フーと散歩 (水霧)
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-空を眺めて-
はじめ:くろいそら


「こんな無防備で大丈夫ですかね? 目をつけられるのは時間の問題ですよ」
「そういう連中がいないから心配ないんだろ?」
 ある男と“声”が訪れた村は警備どころか防壁すらない長閑で平和な村だった。心配そうに宿に泊まるが、そこで明らかになった意外な真相とは……? 七話+おまけ収録。『キノの旅』二次創作。




 黒かった空はようやく青みを帯び始めていた。

 小さな光の粒と大きく(えぐ)られた月が一緒に浮かんでいる。その月はというと、西の方へ逃げている最中だ。

 街や建物も無く、木も湖も無く、なだらかな緑の絨毯(じゅうたん)が地平線の彼方まで薄く広がっている。微風で波を作っては、さぁっ……、と音が折り重なって、やがては()ぐ。まるで海のうねりのようだった。しかし、海のような草原は朝焼けを迎えていない空を映すかのように薄暗く不気味だ。

 そこに薄汚れたテントがぽつんと浮かんでいた。

 何かが出て来た。

「……ん……」

 どうやら“人”らしく、このテントの所有者のようだ。黒の寝間着姿だった。

 所有者は一度空を見上げると、テントの入口の反対側にのそのそと歩いていく。その先には木の棒を二本突き立てて、太い縄を繋げて作った簡易式の物干し竿があった。衣類やらタオルやらがかけられている。それらをごっそりと取り込み、テントの中に放り込んだ。

 持ち主はそのままテントに入ると、

「おはようございます」

 どこからともなく“声”がした。大人びた落ち着きのある女の声だ。所有者は暗闇の中、

「おはよう……」

 挨拶を交わす。慌てる様子は無いが、声に力も無い。しかも(かす)れていた。

 上から吊されているランタンを(とも)し、ぼうっ……、と周りが(ほの)めく。先ほどまで使われていたらしい寝袋と真っ黒のリュック、二つのウェストポーチが隅っこにあった。どちらも膨れている。しかし“声”の主の姿はどこにもいなかった。

 所有者は取り込んだ服に着替えて、残りの取り込んだものと脱いだスエットを綺麗に手際よくたたむ。それをリュックに無理矢理詰め込んでいく。ぱんぱんに膨れ上がった。

 ポーチを服の中にあるジーンズのベルトに引っ掛け、リュックと寝袋を持ってテントから出た。

「早過ぎませんか? やっと日が出るところですよ?」

 改めて見回すと、大分明るみを取り戻していた。光源が草の海から顔を覗かせ始めている。その反対側の彼方に左右対称の山が(そび)え立っている。

 所有者は光源によって照らされたその山を睨み、

「……朝焼け見たいなって思って」

 今度はテントを手際良く解体していく。はめ込んだり外したりする金属音がする。

「そうですね。もしかすれば日の出が頂上に重なるかもしれません。正しく百万ドルの夜景ですね」

「……今は……朝だし、それまで待つ時間はないし……ふぁぁ……ねむ……」

 テントは解体され、まるで傘のようになった。最後にそれを寝袋に包んだ。ちょうど柄の部分は飛び出している。

「まさかとは思いますが、寝不足、」

「いくよ。寒い」

 “声”を遮って、足早にその場をあとにした。

 

 

 




空は澄んでいる。あなたの心を透かすくらいに……。




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第一話:へいわなとこ

 層の薄い緑が遮られることなく、どこまでも生え渡る。白みがかった青空に燦然(さんぜん)と照らす太陽に向かって背筋を伸ばしていた。さやさやと(ささや)いている。

 少し走ると汗が(にじ)むくらいの温かさで、満点に近い景色と気候だった。

 そこを踏み締めて突き進む者がいた。

「……まぶし」

 かなりの好青年で背が高く、裾がお尻まで覆う黒のセーターを着ている。つんつんのファーが付いたフードが背中に垂れ下がっていた。袖も掌の半分を喰らい、前のチャックは首元まで上げている。下は藍色のジーンズでセーターのせいでポケットが隠れている。代わりにセーターの腹ポケットを使っているみたいだ。それと薄汚れた黒のスニーカーを履いている。首には細い黒紐が首飾りのように掛けてあった。

 大容量の黒のリュックを右肩に背負って歩いていた。黒く包まれた傘が横から突き刺さっている。

「はぁ……寝たいな……」

 暇だった左手で腹ポケットを(まさぐ)ると、使い込まれたハンドタオルを首にかける。

「先ほど睡眠をとったはずです」

 突如、“声”がした。青年以外にはいないはずなのだが、

「それでも眠い」

 青年は慌てる様子も無く返事をした。落ち着いていて気品が感じられる女の声だった。

「前方を見てください」

「……あ、見えてきた」

 地平線からひょっこりと現れた“鉄柵”。だんだんと近付いてきて、青年の前を横切る仕切となった。鉄柵というには見栄えがなく、せいぜい家畜を逃がさない程度の高さしかない。だから柵の外からでも中の様子が丸わかりだった。

 その柵の真下あたりから、はげて黄色い道が奥まで貫いている。そこの脇にぽつりぽつりと屋根に藁の載った家が置かれていた。しかも家の足から草が生えている。まさしく、この大草原の上に家を置いたようだった。

 それらとは違い、鉄柵の外にあるのは木の板を張り合わせた簡素な小屋だ。見張り小屋らしく、外が見れるように窓の無い窓があった。

「農村……?」

「とりあえず、お隣の小屋に話をつけてきたらどうですか?」

「誰かいたらいいんだけど……」

 どこからともない“声”に従う青年。小屋に行くと、

「ほいほいっと」

 窓から麦藁(むぎわら)帽子を被ったおじいさんが顔を出してきた。白のTシャツに黒の半ズボンと軽装で、ぴかぴかの(くわ)を大切に担いでいる。部屋の奥にも同じように鍬や(すき)が綺麗に並べられていた。ここは農具を管理する小屋でもあるようだ。

「どちらさんで?」

「うーんっと……」

 青年はリュックを足元に置いた。

「あぁ~、旅人さんかぃ」

「うん。入国できる?」

「もちろんで。門開けんのメンドイから、テキトーに乗り越えてけろ」

「……」

 釈然としないまま荷物を持って、呆気なく乗り越えて行った。怪訝そうに鉄柵を見て、すぐに歩き出す。とりあえず真ん中の道を突っ切るが、

「……」

 やはり農村としか言えなかった。

「長閑な村って感じだな」

 この道を中心として、広くない村に枝別れしている。その中の一本は村の端っこに繋がっていて、小さい川を隔てて大きめの木造の家があった。そこに風車が設けられている。円錐の先っぽに風車をくっ付けた、またもや簡単なものだった。

 打ってつけは牛や豚などの家畜が平然と出歩いていることだ。背中ではしゃぎ回る子供たち。それを笑いながら家畜の世話をする人たち。しかし、なぜか動物臭くない。

 青年は道の中心で村の全てを見つくした気分に浸り、少し緩んだ顔で、

「……いいところだ」

 一言、純粋に呟いた。

「こんな無防備で大丈夫ですかね? 目をつけられるのは時間の問題ですよ」

「そういう連中がいないから心配ないんだろ?」

「そうですかね」

 それから少し出歩くと、案の定、あらかた歩き尽くしてしまった。最初に見た鉄柵がこの村を囲うように立てられていた。家畜を逃さないというのもあるが、村であることを強調しているようにも見える。

 微笑ましい限りの光景が夕日に染まり、ついには藍色も出てきた。村の景色もそれに染まりつつ、住民たちは自分の家へと帰っていく。田舎の一風景に心休まる。

 青年は、

「いいところだ。……つくづく」

 鉄柵に寄りかかって眺めていた。

「ここにちょっと住みたいな」

「駄目ですよ。別に安住の地を探しているわけではありませんし」

「でもなぁ、久々なんだよ。時間を忘れてこんなに見てたのは……」

 そして、何事もなかったかのようにまた歩き出す。

「さて、宿でも借りて寝るか……」

「さすがですね」

「……そりゃどうも、って何がさすが?」

「頭の軽さです」

 ズルッと滑った。

「……」

 いつかシメてやる……、と独り言を吐き、足取りを立て直す。

 もう人気が無くなっても、まだ温かさが滲んでいるようだった。青年は草を食べている牛に吸い込まれるように近寄っては、腹回りや頭を撫でまわす。牛は首を横に振って拒んだ。それには少々苦笑いを零す。

 ふとして、足元に黒い影が差し込んだ。

「……こんにちは」

「……」

 幼い女の子の声がそちらからした。青年は振り向いて、

「こんにちは」

 三つ編みの少女を見下ろした。

「旅人さんでしょ?」

「そう、だよ。たぶん」

 自信なさげに答える。

「どうしてここに来たの?」

 少女はニィッと歯を見せて笑う。

「……ただ通りすがっただけ」

「そうなんだ。おつかれ様ね」

「お疲れ様でーす。って、君は家に帰らないの?」

「……まだあそびたい」

 そしてしゅん……と萎れた。

 青年は微笑して、

「それなら明日、また遊べばいい。時間はたくさんあるからな」

 気取りながら言った。

「……そうだね!」

 ニコニコしながら、少女は別れを告げて帰っていった。

 

 

 青年は風車のあった木造の家に泊まることができた。ここが宿だった。

「すごい……。タダだって」

 青年は興奮気味に言った。

 案内されたのはすごく年季の入った木の香りがする部屋だった。しかし腐敗など微塵にもなく、ある種のアンティークを感じる。こげ茶の木の壁やら床やらで、ベッドやテーブルなども一色に揃えられている。ベッドの左手側には浴室に続く通路があった。

「田舎だからなのですかね」

 それでも“声”は冷静だった。

 リュックと二つのポーチをテーブルに置いて、椅子に深く座った。背中を背もたれに反らすと、木のしなる乾いた音がした。

「ところで、いい加減出してくれませんか? 気持ち悪いです」

「わかったよ」

 セーターの中に左手を突っ込み、

「ほら」

 四角い物体を出した。水色ともエメラルドグリーンともとれる色合いで、手に収まるくらいの大きさだ。開閉式になっているのか、蝶番(ちょうつがい)がついていた。裏面には小さいレンズがあった。その物体には首に掛けられるように黒い紐に通してある。ネックレスにしてはごつい。

 慎重にテーブルに置いた。

 リュックは邪魔だったので、テーブルの脚に傾けた。

「ありがとうございます」

「……やっぱり服の中は窮屈?」

「正直に言うとそうですね。でも“ダメ()”のためなら大丈夫です」

「平然と気持ち悪いって言ってたクセに」

 “ダメ男”と呼ばれた青年は頭をコリコリ掻いて、笑う。“声”の主はこの四角い物体らしい。女の声がそこから出ていた。

「ところで、この後はどうしますか?」

「そうだな……、日が落ちて大分暗くなっちゃったし……のんびりしてるよ。お手入れもしてあげなきゃな」

「それは明日でいいです。のんびりするのなら、お風呂に入ってみてはどうでしょう?」

「だな」

 四角い物体はダメ男を見送った。なぜか奥から悲鳴がしたが、どうしようもできなかった。

 

 

 日の出が照り出す頃、ダメ男は既に起きていた。

 床に寝そべって、一本のナイフをじぃっと見ていた。柄が物差しくらいはあり、ナイフより短刀に近い。格子状に入り組まれた鉄の柄の中に、刃が収納される仕組みで、格子の隙間に透明な膜が貼られている。

 刃先を確認する。わずかな刃こぼれを見つけると、専用の薬剤に浸した綺麗な布で拭き上げる。その顔つきは昼間の緩んだものとはうってかわって、締まっていた。

 胡坐(あぐら)になると、今度は別のナイフを持ってきた。柄を開くことができ、刃だけを交換できる、言わば組み立て式のナイフだった。柄の中はグラつかないように凸凹した形にゴムが敷かれ、刃の(なかご)(注・刃の部位で、柄の中に収まる部分)がはまるようになっている。

 ベッドの枕に転がっていた四角い物体が、

「おはようございます、ダメ男」

 起きた。ダメ男は、

「随分ときりりとした顔ですね」

「……」

「目が充血していますよ」

「……」

「顔が気持ち悪いですよ」

「……」

 無視し続けた。

 そしてため息をついて、

「おはよう……ふぅ……」

 返事をした。

 散らかっていた道具をテーブルに置き、仕込みナイフと組み立て式ナイフは椅子に置いた。

 黒い寝間着から昼間のセーター姿に着替え、二つのナイフをウェストポーチと内ポケットにそれぞれしまう。

 窓を開けると、肌寒い空気が中へ吸い込まれていく。その割に朝日が温かく感じた。

「ちょっと早すぎたか……」

「“早起きは三分の得”と言いますからね」

「もはや誤差だろっ」

「その三分のありがたみも分からないとは、さすが脳味噌出来損ないですね」

「三分で何ができるんだよ」

「人間の主食が作れますし、約六百メートル進めますし、どこかの星を守ることもできます」

「まじか。意外とできることあるなぁ……」

「うわ、この人本当に信じましたよ」

「ウソかっ!」

 四角い物体を拾って、適当に寛ぎ始める。

「そういえば昨日、お風呂で何があったのですか?」

「……」

 ダメ男はころんと横になって、

「黒いのが……」

 震えながら時を待った。

 

 

 とりあえず二度寝したダメ男は必要最低限のものだけ持って民宿から出た。

 憎いほどに晴れ渡り、容赦なく陽が照っている。朝の気温はぐんぐん温められていく。風はなく、穏やかな天気だった。相変わらず緑が視界のほとんどを占めていた。

 入口の看板には、

[サラミ]

 と書いてある。ダメ男はあえて何も言わず、そこを後にした。

「いい天気だ」

 空を眺めていると、

「おはよー」

「ん?」

 三つ編みの少女がやって来た。

「どう? ここは……」

 ダメ男は頬をカリカリ掻く。

「長閑で気が休まるよ」

「ふ~ん……」

 どこか味気なさげだった。

「……んっと、いろんなところ見てきたから言えることだけど、いいところだよ。間違いなく」

「へんに言わなくてもだいじょうぶだよ。別にほめてほしいわけじゃないから」

「いや、こういうところが平和なんだって本気で思うよ」

 少女と目線を合わせるためにしゃがんだ。少女は、う~っ、と(うな)って、

「まじまじと言われるとはずかしいな……」

 照れくさく答えた。

「でも旅人さんにはそう見えても、わたしたちはどうなのかな……?」

「? どういうこと?」

 少女はダメ男の手を取り、

「わたしがガイドさんしてあげるよ! あははっ!」

 無理やり引っ張っていく。

「おっおい……!」

 引きはがそうとしたが、少女の無垢(むく)な笑顔を見て、まあいいか……、と呟いた。

 二人は歩きながらここの話に花を咲かせた。ここは村で一番美味しいパン屋さんで、あっちは村長さんの家で、そっちはなんたらで、こっちはうんたらで、といった具合に。覚えきれそうにないな、と言いかけたが、小さなガイドさんが頑張っているのを見て、

「へぇ……」

 顔が(ほころ)んだ。

 途中で会う住人たちも活気溢れていて明るい。老若男女関係なく談笑していて、(なご)やかだった。誰もが想像する“平和な”ワンシーンだった。

 あっという間に夕方になり、二人は“サラミ”の前にいた。

「あらためて、どうだった?」

「いいところだ。皆楽しそうで、心温まるよ」

「あはは。そうかなぁ」

 照れながら笑う。

「“ふぅ”はどうだった?」

「? ふぅ?」

 呼び掛けて出したのは、ダメ男の首飾りのあの四角い水色の物体だった。

「普通でしたね」

「えっ!」

 少女はぺたんと尻餅をついた。

「しゃ、しゃべった……!」

「リアクションいいな」

「ダメ男が喋ったので、びっくりしたのでしょう」

「オレは銅像か何かか」

木偶(でく)の坊です」

「どっちもヤだからやめれ」

 四角い物体改め“フー”はダメ男のセーターの前にぶら下げられた。

「おもしろーい」

「改めて初めまして。フーと申します。ダメ男の主です」

「誰が主だ。叩きつけて粉々にすんぞ」

「あなたのお名前は何ですか?」

「あ、わたし? わたしはミミィ」

「ミミィ様ですね。ダメ男」

「わかってる」

 フーの側面に蝶番がついていたのは開くためであり、ダメ男は開ききる。カチリと鳴って中が見えるようになった。手前のボードには丸だったり四角だったりする“でっぱり”があり、ボードの奥には“モニター”がついていた。

 モニターを見ながらカチカチとでっぱりを押す。そしてミミィを呼び寄せると、

「ミミィ、笑って」

「え? えっ?」

「はい、チーズっ」

 シャッター音と共に一瞬光った。

 ミミィには理解不能のようで、なになに? と、聞くことしかできなかった。

「……よし。この村もミミィも忘れないよ」

「……うん、あり……がとう……?」

 モニターには口角を少し上げて笑うダメ男と、戸惑いつつ笑顔のミミィが写っていた。

 

 

「ダメ男」

「何だ?」

「いい加減、ベッドで寝たらどうです?」

「ヤダ」

 もう夜になり、ダメ男は床で寝転がっていた。

「風邪を引きますよ」

「ベッドじゃ寝れない」

 ベッドでは代わりに荷物たちが占領していた。

「気持ち悪いです」

 木造の宿ではあるが、電気は通っているようで、ベッドの隣にある棚にコンセントが縦に二つ設置されている。上のコンセントに薄い箱型のモデムがついたプラグが差し込んであり、そのコードの先端がフーの側面に刺さっていた。

「我慢しろ」

「ダメ男の顔が気持ち悪くて我慢が、」

「我慢しろ」

 乱暴にフーを閉じた。痛いです、と訴えたが、それを無視して、

「風呂入ってくる」

 ダメ男は風呂場に向かった。

「生物反応があるようですから、気をつけてくださいね」

「余計なこと言わんでいいっ!」

 約一時間後、戻ってきた。

「気持ち良かった……」

「よかったですね。ところで、それを駆除したのですか?」

「………………」

 無言で身体中を拭いて、服を着替えた。洗濯しておいた黒い寝間着だった。

「じゃあお休み」

 そのまま床に倒れ込む。

「駄目です」

「なんで?」

 再びフーを開いて中を見る。しかし何もなかったようで、ゆっくり閉じた。

「お手入れを忘れています」

「どうしよっかな~でももう心がボロボロで疲れちゃったしな~でも、」

「戯言はいいので、さっさとお手入れしてください」

 プチッ、と、コードを外した。

 ダメ男はベッドにある荷物を整理してリュックとウェストポーチとに分けて入れた。それを終わらせてから、脇にある窓から月のない空を見つつ、フーを磨く。

 薄手の白い布で表面と中を適当に拭くと、

「ちゃんとお願いします」

 と、お(しか)りの言葉が飛んできた。ねじ切ってやろうか……、と密かに(すご)んでみても、やはり逆らえなかった。

「明日にはここを()つのですね」

「そうだな。いい所だったのに、なんだか勿体ない気がするよ。……でも、久々にゆっくりできた」

「それは良かったです」

「……フーは?」

「気が張りっぱなしで大変です」

「……? なんで? こんなところに危ないやつがいるわけないじゃん」

「確かにこの村にはいません」

「……惜しい村だけど、どうにかなるでしょ。でなきゃもっと前に滅んでるわけだし」

「そうですか」

「そんな残念そうに言うなよ。心が痛むから」

 綺麗になったフーを枕に置く。

 ダメ男は床に滑り落ちるようにベッドから降りて、そのまま眠りについた。

 

 

 日が昇りかける時に起きた。スエットを素早く脱いでリュックに詰める。パンツとアンダーシャツのみとなった。

 細身な見た目とは裏腹にがっちりとした体つきで、生身の部分には銃創や切創などの傷痕がかなりある。

 その姿のまま黒のセーターの内ポケットから、仕込み式ナイフを取り出した。

「……」

 しかし、それを眺めるだけだった。胡坐(あぐら)をかいて。

「訓練はしないのですか?」

「お? 起きてた……?」

「ここ一週間の練習時間の平均は十二分、最長は一時間、最短は二十四秒です」

「……嫌なやつ」

「それほどでも」

 ニタリと笑う。

 ということで、短剣を適当に振り回して訓練とした。

「そんな手抜きの訓練で、よく生き延びてこられましたね」

 納得のいく一言だった。結局、三十五秒くらいしかやらなかった。

 あとはフーと喋りながら夜明けを待つ。しばらくすると、

「鶏」

 あの甲高い声で“朝”を迎えたのだった。と同時に、

「おやすみ」

 ダメ男は床で寝た。あの格好のままで。

「本当にダメ男ですね」

 ただ悪態をつくしかなかった。

 

 

「ここのパン屋は本当に美味い……。しかもタダ……」

「今日までどうやって経営してきたかわかりませんね」

 ダメ男は朝食と昼食を一緒に食べていた。

 ミミィの言っていた村の右端にあるパン屋。そこは外でも食べられるようにテーブルやら椅子やらがちょこんと準備されている。その店の一番近いところに座っていた。

 フード付きの黒いセーターに藍色のジーンズといつもの格好でいた。

「えっと……悪いんだけど、お持ち帰りってできる?」

「どうぞどうぞ! いろんなところでも宣伝してくれると助かるよ」

「むしろ評判にならないほうがおかしい」

 ダメ男は紙袋二つ分を抱えて、出歩いていった。

「そんなに食べると太りますよ」

「大丈夫。カロリーオフしてるらしいから」

胡散(うさん)臭いですね。しかもリュックに収まりきらないと思いますよ」

 やはりフーは疑っていた。

 今度は、

「いらっしゃい! なかなかのイケメンが来たな!」

「……うんっと……ここって雑貨屋? 看板無いからわからなかったんけど……」

「おう、そうだよ」

「ここにこの紙に書いてあるやつある? 代金はもちろん払うから」

「……あるぜ。あんた、見た目とは裏腹に腕利きの旅人だな。ちょいっと待ってな」

「は、い」

「否定してくださいよ。だから気持ち悪いのです」

「黙っとけ。それよりどうしてこんな長閑で平和な街に、モノがあるんだ……? 城下街並みにあるぞ」

 待っていると、両腕に抱えて品を持ってきてくれた。

「……ほれ。これだろ?」

「……正しく」

 道具を買い漁った。ついでに荷物を入れるためのカートまで貸してくれた。

「さすがにタダじゃなかったけど、めちゃめちゃ安い」

「出ていくのが(つら)いですね」

「うーん……あと二日、」

「駄目です。今日の夜には出立する予定のはずです」

「もっといたいなぁ……」

 昼から夕方にかけてショッピングを楽しんだ後、宿に戻り、身支度をした。買い過ぎたために入りきらない物が溢れ返った。特に医療品が余った。

「パンを別の袋に入れて、医療品をポーチに入れることを推奨(すいしょう)します」

「……もうリュックとポーチには結構入ってるんだけど」

「情けない傷で命を落とすつもりですか」

「……」

 ご指示通り、荷物を詰め替えていく。

「ここは楽園であり、地獄でもある村かもしれませんね」

「……なんで? いたって普通の村じゃん。きっとここは自給自足の村なんだ。だから争う必要もないし自然に恵まれる。自然があるところは人情深い人たちがたくさんいるもんだ」

「ダメ男にしては、まともなことを言いますね」

 身支度を完全に済ませた。二つのウェストポーチをジーンズのベルトにくっつけて、リュックをぐっと持ち上げた。

「……行こうか」

 フーに付いた黒紐を首に掛けようとしたその時、

「……どうぞ」

 ノックがした。フーを床に置いて、念のために左手を服の中に入れる。そしてテーブルの陰に隠れた。

 入ってきたのは、

「……だ、……だめおさん……」

 ミミィだった。

「!」

 しかもぼろぼろだった。目や頬には青い(あざ)が、いたるところにある服の破れ目からは擦り傷や切り傷が残されている。そこから周囲に赤く染まっている。トレードマークの三つ編みは刃物で切られたようで、綺麗に揃えられていた。

 (うつ)ろな表情で、震えていて、ほろほろと涙を落としていた。

「どうしたんだ……その傷……!」

 すぐにベッドにゆっくり寝かせ、容態をみる。ちょうど余った医療品で手当を施した。

「待ってろ! 今すぐ医者を、」

「ダメ男」

「!」

 いつの間にか部屋の入口に男が三人いた。どれもガタイのいい、熊のような連中だ。ニヤニヤと悪人面を見せ付けていた。

「あんたら、ここら辺の人間じゃないな?」

「そこのガキに道を聞こうとしただけなのに風穴開けられちまってなぁ……。ほら、見ろよ」

 男のおでこから血が流れていた。しかし、ちょろっとしか出ていなかった。

「そんなので仕打ちするのか? あんたのなんか、かすり傷にも値しない。この子は下手をすれば……」

「それでも痛かったんだがな。それとも、あんたがこの痛みを立て替えてくれるのかよ?」

 険しい顔でギリッ、と歯軋(はぎし)りする。ダメ男の左手は服の中へと徐々に忍び込んでいく。しかしそれを見越してか、

「ダメ男」

 フーは小さな赤いランプで制止させた。両端にいる男二人が拳銃を向けていたからだった。

「ほう。珍しいもん持ってんな。あんたの代わりにそいつでもいいんだぜ?」

 真ん中の男が部屋に入り、フーを手に持った。フーは黙り込む。

「っ! 触るなっ!」

「おぅっと。あんたのおでこにも風穴開けてやろうか?」

「そんなに大切なもんなら交渉成立だな」

「……」

 ダメ男はただただ睨みつけている。しかし、行動に移さないのは、

「だめお……さん……」

 少女の小さい手が背中をつかんでいたからだった。

「……」

 男たちはのそのそと去っていった。

 

 

 囁く声すらも聞こえないほどの静寂な夜を迎えた。しかも村の明かりが無ければ、ほぼ暗闇と化すほどに見えなかった。

 部屋は明かりに満たされ、陰が色濃く差し込んでいる。

 ダメ男に呼ばれてやって来た医者はかなりの名医らしく、わずか数十分でミミィの怪我に対応し尽くし、残りは自然回復を待つこととなった。

 ダメ男は安堵のため息をついて、ベッドで休むミミィを見遣る。

「……大丈夫か?」

「ごめんなさい……」

「気にするなよ。取り返せるし……。それより、どうしてこんなことに?」

「友だちと村の外であそんでて……へんな人がきたからにげたら……」

「でもあの男の額の傷は何だ? 石でも投げて抵抗したのか? しかもあんな時間まで?」

「……」

 小さく頷く。

「……平和すぎるのも問題だな」

「ふぇぇ……っ……ぅぅ……」

「それで、親には言ったのか?」

 泣きながら首を横に振る。

「しかも、怒られたくないからオレのところに頼りに来たってことか」

 そして頷く。

「事情はわかったよ。とりあえず、一旦家まで送ろう。それで親に正直に全てを話すんだ」

 何回か頷いた。

「そうしたら一件落着だ」

 ダメ男はミミィの頭を優しく撫でてあげた。

「で、でもフーちゃんが……」

「言ったろ? 取り返せるって。それにあそこにはミミィとの思い出も詰まってるんだ。死んでも取り返すよ」

「……うん!」

 ようやく落ち着きを取り戻したようで、にこやかに笑った。

 二人は宿を出た。ダメ男はリュックを背負い、ミミィを抱えあげている。そのまま家まで送り事情を話すと、案の定こっぴどく怒られた。

「ありがとうございます! 娘を助けてくださって!」

「いやいや……。でも叱るよりも、まずはよくしてあげて。かなり怖がってたし……」

「えぇ、そうしますとも。本当にありがとうございます!」

「ありがと……」

「それにしても怒ってくれる親がいてくれてミミィも幸せだな」

「……だめおさん、お父さんとお母さんいるんでしょ?」

「そりゃな。でも旅してるから……、」

 そう言いかけて、止めた。

 散々もてなしてくれたお礼にと、ダメ男が高価そうな指輪二つを渡した。そして一言お礼を告げると、飛び出すかのように走り去っていった。

「……いい人ね」

「うん! 優しくて、カッコよくて……」

「……そう……」

 ミミィの母親はミミィの髪をすうように優しく撫でる。そして抱きとめた。

 

 

 フーが取り上げられた後、男たちは森の中で野宿していた。()き火を囲っていた。

「こいつは良い値で売れるぜ。初モノだからな」

「あぁ。でも、一体どこで作られたんだ?」

「それはお答えできません。というより、分かりません。いつの間にかこうしているのですから」

「なるほど」

 フーはなぜか男たちと仲良くなっていた。

「お前、怖かったり心配したりしないのか?」

「もう慣れっこです。あなた方のように考える(やから)はたくさんいましたからね」

「へぇ。そいつはご愁傷様(しゅうしょうさま)だな」

「! ちょっと待て。お前、慣れっこって言ったよな?」

「そうですが」

「……」

 一人の男が青ざめた顔をしている。

「どうしたんだよ?」

「よく考えてみろ。こいつが盗まれ慣れてるってことは、必ず手元に戻ってきてるってことだぞ」

「! ちょっと待てよ……。あのひょろひょろなやつが……今まで取り返してるってのかよっ?」

「そう考えるしかないだろ」

「……やべぇ……今すぐ返そうぜ……」

「お前はだから腰抜けなんだよ。逆に言えば、躍起になって取り返すほどに価値があるってことだろうがっ!」

「あっそうか」

「だからお、」

 話していた男の頭が身体ごと吹っ飛んでいった。

「……」

「……え?」

 残りの二人はあっけからんとする。あまりに唐突過ぎてリアクションが取れなかった。と、思えば、

「ぎゃぁぁぁっ!」

 今度は別の男に何かが刺さった。鋭利で硬い“それ”は(くわ)だった。それも左脚の太ももに深くねじ込んでいる。そこから発する電撃痛と流れ出る血が留まらない。

「くそやろうがぁっ!」

 もう一人の男は拳銃を引き抜き、デタラメに撃ちまくった。恐怖に駆られてパニックを起こしている。ところが、

「っ!」

 不運なことに、弾詰(たまづ)まりを起こしてしまった。

 それでも銃口を四方八方へ向け、辺りを警戒する。

「誰だ! 出てこいっ!」

 ふっと焚き火の奥から黒い何かが、

「! があぁぁぁっ!」

 男の左目に突き刺さった。いや、刺さったように感じただけだ。何か硬いものが凄い速さで目を直撃したのだった。

「……!」

「いたっぺよぉ。こいつらだっぺかぁ?」

「ちげぇね。オラだちの村荒らしたのはこいつだがや」

「あ、これ旅人さんのだべ? ってことはオラだちの村荒らしただけじゃなくて盗みもやってたってごどだがや」

「まったく、何度言えばわかるっちゃね。お仕置きが必要っちね」

 (なま)りのきつい人たちがぞろぞろ……ぞろぞろと男たちを囲っていく。鍬やスコップを持っていたり、機械を走らせていたり、先ほどの吹っ飛んでいった男を片手で引きずってきたりと。戦慄どころか死神が身体にへばりつくような恐怖で、動けない。

 あえなく尻餅をついて失禁してしまった。

「た、たすけて……たすけて……ぎぃぃやあぁぁぁぁっ!」

 夜の森に生々しい音だけが震わせる。

 

 

「…………!」

 ダメ男が駆けつけた時には既に終わっていた。

「……はぁ……はぁ……」

「遅かったですね」

「……どういうことだ? ……おぃ! 大丈夫か!」

「だ、だじげで……、むねが……ぐるじ…………」

「後でお手入れお願いしますね」

「後でな。今は……」

「ひゅ……ひゅぅ……」

「無駄ですよ。その方は右の胸に風穴が開いています。あと数分の命でしょう」

「た……す……け……」

「誰にやられたんだ! ……くっ、出血が酷すぎる……」

「……や……つ……ら、」

「……」

 無い目を開いたまま絶命した。

「死んでしまいましたね」

「! ……これって……」

「真実を知ったようですね。木に吊り上げられた男は殴られたり切り付けられたりして、四肢が切り取られ、潰されています。そして左目が(えぐ)られています。まるでダルマです。そして地べたにいる男はもっと酷いです。生きたまま腹を裂かれ、内臓を切り刻み、死してなお、死体に凶器を突き立て続けられていました。既に何がどの臓器なのかも判別ができないほどにミンチにされています」

「とてもそうするように見えないのに……どうして?」

「それは直に聞いた方が良さそうですよ」

「え?」

「こんばんは」

 ダメ男は振り返った。誰もいない闇の方を。しかしその方向からミミィの声がした。

 洞窟から出るように、ぬるりと姿を表した。敵でないのに、傷だらけの身体なのに、こちらが追い詰められているように覚えてしまう。少女らしかぬ威圧感に左手を動かせなかった。

「フーちゃん、とりもどせたね」

「どうしてこんなところにいる? 休んでたんじゃないのか?」

 こくりと固唾(かたず)を呑む。

「うん。でももうだいじょうぶ。それよりもおんがえししたかったの」

「“恩返し”?」

「うん。いっしょにあそんでくれたおんがえし」

「……」

 動かす必要がないことを悟る。いや、動かした後のことを考えてしまった。囲まれている。肌身で感じた。

「だいじょうぶ。敵にならなきゃおそわないから」

「……これが君の言っていたことか?」

「うん。……平和に見える?」

「でもそれは、……」

 何か言いかけて止めた。別の言葉を探して唸る。

「それじゃ、気をつけてねダメ男さん。ばいばい」

「あ、ちょっ、」

 その直後、ぞろぞろと足音が聞こえ始めた。暗闇の森で、不穏でおぞましい行進の足音。言いかけるタイミングを失ってしまった。

 ダメ男は呆気にとられて、開いた口が塞がらなかった。

 

 

「なんだ、隣の国のもんじゃなかったんだべか。もちっと手加減ばしたればなぁ……」

「間違いなか。手足切っても違う言ってたんべ」

「不可侵条約結んだんだから、襲ってくることない思うてたんだ」

「そうだんたんか~。いんや~悪いことしたんな~」

「気にすることないわ。わるもんなのは変わらんと」

「ちょっと待つと。ってことは、他に村を荒らした人間がいるってわけ?」

「! まさか、あの旅人さん?」

「それはないない。あの気弱そうな人ができるわけないべよ」

「じゃあ尋問するのが早いっぺ。さっそく、」

「待ってよ。わたしの命の恩人だって言ったでしょ? ひどいことはしないで」

「……しかたなか。今日は疲れたし、早く帰って寝るか」

「そーしよそしよ」

「ところで、荒らされたってどこを荒らされたんだぃ?」

「確かパン屋と雑貨屋って聞いたけど……。慌てて出動したからよぅ話聞いてなかったべな」

「お前さんの悪い癖だがや。きっと勘違いに決まっとよ」

「そ、そうだよ、きっとそうに違いないわ、うんうん。あはは……うん……」

 

 

 



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第二話:しあわせなとこ

「あぁ~あ……」

 青年はわざとらしくため息をついて、見上げた。曇天から落ちていく雨。ざらざらと音を立てている。西の方では先程までの青空が逃げるように消えていった。

 辺り一面はなだらかな平原で、ピンと張っていた草が(こうべ)を垂れている。

「雨ですね」

 “声”はぽつりと呟いた。妙齢の女の声で(つや)があった。しかし、張本人がそこにいなかった。

「……参ったな」

 フード付きの黒いセーターに光の加減で黒にも紺青色にも見えるジーンズを履いている。フードには黒毛が付いていた。しかも(そで)は手の半分、(すそ)はお尻を覆い尽くしている。荷物としては登山用の大きめのリュックサックと両腰にあるチョークバッグだけだ。リュックには黒い包みのされた傘が縛り付けられている。

 青年は歩きだした。地面にも靴にも水が染みこんでいき、緑の床と靴底に泥がついていく。そのせいでぐしゃぐしゃと音に水気を含ませる。足跡は雨でやがて洗い流されていった。

「リュックが濡れてしまいますよ」

「……別にいいよ」

 上体を揺らして、リュックを背負い直す。

「大切なものがあるのではないのですか?」

「……」

 青年は立ち止まると、

「充電器が濡れる」

 リュックからビニール袋を取り出した。それですっぽりと包む。ゴミ袋のように持ち上げて、再び歩き出す。

「気温はぐんと下がりました。四度です。風邪をひかないように気をつけましょう。薬は一切ないですし」

「お前は母親か」

 ふっ、と漏らす。

 フードを被る。既に雨を吸っていて、いつになく重さを感じる。

「最悪だ。雨なんか嫌いだ」

「もう一日泊まることを勧めたのに、無視するからです」

 

 

 何時間かして、

「何にもない……」

 呟いた。

 雨空にはどす黒さが目立ち、()けてきていた。何とか周りが見えるくらいではあるが、晴れはまだ逃げ切れていない。

「雨宿りは見当たりませんか?」

「見当たらないし、少し暗いな」

 草原が地平線の彼方まで広がり続いていた。

 髪先から水滴が垂れ、顔から下へ流れていく。頭を振ると、それが飛び散っていった。

「ここで野営した方がいいのではありませんか? まだまだ降り続くみたいですし」

「……ここじゃちょっときつすぎるっ」

 意地になってとことん歩き続ける。

 “声”の言うとおり、雨脚は衰えることなく、むしろ激しさを増してきた。“ざらざら”から“じゃあじゃあ”へと変わり、ところどころに水溜りができていく。青年はそこを避けることなく突き進んでいく。

 黒の強い雨空、その端っこにまだあった晴れがついに見えなくなった頃、正面に大地の切れ端が見えてきた。その奥には空の色を映している本物の海が広がっていた。切れ端を左右に辿ってみるが、ジグザグ線のようにどこまでも伸びていくのがかすかに見えた。地平線の向こうもきっと伸び続けていると想像できるくらいに。

 ちょうど右手の方に、崖からぼっこりとせり出しているところを見つけた。しかもそこは盛り上がり、丘を形成している。その手前に、

「光」

 があった。

「雨宿りさせてもらいましょう」

 青年は“声”の意見に従うかのように、走り出す。

 近づいてみると、それは山奥にありそうなログハウスだった。一戸建てで二階があるかないかくらいの大きさだが、奥行きがある。垣根はないが、崖の方には景色を独り占めにできるテラスがあった。その反対、つまり大地のある方には玄関があった。小さな太陽と表現したくらいの目映(まばゆ)いランタンが灯っている。先ほどの光はこれだった。

 青年はその明かりで今の自分の状態を確認できた。服を着たままプールに入ったかのように、全身がずぶぬれだった。セーターやジーンズは完全にやられ、その中にあるウェストポーチは表面が濡れている程度、アンダーシャツや下着は体にへばり付くくらいに濡れている。被害が一番少ないのは袋包みにしたリュックだった。

 三角の屋根から雨が怒涛(どとう)の勢いで流れていく。青年はそれをちらりと見て、玄関の前に立った。見上げると、屋根の出っ張りがあって、人一人分くらいは雨宿りができる。

「そんなに濡れていましたか。早くしないと風邪を引きます」

「少し寒い……」

 ドアにはノブが付いていなかった。その横にある輪っかを使ってノックした。その後、反応がなかったので、直接ノックする。

「……中に入れなきゃここで雨宿りしよう」

「テントも無理ですし、それしかありませんね」

 少しして、

「は~い」

「えっ?」

 ドアは引き戸だった。

 中から女が出てきた。三十過ぎくらいで、片手にお玉を持っていた。青年の姿を見て、

「あなた、ずぶ濡れじゃない! 早く入って!」

 否応なしに引っ張られた。

 玄関入ってすぐに居間があった。それらを繋ぐ廊下を廃しているらしい。家の広さが居間の広さと言っていいほどに広い。天井は高くなく二階があることを想像したが、階段がなかった。奥には壁一面が窓となっていて、テラスに通じている。

 居間の真ん中にはこの家庭の生活様式があった。大きなカーペットを敷いて、その上にテーブルやソファ、テレビを置き、端っこにキッチンや棚が並べられている。観葉植物や水槽などもあった。

 青年はリュックとウェストポーチ二つを下ろす。青年はセーターをひっぺがされ、黒の長袖のシャツになった。真っ白のタオルを貸してもらい、頭やら体やらを拭う。

 首飾りの黒い紐を持って、服の中から四角の物体を取り出す。水色とエメラルドグリーンを混ぜた色をしていて、厚みのある蝶番(ちょうつがい)のようだった。

「濡れてない?」

 青年はそれに話しかけると、

「防水機能がありますので、多少は平気です」

 喋った。

「雨はまだ止まない?」

「はい。明日の昼までは降り続けます」

「……まいったなぁ」

 青年はいろいろと支度をしてくれる女に目をやる。そして彼女が来た。

「お風呂の支度できたから入っておいでっ」

「いや、そこまでしてもらわなくても、」

「風邪ひくでしょっ! さっさと入って!」

「……はい……」

 青年は気圧された。靴を脱ぐと、すぐに腕を引っ張られ風呂場へ、そしてドアを閉められ、閉じ込められた。よく分からないうちに事が進んでいた。

 しゃくしゃくと頭を掻くと、

「と、とりあえずお言葉に甘えましょうか」

「何でお前が動揺してんだよっ」

 服と水緑色の蝶番をバスケットに入れ、風呂場に入った。

 

 

 数十分して、風呂から上がってきた。十分に温まったようで、湯気が立ち上っている。

「早く服を着てください。気持ち悪いです」

「それなら見なきゃいいじゃん……変態……」

「何か言いましたか?」

「……言葉を発しました」

 いつの間にか用意されていた下着とシャツ、上下黒のスエットを着込む。そして水緑色の蝶番を丹念に拭いて、首に掛けた。

 居間に出ると、女はキッチンで料理を作り、中心で同年代らしき男と幼い子供が二人いた。男の子と女の子だ。

 青年はばつが悪そうに、

「あの……どうも……」

 お礼を告げた。

「ん? ああ気にしないで。困った時はお互い様さ」

「本当にありがとう。何かお礼を、」

「いいっていいって。これも何かの縁なんだからね」

 男は気が優しそうで、悪い感じが一切しなかった。

「このひとだれー?」

 女の子が青年に指差して言った。

「そういえば、君は……?」

「えっと……オレは、」

「“ダメ男”です」

 いきなりの“声”に場が固まった。

 男がごくりと固唾を飲み込む。

「今の……まさか、幽霊か……?」

「うそ~! ゆうれいっ?」

「お父さん、カメラカメラ!」

「今のはこれだよ」

 傍にあった背の低いテーブルに置いたのはあの蝶番だった。

 女の子がきゃぴきゃぴ笑い出す。

「“だめお”だって。なにやっても、おちこぼれだったんだね~」

「あはは! へんななまえ~。ママとパパはなんでそんなばかななまえにしたんだろうね」

「今までで一番酷い言われようだ。ムリもないけどね」

 それよりも、幼い子供が年齢に合わない言葉を使っていることにショックだった。

「えっと……ダメ男君?」

「うん」

 ちょっとふてくされて返事をした。

「この物体は(しゃべ)るのかい?」

「喋るよ。自己紹介して」

 ダメ男は立ち上がってそれを(わし)づかみにして、皆に見せるようにかざした。

「“フー”です。ダメ男の主を務めています。皆様方、よろしくお願いします」

「よろしく!」

「よろしくだよ」

「誰が主だっ」

「まあまあ……」

 男はダメ男を何とか(なだ)めすかす。

「フーちゃんは機械みたいだけど、八つ当たりするなよ」

「……命の恩人にそう言われたのでは……仕方ないっす」

「“拙者食わん”」

「……」

 いきなりフーが言い放つ。ダメ男は少し考えて、

「……フー」

「はい、何でしょう?」

「ダイエット? ダイエットは止めた方がいいよ。リバウンドが、」

「だからダメ男なのです」

「この……。何が言いたいんだよ」

 ぎりぎりと歯軋(はぎし)りが聞こえてきそうなくらいに、ぶち切れ寸前だった。

「ダメ男君、落ち着きなさい。そういうのを“切歯扼腕(せっしやくわん)”って言うんだよ」

「……あ、なるほどって、お得意のかっ!」

 ようやく理解できたので、大人しくすわ、

「だめだめだめお~だめだめお~」

「ねえ、なんでだめおってなまえなの? おしえてよ、ね~え~」

「だ~め~お~! だめっお、だめお~」

「だめおのパパもだめおだったの? だめおって“いっしそうでん”なの?」

「完全にナメられてるんだけど。とんでもない言葉知ってるし」

「それは構ってほしいのだと思います」

「可愛さ余って憎さ百倍ってな。……もう駄目だ、限界だ……」

「“カンニング黒野、親キレる”」

「……とうとうぶっ壊れたか……? 何が言いたいのか分からん」

「えっと、つまり“堪忍袋の緒が切れる”?」

 ダメ男の代わりに男が答えてくれた。

「ピンポンです」

「誰だよ、黒野って……。カンニングの達人か? まったく、この場を(なご)ませようと努力してくれたフーに(めん)じて……、」

 フーをテーブルに置いて、

「お仕置きじゃああぁぁ!」

「うわぁっ! にげろ~!」

「待ってよ、おねえちゃあん!」

 追い掛け回すことにした。夫婦はそれを止めようとはせず、むしろ温かく見守っている。笑顔が溢れていた。

「すみませんね、ご主人。ダメ男は精神的に幼くて、やかましいところもありますが、ご容赦願います」

「全然構わないよ。たまにはいいもんだ、うん」

 男はじゃれているダメ男たちを一瞬だけ見やる。

「気兼ねせずにゆっくりしていくといい」

 

 

 ダメ男は夕食をもてなされ、一家団欒(いっかんだらん)にお邪魔することになった。会話が弾み、楽しい時間がどんどん過ぎていく。

 食後でも会話が途切れることがなかった。女のお手伝いをしようと、ダメ男が行くものの、ことごとく断られた。そこには優しさがあった、と本人は思いたかったようだ。そして、

「お仕置きタイムの再開じゃああぁぁ!」

 またしても追い掛け回す。

 そこへ、妻である女がトレーごと持ってきた。大きめのグラスと茶色い瓶が載っている。それをフーの近くに置いた。

「フーちゃんはダメ男クンとはどんな関係なの? その声だと、お嬢さんのようだけど」

「ご婦人は嫌なところを突いてきます。ただの所有者と物の関係に過ぎません」

 男は瓶の蓋を開け、とくとくとグラスに注いでいく。黄色い層の上に白っぽい泡の層がグラスの(ふち)まで作られ、それを啜った。上唇にその泡がついた。

「ふふっ、年頃の女の子があんなカッコイイ青年に何も想いを持たないとは思わないわ。たとえ機械であってもね」

「い、いえ、それはですね、ご婦人の勝手な解釈ではないでしょうか?」

「そうかしら? ねぇ、あなた?」

 ごくりと飲んで、グラスを置く。

「俺に振るのかヨ、わかるわけないヨ、ヘイヨ!」

「酔っていますね。さっきまで優しげな印象だったのに、今ではめんどくさくなっています」

「こりゃ、たいした毒舌だヨ。あはははは!」

「それより、どうなの? 単刀直入に、彼のことは好きなの?」

「え、え、ええっとですね、そんなことは、ないです、はい。ないです」

 いつもの機械的な声に感情が加わっていた。

「満更でもないようね……。大変ね~」

「ご婦人も酔っ払っていませんか?」

「雰囲気に酔っ払ってるわね~。それで、告白はしたのっ?」

「こ、告白!」

 ボンっと、何かが噴出した。

「どうしてあんなダメ男に告白なんてするのですかっ? ありえないです。絶対にありえません。人間のクズで取り柄もないダメダメ人間に、どうして告白なんてしなければならないのですか? しかもですね、」

 この後も言葉を挟む隙間もないくらいのマシンガントークが炸裂した。一回も噛むことなく、相手が聞き取りやすいように、わかりやすく話す。女は苦笑いを隠せない。

 出し尽くしたところで、

「なるほどね。そんなにダメ男クンのことが気になるんだ」

 フーにとって気落ちする一言が返ってきた。

「も、もういいです! ご婦人は分からず屋です!」

「そうね。多分、世界中を見渡しても、ダメ男クンのことをわかってるのは、フーちゃんだけ……」

「それは、」 

「あの幸せ者はフーちゃんのことをどう思ってるのかしらね」

 ちょっとした恋バナの花を咲かせている一方で、

「痛いぞ、ガキども!」

「だめだめ~!」

 ダメ男はふぅっとため息をついた。そこへ酔っ払っている男が来た。

「パパ、またのんでる! おさけくさい!」

「それは仕方ないヨ。飲めばなぁ」

「あの、キャラ変わってるけど……?」

「お互い様サ。久々のお客さんだからネ、話を聞こうと思ってネ~、ツクネ、クオウネ、オイシイネ~?」

「なるほど」

 とりあえず死ぬ気で聞き流した。

 男は子供たちを寝付かせるために、どこかへ行った。しばらくして戻ってきた。

「お客さんが来るのは何年ぶりだろう……」

「そうなんだ。突然の土砂降りで助かったよ」

「いやいや。子供たちも喜んでたし、興味津々みたいだ。お互いに運がいい。……ところで、ダメ男君はまだ若いみたいだが、なぜ旅をしてるんだい?」

 もう酔いが冷めていた。その間に何が起こったのか気になったが、ダメ男はあえて聞かないことにした。

 男は酒ではなく、麦茶とコップ二つを持ってきてくれた。そして注いでくれた。泡は出ない。

「はっきりと目的はないけど、いろんなところを見に行きたくて」

「命がけの観光ってことか。てっきり自分探しの旅かと思ったよ。最近流行ってるんだろ?」

「そんな大層な」

 ダメ男はあどけなく笑っていた。

「ところで、どうしてこんな崖っぷちに家を?」

「あぁ~それか。ここに寄って来る人たちは一番最初にそれを聞くよ」

 ごくりと一気に飲み干し、すぐに注ぎ直す。

「それを聞かれたら、いつもこう答えるんだ。“ここから見る海の景色が最高でね。朝焼けと夕焼けの時なんか、毎回見るたびに感動に打ち震えるよ”ってね」

「……“いつも”は?」

「そう」

 にっこりと笑った。

「君は特別扱いさ。いいことを教えよう」

 すると男はまたどこかへ行った。そして戻ってくると、

「金の延べ棒?」

 ごとりとテーブルに置いた。

「そう。金だ。ここの海では金が大量に採れるんだ。正確には砂金だけどね」

「……そういえば……」

 ダメ男は家中を見渡した。金色の装飾品や額縁が壁にかけられている。この生活空間にはあまり似合わなかった。

「ここらへんじゃ取れるところはなさそうだけど……」

「この家に、下へ行く階段がある。地面を切り崩したものだがね。今は雨だからちょっと見せられないのが残念だ。崩れやすくなってるからね」

「それにしても、一家総出でここに住むのは危ないのに、勇気あるなぁ」

「確実に(もう)かる仕事だからね。しかも日常用品はタダで届けてきてくれるし、足りなくても、買出しに行けない距離でもない。リスクはあるが、満足してるよ。ただ、俺だけでいいのに皆来ちゃってね」

「どうして?」

「やっぱりこの景色がいいんじゃないかな?」

 

 

 翌日。

「ありがとう。助かったよ」

「また機会があったらいらっしゃい」

 玄関より少し離れたところで、女とダメ男はいた。ダメ男は黒のジャケットに黒のパンツ、黒のインナーを着ている。靴も黒という全身黒尽くめの格好だった。リュックもポーチもすっかり乾き、中身も万全だった。いつの間に……、とダメ男は思ったが、どことなく懐かしい気分だった。

「ダメ男君!」

 そこへ男がやって来た。ダメ男の服一式と布に包まれた何かを持ってきてくれた。ずっしりとしている。

「これは?」

「金」

「え?」

 間の抜けた声で返事した。開いてみると、太陽の光を受けてまぶしく輝く金の延べ棒があった。

「旅人は何かと大変だろう? いいんだ、いい話が聞けたからね。それはそのお礼だ」

「そこまでお世話になるわけには……」

「ほら、早く行って! 子供たち起きちゃたら、ダメ男クンの旅立ちを引き止めてしまうわ」

「ダメ男、ありがたくいただきましょう」

 フーの一言で、受け取った。ぎゅっと握ると、手の跡が少し付いている。

「次はオレがお礼しに来るよ」

「それは楽しみにしてるわ」

 頭を下げると、ゆっくりと歩いていった。夫婦二人はにこやかに、ダメ男がいなくなるまで見届けたのだった。

「さて、いつものように洗濯物を干しましょっか」

「俺も仕事に行ってこよう」

 ちょうど起きてきた子供たちは、男の足に飛びついた。

「あれ、だめおは?」

「行ったわ。旅人さんだからね」

「え~、そんなぁ……」

「い~や~だぁ~!」

 男の子はへたり込んで泣いてしまった。それを男が抱き上げる。

「いいか? 出会いがあったらいつか別れはくるんだよ。時には永遠に会えなくなるかもしれない。でもお前たちはこれからもそれを経験していくんだ」

「……うん」

「その度に人は成長する。それが人生の財産になっていく。だからどんどん巡り合って人生の財産を増やすんだ」

「うん!」

 家族は家に戻り、各自で支度をする。男は仕事に、女は庭で洗濯物を干していく。子供たちは外でじゃれあっていた。そんな時、身体がふわりと浮かんだ。

 

 

 水気を十分吸った緑の床は太陽の光を受けて、(きら)びやかに光る。また、ところどころに深さのない小さい湖があり、青みの薄い空を映し出している。

 光源から、青空から逃げるように、どんより雲が流れていく。そこから舞い降りてくるかのようなちょっぴり肌寒く、澄み切った空気。ダメ男は大きく息を吸って、身体に馴染ませていく。

「……重い」

「金の延べ棒ですね?」

「あぁ。見た目以上に、な」

 昨日の大雨で、緑一色の大地は予想以上に泥濘(ぬか)っていた。豪勢なプレゼントのおかげで、ずちゃずちゃと足が埋まりながら、歩いていく。靴底は厚いゴムなので染み込む心配はないが、泥が自然の重りとなっていく。

「よかったですね。筋肉トレーニングになりますよ」

「ほぼ毎日歩いてるから、太ることはきっとない」

「それにしても、本当に綺麗ですね」

「……オレが?」

「ダメ男はゴキブリ並みの汚さとしぶとさがあります。昨日の大雨が嘘のように晴れていますね」

「そうだな。このくらいがちょうどいい」

 靴底に付く泥を振り払いながら、さらに歩いていく。途中、小さな湖にわざと靴を浸し、泥を洗い落としたりもした。

「そういえば、嘘みたいに疲れが抜けたよ。……何で?」

「お風呂の入浴剤ではないですか? 特製だと聞きました」

「確かに白っぽかった。白湯(さゆ)じゃなかったんだ」

「匂いがしませんでしたか? だからダメ男なのですよ」

「なんだと? 風呂にぶち込んでシャンプーしてやろうか? ショートすんぞ」

「防水加工がしてありますので。それでも限界はありますが、困るのは果たして誰なのでしょうね? 独り寂しく放浪生活を送るのか、それとも話し相手のいる楽しい旅を続けるのかは判断に任せますけど」

「うぐぐ……頑張れオレ……。頑張って我慢するんだ。二の舞を演じちゃいかん……」

 悔しい顔をしている割に、顔が(ほころ)んでいた。

「どうしたのです? 虐められるのが好きになったのですか?」

「バカか、お前は。そんなわけあるか」

「では、何かあったのですか?」

「ん、いや。フーがさっき言っただろ? 独り寂しくってさ……」

「それがどうしたのですか?」

「今思うと、フーがいなきゃ、本当につまらないかもな、ってな」

「え?」

 背負っていたリュックをひとまず下ろして、ジャケットを着なおした。そして再び背負い、

「それはどういう、」

「ほら、行くよ」

 走り出した。

 と、思いきや、

「ん?」

 何かに気づいて、後ろを見た。

「どうしたのですか?」

 歩いていた軌跡はまっすぐあそこに伸びていた、

「あれ?」

 はずだった。

「ないですね」

「家がない?」

 もう豆粒に見えるくらいに遠いが、確かに跡形もなく、綺麗さっぱりなくなっていた。

「あれはまさか、桃源郷……?」

「でも、確かに現物はありますし、それはないと思います」

「でもないじゃん。家」

「地滑りでも起こしたのではありませんか? 大雨で(もろ)くなっていても不思議ではありません」

「そんな音は聞こえなかった。絶対に桃源郷だ!」

 と、凄んではみたものの、考えるのが面倒になってきて、まぁいいか、と投げ出してしまった。

 身体を伸ばして気を取り直し、再び歩き始めた。

 

 

 



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第三話:しぜんなとこ

 灰色だった。

「……寒い……」

 “土”というものは存在しない。地面という言い方も拒否するかのように、一面がコンクリートで固められていた。辛うじて、人工的に植えられた木々がある。しかも車が悠々とすれ違いのできる間隔を空けて、道を作っていた。この他にもいくつか同じ“道”があり、中心地へと導いているようだ。

 空は生憎の曇りだった。やや黒みを帯びた雲は速さをもって流れていく。陽射しがほとんど当たらないために気温が上がらない。どことなく気が抜けなかった。

 この殺風景な土地で、

「長い……はぁ……」

 青年は息を吐いた。人造のモヤが揺らめいて消えていく。

 太股まで届きそうな黒くて長いセーターを着ていて、袖は手の半分を隠している。毛の付いたフードを頭に覆い、前にあるファスナーは首まで上げていた。

 また、シワの無い藍色のジーパンに泥の付いた黒のスニーカーを履いている。

 足元に青年の荷物であろうリュックとポーチがあった。リュックは登山用で、容量の大きいものだった。黒い包みのされた傘型のテントが斜めに突き刺さっている。ポーチは物差しが入るくらいの深みがあり、ジーパンのベルトにフックを引っ掛けて吊るすタイプが二つあった。ファスナーはなく、取り出しやすいチャックになっている。どちらも十分に太り、なぜか黒かった。

「……コンクリート固い」

 愚痴を漏らしていると、

「さすがはダメ男です」

 “声”が返ってきた。年上の落ち着いた女性の声だった。

 “ダメ男”と呼ばれた優男はまたため息をつく。さらに背中を伸ばした。

「最近、肩コリが酷いんだ」

 ついでに肩も回す。骨の鳴るような音がした。

「リュックのせいですかね」

 ポーチをベルトに、ちょうどポケットの位置に引っ掛け、ぐっとリュックを持ち上げた。

「今まで思っていたのですが、」

「何?」

「リュックの中には何が入っているのですか?」

「……」

 ダメ男は“道”をひたすらに歩いていった。

 

 

 道の果てに着くと、数字の“4”と書かれたシャッターが立ちはだかる。決して手の届く高さではなかった。しかし、横幅は大したことはない。道に沿って、車二台分だ。

 ここが中心地。ドームのような形状で丸みを帯びていた。

「こんにちは」

 誰からも返事はない。

 シャッターのすぐ右脇に窓口があった。しかし、

「!」

 中は明らかに異様な光景だった。

「ダメ男、ここの奥の壁に触ってください」

「……隠し扉?」

 ダメ男は無愛想に言う。

 おそるおそる触ると、ドアの形に壁が上に吸い込まれるようにシュンッと開いた。そこを入って、ダメ男は改めて目を見張った。

「……臭い」

「血生臭いですね」

 中には普通の家庭の生活空間があった。戸棚やテレビ、キッチン、ソファなどが調っている。人がいるはずもないが、暖色系の明かりがつけっぱなしだ。

 壁やら調度品やらにはべったりと血がこびりついていた。しかしその持ち主はいない。残骸すらなかった。

「ここは誰かが住んでいたようですね。さしずめ、強盗にでも襲われたと言ったところでしょうか」

 “声”は平然として言う。

 ダメ男は聞き流して血痕に触った。カリッと剥がれ落ち、指と爪の間に血がついた。

「そんなに日は経ってない……」

「そうですか。とりあえずこの部屋をお借りしたらどうですか? 疲れがあるのでしょう?」

「すごく物騒なところだけど、」

 辺りを見回す。

「そうするしかないね」

 ダメ男はリュックとポーチを下ろし、首に手を回す。そこに黒い紐が掛かっていて、それを引っ張り出す。水色の太い蝶番が繋がっていた。首飾りにしては(いか)つかった。

 幸いにも血のついていないソファに腰掛ける。もふっとしていて弾力があった。

 ポーチからコードの付いた薄べったくて小さいモデムを取り出した。それに折りたたみのプラグがぴょこっと出ている。

「コンセントもついでに借りよう」

「充電するのですか?」

 きょろきょろとコンセントを探すと、ちょうどよくダメ男の足元の床にあった。そこにプラグを差し込んだ。コードの先端はごつい蝶番に突き刺す。

「そう落ち込むなよ。電池が切れたらオレがヤバいんだから、フー」

「気持ち悪いですね。死んでください」

 “フー”と呼ばれた蝶番が喋った。

「充電すると相変わらず口が悪いな。どうにかならない?」

「こちらに文句を言う前に、ダメ男のひねくれた性格を直して、気持ち悪い顔を整形してください」

「うーん、今日は一層荒れてるな」

「慣れない環境にいるからですね。“スズメ親子”です」

「よく言うよ、……?」

「どうしましたか?」

「何だよ、スズメ親子って。ちょっと酷すぎじゃないか?」

「たまには頭を使わないと、もともと駄目なのにさらに駄目になってしまいますよ」

「ごめん。今回は本気で分からん」

 ダメ男は明かりをつけたまま、ソファにうずくまるようにして眠り込んだ。

 

 

「ダメ男」

 起こしたのはフーだった。

「なに?」

「壁が開きました」

「?」

 奥の壁が勝手に横にスライドして開いた。ダメ男は仕度を済ませてそちらに行くと、

「何なんだ? ここ」

 そこにはジャングルが広がっていた。木が生え渡り、それに(つる)やら芽やらが纏わり付く。根本は枯れ葉が覆い、地面が見えないほどになっていた。

「自然公園でしょうか?」

「んー」

 ダメ男は葉っぱを掻き分け、地面を見つける。そこに人差し指を突き刺した。それを何回か繰り返す。

「公園というより飼育場所って感じ。色んな動物を飼ってるんじゃないかな。そういう感じがする」

「ダメ男のずば抜けた感性だけは認めますよ。良からぬものがいそうですね」

「多分ね。風もちっとも吹いてないし過ごしやすい気温だし」

 ダメ男はしゃがんだ。

「他に誰かいるかも」

 ボソッと呟く。

「電波は?」

「圏外です。気温は十七度、湿度は五十六パーセント、電池は九十五パーセント残っています」

「サバイバルだな。イヤホンするよ」

「わかりました。音声をスピーカーからイヤホンに切り替えます」

 ダメ男はポーチから片耳専用のイヤホンを取り出し、フーに取り付けて耳にかけた。

 その体勢のままゆっくりと移動する。そして太い木に近付いた。ダメ男はリュックを下ろし、双眼鏡を出した。

〈誰かいますか?〉

「今のところは。それよりも木の枝とか枝葉とかが複雑に絡まって層を作ってる。あれが丈夫なら、上に行ける。……行かないけど」

 なるべく声を殺していた。

 フードに着いていた毛を取り、セーターの中のポーチに仕舞った。さらにフードを被り、首まであげられていたファスナーを胸の辺りまで下ろす。黒のアンダーシャツが見えた。

〈油断大敵です。一週間は乗り切る覚悟でいきましょう〉

「そうだな」

 ダメ男はとりあえず木に身を隠しながら歩いた。ふとして、この空間に入ってきた最初の壁に目がいった。その模様はなぜか青空に雲を書いた絵だった。しかも幼稚だ。二人は一瞬考えたが、前進することを優先した。

 歩き慣れているおかげで、体力的に問題はない。軽い足取りで、しかし状況を確認しながら進む。

「……これ、」

 途中で、

「ヘラクレスじゃない?」

 見つけた。低い木の枝にいた。虫さながらに足を巧みに使い、キシキシと上へ歩いていく。

〈駄目ですよ。拾おうなんて余裕はないはずです。食べられませんし〉

「で、でも……」

〈撮影も駄目です。敵にばれて殺されてしまいますよ〉

 ダメ男は肩を落として、立ち去っていった。

 その後もダメ男の眼が光る昆虫や動物と遭遇した。

〈まるで動物園ですね〉

 そう思った矢先、

「……!」

 何かを見つけた。

〈死体ですね〉

「……」

 先ほどまで人であったろうモノが転がっていた。よく見ると、小さい何かが顔やら体の中やらにいる。

「! グンタイアリか……!」

〈それはまた危ないですね〉

「どうしてこんなところに……? っていうか、これ本物か?」

 アリたちは死骸を無数に千切り取り、隊列を組んで巣へと持ち運んでいた。あっという間に“口”という空間は外界から露になった。

 とにかくその場を離れた。早すぎず遅すぎず、音をできるだけ殺して、避難する。周りへの警戒を(おこた)ることもなかった。

〈もうここから出ませんか? 暗くなる頃ですし〉

「出口らしきところも見当たらない。さっきのは開く気配もない。本当に物騒で怖くなってきた」

〈どういうことですか?〉

 ふぅ、とため息をついた。

〈つまり、真のサバイバル合戦ですか?〉

「うん」

〈人為的な環境、なのに成立している食物連鎖、消える出口、そして脱出不可能な状況、なるほどです。では、あの血まみれの部屋は偶然にも、その猛獣が逃げ出したものということですかね?〉

「……とにかく、ここから出る方法を考えなきゃな」

 そう吐き捨てると、木の幹に寄り掛かった。 そしてリュックを探り出した。

〈爆弾でも作るのですか?〉

「できれば壊さない方法で出たいな。こんな貴重な場所、壊すのはもったいない」

〈どうするのですか?〉

「とりあえず……」

 出てきたのは、黄色っぽい箱だった。

「食べる」

 中から土を固めたような棒の携帯食料を出して、もぐもぐと食べはじめた。

「いつか出られるよ」

〈何とも暢気ですね。観光気分だと死にますよ?〉

「ここの関係者がいればなぁ……」

 一つ目を食べ尽くし、二つ目に噛り付いた時、近くで茂みを掻き分ける音がした。ダメ男は一気に食べて木の陰に隠れ、音のした方向に耳を傾ける。

 慎重に、木陰からフーを軽く放った。イヤホンのコードの長さ分までだが、偵察するには十分な距離だった。

 フーはどこにあるのかわからない“眼”で観察した。

〈あれは何でしょう?〉

 分からない。ダメ男は口をぱくぱくと大げさに動かした。フーは続けて言う。

〈動物と表現するにはちょっとエグイですね。化け物と言った方が適切でしょうか〉

 ダメ男の隠れる木の背景に、確かに生物がいた。ライオンのように四足歩行だが、全身が焼け(ただ)れ、毛はない。色はちょうど火傷を負った皮膚のようで、前足が酷く赤みを帯びていた。顔はまるで人の苦悶の表情のようだ。

 化け物はだんだんと二人のもとに近づいてくる。

〈物珍しさでこちらに来ますね。ダメ男、戦闘の準備をしてください〉

 フーの興奮気味の声でダメ男は気を引き締める。ゆっくりと左手を首からセーターの中に入れた。さらにリュックもすぐ傍に、音を立てないように置いた。

 フーは見定めて、

〈返り血は浴びないでください。首を狙って、今です〉

 ダメ男は振り返り、飛び出し様にセーターから抜いた。

 化け物は目の前の餌を探知するも、雄叫びを上げる暇もなく、震えだした。

 ちょうど喉仏に位置するところにクレバスを作り上げた。ぐじゅぐじゅ、と肉の裂ける感触を確かめた後、勢いをつけて右へ斬り捨てる。クレバスから止め()ない赤い液体が溢れ出し、枯れ葉の積もる地面を新たに色付けした。

 ダメ男はフーにそれが付く前に首に掛け、急いで化け物から離れた。暴れながらも辺りに赤を撒き散らす。そのせいでいたるところに染みを作った。塊は痙攣をしながら倒れた。やがて痙攣さえもなくなった。

 念のため、頭と見受けられる部位に三回突き刺す。きちんと確認した上で、再び木の影に隠れた。リュックから水の入った水筒と真っ白なタオルを取り出し、ナイフに付いた血を綺麗に洗い流した。

 この化物を仕留めたナイフは仕込み式で、黒い骨組みで(こしら)えた柄に透明な膜を貼ってある。先端にあるボタンを押すことで刃が飛び出す仕組みだ。

 赤く汚れたタオルは亡骸の顔にかけてあげた。

「……ごめんな」

 そして十秒程度の黙祷を捧げた。

〈これはどこの記録にも該当しない生物ですね。見たことがありません〉

「オレもだ。新種……なのか?」

〈とにかく、これは食べられないですね。早く行きましょう? 死肉を漁りに来る猛獣どもが、〉

「ちょっと待て」

 左のウェストポーチからゴム手袋を取り出して装着する。巨大な亡骸を何とか動かして、腹の部分をさらけ出す。

〈“Ⅱ”と書いてありますね。しかも、ぼっこりと膨らんでいます。子供を身籠っていたのでしょうか?〉

「それになんだろ、この縫い目。この文字を円で囲むように……。何か隠してる?」

 今度は右のポーチから、掌に収まるサイズのナイフを取り出した。

 なるべく浅く切っ先を縫い目に引っ掛け、皮膚を剥ぐように切る。すると、真っ白な薄い膜覆われて、赤い円がある。

 ダメ男の額はうっすらと汗でてかっていた。

〈隠し物はこれみたいですね。見た目から判断するに、ボタンのようですが〉

「発射ボタン?」

 それ以上は手を加えずに、顔にかけて上げたタオルでナイフを拭き取り、セーターの腹ポケットにしまった。

 いくぞ……、小さく震えた声で意気込む。人差し指をそちらに差し出し、

〈ぽちっとな、です〉

 赤い部分を押し込んだ。同時に小さいナイフを取り出して身構えた。

「………………」

 身構えた。

「…………」

 まだ身構えている。

「……」

 まだまだ気を抜かない。

「……」

 数分間じっと構えて、

「……ふぅ」

 諦めた。

 結局何も起こらなかった。

〈ドキドキ体験ができてよかったですね〉

「いや、」

 いつの間にか、白い膜に赤い字で“4”と記されていた。

「なんだこりゃ? “Ⅱ”と“4”ってどういうこと?」

〈わかりません。とりあえず、撮りますか?〉

「バレるかもしれないけど、ナイス判断」

 フーを開いて、タオルをどかし、写真を撮った。全体像と二つの文字、赤い前足を記録として残した。

 ダメ男はその場から離れていった。

 

 

 フーの時計で中に入ってから、およそ三時間が経過した。もう外は静かで真っ暗な夜を迎えているはずだ。しかし、ドームらしき中は太陽の光に似せたライトが点灯し続けている。地上との間に木の枝が密に絡まりあった緑の層があるため、差し込む光は少なくなっているが、それでも朝昼の状況は出来上がっている。

 ダメ男は別の木の影で、一箱に入っていた携帯食料の残りを食べていた。ほのかにチョコレートの風味があった。しかし、それで空腹を満たすには辛く、痩せこけているようにも見える。

〈ろくに休むことができない、食料も満足でなく、張り詰めた空気が長時間続いている、まさしくサバイバルですね〉

「おまけにここから出れないし、バケモンまでいるし、そのバケモンに付いてるボタン押しても何も起こらないし……。長い夜になりそうだ」

〈少し仮眠をとりませんか? 見張っていますけど?〉

「いいよ。終わったらたっぷり寝るから」

〈果たして、いつ終わるのやら〉

「電池は大丈夫?」

〈残りは三時間分です。しかし、予備がありますから心配はないでしょう。それよりもダメ男のバッテリーの方が気になります〉

「眠いけど頑張る」

〈その意気ですね。ふぁいとー〉

「ふふっ」

 それ以降は口を閉ざした。適度に移動と休憩、仮眠を取りながら、ここの状況をさらに把握する。その繰り返しは深夜にまで及んだ。とはいうものの、深夜の暗さは微塵にもない。

 わかったことはいくつかあった。ドームの広さは歩幅で測って、例えるならば東京ドーム三個分くらい。高さはそれと同等。中間層を形成する枝と緑の層を上ると巨大な電球があり、太陽の代役を務めている。中間層はドームの隅々にまで及び、やはりどこの壁にも空をモチーフにした子供っぽい風景画があった。

 そして人間が七人いた。男三人と女四人だ。何人かで組んでいるところもあり、仲間意識が既に深い。彼ら全員この中間層については気づいているものの、上り立つことができることに気づいていない。何より、会話の中に“ボタン”というワードは一切出てこなかった。

「あとは……」

〈お腹が減っていること、体力的にきついこと、へたれなこと、顔が気持ち悪いこと、調子に乗って、〉

「あのさ、ツッコミするのも辛いんだけど」

〈すみません〉

 ダメ男が今までになく真面目になっていることだ。

 総合的に考えた結果、しばらくは一人で行動し続けることに決めた。

「それに、オレには頼りになる相棒がいるしな」

〈照れますね〉

 ダメ男は注意深く周りを見渡し、誰もいないことを確かめてから、近くの木をよじ登っていく。そして中間層に隔てられている“上”の空間に出た。背中側には壁があった。

「ここなら敵が一目で分かる」

〈最初からすればよかったのではありませんか?〉

「ところが、下から見ると微妙に見えるんだよ。しかも、下からの攻撃に対応しにくいし、馬鹿でかい電球のせいで陰るし。案外安全じゃないんだ」

〈なるほどです。だから、ばれにくくするために端っこに出たのですね?〉

 ダメ男は頷いた。

「悪いんだけど、ちょっと寝る。電池切れそうになったら起こして……」

 そして、壁に体を預けるように座り込んだ。ダメ男の影は壁にでき、わかりづらくなっている。

〈わかりました。異常があればすぐに無理やり起こします。それ以外の機能は全て停止し、スリープ状態に移ります〉

「ありがと……。おやすぃ……」

〈お休みなさいませ〉

 ダメ男は泥のように眠りに入った。本当に死んでしまったのではと疑ってしまうくらいに寝息がなかった。

 相変わらず、エセ太陽の光はぶれることなく、燦々と輝いている。温度も常に一定、風も雨も何もない。完全なシステムでここの環境を保っていた。

 フーの電池が切れるまでの約二時間は特には起こらなかった。突如、悲鳴が聞こえたり、どすの利いた怒声がしたり、草を踏む足音、鳥や虫の鳴き声、ジャングルにありそうな効果音が奏でられている。その発生源は遠かったり近かったりしたが、ダメ男を起こしてはならないと、フーは無視した。というより、後で報告することにした。

 そして、

〈ダメ男、電池が切れる五分前です。すみませんが、起きてください。今は朝の、〉

 ダメ男、起床。そして、

「あと五分……」

 再び就寝。

 

 

「ホントに生き残れるんでしょうね?」

「死にたくなければ、嫌でも生き抜くことだ」

 ライフル銃で草を掻き分けて進む二人。男女一人ずついた。男は歴戦の戦士っぽく、黒ずんだ顔に迷彩を施し、ライフル銃の弾が両肩からバッテンを描くように持っていて、本格的な格好をしていた。女はハンドガンを腰に付け、ひらひらのついた服にショートパンツと逆に軽装だった。

 男は半世紀を迎えたくらい、女はその半分にも満たなそうな年齢だった。

「うんざりしてるけど、仕方ないわね。あんな化け物見ちゃったら……」

「……」

 ため息しか出なかった。

 女は黙って男に付いていく。広すぎるこの空間を歩き回っていた。男は、

「お前、意外に体力があるな」

 感心していた。

「そう? あなたの方がすごいわよ。戦争しに行くかのような格好だしね」

 女は鼻にかけず、素直に言った。

「そうだ。私は兵士なのだ」

「え……?」

「愛する国のために戦争に送り出されたのだが、いつの間にか本隊と逸れてしまい、このドームに行き着いたのだ。そしたらこのような状況に……」

「……」

 何とも言えない顔で男を見つめた。

「仲間は、隊長は、皆は無事なのか? 勝ったのか、負けたのか? ……心配ばかりが頭を占めてるよ」

「……」

 女は男の手をそっと握った。あっ、と男は少し驚き、すぐに手を引っ込める。それをまた優しく握った。

「大丈夫なんて軽く言えないけど……そう祈りましょ?」

 泥だらけの顔で笑った。

「……すまないな。無駄な気を遣わせてしまって、……!」

 その時、男の目つきが変わった。女もそれに気づいた。素早くハンドガンを抜き、両手で握り締める。

 二人は物音に気づいた。やけに大きい足音。それはお互いに経験したものだった。

 手で合図を取りながら近付いてくることを伝え合う。そしてその方向を読み取り、ちょうど挟み撃ちになるように女が移動した。男もタイミングを合わせるために同時並行で後ずさりする。敵は木陰に身を隠しながら移動しているらしく、見晴らしがよくない。だが、それを計算して女と男はお互いに見える位置に、敵には死角となる位置を保つ。

「……」

「……」

 息を潜め、タイミングを見計らう。そして、

「!」

 親指を下に向けた合図が出された。

「……!」

 悲鳴が聞こえた。相方の男の声と、別の男の声。相方が制したようだ。

 女が男のもとに向かう。

「ちょっと待てっ。あんたら、何もんだ。痛いから手を離して、いたたたたたた……!」

 別の男が腕を捻られ、拘束されていた。黒のフード付きの長いセーターに藍色のジーパンの格好をしていた。つまり、

「それが獲物? なかなかイケてるじゃない」

「怪しいやつだ」

「なんでオレをおそ、いたたっ!」

 ダメ男だった。

 静かにしろ、と言わんばかりに、地べたに突き飛ばし、後ろからライフル銃を突きつけた。

「今からお前に質問する。暴れたりしたら……わかってるな?」

「大人しくする、する!」

「それじゃあ……」

 男は一呼吸置いて、言った。

「……お前は何番ゲートから入った?」

「“4”だけどどうして、」

 後頭部に硬い物が当たる。

「ここで得た情報を全て洗いざらい話せ」

 ダメ男はここで得た情報を全て伝える。女と男は顔を見合った。驚きを隠せないみたいだった。

「お前、あのバケモノを殺したのか?」

「不意打ちでさ、首に一突き。見てくれはおっかないけど生き物だから、急所突けばって……」

 口だけで笑う。

「そろそろ誰かと接触しようと思ってたんだ。だから敵対しようとしないよ」

 しかし、硬い物が離れることはなかった。

「最後に一つ、右耳にかけているイヤホンは何だ? それとも、誰の指令を受けている?」

「……」

 ダメ男は急に黙りだした。

「貴様、答えられないのか?」

 その一言で場の雰囲気が殺伐としてきた。男は地面を這う草にぽつりと一滴垂らした。微動だにしない。女は木の幹に寄りかかり、周りを警戒しながら見ている。

 ライフル銃の男は地べたに伏す男の表情を読み取るべく、銃を突きつけながら様子を窺っている。しかし誰から見ても、それは運命を握られた人間の恐怖に染まったものだった。ところが、状況の有利な男は見極めていた。

「お前、こんな状況なのに声が震えてないな? しかも、慣れている」

「……」

「何者だっ!」

 男の怒気の混じった声。ジャングル全体に響きわたるくらいに大きかった。状況の不利な男は俄然手を頭の後ろで組み、無抵抗を示している。そして平然とした声で、

「ただの旅人だよ。弱っちいから、こういうことも慣れっこなんだ」

 答えた。

 しばらく沈黙が走る。喚いていた声たちはそれを見守るかのように、えらく静かになっている。ところが、それを破ったのは、

「……あっ」

 男の腹の虫の声だった。女は、

「……朝食にしましょ」

 すまし笑いで誤魔化した。しぶしぶライフル銃を背中に戻す姿がちまちましていて、可愛げがある。

 

 

「俺の名はテッド。先ほどはすまなかった」

「あたしはキャリー。よろしくね、ダメ男クン」

 三人は真ん中にある三つの金属のコップを中心に三角を描いて座る。どういう原理かはわからないが、それらの下に敷いたシートのおかげで、火がなくても温められていた。

 ライフル銃の男改め、テッドは腰に巻いていたバックパックから携帯食料を食べている。女、キャリーはそのコップの取っ手に触れて、温度を確かめている。そしてダメ男は、

「よろしく」

 挨拶を交わしてから、ナイフの点検をしていた。それにキャリーは目をつけた。

「珍しい形状だけど、それがあなたの?」

 それにつられてテッドも見た。

「え? ……ん……まぁ、半分借り物というか、なんというか」

「借り物? それじゃあ大切にしなきゃね」

「あぁ。けっこう長く使ってるけど、一回も折れたことがないんだ。それどころかヒビすら入らなくてね。呪われてるんじゃないか、って考えちゃうんだ」

「それはそうだろう。そいつで殺めたことも少なくなかろう」

「唯一の護身用だし、それこそたくさんだ。二人は?」

「まあな。これから戦争に行こうとしてたんだ。目の当たりにするし、嫌でも経験もするだろうな」

「あたしは賞金稼ぎだからねぇ……。避けられない話だわ」

 ダメ男たちはゆったりと休息を取った。そのおかげか、意気投合して、信頼関係を築くまでになった。その時点で、ダメ男は二人に包み隠さずに、得た情報を教えた。そして質問はできるだけ返答し、新たに信頼を深めていった。もちろん、

「こんにちは、キャリー様、テッド様。フーです。よろしくお願いいたします」

「いえいえこちらこそ、ご親切に」

 フーも紹介した。

「ひとりでに喋るトランシーバーなんて初めて見る。どこで売ってるんだ?」

「それは……、」

「“だいそう”です」

「? なんだそれ?」

「そんなとこにあるかっ」

「現実でなくて残念ですね」

 そして、フーに内蔵されているカメラで記念撮影をした。

「カメラまであるのか。なんて高性能なんだ。頼むから教えてくれないか?」

「まぁ……。これは……オーダーメイドってやつなんだ。ちょっとした取引で場所は言えないことになってる。悪いね」

「いや、いいんだ。この世に存在してることは確かだ」

「ほかにもカラオケとかできますよ」

「か、からおけ?」

「音でバレるからやめれっ」

 まるで友だちの家に遊びに行っているかのような雰囲気だった。二人にとっては心強いと思っているのかもしれない。

 正午を向かえ、昼食を済ませたところで、探索に出かけた。

「ボタンか……。ドアも開く様子もないしな……。意味分からん」

「そう急くな、ダメ男。一つの推理としてならある」

「?」

「“4”って文字が浮かんできたのなら、それはダメ男クンが押したっていう確認だと考えられるわね。しかも縫合されてたんでしょ? そういう仕掛けがされてても不思議じゃないわ」

「そして“Ⅱ”というのはおそらく個数を表すものだろう。ダメ男の“4”とは表記が違うし、縫合されていた所にあった。つまり、バケモノかボタンのナンバーだ。可能性としては後者が高そうだがな」

「はぁ……なるほど」

 ダメ男は感心の連続だった。

「でも何も起こらなかった。故障なのか?」

「そんなはずないですよ、ダメ男。明かりと保温、湿度設定は常に正確で正常です。なのに、どうしてそれだけが故障になるのですか?」

「それは誰かさんが乱暴にしてたからだろ?」

「いや。俺はフーの言うことの可能性が高いと思う。きっといくつか同じ種類のボタンがあって、それを全て押すと発動するんだ」

「しかも、その様子だと巧妙にカムフラージュされてるわ、きっと。バケモノがそう何匹もいるとは思えないもの。歩き回っても一回しか見つからなかったし……」

「ほ、ほぁ……」

 実際、ダメ男は二人を頼りにしていた。

 そして、壁際を歩いていたところ、

「ん? なんだこれ?」

「どうしたの、ダメ男クン?」

「あ、いや、ここの壁の絵って子供っぽいって思ってずっと眺めてたんだけど……」

「それがどうした?」

「ここの雲だけ……ほんのちょこっとだけ凹んでる気がする。二人とも触ってみてくれよ」

「……そうか? 気のせいじゃないか?」

「……! ここだけ音が違うわ」

「ちょっと離れて。こいつで突っついてみる」

「気をつけて」

「俺らは見張っていよう」

「……穴? あった」

「! 本当だわ」

 化け物に付いていたのと同じ赤いボタンが収まっている。しかもボタンには“Ⅱ”と書かれていた。

「すごいな、ダメ男。素晴らしい洞察力だ。それを押してみてくれ」

 押した瞬間、

「うわ!」

 壁が上へ開き、最初にいた部屋が現れた。

「これで出られるわけだ」

 二人はダメ男に譲るが、

「待って」

 ダメ男は動こうとしなかった。

「探し回っても化け物は見つからなかったよね? でもオレらは三人だから、誰か二人は閉じ込められちゃうことになる」

「ただ見当たらないだけだろう。根気強く探せばいいさ」

「早くしないと閉まっちゃうんじゃないの? ダメ男、早く、」

「だから、三人一緒に入ろう」

「……え?」

「万が一の保険だよ。本当に見つからなかったら、オレは死ぬほど後悔する。だから今の内に試せることは試そうよ」

「だが、人一人分の狭さをどうやって?」

「簡単だ。そのためにはテッドが人“二”倍頑張ってほしいんだ」

「?」

 

 

「……ふぅ」

 傷だらけの身体を水が伝う。ダメ男は浴室で汗を洗い流していた。べったりとひっついた気持ち悪さが温もりと爽快感で落とされていく。と同時に、全身がぐったりと重くなった。

 タオルで拭って黒い寝間着に着替える。浴室を出ると、

「次はあたしね」

 キャリーが駆け込んでいった。

 ダメ男がいた部屋とは少し違うが、部屋にある物と配置は全て同じだった。血の跡がないだけ、随分と気持ちが楽だ。

 テッドはソファで寛いでいる。

「疲れたぁ……」

「お疲れ。飲むか?」

 グラスを一杯差し出される。匂いですぐに分かったので、やんわりとテッドに戻した。

「飲めなくて」

「年齢的にか?」

「いや、気持ちの問題」

「そうか」

 くっ、と一息で飲み干した。

 ダメ男は部屋の端に寄せておいた荷物から、フーを取り出す。時間は、既に夜になっていた。

 そのまま首にぶら下げる。

「明日でお別れだ」

「……テッドの方も良ければいいんだけど」

「他人の心配をしているヒマがあるのか? 俺より若いくせに」

「……そうだね」

「心配するな。こっちはこっちで何とかなるさ。だからお前のことも心配しないぞ」

「分かった」

 

 

 ダメ男は自然に目を覚ました。少し首が痛かったが、それ以外に異常はない。体を動かして朝食を摂る。

 部屋を見回すが、既に二人の姿はなかった。

「フー、今何時?」

「今は八時二十六分五十秒を過ぎようとしています。ダメ男は十時間五十二分三十七秒眠っていました」

「爆睡しちゃったな」

 ふと、キッチンの方に目をやると、一枚の紙切れが置いてあった。それに目を通していく。

「何て書いてあります?」

「“命がけのサバイバルを楽しみませんか?” 以下省略」

「そうですか」

 ダメ男はフーを持って一旦外に出た。コンクリートジャングルに降り注ぐ太陽の光。遠くに山があり、そこの隙間から雲がぽつぽつと棚引いている。朝の光で照り返すコンクリートが、一層輝かしく映る。

 身体はぽかぽかと温まり、でも空気は冷えている。その久々の空気に触れ、思い切り深呼吸をする。肺が洗われるような爽快感があった。

「気持ちいい……」

「しかし、ダメ男も考えたものですね。まさか、テッド様に二人をおんぶしてもらうなんて発想はありませんでした」

「ああ、脱出する時ね」

「極限状態でも普段通りなのは評価できると思います」

「なんか照れるからやめれ」

 軽く準備体操を始めた。

「そう言えばあの二人は出発したの?」

「はい。とても仲が良さそうに、一緒に出ていきましたよ」

「あ~、まぁ、自然な成り行きだろうしなぁ。でも心配するなってそういう……」

「“心配はしない”とはどういう意味だったのでしょうね」

「あ~……うん、なるほど」

 ふっ、と思わず笑ってしまい、

「分からないな、全く」

 フーもつられて笑っていた。

 

 

 



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第四話:つながっていたとこ

 そこには一本の道が細長く伸びていた。不完全な舗装で、ところどころに亀裂が走り、その隙間から雑草が生えていた。おまけに凸凹(でこぼこ)としている。

 右手には勾配の急な坂が道に沿ってできている。坂を下っていくと、河原があった。左手には鬱蒼とした雑木林が、やはり道に沿っていた。いわゆる土手だった。

 周囲は闇に閉ざし、半分に欠けた月が見下している。道が見える程度に照らしてくれていた。

 そして、

「……ん?」

 人影があった。

 その人影を横目に、河原の方で橙色の光が鈍く動いていく。

 

 

 生憎の曇りだった。空一面に白と薄い灰色しかない。今にも雨が降り出しそうだった。そして寒い。

 あの河原に汚れた三角錐のテントがあった。河原は丸い石が所狭しと詰められている。そのわずかな隙間に通すようにテントの留め金が刺さっていた。

 いきなり、

「起きてください。朝です。朝です。朝です」

 声がした。警報のような知らせに、

「起きる、起きるから音やめてっ」

 嫌気がさしたのか、テントから青年が慌てて飛び出した。

 やや背の高い顔立ちがいい男で、髪全体は長くて黒かった。上下に黒のスエットを着ていた。

 青年は頭を掻きながら、テントへと戻っていく。中ですぐに着替えを済ませ、荷物と寝袋と共に外へ出た。荷物は登山用のリュックサックとウェストポーチ二つのみだった。

 袖と裾の長いフード付きの黒いセーターと黒いジーパン、黒いスニーカーを履いていた。セーターのファスナーは首元まで上げている。

 青年はテントの解体作業に入ると、

「どうも、こんにちはぁ」

 別の男がやってきた。防寒具を厚く身にまとっている。まるで相撲取りのような体型のいい年した男だが、大木のような腕の太さに、ただらなぬものを感じさせる。

 ひとまずテントを解体し終え、黒い包みに入れた。

「ここら辺の方ではなさそうですねえ」

 青年は無言で頷いた後、

「たまたま通りすがった者で」

 落ち着いた面持ちで認めた。男は(おもむろ)に胸ポケットから箱を取り出し、煙草をくわえた。そしてライターで火をつける。

「この先に国があると聞いて来たんだ」

「なるほどね」

 煙草を吸って、煙を吐いた。ニカッと頬を上げて笑う。

「そこはどんなだって聞いてる?」

「えっと、幻想的な光景が見れる国だと」

「なっはっはっは……!」

 今度は声を上げて盛大に笑った。

「確かに、普通の人が見たら幻想的に見えるわな」

「?」

 男は急に険しい顔になり、青年を睨み付けた。

「……あんた、首突っ込むと死ぬよ」

 

 

 青年は道をずっと進んでいく。

「ダメ男」

 突如、声がした。青年は、

「何?」

 と、ごく自然に返事をした。この青年は“ダメ男”というらしい。一方の無人の“声”はというと、妙齢そうで気品ある落ち着いた声だった。

「気になりますね」

「ん? あぁ。さっきの話か?」

 まるで興味などないように素っ気なかった。

「何だっけ? 年一回に人が死んだり、いなくなったりするっていう……。しかも事故だの病気だの殺人だの、幻想的どころか危ないとこになっちゃうな」

 ダメ男は少し残念そうに言った。

 道から見える景色は変わらない。河原に雑木林、曇った空しかない。その変わらなさにもダメ男は肩を落とす。

「最近は死んだり殺したりするとこばっか……。一週間ぐらい休みたいなぁ……」

「そうですね。前回は二日目に爆弾テロ、前々回は戦争、前々々回は国王の暗殺を企む輩からの護衛と、少々ハードでしたからね」

「どんな悪人でも、殺したら精神的にまいるもんだなぁ……」

 ダメ男はよろよろと足取りを崩すが、

「せめて、次のところがのんびりできるところであることを祈ります」

「……オレもそう祈る」

 何とか立ち直す。

 同じ景色を進んでいくと、ようやく分かれ道についた。左は雑木林の中を突き進む道、右は河を渡る橋があった。対岸を見ると、さらに二つに道が分かれ、山道を登るか降るかの選択が強いられる。一方の雑木林への道は上り坂となっていた。どちらに行っても山の中には行けるようだ。

 ダメ男は持っていた黒い傘の先端を突き立てた。これは先ほどのテントが折りたたみ式となっていて、見た目が傘のようになる。ダメ男はなぜかこれを“テントさん”と親しみを込めて名づけている。

 テントを支えている手を、

「頼むよ、テントさん」

「だから違います。“テント(がさ)”です。しかもそんなもので行き先を決めるのですか?」

 ぱっと離した。

 すると、

「……」

「力を入れすぎです。傘ではなく杖になっていますよ」

「なるほど。なら、ここにいようか」

 テント傘は見事に直立不動を保っていた。思わず拍手をしてしまった。

「早く行きますよ。右にしませんか?」

「左行く」

 テント傘をリュックに突き刺して、雑木林へと入る道を歩いていった。意外に光が差し込まず、薄暗い。

 しかし、一歩踏み入れた途端に、

「……」

 ダメ男は足を止めた。

「どうかしましたか?」

 “声”はなるたけ声を殺して言う。そしてダメ男は少し開いていた胸元に左手を入れた。顔に疲労困憊の色が隠せず、それでも気持ちを張り詰め、神経を尖らせる。

 そのまま、手持ち無沙汰だった右手でセーターの裾をまくり、腰にぶら下げてあるウェストポーチを漁る。中から黒いイヤホンが出てきた。しかも片方しかない。それを左手に経由して胸の辺りをごそごそと弄る。そしてイヤホンを右耳につけた。

「何だろう? 変な空気」

 ダメ男の飛び抜けた感性で捉えたものは、自分に向けられている“何か”だった。ピシッと鋭く突かれるようだが、正体が何か分からない。

 左手は依然として定位置にして、かかとからゆっくりと歩く。土を固めてならした道なので、足音はほぼ消えている。

 道の奥は曲がっていて、そこから先は木が邪魔でよく見えないし暗いしで、視界は悪い。

 黙ったまま、曲がり道に到達した。周りを警戒しながら、さらに山を登る坂道を進む。その半分にさしかかったところで、

「……っ」

 ダメ男の表情が強張る。

〈ダメ男、大丈夫ですか? まさかとは思いますが、体調が優れないのではありませんか?〉

 ぐらりとよろめく。それが答えとなった。

〈引き返して、休みませんか?〉

「……却下(きゃっか)

 意固地になって踏みしめる。それでも足元が不安定だった。ダメ男はリュックからテント傘を出して、それを杖代わりに支えながら歩く。

「こんなところで倒れたら危ない。上に国があることを願ってる」

 しかし、あっさりと、

「あら?」

 倒れた。

〈ダメ男、しっかりしてください! だから言ったではありませんか!〉

「…………」

〈ダメ男、返事してください〉

「……」

〈駄目ですよ? 誰かに襲われてしまいます……ダメ男、ダメ男! だめお! ×××!〉

 返事はなくなっていった。

 機械的な音声に生気が戻ったかのように、“声”が叫ぶ。同一の単語をただ叫んだ。それはイヤホンを通じて発射されているはずだが、相手はすでにモノと化していた。

 その頃、木の陰から人と思われる影が現れた。一つや二つでなく、何十もある。近づいてくる。

 その間にもダメ男は荒い息を立てながら悶え苦しんでいた。

 

 

 すっと意識が戻ると、

「……」

 既に夜だった。四隅に置かれた蝋燭(ろうそく)が部屋をほのかに照らし、生ぬるい隙間風で影が揺れる。空気に流れがあるのがわかる。外はホーホーと鳴く声しかなかった。かえって寂しくなる。

 古い社の中だった。どこも朽ちていて、像もない。ダメ男ただ一人、布団で寝かされていた。荷物は頭の方にあり、手の届く範囲だった。

 おでこを触ると、濡れたタオルが敷かれていた。火照っていて役目を果たしている。それを脇に置いて、上体を起こす。セーターがなく、黒のシャツにジーパン姿だった。イヤホンも外されていた。

「……! ふぅ……? ふぅ!」

 誰かを呼びながら、首を当てる。

「いますよ。中に」

 ダメ男は首に掛けてある黒い紐を手繰り寄せると、長方形の水色系の物体が出てきた。汗ばんでいたのか、曇っていた。

「よかった。“ふぅ”が無事で」

「こちらの台詞です。……まったく……」

 それは“フー”と呼ぶらしい。

「ところで、ここはどこ?」

「話によると、ここがダメ男の目指していた幻想的な国みたいですよ」

「そうなんか。って、誰の話だよ?」

「命の恩人です」

「後でお礼を言わなきゃな」

 ダメ男は立ち上がると、リュックを持ってきて、黒い寝間着を出した。シャツを脱ぎ、おでこに当てていたタオルで上半身を拭う。風が湿った体を撫でて、身震いをさせた。

「どのくらい寝てたんだ?」

 ジーパンも脱いだ。

「およそ一日と六時間十六分三十八秒間、眠っていました」

「めちゃめちゃ正確」

「指摘するところが違います」

「わかってる。そんなに寝てたのか……」

 フーの話によると、通りすがった住民が倒れたダメ男をここまで背負ってくれたとのこと。身体を診てみると、背中に細い針が数本刺さっていて、先端に毒が塗られていたという。

 ダメ男は下半身もできる限り拭いてから、スエットを着た。

「それもそうですが、極度の疲労に栄養失調、軽度の睡眠不足にもなれば泥のように寝ますよ。最近、食事も簡単に済ませていましたからね」

「確かに。……んで、オレのセーターは?」

「あそこには武器を入れてあったので、この国を出るまで没収ということになっています」

「それはまずい。絶対に返してもらわないと」

 ダメ男はもう一度、

「……まるで供物にでもされるようだな、ここ」

 床に就いた。

 

 

 朝になり、壁の隙間から光が差し込む。蝋燭たちはいつのまにか燃え尽きていた。

 そこに二人の男の子と女の子がすっと引き戸を開けて入ってくる。ダメ男はそれにも気づかず、包まって眠っていた。

「ダメ男、起きてください」

 二人はその声にびっくりして、入り口まで逃げだした。顔だけ覗かせている。

 その騒ぎようで、

「……ん」

 目を覚まして体を起こす。しかしまだ寝ぼけているようで、

「……お腹減った」

 再び布団に埋もれた。

 その状態が何分か続き、むくりと起き上がる。

「あ、おはよう、フー」

「おはようございます」

 ずっと眺めていた子供たちは、

「へ、変な人だぁぁぁぁ!」

「逃げるぞ!」

 脱兎のごとく逃げ去った。

 ダメ男は目をぱちくりさせて、

「……あれが命の恩人か?」

「一応そうです」

 ほっと一息ついた。

 ひとまず引き戸を閉めに行くと、外の情景が目に映った。目の前には太い木が待っていた。幹には縄が縛られていて、それにお札のようなものが吊るされている。境内の中はそれ以外に背の低い木が神社を囲むように立ち並び、無いところは下に行く石段があった。どうやら神社と御神木らしい。

 ダメ男は置かれていたスニーカーを履いて、左手にあるその石段に向かった。下手(しもて)には国というより集落に近いのが広がっていた。ところどころに田んぼがあり、畑があり、家があり、それ以外は特に目につかなかった。国の全てでないにしろ、ダメ男は、

「一日以上寝るわけだ」

 一人納得して、神社に戻った。

「あ」

 神社の渡りに笹で包んだ何かがあった。スニーカーを脱いでそれを中に持ち込む。

 帰りを待っていたフーは、

「おにぎりですね」

 嬉しそうに呟いた。

 朝食を美味しそうに食べてゆっくりした後に、ダメ男は外に出る仕度をした。セーターがないので、仕方なく裾が太ももまで覆い尽くす黒のジャケットを羽織る。やけにポケットが多かった。下は黒のパンツを履き、ポーチを引っ掛けた。フーを首に掛けて、

「それを着るなんて珍しいですね」

「確かに久しぶりかも」

「全身凶器男に変身しましたね」

「そういうこと言わない!」

 どこかのおばちゃんのように言った。

 早速、集落の中を歩いていくと、

「あんちゃん、大丈夫かい? ここに来る途中でぶっ倒れたんだってねぇ!」

 畑仕事をしていたおじいさんが話しかけてきたり、

「しっかり食べてくんだよ!」

 道行くおばちゃんがなぜかサンドイッチをくれたり、

「ねえお兄ちゃん、学校まで一緒に行かない?」

「いいよね? お兄ちゃん?」

 登校していたらしい姉弟に連れ去られたりと、妙に馴れ馴れしかった。しかも、

「あら、旅人さんですね? ちょうどよかったです。今日は学校に旅人さんを招いて、体験談を伺おうと考えてたところなんですよ。差し支えなければ……」

 なぜか学校の来客として、もてなされた。

 ところがダメ男は、

「うん、誰かに攻撃されたけど、今は大丈夫だよ。ありがとう」

「お、サンドイッチ大好き! ありがとおばさん!」

「いいよ。時間はあるし」

「ちょっと恥ずかしいけどいいよ。あんまりグロテスクじゃない方がいいかな」

 警戒を一切せずにあっさり受け入れ、もう馴染んでいた。

「あなたは天井知らずのお人好しですか? それともとんでもないほどの大馬鹿ですか?」

 フーが感心する半面、呆れ果てていた。それでもどことなく安心していた。

 

 

 時間はあっという間に過ぎ、夕方になった。ここは山の谷間に位置するみたいで、夕日をもろに受けて、全てがその系統の色に染め上げられる。そしてその影が色濃く映し出されている。

 以前の河原あたりでは手が冷たくなるほど寒かったのに、ここは逆に暖かい。春の陽気のようで、この夕日は秋のようだった。

 昨日の夜のような生温い風がダメ男の頬を滑る。撫でられているかのように心地良かった。

 しかしダメ男はというと、一筋の汗を垂らしていた。

「え、えぇっと……」

 困っていた。何に困っているかというと、

「どうしてここから出たんですか!」

 巫女服を着た少女に困っていた。

「だからさっきから言ってるだろ? この国を見たくて、」

「ここからでも見れるじゃないですか!」

「それもさっきから、間近で見たいからって言ってるじゃん!」

「あぁ~っ! んもうっ! 話になりませんね!」

「いやだからさ? オレは、」

「とにかくあなたは生贄(いけにえ)なんですから、勝手に出てはダメですよ! いいですかっ?」

「だからいいわけないだろっ! どうしてオレが生贄なんだよ! 第一、何に捧げるつもりだ!」

「あなたに知る権利はありません! 尊い生贄なんですから!」

「尊いなら教えて、」

 ぴしゃりと戸を締め切られ、外からがちゃりと鍵が閉められた。ダメ男は神社に閉じ込められたのだった。不幸中の幸い、荷物は盗まれていない。

 まだ夕方なのに中は薄暗い。四隅の蝋燭はダメ男の情けない顔を照らしている。

「何なんだよ……生贄って……」

「それにしても、ここの神様はしょうもないものを受け取ることになるとは可哀相ですね」

「即返品願いたいね」

「受取拒否します」

「うへ」

 はぁ、と短いため息が聞こえた。

「前日のあの方が言っていたことはもしや、このことではないでしょうか?」

「……なるほどな。これじゃあ確かに殺されたり消えたりするわけだ。まさしく神隠しだな。でも、幻想的っていうのは?」

「その光景が幻想的ということではないでしょうか? つまり、あの旅人は“見る側”だったということです」

「嫌だなぁ。でも、あのセーターと武器を取られたままじゃ駄目だ。何とか取り返さないと……」

「では、血祭りにあげてしまいますか?」

「命の恩人だし、それはできないよ」

「ならば待つしかありませんね。儀式は明日のお昼ごろにすると聞きました」

「仇で返すわけにはいかないし、説得するか」

「決まりですね。それじゃあ、おやすみなさい」

「あぁ。おやすみ」

 とりあえず布団に潜った。

 

 

 明け方。日も昇らぬうちに、ダメ男は起きていた。そして準備も完了していた。昨日と同じジャケットとパンツを履き、スニーカーも履いている。耳にイヤホンをして、準備体操をしていた。

 そろそろ明るくなるが、明かりは消していた。

〈そろそろですよ〉

 イヤホンから伝わるフーの声の直後、神社の渡りに乗り上がる音がした。そして錠が解かれ、引き戸が開いた瞬間、

「動くな」

 人影の首にナイフが突きつけられていた。人影は昨日の巫女だった。事態を汲み取ったのか、顔面蒼白で、ダメ男を“尊い生贄”から“敵”と見なした目で睨み付ける。

 ダメ男は微妙な表情を読み取り、巫女を中に連れ込み、引き戸を静かに閉めた。

「まだ動くなよ」

 ボディチェックはできない。仕方なくポーチから拘束用の紐を出し、手足を縛った。その表情は苦虫を噛み潰したようだった。

「ごめんな。オレもまだ死にたくないんだ」

「くっ……。ケダモノ! 私をおか、」

「そんな気は毛頭ない。ただ、オレの服と武器がどこにあるか教えてくれ。命は助けるから」

 ダメ男は手のひらサイズのナイフを巫女の首に切れる寸前まで押し付ける。無言の圧力も加えた。彼女はすっかり怯えてしまい、目を逸らす。自分の歯まで折れてしまうくらいに口を閉じていた。しかし、がちがちと震えている。

〈逆効果ですか。震えて声が出せそうにないです〉

「うーん……」

 少し考えた後、

「わかった。じゃあどうしてオレを生贄にするか教えてくれ。納得したら、生贄になるよ」

「!」

「だ、ダメ男、本気ですかっ?」

 ひぃっ、と巫女が怯える。

「そういえばフーのこと知らないままか」

 フーのことを紹介して、話を戻す。

「助けてもらった恩があるし、協力できることはするよ」

「あっ呆れました。自分を殺そうとする人間に協力するなんて、正気ではありませんね。好きにしてください、もうっ」

 ぷちっ、と何かが切れる音がしてから、フーは一切喋らなくなった。

「怒らせちゃったか……」

「あ、あの……」

 巫女はあっけらかんとして、

「まずは名前、教えて」

「……ノキ」

 答えた。

「ノキか。……ノキ、オレはどうすればいいんだ? 死ねばいいのか?」

「……」

 ノキは目を伏せて、無表情になった。言葉にならない声を小さく紡ぎながら、さらに俯いた。

「……そうです。死んでしまった大切な人に会えるんです。具体的なことは言えないんですが……」

 ようやくダメ男と目を合わせた。しかし、瞳は子供が見せるようなものではなかった。空ろで哀れみに満ちている。

 

 

「私の両親は生まれてすぐ死にました。ここの巫女は私のように両親がいない子供が務めます。巫女が人を生贄に祭り上げることで、死んでしまった方々と何日か会えるんです。期間は亡くなった方それぞれで、場合によってはすで転生しているので、必ずしもとは言えないですが……」

「なるほど。……小さい頃から、辛い思いしたんだな」

「……」

 ノキは不安げに、ダメ男に迫る。睨み付けている。

「なぜ、受け入れるんですか? 嘘かもしれない話なのにっ」

「どうしてって……とても嘘言う顔つきに見えないよ」

「っ……?」

「オレ、こう見えても色んな国に行ったことあるんだ。生まれる前に母親と死んだり、酷い目に遭わされて虐殺されたり、人に爆弾をくくりつけて特攻させたり。そういうのが当たり前な国と、最近多く鉢合わせしてさ。その、身が擦り切れる思いだった。死んでもいいかなって思ったこともあったよ。でもどうせ死ぬなら、誰かのために死ぬ方がいいじゃん? ……もし、死にたいって思った時、こういう国を知っておいた方がいいかなって」

「……」

 ノキは絶句だった。掛ける言葉が全く見つけられない。

「そんな状態で、この国に来れてすごく助かった。だから嘘だとしても協力した……ってオレの話は関係ないなっ。ごめんごめん」

 カラカラと笑った。

「それで、実際に成功するものなのか?」

「あ、……はい。儀式が成功すれば必ず。でも私の両親には会えなかった。私を育ててくれた村長さんは、もう死んでるって言ってたのに……」

「……」

 ダメ男は、

「ちょっとさ、時間もらっていい? 三十分くらいなんだけど」

「……逃げませんか?」

「逃げない。でも、もしノキの願いが叶ったら、巫女を降りるって約束してくれないか?」

「願い?」

「両親に出会えたらってこと。あ、担保でこいつ置いていくか」

 神社を出た。振り返らずに歩いていく。その後姿をノキは見つめている。ずっと涙を流していた。ぽろぽろと。ぽろぽろと。

「全く、女の子を泣かせるとは、罪作りな男ですね」

「わあっ!」

 ひっくり返るほどに驚いた。

「でも、あんなことを言うということは、何か手があるのでしょうね」

「?」

「協力してあげたいという気持ちは本当だということです」

 

 

 一時間後、ダメ男は戻らなかった。

「どこで油を売っているのでしょうね」

「もう、時間が……」

 すっかり日は昇り、真っ青な空が広がっていた。

 昼までは時間はあるが、準備のために早めに取り掛からなければならない。今の時間はぎりぎりの時間だった。

「仕方ありません。このフーの命を使ってください」

「えっ! で、でも、」

「こんな物の命では、神様仏様はお(ゆる)しをいただけませんか?」

「そんなことはないです! でも……」

「ダメ男も人の子。やはり死にたくはなかったのでしょう。なら担保として肩代わりされた物が責任を取る他ありません」

「フー、さん……」

「私の心臓をえぐり取ってください。方法は教えます。まず、フーを裏返しにして……」

 フーの言う通り、まず裏側にして、カバーのロックボタンをスライドして外す。するとパカリと蓋が取れ、薄く四角い物が現れた。

「それが心臓、言わば本体です。引き抜かれた瞬間、死にます。抜け殻はここに捨て置いても、差し支えありません」

「わかった」

 ぱちん、と取り出して、フーは言葉を発することはなかった。

 ノキは心臓だけを手にして、急いで石段を駆け下りていった。

 

 

 お昼、太陽の日差しが降り注ぐ中、言っていた通りに儀式が行われた。その場所となっていた境内の御神木には集落中の人が御神木を囲うように集まっていた。

 中心には巫女であるノキが剣を持って、木で拵えた円テーブルの前いた。そこにはフーの“心臓”が置いてあった。

 その剣は短刀で、木製の柄のお尻に丸い円が付いている。柄には黒い文字がびっしりと施され、刃も同様の文字があった。

 儀式は始まった。ノキはフィギュアスケート選手ばりに跳ねては回り、ナイフをくるくると回転させる。一回もミスすることなく、最終局面となった。テーブルの前に立ち、奥にある御神木に一礼する。そして念仏のようなダメ男には理解できない言葉を唱える。そして、

「はっ!」

 テーブルごと一刀両断した。フーの“心臓”からは謎の液体がとろとろと流れ出した。あたかも血を思わせるかのように。

 これで儀式は終了した。集落の皆はその場から戻っていった。

 ノキは一度、御神木を見上げた。

 まるで翼のように大きく厚く広がる緑。そこから木漏れ日が透き抜けて、地上に差し込む。その背景には白い綿を散りばめた青い空が広がっていた。吸い込まれそうで、ずっと見ていたくなる空。その絵の主人公は巫女の服を着たノキ。

 ノキが振り向くと、神社の方から男と女がいた。二人はノキに気づいて、少し驚いた表情を見せた。まるで我が子の成長ぶりに感嘆するかのように。目から涙が零れそうになったが、頑張って堪えた。

「お父さん、お母さん……?」

 ノキは地面を蹴った。その瞬間に、やはり我慢できなかったのか、涙が溢れてきてしまった。二人のもとへ駆け抜けて、駆け抜けて、そして飛びついた。二人の温もりを初めて感じたかったから。

 ノキをぎゅっと抱きしめた。温かい。

 

 

「これで一件落着だな」

「ここまでが作戦だなんて、誰も想像できないでしょうね。少女を騙した気分はどうです?」

「まぁ、気分は良くないね」

「それにしても、良く両親を捜し出せましたね。どういう手口ですか?」

「……あの二人は、ノキを大切にしたいって夫婦だよ」

「つまり、血の繋がりのない、養子縁組ですか?」

「うん。運悪く子どもに恵まれなかった夫婦なんだよ。村長と話したら、やはりノキを娘にしたいって組がいくつかあった。だからオレが直接面接して、あの夫婦にしたわけ。ノキの小さい頃の写真も見せてもらって、背格好も近かったこともあったしな」

「なるほど。ノキは写真でしか両親を知らないし、約十年過ぎていれば人相も多少は変わります。正式な手続きは後回しにして、先にノキとご面会というわけですか」

「きっとお互いに肉親じゃないって気付いてると思う。でも、人の繋がりってそれだけじゃないって信じたい」

「そうですね。血縁と同じくらい、別の何かで繋げていけたら……」

 

 

 



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第五話:ねむっているとこ

 広大な草原だった。見渡す限り黄緑色の草原が広がっていて、あるところが盛り上がって丘を形成している。その丘には大樹が生えていた。風樹としてざわめきながら、太陽の恵みを受けようと枝を長く広く伸ばしている。根元には木漏れ日がきらきらと溢れている。

 そこに青年が眠っていた。幹に体を預けて、膝を抱えながら俯いている。

「……す……す……」

 大分深い眠りについている。

 フードの付いた真っ黒のセーターに真っ黒のジーンズ、薄汚れた黒いスニーカーを履いている。青年の傍らには登山用の黒いリュックサックが寝っ転がっていて、それに二つのウェストポーチが寄りかかっている。近くには傘のような物体が根っこの脇で地面に刺さっている。

「ん」

 男はゆっくりと目を覚ました。(おもむ)ろに服の中へ手をいれ、何かを取り出した。それは水色の四角い物体で、黒い紐で繋がれている。青年の首飾りになっているようだった。

 側面をいじると、ぱっと数字が表示された。

「……二時くらいか」

「おはようございます、ダメ男」

 突如、それから声が発した。凛とした女の声だ。

 “ダメ男”と呼ばれた青年は体を伸ばして、

「おはよう、フー」

 “フー”と呼びかけた。

「ダメ男は六時間四十五分二十二秒の睡眠を取りました。時間は二時三十四分を切ろうとしています。気温は十八度、湿度は五十六パーセント、風向きは微風として南南西、天気は文句なしの快晴です」

「毎度ながら律儀なお仕事ありがとね……っと」

 ダメ男はぐっと立ち上がった。

「“出勤、タカツキを脅せず”ですね」

「あぁ~、出勤の度にタカツキさんを脅すことが日課ってことなのかな? でも、今回はちょっととした不都合が生じて、」

「だからダメ男なのです、と言いたいところですが、今回は寝起きなので大目に見ましょうか」

「なんか優しい!」

 体を思い切り伸ばす。背筋に沿って、何とも言えない心地好さが伝っていく。

「ん~」

「いい天気ですね」

「あぁ……、そうだな。この環境ならいつまでも寝れるよ、きっと。でも、体が重くなって気だるくなっちゃうな」

「そうでしょうね」

「それと……この木……」

 こげ茶色でごつごつしていて、年寄りのような硬い(しわ)。ダメ男はそんな大木に触れた。

「どうしました?」

「……温かい気がする……」

 思わず、笑顔が溢れる。

「ただの錯覚ではありませんか? あるいは今日は比較的暖かいですから、その影響も考えられます」

「……そうかもしれないけど、ほのかに感じるんだ」

「そうですか。それなら、そうかもしれないですね」

 ダメ男はまた座り込んで、木にもたれ掛かる。見上げると、風で揺れる葉っぱの隙間が星のように煌めいていた。ダメ男の顔や体も陰ったり日が差したりしている。

「でも、なんでこんな大草原に、こんなでっかい木があるんだ?」

「生命の神秘ですね」

「しかも、ここだけ盛り上がってるし……」

「それを考えても答えはないと思いますよ」

「なんで?」

「自然は人間の想像を遥かに超える事を、いとも簡単に行います。いや、表現します」

「表現、か……。なるほどね」

 ダメ男は二つのウェストポーチをジーンズの両腰に引っ掛け、セーターの下に隠す。そしてリュックを右腕で持ち上げた。一瞬、顔が歪む。

「そんな自然にオレらは惹かれてる。特にフーはね」

「そうですね。どんなに醜いことがあろうとも、素直に表現してくれる自然は素敵だと思います」

「……詩人だなぁ、フーは」

「誰かさんの受売りです。そうですよね、ダメ男?」

「……」

 ダメ男はリュックを下ろして、仕舞い忘れていた傘を横から突き刺した。柄と先端がちょうど飛び出している。そしてもう一度持ち上げた。

「それでは、行きましょうか」

「ん~、寝起きだからか、カラダが少し重いなぁ」

「本当に夜眠れなくなっても知りませんからね」

「はいはい」

 ダメ男たちは歩いていった。振り返ることなく。

 ちなみに、傘が刺さっていた穴は思った以上に深く、そこには白い何かが見えていた。

 

 

 ダメ男たちがいなくなった後、穴から何かが出てきた。白い……というより黄ばんだ茶色に近い。

「ふー。苦しかったぜー」

 “それ”は陽気に話し始めた。

「ホントよねー。わたしらをなんだと思ってるのやら」

 別のものが現れた。やはり同色だ。“二つ”は仲がいいようだ。

「呪い殺してやろうかって思ったが、ああいうやつは嫌いじゃねー」

「初めてよねー。生きて返すのって、ってまた騒ぎ始めたようね」

「あーうるせーぞてめーら。静かにしてろボケが。おめーらみてーなボケは大人しく養分吸われてろや」

「いい(うめ)き声ねー」

 それらしきものは何も聞こえない。さわさわと風で葉がなびく音だけだ。

「ま、これからの期待も込めていいもんくれてやったからよ。ありがたく思えよクソ人間」

「じゃあわたしらも眠るとしよっか……」

「あぁ。これでやっと眠れるな。何百年ぶりだかな……」

「そういえばいいものって?」

「さぁな。どっか語りグセのあるいいやつさ。……じゃあな」

「えぇ。またね……」

 それって誰のこと?

 

 



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第六話:きれいなとこ

 レンガ色の渇いた大地に枯れ木林が広がっています。周りだけじゃなく、ねずみ色の空もその枝に絡み付かれていました。

 そんなところに青年が歩いていました。

「はぁ」

 裾の長い黒いジャケット、藍色のジーンズに赤土のついた黒いスニーカーという格好です。安定した足取りで、立派に太った黒いリュックが背中でがしゃがしゃと揺れています。

 青年の足跡は軌跡として背後からずっと見えなくなるまで伸びていました。

 “見えた……”と呟いた前方に、枯れ木林の端がありました。と同時に、大きな壁が立ちはだかっています。近付いてみると、背の高い青年が手を伸ばした高さの三倍はありそうです。大地の色と同じ色で、鋭く細かい突起がびっしり敷き詰められていました。試しに拳で小突くと、

「いた」

 ちょっとした痛みが拳に滲みます。

 青年は痛くないくらいに指で突っつきながら、右手を壁にして歩いていきます。ずっと歩いても左側は枯れ木林でちっとも変わらない景色でした。しかし、

「ん?」

 途中で抜け道を見つけました。ちょうど枯れ木林がその道を避けるようになっています。道脇には木で拵えた古びた看板があり、

 

[海]

 

 と書かれていました。しばらく歩いてみると今度は、

 

[にんぎょの海]

 

 とありました。

「人魚?」

「おい、あんた」

「!」

 青年は無意識に左手を服の中に突っ込み、身構えました。しかし、そこには、

「……なんだ、門番か」

 門がありました。左手側の景色に集中してしまい、見落としていたようです。

 門は壁と同じくらいに高く、分厚そうな鉄の塊のようです。その傍らに門番らしき青年が二人います。腰に剣とホルスターが携えられています。

「旅人か?」

「そうだよ」

「お疲れ様。中に入るか?」

「入れるならぜひ」

「分かった」

 青年が門を数回叩くと、左右に開いていきます。しかし、人一人がやっと通れるくらいの幅でした。青年は荷物を何回か分けて街の中に入れて、最後に自分が入りました。

 入った途端に、

「うぅ」

 ヘドロのような酷い汚臭。目にくるほどに強烈でした。薄く(かす)む景色、草木などまるで皆無です。コンクリートで組み立てられた住居と地面、空は黒い線でいくつも区切られています。そこを何事もなく平然と歩いていく人々。

 青年は、

「う、うぅ……」

 顔が真っ青になっていました。

「なんだろ、この臭い……」

 そう吐き捨てて、歩き出しました。

 人々の服装はキラキラと輝いていました。おしゃれで高級そうで、まるでセレブのようです。そのせいか、青年の格好が目立っていました。それでも、人々は気にも留めず、きりきり歩いていきます。

 気分が優れないまま何とか宿を借りて、逃げるように部屋に入りました。しかし、必要最低限の荷物と部屋の鍵を持って、

「出るのか? いくらでも出入りはできるが……ここら辺は何もないぞ」

「ひとまず出るよ」

 国の外へ逃げるように出ました。

 

 

「“にんぎょの海”かぁ」

 “にんぎょの海”への道を通っている途中、家がありました。木の板を張り合わせただけの家モドキで、軽く押しただけで崩れ落ちそうなくらいに朽ちています。

 青年はドアと思しき木板に(やわ)くノックしました。思わずため息を漏らします。

「だ、だれ……」

 ぎぎっと擦れながらドアが開きます。声と共に少女が顔だけ現しました。しかし、

「!」

 開ききると、彼女の脚がちらりと見えました。車椅子に座っているようです。

 少女は息を呑む青年の顔を見て、

「ご、ごめんなさい。気分を害してしまって……!」

 慌てて閉めようとしました。

「い、いや、こっちこそごめん」

 そこに青年は手で遮りました。

「気分が悪いのは近くの国にいたからなんだ。ちょっと臭いがきつくて」

「嘘なんかつかないで結構です。もう……帰ってください」

 無理矢理閉め出されてしまいました。

 青年はその場で静かに話し出します。

「オレは旅人なんだ。近くに他の国はあるのかな? 知ってたら教えてほしい」

「……」

 少女はゆっくりとドアを開けました。(うつむ)いています。

 少女が膝下をきゅっと握り締めます。そこから先がありません。

「旅人さん……?」

「うん、そうだよ」

「あの、もしよかったら、旅の話を聞かせてくれませんか? その後でしたら、知っている国を教えます」

「教えてくれなくても、たくさん話するよ」

「私、こんなのだから外に出たことがあまりないんです……。気持ち悪がれるし……」

「そんなことないと思うけどなぁ。オレがびっくりしたのはそこじゃないし」

「?」

 少し赤くした青年を招き入れました。

「見ての通り、ボロ家ですが……」

「オキニセズニ」

「あはは」

 彼女はテーブルに放置されていたカップやティーポットを太ももに載せて、外に行きました。

 その間に見渡しています。歪んだテーブルと椅子に木の箱をいくつも裏返して組み立てたベッド、それらがあるのに台所がありませんでした。周りの壁には設計不良なのか隙間があります。

「……」

 青年は言葉を失いました。

「どうかしましたか?」

「!」

 背後からの声。青年の背後に影のように(たたず)んでいます。

「あ……いや、何でもない」

「そうですか」

 からからと車椅子を進ませ、青年と向き合いました。

 カップとポットを覚束ない手付きで置きます。震えているようにも見えます。

「さて、どんな話がいい? 楽しいのかスリルなのか」

「……えぇと……、そういえば名前がまだでしたね」

「そういえば。オレは、」

「?」

 がすがす、と荒々しいノックがしました。

「今日は騒々しいみたいだ」

 青年が少女を見やると、

「そ、そうですね」

 また俯いてしまいます。沈鬱な面持ちを隠し切れていませんでした。良からぬ雰囲気を感じ取った青年は黙ることにしました。

 しかし、

「よぉ、久しぶりだなぁ」

「元気だった?」

 ずかずかと二人入ってきました。頭にバンダナを巻いた男といかがわしい格好の女です。

 けらけら笑っていた二人が青年を見た瞬間、表情が険しくなりました。しかし、青年は彼らに目もくれずに少女に話しかけます。

「知り合い?」

「……」

 少女はさらに俯いて黙り込んでいました。ため息を軽くついて、仕方なさ気に二人に顔を向けます。

「お前、誰だ?」

「たまたま通りすがった旅人で、お邪魔してるとこなんだ。そちらは?」

「ワタシたちはこの子のお~や。ね?」

「……はい」

「親……」

 少女は頑なに目を合わせようとしません。

「それで悪いんだけど、今から大事な話をしたいんで、帰ってくれないか?」

「彼女、まだオレに用があるから、帰るのは難しいかな」

「だったら外で待っててちょうだい。すぐに終わるから」

「……分かった」

 青年は一旦家から出ました。近くの壁にもたれ掛かります。正直なところ、この家の状態では、小声でも丸聞こえです。

 中で、三人の会話が始まりました。

「なぁ、五つほどウロコをくれよ」

「必要なのよ、いいわよね?」

 やはり、はっきりと聞こえます。壁があってもなくてもほぼ同じです。

 鱗……? 青年は味気なさげに呟きました。

「前、たくさんあげたじゃないですか。なのにまだ欲しがるんですか……?」

「何度も言ってんだろ? お前のウロコは高級品なんだよ。需要が途絶えることがないんだよ」

「もう駄目です、嫌です。痛い思いはしたくないんです」

「……っ」

「お引取りください。そしてもうここに立ち寄らないでくだ、」

 話を遮るように、物音がしました。食器が割れる音、木が(ひしゃ)げる音、重い物が床に打ち付けられる音。

「てめぇ、アタシたちをなめてんの?」

 何かを叩く音が聞こえます。三発鳴りました。

 

 

「てめぇのことなんか知ったこっちゃねぇんだよ!」

 女が少女を組み伏せて、平手打ちをしていました。少女の両腕が両膝で押さえつけられています。

 か弱い声で、

「や、やめてっください……やめて……」

 訴え、顔を腫らしています。

「だったらさっさとよこせっ!」

 綺麗な髪を引っ張り上げ、怒鳴り散らしました。

 横から男が寄ってきました。

「ウロコをくれないとなると、××するか?」

「……」

「脚がないお前ができることなんざ、それかウロコくらいしかないぞ。逆に言えば、役立たずなお前には他の女にはできないことがあるってことだ。なあ頼むぜ? 国長のツレが欲しがってるようなんだよ」

「そうやって言葉巧みに騙して、私の両脚を……ぅっ、うぅっ……」

「騙しちゃいないだろ? お前がそう決めたんだ」

 真っ赤に顔を腫らし、大粒の涙を落とします。

 自称親たちは困り果てていました。ただし、女の方は暢気に煙草を吹かしています。

 ギロリと睨みました。

「いけ好かねえその目、潰すか。アンタ、押さえな」

 がっしりと男がのしかかり、少女の頭を担ぎ上げました。もちろん、全力で抵抗します。

「いやっ! やめてぇっ! たすけてぇっ!」

「もうウロコくれても遅えからな。その目、焼き潰してやる」

 煙草の火を右目に近づけます。

「や、やめて……お願いします……いや、いや……」

 あと十センチ、

「あ、あぁ……」

「?」

 少女の視線が女の遥か後ろにいきました。

「……たすけて……」

「……あ?」

 ぽろぽろ、と涙を落として、

「旅人さん、助けてええぇっ!」

 叫びました。

「お安い御用だよ」

「!」

 既に二人の背後に青年がいました。粘りつくような何かを感じ、二人は咄嗟(とっさ)に離れました。

 慌てて落とした煙草をぎりぎりと踏み消す青年。

 女が刃物を出して脅してきました。

「てめぇ、突っ込んでくんじゃねえっ! ぶち殺すぞっ!」

「よっと。大きい怪我はなくて良かった。でもほっぺが腫れてるな……」

「聞いてんのかっ!」

 まるで無視して、青年は少女を抱き上げます。

「それじゃさいなら」

「え?」

 そのまま、逃げ出しました。

「このやろお! 待ちやがれ!」

 女が家の外に出た瞬間、

「っぴ」

 横っ腹に強烈な蹴りが突き刺さりました。ゴキゴキと嫌な音を立て、吹っ飛んで、ごろごろ転がって、(うずくま)りました。

「がっは……」

 女は見上げる間もなく、頭を蹴り上げられました。いわゆる“サッカーボールキック”です。あらぬ方向に首がへし折れます。二度と戻ることなく、倒れて死にました。ぴくぴく動いていますが、問題ありません。

「……気分は大丈夫?」

 ニコリと青年が笑いかけます。ずっと少女を抱きかかえたままでした。

「……は、はい……」

 呆然としています。

「じゃ、話の続きをしよっか」

 何事もなかったようにそのまま家に戻ると、自称親の片割れが残っていました。殺すことに躊躇いがなかったことに、腰が抜けているようです。無理もありません。そのシーンを見せつけられていたのですから。

「は、ひっひぃ」

「あれ、まだいたんだ。てっきり逃げていったかと思ったのに」

 眼中に無いことに腹を立てたいところですが、膝が笑って立ち上がりません。

 男を睨むこともなく、かと言って助ける素振りもありません。石ころを見るように、興味なさげに眺めていました。

「どうする? 君が決めていいよ」

 尋ねられた少女は睨みつけて、

「殺してください」

 即答でした。

 男はやっと動き出し、土下座でおでこが赤く滲むほどに頭を打ち付けます。

「あ、はわわっ、申し訳ありませんでしたっ! 俺が全て悪かったですっ! 許してくださいっ。一生ここに近寄りません、あなたに関わりませんっ! どうか、どうかお許しをっ!」

「こう言ってるけどどうする?」

「殺してください。こんなことしたって私の両脚は一生戻りません……」

「……」

 青年は新しくティーカップを借りて、お湯と何かの薬を入れました。

「これ飲んだら許してあげるよ」

「えっ? たっ旅人さん?」

「ほ、本当ですかっ」

「きちんと飲み干してくれたらな」

 男は喜んで一気飲みしました。火傷になろうがなんだろうが死ぬよりマシ、と必死になりながらも、すとーんと眠ってしまいました。

「さて、君に提案があるんだ」

「?」

 

 

 翌朝。青年は荷物を全て少女の家に持ち帰りました。そして、

「後悔はない? 今の内ならやり直せるよ」

「ありません」

 きりりと凛々しく言い切りました。

「そっか。そう選んだことを絶対に後悔させないよ」

 青年が車椅子を押しながら、家を出ました。少女の太ももには青年の物と思われるポーチが二つ置いてありました。

 辺りは異臭が立ち込めていました。家は水っ気があるのか湿っており、中まで水浸しです。その中に女の死体とぐるぐる巻きの男がいました。男は今もすやすやと眠っています。

 紙に火をつけました。

「さよなら。私の……全て……」

 投げ捨てました。

 一気に燃え盛ります。朝なのに煌々としています。それが何だか眩しく、真っ直ぐ見ることができませんでした。

 火は中まで侵食し、中の中まで焼き尽くしていきます。その頃には二人は出立していました。断末魔の声も一緒に焼かれていきましたが、振り返りませんでした。

 

 

「目的地までは少しかかるけど、食べ物も余裕だから大丈夫かな」

「ありがとうございます」

「これから目指す国はオレの知り合いがいて、その人に君を頼もうかと思ってる。信用できる人だよ」

「本当に……ありがとうございます」

 二人は無理しないペースで休憩を挟み、目標の国へ確実に距離を詰めていきます。そして、夜は早めに床に就きます。

「君はテントに入ってて」

「でっでも、寒いですよ? 外……」

「さすがに女の子を外にほっぽり出せないよ。それに一人用だし、そのテント」

「ふふっ。私、女の子って年でもないんですよ」

「え? そうなの? すごく若く見える」

「おだてても何も無いですよ」

「いやーなんか出るかと思ったわーうん。めっちゃ期待したなー」

「あっはは」

 そんな生活を繰り返して、ニ日目の夜のことでした。

「どうしたんだ? 眠れない?」

「……」

 少女は深夜でも眠ろうとしませんでした。いつものようにテントを準備して、日頃の疲れを抜くだけです。しかし青年から離れようとしません。車椅子から降りて、木の幹にもたれ掛かる青年に寄り添っています。

 青年はずっと空を見ていました。満天の星が三日月と共に輝いています。

「私がどうしてあんな家に住んでいたのか、聞かないんですか?」

「もう少し落ち着いてから聞こうかなって」

「……」

 (しぼ)んでいるズボンをぐっと(まく)っていきます。ようやく出てきた光沢のある太もも。月明かりで薄くエメラルドに映えています。薄い鱗のようなものが貼り合わさっていました。

 青年は“少女”を見て、ぼそりと呟きました。きれい……。

「皮膚の病気か分かりませんが、こういう体質なんです」

 青年の手をそこへ引っ張って、触れさせました。

「少し硬い」

「物好きな人間が貴重品として扱ってから、前みたいにせがむようになりました」

「それならもっと大切にしようとするけどなぁ」

「……あくまで“これ”が珍しいのであって、私自身は化け物扱いです」

「あんなとこで暮らしてたのは住民に追いやられてか。ひどいもんだ」

 滑らかで温かい……、青年はそっと手を戻しました。ところが、その手を、

「え?」

 またつかんで、放しませんでした。ぎゅっと握りしめています。

「た、旅人さん……」

 じっと見つめます。

「私、まだお礼をしてないですよね」

「あっあぁ、お礼はいいよ。それ欲しさに助けたわけじゃないんだ」

「でも何か欲しがってませんでした?」

「あれは冗談だっ」

「いえ、それでは踏ん切りがつきません。だから……」

 握っていた手を、指まで絡めました。

「あ、あの? そのちょっと待って」

「やっぱり私みたいなのはいやですか……? 両脚もないし、化け物だし……」

「そんなことないっ! すごく、きれいだ……しさ……」

 言いながら恥ずかしくなってしまいました。

 思わず力が入りました。少女は真っ直ぐ瞳を見て、握り返します。しっとりと湿っています。

「でもえーっと、んーっと……そう! ヘタレなのっ。こういうことに臆病なの緊張症なの、だから待って、」

「もう待ちません、待てませんよ……」

 

 

 たどり着いた国は少女の国のように、城壁に囲まれ、いかにも発展していそうな国でした。ただ、入口は木で造られた簡素なドアでした。

 青年がその入口で門番と小話をした後、

「じゃあ行こうか」

 門番が少女と目を合わせた途端、顔を赤くして(かぶと)を深く被り直してしまいました。その理由は少女には分かりませんでした。

 中に入ると、

「うわぁ……」

 所狭しと並び立つ露店、そこに飛び交う言葉と溢れ出んばかりの人々、出入り口から一直線に続いていました。

「商工業が盛んで、活気ある国なんだ。住民たちはこの大通りの奥に住んでて、昼間になるとここで店を開けるんだ。……行こうか」

「だ、大丈夫でしょうか?」

「ここ以外に道がなくてね。しばらく進んでいけば知り合いの店に着くから、それまで皆の視線を感じたらいい」

「え、えぇっ! ちょ、ちょっとま、」

 青年は少女の言葉を遮って、車椅子を押していきます。通るよ、ちょっと通してくれ、青年は軽い口調で人混みを突き進みます。

「……」

「どう? 誰も変な目で見ないでしょ?」

「は、はい」

「でも、気をつけないと、」

 青年の肩を何かが掴んできました。

「おぉ、あんちゃんの妹さんかっ? 両足が不自由してると見たんだが、うちで妹さんの義足を作らんかっ?」

 捩じり鉢巻きをしたごつい男が呼び止めます。

「悪い。もうアテがあるんだ」

「そうかいそうかい。次はうちのところに寄ってきなよ!」

「楽しみにしてるよ」

 がしっと握手して、颯爽(さっそう)と立ち去っていきます。

「い、今のは……?」

「義肢さんだ。身体の一部を失った人にその代替品を作ってくれる職人さん」

「へぇ」

「君みたいに両脚を失っても、立ったり歩いたりできるんだ。ほら、あの子の義足がそう」

 青年が見る方向に、右脚が義足の女の子がいました。短パンから出ている鉄製の脚が女の子を支えています。

「私も義足があれば……もう一度立ち上がれるんですか?」

「たくさん訓練しなきゃだけどね。……着いたよ」

 青年たちが着いた所はとある店の前でした。しかし、ここだけ誰も立ち寄っていません。出入り口のドアには“CLOSE”と札が掛かっています。

「もうやってないみたいですけど……」

「中に入ろうか」

 コツコツと軽くノックをして、すぐに入りました。

 目の前にテーブルとキッチンがあります。使われている形跡がなく、(ほこり)や汚れが目立っています。そして周りを見てもドアがなく、代わりに二階へ続くための階段があります。

 青年がここに留まるように話し、二階に向かいました。そこに広がるのは、

「おぉ」

 まさに工場でした。真正面には轟々(ごうごう)と燃え上がる炎を囲む(かま)、左右にどぎつくぶっとい(はさみ)、足元には金属の素材が転がっています。異様に熱く、溶岩を目の前にしているようでした。

 ちょうどその窯に立ち向かう男が一人だけいました。ハンマーと鋏を使って持っています。どうやら鉄板のような物を挟んでいるみたいで、窯の中にぶち込んでいます。それを取り出した瞬間、

「はぁ!」

 素早く力強く叩き込みます。煌々と輝く鉄板から黒い不純物が剥がれ落ちていきます。まるで、チョコレートを包む銀紙を剥がすように。

「ふぅ……」

 熱の込もったため息。鉄板を水につけて、

「お、小僧か!」

 ようやく青年が目に入りました。足元を見ながら、慎重に男がやってきました。

「久しぶり、ダンじいさん。相変わらず打ち込んでる」

「一週間くらいしか経っとらんだろっ」

 スキンヘッドに不精髭、ごつい体型です。首に巻いているタオルや顔、作業服が真っ黒でした。

 既に黒いタオルで汗まみれの黒い顔を拭います。

「……でも、どうした? もう刃が折れたか?」

「まだ大丈夫。念のために見てもらうけど」

「じゃあなんだ?」

「下に来れば分かる」

「?」

 二人は下に降りていくと、

「あ、お二人とも待っていました。お水、どうぞ」

「あ、ありがとう」

「……」

 ピッカピカの部屋と車椅子の少女が出迎えてくれました。埃だらけだったのが嘘のように、まさに埃一つないくらいに掃除されています。

 ダンは、

「ちょ、ちょっと待ってな嬢ちゃん」

 青年を無理矢理外へ連れ出しました。

「むりむりむりむりぃぃ! 絶対無理だから!」

「ば、ばか! 聞こえたらどうするんだよ……!」

「馬鹿はお前! あんなベッピンさんを預かるなんてできるか!」

「でもじいさん、深い事情があるんだよ。じいさんしか頼れるアテがないんだ」

「ぉ、俺はバツイチだぞ……? 女房と別れた原因知ってるだろ?」

「鉄に打ち込みたい、立派な男じゃないか」

「仕事に立派すぎる男ってのは、女が逃げていくもんなんだよ……!」

「とにかく頼むよ! 何も結婚しろなんてわけじゃないんだ」

「話をぶっ飛ばすなっ!」

「あ、あの……」

 ドアから少しだけ顔を出す少女。表情を曇らせていました。

「わ、私、炊事洗濯何でもしますから……お願いします」

「で、でも……」

「やはり、迷惑ですか……?」

「う」

 今にも泣きだしそうです。

「それでも男なのかよ! じいさん!」

「だっだが、しかし……」

 悶々とするダンに青年は耳元でひそひそと何かを話しました。

「な、なんということじゃ……!」

 その直後、ダンが泣き出しました。

「もう一度聞くけど、じいさん頼める?」

「もうむしろウチに来い! 絶対大切にしてやっからなぁぁぁ! うおおぉぉぉぉん!」

 こうして少女は老人に引き取られることになりました。

「めでたしめでたし」

 

 

 翌日、

「本当に行くのか?」

「あぁ。ちょっと忘れ物を取りに行くよ」

「気をつけてくださいね」

「うん」

 青年はリュックを置いて、少女のいた国へ向かっていました。

 天気は最悪の大荒れで、土砂降りで視界が薄暗く悪くなっています。青年の着ている黒いレインコートがばちばちと打ち鳴らされ、地面が泥濘(ぬか)って足を取られます。その度にレインブーツを履き直していました。

 枯れ木たちが涙を流します。

「こんな雨じゃ……」

 青年は枯れ木を伝いながら歩きます。その途中で、

「……あ」

 “元”少女の家に着いてしまいました。焼け跡しか残っていません。物色することもありませんでした。

 青年の表情は何も表していませんでした。

「よし」

 他の場所を目指します。

 もはやレインコートが意味を成さず、服がびしょ濡れです。全身が()みれ、重量感と疲労感が絶えず付きまといます。気が抜けかけて、ずるりと滑って、

「うおっ」

 何とか枯れ木に掴まる、そんな状況でした。

「……!」

 青年は急に足を止めました。

「はぁ、はぁ……はぁ……か、わ?」

 枯れ木林の隙間からかすかに見えました。そちらに近づくと、

「……いや、海?」

 足元から水平線の彼方まで広がっていました。しかし、土砂などですっかり汚れ、何も見えません。視線を落とすと、陸に溢れ出そうな泥水が青年のレインブーツにひたひたと迫ります。

 数歩だけ下がりました。

「“にんぎょの海”の看板先にあの家があって、さらに先がここ……。“にんぎょの海”はここで間違いない。でも……」

 泥水を指に浸けて、舐めました。塩味は全くありません。

「ぺ。……“海”の看板は確か……あっちか」

 真っ直ぐ反対方向に向かって歩き出します。やはり、と看板を見つけました。さらに進み、

「おお」

 青年の足元から海辺が、その奥に海が広がっています。大波をうねらせて、水飛沫をあげていました。

 青年は海の荒れ様を見ながら、考えに耽り始めました。二つの海に囲まれた国。恐ろしい悪臭のする国。そんな国から追いやられた化け物扱いの少女、脚の皮膚を除いては普通の少女。

 結局何も思い浮かばず、背中を伸ばして気を取り直しました。

 急いで帰ろうとした矢先でした。

「! あれは……まずいっ!」

 海の彼方が盛り上がっています。それを見た途端、一目散に退散していきました。しかし、

「はやっ」

 当然、そちらの方が断然速いのです。そう、津波です。猛風によって大きく成長した津波が押し寄せていたのでした。

 間に合わない、間に合わない、飲み込まれたら死ぬ。青年の頭はそれしかありませんでした。目の前に迫っていないものの、地響きのような轟音に絶望感を覚えます。それでも必死に重たい身体に鞭を打って全力で動かします。

 が、

 

 

「遅いですね」

「こんな天気で忘れ物を取りに行くなんて、命知らずもいいとこだ!」

「もう三日も経っていますよ……」

「まぁ、今は小振りになってきたから大丈夫だろうけど……。それにしても、随分と長い雨だなぁ」

「……」

 車椅子の少女とダンはコーヒーを啜ります。

「さて、仕事に戻るか。嬢ちゃんは身体を休めた方がいい。小僧のことは俺に任せな。ほとんど寝とらんだろ?」

「で、でも……」

 ダンは車椅子を押します。

「嬢ちゃんに何かあったら俺が怒られちまう」

「……分かりました」

 一階に強引に作られた部屋、少女の部屋に行きます。階段脇にあって、中はベッドや机、本棚が置いてありました。

「このお部屋も……ありがとうございました」

「ここに来る度に言わんでも。女の子が小汚い俺と同じ部屋にするわけにはいかんしな」

「ダンさんのお部屋は……?」

「二階の工場だな。鉄に囲まれて寝たいんさ。だから男子の部屋に出入りしちゃいかんぞ」

「あははっ、分かりました。気をつけますね」

「……ん?」

「どうしました?」

「小僧が帰ってきたな」

「どうして分かるんですか?」

「勘」

 にこりと微笑みます。

 少女をベッドに寝かして、ダンは戻りました。そこには、

「こ、小僧!」

 全身ずぶ濡れの青年がいました。

「ど、どうした!」

 肩から腕にかけて綺麗な裂け目がありました。そこだけ赤く滲んでいます。

「はぁ……はぁ……」

「ばかやろぉ! 早く医者んとこ行くぞ! 嬢ちゃんは留守を頼む!」

 慌ただしく家を飛び出して行きました。少女は、

「はっ……はい」

 言葉を返すだけで精一杯でした。

 青年は医者の迅速な処置のおかげで生きながらえました。しかし、意識が戻らず、(おびただ)しい汗と悪夢にうなされ、回復は難航しています。その間も少女が付きっきりで看病し続けました。

「まったく、血だらけにずぶ濡れとはどうなっとるんじゃ……? 何があったのか……」

 

 

「……ふは」

「! ダンさん……ダンさぁん!」

「どうしたっ? お、おぉ小僧! やっと目が覚めたかっ!」

 青年の意識が戻ったのは二日後でした。

「心配かけおって! このバカタレがっ!」

 青年にヘッドロックをかまします。本当にオチそうになるのを少女が必死で止めました。

 病院に入院していたのですが、青年の強い要望でダンの家で養生することに決まりました。なぜそんな無茶な要望が通るのか、少女には分かりませんでした。

 それからも養生生活を続けていました。日に日に元気になっていき、余裕が出てきたある日のことでした。

「……謝りたいことがあるんだ」

「はい?」

 少女がリンゴを()いていた時でした。薄く長く()がされていた皮がぷちっと途切れ、肘掛けに引っ掛かります。

「前いた国が水没してしまった」

「えっ?」

「救えなくて、その……ごめん」

 太ももの上の皿に皮を戻しました。

「あなたは何も悪くないです。謝ることなんて……。むしろどうしてあんな国を助けようとしたのか、そっちに驚きましたよ」

「旅人の本能ってやつかな。すごく気になってね。もう一回調べ直そうと思ったんだけど、悪天候で津波に巻き込まれちゃって……」

 剥きかけのリンゴとナイフ。静かに皿に戻しました。直後、乾いた破裂音が響き渡りました。

「……えっ」

 キョトンとする他ありませんでした。

「そんなことのためですかっ? 死ぬかもしれなかったんですよっ!」

 じんじんと頬が痛み、赤くなっていきました。

「ダンさんも私もどれだけ心配したか……!」

「……」

 震える手で擦っています。しかしなぜか優しく笑みを浮かべています。

 とても怪訝そうに見ました。

「まずは落ち着いてほしい。いいかな?」

「……ごめんなさい。ちょっと冷静には……」

 青年は少女をベッドに呼び寄せて、そっと手を握りました。青年の手がふるふると震えています。

 すぐに悟りました。恐怖や緊張ではなく、必死で意識を繋ぎ止めているためだと。平然そうに話していますが、この状態ですらいっぱいいっぱいだったのです。しかも今の張り手で追い打ちをしてしまいました。

 両手を添えた後、改めてゆっくり頷きました。バツが悪そうに。

「あ、あの国はどういう国だったんだろう?」

「家や工場の排水を綺麗にして、川や海に流す。それを一手に請け負っていた国でした」

「……そんなすごいこと、できるんだ」

「でもその仕事を他の国に奪われてしまって……」

 少女の手も一緒に震えます。

「それしかできない国でしたから、一気に荒れました。私のことをアテにし始めた原因もそうだと思います」

「“にんぎょの海”は?」

「ただの案内板です。珍しい国だったようで、見学に来る人も少なくなかったみたいです」

「なるほど」

 青年はリンゴを取ってもらい、しゃくしゃくと食べます。

「もう、跡形もなくなったんですか?」

「全てを押しぁ、流したよ」

「綺麗になったんですね。昔みたいに……」

 傍らで泣きじゃくるのを、静かに見つめているのみでした。

 

 

 青年はぐんぐんと調子を戻していき、気付けば何週間も過ぎていました。もう完全回復と言っていいほど体調が良くなりました。

 天気が良い昼下がり、青年は外にいました。ダンの家の前で見つめ、

「……はは」

 (ほころ)んでいました。

「ちょ、ちょっと待ってください」

「おねえちゃん、もうちょっとだよ」

 車椅子の、いえ、少女は二本の脚でぎこちなく歩いています。その前方に義足の女の子が笑いながら、

「ほらほら」

「うあぅ」

 手を差し伸べています。少女は歩く練習をしていました。

「小僧」

「じいさん?」

 ダンが家から出てきました。

「またお前のおかげだな。すっきりした顔つきじゃないか」

「あの年で辛すぎるメにあったんだ。これから取り戻していかないと」

 あのボロボロの家にいた時が嘘のようです。それを微塵(みじん)にも感じさせないほどに(ほが)らかに笑っていました。

「言うてあの()はお前より年上じゃぞ?」

「……ほんと? 来る途中でも聞いたけど、いやどう見たって……まぁ大人びてるなぁと思ったけど嘘でしょ?」

「聞いたら四つ五つ上らしい」

「……お姉さんじゃねえかっ」

 なんだかこっ恥ずかしくなりました。

 それを見越して、何かを手渡します。

「これは?」

「新作」

 それは仕込み式のナイフでした。格子状に入り組まれた黒い骨組の柄に厚いナイフが収納されています。柄の隙間に薄い膜が貼られています。刃元に小さなボタンが付いていて、そこを押すと、

「わっ」

 勢い良く刃が飛び出します。全体として拳六つほどの長さです。

「大事にしろよ。嬢ちゃんが作ったんだからな」

「へぇ」

 思わず彼女に見向きました。

「どういう風の吹き回し? じいさん、誰にも任せたことないのに」

「小僧の役に立ちたいと必死にせがんできてな。それにちょうど考案してたのがあったから、嬢ちゃんに頼んだ。それだけのことじゃい」

「いいもんだな」

「そいつは滅多に折れないが、あげるわけじゃないからな!」

「わかったよ。“借りておく”よ」

 ボタンを押しながら、地面に押し込んで刃を納めました。

「意外に器用だから後継者に、と思ったんだがなぁ。金槌持たせんのもこれで最後にしよう」

「嫁入り前には困る仕事だもんな」

「人一倍幸せになってもらわにゃならん。小僧もな、ほれ」

 今度は青年の頭に何かを被せました。

「な、なんだよ! びっくりした!」

「手編みじゃぞ?」

「? セーター?」

 手繰り寄せると、黒いセーターでした。首元まで上げられるファスナーに、もこもこしたファー付きのフードが付いています。ダンがにやついて催促するので、

「へぇ。中にまでポケットあるなんて機能的」

 仕方なく着替えました。

「この色男っ! がははははっはははは!」

「ははっ」

 青年はため息をつきつつも、照れていました。

 じゃあな、とダンは家に戻っていきました。

 義足の彼女と女の子が楽しそうに遊んでいます。青年はのほほんと眺めながら、

「幸せだよ。もったいないくらい」

 言葉が漏れました。

 

 

「もう行くか?」

「うん、休みすぎた」

「またこちらにいらしてくださいね」

「うん」

「荷物は玄関にある。新作ぶっ壊すなよ」

「分かった。……とそうだった。ついでにこれを渡すよ」

「? なんですかこれ?」

「オレも持ってるんだけど、これさえあれば遠く離れていても話ができるし、レンズを通じて風景を見ることができるんだ。しかもいろんな知識が詰め込まれてるから、勉強にもなる」

「便利ですね」

「あんまり遠くに行ったことないって言ってたでしょ? かと言って旅をするのは危険だし。だからこれを使って一緒に見に行くんだ。世界中の景色をさ」

「世界中の、景色? ……こんな私にたくさん見せてくれるんですか?」

「任せろっ! 旅をしてれば、面白い国楽しい国、たっくさん見つかるんだよ。一緒に旅して楽しもう! 観光気分……、いや散歩気分でさ!」

「……ぜひ、よろしくお願いします! それに、少しでも手助けできれば……!」

「あぁ、その時は頼むな。……っと、そういえばずっと名前聞いてなかった」

「そうですね」

「聞いてなかったんかい! けっこう可愛らしい名前だぞ?」

「じゃあ、改めてまして……オレは×××。君は?」

「あはは。私の名前は……」

 

 

 



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第七話:たすうけつのくに -Over to draw-

 生憎の曇天だった。鼠色(ねずみいろ)の怪しい雲が空を覆い、今にも機嫌を崩しそうだ。

 生暖かい微風が緑の大地を(あお)ぐ。胸騒ぎを()き立てるよう緑が波打ち、ざわつかせた。

 そこに都合良く一本の道が敷かれていた。急なアップダウンに加え、ぽつぽつと生える木々を避けるように、ぐねぐねと曲がっている。緑を刈り取って作ったような細い土の道だった。

 そんなところに一人の男がいた。フードの付いたセーターにジーンズを着ており、真新しいスニーカーを履いている。全身真っ黒だった。セーターの(そで)は掌を半分隠すくらいに、(すそ)はジーンズのポケットをすっぽりと覆うくらいに長い。荷物としてはぶっくりと太った登山用の黒いリュックに、ウェストポーチが二つだ。リュックに黒い傘が横に貫いている。ポーチはセーターの中に隠れていて、外見からでは少し盛り上がったようにしか見えない。

 セーターに付いているファスナーを胸のあたりまで下げた。

「はぁ」

 男はため息をついた。

「どうしました?」

 男に問いかける“声”。妙齢の女だが、口調が鋭く淡々としている。しかし、男の周囲には該当する人物がいない。

「……長くない?」

 額に汗をかいている。

「そうですね。ここ数日は、歩いても歩いても同じ景色のように見えます」

「しかもデコボコ道だしさ……ふぅ……」

 男は疲れ気味のようだ。

「マラソンにはいいかもしれませんね。坂道や急カーブで足腰を鍛えられますし、地面は土ですから(ひざ)にも優しいですしね」

「スポーツインストラクターか」

 男はぐっとリュックを背負い込む。そして歩き出した。

「今何時?」

「今は十時二分です。ダメ男が歩き始めてから三時間二分を経過しています」

 “ダメ男”と呼ばれた男は、

「すると、十キロくらい進んだか?」

「いえ、八.四九キロメートルです」

 微苦笑(びくしょう)した。

「そろそろ荷物を減らした方がいいかな?」

「そうですね。特に、金塊ですね。そもそも未だに盗まれていないことに奇跡を感じますが」

「金塊もこんな状況になるとダンベルと変わらないな」

「ですね。“猫に小判、豚に真珠、ダメ男に金塊”と言ったところでしょうか」

「ぶっとばすぞ」

「まだ昼間ですから、明るくて探しやすそうですね」

「……く」

 そんなやり取りを繰り返しながら歩を進めると何かが見えてきた。ダメ男は双眼鏡を取り出し、震える手付きで(のぞ)き込む。遠目からでは白い“何か”としか分からない。

 じっと確認するダメ男を尻目に、

「早く行きませんか?」

 “声”は飽き始めていた。

「フーは体験主義だったっけ?」

 “フー”と呼ばれた“声”は、

「興味ありません」

 機械的に突っぱねた。

「人間の価値観や道徳、倫理観、主義主張は千変万化するものですから」

「随分と哲学っぽいな」

「誰かさんの受け売りです。“忘れてしまいましたか”?」

 フーは、

「うーん。どうだろうね。それより、フーのご意向も兼ねて行ってみようか」

「便利な鳥頭ですね」

 ちょっとだけ呆れていた。

 

 

 何時間もかけて、ようやく辿(たど)り着いた。

 ダメ男の目の前に分厚い門があり、上を(あお)ぐとアーチ状にデザインされているのが見える。左右を見渡せば、白い城壁が遠く広く囲っている。

「開いていますね」

 鈍重な門が開かれていて、洞窟のように薄暗く長い。しかし、奥に小さな光が輝いていた。

「あーっ!」

 ダメ男が叫ぶと、声が乱反射してエコーがかかる。

「なるほど。これは歌うのに適した門ということですか。理解しました」

「誤解すんな」

「歌っていいですか?」

「オレが許すと思か?」

「お願い、歌わせて?」

「そんな子猫のような声で頼んでもダメだからな」

「うにゅ……」

 ようやく抜けると、明順応して景色が飛び込んできた。一瞬ダメ男はたじろぐ。

 石造りの家があり、中を確認するが誰もいない。

「ここは詰所といったところでしょうか。この家は休憩所でしょう」

「なんで?」

「ここだけ地面が異様にすり減っているからです。随分と“盛んに”警備していたのでしょう」

「……でも、今は人の気配なんて全くない。声どころか、生気すら感じない……いや、悪寒がしてぞくぞくする気持ち悪い感覚だ……」

 ダメ男はセーターのファスナーを上まであげた。

「さすがですね。感性が獣並みに鋭敏です。知性もですが」

「お褒めの言葉として受け取っとく」

 ダメ男は街の中へ向かっていった。

 

 

 適当に探索をしていたダメ男だが、

「廃れたのか?」

 表情が険しかった。

「見たままで言えばそうなりますね」

 車が数台行き交うくらいの幅の道がずっと伸びている。その道を(はさ)むように、石造りの家がびっしりと立ち並んでいた。四階建てのようで、生活するためというより、貴重な建造物のようにも見える。しかし、人がいない。

「もったいないな。こんな立派なものがあるのに……」

「ダメ男が住んでみますか? 良い物件ですよ?」

「今度は不動産屋ごっこか?」

「今ならなんと! 幽霊と一緒に住める温かいサービスも満載です!」

「いわゆる“ワケあり物件”だろそれっ! むしろ肝が冷えるわ!」

肝試(きもため)しのセットに使えますよ!」

「肝試すどころか心臓が潰れるわっ。しかも不謹慎なこと言うなよ!」

「ダメ男の方が不謹慎ですよ。勝手に亡くなったことにしてますし」

「ぬっ……それは言えてる」

 ダメ男は荷物を置いて、休憩することにした。

「この街は恐ろしく広いな……。徒歩で通える広さじゃないだろ……」

「おそらく、主な移動手段は車か何かでしょう」

「……いいこと考えた」

 ダメ男はそそくさと廃屋に忍び込み、何かを持ってきた。

盗人猛々(ぬすっとたけたけ)しいですね」

「ちゃんと後で返す」

「それでも窃盗罪が消えるわけではありませんけどね」

 自転車だった。しかも速そうなマウンテンバイクだ。

 ダメ男はるんるん気分でそれに(またが)り、()ぎ出した。

「はっやっ!」

 誰もいない道を颯爽(さっそう)と駆け抜けていく。

「うおぉおおおぉぉぉっ!」

「興奮しすぎです」

「オレ、風になってるっ! うっははぁぁ!」

「頭がさらにおかしくなりましたか」

「やっばぁぁ! 気持ちぃぃ風だあぁぁぁっ! ハマりそうだっ! オレっこのままなら飛べそうだぜぇぇ! ひゃっほおおおぉぅ!」

「危険な薬を乱用した方のような発言ですね。そのまま廃人になって風になって死んでください」

 

 

 ダメ男が駆けずり回っている間に、いつの間にか夕方になっていた。テンションが上がりすぎたようで、マウンテンバイクを降りてからも興奮していた。というより、まだ興奮している。

「なんかまだいける気がする! うんっ」

「いい加減に落ち着いてください。初めて乗ったにしては上手ですし、あっという間にマスターできた腕は認めます。しかし、人格及び顔面に異常が発生しているのは問題です。それと、」

