞ」

 

短く促されると、ベルは主の手を優しく引いて足を踏み出した。どんなものが先にあろうと膝を屈さざる理由はまさに、彼の手の中にあった。

どこまでも脆く儚い戒めで繋がれた者もまた、同じ思いで歩調を合わせていた。

通路を行く間、店の団欒など存在しないかのように三つの影の周りは静寂を保っていた。

 

 

--

 

 

 

底のない絶望の中でも、そこが果て無き苦界の坩堝だろうが、死すべき定めの訪れる時というのは誰にも推し量れずに無明の中を漂い続け、あらゆる意思も届かずに振る舞う。かつてすべてを失ったと思っていたリュー・リオンは、いつの間にか今の居場所を愛おしく思っている事を薄々自覚していた。それは同時に、絶えない罪悪感と自責の念、そして恐怖を呼び起こし続ける。いずれ裁きの時は来る。終わりをもたらす使者は、自分の築いたあらゆる欺瞞を暴き、世に知らしめに現れるに違いないとさえ。

幼き頃、親から聞かされた他愛の無いお伽話が、その源泉なのかもしれない。すべてを失い、すべてに対する怒りだけを燃やし、憎悪のまますべてを滅ぼした男の話。彼は全てを終わらせた後どうしたのだろうか。途切れた道の先に何を見出したのだろう。

新たな何かを、求め続けたのだろうか?

その最中にも、自分と同じように、消えない過去に苛まれ続けたのだろうか?

……たとえかりそめの安寧を得たのだとしても、然るべき審判が下る時を恐れ続けるよりも惨めな人生など、あるだろうか。

 

「リュー」

 

ひとりきりの部屋に、軽く扉を叩く音が響いた。リューは……何となく、自分を呼ぶ者の持ってきた用件を、悟った。シルの呼び声の中には、一瞬で理解させる何かがあったのだ。予感ではなく、確信だ。

返答はしなかった。扉が開く。思いつめた表情の同僚の後ろに立つ者の姿を見ても、リューは動揺を覚えなかった。

 

「意外と、早かったですね」

 

机に向かいながら平坦な声音をよこす姿は、ベルにとってはあの日の光景の既視感を想起させるに不可避のものだ。しかし冷淡な反応ではあっても、その言葉は厳かな戒飭と計り知れぬ郷愁の透けるものと今の彼は充分及び知れた。

 

「……ミア母さんから、店の皆から聞いてはいました、あなた達の事は。……しかし、ここまで辿り着けるとまでは、決して思ってはいませんでしたよ。ええ、まさか。貴方のような、腑抜けが」

 

「僕じゃなかったら、もっと早くに突き止められていたに違いないですよ」

 

右手を握られる力が強くなっても、ベルは慇懃な態度に努めた――――実のところは、この店のひとびとから掛けられる滑らかな謗りの何れからも、なぜだか心を波打たせるものを感じ取れなかったのだ。それも今傍にあるものによる力なのかもしれない。

表情を変えずリューは立ち上がると、部屋の隅に置かれた棚の、一番下の引き出しを開けた。古びた木箱は、辛うじて片手に乗せて持ち上げられる程度の大きさだった。四人それぞれの息が聞こえそうな密室では、机に箱が置かれる音もいやに大きく感じられた。

誰も言葉を発しなかった。いや、一組の主従においては、発せなかった、と言うべきだった。その箱の中身の意味するものを察したがゆえに。

木箱に鍵は無く、簡素な蝶番だけで繋がる蓋は、それこそ赤子の手であっても暴かれるのを免れられないのに違いないようにベルには見えた。事実、リューの細長い指がそれを持ち上げる動作からは、手紙の封蝋を破るよりも儚い力だけしか感じられなかった。探し求め、狂い焦がれ続けたそれは、こんなにも粗末に扱われるべき代物であるだろうかと、身勝手な失望すら呼び起こされる……。

 

「……」

 

その貌は、部屋の灯りによって余す処無く晒された。

銀色の、天秤だった。支柱と支台は一つになって表面に精微な彫金が拵えられており、高級な燭台にも似ていた。違うのは、その先端に乗っているのが細い天秤棒であること、そして……。

 

「この羽根によって、発した言葉が虚偽であるか、真実であるか、すべてが看破されます――――例外なく。たとえ、それが天上の超越者であれ」

 

リューは、空色の眼光を刃のようにぎらつかせた。羽根は、いかなる素材で作られたものだろう。鶏のそれと区別のつかない小さな羽根が支柱から外され、皿の片方に乗った。

天秤は、微動だにしない。

 

「その血の持ち主の言葉が偽りならば、それに重さなど無い。というわけです」

 

支柱の天辺が掴まれて、引かれる。硬い、光沢がこすれ合う音が短く生まれて、白く短い、研ぎ澄まされた一本の短剣が抜き去られた。街の誰からも忘れ去られた正義の御璽は、その本懐を果たせずに久しくとも冷たい輝きは失せることなく、切っ先は鋭かった。

それは今一度凍りついた空の色の双眸とともにベルに向けられた。

 

「私が貴方にこれを預ける理由とは、いったい何なのですか?」

 

「……」

 

リューは答えを待たず、自分の指に刃を宛がう。すぐさま赤い線がそこに走った。左手を天秤にかざす。

一滴のしずくが皿に落ちた。

 

「これは私に残された、最後の……かつての家族との絆そのものです。他にはもう、何も無い。アストレア様の眷属で生き残ったのは、私だけ。アストレア様も、この街には居ない。どこに居るかも、わからない……」

 

リューははじめてその表情を僅かに歪ませた。消えない苦痛と後悔の色は口まで波及して刹那言葉を途切れさせる。血の乗る皿が沈み、天秤が傾いた。

疾風の異名を持つ、アストレア・ファミリアの美しき女剣士。弱きを助け悪を挫く正義の群団にその名を連ねたエルフが、いかなる経緯を辿っていち酒場女の身に落ち着いたのか、ベルには知る由もない事だ。わかるのはただ、彼女はもはや大手を振って冒険者として名を馳せられないだけの理由があるということ。ガネーシャから渡された資料から鑑みれる事はそれだけだった。そして、たとえそこに彼女自身の端的による告白が付け加えられたのだとしても、とりたて何かが覆る事も無かった。

ベルはその悲劇を既に知っていた。

 

「正義を通したい。恩人を助けたい。暴虐に屈するわけにはいかない。主に恥じる生き方を晒したくない。どれもたいそうな言い分ですが――――」

 

アカイアの戦士達の醸し出すそれにも比肩しうるだろう、正義の女神の最後のしもべの纏う気迫は静かで、そして硬かった。ベルは黙って、それを正面から受け止めていた。ともに在る者の温度も、繋がる場所に打たれた軛のように冷たく締め付ける指輪の感触も、それらだけでは決して彼が気圧されるのを防ぐ盾とはならない。

ベルはあくまでも自分の意思と身体だけでリューと相対していた――――本人はそうと信じていた。

 

「聞こえの良い言葉を並べ立てるだけの者に、これを好きにさせるわけにはいかない。今度の、貴方の選んだ道、そのきっかけ、全てを聞かされなければ、私は納得などできない。手を貸すことなど、有り得ない」

 

リューの右手に握られる刃が再びベルに向けられた。皿に落ちた赤いしずくは、刀身についた血糊が拭きとられるとともに霞のように消えており、天秤棒は水平を保とうと揺れ戻る。その慣性がおさまるまで、ベルは差し向けられる光から目を逸らさなかった。僅かな時間は、執行の階段を昇る囚人の如き絶望感を想起させるものではなかった。

ただ、その時が来ただけなのだろうという、奇妙な得心があった。奇妙な既視感。彼の思い出す青色の瞳の更に奥にそれはあった。荒れ狂う嵐の大波と黄昏に照らされる穏やかな潮騒の帳――――それらを突き破った先にある永遠に無の広がる優しい揺り籠。

失うかもしれない恐怖も、失ってしまったものへの未練も、それを思い出すだけで幾つもの泡となって身体の奥底へと溶けていくように受け入れる事が出来た。

ベルは一度だけ振り返った。

目に見えない鎖で自分を繋ぐ、この世で最も彼が畏れる存在は柳眉を撓らせて唇を引き結び、どこまでも不安げな思いをありありと表情に描いていた。希望の生む苦しみとはかくも等しく全てのものを苛むものとベルは確信を新たに抱き――――それに耐える為のものの尊さも、右手の中に感じた。

羞恥と我執を覆い隠そうとする賢しさは、少なくとも今のベルには無かった。前を向き、ベルは自らその手を刃に当てた。

 

「最初、は――――そうだ。僕が、この街にやって来た、その理由から――――」

 

赤いしずくを一滴、皿に落とした。

それから少年は、今に至るまで歩んだその短い道程を語り始める。

失ったもの。

得たもの。

教えられたこと。

出会ったひとびと。

成したこと。

そのさなかに思ったことの、何もかもを。

 

 

 

どんな導きも見えない昏い海の底にあるような、そして静かで、憚りを感じない心持ちのまま、ベルは連々と述懐する。無限の闇の中にある彼はしかし、繋がれたものから流れ込む温かくて安らかなものによって、最後まで穏やかな気分のままだった。

その何よりも大切なものは、自分のしなければならないことを決して忘れさせなかったのだから。

 

 

 

--

 

 

 

その少年はたった一人の家族を失くした。後に残された記憶の幻影は寝ても覚めても決して消えなかった。その中の最も鮮烈で心惹かれる――――日に日に増しゆく虚無を微力ながら打払い慰めてくれる甘やかな――――薫陶が、彼に一つの決断をさせたのだった。一世一代と言っても良かった。彼はその村で生涯を終える事について、何ら危惧すべき事案など抱えてはいなかったのに。残されたものの中には、その為の物が充分にあったのだ。周囲からは思い留まるよう諌められたが血肉に至るまで染み込んだ憧憬には抗い難く、まさしく捨て身の大博打として彼は故郷を捨てた……客観的な事実だけを並べれば、そうだ。

英雄になれば。

ベル・クラネルはその思い一つで、神々の街へとやって来たのだ。

 

「……本当は、違ったんです、きっと。……いや……」

 

誰からも相手にされる事はなかった。ベルが今にして思うのは、それは誰もが自分の本心を見透かしていたためではないだろうか、ということ。足を棒にして歩く『子供』に向ける目はどれも慈悲深かった。お前の居場所はここじゃない、と、言外に含めようかと如く。

そんな事も今まで忘れていたのだ。あたたかい揺り籠の中で生きてきた『子供』にとって、自分の居場所は自分で築くしかないということは、最初の日に骨身に染み渡らされた常識だったのに。

そしてそれを忘れさせてくれたものとの出会いが無ければ、今きっとここに自分は居ないとベルは知っていた。

 

「僕は、居場所が、欲しかった。なくしてしまったものの代わりが、欲しかった。……ひとりで生きる事が怖くて、この街に逃げてきたんです……」

 

英雄になれば誰もが讃え、惹かれ、必要とするだろうか。人の心を掴むのに苦も無くなれば、もはや自分はひとりではなくなるだろうか。

――――孤独こそが、あの鮮血と業火に満ちた夢の残骸を呼び寄せるものならば、底のない闇へと永遠に落ちていくようなこの恐怖から自分を救ってくれる誰かが、あの光り輝く英雄の街に居るだろうか。

かつてリューに投げかけられた問いの答えは、ずいぶんと長い時間をかけて紡ぎ出されたものだった。告解とともに赤い瞳に満ちる感情は幾つも混じって溶けあい、当人にすら明らかに出来なかった。見る者の眼球に映り込み、血肉を伝いその魂まで至ってはじめて姿を顕すものだった。

 

「神様と出会って、――――本当にすぐに、そんな事も忘れさせてくれた。冒険者の端くれとして、神様の『子供』として、この街の住民として生きていこうと我武者羅になれば、本当に、あっという間に忘れられた。全部…………」

 

恐ろしいあの夢の事も。

 

「でも、わからなくなったんです、自分が。何が切っ掛けだったのか……」

 

思い巡らせて行き当たるのは、遥か下層をうろつくはずのその怪物と遭遇したあの日だろう。あの時自分の中で何かがおかしくなった。そうとここで言い切れば、まさしくそれこそが真実だと誰もが理解するところだろう。

いや、違う。とベルの中で否定する声がする。あんなただの偶然で、それによって決定的な何かが始まる事などあるはずがないと。それは確かに最初から自分の中にあったのだ……隔絶した力の差を認めようが、それによって歩みを止める事など考えもしない蛮勇。目の前の敵を討ち滅ぼし、死が現れればそれをすら蹂躙して前に進まねばならないと身体を突き動かす衝動。同時に再び眠りの世界を支配するようになった、あの夢。

自分は元々何かが狂っていて、多くの偶然の幸運によりそれは封じられてきた。そのひずみがばねじかけの玩具のようにあるべき形に戻ろうとしているだけなのに違いないと、ベルの中の悲観論に満ちた別の自分が叫んでいた。

 

「それでも気付かないふりをし続けて、結局フィリアの日に、とんでもない事になってしまった。あんなにも神様を悲しませて……自分に何が出来るのか、何も出来ない自分の居場所がどこにあるのか、どんどんわからなくなっていったんです」

 

導の絶えた道にあってただ歩み続けねばならないという空虚な使命感に縋り付こうが、既に新たにこの街で得ていたよすがは苦痛を強いる鎖となって少年を絞め殺そうとその戒めを強めていった。背負わねばならないものは、自らそう選んだ決意から背いた瞬間に魂を苛むだけの枷となったのだ。迷宮の最もとるに足らない存在相手に四肢を凍てつかせ、死の恐怖を見出させるほどの……。

かくも弱り果てた『子供』に手を差し出した者は言った、ただ進み続けるだけが生きる方法ではないはずだと。けれども、それによって英気を蓄える余暇も無いとすぐに思い知らされたのだ。立ち止まった者が得るものなど無く、蹲って待つ者が守れるものも無い。与えられるのは嘲りと侮りだけ。誇りも名誉もそこには無い。……なおも擁護者の慈悲が無限に尽きず自らに注がれるものと驕れる図々しさを持っていたら、ベル・クラネルはこの街に来ることは無かっただろう。

何よりも、正体のわからない幻影は打ちのめされた自分が再び立ち上がるまでその貌を闇の中に潜めたままで居てくれるだろうかと思えば、もはやベルは一切の逃げ場も無い絶望の虜囚である事への苦悶の嗚咽をあげるだけだった。すべての光の届かない、あの場所で。

 

「そこに居た誰かが、アルゴスでなくても、きっと良かった。ただ……誰かに、すべてを聞いて欲しかっただけで。誰かに、知って欲しかった。けど、神様に、知って欲しくなかった。一人きりの『子供』がこんなにも弱いと知られて、見放されたらと考えると……」

 

「そんな事っっ、あるわけがっ、無いだろおっ!!」

 

眷属の述懐は空色の瞳だけに向けられてひたすらに静かに、止まる事無く続いていたものだったが、その最中ずっと主の中で膨れ上がり続けてきた様々な情動の渦が、ここに至って瀑布となり溢れ出した。彼女の左手は如何なる力によってでも引き離されるのを拒んでベルの右手を握り締めていて、部屋中を揺るがす悲鳴に近い絶叫が彼の耳元すぐの処で発せられていた。それもすべて、愛しい少年が自分を置いたまま、遠い何処かへと歩いていってしまうかのような危惧に突き動かされてのことだった。

目を見開いてぶるぶると震えているヘスティアに向き直ったベルの顔は、どこまでも平穏で、優しげで、そしてどこか虚ろな微笑みがあった。まるで手から伝わるはずの不安を芥も感じていないかのようで、さもなくば――――

 

「――――そう言ってくれる筈だと、思えば思うだけ、恐ろしかった。聞けなかった。また、ひとりになるかもしれない――――」

 

――――丸ごと、区別なく混ざり合ってしまっただけなのかもしれなかった。己の抱える不安は『子供』のそれと相違なく、そしてそれに対し当人に問いただせず煩悶し、関係無い誰か――――ヘスティアの場合は、野次馬根性逞しい連中もそこそこに居たが――――の助けすら求めた事まで同じだったのだと理解すれば、もはや何を心苦しく思う事などあるだろうか?

海から汲み取ったものは器が違うだけで同じ、ただの塩水だ。同じところ、同じ時から互いに離れてしまったと勘違いしていた両者の苦悩など、顕界にあまた蔓延る窮愁の中でも、もっともちっぽけで馬鹿げたものだったのに違いないのだと、ヘスティアは芯から思い知った。

ぽかんとしたまま目を瞬かせる主を置いて、ベルは首の向きを戻した。

 

「――――全て聞き届けてくれたアルゴスは、教えてくれました。自分が何者なのか、身を隠す理由、この街に戻ってきた理由。どうして、教えてくれたのかはわからなかったけど……、……っ」

 

言葉に詰まったベルは首を横に振った。

 

「誰かに聞いて欲しかった、誰でも良かった、それが、誰も頼れない、縋るものもないと思い込んで、ただ一人臥せて、酒と一緒につまらないプライドを吐き戻しながら、泣き咽ぶだけの『子供』であれば、誰に話す事も無いから――――そう思ったからだけなのかもしれないけど」

 

 

『ひとりは、辛えだろ……』

 

『誰からも必要とされないなんて……辛いじゃないかよ』

 

 

それでも彼は、不安と恐怖と、それが形となったような正体のわからない夢に食い殺されそうだった少年に力を貸してくれた。ほんの些細な助力で、ほんの僅かな間だけだったのだろうが。

 

「それだけの恩を返す為に馬鹿な事だと思うなら、馬鹿でも良いです。僕は……」

 

ベルは何の言葉も無く自分を注視し、耳を澄ましている三つの顔を見渡して、強く、どんな偽りも纏わないその言葉を紡いだ。

 

「ここで諦めてしまえば、もう何処にも辿り着けない。二度と自分の足で歩く事は出来ない。神様と一緒に居られる自分にはもう、戻れない。……そんなのは、絶対に嫌です」

 

「そして。万事丸く収まったとして、かの乳飲み子がこの街に留まり、あまつさえ貴方のお守りを続ける理由など、あると思いますか?」

 

冗長な演説の余韻など与えない、リューの放つ冷厳な問い掛けも、既に通り過ぎた場所にあるものだった。赤い瞳に迷いは無かった。

 

「彼が望む事と、僕の人生は、別の事です」

 

「つまりすべては自分の為と。寂しい、認められたい、自分を見失いたくない、正義などどうでも良い、自分以外の誰かの事など知ったことではない――――だから、この便利な道具を貸せと?」

 

目を伏せて浮かべる苦笑とともに放たれる指摘も、ベルの心を揺らす事はなかった。

 

「はい」

 

「――――ここでのあなたの言葉が、一片の偽りもない真実であると、誓えますか?」

 

溶けない雪を抱えた雲に塞がれた空のように、重く冷たい声だった。同じ色の瞳は、それだけで心臓を貫けそうな鋭い刃となってベルに突き付けられていた。

そこに秘めたる確かな誇りを汚す返答を口にすれば、リューがどんな行動に出るにしても躊躇などしないだろうと、誰もが知っていた。

ベルははじめて――――この部屋に足を踏み入れてはじめて、ずっと優しく添えているだけだった主の手を握る力を強くした。彼自身から、はじめてそうしたのだった。

 

「ベル・クラネルは、主ヘスティアの名にかけて誓います。この場で語った全ての言葉が真実であると」

 

 

 

 

 

 

赤い血に満たされた小皿は、それが当然の光景であると主張するのだった。

 

こんな、肌に触れる感覚を与えるのも危うい羽根と釣り合いを保つ理由など無いとばかりに、勢い良く身を沈めることで。

 