「もう一回乗ろっかな~」

「人の話を聞きなさいっ!」

 小一時間の説教の後、ようやくダメ男は平静を取り戻した。

「悪かったよ……」

「本来ならば自爆していますが、久しぶりに楽しそうな表情が見られたので判定は甘々ですからねっ」

「いつそんな機能がついたんだよ! むしろ恐ろしくて落ち着けないから!」

「こっそり付けていただきました。死にはしませんが、触れている部位は吹っ飛ぶと思っていてくださいね」

「……」

 だらだらと冷や汗が滴る。

 ダメ男は早速野宿の準備に取り掛かった。リュックから黒い傘を取り出して広げると、いくつもの骨組があった。それを手際良く組み立てていく。

 その作業の合間に、周囲を垣間見ている。

「暴走して位置を把握していないようですね。ここは街のほぼ中心にあたる位置です。ダメ男は東方面を暴走していました」

「全然見れてなかった……」

「まぁ、それほど熱中して楽しんでいたのでしょう。久しぶりに楽しめたようで良かったです」

「……オレ、暗いな。……一人で遊んでるなんて……」

「こちらを無視しないでください。一人ではありませんから」

「! ……」

 ダメ男は目を丸くした。優しく微笑む。

 ダメ男たちがいる位置は、先ほどフーが言ったように街の中心部だ。先ほどの道が四方から合流して、十字路を形成している。その空いたスペースには、先ほどの家が所狭(ところせま)しと建ち並ぶ。

 ダメ男たちは十字路中心より少し外れた歩道にテントを組み立てていた。

 テントを完成させて、荷物をテントの中に置いた。

「……!」

 何かに気付く。

「どうしました?」

「このへっこみ……なんだろう?」

 綺麗に舗装された道だが、数ヶ所に異様な(へこ)みを見つけた。

「分かりません。誰かが重たい荷物を落としたのではありませんか?」

「そうか」

 空を見る。

「……少ししたら雨降る。匂いがするし風が冷たいし」

 ダメ男は焚き火の準備をしていたがやめた。代わりにロウソクを数本灯し、それをガラスケースに入れる。

「まだ雨は降りません。降るとすれば、深夜の三時あたりに降ると予想されます」

「分かった。でも、まだ外にいよう」

「しかし、ダメ男は歩いた分と暴走した分で、かなりの体力消耗と汗をかいています。テントではしっかりした休眠が取れませんし、下手をすれば体調を崩してしまいます」

「……慎重だな、フー」

「ここには医者も誰もいません。テントで(しの)ぐにはリスクが高すぎます」

「……フーがそこまでオレを心配してくれるんなら、従うしかないな」

 ダメ男はテントを片付け始めた。

「べ、別にそういうわけではありません。普通に考えれば廃屋に身を置いた方が安全だと分かるはずです。ダメ男がバカでアホで間抜けで人格崩壊の顔面破壊してて、」

 フーの悪態を平然と聞き流す。

 テントを片付け終えた後、民家を貸してもらって床に()いた。

「ありがとな」

「いえ、どういたしまして」

 

 

 翌日の早朝。ダメ男が目覚めると、

「予想通りだな」

 しとしとと雨が降っていた。

 セーターを脱いでタンクトップと下着姿になると、ストレッチを始めた。身体にはいくつもの傷痕があり、筋肉によるものではない凹凸が見られる。

 傍らにナイフが置いてある。黒い骨組みに透明の膜を貼り付けた()。その中に刃が収納されている。先端にあるボタンを押すと、刃が飛び出す仕組みだ。

 すると、

「おはようございます」

 フーが起きた。姿がないものの。

「まだ寝ててもいいんだぞ? オレに合わせなくても……」

「自然に目が覚めただけです。自意識過剰もいいところですね」

「そっか」

 特に気にすることなく、ストレッチを続行する。

「しかし、身体が柔らかいのですね」

 前屈をしていたダメ男。くにゃりと身体が折りたたまれ、額が膝に接触する。

「オレは徒歩だからな。ケガしないように気を付けてるよ。脚のケガは特にな」

「男性でここまで柔らかい方は珍しいですよね」

「わりとそうでもないと思うけどな……」

 ストレッチを終えると、今度はナイフを手に取って練習を始めた。ボタンを押してシュカッ、と刃が勢い良く飛び出した。そして敵を想定した動きを見せる。それはまるで踊っているかのようだった。

「ところで、今日はどうするつもりですか?」

「まだ行ってないとこあるだろ? そこを回ってから街を出るよ。出来れば今夜には……な」

「夜ですか?」

「うん」

 ナイフを鋭く振る。空気を裂く音が明確に聞こえる。

「予報では明日の明朝まで降るようですよ? 雨があがってからでも遅くはないと思います」

「それなら、そうした方がいいな」

 急にナイフを投げた。(すさ)まじい勢いで壁に垂直に突き刺さる。

「……」

 そちらを(にら)む。が、誰も出てこなかった。

 ナイフを回収して練習を終えた。

「珍しくきっちり練習しましたね」

「まぁな。さってと……」

 ダメ男は汗を流そうとお風呂を借りたが、水が止まっていた。仕方なく、ミネラルウォーターをタオルに浸し、それで全身を拭った。着替えは黒いパンツに黒い長袖シャツにした。セーターはリュックにしまい、代わりに黒いジャケットを出した。

 さらに、何かが入った袋を取り出した。

「フーからな」

 そう言って、手に取ったのは四角い物体だった。水色のようなエメラルドグリーンのような色をしていて、蝶番(ちょうつがい)のように開くことも可能だ。

「昨日はずっとダメ男の服の中だったので、汗で気持ち悪かったです」

「確かにな。寒いならまだしも暑いとどうしても汗かくからな。……今度から内ポケットに入れるようにするか?」

「いえ、けっこうです」

 淡々と言い放つ。ダメ男は、

「そうかい」

 少しムッとした。

「お手入れをしてもらうことが少なくなりますから」

「……」

「別に、ダメ男の気色悪い顔面を見るためではありませんから、勘違いしないでください」

「分かってるよ」

「なぜニヤついているのですか? 不気味で気持ち悪いです」

「別にニヤついてないよ」

 とか言いながらも、

「よし終わり。どうです? 心地良かったですか?」

「まあまあですね。もうちょっとキレがあっても良かったですけど」

「……あははっ」

「ふふ」

 笑っていた。

 次にナイフのお手入れに取り掛かった。先ほど取り出した袋から、白い布と丸い容器をいくつか出す。その容器を開けると、何かの液体が入っていた。それを布で浸し、ナイフに塗り付けていく。

「雨はやはりすぐには止みそうにないですね。そんなに強くはありませんが」

「そうだな。こういう日は、家で寛ぎたいもんだ」

「ダメ男は家に帰りたいですか?」

「“家があれば”ね。いや、あっても帰りたいとは思わないかも」

「一時期、ホームシックになりましたよね」

「そっその話はやめてくれよ。……恥ずかしいからさ……」

「毎晩毎晩、子供のようにシクシク泣いていましたよね。(なぐさ)めるのに苦労しましたよ」

「うっさいっ」

 顔が赤くなっている。

「おまけに立ち寄った町で一週間ほど寝込んで、住民の皆様に迷惑をかけまくりましたね。感謝してくださいね」

「……あぁぁっ! 指切った!」

「もし私がいなかったら、ダメ男は鬱になっていますね」

「オレのケガ無視っ?」

「痛そうですね。それでですね、」

「軽すぎるからっ! けっこう深く切っちゃったのにっ!」

「話題を変えたいがために身を呈した自傷行為を難なくこなすとは、ダメ男はかなりマゾヒストですね」

「急に話題が怪しくなったよっ! やめようっ? まだ朝だよっ」

「話題を振ったのはダメ男ですから、責任を取ってくださいね」

 ……とにかく、二人は駄弁(だべ)りながら午前を過ごした。

 

 

 昼食を栄養補助食品で済ませ、午後からは、探索に時間を費やした。

 雨が降りながらも、レインコートを着用して自転車を漕ぐ。しかし、同じような景色しかなかった。

 ダメ男は左耳にイヤホンをしている。

〈ところで知っていますか?〉

「? 何を?」

〈運転しながらイヤホンをするのはいけないことなのですよ?〉

「そうなの?」

〈はい〉

「初めて知ったよ」

〈無理もありません。初めて自転車に乗ったのですから〉

「でも従う必要はないな。この街に“法律が存在してないから”」

〈そうですね。“馬鹿の耳に念仏”です〉

「ビミョウに合ってるだけにムカツクなっ」

 二人が話していると、とある広場についた。

「なんだここ? 見事に放置されてるな」

〈公園にしては相当広いです〉

 公園は広大な緑の敷地に白い石畳の道が心細く伸びている。均等に生える木々や芝生(しばふ)は生い茂り、花壇の花とともに手入れされている様子は皆無だ。池は雨が降っているおかげで、溢れかえりそうだ。

「もしかして、この街って大金持ちしか住んでないのか?」

〈かもしれませんね〉

 ダメ男はしゃがみ込み、芝生に触れる。

〈どうしました?〉

「いや、なんでも……」

 道を(つた)っていくと、建物が見えてきた。

「見た感じ、王様クラスの家だよな?」

〈これが庶民の住む家なら、この街の生活水準は恐ろしいほどに高いですよ。そうでなくとも、低いとは言えませんが〉

「それは言えてる。今思えば、街中にあったやつより豪華だもんな」

〈この壁はおそらく大理石ですよ〉

「まじかっ」

 美しい装飾、高級そうな素材を惜しみなく使用した真っ白い壁、城かと思うほどの巨大なサイズ。まさに豪華絢爛(ごうかけんらん)を極めたと言うべき建造物だ。

 ダメ男は、

「じゃあ、お宅訪問といきますかっ」

〈楽しみです〉

 あっさりと中に入った。その瞬間、

「!」

 足が止まった。

〈ダメ男、どうしましたか?〉

「……」

 顔が険しくなっていた。

 自転車を入口に立て掛ける。

「外と空気が全然違う。というより、外の空気をさらに圧縮したような……少し怖いな……」

〈ダメ男が“怖い”と訴えるのはすごく珍しいです。こちらには伝わりませんが、ダメ男はひしひしと感じているのですね?〉

「うん」

 警戒しながら進む。彩り豊かなガラスを貼り合わせて創った見事な絵を飾ったホール、プールのようなお風呂に、陸上競技ができそうなくらいに長い廊下。もはや贅沢を超えてある意味芸術だった。

「?」

 しかも、(ほこり)の量も尋常ではなかった。雪が降り積もったかの(ごと)く、厚みを持っていた。

〈広いですね。ダメ男は方向音痴ですから、私がいなければ迷子になりますよ〉

「ここに限っては大丈夫そうだ」

〈そうですか〉

 ダメ男の足跡がずっと伸びていた。

〈掃除するとしたら、どの位の歳月が必要なのでしょうか〉

「一生かかると思う」

〈ダメ男と同じ答で安心しました〉

「うん。掃除してたら、別のところで埃が()まるだろ。こんな広いと……」

 歩いていくと、

「!」

 また足を止めた。

〈ダメ男、急に汗を流しましたね。どうしました?〉

 みるみる頭から汗が流れていく。

〈手も湿りだしましたね。緊張ですか?〉

 ダメ男は、

「これ以上先は進みたくない……」

〈え?〉

「怖い……」

 足が進まなくなった。そこからもう少し進むと建物の裏に通じている。

〈テラス、みたいですね。一応扉があって通れるようですが〉

「ごめん。そっちにはいけない、いきたくないんだ。頼むよ……いきたくない……」

〈ダメ男、落ち着いてください。ひとまず出ましょう。無理をする必要はありません〉

「……助かるよ、ありがとう……」

 ダメ男は憔悴(しょうすい)しきった面持ちで建物を出た。

 

 

 ダメ男はまた民家を借りて寝泊まりすることにした。

「大丈夫ですか?」

 フーはテーブルに置かれている。

「なんとか落ち着けた……」

 ダメ男は椅子に座って項垂(うなだ)れていた。

「何時?」

「十八時十二分です。今日はもうゆっくりしましょう」

「そうだな。ありがと」

「いえ」

 ダメ男はボトルと栄養補助食品を取り出し、簡単に夕食を済ませる。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫」

「ダメ男がこんなに精神的疲労を負うなんて、本当に珍しいことです。ですから、冗談抜きで心配です」

「そうだな」

 もそもそと食を進める。

「……たとえるなら、全身ぐるぐる巻きにされて渦に巻き込まれる感じがした」

「? どういうことですか?」

「否応無しに“何か”に引きずりこまれるような……強烈な引力みたいなのを感じたよ」

「文字通りの“ゴーストタウン”ということですか?」

「間違いない」

 食事を切り上げて、食料をポーチにしまった。

 ダメ男はリュックから寝袋を取り出した。

「また“悪夢”を見そうですか?」

「どうだろうな。また宇宙と交信するかもね」

「ふざけないでください。本気で心配しています」

「……ごめん。本心で言うと見ると思う」

「そうですか。こうなるならダメ男の言う通り、今夜にでも()てば良かったです」

「でも明日は晴れるんだろ? なら待った方がいい」

「ごめんなさい」

「謝るなよ」

 ダメ男は寝袋に入って、目を閉じた。

 

 

 しかし、フーは起きていた。

「また、ですね」

 泥のように眠っていたダメ男が、

「はっ……は……」

 息が荒くなっていた。寝汗が粒となって、滝のように伝い落ちていく。苦しそうだった。

「うぅ……あっ、ぐう……」

 がたがたと震えている。

「私は、あなたが苦しむ姿を見てるだけ。側にいて添い寝することも手を握ることさえできない。どんなに傷付いても見てるだけ。私の方がどうにかなってしまいそうです」

 誰にも聞こえず、そっと独り()つ。

 

 

 翌朝、

「ふあぁぁ……」

 ダメ男は何事も無かったかのように起きた。

「うっんぅ……ばくすいさくれつ……」

 いつものようにストレッチと練習をした。練習の途中で、

「おはようです」

 フーが起きた。

「気分はどうです?」

「うっはよ。もう快眠爆睡大喝采よっ!」

 異常にテンションが高かった。

「修学旅行で寝不足になって、むしろテンションハイになったパターンですね」

「よく眠れたよ」

 屈託ない笑顔だった。

「心配して損しました」

 フーは呟く。

「んぅ? 心配してくれたの?」

 一瞬で下卑(げび)た笑顔に変わった。

「一生悪夢に(うな)されて苦しみながら死ねばいいです。地獄に落ちて、鬼に肉を削がれてもがき苦しめばいいです」

「それは想像しただけでも恐ろしいな……」

「早く死んでください。そちらの方が清々します」

「そんなに怒るなよ」

「気持ち悪いので話しかけないでください」

「はいはい」

 慣れているのか、全く苦にしていなかった。

「誰かさんがずっと見ててくれたから安心して眠れたよ」

「え?」

 間抜けな声が漏れた。

「おっ起きていたのですか?」

「寝不足は乙女の肌に悪いから、ちゃんと寝ときなよ」

「誰のせいで……じゃなくて、」

「焦ってる焦ってるっ。あははっ」

「ばか」

 雨が止んでいた。

 

 

 ダメ男は準備を終えていた。忘れ物がないかチェックし、民家を後にする。

 空は東に雲を残して、綺麗な青空を見せていた。太陽が雲に隠れているが、その隙間から帯のように光が差し込んでいる。ちょうど街に差し込み、濡れている石造りの家や水たまりを(きら)びやかに()せる。

 ダメ男は澄んだ瞳でその情景を見ていた。

「綺麗だなぁ……」

「はい」

 自転車に乗り、緩やかに走っていく。惜しむように。

「今日は安全運転ですか?」

「こんな綺麗な風景なのに、爆走してたんじゃもったいないだろ?」

「そうですね。よそ見運転も危険極まりないですが、死ぬのはダメ男ですので許します」

「良い子の皆はマネしちゃダメだぞ」

「私しかいませんよ」

 ダメ男が走っていくと、街の西側に抜けた。そこは農村のように田畑が広がっていて、見事に育っていた。奥の方で何かの機械が道に置かれていた。

 ダメ男は自転車を停めて、畑の土を(すく)った。握ったり匂いを()いだりもした。

「いい土とは言えないけど、しっかりとしてる。育てるには十分だ」

「誰かいますね。足跡があります。二十六センチ、形状と深さから判断して男性で、体重は約六十キログラムだと推測します」

 機械の方へ行くと、

「お」

 三十代から四十代前半の男が、機械にもたれて休んでいた。

「おおおぉぉ! これはこれはっ!」

 男はダメ男と固い握手を交わした。

「ようこそ、我が国においでなさった! 私がこの国の王です!」

 薄汚れた帽子に土で汚れた作業着と長靴、顔や手も泥だらけだった。正直、あの大豪邸に住んでいるとはとても思えない格好だった。

「オレもやっと人に会えたよ。こっちの方にいたのか」

「第一街人発見ですね」

 男はとても嬉しそうだ。

「いろいろと聞きたいことがあるんだけど……」

「その前に、お腹は空いてないかい? もう昼頃だから一緒に腹ごしらえでもしよう。お持て成ししたい」

 そう言うと、男は両手で抱えるほどに大きいザルを持ってきた。それには野菜や果物がてんこ盛りだ。瑞々(みずみず)しくて美味しそう。

「おぉっ! これはおいしそうっ」

 ダメ男は意に介さずにもりもりと食べ始めた。シャキシャキといい音が弾ける。

 夢中で食べるダメ男を余所(よそ)に、

「この街には王様以外に誰もいませんでした。もしかして、一度滅んでしまったのですか?」

 フーが尋ねた。“自称”王様は急に表情が沈む。

「それを語るにはこの国の事情を知ってもらわなくてはいけないんだ……」

 王様はダメ男に野菜を寄せる。ぺこりと頭を下げた。

「この国は元が王制で、良い時代が多くなかった。むしろ少ないくらい。大体は傲慢(ごうまん)で身勝手な王だった。特に酷かったのは、」

「愚痴はけっこうです。簡潔にお話ください、王様」

 冷淡に言い切るフー。王様はたじたじして続ける。

「契機になったのは十一年前。重税で苦しんでいた農民たちが減税を求めて訴えた。しかし、王たちはそれを退けたばかりか農民たちを殺してしまったんだ! 虐げられてきた我々はついに怒りが爆発した! 理不尽な暴力を終結させるために理不尽な王を打ち倒すために革命が必要であると!  そう考え、早速革命の準備と計画に追われた。見つかれば反乱分子として死刑は免れない。急速にかつ慎重に秘密裏に進められた」

「即死刑ですか。凄まじいですね」

 フーの言葉からは、微塵にも感じられない。

「ちなみに、ここの死刑はどんなのか知ってるかい?」

「知りませんが、(むご)い方法であることは察します」

「この国の死刑は伝統的なものなんだ。手足を拘束して逆さに吊るし上げ、頭から道路に落として叩きつける。しかも家族も巻き添えをくらうんだ。親、妻や夫、子供、最後に死刑囚という順でね」

「惨いですね」

「あぁ。仲間たちがどんどん死刑にされたよ。ある仲間は泣きながら頭蓋骨が陥没して、またある仲間は他の仲間に吠えながら首が折られ……。私は当時、大学院で勉強していた身でね。比較的裕福だったんだが、貧しき仲間たちの悲鳴を無下にできなかった。それで革命を共に叶えようと、初めの方から参加していたのさ。だから、仲間たちがどんな想いで殺されていったか……身をもって分かる。もう、歯を食い縛っていたよ」

「王様も参加していたのですね」

「そうさ。……そして時が動いた。十年前の春、我々は複数の警備隊の武器庫を襲撃し、成功した」

「武器の確保と、警備隊の戦力低下が目的ですね? よく成功しましたね」

「その通り。我々庶民は武器となるものの所持を禁じられていた。我々を黙らせることが一番の目的だったのだろうが、まさか警備隊の中に協力者がいたとは仰天(ぎょうてん)ものだったろう」

 王様は不敵な笑みを浮かべた。

「ということは、後は王宮を襲撃して王様たちをコテンパンにのして革命達成ですか」

「そういうことになるはずだったが、計画変更を余儀なくされた」

「? 失敗したのですか?」

「いや、王たちが荷物をまとめて国外逃亡を図ったのさ」

「では、逃げられたのですか?」

「まさか。金目のものと家族を連れて、トラックの荷台に隠れていたのさ。食料と宝石がたんまり積まれたトラックなんて怪しい極まりない」

「確かに。むしろ、運転手が王様たちでないかと最初は疑いますよね」

「とにかく革命を成功したんだ! 悲願の革命をね! しかも、革命における犠牲者は最小限に留めることもできた」

「なるほど。後はハッピーエンド、とは言い難いようですね」

「まあ、ね……」

 王様は周りを見渡して、少し(うつむ)いた。

「その後は大変だった。政治や法律、国の運営をまるまる変える作業に追われた。まずは基本理念からだった。今までは王による理不尽な独占によって我々は虐げられ、窮地に立たされることばかりだった。だから、一人の権力者に国を任せるわけにはいかない。したがって、国を動かすのは愚かな一人の権力者ではなく、国民全てに平等に決定権を授けることにした。素晴らしい法律でも極悪な刑罰でもどんなアイデアでも国民に是非(ぜひ)を問い、その過多で決定する」

「つまり、“王制”から“直接民主制”への昇華(しょうか)ということですね」

「……そうなのかな? ちょっと分からないが……。とにかく基本理念は決定した。とは言っても、不安要素が完全に消えたとは断言できない。物事には例外が付き物だから。そこで、試金石の矛先となったのが、かつての愚かな王だった」

「結果はどうだったのですか?」

「九十八パーセントの賛成多数で、王は死刑となった」

「ということは、王様の関係者もですね」

 フーは濁して言う。

「だが、これで本当の意味で革命は成し遂げられた。白い道で映えた王族の血が我々の勝利の証だった。もう、誰も苦しまずに済む。……それから、あらゆることを多数決で決めていった。税制や国防、法律、規則、教育、経済……。時間は掛かったが、国民全員が議論し合い、納得したものとなった」

「確かに国民の意見が直接反映されますから、時間のデメリットを除けば、理想的な結果になりやすいですよね」

「その通り。全ては上手くいった……かに思えた」

 王様は水を一杯一気飲みした。

「何があったのですか?」

「ある者が“事案を決定するのに時間がかかりすぎる。リーダーを一人選出してリーダーに権限を与え、何年か国の運営を任せたらどうか?” と主張したのだ」

「つまり、“王政復古”ですか」

「そんなこと誰が賛成しようか! かつての愚かな歴史を忘れたのか! 弱者が虐げられ、強者が飽食の限りを(むさぼ)るあの悪魔の時代を! 冗談でも絶対に許されるものではないッ」

「その調子だと、否決のようですね」

「す、すまない……」

 王様は頭を下げた。

「まさしく、反対多数でひけ、」

「フー、トイレ行ってくる」

 突如、ダメ男はのそのそとどこかに行ってしまった。

「こちらこそすみません」

「いや、いいさ。自慢の野菜を堪能してもらえたようだからね」

 王様はにこりと笑った。そしてすぐに目付きがきつくなる。

「しかし、先ほども言ったが、冗談でも通じないことがある。かつての“悪政”を願う危険思想を抱く者が現れた。国家に反逆し得ないとも分からない」

「かつての“革命軍”の逆パターンですね」

「そう。そこで、彼らを国家反逆罪として提議した」

「半分半分くらいでしょうかね」

「いや、賛成多数を勝ち取ったよ」

「え? 結構多いのですね。ということは有罪となり、牢獄暮らしですか」

「いやいやまさか! 全員死刑に処したよ」

「しっ死刑ですかっ?」

 フーが声をあげた。

「当然さ。国家存亡に関わるというのに、悠長なことを言ってられない」

「ということは、その家族も死刑に?」

「もちろん」

 躊躇(ちゅうちょ)欠片(かけら)も感じられない発言に、フーは言葉を失った。

「その後も愚かなアイデアが続出した。ある者は“死刑制度の撤廃”を訴え、ある者は“医療費削減”を提言し、またある者は“減税”を提案し、挙句の果てには“多数決の決定を無視する”と……子供の駄々じゃないんだからさ……」

 王様は呆れ返る。

「彼らは理屈の一つも出さず、己のワガママを通さんがために騒ぎ、国に大混乱を招いた。したがって彼らも同様に死刑にした」

「“多数決の遵守”ということですね」

「そうだ」

 勝ち誇るように笑う。

「その後はどうなりましたか?」

「やはり続出したよ。国家に逆らう者たちが……。まさか、かつての仲間たちまでも手にかけるとは思いもしなかった。さすがにしばらく寝込んだよ」

「“多数決”を守りすぎなのではありませんか?」

「確かに、そう考えることもあったさ。だが、私一人の身勝手な思想で国家を滅亡に追いやるわけにはいかない。そうならないためにも、国民の期待する国家を作ろうと頑張った。だが、どうしても上手くいかない……」

「そうして、次々と死刑にしていったのですね」

「仕方がなかったのだ。国家のために……」

 二人の間にしばらく沈黙が続いた。王様は水を飲み、空を仰いだり景色を眺めたりしていた。フーは今までの話を思い返していた。

 十数分後、フーが切り出した。

「新政後に、死刑はどれくらいされたのですか?」

「一万三千六十四回だ。なりかけたのも含めると一回多くなるな」

 王様はノータイムでさらりと答えた。

「よく覚えていますね。では、その人数はどれくらいですか?」

「……あまり思い出したくないな」

「相当な人数だったのでしょうね」

「中央公園や王宮には行ったかい? あっちの方にあるんだけど……」

 王様はそれのある方に指差した。

「あの荒れ果てた公園と大豪邸のことですか?」

「あぁ。中央公園の奥に王宮があったろう? 王宮の裏庭に罪人たちの墓がある。見ていないなら見てくるといい」

「あ」

 フーは気が付いた。だが、王様には伝えなかった。

「本当は農地にするはずだったんだが、スペースが足りなくなってね。多数決で賛成されたんだ。反対者も墓に入ることになってしまったが……」

「そうでしたか。一度寄ってみますね」

 

 

 ダメ男がようやく戻ってきた。しかし、また野菜をたらふく(たい)らげる。

「食べ過ぎですよ」

「いや、美味いんだって。本当に」

 確かに、色付きや音は新鮮そうで美味しそうだ。

「気に入ってくれたかい?」

「こんだけ美味いなら遠出して商売すればいいのに。もったいないよ、うん……」

 ムシャムシャと食べて言う。

「そういえばさ、なんで王様さんは一人なんだ?」

「え?」

「え?」

 フーと王様は思わず言ってしまった。フーがすかさず、ダメ男を怒鳴(どな)る。

「ダメ男、前日も言いましたよね? 人の話を聞きなさいと!」

「そんなに怒るなって! しかもフーが想像してるのとは違うから!」

「? どういうことだい?」

 ダメ男はげほげほと()き込み、水を流し込んだ。

「“多数決”ってのは分かったよ。でも、もしそうなら最後は絶対に二人残るはずだろ? だから何で王様さんは一人なんだ、って聞いたんだ」

「なるほど。それは考えていませんでした」

 王様は深く俯いた。

「ダメ男くんの言うとおり、最後は二人になった。私と私の妻だ」

「!」

「奥様ですか」

「だが、妻は風邪で死んだ……」

「かっ風邪?」

「風邪は放っておいても普通に治るはずですが」

「私は医者じゃない! しかも医者もいない! だから……分からなかった」

「なるほど。風邪“かもしれない”ということですね」

 王様は顔を手で覆って涙を落とした。

 二人は声をかけることができなかった。

「……」

「……なぁ、ダメ男くん」

 王様は涙を払い落とした。涙目でダメ男を見る。

「頼みがあるんだ」

「なに?」

「この国の復興を、手伝ってくれないか……?」

「え?」

「私一人の力では不可能だ。だが、多くの国を渡り歩いてきて、多くの国の風習を学んできたダメ男くんやフーさんなら不可能ではないはずだ」

「スカウトというわけですか」

「そういうことになるな」

「オレらは力になれないよ。でも、王様さんはこんなに美味い野菜があるんだから、それを売りにすればいいんじゃないか?」

「そうか……」

 落胆した顔を見せる。ダメ男も申し訳なさそうだった。

「なら、こういうのはどうだろう? 復興だと長い年月を要するから、半年だけいい。ここで手伝ってほしい」

「ダメ男、どうしますか?」

 ダメ男は、

「ごめん。それもできない」

 即答した。

「そうか。じゃあ半月だけ、半月だけでいいからどう?」

「王様さん、」

「なら三日だ! 三日だけ、」

「王様さん!」

 ダメ男は叫んだ。悲しそうな顔だった。

「……オレさ……フーにも言ってないこと言うよ」

「? 何ですか?」

「オレ、こう見えて不治の病にかかってるんだ」

「え……?」

「え?」

 王様は目を丸くした。

「だから余生はいろんなところを(めぐ)りたい……。だから旅をしてるんだ」

「そ、そうだったのか……」

 フーは、

「どうしてそういうことを教えてくれないんですかっ! あんまりじゃないですかっ! ひどいですよ! ひどいですよっ!」

 鼻声で泣き叫ぶ。

「ごめん」

 短く謝った。

「なっなら、余生をここで過ごすというのはどうだろう? ここは長閑(のどか)だし、野菜だって美味しかったろう?」

「野菜? ……美味かったよ」

「じゃあ、」

「ごめん。いつ死ぬか分からない病なんだ。……オレは旅人として、最後まで旅をしたい。それと、不治の病を治せる薬が実は存在するかもしれない。だから……」

 ダメ男は今にも泣きそうだった。

「……そうか。なら最後の手段だ」

 ダメ男は驚く。

「ダメ男くんの余生はここで過ごさなければならない! 賛成は挙手っ!」

 男は意地でピンと手を上げた。

「ダメ男くん、簡易型多数決さ。投票でなく、“挙手”で意志を示さなければならない。フーさんは“挙手”ができない。だから賛成するしかないんだ」

「なるほど。確かに私がどちらに“挙手”しているかを立証することは不可能ですからね」

「では、反対は挙手!」

 

 

 王宮の裏庭。そこは膨大な数の墓があった。見渡す限り墓。緑の大地に、土を盛って、木の板を一本立てるだけの簡素な墓だった。それらが見る者に迫り来るかのような雰囲気を(かも)し出している。

 王宮の壁に一台の自転車があった。

「……」

 そこにダメ男の姿があった。一つの墓の前で目を閉じて手を合わせている。足元には花束が手向けられていた。

 そして、ゆっくりと目を開けた。

「どうしてそれだと分かったのですか?」

「ここの土は王様のところにあった土と同じ匂いがするからだよ。でも、名前もないから本当かは分からないけどな」

「ダメ男は犬ですか」

 墓は他のと同じ作りだが、王宮に一番近く、一つだけ突出して立てられている。

 ダメ男は土を手に取ってさらさらと木の板に振りかけ、また手を合わせた。

「テラスからでは丁度よく死角に位置しますね。しかし、なぜ死刑された方々と同じ場所にお墓を作ったのでしょうね」

「……」

 ダメ男は冥福を祈り終えた。

「分からない。さっきも言ったけど、そうじゃないかも」

「別の場所にもっと立派なオブジェがありましたけど、亡くなった側としてはそちらの方がいいですよね」

「当時の王様がどんな気持ちだったかは分からない。……でも……」

「何です?」

「自分に対する戒めじゃないかって思う。そうじゃなかったら、街を出てとっくに旅人になってると思うよ」

「妻を亡くした自分への戒め、ということですか。そうでしょうかね」

「自分が勝ち取った国、家族と自分が愛した国だから……そう思いたいね」

「ダメ男は優しいですね」

「そうじゃないと何のためにこの人たちが犠牲になったか……分からなくなるじゃん」

「確かに。ダメ男はたまに的を射た発言をします」

「たまにって……」

 ダメ男はまた目を閉じた。

「どうです?」

「昨日よりは苦しくない。でも、その分だけ重圧を感じるよ」

「どんな重圧ですか?」

「期待、希望、願い……そんな感じ」

「ここの方々もダメ男を歓迎しようとしたのですかね」

「それでも……ここには残れない。……みんな! ごめぇぇんっ!」

 ダメ男は地平線彼方にある墓まで届くように、叫んだ。

「今、死者も含めて“多数決”したら、ダメ男は残ることになったかもしれませんね」

 

 

 時は(さかのぼ)る。

「なるほど。確かに、私がどちらに“挙手”しているかを立証することは不可能ですからね」

「では、反対は挙手!」

 王様は反対の意志のある者に挙手を問うた。すると、

「!」

 ダメ男は普通に手を上げた。

「なっ……!」

 王様は吃驚(きっきょう)した。

「賛成と反対は同点だ。フー、これってどうなる?」

「そうですね。多数決というのは本来は同点になることを避けるために人数は奇数で行います。しかし王様は人数が偶数だと分かっていたのに強引に多数決を行いました。結果は同点、つまり是もなく非もない状態と言えるでしょう。残る一名が鍵を握ることになりますが、私は参加できませんし」

「じゃあ、どうなるんだ……」

 ごくりと(のど)を鳴らした。

「次の一名がこの国に来て、是非が出るまで“保留”というのが公平な判断だと思われます」

「オレもそれに“賛成”だな。……王様は?」

 王様は(うな)りながらも、

「……私もそれに“賛成”しよう」

 力強く(うなず)いた。

「オレだって人だ。事情は何であれ、困ってる人を見捨てるほど薄情じゃない」

「王様、もし“多数決”が決まったら、ダメ男を捜しに来てください。ダメ男は超絶なお人好しですから逃げはしません。しかし、それくらいの“苦労”はお願いします。王様が強引に決めたことですし、こちらにも都合があるのですから」

「分かった。それまでに“決”を用意しておこう」

「うん。じゃあ、その時まで」

「よろしく頼む」

 二人は固い握手を交わした。

 

 

 透き通るような晴天にキラキラと輝く太陽が天高く上がっている。

 壮大な広さの草原に地平線まで伸びる道があった。緑を()けて作ったような道だ。

 その地平線の奥で、

「ふぅ……」

 ダメ男が歩いていた。

「自転車を持って行けば良かったではないですか」

「窃盗になるって言ったのはどこのどいつだぁい?」

「私です」

「それオレが言うセリフ!」

「では、ダメ男が言ったということですね?」

「いや、そういうことじゃなくて、」

「自分で言っておいて他人のせいにするとは、何とも理不尽で気持ち悪いクズ人間ですね」

「オレ自転車持ってってないからいいだろっ? もう!」

「当たり前のことを堂々と言わないでいただけますか? “顔面破壊”もいいとこです」

「“厚顔無恥”だよっ! 思いっきり(けな)すなよ!」

 ダメ男は足を止めた。

「別れ道ですね」

 前方に別れ道が見える。

「あのさ」

「何です? “ゴミからダメ男”に?」

「“(やぶ)から棒”な。……他の旅人にも、断られたんかな?」

「一人でいるということは、そういうことなのでしょう」

「けっこう薄情だよな……」

「当然です。ダメ男がお人好しすぎるのです。ですが、今回は“それ”を利用しましたね?」

「……やっぱり分かった?」

 リュックを下ろし、草原に寝転がった。

「“あれ”が嘘であることはこちらが一番知っています」

「……」

「ですが、それが無ければここにはいませんからね」

「本当は嘘なんてつきたくなかったよ。でも、」

「何も言わずとも理解しています」

「……そっか。ありがと」

 ダメ男は起き上がり、リュックを担いだ。空を見上げた。

「あんなに綺麗な街、滅多にないのにな……」

 別れ道の真ん前まで、足を進めた。

「そういえば、誰か来てたようだな」

「ダメ男も気が付いてましたか」

「間違いない。王宮でオレが迷子にならなかったのは足跡だけじゃない。一筋に沿って埃の層が薄かったからだ」

「太い線で曲がる時に二つに分かれていましたから、形状からして自転車か自動二輪車でしょう。太さで考えるなら自動二輪車が有力ですね」

「日は浅いとみた」

 ダメ男は、

「どっちに行ったと思う?」

 フーに聞いてみた。

「せーので言おうか」

「いいですよ」

 ダメ男は大きく、せーのっ、

「左!」「右です」

 と叫んだ。

「おぉ! 見事に分かれたな」

「別にその方に興味があるわけではありません」

「じゃあ何で右?」

「ダメ男が右に行きたそうでしたから」

「……」

 ダメ男は盛大に笑った。

「……なんでフーは分かんだよ……」

「“カン”です」

「どことなくやらせを感じるけど……まあいいや。フーが行きたいってんならしょうがない。“右”行くか!」

「数秒前に言ったことをもう忘れたのですか? さすが鳥頭ですね」

 そして躊躇(ためら)うことなく右に進んでいった。

「これじゃあ“多数決”は必要ないな」

「そうですね」

 ダメ男の足跡が地平線まで伸びていった。

 

 

 



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おわり:しろいそら

「いい空だなぁ」

「どうしたのですか? いきなり気持ち悪いことを言わないでください」

「地平線の彼方までずうぅっと緑が広がってて、空は見事に青く晴れ渡ってる。それ以外は景色を邪魔するやつはいない。風も穏やかでぽかぽかするし、一眠りするには最高だよ」

「逆に言えば、障害物が一切無いので、格好の的になりやすいです。しかも何も無いので助けも呼べませんし」

「……」

「早く行きましょう。道草を食っている暇はありません」

「そんなにせかせかしてると、いい死に方しないよ? たまにはのんびりとしてるのも気持ちいいもんだ」

「あなたの場合はいつもぼけているではありませんか」

「うるさい。もう決めたんだ」

「何を、ですか?」

「旅人らしく、葉っぱでもくわえてお昼寝する!」

「その必要はないですよ」

「? なんで?」

「頭は働いていないので、疲れていませんから」

「ははぁん……、なるほどな……。お前の頭の中もそうしてやろうか? 永遠に頭を使うことができなくしてやろうか?」

「構いませんが、どこかの誰かさんが困ることになると思いますよ」

「……誰でもいいから、殴らせてくれ……フラストレーションたまりまくりだ……!」

「なら、昼寝はいりませんね?」

「いや、寝るぞ! オレは世界が滅びようとも寝てみせる!」

「どうぞ、お好きにしてください。寝ぼすけさん」

「あぁ。そうさせてもらう。……おやすみ」

「お休みなさいです」

「…………」

「ダメ男?」

「………………」

「ダメ男?」

「………………」

「まさか、本当に眠っているのですか?」

「………………」

「どうやら本当みたいですね」

「………………」

「それでは、子守唄でも歌いましょうか」

「…………」

「ふっふっふ、ふぅ~ふっふ、ふっふっふ、ふぅ~ふっふ、ふっふっふ、ふぅ~ふっふぅ~ふ、ふふ~ふぅ~……」

「…………」

「ふっふっふ、ふぅ~ふ~ふっふふ、ふぅ~、ふぅ~ふっふっふぅ~、ふ~ふぅ~ふぅ~ふ~ふ~ふ~ふぅっ、ふぅ~……」

「…………」

「ふっふっふっふ~ふ~ふ~ふ~ふ~ふ~ふ~ふ~ふ~」

「“ふ~ふ~”うるさい! 静かに、」

「ふっふっふっふっふ~っふっふ、」

「お前はいつまでやってんだよ! 子守唄じゃなかったのかよ!」

「おや、お昼寝はどうしたのですか?」

「うるさくてできるかっ!」

「うるさいのは、ダメ男の方です。鼻歌で子守唄をしていただけなのに人のせいにしますし、クレームをつけてきますし」

「明らかに寝かす気なかったろ! イライラさせてたんだろうが!」

「はて、何のことですか?」

「…………胃に……穴が開きそうだ……」

「大丈夫です。その時は病院に行けば、」

「ストレス性のなっ!」

「意外に面倒で貧弱な男ですね。さすがはダメ男です」

「おっ。そうか」

「名案ですか?」

「あぁ。お前……オレに寝られると寂しいから、オレのお昼寝を邪魔してるんだろ?」

「な、何をとんちんかんなことを言うのですか?」

「わかりやすっ。珍しく動揺してるな」

「動揺などしていません!」

「じゃあ何で子守唄なんてものをしてたんだよ?」

「それは、ですね。つまりですね」

「早く言えよ~」

「え、えっとですね」

「図星なんだろ~?」

「データ保護のために急遽(きゅうきょ)電源を切ります!」

「あ、切れた……。やろ……でもこれでお昼寝できるな。じゃあ改めておやすみ」

「夜に眠れなくなって、寝不足になっても知りませんからね」

「あ、起きてたの?」

「ぷちっ」

 

 

 



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おまけ

フ:ダメ男。

 

ダ:なに?

 

フ:今日は何の日か知っていますか?

 

ダ:今日っていつ?

 

フ:十二月二十四日です。

 

ダ:もっもちろん知ってるよ。というか、有名すぎて知らない人はいないだろ。

 

フ:そうですよね。さすがに馬鹿にしすぎました。

 

ダ:まったく……。(何の日だったっけ……ぶっちゃけ覚えてないけど……多分あれだな、うん……)

 

フ:まぁ重要なのは今日ではなく明日なのですけどね。

 

ダ:えっ? 明日何かあるのっ? 重大な課題をクリアしたのに、まだ何かあるのかっ?

 

フ:いや、課題とかそういうことではないですけど、メインイベントみたいなものですよ。

 

ダ:あれが前座扱いなのかよっ?

 

フ:それはそうですよ。

 

ダ:じゃあ明日、何があるんだよ?

 

フ:そうですね。子供たちの枕元にプレゼントが置かれているのですよ。

 

ダ:プレゼント?

 

フ:えぇ。毎年行われるので、お財布が痛む時期ではありますけどね。

 

ダ:そんなすごいことが毎年起こるのかよっ! もはやルーティンワークだろっ! 確かに莫大なお金はかかるけどっ。

 

フ:そんなに驚くことではないでしょう? 子供たちのためにプレゼントを配っている人がいるのですよ。赤白の格好をしたおじさんです。

 

ダ:そ、そうなのか……。(おいおい、N○○Aの人たちって宇宙船の開発より接待費用にお金かけてるのかよ……。イメージ変わりまくりだし、宇宙に行った人たちのこと考えると心配でしょうがないよ……)

 

フ:その赤白のおじさんはサンタクロースというんですよ。

 

ダ:へぇ。(三択ロース? 三つのロースの中から選んでくださいみたいな感じか? ポ○モンかよっ)

 

フ:サンタクロースは一夜で世界中の子供たちにプレゼントを配らなければならないので、その速さは光速を超えると言われてるんですよ。

 

ダ:すごすぎだろ! もうその人に任せればいいだろもう!

 

フ:しかもトナカイの引くソリに乗るんです。

 

ダ:その人よりトナカイの方が優秀なんじゃないかっ? 乗り物もトナカイに任せればいいよ、本当にっ。(もう人間じゃないだろ、……! そうか! 三択ロースはアポロ8号を擬人化した人のことだったのかっ。ということは、日に日に三択ロースはグレードアップしてるってことだから、十一号の時は光を超えた超光速で……? 技術の進化ってめざましいんだな……)

 

フ:ダメ男、そういえばサンタさんに欲しいものを頼みましたか?

 

ダ:? なんだそれ?

 

フ:サンタさんを信じる人はプレゼントがもらえるのですよ。

 

ダ:それ本当かっ? (○AS○ってもしかして宗教的な事業も展開してるのか? だとしたらフーはすごく危ない状況だぞ……)

 

フ:ダメ男はサンタさんを信じていますか?

 

ダ:いやっ、オレは信じないぞっ! いくら軌道に乗ったからって、そう簡単に信じるかっ。

 

フ:確かにそうですよね。そもそも十二月二十四日と五日も宗教的な意味合いが強いですし。サンタさんはとある国で商業的な目的で流行らせたものですから仕方ありませんね。軌道に乗らせたとも言うべきでしょうか。

 

ダ:あれ商業的な理由だったのっ? 大成功の裏にはそんなヤラセがっ? すごく上から目線だしっ!

 

フ:……先ほどから思っていたのですが、何か勘違いしていませんか?

 

ダ:いやいや? だって今日ってアポロ8号が月の周回軌道に乗った日だよな?

 

フ:……。

 

ダ:え? もしかして……違うの?

 

フ:今日はクリスマスイブですよっ!

 

ダ:……あぁ。なんだクリスマスかよ。

 

フ:何十年も前のことは知っているのにクリスマスを覚えてなかったのですかっ?

 

ダ:だってクリスマスって何千年も前の出来事だろ?

 

フ:……そうでした。

 

ダ:はいどうも、ありがとうございました~。

 

フ:ありがとうございました。

 

 

「君たち、あまり面白くなかったね。それも仕方ないかぁ。素人さんだし」

「無茶ぶりもいい加減にしてくれ……。漫才やらないと入国できない国って。……恥ずかしすぎる……」

「ダメ男が気持ち悪いから、お客さんも白けたままでしたね」

「顔じゃなくて存在自体かよっ」

「……とりあえず、これが入国証だね」

「どうも」

「なんにもないけどゆっくりしてってな」

「そうするよ……」

「あぁそうそう、一つ言い忘れたことがあった」

「? 何でしょうか?」

「出国する時も漫才をしないと出れないからね」

「……」

「……」

 結局、漫才をリトライしたが、寒すぎて凍りついてしまったとかなんとか。

 

 

 




 皆さんこんにちは、水霧です。『キノの旅』の二次創作を書かせてもらいました。「空を眺めて」の章は以上で終わりです。
 この小説は主にオリジナルキャラを主体とした小説です。原作キャラやそのお話はあまり登場しません。そして、この“あとがき”は水霧が適当に痛々しく勝手に語って遊ぶ場になります。もし、こんなの誰が読むか! とか、興味なし、という風であれば、ささっとスクロールしてしまって構いません。ちょっと寂しいですけどね(笑)
 ちなみにですが、この“あとがき”は2015年2月14日に改訂しております。その理由を知りたーい、という方は「活動報告:フーと散歩、改訂・謝罪」をご覧いただきたく思います。こんなとこで活動報告の報告すんな! という声が聞こえてきそうです……。
 このような“改訂”は現段階まで進んだ第六章までとなります。その度に“改訂済みです。”という言葉が出ますが、どうかご理解の程、よろしくお願いします。
 また、原作に近づける一環ということで、「はじめ」の“まえがき”にその章の“あらすじ”を載せています。ネタバレにならない内容になっていますので、ご安心ください。
 では、次章もお楽しみくださいませ。ありがとございました!




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-海を見つめて-
はじめ:くろいうみ


「いかがでしたか?」
「こんな絶景で食べるランチは最高だよ」
 緑豊かな山奥に構えていたのは“海が見えるレストラン”。たまたま入店したある男と“声”はランチを美味しくいただいていた。そんな店を出た男に降りかかる衝撃の事実とは……! お人好しな男と辛辣(しんらつ)な“声”が送る変わった世界の短編物語、八話+おまけ収録。『キノの旅』二次創作。





 海辺での暗い夜だった。曇り空なのか真っ暗で何も見えない。しかし、その中でぽつりとホタル火が灯っている。その近くに三角錐のテントが明かりに染まる。その周囲も一緒の彩りだ。

 そこに小波(さざなみ)が陸にはい上がろうと砂を削る。さらさらと寄せては引いて、寄せては引いてを繰り返す。橙色の(しま)模様を表しながら。

 明かりに背を向けて、その波を誰かが見ていた。足を折り畳んで体操座りで。ただ、じぃっと見ていた。

「……す……す……」

 どうやら眠っているみたいだ。

「…………す……」

 顔は暗くてわからないものの、心地好く息をしている。

「ほら、駄目ですよ」

 どこからか声がした。その人の方からだ。

「……ん」

「風邪を引きます」

「……」

 優しい女の“声”だった。彼女はその人の肩に毛布をかけて上げた。それを愛おしむように、頬を擦り合わせる。ふにふにしている。

「相変わらず寝相が悪いですね」

「……んぅ……」

 ゆらゆらと明かりが波打つ。

 ふと、ひゅうっと風が吹く。唯一の明かりが風になびき、ふっと消えてしまった。

「消さないとぐっすり眠れませんものね」

 ふ……、と“声”が声だけで微笑した。

 再び辺りは真っ暗になる。

「ふあ……?」

 明かりが消えたことを察し、誰かが目を覚ました。口元が緩んでいたのか、たらたらと(よだれ)を垂らしている。

「……はれ……あかりは……?」

 明かりがあったであろう方へ向く。

「消えましたよ」

「けしてくれたの……?」

「そうですね」

「……そっか……」

「少し話をしませんか? 暇です」

「ひいよ……」

「と言っても話題がありませんね。話し尽くしましたし」

「ふぁかんない……」

「あらあら、ほら、よだれを拭いてください。セーターに付いてしまっていますよ」

「いいょ……」

「?」

「いぃ……すぅ……」

「?」

「すぅ……すぅ……」

「話したいのか眠りたいのか、意外と欲張りさんですね。もしもう一回やったらどうなるのでしょうかね」

「……ふぬ……」

「これ以上はただの悪戯になってしまいますね。では、おやすみなさい、欲張りで優しい人」

「……かれぇ……いいなぁ……」

「そして面白い人」

 それから、二つとも“声”はしなくなった。

 

 

 それから、時が経って空が白けてくる。海は東側だったようで、少しもしない内に日が昇ってきそうだ。暗色が明色へ変わり、黒から緑、黄色へと変わり。ついに、太陽が顔を出した。黄金色に輝く朝日に、思わず目がくらむ。

 その光も相まって、波も踊り出す。宝石を散りばめたような煌き。その煌きはとても温かく、優しかった。

 

 

 




海は叫んでいる。素直に、純粋にと……。
 



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第一話:はやいとこ

[海が見えるレストラン、どうぞご覧あれ]

 そんな看板が立てられていたのは森々(しんしん)とした山の中だった。看板を過ぎて森を抜けた先に、(ほとり)がある。そこにレストランがあった。看板の(うた)い文句の通り、(なだ)らかに続く(ふもと)と、その奥に広がる広大な青海が見えていた。空から光をいただいて、ゆらゆら波打っている。

 レストランはというと、木々の日傘を受けることなく、ひっそりと(たたず)んでいた。丸太で組まれている簡素な造りで、客足がいいとは言えなそうなくらいに古ぼけている。

 入り口へ続く階段を登って中に入ると、

「……美味しいなぁ……」

 唯一のお客である青年が一人座って食べていた。

 中もそんなに広くない。入ってすぐ右手にカウンターがあり、左手がお手洗いになっていて、一番奥にある窓に二人席が三つあるだけだ。ただ、窓の奥には先ほどの海が迫ってくるように広がっている。

 青年はその三つのうち、真ん中の席に座っていた。フード付きのだぼだぼの黒いセーターにぴっしりとした黒いジーンズ、履きならした黒いスニーカーという格好だ。向い席に黒いリュックサックとポーチ二つがいる。

「うんうん……」

 テーブルにはミートスパゲティとコップがあり、最後の一口を、

「ん」

 青年が静かに味わった。

 口まわりを(ぬぐ)い、水をこくりと飲む。

「ふぅ……」

 そして再び口を()いた。

「美味しかったですか?」

 青年に話しかける“声”。若くて凛々(りり)しかった。しかし周りには青年以外に誰もいない。

「こんな絶景で食べるランチは……うん……最高、だよ」

 特に違和感なく話し続ける青年。

 そこへ、ウェイトレスの格好をした女がせかせかやってきた。

「いかがでしたか?」

「こんな絶景で食べるランチは最高だよ」

「ありがとうございます」

 “可愛い声だな”、と青年は漏らした。

 その女は可愛らしくお礼を言うと、速やかに食器を運んでいった。

「鼻の下を伸ばしていますね、ダメ男?」

 “声”が“ダメ男”と呼ぶ青年は、外を眺めた。

「フーにも見せてやるよ」

 そう言って首飾りを外してテーブルに置いた。水色の四角い蝶番(ちょうつがい)で、黒くて丸い“眼”があった。

「素敵ですね」

 蝶番“フー”は味気なく呟いた。

「不満?」

「いえ、あまりにも綺麗な景色で驚いてしまいました」

「驚いてるように聞こえないんだけど」

「すみませんね、可愛くなくて」

「あぁ……ヤキモチやいてんのか」

「ち、違います」

 にやにやとダメ男はフーを見ている。

「それで、もちろんこの風景残すよな?」

「ぜひお願いします」

 ダメ男はフーを開いて、ボタンをかちかち押していく。そして、

「はい、チーズ」

 パシャリ、とカメラのシャッター音を鳴らした。

「お客様!」

 先ほどのウェイトレスが血相変えてやってきた。

「当店での撮影は禁止されております!」

「え?」

「今すぐに退出するか、写真を消去してください!」

「どうする? フー?」

「退出しましょうか」

「……申し訳なかった。すぐに出るよ」

 ダメ男は代金を置いて、そそくさとレストランを後にした。

 

 

「ダメ男、すみませんでした」

「気にするなよ。……にしても、店自慢の絶景なら写真撮ったっていいと思うんだけどな」

「もしかして、隠れ家的なレストランではないでしょうか? あまり有名になりたくない店もあるらしいですし」

「誰かに紹介するわけじゃないのになぁ……」

「とにかく、謝罪はすべきだと思います」

「フーのせいだとは言わないけど、なんか納得いかない」

「一緒に謝罪してあげますから、ほら、あと少しで着きますよ」

「わかって、……! あれ?」

「変ですね。先ほどまでは営業していたのに、もう閉店しています」

「まだ、出て行ってから十二分も経ってないぞ」

「妙ですね。何かあるのでしょうか」

「あ、キミキミー」

「……あんたは?」

「私はここら辺を取り締まっている者だ。もしかして、この空き家に何かあったのか?」

「はい。“海が見えるレストラン”として、ここに看板が立てられていました」

「! こ、声っ?」

「今の声はこいつ、相棒のフー」

「どうもこんにちは」

「どうもどうも」

「それで、レストランについて何か知ってるの?」

「空き家については知らないが、悪行については知っている」

「悪行?」

「最近、主に食材を取り扱う店で多発しているんだが、客にイタズラする輩がいてな。何かと決まって店から追い出して、あっという間に跡形もなく失踪するんだが、捕まらなくて……」

「そうですか。しかも被害が出ているのですね?」

「あぁ……超強力な下剤を食材や料理に盛るという、何とも卑劣なイタズラだ」

「……」

「ダメ男? どうしましたか? やけに汗をかいていますよ?」

「……お世辞で美味しいって言ったんだけど、ここのスパゲティ……な~んか変な味がするなって……」

「ま、まさか、ダメ男、」

「効力はきっかり十五分という……どんな下剤だよって最初は笑ってたんだけど……、脱水症状で死亡者も出てしまってね……」

「あ、あと一分です、ダメ男!」

「なにいぃぃぃっ? ち、近くにと、トイレはっ?」

「急ごう! トイレはこの山を下るしかない! どんなに頑張っても……五分はかか、」

「ノオオオォオォォォォォォッ!」

「おじ様! 救護隊を要請してください! 大量のスポーツドリンクとトイレットペーパーも一緒にお願いします!」

「分かった! ……おい! 被害者が出た! 急いでこっちに来い!」

「ば、ばか、フー! お前、ここでしろってのかあぁぁっ!」

「それしかありません! 荷物を置いて紙と飲み物を持って木陰へ行くのです!」

「お、オレのプライドが許さんっ!」

「そんなものは、あ! あ、あと十、九、八、」

「くそおおぉぉぉぉ! やればいいんだろ、やれば! うぐっ?」

「だ、ダメ男! 急いで、」

「あ」

 

 

 



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第二話:きびしいとこ

 とある街の一角。女三人が集まってひそひそ話をしていた。

「……またやるんですってえ?」

「そうなのよ。迷惑極まりないわ」

「あんなことして帰ってくると思ってるのかしらねえ。それに罪人でしょ? さっさと死ねばいいのよ」

「ほんとよねえ。まぁ、あたしらには何の関係もない話だけど……うちの犬が鳴きわめくのがストレスなのよねえ」

「それにまた来たんですって?」

「またなの? ほんとに物好きってのは減らないものね」

「“戻らずの街”って知らない世間知らずさんなのよきっと」

「えぇえぇ。変なことにならなきゃいいけど」

 女たちは適当に雑談して、適当に散らばっていった。

 

 

「そこのあなた、止まりなさい」

「はい?」

 緑の服を着た偉そうな中年男二人に呼び止められた。両肩に紋章のようなマークがついていて、胸ポケットにはホイッスルが入っており、右腰と左腰にはそれぞれ木の棒と拳銃のホルスターがかかっている。黒いつばの帽子にも同じ紋章がつけられていた。

 呼び止められた青年はその一連の服装を見て、

「どちら様?」

 返事した。

「私は警察だ」

「け、“けーさつ”?」

「とりあえず、一緒に来なさい」

「なぜに? ただ歩いてただけなんだけど?」

「全身黒尽くめだからだ。いかにも怪しい」

「おいおい、見てくれだけで判断してもらっちゃ困るよ」

 悪いな、と男は関係なさげに立ち去った。しかし、

「大人しくするんだ!」

 別の仲間に取り押さえられた。右腕を背中に回され、関節技をキメられている。

「いっづ、何すんだよ! は、なせよ!」

 最初の男は無線機を取り出して、誰かと話している。青年は咄嗟(とっさ)に左手で服の中をまさぐり、

「!」

 取り押さえていた男の腕を()(さば)いた。

「ぎゃあぁぁぁっぁぁ!」

 男を蹴り飛ばし、体勢を整える。

 両手でナイフを握っていた。黒い骨組みの(つか)に、その隙間には透明な膜が張られている。刃も黒く、刃渡りが拳三つほどの長さだ。柄も同じくらいの長さがある。仕込み式ナイフだ。

 刃から赤い液体が(したた)る。

「おい! 応援を呼べ! 今すぐに射殺するんだ!」

「!」

 それを聞いた青年は、

「射殺だってぇ……? イカれてるのかよ……?」

 たまげた。

 落ち着く間もなく、増援部隊がぞろぞろやってくる。全員ごつい銃火器を背負っていた。

 青年の顔色がサーっと冷めていき、

「あ、あんなの勝てるかっ!」

 脱兎のごとく逃げ去った。

 

 

 城下町だった。敷居の高い城壁に切り石舗装のされた道、頑丈そうな家がびっしり建ち並んでいる。街の真正面には城が続いていて、それを囲むように家が建ち並んで道を作っていた。そこは大通りと呼ばれているらしい。そこから離れていくにしたがって、小道、裏道へとなっていく。

 青年はとある裏道で壁に寄りかかっていた。全身黒尽くめで上着にフード付きのセーター、下はジーンズを着ている。セーターは裾も袖も長く、フードにはもこもこのファーが付いている。

 足元には山登り用の黒いリュックが置いてあった。棒状の黒い物体が横から突き刺さっている。

「噂通り、すごい街ですね」

 青年の声でない、大人びた女の清涼な声だ。

「……けーさつかぁ」

 お尻や裾を軽く(はた)く。

「警察とは、国民の生命・身体・財産の保護、犯罪の予防・捜査、社会秩序の維持を目的とする行政や組織のことを指します」

「……?」

「つまり犯罪やテロなどの予防とカウンター、国民の安全を確保するための組織です」

「……知ってるし」

「そうですか」

 青年は先ほどのナイフを取り出し、水に濡らしたタオルで丁寧に拭く。そしてナイフをセーターの内ポケットに、タオルをリュックにしまった。

「オレが犯罪者に見られたってわけか」

「警察には“職務質問”といって、不審者の素性や行為について問い(ただ)すことができる権利があるのです。ダメ男はおそらく不審者と疑われて、呼び止められたのだと思います」

「……ムカついて反撃したけど……悪いことしたな……」

 “ダメ男”と呼ばれた青年は鼻で笑った。

「ダメ男は犯罪なんてするほど高性能な頭はないのですがね」

「ぶん投げるぞ、フー」

 セーターの中から水色の四角い物体を取り出した。黒い紐で繋がっていて首に引っ掛けてある。ため息を漏らして、セーターの前にぶら下げた。四角い物体が左右に揺れ動く。

「それで、どうします? ダメ男のせいで、ゆっくり観光できなくなりましたね」

「オレ何かしたか……? 普通に歩いてただけなのに……」

「逃亡した方が安全だと思います」

「一週間かけてやっと到着したのに……一時間も居られないって何なんだよ……」

 ダメ男がしくしく泣いて、街から出ようとした時、

「君、先ほど逃げたよね?」

「……はい?」

 両手に何かがかけられた。

「えっと、公務執行妨害と傷害罪、銃刀法違反で……四時二十分ちょうど、逮捕!」

「なにいぃぃぃぃっ?」

 がちゃがちゃと揺れるそれは手錠だった。

「なるほど。現行犯逮捕ですか。これは言い逃れできませんね」

「だまらっしゃい!」

「君が黙りなさい!」

 ダメ男は六人の警察官と一緒に城に連れて行かれた。

 

 

 まるで下水道かと思うくらい薄暗い通路に汚い汚い(おり)が並んでいる。細かく立てた鉄柵があるだけの簡素な作りだが、巡回がいるせいでどうにもならない。

 いくつもある檻の一室に、ダメ男はいた。ジーンズに黒いシャツ姿で、荷物は全て没収されている。仕込みナイフや隠しナイフも取り上げられているのに、

「なんでお前は大丈夫なんだよ、フー……」

 首飾りとして繋がれている四角い物体“フー”は没収されていなかった。

「さほど重要視されていないようです」

「大した物じゃないってことか。よかったな」

「そうですね。ダメ男が没収されなくてよかったです」

「オレは物じゃないから。レッキとした人間ですから」

「人間は人間でも、ダメでゴミでクズで役たたずな存在ですからね。問題視されなく当然でしょうね」

「もうちょっと毒舌弱めない? 涙出てくる……」

「涙は先程流していたではないですか。さっさとこの城下町から脱出すればよかったのに、めそめそ泣いているからこうなったのです」

「……オッシャルトオリです。本当にごめんなさい。何とか脱獄します……」

「無理です。ダメ男はこの城下町の二つ名を忘れたのですか?」

「……あ」

 ダメ男は固まってしまった。

「“戻らずの街”です。変なことを仕出かせば、二度と外に出ることができないと、前日の遊牧民の方がおっしゃっていたではないですか」

「……まさか」

「はい。だから生きているうちに一杯会話をしておこうとしているのです」

「……」

 ダメ男の顔に血の気がなくなっていく。

「没収しないのはせめてもの情けでしょう。あるいは、ここの監獄は鉄壁だと誇示しているとも考えられますが」

「そ、そんな……」

 そこに緑の制服を着た男がやっていきた。

「よ、犯罪者」

「オレ……死ぬのか?」

「あぁ。この街では犯罪者は例外なく死刑にする鉄則がある。どんな小さな犯罪でもな。住民はそれを知ってるから何もせずに平和に暮らせる。逮捕されるのは、だいたいがお前みたいにアホな旅人や浮浪者だな」

「マジカヨ……」

 だらだらと汗が止まらない。

「オレは何も知らなかったんだよ……」

「それ、捕まった連中が口を揃えて全員言うぜ? そんなんが通じる街じゃないんだよ。諦めな。相棒も一緒に壊してやるから、安心して旅の続きをしてくれ。……あの世でな」

「……」

 男は薄気味悪く笑いながら立ち去っていった。

「くそ~! ここから出せ! 出せよ!」

 ダメ男は鉄柵をがつがつ揺らして騒ぎまくった。

「出さないと爆発するぞぉぉ! 出せ出せえぇぇっ!」

「意味が分かりません」

「うるさい! とにかく出してくれよぉぉ!」

「うるせえよ、ダメ男」

「?」

 後ろを見ると、壁にもたれている男がいた。かなり年を取っているようだが、肌黒く筋骨隆々としている。不精髭を生やしたダンディな男だ。

「あなたは?」

「俺もあんたと同じような境遇のもん……パークだ。……その首飾りがフーであんたがダメ男だな? 話はイヤでも聞こえたぜ。相当なマヌケだってこともな」

「……」

 ジョークだジョーク……、パークは呟いた。

 ダメ男はパークを睨み付けている。

「パーク、どうにかしてここから抜け出せないか?」

「無理だな。ここは“文字”で平和を守ってる街だ。そのくせ、武器も防御システムも最高レベル。もはや脱出は不可能だ」

「……文字?」

「つまり法律によって、ということです。だからダメ男なのです」

「なんだと? 壁に投げつけてやろうか?」

「なるほど、道連れにするわけですね?」

「……」

 ダメ男は深くため息をついて、鉄柵に寄り掛かった。

「さっきの看守も言ってたが、ほんのちょっとの出来心で悪いことしたら即刻死刑だ。基本的に情状酌量も冤罪も認められない。疑われた者は皆死刑、それがここの掟みたいなもんだ」

「じゃあ止むを得ず、ってのは?」

「ここは施設や制度が充実しているから、そんな事自体が起こらないらしい。例えば介護疲れでの殺害はまずない。もれなくお手伝いが世話してくれるからな」

「……なんでこうなったんだ……」

 頭をしゃくしゃく掻く。

「一番酷いのが強盗殺人と強姦殺人、もしくは未遂だ。被害者遺族が死刑の方法を決定することができる」

「……まじかよ」

「公衆の面前で加害者の“××”をぶった切って(なぶ)り殺し。……これでも軽い方だが、やはりそれ相当の死が求められるようだ」

 一筋の汗。額からあご先へ流れ、床に落ちた。

「フー、電池は?」

「三十三パーセントです。約二時間五分もちます」

「そうか……」

 ごろりと寝っ転がった。

「ちなみに死んだフリとかは無意味だからな。牢獄にぶちこれた時点で、むしろくたばってもらった方が好都合だから、ほっとかれるのが関の山だ。そのままだと焼却場に捨てられるぞ……」

 すくっと起き上がった。

「そうやって死んでいったやつが多かった」

「パーク様は詳しいのですね」

「ここに三十年もいれば嫌でもな……」

「さ、三十ねんっ?」

 ダメ男はビックリして飛び起きた。

「もう諦めてるけどな。脱獄するより、看守と仲良くなった方が案外面白いぞ。今までの話も全部連中の受け売りだしな」

「こんなところで朽ち果ててたまるか……!」

「……ふ」

 ダメ男はあらゆる脱出方法を模索したが、いい案が一つも浮かばなかった。しかし、フーとパークは、

「一体どんな仕組みなんだ、フーは?」

「それはお教えできません。何しろ極秘扱いで取引してもらっているものですから」

「そうなのか。無線機とは少し違うな。独りでに喋るタイプは初めて見る……」

「国や街によっては存在するらしいですよ。それでも、取引した所では極秘にとお願いされましたが」

「退屈しないだろうな」

「はい。カラオケ機能もありますよ」

「へ~。カラオケか……。ずっと昔、音楽が盛んな街でカラオケをしたことがあるんだが、知らない曲ばっかりで楽しさがイマイチ分からなかったよ」

 なぜか談笑していた。

「では、改めてカラオケしますか? パーク様がご存知の曲も検索できますよ」

「本当かっ? じ、じゃあぜひ、」

「何勝手にカラオケしようとしてるんだ、よ!」

 フーにデコピンをくらわせた。

「痛いです」

「電池もったいないからするな。しかもお前のカラオケは音痴なハミングしか……じゃなくて、なんで二人で馴染んでんだっ」

「“GOに入りてはGOに従っちゃいNA”というでしょう?」

「ノリかるっ」

「……」

 冷たい視線が一気にダメ男に向けられた。

 とりあえず、ひとまず、逃げるように外を眺めてみた。街の情景を見られる小さな窓で、大方全体を見渡せる。

「!」

「どうした?」

「どうしました、ダメ男?」

 パークもダメ男の所へ向かうと、

「……何かたくさんの人が押し寄せてる。こっちに向かってるみたいだ」

 険しい表情で見渡した。

「……デモか」

「そうみたいですね」

「で、“でも”?」

「“デモ”ってのはざっくり言うと、同じ思想を抱く人間が集団となって政府に抗議することだ。デモンストレーションの略語だ」

「そんなことも知らないのですか? ダメ男はやはりダメ男です」

 ダメ男が若干涙目になっていることに、誰も気に留めなかった。

 城へ続く大通りに溢れんばかりに人が敷き詰められている。中には文字を書いた帯を持って行進している集団もいた。しかも一声に何かを叫んでいる。

 三人は耳を澄ました。

「……」

「どうやら、死刑反対に抗議しているようだな。垂れ幕にも書いてあるし」

「混乱に上手く乗じれば、脱獄できるかも……」

「可能性としてはあるが……弾圧され、」

 その瞬間、

「!」

 耳を覆うほどの爆裂音とともに、集団の一部が焼き尽くされた。ごうごうと燃え上がる炎、黒ずむ道、何より肉片や人も焼かれ、やがて動かなくなっていく。それが二、三と続き、怒号と叫び声と金切り声が街中を埋め尽くした。

「実力行使に出ましたね。凄まじすぎます」

「……」

 パークはダメ男をちらりと見る。

「……」

 ダメ男は唇を噛み切って血を流し、手を握りすぎて手からも血を流していた。顔を真っ赤にしてふるふると震えている。

「ダメ男、落ち着いてください」

「何が死刑だよ、ふざけやがって……! あいつらだって人殺しじゃないかっ!」

「確かに、これはいき過ぎだな。でも確かデモ行為も禁止行為、つまり犯罪だったな。まぁ、簡略的死刑ってことに尽きるな。仕方ない……」

「仕方ないの一言で片付けるなよ!」

 パークの胸倉を思い切り突き上げる。しかし、パークは顔色一つ変えずに、むしろ鼻で笑う。

「ダメ男、落ち着きましょう。こんなところで争っても何にもなりませんよ」

 ダメ男はぱっと解放する。かと思えば、鉄柵の方に向かうと、殴りつけた。

「おい! お前らだって人殺しだろっ! お前らも死刑にされるべきじゃないのかよぉっ!」

 拳の皮がずるむけて、ぽたぽたと床を赤く濁している。鉄柵にもへばり付いていた。

「はぁ……、はぁっ、つう……ふざけんなよ……」

 しかしずっと殴っても誰も来ない。ダメ男は疲れ果てて、へたり込んだ。

「……若いな、ダメ男は」

「いや……フーの言う通りだな……。オレはダメでゴミでクズで役立たずなのかもな……」

「そんなことはありませんよ、ダメ男。そのおかげで、脱出できそうですし」

「……へ?」

 パークがダメ男の殴った一本の鉄柵を、力任せに引っ張ると、

「……」

 抜けた。

「“デカの校長”ですね」

「……正義の味方の校長先生みたいな……、イジメは絶対に許さんぞって言ってそうな、」

「だからダメ男なのですよ」

「うっさい。“怪我の功名”だろ」

 二人は鉄柵が抜けた隙間を何とか通り抜け、檻から出ることに成功した。

 左右に通路が続いている。パークは迷わず右に走っていく。ダメ男もそれに続いた。

「なんでこっち?」

「まずは荷物の奪還だな。こちらには死刑囚の荷物が保管されている部屋がある」

「さすがですね」

「まぁ、とりあえずその手をなんとかしないとな」

 流血が激しくなってきた。

 一本道を走っていくと、突き当たりに部屋があった。窓もなく表記もないが、パークはドアを思い切り強引に蹴破った。恐ろしく(へこ)み、遂にはドアの蝶番がへし折れた。

「……」

 ダメ男とフーは何も言えなかった。

 部屋を見渡すと、広大なスペースとそこに配置されている膨大な数の金属製の棚、ダンボール箱しかなかった。ダメ男は目についたダンボールを調べてみる。

「……名前……ってことは……」

「間違いない。ダメ男のは多分こっちだ」

 そう言ってパークは奥に向かった。いろんなところを曲がっていき、あっという間にいなくなってしまった。ダメ男は仕方なくフーの指示を聞きながら突き進み、

「広すぎるだろ……」

「何千人の単位で保管さていますね。よほど罪を犯した人が多いのでしょうね」

「しかも即刻死刑だもんな。そりゃあ物も多くなるだろうな」

「しかし、なぜ保管しているのでしょうね。処分すれば、こんな部屋も必要ないはずでしょうに」

「さぁ。むしろオレが捕まったことに疑問を感じるよ」

「まるで極悪犯のような台詞ですね。一回生まれ変わってはどうですか?」

「それ、さりげなく死刑を受け入れろって言ってるよな?」

「別に死んでくださいとは言っていません。ダメ男の捻じ曲がった根性と性格を叩き直したら、」

「ちょいまち!」

 急に足を止めた。二、三歩後退して、右の棚に目を向ける。

「これはパーク様の荷物みたいですね。三十年前にしてはダンボール箱が新調されているようにも見えますが、」

「そんなことはどうでもいい。持っていこう」

 フーの言葉を遮って、ダメ男は入口に戻って行った。すると、

「それは俺のみたいだな。ありがとう」

 パークが既にいた。足元にダンボール箱がある。お互いにそれを交換し、

「よかった~。丁寧に仕舞ってある。壊してたらショックだった……」

「早く準備しろ」

 いつものスタイルになった。ダメ男は黒いシャツの上から黒いジャケットを羽織り、リュックを背負い込む。一方のパークは白い長袖のシャツに青いジーンズを着て、小さなショルダーバッグを持っていた。

「行くぞ」

「ちょっと待ってっ」

 ダメ男は強引にパークを引っ張った。反論しようとしたパークだが、瞬時に状況を把握した。そのまま部屋の奥へ逃げていった。

 入口の方では看守が一人、こちらに来ていた。本来閉まっているはずの保管室がなぜか蹴破られているのに不審がっていた。すぐに無線を飛ばすが、

「こちらパトロール。何者かが脱走しているようだ。至急、応援を頼む」

〈こちらは国王の護衛とデモ隊を追い返すので人員を()いている。脱走者は放っておけ。お前と残り二名は犯罪者の監視と巡回を続行せよ〉

「? 了解」

 なぜかその場を離れていった。

 ひょっこり入口から顔を覗かせるダメ男。とても怪訝(けげん)そうだった。

「早く行くぞ。今がチャンスだ」

 ダメ男を尻目に、パークは颯爽(さっそう)と走っていく。

 ダメ男も彼についていくのだった。

 

 

 外はすっかり夜更けになっていた。ただ、まん丸の月が目映(まばゆ)く照らしてくれている。その圧倒的な存在感のせいで、つぶつぶの星が目立たなくなっていた。その月の直線上にあの国があり、煙が舞い上がっている。しかし、何も音はしなかった。

 そこから遠く離れた所に森があった。

「久しぶりにこうして地上に立てたな……」

「オレは何時間ぶり」

「そうですね」

 二人はその森の中で木を背もたれにして座っていた。ちょうど木々や葉の隙間から月光が差し込んだ所にいた。光のない周りは暗黒と化している。

 二人とも頭から汗を滝のように流している。

「今思えば、パーク様はよく死刑にされなかったですね」

「人数が多くてな。俺の死刑執行は約一ヵ月後だったんだ」

「……それにしても、運が良かったなぁ……。何で簡単に脱出できたんだろう?」

「ダメ男の言う通り、デモの混乱に乗じて脱獄したまで。どうやら相当悪運が強いみたいだ」

 パークはショルダーバッグを漁ると、

「!」

 ダメ男にそれを向けてきた。

「ぱ、パーク……?」

「そういうことですか」

 フーはいたって冷静に把握していた。“それ”は月光で黒光りする。

「そういうことだ。悪いが大人しくしてもらうぞ」

「そ、そんな……!」

 ダメ男が手を袖に引っ込めようとした瞬間、

「!」

 顔の横すれすれを何かが通り過ぎた。やがてじわじわと血と痛みが滲み、染み渡っていく。

「殺す気はない。同志だからな。荷物を半分置いてもらう」

「だからパーク様の荷物が少なかったわけですね」

「計算してたわけじゃない。本当はもっとあったんだが、使い物にならないものは看守に処分するように頼んだんだ」

 パークがダメ男の元に近づき、近くにあったリュックを物色し始める。しかし、銃口がダメ男から離れることはない。

 汗一粒が勢い良く傷跡に伝い、血を含んであごまで伸びていった。赤い軌跡が新たにできあがる。

「大丈夫だ。何度も言うが殺す気はない。残した物だけでも十分生きのびれるから心配するな。……それと、」

 今度は直接ダメ男に向かい、胸元を(まさぐ)る。

「フーはもらっていくぜ」

 フーを繋ぐ紐を引きちぎり、持っていかれた。

「じゃあな」

 パークは闇の中に消えていった。ダメ男は安堵のため息をつくと、その場に横になった。

 

 

「う、うぐ……」

「遅かったですね、ダメ男」

「……」

「おっまえ、しょくりょ……に毒を、」

「じゃあな」

「ぎゃっ!」

「……」

「ダメ男」

「……」

「ぎゃ、ぎゃ、あ、ああっ! がっ! ヴ! ヴ! ヴ! ぅ…………」

「……」

「手を止めてください」

「……」

「も、もう死んでいます! ダメ男!」

「……」

「ダメ男!」

「はぁ……はぁ……はぁっ」

「ダメ男」

「……確かにパークの言うとおり、オレは悪運が強いらしい」

「ダメ男らしくないですよ。どうしたのですか? しっかりしてください。泣かないでください」

「……泣いてない。汗かいてるだけだ。それに、ほっといても毒で死んでた」

「確かにそうですが、何もめった刺しにしなくとも、」

「ごめん。……少しまいってるかもしれない」

「こうなることは見越してはいましたが。とにかく、ダメ男の応急処置を施しませんか? ただでさえ怪我をしているのに、握る力が強すぎて掌からも出血しています。もう痛みを感じないのではないですか?」

「いい……」

「ダメ男、痛くないのですか?」

「大丈夫」

「大丈夫というのは、痛みがあるけど我慢できる程度だ、ということに、」

「いちいちうるさい! 黙ってくれ!」

「す、すみません」

「……いや、ごめん、ごめんな。いつも心配かけて……」

「そういえば、こうやって裏切られるのも久しぶりですね。でも、パーク様は恐喝と強盗、傷害の罪で死刑で、」

「フー、ここはあそこじゃない」

「そうですね。それでダメ男、落ち着きましたか?」

「あぁ……。今日はもう疲れたよ」

「それならもう少し先に行きましょう。死肉を貪りに動物たちがやってきますし、この森は危険です」

「……そういえば、村があったっけ?」

「正確には遊牧民の集落です。もう一度そこにお邪魔しましょうか」

「そうだな、そうしようか。今日は散々な日だなぁ……」

 

 

 一方、その頃。

「……よく来てくださった、旅人さん」

「いえ」

「でも、警備隊隊長直々ってことは何かのお願いがあるってことだよね」

「いかにも」

「それって何ですか?」

「実は二日ほど前、男が二人脱走してしまいまして、その捕獲を依頼したい」

「生死のほどは?」

「こだわりません」

「そうですか。では、こちらに任せていただいてもいいんですね?」

「もちろん」

「その前に、見返りはなんなのさ? 極悪犯を捕まえるんだから、それなりじゃないと困るよ」

「あなた方に必要な物を全て取り(そろ)えましょう」

「一応、三日間の内に必要な物は補充させてもらいましたけど……」

「それならば返金をした上で、豪華な食事とスイートルームを三日分ご用意しましょう」

「引き受けました」

「はやっ」

「それはありがたい! これを使えば連中の居場所は分かるでしょう」

「ありがとうございます。それじゃあ早速行ってきます」

「頼みましたぞ」

「絶対に成功させます」

「現金だなー」

 

 

 



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第三話:かたるとこ

 夜。中途半端に欠けた月から明かりが地表を照らしている。そんな月が見下ろすは暗闇に閉ざされた森。それは大きく広大に山を覆い尽くす。見渡す限りに不気味に。やがて月が雲に隠れ、森が仄暗(ほのぐら)くなる。

 じんじんと虫が低い音を奏で、不気味な中に清涼感を加えていく。

 そんな中に、

「不気味ですね」

 女の声がした。妙齢の女で落ち着いた声だった。がさがさと物音のする方から、一人の影が現れた。月が陰ったのか森が暗いのか、姿が全体的に暗く明瞭でない。ただ、それが女の“声”の持ち主で間違いなさそうだ。

 木々の合間を歩いていた。

「そうだな」

 男の声も聞こえた。

「山の中での夜って好きだな。静かだし」

「能天気なことを言っても、遭難した言い訳にさせませんからね」

「……」

 しかし、男の声も影から出ていた。

「まさか、山で遭難するなんてな……」

 自分(?)を鼻で笑った。

「全感覚を集中してください。(くま)が来たら、即死ですよ」

「それだったら、夜も動かない方がいいよな」

「そうですね。だから先ほどから明けるまで待とうと言っているのに、どうしてそこまで無謀というか馬鹿というか気持ち悪いというか、」

「顔が気持ち悪いのは関係ないから」

「別に“顔”とは明言していません。ということは、少なからず自覚しているということですよね?」

 影は地面に向かって何かを叩きつけた。それはチカチカと赤く点滅している。

「あなたに(けが)されました。責任を取ってください」

「ぶっ壊す気持ちでやったから、それくらいは当然だろうな」

「この女たらし! とことんクズ人間です」

「お前、最近そういう小説とかドラマとか見すぎじゃないか? 思いっきり影響受けてるんだけど」

「そ、そうですかね?」

「評判下がるからやめたほうがいいぞ」

 影は発光物体を拾い、どこかにしまった。

「それより、オレが無謀に歩き回ってると思ったのか?」

「はい」

「うん知ってた。けど、この先からかすかだけど……潮の匂いがする」

「潮、ですか? ということは海ですね」

「そういうこと。そっちに行けば街か何かあるだろ」

「楽観的ですね」

 影はまた暗闇に消えていった。

 

 

 青い空に綿あめのような雲が浮かんでいる。太陽をちらちらと隠し、大地を照らしたり、影を落としたりしている。

 (なだ)らかに遠くまで(そび)え立つ山。深緑を彩っている。(せみ)が早とちりしてじわじわと鳴き始めているが、まだ肌寒い。その山の(ふもと)には街があった。白く角ばった家が建ち並び、綺麗な道路やその脇に茂る木々が白い街並みに彩りを加える。そして、その奥に砂浜と海が広がっていた。淡泊な青から濃厚な青へとグラデーションがついている。左端には岩壁が、右端には港があった。

 潮の香りが(かす)かにする。(ほほ)を撫でていく微風に乗って(ただよ)っていた。

 山奥の森と街の境目。山肌が露出し、(なら)した茶色の地面が見える。そこに男がいた。黒いインナーに黒いジャケットと黒いズボンを着て、土で汚れた白のスニーカーを履いている。背中に黒い傘が差された黒いリュックを背負っている。両腰にはそれぞれバックパックが付けられていた。肩で息をして、顔や首元は汗でびっしょりだ。

 街の中へ到達すると、リュックを白い道に下ろした。

「ようやく着いた……」

「ダメ男の言う通り、海ですね」

 “ダメ男”と呼ばれた男は安堵(あんど)した。女の“声”は、

「ようやくフーを充電できるな」

 “フー”というようだ。

「あと十パーセントです」

「しっかし、この眺めは最高だな」

 白い家がまるで迷路のように道を作りだしていて、木々や家の壁の隙間から青い海が見える。白い道は切石が埋め込まれオシャレだ。背後を見ると、家や道の終わりとともに、山肌が見える。

「宿を借りる前に水着を買おう」

「なぜです?」

「泳ぐからに決まってるだろ! 山の中でひどい目にあったからな! その鬱憤(うっぷん)を晴らすんだ!」

「さすがダメ男ですね」

 ダメ男は入り組んだ街中を駆け降りていき、

「よし、これ買うわ」

 水着を買い、

「ここに泊まるぞ!」

 宿を決めた。海沿いにある木造の宿で、(ひな)びているようだが、二階建てでしかも海の方向には邪魔するものがない。絶好の景色が見えると想像できる。

 戸を開いて中に入ると、古風で和風な木で(こしら)えた柱やカウンター、廊下が見える。右手にカウンター、正面に二階への階段、左と右に廊下が伸びている。入口の床は石畳で、高さのある上がり(かまち)を補うように細長い岩が敷いてあり、上がりやすくしていた。

 カウンターにはお婆さんが座っていた。

「いらっしゃい」

「どうも。ここに二日ほど泊まりたいんだけど……」

「それじゃあここに記帳してちょうだいな」

 簡素なノートにさらさらと名前を書いた。

「二階に上がって右手の部屋でお休みなされ」

「ありがとう」

 鍵を受け取り、きしきしと(きし)む階段を経て、早速向かった。

「いい部屋だなぁ……」

 六畳ほどの広さに右手に(ふすま)、左手にタンスがあった。正面には窓があり、奥には、

「見えるか? 海見えるぞ!」

「綺麗ですね」

 海が広がっていた。

 荷物を窓の脇に置いた。ずしっと重みがある。

「海を見るとなんか興奮しない?」

「あまり興奮はしないです」

「そっか。陽気で楽しい感じしないか?」

「いえ、特には感じないです。綺麗だとは思いますが」

「ん~、そういうもんか」

「そういうものですかね」

「まぁ、ずっと重たい話ばっかだったからな……。たまには気長に遊ぶか、な?」

「そうですね。ただ、」

「ただ?」

「デン池がモてば良イノですガ……」

「そういうことは先に言ってって!」

 ダメ男は服の中から水色の物体を取り出し、背面をずらすように力を込める。

「いたいです」

「痛いわけあるか」

「ダメ男の気持ち悪い顔で胃が痛いです」

「胃に穴が空くほどのストレスっ?」

「ひとまず電源を落とします。ぷつっ」

 その物体からフーの声がしていた。これが“フー”のようだ。

 かぱりとパーツが外れ、薄くて四角い部品を外した。そしてポーチからコードで(つな)がれたプラグと部品を出した。部品をフーにはめる。

「電源復旧し、以前の状態に自動で戻すまであと一分です」

 フーから取り出した部品はプラグのコードに付いてある受け皿に置く。それを窓の近くにあるコンセントに差し込むと赤いランプがついた。

「オートリカバリー完了。ダメ男の顔は完全終了」

「どういうことだおい。無駄に(いん)を踏むな」

「そんなことより、早く準備してください。いつまで待たせる気ですか? とろい男ですね」

「……なぁ」

「はい、何でしょう?」

「頼むからさ、一発だけ(なぐ)らせてくんないかな?」

「自分の顔でも殴ればいいと思いますよ」

「どんな自傷行為だよっ」

「ほら、無駄口よりも手を動かしてください」

「……オレもストレスで胃に穴が空きそうだ……」

「だから海で発散するのでしょう?」

「……何も解決してないけど、いいか……はぁ……」

 リュックから袋を出し、ウェストポーチを両腰に付けた。

「それは何ですか?」

「あれ? 見てなかったの?」

「電池が切れそうだったので、節電モードに切り替えていました」

「じゃあ、お楽しみってことで。一応、日焼け止めとかも入ってるお得セットみたいだったから、ノリで買ってみたんだ」

「一応、楽しみにはしますね」

「うん」

 

 

 見える風景の奥の奥まで続いていそうな大海。その手前にビーチが左右に伸びていた。左の岩壁から右の港まではかなりの距離がある。端っこから見たら、米粒サイズになるくらいの距離はあった。

 白っぽい砂浜。そこには遊びに来たであろう人々が密集していた。パラソルをかけ、ベンチに仰向け、日向ぼっこしていたり、サーフボードを担いでいたり、水かけっこして遊んでいたりと、様々な人たちがいた。ビーチの真ん中らへんに海の家があり、客足が途絶えないほどに並んでいる。繁盛(はんじょう)していそうだ。

 ダメ男はその海の家の脇のちょっとしたスペースにいた。そこは木で作った簡単な仕切りとカーテンで設けた着替え室だった。横にはロッカーがある。

 お着替え中のようで、カーテンを閉じるフックに、

「まだですか?」

 フーが掛けられていた。黒い(ひも)で通してある。

「日焼け止め塗ってるから待ってれ」

「ダメ男」

「なに?」

「勘違いしていなければいいのですが、日焼け止めは隅々(すみずみ)まで塗る必要はありませんよ?」

「えっ! そうなの?」

「肌が露出しているところを中心に塗布(とふ)すればいいのです」

「なんだ。じゃあ全身に塗っても問題ないな」

「露出狂になる気ですかっ! 変態ですっ! おまわりさぁぁぁんっ!」

「冗談だよっ! ちゃんと下は()くって!」

「当然ですっ! まったく」

「ジョークが通じないなぁ……」

「ダメ男がボケをかますことはあまり無いですからね」

 もちろん、その状況をお見せすることは絶対にないのでご安心を。

 シャッ、とカーテンを開いた。

「わりと普通で良かったです」

 白一色の短パンのような水着だった。

 上半身には傷跡がいくつも付いていた。筋肉の盛り上がりとは違う凸凹(でこぼこ)が重なり合っている。

「なんかぬるぬるして気持ち悪い……」

「こちらとしてはダメ男の顔が気持ち悪いですよ」

「スイカ割りならぬ“フー”割りでもするか?」

「おそらく永遠に割れることはありませんよ」

「フーは壊れないからな」

「いえ、永遠に探し当てられないからです」

「なんで?」

「ダメ男が一人だからです」

「……」

「目隠し状態ですが、教えてくれる人がいないので、ほぼ不可能だと思いますよ」

「……いくか」

 悲しげに息をついた。

 ロッカーに荷物を入れて鍵を回す。鍵はゴムの輪っかが付いていて、ダメ男は右手にはめた。

 ビーチを適当に歩いていく。人が多く、歩くのに難儀だ。

「何列もあるけど、キレイに整列してるな」

「混雑していますから、ぶつかっても喧嘩(けんか)しないでくださいね。迷惑ですから」

「そうならないように祈るよ」

 案の定、

「あ、ごめん」

 肩がぶつかった。その相手は、

「なに? ちゃんとあやまり……あら」

 女だった。

「あぁ。ごめんなさい。ちょっと人多くて……」

「いいのよ。それより、あなた日焼けクリームぬった?」

「あぁ。塗ったよ」

「一人で?」

「まぁ……、一人で来たからな」

「それじゃあ背中ぬってあげましょうか? そこは手が届かないでしょう?」

 女は豊満な体つきをしていた、しかも(きわ)どい。

「まじでか。どこの誰かは分からないけど、それは助かる」

「ちょっと待ってて。友だちもいるからさ。おーい! ここここっ!」

 すると、同じような女がやってきた。

「わぁイケメン!」

「この子がクリームぬってほしいんですって」

「微妙に話が違うような……」

「そうなの。カラダのスミズミまで塗りこんであげるわぁ……ふふふ……」

「できれば背中だけで頼むよ」

「ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのぉます……」

「ひぃっ!」

 どこからか女の声が聞こえた。どんよりと低く恐ろしい声だ。二人の女は怖くて逃げ出した。

「おいおい、何するんだよ。せっかく背中に日焼け止め塗ってもらおうと思ったのにさ。届かなくて苦労してたんだよ」

「これだから、鈍感単純明快馬鹿は駄目なのですよ」

「ただ塗ってもらうだけだろ! なんか問題あるのかよ」

「問題がありすぎて困るほどです。ダメ男が素直すぎるのです」

「それじゃあ仕方ないな。背中はあきらめるか……」

 ダメ男は盛大に遊びまくった。

 

 

「身体中いったいねん……どうしてやねん……」

 夕日。太陽から橙色に発し、西の空や海原に色を施す。

 海の家のオープンカフェで夕食中のダメ男だが、(うな)っていた。テーブルにはサンドイッチと牛乳が置いてある。それをもくもくと食べている。

「ちゃんと塗ったがな。なんか悪いことしたかぁっ?」

「いつもの言葉遣いではありませんよ」

「なんでこんなにヒリヒリするん?」

 背中や首の後ろが赤くなっていた。苦しそうだ。

「紫外線により軽度の皮膚炎を起こし、海水によってさらに痛みが悪化したためと考えられます」

「なるほど。どうりで焼けるように痛いわけだ。いてててて……」

「今は冷やしておいた方がいいですよ」

「そうする……ん?」

 ダメ男の首裏にヒヤリとしたものを感じた。振り返ると、アロハシャツでサングラスの男が立っていた。冷たい物は保冷剤だった。

「大丈夫かい?」

「ありがとう。あんたは?」

「俺は船乗りのジェイってもんだ」

 ジェイはダメ男に相席した。

「ここらじゃ見ない顔だから、旅人だと思ってな」

「まさに。……んっと、オレは、」

「この男の名前はダメ男。今話しているこの“声”はフーと申します」

「ダメ男君にフーちゃんか。よろしくな!」

「フー……あのな……」

「いつものやり取りは面倒ですので、カットしますね」

「ん? 何のことだい?」

「こちらの話ですので、どうかお構いなく」

「まぁ……大したことじゃないならいいんだけどさ」

 不貞腐(ふてくさ)れたのか、ダメ男は閉口していた。

「それはいいとして、旅人であるダメ男に話しかけたということは、頼み事があるのだと推測しますが」

「話が早くて助かる。実はな、ちょっとした観光名所があるんだが、そこにダメ男たちを招待したい」

「観光名所ですか」

「まじか! むしろこっちからお願いしたいくらいだよ」

 “名所”という言葉でぱぁっと明るくなった。

「そうか。それは助かる。明日の昼過ぎ、そうだな……午後二時にしよう。そのくらいにあそこに見える港にいてくれ。ダメ男の格好なら一目瞭然だから大丈夫だろう」

 指差す方向はビーチの海に向かって左の方にある港だった。

「ジェイ様、ちょっと話がうますぎるようで、(うたぐ)ってしまいます」

「そうだろうよ。正直、自分でも怪しいと思う。でも、自分の食い扶持(ぶち)を失くすわけにゃいかないからな。ある程度は信じてくれ」

「分かりました。怪しいと感じたら、命はないと思っていてくださいね」

「へっ、それくらいの方が気合が入るぜ。ただし、一つだけ守ってほしいことがある」

「?」

「それは何ですか?」

「それはな……」

 

 

 月明かりもなく、すっかりと暗闇に包まれた街。だが、ロウソクの明かりのような優しい明かりがぽつぽつと(とも)っていた。白い外観の街並みは一転して仄(ほの)かな明かりの色になる。

 海辺には明かりはない。ただ、小波(さざなみ)の音が(ささ)やかに耳に入る。引いては寄せるそのリズムが眠気を誘うようで心地良い。

 ダメ男は部屋に戻っていた。上半身裸で、布団の上でうつ伏せになっていた。背中にはもらった保冷剤がタオルに(くる)めて当てられている。気持ち良さそうで、涼しい顔をしていた。

「大丈夫ですか?」

「まだヒリヒリするけど、いい感じだ」

「冷やしすぎるとかえって身体に悪いので、気を付けてくださいね」

「うん。それに夜は涼しいしな」

「海や川が近い場所は夏場でも涼しいと聞きますが、本当のようですね」

「湿気が多いと暑いもんは暑いよ」

「そうですね。でも、ここの気候がそうでなくて助かりました」

「……もういいかな、これ」

 ダメ男はむくりと起き上がった。リュックから寝巻を取り出して着替える。

「あんなに頭洗ったのに……髪がパッサパサだ……」

「もう一度入ってみてはどうです?」

「頭ハゲるからいい」

「まだ気にする年頃ではないでしょう?」

「……髪は女の命って言うけど男も命だからな。気にはしないと」

「ダメ男」

「なに? オレ変なこと言った?」

「頭を両手で(つか)んで、頭皮をずらしてみてください」

「ん? あぁ……こういうこと?」

 両手の指で頭皮を押さえ、くにゅくにゅと動かした。

「ダメ男は柔らかいのですね」

「? これで何が分かるわけ?」

「頭皮の柔らかさが分かります」

「うん……で?」

 いつになく、真剣だ。

「頭皮が柔らかい人は髪の毛が抜けにくいらしいですよ」

「へぇ~」

「ちなみに、ダメ男のお父様はどうでした?」

「親父はハゲてたな。それでオレも気にしてるんだけどさ……」

「毛髪の遺伝については様々な意見がありますが、どうやら遺伝性ではないらしいです」

「本当かっ?」

「はっきりとは言えないですが、生活様式や家庭環境が大きく関わっているみたいです」

「なるほど……いいことを聞いた……うん」

 ダメ男は窓辺に座った。

「さて、そろそろ眠りますか?」

「そうだな」

「眠ろうという気配が全然ないのですが」

「このまま寝ようかなって。風が気持ちいいから……」

「夜風は身体に(さわ)り、」

「ごめん……眠たくなってきた……おやすみ……」

「仕方ないですね。お休みなさい」

 布団を窓際に寄せて、眠りについた。

 

 

 翌日の昼過ぎ。

「“観光地そのものの特色を話すことを禁じる”ですか」

「つまり、ネタばらしをするなってことでいいのか?」

「そういうことになりますね」

「楽しみだなぁ……」

「本人からは準備に関して説明がありましたが、観光名所のPRはありませんでした。こういう場合、長所や名産などアピールした方がいいと思うのですが」

「何が出るかは分からない、そんなサプライズがウリなんじゃないか?」

「まさに“ダニが出るか()が出るか”ですね」

「地味に嫌だな、それ……」

「これだからダメ男は頭の中にダニが()いているのです」

「頭ちゃんと洗ってるからっ」

「本当に虫クラスの知能ですね」

「蜂の巣にぶち込んでやろうか?」

「むしろ面倒臭いと思いますよ」

「いえる。自分で言ってなんだけど」

 ダメ男は待っていた。黒いセーターにダークブルーのジーンズ、薄汚れた黒いスニーカーで、港で。

「にしても……魚の匂いがする……」

「それは港だからではないですか?」

「そりゃそうなんだろうけど……」

 工場のような建物の入口脇にダメ男がいた。コンクリートで人工的な海岸を作り、角ばった(みさき)が三つほどある。そこに船が五(そう)ずつ停まっていた。働いている人はあまりいなかった。

 フーと話していると、

「お待たせ!」

 ジェイがやってきた。昨日と同じような格好だった。

「さぁ、行くぞ」

「船で行くのか?」

「そうだが、船酔いしやすいのか?」

「オレは大丈夫」

「なら問題ないな。こっちだ」

 案内したのは右端の岬の一番奥にある船だった。小型のフェリーだ。

 二人が乗り込み、船が揺らぐ。

「ゆったりした遊覧にしてやるよ。出発だ!」

 大きな音を出して、出航した。

 猛烈な勢いで飛ばされそうになるダメ男、船尾から巻き上がる飛沫(しぶき)、ぐわんぐわん揺れる船体。覚束無い足取りのダメ男は、

「馬力ありすぎじゃねっ? おかしいだろ!」

「気にするな! ロケットエンジンを積んでるだけだっ! あっはっは!」

「ゆったりできるかっ!」

「十分だろぉ?」

 操縦席の横、ジェイの隣にいた。フェリーは二階建てになっていて、一階に客席、二階は操縦席になっていた。船首には落下防止の手摺(てす)りがあり、船尾には何かの機械が積んである。

 ジェイは操縦(かん)を握っているが、しっかりとバランスを取っていた。

「なぁ」

「なんだ?」

「ジェイはどんなところに案内してくれるんだ?」

「へへっ。そいつは見てからのお楽しみよ」

「ちょっとくらい教えてくれてもいいじゃん」

「仕方ないな。これでも見るか?」

 手渡してくれたのは何かのチラシだった。そこには、

 

[ジェイのオススメ観光スポット! 綺麗な景色から美味しい料理まで、あなたに素敵な一日をおもてなし!]

 

 と書かれていた。下を見ていくと、感想文のようで、経験者がお礼を(つづ)っている。名前はハンドルネームで()せられていた。

「家に山ほどあるんだが、礼の手紙の一部抜粋だ。俺の自信はこういうところからくるのよ!」

「うーん……見る限り、ほめてたりお礼だったりだな。……あ、改善点なんてのもある」

「中身を見せない分、そういうのもオープンにしなきゃな」

「すごいな。……これなら安心しても良さそうだ」

「ありがとよ」

 二人はしばらく海の景色を眺めていた。思ったより長いようだ。

「ところで、フーちゃんはどうした?」

「あいつか? 今はお休み中だ」

「? なんでだ?」

「“オレは大丈夫”でも、フーが駄目なんだなこれが」

「こういう時に船酔いのヤツがいるってのはお決まりのパターンだが……“アレ”で酔うのか?」

「なんでだか分かんないけど、酔うらしいんだよ」

「人体の神秘ってやつなのかねぇ……」

 

 

 ダメ男たちは観光スポットに、

「さぁここだ!」

 着陸した。

「おぉ~! すごいジ、」

「おっとダメ男! それ以上はダメだぜ? もう忘れちまったのか?」

「いや、でもオレら二人とジェイ以外はいないだろ? なら、」

「ここはオレのイチオシスポットなんだ。ダメ男を信じたいのは分かるが、盗聴器の類が無いとは言い切れねえ。持ち込んでもかまいはしないが、絶対にここの情報はしゃべらないでほしい」

「で、でも……オレには一応義務が、」

「ダメ男、ジェイ様の仕事を増やすことは許されませんよ? こちらは客ですが、マナーやルールを守るのが鉄則です。よって“口外しない”というルールを守るのは客として当然ですよ」

「……そうだな。ごめん、オレが悪かった」

「できる男はミスを繰り返さないもんだ! あんたはできる男だから大丈夫さ!」

 ダメ男とジェイは歩き出した。二人とも各々(おのおの)の荷物を背負い、足を進めていく。

「なんて言えばいいんだ……? というかどこまで言っていいのか迷うな……」

「まぁ肌身で体験してくれってこったな」

「景色自体は悪くありませんよ。むしろダメ男の好みではないでしょうか? ジェイ様、これは大丈夫ですか?」

「ギリオッケー」

「確かにそうだけど、特殊な地形だな。今まで見たことがないよ」

「そりゃそうだろうよ。自慢の場所だからな!」

「あ、これは珍しいですね。何でしょう?」

「これは、……名前を言うのもダメなのか?」

「そうだな」

「うーん……一応動物としか言えないな」

「ダメ男は知っているのですか?」

「一応な。食べると美味いんだ」

「え?」

「ジェイも知らないのか。この種は焼いて食べても美味しいんだよ」

「さすが野生児ですね」

「まぁな」

「一応希少種だからさ、食べるのはやめてくれな」

「分かってるよ。食料が尽きたときの最後の手段だよ」

「とか言いながら、この前はウサギを捕まえましたよね」

「さすがに旅人は違うなぁ……!」

「それほどでもないよ。死ぬくらいなら何でも食べるよ」

「それより、あそこは何なのですか?」

「あぁ、あそこはここの代名詞さ。あれがあるから、頻繁に来れるわけじゃないんだ」

()きているのですか?」

「活きてるよ。ほら、そこにも痕跡があるだろう?」

「ホントだ。触っても大丈夫?」

「問題ないよ。事前に調べてあるから」

「おぉ……! 初めて触った……! でも、どうしてあれがあるのにここはこうなってるんだ?」

「活きてはいるけどね、流出してないんだよ」

「なるほど。だからこうなっているのですね。しかし、これは大きいですね」

「だろ? これがあるから、トップシークレットにしてるのさ」

「これを知ってるのはジェイだけか?」

「いや、ここに来た客は全員知ってるよ。もちろん極秘だけどな」

「街の人々もご存知なのですか?」

「あぁ。知ってるよ」

「それなら、なおさらアピールすべきではないのですか?」

「悪質な(やから)がいるんだ。こういう貴重な物を盗んだり壊したりする輩が。事前に教えたら、それ狙いに来るかもしれないだろう? それを防止するためなんだ」

「なるほど……」

「もちろん、バクチ感覚で来るヤツもいる。でも、被害を最小限に抑えることが大切だからな」

「なるほど、納得です。確かにそういう被害は無くなりませんからね」

「さて、次はあっちに行こう」

「分かった」

「ダメ男、しっかりと目に焼き付けるのですよ」

「分かってる」

 

 

 夜。

「いたたたた……」

 ダメ男はお風呂に入っていた。お風呂というよりシャワーだ。

「ダメ男、また日焼けしましたね」

「首の後ろ痛い!」

「セーターを脱いだのは良いものの、長(そで)のシャツでもカバーし切れなかったようですね」

 風呂場は宿一階の左手の廊下の先にあった。人一人分の広さの脱衣室にはタオルと着替え、フーが置かれていた。奥の浴室でダメ男がシャワーを浴びている。

「赤くなってるよ……いったたた……」

「やはりダメ男の肌は紫外線に弱いようですね」

「そうなのか?」

「赤いというのは紫外線でのダメージですからね。元々、ダメ男の肌は白いですし」

「なんでだかな」

「女子からすれば(うらや)ましい限りです」

「オレだって好きでなったわけじゃないんだから、仕方ないだろ」

 ダメ男の口調が強くなる。

「怒らないでください」

「怒ってない」

「怒っています」

「怒ってないっ」

「怒っています」

「怒ってないっ!」

「怒っていません」

「怒ってるって! って、あ……」

「やはり怒っているのですね」

「……」

 風呂を上がり、身体を拭く。

「……ところでさ」

「はい」

 そして着替えた。黒い寝巻だ。

「お前の船酔いってどういう原理なの?」

「酔っていませんよ」

「酔ってたじゃん」

「酔っていません」

「酔ってた」

「酔ってませんって」

「酔ってたよ」

「酔ってませんっ」

「酔ってないよ」

「はい、その通りです」

「……」

「ダメ男と違って、引っ掛かりませんよ」

「じゃあフーに保存されてる男同士の写真はなんだろうな?」

「え? あれは消去したはずですが」

「あ、あったんだ、やっぱり」

「あ」

「引っかかってんじゃん」

「ぷちっ」

「あ! 切りやがった! ……でも、適当に言ったのが当たったってのも申し訳ないな。……後で謝ろう……」

 ダメ男は部屋に戻って、すぐに眠った。

 

 

 朝、ダメ男はいつもの練習をして、お風呂に入った。日焼けで肌が黒くなっていた。

「少し痛みが治まってきた……」

 そして部屋に戻り、出発の支度をする。

「おはようございます」

「おはよう!」

「気分が良いのですね」

「昨日は楽しかったからな。美味かったし、景色は最高! 昼寝も快適だったな」

「ただ、あれを他の方々に語れないのが残念ですね」

「撮影は一切禁止だったしな。いやぁ~言葉じゃ伝えきれないものがあったなぁ……」

 軽くストレッチをする。

「ん?」

「どうしました?」

「なんか聞こえない?」

「えっと、確かに聞こえます。人の声のようですね」

「いっちょ行ってみますか!」

「はい。朝食を取ってからですね」

「よく分かってるな」

「それほどでもありません」

 ダメ男は宿をチェックアウトして、海の家のオープンカフェで朝食を取る。

 朝の海は(さわ)やかだ。さらさらと軽快に踊るようなリズム、心地良い波音。ダメ男の食が進む。

「前日の三倍を注文しましたね?」

「だってここのサンドイッチ美味しいんだもん」

「今時“だもん”と語尾を付ける人はそうはいませんよ。気持ち悪いです」

「あぁ……サンドイッチ美味しいのに……ここともお別れかぁ……」

「無視ですか。随分と名残惜しそうですね。それなら、早めに出発しましょう」

「美味い料理と絶景がある街は旅人にとって魅力的すぎる。あと一週間、」

「ダメ男、どこぞの小柄で貧乏性な大食らいではないのですから、けじめをつけてください」

「うぅ……分かってるよ……」

 最後の一杯のコーヒーを、

「はぁ……おいし……」

 ゆったりと堪能(たんのう)する。

「爽やかなモーニングコーヒーですね」

「うん」

 ダメ男は飲み干し、やっと重い腰を上げた。

「あぁさらば我が愛しの第三十二の故郷……」

「故郷増やしすぎです。減らしてください」

「冷たいツッコミだなぁ……」

「それよりダメ男」

「分かってるって。あれでしょ?」

 ダメ男が何かに目をつけた。そこは港の方で、人集(ひとだか)りができていた。フーの聞き取った“人の声”もそちらからだった。フーに断わりを入れて、見に行ってみると、

「うるさっ!」

 まるでマシンガンが何十機も炸裂するかのような怒号が沸き起こっていた。もちろん、人集りが何かに向かって言っている。

 ダメ男は隙間を()うように押し退けて入った。

「え?」

「はなせってんだよ! くそが!」

 なんと、ジェイが男数人に取り押さえられていた。

 ダメ男は隣にいた女に、

「あの」

「は、はいっ、なんでしょう……?」

 聞いてみた。女はなぜか赤面している。

「あの人たちは一体何なんだ?」

「あっあぁ、彼らはここの軍よ。あそこに捕まってる男の人が何か犯罪をしたようで……」

「犯罪?」

「あの人、詐欺師みたいなのよ」

「詐欺師?」

「自分の商売の感想を、あたかも他人がしたかのように、捏造(ねつぞう)してたの。いわゆる自作自演ね。しかも、しょうもないところを観光として紹介してたってんだからたまったもんじゃないわ」

 ジェイは(わめ)きながら、警察隊に呆気なく連行されていった。

「……」

 ダメ男はそれを見送った。

 囲んでいた野次馬の前に一人の男が現れた。

「お客様、この度の我が社の不祥事、お詫び申し上げます。そのお詫びとして、被害に遭われた方々に特別に豪華客船での船旅を招待したいと思います!」

 おぉっ、と声があがった。

「警察隊の方から既に被害者の名簿をお借りしたので、どうぞご参加ください!」

 直後、ぞろぞろと男の後ろについていく人々。横から、

「ダメ男様にフー様でよろしいでしょうか?」

 スーツを着た男が声をかけて来た。

「先ほどご紹介に預かった者の部下です。旅人であると伺い、早めにお声をかけさせていただきました」

「もしかして、さっきの社長さん?」

「はい。それでお時間がよろしければ、ぜひご参加いただきたいと存じ上げます」

「つまり、あの船で盛大な(もよお)しがあるということですか?」

 そこには巨大な船があった。遊園地じゃないかと思うくらいに馬鹿でかい。

「はい。ぜひとも!」

「どうしますか?」

「それより、ジェイが捕まった理由が知りたい」

「彼ですか? 彼は自分の広告に嘘の内容を書き込んだり、誇大表現してお客様に過剰に金銭を騙し取ったりしたのです。それだけではありません。機密性の高い観光方法だったために、あらゆる犯罪に加担しているとの疑いもあります」

「そうだったのか。それじゃあ仕方ないな」

()に落ちません」

「何が?」

「街の方々はジェイ様の観光を知っていると言っていました。なのにジェイ様の犯罪がずっと露見されなかったのです。誰かしらは異変に気付くはずです。むしろ警察隊が気付かない方があまりに不自然です」

「警察隊の方々もかなり苦労したみたいです。私共には分かりかねる部分もございますので、どうかご容赦を……」

「申し訳ありませんでした。先ほどの話ですが、時間がないので丁重にお断りいたします」

「そうですか。それは残念です……。でしたら、永久予約という形でいかがでしょうか?」

「え? いいよそんな……。予約もしなくていいよ」

「し、しかし、我が社としましては、お詫びをしなけれ、」

「こちらにとってのお詫びはこちらの意志を尊重していただくことです。怒ってはいませんので、大丈夫ですよ」

「あの人は犯罪をしたけど、オレらには実質的な被害はないしな」

「そ、それならば。……誠に申し訳ありませんでした!」

「いいって。それじゃあ頑張ってな」

 ダメ男はそそくさと立ち去った。

 

 

「あの島は良かったな~。ジャングルみたいで、自然の宝庫だったな」

「そうですね。夕焼けも素敵でした」

「サバイバルクッキングしたら、ジェイのやつ驚いてたよな」

「蛇や(かえる)(さば)いた時は、さすがにこちらもヒキましたよ」

「今度作ってやるよ」

「固く遠慮します」

「しっかし、なんか残念だな。あんな結果になるなんて。拍子抜けというか何というか」

「ジェイ様は犯罪者の顔付きではありませんからね」

「オレ、悪いことしたかな?」

「いえ。むしろあの方々が怪しいです」

「フーが言ってたけど、あれ何が言いたかったんだ?」

「あくまで予想ですが、二つ考えられます。一つは街がジェイ様を騙したのではないかと思います」

「? どういうこと?」

「ジェイ様が秘密にしていた場所が、実は“そういう場所”で、ジェイ様になすり付けたということです」

「なるほど。で、もう一つは?」

「こちらの方がしっくり来るのですが、あの街自体が詐欺集団だった、ということです」

「え?」

「もし本当に犯罪をしているとしたら、観光地に案内する時、異常な行動を見せるはずなのです。それを旅人ならいいですが、現地の方々が見過ごすはずはないでしょう。少しくらいは分かるはずです」

「そうだけど……そうかなぁ……」

「そうしたら考えられることはただ一つ、街人は“それ”も知っていた、つまり黙認していたということです」

「うーん……強引な気がするなぁ」

「しかも、あの豪華客船の旅の手回しの早さは異常です。(あらかじ)め用意されていたかのようでした」

「それでもなぁ…………オレにとっちゃ、わりと楽しかったし、純粋には憎めないよ」

「相変わらずお人好しですね」

「それほどでも」

「ダメ男は騙されていることに気付かずに満喫(まんきつ)してしまうタイプですからね。つまらない、または曰く付きの評判のものでも楽しめてしまう、それがダメ男の気質の一つですね」

「素直に喜べないなおい」

「いえ、一番得をする性格だということです」

「そういうものかねぇ」

「ところでダメ男、伺いたいことがあります」

「なに?」

「また遭難したのですか?」

 空は緑に覆い尽くされていた。ただ、木漏れ日が差し込んでいるので、晴れではあるようだ。

 目の前にはばらばらに生えた木々があった。まるでダメ男を足止めするかのように、似たような景色を作り出している。

 ダメ男は一旦立ち止まった。きょろきょろと辺りを見回す。

「まぁ、これは……ウォーキングだよ、うん」

「困惑しながらのウォーキングとは、さすがですね」

「大丈夫だよ。オレが何も考えてないと思ったのか?」

「はい」

「うん知ってた」

「はい」

「じゃあ戻るかっ!」

「戻りたいだけですよね」

「はい。……だってあそこの、」

「つべこべ言わずに、歩いてください」

「はぁ……」

 ダメ男は歩き出した。

「迷っていても進まなければ何も始まりませんしね」

「確かに。猛進あるのみだなっ!」

「同じところをぐるぐる回っていなければいいのですけど」

 

 

「……ちっ。今回はダメだったか……」

「相手が悪すぎたわね」

「でもうまくいったんだがな……」

「わざとらしかったんだよ」

「でも、今回儲けたのは宿屋のババアと海の家のダンナか」

「いいよな。がっぽり(もう)けただろうに……」

「一割くらいくれないかな」

「何が儲けだよ! めちゃめちゃ損したわ!」

「全くだぜ!」

「二人ともどうしたんだ?」

「完全なカモだったろ?」

「代金で指輪をもらったのさ。それもレア物らしい」

「いいじゃないか!」

「でも、ついさっき調べてもらったらパチモンだったんだ! とんだ大損だよ!」

「俺もサンドイッチの代金で宝石をもらったんだが、全部石っころだ!」

「マジかよ!」

「ジェイのやつも金塊をもらったらしいが、調べたらレンガに金箔貼ってただけだって言ってたし……」

「あのヤロー、とんだ詐欺師だぜ!」

「悪びれた様子もなく、よくもこんな物を差し出したもんだ!」

「詐欺師を騙すなんて、よっぽどの悪人なんだろうな、そいつ……」

 

 

 



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第四話:おちつくとこ

 遠くて淡白な青空の下、ベージュ色の海辺で青年は海を眺めていた。太陽の光がその海を照らし、波の起伏で(きら)びやかに散光する。

 冷たい潮風が青年の黒いセーターを仰ぎ、隙間から忍び込む。それでも遠くを眺めていた。

 登山用の黒いリュックが青年の足元にある。細かい砂浜のせいか、リュックのお尻が砂に埋もれている。その隣にある青年の黒いスニーカーも深い足跡となっていた。紺色のジーンズの裾に砂粒が付いていた。

「……はぁ」

 青年はその場で体操座りになった。

「どうかしましたか?」

 青年以外に誰もいないはずだが、声がした。落ち着いた口調で、妙齢の女の声だ。

「……別に」

 青年は深く(ひざ)を抱え、顔を埋めた。両足の隙間から、足元を見つめる。

「寂しいのですか?」

「……静かにしてよ」

 そのまま目を(つむ)った。

 海辺に波が絨毯(じゅうたん)を敷くように打ち寄せてくる。無数の水泡が弾ける音と砂を削りながら巻き込む音が一斉に耳に染み込んで、やがてそれらを(さら)っていく。それが何度も何度も繰り返されて、ゆったりとしたリズムとなっていく。

「まるで落ち込んだ少年のような行動がよく見られるようになりましたが、一体どうしたのですか?」

「……別に」

「ホームシックですか?」

「……」

 青年は項垂(うなだ)れる。

「……行くか」

「ダメ男、質問に答えてください」

 “ダメ男”と呼ばれた青年はぐっと膝を押して立ち上がった。お尻についた砂や泥を払い落とし、手も軽く(はた)いた。

「寂しいのですか?」

「大丈夫だよ、フー。そんな心配しなくても」

「ダメ男のそんな表情は初めて見ます」

 “フー”と呼ばれた声。口調が強張っている。

「大丈夫だって。そんなことよりさ」

「何です?」

「海っていいもんだよな」

 再び遠くを眺めた。

「……」

 ダメ男は荷物を持って出発した。

 海に沿って、あてなく歩いていく。打ち寄せる波を踏んで、スニーカーに海水が浸る。その足跡は海へ帰る波が(なら)していった。

「こんな所では何も起こりそうにありませんね」

「それが一番いいよ」

「そうですね。でも、ダメ男が望まなくてもハプニングはやってきます」

「そうだな」

 ざしゅ、と最後の一歩を踏みしめる。

 ダメ男の前方には巨大な塊がいくつも打ち上げられていた。大木や白色の袋、缶、ボトルなどの物が網で絡められている。

 ダメ男はとりあえず近づいてみた。

「これは……?」

「海岸に打ち上げられたゴミです」

「ごみ……」

「人が海に投げ捨てたゴミが長い年月をかけて、こうして打ち上げられるのです」

「海を汚してるってわけか」

「はい」

「……」

 ダメ男はごみの塊たちの一つに触れてみた。透明な箱やビンが網でぎゅうぎゅうに詰められている。

「……」

「ダメ男?」

 しばらく触った後に、その手を鼻の方にもっていく。

「……潮の匂い……」

「天日干しで海水が蒸発したので、」

「しないっ!」

 叫んだ。

「……」

 打ち寄せる音が二人を包みこんでいく。何も言うことができなかった。

 ダメ男はそこでまた尻をついて座り込んだ。

 沈黙を守ったまま、遂に空に赤みが増してきた。太陽を中心に橙色に染み渡っていく。青かった海も赤を受け入れていた。しかし、

「おーい」

 ダメ男の背後から聞こえる声、それが破ってしまった。

 振り返ることなく、膝を深く抱えて俯く。そこへ声の持ち主が肩を(つつ)く。

「お前さん、どうしたんだ?」

 おじいさんだった。身なりはけっして高貴ではなく、へたったズボンに薄汚れたセーターを着ている。ニット帽を被って、白い無精ひげを蓄えて、

「元気ないぞ」

 豪快に笑い出した。しかし、ダメ男の顔から曇りが取れることはなかった。

「たそがれてんのか?」

「……」

「……ふう」

 ダメ男の前に回り込み、

「顔、死んでるぞ」

 また笑いかけた。

「……」

「ご老人、申し訳ありません」

「!」

 いきなりの声に、おじいさんは尻もちをついてしまった。

「ふ、腹話術か?」

「違います」

「……ぷ」

 ダメ男は、

「ダメ男?」

「あはははは……!」

 どっとと笑い出した。

「そのツッコミは初めてだなぁ……」

「この頭のイカれた男がダメ男です。ダメ男が首から下げている物体が、」

 ダメ男は驚いているおじいさんに四角い物体を見せた。夕日で水色のボディに橙色が上塗りされる。

「“フー”」

「どうもこんにちは」

「は、はぁ……」

 初めて見るようで、物珍しそうに見続ける。

「ごめん、じいさん」

「いっいや、いいよ」

 おじいさんはお尻についた砂を軽く払い落し、ダメ男の隣に座った。

「どうしたんだ? 暗い顔して……」

「……分からない。でも、ここにいるとすごく……気持ちが沈むんだ……」

「そうか……。もしかして、過去を振り返ってるのか?」

「え?」

 おじいさんは海を眺めた。

「海は眺めていると、すごく落ち着いてくる。でも逆に余計なことまで思い出してしまう。まるで、沈殿した汚れが再び浮いてくるように……」

「そうなのですか、ダメ男?」

「……」

 無言で頷いた。

「オレは自分が生き延びるために、たくさん人を殺してきた……」

「!」

「人を殺したくない、そう思うんだけど……どうしても、他人の命を奪わざるをえない時がある……。間違ってるんかな? どうにかして命を奪わないでいたいなんて……」

「若いのに、相当苦しんでるようだね」

「……一つだけ、未だに悔やみきれないことがあって……」

 ダメ男の膝を抱える指先が白くなるほど握り締める。

「年寄りの俺からすれば、綺麗事すぎて反吐(へど)が出る。率直に言うと、そんなことは無理だ。自分の命が脅かされている時に、そんな事を考えていたら間違いなく墓の中だよ」

「そう、に決まってるか……」

「でも、羨ましい」

「羨ましい?」

「ダメ男君はとてもキレイすぎる。純粋無垢。そうであるがゆえに、(けが)され傷付けられやすい、そうだろう?」

「その通りです」

「でもね、曇った眼じゃ、見えるものも見えなくなるもんだ。そう考えると、君は……よく見えてるよ。この海の景色もね」

「……じいさん、眼が……?」

 ふふ、と静かに笑う。

 夕焼けだった空と海に黒みが差してきた。海の彼方に太陽がゆっくりゆっくり沈んでいく。

 潮風が耳で唸り、身体中を(まさぐ)っていく。

「……」

「そろそろ俺は行くよ。ダメ男君とフーちゃんはどうする? うちに泊まるか?」

「……」

「いえ、今日は野宿するそうです」

「そうか。いらぬ世話だったな」

「お気遣い、ありがとうです。おじい様、気をつけてお帰りください」

「じゃあな二人とも」

 

 

 夕方から夜に移り、辺りはすっかり暗くなった。月明かりもない暗闇。その中に一粒の明かりがあった。焚き火だ。ぼうっ、と温かみのある橙色の明かりは周囲のテントやリュックサック、そしてダメ男を映し出す。

 その明りを受けて、海も揺らめくのを明かす。

「気持ちいいなぁ」

「とても落ち着きますね」

 波打つ音。一定のリズムで心地よく耳に入る。まるで身体を海に浮かべているような、そんな心地がした。

「あのご老人、眼は見えていますよ」

「? どうして?」

「そうでなければ、先にダメ男に声をかけません」

「あ、そっか」

「まったく、あなたという人は誰彼(だれかれ)無しに気にかけるのですね」

「……そういうわけじゃないんだけどな……」

「もう少し自分の身を案じたらどうですか?」

「早速説教モードですか……。フーももう少しカルシウム摂ったらどうだ?」

「カルシウムを摂取してイライラを抑える、というのは間違った見識です。正しく、」

「あぁぁぁ! せっかくの雰囲気なんだから静かにしよ、なっ?」

「そういうダメ男こそカルシウムをぶつぶつぶつぶつ……」

 珍しく怒られたフーはいじけた。

 ダメ男は手元に毛布を持ってきて、焚き火の前でうずくまる。時折パチクリ瞬きして、焚き火をじっと見つめる。何か、思いに(ふけ)っているのだろうか、

「ダメ男、何を見ているのですか?」

「……」

「ダメ男?」

「……」

「だーめーお?」

「……」

 フーの呼びかけに答えない。

「あ」

 フーは気づいた。

「目を開けたまま死んでいますね」

「勝手に殺すなっ! やっと眠れそうだったのにっ」

「あれで眠ろうとしていたのですかっ。むしろこちらがびっくりですよっ」

「人の寝方を笑うな」

「それはそれは失礼しました。ふふふ」

「言ったそばから今笑っただろ」

「それではお休みなさい、ダメ男。……ふふ」

「……お休み」

 複雑な顔で再び眠りに入る。

「一体、そんな仕組みなのでしょうかね」

 かなり気になるフーであった。

 

 

 



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第五話:うつしているとこ

 透き通るほどの晴天に燦々と太陽が照っている。肌寒さと唇がちょっぴり湿り気を覚えるくらいの気候。それは初春を迎えようとする頃に似ている。

 そんな空を一つの影が見下ろしていた。フードの付いた黒いセーターにダークブルーのジーンズ、新調した黒いスニーカーという出で立ちで、登山用のリュックを背負っていた。それには黒い傘が横から貫いていた。それに両腰にはウェストポーチを(たずさ)えている。影と呼ぶほどに黒づくめの男だった。

 今度は空を見上げていた。はぁ、とため息をついても白い息は出ないが、(のど)の奥から温かい空気が出ていく。それをリアルに感じ取る。

「どう思う?」

 男は誰かに話しかけた。

「どうというのはどういう意味でしょうか?」

 すると突如、女の“声”が聞こえた。方向的には男からだが、明らかに男とは違う声だ。凛々しい口調だった。

「この光景を見ての感想は? ってことだよ」

「聞かなくても分かるでしょう?」

「それもそうだな」

「“息を()む”とはこのためにある言葉なのかもしれない、と思うほどに感動しています」

 先ほどの“見下ろす”という表現は語弊(ごへい)ではない。なぜなら、

「空が二面ある光景なんてそうそうないな……」

 ということだ。

 男の頭上にある空と全く同じ模様が、それどころか男自身や太陽、雲、何もかもが写っている。まるで鏡の上に立っているようだ。それが見渡す限り、地平線の彼方まで広がっている。

 しかしよく見ると微妙な違いに気がついた。男が歩き出す一歩一歩で、“見下ろす空”は揺らめいている。

「不思議な場所」

「そうですね」

 男の進んだ後は波紋として“海の空”を揺らしていた。

 夕暮れ。空が赤みを帯びていく。それにならって“海の空”も赤みを帯びていく。より一層(まぶ)しくて、しかし綺麗な景色に心が打ち震える。浮かんでいるような錯覚に陥ってしまう。その幻想的な浮遊感が男の足を止めてしまうのだった。

 結局、この日も誰にも出会えなかった。

「……」

 組み立て椅子に座って、ずっと眺めていた。一言も話さず、夕日が沈んでいく動きをじっと。夕日が地平線で一つの球になるのを待ちわびる。“声”も空気を読んでか話しかけようともしなかった。

 夕日が一つになる。海に写っていた夕日も幻想の地平線に交わり、お互いの地中に潜っていくように見える。輝きを失わずに。

 ふと反対側を見ると、藍色が迫ってきていた。粒々の光を連れてきている。男はその後の景色も楽しみだった。

「ダメ男?」

 “声”が溢れてきた言葉を漏らした。“ダメ男”と呼ばれた男は、

「なに?」

 反射的に返事をする。

「見飽きませんか?」

「見飽きない」

「瞬きしていませんが、」

「つらくない」

「お腹、」

「空いてない」

「カミソリ」

「キレテナーイ」

「ふふっ」

 予想通り過ぎて、不意に笑ってしまった。

 ダメ男も気分が良くなって笑みをこぼす。

「ほら、そろそろだよ」

 夕日が沈みきった後、夜空が一面、いや二面を占めた。まるでプラネタリウムのように上下左右に星が散らばっている。キラキラと輝いていた。

「あそこにあるのって何座だっけ?」

「オリオン座です」

「隣は?」

「おうし座です」

「あっちは?」

「おおいぬ座です」

 ダメ男はぴちゃぴちゃと足踏みした。すると、“海の空”はゆらゆらと景色を波立たせる。

「今思ったのですが、そこまで深くはないですよね」

「ん? ……そういえば」

 ダメ男のスニーカーの厚みの半分ほどの深さ(?)だった。

「フーは細かいよな」

「どうしてこういう景色になるか、気になりませんか?」

 “フー”と呼ばれた“声”は会話の糸口を(つむ)ぐ。

「気になるけど人が見つからないから、知りようがない」

「確かにそうですね」

「誰かいないもんかな」

「それともう一つ気づいたことがあります」

「なんだ?」

「どうやって眠りましょうか」

「……」

 翌朝、ダメ男は早起きした。まだ日も昇っていない頃だった。

「からだいたい……」

「当然です。そんな無茶苦茶な方法では身体を痛めるだけです」

 どんな方法というと、組み立て椅子に座ってそのまま上体を後ろに倒して眠るというものだ。枕の代用としてウェストポーチ二つを、ベッド代わりにリュックをビニール袋で包んで使った。一応水には濡れないものの、ロクに寝返りもうてないので身体の節々を痛めてしまったようだ。早く起きたのもそれによるものらしい。

 丹念にストレッチして、身体を伸ばしていく。

「そろそろ日の出ですが、見なくていいのですか?」

「からだいたい……」

「もう楽しんでいる場合ではないというわけですね」

「からだいたい……」

「分かりましたから」

 日が昇る頃に出発した。

 地中から顔を覗かせた朝日が黄金色に輝き始める。楕円だったものが球になり、やがて二つの太陽へと分かれていく。重なっていたものが分裂していくように。そして空二面も青さを取り戻していく。今日の天気も快晴だ。

 ダメ男はぴちゃぴちゃと鏡の水面を歩いていく。その度に小さく波立ち、偽物の空を(ゆが)ませる。朝の不調も少しは良くなったようだ。

「さて、誰かに会わないと何も起こらないなぁ」

「いいではないですか。このままのんびり行きましょう」

「うーん……なんか地に足がつかないんだよな」

「一応、地面ではないですからね」

「そういうことじゃないんだけど……」

「そういえば朝食は食べました?」

「あ、まだだ」

「どうやら地に足がついていないようですね」

 ポーチから携帯食料を取り出し、もぐもぐ食べ始めた。

「食べカスやゴミを出さないようにしてくださいね」

「分かってるよ」

「存在自体がゴミみたいな人はいますけどね」

「あー、一体誰のことだろうな」

「今現在、ここにいる“人”は一名しかいませんよ」

「おいフー、そんなに自虐するなよ。生きてればいいことあるぞ」

「どうやら自分を人間だと思っていないゴミがいるようです」

「お前は人じゃないだろ」

「差別です。大人しく溺れて死んでください」

「ここで溺れる方が難しいよっ! 数センチしかないからっ!」

 そんな風に駄弁(だべ)っていると、

「あ」

 人を発見した。

「フー、あの人にそんなこと言ったら失礼だろう」

「?」

 豆粒くらいにずっと先だが、誰かが(うずくま)っているのが見える。ポーチから取り出した双眼鏡で見ると、少年のようだ。

「第一村人発見だな」

「ダメ男、ちょっと待っ、」

 フーの言葉を振り払い、少年の方へ歩み寄っていく。

 少年はダメ男に気づいたようで、チラ見するが、再び踞った。

「何か苦しんでるようだ」

 一転して険しい顔つきになる。

 すぐに駆け寄った。

 少年はボロボロの衣服で、褐色(かっしょく)の肌を(さら)け出している。

「どうした? 大丈夫か?」

「……」

 少年は空を見“下ろして”いる。

 特に傷や内出血は見られない。

「今日は少し冷えるみたいだから、そのままだと風邪ひくよ」

 リュックから新しいシャツを取り出した。自分から着たがらないようなので、元の衣服の上から着させた。

「何かあったのか?」

「……」

 小刻みに頭を横に振る。

「何もないのにここには来ないだろう」

「……」

 深くゆっくりと(うなず)くと、少年はふらふらと歩いていく。

「待て。一人だと危ないぞ。一緒に行かないか?」

「……」

 無反応。だが、ダメ男は良い方に受け取ったようだ。

「よし、君の家はどこだ?」

 少年が指差したところは、

「……」

「……え?」

 “ここ”だった。

「それってどういうこと……?」

「ぼくの家はここ」

 幼い少年の声が耳に響く。頭の中を一直線に貫くように透き通っていた。

「もしかして精霊的なもの? 異世界に入れる何かがここにあ、」

「ないよ」

「ないのかいっ」

 まだ浮き足立っている。

「ねぇ、ここにいてどんな風に感じた?」

「……えっと、なんか浮いてるような感じかな」

「それだけ?」

「……もっと言うなら、鏡の世界って感じ」

「ふーん……全然感受性ないんだね」

 一瞬ムッとする。

「じゃあお前はどうなんだ?」

「ぼくはね、どっちが本当の世界か分からなくなる感じ。ぼくのいる世界が本物か偽物か、ずっと考えてるんだ。あっちの世界はいい世界なのかなぁ……」

「それは行ってみないと分からないな」

「行けたらとっくに行ってるのにね。ぼくがこうして見ると、」

 少年は屈んで水面を見る。

「向こうのぼくもぼくを見るんだ。みずぼらしい、小汚い格好をしたぼくをね」

「……」

 怪訝そうに少年を見るダメ男。

「さっき鏡の世界って言ってたけど、ここは完璧な鏡じゃないよ。だって、ぼくが水面を叩けば、水が跳ねて揺らめく。つまり、ぼくが望むようにカタチを変えてくれるんだ。でも、向こうのぼくも同じように水面を叩いてはしゃいでる。向こうから見たら、こっちも鏡の世界なのかもしれないね。どっちが実像で虚像なんだろうね」

「ずいぶんと哲学的なんだな」

「大人は汚いからね。みんなを簡単に騙すんだよ。だからいろんなことを一生懸命考えるんだ」

「騙す?」

「うん。僕も騙されてこうなったんだよ」

 少年はダメ男の手を取って握った。

「!」

 思わず手を引いてしまった。

「ね。今ので分かったでしょ?」

 ダメ男は立ち去ろうとした。

「あれ? お兄さん、どこか行くの?」

「あぁ。そういうことは小さい頃に置いてきたから、もう進むしかないんだよ」

「そっか。大人になるとみんな虚像になっちゃうんだね」

「さぁ? オレには分からないけど、虚像が全て悪いってことはないとは思うけどな。……それじゃ、また鏡の世界でな」

「うん。シャツ……ありがとね」

「……めお、だめお、ダメ男!」

「……ん? あ……?」

 フーの声がフェードインしてきた。

 気がつくと、どこかの部屋にいた。モダン調の、まるで高級ホテルの一室のようだった。

「ここは……?」

「ダメ男、気づいていないのですか?」

「何がだ? オレは歩いてたら男の子を見つけたんだ。それで彼とずっとあそこの話をしてて、」

「何を言っているのか理解できません」

「は? だってお前だって、」

「ダメ男はいきなり気を失ったのですよ。どうしてなのか分からなくて、たまたま通りかかった人に助けてもらったのです」

「え? ……あ、誰だろ?」

 ノック音がした。重い身体を起こしてドアを開けると、見知らぬ男がいた。

「大丈夫かい、ダメ男さん?」

「? えっとどちら様?」

「……あぁ、そういえば意識がなかったんだった。……俺はこの街の観光部の役員だよ」

「観光部?」

「あの湖はこの街の観光名所なんだよ」

 なるほど、とダメ男は納得した。

「ありがとう」

「いやいや、それより身体は大丈夫か?」

「あぁ。なんか少し身体が重いんだ」

「たまにいるんだよなあ。ダメ男さんみたいに卒倒するお客さんが」

「何か原因があるのですか?」

「それよりも何があったのか教えてほしい」

 ダメ男は自分の身に起きたことを事細かく話していった。特に少年との出会いを詳しく話した。

「やっぱりか」

「?」

 確信しているようだった。

「もし発見が遅れてたら死んでたな」

「! 本当ですかっ」

「間違いない」

 こくりと固唾を飲む。

「あの湖を守る……言わば守護霊みたいなのがいるんだ」

「守護霊?」

「いや、守護霊というより地縛霊に近い」

「ということは、何かが恨めしいことがあったのですね?」

「……その話をする前に、あの湖のことを話さないとな」

 観光部の男はこう話した。

 あの湖は特殊な湖で、塩湖と呼ばれている。何万年も前、湖はかつて海の一部だった。それが火山活動の活発化によって海が隆起し、山となった。海水を()んだまま隆起したため、乾季になると湖の水が蒸発して真っ白の大地、つまり塩の地面となる。雨季では雨水が溜まり、湖となる。湖面が鏡のように見えるのはその塩湖によるものではないかと考えられている。

「ここ山だったんだ。どうりで肌寒いと……」

「その前に山に登ったでしょう?」

「あぁ、そうだったな」

「どうやら見当識障害があるようです。今すぐ病院行きましょう。特に脳外科か心療内科を受診させたいです」

「意識ははっきりしてるから平気!」

「頭自体が問題なのです」

「ぶん投げるぞ」

「探している間に失神されても困りますね。幸い、塩はたくさんありますから、ミネラル不足には困らないでしょうけど」

「……く……」

「話……進めていいか?」

 完全に置いてけぼりにしていた。

「あぁ、ごめん。……でも塩湖と少年の繋がりはなんなんだ?」

「実は嫌な事故があってな。昔、嵐かと思うくらい酷い雨季があってね。子供が一人飲み込まれたんだよ」

「え?」

「後日、捜索したんだが……見つからなかった」

「別に湖は流れているわけではないのですよね?」

「それは間違いない」

「なら生死は別として、発見できるはずでしょう?」

「いや、どういうわけか全く見つからなかったんだ」

「……なるほどな……ぶつぶつ……」

 ダメ男はぽそっと呟いた。

「え?」

 フーは聞き取れてしまった。

「とにかく、無事で何よりだ。それで、もっと観光はする予定あるか?」

「いや、もう少し休んだら出発するよ。観光は済んだからね」

「そうか。まぁ次の機会に立ち寄ってくれ。いいところ紹介するよ」

「あぁ」

 ダメ男は険しい山道を降りていた。木々も深くて勾配がきつく、歩くだけでも一苦労だ。森林にしては岩っころが転がっており、時折“落石注意”の看板が設置されている。

 空は曇っていた。もう雨が降ってもおかしくはない。ちょっとした刺激で一気に降りそうだ。

「よく分からない街と湖でしたね」

「たまにはこういうところもあるよ、っとっ!」

 ずるっと滑りそうになるのを踏ん張って耐えた。うまく立て直す。

「大人は汚い……か」

「あの時も言っていましたよね? どういうことです?」

「ただの事故じゃないんだろうなってこと」

「え?」

「だってあの子の家は“あそこ”なんだから」

「あ、あぁ、そういうことでしたか」

「本当に鏡の世界に行っちゃったってことだ」

「どう報告しますか?」

「報告しづらいけど、ありのままを話すしかない。社長さんにとっては死の宣告に近いかもな」

「少し気分が悪いですね」

「ここか?」

「あぁ。どうしてただの旅人が知ってんだよ……誰かちくったのか?」

「初めて見るぜ、あんなモヤシ」

「俺もだ。うまくはぐらかしたが……さっさと掘り返しちまおう」

 夜の湖。作業着を着た男三人がスコップ片手に掘り起こしている。すると、

「! なんじゃこりゃっ」

「……やばい……バレてやがるぜ……」

 骨があった。しかしそれよりも男たちは驚くのはもう一つの物だった。

「どうしてこんなのがあるんだよ……」

「間違いねえ。あの旅人の仕業だぜ」

「どうする? 弱みを握られちまって……」

「……あの旅人がいつここへ来るのか分からねえ。いや、そもそもヤツが依頼した人間かもしれねえ」

「……もう……ダメか……」

「……あぁ。ここまでだ……」

 男たちの中に、あの観光部の役員がいた。

 後日、男たちは全員自首したという。誰かの白骨とダメ男の新品のシャツを手に持って。

 




次のお話はすごく長いです。時間にお気をつけてお読みください。



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第六話:まもるとこ・a

 青々と晴れ渡っていた。ギラギラと主張する太陽の下、サバンナが広がっていた。イネ科の長草の土色と大地の土色が微妙な色合いを見せ、ところどころに低木が点在していた。

 肌寒い。

 様々な動物たちが食物連鎖の争いを繰り広げている。

 そこに全身黒づくめの格好をした男がいた。フード付きの黒いセーターに黒いジーンズ、履きならした黒いスニーカーという服装で、中には黒い長袖のシャツを着ている。

 登山用の黒いリュックを背負っていた。両腰にはそれぞれウェストポーチをかけてセーターの中にしまい、外見からだと少し太っているように見える。

 セーターには内ポケットが右胸にだけにあり、お気に入りの仕込み式ナイフを忍ばせていた。

 首元には黒い紐が見える。辿っていくとセーターの中にある首飾りに終着した。それは水色と緑色の中間色で、四角い“何か”だった。折りたためてあるようで、まるで蝶番(ちょうつがい)のようだ。

「んー……」

 男は困惑していた。とても深刻そうに考え込んでいる。

「狙われてる……よな……?」

 長草をかき分けて、そろそろと歩いている男の背後には何もいない。

「ダメ男、自然の摂理です」

 男、“ダメ男”とは違う女の“声”がした。凛々しく落ち着きのある妙齢の女の声だった。

「食物連鎖の頂点は人間ではないということです」

「……オレ、後ろ見れないからさ、フーが見てくれないか?」

 ダメ男は首飾りの水色の蝶番を取り出し、肩ごしに持っていった。

「あー、非常にまずいですね」

 軽い口調の重い発言だった。

「フー……まじ?」

「まじです」

 四角い物体が“フー”のようだ。

 フーの視線の先をよく見てみると、長草に何かが紛れていた。……黄色と黒の斑点(はんてん)を持つ恐ろしい肉食動物がいた。

「うっひょう」

「違います。チーターです」

「うっチーター?」

「ダメ男、現実逃避しないでください。というより動かないでください」

「どうすればいいんだよ……」

「とにかくじっとするのです」

 チーターはダメ男のずっと後方でじっと待っている。ダメ男の様子を見ているようだ。

 動く気配はない。

「おいおい……持久戦か……? オレ死ぬぞ……」

「静かにっ」

 すると、すっと動いてきた。標的が急に動かなくなったので近寄ってきたのだ。

 そろりそろりと近づいてくる。生々しい動きと重々しい足音。大きくなるにつれて心臓が急冷されていく。

 ついに、

「っ……」

 ダメ男の真ん前に現れた。一頭だけ……? と思いたいが、動けない。

 猛獣がダメ男の周りを旋回する。品定めをしているようだ。

 ところが突如、明後日の方向に顔を向けた。

「!」

 声がする。そちらから声がしたのだ。

「だいじょーぶー?」

 誰かがダメ男を呼んでいる。しかも声からして男の子のようだ。

 チーターは標準を素早く切り替えた。が、あっけなく転がっていった。足がもつれたのか、まぜか上手く立てない。そして、そのまま動かなくなってしまった。

「……はぁ。生き残った……」

 ガサガサ、と長草をかき分けて男の子がやって来た。というより、顔だけ覗かせていた。

「あっ!」

 と声を上げると、心配そうに駆け寄った。

「大丈夫っ?」

 男の子はチーターを抱きかかえた。

「そっちかいっ」

 きりっとダメ男を(にら)む。

「あなたがやったんだね?」

「仕方なかった。こっちが殺されるんだからな」

「ヒドイ人っ」

 首周りを探り、何かを引き抜いた。赤く(まみ)れたナイフだ。ちょうど掌に収まるくらいのサイズで、血とは別の何かが塗られている。

「それも猛毒……」

「一目で分かるのか」

「密猟者っ?」

 ダメ男に拳銃が向けられた。

 驚く暇もなく、

「うあぁっ!」

 肩を撃ち抜かれた。地で(うずくま)った。

「いきなりなんてことをするのですかっ!」

「大丈夫だよっ。実銃じゃない」

「え?」

 むしろ男の子がさらに驚いていた。違う声を二つ持っていたからだ。

 さらにさらにパニックになる。

「ゴム弾だよ」

 ダメ男の手には先端がゴムの弾があった。

「ご、ごめんなさい! あぁでもこの子の手当もしないとっ……! でもでもあぁえぇうぅあぁ!」

「あんたも落ち着けっ! とりあえずそいつは眠ってるだけだっ。麻酔薬だからな。死にはしないよっ」

「そ、そうですか……なら一安心だぁ」

「オレの心配もしてくれっ」

 とりあえず、ダメ男の手当も施し、ようやく事態が収まった。そしてダメ男は諸々の事情を説明した。

「なんだ旅人さんだったのかぁ。ダメ男にフーね。失礼しました」

 サファリジャケットに短パン、小さめのリュックと軽装だった。チリチリしたような茶髪をゴムで後ろに束ねている。

「全くです。本当ならあなたの首をナイフで(えぐ)っているところです」

「それするのオレだからな。……ところで、この辺りに街ってないか?」

「あははは……あるよ。あっちの方」

 無邪気に笑う。

 指差す方向には何もなかった。

「もっと先に国があるよ」

「ありがとう。君はどうするんだ?」

「私はまだ用事があるから……」

「……そっか。猛獣がたくさんいるから気を付けろよ」

「いずれ会いましょう」

「うん。じゃあね」

 ダメ男たちは男の子と別れて、先を急いだ。

 見送っている最中、

「あ」

 チーターが目を開けた。

「大丈夫?」

 チーターはまるで子猫のように男の子に顔を()り合わせる。

「刺さってたけど、傷は浅くて良かったね。……もしかして、加減してくれてたのかな……? いい人たちだね」

 低く甘えた声で抱きついてくる。

「さて、他の子たちも見ないと……」

 チーターと一緒に長草の中へ入り込んでいった。

 

 

 男の子の言う通り、国を見つけた。土色の中に高々と立つ城壁、頑丈で強固な門を構え、難攻不落なイメージを強調している。おまけに城壁から見える大砲その他の武器が見え、(いか)つさを前面に押し出していた。

 その門前の監視小屋でダメ男は入国審査を受けていた。よく見ると顔つきに疲労の色が見える。どうやらあれからも難を乗り越えてきたようだ。

 入国審査は厳重だった。身体検査はもちろん荷物チェックも細かく調べられ、その用途説明を逐一(ちくいち)要求された。下心はなく、ただ危険因子の除去のみを追及しているようだ。

「すまない。我々もここまでしたくはないのだが、監視レベルを最大にしろとのご命令なのだ」

「どこもそんな感じだから気にすることないよ。……何か良くないみたいだけど」

「ふむ……旅人の、特にダメ男に話しても害はないようだから話すが、くれぐれも内密にしてほしい」

「そうしとく」

 二つ返事だった。

 門番は牛のような体格に厳つい顔つきをしている。その上ごつい鎧も来ているのでボリュームが二回りくらい増えている。腰には斧のようなぶっとい剣を携えていた。

「実は、王女暗殺の話が挙がっていてな」

「そら大変だ」

「不気味な話ですね。しかし王女様を出禁にすればいい話ではありませんか?」

「そうともいかない。明日、王女様の誕生祭があるのだ」

「そら大変だ。主役が出ない演劇なんて観る価値もないしな……」

「できれば旅人も迎えたくないんだが、これもできない相談だ」

「えぇ。経済的、情報的に大きな損失しかありませんからね。国をアピールする意味でも得な話ではないでしょう。それが王女様のお祝いなら尚更のことですね」

「それもあるが、こんなところで追い出すのは心が痛むんだ」

 何か動物の遠吠えが聞こえた。

「確かに」「確かに」

 声が揃う。

「うーん、今王様に会える?」

「? どうしてだ?」

「そんな忙しい時期なら手伝おっかなってね」

「お人好しモード発動ですね」

「人をカードバトルのように言うなっ」

 門番は少し考える。

「いきなりもあれだろうから、私から提案してみよう」

「無理だったらいいから。ちょっとした気持ちだし」

「戦力はいくらあっても足りないものだ……っと、これが案内状だ。これで城に入れるはずだ。城は入って真っ直ぐにある。よく見えるから迷いはしないだろう」

 門番から案内状をもらった。

「ありがとう」

 門が開けられ、ようやく入国した。

 城下町という感じだった。石畳の道に石材を積んで建てられた家、綺麗に装飾された屋敷、甲冑を着て見回りをする兵士がいたり、盛んに商売する商人がいたりと、とても活気あふれる街だった。誕生祭ということもあってか、動物や花のマークの旗を連ねたり出店が多かったりとお祭りムードのようだ。もちろん、射的もある。

 入ってすぐ左右には弧を描いて道が伸びている。城壁に道を作るように家が並んでいた。見た感じでは、この道を歩いていけば国を一周できるようだ。そして正面には、

「うはぁ……」

 城が見えていた。真っ白のお城で薄汚れた街並みに比べ、尚一掃輝いているように見えた。まるで童話に出てくるお城のようだ。

 ダメ男はその城に行く前に、街の散策に出た。

「うーん、こうなってるのか」

 まずは正面から。左右に石材の家が整列する。お店が多いようだ。

「街自体は特に変なところはないな」

「そうですね。あ、あれ綺麗ですね」

「宝石系に目がないな、相変わらず」

「綺麗なサファイアです」

「言っとくけど買わないからね」

「分かっていますよ、見るだけはタダですから」

 ダメ男は買い物した。必要なもの“だけ”を買い、そうでないものは様々なものに物々交換したり売り払ったりした。

 今回は特にここに来たかったようだ。

「ここか」

 中に入ると、いろんな武器や道具が置いてあった。武具を取り扱う店だ。

「ごめんくださーい」

 店主を呼ぶ。来る間に掌サイズのナイフとメモを用意した。

「ん? 旅人さんかい?」

「うん。あの、オーダーメイドってできる?」

「もちろん」

「明日の早朝までにこれって作ってもらえる? 五十個ほど」

 店主にナイフとメモを渡した。メモに目を通すと、少し驚いていた。

「ずいぶんと細かいんだな」

「企業秘密で頼む」

「了解。明日の夜明け前に来てくれ」

「ありがとう。お礼はその時に」

 一礼してお店を出た。

「全身凶器人間になるのですね?」

「超重要任務だから、本腰入れないとな」

 その後も街全体を歩き回った。

「?」

 カタカタカタ、と馬車が走ってきた。カタカタカタからガタガタガタと聞こえてきて、近づいてくる。

「馬車ですか」

「この方向……お城じゃないか?」

「言われてみればそうですね」

 ダメ男の横を通り過ぎ、そのまま走っていった。かと思った。

「あら?」

 馬車はスピードを緩め、やがてダメ男の少し先で止まった。

 ドアが開き、中から誰かが降りてきた。しかもこちらに歩いてくる。

「姫様! 一体何をっ?」

「ひっ姫様だって?」

 ダメ男は内心どきりとした。

 老人の声を振り払い、姫様と思われる人物がやって来た。茶髪にパーマをかけたようなふわふわな髪型で、ピンクのふわふわドレスを身につけていた。首には白いバンドのチョーカーをつけていた。

「……」

 すごい仏頂面。不機嫌なのだろうか。

「……お姫……さま?」

「……」

 じっと見つめてくる。というより睨みつけてくる。

 何か変なことしたっけか? そう思わずにはいられなかった。

「そなた、姫様の知り合いか?」

 脇からスーツ姿の老紳士が尋ねてきた。どうやらお姫様の付き人のようだ。

「いや……初対面だよ」

「そうか。姫様に異性のお知り合いがおられたのかと……」

「……まぁここでこうなったのも何かの縁だし……。オレは、」

「ダメ男。今話している女性の声はダメ男の主、フーと申します。以後、お見知りおきをお姫様」

「!」

 ダメ男の声とは全く違うフーの声に付き人は驚愕した。あたりを

「おいフーっ。いくらなんでもそんな紹介はない、」

「ふふふふふ……うっふふふ……」

 お姫様が……笑っている。あの仏頂面が嘘のように溶け、年相応の可愛らしい笑顔を見せていた。

 それを見た付き人がさらに驚く。

「姫様がこんなに笑うなんて……なんてお久しい……」

「え?」

 がしっとダメ男の両手を握った。

「悪いが一緒に来てもらえんかっ!」

「ちょ、ちょっとおじいさん!」

 強引に馬車に乗せられた。しかも、

「行ってくれい!」

 付き人は乗らずに馬車を走らせた。

「えぇぇ! 待ってく、おわっ!」

 ガタン、と言葉を遮るように揺れる。

 馬車の中はお姫様とただの旅人の二人だけ。さすがのダメ男も呆れていた。

「強引だなぁ……。ごめんなお姫様。すぐ降りるよ」

「いい。あなたもうちに用があったんでしょ?」

「? 何で知ってるんだ?」

「やっぱりそうなんだ」

「……あ」

 巧く乗せられてしまった。意外に口が立つなぁ……。ダメ男は少し困った。

「何ていうか……ちょっとお困りのようだから、お手伝いさせてもらおうかなってな。そしたら門番の人からこれもらって」

 すっと案内状を差し出した。お姫様はそれを見せてもらう。

「あぁ、ウッシーか」

「“ウッシー”っていうのかあの人」

「すごく堅物でめんどくさい人」

「ふふ。確かにそのような印象を受けました」

 フーが笑いを漏らす。

「……」

 しかし、少し前の可愛らしかった笑顔は再び凍りついてしまった。

「え、えっと、明日、誕生日なんだって?」

「えぇ」

「国を挙げてのパレードってのはすごいな。もしかして人気者なのか?」

「え?」

 きょとんとする。

「だって人気者だから壮大なパレードをするんだろ?」

「どっどうだろう。あんまり興味ないし……」

「ダメ男の誕生祭では、ネズミ一匹も祝ってくれなさそうですからね」

「お願いだからそういうこと言わないで。めっちゃ悲しくなるから、うん」

「友達いないの?」

「はい」

「お前が答えるなしっ」

 くすくす、とまた笑みが零れる。

「じゃあフーとはどういう関係なの?」

 ニヤニヤしながら言い放った。

「主従関係です」

「わおっ。ダメ男も中々の好き物ね」

「変な方向に行くなっ。それとフー、今度変なこと言ったら馬車に()いてもらうからな」

「はーい」

「ふふふふ……おもしろい……」

 おかしい雰囲気とともに、馬車は城を目指していく。

 

 

「……」

 とてつもなく大きい城。その山のような城の麓に広がる庭園。庭園は真ん中を走る道を境に、左右対称で緑のブロックや地面に描かれた絵などがあった。サッカーができてしまうんじゃないか、と思ってしまうほどに広い景色。“景色”というのは厳重なガードマンが出店のようにずらりと並び、中に踏み入ることを許さないからだ。

 門にも波のような美しい装飾が施されている。

「アレがお姫様の城かぁ。すごいな……」

 馬車から顔を出すダメ男。終始、圧倒されっぱなしだった。

「姫様、この者は……?」

「知り合いだよ」

「かなり怪しいのですが……」

「この私を疑うの?」

「いえ、決してっ。しかし……」

 中々引き下がらないガードマン。

「そうですよね。こんなバカでアホでクズでゴミでカスで何の取り柄もない性格破綻者のサイコパスの最低最悪の負の権化を疑わない人はいないです」

「せめて人間でいさせてください……」

 二人だけでこそこそ話す。

「おい、そこの者、こっちに来い」

 ダメ男はせかせかと馬車を下ろした。

「何者だっ?」

「何者って……旅人だよ」

 何だか可笑しくて笑ってしまう。

 それが鼻についたのか、

「貴様、舐めているのか?」

 いきなり剣を(のど)に突き立てた。切っ先が喉にピタリと触れる。

「ここでその端正な顔を真っ二つに叩き割ってもいいんだぞ?」

「こんなところで斬り合いするつもりっ? 血の気が多いよ」

「“合う”のではない。一方的だ」

 ぐっ、と切っ先から力が加わる。

「それならとりあえずこれを見てちょ」

 さっとガードマンにあのメモを渡した。一目見た直後、目を見開いた。

「隊長のサインっ? なぜそなたのような輩がっ?」

「えっと……」

 ダメ男は門番をしていた隊長“ウッシー”との話を説明した。

「隊長直々の推薦人であったかっ。失礼した旅人さん。ここは国王が座する城。くれぐれも粗相(そそう)のないように」

「うん」

 城の門を開けてもらい、庭と呼ぶには広すぎる空間に入った。

 城は真っ白く、入口まで階段になっていた。左右には石柱が規則正しく建てられ、城を支えている。その奥の壁に、木で拵えた扉があった。両開きで見上げてしまうほどに大きい。

 扉の脇に輪っかを見つけた。これで叩けば、中の人が来てくれる。いわゆる呼び鈴だ。例にならって、輪っかで叩いてみた。かつんかつん、と甲高く、でも耳に障らない透き通った音。何回も叩きそうになる衝動を抑え込んで、耳を澄ますに留まる。

「お」

 門の見た目とは裏腹に、まるで軽いドアを開けたように、軽々と開いた。それも一人の女性の力で。

「お帰りなさいませお姫様。……と、そちらの方は?」

「私の知り合い」

「あらあら、そうでしたか。ご友人もどうぞ中へ」

「どうも」

 招いてくれた。入る前に、ダメ男も動かしてみたが、恐ろしく軽い。力を少し加えるだけで開いてしまう。とても複雑な心境になった。

 しかし、それもすぐに吹き飛ぶ。

「うわぁ……」

 中は広いだけでなく天井が高かった。壁際にあの石柱があり、絵画や銅像、壁絵などの芸術品がいくつも並べられていた。石柱に立てかけるように、甲冑の像が立てられている。銀色に輝き、突き立てた燭台が明かりを灯す。

 床には包み込むように赤い絨毯が敷き詰められている。それもフロアのみならず、前にある二階への階段やその上までもずっと敷かれていた。土足ではもったいないくらいにもふもふしている。

 部屋数もきっと指だけでは足りないくらいにあるだろう。一階だけでもズラズラと扉があった。

 正面の階段は左右へと分かれ、それぞれで別のフロアに上がれるみたいだ。

「こあそごいな……」

「ダメ男、カミまくりです」

「父さんは二階の仕事部屋にいると思うよ」

「仕事部屋?」

「うん。こっち来て」

 姫様の後に付いていく。

 正面右の階段から上がると、広い廊下がずっと伸びていた。左手は煌びやかで豪華な窓が、右手には厳重な扉がいくつもある。

 床は相変わらずの赤絨毯だった。

「王族クラスだと、こんなんだもんな」

「他の国でもそうなの?」

「うーん……この国もすごいよな、フー」

「はい。僅かなスペースですら彫刻を施し一切無駄のないきめ細やかな装飾。さしづめ、歴史を綴った壁絵といったところでしょうか」

「へぇ……そうなんだ」

 あまり興味を示さなかった。

 廊下を渡りきると、王の玉座の間があるという。しかしそこに行く直前の部屋で、

「ここ」

 足を止めた。ダメ男がちらっと玉座の間を目にした。

「うお、すっごっ! ひっろっ!」

「ダメ男、こちらですよ」

「え? あぁ」

 そそくさと(きびす)を返した。

 コンコン、とノックをして、

「入るよー」

 間髪入れずに中に入った。

「ぐっ」

 ダメ男はたじろいだ。というのも、強烈な臭いがしたからだ。俗に言う“動物臭”を極限にまで濃縮させたような。ヒトとは違う生き物の臭いだった。

 しかしあからさまに嫌な顔をしては、と無意識に顔面に力が入った。

「ダメ男、この世のものとは思えないくらいに気持ち悪いですよ。そんな気持ち悪い顔を王様に見せるのは失礼ですよ」

「う、うむ……分かってるっ」

 小さく十字を切って、意を決した。

 中は想像通りごちゃごちゃしていた。電灯があるものの、えげつない白色光を照らし、散乱した書類や本、服などを見せつける。窓もないので空気が循環していないし、先ほどの臭いとは別に異臭がするしで、衛生的に悪い環境だった。

 といっても、両側には本棚がずらりと並んでいるし、本の内容もとても難解なものだ。散らかった服もよく見れば、滑らかな革を使った高級なジャケットやスーツ。国王らしい王冠やマントはないが、とても紳士な洋服を好む人柄のようだ。

 ところが、

「ちょっと待っててな」

 デスクに向かっている男がいた。それも、とても王様とは言えない格好だ。度があっていなさそうな丸眼鏡に髪がボサボサ、無精ひげは生えっぱなしだった。白衣の中に汚れたシャツを着て、クリーム色のパンツを履いている。靴も泥だらけだ。

 右手て何かの書類を書き込み、左手で戯れている。そちらにいるのは、

「ち、ちたー?」

「チーター」

 だった。サイズは小さいので子供だと見受けられる。親から受け継いだ鋭い牙と堂々とした模様、獰猛な性格は見事に現れているようだ。

「よし終わった。あっやぁやぁ、君がダメ男クンだね?」

 男とは思えないほどに高く細い声。

「っ」

 びくりと後ずさってしまう。臭いの原因はこの人か……、ダメ男は確信した。が、態度に表さないように、気を紛らわせるために手を差し伸べた。

「改めてオレはダメ男、こいつが相棒のフーです」

 胸の中から取り出したのは首飾りだった。水色とエメラレルドグリーンを混ぜたような色で、四角い物体だった。開閉も可能で蝶番のような構造になっていた。

 男は固く握手を交わした。

「私がこの国の王、そして動物学者のチタオ十二世だ。よろしくな」

 とても低く太い声。さっきのカトンボのような声と同一人物と思えないほどだ。

 すっ、と丸眼鏡を外した。

「おぉ」

 いわゆる“イケメン”に属する顔つきだった。ムードたっぷりな雰囲気なのに若々しい。

「えっと、チタオ様。この部屋は一体その……なんですか……?」

 普段使わない敬語でたどたどしいダメ男。それを察してか、

「よいよい。いつも通りに話せ。堅苦しいのは私も苦手だ」

「いやしかし、国王に向かってタメ口っていうのも失礼すぎますし……」

「なんだ? この国王の気遣いを無下に致すと?」

「あぁいや……そんな凄まれたら断れないよ……」

 この親子似てるな……、そう感じた。

 ダメ男は渋々了解するしかなかった。こちらも“チタオ”とさせていただこう。

 チタオは隣の部屋に連れて行ってくれた。先ほどの部屋よりも断然綺麗で本や服も整理整頓されている。中自体は先ほどと同じように書物がずらりと並べられ、奥に机と箱型の機械がある。フーは馴染み深いですねぇ、となぜか共感していた。

 そこでメイドに軽食を持ってこさせた。パンを肉や野菜でサンドしたもので、ダメ男は初めて食べる。とてもボリュームがあって、そこまで大きくなくてもお腹がいっぱいになった。

「大味だけど、なかなかだろう? 新鮮な野菜や肉を使ってるんだ。そこら辺のより栄養価は豊富だ。しかも簡単に作れるし」

「うん……パンがけっこう厚い。新感覚」

「父さん、たまにはしっかりとしたもの食べてよね」

「! あ、あぁ……わかったよ」

「?」

 予想以上に驚いていた。

 こくりと喉を鳴らし、食休み。

「そういえば、あのチーターの子供はどうされたのですか?」

「あの子は私が保護しているんだ」

「保護?」

「親を亡くしてしまってね。人の手で育てるのもどうかと思うが、そうも言ってられない状態だった」

「そりゃ、仕方ないな。ほっとくのが自然の成り行きだけ、」

「ごめん、チタチタと遊んでくるねっ」

「あっあぁ、そうか。また後でな」

「うん」

 お姫様はささっと部屋を出ていった。

「チタチタ?」

「さっきの部屋にいた子だよ」

「遊んでも大丈夫なのですか?」

「大丈夫。あの子にはある才能があるんだ」

「?」

 チタオは立ち上がり、本を取り出した。ささっとページを開いて見せる。

「これは……?」

「ワニだよ。見たことあるか?」

「……写真でしかない」

「そうか。これは一般的なワニのサイズ。数メートルといったところか。……で、こっちが別のワニ」

「……えええぇぇっ?」

 その写真に言葉をぶつけた。

 そこに写っているのは二倍くらいあるサイズのワニだった。しかしそれよりも驚くことが隣に写っていた。というより、その状況に肝を潰した。

「姫様……? それに何してるんだ……?」

 それはワニに食べられかけている幼いお姫様の写真だった。それも笑いながら。

「それは……遊んでるんだ」

「遊びっ? おもいっきし食われてるしっ!」

「この子はどんな動物とも仲良くできる力があるんだ。現にその巨大ワニは何十人も襲われた凶暴なワニでね。その討伐に出かけた時だった」

 

 

「ここか」

「はい」

「もし誰かが食われそうになっても救出しようと思うな。あくまで討伐を優先だ。それが私でもだ」

「……ぎょ、御意……」

「……! 来たぞ」

「! な、なんと大きい……!」

「王! 危険です! ここは我々にっ」

「ぐあぁあっ!」

「! いかん! 早く殺せっ!」

「ぐぅ、剣が通らないだとっ? あぁっ!」

「これほどとは……!」

「王! ここは引き返しましょう!」

「そ、そう、……! ハイル!」

「姫!」

「あぅ?」

「いかん!」

「王!」

「……! こ、これは……!」

「どうして……みんなたべちゃったの……? だめだよ、おとうさんのたいせつなひとなの……」

「……」

「……急に大人しくなりおった……」

 

 

「ハイル、か……」

 小さく呟く。お姫様は“ハイル”という名前らしい。

「そう、ハイルは逃げ遅れたのではない。自分からワニに近づいたのだ。まだ五歳だぞ?」

「ワニは……どうなったんだ?」

「今もいるよ。ハイルのペット、いや仲間になっている。しかし今でもハイル以外には凶暴なのだ」

「……で、これが遊んでる最中の写真か……」

 ごくりと飲み込む。

「信じられません。ワニにはそのような知能はないはず、本能のままに生きるはずですよね?」

「これは仮説だが、ワニがハイルと一緒にいることが自然だと感じているのではないだろうか。腹が減れば食べる、寒いから温まる、それと同じようにハイルがいるから一緒にいる、そう捉えているのでは、と」

「……」

 納得できるはずがない。しかし写真や話の真剣さからして、とてもデタラメには聞こえない。ダメ男は認める他なかった。

「すごいな、あの姫様……あぁ、そうだそうだ」

 何かを悟ったようだ。

 ところで、とダメ男が切り出した。

「隊長から聞いたんだけど、とても危ない状態にあるとか」

「あぁ、健康状態のことだな?」

「? 健康状態?」

 チタオもくふっ、と一休みする。

「最近、笑わなくなってしまってね。まるで氷の仮面をつけているような冷めた表情しか見せてくれないんだ。(きさき)にも同じように……」

「何か原因でも? 動物と仲良くできなくなったとか?」

「それではないと思うが、分からない。……一国の王である前に、一人の親として娘の気持ちも分からないなんて……惨めだと思わないか?」

「そう簡単に分かったら苦労しないと思いますよ。女性特有の悩みではないでしょうか?」

「どうだろう……私には分からないのだ。何かもっと別なことのような気がするのだが……」

 ダメ男はこくっ、と水を飲む。

「こっちに来る間はあんなバカ笑いしてたのにな」

「! そうなのかっ?」

「はい。とても楽しそうでしたよ」

「そうか……」

「あのさ、付き人もそうだったんだけど、そんなに感情が乏しいのか、ハイルって?」

「……もう二年は笑っていなかった」

「にねんっ?」

 身を乗り出してしまう。

「しかし、よく覚えていますねチタオ様」

「覚えているとも。あの子の親が病死した時からだったんだから」

「え? ハイルの……?」

「あぁ失礼。チーターの方だよ」

「あぁ、そうだよなうん」

「話の流れからして、分かるでしょう? これだから低能は駄目なのです」

「思いっきり殴らせてくれ」

 とても真面目な顔つきだった。もちろん無視されて、ダメ男はいじけた。

「そんなことより病死の原因は何なのですか?」

「……原因、不明だよ。まぁそうなることもあるだろう」

 その時を思い出しているのか、言い切りづらそうに話す。

「しかし、二年も笑わぬお姫様が、ダメ男と出会って笑い出したというのは確かに驚きますよね。きっとそれほどにおかしい顔だったのでしょう」

「頼む。思いっきり殴らせてくれ」

「そこで、こちらに任せてもらえないでしょうか? 例の暗殺の件でも、少しでも気が和らげばいいですし、護衛となればハイル様も安心されるでしょう」

「私もそう思っていたところだ。……礼ははずもう」

「特に要りませんよ。あぁ、もしよろしければ、ここに宿泊させてもらえないでしょうか? 宿をまだ探していないのです」

「そんなことでいいのか。実に無欲な旅人だ」

「しくしくしく……」

 当の旅人はいじけていた。部屋の隅っこで。

 

 

「フー。ハイルに失礼なこと言うなよ」

「そういうダメ男こそ、チタオ様に粗相のないようにしてくださいね」

 ダメ男はメイドにフーを手渡した。ぺこりと頭を下げ、退出した。

「いいのか?」

「いつもオレが傍にってわけにもいかないだろうからな。フーにいてもらった方が何かと都合がいいと思う」

「そうか。では、誕生祭の説明をする。……入れ」

 タイミングよく入ってきたのは、

「ダメ男、また会ったな」

 隊長ウッシーだった。

「案内状、ありがとな」

「いやいや。それより、誕生祭の段取りについて説明する。しっかり聞いてくれ」

 ホワイトボードや地図を使って説明してくれた。

 誕生祭はパレード行進で行われる。フロート車と呼ばれる豪華な飾りつけをした台車を五台ほど走らせ、城を抜けて街を一周し、そして再び戻ってくる。時間にしておよそ一時間半の予定だ。チタオは一番先頭に、ハイルは三台目のフロート車に乗る。

 ダメ男の護衛はパレードの前後と最中だ。ハイルと一緒に乗ってもらい、周囲、特に側方の警戒にあたる。もし不穏分子が来た場合、真っ先に姫様の護衛をし、ガードマンに反撃させつつ脱出を図る。そのルートは地図で示してくれた。

「……不穏分子、というのは?」

「サン・シャーク環境保護団だよ」

「? なにそれ?」

「通称“SS”と言ってね。我々動物学者は決して危害を加えるようなことはしない。だが、連中は二年ほど前から動物を実験体扱いするな、動物の命を奪うなと抗議しているんだ。我々は“エコテロリスト”と呼んでいる」

 ウッシーの表情から、今までも苦労させられたことが(うかが)える。

「その第一標的として娘が狙われている」

「暗殺っていうのはそいつらから?」

「その通り。しかしそう簡単に弾圧もできないから困っている。実質、そういうこともしなかったわけじゃないからな」

「……くだらない……」

 ぼそっ、と呟く。

「とにかく、オレはハイルを守るよ。その他の問題はこの国の問題だ。オレが関われるような問題じゃない。もっとも、その“SS”ってやつを潰してくれっていうのなら話は別だけどね」

「……そうだな。失礼した」

 こほん、と咳き込む。

「今何時だ?」

「もう夕方になる頃です」

「そうか。なら夕飯の支度をさせよう」

「仰せのままに……」

 ウッシーは急いで駆け出していった。

「……ダメ男」

「なに?」

 チタオは一層真面目な顔になる。

「さっき“くだらない”と言ってたな? あれはどういう意味だ?」

「え?」

 まさか、と思ったようで面食らっている。

「場合によっては……怒るぞ」

「あぁ、別にそういう意味じゃないんだ」

「ではどう言う意味だ?」

「……」

 一息入れる。

「そんなことが言えない状況にさせれば、価値観が百八十度変わるよ。そういう連中は」

「?」

「同感だ」

 誰かが入っていた。こちらも“イケメン”だ。まるで騎士のようなとても男らしい顔つきをしている。西洋風の服装にマントを付け、ブーツを履いていた。

「そちらは?」

「あぁ、この国の大臣であり私の親友、ワニヒコだ。二年ほど前に大臣に就任してもらったんだ」

「よろしくな、ダメ男。話は聞いてるよ。なんでも奇妙な物を引き連れてるとか、幽霊が苦手とか、実は(ののし)られるのが好きだとか」

「あぁ、その情報は全くのデタラメだから気にしなくていいよ、うん」

 ごく自然に握手をした。しかしワニヒコは違和感を覚え、そしてすぐに感心した。

「さすがだな、旅人というのは」

「?」

「掌の厚みや硬さが違う。皮が何度も擦れ、マメが潰れ、まるで鋼のような手をしている。日頃の研鑽(けんさん)賜物(たまもの)だろう」

「いや、まぁ……ええっと……」

 久しぶりに()められたので、照れてしまっている。

「ワニヒコは動物生理学の専門なんだ」

「そうなんだ。というか、この国の人って頭良さそうな人ばっかだなぁ」

「環境が環境なだけにね」

「あぁ……納得……」

 入国前のことを思い出す。

「良かったら旅のことを話してもらえないか?」

「あぁ、それはいい。夕飯もまだかかるからな」

「え? あぁそれじゃあ……」

 

 

 ダメ男がメイドにフーを預けた。すぐにメイドは退出し、ハイルのいる部屋へ案内する。

「本当に不思議ねー、あなた」

 開口一番、当然の一言が出てきた。

「好きな男とかいるの?」

「えぇっ? そんなはっきり言うものなのですか?」

「ンもう、当たり前でしょう? 女同士じゃないっ。(ちまた)じゃ有名人なのよ、あなた」

「女“同士”、というのもあれですけどね」

 フーらしくない苦笑い。

 すると、

「ん? やぁ」

「こ、これは……ワニヒコ様……」

 サバサバしていたのが一転、うっとりと頬を赤らめる。

「ん? それはなんだい?」

「あ、これは王様と謁見していらっしゃる旅人様の私物でして……」

「私物……へぇ。初めて見る」

 ちょっといい? と断ってから触ってみた。

「こんにちは、ワニヒコ様」

「うわぁっ!」

 予想通りのリアクション。尻餅をついてしまうほどだった。

 フーは面白くて仕方なかった。

「ったく、イタズラもほどほどにしてほしいなあ」

 ささっと身なりを整える。

「失礼しました。“フー”と申します。先ほどメイド様が仰っていた旅人というのは“ダメ男”です」

「フーか……美しい声をお持ちのようだ」

 ぼん、とフーから爆発音が聞こえた。

「そ、そんな……いや……」

「このような形だが、さぞかし美人なのだろう。一目お会いしたいところだ」

「残念ながらこの形がフーなのです、ワニヒコ様……」

 機械的な口調が、跡形もなくなっている。照れ照れなのは明らかだ。

「照れ屋さんなのかな?」

「い、いえ、普段あまりそういうことを言われないものですから……」

「何という罪な男だ。こんな美声の持ち主が近くにいたら気が狂いそうになるだろうに」

「あ、あのちょっと……その……」

 言いくるめられている。

 ワニヒコはうむ、と頷いた。

「興味が湧いてきた。ちょっと会って来よう。それではな」

「は、はひ……」

 ワニヒコは整然と別れていった。

「やっぱり憧れるわねえ……」

「同感です。スマートでかっこよくて品が良くて気品溢れて高貴で……それに文句なしの爽やかイケメン……! これは誰でも落ちてしまいますね……」

 表情はないが、さぞかしうっとりしているだろう。

 あっ、とメイドは思い出し、急いで目的地に向かった。

「……ふぅ……失礼します」

 メイドがある部屋に入った。

「どうしたの? うれしそうだけど?」

 中にはハイルがいた。ぬいぐるみを抱えつつ、メイドを突き刺すように見据える。

「あっあの、実はこれを……」

「?」

 怯えながら見せたのはフーだった。

「あぁ、ありがと。もういいよ」

 冷めた口調で追い返した。

「女の子らしい部屋ですね、ハイル様」

 お姫様のお部屋らしかった。フリフリのついた可愛らしいベッドに数多くのぬいぐるみ、巨大な窓の奥には一部屋分の広いテラスがある。カーテンやカーペットは赤を基調としていて、とても豪華だった。

 フーの口調がいつものに戻っている。

「いつもそんな態度なのですか?」

「……うん」

「いけませんよ。いくら上下関係があろうとも、してもらったことに礼を言うものです」

「説教はもういい……」

「そうですか。そのような当たり前のこともできないとは人間として終わっていますね。この国も終末に近いというわけですか」

「っ! なによ、一体何しに来たわけっ? ぶん投げるわよっ!」

「言い返せなければ今度は暴力ですか。相手が弱ければ、立場が下であれば何をしてもいいという危険な思考です。つくづくゴミ人間、穏やかな父親とは正反対ですね」

「……」

 ベッドにぶん投げ、ぷいっと顔を背ける。

「こちらに来たのはハイル様の護衛のためです。ダメ男の指示ですけどね」

「……」

 フーに背を向けてベッドに腰掛ける。

「私……兄弟もいない、父さんは仕事で忙しいし母さんは遊びほうけてる。……だからいつも一人なんだ」

「ならば、余計にメイドさんと仲良くすべきです。敵を作ってもいいことなんて一つもありません」

「……うん。でも寂しくないの。私には動物たちがいるから」

「? 動物?」

 ぼとっ、と何かが落ちた。トコトコトコとフーの目の前に来る。

「この生物は何でしょう?」

「ハムスターっていうの。名前はクーロよ」

「とても可愛いです。もふもふして気持ちよさそうです」

 綺麗な灰色の毛並みのハムスターだった。

 ? と可愛らしく首を傾げる。

「とても癒されますね。あぁ、かわいい」

「フーがデレたっ」

 一転して、笑い出す。

「これもあのサバンナに生息しているのですか?」

「まさか。あっという間に餌食にされちゃうよ」

「確かに」

「父さんがね、他の国から譲ってくれて、それを私にって」

「何を食べるのです?」

「ひまわりの種とか、基本なんでもかな」

「た、食べられたりしないでしょうか?」

「フーを食べはしないよ。かじるけど」

「それはほんとうに、あっ言ったそばからかじっちゃダメですっ」

「あははは。面白いなぁっ」

 ごろりと寝そべった。

「私、悪いことしたのにね」

「何かしたのですか?」

「うん。……あのチーターの親……私が殺したの」

「え?」

「表向きは病死ってなってるけどね」

 

 

「わーい、きょうもいっぱいあそぶからねー」

 小さい時のハイル。大きいチーターとその子供と戯れていた。

 おもちゃのキッチンや包丁、まな板がある。これはおままごとだ。まな板の上にはチーターの餌や彩りよくするための草が置かれている。

「きょうのごはんだよー。いっぱいたべてね」

 もくもくと、まるで犬のように大人しく食べる。

「うんうん。いっぱいたべるんだよー」

 ところが、

「? どうしたの?」

 ごふごふ、と異常に息が荒くなる。

「ねぇ、だいじょうぶ? なんで、え?」

 子供のハイルには何が起こっているのか分からなかった。

 そして、悲痛な鳴き声を上げ、やがて動きが止まった。

「……」

 ハイルが動かしても何もしてこない。だんだんと冷たくなっていくような気がした。

「ぱぱ……ぱぱあぁぁっ! チタコが、チタコがぁぁっ!」

 

 

「……あの時どうしてか全然分からなかったんだ」

「餌はお父様が作られていたのですか?」

「うん」

「この国の動物学者の第一人者が、そんなヘマをするわけはないですし。そうすると本当に病死でしょうかね」

「ううん。まな板に敷いてた草、あれに毒が入ってたみたいなの。それを一緒に食べたみたいで……」

「なるほど」

「それを知ったのは何年か前。本で同じような草を見つけて……。……父さんが大切に保護してたチーターを私が殺した。……私のせいだった」

「そんな、それは事故ですよ。それにわざとではありません。知らなかったわけですから」

「知らないことほど恐ろしいものはないんだよ」

「それはそうですね。でもわざとじゃないのだから仕方ないではないですか」

 フーの口調が強くなる。

「ご、ごめんなさい……」

「あ、いや、別にハイル様を責めていたわけではないのです」

「……でも、すっきりした。ずっと誰にも話せなくて……ずっと覚えてて……夢に何回も出てくるし、突然思い出しちゃうし……」

「フラッシュバックですね。嫌な記憶を何回も思い出してしまう症状です。相当なトラウマなのでしょう」

「どうしてなんだろうね。忘れたいような忘れたくないような」

 シュンと瞳を伏せる。

「! あっそうか、やっと分かりました」

「何が?」

「ハイル様と話している時から、やけにムキになっているなと我ながら思っていたのです。それがどうしてなのか分かりました」

「?」

「ハイル様は誰かさんと似ているからですよ」

「だ、誰のこと?」

「誰かさんです。誰かさんもずっと自分のせいだって思っていることがあります。誰が何を言おうと自分のせい自分の責任、自分が悪い。まるで女のねちっこい(ねた)みのようです」

「……だって……」

「チタオ様には話していないのでしょう? 謝って済む問題ではありませんが、すべきことがあるはずなのです」

「……うん……」

 カツンカツン、と外から聞こえた。窓を突っつくような音。

「あっ」

 ハイルはそちらへ向かった。テラスへ続く窓だった。

「ピーコごめんねっ。ちょっと待ってて」

 慌てて奥の部屋へ走っていき、そして急いで戻ってきた。オケのようなものを持ってきていた。それをテラスの方に置く。

「クーロっ、フーを持ってきてっ」

 御意、と頷くと、

「だめですっ、それもかじっちゃ、いだだだだだ」

 フーを繋ぐ紐をしっかり噛んで、引きずりながらハイルの方へ持ってきた。

「えらいえらい。ひまわりの種あげる」

「ひどい扱いです」

 服の中から一粒だけ出した。クーロは嬉しそうにかじりついた。

「ぴ、ピーコというのはなんです?」

「あぁ、鷹だよ」

「え?」

 ハイルの足元には迫力のある鷹がいた。オケに入れた水を飲んでいる。

「この鷹はどうしてこちらに来たのですか?」

「遊びにきたんだよ。この子はね、私がいじめられてた時に助けてくれたの。だから私の命の恩人、いや恩鷹かな? あはは」

 嬉しそうだった。

 

 

 ダメ男は客人用の個室を案内してもらった。やはり豪華な部屋だった。カーペットやベッドはふかふか、テーブルやイスはきらきらと金色の装飾がされ、窓から見える夕日がとても綺麗に見える。

 夕日は地平線に隠れる途中だった。反対側から夜空が迫り、半分以上を占めている。

「ダメ男様、ごゆっくりお休みください」

「ありがとな」

 メイドは笑いかけて、ゆっくりドアを閉めた。

 背負っていたリュックやウェストポーチを下ろし、椅子に腰掛けた。デザインとは裏腹に頑丈に作られているようだ。

「夕食はどうでしたか?」

 テーブルには綺麗なハンカチで包まれたフーがいた。ダメ男はさして驚かなかった。

「すごかったぞ。とても野性的というか原始的というか……」

「優雅で豪華な食事ではなかったのですか?」

「あんな骨付き肉を食ったのは初めてだったなぁ……と、それより、変な噂流しただろ?」

「変な噂とは何です?」

「ワニヒコから聞いたぞ。幽霊が苦手とか馬鹿にされるのが好きだとか、デタラメ言うなよなっ」

 フーを肩にあてがうと、

「ブブブブブブ」

 振動し始めた。

(あなが)出鱈目(でたらめ)ではないでしょう?」

「あぁぁぁ……これほんっときくなぁ……あぁっだめフー……あぁ」

「話を逸らさないでください。それと気持ち悪い声を出さないでください。吐き気を催します」

「ワニヒコとはいつ会ったんだよぉ?」

「こちらに来る間です。メイドさんを口説いていたので、その話の骨を折ったら、とても興味深そうにお話しました」

「へぇ」

「すごく魅力的ですよね。どこかの誰かさんと違って男らしいですし、頼りになりそうです」

「あっそーですかいへーへー」

「それに一国の大臣で武術も優秀だと聞きました。“才色兼備”ですね」

「女ったらしじゃねーか」

「“英雄色を好む”ですよ」

「……ったく最近のわか、あぁ、そこいいなぁっちょっと待って、鳥肌立ったっ!」

 ところどころで身をよじるダメ男。普段から肩が凝っているらしい。

「そう言えば、ハイルの方どうだったぁ?」

「何となく原因が分かりました。ハイル様、寂しいみたいです」

「だろうな。父親は国の仕事に動物学者、母親は城にいないみたいだし、大方どっかふらついてるんだろう」

「まさにその通りです」

「うーん……でもさ、それだと笑わなくなった説明がつかないじゃん」

「それですね」

 フーはチーターの病死の件を一字一句間違えずに伝えた。

「へぇ、なるほどな。フーにそんな秘密があったなんて」

「予想していましたが、ボケが古すぎですよ。もっと今を生きてください」

「“温故知新”という言葉を知らないのか?」

「“古田を(たず)ねて代打、俺”ですよね」

「……最近、荒くない? カスってもいないんだけど。そもそも何のことだしっ」

「知る人ぞ知る名台詞ですよ」

「ワケが分からん」

「話を戻して、どうやらチーターの件で気持ちが沈んでいるようです」

「それならもっと小さい頃から笑わなくなるだろ」

「話を聞いていないですね。二年前に真相を知って、自分のせいだと思い込んでいるのですよ」

「なんで知ったの?」

「ほんっとうにダメ男は駄目ですね。とある本、大方植物の本でも読んで気付いたのだと言ったでしょう?」

「ならどうしてそんな本を読もうとしたんだ? それも二年前にさ?」

「本人に聞けばいいではないですか」

「どうしてそれを聞かなかったんだ? ってことだよ」

「すみませんね。気付きませんでした。こちらのミスですよっ」

「素直でよろしい」

「珍しく言い負かされました」

「同感」

 一(しき)り話した後、ダメ男はお風呂に入ることにした。歩き詰めに話し詰めでかなり疲れているようだ。

「あいつ……取り(つくろ)ってるよな」

「え?」

 思わず声が出る。

「どうしてですか?」

「んなもん、誰が見たって分かるだろ……」

「それはそうですが、あの性格破綻者のダメ男が勘付くとは、何か良からぬことが、」

「起こるだろうな。良からぬこと」

「頑張ってくださいね。今日くらいは(ねぎら)ってあげます」

「誰のせいで、とは言わないでおくか。……フーも少し休めよ」

「はい」

 そういうダメ男もダメ男だった。

 着替えを持って浴室へ行く。

「さて、ん?」

 勝手にドアが開く。ゆっくりと。

「誰です?」

 しかし人の姿はいなかった。

「まさか、ポルターガイストですか? まさかまさか目の前で体験するなんて、とても感激ですねぇ。ダメ男に後で話してみましょう。ふふふふ」

 幽霊より(おぞ)ましい不気味笑い。ところが、

「助けてくれ」

「!」

 なんと誰かが話しかけてきた!

 フーとは違う女性の声だった。ハスキーで声に(つや)がある。

「だ、誰ですっ? まさかまさかまさか、本当に幽霊なのですかっ? とっても感激ですっ! ぜひお話を、」

「落ち着け。私は幽霊ではない」

「え、じゃあ一体誰です?」

「こちらだ」

 フーのすぐ後ろに、もふもふした可愛い動物がいた。灰色の毛並みのハムスターだった。

「あれ、これはハイル様のペットのクーロですか?」

「いかにも。私はハイル嬢のペット、“クーロ”だ。ちなみにメスだ」

「動物がしゃべってる!」

「それはこちらの台詞だ。生物でないのに話せるとは、一体何者だ?」

「それこそこちらの台詞です。いったいどういう、と、それよりも何かあったのですか?」

 予想外すぎるが、クーロの発言の方が重要だった。

「ハイル嬢がついに私に話してくれたのだ」

「何をです?」

「なぜ二年もの間、心を閉ざしていたのか。やはり何か隠し事をしていたのだ」

「? それはチーターの病死のことではないのですか?」

「私もそうだと思っていた。だが違ったんだ。本当は、」

「あ、いた」

 ハイルが入ってきた。涙目だった。

「ハイル様、どうされました? 泣いていたのですか?」

「泣いてない」

 鼻声で答えていなくともバレバレだ。

「クーロ、こんなところまで逃げ出して……ごめんね」

 まずい……、クーロがそう呟く。逃げられない、そう悟ったのか、

「チタオ王が危ない、助けてくれ……!」

 捕獲される間際、そう呟いた。それはしっかりとフーに伝わった。

「あ、その……いや、っ……じゃあね」

 バタン、と力強く閉めた。

「とても言いたそうな顔だった。きっとクーロの言っていたことに関係して……」

 その頃、タイミングよくダメ男が上がってきた。

「あぁーここの風呂はすごいなっ! 泡が全身マッサージしてくれたんだっ。ごおおおぉっ! ってさっ! こりゃ病みつきになるよっ!」

「本当に緊迫感のない男ですね」

「あ? いつまでも緊張してたら疲れるだろ。それに見ろよこれ! 牛乳だっ!」

 じゃじゃーん! とフーに見せつけた。透明なビンに牛乳が入っている。少し湯気が立っていることからも、キンキンに冷えているようだ。

「とにかく、身体を拭いて着替えたらどうです?」

 ダメ男はバスローブを着て、偉そうにしていた。

「ダメ男、ちょっといいですか? 真面目な話です」

「うぅんと、どうした? 電池切れ?」

「それもそうですが、先ほど伝言をもらったのですが、変なことになっているようです」

「うーん……とりあえず言ってみ?」

 ビンのフタを開け、こくこくと飲み始める。

「はい。“チタオ様が危ない”の一言です」

「……んぅ、そらそうだ。パレードに出るんだ、少し位は危ないだろうよ」

 コトリ、とひとまずテーブルに置いた。

 ダメ男はリュックと仕込み式のナイフを持って、テーブルに座った。お手入れの時間だ。仕込み式ナイフの柄は黒い骨組みに透明の膜を貼って構成されている。そのお尻には黒い毛玉が鎖で繋がれており、先端には黒いポッチが付いていた。それを押すことで、勢いよく刃で出てくる仕組みだ。全長は拳六つほど。刃と柄同じくらいの長さだ。ナイフにしてはかなり大きい。

「そういうことでなくて、もしかしたら狙っているのはハイル様ではなく、チタオ様なのかもしれません」

「誰が言ってた?」

「それはハムスターですっ」

「……」

 お手入れしていた両手を止め、リュックから別の袋を取り出した。

「回路がショートしたかな? ちょっと待ってろ。すぐに診てやるから」

「違いますからっ」

 再びお手入れを始める。

「違うのです。ハイル様のペットにクーロというハムスターがいるのですが、クーロがハイル様から伺ったと言っていました」

「ハムスターってあれだろ? ふわふわして可愛いネズミ……それがしゃべったってのか?」

「信じがたいとは思いますが、それどころではありません。すぐにチタオ様に話を聞きましょうっ」

「フー……お姫様の護衛だからって緊張するのは分かるけど、わざと不安を(あお)るようなことするなよ」

「あ、煽っているわけじゃ、」

「それにチタオはもう寝てるよ。明日のために早めに寝るんだって。いくら仲良くたって相手は王様。そんな無礼はさすがに許されないよ」

「一時の無礼のためにチタオ様やハイル様が死んでもいいというのですかっ?」

 怒鳴りつける。

「もう休もう。険悪な雰囲気じゃ、護衛は務まらない。大丈夫だって。明日言ってみるし」

 まだ物足りなさを感じてはいるものの、ダメ男はお手入れを終わらせた。そして床に寝っころがり、

「充電しとくから、騒がないでな」

「ダメ男の分からず屋っ。いくじなしっ! そんでもって白ひげマン!」

「ん? ………………あぁっ!」

 就寝する前に鏡を見にいった。綺麗な白ひげが唇の周りに生えていた。

 

 

「……明日だぞ」

「あぁ、待ちに待った盛大なパーティーだ。ど派手にぶちかまそうぜ」

「それなんだが新しい情報だ」

「なんだよ……まだ参加者がいるのか」

「新たに護衛をつけることになったんだ。そこらへんの旅人なんだが、“ダメ男”という男だ」

「変な名前だな」

「偽名なのは間違いなかろう。パートナーに“フー”という奇妙な機械もいる。ダメ男の武器はナイフのみ。いくら達人だろうと、こちらの火力には対応し切れまい」

「そいつに気をつければ良いんだな」

「まぁ手は打ってある。どんな男にも弱点はあるものだよ。ただ問題は一つ、お姫様が喋らないかだけ。そちらも釘を刺しているから大丈夫だとは思うが……」

「……んじゃあ明日の準備でもしてくらあ」

「謝礼はきっちり払っているんだからな。頼むぞ」

「わかってるよぉ。まさか、ここまでの切れ者とはね。いつから読んでた?」

「やつの荷物を見てからさ。絶対ここに立ち寄ると思ってね」

「なるほど」

「さて、俺も×ってくるかな」

「ったく、趣味悪いぜ。寝取り好きってのは」

「ふふふ……それじゃ、お互いに楽しい時間を過ごそうじゃないか」

 

 

 

 

 翌朝、いやまだ夜明けになっていない。しかしうっすらと空が青みを取り戻してきた。

 街は伝統でいくらか明るいが、それが逆に気味悪い。余計に暗さを強調してしまう。

 ダメ男は注文していたものを取りに行っていた。いつもの黒いセーターではなく、黒いジャケットを羽織っていた。

「やぁ、これが例の品だよ」

「……よくできてる。ありがとう」

 代金を支払って、店を出た。

「ったく、一人で行けなんて……かなり不機嫌だな、……?」

 ピタッと足を止めた。

「だれ?」

 辺りを見回すが、誰もいない。しかし何か気になるようだ。

 気のせいか……、ダメ男は戻ることにした。

「……っ」

 気にかかる。まるで影のようにべったりとついてくる何か。おそらく人の気配だと察しているが、不気味で嫌な気分だ。

 フーを無理矢理連れてくれば良かった、そう後悔する。

「なんなんだ一体……」

 確実にいる、そう悟る。しかし襲ってくることはない。結局、何も起こらずに城に帰ることができた。

「……監視……か?」

 ダメ男は中に入っていった。

 城門前の家の陰。影がいた。

「恐ろしい感性だ……まるで獣……。しかし、あんなところで何をしていたんだ……?」

 

 

 ダメ男は部屋に戻っても眠ることができなかった。何か不自然な、突っかかっている感じがしてならない。

「……」

「どうしました? ぎりぎりまで眠ってはどうです?」

「あぁいや……オレは平気。フーが休みな。今日はきつくなるよ」

「では、お言葉に甘えます。ぷちっ」

 しばらくずっと考え込んだ。夜が明けるまで、明けてからも何かを探ろうと。しかし思いつかなかった。

 コンコン、と突如ノックがした。ゆっくりドアを開ける。

「朝早くから失礼。国王がお呼びだ」

 メイドではなく、兵士だった。

「? 分かった」

 太陽が昇ってから一時間ほどだった。

 日の出を拝むことを許されず、ダメ男はフーを静かに持って、兵士に付いていった。

 玉座の間。何百人も入るくらい広いが意外に殺風景だった。白を基調とした壁や床に赤絨毯を敷き、チタオ……、国王と王妃の玉座を置いておしまい。ただし、国王の前には兵士たちが整列し、その間に道を作っている。兵士たちはピンと直立し、手持ちの剣を高く持ち上げていた。

 恐る恐る道を通り、国王を目の前にする。昨日のような薄汚い格好ではなく、ピシッとキメたスーツにさっぱりとした顔や髪型になっていた。とてもダンディだった。

 国王は歓迎、という雰囲気ではなかった。

「どういうことか説明してもらおうかダメ男」

 昨日の穏やかな顔付きから、一転して険しくなっている。

「なにが?」

「とぼけるな」

 怒りに震えていた。

 ダメ男は気まずそうに頭を掻く。

「心当たりがないんだけど……」

「先ほど、何か買い物をしていたな?」

「あぁ、武器の調達だよ。今日のために使い込みそうだったから補充したんだ。……これだよ」

 ダメ男は素直に武器を見せた。掌サイズのナイフで、とても鋭利だ。

「問題は物ではない。店だ」

「どういうこと?」

「俺が説明する」

「!」

 ダメ男の後ろからワニヒコが来た。

「結論から言うと、ダメ男はチタオをハメようとする“SS”の雇われかもしれぬ」

「なんだって?」

「俺の部下が目撃しているんだよ。我らがマークしていた“SS”の人間と密会をしていたというのをな」

「何言ってんだよ。オレは武器屋にしか行ってないぞ」

「その武器屋なんだがな……“SS”が営んでいる店だそうだぞ。その店主が吐いたんだ。組織が貴様を雇ったのだとなっ」

「ちょっと待てよ! そんなの知らないっ! たまたま通りかかった店なんだよっ」

「誰がそんなことを信じる? ただでさえ誕生祭があるというのに、怪しい人間を信用できるかっ!」

「……」

 絶句だった。ここで何かを言っても言い訳にしか聞こえない。いわゆる“ハメられた”状態だった。

 国王は額に手をつく。

「……ハイルの護衛の任を解く」

「! チタオ!」

「今すぐこの国を去れ。牢屋にぶち込まれないだけでもありがたく思え」

「ふざけんな! オレ以外に適任はいるのかっ? ハイルを守れるやつはいるのかよ!」

「貴様、王の御前で失礼だぞ! 旅人風情がっ!」

 兵士たちに床に押さえつけられた。ダメ男が全力で抵抗してもビクともしない。

「ぐぐぅ……! うっ」

 ワニヒコがダメ男のアゴを持ち上げる。

「やはり怪しい輩を外から入れるべきじゃなかったな。我が親友を陥れようとする薄汚い旅人め……!」

「この女ったらしが、ぐうっ……!」

 気に触れたのか、髪を引っ張り上げ、耳元で(ささや)いてきた。

「フーとやらは声が美しいな……。お前にはもったいないくらいだ。あと少しで落とせたものだが、まぁいい。あのような形こそあれ、ぜひ手元に置いておきたい女だ」

 ぷっちん。

「てめぇ……いい加減にしろっ! ぶん殴って、」

「おい、さっさと放り出せ!」

「はっ」

 ひょいとダメ男を持ち上げる。

「くっ……どうせなら……おいチタオ! ハイルが心配してたぞ! 自分よりも父親の方が危ないってな!」

「!」

「っ! この無礼者があっ!」

 ワニヒコが顔を思い切り殴った。角度が良かったのか、呆気なく意識を失った。

「……王に二度も無礼を働くとは……。牢屋にブチ込め! 今日は姫の誕生祭だ。処刑は明日だ! いいな!」

「は、はっ!」

 兵士もビクついていた。

 ダメ男はどこかに連れていかれた。

「……チタオ、気にするな。俺が命に代えてもハイルを守ろう」

「……」

 チタオはそれを見送っていた。

 

 

 



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第七話:まもるとこ・b

 鋼鉄の扉、狭いスペース、そして見上げる位置にある窓。そこから一筋の光が差し込む。それが唯一の明かりだった。

 まるでスポットライトのように照らされている。ダメ男はそんな陽溜りでうち伏せていた。それも一糸まとわぬ姿で。牢屋に入れられる時に衣服を()ぎ取られたようだ。

 華奢(きゃしゃ)な体付きとは裏腹に(たくま)しく、筋肉質だった。それに上半身から下半身の至るところに古傷が見られる。創傷や擦過傷、火傷、陥没痕、銃創と、筋肉とは違う凹凸があった。

 ふと、

「……くぅ……」

 痛みが走る。ダメ男が目を覚ました。

「大丈夫ですか?」

 フーの声がした。近くだ。

「口の中切れてる……いたたたた……ぺっ」

 吐いた唾に血が(にじ)む。

 重そうに身体を起こした。

「収監されるのが多いですね」

「習慣になってるのかもな」

「つまらないこと言っていないで、何があったのか教えてください」

「フーからフったくせに……」

 ダメ男は事の顛末(てんまつ)を話した。

「なるほど。完全にハメられたようですね」

「?」

「マークしていた“SS”の人間と店主は同一人物、よってあの店は“SS”が経営していたのを知っていたということになります。つまり“SS”の店を放置していたことになります」

「……!」

「もし本当にそうだとしたら、チタオ様かウッシー隊長かが忠告しているはずです。犬猿の仲ですからね。とすれば残るは一つです」

「“SS”が賄賂(わいろ)を送ったってわけか」

「そしてそのことに言及したワニヒコ様が裏で引いている可能性が高い、というわけです」

「……あの時気づいてれば……しくじった」

 ぺっ、とまた唾を吐く。

「こちらの言うことを素直に信じていれば、こんなことにならなかったのです。これで、誰かさんのせいでこの国も滅亡の一途を辿るのですね」

「……」

「本当に牢獄がお似合いの負け犬ですね」

「っ」

 ダメ男は立ち上がり、壁を(さす)り始めた。そして叩く。何の反響もしなかった。

「地下かな?」

「そのようですね」

「……!」

 ドンドン、と外から爆発音がした。直後、大歓声が聞こえてきた。

「パレードが始まったのか」

「早く脱獄しましょう、ダメ男」

「でも手立てがない。殴って壊せるようなドアじゃないしな……」

「自爆機能を使いますか?」

「オレまで巻き込むつもりか」

 すると、

「え?」

 ガチャリ、と重々しく鍵が外された。

 咄嗟(とっさ)に部屋の隅に逃げ込むダメ男。そこにフーもいたようで、素早く首にかけた。

「! あんたは……」

「ダメ男、助けに来たぞ」

 隊長の“ウッシー”だった。

「どうして……?」

「それよりこれを」

「あ、あぁ」

 ウッシーがダメ男の荷物を持ってきてくれた。そそくさと服を着込む。黒のシャツに黒のジャケットを羽織り、ダークブルーのジーンズと靴下、黒のスニーカーを履いた。ジャケットがずっしりしている。

「夜明け前、尾けられていただろう? あれは私だったのだ」

「! じゃあ告げ口したのは……ウッシー?」

「ふむ。ワニヒコ殿のご命令でな。まだ日も昇らぬというのに出掛けたから、と(おっしゃ)っていた。尾行には自信があったんだがね、感覚は動物並みだな」

「っ、やっぱあいつ……オレをハメやがったかっ」

「とにかく、一刻も早くハイル様の元へ行かないと、代役は誰なのですか?」

「ワニヒコ殿だよ」

「! おいおい、最悪な流れだなっ」

「そもそもパレードは例年ワニヒコ殿に任されているし、全体的にワニヒコ殿の指示だよ」

「待ってください。では兵士の配置や段取りも全てワニヒコ様が取り決めているのですか?」

「もちろん」

「……どうする? どうすればいい……? このままだとハイルが殺される……」

 そわそわするダメ男。

「それどころかチタオ様までも暗殺されてしまいます」

「! 待て! それはどういうことだっ?」

「ワニヒコ様は“SS”と手を組んでいるのですよ。おそらく護衛するフリをして誘拐するつもりでしょう。そうなれば後は“肉なり(なぶ)ったり”です」

「“煮るなり焼くなり”な。シャレにならないからやめれっ」

 すみません、と小さく謝った。

「“SS”がここまで巣食っていたとは思わなかった。かなり工作が進んでいる。もしかすると本当にこの国が滅ぶことも……」

「思いつかない……どうする……どうする……?」

「もはや方法は一つしかありませんね」

 フーが名乗りを上げた。

「! フー、何かあるのかっ?」

「むしろダメ男にしかできない方法です。ウッシー隊長は国王様を頼みます」

「国王はそこまで難しくはないが……姫様は?」

「こちらに任せてください」

「わかった! 国王は門の方へお連れする!」

「了解!」

「行きますよダメ男。自分のミスは自分で取り返してくださいっ」

 フーに急かされて、ダメ男は走り出した。

「なんだよ方法って!」

「とても簡単なことですよっ! “汚泥変動”ですっ」

「“汚名返上”なっ!」

 

 

 束ねた鉛筆のように大通りに人が殺到する。パレードのためにある程度の交通制限はしているものの、いつ乗り上げられてもおかしくないほどだった。低めの柵で仕切っているだけだった。

 人々に見送られながら行進するパレード。五台のフロート車がゆっくりと走っていく。金色ピカピカに輝き、ふんだんに豪快に美しい飾り付けがされていた。

 国王が一番先頭で手を振っている。人々はそれに応え、懸命に手を振る。熱狂し歓声を上げ、盛大にお祝いする。

「行くぞおぉっ! いーちっにーっさーんっ! じゃぁあぁぁぁっ!」

 まるで一体化したかのように掛け声に合わせる。これもまた大ウケだった。自分の置かれている身を把握しているのか、と疑問視してしまうほど楽しんでいる。

 一台はさんで三台目、フロート車の中でも巨大で、象三頭分くらいの高さがあった。これが通ると歓声がより大きくなり、あらゆる声援が飛びかかる。宗教じみたような熱気が立ち込めていた。

 しかし中は恐ろしく冷めていた。

「……まさか、あなたがあの旅人に漏らすとはね。よもや二年をかけた計画が崩れるところだった」

「……なんでもするから父さんを殺さないで……」

「そんなもの、チタオが死んでからでも遅くはなかろう。しかしあの阿呆は危機を感じていないのか……? まぁいい」

 薄気味悪い笑みを浮かべる。

「動物ごときに心を奪われ、后まで寝取られていても気付かぬとは、愚かな男よ」

「……! まさか……父さんのチーターを殺したのも……」

「さぁ。あなたが毒殺した、としか俺は知らないなあ」

「この外道!」

 拳を振り上げる。

「いいのですかな? この国民が見ている中で、そんなことをして……くくく……」

「っ! こ、この……!」

 渾身の力を込めた拳も、ただただ収めるしかなかった。行き場をなくした怒りが震えとなって表れる。ボロボロと悔しくて涙を抑えられなかった。

「うっ……う……」

「ふふふ……ん?」

 パレードにもかかわらず、誰かが乗ってきた。それによってさらに歓声があがった。

「あれは……ウッシー隊長? 門番をやらせていたはずだが……あのパフォーマンスはチタオの仕業だな」

 フロート車を先導するように、先頭で剣舞をお披露目していた。勇ましくキレのある剣舞は人々を魅了し、さらに熱狂させた。一頻り見せた後で先頭のフロート車に乗り、声援に応えた。

 

 

「ウッシーよ、これはどういうことだ? これは予定に入れておらんぞ」

 剣舞を終わらせたウッシーはチタオの隣に直立した。その姿は威風堂々としていてかっこいい。

 ウッシーは小声で話しかけた。

「門番をしていたところ、隣国の国王がぜひお祝いしたいと仰っております」

「なんと。それは自ら出向かわねば失礼極まりない。一緒に来てくれるな?」

「もちろんでございます、国王」

 ウッシーは近くにいた兵士に事情を話した。それは瞬く間に広がっていく。

「それでは行きましょう」

 国王は自らフロート車を下り、国民に手を振りながら道を外れていった。

 

 

「何? どこへ行く気だ? ……なんだ?」

 ワニヒコの所にも兵士が来た。

「隣国の国王が? 了解した」

 一礼して行進に加わっていった。

「……くっ、余計なことを……」

 いきり立つワニヒコはフロート車から身を出し、国民に手を振る。ワニヒコも人気があるようで、多くの国民、特に女性から声援を受けた。もちろんこれはダミーで、本当は国王とウッシーの行方を探るためだった。

「……仕方ない。二人もろとも消してやる……」

 内心で舌打ちする。

 今度は後ろ歓声があがった。いや、叫んでいるようにも聞こえる。しかし歓声や声援が大きすぎてはっきり聞き取れなかった。

 そこまで問題視しなかった。厳重な警備の中でのパレードだ。狼藉はすぐに取り押さえられる。そう思っていたからだ。

「心配するなハイル。すぐにチタオをあの世に、……」

「……」

 目が合っちゃった。

「……」

「失礼しました」

 そろそろと降りていった。

「待て貴様! ハイルをかぇっ、」

 ピュッ、と目の前に迫る黒い物をギリギリ(かわ)した。

「くっ!」

 その(すき)を突いてハイルを引っ張り出し、一目散に逃げていた。

「何をしているっ! 追え! 追え、……!」

 護衛についていたはずの兵士たちがその場に倒れていた。ワニヒコが身を乗り出していた側と正反対の位置、それも死角になる位置だった。謎の歓声はこれによるものだった。

「ダメ男め……えぇい! 俺が行くしかあるまい!」

 ワニヒコもダメ男を追いかけていった。

 交通制限している道の中、ダメ男は兵士たちを蹴り飛ばしながら進む。パレード進行と逆を走っていた。

「何を考えているっ?」

 すると急にハイルを抱きかかえ、柵を乗り越えた。人混みに(まぎ)れるつもりだ。

「そこの者を引っ捕えろっ!」

 ところが誰も邪魔をしようとしない。それどころか道を空けていた。

 それならとワニヒコも通ろうとするが、

「きゃーワニヒコさまぁっ!」

「はじめてさわったわっ!」

「こちらにも来てくださいましぃっ!」

「ぬぅ……! 貴婦人方、どうかお下がりくだされ!」

 人気者が災いしたか、ワニヒコに寄ってたかる。

「くっ!」

 

 

「フー! いくらなんでも無茶すぎだろ、この作戦!」

「これしかなかったのですっ!」

 ハイルを抱えながら全力疾走するダメ男。途中で疲れたのか、ハイルを下ろして手を引っ張った。

 裏道に逃げ込んだようだ。

「ダメ男、どうして……?」

「それよりも、門ってどっちだっ?」

「! こっち!」

 くっと道を変えた。ダメ男が付いていく形になった。

 そこに、

「とまれえぇっ! 狼藉めぇ!」

 甲冑を着た兵士が二人立ちふさがる。ヤラセかと思うくらいのタイミングだ。

「お願い! 通して!」

「姫! お下がりください! 逃げていたのでありましょうっ?」

「いやそれは……」

「あぁぁめんどくさいなぁっ!」

 ハイルを抱き寄せ、首元にナイフを突きつけた。

「あ……」

「通さないと首切るぞ!」

「な、なにぃっ?」

「! なるほどね」

 ハイルが呟く。

「いやぁぁ! 私まだ死にたくないっ! 助けてっ」

 泣き叫んだ。

「こ、この外道めぇ……!」

「外道でも何でもいいから通してくれ。ハイルのためにもな」

 道を空けざるを得ない。通り過ぎた瞬間にハイルを解放し、

「ごはっ」

「ぬぐぅ!」

 強烈な蹴りをお見舞いした。ちょうどよく壁に叩きつけられ、ほどなく意識を失った。

 急いで駆け出した。

「ナイス演技!」

 グッ、と親指を立てる。

「それほどでも!」

 しばらく走ると、

「……よし、ここら辺だな。先に行け! チタオとウッシーが待ってる!」

「で、でも、」

「尾行されてんだよ! 早く行け! ウッシーたちが待ってるはずだ!」

「うっうん!」

 ダメ男が立ち止まる。ハイルを先に行かせた。

 ようやく周りの景色を堪能できる。ここは日が当たりづらい裏道。ハイルが走っていった道は分かれることはなく一本道だ。ダメ男が立ち止まったのはちょうど最後の分かれ道だった。三ツ矢のように道が交わり、一つの空き地を作り出していた。

 その周りを背の高い建物が見下ろしている。

「さすがは似た者同士ですね」

「? なんのこと?」

「いえ。それよりも」

「あぁ。出てこいよ」

 ダメ男の呼び声に応え、すっと出てきた。兵士だった。

「よく分かったな」

「そういうのに嫌ってほど悩まされてたもので」

「そうかい」

 兵士が指笛を鳴らす。標的を知らせたらしい。しかし、ダメ男はそれを見過ごした。

「作戦はまだなんでな。お前を消してからの方が安全みたいだ」

「そんな悠長なことしてていいのか? お姫様はお前らの悪巧みを知ってるんだぞ?」

「大丈夫。護衛はほとんど仲間なのさ」

「だと思った」

 やがて一団が到着した。ワニヒコも一緒だった。

「やっと見つけたぞドブネズミめ。まさかハイルを誘拐するフリをして逃すとはな」

「どっちがだよ」

 一歩退く。

「まぁいい。逃げた先には“SS”がいる。兵士の格好をさせているから、誰が敵かも分からんだろう」

「そんなことどうだっていいよ」

 さらに一歩。

「?」

「蛇を殺すには頭を潰せばいいだけだからな」

 そしてさり気なくもう一歩退く。

「ほう。よくほざくネズミだな。しかしこれだけの人数……(さば)ききれるかな?」

「これは良くないことが起こりそうな予感です」

「? なにをわからんことを……かかれぃっ!」

 兵士たちがダメ男へ襲いかかる。威勢が声となって表れ、狭い空き地を振動させた。

 しかしダメ男は身構えない。それどころか笑っている。

「こういうのってずるいよなきっと……」

 ブツブツ言いながら、ダメ男は何かを取り出した。黒い物体。赤いボタンがついている。

「!」

 気付いてからでは遅かった。

「ポチッとな、です」

 フーの声につられて押すと、

「!」

 爆音がした。それもワニヒコたちの頭上から。

「なん、あぁぁぁっ?」

「くっ!」

 頭上にあった建物を爆破していた。爆発で建物の残骸がちょうどよくそこへ降り注ぐ。ダメ男はハイルが逃げていった狭い裏道に、既に避難していた。

「ぐおぉぉぉっ!」

 重い破壊音。聞き入る暇もなく、一団は残骸の雨に飲み込まれた。

「……うーん……」

 一瞬。喧騒とした中で、まるで早送りのように、そしてあっという間に事が終わる。爆発音、破壊音、叫び声、周りからの雑音、そんなものを聴くほどの時間はなかった。そして余裕はなかった。

 そんな刹那なイベントが終えた後、瓦礫の山と化した場所から砂埃が舞い上がる。古い家屋だったようで、蓄積されていた(ほこり)が舞っていた。

 ダメ男はまじまじと確認する。既に仕込み式ナイフを取り出していた。

「ぐおぉっ!」

 がこん、と残骸を放り投げる。出てきたのはワニヒコだった。しかし顔から血を流していた。ダメージはあるようだ。

「よくあれで死ななかったな。……親玉感満載だな……」

「人間というのはクッションには最適だぞ……。甲冑を着ていれば尚更良し」

 残骸から生き埋めにされたニセ兵士たちが出てきた。ほとんどは潰れているが、まだ(うごめ)いている者もいる。頑丈な甲冑のおかげか。

「兵力はこんなもんじゃないぞ。何千といるのだからなっ!」

「あんた……まだ分からないのか?」

「? 何がだ?」

「今の状況だよ。耳を澄ましてみろよ」

「?」

 聞こえてきたのは歓声だった。楽しそうで盛り上がっている。緊迫感や恐怖感といったものは一切伝わってこない。

「こんな楽しそうな喚き声や悲鳴を聞いたことがあるか? つまり、戦いは起こってないんだ」

「っ!」

「オレを追うことに必死だったんだろうな。こんな様子じゃ、開戦の合図も出してないだろうよ」

「くっ……」

 いつもの見下した雰囲気は全くない。むしろ動揺を隠せなかった。明らかな凡ミス、判断ミス。ダメ男に執着しすぎていた。

 曇る表情をかき消すように鼻で笑った。まだ余裕はあるようだ。

「……ふふふ」

 不敵な笑みを浮かべる。

「確かに開戦の合図を出していない。そしてこの場にはそれを伝えられる者はいない。死んでいるか瀕死かだ。しかし貴様が姫を誘拐したことに変わりはなかろう。ここで貴様を召し捕れば、計画は立て直せるわぁっ!」

「!」

 銀色の線が目の前を過ぎる。ダメ男は上体を逸らして躱すが、軸足を蹴られて倒されてしまった。息をする間もなく突き下ろし。今度はダメ男が足を引っ掛けて倒す。倒れかけたところにダメ男が横に切る。それを手持ちの剣で防いだ。

「っ」

 中腰の二人。己の武器に全体重と力をかける。だが、金属音を奏でるだけで優劣は変わらない。

 いつもは片手で持つダメ男も、両手で押し込もうとする。

「思ったとおり、強者よっ!」

 血だらけのクセにやたらと嬉しそうな顔だった。逆にダメ男は顔が歪む。

 ぐぐ……、とダメ男が押し負けていく。体格や力はワニヒコがかなり優勢だ。その証拠にワニヒコの身体が盛り上がっている。

「そら、手首をもらうぞ!」

 角度を下向きにし、剣がダメ男の手の方へ向かう。

「ペッ」

「!」

 (ひる)んだ一瞬を見逃さない。手首を捻り、ワニヒコの剣を上から押さえつけ、

「おらぁっ!」

 頭突きを食らわせた!

 ちょうどオデコにヒットし、ワニヒコが()()った。

 ダメ男は追撃せずに体勢を整えた。ワニヒコも素早く立ち上がる。

「いきなり来るなよ。走馬灯見えたぞっ」

 ワニヒコの左目に赤い唾がかかっていた。それを取り出したハンカチで拭う。赤く汚れた。

「俺は奇襲が得意なんだ。それにこの狭い道……本領発揮できる」

「?」

 引き抜いていたはずの剣がいつの間にか左腰に収まっている。そしてゆっくりと屈みながら、右手をかける。いわゆる“居合い”の構えだった。

「そういうの苦手……」

 本気でそう思っていた。

 一方のダメ男はナイフを左手に持って、半身にして立つ。ワニヒコに左半身だけ見せるように身体を横にし、腕や膝を少し曲げ、中途半端な位置に留める。右手はポケットに入れている。差し詰め、フェンシングのような姿勢だ。

 ワニヒコは一切動かなかった。じっとダメ男の目や手足を睨み、先制しようとする。

 ダメ男は逆だった。ナイフを少しだけ揺らし、まるで(まど)わすかのように(あざむ)くかのように動かす。それに刃を収納していた。

 大股で二歩くらいの間。じり、と爪一つ分だけ距離を詰める。ワニヒコだ。全神経を手先に集中し、行くぞ行くぞとにじり寄る。

 対するダメ男は退()かなかった。間合いを確かめつつ、惑わしを続ける。ナイフに付いている黒毛が可愛らしくゆらゆらしていた。

 二人には歓声は聞こえなかった。防音性の高い部屋で対峙しているくらいに集中している。それは僅かな散漫が即死に繋がることを意味する。

 だんっ、

「!」

 いきなり、突如、唐突に二歩ある間合いを一歩で詰めてきた。

 どこを狙う? 二人して頭によぎる。

「なにっ」

 が、ダメ男の右手に黒いものが見えた。右手を背につけて、ワニヒコに向いている“L”字の物体。ワニヒコの頭を掠めるイメージ、対処法、状況判断、形勢、対策……。

 わずかな硬直と困惑。針穴のような小さな迷いに突き通す。

「!」

 居合いのために突き出していた右腕の前腕。ちょうど骨を(かす)めるように、綺麗に刃が通過、いや、押し付けられた。刃は小指側から出ていた。つまり、ダメ男は仕込み式ナイフを逆手に持っていたのだった。

 反撃に出ようとも、

「ぐぅぅっ」

 筋肉が切られてしまい、激痛でロクに握れなかった。スカッ、と右腕のみの遅い居合いが過ぎるのみ。

 極度に興奮していたからなのか、ぼたぼたと血が流出していく。

 ワニヒコの額に切っ先が止まる。

「あんたの負けだ」

 激痛と敗北で脂汗が湧き出す。

「どうして銃、……!」

 右手を注視するワニヒコ。顔が青くなっていた。

 ダメ男は、銃を持っていなかった。

「門に入る前の荷物検査でオレの武器は知られてる。あんたも飛び道具を持ってないとタカをくくってたろう。だからこそ狙わせてもらったよ」

 ダメ男の右手は黒い手袋で覆われていた。

「動物というのは錯覚しやすいものです。銃を持っていないと思い込んでいるあなたに、黒手袋は有効でした。手で銃のマネをしただけでも十分です。さぞ、頭の中が混乱したでしょう」

「刀身を収納したのは……俺の右腕を……」

「そ。最初から出してたら警戒されるっしょ」

「……懇切丁寧に……どうも……」

 ちょうどよく、

「! ダメ男!」

 ウッシーと部下の兵士たちが来てくれた。本当にタイミングがいい。

「やっと来てくれた……」

「姫様から話を聞いてな。いろいろ準備をしていたら遅れた。すまないっ」

 拘束用のロープでワニヒコや生き残りを縛り付ける。

「ウッシー、貴様……こやつは姫を誘拐したのだぞ!」

「誘拐? 何のことです?」

「な、何を言っている! お前も見ただろうっ?」

「私は王を連れて、隣国の王をお出迎えしておりましたゆえ……。聞くところによれば、ダメ男は姫様をお連れしたようですな。しかし、姫はトイレに行きたかったとおっしゃっております。そのためにダメ男を呼びつけたのだと」

「ば、ばかな! そんなバカみたいな話があるかっ!」

「現に今もパレードが進行しているではありませんか」

「? ……!」

 ハッとした。

「姫様はもうフロート車に戻られ、国民の声援に応えておられます」

「……ま、まさか……一度誘拐して、また返したというのか……? そんな子供騙しに……あ、そ、そうだ! あの倒されていた兵士はどうなるっ?」

「あぁ、あれはパレードの演出の一環だったようです。なかなか粋でしょう? 国王が急に予定変更したようで、細部にまで連絡が行き届かなかったようですな」

「き、きさまら……」

「さ、ダメ男。すぐにパレードへ。姫を助けた英雄がいないとパレードは台無しだ」

「あぁ。なんか飛び入り参加みたいで悪いな」

 ダメ男はワニヒコにウィンクして、走っていった。“ざまあみろ”と。

「くそおぉぉっ! あのやろおっ! すぐにぶっころ、」

「ところでワニヒコ殿、“SS”に加担されているとの噂があるようですな」

「!」

「密会していたとか、武器屋を買収していたとか、姫様が証言されております」

「く、くそぉ……!」

 

 

「はいはーい……どもども……あはは……」

 ダメ男は照れくさそうに手を振っていた。

 演出とはいえ、設定ではハイルを助けた戦士。衣装も戦士の格好で、手を振っていた。こちらに来る間にウッシーの部下が手渡してくれた物だった。ウッシーの言っていた“準備”とはこの事だったのだ。

 演出(?)とはいえ、ハイルがダメ男に抱きついて手を振っていた。演出、そう演出なんだ、ダメ男はそう言い聞かせる。とは言いつつ、顔が真っ赤だ。

 チタオはその後ろでふんぞり返っていた。怒っているというよりも、堂々と二人を見守っている。

「こういうのを“コスプレ”というのですよね。何とも気持ち悪いです」

「そういう趣味の方々に謝れ」

「いえ、ダメ男が、です。全てにおいて気持ち悪い、あぁ鳥肌が立ちます」

「むしろ鳥肌を見せてみろ……うぅ」

 ハイルが笑っている。ダメ男同様に顔が赤い。

「ありがとうダメ男、フー。助かったよ」

 険が取れた笑顔はうっとりとしていて、破壊力バツグンだった。

 無意識に顔を背けてしまうダメ男。

「いぃいえいえお姫様。それよりもチタオの機転の良さに驚いたよ。まさか姫様誘拐を演出にするなんて……。そんなどんでん返し聞いたことないよ」

「いつかやってみたかった構想だったからな。あっはっはっはっは」

「あぁ、そうなの……」

 苦笑いのダメ男。

 やがて、ゴールの城が見えてきた。

「さて、パレードはこれにておしまい。今度は(うたげ)だ。今日は眠ることを許さんぞダメ男!」

「え?」

 帰ってくるやいなや、ダメ男はチタオに連行された。大食堂で準備ができているらしい。

「酒の飲み比べだ!」

「えぇ! いやいやいや、オレお酒飲めないんだけど……」

「我が国では十五歳で飲酒解禁だぞっ」

「そうじゃなくて体質的に、」

「そうカタイこと言うな! それともこの王の誘いを断るか?」

 ずずんとダメ男に迫る。

「最上級の脅迫ですね。よかったですねダメ男。王様直々に脅迫された旅人なんて滅多にいませんよ」

「あぁぁぁ! もうどうなっても知らん!」

 未成年への飲酒は絶対に止めましょう。またお酒に弱い人に無理矢理飲酒させるのも絶対に止めましょうね。

 

 

 軽快な音楽、揺れる炎、踊りだす影。あの広すぎる庭はあっという間に一つの村と化していた。いくつもテントを組み立て、焚き火を囲っては楽器を演奏し盛り上がる。平民も王族も家来も関係ない。騒いで楽しければそれでいい。そんな陽気で心躍る雰囲気だった。

 宴は大盛況だった。お姫様の誕生祭だが、まるで自分の誕生日のごとく盛り上がる。食べて飲んで騒いで遊んで、喜びと嬉しさで混沌としている。こそこそと男女で隠れていく者もいるが。

 ダメ男も漏れなくその渦中にいた。

「あんちゃん、もう五人抜きかよっ! やるなぁ!」

「うっぷ……」

 食堂で働いているコックさんたちと飲み比べ勝負をしていた。地べたに座って、ダメ男と対戦者の前に酒を持ってくる。量は様々、種類は色々。身体に気を使う余裕やへっぴり腰などどこにもなかった。

 汗だくである。

「宴というとどうして飲み比べなのでしょうかね。それにしてもこの男、ノリノリであります」

「そう言うなフー! 宴は楽しければいいの!」

「酒臭いですし、王様は雑魚ですし、顔は気持ち悪いですし。嘔吐(おうと)しそうです」

「完全に王様(けな)してるよな。確かにそうなんだけど……」

 チタオはそこら辺でウーウー(うめ)いていた。

「自分から持ちかけたくせに負けたもんな。呆気なく」

「次の挑戦者だぞあんちゃん!」

「!」

 次はなんと、

「おぉ! 隊長殿だぁ! これは強敵だぞぉ!」

 ウッシーだった。馬鹿でかい鎧を脱いで平民が着るような私服になっていた。しかしそれでもガタイがある。鎧で見えなかった大木のような腕が見える。

 心なしか、顔が火照(ほて)っている。

「ウッシー、どうして?」

「ふむ。私もこういうことが好きでな。威勢がいい英雄がいると聞いて飛んできたのだ」

「んなアホな」

「あっはっは。それじゃあ勝負といこうか」

 どすん、と地べたに座り込んだ。

 どすん、と地べたに座り込んだのは、ウッシーでもあった。

「? なにこれウッシー?」

「私はこっちだダメ男」

 大木のような腕に鋼のような肉体。針が通らなそうなくらいに硬かった。

「ダメ男、そういう趣味があるのですか」

「違う、ボケだからツッこんでよ」

「あらあら。ダメ男、勘違いされますよ」

「どういう意味だよ! それより、これ本当に飲むの?」

 持ち出してきたコックに言いかける。

「もちろんだとも。よーいドン!」

「まってまって! これ何リットルある、」

「うおおおお」

 まるで動物が(たけ)りを抑えられないような雄叫び。

 怒涛(どとう)の勢いで胃袋に詰め込むように飲み始めた。

「死んじゃうから! やめとけって!」

「知らないのかい? 隊長は酒豪なんだぜ?」

「強い弱い関係ないからっ! 量の問題っ! 人一人入れるよこのサイズっ!」

「うごぉぉぉぉっ!」

「なんなのこの人! 魚ですかっ? クジラですかっ?」

「人です」

「冷静なツッコミはいらんっ!」

 もちろん勝てるはずもなく、ダメ男はタルの五分の一ほどでリタイアした。一方のウッシーは、

「今日は気分がいい! もう一個持ってこい!」

 追加した。

 妊婦さんのようにお腹がぽっこりしている。もはや、呆れが通り過ぎてほっこりした。

「胃の中よりも飲んでるし……異次元空間にでも繋がってるのかよ……」

 注目を奪われたダメ男はその場を離れた。いや、その前にギブアップなのかもしれない。飲みすぎて気持ちが悪いらしい。

「完全に悪酔いですね。誰かがマネしなければいいのですが」

 典型的な悪飲みですので、絶対にやめましょうね。

「自殺行為にもほどがある……」

 ダメ男は城の中に戻っていった。

 城の中は明かりが薄くなっていた。兵士の模造が持つ燭台が(とも)っているだけ。ぽつぽつと柔らかく丸く光る。

 そこに何筋もの月明かりが差し込んでいた。赤い絨毯は暗さで青みを帯びている。

 もふもふを味わいながら自分の部屋へと戻っていく。窓から差し込む月光が等間隔に、まるでシャワーのように注がれる。

 一つだけ窓が開いていた。ひゅうっ、とそよ風が火照る身体を撫でる。ダメ男は静かに閉める。

「ん?」

 もふっと足音が。音のする方を見る。

「ハイルか」

 ハイルがいた。もふもふしていそうなボーターのパジャマを着ている。

「何か質素じゃないか? もっとすごい格好なのかと思った」

「寝るときには邪魔だよ」

「言える」

 笑いかけるハイル。

「寒いの?」

「あぁ、外で騒いできたからな。なぁフー」

「……」

 しかしフーからの返事はない。確かめてみるが、ウンともスンとも言わない。

「電池切れ、か……? でも昨日充電したのになぁ……」

「……」

 じぃっと見る。

「……あぁ、ところでハイルは外に行かないのか? 主役がこんなところにいちゃダメだろ。誕生日なんだし」

「うん」

 それで終わり。

 先ほどからずっと見られているダメ男。とても気まずそうに(うな)る。どういう意図なのか、気付いているのか。

「……話、か?」

 ゆっくり(うなず)く。

「その前に部屋に戻っていいか? こいつを充電させないと」

 また頷く。

 ダメ男はハイルを連れて部屋に戻った。ふらふらした足取りはしっかりとしていた。

「……よし。ハイル、話ってのは?」

 フーをベッドが置き、ハイルの元へ。ハイルは部屋に入ろうとはしなかった。

「……こっちにきて」

 ダメ男の手を取り、走っていった。

 部屋の中では。

「ダメ男はどうするのでしょうか。承諾するのでしょうかね。するでしょうね、きっと……きっと……押しに弱い男ですからね……」

 

 

 きっと“そういう話”なんだろうな、ダメ男は予感していた。

 連れてこられたところはハイルの部屋。山のように積まれていたぬいぐるみは一つもない。ただ広すぎる部屋にファンシーなベッドがあるだけ。あとそれと、テラスへ続く窓や視界を遮るカーテン、豪華な椅子やテーブル、壁に付けられた燭台も。

 カーテンは仕切られていた。真っ暗なはずだが、城の中にあったような優しい球の光がそこら中に点っている。壁やカーテン、天井と柔らかい橙色に染まる。影と光が溶け合っているようだった。

 ハイルはそそくさと部屋の奥へ向かった。もう一つ部屋がある。衣類を収納するタンスやクローゼットがないことから、そちらがそういう部屋なのだと思っていた。

 追えるはずもなく、広すぎる部屋に立ちすくむダメ男。しかし疲れたのか、椅子に座った。

 ひゅうっ、と冷風が髪を揺らす。窓が開いていた。

「あいつ……暑いのか?」

 ぎゅっ。

「……!」

 後ろから押されるように抱きつかれた。細い腕がダメ男の腹回りを締め付ける。

「ハイル、……! 何考えてんだ! 服着ろっ。冷えるだろ」

「姿が見えなくてもわかる?」

「っ! ばかっ!」

 しかし離そうとしない。

 仕方なく着ていたジャケットを後ろに着崩した。ちょうどハイルの肩にかかる。

「重いんだね」

「気を付けろよ。凶器があるんだから」

「だいじょうぶだよ。さむくないから。むしろあつい……」

「!」

 引き剥がそうと腕をつかむ。まるで運動直後のように腕ですら熱くなっていた。手に触れると、熱せられた石のよう。

「とりあえず離れよう、な? 風邪引くから、」

「どうしてこんな格好してるか分かる……?」

 ぎゅう、とさらに強く。そのまま服の中へ手を入れていく。

 ぞわっ、と指先が触れた。

「っ、ハイル、あのな、」

「この国だと“それなりの年齢”になる前に好きな人がいて、“それなりの年齢”になった夜に身体を重ねるんだよ。でも私はずっと心を閉ざしてたから、そんな人はいなかった」

 いな“かった”。語尾に反応する。

「……だからわたし、」

 無言で首を振る。

 ダメ男は強引にひょいとハイルを抱き上げ、ベッドに腰掛けさせる。

「だめだ。オレは旅人、ハイルはお姫様。身分も何もかも違う次元だ」

「同じならいいの?」

「! あぁいや、そういうことじゃなくて……」

 言い方を誤る。こういうことに慣れていないのが分かる。

「私にはあなたが必要なの。……ねぇ」

 きゅっ、と手を握る。

 頭がぐわんぐわんしてくる。酒酔いは冷めているが、それとは違うものに酔わされていた。

 自然に手を引かれ、ベッドに誘われ、

「あったかいね。それに汗っぽい……」

「なにしてんだ、やめろっ」

「すごいにおいだね……動物のにおいよりもつよくて……だ、だめお……」

 組み伏される。いつもなら振りほどけるが、朦朧(もうろう)としてできなかった。何か躊躇っているようにも見える。

 淡い明かりの中、ハイルの紅潮した顔が目の前にあった。おでこが熱い。吐息が熱い。ハイルも汗ばんでいた。

 (なまめ)かしく腕を這い、手を握る。ぎゅっ、と握る。

 吐息がさらに熱い。さらに荒げる。空いている片手は別のことをしていた。

「っ……う……ぁ」

 ダメ男の顔に手を添える。ぐっと引き寄せた。

「ん……んぅ、あふ……」

「っ……つぅっ……」

 音がする。粘性のある水音。

 ダメ男はかろうじて、ハイルを持ち上げて耐えている。

「あふぅ……はぁ……」

 うっすらと瞳が潤う。

 舌を這わせる。

「あなたのなまえ……おしえて……よびながら……重なりたいっ。ねぇ……」

「……ハイル……ばか、やめっ」

「……ふぅ。私、動物の気持ちが分かるの、知ってるでしょ? それってチーターとかライオンだけじゃなくて……人間もなんだよ……。だからダメ男が何をどうしてほしいのかもぜんぶわかってるんだぁ……。たとえばこういうのとか、ね」

「っ、……これ以上はいろいろと問題が出るからだめだっ」

「問題がなければいいの?」

「……」

「うそだよね? だってこんなに期待してるんだもの。……大丈夫。だれも見てないよ。だれも、ね。だめお……だめおっ」

「……う、あぁっ……は、ハイル……」

 

 

 空が白み始めるずっと前。どことなく夜空が変色してきたかと感じるくらい。初春のような肌寒さと厳格な雰囲気が(ただよ)っている。

「……」

 フーはベッドにいた。枕元で、特に何かできるわけでもなく。()いて言えば、窓から見える夜景を見るだけ。

 人工的な明かりはすっかり消え、陽気で楽しい宴は明かりとともに消えた。何事もなかったかのように平日が始まるかと思うと、なんだかそわそわしてしまう。

「ダメ男……」

 それとは真逆に、フーは別のことでそわそわしている。特に動いているわけではないが。

 水色のボディに黒い眼。そこから見ることができるのか、

「夜が明けてしまいましたね……」

 ぼそりと呟く。凛々しく冷静な美声は一転して、幼い少女のような少し怯えた声になっていた。

「……もうおわ、……!」

 急に乾いた音。ドアノブをひねる音。ドアが開き、

「……」

 ダメ男が入ってきた。どうしてか顔が晴れていない。とても憂鬱そうに、すぐに泣き出しそうな。そして足元が覚束ない。

「だめお?」

「ぽぅっ!」

 フーの声に心臓が飛び跳ねた。

「びっくりした! 驚かせんなよっ」

 フーに気付いた瞬間、あの表情が嘘のようになくなった。いつもの感じに戻る。

 フーは単刀直入に申し出た。

「初夜はいかがでした?」

「ぶっ!」

 躊躇(ちゅうちょ)なさすぎて思わず吹いてしまう。

「あのな……」

 呆れ果てるダメ男。

「それで、申し出はどうするのです?」

「申し出? 何のこと?」

(とぼ)けても無駄です。婚約ですよ」

「いやいやいや、何でもない。ただのお礼だよ。その後、宴に戻ってバタンキュー」

「お礼で朝帰りですか。昼ドラ臭満載ですね」

「ってなんだよそれ……」

 イラついているような口調。

「それで、どうしたのです?」

「……」

 ダメ男はストレッチをし始めた。無視するように。

「ダメ男、答えてください」

「だからただのお礼だって言ってるだろ」

「だめおっ!」

「っ」

 叫ぶ。ダメ男の反応を(いさ)めるように。

「まだ皆寝てるだろ。静かに、」

「だったら早く言ってください! はぐらかさないでくださいっ!」

「お前……泣いて……?」

「泣いてなんかいませんよ! バカだめお!」

 鼻声で叫ぶ。

「……申し出は受けたよ」

「! そ、そうですか……」

 鼻声が小さくなる。

「お姫様からの婚約の申し出なんて、これからもないだろう。今のうちに婚約しておけば、お互いに安泰だしな」

「そ、そうですよね。どう考えてもその通りです。いい判断です。逆玉の輿とはよく言ったものですね」

「……だ、大丈夫だよ。その代わりに旅は続けさせてくれるらしい。今度はこの国の利益になるような、貿易的な旅だけどさ」

「はい、そうですよね……はい……」

「お前を見捨てたりしないよ」

「は、はい……」

 どんどん声が小さくなる。

「……なんか……へんなことになってる……?」

「え?」

「あぁええっと……ゆっくり眠ったし、もう少ししたら出発するぞ」

「……」

「おい、フー? まだ眠たいのか?」

「い、いえっ。そんなことはありませんっ。分かっています……」

「うぅ……きもちわる……」

 

 

「父さん、入るよ」

 ハイルはチタオの部屋に入った。書類やら何やらで相変わらず散らかっている。

 チタオはデスクと向かい合っていた。

「おぉ、どうした?」

「話があるの。……いい?」

「もちろん」

 チタオの隣にちょこんと座った。

「あのね……その……」

「今まで済まなかったな」

「え?」

 先にチタオが話した。

「私は駄目な父親だ……」

「そ、そんなこと……私もその……」

 ハイルが言いかける。しかし意を決して話した。

「父さんが大切にしてたチーターを……私が殺したから……」

「……」

 ふぅ、と息をついた後、頭を撫でてあげた。

「……知ってたよ」

「え?」

 腹の底からの驚き。思わず顔を見る。

「遺体の検査したら、毒の成分が検出されたんだ。あれはお前がいつもおママゴトで使ってた草に含まれてる成分だったから、すぐに分かったよ。小さい頃から動物たちと遊んでたもんな」

「……最初から知ってて……?」

「あぁ」

 ポロポロと涙を落とす。

「ごめんなさいっ。わたし……わたし……」

「私の責任だよ。きちんと注意していれば、きちんと調べていれば、あんなことにならなかった。今回の騒動も私の責任だ。ワニヒコに弱みを握られたせいなんだからな」

「ちがう……わたしのせいだよ……!」

 ぐしぐし、とチタオにしがみつき、服を握る。

「……実はあのチーターの遺体は保存しているんだ」

「そ、そうなのっ?」

「いつか私が打ち明けることができた時、一緒に供養しようと思ってな。……今度、時間ができたら手厚く供養しよう。そして……私は学者を止める」

「えぇっ?」

「これからはこの国の王として、この国を守る。……私の意志は……ハイル、お前に託す。知識はまだ持ち合わせていないが、最高の資質を持っている。立派な学者になれるだろう」

「父さん……」

「さて、今度はハイルの話を聞かせてくれないか? 何かあるだろう?」

「うん。……私……私……旅がしたいのっ」

「……え?」

 今度はチタオが見入る。

「ダメ男の話聞いてたら、私も旅人になりたくなったのっ」

「でも、そう簡単にできるものじゃないぞ? ダメ男は楽しそうだが、いつも死と隣り合わせだ。ちょっとした油断が命取りになる。野生のカバと生活するようなものだ」

「そ、それは厳しいね……」

「そんな生活だ。それでもなりたいのか?」

「……世界中の動物を見てみたい!」

「ふむ……弱ったな。動物学者としてはとても嬉しいんだけど、親としては絶対に行かせたくないんだよなぁ……」

「大丈夫! クーロもいるから! ねっクーロ!」

 ピーピーと可愛らしい鳴き声。

「……分かった。考えておこう。プロの旅人を招聘(しょうへい)しなくてはな。それと、早速トレーニングだ。ウッシーに事情を説明しておくよ。血反吐を吐くほどに過酷になるから、覚悟しておきなさい」

「は、はーい……」

 それでもハイルは嬉しそうに駆け出していった。

 ぼとっ、とクーロが落ちた。

「クーロ」

 クーロを手に載せる。

「はい、ご主人様」

「あの子はああ言いだしたら止められない子だ。せめて旅のサポートができるように、お前も旅に備えておくれ」

「御意」

「それと、なるべく会話はしちゃダメだぞ。見世物にされてトラブルの元にならないからな」

「御意」

 

 

「うわ……なんかぞわぞわした」

 相変わらずギラつく太陽と曇りない晴天が続く。黒いセーターを着ているダメ男には温かい日差しとなっているだろう。

「風邪ひいたかな……?」

「それは危ないですね……」

「どうしたフー。すごく元気がないぞ」

「分からないのですか? 鈍いんだか鋭いんだか分かりませんね」

「そこがオレのいいところだろ?」

「もう話したくもありません……」

「?」

 ダメ男の足が止まった。

「もう疲れました。少し休ませてください……」

「出発してから三十分も経ってないよ?」

「……電源を落とします……ぷちっ」

「お、おいっ」

 その後、いくら呼びかけても返事してくれなかった。

「仕方ない。今日は一人で行くか。んぅ……でも今日はのんびりだなぁ。以前みたいな殺伐(さつばつ)としたのがない……ん?」

 ガサガサ、と背後に物音が!

「つっ!」

 急いで振り返ると、

「……!」

 チーターだった。しかし、以前と様子が違う。

「こいつ……寄ってきてる」

 ダメ男が手を差し出すと、掌にアゴを乗せてきた。わしわしと撫でると、気持ちよさそうに擦り寄ってくる。

 喉のあたりを見ると、傷が出来ていた。

「最初に会ったチーターだ。よしよーし」

 くしくし、と鼻も撫でた。

「フーが休憩中だから、お前が一緒に来るか? 来てくれるとすっごくありがたいんだけど」

 すりすりと擦り寄る。

「じゃあ行くか」

 ダメ男が歩き出すと、チーターも付いてきてくれる。

「なんだかカワイイやつだな……」

 ふぅ、とため息ついた。

「一人旅は危険だ。いつトラブルに見舞われるか分からないし、二週間も人と会わない時だってざらにあるし。そこで相棒を作ることになるが、一番重要なのは信頼だ。お互いに信頼し合ってないと、いつか絶対に裏切られる。そしてお互いを知り尽くした仲でないと信頼関係は作りにくい。……フー、聞いてるか? 今回、オレはお前を信じられなかった。そして今、お前もオレを信じていない。……これ、一緒にいる意味あるか?」

「……ありません」

「同感だ。じゃあ次な。これからどうする? どうしたい?」

「……」

 フーからの答えはなかった。言い出しづらいのかもしれない。

「……ダメ男はどうしたいのですか?」

 逆に聞いた。

「オレか? オレは……旅がしたい。このまま旅を続けたい」

「勝手にどうぞ。せいぜい嫁のために頑張ってくださいね」

「あぁ。だから勝手にするぞ」

 ダメ男は痛烈な悪態を無視し、また歩き出した。チーターも置いてけぼりを食らわないようについてくる。

「それで、これで何の解決があるのですか?」

「……オレがどうして旅をしてるのか……もう忘れたのか?」

「……あ……」

「……」

 ボリボリと頭を掻く。どことなく照れているようにも見えた。

「第一よ……本当に受けると思ってたのかよ……。そりゃ究極の逆玉の輿だけどさ……」

「だ、だっていつも間抜け面なのに珍しく真面目だったものですから……。それにあんなに疲れて……てっきり……」

「あのさ、昨日の今日で元気バリバリになってると思ってるの? いつもなら三日のところを前倒しで出発しちゃったんだ。二日酔いで気持ち悪いしな」

「ほんっとに紛らわしいですねっ。罰として腕立て伏せで次の街まで向かってください」

「どんなトレーニングだよっ。そもそもフーが悪いんだろっ」

「どうしてですかっ? 何かしましたかっ?」

「……」

「あれ? 本当に何かしましたっけ?」

「……ワニヒコに……くどかれて……ぶつぶつぶつ……」

「! ダメ男、もしかしてやき、」

「あーあーあー、何も聞こえないよーあーあーあー」

「ふふふふっ。なるほどそういうことでしたか。なるほどなるほど。これは面白いことを発見しましたねぇ。意外な一面を垣間見ましたねぇ」

「急に気分良くなりやがって……なんかムカつく! やっぱ帰る! 婿(むこ)になって、あぁでもやっぱいいや」

「? 何があったのです? そういえば、朝帰りの件も解決していませんし、どうやって断ったのです?」

「あぁ、旅の話してたら諦めてくれたよ」

「ずばり言い当てましょう。“オレの生きがいを奪わないでくれ”とか言ったのでしょう?」

「……あ、いやっちがう、違うんだ。そんなことは言ってないぞうん」

「単純馬鹿で馬鹿正直でお人好しは便利ですね。見事に判明します」

「違うんだよっ。えぇっとだな、旅の話をしてたら諦めてくれたよ」

「同じことを言っていますよ。動揺しすぎです」

「……お前エスパーかよ……あ、そういえば“SS”ってどうなったんだ? 宴があったから全然知らないよ」

「どうでもいいでしょう? あぁでも、ワニヒコ様はカッコよかったですね」

「なんだ? またオレの反応見て楽しもうとしてるだろ?」

「さてどうでしょう。しかし誰もが憧れる理想の男性、これに当てはまりますね」

「もういい加減やめろって……」

「これで“おあいこ”ですよ。いいですね?」

「はいはい……」

「それでですね、聞いた話によると、国外追放で済んだみたいですよ」

「へぇ。娘と自分の命を狙ったにしては軽いよな。即刻……かと思ったのに」

「ダメ男、馴染みすぎて忘れていませんか? ここはどこです?」

「……あ」

 

 

「……」

 檻に閉じ込められたワニヒコや元后その他。しかし一切の会話もなかった。というよりそんな場合ではなかった。

「チタオのやろう……こんなところに……」

 そこは沖だった。といっても周りは川。いや泥沼と言ったほうがいいのか。土色の河が流れていた。

 檻の横にはトカゲのような生物がキーキー鳴いている。小さくて可愛らしい。その周りにもいくつか卵があった。

 しかし、そこはとんでもない場所だった。

「!」

 河が波打つ。顔が現れ、やがて全身を露わにした。緑に近いグレーの体色、ゴツゴツした分厚い皮膚、細長いくせに肉厚で、鈍重なくせに意外と素早い。おまけにでかい口を持ち、鋭い牙と恐ろしいアゴを持つ動物。……そう、ワニだ。

 しかもここの地域のワニは格段に大きい。五メートルは当たり前、その二回り大きいのもいた。ここは、ワニの住処なのだ。さらにさらに恐ろしいことに、ここは一頭だけではない。何頭も巨大なワニが生息していたのだった。

 可愛らしいトカゲはワニの子供。その隣にワニヒコたちのいる檻が放置されている。

 一体どうやって運び出したのかはさておき、“絶体絶命”という言葉が可愛らしく聞こえるくらいに大ピンチだった。もはや生きた心地がしない。

 檻をよく見ると、かなり傷が付いていた。攻撃されていたらしい。

「!」

 一頭のワニが“餌”に目がいった。猛烈な勢いで檻に突進した。

「うあぁぁ」

 何十人も“餌”が入っているおかげか、ひっくり返りはしなかった。しかし、恐怖を煽るには十分だった。

「もうやだぁぁっ! 死にたくねぇ! たすけてくれぇっ」

「静かにしろ! 一週間耐え切れたら助けが来るんだぞっ? あと数時間だろうがっ」

「ぎゃあぁぁっ!」

「!」

 ワニヒコたちではないどこかで悲鳴が聞こえた。その後、次々と悲鳴が上がり、あっという間に消えた。聞こえるのは水面を叩く音と生き物が興奮する声。

「俺たちは生き残るんだ……いいか?」

「お、おす……」

 その端くれなのか、ワニヒコは落ち着いていた。もっとも、それも風前の灯。理性をギリギリ保っているだけに過ぎない。

 すると、

「! チタオおぉっ!」

 沖から離れた陸地にチタオの姿が見えた。他に護衛が十人ほどと、ハイルがいる。

「あと数時間だな、ワニヒコ!」

「て、てめぇ! 約束は守れよ! いいなっ!」

「どの口がほざく。その檻を狙撃して壊してもいいんだぞ」

「あぁいや……国王陛下……どうか……どうかお約束を……ぐぐぐ……」

「ふん。哀れだな」

 チタオはハイルを抱き寄せた。

 河からワニが出てきた。

「あ、サンダーだ」

 ハイルは近づいた。しかも開いた口に手を突っ込む!

「姫!」

「心配はいらぬウッシー」

 ところが、口が閉じない。

 ワニは口の中に触れられると反射的に口を閉じる。しかしハイルには決して噛むことはないという。それどころか、

「なめないでよーくすぐったいーあははは」

 口の中で(たわむ)れていた。ペタペタ触ったり歯をニギニギしたりしていた。

 それを見た兵士たちとワニヒコたちは愕然とする。同時に悪寒が走った。もしあの剛強な口が閉じたら……と思うと敵味方関係なしに背筋がぞっとする。危険度は最大級なはずなのに、ハイルは曇りなき笑顔で戯れている。その悍ましい光景に、

「う、うげぇっ」

 吐いてしまう者もいた。

「とても不思議な子だ。ライオンが猫と、ワニがトカゲと、ハイエナが従順なドーベルマンと化してしまう。私には絶対に無理だ。いや、どんな人間ですら不可能だ。それをこの子はいとも容易くこなせてしまう。……親として、元動物学者としてこんなに誇らしい子はいない。……その人類の宝とも言うべくこの子を……貴様らは抹殺しようというのかっ!」

 怒りの矛先が罪人へと向かう。

「私が殺されることなぞ何の価値もないっ。しかしこの子は動物と分かり合うことができる、素晴らしい子だ! ……ワニヒコ! 私の妻を寝取ったばかりかこの子にまで毒牙をかけようとしたな? 挙句、妻まで反乱組織に仕立て上げるとは、とても許されぬっ!」

「ひ、ひぃぃ! ど、どうかおゆるしを……」

 とてつもなく怒っている。コメカミのあたりに血管が浮き出てしまっている。

 ふぅ、と一息つくと、ハイルの頭を撫でた。

「好きにおやり。ハイルに任せよう」

 こくりとハイルは頷く。

「……」

 とても悲しげな表情になるハイル。するとワニ、“サンダー”は何かを感じたのか、素早く方向転換し、檻に向いた。

「……好きにお食べ、サンダー」

 獰猛な雄叫びとともに猛突撃してきた。先ほどと同じように揺れはするもののひっくり返されはしない。ところが、嫌な音がする。

「! やめろ! やめてくれぇぇっ」

「いやだぁぁっ! いやぁぁぁぁ!」

 檻がメキメキと折れてきているのだ。止めには檻に噛み付くと、そのまま得意の猛烈スピンをかました。頑丈な鉄の棒を簡単にねじ切り、一つの入口をこじ開けた。他のワニたちがそれを見るや、あっちこっちで噛み付きスピンをぶちかましてきた。

「いやぁぁぁ!」

「もうやめてくれえぇぇっ!」

「たすけてぇぇっ!」

 そして、通るに必要な入口ができた。

「く、くるなぁっくるなぁぁっ!」

「ぎゃあぁぁぁぁ!」

「あぁぁっ! あああああああああああああああああああっ!」

「おぶっ」

「げあぁぁっ」

「おおおおおおおおおおおっ」

「おあおあおあああっあっあっぁぁ!」

 顔を噛み砕かれ、河に引きずり込まれた。

 腕を噛まれ、スピンされてねじ切られた。

 腹を噛まれ、中身ごと噛み潰された。

 巨体にのしかかられ、全身がプレスされた。

 手足を同時に噛まれ、引きちぎれられた。

 足を噛まれ、そのまま丸呑みされた。

 突進され、身体が二つ折にされた。

 尾で叩きつけられ、両脚があらぬ方向に曲がってしまった。

 食物連鎖のピラミッドに君臨する者は誰だっけ? と再認識されるほどに、(もろ)く、(はかな)く、無惨(むざん)に、呆気なく(ほふ)られていく。中には武器を持って反撃する者もいるが、その僅かな希望を(むし)り取られると、自慢の腕は一瞬で噛みちぎられた。

 半時かからずに食事は完遂した。

「……」

 ハイルは特に表情を変えずに見つめていた。そこに、サンダーが帰ってくる。お腹は膨れ、とても満足そうだ。よしよし、と撫でると嬉しそうにスピンした。

「服が濡れちゃうよー」

 うんうん、と頷いている。

「……へぇ、三人も食べたの? ……母さんも? へぇー。美味しかったんだ? ……うんうん。最近は鳥しか食べてなかったもんね。人間は栄養満点で腹持ちもいいから、しばらくは大丈夫だね」

 ハイルも笑っていた。屈託(くったく)もなく、晴れやかに。

「人間なんて所詮は“餌”だもんね」

 チタオ一団は帰ることにした。

「また来るねサンダー。元気でね」

 帰ろうとするハイルに、ワニたちは雄叫びを上げた。まるで勇気づけるように、激励するように。

 その場には何も残っていなかった。無残に破壊された檻と、(おびただ)しい血以外は。

 

 

 



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第八話:じゅんすいなとこ

 あるところに、広くて栄えていて、自然との調和も取れた完璧に近い都市がありました。至るところに大きなお屋敷や豪華な住宅が建ち並んでいます。そこの住人はお金も物も何一つ不自由することなく、でも贅沢(ぜいたく)はなるべくしませんでした。なぜなら、今の暮らしができるのは過去のたゆまぬ努力と尊い犠牲、そして世界を織り成す大自然の恵みを受け取っているからだと誰しもが思っているからです。

 その都市から少し離れた一軒家、ちょうどお屋敷の背中と“都市の外”を隔てる石垣とが作る一本の隙間に、張り付くようにありました。周りにある豪華絢爛(ごうかけんらん)な建物と表現するには(いささ)かぼろく、良く言えばアンティークな二階建ての木造住宅です。夏は涼しそうで冬は寒そうな仲間はずれの家。もちろん住人はいます。

 タイミングよく、そのうちの一人が向こうからとことこと帰ってきました。少し様子を見てみましょう。

 空色のランドセルを背負って来ているのは幼い女の子でした。首根っこまで伸びた黒髪、前髪は眉毛までなだらかにセットされています。子供にしては全体的に(りん)としていて、きりりとした目つきをしていますが、

「あ……、お母さん、ただいまぁ!」

 二階で洗濯物を干しているお母さんを見つけると、爛漫(らんまん)な笑顔を見せるのでした。

「お帰りなさい、×××」

「へへっ」

 先ほどの冷めた表情が嘘のようです。

 彼女は走り出しました。ランドセルをゆさゆさと揺れ、中をがたがたと掻き混ぜます。途中で転びそうになりますが、一旦踏みとどまって、また駆け出します。

 彼女のお母さんはそれを微笑ましく見ていました。お母さんがそんな気分に浸っていると、

「シー様!」

 後ろからメイド服を着た女がやって来ました。呆れつつも怒り気味です。

「それは私めが致します! こちらの面子というのも少々ご考慮ください!」

「そんなに怒らなくてもいいじゃない……」

「いえっ。今日はお体が優れないと伺ったので、心配なのですっ。しかも×××様のお帰りの際に合わせて、」

「もうわかったわ。でも、これが日課なの。続く限りこなしていきたいのよ……」

 彼女のお母さんであるシーは彼女の来た道を愛おしむように眺めました。バルコニーの柵に肘をつき、頬杖を作ります。

「……さぁ、中へ戻りましょう? 今日は暖かいですが、それでもお体に障ります……」

 メイドさんと一緒に戻りました。

 家の中は設備の整った山小屋のようでした。外見とは裏腹に天井が高く、骨組みが丸見えです。しかしそこは二階で、くるくると扇風機のようなものが張り付いています。一階はというと居間に、ドアが東西と北にあります。南はすぐ玄関です。北はキッチンなどの調理場、東は寝室、西は浴室へ繋がる廊下があります。その廊下にトイレと二階へ上がるための階段があります。居間には大きいテーブルが占めていました。

 少女がランドセルをそこに無造作に置きます。と、同時に、

「こらっ。荷物は自分の部屋に片付けるっ」

 シーとメイドさんが二階から降りてきました。

「もう、レイさんと同じように言うね、お母さん」

「あら、そうね。怒り癖が移ったかしら……?」

「そ、そんな……」

 二人は笑い合いました。

「ところで、お父さんはいつ帰ってくるの?」

「今日には帰るって手紙で来たわ。長旅だから多少のズレはあると思うけど……」

「いいよ! “ぼく”はお父さんの“息子”だから我慢できるよ!」

 少女改め、“少年”はニィっと笑って、ランドセルを担いで二階へ走っていきました。どたどたとうるさいので、途中で怒られました。

「旦那様のことを本当に尊敬してらっしゃるみたいですね」

「そうねぇ……。この街の英雄だか有名人だか言われてるけど、私にしたら迷惑なのよねぇ」

「それは、どうして……?」

「ただ一人の夫だもの。死んじゃやだわ」

「……私も旦那様に尊敬の念を抱いていますが、……それは複雑ですね……」

「ここの風習だもの。仕方ない仕方ないっ」

 シーは陰りのある笑顔を振るいました。

 今のうちに説明しますと、この街は“外”に出て旅をすることが尊敬や賞賛に値するとしています。それは資格が必要だからです。基本的に学校などの教育機関は設けられていませんので、卒業資格などの制限は存在せず、また受験者の年齢、職業、性別、経歴などの制限は一切設けていません。つまり、老若男女、医者でも政治家でも一般人でも極悪犯罪者でも誰でも受けられます。しかし、試験は合格率が一パーセントを切るくらいの超難関だと言われています。なので、合格すること自体が大変名誉なことなのです。そして合格するために、塾や予備校などの個人施設には通い詰めする受験者で溢れかえっています。ちなみにカンニングした受験者は言語道断で死刑、資格なしに旅を試みようとした者は家族もろとも即死刑です。そんな愚かなことをした人は今日までいませんが。

 少年のお父さんはその試験に一発合格し、さらには歴代一位の成績を取りました。しかもその活躍はそれに留まらず、この街の発展、周辺の国や街への支援にも尽力し、数々の功績をあげているとのことです。そのせいで家を空けることがしょっちゅうで、むしろ家にいる時間の方が少ないのです。それでも誰ひとりとして彼を侮蔑したり嫉妬したりしません。特にこの家庭は決してしませんでした。

 おっと、どうやらヒーローの登場です。

「ただいまぁっ!」

 ドアを蹴破るくらいの勢いで開けました。

「お帰りなさい。それと、もう少し優しくね」

「お帰りなさいませ、ヒル様」

「がはははっ! そんなみみっちいこと言うなよ、シー!」

 一家の大黒柱であり、英雄と称えられるヒルは口を大きく開け、豪快に笑いました。フレームのない眼鏡に無精ヒゲ、肉付きのいい体で黒いタンクトップにポケットの多い半ズボンの服装です。そのおかげか、日焼けで黒光りしています。

 ヒルはどさりと馬鹿でかいスーツケースをテーブルに載せました。テーブルの太い足が懸命に支えます。

「おーい! ×××! おみやげあるから下りて来いよぉ!」

 低くて渋い声で少年を呼びました。少年は落ちるように階段を下りて、ヒルに抱きつきました。

「お父さん! 久しぶり! ……汗くさ!」

「おうおうおう! それが男の勲章ってもんだ! がははは!」

 シーは今すぐ風呂に入るように促しました。というより脅しました。少年から見えないお尻のあたりに包丁が突きつけられています。

「さすがは我が妻。そろそろ夕飯だろ? オレは食材じゃないぞっ、ハート」

「ヒル様、気持ち悪いです」

「気持ち悪いってなんだよ! 一家の大黒柱に向かってなんてことを!」

「お父さん、話が進まないからさ。……おみやげ……だよね……?」

「ナイスだ、×××」

 女二人は舌打ちをして、キッチンのある北の部屋に戻っていきました。ちなみに、北の部屋のドアはなぜか鉄格子でできています。

 残った男二人はテーブルに座って、スーツケースの中を見ていくことにしました。

「今回の一番でかいエモノは、これだ!」

 そう言って出したのは、何やら怪しげな“もの”でした。黄緑とも水色とも言いがたい中間の色で、かなり大きめの蝶番でした。さまざまなデザインが施されています。でもそれにしても、少し脆そうです。

「……何それ?」

「ふふん、いいか? こいつはな……、」

 鼻で笑いながら、少年に渡しました。

「オレにもわからん」

 少年は本気でそれを固い床に叩きつけました。

「馬鹿ものぉぉぉ! 何しとんじゃぁぁぁ!」

「どうしてこんなにいじりがいがあるんだろう……?」

 幸いにも、それは壊れませんでした。それどころか傷一つついていません。

「すごいがんじょうだね」

「次の旅でそいつの正体を暴くんだから、乱暴にするんじゃない、いいな?」

 おちゃらけていた顔がその時だけ真面目になっていました。少年はドキッとして、丁重に返しました。

 本人曰く、この謎の物体は支援してくれたお礼にと、工業分野で発展した国からタダで貰い受けたものらしいのです。しかも最高機密の物だと、うたっているとのことです。

 少年は悪ふざけを心から反省しました。下手をすれば、怒られるだけではすまない事態なのだと悟りました。

「あ、そうだった。こんなんはどうでもいいんだ」

 ヒルはその一品をスーツケースの中に放り投げました。少年は複雑そうな顔つきでヒルを見つめます。

「お前にプレゼントするのは、……えっと、どこだっけ……」

 中身をテーブルにかき出していきます。変な置物やエグイほどに鋭いナイフ、それに組み立て式の大きい“筒”が出されていきます。気になった少年は聞いてみると、最初に“ば”がつくものだと答えました。“ば”のつくものが思いつかず、話はそこで流れていきました。

 そして、

「あったあった。じゃじゃ~ん!」

 効果音と共に出したのは、メタリックな黒い箱でした。両手の掌よりも大きいハードケースで、持ってみても、そんなに重量を感じません。

 ヒルに、開けてみろよ、と促され、少年はおそるおそる開けてみました。

 中には三本の筒が緑のマットにしっかり埋め込まれていました。ちょっと振っても落ちません。その筒はやはり黒く、竹のような形で、一本毎に細い鎖でぐるぐる巻きにされています。

「……何これ?」

 少年は当然、聞きました。

「考えたりいろいろしたりしてみろよ。“洞察力”ってやつだ」

 早速、弄ってみることにしました。

「どうさつりょく?」

「つまり、見る力であり、それが何なのか、何をするためなのかを判断する力だ。そして対象が生き物だったら相手が何をしようとしてるのか、どんな気持ちなのか、とかを読み取る力だ。生きていく上では重要だな。そんでもって、」

「あ、下に何かある」

 ヒルはちょっと泣きそうになりました。それを横目に、少年が筒の埋まっている“台”をうまく引っこ抜くと、ケースの最下層に何本かの刃を見つけました。両刃のものや、片刃でその根元に凹みがあるもの、太く短いもの、ぎざぎざがついているものなどがありました。それら全部は細い竹のような金属棒がくっついています。

「……剣?」

「正確には組み立て式のナイフだな」

 ヒルはマットに埋まっていた“筒”と両刃の刀身をテーブルに置きます。まず鎖を解いていき、“筒”の根元を引き抜きます。ここの部分だけキャップのような覆いになっていて、それに二本の鎖が繋がっていました。

 すると、“筒”が竹を割ったように中をさらけ出しました。節の部分にはゴム板がわずかな隙間を空けて張り付いています。そこにちょうどはめ込むように、刀身を置きました。刀身についている竹のような金属棒が見事にフィットしました。

 後は逆の工程でしっかりと“筒”を締め上げ、固定しました。“筒”はナイフの柄となりました。

 少年は一切しゃべらずに、それをずっと見ていました。見逃すまいと瞬きをせずに、食い入るように見ていました。

「これはとある町工場で作ってもらってな。いい素材でできてる。刃こぼれもしにくいし軽くて丈夫だ。ただし、手を守るガードがついてない。(つば)迫り合いなんかしたら、相手の刃がずるっと下に滑って指を切り落とされるからな。そこは用心しとけよ」

「……」

 できあがった一本とハードケースを少年に渡しました。

 ちょうどよく夕食ができたようです。シーとレイが二人のいるテーブルに食器を運び出しています。

「あなた、まだこの子には早すぎるわ」

「んぁ? そろそろ夏だろ? 旅人試験がやるじゃないか」

「まだ十三よ? まだ塾でも基礎中の基礎しかやってないし……」

「確かに、いくらヒル様のご子息でも無理があると……」

「オレなんか十五で取ったぜ? 年齢なんか関係ねえよ」

「それはあなたが異常なのよ」

「合格者の平均年齢は二十代後半だと聞きました。さすがはヒル様ですね」

「そ、そうなの……。すご……」

「カンニングでしょ? どうせ」

「ガチで挑んだわ! 国長に呼ばれて表彰されたし、最年少記録だし!」

「それなら、×××! あなたが破るのよ!」

「無理だって、そりゃ。よっぽどの天才じゃないとな」

「“天災”ですか?」

「レイ、お前……災害の方で言ったろ?」

「あながち間違っていないわよ」

「そうだね。嵐のように帰ってきて、去っていくからね」

 

 

 夜。雲一つない夜空で、丸みを失った月が浮かんでいます。太陽と同じように地上を見せてくれています。少年たちの住む街は城壁として石垣が固められており、そのせいで多少は陰っていますが、きちんと照らしてくれています。

 毛布が少し必要なくらいに空気は冷めていました。しかも物音も一切しないので、どことなく張り詰めています。

 その時間帯は皆が眠りについている時でした。でも、少年は起きていました。寂しいからでなく、久々に父親と話ができて興奮したからでもありません。天窓から月が漏れているからでもありませんでした。ただ、眠れなかったのです。毛布に包まっても、目を瞑っても、考えていることが頭から離れなかったのです。

 少年は震えていました。時に涙を見せていました。毛布で目を擦り、出ては擦りを繰り返して、

目が真っ赤になっています。

「……どうしたんだ? ×××?」

 下からヒルがやって来ました。我が子の異変に既に気づいていた様子です。

「お父さん……」

 心配して駆け寄ってきたヒルに抱き付きました。着ている服をぐしゃぐしゃにして、涙でまた汚しました。

「オレのことが心配なのか?」

 強く頭を横に振りました。あはは……、と苦笑いを零します。

「お父さんは強いから……心配ないでしょ?」

「まあな。……じゃあ、何が怖いんだ?」

 少年は(おもむろ)に枕元から、ナイフの入ったハードケースを持ってきました。ヒルは意外そうな面持ちで少年を見つめています。

「……もしかして、別なのがよかったか?」

 ぶんぶんと何回も横に振りました。

「うれしいよ、すっごく……でも……」

「でも?」

 言葉に誘われて鸚鵡返しをしてしまいました。

「……これをくれたってことは、人を殺すことができるってことだよね……?」

「……!」

 黒塗りのハードケースを再び枕元に戻しました。そして少年がヒルを見ると、

「お、お父さん……?」

 顔には冷たさも温かさもありません。大雑把だけど豪快で温厚な父親が見せる別の顔。全くの無表情で見下ろしていました。少年の全身を(すく)ませるほどの威圧感は殺気に満ちているとしか言いようがありません。それを少年は瞬時に感じ取りました。

 ちょっぴり肌寒いのに吹き出る汗。気化熱でさらに体温を奪います。その汗自体も冷たく、止まることはありません。それが首筋から緑のパジャマの中に伝い、一部を湿らせた時、少年の体はぴくりと反応しました。ベッドに乗り上げる“男”、手足をゆっくり使って後ずさる少年。まるで捕食者と被食者のようです。

 そして、後がなくなりました。異変を起こしているのは明らかに……、と言いたげに少年は見ました。

 その瞬間、

「×××」

 肩を掴まれました。大の大人に力で勝てるはずがありません。少年は目を瞑って堪えると、急に温かくなりました。

「……え……?」

 ぎゅうっと抱きしめられていました。

「……」

 何が何だか理解できずにいると、耳元で、

「いいんだ」

 囁きました。

 そして離れて、あの豪快な笑い声と笑顔を小さく見せてくれました。

「いいか? お前の言ったことはすごく大切なことだ」

「……」

 少年はあまりの怖さに自分が何を言ったのかもど忘れしていました。それを悟ったヒルは頭を撫でてくれました。

「“これをくれたってことは、人を殺すことができる”……そうだ。こんなものを使わなくとも殺すことはできる。だが、大切なことは、自分が相手を手にかけた時、生き物を殺したんだと実感することだ」

「……それって……怖いよ……」

「そうだ。どうしようもない時は相手を殺さないと、こちらが殺される。しょうがないんだ。生きている者を突き刺し、(えぐ)り出し、切り刻む。そして殺す。……考えただけでも怖いだろう? それは自分が人間である印だ」

「……うん」

「そして、殺したやつらのことを絶対に忘れない。……たとえ自分を憎んでいるやつでもな……。×××、お前は命の尊さについては十分理解してるようだな。それだけは何があっても忘れちゃダメだぞ」

「うん……! 絶対に忘れない!」

「おう。殺すことの恐ろしさ、おぞましさ、命の尊さを忘れ、逆に快感として見出す連中にはなっちゃいけない……! 絶対に……!」

 小さい声で、でも喉が潰れるくらいに強く言いました。目にうっすらと涙を溜めているのが、夜の暗い中でもわかりました。

「旅人の先輩として、いいことを教えてやろう」

「な、なに……?」

「旅人試験にはペーパーテストもあるが、その中に必ず作文問題があってな……。タイトルは決まって“命の尊さ”なんだ。この配点は百点満点中八十点で、残りは一問一点の正誤問題なんだよ。合格点は九十点以上なんだ」

「お父さんは歴代一位なんでしょ? 何点だったの?」

「……その様子だと、シーがちくったんだな? 恥ずかしい話だけどな……」

「うんうん!」

「九十九だよ」

「すごい! ……それで、何を間違えたの?」

「……“牛乳は消費期限が一ヶ月過ぎても問題ない”……」

「………」

「オレは大丈夫だと思ったんだがなぁ」

「さすがは野生児だね……」

 

 

 朝、ようやく日が昇る頃に一階から物音がしました。眠りの浅かった少年は寝ぼけてバルコニーに行くと、誰かが走って出ていきました。他の誰も起きていないので、念のため鍵を全てチェックしましたが、特に問題ありませんでした。お父さんの早朝のマラソンだろう……、と眠い目を擦りながら、再びベッドで眠りました。

 それから数時間して、お日様が弱々しく出てきました。さらに鶏が鳴いて一日の始まりを告げるのでした。少年家では全員起きました。

 肌寒かった気温もちょっとずつ上がり、ぽかぽかの陽気になるみたいです。風も少なく、まさしく春の天気と表現するのがいいのですが、今は夏に近いのでした。

 汗だくのヒルはシャワーを浴び、他の三人が朝食の仕度をしています。

「ヒル様の体は逞しいですね」

「あら、惚れちゃった?」

「い、い、いえ! そんなことっは、」

「無理ないわ。私だって帰ってくるたびに惚れ直しちゃうんですもの」

「そ、それよりも、シー様、ななにをしているのですか! ごゆっくり腰をお掛けください! ほら、×××様もです! 私の仕事ですからっ」

「×××はともかく、私は邪魔だって言いたいの?」

「お母さん、ヒドイよ……」

「あ、そんな顔しないで、×××~! 胸がキュンキュンするじゃない……!」

「シー様、親バカ全開です。しかもキャラが変わっています……。とにかくお二人ともヒル様と家族三人でごゆっくりしてくださいませ……」

「何言ってるの? あなたもとっくに私たちの家族よ?」

「そうだよ、レイさん。ぼくが小さい時から世話してくれたのは知ってるんだよ?」

「ですが、私は、」

「今さら境界線引いたってムダだよ。もう家族の一員っていう意識が染み付いてるもん!」

「×、×××様…………私、」

「超うれぴいいぃぃ! ってか!」

「…………」

「…………」

「…………」

「……何? この空気……。オレがスベった感じに、ってなんでガスコンロがこっち向いてんの? なんでやかんの口がこっち向いてんの? なんでフォークを指の間に挟んでんの? しかも殺気立ってるし、ってまさか、やめ、危ない、あちって熱いから、オレは朝飯のおかずじゃないし、フォーク突き刺すなよ、痛いから、いたあちゃああぁぁぁ!」

 朝から騒々しかったのでした。

 三人と一つ(?)は朝だというのに家族団欒で会話が弾んでいました。

 それからしばらくして、少年は塾へ、シーとレイは家事全般をいつものようにこなしていきます。そして、ここのヒーロー、ヒルはというと、

「なんか暇だなぁ……。でも、たまには羽を伸ばすのもいいな」

 ぐうたらと寝っ転がっていました。あまりにも暇なので、居間に向かい、テーブルでうな垂れます。それを見かねたレイはマグカップを差し出しました。

「旦那様、ここへ帰ってきてはのんびりとしてらっしゃいますね」

 子ども扱いをするような笑みでした。ヒルは短く礼を言って、啜りました。中はコーヒーです。

「そういうこと言わないでくれよ。ここでしか休まらねえんだ……」

「サラリーマンの言い訳みたいですね。確かにそうですが」

「あと二日くらいは休みたいね。最近は不況だから有給じゃなくてもいいぜ」

 あはは……、と苦笑いでリアクションをとるしかありませんでした。

 レイが家事に戻ると、今度はシーが二階から降りてきました。相手を小恥ずかしくさせるような澄んだ笑顔でやってきます。ヒルは思わず照れてしまいました。

「どうしたの? 風邪?」

「ん……いや……、なんでもないっす」

 直後、それが怪訝な顔に変わりました。

 彼女はヒルの隣に座りました。

「……ところで、×××はどうよ? 虐められたりしてねえか?」

 きまりが悪そうに話題を振ります。

「そうね……。ちょっとあるかもしれない。表情、暗い時が多いから……」

「男のくせに女顔で、なよなよしてて、泣き虫だからなぁ……。お前さんの美顔とそっくりだよ」

「私のせいなの?」

「むしろオレのせいさ。本当に悪いな。シーには苦労かけっぱなしで……。ヒーローだのなんだの言われてるが、親としては最低だよ。家族をほったらかして行くなんて、」

「もういいよ。誰もあなたを責めないし恨まない。逆にあなたは皆に求められる存在じゃない。それは私たちも含めてね。×××はあなたの言いつけをしっかり守ってるわ。最低な親の言いつけを誰が守るっていうの? 少なくとも私たち、特に×××はあなたを尊敬してるわ……」

「…………」

 二人とも話さなくなった時、レイがもう一つのマグカップを持ってきました。ありがと、と短く告げて、啜りました。同じタイミングでヒルも自分のを口に含みました。中はどちらもコーヒーです。レイはくすりと漏らし笑いをしてしまいました。

 そのまま今度は洗濯物を干しに行きます。ピンクの洗濯カゴを両手に持って西の廊下から二階に向かいます。階段は曲がりくねっていて、ちょうど居間の真上に着きます。

 少年の部屋の南側に取り付けられた広いバルコニーに物干し竿が横に二つあります。そこにハンガーやらなんやらがかけられています。レイは丁寧に干していきました。

「……?」

 視界の片隅にふと何かが映りました。そちらを見ると、

「……これって……」

 黒い箱がありました。バルコニーの角にぴったりと置いてありました。レイはこれが何であるかを知っていました。

「……ヒル様からのプレゼント……」

 中を調べると、組み立て式のナイフの柄が二本ありました。しかし、一本分の隙間がありました。

「ない? ……あっ」

 昨日のことを思い出しました。ヒルはお手本として先に組み立てていたのです。思っていたことが妄想となって、ほっと胸を撫で下ろしました。そして本業に戻りました。

 洗濯物を干し終わり、今度は掃除です。洗濯カゴを浴室に戻し、代わりに掃除機とはたきを持ってきました。レイはマスクを着けて、はたきをします。綺麗好きらしく、かなり細かくやりました。しかし、それが逆に不安にさせていました。

「……」

 どこにもその一振りが見当たりません。ベッドの下にも、机の裏、中にも、タンスの中にもありません。脇から嫌な汗が(にじ)み、手が湿りだしました。

「……」

 急いで掃除を済ませ、一階に駆け下りました。用具はほったらかしです。

「ヒル様! シー様!」

 雑談していた二人は、笑っている途中でした。

「なに?」

 と、間の抜けた返事をしたのはヒルでした。

「×××様のナイフがバルコニーに置かれていまして、中を見たら……、」

「見たら?」

 シーが言いました。

「……一本、ありませんでした」

「そりゃ、どっかに置いてあんでしょ」

「掃除のついでに隅々まで探したのですが、見つけられませんでした……!」

「つまり、それを学校に持ってったってのか?」

 ヒルが先に言いました。こくりとレイは頷きます。

「まさか、あの子……仕返しするつもりじゃあ……」

 レイとシーは顔が真っ青でした。一方のヒルは片目を瞑って唸っています。

「わーった。オレが学校へ見に行ってやるよ。お嬢様二人はのんびり紅茶でも飲んでてくれや」

 

 

 少年の塾は一般的な学校と言っても過言でないほどに、広くて設備が充実していました。塀で囲まれていて、校門、校舎、体育館という順でちょうど一列に並んでいます。校舎の校門側には校庭が、体育館側にはそこへ行く渡り廊下しかありません。他の空いたスペースには木が生えていたり、何もなかったりします。体育館と塀の間、いわゆる“体育館裏”は人気(ひとけ)が全くありません。なので、よくイジメの現場になりがちなのでした。そこには、

「ぐっ……」

 少年がいました。体育館にもたれるように座っていました。彼だけでなく、

「おいオカマ! もうへばったのかよ!」

「今回はもった方じゃね?」

「泣いてないっしょ。でもそれでも英雄“ヒル”の息子かぁっ?」

 “いじめっ子”が三人いました。彼らは少年より明らかに年輩で体が大きく、強そうでした。そのうちのリーダー格の男が少年の胸倉を掴み上げます。少年の首に掛けてある二つの黒い輪っかが大きく揺れました。

「ちったぁ根性見せろよ!」

 そしてお腹に膝蹴りを何回もくらわせました。その間、他の二人はゲラゲラと(みにく)く笑っています。少年は何とか耐えようと歯を食いしばっています。歯軋りが聞こえてきそうなくらい、力を込めています。

 それを見てイラついたのか、

「こいつがホントにオカマか調べてやろうぜ」

 汚くにやつきました。

「裸にひん剥いて、写真撮って、女子に売ろうぜ」

「変態かよ、お前……」

「マジキモイ……。でも、金儲けにはのった!」

「誰が買うんだよ、そんなの……」

 一人は気乗りしないみたいで、見学に回りました。それでも少年は敵いません。

「いや、やめてよ……やだ、やだあぁぁ!」

「なんかお前、女っぽ……」

「誰か助けてえぇぇ! やだああぁ!」

「な、なぁ、さすがに止めないか? これはマジでヤバイって」

「腰抜けだなぁ。どうせバレないって。ほら、あと少しだぜ」

「肌白っ! っていうかホントに女だったらシャレにならん」

「やめてぇ……、ごめんなさい……ごめんなさい……」

「あとシャツとパンツだけだ。なんかぞくぞくしね?」

「た、確かに。俺ら生粋か?」

「俺は知らねえぞ」

「なに、脅しの写真何枚か撮れれば大丈夫だよ」

「うわ、パンツ脱がしやがった……。こう言っちゃなんだが、本当に男なのが残念だ……」

「言えてる。俺ら、犯罪者になっちまったよ」

「俺もかよ」

「当然。俺らは運命共同体さ。あとは上も……」

「うわぁ……白いな、って……」

「なんだこりゃ?」

「ネックレス……じゃねえな……? 物騒すぎるだろ……」

 少年はネックレスを後ろに隠しました。それは昨日のプレゼントをネックレスにしたものでした。柄と刃それぞれに分けています。

「昨日はそんなのなかったよな? もしかして、誰かから貰ったんか?」

「そういや、うちの親父が、英雄が帰ってきてるとか言ってたぜ」

「つーことは、土産の可能性が高いな」

 次々と的中し、ネックレスを握り締める手が強くなりました。

 リーダー格の男がまたにやつきました。でも、額から汗をかいています。

「お前、まさか」

「貰っちまおうぜ」

「さすがにそりゃまずすぎるって。あの英雄のだぜ? 何かあったら……」

「それじゃあ、合法的に取引すっか」

 その男は少年の服を見せ付けました。

「服を返してほしかったら、そいつをよこしな」

「強奪じゃねえか」

「立派な取引さ」

 少年はついに、泣き出しました。

「泣いたって誰も来ねえよ。どうする? 裸のまま家に帰るか、そいつを渡すか、二つに一つだ」

「うぅ……っ……そんなの、えらべないよ……」

「俺は別に帰ってもいいんだぜ? そいつをくれりゃあ話は終わるのになぁ……」

 リーダー格の男は蔑んだ目で見下ろしています。

「そうじゃないとすると、お前は露出狂かあ? オカマでそれは勘弁してほしいぜ」

「お前、鬼畜だな」

「ちげーよ。もしかしたら英雄ももともとはオカマで露出狂なのかもな」

「……!」

 ぽろぽろと落としていた涙が、さらに激しくなりました。そして、ネックレスを差し出し、

「観念したか、」

 ませんでした。

「!」

 男の掌に深く埋まっていきました。

「ぎゃあぁぁぁぁぁっぁ!」

 汚い声で叫びました。少年は勢いよく引き抜きました。赤い液体が少年の体に数滴飛び散り、刃とそこを汚します。一方の“穴”からは液体が溢れ出て、止まることを知りません。ついに腕や衣服をも汚しました。

「て、てめえ! よくも、」

 刺しやがったな! それは虚空に消えました。代わりに似たような叫び声が出てきます。“穴”は首の根元にできて、その返り血で白い体を染め上げてくれました。赤い下敷きを通して見るように、目の前の景色も赤くなっていました。それがおかしいのか、少年は笑っています。でも同時に涙を流していました。

「……お父さんを侮辱するのは……許さない!」

 少年は容赦しませんでした。刃を使わない代わりに、生まれたての姿で、

「ぐほっ」

 殴り、

「ぅげっ!」

 蹴り、

「うぇぉ!」

 踏んづけ、枝の折れるような鈍い音がしても、一方的な暴力を緩めることはありません。そしてその中の一人が、ついに痙攣してしまいました。侮辱した男です。

「も、もう止めてくれ! 俺らが悪かった! 死んじまうよ!」

「頼む! もうお前に手出ししない! 本気で悪かった! 許してくれっ!」

 リーダー格の男と見学に徹していた男が土下座して、徹底的に謝ります。少年に衣服を返します。でも、

「ぼくのことはいいんだ……。我慢できるから……。でも、お父さんを馬鹿にしたのだけは絶対に許さない! どんなに謝ったって許すもんか! お前なんか……お前なんか……」

「う、うわぁぁぁぁぁ!」

「殺してやるっ!」

 そこへ、

「遅かったか!」

 ヒルが駆けつけてきました。数人の先生と二人の医者が同行しています。

「! お父さん……」

 少年が止まった隙に、いじめっ子二人は少年を取り押さえました。そして首飾りを引きちぎり、手の届かないところに投げました。

 医者はすぐに被害者の容体を診ます。

「い、いかん……! 肋骨が肺に突き刺さっているかもしれん! 今すぐ病院へっ!」

 やがて、パトカーや救急車が到着しました。いじめっ子三人は病院へ運ばれていきました。少年は校門でしゃがみ込んでいました。毛布に包まれ、手錠をはめられています。

「お父さん? 見て見て、いじめっ子をやっつけたんだよ?」

 血まみれた刃を掌いっぱいに見せました。ヒルは気取られないように慎重にそれを取り上げます。そして刃と同じように血まみれた少年を抱き寄せました。

「こんの、バカたれが……!」

「なんで……? あいつらはぼく以外にもいっぱい虐めてた。しかもお父さんを馬鹿にしたんだ! だから成敗してやったんだよ? どこが悪いの? 動物だって平気で殺してたし、いろんな人を傷つけてきた。動物だって生きてるんだよ? ぼくたち人間と同じように生きてるんだよ? そんな連中は殺しを楽しんでるとしかいいようがないよ。そいつらをどうかしてると思わない? お父さんだって、そんなヤツにはなるな、って言ってたでしょ? だから連中が殺してきた動物たちのようにしてあげただけ。でもお父さんもぼくも悪くないよ。悪いのは虐めてた連中さ。ぼくはお父さんの言ってた通り、自分を守ったんだ」

 少年は白黒の車に乗りました。ヒルも同乗することになりました。

 

 

 取り調べ室。狭くて怖くて、あらゆる圧力がかかる場所。記録を残すためのデスクと、圧力をかけるために相席させるデスクしかありません。あと、少年の背後に鏡もありました。

 その中に少年と大人二人がいました。一人は記録係として、もう一人は少年から聞き出す係として。しかし聞き出し役は困っていました。

「……それで?」

「ぼく……ずっと虐められてた。ノート捨てられたり教科書破られたり、さっきは服を取り上げられて……ひどい事されそうになった……」

「うんうん」

 少年が素直に供述すればするほど、純粋な悪でないと思い知らされたためです。客観的立場にいなければならない聞き出し役でさえ、揺らいでしまうほどでした。

 困ることはそれだけではありません。鏡の奥の存在が気になって仕方がないのです。気になるというよりも、畏怖(いふ)畏敬(いけい)、矛盾する念があるのです。もちろん、鏡の奥には……。

「つくづくだな……オレは……」

 ヒルの姿がありました。

「本来は絶対禁止なのですが、あなたほどの人物では断ることができませんからね」

「感謝してるよ。実情を知るためには、無理を通すしかなかった。あいつは弱音を吐くフリをして本当に苦しいことを胸にしまうからな。立派な擬態だ」

「今回の事件……このままだと懲役は避けられません。下手をすると極刑にも……」

「被害者はどうなんだ?」

「もちろんただでは済みませんね。それでもせいぜい執行猶予でしょうか」

「……」

 ヒルはいつになく重い表情でした。少年が吐き出す苦痛を聞くたびに顔が(ゆが)みます。一緒に苦痛を味わっているようでした。

「一、二週間……落ち着かせてくれ」

「あなたをですか?」

「いや、あいつをだ」

「! そ、それは、」

「刑に服してやってくれ」

「し、しかし……」

「いいんだ。それも経験だ」

「……」

 気が狂ってる……、そう思わずにはいられませんでした。

 供述が終わると、少年はそのままどこかに連れて行かれました。しかし、不思議と足取りは軽く見えました。顔つきも(けん)が取れたようでした。

「……さて、少し忙しくなるな」

 

 

 少年は牢屋で死を待っていました。己がした過ちと罪悪感を鎖のように縛り付け、重すぎる(かせ)として身に(まと)いながら。最愛の家族の思い出も消え失せようという頃、ちょうど二週間経った頃です。

 一切の光も入らない牢屋に、一筋の(まぶ)しさが差し込みます。少年は目が(くら)みました。目が慣れるのに時間を要しましたが、人影が遮っているのはすぐに分かりました。

「……大丈夫か?」

「……」

 少年の身体は鶏ガラのように()せ細っていました。(かたわ)らに食事がそのまま残されています。

「出ろ。もうここにいなくていいんだ」

「……え?」

 どきりと胸が打ちました。久しぶりに心臓が動いた感じです。まるで長年放置された錆び付いた機械を動かすようです。

 人影は少年を抱え上げました。恐ろしいほどに軽い、病気かと思ってしまうほどです。

 少年は誰かとも分からない胸の中で温かさを感じていました。あまりに心地よくて、

「でも、だれ……う、ん……」

 眠ってしまいました。

「……」

 人影はそのまま医務室へ運びました。

 

 

 少年が意識を取り戻したのは、それから五時間後でした。白い部屋、温かい空気、ふかふかのベッドに毛布、極限状態の少年にとって極楽の世界でした。むしろこのまま逝ってしまいそうな、

「おい、生きとるか?」

 それを現世に引っ張り出したのは、白衣を着た老人でした。

「あ、え……うんと……」

「ふむ。ちょっと大人しくしとれな」

 医師です。老医師は少年の眼球を見たり身体を動かさせたり、少し会話させたりしました。

「異常なし。よかったよかった」

 嬉々として、何かの用紙に書き込んでいきます。

「あ、あの……ぼくは……」

「あぁ、自分の置かれとる状況が分からんのじゃな?」

「は、い」

 久しぶりに口も動かしたので、しどろもどろです。

「お前さんは釈放じゃよ」

「しゃ、くほっう……?」

「ここから出て普通の生活に戻れるんじゃよ。じゃが、体調が良くない。正式な釈放は一日二日休んでからじゃな」

「ま、まって。なんで……? だってぼくは……」

「そんなのボケ老人には知らんことじゃ。治療して釈放しろということしか聞いとらんからな」

「……」

「詳しい話は身内に聞くことじゃな」

「うん……」

 

 

 さらに二日間、少年は休養しました。体調は完全ではありませんが、だいぶ元気になりました。これにて釈放です。

 釈放は呆気ないものでした。老医師が施設の入口まで連れて行いき、

「これで普通の生活に戻れるぞ。達者でな小僧」

 その一言で終わりました。

 一分くらいぼーっとします。しかし少年の頭の中はまだ混乱していました。

 そんな錯綜(さくそう)した思考の中で、唯一導き出したことがあります。

「……家に帰ろう」

 少年は歩き出しました。

 二週間くらいの期間で帰り道の心配をしましたが、杞憂(きゆう)に過ぎないようです。何千回と歩いてきた帰路を身体が覚えていました。

「……あ、こっちじゃない、あれ、こっちだっけ? うーんと……」

 覚えていたのです。

 何とかして家に帰ることができました。相も変わらず少しボロい家、しかし少年の生きてきた証です。

 中に入ると、何かが違うことに気づきました。

「……レイ、さん……?」

 この家のメイド、レイがテーブルに伏していました。

「レイさん、どうしたのっ? れい、」

 パチン、と高い音がしました。

「っ!」

「のこのこ帰ってきたのですね」

 右頬、じーんとした鈍い痛み。

 レイは涙ぐんでいました。

「……お、とうさんは……? お母さんは?」

「帰ってきませんよ」

「え?」

 とりあえず、少年はテーブルに着きました。

 レイは険しい面持ちで、

「聞こえませんでしたか? ヒル様もシー様も二度と帰ってこないんですよ!」

 言いました。溜め込んでいた涙が一気に吹き出てきました。レイはゆっくりと目を閉じました。やがて、何かを決心するかのように目を開けます。

「れ、レイさん……」

 キッチンへ向かい、コップを持ってきました。水滴が酷く付いたままで、水道水でした。

「ヒル様は×××様の愚行を許すように警察に訴えました。もちろんそんなことは許されません。ただし、ヒル様は自ら交換条件を突きつけました」

「な……なに……?」

「自分の旅人資格を剥奪し、永久追放を受けることです」

「え……!」

「もともとここは普通の旅人が入ることのできない国なのです。その区別をするためには旅人資格を使って照合するのです。つまり、旅人資格はここの住民であることも示しています」

「そ、それじゃあ、お父さんは、」

「そうです。自分の存在と引き換えに×××様の免罪をするように警察に差し迫ったのです。それだけではありません。その事件すらなかったことにするように関係者全員に訴えました。これに警察と関係者全員はこれを受諾しました。ヒル様でなければ不可能だった行動です」

 少年はほろほろと涙を落としました。

「……ぼくのせいで……お父さんは……」

「それだけではありません。シー様は数々の罵詈雑言、誹謗中傷、非難を浴びせられ、持病が悪化して……逝去(せいきょ)されました」

「せ、いきょ……?」

「シー様は死んだのです。あれだけのことを耐え抜き、気丈を振舞う姿が……もう……うぅ……」

「そ……そんな……」

 レイは既に大粒の涙を(こぼ)していました。留めていたものが、タガが外れたように、そして止められませんでした。

「×××様のせいで、全てが無に帰しました。過去の栄光も、賞賛も、自分の存在も、何より家族も失いました……。×××様のせいでっ!」

 少年は泣き崩れました。テーブルにいっぱい涙を落として、水溜りを作りました。それでも泣き続けました。一方のレイは既に平静を取り戻しています。むしろそれは冷め切っていました。

「もうヒル様もいない、シー様もいない。残っているのはあなただけ。こんな状況にしたあなただけっ! めちゃくちゃにしたあなただけなのっ!」

 レイは寝室に向かい、大きい旅行鞄を持ってきました。

「ど、どこに行くの……?」

「あなたに教える義務はない」

「そっそんな……。レイさんまでいなくなったら、ぼくは、」

「そんなの知らない。私の大好きな家族を潰したあなたなんか……」

 いつも優しかったレイ。少年には、あのいじめっ子と見る目が同じような気がしました。少年をまるでゴミのように蔑んでいる目です。その怖さは体で知っています。無意識に体が震え出しました。そして、椅子から転げ落ち、

「あ……あぁ……うぅえぇ……」

 失禁してしまいました。

「情けない。そんなのだから虐められるんだよ……。じゃあね」

 レイは興味なさげに家から出て行きました。あまりに一瞬で少年は身体が(こお)ったままです。

「……」

 少年の瞳はどんどんと暗く沈み、虚ろになっていきました。表情もなくなりました。そして少年は決意しました。

 家中を歩き回ります。キッチン、お風呂、トイレ、寝室、居間、今までの浅い思い出を思い浮かべながら。それを十分に味わってから、二階へと向かいました。階段を上る音は無に等しいくらいに小さく、廊下を渡る音はもはやありませんでした。

 二階は少年の部屋のみです。そこに入って、勉強机の椅子に座りました。暑いとも寒いとも何も感じません。ただ、少年がそこにあるだけでした。そしてバルコニーに出ます。目の前に並ぶ物干し竿を通り抜けて、下を見ると、なかなかの高さがありました。前方にあるお屋敷は全てお尻を向けているように建ち並んでいます。それからもあの目が向けられているようでした。

 もう何も考えませんでした。決意を無駄にしないこと以外は。バルコニーを見回すと、片隅にありました。吸い込まれるかのように近づき、へたり込み、開けます。綺麗な黒色の金属が何本かありました。そのうちの一本を思い切り掴みます。掴んだ右手から血が滴り落ちます。つぅっと血の流れを何本か作りました。そして床に小さな水溜りを、湖を、そして、海を作り出そうとしました。ひとまず手を開いてみると、掌の真ん中に横一線に浅い赤ラインが、そこからたらたらと垂れてきています。特に痛がる様子もなく、ぎゅっと握り締めました。流れはさらに激しくなり、床をさらに汚していきます。

 ここで、少年はにこやかに微笑みました。そして握った手を開き、反対の手に金属を持ち替えます。その手も金属から垂れる血で汚れます。今度は空を眺めます。しかし何も映りませんでした。目を閉じて深呼吸をしていたからです。

 そのまま金属を血だらけの手首に持っていき……、

「……ありがとう……」

 力を込めました。

 

 

「……それで?」

「少年は自殺しました。そのことが知られたのは少年が亡くなってから六日後のことです。でもその表情は満足に満ちていたとのことです。めでたしめでたし、です」

「全然めでたくないし、バッドエンドじゃないか。誰の物語だよ、それ?」

「誰でしょうね」

「質問で返すな。もしやお前、それをオレの過去に設定しようとか(たくら)んでるんじゃないだろうな?」

「少年は亡くなりましたから無理ですよ」

「実は少年は一命を取り留めました、とかどんでん返しされかねないからな、念のために聞いたんだよ」

「そうでしたか。では、そんなリクエストがあるなら、そういうことにしますか?」

「好きにしろ。オレには関係ない」

「確かにそうですね。それでも、あなたの過去など、興味を持つ人などいないと思いますが」

「うわ、出たよ……。いい加減、毒舌は止めろよな。意外に傷つくんだ」

「人は傷つけられて成長します」

「傷つけた張本人がエラソーに言うなっ。……そういえば、気になることが一つある」

「何です?」

「その×××の話だけど、その名前の由来は何だ?」

「どうしてです?」

「……いや、オレの好きな曲と同じだからさ。まさかとは思ったんだ」

「由来ですか? これは作り話ですよ? 真剣にならないでくださいよ」

「それにしてもリアリティあるじゃん」

「……そうですね。空を眺めて思いついた、とでもしましょうか。目の前は海ですけどね」

「なんだそれ」

「でも、嫌なあだ名をつけられていたのです。一文字抜かすと悪口になりますからね」

「それでもイイじゃん……。ところで、×××の父親とメイドは生きてるのか?」

「そんなに気になるなら、探してみますか?」

 

 

 



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おわり:あかいうみ

「はっ」

「どうかしましたか?」

「……これ、かけてくれたのか……?」

「どうやって肩にかけるのですか? 寝ぼけて自分でかけましたよ」

「……そっか。あれは夢だったのかな……?」

「きっとそうでしょうね。“カレーがいいなぁ”と寝言を言っていましたから」

「うわ……恥ずかしいな」

「存在自体が羞恥物ですものね」

「砂に埋めるぞ」

「今回は壮大な宝探しを企画しているのですか? これだけ広いと掘り当てるのにすごく苦労するでしょうね」

「…………そ、それじゃあ、テント片付けたら行こうか」

「もう行くのですか?」

「……さすがに早いか」

「もう少しだけ、この海を眺めませんか?」

「なんだ? 懐かしいのか?」

「違います。日の出の光が海に反射して綺麗なので、もう少し見たいのです」

「そうか。……」

「どうしました、ダメ男?」

「……眩しい……」

「そうですね」

「なんだろう……胸が込み上げてくる」

「不思議なものですね」

「そうだな。……よし、こうなったら海賊になっちゃおっかな」

「やめてください。現実逃避をしないでください」

「オレには向かないっか……」

「そうですよ。ダメ男は争い事より、くだらないことをぐだぐだ話している方が性に合います」

「だな。……褒め言葉としてありがたく頂戴しとく」

「はい」

「それにしても……温かいな」

「温かいですね」

「……セーター」

「そうですか」

 

 

 



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おまけ

「ねぇ」

「なんだい?」

「本当にあんなの受けていいの?」

「むしろ喜んで引き受けるね」

「だって滞在するのは三日間だけって決めてたじゃないか」

「そうだね」

「いや、そうだねって話が終了しちゃってるよ」

「じゃあこういうことにしよう。新たに三日間滞在し直すってことで」

「なにその裏技っ」

「何事にも例外はあるんだよ××××」

「ただ報酬に釣られただけでしょ? カッコよく言わないでよ」

「それより見て。すごいことになってる」

「話そらした……」

 謎の旅人と謎の乗り物(?)はとある国を訪れていた。硬そうな城壁を囲い、中にはみっちりと硬そうな住宅が並ぶ。空き地というものがなく、道というのは家が作るものだ、とも言いたげに敷き詰められている。

 そんな場所に悪臭が(ただよ)っている。凄まじい硝煙(しょうえん)の臭いと動物的な生々しい臭い。できたてホヤホヤの焼肉の悪臭が充満していた。

 臭いだけではない。兵士たちが黒ずみになった何かをせっせと片付けている。まるで洗脳されているかのように、機械的に、当たり前のように。

「すごかったよね。内乱を第三者として傍観する気分はどうだった?」

「特に何も。痛そうだなぁとか、あの弾丸はどんな仕組みかなとか」

「冷血人間にもほどがあるよ」

「そうかもしれないね」

「“かも”じゃなくて“そう”なのっ」

「あ、(かも)料理とかもいいね。どんなおもてなしなんだろう」

「また話をそらす……」

 旅人は乗り物を押して散策していた。

「おい」

 誰かが話しかけてきた。

「貴様、脚に付けているものは何だ?」

「護身用の武器です」

 緑の制服を着た男だった。

 旅人は普通に返答する。

「この国では武器の携帯は警察と王族およびその関係者にしか許されぬ。銃刀法違反で連行する」

「あぁ、ボクはこういうものです」

 旅人は一枚の紙切れを男に渡した。

「……!」

 顔色が一変した。そしてなぜか敬礼した。

「し、失礼しましたっ! どうかお許しを……!」

「いいですよ。旅人は怪しい人が多いですから」

 男は深々と頭を下げ、その場を立ち去った。

「これすごいね」

「うん。警備隊隊長との血判(けっぱん)付き契約書がこんな効力を示すとは。法律を利用したものが味わえる優越感ってやつだね」

「いや、ボクはそこまで思ってないよ。身分証明として出しただけだし」

「あれ、さっきまであんな冷めてたのに」

「冷めてないよ」

 旅人はさらに歩き出した。

「この国はとても犯罪に厳しい国で、ちょっとした犯罪でも死刑にするみたいだよ。中には“簡略的死刑”というのがあるみたい」

「なにそれ」

「あ」

 旅人が視線を移した。そこは長蛇の列を成している店の入口だった。最前列で男と女が言い争いをしている。そして女が男にビンタをかました。

 それを遠目で見ていると、

「なんか来た」

 先ほどの緑の制服の男がやって来た。女は違う違う! と叫びながら連行される。とは言っても、十数メートルも離れていないところで解放される。次の瞬間、

「お」

 ぱん。

 おもちゃの鉄砲のような、軽い銃声がした。女は一瞬硬直し、その場に倒れ込んだ。よく見ると額に穴が空いている。

「女子供にも容赦ないんだねぇ」

「ある意味男女平等だね」

 旅人は散策を続ける。

「三日間いたけど、あんなことはなかったのなぁ」

「そりゃみんな死にたくないさ。ちょっと小突いただけで風穴空けられちゃ、たまったもんじゃない」

「確かに」

「だから××も毎朝ぼくを小突くのはダメだからね」

「じゃあ××××は豚とか注射が嫌いなんだーとか馬鹿にしないでよね。名誉毀損(めいよきそん)だよ」

「なんだよそれー!」

「お互いがお互いに犯罪すると、罪が相殺されるって言ってたよ」

「なんかずるいっ」

 仲良く(?)散策を続ける。

「そういえば、依頼はいつやるの××? もうこの国は散策し終えたし、必要なものはそろえたし」

「今からするのも時間が良くない。けっこう離れた所にいるからね。だいたい三時間、ってところかな」

「あぁ、もう夕方になっちゃうかー」

「うん。もう一泊してから出発する。そう伝えてある」

「ただ日にち稼いで美味しいものいっぱい食べようって魂胆(こんたん)じゃないよね××?」

「………………そ、そんなことないよ」

「今の間はなに?」

「あぁいや……とにかく引き受けたからには達成しないとね」

「そだね。契約不履行・任務失敗も死刑の対象だからね」

「……」

「あれ、もしかして気がつかなかったの? てっきり把握してるかと」

「……」

「こりゃやっちまったね××。“航海先にあべしっ”だね」

「もうむちゃくちゃだよ。とにかく、時間なんて言ってられない。さっさと探しに行こうか」

「はいよ」

 謎の旅人たちは国を出ていった。

 

 

 




 またも会いましたね、水霧です。このネット小説、本で言う一巻二巻が繋がっているので、またお前か! と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。
 いかがだったでしょうか? 改めて見ると、“まもるとこ”がダントツで長かったですね。もう読んでられるか! ということで飛ばされた方も少なくないかも(汗)
 この章、『キノの旅』の雰囲気から遠ざかっているような感じがしました。次章ではそれに戻していくような内容になると思いますので、お楽しみあれ。
 ここで登場した“ハイル”は一応新キャラです。原作『キノの旅』でも主人公以外に登場しましたが、そんな感じです。今後よろしくどうぞです(笑)
 『キノの旅』といえば、“きびしいとこ”や“おまけ”についに登場しましたね。例の……ごっほん。ネタバレは好きでないので詳しくは話しませんが、ご期待通りになるかと。というより、目次でバレバレやないかーい! こちらもお楽しみに!
 ちなみにこの“あとがき”も改訂しております。悪しからず。
 それでは“あとがき”もここまで。次章も楽しんでくださいね。ありがとございました!