 

 

--

 

 

 

歪な身体で生まれ、誰しもに気持ちの悪い出来損ないと蔑まれた男がいた。図体ばかりが大きく頭の中身はお粗末で、不揃いの歯が開けば汚い濁声で言葉を紡ぐ男は、誰からも嫌悪され侮られた。誰も彼を省みなかった。ともに在ろうと願い出る者など居なかった。同じ血を分け合う者であってすら。

だがどんなに馬鹿にされても、何度怪物に屈しそうになっても、自分の弱さに潰されそうになっても、男は諦めずにその道を歩き続けた。

自分の命を救ってくれた者に、自分の居場所を与えてくれた者に、自分を愛してくれた者に酬いる為に。

……同胞達はいつしか、その愚昧なせむし男の姿に絆されていった。かれらは男とともにその勇猛さを振るい、誰よりも優しく、慈悲深く、偉大な主の名をこの地上全てに知らしめるべく、更なる戦いの道へと挑み続けたのだ。

それだけが自分の出来る事だと男は信じていた。

 

しかしその日は、唐突にやって来た。男の主は、言った、扉から入る陽を背にして。

すぐに、帰ってくるから、待っていなさい、と。毎日、毎日戦って、疲れてるのだから、ゆっくり、眠っていて……、と。

微睡みもすぐに消えていた男は、しかし寝床の上から立つ事も無く首肯した。主の言葉は背く事など有り得ないものなのだ。何故と問う事もしなかったのは、言わない理由があるからだとわかっていたからだ。

そして主は扉を閉めた。足音はすぐに聞こえなくなった。男は追い縋る事もせず、再び眠りについた。久しぶりの、長い眠りだった。

 

目を覚ました時、男の、その主と、数多の血を分けあう兄弟達の暮らす居から、あらゆる人影が消え去っていたのを男は知った。

男は唐突にひとりになった。誰にも何の理由も説明されなかった。街中の者達に尋ねて回った。皆は何処へ行ったか。なぜ自分だけ残されたのか。何でもいいから知らないか。かれらは顔を顰めつつ、その同じ答えだけを返した。知らないと。

だが男は街を出ようともせずただ待った。それが主に下された命だった。

 

何日も待った。

街の誰もが畏敬を抱く神の住処である広い神殿に、ひとり残されたまま。それ以外の住民の存在ははじめから無かったかのようだった。その日までの苛烈な道程の中で手に入れ築き上げた武具も魔法の道具も蓄えも全て消え去っていた。

かれらが持ち去っていったのだろうか。

そして、自分だけを置いていったのか。

何故だろうか。

疑問は決して消えなかった。何度寝ても覚めても、ひとりきりで、話す相手も居ない男は頭の中で自分との対話を繰り返した。何故、何故、何故。

 

何日も、何日も待ち続けた。食うために迷宮へひとり入り、そしてその日の食う分だけを手にして戻り、絶えない問答に俯き頭を抱える日々。

季節は巡った。誰も訪れず、碌な手入れも行き届かない館は見る影もなく寂れ荒れ果て、そこに誰ぞが暮らすのかも人々の記憶からは薄れ変質していく。化け物が住み着く廃墟と。

そしてその日が訪れた。街を埋もれさせていくような豪雪に館が包まれていったその日の朝、男は夢を見た。

 

遥か昔の記憶、凍てつく全身を大きな温もりに包まれたその日の夢を、ひとりきりになったあの日と同じ場所で、男は見た。

 

……そして男ははじめて、主に背いた。打ち捨てられた館を後にし街を出て、ひとり、誰の思いも背負わず、誰と繋がるよすがも持たず、歩き出したのだ。

いずこかへ去っていった自分の家族の足取りを追って。消えてしまった、自分の運命の標を求めて。

街に降り注ぎ積もっていく雪は、そこに残された男の足跡などあっという間に消し去ってしまった。

 

それから男はひたすら、歩き続けた。

 

男の異形は、何処へ行っても、恐れられた。手がかりはおろか、まともな対話すらも与えられる事は稀だった。

夜闇の中を這いまわり、陽の届かぬ場所で耳をそばだてて、残された微かな足跡を探し続けてきた。西へ東へ、北へ南へ。時間は信じられないほど速くに流れていった。

男はその歩みを止めなかった。その渇望をとどめる事は出来なかった。世界の果てまで、歩き続けた。

 

それでも彷徨い続ける男は、いつしか人々に追い立てられるようになった。

おぞましい外見はきっと、男の心を知らない者にとって、怪物との区別などつくものではなかったのだろう。

武器を携え迫る者達から逃げて、逃げて、逃げ続けた。

そして、男は、戻ってきた。かつて家族と暮らしていた、この街に。男は自嘲と後悔に囚われた。男が求めた帰る場所とは、ここではなかったのだというのに。

それでも、ここで待つ以外に男の思いつく道はなかったのだ。

 

或いは……家族達は、とうの昔に、この街に帰って来ていたのかもしれない。そして廃墟と化した館を見て、男の不忠にただ怒り、去っていったのかもしれない。

すれ違いになった事もわからずに、愚かな自分が、悪戯に時と労力を注いだだけだったのかもしれない。

それでももう、男に残された選択肢は、他に無かったのだ。

一度背いてしまった主との約束に縋る事、それ以外には、何も。

 

 

--

 

 

「あなたも、休んだほうがいいですよ」

 

仮眠室。ベッドの一つに身を横たえている主に付き添って、ベルは横の椅子に座っていた。まだ夜明けまで時間はあったし、もっと言うならアカイアの戦士に宣告された刻限への懸念は更に遠く必要ないところにある。そのように説き伏せられ、ここに案内されたのだった。

さもあれば、主にそう請われたのでもなかった以上シルの提案を拒絶する理由など無かった、が。

 

「でも……」

 

「休みましょう?」

 

「……」

 

「ね?」

 

反駁する気が削がれていくのは単にそれだけ疲れているからだ、ともベルには思えなかった。迫る笑顔の持つ異様な威圧感を前に。

緩く握ったままだった主の手から右手を離す時、僅かな名残惜しさを覚えるベル。自嘲が漏れる、こんなにも近くに居るのに何を恐れる事があろう、と。あれほど強く言い切られて……。

ふと、そこで下らぬ雑念が消え去る異変を感じた。

 

「、……えっ、と」

 

「…………ヘスティア様」

 

離れようとしたベルの右手を、目を閉じて安らかに眠っているはずの女神の左手は素早く握り直した。強く。シルは身を乗り出し、枕の上で寝息を立てている顔を真っ直ぐに見下ろす。笑顔のまま。

 

「申し訳ありませんが、ベッドは一人用なんです。と言っても、他に幾つかありますので……クラネルさんには、そちらで休んでいただくことになります。よろしいですね?」

 

横から見える表情はまことに一片の敵意も見出だせない、貼り付いたような笑顔である。ベルは少し離れた場所に立ってなぜか冷や汗を一粒浮かべた。

よく見りゃ目を閉じた主の顔にはいつの間にやら幾筋も流れ落ちる汗の跡が光っている。じっとりと濡れていた手のひらは、緩やかにその力を弱めていくのがわかった。

 

「聞き届けて頂いて、恐縮な事です」

 

「は、はは……」

 

久しぶりに触れる外気を冷たく感じる右手を持て余しつつ、ベルは乾いた笑いを漏らす事しか出来なかった。曇りのない笑顔を前に、口元が引き攣る。

 

「では。ごゆっくり」

 

反対側の壁際に置かれたベッドに就くよう促すと、シルは必要以上の会話を求めずに部屋を出た。得も言われぬ圧力も無い、純粋な気遣いに満ちた笑顔と台詞だった。

 

「は……い。ありがとう、ございます……」

 

綿の詰まったクッションに寝転ぶ少年は、急激に薄れゆく意識の中でもどうにか一言、絞り出す。

かく、と、力が抜け落ちて深く床に身を沈める姿は、扉を閉めるシルの見た最後の光景となった。

 

「……ベル君?……」

 

全てから切り離された静寂の中、息を殺して耳を澄ませば辛うじてその寝息を聞き取れるほどの距離が主従を隔てている。ヘスティアの呼び掛けはいかなる反応も生まずに虚空へ消えた。狸寝入りをする必要もとっくに無くなっていたが、何となくばつが悪いと感じるまま、ベッドの上で身を捩って『子供』のほうを向く。

仰向けになっている横顔には些かの苦悩の陰も見出だせなかった。告解の間保っていた、まるでそこに居ないかのような錯覚を呼び起こす虚ろな悟りの表情もまた。

 

「…………」

 

眠気は無かった。かの剣姫による気遣いを施されなければ、今胸の内を朧げに漂う不安にも気付く事はなかっただろうとヘスティアは煩悶する。何を不安に思うのか、とも。

思いは同じ、もはや蟠りなどない。求めるものへと遂に至った。どんな懸念があるというのか?

そこまで考えた所で、ヘスティアは掛布で頭を覆って目を閉じた。

つまらない、ひたすら無意味な疑問だ。今どれほどそれをひとりで解き明かそうと注力して、果たせる道理などあろうはずもないではないか。

忘れてしまえ。

その一心で、ヘスティアは夢の訪れを待ち続けた。

 

 

--

 

 

個室に戻ったシルは、机に顔を突っ伏すリューを見て、どう声を掛ければいいものかと瞑目し唇を引き結んだ。その時間もごく僅かの事だった。

 

「私は」

 

組んだ腕をそのままに、天井を仰ぐリューは、ずっと遠くを見る目をして――――慚愧の念をその口から溢れ出させるのに任せた。

 

「何も変わってなどいなかったようです、ね。偏狭で、傲慢で、冷酷で、朽ち果て既に無いものへの未練にばかり囚われて、空虚な言葉で自分の弱さを着飾って…………あれからどれほどの時間が経ったか……やり直せたらと、振り返ればそれだけを……」

 

「……どうして、それを恥じる事があるの?」

 

目を閉じ俯くリューの両肩を、シルは繊細な手つきで抱いた。顔を寄せて、言い聞かせるよう呟く。

 

「容易く手を貸そうとしないのも、それだけあなたにとって大切なものだから、思い出をいつまでも色褪せさせずに愛しく思っているからじゃない。それを頑なに守り続ける事の、何が悪いの?忘れずに思い続ける事が愚かなんて、どうして、誰が言えるの?……」

 

「…………」

 

過去を消し去る事などそんな存在にも出来ない、どんな罪もその者の魂に刻まれて永遠に苛み続けるものなのならば、得難きものに囲まれて過ごした輝かしき日々への憧憬を軽んじる理由などどこにある。シルは、そのように伝えようとする。

振り向くリューは、儚げに笑っていた。

 

「有難う、シル。貴女も休んでください」

 

「……あの子達を起こさなきゃいけないもの」

 

「私が引き受けます。貴女には、明朝かれらと付き添って貰わなくては」

 

窓から覗く夜闇は澄んだ瞳の色へと注がれていて、向けてくる双眸はおそろしく虚ろなものにシルには見えた。

どんなに時間を掛けても変わらないもの、確かに変わっていくもの、どちらもが同時に存在するような不可思議な光景を前に、もはやそれ以上言い募ろうとはしなかった。

 

「じゃあ……お願いね」

 

「ええ……お休みなさい、シル」

 

誰だって変わる。深く傷つき、空っぽだった一人のエルフは、これからも変わっていくだろうか。思いを馳せてシルは部屋を出て廊下を歩く。

その虚無を埋められる何かを、見つけてくれるだろうか。或いは現れるだろうか?自分には決して成し得られないだろう大業をやってのける誰かは――――

 

「…………」

 

今一度訪れた仮眠室にて、緘黙の安寧に沈む主従を見比べる。

シルは、突拍子もなく――――聞けば誰しもが不可解極まる顔を浮かべるのに違いない、遠大な空言を呟いた。

 

「あなたなら、やってのけてしまうのかも……ね」

 

少年をはじめて見たその時から胸の奥に燻っていた、奇妙な予感。それは乙女特有の近視眼的な懸想の発現などとは遥か程遠いものに違いないだろう、その中に潜む正体の知れない、仄かな不安を理解すれば。

シルは、ベルの頬を優しく撫でると、すぐにもう一つだけ空いているベッドへと潜り込んだ。

何も知らずに夢の中に居る少年は、頬に触れた手のひらの柔らかさを決して知ることはなかった。

 

 

 

 

--

 

 

『ゥ…………、…………』

 

幼子は声を出す事も出来なかった。曲がった背骨と不均等に生えた四肢を持つ身体は地にうつ伏せになり、顔は横を向いていた。歪んだ醜い貌に埋め込まれた青い双眸は、今にも消えてしまいそうな光を湛えながらその光景を視界から外す事をしなかった。

痩せ、汚れ、沢山の傷を負った女の顔。髪は幾房も抜けて、腫れた両瞼は薄く閉じられ――――いや、開いているのか――――、半開きの唇は青く、隙間から覗く歯は所々欠いていた。

幼子と向かい合うように倒れた女の細い強張った腕は伸ばされ、小さな背へと乗せられている。愚図る体力も尽きかけた我が子を慰めるように、女はその指を微かに動かした。指の退いた僅かな隙間に、突き刺すような冷たい感触が生まれた。

幼子は大きな瞳で、空から降る白いものをしかと認めていた。数え切れないほどの白い粒は空中を覆い尽くして、この死すべき者どもの這い回る地表遍く隠してしまいそうなほどに夥しく在った。

 

『ォ…………ガァ、ぢゃ、……ン……』

 

『……ン、ぁ、……ぁあ、ゆ、き……雪だよ…………ア、ル、ゴ、ス…………ゆき……』

 

母子はしんしんと奏でる雪の音にも遮られるほど小さな会話を成した。

 

『き、れ、い…………だね…………』

 

つぶやく女の目にそれは映っていたのだろうか。腫れた瞼から光るものが流れ落ちて、凍てつく地面に染み込んで消える。

 

『…………ぉがぁ、…………お、で…………』

 

『……アルゴ、ス…………』

 

何事かを訴えようとする我が子を女は、渾身の力で抱き寄せた。ざらつく地に擦れて、弱りきった幼子の柔肌は擦れて捲れた。その痛みに声を上げることも、今のアルゴスには出来なかった。

 

『…………ご、め、ん、ね……』

 

『……………………』

 

母の言葉を理解するほどの思考能力も無い幼子は、それでも自分をかき抱く者の心情を解し違える事はなかった。

 

『おまえ、も…………わ、たし、も………………こ、……、な、…………終わ、…………、…………、ため、に…………』

 

母の声が薄らぐにつれ、降りゆく雪はますます多くなっていくように思えた。母の細腕の隙間から見える白い結晶達は、ただ何も言わず、何も聞かず、何の意思も持たずに空から落ちてきているのに違いなかった。

 

『………………、う、ま、れて、きたん、…………じゃ、……………………な…………、…………の……に…………ね…………』

 

それきり、母は言葉を紡がなくなった。アルゴスはそれでも何もしなかった。何も出来なかった。寒さにじっと身を縮こまらせ、積もっていく雪を見つめていた。

母の身体はいつしか地面と同じ温度になり、凍りついたまま動かず、その腕の中にあるものを永遠の眠りへ誘う無慈悲な監獄と成り果てた。だがアルゴスはそれに恨みも無念も抱かなかった。

あらゆる救いから見放されたこの世界から去った母は、我が子を救うための最後の方法をここに残していったのだろうと、冷えていく脳の僅かな思考能力でその答えを紡ぎ出した。

これで全てが終わる。そう思えば、アルゴスは自分に与えられたどんな痛みも苦しみも忘れられる気がした。

それは、かなわなかった。

 

『…………』

 

目を閉じその意識をいよいよ手放そうとしていたアルゴスは、己の全身がとても大きな、あたたかい何かに包まれたのを理解した。硬く冷たい地面と違う、とても安心する柔らかい何かが自分の顔を撫でる。

 

『――――』

 

声がする。聞いたことのない声は何を言っているのかわからない。アルゴスがぼんやりと抱くのは、これこそ現し世から解き放たれた者の行き着く場所だったのかという、甘やかな期待が叶えられた事への歓喜だ。それは胸を一瞬で満たし、両目にまで溢れ出す。

 

『ゥ、ゥ゙ゥゥ゙、ヴ、ぁあ゙っ……あ゙、あ゙ぁっ……ゔっ、…………ぐゔっ…………』

 

獣の呻き声とも区別のつかない泣き声は、確かに喜びから生まれたものであるはずなのだ。アルゴスは不思議だった。嬉しくて涙など流すだろうかと。それに、浮いた身体を動かす事も出来ない。声を出すのにも、全ての力を振り絞るような労苦を同時におぼえた。死者は生者と如何なる違いの理に身を置くというのだろうか。

疑問が湧いてもしかし、その口から出るのは掠れ消えそうな、濁った泣き声だけだった。

 

『おまえは――――まだ、生きたいの?』

 

歪な四肢が痩せ細り、瞼は腐り、腰は曲がった、輝かしき生命の謳歌から遥か遠い場所に居る幼子を抱く女神は、そう口にした。

 

『っ、っ、…………ゥ、…………ヴ、ぅ゙…………』

 

天を仰ぐよう抱きかかえられた幼子は、半開きの青い目で何を見ているだろうか。何も見えていないようにも女神には思えた。全てを覆い隠そうと降る雪よりもずっと偉大で美しい存在が自分なのだと、その自分の腕に抱かれる栄誉がどれほど得難いものであるかと、今ここで声高らかに宣おうと誰が耳を貸すだろう。女神は長い睫毛の下に煌めく瞳で、尽きかけた生命の火の揺らめきをじっと見つめていた。

 

『…………ぃ、い゙、や゙だ…………じに、だ、ぐ……ね゙、ぇ…………』

 

ぼろぼろと、大きな左目からそれに見合った大きな涙のしずくが、いくつもこぼれ落ちた。

 

『…………』

 

魂の芯から響いたその言葉を聞くと、女神は上着をはだけさせて柔肌を晒した。突き刺す冷気も雪の帳も、それを躊躇させる理由とはならなかった。何者も触れ得ざるものと振る舞う女神の身体の、美しく整った豊満な乳房は惜しげなくそこに晒された。

見る者は他に誰も居なかった。

ここに転がる哀れな女の骸と、その死にかけたせむしの幼子以外の、誰も。

 

 

 

誰からも見捨てられた『子供』の口にその血を分け与える女神の姿は、白く染まる大地の中に埋もれていく。

ある主従の出会いがかくの如きものであったという事実をすら、この世界から消し去ってしまうかのように。

 

 

 

二度と戻れない過去の記憶の中で、アルゴスは涙を流し続けた。

どうしてそれを止められないのか、わからないまま。

 

 

 

 

--

 

 

 

朝の慌ただしい時間帯をやや過ぎて、往来にはそこに目当ての物があるから行き来する者の姿がそれなりにあった。かれらは概ね、通り過ぎる某の素性を知れば、それに好奇心を疼かせるだけの余裕を持っていた。

じろじろと注がれる視線にむず痒さを覚えるのも、それだけ周りに目を張り巡らせられるほどに疲労を取り払えたからなのかもしれぬと、ベルはぼんやりと思った。とはいえ、最早いつかのように他者に向けられる感情に一喜一憂するような事もしなかった。

 

「オイ、ありゃあ……」

 

「いよいよ出頭の日かあ。まあ、精々よく扱われる事を祈るしかねぇよな」

 

「人質って言われてるけどよ、自分からああなっちまうんなら、オラリオが世話する必要なんてあるかね?」

 

「小さな穴を一つ空けた前例を作るって事じゃねーの?」

 

耳を貸さずにベルは突き進む。目指すべき場所へ、果たさなければならない約束の為にその歩は進められていた。連れられるよう道を行く二者の美貌も人々の目を惹くが、それを受ける彼女らにしても思うことはベルのそれと同じだった。

 

「おやっ……シルちゃん、と……男、男男、男ッッ!?嘘だっ!シルちゃんが、男、男のッ後ろを歩いて、歩っ、あるあるある……!!」

 

「違いますよ!神様と大事なご用件のお手伝いに、付き添っているだけです」

 

懸想に基づくしょうもない勘違いについては、きちんと訂正するのを忘れなかったが。

 

「……ベル君」

 

前へ向かって歩けば、いずれはそこに辿り着く。万神殿の前で立ち止まるヘスティアは意を決したように眷属へと声をかけた。

振り向く顔はシルの温情により、充分な休息と序に食事まで与えられたおかげか、昨晩のそれの仄かな不穏さも感じ取れない。ただ、緊張も浮かばせていない抜けたような雰囲気は、別の懸念を誘発するのだった。

 

「……大丈夫、だよな?これで……」

 

「大丈夫じゃなかったとしても――――」

 

口にしてはいけないとわかっていてそれを尋ねる愚かさに気付くより先に、『子供』が言を継いだ。

はっとして、目を見開くヘスティア。ベルの浮かべる微笑はとても儚かった。

 

「ラキアに連れて行かれて、そこでどんな扱いをされようが、諦めずに戦うだけです、僕は」

 

「…………」

 

そう言って前へとまた歩き始めるベルの後ろ姿に、ヘスティアは安心よりも先に再び言い知れぬ不安を覚えたのだった。思い出す、ある言葉。

――――終わりを決めるのは、それを始めた者がそうと望んだ時だけ。

もしも、彼の次に挑む戦いが、今よりも遥かに途方も無い相手とのものであったならば、その先は。

そしてまた、その先は?