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-大地を感じて-
はじめ:きいろのだいち


「あっ、懐かしい曲……」
「懐かしい?」
 爪弾(つまび)かれる繊細で美しい音色。街中に響き渡っていた。耳にしたある男はどことなく懐かしむ。お人好しな男と辛辣(しんらつ)な“声”が送る変わった世界の短編物語、七話+おまけ収録。『キノの旅』二次創作。





 砂塵荒れ狂い、太陽が霞み、汗が湧き出るほどの猛烈な暑さが、この砂漠一帯に閉じ込められています。とても人が生活できなそうなところ、村がありました。

 そこはとても貧しい所でした。崩壊した家が道の両側に一直線に立ち並んでいます。その道は砂に埋もれていて、村を素通りできるようになっています。

 崩れ散って中が見えている家に項垂(うなだ)れた男や、薄汚い布切れを(まと)った肌黒の女、道端に寝っ転がっている少年など、人々は貧相です。骨身が露になっています。

 そこに数人、足を踏み入れました。一人は全身黒尽くめで大きい荷物を肩に抱えています。どしゃりと砂を踏み、見た目以上に重量感がありそうです。

「ひどいな」

 二人目は砂の混じった唾を吐き捨てました。男のようです。

「助けましょ? 苦しそうだし」

 三人目は女でした。

 ある男は、

「無理」

 平然と断りました。

「そんな義務はない」

「で、でも、」

「第一、ここの村人全員を助けられるほどの余裕はないんだ。オレだって死にたくはないんだよ」

「……どうにかならないの?」

「どうにもならないな。言い方は悪いけど、見捨てるしかない」

「……」

 男は女を説き伏せ、そのまま歩き出しました。すると、

「!」

 真正面から子供二人がぶつかってきました。男が振り向くと二人は軽く頭を下げて、走り去りました。二人は二人三脚しているかのように、肩を組み合っています。仲良くマントを着ていました。

「なんだ、元気な子供もいるじゃん。子供は風の子元気の子だな」

「といっても、盗っ人がうろついてそうな所では遊びたくないものだけど」

 男はにこりと笑って、子供二人と反対方向に再び歩き出しました。

「……?」

 しかし、すぐに立ち止まりました。

「……ふぅ……?」

「どうした?」

 溜め息をついたように、自分の胸に呼びかけます。反応がないようで、中を探ると、

「……」

 固まりました。

「盗まれた!」

「なっなにぃっ?」

「まさか、今の子たちが……?」

「私が行こう。二人は周囲を警戒しててくれ。依頼品がパクられたんじゃ話にならないし」

 男は急いで二人を追いかけます。砂をずさずさ蹴り上げ、全力で走ります。

 一方の二ゆっくり歩き出しました。

「かなり手癖が悪いようねえ」

「こんな所じゃ仕方ない。そうでもしないと生きていけないんだろう」

「へぇ〜、寛容なんだ」

「さぁね」

 その途中にあった物置の中に、様々な物が保管されています。大量の本が詰め込まれた本棚や真新しい食器棚、オブジェだったり銅像だったり、楽器など、芸術的な物が特に多いようです。

「ぎゃあぁぁ……!」

「……! 悲鳴?」

「あんたはここで待機しててくれ。オレが行く」

「あっあいつは?」

「……とりあえず見てくる」

 銅像の首元に、何かが飾られています。水色の四角い物体で、紐を通して首にかけられています。

 それを一瞥(いちべつ)して、男は悲鳴のした方へ走り出しました。

「まったく、気が緩みすぎですね」

 その物体から“声”が出ていました。冷淡で気品のある女の声です。

「しゃ、しゃべった!」

 女は四角い物体をつんつんしてみたりしますが、

「爆発しませんから安心してください」

 埃っぽい物置に放置される四角い物体はその後も女に愚痴をこぼしていました。

 

 

 数十分後、男が帰ってきました。男は、

「どうだった?」

 男はナイフを出し、リュックから取り出したタオルで拭います。べっとりと赤く汚れました。

「まさか、殺したの?」

「オレも殺されそうになった。仕方がなかったんだ」

「……」

 颯爽と、ぶちり、と四角い物体の紐を引きちぎり、物置を後にします。

「どうして手にかけたんですかっ!」

「……」

 女はまた驚きました。一方の男は淡々と作業を続けます。

「私を回収して立ち去ればいい話じゃないですか! なのになぜそこまでする必要があるんですかっ? この悪魔! 人でなし! 殺人鬼! シリアルキラー!」

「……なんとでも言えよ」

「反省すらしていないのですかっ!」

「……」

 男は無表情です。

「まっまぁ二人とも……とにかく、任務に戻ろうよ」

「……」

 女たちが歩き去っていくのを、

「……」

 一人の別の女が見送っていました。

 

 

 




大地は繋がっている。あなたの足を留めまいと……。




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第一話:なつかしいとこ

 大草原が微風でうねり、真っ青な空に浮かぶ太陽から暖かい恵みをいただいている。時折、澄んだ池が見られ、生き物が食物連鎖の一部として存在する。特に暑くも寒くもない気候で、日差しによって暖かさを感じる程度の気温だ。

 ちょうど、そのような生態系から離れている所に、豪華でも貧相でもない街があった。特に防壁のような物はない。石材を四角くカットして敷き詰めた道に噴水や公園、広場、店があり、緑や木々が見栄えよく生い茂っていた。洋風な感じのする街はほどほどに栄えていて、ほどほどに家が立ち並び、ほどほどに人が住んでいる。“ごく普通の街”、この一言に尽きる。

 その街の西にあるカフェで、

「っま」

 客はカップをかちゃりと置いた。

 心地良い昼下がりの日差しの下、オープンカフェのテーブルに客がいた。テーブルは日差し除けのパラソルが開いていて、明るい中に影を作り出す。

「いかがですか?」

 男のウェイターが(たず)ねる。客の男はあれこれと()めちぎり、

「ありがとうございます」

 ウェイターは紳士のごとく、ダンディに言葉を返した。

「何かありましたら、お手元のベルをご利用ください」

 そう告げて、店内へと戻っていった。

 客はカップを(すす)り、

「にが」

 表情を曇らせた。

 

 

「“ダメ男”」

「なに?」

「つまらないです」

 “ダメ男”と呼ばれ、客だった男は広場のベンチに座り、空を仰いでいた。フードの付いただぼだぼの黒いセーターにダークブルーのジーンズ、真新しく黒光るスニーカーという格好だ。隣にまん丸に膨れた黒いリュックサックと黒いウェストポーチが二つ置いてある。リュックサックを横に貫通するように、黒い棒状の包みが挟んであった。

 掌を半分くらいまで覆う袖を少し(まく)り、くしくしと目を(こす)る。そして、

「ふあぁ……」

 大きく欠伸(あくび)をかいた。

「何というか、一味違う長閑さだよな」

「何が違うかをご教授していただけませんか?」

「……」

「早くしてください」

「“急いては事を仕損じる”って言うだろう? 何事も落ち着いてだな、うん……」

「確かにその通りですね」

「だろう?」

「それで、何が違うのですか?」

「……」

「分からないのですか?」

「……すんません、許してください」

「まったく、変に大人ぶらないでください」

「年齢的にはオレは……って何歳だっけ?」

「興味がありません」

「手厳しいな」

 先ほどから、清涼感があって落ち着いた女の“声”がするが、それに見合う人物はダメ男の周辺にいなかった。それなのに、怖がることなく会話を続けていく。

「田舎の長閑さは静かで気が安らぐんだけど……その、ここは元気で笑顔が溢れる感じ」

 セーターの(すそ)をこねこねと(いじ)る。ジーンズのポケットを覆うくらいに長い。

「感性の鋭さは流石ですね」

「そんなに褒めるなよ~、“フ~”」

「テンションが上がり過ぎたナルシストみたいです。吐き気がするので、とりあえず埋没してください」

 “声”の“フ~”は、

「“フ~”じゃなくて“フー”です」

「手厳しい」

 きりりと言及した。

 広場は円状になっていて、街の中心にあり、そこから四方八方に道が連なる。道の分岐点とも言える場所で、噴水から水のアーチを八方に作っていた。

 今度はそちらを見て、ぼーっとする。すると、噴水のアーチを通り過ぎるかのように、五、六人の子供の集団が走っていった。それを左から右へ見送ると、ダメ男はにこりと笑う。

 その時だった。

「あっ、懐かしい曲……」

「懐かしい?」

「うん。なんか眠くなってきた……」

「確かに、眠気を誘いますね」

 街中に曲が流れてきた。放送なのか、ゆったりとしたアコースティックな曲調で、歌詞のない曲だった。

「で、何の話だったっけ、“フー”?」

「え、いっいや、何でもないですよ? 思い出せなければ、はぃ」

「……そうだな」

 ダメ男は荷物を持って、ぶらりと歩いていった。ニヤニヤが止まらなそうだった。

「ダメ男のばか、ん?」

 目の前に女がやって来た。ツインテールで子供っぽい女だった。

「悪いんだけど、こういう人見なかった?」

 用紙を見せられた。右上隅に写真があり、何か項目がずらりと並べられている。

「……見なかったな。お探し?」

「んまぁ……そんな感じ。見かけたら教えてよね。それじゃ」

「はいはい……」

 メモを強引に渡し、女はどこかへ行ってしまった。

「なんなんだ一体……」

「さぁ」

 

 

 ダメ男は夕方には宿に泊まり、そこで夕食を済ませた。その間にも昼間の曲は繰り返し流れていく。曲はダメ男が部屋に戻ったとほぼ同時に止まった。

 部屋は一人で泊まるには広すぎた。正確には分からないが、十五畳はある、とダメ男は見立てている。ベッドは窓際にあり、部屋の中心には来賓用のテーブルかと思うくらいに豪華だった。しかも、壁には高価そうな装飾が施され、絵画まで展示されている。ダメ男が不安になって受付に問い合わせたくらいに豪華だった。

「……」

「まるでお姫様の居室みたいですね」

「こんな待遇、そうそうあるもんじゃないぞ」

「そうですね。一番は一国のお姫様とのお泊まりでしたからね」

 ダメ男は荷物をベッドに置き、ついでにベッドの感触を確かめる。ふわふわしていて、綿に包まれているようだった。

 セーターを脱いでテーブルに置き、黒いシャツになると、

「……もう思い出させるなよ……」

 いつものように床で寝っ転がった。

 フーはくすくすと笑っている。

「にしても、なんだこれ。数字が書いてあるようだけど」

「“29405”ですか。見た限りIDナンバーのようにも思います」

「なにそれ」

「実名の代わりです。つまり個人情報を取り扱う時、それを使用することによって実名を直接使用せずに済む、というわけです。他にも管理を行いやすくしたり、自分自身と照合したりと用途は様々です」

「何のために?」

「例えば、個人情報が漏れた時に実名でなければ、第三者から見ればただの数字ですからね」

「なるへそ~」

「反応が古いです」

 ダメ男はきょとんとした。おそるおそる服の中から何かを取り出し、テーブルに置いた。

「どうしたのです?」

 ネックレスにしては大きい物だった。水色と緑色を混ぜたような色をした四角い物体に、黒い紐が通してある。それから“声”が出ていた。

「フーにも確かそんな番号があったような……」

「それは“製造番号”です」

 四角い物体は“フー”のようだ。

「あ、そっか」

「そうだとしても、あの女性がなぜダメ男を探していたのかが分かりませんね」

「やっぱあれ……オレだよな?」

「あんな特徴的な顔面は他にいません」

「どういう意味だか四文字以内で説明しろ」

「“厚顔無恥”」

「恥知らずってかっ!」

「“魑魅魍魎(ちみもうりょう)”、“有象無象”、“有耶無耶”、“野卑滑稽(やひこっけい)”」

「地味にしりとりだしっ。それに途中からオレの悪口になってるだろ」

「最初からです」

「……もういい」

 不貞腐(ふてくさ)れた。

 いつの間にか夜を迎えていた。窓辺から入ってくる月光がベッドを照らし、何かが舞い降りてきそうなくらいに神々しい。ダメ男は電気を()けず、落ち着くために、しばらく眺めた。

 立派な満月が太陽のように地上を照らしている。夜なのに明るく、街をはっきり見渡せる。影に影が差し込み、さらに暗い影を作り出していた。

 ダメ男は荷物であるリュックやウェストポーチ二つから、いろんな物を出し始めた。月光が(まぶ)しい。でも、そのおかげで手元が見える。そして、あっという間に辺り一帯はダメ男の荷物置き場と化した。

「ダメ男」

「なんだよ、フー」

「そういえば、昼過ぎに音楽が流れていましたよね?」

「……そうだけど……」

「とすれば、ここは出番ではないでしょうか?」

「? 誰の?」

「とか言いつつ、分かっているのでしょう?」

「いや、ホントに誰の?」

 ダメ男は椅子に座り、セーターからナイフを抜き取った。黒い格子(こうし)が細かく組まれ、その隙間を透明の膜が貼ってある。その先端にあるボタンを押しながら一振りすると、刃が出てきた。長さは拳三つほどだ。

「わざと言っています?」

「いんや」

「私ですよ」

 用意した容器から(すく)い取った謎のクリームを刃に付けて、布で(くま)なく塗りたくっていく。

「なんで?」

「なんで、と言われると困りますけど、歌といえば連想するでしょう?」

「全く」

「あ、そうですか」

「いきなり何言い出すかと思ったよ。充電するか?」

「いえ、結構です」

「……この空気、どうすんだよ。収拾つかないぞ」

「自己責任です。私はお先に眠ります」

「あ、せこいっ」

 ダメ男はナイフの手入れを終えると、刃をしまってテーブルに置く。そしてジーンズを脱いで、ベッドから毛布と枕を引きずってきた。

「その前にダメ男、お手入れしておいてくださいね」

「やったじゃん」

「ナイフだけでしょう? こちらをしていません」

「さっきひどいこと言ったからやんない」

 ダメ男はまだ()ねている。

「おやすみ」

「子守唄を一曲歌いますから、機嫌を直してください」

「……」

 ダメ男は散乱した荷物から耳栓を取り出し、耳にはめて、

「おやすみ」

「お手入れしてくださいよ、気持ち悪いのですぶつぶつぶつぶつ」

 眠りについた。

 

 

 翌日の(あかつき)。まだ仄暗(ほのぐら)く、太陽は現れていない。そしてそぞろ寒い。

「おはようです」

 フーが起きた。ダメ男は、

「あ」

 まだ眠っている。早起きしてしまったようだ。

 フーは(ささや)くように、

「ダメ男、起きてます?」

 声をかける。しかし、うずくまって眠っていて、起きる気配はない。うつ伏せになって、毛布を手放せまいと、ぎゅっと(つか)んでいる。毛布に深いシワが寄っていた。

「では、気付けの一曲を、ん?」

 すぅっ、とダメ男の目から流れていた。

「泣いている?」

 フーは少し黙ってダメ男を観察することにした。

「すぅ……ずっ……」

 ダメ男の静かな寝息に混じる鼻の啜り。一粒一粒が枕に伝い落ちて、シミを作る。

 フーは何となく反省した。

 そのうち、

「ん……」

 ぴくりと(まぶた)が動いた。

「んぅ……」

 ダメ男の眼に光と景色が入り込んだ。瞼が上がっても、景色がぼやけていて何度かまばたきする。身体をゆっくり起こして、

「うはよ」

 起きた。ずっと見ていたフーは間を置いて、

「おはようです」

 返した。

 ダメ男はストレッチをし始めた。少し(かゆ)くて頬を擦ると、

「ん? なんだ?」

 ちょっと驚いて、

「オレはウミガメかっ」

 呆れて笑った。フーは何も言わず、見守る。

 ストレッチを軽く済ませると、今度は服を脱いでタンクトップとトランクスになった。放置してあったナイフを持ち出した。

「ダメ男」

「なに?」

「様子が変ですよ?」

「そうか?」

「街に入ってからずっとそうです」

「多分、気が緩んでるだけだろ」

 フーは()に落ちない。

 ダメ男の何かを感じ取ったのか、さらに追及する。

「眠っている間に泣いていました」

「なんだ、オレの寝顔見てたのか。カッコよかったか?」

「真剣に尋ねています。真面目に答えてください」

 ダメ男は頭をしゃくしゃく()いた。

「す、すみません。寝起きでピリピリしていました」

 ところが、フーはすぐに取りやめた。何だか気に障ったように感じたようだ。

 ダメ男はじっとフーを見た後、訓練を開始した。目を軽く(つむ)り、脳内で想定した敵と闘う。この所作はまるで踊っているかのように無駄と隙がなかった。鋭く空を切る音と素足で刻むステップ音が静かだ。

 動作を止めた瞬間、全身から滝のような汗が溢れた。一心不乱に練習していたようで、膝をつかないように手で支えるほど疲れている。そして肩で呼吸をしていた。

「ダメ男」

 フーが呼びかける。ダメ男はそちらに顔を向けた。

「明らかにオーバーワークです」

「……そうだな。ちょっくらお風呂入ってくる」

「ダメ男、大丈夫ですか?」

「何が?」

 ダメ男はニコッと笑った。

 タオルを持って、シャワーを浴びに行った。

 

 

 朝食を済ませると、ダメ男は必要最低限の荷物を持って街を歩いていた。セーターではなく、黒いジャケットを羽織り、黒いパンツに黒いスニーカーを履いている。

 心地よいそよ風がダメ男の顔に触れ、穏やかな日差しが身体を温める。

「昨日の音楽は流れませんね」

「そうだな。曲が聞こえてきても歌うなよ」

「仕方ありませんね。ハミングで我慢します」

「ハミングもダメ」

「ダメ男は鬼嫁ですね」

「オレを女にすんな」

「ダメ男が女性になったら面白いと思いませんか?」

「何のフリだよ」

「やってみます?」

「やめてください。オレがなってもキモイだけだから」

「それはそうですね。画面(えづら)としては、カマキリの捕食シーンといい勝負です」

「あのさ、話の腰折るけど、そこまでひどいの? オレの顔」

「語ったら三時間ぐらいかかりますね」

「しまいには肌年齢とか細胞成分まで調べられそうだな」

 暢気(のんき)に雑談している。

 特に観光できる場所もなく、あると言えば店やカフェくらいで、ダメ男は街中を歩いていく。石造りの民家で女が洗濯物を干していたり、庭先で子供たちがかけっこをしていたり、こんな時間帯から男たちが酒を交わしていたり。これと言って特に異常のない日常だ。そのおかげか、ダメ男とフーの雑談は尽きることがなかった。

 少し歩き疲れてベンチに座った。昨日と同じ、噴水がある広場のベンチだ。

 日がようやく昇り、汗ばむ程度に暖かくなっていく。ダメ男はポーチから、水の入ったボトルを取り出し、(のど)を潤した。

 フーとボトルを膝の上に乗せる。

「しかし、噂通りの平凡な街ですね」

「いいじゃん。骨休めにはいいよ」

「いろいろありましたからね」

「そうだな」

 そこに、

「あの」

 女が話しかけてきた。ブロンドで大人っぽい女だ。胸の開いたいかがわしい服装をしている。

「ん?」

「あなたが“ダメ男”さんですか?」

「いや、違うけど」

 即答だった。

「そっくりさん……なの、かな……?」

 女は持っていた紙とダメ男を見比べている。おどおどとしていた。

「人探し?」

「えぇ。この方なんですけど……」

 女は紙を見せると、右上の隅っこにダメ男の顔があった。紛れもなくダメ男。しかし、張本人は動揺の色を全く見せず、紙一面を見ている。

「これってこの人のプロフィール?」

「はい。この方と仲良くなりたくて、探しているんです」

「へぇ~」

 今度はまじまじと見た。身長体重、性格に声色まで、ダメ男に関する身体的な詳細に加え、好みの食べ物や趣味、服装など履歴書と思わせるくらいに情報が記載されていた。

「オレに似てるけど、オレじゃないな」

「そうですか。じゃあ、この方を見かけたらこの人が探しているとお伝えください。それとこれを」

「……あぁ、分かった。伝えとくよ」

 女はお辞儀をして、またどこか探しに行った。

 何事も無かったように身体を伸ばすダメ男。そして、

「その人が探していますよ、ダメ男」

 面白そうに告げるフー。

「また数字だ」

 それを無視してメモを見るダメ男。

「“3052”か。……ん、んぅ~……なんか日光浴してたら眠くなってきた」

「朝の練習のせいです」

「そうかもな。今度は森林浴しに行きたいな。もっと眠れそうだ」

 大きな欠伸をした。

「それよりよかったのですか? ダメ男に求婚を申し込もうとしていたと予測します。性格もプロポーションも良い方ですし」

「どうるいのかん、はぁ……いいでゃろ、オレには……いや、そんなことにょりねむふぁあぁいんふぁろ……」

「何を言っているか分かりませんし、眠いようですね」

 ダメ男はベンチに横になった。ボトルを枕代わりに頭に敷く。フーは頭の近くに置いた。

「じゃあ、オレ寝るから適当に起こしてくれ」

「では、起きてください」

「適当すぎるだろ。まだスタートラインにすら立ってないし」

「今は座っています」

「そういうことじゃなくてっ! まだ寝てないってこと!」

「ではフライングということで、地球上から退場してください」

「フライングはフーだろうっ」

「これは手厳しいですね」

「なんかイラついてきた……」

「ほら、眠気が取れてきたのではないですか?」

「いや、寝てやる、寝てみせる! おやすみ」

「子供っぽいですね、まったく」

 心なしか、フーが嬉しそうだった。

 

 

「……ちゃん、……お兄ちゃん、ここでねてるとかぜひいちゃうよ?」

「はやくいこうぜ。はじまっちゃうよ」

「ぐーたら星人はムシムシ」

「でも……」

「ん? なにこれ?」

「へんなの」

「それ、こいつのだろ?」

「いいじゃん、もってっちゃおうぜ」

「これほしい……」

「ほらぁ! はやくいこう!」

「駄目です。これは置いていってください」

「うわ! しゃべった!」

「なにこれっおもしろ~い」

「置いていかないと十秒以内に爆発します」

「ほんと~! やってみてやってみて! あっちにおいてあげるから!」

「どうせうそだろ。ばくはつしたら、ぼくらしんじゃうもん」

「あぅその、爆発しますよ?」

「はやく!」

「お願いだから置いていって、ね? これはそこのお兄さんの物だから、勝手に取るのは悪いことなの。だから、」

「おねえさんのこえかわいい」

「え? ちょ、ちょっと、やめっ」

「あははは~!」

 

 

 ダメ男が起きたのは数時間後だった。ちょうどお昼ごろだ。ベンチから降りて、ぐいっと背中や脚、腕を伸ばす。こきこきと関節が鳴った。

「よく寝た……。久しぶりに熟睡できた」

 枕だったボトルを手に取る。冷水を口一杯に含んだ後、ごくりと喉へ通した。

「フー、行くか!」

 はい、という一言はなく、ダメ男の言葉が虚空(こくう)に消える。ベンチを見てもフーはいなかった。

「……あれ?」

 首やポーチの中、ベンチ周辺の至るところを探す。しかし見つからない。自分の頬をつねったり顔を殴ったりしても見つからなった。

「おかしいな……なんでないんだよ……あっ」

 ダメ男は(ひらめ)いた。

「さてはどっか遊びに行ったな? 一人でずるいヤツだなぁ」

 まだ寝ぼけているようだった。

「仕方ないな……、お?」

 突如、曲が流れてきた。昨日とは違う曲だ。ハードロックだった。

「仕方ない」

 ダメ男はポーチを取り出すと、フーとは違う四角い物体を取り出した。(てのひら)に収まる黒い箱で、モニターにいくつかの同心円と中心点、離れた所にも黒い点がついている。いわゆるレーダーだった。

「こっちか、いやあっち……じゃなくて……」

 ダメ男は挙動不審ながらも探しに行った。

 

 

「これから、どこに行くの?」

「ん? “ダイヒョウ”じいちゃんのところ!」

 一方、子供たちに誘拐されたフーはすっかり溶けこんでいた。女の子の首にかけられている。

「“ダイヒョウ”じいちゃんとは誰なのですか?」

 女の子一行は道を走り、東の方向へ進んでいた。フーがリズムよく揺れている。

「おとうさんをみつけてくれた人!」

「それは凄い人だね」

「うん! だけど、おとうさん、またたびにいっちゃったの」

「じゃあ、待ってるんだね?」

「いつかかえってくるっていってたから……。そうじゃないと、おかあさんさびしい……」

 フーはそれ以上は何も言わないことにした。

「あ!」

 女の子が指差す方向に老人がいた。スーツ姿でギターを抱えて、ベンチに座っている。老人というより老紳士という表現のほうが適切かもしれない。

 子供たちは老紳士の前で座り込んだ。息を荒らげているが、目がキラキラと輝いていた。

「今日はどんな曲なの?」

「わたし、三日前のやつがいい~」

「もっとはげしいやつにしてくれよ」

 彼らはあーだこーだ言い始めた。老紳士は笑いながら、じゃらり、と素手でで奏でた。

 老紳士がギターを弾き始めた瞬間、

「!」

 ハードロックな曲が消え、カントリーな曲が流れてきた。老紳士の弾く通りに街中に音が響いていく。澄んだ音で、気分がうきうきしてくる。

「昨日の曲はこの方が弾いていたということかな?」

「そうだよフーちゃん」

「おっちゃんみたいになりたいな~」

「そうだね」

「? どういうこと?」

 フーには今一つ状況が飲み込めなかった。そこに、

「あ、ダメ男」

 ダメ男がやって来た。手を見ながら女の子たちをちらちら見てくる。(はた)から見れば不審者のようだ。

 ダメ男は話しかけてきた。

「え、えっと、誰か“フー”っていう四角くて水色の変なヤツ持ってないか?」

「気をつけてください。彼は不審者です」

「えっ!」

 老紳士の目付きがダメ男に向けられる。ちくちくと刺さる眼光を、ダメ男は、

「フー、変な情報吹き込むなよ」

 軽くスルーした。

「なんで起こさなかったんだよ」

「ダメ男が気持ちよさそうに眠っていたので、そのままにしました」

「この人だれ?」

 女の子がフーに聞く。

「男です」

「そういうのいらないから」

 すかさずツッコミが入る。

「とりあえず、返してくれないか? オレのなんだ」

「いや! わたしのだもん!」

 自分から盗んでおいて、とは言えないダメ男。

 女の子はいたくフーを気に入っているようだった。さすがのダメ男も困り果てるが、やんわりとした口調で説得を試みる。

「う~ん、別に君を(とが)めるつもりはないんだけど……フーがいないと困るんだ。だから、返してくれないかな?」

「わたしのほうがフーちゃんのことすきだもん!」

「ぶっ!」

 思わず吹いてしまった。

「ダメ男、子供が言っていることを真に受けてはいけませんよ」

「分かってるよっ。まさかの不意打ちくらっただけだ」

「フーちゃんはわたしの!」

「まいったな……お?」

 老紳士がギターを演奏し終わった。

「これお嬢さんや、旅人さんの大切なものを返しておやりなさい」

「でも……」

 それでも(しぶ)る。

「お嬢さんがフーさんを独り占めしたら、旅人さんは一人寂しく旅をしなくてはならなくなる。独りぼっちじゃぞ?」

「……」

 女の子はむっと額にシワを寄せて、彼女なりに考えている。もう一度老紳士と目を合わせると、にこりと笑った。

「お兄ちゃんごめんね。フーちゃんとおわかれするのはさびしいけど……」

 女の子はフーをダメ男に手渡した。受け取ると、きゅっと握り締める。

「フー」

「はい」

 ダメ男は蝶番のようにフーを開き、ポチポチとボタンを押して操作する。それを、

「みんな、笑って。はいチーズ」

 子供たちと老紳士に向けた。ダメ男も自分が入るようにフーを持つ。数秒してぱしゃりと電子音が鳴った。

 ダメ男は全員にフーを見せた。そこには戸惑いながらも笑顔を見せる子供たちとそれを優しく見守る老紳士の絵が映っている。

「これでフーも忘れないよ」

「ありがとうお兄ちゃん!」

 女の子は笑いながら他の子供たちと走り去っていった。

 ダメ男はフーを首にかけ、服の前に出す。

「恩に着るよ。フォローがなかったら、ずっとあのままだった」

 ダメ男は素直に礼を言う。

「とんでもない。むしろ私がお礼をしたいくらいですわい」

「?」

 老紳士はふふっと笑みを零した。狼狽(ろうばい)するダメ男に、

「い、いや、オレは何もしてないんだけど……」

「ん? いやいや、そんなはずはない。私に生き甲斐をくれた恩人なのですからな。恩人や、こちらに来てください」

「え、えっと……」

「私はあなたをずっと探していたのです」

「え?」

 隣に座らせた。老紳士はギターを持ち直し、奏で始めた。その曲は昨日と同じ曲だった。

 キュッキュッ、という弦のスライド音と細かく爪弾(つまび)いて(はじ)ける音。休日のゆったりとした昼下がりのような独特の雰囲気に、感性豊かなダメ男は聞き入った。時間を忘れた。

 すぐにハッとする。

「この曲……」

「そう、あなたが私にこのギターを譲ってくださり、あなたの曲を教えてもらった。今では自分でも作曲したり、旅人に教えを()うたりしておりますわい」

「……」

 老紳士はニッコリと笑った。白くて綺麗な歯並びだ。

「しかし、(いささ)か声が若返ったように聞こえますわい。年寄りの耳もボケてきとるようですのう……」

「……」

 ダメ男は、にっ、と無理やり口角を上げた。

「多分なんだけど、その曲を教えてくれた人……親父かもしれない」

「! ほおぉ……! どうりでそっくりなわけですわい。見間違いのようでしたけど……しかし、恩人さんの息子でしたか。いや、非常に似ておられる……」

「そんなにダメ男のお父様と似ているのですか?」

「えぇそりゃあもう」

 頬をカリカリと掻く。少し照れている。

 会話していても、一切手元が狂わない。弦を押さえている左手は白く細く、その割にアクティブに動いている。弦を爪弾いている右手はしなやかに細かく動いている。

「因果なことですわい。親子揃って旅をなさっているとは」

「それは知らなかった。で、オレを探してたって言ってたけど……」

「あぁ、その説明をせねばなりませんな。しかしここで話すのもアレでしょうから、場所を変えましょうぞ」

「いいよ」

 そして、老紳士はじゃらりと弾き終えた。この場では二人しか聞いてなかったが、気持ちいい感覚がした。良い映画を観終わった感覚と似ている。

 

 

 ダメ男はせめてものお礼にと、老紳士をカフェへ招待した。ダメ男はミルクティー、老紳士はアップルティーを注文した。しかし、

「こ、これはこれは……」

 紳士のように接客していたウェイターが取り乱している。彼はダメ男に尋ねた。

「お客様はこのお方のお知り合いですか?」

「ついさっき知り合ったばっかだけど……」

「失礼いたしました。先日召し上がったお食事のお代金を返却いたします」

「えぇっ? いいよそんな……」

 慌てて手を振って(こば)む。

「そう言わず、お受け取りしてくだされ」

「いや、オレは客としてここに来てる。だから相席した人が誰だろうと、そういうのは無しにしたいんだ。それでもというなら、オレは投げ捨てるけど?」

 結局、ダメ男は支払った代金を受け取らず、押し通した。ウェイターは何回も頭を下げ、仕事に戻っていった。

 安堵のため息をついたダメ男はもう一口飲んだ。

「あなたは旅人としてはお優しいようですな」

「ただのお人好しです」

「“情けは人のためならず”。旅人の信条なのですかな?」

「うーん、分からん。ただ変に接待を受けると気持ち悪くって」

「はっはっは。それもそうですな」

 ダメ男はミルクティーを啜る。

「ところで×××さんや、あなたの旅の目的はなんですか?」

「! ご老人、できれば“ダメ男”でお願いします」

「あぁ、失礼……」

 持っていたカップを静かに戻した。

「……本当にオレのこと知ってるんだな。ということは、あの写真も情報源は親父か……?」

「その通り」

 老人はウェイターを呼び止める。追加注文でサンドイッチとケーキをオーダーした。

「ここは一体どのような場所なのですか?」

「ここは、人探し請合(うけあ)いの街なんですわい」

「……人探し?」

「思い人を紹介したり、離れ離れになって会えなくなった大切な人を捜索したりする街なんですわい。色んな旅人や放浪者を招き入れ、できるだけ聞き込み、情報を収集する。あるいは、この街に長く滞留させて聞き出す。そうやって情報をかき集めながら依頼主が会いたい人を捜すわけです。または、数少ない出会いの機会を増やしているわけですのう」

「ということは、あの女性たちはお見合いのためだったのですね、ダメ男」

「てことは、これもそうなのか?」

 取り出したのは数枚のメモ。数字が書かれている。

「それもこちらが配布したものですな。多くの依頼主がいるもので、数字にて管理してるんですわい」

「やはりそうでしたか」

「よかった。てっきり暗殺されるかと思ったよ……」

 ぽそりと呟く。ダメ男はゆっくり相槌(あいづち)を打った。

「あれだけ正確な情報は恐れ入った。声とか好みまで……」

「勝手ながら、プロフィールも観察して作成しとります。実は監視要員がいるんですわい。例えばあそこ」

 後ろ、と小さい声で教える。そちらを見ると、ブロンドの女がウィンクした。

「あれ、あの方は確か、」

「そう。いわゆる“サクラ”がいるわけですわい」

「お見合いと見せかけた諜報員ですか。どうりでダメ男の詳細データがあるわけです。とても壮大で手が込んでいますね。正直、便利だと思います」

「全てが上手くいけばいいんですが、これを利用して悪質な行為をする(やから)もいましてのう」

「たとえば?」

「例をあげたらキリがない。……人身売買、強姦、快楽殺人、違法物品の密輸と売買……黒い部分も存在はありますわい」

 ダメ男は眉を曇らす。

「本当に出会いを果たしたい方々もいる中で、こういう事は迅速に排除しております」

「……一つ聞いていいかな?」

「何でも」

 ミルクティーをまた飲んで、カップを置く。

「オレを調べてたってことは、誰かから依頼されてってことだよな? ……だれ?」

「それはお教えできませぬ。恩人であっても、これは仕事なので……」

「……確かに便利そうだな……」

 注文していたケーキとサンドイッチが来た。ダメ男はサンドイッチを受け取り、もくもくと食べ始める。

「しかし恩人の息子さんに何もせぬというのは恩をアダで返す行為。性別だけはお教えしましょう」

「……どっち?」

 

 

 夜。ダメ男は宿に戻っていた。特に何をするというわけでもなく、ただリラックスしていた。

「女、ねぇ……」

 ため息に似た言葉。

「ダメ男を探すなんて、恐ろしく好き者ですね。まさに“毛がある男ウキウキ”ですね」

「全世界にいる髪で苦しんでる人々に土下座して詫びろ」

「す、すみません。ごめんなさい……」

 ダメ男の真剣さ、冗談で済まされない雰囲気にフーは素直に謝罪した。ちなみに“(たで)食う虫も好き好き”である。

「でも、こういう街も必要かもしれないな。役に立つよ」

「そうですね。親子の感動の再会のような、ああいうのが増えるのですからね」

「そういうの弱いっけ?」

「涙に絶えませんね」

「……明日、早めに出よっか。しんみりしちゃうし」

「ダメ男はそういうことに弱いのですか?」

「自分のはいやだ」

 ベッドにあった毛布をごっそり持ち出し、床に敷いた。

「ダメ男の父親のこともありましたけど、あまり仲は良くないのですか?」

「何十年も会ってないし、既に他人だろうな」

「これからはダメ男の父親編ですね」

「勝手に作るなっ」

 ダメ男は毛布に(くる)まって、就寝した。

 

 

 翌朝。まだ日も昇らぬうちに、

「ダメ男、早すぎませんか?」

 出立の準備をして、たった今完了した。

「いつもこのくらいだろう? それとも寝坊助さんか?」

「いえ、ダメ男は眠くないのかと思いまして」

「バッチリよ。って、自分から言っておいて寝坊したらダサいでしょ?」

「それもそうですね」

 宿を出て、出発した。

 ようやく日の出なのか、空が白み始めた。青から薄い黄緑、橙色と空にコントラストが描かれている。橙色の方から太陽が顔を出してきた。眩しい光とともに、温かみを帯びて。

「うん。今日もいい感じだ。行くぞ」

「はい」

 そのまま街を出ていこうとした。しかし、

「すみません」

 また女が訪ねてきた。黒い長髪の女だった。

「あなたがダメ男さんですよね?」

 手にはあの用紙が握られている。

「違うよ。そっくりさんじゃないか?」

「いえ、そんなはずはありません」

「どうして?」

「“ダメ男”という“名前”を認識していましたから」

「!」

 ダメ男は素早く一歩退いた。何かをされるような気がして。

「普通の利用客じゃないな? ……誰だ?」

「嫌ですねえ。ここは出会いの街でしょう? 魅力ある男性とお話したいだけですよ」

「……こんな朝っぱらから?」

「ええ。何か疑問でも?」

 近づいてくる女。ドライな口調でも、じっとりと距離を詰めてくる。まるで猛獣が獲物を追い詰めるように。

 その分、ダメ男もじりじりと後ずさりしていた。

「自分の将来を賭けているんですもの。多少の無理はしますわ」

「いっいや……それでも、ちょっと……あ、もう街を出るんだ」

 思い出したように口にする。

「それでしたら、その前にお話しません?」

「急用なんだ。だから朝早く出立しようとしたんだよ」

「……そうやって逃げるおつもりですね?」

「は、はぁ?」

「いっつもそう。私が声をかけるとみんな逃げていく。私がなにか悪いことしたっ?」

 口調が荒くなっていく。

「いや、そういうわけじゃないんだけどさ……何というか、その……」

 ダメ男も言い出しにくい。

「別に殺そうとか、既成事実作ろうとかそういうわけじゃないのに、どうして逃げようとするのっ? ねえ? なんでよっ?」

 ずかずか。強引に詰め寄る。

 ふぅ、と小さく息をつくと、

「行くぞ……」

 フーに小さく声をかけ、

「あっ!」

 一目散に逃げていった。

 女も全速力で追いかけてくるが、ダメ男が速すぎて追いつけそうにない。結局、街の入口で女は打ちひしがれることになった。嗚咽を漏らしながら、呻きながら、歯軋(ぎし)りしながら。

 

 

「申し訳ない。滞在が三日と聞いていたもので、引き留められんかったよ」

「大丈夫です。足取りは掴めましたから」

「……終わったか?」

「いえ。……えっと、これがお代金です」

「ありがたく頂戴しますぞ。今後もまたご贔屓(ひいき)に」

「いや、もう世話にはならない。目的を完遂するからだ」

「……とのことでして。あぁ、私はお世話になるかと思います」

「そうですか。その時には情報を蓄えて待っとります」

「どうも、お世話様でした」

「……行くぞ」

「ほいさ。……しかし、もうちょっと愛想よくしてもいいんじゃないですか?」

「関係ない」

「……そうですか」

 

 

 



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第二話:さむいとこ

 薄い橙色の巨大な高台が(そび)え立っていた。太陽から照りつけてくる太陽光線を自身で受け止め、その背後に安楽の日陰をもたらしてくれている。

 ところが、まだ南中を迎えていないにもかかわらず、そこでさえ熱気が込もっていた。

「はぁ……はぁ……」

 ブルーシートに人が横たわっていた。熱い吐息を漏らしながら暑さに悶えている。怒涛の勢いで湧き出る汗。ブルーシートに汗の溜りができていた。

 その人は長くて白い布を体中に隙間なく包んでいた。(かたわ)らには登山用の黒いリュックと薄汚れたスニーカーがきっちり揃えられている。なぜか黒いシルクハットまであった。

「大丈夫ですか?」

 その人に、どこからか“声”が話しかけてくる。淡々とした妙齢の女の声だった。

「ぐ、あぁ……はぁっ……」

 その人は悶えているというよりも苦しそうだった。

「誰か、通りすがりの方が来てくれればいいのですがね」

「うるせぇ……はうっ!」

「ほら、死にはしませんから、大人しくした方がいいですよ」

 唸っていたその人の身体は次第に、

「はっ……! はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」

 痙攣を起こしてきた。

「た、たすけってくれはっ! はっ! はっ! はっ!」

「こんな身なりではどうすることもできません」

 “声”は慌てることなく、冷めた一言を放つ。

「ふざ、はっ! はっ! はっ! はっ! はぁっ! はぁっ! はあぁっ!」

 その人は目を見開いたまま、ごろりと横たわった。そして何もしなくなった。

 “声”はため息をついた。

「これで七十三人目ですね。“金貨強盗”と言えばそれまでですが」

「強盗したのはそいつだろ」

 突如、どこからか汗だくの青年がやって来た。七分袖の白いシャツに薄手の布でできた白い羽織を着ていて、暗めの青いチノパンを履いている。靴は真新しいハイカットの白いスニーカーだった。

 腰に付けてあった黒いウェストポーチをシートに置く。どさりと重量感があった。

「ダメ男の頭は人類稀に見る軽さのようです」

「そのシートにできてる油ぎっとぎとの水溜まりにぶち込んでやろうか?」

 “ダメ男”と呼ばれた青年は“元”男の首元を漁る。黒い紐が掛けられていて、ぶちりを切り離した。吊り上げてみると、

「ウォータープルーフですから大丈夫です。それに、どちらにしてもお手入れしなければいけないですしね」

 水色の四角い物体が付いており、“声”はここから発信している。“元”男の脂汗でぬめりとした光沢が出ている。

「……オレの荷物に手を出すと、ほとんどこうなるからな……」

「ですが、そのおかげで望みの村は見つかりそうですね。ここから北に十八キロメートル進んだところにあると言っていました。時間としては三時間半くらいでしょうか」

「確かに、普通に歩いて行けばそのくらいが妥当だろうな。でも……」

「でも?」

「ここは砂漠だろうがあぁあぁぁ!」

 ダメ男の叫び声は黄色い砂原に沈み込んでいった。

 

 

「はぁ……」

 ダメ男のいる高台周辺は砂漠ではなく、土で押し固められた大地だった。しかし、黄色い砂地は視界に収まる距離にあり、ここが休憩できる地点だとダメ男は(さと)った。

 ちょうど正午になり、太陽は遺憾無くフル活動する。日光だけで物を燃やす勢いで、じりじりと肌を焼く。

 ぼこりと膨らんだ地面の前で、ダメ男は大量の汗をかいていた。

「いつ出発するのですか?」

 まだ高台の陰から出立していなかった。

「日差しが強いから、もう少ししてからだ……」

 そう言いながら、小さなナイフを突き立てた。

「十字架の代わりですか?」

「最低の事はしないとな……」

「そうですか」

 そして合掌した。数秒間。その間も汗は止まらない。

「……うん」

 ポーチから黄色い箱と水入りのボトルを取り出して、開封した。中には袋が二つ入っていて、そのうちの一つを開ける。白っぽいブロックが二個入っていた。携帯食料らしい。

 もこもこさくさくと口に含む。

「こんな所に涼しい街があるなんて、信じられないよな」

「砂漠に涼しい場所といえば、オアシスしか思い付きませんね」

「……“おあしす”?」

「ダメ男は知らないのですか?」

 水をぐびりと飲み込んだ。

「まぁ……砂漠自体が初めてだったし……」

 “声”は溜め息をわざと漏らした。

「仕方ないだろ! 初めてなんだから!」

「なんだか、言い訳が気持ち悪いですね」

「で! 何なんだよ! “おあしす”って!」

「顔面崩壊なのに女々しい言い訳とは、さすがはダメ男です」

「話題は変えないのなっ」

「辞書で調べてください」

「うわぁ……最終的に投げやりかよ」

「自分で調べることもしないと、脳みそが本当に萎縮してしまいます」

「お前も一緒に砂漠に埋めてやろうか? “フー”?」

 “フー”と呼ばれた“声”は、

「るるるるるるる~るらる~、るるるるるるるる~らるる~、るるる~るら、」

「いきなり歌ってゴマカすな」

「版権に関わりますので鼻歌のみです」

 歌い出した。

 昼食を済ませ、荷物をまとめて出発したのは四時過ぎだった。日が傾いていきたとはいえ、まだ灼熱地獄は続いている。

 ダメ男は健気にも歩き続けていた。

「こんな所でいつもの格好をしていたら、とっくにミイラになっていますね」

「そうだな。近くの村で買っといてよかった」

「これからは、その服装で旅をしたらどうです?」

「これカッコイイ?」

「ダメ男は青が良く似合いますから、悪くはないと思います」

「へ~、珍しいな。フーがホメるなんて、どういう風の吹き回しだよ?」

「その答えは西の方にありますよ」

「? 西?」

 ダメ男が左に向くと、

「そちらは北東です」

「ごめん」

 改めて、西には、

「え! なんで砂漠なのに、湖とかっ? しかも木でかっ!」

 青々と茂った緑と、それに囲まれた大きな湖が見えた。草木は長々と生えていて、砂漠からすっと伸びている。

「あれがオアシスです」

「すげ……」

 ダメ男はそちらを目指して歩き始めた。

「あぁして目標ができると、やる気出てくるよな」

「進路が変わっていますよ」

「よりみち! 目的地に着く前に死んだら元も子もない」

「そ、そうですね。その前にダメ男の体力が持てばいいのですが」

「人間ってのは一つのことに集中すれば、とてつもない力を発揮するもんだ」

「例えば何がありますか?」

「え? えぇ~と……例えば、目の前で車に挟まれた人がいたとしようか」

「どんな事情で挟まれたのかは聞かないこととして、サイズはどのくらいですか?」

「重すぎても可哀相だから、七百キロくらいにしとくか」

「挟まれた人は死にますね」

「もちろん、普通の人間じゃそんな重さの物を持ち上げることなんてできっこない。でも、だ」

「でも?」

「その人を助けたいっていう想いが極限までに高まると、力が一気に解放されるんだ。すると、その車を持ち上げられるんだ」

「へぇ。まさに“アキバのアタラクシア”というわけですね」

「……」

「ダメ男、どうしました?」

「あぁいや、何でもない、うん……アタラクシアねぇ……」

「? 変なダメ男ですね」

 ちなみに“火事場の馬鹿力”である。

 そんな他愛のない話をし続けておよそ一時間後、

「なんかさ」

「はい?」

「いっこうに縮まらないんだけど。そのオアシスってやつに……。あついよ……」

「それなら、怖い話でもします? 涼しくなりますよ」

「やだ! するなよ! 絶対に聞かないかんなっ!」

「ダメ男、あのオアシスをよく見てください」

「だから怖い話は……ん?」

 ダメ男はもう一度見てみた。確かに、湖があり、草木が涼しげに生い茂っている。

「何が変? つーか、怖い話関係ないし」

「ところが、あれは通常ではありえないのです」

「……なんで?」

「なぜなら、草木の根元が“上”にあり、下に向かって跳ねているからです」

「ん? ……!」

 よく見ると、草木が上に一つにまとまり、下に向かって細く四方八方に“砂漠に貫通している”。

 ダメ男の汗は一気に引いた。

「な、なんか怖いんだけどあれ……どういうことだよ、フー?」

「人間の目に映る景色というのは、光線が物体に反射して網膜に入ることにより見えるのです。しかし、光線は気温差の激しい気候によって屈折率が変化してしまうのです」

「え、えっと……よくわからん。つまり何なの?」

「つまり、目の前のあれは幻影なのです」

「な、なにぃぃぃ!」

「これは砂漠でよく見られる“蜃気楼”という現象なのです。幻影はいくら歩いても近づくことができず、逃げていくようにも見えるとされ、“逃げ水”という風にも言われるのです」

「つ、つまり、オレは存在しない幻影を追い続けたっつーことかよ! 一時間もっ!」

「先に言うべきでした。まさか、実物と見間違えるなんて」

「恐ろしく怖い話……だ、な……」

 ダメ男はへなへなと砂漠に倒れた。

「ダメ男! しっかりしてください!」

「こ、これが自然の脅威か……」

「ダメ男、ダメ男!」

「たのしかったぜ、フー。オレはここまで、」

 しかし、

「へぶちゃぁ!」

 いきなり、ダメ男の顔面を水が直撃した。そちらには、

「大丈夫か?」

 ラクダから降りた男がいた。男は薄くて涼しそうなマントを羽織っている。

「……あぁ……これも幻影か……」

「リアルだわボケ!」

 思わず男はダメ男を殴った。ダメ男は目をくるくる回して、あえなく気を失った。

「あ」

「ダメ男、ダメ男!」

「まあいいか。こいつも追加で」

 男の後ろには、仲間らしき集団がいた。十人ほどで、全員がラクダに乗っている。

 ダメ男はその内の一人のラクダに乗せられた。

 

 

「……ん……」

 ダメ男はふとして目が覚めた。

 辺りは暗く、しかも疲労のせいなのか、視界がぼやけていた。ただ、ふかふかのベッドで眠っていたことだけは理解できた。

「さ、むい」

 ダメ男はタオルケットを身体に(まと)った。服装は白のアンダーシャツに履いていた青のパンツだ。

 ふらっと起き上がってベッドから下り、壁伝いに歩きだす。よく見れば木の木目があった。そのまま進むと、ドアが見えた。さらに、すぐ隣にはスイッチがあった。カチリと明かりを(とも)した。

「……」

 部屋は八畳くらいで、浴室に繋がる通路と窓辺にテーブル、ベッドが設置されている。そこにダメ男の荷物が綺麗に揃えられていた。上着はテーブルに畳んで置いてある。

 ダメ男はいきなりびくりとして、胸の辺りを探った。

「フー……!」

「いますよ」

 ダメ男は声のするベッドの方へ向かった。フーはダメ男の枕元に置いてあった。無意識に安堵のため息が漏らす。

「フー、ずっと看てくれたのか?」

「違います。たまたまです。なぜダメ男の醜い顔を見ながら睡眠を取らなければならないのですか? 見るに()えないほど、世界を破滅へと(いざな)うほど顔面が崩壊しているというのに、一緒に眠るのは拷問に等しい行為です。なので、」

「ありがとな……。少し疲れてるみたい……もう少し寝るよ」

「いいえ。お休みなさいです」

 ダメ男は倒れるようにベッドで眠った。どことなく微笑んでいる気がした。

 

 

 外が明るくなり始めた。窓辺からぼやけて広がっていく薄明かり。だんだんと部屋全体へ浸透していく。

 砂漠らしい暑さはなく、肌寒さが気になる気温だった。その表れなのか、ダメ男は、

「……す……す……」

 床で眠っていた。うつ伏せで、ブランケットを掛けて熟睡していた。よほど気持ちいいのか、ぎゅっとブランケットを(つか)んでいる。いつもなら目覚める時刻だが、ダメ男は目を覚ましそうにない。

 枕元に置いてあるフーがちかちかと赤く点滅していた。

「ダメ男、時間です。起きて下さい」

「……」

 起きないどころか反応も薄い。

 フーはため息を吐いて様子を見た。どこにあるのか分からない“眼”で、ダメ男を見た。

「……」

 ダメ男は静かな寝息を立てて、心地好く眠っている。そして、ごろりと寝返りをうって仰向けになった。うぅん……、と幼い声をあげる。

「でーでん……でーでん……」

「……す……す……」

 まるで何かが迫ってくるように言い出した。

「でーでん、でーでん……」

「……」

「でーでん、でーでん、でーでん」

「ぁ……」

「でーでんでーでんでーでん」

「ぅ」

「でんでんっでんでんっでんでんっでんでんっでんでんっでんでんっでんでんっ」

「うるさい!」

 ダメ男は叩き起こされ、ベッドに向かい、フーを手に持って、

「おはようです」

「あ、あぁ……あはよう」

 一歩踏み止まった。落ち着いてから、フーに通してある(ひも)を首にかける。

 ぐいっと身体を伸ばす。

「襲われる悪夢、か……」

「まだ寝ぼけているようですね。悪夢を見ているとは思えないくらいに気持ち良さそうでしたよ」

「適当なこと言って……あ!」

 ダメ男は突如、下を見て驚いた。

「どうしました?」

「パンツ、洗濯してないし……」

 よく見ると、裾のあたりに砂がひっついていた。

「仕方ありませんよ」

「……そうだな」

 ダメ男は気を取り直して、毎朝恒例の朝練に取り掛かった。

 テーブルの近くに整列された荷物のうち、リュックからナイフを取り出した。そのナイフは黒い骨組で()が作られていて、隙間には透明な膜が貼られている。仕込み式で、ボタンを押しながら振ると刃が出てくる。刃渡りは拳三つほどで、柄も同じくらいの長さだった。

 そのナイフを振り回す。眠気がまだ完全に取れていないようで、動きが鈍かった。そのせいで、

「あ」

 手が滑ってしまった。

「だめ、」

 ナイフは深く突き刺さった。足の指数センチ先で。

「……」

「もう、しっかりしてください! 怪我しますよ!」

「悪い悪い。なんか寒くてうまく動かん」

「寒い?」

「あぁ」

「気温は二十五度ですよ」

「あれ? ……あぁ、外との気温差が激しいからだな」

 苦笑いで誤魔化そうとしても、顔は引きつっていた。

「でもまぁ、今回はケガしなかったんだからいいだろ?」

「もし怪我したら、三十三回目です。そのうちの二十五回は右足の親指です」

「えらーいえらいっ。よく数えましたね~」

「切断すればいいのに、とは言いませんよ」

「へぇ、それってやっぱりおなじ、」

「ナイフが胸に刺さって死んでしまえばいいです」

「物理的にありえんだろっ。もっとひどいなっ」

「特に大動脈が切られて、悶え苦しみながら出血多量で絶命すればいいです。それか(のど)のあたりを切って、」

「朝からグロテスクなトークはやめよう、な?」

「それを言ってしまったら、ダメ男の顔面には常にモザイクが必要になりますよ」

「そうだ、寝起きだから口が悪いんだった……」

「ダメ男は口が臭いですけどね」

「……!」

 ダメ男は崩れ落ちて、打ちひしがれた。

「顔が気持ち悪いとかは我慢できるけど、……口が臭いってのはショックだ……」

「元気出してください。口臭用の医薬品もありますから」

「……」

「口臭は口の中だけでなく、胃にも原因があるらしいですよ。だから歯磨きだけでなく胃にも気にかけた方がいいです」

「……」

「あれ、ダメ男? だめおー?」

「……」

 ダメ男が立ち直るのに時間がかかった。太陽が登りきった頃でも立ち直れなかったという。

 

 

 日干し煉瓦で組み立てられた家や建物が点々と並んでいる。その中にいくつか白いものがあった。そしてそれを囲むように、砂を()いて作った道が通っている。

 その村は(にぎ)わっていた。村人は貧しそうな格好でも、笑いあって楽しそうに話している。村の端っこにヤシの木々に囲まれた泉があり、そこに多くの人が集まっていた。水浴びをしていて気持ちよさそうだった。

 この頃ダメ男は必要最低限の荷物を持って、村を散策していた。昨日と同じ服装で。

「このネギ、腐ってんじゃないの? “値切(ねぎ)”らせろよ」

「うひゃぁ~。金あるくせに値切るとか、おっ“かね”~」

「ねぇ、ちょっとこれ見てよ! (たい)の死“体”よ! 生臭いわ……」

「忍者を解“任じゃ”」

「了解。ところで君、仕事をさぼって歯の治“療かい”?」

「いいかい? この貝は“良い貝”なんだ。栄養満点だぞ?」

「殻がないから、ち“からがない”」

「力がないのはお前が怠けてるからだろ。もっと“身体”を鍛えろよ」

「ぼくは牛を“うし”なわない!」

「それじゃ、牛の縄を“うしなわ”ない」

「神の“髪”の毛」

「……」

 鳥肌が立ちっぱなしだった。なのに、汗がだらだらと垂れっぱなしだった。

「こいつら、オレを凍死させる気なのか……? どう思う、フー?」

「“闘志”を燃やせ!」

「くだらないこと言ってると、本気で叩きつけるからな」

「そんなに怒らないでください」

 それでも、楽しい雰囲気であるから毛嫌いにすることはなかった。

 ダメ男は両耳にイヤホンをして、歩くことにした。幾分かマシのようだ。

 そこに、気さくに男が話しかけてきた。

「やぁ」

「ど、どうも」

「どうだい? ここは涼しいだろう?」

「……いろんな意味で」

「それだけでなく、緑が多いですね。まさにオアシスです」

 男はありがとう、と嬉しそうに礼を言う。

「実は、先人達が考えてくださったんだ。百年くらい前かららしいけど、度重なる苦労の結果、考案されたのが“ダジャレ”だったのさ」

「ダジャレ……」

 ダメ男はそろそろお(いとま)しようと思ったが、男が説明したそうにうずうずしていたので、もう少しいることにした。先ほどから悪寒がしてならないらしい。

「なぜ、ダジャレはあれほど寒くできるのか? あらゆる科学者に分析させたよ。そうしたら、驚くべき結果が出たんだ」

「な、何が出たんだよ?」

「ダジャレには、気温を下げる効果があったのだ!」

「……それってさ、気持ち的なものじゃないのか?」

「これを見てほしい」

 そう言ってダメ男に手渡したのは、分厚いファイルだった。表紙をめくると、数字と折れ線グラフが日にちごとに、事細かに記録されていた。

「そのページは最近のものだが、およそ二十八年間分の天気と気温のデータだ。ダジャレを本格的に導入したのは十五年ほど前。導入後で平均気温が八度も下がったのだ!」

 最後のページに年度ごとの月の気温の記録が棒線グラフで記してあった。確かに男の言うとおり、気温が下がっているように示されている。

「平均気温で提示することで信憑性が薄くなってしまうが、ここまで明確であれば、ダジャレの効果はあると見なしていいだろう!」

「うそだろ……でもなぁ……こうも結果が出てるし……」

「とてつもなく素晴らしいと思います。全面的に支持します」

 ありがとう、と男ははにかんだ。

 ダメ男とフーは素直に感心した。それと、ダメ男の悪寒は治ったらしい。

「とにかく、これからもダジャレは続けていくつもりだ。あなた方も何か一つ考えてみたらどうだろう?」

「い、いや、オレは体調がまだ良くないみたいだから」

「それでは一つ、」

「早く戻るぞ」

「……お、お大事に」

 悪寒は再発したようだ。

 

 

 あれからも村を歩き回った。ついでに買い物もして、必要なものと不必要なものを整理した。地域が地域なだけに、重宝する物が多かったらしく、思った以上に買い物はお得だった。

 その合間にも村人たちと話してみた。返す言葉がほぼダジャレ付きという、身が凍る思いをするダメ男。それでも陽気な雰囲気に、顔が(ほころ)ぶ。なんとなく村人たちが勇ましく感じた。

 日が落ちてきて雄大で広大な砂漠一帯は赤く染まる。水平線に沈んでいく太陽は、まるで赤い閃光を放つダイヤモンドのようだった。やがて姿が消えていき、空と大地は紺色に移り変わっていく。

 賑やかだった村も落ち着いていき、かすかな歓声と静寂が包んでいく。

 空に遮るものは全くない。夜なのに昼のように明るかった。満月が太陽の代役を果たし、地上を照らし続けてくれた。夜空一面、粒々が光っている。

「ダジャレは……フーの専売特許だもんな」

「べっ別にダジャレを言っているわけじゃないです」

「ダジャレというか、訳の分からんこと言うもんな」

「ダメ男」

「は、はい」

「今何時ですか?」

「な、なんだよいきなり。大体二十時くらいじゃないか?」

「“(なんじ)”、時計がないなら買いに行っ“とけい”」

「……サブい」

「まさに“供えあれば幽霊なし”ですね」

「すんません。本当に、手厚く(とむら)うので出てこないでください幽霊さん」

「あはは」

 ダメ男は部屋に戻っていた。調度品と荷物を整理整頓していた。テーブルだけでなく、ベッドやら床までもダメ男の荷物が散乱している。

 フーはテーブルの手元に置いてある。

「まぁ、電気も満足に使えないこの村にとって、エコな作戦かもしれませんね。ダジャレはほぼ人畜無害ですし、お金もかかりませんし、涼しい気分になりますしね」

「このまま続けたら、氷河期突入しちゃうんじゃないか?」

「暑くなければいいと思いますよ。それよりも、ダジャレで気温を下げる仕組みを知りたいですね」

「分かるわけないだろ」

「えーっと、ダジャレで気温を下げるということは、空気中の分子の熱エネルギーを吸収することになるのだから、ダジャレは、あるいはそれを放出する人間が熱エネルギーを、」

「何言ってるかさっぱり分からないし……。好きにしてろ。それと、明日出発だからな」

「分かりました」

 ふぅ、と息をついたダメ男は風呂に入っていった。

「うおっ! つめったっ! つーかここさむっ!」

 湯船に入っていた水は恐ろしく冷えていた。仕方ないのでシャワーを、

「ひゃおぉ! こっちもかよ! ダジャレおそるべし!」

 シャワーヘッドを床に叩きつけた。

 

 

 出発する日の朝を迎えた。いつものように(たる)んだ朝練をする予定だった。

「……」

「ダメ男? どうしました?」

「あ、いや、今日はやめとく……うぅ」

「?」

 ダメ男は片付けていないかった荷物をリュックやポーチに入れ始めた。

「もう出発するのですか?」

「んだな。村を一回りしてから出ようと思ってる」

「そうですか」

「……よし、行くぞ」

 ダークブルーのジーンズに白のタンクトップを着て、白のスニーカーを履いた。その上から白い羽織を着る。

 ウェストポーチ二つを腰に付け、ナイフの入ったホルスターを右の横腹にくくりつける。ナイフを出し入れして、高さを微調整した。

 リュックをぐっと持ち上げて重さを確かめた後、部屋を一回り確認した。

「あ」

 ダメ男はリュックを下ろして、中からボトルを取り出すと風呂場へ直行した。

「危なかったですね」

「うん」

 風呂場の蛇口から、キンキンに冷えた水を補給していった。

「ここだけ氷河期だよ」

「涼しいを通り越して寒いですね」

 改めて部屋中を確認した後、ようやく部屋を出た。きしきしと軋む廊下を進んでいくと、ほどほどに広いロータリーに着く。見た目、学校の教室ほどの広さだ。しかも、待ち合いのための木製ソファやテーブルも設置されている。

 そのフロアに五、六人の人がいた。しかし、ダメ男はあまり関心がないようで、同じ人に見えた。

 一瞥(いちべつ)して、宿から出ようとした矢先に、

「おはようございます」

 女が話しかけてきた。メイドの格好をしていて従業員のようだった。

「ども」

 口だけの営業スマイル。

「よく眠れましたか?」

「まぁ、ここの床は寝心地が良かったよ」

「“床”ですか……」

 くすくすと笑っている。ダメ男ははっとして、

「さ、砂漠を最短で抜けるには、どの方角に行けばいいか分かるか?」

 話題を変えた。

「床で眠る方は見たことも聞いたこともありませんよ?」

「そ、その話はいいからオレの質問に、」

「顔真っ赤ですよ、あはは」

 からからと笑い転けている。ダメ男は一瞬切れそうになったが、

「いきなりナイフは駄目ですよ。落ち着いてください。相手はからかっているだけです」

 小さな声で(なだ)められて、なんとか抑え込んだ。

 メイド服の女も小さな声で謝る。

「お帰りですか?」

「あぁ。ずっとここにいたんじゃ、凍え死んじゃうよ」

「“小声”でお願いしますね」

「………………」

 ふるふると身悶えしてきた。

「予想してなかっただけに余計に寒く感じるなぁ……」

「良かったですね。この街はとても涼しいことで有名ですから」

「もう氷点下いってるよ、うん」

 お腹いっぱい、ダメ男は悩まされる。

「どうにかして砂漠を渡らずに済む方法ってない?」

「それは無理な相談です。砂漠に囲まれた街ですから」

「そう? ……例えば地下道とかさ」

「……!」

 キッ、とほんの一瞬だけ視線が鋭くなる。

「……それなら、一番いいルートがありますけど、案内しましょうか? 滅多に案内しないんですけど」

「……まじか。ぜひお願いするよ」

「はい。では、こちらにどうぞ」

 メイドはダメ男の来た道を戻っていく。素直に付いていくと、

「ここ、オレがいた部屋……」

 ダメ男が泊まっていた部屋に案内された。メイドがそそくさと中に入った後、ダメ男も中に入る、

「!」

 直前に、ダメ男は足が止まった。

「どうしました?」

「腹痛い」

「大丈夫ですか? 水(あた)りですか?」

 部屋の中から、メイドの心配する声が聞こえた。

「何かお薬をお持ちいたしますけど……」

「大丈夫だ。そこまでひどくないし、薬も持ってる。ちょっと待ってて」

 ダメ男は一度リュックを下ろし、ポーチから錠剤を取り出した。ぱちりと押し込んで、口に放り込む。

「ダメ男、それは、」

「待たせた。薬飲んだから多分良くなる。今そっちに行くよ」

「それは何よりです」

 ダメ男は錠剤の入っていた容器を部屋の中に投げた。

「え?」

 メイドが呆気に取られた声がした瞬間、

「動くなよ?」

 ダメ男はメイドにナイフを突き付ける。部屋に入ってすぐ右手の壁に隠れていた。びたりと首に切っ先がついていて、下手に動くと()じ込まれそうだった。そのメイドはというと、

「……」

 物騒な黒い“L”字型の物体を握りしめていた。観念したかのようにそれを手放す。

「よく気づきましたね」

「バレバレだっつーの。部屋に入っていきなり姿を消したら、挙動不審にしか思わん」

「ダメ男が飲んだのがラムネだったので、何とか把握できました」

 足元に落ちていたラムネの容器を拾い、メイドに見せつけた。

「食べる?」

「いりません」

「んじゃ、行こうか」

 ダメ男はナイフをポーチに仕舞った。

「は?」

「いや、だって案内するって言ったじゃん。まさかオレを殺すためのデタラメ?」

「そうじゃないですけど……」

「そんなら行こう」

「自分を殺そうとした人を信じるんですか?」

 ダメ男は頭を()く。

「あんたどんだけ中二病だよ。手際良く殺すなら、寝てる間にするのが普通だろ。確かに信じきれそうにないけど、オレはただ近道が知りたいだけだし。嫌なら教えてくれるだけでいい。後は歩いていくよ」

「……」

 黒い物体を回収したダメ男は、解体処分した。マガジンはリュックに無造作に突っ込んで入れた。

 メイドは頷いて、歩いていった。

「ダメ男」

 ダメ男は無謀にも、メイドに付いて行く。それを確認したメイドは目を丸くして、

「……」

 何も言わなかった。

 向かった先は、風呂場だった。何もないだろ、とダメ男が悪態をつく。それを尻目にメイドは風呂場の床を弄ると、ロックが解除したような音が聞こえた。

「お」

 ハッチのように床が開いた。ひゅお、と中から冷風が吹き抜けてくる。

「薄暗いな。ちょっと待ってろよ……っと」

 ダメ男はリュックからヘッドライトを二つ出して、一つをメイドに渡した。

「気ぃつけろよ」

「……」

 二人は中へ入っていった。

 人一人分が通れるくらいのトンネル。ダメ男たちは長い梯子(はしご)を降りた後、そのトンネルを歩いていた。先は入り組んでいるようで、暗かった。しかし、壁はしっかりと作られたようで、水漏れやひび割れなどが全くないのが分かる。コンクリートか何かで形成しているようだ。

 そして、中は寒かった。深い洞窟に入っているかのような寒さで、ダメ男は黒いセーターに着替えていた。

「迷路……なのか?」

「いえ、カーブが多いだけの一本道です。光がなくても、進んでいけるようになってます」

「……ここってどこに繋がってるんだ? 少し寒いし……」

「来れば分かります」

 メイドはつっけんどんに返答する。

 それからも休憩を挟みつつ、黙々と距離を伸ばしていく。しかし、メイドは疲労の色を微塵にも見せなかった。ダメ男は内心、バケモンじゃね、とか失礼なことを思っていた。

 そうしているうちに、トンネルの終わりが見え始めていた。

「おぉ」

「見えましたね」

「そうです……ところで、先ほどから“女性の声”が聞こえるんですけど、幽霊ですか?」

「あ、あぁ。説明は以下省略で、名前は“フー”」

「はじめまして。フーです」

「ちゃんと説明してくださいよ」

「実はかくかくしかじかで……」

「ダメ男、きちんと説明してください」

「言うのがメンドイ」

「では、私が言います」

 フーはダメ男のごついネックレスがフーであること、(しゃべ)ること、ダメ男の飼い主であることを懇切丁寧に説明してくれた。

「覚えとけよフー……ん?」

 そうして、トンネルを抜けると、湖面が壮大に広がっていた。右手に道が続いているが、そちらに足が進むことはなかった。

 洞窟のようなドーム状の空間に、湖の奥底から光が漏れていて、なぜか青白く照らしだす。底は見えるくらいに綺麗に澄んでいて、砂漠の砂が沈殿しきっていた。魚が優雅に泳いでいる。

 ライトを上に向けてみる。岩肌が湿っており、水滴が湖面へと吸い込まれていた。潤った音、小さい波紋、ゆらゆらと水面が揺れる。その音は共鳴するように響き合う。

 ダメ男はおそるおそる手を浸してみた。ひんやりした冷たさが、手に程よく染み込んで気持ちよかった。水面から手を抜くと、ダメ男が作った波紋が湖の向こうへと伝わっていく。

「ここがどのようにしてできたのかは不明ですが、おそらくごく稀に降る雨水がきれいに()されて溜まったんだと思います」

鍾乳洞(しょうにゅうどう)みたいだけど全然違うな」

「地下に眠る水洞窟ですね」

 ダメ男はフーを取り出した。ぱかりと蝶番のように開き、カタカタと何か操作する。すると、

「ちょっとこっち来てくれ」

「?」

 メイドを呼び寄せた。フーを二人に向けると、

「はいチーズ」

「え?」

 カシャッ、とフーから電子音が聞こえ、突如光った。

「ほら、見てみ?」

 (おもむろ)にフーを見せる。ダメ男と困惑しているメイド、背景に綺麗な湖が写っている。

「ありがとな」

「……私、あなたに申し訳ないことをしました……」

「いまさら?」

「ごめんなさい」

 メイドは深々と頭を下げた。

「でも、無理ないよな。ここを守るためなら……」

「!」

 ダメ男の言葉に、メイドは目をぱちくりさせた。

「本当にお人好しですね。ダメ男の悪い癖です」

「……フーさんの言うとおりですね」

 メイドはダメ男に見られないように、湖の方へ顔を背けていた。

 先に行ってて、と告げた。それを聞いたダメ男は先にある道を進み、地上へ戻る梯子を見つけた。上を見ても光が見えないことから、蓋が閉まっていると判断した。

 ダメ男は梯子に足をかけていった。荷物の重さのせいか、リュックやウェストポーチの紐が肩や腹に食い込む。涼しい環境なのに、そこからじわじわと汗が滲んできた。

 一番上まで辿り着く。地上が近いのか、やけに暑く感じているようで、さらに汗をかいている。

 ダメ男はヘッドライトを外し、蓋を押し上げた。

「!」

 外からの光が丸く縁取られる。直接眼に突き刺さるように強烈で、まぶたが不意に閉じる。

「ふんっ!」

 渾身の力を込めた。ずしりと身体全体に重量感が伝わる。それを何とか横にずらした。

「……まぶしい」

 ダメ男の頭上にはお天道様が見下ろしていた。暗闇から光輝へ眼が移り変わるのに、一瞬だった。

 ダメ男は地上に登り切り、辺りを見回した。

「……なんだここ?」

 呆気に取られた。

「砂漠地帯を抜け、ステップの地帯に入ったようですね。しかし、これほどに緑が育つなんて初めて見ました」

 煉瓦造りの家の近くに、池があった。それを取り囲むように緑が育ち、木々がいくつも点在していた。緑は家の周り一面に生い茂っている。

 さすがに暑かったらしく、セーターを脱いで、タンクトップになった。

「これ、私が全てやりました」

 うひょぅ! とダメ男は飛び退く。メイドはダメ男の背後にいた。

「びっくりさせんなよ! 心臓止まるかと思った……」

「そんなことより、あなたが全て育てたのですか?」

「はい。水は違う村からパイプを引いてもらってますけどね」

「これほどの成果を出すのに、数年ではききません」

「そこそこ頑張りました」

 メイドは照れるのを隠せず、満面の笑みを浮かべた。

「地下にあった水は使わないのか?」

「あれは村用です。飲み水と冷房用に」

「冷房用?」

「つまり、洞窟内の冷気を村に流し込み低温化を図る、ということですか?」

「そうです。……水不足に困っていた村のために水源を探したんですが、オアシスを見つけたんです。しかも驚くことに、オアシスの奥に地下洞窟があるのも発見しました。そこで掘削して、オアシスの冷気をそれぞれの家に流すことを提案したんです。もちろん強制じゃないですよ」

「自然の冷房装置ってことか?」

「そして見事に成功したのですね?」

 にこりと微笑みかける。しかし、すぐに眉をひそめた。

「ただ、これは貴重な水源なために、旅人やその他の集団に侵略や略奪をされかねません。そこで、村長さんは“ダジャレ”という言い回しで、隠すことに決めたんです」

「? じゃああの科学者は? 二十八年間もデータ取ってたけど……」

「あの方は言わば洗脳役ではないですか? ダジャレの効果を本物と思わせるためのでっち上げだと思います」

「その通り」

「すごい周到だなぁ……」

「そうでもしないと水源を守れないんです。……私はてっきり、水源を偵察に来た悪党かと思いましたよ」

 ダメ男は池の水を(すく)ってみた。地下の水よりは少し(ぬる)い。それでも、飲んでも問題ない温度だ。

「オレが風呂に入った時と同じくらい……?」

「お風呂は本来使わず、シャワーで済ませる人が多かったんです。お風呂の水は入れてましたけど、温めてなかったみたいですね」

「……だから風呂場も水も冷えてたのか」

 ダメ男はリュックを下ろし、ボトルを取り出した。こくこくと喉を鳴らして飲む。水が喉から食道を通り、胃に到達する。その過程は“冷たさ”で感じた。

「ここはまだ砂漠地帯なんです。さらに西へ向かうと、砂漠地帯を完全に抜けて草原地帯に出ます。そこからもっと先に少し古い街があるはずです」

「そうか。……いろいろとありがと。これからも頑張ってな」

「はい。旅人さんも」

「ん」

「メイド様、ありがとうございました」

 二人は固い握手を交わした。そして笑い合った。

 その手が(ほど)かれて、ダメ男は歩いていった。

「行くか」

 ずっと歩いていくのをメイドは見送っていた。ダメ男が豆粒くらいに遠くなって、

「あんなに笑ったの久しぶり」

 ぼそりと呟いた。

 

 

「西だったよな」

「西ですね」

「涼しいな」

「涼しいですね」

「ちょっと日差しが暑いけど、昨日みたいな気温にはならなそうだ」

「ですね」

「ん? んぅ……はっはっ」

「どうしま、」

「クシュンッ!」

「ダメ男のくせにクシャミが可愛いですね」

「うるさいっ……ふっクシュッ!」

「まさか、風邪ですか?」

「今朝からだるかったんだけど……無理したなぁ……」

「だから訓練をしなかったのですか?」

「うん」

「いい判断ではありますが、体調管理がなっていませんね」

「あれだけ寒かったら仕方ないと思う」

「“ダメ男は風邪を引かない”というのに、おかしいですね」

「“馬鹿は風邪をひかない”な」

「同じことですね」

「……水没させんぞ」

「余計に風邪が悪化しますよ」

「む、それは言えてる」

「ダメ男の場合、馬鹿すぎて風邪だとも自覚できないでしょうけどね」

「風邪の前にストレスで倒れそうだわ……」

 

 

 



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第三話:ゆるさないとこ

「初めて見るのか?」

「うん。これが砂漠なのか……」

「それよりも無謀だぜ。そのままだったらさようなら、だぞ?」

「……ありがとう」

 一台の車が走っていた。フロントガラスはついているが、屋根がないオープンな作りをしている。馬力のありそうなエンジン音を轟かせ、突っ切っていく。四人席で、前列には運転席に一人と助手席に一人座っている。後列は誰も座っていない代わりに、ダンボールやクーラーボックスが大量に積んであった。さらに後ろには、車輪の付いた倉庫のような荷物が連結されている。

 運転手は男で、Tシャツに短パンと涼しげな格好をしている。肌黒く日焼けしていて、ダンディにサングラスをキメていた。

「でも、あんちゃんもなかなかラッキーだな! ここで会うのも何かの吉兆かぁ?」

「そうなるように頑張るよ」

「あっはっはっは!」

 運転手は豪快に笑った。

 助手席にいる男は、黒くだぼついたセーターに黒のパンツ、黒いスニーカーと全身黒づくめな格好だ。セーターにはフードが付いていて、もこもこしたファーがそこに装着されている。(そで)は掌を半分覆い、(すそ)はパンツのポケットを完全に隠すほどに長い。

 男の足元には丸く太った黒いリュックサックが置いてあり、膝の上にはウェストポーチが二個置いてあった。

「そういや、あんちゃんは何か用事でもあんのか?」

「特にはない。でも、世界中を旅して、いろんな所を散策してるとこ」

「へぇ~、こんなに若いのになぁ……。なら、俺の用事に付き合うかい? 時間があれば、だけど」

 男は服の中を(まさぐ)って、何かを胸の前に出した。ネックレスのようで、水色のようなエメラルドグリーンのような色をした謎の物体だった。それに黒い紐が(つな)がれている。服の中は暑いようで、謎の物体は少し湿っていた。

「お礼になれば、手伝うよ」

「そりゃ助かる! んじゃ、全速前進!」

 車はさらに(うな)りを上げて、砂漠の中を爆走していった。

 

 

 岩石が多く存在している岩石砂漠がこの地帯の特徴となっている。淡い茶色の砂地に岩石が所々に転がっていて、ちょっとやそっとでは崩せないくらいの硬度がある。

 お昼を過ぎて、日が傾いてきた。それでも日光が大地を焼きつけ、地上は灼熱と化している。乾燥した気候と燃え盛る気温のせいか、植物は存在しなかった。岩石もじりじりと日光を受けて、食べ物を乗せれば、自然のフライパンができそうだ。

 そんな岩石を避けるように、一本の道がくねくねと曲がりつつも伸びていた。先ほどの車はこの道を道なりに、たまにショートカットしながら走っている。

 車に乗っている助手席の男は、

「……すぅ……すぅ……」

 眠っていた。

「しっかし、こんな格好でよく寝れるな……」

 運転手の男が(つぶや)く。

「許してあげてください。ダメ男はかなりの疲労を蓄積しているのです」

 二人の声とは明らかに違う“声”。清涼で冷淡な女の“声”だった。運転手の男は、

「許すも何も、最初から怒ってたり迷惑がってたりしてねーよ」

 平然と受け応えしている。

 “ダメ男”と呼ばれた助手席の男は、

「すぅ……んぅ……」

 気持ち良さそうに眠っている。

「ありがとうです、ドライバー様」

「様づけとか敬語とかじゃなくていいぜ。気軽に“シャン”で」

「シャン様ですね?」

「……人の話聞いてた?」

「もちろんです。しかし、これがスタンダードなのでご勘弁ください」

「それならしゃーねーな」

 運転手の肌黒い男“シャン”は大きく笑った。

「それと、ダメ男のセーターは特殊な素材でできています。気温によって通気性が変化し、いつでも快適に着ることができるようになっています。それでも厳しい時は着替えますが」

「へぇ~。すごいな。でも、実在するとは思えねー素材だ」

「そうですね。作った本人も奇跡だと思ったみたいです」

 ちなみに、この時の気温は三十五度を超えているらしい。

 今度は“声”が(たず)ねた。

「シャン様は何をなさっているのですか?」

「俺か? 俺はここら辺で支援活動をしてるんだ」

「支援活動?」

「まぁ、詳細は来てからのお楽しみだ」

 シャンはニコリと口角を上げる。

 しばらく車を走らせると、シャンが前方に指差した。

「ほら、見えたぞ」

「あ、あれって」

「村だ」

 そこは家という物が破壊し尽くされている。煙が立ち、(くすぶ)っているところもあり、まだ火の手が止んでいない。灰で鼠色(ねずみいろ)が多かった。

「十分程度で到着だ。“ブラックマン”はそっとしとくかい?」

「お願いします。ついでに、私も連れていってください。詳細は後ほど言います」

「わぁった」

 シャンは少しアクセルを緩めた。“声”はそれに疑問に感じたのか、

「あ、あの」

 聞いてみる。

「ここら辺は紛争が多いんだ。だからああいうところがあっても不思議じゃないのさ。むしろ、失望感が大きいかな」

「失望感、ですか?」

「あぁ。犠牲になるのは、いつも子供たちだ……。大人が守ってやれないなんて、何のために生きてるのか分かんねぇよな」

 シャンはアクセルを踏み直した。エンジンが轟音を立てて、道なりに走っていく。

 二人はそれ以上話さなかった。

 

 

「えっと、君はどこにいるんだい?」

 一行の乗る車は、村の門付近に駐車した。とは言うものの、何も書いていない木の看板が立てられているだけだ。

 近くに来ると、現状が生々しく見える。中が露出している家、焼き焦げている木材や食料を詰める木箱と樽、焦げ臭さに生臭さ、そして血の痕。とても人が生存できるような場所ではない。

 シャンたちは車から降りていなかった。“声”の正体を探している。

「ダメ男のネックレスです。水色の四角い物が付いています」

 シャンは失礼して、ダメ男の首元をチェックした。黒い紐がかけられていて、それを慎重に手繰り寄せる。

「こんにちは、“フー”です」

 水色のようなエメラルドグリーンのような色をした四角い蝶番。これが“声”の正体、“フー”だ。

「一人でにしゃべるのか。どんな原理?」

「それは秘密です」

「そうか。にしても、ブラックマンもこんなかわい子ちゃんの声を毎日聞けるなんて、幸せもんだぜ」

「だ、ダメ男はバカでクズでゴミでカスでおっちょこちょいで性格破綻者で怠け者で愚か者でダメ人間で気持ち悪くて、」

「おいおい、そこまで嫌がらなくてもいいだろ」

 まともなツッコミを入れた。

「まぁ好意の裏返しってのもあるしな」

 フーはガミガミとダメ男の悪態をついていた。

 シャンは車に大きなパラソルを立てた。車全体を覆い、その下に日陰を作る。

 ダメ男が心地良さげに、静かに寝息を立てていた。たらりと(よだれ)が垂れているのを、シャンが()きとってくれた。

「行こうか。ブラックマン、ちょっとだけ相棒を借りるぜ」

「借りられます」

 シャンは村の中へ入っていった。

 村を見回るように歩いていくシャン。すると、崩れた家の中からたくさんの人が出てきた。そして、村人たちが火を消す作業に取り掛かった。その表情は不思議と笑顔に満ちている。

「この方々は住民ですか?」

「あぁ。村が襲われると分かって、事前に避難させていたんだ。隠れてたのは、エンジン音が聞こえたからだな」

「すごい聴力ですね」

「オレがわざと吹かしたんだよ。ここの人たちは穏やかで平和的な気質の人が多くてな」

「平和ボケしている、ということですね」

 シャンは、話が分かるな、と言いたげに頷いた。

「で、今はオレだってことを皆に知らせてると同時に、仲間を探してる」

「既にシャン様の仲間が支援活動を開始しているのですね」

 村人はこの風土に似合わないくらいに、綺麗でオシャレな服装だった。ロゴの入ったTシャツやワンピース、麦わら帽子など、現地では作り出せないような衣服が多い。靴もスニーカーやサンダル、中にはハイヒールを履いている村人もいた。

 フーはすぐに理解したが、それは聞かなかった。

 しばらく歩き回っても、仲間らしき集団に出会えなかった。なので、シャンが、

「よぉ、元気かい?」

 後ろから、少し太った女に声をかけた。女はゴミの分別をしていた。

 振り返ると、驚いた顔を見せる。

「あら! シャンじゃないっ! 二日ぶりねぇ!」

 シャンにハグして、二人して笑いあった。

「いやぁ、元気も何も、こうして生きてられるのもあんたのおかげよっ」

「それは何よりだよ、マム」

「えぇえぇ、あれのおかげで、子供たちもすっかり元気になったのよっ。私も食べすぎて太っちゃったわ! あはははっ」

 シャンは軽く肩を(はた)く。

「確かにボリュームが増したんじゃないか? マムの身体には効果抜群だな」

「そうね。二日ぐらい食べなくても生きていける自信があるわ。あっはっはっは」

 また、笑い合った。

「ところでさ、マム?」

「あぁ、デリカシーのないあんたの仲間なら、オアシスで働いてくれてるわ」

 マムはにやにやして言う。

「皆に配っちゃったからな。下着姿は勘弁してくれ」

「あんたのも子供たちが欲しがるわよ?」

「そんな心配はいらんぜ、マム?」

 豪快に笑って、二人は別れた。

 軽い足取りで歩いていく。

「仲が良いのですね」

「あぁ、これでも最初は冷たかったんだぜ? 何せわけの分からん連中が押し寄せてきたんだ。誰でも警戒するわな。それでも粘り強くやってったことが、今に結びついてる」

「ものすごく感動します」

「よしてくれよ。俺より、あんたの相棒の方がすごいと思うぜ?」

「え?」

 フーがなぜかを聞こうとした時、

「あ、いたいた」

 仲間を見つけたようだった。大人の周りに子供たちがわいわいと騒いでいる。そこには山積みになったダンボールが見えた。そして、背後には、

「おぉ」

 フーは思わず声が漏れる。

 綺麗な湖があった。青々と水底が見えるくらいに澄んでいて、飲んでもまず問題なさそうだ。しかも、木々や緑が見事に生き生きと育っている。

「オアシスを見たことないか」

「写真でしかないです」

「珍しく、この村はオアシスがあるんだ。それを狙ってくる(やから)も少なくない」

「では今回の紛争もそうなのですか?」

「そうだな。ここは味方の軍隊が守ってるから、すぐに駆けつけてくれる。その隙に住人は避難って寸法だ」

 シャンは集団の前に着いて、大きい声で呼びかけた。すると、そのうちの一人が子供たちを()き分けてやって来た。

「おつかれさん、リーダー」

 がっしりと握手を交わす。

「車に積んであるから、何人か連れてこちらに運んできてくれ」

「了解」

 男は村人と他の仲間を五人ほど連れて、走っていった。その前に、

「あぁ、それと!」

 シャンが叫んだ。

「ブラックマンが寝てるから、起こさないでくれ。疲弊(ひへい)してたから、乗せてやってるんだ」

「了解」

 改めて、車に向かっていった。

「さて、俺もやるかな。フーちゃんはどうする?」

「どうもこうも、このナリではどうすることもできません」

「なら、皆とお話しようか。ブラックマンとの旅の話は面白そうだからな」

「お役に立てられればいいのですが」

 

 

「ん……」

 ダメ男はまだ眠っていた。一度起きたのか寝ながらなのか、シートを水平にして、横になっている。気持ち良さそうに日陰で眠っている。

 そこに、先ほどの男たちがやってきた。見つけるや、走るのを止めて歩いてくる。

「確かに、ブラックマンだな」

 “ブラックマン”はダメ男のことらしい。全身黒づくめの格好をしているからだろうか。

 男たちは後部座席に積んであるダンボールやクーラーボックスなどの荷物と、連結されていた車輪付きの倉庫を運んで行く。

「君は付き添ってくれないかな? シャンの大事なお客さんだ。寝込みを襲われるかもしれない」

「……」

 無言で頼みを受けた。

 男たちは一人だけその場に残し、オアシスへと向かった。

 人は手で顔をぱたぱた仰ぎながら、ダメ男の隣、つまり運転席に座った。日陰と日向の気温差があるのか、涼しげな表情を見せる。そして、ダメ男の顔をじっと見た。じーっと見た。

 ぅん……、とダメ男が寝言を言うと、人はびくりと過敏に反応した。しかも顔を赤くして、さらにダメ男の観察に取り掛かる。

 試しにお腹の辺りを触ってみた。セーターの柔らかい感触とその下の硬い感触がした。痩せ細っているというより、筋肉が硬く凝縮されている。なんと、服の下にまで手を入れてきた。

「ん」

 ダメ男がぴくりとする。人の顔は真っ赤だった。

 そして、恐ろしい展開に移行した。

「……」

 人がダメ男を組み伏した。興奮しているのか、大きく肩で息をしている。顔が近づいて、近づいて、近づいて……、ダメ男が左に寝返りして左手が服の中に入った瞬間、

「!」

 ダメ男は素早く身体を入れ替え、

「お前、何者だ。五秒以内に答えろ」

 人の首元に突き付けた。いつの間にか手にしたナイフで。

 表情からは寝ぼけた様子はなく、禍々(まがまが)しい殺意を向けている。

「……?」

 しかし、ダメ男は寝起きで視界がぼやけている。右手で軽く目を(こす)って、目の前をよく見てみた。

「え?」

「……」

 人は少女だった。褐色の肌に灰色の瞳を持っている。眠たそうな(まぶた)をさらに伏せ、がちがちと身体が震えていた。しかも、ダメ男の膝下を見てみると、

「……あぁ、その、……ごめん」

 失禁(しっきん)していた。座席が汚れてしまっていた。

 ダメ男は車から降りて、後始末をした。シャンに連絡することも考えたが、迷子になる可能性といろいろと疑われる可能性を考慮した。その間に少女にはダメ男の衣服を着てもらった。

 ダメ男はペンキで赤く塗られたように、顔が真っ赤になっていた。一方の少女はダメ男の衣服の着心地の良さに喜んでいる。ちなみにセーターを貸していて、ダメ男は黒のタンクトップになっている。

 確信犯じゃ……、と(うたぐ)ったが、自分の責任の方が大きいと自覚して言えなかった。ただし、

「なんでオレの寝込みを襲った?」

 そこだけは気になり、聞いてみた。

「……」

 運転席に座っている少女はダメ男の顔を見るや、赤くして顔を背けた。

「……(しゃべ)れないのか?」

「!」

 ダメ男を瞠目(どうもく)する。

「聞こえるみたいだな。この村の様子じゃ……戦争か何か起こったことくらいは予想できる。そのショックによるものか、先天的なものか……そこまでは分からないけどな」

 ダメ男は後始末を終えて、少女にいろいろと物を返した。その時に、ダメ男は間近で少女の眼をじっと見た。じーっと見た。

「……まだオレが怖いみたいだな。そりゃそうか……。悪かったな、怖がらせて」

「……」

 ダメ男は頭を()でてやった。

 少女じっと見る。

「何かトラウマがあるのか?」

「……」

 頭を勢い良く横に振った。

「嘘だな。動揺してる。……何でか分かるか?」

 今度は小さく横に振る。

「目の奥の瞳が小さくなったからだよ。興奮したり動揺したりすると小さくなるんだ」

「……」

 少女はしゅんと肩を落とした。その肩をぱんぱんと(たた)く。

「心配すんな。もう怖いことしないから」

 そして、ダメ男は助手席に座った。いや、寝転がった。

「オレはちょっと疲れが抜けてないんだ。悪いけど、仮眠する。そのセーター貸すけど、破いたり燃やしたりしないでくれよ。大切な物だからな」

 こくりと(うなず)く。

「それと、また変な気起こすなよ。ああいうのはもう嫌だろう?」

 うんうん、と強く頷く。

「じゃあ、おやすみ」

 少女は“おやすみ”と口を動かした。ダメ男は微笑んで、眠りについた。

 

 

 ダメ男が起きたのは夜中だった。

「っ、さむい……」

 ダメ男は鳥肌が立った。

 昼間は灼熱地獄だった気温も、夜にはすっかり冷え込んでいた。

 ダメ男は車から降りて身体をぐんと伸ばす。そのついでに空を見た。

「……すごい」

 漆黒の空一面に星が点々と輝いている。しかも、まるで宇宙に向かうように、星が集合して並んでいるようだ。そこは一段と輝きを放ち目映(まばゆ)い。

 ダメ男は完全に言葉を失っていた。呆然と空を眺め、地球以外の惑星に降り立っているかのように錯覚した。それは大地も空と同じくらいに薄暗かったからだ。

 ダメ男の意識を()らしたのは、

「そうだ、撮らないと……! ってフー?」

 フーだった。ネックレスを調べてもフーはいなかった。

「やばい……! 早くフーを探して景色を撮らなきゃ! ……さむい」

 セーターを返してもらおうと女を探したが、既にいなかった。仕方なくリュックから、

「暗くてわかりづら……、あった」

 黒いジャケットを取り出して、羽織(はお)った。

 ポーチから懐中電灯を取り出して、村に入った。しかし、

「ひどいなこれは……。復興は進んでるようだけど、家が破壊されまくってるし……」

 フーは見つからなかった。そして、別な事にも気付いた。

「このシチュエーションって、まさか……」

 暗い夜道、懐中電灯を片手に一人で探検。

「……まじかよ……しまった」

 ダメ男は急に悪寒が走った。

「うわぁ……こえぇよ……」

 ぞくぞくと背筋が(こお)る。

「……帰ろう」

 ところが、お約束の状況になっていた。

「……道が分かんない」

 迷子になっていた。

「まじか、まじか……! どうするオレ? 朝まで……いや、こんなところで寝れるか……! でも、下手に歩いて襲われたら……あ、逆に立ち止まってたら襲われるのか? いやでも、歩いてさらに仲間を呼ばれたらもっと危険だし、かといって付いてきていたら確実に襲われる。……しまったなぁ……。せめてニンニクか銀の十字架か持ってくれば良かった……。それならまだ話が違ったのに……ってそうか! “フーレーダー”を使えば……!」

 ブツブツと独り言。

 ダメ男はポーチを漁り、“フーレーダー”なる四角く黒い箱を取り出した。画面には同心円がいくつか表示され、その中に現在位置とフーのいる位置を示している。

 さっそく電源を入れてみた。

「……なるほどな」

 ダメ男はレーダーを見て、にやりと笑う。

「まさか、車にいたとはな……」

 結局、ダメ男はどこかもよく分からない所の家の残骸で一夜を過ごした。

 

 

「寝心地の方はどうでしたか?」

「あぁ、最高だったよ」

 早朝。太陽の日光によって、大地に光を当て、一瞬にして景色と色が網膜に映る。日光を(さえぎ)られた所は影が忍び寄る。

 その光に助けられたダメ男はすぐに駐車地点に戻ることができた。ちなみにダメ男がいた地点はそこから五メートル離れたところだった。かなりパニックになっていたようで、冷静な判断ができなかったらしい。

 フーは、

「ふふふ」

 不気味な笑いが止まらなかった。

「ダメ男のヘタレっぷりは折り紙つきですね」

「本気でぶん殴るぞ」

「すみません、ふふふ」

 ダメ男はナイフを持って練習していた。

 ナイフは掌に収まるサイズだが、切れ味は良く手術用のメスに匹敵する。

「くそ」

 ちなみに本人(いわ)く、薬を仕込むことがあるらしい。

 それを両手に持っていた。

「それは置いておくとして、いろいろと分かりましたよ」

「この村のこと?」

「それもですが、シャン様の支援活動です」

「シャン? 誰それ?」

「ダメ男を拾ってくれた運転手です」

「あぁ……」

 ダメ男はナイフを振り回す。しかし、闇雲に振るわけではなく、敵を想定した動きだった。無駄や隙がないその動きは舞っているようだ。

「この村の復興支援が主な活動でした。貧窮した住民への物資の配給、治療、住宅の復興も手伝っていましたね」

「まぁその辺が妥当だろうな。この村の有り様を見れば……」

 練習を止めて、ダメ男は村を眺めた。昨日より綺麗になり、道に残骸が散らばっていないが、まだ家に住めるとまでは言い難い。

「特にメンタルケアに重点を置いているようです」

「やっぱ戦争?」

「紛争みたいです」

「……」

 ダメ男の脳裏に、あの少女が()ぎる。

「軍隊が来て戦いになる前に住民が避難するそうですが、逃げ遅れた方が一名いたそうです」

「……!」

「その方は女性らしく、敵軍に壮絶な(はずかし)めを受けたそうです」

「……」

 ダメ男は練習をやめた。ナイフのお手入れをした後、水に浸したタオルで身体を(ぬぐ)う。かなりの汗をかいていた。

「それでも、命辛々(からがら)助かったみたいですから、本当に良かったです」

「……そうか、なんか分かった気がする」

「え?」

 ダメ男は黒いジャケットにダークブルーのジーンズ、黒いスニーカーに着替えた。

「あの娘、オレを殺そうとしたのか……」

 ダメ男の呟きはフーに届かなかった。

 

 

 フーと適当に雑談するうちに、村が活気づいてきた。住民が起きてきたようだ。

 ダメ男はパラソルの下でじっと考えていた。シートを水平より少し高く傾け、パラソルの裏側を眺めながら。

「ダメ男」

「なんだ?」

「その、エグイですね」

「そうだな。(うつ)になる」

「ごめんなさい」

 珍しくフーが謝る。

「気にすんな。そういうもんだ」

 ダメ男は優しく言う。

「吐き気がします」

「! おい、大丈夫か? 無理すんなよ」

「で、ですが、」

「“そういうこと”に関しては、フーにとってはキツイからな。今日は休めよ」

「ダメ男の顔が気持ち悪いのです」

「……」

 ダメ男は鼻で笑う。

「人が心配してやったのによ……」

「他人のことを心配するよりも、自分のことを心配してください。特に顔面中心です」

「蟻地獄に埋めてやろうか?」

「やってしまったら、ダメ男も取りに行けませんよ?」

「……く……」

「その前に、迷子になると思いますが、ふふふ」

 フーはまた怪しく笑う。

「……ぬぅ……」

 すると、

「……ん?」

 フーが何かに気を取られた。

「どうしっ、……あ」

 車より少し離れた所から、ダメ男を見つめている。

「ダメ男のセーター?」

 フーはそちらが気になるようだ。

「また来たのか。っていうか、いい加減そのセーターを返してくれないか?」

 ぎゅっ、とダメ男のセーターを固く握る。

「それはあげたわけじゃなくて、貸しただけなんだよ」

 ダメ男は少女に近づき、セーターを引っ張る。しかし、それでも脱いで返そうとしない。

 車に置き去りにされたフーは、

「ダメ男、事情聴取を求めます。三文字以内で答えてください」

「無理だろ!」

「五文字なので、ダメ男を軽蔑(けいべつ)します」

「ビックリマークもカウントすんのっ?」

 ダメ男は無理やり脱がせようと、

「ダメ男、最低ですね。女性の衣服をひっぺ()がそうとするなんて、まさに下等生物で下劣(げれつ)でカスの極みです」

「だってこうするしか、」

 したが、ダメ男はすぐにやめた。

「どうしました、カス男?」

「やめてくんない? それ。それにこの娘……」

 ダメ男はフーを取ってきて少女に手渡した。

「なるほど、そういうことですか。これではセーターはしばらく返してくれそうにないですね」

「せめて、短パンか何かを着てくれ……」

 つまり、“そういうこと”だった。

 

 

 お昼頃、またあの暑さが戻ってきた。じりじりと焼き付ける日光、大地から放出される熱。最早、会話の最初は“暑い”から始まりそうなくらいに暑い。

 ダメ男は必要最低限の荷物を持って、だらだらと汗をかいていた。しかし、少女を含む村人たちは汗をほとんどかいていない。かいていたとしても、復興作業で身体をフル活動している方々くらいだ。

 少女はダメ男を置いていこうと、先に歩く。しかし、ダメ男は歩いて追いつく。それを村の中でずっと繰り返していた。まるで、

「村を案内しているようだな」

「ただ、かけっこをしているのではないですか?」

 二人が言っていることをしているかのようだった。どちらが正しいかは少女にしか分らない。ただ、楽しそうだった。

「なぁ、そろそろ着替えないか?」

 その一言にはむっとした。ひどく気に入ったようだ。

「だめか……」

「いえ、あれは違いますよ」

 ダメ男はフーにちょっと感心した。

「さすがだな。で、どういうことだ?」

「あれはダメ男の、」

「違うから。悪いけどそれは読んでたよ」

「さすがにワンパターンでは駄目みたいですね」

 少女はいきなり近づいてきた。そして上目(づか)いでじっと見つめる。ちなみに、ダメ男より身長は低い。ちょうどダメ男のアゴら辺に少女の脳天がくる高さだ。

「……」

 無言で微笑む。

「な、なんだよ急に……」

 ダメ男は赤くなって照れた。

「可愛らしいですね。この女性がダメ男に汚されたのですか」

「受け取り方によっては誤解されるからやめれ」

 内心、どきりとしたダメ男であった。

 ダメ男が、

「そういや、今何時?」

「もうとっくにお昼を過ぎましたよ」

「じゃあ飯食うか」

 立ち止まろうとした時、少女はいきなり背中に隠れた。

「ん? おいおいどうしたんだよ、急に」

 そしてフードを深くかぶった。

 ダメ男が疑問に抱くや、前から誰かがやって来た。

「お? ブラックマンじゃねーかよ!」

 シャンだった。まるで運動着のような格好で首にタオルを巻いている。肌黒いのが、汗で黒光りしている。

「どっちがブラックマンだよっ」

「あっはっはっは! こりゃいっぱい食わされたな。そういや、まともに話したこともなかったな」

「そうだな。昨日は悪かった」

「いやいや、あんたもなかなか大変な旅なのは相棒から聞いたよ」

 シャンはフーをつんつん突っつく。

「一日中寝てても不思議じゃないくらいの活動量だ」

「そっそうかな?」

「そこで、底なしの体力の持ち主であるあんたに頼みがある」

「なんだ?」

 ダメ男に笑いかけた。

「俺たちと一緒に仕事しないか?」

「悪いな。それには賛成できない」

「あらら、即答だな」

 残念そうだった。

「フーから聞いてるから分かってると思うが、オレにはやらなきゃいけないことがたくさんある。お礼は別にして返すよ」

「……そうか。なら仕方ないな」

 無理やり笑う。

「あ、そういえば相談したいことがあるんだ。この娘、オレのセーター貸したら返してくれなくって困ってるんだ。なんとかならないか?」

 ダメ男は女を強引に前に出した。少女の表情は明らかに嫌がっている。一方のシャンは笑いながら、う~ん、と少女を見ながら考えている。ダメ男は一瞬で判断した。

 シャンは少女の肩を掴み、

「ほら、ブラックマンに返してやんな、な?」

 びくっと身体を強張(こわば)らせた。少女は、

「!」

 ダメ男の腕にしがみ付き、小刻みに震えている。そして、セーターのファスナーをゆっくり、

「ちょい待ちぃぃ! い、いきなりはダメだろ! 時と場所と場合を考えろよっ?」

 ダメ男が阻止した。

「確かにそうだな、あっはっはっは!」

 三人はオアシスに寄り、衣服を揃えてからダメ男にセーターを返した。

 ダメ男はため息をついた。

「ありがとう。……もう置いていくしかないと思ってたよ」

「そんな大げさなっ。旅立つ時には返してくれるだろ」

「……あぁ」

 ダメ男はぽんと手を叩く。

「ま、外見は生真面目そうだけど、案外話しやすい天然クンでよかった」

「違います。ただの単純馬鹿です」

「あぁ、そうだな」

「二対一は卑怯だぞ」

「……それじゃ、また何かあったら相談してくれ」

 シャンは颯爽(さっそう)と去っていった。

「彼は支援活動のリーダーらしいですよ」

「どうりで“アニキ”を感じたわけだ」

「どういうことですか?」

「聞かんでいい。あるジャンルのリーダー的存在だと分かればいい」

「?」

 フーにはちょっと意味が分からなかった。ちなみに少女は、

「……」

 無言で笑っていた。

 

 

 橙色に哀愁を感じさせる太陽が、水平線に沈んでいく。黄色い大地も、岩石も、村も青々としたオアシスも橙色に染まる。離れていくにつれて夜の藍色が太陽に追いかけていくように、空を移し変えていく。その移ろいは夜の肌寒さも付いていく。

 結局、一日中一緒だった。しかも、昼食を食べ忘れている。それほどに少女にとっては楽しい一日だったのかもしれない。ダメ男はそう思った。

 二人は今、車で食事を取っている。ダメ男がシャンに頼み、二人分を用意した。明かりとして、懐中電灯をパラソルにくくり付け、下に向けて代用している。

「……」

 ダメ男を見ながら食べている。

「食べづらいんだけど……」

「……」

 少女は相変わらず話さないし離さない。

 ダメ男は不意に言った。

「そういや、名前なんだ?」

「ダメ男、知らなかったのですか?」

「どうやって聞くんだよ?」

「会話だって筆談でできたではないですか」

「……」

 ダメ男は手をぽんと叩いた。

 早速紙と鉛筆を用意して、持たせてみた。しかし、鉛筆の持ち方が分からないようで、真っ二つに折ってしまう。

「どうやら書けないようですね」

「筆談はレベルが高いな……」

 それらをリュックにしまった。

「名前はあるのか?」

「……」

 横に振った。

「ならば、“ダメ男”の名付け親である私が命名しましょう」

「お前、“クズ子”とか“アホ子”とか変な名前にするなよ?」

「私は見たままを文字に現しただけです」

「思いっきり誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)だからな……ちくしょう……」

 ダメ男は先を見越して言い返せなかった。

 フーはどこにあるのか分からない“眼”で少女を見続けた。そしてひたすらに考えた。

「……」

 二人にも緊張感が走る。そして、

「決まりました」

 ついにその時が来た。ダメ男は何気に心臓がばくばくだ。

「第二回! ネーミング大賞2013を発表しますっ!」

「……?」

 女が首を(かし)げた。ダメ男は気にすんな、と耳元で(ささや)く。なぜか女は顔を赤くした。

「今年のネーミング大賞は……! ドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルドゥル……」

「前置きがリアルすぎだから」

 意外にダメ男は冷静だった。

「じゃじゃーん! ナンバー二十三万五千二百十七番! “ハナ”に決定でーすっ! おめでとうございまーす!」

「おぉぉぉ」

 二人して拍手を送った。

「いいじゃん。いい名前だ」

「どうですか? お気に召してくれましたか?」

「……」

 少女はぶんぶんと首を縦に振る。快く受け入れてくれたようだ。

「笑顔がとても素敵で、綺麗に咲く花のよう感じたので、“ハナ”と選出しました」

「いろいろツッコミたいところだが、一つだけ聞きたい」

「何ですか?」

「オレの時さ、ナンバー一番だったろう? なのにハナは六桁ぐらいだったよな? なぜだ?」

「単純に人気と顔面の違いだけです」

「ちなみにオレの時は“ダメ男”以外に何かあったか?」

「ちょっと待っていてください」

 フーは少しの間話さず、そしてすぐに終わった。

「えっとですね、“ダメ男”以外には、ダメロウ、ダメカズ、ダメサダ、ダメノブ、ダメヨシ、ダメハル、ダメサク、ダメダメ、ダメージ、ダメージング、ダメージドゥ、」

「とりあえず、ダメが頭に来るのは分かった。そしてオレを傷つけすぎだ……」

「他にはですね、ダメノリ、ダメアキ、ダメ、」

「誰だ! こんな名前考えたの!」

「私です」

「あ、そっか、じゃなくてっ!」

 少女“ハナ”は腹を抱えていた。

「笑うなよ!」

 

 

「……」

「な、なぁ、やめろよ、な?」

「……」

「そんなぶっそうなもん、捨てろよ……! なんにもなんえぞ、えぞ、ええ、えっと、なんねえぞ……!」

「……」

「や、やめ、やめぎゃうっ?」

「……」

 

 

 そして、三日目の朝を迎えた。

 ダメ男はいつも通り、太陽が登り始める頃に起きた。セーターを着て寝たおかげて、心地好く眠れた。

 隣には女はいなかった。ただ、食べ終えた食器がなかった。ダメ男は帰宅したのだと悟った。

「そろそろ出発しますか?」

「そうだな。ハナの見送りがないのは少し寂しいが、行かなきゃな」

 ダメ男はウェストポーチやリュックの荷物を点検する。忘れ物はない。食料や水はシャンに頼んで、少し分けてもらっている。他の物も問題無い。着替えも薬も爆薬類も衣服もそして、

「……」

「どうしました?」

「ない」

 何かがなかった。

「何がないのですか?」

「……」

 ダメ男は何もしていないのに、冷や汗をかいていた。フーは危惧(きぐ)した。

「ダメ男、まさか、」

「そのまさかだ……!」

 ダメ男は荷物を全て持って、村の中を走った。全速力で駆け抜ける。すると、オアシスに人だかりができていた。こんな朝早くから、しかも多くの村人やそれ以外の連中も集まっている。そちらに目的地を変更した。

「!」

 赤かった。

「……」

 ダメ男の(あご)から、大量の冷や汗が(こぼ)れ落ちる。心臓がひどく痛み、頭が痛くなってくる。

「ばかやろう……」

 オアシスにシャンが浮いていた。いや、シャンの“パーツ”が浮かんでいた。どろどろとしたものがオアシスを赤く汚し、赤々と自身をも汚す。

 その所業に、ダメ男は背筋が凍った。夜中に村に迷い込んだ時のものなどチンケなものだ。冷や汗どころか血液や内臓までも冷めていき、頭が朦朧(もうろう)としてくる。目がどこを向いているか分からなくなりそうで、平衡感覚が崩れていく。音は耳鳴りと砂嵐が混じったようなエコーとざわめきが頭の中を打ち鳴らす。ダメ男は立っているだけで精一杯だった。

 ダメ男は深呼吸して落ち着きを取り戻した後、周りを見渡した。誰もその凄惨(せいさん)な出来事に息を呑み、動けずにいた。もう一度オアシスに戻してみると、ある部分に目がいった。

「……!」

 (ひたい)に、深く、突き刺さっている。

「ダメ男、この村を、出ましょう?」

 フーの一言がダメ男を迷わせた。しかしそれは長くなかった。

「!」

「あいつ……!」

 ダメ男はオアシスに入っていった。衣服や荷物を村人に預け、トランクス一丁で肉塊の回収に取り掛かった。それを見た人々は、

「シャン」

「シャンさん!」

「アニキぃぃ!」

 こぞってオアシスに足を踏み入れ、ダメ男を手伝ってくれた。

「シャン! しゃあぁぁぁぁぁんっ!」

 そのおかげで、時間はかからなかった。

 ダメ男は一足早く、上がり、人々に感謝されながら身体を清めてもらった。ダメ男の表情は沈鬱(ちんうつ)なものだった。

 出発の準備を済ませていたダメ男は、肉塊を置いた場所へ向けった。そちらにも多くの人々が取り囲むように集まっていた。ざわつきは収まらない。村中にも、ダメ男の中にも。

 ダメ男は人々を掻き分け、中心に辿り着くと、

「え?」

 ダメ男は額に()じ込まれたナイフを抜き取った。ぬめぬめと赤く怪しく光る刃。エグイほどに鋭く、拳三つほどの長さがある。ナイフの()は黒い格子(こうし)が頑丈に組まれていて、その隙間を透明な膜がカバーする。その長さは刃と同じくらいだ。

 人々は愕然(がくぜん)とした面持ちで、ダメ男がナイフを綺麗なタオルで拭き取るのを眺めた。そして、ダメ男が去ろうとして、道を開ける。荷物を受け取って、立ち去っていった。

 かと思われた。

 小さな男の子が小石を一つ投げた。標的のこめかみに当たり、すぐに血が(あふ)れ出し、頬骨(ほおぼね)(ほほ)、顎へと血が伝っていく。

 今度は別の女が使い道のない木材を胴体に投げてぶつけた。標的は脇腹を痛めて苦しみながらも歩いていく。

 そこから、一気に爆発した。石、釘、刃物、木材、煉瓦(れんが)、靴、生卵、投げられそうな物を全て標的に向けて投げる。全ては当たらなかったものの、標的は深手を負ったに違いない。人々はさらに標的を追い込んだ。しかし、標的は車を強奪し、広大な岩石砂漠へと逃亡していった。人々は歓喜の声を盛大に、豪快にあげた。

 近くに紙が落ちていた。それを見た人々は落胆の色を隠せなかった。

 

 

「だいじょうぶですかっ?」

「はぁ……はぁ……」

「しっかりしてください! ダメ男!」

「う、うるさいぞ、フー……」

「で、でも、なぜあの人たちはダメ男を責めるのですか! 真犯人は、」

「そろそろ出てこいよ、ハナ」

「え?」

 ダメ男が座っている運転席の真後ろに、ハナがひょっこり出てきた。

「あ、ありが、とう……」

 覚束無(おぼつかな)い声でダメ男に言う。

「あ、あなた、話せる、」

「その前に少し休もうか、な……」

 ダメ男は砂漠の中心で車を停めた。幸いなことに、パラソルは意外と頑丈で壊れていない。

 酷かった。顔にいくつも傷が付き、身体を(かば)ったために両腕、特に右腕が青く腫れあがっていた。その手当てをハナがしてくれた。

「もうちょっとゆるめて、いったた」

「ご、めん……」

「どういうことですかっ? 納得のいく説明をしてください!」

 ハナは右腕に巻いた包帯をハサミで切り落とした。

「ただの、復讐……だろう? ハナ」

 瞳を伏せて、肯定する。

「オレにセーターを返したくない理由、それはナイフを()ったことを悟られたくなかった。シャンに復讐するために……そうだろう?」

「うっん」

 強く頷く。

「ハナ、お前はおそらく村八分にされていた。……つつっ、しかも、シャンに酷いこともされていた。この二つを解決するためにオレを犯人に押し付け、なおかつ自分が人質になる必要があったんだ。オレのナイフを使えば、ほぼ間違いなくオレが疑われるからな……」

「……」

 申し訳なさそうに(うつむ)いた。

「そう落ち込むな。ついでに書置きもしてきたから、村に帰れれば、以前のように酷いことはされないよ」

 ダメ男は傷だらけの顔で笑った。

「ダメ男、ハナの計画を見抜いていたのに、なぜ協力したのですか?」

「……なんとなく」

「なんとなくって、」

 ダメ男は唾を吐いた。砂漠の砂にくっついた。赤く(にじ)んでいる。

「オレはもう大丈夫。車、運転できるだろう?」

「うん」

 ダメ男はジーンズを脱いで、手を突っ込んだ。中から分厚い鉄板が出てきた。そして、改めて履いた。

「よし、軽くなったな。足には被害はない。歩ければ大丈夫だしな。あとこれやるよ。オレには必要ないしな」

 ダメ男はハナに指輪を手渡した。銀色の指輪は太陽の光を浴びて、一段と輝きを増す。

「ど、うしって……?」

「お前は十分不幸な目に遭った。だからちょっとくらいイイコトがあってもいいだろ?」

「……うん」

 ハナは泣いていた。ぽろぽろと涙を落としている。

「じゃあ、げんっつぅ、……げんきでな」

「うん! ダメ男だいすき!」

 車はダメ男を置いて走り去っていった。ダメ男は砂漠のど真ん中で、その車の行く末を見送った。ずっと見送って、見送って……豆粒くらいになっても立ったまま。やっと消えたところで、ダメ男は歩き出した。

「あついな」

「そうですね」

「やっぱセーターはキツイ……」

「当たり前です」

「涼しいところに行きたいな。あと、涼しそうな服を買おう。しぬ」

「当然です。ところで、どうしてダメ男はハナに協力したのですか?」

「……ハナの声を聞いてみたかったから、かな」

「っぷぷぷ」

「えっ? なにその笑い方? 初めて聞いたんだけど」

「その台詞(せりふ)、くさすぎます。こちらまで赤くなってしまいます。とても痛くて恥ずかしくて、あぁ気持ち悪いですねぇ」

「なんだよ! 笑うな! 真面目に答えたんだよっ!」

「まぁ、ダメ男らしいと言えばダメ男らしいですね、ふふふふふ」

「……ばかにしやがって……」

「素直でいいですね」

「素直に喜べないから」

「ふふふふふ」

「泣くぞ! オレ泣くぞ!」

「どうぞお好きに、干からびるまで泣けばいいですよ、ふふふふ」

「……く……」

「ふふふ」

「でも、そう簡単にいくかね……」

「え? どういうことです?」

「人を殺した上での幸せは絶対にありえないってこと。なぜなら殺された奴同様に、そいつも地獄行きだから」

「どこかで聞いたことのある台詞ですね」

「そう? ちなみにこれって何て言うか知ってるか?」

「“イ○を唱えれば敵爆発”ですよね」

「違うから。“人を呪わば穴二つ”だ」

「ダメ男に二十五のダメージ、ダメロウに二十三のダメージ、ダメカズに三十四のダメージ、ダメサダに、」

「もうやめてください。しかもそれ全部オレにダメージじゃねーか」

 

 

 村は復興に力を注いでいる。破壊され尽くした家は見事に(よみがえ)り、食料や水は畑や井戸のおかげで再生し、子供たちは(すこ)やかに育っている。村人たちは協力しあい、助け合い、信頼しあい、笑いあい、愛し合い、一致団結して結束力を高めていた。

「あと少しだな」

「あぁ。たくさん支援も来たし、今は亡きシャンさんのおかげだな」

 オアシスは青さを取り戻していた。その横には、石碑が建てられている。つらつらと書き(つづ)ってあるが、最後の行はこう記してあった。

[敬愛すべき恩人、シャンへ送る]

 一方、村の入り口には看板が立てられていた。何も書いてないように見えていたが、最後の行だけ(うっす)らと見える。

[××××領地、攻めるべからず]

 そこら辺である男が(ほうき)()いていた。

「おい、これ片付けていいかあ?」

「かまわねえから、早くしてくれ!」

「オッケー」

 男はどでかいチリトリにゴミを中へ入れていく。ゴミや砂と混じって、銀色の指輪が中へ入っていった。

 

 

 



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第四話:かたいとこ

 砂漠のような大地、真っ青な空、調子に乗って浮かれている太陽、ぽつんと目立つ……街。しかし、街のある地帯は自然の恵みを受け取っているのか、緑に囲まれていた。不自然なほどに砂地と草原の境界線がはっきりしている。

 砂漠の方に視界を移すと、渓谷が連なっていた。二つに分かれていて、その間に川は流れていなく、代わりに道となっている。自然の要塞と形容してもいいほどに立ちはだかり、ミルクココアの色をしていた。そして、暑い。直射日光からの放熱で、焼き石の上に立っているような暑さが立ち込めている。

 その渓谷の頂上に、誰かがいた。黒い何かを足元に置き、草原の方を眺めている。

 男だった。七分袖の白いシャツに薄手の布でできた白い羽織を着ていて、青いチノパンを履いている。靴は土の(かぶ)ったハイカットの白いスニーカーだった。涼しげな格好で様子を見ている。

「……行くか」

「飛び降りる勇気が出たのですか?」

 四角い物体がネックレスとして黒い紐で通され、服の前に飾られている。水色のようなエメラルドグリーンのような色をしていて、蝶番(ちょうつがい)のようだった。

「電池取るぞ」

「どうぞご自由に。困るのはあなたですから」

「……エラソーに……」

 青年は(きびす)を返し、黒い物体を持ち上げる。黒い物体はリュックサックだった。粉末みたいな砂が付いていて、(はた)き落とす。

「唯一認めているのはあなたの鋭い感性くらいです」

「褒めてんのかけなしてんのかわからない……」

 青年は降り始めた。

 

 

 渓谷を何とか降っていき、地上に辿り着く。空が遠く感じた。

 砂漠を渡り歩き、遂に一歩先が草原というところまで着いた。既にかなりの汗をかいていた。

 男はくるりと振り返る。自分が先ほどまでいた砂漠や渓谷。なんとなく哀愁漂わせるものを感じたのか、ネックレスの四角い物体を手に取り、適当に操作して、ぱしゃりと電子音を鳴らした。

「よし」

 男は一歩を踏み出した。足の裏に伝わる草を踏む感触。それに感動して、走った。

「ダメ男、はしゃぎすぎです」

 “ダメ男”と呼ばれた男は、

「久しぶりに……っというか微妙に涼しいな」

 四角い物体“フー”に怒られた。澄んでいて綺麗で冷淡な女の声だ。

 ダメ男の言う通り、草原に入った途端に涼しくなった。微風が撫でてきて心地好い。

「お、見えてきた」

 そして街が見えてきた。壁が街を囲い、堅固(けんご)な防壁として周りから守っている。しかも、緑色だった。

 さらに近づくと、緑色の正体が分かった。

「ツタの葉がびっしりですね」

「ここが古い街かもしれないな。ちょっと楽しみだ」

 ダメ男は門に着いた。駆動式なのか、上に鉄鎖が掛けられていて、中へ侵入している。しかし、誰もいない。門の脇に受付があるが、人がいなかった。どこにも何もない。

「既に滅んでいるのではありません?」

「それはないだろう。まぁどっちにしても、せっかくのご好意だし無下にできない」

 ダメ男は荷物を下ろし、待ってみることにした。

「まぁ、少し待ってみようか」

「ダメ男は人が()すぎます。たまには疑う事もした方がいいです」

「何も起こらなきゃ、他を目指すよ。それでいいじゃない」

「仕方ないですね。ちなみに噂では、この先にある街は普通の街みたいですよ」

「い、いつの間に……」

「ダメ男が夢中で品物を見ている間、商人さんに聞いたのです」

「……あの時か。だってさぁ……」

 談笑しながら、とりあえず待ってみることにした。

 

 

 待ってみて待ってみて、

「いくらなんでも、これは何もないと判断した方がいいと思いますよ。もう五時間以上経過しています」

 夕方になった。

「確かにな。でも、ここの景色も悪くないしさ、今日は野宿しようかなって」

「ダメ男がそう言うのなら、仕方ありませんね。その馬鹿正直さに、もはや呆れたとしか言えませんよ」

「んじゃ、準備するか。今日は晴れてるから、星がよく見えそうだ」

 ダメ男は門の近くで野営をすることにした。リュックから黒い傘のようなものを取り出し、順序よく組み立てていく。

「“テント(がさ)”を使うのは久しぶりですね」

「“テント(さん)”!」

「そこだけはやけに(こだわ)りますね」

 三角錐(さんかくすい)のテントが完成した。

 次に、唯一草が生えていない門の前で石を並べて、火を起こした。そこに金網を敷いて、厚底の鍋を置き、水と何かの粉末を溶かして温める。

 ぼうっ、と焚き火が映えてきた頃、すっかり日が沈んでいた。昼間と違って冷え込んでいて、焚き火の熱が身体に染みる。

 空は月がないものの、点々と星が(きら)びやかに輝いていた。流れ星は見れなかった。

「綺麗ですね」

「そうだな。これだけでも、来た甲斐があったと思うよ」

 にこりと笑った。

 ダメ男は鍋からコップで液体を(すく)う。湯気が立ち上っていた。ちょびちょび(すす)る。

「はぁ」

 さらに身体が温まる。

 ダメ男は折りたたみ式の小さな椅子に腰掛けた。

「疲れていますか?」

「え?」

 唐突に()く。フーはダメ男の膝の上に置かれる。

「なぜここで野宿するのかを考えていました」

「あぁ、確かに疲れてるけど、こうして旅をしてるのが楽しくて、むしろ疲れてるのを忘れるくらいだ」

「そうですか」

「本当に心配症だな、ったく」

「心配などしていません。唯いっしんぱいスるとすレばで、デンチガ……」

「わ、わぁぁ! だからそういうのは早く言え! 電池切れかけのフーの声は怖いんだよ!」

 ダメ男はあたふたしていた。

 ちなみに、この時のフーの声はしゃがれて呻いているような、それに砂嵐が混じったような声らしい。それはまさにダメ男の嫌いなものの声に似ているという。

 

 

 翌日の早朝、フーが目覚める時には既にダメ男は起きていた。リュックからナイフを取り出していて、練習をしていた。それを終えた後、身に纏う衣服を全て脱ぎ捨て、お湯に浸したタオルで身体を拭いていた。フーの視界では、ダメ男は背を向けている。

「ダメ男」

「おはようフー、起きたか」

 振り返ろうとしたダメ男にフーは、

「振り返っちゃだめです!」

 全力で言い放った。そして、

「なぜ裸なのですか? 土に(かえ)ってください」

 全力で(けな)した。

「だって汗で気持ち悪いし汚れてるし、フーが寝てる間に済まそうとしたんだよ。そしたら起きちゃうし……」

 ダメ男は真面目に答えた。

「ダメ男にしては正論ですね。人もいませんし、お風呂もありませんし、訓練後なら仕方ありませんね」

「第一、人はな、産まれたときは裸なんだ。逆に、なんでそんなに恥ずかしがる必要がある? 産まれたときのすがた、」

「その発言はNGです。もはや原人の発言ですよ。とにかく猥褻物陳列罪(わいせつぶつちんれつざい)なので、光の速さで三段切腹をしてください」

「三段切腹っ?」

「かの、“ハマチハンペン”が成し遂げたとされる切腹ですよ」

「三枚おろしかよっ! みんな食べ物じゃん! 確かに成功しそうだけどな!」

「これだからダメ男はダメなのです。今や歴史ブームなのです」

「オレは過去に用はない」

「それでも時は動いているのです」

「……なんかそれかっこいいな……」

「そんなことより早く衣服を着てください。クズ男」

 フーの声に、もはや温情の“お”の字の一画目もなかった。

「……ごめん。でも、リュックさ……テントの中にあるんだよ……」

 そのテントはというと、なぜかフーの真横にあった。フーは沈黙するしかなかった。

 ダメ男はしっかり隠しながら、テントに入り、きちんと服を着た。黒のだぼだぼセーターにダークブルーのジーンズ、黒の履きならしたスニーカーを履いて、ぐっと背伸びした。セーターにはフードが付いていて、もこもことしたファーが縁に装着されている。袖は掌が半分くらいまで覆い、裾はジーンズのポケットを完全に隠すくらいに長かった。

「ん、んぅ……お待たせ」

「とにかく死んでください」

「悪かったって……」

 とりあえずダメ男は、朝食を食べることにした。昨日の残りのスープと携帯食料をもくもく食べる。さくさく、ずずっ、はぁ……、と門を見ながら食べていく。

「やはり滅んでいるのでしょうかね」

「滅んでるなら門くらい開けてほしいもんだ」

「身体の清拭をするなら、もう少し人目のつかないところでしてほしいものです」

「引っ張るねぇ」

「ちくちく言わないと覚えないですからね」

「ごめんなさい」

 朝食を取り終える。その頃にはすっかり青空になっていた。温かい日差しが降り注ぎ、身体の中から高揚を覚える。

 すくっ、と立ち上がり、門の前にやって来た。

「誰かいないのかぁっ!」

 ダメ男の言葉はどこにも届かなかった。厚い鉄壁に跳ね返される。

 なぜかうずうずしていた。

「ダメ男、まさか良からぬことを考えていないでしょうね?」

「ここまで拒否する国なんてそうそうないよ。なら、受けて立つ!」

「やっぱり」

 ダメ男は荷物を整理してみた。調理セットや救急セット、テント傘、食べ物飲み物、アタッシュケースなど、必要最低限の物はある。それと黒い袋があった。開けてみると、容器と砥石(といし)、爆薬、手榴弾、ダイナマイト、弾薬の残り、充電器、掌サイズのナイフが何本か入っている。さらに、白い袋が入っていて、開けると着替えが入っていた。上着が三枚、シャツが三枚、下着が三枚ある。やけに重く黒いジャケットと白の羽織りは黄色い袋に入っていた。

 ダメ男はジャケットと砥石、容器を取り出した。ジャケットから掌サイズのナイフを抜き取る。数えてみたら全部で三十八枚あった。それを一本ずつ砥石に丁寧に()ぎ、容器から白いクリームを布で掬い取る。それをまんべんなく塗りたくっていた。仕上がったものの内の一本で自分の右腕を浅く切りつける。(うっす)らと傷ができたが、皮一枚だけを切り裂いていて血は出ていなかった。

 次にセーターの左胸からナイフを取り出した。朝練習に使用していたものだった。握りは黒い骨組みとその隙間を埋める透明の膜で構成されていて、柄の先端にあるボタンを押しながら振り抜くと、刃が出てくる。仕込み式のナイフで、どちらも拳三つほどの長さがある。

 これも砥石とクリームでお手入れを施していき、自分の右腕で切れ味を確かめた。やはり血は出ない。

 最後に“テント傘”や石などを片付け、灰は地面に埋めた。荷物を綺麗にまとめ、入口らしき門お近くに立てかけた。

「よし、準備完了。この鉄壁を攻略するよ」

 いつになく真剣な面持ち。

「できれば無視して次の街に行きたいのですけどね」

「やだ。それだと逃げたような気がするから。それにフーだって気になるでしょ?」

「それはそうですけど」

 ダメ男はにんまりした。

「“開かぬなら、開けてみせよう、×××さん”」

「“これぞ正しく、馬鹿の典型”、ですね」

「何ともお後がよろしいようで」

 コメカミのあたりに血管が浮き出ているように見えるが、フーは気のせいということにした。

 ダメ男は外壁を叩いてみた。

「……」

 まるで分厚いコンクリートを叩いたように、全然音が響かない。

「相当厚いですね。一メートルではきかないですよ」

「どこか別の入口探すか」

「むしろ最初にすべきことですよね。昨日にでもできたことですし。そこに頭が回らないとはさすがですね」

「うっさい」

 コメカミのあたりから今にも血が吹き出しそうな気配がしたが、フーはカルシウム不足だと思うことにした。

 今度は押して殴って蹴ってみた。びくりともしない。しかし、

「砕けたようですね」

「あぁ、オレの骨がなっ。いってぇ……」

 成果はないことはなかったらしい。

 続いて、助走をつけて、思いの丈の力でタックルした。これもびくともしない。

 むむむ……と考え込む。不意にあっ、と声を上げた。

「ひっらめいた」

「何をするのです?」

「こうしてみる」

 ダメ男は門にびっしり生えているツタをつかんで、ぐっと引いてみる。みしみしいうが、登れることは登れるようだ。

「“押してダメなら引いてみろ”ってね」

「まぁダメ男の存在にはドン引きですけどね」

「いちいち毒づくんじゃないっ」

 よじよじ。ダメ男は虫のようにツタを登っていく。ぎちぎちと不穏な音を聞かせるが、慎重に伝っていく。

「けっこう高さがあるのですね」

 ビル三階建ての高さがあるだろうか。その半分ほどに到達した時、

「ダメ男、とっても怖いことになっています」

「なにが?」

 ぎちぎちがみしみしへと変わり、ぶちり……。

「ツタが切れています」

「!」

 完全に切れる前に急いで降りた。

「ツタも無理そうですね。いいところまで行きましたけど」

「……何か、どんどんオレが(みじ)めになってくな」

「最初からです」

「……」

 不意に泣きそうになった。

 その後もいろいろ試した。ナイフで門を削ってみたり、ハンマーで叩いてみたり、釘を打ち付けたり、そこら辺にあった石を投げ付けてみたり。しかしどれも効果が全くなかった。

「なんなんだこの門は……。戦車でも持って来いってか……」

「逆に好奇心が湧いてきました。不思議な物質ですね。これが言っていた“面白いもの”で間違いないでしょうね」

「むしろムカついてきた。こうなったら奥の手二連発だ」

 ダメ男はポーチから黒い袋、リュックからアタッシュケースを一つ出した。黒い袋は門に置き、その他荷物を全て持ってかなりの距離を取った。

「何ですか?」

「見てからのお楽しみ……ぐふふ……」

 不敵に笑う。ダメ男の表情は明らかにダークサイドだった。

 ケースを開けると、中は赤いクッションにはめ込まれたパーツがいくつもあった。それらを手際よく組み立てていく。

 完成したその姿は丸い煙突のようだった。煙突の後ろから何かを装填する。

「ダメ男、まさか!」

「砕け散れえぇぇっぇぇぇぇ!」

 ぽしゅっ、と何かが発射された。照準は門、とりわけあの黒い袋。直撃すると、

「わっ」

 暴風が中心から吹き荒れる。周りの草原は外へ外へと(なび)き、暴風と戯れる。ダメ男は身を屈めて堪えていた。その直後にえげつない爆発音、衝撃音が轟いた。身体の中から振動するほどの重低音と音の波が再び風となって、先ほどの暴風と相まって襲いかかる。一直線の豪風にダメ男は数メートル吹き飛ばされ、草原に擦れながら引きずられた。

 爆心地はというと、爆炎と黒い煙がもうもうと立ち上り、砂埃と黒い煙で見えなくなっている。しばらくすると爆炎は空の彼方で消失し、代わりに黒煙が立ち込める。地面は隕石が衝突したように大きいクレーターとなっていた。

「大丈夫ですか?」

「なんとか……かおいたい」

 右頬が真っ赤になっている。

「明らかにやりすぎです」

「……ごめん。はっちゃけちゃった」

 てへっ、と舌を出して笑った。

「ダイナマイトにロケット弾ですか。ダイナマイトはともかく、よくロケット砲を持っていたものです。リュックの中は異次元ですか?」

「“備えあれば憂いなし”っていうだろ」

「備えが物騒すぎて不安になるレベルです」

 しかしヤツは、

「! うそだろっ?」

 生き残っていた。

 ダメ男は草っぱに燃え移った火に気をつけながら近寄ってみると、門は焦げていたが、形はしっかりと残っていた。クレーターは門直下の地面を(えぐ)っていたが、その地面にも門の続きが埋め込まれていた。

 クレーターに下りて、組み立て式スコップで少し掘ってみる。

「すごいですね」

「第二作戦も失敗だな。もし地上だけだったらトンネル作って下からくぐってやろうと思ったんだけど……」

「なるほど。目の付け所がいいですね。ですが、相手はそれすらも(しの)ぐのですね」

 ダメ男はごつごつと蹴りを入れた。

「これは逆にこれはすごい。これだけ頑丈なら、材料に使ったら最強だ」

「でもダメ男、この門は“加工されています”よ?」

「……!」

 ダメ男のコメカミに一筋の汗が滴る。

「ってことは、これを上回る機械やら器具やら、加工する道具があるってことか? それもこの中に……?」

「そういうことになりますね」

「……」

 一気に戦意喪失した。

「……行こっか」

 ダメ男は荷物をまとめて、そこを後にした。

 

 

 ある所に大層仲の悪い旅人夫婦がいた。事ある毎に喧嘩(けんか)し、もはや壊滅状態で修復不可能だった。

 大草原の中歩いていると、目の先に街が見えてきた。城壁に囲まれ、いかにも頑丈そうな作りだ。

 ここが面白い所らしい、と男が言う。女は、あっそう、と興味ないようだった。

 男は門へと足を運ぶも、門番もいないし、門が開く様子はない。苛立っていた女が蹴りを入れると、ぐしゃりとひしゃげてしまった。

 男も(なら)って破壊していくと、中から悪臭が漂ってきた。鼻が激痛を発するほどの悪臭に、女は嘔吐した。男は何とか堪え、女の忠告を無視して中に突き進む。

 中は死体の山だった。ハエやウジがたかり、どす黒い血溜まりと肉の海が無造作に放置されいる。この世のものとは思えない光景に男も吐いた。すると男の背後から女が。

 甲高い悲鳴と轟音が何回も響く。悲鳴が止んでも、轟音は止まらなかった。

 

 

 すっかり夜が更けている。何かの鳴き声が寂しく独り歩きする。

 そんな夜中に仄かに明かりがついていた。闇夜に溶け込んでいく橙色、そのおかげか、ダメ男とテントが仄めく。焚き火だ。石を積んでカップを加熱していた。辺りの地面は燃えるものがないようだ。

 ゆらゆらと炎が揺れ動く。ダメ男は雲を眺めるように、ぼーっと眺めていた。

「……」

「ダメ男?」

 フーはダメ男の膝の上から呼びかけた。

「なに」

 棒読みで返事をした。ぐりぐりと地面を指でほじくっている。

 炎のせいなのか、顔が赤かった。

「結局あの国は何だったのでしょうね」

 指の第一関節くらいまで深くなった。爪の間に土が入り込む。

「さぁ。今となっては分からないな。ただ、見なくてよかったかもしれない」

「どうしてですか?」

 ダメ男はくすりと笑う。

 加熱しきったカップをそそっかしく手元に置き、携帯食料と一緒に食べ始める。スープだった。

「嫌な感じはしてたから」

「嫌な感じというのは何です?」

「なんというか、あそこは門が開けられないんじゃなくて、いや、門じゃないのかもって思った」

「? どういう意味です?」

 スープをふーふーして、冷ましてから飲む。

「なんか、意地でも中に入れさせないぞって感じだったし……直感だけどさ」

「なるほど」

 ダメ男のえも言えぬ感覚に、フーは納得した。

「“パンドラの箱”というお話をご存知ですか?」

「……知らない」

「神話ですが、神であるゼウスがあらゆる悪と災厄を詰めた箱です。人類初とされる女性、パンドラが好奇心でその箱を開けてしまい、人間界にあらゆる悪や災厄、不幸が飛び出してしまった、というお話です」

「へぇ。そのパンドラっていうのも罪深い女だなぁ」

「好奇心には勝てないということかもしれませんね」

「うん」

 力強く同感した。

「もしダメ男の言うことが本当なら、あの国はまさに“パンドラの箱”だったのでしょうね」

「うーん……そこまで大げさなものじゃないけどな」

「それでお話の続きですが、その箱に入っていたものは全部悪いものではなかったのです」

「? 他に何かあったの?」

「それは“希望”です」

「……希望……」

「ですが、パンドラは慌ててしまったためにその箱を閉じてしまったのです。結果、“希望”だけが閉じ込められたまま、人間界は悪と不幸が混沌としたものになり、人々は苦しんでしまったのです」

「……やっぱパンドラってのは罪深いなっ。いいことないし」

「まぁ一部抜粋ですから。詳しくはお近くの書店までお求めください」

「何の宣伝だよっ」

 そろそろ眠ろう、とダメ男は焚き火を消して、テントに戻っていった。

「そういえば箱の中は希望だけなんだよな?」

「そうですね」

「じゃあその箱をずっと持ってれば、諦めずにいれるわけだ」

「ダメ男、何が言いたいのです?」

「んー……そういうものがあれば、どんな不幸や災いも乗り越えられるってことだ」

「よっ、よく分かりませんね。いきなり変なことをいっ言います。きもちわ、わるい……」

「……じゃあ寝るぞ」

 おやすみ、と声をかけ、おやすみなさい、と交わし、床に就いた。

 ふふ、と嬉しそうに笑っていた。どちらが笑っていたのかは……。

 

 

 



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第五話:わかいとこ

 まだ日が昇っていない時だった。そろそろ夜空に青みが出始め、星たちが影に潜もうとしている。

 寒い。白い息が出るほどに冷え込んでおり、厳冬のような雰囲気が出ていた。

 辺りは草原。背丈の低い草がびっしりと生え渡っている。この寒さからなのか水滴を含み、踏むとわしゃわしゃと若々しい音がする。

 そこに一人の旅人がいた。全身黒という怪しい男で、上はセーター、下はジーンズを履いている。登山用の太ったリュックを上下に揺らし、腰には左右それぞれにポーチを携える。リュックには黒い棒のようなものが横から突き刺さっていた。

 セーターにはもこもこフードが付いている。男が歩く度にゆさゆさと揺れる。さらにセーターの袖は掌の半分を覆い、裾はジーンズのポケットを隠してしまうほど長い。それには内ポケットが右についており、中には仕込み式のナイフを忍ばせていた。

 セーターの中は黒いシャツを着込み、そして首飾りとして水色の四角い物体をぶら下げていた。

「寒いですね」

 不意に女の“声”がした。妙齢の女で、冷静で淡白な口調だ。

「曇ってる時より晴れてる時の方が寒いっていうもんな」

 何事もないかのように受け答えする旅人。

「……一昨日のおっさんは半時ほどで着くって言ってたのに……」

「気付いてみれば約二日も経過しましたね」

「……のどかわいた……」

 履きならしたスニーカーでずりずりとすり足になる。

「歩き詰めですからね。あと二日でしょうかね」

「怖いこと言うなよ……」

「下手をすると、街自体が存在しないということも、」

「幽霊屋敷的な……?」

「違いますっ。あの旅人が嘘をついているということですっ」

「あぁ、そういうことね」

 “声”は大息を吐く。

「無尽蔵のお人好しはどこから湧いてくるのでしょうかね」

「無償の愛だよ」

「無性にムカつきます」

「無情だなぁ」

「む、む、む、ありません」

「何の言葉遊び……わっ」

 突然、明るくなった。日の出だ。

「おぉ……」

「ダメ男と話しながら一日を迎えるとは、世も末です」

 “ダメ男”と呼ばれた旅人は、

「ここに置いてずっと同じ風景を見させるぞ」

「世も末です。自ら一人旅を望み、寂しい思いをしたがる男がいるとは、異常性癖です」

「どぎつい反論なんですけど」

 思わず慌てた。

 緑の地平線から真っ赤な太陽が登ってくる。夜空に赤いコントラストを加え、虹のように彩っていく。時が経つほど赤が薄まり、橙色、黄色、白へと変色していくのだろう。それに(なら)って、空も水色や青が増していくのだろう。

 ダメ男はその変化を堪能しようと思ったが、それよりも足を動かすことを優先した。それが功を奏したのか、

「みえちぃた」

「カミカミです」

「うっさい」

 街が見えてきた。

 

 

 洋風な石造りの家がいくつかと風車、同様の大きな建物がいくつかしかない。それ以外は広大なスペースを農地にしていた。一応道というものもあるが、特に舗装することなく、草原がそのまま続いているような形だ。

 他にも公園のような遊具が密集した空間や池があったり、屋台のような店が密集した場所があったりと、街として機能はしているようだ。

 ダメ男はうんうんと頷く。

「ここに一週間泊まる」

「バカなことを言ってないで入りますよ」

「フーは厳しいなぁ」

 女の“声”は“フー”というらしい。

 街に入る。特に何も起こらない。かと思ったら、

「あれ、旅人さん?」

 男の子が訪ねてきた。男の子は青い制服を着ていた。

「おはよう。街に入ってもいいかな?」

「いいよ。その前に入国記録に書いてね」

「? 入“国”? ってことは入国審査があるのか?」

「もちろん。ほらあっち見て」

 示したのは木で作られた看板だった。そこに台と用紙と筆記用具が置かれている。

「ぼくが荷物とか調べるよ。いい?」

「あ、あぁ……」

 戸惑ってしまう。

 ダメ男が記入している間に、手馴れた手付きでダメ男の荷物を調べ上げていく。盗まれる心配をしていたが、

「あぁ大丈夫。ぼく盗んだりしないから」

 それを見越して、調べながら言い切った。

 複雑な気持ちで入国審査を終えた。

「こんな朝早くからやってるんだ」

「だってぼくが審査官だもん」

「……え?」

「えっと、ここは名物って立派な物はないけど、ゆっくり休んでってね」

「あ、ありがとう……」

 ようやく入国した。と言っても城下町のように城壁があるわけでもないし、関所があるわけでもない。ただ男の子に声をかけられ、用紙に記入しただけ。その間に荷物は調べられたものの。

 釈然としないダメ男は、

「これも国なのですよ、ダメ男」

 フーに諭された。

 朝を迎えたために、住人は活動を始めていた。洗濯物を干したり畑仕事に出かけたり、放牧されている家畜の世話をしたり。これ自体に違和感はない。むしろのほほんとしていて和やかだ。

 しかしダメ男の戸惑いは続いてしまう。

「……どうなってんのここ」

「どうもこうもこのザマよ」

「汚い言葉は使わないの」

「すみません。流行っているものですから」

「なんだそれ。とにかく、なんで子供ばっかなんだよ」

 そう、住人は全員子供だった。一番年上で十代後半、一番下で一桁か。老若男女で言えば“若男女”しかいなかった。

「おはよう旅人さん」

 女の子が話しかけてきた。まだ十代にもなっていないであろう体格だ。

「おっおはよう」

「よかったらうちでたべていかない? せっかくだしね」

「え、えぇぇ……うんと……」

 いろいろな理由で困るダメ男。その理由は明らかである。

「それともやなの……?」

 うるうると泣き出しそう。

「あぁいやとんでもありますん! いただきますっ」

「じゃあうちはいってっ」

 強引にとある家に引き込まれた。

「これはダメ男の異常性癖が、」

「あらぬ誤解を生むからやめれ」

「普通に見たら誘拐犯ですからね」

「ほんとどうなってんだよ……」

 そして強引に席に座らされると、とたとたとどこかへ行ってしまった。

「……どうやら一般家庭ではないようですね」

 二人分の広さのテーブルが三つほどあり、まるで食堂のようだった。入口左手の壁にポスターやらメニューやらが隙間なく貼られている。反対側には先ほどのテーブルが整列されている。一番奥にドア一つと水飲み場が設置してあった。

 ダメ男は一番手前のテーブルに座っている。

「店か」

「店ですね」

 女の子はキッチンへ向かったのだ。

「みず……」

 リュックを足元に置くと、ふらふらと吸い込まれるように水飲み場へ。

「ダメ男、まるでゾンビです」

「うおおおおっ。みずうめぇっみずうめっ」

 近くにコップがあるというのに、蛇口からダイレクトに飲んでいた。

「?」

 ごっくん、と大きく喉を鳴らす。

「どうしたのです?」

「……」

 満足気なはずが、怪訝(けげん)な表情を見せる。

「なんか……へん」

 正気を取り戻したダメ男はそそくさと席に戻った。

「それは変な人が飲めば変になりますよ」

「殴るぞ」

 それから少し待つと、奥のドアから女の子がやって来た。可愛らしいエプロン姿でトレーを健気に運んでくれた。

「おまたせしました。カレーです」

「へぇ。君が作ったの?」

「もっちろん。てんちょーですからっ」

「……あのさ、聞いていい?」

「そのまえに、たべないとさめちゃうよ?」

「あ、あぁ。そうだな」

 朝食を食べ始めた。

「この国はみんな子供なのか?」

「ちがうよ。ちょうろーはちっちゃくないよ」

「長老? その人ってどこにいる?」

「いちばんおくー」

「なるほど」

 

 

「どうでした?」

 朝が過ぎ、これから正午へと向かう時間帯。ダメ男はしばらく散策していた。

「まぁ年齢相応の美味しさかな」

「美味しくなかったですか」

「うーん……正直言えば……」

「少女の頑張りを汚しましたね、低俗人間」

「いや、もっと作れば美味しくなるから」

「ちなみにカレーは好きですか?」

「好きだね」

「なるほど」

「?」

 散策していても、見かけるのはやはり子供ばかり。おじさんやおばさんといったお年を召した方は一人も見かけない。そんな子供たちは自分たちの仕事をしっかりこなしていた。中には友達と遊んでいる子もいたが、近くにはもう少し年をとった女の子たちが談笑していた。それでも“姉”と呼んでもおかしくない見かけだ。

「実は実年齢は大人なのかもしれませんね。いわゆる“美魔女”という方々です」

「明らかに子供だろうが。魔女どころか怪物だよっ」

 散策を終える。審査官の少年が言っていたように、観光と呼べるものは見当たらなかった。

「むしろこの光景が観光かもな」

「誘拐しちゃダメですよ」

「誘拐したがってるような言い方やめれっ!」

 ということで、まだ昼頃にもなっていないが、早めに宿を取ることにした。

 大きな石造りの建物に入ると、

「いらっしゃいませー」

 女の子が三人ほど整列していた。三人とも綺麗な着物を来て、ダメ男を迎えていた。

「……なにここ?」

 小さな国(?)なのに、まるで一流ホテルのような内装だった。暖色系の優しい灯りに赤い絨毯、広々としたフロント。なぜ着物なのかはツッコまないとして、豪華なのに落ち着きのある雰囲気だった。

「ダメ男、やはりあなたは、」

「違うからっ! だってここ宿でしょっ? ねぇそうだよねっ?」

 女の子たちに問いかける。

「もちろんです。けっしてあやしいみせじゃないです」

「そうだよー! “まっさーじ”とかあるけどさー」

「初っ端から怪しさ全開なんですけど」

「ダメ男、しばらく話しかけないでください。犯罪者」

「だから違うってっ!」

 ひとまず受付に行き、部屋を取った。

「これが部屋のかぎです。まっすぐいくとありますです」

 男の子が手渡ししてくれた。

 ダメ男は逃げるように部屋に駆け込んだのだった。

 

 

 入って通路を進むと、六畳ほどの部屋が広がる。暖色系のカーペットに少し固めのベッド、簡素なテーブルと椅子と、フロアと比べると部屋はそこまで豪華ではない。しかし、

「あー落ち着く……」

 ダメ男は脱力しきっていた。

 荷物をベッドに放り込み、床に大の字になっていた。

「いろんな意味でこの国危ないぞ……」

「変態、異常性癖、犯罪者、下劣人間、キモイ」

「ほんとに違うって……」

 ぐっと起き上がった。

「明日には出発するよ。心配するなって」

「もし三日間滞在すると言っていたら、完全に見限っていました」

「でもびっくりすぎるだろ。なんで大人がいないんだよ」

「どうせ大人は無能だとか何とか言って、追放したとかそういう理由でしょうね。あるいは見た目は子供、ずの、」

「いきなりネタばらしにかかるなっ。楽しみが減るだろっ!」

「ネタが分かったところで出発しましょうよ。ダメ男が犯罪に走りそうで怖いです」

「どんだけ心配してんだよっ」

 このままではとんでもないことになる、と心配したダメ男は早めに昼食を取り、長老のところへ向かった。ちなみに昼食は宿の食事だったが、やはり美味しくなかったという。

 外に出て“奥の方”へと向かう。

「……多分ここだよな?」

「間違いありません」

 この国の中では普通の家だった。しかし二人には判別できた。

「看板に“ちょうろうのいえ”と書かれていますから」

「オレには読めないが、子供らしい字だなぁ……」

 ノックをして、確認する。

「誰?」

 子供の声ではない。男の低い声がした。ここで二人は安堵のため息をつく。

「旅の者なんだが、長老にお会いしたい」

「いいよ。入ってくれ」

 中から出てきたのは、

「こんにちは旅人さん」

 ガタイのいい男だった。

「ささ、中へ」

 胸を撫で下ろすダメ男とフー。

 中はオシャレだった。宿の部屋の広さと変わらずも、木目調の床にインテリアに家具に、とてもリラックスできる雰囲気だ。奥は書斎スペースなのか、多くの書物や机、観葉植物なんてものもある。キッチンは入ってすぐ右手にあった。いわゆる“LDK”だ。

 真ん中にある洋風なテーブルに着くと、紅茶を入れてくれた。林檎(りんご)の風味がする。

 ダメ男は首飾りをテーブルに置いた。水色の物体が繋がれている。

「早速聞きたいことがあるんだ」

「分かってるよ。俺の歳だろう?」

「え? ……まぁそれもそうだな」

 若干はぐらかされたような気もした。

「俺は四五歳だ」

「四十五? 四十五で長老?」

「そうだな。ここは比較的若いもんな。驚いて当然だ」

「絶対的に年齢が低いですよ」

「……? 今の声は……?」

「あ、そうだった」

 ダメ男は水色の物体を見せ、“フー”だと紹介した。

「初めまして、フーと申します」

 それから“フー”の声がした。よろしく、と挨拶を交わす。

「んで、どうして大人がいないんだ?」

「……逆に聞こう。“大人”とはなんだ?」

「え? ……聞かれると答えづらいなぁ」

 うーん、と(うな)る。

「ではこちらがお答えします。大人とは十分に成長した人のことです」

「では“十分”とはどのくらいだ?」

「それは国によって違います。二十歳や十八歳と国々の法律によって定められています」

「ということは、結局は誰も正確には分からないということだ。法律でしか決められないのだからな」

「そうですね」

 長老は立ち上がり、一冊のファイルを差し出す。

「これは?」

「この国の年齢推移表だよ」

 ささっとページを開いて、あるところを見せてくれた。

「こっちが二百年前の寿命、そしてこっちが二十年前。明らかに違うでしょ?」

「二百年前は八十歳代なのに、こちらは二十歳代ですか。恐ろしいですね」

 折れ線グラフになっているが、右肩下がりになっていた。

「方向転換したんだ」

「方向転換?」

「今までは長寿が素晴らしいものとされた。それは当然だ。歳を重ねるのは知恵を重ねること。長生きしている人は素晴らしい知恵の持ち主である、と見なされていたんだ」

「一理ありますね」

 全面的には支持しない。

「しかし、それよりも逼迫(ひっぱく)してしまうものがあった。」

「? なに?」

「ダメ男、分かりませんか? 社会保障費ですよ」

「その通りだフーちゃん」

 むむむ、と少しだけ不機嫌になるダメ男。しかしダメ男にとって、別のことが起きそうになって、それどころではない。

「んぅ……」

「長寿になるほどお金がかかる。例えば昔、“年金”という決まりがあったんだが、長寿が多いとそれだけお金を支払う対象者も増え、お金が(かさ)んでしまう。あるいは病気になりやすくなり、医療費が多くなる。それに加え、支出は増えても収入は減る一方だ」

「つまり、人口は増えていないのに、相対的に高齢者が増加したということですね?」

「そう。このままでは国が滅んでしまう。他の国に借金をするようになったら終わりだ。そこで先人の賢者たちは抜本改革をした。まずは安楽死制度の導入。辛い人生を送っている人に向けて、という主張だったが、実際は寝たきり高齢者のためだった。これによって医療費と社会保障費は大幅に削減された。次に尊厳死と自己決定権の強化。これも安楽死に絡んでだが、外部の人間より自分の意志を優先させるのが狙いだ」

「相当厳しい決断だったでしょうね。それは自分の両親を殺すことに同義ですからね」

「それは……まぁ。で、これによって八十歳以上の高齢者が激減した。しかし問題はこれからだった」

「なんです?」

「世代のバランスというやつだね。六十歳代と七十歳代がすごく多かったんだ。現役は二十歳代から五十歳代後半までとされていた。しかしそれよりも明らかに多かった。それに社会保障費を多くせびろうとする世代でね。安楽死を導入してから減っていたお金が逆に増えていった」

「それは厄介ですね」

「うん。それに彼らの中に重要なポストが多くてね。切ろうとすれば寄ってたかって集中攻撃してくる。だから賢者たちは逆を突いた」

「逆とはどういうことですか?」

「思いっきり贅沢(ぜいたく)させたんだ。ガンガン社会保障費を掛けて裕福にさせた」

「え? それはお金が掛かりますよね?」

「一時的にね。ところが面白いことにどんどん減っていった。びっくりするぐらいにね」

「どういうことですかね。ねぇダメ男、どうしてなのでしょうね?」

「……すぅ……すぅ……」

 ダメ男はすっかり眠っていた。

「こ、この男は、まったく、すみません。後でしっかりお仕置きしますので、どうかお許しを」

「いいよ。彼には難しい話だったみたいだ」

 長老はダメ男の紅茶に蓋をしてくれた。

「減った理由は……食事だよ」

「?」

「贅沢させたのは食事だったんだ。脂肪や塩分、タンパク質を思いっきり摂取させた。それはそれはとびっきりの料理だったよ。一皿で家が買えるほどの食材も使ったよ。結果、病気になって呆気なく亡くなった」

「身体に悪い物が美味しいというわけですね」

「そうだね。これによって六十歳代から上は大幅激減。で、それがいつの間にか寿命まで落ちてしまったというわけだ。この国の歴史では“幸福改革”と呼ばれている」

「はぁ、なるほど。二百年をかけた壮大な計画だったのですね」

 フーは感慨深そうだ。

「ところが今度は別の事態が起こってしまった。……なんだと思う?」

「何でしょうかね。うーんとえっと、あ、子供が多くなったのですねっ」

「さすがだね」

「あ、いえいえそんなそんな」

 長老に褒められ、しどろもどろになるフー。

「寿命が異常に縮んだことで、子供を産むペースが三倍以上も早まってしまった。結果、子供だらけの国になってしまったんだ。それで仕方なく国を縮小し、今に至るということだ」

「何だかすごいことになってしまいましたね」

「まさか、賢者たちもこんなことになろうとは夢にも思わなかったろう。俺もだよ」

「長老様でさえ四十五歳。この国からすればご高齢の領域ですね」

「次の長老は三十歳代だよ。このままだと“多子低齢化”になってしまう。しかし周りは子供だらけ、いや“大人だらけ”なんだ。制度の制定もままならないんだ」

「最初に言っていた“大人”とはそういうことだったのですね。寿命が八十歳とし二十歳で大人とすれば、この国では単純計算して五歳で大人ですか。まさに“大人だらけ”ですね」

「うむ」

「勉学よりも生活に忙しくなって教育もままならない、かと言って他の国に教授してもらったら、それこそ襲われるでしょうし」

「そこで今、旅人歓迎制度というのを制定したんだ。了解を得て住人になってもらおうという決まりだ」

「ナイスアイディア、とは言い難いですね」

「苦肉の策だよ」

 

 

 長老の家を後にしたダメ男は、

「ガミガミうるさいなぁ……」

 こっぴどく怒られていた。

「本当にもう、せっかく貴重な時間をいただいて面会したのに、話の途中で眠ってしまうとは、なんたる無礼! 本当に恥ずかしかったですよ!」

「だって話が難しくて分からんかったもん」

「頭も子供ですねっ! ほんっとうにもう!」

 ダメ男は出る前に謝罪はしているものの、フーからの厳重注意が途切れることはなかった。

 宿に戻る前に買い物を済ませる。店員はやはり子供。それでも健気に頑張っているのを見て、多少のミスは大目に見ることにした。

 そして夜。宿から夕食をいただいたが、やはり美味しくないらしい。それでも大目に見る。ダメ男は意地でも大目に見る。

「ご、ごめんなさい……お口にあわないですたか?」

 部屋で夕食をいただいているダメ男。それを心配そうに女の子が見つめていた。赤い制服を着ている。

「いんや。もっと頑張ればもっと美味しくなるよ」

「……えへへ」

 食器を片付けてもらい、従業員は去っていった。

「ダメ男、話を聞いていますか?」

「もう説教はやめてくれよ……」

「いいえ。止めません」

「……」

 憂鬱気味に、ダメ男はベッドに寝転がった。荷物はベッドの脇に置かれている。

「……」

 じっとして何もしないダメ男。フーに背を向けて、ただ横になっていた。ちなみにフーはテーブルに置かれている。

「……」

「ダメ男、ちゃんと聞いてください」

「…………」

「ダメ男……分かりました。仕方ないですね。今日はこのくらいにしておきましょう。でも、次に何か失礼なことをしたら、本気で怒りますからねっ」

「これで本気じゃないのかよ……」

「三割くらいですね」

 気怠(けだる)そうに起き、お風呂に入っていった。そしてすぐに就寝した。

 

 

 翌朝。

「……んぅ」

 相変わらず床で眠るダメ男。ぱちっ、

「……あ」

 と目が覚めた。

 起きてすぐに顔を洗った。

「おはようございますダメ男」

「あぁ」

「今日は遅めですね。もう八時過ぎですよ」

「寝坊した……」

「相当疲れていたのですね」

「誰かさんのせいでな」

「自業自得です。と言うより、それを言う立場にないことをお忘れなく」

「……はいはい」

「“はい”は一回です」

「はーい」

 荷物を整理していると、従業員がやって来た。

「しつれします。ごはんれす……」

 とても眠そうだ。制服も少し乱れていた。

「あぁ、そこに置いといて」

「あっ……」

「ん?」

 ダメ男と目が合った瞬間、顔を赤くし、

「ごめんなさーいっ!」

 どたどたと走り去っていった。

「……なんだ一体……」

「ダメ男、服装です」

「……あぁ」

 ただいまのダメ男の服装は黒のタンクトップにパンツ一枚だった。

「まぁ、食事を届けてもらうことが少ないですからね。これは仕方ありません」

「……フーの基準、なんかおかしいよな?」

「そうでしょうか?」

「いや、オレもよくわかんないけどさ……」

 ちなみにいただいた食事だが、今回は美味しかったという。

 

 

 いつものように練習をしてシャワーを浴びた後、改めて荷物の確認をした。忘れ物や足りない物を細かく調べる。

「……うし、大丈夫かな」

「ダメ男の頭は大丈夫ではありませんが」

「なんだ? じゃあ今日も一泊してくか?」

「やめてください。社会的に抹殺されます」

「なら問題ない、そうだよな?」

「はい」

「よし……ははっ」

 おかしな恐喝にダメ男は笑ってしまう。

 ポーチを付けてリュックを背負い、部屋を後にした。

「あ、あの……」

 先ほどの従業員だ。

「今日はどうでした?」

「あぁ、なんか美味しくなってたよ。なにかあったのか?」

「……がんばってれんしゅうしました」

「もしかして徹夜?」

「……」

 ゆっくり小さく縦に振る。恥ずかしそうに顔を俯かせている。

「美味しかったけど……あんまり無理はするなよ。まだ子供なんだからな」

 くしくし、と優しく撫でてあげた。

「……えへへ」

 とても嬉しそうだった。

「それじゃ、行くか」

「はい」

「え? もう行っちゃうの?」

「そう言わないでくれよ。そういうのが一番応えるんだから……」

「……」

 しゅん、としょぼくれてしまった。

 ダメ男はフーを取り出し、操作し始める。そして、

「はいここ見てて、はいチーズ」

「え、え?」

 機械音とともに閃光が走った。従業員はびくっと驚く。害がないことを伝え、フーを見せた。そこにはダメ男とおろおろしている女の子の姿が写っている。

「写真というやつでね。景色を残すことができるんだ」

「……すごい……」

 初めて見るようだ。触ってみるが、ツルツルとした感触しかしない。

「これで忘れないってわけだ」

「……うん!」

 元気いっぱいに笑ってくれた。

 ダメ男は従業員とお別れし、宿を出る。そしてそのまま街を、

「待ってくれ」

 出る前に呼び止められた。振り返ると、若い長老と子供が三人いた。

「旅人さん、行っちゃうの?」

 一人は審査官の男の子だった。

「あぁ。出国にも手続きがいるのか?」

「ううん。いらないよ」

「そうか……」

「ダメ男くん、フーちゃん、この国の制度を知ってるよね? どうだろう、この国の住人にならないか?」

「長老様、申し訳ありません。根無し草なもので、他の国にも行かなければなりません」

「どうして?」

 女の子が尋ねる。その子は食堂の女の子だった。

「……オレは世界中を旅したいんだ。まだ全然旅しきれてない」

「そんなに大切なの?」

 別の女の子が()く。

 うーん、とダメ男は言葉に迷った。

「大切っていうか……うーん、なんて言うんだろうな。習慣というか何というか。そこに留まれない(たち)なんだ、きっと」

「……そうか。ダメ男くんは子供たちに好かれているし、フーちゃんはとても聡明だし、国の長としては見捨てがたい。せめてもう一日くらい泊まって考え直してみないか?」

「こ、子供をダシに使うのはずるいよ、長老……」

「だからこそ早くここを出立するのです、長老。どうかご理解ください」

「……」

 深呼吸するように大きく息を吐いた。

「分かった。……呼び止めて悪かった」

「オレもごめん。お詫びに助言……というか忠告しておくよ」

「?」

「この国の食事を見直した方がいい。徹底的にね」

「……“助言”ありがとう」

「いえいえ。では、行きましょうか」

「あぁ」

 ダメ男は国を後にした。

 

 

 澄み渡る晴天と、ギラギラと照りつく太陽。その日光が背丈の低い草原を満遍なく温めていた。

 ダメ男はくしゃくしゃと渡り歩いている。

「ダメ男、本気で留まろうと思いましたね?」

「そんなことないよ。むしろ逆、あまり長居はしたくなかったんだ」

「どうしてです?」

「歴史の話を聞いてた限り、もう三十年もかからないと思った」

「! 聞いていたのですか? ということは寝たふりをしたのですか?」

「起きてたらあれこれ言いたくなっちゃうから。そしたらますます出国しづらくなるでしょ?」

「それは助言者として抜擢(ばってき)されるからですか?」

「うん。そうなったら長居することになるし……」

「どうしてそこまで拒絶するのです?」

 ぴたりと足を止めた。

「ご飯が美味しくない国は滅ぶのが早い」

「ダメ男の好みの問題ですかっ」

「重要だろっ。だってまずいご飯を食べ続けるんだぞっ? 身体ぶっ壊れちゃうじゃん!」

「そんなに美味しくなかったのですか?」

「うん」

 力強く頷いた。

 そしてまた歩き出した。

「オレが思うに、相当塩とか砂糖とか入れてるよ。それに何だかえげつない味というか、自然な味じゃないし。変な味だった……うぅ……」

「先日話していた“幸福改革”の名残でしょうかね?」

「味覚オンチまで受け継がれてきたのかもなぁ。若いうちからあんなの食べてたら、そりゃ寿命も縮んじゃうよ」

「だからあのような助言をしたのですね?」

「うん」

「さて、あの国はこれからどうなるのでしょうかね」

「……うん……」

 ダメ男は唐突に立ち止まる。リュックを下ろしてから、セーターを脱ぎ始めた。下は半袖の黒いシャツを着ている。

「どうしたのです?」

「……なんか暑い……」

「歩いていて発熱したのではないですか?」

「うん……」

 しかしシャツがぐっしょりと濡れていた。

「これはい、三十度っ? 国を出る前は二十度もいっていなかったのに、これは一体何なのでしょう?」

「……答えはこの先にありそうだ。……行くぞ」

「はい」

 ダメ男たちは気張って歩き出した。

 

 

「ちょうろうさま、こんにちはー。きょうはどうしたの?」

「ちょっと食べたいなってね」

「じゃあすぺしゃるカレーもってくるっ」

「うん。……実に惜しい旅人だったなあ……」

「はいどぞっ」

「いつも早いね。どれ…………んぅ、うまい」

「ありがとっ」

「しかし気にかかる」

「? まずかった?」

「いや、ダメ男くんが食事を見直せ、と言っていたことだよ」

「どういうことなのー?」

「さぁ。こんなに美味しいところのどこを直せというのだろうか……」

 

 

 



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第六話:ひろいとこ

 ちょうどすれ違いざまでした。

「こんにちは」

 人当たりが柔らかそうな男が話しかけてきました。その男は雑談しようと向き合います。

「……どうも」

 一方、話しかけられた男は無愛想に応答します。向き合わず、相手に背を向けたままです。

「どちらに向かわれるんですか?」

 にこやかに尋ねると、

「この先にある所に……」

 ぼそぼそと呟くように返します。

「もしかして、墓地か何かですか?」

 男は沈黙して立ち止まり、

「あぁ……、実は私も行ったんですけど、かなり廃れていましたよ」

「……それでも、行くだけだ」

 素っ気なく立ち去ろうとしました。しかし、

「それなら、私と一緒に行きませんか?」

 声高に呼び止められました。

「ここからそんなに遠くない場所に小さな集落があるんですよ。必要な物資が手に入るかは保証できませんが、足休めにでもどうです? あなたもかなりお疲れのようですし」

 愛想よく勧めてきます。

「それに、あなたが行こうとしてる所は複雑に入り組んでいて、きちんとした準備と相当な覚悟がなければ、地元の方でも迷いこんでしまうところです。ここで爪先を変えていただかないと、私があなたを殺した気分になってとても気持ちが悪いんです」

「……」

 男はようやく向き合って、歩み寄ってきました。もう一人の男はニコリとして、歩き出します。

「はい。では、行きましょうか」

 

 

 今にも雨が降り出しそうな曇天(どんてん)で、春の夜中のような肌寒さが辺りを包みます。

 (まば)らにはげた林に、粗雑に舗装された道が間を()うようにいくつか通っています。落葉の季節でもないのに、哀愁漂わせる暖色系が風景を(いろど)ります。その中を男が二人歩いていました。案内役の男の後ろにもう一人の男が、少し離れて付いてきていました。

 案内役の男は無地の白いシャツに下半身を丸ごと覆う鋼鉄製のごついブーツという妙な格好で、腰に刀を据えており、荷物は特に持っていないようです。体格もよさそうなくせに、爽やかな童顔です。

「私の名前はディンです。あなたは?」

「……」

 後の男はただ黙々と歩いています。

 皮のフードが付いた黒いジャケットにダークブルーのジーンズ、薄汚れた黒いスニーカーを着用しています。岩石のようにごつく黒いリュックサックを背負い込み、ウェストポーチを両腰にそれぞれ一つずつぶら下げています。フードを深く被り、顔色がはっきりと(うかが)えません。

「すみません、調子に乗ってしまって……。もう少しかかりますので、その間の辛抱をお願いします」

「分かった」

 二人はさらに歩いていきました。進んでいくと、はげていた林に木々が増えていきます。道も一つにまとまり、やがて森林を二分するような道になっていました。しかし、道は段々と荒れ、ひび割れや砂利は増えて、足で踏む度に、森林に響く騒音と化しています。鳥や虫の声もないこの森林で砂利の音だけ。それが虚しくも寂しくも感じさせていました。

 黒い男は左耳に指を当て、何かを押し込んでいるようです。よく見ると、そこから黒い“線”が繋がっていて、服の中へと隠れています。案内役の男“ディン”は、

「耳が悪いのですか?」

 遠くから黒い男を見遣(みや)ります。

「……あぁ。数ヶ月前に戦争に行ってきたんだ」

「戦争……ですか」

「そこで爆弾に直撃しかけたんだ……」

「なるほど、爆撃音で耳を……」

「治りかけてるんだけど、念のため保護してる」

「フードをしてるのも?」

「……視線が気になるもんでね」

「でも、あなたみたいな格好の人、たまに見かけますよ。誰かに憧れているかのようです」

「そうか? ……オレは逆にあんたみたいな人をどこかで見た気がする」

「そっくりさんかもしれませんね」

 二人が話していると、

「あれか」

「意外と普通でしょ?」

「……そう、なのか?」

 木々に囲まれた集落が見えました。集落のバリケードとして木々が密集していて、人一人も通れなさそうです。そして、二人の目の前だけが中に入れる玄関となっていました。

 中に入れば、木造の家屋がいくつもあって、芝生が生い茂っています。天を仰げば、木々の枝が密集していて、集落の屋根代わりになっています。そのおかげで、雨粒が集落の外へ流れていきます。傘は不必要のようです。

 ほんの数滴が黒い男のフードに当たり、すっと下へ伝い落ちました。

「晴れていれば光が差し込んで幻想的な風景が見られたんですが……」

「すごい……」

 ディンは宿屋を紹介してくれて、黒い男はそこで二泊することに決めました。

 

 

 夜。

「耳は大丈夫ですか?」

 クールな女の“声”が男に話しかけます。しかし、部屋には該当する人物がいません。それなのに男は、

「森林浴には持ってこいな場所だな。雨がやんだら、やってみようか」

 違和感なく返事します。

 部屋は六畳くらいで、ベッドやテーブル、浴室といった設備もあります。しかし、明かりが弱かったので、電光式のランタンを()けています。

 男は椅子に座って、テーブルで荷物を広げていました。ジャケットはベッドに脱ぎ捨てていて、黒のタンクトップを着ています。

 耳から赤く()みた綿を抜き取り、新しいものと丁寧に取り替えています。

「まさか、耳の穴を掃除しすぎて引っかいてしまったとは言えませんよね」

「うるさい」

 今度は使い込まれた布と液体を取り出し、布に液体を浸します。それで手元に置いてあった水色の蝶番(ちょうつがい)を拭き始めました。

「ただ、気色悪かったな」

「ダメ男の顔ですか?」

 “ダメ男”と呼ばれた男は、

「痛いです」

 テーブルの角に蝶番をぶつけました。

「そういうことを言うからだよ」

「実力行使ですか。酷いにもほどがあります」

「どっちがだよっ、フー!」

 “フー”と呼ぶ蝶番をこまめに拭き直します。

「見られてた。じっくりとな」

「自意識過剰です。ダメ男のきもちわ、すみません、ぶつけないでください」

「分かればよろしい。で、見られてたというより、虎視眈々(こしたんたん)と監視されているような……そんな視線を感じた」

「つまり、ダメ男の命を狙っているということですか?」

「そこまでじゃないと思うけど、追い剥ぎか何かじゃないかと思う」

「確かに、簡素な村を(よそお)った大胆な手口は何回も経験していますからね。雰囲気が似ているということは、それに類したものだと察しがつきます」

「とりあえず、油断はできないな」

「そうですね。そして時にダメ男、伝えたいことがあります」

「何だよ?」

「でェたガはそんシましタ」

「うわぁぁぁ、まじか! ごめん! もう乱暴にしないから、き、消えるなぁぁぁ!」

「ウソです」

「……」

「乱暴にする男性は女性から嫌われますよ」

「……肝に銘じとく」

 

 

 夜が明け、日が差し始める頃、大雨が降っていました。冷たく降り注ぐ雨は緑の屋根を伝い、集落の外へと流れ落ちていきます。一方、中だけは雨脚が鈍っていました。

 部屋で唯一の窓に、ぽつぽつと雨で殴る音が響きます。その窓からダメ男は外を見ていました。

「朝だけど、少し薄暗いな」

「そうですね。こんな所ではお買い物もできませんね」

「でも、こんな場所は滅多にない。……いい所だけどなぁ。あ~ぁ……幻想的な風景とやらを見たかったな」

 ごろりと床に寝っ転がりました。

「昨日の言葉はどこに行ったのですかね。それはそうと、明日の朝は晴れるみたいですよ」

「お、それは楽しみ」

「幻想的な風景とやらが見られると思います」

「じゃあ、今日は張り切って運動しようか」

 ダメ男が勢い良く立ち上がって取り出したのは、エグイほどに鋭いナイフでした。刃渡りが拳三つほどの長さで、()も同じくらいです。その柄は黒い骨組みに薄く透明な膜が貼られています。仕込み式で、先端にあるボタンを押すことで刃が突出します。

「ちゃんと大切に扱ってくださいね。借り物なのですから」

「分かってるって。昨日、めっちゃお手入れしただろ」

「ダメ男の生命線ですから、当然です」

 ダメ男はするすると衣類を脱ぎ、タンクトップとパンツ一枚になりました。

「傷が増えましたね」

「イイからだ?」

「顔を除けば悪くないと思います」

「そんなに顔太ったかなぁ……」

「そっちではないですっ」

 露出している肩周りから腕に、いくつもの傷がありました。切傷、銃創、火傷、(あざ)など、筋肉の盛り上がりとは別の凸凹(でこぼこ)があります。

 ダメ男は舞踏のように、ナイフを使って練習しました。敵が目の前にいるかの(ごと)く立ちふるまい、想定した敵の急所を的確に狙います。

「ところで、その格闘術は誰に教わったのですか?」

「うーん、誰だっけ? なんかそこら辺の人に教えてもらった」

「よくそれで生き延びていけましたね」

「勝てない相手とは戦わないからだな」

「なるほど。それは正しい判断です」

 ダメ男は練習を終わりにしました。その瞬間、雨を浴びたように汗がどっと出てきました。ストレッチを十分にしてから、お風呂で汗を流します。

 お風呂から上がって、ベッドに放置していた黒いジャケットに着替えました。ナイフは砥石(といし)で整えて、収納してポーチにしまいました。

 朝食に土を固めたようなブロック型の携帯食料を食べます。もそもそとして、最後は水で流し込みました。

 それから数時間、ずっと部屋でごろごろしていました。が、

「……うん」

 ダメ男の表情は曇る一方です。それを察したフーは、

「イヤホンを使用しますか?」

 黙って相槌を打ちます。片耳だけのイヤホンを差し込みました。

 そして、改めて外を見て、

〈まだカーテンが閉まっていますね〉

「……昨日はあんなに穏やかだったのに……今日は変だ。嫌な感じ……重い気がする」

〈ダメ男の感覚は獣並みですね〉

 状況を確認しました。ダメ男とフーは至って冷静です。

「ディンには申し訳ないけど、ここから出ようか」

 リュックから革製のフードを取り出します。それをジャケットの(えり)に取り付けます。浅く被り、荷物を持ちます。ダメ男は扉に耳を当てると、何かを感じたようです。

〈木の軋む音が複数聞こえます〉

 こくりと首を縦に振ります。

 ポーチから円柱状の物体を取り出しました。それには丸い取っ手が差し込んであり、それを引き抜きました。

「…………」

 “三”、のタイミングでドアを少し開け、その物体を隙間から転がし、またドアを閉めました。その直後、ぼしゅっ、と漏れるような爆発音がしました。少しだけ部屋が揺れます。

 煙がドアの隙間から漏れ出したのを確認して、ダメ男は廊下に身を出し、ピピッ、と手投げナイフを投擲(とうてき)しました。廊下はどす黒い煙で何も見えなくなっており、黒い煙の中へ消えていきます。悲鳴と共にドタドタと慌てる音が聞こえ、やがて消えました。

 一旦部屋に戻ることにしました。

〈足音は二人分です。かなり重装備だと思われます〉

 小さく頷きます。

〈一体何が目的なのでしょう?〉

「殺すのが目的なら、最初からこんなことせずにミサイルでも何でもぶち込むだろうな」

〈つまり、拘束が主目的ということですか?〉

「かもな。……外に出たいけど……とりあえず様子見だ」

 それからダメ男たちが身構えてから数時間経過しましたが、

「ふぅ」

 何も起こりませんでした。念のため、防弾ベストをジャケットの下に着用して、手には掌サイズのナイフを握り締めています。それでも、さらに数時間しても何も変わりませんでした。

〈持久戦でしょうか? とても不気味です〉

 ずっと神経を集中させ、気配や物音、臭いを察知しようとしています。しかし、さすがのダメ男にも疲労の色が出てきてしまいます。大して動いているわけでもないのに、額から玉の汗が(したた)り落ちます。

 ドアや窓付近の壁などに耳をあて、探りますが、雨音が強くなっていて、聞こえにくくなっていました。冷静だったダメ男に、余裕が失せていきます。

〈食料は何日分ありますか?〉

「一日一食計算だと六日分くらい。持久戦じゃ間違いなくお陀仏(だぶつ)だ」

〈短期決戦では不確定要素が多すぎて難しいですね。もう相手のことを考え、〉

 その時、

「!」

 床に穴が空けられ、木片と一緒に何かが出てきました。

「まじかよ!」

〈ダメ男! にげ、〉

 フーの言葉を断ち切り、部屋は強烈な閃光に(まみ)れました。網膜に無数の針が突き刺さるかのような閃光。ダメ男は、

「ぐあぁぁあああぁっ!」

 目を(おお)って、(うずくま)ってしまいます。

〈ダメ男! ダメ男! しっかりしてください!〉

「め、めがぁぁ……!」

 すたっ、と目の前にサバイバルブーツが迫ります。

「奇襲成功」

「袋の準備完了。獲物を確保する」

 迷彩服の男が二人、ダメ男を囲みます。服の上からでも筋肉で膨れ上がっているのが分かります。

 一人がダメ男の両手を紐で縛ると、もう一人がダメ男の荷物を押収します。リュックやポーチ、ナイフまで取り上げられてしまいました。

「お前ら誰だ! 離せっ! ぐぅぬ……離せ……!」

 ダメ男は懸命に暴れます。しかし、体格差がありすぎたのか、ひょいと担がれると、呆気(あっけ)なく袋にぶち込まれたのです。

「こちら“アメンボ”、獲物を確保。直ちに帰還する」

 二人が肩に担ぎ、歩き出した途端に、

「!」

 手元が狂ったのか、袋を落としてしまいしました。

「何をしている! 早くはこ、……!」

 ついでに、もう一人も袋を落としてしまいました。

「ぐあっ!」

 二人の両手には手投げナイフが突き抜けていました。痛みに悶える声と一緒に溢れ出だす真っ赤なシャワー。ぼたぼたと袋や床を血で濁してきます。

 その間にダメ男は袋を切り裂いて脱出します。

「き、きさまぁぁぁ!」

「死ねっぇぇ!」

 二人がハンドガンで応戦しようとした瞬間、

「うっ?」

「へぁ?」

 なぜかそのハンドガンまで落としてしまいました。ぶるぶると震え出します。

「ぅ」

 そして倒れ込んでしまいました。

「ふぅ」

 安堵のため息。

 二人はぴくぴくと痙攣(けいれん)しています。

〈ジャケットの方を確認し忘れるとは焦りましたね〉

 両手には手投げナイフが握られていました。

 今度はダメ男が二人を拘束します。所持品を粗方(あらかた)回収して、銃は解体して破壊しました。上手く動けないようで、ほぼ無抵抗でした。

 ふとして、ダメ男は服の中に何かを見つけました。無理やり()いでみると、黒いイヤホンのような物が襟元に装着されていて、コードがズボンの方へと伸びています。辿っていくとポケットにトランシーバーが入っていました。死体の耳からイヤホンを外し、自分の耳に入れます。

〈……しろ、ヒツジ、どうした?〉

「お前ら、一体何者だ?」

 相手は一瞬黙ります。

〈知りたければ降伏しろ……ククク……〉

 相手は嘲笑(せせらわら)います。男の声でした。

「今のうちに言っておくけど、オレを襲うようなら容赦しない。あんたの部隊を全滅させるだけだ。手を引けば、被害は少なく済むよ」

〈分かっていないようだな。こちらには時間があるのでな。たっぷりと可愛がってやろう。無様に地べたを這いずり回れ、青二才が〉

「……っ!」

 ダメ男は床に思い切り叩きつけ、踏んづけて木っ端微塵にしました。

〈何を企んでいるのかは分かりませんが、長くなりそうですね〉

 

 

「ターゲットをこの森から逃がすな! 十五人で包囲し、連携しながら追い詰めろ。できるだけ捕獲しろ! 万が一の事態には任せよう。責は私が受ける」

「了解。アリ、コウモリ、ネコ、イヌ、ゾウの部隊は包囲を開始。捕獲優先とし、想定外の事態は各自判断せよ」

〈アリ、了解〉

〈コウモリ、了解〉

〈ネコ、了解〉

〈イヌ、了解〉

〈ゾウ、了解〉

「絶対に後悔させてやる……」

 

 

 鬱蒼(うっそう)とした密林、そこから滲み出る雨粒、半ば泥沼状態の地面。ざらざらと砂嵐のような雨音が密林での唯一の音でした。

 雨がしきりに降り、徐々に強くなっていきます。ダメ男の服は雨でずっしりと重くなっていました。衣服を着たままプールに入ったかのようにずぶ濡れです。

 ダメ男はというと、木に登って一休みしています。木の太い枝に脚を挟み、(みき)に寄りかかっています。

「どうやら、オレを本格的に狙っているみたいだ」

 ぼそぼそと呟きます。

〈そのようですね。今まではただのゴロツキばかりでしたが、あの二人、“見た目では”訓練された部隊でした〉

「あんなのが何十人もいたんじゃ、骨が折れる……」

〈それに、ディン様も気がかりですね〉

「人のことよりもまず自分。このままじゃ(なぶ)り殺しだよ……」

 分厚い雨空に覆われ、光が森に差し込むことはありませんでした。むしろ大粒の雨が陰りを強調して不気味に見せます。ダメ男の髪の先端から、雨が滴り落ちていきます。

 リュックは肩掛けのバンドを露出(ろしゅつ)させ、それ以外の部位は黒い袋で包んでいます。近くの枝に引っ掛けていました。

 そこに、三人やってきました。他には誰も見当たりません。ダメ男はフードをさらに深く(かぶ)り、身を木の枝に伏せます。

 声が聞こえてきます。

「……げットって、どんな風貌なんだ?」

「連絡きてないんすか?」

「寝てたからさ……」

 三人はダメ男のいる木の根本で立ち止まります。どくん、と心臓が強く打ちます。

「では改めて……。偵察隊からの情報によれば、二十歳前後で黒い長髪、百七十くらいです。装備はナイフが中心で臨機応変にあらゆる武器も扱えるみたいです」

「そして、ブービートラップや奇襲といった戦術も得意みたいっすよ」

 ふぅ、と声を抑えて息をつきます。どうやら雨宿りをしているだけのようです。

 一人がもう一人に何かを手渡しました。用紙のようです。

「ただ、左耳を負傷しているらしく、補聴器のような物を身につけているみたいです」

「……!」

 ダメ男の表情が強張(こわば)ります。

 コツコツとフーを二回小突きます。

〈分かっています。トレースを開始します。十数秒お待ち下さい〉

 その間にもダメ男は気配を殺しつつ、耳を澄まします。しかし、途端に話が小声になったため、そして雨音がさらに強くなったために聞こえづらくなってしまいました。

〈……トレース完了。こ、これは!〉

 フーが驚いています。

〈あの用紙にはダメ男の個人情報が記されています〉

「!」

 ぴくりと眉をしかめます。

〈ダメ男の追っかけにしては詳しすぎます。身長はサバを読みすぎですが、性格や気質、好み、持ち物、挙げ句の果てには女性のタイプまで……一体どこからこんな情報を入手していたのでしょう?〉

 うんうんと小さく頷きます。

〈心当たりがあるのですね? ということは、かなり前から尾行されていたことになります。ダメ男に対して、相当な執着心と憎悪がうかがえますね〉

 そのまま三人はダメ男に気付くことなく、通り過ぎていきました。

 それから数分後、悲鳴が聞こえました。

〈案外、間抜けなのかもしれませんね〉

 ダメ男は物音を極力抑えて木から降り、慎重に歩きます。できるだけ地面が露出した部分を避け、木の根っこを伝い歩きます。

 ダメ男の前方に大きな落とし穴がありました。近辺の木に身を隠し、様子を見ます。

〈確か、針山落とし穴でしたよね?〉

 ダメ男はまた頷きます。フーは“ナムナム”と独り()ちました。

「!」

 ダメ男は真上に、

「っ」

 小型ナイフを投げました。

「がっ」

 ぐしゃりと、先程の男が落ちてきました。腕にナイフが突き刺さっています。

「う、あぁ」

 次第に男は身体が震えてき、仰向けに倒れました。ダメ男は抱きかかえます。

「他の二人は?」

 ダメ男は左目にナイフを突き付けました。

「その、穴の……なか……」

 ダメ男はなんとか男を立たせ、千鳥足で向かいます。盾にしながら穴を見ました。確かに、肉塊が二つあります。

「い、いのちっだ……けは……」

「なら、知っていることを全て話せ。煙に巻こうとしたら、指を一本ずつ切り落とす。喚いたり、騒いだりしてもだ」

「……」

 くっ、と男の小指にナイフを突きつけます。

「三人十五部隊、武器は銃やマシンガン……任務は標的の捕獲、万が一の事態には抹殺……」

「それで、オレを狙う目的は?」

「わ、分からない。傭兵(ようへい)なん……だ。ターゲットを捕獲、抹殺するということしか分からない……」

「それだけか?」

「本当だ……! 信じてくれっ」

「……」

 ダメ男は男の、

「ぎゃあぁぁぁぁぁっ!」

 ……一ヶ所だけ、赤い雨が地面を赤く汚していきました。すぐに雨を混じり、赤みは消えていきます。

 今度は穴の前まで引きずり、顔だけ出させました。

「全てを話せと言っただろう? まだまだ隠してるな」

〈ダメ男、みだりに傷付けてはいけないですよ。敵の神経を逆撫でることになります〉

「ひゅーっ、ひゅーっ、はぁっはぁっ……!」

「今度話さなかったら、この穴に顔から落とす……いいな?」

 身体全体を震わせながら頷きます。頷かせます。

「傭兵、ということは依頼主がいるはずだ。誰だ?」

「それはしらない、本当にしらない、そにょ早くたしけて……し、しぬっしぬ……」

「じゃあお前らが話していたオレについて、どこで知り得た?」

「い、いらいぬしがいらいぬしがっ……!」

 男はパニックを起こし、がくがくと怯え始めました。

「……分かった」

 ダメ男は(ひも)を取り出し、男の手首をきつく締め上げます。止血です。流れていた血がやがて止まりました。

 男を近くの木にもたれさせます。雨宿りのついでに、男に応急処置を施していきます。

「あんたはメッセンジャーだ。だから生かす。二度とオレに付きまとうなと伝えてくれ。そうでなければ痛い目に遭う……ってね。こんなふうに」

 ダメ男は男の“元”小指を(つま)みました。男は、

「たのむ、本当知らないんだ……! やめてぅれ……」

 まだ(しび)れているのか、もぞもぞと芋虫のように(うごめ)きます。

「まだきちんとした処置をすれば小指は繋がるかもしれないな。……けど、これは見せしめだ」

 まるで弱い者(いじ)めで優越感に浸っているような憎たらしい微笑み。男は一貫して同じことを言いました。

 ダメ男はなぜかペンチを取り出し、そこに(はさ)み、

「はい、さよなら」

 全力で握りました。

「うわああぁぁぁあぁっ! あっぅん?」

 取り乱した瞬間を狙って、後頭部を叩き、気絶させました。男はくたりと地面に転がります。

「……」

 ダメ男はいろいろな処置をしてあげました。……怪我以外にも。

 

 

「……ぃ、おい!」

「ん、あぁ」

「大丈夫か!」

 男は目を覚まします。他の仲間に保護されていました。

「尋問されたようだな、治療は済んでいるが……小指は……」

「……」

 まるで見せつけるかのように捨てられていました。まるでプレスマシンにかけられたかのように、ぺしゃんこでした。男はただ涙を流します。

 仲間は六人いました。四人が陣形を組んで守り、二人が小指を失った男の手当てをしています。

「標的はどうだった?」

「情報通りだった。ナイフはこれだ……」

 小指を失った男が渡したのは小型のナイフでした。

「情報通り、小さいナイフだが、切れ味がよく、痺れ薬が塗られていた。腕に直撃したら二十分は痺れて動けない」

「よくやった。これを化学班に鑑定させ、対抗薬を作らせよう」

「ヤツが……ヤツが“付きまとうな”と……」

「……大丈夫。任務は続行だ。こんな(むご)いことをするなら、こちらも手段を選ばん」

「……かたきを……」

 小指を失った男は満足げに笑うと、そのまま目を閉じました。

「……」

「……ゆっくり眠れ。仇はう、」

 その直後、その場は爆発しました。

 

 

〈“メッセンジャー”ですか〉

 雨音以外の轟音が一帯を震わせました。音の津波でダメ男の衣服があおられます。

〈いつになくえげつない戦略ですね。度を超えた尋問に人間爆弾、いつになくいつになく、余裕がないのですね。いつもの青臭い信条はどうしたのです?〉

 イヤホンから刺さる言葉。

「……殺意丸出しの相手に、手加減できるほどの余裕はない」

〈口だけだったのですね〉

「……」

 特に反応はありませんでした。

 いつになく、鬼気迫る雰囲気です。

 ダメ男は来た道を帰っていました。しかし、見えてくるのは森ばかりです。

「あの道に帰れないな」

〈砂利道ですね〉

「方角は合ってるか?」

〈この空間は磁気のような方角を狂わせる何かがあるみたいです。コンパスもダメみたいです。土地勘もない場所で、しかも天候も視界も最悪です。頼れるのはダメ男の野生の勘だけです〉

「……」

 ダメ男はさらに小一時間歩きました。しかし、辿り着きません。

 ダメ男は木陰に隠れて、休憩しました。

〈ただの迷子じゃないですね。迷いやすいように、目印となる木々や岩石を消しています〉

「どうやって……?」

〈少ない変化で十分です。特徴的な部分を削ぎ落としたり、似たような木々に仕立て上げたりすればいいのです。岩石なら破壊するだけです。輪形彷徨(りんけいほうこう)を仕向けています〉

 小刻みに肩で息をします。

〈方向感覚を取り戻しましょう〉

「……そうだな」

 ダメ男は猿のように鮮やかに木に登り、辺りを見渡しました。

「! 枯れ木が一つもない……」

 見えるところ全てが森林でした。くすんだ緑色一面です。

「こんなに広かったか? あそこに行く時はぼーっとしてたから、広さを確認してなかった……。いや、それでもこれは……」

〈確かディン様は、“墓地への道のりは地元の方でも迷いやすい”と言っていましたよね? それは墓地だけでなく、森林一帯全てだとしたら、抜け出すのは極めて困難ですよ〉

「それだけじゃない。連中に地の利があるってことにもなる。……さっきのヤツ、生かしとけばよかった」

〈長期戦でも短期戦でも不利は確定ですね。今まで、こんな劣悪なじょうきょ、〉

 ダメ男はいきなり、

「ぐぁ!」

 (うめ)き、

〈ダメ男!〉

 バランスを崩して頭から落ちました。ばきばきと枝がダメ男を打ち付けます。メキメキと折れていきました。

「がはっぁ」

 地面に衝突する前に、何とか体勢を変え、膝を深く曲げ、前転して着地しました。

「っ……あぅ……」

〈ダメ男! しっかりしてください! ダメ男、ダメ男っ!〉

「だ、大丈夫……っ、ぅあぁっ……ぐぅ……」

 だらだらと脂汗を流します。悲痛な面持ちで、何とか身を起こし、木に寄り掛かりました。ぐはっ、と咳き込むと、血が吐き出されます。

 痛みで身を(かが)めてしまいます。

〈内臓を傷めているじゃないですかっ! 大丈夫じゃないですよ!〉

「このくらいのピンチはいつものことだろ……」

 しかし、

「!」

 ダメ男は何かを感じました。

「っ」

 すぐさまその場を立ち去ります。

〈左肩を撃たれたのですね!〉

「はぁ、はぁ、はぁっ」

 数十分走り続け、渾身の力で木を登りました。ダメ男の後を追って、足音が通り過ぎていくのがかすかに聞こえます。そして闇に消えていきました。

 

 

 かなりの大木に登ったようで、幹が太いみたいです。人一人くらいが横になれるほどです。

 ダメ男は木に感謝して、リュックを置きました。途端に、疲労感で身体が急に重く感じます。全身を伝う雨と一緒に汗が流されていきます。

 ダメ男がジャケットと防弾ベストを脱ぐと、左肩は黒に赤みが増しています。

〈防弾ベストごとダメ男の肩を貫く威力、尋常ではありませんね〉

 ウェストポーチから黒い傘とタオルを数枚、ピンセット取り出しました。傘を上にある枝に上手く引っ掛け、雨よけします。

〈ダメ男、辛抱してください〉

 フーの言葉を無視して、タオルを(くわえ)えました。静かに、ゆっくりと呼吸を整えます。

 そして、

「ん、んんんううぅぅぅぅぅっ!」

 思い切り噛みしめながら、ピンセットを傷口に差し込みます。肉を(えぐ)る感触と(おぞま)しく(あふ)れる血がダメ男の全身の神経を突き刺します。身体に染みた雨と汗で濡れています。

 ダメ男は全身で息をしながら、ピンセットを引き抜きました。その先には赤黒い弾丸が挟まれています。それを膝に乗せます。リュックからさらに包帯と薬瓶、黒い袋を追加して、止血を試みます。

〈この弾丸、タイプが古いようですね〉

「……ぐあぁ……」

〈止血はできそうですか?〉

 苦痛で(うつ)ろな表情を見せながらも、にこりと笑いました。

 手馴れた手付きで、止血と消毒を繰り返します。薬をたっぷりと傷口に塗り、包帯を軽く巻いた後に、しっかりと巻いていきました。何とか止血はできたようです。しかし、左肩から痺れるような痛みが走ります。

「……やつら……まだ追ってくるかな……?」

〈間違いなく追ってくると思います〉

 そして綺麗に仕上げた後、針穴の開いた黒い袋で肩全体を覆います。

 ふぅ、と溜め息をつきました。

「……だるい……血が足らないな……」

 ウェストポーチから、携帯食料を取り出しました。もそもそと一箱(たい)らげます。寒さと疲労で手が震えていました。

〈長期戦でしょうか?〉

「分からない。でも、少なくとも三十人くらいはいるからな……。しんどい」

〈まさに、“痴漢死ね”ですね〉

「……」

〈どうしました?〉

「ツッコむべきなのか……う~ん……」

〈まさか、常習犯ですか〉

「違うから……。“四面楚歌”な。最近キワドイこと連発してないか?」

〈そうですか? そうでもないと思いますが〉

「自覚しろよ……ふぅ、大分楽になった。鎮痛剤が効いてきた」

〈またダメ男は怪しいクスリに手を出して、何回言えば分かるのですか〉

「大丈夫、安全な薬だから! しかも“また”ってどういうことだし!」

〈だ、ダメ男! 静かにしないと、〉

「! やば!」

「いたぞ!」

〈ツッコミ体質が(あだ)となりましたか〉

「なさけない……!」

 木の根元に敵が一人構えていました。傘を素早く取り、銃弾を避けながら、ナイフを投げ下ろします。

「あっ!」

 ダメ男は兵士の手元を狙い、銃を手放させました。そして、

「あぼ」

 開いた口にも投げ込みました。ダメ男はすぐに迫り、首元を切り裂きます。凄まじく血を流しながら、敵は倒れました。

「!」

 そして衣服を破り取りながら、すぐに近くの木に身を隠しました。取った服の一部でナイフを拭き取ります。

「おい、そこにいるんだろう? それだけ殺意湧いてりゃ、歯軋りもするだろうに」

 ダメ男の先にある大木の陰から、兵士が二人出てきました。自分の代わりに手鏡を(のぞ)かせます。

「殺してやる」

「絶対に殺してやる……!」

〈双子みたいですね〉

 確かに顔がそっくりでした。しかも、二人ともマシンガンを持っていました。ダメ男のいる木に照準を固く合わせました。

「兄貴の仇……ここで討つ!」

「ちょっと待て。オレを殺す前に聞きたいことがある」

「……?」

 左の兵士が銃口を下げました。

「話に乗るな!」

「お前らと依頼主は同じ組織の人間か?」

「違う。オレたちはただの傭兵で、個人の依頼だ」

「つまり、関係としては深くないわけか」

「もうお前は喋るな! 早く殺すぞ!」

「まったく、やっと来てくれたか」

 ダメ男が急に姿を現して、

「!」

 その視線に、二人は振り返ってみると、そこには、

「おぼっ」

 誰もいませんでした。しかし、隣を見ると、

「!」

 死体が一つ転がっていました。喉元にナイフが深く突き刺さっています。そして、

「動くな。叫べば同じ目に遭うぞ」

 ダメ男がナイフを突きつけていました。

「ひっ……!」

「お前はまだ新米のようだな。もう一人とは違って、まるで殺意がない」

「! わ、私は、」

「とにかく、ここから離れるから付いて来い。殺しはしないつもりだ」

〈“つもり”ですか〉

 二人を殺された新米の兵士は、なぜかダメ男の指示に素直に従ったのでした。

 

 

「何? ゾウがやられただと?」

〈ゾウから応答がありません〉

「了解。ゾウの代わりにハエを増援する。作戦は続行せよ」

〈了解。作戦に戻ります〉

「幸運を祈る……」

「ふふ……。随分と手こずってるようだが、大丈夫か?」

「元々こちらとしては長期戦を狙っています。もって二日でしょう。そのためにここを選んだのですから」

「これで四部隊、つまり十二人消されている。このペースじゃあ、こちらが二日も持たないぞ」

「まさか、ここまでの手練だったとは……。情報通りの男ではないようですな」

「奴の本性なのだよ、それが」

「……実は秘策があります」

「?」

「お伝えしませんでしたが、この作戦は言わば布石なのです」

「!」

「標的は緩い人海戦術と、それに反比例した人数の多さに長期戦だと思っているでしょう。そればかりに集中させ思い込ませるのです。最終作戦はこの一帯に毒ガスをばらまき、終局を迎えます」

「そ、それは……! ……そんなことしたら、貴様の仲間まで死ぬだろう!」

「四部隊を沈めたターゲットはもはや危険であり、捕獲は極めて困難です。ならば、手段は一つしか、」

「もういい、私が指揮を取る」

「は?」

「お前は……」

「!」

 銃声は消音器と雨音でかき消されました。何発も。そして何かのスイッチを押しました。

 

 

「女?」

「はい」

「女が依頼主かよ」

〈男女差別ですよ〉

「それより、ディンだとは思わなかったよ」

 ディンはダメ男の後ろを歩いています。時々、背後を見て、尾行されていないかを確認します。

「なぜ、オレに協力する? それに、オレはお前の兄弟を殺したんだぞ」

 ディンはくすりと笑いました。

「あれは兄弟でも何でもありませんよ」

「?」

「顔を整形したんですよ、あの二人は。私の顔に似せてね」

「……」

 ダメ男は(くちびる)をきゅっ、と噛み締めました。

「今回の作戦で部隊はメンバーの誰か一人に顔を似せてます。おかしいとは思っていましたが、やはり関係ありましたか。あなたと」

〈どういうことですか、ダメ男?〉

「さあね」

「でも、クライエントがだれか想像出来るんでしょう? いえ、“想像させた”と言うべきでしょうか?」

〈どういうことなのですか?〉

 泥沼にはまらないように、足元を確認しながら歩きます。

「……話が()れたな。なぜ協力する?」

 ディンはダメ男に何かを手渡しました。

「私たちの部隊だけに与えられた極秘作戦に、賛成できなかったからです……」

「防毒マスク?」

〈まさか、どく、〉

「ガスを使用し、味方もろとも殲滅(せんめつ)する作戦です」

「!」

 ディンはダメ男の先を歩いていきます。

 防毒マスクはなぜか捨てていきました。

「今回の任務はあなたの捕縛ですが、いくらなんでも犠牲が多すぎます。しかし、隊長は強引に極秘作戦を私たちに(たく)したんです」

「……」

「だから、あなたにこうしてほしいんです」

 ディンはダメ男にナイフを準備させ、それを自分の背中に当てがうように指示しました。

「私はあなたに脅されたかのように振る舞えば、違和感はないはず」

「……分かった。だが、万が一の時には、」

「それはあなたが一番分かっているでしょう?」

「……覚悟は受け取った」

「では、行きましょうか」

 ついっ、とダメ男は指でディンを押して、歩かせます。最初と違い、二人の距離はナイフ一本分くらいですが、ディンは再び案内役となりました。

 ぐしょぐしょになった獣道は雨で飛沫をあげ、はねています。そこを通らずに木の根を渡り歩き、暗い森の中を進んでいきました。二人の衣服は最早びっしょりで、身体をとことん冷やし、疲労感を麻痺させていました。特にダメ男は足の指先から突き上がる痛みと身体の中心から走り回る激痛に、痛み以外の感覚を失いかけていました。

〈大丈夫ですか? あの時の怪我が、〉

「心配すんな。……いつものことだろ」

 ダメ男は(ささや)きました。

「大丈夫ですか? ペースが落ちてますけど、休みます?」

 ダメ男は濡れた頭をがしゃがしゃと掻き回しました。

「心配性なやつが多いな、ったく……。ほら、早く歩かないとナイフが刺さるぞ」

「?」

〈ダメ男が強がりなのですよ〉

 そうして歩いていると、次第に、

「雨、弱くなってきましたね」

「足音を消したいこちらとしてはっ……嬉しくはないな」

「もうすぐそこですよ。日も差してきましたね」

「一日が回ったってことか?」

「そうみたいですね」

 森がぼうっと仄かに明るくなってきました。そして、見たことがある風景に差し掛かりました。

「……あれ? ここって……」

「そう、本部はここにあるんですよ」

「敵に全然遭遇しなかったな……」

「抜け道を通りましたからね」

「……それは何よりだけど、まさか、敵の巣の中で休んでいたとはな。ってか、お前がそう誘導したのか」

「あなたは用心深そうで、わりと騙されやすいみたいなようですね」

〈間抜けでお人好しだから大馬鹿で仕方ないのです〉

 二人して、くすりと笑いました。

 ダメ男とディンは警戒心を解くことなく目の前のことに集中し、とある民家に素早く侵入しました。入ると、玄関から一本道の廊下を通って、居間に達するように見えます。ダメ男はたまたま玄関にかけてあった雑巾(ぞうきん)で、靴底を()いて泥を落としました。

 ダメ男がディンに合図して先に歩かせますが、特にないようで、すたすたと歩いて行きました。しかも、勝手に奥まで入ってしまいました。

「たいちょおおぉぉっ!」

「……」

 どさりと、ディンは尻餅(しりもち)をついていました。その顔から良からぬ雰囲気しか感じられませんでした。ところが、ダメ男は驚く素振りも全く見せずに、廊下に入った瞬間、ナイフを、

「!」

 ゆっくり下から振り上げました。

〈これはまたなんとも〉

「やっぱりな……」

 その手は急に止まりました。いや、止められました。高さはダメ男の(すね)の半分くらいです。

 ダメ男はポーチからタオルを取り出して頭を(ぬぐ)いました。それを丸めて廊下の方へ、高さは同じくくらいで投げると、

〈あらあらあらあらあら〉

 通過するごとにすぱすぱと、何等分かに切断されていきました。

「古典的だな……」

 ダメ男は急ぎながらも廊下に張られた“鋼鉄線”を切っていきます。ディンはくすり、とまた笑いました。

「オレが引っ掛かると思った、……!」

 すると、死体が一つ転がっていました。

「こっちはマジかよっ!」

「!」

 頭と(おぼ)しき部位がぐちゃぐちゃに散乱しています。中身が露にされ、硬質の白い物体とゼリー状の白い物体が破損しています。そこから血が(おびただ)しく溢れ返っています。近くにあるテーブルの脚を赤く染色していました。

 全く動いていませんでした。

〈その死体は男です! 女がいません!〉

「! “女”ってのはどこっ、」

「後ですよ」

 そこで、ダメ男の意識がなくなりました。

 

 

「ご苦労様。死体は放置して」

「残りの部隊はどうしました?」

「起爆して始末した」

「なんとまぁ惨い」

 ディンがダメ男の耳からイヤホンと首飾りを外し、女に渡しました。その後、身体を抱えて隣の部屋に運びます。

「あなたが“フー”だな?」

 女が呼びかける対象物は、首飾りの水色の四角い物体でした。

「はい」

 “声”は素直に答えました。これが“フー”のようです。

「あなた、いい声を持っているな。私のように野太いものではない。年齢的には、」

「それ以上は言わないでください。詮索(せんさく)されたくありません」

「……」

 女はテーブルにフーを乗せ、自分も座りました。

「……十五歳くらいとみた」

「っ」

 にこりと女は微笑みました、一方のフーは珍しく舌打ちをします。

「こんなお嬢さんがどういう経緯であのような男と知り合えたか分からんが……、」

 女は椅子を蹴り飛ばしました。無表情です。

「あなたは(やつ)(だま)されている。今すぐ縁を切るべきだ」

「それはこちらが決めることです。それよりも、あなたはなぜダメ男を狙うのです?」

「……」

 女は腰にかけているホルスターから、銃を抜き取りました。

「あの男は……私の弟たちを殺した……! その復讐を果たすために、私の心臓は動いているのだ……」

 フーは言い返せませんでした。何も言えなくなって、話題を逸らしにかかります。

「ダメ男をどうするつもりですか?」

「もちろん殺す。だが、ただじゃ殺さない……! 嬲り殺しにしてやる!」

 女はフーを鷲掴(わしづか)みにして、隣の部屋に向かいました。そこには、椅子に座っているディンと、ベッドに縛り付けられたダメ男がいます。ダメ男はまだ意識が戻っていません。

「毒ガスもセットしましたよ」

「恩に着る」

「! まさか、一連の企てはあなた方がっ?」

「そう。私が仕掛けたものだ。あの軟弱部隊に私の部下を紛れ込ませ、最終的に全てを毒殺する。何も残さないように……」

「私は彼女の部下にすぎません。極秘作戦も彼女からですし、隊長に提案したのも私です」

「で、では全てが、」

「そう、ダメ男さんをハメるための芝居(しばい)と裏工作でした」

 女はダメ男に銃を突きつけました。

「もう起きているんだろう?」

「……」

 銃口を左肩に押し付け、引き金を、

「ぐああぁぁぁぁ!」

 引きました。ぱしゅっ、と気の抜けた音しかしません。しかし、撃ち抜いたところから、じわじわと血が滲んできています。白かったシーツが赤く広がっています。

 女はディンに銃を渡し、そして別の銃を受け取りました。その銃は、円筒状の黒いバレルが二つくっついていて、銃口が普通の銃より大きいです。ひらがなの“し”のような形をしていました。グリップには黒い毛玉と貝殻のキーホルダーが付いています。

 フーはそれを見て、戦慄(せんりつ)が走りました。

「止めてください!」

「フーさん、黙らないと壊しますよ?」

「っ」

 ディンはにこにこして、大工が使いそうなトンカチを振り上げています。

「やってみればいいです。絶対に壊れませんからっ」

「? では気兼ねなく」

 トンカチを振り下ろし、

「やめろ」

 女が止めました。

「彼女は関係ない。危害を加えるな」

「……了解です」

 なぜか素直に従います。そしてにやにやしています。

「……っ、はぁ……うぅあ……」

 ダメ男は起こされました。血と一緒にべたつく汗も流しながら、朧気(おぼろげ)な目付きで女を見ました。

「あ、あんたは……」

「ほぉ、覚えていたか。まぁたとえ、お前が忘れていても、私は絶対に忘れない!」

 女は二十代後半くらいで黒い長髪を後ろで結んでいます。左目尻に泣き黒子があり、縁が太くて黒いメガネをかけていました。雰囲気がキツく厳格そうな感じの色白なお姉さんでした。似合わないごつい軍服を着ています。

 ダメ男を思い切り(なぐ)りました。砕いたような鈍い音、ダメ男は咳こみました。どろりとした吐血です。(うっす)らと涙を浮かべています。

 次に銃口をダメ男の左肩にぐりぐりと押し付けます。歯を食い縛って脂汗を垂れ流しています。苦悶の表情と、恐怖による身体の震えが止まりません。

(あね)さん、暇なんですけど?」

「外で……見張っててくれ」

「分かりました。……あぁ、それと、彼……身体傷めているみたいですよ」

 ディンはその場からささっと出て行きました。

「よくも私の弟を殺したな……」

「もう止めてください、お願いします、お願いしますから、」

「私の弟も殺される直前は、きっとそう命乞いをしていただろう。でも、この男は無慈悲にも身体を引き裂き、頭を撃ち抜いて殺したのだ! 許すものか、容赦するものかぁぁっ!」

 女はダメ男の左肩を何発も撃ちました。恐ろしいほどの重低音とフーの悲痛な叫び声、そして、

「あああぁぁっぐあぁぁぁっ、ヴぁ! あぁぁああっ!」

 何かを引きちぎられるように泣き叫ぶダメ男の声。森中に伝播(でんぱ)していきました。

 ジャケット、シャツ、防弾ベスト、応急処置の包帯、そしてダメ男の左肩。血や肉片が飛び散り()ぜています。肩甲骨や鎖骨、腕の骨が砕け散って、血管や神経、筋肉がぐちゃぐちゃに引きちぎれられていました。撃ち抜いたのではなく、消し飛ばしました。

 どす黒い銃痕と溢れ出す血液。銃撃で焼けたのか、異様な臭いも立ち込めています。火薬と肉の中身の臭い。

 左肩から電撃が体中に走るような激痛に(おそ)われました。そのせいで全身から脂汗がさらに溢れ、身体に溜まっていた体液や排泄物全てが出されてしまいました。最後には声が(かす)れすぎて空気が通り抜ける音しか出ません。

 意識を繋ぎ留めるだけで精一杯でした。

「……ぁ……ぁ……」

「ふんっ。痛みで小便糞便垂らしても、意識はぎりぎりあるようだな」

「はぁ……はっああぁ……!」

「臭いものだな……ヒトの汚物というのは……」

「……」

「貴様のイチモツもショットガンで吹き飛ばしてやろうか? うん?」

 女はダメ男のものに銃口を向けました。ふるふるからガタガタと身震いが激しくなります。ダメ男は、

「え、ぅえぇ! おふっ!」

 嘔吐(おうと)して、左側に胃の内容物を吐き出しました。胃液に血が混じっていて、ベッドのシーツを淡い橙色で汚しました。

「あっはっはっはっは! 口からも臭いものを出すか。怖いのか? 使い道などないだろう? ククク……」

「……ぅぇ……」

 女はダメ男の胸を足で踏んづけました。

「っふ! ……」

 枝が(きし)むような感触がして、ダメ男は口から血を流しました。

「なぜ殺した! なぜ弟を殺した!」

 ダメ男の眼からみるみる生気が薄れていきます。顔に血の気がありません。いや、まるでもう死んでいるようです。

 風が抜けるような呼吸。もう長くありません。

「こ、ころせよ」

「なに?」

「っ」

 ぷっ、とダメ男は赤い(つば)を女に吐き捨てました。頬に付いて、どろりと伝います。

「き、きさまあぁぁぁぁぁ!」

 女はさらにダメ男を殴りました。その度に吐血し、折れた歯を吐き出し、骨を砕かれ、意識を何回も分断されます。そして、

「はぁ、はぁ、ど、どうだ……!」

「……」

 動かなくなりました。

「だ、ダメ男? ダメ男……! だめおっ!」

「黙れ。不覚にも、息の根を止めてしまった。……どちらにしても殺すつもりだっ、……ん?」

 ぼそぼそと何か呻いています。口元に耳を寄ります。

「たのむ……ふぅには……ふぅにはみせないでくれ……しぬと、こ……ふぅには……みせっないで……」

「!」

 意識がありませんでした。しかし意思表示はしっかりと残されています。

「…………せめてもの情けだ。彼女は私の復讐の対象外だからな……」

 テーブルにあるフーを持ってきます。右手に置かれ、震える手付きでフーを操作し始めます。

「やめてください! ダメ男!」

 かぱっ、と開き、手元のボタンを押し続けます。

「いや、いやだダメ男、×××、いや、いやっいやっ! 電源オフを拒否しますっ! ボタン操作をロックしましたっ! ダメ男! やめてください!」

 すると、フーを閉じてベッドに置きました。背面にあるフタを、ベッドに押し付けるようにスライドします。

「ま、まさか電池パックを、だめ、だめですっ!」

 ぱかっ、と中身を(さら)け出します。薄い紐が付いた四角い電池が収納されていました。その紐を引っ張ります。

「やめてください! だめっだめえぇぇぇぇ、」

 ぷつっ、とフーの声が遮断されました。

 それを外したところで、ぐったりと動かなくなりました。

 一方、その脇で弾を装填している女。先ほどのショットガンです。

「弟を殺したことを悔いろ」

 ダメ男の眼前に暗い穴が二つ。すぅっと意識が遠のいていき、真っ暗になった瞬間、鈍く軽い銃声が二つ。

 

 

 女は外に出ました。止んでいた雨が自然の屋根を伝い、集落の外へ逃げていきます。ぽつぽつと逃げ切れなかった分が優しく降っています。ふとして見上げると、ぴしりと額に落ちました。額からその横へ流れ、いつの間にか(ほほ)に付いていた数滴の返り血を通ります。

 それを無視して歩いていくと、ディンが立っていました。女は毒ガスの入ったポッドを手渡しました。

「決着、つけました?」

「……」

 ディンは女の頬についた血を拭き取ります。ありがとう、と呟きました。

(こぶし)……折れていますね」

「別に問題は無い」

「嘘つかないでくださいよ。あんなド派手な音だったのに、何もないわけないじゃないですか。ほら、見せてください」

 ディンは無理やり女の両手を掴みました。手の甲が真っ赤に()れあがっています。持っていた女のバッグからアイスを取り出し、手の甲を冷やします。

 女は震えていました。

「あの男が真実を語り、そして姐さんが“平和的”に終決する。これが私の望みでしたが、ただの理想幻想にすぎないようですねぇ」

「……何だか(むな)しいな」

「結局、姐さんがしたことは、大切な人を奪われた人間を生み出しただけです。かつての姐さんのように……」

「!」

 ディンはぐっと女を抱き寄せました。

「今度は姐さんに憎しみが向けられることになるんですよ? かつての姐さんのように……」

「私はもう、この世に未練はない……」

「そうして、姐さんを殺したやつを、今度は私が殺す。もう、憎しみの連鎖が完成してしまったんです」

「……それでも構わない。私の生きる糧はないのだから」

 女はすぅっ、と涙を一粒流しました。

 

 

 



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第七話:もりのなかで -Call-

 森の中。木々が密になって生え、光を(さえぎ)っている。そのせいで不気味な薄暗さを演出していた。

 唯一の道は草をはけただけの無造作な道。石ころや土の盛り上がり、木の根っこのせいで足場が悪い。泥沼化してないのが幸いだ。

 そこを一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。荷台にはけっこうな量の(かばん)が積んであった。速さを抑えているのに、悪路(あくろ)のためにがたがたと揺れている。明るく照らされたライトが地面に当てられていた。

 運転手は体つきが大きい方ではなく細身だ。黒いジャケットを着て飛行帽のような帽子をかぶり、ゴーグルを付けていた。太いベルトで腰にくくり付けたポーチをいくつかぶら下げており、背中にはホルスターが装着されていて、自動作動式のパースエイダー(注・パースエイダーは銃器。この場合は拳銃)が収められている。

 右の太股(ふともも)にもホルスターがあり、こちらにはリボルバータイプのパースエイダーが入っていた。

「相変わらずキノは食欲盛んだよね。二つ返事なのは予想通りだけど」

 モトラドが“キノ”と呼ぶ運転手は、

「いたよエルメス」

 一旦停車した。

 帽子を外し、ゴーグルを取った。十代半ばだろうか、若い。大きな目、精悍(せいかん)な顔つきをしていた。

 停車したところは木々が囲むようにしてできた小さな空間だった。そこにいた。

「死んでるね」

 “エルメス”と呼ばれるモトラドはぽつりと言う。

 目の前には穴ぼこだらけの死体と荷物が放置されていた。しかも野犬が食い散らかしていて“肉塊”と化している。しかし、死後硬直のためか、腕は自分の首を両手で締め上げるように固定されている。中身が露出しているがズタズタにされ、中に流れる様々な液体が混ざり合い、漏出(ろうしゅつ)する。赤みが強かった。しかも動物性油の酷い臭いをまき散らしている。

 キノは野犬をパースエイダーで追い払った。

 近付いて確認する。しかしキノは、

「でも一人しかいない」

 淡々としていた。

 周りを少しうろつくが、誰もいなかった。

「荷物もあるし、おおかた食べ物の奪い合いって感じだね」

「……あっちに行ったみたいだ」

「じゃあ行こうよ」

 キノはエルメスに乗って、走っていった。

 

 

 満点の青空に太陽が浮かんでいる。ピカピカと元気良く光を放っていた。

 森を抜けて草原に出た。辺り一面には木々はなく、背丈の低い草が風の向くままに波打っている。

 そこを二分するように真ん中を道が裂いている。コンクリートで舗装された道路で、車二台分の幅がある。完璧とは言えないが凹凸(おうとつ)が少なく、綺麗な道路だった。

「いい道だ」

「これくらいきれいなら安心だね、キノ」

「そうだね。思い切り飛ばせる」

 豪快なエンジン音を(とどろ)かせて突き進む。

「これじゃあ暴走族って言われても言い返せないよ」

「好きに言わせればいい。ボクは進んでるだけだしね」

 すると、遠くの方に何かが見えた。豆粒ほどで肉眼では正確に見えない。

 キノはまたしても停車し、双眼鏡を取り出した。

「何が見える?」

「……群集? テントがいくつかある」

「それはたぶん遊牧民だよ」

「そうなんだ。……周りを見ても見当たらないし……いるかもね」

 ポケットから何かを取り出した。コンパスと箱型の機械だった。その機械はモニターが付いており、ピコンピコンと黒い点が点滅している。コンパスと交互に見直していた。

「どう?」

「間違いない。距離的にも合ってる」

「どうするの?」

「普通に行くよ」

 キノはエルメスに(またが)り、爆音を走らせた。

 

 

 そこは遊牧民の村だった。テントが置かれ、山羊(やぎ)やら牛やらが放たれている。人々はわいわいと談笑していた。

 キノはエルメスを押してそこへ入った。すぐに人が集まった。長老らしき老人がキノに話しかける。

「こんにちは旅人さん。こんな所ですが、ごゆるりとしてください」

「ありがとうございます」

「休まれるのでしたら、あちらのテントをお使いください。空けておりますので」

「ありがとね」

 早速、そちらのテントへ向かった。中は意外に涼しく、休むには十分な広さだった。

 しかし誰もいない。

「少し散歩しようか」

「そうだね」

 エルメスを押して、村を回った。と言ってもテントがいくつかだけの、言わばスペースに過ぎないので、さほどかからなかった。

「おかしいな。ここのはずなんだけど……」

「テントの裏側は?」

「……あ、そうか」

 ということで、テントの周りも探した。すると、

「お」

 いた。

「……」

 一人の男が眠っていた。テントにもたれて胡座(あぐら)で。

「すぅ……すぅ……」

 黒いセーターにダークブルーのジーンズを着て、薄汚れた黒いスニーカーを履いている。セーターの(そで)(てのひら)を半分隠し、(すそ)はジーンズのポケットをだらりと覆う。前面にあるファスナーは胸元まで上げられ、そこに四角い物体のネックレスが見えていた。水色とエメラルドグリーンを混ぜたような色をしている。

 脇にはぶっくりと太った黒いリュックが置いてあった。なぜか黒い傘が刺さっている。

 キノは目の前にして考えていた。

「……」

 そして男に近付き、意を決する。

 右の太股に手を、

「旅人様」

「!」

 キノは咄嗟(とっさ)に離れた。既にパースエイダーは抜かれ、男に向けている。しっかりと両手で握っていた。

「申し訳ありません。驚かそうとしたわけではありませんので、どうか気を悪くしないでください」

 “女の声”がどこからか聞こえる。落ち着きのある妙齢の女の声だ。

「今、この男はようやく眠れたところなのです。もし“用事”があるのでしたら、起きてからにしていただけないでしょうか?」

「……」

 キノはパースエイダーをしまった。そして、

「あなたはいったい誰なんですか?」

 問いかけた。自然に。

「私の名前は“フー”。こちらの男は“ダメ男”です」

「フーさんにダメ男さん……でも、フーさんは一体どこに……?」

「もしかして、フーさんはぼくと同じなんじゃない?」

 エルメスが横から割って入った。

「どういうことだいエルメス?」

「そのまんまさ。モトラドがしゃべるように、ダメ男さんの、その首飾りがしゃべってるんだよ」

「……ん……」

 ぴくりと(まゆ)が動く。

「んふぅ……」

「?」

「んーぅ……!」

 “ダメ男”と呼ばれた男は両手を挙げて背筋を伸ばした。

「ふああぁ……んぅ?」

 目を覚ました。

 ダメ男はキョロキョロと見回す。

「なんかうるさいと思ったら……だれ?」

「ボクはキノ。こっちは相棒のエルメスです」

「はじめましてダメ男さん」

「……どうもこんちわ」

 ぺこりと会釈した。そして立ち上がった。キノの目線がわずかに上向く。細身ながらも筋肉質な体格だった。

 キノとエルメスに近づいた。

「これ……バイク?」

「一応モトラドってことにしといてね」

「へぇ……“オ”トラドか、初めて聞いた」

「“モ”トラド! 間違えないでよ!」

「ダメ男の知能は動物以下なので、すみません」

「ぶっとばすぞ」

「キノ様に撃ち殺されると思いますけどね」

「……ぐ……たえろ、耐えるんだ……」

「……」

 リアクションに困る。

 ダメ男がキノに向く。

「あのさ、エルメスとやらに乗ってみてもいいか?」

「え?」

 キノはきょとんとした。

「すみませんが、おことわりしま、」

「えーっと、これがアクセル? ここブレーキで……マニュアル操作なのかこれ?」

 いつの間にか乗っていた。

 しかもエンジンがかかった。

「キノっ! なにぼーっとしてんのさ! はやく助けてよ!」

「え? あ!」

 パースエイダーを抜いた時には、

「十分くらい貸してくれいっ! いやっほう!」

「うわあああああぁぁ!」

 遅かった。ダメ男はエルメスを乗り回しに行ってしまった。

 その代わりに、

「キノ様、本当に申し訳ありません。ダメ男がゴミクズなばかりに、すみません」

「! いつの間に……」

 キノの首にフーが巻かれていた。フーは黒い紐で繋がれている。

 再びパースエイダーをしまった。

「本当にごめんなさいです」

「いいですよ、もう。ああなっては仕方がない。壊されないことを祈るのみです」

「本当にごめんなさい」

「……ところで、お伺いしたいことがあります」

「何でしょう?」

 キノはフーを手にし、撫でたり(こす)ったりして調べてみた。ツルツルしていて、蝶番のように開く。中には十数個のボタンとモニターが付いていた。しかしキノがいくら操作しても作動しない。モニターも黒いままだ。

「ここに来る途中で森を抜けてきたんですが、男性の死体がありました」

「はい」

「ダメ男さんが始末したのですか?」

「違います」

 普通に答えた。

「では、誰が始末したのか分かりますか?」

「分かりませんね。こちらもあの森を抜けてきましたが、ダメ男が来たときには既に絶命していましたし」

「いつ頃で、どのように亡くなっていたか分かりますか?」

「一週間ほど前でしょうか。どのような状態かはキノ様が見たままと同じだと思いますよ」

「……そうですか」

「気になりましたか?」

「それはね。森の中で死体を見かければ、不穏なことがあったと思いますから」

「ですよね」

 キノは眺めた。暴走していたはずのダメ男が、のほほんと運転していた。心なしか操縦が上手い気がする。

「彼、上手ですね。何か乗り物で旅をしてるんですか?」

「いえ。ダメ男は徒歩ですよ」

「徒歩……ですか。疲れるし、距離も稼げないと思うんですが」

「キノ様もダメ男のあの顔を見ましたよね?」

「はい。興奮気味でしたね」

「ダメ男は乗り物、特にモトラドに乗ると暴走する“クセ”があるのです。本人の気質によるものですけど。なので乗り物を使わせず、徒歩で旅をさせているのです」

「面白い人ですね」

 

 

「けっこう乗りやすいもんだなぁ」

「まったく、びっくりしたよ! 死ぬかと思った!」

「悪い悪い。でももう慣れたから安心してくれ」

「たしかに! ダメ男さんは何か乗ってたの?」

「自転車をちょっとだけな」

「へぇー。だとしたら、キノよりも運転のセンスはあるね」

「まじか。けっこう嬉しいな。オレもモトラド買おっかなぁ」

「もしかして徒歩なの?」

「あぁ、そうだよ」

「一日中歩いて旅してるんだ。疲れない?」

「慣れると楽だよ。維持費もないし故障の心配もない」

「人体に維持費がかかるし故障の心配もあるけどね」

「まあそうだなっ」

 ダメ男は笑った。

「んで、どうしてここに来たんだ?」

「ぼくたちはいろんな国を旅してるんだ」

「ほお~。オレらと同じだな。じゃあさ、絶景とか好きか?」

「うーん、好きなほうじゃないかな」

「したらさ、逆方向なんだけど……ほら、ずっと向こう側に山が見えるじゃん」

「うん。あるね」

「そこの湖見てきたほうがいいよ。めっちゃ感動するからっ」

「どんな湖なの」

「あぁ、まるで鏡のように景色を映すんだよ」

「なにそれ!」

「そこの湖は元が塩原なんだよ。雨季になるとその塩原に雨水がたまって、湖のようなでかい水たまりができるんだ。で、今がちょうど雨季なんだ」

「へぇー! それは見てみたいね」

「行ってみたらいい。オレのオススメだ!」

 

 

 もう夕方になっていた。いや、夕方を過ぎて夜になろうとしていた。星が光りだし、冷えた風が心地良い。

 ちなみに、ダメ男の約束は何時間もオーバーしていた。

「いやーごめん! このステッカーあげるから許してくれっ」

「いらないからっ。でもたのしかったよ」

 ダメ男は無事にエルメスを返した。若干ひやひやしていたのか、キノは安堵のため息を漏らす。

「エルメス、どうだった?」

「キノより上手かったね」

「なら、ダメ男さんと一緒に旅をするかい?」

「ヤキモチかい、キノ」

「いや、別にそういうわけじゃ……」

「どっちにしても、それは遠慮するよ。いつ壊されるかたまったもんじゃない」

「そう」

 こつこつとエルメスを小突く。

「フーはどうだったよ?」

「そうですね。キノ様は素晴らしい方です」

「そうかそうか。若いねーちゃんなのに、すごいよな」

「ということでダメ男、お達者で」

「キノと一緒に行くんかいっ」

「ダメ男と一緒にいては、いつ壊されるか心配ですから」

「どんだけオレクラッシャーなの?」

「バカでアホでドジで間抜けで生ゴミで核廃棄物でクズで性格破綻者なダメ男なんかより楽しそうですしね」

 とか言いながらも、しっかりとダメ男の首にかけられるフー。

「さて、そろそろ休もうかね」

「はい。キノ様、エルメス様、ありがとうございました」

「また明日、お会いしましょう」

「おやすみ、ダメ男さんにフーさん」

 ダメ男たちはテントに戻っていった。キノたちとは違うテントだ。

 キノたちもテントに戻った。

「手強いね」

「そう? 能天気なおバカさんって感じだったけど」

 かちゃかちゃと何かの準備に取り掛かっている。

「ダメ男さんはともかく、相棒のフーさんが厄介(やっかい)だ」

「そうなの?」

「あの形状なのに視界は三百六十度。磁気探知や熱探知も可能だし暗視機能までついてるらしい」

「もはや兵器だね」

「しかも天気予報やトランシーバーの役目まであるし、娯楽もあるらしい」

「すごいね」

「……」

「キノ? どうしたの?」

「ああいうのってどこかで売ってないかな……」

 

 

 一方のダメ男はというと。

「エルメスって乗り心地よかったよ! いや~、オレもモトラドほしい~!」

「絶対に入手させませんからね」

「いいじゃんか。旅がぐっと楽になるしよ」

「利便性と同時に死のリスクがつきまとうのですよ? キノ様ほどの運転手ならいいのですが、ダメ男は早死にするタイプですから絶対に駄目です」

「なんだ? 嫉妬してるのか?」

「何を言ってるのか分かりませんが、してるわけないじゃないですかっ」

「分かってんじゃん」

「と、とにかく、ダメ男は駄目です!」

「分かったよ。……ところでフーはどうだった?」

「キノ様は(かしこ)くて素直でとても合理的で、実に素晴らしい人柄でしたよ。見ていて安心します」

「めっちゃ強そうだしな。なんだよあの拳銃、怖くてビビるわ」

「それと背後にももう一丁拳銃、つまりパースエイダーを隠していました。他にも身体の至る所に武器を隠しているようです。その量はおそらくダメ男を(はる)かに超えると推測します」

「まじかよ……。やっぱ女の子だから装備も多いんだなぁ……」

「唯一の勝算は近接戦闘です。当てになりませんけど」

「ちょっと待て。なんでオレがキノと戦う前提になってるんだ?」

「キノ様はあなたを探しに来たのですよ」

「へあっ? なんで? オレ、あんな娘に復讐されるようなことは……してないわけじゃないけど……」

「ダメ男が眠っているところを襲おうとしていたからです。案の定、私の存在に気付けなかったようでした」

「えぇぇぇっ? まじか……今どきの女の子は大胆なんだな。寝込みを襲うなんて、しかも白昼堂々と……。大人しそうな顔して……」

「そうじゃなくて、あなたを殺そうとしたってことです!」

「え? あぁそういうことか」

「どこまでも能天気ですねっ! まったくっ」

「あははは……」

「それで、どうするのですか? 相手は殺す気満々ですよ。かと言って勝てる相手でもないですし」

「逃げる」

「エルメス様を相手にですか?」

「……何キロくらい出ると思う?」

「あなたが乗ったのですから、そちらの方がよく分かっているでしょうっ?」

「うーん……百キロオーバーだな」

「全く歯が立ちませんね」

「じゃあ寝るか。明日に備えて」

「本当に暢気(のんき)なものです」

 暢気に眠りに入った。

 

 

 朝。キノは目覚めるとともに訓練を始めた。右の太股に装備されたパースエイダー『カノン』と背後に隠してある『森の人』の抜き打ち練習だ。ほどほどにこなした後、入念に整備した。

 水を浸したタオルで身体を拭い、いつもの服装に着替えた。

 村人が用意してくれた栄養満点の料理をがつがつと食べる。

「おはようキノ」

「おはよう。珍しく自分で起きたねエルメス」

「たまにはね。“傘置きで三本も盗む”っていうし」

「……えっと、“早起きは三文の得”?」

「そうそれ!」

「……とにかく、食べたら出発するよ」

「いつ食べ終わるのかね」

 キノはむしゃむしゃと食べ続ける。

 

 

 朝食を終えて、早速ダメ男のいるテントへ向かった。

「!」

 しかし、

「あれ? いないね」

 ダメ男の姿がなかった。しかし、何かが落ちている。

「なんだこれ?」

「髪の毛じゃない?」

 黒い毛だった。さらさらとしていて、男にしては長い。

 すぐにテントを出て、近くにいた村人に声をかけた。

「あの、ここに泊まっていた旅人を知りませんか?」

「そこの人? ……あぁ、日が出る前に馬借りて出かけたよ」

「どちらへ行きましたか?」

「確か……ほら、あそこだよ」

 示した方向は森だった。

「分かりました。ありがとうございます」

「旅人さんも出かけるのかい?」

「そうだよ。あっちの方に絶景があるって教えてくれたんだ」

「そうかい。気を付けてね」

「お世話になりました」

 キノはエルメスに乗り、駆け抜けていった。

 

 

「バレてたんだね、きっと」

「フーさんだ。ボクがパースエイダーを抜こうとしたところを見てたんだ」

「フーさんは元々起きてたってことだね」

「あの能天気な人柄で気付けなかった……うかつだった。もっと早く気付くべきだった」

「本当にフーさんは脅威だね。逆に言えば、フーさんを仕留めればこっちのもんだ」

「フーさんを仕留めるくらいなら、ダメ男さんを直接撃つよ」

「なんで?」

「……そっちの方が早いからね」

「今の間はなに? まさか、良からぬことを考えてないだろうねキノ?」

「まさか。早く終わらせてゆっくりしたいだけだよエルメス」

「それならいいんだけど」

「嫉妬かい?」

「まさか。アレから発する電磁波が少し気持ち悪いだけだよ」

「それならいいんだけど」

 

 

 目の前に巨大な森が迫る。まるで異次元を目の前にしたかのような、薄気味悪さを(かも)しだしていた。光はほどほどに差し込んでいるものの、夜のように中が暗い。

 キノはエルメスを停めて、押して進んだ。複雑に絡まった木々の間を抜けていく。晴れているはずなのに暗い。

「どうして降りるのさ?」

「ボクから逃げられないことは分かってる。とすれば迎え撃つしかない」

「その場所はここってわけだね」

「そう。……ダメ男さん、聞こえますかっ?」

 どこかに向かって叫んだ。

「大人しく投降していただければ、ボクはあなたを殺しはしません! ですが、抵抗するようでしたら容赦しませんので、覚悟してください!」

「とか言いながら痛めつけるくせに」

 ぽつりと(つぶや)いた。

「行ってくる」

「いってらっさい」

 エルメスから離れ、一人森の中へ消えた。

「るーるーらー」

 のほほんとした鼻歌が聞こえてくる。

 

 

 軽い足取りだった。周囲をほどほどに集中し、神経を研ぎ澄ます。一瞬で仕留めるためなのか、右手が『カノン』に触れたままだ。

 足に何かが引っ掛かった。すると、目の前から巨大な丸太が押し寄せてきた。それを軽やかに避けると、今度はそちらの方から何十本ものナイフが飛んでくる。それらも傷一つつくことなく叩き落とすと、キノの目の前に四角い何かが落ちてきた。閃光弾だ。

 爆発する直前で木の陰に隠れた。隠れる動作が見えないくらいに俊敏(しゅんびん)だった。

 額が少し汗ばんでいる。

「エルメスからさほど離れてないのに、このブービートラップの量……」

 目の前にあからさまな落とし穴があった。綺麗な円で“隙間”が(ふち)どられている。足元を見つつ迂回(うかい)していくと、顔に糸が引っかかった。すぐに木の陰に隠れる。しかし何も起こらなかった。陰から顔を(のぞ)かせるが、そちらには誰もいない。

 キノが、

「っ」

 『カノン』を抜いた。しかも振り向かずに、背後に向けて。

「やりますね」

 銃口は、

「見た目以上にやり手のようですね、ダメ男さん」

 ダメ男の額にぴったりと付いていた。

「オレもパースエイダー買っとくべきだったかな」

 キノはゆっくり振り向く。ダメ男の表情を冷静な面持ちで観察した。

「でも仕切り直しだ」

 キノの首に、ダメ男のナイフが触れていた。切れてはいないが、少しでも力を入れれば輪切りになるだろう。

 ナイフを握る右手に力が入る。じっとりと手汗が()み出る。

「どっかの誰かさんがこういう展開がほしいってもんでね」

「ボクはいりませんけど」

「つれないなぁ……」

 にやりとする。しかし、顔が硬い。

「よく分かりませんけど、もう一度言います。大人しく投降してください。ダメ男さんがこのままナイフを下ろしてくれれば悪いようにはしません」

「どうすんだ?」

「あなたをこの先にある街に連れ戻すだけですよ」

「あそこがどういう街なのか、知ってんのか?」

「犯罪者は絶対に死刑になる“きびしい”国ですよね」

「ってことは、キノはそこの街で雇われた殺し屋ってわけか」

 苦い顔だった。

「殺し屋ではありません、旅人です」

「……そのままそっくり返すよ。あんたがそのままそいつを収めてくれれば、オレはこれ以上何もしない。むしろ、諦めた方がお互いに得をするんだ」

「? どういうことですか?」

「それはな、」

 セーターの中から、

「!」

 左手が飛び出してきた。キノの『カノン』を持つ右手首を(つか)む。全力で握り締めると、

「ぐ」

 『カノン』を手放してしまった。その隙にダメ男は『カノン』を蹴り飛ばし、俊足(しゅんそく)で逃げていった。

 ぱすっぱすっ。

「うお!」

 気の抜けた音。直後に弾丸が襲う。それを、木を(たて)にして難を逃れた。

「それってサプレッサーつけられんのかよっ」

「今回だけの特別仕様ですよ」

 キノの左手には『森の人』が握られていた。黒い円筒状の“消音器”が付いている。

 銃口を向けたまま、素早く『カノン』を拾いに行った。

「!」

 何かに気付き、

「やばいっ」

 キノは急いで逃げ出した。その瞬間、

「くぅ!」

 爆発した。

 耳を塞ぐにも堪えられないほどの爆音と、木々を根こそぎ吹き飛ばす爆風。爆炎が轟々と立ち上り、辺りを一瞬にして消し飛ばした。キノは爆風を受けてあおられるも、木にしがみ付きどうにか助かった。

 木々で埋め尽くされた空間は炎が走り、煙が巻き上がる。地面に大きなクレーターができていた。

「ダイナマイトか……?」

 キノはゴーグルを着け、ゆっくりと歩き出した。直後、

「!」

 ゴーグルにカキンと何かがぶつかった。急いで拾い上げると、

「……毒?」

 手投げナイフだった。ちょうど掌に収まるくらいのサイズで、心なしか刃が照っている。

「……あの左腕といい巧妙な罠といい……厄介だな……」

 一旦、その場を離れた。

 

 

「おっ。お帰り」

 エルメスの元へキノが戻ってきた。

「ずいぶんとお疲れだね、キノ」

「これほどの相手とはね……」

 荷物からタオルと水を取り出し、休憩した。

「さっきの爆発はなに?」

「ダメ男さんが爆薬を使ったんだ」

「自爆ってこと?」

「いや、生きてるよ。ほらこれ」

 エルメスに手投げナイフを見せた。

「爆発の直後に投げてきたんだ」

「なるほどね」

「普段の性格とギャップがあるようだ。恐ろしく戦術的だよ。並大抵の知識じゃないね」

「えらくベタ褒めだね。でも、そんなダメ男さんを相手にのんきに休んでて大丈夫なの、キノ?」

「大丈夫。ダメ男さんも自分の場所に戻って休んでるよ。急所を外したのが心残りだけど」

「“市場(いちば)独占”だね」

「……“一時休戦”?」

「あ、それそれ」

「……それでさっき、ダメ男さんがボクに言ってきたんだ」

「なんて?」

「“諦めた方がお互いに得をする”って」

「実力がおんなじくらいだと、消耗戦になるから得にならないってことかな?」

「さあね」

 キノはストレッチした。

「かつてのベトナム戦争みたいだね」

「? なんだいそれ?」

「圧倒的軍事力を持ってしても攻略しきれなかった戦争だよ」

「……ボクはどっちになるんだろう」

「バッチリアメリカ」

「えっとつまり攻める側?」

「うん」

「そうならないように気を付けるよ」

「がんばってー」

 また森の中へ消えていった。

「るーるーるーん?」

 

 

 左耳には黒いコードが伸びていた。

 ダメ男は、

「……いってぇ……ホントになにもんだよ、あの娘……」

〈あれが“本物”ですよ、ダメ男〉

 木の上で休んでいた。疲労で汗をかきまくっている。タオルで顔を拭いていた。リュックは持っていない。

 むしゃむしゃとブロック状の食べ物を食べて、ボトルの水をごくごく飲む。ふぅ、と一息ついた。

「普通だったらあの爆発で死んでるっつーの……」

〈いわゆる“補正”ですね。疲労はしているでしょうけど、実質的なダメージはゼロでしょう〉

「相当やり慣れてるんだろうな……。まるで精密機械のようなツラだったぜ。……っつ……ただ、“眼”だけは誤魔化(ごまか)せなかったようだ」

〈何を感じましたか?〉

「半端なく強い使命感と殺意」

〈そうでしたか〉

「エルメスを人質にとろっかね……」

〈おそらくそれは無意味でしょう。その左腕が証明しています〉

 ダメ男の左腕には黒い穴が二つ付いていた。

〈想像通り、射撃の腕もピカ一ですね〉

「また弾の取り出しかよ……」

 袖を(まく)ると、血がどくどくと(あふ)れて腕が真っ赤だった。

 ダメ男はタオルを()んで、脇にボトルを挟み込む。力強く。すると、血が止まった。その間にピンセットで腕に食い込んだ弾丸を、

「ふぅ……ふぅぅっ、ううぅ……!」

 取り出した。タオルを思い切り噛んでいた。幸いにも深くはなかったようだ。

 身体中から尋常じゃないほどの汗が出る。

「はぁ……はぁ……」

 その後、消毒液と包帯で応急処置を済ませた。

 袖を戻す。(えぐ)るような激痛に顔が張り詰める。

「気付いて欲しかったんだけどな……」

〈そこら辺はまだ少女なのでしょう〉

「あぁ。人のこと言えないけど」

〈そうですね。ただ、ダメ男は年齢の割に考え方が()けていますが〉

 セーターの中からナイフを取り出した。黒い骨組みに透明な膜を貼り付けた()の中に、刃が収納されていた。長さは拳三つほどか。仕込み式で、柄の先にあるポッチを押すと勢いよく刃が飛び出す仕組みだ。

「……老獪(ろうかい)な戦術を味あわせてや、……!」

 ダメ男はすぐに木から下りた。ダメ男がいたところの背後、つまり木には穴が一つ。ちょうど頭の位置だった。

〈ダメ男を追いこんでいますね。弾道から位置を把握しましたね?〉

 フーを一回小突く。

〈了解しました。熱探知を開始します。残電量は五パーセントです。……ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ〉

 ダメ男は走った。肩で息をしながら、ジグザグに、緩急(かんきゅう)をつけて。

「あいつ、こっちの居場所知ってんのか? この暗さなのにピンポイントだぞっ」

〈熱探知完了。熱探知できる大型の生物はダメ男から南南西に八百メートル。人型です〉

「そんなとこからっ? スナイパーかよっ」

〈しかもこの視界の悪さで正確に狙撃ができるとは、夜目(よめ)()くというだけでは説明しきれません。もしかして、何か仕込んでいるのではないでしょうか?〉

「何かって何よっ?」

〈例えば発信機です。ダメ男の衣服や荷物に忍ばせておけば、容易に把握できます〉

「そんなもんいつから、……!」

 頭をさっと下げた。ピシュン、と頭上を何かが通った。奥の木に鋭い音が突き刺さる。

「ここで裸になりゃあ勝てっかなっ?」

〈“男の弱点”が消し飛びますよ〉

「そうだ、いっづ!」

 一瞬、右(ほほ)(かす)る。一直線に赤いラインができた。

〈合ってきていますね〉

「くそっ」

 ダメ男は木の陰に身を(ひそ)めた。汗を流し、口で息をしている。

 木にもたれかかる。

〈追い詰められていますね〉

「わざと狙ってないようにも感じる」

〈どういうことです?〉

「あのヤロー……オレを試してるんかもな」

〈なるほど。先輩に死のご指導を(たまわ)っているわけですか〉

 隠れている隙にポーチから四角い物体を取り出し、フーのと交換した。

「どんだけ余裕あんだよ……! こっちは逃げるだけで精一杯だっつーの、にぃっ!」

 ぐるりと前転した。ダメ男の座っていた地面に穴が一つ空く。木の枝に乗っているキノが頭上から撃っていた。

 別の木の陰に隠れる間際(まぎわ)に二つナイフを投げ付けた。顔と腹。しかし、半身引いて、あっさりとかわされる。しかし、キノは急いで木から飛び降りた。もう一つ、いつの間にか木の枝に刺さっていたからだ。仕込み式ナイフだった。

 下りた地点の目の前でダメ男が迫っていた。キノは分かっていたようで、空中でパースエイダーをしまっている。否応なしに肉弾戦に突入した。

 着地した瞬間に狙いをつけた水面蹴り。左脚に直撃するのを、キノはわざと喰らい、膝を曲げて衝撃を殺した。体勢が悪いうちに素早くカノンを抜こうとする。しかしナイフがそれを(はば)んだ。

 使わせまい、と距離を詰めるダメ男。がすがすと拳で攻め腕で守り足で蹴り、相手を掴んでは引き寄せ、倒れては足を引っ掛ける。瞬きが許されないほどに速かった。だが、ダメ男の左腕を、

「ぐぅ!」

 集中的に攻めるキノ。その度に表情が(ゆが)む。左腕に鈍い痛みと電撃痛が走り抜ける。

「さすがに力がありますね」

「そんあ涼しい顔で言わりぇ、うおぅ! てもな! 説得力ねぇ!」

「でも、こういう展開に持っていったのはダメ男さんでしょう? あのナイフはフェイクだったんですから。ボクも少し焦りました」

「うほう! オレはキノにあきらめてもらうほうが良かったんだけどなっ」

 ぐらりとキノがふらつく。強引な攻め合いで力負けしたようで、半歩退く。そこを右ストレート、

「それは無理な話です」

「!」

 ごすっ、とダメ男の顔に拳が飛ぶ。ダメ男の右にキノの左が重なっていた。いわゆるクロスカウンター。

 嫌な音と衝撃で()()るが、すぐに詰めて構えた。ちょうど一歩でキノの目前に達する間合いだ。ジジジとファスナーを上げ、構え直す。

 キノは少しだけ息を切らしていた。口で軽く息を吸っている。

「やば……やば……」

 驚きを隠せないダメ男。女の子に圧倒されているということもあるが、大振りを誘われていたことに動揺する。

 じっ、とキノが詰め寄る。その詰め方が実にいやらしく、ダメ男は退くしかなかった。

「……報酬はなんなんだ?」

 そのために、ダメ男は気を逸らしにかかる。

「ダメ男さんには関係のない話です」

冥土(めいど)の土産ってヤツだ。まぁオレのことなんだけど」

「ずいぶんと自虐的ですね。でも、関係ないことを話すほどボクにも余裕はありませんから」

「ウソツキ」

「……分かりました。そこまで言うならお話します。あなたともう一人を捕獲すると、旅に必要な道具以外に豪華な食事と部屋を三日分用意してくれるんです」

「……なんだそれ。くだらない」

「個人的には魅力的に思えたので引き受けたんです」

「タダ飯とキレイな部屋とオレらの命は同価値ってことか」

「かもしれませんね」

 くすりと微笑む。

 

 

 ダメ男はだくだくと汗をかいていた。肩や腹で大きく呼吸し、表情が重い。

 ダメ男の思惑は見切っている。わざと話させながら、顔に注意を向けさせながら、ゆっくりと右太股に持っていく。右手を気取られないように。その手は震えていなかった。全く。

「それはそうと、ダメ男さんはさすがですね」

「なにが?」

「数々のトラップ、戦術、心理戦、接近戦と幅広く対応してます。ボクも翻弄(ほんろう)されっぱなしです」

「……あんた意外にタヌキなんだな」

「?」

「わざとはまってるんだろ? ったく、どこまでもナメたガキだ」

「不謹慎ですけど、勝負は楽しむものですから」

「そいつは絶対的強者の言うセリフだ。やられる方からしたらたまったもんじゃない」

「ですが、ダメ男さんはまだ勝算があるのでしょう? じゃなかったら、わざわざボクと間合いを取りませんし」

「ぶん(なぐ)っといて言うことかいっ」

「……そうですね」

 にこりと笑う。

「さて、お話はこれくらいにしますが、もう一度だけ言います。大人しく降伏しませんか? 再三言いましたけど、これが最後の譲歩です。あなたほどの人ならもう一度脱獄できると思いますよ。それにその左腕……早く治療しないと大惨事になりますよ」

 ダメ男の左手の甲から、血が流れている。

「ちなみに同じ手は二度通用しません。あの左腕までフェイクだったのは想定しきれなくて焦りましたけど」

 少しでも不審な行動をとったなら、迷わず撃ち抜く。キノはその気概(きがい)で、無表情でダメ男の全身を観察した。

 しかしダメ男は、

「エルメス……どうなってんだろうな」

 空気を読まずに話し続けた。

「お話はこれくらいにと、……?」

 ダメ男が取り出したのは、

「これなーんだ?」

 ブレーキの金具だった。

「それは……エルメスの……!」

「オレがこの森に誘い込んだのは何でかってよく考えなかったか? もちろんパースエイダーで狙い撃ちされるからってのもあるんだけど、一番の目的は仲間がいることを(さと)られないためだ」

 ダメ男は視線を()らした。キノの背後を見る。

「来てくれたかっ!」

「嘘ですね」

「!」

 ところが、キノは、

「あなたに仲間はいません。なぜなら、あなたの足跡以外は見つかりませんでしたから」

「……」

 ダメ男が呼びかける方に見向きもしなかった。全く揺れていない。

 ぴくりと目が動く。

「それに、エルメスが壊されたとしても状況は変わりません。ここであなたを仕留めれば全て済む話ですから」

「……」

 にやり。

「やっぱダメか」

 ダメ男は観念したかのように肩を落とした。しかし、

「ちなみに教えてくれ」

「何ですか?」

「それってどういう“パースエイダー”?」

「リボルバータイプのものです。ボクは『カノン』と呼んでいます」

「そうか。いい名前だ」

 ぎらりと睨み付けている。

「おい、助けに来たぞっ」

「!」

 背後から誰かの“声”。キノは抜く手も見せぬ早さで『森の人』を向けた。顔もそちらに向く。しかし、誰もいなかった。

(おとり)か……!」

 ダメ男が肉薄してくる。その想像通り、ダメ男はナイフで狙っていた。

 振り返らず『カノン』のトリガーを引いた。

 

 

 キノがエルメスの元へ戻ってきた。

「おつかれさま、キノ」

「あぁ」

 疲れきった面持ちで持ってきたケースを二つ持っていった。

「あら、どうしたんだろ?」

 しばらくして、また戻ってきた。

「けっこうかかったね。夕方だよ」

「ダメ男さんは強かった。でも、“依頼は終わった”」

 キノは大事そうにケースを抱えている。

「それは?」

「見るかい?」

 エルメスの目の前でかぱりと開けた。

「おお。どぎついね。真っ赤なスープと具材だね」

「これを持ってかないと信じてもらえなさそうだからね」

「たしかに」

「さて、行こうか」

 荷台にしっかりと縛り付けた後、エルメスに乗って爆走していった。

 

 

「失礼します」

「おぉ! 旅人さん! お待ちしておりました! して、結果はっ?」

「二人とも仕留めました」

「……その二つの箱は?」

「その前に順に報告します。一人目は森の中で見つけました。でも既に息絶えていました。刃物でめった刺しにしていましたが、おそらく毒物で殺めたのだと考えました」

「? なぜです?」

「死体は自分の首を押さえるようにしていたからです。毒物による呼吸困難ではないかと。それを隠蔽するためにめった刺しにしたんだと思います。ですが、野犬が食い荒らしていて、顔面がえぐられていました」

「うっ、なっなるほど……」

「そしてもう一人は近くにあった遊牧民の集落で見つけました。かなりやり手で、勘の鋭い男でした。そのために逃げられてしまいました」

「なにぃ?」

「ですが、先ほど言った森の中で戦闘となり、仕留めました」

「そうかそうか! ではそれは……!」

「仕留めた証拠品です。どうぞ」

「……? これは何ですか?」

「二人の毛髪です」

「これでは生きているかもしれないじゃないかっ」

「よく見てください」

「……! これは……!」

「皮膚と血液です。そう言われると思い、入れておきました。隊長さんの部下から毛髪だけでも“DNA鑑定”ができると伺い、手持ちと手間を考慮した結果です。これくらいあればほぼ間違いなくできると思いました」

「せ、せめて袋に入れるとかして、」

「すみません。手持ちと時間がなかったもので……。ボクが仕留めた男は手強い相手で、三日三晩戦うはめになりました。なので相手の顔面や身体に気を使うことができず、ぐちゃぐちゃにしてしまいました。そこで、せめて毛髪などを採取してきたのです」

「うむぅ……」

「そこまで疑うのでしたら、森の中へ案内いたしましょうか? 森の中で(とむら)いましたが、野犬が生息しているので、顔がわからないほどぐっちゃぐちゃのめっちゃめちゃになってい、」

「いやいい。私が悪かった……」

「そうですか」

「三日間の激闘、()(たた)えると同時に報酬をお支払いしよう。大臣に言えば、部屋を案内してくれるだろう。三日間、満喫(まんきつ)してくだされ」

「ありがとうございます」

「ご苦労であった。……おぅっぷ……」

「隊長さんおだいじにー」

 

 

 スポーツができるほどの広い部屋、ふっかふかのベッド、豪華な浴室、もふもふのカーペット。豪華な部屋にキノとエルメスがいた。

「気持ちい……」

「大げさだなぁ、キノ」

「ねむい」

「眠るかい?」

「まだ夕食食べてないよ」

「でも、そろそろだって言われて一時間になるよ?」

「手の込んだ最高級の料理を準備してるに違いない」

「そうだといいけどねー」

 数十分後、とてつもない広さの大食堂に案内された。目の前にはとてつもない広さのテーブルがあり、そこを敷き詰めるように多くの料理が置かれていた。

 ちょこんと端っこに座っているキノ。

「これ……全部ですか?」

「もちろん! 本気で作ったから遠慮なく食べてねっ」

「これ食べきれるの、キノ?」

「残さずいただきます」

「キノの胃袋より明らかに多いよ!」

「それでも食べる」

「歩けなくなっても知らないからね」

 数時間後、

「……ぅっぷぅ……もうたべきれない……」

 夕食を食べ終えたキノはベッドで(もだ)えていた。

「まさか、お手伝いさんに運んでもらうほど食べるなんて」

「おいしすぎてたべすぎた……」

「これがあと二日も続くの?」

「たぶんね」

「迷惑きわまりないなぁ」

「ボクは依頼をこなして報酬をもらってる。ただそれだけさ……ふぅ……」

「説得力のカケラもないよ」

「あぁ……ボクはなんて幸せなんだろう。天使の羽のようなベッド、広々とした部屋とお風ろ、おいしくていっぱいあるたべ……」

「おおげさだなー」

 そのままうとうとし始め、ついに眠ってしまった。

「ブタになっちゃうよー」

 それでも目を覚まさなかった。

 

 

 究極のくっちゃねくっちゃね生活の最後の日、つまり出発の日の朝となった。

 キノは荷物をまとめてエルメスを、

「ほら起きて」

 がつんがつん叩いて起こす。

「おはようキノ。相変わらず乱暴な起こし方だね」

「おはよう。そうされたくなかったら自分で起きるようになろうね、エルメス」

 押して、部屋を出た。

 そして最後の朝食を、

「いただきます」

「今度こそ食べ過ぎたらあぶないよ」

「わかってる」

 がっつりいただいた。

 食休みをした後、

「ありがとうございました。おいしい料理を堪能しました」

「そうですかそうですか。それではお気を付けていってらっしゃいませ」

「はい。どうもお世話になりました」

「それじゃねー」

 キノはエルメスを走らせて、国を去っていった。

「何ということだ……国の四分の一ほどの食料をたいらげるとは……。それほどの激戦だったのか、ただの大食らいなのか……」

 

 

 木々が折り重なるようにして形成された森。薄暗く悪路なために、ライトを付けて速度を落として走っていた。

「ねえキノ」

「なんだい?」

「本当によかったの?」

「なにが?」

 急にきゅきゅきゅとブレーキをかけて停車した。そこは木々が囲んでできた空間だが、二つの盛り上がりがあった。十字架も立てられている。

「しかたないさ。でもエルメスも良かったろう?」

「そりゃあ、そのおかげでぼくの燃料もキノの胃袋も満タンになったからいいんだけど」

「だけど?」

「なんか申し訳ないよね」

「それを言ってたら何もできないよ、エルメス」

「たしかにそうなんだけどさ」

 それらをちらりと見て、またエルメスを走らせる。

 

 

 雲一つない青空の下、草原が海のように波打っている。太陽が草原を照らし、光を受けて輝いていた。

 そこを二分するように道が通っている。完璧に綺麗に舗装された道路だった。

 しかし、道をどこまでも辿っていっても、何も走っていなかった。代わりに脇に村があった。村といっても遊牧民の集落で、テントがいくつかあるだけだ。前日よりも遠くに移動していた。その村に、

「キノ、ここでもお世話になるわけ?」

「うん、そのつもりだけど」

「昨日まであんなにたらふく食べたのに?」

「正確には今朝までだけどね」

「どっちでも変わらないよ! キノの胃袋は一体どうなってるのさ?」

「未知の領域ってことで」

 キノたちがいた。テントをまた貸してもらい、少し休んでいた。

 一旦外に出て、エルメスを押して歩き回った。さほど広くないので、あっという間に歩ききってしまう。

 足を止めた。

「あらら?」

 エルメスが驚いた。

「こんにちはキノ様、エルメス様」

「久しぶりですね、フーさん」

「な、なんで? どういうこと?」

 テントの裏側で、

「ダメ男はつい先ほど眠りについたので、用事があるのでしたら起きた後にしてください」

 ダメ男が眠っていた。テントにもたれ、気持ちよさそうに。

 右頬にキズ止めのテープが貼ってあった。

「すぅ……すぅ……」

「キノ、ダメ男さん生きてるよ?」

「そうだね」

「いや、そうだねじゃなくて、ぼくに“依頼は終わった”って言ったじゃないか」

「確かに言ったね」

「で、これは一体どういうことなのさ?」

「エルメス様、それはこちらが説明します」

 

 

 時を戻し……。

 振り返らず『カノン』のトリガーを引いた。

「!」

 しかし、

「おらぁ!」

 キノは殴られた。

「っつぅ!」

 『カノン』を握る手を。

 ダメ男は落ちる『カノン』をすかさず蹴り上げて、手元に引き寄せキャッチし、

「……」

 キノの顔に向けた。しかしキノは『森の人』をダメ男の鼻に突き付けていた。

「なぜ顔を狙わなかったんですか?」

「別にフェミニストってわけじゃないけど、こっちのほうがいいと思ってな」

「なるほど。……しかし、ボクとしたことが気付きませんでした」

「オレも()けみたいなもんだったから気にすんなよ」

 ぐっと『カノン』を握りしめた。

「まさか、“安全装置”が掛けられてたとは思いもしませんでした。いつですか?」

「最初の、キノの『カノン』を蹴った時だよ」

「……あの時ですか」

「絶対バレると思ってやったから、まさかここで()きるとは思わなんだか」

「あれは地雷におびき寄せると同時に、『カノン』の安全装置を掛けるためだったんですね。油断しました」

「……で、この膠着(こうちゃく)状態をどうするよ?」

 もちろん、ダメ男は安全装置を既に外している。

「ボクはそれを避ける自信があります。なぜならボクの『カノン』ですから」

「たしかに、オレは射撃がへたっぴなんだ。この至近距離でも当てる“自信”はないよ」

「そうですか」

「でも、“意地”がある」

「……」

 二人は(にら)み合う。指先や表情、目付きをつぶさに見て、機先(きせん)を制そうとする。

「……」

「……」

 そして、

「!」

 先に動いたのは、

「っ!」

 ダメ男だった。

「……」

「……」

「……え?」

 かちんっ。

「……? どういうこと?」

 かちかちかちかちかちんっ……。

「……」

「……ましゃか?」

「そういうことです」

 さり気なく『カノン』を取り返すキノ。そのままシリンダーを開ける。薬莢(やっきょう)を取り出し、弾頭を外し、逆さまにすると、

「『カノン』に装填されている弾丸はただの空薬莢だったんです」

 何も出てこなかった。

「火薬がない……。じゃあ今までの攻撃は……」

「全て『森の人』で撃っていました」

「……まじかよおぉぉぉっ!」

「ダメ男さんは今まで出会った中でも強い方でした。トラップや心理戦、人体の構造を把握していて、自身で完璧な処置も施すこともできる。あらゆる状況の対応力も素晴らしかったです。しかし何よりも恐ろしかったのは、野性の“勘”です。ボクが気配を殺して狙撃をしたのに、撃つ瞬間のわずかな殺気を感じて回避していました。現にボクの撃ち気を完全に(とら)え、より速く撃ちました。もし、『カノン』に弾丸を込めていたら、ボクの完敗でした。唯一残念だったのは、注意力不足ですね」

「どこの通信簿だよ……。そうなるように誘導したクセに……」

「もう、従ってくれますね?」

「……ちくしょう……」

 ダメ男はすんなりと手錠をはめてくれた。キノはダメ男の拘束に成功した。

「その前に、フーとナイフを取ってきたい」

「やはり、あの声はフーさんでしたか。格闘の最中にフーさんが見当たらなかったのでおかしいとは思っていたんですが」

「ましゃか、セーターの隙間から?」

「はい。その後にダメ男さんがファスナーをさり気なく上げたので確信しました」

「完璧に見破られてたんだな……」

 まずナイフを取りに行くキノ。ダメ男は大人しく待機していた。終始『森の人』が向いていたからだ。

「いいナイフですね」

「借り物でね。失くすわけにはいかないんだ」

 キノはナイフを隅々まで調べる。何かを取り外した。

「もう分かっているとは思いますが、発信機はここに付けられていたんです」

「どうりで。たしかにそれは肌身離さず持ってるからな。……ったく、荷物を大切に保管してたのはそのためか」

「?」

「あぁ、こっちの話だ」

 今度はダメ男を連れていく。示す方に行くと、

「さすがはキノ様ですね。あと一歩、いや五歩くらいでしたか」

「いえ、ボクは勝てたとは思えません。ラッキーでした」

「そんなご謙遜(けんそん)を。接近戦を見ていましたが、終始ダメ男が攻められていましたよ。よほどの訓練を積まれたのでしょうね。凄かったです。勉強になりました」

「お前らどこの主婦だよ」

 フーがいた。そこはダメ男が狙撃された時に、咄嗟に身を潜めた木の陰だった。その木の枝にフーが引っ掛けられている。フーを取ってダメ男の首にかけてあげた。

「それで、ダメ男さんには良い案があるんですよね?」

「!」

「一応聞いてみたいと思います。あまり良くないようでしたら、そのまま連行しますけど」

「その前に聞くけど、依頼っていうのはオレを殺すことか?」

「正確には、脱走者であるダメ男さんともう一人の男を生死問わずに連行することです。方法はボクに任せられています」

「よかった。……そこら辺の説明はフーに任せるよ。オレは口下手だからな」

「分かりました。説明します」

 とりあえず、キノはダメ男の左腕の処置に当たった。

「まず、ケースがあれば、各々の人物の皮膚片と毛髪、血液をたっぷりと入れてください。依頼主には“証拠品”として“二人の毛髪”を提示します」

「それをするなら、二人の首を提示した方が説得力はありますけど……」

「確かにその通りです。しかし、それを見て相手はどう考えるでしょうか?」

「どうって……仕留めたんだな、としか……」

「そうです。しかしこうも思いませんか? 現段階で依頼を成功したら、この依頼を特に問題なく淡々と、しかも早い時間でこなしてきたのだな、と」

「まぁ……そうですね」

「すると、次はどう考えるか? おそらく報酬の値切りを始めるでしょう」

「? どうして?」

「簡単に依頼をこなしてしまうと、大した労力を使わずに成功させたと思われてしまうからです。つまり、そんなに簡単だったのなら値切ってもいいだろう、と考えてしまうわけです」

「なるほど」

「そこであえて時間を稼ぎ、フルに戦ってきたと思わせるのです。そのために必要なことはダメ男の“毛髪”だったのです」

「……!」

 口元に手を当てて、考える。

「そうです。実はキノ様は既に“ダメ男の毛髪”を入手していました。あとはダメ男に協力してもらって血液と皮膚を収集すれば、依頼は簡単に成功したのです。そのメッセージでもあったのですが、気付いていただけなかったようですね」

「……」

「ちなみに、あの国では“DNA鑑定”という個人情報特定の技術が進歩していて、毛髪だけでも個人を特定することができるのです。ダメ男ともう一人を爆殺した、原形を留めないほどにメッタメタにした、など激戦の理由を添えて証拠品を提示すれば、首を取って来いなどの無理な要求はまずされないでしょう」

「……」

「とにかく、お互いに得をする手段をしませんか? このままキノ様がダメ男の首を持っていっても、確実に報酬は値切られてしまいます。三日間の贅沢(ぜいたく)が二十四時間になるかもしれませんよ?」

「……」

 少しして、小さく(うなず)いた。

「どうする?」

「……分かりました。全力で協力します」

「ありがとうございます。では、すぐに入れ物を持ってきていただけますか? ダメ男は自分で治療できますから安心してください。それと逃げようとも思いませんから」

「分かりました。急いでエルメスの元に戻ります」

 キノは走り去っていった。

 

 

「ってことは、だましたってこと?」

「そういうことになりますね」

「なーんだー。でも、教えてくれたっていいじゃないか!」

「エルメスはおしゃべりだからね。聞かれたらまずいと思って言わなかったんだ」

「でも、二人とも生きててよかったよ」

「キノ様、エルメス様、本当にありがとうございました。ダメ男が死んだらどうしようって思っていました」

「仲良しなんだね」

「仲良しというか、腐れ縁です」

「そうなんだ。でもさ、フーさんってダメ、」

「ん……?」

 ぴくぴくと目が動く。

「なんだ? また誰かいんのかフー……?」

 腕を上げて、背筋を伸ばした。きゅうっと伸びて気持ちいい。

「命の恩人ですよ」

 ちらっと目を開けた。

「……おぉ! 久しぶりだな! キノに“メ”ルメス!」

「どうも」「“エ”ルメス!」

 ぐっと立ち上がった。ぱんぱんとお尻を軽く(はた)く。

「その様子だと満喫できたようだな」

「おかげさまで。しかも、あそこの警備隊隊長は本当に値切るつもりでした。部下にちらちら聞いたら、けっこうなドケチと噂になっていたようですし」

「金持ちってのはケチが多いからな。まぁ、お望み通りになってよかったよかった」

 ダメ男は笑った。

「ダメ男とフーはすごいね。軍師に向いてるよ!」

「全然向いていませんよ」

「? なんで?」

「ダメ男は超絶な単純馬鹿でお人好しなので、どんなに劣勢でも困った人を助けてしまうのです。旅人としては致命的な弱点です」

「うっせー」

 頬を()く。

 キノはくすっと笑った。

「たしかに。でも、今の今まで生きてますから」

「確かに。ですが、たまに度を過ぎていまして困っているのです」

「ダメ男さんの性分では無理だと思いますよ」

「できればキノ様のようになってほしかったのですが」

「人それぞれですし、悪くないですよ」

「え?」

「あ」

 ダメ男はまた、

「え?」

 エルメスに跨り、

「キノ! またぼーっとして! はやくたす、」

 爆走した。

「うわああああぁぁぁっ!」

「あっはははは! また借りるぞっ!」

「そしてまた貸されます」

 轟々と走っていった。

 その場に取り残されるキノとフー。

「助けてくれてありがとうです」

「いや、こちらこそ……」

「×××は死ぬかと思ったって(なげ)いていましたよ」

「×××?」

「はい。ダメ男の本当の名前です。キノ様には教えるつもりでした」

「……いい名前ですね」

「本人にしてみると、あまり良くないみたいですよ」

「? “ダメ男”よりも?」

「はい」

「どうして?」

「一文字抜かすと悪口になるのです。幼い頃、それでよく(いじ)められていたそうです」

「なるほど。どこかの人と似ている気がします」

「そういうお知り合いがいるのですか?」

「まぁ、知り合い……なのかな」

「ところで、お二人はどのような経緯でお知り合いになったのですか?」

「うーん……よく覚えてないですね。ずいぶん昔のことですし」

「そうですか。でも、ひょんなことから出会ったのかもしれませんね」

「かもしれませんね。あなた方が出会ったように」

「ですね」

 キノは微笑みながら、ダメ男とエルメスを見ていた。

「もっと落ち着いて運転してよぉ!」

「いやっほうぅ! オレは風になるぜぇ! どこまでも駆け抜ける風によぉ! いえぇああぁぁぁぁっ!」

「助けてよキノぉ!」

 

 

 キノたちは道路にいた。エルメスをそこに停め、ダメ男たちが脇にいる。

「もう行くのか?」

「はい。ダメ男さんの容態を見に来ただけですので」

「あと、たらふく料理を、」

 がつん、とエルメスを叩いた。いたっ、と呟く。

「?」

「なんでもありません」

 うん、と頷く。それ以上は聞かないことにした。

「ではまた次に会うまで」

「あぁ。できればこんな形じゃなくてな」

「そうですね」「まったくだよ」

「エルメスも達者でな」

「そのままそっくり返すよ! ちゃんと運転できるようになってよね」

「頑張るよ」「させません」

「キノ様、エルメス様、本当にありがとうございました。無事に旅が続けられることをお祈りします」

「ありがとうございます」「あんがと」

 キノはエルメスに跨った。蹴ると、エンジンの音が鳴る。

「それでは」

「あぁ」

 そしてアクセルを全開にして、あっという間に走り去ってしまった。少ししたら、もう見えなくなっていた。

 ダメ男たちは感慨深そうにずっと見送っていた。

「……んっし、オレらも行くか」

「はい」

 

 

 完璧に舗装された道路。それが大草原の中を突っ走る。青空に太陽が浮かび、大地を温めていた。

 道路にはモトラドが一台走っていた。

「さて、次はどんな国があるかな」

「この分だと、まだまだたどり着けなさそうだけどね」

「そうだね。できれば気持ちいいベッドと美味しい料理がたくさんあるところがいい」

「またそれぇ? どんだけ食べれば気がすむんだよっ」

「あの三日間は最高だったよ。どうせなら一週間にしてもらえばよかったかな」

「それじゃあホントのブタになっちゃうよ、キノ!」

「それはさすがにまずいか」

「まずいよ!」

「……」

 急に、

「うわ」

 キキキッ、とスピードを(ゆる)め、止まった。

「どうしたのさ、キノ?」

「ブタにならないように、」

 キノはエルメスを押し始めた。

「少し歩こうかなって」

「おお! それはいい考えだね」

 ずっと歩いていくキノ。しかし、すぐにエルメスに乗って走った。

「もうおわり?」

「少し歩いたよ」

「“くつかホース”だねっ」

「……ちょっと難しいな」

「え?」

「あ、分かった。“三日坊主”だ」

「せいかい!」

「……まぁ、ボクはボクなりに旅を続けるよ」

「無理をしないことが一番だね」

「うん」

 さらに速度を上げて、地平線へ消えていく。

 

 

 完璧に舗装された道路。それが大草原の中を突っ走る。青空に太陽が浮かび、大地を温めていた。

 道路には一人の男が歩いていた。

「いやぁ、いい天気だなぁ」

「今日は快晴、温度は二十六度、湿度は四十三パーセント、東に微風です」

「うんうん。だと思った」

「相変わらず能天気ですねダメ男」

「いつまでもキリキリしてたんじゃ身がもたんよ」

「ダメ男の頭はキリギリス並みでしょうけど」

「……ぶん投げるぞ」

「まぁこの先、キノ様のような強い旅人に八つ裂きにされたいならどうぞ」

「……く……誰かなぐらせてくれないかな……」

「道路を殴ればいいです」

「オレの手がぶっ壊れるわ」

「骨の中身はすっかすかですからね。ダメ男の頭もですが」

「……あぁ風になりたいな……ぐすん」

 ぐちぐち言いながら、ダメ男はポケットからある物を取り出した。

「それは確か、」

「そう、“あれ”」

 それはブレーキの金具だった。

「にしてもキノ様は強かったですね」

「ありゃバケモンだわ、うん。キノのやつ、完璧にオレを(もてあそ)んでたよ」

「そう表現してもおかしくないくらいに強かったですからね」

「いったいどんな練習すれば、あんだけ強くなるんだ? 師匠に会ってみたいもんだ」

「ダメ男はほぼ我流ですものね。そこら辺を考えても、勝算は限りなく薄かったのですね」

「こいつも見抜かれてたとしか思えないわ」

 ぽいっとどこかに投げ捨てた。

「自転車のブレーキじゃあ(だま)せないよな」

「そうですね」

 ダメ男は立ち止まった。

「今回の出来事はまさに“運転で辟易(へきえき)”でしたね」

「うまい! 座布団二枚!」

 ちなみに“青天の霹靂(へきれき)”である。

 青い空を眺める。澄みきっていてとても気持ちいい。すうっと息を吸って、吐く。どことなく気持ちが晴れるようだ。

 そして、大地を踏みしめて進んでいった。

 

 

 



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おわり:みどりのだいち

 曇り空からわずかに見える青空。そこから太陽が優しく輝きます。その光を貰おうと、木々が空を覆い尽くそうとしています。わずかながらにできた隙間から日差しが溢れ、地上に降り注ぎます。緑の絨毯(じゅうたん)がびっしりと敷いてありました。

 そんな森の中から、突如、銃声が鳴り響きます。木に留まっていた鳥たちが驚いた様子で(わめ)き、一斉に飛び立ちます。

 森の中で、ちょうど太陽の光を直接受けている場所がありました。そこには半円の薄い石が二つ並んでいます。それぞれに花束が置いてあります。

 石の傍らには木が一本生えています。それに背を預けて座っている女がいます。無地のロングTシャツに青いジーンズを着合わせていて、両腕に黄緑色の腕時計をしていました。手には拳銃が握られていて、周辺には薬莢が散乱しています。銃口から白煙が立ち上り、間もなく消えました。

 女はぐったりとしていますが、何とか呼吸はしていました。お腹が動いていて、瞬きもしていました。生気が薄いです。ただ頭が垂れているだけのようです。

 きっ、と目つきが変わり、自分の額に銃口を押し付けます。ふるふると力を込めすぎて震えています。しかし、

「……くっ……」

 急に力が抜けて、銃を持つ手が下がりました。そのまま手放してしまいました。銃口は、

(あね)さん、またですか……」

 ディンに向けられていました。女から拳銃を取り上げ、自分の腰のホルスターに収納します。

「あれから、もう何ヶ月か経ちますけど……その……」

「……」

 女は左肩を(さす)りました。

「眠れない……。まるで、私に何かが取り()いているかのよう……」

「確かにクマが酷いですね。私が添い寝してあげますから、ゆっくり寝てください」

「フ……」

「どうしました?」

「誰かがいないと安心して眠れないとは……滑稽(こっけい)だな」

 女はディンの腕にしがみ着くと、すぐに寝入りました。(ほほ)を突っつかれても起きません。泥のように眠っています。

「!」

 突如、木陰(こかげ)から男がやってきました。

「誰だ?」

 だぼだぼの黒いセーターを着ていて、黒のパンツと黒いスニーカーを履いています。ファーの付いたフードを深く被っていました。荷物は持っていません。ただし、

「……」

 ナイフです。男の右手には鋭く尖ったナイフが握られていました。刃渡りは拳三つほどです。身体の一部であるかのように、手に馴染んでいるように見えます。それをチラつかせながら、じりじりとにじり寄ってきます。一歩ずつ、まるで追い詰めるように。

 一歩近づく度に、握り締める力が強くなっているようです。

 ディンは気取られないように、慎重に手を腰に持っていきます。その手は震え、嫌な手汗がじっとりと(にじ)んでいます。

 その瞬間、

「!」

 男が猛烈な勢いで迫ってきました。

 ディンはホルスターから拳銃を抜き、

「っ!」

 男がディンの喉元にナイフを突きつけると同時に、

「惜しかったですね」

 ディンが男の胸に銃口を向けました。

「……」

 男は押し黙りました。

 そのまま、膠着(こうちゃく)状態になります。ディンは男の呼吸状態や心理状態を細かく観察して、把握しようとします。しかし観察すればするほどに、まるで猛獣と対峙しているかのような重圧感がディンを襲いました。それは自分の生命が直に(おびや)かされている重圧感に変わりありませんでした。

 むしろ、

「はぁ……はぁ……」

 ディンの呼吸が荒くなってきます。脳天から伝い落ちる汗が額から頬、(あご)へ流れ、

「つっ」

 落ちていきます。その数がだんだんと多くなり、さらに肩で息をするようになります。

 ところが男は、

「はぁ」

 と、溜め息をついて、

「!」

 ナイフを喉元から下げました。

 ディンも照準を()らざるを得ませんでした。

「久しぶりだな」

「?」

「今でも忘れられない顔だ」

 男はフードを外しました。その男は、

「! あなたは!」

「復讐しに来た」

 “ダメ男”でした。

「こ、殺されたはずじゃ、」

「そんなことはどうでもいいけど、お前らを殺しに来た」

「っ!」

 ディンは再び銃に、

「!」

 しかし、音とともにホルスターに何かが当たり、遠くに飛ばされてしまいました。

「く!」

 その発生源は、

「動くなよ?」

 ダメ男の腹でした。小さく穴が空いています。

「その左腕はダミーってわけですか」

「まあな」

 右手で左腕を引き抜きました。手の部分は人の手にそっくりですが、セーターに隠れていた二の腕から上は簡素な造りでした。そして、胸元から左手を出して、下しながらセーターのファスナーを開きました。

「さすがに一ヶ月だと、ろくに回復しないな。撃つだけで精一杯だ」

「油断しました。利き腕は左でしたね。……にしても、あなたが銃を使うなんて信じられませんね」

「……」

 ダメ男は再びナイフを突き立てました。そして、銃口は女へ向けられます。

「オレには恨みはない。むしろ、今でも殺されて当然だと思ってる。でも……、」

 服の中から、水色の物体を取り出しました。

「こいつが駄目なんだ」

「ダメ男、早くその女を殺してくださいっ!」

 “フー”です。

「あなた……」

「本当に死にかけたオレを見て、今でも荒れてるんだ。いくらオレが(さと)しても、聞く耳すら立ててくれない」

「ダメ男、早く八つ裂きにしてください! その男を殺して、女を×××して××して、」

「フー、落ち着け。レディの言葉じゃないよ」

 ダメ男はそう(なだ)めて、フーとナイフと拳銃を“きちんと”しまいました。

「だから、話を聞いてほしい。ディンだけでもさ」

「……わかりました」

 ダメ男は二人の前で座りました。

「その前に、ディンに一つ聞きたいことがある」

「何でしょう?」

「お前があの二人を、殺したんじゃないか?」

「……!」

 ディンは少し間を空けて、

「当てずっぽうもいいとこですよ、あははは」

 笑い()けました。

「思い出したよ」

「え?」

 さぁっ、と青ざめていくのが容易に分かりました。

「お前、あの時の男だろう? 盗人二人をすぐに追っかけたあの……」

「違いますよ」

「で、その二人を殺した後、オレが現れたのを(さと)ってオレに責任を押し付けたんだろう?」

「何を言っているのか分かりませんねぇ。第一、証明できないじゃないですか。双子を殺したのが私だと」

「……」

「……?」

 ダメ男はにたりと口角を上げました。

「“あの二人”としか言ってないのに、双子ってよく分かったな」

「そ、それは、その姐さんから話を聞いたんですよっ」

「だが、この女は写真も撮ってなかったのに、よくオレが“二人”を殺したって分かったな。この女とオレがどんな関係かを“話としてしか”知らないはずなのに。つまり、オレの“顔”を知っていなきゃ、ほぼ不可能な会話なんだよ」

「で、でも私は、」

「お前がオレの情報収集の役割だってんだろ? それだってオレの“顔”を知らなきゃ、尾行なんかできるわけがない。オレは常にこの女の顔を覚えてて、避けていたんだからな」

「……それは姐さんがあなたを尾行して、あなたがどんな人物なのかを生で教えてもらったんですよ」

「……あぁ、なるほど。そっちの方がしっくりくるな」

 ダメ男はわざとらしく、あっさりと持論を捨てました。悔しいというより、したり顔をしていました。

「それでもお前だという事実は免れないけどな」

「何を確信しているんです?」

「……これだよ」

 ダメ男が取り出したのは、鉄の塊でした。

「! それは……」

 それを見た途端、顔色がさらに変わります。青から紫へと。

「見覚えがあるんだな。……そう、これはあの二人に撃ち込まれた弾丸だ。当時、オレは銃を持っていなかったんだ」

「!」

「そしてオレが駆けつけた時には既に銃殺されていた。よって、オレより先に行き、そして銃を使っていて、さらに村人でない人間……もうあんたしか考えられないってわけだ」

「……どうやってそれを……!」

「殺されて間もなくだよ。きっと慌てて逃げたんだろうな。銃弾をそのまま置いてったもんで、摘出しておいたんだ」

「……」

「ちなみに証拠もある。村人がオレに銃を渡してくれてな。健気なものだよ。オレのじゃないかって返してくれたんだ。でも実際はオレのじゃなくて、誰かさんのだったりするわけだ。弾丸も同じタイプだし、後は知り合いにあんたの毛かなんか持って帰って照合すれば、いくらでも証拠は出る」

「……」

 しかしダメ男は、証拠の銃弾をディンに投げ渡しました。

「でもオレはあんたを責めたり問い詰めたりしない。もともとオレがフーを盗られなきゃよかった話だから」

「?」

「オレがしてやれるのはここまでだ。後は自分で決めろ。そいつは寝てるんだろう? 起きた後に自分で話すか、隠しておくか。オレはあえてあんたに選択肢を出したんだ。……その女に信頼されてるであろうあんたにな。これをピンチと捉えるかチャンスと思うかはあんたの自由だ」

「ど、どうしてそんなまどろっこしいことを……」

「これがオレの復讐だからだよ。……じゃあな」

 ダメ男は去り際に、なぜか銃をディンに向けながら木陰に消えていきました。その直後のことでした。

 生々しい音と悲鳴が森中をざわつかせたのは。

 

 

「きもちぃ……」

「だ、ダメ男、その、」

「気にすんな」

 二人はまだ森の中にいました。ハンモックを木に巻きつけて、ぶらぶら揺れています。ダメ男の荷物はそのハンモックの脇にきちんと置かれていました。

 すっかり晴れ間が広がったのか、ダメ男の視線の先には、きらきらと緑の空が輝いています。風で(ささや)いては、木漏れ日が優しく身体に降り注ぎます。心地好くて、

「眠い」

 眠気を誘います。

「どうしてですか?」

「なんだっていいだろ。さっきからしつこいぞ」

「あんな話を直に聞いて、気にならないわけがありません。それにまだ教えてもらっていません。なぜあなたがここにいて、いえ、その前になぜあなたが生きているのかを」

「……」

 ダメ男はごろりと寝返りしました。

「選択肢を出したフリをして、実際は違いますよね?」

「……違くない」

「本当は自分で話すのが怖かった、怖かったから彼に投げ出したのです」

「……違う」

「だから彼女が眠っている間に彼のところに訪れた、違いますか?」

「しつこい」

「真実から逃げていてはその、また同じような事が起こるのではと心配です。お願いですから、」

「……っ」

 急に、ダメ男の左肩が疼きました。筋肉の線維が千切れたような痛みが走ります。

 フーはそれ以上、言及できませんでした。それから、ダメ男の悲痛な表情をじっと見守りました。痛みによるものなのか、傷みによるものなのか、汗が薄い膜のように顔を覆います。

 ふぅっと軽く息を漏らしました。

「もう、医療大国周辺で暮らすしかないかもな」

「そうですね。ダメ男は無理をしてきました。左肩の完治もまだまだかかりますし、精神的にも休息が必要です。万全になったら旅を再開するようにしませんか?」

「オレもだけど、フーもだよ」

「はい。彼女を目の前にしたら、あのシーンが思い起こされました。まだ怒りが抑えられません。犯人も別と分かってからなおさらです。ダメ男への復讐は完全に思い違いであったのですから」

「……本当に殺す必要があったんかな」

「全くです。あの時、ダメ男への当てつけをそのまま言い直したいです」

「そうじゃない」

「?」

 ダメ男は服の中からフーを取り出して、それを胸の上に乗せました。フーの透き通る声に、暗さが混じります。

「……人の生命を奪ったら、それ相応の代価を支払わなきゃならない。もう、オレの命一個なんかじゃ足りない……」

「つまり、復讐を(たくら)(やから)がもっと現れるということですか?」

「……うん」

 気弱そうに呟く。

「ダメ男は罪なき人を殺めましたか?」

「……人助けのために……自分が殺されないように……」

「それは既に罪がある人でしょう?」

「そんなの結局……人殺し。人助けだってただの自己満足……もう分かんない……」

「仮に迷惑をかけている人間が無罪としても、困っている人を助けたのです。救われた方々はダメ男に感謝をしているはずです。どうか、気を落とさな、」

「オレはただ、罪悪感に(さいな)まれないようにしてきただけだよ、フー……」

「ダメ男、しっかりしてください。会話になって、」

「人助けといっても所詮は人殺しだ。色んな人を殺して、また殺して、殺して……殺して、殺しまくって……! 手に残るんだよ。突き刺した時の、あの柔らかい感触が……痛みで収縮する筋肉や内蔵が、くっきりと、手で直接触ってるような感覚に襲われるんだ……。後で急に思い起こされる度に気持ち悪くなって、吐きたくなって、胸が握り潰されるように痛くて……」

「ダメ男、」

「消えないんだよ、落ちないんだよフー……! 何度も何度も、何度も何度も何度も何度も! 手を洗っても、手に付いた血の臭いと生温いのがべっとりっ! 全身にこびりついてるんじゃないかって……」

 フーは、

「ダメ男っ!」

「……!」

 声を荒げました。

「……」

 ダメ男はフーをハンモックに引っ掛け、背を向けました。身体全体が異常なほどに震えています。その後ろ姿はまるで、“薬”が切れた男のようです。頭を抱え、がたがたと、地面に何かの液体をまき散らして、震えていました。

 しかしフーはさほど驚いていませんでした。いや、虚勢(きょせい)を張っていました。先ほどの疑問よりも、ダメ男の容態が心配でした。

「落ち着いてください。ダメ男、休みましょう?」

 そこに、

「! 誰だっ!」

 誰もいませんでした。

 フーの緊張の糸は張り詰めてしまいます。それでも、ダメ男を落ち着かせようと声をかけ続けます。

「ダメ男、誰もいません」

「いや、誰かいる! いるんだろ! 出て来い!」

 ハンモックから飛び降りてナイフを構えましたが、何も起こりませんでした。

「お互いに気がおかしくなっています。確か、山を降りてすぐに、長閑(のどか)な村がありましたよね? 一先(ひとま)ずそこで休養を取りませんか? こちらの疑問なんていつだっていいです。まずは休みましょう、ね?」

「……気が進まないな」

「それでは、またここで野宿をするのですか?」

 ダメ男は再びハンモックに寝て、ぶらぶらと揺れました。

「嫌か?」

「当たり前です。どのくらいここにいると思っているのですか? もう一週間は経っているのですよ?」

「……悪いな。いつもいつも……」

「気にかけるくらいなら自分を大切にしてください。むしろ気味が悪いです」

「もうちょっと優しい言葉はかけてくれないのかよ? ズタボロに傷ついたオレを癒して、」

「早く寝てください。永遠に眠ってください」

「……そうした方がどんなに幸せなんだかね……」

「ごめんなさい」

 ダメ男は服の中から、拳銃を取り出しました。黒く怪しく存在感を主張するそれは、ダメ男にあさっての方向に投げ捨てられました。ところが、

「痛い」

 そちらから声が聞こえてきました。ダメ男は見向きもせずに、

「あぁ悪いな。それ、あんたにあげるよ」

「そうか。なら、手を上げてこちらに来い」

 頭に突きつけられました。

「……とか言って、自分から来てんじゃん」

「私がこうすることも“ここに来る前のこと”も、読み通りなんだろ?」

 ダメ男はにやりとして、

「そうでもないよ」

 笑います。ですが、ダメ男も虚勢を張っていました。じわりと汗ばんできます。

「まだ恨んでるんだろ……? また好きに殴れよ、撃てよ、……殺せよ。そうでもしない限り、あんたの恨みは消えそうにない……」

「……」

 ふっと、硬いものが離れていきました。

「何のためにあなたを生かしたと思っている……」

「え?」

 疑問の声はフーでした。

 女はすっとダメ男の視界に入ってきました。

「真実、か……」

「……」

 ダメ男が身震いしているのに気付き、女が触れようとした時、

「触らないでください」

 フーが言い放ちました。

「あなたがダメ男を許さないように、こちらも絶対に許しません」

「……分かっている。話は全て聞いていた」

「ダメ男は既にあなたと出会う前から傷ついています。それなのに、目の前であんなのを見せつけられたら、気が狂いそうなのですよ」

「殺す気はなかった。尋問だ」

「あれだけダメ男を(なぶ)り、人間の尊厳を崩壊させ、完全治癒できない身体に破壊しておきながら、ただの尋問? 外道人外の行為に他ならない! しれっとしたそのツラを、平気で(さら)せたものだ! あなたのカラダを達磨(だるま)にして××しても、」

「フー……やめよう」

「で、でも、」

「それはこっちも言えたことじゃない。だから誰も責めたくないんだ」

「でも、ダメ男はこの女の勘違いで復讐の的にされたのですよっ? 責める道理はあるはずですっ」

「いいんだ。さっき言ったように、オレがフーを盗まれなきゃ、あれを楽観視しなきゃ良かったんだ……」

 女は何も言えずに俯き、(たたず)んでいました。ダメ男は、

「少し日が落ちてきた。あんたも今のうちに荷物……いや、オレがそっちに行こう」

 ハンモックを片付け、荷物を入れて、あそこへと歩いてきました。女はダメ男から離れて付いていきました。

 

 

 日が暮れて、雲の隙間から夕日が見えています。その雲も夕日の橙色に染められて、離れていくほどに暗い影が迫っています。森が静かにしている代わりに、鳥の声やら虫の鳴き声やらが森に音を吹き込んでいます。

 女がいた場所は既に陰りが占めていました。しかし、そこから少し離れたところは、仄かに灯る光で周囲は照らされています。ちょうど地面が露出していて、ダメ男が焚き火を起こしていました。そこに鍋やカップが熱を受けています。

「う~ん……まだみたいだな。(ぬる)いし。あんたのもあっためる?」

「いや、私は結構だ」

「そう。めちゃめちゃ美味しいココアがあったんだけど、ざんねん、」

「いただく」

「……そうでございますか」

 女は膝下をタオルケットで(くる)み、ダメ男がくくり付けたハンモックに座っていました。

「……ほれ、できた。熱いから火傷しないでくれよ」

「ありがとう……」

 女はダメ男からカップを受け取ると、ふーふー、と中を冷まして(すす)ります。飲んだ後の吐息が熱かったようです。ダメ男はついでにフーも手渡しました。かなり(しぶ)りましたが、“熱湯風呂は嫌だ”とのことで、仕方なく承諾(しょうだく)しました。

「……ディンは、」

 夕食の支度をしながら打ち明けます。

「ずっと昔、依頼を受けて組んだ仲間の一人だ。本当に仕事だけの仲で、名前すら知らなかったんだ」

「そう、なのか……」

 何とも言えない表情で、ダメ男を見つめています。

「依頼は遠くの国に荷物を届けること。あんたの村とは全く関係無い。ただ、通りすがりに立ち寄っただけなんだ。でも、そこでオレの荷物が盗まれた……」

「私です」

 フーは女の膝上から小声で伝えます。

「その犯人があんたの弟たちだ。それは間違いないんだ」

「……」

 ダメ男はあちち、と反射的に手を離しました。そして、作業に戻ります。

「あなたの言う双子の弟さんで間違いないと思います」

「そう……。でも……あの村は生き延びるだけで精一杯なくらいに貧しい村で、その…………すまない」

 反論しかけて、途中でやめました。

「いいんだ。そこら辺はオレも(わきま)えてるつもりだし、とっ捕まえて返してもらえば良かったから」

「ダメ男はあの時、油断していたのです。依頼が簡単でしたし。何よりも盗まれることに慣れていますから、あまり気にしていなかったのです」

「……ふ」

 女は思わず笑いが漏れてしまいました。

「おい、さっきから何言ってんだよフー。ばっちり聞こえてんぞ」

「第三者の情報も(まじ)えた方がより明確になるかと思いました」

「それ、ほとんどオレの悪口じゃん」

「ダメ男は女性に対して、ダメダメになりますからね。それに対するフォローでもあります」

「だからオレの情報はいらんだろ別にっ。しかもフォローになってないし」

 先を読んだ女は、

「……えっとその、話を……」

 申し訳なさそうに(さえぎ)ります。悪い、とダメ男は小さく謝りました。

「それで、オレが取り返しに行こうとしたら、ディンが真っ先に追っかけていったんだよ」

 ダメ男は皿を二つ用意して、そこに料理を盛り付けていきます。

「ダメ男が依頼品を持っていたので、ディン様が行ったのだと思われます」

「ところが、悲鳴が聞こえてきてな。心配になって、残りの仲間と声のした方へ行ったんだ。んで、その途中にあった倉庫みたいな所に待機させてオレが行った」

「ダメ男はそこに私がいたのを確認して見張らせたんです」

「そうしたら……」

 

 

「!」

 あの砂漠の街での話です。フーを盗まれたダメ男が追い掛けた先で、既に子供が二人死んでいました。体格としてはおそらく、すれ違った子供と同じです。無情にも、額に黒い穴があり、後頭部を赤く(ひた)しています。痙攣(けいれん)しています。

 二人はマントを着ていて、ダメ男がそれを取ると、

「こ、これは……!」

 二人が融合していました。まるで鏡に映った者同士が両肩から横腹までをくっつけたみたいです。そのせいか、腕がありませんでした。

「“シャムの双子”、……?」

 片方の子供が身につけているズボンに何か入っていました。手に取ると、四角い木箱でした。開けてみると、

「……」

 “手紙”がありました。周りを見た後、しばらくそれを黙読していきます。そして、(おもむろ)にナイフを取り出しました。

「ここで居合わせたのも何かの縁だ……。オレが手向(たむ)けてやる」

 ダメ男は二人の接合部をナイフで切り離しました。とろとろと黄色い部分が(あらわ)になり、新たに血が地面に流れ落ちていきます。

「!」

「あ、あぁ……」

 ダメ男が振り返ると、一人の女が驚いています。

「……」

 女でした。

 ダメ男はゆっくりと立ち上がり、女に目を合わせることなく、擦れ違いました。ダメ男の背後で女が崩れ落ちました。

 

 

 どうやって作ったのか、ポテトサラダを二人で食べていました。できたてで、ほこほこと湯気が立ち上っています。

「私はそこしか見てなかった……。だから、あなたが弟たちを手にかけたのだと思うしかなかった」

「その時、あんたに恨まれるのを覚悟したよ。弁明しようがないし。だけど、オレはあの時拳銃を持ち合わせていなかった。荷物検査でもすれば、オレの無実は晴らせたけど、依頼品が盗まれるのが怖かったんだ。……言い訳をすればこんな感じだ」

「……ディンは、(やつ)はどうしたんだ?」

 ダメ男は水をこくりと飲みました。

「それ以来見てない。殺されてどこかに処分されたか、ヤツ自身が“盗まれた”か……って思い込んでた。でもまさか、あんたと手を組んでたとは思わなかったな……」

「……ディンは少ししてから、弟を殺した犯人を知っていると話を私に持ちかけてきた。そこからディンの情報を頼りに、私はあなたを追い続けた」

「……」

 ダメ男はポテトサラダをおかわりしに、席を外しました。その(すき)にフーが語ります。

「実は、ダメ男は念の為に拳銃を持っていました」

「え?」

 女はびくりと驚きました。ダメ男の話に真っ向から反していたのです。

「ですが、その一件を終えた後、急に銃なる物全てを解体処分したのです。罪逃れとも思いましたが、かなりトラウマになったのだと思います。その光景にも、あなたにも」

「……」

「悪夢に(うな)されることも以前より多くなりました。そのことを本人は自覚していませんが、(はた)から見ていれば一目瞭然です」

 ダメ男がむっとして戻ってきました。

「また変なこと言ってたろう?」

「ダメ男は全てが変ですからね」

「サラダにして食ってやろうか?」

「食べられるものならどうぞお好きに。心身ともに障害が出るのは明白です」

「……うぐぐ……」

 ダメ男はやけ食いしました。そしてお約束の通り、喉を詰まらせて急いで水を飲みました。

「……ふぅ」

「……ありがとう。どうやら私は今まで勘違いをしていたようだ」

「本当に信じるのか? 嘘ついてるかもしんないぞ?」

「……あなたが嘘をつくような人間に見えない」

「正解です。ダメ男は馬鹿正直で単純馬鹿です」

「お褒めの言葉として頂戴しとくよ、フー。覚悟しとけよ」

 二人はとにかく作りすぎたポテトサラダを食べるはめになりました。

「次はオレの番だ。どうしてオレを生かした?」

「……分からない。とても複雑な精神状態にあったから、激情の渦に巻き込まれていたから、今でもはっきりと覚えてないのだ。……でも、多分……フーがいたからだと思う」

「え? フー?」

 意外でした。

「フーは私の復讐には関係ない存在だ。……今思えば、正直、友人になれると思ったくらい親近感がなぜかあった。でもそれを感じた時、もしあなたを殺したら……フーはどうなるのだろう? そう考えると……殺せなかった」

「……」

 女はフーの紐を摘みました。ゆらりと一回転します。

「実は私も同じように感じていました。あなたの垣間見る優しさに、本当は違うのではと思っていました」

「なぜだろう……」

「……」

 しらーっ、とダメ男は眺めます。

「な、なんだその目は……?」

「あぁそういうことか。納得したよ」

「? 何か分かったのですか、ダメ男?」

「むしろ二人して気づかないのかよ」

「え?」

 ダメ男は立ち上がり、食器を洗いに行きました。

 

 

 食器洗いをして片付けてから、眠る支度を始めました。

「あんたはテントで寝ろよ。クマひどいからな」

「……あなたは?」

「せっかくの景色だ。空を眺めながら寝るよ」

「……でも、テントなんてどこに?」

 ダメ男はリュックから黒い包みを取り出しました。中は黒い傘でした。それを手馴れた手付きで組み立てていくと、あっという間に、

「バズーカの完成です」

「違うわっ。テントだ」

「こんなものがあるんだな……」

 ばず、テントの完成です。

「中はわりと広いから眠れると思う」

「……ありがと、う……」

「んじゃお休み」

 ダメ男はそそくさとハンモックに寝っ転がり、程なく眠りにつきました。

「は、早い……」

「ダメ男はいつでもどこでも眠れますからね。でも、景色は見なくていいのでしょうかね」

「確かに」

 女もフーと一緒に中に入りました。

「あなたは、」

 フーが(りん)として問います。

「彼をどうしたのですか?」

「……」

 女は用意されていた毛布に包まります。

「黙る気ですか?」

「……今頃、熊に食われているのかもな」

「真犯人なのに、殺していないのですね」

「……」

 女は毛布を頭まで(かぶ)ります。

「一人ではろくに眠れないのでしょう?」

「……!」

「あなたが彼に信頼しきっているところを見れば、心の()り所にしているのは明白です」

 もぞもぞと動きます。

「……好きだと、告白された」

「え?」

 キョトンとします。

「私を見かけてから一目惚れしたと……」

「なるほど。最大の謎が解けました」

「?」

「どうして彼があなたに協力するのだろうと思っていましたが、なるほど、弟の復讐を協力する話を手土産に……そういうことですか」

「……」

 瞳を伏せます。

「愛憎ともに持ち合わせることになりましたね。これからはどうするのです?」

「……時間が欲しい、と」

「なるほど」

「……ごめんなさい。私が……」

「もういいですよ。もう、私はあなたを憎みません。ですから、あなたもダメ男を許してあげてください。そして自分を責めないでください」

「……!」

「自分を責め続けて苦しんでいる人を知っていますから」

「……ダメ男……」

 すく、と立ち上がりますが、

「ダメ男には近づかせません。憎んでいないとはいえ、親近感があるとはいえ、信頼度はゼロですからね」

「……」

 言葉でねじ伏せられてしまいます。

 女はしぶしぶ横になりました。

「ですから、変なことをさせないためにずっと監視しています。さっさと寝てください」

 女はがばっと飛び起きてフーを見ました。フーはテントの出入口にいます。

「勘違いしないでください。あくまでも“あなたの監視”ですから。それにこちらも全然眠っていなくて眠いのです。さっさと寝てください。さっさと、寝てください」

 女はクスリと笑いました。

「俗に言う“つんでれ”だな、あなたは」

「私は違いますが、あなたには言われたくありません。ささっと寝てください」

「では、私が彼を奪っても文句はないな?」

「な、なんでダメ男が出てくるんですか?」

「あなたの発言は全て、彼が大切だって言っているのと同じだ。何かとこじ付けてるが、本質は同じだろう?」

「ち、違いますっ。ダメ男はただのダメ人間で、」

「動揺すると、口調がすぐ崩れるのがあなたの癖のようだな……。あはははっ」

「とっとと寝てくださいっ」

 女は満足気に眠りにつきました。

 

 

 そろそろ太陽が地平線から顔を覗かせる頃でした。真っ暗だった空に青みがかってきて、世界を照らそうとしています。風が吹くことなく、鳥や虫たちも眠っているのか、まったくの無音です。テントから女が出てきました。ぐっと身体を伸ばして、軽く動かしています。その後、すたすたと歩いて行きました。その先には、ハンモックがありました。

 まだ薄暗く、ダメ男がそこにいるかははっきりと見えませんが、女はそこで立ち止まります。

「……」

 じっと見ていました。ダメ男はまだ眠っているようです。しかし、

「……ぅ」

 ダメ男は(うな)っていました。

 少し()つと、太陽が見えてきました。その瞬間、世界が輝いて、(まなこ)に景色が映されます。

「!」

 はっきりと見える状況になって、女は愕然(がくぜん)としました。

「おはよ……」

「あ、あなたっ……」

 ダメ男の目は(うさぎ)のように真っ赤に充血し、目の周りはパンダのように真っ黒な“クマ”ができていました。

 全身が汗だくになっていました。

「うっし、朝食にするか」

「あなた、寝ていないのか?」

「ん? ばっちり寝たに決まってるじゃん」

「……」

 ダメ男はハンモックから降りて、朝食の支度に取り掛かりました。なんだか足取りが怪しく、頭がフラフラしているようにも見えます。

 女は一旦テントに戻り、身支度を済ませることにしました。

「ダメ男はどうでした?」

 フーが尋ねます。

「……不眠症なのか? 本当に……」

「それもありますけど、今回は別の理由もあるようです」

「……似た者夫婦……か……」

「何か言いました?」

「いえいえ何も」

 女がそれを問い(ただ)しても、フーは答えようとしませんでした。そこにダ、

「おい、朝食できた、……」

 メ男が……、

「……」

 思い切り殴り飛ばされました。隣でフーが、流石(さすが)は変態、と冷徹なる一言を放ちました。

 二人は朝食を取ることにしました。昨日のポテトサラダとロールパンで、ジャムも用意してありました。しかし、ダメ男は血の味しかしなかったそうです。ちなみに、顔の左半分が大きく歪んでいたようで、フーは笑いが止まりませんでした。

 朝食の片付けと荷物の片付けを早々と終わらせ、一休みしました。

「そういえば花、ありがとう」

「うん?」

「私がここに来る前から、花が供えられていた。ここの在処(ありか)を知っているのは私とディン以外にあなただけだ」

「……場所は分かってるんだ。行かないわけにはいかないだろ」

「……」

 ダメ男は左肩をずっと摩っています。

「……大丈夫か?」

「……」

 目を合わせません。ダメ男は少し震えていました。そこに、女が触れようとします。そして、触れました。

「私はな、……自害しようとしたんだ。あの後から」

「!」

 女の手にダメ男の震えが伝わります。ゆっくりと()でるように指先で摩ります。そして、(てのひら)で包み込むように撫でていきました。

「でもダメだった。怖くて引き金を引けなかった。他人には躊躇(ためら)うことなく引くというのに」

「……オレはフーがいなかったら、とっくにあの世にいると思う」

「昨日の話は……悪いかったが盗み聞きさせてもらったよ」

「……まじか。恥ずかしいなっおいっ」

「おちょくってるのか?」

 女はぐりぐりと左の顔面に指を押し付けてきました。顔の痛みも引かないようで、呆気なくダメ男は降参です。

 ダメ男の左肩をにぎにぎと柔らかく()みほぐします。

「人の生き死にをいちいち考えているようなら、もう旅をしない方がいい。あなたは感情が豊かすぎる。それはそれで正しいけど、これ以上は危険だ。精神崩壊しかねない」

「誰かに言われた気がする。でも無理だ。一生考えていくと思う」

「……人間らしい、とも言えるかもしれない」

「?」

 女の手は左肩から離れ、きゅっと自分の服を掴みました。

「人を殺しても負い目を感じないのは本当の怪物だ。その分、あなたは大丈夫」

「……あんたは?」

「私はもう手遅れだ。……怒り以外の感情が消え失せ、冷淡で(みにく)くなってしまった。殺戮(さつりく)兵器のようにな……」

「……それは、オレのせいだよな?」

「でも、もういいのだ。これからは気にしなくていいのだからな」

 女は皮肉って鼻で笑いました。

 ダメ男は何も追及しませんでした。できませんでした。その代わりに、

「あ、ちょっと、」

 ダメ男はいきなり女の手を(つか)みました。

「オレが言う資格なんてないけど……」

 ぎゅっと両手で女の手を(おお)いました。

「感情が冷めきったかもしれないけど、あんたの手はすごくあったかい」

「……!」

「オレたちは……生きてる。どんなに病んでても生きてる」

「……だから、なんだ?」

「……冷えてても生きた心地がしなくても、また元気になれるってことだ」

 ダメ男は照れくさそうに顔を伏せます。

「……あなたが、私を元気にしてくれるというのか?」

「ん、まぁそうなるのかな?」

「それならば、」

 女はダメ男を引き寄せました。

「え?」

「……」

 そして、抱きました。

 みるみるダメ男の顔が赤くなっていきます。

「な、なにしてっのっ?」

「私を……抱いてくれと言ったら抱いてくれるのか……?」

「は、はいっぃぃぃぃぃ?」

「いやか?」

 女は眉を潜めて、ダメ男の顔を触ってきました。熱くなっています。

「このシーンはカッ、とじゃなくて、大人の世界はNGなのっ! 健全な旅をしたいのっ! だから、」

「責任、どうしてくれる? 元はといえば、あなたがしっかり言ってくれれば良かったのだぞ」

「ぃ……! それはたしかにそうだけど、そのっ……」

 女はくすくすと笑みを(こぼ)しています。

 ダメ男がこの女を“異性”と初めて認識した瞬間、顔だけではなく身体全体が火照(ほて)り始めます。どきどきと心臓がペースを速め、頭が(しび)れて朦朧(もうろう)としていきます。おかしいっおかしい……、ダメ男がそう(つぶや)くと、女はただただ(うなず)きます。

 女はダメ男の顔を自分の方へ引き寄せていきます。ダメ男の眼は女の(くちびる)にしか向いていません。熱い吐息が触れ、おでこがくっ付きました。それだけで心臓が破裂しそうなくらいに興奮して、鼓動の音で何も聞こえなくなります。

 そして、口と口の、その間の距離が数ミリ……、

「ふふ」

「!」

 ふっ、と離れました。

「冗談だ」

「……」

 

 

「ダメ男」

「なんだよ」

(こく)ではありませんか?」

「何が?」

「あなたに(ゆだ)ねきっていたというのに、それを(こば)んだことです」

「なんでぬれ、じゃなくて、そういうのはナシにしたいんだよ。……第一、続いてってのは駄目だろ。それにディンがいるし」

「ダメ男も二人がデキていることに気付いていたのですか?」

「デキてるって……まぁ、堅物女が男の腕の中で眠ってるとこ見ればな……」

「あぁ、そう言えばそうですね。それはともかく、一度だけなら許しますよ」

「お前はオレの彼女かっ。しかもすごい上から目線だし」

「ダメ男はこれだから“ヘタレ”なのですよ。ムードや空気を読まないダメダメ人間なのです」

「むしろヤツは純情な男心を弄んだしっ!」

「本当に冗談だと思ったのですか? あの眼は本気でしたよ」

「えっ……? じゃなくてっ! もうやめよ、なっ! はいこの話終わり!」

「面白いのに仕方ありませんね」

「まったく……」

「……“イケメン食わぬは蜜の味”というシメでいいですか?」

「やめてください。表現がイヤラシイので」

「ナルシストもいいところです。ところでダメ男、あれは何だったのですか?」

「あれって?」

「木箱ですよ。別れ際に渡したではないですか」

「なんだったっけ? 忘れた」

「どうやら白痴(はくち)のようですね」

「それ差別用語! 本当に傷つくから使っちゃダメだぞ?」

「了解です。ところでダメ男、聞きたいことがあります」

「なんだよしつこいなぁ」

「ここはどこです?」

「企業秘密だ」

 

 

[……おねえちゃんへ

ぼくらとおねえちゃんはほんとうの“きょうだい”じゃないのに、やさしくしてくれてありがとう。おとうさんとおかあさんにすてられてないてたときに、おねえちゃんがたすけてくれたね。ぼくらのからだのことをへんなふうにおもわないで、いっぱいあそんでくれたし、ごはんもつくってくれた。そんなぼくらはおねえちゃんにめいわくばっかりかけていました。ぼくらのからだのこと、そのせいでおねえちゃんもいじめられているときいて、かなしくなりました。だから、めいわくをかけないでいられるほうほうをかんがえました。ぼくらがいなくなればいいんだね。

だから、いっぱいひとのものとっておこらせた。でも、ぼくらのからだをみて“ばけもの”っていったりして、はしっていったりするからだめだった。でも、ぼくらをころしたひとをおこったりしないでね。おねがいします。

ぼくらをころしたひとへ

ぼくらのからだをはんぶんこしてください。いつかふたりになって、おいかけっこしたかったのでおねがいします。ぼくらはおこったりかなしんだりしません。それとおはかはちかくにあるもりに……]

「男ってなんでこうも一人で抱え込んじゃうのかなぁ……? でも私、間違えてたみたい。待っててね。私もそっちに、……?」

 ふと箱が目につきました。箱の厚さに比べ、底が浅いように見えます。女は箱を逆様に持って、とんとんと叩きました。すると、

「!」

 ぱかりと底が抜け、ぽとりと何かが落ちました。それは小型ナイフでした。

「これは……×××の……」

 それを手に取って調べてみると、刃に文字が彫ってありました。ミミズが走ったような字です。

「……“生きろ、ナナ”……」

 それを少し眺めていました。そして、立ち上がります。

「偉そうに……人のこと言える立場じゃないだろう……」

 くすりと笑いました。

「突き返さないとな。でもその前に……」

 “ナナ”という名の女は、

「あ、姐さん……」

 それを見えるところに置きました。

 目の前にはディンがもぞもぞしています。

「全てを話せ。お前が知っていることを」

「……寝たふりをしていたわけですか……」

 ディンは縄でグルグル巻にされています。傍らには巨大な熊がいました。しかし全く動きません。

「……今まで騙していたのだ。本来なら熊ではなく、お前が死んでいた。だが、事が事だ。包み隠さず正直に話せ」

「……私が言うことを信じてくれなきゃ意味がないですよっ」

「それを判断するのは私だ。いいから話せ」

「……分かりました」

 こく、と唾を呑みます。

「結論から言います。私は殺していません」

「! なにを戯言を! じゃあ誰が弟を殺したのだ!」

「……自分です」

「……! まっ、まさか、」

「自殺です……」

「……嘘をつくなぁっ!」

 ディンの額に穴二つをくっ付けました。

「私はあなたの弟を容易に捕らえることができました……」

 

 

「待つんだっ」

「っあっ!」

「これは私の仲間の物だ。かえし、……! な、なんだその身体は……!」

「……」

「どういう、え……? いや、そういう病気なのか……?」

「……うん」

「そうだよ」

「……とにかく、盗んだ物を返しなさい。どんな人でも盗みはいけないんだ」

「!」

「おにいちゃんは……ぼくらを人として見てくれるの……?」

「……!」

「いまだっ」

「! な、なにをするんだっ! それは危ないから返しなさい!」

「ありがとうおにいちゃん。こんなぼくらを人として見てくれて……」

「! ま、まさか……やめろ! やめるんだ!」

「さよなら」

 

 

「……これが私の見たままの光景です」

「……お前の作り話だ……! 絶対にしんじない……しんじないぞ……!」

 ぼろぼろと泣いています。ショットガンががたがたと震えています。

「ダメ男さんのミスでも姐さんのせいでもない。私のミスなんです。……本当は殺されるのは私のはずだった。罰を受けるのは私……」

「……」

「だからお願いします。この件は私を殺して終わりにしてください。それで全てが片付くんです」

「! ……」

 ナナは酷く困惑していました。ディンのせいでもないダメ男のせいでもない。誰のせいでもない。逆にそれがナナの収まりきれぬ感情の嵐が行方知らずにさせていたのです。どこにも誰にもぶつけられない衝動がナナの中で暴れるだけです。怒りや憎しみ、迷いや不安、怖さと恐れ、穴という穴から抜け出しそうな感覚でした。

 ナナは混乱していました。ディンの話の正誤はどうでもいいとさえ感じてしまうほど。目の前の男が罪逃れのためなのか真実なのか、その判断を放り出してしまうほど。

 尋常でない冷や汗と失禁してしまいそうなほどの脱力感に見舞われ、全力で握っていたモノを落としてしまいます。暴発はしませんでしたが、全てのものから裏切られたような気分がしました。

「あぁ……あぁ……」

 ナナは崩れてしまいました。信じたい信じたくない、信じられない信じられる、その判断が波のように襲ってきました。

「あぁ……あぁっぁあっ!」

 嘔吐していまいます。気持ち悪い浮遊感、内臓が持ち上げられる感覚、脳みそをぐにゃぐにゃに揉まれる感触。

 ディンはそれを黙って見ていました。どうすればいいのか、分からなかったのです。

 ナナは再びそれを手に取りました。そして引き金を引き、

「姐さん!」

 損ねました。冷静でおちゃらけているディンが見せる初めての怒号。それにびくりとしたためです。

「それは……私に向けてください」

 芋虫のようにナナの所に寄り、額で銃口を自分へ押し流します。

「……」

 目を見開きます。すると、

「ごめんね」

 拘束していた縄を解いてくれました。

「ごめんね。おねえちゃんがいたいいたいしちゃった。もっとべつのことしてあそぼうね」

「! あっね……さん……」

 あどけない笑顔を見せます。厳格で凛々しい女が見せるものとは思えませでした。

「なにしてあそぼっか。ねぇねぇ」

「っ……」

 ぐっと抱き寄せます。

「? どうしたの? くるしいよぉ」

「……少し、このままでいさせてください……」

「よしよし、なかないで。いいこいいこ……」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 ナナの肩にどんどん染みが広がっていきました……。

 

 

 



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おまけ

 私の名はクーロ。灰色の毛並みのハムスターである。

 そして一緒にいるのがハイル嬢だ。ふわふわした茶髪に優しい目つきをしている。首元まで伸びたこげ茶のセーターにカーキ色のコート、茶色のブーツを着用している。

 今何をしているかというと、

「姫! 脇が甘いですぞ!」

 ウッシー殿に稽古(けいこ)をつけていただいている。先日の旅人の影響か、ハイル嬢は一段と真剣に取り組んでおられる。現在、体術を行っている。

 場所は国の外、サバンナだ。猛獣がいるものの、ハイル嬢がいるおかげで決して襲われることはない。むしろ私と同様に見守っているのだ。

「そらっ!」

「うわぁ!」

 その私はというと、

〔ハイルはどこか行くのかい?〕

 バッファローのゲンタの背中に乗っている。ゲンタにはハイル嬢の荷物が置かれている。

〔うむ。ハイル嬢は旅の準備をしておられるのだ〕

〔そうかい。ここらも少し寂しくなるねえ〕

〔二度と帰ってこないわけではない。その時は土産話を持ってこようぞ〕

〔クーロも気を付けるんだよ〕

〔うむ。チタオ王からハイル嬢の援助を頼まれている。命に代えてもお守りしなければ、〕

「よし、今日はこの辺にしましょう」

「はっはい。ありがとーございましたー」

 どうやら稽古が終わったようだ。

 すぐにこちらへ来て、汗を拭う。顔や首、手足の先まで汗をかいており、よたよたと歩くほどに疲れておられる。今回も相当(しご)かれたご様子だ。

 荷物から水を取り出される。

「んぐっんぅっ……はぁーっ。もうヘトヘトだよぉ……」

 ゲンタに寄りかかるハイル嬢。

〔はぁー! ハイルのニオイんはんはっ!〕

 悦に浸るゲンタ。

〔これゲンタっ! 何をけしからんことをっ!〕

〔動物でもこんないい匂いするのは滅多にいないよっ〕

〔このたわけ、〕

「それじゃあ帰るよクー」

 私を手に取り、セーターの胸ポケットに入れていただく。ここが私の定位置なのだ。

〔……ふふふ……ゲンタの反応が面白いな〕

 私も精進せねば……。

「……クー、変なこと考えてる」

〔え? いやいやそんなことはありませんぞっ〕

「……まぁいっか」

 ハイル嬢はとても不思議な力をお持ちだ。動物と対話、とまではいかないものの、それに匹敵する“融和”の感性があるようだ。言葉を話せない動物の気持ちを探ったり、獰猛な獣さえも仲良くなったりと動物の専門家も唸るほど。私は例外ではあるが。

「あ、そうそう、ウッシー!」

「何でしょう?」

 突然、ウッシー殿を呼び寄せた。

「そろそろ武器の練習したいなぁ」

「そうですな。でも、十人抜きを終えてからでないと……」

「あんなの無理だよー! 二人で限界!」

「し、しかし……旅というのは下手をすると百人抜きを強要される状況もあります。過酷な訓練を乗り越えねば命を落とすことになりかねません」

「むー……いいもん。そうなったらサイでもゾウでもハイエナでもコモドドラゴンでも呼んでやるんだからっ」

「いっ! そ、それは……」

「だーかーらーね? いいでしょ?」

「……ならば、条件を変えましょう」

「?」

 ウッシー殿はストレッチを始めた。

「私を倒したら、考えてもいいですよ」

「ほんとっ?」

「ただし、私も本気でやります。骨の一本や二本は覚悟してください」

「いいよー! じゃあ今やろうよ」

 へっ? とウッシー殿はキョトンとした。アテが外れたどころではない。良からぬ予感がしてならないのだ。こういう時のハイル嬢は恐ろしくえげつない。それはウッシー殿も百も承知なのだ。だからこそ、

「……分かりました」

 真剣にならざるをえない。

 その表情はさも戦場にいるかのような、少しの緊張感と多くの高揚。そして背後で渦巻く悪寒。

 一方のハイル嬢は、

「ふふふ」

 人が変わったように妖しく笑う。

 ハイル嬢はクスクス笑いながら、私をゲンタに戻してくださった。

〔これはまずい。嫌な予感しかないよ〕

〔同感だ〕

 想像はつく。おそらく“立場”を利用してウッシー殿を倒してしまおうという算段だろう。本気とはいえウッシー殿も配慮をせねばならない立場である。万が一の事態は避けなければ、自分の首が飛ぶ。あくまでもハイル嬢はチタオ王の娘、そして姫なのだ。

 お互いに準備を整えた。

 合図はない。向き合った瞬間、二人して身構える。ウッシー殿は足を肩幅に広げ、両手を胸の前に、開手で構える。ハイル嬢も同じような構えになるが、経験の差からか落ち着かない気もする。

 両者、六歩ほどの間合いを詰めていく。ウッシー殿は小さめにジグザクに、ハイル嬢は一直線に詰め寄る。

「!」

 先に動いたのはハイル嬢だった。

「……?」

 にやりと笑う。直後、

「!」

 すーっと構えを解いた。両腕を体側にぶらぶらさせ、いわばノーガードになる。

 一体何を考えているんだ? そう言いたくなる。しかしやはり“立場”を考慮しているのが窺える。突っ込めるか? この私に攻撃できるのか? そういう挑発に似た恐喝をしているのだ。

 思わず唾を飲み込む。

 ところが、

「行きます」

 ウッシー殿は退かなかった。足でドン、と地面を踏みつける。

「……! うわぁっ!」

 すると、なぜかハイル嬢が飛び出してきた。フェイントだ。ウッシー殿はハイル嬢の心理状態を読んでいた。まるで幼子が怖くて飛び出したかのようだ。ハイル嬢は恐れていたのだ。

 中途半端に距離を詰めたために、

「隙あり!」

 右正拳突きがハイル嬢の左胸部に突き刺さった。カウンターの要領で受けてしまい、一、二回転してしまう。狙いすました一発だった。

 地面で踞るハイル嬢。激痛で身震いしている。

〔ハイル嬢!〕

 私は急いで駆け寄った。幸い、近くだったためにすぐに着いた。

 左胸部を押さえている。脂汗がひどく、地面に滴っていた。

「う……うぅ……」

 もう勝負は決していた。それどころか、命の危険に……!

「姫!」

 ウッシー殿も駆けつける。ダメージを知るのはウッシー殿をおいて他にはない。事の甚大(じんだい)さを把握していた。

「姫! 大丈夫ですか!」

「う、うぅ……」

「動いてはなりません! すぐに医者を、」

 身体に触れていたウッシー殿の右手を握る。

「へ、へいき……」

 ハイル嬢の悲痛な表情。私も胸が痛んだ。と思いきや、

「え?」

 素早く立ち上がり、そのまま後ろを取った。そして後ろから押し倒す。

「……!」

「へへーん。甘いよウッシー!」

 右腕を真っ直ぐ空へ伸ばし、左側へ体重をかけている。ちょうどレバーを身体全体で引くような体勢だった。これ以上体重がかかってしまうと、右肩が壊れてしまう。

「ぐっ……!」

 見事なまでの関節技だった。

「降参しないと腕折っちゃうよー」

 ウッシー殿は苦悶していた。してやられた! そう顔に書いてあるかのようだ。

 木の枝を折るような嫌な音がする。

「つっ……こ、降参します」

「へへ、やったぁー!」

「し、しかしお怪我は……?」

「ないよー。だってわざと自分から転がったんだもん」

「……衝撃を殺していたと?」

「うん!」

「……」

 もはや認めざるをえないが、余計に頭を抱えるウッシー殿であった。

 

 

 結局、“騙し討ち”によって敗北したウッシー殿は武器の取り扱いの訓練に取り掛かった。不本意ながらも従うしかない。大の大人がハイル嬢に本気で敗北してしまった弱みを握られているからだ。

「それでは、何の武器がいいでしょう?」

「うーんと……ナイフがいいー」

「分かりました。ナイフ術からいきましょうか……はぁ……」

「うん、りょーかいしましたっ」

 それでも、ハイル嬢はとても楽しそうだ。もしかしたら、旅に出るのもそう遠くないかもしれない。

 

 

 




 本章もお楽しみいただけたでしょうか。水霧です。改訂済みです。
 “空・海・大地”とカッコよく三つの章を終わらせることができました……すみません、カッコよくないですね(笑)
 いかがでしたか? けっこう自信ありましたよ?(笑)
 もっと水霧を褒めてもいいんですよっ? たまには調子に乗っちゃっても……すみません(泣)
 本章では“ハイル”に続く新キャラ“ナナ&ディン”が登場しました。彼女たちも今後登場しますので、乞うご期待です!
 また、“もりのなかで”でついに“主人公”も登場しましたね。第二章第二話“きびしいとこ”の続編であります。どちらが強いか? と考えてみましたが、どう考えても勝てるわけがありません。この人チートですもん(笑)
 でもそのまま負けちゃうのもなぁと思い、ちょっと抵抗させました。結果は変わりませんけどね(笑)
 さて、実はこの章には“仕掛け”を打っておきました。皆さんお気づきですか? そんなもん知るか! とか興味なし、という方は……うん。まぁ……水霧悲しいです。もっと頑張ろうと思います。
 その逆の方は水霧嬉しいです。もし気になる方がいれば、その“仕掛け”の内容を書きしましたので、探したいという方はちょっと挑戦してみてください。……そこまででもないか(笑)
 ということで本章“あとがき”はこのへんで。次章もお楽しみあれ! ありがとございました!