終わりなんていつ訪れる。あの恐ろしい変貌も、その末路も、それが生む苦悩も、決して逃れられずにこの心優しい少年を苛み続けるものなのではないのか――――?

 

「神様」

 

「はぅっ?」

 

さらりと銀の毛髪が耳を撫ぜるほど、シルの顔は近くにあった。肩を跳ねさせる小さな女神を見て、くすくすと笑っている。

気づいたヘスティアは顔を一気にしかめ、唇を尖らせて足を踏み出した。抱える苦悩を深刻で崇高なものと信じていた自分がどうしようもない馬鹿に思えたのだ。

 

「えい、何だ。おいベル君。ボクは別に、ビビったわけじゃないんだぞ。わかってくれてるよな?……キミもだぞっ!あのね、ボクは……」

 

「わかってますよ。ええ、必ずうまく行きます。心配する事なんか無いですよ」

 

必死な様子で『子供』に言い聞かせるヘスティアは、それから首だけ後ろへ向けてきちんと同行者にも念押ししていた。木箱を大事に抱えたシルは笑みを崩さずに肯定のみ送る。ぷんすかと怒って大股で歩く女神と並んで笑っている少年を見て、言い尽くせぬ感情が募るのを確かに理解しつつ……。

好奇と憐憫と、ひょっとしてという疑念の混じる視線はロビーに足を踏み入れれば更に密度を増したようにも三人には思えた。だが、そんなむず痒さはすぐに消え去る。広間の中央に並び立つ二人の戦士を見た瞬間に。

 

「観念したか」

 

副官のわかりやすい挑発に、いい加減懲りたヘスティアは目つきを悪くして睨み返すだけだった。しかしその『子供』に至ってはまるで表情を変えずに、向けられる圧力を受け止めている。傍から見ればまさしく不信心者共の指摘も正鵠を射たものかとも思える落ち着きようだ。全て諦めて悟ったのかと。

 

「見つけたものを持って来ました」

 

「出せ」

 

「出来ません。目的の為に使う以外は、無闇に晒さないようにと言われたので」

 

声は極めて平らかで、よく通った。居丈高に命ずる隊長の面相は異論を受け付けない意思が明白なものだったが、気に掛ける風も見せずに堂々とベルは受け答えをしていた。如何なる逡巡に感ける理由も無いとばかりに。見る者のいずれも、そうと悟るのを容易くする光景がそこにあった。

 

「ならば、相応しい場所がある」

 

隊長は、踵を返した。見下す金の双眸の残光も主従の目から消えぬうちに、後に続く男が口を開く。

 

「さっさと来るがいい。真実の証明とやらをする気があるならな」

 

不遜極まる物言いとは罪人の同胞と見做されているが故なのか、はたまた神とそれに命を捧げる者に等しく向けているものなのか、それとも彼らにとっては相手がラケダイモンでなければそのように振る舞うのが礼儀であるのか?

ベルにも、ヘスティアにも、シルにも、そして物見遊山にロビーで散らばる者達の誰もそんな事はわからなかった。まずもってそんな疑問よりも先立つ憤りに顔をしかめる者が殆どなのだが。いずれにせよひとつ皆が理解しているのは、職員専用のフロアへと足を踏み入れていく神と人の目的とは決して、ラキアに跪く為ではないのだという事だった。そう、その当事者達も。

 

「……こんな所に閉じ込めて……こんなの……」

 

長い廊下の先、冷たい石造りの螺旋階段を下りながら、ヘスティアは吐き捨てるよう呟く。灯りはかなりの距離を開けて先導している憎き戦神の尖兵の姿を未だ見失わせず、おかげで女神の義憤は硬い足音が生まれるたびに募る。

主の気持ちを理解して余りあるベルの顔に浮かぶ苦々しさ。すべては自分が招いた事なのだと振り返れば……。

 

「大丈夫ですって」

 

一番後ろを歩いている彼女の言葉も、しょせん部外者であるからこその楽観視から生まれるものなのだと反駁する事も、主従には出来ただろう。根拠のない後押しに、どうしてこうも心が軽くなるのか。短き戦いの日々の冷たい記憶は、かくも無条件な肯定を与るのに疑念を抱かせるのに充分だったのだから。だが、そうはしなかった。

揃って首が向くのを見て、シルは笑う。当惑を顕にする表情は瓜二つだった。

 

「ね?足が遅くなってますよ。兵隊さん達が怒っちゃいます」

 

――――歩んだ苦難の道の答えがすぐそこにあるのならば、最早ここではどんな後悔も不満も無意味なのだと、主従は理由もなく悟った。

気負うものの無い女店員の笑顔が神の街の住民を魅了するのは、それと相対した者の眼を啓かせる力があるからだった。

 

「キミは……不思議な子だね。フィリアの時だって、キミが居なけりゃきっと――――って……そうだよベル君、あの時の事忘れちゃいない、よな?」

 

「……そう、でしたね。あの時……」

 

頬に手を当てるベルは、漸く、あの日酒場で彼女に与えられた問い掛けの答えを見つけた。はじめての邂逅の記憶は、狂おしい憤怒と悲嘆の彼岸へと押しやられ終ぞ戻る事も無かった筈だ。いまこうして主とともに地の底の無辜の虜囚目指して足を運んでいるという、数奇な道程を選ぶ事をしなければ……。

その顔に浮かぶ慚愧は何よりも自らの非礼の表れだった。名も知れぬ同業者たちから受けた謗りなどとっくに何処かへ消えていた。

 

「なぜ足を止めようとする?下らん温情が、そんなにも名残惜しいか」

 

一同は知らずに足の動きを遅くしていたようで、隊長の後に続く男が縦穴に響く野太い声を上げた。感傷に浸る僅かな暇もよこさない横暴ぶりには、ヘスティアも口を開かずにいられない。

 

「キミらは寛容とか慈悲とか、どんな誰かにも分け与えようと思わないのか?」

 

「それで、分け与えられた者は恩の為ラケダイモンに命を捧げるようになると?いかにも、敵陣に僅かな手勢で飛び込む覚悟とはいと遠き場所にある言葉だ」

 

「っ、っ、っ~~~~…………!!」

 

「……神様。よしましょう」

 

無用に隔意を煽るばかりの言動をこそヘスティアは省みさせようというつもりだったのだが、神を恐れぬ者達にその言葉は決して届かないとベルは知っていた。口を噤んだまま荒ぶる鼻息だけで主のその胸中を察しつつも、どうにか宥めながら歩を進める。

僅かに伏目がちになりながら兵士の後をつけるベルは決して怒りを忘れているわけではなかったし、自責の念から逃れられたわけでもなかった。今はそれに囚われる時ではないと思っていただけだ。

やがて道の終着点へと辿り着く、五つの人影。そこには牢の中で鎖に繋がれる罪人と、二人の獄吏、そして女神の目を剥かせる思わぬ人物が居た。

 

「おや、ヘスティア様。此度はご機嫌麗しゅう」

 

呑気にギルドの長はほざいている。ヘスティアは眦をつり上げた。

 

「麗し……!!、キミの目は節穴かっ!?そもそもなっ、こんな連中に良いように使われて恥ずかしくないのか、えぇっ!?」

 

「き、決まりですので、そう仰られましても……」

 

汗を流して神の怒りにたじろぐロイマンの本心をすら計り知る方法を、ヘスティア・ファミリアは見つけ出したのかどうか――――それは、今こそ証明されるのだ。

 

「……ベル、……神゙様……」

 

牢の奥で、著しく非対称な形をして並ぶ青い光が動いた。歪な巨躯は隅で腰を降ろしたままであり、薄暗い灯りではその全貌からおぞましき印象を見る者へと過大に訴えかけるのみであろう。

ベルはアルゴスの目をじっと、僅かな間だが確かに射竦めるよう見つめて、それから振り返る。あらゆる乱心と無謀な試みを想定している二人の兵士のまなざしは、酷寒の大地の底で育まれる氷床のようだった。

 

「……シルさん、お願いします」

 

「では――――おふた方もそんな、怖いお顔をする必要なんてないですよ、もう」

 

余計な感情の発露を努めて抑えた少年の声に苦笑しつつ、シルは箱の蓋を開けてそれを取り出す。かような荒事からかけ離れた職務に従事する婦女子に対してすらその仕草一つ一つへ躊躇無く殺気を向けてくる兵士達の忠勇ぶりには、弁解のひとつも述べたくなるものだった。

牢の前の小さな机に、音もなく天秤が置かれる。

アストレア・ファミリアの団員達が、主への忠と、自分達の誇りの証として生み出した恩寵の顕現は、そこに在るだけのただの道具に過ぎない。死者の妄念も、女神の悲嘆も、残された者の苦悩も介在しない……。

 

「この短剣で血を皿にとって、もう片方に羽根を乗せます。後は、血の持ち主に真偽を問うだけ、ですね。血は、羽根で撫でれば消えますので――――」

 

「その道具が何者の意思も及ばざるものとどうして言える」

 

シルの説明に割り込む男に噛み付くのを、ヘスティアは必死で堪えた。両拳を胸の前で震わせ、引き結んだ唇の下で歯が音を立てそうに噛み締められる。こいつら、因縁つける事しか頭にないのか!!と。

尤も、視線の集まる中心に手を添えている女給仕は、気にした様子もなく麗かに笑った。

 

「ならば誰の耳目も届かぬよう、あなた方だけでこれを使ってみればわかる事では?これを生み出した人間もそのファミリアの神様もとっくにこの街には居ませんし、縦しんばそうでなくともその力と意思をここに呼び寄せて計らせているのだ等と仰るなら、それこそ根拠のない妄言と謂うべきでしょうね」

 

「……この罪人の否認が全て真実の言葉として、それが罪状の存在自体の有無となると?覚えてなければそれまでだろう。そんな粗末な裁断など考慮に値すると本気で思うのか」

 

「――――あなた達は」

 

ベルは、自分が思った以上に低い声を出している事に、口を開いてから気づいた。だからと言って驚きもしなかったし、況してやその台詞を中断しようとも思わなかった。

ただ、頭の中が冷えていくのを感じた。覚えのある感覚だった。脳髄から、胸の奥から、その冷たさは全身へと行き渡っていく。

 

「罪人、罪人と、アルゴスを呼びますけど。ひとつの物証でもあってそう断じているんですか。……二百を超える悍ましい罪状とやら。その全てが証言に基づいて掛けられたものなら、どうしてアルゴスの言葉が無価値なものと決め付けるんですか」

 

平坦であるのに力強い声音は、地の底の亡霊達の怨嗟のようにヘスティアは錯覚した。すぐ隣にある白い前髪の中から覗く真っ赤な瞳は、紛れもなくフィリアの日に見せた狂気の片鱗そのものだとすら。こんなにも真っ当な主張をしている『子供』に、どうして危機感を抱くのか。小さな女神には検討もつかなかった。

誰も言葉を発さず、少年のただならぬ威容を見つめている。二人の戦士に至っては、いよいよもってその眼差しに明確な戦意を宿らせる。それは、少年の指摘が確かに真実――――全ては、証言に基づく告発であるという――――を捉えたものであったがゆえの図星が生んだもの等ではなかった。

限界まで空気を張り詰めさせた末に、その目は見開かれた。

 

「意思も誇りも棄て神の奴隷となるだけの恥知らず共が、何を裁くっていうんだ――――今ここで言ってみろ!!!!」

 

茶番の末に焦燥を爆発させた少年は、広大な地下牢の隅々まで行き渡る声量でその憤怒を知らしめた。餓鬼の癇癪と一蹴するにはあまりにもその気迫は鋭く、烈しきに過ぎるものだと誰もが認めるだろう。

丸腰で、ただ両拳から血を滴らせ、噛み砕きそうに歯を軋ませるだけの少年に対し、眉の下の金眼は今一度研ぎ澄まされる。それは、一切の手心もなくぶつけられた罵倒への怒りによるものだっただろうか。

少なくとも、副官の場合は、そうだった。

 

「貴様ッ……言い残す事はそれだけか!!塵芥同然の痴者の分際で、ラケダイモンの名誉を汚す覚悟は――――」

 

「あら。お優しいのですね。ドーリア人の男達というのは、言葉よりも先に行動するものとよく聞いていましたけど」

 

『子供』の変貌と、街で暴れた大猿のそれなど及ぶべくもない凄まじい敵意に顔を蒼白に染めていたヘスティアは、その中に放り込まれる軽口にいよいよ目を剥いて混乱の坩堝へと落ちていく心境だった。

得物をいざ構えようとしていた男は、その凶相を無防備なシルへと向けるのに躊躇しなかった。彼女の店の常連にしてみればいざその男気が試される時と袖を捲る光景だが、彼らにとって至極残念なのはとっくにそれを為している者が居る事実だ。

ベルは音を立てて床を踏み、シルを庇うように腰を落として構えた。その様は主の多大な不安をかき消すと同時に、なんだか釈然としない気分を僅かに呼び起こした。そっちだけか。まあ、わかるけどさ。

はたして男どもその他のくだらぬ自尊心などこの世に存在しないかのごとく涼し気な顔をして、シルの口上は止まらなかった。

 

「いつだったか、私のお店の女将さんが聞かせてくれたんですよ。ラケダイモンの名誉というのは、弁舌の速さではなく流した血と積み上げた屍の量で計るもので――――あまり好きな考えじゃなかったみたいですけどね。でも、そういう殿方の生き方だって少し素敵だと、思ってましたよ?それが実際はこう、所望の物を用意されてもあれが違うこれが違う、ああだこうだと理屈をこね回して……。まあ、噂は噂ですもの。よくある事ですよね……」

 

「この……!!」

 

男のこめかみに青筋が浮かぶ。鼻を膨らませて口元は痙攣しており、四肢に漲る筋肉の興りを見るでもなく、湧き上がる激怒の奔流をその全身から溢れ出させようとしているのは明らかだった。

いつ血を見るのもおかしくない構図が出来上がっていた。少なくとも牢の前に立つ獄吏はそう思い、息を呑んだ。が――――

 

「そこまでだ」

 

「そ、そこまで、そこまでにしておきましょう。ここは、かような騒がしい事をするような場所ではないと、わかって頂けますかなベル・クラネル君……と、シル・フローヴァ君。君も言い過ぎだ」

 

見えない火花の中に身体を滑り込ませるロイマンの姿など、ベルには見えていなかった。ただ、闇の奥から一つの言葉もなく向けられている青い双眸だけが、辛うじて正気を保つ彼の視認する世界の全てだ。生まれて一度も見た事のない広く深い褥を必死に思い出し、傍にある尊きものの存在を視覚以外の全ての感覚に繋ぎ止めようと拘泥していた。

かたや二度目の恥辱を雪ぐ機会を隊長に諌められた男は、心身に叩き込まれた戒律に従いその佇まいを正していた。表情にあるのは、己の浅慮への憤懣だけだ。

 

「ッ……申し訳ありません」

 

「頭を冷やせ」

 

隊長は一瞥もくれずに天秤から短剣を抜き、指に切っ先を当てる。したたる血は皿と刃を濡らして煌めいた。羽根が、もう片方の皿に乗せられる。

 

「――――我はラキアの民として、その偉大なる擁護者の意向に従いオラリオに来た。目的はひとつ、ラキアを脅かす悪逆の徒アルゴスを捕縛し正当な裁きの場へと拘引すること」

 

「それが真実と、誓えますか?」

 

口髭の中から生まれる、太く力強い声。シルは微笑みを絶やさずに、隊長と向き合う。

互いの双眸は、いかなる欺瞞も暴く真実の光だけを宿すように、煌々と輝いていた。

 

「誓おう。我が神と王、ラキア全ての民の名誉にかけて」

 

 

 

天秤は、傾いた。

 

空にも等しい質量しか持たない、一枚の羽根のほうに。

 

 

 

--

 

 

 

「はん!結局大嘘だらけの連中だ。アルゴス君を引っ立てる理由なんかあるハズが無いさ!」

 

ロビーに戻って、主従と付添人は待機していた。すべての罪状についての尋問が行われるという以上、どれほどの時間がかかるだろう。衆目に晒されて待ちぼうけしているのはいかにも間抜けな絵面だが、そんなものも気にならない焦燥感は何もせずに居る状態では募るだけだった。ヘスティアの大見得も、奇妙な雰囲気を感じ取ったゆえのものだ。

 

「何か、気になる事がまだあるんですか?」

 

ベルの顔にかかる翳りについて、その主は尋ねる事に気後れを感じていたが、シルはそうではなかった。懸念に触れようとしない欺瞞を正そうという義侠心とも、無関係ゆえの好奇心とも、その根源は定かではない。

いまにも心臓が口から飛び出しそうになっているヘスティアをよそに赤い眼光は恨めしげにシルの顔へと向けられた。

 

「……あんな風に、周りが見えなくなって感情に任せて動いて、神様とシルさんが居なかったらどうなっていたか」

 

ベルが真に寒くなる事実とは、自分が自分でないかのような激情が、確実に自らの理性と同居しているという自覚を持っている事だった。絶望的と言っていい彼我の力量差を知りながら、なおもその罵倒と気勢は萎えずに発せられていたのだ。退く事など有り得ないと。

すべては猛る業火が過ぎ去ってから気付くのだ。或いはそれは常に消えることなく灰の中で燻る種火の如く、密やかに心を覆う機会を伺っているのではないだろうか。

付き纏う恐怖の影を克服出来ない弱さへの嫌悪すら、赤い瞳の中に浮かび上がる。しかし、シルは真顔で、真正面からベルを見つめながら、口を開いた。

 

「そんな事。気にする必要なんかないですよ。言ってる事もごく当然でしたし、少なくともあの隊長さんは最初から手を出そうなんて気は無かったと思いますよ。それに……周りが見えない人間は、あんなふうに誰かを庇う事なんてしません。ねえ、神様」

 

あまりに不可解な精神構造を持つ少年の苦悩を、いかにもなんでもないもののように言ってのける。いきなり同意を求められたヘスティアは、目を白黒させて、次いですぐ先刻の光景を思い出し別の感情を持て余した。それから、暫し熟考し、顔を上げる。

 

「、……ん、いや、ん、うん。そう、そうだ。その通り。全くその通り!あいつらが全部悪い。ベル君は悪くない。あれくらい言って当然、給仕君を庇ったのもごく当然。そうに決まってるじゃないか。暗く考えるような事じゃないぜ、間違いない!」

 

余計な私情も混じってはいたがヘスティアは概ね『子供』の不安が取り除かれるよう力強く宣う。握り拳を掲げた威勢のよい姿が、その意図を達する後押しとなっていた、と思われる。

 

「さて問題なんぞ無いとわかったところで、終わった後のことでも考えようじゃないか。そーだな、ここはぱーっと、…………気持ちだけ盛大に、お祝いするとしようか。勿論、アルゴス君も一緒にな」

 

腕を組み得意げで希望に満ちた未来を夢見る主の面持ちに、ベルの口元も緩んだ。

 

「色んな人にもお礼をしなきゃいけないですね」

 

「うん、そうだ。まず一番は……」

 

微笑ましげに主従を見ていたシルは、女神に話を振られて困り眉をつくった。

 

「私よりも、あの娘にお願いします。どうせ、突っ撥ねるだけかもしれませんけど……本当は、違うんです」

 

シルの顔には仄かな寂寥が漂う。リュー・リオンというエルフについて部外者の及び知れる事実は、彼女が一度家族を失くしてしまったという事、それだけだ。そして、それで充分なのだ。ヘスティアもベルも、何くれと言われずとも理解は容易かった。

 

「私は――――あの娘がかつて命を賭していたものが、全て失われたわけじゃないと確かめたかっただけだから」

 

「……正義が負けるなんて事あるもんかい。どんな悪党だって最後は敗けて滅び去るのがこの世の定めってヤツだ。あの娘もすぐにわかってくれるさ。なっ、ベル君」

 

ラケデモニアからオラリオまでその名を響かせるかの戦士を前にしてもいけしゃあしゃあと煽りをくれていたシルが、はじめてその弱みを吐露していた。魂なき燃え滓となった凶刃に居場所を恵んで得た良心の充足も、後悔のみに囚われ苦悩する姿を垣間見れば瞬時に消えてなくなるのが常だった。

かつて疾風の名を戴いた女剣士が今一度立ち上がり、歩き出す為の何か。それは、自分では決して与える事の出来ないものだとシルは知っているのだ。

 

「ベル君?」

 

「……そうですね。信じるもののために戦い続ければ、負ける事なんて無い。神様が教えてくれた事です。間違っているはずがないです」

 

自分の歩みの正しさを信じる者だけが手に出来る力は、ベル・クラネルの最も冒し難いところで消えずに輝き続けるだろう、彼自身が、それを手放す事を選ばない限りは。

『子供』の赤い瞳は、自分を見つめる丸い大きな瞳を見つめ返す。そこにあるものを、魂に焼きつけるかのごとく。

 

他の余計な事など、全て消し去ろうとするかのごとく。

 

 

 

--

 

 

 

灰色の男は語る。正義を掲げて戦った者共の末路を。

 

『悪人は徒党を組んで、くだらないお題目を唱える連中に対抗する事にしたのだ。目的が同じなら、自分本意な人間同士のほうがうまく行くんだろうよ……闇討ちなんて日常茶飯事だった』

 

悪党は金をばら撒き、街中に間諜を放ち、ギルド内部にまで協力者を作り、敵の正体を丸裸にしていく事を優先した。本拠地、構成員、内部事情。

 

『……どんどん動きづらくなったさ。そのうち根拠のない噂が出回った。因縁をつけて悪とでっち上げて私刑にかける、自治を名乗った愚連隊だとな』

 

細い鎖を掛けた敵に、それでも悪党は直接挑む事はせずに奸策を弄する。かれらは猜疑に心を食われはじめた正義の戦士のひとりに、それぞれ味方を名乗って接触しはじめたのだ。

かつて助けられた。恩返しがしたい。悪の根をこの街から絶やそう、と。それは寄付であったり、情報提供であったり、単なる励ましの言葉であったりもした。

 

『時間をかけ、偽りの信用を築いていったのだ。一人、一人、全く別の住民から協力を申し出られるのだよ。困窮のさなかに。どれほど救いに思ったか、わからない筈も無いか、お前なら』

 

かれらは敵を完全に滅ぼす為の手段をとった。二度とくだらぬ思い上がりを抱かないようにする為に、その心の底からの敗北を味わわせる方法をかれらは知っていた。

散々に痛めつけられた怨恨はよほど深かったのだろう。正義に対する復讐とは命を奪うよりもずっと、残酷な仕打ちを望んでいたのに違いなかった。

 

『別々の協力者全てが繋がっていたなどと、考えられるか?思いつく事もしなければ、問いただす事も出来ない。二度と会うこともない相手に、どうやって?――――奴らは、我々の間に亀裂を趨らせるのが目的だったのだ』

 

あの人が良からぬ連中と話しているのを見た。あの人に乱暴に問い質された。あの人は神様と仲が良いみたいですね。あの人にみかじめ料を求められたんですが。あの人があの人についてこんな事を。あの人が言っていた、割に合わない。もう嫌だ。抜け出したい。何の得にもなりゃしない。こんな事の為にこの街に来たんじゃない――――

 

『一足先に悪の手にかかった連中は、マシだったのかもしれん』

 

誇りが残っていれば、それを糧に復讐の炎を燃やす事も出来るだろう。最後まで正義を疑わずに死ぬことが出来れば、無念はあれど悪を憎み続ける事は出来るだろう。

だが正義の群団は、互いの中に敵の幻影を見出した。僅かに芽生えた不和の種が、些細な諍いや勘違いで蠢動し、団員の心を覆い尽くしていった。少しずつ、時間を掛けて。

 

『疑心に囚われ、その血を分け与えた者、命を捧げる主を信じられなくなった者がどれほど脆いものか』

 

ようやく気付いた神々による裁断も、上っ面ばかりの戯言、贔屓、不正の顕現だと眷属達は受け取った。

神に死すべき者の虚言は通じない。

では、死すべき者は神の虚言を如何にして看破できよう。

あの特別な『子供』を庇っている、いや、神自身が既に堕落し、正義を棄てたのだとまで主張する者が現れた。

 

『一度そう言ってしまえばもうおしまいだよ。とんでもない誹謗だと神は怒り、眷属はそれを見て不信感のみを育む。況してや志を同じくしていた別のファミリアの連中相手には……』

 

奴らが情報を流したのだ。奴らが陰謀を企てた。こちらの勢力を削いで、悪を追放した後に築く新しい秩序の主導権を得るために。街なかで彼らは口汚く互いを罵りあった。本来彼らが戦うべき相手はとっくに息を潜めていた。啀み合う正義の群団を見て、物陰で必死に笑いをこらえていたのに違いない。

これこそ悪党の陰謀だと唱える声も少数だった。真実を見抜く目を持つ数少ない者は、不信と狂乱に目の曇った仲間に激しく非難されるか、無視され、終いには排斥された。

 

『――――それこそが、どんな苦難よりも耐え難い事だった。あんなにも深く硬いと信じていた絆は何だったのだと……そう言い残して街を去る者も次々と現れた。二度と戻っては来なかった』

 

彼らにとっての真実は神の言葉ではなく、自分達の中にある正義だった。それに悖るならば神など信ずるに値しないとまで宣い、専横を働く者達は監視と密告を是として団員を常に恫喝した。支配の快感に酔っていたのだろうか?それすらも知るすべはもう、無い。

 

『もう私達を結びつけるのは、憎悪と恐怖だけだった。抜ければ敵につく。抜けるのは裏切り者だ。それしか頭に無かった。……真実とは、いったい何だろうな?何が罪だった?神を信じられなかった事か?正義……いや、都合の良い真実に縋った事か』

 

それでも守らねばならない一線を誰も越えず、そこで踏み止まっていたのだ。だが、そんな均衡を無くしてしまうのは悪党どもにとってどれほど容易い事だったろうか。

 

『ある日、一つのファミリアがオラリオから消えた。本拠地は徹底した破壊と略奪に晒され、何一つ残らなかった』

 

迷宮で罠に嵌められ、団員は丸ごと怪物の餌になったのだという噂は疾風のように街中へ広まった。

それが、最後のひと押しだった。

 

『壮絶な抗争が起こった。このままでは、あのファミリアのように皆殺しにされる。ならば、とね』

 

そして全てが滅び去った。死ぬまで自らの過ちに気付けなかった者はどれほど安らかで誇り高き一生だっただろうか?

正義の共食いにかこつけて遂に姿を顕した本当の敵に真実を告げられた者は、推し量り難い絶望を味わった。

しかばねと瓦礫の転がるかつての安息の住処で、正義の戦士は嘲笑を浴びせられる。果てしない馬鹿ども。お前達の破滅は自分自身で招いた事だ。仲間同士殺し合ってまでいったい何を成そうとしたんだか?

 

『命を奪われるよりも凄惨な最期だ。自らの過ちを悔い続ける生を与えられた哀れな死すべき者に、天界へ去る神々は失望の目しか残さなかった……』

 

失意に任せ街を去る者、抜け殻となったままとどまり続ける者。いずれにしたってかれらにはもう何も残されていなかった。罪人の烙印はかれら自身がその魂に刻み込んだ。名誉も誇りもその手で穢し、二度と届かない処へ自ら堕ちていったのだ。

 

『そうなって私はやっと理解したのだ。なぜ立ち止まれなかったか……私にとっての真実……私が欲しかったものは、あの安らぎの場所だけだったと。苦楽を分かち合って、共に同じ道を行く仲間達との時間。耐え歩き続ければ、全てが終わればそれが戻るはずだと、信じ切っていたのだよ。私は、自分の事しか考えていなかったのだ……』

 

その目から全ての光を失くした男は言った。この世の本質は無明であり、死すべき者は最期まで偽りの中で這い躙り続けるさだめにあるのだと。闇の中に在る者達は信じたい事を真実と錯覚し、或いは自分を騙してさまよい続ける。気まぐれに地上に降り立った天界の住民達だけがその愚かさを計り知れるのだとも。

あるべき正義は輝かしくその目を晦ませ、突き付けられる真実は想像だにできなかった己の弱さと醜さを照らし出す――――いや、それこそが、最初から死すべき者の手にあるべき唯一の真実であったのか。絶対者に仕えながらもそれを理解出来なかった罪人達は、贖う事の出来ない過ちに慄き、俯き続けるだけだろう。ただ目を瞑り、神の言葉だけを信じ続けていれば良かったのだ。

 

生まれながらの盲者が見出だせる真実など、その者の心に焼き付いた幻影でしかないのだから。

 

すべてを悟った男は、二度と立ち上がる事も無くなった。

この街に積もる灰の一部となって。

 

『見たくもないもの、知りたくもないものを好きに暴き立てる事の出来る力を手にして、それで何を得るというのだ?…………教えてやる。この道を歩き続けるお前が辿り着く場所は――――』

 

灰色の双眸が、ベルを飲み込んだ。

 

 

 

『希望のない、闇だけだ』

 

 

 

 

--

 

 

「……弱いから、そうなっただけだ」

 

「え?何か言ったかい」

 

独り言つ眷属に、ヘスティアは耳聡く聞き返した。ベルは、口元を緩めたまま、首を振った。

 

「どうでもいい事を思い出しただけです」

 

本当に信じるべきものを信じることが出来ない弱さが、かれらから光を奪った。

こうして傍で見守ってくれている、あたたかで輝かしい、何よりも尊い存在を蔑ろにする事など、あってはならないのだ。

蠢く闇を退けるよう、ベルは心の中でそう自分に言い聞かせていた。

 

 

 

--

 

 

牢の前のラケダイモンは手心など与えず、矢継ぎ早に尋問を行う。

 

「……以上の容疑について、心当たりはあるか」

 

「…………知ら゙ね゙え……おでは何゙も、やっでね゙え」

 

「次だ」

 

阻もうとする意思を持つ者はそこに居ない。少し離れて佇む二人の獄吏と壮年のエルフは、何も言わない。その領分から外れた事である以上。

同じ口上を繰り返して何度目だったかアルゴスは数えていなかった。答える度にする仕草も同じだ、目を閉じたまま、首を振る。僅かに揺れる鎖が音を立てる。単調な作業は、彼の心の翳りを増々大きくしていく。

そう、彼は恐れていた。

あって欲しくない光景から逃れるために、その目は最初から固く閉じられていたのだ。

ただの気まぐれの同情心、どうにもならない孤独感を紛らわす為に手を差し伸べた、不思議な少年……どこか、胸が締め付けられるような既視感を想起させてならない小さな主従に対して自分が施した事など、どれほどのものであろうか?かれらは最初から、断ち難い絆と、それが生む力を備えていた。忘れてしまっていただけで。

そんなかれらは些細な恩義の為、大国の暴虐に正面から挑み、打ち崩す手段を手に入れた。いかにも耳当たりの良い美談ではないか。

どうして容易く信じられよう。

己の呪わしき愚かさと、それが招いた必然の末路を座して受け入れる心を固めつつあったせむし男にとって、ベルの所業とは直視するに眩しすぎた。安っぽい英雄譚に没頭するには、彼は多くの事を知りすぎていた。

そう。もしも、もしも――――あの天秤が、自分の意思と反した結果を示す光景を目にしてしまえば?

あの少年と女神が、全てを投げ出す覚悟で探し出してきたものが空虚な紛い物でしかなかったとしたら。偽りでも、その結果を知ったかれらが抱く絶望の深さを思えば。

 

かれらの自分へと向ける眼差しが、それまで余りにも多くの者達から向けられ、慣れきった――――嫌悪と恐怖に満ちるものに容易く変質するだろうと思えば。

 

甘やかな期待は、強ければ強いだけ、叶わなかった虚無で以て自身を打ちのめすのだ。それが何よりも、アルゴスにとって恐ろしい事だった。

 

希望など抱くなと、アルゴスはひたすらに、闇の中で自分に言い聞かせていた。

 

それでも、その言葉を発するのは抗えなかった。

 

「……おでは何゙も、やっでね゙え……」

 

途方もなく長く感じる、神の命を受けた法の番人による裁断の時間。

最中ずっと、アルゴスの頭のなかにその言葉が響いて、決して消えなかった。

 

 

 

『前を向いて歩き続けなさい。誰にも恥じず、戦いなさい。お前が本当に得難く思うものを――――希望の光を、放さず持ち続けなさい』

 

 

 

癒えない孤独に苛まれる眷属は、たった一人、今の己に出来うる唯一の戦い方を忘れる事は出来なかった。

 

たとえ、一切の真実の見えない暗闇の中でも、小さな主従により思い出させられたその力は、彼の歩むべき道を確かに照らし出していた。

 

 

 

 







・馬鹿丸出しなモン
壊すと隠しメッセージが!それはまさしく作者×登場キャラ対談。つまりGOWはラノベだった??

・過去を消し去る事などそんな存在にも出来ない
わかりますね?聞いてますかクレイトス??

・口にその血を
乳も血も一緒だろ!?そうだろ!?成分的にそうだ!!間違いないんだぜベル君、さあ!!
などというエロ同人的展開はこのSSとは無縁だと誓います。

・正義のファミリア達とアストレアの天秤
もちろん全部捏造設定に決まってる。こんなお粗末な話に誰がした。

・ドーリア人の男達というのは~
意訳:「ベラベラとよう舌の回るヤツだ。きさま本当にスパルタ人か?」

・神の言葉だけを信じ~
「私に従っていれば良かったのだクレイトス!!更に強くなれたものを!!」


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何故投稿した後に未編集の箇所に気付いてしまうのか。教えてくれオリュンポスの神々よ。





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勝手にしろよ




What the fuck!!!!!!!!! What the fuckin' shit story!!!!!!!! It's crap!!!!!!!!!!
(「2章ここまで」という意味)





 

 

 

「やあヘスティア。遂に成し遂げたと聞いて、それは居てもたっても居られず飛んで来たんだが」

 

「やかましい、あっちへ行け」

 

「……そこまで邪険にしなくてもいいと思うんだが……なあ、ベル・クラネル君。君はあんな酷い言い方なんてまさかしない、心優しい少年だと見たが。私の目が曇っていなければね」

 

「え?え、えぇと」

 

「ベル君に話し掛けるなっ!ヘンな目を向けるなっ!近づくなっ!!」

 

野次馬根性丸出しの光明神に、ヘスティアは辛辣にあたった。黄昏時になり本部に満ち溢れる視線の密度はいっそう濃くなり続けている。緊張を保った三つの人影のうち、少なからずは住民の口にのぼった当の主従が居るのだ。再び、それを肴にして話題を作る者も出て来ていた。ロキ・ファミリアの偉業と較べて随分と慎ましやかではあったが。

アポロンは悲嘆の感情を大袈裟な仕草で表現した。

 

「おお……ダフネ。なぜ私はいつもこうなのだろう?思いを募らせる相手からは決してそれを返して貰えない、この胸は張り裂けそうに高鳴り、夜も眠れず月の光に想い人の影を見出す程なのに。恋多き事はそれほど罪深い事なのか?どうすればこの苦しみを贖えるのだろう?」

 

「実際にその胸を心臓ごと裂いてくれるよう、姉君に懇願してみるのはどうですか?高鳴る事も無くなるでしょうし……」

 

額に手を当て跪く主に、『子供』は思いやりに満ちたアドバイスを送っている。ベルを庇うヘスティアはさっさとどっか行かねえかなとだけ思った。

微笑ましき光景は、行き場なく溜まり続ける狂おしい焦燥を少しだけ忘れさせてくれるようにベルには思えた。……そう、少しだけだ。

もしも、もしもと、その懸念は尽きること無く湧き上がるのだ。

もしも、あの天秤が真に死すべき者の心を計り知る物などではなかったら。

もしも、ラキアの法の悪辣さが想像以上であり、無辜の民を罪人へと仕立て上げるのにラケダイモンが一切の躊躇を持たなかったら。

 

もしも――――全てを投げうってでも証明しようと試みた潔白が、そもそも存在しなかったとしたら?