――ネタバレはここからです。嫌な方はスルーをお願いします――
 実は本章の話は繋がっている話なのです(スペシャルストーリーは除く)。そんなのウソだ? いえいえ、ちゃんと“大地は繋がっている”とありますしね(笑)
 ただし、そのまま繋がっているわけではありません。バラバラに並べてあります。つまり、物語のアナグラムというやつです。地形であったり会話の内容であったりをよく読むと、その片鱗が見られます。順番は“わかいとこ”→“ゆるさないとこ”→“さむいとこ”→“かたいとこ”→“なつかしいとこ”→“ひろいとこ”。話数で言えば、五→三→二→四→一→六です。……こんなん分かんねーしつまんねーよ! という方……すみません。
 これからももっと挑戦して、もっと面白くしていきたいです。
――ネタバレ終わります――




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-朝・目覚めて-
はじめ:くろいあさ


「曰(いわ)く“一生遊んで暮らせる楽園”ですか」
「まぁ、中に入れば理由が分かるってもんだ」
 運良くヒッチハイクに成功したある男と“声”は街まで乗せてもらうことになった。向かう先は運転手が口にした“一生遊んで暮らせる楽園”。名称はとてつもなく素晴らしいが……? お人好しな男と辛辣(しんらつ)な“声”が送る変わった世界の短編物語、八話+おまけ収録。『キノの旅』二次創作。





 曇り空だった。雨は降りそうにはないが、分厚くて太陽の光を通さない。

 そんな空の下には“元”街があった。城壁はぼろぼろに崩れ、石材や木材で建てられた家や道、何かの銅像やモニュメントが破壊し尽くされている。(あら)わにされた家の中も何の部屋か分からないくらいに、めちゃくちゃにされていた。街路樹も根こそぎ掘られ、ところどころ黒ずんでいた。

 街の一番奥、門から真っ直ぐ進んだ突き当たりに大きな建造物があった。一階建てだが天井が高く、真正面に十字架が立てられている。十字架が見下ろした所に木製の長椅子が左右に十列並んでいた。もちろん荒らされている。天井には大きな穴があるし、椅子はへし折られていたり真っ二つにされていたりしている。

「ひどいなこれは」

 その建造物に男がいた。黒のセーターとパンツに、履き慣らしたシューズという格好だった。大きいリュックを背負い、左右の腰にそれぞれポーチを携えている。

「一体何があったんだ……?」

 壁や床を見るも、ただ事ではないことは明らかだ。

 黒い男は外に出て、歩き出した。歩いても歩いても、見えてくるのは荒れ果てた街並みと微かに立ち上る煙だった。瓦礫(がれき)が道を(ふさ)いでいることもあり、退()かしたり登って越えたりした。瓦礫自体が黒ずんでいたり赤く染みていたりしている。

「不気味だ」

「そうですね。あなたの頭並みに不気味です」

 突然“声”がした。その女の“声”も不気味だった。黒い男の周りに相当する人物がいないからだった。ちなみに口調は冷淡で見下しているような雰囲気だ。

「オレの気紛れで叩き壊されないようにな」

「一人ぼっちで旅することを考えれば、気紛れはないと思っていますので」

「信頼されているのか調子付かれているのか……」

 

 

 街中を見回りした後、廃墟も確認したが何もなかった。結局、十字架があった建造物で野宿をすることになった。

「……ん……ふぅ……す……す……」

 床に敷いたシートに身体を丸めて眠っている。しかし、

「……ん」

 すくっと起き上がった。

「急にどうしましたか?」

 “声”がぽつりと言う。

「……トイレ」

 男は起き上がると、中から出てきた。

 外は月明かりも人工的な明かりもない。鳥の呻く声しか聞こえない。

 ぱっ、と明かりが付けられる。男は携帯電灯を手に持っていた。手を伸ばし、進む方向だけを照らそうとする。その(おぼろ)げな明かりは男の膝下と地面しか見せてくれなかった。

 ゆったりとした黒いパンツに何かの破片や瓦礫が残る地面。その地面は鏡のような綺麗なタイルで占められているが、残念なことに断層かと思うくらいに亀裂が走っていた。

 地面……床はもう一つの明かりと脚を映し出している。

 ゴムを滑らせたような摩擦音が止まる。

「……?」

 男は“外”に出た。先ほどよりは幾分か暗さが和らいでいる気がする。

「……そこにいるんだろ? ふあぁ……」

 見回しながら声をかけた。

「そんなに荒く息を立ててるんじゃ、隠れても意味ないよ。ましてやこんな静かな夜なのに。……いや、もう“未明”かな」

 虚空に話しかけているようだった。

「出てこないんなら力づくで引っ張りだすけど」

 ふっと誰かが照らされた。

「……子供?」

 ちょうど明かりと同じくらいの背丈。少女が現れた。

「……」

 見る限り、穏やかな心持ちではなさそうだ。顔は傷だらけ、衣服はぼろぼろ、切れ目に素肌が露出している。そこも傷だらけだ。

「大丈夫か? 何かあったのか?」

 ふるふる、と横に小さく振る。

「まいったな。連れ出しちゃうといろいろ問題になりそうなんだけど……」

「……す……けて……」

「そうも言ってられないよなぁ」

 男は抱きかかえて帰る。少女がきゅっと首元に手をかける。耳元で、

「すー……すぅ……」

「あらら……? 薬……?」

 静かに寝息を立てる。

 男が眠っていたところに下ろし、掛けものをかけてあげた。男が着ていたセーターだった。

「その子はどなたですか? まさか、買ったのですか?」

「なんてこと言うんだ。……生き残りだろうから保護したんだよ」

「物は言いようですね。しかし、えらい懐きようです」

「依り代がないだろうからな。……とにかく、この街の事情を知ってそうだ。起きたら聞いてみよう」

「では変なことを仕出かさないように、例によって監視しましょうかね」

「よろしく、ってオレの方かよっ」

「静かにしてください。うるさいです」

「ぐっ……」

 少女はもそもそと何かを探し、それに頭を乗せた。男の膝だった。お気に入りのぬいぐるみを放さないように。

 

 

 




朝は照らし出す。あなたの眼に光を届けようと……。




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第一話:あそぶとこ

 枯れ果てた雑草がぽつぽつ生えた荒野だった。大地に水気がなく、乾いた砂が風で巻き上がる。晴れているがじめじめとしていて、太陽の光が肌にベタつくようで気持ちが悪い。そこに一本の道が通っていた。車が走れる程度には舗装されているが、土埃(つちぼこり)が酷い。

 荒野を見渡すと、道の遠い先に街が見える。双眼鏡を(のぞ)くと、古びたビルやら如何(いかが)わしい建物やらが集まっているのが見えた。

「あそこだ」

 一人の男が双眼鏡を下げた。肌黒で単発頭の男だった。背後には車一台が停まっている。中には別の男が眠っていた。

 肌黒の男は車に戻り、すぐに走らせた。

「もうすぐで着くぜ」

「ありがとうございます」

 眠っている男から女の“声”が聞こえた。冷淡できつい口調だった。

「いいってことよ。俺も帰るところだったんだ。それに、旅人さんも目的があってきたんだろ?」

「目的というほどのことではありません。ただ面白い街があると聞いたものですから」

「じゃあ、なんて呼ばれてるか知ってるってわけだ」

(いわ)く“一生遊んで暮らせる楽園”ですか」

「まぁ、中に入れば理由が分かるってもんだ」

「そうですね」

「……」

 憂鬱そうに街を眺める。

 車は街の方へ向かっていく。

 

 

 薄汚れたビルが建ち並んでいる。その間は暗く影を落とし、不気味だった。他にもバーや如何わしい店、武器屋や荒れ果てたレストランなど、街として治安が悪そうだ。

 空はなぜか黄色く(よど)み、太陽の光がどことなく(ゆが)んで見える。べっとりとした肌触りと異臭で気持ち悪い。それは道に放置された“様々な”ゴミによるものだろうと推測できた。道もいたるところに補修の跡がある。

 それでも、そこに住む人々は、

「今日も張り切っていくかぁ!」

「がははははっ!」

「おい、今日はあそこに行こうぜ!」

「いいなそれっ」

「ねぇあなた、少し遊んでいかないかい?」

 異質な活気があった。

 一台の車がその中を通っている。とある建物の前で停まった。そこは役所のようで、ガラスの入口に二人の警備員がきりりと直立していた。腰には警棒と銃を収めるホルスターが装備されている。

 車から肌黒の運転手と男が降りてきた。男は全身黒かった。フードのついたセーターと黒いズボンを着て、薄汚れたスニーカーを履いている。セーターの前面についているファスナーは胸元まで上げていて、そこに四角い水色の物体を下げた首飾りが見える。(そで)は掌の半分まで、(すそ)はズボンのポケットを覆うくらいに伸びている。両腰にはそれぞれポーチが付けられていて、セーターを盛り上がらせていた。

 その男が役所の中へ入ろうとした。

「どうもこんにちは!」

 警備員が敬礼をした。男は軽く会釈して、中に入る。

 涼しい。べったりと汗ばんだ身体を逆撫でするように冷気が突き刺さる。男はセーターのファスナーを首元まで上げた。

「お待ちのお客様、こちらへどうぞ」

 男は受付の女に呼ばれ、そちらに向かい、座った。

「入国の手続きを行います。お名前と年齢、身分、年収、滞在期間をこちらの用紙に記入してください」

「年収? 一応、旅人でこちらに寄っただけなんだけど……」

「あぁ、それでしたらそこは空欄(くうらん)で結構です。身分の方に“旅人”とご記入ください」

 男はさらさらと書いていく。期間は三日にした。

「それと、よろしければ、下の欄のアンケートにご協力お願いします。簡単なものですので」

「分かった」

 アンケートには好き嫌いや性格のこと、街の印象について記されていた。

「ありがとうございました。“ダメ男”様、でよろしいですね?」

「うん」

 “ダメ男”と呼ばれた男は(うなず)いた。

「少々お待ちください」

 受付の女はどこかへ行ってしまった。

 ダメ男は周りを見渡してみる。くすんだ白い部屋、天井や床にマス目が刻まれている。そこに、デスクワークをしている従業員十人がダメ男の向かい側のスペースでまったりしている。全員が気楽そうに箱型の機械を動かしていた。ダメ男とそこを隔てるのは長いテーブル。五人ほど座れる長さで真っ白な仕切りがされていた。少し下がると、どの席も()まっているのが見える。そして背後は約五十人座れる待合席が設けられていた。半分ほど埋まり、その中に肌黒の男が待っている。天井にカッと光るけいこう、

「お待たせしました」

 と、受付の女が戻ってきた。茶封筒を持っていた。

「こちらがダメ男様の資金となります」

「? 資金?」

「はい。詳しい説明をいたします」

 受付の女は淡々と説明した。要約すると、入国した者は老若男女関係なく一律の資金、券五十枚が支給される。それを使い、この街で存分に遊ぶことができる。この街を出るときには全額返済はしなくていいが、少しでも返済するようにしてほしい。返済はこの役所で行う。ただし、強盗や窃盗、遊び以外での資金の譲渡での返金は認められず、その資金で返済した者にはペナルティが課せられる。手持ちの荷物を換金所で交換することもできるし、そこで物品を購入することもできる。茶封筒は失くしても問題はなく、遊ぶ場所やルールは特に制限はない。

 最後に受付の女はパンフレットをダメ男に手渡してくれた。

「滞在期間には厳しい規則がありますので、きっちりと期間内に街を出発できるようにお願いします。それでは、ごゆるりとお楽しみください」

 ダメ男は一礼して、肌黒の男の元に戻った。

「手続きが無事に終わってよかったよ」

「これをもらったのはいいけど、どうすればいいんだか分からないな」

「この街で遊ぶには“それ”が全てだ。いやむしろそれ以外の使用方法はない」

「? どういうことですか?」

「この街は宿やバー、レストラン、ショップ、病院、公共機関といったものも全て無料なんだ。だから遊ぶこと以外に使えないんだよ」

「まさに“楽園”ですね」

「あぁ。じゃあまずは宿でも取ろうか」

「そうだな」

 二人は車に乗り、

「あんたはどうしてオレにそこまでしてくれるんだ?」

「その理由は宿を取ってからにしよう」

「分かった」

 宿に着いた。何かの単語をピンクのイルミネーションで光らせていた。見るからに怪しい。

「ここ……なに?」

「なんだよ、知らないのか。ダメ男、年いくつだよ?」

「……」

 中に入ると、

「!」

 ダメ男の顔が真っ赤になった。

「お前も男なんだから、こういうことも知っておけよ? これも“遊び”の一つなんだからさ」

「い、いや……でも……」

 宿に入るや、左にあるカウンターに刺激的な格好をした女がいた。受付のようで、肌黒の男は驚く素振りも見せず、すらすらと名簿に記していく。

「んふ」

 ウィンク。

「!」

 ダメ男は(うつむ)いてしまった。女がニヤニヤしている。

「意外とウブなんだな。……ほれ、これが鍵だ」

 金色の鍵だった。

「……それで、あの理由を知りたい」

「あぁ。実はな、外部の人間を紹介して宿まで案内すると、紹介料がもらえるんだ」

「なるほど。納得しました」

「それじゃあ、俺の役目はここまでだ。いい経験しろよ、少年」

 肌黒の男は宿を立ち去った。

「……」

「とりあえず、部屋に入りましょうか」

「あぁ……」

 女の視線を感じながら、部屋に向かった。

「なぁフー」

「何ですか?」

 “フー”と呼ばれた“女の声”は少し怒り気味だった。

「別に下心はないからな」

「男というものは物事を下半身でしか判断できないのですね。あなたは下劣で気持ち悪くてどうしようもなくダメ人間ですね」

「頼むからそういうことは言わんでくれ。そういうわけじゃないから」

「女たらし」

「……」

 部屋に入ると、

「意外と普通ですね」

 ほっと胸を撫で下ろした。

 六畳くらいの広さにベッドとテーブルがあり、浴室とトイレが一つになっていた。窓際にテーブル、その左にベッドが設置されている。それら以外は特にない。

 ベッドに真っ黒のリュックとウェストポーチを投げ捨て、床に寝転がった。

「今何時?」

「十六時三十二分です」

「微妙だな……」

「もしヒッチハイクが成功していなければ、今もあの荒野で野宿していたでしょうね」

「何回も拾ってもらってるけどありがたいもんだな。……少し昼寝するか」

「いけません。きちんとした睡眠が取れなくなりますよ」

「……分かった。じゃあ出掛けよう」

 ベッドに放っておいたウェストポーチを腰に付けて、宿を出た。

 

 

 日が傾いているようで、夕焼けが見えていた。街並みは黄色く色づくが、ベタついているようで、どことなく気色が悪い。

 宿は丁字路(ていじろ)の交点の左下の端にあり、左右に広がって怪しい店が建ち並ぶ。どの道も街の外まで一直線に繋がっている。街に存在する大道はそれしかなく、かなり分かりやすい構造になっていた。ちなみに役所は丁字路の下へ向かうとあるが、外に出るまで恐ろしく長い。地平線彼方まで続いている。

 ダメ男は通行人をちらちらと見る。

「楽しそうだな」

「そうですね。このような街には違法な店もあるものですから、裏道に行くのは控えた方がいいです。五体満足でここを()てるか心配になります」

「怖いこと言うなよ。とりあえず、目の前の店に入ってみるか」

 道を挟んだ反対側にはキラキラと光った店があった。甲高い音楽をあたりにまき散らしている。

 中に入ると、テレビの砂嵐をスロー再生したようなどぎつい騒音が暴れていた。大人数の人々が背中を向けあって並んでいて、四角い台に対面していた。異様な熱気だった。誰もが殺気立っていて、とても遊びに来ているとは思えない雰囲気だ。

 耳にイヤホンをした店員らしき男が、

「いらっしゃいませ」

 涼しい顔で声を掛けてきた。ダメ男の表情は苦悶で(ひず)ませている。

「そのご様子だと、初めていらしたようですね。こちらの部屋で説明をいたしますが、どうしますか?」

「……じゃあ頼む」

 かしこまりました、と口角を上げて返事した。

 案内されたのは応接室のようで、ソファーとテーブル、お茶請けの入った棚のみしかない。しかし、あの爆音はすぱっとカットされていた。

 ダメ男は一礼してから腰を下ろした。

「当店では、資金をこの玉に変換し、それを使ってスロットをするゲームを提供いたしております」

 店員はポケットから綺麗な銀色の玉を取り出し、ダメ男に手渡した。サイズにしては重量を感じる。

「えっと……“すろっと”って……?」

「失礼いたしました。つまり、同じ絵柄を(そろ)えるゲームです」

「はぁ……」

「絵柄や状況によって返ってくる玉が増減するのです。ですから、運が良ければ変換していただいた玉が二倍三倍となることもございます」

「なるほど」

「当店では、その玉の個数を券として発行し、系列店にて物品と交換できます。中には希少価値の高い物品もございます」

「へぇー。それは楽しみだな」

「はい。それでは実際の操作ですが、至って簡単です。実際にやってみた方が分かりやすいでしょうから、」

 店員が立ち上がると、背後にその台が準備されていた。

「実践してみましょう。このご説明で使用する玉は無料ですのでご安心ください」

 ダメ男は台の前にある椅子に座った。手元には何かを入れるスペースと調節ネジのようなツマミがあるだけだ。台は画面やらピンやらいろいろな装飾がされている。

「こちらのスペースは二段に別れていて、上段は玉を入れるスペース、下段は玉を受け取るスペースになっています。下段には、」

 透明な箱をそこに置いた。

「この箱で直接玉を受け取ります。そしてこちらのノブは玉の投入具合を決めるノブです。当店では右回りに(ねじ)ると玉が投入されます。実際にやってみましょう」

 台の後ろに回ると、台が動き出した。耳に突き刺さるような音楽が鳴り響き、ピカピカと光りだした。同時に、画面に三つの絵が現れ、縦回転に回っていく。

 玉を投入し、ノブを捩る。多くの玉が台に投入され、かちゃかちゃと衝突しながら下降していき、下の穴へと入っていった。やがて玉が無くなった。

「もう終わりか?」

「はい。今回は何も起こりませんでしたが、二つの絵柄が揃うと、“リーチ”となります。状況によってはリーチが変化し当たりやすくなったり、玉が増減したりすることがあります」

「……分かった。ちょっとやってみるよ」

 ダメ男はすくっと立ち上がった。

「ダメ男? どうしたのですか?」

「いや。なんでもないよ」

「それでは、券をお譲りください」

 ダメ男が茶封筒から二枚の券を渡すと、別の店員が入ってきた。透明な箱二つぶん持っていた。

「それでは、存分にお楽しみください」

「ありがとう」

 ずっしりと受け取った。

 部屋から出て、早速台に座った。先ほどとは違う音楽が鳴っている。

「ダメ男? 大丈夫ですか?」

「何が?」

「一つ一つの行動に無駄がありません。いえ、目に入っていないかのようにも見えます。誰の目もくれず、ここに座ったのです」

「早くやりたいなって思っただけだよ」

「それならいいのですが」

 ダメ男は箱に入った玉を鷲掴(わしづか)みにして、投入した。じゃらじゃら、かちゃかちゃ、ばちばち、ころころと耳に浸透していく。画面には、絵柄がぐるぐると回っている。……揃わない。じゃらじゃら、じゃららら、じゃらじゃら、ごちごち、じゃらっじゃらららら、……揃わない。じゃらじゃら、じゃらじゃら、じゃらららら、じゃらじゃら、じゃらららら、じゃらららら、……揃わない。

 鷲掴みに玉を投入。じゃらじゃら、かちゃかちゃ、ぱちぱち、じゃらららら、……揃わない。じゃらじゃら、ごたごた、ばちばち、じゃらららら、……揃わない。じゃらじゃら、じゃらっじゃら、じゃりっ。

「お」

 絵柄が二つ揃った。その瞬間、七色の懐中電灯を直接目に向けたかのような光が目を襲い、単調で軽快な音楽が鳴り響く。残りの絵柄が猛烈な勢いで回り回り回り……、玉が無くなった。

「なにっ?」

 急いで玉を投入した。ほっとする。そしてまた画面を見ると、まだ回っていた。ぐるぐるぐるぐる、スーパーリーチ! の掛け声と共にさらに勢いを増して回り続ける。また玉が無くなり、箱を逆さまにして投入した。さらに安心する。そして、回っていた絵柄に勢いがなくなり、ゆっくりと……、外れた。

「くっそ! 当たらないのかよっ! あんだけ時間かけといてふざけん、」

「ダメ男!」

「なんだよフー!」

「手元を見てください」

「あ? ……!」

 ダメ男の手元には、二つの空箱があった。

「気が付かなかったのですか? ダメ男はもう使い切ってしまったのですよ?」

「え? だってまだ数分しか()ってないだろ?」

「そうです。数分しか経っていません。それに、こちらの声も無視して集中していたのですよ」

「……」

 ダメ男はすぐに店を出て行った。

 

 

 宿に帰っていた。

「ダメ男、大丈夫ですか?」

「……」

 ベッドに(うずくま)っていた。

「なんだったんだあれ……」

「あの時のダメ男はダメ男でないようでした。何かに取り()かれているように見えました」

「……頭いたい……」

「どうしますか? 街を出ますか?」

「いや、三日って書いちゃったし……まだいるよ」

「分かりました。でも無理はしないでくださいね」

「あぁ。もうあそこはダメだな。身体に悪そうだ」

 

 

 翌日は、

「……このように、このメダルを使って絵柄を揃えていただきます」

「分かった」

「大丈夫ですか?」

「あぁ。大丈夫だ」

 半日使い、

「これ面白いな」

「ですが、動体視力で揃えようとしても、揃いませんね」

「それでも、けっこう当たってるしな」

「目が回ってきました。少し休みます」

「そうだな、オレもそうしよう」

 券を八枚無駄にした。

「なんだかんだで他のゲームも面白そうですね」

「このボタン連打のやつなんか、早すぎて認識してくれなかったよ」

「ダメ男、それはボタンをきちんと押せていなかったのです。ほら、“カチッ”と音が鳴るまで押してください、と注意書きがありますし」

「うわ……ショック……」

 次は、

「……このようにして、絵柄を組み合わせて、それに資金を賭けていただきます。勝つことができれば、その組み合わせに対応した配当をお渡しします」

「分かった。これも面白そうだ」

「そうですね」

 半日使い、

「……また負けた。あんた強いな……」

「いやいや、あなたもお強いですね。こんなに負けたのはあなたが初めてです」

「じゃあもう一勝負しよう」

「ダメ男、もう十八戦四勝十四敗です。弱すぎます」

「うっさい」

「私がやってみてもいいですか?」

「へぇ。いいよ」

 券を三十五枚使った。

「フー、意外にセンスあるんだな……」

「十七戦十六勝一敗ですか。コツを掴むと楽しいですね。他のゲームも遊んで、券を使ってしまいましたけど」

「……あと五枚みたいだ」

「次はどうします?」

「遊ぶ」

 ダメ男たちの遊びが激しさを増していく。

 次は、とある賭場だった。障子に(たたみ)という和室の部屋に十人ほどの客が向かい合い、真ん中の板にプレートを乗せていた。客が見る方向、板の端っこに上半身裸の男がいる。男の背中には刺青(いれずみ)がされていて、ごつい体格をしていた。男は手にサイコロと茶色の不透明なコップを持っていた。

 客の中にダメ男がいた。ちょうど真ん中の席にいる。

「では参りやす」

 男はサイコロをコップに入れ、ころころと転がした。そして飲み口を塞ぐように、コップの飲み口を板に押し付けた。コップの中でかちかちとサイコロが暴れているのが聞こえる。

「さあ偶か奇か! はったはったぁ!」

 客たちはどちらかを選びながら、プレートを板の真ん中へ差し出した。ダメ男も、

「奇数だな」

「偶数ですね」

 差し出した。ちなみに、五枚のうち一枚出していた。

「出揃いやしたね? それでは開けやす……」

 男がゆっくりとコップを開けていった。サイコロの目は、

「三五の偶!」

 合計して八だった。

 安堵のため息や悲痛な叫びで場をざわつかせた。

「外れた……」

 ダメ男は外れていた。

 部屋の四隅にいた黒服の男たちがプレートを回収していく。

「フーもやってみるか?」

「いえ。口だけ出しておきます」

「それではもう一度始めやす」

 同じようにサイコロをコップの中に入れ、板に押し付けた。

「さあ偶か奇か! はったはったぁ!」

 同じように客たちはどちらかを選びながら、プレートを板の真ん中へ差し出した。ダメ男も、

「偶数だな」

「奇数です」

 プレートを三枚差し出した。

「出揃いやしたね? それでは開けやす……」

 男がコップを開けていった。サイコロの目は、

「一四の奇!」

 合計が五だった。

「またはずれた……」

「ダメ男は本当にダメですね」

「うっさい」

 無慈悲にもプレートが回収されていく。プレートはもはや一枚のみとなった。

「大丈夫だ……ぎゃくてん、ぎゃくてんさえできれば……」

「負けフラグですね。ここで潮時かも、」

「それではもう一度行いやす!」

「え? ちょっとまってくだ、」

 サイコロをコップに入れ、ころころと回した後、

「すまんな“トウリョウ”! おいらはここで下りるぜ!」

 誰かが言い放った。男は、

「分かりやした。それじゃあやり直ししやす」

「あんちゃんもやめるんだべ?」

 ダメ男の肩に何かが触れた。それは手だった。

 その人は、ダメ男の隣の客だった。

「え? オレは、」

「はい! ここで下ります!」

 誰かは、へへへ、と下品に笑みを漏らしながら、ダメ男を外に連れ出した。客たちが一瞬注目したが、すぐに元へ集中する。

「それじゃあ始めやす!」

 遊びはまた始まった。

 

 

 二人はどこかの食堂いた。汚らしい内装で、カウンターには焼き鳥が焼かれている。そこに座っていた。

「俺のおごりだ。食え食え」

「ありがとうございます。あそこで連れ出してくれなければ、普通に負けていました」

「次はフーの言う通りにするつもりだったし」

 四十代後半の男だった。汚らしい格好をしていた。穴凹(あなぼこ)だらけの緑の上着にクリーム色のズボンを着て、汚れたシューズは(かかと)を潰して履いていた。

「あんたは?」

「俺か? 何でもない男だ。気にすんな」

 (しゃが)れた声で笑う。顔が火照(ほて)っていた。

「それにしても、お前はほんっとにセンスのカケラもないなっ」

「え? なんで? あんなの運じゃん」

「だからセンスがないんだよ。今まで全部な」

「!」

 目を丸くした。

「あ、あんた……ずっとオレをつけてたのか?」

「お前さんは幸運の女神様に見捨てられてたからな。さすがに心配になってな……」

 男はグラスの水をラッパ飲みした。どことなくきつい匂いがする。

「“遊び”のセンスがないっ。お前さんより、おじょうちゃんの方が良さそうだ」

「それほどでもないです」

謙遜(けんそん)しろっ」

 ダメ男もオレンジジュースを一気飲みした。

 出来上がった焼き鳥をもらい、がっついた。

「ほふっ、ほっ……」

「おじさん、オレに教えてくれよ。負けっぱなしは性に合わない」

「やめておけ。お前さんの気性に合わないよ」

「?」

「お前さんは素直すぎる。挙動から考え方から何から全てだ。だから簡単に見放されるんだよ」

「そうかもしれないけど……運なんだから仕方ないだろ?」

「そーんなこと言ってると、」

「!」

 ダメ男の左目に、

「取り返しがつかなくなるぞ?」

 焼き鳥の串が向けられていた。触れる寸前だった。

「……」

「行きながら話そう。おやじ! 今日も“ツケ”だ!」

「あいよ!」

 二人は店を出た。男が先に歩き出して、ダメ男が付いていった。

「玉やメダルといった遊びにゃ、確率を変化させる装置がついてると噂になっとるし、カードの遊びはカード自体やその他の環境に仕掛けがあるし、賭場にはサイコロに細工がされてる」

「え?」

「つまり“イカサマ”だ。まぁただの噂だけどな。でも、遊ぶにしても勝つつもりで行かなかったら、ただ金と時間を無駄遣いしてるだけだ」

「……」

 何とも言えない顔になるダメ男。

「フーはそれに気付いて……?」

「いえ。ただ、おかしな雰囲気ではあることは感じました」

「たとえ噂が本当だとしても楽に勝てるとは思っちゃいかん。俺だってきちんと準備はするしな」

「……そうだったのか……」

「お前さんのように純粋に気楽に素直に遊ぶ人間が辿(たど)る末路はただ一つ」

 男はある小屋に付いた。街の端っこにあり、古ぼけていて、今にも崩れそうだ。

「ここだよ」

 中には地下へ潜る梯子(はしご)があった。身軽に下りていく男にダメ男は、

「まっまってくれ」

 おどおどしていた。

 真っ暗な中に一方向から明かりが放たれている。それに、音が聞こえてくる。カチーン、カチーンと、金属を叩くような甲高い音。ダメ男には想像できなかった。

 (ほの)かに見える床に降り立つ。

「見てみろ」

「……!」

 目に飛び込んできたのは、

「ほーれ、ほーれ、ほーれ……」

「うお……おーい……」

「ちゃんと働けぇい!」

「ぎゃあぁぁぁ……」

「助けてくれえぇぇ!」

「いやだああぁぁ!」

「ぐずぐずするなぁ!」

「いぎゃあぁああぁあぁ!」

 (おぞ)ましい光景だった。ある者は鉄板を何十枚と運ばされていたり、またある者は複数で大車輪を回していたり。鎖で体罰を受け、身体でモノをいわされ、凌辱(りょうじょく)の限りを尽くしている。ぼろぼろの格好の老若男女が奴隷の(ごと)く働かされていた。街一つありそうな広大な空間に工場があるようだった。煌々(こうこう)と輝くのは炎と電気の明かりによるものだった。よく見ると、壁や床には赤い跡がいくつもある。悲鳴と轟音で空間が震えていた。

 ダメ男の額には、薄らと汗の膜ができていた。それだけでなく、脇や掌からじんわりと汗が(にじ)んでいた。暑いような寒いような、胸の奥が冷たくキンキンと痛むのに、吐息に熱が込もっている。

「な、なにしてるんだ、これ……」

「金属やら紙やら、この街に必要な素材を製造してる。もっと奥には農地があるぞ。ここで街の全てが(まかな)われているんだ」

「上は天国下は地獄、ということですか」

「そうだな」

「まさか……」

「これがお前の成れの果てだ」

「……!」

 突然の悲鳴。

「っ」

 ダメ男は目を(そむ)けた。

「街のルールは“金を返すこと”。でも、返せなかった連中はここに連行されて、一生奴隷として働かされるのさ」

「一生……? なんで……?」

「お前に渡された“金”はお前の“命”に相当するものだからだ。つまり、お前の命で遊んでいたわけだ」

「ふざけるなよ!」

 ダメ男は男の胸倉を(つか)み上げた。

「ふざけていたのはお前だ。自分で自分の命を(もてあそ)んだわけだからな。言わば“自業自得”。むしろ当然の報いだろ」

「命を金で買うだと? そんなことが、」

「馬鹿かお前。“地獄の沙汰も金次第”ってこった。俺がこうしてお前さんを助けたのもそうさ。十分に儲けさせてもらったからにすぎねえ。世の中全て“金”なんだよ」

「!」

 顔、

「ぐはっ」

 胸、

「んぐっ」

 腹、

「ぎゃあぁ」

 脚、腹、横腹。

「いってぇ……」

 男がダメ男を殴り、蹴り、踏み付け、叩き付ける。完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされる。ダメ男の意識が失くなりかけた時に、

「俺に感謝しなくていいぜ。これはお前さんの治療代だ」

 ダメ男の目に何かが覆われた。

 

 

「……っ」

 気が付くと、そこは宿屋の部屋だった。ダメ男はベッドで仰向けになっていた。

 痛い。身体中に鈍い痛みと鋭い痛みが走り回る。

「ダメ男。無事でしたか」

「……お、まえ……なんで……?」

「“馬鹿に付ける薬はない”とはよく言ったものです。ダメ男にぴったりの言葉です」

「なんだっと?」

「もし、あのままだったら、ダメ男も一生ここで遊ばれることになったのです」

「……とりあえず……応急処置だな……」

「いえ。それは済んでいます」

「……!」

 ダメ男はゆっくりと起き上がった。(ほほ)(まぶた)()れ上がり、そこに包帯や湿布が施されている。セーターを脱ぐと、殴られたと(おぼ)しき所も同じだった。しかし、身体が痛みと疲労で震えている。次いで荷物も徹底的に調べたが、特に失くなっている物はなかった。

 ひとまずそれらをはがし、お風呂に入ることにした。ここに泊まってから一度も入っていないらしい。

「こちらも持っていってください」

「……」

 フーに言われて手に取ったのは四角い水色の物体だった。テーブルに置かれていて、そこからフーの声が聞こえている。風呂場の脱衣所に置いておいた。浴室に入り、汗を流す。

「いった」

 ずきずきと痛む。内出血や腫れが酷い。身体中にできている。

「それが今回の授業料らしいですよ」

「要するに、遊びすぎると痛い目にあうってか?」

「はい。金輪際、関わらないようにと徹底的に(しご)いたようです」

「……あのさ」

「あそこの奴隷たちを解放しようと思っているのですか? 本当にダメ男のお人好しには、」

「ちがうよ」

「では、何ですか?」

「……ごめん」

「こちらこそごめんなさい。気軽に遊んでしまいました」

 ダメ男は風呂を上がり、タオルで拭った後に、怪我の手当てをした。

「楽しかったですか?」

「あぁ、楽しかったよ。でも後味は最悪だな」

「そうでしょうね。そうでないと困ります。遊びは依存性が強いらしいです。ダメ男も依存症になりかけたのかもしれません」

「……怖いな」

 綺麗に包帯を巻いた。

 ダメ男は黒のインナーに黒いジャケットを羽織り、ダークブルーのジーンズを履いた。一つ一つの動作に痛みが伴う。

「……今日で最終日か」

「はい」

「もう出よう」

「はい」

 ダメ男は宿を出た。

 

 

 役所に一人で入ると、受付の女が呼び寄せた。

「ダメ男様、こんにちは」

「どうも」

「今日でお約束の三日目ですが、出発いたしますか?」

「あぁ」

「そうですか。それでは、資金の方を回収いたしますので、封筒をこちらに提出してください」

 ダメ男はくしゃくしゃになった封筒を手渡した。中身を確認して、手元に置いた。

「おめでとうございます。これでダメ男様はこの街から出る権利を取得できました」

「? なんだって?」

「ダメ男様はこの街から出る権利を取得できました、と申しました」

 にこやかに言う。

「どういうこと?」

「ご説明します。この街は遊ぶために資金が必要ですが、実は街を出る権利も資金が必要です。その設定金額は人格です。我が街で独自に作り上げたスケールで人格を評価し、金額を設定します。たとえばダメ男様の場合、これだけで街を出る権利が取得できるということです」

 受付の女は券一枚をぺらぺらと(あお)ぐ。

「オレの命は紙切れ一枚分のクズってわけか……」

「いえ、全くの逆です」

「?」

「ダメ男様ほどの人格者はこの街にいるべきではないということで、設定金額が下げられたのです。つまり、人格が破綻している者ほど金額が高いのです」

「それって……なんのために?」

「我が街では悪質なギャンブルや勝負によって悪党が弱き者を支配し、弱肉強食のルールを作ってしまいました。それは我が街の警察隊に匹敵する力を持っていたのです。もし、これが世界中に広がってしまったら、この世の終わりの切欠(きっかけ)になりかねません。それほどに凶悪で劣悪な人間が、人格破綻している人間が(つど)うのです。そこで、街の長が考えました。逆にこれを利用して、人格者と悪党を選別すればいいのではないか、と。それで、作り直されたのがこの街なのです。本来の役目を悪党を拘留するための、言わば刑務所にシフトしたのです」

「そういうことだったのか……」

「それが、外部の者にねじ曲がって伝わり、“一生遊んで暮らせる楽園”となってしまったのです」

 強いため息をつく。

「ですから、ダメ男様は急いでこの街を出てください。あなたほどの人間がここに留まるのは時間の無駄としか言えません」

「あんたはどうなるんだ?」

「一部の施設や役所は警察隊によって完璧に守られています。そうでなければ、とっくに殺されているでしょう」

「……ありがとう」

「いえ、どういたしまして」

「ちなみにお伺いしたいことがあります」

 フーが尋ねる。

「何でしょう?」

「人格者を選別するのに、“紹介料”という制度があるのですか?」

「それは……分かりかねます。というより、そのような制度は現在にも過去にも未来にもありません」

「なるほど。それではもう一つだけですが、地下で奴隷として働かされているのはどのような方々ですか?」

「もちろん極悪犯やサイコパスといった方々ですが、中には人格者になりかけた方もいます。しかしいくら人格者であっても、この街の規則を守れないのであれば従っていただきます。いえ、むしろ真の人格者ならば守れて当然のはずです。ですから、地下に収容された方々は規則を守れなかった老若男女ということになります」

「分かりました。ありがとうございます」

 ダメ男は役所から出た。

 

 

 殺伐(さつばつ)とした荒野に一本の道が続いていた。枯れ果てた植物が所々で項垂(うなだ)れている。

 空は雨雲が占拠していた。既に、荒野にぽつぽつと雨粒が落ちていた。やがて、

「あ」

 雨が降り出した。(ぬく)い雨。荒野に降り注ぎ、老いた大地に染み渡る。雨音で無音がさらさらと打ち破られた。

 道の脇を伝って歩いていたダメ男は、道の上を歩き始めた。脇は泥となり泥濘(ぬかるみ)となり、水溜りを形成していく。

「雨だ」

「雨合羽はありますよね?」

「あるよ」

「でも、着ないということですか?」

「着るのがめんどくさいだけ」

「そうですね。“馬鹿は風邪を引かない”と言いますから、体調には響かないでしょう」

「オレは風邪を引いたからバカじゃないっと」

「ダメ男はバカな上にアホでドジで間抜けでクズでゴミでカスで女たらしで人格破綻の性格破綻者でノロマでジャンキーでギャンブル依存症でどうしようもないほどのヘタレ最低変態人間ですからね」

「オレに新たな称号が加わったな。全く嬉しくないし、誤解も(はなは)だしいし」

「もっとありますよ。教えてあげましょうか、カス人間さん?」

「遠慮しとく。途中で地面に叩きつけることになると思うから」

「そうですね。一人寂しく旅をすることになりますからね」

「……くそ、こいつに勝ちたい……」

 ダメ男はリュックから透明な合羽を取り出し、着込んだ。フードからジーンズの裾までカバーできるほど長かった。それと、ビニール袋を取り出し、リュックを包んだ。

「そういえば“紹介料”ってどういうことだったんだろうな」

「簡単ですよ」

「?」

「ダメ男の資金が“紹介料”ということです」

「あぁ、まるっきりカモだったわけか」

「ネギと鍋と牛肉としらたきと豆腐を持ったカモです」

「すごく家庭的で献身的なカモだな」

「ツッコむところが違います。鴨と牛の肉を同時に使うところですよ」

「混ぜるな危険ってこと?」

「三点」

 急いで息を整える。一瞬、投げ飛ばしそうな気配がした。

 昇りかける血を鎮めながら、ぐっしょぐっしょと歩いていると、

「さて、次はどちらに行きますか?」

 目の前に分かれ道があった。どちらも同じように遠くまで伸びている。

「うーん……じゃあ勝負して勝った方が行き先を決めるってのはどうだ?」

「いいですね。それでは、コインをお持ちですよね?」

「あぁ。あるよ」

 ダメ男はポーチからコインを取り出す。

「この建物の絵がある方を表でダメ男の勝利、そうでない方をこちらの勝利とします」

「なるほど、そういうことか。……いいよ。完全に運勝負だしな」

 ダメ男は弾く準備をした。親指にコインを乗せる。

「いけっ」

 コインを弾いた。くるくると高速回転して、あっという間にどこかにいってしまった。

「ちょっと飛ばしすぎた」

 それでも軌道を捉えていたようで、間もなく見つけた。

「……」

 コインは“側面”だった。

「奇跡だろ……。いくら雨で地面がぐちゃぐちゃになってても、地面に刺さって側面出すとか……」

「コインにまで、ダメ男の軟弱さが移ったようですね」

「ひとまず、殴っていい?」

「対象は自分の醜い顔面ですか?」

「誰がそんなイカれたことすんだよ」

「ダメ男はいつ、自分が正常であると思い込んでいたのですか?」

「フーをだよっ!」

「殴っても構いませんが、困るのはダメ男ですよ?」

「ぬぅ~!」

「さぁ、左に進みましょうか」

 フーが意気込む。

「え? だって“側面”じゃん」

「“表が出たらダメ男の勝利、そうでない方はこちらの勝利”と言いました。つまり、“表”に該当した時のみがダメ男の勝利ということです。“側面”は“表”ではないそれ以外、つまり“そうでない方”となります」

「なんか……屁理屈っぽい」

「ですが、勝ちは勝ちです」

「そうだけど……」

「これで、運も実力も無い男だということが証明されてしまいましたね、ダメ男」

「うっさい! あっでも、気付けなかったのは悔しいな、地味に……」

「では、ゆるりと行きましょうかね」

「あそこで気づいてればなぁ……あぁ! 悔しいですっ!」

「“ダメ男の遠吠(とおぼ)え”」

 ダメ男は道を歩いていく。じゃぶじゃぶと水溜りを跳ねながら。

 

 

 



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第二話:かくすとこ

 かつん……。

「ひぃっ」

 かつん……。

「ば、ばか! 押すんじゃねえよ!」

 ひた……。

「ひっひっふぅー……ひっひっふー!」

 ひた……。

「だ、だから押すなって!」

 暗い暗い、長い長い廊下。足元に点滅する赤ランプ。左手には窓があるが、墨で塗ったように真っ暗だ。右手にはところどころにドアがある。

 ここは廃病院。経済的、信用的、そして霊的な理由で潰れてしまった病院。そんなとても怖くてとても不気味なところに、

「な、なんでこんな目に……」

 男が四人いた。三人はそれぞれラフな私服で楽しんでいる。だが、残りの一人は涙目だった。黒いセーターに黒いジーンズ、新調した黒いスニーカーという服装だ。荷物はどこかに預けたようで持っていなかったが、ウェストポーチ二つだけは腰につけている。必要最低限、といったところか。そして首飾りを下げていた。水色とエメラルドグリーンを混ぜたような色合いの物体だ。しかしこの暗さのために黒みが強い。

 黒い男はびくびくしていた。

「“ダメ男”、どんだけ怖がりなのですか? さすがはダメ男です」

 男たちとは全く違う性質の“声”がした。妙齢の女の声で、冷淡で尖った語調をしている。

 そちらの方が明らかに不気味なのに、

「だ、だってよ……」

 平然と話す黒い男“ダメ男”。

「ひーっひっひっひっひ」

「うわぁぁっぁあぁっ!」

 今度は魔女のような怪しい笑い声。ダメ男はビビりすぎて尻餅をついてしまった。

「面白いですね」

「こんどや、やったらブン殴っかんなっ! フー!」

「ふふふふ」

 今にも泣き出しそうな表情。“声”の“フー”はとても面白そうに笑う。

「だから肝試しはやめようと言ったのです」

「あんな風に言われたらやるしっ、しかないじゃんっ!」

 

 

 それはとある街に入った時だった。近代的な街に入ったダメ男はある噂を耳にした。

「最近幽霊見かけるよね」

「うんうん。以前にも増して見る見る」

「やっぱあそこなのかな……」

 と、どこに行ってもその話で持ちきりだった。

 完全スルーのダメ男は足早に宿に泊まり、足早に出立するつもりだったのだが、

「お願いです。何とか原因を突き止めていただけませんか?」

「い、いや、でもでもうーん……」

 散策していたところを呼び止められ、依頼されてしまった。

「町長さんに頼んで報酬も弾むようにしますからっ」

「いやぁ報酬はいらないんだけどねっ、その何て言うか、」

「悪さをする幽霊みたいなんです。体調を崩したり、重病にかかったり、私のお父さんも不治の病で……うぅ……っ!」

「ダメ男はこんな幼気(いたいけ)な女性の頼みを反故(ほご)にするのですか?」

「今すぐ病院連れてけっ!」

「もう……お父さんは、お父さんは……うわぁぁぁぁんっ! しんじゃいやあぁぁっ!」

「ダメ男っ! お父さんが亡くなってもいいのですかっ!」

「いやだからそれはオレの管轄外だろっ! 医者にたのめっ、」

「うわぁぁぁんっ! いやぁぁぁっ!」

「ああああぁぁっ! 分かったよ! 行けばいいんだろ行けばっ!」

 ピタッ、と泣き止んだ。

「ありがとうございますっ。屈強な男性もお供につけますのでよろしくっ!」

「……」

 

 

「かんっぜんに騙されたよな……」

「いいではないですか。それに本当に困っていたみたいですし」

「……はぁっ……」

 ため息をつく。

 ここの廃病院は街から離れた山中にある。昔、あらゆる患者を受け入れていたのだが、院内感染が発生。その責任と賠償から廃業になってしまったらしい。付近の住民も利用していたのだが、近年、幽霊の目撃情報が寄せられ、次々と不幸な事故が相次ぐようになった。

 その調査と原因排除がダメ男たちに課された依頼だ。

「そんなの無理に決まってるよなぁ……。幽霊と戦えとか、逆立ちで世界一周しろっていうのと同じだからな、オレにとって」

「なら余裕ですね」

「いつからそんなに(たくま)しくなったっけかっ」

「逆に言えば、幽霊に勝てば逆立ちで世界一周できるということです」

「だから無理だって言ってんだろうがっ」

 周知の事実だが、ダメ男は幽霊が苦手である。

「ダメ男、今日はこれくらいにしよう」

「ま、まじっ? 急いで家に帰ろうっ!」

「何言ってんだ。ここで一泊するんだよ」

「なんでだよっ! こんな場所で休んだら呪われるわっ!」

「俺らが原因を追求するんだろっ? ……それともビビってんのか? 男のくせに?」

「あぁ、ビビってるよ!」

「正直だなおいっ」

「とにかく、元を突きとめないと、街の皆も困ったままだ。それは俺らも嫌だしダメ男も嫌だろ?」

「……そうだけど……」

「大丈夫だよ。死んだりしないさ」

「……うん」

 とても気弱なダメ男。

「なんだかかわいいですね」

 フーはニヤニヤしているところだろう。

 病院の一室で泊まることになった四人。だが、熟睡するのはまずいということで、仮眠を取り合うことにした。ちょうど四人なので、部屋の四隅にそれぞれ配置し、一人が監視役になると決めた。監視といっても部屋の中は既に調べてあるので、不穏な音や人を確認するだけ。それに視界はとても暗くて、人影すら見えない。とすれば、必然的に耳に頼る他ない。

「よし最初は俺が起きてるから、皆寝てくれ」

 ジャンケンの結果、ダメ男が起こすのは最後、つまり四番目となった。監視は十分なので、ダメ男の番になるまでに三十分の仮眠が取れる。

「フー、念の為にお前も起きてて」

「怖いのですか?」

「お願いだから起きててよ……」

「こうなっては仕方ありませんね。ふふふ……」

 完全に楽しんでいるフー。

 

 

 三十分後、

「ダメ男、お前の番だぞ」

「……んに?」

 仲間の男に起こされた。

「……そういえば、十分の監視ってどこでするの……?」

「あぁ、俺は仲間と駄弁ってたよ。監視っていっても、むしろ暴漢から守るためのもんだよ。俺らみたいな探索隊を襲う輩がいるんだ。まさか、本当に幽霊がいるって思ったのか?」

「……そう、だよな。そうだよな、うん」

 なんだか励まされたような気がしたダメ男。

 緊張の糸が急に切れたからなのか、ダメ男は起こしてくれた男と談笑した。他愛のない、くだらない話題だが、それだけでもダメ男は安心できた。よく考えれば、皆同じ状況下にあるんだ。一人で怖がる必要もない。ダメ男はそう思った。

 夢中で談笑していたのか、あっという間に十分過ぎてしまった。

「あ、次の人起こしに行かなきゃ」

「あぁそうか。じゃ、またな」

「うん」

 ダメ男は壁伝いに歩いていく。意外に距離が短いようで、あっという間に着いた。

「おーい、起きてー」

 膝を抱えて眠っている。ダメ男が声をかけると、むくりと起き、そそくさと歩いていった。

「さて、また頼むぞフー」

 そうやって何回も繰り返し、一夜を過ごしたのだった。

 

 

「特に何もなかったよ」

「そ、そうですか。ありがとうございました!」

「お父さんはどう?」

「不幸中の幸いで命だけは何とか……」

「良かったな。原因は分からなかったけど、それは後の人に託すよ。旅してる間に幽霊関係に詳しい人を見かけたら、ここに来るように頼んでみるよ」

「ありがとうございますっ」

 翌日、瞬足で廃病院を出たダメ男は依頼主である女に報告した。特に違和感はない。そう伝えると、宿泊先を用意してくれていたようで、

「お礼ですけど、一泊ほど宿を準備しておきました。どうぞそちらで泊まってください」

「……じゃあお言葉に甘えて……」

 ダメ男は報酬を受け取ることにした。

 宿は高級旅館を想像させるかのように、とても優雅で気品があった。部屋はもう、一室の広さではない。一家庭が住み込んでも何ら不自由ない設備と広さだった。

「……なんだこれ」

「すごいですね」

「昨日の今日でさらに豪華に見えるよ……」

「貧相な面構えもマシになるというものです」

「……今回だけは無礼講だ」

「あらら、珍しいです」

 早速荷物をベッドに投げ込み、ごろごろと寝転がった。ふわふわの絨毯で、そのままベッドに敷いても気持ちいいくらいだ。

「あぁ……贅沢ってのはいいもんだなぁ……」

「ご褒美ですね」

「幽霊もいなかったし、よく考えれば病院で一夜過ごすだけだったし、それでこの宿は破格すぎるっ」

「えぇ、そうですね」

「?」

 フーのとっかかりが気にかかった。

「何かあったのか?」

「何もありませんでしたよ」

「……」

 首飾りである四角い物体を外す。それにしらーっと視線を送る。

「何もありませんって」

 “それ”からフーの声がしていた。

「あからさますぎるぞっ。正直に話してくれ」

「いっいいのですか?」

「……幽霊系?」

「はい」

 即答だった。

「では言いますね」

 ごくり。

「前夜、あの部屋では不可解なことが起こっていました」

「不可解なこと?」

「よく思い出してください。人数はダメ男を含めて四人、その四人が部屋の四隅にいたのです。そして十分間監視したら次の人を起こしに行くというルールだったのです」

「……それが?」

「分かりませんか? では全員をそれぞれ1、2、3、4さんと仮定して話をします」

「なるべく簡単に頼む」

「何か置くものを用意した方がいいでしょう」

「うーん……ナイフでいい?」

 ダメ男はポーチから掌サイズのナイフを四つ取り出した。部屋にあった紙とテープで1から4を書き、ナイフに貼り付けていく。フーの指示でそれらを四角の頂点に置いた。分かりづらい方は実演してみましょう。

「まず1さんが十分間監視しています。次の人を起こしに行ってください」

「ん」

 “1”を一つ、次のところへ動かした。“1”と“2”が同じ場所にある。

「それで?」

「同じく十分間の監視です。次へ動かしてください」

 今度は“2”を動かす。次のところで“3”合流した。

「で?」

「またです。同じようにしてください」

 同様に“3”次へ移す。

「……!」

「気付きましたか?」

 ダメ男は“4”を持ち、次の場所へ……。

「……誰も……いない……」

 次の場所、つまり部屋の隅には……誰もいない。

「な、なんで? え?え……?」

「少し前に調べたのですが、これは“スクエア”といって、このルールだと五人いないと成立しない話なのです」

「でも……普通にできてたじゃん……」

「だから、そういうことなのです」

「……! ま、まさか……」

「ゆぅれぇいぃがいたぁんですよぉ」

 女の低い呻き声。もちろんフーの作り声なのだが、

「うわぁぁぁっ! やぁぁっ!」

 ダメ男には効果バツグンだった。

 全速力でベッドに駆け込み、キルトに(くる)まるダメ男。まるで雷に怯えている少女のようだった。それでも、

「そぉいぅことぉでぇすよぉ」

「やめろよフーっ!」

 しっかりとフーを握っていた。

「さらにですね、順番で考えると、幽霊を起こしに行ったのはダメ男なのです」

「え……?」

「だって、ダメ男は四番目、つまり“4”さんだったのですから」

「……」

「やっとぉあえぇたぁ~」

 フーを思い切り叩きつけた。

「いだっ!」

 そして深くベッドにうずくまる。

「ダメ男、なんてこと……ダメ男?」

 ぶるぶると震えている。

「……うぅ……ずっ、うっぅ……」

 嗚咽(おえつ)が聞こえる。

「ダメ男、情けないですね。泣いたのですか?」

「うぅ……っ、う……」

「本気泣きですね。困りましたねー困りました、ふふっ」

 困ったように聞こえない。むしろ笑みが零れている。

「話を聞いてください」

「……もうや……」

「大丈夫です。怖い話ではありませんから」

「……」

 それでも出てこなかった。

 仕方なく、フーはそのまま話すことにした。

「実は内緒で熱探知をしていました」

「!」

 びくり。

「ダメ男が起こしたのは幽霊ではありませんよ。実体のある人間です」

「ど、どうして……?」

「先ほどの話はあくまでも一つずつ移動した場合です。4さん、つまりダメ男が1さんを起こしに行く時に、誰もいないから怖い話になるのです」

「……?」

「分かりませんか? では、こちらに来てください。実際にやった方がいいでしょう?」

「……」

 ぐしぐし、と顔を拭いて、フーを拾いに行く。

「つまりこういうことです。一回りすると最初の位置から一つずつずれます。この“ズレ”が怖い話のネタになるわけです。よって1さんは2さんがいた場所に、2さんは3さんがいた場所、ということになります。ここまではいいですか?」

「うん」

「それで本題のダメ男ですが、ダメ男に起こされるのは本来は存在しない5さんです。そこで1さんが2さんのいた場所から、1さんが最初にいた場所に戻ったのです」

 フーの言う通りに、“1”を空いた所に戻した。

「……あぁっ! じゃあなにか、オレが起こしたのは1のヤローってわけっ?」

「そうです」

 “4”は“1”と合流できた。

「つまり、“1”さんが行き戻りを繰り返していただけなのです。ダメ男が話し終えたと同時に戻っていくのを、熱探知でも確認できました」

「話し終え……おい、まさか……」

「あの“四”人はグルだったのですよ」

「……あっぁぁぁぁっ! なんだそういうことかっ! でもなんか騙されたっ! ムカツク! 腹立たしいっ!」

「ははは。でも良かったですね」

「むかつくむかつく! とても許すまじっ!」

「ほんとにかわいい人です。ほんとに素直で単純で馬鹿正直ですね……ふぅ」

 

 

「見事に成功だな」

「あそこまで分かりやすいと、仕掛ける方にも(りき)が入るってもんだ」

「素直な旅人だったからな」

「今頃、宿で安心してるだろうよ、わっはっは」

「むしろムカついてると思う」

「でも高い宿取ったんだ。それで相殺してもらおうぜ」

「だな」

「……」

「どうした?」

「聞いてくれ」

「なんだ?」

「……お前が起こしたのって……誰だ?」

「はぁ?」

「最初の俺が旅人に起こされる時は場所を一つ戻すって約束だろ」

「だから、俺もちゃんと戻ったよ。現に俺は……って分かりづらいから番号な。“1”のお前に“2”の俺は起こされたぜ」

「問題は“3”のお前だ。お前は誰を起こした?」

「そりゃたびび、……!」

「どうしたんだよ? お前はそのまま旅人を起こしに行ったんだろ?」

「……俺、一つしか移動してないんだ……」

「えっ? じゃあ“3”が行ったところは……誰もいない……?」

「嘘ついてんなよ! 俺らまで驚かそうってのかっ?」

「ち、ちげーよっ! マジだってっ! だって旅人は俺らがグルだってこと知らないんだぜっ? ってことはヤツが一旦戻るなんてことしないだろっ」

「……」

「……」

「幽霊……?」

「……なのか?」

 

 

 



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第三話:ささえているとこ

 小雨が降っていた。さらさらと砂を落としていくような細かい音が辺りを優しく包む。雨雲が厚くないのか、曇りのように明るかった。

 そこに道があった。人二人分ほどの広さの石畳(いしだたみ)の道で、ぐにゃぐにゃとどこまでも伸びている。その両側は、

「こわ」

 (がけ)だった。誤って落ちてしまったら間違いなく即死してしまう。そのために道の両端には木で作った手摺りがあった。手摺りというより格子(こうし)に近い。

 その場所を遠くから眺めると妙な光景になる。まるで岩石の壁のような山が茶色の大地を二分し、バリケードのように立ち塞がっている。抜け道など存在せず、登ろうとしても勾配が急すぎて登れない。登るとなればロッククライミングとなるが、まるで鉄板のようにつるつるで凹凸(おうとつ)がないので現実的ではなかった。それが地平線の端から端まであった。その頂上になぜか先ほどの道ができていた。

 男がその道を歩いていた。黒いシャツに黒いジャケットを羽織り、ダークブルーのジーンズに黒いスニーカーを履いていた。黒い傘で貫かれた黒いリュックを背負い、両腰にポーチをそれぞれぶら下げている。ネックレスをかけており、胸の辺りで飾りが揺れている。水色の四角い物体だ。

 男は手摺りを両手で伝いながら歩いていた。

「なんなんだここ……。しかもここを通らないといけないなんて、どういう土地柄だ……?」

 かなりまいっていた。

「面白いですよね。このような場所もあるなんて、想像もしませんでした」

 突如“女の声”がした。淡々としていてきつい口調だ。しかし、

「オレも。バンジージャンプしたらすごそうだ」

 平然としていた。

 男は震える足を何とか前に出していく。

「さて、もっとすごい光景が見えてきましたね、ダメ男」

「もうわけわからん」

 “ダメ男”と呼ばれた男は呆れて笑ってしまった。

 目の前まで近づいてしまった。

「……」

「……」

 その人と目が合う。しかし、諦めずに姿勢を保っていた。

「フー、これ何に見える?」

 “フー”と呼ばれた女の“声”は、

「男性です」

 即答した。ダメ男も刹那(せつな)の後に頷いた。

「そりゃ分かる。……で、そこのあんたは一体何がしたいんだ?」

「……」

 男は無視してひたすら保った。

「邪魔してるのか? オレを小馬鹿にしてるのか?」

 男はひたすら無視した。

「ダメ男、この四つ()いを見てどう思いますか?」

「どうって……どうも思わないよ。ふざけてるとしか」

 男は道を塞ぐように、四つ這いになっていた。つまり、道を横切ってハイハイの姿勢を取っていた。(ひざ)と掌を地面につけ、膝を九十度の角度をつけ、肘とつま先はピンと立ち、頭を下げている。ただのハイハイなのに、そこはかとなく迫力と覇気を(かも)し出していた。たった一人で。しかもブーメランパンツ一丁で、雨で身体が湿っている。

 見事な体格だった。バレーボールでも詰めているかと思うくらいに発達した肩周り。そこから伸びる二の腕や前腕は表裏ともに筋肉の筋が明確に現れている。手の甲は太い血管と筋が交錯していた。体幹はというと、肩から首に伸びた筋肉が山のように盛り上がり、首を頑強に支えている。ぼっこりと背筋を這う背筋、溝を彫ったように鍛え込まれた脇腹、引き締まったお尻。そして大木かと思うくらいに強健に膨れた脚。男なら誰もが憧れる、理想的な肉体だった。

「……なんか通りづらいな」

「通ってもいいのではありませんか? 上を通った瞬間に、いきなり立ち上がって下に落とされると予測したのですね」

「いや、そうじゃなくてさ。最初はバカにしたけど、なんか、なんか……」

「なんか、何です?」

「オレが通るには早い気がするんだ」

「は?」

 思わず声が出た。

「どういうことですか?」

「そのまんまだよ。この人はなにか、使命感のようなものを持ってる気がするんだ」

「使命感ですか?」

「あぁ。他の人からしたらバカっぽいんだけど、本人にしてみたら本気なんだよ。命をかけてまでもやらなければならない、そんな覚悟を感じるんだ」

「この四つ這いに、ですか?」

「うん。だって見ろよ、この表情……」

 男はすっと目を閉じ、まるで精神を研ぎ澄ませているかのようだった。悟っているようにも見える。

「こんな危なっかしい場所で四つ這いに挑むことにプライドを感じる」

「へぇ」

「もしかしたらこの場所はこの人のためのものかもしれない。己の限界に挑戦する姿はまさに(おとこ)だ……」

「へぇ」

 興味無さ気に言う。

「ではどうするのですか?」

「オレは……あえて挑戦する」

「え? 何にですか?」

「この人の上を通る!」

 男の(まゆ)がぴくりと反応した。

「さっき“オレには早い”とか言いませんでした?」

「だからあえて挑戦するのだ。いや、挑戦しなければならないのかもしれぬ。未熟者のオレでもここを通れるのか試されておる。それは漢として逃げるわけにはいかぬのだ!」

「キャラが変わっていますよ」

 さらっと言う。

 ダメ男は足を持ち上げ、真剣な面持ちで動かしていく。男もさらに険しい表情でダメ男の足の運びを感じていた。まず背中を通過し、向こう側の地に足をつける。そちらに体重を移動しながら後の足を浮かせ、ゆっくりと持ち上げていく。当たらないように、触れないように、慎重に足を運ぶ。そして、

「よし!」

 ダメ男は見事、男を通過した。

「うおおおぉぉ! なんだこの達成感は! まるで偉大な山を制覇したかのようなこの充実感! なんと素晴らしいのだ……」

傍目(はため)から見たら、ただ(また)いだだけなのですけどね」

 ダメ男の興奮とは真逆に冷静なフー。ダメ男は男に一礼をして、先へ進んでいった。

 

 

「む?」

「また何ですか?」

 フーが呆れて言った先には男“たち”がいた。先ほどと同じような姿勢だが、三人の男がピラミッドを作っていた。下二人の背中に一人が乗っかっているような状態だ。

「なるほど。読めたぞ」

「どんどん増えていき、難易度が上がっていくのですね」

「そういうことだ」

「ですが、これを越えるには相当の覚悟がなければなりませんね。というか、これできるのかどうか疑問です」

「絶対に負けられない試合がそこにある」

「黙ってくださいバカ男。いちいち腹が立つのです。それに寒いですし」

 ダメ男は立ち止まるしかなかった。

「簡単です。全員突き落とせばいいのです」

「な、なにぃっ?」

 男たちは驚いた顔を一斉にダメ男に向けた。耳を疑った。

「お主はほんっとに何も分かっておらぬ……」

「何がですか?」

「そんな裏技使って何が面白い? 成長できるのか? できるはずがないだろう?」

「いや、別にレベルアップとかの問題ではなく、」

「だからダメなのだ……。それは一対一の勝負で素手相手にガトリングガンぶちかますくらいの所業。むしろ卑怯(ひきょう)だ」

「は、はぁ」

 男たちはなぜか納得するように頷いている。

「卑怯も戦術の内だが、TPOなのだ。これは漢のプライドを刀の鍔迫(つばぜ)り合いの如く、ぶつけ合い(しの)ぎ合う勝負。卑怯な戦術は己の刀にヒビが入るのだ」

「分かりました。こちらが悪かったですっ。もう好きにしてくださいっ、ばからしい」

 ふっ、とダメ男が笑った。なんか鼻につくようでムカツク。

 ダメ男は土台の男の背中に足をかけて登り、上に乗っている男に手をかける。完全に乗ったところでゆっくりと跨り、徐々に降りていった。

「よっしゃあぁぁぁぁっ!」

「先ほどより早くありませんかっ? さらっと突破しましたよっ?」

「それほど上達したってことだ」

「あれで何の経験が積めたのか謎ですね」

 そして進んでいくほどに人数が増え、巨大なピラミッドが立ちはだかる。しかし、次々とピラミッドを突破していくダメ男。いつになく、どことなく(たくま)しく情熱的で勇敢なような気がした。

 そしてまた次の関門に差し掛かる。

「! なんだと?」

「なんですかこれ!」

 男たちが立ち上がって、鉄板を持ち上げていた。その鉄板は奥まで伸びている。つまり、とてつもない長さの鉄板一枚を男たちが持ち上げていた。手前では男数人が四つ這いになり、階段を作っている。

「もうやる事なす事めちゃくちゃです。何の目的があって行っているのか理解不能です」

「ここを渡って行けというのか……?」

 男たちは頷いた。

「そうするしかないじゃないですかバカ」

「ならば、オレも己の限界に挑戦しよう!」

「ただ登って歩くだけでしょう大バカ」

 ダメ男は男の階段を駆け上がり、鉄板に乗った。支えている男は辛いのか、手がグラグラと揺れる。

「うわっ」

「意外に危ないですね。というか、最初から色んな意味で危ないですが」

 ダメ男は重い足取りで歩いていった。

「ダメ男」

「なんだ?」

「怖くありません? けっこうぐらついていますよ?」

「こんな揺れ、己の限界に挑戦することを考えればスパイスにもならん」

「まじですか」

「それよりも、足が疲れて歩けなくなる方が怖いくらいだ」

「色々とおかしいですが、揺れが怖くないのであればいいです」

 しかし、思った以上の揺れで平衡感覚を研ぎ澄まさなければならない。それをコントロールする筋肉を微調整しなければならなかった。しかも雨で鉄板が滑り、足に必要以上の力が入る。これが、

「はぁ……はぁ……」

 疲れる。ダメ男の表情に余裕がなくなってきた。

「ダメ男?」

「な、なんのこれしき……」

「疲れたら休んでくださいね」

「それはオレに負けを認めろと言うのか?」

「分かりました。ずっと歩いていてください究極バカ」

 

 

 そしてついに、

「おぉ!」

 切れ端が見えてきた。

「やっとですか」

「どのくらい歩いた……?」

「あれから二時間十一分です。無駄に長いですね」

「あと少しだ!」

 残り一歩。

「うおっしゃあぁぁぁっ!」

 ダメ男は飛び降りて、見事に着地した。

「まるでフルマラソンを走り終えたかのような達成感! ……やった、やったぞ……!」

「よかったですね。それで、今までの“アレ”は何の目的で行っていたのですか?」

 フーが最後尾の男に尋ねた。

「私たちは誰かを支えることを生きがいとしている。それが物理的であっても精神的であってもだ。君のように著しい成長を遂げる男を見るのが嬉しいんだ。人間として漢として、な」

「かっかっこいい……」

「よく分からない方々ですね。こんなバカなことをしているのでしたら、この山に通り道の一つや二つ開通してくれればよかったのに。それにあなた方がいなければ、通行人はもっと楽に通ることができるのに。そちらの方が多くの人々を助けることになり、支えていることにも繋がると思いますがね」

「……」

「……たしかに」

 男たちは力強く頷いた。

 

 

 ダメ男は山の頂上の道をまだ歩いていた。雨は止み、曇りになっていた。

「いやぁ、面白かったな」

「よく分からない方々でしたけどね。それに、ダメ男のキャラの変貌(へんぼう)ぶりが異常に気持ち悪かったです」

「男としてさ、やっぱ燃えるときがあるんだよ、うん」

「特にダメ男は単純明快ですからね。そういう影響をモロに受けますし」

「うん」

「少しはこちらの身にもなってくださいよ。落ちるのではないかとひやひやしました」

「ごめん」

「いえ、結果良ければ全て良しです」

 ダメ男は荷物を下ろして、一休みした。

「いいのですか? 休んだら負けになるのでしょう?」

「もう勝負は終わったからいいの」

「良かったです。いつものダメ男です」

「そんなにキャラ変わってたか?」

「はい。白から黒に変わるほどに、変化していました」

「まじか」

「まじです」

 フーはくすくす笑う。

「なんだよ」

「今思い出すとおかしいですね。ふふふ」

「なにがおかしいんだ?」

「ダメ男が男らしいことを言うと、想像を絶するほどの吐き気と悪寒がしたものですから」

「オレは男だ!」

「いえ、そういうことではないのです。ダメ男はダメ男なのだなと痛感しただけですから。ふふふふふ」

「それ、()め言葉じゃないだろ? よくわかんないけどさ」

「ふふふ」

「もう笑うな! あぁもう!」

「いやいや、ダメ男は本当に面白いですね」

「別に笑わそうとしたわけじゃないのに……」

 リュックを背負い、また歩き始めた。

「まったく、目が離せない男です」

 

 

 



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第四話:あべこべなとこ

 近代都市とも言うべく、巨大なビル群が迫るように建ち並んでいる。その(ふもと)にはたくさんの豆粒大のモノがゆっくり動いている。ビル群に沿うように道路が敷かれ、太陽の光を(さえぎ)られて薄暗い。

 あるビルの、とある一室。

「おはようございます」

 そこはホテルだった。

 目付きの鋭いボーイが訪ねてきた。

「は、はい……」

 ボーイの見る先に、女が一人ベッドに腰掛けていた。少し(りん)とした面持ちで黒髪がやたらと長く、不似合いな真っ黒のセーターと黒いジーンズを着ていた。

「初めていらしたとのことで……。何か不都合なことがありましたら、コールをお願いいたします」

 ボーイは退出した。と同時にため息をつく女。やれやれ、と(つぶや)いた。

「体調の方はどうです?」

 今度はどこからともなく別の女の声がする。口調がきつく、妙齢の女の声だ。

「かたこる」

 肩を上げ下げする。こきこきと骨が鳴ったような音。

「初体験ばかりでしょう?」

「まぁ……」

 実在している女は見た目と裏腹に、幼い声だった。

 

 

 いい天気だった。雲が空の三割ほどを占めるくらいの晴れで、のほほんと浮かんでいる。

 その下にはコンクリートジャングルがあった。灰色に彩る道、建物、橋、川の岸。ヒビや凸凹(でこぼこ)の一つなく、完璧に舗装されている。そこに人工的に等間隔に植えられた木々やその他緑。()け反って見上げるほどの高いビル群。今にも倒れてきそうな迫力があった。

 そんな都市に訪れた一人の男。男はたっぷりと肥えたリュックを背負っていた。フードの付いた黒いセーターに黒いジーンズ、薄汚れた黒いスニーカーという格好だった。セーターの(そで)は手の半分ほどを覆い、(すそ)はジーンズのポケットを隠してしまうほどに長い。

 男が都市の入口に差し掛かる。踏み切りのような簡素なゲートで、先に道が続いている。傍らに小さい小屋があった。そちらに向かい、

「どうも」

 無愛想に尋ねる。すると、

「お、どうもどうも。入国かい?」

 四十代の女がいた。警備員の格好をしている。

「できれば二日……いや三日間滞在希望なんだけど……」

「うーむ……申し訳ないんだが、この街では最低でも一ヶ月は住んでもらわないといけない規則なんだ」

「へ?」

 声が抜ける。

「ひとつきっ? さすがにそこまで留まれないな……。なんとかできない?」

「でも、その間は全て無料で贅沢し放題だ。というか、それが目的でやって来たんじゃないの?」

「いや、たまたま通りかかっただけで……。どちらにしても、少し骨休めができればいいんだ。なんとかしていただけないか?」

「……ちょっと待ってな」

 女は手元にある電話を取り、ボタンを押さず、いきなり話しかけた。ボソボソと、ちらっと男を見つつ。

 そして、

「ありがとうございました」

 電話を切った。

「特別許可が下りたんで、希望通りになるよ」

「ありがとう。……でも、すんなり通ったってことは条件付きなんだろう?」

「なかなか鋭いね。こっち来て」

 女が小屋に招き入れてくれた。入口とは別にドアがあり、ついて行くと、着替え室のような部屋に黄緑の液体で満たされたカプセルがあった。ちょうど人一人分の大きさで、怪しげに置かれていた。

「これに入ってもらうわ」

「えっと……何これ?」

 呆気(あっけ)にとられながら聴いた。

「大丈夫。あなたなら死なないわ」

「なにその根拠無き自信……。でも、仕方ないか。危ないって感じたらあんたを手にかけても逃げるから」

「いいよそれでも。さ、服を脱いでこの中に入って」

「えっ? 全部?」

「もちろん」

「……さすがに抵抗があるから部屋から出てくれないか?」

「その隙に逃げられたら私の首が飛ぶの。そこの窓とかね」

「じゃあ後ろ向いててくれ、いやオレが後ろ向くよ」

 男は荷物をカプセルの側に置いて、衣服を脱いだ。細身ながらも筋肉が凝縮している。さらに、いたるところに傷跡があった。

「いいカラダしてるね。さすがは旅人さんね」

「この中に入ればいいんだな?」

 男は淡々としていた。

 カプセルを開けてもらい、すぐに中に入る。呼吸器がつけられ、頭の天辺まで浸かった。

「そのまま待っててね」

 その言葉は男に届くことはなかった。

 数時間後、

「今開ける」

 女がカプセルを開け、引き上げてくれた。

「ぶはぁ! はぁ……はぁ……え?」

「成功ね」

 男は“女”に変わっていた。

 

 

 女は必要最低限の荷物を持ち出し、ホテルから出た。灰色の街並みを眺めながら散歩をする。

「この街は自然が無いことを抜かせば特に変わった街じゃないな」

「都会でありがちな風景といったところでしょうか」

「そうだな。まー実験も兼ねてるそうだから、普通の環境で普通のことをしてもらった方が都合がいいのかも」

「確かに。でも、せっかくですからいろいろと経験したほうが良いですよ」

「うん」

 女はベンチを見つけた。そこに座る。

「それにしても“フー”もあの中に入ってたら変わったかね?」

「そうかもしれませんね」

「面白そうだったのにな」

「“ダメ子”だけでも十分面白いですよ。想像以上に美人さんですし」

 “ダメ子”と呼ばれた女は目を見開いた。

「珍しいな。“フー”がほめるなんて」

「元が世界崩壊レベルでしたから、美人さんになったのでしょうね」

「思いっきりぶん殴っていいか?」

「レディたるもの、下品な言葉を使うものではありませんよ」

「……女になると妙に口調が柔らかいな」

「気のせいですよ」

 "フー”と呼ばれた“女の声”はふふふ、と笑った。

「ところでダメ子」

「なに?」

「服を買いませんか?」

「……は?」

「いくら何でもその格好は女性の格好ではありませんよ」

「お前、オレを着せ替え人形か何かと勘違いしてないか?」

「それほどの美人さんということです」

「あ、あほ! さっきから何言ってんだよ!」

 (うつむ)いた。横顔が真っ赤になっている。

「せっかく“女の子”になっているのです。今だけでも満喫しなければもったいないと思いませんか? すごく貴重な体験ですよ」

「……そこまで言うなら……」

 ダメ子は口車に乗せられた感じを否定できずに、

「……あれか?」

「そのようですね」

 洋服屋を見つけた。ショーウィンドウには女性が着るような洋服が展示されている。マネキンが着ていた。

 そこに入ってみることにした。

「いらっしゃいませ~」

「え?」

 ダメ子はびくりとした。店員たちが一斉に言ったからだった。それにやけに声が高い。

「おいフー」

「何でしょう?」

 フーにひそひそと問いかける。

「なんだよこの雰囲気は……? 普通じゃないぞ……! 女の服いっぱいだし……!」

「当たり前ですよ。看板見ていなかったのですか? ここは“イマドキ女子のファッション店”ですよ」

「なんだそれ? いみがわか、」

「お客さまぁ、何かお困りでしょうか~?」

 思わず、ひぃっ、と悲鳴を上げてしまった。フーは、

「ふふふ」

 内心、腹を抱えて笑っているだろう。隠しきれていないが。

「お、驚かせて申しわけありません!」

「い、いやいいんだけど……」

「もしかして、“元男性”の方ですか?」

「……まぁ……」

 女の店員はにこりとした。

「でしたら、お客さまご自身でお洋服を選ぶのは不安ですよね?」

「うん」

「もしよろしければ、ご協力させていただいてもいいですか?」

「本当? むしろそっちの方が助かるよ……」

「ありがとうございます!」

 ダメ子はホッとしていた。

「早速なんですけど、お客さまは普段どのような格好でいらっしゃいます?」

「黒が多いですね。下はジーンズで上着はタンクトップやジャケットというところでしょうか」

「それはもったいない! お客さまスタイルがいいのにっ! でしたらこちらをご案内いたしますね」

 店員はダメ子を連れて行った。

「なんでフーが説明してんだよ……! しかも気付けよ店員さん!」

「まぁまぁ。とりあえず服を選ぶことからですよ」

 落ち着いてきたダメ子は店を見回してみた。様々な洋服がハンガーで掛けられていたり、棚に綺麗に折りたたまれていたり、試着室があったり、天井にプロペラ、オシャレな棚、明かりが目に優しい暖色系と、本人にとっては新鮮なようだ。無意識にキョロキョロする。店内自体がオシャレだった。そこに多くの客が服を選び、試着し、店員と話をしていた。

 ダメ子が案内されたのは、大人っぽい服のコーナーだった。

「先ほど申し上げたように、お客様は細身でスタイルがいいんですよ。胸も大きいですし。なのでこちらの方がなじむかなと思いました。下着のほうはあとで選びますね」

「し、したぎっ? いいよそんな! つーかむり!」

 真っ赤にして手をぶんぶん振るダメ子。

「女性にとって身体にフィットしたものを選ぶのは重要なんですよ。カップの合わないブラをつけていると形が悪くなったり疲れやすかったりするんですから。恥ずかしいと思うより、身体を守る大切な作業だと思ってくださいね」

「そうなのフー……?」

「まさしく」

「う、うん、わかった……」

「それでは試着していきましょう」

 あれやこれやと服を選んでは試着を繰り返していく。

「けっこう疲れるな……」

 

 

「ありがとうございました~」

 ダメ子が店から出てきた。片手には袋がある。

 げっそりしていた。

「つ、つかれた……」

「ああいうものですよ」

「今日はもう休みたい……」

「どうしたのですか? 珍しいですね」

「肉体的にもそうだけど、精神的に疲れたわ……」

「でも良かったでしょう? 女性らしい服装になりましたし」

「これ変な感じするよ」

 青と白のボーターシャツに白いスカートだった。シャツは首元が少し見えているくらいに開いている。靴は茶系のハイヒールだが、足をバンドで巻くようなタイプで、網目のようになっている。素肌が見えていて、まるでサンダルとハイヒールが融合したようだった。

 ダメ子さんはお洋服をお買い上げしていた。袋に入ってるのは、買う前の服だった。

「クールというより、おしとやかな女性っぽい服装になりましたね」

「う、うん……」

「さて、これからどうします?」

「帰る……ちょっとトイレにも行ってくるわ」

「え?」

 ダメ子は歩き出したが、少し歩き辛そうだった。

 

 

 夕方を経て、夜になっていた。ダメ子は、

「この身体も服も環境も慣れないな……どうにも……」

 へばっていた。ベッドに寝転がっている。

「仕方ないですよ」

「これで襲われたら自己防衛できるかどうか……」

「そうですね。今のダメ子では(かな)わない可能性はありますからね。ダメ男では皆無ですが」

「非力だからな……」

「いえ、人間的な問題です」

「あ~、そっちか」

 ダメ子は、

「やめてください」

 ナイフを取り出した。

「何を勘違いしてるんだ? いつものお手入れタイムだろ?」

「確実に仕留めるためのお手入れですよね?」

「……そんなことないよー」

 ダメ子はクスリと笑う。

「とりあえず、棒読みの台詞を信じることにします」

「そりゃどーも。でも、お手入れは明日でいいや。しすぎてもダメだろうし」

「“釘刺すは(おぼ)れ死ぬがごとし”ですね」

「どっちもショッキングだなっ」

「ダメ子の頭の中がショッキングですけど」

「黙れ」

 ベッドにダイブインした。ごろりと寝返る。

「ダメ子、出してください。苦しいです」

「ん? そうだな……仕返しとして、パフパフの刑に処す」

「イヤミですか? 私に対する侮蔑(ぶべつ)と受け取っていいのですよね?」

「そんなことはありませんわよー。ふふふ……」

「今初めて殺意を覚えました」

「よかったですわ。いいこと覚えられて」

「ダメ子に一言言ってもいいですか?」

「なに?」

「“過ぎたるは及ばざるが(ごと)し”ですよ」

「この場合は“大は小を兼ねる”な」

「……っ」

「?」

「ぅ……」

「な、なんだよ……?」

「なんですか……ダメ男のくせに……ダメ男のくせに……ダメ男のくせに……」

「ま、まさか……これはまず、」

「うわあぁぁぁぁん! ダメ男のばかあぁぁっ! ばかぁぁぁ! ヘンタイ顔面崩壊○○○ン性犯罪者! うえぇぇぇん!」

 ダメ子の身体からサイレンの音が鳴り響く。鼓膜を突き破るかと思うくらいにうるさく、ダメ子は耳を手で(ふさ)いだ。それでも十分うるさい。

「おいおい、なくなよ! わるかったって! オレが悪かったから泣くな!」

「もう知らない! ばかばかばかあぁぁ!」

「オレがバカだったからフーおちつけぇぇぇ! 頼むから静かにしてぇぇぇ!」

 その後、ホテルの従業員や他の客に平謝りしてきたそうな……。

 

 

 二日目の朝。ダメ子は少し早めに起きて、いつものように早朝ストレッチとトレーニングを始めた。いつものようにパンツ一丁……は何かとマズイので、短パンにシャツの姿でいた。

「おはようございます」

 フーが起きた。

「おはよう」

「だ、ダメ子! あなたという人は、なんという格好でいるのですか!」

「別に誰かいるわけでもないんだし……」

「今は女性なのですから、少しは恥じらいというものを持ってくださいっ」

「いつもに増して口うるさいなぁ……」

「それとも、また、」

「あぁぁ、わかった! わかったから着替えてくるから待ってろ!」

 ダメ子は練習を早く切り上げ、シャワーを浴びた。昨日買ってきた服に着替えた。

「さて……髪乾かす、ん?」

 ノック音がした。

 タオルで髪をわしゃわしゃしながら、そちらに向かうと、

「少しよろしいですか?」

 覗き穴から、ドアの前に女が立っているのが見えた。教会のシスターのような格好をしている。

「何か用?」

「ここを開けていただけませんか?」

「……」

 ダメ子は頭をカリカリかいた。

「髪乾かしてからでいいならちょっと待ってて」

「分かりました」

 ダメ子は戻っていった。

「どうしました?」

 フーは声を掛ける。

「なんかシスターがいた」

「シスターですか?」

「あぁ。怪しいよな」

 ベッドから離れ、お風呂の方で髪を乾かしていく。

「髪長すぎ……。いったい何センチあるんだよこれ……」

「キレイな髪ですよね。まるで聖女のようにつやつやでいい匂いです」

「それはいいす、……ぎ?」

 頭が急に軽くなったような感じがした。振り向いてみると、

「ああいい匂い……クンクンすーはーすーはー」

 シスターがいた。

「なんじゃべればぎゃああぁおうああぁぁ!」

 悲鳴を上げて振りほどいた。

「な、なんでここに、っていうかどうやってドア開けて、ってかフーは! フー!」

 急いで戻ると、特に誰もいなかった。しかし、ベッドの枕元に手を伸ばした。水色の物体が置いてあった。

「どうしました?」

 それが“フー”のようだ。

「いや、なんでそんなのんびりさんなのっ? 勝手にあのシスターがオレの髪、ヘンタイであのえと、」

「ダメ子、落ち着いてください。あのシスターはここのホテルの支配人ですよ」

「……え?」

 背後にシスターがいた。ダメ子はすぐにリュックからナイフを取り出し、

「きゃぁ!」

 とりあえずシスターを拘束した。

「ダメ子サイテーです」

「うるさい」

 声が恐ろしく低かった。

「お前は誰だ? 嘘を言ったら首を切るから」

 切っ先が首に触れる。しかし、シスターは、

「フーさんの言うとおりです。私はここの支配人です」

 普通に答えた。

「どうやってここに入った?」

「マスターキーがあるんです。それを使いました」

「オレに何の用があってここに来た?」

「体調報告です」

「? 何だそれ?」

「あなたは性転換を受けられ、成功しました。なのでその様子を見に来たんです」

「……それならそうと早く言ってくれ」

 ダメ子はシスターを解放した。

「すっかり忘れてたよ。あくまでも実験だったんだよな」

「はい。これからいくつか質問するので、嘘偽りなくお答えください」

「……うん」

 シスターはボードを取り出した。そして矢継ぎ早に質問していく。体温、身体測定、食欲、睡眠欲、

「性欲はありますか?」

「え、えぇぇ……えっと……」

「きちんとお答えください」

「……はい」

「女性機能は維持されていますか?」

「……なにそれ?」

「つまり生理やそれに付随する体調のことですね」

「分かるわけないだろ」

「ダメ子、たとえばだるかったり腹痛がしたり、機嫌が悪かったりしませんでしたか?」

「機嫌を悪くさせるやつはいるけどな」

「あぁ、そういえば“ダメ男”とかいうバカでクズでゴミカスでどうしようもないほどの人格破綻者がいましたね」

「……あぁ、そういえば少しお腹が痛かったなー。でもいつものとは少し違ったから……なーんかおかしいと思ってたんだけどー」

「ダメ子かわいいです」

(すさ)まじい男女差別を感じた」

「まぁ、それで……今もですか?」

「……多少は……」

「なるほど、分かりました」

 ……と、とにかく、ありとあらゆることを質問や計測していった。

 ダメ子は赤面していた。

「……順調のようで助かりました」

「順調……なのか自覚ないな」

「無理もありません。男性から女性に完璧に性転換しましたからね」

「はぁ……」

「ご協力ありがとうございました」

「分かった」

 シスターはお辞儀をして、部屋を立ち去った。

「……フー」

「なんですか?」

「……女って大変なんだな」

「そうですね」

 

 

 ダメ子はまた街を探索した。道なりに歩いていったり、橋を渡ったり、川に沿ってみたり、細かく歩いた。しかし、特に目を引くものはなかった。レストランや雑貨屋、ビルや家など、日常生活にありがちなものばかりだ。ついでにお店で不必要なものを売り、必要なものを買っていく。

 ボトルを持って、こくこくと飲んでいた。

「ところでダメ子、伺いたいことがあります」

「なに?」

「性欲についてです」

「ぶはぁぁっ!」

 思いっきり吹き出した。真っ赤っかだった。

「な、なにいきなりっ?」

「今朝、“性欲はある”と答えたではないですか」

「そ、そうだけど、なんでこんなとこで聞くんだよっ?」

「単純な好奇心ですので、深い意味はありません」

「いや、下手したら十八禁に移る話題だろっ」

「大丈夫です。抽象的に言いますので」

「それでもダメだと思うぞ」

「ダメ子は、」

 ただ今、不適切な表現がありますので、少々お待ちください。

「――――――――」

「……今のは聞かなかったことにするから」

「なぜですか? 人として重要なことですよ」

「確かにそうだけどさ、時と場合を考えてくれ」

「そうですか。こちらとしても知りたいことだったので、すみません」

「今の言葉、すごく危ないぞ。いろんな意味で。聞いてる人がいないからよかったけどさ」

「え?」

「とりあえず、街を歩くか」

「は、はい」

 

 

 そのままぐるりと街を歩いてホテルに戻った。

「ごく普通でしたね。一日が終わるまで散歩で過ごすダメ子もダメ子ですが」

「んだな。……しっかし、よく男から女に体が変化する話ってあるけど……シビアだな……」

 ベッドでぐったりとしていた。長い髪が無造作にバラまかれる。

「女性は大変なのですよ? 自覚してくださいね」

「……」

 ごろごろと寝転がる。

「調子悪い……」

「あらま。それは大変ですね。すぐに身体を見せてください」

「なんでだよっ。セクハラだセクハラ!」

「女性同士ではセクハラにはなりませんよ?」

「相手が嫌だと思ったらセクハラになるだろっ」

「ですが、気になるのです」

「その話はいいだろっ。もう寝るわ」

「あ、待ってください、ダメ子、ダメ子!」

 そのままふて寝してしまった。

 

 

 三日目の朝。出発の日だ。

「ふあぁぁ……」

 ダメ子はいつものように起きた。ベッドで眠っていたはずなのに、なぜか床にいた。

 ストレッチと朝練習を済ませ、シャワーを浴びる。そして長くなった髪を乾かしていた。

「フー! もう出るぞ。おきてっ」

 ダメ子は着替えて、出発の支度をした。

「フー?」

「起きられません。ダメ子が来てくれないと起きられません」

「ガキかっ」

 ウェストポーチとリュックをテーブルに置いた。忘れ物の点検だ。

「……よし」

 無事なようだ。

 ダメ子はベッドに寄った。

「ほら、フー起きて」

 フーを拾い上げ、首にかけた。フーは黒い紐で繋がれている。

「こういう風に起こしてもらうのが夢でした」

「よかったな、夢が叶って」

「とてつもなく感動しています」

「どんだけだよっ」

 ウェストポーチを両腰に付けて、リュックを背負った。

「よし。出るぞ」

「えー。まだやり残しが、」

「しぶるなっ」

 

 

 街の出口に当たる踏み切りのゲート。近くの小屋の中に、

「なにぃぃっ?」

 ダメ子はいた。カプセルのあった部屋にいるが、警備員の女は困っていた。

「それ、本当なのかっ?」

「どうやらね……」

「なんでなんだっ?」

「あなたは“女性”に順応しすぎたようで、身体の構造からホルモンバランスから何から何まで完璧な女性になってしまったの。それはうちとしては喜ばしいことなんだけど……」

「もう戻れないのかよっ!」

「そうね……」

「まじかあぁぁぁぁっ」

 落ち込むダメ子。

「いいではないですか。これからは“ダメ子”として旅をすれば、いつもと違った視点になると思いますよ」

「女一人旅なんて危険すぎるだろっ!」

「それはそれで美味しい展開になりそうです」

「今回どうしたのっ? いつもとテンション違うんだけどっ。……とにかく、この身体じゃあいろいろと問題ありすぎる」

「たとえば?」

「言わせんなしっ!」

 はぁ、とため息をつく。

「……方法はなくはないよ」

 ぽそりと言った。

「え?」

 ダメ子は女に詰め寄った。

「なにかあるのかっ?」

「いや、むしろこれは賭けだけどね。……一応聞く?」

「もちろん!」

 女はダメ子にひそひそと耳打ちした。

「……」

「……これしかないわ」

「……」

 目が点になった。

「……うん、で、理由は?」

「詳しくは言えないんだけど、この試薬はホルモンバランスの乱れを利用して性転換を行うの。でもそれはあくまでも“仕向ける”だけで、そこから成熟していくようにするってわけ」

「つまり、実験を受けた段階では成功したわけではないのですね?」

「えぇ。ならもう一度性転換すればいいだけの話になるんだけど、さっき言った通りダメ子さんは“女性”に順応しすぎたの。通常より格段に早いペースで生理が発生したし、思考や性格まで女性らしくなってしまっている。つまり、男性に戻すには難しいわけね」

「でも、オレ男から女になれたじゃん」

「だから“試薬”なのよ。もちろん失敗だってたくさんあったわ。いえ、むしろ成功したことが奇跡に近いくらいよ」

「……じゃあオレは奇跡的に女になれたわけで、男に戻る確率も“奇跡的”ってこと?」

「そうね。そこでさっき言ったことに繋がるのよ」

「?」

「この試薬はホルモンバランスを崩してから性転換をするように作ってあるんだけど、最初からホルモンバランスを崩してカプセルに入ってもらうわけ。そうすればファーストステップはいらなくなるわけだから、成功確率が上がるんじゃないかって考えたの」

 カプセルをこつこつと(たた)く。

「あの、警備員さん? “最初からホルモンバランスを崩して”と(おっしゃ)いましたが、その方法ってまさか」

「ご想像の通り、――――――――よ」

「なるほど。納得です」

 ダメ子はがくがくと震えていた。

「どうするの? 男に戻りたいんでしょう? なら、あらゆることに挑戦するしかないわ」

「完璧に十八禁じゃねぇかよ……頼むからそういうの抜きでできないのか? その“ほるもん”ってやつを注射か何かで入れるとかさ……」

「もちろん可能よ。ただ、あなたの身体は元が男。下手にホルモンや薬剤投与したら、どんな副作用が起こるか……。それを考えたらオススメできないわ」

「……オレはやらないぞ……絶対にな! そしてみんなのために!」

「誰のためですか。まぁ、こちらとしては別に強制しませんよ。ダメ子はダメ子で新鮮ですしね」

「……ちくしょう……ちくしょおぉぉぉっ!」

 この後のことは想像しないでください。お願いですから。

「旅始まって以来の大ピンチですね」

 

 

 立派に晴れ渡っていた。草原の緑と道路の灰色で綺麗な彩りを飾る。

 その道路に一人の、

「……あぁ……」

「元気ないですね」

「そらな。本当にごめんなさい……」

「誰に謝っているのですか?」

「どっかの誰か」

「さすがはダメ“男”です」

 “男”が歩いていた。とぼとぼと。まるで元気を吸い尽くされたかのようだった。

「貴重な体験が出来たのですから、いいではありませんか」

「本当にやめてくれ。ミスリードだから」

「変な意味で言ったわけではありません。“女性”の気持ちが分かるということは、共感を得やすいということです。決して悪いことではありません」

「……元に戻れただけでもよしとしよう……うん」

「落ち込んでいるダメ男はダメ男ではありませんよ」

「……ありがと」

「いえいえ」

 うんっと背中を伸ばした。

「はぁっ! よし、次のとこ行くぞ!」

「さすが単純馬鹿ですね。次は楽しそうな場所なら良いですね」

「そうだな。ところでさ」

「何でしょう?」

「“大は小を兼ねる”」

「! ぅ、うぅ……」

「あっははははっ!」

「また泣かせる気ですかあぁぁっ! ダメ男なんて死ねばいいですっ! うわああぁぁんっ!」

「そ、そう落ち込むなよ。そんなやつでも好きなやつはいると思うよ」

「……え?」

 あっ、として、ダメ男は駆け抜けた。

「どういう意味ですかっ! このヘンタイ顔面崩壊○○○ン性犯罪者! 規制の渦に巻き込まれるがいいですっ」

「そういうことじゃないからっ! ったく!」

 

 

 



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第五話:かになとこ

 真っ黒な雲が空を覆い、土砂降りの雨が(ほとばし)る。昼間のはずが雨や雲のせいで薄暗く見えた。おまけに猛風が吹き荒れており、草原があれば根こそぎ巻き上げようかという勢いだ。しかしここはそういう優雅なものはなかった。荒地が広がり土地は凸凹、雑草やら野草やらが無駄に生い茂っている。そやつらのせいで泥池ができてしまい、地面はぬちゃぬちゃ、泥で飛沫(しぶき)を上げる始末。

 そんな悪地に辛うじて道があった。砂利と泥が混じった道で、そこだけは何とか歩くことができる。小さい水溜りが薄く広く形成されている。

 びちゃっびちゃっ、と泥水を含ませた足音。こんなところに旅人がいた。

「……ついてない」

 茶髪のパーマで幼い目つきの女の子だった。透明のレインコートを着込んでいる。縦筋の入ったこげ茶のセーターの上に枯れ草色のコートが見えていた。綺麗だった茶色のブーツはびしょびしょで泥まみれ。荷物は軍隊用のリュックサックに小さめのショルダーバッグ、そして左腰にポーチをレインコートの下で提げている。両脚の太ももにはホルスターがそれぞれ付いており、銀色の自動式拳銃を見せ付ける。

 顔にびちびちと雨粒を叩きつけられる。

 ついでに、

「寒いね。大丈夫?」

 セーターの胸ポケットにもそもそと動いている“もの”。

〔むしろ、そちらの方が心配でなりませぬ〕

 ひょっこりと顔を出した。短めのヒゲに愛苦しい瞳。もふもふした灰色の毛並み。

 これはハムスター。……そう、私のことだ。名前は“クーロ”。ペットである。

「だいじょうぶだよ。大きめのカサ買っといてよかったぁ」

 女の子の頭上では透明な傘が咲いている。

 この女の子こそが我が主、“ハイル嬢”である。訳あって旅に出ることになったのだが、それは別の話。語るに尽くせなくなるのでやめておきたい。

「旅ってタイヘンなんだね」

〔そろそろ国が見えると思われますが……〕

「うん。せめて雨宿りしたいなぁ」

 にこりと優しく笑む。柔らかい。そして明るい。こんな悪天候でも元気いっぱいなのがハイル嬢の良いところである。

 ぐしょぐしょと健気に歩いていくと、

「!」

 人が倒れていた。両手を前方に放り出すように、前のめりに倒れている。泥水の中に飛び込んだように見えるが、顔を横にして何とか溺死を避けていた。こんな浅い水溜りで溺死というのも複雑な気分である。

「転んだようじゃないね」

 傘を首と肩で挟み、仰向けにさせる。

「お、おもい……大丈夫?」

 すぐに容態を診られる。出血や外傷といった大きい怪我は見当たらないが、やけに小さい傷が目立つ。特に顔や手に擦り傷や切り傷があった。

 見たところ、三十代後半の男のようだ。青のオーバーオールに赤黒のストライプの上着を着ている。しかし雨と泥水のせいで変色していた。

「……ぁ……」

 意識はあるようだ。

「どうしたの?」

「う……ぁ、へった……」

「へった? 何が?」

「……は、ら……」

「……えっと、お腹がへったってこと?」

「あぁ……」

 男はがくりと頷いた。そのまま戻ることはなかった。

「え? 死んじゃったっ? うわぁっ、どうしよう! あぁっ!」

〔落ち着きなされ! まずは安静なところに、〕

「ど、どこかないっ? うーん、仕方ない! おじさん! もうちょっと歩けるっ? ここじゃ休めないから、もう少し頑張って歩くよっ!」

「……」

 ぴくりと指が反応した。そしてハイル嬢の肩に腕をかけ、ぐっと立ち上がった。

 ハイル嬢も気は抜けない。男の状態を診ることもそうだが、演技しているとも考えうる。つまり盗人ということだ。隙あらばハイル嬢の銀銃を奪い、恐喝するともある。

 嵐の中、男に肩を貸しながら歩くこと半時、道から外れた荒地に木々が群生しているのを発見した。椰子(やし)の木のようだ。雨風を凌ぐには不都合だが、そこで休ませることにされた。

 男を木に持たれかけさせ、雨に当たらぬように傘で防ぐ。

 荷物から携帯食料を取り出し、二つほど施された。ゼリー状の銀包みで、吸収が早いものだ。本来ならばハイル嬢の昼食なのだが、致し方ない。それで何とか処置を済ませることに。

「……うぅ、とにかく、たすけないと……」

 男は余程空腹だったのか、あっという間に吸い上げる。好みの味だったのも幸いしたようだ。

「んっはぁ!」

「だいじょうぶ?」

「……あっありがとうよ、旅人さん……」

「うぅん。ヘビの生き血でもって思ったんだけど、ちょっと手持ちが少なくてケチっちゃった」

「そいつには及ばねえよ……へっへ」

 苦笑いなのか失笑なのか。ともかく元気を取り戻したようだ。

 私もほっとした。

「ん?」

 ざらざらと打ち付けていた雨が弱まってきた。猛風は止まずとも、(おお)いに助かる。

「運がいいね。……さて、もう少し休む?」

「あぁ」

「うんうん、ムリしない方がいいよね。……休むついでに聞きたいんだけど、おじさんどうしたの?」

「……ちょうどな、荷物を届けた帰りだったんだ。でもこの天気で馬車が壊れちまってなあ……。馬は逃げるわ食料は風で吹っ飛ばされるわで死にそうだった……」

「すごい災難……ってことは村が近くにあるんだね?」

「そりゃあな。馬車ならあと三十分くらいで着くと思うんだが……」

「はぁ~、やっと見つかるよぉ……」

 三つの意味で安堵の表情を見せられる。それは私もだ。ようやっと街にありつけるのだから。愚痴を言いたいが、ハイル嬢に悟られるとまず、

「……」

 ……ともかく、見つかってよかった。

「……旅は辛いだろうな」

「もうさ~、一ヶ月も見当たらなくてっさ」

「俺より災難じゃねえかっ!」

 

 

 十分に休憩を取られた後、我々は街を目指した。馬車で三十分だから、目的地までは一時間強はかかるだろう。

 時間としてはまだ夕刻ではないはず。この天候と体調で時間感覚が相当鈍っているのだ。最近は少食気味で無茶なさっており、今日は食事すら取られていない。余計な体力を使わないために、黙々と歩き続けるしかない。

 雨は弱まるものの、降り続けている。随所で見られる泥溜まりに波紋を作る暇もなく、降りしきる。

 口調や表情はいつも通りだが、私としては些か余裕が無いように感じてしまう。本当に大丈夫なのだろうか……。

「ふぅ……ん? どうしたのクーロ?」

 ハイル嬢の表情を確認していた私を気遣われる。

「心配しないで。あとちょっとだよ、ほら」

 男を誘導しながら、そして道案内をしてもらいながら進むと、関所が見えてきた。丸太を突き立てたバリケードに木製の扉がつけられているだけのものだ。横にも同じように伸びている。扉の前には二人の男が立ちはだかっていた。上半身裸に穴だらけの黒パンツという謎の格好で、レインコートすら着ていなかった。ただ、色黒で逞しい肉体をしている。手には木製の槍を持っている。

「何者だ?」

 左側の門番がこちらへ向かってくる。

「あ、いや、あやしいものじゃ、」

「おっお前は! 大丈夫かっ! ケガはっ?」

 ハイル嬢の背後にいた男を見るやいなや、駆け寄った。

「ないぜ。こちらの旅人さんが助けてくれたんだ」

「それはなんと……! 失礼した!」

 ハイル嬢へ一礼した。

 いやぁ、と照れながら、

「いやいや、そんな大きいことしてないし……」

 俯かれるハイル嬢。

「この男は村の重要人物でね。死んでいたら村の存続が危ぶまれるところだったのだ」

「そんなに大切な人だったんだね。ちょっとうさん臭い感じがしてたんだけど」

「無理もないな、はっはっは」

「ちっ、二人して笑いやがって」

 男は二人を置いて歩くと、

「俺はもう行くぞ」

「ああ。しっかり休んでな」

 じゃあな、と言い残し、村の中へ入っていった。

「さて旅人さん。あなたにお礼をしないと。何かしてほしいことはあるか? そこまで大層なことはできないが……」

「いやいや、すっごく助かる。何日か骨休みさせてほしいんだけど」

「そんなことでいいなら。……その前に一度、村長と顔を合わせた方がいいだろう。付いてきてくれ」

 木の軋む音と共に扉が開いた。こくりと固唾を呑み込む音が聞こえた。

 村は広大だが、土を押し固めたような大地にポツポツと丸太小屋を立てているような、簡素なものだった。自然物はほぼ存在しない。あるといえば、外で見かけた雑草やら野草やらが申し訳なくある程度。また、凹凸も激しいためにそこら中で水溜りができていた。私が思うに、道のど真ん中に急遽作られた村ではないだろうか。つまり、開拓された土地ということだ。

 雨ということもあるのか、閑散としている。一応、人はいる。彼らは小屋の中から我々を窺っているのだ。裸同然のボロ布を身にまとい、虚ろな瞳や虎のような瞳を向けてくる。一言で言えば怖れている、とでも言うだろうか。

 そんな殺伐とした雰囲気の中、

「今日は寒いねー」

「そうだな。雨は夜通し降るそうだから、風邪をひかんようにしないと」

「うんうん。でも、ここじゃ火は()けないね。すぐ火事になっちゃう」

「あはは。そうだな」

「村人さんはみんなで集まって暮らしてるの?」

「ああ。なるべく資材を無駄にしないように、とのことだ」

「みんなで集まって暮らしてるのって、少しうらやましいな」

「できればでっかい城にでも住みたいさ」

「ふふ、そうなのかな」

 ハイル嬢は相変わらず暢気でおられる。いい意味で(?)空気が読めない……のか。

 十数分付いて行くと、

「……?」

 女の子が歩いてきた。まともな服がないようで、全身ずぶ濡れであられもない姿だった。それによたよたと足取りも危うい。

 ハイル嬢は少女を呼び寄せられ、傘の中に(かくま)われた。

「だいじょうぶ?」

「……」

 虚ろな瞳を伏せている。

 よく見れば、骨と皮しかないほどに細身だった。骨が浮き出て筋張っている。ご自身の親指と人差し指で輪っかを作り、彼女の手首に通された。指がくっつくどころか、親指が人差し指の第一関節に届いているではないか。

 ハイル嬢の目付きが一瞬険しくなられた。

「ねぇ門番さん。タオルとか食べ物とか持ってない?」

「すまない。持ってない」

「そっか。じゃあわた、じゃなくて、ぼくの貸してあげる。カサ持っててね」

 少女に傘を渡すと、リュックから綺麗なタオルとシャツを取り出し、少女を(ぬぐ)われた。タオルに水分と汚れがついていく。そしてシャツを着せてあげた。食料はさすがに譲られなかった。こちらも厳しいためだ。

「……」

 言葉に発しないが、とても嬉しそうだった。

「旅人さんは優しいんだな」

「ぼくが優しいんじゃないよ」

「?」

「この村がおかしいんだよ。女の子がこんなカッコで歩いてるのに、どうして何もしてあげられないの?」

「……」

 門番は言い返さなかった。

「……ごめん」

 ハイル嬢もそれ以上は追及なさらなかった。この村の光景を見れば、簡単な問題でないのが容易に想像できるためだ。

 少女と手を繋いで歩いていく。同じような小屋が並び、一番奥の小屋に案内された。村の端っこにあるようで、小屋の背には丸太のバリケードが広がっている。ここが村長の家らしい。他の家よりも広く、ある程度は頑丈そうだ。それでも押せば倒れる代物だが。

「ここだ」

「はいさ」

 着用されていたレインコートをバサバサと扇ぎ、水滴を飛ばされる。少なくなったのを確かめて、レインコートを入れる透明の袋に、そしてショルダーバッグに突っ込まれる。

 木のドアを開け、中に入られると、

「お、おおお……これはこれは可愛らしい旅人さんだ」

 村長と思しき老婆が座っていた。白髪の老婆だった。緑のTシャツに白のパンツというラフな服装だ。肌黒く、しかしどことなく気品があり、無意にかしこまってしまう。この老婆が村長様に違いない。

 一部屋に全ての物があった。右手の奥にキッチンが、左手の奥は寝室が。キッチン周りには小型の冷蔵庫と食器棚が、寝室にはベッドと本棚、あと机が設置されている。村長様が座られているところはおそらくは居間。小さめの丸テーブルに二つほど茣蓙(ござ)が敷かれている。

 ハイル嬢は玄関の脇に荷物を下ろされると、

「自己紹介の前に村長さん、この子……」

 少女を話題になさった。

「これはこれは、迷惑をお掛けしました。さ、こちらに来なさい」

 少女はハイル嬢にしがついて、離れようとしなかった。くすりと微笑むと、頭を撫でられた。

「……おびえてるの? 大丈夫だよ。後でまた会おっか、ね?」

 宥めるも、それでも離れない。

 それを見兼ねた門番の男が半ば無理やり引っぺがし、彼女にこそこそと話してから外に出て行った。

「……と、こんにちは村長さん。ぼくはハイル、この子はクーロだよ」

「こんにちはハイルさん。村の者を助けていただいて感謝しています」

「いやいや……なんか照れるなぁ」

 照れ屋さん。

「あの人が村にとってかけがえの無い人だと思わなかったよ」

「ええ。旅人さんが見ても分かる通り、この村はひどく貧しい。ロクに物がなかったこの村を救ってくれたのがあの方なのです」

「へぇ。具体的に何をしてくれたの?」

「えっと……例えばこの村の産業、この自然を利用して素材を売買したり家畜を飼育したりと」

「それを活かさない手はないね。たくさん国は回ってないけど、ここは自然がいっぱいで好きなところだよ」

「ありがとうございます」

 ハイル嬢、言葉遣いが……。村長様の機嫌が良いからまだしも、初対面でいきなりそれは……。

 もしかすると、村長様はハイル嬢を子供の旅人という認識でしかないのかもしれない。もちろん当たっているけれども。

 こんな調子で半時ほど雑談なさった。この村に来るまでの経緯と他の国の話を少々なさる。村長様は興味深そうな反面、若干恐怖を覚えられていた。馬車の男が襲われたために、この村が標的にされないか心配とのこと。詳しくはあの男に聞かねば分からぬが、早急に対策が必要である。

「……あ、私としたことが。旅人さんもお疲れになったでしょう? 何日くらい休まれますか?」

「うーん、ちょっとだけだけど、長居するわけにもいかないし。……二泊でいい?」

「ええ、構いませんよ。この家の隣に空き家がありますから、そちらをお使いください」

「ありがとー! 早速行ってみる!」

 はしゃいぎつつ、空き家に向かわれたのだった。

「“アレ”をご用意しなさい」

「はい……」

 

 

 六畳ほどの広さに窓一つ、床はコンクリートというすっからかんな状態だった。あるといえば用意していただいた布団のみ。この村では意外なほどに綺麗な布団だが。話によると、倉庫として使われていたものの物が無くなってしまい、今では空き家とのこと。

 なるほど。立派な家屋ではないが、寒さは完全には防げないが、一所(ひとところ)としては十分だ。床がコンクリートのために冷たさが直接伝わるものの、雨漏りもなく、布団も暖かそうである。

 ハイル嬢は抱えられていた荷物を置き、必要な物の整理を始められた。基本的にポーチとショルダーバッグに収め、街中を探検なさる。武器は街の状況によって、食料と水は必ず携帯される。今回、銀銃はバッグの中に入れることに。奪われないようにということもあるが、威圧したり脅かしたりしないようにするお心遣いだろう。

「こういう日は家でぬくぬくしてたいよねー」

〔旅をしている時のセリフではありませぬな……〕

「だって寒いじゃん。それとも放り出されたいの?」

 ハイル嬢の大きな手が私を摘み、

〔そっそんなことはありませぬっ〕

「うーん……おなかへったなぁ……」

 反対側の掌に乗せられる。

 わ、私をじっと見つめられる。何だかとても嫌な予感が……。

「……」

 ふふ、と笑みを零されると、ゆっくりと床へ下ろしてくださった。

「考えすぎだよ、クーロっ。ただヒマなだけー」

 指先でつんつん突っつかれる。くすぐったい。

「?」

 ハイル嬢は何かを感じ取られたようだ。視線は入り口の方。誰かが来たのだろう。

「だれ?」

 そろそろとバッグに手を伸ばされる。警戒なさっている。

 入ってきたのは、

「ああいや……その……」

 若い女だった。二十代前半くらいで、長い睫毛を生やしている。

 木製のトレーに食器とコップ。どうやら食事を持ってきてくれたようだ。

「こちらこそ、無用心に入ってしまってごめんなさい。“おなかへったー”って聞こえたから……」

「……あぁ……その……あはは」

 俯かれて苦笑い。顔が真っ赤になっているのは分かっていますぞ。

 さらさらと穏やかな雨音。戸を閉め、ピシャリと遮断した。

 女がそちらに気が向いている間に、私は急いでハイル嬢のお手に乗り、ポケットに入れていただいた。変な興味を持たせるといろいろと不都合が生じるためだ。

 ハイル嬢の前でしゃがみ、つつっとトレーを差し出す。

「これは……?」

 見たところ、野菜を添えたもも肉だった。それも太ましく豪快で、油が十分に乗っている。所謂(いわゆる)、こってりしていそうな一品だ。

 豚……いや牛? それにしては規格外の大きさだ。二リットル容量のボトル並みのサイズなのだ。一人の旅人にまるごと一本、しかもこんな貧困な村がこんなにも持て成すというのか。

 ハイル嬢も同じようなことを感じられているようで、開いた口を手で隠されていた。

「鶏肉かな? すごく大きいね」

「どうぞ、召し上がって」

「う、うん……」

 ナイフやフォークといった食器はない。

 ハイル嬢は野菜を半分に千切り、それを両手で挟んで持たれる。そして豪快に、

「むっぐ」

 がぶりと食いつかれた。思った以上に柔らかいようで、線維が簡単に切れていく。

「……んっ」

 喉が鳴った。

「どうです? この村自慢のお肉なんです」

「……何と言うか、独特。味わったことがないよ」

「ええ、そうでしょうに」

「?」

 一体どういう意味だ? 

「その肉はヒトの肉ですもの」

「……え?」

 

 

 雨は相変わらず降っている。夜通しというのは本当のようだ。ついてない。

 冷気が地を這うように漏れ出している。昼間はそこまで気にならなかったものの、こうして落ち着いてみると、冷え込んでいたことをしみじみ感じる。セーターだったから良かったが、他の服装だったならば体調を崩してしまうところだろう。

 ハイル嬢は布団に潜りつつも、私とお戯れをされている。眠る前はこうしてリラックスなさるのだ。逆に私は疲れてしまってどうしようもない。そのせいか、昼夜逆転生活に陥ってしまっている。夜に一人でうろうろしていても面白くもないし、ハイル嬢に迷惑をかけてしまうだけなのだが。

「クー」

〔何でしょう?〕

「……食べちゃったね」

〔何と言いましょうか、不可抗力だと思います〕

 大きい指で顎下をくすぐられる。ふふ。

「ここの人たちはあれが美味しいんだね」

〔文化の違いでしょうなぁ〕

「うーん……まさにカルチャーショックだ」

 意外に食べてしまったことに悲観されているわけではないご様子。むしろ初体験で大きい衝撃を受けられたようだ。

「……ん、じゃあそろそろ寝ようかな。おやすみクーロ」

〔はい、お休みなさいませ〕

 ハイル嬢はふっと目を閉じ、そのまま床に就かれた。

 

 

「……お……」

 (まぶた)に浸透する日差し。黒い景色に橙色が差し込み、私は目が覚めた。

 少し離れたところには毛布に包まっておられるハイル嬢が。こうしておかないと、寝返りで押し潰されてしまう。

 私の何十倍も大きい窓を眺めると、そこには白い雲と青々しい空が広がっていた。昨夜の寒さも嘘のように消え、ぽかぽかと身体が温まる。文句のつけようがないほどの晴れだ。

「んふぁ……いまいまい……」

 ごろりと寝返りをうちながら、謎の言葉が漏れる。

「……まだ眠ってらっしゃるか」

 静かな寝息を立ててらっしゃる。

 疲労も相当溜め込んでいらしたはず。ここはゆっくり休んでいただこう。

 と思ったのだが、

「んぅ……? べぎゃまっ!」

 いつものだ。直後、すくりと起き上がられた。

「……んあ、おはようクーロ」

 理由は分からないが、ハイル嬢は起きる直前に謎の台詞を出すクセをお持ちなのだ。そして、寝ぐせも酷い。柔らかそうだったパーマがまるでヘビが絡みついたように、そして無重力を受けているように爆発していた。

 お目覚めになったハイル嬢はクシで髪をとかされる。いつもよりも時間がかかり、ため息一つ。昨日の雨が(たた)っている。

 朝食は例の食事だったが、お断りなさった。水だけを飲まれ、手持ちの携帯食料でおしまいにされた。私はキャベツをいただいた。

 食休み。

「今日はどうしよっか? なんか引きこもりたい気分なんだよね~」

〔それはいけませぬ。気分転換に散歩でもいかがでしょう?〕

「うーん、それもそっか。厄介になってるし、手伝えることがあったら手伝おうかな」

 過去の衝動に駆られたのだろうか。

 ともかく、その後は気軽に散歩することになさった。準備されていたショルダーバッグを肩に掛け、外に出られた。

 窓に縁取られていた青空が丸みを帯びて広がっていた。冷たい大気の底流に温かい日差しが入り込み、とても澄んだ気持ちになる。吸息が冷たく、水の中にいるような心地がした。

 大地には昨日の雨でところどころに泥濘と水溜りを作っている。そこで子供たちが遊んでいた。朝早くなのに。笑い声も聞こえる。

 それを見つめられるハイル嬢はうってかわって険しい面持ちである。やはり気分的にそぐわないのだろうか。

「あ、違うよクーロ」

〔?〕

 私の思いを見透かしたように、おっしゃった。

「ちょっと考えごと」

 楽天的なこの方が考え事……。正直、良い予感はしない。

 ハイル嬢は村中を探索なさった。といっても、丸太小屋と木製のバリケードしかないこの光景では、目を見張るものはそこまでないだろう。主に村人と話されたり子供たちと遊ばれたりされた。昨夜の夕食の衝撃がまるでなかったのように、お互いにとても穏やかだった。

 ある一軒家にお邪魔している時だった。四十代くらいの女が住んでいる。

「あのさ、他の人たちは?」

「みんな畑仕事さあ」

「行ってもいいかな?」

「え? うーん……私には分からないねえ」

「?」

「ああ、畑荒らしとかたまにいるだろう? だからはっきりとは言えないんだ」

「ぼく、そんなに怪しいかな?」

「ぜんぜん。でも、旦那に聞かないと」

「そうだね。あまり迷惑かけちゃいけないし」

 何気ない話だが、ハイル嬢は気になっておられるようだった。

「ところでお昼はどうすんだい?」

「もうちょっと歩いてるよ。ありがとね」

 笑いかけられると、逃げるように家を出られた。

 さすがに勝手に村を出て畑を探し回るのは失礼だろう。すると思いもよらぬ行動を取られた。

「こんにちは!」

「? おお、ハイルちゃんじゃないか」

 門の方へ向かい、門番と話し始めたのだ。

「昨日のおじさんってどこにいるの?」

「ああ、タミールさんのことか? 何かあったのか?」

「ちょっと話があるって言うから探してるんだけど、どこにもいないんだ」

「あの人は多忙だからな。多分畑か農場にいるんだろう。反対側の門を出ると林に入るんだ。途中で何も書かれてない立て札があるから、そこを右手に曲がっていけば農場があるよ」

「そうなんだ。ありがとー」

 こうしてとても自然に場所を聞き出されたのだった。

 

 

 私は大変な間違い、いや大変なことを忘れていたのだ。見事な手口だったので、

「まいごになった……」

 忘れていた。極度の方向音痴であることを。

 林の中を歩き回ってはや数時間。一向に立て札を見つけられずにいた。

 中はそこまで荒れてはいない。光が差し込むくらいに茂っている雑草や葉っぱ。ところどころ湿った地面、まばらに生えた木々。昨日の嵐のために落ち葉が多く、林中はさらに明るく見える。

 これだけ見晴らしがいいのに、なぜ迷子になられるのか……。おかげで私も分からなくなってしまった。そこまで方向音痴ではないのだが、ハイル嬢があまりに予想外すぎるので、訳が分からなくなってしまうのだ。

「私のせいにするんだ」

〔あぁいえ、そういうわけでは……〕

「おかしいなぁ。まっすぐ歩いたはずなんだけど……まぁいっか」

 気になるものを見つけてはそちらへ向かい、また見つけては、を繰り返されているのだ。おまけに方向音痴も相まって元の場所に帰れないとくる。私が口を挟もうとすると、

「あ、あっちに何かあるっ」

〔は、ハイル嬢、我々は今迷子で、〕

「歯向かうの?」

〔……〕

 こうなってしまっては何も言えぬ。神と天運に祈るしかない。

 立て札を見つけられないままさらに一時間経過した。そろそろ日が沈む頃だろう。このまま夜を迎えるのは非常にまずい。周りの者に聞いてでも道を知らねば、

〔?〕

「!」

 何かが聞こえる。音の波がだんだん押し寄せてくるような、そんな気配がした。

 ハイル嬢も感じ取られたようで、すぐに木の陰に潜むことに。

「……馬車……?」

 遠くから馬が駆け出してくるのが見える。その操縦席に男が一人。そして車を引いている。車は白い布で覆い隠され、中身は見えない。

 悪路のためにがたがたと揺れ、馬の駆け出し音と共に乾いた騒音を奏でる。

 馬車はハイル嬢の潜まれる木を通り過ぎ、異変なく走り去っていった。二本の(わだち)を残して。

 その轍を確認なさるハイル嬢。

「“渡りに舟”ってやつだね、クーロ」

 伸びていく轍に沿って、進まれた。

 

 

「草原だ」

 林の端に行けたご様子。その奥で広がっていたのは草原だった。瑞々しく綺麗である。そして、

〔何の建物でしょうか?〕

 建造物が(そび)え立っている。

「きっと農場だね」

 おしゃれだった。木の板や丸太を使ってところは村の住居と変わらぬが、三角の屋根は灰色に、側面は明るい茶色に統一されている。それが二つ並んでいた。建造物は真ん中が両開きの扉になっており、左脇に金属製のドアがある。ここが入り口であろう。その上部には窓が左右に二つ付けられていた。特に、その左の建造物には木製の柵で囲んだ空間があり、おそらくは牧場が備えられている。

 建造物の周りは我々が通ってきた林と同じように、緑が広がっている。

 美しい緑に包まれ育まれる動物たち。まさに最高の環境だ。

 ハイル嬢は右の建造物に足を運び、訪ねられた。

「ごめんくださーい」

 呼び鈴はない。コツコツとノックされる。すると、

「あいよ」

 ドアの奥で声がした。鍵を外す音が聞こえ、開かれる。そこにいたのは、

「あれ? 旅人さんじゃないか」

 助けた男がいた。おそらくは“タミール”殿だ。オーバーオールでなく、灰色の作業着を着ていた。

「よくここまで来れたなあ。それにこんな時間にどうしたんだい? 夕食はどうする?」

「え、えっと……」

「ああ、ごめんごめん。話は中でしようか。今から村に戻ると夕方過ぎになってしまうから、今日はここに泊まってくれ」

「でっでも、荷物……大半があっちに置きっぱなしなんだ」

「それなら心配ない。俺が重々言っておいた」

「……分かったよ。嘘でも今からじゃ間に合わないし」

 半ば諦めておられるようだ。予定以上に時間が過ぎてしまったことが最大の原因なのだが、あまり触れないでおこう。

 中はわりと小綺麗だった。木目の美しい床に壁、テーブルや椅子といった家具などが統一されている。それとは別に淡緑色のソファにガラス張りのテーブルもあった。食事用と休憩用といったところか。また、電気が通っているのか、電化製品やキッチンもあった。

 広さは十畳くらいだろうか。出口以外のドアが一つしかないため、部屋数はそんなにないと思われる。おそらくは隣の畜舎に繋がっているのだろう。

 ハイル嬢はソファに腰掛けられると、荷物をその脇に置かれた。そして私を掌に乗せてくださる。

「うん? ペットかい?」

「うん。……そういえば自己紹介がまだだったね。ぼくはハイルで、この子がクーロ。よろしくねタミールさん」

「俺を知ってるなら名乗らなくてもいいな。まあ色んな事業や商売を生業(なりわい)にしてるのは何となく察してるだろう。ほら、こんくらいしかできないけど食べてくれ」

 差し出したのは焼きたてのパン三枚とサラダ、目玉焼きだった。

 ハイル嬢は疑問の声を上げられる。

「お肉は? 村の名産って聞いたんだけど……」

「まさか客が来るとは思わなくってな。準備が不十分なようだ」

「そうなんだ」

 私をテーブルに下ろされると、召し上がった。まるで最後の晩餐(ばんさん)のように、よく味わっていらっしゃる。かく言う私も少し頂いているのだが。

 それを見ていたタミール殿が気遣ってくれたのか、焼き魚やご飯といったものまで振舞ってくれた。このお方は本当に良い人だ。

 ちなみに、キッチン脇にある控えめサイズの冷蔵庫……私は馬鹿にしていたようだ。一瞬だけ見えたのだが、ぎっしり詰まっていた。従業員たちもここで一緒に英気を養うのだろう。

「で、ハイルちゃんは何をしにここへ?」

「ただの散歩だよ。そしたら迷っちゃってさー」

「また一ヶ月彷徨うことになるぞっ。気をつけてくれよ。食われかけのシーンとか見たくないからな」

「うん。がんばるよ」

 空返事にしか聞こえないのは気のせいにしたい。

 今度はハイル嬢が尋ねられた。

「タミールさんはここで何してるの?」

「ここがどこか分かるだろ? 家畜を育ててるのさ」

「何を育ててるの?」

「ウシやブタに決まってるだろう? あ、そっちを食べたかったか?」

「うぅん。でも、村で食事をもらった時、村人が“人間の肉”だって……」

「! なっはっはっはっはっ!」

 一瞬目を見張ると、大きく口を開けて笑い出した。

「え、え?」

 ハイル嬢共々、私もよく分からない。

「全く、またからかったのか」

「?」

「ここって貧しい村だろ? それで人の肉を食べてるって言っても……まあ理解はできなくはないだろ?」

「うっうん……まぁ……少しは……」

「だから旅人を驚かして話のネタにしてんのよ。裏ではクスクス笑ってるだろうよ」

「えぇっ! そうなのっ?」

「自分らでも食わないものを、ましてや旅人さんに出すかよっ」

「なんだっ。ぼく、すっかり騙されてたのかっ」

「もしかして、それが気になってここまで来たのか?」

「……うん」

「そんなこったろうと思ったぜ。心配すんな。人肉作んならブタとかウシを育てるわな。圧倒的に楽だしよ」

「それもそうかぁ。勘違いだったのかぁ」

「さ、疑問も解けたことだし、じゃんじゃん食べてくれ。美味いだろ?」

「正直美味しくないよー。変な味するし、これパスねっ」

「ハイルちゃんはグルメだなっ、あっはっはっは!」

 

 

 私も考えすぎだった。そんな物騒な話がこんなところであるわけもないか。タミール殿曰く、仮に人肉を扱うとしたら、コストが圧倒的にかかるのだそうだ。理由は二つ。一つに、人間は究極的な雑食であること。肉や魚はもちろん、野菜や果物、さらには添加物、つまり化学薬品といったものまで食べている。他の動物は偏食でも自分の身体で栄養を作れるが、人間は多くの栄養を食物で補わなくてはならない。よって肉として考えた時、様々な物質を含むこととなり、味としては良くないのだそうだ。二つに数の問題。一度の出産で何匹も産まれる他の動物と比べ、人間は一人か二人、稀に五人ということもあるが、数が少ない。よって親以上の数でないと、世代ごとに減少してしまうのだ。

 おそらく商人としての立場から説明してくれたのだろうが、そもそもやろうとは思わないだろう。あまりにも外道で鬼畜、もはや人外の行為だ。誰も得にならない。

 夜を迎えた。自然に囲まれているからなのか、鳥や虫の鳴き声がよく聞こえる。それが止むと、どことなく孤独を覚えてしまう。もの静けさと寒さを感じていた。

 しばらくはタミール殿と駄弁っておられた。主にハイル嬢の旅のお話しだ。すると、

「あいよ」

 別の男が入ってきた。何かを持っている。

「これはぼくの……?」

「タミールさんに頼まれてな。手え付けちゃいないから安心しな、旅人さん」

「ありがとう!」

 ハイル嬢のお荷物だった。わざわざこちらまで届けに来てくれたのだ。念のため確認されるが、確かに変わったところはない。タミール殿はさすがに気が回る男である。

 風船から空気が抜けていくように、ある種の緊張感が抜けていくと、

「そろそろ寝ようかな……ふぅあ……」

 疲労がどっと押し寄せてくる。ハイル嬢もさすがにお疲れのようだ。布団はないらしいので、ソファで横になることに。

「タミールさんは?」

「女の子と一緒じゃまずいだろ? もう一つのところで寝るさ」

「……ふふ」

 笑われた。というより嬉しそうだった。面白い話である。

 そうしてご就寝されたのだった。

 

 

「ん……といれ……くー……といれどこ……?」

 ……んぅ? わたしになにかあた、……!

「クーロ、といれ……」

 あっ、ハイルじょうがわたしに……。もう、眠っていたのに……!

「今、イラッとしたよね……?」

〔あぁいえいえ、そんなことは……。しかしさすがに私も存じませぬ。タミール殿に聞かれてはどうでしょう?〕

「だってタミールさん起こすの悪いし……」

〔ふむ……では探すしかありませぬな〕

「めんどいなぁ……」

 面倒くさくても行っていただかなければ困る。

 銀銃二丁とナイフを手持ちに、ふらふらと外へ出歩かれた。私はいつも通り胸ポケットに。

 月がなかった。そのために周りが少し暗く見える。代わりに風が吹いている。ふわりと柔らかいが冷える。夜風に(あた)らなければいいのだが。

 農場の回りをぐるりと歩いても見当たらなかった。かと言って中を探し回るのも失礼に思えてしまう。外で……というのもあまりに不憫(ふびん)である。

「中を隅々まで探すよ」

〔……それしかありませぬ〕

 失礼を承知でいくしかあるまい。緊急事態である。

 休憩所に入り、奥にあるドアを、

「何だか冒険してるみたい」

 開けられた。まさにその最中なわけですけれ、……!

「なにここ……」

 き、きつい……。というのも、凄まじい悪臭が漂っているのだ。何と言うか、動物臭を極限まで濃縮させた後に酸味を加えたような、生々しい臭いだ。は、鼻が一回転してねじ切れそうだ……。

 明かりはない。夜目が効くハイル嬢でも真っ暗な中では無理だ。まるで洞窟の中を歩くように、手で伝いながら進むしかない。

「いくよ……」

 意を決された。

 ずりずりとすり足ながらゆっくりと進まれる。気を失いそうな悪臭を何とか耐える。私としてはそれよりも気にあることがあった。それを(しら)せたく、ポケットの中でぐるぐる回った。

「どうしたの……?」

 ぽつりと囁かれる。

 この暗闇の中で私の意思が伝わるかどうか……。

〔何か気配を感じるのです。分かりますか、ハイル嬢?〕

「……ライト持ってくればよかったなぁ。ちょっと分からないや」

 やはり伝わっていない。見えていないものから気持ちを理解するのは不可能なのだろう。しかし、気掛かりがあることは伝わったはず。慎重に、

「ん?」

 カクンと急降下した! うぅっ、き、きもちわるっ、

「あ」

 プチッ、と何かが切れる音がした。嫌な予感が、

「何事だあっ!」

「誰かが侵入したぞっ!」

 うわあっ……! 何か罠にかかってしまったのか! まだ気持ち悪いのが抜けていないというのに……!

「にげないと、」

 ハイル嬢がその場から離れようとした瞬間、

「うっ」

 強烈な閃光が目を(くら)ませた。痛みが走ったかのように鋭い。

 周りを見ることができたのは私が先だった。ポケットの中にいたためだ。

〔!〕

 な、なんだここは……!

「! こっここなにっ?」

 少ししてからハイル嬢も気付かれた。

 まるで檻のような狭さと鉄柵。それがズラリと両側に伸びていた。多分、片側で二十くらいはあるだろう。それだけではない。二階にも同じ物があった。これではまるで監獄だ。中に入っているのは、

「うー……」

「あー」

「あ、あふへへ……」

 人間だ。それも大半が女子供。おまけに衣服というものを身に着けていない。素肌は傷や(あざ)だらけ、髪は脂ぎっており、とてもじゃないがまともな扱いを受けていない。いや、こんな監獄のようなところを見るだけでも尋常でないのだが。

 我々は一瞬で理解した。タミール殿は嘘をついていたと。というより、予感というか何と言うか、そういうものは感じてはいたが、杞憂だと思い込んでいた。

 異物。その異物の後ろに作業員たちが武器を持って集まっていた。三つほど並んだ金属製の台所に長方形の太い刃物。明かりで銀色に反射するはずなのに、別の色が混じっていた。“それ”は台所から側面、脚、床へと広がり、何かの破片まで散らかっている。

「……」

 ハイル嬢は男たちよりもそちらの方で顔を(しか)めておられるようだ。

 血だ。それだけでここで何が起こっているのかが容易に想像できる。説明するまでもなく。

「ハイルちゃん、どうしてここに入った?」

 集団の中にタミール殿がいた。手には長い銃を持っている。マシンガンか?

「ぼく、トイレに行きたかったんだけど、見当たらなくって……」

「まいったな。ここにはトイレがないんだよ。女の子に外でしろていうのは酷なんだが」

「……で、これからどうなっちゃうのかな?」

「うーん、実はここ自体極秘でな。ハイルちゃんは命の恩人だから休憩所で泊まるくらいなら穏便に済ませようかと思ったんだが……」

「……!」

 ハイル嬢?

「ここを見られちゃそうもいかないな」

「ふっ……うぅ……」

 身体を(たわ)ませ、息を荒げておられる。顔……だけでない。全身から汗をかかれ、熱がこもっている。ハイル嬢のご様子がおかしい。……まさか。

「もられ……ちゃったかな……?」

 吐息まで熱い。タミール殿め、毒薬を盛ったかっ! ……って薬を盛ったということは、最初からハイル嬢を狙っていたのか!

「こりゃあ高値で売れますぜ、タミールさん」

「また下品なマネをしやがって……」

 周りが騒がしい。全員で鉄柵を叩いているようだ。しかしそれはあっという間にかき消される。

「……!」

 一発の銃声で。

「……きゃあああぁぁっ!」

 今度は悲鳴に変わった。不協和音が中で響き渡る。

「黙らないともう一発」

〔……!〕

 ……止んだ?

 不協和音の余韻が残っている。それが消えていくと、外からの鳴き声が和音となって伝わってきた。女子供たちが必死で口を押さえているのが見える。……なるほど。

 一部屋、このフロア右側の中央にある部屋からつぅっと血が流れてきた。淀みのある血は、床が少し坂になっているためにフロア中心の方へ流れていた。そこはちょうどあの台所があるところ。よく見れば排水口が付いている。

「どうして俺がハイルちゃんをさっさと捕らえないか分かるか?」

「……さぁ?」

「俺は他人が悶え苦しむ様を見るのが好きでなあ……。それだけで××てきちまうのさあ。今みたいに一瞬で殺すのはつまらん。肉になるだけだからな。やはりじわじわ見せてもらうに限る……」

「……いい趣味、してるね……」

 地震が起こったように震えておられる。痙攣(けいれん)……? 死んでしまう……?

「大丈夫だ、殺しはしない。こちらも商売なんでな……」

 この野郎……噛み殺してやろ、

「だいじょぶ、クー……」

〔し、しかし……〕

「いいから」

〔……!〕

 背筋を伝う寒気。氷を一直線に滑らせたように、は、はっきりと感じた……。

 わ、笑っておられる……。普通の笑みではない。瞳孔が開ききったかのような真っ黒な瞳、口元だけ緩んだ笑み、それ以外の部位は全く動いていない。作り笑顔とはまるで違う。怒ってもおられるわけでもない。ある意味中立的な気構えであられる。

 こういう時、私は平穏になるように必死に祈る。必ず凄惨な結末になるからだ。

「どうしたの……? 早く来なよ……?」

「……」

「まだぼくの苦しむサマを見たいの……?」

「くっ……」

「分かってるんだよ……? 実はぼくをこわがってるってこと……」

〔……え?〕

「タミールさん……タミールさんがそういう趣味をしてるのは楽しみたいからじゃないよね……? 自分が勝てるくらいまで弱らせないと、勝負しないヘタレだからだよね?」

「……黙れ!」

「ところが、あなたはぼくがどのくらい弱っているのか、読めてないんでしょ?」

「……」

「だってこれ、演技なんだもん」

「えっ?」

〔えっ?〕

 い、一体どういうことなのだ……? 置いてけぼり感を否めない……。

「引っかかるかと思ってけどさすがだね、タミールさん。死線を何度も越えてるだけあるね」

「……」

 ま、まさか、不用意に近づくのを狙っておられたのか!

「ここからテーブルまで約五メートル。その銃で撃つのにコンマ一秒もないだろうね。でも、あくまでもそれはただ撃つだけ。ぼくの身体を狙うとしたら百倍はかかっちゃうんじゃない?」

「何を言いやがる! 今ここで、……!」

 ぱんっ。また銃声が聞こえた。しかし小さい。まるでおもちゃの銃のような、簡素な音のように聞こえた。先ほどの身体を振動させるような重低音ではない。

「……! てめぇっ!」

「よせっ!」

 タミール殿が他の仲間を静止する。

「今の一発、分からなかったでしょ?」

 銀銃をくるくると回される。

「みんな意識がぼく“だけ”に向いてたからね。ぼくの右にある部屋……鉄柵を一本壊したよ」

 思わずそちらを見ると、ゆっくりと柵が倒れて、

 ぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんっ。

「!」

「結構素直なんだね。これで全員が戦闘不能かな?」

 敵七人ほどが床にうち伏せられた。ある者は右腕、ある者は左脚と、きちんと処置をすれば致命傷にはならないものばかりだ。激痛で武器など持っていられない。ましてや正確な射撃はもっての(ほか)だ。

「さて、一対一だね。どうする?」

「く……!」

 マシンガンをハイル嬢に、

「動くなっ!」

 ドスの利いた声がタミール殿の方へ強襲した。引き金に触れていた指が止まる。

「銃を置いて。さもないと、痛い目に遭うよ?」

「……」

 だが下げようとはしない。ここで下げたら、何を仕出かすか分からない。私も同じ立場ならそうする。ところが、

「仕方ない。そこの子、出ておいで」

 思いもよらぬことになった。

 先ほどの部屋からひょっこりと子供が出てきたのだ。幼い女の子。十代にも満たないだろう。サイズの合わない服はビリビリに破かれており、露出した部位は傷が。あられもない姿で酷いことをされていただろう。しかし、その歩く姿はとてもしっかりしていた。それもそのはず、その女の子は、

「……また会ったね」

「うん……」

 ハイル嬢が匿われた女の子だった。あの服はハイル嬢があげたものだ……!

「ぼくの頼み、聞いてくれる?」

「うん」

「タミールさんと他の人の銃を持ってきて。大丈夫。君が死んでもぼくが迎えに行くから」

「……うん」

 初めて見せた少女らしい笑顔。弱々しく、でも優しい笑顔だった。

 それを青ざめた表情で見るタミール殿。

「あ、あたま……イカれてやがる……!」

 意図せず武器を落としてしまった。それが終わりの合図だった。

 

 

「さてっと、これからどうしようかな」

 畜舎の一室に放り込まれたタミール殿、いやタミールたち。その後ろには白骨化したものがいくつも転がっていた。

 ハイル嬢は監禁されていた女子供たちを助け出した。彼女らは背後で彼らを睨みつけていた。

「せっかく助けたのに、その恩がこれっていうのはひどいよね」

「一宿一飯の恩義だろうが! そういう契約だったろっ」

「……確かにっ」

 変に納得されても困りまする……。

「でもまさか、本当にヒトを食用にしてるなんて……」

「何言ってやがる。こいつらは奴隷用だ。言っただろ? 人肉なんて誰が得するんだって」

「え? それじゃあ、」

「え、えっと、こいつらどうするんだい? 殺すんかい?」

 一人の女が尋ねた。

「うーん、殺さなきゃ気がすまないでしょ?」

「そりゃそうだけど」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺が死ぬとこの村は滅ぶんだぜ? ここは俺が存続させてる村だ。色んな商売のパイプは俺が握ってるのよ。つまり、パイプ役の俺が死ねば、村人総員で路頭に迷うってわけだ」

 こ、この馬鹿……。私はもう……知らぬ……。

「そうなんだ。じゃあまずは取引しよ? ここから出してあげるから、そのパイプとやらを全て教えて? そうしないとここの人たちの餌にしちゃうよ?」

 墓穴を掘ってしまった。黙っていればまだ助かる方法があったのに……。これは間違いなく悲劇になる展開になるだろう。

 結局、一字一句逃さずに全てを吐き出させたハイル嬢。それを誰かにメモさせ、パイプを全て掴んだのだった。ハイル嬢の脅しは恐ろしい。そのためには躊躇いなく引き金を抜くのだから。怖くて失禁しても……あれ?

〔あの、ハイル嬢? お手洗いの方は……?〕

「……あっ、そうだった! ごめん、ぼくちょっとトイレ!」

「ここにトイレないよ」

「ホントに無いのっ? 冗談かデタラメだと思ってたのにっ! そもそもみんなどう処理してたのさっ!」

 

 

 何とか処理されたハイル嬢は、

「あー、色んな意味で後味悪い村だったね、まったくっ!」

 怒っていらした。

 トイレに行くと女の子に伝えた後、逃げるようにあの場を立ち去られた。一件落着ではあるが、苦い味を残したようだ。

 しかしそのおかげか、見事な晴天を拝むことができた。あの嵐の日とはうってかわって清々しい晴天だ。心地よい風も味方してくれて、火照った身体を癒してくれる。もしこれが土砂降りの雨だったならば、間違いなく私に八つ当たりをされただろう。

 ところで、

「また迷子だよ~」

 林の中、また行く道を見失われていた。いい加減、見立てを立ててから出発していただきたいのだが……。

「何か言った?」

〔いぃえ、何も……〕

 ただでさえ機嫌が悪いこの状況では諌めるなど……首を吊るに等しい行為だ。気の(おもむ)くままにされる方が良い。

 地面はもう乾いていた。日が差し込み風通しも良いので、早く乾いたのだろう。

〔ところで、帰り際に渡されていたのは何だったのですか? 私にはよく見えなかったのですが……〕

「あぁ、ぼくからのプレゼントだよ」

〔プレゼント……?〕

「そ」

 何かを思い出されたのか、機嫌が少しだけ良くなられた。

「じゃあ、次の国に行こっか」

〔はい〕

 見渡す限り広がる林の中、我々は迷走し続けていくのだった。

「“食べ物の恨み”って怖いよね」

〔そうですね〕

 

 

「? それは何だい?」

「……くれたの」

「あの子が?」

「うん」

「……フォーク? どういうことだろう?」

「手紙も一緒にもらった」

「って言っても現地語じゃないからわから、……! これって……?」

「おい! てめえら、何を企んでやがる!」

「黙ってろ! ………………」

「なんて書いてあるの?」

「なるほど。勘のいい旅人さんだこと」

「?」

「“いつも通り”ってことよ」

「あぁ、なんだ」

「何をこそこそと……!」

「こいつを出して」

「? な、何しやがる!」

「ちょうどいいところに台所があるよ」

「た、頼む! 殺さないでくれ!」

「大丈夫、殺しはしないさ」

「奇しくも私たちの餌を捌いた台所……美味しそうだ」

「……え? びゃご、ぎゃぁぁっ! いだっ! やめ、やめでぐれぇぇぇっ! ぎゃあぁぁあああぁっ!」

「……う、うそ……」

「まじかよ……こいつら……」

「それじゃあいただきまーす」

「いただきまーす」

「うっうえぇっ」

「てめえ、吐くんじゃね……うええっ!」

「は、ハイルちゃんが言ってたのは……これかっ」

「どういうことだよタミールさんっ?」

「こいつら、マジで人を喰うって話だよっ。ハイルちゃんが夕食に出された料理の中に人肉があったって言ってたが、ありゃ本当だったのかよっ」

「……」

「……ふぅ、やっぱ踊り食いが一番ね。肉の収縮がよく分かって感触がいいわ」

「死ぬと途端にまずくなるからねえ」

「こいつの内臓、腐ってたから臭かったわ。まずいし」

「それなら、質の良い餌をたっぷりやらないとな。もっと美味しくしなきゃねえ」

「そうよね、ふふふふ……」

「えへへ……おいしかったよ、おじちゃん……」

「や、やややっやああァァァっ!!」

 

 

 



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第六話:さいおくのとこ

 青く澄んだ空に燦々と太陽が浮かぶ。ぽかぽかとしており、身体が疼いて動きたくなる、そんな良い日だった。

 とある森の中。とある一本の木にもたれかかる物。それは岩石だった。ごつごつとした灰色の表皮を纏う無生物。しかし、ただの無生物ではない。おそらく切断されたであろう面が鏡のように綺麗に研磨されている。文字が彫り込まれていること以外は何の変哲もない岩石。

 そこにはこう記されていた。

[←この先、嘘つきがいる村あり! 注意されたし!]

 なるほど、注意喚起の道石だったか。と、呟くのは一人の旅人。全身黒づくめという出で立ちで、傍らに置かれたリュックも黒というこだわりっぷり。フード付きのもこもこセーター、ジーンズ、薄汚れたスニーカーだった。

 随分と親切なものですね。と、きつく言い放つのは……誰もいない。妙年の女の“声”で、冷静で冷淡な口調だ。

 旅人は適当に返事をして、石の看板が示す矢印へ向かった。しかしすぐに立ち止まった。それは“声”が呼び止めたからだった。少し慌てた口ぶりである。

 言われるままに振り向いた。一本の木。そしてそれに立て掛ける岩石。先ほどの石の看板……? 予想通り、

[←この先、正直者がいる村あり! 注意されたし!]

 と、注意喚起の文章が刻まれていた。先ほどの道石と同様に切断面と思しき面が綺麗に研磨されている。それ以外の部分には一切手をつけていない。切断面がほぼ同じことから、この二つは一つの岩石であったようだ。

 面白いなぁ。旅人はどことなく感じた面白さに唸った。一方の“声”は明確に理解した不可解さに唸った。

 嘘つきの村に注意させるのは分かる。しかし正直者の村に注意せよ、とはどういうことなのか。“声”は旅人に尋ねてみた。うーん、と唸って……分からん。これには“声”も落胆……はしなかった。むしろ想定内のようで悪態をつくだけに留まった。旅人も特に気に障られた様子もない。平然としている。

 “声”が気になりながらも、旅人は出発した。森の中を堪能するように、葉っぱ一枚一枚を眺めるように、朗らかに楽しむ。暢気とでも言うべきか。

 半時ほど歩いていると、進んでいた方向から男がやってきた。三十代後半くらいで無地のシャツにジーンズと春っぽい服装だった。

 こんにちは、とお互いに挨拶を交わし、お互いに自己紹介した。そこで“声”が先ほどの石の看板について聞いてみた。すると、その看板のとおり村があるだけさ、と軽く伝え、颯爽と立ち去っていった。

 難しく考えすぎだよ、と“声”を(いさ)める旅人。“声”も小さく詫び、お気楽な雰囲気で歩き出した。

 しばらく二人(?)は雑談しながら進む。あの時この時そんな時の話、しりとりしたりじゃんけんしたり、時に休憩して景色を楽しんだり。真新しいものや街を探す間の、言わば“繋ぎ”の光景だった。

 およそ一時間後、ふぅ……というため息で足が止まった。一向に到達できないでいるのだ。念の為に方角を確認するが、誤ってはいないようである。能天気な旅人もこれにはさすがに疑念を抱く。

 あぁっ、と声を上げたのは“声”だった。んおぉっ! と、びくりとする旅人。少し怒りながら聞くと、“声”はこう言った。あの男性はどちらの村があるかを言っていなかった、と。どっちの村があったって大した問題じゃないだろう? と言い返すと、“声”が続けてこう言った。正直者の村があれば男性は正直村出身であろう。しかし嘘つきの村があるのだとしたら、男性は嘘つき村出身であろう、と。

 村があるってことは確かじゃないか。旅人がくってかかる。しかし“声”は反発する。正直村出身なら、村があるというのは間違いない。しかし嘘つき村出身だと、村があることが嘘になってしまう。つまり村はない、ということになる。

 旅人はこう切り返した。男は村人ではなく、旅人なんだろう。あの看板を見て村に行ってきたから、自然と教えてくれたのだ。男が嘘をついているようには見えなかったし感じなかった。第一、正直村か嘘つき村かは実際に行ってみればすぐに分かる。だから、どちらの村かを言う必要性はそんなにないし、旅人の心情としてネタばらしは御法度であるから言わなかった。

 この恐ろしいほどのプラス思考に“声”は呆れて笑いを漏らしてしまった。そして、珍しく説得力があることを付け足した。馬鹿にされたような気分がしたが、反抗はできなかった。

 旅人は再び歩き始めた。歩き続けて熱くなったようで、セーターをリュックにしまっていた。黒いシャツにウェストポーチが二つあった。

 ん? 何かを見つけた。立札だ。旅人はそれを読んだ。正確には“声”に読んでもらった。

 なるほど、と理解したようで、旅人が何かをした後、踵を返して行ってしまった。

 立札にはこう書いてあった。

[ここまで来れたあなたはとても正直な人です。他人の言うことを素直に信じ、迷いながらもたどり着くことができました。その証を立札の裏につけて行ってください。なお、戻る間に誰かに会ったら、必ずここの事を尋ねてきますので、“村がある”とだけお伝えください]

 立札の裏側を見ると、一本だけ線が刻まれていた。

 ちなみに、その先にあったのは廃村だったという。

 

 

 



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第七話:たいせつなとこ・a

 道路が伸びていた。車二台分くらいの広さで、白い中央線が点々としている。小石一つないほどに綺麗に舗装されていた。その右手には林が茂っている。間隔が広いために奥の景色も見えるが、縫い潰すように樹木が見えるだけだった。左手には平原が広がっていた。凹凸が激しく、草原が波打ち、青々としている。遠くには山が見える。どことなく田舎風な景色だった。

 空は雲が多いが晴れている。とても薄い雲で青みが強かった。日差しも貫通して降り注ぐ。肌寒い気候にはありがたかった。

 そこに二人が歩いていた。一人は二十代前半の男。茶色の長髪で爽やかな顔つきの優男だ。白いシャツに下半身を覆うサイズの鋼鉄製ブーツという格好だった。大容量の迷彩リュックを背負い、両腰にバックパックが付けられている。左腰には刀を(こしら)えている。

 もう一人は二十代前半の色白な女だった。黒い長髪を一つに束ねている。左目尻に泣き黒子、黒縁メガネをかけている。へたった赤紫のジャケットに黒シャツ、黒いパンツの服装で茶色のブーツを履いていた。凛々しく厳しい雰囲気をまとっている。

 遠くに(そび)え立つ山を背に、進んでいる。

「もうつかれちゃったぁ。ねぇ、いつつくの?」

 その見た目に反して、幼い声で訴える。

「そうですね……まぁその、歩いていればいずれは」

「そんなんじゃやだー! もうあるかないっ!」

 女は道路にへたり込んでしまう。しかし優男は、

「そのまま一人ぼっちでいてもいいなら、私は先に行ってますよ?」

「……」

 そそくさと進んでいく。その背中をじっと見つめていると、

「まってぇ! ひとりやだっ!」

 女が全力疾走で追いかけていった。

 

 

 田舎景色がだんだんと拓けていく。広がっていた林が薄まり、看板や家がぽつぽつと目立ち始める。そして平原が景色一面を占めるようになった頃、道路の先に国が見えてきた。石材を隙間なく積まれてできた城壁に囲まれており、それを伝うように川が流れている。そこで道路は遮断されていた。

「みえてきた!」

「意外に早かっ、あ、ちょっと待ってくださいよー」

 元気が出てきたのか、女はさらに駆けていく。単純になったなぁ、と男は呆れ笑いした。

 道路の縁に辿り着く。木製の門が頑なに拒んでいるように見えてしまう。

 数分すると、軋むような大きな音を立てて開門した。奥には街並みと五人の男、そして巨大で平たく分厚い板が見えた。

「ちょっと待っててくれ!」

 男たちの掛け声と共にその板を持ち上げる。じっと二人を見据えると、

「え、ええっ、ちょっとまっ、」

 目掛けて投げ飛ばした。

 何を考えているんだ、と思う暇もなく、二人は急いで逃げる。予想通り二人のいる岸に思いっきり乗っかってしまった。

「橋の意味ないでしょっ」

「そう焦るなよ。よし! 引けえい!」

 その板のお尻にはぶっといロープが縛り付けられていた。ガリガリと道路と擦れながら引かれていく。両岸に板が接地し、ようやく橋の完成だ。

 この橋、支柱がない……。優男が気付くも遅く、ドタドタと男たちがやって来た。少し(たわ)んでいるのと嫌な音が不安感を漂わせる。

「よお。お前さんたち、入国かい?」

 五人ともタンクトップに作業着のパンツと動きやすそうな格好だ。タンクトップから伸びる両腕がまるで団子のように太ましい。

「えっえぇ」

「じゃあ入国審査を受けな。ここに署名と目的を書いてくれ。ほれペンな」

 バインダーを手渡され、書き込んでいった。

「よしオッケー。お前ら、帰るぞ!」

「おす!」

 特に何かされるわけでもなく、のしのしと帰っていった。

「……さて、行きましょうか」

「うん」

 何事もなかったかのように入国した。ただし、

「う~、やっぱり怖いですね……」

「トランポリンしよっか」

「余計なことはしないっ」

 優男は涙目だった。

 門前は花壇やベンチがあったり看板があったりと、一種の広場になっていた。そこから建物がずらずらと建ち並び、まるで迷路のように道が伸びる。ここはスタート地点ということになる。

 適当に道を選んで歩き出した。

「ほぉ」

 建物は密集して建てられている。背が高くて屋根が橙色、壁がくすんだ白だ。等間隔に窓がついており、その柵は橙色の金属を電話線のようにくるくる巻いて作られている。その家を這うように伸びる道は正方形にカットされており、舗装もほぼ完璧だ。“ほぼ”というのは凹凸が若干あるためだ。

 豪華とは言えないが、建物の配置や色彩、装飾が独特だ。優男の第一印象は芸術的な街だった。

 二人が歩いているところはそういう路地で、高さのためか薄暗い。空が一層眩しく見える。

 住民は多そうだ。しかし、

「……?」

 何人もすれ違っているが、なぜか誰もが物々しい雰囲気だった。余裕がなさそうな感じだ。

 優男は警戒していた。

「とにかく広い通りに出ましょうか」

「うん」

 狭い路地、しかも迷路のように入り組んでいる。優男は女を引き寄せ、しっかりと手を繋ぐように催促する。

「べたべたできもちわるい……」

「手汗が酷いもので」

 渋々手を繋ぐ女。

「ねーねー、おさんぽはしないの?」

「ふふ。先ほどは疲れたーって泣き言言っていたのに……。まずは宿泊施設を探しましょう。街探検はその後です」

「わらうなー」

 ぽかぽかと優男を叩く。

 やがて路地を出ることができた。

「んぅ」

 洞窟を抜け出るように、明順応で眩しい。少しすると、

「おお」

 別世界が広がっていた。

 大きく綺麗な道で土地を区切られ、そこを大きい建物が埋める。家というよりは店のように見える。というのも、全体がクリーム色で装飾がとても豪華だからだ。ずらりと並べられた窓に波打つような模様が施され、灰色の三角屋根には(つるぎ)のような飾りが立てられている。道は模様や凹凸といったものがなく、真っ平らに舗装されていた。ぽつぽつと街路樹も植えられている。きっちりとした雰囲気に芸術性を加えたような街並みだ。

 そこには住民が溢れかえっていた。路地にいた時とは正反対で、とても活気がある。

 二人は、

「大都市ですかね」

「きれいだねー」

 感嘆していた。

「……あ、行きますよ」

「うん」

 はっとして、宿探しを再開する。

 目の先には左手に曲がる道と真っ直ぐの道がある。建物がまるで壁のようにびっしりと並んでいるため脇道が少ない。

 二人は真っ直ぐの道を選ぶことにした。しかし、

「ん?」

「いった」

 優男が急に立ち止まった。二人の腕がぴんと伸ばされ、少女が声をあげる。

 そこは分岐点に位置する。優男がちょうど突き当りにあたる建物に気を取られていた。

「……」

「ここなに?」

 周りの建物と比べて二回りほど小さかった。濃淡様々な茶系の煉瓦(れんが)を積んで建てられており、三角屋根は焦げ茶色だ。横長で、右端にある入り口は直角に道路へ突き出している。さらに右の屋根には鉛筆の先っぽのような塔屋があった。そこに何かの紋章を象った十字架が立てられている。他にも屋根の頂点にはいくつか十字架が立てられていた。

「ねぇねぇ、ここなぁに?」

 女が腕にしがみついて問いかける。

「ここはたぶん教会です」

「きょーかい?」

「神様を信じる方々が集うところです」

「……よくわかんない」

「ちょっと寄ってみましょう」

「えー! つまんなそーだからヤッ」

 先へ行こうとする女の(そで)を優男がつかむ。

「興味あるので……いいでしょう?」

「……しかたないなー。ちょっとだけよ?」

「どこかで聞いたことありますね。まぁ触れないでおきましょう」

 ということで、二人は教会へ入っていった。

 入り口は芸術的な金網で組まれており、一枚の絵を表現していた。それを左手にずらし、中に入る。

「うわぁ……」

「なにここ……」

 古めかしい外観とは対照的な光景だった。真っ白の壁に鏡のような床、天井付近の壁に整列する窓。これらのおかげで光を多く取り入れて増幅させている。外より明るく感じた。

 入って右手は塔屋へ続く木扉が、左手には式場がある。木で造られた長椅子が二列十行ほどあり、その奥に教団、さらに奥には何かを(まつ)っているような十字架があった。十字架の左右に木色のカーテンが仕切られ、仄かに暖色系が(にじ)んでいる。

「ここにいるだけで一日使ってしまいそうですね」

「ぜったいやだ」

「大丈夫ですよ。観光になりませんからね。……にしても、誰もいないですね」

 と言いつつ、長椅子に座る優男。

「なんですわるのっ?」

「ここで少し休みませんか? 嫌ならお先にどうぞ」

「……うぅ……」

 ムスッとして、女も隣に座った。

 

 

 ぼーっとして小一時間した。優男は物思いに(ふけ)っているようで、前方の十字架を眺めていた。

「すぅ……すぅ……」

 女は眠っていた。優男の肩に寄りかかって。それを払いのけたり退いたりすることをしなかった。

 突如、

「あ」

 右のカーテンから木が(きし)む音がした。ふぁさっとそちらへ風が(なび)き、音を立てる。

「……あら」

 出てきたのは老婆だった。腰の曲がった太めの老婆で、専用の衣服とロザリオを身につけていた。つまり、

「これはこれはようこそ。何かお困りごとでも?」

 シスターだ。見た目以上に綺麗な声で、柔らかい口調だった。笑顔がとても素敵な人だ。

「いや。特にはありませんねぇ」

「そちらのご婦人に掛け物でも……」

「あぁ結構ですよ。私たち、そろそろ行きま、」

「おなかへった……」

「!」

 女がぽそりと呟いた。二人にもしっかり聞こえている。

「……“おじょうちゃん”、何か食べるかい?」

「じゃあ……チョコ!」

「ちょっと待っててね」

 にこりと笑いかけると右のカーテン奥へ行き、すぐに戻ってきた。銀紙に包まれたチョコを手渡してくれた。

「おばあちゃん、ありがと!」

「あはは……すみませんね、シスター」

「いえいえ」

 早速、銀紙を破って食べ始めた。ご機嫌斜めだった女は嘘のように微笑んでいる。

「……しかし、ここの教会はとても綺麗ですね。床なんか鏡みたいですし。……新しく建てられたんですか?」

「いやいや、もう五十年は経っていますよ」

「五十年っ?」

 声を張り上げた。

「改修された跡もないのに、ちょっと信じがたいですよ」

「そうでしょうか? ここの壁なんかボロボロですよ」

 近くの壁に指を引っ掛けると、ぽろぽろと塗装が剥がれ落ちる。

「“見てくれ”だけですよ。こうやって手を加えると、すぐにボロが出てしまうものです」

「……」

 綺麗な床に落ちた塗装を大雑把に手で拾う。それを奥の部屋へ持って行って捨てて、すぐに戻ってきた。

「さて旅人さん、よもやチョコレートを食べに来たわけでないでしょう?」

「んまぁそうですけど……」

「再三ですが伺いますよ? それが私の務めですから」

「……ではお言葉に甘えて。この街に宿はありますかね?」

「……宿?」

 ぽろっと(こぼ)すようだった。

「あぁ、そういうことでしたか。ここの教会を出て右手にずっと歩いていくと、突き当たりにぶつかります。そこを左手にお進みなさい。信頼できる宿がありますよ」

「ありがとうございます、シスター。……それではここでお(いとま)するとします」

 優男は立ち上がった。女はまだ食べていたが、残りを銀紙で隙間なく包み、ポケットに入れた。

「チョコ、ごちそうさまでした」

「ごっちょーさまでしたっ」

「またいらしてくださいね」

 別れの言葉を軽く捧げると、二人は教会を出て行った。

 

 

 シスターの言う通りに進んでいくと、確かに宿があった。豪華絢爛(ごうかけんらん)な内装でいかにも高級そうなのだが、

「……」

 異常だった。

「ここもですか」

 紳士淑女の(つど)う場ではない。まるで猛獣の群れに紛れた一匹の子豚のような錯覚を覚える。優男はこんなところでも、神経過敏にならざるをえなかった。

 さり気なく周りに目を配らせつつもチェックインを済ませる。

「ここって部屋で食事を取れますか?」

「申し訳ございません。当店にはそのようなサービスは現在ございません。ですが、当店自慢のレストランでお召し上がりできますので、どうぞそちらをご利用くださいませ」

「……分かりました。ありがとう」

 滞在期間は二泊三日にした。

 指定された部屋に急いで向かう。ちなみに部屋は三階で、エレベーターも設置されていたが、優男はそこを通らず、階段で昇っていった。

 部屋もやはり高級そうだった。マシュマロのようなベッドにふかふかのカーペット、アンティークなテーブルと椅子、手触りの良い壁紙と身が縮まりそうだ。

 そのテーブルに慎重に荷物を下ろし、ようやく一息つけた。

「ナナさん」

「なぁに?」

「絶対に私から離れないように。いいですね?」

「うん」

「よし」

 おちゃらけていた表情が一瞬締まり、そしてまた緩んだ。

 “ナナ”と呼ばれた女はベッドで小さく跳ね回った。久しぶりなようで機嫌はますます上々だ。

「ふう」

 窓から眺めると、日が沈みそうだった。三階と言っても周りの建物も同じくらいの高さがあるので景色は満足に拝めない。しかし、密集された街並みが夕日に照らされるのも、哀愁を感じる。

 その景色を堪能していると、

「夕食でもいただきましょうか」

 (ほころ)んだ表情で言葉にした。

「うん! アイスたべたい!」

「それは夕食では……」

 苦笑いを隠せない。

 二人は受付に教えてもらったレストランに向かった。そこは入り口脇にあり、この宿の雰囲気に合った内装だった。キラキラと輝くシャンデリアに暖色系の明かりが灯っている。二人席でも広めなテーブルには真っ白のテーブルクロス、その中央に花束が飾られている。椅子はふかふかのマットが敷かれ、背もたれは一メートルくらいと恐ろしく長い。全てが金属製で、高級感があった。

 二人は適当に席に座り、メニューボードを開くと、

「何を召し上がりましょう?」

 低い声で、男のウェイターが尋ねてきた。あれとこれとそれと、という具合で頼むと、

「かしこまりました。代金はチェックアウトの際に宿代込みでお支払いとなります」

「どうも」

 一発でオーダーを承った。

 軽くお辞儀をし、厨房の方へ行く、

「あ、ちょっといいですか?」

 前に、優男が引き止める。

「何でしょう?」

「この街はやたらと殺気立ってるような気がするんですが、何かあるんですか?」

「はて……お客様の思い過ごしかと思いますけれども」

 優男はすっと何かを差し出した。それを丁寧に受け取るウェイター。

「今、この街では話題になっていることがあるのです」

「話題? それにしては威圧感があるけど……」

「ちょっとした話題ですよ」

「……」

 また何かを差し出し、また何かを受け取る。

「あまり口外なさらないようにお願いします」

「えぇ」

「実はこの街では……」

 

 

 夕食を終えた二人が部屋に戻ってきた。ちなみに優男が食べたのは魚を煮た料理と野菜の盛り合わせと高そうなパンを三つほど。ナナは分厚い肉とコーンスープとアイスを四つだった。

 くふぅ、とナナはベッドで横になる。

「おいしかったぁ。ディンはどうだった?」

「さすがでしたね。久々に美味しかったですよ。前回の国が酷かったというのもありますがねぇ」

 “ディン”と呼ばれた優男は鋼鉄製のブーツを脱ぎ、刀と一緒にベッドの近くに置いた。藍色のパンツを履いている。

「それにしてもほんとかなぁ。とってもうそっぽい」

「同感です。ですが、あの人がデタラメ言うように見えないんですよね。おまけに手痛い出費が……」

 ため息を一つ漏らした。

「もうねむたいからねる。おやすみ~」

「ちょ、ちょっと、お風呂に入らないと!」

「めんどくさーい」

「……潔癖症だった反動ですかねぇ……」

「……すぅ……ふぅ……」

 女は本当にそのまま寝入ってしまった。メガネを掛けたままなので、そっと外し、近くの安全なところに置く。

 またため息を漏らすディン。仕方なく、お先に風呂に入ることにした。

「……人が……生き返る、か……」

 

 

 翌朝、ディンが目覚めると、

「!」

 ナナの姿がなかった。

「なっナナさ、……!」

 水の音。それが聞こえた瞬間、

「……はぁ……」

 安堵(あんど)のため息をついた。

「なんだお風呂か……」

 いつの間にか持っていた刀をベッドに立てかけた。

 外はもう白みきっていた。気持ちいい晴天が建物に遮られている。それでも地上に降り注ぐ太陽の光を感じることができた。窓を開けると、心地いい風も入り込む。

「いい……」

 ほっこりした気分で窓を閉めると、

「ねーきがえどこー?」

「!」

 背後でびしょびしょのナナが、

「ちょちょっと! なにしてるんですかっ!」

「ふふっ」

 笑っていた。

 

 

 色々と不都合な事態を何とか収拾してくださったディン。部屋の中は水浸しになり、清拭(せいしき)も大変で終始ヒヤヒヤしていたという。そしてひたすら無心に努めたという。

 その後は朝食を取り、荷物の整理整頓をした後、また街に繰り出すことになった。ディンは鋼鉄製ブーツを履かず、藍色のパンツを履く。そして上着として、黒い布地のスーツジャケットを羽織っていた。

「はっひっひー」

「とても複雑な気分ですね」

 悲しいのやら嬉しいのやら。

 とにかく、今日は観光がメインだ。二人は大通りを適当にふらつくことに、

「あ、ごめんなさい」

「いいですよ」

 した。男の子がぶつかってきた。ディンは小さく詫びて、少年を見送った。

 街中は相変わらず物々しい気配だ。こんな清々しい朝なのに地上はえらく(よど)んでいた。

「おい」

「?」

 背後から呼びかけてきたのは男二人だった。どちらも屈強な身体つきをしており、見た目や気性からも一筋縄ではいかないようだ。

 二人とも右腰にホルスターがある。

「お前の彼女かよ?」

「それに中々珍しいもんまで持ってるじゃねえか」

「あぁいや、その……あははははいだだ」

「照れんなぼけが」

 ディンの背中に強烈な痛みが走る。ナナが思い切り(つね)っていた。

「それで私らにどうしろと言うんです?」

「その女と荷物、全部置いてきな。そうすりゃ命まで取らねえよ」

 片方の男が右腰に手を据える。

 じっとそちらを見つめるのはナナだった。ディンの左腕にしがみつき、肩の後ろに隠れている。

「理由は……聞かなくてもいいでしょうね」

「そういうこった。全部売りに出して金にするのさ」

「いえいえ、そうでなくて」

「?」

「手ぶらで返ってもらうためですよ」

 片方の男が銃を引き、

「遅いですね」

 抜く前に、ディンが向けていた。話しかけていた男の眼前には黒く(いか)つい黒穴二つ。二つの短いバレルがくっついた小型のショットガン、所謂“ソウドオフ”だ。

「!」

 片方の男はまだグリップを握り、ホルスターから抜こうという段階だった。

 ディンはすっと下げ、ジャケットの中にしまう。胸にはベルトが巻かれており、そこにホルスターが二つ左右についていた。その間はショットガン・シェルがずらりと並んでいる。ショットガンは左の脇に収納される。

「撃っていれば、あなたも巻き添えをくらうところでした。そういう銃なのはご存知ですよね?」

 ディンたちはその場から離れた。

「……ちぃ」

「おいおい、待てよにいちゃん」

 しかし、またも呼び止められる。別の男三人組だった。こちらは細身だが、腰に携えた剣が存在感を放つ。

「俺らも旅人さんたちを狙おうとしてたところなんだぜ?」

「横取りかよ」

 どうやら従ったわけではなく、邪魔が入ったためにディンたちを帰そうとしていただけのようだ。

 五人に取り囲まれるディンたち。

「けっこうにいちゃんもいい顔してるじゃねえか。好き者にはたまんねえぜ?」

「あの変態おやじに売りつける気かよ。やってらんねえな」

「へっへっへ」

「っ」

 下品な笑い。しかし下手に動けない。

「一つ、聞かせてください」

「?」

「何のためにお金を稼ぐんですか?」

「へ、決まってんだろ。仲間を蘇らせるためさ」

「!」

 ぴくりと反応する。

「人間を生き返らせるということですか?」

「おうよ」

「馬鹿な。そんな話、あるわけないでしょう?」

「うるせえな。とにかくもう大人しくしてろよ」

「心配すんな。ころしはしにぇ?」

 空気が抜ける音が五発聞こえた。しかしあまりに早すぎたために音が連なって聞こえる。

「何のおとだ? ほいおい?」

「へにゃ」

 男たちは一斉に倒れこんだのだった。

 何が起こったのか分からないディン。はっとしてナナの方に振り向くが、

「どうしたの? はやくいこうよ?」

 ふるふると震えたまま、ディンの左腕にしがみついているだけ。

 ディンは考えるより先にその場を離れることに集中した。

「……」

 冷たい視線で男たちを睨む。しがみついていた腕と反対の手は握りしめられている。それをぱっと開いて、

「ふん」

 前を向いた。放たれたのは薬莢(やっきょう)五個だった。

 

 

「おや、あなたは昨日の……」

 シスターが入り口前を掃除していた。

「お時間、いいですか?」

「ええ。ささ、中へお入りください」

 掃除を取り止め、中へ案内してくれた。

 ディンたちは教会を訪れた。それも慌ただしく。

「一体どうしたのですか? 血相変えて」

「いえ、確かめたいことがありましてね」

「? そういうことでしたら、こちらへどうぞ」

 そう言って案内したのは、

「ここは……」

 木製の机と椅子のみの部屋だった。十字架の左部屋に位置しており、綺麗なフロアとは全く違う。窓や天井から光が入ってこないために薄暗く、息が詰まりそうだ。煉瓦がそのまま剥き出しになっている。

 机の奥に向かうと、ランタンを取り出して火を灯した。やんわりとした明かりはむしろ不気味にしか思えない。

 着席するように手招きされ、座った。

「さて、何を確かめられますか?」

「……この街は本当に死人を生き返らせることができるんですか?」

「ええ。できますよ」

「……」

 ディンは何を聞こうか迷っている。聞きたいことが山ほどあるためだ。ところが、それはあえなく崩れることになる。

「どうやっていきかえらせるの?」

「……!」

 ナナが先に尋ねた。

「それは企業秘密でねえ。私らにはちょっと分からないんだよ、お嬢ちゃん」

「つまり、別の施設がそういうことをしていると?」

「そうですねえ」

 シスターは立ち上がると、歩きながら、そして(あご)を撫でながら答える。

「信じられませんか?」

「と、当然ですよ。そんな絵空事、実現できるはずがない……」

「人間はそれを可能にできる唯一の動物なのです」

「!」

 ディンの背後に回り、肩に手を添えた。蜘蛛(くも)が肩に這うように。

 びくりと大きく震えた。

「空を飛びたい、海を深く潜りたい、宇宙に行きたい。そういった夢や希望、架空のものを実現してきたではありませんか。神に与えられし知能をもって、確実に進歩してきている。完成された“人間蘇生法”も、何百年何千年先で実現したであろう技術を先取りしているにすぎないのです」

「……その蘇生法とやらは科学的に実現したと?」

「その通り。だからあなたも一縷(いちる)の望みに()け、この国にやって来たのではありませんか?」

「! ……」

「……どういうこと……?」

 ナナの視線から目を逸らす。

「どうしても信じられないというのなら、私が機関に問い合わせてみましょう」

「……あなたはその機関の一員なんですか?」

「私はただのシスター。ただ、迷える子羊のためには多少のコネも必要なのです」

「なるほど。現実的なシスターですね」

「祈るための両腕は必要ない。愛する人、大切な人を抱きしめるためにあればいいのです」

「……」

 

 

 式場で待機していると、十字架の右部屋からシスターがやって来た。そして日時を伝える。ディンたちの滞在日数を考慮し、明日の朝九時、つまり三日目の朝にしてもらった。

 二人は教会を出ると、

「ナナさん、急遽探しものができました。良かったら付き合ってくれませんか?」

「え~。こんなこわいところで~?」

「お願いします」

「……」

 少しだけ真面目な雰囲気だけに、ナナも断ることが、

「やだ。もうつかれたし」

 できた。

「……ふぅ」

 小さくため息をつく。

「お買い物に付き合ってくれませんか?」

「いいよ!」

 即答だった。

 二人は長閑に楽しく街中を歩いていく。鷹が獲物を狙うような鋭い視線を全身に浴びながら。ナナが笑えば合わせ鏡のように笑う。ぐずればあやし、疲れたなら休む。とても自然な行動を取りつつ、警戒を(おこた)らない。

 買い物というのはあくまで体裁で、本当は何かを探していた。そして街の様子を観察していた。

 綱渡りのような散歩をしてから数時間、この国の五分の一ほどを制覇する。

「……なるほど」

 ディンは納得する。異様な雰囲気の実態を理解できたためだ。シスターの言う“人間蘇生法”とやらにかかる費用を稼ぐため、ディンたちのような旅人を狙っている。あるいは弱者を見抜き、

「ちょっと一緒に来てもらっていいかな?」

「……」

 人気のない所まで連れて行き、強奪する。芸術的で美しい外観とは裏腹に、陰で行われているのはえげつない行為だ。ディンたちが当初感じていた“活気”とはむしろこちらだったらしい。

 二人は昼食を取った。すぐに逃げられるようにオープンレストランの外席で。

「……ごちそうさま」

「えぇ。さて、もう少し散歩しましょうか」

「え~! かいものはぁっ?」

「だってお気に召す店がないでしょう?」

「……そうだけど……」

 ディンはウェイターを呼び、食事の精算を、

「えっと……あれ?」

「どうしたの?」

「えーっと、たしかここに……え?」

「いかがなさいましたか、お客様?」

「サイフがない……」

「……」

 中断し、手荷物を全て調べた。しかし、

「……ない……」

 見つからなかった。

「おかしい……どうして……?」

「代金はどう支払われますか?」

 ずいっと怖い表情が詰め寄る。ディンは苦笑い以外できなかった。

「仕方ないですね。これなんかどうです?」

 漁った荷物から何かを取り出し、ウェイターに握らせた。

「ではこれで」

 平然と立ち上がり、ナナを連れだしていった。

「いったいなに、……! こっこれはっ……!」

 金貨だった。太陽の光を受けて輝いている。

 

 

 二人は午後の時間を街探索と買い物に使った。必要な物を売り払い、同時に必要な物を買っていく。結局、手元に残ったお金が少なかったので、全てがウィンドウショッピングになってしまった。ナナの機嫌はものすごく悪くなった。

 夕方を過ぎ、完全に日が沈む前に、探索を終えて宿に戻る。宿、店、役所、博物館、教会、警察署、消防署、図書館といった建物を見つけることができた。これで探索はほぼ完了した。

 国は特別なエリアというようなものはない。全てが道路と建物で支配され、立入禁止区域がない。区や町という区別もなく、一個全体が街というような(てい)をなしていた。

「つまんなかった。サイフも見つからないし、どうなってんのっ」

「私に言われても……ごめんなさいとしか……」

 憂さ晴らしにディンを(はた)く。しかし全然力が入っていないので、適当にあしらっていた。

 特別変わったことは住民の異様な気配だけだが、ディンはしっかりと何かを把握できていた。

「アイスたべたい」

「もう夕食ですか。今日はさすがに歩き疲れましたねぇ。ですが、満足に召し上がれないかと」

「あ、そっか。じゃなくて! これからどうするのっ?」

「うーん。ここの人たちみたく盗みでも働きますか」

「さんせーい! みんなもやってるし、いいよね!」

「って、そこは拒否するところでしょう? 加勢してどうするんですか」

「もとはといえば、サイフおとすからいけないんでしょっ!」

「感情豊かになったのはいいですが、少し静かにしてくださいね」

「またこどもあつかいしてっ」

「見た目は大人、頭脳は……まぁ、とりあえず予備は少しありますから、それで何かいただ、」

 ドアの方からノック音がした。

「?」

 ドアの覗き穴から見ると、

「ごめんくださーい」

 ボロボロの格好をした子供がぽつんと立っていた。黒いショートヘアに小麦色の肌、真ん丸の目付きの少年だった。黒と橙色のボーダーシャツは服というよりも布かけに近いくらい破れているし、深緑色のパンツも下着が見えてしまいそうなくらいに短い。(すそ)から糸くずが見えることから、何回も裁断したのだろう。

 何かを持っている。

「ちょっと待ってくださいね」

 ディンはドアから少し離れ、少し考える。もう夜が更けそうだというのに……。

「あの、これってあなたのですか……?」

「えっと」

 その声に反応して覗き穴をみ、

「!」

 ガラス片と一緒に、黒色一閃の何かが眼に突っ込んできた。しかし、間一髪、上体を反らして(かわ)していた。

 次は銃声。乾いた連続音が鳴り響き、ドアは一瞬で蜂の巣になる。貫通する銃弾に、ディンは身を伏せてやり過ごすしかなかった。

 止んだ。

 この数瞬でディンは部屋奥まで駆け抜けた。

「ナナさんっ、大丈夫ですかっ?」

 ベッドの脇に身を隠していた。

「う、うん。でもどうなってるのっ?」

「とにかく私が敵を殲滅(せんめつ)してきます。あなたはお風呂の方へ」

「わかったっ」

 屈みながらお風呂の方へ走っていった。

 ベッドに立てかけていた鋼鉄製ブーツを履き、ジャケットの中からショットガンともう一丁の自動式拳銃を取り出す。弾倉を確認する。

「! 弾が五発、ないっ」

 ディンが使用している自動式拳銃の装填数は六発と一発(薬室に装填される分)だが、マガジンの中には一発しか入っていなかった。銃をスライドすると、薬室に装填されていた一発が排莢(はいきょう)される。

 急いで装填し直すが、

「!」

 鈍い衝撃音。誰かがドアを蹴破ってきた。

 ディンは仕方なく、ドアへ通じる通路にショットガンを向ける。

「!」

 敵が入ってきた。と同時に肉片が飛び散っていった。

 敵の脚が見えた瞬間に引き金を引いていたディン。トマトが砕け散ったように、背後の壁に血飛沫と肉片と散弾が植えつけられる。

 その一発で一気に静まり返った。今のうちに残りの弾を装填していく。

「……」

 敵は通路に隠れている三人と死体が一つ。全員特殊部隊というより、そこら辺のチンピラという感じで、単純に銃撃してきただけだ。しかし意思疎通はやり慣れており、アイコンタクトやジェスチャーは伝わっている。

 おい、こんなの聞いてねえよ!