あんなにも慈悲深い人間が、手配書で散々に書き立てられたような残忍な性情を持つ怪物であるはずがないという確信、それ自体が、自分の足で立ち上がる事も覚束ない弱い『子供』の縋った、甘やかな幻想、都合の良い真実でしかなかったのだとしたら。

 

恐怖は消し去り難い。その絶望に耐える力を自分は持つだろうか?今度こそ、膝をついたまま二度と立ち上がれなくなるかもしれない……。

 

「……?」

 

周囲のざわめきが、出し抜けに途切れた。意図せず瞼と拳を固く閉じていたベルは、それに気付いて顔を上げた。ロビー外縁の一部に空白が生まれている。建物奥へと通じる廊下の前、そこへ踏み入り、そして出て来たのもつい先程に感じる。

革と青銅の擦れる音がいやに煩く聞こえた。二人の兵は、この短い期間だけでオラリオ全ての住民の記憶に深く刻んだだろう厳しい顔つきを決して変えずに闊歩する。揺れることなく歩調の合う二つの体幹は一つの巨兵のようにベルには見えた。

 

その後ろで項垂れて歩くせむし男の顔と合わせれば、その光景はまさしく――――

 

「違う。違うぞ。こんなの嘘だっ!有り得ないっ!!アルゴス君が罪人だなんて絶対に間違いだ!!おいロイマン君、何のためにキミはこいつらと一緒に居たんだ!?!?どんなイカサマを許したんだ、幾ら握らされたんだよっ!!」

 

「はっ?え、いやそんな誤解ですヘスティア様、天地神明に誓って私は職務を果たしただけで……彼らがまっとうに尋問の全てを終えたのをしかと見届けました次第です」

 

遠くで主が何事かを訴えているが、ベルにはよく聞こえなかった。ラケダイモンは、ベルの眼前で立ち止まった。しかし赤色の双眸は、伏せられた大きく歪な顔面に宿る青い光だけに向けられている。それ以外何も見えなかった。周りの全てが歪んで溶け合い、足元に開いた闇の穴に吸い込まれていくようだった。

 

――――その光景はまさしく、然るべき沙汰に頭を垂れて打ちひしがれる罪人そのものだった。

 

全身から力が抜けていく。如何なる敵意も飲み込んで糧にする貪欲な業火はウソのように勢いを無くしていった。彼自身の意思は、いとも容易く彼自身から全ての力を消し去ろうとしていた。どれほど大口を叩いていても、それが実際に現れればそんなものだ。ベル・クラネルは幼く、無知だった。本当に自分を打ちのめす現実に立ち向かう力を養う経験を、持っていなかった。

果たせなかった。あんなにも求めた救いはその手から零れ落ちた。報恩の思いは結局その程度だった。無数の悔恨は湧き出し、渦巻く。

……或いは。

はじめから、間違っていたのか。彼が偽りの罪を着せられた哀れな供物だという認識こそ、弱さと愚かさが見せた幻影だったのか――――

 

「無様なものだな」

 

膝をつき両肩を落とした少年を見下ろす金眼の鋭さは、はじめての邂逅に向けたそれと比べて一層研ぎ澄まされたものだと、誰も知り得ない事だった。

 

「見るがいい。真実を受け入れられず、見苦しく喚き立てるだけの哀れな主の姿を。あれが、お前の擁護者だ。お前に、命を棄てさせるのを疑わせない呪わしき誓約を与えた理不尽の権化だ」

 

壊れた人形のようにそこで俯き固まる身体は、どんな侮蔑の言葉も通り抜けていくだけだった。

 

「そして、望まぬ真実を突き付けられ、全てを諦めて膝をつく腰抜けがお前だ。まさに、あれの『子供』に相応しい姿だ」

 

真実。ラケダイモン最強の男は、どんな死すべき者も逃れられない神の武器をベルに浴びせかける。知りたくなかった真実は罪人のあらゆる挟持を奪い去り、その矮小さだけを本人に突き付けるのだ。

誰の耳にも聞こえる辱めの言葉に抗う力も、もはやベルには残っていなかった。

 

「終わりというのはお前の意思とは関係なく訪れる。……望みの尽き果てた後の、何も無い闇とともにな」

 

――――終わり。

 

何も無い、闇。

 

「……違う」

 

握り拳をロビーの床に撞き、首を上げた。酷薄な金眼を宿す男の顔を睨み返す。すでに駆け寄り名を呼ぶ主も、肩に手を伸ばしている女給仕も、意識の外にあった。

 

「終わってない。何も……まだ、何も終わってなんか、いない」

 

赤い瞳の奥に、それはまだ残されていた。右手の中の枷と、その輝きが同調して煌めく。

立ち上がり、なおも見上げるべき身長差の偉丈夫と堂々と対峙する小人。無謀な戦いを挑んだ身の程知らず、功名心か、安っぽい正義感に目が眩んだ哀れな敗残者としての姿など、そこにはなかった。

 

「諦める理由なんか無い。ラキアに連れて行かれて、そこで裁かれて、刑を言い渡されて……それが戦いを終える理由になんかなる筈が無い。無実を証明する手段は、他にもある……絶対に」

 

真に得難きものにかけて誓った言葉だった。誰よりも、何よりも守らねばならない。自分が決めた事だ。それを手放した時が、本当に何も果たせなくなる敗北の時なのだ。

恩人に背負わされた咎が偽り以外の何であるか?全てを捧げる主の言葉を疑う余地などあるはずがなかった。

神を信じる者と、神を信じない者の視線は見えない火花を作って押し合う。

 

「盲が。全てが終わったという現実の何もかもから目を逸して繰り言を紡いだところで、裁決が覆される事などあり得ると思うか」

 

ベルは目を見開いた。

広い視界の中心にある、金色の眼光。兜の影にある、驚嘆に満ちた青い眼光を受け止める瞳は、どんな疑念も退けるよう少年の心へと打ち寄せる。

怒りも恐怖も忘れさせる潮騒は彼の耳にしか聞こえなかった。

 

「戦いの終わりは――――それを始めた者だけが決める事だ」

 

どんな闇の中でも、途方のない困難の中にあろうとも、ベルの心と身体、魂に繋がれた神との誓約は、その力を絶やさずに与え続けるものとして存在していた。

 

 

--

 

 

敵が天を覆い隠す強大な存在であっても、地を埋め尽くす無限の軍勢であっても、彼は決して退かず、諦めず、屈しなかった。

その背を地に預けるのは、全てを成し遂げた時だけだと決めていたからだ。

 

 

--

 

 

「……」

 

ヘスティアは言葉を失っていた。静かな広間に行き渡る最低限の声量は、誰かの脳天を揺らすものではなかった。『子供』の変貌への恐怖も、見苦しい足掻きへの失望も生まない。

そうだ。どうして忘れてしまっていたのか。言われるまでもなくわかっていたことだと、ああも威勢よく言ってのけた自分はどこへ消えてしまっていたのか?

深き感銘に奮い立ち、ヘスティアはいざ『子供』の真横に並ぶ。ここで、何が決まったという?何が終わったという。何とでもしろ、この子が諦めない限り、地の果てまでも一緒に行ってやるさ!!

そう啖呵を切るべく口を開いて――――

 

「……あのお。何やら……大いなる認識の齟齬が発生しているのではないかと、思えてならないのですが」

 

「っっっっほ!!お、おお?、?、??、……????」

 

割り込むロイマンの抜けた声は、硬直したその空間に穴を穿って萎ませていくような効果をもたらした。突然コイツは何言ってるんだ、と振り向くヘスティアは表情だけで物語っていた。

地下牢で行われた全てを見届けていたギルドの長は、真実をここに明かすべく、口を開いた。

 

「ずっと目を瞑っていた乳飲み子には、わからなかったのでしょうがね……彼は確かに、全ての件において無実であると証明されたのですよ、神様」

 

 

「え?」

 

 

「――――は?」

 

 

「………………??」

 

 

三者一様に同じ顔をした。同じ感想をそのまま、形にした表情だった。

 

なんつった、今。

 

非常に間抜けな光景に、ラケダイモンは目もくれなかった。呆然と佇むせむし男をそこに置いて小さな主従のすぐ横を通り抜ける。巨大な質量が自分の肌を掠める錯覚に対しても、ベルは何の行動も起こせず固まっていた。

 

「命拾いしたな」

 

聞き慣れた、感情の消えた声だけが残った。二人の兵は、来た時と全く変わらない力強い足取りで、ロビーの出口へと歩いていく。

何が起きているのか。

誰もがその答えを知っていたが、誰もその確信を抱けなかった。

 

「え?、あ、……なに?何だって?あいつらは、何を?……無実?で?だから?…………????」

 

恐ろしい頻度で目を瞬かせるヘスティアは、混沌に満ちた思考を吐露するのが精一杯だった。

ロイマンは、大層ばつの悪そうに、目をそらしつつ、口を開く。

 

「……まあつまるところ、負けたのが悔しいから、嫌がらせのひとつでもしたかったのではないか……と……」

 

 

ヘスティアの思考は停止した。

いや、それは傍目にそう見えただけだ。彼女の意識は神すら解し得ぬ波動関数の漣の果てへと瞬時に旅立ち、不確定性原理の作り出す不定の飛沫の中に溶けていった。

あれ~、っじゃあ、つまり、どういう事なんだい~。も~わけわかんなくってボク困っちゃうよ~ん。

彼女の頭のなかで無数のニューロンが無数の量子と腕を組んでダンスを踊っている。

 

 

「……ア、ルゴス。じゃあ、……君は……」

 

「…………おでは……」

 

 

ロイマンの説明は途方もなく現実感の無い響きを持っていた。誰も至った事のない遥か彼方へ思考をブッ飛ばしている女神程でなくとも、その『子供』はどう表現すれば良いのかわからない感情に混乱していた。

――――自分達の無様な早とちりが生んだ醜態と、最後の最後でラケダイモンが残した下らない駄法螺に呆れ果てる気持ちばかりが心を埋め尽くし、本当に芯から湧き上がるその思いを掴みあぐねるだけで――――

 

「やったんですよ……クラネルさん、神様。貴方達は、やったんですよ!アルゴスさんが何の罪も着せられる謂れが無い事を、ラキアに証明したんですよ!!」

 

「……やった?ラキアに……僕と、神様が……」

 

「……ベル゙……お前ぇ……」

 

そのシルの興奮ぶりは彼女の店の常連、いやさ同僚もそこに居たら目を剥いただろう。両肩を揺らされつつ真実を告げられても、ベルの理解力は未だラケダイモンの背中の大きさを目測出来るくらいしか無かった。

殊に一番の間抜けを晒していたせむし男。頑なに真実を恐れていた彼は、尋問の完了が潔白の証明ともわからなかった。天秤は常に血に染まった皿へと傾いていた事も。

いよいよシルは寝惚けた『子供』達を覚醒させる母親のような気勢を発し、ベルに迫る。

 

 

 

「そうですよ!ラキアに勝「、ぃっ……っっ…………っっっっいぃやっっったああああぁぁあああぁあああ!!!!勝ったっっ!!!!勝ったんだぞっっっっ!!!!ベル君っ!!!!ボクらが勝ったんだっっ!!!!正義が勝った!!!!ぅおおっっっっしゃあああああああーーーーっ!!!!万歳、万歳、ばんざーーーーいっっっっ!!!!」「わぷっ」……」

 

 

 

いきなり横から飛びつかれたベルは、顔を覆う柔らかい感触に狼狽した。シルは、餌を取り上げられた犬みたいな顔をして、喜びを全身で表す女神を見ていた。

 

「ははっ、はっはははははは!!見ろベル君、アルゴス君っ!!あいつら、悪党どもが尻尾巻いて逃げていくぞっ!!くっっっっだらない負け惜しみだけほざいた負け犬達だぞっ!!精々あの下品脳筋馬鹿野郎によろしく伝えてくれよっ、おとといきやがれってな!!うわーーーーっははははははっはははあーーーーっ!!!!」

 

「むぐっ、かっ、神様。わっ、わかりましたっ、から……ちょっ、……」

 

ヘスティアは衆目など気にかけようとせず『子供』の上半身にガッチリとしがみつき、ロビーの出口を指差して高笑いする。その姿を省みる余地など芥も残っていないのは明白だ。だが、誰がそれを止められるだろう。その資格を持つ唯一の少年としても、(少々息苦しいが)この歓喜の迸りを諌めようという気など無かった。

 

「では、私はこれにて……おっと、これはお返ししておきましょう」

 

「あ」

 

手持ち無沙汰だったシルに木箱を渡してロイマンは去った。優先すべき案件など他に幾らでもある悲しき終身事務員の姿は皆の視界からすぐに消えていく。人も神も、零細群団の成し遂げた一つの功業にただ感嘆の意を向けていたのだ。

 

「おお、おめでとう!おめでとう、ヘスティアとその勇敢なる『子供』よ、無辜なる乳飲み子よ!そなた等の慈悲と忠節が成した快挙に惜しみない賞賛を禁じ得ないよ」

 

「わははははははっ!!そうかっ!!そうだよなっ!!そうだろそうだろっ!!聞いたかベル君、ははははははっ!!」

 

「ぶっ、はっ、はぁ、はい、聞いてます、だからその」

 

「あっ、お、おう……ごめんよ」

 

アポロンの仰々しい褒め称え方は平素のヘスティアだったらどんな腹だと勘ぐったところだが、もう浮かれに浮かれ我が世の春を謳歌する今の彼女は気分だけ天界へと舞い戻る勢いである。『子供』の呼び掛けに気付くのも少々遅れたが、その思考にはちょっとの羞恥と未練が混じるのみだ。

 

「まーとにかくこれで一件落着ってわけだ!もう、なーんにも気にすることなんか無いんだぜアルゴス君。晴れて自由だっ!誰に何を恥じる事なぞあるもんか!」

 

「……」

 

主に自らの歓喜の程を肩代わりさせているかの如く、ベルはどこか上の空だった。それもラケダイモンが残していった最後の悪あがきが影を落としていたため――――だけでは、ない。思い出せない、もっと重要な懸念があった事に思いを巡らせていたのだ。

思索の海の底へ達するより先に、彼の意識を浚う男の声が発せられた。

 

「……何゙て言っで、感゙謝すればい゙いの゙が……わがらねえ゙。おでは……」

 

大きな顔は歪んでいた。それは生来彼が与えられた造形だからという理由ではなかった。低く割れた声は裂けた唇から途切れて紡がれ、彼の心境を言語の内容に依らず伝えるものとなっていた。青い目は霞んで実態の無い自分の心を繋ぎ止めているようにベルは感じた。

 

「――――あ゙り゙がどゔ……ベル゙……神゙様゙…………」

 

深々と頭が下げられる。ベルは言い表せない万感の思いに身を浸すようだった。達成感か、充実感か?正体などどうでも良いという気持ちもあった。

心の引っ掛かりも今は関係なかった。

戦いは、終わったのだ。

そうと理解すれば。

 

「……は」

 

「あ」

 

「っお、ベル君っ?」

 

出し抜けに足の力が抜けたベルは、辛うじてそのままへたり込むのを免れた。受け止めたシルが顔を覗いて微笑む。

 

「……本当に、お疲れ様でした」

 

「…………は、い……」

 

「ちょ、ちょっとキミぃ。それはボクの役目でっ」

 

ヘスティアの咎める声は、沸き起こった拍手にかき消された。弾ける空気は轟音となって、捧げられる者達を飛び跳ねさせる。

 

「この偉業が生まれた瞬間に立ち会える喜びを、ここに示そうではないか!!」

 

音頭をとるが如く先頭に在る顔は先にもまして笑みを輝かしくしている。彼は正しく神の街の住民の代表者として振る舞っていた。その内心がどうあるか、受け手に計り知れようもない事を含めて。

すごいな。大したもんだ。いけ好かねえ奴ら、ざまあない。まさかやり遂げられるなんてなあ。…………。

 

「は、は」

 

ロビー中に満ちる賞賛の声は、戦士達の鍔迫り合いとはまた異なった質を持っていたが、直接それをぶつけられるヘスティアにとっては圧巻そのものだ。手放しで褒めちぎられるむず痒さもあり、落ち着きを取り戻しつつあったその心境は少しばかり居心地の悪さすら芽生えつつあった。

 

「……クラネルさん?」

 

シルの声に振り向く。かような紛れも無い偉業の立役者は既に自分の足で床を踏みしめる程に立ち直っていたが、相変わらず何かが抜け落ちたような顔をしていた。

 

「ベル君?」

 

「あ……いえ、別に」

 

視線に気付いたベルは、照れ笑いを浮かべて首を振る。その朴訥で人の良さそうなただの少年そのものの貌こそが、全ての不安を剥ぎ取った処にある『子供』の本当の姿であるはずだとヘスティアは信じていた。彼は、やおら自分のした事の素晴らしさを噛み砕きつつある最中に慣れない注目と賛辞に晒されているもんだから、どう反応すればいいのか困惑しているだけなのだと。

冷えつつある頭が行き着こうとするその先の推測を打ち切って、アルゴスのほうを向いた。

 

「じゃあアルゴス君……そうだね、これからお祝いさっ!こういう時の為のお金だからなっ!」

 

一時頭から抜け落ちていた規定事項を告げるヘスティア。何の憂いも今の自分達には必要ないのだと、胸を張って宣告する。

アルゴスは小さな女神を見下ろし、瞠目しているだけだ。

 

「……でも、おでは……」

 

「おっと、申し訳ないだのそういう台詞は却下だぜ。そーいう所までベル君と似てて困っちゃうねぇ全く。なあ?」

 

立てた人差し指を振りつつ、片目を閉じた主は『子供』に皮肉をぶった。顔を染める朱をまた少し濃くして、ベルはそれをごまかすように笑う。

 

「ここに来てそうまでは言いませんよ、僕だって。……アルゴス、あなたが良ければ、だけど」

 

赤色と青色の眼光は穏やかに反射しあっていた。せむし男は太い首を僅かに上下させ、足を踏み出す。途方もなくちっぽけな功績を打ち立てた主従に連れ添われるべく。

戦士は友誼の証を携え、主とともにただ静謐にそこを後にする筈だった。

そうはいかなかった。

 

「おお!待った、聞き捨てならない話ではないか?ヘスティア、かくも遠大で困難な試練を果たした『子供』達に対して、君はあの哀れみを誘うほど質素な神殿で祝宴を開くつもりか?」

 

「あァン!?ケンカ売ってんのかいキミは!?」

 

ヘスティアはついさっきまでのおべんちゃら丸出しだった姿を忘れるノータリンではなかったので、そのメチャ(極めて揺るがし難い真実ではあったが)無礼な発言で水を差す馬鹿野郎に牙を剥くのを躊躇わなかった。万雷の拍手と祝福の言葉もいい加減収まりそうな頃合であり、既にその思考は平素の回転を取り戻していた。まあニコニコニコニコとなんかコイツ胡散臭いぞと。最初は他人事、次は怪しい預言、で馴れ馴れしくこの場にやって来てこうだ。さもありなん。

ともかくにべもない反応を受けてもアポロンは堪える様子もなく美しい声色も絶やさない。

 

「まさか!私はただただ感動に打ち震えているだけだとも。この麗しき英雄譚を目の当たりにさせてくれたお礼は、我が館にてその祝宴をひらく形で贈りたいのさ。君等に大した助力も出来なかった以上、これくらいはさせて欲しいと、私の良心が痛んで仕方がないんだ!」

 

「……本当かあ?」

 

侍るダフネは自分の主に良心などというものが存在する事実に内心驚愕していたが、表情にも口にも出さなかった。

是非にと申し出るアポロンを疑いの目を向けまくるヘスティア。ベルもアルゴスも神々の対話に割り込む気を起こせずに居た。が。

 

「申し訳ありませんアポロン様。私のお店に先約があるんです……そうでしたよね?ヘスティア様?」

 

曇りのない笑顔は、明らかに余人によるこれ以上の干渉を退ける意図の含まれたものである。その女給仕の胸に、かつて静謐な休息を求めた少年が被った災難の光景が去来していたのかは、定かではないが……。

 

「成る程。では私の奢りということで、『子供』ともども同席させて貰っても……」

 

「あー!駄目だ駄目定員オーバーなんだよ!悪いけど三人用の宴会なんだ!悪いねアポロン気持ちだけありがとう!よし帰ろうか諸君!」

 

輝かしい笑顔で食い下がるアポロンを切り捨てる為には相当意味不明な理屈を捻り出す必要があるヘスティアだった。青天井の警戒心は、達成感でも覆い隠せずに彼女の中で鳴り響いていたのだ。

『子供』の手を引いて背を向ける女神の様には、ようやっと望みが尽きたのをアポロンに悟らせた。

 

「ああ、残念だ、至極」

 

「あ、と、神様……あの、アポロン様、本当にありがとうございました。この御礼はいつか」「こいつは何もしてないんだから、これで良いんだよベル君っ!さ、アルゴス君、給仕くんも……はい君達、御世辞は充分だから、道を開けてくれっ」

 

神の言葉は人波を断ち、安らう為の場所へと『子供』を誘う。好奇、感嘆、驚愕、尊崇、多くの視線を浴びながらも、遍く悪徳を寄せ付けないかれらの歩みは夜の街の中へと消えていった。

当事者の姿が消えようとロビーの喧騒はとどまるところを知らず、寧ろ好き放題言えるだけ更に盛り上がる。

 

「信じがたいが、あンの傲慢なアカイアの連中の鼻を明かしたのは凄い事だろう」

 

「はっ、馬鹿ばかりだな。あの青っちろいガキ一人だけのファミリアだから、こんな瑣末な事も大袈裟に見えるだけだ」

 

「じゃあオメーは同じ境遇でもやれるってか?」

 

「あのコならやるかもなんて、ちょっと思ってた~」

 

「……何でシルちゃんが一緒に居たんだ?」

 

傍観者の言葉はアポロンにとって聞くに値しないものだった。そうなればこの場に居る意味も全く無いのだ。踵を返そうとして、しかし足を止めた。

 

「ん?これは、少し遅かったね。主役達はとっくに帰ってしまったよ、つれないものだ……」

 

「やあ、……実のところ何がどうなってるんだか把握出来ていないところなのだが。ヘスティアが何をしたって?ラキアの兵士はどうなったんだ?」

 

寸評を繰り広げる野次馬の中で、こちらに向かう知己の顔を認めた。今しがたここに足を踏み込んだばかりのディオニュソスは、人々の話題を掻っ攫う要因について全く心当たりが無いわけでもなかったが、よく見知った相手からの確証を欲していた。

本部へとともに連れられてきたフィルヴィスにしてみれば、また例の謎の怪物どもの関連かとしか思えなかったが……。

 

「まあ大方、君の予想通りだよ。小さく誇り高き神と『子供』は、街に跳梁する悪党を叩き出したというわけだ……あらぬ疑いをかけられた同朋を救い出したというおまけ付きで」

 

「……あのヘスティアが、か。驚くべきか……いや、そう言えば、あの乳飲み子の主神との縁が成した偉業という事か?」

 

「そうとも。泣かせる話じゃないか?主を追って安らぎの場所を棄て、長い長い放浪の末に罪人などと呼ばれるようになって、逃げ帰る場所は結局ここしか無かった。それを救ってくれたのが主の残した縁だったと……いやはや、あの鬼ババアもそれほどの……、情、が、……く、うっ」

 

「……おい、アポロン?」

 

怪訝そうに顔をしかめるディオニュソス。アポロンは口上の途中で顔を伏せ、何やら息を堪らえようと唸りはじめた。さては、感動屋のサガ故に目から流れ落ちるものを隠そうとしているのか……と、ディオニュソスは思った。フィルヴィスも思った。

実際は、ぜんぜん違うという事を、一貫して白けた目を保つダフネは知っていた。

小刻みに震えるアポロンが顔を上げる。死すべき者の心を虜にする二枚目は、崩れた恵比須顔で見る影もなかった。

 

「く、くくっ……いや、だね……っくひ、へ、ヘスティアがな、あの乳飲み子と、自分の『子供』を、似てると、言って……それで、それでだ、つい、あの、ウフヒ、鬼ババアが必死になって、街中、走り回って、誰も彼もに虚仮にされて、それでも、縋り付いているのを、そ、想像し、したら、な。さっきから、くくくくっ……!!」

 

「……」

 

つくづくいい性格してるよな、とだけ思うディオニュソスはただ閉口した。必死に腹を抑えて含み笑いを続けるアポロンの努力は、すぐに無に帰した。

 

「ウフフッ、うはっ、うわはははははっ!アヒィー、や、ま、まずい、ひひひひひひっ!!お、面白すぎるっ、あの鬼ババアがっ、うくくっ……あ、あんな馬鹿丸出しの喜びようでっ、か、考えただけでっ、くっくっくっくっく、くくっ、苦しいっ、はひひひひし、死んでしまう、息がっ、ひひひひひひっ……」

 

そのまま死んでも、あまり自分は悲しまないだろうなあ、とかダフネは思った。ディオニュソスもまさしく呆れ果てた目でずれ落ちそうな月桂冠を見ている。尋常でない爆笑ぶりに、群衆も訝しげな視線を送る。

……ややあって人垣の中から、小さな影がまろび出た。笑い転げる神の正面にそれは屹立する。

 

「ご機嫌麗しゅうございますねえ、アポロン様。何か面白い事でもあったのかい」

 

「アハハハハハハッハハハハハ、ははぁ、ひっ、ひひひひひ、それはっもう、ケ、傑作な、うくくくく……うごおぉッッ!!」

 

鋭い踏み込みとともに繰り出された正拳が、アポロンの鳩尾にめり込んだ。一級の戦士も見惚れる必殺の一撃でその長身は僅かに宙へ浮いたのち、力なく床に崩れ落ちる。

ヘスティアは、ほっぽり出して忘れていた分厚い資料を小脇に抱えると、臥して動かないアポロンを一瞥した。

 

「やっぱりただ見世物扱いしてただけじゃないかっ!!馬鹿にしやがって!!ふんっ!!」

 

再び波を割る女神は、怒り肩のがに股歩きで今度こそその場を後にした。

 

「……生きてるか?」

 

「あ、おかまいなく。いつかの時なんかイシュタル様の『子供』に言い寄って吊るされて、顔の皮を剥がされそうになってたし……よくある事です」

 

事も無げなダフネは長い足を肩に載せて歩き出した。白目を剥き涎を垂らす色男を引きずる姿は、小さな偉業を成した者達に負けず人々の注目を浴びていた。

 

「神様も、普段の行いが大切ですよね……」

 

「……私は誰に何を恥じるような事などしていないぞ」

 

多分に示唆の満ちた眷属の言葉の真意を、ディオニュソスは尋ねなかった。他方、渋い顔を作る主の発した言葉が真実であるかどうか、フィルヴィスには決してわからなかった。

 

 

--

 

 

自分は確かに成し遂げたのだ。道すがら掛けられる声は嘲りと哀れみの篭る聞き慣れた響きなど皆無だった。すれ違う毎に、口さがなく賞賛と畏敬を送ってくる人々。

歩を進める中で、ベルは奇妙な気分が大きくなっていくのを自覚してしまう。その中身がわからない焦燥も。……それ以上考えてはいけないのだと警告する自分が居る事も。

凍り付いた砂漠を導なく探し回るような、果ての見えない戦い。それは終わった。勝利を掴み取った今、何の懸念も無い筈だろうと言い聞かせている少年は、一人誰の声も届かない闇の中を彷徨っていた。

軽く、肩を叩かれる感触を理解するまでは。

 

「到着しましたよ?」

 

「?、…………ハッ、すいません!」

 

魔石灯の点きはじめている道路に面した大きな酒保には、時間帯なりに盛況な様子だった。

しかしベルの視線は、通りすがりに此方を見やる人々でも、怪訝そうに自分を見ている同行者でも、況してやこの店で得た愉快とはいえない過去の記憶にも向いていない。

 

「さあて。ここであんた達の事を褒め称えたなら、あたしもその他大勢の風見鶏と一緒ってわけかねぇ?」

 

女将が不敵な笑みと共に飛ばす自嘲とも皮肉ともつかぬ言葉がベルの中に反響して、泥の中に埋もれるのに任せようとしていた本心がまた顔を覗かせようとしていた。

面食らう少年の顔に何事かを危惧したか、シルは眉をひそめて苦言を呈する。

 

「ミア母さん、意地悪言わないでください。八方丸く収まって、それでいいじゃないですか」

 

「ふん?丸く、ね。まぁ、出すものを出すんなら客だ、拒む事なんかしないけどさ……」

 

言うだけ言って店内へと消えるミアに、ヘスティアは口を尖らせる。

 

「歓迎されてないみたいだね……」

 

「すいません……ちょっとだけ、意地っ張りなだけなんです。本心じゃないですよ……クラネルさん?」

 

訪れつつある夜の漆黒をかき消す街明かりも、見知らぬ人々の感嘆の声も、もはやベルの気を逸らすことは出来なかった。心の底から自身を慮っているのだろう三つの眼差しが、忘れて消し去ってしまおうとしていた彼の本当の思いの陰影を描く真実の光となっていた。

 

「……先に、会わなくちゃいけない人が……その人の前でやらなきゃいけない事があります。お店に入るのはそれからでもいいですか?」

 

どうしてこんなにも苦しく思うのかとベルは口を噤み、それはすぐ自嘲に変わる……最初からわかりきっていた事の筈なのに。剰え口にするのは、もっと苦しく惨めな気持ちになるばかりの、何の意味も無い自己満足でしかないのだ。

それでも伝え、確かめなければならない事だった。見て見ぬふりをする事など出来ないのだ。自分の中に確かにある迷妄と煩悶は、どれほど目を逸らしても無くなる事などありえないと、彼は知っていたから。

ベルの意思全てを汲んだかは定かでないが、シルは僅かばかりの間目を丸くして――――頷くと、一行を裏口へと案内するのだった。

 

「……あの、ベル君」

 

絶えることのなく聞こえる住民の営みの音、混じる賞賛と評論が、扉が閉まると同時に消える。いやに狭く感じる廊下を歩く短い時間に耐えられなずにヘスティアは口を開く。

『子供』の思い詰めた様に主が危惧を覚えぬ道理など無かった。だが、その何らかの決意をここで問い質す事に尻込みする気持ちもまた、等しくあった。

あらゆる問題は消え去ったと思い込むのを、どうして許せずにこんな重苦しい気持ちにならなければならないのか?そう主に詰られれば、ベルはおそらく、気の抜けた、虚ろな笑みを浮かべて肯く事だろう。

 

「いや……何でもない」

 

「……」

 

足を止める事はなかった。やがて一柱の神と三人の死すべき者は扉の先、失われた正義の們に出迎えられる。リューの双眸から広がる凍り付いた空の色は個室を覆っているようだった。中に入れない巨漢のせむし男は廊下から、その温度を感じ取っていた。表情を変えず、真っ直ぐに。

 

「万事上手く行ったというわけですね。暴虐の企みは堅い友誼によって辿り着いた真実で、退けられた。ベル・クラネルさん……あなたは大した事をしました。誰も、否定は出来ないでしょうね」

 

空々しく聞こえる台詞で、ヘスティアの中に如何ともしがたい感情が鬱々と、積もっていく。だが知己を前に起こせた癇癪も憚られた。彼女の顔と声に、『子供』のそれと同じような虚ろさが滲んでいると気付いたゆえに。

……過去、正義の群団を滅ぼしたものが何であるかを知っていれば、女神の胸を満たすのは単なる同情心だけだったに違いない。だが、真実はそこへの過程の中にあるヘスティアの理解と少し逸れた場所にあった。

 

「僕一人では、何も出来やしなかった。どんな、何も手に入らなかった。……誰かを信じる事すら、この道を選ぶ事すらきっと、出来ませんでした」

 

首を横に振ったのち、感情を押し隠すように平坦な響きで以てベルは吐露する。もし、一人きりなら。剣と翼の天秤へは至れず、それの存在は知れず、滅びたファミリアの生き残りの名など及びもつかず闇の中を彷徨い歩くだけだっただろう。

恥も外聞も棄てて街の住民に全てを明かす事も、幾多もの冒険者に袖にされる事も、……ラキアの思惑に正面から楯突く事もなかった。

 

素性も人格も碌に知らない、人目を忍ぶせむし男に助力を請う事も。

 

「アルゴス、僕は……」

 

口を閉じ、固く、歯を噛んだ。胸は苦しく締まり、喉に重く閊える塊が行き来していた。

しかし、なんとしても自分でその言葉を絞り出さねばならないと、ベルは知っていた……真実を求めて戦い、成し遂げたからこそと。

論理を無視した蒙の輩がそこに居た。だが、彼を中心に作られている決死極まる空気は、詰まる言葉に割り込もうという意思など寄せ付けなかった。

アルゴスとリューの二人を、赤い視線が一度だけ往復した。

ヘスティアとシルは、拳を握ってそのさまを見守っていた。

ベルは、首を横に振った。

 

「……あなたはもう、自由なんだ。どうしたって、誰も止める権利なんか無い。冒険者に戻って……そうでなくても、他のファミリアに入る事も、今度こそ、この街から去るのだって」

 

「お、おいベル君、そりゃ――――!」

 

ベルは、たまらない様子で口を開いた主を一瞥した。その眼光は刹那向けられるだけで充分、対面する者の言葉を奪う重圧を備えていた。

物理的な衝撃をすら錯覚して硬直する顔に、すぐベルは己の失態に気付いて目を閉じる。だが、その事にかかずらう余裕も尽きていた。いま全てを白日の下に晒さなければ、その言葉は永遠に闇の中に消えてしまうような、そんな焦燥が彼を支配していた。

 

「僕がこれからどうするなんて、そんな事、もう関係ないんだ。あなたは居なくなってしまった神様と、ファミリアの仲間達を探さなきゃいけないんだ。……僕はっ!」

 

思い切り声を上げて、荒い息継ぎが、数拍続いた。ベルの視界が歪んでいた。酸素の足りない脳が生む幻覚である。

 

「僕はっ、真実がどうとか、あるべき正義のことなんか、どうでも良かった!あいつらが気に入らなかったからとか、そんな事もっ……恩義の為なんかでも、ない!偉業なんて、どうでもいい……!僕は…………」

 

ばらばらの感情が吐き出されていく。すべては昨晩、リューが問うた事だった。簡素に、冷厳に突き付けられ、容易く飲み込んだ筈の真実の数々は今一度、心底、本人の血肉となった言葉としてここに顕現した。

いつかの時を、シルは思い出していた。弱りきった少年が、口篭りながら行った懺悔のこと。魂まで潰しそうな重みに耐える必死の表情。心底痛ましく思う感情は再び呼び起こされる。

かの時とひとつ違うのは、この場においては、彼を揶揄する者が一人も居なかったということだけだ。

 

「……何もかも忘れてしまう自分よりも、戦えない自分のほうが、ずっと恐ろしかった。自分が消えてしまいそうで、怖くてたまらなかった……誰からも見捨てられて、また一人になるのが、嫌だった。だから、助けを求めた……誰でも良かった、知らない誰かなら。こんな、弱い自分の事なんて、どうとも思わない、誰か……」

 

第三者でしかない正義の女神の『子供』への告解は、ただの義務感で幾らでも覆い隠せたのだ。だが、今は違う。動悸は不規則に鳴り、向き合いたくない弱さを剥き出しの感情のまま掴んで喉の奥から引きずり出すような苦行は、自分に救いの手を差し伸べた者の前だからこそ、克服し難く少年を苛む――――それに耐えねばならぬと己に科す矮小な挟持も、その拠り所がここに居なければ絞り出すことも決して叶わないのだ。

 

「神様にもひた隠しにして……あの二人に啖呵を切って、街を駆けずり回って……」

 

もはやベルの中には、その言葉を遮るものは無かった。上げられた顔は、虚ろな自嘲を浮かべていた。

 

 

「自分が、何かを成し遂げられる人間だと、そう思いたかった、この街に居られる人間だって、自分に証明したかった……その為に、やったんだ。……それだけなんだ。誰の、何かの為にやった事じゃ、ないんだ……」

 

 

ひたすらに冷淡に見えた名も知らない住民達へ抱く怒りも侮蔑も、全てはそれを向ける己へと跳ね返る身勝手な逆恨みに過ぎない。勝手に挑み、勝手に挫折し、勝手に消え去りかけていた惰弱の輩は、もう一度立ち上がる為の餌と、寄る辺なき罪人を利用したのだ。

 

だから、もう、自分のような弱く得体の知れない『子供』に関わる理由など、あなたには無い。

 

本当に求めるもの、得難く思い続けるものが違う以上、同じ道を歩む事は出来ない。

 

途方もなく馬鹿げた泣き言は、それを裁く権利のある者達の前で明かさねばならなかった。雪ぐ術の無い罪であってもそれを闇の中へ追いやったまま歩み続けられる強さなどベルは持っていなかった。

 

真実を求めて戦った死すべき者の救いがたい弱さは、どんな擁護も差し挟めない沈黙をそこに生み出していた。

 

「…………それ゙が、お゙前ぇの、本心゙な゙んだな……」

 

疎らな歯が動き、罪人を咎めるでも、赦すでもない言葉を隙間から漏らした。静寂は熱波と霧氷の狭間にあるような危うさを湛えており、どんな感傷も見出だせない濁声だけが暫し宙に打ち込まれて、全ての者達の反応を阻んでいた。

ベルが首を縦に振るのには、彼の持ちうる全ての力を使わねばならなかった。ひたすらに重そうに、その仕草は青い瞳へと映り込んでいた。

 

「…………」

 

そして。

開いた扉からただ一点を注視していた青眼の持ち主は、ゆっくりと、巨躯を動かした。

誰も、それを止める事は出来なかった。誰もその権利を持たない。手を伸ばしても足を止めたままの女神は、それを知っていた。

彼は自由になったのだという事を。

 

 

 

「……………………どんなに崇高な題目も、負けて潰えれば残せるものなど何も無い。あなたは勝った。誰に後ろ指を向けられる謂れなど、ありはしない。……私は、そう思いますよ、クラネルさん」

 

「ありがとう、ございました。リオンさん、シルさん。何も返せない事を許してください」

 

只管に苦渋を堪えるその面持ちは、身勝手極まる屁理屈で善意を反故にする者の傲慢に過ぎなかった。それでもシルは居たたまれさに何も言えなかった。

ただ、悲しかった。

 

「……許さなければならない事など、私にはありませんよ」

 

あらぬ方を向くリューが、そう呟いた。それが本心であるかどうかを知っているヘスティアは、決して真実を暴かなかった。

裏口の扉の、いやに重く聞こえる開閉音が途切れてから、どうということのない会話が少しだけ、続いていた。

 

 

--

 

 

「あの日、あんたがアポロン様に連れられて話したっていうの、あの子達の事じゃない?やるもんだよねぇ」

 

「……そう、だったね」

 

カサンドラは、感心しきりの様子を見せる同朋に対し、格別な反応を起こさなかった。

 

「そんなにどうでもいい?」

 

「……」

 

強大な力に抗って自由を手に入れるという美談の耳障りさよりも、単にあの少年の中に垣間見た深い暗黒を思い出すのが億劫だった。

寝転ぶカサンドラは瞑目し、自分だけの逃げ込める闇の褥へと落ちていった。

 

 

--

 

 

今の自分に祝宴を開くような気分へと持ち直せる気丈さがあっても、それを行使する図太さを発揮出来やしないという事を、ヘスティアは知っていた。気分だけは人目から逃れるように縮こまっている主従は、早足で家路を辿る。

 

「お、あんた方は」

 

「小さな英雄さ~ん。ウチに来ない~?」

 

「よくやってくれたよ神様、あの筋肉ダルマ共の顔といったらなあ!」

 

どんな言葉も頭の上を通り過ぎていくかのようだった。神の街に入り込んだ害虫を叩き出した程度の、とるに足らない小事。達成感などとっくに燃え尽き、永遠に熱の宿らない灰となって心に貼り付いているかのようにヘスティアには思えた。

握られた手の感触を深く、消え去るのを拒むよう強く確かめる。そこから繋がっている『子供』の心境を余す所なくはかり知ってしまったからには、あんなにも浮かれていた自分の醜態すら悔いるほどに胸中は重い。

 

「神様。……ごめんなさい」

 

時を忘れても歩みを止めずに、勝利の余韻を遠くへ置き去った者達は帰るべき処へと辿り着いた。街灯は乏しく、ちっぽけな戦いを征した女神の神殿は、哀れまれるべき清貧ぶりを変わらずに保つだけだ。それは夜闇の星明かりの下で、更に見窄らしさを浮かばせている。

小さな前庭で立ち止まったベルは、たったひとり以外の誰の耳にも届かない声を出したのだった。

 