 どう攻める?

 爆弾はダメだ。金目の物が吹っ飛んじまう。

 無駄弾散らしながら飛び出るか?

 落ち着け! 相手は手練れだぞ! 裸で放り込まれるのと同じだ!

 要は一瞬のスキを作ればいい。

 その内の一人が死体をずるずると引き寄せてきた。頭が完全に無くなっており、断面の荒れた首から流血を残していくのみ。その荷物から剥がし取ったのは、

「!」

 手榴弾だった。

 何考えてんだ!

 いいから黙ってろ!

 すると、何もせずにリビングの方へ投げた。

「っ!」

 向こうから足音がする。慌ただしくこちらへ近づいてくる。発生源が間近になったところで、三人はそちらに銃を構えた。

「……」

「……」

「!」

 にゅるっと何かがでてきた。それを理解できた時は、

「びゃっ」

「ご」

「ぐああああああぁぁぁ」

 遅かった。

 三人のうち比較的近かった二人は爆裂した。頭は無事なものの当たり所が悪く、あっけなく死んだ。残る一人は運良く生き延びる。もっとも、無意識にかばった右腕は穴だらけだが。

「ぐぎいいぃ……いでぇよお……」

 痛みで(うずくま)っていたところに、大きい足音が聞こえた。

「ひ」

「運がいいですねぇ」

 鼻先に押し付けられる銃口。激痛で滲んでいた脂汗が、今度は全身に広がっていた。穴という穴から様々なものが漏れだしていた。異臭が漂い始めている。

「た、たしゅけて」

「では、質問に答えてくれれば助けてあげましょう」

「はっはひっ」

「あなたも金目当てですか? その目的は?」

「お、親を……生き返らせたくて……」

「次に、あの少年は誰ですか?」

 外で男を見下ろしている少年。転がっている石を見るように、興味なさげだった。

「あ、あかるってんだ、あのガキ……は、はひっ」

「アカル? ……」

 呼吸が荒くなる。それを無視し、ディンはじっと見つめる。くすりと笑った。

「あなた、私にぶつかってきた男の子ですね?」

「うん」

「なるほど、手癖が悪いようです」

 男の呼吸がさらに荒くなってきた。

「最後に、あなたは人が蘇ると信じてるのですか?」

「あ、当たり前だ! おっれは見たんだっ。つツレのあねがもど、もどってきたとこをなっ」

「! なにっ」

 ショットガンをしまい、ディンは男を抱き上げた。

「それは気になりますねっ。まだ死なないでくださいよ!」

「はひっはひっひっひっ…………ひ…………………………」

 抱えていた腕に急に重みがかかる。

「……」

 男を下ろすと、何も反応を示さなかった。

 男の死に様を確認する。

「……しんだの?」

 ぴくっと人差し指が反応した。まだ引き金に引っ掛かっている。

「! ナナさんですか。驚かさないでください。それと、勝手に出てきてはダメですよ」

「ごめんなさい。でも、しずかになったから……」

「えぇ。終わりました」

「あの子はだれ?」

 ナナが指差す。

「“アカル”というそうです。それより、ここを出ましょう。ナナさん、荷物を持ってきて準備をお願いします。私は後片付けを。アカルは部屋の中へ」

「うん」

 ディンは死体を力任せに引きずり、風呂場の浴槽に放り込む。死んでいるために余計に重く感じた。

 その後、外へ出て周りを見渡した。あんなに物音を立てていたのに、変に静まり返っている。不気味でしょうがなかった。

 準備が整った。ディンは迷彩リュックを背負い、ショルダーバッグを肩に掛けた。

「先に私が出ます。背後に注意しながら出てきてください」

「わかったぁ」

 ショットガンに弾を装填する。かちりと音を立て、ホルスターにしまいこんだ。

 すっと部屋を出る。彼は銃を持ってはいないが、人の姿が一瞬でも見えた時に、照準を合わせるイメージを作っている。

 通路に人はいない。ナナたちに合図を送り、外に出させる。

 階段まで三十数メートルは離れている。その間、部屋数は十室ほどで、ここにぶつかる通路は二つ。反対側も同じくらいある。ひとまず、ディンたちは右手の方へ向かった。徒歩の半分くらいの速さで。

 物音がない。まるで無人の廃墟にいるかのようだ。しかし照明も付いているし空調も効いている。いくら就寝時刻に近いとはいえ、何も騒ぎがないのは不自然だった。ディンは進みながらそう考えていた。

 ナナたちもそれを()ぎ取っていたようで、静かについていく。

 表情が硬い。

 階段まで何も起こらなかった。考え過ぎかと思われたが、気を入れ直して降りていく。

 階段にもマットが敷かれているために足音を殺すことができた。それが幸いしたか、一階フロアまでも異変は起きなかった。

 フロントの奥に出口、そして脇に例のレストランがある。そこまでは二十メートルもないだろう。それに受付人やレストランに客が何人かいた。気が緩むが、嫌な気が抜けない。

 とにかくフロントに移動する。

「こんばんは。どうなさいましたか?」

「あぁいや……その、チェックアウトしたいんです」

 ルームキーを差し出す。

「明日の午前中まででしたら泊まることができますが、よろしいでしょうか?」

「はい。ちょっと急用ができてしまって……」

「急用というのは死体処理のことでしょうか?」

「!」

 抜く手がぼやけるほどに早かった。

「……」

 ショットガンを顔の中心に合わせている。ところが受付人は、

「どうか落ち着いてくださいませ」

 全く動揺していなかった。

「死体処理でしたらサービス内にありますので、どうかご心配なさらないでください」

「な、なに?」

 顔が歪む。

「ご存知でしょう? この国は死人が蘇る国なのです。ですからそんなに慌てなくとも大丈夫ですわ。今、スタッフがお部屋の清掃を行なっております。同じ部屋では厳しいのであれば、別の部屋をご案内致しますが、いかがいたしますか?」

「……」

 営業スマイル。

 物品破損の対応をするかのような態度に、ディンは茫然(ぼうぜん)とするだけだった。

 

 

 結局、受付人の言葉に甘えさせてもらうことになった。“アカル”という少年とナナをベッドで休ませ、ディンは椅子に座って一夜を過ごす。部屋の作りは全く同じだったので、その戸惑いはなかった。

 ぐるぐると疑問と悩みが頭の中で回り、それが静まろうとした頃、朝を迎える。昨日のこともあってか、気持ちいい晴天でも気分が優れない。ディンは身体の節々に痛みを覚えながらの起床となった。

「……気持ち悪いですねぇ」

 気分転換に朝風呂に入る。と、

「ああ、ごめんよ。オイラが先に入ってるから」

 アカルが先に入っていた。ボロボロのシャツとパンツがゴミのように脱ぎ捨てられている。

 浴室扉のぼかしガラスを隔てて話す。水飛沫がかかっている。

「いえ、けっこうですよ。あなたの姿がなかったから、出て行ったのかと思いましたよ」

「そう。あっあと、金は返しといたから」

「それだけで済むと思っているんですか? 舐め腐った子供ですねぇ」

「オイラも生きるためには手段を選べないんだ」

「……あなた、いくつですか?」

「うーん……わかんない」

 少年特有の幼い声に低い背丈、丸顔と、多く見積もっても十代中頃だ。下手をすればまだ十代にもなっていない。

「あなたも家族か誰かのためですか?」

「うん。……妹がいるんだ。双子の……“アカリ”って言うんだけどさ」

「……両親は?」

「故郷にいる……と思う」

「思う、とは?」

「長い間、故郷に帰ってないし。だから今でもそこにいるかどうか……」

「長い間って……。いつからこの国に住み着くようになったんです?」

「……はっきりとは覚えてないんだ」

「記憶喪失、とは違うみたいですねぇ……」

 不自然だらけで半ば混乱していた。ディンは少し黙り、

「…………ふむ……」

 考えてから、

「少し確認してもいいですか?」

 アカルに尋ねた。いいよ、と二つ返事。

「この国では死人が生き返る“人間蘇生法”という技術を持っていて、人が死んでも騒ぐような事態ではない。そして、ここにいる人間の大半が誰かを生き返らせたくて、犯罪的にお金を稼いでいる……。ここまではいいですか?」

「だいたい合ってる」

「で、ここで疑問なんですが、人間蘇生法というのはどこで頼むものなんです?」

「いろんなところだよ」

「? 色んなところ? どういう意味です?」

「つまり、オイラ“も”知ってるってこと」

「……? あ」

 よく意味を理解できなかったが、別のことを思い出す。

「……そういえば、今日は別の用事がありましたか……」

「別のって?」

「あぁいえ、こちらの話ですよ。あなたも一緒に来ます?」

「オイラはいいよ。大事なことだろ? 旅人さんも誰かを生き返らせたくて、ここに来たんだろうし」

「……」

 言い返しはしなかった。

「って、お風呂はまだですか?」

「オイラも久々だからさ。あと五時間いいかな?」

「とっくにチェックアウトしてますよっ」

 ディンも起きたナナも風呂に入り、出立の準備に取り掛かる。と言っても、昨日でほぼ完了しているので、忘れ物の再度確認くらいだった。

 例の時間まで余裕はある。アカルのことも考え、ディンはギリギリまで部屋にいることにした。

「いいのかい?」

「えぇ。あなたも大変でしょうから、身なりくらいはきちんとさせますよ。情報料として受け取ってください」

 ディンはサイズの合わない衣類と携帯食料、ちょっとした小金を渡した。そして、

「追加で聞きたいことがあります」

 金貨を一枚手渡した。

「……これだけ奮発してくれたんだ。何だって教えるよ」

「では気兼ねなく。……死者が生き返ると本当に信じますか?」

「もちろん」

 

 

 



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第八話:たいせつなとこ・b

 チェックアウトを済ませ、宿の入り口前で、

「それじゃ」

 アカルと別れた。それを見送る二人。

「……おわなくていいの?」

「えぇ。こちらが付きまとう理由はありませんから」

 二人は反対方向へ歩き出した。

「きょうでここもおわかれだね」

「まだ早いですよ。本当なら今朝にでも出立したかったですが、先約がありますからね」

 約束の時間より十分ほど早く教会に着いた。中ではシスターが誰かと話しているのが見える。二人を見かけると、

「おはようございます。ようこそ、いらっしゃいました」

 こちらへ駆け寄ってきた。にこやかだった。

「えぇ、おはようです」

 挨拶は意外に少なかった。

「あの方が?」

「はい。それではお願いします」

 入って一番右奥の座席にいた。他の人間は一人もいない。こちらを見かけると、駆け寄ってきた

「申請しに来た方々ですね?」

「……」

 無精髭の男だった。正装……とはほど遠い、みずぼらしい格好だ。(あか)が酷くボロボロの長袖に、穴だらけのくすんだ青いパンツ、薄汚れた靴を履いている。見た目からは関係者には見えない。しかし彼の言葉遣いと顔付き、雰囲気を感じ取ると、第一印象はあっさりと崩れ去る。すぐに悟った。

「申請ってまでではないですが、シスターに紹介はされました」

「それだけで結構。して、そちらの“お嬢さん”はどうされますか? 正直、思わしくない光景を目にしますが」

「んっ」

 ディンの腕にしがみつく。にこりとした。

「分かりました。では案内します」

 男に付いて行く。教会を出て、どこかへと歩いて行く。

 相変わらず街は騒々しい。

「その格好はカムフラージュですか?」

「しっ。その話は今はよしましょう」

「?」

「ここらの連中はアンテナが鋭いのです。会話や挙動を観察しているだけで金の匂いを嗅ぎつけてくる……」

「は、はぁ……」

「まずは街案内を致しましょう。旅人さんは何かと方向音痴が多いようですから」

 急な話題転換。計略ということらしい。

 とっくに街は歩き回っているものの、現地人の案内はさすがだった。どういう所かの解説付きだからだ。特に歴史に興味が薄い二人だが、なんとなく引きこまれているような気がする。

「この国が誕生したのは今から百年前。戦争で一回滅びています。直接参加したわけでなく、主に武器や食料といった物資を備蓄する、言わば基地として成り立っていました。その火の粉を浴びて滅びたわけです。しかし、科学技術が目覚ましい国でしたから、崩壊後もその技術をさらに改良し、発展していきました」

「ここまでよく発展しましたね」

「終戦後、わずか二ヶ月で経済成長を始めましたからね」

「はぁ……」

「しかし、戦争の傷というものはとても深く鋭い。国民は愛する家族を多く失いました。無関係の人間という概念が存在しないのが戦争ですから、仕方がありません。あまりのショックに精神崩壊してしまった人も数知れず……。もはや修復不可能かとも思われた」

「それで開発されたのが死者を蘇らせる技術……ですか」

「その通りです。失ったのだから取り戻せばいい、というごく単純な考えです」

「戦争後の話はよく聞きますが、ここまで直線的な思想は耳にしないですねぇ」

「ええ。ですから、この技術は我々の血と涙と歴史で編んだ誇るべき技術なのです。常識的にはありえないと思いますがね」

「……人間蘇生法はどのくらいで完成したんです?」

「えーっと…………戦後二十二年くらい、寒い時でしたなぁ」

「? ……すごく早いですね」

 こちらです、と裏道へ入っていく。

 そこはただの民家だった。どうぞと招き入れられても、何ら変わりない光景。階段やらお風呂やらリビングやら、何の変哲も無いただの家。さらに案内されたのは、

「……トイレ?」

 トイレだった。何の変哲も無いはずの家に、唯一変わったところがあった。十人くらい入っても余裕があるくらいに広かった。トイレにしては異常な広さである。

 男は慣れた手つきでペーパーホルダーを外すと、

「!」

 上下矢印のボタンが現れた。ペーパーホルダーより小さかった。くっつけている時では陰になって見えない。

 下向きのボタンを押す。

「お」

 予想通り、急に浮遊感を覚えた。トイレはエレベーターになっていたのだ。

「ここまで仕込んでいるとは……」

目敏(めざと)いのが多いんですよ。ここはそういう街ですからね」

 色彩豊かな壁紙が上の方へ離れていき、代わりに真っ黒な壁が続く。ここまで光が届かないようで、落とし穴にゆっくり落ちていくような気分だった。

 一定速度だったのが、やがて徐行になり、止まった。到着のようだ。

「開けてくれ」

 ひゅんっと背後で音がした。開くに(なら)って光が入り、真っ黒な壁の正体を見せる。コンクリート壁だった。

 そして暖気が包み込む。空調が効いているようだ。

 振り返ると、研究所っぽい、現代的な光景が見える。マス目の敷かれた白い天井に蛍光灯がビカビカと照らす。床は暗い水色のゴム系床で、壁はやや黒みのある白だった。そこを、白衣を着た研究員があちこちから通り過ぎていく。

 ナナはずっとディンに掴まっていた。

「行きましょう。ちょっと過激なところもありますから、辛くなったらお声をかけてください。休憩所を案内しますから」

 通路は左右と真っ直ぐ。男はみずぼらしい格好のまま直進していく。

 突き当りには頑丈そうな鋼鉄扉があった。その脇には何かの機械がある。赤いランプが点灯している。

「この奥で行われています」

 話しながらカードを取り出し、機械に通す。赤かったのが緑に変わると、鈍い開錠音がした。

「どうぞ」

「!」

 異様な光景が目に飛び込んできた。

 溶液の入ったカプセルが何列も整列している。生半可な数ではない。一番端にあるカプセルが豆粒に見えるくらいに伸びており、二人分くらいの間隔で並んでいる。奥行きは見えなかった。

 カプセルその一つ一つに研究員が取り掛かっている。バインダーに何かを記していた。

 そして、カプセルの中はというと、

「……これは……?」

 裸の人間が“多かった”。老若男女問わずにカプセルに収められている。溶液も入っており、色は様々だ。

 男が歩き出す。慌てて追いかけた。

「……なにこのまるっこいの?」

 ナナが急に止まる。男がそれに気にかけたようで、こちらに寄ってきた。

「まっまさか、受精卵から……?」

「さすが旅人さん、知識がお広い」

 丸いつぶつぶが球体の中でゆっくりと動いている。一つが二つに、二つから四つに。つまり分裂しているのだ。

「この溶液は段階によって分けられています。受精卵、胎児、そして乳幼児……。さらには年齢や性別によって微妙に変えているのです。主に成長を早めるためです」

「つまりえーっと……培養しているわけですか?」

「その通り。こうしてそっくりの人間を作り出すのです。“クローン技術”……聞いたことありませんか?」

「ちらちらとは」

 再び歩き出す。

「しかし、これには重大な欠陥があります。それは同じ個体を作り出すことはできても、亡くなった方の記憶を引き継げないことです。つまり、見た目が同じでも中身が違うわけです」

「じゃあその偽物を依頼者に託しているんですか?」

「もちろん違います。記憶もほぼ完璧に引き継いでいますよ」

「どうやって?」

「ここはあくまでも第一段階。この奥の部屋で第二段階が行われています」

 カプセルに気を取られながら歩いて行くと、壁と扉が見えてきた。同じように扉脇にあの機械がついている。

 カードを通し、解除した。

「さあ、行きましょうか」

 扉を開く、

「……うぅ……」

「ちょっといいですか?」

 前に声をかけた。

「大丈夫ですか?」

「うぅ……」

 ナナが袖を引っ張っていた。立ち(すく)んでいる。

「女性には辛い光景でしょう。……女性研究員に休憩所を案内させましょう」

「……」

 ディンは眉を(しか)める。

「大丈夫ですよ。ここで拉致(らち)監禁などしても、こちらには何のメリットもない。むしろ我々なんぞよりも、あなたの方が俄然(がぜん)強い。研究所というのは実に(もろ)い場所ですから」

「……分かりました。信用します。……お願いしたい」

 男は近くの女性研究員に話しかけ、ナナを連れてどこかへ案内しに行った。

 心配そうに見送る。

「ここで立ち去って頂いたのは都合がよかった」

「?」

「この先はもっと過激ですから」

 扉を押し開けた。

「!」

 ディンは思わず、口を手で覆ってしまう。

 さらに異様な光景だ。一直線の通路を挟むように、ガラス張りの部屋が並んでいるのだ。部屋に沿って横道もあり、そちらも同じような部屋が。

 異様なのは部屋よりもその中だ。

「す、すごいですね……」

 緑の衣服を着て、何かをしている。ある部屋では血飛沫が舞い、ある部屋では怒号が聞こえる。

「この部屋は……?」

「手術部屋ですよ」

 ちらりと見えた。頭を(のこ)で削り切っている。溢れるように血が流れ、粉末が漂っている。そして中身を……。

 びくんと身体が大きく揺れた。

「う……」

 力強く口を押さえこみ、無意識に膝が崩れた。

「大丈夫ですか?」

「……えぇ。あまり見たくないものですね……」

 チカチカと脳裏に(よぎ)る嫌な記憶。

 ディンは深呼吸を一回だけして、立ち上がった。

「で、ここでは何をしてるんです……?」

「ここでは脳に記憶装置を取り付けているのです」

「記憶装置……?」

「はい。遺族からいただいた生前の大量の記憶データを脳に入れているのです」

「?」

「簡単に言えばメモリーカードを差し込むのと同じです」

 ポケットから取り出したのは、黒く四角い物体だった。それを手渡してくれる。物が入っているのか思うくらいに軽かった。

「これが……メモリー、カードですか」

「はい。記憶装置には対象者のデータが入っています。例えば魚が好き、肉が嫌い、恋人は誰で……といった具合に。もちろん無限大には入りませんから、特徴的なデータを厳選、それを電気刺激に変換し、脳に送るのです。そうすると、成功確率は低いですが、生前とほぼ同じ状態を実現できるのです」

「……そんなことが……しかし失敗したら……」

「いえ、必ず成功します」

「え?」

 とある部屋へ案内された。隣り合わせの二部屋だが、ディンはすぐに気がついた。

「同じ人?」

「そうです。第一段階で同じ人間を大量生産すればいい。そして大量に試せばいい。そうすればいつか成功する個体が出てくるので、成功体を遺族に託せばいいのです」

「……」

「遺族からすれば一発成功と思うでしょうけど、実際は何回も試しています。ですから“必ず”成功するのです。実質、この方法で何万人もの死者を復活させました」

「……ではその代金は……」

「べらぼうに高く設定しています。しかし、儲けるためだけではありません。時間稼ぎと蘇らせたい気持ちを計っているのです。いくらお金をつぎ込んだとしても、大切な人ならば惜しくないはず。そんなことで尻込みしているようではその資格はない、と見なしています。我々は慈善事業をしているわけでないので、勘違いされる方も多いですがね」

「なるほど。地上の(すさ)み具合も納得ですねぇ」

 さらに奥へ案内される。同様に解除した。

「そしてここが最終段階です」

「最終段階?」

「今までに比べれば簡単です」

 入ると、真っ白な光景が広がっていた。輪を作るように長机が何個も設置され、椅子が付属している。左右に扉がついており、それぞれに研究員が立っていた。

 何人もの老若男女が机に向かって何かを書き込んでいた。眼前には用紙が一枚、それに集中している。

「……テスト?」

「そう。生前の状態にどのくらい近いのか、それぞれテストしています。事前に遺族の方に作成してもらい、点数で九十五点以上の者が合格となります」

「外れた人たちは?」

「殺処分……というわけにはいきません。中身は違えどちゃんとした人間ですから。整形手術を施してから、地上で自由に生活してもらいます」

「……じゃあ、地上で生き返った人間がいるとっ?」

「ええ。生活に馴染みすぎて、そんな面影すら見えないでしょう。ちなみに記憶装置をメモリーカードと表現しましたが、それは記憶を蓄積する機能もあるからです。その者たちは装置を外されるので重要なデータは残らない、つまり遺族からのデータと研究所での記憶は完全に消去された状態になります」

「問い質しても知りはしないわけですか」

「はい。当然、生活能力はありますけどね」

「……なまじ嘘でもない、かもしれませんね」

「信じていただけましたか?」

「……」

「それでは本題に移りましょうか」

 

 

「うぅ……」

「大丈夫?」

 真っ白のベッドに真っ白の机と椅子。それだけのとても簡素な部屋だった。

 ナナがベッドで横になっており、研究員が連れ()っている。

「彼氏、呼んでくる?」

「いい……。これいじょう、めいわくかけちゃやだから」

「! あなた……」

 そこにディンたちがやって来る。見かけた研究員は真っ先に尋ねた。

「あの、この方……」

「少しその……病んでしまって」

「そうでしたか。……では私はこれで……」

 一礼して、部屋から立ち去った。

 ディンはナナに安否を確かめる。気分がまだ優れないようなので、上体を起こさせるだけで、ベッドに腰掛けさせた。

 ディンの肩に寄り添う。

「さて旅人さん、誰か生き返らせたい方がいらっしゃるのですか?」

 こくりと固唾(かたず)()んで、

「……彼女の弟です」

「!」

 答えた。

 ナナはゆっくりとディンの顔を見つめる。苦々しい表情だった。

「お連れの方の症状と深く関係しているのですね?」

「……はい」

「では、これからはとても重要な話になります。弟さんの記憶を形成します。なので、弟さんの人柄だけでなく、過去の話も知っている限り全てお話しください。お辛いとは思いますが……」

「……これは私が関われる話ではありません。彼女に承諾を得ないと……」

「分かりました。……お連れの方、ええと、お名前は?」

「…………………………」

 ナナはディンの背中に隠れる。目も合わせてくれない。ディンは慌てて、

「“アン”です」

 名前を告げると、

「いっだ」

 ディンの脚を蹴る。そして脇腹をぎゅっとつかむ。

「アンさん、弟さんのことについて教えていただけませんか?」

「や」

 ディンの陰から一文字だけ。それも即答。

「すみません。そういえばしっかりと相談していませんでした」

「……いいですよ。ここでお話しするといいでしょう。具合が良くなったら近くの者に声をかけてください」

「すみません」

 男は部屋から出て行った。

 静まり返ってから、

「だからここにきたの……?」

 問い(ただ)す。

「……ナナさん、よく聞いてください。……私はあなたが良くなってほしい。そのためには弟さんを蘇らせて、当時のことを話してもらうおうと考えたんです。私も許せない、自分も許せない、それなら弟さんに、」

「やだ」

「!」

「そんなのぜったいやだ」

 ナナの肩を掴む。

「自分勝手なのは分かっています。……しかし、弟さんを生き返らせる以外の方法は……“僕”が死ぬしか、」

「それもやっ!」

「……ナナさん、どうして……? ……僕はどうしたら……」

「おとうとがいきかえってもおとうとじゃないもん」

「? どういうことですか?」

「つくりものはいやっ」

「作り物じゃないんです。弟さんの身体の一部を持ってい、」

「そんなんじゃない! にんぎょうじゃないもん!」

「……しかし……」

「かってにしぬのもゆるさない。これいじょうおとうとをおぼえてるひと、へらしたくない……」

「!」

 奥の歯をぎゅっと噛み締める。今にもなき、

「どうしたら……どうしたらいいんですかっ? 生き返らせない、死なせてくれない! どうしたら許してくれるんですかっ?」

 ……迫る。一息で言い放ち、胸が苦しい。

 顔をナナに(うず)めた。

 ディンの頭をきゅっと抱き寄せる。

「ずっとゆるさないよ」

「……え?」

「ずっとゆるさないし、おとうとをにかいもころさせない。ずっとずっとナナのためになやんでてもらうんだから……」

 急に頭を上げ、

「そ、それって……ナナさん……もしかし、ん?」

 ディンの唇に、そっと人差し指が触れる。優しい笑みだった。

「ナ、ナさん……?」

「……おそらがみたい」

「…………分かりました」

 胸の部分が湿っていた。

 

 

 休憩室を出ると、ドアの近くに研究員がいた。先ほどの男を呼ぶように頼むと、ちょうど男がやって来た。

 ディンは決断ができたと休憩室に入ってもらう。いつものおちゃらけた表情だった。

「して、どうしますか?」

「……生き返らせるのはやめます」

「……そうですか。理由は聞かないでおきましょう。表情を見れば、その必要がないのが分かります」

「申し訳ない。ここまで案内してもらいながら……」

「いやいや。……さて、そこで誓約書にサインをいただきたい」

「口外許さず、ですね?」

「ええ」

 用紙をポケットから出した。折りたたまれているのを直し、内容を見る。要約すると、ここで得た情報全てを一切漏らさないこと、となっている。それにサインした。

 お互いに礼を告げると、ディンたちは来た道を外れてエレベーターへ向かう。その途中、

「……!」

 一人の子どもとすれ違った。短めの黒い髪型、小麦色の肌、それに、

「アカル……?」

 真ん丸の目付き。

 その子はこちらに振り向いた。別の研究員と一緒だった。

「旅人さん、面識があるのですか?」

「え、えぇ。そっくりな子を街で……もしかして双子?」

「きっとそうでしょう。私は把握しきれていませんが、そういう方も少なくありません」

「……では我々はこれで失礼します。ほら行くぞ」

 (うなず)きもせず、一緒に歩いていった。終始、ディンのことを睨みつけていた。

 例のエレベーターに辿り着き、

「おぉう」

 乗り込んだ。

 そろそろ地上に着こうという時、男が突如話しかけてきた。

「“ドッペルゲンガー”というのをご存知ですか?」

「え? 確か……自分と同じ人間が四人いるとかで、その人物と出会うと死んでしまう……って話ですよね?」

「そうです」

「それが何か?」

「我々は同じ人間を何度も創り出しては失敗して殺している。この意味が分かりますか?」

「いや、きついなぁとしか……」

「それも当たっています。それと、目の前でドッペルゲンガーを創り出しているんだなって思うと可笑しくってね」

「え?」

「都市伝説が本当なら、目の前で死んでもおかしくないでしょう?」

「あぁ」

「でもね、あながち間違いでもないかなとも思うんです。つい最近ね」

「どうしてです?」

「こんなことを何回も続けていたら、こちらが死にたくなるんですよね。まるでリセットボタンを何回も押しているような……そんな錯覚に陥るんです」

「……」

「神が恐れていたのはこのことかもしれませんね……」

 

 

「みなさん! よく聞いてください! 誰かが我々の“人間蘇生法”の秘密を一般人に口外してしまいました!」

「えええっ!」

「なんだってっ?」

「これからその人物の抹殺に入りますので、みなさんはくれぐれも地上に出ないように! 完了次第、すぐに連絡し、解放いたします!」

「馬鹿なやつだな……」

「現地人どころか、外部の契約者だって口を縫いつけてでも話さねえってのに……」

「一体誰なんだ……?」

 とてつもなく広大なフロア。研究室と同じような作りになっていた。そこに膨大な数の人たちが入っている。

「……」

 その中に小麦色の肌をした子供がいたが、

「……」

 ふっと人混みに消えていった。

 

 

 男とはトイレの中で別れた。何だか変な表現だが、

「それでは」

 トイレのドアを閉めて、別れとなる。別世界が地下に広がっていたのとギャップがありすぎて、思わず吹いてしまった。

 二人は民家を出た。外はまだ昼前のようだ。路地にあるために薄暗い。

 ディンはにこやかだった。

「よ」

「!」

 すぐ側にアカルがいた。

「アカル!」

「久しぶり」

 まるで待ち伏せしていたかのようだった。警戒心が一気に昇り詰める。

 ナナがディンの左腕にしがみついた。

「心配しないでよ。オイラは感想を聞きに来ただけ」

「感想?」

「うん。オイラは中に入らずに契約したからさ」

「……すみません。そのことは口にしてはいけないと契約しました」

「そうなんだ。まあ、その顔だとまんざらでもないようだけどね」

「え? けっこう顔に出ないタイプなんですがね」

「あ、やっぱ本当なんだ」

「……はめられましたか」

 二人は出国のために門の方へ向かった。今でも不気味な路地だが、こうして歩くと少しさびしい気分にもなる。

「私たちはもう出国しますよ? まだお金をせびります?」

「いんや、オイラの仲間は軒並み殺されちゃったからさ、つきまとってるだけ」

「! ……独りですか」

「うん。でも、慣れてるから平気」

「……」

 ぴたっと立ち止まった。

「お詫びに、いいことを教えてあげましょう」

「? なに?」

「あなたの妹を見かけましたよ」

「! 本当っ?」

「えぇ。帰るときに見かけました。あなたとそっくりでしたから、まず間違いないでしょうね」

「……ははっ」

 屈託のない笑顔。

「ちょっとは希望が湧きましたか?」

「へへっ。そんなもんじゃないよ」

「あなた“は”顔に出やすいタイプですねぇ」

「うっうるさいっ」

 ディンは笑みを零しながら歩いていく。それを見つめるナナはどことなく嬉しそうだった。

「あぁそう、絶対に内緒ですからね」

「もちろん」

「では、お達者で」

 二人は歩いていく。今度はアカルが、二人が見えなくなるまで見送った。

「……」

 見えなくなると、表情が一気に沈む。真ん丸の瞳から光が消えた。

 

 

「……変ですね」

 (ささや)くように呟く。

「なんかこわい……」

「大丈夫ですよ。出国してしまえばそれまでです」

 あんなに人が溢れていたというのに、今日に限って人っ子一人見当たらない。それどころか気配すら感じない。まるで消しゴムで消されてしまったようだった。

 試しに建物の中に入る。マンションだった。ドアをノックしたり呼び鈴を鳴らしたりしたが、反応は全くない。さすがにこじ開けて侵入するのは抵抗があったため、先を急ぐことにした。

 路地の薄暗さと相まって、さらに不気味さが増している。全身をまとわりつくような何かに、無意識に早足になっていく。

「ねー」

「はい?」

「おしえてよかったの? おやくそくだったんでしょ?」

「……私は誰にも話していない。そしてそれを聞いた人も誰もいない。こうすれば誰も知る人はいない、でしょ?」

「……よくわかんない」

「要するに知らんぷりということです」

 肩で息をしているものの、門の前までどうにか辿り着いた。振り返ると、真正面にある道の突き当りに、あの教会がある。こちらを凝視しているような気がしてしまう。

 門の脇をちらりと見ると、あの分厚い板が立て掛けられていた。あまりの無造作に、思わず白い歯を見せてしまう。

「さて、どうやって出国すればいいのでしょうかね」

「わかんない」

「……誰かに聞いてみましょうか」

 やはり、周りには誰もいなかった。

「ふむ……仕方ない。シスターに助けてもらいましょうか」

 教会に向かおうとした時、

「! アカル?」

 アカルがいた。いきなりの出現に図らずも身構えてしまう。

 ずっと(うつむ)いている。地面を見たままで、二人を見ようとしなかった。

「……びっくりさせないでください」

 アカルに対する警戒は解いた。

 方向的に教会から来たようだ。そちらの道付近にいる。

「ちょうど良かった。出国するにはどうしたらいいんでしょう? 門番はいないようですし」

「……」

「……仕方ないですねぇ。もう一枚差し上げますからそれで、」

「ちょっとまって。なんかへんだよ」

 ナナが遮った。その判断は半ば正解だった。

 地面を見ているわけではなかった。狙いすましたように、二人をじっと睨む。

「アカル……?」

「……」

 何も言葉を発しない。

「もしや……」

 ディンは閃く。

「あなた……“アカリ”ですか?」

「……え?」

「その服をどうやって手に入れたかは知りませんが、そうだとしたら、あの研究所からよく脱走できたものです」

「……」

 ぶかぶかの黒いシャツを着ている。今朝、ディンがあげた衣類だった。

 ナナは相変わらずディンの左腕にしがみつく。しかし、なぜか(おび)えていた。

 その腕をきゅっと締める。

「私に何か用ですか? できれば出国の方法を教えてほしいんですけどね」

「……こ……こ、ど……こ……?」

 抑揚のない、文字を発しただけのような口調。ディンはしっかり聞き取ると、正直に答える。

「ここはとある国です。あなたはアカルの双子の妹“アカリ”で、何年も前に死んだんですが、“人間蘇生法”という技術でもう一度生を受けたんです。アカルは何年もこの国に留まり、あなたのために外法でお金を稼いでいます」

「……? あ……かる?」

「そう。あなたのお兄ちゃんです」

「お……にぃ……ちゃん」

「!」

 奥の方から足音が複数聞こえてきた。ディンは急いでアカリを引っ張り、門の方へ向く。アカルはディンたちの前にピッタリ立たせた。

 街の中心の方からぞろぞろと足音が押し寄せ、そして止まった。ん? とディンとナナが“その場で”振り返る。黒服の男たちだった。銃火器を持っており、物騒である。

「旅人さんか。ここに女の子が来なかったか?」

「おんなのこならここにいるよ~」

「いえ、来ませんでしいだだだっ」

 脇腹を抓られる。

「それどころか誰も見かけません。一体どうなってるんです?」

「あんたが知るところじゃない」

「そうですか。……あの、出国したいんですが、どうすればいいですかねぇ?」

「……門番を呼んでくる。今、急用で出回っていてな。出国手続きなら俺がやろう。記帳すればいいだけだからな」

 一人の男が近づいてくる。

「お前らは他を当たれ」

「はっ」

 その男の指示に従い、ぞろぞろとどこかへ去っていった。

「出国手続きはサインの照合と目的達成の有無を確認するだけだ」

「分かりました」

 一冊の手帳を取り出し、

「名前は?」

「……ロバートとアンです」

「ロバートか……ロバートロバート……あったぞ」

 開いた状態でディンに手渡した。男は二人の背後に気付いていないようだ。

「何かあったんですか? 研究所が襲われたとか?」

「! ……あんた、入ったのか?」

「シスターに紹介してもらって、見学させてもらいました」

「そうか。なら話しても大丈夫だな」

「いいんですか? 住人に勘付かれてしまうのでは?」

「大丈夫だよ。今、集会中だから」

「?」

 わざと遅く書いていく。

「んっと……集会?」

「“人間蘇生法”を契約した者たちが集うのさ。今回はサンプルが一人脱走してな。その警告のために集まってる」

「なるほど。その女の子……存在を知られると、よほど都合が悪いようですねぇ」

「! ……察しがいいな」

「この国は不自然なことだらけです。戦後の復興と技術発展の尋常じゃない早さ、人間を生き返らせるという発想、そして重要な事はここが基地だったということです。これらを紡ぎ合わせると、一つの結論に至るんです」

「何だ?」

「ここで、人間兵器を作っているということですよ」

「……!」

「研究所を案内してもらった時、違和感を覚えました。どうしてこの国の根幹部分を、あんなあっさり教えてくれるのかと。誓約書は書きましたが、旅人によっては紙っペラ同然。下手をすれば私たちが他の国に情報提供してしまうかもしれないのに。その目的は一つ。話すことでもっと重要なことを隠せるからです」

「それが人間兵器だと?」

「いえ、それはあくまでも最終的なものです。この段階ではそこまで辿り着きません。この国が隠したかったこと、そして今も研究していること、それは……生存年数です」

「!」

 ディンは手帳を返した。きちんとサインが記してある。

「疑問に感じたのはクローン失敗体の処理の仕方です。もし失敗したなら、すぐにでも処理したいはず。何かの切欠でクローンだとバレた時、情報が漏れてしまう危険性があるから。しかし、あえて失敗体を処理せず、遠回しな方法で生かしておく。まさに生存年数を調べたいがための方法じゃないですか」

「……なるほど」

「おそらく完全な“人間蘇生法”をまだ確立していない。表向きではそう思わせ、裏では実験と研究を繰り返していると思うんです。死人が出ても騒ぎにさせないのは、死人を使って気兼ねなく実験できるため。荒廃している現状を修復しようともしないのも同じことです」

「……」

 男は手帳を確認し、それを上着の内ポケットに、

「私がこの国で考察したこと“ほぼ”全てです。もちろん、誓約書にサインしましたから、誰にも口外しません」

「……実に優秀な男だ。だが惜しい男だ」

 しまい、

「?」

「知りすぎることは泥沼に踏み込むのと同じなんだよ」

 拳銃を取り出した。

 不意打ち。しかし、

「おそい」

 先んじていたのはナナだった。

「! き、きさ、……!」

 (ひる)んでできた僅かな隙。ディンは腹を蹴り飛ばし、すぐにアカリを見せつけた。

「! なにっ?」

 かなり驚いていた。

「捜し者はこの子ですね?」

「くっ、やはりお前が捕まえていたか……!」

「?」

「俺の言うサンプルを“女の子”って言っていたからな」

「あ、やっぱりこの子だったんですねぇ」

「! ……ちっ」

 苦虫を噛み潰した面持ちだった。男は銃を捨てざるをえなかった。

「取引しませんか?」

「取引だと?」

「私たちは無事にこの国を出たい。あなたはこの子を無事に連れていきたい。利害は一致しているでしょう?」

「ああ」

「今から三十分以内に出国させなければ、そして私たちの邪魔をしたり抵抗したりすれば、この子の首を跳ねます」

 腰に提げていた刀を静かに抜いた。白の菱型模様が目立つ黒色の(つか)(つば)、弧を描く長い刃が銀色に(きら)めく。黒銀色の(みね)、白銀の炎が燃え上がるような模様の刃紋。(しのぎ)(峰と刃の中間)が厚い“蛤刃(はまぐりば)”という刃だった。全長は約二尺五寸(約七十五センチ)。所謂“太刀”と呼ばれる種類に属する。

 重量があるのも当然で、両手持ちでも重みを感じる。

 男は初めて見るのだろう。こくんと息を呑み込む。変な汗をかいていた。

「私たちはこの国の秘密を一切口外せず、今後関わらない。……それでどうです?」

「まて」

「!」

 ナナが口を挟む。

「それだけじゃよわい」

「し、しかし、大丈夫なのですか? それにどうして急に……?」

「そのはなしはあとだ。……さて、わたしの言うことをきかねば、この子のくびをもちさり、ほかの国にじょうほうていきょうする」

「なっなんだとっ!」

 平然としていた男が声を荒らげた。

「まずはしゅっこくのじゅんびをさせろ。十五分いないだ」

「……くっ」

 それ以上言わなかった。明らかに男は焦り出していた。

 約十分後、門番たちが到着し、架橋させた。ついで、

「シスターのお出ましですか」

 シスターが駆けつけてきた。驚愕している。

 ディンは刀を鞘に収めた。鞘は黒く、下緒(さげお)(鞘についている紐)は緑色で、鋼鉄製ブーツの一端に締められている。

「た、旅人さん! 一体何を!」

「ちょっとしたいざこざで、こうなってしまったんですよ」

 男から話を伺うと、柔らかかった表情が一変する。

「……」

「!」

 目付きがきつくなり眉は尖り、口角が下がる。まるで鬼のような様相だ。化けの皮が剥がれたのだ。

 ディンはその変化に表情がさらに険しくなる。一方のナナは冷静な顔色だった。

「極秘事項を……? なるほど、頭の切れる旅人でしたか」

「……そんな顔じゃ誰も導けませんよ」

「心配いりません」

「?」

 シスターが取り出したのは、何かのボタンだった。

「地獄へ導けますから」

 ぐっと押し込む。

「……」

「……」

 少ししても、特に何も起こらなかった、

「!」

 と思った瞬間、

「グッ!」

 ディンが吹っ飛ばされた。車に跳ねられたかのようで、引きずられながら、二回転半してようやく止まった。

 ナナはそちらを見やる暇がない。

 目まぐるしく目の前で動き回っている。ふっと顔面に何かが飛び込んでくるのを、

「ちぃっ」

 左腕で払いのけて、カウンターを狙う。

 しかし右拳は空を切った。

「え?」

 間違いなく当たる、と思い込んでいただけに動揺を隠せなかった。

 完全に見失ってしまい、無意識に距離を空けた。後ろに飛び続けていく。

「うおおおおおおっ!」

「……!」

 今度は上からだった。建物から飛び降りてきた。

 巨大な棍棒が迫ってくる。落下速度と棍棒の振り落としで破壊力が上乗せされている。ナナはそう考えずとも、すぐさま横に飛んで躱した。ナナがいた場所から轟音が響き渡る。

 受け身を取りつつ、そちらを見る。さすがにクレーターを作ることはなかったが、コンクリート片が散らばり、穿(うが)っていた。防ごうとしたら、間違いなく潰れていただろう。

 門から大分遠ざけられていた。門を見て十メートルほど右手の方だ。

 ナナの背後に、

「だいじょうぶかっ」

 ディンがいた。というより、そうなるようにナナが動いていた。

 ディンはまだ立てずにいた。朦朧状態で、目の焦点がずれている。

「い、いったい……なにが……?」

 脳震盪(のうしんとう)を起こしている。顎の右部分が赤みを帯びていた。

「よくやりましたね“アカル”」

「!」

 “アカル”と門番たちはいつの間にかシスターのところに戻っていた。

 ズキリと左目の端、こめかみの辺りに痛みが走る。触ってみると、血が滲んでいた。くっぱりと裂けていた。

 頬から顎へ伝い、首筋から服の方へ滴っていった。

「! きさま、アカルなのかっ!」

 シスターたちを睨む。

「なにをした!」

「人間兵器のところまで推測できたなら簡単でしょう? 脳に埋め込んだ記憶装置はただのメモリーカードではありません。理性を司る部位に極度の電気刺激を送り、破壊させるのですよ」

「なにっ?」

「するとどうなるか分かりますか? ある種の催眠効果が生まれるのですよ。つまり洗脳できるわけです」

「それが“へいき”ってことか」

「痛みも恐怖もない操り人形、名づけて“クローン兵器”……最高でしょう?」

「だっさ……」

 誰にも聞こえないように誰かが呟いた。

「しんせつていねいに教えてくれるということは、ただでは帰さんというわけか」

「ええ」

 シスターたちの背後からぞろぞろと蠢く者。それはクローン兵器たちだった。尋常じゃない人数だ。辺りが人で埋め尽くされてしまいそうだ。

 血混じりの汗が落ちる。ぴちっと音を立てた。

 ちらりとディンを見やる。虚ろだった表情に力が入っている。目の焦点も合ってきていた。

「アカリのすがたがないな。なぜだ?」

「彼女はまだ研究対象なのです。かれこれ百年近くは生きているでしょうかねえ」

「そう、いうことでしたか……」

 ぐっと立ち上がるディン。ナナの引き伸ばしのおかげか、多少は回復したようだ。

「アカルもあなた方もクローンでしたか」

「……!」

 びくりとアカルが震えた。

「っ! 余計なことを……! さっさと殺せ!」

 水牛の如く押し寄せてくる。足音が地響きとなって、雄叫びが空気を轟かせ、全身をビリつかせた。

「!」

 何かを外したような金属音。気付いているのはナナだけだ。

 その音がする方を見ると、ディンがいた。まだ足が震えている。

「ナナさん、目をつぶってください」

 ディンは何かを二つ投げ飛ばした。一つは上空へ、もう一つは人混みの中へ消える。誰も気に留めなかった。

「まずい」

 気付いても遅い。突然、爆発した。ディンが投げたのは手榴弾だった。

 そこまで大きな爆発ではないが、穴が空いたように空間ができる。飛散した肉片と血が周りの者に浴びせられ、一瞬で真っ赤になる。あるいは手榴弾の破片が無数に突き刺さり、流血しながら絶命していく。

 爆発音と衝撃で誰もがそちらに目がいく。

「行きますよ」

 目をつぶったままのナナに小さく話しかけ、走り出す。と同時に、

「!」

 強烈な閃光。上空に投げた閃光弾がちょうど爆発地点に落ちてきたのだった。場にいる者のほとんどがモロに食らってしまい、視界を奪われてしまう。

「こしゃくな! 門を囲め! 誰にも入れさせるな!」

 しかし、突然の爆発と閃光で場は混乱状態になっていた。近くにいた者たちが何とか封鎖しても、

「ぎゃあ!」

「ぱっ」

「ああっ!」

 ディンに斬りつけられ、ナナに気圧(けお)される。結局、誰も二人を止めることができず、いとも簡単に門の方へ向かうことができた。

 橋はまだ無事だ。しかし、

「……っ……」

 ディンが渡れない。

「こんなものにびびってどうするっ! ばか、くそ!」

 閃光を食らわなかった敵一人がナナに殴りかかってきた。ギリギリで避け、勢いをつけさせつつ横へ蹴り押す。あえなく川へ落ちていった。今度は三人だ。それぞれ金属の棒を持っていた。三人同時にナナへ振り下ろす。それを素早く一歩退いて避け、

「早くいけ!」

 ディンを押すようにぶつかる。よたよたと危なげな足取りでゆっくりと渡って、

「おらあっ!」

 金属の衝撃音。鈍い振動音を響かせる。ぴちち、と血が垂れる。

 ナナの左こめかみの傷に直撃していた。つぅっと勢い良く流血し、頬から顎を赤く染める。

 傷を確かめる隙はない。その流れる血を(すく)い、襲ってくる三人に、

「っ!」

 飛ばした。眼に当たらずとも、一瞬だけたじろぐ。その隙を突いた

 まず左の敵の首を渾身の力で殴って武器を奪うと、それを真ん中の、

「くっ……」

 さらに加勢がきた。閃光弾の効力が切れ始め、目が慣れてきたのだ。

 一方、ディンの方は二つの意味で足が震えていた。ようやく橋の真ん中を過ぎたのに、そこで立ち止まってしまう。橋が大きく撓み、そして揺らぐのに足が竦んでいるようだ。

「なさけない……!」

 ナナがディンへ駆け寄る。胸ベルトを外して、素早く自分の腰に付けた。そして、

「うしろはしんぱいするなっ! ゆっくりいけ!」

 ショットガンを引き抜く。

「ぎゃあああっ!」

「ぷっ」

「べ」

「ぽぅっ」

 押し寄せてくる敵にショットガンを乱射する。右手でショットガンを操り、弾切れになれば左手に持っているシェルを装填する。恐ろしく早く、流れるように撃ちこんでいった。

 門の方は阿鼻叫喚(あびきょうかん)と化していた。無残に散っていく肉片と宙を舞う中身。門の周りの城壁には弾痕と血痕と肉片が叩きつけられてへばり付き、滴っていく。下を流れている川を赤く染め上げていった。

 敵たちはそれを意に介せず、肉片を踏み潰しながらナナたちへ押し寄せていた。

「くっ、弾切れかっ」

「!」

 ディンが、

「え? ちょっとま、」

 ナナを抱き上げ、一気に走った。

「逃がすな!」

 微かに聞こえるシスターの声。それに呼応するように橋へ詰めかけた。ところが、

「あ」

 想像通りの事態となった。

 橋が大きく歪み、笹くれが露出するように折れていき、

「うわあああああああ!」

 あっという間に真っ二つ!

 悲鳴と轟音と叫び声が川の方へ流れていった。被害はそれだけに留まらず、勢いを付け過ぎた敵たちが川へどんどん落ちていく。後ろから随時押されるために、そう簡単に止まらなかった。

 橋があったところは人が積み重なり、特製の橋が完成した。

 その間に、

「いくぞ!」

 二人は全力で駆け抜けていった。

 

 

 二人に逃げられてしまった後だった。

「くそ……旅人風情に逃げられたわ……」

「どうします、シスター?」

「こうなってしまっては追っても無駄よ」

「今ならまだ間に合います! 殺しに、」

「馬鹿だねえ。相手はこの手の戦いに慣れている。だからこの軍勢を見ても少しもビビらなかった。……深追いすれば被害が拡大するだけよ」

「……では、引き続き“アカリ”の捜索を……」

「やりなさい」

「はっ」

 男が仲間に捜索命令を出した。……ところが、

「? どうした! 早く行けえ!」

 誰も動こうとしなかった。それどころか、黒服とシスターたちににじり寄ってくる。

「これはいったい……?」

「残念だったね、シスター」

「!」

 言葉を発したのは、アカルだった。

「お、お前……なぜ正気に……?」

「シスターは三つ誤算があるよ」

「……誤算?」

「一つ、記憶装置のおかげで、洗脳された人間でも記憶を刻むことができたということ」

「!」

 ぞろぞろとシスターたちの周りに集まってくる。

「二つ、ショックが大きいほど洗脳は消えること。だって生き返ったと思ったら、あんたらの操り人形に生まれ変わってたって、一番ショックなことじゃん。特にオイラなんか、クローンだったなんて聞いたら死にたくなるよ」

「敵は私ではない! ただちにアカリを、」

「三つ、これが一番の大誤算」

 ぎりぎりと歯軋りが聞こえる。

「理性を破壊してしまったこと」

「ころしてやる……」

「ぐぐぐぐぐ……」

「グヒヒ……」

 人のうねりがシスターたちを包み込み、飲み込み、そして悲鳴をも埋め尽くしていった。今までの恨みを晴らすかのように。

 

 

 まるで戦争のようだった。機関が精鋭する兵士と、クローン兵器、そしてその戦禍に巻き込まれる住民たち。どちらも理性を失った同士、加減を失った同士。常人ならぬ力がぶつかり合い、死んだものまで道具として扱われる。猛獣が縄張りを奪い合うように、戦いは苛烈を極めていった。街は跡形もなく破壊し尽くされ、瓦礫に埋まり、芸術的な街並みはその陰もなく滅びていった。

 一方、ディンたちは不眠で歩き続けていた。これでも足りないという勢いで、足を進めていく。ナナが不調でダウンすれば、ディンが抱きかかえて歩き、足を休めることをしなかった。

 そして、国を出て初めて止まったのは、とある森の縁に辿り着いた時だった。

「ふぅ……ふぅ……」

 鬼気迫る表情。その表情に伝う大量の汗。灼熱のように汗が熱い。もう半日以上も走りっぱなしだったのだ。

 抱えていたナナを木の幹に下ろし、持たれかける。顔の左半分が血だらけだった。すぐに応急処置を施していく。

「まったく……あぁいうのがにがてというのも、こまりものだな……」

「すみません、ね……ふぅっ……ふっ……」

 荷物も全て下ろし、リュックから綺麗なタオルと止血剤、包帯を取り出す。

「すまない。……ぐ……」

「思った以上に傷が深いですねぇ。下手をすると……」

「気にするな。こんなきず……気にすることでもない……」

「痕が残るのが、……ふぅ、心配です」

「……おんなであるのがうらめしいよ」

「とても言いづらいのでやめておきますね」

「そうだな……はぁ……」

 ふっと目を閉じる。もちろん死にはしないが、急に疲労感を覚えたようだ。

 出血を弱め、絆創膏の上に包帯をぐるっと巻いた。滲んではこないが、動きが激しいとすぐにぶり返す。ディンはそう釘を差した。

「時にナナさん、治ったのですか?」

「……なおったようにみえるか?」

「調子は少し戻ったように見えます。精神年齢が五年ほど進んだ感じです」

「ぬかせ。まだおねえちゃんだ」

「はは」

 安心した途端に、膝が震えてきた。

「ふぅ……疲れましたねぇ」

 そして周りの景色が目につくようになる。既に夜になっていた。半月よりすこし膨らんだ形の月が浮かんでいる。薄く流れている雲がその月を覆い、月光が薄く広がる。

 冷えた微風が心地いい。火照った身体をちょうどよく冷ましてくれた。

「聞いていいですか?」

「なんだ?」

「チンピラ五人に絡まれた時、気絶させたのはナナさんですね?」

「……」

「とぼけてもダメですよ。“あなた”のハンドガンから五発分、弾が消費されていました。あの時、僕の左腕にしがみついてたでしょう? 全員が“僕に”気が向いていたのを確認して、右脇に収納されてるハンドガンを密かに抜き取ったわけですか」

「……ほんとうはころそうと思ったんだがな。ふくがよごれそうだからやめたのだ」

「えぇ。このハンドガンは殺傷能力は低いですからねぇ。なんてったって麻酔銃ですから」

 俯いている。笑いを隠すために。

 

 

 それから半月ほど経った。例の国は見るも無残なものになっていた。芸術的な街並みが残骸と化し、地面には亀裂が走り、そして散らばっている血痕。不思議なことにその持ち主がいなかった。

 そして、シスターがいた教会は周りの残骸と比べ、まだ建物として呈していた。美しかった内装がボロクズのように剥がれ落ち、天井に穴が空き、長椅子はへし折られ、塔屋への木扉は外へ繋がる新しい穴と化していた。

 その奥の部屋、ディンたちが相談をした暗い部屋の床、ちょうど隅っこにあたる床に穴がぽっかりと空いていた。そこに入り、暗闇のまま進むと光が見える。その光をこじ開けると、地下室に出た。ぱちぱちと切れたような音を立てて光が点滅する。……ここは研究所の一室だった。

 その部屋を出る。通路の左右に個室が並んでいる。どこかで見たような光景だが、そこを舐めるように見ながら歩いて行く。突き当りのドアを開くと、あのカプセルが保存されている部屋に出た。カプセルは全て割られ、溶液が浸されている。薬の臭いと鉄の臭い、そして生々しい臭いに満たされている。

 その部屋の奥、手術室が並ぶ部屋に入り、さらに奥へ入る。ここはテストをしていた部屋。左右にドアが付いており、その左のドアに進む。……通路だ。それも何もない。ドアだったり装飾だったり芸術品だったり、何の飾りもない。ただ一枚のドアしか見えなかった。

 ドアを開くと、カプセルがあった。前の部屋と同じように割れ、水溜まりを広げていた。

 唯一違うのは、

「……」

 少女がその前に立っていることだけだった。少女は全身ずぶ濡れで、衣服を身に纏っていない。

 まるで青空を眺めるように割れたカプセルを見つめている。何か言葉を発することなく、しかし呆然としているわけでもない。魅入っているという表現が一番近いのかもしれない。

「……」

 何かの液体が少女の頭から肢体へ流れ、床をさらに浸らせていく。

 少女は踵を返し、液体の足跡を残しながら部屋を出て行く。カプセルに溜まった液体が足音に響き、やがて止まった。

 

 

 



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おわり:しろいあさ

 十字架の(わき)にある黒いテント。そこから十代中頃の少女が出てきた。黒いショートヘアに小麦色の肌、幼い真ん丸の目付きが特徴的だった。上着にグレーの肩掛けを羽織っているだけで、裸身を晒しているというほど際どい。足には真っ白な包帯が巻かれていた。

「ん……」

 今日は晴れたようで、建造物から光が差し込む。温かいはずなのに、どこか心虚しさを覚えてしまう。

 明順応で目を渋らせる女の子。数秒してから、

「?」

 何かが身体を包む。黒くて柔らかい。思わず身に寄せる。

「お前さんはまた……。ほら、これ着て」

 男が話しかけてきた。柔らかい何かは黒いセーターだった。

「思い出したか?」

「……」

「まぁそれは後にして、ご飯にするか……。腹減ってるよな?」

「……」

 小さく横に振る。

「よしよし。今から作るから適当に時間潰しててくれ。あんまり遠くに行くなよ」

「……」

 じとっと男を見る。しかしそれに全く意を介さない。特に何か反応することなく、隅っこで床いじりを始める。

「よし、できたぞ。こっち来な」

 少女はとことこと寄ってくる。

「さすが空気が読めない男です」

「子供のくせに朝ごはん食べないとか身体に悪いだろうが」

「あなたみたいに野生の珍獣ではないのですよ。ましてや女の子はとても繊細なのです」

「繊細っていう言葉に逃げてるだけだろっ」

「……」

 きょとんとしていた。男とは明らかに違う“声”、それもどこにもいない女と言い争っていたからだ。

「……あ、ごめんごめん。食べていいよ」

 少女にお皿を取り寄せて渡した。もくもくと食べている。

「例によってポテトサラダですね。犬のエサを食べさせるなんて最低です」

「ポテトサラダとその発案者に全力で謝れ」

「あなたが作った料理が犬のエサだと言っているのです。誰もポテトサラダを(けな)してはいません」

「それならよろしい」

「偉そうですね」

 少女はもくもくと食べている。

「……して、お前さんは誰なんだ?」

「……」

 またしても横に振る。

「記憶喪失ですかね」

「この街が荒れてたのと関係あるのかな?」

「かもしれませんね。一時的に記憶喪失になっているのでしょう」

「それは厄介だな……」

 男は困り果てた顔を一切せず、マイペースで食事にありつく。

「何か覚えてることないか?」

「……」

 目を伏せ、必死で頭の中を検索している。

「無理はしなくていいからな」

「……こっち……」

「?」

 少女は空の皿を置くと、男のセーターを着て、引きずりながら奥へ進んだ。男はリュックから黒いジャケットを取り出して着込んだ。

 十字架の両脇に二つのドアがあり、その右の部屋へ入る。机や本棚、テーブルと普通の一室だった。先ほどのフロアと同じ作りでとても明るい。

 さらにドアが続いていた。少女は慣れたように奥へ進み、男は付いていく。

「! これは……」

 いきなり、コンクリート壁に囲まれた部屋に出た。入り口脇に上下ボタンが付いており、下のボタンを押すと、

「う、ひょう!」

 なんと部屋が動き出した。男は特有の浮遊感を感じ、

「うえっ」

 吐きそうになる、のを必死で留めた。

「エレベーターですか。それよりも、こんなに崩壊しているのに電気が通っているのですね。おそらくは自家発電だと思いますが」

「そうなのか?」

「当たり前です。あなたの頭には何も通っていないので、分からないと思いますけどね」

「今返事しただろっ」

「空返事だと思いました」

「オレだってそのぐらい……ぐぐぐ……」

 衝動を押さえている表情をじっと見る少女。心なしか不思議そうだった。

 エレベーターが止まり、ドアが開く。

「えっ? そっちかいっ!」

 反対側に。

 ふあっ、と暖気が漂うのを感じる。男は少女をちらりと見やる。寒さで震えていなかった。セーターを抱きしめ、その感触に浸っている。

「へんたい」

「違うって」

 ドアの奥には研究所の景色が広がっていた。えげつない蛍光灯の明かりがちかちかと点滅し、くすんだ水色のゴム床は(へこ)みや亀裂が激しい。壁も切り傷や赤いシミが至るとこにできており、何かの液体が飛び散っていた。そして異臭、

「!」

 それも覚えがあった。いや、似ていた。

「お前さん、ここにいたのか?」

「……」

「図星か。ここの薬品か何かに浸かってたんだろうな。ろくなもんじゃなさそうだ」

 少女はふらふらとまた歩き出した。男は残党がいないか注意する。

 通路は左右と一直線。少女は迷うことなく、直線通路を選んでいった。その行き止まりに分厚そうな金属製の扉があった。脇には謎の機械が赤く点滅している。

「何か分かるか?」

「逆に分からないのですか?」

「頼むからイジメないでほしい……」

「さて、これはセキュリティロックですよ。ここに溝がありますよね? 専用カードを通して、鍵を解除する仕組みになっているのです」

「……って、そんなもん、持ってないんだけど」

「弱りましたね」

 がちゃん、と物音がした。

「あぁ~、なるほど」

 男は納得した。

「元から開いてるってやつか」

 少女が平然とドアを開けたのだった。

「まるで防犯の意味が無いですね。“バカラの不貞腐(ふてくさ)れ”です」

「“宝の持ち腐れ”な。きっと壊れてるんだよ」

「あなた並みに使えないゴミですね」

「お前もゴミにしてやろうか?」

「その間にあなたは少女に不適切な、」

「ごめんなさい、その話を本当に引きずらないでください。一部の方から非難がきてるんです」

「それ、私のこと?」

「それは、……!」

 はっとすると、少女がいなかった。急いで中に入り、追いかける。

「ん?」

 その必要はなかった。

「……この部屋は?」

 少女の前にはカプセルがあった。既に割れており、中の液体が溢れて床に広がっている。

 男は周りを見た。真っ白の壁と床に白色灯という眩しい部屋だ。カプセル以外は特に汚れていたり壊れていたり、傷がついていたりしない。とても綺麗だった。

 少女はカプセルを指差す。

「……この中にいたのか?」

 こくりと頷く。

「地上も地下もあれだけ荒れてるのに、ここだけ大丈夫だ。まるでここだけ大切にされてるような……」

「この子はVIPということでしょうか? 要人の娘かあるいは、」

「娘を薬漬けにするか?」

「大病を患っていたとしたらどうです?」

「……考えられなく、もないか。ただ、ここだけじゃ情報が少なすぎる。もっと他も当たろう」

 男は歩き回った。膨大な数のカプセルが設置された部屋、医療用具満載のガラス張りの部屋が大量に並ぶ部屋、リング状に何個も広がる机がある部屋。途中でベッドがある部屋を見つけたので、そこに少女と余分な荷物を置いていく。

 少女と“声”はその部屋でお喋りした。と言っても“声”がほぼ一方的に話しかけるだけだが、主に旅の話をしていた。さほど興味は無いようだった。

 男が戻ってきた。

「どうでした?」

「何にも。ただ、やたらと広いとこだなってことしか」

「本当に節穴ですね」

「うるさい」

 部屋にある椅子に座る。

「で、何か他に思い出したか?」

「…………おにいちゃん」

「? お兄ちゃん、か」

 大きく縦に振る。

「……おにいちゃん……うぅ……」

 これ以上は話さなかった。思い出せないようだ。

「お兄ちゃん、ねぇ。……お兄ちゃんを探してみるか?」

「ふざけて提案しているわけではないですよね?」

「当たり前だ。こんな状況でふざけてる場合じゃないだろ」

「すみません。しかし、その、あの」

 “声”は言葉を濁していく。

「まだ探しきれてないところもあるしな」

「……」

「君はどうしたい? 望みとあれば、ここから連れ出していけるけど……」

「……いい」

 小さく断る。

「でも、“たすけて”って言ってなかったか? 近くの街で生活できるくらいまでなら面倒見るよ。もちろん、きちんとした方法と立場でな」

「いい」

 今度は力強く。

「ここに思い入れがあるみたいですね。では現実的な話をしましょう」

「! 余計なことすっ、」

「こんなところを裸足でかなり出歩きましたね? 足の裏を切ったせいで破傷風菌と呼ばれる菌が侵入している可能性が高いのです。その潜伏期間は約一日から六十日。おそらく地上に出てから日が浅いために、症状が出ていないだけでしょう。発症すれば、とても強烈な全身痙攣とその反動による脊椎骨折、自律神経障害が現れます。しかし、意識はしっかりしているためにその苦しみをずっと味わうことになるのです」

「?」

「まとめると、あなたは死にます」

「……そう……」

 眉一つ乱さずに軽く返した。

 男はため息をついた。

「……まぁ、あくまでもほっといたらの話だ。幸か不幸かガス壊疽(えそ)ではなかったし膿も少なかったし。でもそれだけは別で、しかもオレは満足に薬を持ってないんだよ。助けを求められた以上、見殺しにしたくない。……それでもここにいたいのか?」

「……うん」

「!」

「子供だからよく分からないのでしょう。ここは多少強引にでも引っ張り出すしかありませんね。この国を出ないと死ぬのですよ? いいのですか?」

 “声”が少女に(さと)すも、

「やだ。ここにいる」

 意志は堅かった。

「どうしてここにいたいんだ? 病気になってなくても人はいないし住むところもない。とても生きていける環境じゃないぞ?」

「わからない……。でも、ここにいなきゃいけないきがする……」

「お兄ちゃんを待ってるのか?」

「わからない、けど……だめ……ここにいなきゃ……」

「……」

 男は額に手を当てため息をつく。

 女の子のきりりとした表情を見るや、荷物から色々と取り出した。

「これは一週間分の非常食と水、痛み止めだ。あと少ないけど服といらない靴も置いてく。水が足りなくなったら、教会を出て右に行った三軒目の家に行け。そこがダメでも、ここも水は一応通ってるから。非常食をケチれば二週間はもつだろう」

「!」

「何を考えているのですかっ?」

「あとコンパスとライト、簡単だけど地図も書いといた。ここに置いとくよ」

「……いいの?」

「あぁ。その足の手当に、手持ちの抗生剤を大量にぶち込んだんだ。それに懸けるしかない。それに、無理やり連れだしても逃げられちゃおんなじだ。なら、ここで最善の方法を取ったほうがいい。上手くいけばお前さんの目的も達成できるだろうし」

「……」

「最後にもう一度だけ聞く。ここにいるんだな?」

「……うん」

「そうか……」

 男は荷物を整えて持ち上げると、女の子を残して、

「……ごめん」

 部屋から出て行った。

 

 

 雨は降りそうにないが、厚い雲が光を遮っている。暖かいところから出てきたために、外は一層寒く感じた。

 入り組んだ路地を歩いていく男。ここも瓦礫や亀裂で荒れており、気をつけながら進む。

「どういうことですか? きちんとした理由がなければ二度と口を聞きませんよ」

「理由? 簡単だ。あの子を死なせたくないから」

「ならば一緒に連れていけばいいでしょう? 今までもそうしてきたでしょうに」

「……それは無理だよ」

「なぜですか?」

「あんな表情した子はテコでも動かないよ。お前が一番知ってるだろ? 何を言っても言うことを聞かない強情っぱりだ」

「そっ、それとこれとは話が違います。あの時は自分でも何とかできた状況でしたが、今回はどうすればいいのか分からないのです。しかも記憶も失い、病気の疑いもあります。ここは強引にでも連れ出すのが最良の方法だったはずです。珍しく判断を間違えましたね」

「だってそうするしかないだろう? 心変わりの時間を取るために、食料その他を限界まで渡したんだ。それでもダメなら……いや、あの子に生きようって意志があるなら、自然とあそこから離れるはずだ。次の国まで歩いても一週間はかからない距離だからな」

「そこまで考えているなら、これ以上は責めません。もはや、死しても自業自得と言い聞かせるしかありません」

 ある広場に着いた。そこは門前広場で、門はばきばきに折られていた。その奥に長閑な景色が見えている。

 広場は瓦礫よりも異臭と染みが酷かった。ある一点が大きく抉られており、焦げ跡の周りには赤いものがばらけて散っている。さらに門の縁も飛び散ったような跡がまざまざと残っていた。

「……ちゃんと綺麗なままだったら、いい国だったんだろうな」

「そうですね」

 門の方へ行くと、足元に川が流れていた。そして半分に折れた分厚い板が流れ沿うように、こちらの崖岸(がいがん)に中央から寄り添っている。

 男はその板に片足を乗せ、

「よっと!」

 反対の足で蹴った。弧を描くように板が半回転し、少し届かないので、

「うおっ」

 男がジャンプして、反対岸に着地した。

「器用なものですね」

 男は振り返る。こちら側も同じように赤い染みが飛び散っていた。中よりも酷く、川の方へ滴っている痕もある。そしてぽつぽつと小さく何かがめり込んでいた。

「戦争……にしてはスケールは小さいよなぁ……」

「それならば城壁が崩れていますからね。内乱でしょうか」

「かもな。こんな綺麗な道路もないだろうし」

「はい」

 男は歩き出した。

 曇り空の下、平原を二分割するように、綺麗に舗装された道路が伸びている。車二つ分ほどの幅で、とても歩きやすかった。

「遺体はどこに持っていったのでしょうかね?」

「国外だろ? あそこ、墓地なかったし。教会があるのに墓地がないってのもちょっと不思議だったけど」

「そうでしたか。しかしスペース的に無理だったのではないでしょうか。あれだけ密集した国です。墓地に使う土地がなかったのだと思います」

「少なくても国の近くにないな、うん」

「そうだとしたら、あなたの鋭敏な感覚が察知するでしょうから」

「おい、もう思い出させるな」

「分かりました。それにしても、墓地がないとは、よく気付きましたね」

「そりゃな。大切な所だからな……」

 

 

 一日目、曇り。朝食を軽く済ませた少女は街を徘徊(はいかい)した。瓦礫の山と異臭に慣れたものの、心が存在しないような錯覚に陥る。黒い男が残してくれたサイズの合わない服と靴。服は拾ったロープを軽く縛り、靴は中に紙くずを入れて調節する。少女なりの工夫だった。出会うまでは残骸の破片が足に刺さってとても痛い思いをしたが、それも心配することはなくなった。街を五分の一ほど歩き回って疲れてしまったので、拠点である十字架のある建造物に戻る。誰も見当たらなかった。

 二日目、曇り時々晴れ。一日目の五割増しの朝食となった。この日も街の探索をするが、目的は違った。後々困ることになる食料と水の探索を主眼に置く。水は黒い男の言う通り、教会を出て右に進んだ三軒目の家にあった。奇跡的に壊れていないようで、捻ると綺麗な水が出てくる。カルキの臭いもわずかにするので飲水としても大丈夫だ。食料の方は街中では食べられなかった。電気がどこも通っていないのか、食料保管庫が全てやられていた。腐臭がする。探索は街全体の五分の一にも満たずに終わった。

 三日目、晴れ時々くもり。お腹が空く。黒い男がくれた食料を根こそぎ食べ尽くしたい欲求に駆られる。しかし、それを我慢して水を多めに飲むことで飢えを(しの)いだ。人探しと食料探しの二つを視野に探索する。街中は人どころか動物の一匹すら見当たらない。血痕や肉片だけしか見かけない。いや、生物といえば、それに集まる蝿くらいかもしれない。この分だと食料も無事ではないだろう。早めに切り上げて拠点で休むことにした。晴れていたので星が綺麗だった。

 四日目、晴れ。黒い男が置いていった食料の袋に全てを詰め込む。おそらく、何日かかけて拠点を移しに行くのと大規模な探索をするのだろう。水を口に含ませながら進むが、結果は相変わらず。思った以上に見返りがなかった。拠点を北の端っこから西の方へ移した。これで五分の二を制覇する。新拠点は被害の少ない家にした。幸い異臭も汚れも少なかった。ありがたいことにベッドもあった。今日の成果はこのベッドで決まり。岩のように硬い長椅子から卒業だ。

 五日目、曇り。お風呂が使えるか試すが、案の定無理だった。ただ、ベッドのおかげか身体がそこまで痛くない。朝食も比較的軽く摂るだけで済んだ。しかしベッドの心地良さが身体から離れられない。代わりに家にあった本を読み込み、一日を過ごしてしまう。この少女は年齢のわりに中々聡明なようだ。

 六日目、雨。弱い雨だが、雨漏りが酷い。幸い、ベッドには雨水は落ちてこなかった。出掛けるのは無理なので、雨水で洗ったバケツや桶といった器を雨漏りの場所に置く。暇な時間は読書をした。食事は夜に軽く済ませるに留まった。

 七日目、雨。昨日の雨が続いている。大量に溜まった雨水は浴槽に入れ、スポンジで清掃するのと身体を流すのに使った。なんと石鹸まで備わっていた。遺憾なく使わせてもらい、身体を洗った。綺麗になったところで再び雨水を溜め、残りの時間を読書に費やす。浴槽を洗って疲れたのか、早めに床に就いた。食事は夜に軽く済ませた。

 八日目、雨。腹痛に見舞われる。寒気と震えが止まらない。食欲はないが水を多めに飲んだ。少女には原因が何か分からなかった。家の中にある毛布をありったけかき集め、ベッドにて養生する。

 九日目、曇り。雨が止んだ。しかし出掛けようにも不調が続く。動悸(どうき)が激しく、やけに汗が出てくる。養生と思い、食料を多めに食べる。今度は下痢を起こした。腹が苦しいようだ。

 十日目、曇り時々晴れ。思うように身体が動かない。全身に鋼を取り付けたように硬くなっていた。そして異様に(だる)い。熱っぽい。声が出ない。

 十一日目、晴れ。両腕が胸の前で縮こまり、縛られたように固定していた。そして仰け反るような体勢。高熱と息苦しさで意識が朦朧としているくせに、痛みははっきりしていた。全身が雷で貫かれているように激痛が走る。

 少女はようやく悟った。“声”が言っていた病気が発症したのだと。

「ぐ……ひゅぅ……ひゅぅ……」

 滝のように流れていく汗。

「い……あ……けっ……」

 痛みが激しい。視界が虚ろ。

「……し、……にたく……ないよ……」

 熱い涙が目尻から垂れ落ちる。

「たっすけて…………あ…………」

 なぜか天井を見入る。

「大丈夫か!」

「お、にいちゃん……?」

「くそ! 早く病院行くぞ! 早く医者に診せないと!」

「お、にぃちゃ……ん……たっすけて……」

「大丈夫だ! お兄ちゃんがついてる!」

「う、ん……ずっと、さがしてたんだよ……。でも、よかったあ……」

「だめだ! 目を閉じるんじゃないぞ! オイラをちゃんと見ろ! アカリ!」

「あ……あ、かり……?」

「しっかりしろ! アカリ!」

「……あ、あた……し……アカリ……」

 震えながら伸ばした腕は、

「手……ほら、分かるだろ? お兄ちゃんはここにいるぞ!」

「うん……」

 ばたりと落ちた。周りには誰もいなかった。

 

 

 



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おまけ

「はぁ……なんかよく分からんかったな。歩き損だよ」

「こういうこともありますよ。気を取り直して行きましょう」

「やたらと優しいな。……さては裏があるな?」

「せっかく落ち込んでいると思っていたのに、心配して損しました」

「あんなことで落ち込まないよ」

「相変わらず嘘が下手ですね」

「ウソじゃないしっ」

「あの、申し訳ないんだが」

「ん? こんちは」

「こんにちは」

「中々のイケメンですね……」

「お前は黙ってろ……」

「近くに国か村かないか?」

「村ならある。ここを真っすぐ行けばな。何かあったのか?」

「実はバギーがガス欠になってしまって。もし持っていたら燃料を分けていただきたい」

「こんな森の中でガス欠って、運が悪いな。しかもオレも持ってないから、さらに不運なもんだ」

「そうか……。時間を取らせて申し訳なかった」

「うーん……オレが知ってるとこだと、この先の村と南へ五十キロほど先にある国だけかな」

「……」

「もしかして、そっちに行こうとしてた?」

「……」

「そりゃそうだよなぁ。……それじゃ、頑張ってな」

「あのイケメンを置き去りにする気ですか……?」

「他の人に構ってられないだろ……?」

「そんな薄情な人だとは思いませんでした……。……このクズ人間……」

「オレにどうしろってんだよ……! その国まで往復して燃料運べってかっ……?」

「既に自明のことではありませんか……。さすがに頭が回りますね……」

「そういう時だけ褒めんなっ……! あからさまにおだててるだけだろうがっ……」

「では、お願いしますね……」

「……」

「どうしたんだ? どこか具合でも悪いのか?」

「あぁいや、考え事だよ。……ここであんたを見捨てても薄情だし、ちょっとだけ協力するよ」

「! いいのか?」

「旅は道連れなんとやらだ。っていうか、そうしないと嫌な気配がするんでね」

「?」

 

 

 鬱蒼とした廃村だった。和風な家が点在しているものの、人の気配は全くない。森の葉っぱが厚いのか、ここだけ小暗かった。

 そこをとある二人が散策している。一人は真っ黒のセーターにダークブルーのジーンズ、そして薄汚れた黒いスニーカーの男だ。セーターの(そで)は掌を半分覆い、(すそ)はジーンズのポケットを隠してしまうほどに伸びていた。ぶっくりと太った黒いリュックを背負い、両腰にポーチを付けている。水色とエメラルドグリーンを混ぜたような色合いの四角い物体に、黒い紐を通して作った首飾りを掛けている。

 もう一人は緑のセーターを着た青年だった。腰に刀を提げている。

「なんか不気味だな」

「そうですね」

 彼らは単独行動で探索している。緑の男の乗り物がガス欠を起こし、この廃村で燃料探しをしていた。

「早くここを出たいな」

「何か感じますか?」

「あぁ。ぞくぞく感じる。多分良いことじゃないだろうな」

「そうですね。しかしこんなところに燃料なんてあるでしょうか?」

「あると信じるしかないだろ? そうじゃなかったら、絶賛往復マラソンをせにゃならんからな」

「あのイケメンの方にはそんなことをさせるわけにはいきませんしね」

「面食いなやつ」

「基準は低いですよ? 普段から醜い顔を見ていると、審美眼が衰えますからね」

「……燃料見つけたら火炙(ひあぶ)りにしてやる……」

 一方の緑の男は、

「……見つからないな……」

 真面目に探していた。

「こうなったら歩いて取りに行く、……?」

 何かに気付いたようで振り返る。

「おーい、こっち来てくれー」

 黒い男が呼びかけた。声の聞こえる方へ向かうと、

「ちょっとこれ見てみて」

 家の陰にあるようで、そちらに回り込む。

「これ、トラクターみたいなんだけど、大丈夫かな?」

「……臭いから考えると使えそうだが、もしかすると混合型の可能性もある。が、現状では贅沢は言っていられない。使ってみるよ」

「あ、あの」

「!」

 女の“声”。誰もいないその“声”に緑の男は、

「誰だ!」

 刀を抜いた。

「! カタナかよ……」

 黒い男は緑の男よりも、刀の方に驚く。

「じゃなくて、心配しなさんな。今の声はこいつだよ」

 首飾りを緑の男に見せた。

「すみません。言いたいことがあったので、つい」

「……なるほど」

「え?」

 すっと刀を鞘に戻す。

 黒い男が説明していないのに、やけに納得していた。

「それで、言いたいこととは?」

「えっ、あっあぁ、この乗り物の燃料は臭いと色と粘度から、一般的に使用されるバギーと同種の燃料であると考えられます。旅人様が所有しているバギーの種類にもよりますが」

「……そういうこともできるのか。すごいものだな」

 

 

 黒い男が持っていた容器にその燃料を入れ、しっかりと蓋を閉める。それを持って緑の男についていった。

「! これがバギーか」

 バギーが停車していた。森の中というより、森の入り口に停められている。座席には、

「犬?」

 真っ白な犬がお座りしていた。

「利口な犬だなぁ。しかも大きくてかっこいいし」

「……」

 犬は黒い男に笑いかけている。

 緑の男は慎重に燃料を注入していく。特有の臭いが立ち込める。

「あのさ、一つ聞いていい?」

「いいよ」

「どうしてこいつが話すとこ見ても、あんまり驚かないんだ?」

「不思議なことだったかい?」

「あぁ。こいつを紹介すると、ほとんどがびっくり仰天するからさ、気になったんだ」

「……そうだな。似たような体験をしたことがあるから、だと思う」

「へぇ。こういうの持ってる人、いるのか。ぜひとも会いたいもんだ」

「難しいかもしれない。その人は旅人なんだ」

「だとすると、そう易々(やすやす)とは出会わせてくれないか」

「でも、お互いに生きている限り、いつかは出会える」

「かっこいい……」

「はいはい、(ほう)けないでくださいねー」

 補給が完了した。緑の男がエンジンを掛けると、

「おっ!」

 鈍い音が鳴り始めた。そして一定のリズムを刻む。

「ありがとう。助かった」

「いえいえ。こっちも安心したよ」

「助けてもらったお礼に、一つ助言を送りたい」

「? 何?」

「南の方にある国だが、そこは行かない方がいい。そこもきっと滅びてるだろうから」

「……なるほど。肝に(めい)じておくよ」

 

 

「……良かったですね」

「あぁ。燃料も補給できたし、目的も果たせた」

「はい。それで、これからはどうしますか?」

「×はこれからどうしたい?」

「××様の思うがままに」

「そうだね」

 一台のバギーは道なりに進んでいく。

 

 

「意外に役に立ったな。この看板」

「そうですね」

 黒い男は廃村の前に立っている看板を見下ろしていた。

「あの人の分もつけとくか」

「はい」

 黒い男はナイフを取り出し、看板の後ろに傷をつけた。そして来た道を戻っていった。

 

 

 




 出会いと別れは尽きぬもの、水霧です。……すみません、すべりました。(改訂済みです)
 いかがでしたか? 本章では新キャラ主体の物語に挑戦しました。いっぱい楽しめたのであればとても嬉しいです。
 さて、この“あとがき”からは水霧の小言にちょっと付き合ってください。言うて見れば、本章の感想みたいなものです。
 ダメ男以外の主人公を書くのはとても新鮮でした。
 実質、キャラが四人分(うち一匹)増えることになりますから、その設定を決めるのがとても大変でした。特にハムスターであるクーロは人間と違った視点で書かなくてはならないので一苦労です。ハムスターを飼ったこともないので生態も全く知らず、ペットショップの店員さんに聞いたり、動物の本を見たりと……。それでも不完全なところが多いと自己採点しています。ハムスターなのに目が見えるの? とツッコむ方、ホントに許してください……弱い者いじめいくない(泣)
 ナナ&ディンは“その後”の話ですね。書いていて思いましたが、この二人はお話の時系列がはっきり分かってしまいますね(笑)
 水霧のせいなのですが、そのへんも含めて読んでいただければ幸いです。どうか温かい目で見守ってください……(泣)
 ちなみにですが、ナナの持っていた“ソウドオフ・ショットガン”は水霧が一番好きな銃であります。とある暗殺ゲームで見惚れてしまいました。形がこう……ごく単純で、二発しか装填できないという点になぜか惹かれてしまいました。なので、どうにかして誰かに使わせたかったのです。ダメ男は狙撃が下手だから無理だし……(笑)
 また、ハイルが持っていた銀銃は“ハードボーラー”という銃です。映画やゲームでもよく登場する、高名な銃だと聞きました。これもとある暗殺ゲームで見惚れたクチです(笑)
 ということで“あとがき”はここでお開きにしましょう。次章もお楽しみくださいね。ありがとございました!




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-昼・出掛けて-
はじめ:みずいろのひる


「弱いからって何してもいいのか?」
「当然! 弱肉強食はどの世も常だろ?」
 暴漢に襲われていた女を助けた男。白昼堂々とんでもないことをする暴漢に、気持ちが昂る男は争うことになるが……。お人好しな男と辛辣(しんらつ)な“声”が送る変わった世界の短編物語、九話+おまけ収録。『キノの旅』二次創作。





 どうして空はこんなにも青いのだろう? どうして海はこんなにも青いのだろう? どうして大地はこんなにも澄み切っているのだろう? あの時の私はどんなことを微塵にも考えたことがなかった。

 私はとても愚かな男だ。後世に伝える必要のない、いや、後世に伝えてほしくない私の愚行を、ここに記しておきたい。後世に伝えなくてもいい。しかし、誰かに知ってほしいのだ。理想という光がどれほど眩しくて綺麗で、人を甘美にさせるのか。そして、現実という陰がそれほど暗く淀んでいて、人を……強くさせるのか。

 人は誰しも苦しみたくはない。自ら進んで苦しみを味わおうという者はいない。もし、そういう者がいたとしても、それはその先にある光を見出しているからだ。それがなければ、苦しみなど避けて当然なのだ。現実、この私もその光を見出していたはずだから、愚行を続けていたのだ。

 それを気付かせてくれたのは、他でもない現実にいる人間だった。とても大切な、かけがえのない人。私より若いのに、私よりずっと強い人。当然だ。その人は苦しみを自ら味わうことで、決してへこたれない、強い心を育て上げてきたのだ。それはある種の才能、天性とも受け取れる。私とは全く似つかない、理想の心だ。

 能書きはここまでにしておいて、私の愚行を書いていこう。とても愚かで、とても醜い私の人生を。

――

 

 

「……」

「……」

 男は困っていました。

「……えーっと……」

「……」

「あの~、そのー」

「……」

 とある一室に、男と女。男の反応からして襲おうという状況ではないことは明らかです。

 女、というより女の子という方が正しいです。緑を基調とした女の子らしい、でもお(しと)やかなドレスを着て、窓辺のテーブルに着いています。そして日向ぼっこしながら読書をしていました。

「あの、聞いてます?」

「……」

 男の問いは虚空に消えるばかり。

「オレ、何か君にしたか?」

「……」

 怒っているわけでもなく毛嫌いしているわけでもありません。ただ女の子はそこら辺のベッドや化粧棚、タンスと同等にしか関知していませんでした。つまり、男は眼中になかったのです。

 男は別段、怒らせるようなことや悲しませるようなことはなかった、と思っています。しかし、それでも心配になり、その原因になるだろう出来事を、頭の中で必死に探ることにしました。

「はぁ……なんでこうなったかねぇ……」

 男はうーんと悩みました。

 この始まりは数時間以上前から(さかのぼ)る必要があります。

 

 

 




昼は動き出す。あなたの体に光を包もうと……。




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第一話:たすけないとこ

 森林が無く、岩石と砂しかない山岳地帯。しかもそんな山が四方にいくつも(つら)なっている。標高が高いからか、太陽からの光がより近く強く感じる。

 空は立派に晴れ渡っていた。雲一つない。でも、

「寒い……」

 寒かった。

 砂や石を()けた道が一筋あった。そこに男がいる。黒いセーターのフードを深くかぶり、ファスナーを首元まで上げ、手を(そで)に入れている。(すそ)はダークブルーのジーンズのポケットが隠れるくらいまで長い。

 男は空を(あお)いだ後、歩き出した。履きならした黒いスニーカーは砂埃(すなぼこり)を巻き上げ、虚空に消える。歩く上下運動で背中の黒いリュックがゆさゆさと揺れた。

「この山の先に、村があると言っていました」

 男以外の“声”が聞こえた。若い女の声だが、(とが)った口調で淡々としている。

「本当に?」

「ここで引き返したら、結果は見えていると思うのですがね」

「確かに。けっこうギリギリだからな」

「残量は十八パーセントです。省エネモードに切り替えますか?」

「いや、それは十パーセントになってからにしてくれ」

「分かりました」

 女の“声”の口調は変わらないものの、男は信頼を寄せている。

 そこから数時間歩き、

「見えた」

 山の頂上に着いた。見下ろすと、村が見える。

「やりましたね。早速向かいましょう」

「あぁ」

 

 

 男は村の真ん前にいる。しかし門はなく、まるで警戒心がない。

 若干廃れている小さな村だった。砂や石を固めて作ったブロックを積み上げて作った平坦で簡素な家、凸凹(でこぼこ)の道、ある程度の木々が生えている。家の脇には石や砂が堆積していて、その道を無理やり作っていた。村の真ん中が見えており、そこが広場だと分かった。離れたところからでも街並みが分かるほどに簡素な村だった。

 しかし、そこに住む人々は、

「なんだここ……」

「分かりません」

 笑顔に満ち溢れていた。

 ただし、

「なんでここの村人たちは長袖のシャツ一枚なんだ……?」

「ただ今の気温は十二度です」

 寒かった。それなのに、広場で遊んでいる人々はシャツに薄手のパンツを履いていた。

「案外、温和そうですね」

「そうだな」

「どうしますか、ダメ男?」

 “ダメ男”と呼ばれた青年は、

「突撃!」

 とりあえず村に突入した。

 中心の広場には噴水があり、それを囲むように家が建ち並んでいた。噴水はというと、両手を天に(かざ)した女天使のオブジェがいた。その両手から零れるように水が流れている。何かを欲しがるように見上げている。

 そこで子供たちがはしゃぎ回り、大人たちは談笑しているのを見かける。みんな気候のためか肌が小麦色だった。

「すごいな“フー”」

「何がですか?」

 “フー”と呼ばれた声は尋ねた。

「こんな村だけど、楽しそうだ」

「たまには羽目を外すのもいいと思います」

「そうじゃない。こんな環境下でも、笑ってるんだ」

「だから何です?」

「冷めてるなぁ。……オレだったらどうやって生活しようか悩んでるところだよ。つまり、オレの感覚は贅沢(ぜいたく)だってこと。劣悪な環境でも、人は生活することができるんだ。すごいタフネスだよ」

「なるほど。そういうことでしたか。きっとどこかから支援されていると思いますよ。でなければ、楽しそうに遊んでいられません」

「かもな。……さて、宿を借りて、探索しよう」

「ソうデスね……」

「! 電池が……! やばい!」

 ダメ男は村を駆け抜けると、奥の方に、

「フー、見つけた。頑張ってくれよ……」

 宿があった。そこも民家と同じ作りだが、二つ分大きい。

 玄関と(おぼ)しき入口に入った。

「すみません。誰かいる?」

 中は薄暗い。明かりが無いようだ。

「はい」

 背後から声が聞こえた。振り返ると、二十代後半の女がいた。

「どうしました?」

「ここって宿かな?」

「そうですよ」

「もしよかったら二泊ほど泊まれる?」

「いいですよ」

 ダメ男はその場で代金を支払って、案内してもらった。女は中が暗いのに、何の迷いもなくすたすたと歩いていく。

「ここです」

 何かに手を掛けて、きぃっと押した。

「ここにお泊りください」

「ど、どうも……」

 そして女はすたすたと暗闇に消えていった。

「……フー」

「……」

 返事がなかった。

「予備あったっけかな……?」

 部屋のドアを手探りでゆっくり閉めた。

 暗闇の中でもぞもぞと動き、

「よし、これで大丈夫だな……。明かり点けるよ」

「きゃっ! ダメ男さん、まだ明かりつけちゃいや……」

「おい、バグってるぞ。再起動しておいてくれ」

 ぼうっと灯った。携帯電灯だった。

 白色光で部屋が照らされる。広さは三(じょう)ほど。窓があるが、窓は何かの板で閉められている。もはや“穴”だ。しかも布団ではなく、(わら)を編んで作ったカーペットだ。それ以外は何も無かった。ちなみに、ドアは木製で、ベニヤ板のように薄っぺらかった。

 ダメ男は窓の板を押した。ぐいっと板が上がり、何かに引っ掛かった。これで“穴”が空いたようだ。

「光……」

 試しに電灯を消すと、窓から入る光だけで部屋が見えた。

 無言で強く頷く。

「しかし、鍵があっても意味が無いですねクズ男」

「直ったようだな」

「気持ち悪いですね。さっさと荷物を持って探索してくださいゴミ男」

「寝起きの悪さもいつも通りだ」

 ダメ男は荷物を全て持って、宿を出た。

「うーん……すごい……」

「先ほどから感動してばかりですね」

「だってこういうことなかったしな」

「確かに何かと贅沢していたことは否定できませんが、文化の違いというものがあります」

「その文化に感動してるんだ」

「ダメ男は本当に感動屋さんですね」

 ふとして、

「あ」

 子供が転んだのが見えた。急いで駆け寄った。

「大丈夫か?」

「へーき」

「でも、けっこう血が出てるぞ。処置しないとバイキンが入っちゃう」

 (ひざ)小僧が血だらけになっていた。砂利のせいで、傷が深くなってしまったようだ。

 ダメ男が触ろうとした。

「いいの!」

 しかし、走り去ってしまった。痛む足を引きずりながら。

「……」

 ぽかんと口が閉まらなかった。

「かなり無理をしていましたね」

「ちょっと様子が違うな。あんなに拒絶されたことないぞ」

「ダメ男は存在が不審者ですからね。怪しい人から逃げることを優先したのかもしれません」

「別に取って食おうとしたわけじゃないし!」

「知っていますか? 不審者には挨拶した方がいいらしいですよ。それがかえって相手を(ひる)ませるらしいです」

「どんだけ不審者なんだよ」

「気を取り直して、探索を続けましょう」

「……」

 今度は、

「え?」

「あらま」

「いやあぁぁ!」

「待てやこら!」

 女が男に襲われていた。

「温和ではなさそうですね」

「うーん……」

 女が押し倒された。

「やめて……おねがい……」

「あぁ? 知るかよ。さっさと服を、」

「ちょっといい?」

 男の背後にはダメ男がいた。肩をぽんぽんと叩く。

「なんだてめ?」

「旅の者だよ」

「かまうんじゃねーよ!」

 ダメ男の腹に肘鉄(ひじてつ)をぶちかました。どすんと鈍い音がした。

「!」

「いった! ったく、穏やかじゃないなぁ……」

 男の表情が一瞬険しくなった。それは肘に残った感触が教えてくれたからだ。分厚いゴムを殴ったような感触。むしろ男の肘がじんじんと痛む。興奮のあまり思い切りぶちかました肘鉄を何の苦にもせず、へらへらしている目の前の男。

「当たり前ですよ。今この女性を襲おうとしているのですから」

 腕っ節に自信があったのか、男は女から離れ、ダメ男に対峙(たいじ)した。白のタンクトップに半ズボン、無精髭を生やし、体毛が濃かった。まさに悪人面をしている。

「ほら、今のうちに逃げて」

 ダメ男がそっと声をかけた。女はぺこりと頭を下げて、脱兎の(ごと)く駆け出していった。

「ち、運のいいやつだぜ。こいつが来なきゃよかったものを……」

「そうはいくか。とんでもないこと仕出かそうとしてるやつがいるのに」

「俺はついてないぜ」

「さっきから何言ってんだよ?」

「なんだ、知らずにのこのこやって来たのか? かぁ~! まぁそうだよな。知ってたらほっとくし……」

 ますますついてないぜ、と言いたげに頭を抱えて溜め息をつく。

「この村が何だっていうんだ?」

「この村はな、たとえ誰が襲われようが盗まれようが、助けない村なんだよ!」

「……助けない?」

「そうさ! だから俺があの小娘を×××しようとしても、誰も助けなかったろ? 見て見ぬフリしかできない弱っちい村なのさ!」

「……」

 ダメ男はゆっくりとセーターの中に手を忍ばせた。

「弱いからって何してもいいのか?」

「当然! 弱肉強食はどの世も常だろ?」

「……そう」

 諦めの呟きには、憤りが織り込まれる。

 取り出したのはナイフだった。(つか)は網目の黒いフレームに透明な膜が貼ってある。中に刃が収納されていて、先端のボタンを押すと、刃が飛び出してカチリと固定された。お尻の部分には黒い毛玉が鎖で繋がれていた。

「おいおい、そんな物騒なもので俺を殺そうってのかよ?」

 男は“それ”を見た途端、後退(あとずさ)りを始めていた。しかし、それを意に介さないダメ男。ずんずんと詰め寄っていく。

「お前も旅人だろ? なにマヌケなこと言ってんだ」

「ここからはダメ男の時間ですね」

 ダメ男は走った。ナイフを握り締めて。

「やめてくだされ!」

「!」

 しかし老人がダメ男にタックルしてきた。倒されはしなかったが、勢いを止められた。

「あんた誰だ!」

「やめてくだされ! 争いはやめてくだされ!」

「誰だか知らんけど、……!」

 ふと気付くと、前には逃げていく男の背後があった。あっという間に見えなくなった。

「ここは助けない村じゃないのか? なんであの男を助けたんだよ!」

「いいのです。それより、あなた様の血が流れる方が見るに耐えんのです! どうか、ご理解をっ」

「……わかった」

 ダメ男はナイフをセーターにしまった。キッ、と逃げていった方を(にら)み付けると、老人に会釈して立ち去った。

 

 

 夜。半分より少し欠けた月から明かりが降り注ぐ。そのおかげか、

「少し暗いけどいいか」

 部屋はぼんやりと見えた。

 ダメ男は宿に戻って夕食を済ませていた。夕食は野菜をぶった切りにして作ったスープだった。

「なんか嫌な村だよな。あの女の子助けないで、あのヤローをかばうなんて……」

「前の村とは少し違いますね」

「でも、“あれ”がなきゃここも平和なんだよな」

「そうですね。少し貧しいですが、平和だと言えます。もしかすると、無血的な解決法を探っているのかもしれません」

「なんか複雑だなぁ。……オレだったらほっとけないよ」

「そうでしょうね。ダメ男がこの村に住むことになったら、おそらく数十分で追放されるでしょう」

 リュックから袋を取り出し、中身を出した。丸い容器が何個かと汚れた布だった。それから、服の中からナイフと何かを出した。それは四角い蝶番(ちょうつがい)で、暗い水色をしていた。部屋が暗いせいだ。

 まずは容器を開けて布を浸し、ナイフをお手入れしていく。

「どうしますか?」

「何が?」

「すぐに出発しますか?」

「そうだな……。何日かお世話になろうと思ったけど、むしろ迷惑になりそうだ」

「ダメ男は何気に喧嘩っ早いですからね。煽られるとすぐにカッとなります」

「悪かったな。これでも抑えてる方なんだけど」

「中二病発言ですね」

「うっさいわっ」

「ほらまた怒ります」

「……」

 ダメ男は蝶番にデコピンをくらわした。

「いたっ」

 痛がった。どうやら蝶番は“フー”のようだ。

「お手入れしてやんない」

「えっ! それは困ります。ダメ男の汗がベタベタで気持ちが悪いのです」

「どうしよっかなー」

「うぅ、ひどいです」

「……」

 ナイフを置くと、フーを手に取った。

「ほら、今度フー」

「ありがとうです」

「オレは綺麗好きだからな。ただそれだけだ」

「そういうことにしておきます」

「うっせ」

「はい」

 もくもくとふきふきしていく。

「ところでさ、思ったことがあるんだけど」

「何でしょう?」

「あのおっさんさ、タンクトップで半ズボンだったよな?」

「そうでしたね」

「……寒くないんかな?」

「そういえばそうですね。辛いものを食べていたとか、新陳代謝が良いとかではありませんか?」

「うーん、人間って不思議だな」

「そうですね」

 

 

 翌日の朝。

「ん? ふあぁ……んん……」

 ダメ男は起きた。いつも通り日の出前に起きる。

 標高が高いためか、より一層寒く感じる。まるで真冬の夜空の下にいるかのようだった。

 軽く身体を動かしつつ、

「おはようございます」

「おはよう」

 フーに挨拶した。

「よく眠れました?」

「びみょ……」

「少し眠そうですね」

「うん。でも大丈夫だろ……」

 ダメ男はセーターを脱いでナイフを手に取った。

「寒中水泳じゃないけど……おっわさっむっ! 目さめたわ!」

「現地の人でない限り、ロングシャツ一枚では厳しいですよ」

「身体を動かせば、あったまるだろ」

 いつもの練習をした。敵を想定したシャドーボクシングのようで、敵の急所を的確に切り裂いていく。その動きは踊っているようだった。一頻(ひとしき)り終えたところで、水を(ひた)したタオルで汗を(ぬぐ)う。

「お風呂はさすがになかったですからね。せめてお湯があればいいのですが」

「“心頭を滅却すれば”ってやつだ」

「あぁ、“ダメ人間になる”ですね」

「いや、滅却ってそういう意味じゃないから」

「これは少し強引でしたね」

 ダメ男はリュックから着替えを出した。黒いジャケットに黒いショートシャツ、黒いパンツだった。

「さて、ダメ男の気持ち悪い顔面を堪能したことですし、出発しましょうか」

「まだ着替え終わってないから」

「早くしてください、ヘンタイ」

「言われなくても」

 荷物を整理して、忘れ物をチェックする。

 そして宿を出た。

 

 

 天気は相変わらずの快晴。だが、朝早いのか身体を(つんざ)くような寒さだった。

 ダメ男は凸凹の道を歩きながら、もそもそと何かを食べていた。どこかで買ったクロワッサンのようだ。両腰にあるウェストポーチの片方に、袋で包まれたクロワッサンが大量に入っている。ぎゅうぎゅうで潰れていそうだ。

「食べ歩きは素行がよろしくありませんよ」

「あそこのパン屋、めっさ美味いからさ」

「いや、別に関係ないですし」

「うーん、分かった。ちょっと待ってて」

 クロワッサンを無理やり口の中に詰め込んだ。それも四つほど。

「ほへへいふぃはろ?」

「そうですね。あなたは本当にお馬鹿さんだということが分かりました」

「はんはほ? はっへフーは、」

「分かりましたから、きちんと食べてから話してください。汚いし気持ち悪いです」

 ダメ男はもぐもぐと食べていった。別のポーチからボトルを取り出し、こくりと一口飲んだ。

「ふぅ! おいしかった」

「よかったですね」

「フーも食べたかった?」

「いいえ。もう何日も前のものですからね。腐っているのではないかと思います」

「腐りかけがちょうどいいのよ」

「それが言えるのは野蛮人であるダメ男だけですから、絶対にマネしては駄目ですよ」

「ぎりぎり腐ってないって!」

「ダメ男は腐りきっていてどうしようもありませんけどね」

「ぶん投げてやろうか?」

「ここに戻ってくるのはしんどいでしょうね。まぁ、ダイエットの一環だと思えばいいでしょうけど」

「く……おさえろ、オレの怒りよ……ここで踏み外してはだめだ……」

「もう一回踏み外しましたけどね」

 そうやって談笑していると、広場に着いた。そこには大勢の村人がいた。何やら歓声を上げている。

「なんだなんだ? 祭りか? 人多すぎて見えないぞ」

「なら、先に確認させてください」

「うん」

 ダメ男は首飾りにしていたフーを持ち上げた。

「なんか見えるか?」

「昨日の男が見えます」

「へぇ~ってどういう状況だし!」

「死んでいます」

「……え?」

 ふざけていたダメ男だが、表情が一変した。

「天使の銅像の腕が男の腹を貫通しています。掲げている手から水が流れていますが、男の血と混ざって噴水が赤くなっていますね」

「……」

 つまり、誰かが男を殺し、村人が歓喜していたということだった。

「どうしました? 腹()せは済んだでしょう?」

 怒っているとも悲しんでいるとも見える表情。とても複雑そうだった。

 ダメ男はその広場を避けるように、村を抜けようとした。あと数歩で村を抜けるというところで、

「お待ちくだされ」

 昨日の老人が声をかけた。

「なに?」

「昨日はありがとうございました。私の娘を助けていただいて」

「じいさんの娘さんだったのか。まぁ、よかったな」

 立ち去ろうとするダメ男をフーが呼び止める。ムッとするが、フーに従うことにした。フーには尋ねたいことがあった。

「ご老人、もしよければこの村のことについて教えていただけませんか? いろいろと不可解なことがあって納得がいっていないようなのです」

「分かりました。立ちながらではなんですし、私の家に、」

「いやいい。ここでいいよ」

 ダメ男はリュックを地べたに下ろした。

「そうですか……。この村はあの男が言うように助けない村です。昨日のことを思い出してくだされば分かるはず」

「うん」

「でも、あれは稀なことなのです」

「? どういうこと?」

「昔は、犯罪に絶えない村でした。他の村から金品を奪い、人を殺していたのです。その結果、他の村が滅んでしまいました。それで当時の村長は考えたそうです。このままでは村の中で殺し合いや奪い合いが起こるのではないかと」

「それまでは全くなかったのですか?」

「ないわけではないですが、次第に増えていったようです。それを防ぐために考案したのが、誰も“助けない”という決まりなのです」

「少し分かりかねます。誰も助けないということは、犯罪し放題ではないのですか?」

「もちろん、最初はそうでした。しかし、それはやったらやり返すというのもありなのです。なので、奪ったら奪い返す、殺したら別の人間が殺し返すのが村の中で繰り返されていきます。そうやって何年も続いたのです」

 老人の目に、薄っすらと涙が。くっ、と指で払い落とした。

「なるほど」

「それで効果はあったのですか?」

「今では一件もありません」

「一件も?」

「はい。一件も」

 老人は断言した。

「そうなったのは三十数年後です。疲れ果て困り果て、(むな)しくなったのでしょうか、犯罪が止みました。助けないことが逆に平和を取り戻したのです。それ以降、助けないことがエスカレートし、昨日のような出来事になるまでに……」

「すごいな」

「逆転の発想ですね」

 ダメ男は先ほどの機嫌が嘘のように直っていた。素直に感心していた。

「人は誰かを助けると、同等の助けを多くの人に配らなければなりません。しかし、それは究極的に難しい……。どうしても差が出てしまい、その差が争いの火種となる。ならば逆に助けなければどうかと考えたのが私の祖父でした。祖父も志半ばで殺されてしまいましたが」

「でも、あの男は助けたよな?」

「いえ、実はあの直後に村の者に拘束させました」

「え?」

 びくりと老人の方を見てしまった。

「旅人さんが翌日、つまり今日出発すると聞いて、早めに処刑したのです。この村はしっかりと生きていけるということを示したかった……。それに、旅人さんに余計なことをさせてはいけないと。ずいぶんと疲れていらしたようだったので」

「ってことは、オレらの会話を聞いてたの?」

「いえ、ここに来る旅人さんはだいたいそう思うようですから」

「……」

「奇跡の村ですね」

 ダメ男はリュックを持ち上げた。

「オレ、勘違いしてた。もっと別の方法があったんじゃないかって思うんだけど、そういう経緯があったなんて。……謝るよ、ごめん」

 ダメ男は老人に頭を下げた。しかし、老人はダメ男の両肩を掴み、頭を上げさせる。それは違います、とゆっくりと頭を横に振っていた。

「……あなたは素直でお優しい。だからこそ村のことを気にかけ、私の娘を助けてくれたのです。むしろ礼を言うのはこちらです。ありがとうございます」

 老人はダメ男の手をぎゅっと握ってくれた。骨と皮しかなく、がさがさとしている。それなのに、ほんのり温かくて力強かった。

「じゃあ……すごい話も聞けたことだし、行くか」

「はい」

「お気をつけて!」

 老人はダメ男を見送った。見えなくなるまで。

 

 

「あまり栄えた村じゃないけど、哲学的だったな」

「そうですね。むしろ栄えすぎていないおかげで、あのような村になれたのかなと思います」

 快晴の下、山を下っていた。見渡すと、歩く方に森林が見え始めている。

「やっと見えた」

「そうですね、ん?」

「どうした?」

「このまま下った先です。何か聞こえませんか?」

「んー……」

 下っていくと、崖のように山が切れ、その下から山が続いていた。つまり、そこには横に広い洞窟(どうくつ)がある、と考えた。

 何か泣き声が聞こえる。

「子どもの泣き声だな」

 ダメ男はゆっくりと下りて、洞窟の中を見る。浅い洞窟の中には二十代の女と赤子がいた。女は長い布を身体に(まと)ったような格好で、赤子を服の中で抱えていた。

 ダメ男たちを見るや、背中を向けた。震えている。

「おびえてるな」

「そのようです」

 ずんずん近づいた。

「お願いします! この子だけは、この子だけは……!」

「何か勘違いしてるようだけど、オレは旅人だ。あんたを襲おうなんてしないよ」

「た、旅人……?」

「はい。心配ないですよ」

「……よ、よかった……」

 女はダメ男に抱きついた。相当怖かったらしく、赤子と一緒に泣いてしまった。

 照れくさそうに、一旦引き()がす。

「もう少し登れば村がある。これも何かの縁だし、そこまで案内するよ」

「本当ですか! ありがとうございます! ……ありがとう……うぅ……」

「いい村だよ。誰も助けてくれないからな」

「……? それは……いいことなんでしょうか……?」

 女は涙目で不審がっている。

「ごめんごめん、傍から聞くと変なこと言ってるな。でも心配しないでくれ。いい村なのも保証する」

「そ、それなら……信じます」

 ありがと、とダメ男は笑いかけた。

 ダメ男は女を連れてゆっくりと山を登り直していった。ちなみに、赤子を抱かせてもらったらそのまま眠ってしまったので、ダメ男が抱えていくことに。

 女はぱぁっと明るくなっていた。

「やっぱオレは数十分で追放だな、フー」

「そうですね」

 ちょっぴり可笑しくて、笑みを隠せなかった。

 

 

 



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第二話:なにかあるとこ

 特に違和感のない、普通の草原。ほどほどに晴れていて、日差しが暖かい。そんなところで、

「うーん……」

 青年は唸っていた。

「ふぅ……」

 何か考えているようだった。

 黒いセーターに黒いデニム、黒いスニーカーを履いていた。セーターにはフードが付いていて、後ろに垂れ下げている。荷物は黒いリュックとウェストポーチが二つだ。リュックは青年の脇に置かれ、ポーチはセーターの下に巻かれている。

「どうしますか?」

 女の“声”。だが、明らかに青年のものではない。クールな声をしていた。

「でももし……」

「それは承知の上です。しかし、こうして悩んではや二時間も経過しています。いくら優柔不断とはいえ、悩みすぎです」

「フーは見てるだけだからいいじゃん……。オレは死ぬかもしれないんだよ?」

 “フー”と呼ばれた女の“声”は、

「確かにそうですが、何か行動しなければ何も始まりませんよ?」

「言いたいことは分かるんだけど……」

 呆れていた。

「無視して再出発しませんか?」

「だって気になるんだ……」

 青年の足元には、一つの箱があった。プレゼント用なのか可愛くラッピングされている。開けるには、リボンやら包装紙を取り除く必要がある。

「ダメ男、このやり取りだけで二時間も経過していることを自覚してください」

 “ダメ男”という青年は、うろうろしていた。

「未開封の物を貰うと、無性に中身が気になる現象ですね」

「ただの作り話だと思ってたんだけどな……うーん」

 ダメ男が気になるのは中身だけではない。なぜこの場所にあるのか、どんな目的で? いつから存在していたのか……など、深みにはまっていく。

「ではダメ男、こういうのはどうでしょう?」

「? 名案でもあるのか?」

「謎掛けで面白い方が決めることにしましょう。ちなみに採点はこちらで投票を集います」

「なんだよ、新しい挑戦か? 別にいいけどね」

「では、“ダメ男”と掛けまして“ギャンブルを断れない”とときます」

「その心は?」

「どちらも頭の中に“脳”が無いでしょう」

「……」

「フーっちです」

「そこまでマネんでいいっ」

「どうです?」

「“脳みそ”と“NO”を掛けたわけか」

「はい。点数は……三十点! うーん、なかなか厳しいですね」

「情緒がないし、オレを貶しているとしか思えない」

「そうですよ。でも、そこまで言うなら、ダメ男はできますよね? 情緒があって幽玄で、心に()みるような謎掛けを」

「お約束だな。……そうだなぁ……“ゲリラ豪雨”と掛けまして“フー”ととく」

「その心は?」

「どちらも“いきなり降る”でしょう」

「三点」

「ダメ男っちで、って採点早いなおいっ」

「“雨が降る”のと“話をフる”ということはすぐに予想がついたらしいです。なので三点です」

「……厳しすぎるわ。しかも、フーが言ってるような意見だし」

「ともかく、これは私の勝ちですね。さぁ、開けてください」

「納得できないけど、仕方ない……」

 しぶしぶダメ男は従った。するするとリボンを解き、丁寧にラッピングを外していく。

「どきどきしますね」

「そうだな。ここまで緊張するのは久しぶりだよ」

「どことなく力が入りますよね」

「あぁ。戦ってるわけじゃない、いや……闘ってるか……」

「ダメ男、慎重に開けるのですよ?」

「……分かった」

 震える指が箱の(ふた)に触れ、ゆっくりと外していく。ダメ男の額は汗で湿っている。

 そして、中が露わになった。

「ん?」

「これは、“手紙”ですね」

 そこには、一枚の手紙が入っていた。

「こんな箱に手紙が一枚だけ? どんなプレゼントだよっ」

「ダメ男、ツッコミは後にして手紙を確認しましょうよ。まだ気を抜いてはいけませんよ」

「そ、そうだな。……よし」

 ダメ男は念のため、リュックからトングを取り出してそれを使って手紙を、

「うわぁぁっ!」

「ダメ男!」

 取り出せなかった。

 反射的に箱を投げ捨ててしまった。手紙は目の前に落ちている。どうにか見ることはできるようだ。

「危なかった……。これで取ろうとしなかったら……」

「まさか、こんな仕掛けがあったなんて、恐怖です」

 箱の中には、おびただしい数の針が箱の中へと飛び出していた。どんな仕組みなのかは分からないが、罠だった。

 ダメ男は念のために、針地獄の箱から数十メートル離れた。

 息を整える。

「ふぅ……」

「さぁ、手紙を見ましょう」

「……」

 無言で(うなず)き、手紙を開いた。

「え?」

「えっ?」

 そこには、こう記されていた。

 

 

[“なにかあるとこ”はここでおわり! ここからは“あとがき”のはじまりだよ!]

 

 

「……」

「これはもしや、」

「オレはこんなことのために何時間も迷ってたってことかよ……」

「ダメ男?」

「ふざけやがってぇぇ! 今まで悩んでたオレの時間と汗と涙とその他諸々返せっ!」

「お疲れ様でした」

「こんなので片手がなくなってたかもしれないんだぞ! こんなことなら、開けなきゃよかったわ!」

「そういうことを言ってはいけませんよ、ダメ男。手紙の“差出人”の意図を探らないと、どうにもなりません」

「はぁ……早く“あとがき”いけよ……。緊張が緩んで疲れた……」

 ダメ男が寝転がって空を眺めるも、“あとがき”が割り込んでくる。

 

 

 どうも、水霧です。まずは、本作を読んでいただいている方々にお礼を申し上げます。どうもありがとうございます。(改訂済みです)

 本章はいかがでしたか? と言ってもまだ二話しか読まれてないですよね(笑)

 このアイデアも水霧のではないので悪しからず。もし気になるようでしたら原作『キノの旅』を読まれることをお勧めします(宣伝になってしまいました)。

 本章は少し丁寧に仕上げたつもりです。もちろんいつも推敲や改稿は欠かしていないのですが、それでも読み直してみると、誤字脱字のオンパレード……。皆様に大変申しわけなく思っています……。

 本章の話の流れのままでお話ししますが、スペシャルストーリーを第七話で付けました。このスペシャルの意味するところは……もうお分かりですよね。

 短めですが、“あとがき”の残りは後ほどへ。ここからも楽しんでいってくださいね。

 

 

 



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第三話:はかるとこ

【報告書:ある被験者の能力について】

 試験者 ○○○

 実施日 ○月×日

 実験テーマ:「顕在能力と潜在能力」

 

1.緒言

 我が研究所では老若男女の能力を数値化し、それらを今後の研究に活かしてきた。その一環として顕在能力と潜在能力の関係は多くの科学者がテーマにしてきたものではないだろうか。そこで今回はそのテーマと強く関係した一例を紹介したいと思う。

 

2.方法

1)対象数と属性

 年齢××歳(本人の意向により非公表。見た目は十代中頃)を対象とした。平均身長は171.2±1.2cm、平均体重は50.3±0.3kgであった。この研究は三日間協力していただいた。

2)測定項目

 知能テスト三教科(外国語、数学、IQ)や一般的に行われる体力測定(握力、上体起こし、長座体前屈、反復横跳び、1500m走、50m走、立ち幅跳び、ハンドボール投げ)及び実戦。

3)測定方法

①使用機器:巻尺、ストップウォッチ、ビニールテープ、ボール、握力計、テスト用紙。

②実験手順

 まず知能テストを60分間実施し、後に体力測定を表記順に行った。詳細は本研究所の方法と同様なので省略する。そして実戦へと移る。被験者と同格の男性を起用した。武器は刀剣である。まず武器無しで五分間戦っていただき、次に武器有りでお互い殺傷する程度に戦っていただく。

4)データ集計

①処理方法

 専用ソフトに集計した。

②解析方法

 本研究所の判定シートを元に、A~Eとランク付けした。

 

3.結果

 下記の表のような結果になった。

外国語……99点

数学………28点

IQ…………188

表1 三教科の点数

 

握力………………58kg 10点

上体起こし………27回 7点

長座体前屈………68cm 10点

反復横跳び………58回 8点

1500m走……4分50秒 10点

50m走…………7.1秒 7点

立ち幅跳び……258cm 9点

ハンドボール投げ…67m 10点

合計……71点 ランクA

表2 体力測定の点数と合計点

 

4.考察

 まず知能テストでは外国語99点、数学28点、IQ188という極端な結果となった。外国語に関して被験者の話に尋ねると、文書を読むことが多く、読書も好みだということで、文章を扱う問題は得意なのだと考えられる。それに付随し、多種多様な国々に訪れるということで、言葉に関して多くの知識を持っているのだと思われる。その例として、ある国の“(ことわざ)”をほぼ網羅しているとのこと。筆者も多くの国の被験者に協力をいただいたが、そのような国名を聞くのは初めてであったし、また他の試験者も同様だった。それほど言葉に精通していたのであろう。

 数学に関して、簡単な計算が出来れば十分だ、と仰っていた。日常生活レベルでは難しい計算は使われづらい。耳にするのは最高でも方程式くらいかもしれない。そういう意味で、それほど拘っていないのかもしれない。また、年齢的にも難問が多かったのかもしれない。後半の量子力学については言葉が通じなかったそうだ。

 IQテストでは、こんな感じかな? という具合に解答していたらしい。完全に理解はしていないものの、ある種の法則性を直感的に見抜き、解答していたのではないだろうか。ここの兼ね合いは後述する。

 体力測定では握力58kg、上体起こし27回、長座体前屈68cm、反復横跳び58回、1500m走4分50秒、50m走7.1秒、立ち幅跳び258cm、ハンドボール投げ67m、合計すると71点、ランクAという結果になった。握力について、リュックサックや武器であるナイフ、木登り等、握るという行動がとても多いために、握力が強化されたのだと考えられる。上体起こしについて、鍛えているものの得意ではないそうだ。おそらく、上体起こしを求められる機会が少ないために苦手なのではないだろうか。長座体前屈について、毎日(?)ストレッチをしているそうなので、点数が良かったのだろう。反復横跳びは戦闘中に何度も反射神経と“キレ”が要求されるので、自然に鍛えられたのだと考えられる。1500m走は移動手段として徒歩を選択していること、また50m走は逃走することが多いため、点数が良かったのだろう。立ち幅跳びでは移動中や逃走中の障害物を避けることにより、またハンドボールでは投擲(とうてき)系の武器をよく使うため鍛えられたのだと考えられる。

 これらを統括して、実戦における能力を考察していく。

 武器無しと武器有りで共通することは、被験者は常に回避を主眼として戦闘しているということだ。左腕と左脚を軽く突き出し、右拳を右頬の付近に、右足はいつでも蹴り出せるように軽く爪先を立てる。身体を少し(はす)にしたこの構えを基本にしている。武器ありの場合は左手にナイフを握る。この構えは異国の戦闘方法に酷似していた。

 基本は受け手に回り、攻撃を回避・防御しながら相手の隙を突く、いわゆるカウンター系の戦闘を好む。決して無理攻めをせず、相手をよく観察していた。そして何よりも戦略の幅・深さに舌を巻く。攻める機会があるのに攻めず、疲れた演技をし、相手を困惑させる。身体能力もさることながら、恐ろしく機微な心理戦を強いてくる。対戦者は終始、曇った表情を隠すことができていなかった。

 武器無しでは人間の身体の構造を良く理解した戦闘だった。例えば、(あご)やこめかみ、眼球、首周り(特に後頭部)、心臓、胃、肝臓、横隔膜、金的(女性なら下腹部)等、人体の急所と言われている部位を正確に見極めている。対戦者が男性ということもあり、主に金的を利用していた(実戦ではフェイントのみ)。常に急所を狙われているという恐怖感と、それを利用したフェイントは対戦者を(もてあそ)んでいるかのようにも見えた。

 武器有りでは基本からやや外れ、受け手よりも攻め手が多い。それはリーチ差で圧倒的に不利である状況が多いためであろう。本実験でも対戦者が刀剣使いということもあり、接近戦気味に戦っている。しかしこの戦術がそのリーチ差を逆手に取っていた。まるで蛇のようにグネグネした攻撃と格闘戦に近い近接攻撃で手数を圧倒した。対戦者が距離を置いて迎え撃てば、測ったように距離を取り、対戦者のリーチ外に身を置く。そこは鼻先を(かす)めそうなくらいにギリギリであり、急に強く弾いて懐に潜り込む。

 筆者が印象的なのは、被験者が避けがたいはずの初見の攻撃を軽々と避けていることだった。特に想定外のカウンターは誰でも受けてしまうものだ。油断や見逃し、焦りというものがないのだろうか。

 このような戦術を可能とする要因は身体能力、知能だけでは説明が付かない。被験者の年齢を考えても、経験値としては豊富な方ではないだろうし、初対面の敵と遭遇した時、看破されてしまうことがあるだろう。旅人として看破される場合というのはほぼ死亡する場合であるらしい。つまり、今日まで生存できたのはもっと別の要因が強く絡んでいるためだ。

 筆者は結論として、被験者の第六感が潜在能力なのではないかと考えた。第六感というのは直感や予感といった動物的な能力を指すが、普段はそういう人柄でなく、温厚な性格だ。戦闘という場面にだけ被験者の第六感が強烈に目覚めて、想定外の状況を打破しているのだ。もしかすると、被験者は“火事場の馬鹿力”のようなものを簡単に引き出せるのかもしれない。

 

5.参考文献

1) ×××:能力の開花とその過程.△□出版,××国,XXX1.

2) ××,×××・他:第六感のメカニズム.××社,△△国,XX12.

3) ××××:対人戦術論.能力開発 22:471-476, XXX9.

 

 

 

「……ふぅ」

 部屋の左右には大量の書物。本棚というよりも倉庫のような大きい棚に敷き詰められていた。

 真ん中には木製の立派な机。そこに白衣を着た人間が二人いた。一人は肩を(すく)めて立っている二十代中頃の女、もう一人は何枚かの紙を読み耽っている五十代後半の男。

 ぱさりとその紙を机に放り投げる。

「きみ~……」

「はっはい」

「ここに勤めて何年になるかね?」

「えっえっと……三年目です……」

「ふむ……それでこの出来か……」

 ちくちくと言葉で突っつく。

「実験というのは仮説を検証するための手段だ。考察というのは実験で得られたデータを用いて仮説との関連性を考えることなのだよ」

「はい……」

「これでは小説の読書感想文だ。想像に想像を重ねてどうするのだね?」

「……では、教授はどのようにお考えになりますか?」

「まあ、それは後で言おう。今は君の評価だ。……ただ被験者の戦術やその思考過程はよく観察できている。せっかくここまでできたのだから、実験データともっと絡めてほしかった」

「……はい」

「もしかすると実験が足りなかったのかもしれない。火事場の馬鹿力、つまり生理的限界時の体力測定と心理的限界時の体力測定を行えば、もっと説得力があっただろう」

「な、なるほど」

「さて、私の考えでは……心理的限界の突破のようなものは発揮していないと思うよ」

「なぜです?」

「心理的限界を突破するには無我の境地に達するほどの集中力が必要だ。しかしこの被験者は策略家で、あらゆる戦術を頭の中で反芻(はんすう)しながら戦っているはずなのだ。つまり戦うことよりもそちらに集中しているということ。ある種の煩悩を抱きながらでは、凄まじい集中力は出せんだろう?」

「えぇ……」

「問題は被験者がどこから力を出しているか……。そこで目をつけたいのがIQと直感力だ。策略家でありながら直感が鋭いという、相反していそうな能力を持っている。その幅が常人では考えられないくらいに広いのだろう。つまり、対策を考えつつも直感を信じる経験が多いということ。直感が働くのは悪い場合と良い場合。そしてその対案を即座に導き出すことができる。だからカウンター系の戦術を取っているのだろう」

「……」

「ぐだぐだ言ってしまったが、私が言いたいのは、この被験者の場合の潜在能力とは恐ろしく柔軟な対応力だということだ」

「なるほどです」

「今度は直感であったり心理的限界であったり、それらを検証できる実験をすれば、もっといい論文になるだろう」

「分かりました」

「ふむ。ではこれからも頑張ってくれ」

「ありがとうございました」

 

 

 翌日。私は協力者をお見送りすることとなった。

「別にここまでしなくてもいいのに……」

「そういうわけにもいきません。協力していただいたのですから、むしろお礼が足りないかと思うくらいです」

 今回、協力していただいたのは、たまたまこの研究所に立ち寄ってくれた旅人だった。意識してここにいらしたわけではないらしい。

「いっいやぁ、あんだけ贅沢させてもらったのに、こっちが申し訳ないよ。まるで王様になったかのような“おもてなし”だった」

 笑いながら話す。とても笑顔の似合う男性だった。

「で、論文とやらはどうなったの?」

「……」

 ……あまりの不出来であまり話したくなかった。

「あぁ、気を悪くしたらごめんな」

「いえ。自分の力不足ですから……」

「まぁこの次に活かせばいい。ってエラソーなこと言ってるけど、オレは全くできないからな。尊敬するよ」

「ありがとうございます」

 ん、と手を伸ばすと、私は握手に応じた。ゴツゴツとしているのにとても肉厚な手だった。

 じゃあな、と一言残して、旅人は去っていく。黒いセーターをふわふわと揺らしながら。

 

 

 



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第四話:たしゅたようなとこ

 とても温かい日差しが降り注いでいる。全身を柔らかく包むように、ぽかぽかとしていた。

 その日差しを余すところなく平野が受け止めている。背の低い緑がぶわっと広がり、ぽつぽつと林が乱立していた。環境が良いのか林には鳥たちが(さえず)り、大地には小さな虫や小動物たちが活発に動いている。

 道というものはないものの、代わりに緑のない細いところがあり、遠くまで伸びている。

 そこに黒い物体が歩いていた。

「歩きやすいし長閑だし。ちょっと寝っ転がろ」

 緑の絨毯に寝転がる。温かさと柔らかさが心地いい。

 その物体はもこもこしたファー付属のフードセーターをゆったり着込み、藍色のデニムをゆったり履いている。黒いスニーカーは砂で汚れ茶色がかっていた。

 背中で押し潰している黒いリュックは登山用で大容量だ。横から突き刺さっている黒い傘が押し潰されていることで、(たわ)んでいる。

 両腰にはウェストポーチがそれぞれ付いている。そのせいでセーターの裾が膨らんでいた。

 んぅ、と横になると、胸からだらりと零れ落ちた。セーターのファスナーをみぞおち辺りまでしか上げていないせいだ。“それ”は太陽の光を反射して水色として見せつけていた。謎の四角い物体だ。

「長閑なところですね。今すぐ歌い出したい気分です」

 その物体から冷静沈着な女の“声”が聞こえる。

「どこでも歌いたい気分だろう?」

「いえいえ、そんなことはありませんよ。殺意が芽生える歌でもどうです?」

「そんなの聞きたくないしっ! 雰囲気ぶち壊しだ!」

「らんららんららんっるんるんるんっう-」

「わぁ、なんて明るい曲調」

 休憩終わり、と勢い良く立ち上がり、またせっせと歩き始めた。

 ポーチからボトルを取り出し、こくこくと飲む。歩きながらで少し零し、セーターの中のシャツが染みた。

「お」

 何かが見えてきた。

「お疲れ様です」

「いえいえ」

 街だ。城壁というより背の低い石の(へい)を横へ並べており、ぽっかり空いたところには木の扉が閉められている。その左右に、

「こんにちは旅人さん」

「どうも」

 門番が立っていた。と言っても、青シャツに黒パンツ、ちょっとしたナイフを腰に付けている程度だ。

「移住をご希望ですか?」

「? 移住っていうか何日か滞在したいんだけど……」

「承知しました。念のために荷物検査をお願いしてもいいですか?」

「もちろん」

 入国手続きをしている間に別の門番が荷物を調べた。銃器や刃物といった凶器も持ち込みできるようだが、使用は控えてもらいたいとのこと。

 分かった、と了承した後、念の為に身体検査も受けた。む、と険しくなり、セーターの中を調べると、

「これは?」

「ナイフだよ。もちろん使うつもりはないから安心して」

 刃渡り三十センチはあろうかという大きいナイフだった。柄は黒い鉄を網目状に組まれた形状で、その隙間は緑の半透明の膜が貼られている。柄のお尻には黒い毛玉のストラップが、先端にはボタンが付いていた。このボタンを押しながら振ることで、中の刃が飛び出す。言わば仕込み式のナイフだ。

 検査を終え、荷物を全て返してもらった。

「それとこれを……しまった。補充するの忘れた……」

「?」

「入国された方にもれなくお配りしていたのですが、パンフレットを忘れてしまいましてね。すぐに係りの者に伝えてお渡しします」

「そりゃ助かる」

 門番たちは開門してくれた。街中の景色がゆっくりと現れていく。

「じゃ、また何日か後に」

 そこを通ると、すぐに閉門した。

「…………こちら関所。男性一人が入国。特徴は全身黒い服装をされている。ただちにパンフレットをお渡ししろ。いいか? 絶対に移住させるようにおもてなししろ」

 

 

「面白い国ですね、“ダメ男”」

「な、なんじゃこりゃ」

 “ダメ男”は自分の目を疑った。

 普通の街並みではなかった。多くの種類の家や道、人、動物がいた。例えば、土を押し固めて作ったような家があれば、何十階建てという異様なビルがあり、二階建ての一般的な家があれば、とてつもなく長い平屋があり、と。道で言えば、寸分の狂いもない正方形の石材をぴっしりと敷き詰めた道、凸凹で乱雑な道、滑り出しそうなくらいに綺麗に舗装されたコンクリートの道、と。それも一本の道に強引に詰め込まれているのだ。

 住民も同じようだった。髪を頭の少し後ろに白い布で束ねている厳つい男、肌黒で布を巻きつけた帽子を被る男、ホルスターを右腰に携えてブーツを履いた女。古臭い服装から最先端の服装まで、そしてあらゆる人種が暮らしているようだった。

 動物は猫や犬のみならず虎、ライオン、蛇、亀、羊、猿、ウーパールーパー、フェレット………………。どこの動物園かと思うくらい。植物は熱帯地域のものから寒帯地域のものまで、どこの植物園かと思うくらい。

「まるで地球上の生物を集約したような国ですね」

「そこまで多くはないだろうけどさ、この国どうなってるんだ?」

 このままでは雰囲気に圧倒されたまま時間を過ごしてしまう。ということで散策をお楽しみに取っておき、まずは宿を探すことにした。

 “四分の一”本の綺麗な道を歩いて行くことにした。ダメ男は歩いているだけでおかしな気分になり、笑ってしまう。

「なんか変なの」

「変な人が歩いていればそうなるでしょうね」

「じゃあお前は変な旅人の相棒ってことになるぞ、“フー”」

 “フー”と呼ばれた“声”は、

「相棒が正常なら問題無いですね」

 きっぱりと言い放った。

「今回はちょっと優しめの発言だな」

「耐性が付いている時点で終わりですよ。努力の賜物(たまもの)ですけど」

「言えてる……」

 そんな雑談を繰り返しながら探していく。

 意外と宿探しは難航した。家だけでなく施設も種類が多いため、宿かと思ったら居酒屋だったり病院だったり、見た目からでは中々判別が付きにくかった。そして期待していたパンフレットとやらはいつになっても届けてきてくれない。

 街に入って一時間弱が経過してしまった。晴れ渡っていた空の西の方から赤みが強くなっている。雲が無いために燦々と輝いていた。どことなく肌寒さを覚えている。

 ダメ男は仕方ない、と呟いた。適当な施設に入り、パンフレットを頂戴した。

 フーによると、宿らしき施設は街の西側にあるとのこと。現在位置は南東だ。

「どうしましたか?」

 そちらへ向かう途中だった。ちらりと視線を背ける仕草をよく見せるダメ男。

「尾行されているのですか?」

「いや、そこまでじゃないけど。……見られてる気がして」

「自意識過剰ですね。確かに個性豊かな顔ですが、生物学的にヒトに分類されていますから、大丈夫なはずです」

「そこまでしないと分からないのかよっ。しかも微妙に確信してないしっ」

「頑張ってくださいね。あ、そろそろですよ」

「おお、やっとか……疲れた……」

 ようやく目的地へ辿り着いた。

 外見はどこか一般料亭のようだ。古めかしい木の門に、木を格子状に拵えた木戸、両隣には提灯の優しい灯火が迎えてくれる。何か文字が書かれているが、何と呼ぶのかは分からないようだ。

 ここだけ見れば古風で落ち着いているのだが、道はプラスチックと土の半分ずつで、反対側は巨大なドームが建てられている。

 中に入ると、

「へいっ。おいでやっす」

 柱が露出した空間に、ヒップホップが好きそうなモヒカン男が和服を着て出迎えてくれた。おまけにサングラスに鼻ピアス、シルバーネックレスまでしている。かと思えば、水着姿の金髪女性が御膳を運んでいたり、スーツを決めたウェイターが土鍋を運んでいたり。

 床はコンクリートで固めた冷たい床だ。

 最奥は待合所で、高級そうなソファが映画館の席のように並べられ、客たちが見るのは何かのショー。その手前の両手側に通路があった。そこからは黒の薄いシートが敷かれている。

「もうめちゃくちゃだな」

「ですが、和風であるのは一応統一されていますね」

 受付に行く前に通路を確認した。そこからはなぜかホテルの通路のような、暖色系の灯りに等間隔に部屋があるような作りだ。

「なんでだよっ」

 想定外というより、常識外だった。

 受付で記帳し、一室を借りる。ダメ男は右手の二階、真ん中辺りの部屋を案内された。案内してくれたのはバニー姿のおじさんだった。

「こちらです」

 とてもダンディな声で、ドアを開けてくれる。

 ここも奇抜なのだろう、と高をくくっていた、

「おっおぉ」

 が、そうでもなかった。暖色系の優しい内装で柔らかそうなベッドにカーペット、ソファと普通なもの。ごくシンプルなガラステーブルと椅子、アンティークな棚と、きちんとホテルの一室のようだ。窓は小さいが、息苦しかったり居心地が悪かったりする印象はない。

 浴室とトイレは入ってすぐ左手にあり、一緒になっていた。

「どうぞごゆっくり」

 とても余裕のあるお辞儀。バニー姿のおじさんは静かにドアを閉めてくれた。

「あの人……趣味?」

「そこは個人の自由ですから、そっとしておきましょう」

 ダメ男は強く同意した。

 早速、荷物全てをベッドに放り込み、椅子に座り込んだ。ん? と目を付けたのは、テーブルに置かれたパンフレットだった。

「あ、ここでもらうものなんだ」

「そのようですね」

 そのパンフレットをベッド脇の棚に起き、リュックから袋を取り出した。ガラス製なので、ゆっくりと置く。首飾りの謎の物体であるフーも一緒に置いた。

「奇を(てら)った宿ですね」

「一体どういう国なのか分からないな」

「人や動物、建物やその中身までバラバラですからね」

「うーん……そう言えば今何時?」

「今は十七時十五分十秒を……過ぎました」

 うん、と了解した。

「ちょっと早いけど、ご飯にしようか」

「ですが、この施設には食事処はありませんでしたよ?」

「ルームサービスかな? でも電話もないし……直接聞くか」

 ダメ男は最低限の荷物を持って、受付に向かった。

「あ、あの、ちょっといいかな?」

 受付はあのバニー姿のおじさんだった。

「どうされましたか?」

 何回聞いても、まるで貴族に仕える執事のような、とても低くダンディな声。それなのにバニー姿……。過去を詮索したくなる衝動を抑え、尋ねた。

「ここって食事はどうすればいい?」

「はい、(わたくし)どもに一言お伝えいただければ、ご用意いたしますが? どうされますか?」

「じゃあ今からお願いできる?」

「可能でございます。この場でメニューをお決めになりますか?」

「うん」

 しつじ、いや受付のおじさんは奥のドアに入り、すぐにメニューボードを持ってきてくれた。

「えーっと……これとこれとこれ」

「かしこまりました。今からですと十八時頃になりますが、よろしいですか?」

「いいよ。あまり急がなくていいから」

「お気遣い誠にありがとうございます」

 ウェイターはにこりと笑むと、再び中へ入っていった。

 ダメ男は自室へ戻ることにした。

「ダメ男、何を注文したのですか?」

「適当」

「パンとご飯と麺類が一緒に来ても知りませんからね」

 夕食までの時間は、

「そう言えば、パンフレット見ようか。ちらっとしか見てなかったし」

「暇つぶしにはいいですね」

 例のパンフレットを見ることにした。

 パンフレットの表面には大まかな地図と店舗紹介が記載されている。裏面はおそらく人物紹介、そして長い文章がつらつらとあった。

 ダメ男には読めなかった。

「えっと……フー頼む」

「全文翻訳ですか? それとも大まかにまとめて翻訳しますか?」

「概要で」

「分かりました」

 フーの側面が緑色に点滅し始めた。

「まずは表面から翻訳します。…………アーユーハッピー? あーあー、オー、イエー、ダメオイズガビッジガビッジ……ホンヤクチュウデス……ホンヤク、ホンヤク……」

「なんか悪口言われた気がする」

 恐らくはその通りだと思う。

 緑の点滅は消え、点灯し続ける。

「ここは従業員三十名が経営する“タッシュホテル”というそうです。創業六十年を誇る老舗で、“常識を覆そう!” という企業理念を持っているみたいです」

「なるほどっ」

 同意せざるを得ない。

 他の店も紹介してくれたが、奇抜なお店が多かった。“芸術は爆発だ”という店もあり、ダメ男にはとても理解できないオブジェが飾られている。

 そのまま裏面へ移行した。

「裏面は………………どうやら国長の経歴を記したもののようです。そしてこの国の歴史が簡単に説明されています」

「じゃあ裏面も頼む」

「分かりました」

 文章が長いようで、フーが翻訳しきるのに数分かかった。

「では、大まかに説明します。この国長の名前はタッシュ・タタッシュ国長。三十八代目国長で、去年に国長選挙で僅差の末に就任しました。かつては王族たちが就任していましたが、歴代初の王族外での当選のようです。圧倒的な判断力と快活すぎるポジティブ思考が国民に大ウケし、二十一票の僅差で勝利、その後も国の反映のために世界各国に奔走し続けている、とあります」

「へぇ。珍しいな。王族制の国じゃ、そんなことほぼありえないのに」

 写真はタッシュ国長の写真と思われる。肌黒で少し(ふく)よかな人だった。アロハシャツを着ており、とても明るそうである。

「次に歴史です。………………今から約八百年前のお話です……」

「なんか急に昔話みたいな口調になったぞ」

「かつてこの国には文化というものがありませんでした。なぜなら、この地は原住民から奪い取ったものだからです。国作りをする中で、先人たちは悩んでいました。そこで、“今から文化を作ればいいじゃないか”と提案されました。ところが、そもそも文化とはどうやって形成していくものなのか、先人たちはさっぱりでした。それもそのはず、彼らは属国出身の逃亡者たちだったのです」

「ふんふん、なるほど」

「先人たちは長年の従属的生活で思考力が恐ろしく低下していました。そのせいか、考えても良いアイディアが浮かばなかったのです。そんな中で、ある先人がこう切り出しました。“分からないなら盗めばいいじゃないか”、と。この予想外の提案に拍手喝采が送られます。では、どこの国の文化を盗むかとなった時、先人たちの眼からして、どの文化も色鮮やかで綺麗なものに見えてなりませんでした。頭を悩ませる中、またもある先人が切り出しました。“それなら全部盗んでしまえばいい”と。結果、先人たちは世界各国に分散し、文化を吸収しながら、本国へ伝える作戦を練り上げます。その集大成が現在の国を作り上げたのでした。……以上です」

「なるほど。どうりで色んな人とか建物とかあるわけか」

「そのようです。この文化の集合体こそが、この国の文化なわけですね」

「へぇ、面白いなぁ。で、そのタッシュ国長って人が今は、」

 コンコン、とノックが聞こえた。話を中断し、そちらへ意識を向ける。

「ご夕食をお持ちいたしました」

 ダメ男は左手をセーターの中へ忍ばせながら、ドアを開けてあげた。

 ウェイターがトレー台を押して、中に入ってくる。そのままテーブルまで来てくれた。

「こちら、特製クロワッサンとお茶漬けとパスタタラコソース和えでございます」

 かたん、と大きなバケットとお茶碗とお皿を差し出す。

「……」

「他にご注文は?」

「いや、なっないよ」

「では、お会計はチェックアウトの際にお願い致します。……では、これで失礼致します」

 ウェイターは一礼して退出、

「普通のウェイターでし、……」

「……」

 した。

 でした、と言い切る前に、また見つけてしまった。前半分はウェイターなのに、後ろ半分は迷彩模様という謎の服。もはや悪ふざけの産物と言いたくなるようなものだった。

「なんなんだろうな。……とりあえず、その通りになっちゃったな」

「よっよかったですね。色んな料理を堪能できますよ」

「そうだな。……しかも美味いし」

 奇抜すぎる展開だったが、夕食はとても美味しかったらしい。

 疲れ果ててしまったダメ男は、食休みの後、寝間着に着替えて眠ってしまった。いつも通り、床に寝っ転がり、キルトに包まりながら。

 

 

 翌朝。と言っても、まだ夜明け前だ。

「……ん、……んぁ……」

 すくりと起き上がったダメ男。バスタオルと着替えを持って浴室へ向かった。十数分後、アンダーシャツに新緑色のパンツを履いて出てきた。ほかほかと湯気が立ち上っている。

「おはようございます」

 ベッド脇の棚からフーが挨拶をする。ダメ男も眠たそうに、

「んあ。おはよ……んぅ……」

 返した。目付きがゆるゆるで、朦朧としている。

「今日は早いのですね」

「うん……」

「就寝時間が早かったので、早めに起きてしまったのですね。もう二時間ほど睡眠を取られてはどうですか? まだ三時四十八分二十三秒を過ぎたところです」

「……いぃ」

 うつらうつらとしつつ、ベッド端に座る。

「ふーもねてれば……?」

「今、至福の時間ですので、起きています」

「? ……ん……」

 寝起きの悪いフーにしては珍しく上機嫌だった。

 眠い割にはしっかりとした足取りで、窓際へ。そして少しだけ窓を開けた。風は入り込まなかったが、もやもやと冷気が入り込むのを感じる。

「すぅ……ふぅ……」

 その冷気を吸い込み、身体の中から冷やしていく。

「……ん」

 きっと顔が引き締まる。眠気が少しは取れたようだ。

「ん?」

 ふと、地上の方へ目がついた。

「何だあれ」

 何人か人が集まり、まるで土下座するようにお尻を少し高くして何度も座り込んでいる。耳を澄ますと、何か唱えているように聞こえる。

 それがとても気になって、テーブルを窓際へ寄せる。昨日出しっ放しだった袋ごと持ち上げていた。しかしそれだけでは、と、脱いであるセーターから黒い何かを取り出し、途中でフーを拾って、テーブルに着いた。

「もう至福の時間は終わりなのですね」

「? なにそれ?」

「いえ、こちらの話です」

 ダメ男は袋から色んな容器を取り出し、黒い何かを手に取った。網目状に黒い鉄を組み込んでおり、その隙間を透明の膜が覆う。中には銀色に光る刃が収納されていた。ボタンを押しながら軽く振ると、その刃が表に出る。仕込み式のナイフだ。

 容器を開け、中の液体を手持ちの布に浸す。それでゆっくりと刃を拭いていった。

「フー、あれって何か分かるか?」

 ちらっと外を見る。

「はい。簡単に言うと、とある宗教での日課です。全知全能の神様を心から感謝し、賛美し、賞賛する気持ちの表れ、のようです」

 ふきふき。

「宗教についてはコメントを控えた方が良さそうだな」

「ですね」

 興味ありげに見つつ、ナイフのお手入れを進めていった。きらりと光る具合を確認してから、今度はフーにしてあげる。

 フーに(つや)が出始めた頃、日の出を迎えた。東の空が突然黄金色に染まり、頭を覗かせる。ゆっくりと全身を見せる時には空も青みを帯び、黄金色は地上にいた者たちと一緒に消えていった。

「あ、もういない」

「解散したのでしょう。日の出、正午、日の入りでは、あれはしてはいけないとされています」

「へぇ~、ってことは一日に何回かやるってこと?」

「一日に五回行うのが奨励されていますが、無理な場合は数分で済ますことも許されているみたいです」

 太陽の光にフーを照らした。多少の傷があるが、ぴかぴかで綺麗だ。

「お前、その宗教の信者なのか?」

「これくらいは常識です。ダメ男が駄目すぎるだけです」

「…………やめとこう」

「そうした方が良さそうです」

 とても複雑な事情で、発言を控えた。

 ふきふきを終えたダメ男は容器を全て片付けた。

 軽く柔軟体操をした後、ナイフを使って身体を動かす。目の前に敵が現れ、それに対処するような練習。ピタリと止まると、

「……ふぅ」

 練習を終わりにした。

 さっとシャワーを浴びて汗を流した。

「どうですか?」

「いい感じ」

「それは良かったです」

 セーターと黒色のパンツを履くと、朝食を注文しに一階の受付へ向かった。お茶漬けに焼き魚と味噌汁を注文したらしい。

 運んできてもらって、ゆっくりと味わう。

「ハマりましたか?」

「うん。質素だけど、すごく食べてる感じがする」

「宣伝ではないですよね?」

「誰に宣伝するんだよ」

「それは、色んな方々です。しかし食レポはできないのですよね。残念です」

「はは……意味が分からん」

 笑いながらもきっちり完食した。

 

 

 太陽が十分に登ってから、ダメ男は本格的な買い物に出かけた。パンフレットの表面にはこの街の地図が記載されており、場所はフーが翻訳してくれる。用のある店は街中に点在しており、一日かけて買い物することにした。

 入手した必要な物を売り払い、必要のない物を買い漁っていく。そして、

「あ、あれ? ちょっと待て」

「どうしました?」

 ダメ男はふと考えた。

「なんでこんなもん買ってんだ?」

 手に持っているのはユニークな置物だった。ブタの木彫(きぼり)で、鼻先に輪っかがついている。どうやらペン立てのようだ。

「こちらに聞かれても答えかねます。てっきり何かに使うのだと思っていました」

「待て待て待て。オレは古物商じゃないんだし、ちょっと戻してくる」

「はい」

 不思議そうに了解するフー。

 改めて、必要のない物を売り払ったり交換したりし、必要な物を買い漁っていった。

「うん。これだこれ。ちょっとオレ、何してたんだ?」

「もともとポンコツな脳みそですからね。あるいは今、やっと正常に機能したのかもしれません」

「もはやそれ異常だろっ」

 それにしても、とダメ男は繋げた。

「ライオンまでいるってどうなってんだよ……」

 そちらは街中というよりサバンナ地帯のようで、背の高い薄茶色の草や木製の家屋が多かった。なのに、ど真ん中には七色の道路が貫いている。

 あの百獣の王が一風変わりすぎた街中で寝転がっている。驚くべきことに、住民や小動物たち、さらには獲物のはずの子鹿でさえも、その前をのんびり歩き去っていた。

「生態系どうなってんだよ」

「満腹状態なのかもしれませんね。たまにのんびり屋さんなライオンもいると聞いたことがあります」

 突如悲鳴が上がった。ダメ男たちが見ていたライオンが一人の女を襲い、無我夢中で食い荒らしていった。

「…………あのフーさん?」

「はい」

「あなたの発言、目の前で否定されてるんですけど」

「“たまに”と言いましたよね? 耳腐っていますか?」

「できれば腐っててほしかったな」

「それなら眼も腐っていてほしかったですね」

「だな」

「さて、買い物を続けましょうか」

「あぁ」

 ダメ男はまた歩き出し、

「ってそうじゃないだろっ」

 たが、踵を返し、急いでライオンの方へ駆け寄った。

 血を見たためなのか、ライオンは極度の興奮状態にあった。口の周りが真っ赤に染まっている。ふー、ふー、と息を荒らげていた。

 その下で散らばる遺体。首が(えぐ)れ、内臓は飛び出し、身体中の関節があらぬ方向に(ひしゃ)げている。十分に流れ出ているはずなのに、流血は衰えを見せていない。

 その死肉に狙いを付けている動物がいた。ハイエナである。犬のような見た目をしているが、何匹も群れており、とても獰猛である。ライオンの殺気を感じて、離れた場所でじっと観察している。他にもカラスだったりハゲタカだったりと、目を付けている動物たちがいた。