「神様も、僕の助けになるようアルゴスに頼んでくれたのに、こんな勝手な事をして」

 

「そんな事っ……言って、くれるなよっ……」

 

とてつもない寂しさが、ヘスティアの中に湧き上がった。何もかも悟りきったような表情のくせ、わかり易すぎる未練を滲ませている少年を見てその口上を遮るのを抑えられない。

 

「アルゴス君と組む事も、彼を助ける事も、キミが決めた事だろっ。キミが始めて、……キミが終わらせた戦いなんだ。ボクは、最初から……」

 

手を握ったまま正面に回り込んでまくし立てていたヘスティアが、俯いた。

 

「キミの助けになるなら、キミの為になるなら、って……それだけだよ。キミと、あの子が決めた終わり方がこうなら……どうしろこうしろなんて、思いやしないよ」

 

嘘である。

ヘスティアには最初から義務感があった。かの如き境遇にある『子供』を擁護しなければならないという。それは、アルゴス自身の事情を知った上での同情心でもあったし、彼の主との関係に基づく義侠心でもあった。ラキアに戦いを挑むのを後押ししたのは、悪法の跳梁を許さない道徳心で、いけ好かん戦神への対抗心だ。

 

そして何よりも――――彼ならばきっと、訳の分からない強大な運命の影の付き纏う少年の事を守り導くのに、何らの不足も無い筈だろうという打算から生まれたものだった。

 

それが、科せられたもの全てから解き放たれたのを告げられるや、ああも簡単に孤独なせむし男は去っていってしまった。

ヘスティアの中にあるのは消し去りようのない不満と失望、そして、それを芽生えさせてしまう己の不徳に対する底なしの侮蔑だった。

そう、彼は自由なのだ。

頼んでもないのにやり遂げたのだからという恩を着せ、それを理由に生き方を束縛する事は、ありもしない罪を着せて虜囚の身へと堕させようという行いと、いったい何の違いがあろうか。

 

そんな傲慢を許される者など、この地上の、そして天界の何処にも、居るはずがない。

 

「…………大丈夫ですよ、神様」

 

ベルは、ヘスティアの細い肩に手を乗せた。少しだけ屈んで顔を近づけるさまは、いじましく傷を舐め合う小さな家族の現況を端的に映し出しているようだった。

 

「神様の名前はきっと街中に知れ渡ります。悪を許さず、損得関係なく戦える、素晴らしい神様だって。……入団したいという人だって、やって来るかもしれない」

 

主の心を『子供』はすべて理解していた。苛むものを打ち払う為に口にする希望的観測……それは自分で本気で信じているのかどうかもわからず紡がれる、空虚な繰り言なのだという自嘲をも。

 

「僕一人でおっかなびっくり戦う必要なんて、すぐに無くなりますよ。心配することなんか、無いです」

 

『子供』の心もまた主はすべて理解していた。

 

寂れた神殿の前で、赤い瞳と相対しながら、ヘスティアは思った。

 

負ければ全てを失う。だから、戦った。

 

だが、勝つことで得るものとは、いったい何なのだろう?

 

どんなに考えても、答えには至れなかった。

壊れた扉をくぐり、奥の扉を開け、小さく温かい、ふたりだけの暮らす安息の場所で、明日から始まる戦いの日々の為の眠りへと就こうとも。

 

 

 

--

 

 

彼は自分が海の前に佇んでいるのを知った。切り立った断崖から見下ろす水平線は、いままさに全貌を覗かせつつある陽の色に染まる黄金の野のようだった。どんな死すべき者でも言葉を失う、地上遍くものを創造した超越者の芸術品がそこにあった。

 

だがそれらも、眼下の白波の調べを生む、狭間に生まれる吸い込まれそうな深い青色も、今の彼の心を癒やすものとは決してなりえなかった。

 

途方も無い戦いを終えた今の彼を支配しているのは、虚無だけだった。

 

何の為に、自分は戦ったのだろうか。

 

自分は何を得たかったのだろうか。

 

自分は――――何を失ったのだろうか。

 

彼は決して、それらの答えに辿り着けなかった。

 

振り向けば、開かれた扉から注ぐ光景に目が眩む。

 

地上のどんな芸術品も及ばない、天界の住民が生み出した無尽の栄華の顕現が広がっていた。

 

『――――…………』

 

彼は何も言わず、そこに足を踏み入れる。

 

それ以外のどんな道も、彼には残されていなかった。

 

 

--

 

 

「……ベル君……」

 

灯りの消えた部屋は深い闇と微かな寝息の音のみが支配する、一組の主従の褥以外の役目など持っていない。

ヘスティアは、ソファで眠る『子供』の顔を、触れるのを厭わない距離で見つめている。

消えてくれない不安と孤独感を慰めるための行動だった。彼の存在を網膜に焼き付けるのを望んで、その寝顔を眺めていた。

 

閉じられた瞼から流れ落ちる確かな煌めきをも、女神の瞳は見逃さなかった。

 

「…………」

 

音を立てないよう、細心の注意を払い――――かつ、自らの動作の生む作用が最小のものとなるようにも図らって、ヘスティアは狭い寝床の中に忍び込んだ。

眷属との同衾を無事果たすや目を閉じつつ、手を伸ばす。

細く小さく見える少年の身体は、小さな女神にとってはずっと大きく感じた。

心細さに冷たく悴んでいた心は、掛布の中の右手から伝わる熱で立ち所に融けていくようだった。

緩んだ心身を、夢の世界へと誘う闇が包み込んでいくのをヘスティアは理解した。

そして抗いようのない眠気に支配されるのを任せながら――――小さく、囁く。

 

「…………自分の為に、何も出来ない奴に――――他の何かの為に、何が出来るって、いうんだい――――?」

 

 

 

戦わなければならなかった。

 

他の何か、誰かの為などではない。

 

すべては自分の為だった。

 

 

 

その思いそれ自体が過ちであるはずがない――――どんな結末へ至ったのだとしても、それが自分の意思で選んだ道の果てにあったのならばなおさら。

 

その思いが『子供』に届いたかどうか、彼女に知るすべは無かった。

 

 

--

 

 

二人の少年が戦っていた。

槍と盾を構えて対峙する、背丈も年の頃もほとんど同じ……未だ児童というべき程の小さな体つきの二人は、しかし、滾る戦意のままに切っ先を鋭く相手へと突き出す。盾がぶつかり、裂帛を上げて押し合う。蹴りで鳩尾を貫かれ膝をついた片方は、追い打とうと得物を振り上げる相手に砂を蹴り掛けた。

 

『ハッ、もうおしまい?』

 

『ッ、はあっ!!』

 

彼らは戦士となる運命を背負っていた。彼らが生まれ落ちた場所、育つべき場所の定めだ。国の礎を築いた偉大な英雄の名を冠する法に従う事に、疑いを抱いたことなど刹那として無かった、二人共。

戦士達等しく背を預け、肩を並べ、そして守るべきものの為に戦う一つの剣、盾となさしめるべく、幼き時分からかくの如き勇猛さを培うようその街で奨励された。

誰もが恐れ、誰もが従い、誰もを打ち倒す最強の戦士の姿を誰もが目指していたのだ。

 

『どうした!!かかってこい弱虫!!』

 

『っおォ!!』

 

幾つもの打ち合いが続いた。穂先に火花を散らし、怒声で以て心を激突させる。その胸中は噛み締められた歯と、つり上がる口角が物語る。

小さな戦士達は、稽古の高揚の中で確かに果てない渇望と充足を同時に得ていたのだ。

そして、それは永遠に続かない時間なのだという事を『子供』達は知っていた。

向き合う二人の脇から、出し抜けに声が掛かった。

 

『さあ――――戦いはおしまい。夕餉にしましょう』

 

彼女はそう言って微笑む。二人の『子供』は母を見上げると、疲労と歓喜、少しの未練を浮かべて我先に駆け出した。

その背を追い彼女は思いを馳せる。小さくともその身に宿る闘志は、何れも同じ年頃の男子とは比べるべくもなく燃え盛り、互いでなければ並ぶ者無しとその強さを既に知らしめつつあるという事実へと。

二人はきっと、この街から生まれた最も偉大な戦士として、その名を歴史に刻むに違いないと、そう確信していた。どんな敵も打ち倒し、留まるところを知らない栄光を手にすることだろう。

同じ血と肚で作られた身体と、何よりもこうして技を高め合う事で育まれたその絆はより固く、謀りも悪逆も寄せ付けぬ力となって二人を繋ぎ、助け続けることだろう。

どれほどの困難がひしめくか知れない、誇り高き戦士の歩む道への懸念など、芥ほども思い起こせない。

 

たとえ親馬鹿の誇大妄想とも謗られようが、彼女の思い描く『子供』達の行く末はどこまでも輝かしくあった。

 

母の存在が不要になるのは、そう遠い未来の事ではあるまいとさえ思うにつけ――――吹けば飛びそうな程の微かな寂寥を覚えるのだった。

 

 

--

 

 

「シルがぼーっとしてるニャ。珍しいニャ」

 

「昨日は結局、あの灰かぶりにフラれたみたいだからニャ~。可哀想だから、皆でいたわってあげるんだニャ……」

 

「……えぇと。まぁ、男なんて星の数ほど居」「それが、あなた達の仕事ですか」「い゙ッ」

 

声色は後ろめたい店員どもの耳に零下の感触を突っ込む。大慌てで退散する猫耳を一瞥したのちに空色の視線が身体の向きに倣う。

シルは気まずさを誤魔化す為に、乾いた笑いを漏らした。

 

「……ヘンな夢を見たの」

 

「…………私も、よく見ますよ」

 

消し去れない過去は夢の世界に楔となって深く打ち込まれ、眠りに落ちたリューの意識をしばしば引き寄せる。贖いようのない罪それ自体が、忘却されるのを拒む意思を持っているかのごとく。

視線だけ遠くへと向けるリューに、シルは首を横に振って答えた。

 

「不思議な気分になる夢。すごく懐かしいような、安らぐような、切ないような……けれども内容は思い出せない……たまに見るのよ。同じ夢なのかしら」

 

それは、あの少年を見て呼び起こされるものと、どこか似ているように思えた。打ち棄てられた身の上が同じような境遇の者を捨て置けずにさせる渇望の源泉になっているのを、彼女自身は自覚していたが――――ベル・クラネルに抱くものは、それとも少し外れたもののように思えてならない。

薄く塗られた偽りの笑みにその本心が混じるのを理解するリューは、黙りこくる事しか出来なかった。あの後、彼らを呼び止める事もしなかった自分は、遣る瀬無さに打ちひしがれる目の前の恩人にどんな力になれるというのだろうか。

 

「また、辛気臭くなってるね。小娘共」

 

ミアは、心底呆れ果てた様子だった。にべもない言葉に押し倒されそうになったシルは、思わず胸の内を露わにする表情を浮かべてしまう。

だが、図太く繊細な娘達に向けられるのは、不敵な笑みだった。

 

「終わったことばかり気にして、何の実りがあるっていうんだい。振り返って過去を変えられると思うなら、一生ベッドの中で夢見てるのが良いよ」

 

一層その苦悩を深めるよう沈痛な面持ちになるシル。

――――正しい事は、それだけで死すべき者の歩みを助ける事は出来ない。ミアはそれを知っていた。

 

「そうさ。あの乳飲み子だって、くだらない過去なんざ忘れるさ。あとは自分のしたいようにするだけ……ちんけな同情とか、正しいか間違いか、そんなもの関係なく、ね」

 

含みのある口上に、シルは顔を上げる。リューの凍り付いた瞳の奥にも、はっきりと揺れるものがあった。

 

「あんな出来損ないの身体でも、頭の中身は、あんた達と大して変わりゃしないんだよ。誰だって、自分のしたいように、学び得たものに従って、歩むべき道を決めるもんさ……」

 

長く酒場女を続ける彼女は、そうでない者と比べ多くの事を知っていた。多くの出会いがあった。繋いだ縁は多くの感情とともに記憶され、時として予期せずに蘇る事も、あるのだ。

昨晩――――裏口から去りゆく、古き知己の姿を思い出す。窓越しに朧に、それでも忘れがたく網膜に焼き付くその光。

その目は、幾多もの街灯もかき消す事のかなわない強い光を、たしかに宿していた。

それで以て今一度、ミアは悟ったのだ。

 

まだ彼女が、この店の主人となるよりも以前――――たった一人、誰からも馬鹿にされてようがそれでも戦いを止めなかったあのせむし男は、はるかな旅路を経ても決してその心根を変質させる事は無かったのだと。

 

「自由になれたんなら、あとは私等が気にするような事かい?さ、誰かさんには休んでいた分を取り戻して貰わなきゃいけないね」

 

豊かな体躯から溢れる確信の中身も、それが何に起因するものなのかも、二人の小娘の理解の及ばざるものだった。が、言語を超えた説得力を感じさせる点において、二人の認識は共通していた。

これ以上案ずることなど、何も無いと。

漸く今在る場所、するべき事を思い出した『子供』達は、仄かに、互いの最初の出会いを思い出しながら、力強く頷いた。

 

 

 

--

 

 

 

「!!!!、な!!!!、ん!!!!、だ!!!!、と!!!!、~~~~!!!!」

 

怒声は荘厳と豪奢も極まる聖堂によく轟いた。立ち並ぶ兵は耳を抑えて仰け反り、王と王子はその威容にひれ伏す如き姿を晒していた。本当はあまりの声量に膝をついて気を失う寸前なだけである。

声の元は、その表情も佇まいも微動だにしない死すべき者を睨みつけて鼻息を荒げ、均整のとれた長駆に相応しき端正な顔を隠しようのない憤激に歪めていた。

 

「報告は以上です。ラキアの偉大なる擁護者――――戦神アレスよ」

 

「待てェィ!!!!」

 

金色の短髪は掻き毟られて乱れ、顔の上半分は浮き上がる青筋に覆われている。痙攣する口元は、なお理性的な問答を行うべく尽力して唇を変な形に歪めまくっていた。

アレスは怒りの丈をその全身で表現するのを、持ちうる全ての力で抑制していた。

 

「貴様――――キサマはぁ、つまりッ、例のせむし男を連行する事も、住民一人引っ立てる事も……人質としての神を手に入れる事も出来ずっ、奴らの詭弁を呑んで、おめおめと、お、おぉぉぉお、をぉぉぉっっっっ…………!!!!」

 

「お待ちください偉大なる主神よ、法に基づき彼に全権を委ねたのはこの私、ラキア王マルティヌスであります。これ以上の下知がお有りならばそれは私が賜るもので」

 

「うガーーーーーーーーッッッッ!!!!責任などどうでもよいわっ!!!!負けたのだぞ!!!!よりにもよって、あのチビ相手に…………まんまと言いくるめられて、っっっっキサマはぁ!!!!」

 

決死の進言を図る死すべき者が誰であろうと、絶対者にとっては関係なかった。一喝とともに縋る影を退けアレスは、震える人差し指を不遜なほどに鋭い双眸へと向ける。

 

「デイモス!!!!ラケダイモン最強の戦士などと、聞いて呆れるわ!!!!こんな、ガキの使いひとつ、満足に果たせぬ…………!!!!」

 

「第一目標は、侵攻の為の下調べでしょうが。それを存分に果たしたのは覆せない事実ですよ。だいたいねぇ、何年も前の痴漢だの盗難だの落書きだのまで引っ張り出して、全部おっ被せてこんな大悪党!!匿ってる!!入れろ!!って、ラキアの馬鹿さ加減を広めるようなモンだっつの」

 

揺れる脳天を父に次いで立ち直らせたマリウスはなおも片手で頭を抑え、鼻白んだまま冷たい指摘を口にする。それはアレスにとって怒りを盛らせる糧としかならず、いよいよ広がる両腕の掌は顔とともに天を仰いだ。

 

「だぁらっしゃぁ!!!!負けたのが問題だと言っとるのだあ!!!!どうせなら、あのチビと『子供』一人でも無理矢理攫うくらいせんかぁ!!!!」「それこそ犯罪だろーが、こんボケがぁ!!」「ぬぁんだキサマさっきから!!!!誰に向かって口を利いてると」「てめえじゃなきゃ誰だっつんだよ!!バカ!!アホ!!脳筋!!チンピラ!!」「やめんかマリウス!!アレス様、どうか怒りを」「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」「王子!!」「神よ!!」

 

顔真っ赤な主従が組み合うのを王と近衛が必死に制止している。堂々と踵を返すデイモスの姿は、低次元な諍いへ何らの感傷を抱いていない事をこの上なく物語っていた。アレスは不敬なる王子を蹴り飛ばしても尚、一言も無く去ろうとする不敬なる輩への怒りを収められなかった。

 

「ああとも、キサマは来るべき戦いの布石を打つだけで満足し引き上げたわけだ、卑劣な難癖などラケダイモンにふさわしくない道具という事だろう。全く気高い奴だな!!!!」

 

唾きを飛ばすアレスへと、肩越しに向ける金眼。それは神の街から長大な路を風の如き速さで駆けて馳せ参じるにあたり、一切の緩みもなく研ぎ澄まされたままの彼の闘争心を映す鏡のようだった。

 

「だが忘れるなよアカイア人。お前達がどれ程ラキアにとって欠かせぬ力になろうとも、その精強さは我が血を賜らず手にする事は決して能わなかった事をな。キサマの冠する不退の名も、それ故に敗北し征服された烙印そのものだと、帰ったら部下共にもよく聞かせておく事だ!!!!」

 

口上の途切れると同時に今度こそデイモスは背を向け、開かれた巨大な扉の外へ消えた。言うだけ言ったように見えたアレスは未だ冷めやらぬ激情を腹腔に満たし、赤黒い顔色のまま小刻みに震えている。

斯くの如き剣呑な遣り取りには互いへの敬意や配慮などとは最も遠い場所にある光景と言えたが、王も、王子も、近衛も、ラキア全ての者にとってもごく馴染み深い顛末でしかないのだ。それに頭を痛くするのもまた、広大な国土の統治を生業とする者の常だった。

 

「あのな!こんなガキの使いを提案して!わざわざデイモス将軍を指名して!それを俺らがフォローするのにどれだけ苦労すると思ってんだてめーわ!?ラケデモニアだけじゃない、ボイオティアもアッティカもどっかの馬鹿の無茶振りで不満まみれなんだよ!!」

 

「こんなガキの使いだけならキサマ程度でも出来る事だ、乳飲み子を捕獲し懲役を科してラキアの戦力にし、あわよくば協力するファミリアを弾劾してオラリオの戦力を削ぐという一石三鳥の妙案を!!!!あの無能は~~~~!!!!」

 

仁王立ちする主に再び噛み付く『子供』は一切の忌憚も表明しない。両者の言い分はここに立つ者ならたやすく理解出来るものだ。そして死すべき者の世界では、理屈では回らない事もそれなりに存在するという現実も。

尤も、故郷への帰路につく二人にとっては塵芥に等しく懸念に値しない事象でもあった。聖堂から伸びる石畳は、彼らの歩みと同じように規則正しく並び、神の座を囲んで並ぶ彫刻とともにラキア王国の誇る建築技術を雄弁に物語る。

並んでまっすぐに歩く二人へと、王都の住民は遠巻きに視線を送っていた。決して向き合わないように、横から、後ろからだ。誰もラケダイモンの前には立たなかった。属州の民への畏怖と隔意はあまりにもあからさまであり、そしてそれは憚られるようなものと誰も思わなかった。

 

「狂犬どもが……」

 

誰かの呟きも、はじめから存在しないかのように市井に消えていく。デイモスも、それに従う全てのラケダイモンも、知っていた。

自分達よりも強き兵はラキアに存在せず、そうである以上ここで投げかけられる全ての誹りは耳を貸すに値しない戯言だと。

 

 

 

一晩寝ずにたった二人の行脚を続けたラケダイモンの歩みはまだ止まらなかった。

彼らが帰るべき場所は、ここではなかったのだから。

 

 

 

「……」

 

今並び歩いている、揺らがぬ忠誠を誓う存在がなぜあんな取るに足らない冒険者にあれ程の情けをかけたのか――――男の頭の中では、そんな疑問など消えて失くなったかのように小さく、二度と思い出すことの無い過去となって埋没していった。

 

 

 

--

 

 

 

目覚めは穏やかだった。それは何かが抜け落ちた虚無の生むものなのか、ともベルは一瞬思ったが、物言わぬ温もりはそれがまったくの見当違いであると諭すよう傍に在った。

柔らかく包まれている右手の温度は暑いくらいに感じていたが、汗に濡れる感触は全身どこにも無かった。寄り添われる事の不快さなどどうすれば呼び起こせるだろうか?すぐそこの主の寝顔はどこまでも安らかだ。降ろした黒髪は掛布とソファの隙間に流れ込むように艶やかに見えた。

自然と、ベルの口から呼び掛けの声が漏れた。

 

「神様」

 

「…………ふんぁ?」

 

口端から涎を垂らしつつ、大きな寝ぼけ眼がゆっくりと瞬く。かつてヘファイストスがうんざりするほど見た光景、或いは行った遣り取りであるが、ベルの双眸には限りない慈愛の顕現のようにしか映らなかった……。

ともかく覚醒していく意識と思考が、視界にあるものの意味をゆっくりとヘスティアに理解させていった。真顔、いや、なんだかすごく優しい微笑みを浮かべた『子供』が居る。キラキラ光ってる。なんだこのイケメンは!?(注意:ヘスティアは寝起きである)だいたいここは何処だ?柔らかいぞ。ベッドの中じゃない??あれ!?そうだ確か昨晩ボクは、いや、これはっ、違うんだ!!

 

「あっ!あっあっ!駄目だぁまだ速いぞぉこんなのはぁっっ!!!!」「うわわっ!!」

 

完全に無防備な精神状態が彼女に重篤な混乱を引き起こした結果、起き上がった勢いで『子供』をソファから落としてしまった。ヘスティアが一世一代の大チャンスを逃した事を知るには、それからほんの僅かな時間しか要さなかった。

 

「すみません神様……ヘンな起こし方をしたせいで」

 

「いや違う、違うんだ……ちょっと驚いただけなんだよ!大体潜り込んだのはボクのほうで……くそっ、なんて勿体無い……」

 

主の呟く意味の取れぬ言葉についてベルは理解出来なかったが、それを除けば昨日までの切羽詰まりきった雰囲気が嘘のような緩やかな朝餐の時間が流れていった。

眠りの安らぎが自分に諦観を与えたのかもしれないと、準備をするベルは朧げに思った。ひとつの戦いは終わった。自分が終わらせた、どんな形であれ……。

ならば、また別の戦いに挑む日々が始まるだけだという至極当然の理屈に、己の心身は従っているのだろうかと。

 

それを止めさせない理由を忘れる事は何があろうとも許されないとだけ、ベルは理解していた。

 

「……ベル君っ、これでどうにか、また始められる場所に戻ってこれた……とボクは思ってるんだけども」

 

出し抜けに主は、引き締まった表情で会話を切り出した。振り向いて、ベルは肯く。続く口上を遮らない意思表示として。

大きな目を持つ幼い顔は、とてつもなく切実な話を絞り出そうと苦心して、その言葉は実に酸っぱそうに見える。

 

「いっ、言わなきゃいけない事があるんだ。すごく大事なのに……キミに隠してたことがあって」

 

「…………??、それは、一体?」

 

突如の告解の中身についてベルには見当もつかずに、目を瞬かせて眉が撓る。とても重要な話なのに違いないが……。だが、隠していたと言うからにはさもあろうかともすぐ思い至る。そして、どんな内容だろうとも、それは自分の中にある主への忠誠と信頼を疑わせるものであるはずがないとも。

面持ちは正され、もう一度ベルは頷いた。目を閉じて震えていたヘスティアは、意を決して、口を開いた――――『子供』もまた、己が恥部を全て明かした。その行いを肯定するのに、主が同じ事をせずにいられようかと!

 

 

 

「じっ、実はっ、…………ボクっ…………お店、クビになっちゃったんだよおおおお~~~~、おっ、おっ、…………」

 

「…………、ん?……??、????」

 

 

 

かつてなく深い悲嘆に満ちた声を出し、主は顔を覆って俯いていた。丸い目でそれを見やるベルの頭上に、大量の疑問符が生えて群れをなした。

それは、それで、それが、……何だっけ?と、言葉の意味の解読をしつつ反応の引き出しを必死に探る眷属の姿は、ヘスティアの危惧を大いに煽った。ばっと顔を上げて、その勢いでベルの肩に掴み掛かる。前のめりの勇気は、失望を買うかもしれない焦りが生むものだ。

 

「でっ……でも!な!大丈夫だっ、何としてももう一度雇ってもらうからさ!そうとも、あの時は色々と事情があったわけで……ボクらがやってのけた事だって知ってる筈だし、ちゃんと説明すればきっとわかってくれる!!多分、いや間違いない!!絶対だ!!」

 

汗を流し、目を盛大に泳がせ、忙しなく手振りをして弁解に腐心する醜態に威厳というものを見出だせる死すべき者は、この地上に居るだろうか。ぽかんとしたままのベルは、上体とともに激しく揺すられる脳で必死に主の言わんとする事を解そうと励む。

 

(そういえば神様に伝えてなかったな、もう全部知ってるって事……)

 

「べっ、ベル君っ!!お願いだっ、見捨てないでくれようっ!もし駄目でもっ、別のバイト先探すから!!週七でも働くから!!家事ぜんぶするからあああああ!!」

 

「まっ待、待っ、まっ、待って、落ち、着いて、ください」

 

ヘスティアは出来もしない事を叫びながら、物言わぬ少年をガクンガクンガクンと尋常ならぬ周波数で揺する。意識を手放す危険を感じたベルはその一歩手前で踏み止まり、細腕を掴んで制止を促した。

正面から見据える顔は、幼さの著しい美少女そのものの造形に万余の悲壮を浮かべていた。それが呼び起こすのは、少しの罪悪感も一瞬で覆ってしまう、相手を思う故の慈悲と、そして――――

 

「大丈夫ですよ。神様の言う通り、元通りに雇ってくれるはずです。それに、僕は……」

 

言葉が途切れる。

こんなことも伝えていなかったのだと、愚昧さへの自嘲を湧き上がらせた。かくも些細な機微も感じ取るヘスティアは息を呑んで、『子供』の二の句を待った。

そしてベルは、言った。

 

「僕だって……神様を見捨てたりなんか、しません。絶対に、何があっても」

 

――――孤独への恐怖。さもなくば麗しい博愛なのだとしても、その言葉を紡がせるものの正体が主従において全く同じものである事に違いはなかった。

己の真実の姿などわからない死すべき者の言葉は、それでも女神の心に広がる不安の海へ落ちて輝き、無明の幽冥を果てまで照らしていく力が確かにあった。

 

「うん……ありがとう、ベル君。取り乱してごめん。……ああ、そうさ。この固い絆があれば、どんな困難も打ち砕けるって証明したばっかりなんだ。何も気に病む必要なんか無かったなっ!!はっはっは!!」

 

もっと気にしなさいよとかつてその身を預かっていた女神ならば言うだろうが、今という時のこの場所においてそぐわない言葉だとも既に彼女は知っているのに違いなかった。未だ知れない道行く先には多くの懸念があり、そしてその足跡に多くの未練を残しているのはどの主従も同じ事と受け入れる小さな器は、確かにヘスティアの中で醸成されていたのだから。

調子よく高笑いする姿にベルはつられて笑みが漏れる。

 

 

胸の片隅に鎮座し続ける空虚さも、いつかこの温もりが埋めてくれるはずだと信じながら。

 

 

「じゃ……行くとしよう。時間も惜しい事だしな、ベル君も……」

 

「僕も、一緒にお願いしに行きますよ。探索は、その後でも」

 

その提案こそ、欠いてしまったものの自覚を恐れる本心のなす言動だと誰も知り得ないのだ。ヘスティアに反対する理由などあろうはずが無かった。正直ちょっと心細かった手前、一も二もなく快諾する。目を輝かせて首を縦に振る姿が、彼女の心境全てを物語るだけだ。

主もまた同じだった。

勝利それ自体だけに喜んで――――何を失ったか、何を得たか、それは取り戻せぬ過去でしかないのだと自分に言い聞かせる欺瞞に慰めを見出すのは。

掛け替えのない存在を思う者達は、振り返る事はあってもそれを思って立ち止まる事はもはや出来なかった。

 

 

それが、かれらの選んだ道だったから。

 

 

扉の先、狭い階段を登り、小さな神殿の小さな広間が、主従の視界に広がった。

 

 

 

 

 

「――――――――」

 

 

 

 

 

ベルはそれを見て、言葉を忘れた。

 

 

 

--

 

 

彼は、どうして自分が海に安らぎを見出すのかを知っていた。

 

得たいものも、失うものも、帰るべき場所も、何もかもなくしてしまった彼は――――埋めようのない虚無を、その広大な褥の中で紛らわす事が出来たからだ。

 

 

どれ程の困難な戦いを征しようと、どんな敵を滅ぼそうと、それらの勝利の中にどんな救いも見出だせない無念が残るだけだった。

 

けれども永遠に続く波の音は贖えない罪を詰らず、青い深遠は取り返せない喪失も飲み込まれてしまう程に深く大きかった。

 

 

忘れる事の出来ない痛みと苦しみを癒せるのは、それだけだった。

 

 

--

 

 

 

天蓋は所々崩れ、朽ちた内壁の亀裂が走り、壊れた椅子が転がる、荒れ切った神殿の真ん中に佇むアルゴスは、伝えなければならない事があるから、そこに居た。

 

「おでは……此処に゙は、居られねえ゙。もう、お前ぇに゙力を貸す事も出来ね゙え」

 

過去と割り切ろうとした虚無は大きな影を象って主従を覆おうとする。壊れた大扉の向こうを照らす朝焼けの光に、ベルは顔を顰めた。

しかし主従はすぐにせむし男の真意を知り、暗澹とした面持ちを改めるだろう。

 

「おでは……まだ、諦め゙られねぇんだ。まだ……おでの神゙様が、皆゙が、何処かに居゙るかもしれねえ゙って思うと」

 

今やあらゆる者の意思に依らず生きられる権利を得た死すべき者は、気付いたのだった。なぜ自分がこの街に戻ってきたのかを。遥かな温もりの欠片に縋り、不当な扱いに抗うのも諦める弱さを。再び自分を受け入れてくれる誰かを求めていた弱さを。

遠い昔、目的を果たすまでは戻れないと信じて去った、かつての決心を。

 

「ふたり゙に会え゙なきゃもゔ一度、立ち上゙がろうなんて、思わ゙なかっだ」

 

ただ一人でも戦い続けられる戦士になるためにあがく少年と出会った。

あるかどうかもわからないものを手にする戦いに厭いなく挑む神が居た。

ただ闇を彷徨い、逃げ帰ってきても自らその深きより踏み出す事が出来なかった男にはどこまでも眩しく映る絆が、そこにあった。

 

「済まねえ゙」

 

深い慚愧があり、それ以上の未練が篭もる言葉だ。目を閉じて僅かに肩を落とすアルゴス。

だがいつの間にか忘れ去ってしまっていたものは、諦観を湛える青い瞳の中に落ちて眩しく煌めき続けている。その衝動を抑える事は彼には出来なかったのだ。

 

 

たとえそれが、忠を誓った存在への裏切りなのだとしても、彼の選んだ道は、まだ途切れていなかった。

彼がはじめた戦いは、終わってなどいないのだ。

 

 

「良いんだ」

 

一語で全ての心境を語ったベルは、胸に満ちる虚無に愛しさを感じた。自分が何を得たのかわからない、ただ無駄な時間と労力だけを費やしたのかもしれない戦いの結果に、後悔など無かった。

ヘスティアは、涙を堪えながら、口を開いた。

 

「ッ、っだ、大丈夫さっ。必゙ずっ、会え゙るよ。あ゙の゙娘だっでっ、キミ゙の事、世界゙中っ探しでるに゙、決ま゙っでるっ!」

 

押しとどめられない感情の奔流を頬に伝わせているのは、彼女の『子供』も同じだった。しかし、その顔には確かな得心に基づく笑みがあった。

クジャクの羽根のエンブレムが遠ざかるのを見つめ、ベルは少しの間だけそこに佇んでいた。

 

 

 

ひとつの戦いは、そうして終わった。

死すべき者の道は一度だけ交わり、そして遠くを目指して分かたれていった。

それぞれの歩みを止めずに生き続けるかれらの心に、確かなものを残して。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

歪な顔、異様な巨躯を持つ、神に棄てられた男は、何の憂いも見出だせない足取りで去っていった。

 

泣き濡れ汚れた顔の少年と、同じように酷い顔をした小さな女神がそこに居た。

 

壊れた大扉から出て来るかれらの浮かべる笑顔は、神殿をほど離れて見守る少女に全てを理解させる。

 

フードの下の顔に、どんな感情が浮かんでいるのか――――太陽の光の届かない路地裏の影に逃げ込むそれを、誰の目が見通せようか?

 

どうして。

 

どうして、あなたは?

 

――――どうして、私は……。

 

リリはまるで自分が世界で一番惨めな生き物であるかのように思えてならなかった。

 

 

--

 

 

 

 

罪人は知っていた。

 

 

何かを得なければ、何も失う事もない事を。

 

 

その時はどんな形であれ、死すべき者に必ず訪れるのだという事を。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

草原を吹き抜ける風とともに、そのひとは帰ってくる。いつでもそうだった。

幼い自分はその影を見つけた瞬間、他の何もかもを忘れて駆け出す。

馬から降りたそのひとは、こちらを見て仄かに微笑んだ。

 

誰もが言った。そのひとは何者よりも強いのだと。

 

誰もが言った。そのひとは何者も恐れないのだと。

 

誰もが言った。そのひとは何者にも讃えられるのだと。

 

けれども幼い自分は、そんな事を聞かされても、ちっとも理解出来なかった。

そのひとの大きな優しさだけが、自分の知る、大好きなそのひとの全てだったのだ。

飛びついた小さな身体を受け止めた太い腕が持ち上がる。それだけで、世界の誰よりも幸せな気分を夢見る事が出来た。胸の奥から溢れ出す感情で破顔するのを、決して抑える事も無かった。

そんな自分を見つめるそのひとの顔も綻ぶのが、たまらなく嬉しかった。

そのまま広く頑丈な肩に乗せられ、そのひとの力強い歩みを一緒に感じながら、幼い自分はその場所へと向かう。

小さな自分には広すぎて、今自分の居る場所からはとても小さく見える、その場所へ。

扉の前に立つそのひとは、幼い自分を乗せる彼の姿に、にっこりと笑った。それは、幼い自分が世界で一番好きなものだった。幼い自分は、世界で一番好きなものが幾つもあった。

幼い自分を肩から降ろした彼は、彼女と向き合った。

 

『お帰りなさい』

 

『……長く、帰れなかった。すまなかった』

 

二言、三言だけことばを交わして、ふたりは互いを抱き締める。いつでもそうだった。

幼い自分は、不思議に思う。ふたりは幼い自分に見せる、花開くような笑顔で見つめ合う事は決してしない。それなのに、ふたりはきっと、世界の誰よりも幸せな気分を夢見ているのだろうとわかるのだ。

短い抱擁が終わると、彼女は少し気恥ずかしそうに頬を赤くして、幼い自分に向き直る。扉を開いて、中へ入るよう促す。断る理由など、まるで思いつかない。幼い自分は、これから待つ団欒、至福の時を知っているから、我先にとそこへ足を踏み出すのだ。

話したいことはいくらでもあった。一番は、そうだ、前に帰ってきた時に作ってもらった、あの――――

 

『――――?』

 

すう、と、空気が変質した。穏やかな陽気、爽やかに吹く風、楽しそうな鳥の声……同じなのに、違う。自分は今、何処に居るのだろう?何処へ行こうとしたのだろう?

足を降ろして振り向くと、そこには大きな背中があった。大好きなそのひとの、大きな背中。

それは、どうしようもなく遠くに見えた。周囲を見渡す。広がる草原。もうひとりの大好きなひとは、何処にも居ない……。

迫り上がる危惧が身体を突き動かす。

呼び掛ける。

止めなくては。

そう思っても、どうしてか、足がへたり込んだまま動かない。

幼い自分は、理由もわからず必死に手を伸ばした。しかし、そのひとは重い足取りのまま、少しずつ遠ざかっていく。

聞こえないのだろうか。もっと、大きな声で叫ぶ。

行かないで。

お願い。

一人にしないで。

抑えがたい寂しさと悲しみが、両目から溢れ出る。枯れそうになる声を絞り出して何度も呼ぶ。喉の痛みなど、意に介さない。それよりもずっと、ずっと胸が痛かった。

何者にも阻まれないそのひとの歩みの先には、天高くそびえる大きな影があった。まばゆい光を背負い判然としない大きな、とても大きな何か……。

そのひとはそこへ行って、何をするのだろう。そのひとはなぜ、そこへ行かなければならないのだろう?

幼い自分には何もわからない。何もわからない恐怖が、その声を上げさせる。

いや、一つだけ理解していることがあった。

 

 

 

もう、二度と、大好きなそのひとには、会えないのだと。

 

 

 

美しく、穢れを知らない草花達に囲まれてうずくまり、ただ泣き伏せる事しかできない自分がそこに居る。

弱いから。

立ち上がって、追い求める事も出来ないほどに。

 

 

 

 

 

『どうして、嫌――――私も、連れて行って、お父さん――――』

 

 

 

 

 

その言葉は決して、そのひとには届かなかった。

 

 

 

--

 

 

 

黄昏の館の一室で、アイズは目を覚ました。窓から差し込む陽は高い。普段よりも、深く長い眠りだった。

頬にある冷たい感触に、手を添える。

 

「…………」

 

指を濡らすもの――――拭い去る事の出来ない、深い悲しみ――――がどうして生まれるのか、アイズにはわからなかった。

 

 

 

 

遥かな忘却の彼方に過ぎ去った夢の内容を思い出すことも、決して叶わなかった。

 

 

 

 

 

 







・姉君
GOWでは初代だけのチョイ役(コミック版でも本当にチョイ役で出てるけど)。設定画では女ケンタウロスである。

・鬼ババア
原典ギリシャ神話では、浮気相手の子供というわけでアポロンもディオニュソスも壮絶な目に遭わされた同士。でもヘルメスは可愛がられている。理由は略

・一人で戦うこと
原作ベル君は11巻の時点で14歳。スパルタ男子が一人で放浪の試練に挑むのは13歳。
……コミック版GOWで描かれる少年クレイトスのシーンはどう見てもあの映画です、本当に

・勝つことで得るもの
スパルタの名が世界に轟く。

・デイモス
本当はephialtesって二つ名の予定だったけどそこまでひねくれてもしょうがないのでやめました。

・副官君
名前無いんだよラストスパルタン君。きっとこれからも名無しの副官君のままだろう。

・ラケデモニア、ボイオティア、アッティカ
それぞれリアルで言う所のドーリア人、アイオリス人、イオニア人の支配地域(語弊あり)。
勿論ダンまちにこんな設定など無い。全部捏造だ。

・なんだこのイケメンは!?
ベル君はイケメンだ。
クレイトスだってイケメンだ。
何か間違っているだろうか。





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