 ダメ男はすぐに気が付いた。

「何をしているのです、ダメ男?」

「暴れだしたら被害が増えるだろっ」

 連中は、自分を狙っているのだと。

 さすがに野生なのか、ライオンはやたらめったら襲いかかって来なかった。まるでダメ男を品定めしているかのようにぐるりと旋回する。その行為も他の動物たちは舐めるように窺っている。住民たちも危険だと物陰に隠れていた。

 ダメ男にとっては逆にありがたかった。

「相手は百獣の王ですよ?」

「静かに……」

 後悔しつつも覚悟を決めていた。

 そして、ライオンがダメ男の背後に回った瞬間、

「つうっ!」

 心臓を震わせるほどの咆哮。振り向いた瞬間、もう遅かった。

 はや……。のしかかり。もう駄目だと悟った。

 しかし、

「……え?」

 ライオンはダメ男の横を通り、そのまま前のめりに倒れこんでいった。

「……」

 つんつんしても、動かない。

「……」

「こ、これは何があったのです?」

 どっどっど、とポンプが水を押し上げるかのように、ダメ男の全身から汗が滲み出した。と同時に、一気に疲労感が襲ってきた。

 ダメ男はへたり込んでしまった。

 ちらっと周りを見ると、いつの間にか動物たちもいなくなっている。

「大丈夫かあっ!」

「!」

 ちょうどライオンの後方から、人の声がした。三人ほど駆けつけてくる。

「よし、効いてる! ……今からライオンを病院で保護するぞ! 救急隊! 来てくれ!」

 この合図で白衣を来た八人がストレッチャーを二台持ってやってきた。一つは通常サイズで、もう一つは横幅が三メートルはあろうかという特大サイズだ。

 通常サイズには遺体を乗せ、特大サイズにはライオンを乗せた。彼らはそれらを押しながら、あっという間にどこかへ行ってしまった。

「……」

 まるで嵐が通り過ぎていったような早さ。ぽかーんと口が閉じれないダメ男。

 びくっと反応した。急に肩を叩かれた。

「あんた、命知らずか勇敢なのか分かんねえなっ」

 サングラスをかけた肌黒の男だった。四十代前半くらいの少し太めの男で、笑いかけてくれた。

「は、はぁ……」

 しかし、それも第一印象に過ぎなかった。半袖のアロハシャツから伸びる腕は巨木のように太く、胸はボタンがはち切れそうなくらいに盛り上がっている。肩はバレーボールが詰まっているのではというくらいに膨らみ、拳はゴリラのように分厚かった。背丈は大きくないものの、高密度な筋肉を搭載しているのが分かる。……ただ者でないとダメ男は悟った。

「とにかく、被害が最小限で助かった。感謝する」

「あぁ……うん」

 状況を上手く飲み込めない。

 先に気づいたのはフーだった。

「あれ? この方、どこかで見たような」

「ん? どこから声がするな……誰だ?」

 笑いながら辺りを見回す。ダメ男は自己紹介と共に、フーを見せた。

「珍しいもん持ってんだな」

「! 思い出しました! ダメ男、パンフレットですっ」

「え? …………あぁっ!」

 裏面に記載されている写真とその男を合わせると、ぴったりだった。

「ってことは、あんたが国長っ?」

「お、よく知ってんなあ。いかにも、俺がタッシュ・タタッシュ国長だ。よろしく……ねっ」

 “特有”のポーズで決める。

「ふ、ふるい……」

 知っているダメ男もダメ男だった。

 

 

 国のトラブルを解消してくれたお礼として、国長との面談が特別に許された。というより、

「早く来いって! そんなに遠慮するなよ。旅人なんだから、こういうのも何回も経験してんだろ?」

 タッシュ国長が強引に呼び寄せた。

 招待してくれた場所は、意外にもごく普通の一軒家だった。それも八畳しか広さのない、家というよりも小屋だ。そこは木製のテーブルと椅子と本棚しかなく、殺風景だった。タッシュ国長によると、ここは隠れ家的な家だそうで、本拠地を探られないためなのだとか。

 そこに大量の料理と酒が振る舞われた。ダメ男は酒は遠慮した。

「タッシュ国長、ものすごく明るい方なのですね」

「いんや~、こうでなきゃ務まんねーっしょ? 今までみんな鉛でも入れてんのかってくらい重くて暗いツラしてっからさ。たまにはこういうのもアリだろ? なあ?」

「ま、まぁ……たまには……」

 ポジティブというか、とても人懐っこい人だな、とフーは思った。

「でも、ちょうど良かった。聞きたいことわんさかあるし」

「おうおう、何でも聞いてくれ。国長として応えてやんよっ。なーっはっはっはっは!」

 とてもバイタリティのある人だな、とダメ男は思った。

「では、パンフレットを拝見したのですが、この国の歴史についてお尋ねいたします」

「フーちゃん、かたっ苦しすぎっ。もっとラフでいいぜ」

「ごめん、多分フーにとってはこれが一番ラフな口調だと思う」

「ん? それはそれでいい性格だなっ。あっはっはっは!」

 ねじ曲がって聞こえなくもないが、国長の性格上、素直に受け取った。

「まず、どうして他国の文化を取り入れようと考えたのですか?」

「知らん」

「では、それを組み合わせることは当時はとても画期的だったのでしょうか?」

「知らんっ」

「じ、じゃあ、今でも文化を取り入れようとされているのでしょうか?」

「知らん!」

「……」

 にこにこと明るく答えていた。罪悪感の欠片もないがゆえに、あまり責める気も起きなかった。

「いんや~すまない! 実は歴史はさっぱりでなっ。いつもテストで三十点以上取ったことがないんだ。あっはっはは!」

 この人本当に国長なのか? と誰でも疑ってしまいそうだ。

「オレからいいかな?」

 ダメ男が尋ねることにした。おう、と元気がいい。

「この国は色んな人と動物が一緒に暮らしてるけど、これってタッシュ国長の考えなのか?」

「そうだなっ」

「どうして、このような国にしようと思われたのですか?」

 視線を外し、(あご)に手を添えた。

「ん~、何て言えばいいんかな? 色んな考えを持ってる人を迎え入れるのって大切なことじゃん? 自分の知らないことを知ってるわけだし、とても面白いわけよ。俺は別にあんまり深くは考えてないんだけど、仲間が増えてく感じがいいんだな。ダメ男たちはどうよ?」

「……」

「……」

 予想外のまともな意見に、二人して言葉を失っていた。

 あ、あぁ、とダメ男が反応した。

「今、何歳だっけ?」

「俺は今……五十二かな」

「えぇぇっ? うそだろっ! 明らかに三十五歳くらいだろっ」

「嘘じゃねえよ。ほれ」

 ダメ男は名刺をもらった。フーに翻訳してもらい、誕生日が記されていることが分かった。この国は今2014年だそうで、計算すると確かに五十二・三だった。

「若々しい考えだな、って思った。年を取ってくにつれて、考えが偏ってきたりするから、感覚が新しいって思うよ」

「同感です。経験則に頼りきらない思考や判断が、この国を栄えさせているのでしょうね。とても斬新な街並みですし」

「そんなにホメんなよっ。照れんだろうが!」

 にやにやが止まらない。一升瓶を片手にごくりと大きく口に含んだ。

「でも、動物も一緒というのは危険ではありませんか? 実際、被害も少なくなさそうですし」

「それは……あるな。でもよ、普通に考えたら、それって普通のことじゃね?」

「? どういうことでしょう?」

 国長は立ち上がり、ファイルを持ってきた。パッと開いて、ダメ男たちに見せる。

「こういう時は人の話より、客観的なデータが頼りになんだよな。こっちの棒グラフが動物事故で、こっちが人間事故だ。見てみ?」

 全体的な件数としては年間三十件、うち動物事故が十七件、人間事故は十三件と記されている。これは昨年のもので、それ以前も動物事故が多かったり少なかったりと、案外まちまちだった。

「これはうちの国だけかもしんないんだけど、動物が人間を殺すのも、人間が人間を殺すのも大差ないんよ。だから放し飼いにしても問題ないし、動物たちもむやみやたらと畑を荒らしたりしないし。必要な分だけ食べて、必要な分だけ歩いてる。うちら人間が過剰に反応してるだけなんよ」

「し、しかし、先ほどのライオンもそうですが、あのような動物が暴れた時は、被害が出過ぎてしまいませんか?」

「何事もバランスよ」

「え?」

「この国の生態系っちゅーのはごく自然に近いもんだと思う。生態系のピラミッドっで知っちょるか?」

「あぁ、強い動物ほど頂点にいて、数はそれほど多くない……みたいなのだっけ?」

 水をこくりと飲む。

「そんな感じだったよーな。あっはっはっはっ」

 覚えてないんかいっ、とツッコみたくなるダメ男。

「それに当てはめれば、ライオンは頂点に君臨し、数も少ないから被害もそこまで大きくならない、ということですか?」

「そうやな。まあライオンの餌なんて人間だけじゃないしな。だからそこまで被害は大きくはならんよ」

 ダメ男は少し考える。

「うーん……あのさ、人間が動物を殺すってのはないのか?」

 タッシュ国長は手をブンブン横に振った。

「あー、ないない。あってもほんの数件よ。やっぱ色んな考えがあるからなあ。この動物の存在が許せないっ、とかあるわけさあ」

「裁判所できちんと裁くのでしょうか?」

「そんなもん必要ない」

「……え?」

 酒をもう一口、口いっぱいに含む。

「んくっ。……誰が裁くん? 裁くっちゅーこっちゃ、上下関係があるってこっちゃろ?」

「でも、客観的な判断ができる司法がなければ、秩序が保たれないのではないですか?」

「旅人さんはちょっと考えが人間寄りだから、仕方ないんやろなあ」

 ささっと料理に(はし)をつける。

「俺のポリシーは生物平等! 喧嘩上等や! 誰が裁かなくとも、勝手に収まるもんよ。やられたもんの傷はいつかは癒えるし、やったもんはかっならず報いが来る。それはここの住民はみんな知っとるんよ。それはもちろん人間動物関係ない。……知っとるか? 動物も謝るんよ? (こうべ)を垂れて、擦り付けてくるんよ。その気配を感じ取れれば、収まるってもんよ」

「……」

 フーには全く理解ができなかった。

「……いい国だな、フー」

「え? えぇ、そうですね」

 一方のダメ男は感慨深そうだった。

 

 

 その後、今度はダメ男が旅の話を聞かせて差し上げた。国長にとってはとても興味深い内容だったらしく、夕食のお誘いをした。また、この国の移住についても提案した。しかし、ダメ男はこれらを丁重にお断りした。タッシュ国長はとても寂しそうにダメ男を見送られた。

 ダメ男の話に盛り上がり、すっかり夜になっていた。ぽつぽつと輝く星を眺めながら、落ち着いた足取りで宿に戻る。この時間帯では動物は誰もいなかった。

 部屋に入るやいなや。床に寝転がった。

「はぁ……」

「どうしたのです」

「まるで子供みたいに語ってたな」

「はい。ダメ男も語っていました」

「え? うそ?」

「ほんとです」

 顔を両手で覆う。ちょっぴり恥ずかしかったらしい。

「はぁ……なんかあれだなうん」

「“あれ”とは何ですか?」

「うーんと、何て言うかな……あれなんだよ」

「だから、“あれ”とは何ですか?」

 その言葉が思い出せない。

 しばらく思い出そうとした結果、

「やっぱいいや」

 思い出すのを止めた。

「思い出せないということは、ダメ男と同価値のことでしょう。さして問題はありませんね」

「もし、オレの人生を揺るがすほどのことだったらどうするよ?」

「ダメ男と同価値のことですから、何とも言えません」

「ずいぶんと哲学的だなぁ」

「要するに“あれ思うクセに忘れる”です」

「“我思う故に我あり”な。真っ先にオレを貶しに来たなっ」

「貶すほどの価値があるかどうかすら疑問ですね」

「うわ、もうおかずはありませんよ的な絶望感だな」

「“言い得て妙”ですね」

 

 

 三日目の朝。つまり出発の朝を迎えた。ダメ男は日の出前に早めに起きて、荷物の確認をした。

「おはようございます」

「おはよう」

「あらら、今日はきちんと覚醒していますね」

「ばっちり快眠よ」

「残念ですね」

「?」

 ダメ男には知る(よし)もない。

 置き忘れや買い忘れはない。念のためベッドの下や棚の中、浴室も確認したが、問題はなかった。

 黒いセーターを羽織り、チェックアウトをした。

 早かったのか、外は冷えており、白い息が出ている。そんな中でもあの光景が見ることができた。

「お」

 多くの人たちが下に布をしき、土下座するように祈りを捧げていた。とても真剣な眼差しで、とても集中していた。邪魔するのも失礼なので、そのまま素通りしていくことに、

「そこの者」

「な、なに?」

 したが、誰かが話しかけてきた。お祈りをしていた男だった。肌白で六十代後半の男だ。

「一緒にお祈りをしていかんか?」

「……申し訳ないんだけど、急ぎの用があってね。先を急ぎたい」

 にこりと笑いかけた。

「そうか。無理強いはいかんよな。信仰は心からしなければならないと仰せられている」

「へぇ。……そういえば、このお祈りをしてる人たちってどのくらいいるの?」

「この国ではほぼ全員がタッシー様へお祈りをしているよ」

「……」

 (まばた)きを何回かしてから、

「そ、そうなんだ。オレはもう行くよ。お祈りの邪魔して悪かった」

「こちらこそ失礼した。旅人さんにこれからも(さち)訪れるように、タッシー様に祈りを捧げよう」

「ありがとう。じゃ」

 ダメ男はささっと出国していった。

 

 

 太陽が昇り、肌寒かった地上は温もりに包まれた。空では柔らかそうな雲がたなびいている。

 微風が吹いており、独立している林と一緒に緑の絨毯も靡く。さわさわと気持ちのいい音が耳に入ってくる。

 緑のはげた道に、ダメ男はいた。

「ダメ男、正直なことを言っていいですか?」

「なに?」

 フーが切り出した。

「ついさっき、笑いそうになっていましたよね?」

「どうして?」

「タッシュ国長のお話に面白味を感じたからです」

「……え?」

 少し笑っている。

「もし、色んな価値観が存在しているのだとすれば、人間が動物を殺す件数もその他と同じ程度でなくてはなりません。しかし、実際ではその件数が明らかに少なかったのです。“生物平等”と謳っているのに、どうしてなのか分かりますか?」

「ただ単に殺したくないからじゃないのか?」

「その通りです。しかし、気持ちの問題だけではありません。とてつもない強制力が存在していなければ、あれほど差は出てきません」

「うーん……法律で禁止してるとか?」

「あの国には裁判所は存在していません。つまり法律はありません」

「えーっと…………分からん」

 ふふ、と上機嫌なフー。

「先ほどお祈りをしていた方々が関係しています。あの方々が信仰している宗教は、実は動物への残虐行為を一切禁止しているのですよ。地方によっては違いますが」

「そうなの?」

「はい」

「……で、何が面白いんだ?」

「分かりませんか? タッシュ国長は、価値観は全て違っていた方がよく、それを尊重したいと仰っていました。しかし、住民はその宗教を信仰している方が圧倒的に多いのですよ。これって矛盾していませんか? もし、仰っていた通りでしたら、色んな宗教を信仰している住民、あるいは無宗教の住民がバランスよくいらしてもいいではないですか」

「あぁ。言われてみれば」

 一応理解できたが、いまいちピンとこないダメ男。

「それに動物を殺している件数のデータをきちんと取っていないことと、タッシュ国長が動物を殺すことはほぼないと断言していること。この発言からしても、タッシュ国長はその宗教を少なからず信仰していることが分かります」

「うん」

「そしてさっき、信仰されている方がこの国では国民ほぼ全員がお祈りをしている、と聞いた時、“なんだ、その宗教を優先させてるじゃん”と、思ったのではないですか?」

「……ふふ」

 ダメ男もようやく笑う。

「それもちょっと面白い話かもな。でも、フーは相変わらずだよな。何て言うか、フーの笑いのツボって頭が良い人に近いんだよな」

「? では、ダメ男はどこに面白味を覚えたのですか?」

「オレはごく単純だよ」

 一旦足を止める。ウェストポーチからボトルを取り出し、一口飲んだ。

 ふぅ、と一息ついてから、また歩き出す。

「あの人、すごく若いなって思ってたんだけど、よく考えたらおっさんなんだよ。ネタも古かったし」

「?」

「分からないか?」

「えっと………………分かりませんね」

「珍しいな」

「え? え? 何でしょう。とても気になります」

「ヒント、ほしいか?」

「お願いします」

「珍しく素直だな。それほど気になるってことか」

「はい」

「あは、かわいいやつ。……ヒントは“フーの得意技”ってとこかな。総合的に考えれば分かるよ」

「え? ……………………ほんとに分かりませんね。教えてくれませんか?」

 大きく笑い出した。

「じゃあ次の国に着いたら教えてやるよ」

「うわ~、では早く行きましょうよ。というより、今から戻ればいいですよね?」

「あ、せっこ! そういうことはすぐ思い付くんだからっ」

「いくら考えても答えが分からないのですよ! 戻るのが嫌でしたら、ここから北東に二十三時間歩いたところにも小さな村があります」

「うわ、普段の三倍くらい作業が早い……。どんだけ教えてほしいんだよ」

「あ~気になる気になる気になる~あ! 気になるの歌、完成しました!」

「どうでもよすぎ!」

 

 

 



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第五話:ながいとこ

 なだらかな稜線から濃い緑が敷かれていた。杉が(まば)らに生え渡り、麓へ覆い尽くしている。その麓では田畑が高低をつけて広がり、畔道(あぜみち)は淡い緑の線となっていた。彼らは太陽から降り注ぐエネルギーを身体全体で受けとめていた。

 高低差の激しい山岳地帯だ。

 普通の道とは違うしっかりした道があった。等間隔に敷き詰めた鉄組に、包むような鉄線、それを結ぶ鉄柱が立てられている。その道は山を貫通し、トンネルを形成している。中は日が当たらず真っ暗だ。

 その中から徐々に鈍い音が響いてくる。動物の唸り声とは違い、無機質な轟音だった。

 出てきたのは黒い蛇。それも今までに見たことのない蛇だった。何百倍も大きいサイズに頭から煙を上げ、空気を響かせる。ただし、こちらに襲ってくることはない。蛇は先程のしっかりした道を、まるで定められたように走り去っていったのだった。

 驚くことに、蛇の体内には人が飲み込まれていた。それなのに彼らはそんな緊張感もなく、外を眺めていたりうたた寝をしていたり。よく見てみると、向かい合わせの座席まで設けられていた。

 彼らの中に、蛇の体色と同じ服を着た男がいた。まさに外を眺めていた人物だ。厚手のもこもこしたセーターに黒いパンツを履き、薄汚れた黒いスニーカーを履いていた。向かいにはぶっくりと太ったリュックが相席していた。

 窓縁に肘をついて、景色を眺めている。

「……」

 感傷に浸っているようだった。

「……」

 ふと、肘元の方に視線を落とす。そこには一枚の小さな紙、掌よりも小さい紙があった。細かい文字でつらつらと何かが記されている。

「ダメ男?」

 “声”。冷淡で凛とした口調の“声”がした。どこからともなく。

「なんだよ」

 “ダメ男”と呼ばれた男は平然と返事をする。

「どうしたのですか? また気持ち悪いことを考えていたのですか? それとも自分の醜い顔を見て、気持ち悪くなりましたか?」

「ふふ……どっちでもないな」

 少しだけ笑って吹く。

「そうですか。しかし、こんな辺鄙(へんぴ)なところに、こんなものがあるとは思いもしませんでした」

「そうだな。オレも初めて乗ったのが、こんなところだなんてな」

「噛んでいます」

「うっさい」

 ダメ男は首元に手を掛け、何かを取り出した。水色とエメラルドグリーンを混ぜた色の四角い物体。それに黒い紐を通し、首飾りにしていたようだ。

 きゅっと手にすると、窓縁にある小さい紙の隣に置いた。

「乗員さんの話では“機関車”と呼ばれているみたいですね。機関車とは駆動用の原動機を搭載し、軌道上で客車・貨車を牽引(けんいん)する鉄道車両です。電気やディーゼル、古いもので蒸気などを動力としているようです。この機関車の動力は蒸気ですね」

「あぁ。要するに船みたいなもんだろ?」

「全然違います。船と機関車の違いは、」

「あーいいよもー。頭痛くなるから」

「そうですか」

 “声”は四角い物体から聞こえている。その主はそれのようである。

「一般男子はそういうのに憧れているものとされているみたいです」

「オレは特に無いけど……“フー”はどうなの?」

 “フー”と呼ばれた“声”は、

「とても興味があります」

 ハキハキと答えた。

「初めて見るものだしな」

「この乗り物はどういう仕組でどのようなエネルギーで原理で動いているのかとても興味深いです。さらに線路脇にある謎の鉄柱や鉄線がどういう効力があるのか、そして、」

「もうお前直接聞いてこいよ……」

「あなたが動かないから謎が深まるばかりなのです。役立たず」

「いつか係員さん来るだろうから、それまでお楽しみにとっとけ」

「自分が動きたくないだけでしょう? 出不精ゴミクズ」

「じゃあ行くか?」

「いいです」

 即答だった。

「肝心なこと棚に上げながら役立たずとかゴミクズとか……最低だな」

「最々低のカス人間に言われたくないです。今でも忘れませんよ? あの夜、私に襲いかかりあんなことやこんなことを、」

「でっち上げるなよっ。……あ、ちょっとトイレ」

 ダメ男がフーを手に取って立ち上がると、

「動かすなと言っているでしょう!」

 フーが強く言い放った。あまりの大きさにビリビリと痺れてしまいそうだった。

 他の人たちに頭を下げて、ダメ男は席に着いた。

「うう……」

「自分が乗り物酔いしやすいって完全に忘れてたもんなぁ……」

「気持ち悪い……ダメ男の顔でさらに気持ち悪い……」

「お前、そういうこと言ってるとこうだぞ?」

 今度はぶんぶん振り回した。

「やあああぁめええぇぇてぇええぇぇぇ!」

 にやにやしている。

「お、面白い……」

 ダメ男の目がキラキラしていた。

「それがいじめっ子の心理なのでしょうね……うっうぅ……」

 その後もダメ男は事あるごとにフーを(いじ)りまくり、フーがいじけても弄り倒した。遊び尽くした後は荷物を手元に寄せ、すっと眠りに入ったのだった。

「くぅっ……やっと悪夢から解放されましたか……うぷっうぅ……」

 フーにとって、とても平穏な時だった。景色を眺め続けて数十分後、黒い制服を着た乗員さんが通りかかったので、フーは呼び止めた。あれこれそれと身元を説明し、お話を伺っていった。

「元々、ここは機関車じゃなくて電車が通っていてね」

「電車というのは電気を動力とする機関車でしょうか?」

「まあそんな感じだね。でも昔、ちょっとした紛争が起こっちゃって、電気が軒並み使えなくなってしまったんだ。そこで、この蒸気機関車が再採用したってわけさ」

「かつて引退した英雄がカムバックを果たしたようですね」

「まさにそうだね。……今は紛争は収まって、本当なら電車は使えるんだ。でも、昔からこの蒸気機関車を愛したお客さんが多くてね。その名残で電線や電柱がそのままなんだよ。よく見ると(すす)だらけなんだ」

 どこにあるのか分からない“眼”で、フーは外の景色に目を凝らす。なるほど、とフーは納得していた。ここからでは黒いとしか判別できないのだが……。

「ファンというわけですね。正直、発展しているとは言いがたいこの地域で、機関車という名物があっていいですよね」

「……」

 乗員さんはふっと瞳を伏せた。

「……実は……今日で最後なんだ」

「え?」

「厳密には昨日で終わりだったんだ。動力部の重要な部位に故障が見つかってね……。でも、お客さんからの要望が熱くてね。無理を言って走らせたんだ……。で、旅人さんはこの帰りに、たまたまこの機関車に乗ったんだよ」

「そうだったのですか。一戦に戻った英雄も遂に完全に引退するということですか。引退式はあるのでしょうか?」

「もちろん! 終点で開催するから……もし良かったら見ていくかい?」

「はい。ぜひ!」

 ありがとう、と一言残し、乗員さんは立ち去った。

 そこから半時後、

「ン……んぅ……」

 起床した。と同時に荷物をまとめ出した。

「何をしているのですか?」

「何をって……降りる準備だよ」

「何を寝言を言っているのですかっ?」

「何を言ってんだよフー? もうそろそろ降りる頃だろ?」

「英雄の引退式を見ないのですか?」

「え、英雄? 誰のこと?」

 ダメ男は不意に周囲を見渡してみるが、該当しそうな人物はいなかった。

「かつて過酷な戦場を生き抜き、母国に多大な戦果を上げ、国民から英雄と褒め称えられた男を……見捨てて行くというのですかっ? もう年寄りだからって(ののし)られ、身体がギスギスで満足に動けずも、それでも命を懸けた英雄の最後を見届けずに!」

「な、なになに……? どっか故障でもしたんか……?」

「あなたがここに乗ったからには、その英雄の最後を見届ける義務があるのですっ! その義務を放棄することはあなたの中にある信念を捨てることと同義! いつからそんな軟弱なことを()かすようになったのですかっ! ダメ男!」

「お、オレ……特別変なこと言ってないよね……? ただ降りるって言ってるだけのはず……」

「まだ理解できないのですか、この分からず屋!」

「とっとにかく何があったのか話してみ? 落ち着いてさ……」

 ダメ男は勘違いしていた。

 

 

 終点。森の中にひっそりと(たたず)む終点。駅舎とプラットホームが区切りなく続く構造で、真っすぐ行けば改札に行ける。その周りを緑と木々が包んでくれていた。

 機関車は行き止まりにぎりぎり停車する。圧力が抜けるような音とともにドアが開き、中の人たちを左側へ降ろしていく。ぞろぞろと人並みに溢れていき、あっという間にごった返してしまった。それもそのはず、乗客の何割かはその場に留まっていたからだった。しかも元々終点で待っていた人たちも合わせれば、かなりの人数となっている。

 若男女問わず、彼らの視線は機関車に集中している。

「……」

 その人混みの中に、複雑な表情のダメ男がいた。

「……」

 十分に奥に行ってから、

「うぅぅぅう……」

 ぼろぼろと泣き崩れた。

「な、なんてこった……」

 言葉が漏れている。

「自分の親友を助けるために……母親を殺したなんて……ううっ……なんちゅうひげきや……」

「予想通りですが、そんなこと話していませんからね」

「ちょっとした冗談だろ」

 ピタッと泣き止む。

「それこそお前、何が英雄だよ。全然話が見えなかったわっ。分かりづらい表現すんなってのっ」

「いえ、ダメ男はああいうのが好きかなと思いましてね」

「話が長いせいで、結局ここまで来ちゃったしっ。ほんの二、三行で言えることを、よくあそこまで話を膨らませたな」

「それが狙いでした。でも、ちょっと気になったでしょう?」

「……まぁ……」

 “かわいい人……”、どこからかそう聞こえた。

 引退式とやらが始まった。まずは開催の言葉、そして国歌斉唱と、どこかの卒業式かのような始まりだった。来賓挨拶では、一国の王が何十人と来席し、涙を堪えることができていなかった。

「わしは……小さい頃からこの機関車を乗りに、父にせがんだものよ……。ゆったりとしたリズムと心地良い振動、硬すぎず柔らかすぎない座席……全て身体に染み付いとるんだよ……。そしてそこから眺める絶景の自然……。まさに鬼に金棒、ご飯にふりかけ並みの一体感じゃった……」

 来賓挨拶をしていた国王は、ふるふると顔が震えている。当時を思い出し、感極まったようだった。

「……どっ、どうしてもダメなのか? もうこの機関車には乗れぬのかっ……? わしの全財産を融資しても……!」

 乗員さんに問いかける。が、ゆっくり横に振られた。

「残念ながら……」

「くっ……うぅ……うううぅぅっ……!」

「どんだけ大好きなんだよ。機関車とふりかけ……」

 ダメ男の冷めたツッコミも熱すぎる雰囲気に溶け込まれていく。

 そんな感じに進行していき、最後の時を迎えた。

「これより、お別れの発進をしたいと思います」

「そんなぁっ」

「頼む! 行かないでくれ!」

「たか号! いかんといてくれえっ!」

 遂に客からも涙が溢れ、まるで最愛の人を見送るように、言葉を投げかける。

「お願いですっ! 行かせないでくださいっ! たか号っ」

「お前も何ノセられてんのっ!」

 乗員さんが客たちに一礼し、機関車に乗り込む。

「ああぁぁぁっ」

「うわあぁぁっ」

 言葉だったものが、号泣へと変わり、悲痛な叫びへと繋がっていく。

 それに応えるように汽笛が鳴る。とても力強くも、どことなく虚しい無機質音は、

「たかごおおおっ!」

「たかああっ! たかあああああああっ!」

「俺たちは待ってるからなああああっ!」

「お前が帰ってくるのをっ」

 線路に沿って、走り去っていくのだった。その後姿を、客たちは見失ってもずっと見送るのだった。

「……」

 冷めていたダメ男の表情も少し緩み、ぴくぴくと瞼が動く。

「……行くか」

「はい」

 ぎゅっと瞼を閉じ、深くため息をつく。

 荷物をまとめ、ダメ男は改札へ向かった。

「別れというのは寂しいですね。こういう湿っぽいのを何度も経験しているというのに、全然慣れません」

「慣れてもそういうもんだよ」

 改札の乗員さんに挨拶を交わし、

「切符ある?」

「あ、えっと……これ?」

「…………えっと……降りられないね。お金が全然足りてないよ」

「……え? えっと、おいくらほどに?」

「うーん……十倍ほどかかるかな」

「……もう機関車は行っちゃったか……」

「あのその……ダメ男、ごめんなさい」

 どっさりと金目の物を渡してから、

「まぁ別れってこんなもんだよね」

 駅を後にした。

 

 

 



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第六話:はこにわのようなとこ・a

 ターコイズブルーの空に薄く広がる雲。頭上に近くなるにつれ、青みが強くなっています。太陽が赫灼(かくしゃく)と輝いていました。ぽかぽかとしたいい天気です。

 その空の下では広大な荒原に、道路が真っ直ぐ走っています。ところどころに岩石が転がっていたり一部地面が晒されていたりと、風化が(うかが)えます。道路は車二つ分ほどの広さで、不規則に舗石が詰められていました。というより亀裂が入っているかと見間違えてしまいそうです。仕切りとして、細い丸太で組まれた手すりが添えられています。

 そこを男が歩いていました。黒いジャケットを羽織り、黒いパンツと薄汚れた黒いスニーカーを履いています。荷物は登山用のリュックと両腰にあるウェストポーチ二つだけ。少し暑いためかジャケットを全開にし、風通しを良くしています。

 胸にはゆらゆらと首飾りが上下していました。謎の物体で、水色とエメラルドグリーンを混ぜたような色をしています。

「目に優しいとこだなぁ」

「そうですね。何もないところで、目移りしませんね」

 男の声とは明らかに違う女の“声”。冷静とも冷淡とも淡泊とも受け取れる口調です。

 男が歩いていくと、国が見えてきました。

「……あそこか」

 セーターのポケットから小さな紙を取り出しました。それと目標物を何度か見合わせていることから、地図ではないかと思われます。

 一旦、ボトルを出しました。

「んく……んぅ」

 ちゃぽん、と中の水が口元から顎へ流れていきます。それをぐいっと払い落としました。

 飲み終えると、地図と一緒にウェストポーチに乱暴に突っ込みます。

 道路を踏みならすように、男は国へ向かいました。

 城壁はおよそ八メートルはあろうかという高さでした。大きい岩石を茶色い砂が包み、壁として積み上げられています。入り口は分厚い木の門として構えており、まるで鍵穴のようなデザインでした。そこから左右に立ちはだかるように広がっています。遠くから見ると“角”が見えることから、この国は四角い形態になっているようです。

 その門前には一人の兵士が立っています。頭まで覆う甲冑を身に付けていました。かつては銀色だっただろうその色も、長年の使用によりくすんでしまっていました。片手に槍、左腰には剣を携えています。

 門前にて槍で止められました。

「何者だ?」

「旅人だよ」

「目的は?」

「目的っていうか、ただここに流れ着いただけなんだけど……」

 口元に手をあて、考えながら話します。

「怪しいな。紹介状はないのか?」

「紹介状? それが無いと入れないのか?」

「お前のような怪しい者にずかずか入られても困る」

「それもそうか」

 男は変に納得しています。

 兵士は怪訝(けげん)に思い、逆に尋ねました。

「お前、どこかの国の貴族か?」

「は? なんで?」

 思わず兵士を見てしまいます。

「まるで他人事のように余裕ぶっているし、(あお)られても何事もないように平然としている。そのような器を持つ者は大抵貴族が多い」

「それは経験上?」

「そうだな」

「……なら、それらしく扱ってほしいものだけどね」

「だから紹介状がほしいんだよ」

「あ、なるほど、……?」

 男の背後から何か音が聞こえてきます。重低音ですが、爽快でとても乾いた音でした。それも一つではなく、折り重なるようにして聞こえます。まるで音の津波のようでした。

 男がその方向へ目を凝らしていると、大群が見えます。

「おー」

 馬の大群でした。もちろん、人が乗っています。

 貴族っぽい服装をした男が先頭に走り、兵士を(ひき)いています。やがて、その大群は爽快音と振動と共に、こちらに到着したのです。

 貴族っぽい服装をした男は四十代後半といったところでしょうか。横長の黒い帽子に太ももまで伸びた黒いジャケット、中はアイボリー色の服、灰色の短パン、黒の革靴という服装です。白いソックスは膝上よりも長いようでちょっとお坊ちゃんっぽく見えます。全体的に金色の刺繍(ししゅう)が施されており、豪華さを(かも)し出していました。

 貴族っぽい男に付いてきていた兵士たちは門兵と同じような甲冑を付けています。

「これはリーグ様。お帰りなさいませ」

「うむ。ご苦労」

 馬上にて、貴族っぽい男“リーグ”は握手を交わしました。

「大変恐縮なのですが、皆様方の証明証を念の為に拝見したいのですが」

「……よかろう。きちんと仕事をしている証拠だな。感心する」

「勿体なきお言葉……」

 兵士は(ひざまず)きます。

 リーグを含めた全員の身元を丁寧に確認します。全員問題なかったようでした。

 リーグはちらっと男に目を配りました。

「何者だ?」

「は、何やら旅の者のようで……」

「すぐに追い返せ。今はそれどころではない」

「はっ」

 うん、と男が意を決し、

「なぁ、ちょっと頼み事があるんだけど」

「!」

 リーグに話しかけました。

「! き、貴様! リーグ様になんたる言葉遣いを、」

「よい」

 カッとなった兵士を(なだ)めます。

「……なんだ?」

「紹介状がないと入国できないんだろ? だから、今ここであんたにその紹介状を書いてほしい」

「は、はあっ?」

 驚いたのは兵士たちでした。いや、リーグ以外全員でした。

 恐ろしく厚かましい要求に、兵士たちは一斉に取り囲みます。槍を突きつけ、男を厳しく牽制(けんせい)します。

「リーグ様! この男の処理を私どもにお任せください! こいつ、ここで始末しないと!」

「まあ待て。そうカッカするな」

 すっと男に一目しました。いえ、男をじっと見るようにします。

 鼻で小さく息をつきました。

「……いいだろう」

「えっええっ?」

 リーグの言葉に更に驚愕しました。全員が無意識にリーグを見てしまいます。

「ただし、勝負して勝ったらの話だ。それで構わんな?」

「誰と?」

 リーグは兵士たちを一瞥(いちべつ)して、男に振り向きます。

「ドンロ。来い」

「! リーグ様、ドンロをご指名にっ?」

「小手調べだ」

「はっ。ドンロ兵士長、こちらへっ!」

 一頭の馬が男の前に現れました。周りの兵士たちより一回りガタイがあります。携えている剣も通常の二倍ほど太いです。

「勝ちってのは殺せばいいのか? それとも降参させればいいのか?」

「! ……」

 男のその言葉に、一瞬見開きます。が、すぐに平静を取り戻しました。

「俺が勝負ありと判断するまでだ」

「分かった。じゃあその間、オレの荷物持ってて」

 男はリーグにリュックとウェストポーチ二つを持たせました。兵士たちはあまりにも恐れ多く、直ぐ様それらを受け取りました。丁重に扱われよ、の一言に、叩きつけようとした兵士たちは、大人しくするしかありませんでした。

 ドンロと呼ばれる兵士長は馬から降りると、巨剣を引き抜きました。金属音がきらびやかで綺麗です。

 一方の男は、

「ほう……変わったものを持っているな」

 ナイフを左手に持っていました。複雑に組まれた小さな黒い鉄骨。これがナイフの柄で、隙間には透明な何かが貼り合わさっています。先端にはボタンがついており、これを押しながら振ることで、収納されていた刃は突出します。すなわち仕込み式のナイフです。

 柄のお尻に付いている黒い毛玉。ふわふわとゆらめきます。

 男は軽いステップと細かいフェイントをつけ始めました。臨戦態勢。柄の隙間に指を入れ、くるりと回転させています。

 一方の兵士はびたりと動かず、自分のリズムを作っていました。

 それらを見ている兵士たちに、あまり緊迫感はありませんでした。勝ちはどちらなのか、確信していたためです。

 衝突したのは、くるっ、とナイフを一回転させた時でした。

 兵士はいきなり突きをかまします。鉄の塊が男の左頬を逸れていきました。ナイフで受け流していたのです。男がそのまま踏み込んでくると、

「ふんっ」

 自分の巨躯(きょく)を利用した体当たり。向かい合う力のぶつかり合いでしたが、

「うぐっ」

 兵士長の方に軍配が上がりました。

 男は二、三歩と吹っ飛ばされるも、兵士長から目を外しません。まるでアメフト選手に体当たりされたかのような衝撃に、男はむせ返ってしまいました。

 その隙に、ぴっ、と振り下ろされる一閃。あまりの速さに(かわ)す暇もなく、全力で弾いて軌道を逸らすしかありませんでした。それも連撃。男は瞬く間に窮地に陥ります。

「っ」

 隙とは言えない大きめの横一文字。男はそのタイミングで躱し、距離を置きました。

 息が荒いです。

 そこで、遠くでリーグが話しかけてきました。

「ちなみに、その兵士は我が国でも指折りの兵士だぞ」

「……どうりで、けほっけほっ」

 ゆらゆらと、まるで水と同化したように兵士長はゆらめいています。

「でかいわりに力任せじゃないんだな」

「それだけでは戦では勝てぬ」

 ふぅ、と一息つきます。

 ぴゅん、と鋭い風切り音。しなやかな軌道はまるで鞭を振ったかのようでした。すっと屈むと、出遅れた髪の毛が束で斬り落ちます。

 余裕そうに見ていた兵士たち。なぜかざわざわとざわついていました。リーグも興味深そうに見ています。

 鋭く速い攻撃でしたが、男は冷静さを取り戻しつつありました。

「ひゅ」

 兵士がもう一度放ちます。速さを最重視した一撃、のはずでした。

「!」

 目の前に黒い何かが迫っていました。

 びっくりして頭を下げてしまいます。ちょうど額で衝突し、金属音が頭から首元まで響き渡りました。

 甲冑のおかげで致命傷はなかったものの、不意の出来事に思わず間を空けてしまいます。

「あっ」

 焦ったのか、兵士長は後ろに倒れるように転んでしまいました。

「……!」

 気付いた時にはもう遅かったのです。

 甲冑の左目の穴が塞がれ、右目からしか男が見えません。男は兵士長を馬乗りにし、勝ち誇っていました。よくよく見てみると、左目は塞がれたわけではなく、持っていたナイフよりもっと小さなナイフが、突きつけられているのです。

 兵士長はここで悟りました。あの黒い何かは男が放ったナイフで、(ひる)ませるためだったのだと。そして、一瞬の隙を突いて、足を引っ掛けて転倒させたのだと。

 目を潰すぞ。そう脅されているように覚え、兵士長は抵抗を止めました。

「どうした? 早くやれ。……覚悟はできている……」

「リーグとやら、もう勝負ありじゃないかな? それともこの人を、戦闘不能にするまでやらないとだめ?」

「……これ以上は時間の無駄か……」

 そう呟くと、兵士に開門させるように命令しました。

「いいのですか?」

「構わん。……紹介状を書く必要もない」

「……」

 ドンロ兵士長はリーグに申し訳ありません、と頭を下げ、兵士の群れに紛れていきました。

「さて、ここまでやってやったんだ。今度は俺の望みを聞く番だとは思わないか?」

「報酬によっては引き受けてもいい」

「き、きさま、」

「落ち着け。……とりあえず内容を聞いてからでも遅くはないだろう。ついて来い」

 街並みはとても、

「観光している暇はない。さっさと来い」

 前代未聞の観光制限。男は楽しみにしていたことを禁止され、不機嫌そうに付いて行きました。

 

 

 それが続いてこの場面へと繋がっているのでした。

「あいつ、何が“この部屋で待っててほしい”だよ。お客さんが既にいらっしゃるじゃないか……」

 男は椅子の背もたれに頭を置いて座っています。

 トントン。小さなノックが聞こえました。

「はいよ」

「失礼します」

 入ってきたのはメイド服を着た十代前半くらいの女の子でした。どことなく気品を感じる女の子で、褐色の肌に端正な顔立ち、真っ黒の長い髪を揺らしています。声は年不相応に落ち着きすぎていました。また、年不相応に魅力的な体型をしていました。

 男はふぅ、と一息つきます。

「新しく配属された方ですね?」

 椅子から立ち上がり、メイドの前に立ちました。

「あぁ」

「私は“ファル”と申します。そこのお方のメイドを務めさせていただいております。どうぞよろしくお願いします」

「すっごく丁寧。よろしくな。オレは、」

「“ダメ男”と申します」

「……」

「……」

「……」

 突然の女の“声”に、沈黙が走ります。少ししてから、

「ぷっ」

 漏らし笑いがしました。それは“ダメ男”の背後からでした。

「ふふふふ……」

 先ほどまで無視していた女の子が、突如笑い出したのでした。とても可愛らしく、爽やかな声を持っています。

「そっちかよっ。“フー”の声に驚いたわけじゃないんかいっ」

「あ、あの、今の“声”は……?」

 メイドの“ファル”に首飾りを見せました。四角い物体から、

「初めまして皆様。“フー”と申します。以後、お見知り置きを」

 “声”の持ち主“フー”が聞こえました。ファル以上に冷淡で興味なさそうな口調をしています。

 ファルはとても興味深そうにフーを見つめました。

「こいつが“フー”だよ。独りでに喋る箱……とでも言うかね」

「旅人様は珍しい物をお持ちなのですね」

「とても珍しい顔をした旅人ですから」

「てめ、どういうことだそれ」

「非常に個性的な顔面をしている、ということです」

「それ絶対貶してる方の意味だろっ」

「それはご自由にどうぞ、です」

「ふふふ……」

「お前はいつまで笑ってんだっ」

 

 

「えっ! あんた、お姫様なのっ?」

「はい。私は“ヴィク”と申します」

 お姫様“ヴィク”は緑のドレスを持ち上げて挨拶しました。透き通るような色白の肌で、きらきらとしていました。金髪のショートヘアもお淑やかさが溢れ、上品でした。ただ、幼い顔立ちで可愛らしいのですが、どことなく陰りを帯びています。

 ヴィクは今までと打って変わって明るくなっていました。とても快活で明るい女の子のようです。

 ダメ男の一件で一気に打ち解けあっていました。

「ほー。……で、なんでお姫様がこんなとこにいんの?」

「ダメ男、決まっているでしょう? ここがヴィク様のお部屋だからです」

「にしたって何か味気ないじゃん」

「……」

 確かに、お姫様の部屋にしては控えめでした。アンティークなベッドや棚、テーブルに緑の豪華な壁紙。床は赤い絨毯ですが、のっぺりとしています。装飾品や絵画や高級そうなインテリアは全くありませんでした。

 一番目についたのはベッドでした。もふもふというより少し固めで、毛布もそれなりに温かいのですが、手触りはそこそこです。何よりも、そのデザインにまるで女の子らしさを感じられません。

 全体的に一国のお姫様が過ごすような部屋とは言いづらいのでした。どちらかと言うと、

「ここは……お客さんの部屋って感じだよな」

 ダメ男の言う通りでした。

「……私は一旦失礼します。また後ほど」

「あ、あぁ」

 間が悪くなったのか、ファルはお仕事に戻っていきました。

 ヴィクも言い出しづらそうに、

「実は私……保護してもらっているんです……」

 語り出しました。

「保護? 誰から?」

「敵国からです」

「……あぁ。今、戦争中なんだっけ?」

「え? どうしてそれを?」

「あぁいや。これだけ騒々しいから、てっきりそうだと思って。で、どんな事情があるんだ?」

 あはは、と笑って誤魔化します。

 ヴィクは特に違和感を覚えず、話を続けました。

「父さんの言い付けで、部下のリーグ様に保護して頂いているんです……」

「ん? でも同じ国ならどこにいても同じじゃない?」

「ダメ男、ここは恐らくリーグ様“の”国なのですよ。戦争で戦果を上げた幹部は、国を与えられるそうです」

「ってことは、ヴィクの父ちゃんって……」

「はい。将軍なんです」

「ほー!」

 驚いているのか何なのか、よく分からない声。

「まとめると、部下であるリーグ様が将軍の娘を保護している、ということですね? 戻ってきたということは、戦争はひとまずは終わったのでしょうか?」

「まあその……いろいろといざこざがあって……」

「そらそうだろうな。戦争なんてしてんだもん。単純な事情で済むわけないし」

 ダメ男は自分の足元に置いていた荷物を、ベッドの側に置きました。

「……なんかお腹空かない?」

「……え?」

「もうとっくに昼すぎたのにもてなしもしないのかよ、あのエラソーなやつはっ」

「エラソーというか、偉いのですよ」

「なおさらエラソーに感じるよな、ああいうやつって」

「……ふふふ……」

 本人に決して届くことのない悪口に、ヴィクはまた笑います。

「あーはらへっ、」

「おい」

 部屋の外から声が聞こえました。

「リーグ様がお呼びだ。旅人と姫様にご足労願いたい」

「ほいよ」

「……はい」

 ようやくか、とダメ男は愚痴りました。二人は廊下に出ると、兵士の後に付いて行きました。

 この屋敷は三階建てで、とても大きい作りでした。石造りのお屋敷で、屋根は黒く、その他はクリーム色に塗装されています。正面から見ると左右対称で、窓が規則正しく配置されています。

 主に三つの部位があります。一つ目は中央部の玄関。ここの一階は客をもてなすフロアがありますが、二階は通路のみ、三階がリーグの部屋となっているそうです。二つ目にその左右にある客人の間。ここは客が寝泊まるための建物だそうです。三つ目はさらに左右にある従業員の間。メイドや執事、料理人たちが生活し、料理や洗濯といった仕事もここで行われています。ファルもここで生活しているそうです。

「……なんか臭いな」

「ダメ男、おならしましたか?」

「んなわけあるかっ」

「全く、下品な男です」

「だから違うってっ!」

 ダメ男たちは正面から見て、左の三階の廊下を歩いています。この辺りにヴィクの部屋が用意されています。

 ダメ男は窓から外を眺めました。

「無駄にでかい庭だな」

 綺麗に舗装された道が屋敷の門から玄関まで伸びています。その半分までは芝生が広がり、残りは煉瓦が敷き詰められています。広さはサッカーができるくらいで、屋敷外は一般の家がぎゅうぎゅう詰めになっていました。

「それに、廊下もすごいですね」

 フーは中を眺めました。誰かの肖像画がずらりと並べられており、金色を中心とした装飾が壁や天井に刻まれています。ヴィクの部屋にあったのと同じような絨毯が廊下の幅にぴったりと揃えられています。等間隔に金色の燭台(しょくだい)も設置されていました。

 それに不似合いな服装のダメ男。明らかに異国人であることを悟らせます。

 一旦二階に降りてから中央部に入り、そこから階段で上っていきます。

 高級そうなドアの前まで、案内されました。兵士が小さくノックをすると、入れ、と聞こえました。

 両手でドアノブを捻り、ゆっくりと開けてくれます。首をくいっと動かし、入れ、と催促されました。

 中は意外とこざっぱりしていました。正面の木製の大きな机に手前のテーブル、左右に凄まじい量の蔵書、一番奥の窓の脇には木製の箱が三個積まれているだけです。その隣に兵士が二人“気を付け”の姿勢で立っていました。

 絨毯も同じようにのっぺりとしており、豪華な装飾品やデザインはありませんでした。ヴィクのいる部屋が八畳ほどに対し、こちらは十二畳ほどと、そこまで広くもありませんでした。

「意外か?」

 その大きな机に座っているリーグ。ダメ男の小さな驚きぶりに、尋ねます。

「まぁな。客室とさほど変わらない、むしろかなり質素だなって」

「一人でいるのにそこまでの広さは必要ない」

 一瞬、背後にいる二人の兵士がリーグに見向きました。

 座るように促され、二人は席に着きました。長さは手を伸ばせばリーグに届くくらいで、白いテーブルクロスを何層かかけていました。椅子は簡素ですが丈夫なもので、柔らかすぎず硬すぎないクッションが置かれています。

「まずは食事をもてなそうか。おい」

 片方の兵士に、声をかけます。はっ、と返事すると、部屋から出て行ってしまいました。もう片方の兵士は、体格から判断するにドンロ兵士長だと思われます。

 じっとダメ男を見ています。二人して、そこまでは気にしていないようでした。

「久しぶりだな、ヴィク」

「は、はい。長期間保護していただき、誠に感謝いたしております」

「将軍の依頼だからな。断るわけにもいくまい」

 ヴィクは緊張しています。

「将軍は元気か?」

「あ、あの……その……」

 たじたじしています。

「それは私よりもリーグ様の方が……」

「家族にしか見せないものもあるだろう?」

「……」

 ヴィクは押し黙ってしまいました。

 ダメ男も割って入ろうかと思いましたが、面子を立てるために黙っていました。

「まあ会えぬのも無理はないな。未だに戦争し続けているのだからな」

 まるで、(あざけ)るように笑います。

「父は……父は自分の夢のために戦っています。それを馬鹿にしな、しないでください」

「夢、か。まるで雲を掴むかのような夢だな」

「……」

 何も言い返しませんでした。

 嫌味をつくような話を続けていると、料理が運び出されます。その中にファルの姿もありました。

 ささっと用意されていきます。ダメ男には見たことのない料理ばかりでした。何かの動物の丸焼きに、果物と野菜を()えたサラダ、無色透明のスープというのでしょうか。とにかく独特なものばかりです。

 そしてスープの周りに置かれた何本ものフォークとナイフ、さらに脇にスプーン。これを見る限り、後からも料理が運び出されるのが分かります。つまり丸焼きやサラダなどは前菜ということになります。

「聞いたこと無いぞ。こんな贅沢そうなの……」

 ぽつりと呟きます。

 それでは、と一言合わせてから食事を開始しました。

「いただきます」

 ダメ男だけ、両手を合わせてから食べ始めました。

「……うん。見た目以上に爽やかな味付けだな」

 食器を器用に使いこなすダメ男。それを見ていたリーグに、

「意外か?」

 と、聞き返しました。

「旅人は粗雑な者が多いと聞く。恥さらしのためにコースを用意したのだがな。俺らと変わらぬ所業ではないか」

「お褒めの言葉として受け取っとくよ」

 ナプキンで口周りを綺麗に拭くダメ男。なんだか似合いませんでした。

 お腹が空いていたようで、あっという間に平らげてしまいました。それを窺っていたメイドがダメ男に新たな料理を持ってきてくれます。薄茶色の透明感のあるスープでした。スプーンで静かに(すく)い、静かに口に含みます。

「それにしても、コースにしてはけっこうバラバラじゃないか? もっと軽めの料理から出すと思ってたんだけど」

「大分空腹だと見受けられたからな。まずは軽く腹を満たしてもらうことを優先したにすぎん」

「それはどうも」

 感謝の意を二割ほど込めて言いました。

 ちらりと隣を見ると、手を付けていませんでした。

「腹減ってないのか?」

「はい、まあ……」

「どんなに美味いのでも、食欲がなかったらダメだもんなぁ」

「ダメ男よ、それは食欲があれば何でも食べる、ということか?」

「あんたには分からないだろうけど、そういうこともあるよ。オレだけが特別じゃない。旅人はみんなそうしてると思う」

「若僧のくせに、ずいぶんと(たくま)しいじゃないか」

「……いちいちトゲがあるなぁ……」

 あまり嬉しく思えませんでした。

 コース料理を一通り食べたあと、食後として温かいお茶が振る舞われました。食事中のヴィクも同様です。

「お姫様は食が進まれてないようだからな。ゆったりと召し上がっててくれ」

「……」

 好意なのか貶しているのか、リーグの言葉は尖っています。

「では、姫様の無事と旅人の出会いを祝して、乾杯しよう。二人とも酒は飲めないから、代わりに茶を出した。軽く飲んでくれ」

 リーグがカップを掲げると、二人とも同じようにしました。そして、“乾杯”の音頭を取ります。ダメ男とリーグは同じタイミングで口に運びました。

「っ」

 ヴィクは数秒してから口をつけました。

 ダメ男は味と風味をゆっくりと味わいながら、こくりと飲み、カップを置きました。

「ぅ」

 ヴィクはその味に顔を渋らせます。

「どうだ? このために、高級な茶を準備したんだ。感想を賜りたい」

「はい。……とても独特な風味で……」

 表情から察するに、渋みの強いお茶のようです。

 すまし顔のダメ男は、

「まず」

 平然と言いのけてしまいました。

「渋みが強いわりに味に深みがない。そこら辺の雑草の絞り汁を水に溶かしたような味だな」

「ふっ……二人とも若いから無理もない。大人の味というやつだ」

 クス、と嘲るように笑みを零します。

 ダメ男は特に気にしませんでした。

「?」

 異変を感じたのはヴィクを見てからでした。

「さて、……先にヴィクと話をしようか」

「は、……い……」

「……」

 とても疲れているように見えます。まるで激務をこなした日の眠る寸前のようでした。

「今、我が国では荒れ狂うように戦争が勃発し、その張本人であるお前の父の信頼は失墜しつつある。それは奴隷解放という理想を実現するため、我が(まま)を押し通すためとも言える。国民や兵士は疲弊し、もう争う必要性も薄いというのに。そんな父に対し、何か意見はないか?」

「…………ちちは……頑張って、戦っています。ただぶじ……に、帰ってきてほしい、だけです」

 話し方にも力がありませんでした。悪い意味で緊張が(ほぐ)れています。

「それだけか? 犠牲を払い続けている父に一言ないのか? 俺ならば、さっさと説得しにいくものだがな」

「……」

 ダメ男はようやく察しました。リーグは何か盛ったのだと。

 キッと(にら)みつけます。

「てめ、」

「あなた、ヴィク様に自白剤を飲ませたのですか?」

 フーが言い放ちました。ダメ男の言葉を覆い隠すように。いつも冷静なフーの口調に、怒気が混じっています。

「お前は確か……フーだったか?」

 はい、と突き放すように返事をします。ダメ男はテーブルの空いたスペースにフーを置きました。

「一国のお姫様に薬物を盛るとはどういう了見ですか? 詳しくご意見を賜りたいです」

「別に死にはしない。緊張を緩ませるための薬だ。俺やダメ男にも入れてある、一種の“隠し味”だ」

出鱈目(でたらめ)もいいところです。そんな怪しい物を、わざわざ入れる必要性もありません。それに先ほどの会話は、明らかに誘導尋問であると言えます。ヴィク様から言質を取ろうという浅ましい考えに、怒りを通り越して呆れてしまいます」

「ふ。(さと)しいな。だが、そんな本意はなかった。お前が過敏なだけだろう?」

「いい加減にしませんか? あのお茶を召し上がってから、明らかに容態が変わっています。それは体質的に合っていない程度ではありません。殺す気なのですか?」

「そういうつもりもないのだがな。……これでは水掛け論になってしまうが、まあいい」

 リーグはもう一口含みました。

「今日はここら辺でお開きにしよう。ダメ男、姫様の警護をよろしく頼むぞ」

「それより報酬は何なんだ? まだてめぇの依頼の内容をきちんと聞いてねぇぞ」

 ダメ男も少し怒っているようでした。

「ああ、そうだったな。依頼はヴィクの警護だ。期間は二週間。ちょうど重役との会食までだ」

「! ばかか? オレはそこまでこんなとこにいる気はない」

「そうか。では、“二人”に何があっても知らんぞ?」

「! ……」

 ダメ男は少し考えた後、

「分かった。で、報酬はどうする?」

 とりあえず、話を聞くことにします。

「それを考えるより、まずは任務を全うしろ。達成したならば、好きにしろ」

「……その言葉、忘れんじゃねぇぞ」

 フーを手にすると、ダッとダメ男は立ち上がり、

「もう行くぞ。ヴィクも心配だからな」

「ああ。俺からも以上だ。何かあったらここに来い。これからの事も含めて語り合いたいものだ」

「野郎と二人で語り合うことなんかねぇよ、きもちわりぃ」

 ヴィクを抱きかかえて部屋を出て行きました。

 

 

 ヴィクの容態は悪くなっていきました。まるで風邪を引いたように顔が火照り、身体が熱くなっています。おまけに息も荒く、とてもしんどそうでした。

「ダメ男様っ」

「お」

 遠くからファルが駆けつけてくれました。

「どうされたのです?」

「変な茶飲まされてから、ヴィクの容態がおかしいんだ」

「急いでお部屋にっ」

「あぁ。ヴィク、掴まってろよっ」

 二人して走り出しました。あまり振動を与えないようにしたかったのですが、ダメ男はとにかく安静にさせようという一心でした。走りながらもフーが励ましてくれます。

 部屋に着いて、一目散にヴィクをベッドに下ろしました。ゆっくりおろ、

「はひっ!」

 変な声。ダメ男から出てしまいました。反射的にヴィクから離れます。

「ど、どうしましたかっ?」

「なっなんか知らんけど、首噛まれたっ!」

「ダメ男、偶然歯が当たったのでしょう? 口で息をしていますから、仕方のないことです」

「……」

 噛まれたといってもそこまで強くはなかったようです。しかし気にするように、その部位を(さす)っていました。

 ヴィクはまだ苦しそうです。ファルが急いで水を浸したタオルと(おけ)を持ってきてくれました。それをおでこに乗せてあげます。

「ふぁる…………ふぁる……」

「これってかなり危険じゃねぇか?」

「えぇ。意識が混濁している可能性があります。あのお茶、やはり劇薬が盛られていたのですね」

「ファル、とりあえず落ち着くまで手を握っててやってくれや。安心するだろうよ」

「はい。ヴィク様はお身体が弱いものですから、少しでも……」

 椅子に座り、きゅっとヴィクの手を握ってあげます。ふるふると震えていました。

「……オレ、ちょっとあの馬鹿野郎に文句言ってくるわ」

「し、しかし、」

「一発ぶん殴ってやんないと、あぁいうのは気付かねぇよ」

 ファルの制止を吹っ切り、部屋を飛び出して行きました。

「困ったものです。ファル様に迷惑がかかるだけではないですか」

「! あれ、フー様は一緒では?」

 テーブルにフーがいました。

「相当頭にキたのでしょうね。置いていきましたよ」

「そうですか……。でも、私は全然迷惑では……」

「もう少し空気を読んでほしいものですね」

 若干呆れていました。

 しかし、とフーは心配そうに続けます。

「ヴィク様もですが、ダメ男も大丈夫ですかね?」

「え?」

「あのダメ男がここまで興奮するのはとても珍しいことです。まるで先のことを考えていないようでした。ほぼ飲んでもいないのに、あれほど興奮するとは、とても強烈な薬なのですね」

「? どういうことです?」

「ダメ男は本の数滴しか飲んでいませんよ」

「……え?」

「あれは古くからある飲んだ“フリ”というものです。一旦は口に含みますが、カップを戻しながら吐き出しているのです。こくりと喉を鳴らしたのは数滴のお茶を唾液で薄めたものです。ですから、ほとんど量が変わっていなかったのです」

「そ、そんな方法があるんですね」

 ファルの視線はずっとヴィクに向けられたままでした。

 

 

 ヴィクの容態が収まったのは数時間後でした。その後はとても健やかに眠りに入っています。

 ヴィクの部屋にはダメ男とファルがいました。ファルはヴィクの看護をしています。時折汗を拭いてあげたり、手を握ってあげたり。普段の仕事を無視していました。

「なんなんだあれは……というかあいつは。上司の娘に変なもの飲ませるか、ふつう……」

「何か裏があるようですね、ダメ男」

 ダメ男も興奮が収まり、いつもの調子に戻っていました。本人も自分の異変を感じ取っていたようです。

「……」

 ファルはじっとヴィクを見つめています。

「ファルさ、あれってオレらみたいな客人に出すお茶なんか?」

「それは何とも……。ただ、少なくともヴィク様とのお食事で出されたのは、今までで初めてです。この症状を見ると、本来は兵士の皆さんにお出しするお茶かもしれません」

「? もしかして、あの後ろの兵士二人に渡すものだったんじゃない?」

「ダメ男、それはありえませんよ。しっかりとお二人の前に運んできたではないですか」

「いやぁ、忙しすぎてミスっちゃったとか」

「激務は察しますが、ダメ男はどんだけのんびり屋さんなのですかっ」

 はは、と笑います。

「で、兵士に出すってどういうこと?」

「……深くは知らないんですけど、お茶を飲んだ兵士の皆さんはとても元気になるそうです。身体が熱くなって興奮するとか。戦争の前に一口飲んでから行く、という話を聞きます」

「……それだと薬じゃなくて薬茶みたいだな」

「そうですね。怪しい葉っぱを(せん)じているのでしょうか」

「どんな種類なのかはちょっと……」

 ちらりとヴィクを見()ります。汗をかいているので、ファルが再び拭いてあげました。

「ダメ男も珍しく興奮していましたね」

「なんか急に熱くなってな。すぐに治ったけど」

「ダメ男は普段薬を飲まないために、効きすぎるようです」

「そうだな」

 ふぅ、と安堵の表情を見せました。しかし、ファルの表情は沈んでいます。

「……一部の地域では、そのお茶の強壮効果をさらに高めて使用しているそうです」

「……? それをさらに高めると……熱出しすぎで死んじゃうじゃんか」

「違いますよ。人間が極度に興奮する場合を考えれば、自ずと察しがつきます」

「……好きなものを見たり聞いたり楽しんだり?」

「いえ。もっとです」

「……わからん」

「さすがは頭空っぽですね」

 ごつん、と鉄拳が下りました。いてて、とフーが泣き声で訴えます。

「つまり“媚薬”です。興奮状態にするというより、そういう“気分”にさせるという方が適切かもしれません」

「……ちょっと待てよ。ってことは、もしオレがうっかり飲んじゃってたら、ヴィクとあっは~んうっふ~んになってたってことだろっ?」

「言い方が古いですねっ」

 しかも誰も笑いませんでした。

「恐らく、ダメ男をヴィク様に襲わせたかったのかもしれません。そうすれば、狼藉から守ったという功績を得ることができますから」

「っぶねぇ……。ついでに部屋も分けるように言っといてよかった~……」

「そして、リーグ様の仰っていたことは、悔しくも本当のようですね」

 

 

 ダメ男はすぐに部屋を移すことにしました。部屋はヴィクの部屋から一つ開けた隣です。ヴィクが女の子であるという、ダメ男の気配りでした。一応はまとまって行動するようにしますが、ヴィクの要望があれば承る、というスタンスのようです。

「ん、……んぅ……」

 ヴィクが起きました。

 既に外は真っ暗になっており、部屋の燭台に火が灯っていました。温かい灯りがヴィクたちを照らしてくれています。

 いつの間にか寝間着になっていました。可愛らしい黄色の寝間着で、ふわふわもこもこした手触りです。

「あれ……ここは……私の部屋?」

「大丈夫ですか、ヴィク様?」

「うわあっ!」

 思わずベッドに(こも)ってしまいました。ごめんなさい、とフーの声が聞こえます。

 そろりと顔を出すと、テーブルにフーがいるのを確認できました。

「だ、ダメ男さんは……?」

 テーブルに着きます。

「ダメ男は隣の隣の部屋で待機しています。もし、ヴィク様に何かあれば、すぐにダメ男に連絡ができるようになっています」

「ああ、そうなんだ。ありがとう……」

 いえ、とフーはかしこまります。

 フー曰く、ファルは今夜は仕事が忙しいとのことで、フーが代わりに相手をすることになった、とのことです。また、ヴィクが良ければ、これからもお付き合いすることも伝えました。ヴィクは断るわけもなく、すぐにお願いしました。

「こちらの任務はヴィク様の警護ですから、ふふ」

 フーは何気に嬉しそうでした。

 燭台の灯りが一瞬揺らめきました。それは、ドアが開いたために風が吹き抜けたからです。

 失礼します、とファルが入室しました。

「遅めですが、ご夕食をお持ちしました」

 これも仕事の一環のようで、長居はできないみたいです。

 用意されたのはパンとスープ、てんこ盛りの野菜でした。ヴィクは野菜しか口をつけずに、残してしまいます。恐ろしく食が細いのでした。

「あらら、年頃の女の子がこんな少食では、お体に悪いですよ?」

「でも、食欲がないんだ……」

「ここずっとはそればかりでは……?」

「うん、ごめん」

 口周りについた水滴をふきふきしてあげます。ヴィクは小っ恥ずかしそうに目を逸らしました。

 ふふ、と顔が(ほころ)びます。

「ははーん、分かりましたよ」

「え?」

 異様に飛びついたのは、ファルでした。どうやら、ファル自身もヴィクの少食を気にかけていたようです。

「昼食から、どこかご遠慮なさっているような気がしていたのです。ようやく気が付きましたよ」

「な、なに?」

 ちょっとした圧迫感に、ヴィクはたじろいでいました。

「ヴィク様、あなたはダイエットをされているのですね?」

「……ダイエット?」

 はい、とフーは説明を添えました。

「ダイエットとは、自分の体型をよく思わないためにわざと食事量を減らし、強引に体重を落とす行為です」

「……」

「……」

 しらーっ、と二人してフーを見ます。異様な雰囲気にフーは力強く諭します。

「ヴィク様くらいのお年頃には、みんな体型を気にするのです」

「そ、そうなの?」

「えぇ。それはそれはもう、すごい気にしようです。まるで骨身を削るかのように、食を細めます。それによって女性の体調不良、つまり生理不順を来したり健康を著しく害したりするのです」

「……」

「……」

 堂々と、その、そういうことを言い切るフーに、若干引いていました。

「ですから、ヴィク様もきちんと召し上がらないと不健康になってしまいます。その証拠に顔色が悪いではないですか。少し下品かもしれませんが、女性にとってはとても重要なのです。まぁ、無理をしても消化不良になってしまって、それはそれで良くないのですけどね」

「ふぁ、ファルは気にしてる?」

「いえ、私はそこまでは……」

「だってファル様はもう女性の理想的な体型ではないですか。ぼんきゅっぼんの典型、それでいて褐色のお肌は妖艶さを生み出し、」

「……」

「世の男たちを魅了してしまい、ん?」

 くっ、と唇を強く閉じていました。

「私は仕事がありますのでこれで」

 ばたん、とファルは飛び出してしまいました。

 とても冷たい声色でした。

「フーさん、おじさんくさい……」

 少し、いえ、かなり引いていました。

「これが“ガールズトーク”というものですよ」

「……フーさんは色々と知ってるんだね。でも、ちょっと失礼だったかも」

「? すごく下品でしたか?」

「それもそうだけど……その……」

 

 

「う~……ここトイレどこだよ……広すぎてわかんないし……なんでトイレの案内板ないんだよここは~……うぅ……ちくしょう……あとでリーグのやつに文句言ってやるっ。だいたいなんでこんな趣味のわりぃ画なんか飾ってんだよ。これもう目が動いたりする代表的な幽霊ぱた、うひょうっ! な、なんだなんだ? ……あぁ、鳥かよ……びびらせんなっての……うぅ……こわいこわい……」

「あの」

「はひぃんっ! な、なんだよっ! ファルかよっ! びびらせんなっ!」

「ご、ごめんなさい。しかし、灯りを持たずに何をされているのかと」

「トイレ行きたいのっ! でも懐中電灯は切れちゃってたし、かと言ってフーはヴィクんとこいるから取りに行きづらいし……。蝋燭引っこ抜こうと思ったけど、あの台が固定されてて取れないし……。結局こうなったわけよ」

「なるほど。私めにお伝えくだされば、ご案内いたしましたのに」

「この暗闇の中探せってのは本末転倒だろっ」

「ふふふ……それもそうですね。お手洗いをご案内します。こちらです」

「ふぅ……助かった……ありがとな」

「いえ。お役に立てて嬉しく思います」

「あと、フーには絶対内緒なっ? あいつに言うと絶対笑いの種にされるからっ! いいっ?」

「分かりました。気を付けます」

「……よし……。ん? ところで、ファルは何してたんだ?」

「私はお客様に給仕を致してから、屋敷内の見回りをしております」

「見回りって、そういうのって兵士がするもんだろうよ……」

「……ごくたまにです」

「大変だなぁ……。うし、オレも手伝っていいか?」

「え? ……ですが……ヴィク様の護衛は……?」

「あいつにはフーがいるから大丈夫。何かあったらオレに知らせがくるからさ」

「あの、フー様は一体何なのですか? 独りでに喋ったりそういうことをしてくれたり、とても不思議に思います」

「うーん……何て言えばいいんかね……。人じゃないのは分かるよな?」

「はい」

「うーん…………インコって知ってるか?」

「え? ……少しだけは……」

「あれみたいなもんよ。インコは人の言葉話せるだろ? あれとおんなじで、フーは人と会話できる“物”なんだ。どういう仕組なのか、未だに分からないんだけどな。……でも、インコともちょっと違うなぁ。……なんて言えばいいんかねぇ、うーんっと、えっと、」

「いつ、お二人は出会ったのですか?」

「ん? ……あぁ、もうとっくに忘れたよ。ずっと前ってしか」

「そうですか……。あ、こちらがお手洗いです」

「ってオレの部屋がある廊下だしっ」

「はい、お客様用のお部屋の廊下には必ず一つご用意させていただいてます」

「もっとこう、“オレはここですっ”で強調しろよっ。昼間でも気付かないって、どんだけ影薄いトイレなんだよっ」

「ふふふ……そうですね。リーグ様に相談してみます」

「じゃ、ちょっとここで待っててな。…………」

「…………とても不思議な方々ですね……」

「…………ただいま」

「は、早いですね」

「そらもう、な。んじゃ、オレの部屋まで頼む」

「もしかして、帰りが怖いから私をここに、」

「あーあーあー、なんにもきこえないよー」

「なるほど。フーさんが弄りたくなる気持ちが分かります」

「おーい」

「? 兵士か?」

「おーここにいたのか。探したぜ」

「どうしたんだ? こんな深夜に」

「旅人さんこそ、なんでファルと一緒に?」

「オレはその……あれだ、トイレどこか迷ってな。たまたま通りかかったファルに案内してもらった」

「そうか。ここ暗いから分かりづらいんだよな」

「で、どったの?」

「よかったら一緒にどうだ?」

「? なんかするのか?」

「それはもう、楽しいパーティーよ」

「うーん……いいや。もう眠いし」

「そうか……。まあ、またあったらもう一回誘うわ」

「できれば昼ごろにしてくれな。夜は眠い」

「できればな。じゃ、また明日な。ファルも後でな」

「あぁ」

「……はい」

「……………………こんな時間にパーティーとか、意外とはっちゃける性格なんかな、リーグのやつ」

「……そうですね……」

「?」

 

 

 ダメ男たちが城に滞在して、一週間が経過しました。

 リーグがどこか遠征に行くとあって、その後も大きな出来事もなく過ごしています。

 ダメ男とフーにとっては久しい長期滞在なので、非常に暇を持て余していました。ヴィクと遊んでいたり城の中を散歩したり、と、まるで缶詰状態です。以前、ダメ男たちがこっそり城の外に遊びに行ってしまい、リーグに外出を禁止されていたのです。本人曰く、“ちょっといけないことをしているみたいで楽しかった”そうです。

 このままではいたずらに時間を浪費し、ここで無駄に語ってしまうことにもなりかねません。

 床で寝転がっていたダメ男は前者を危惧し、情報収集にあたりました。

「でさぁ、ヴィクさん?」

「はい、なんでしょう?」

「何読んでんの?」

「新聞です。あとは童話だったり詩だったり」

「そういえば、ファル様とご一緒に読まれていますよね。お二人はとても偉いです。女性でありながら政治に関心があります。それに比べてこのダメ男と来たら、毎日ぐーたらぐーたら。旅人としてとても恥ずかしく思います」

「一回外に出たじゃん」

「ファル様にご迷惑をお掛けしただけですよね?」

 未だにあの失態を怒っているようです。

「それは悪かったけど……ぐーたらしてるだけじゃないぞ」

「え?」

「のーんびりもしてる」

「……ふふふふ」

 新聞を読んでいたヴィクは思わず笑みを浮かべました。

「お二人のお喋りはとても面白いですね。聞いているだけで笑ってしまいます」

「どんどん笑ってくれ。お姫様に緊張させないのも、オレらの務めってもんだ。なぁ、フー?」

「それは邪魔をするという宣言ではないですかっ」

「あ、それは考えてなかった」

 バッと勢い良く起き上がるダメ男。

「あのさ、今まであえて聞かなかったんだけどさ」

「はい」

 唐突に、おちゃらけていた口調に、真剣味が滲み出ます。

「ヴィクの父ちゃんってどういう人?」

 ぴくりと新聞が揺れました。

「……父は、自分の理想のために戦っています」

「それは知ってるんだけどさ、そのー……例えば人柄とか性格とか、父ちゃんがどういう感じの人だったかってことよ」

 じっとダメ男はヴィクを見つめました。その表情はひどく優れていません。とても困惑しているようでした。

「ちょっと失礼を言うかもしれないけど、いい?」

「はい」

「一回も父ちゃんに会ったこと無い?」

「会ったことはあります」

「?」

「つまり、物心つく前に、お会いしていたということですか?」

 フーが口を挟みます。

「……はい。そう聞いています」

「そんな昔から戦争してたんか。それでこれってのは、ちょっと厳しいよな……」

「……」

 ダメ男のその一言が、まるで(えぐ)るようで、ヴィクは何も言えなくなってしまいました。フーがダメ男を叱りつけ、ごめん、と謝罪させました。

「兵士の人に聞いたり新聞で読んだりするくらいしか、私は知り得ません。実際に現地に向かうことは許されてませんし……」

「女性ですから、行く必要もありませんよ、ヴィク様。男は女を守るために生きているのです。そう思わないと、女はやっていけませんよ」

「……ありがと」

 陰りつつも、にこりと微笑みました。

「父ちゃんの夢って、確か奴隷解放なんだよな?」

「はい」

「ふーん……そっかそっか」

「ダメ男、何を考えているのですか?」

 ダメ男は考えに(ふけ)っていきました。このフーの問いかけも耳に届いていないようです。

 フーは(いぶか)りますが、それ以上探りはしませんでした。

「以前にヴィク様からお聞きしましたが、深入りすると余計にファル様にご迷惑がかかりますよ、ダメ男」

「…………なっるほど、そういうことね……。ってことはこうすれば……うんうん……」

「駄目ですね」

「ダメ男さん、どうしたんですか?」

「何か企んでいるようですね」

「え?」

「あまりにも暇なために、一気に解決してしまおう、という(はら)なのでしょうか?」

「そ、そんな暇つぶしみたいな感覚で奴隷解放ができるわけない……。父さんが頑張ってもできないのに……」

「しかし、これもいつものことですからね」

「……え?」

 少し間抜けた声を出してしまいます。

「伊達に旅をしていない、ということです」

 ヴィクは内心で呆れ返っていました。国が総出で戦争しているのに、こんな訳もわからない旅人ごときに、根深い問題を解決できまい、と。

「……とにかく情報が足りないか。あの馬鹿からいろいろ聞きたいけど、こういう時に出かけてるしなぁ。全く、使えんやつだっ」

 あの将軍の部下を馬鹿呼ばわり。ヴィクはつくづく旅人は恐ろしいなと思いました。そしてその陰口の可笑しさに、笑ってしまうのでした。

「あのさ、今の国の情勢を教えてくんないかな」

「え?」

「分かってる限りでいいからよ」

「そ、それは構いませんが……本気ですか?」

「“ゴトはバクチ”ですよ」

「こら、女の子にそういういらん知識を教えるな。“物は試し”だ」

「?」

 良くは分かりませんでしたが、ヴィクは教えることにしました。

 将軍は今、遠くの国と戦争をしています。その国は奴隷を容認している国らしく、将軍は力づくで解放しようと躍起になっています。その戦争に協力しているのは五人の部下のうち、わずか一人でした。他の四人は自国の経済を潤させるために、戦争そっちのけで動いているようです。しかもごく最近、協力していない部下たちの間で、奴隷を容認しようという動きが見られています。それは経済を活性化させると考えた時、現状ではどうしても奴隷を使わねばならなかったからです。

 この怪しい情報を、新聞では痛烈に批判しています。将軍のことを理想“狂”と蔑んでいる新聞社もありました。

 さて、将軍と遠くの国の戦争では、将軍の方が有利とされているようです。しかしそのための被害が尋常ではなく、今から自国の経済を何とかしないといけないとされています。それは被害者たちに対する補助金であったり防衛費であったりと、無尽蔵に(かさ)んでしまうからです。

 この事実に国民から非難や失望が絶えず漏れ、将軍に対する信用が急速に落ち込んでいるのでした。

「大雑把に言うと、こんな感じです」

「ま、よくある話だな。領土拡大のために戦う軍部と食糧問題をなんとかしてほしい国民、とかね。そんなに酷い状況だったんだ」

「ダメ男さんはどう思いますか?」

「え? ……はっきり言っちゃうけど、いいのか」

「……はい……」

 どことなく、(おび)えているように感じました。やはり、とダメ男は思いました。

「うーん、……ぶっちゃけちゃえば、奴隷解放は先延ばしできなくないことだと思うしなぁ。まずは地盤をしっかりしてからでも遅くない気がする」

「そうでしょうか?」

 と、反論したのはフーでした。

「かつて奴隷文化が根付いてしまった国がありました。そのせいで奴隷解放が成立しても、元奴隷の方々が虐げられているのは知っていますよね?」

「知ってる」

「それを考えた時、やはり早めに動いておかないと、長期的に苦しんでしまうと思います。ですから、将軍のこの行動も理解できなくはありません」

「でもこれ、すっごい被害だぞ? これを補填(ほてん)するってなったら、結局奴隷を使う運命になるんじゃないか? だから協力しない四人はそうなってるんだろ?」

「彼らはあくまでも私腹を肥やすことを優先しています。国民に意識を向ければ、奴隷を使うことはないと考えます」

「なるほど。ヴィクはどう思うよ?」

「え?」

 いきなり振られたので、おろおろしていました。しかし、

「わ、私は……フーさんに肩を持ちたいです。……父さんの理想は……絶対です。絶対に実現してくれる、私はそう信じています」

 強く、言い切りました。

「それはそうか。オレの意見は父ちゃん全否定だもんな。それにどれい、」

「失礼します」

 外から声が聞こえました。ファルの声です。

「リーグ様がお呼びです。ご案内いたします」

「いつの間に帰ってきてたんだ。まるっきり空気だな」

「ぷっ」

 笑ったのはフーだけでした。

 

 

「どうだ? 住み心地は?」

「やることなくて暇すぎ。これじゃ缶詰じゃんか」

「自業自得だろう。黙って外に出るやつがあるか」

 こればかりはフーは同意します。

「で、何の用? こっちは忙しいんだけど」

 フーは不意に笑ってしまいました。ごめんなさい、とくすくすしながら謝ります。

「明日の夜、客人をもてなすことになったんだ。お前も出席しないか?」

「ヴィクはどうすんだ?」

「一緒に出席しても構わないが……俺個人の客でな。ヴィクが窮屈な思いをしてしまうと思う。見張りを立てようと考えているんだ」

「……」

 思い掛けない一言に、ダメ男は驚きを隠せませんでした。

「いつから他人に気を配るようになったんだ?」

「その気配りをお前にも持ってほしいよ」

「確かに」

 またフーが同意しました。

「実は、客人の一人に話してみたら、お前に興味を湧いた、と言っていてな。えらく楽しみにしているぞ」

「オレの意志は無視かよ」

「なに、ちょっとした世間話だ。死ぬことはない」

「……いいよ」

「! ダメ男、いいのですか?」

 慌てて尋ねますが、構わない、とリーグに伝えます。

「では明日、楽しみにしてるぞ。時間になったら呼び付ける。それまでは適当に時間を潰しててくれ」

「分かった。話はそれだけ?」

「あと、ヴィクに聞きたいことがある」

「? 何でしょう」

 じろりとリーグが睨みつけます。

「今、将軍がどう揶揄(やゆ)されているか、知っているな?」

「……はい」

「理想“狂”……中々的を射ているとは思わんかね?」

「父のことを……悪く言わないでください……」

 泣き出しそうな顔で訴えます。

 ふん、とあしらいました。

「奴隷など、いくらでも湧いて出てくるというのに、どうしてあそこまで乗り気になるのか、分からんな」

「! 訂正してください。彼女らの尊厳を踏みにじっています」

「害虫に尊厳などあったか? なあ?」

 くすくすくす、と背後の兵士たちも笑っていました。

 それを目にしたヴィクが、

「笑うなっ!」

 激情に駆られました。

 おー、とダメ男はちょっぴり感心します。

「父、いえ、将軍は今、奴隷解放のために戦っていますっ。彼の部下として、協力しようとは思わないんですかっ」

「その協力の見返りは何だ?」

「……え?」

 逆にリーグは落ち着いています。

「俺は確かに部下であるし、将軍に仕えてきた。それはきちんとした“報酬”があるからであって、仁義や奉仕、果てには理想のためなんかではない」

「なっ……」

「そこら辺、将軍はきちんと理解していたぞ。だから俺を信頼し、その分報酬を渡していたのだ。もし、協力の要請があるとしたら、それなりの報酬を要求するのは当然。誰が好き好んで死にたがる? それも奴隷のためなぞに」

「……」

 勇んでいたヴィクは、“また”押し黙ってしまいました。

「いい加減に目を覚ませ、ヴィク!」

 びくっと驚いています。

「現実的に不可能な理想を追求してどうするっ? もっと現実を見ろ! お前がこうしているうちに兵士はどんどん死んでいくのだぞっ? お前は弱者だが、将軍の娘という特別な弱者だっ! その地位を利用して、何かしようとは思わないのかっ?」

「……」

 ヴィクは、答えられませんでした。

 ダメ男は黙りつつ、じっとヴィクを見つめています。ふぅ、と溜め息をつきました。

「このくらいで勘弁してやってよ。まだ親に甘えたい年頃の女の子に、“それ”を求めるのはきつい」

「お前はどうやら……理解しているようだな。ふらふら旅をしているわけではなさそうだ」

「……とにかく、用は済んだんだろ? お(いとま)するよ」

 ヴィクに立つようにそっと促します。

「そういえば新しい茶を作ってみたんだ。良かったらどうかね?」

「誰が飲むか」

 

 

 リーグの言う通り、ダメ男は時間を潰すことにしました。特にすることもなかったので、

「すぅ……すぅ……」

 お昼寝をしていました。

「まったく、ダメ男は空気を読みませんねっ。それもヴィク様の部屋で眠るとは、普通なら処刑に値します」

 それも床に寝転がって。

「いいよ。でも、ダメ男さんは変わってるなあ。私たちじゃ考えられないよ」

「まぁ、いろいろあってベッドでは寝ないことにしているのです」

「へえ……。でも、大丈夫かな……」

 ヴィクは相変わらず本を読んでいました。

「それは何という本ですか?」

「これは童謡だね。“赤ずきん”って本なんだけど」

「とても有名な童謡ですね。かつて最強だった兵士があらぬ罪で追われる身となり、政府や仲間から命を狙われるのですよね」

「あ、あれ?」

「その兵士は真犯人を捜しながら、身を守るために仲間を手にかけてしまうとい、」

「うん。それもとても気になるけど、そんなに迫力のある内容ではなかったよ」

「そうでしたか。ちなみに赤ずきんの由来は返り血で被っていた頭巾が染まってしまった、というものです」

「おぞましすぎるよっ」

 ビシッとツッコみます。なかなか、とフーは感心していました。

「とにかく、心配なさらないでください。それよりもこちらとしてはヴィク様の方が心配です。本当にフーがいなくとも大丈夫なのですか?」

「うん。今までもそうだったし」

 にっ、と微笑みます。

「いつからこちらにいらっしゃるのですか?」

「もう一ヶ月は経つよ」

「そんなにですかっ。戦争はまだ続きそうなのですね」

「うん……」

 二人は他愛のない話をして過ごしていきました。

 夕方。曇っている空に夕焼けが広がります。太陽側の雲は橙色に染まり、反対側は雨雲以上に真っ暗になります。太陽が隠れていくほど赤みがさらに強くなっていき、反対の空では暗闇が追いかけてきます。そして、完全にいなくなると、暗闇が空を支配してしまいました。

 温かさが残った室内では、

「すぅ……すぅ……」

 ダメ男がまだ眠っていました。

「そろそろ、起こしましょうかね。ダメ男っ」

「……んぅ……」

 ひょいっと上体を起こし、目を覚ましました。

「どうしたの?」

「もう夜になっています」

「え? ……あぁ、そうだな」

 寝ぼけた様子で、窓から外を眺めました。

「風呂入ってくる……」

 ダメ男はそろそろとヴィクの部屋を退出する、

「ダメ男さん」

 のを、引き止めます。なに? と聞き返しました。

「その、ありがとうです」

「……」

 何とも言えない表情を見せますが、すぐに笑ってみせました。それが返答でした。

「お風呂ならフーさんも連れてあげてください。私は一人で大丈夫です」

「え? でも、一応警護ってことだからさ、ヴィクに何かあったら、」

「ダメ男」

 フーが遮るように言い張りました。

 はっ、と気付くダメ男。頭を掻きながら、フーを拾い上げました。

「何かあったら叫んだりオレの部屋に駆け込んだりしろよ。一応、寝る前にヴィクの部屋に寄るからな」

「はい。お休みなさい」

「あぁ」

 バタン、とダメ男は今度こそ退出しました。

 フーをポチポチと操作し、ライトを点けます。それを懐中電灯の代わりに、自分の部屋へ戻りました。そして着替えを取り出し、廊下へと戻ります。

 お風呂は共用ですが、この屋敷に何ヶ所もあるために待つことは多くありませんでした。場所も事前にファルから教えてもらっています。

 ダメ男は一旦、廊下から中央部へと入り、一階へ向かいます。客人の間の一階がお風呂のある場所です。

「ん?」

 どこからか声が聞こえます。

「どこからか分かる?」

「では、集音します……………………」

 フーはそのまま黙り、

「……………音の発信源は外からです」

 突き止めました。

 そーっと、一階の玄関へ移動します。フーの言う通り、確かに声が聞こえてくるようになりました。

 玄関を開けずに、耳をあててみます。

「……この声って…………誰だ?」

「声紋鑑定の結果、ファル様であることが分かっています」

「! なるほどね」

 耳に入ってくるのは、明確な拒絶でした。何かを強要されているのを、必死に抵抗しています。それも時折、高い音、平手打ちされた時のような音がします。

 ふぅ、と溜め息を漏らします。

 何の躊躇(ちゅうちょ)もせず、玄関を開けました。

「!」

 左手側、つまりダメ男たちのいた客人の間の反対側の屋敷にライトを照らすと、

「っ……だ、だれ……?」

 ファルがいました。ちょうど出っ張りの角に追い込まれる形で、兵士たちに座らされています。

 三人は逆光で目を開けていられませんでした。それを知ったダメ男はずっとあて続けます。

「よ」

「!」

 その一文字で誰なのかを三人とも判別できました。

「二人して何やってんだ?」

「あぁ、いや……その……」

 片方の兵士はオタオタとジジジ、と何かを締めました。もう一人は、

「こいつが泣いてるからどうしたのかなって思ったのさ」

 笑って答えます。

 言っておきますが、とフーが言い出します。

「あなた方が何をしていたのか、既に分かっているのですよ? こんな女の子に寄って(たか)って、俗悪なことをしたのでしょう?」

「…………」

 ふん、と鼻を鳴らします。

「だからなんだよ」

「?」

 不機嫌な表情で開き直ってしまいます。

「こいつは奴隷なんだよ。別に何をしようが勝手じゃねえか。死んだって代わりはきくんだ。むしろ、雇ってもらえて人間様と同じ生活をできてることに感謝してもらいたいね」

「なっ……」

 フーは言葉を失いかけました。怒りが爆発して(わめ)き叫ぼうとしたところを、

「これが、あんたの言うパーティーか?」

 ダメ男が静かに尋ねました。フーには何を言っているのか、そしてどうしてそんな悠長なのか、とても呑み込めませんでした。

 フーの疑問を尻目に、話が続きます。

「ちょっとしたパーティーだよ。明日はこんなもんじゃないらしいがな」

「……そっか」

 あまり驚く素振りを見せず、すっと言い切りました。

「今回は見てないことにするから、早く失せろ」

「!」

 兵士二人はたまげました。

 ただ、と付け足して、

「罰は免れないよな」

 二人の左目に、刃を付け足してあげました。

「ぎゃああああっ!」

「うごあああっ! ああああ!」

 いつ飛んできたのか分かりませんでした。ただ、急に掌サイズのナイフが二人の左目に食らい付いただけです。

 眼球から血液の混じる液体をどろどろと流し続けています。抜こうとしても激痛が走り、二人は激痛で走り回り、もうどうにもならない状態でした。しかし、あまりの激痛だったのか、叫び声が急に止まりました。息の音が止まったわけではなく、意識が飛んでいってしまっただけです。止まった直後、重い物が倒れる音が二回遠くで聞こえました。

 ダメ男は着ていたセーターをファルに掛けてあげました。

「大丈夫?」

 頭の上の方からライトをあて、ダメ男を見るように言いました。異臭と共に、“汚れ”が酷いです。顔だけでなく、衣服や髪にまで。

 フーは、

「あのゴミクズ野郎ども、最低です」

 恐ろしく低く、静かに、でも沸々とした感情を抑えこんでいるようでした。

「ダメ男、やはり片目だけでは代償が安すぎます。両目と×、」

「フー、それよりもファルをお風呂に連れてくぞ」

 それ以上言わせないように、ダメ男が割り込みました。

「一緒にお風呂に行きませんか?」

「……いえ、私のような奴隷が……お客様と一緒に入るなんて……」

 消え入りそうな声。声は普通でも、涙を流していました。

「勘違いすんなよ」

「え?」

 目をぱちくりさせました。

「なんで一緒に風呂に入らなきゃなんないんだよっ。浴槽大きくないんだから一人で入れよっ」

「そういうことじゃないですよ、ダメ男っ」

「オレはゆっくり一人で入りたい派なんだっ。くつろぎタイムを邪魔すんなっ」

「恐ろしく勘違いをしていますねっ」

「……」

 あまりの自分勝手さに、言葉にできませんでした。

「ほれ、行くぞ」

「え、ええ?」

 ぎゅっとファルの手を握ります。

「一緒には入りたくないけど、先にファル入れよ。オレは待ってるから」

「そ、それなら他にも浴室が、」

「他は壊れてて使えなかった。そうだったよな、フー?」

「はい。お湯が出ていませんでした」

「……」

 

 

 



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第七話:はこにわのようなとこ・b

 浴室の入り口で、ダメ男は壁にもたれて座っていました。

「ファル様はあんな酷いことを、ずっと強要されていたのでしょうか?」

「そんなこと、オレに聞くなよ。知るわけないだろ」

 少し呆れていました。

「ファル様のことを耳にされたら、ヴィク様はもっと心労を重ねてしまいます。普段も心配されているというのに、心臓を締め付けるようなお気持ちでしょう」

「どこまで考えてるのかによるな」

「え?」

「……例えば今回の件をヴィクに伝えたとして、おそらくヴィクは直訴しにいく。でもきっと“また”何も言えなくなると思うよ」

「? どういう意味ですか?」

 ダメ男の言っていることが、よく理解できませんでした。

「人道的に正しいことを言ってるけど、中身が全く無いヴィクと、非人道的だけど正論で意志のあるリーグ。この二人の決定的な違いは“覚悟”があるかどうかだ。命の保証のある場所でお茶会してる役人くらいの価値でしかないんだよ」

「では、ヴィク様はその覚悟がないために、躊躇いもなく罵倒されているということですか? こちらにはとてもそうは見えませんよ?」

 浴室から大きい水音が聞こえました。

 ダメ男は立ち上がりました。

「肚を決めてるのか、それとも曖昧にして先延ばしにするのか。現段階だとどっちがいいかは分かんない。けど、決め時なのは確かだ。だから一人になったんだろうな。……フーはそれを分かってて言ったんじゃなかったんか」

「いえ。ただ、ダメ男がうざいので一人になりたいのかと思いました」

「あぁ~なるほどね。もしそうなら傷つくわ~」

 浴室のドアをノックしました。大丈夫です、と返事がして、中に入りました。

 脱衣所はもくもくと湯気が立ち込めていました。左手に洗面台が三つ並び、右手にロッカーが三つ並んでいます。真ん中は堅い木材で編んだ長椅子が設置されています。奥に浴槽へのドアがありました。すりガラスになっていて中が見えないようになっています。

 ファルは長い髪をまとめ上げ、長椅子の縁に座っていました。ほかほかと湯気が立ち上っています。

「どう? ゆったりできたか?」

「はい。……私ごときのために、お気を遣わせてしまって申し訳ありません」

 全くサイズが合っていない黒い長袖シャツを着ていました。

「自分の部屋に替えはあるんだろ? そこまではオレの貸してやる。あと服は処分しとけ。女の子があのまま使い回すのは精神衛生上よろしくない」

「……分かりました。ダメ男様が入浴されている間に、私の着替えを持ってきます。衣服をお預かりして洗濯いたします。翌日にはお返しできますのでご安心ください」

 業務用の会話なのか、人間味を感じられませんでした。

「あのさ、その、今さらそこまでかしこまらなくても、」

「浴槽はすみずみまで掃除して綺麗にし、お湯を張り替えておきました。ごゆっくり(くつろ)いでください」

「……」

 自分を汚物か何かに見なしているかのような口調です。

 ダメ男は再び溜め息をつきます。

「分かったよ」

 ファルの後ろを通り過ぎ、ダメ男は脱衣していきます。

「?」

 ぽふ、とファルに何かが掛かりました。黒いセーターです。

 脱いだ物を丁寧に折りたたみ、その上にフーを乗せました。

 入浴セットを持って行き、カラカラとドアを開けました。

「湯上がり直後は冷える。念のためそれ着ていけな」

 ピシャ、と叩きつけるように閉められました。

 ファルはセーターを触ってみます。触り心地がとても滑らかで、なのに弾力がありました。厚みもあって、ずっと触りたくなるような柔らかさでした。もふもふにぎにぎが止まりません。

「ファル様、すみません。こちらがいながらも、粗相をしてしまって申し訳ありません」

「いえ、お気になさらずに」

「でも、どうか自暴自棄にならないでください」

「?」

「今までファル様がどのような事を強制されていたか、お察しします。“それ”を私たちに見られたくなかったことも、です。ですが、自分を粗末にすることは、自分が奴隷であることを認めてしまうことになると思うのです」

「……」

 白々しいと言いたげに、フーを見下ろします。

「……施し、のつもりですか……?」

「え?」

 ギッ、と歯軋り。ファルは(しか)め面をしていました。薄っすらと涙目に、

「強い人はいつも弱い人に施したくなるんですか?」

「? どういう意味ですか?」

 ぽろりと一粒落としてしまいます。ぴちっ、と床に落ちたのを、まるで汚れを落とすように丹念に拭き取っていきました。

「…………ごめんなさい。忘れてください……」

 ファルがダメ男の服を洗濯しようと持ち出す、

「逃げないでください」

 のを、フーが拒みました。

「ファル様、恐縮ですが、自分の発言を無責任に吐き散らかさないでください。何かあるのなら、はっきりと仰ってください」

「っ……」

 ファルが鋭く睨みます。

 フーの言うことを完全に無視し、セーターから無理矢理引っ張り出しました。それは、仕込み式のナイフでした。頭が良いのか、すぐに構造を把握し、刃を出しました。

 フーはその間、無言でしたが、

「こちらの言うことが(しゃく)に障りましたか?」

「うるさい! 地位が上のくせに、気安く敬語で話しかけやがって……っ!」

 終始落ち着いていました。

 みしみし、とナイフが軋みを訴えます。

「! まずい」

 フーは何かに気付きました。奥から聞こえる大きい水音。

「ふぅ……ふぅ……」

 ファルは血が上りすぎて気付いていませんでした。目が充血するほど、苛立ち怒り狂っています。

「ダメ男! こちらに来てはいけませんっ!」

「なーにー?」

 ガラッと、ドアが開いてしまいました。

「……」

「ふぅ……ふぅ、…………え?」

 ファルも何が起こったのか、ようやく理解できました。しかし一切取り乱さず、ダメ男に相対します。ふるふると手元が震えていました。

 ダメ男も何が起こっていたのか把握しました。自分の持ち物のはずのナイフを、着替えを取りに行ったはずのファルが持っていることを。

 ぽたぽたと水滴が滴っていきます。

「!」

 そしてファルは気が付きました。

「な、なっに……そのからだ……」

 ダメ男の体幹はまるで隙間を埋めるかのように、傷が走っていました。クレーターのように小さく陥没していたり、抉れてしまっていたり、痣になっていたり。あるいは縫合した痕や四角く膨れ上がった部分もあります。それらは銃創、切創、擦過傷(さっかしょう)火傷(かしょう)といったものが、同じ場所に何回もできた結果でした。

「中々かっこいいだろ?」

 ファルは一見して、震えてきました。それは怒りによるものではなく、

「あ……ああ……」

 別のものによるものでした。ダメ男の冗談など耳に聞こえすらしていません。震えが酷くなり、ナイフが滑るように落ち、ファルの斜め後ろで止まります。

 その隙に、ささっと清拭を済ませ、服を着込みます。ついでにナイフを拾い上げました。

「なぁフー、どったの?」

 何事もなかったかのように尋ねます。

「いえ。ダメ男の顔が気持ち悪すぎて、怯んでしまったのでしょう」

「オレのセクシーヌードに惚れ惚れしたのか?」

「とりあえず今すぐに浴室で滑って死んでください」

「冗談に決まってんだろ~。まったく、冗談の通じないやつだなぁ」

「粗末なものを振り回しながらなど、悪趣味の極みですね。ハゲ男」

「え? オレ……はげてきた? 入国する前に切られた髪が気になっててさぁ……。ささっと手直ししてきたんだよ。きちんと頭皮マッサージもしてるんだけどなぁ。もうちょっとヘアトニ、」

「ダメ男様」

 ん? とファルを見ます。

「あなたは強者と弱者どちらなんですか? 施したいのですか? 哀れみたいのですかっ? 何がしたいんですかっ!」

「んー……」

 ダメ男はちょっと考えて、

「んー」

 考えて、

「うん」

 言葉を見つけました。

「オレは……何とかしてあげたいかな」

 

 

 翌朝。日の出を終えた頃に、

「……すぅ……すぅ、う……んぅっ」

 ダメ男は起床しました。文字通り、床から起き上がり、蹴伸びをするように背中を伸ばします。

「おはようございます」

「おはようフー。今日はそこそこ良くない天気だな」

 窓辺にテーブルを運び、座りました。フーも一緒です。

 空は青空が二割ほど見える曇りですが、その雲がとても厚いです。雨は降りそうにありませんが、どことなく落ち着かない天気でした。その分、暖かみは増していました。

 普段着をいつもは長袖の黒いシャツにしていましたが、今日は短袖のくすんだ緑のシャツにします。その上にセーターを着ました。下は黒の長いパンツにしました。

 ベッド脇のウェストポーチ二つを左右の腰に付けます。

「今日はやけに気が張っていますね」

「催し物があるんだ。油断しないように、ね」

「なるほど」

 ダメ男は部屋を出て、ヴィクの部屋へ向かいました。コンコン、と軽くノックをします。

 返事がないので、

「開けるぞ~。着替えてたらごめ、…………え?」

 そこには、

「……だ、だめお……さま?」

 なぜかファルとヴィクが一緒のベッドで眠っていました。ヴィクはすやすやと眠っています。

 ダメ男は頭を抱えます。

 ちょいちょい、と寝起きのファルを廊下へ呼び寄せます。ファルも昨日のことがなかったかのように振る舞い、そしてだらだらと冷や汗をかいていました。

「お前……何してた?」

「いえ、あの、別に怪しいことをしてたわけでは……」

「あのさ、確かにオレに甘えていいって言ったし、ちょっとしたお願いも聞いてあげたし。けど、そういうことするためだったの?」

「いいいえっ、そんなことは滅相にもっ。そもそもその、一緒に就寝しただけですっ」

「ほんとか?」

「は、はひっ! 神に誓ってっ!」

「……」

 しらーっとした目付きです。ファルはあたふたと慌てふためきました。

「ダメ男、ファル様には警護も任せたはずです。ああして健やかに就寝されていたということは、警護をきっちり果たしたことになりませんか?」

「まぁ……その通りだけど……」

「それよりも、今夜に向けて集中することが先決です。ファル様のお仕事までは、こちらも休ませてもらいませんか?」

「……」

 この言い(くる)められた感、ダメ男は覚えつつも、

「それもそうだなっ」

 きっぱりと関心を捨てました。やはり単細胞だ……、フーはそう思いつつ安心しました。笑いを堪えつつ。

 仕事までというのもほんの少しの間に過ぎませんでした。朝食を届けに来てくれたのを最後に、ファルは仕事に戻っていきました。

 時間までの暇潰しに、ダメ男はヴィクと一緒に散歩に出掛けました。と言っても屋敷内ですが。

「やっぱメイドさんは肌黒の人が多いなぁ」

 せっせと仕事をしているメイドさんを見かけました。歩いて行く度に、何人かが掃除をしていたり食事を運んだりしています。ちらっと尋ねてみると、既に客人が来ているそうなので、そのもてなしもしているのだとか。リーグの言う客人に違いありません。

「はい。リーグ様からすれば、ただの奴隷としてしか見なしていません……」

「……」

 そう言えばさ、と話を変えます。

「ファルに、オレは強者と弱者どっちなんだ、って言われたんだ。どっちだと思う?」

「それは強者だと思います」

 すっぱりと言い切ります。どうして? と聞き返しました。

「ダメ男さんは色んなことを知っているし、リーグ様と対等に立ち向かっているし。私にはとてもできないことができるからです」

「そっか。じゃあ、オレがファルに何とかしてあげたいっていうのは、彼女に施しをしてることになるのかな?」

「! ……それは……」

 口を紡ぎます。

 じっとヴィクを見ました。

「ま、ただの世間話だ。あんまし深く考えなくていいよ」

「……」

 悲しそうに彼女らを見つめています。

 

 

 昼食を取った後も特に何かするわけでもなく、ふらふらとしているだけでした。リーグの部屋に行ってみるも、留守のようで施錠されていました。

 ヴィクと他愛もない話をしたり、お昼寝をしたりして時間を潰しました。

 そうして省略気味に夜を迎えました。月明かりが全くなく、厚い雲が蓋をしています。本当に暗い夜でした。

 昼間の暖かさが屋敷内に残り、ほんのりと火照りを感じます。今晩では肌冷えはないようです。

「ん」

 ダメ男がようやく目覚めました。

「あ、起きたみたい」

「やっと起きましたか。一体この部屋で何回寝れば気が済むのですか? 何回恥を晒せば満足するのですか?」

「あはは……ごめん」

 ちょっと反省しつつ、くっと背中を伸ばします。

 ちらっと外を見ると、目を丸くしました。既に夜を迎えていたことが予想外だったようです。

「夕食はパーティーがあるので用意しないそうです」

「そうか。ってことはそろそろ時間か?」

「まだです。しかし身体を軽く動かした方がいいですよ。今夜は何があるか分かりません」

「そうだな」

 ダメ男は一旦、セーターを脱いでからストレッチを始めました。くにゃりと曲がるのを見て、

「すごいですねっ。どうしてそこまで曲がるんですっ?」

「な、なんだろうな。オレもわかんない……」

 ヴィクがきゃいきゃいしていました。

 身体が十分温まった頃、

「旅人さん、出番だぜ」

 兵士に呼ばれました。

「うっし、行ってくる。……そうだ」

 ダメ男はヴィクに何かを渡しました。

「これって……?」

 見てみると、小さいナイフでした。掌サイズの黒いナイフです。

「誰か不審者が来たら、そいつで威嚇しろ。特製の痺れ薬が塗ってあるから、かすっただけでも動けなくなる」

「へぇ……」

 その刃に触れようと、

「自分で触んなしっ」

 したのを、もちろん制止しました。

「でも、これは……?」

「点と点が近づくように歩いてみろ。それで全てが分かる」

「?」

 ダメ男はセーターを着込むと、

「自分の気持ちを裏切るなよ、ヴィク」

「え?」

 と言葉を残し、廊下へ出ました。

 昼間とは雰囲気が変わり、等間隔に仄めく灯りが、優しく照らしてくれています。今日は曇っているためか、より灯りが眩しく見えています。

「客が来るから明るくしてるのか? オレの時もそうしとけよな……」

 ダメ男はぶつくさ言いながら、兵士の後を付いていました。ぼんやりとした灯りのせいか、周りがよく見えていませんでした。

 ここだ、の声で、兵士は止まりました。行き止まりのドアの作りはリーグの部屋とは全く異なっています。こちらの方が一回り大きく、装飾が綺麗です。

「? 何の声だ?」

「それは入ってみれば分かる」

 何か、声も聞こえてきます。

 兵士はそろっとドアを開けました。

「……!」

 そこには……何もありませんでした。いえ、正確には違いました。

「……っ」

 まずダメ男が感じたのは異臭です。汗臭さと動物臭、何かのお香のようなものが混ざったものでした。

 次に音です。叫び声のような悲鳴のような声が中から漏出していました。荒い吐息と水音がリズムとして聞こえてきます。

 そして温度です。まるでサウナの中にいるような猛烈な暑さが立ち込めていました。温度はそこまで高くはないかもしれませんが、湿度が恐ろしく高いようです。中に入っていないダメ男ですら、全身にじっとりと汗を感じてしまいます。

 しかし目には何も写っていませんでした。入り口付近は見えていますが、それより奥は漆黒の闇に包まれています。それでも、ダメ男は人がいることを感知していました。

 パッと一番奥でスポットライトが当てられます。

「ようやく来たか、旅人よ。さっさと中に入れ」

「……」

 ダメ男はそそくさと黒い何かを左耳につけ、中に入りました。

 ガチャリ、と重く閉じられます。そちらは見向きもしませんでした。

「ここがどういう場所なのか。分かるか?」

「……」

 ダメ男は答えませんでした。

「答えられんのか?」

〈ダメ男、六時の方向四メートルに、鈍器を持った男がいます〉

 左耳からフーの声が聞こえます。

「……そっか。なるほどな」

「?」

「オレがこの世で一番嫌いな場所だ」

「ほう」

 ダメ男はセーターに左手を入れました。

「こんなこと、将軍に知られてもいいのか?」

「どうやっても将軍には伝わらんよ」

「?」

 ぱちん、と鳴りました。すると、もう一つライトが当てられます。

「!」

〈ファル様っ?〉

「おいおい、今照らすなよ。いいとこなんだからよお」

「申し訳ありません」

 リーグが丁寧に謝罪しました。丸々と肥えた醜い男は突き上げています。

〈な、なんてことを……!〉

 色んな都合上、語るのは無理なため省略しますが、とても悲惨な状態であることは確かでした。声にならない声を上げ、力なくうなだれ、身体を震わせていました。痙攣しているのかというくらいです。

 ダメ男はそちらには一切目を向けませんでした。すっと左手を出しますが、何も持っていませんでした。

「そうやって驚かせてから闇討ちしようなんて、古臭いな」

「!」

 ダメ男はにやりと口角を上げました。とても余裕そうです。しかし、フーには分かっていました。今は抑えているだけなのだと。

「この臭い……麻薬系のものだろ。ここのメイドも使って荒稼ぎしてたってわけか」

「薄々とは知っていたのだろう?」

「まぁね。もうこの屋敷に入った時から臭くてしょうがなかった。鼻が慣れちゃったから感じなくなったけど」

 ふん、と鼻で笑います。

「言っておくが、ここで一暴れしようものなら、犠牲者はお前だけではなくなるぞ?」

「? どういう意味だ?」

「ここのメイドだけじゃなく……ヴィクも危うくなるだろうな」

「! お、お前……将軍の娘を人質に……?」

 これにはダメ男も我が“耳”を疑いました。

「こうでもしなければ、このパーティーは平穏に終わらないだろう? あの兵士長に勝る男だ。一溜まりもなかろうな」

「……オレたちを分断させるためか……」

「さて、お前には三つの選択肢がある。一つはここで暴れ出すか、二つはこのまま帰るか、三つは……俺の言うことを聞くかだ」

「……」

 ダメ男は視線を落としました。頭の中でぐるぐると回っています。

〈ダメ男、十分に考えて、〉

「あぅっ……いやっ、うあっ…………」

「!」

「どうする?」

 まるでさっさと決めろ、と言いたげでした。特に勝ち誇ったわけでもなく、氷を張ったように無表情です。

〈卑劣すぎます……〉

 フーの怒りもダメ男の耳に入っていきます。

 すっと目を閉じ、力強く息を吐きました。

「……分かった。お前の要求は何だ」

 ダメ男は三つ目を選択しました。

 どよどよ、とざわめきが聞こえます。

 ふっ、と、ここでようやくリーグが笑いました。

「お前があいつの代わりに相手をしろ」

〈はっ?〉

 フーの驚愕に怒りが含みます。

「あの男はこの周辺を仕切る豪族でな。話をした時からお気に召したようなのだ」

「馬鹿なことを言わないでくださいっ」

 えっ? と一瞬声が揃いました。フーを知らない者たちがさらにざわめき出します。

「では、そのまま×××されているのを見てるか?」

「っ! この極悪非道!」

 言葉をぶつけるように非難を浴びせます。しかし、嘲り笑われてしまいます。

「……」

「ひへえ……」

 その豪族の男がファルを投げ捨てると、ダメ男の方へ近寄ってきました。真ん前まで来ると、ダメ男よりも大柄な体格でした。

「おまえ、ワシの好みだなあ……」

 ぬるりと、頬に掌が添えられ、顎をくっと持ち上げてきます。汗と何かでぬめぬめしていて、気持ち悪いです。急に興奮し出し、身体を擦り付けようとしてきます。

「! おまえ……なかなか柔い肉をしておるな。女に引けを取らぬとは……」

〈ダメ男! なぜ抵抗しないのですかっ? 聞こえているのですかっ?〉

「……」

 フーの怒りようとは裏腹に、ダメ男はいたく冷静でした。じっとリーグの顔を眺めていたのです。まるで何かを探るように。そして、

「ファルに手ぇ出したら、“そいつ”を切り刻む」

 何かを待つように。

「ほう……」

「あんたの相手は後でしてやる。今はリーグに用があるから待ってろ」

「ほほう……ますます気に入った。あんな××××なんぞよりも楽しめそうだ。そのすましたツラ……崩れるのをじっくり味あわせてもらおうかの……」

〈なるほど、そういうことでしたか〉

 おおおおお、と周りの人間達は唸り声をあげました。蔑みというよりも驚嘆と賛美に近いものでした。

 おかしなタイミングで、フーも冷静になっていきます。

 豪族の男は満足気に暗闇に消えていきました。

 それを見ていたファルは朧気ながらも、

「……」

 呆気に取られていました。

 ふぅ、と溜め息をつくダメ男。溜まっていた汗が連なり、首筋から服の中へ流れていきました。

「なぁ、オレの話を聞かないか?」

「?」

 ダメ男の謎の呼びかけ。“行為中”だった者たち全員がダメ男に釘付けでした。まるでショーでも見るかのようです。

「ふっ。今さら何をぬかしている」

「オレはようやく理解できたんだ。奴隷解放のこと、戦争のこと、ここでのこと……全部……」

「だからどうなるというのだ? 下手な時間稼ぎはいら、……? ……時間稼ぎ……」

 ダメ男は小さく舌打ちをしました。

〈ダメ男、間に合ったようです〉

 再び、耳からフーの声がします。

「き、きさま……まさか……」

 ガタガタガタ、と歯が震えていました。

「入って来い! ヴィク!」

 ダメ男の呼ぶ声に応えるように、

「!」

 扉が開かれました。そこには、

「! な、なに、ここ……」

 ヴィクの姿がありました。そして、すぐに気が付きました。

「ファルっ!」

「ヴ……ヴィ、クさま……」

 辛うじて聞こえます。

「リーグ様、これは一体どういうことですかっ! 説明してください!」

 透き通る声がリーグの耳に突き刺さります。その声が漏れ出さないように、光が閉じられていきました。代わりに、パッとヴィクにライトがあてられます。

 はぁ、と溜め息をつきました。

「見ての通り、接待だ」

「ここのメイドたちを使ってっ? 人道的に問題がありますっ!」

「黙れ! 安全なところから人道的などと(のたま)うな! それならば、早く戦地に赴いて将軍の手伝いをしてこいっ! この臆病者がっ!」

「っ」

 今までの何倍もの威圧感。あまりの迫力に、じりっと後退(あとずさ)ってしまいます。

「奴隷解放のために、どれだけの者たちが死んでいると思っているっ? もはや奴隷の数を上回っているのだよっ! その状況を理解せず、まだ理想を求めるのかっ!」

「……」

 ヴィクは“また”押し黙ってしまいました。

 ダメ男はあえて、何も言いませんでした。

〈ダメ男、いいのですか?〉

「いいんだ」

 ぼそっと言いました。

〈え?〉

 じっとヴィクを見つめました。

「これは、あいつのためなんだ」

〈どういうことです?〉

 聞かずにはいられませんでした。

 ぼそぼそと話を続けます。

「……後で話してやる。だから今はヴィクを見てろ。あいつはきっと答えを出すよ」

〈え?〉

 すっとヴィクに視線を移しました。それは他の者たちもです。主役が交代したためでした。

「…………」

 ヴィクはこれまでのことを思い返していました。自分の昔のこと、ファルと出会った頃、そして、ダメ男たちと話した頃。これまでずっと自分の理想で、奴隷解放という理想を掲げてきた父。自分を奴隷だと蔑みながらも、必死に打ち解けようとしてくれたメイド。どこからともなくやって来た旅人。死ぬ寸前ではないのに、まるで走馬灯のように、記憶が一瞬で流れていきました。

 そして目の前で起きている惨状を、焼き付けるように見ます。今は大丈夫ですが、今まで虐げられてきたファル。彼女のこれまでを想像しました。言葉に出来ないような“拷問”に身が締め付けられるようです。ただ、肌の色が違うだけなのに、どうしてだろう? しかし、ヴィクはそれ以上は考えるのを止めました。

 もう一つのライトに照らされるリーグ。どうして彼は今まで自分を客人に×××させなかったのだろう? それは将軍の娘という立場であるから。その重要性と必要性は他の者たちの視線を感じれば、どれほどなのか分かります。

「何を黙っている!」

 リーグが恫喝(どうかつ)してきました。びっくりしてそちらを向きました。

 ヴィクはふっと記憶が浮かんできます。それは、会食の時、再三怒鳴りつけていた記憶です。その記憶が頭の中で巡った時、ある重大なことに気が付きました。

「……私は…………」

 自然に言葉がでてきます。

「とても弱い存在です……」

「……」

 リーグが耳を澄ませています。

「将軍の娘ではありますが、身体が弱いせいでいつも引きこもりがちでした。それが(たた)って友だちもいない。いつも本ばっかり読んでました……」

「……」

 いつものように怒鳴りつけたり、催促したりしません。

「戦争が激しくなって、リーグ様に保護してもらうようになりました。そこで、ファルと出会いました。自分がひどい目に遭っているのに、ずっと私を励ましてくれました。……思ったんです。初めて友だちができたんだって」

「……その友達を、お前はどうしたい?」

 とても静かに、でも優しく問いかけました。それはあのリーグの声です。

「私は弱いから……みんなを助けることはできません。でも、友だちの、ファルを助けたい……。私、恩返し……できてないんです……」

「……そうか」

 リーグは嘲ったり貶したりしませんでした。

「では、その覚悟を……ここで見せられるか?」

「……はい」

〈え?〉

 ヴィクはドレスを弄り、一枚落としました。可愛らしいキャミソール姿です。

 おぉぉっ! と会場は一気に湧き上がりました。

「ヴ、ヴィクさま……」

 朧気な表情で、必死にヴィクを見守ります。

〈ダメ男! 何をしているのですっ! はやくたすけ、〉

「静かにしてろ」

〈で、ですが、〉

「いいんだ。堪えろ」

 ダメ男は一向に動こうとしませんでした。表情をじっと見ています。

 ヴィクの表情には何も書いてありませんでした。ただ、その気配をダメ男はひしひしと感じ取っていました。それはリーグも同様のようです。

 そしてキャミソールの肩掛けを外し、下に落としました。踏まないようにしゃがみこんで、ずらします。未発達の身体が露わになってしまいます。

 室内はさらにヒートアップし、猥褻(わいせつ)な言葉や下卑(げび)た視線が一気に注がれます。一気にそそり立つ欲望を抑えるのに、目の前の者で慰める者もいました。

 瞬く間にダメ男が入室した状態に戻ってしまいました。それどころか、ますます熱が上がりだしています。

 ヴィクは可愛らしいパンティしか身に纏っていませんでした。

「……」

 ダメ男を一見しました。

 ……ごめんなさい……。

「!」

 そう見えました。唇の動きから察して。

 そこに指をかけ、

「おっくるのかっ?」

「はやくしろよおっ」

「×××××たいぜえっ!」

「……」

 すっと目を閉じました。そして、下ろしました。

 会場中が最高潮に沸き立ちました。もう我慢できん、と一人がヴィクに襲いかかります。一人が動き出してからは、もう止められませんでした。

「ヴィクさまあああっ!」

 もうヴィクは肉の波に飲まれてしまいました。気色悪い吐息に立ち上る獣臭、心が押し潰されるような絶望感。

 ただ一人スポットライトを浴びているファルは、

「うぅ……うっ……」

 涙を止められませんでした。

「ごめんなさい……わたしの……せいで……」

 演劇で言うなら、悲劇のヒロインのようです。

「もう……わたし……わたし……ごめんなさい、ごめんなさいっ……」

 色んな物が涙に混じって床に垂れていきます。拭き取るようなこともしませんでした。

 あまりの絶望感に目の前が真っ暗になります。

「ヴィクさまっ……ごめんなさい……もう、わたしは……」

 きゅ、と舌を歯で挟みます。

「しんで……」

「ファルっ」

「もうしぬしか……しんでわびるしか……」

 幻覚まで聞こえて、

「……?」

 するりと舌がずり落ちます。

「大丈夫?」

「……え?」

 ファルを包む柔らかい感触。それはかつて感じた感触でした。想像を絶する手触りと柔らかさで、ずっと触っていたくなる衝動に駆られてしまいます。もう、ふにふに、と触っています。

 目の前の出来事が突然で、唐突で、急激で不意で突如たるものでした。

「ファル、泣かないで」

 自分の涙を“救って”くれる人。確かにヴィクが、目の前にいました。裸体に黒いふわふわを身に纏って。

「ど、どうして……?」

 頭が真っ白になってしまい、

「ぅ」

 がくりと意識を失ってしまいました。

「うわっ、ファル? ファルっ!」

「大丈夫です。意識を失っただけですから」

 ヴィクにはフーが掛けられていました。

「ダメ男の元へ、お願いします」

「……うん」

 ぎゅっと抱き寄せたまま、そちらへ歩きました。

「……さて、どうする? あんたにも悪い話じゃ、ないと思うんだが」

 ダメ男はリーグと話をしている最中でした。リーグは面食らった面持ちでダメ男を見ていました。何か衝撃的なことを言われたのでしょうか。

「……」

「“報酬”もきちんとあるしな。一応は依頼の形になってるだろ?」

「……」

 押し黙っていたリーグですが、

「いいだろう」

 ダメ男の“依頼”を引き受けました。

 ダメ男の背後はまだ肉の海が広がっていました。リーグたちに目を向ける者は誰一人いませんでした。

 

 

「急げ! 負傷者を集めろ!」

「はっ!」

「く、ここは何としても死守しなければ……!」

「将軍、失礼致します!」

「どうした!」

「将軍に来客ですっ」

「なに? こんなところに一体誰だっ?」

「そ、それが……!」

「お父さん……初めまして……」

「び、ヴィクっ!」

「来ちゃった……あはは」

「お前、どうしてこんな所へ! ケガはないのかっ?」

「うん、大丈夫だよ」

「一体どうしたのだ? お前はリーグの所へ預けたはず……!」

「実は……話があるんだ」

「話? な、何をして……」

「お父さん、私ね……ある旅人さんたちに出会ったの」

「は、早く離しなさい! ち、血が……!」

「覚悟を決めるには気持ちじゃなくて、身体で決めなきゃいけないって。そして大きな事を成し遂げるには、犠牲を払わなきゃいけないって……っ……」

「わかった、わかったから、手を離しておくれ、ヴィクよ……」

「……お父さん、もう……戦争はやめよ?」

「!」

「確かに、奴隷解放は大切だし、お父さんの理想だよ。……でも、目の前の現実から目を逸らすだけじゃ、きっとだめなんだと思う。だからこうして、目の前の大切な命が消えても、ちっとも気付かないんだ」

「お、おまえ、……まっまさか……」

「うん。もし、それでも戦うっていうなら……私はこの剣で心臓を貫きます」

「!」

「こうでもしないと、お父さんは戦争を止めてくれない。私と奴隷解放……どっちを取る?」

「ま、待ってくれ……! その話は後にしないと、ここは死守しないとまずい場所で、」

「……うっ……い、いた……」

「! やめてくれ! ヴィク!」

「はっ……っ……お父さんの理想はっ……私の誇りっ。でも、その理想は犠牲が多すぎるよ、きっと。だって、……私……しんじゃう……から、……」

「お、おおお……やめてくれ、ヴィク……」

「……!」

「感触、する? ……う、はぁ……はぁ……」

「うおおお……うう……」

「……?」

「おい……あれって……敵の将軍の娘じゃないか……!」

「どうしてこんなところに……?」

「それより、一体どうなってるんだ……?」

「娘を刺しているのに、将軍が泣いているぞ……」

「……ど、う……するの……?」

「……う……うう……」

「……もう、……おとうさんは……だめなのかな…………」

 ずぶり。

「! 分かった! 撤退する! 戦争をやめる! だからこれ以上はやめてくれ! ヴィク!」

「しょ、将軍っ?」

「全軍撤退だっ! 戦争は終結! 終結だああっ!」

「……ど、どうなっているんだ……?」

 

 

 後日、戦争から撤退し来た将軍が民衆の前に現れたそうです。そしてすぐに終戦宣言が将軍の治める国と他五国に放送されました。

 あの部屋にヴィクとファルがいます。一緒のベッドで手を繋ぎ、一緒に耳を傾けていました。

「つっ……」

「大丈夫ですか? やはり手を、」

「ううん、いいの。……お願い、このままで……」

「分かりました。でも、無理をしないでくださいね」

「うん」

 ヴィクの両手には包帯が巻かれていました。

 ヴィクは将軍の持っていた剣の刃を握り、その切っ先を胸の中心に刺してしまいました。軍医の迅速な手当により、大事には至りませんでした。しかし、手当をされる中で、こっぴどく怒られたそうです。

 じわじわと痛みが溢れるように広がります。しかし、それを感じる度にどことなく嬉しい気分になっていました。

「そろそろですね」

「うん」

 ノイズが鈍く響いた後、あーっあーっ、とマイクテストが入ります。将軍こちらへ、うむ、と丸聞こえでした。

 すぅっと将軍が息を吸います。

〈……諸君。まずはこの戦争で亡くなったものへの黙祷(もくとう)を捧げたい。……黙祷〉

 黙祷、の声で、一分間の沈黙が流れます。

 二人も瞳を伏せて黙祷を捧げます。

〈……さて……何と言えばいいのか、迷っているが……まずは、急な戦争終結で大変申し訳なく思っている。私は奴隷解放という大義を掲げて、これまで尽力してきたつもりだ。無論、今でもそうだ。……しかし、この戦争を止めたのは他でもない、私の娘だった……〉

 ちらっとヴィクを見ます。ふふ、と小さく笑みを零していました。

〈娘はわざわざ戦地へ向かい、私に戦争を止めさせるように説得しに来たのだ。私は拒んだ。しかし、そう言うと、私の剣の刃を掴み、この私を脅してきたのだ。戦争を止めなければこの剣で心臓を貫く、と……。ぎりぎりまで私も拒んだ。ただの脅しだと思ったのだ。ところが、娘は本当に胸に突き刺したのだ。幸い深くはなかったので大事には至らなかったが、私は頭が真っ白になった。娘を助けたい一心で全軍を撤退させ、戦争を終結させたのだ……〉

「ずいぶんと無理をなさったのですね」

「……だって、父さんを止めるにはあれしかなかったんですもの」

「……痕、残らないといいですね」

「どっちでもいいかな。残らなきゃ綺麗になるし、残れば……誇りたくなるよ」

 二人して笑い合いました。

〈この出来事自体、私の家庭の問題で、戦争には全く関係ない。だが、娘はこう言い放ったのだ。“理想ばかり見ていると、目の前の現実から目を逸らすことになる。そして現実で大切な命が消えていく”と……。今思えば、私はその通りだった。戦争に犠牲はつきもの、その分大義を背負い、成就させなければならない、そう思い込んでいた。しかし、それは単に理想に目が眩み、現実から目を逸らすことで、私自身が甘えていただけなのだ。……私は愚かな理想“狂”だ……〉

 音響確認も済ませ、雑音が入らないようにしているのに、ざわざわと聞こえます。それほど、民衆が動揺を隠せていないのです。新聞社が揶揄した言葉を、終戦宣言で使うという皮肉を交えていました。

 少し気になって、ヴィクを一見しました。とても楽しそうな表情です。あの悪口を聞いても、少しもおどおどしていませんでした。ヴィクは変わったのだと、ファルは思いました。

〈……娘は小さい頃から身体が弱く、友達がいなかった。私は戦争に行きっぱなしで、叔母がいつも面倒を見てくれていたのだ。戦争が激化し、信頼する部下のリーグに娘を預けた。それはただの缶詰に入れるのと同じだ。……しかし、そこで友達ができたのだ。たまたま現れた旅人と……黒人奴隷のメイドだ〉

 急にハウリングが起こり、耳を覆いたくなるほどの高音。一旦プツッ、とマイクが切られました。そして再びプツッ、と繋がりました。先ほどのどよめきがはっきりとマイクに乗っています。恐らく、驚愕の大声が急にマイクに入ってしまったのだと思われます。それほど、驚きの発言だったのです。

〈彼女は客人の接待という(てい)で肉体的強要を受けていた。私が理想を見過ぎたせいで、犠牲になってしまった人間そのものじゃないか……。しかし健気にも娘を励まし、力強く生きることを教えてくれたのだ。己が虐げられているというのに、だ。私にはとてもできんことだ〉

 今度はファルを見ました。まるで今までのことを思い返すように、目を閉じています。時折きゅっと握っているのと、その痛みを感じます。ヴィクも握り返してあげました。

 ありがとう、無意識に呟かれた一言に、どういたしまして、と呟き返します。

〈しかしリーグを責めないでくれ。彼は何も奴隷解放を真っ向から否定していたわけではない。私とは違う方法で模索していたのだ。そのためには奴隷という犠牲を払うしか無かった。犠牲を意識していたリーグとそうでない私。どちらが現実的か、比べるまでもない……〉

「! じゃああの新聞に書いてあった協力者の一人って……リーグ様?」

「わ、私には(にわか)に信じられません。あの方がそんな行動をしていたとは……」

 それを肌身で感じているのはファルです。しかし、ファルは、

「そうなのかもしれないね」

「? どうしてです?」

「お父さんを疑ったり信じ過ぎたりはしてないんだけど、ダメ男さんならそう言うかなって」

「……ははっ」

 複雑な表情で笑ってしまいました。

〈……彼の件と私の失態。全てをこの場で謝罪する。本当に申し訳なかった……〉

 十数秒間、音声が途絶えました。二人には深く頭を下げているイメージが浮かんでいます。

〈それと、私はこの責任を取り、この身分を全て捨てることにした〉

「え、ええっ!」

「はいいっ?」

 同じタイミングで驚いてしまいました。

〈これから私は一般人だ。次の将軍は皆で決めてくれ。いじょ……〉

 途中で将軍の言葉がフェードアウトしてしまいました。代わりに、どよどよどよ、とマイクにざわつきが乗っています。

〈……ぁ、忘れていた〉

 将軍の声が戻ってきました。

〈最後に、娘たちを支えてくれた友人に礼を言いたい。ありがとう……我が友人よ〉

「!」

 ざわめきが続いた後、プツッと音声が切れてしまいました。

 ふぅ、と勢い良く一息つくヴィク。

「私たちを支えてくれた友人ってダメ男さんたちのことだよね? でも、お父さんは“我が友人”って……」

「もしかすると、ダメ男様がこの国にいらしたのは偶然ではなく、将軍様の差し金だった……?」

「……ははっ」

 ヴィクが急に笑い出しました。

「ダメ男さんって本当に予想を超える人だったね。戦争も終わらせちゃったし」

「はい。ですが、奴隷解放は……」

「うん。でも、私たちじゃきっと、相手にできない問題だったんだよ。だから、ダメ男さんは私たちをここに置いて行っちゃったんだ」

「足手まといってことですかね?」

「はっきり言うとそうかも。あっはは」

 全く悲しい表情ではありませんでした。むしろ、険しさが取れ、一人の女の子としての表情です。それはファルもでした。

「これからはずっと一緒だよ、ファル」

「はい。私はずっと、ヴィク様に付いていきます」

「うん!」

「と、こちらを忘れては困るのですが」

 テーブルの方から、フーの声がしました。

「急にラブラブになってしまって、見ているこちらが赤面してしまいますよ」

「あ、あははは……」

 申し訳ない、と笑っています。

「このフーもお二人に仕えて、とても楽しかったです。久しぶりの長期滞在も悪くはありませんでした」

「私も」

「私もです」

「これからは、末永くお幸せに。ダメ男はいませんが、ダメ男の分も添えて祝福いたします」

「ってまだ早いよフーさん」

「あぁ、こんなに可愛らしいお二人がラブラブウッフッフ状態になるとは、一部の方々に大受けしそうな展開になりそうですねぇ」

「私、思うのですが、フー様って中身はおじさんでしょうか?」

「無生物にオスもメスもありませんよっ。ある意味、性別というものを超越した存在とも言えます。ですが、女の子の味方であることは間違いありません。あんなケダモノを見るだけでもぞわぞわしてあぁぁきもちわるいっ!」

「あの、そう言えばダメ男さんはどちらに?」

「分かりませんが、警護終了日には戻ってくるとしか分かりませんね。まぁ、障壁もなくなったでしょうし、変なトラブルにはなっていないとは思いますけど」

「そういえば、フー様は将軍様に会ったのですか? ダメ男様と一緒なら、ご存知だと思いますが」

「こちらも初めて知りました。その時、電池が切れてしまっていたものですから」

「?」

「簡単に言えば、認知していないということです」

「そーなんだ。よく分からないな、二人の関係って」

「別に深くも広くもない腐れ縁ですよ」

「ねえ、二人の馴れ初めを聞きたいなあ」

「へっ? なっなれそめ……ですか? 意味を分かってて言っています?」

「“ガールズトーク”というものです、フー様」

「あぁーそれはですねー。そう言われると断りきれないと言いますか何と言いますか」

「はやくはやくっ」

「……絶対に内緒ですよ?」

「もちろんですとも」

「……あれは紀元前千二百年のことでした。空から降り注いだメテオが地表に衝突したときに、」

「絶対違うと思うけど、すごく壮大な出会いになりそうだねっ!」

 

 

「どうだ? 中々順調にいくもんだろ?」

「しかし、どうしてここまで上手くいくんだ?」

「勢いってやつだよ。いつまでも同じ所に立ってる奴よりも、動いてる奴の方が役に立つってこと。あそこで将軍が言ってくれてなかったら、状況は厳しかっただろうな。何せ、他の四人は将軍の協力をしてなかったって公言してるようなもんだし」

「……驚かないのか? 俺がそんなことをしているなんて……」

「ちっとも」

「……なぜだ?」

「あんたには重要な秘密があるからさ」

「な、なに?」

「メイドたちは“接待”をさせられてた。けど、その割にきちんと仕事をしてて、きちんと生活できていた。口で言う割に、そこそこの環境を与えられてたんだ」

「……」

「それは何か、特別な感情が働いているからだと、オレは思ったんだ」

「それはなんだ?」

「フーたちを連れて来なくてよかったって思ってる。こんな理由、過激すぎて聞かせられない」

「?」

「あんたはいや、あんた“方”には男色家がいるんだろ?」

「!」

「よく考えてみれば最初からおかしかった。特にあんたは、怪しい旅人に融通利かせたり、失礼なことを言っても強く叱らなかったりと、戦争中にしては甘すぎる。そして、あの兵士長がわざと手抜きしたのも、オレをじっと見てたのも、“そういう目”で見てたからだよな? あんたがメイドたちを冷たく接し、接待させていたのは、それがバレるのを恐れたからなんだろ?」

「……」

「最初はもちろんまさか、って思ってたんだ。けど、あんたがあのパーティーに参加してなかったのを見て、確信したんだ。今回はそれを大きく利用させてもらっただけだ」

「……それが、どういう意味なのか理解しているのか?」

「だから依頼の“報酬”も豪華にしただろ? あんたの将軍確定権だけじゃなかったんだし」

「あの時は頭が真っ白になったものだ。何せ、重役たちに勘付かれたかと思ったからな。俺自身、意味を飲み込めずに、流れで引き受けてしまった」

「……」

「それがお前の“覚悟”なんだな?」

「……あぁ。それとヴィクを助けた罰、兵士二人にケガをさせた罪も含めてるよ」

「ふっ。もともと助けるつもりだったんだろうが」

「あぁ。ヴィクの覚悟を見せてもらうつもりだったからな。本当は“その先”まで、と思ったんだけど、さすがにそれは可哀想って思って……」

「お前も甘いやつだ。そのせいで自分の身を危険に(さら)したのだ。……どうぞ、お入りください」

「ぐひひ……その年でこのワシをも利用するとは、大物に違いないぞな……」

「よう旅人さん。まさか、自分から言ってくれるなんて思ってもみなかったよお」

「あの時はよくも押し倒してくれたな? たっぷりと礼はしてやるよ……」

「この目の“代償”は高く付くぞ、坊や」

「うちらはどっちも“いける”んすよ」

「お手柔らかに……」

「その前に、一つ確認したいことがある」

「なんだ?」

「お前がどうして奴隷解放にこだわるのか、少し考えてみた」

「へぇ。で、分かったの?」

「だから、それを確かめたいのだよ」

「どうやって?」

「……服を脱げ。それで全てが分かる」

「! ……」

「リーグよ、そんなもの後にせい。味見してからでも遅くはなかろう。どれだけ焦らすつもりなのだ」

「そうですよ~リーグ様。そんなの最後でも、」

「待っていただきたい。これは俺との契約に含まれていること。確認できたら、朝まで好きにしていただきたい」

「……よかろう」

「領主様がそう言うんなら、従うしかねーな」

「そっすね」

「……分かった。ただし、絶対厳守してもらう。オレは別にバラされてもいいけど、あんたらは困りそうだしな」

「よかろう。もともと口外するつもりはない。個人的な興味だ」

「………………」

「うひー、うひ~」

「なかなかじらすなあ」

「……ほらよ」

「!」

「っ!」

「な、なんだそりゃっ……」

「……これでいいのか?」

「そうか。なるほどな」

「これはこれは、玩具にするにはもったいないほどの肉体美……」

「? リーグ様、どういうことです?」

「銃痕や刺傷、痣が目立っているがわざと隠している痕がある」

「?」

「火傷だよ。それを埋めようと、わざと傷跡をつけているんだよ。ちょうど……胸の中心だ」

「……確かにそう見えなくもないですけど……」

「火傷なら他にもありますし。でも、そうだとしても、何か関係あるのですか?」

「……分からんか? こいつは……元奴隷だ」

「!」

「も、元っ?」

「……ほう」

「恐らくどこかの国で捕まり、捕虜として働かされていたのだろうが、……その痕、俺はよく知っている」

「! ……っ…………」

「だ、大丈夫か?」

「あせ、ひどいぞ……」

「リーグよ、お前の言うことが本当なら、こいつは、」

「はい。脱走した者だと……」

「っほ! あそこから抜け出す者がいるとはっ。久々に血が騒ぐ!」

「……お前は元奴隷として、あのメイドを気にかけたのだろう」

「……はっ……はぁっ……そ、それはどうかな……」

「繕うな。そのナリを見れば全てが分かる。トラウマが蘇って身体が拒絶しているぞ」

「っ……」

「そうか。……さて、そろそろ始めるとするか。奴隷の経験があったんだ、多少は強引でも構わんな?」

「……できれば……やめていただきたいけどな……」

「ぐっひっひ。心配するでない。リーグに依頼したことは全力で協力しよう。たっぷりと“報酬”はもらうがな」

「うへへ、俺は手荒なことは好きじゃねえから大丈夫さあ」

「俺らはそういうわけにはいかねえ。たっぷり利子も含めて払ってもらうぜ」

「壊れない程度にしとくっすよ、センパイ」

「……ふん。ま、適当に遊んでやろう」

「……っ……うぅ……」

 

 

 ヴィクの警護最終日の翌朝。つまり、ダメ男が出発する朝です。

「お帰りなさい、ダメ男」

「あ、おう」

 ダメ男は自室に戻ってきました。何時ぶりかの朝帰りです。

「どうでした?」

「うーん、まだかかるけど、オレがいなくても大丈夫みたい」

「そうですか」

 ダメ男は最後の荷物確認を行いました。ナイフやジャケット、タオル、携帯食料等、忘れ物はありません。念のためウェストポーチも見ますが、同様でした。

「そう言えば二人は?」

「一緒の部屋で眠っています。どうやら“夕べはお楽しみだった”ようです」

「なんだその古い表現は。まぁ、でもそっちの問題も片付いて良かったな」

 ダメ男はウェストポーチを両腰に提げ、リュックを背負いました。ずしりと重量感を覚えます。

「まだ寝てるみたいだから、そのまま行くか」

「二人の絡みは最高でしたよ。もうお互い愛し尽くして尽くされ、」

「朝から濃厚なお話どうも」

 振り払うように、そっと部屋を出ました。まだ朝早いからか、人気は全くありませんでした。

 そのまま中央部へ行き、そのまま階段を降りていきます。のしのしと重みのある足音がします。

 中央部の一階はテーブルとソファのみの応接室でした。ここには、

「おはようございます」

 ファルとは違う、肌黒のメイドさんがお仕事をしていました。

 ダメ男も挨拶を交わします。

「もう出発なさるのですか? 朝食はそろそろなのですが」

「あぁ……もしパンだったら、それだけもらえる?」

「分かりました。少々お待ちください」

 メイドは早足でどこかに行ってしまいました。

 ダメ男はソファに腰掛けることにしました。リュックを脇に置き、ぼーっと待ちます。

 ふとして、正面を見ました。ここにも鍵穴をモチーフにした装飾が施されています。ダメ男はふと思い出しました。

「これ、あの門の入り口と同じ……」

 そして、何かを閃きました。いやっでもな、と再び考え出します。

 そうしているうちに、メイドがパンを持ってきてくれました。大きいバケットにふっくらとした食パンが入っています。どうやらバケットごとくれるようです。半分だけ食べるつもりでしたが、ご好意を無駄にしてしまうと考え、全ていただくことにしました。

 その半分をもくもくと食べながら、ダメ男はメイドに尋ねました。

「あのさ、この形って鍵穴だよね? 誰が考えたんかな?」

「これは有名な彫刻家の方が考案されたものですよ。確か何かメッセージを込めていたとかいなかったとか……かぎがどうたらこうたらで……えっと……」

 くすりと笑います。

「ああ、思い出しました! “鍵を差し込む勇気”でしたっ。将軍様の依頼したものが、そのまま幹部の皆様に伝わったとお聞きしました」

「! ……そうなんだ」

 一瞬、さり気なくメイドを見ますが、すぐに鍵穴に目を向けます。

「……」

 とても感慨深そうに見つめていました。

 食パンを食べた後、ダメ男はバケットを持ったまま屋敷を出て行きました。みんなによろしくな、とメイドに言い残して。

 眩しいくらいの日差し……かと思いましたが、今日も生憎の曇りです。ほんの少しだけ青空が見えています。しかし、雲の隙間には光が差し込み、一本の線として魅せていました。それが何本も地上へ降り注いでいます。

 曇りのおかげか、気温は低くありませんでした。軽く走ると汗をかくくらいに暖かく、出発するには適した気候でした。

 屋敷の玄関から真っ直ぐ伸びた綺麗な道を歩いていきます。半分までは煉瓦が広がり、そこからは芝生が広がっています。

 屋敷の門前には“あの”兵士と兵士長の二人がいました。

「もう出発するのか?」

「もう少しここにいればいいじゃねえか」

「ここにいると身体が(なま)っちゃうからな。でも、二週間もここにいたなんて、想像できないくらい早かったな」

「そうですね。あっという間でした」

 フーはどこかにある眼で屋敷を眺めました。曇りで屋敷は映えませんが、きっと綺麗なのだとフーは思います。

 兵士二人は門を開けてくれました。

「昨日は楽しかったぜ」

「またいつかな」

「?」

「これからは二人に手を出すなよ? 依頼を破ったら、ただじゃ、」

「大丈夫だ。ギブアンドテイクはすましたしな。はっはっは」

 ドンロ兵士長は豪快に笑いながら、ダメ男の出発を見送ってくれました。

 ダメ男は初めて街中を観光しました。(まば)らに建っている家を縫うように道が伸びています。その作りはどれも古く、今にも崩れてしまいそうでした。試しに触ると、ボロボロと塗装が剥がれ落ちてしまいます。……見て見ぬふりをして、早めにその場を離れました。

 他には観光というものはなく、同じような景色が見えるだけです。お店もあるようですが、特に代わり映えのするものはありませんでした。

「もしかすると、何もないからリーグ様はさっさと屋敷に向かわれたのではないですか?」

「これを見る限り、そうかもしれないな。あの時の楽しい気分は何だったんだ……」

「“禁断の味”ということですね」

「……そうだな」

 住民も一人もいません。全員が家の中に引きこもっているのか、人気がありません。

 ダメ男の観光は一時間足らずで終わってしまいました。

「行こうか」

「はい」

 ダメ男は門へと向かいました。例によって兵士が立っています。

「出国されますか?」

「あぁ」

 では、と名簿に適当にサインをします。その兵士の合図で開門しました。

「では、さようなら、旅人さん」

「ああ」

 ダメ男は今、箱庭から飛び立ちました。

 

 

 



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第八話:――まで・a -root of C・a-

 漆黒の闇が広がる森の中。鳥の低い鳴き声が不気味さを増し、ぞわぞわとした怖さを覚えさせる。天気も曇りのせいか、月明かりがなく、より一層暗さが増していた。

 寒い。はぁっ、と息を吐くと、煙草をふかしたように白い息が出てしまう。辺りは冷気が立ち込めていた。

 固めの大地を踏み進む一人の女の子がいた。ふっくらとしたパーマの茶髪に丸い目付き。枯草色のコートに焦げ茶色のタートルネックセーターを着ている。濃紺色のデニムに茶色のブーツを履いていた。

 軍隊用のリュックサックを背負い、小さめのショルダーバッグを左肩から右側に提げている。左腰にはポーチをかけていた。

 両脚の太ももにはそれぞれホルスターがついており、自動式拳銃二丁が銀色に魅せる。

「今日はここで休もうか」

 女の子は誰かに問いかける。しかし誰も返答しなかった。

 女の子は荷物を下ろし、野宿の準備に取り掛かる。その途中で、

「あっと危ないっ」

 何かを落としてしまった。ちょうど両手で包むように受け止め、難を逃れる。

「大丈夫?」

 両手でもぞもぞと何かが動いていた。

 女の子は荷物から携帯電灯を取り出し、灯りを点けた。辺りは優しい暖色系の灯りで包まれ、ぼうっと晒し出す。

 女の子の手には灰色の毛玉が乗っかっていた。

「“クーロ”、ケガはない?」

 そう、この毛玉こそが、

〔心配は要りませぬ、“ハイル嬢”〕

 私だ。くりっとした目に控えめのヒゲを生やし、手触りの良い体毛はもふもふと心地よい。

 改めてご紹介に預からせていただこう。私はペットの“クーロ”。そして目の前にいる女の子こそが、とある国のお姫様“ハイル嬢”であられる。とある都合で旅をすることとなり、私もお供することとなった。ハイル嬢のお父様、つまり国王より命を受け、ご一緒させていただいている。

 さて、今日も一日、歩きづめでヘトヘトである。ハイル嬢は、

「そろそろ寝るね」

〔ご夕食を召し上がらないのですか?〕

「うーん……なんか食欲ないんだ……」

 ご夕食を召し上がらず、就寝の準備を進められる。ここのところ、ずっと少食で健康状態がとても気になってしまう。節約なさっているのかどうかは分からぬが、悩みの種はすくすくと芽を生やしつつあるようだ。

 ハイル嬢は掌を外に向け、小指で指笛を吹かれた。ピィッ! と、とても甲高い音が森を突き抜け、空へと響いていく。すると、

「こっちこっち!」

 空から黒い何かが猛烈な勢いで飛び込んで、ハイル嬢の目の前で着地した。

「ピーコ。お疲れ様」

 ぴーぴー、と可愛らしく鳴いている。こやつは“ピーコ”。ハイル嬢の恩人(?)であり、私と同じく旅のお供をしている鷹だ。ピーコは主に空からの監視を担当し、特殊な鳴き声で危険を知らせてくれる。ほぼ一日中飛び回っているため、休憩を挟みながら仕事をしてくれているのだ。

 ハイル嬢はピーコに専用の餌を与えられている。そして、残した餌をもくっとご自身の口に運ばれた。毎回思うのだが、大丈夫なのだろうか。

 わしわし、となでなでされた後、

「お休み」

 携帯寝具であっという間にご就寝なさった。……ふむ。今日は三秒であったか。密かに記録をしているが、最高記録は一秒である。

 野宿の場合は、私とピーコ交代で見張りをしている。

〔今日もハイルちゃん、食べなかったのかしら?〕

〔ふむ……。ここのところ少食が酷いのだ。何か心当たりはないか?〕

〔うーん……さすがに私のエサを食べてるのは感心しないわ。栄養価は高いけど、人間用じゃないもの。あなたこそ心当たりはないの?〕

〔及ばずながら……〕

 私たちはこうしていつも相談している。最近はやはり、ハイル嬢の少食の件で持ちきりだ。

 何回も話して申し訳ないのだが、本当に少食なのだ。酷い時は一日の食事がピーコの餌を先ほどのようにして食べる時のみ。つまり夜一回ということもある。

 私は、

〔皆の者、ちょっと来てくれ。相談があるのだ〕

 集合をかけた。すると、

〔なんだよこんな時間にさあ〕

〔そんなこと言わずにさっさとくるのっ!〕

〔いかがしたザマス?〕

 ぞろぞろと私たちのところへ来てくれた。リスやらフクロウやらウサギやらコウモリやら何やらと。

 こやつらは野生の動物たち。また、ハイル嬢の追っかけファンもいる。追っかけファンというのは、小さい頃からハイル嬢を陰ながら応援している者たちだ。色々と手助けをしてくれて心強い。ちなみに当の本人は全くご存知ない。

〔いくら時間稼ぎのためとはいえ、ここで尺とっていいのかあ?〕

〔細かいことは気にしちゃダメっ〕

〔話は聞いてたザマス。追っかけファン代表として、一つ、心当たりがあるザマス〕

〔おぉ、リー殿、ぜひお聞きしたい〕

 自称追っかけファン代表のリスのリー殿だ。最古参の一人で、ハイル嬢の情報なら私に負けないほどのハイル嬢通である。好きなドングリの種類はカシの木である。

〔最近思ってたんザマス。ハイルさんはピーコ氏の餌や食べられる木の実雑草、携帯食料しか口にしていないザマス〕

〔言われてみれば確かに〕

〔もしかすると、動物を食べるのに抵抗があるのでは?〕

〔!〕

 リー殿の意見は説得力があった。他の者たちもさわさわと話し合っている。

〔でも、牛肉とか豚肉食べてんじゃん〕

〔それは国で食事をするときザマしょ? こうしている間は一口も召し上がってないザマス〕

〔すると、何かの原因で我らを食さなくなったということか?〕

 恐らくそれはハイル嬢の不思議な力が強く関係している。ハイル嬢は私たち動物の気持ちが分かるという力をお持ちである。言葉は介さずとも見るなり触るなりで感じてしまうのだとか。

 食べようとしても感情が分かってしまうために、……遠慮なさっている?

〔馬鹿な。ハイル様は誰よりも自然をご理解なさっている。それなのに僕たちを食べないということは、自然を舐めているということになるのだぞ〕

〔ハイルさんはあくまでも自然との共存を目指しているザマス。私たちを食べることすら、過度に自然を侵害していると思っているのかもしれんザマス〕

 もはや水掛け論状態で、議論場は荒れた。しかし、

〔! みんな! 散って!〕

 叫んだのはコウモリのジョー殿だった。全員が音もなく蜘蛛の子を散らすように散っていった。

 残っているのは私とピーコ、そしてジョー殿だ。

〔いかがなさった?〕

〔ここから北西三百十二メートル、何か物音がする。男と女の声だ。……まずい! こちらに近づいてくる!〕

〔ピーコ、お主は木陰で休んでおれ。夜目の利かぬお主では分が悪い。私とジョー殿でハイル嬢を護衛するっ〕

〔その方が良さそうね。任せたわよっ〕

 ピーコはひょこひょこと跳ねながら森の奥へと消えていった。ピーコの羽ばたきでこちらの存在が気付かれるのを恐れたためだ。

 さて、私はハイル嬢のほっぺたへ上り詰めた。

 かじかじ。

「……ん……がら……ほいほい……」

〔ハイル嬢、起きてくだされ……〕

「ふ……ぇ? どうしたの……?」

 不穏な気配に、ハイル嬢は静かに起床なさった。

〔大変申し訳ありませぬが、北西から賊がこちらへやってくると、ジョー殿からの情報が〕

「……うん、わかったぁ……」

 本当に申し訳ない。しかし、眠りを妨げなければさらに危険度が増してしまう。

 ハイル嬢は荷物を静かにまとめ、出発された。

「ほくせいってどっち……? こっち……?」

 あ。し、しまったあああっ!

〔そっちではありませぬっ! 逆! 逆!〕

 緊迫した状況なだけにまた忘れてしまっていた! ハイル嬢は究極の方向音痴であられた! しかも向かった方向は北西ではないか! よりによって!

〔ハイルー! こっちだよー!〕

 後頭部を翼でぱんぱんと叩く。ジョー殿ナイス!

「うるさいなぁ、あっちいって!」

 バシンとはたき落とされてしまった。は、ハイル嬢……なんてことを……! しかし、寝ぼけてしまっているから悪気はないと……思いたい……!

〔すまぬジョー殿!〕

〔ま、待ってっ……!て、きが止まった……!〕

 一撃で瀕死状態になっているというのに……すまぬ……!

 敵が止まった?

〔ハイル嬢、お止まりくだされ!〕

「? くーろ……さっきからうるさい……ま……てやるよ?」

 日頃からお疲れであるから心が痛むが、こればっかりは……失礼!

 ハイル嬢の右肩に素早く駆け上がり、

〔クーロアタック!〕

 首に程よく体当たりをした!

「いった」

 ちなみに、命名はハイル嬢である。

「……あ、クーロ、どうしたの?」

 なぜかこれをやると、目覚めがすっきりするのだという……はぁ……はぁ……。

〔ハイルちゃん、近くに誰かいるよ!〕

 はぁ……はぁ……ふぅ……。

「え? ジョーくんもいる……ってどうしたのっ? 誰かに叩かれたっ?」

 はぁ…………よし。

 その原因はハイル嬢であるというのは内緒にしておこう。

 ともかく、ハイル嬢は完全に覚醒された。ジョー殿の手当を施されながら、

「一応確認しておこうね」

 一気に気を引き締められる。

 腰に付けたホルスターから銀銃を一丁引き抜き、ナイフをグリップと一緒に握りしめる。中腰に、忍び足で音のした方へ向かわれる。音はしない。

 ジョー殿を静かに肩に乗せられた。何とか一命は取り留めたようで、よじよじとハイル嬢の首筋に掴まっている。

 すると、

「……っ……あ……」

「ふ…………ふ…………」

 声が聞こえてきた。何かしているのか?

「……」

 ハイル嬢の足がピタリと止まった。そしてまた動き出す。

〔えっと、ハイルちゃん〕

「なに……?」

 蚊の鳴くくらいに小さく呟く。これだけでもジョー殿には聞こえる。

〔これ以上は行かなくても大丈夫だよ。敵意はないみたい〕

「どうしてそんなことが分かるの……?」

〔いや、あのね、その……なんていうか……〕

 歯切れが悪い。とても言いづらそうだった。

「このまま無視して、悪いことになったら、それこそ最悪でしょ……?」

〔その通りなんだけど……〕

〔はっきり仰ってくれ!〕

 そう話している間にも、ハイル嬢は足を進められている。

「あ」

 しかし、何かを気付かれた。

〔…………〕

「…………」

 …………。

〔ね?〕

 なるほど。これはそのつまり……。

「……」

 ハイル嬢は顔を真っ赤にされている。我らは別段、恥ずかしくもないのだが、人間にとっては恥ずかしいらしい。

 要するに、我らで言う……“交尾”をしていた。

 ちなみに声はかなり聞こえているが、色んな都合上、カットしている。

「……行こっか」

 帰りの道中、一言も話すことはなかった。

 

 

 野宿していた場所へ戻り、ハイル嬢はそそくさと片付けをなさった。

「その、ここだと邪魔になりそうだから……移動するね」

〔ジョイ、あっ間違えた、御意〕

 いかん。私まで動揺している。…………この話は止めよう。

 しかし、

「あ」

 手が滑ってしまい、騒音を出してしまった。

 ささっと荷物をしまわれる。

〔……! 二人がこっちに気付いたみたい!〕

 ここから聞こえるのなら、最初から状況を教えてもらいたかった! しかしジョー殿を責めることはできぬ。明言しづらいのは仕方なかった!

〔男が来るってええっ!〕

〔どうした!〕

〔あわあわあわっ〕

 ジョー殿が焦っている! 何かまずいことが起こっているに違いない。

 ハイル嬢もそれを察してか、準備完了と同時に、本気で走りだした。

〔……あの……〕

 私を置いて。

〔うおおおおおおぉぉぉっ〕

 全力でハイル嬢に追いつき、何とか飛び移った! そこから全力でよじ登り! ハイル嬢に拾っていただいた!

 はぁ……はぁ……はぁ……じゅ、寿命が三日縮んだ……はぁ……はぁ……。

 しかし、状況は最悪だ。

〔すごくはやい! このままじゃ追いつかれちゃう!〕

 ハイル嬢は本気で走られているため、足音がもろに出てしまっている。それでも余計な情報を明かさぬために、声を出されない。こういう場合は私が代わりに指示をする。

〔ジョー殿はひとまず退散されよ! 後はこちらで何とかするっ!〕

〔分かった! ピーコちゃん呼んでくる!〕

〔御意!〕

 ジョー殿はあっという間に突き抜けていった。

「待て! 止まれ!」

 とうとう男が呼び止めてきた。

 ハイル嬢も遂に諦められてしまった。足を運ぶのを止めなさる。

 丸い光が背後から照らされる。懐中電灯をあてているようだ。

「さっきから物音がすると思ったんだ。お前は誰だ?」

 こちらからでは見えないが、恐らく武器を持っている。それを察知されているようで、ゆっくりと、

「ぼくは……、」

 振り向かれた。

「たびの……たびの…………たび……た……」

 …………。

「なんだよ、はっきり言え!」

「…………」

 ……。

「何固まってんだっ!」

「……」

 ば、ばか、もの……。

「うわあああぁぁぁっ!」

 うおっ!

 ハイル嬢は力の限り駆け出された。相手は予想通り拳銃を所持している。しかし、あまりの唐突さに男は面食らっていた。

 今更構えても遅い。

「うわぁっ!」

 まず左脚上段蹴り。男の右のこめかみに直撃し、

「いやあぁぁっ!」

 吹っ飛んだ方向に(かぎ)打ち。これは左の脇腹に突き刺さる。

「ひいぃぃっ!」

 再び左脚で相手の右脚を引っ掛けて倒し、

「うわあぁぁぁぁっ!」

 相手の顔面へ下段突きを食らわせた。

 これまでの所要時間、僅かに数秒である。

 男は声を上げる暇もなく気絶した。いや、下手をすると死んで……?

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 ハイル嬢が逆上したのも無理は無い。この男……衣服を着ていないのだ。恐らく男たちも焦っていたのだろう。武器だけはしっかり持つも、肝心の服を忘れてしまった。

 普通の男なら普通に挨拶して終わるはずだったのに、服を着なかったばかりに暴漢と勘違いされ……この有り様となる。敵ながら同情してしまう。不幸中の幸いは、あまりの動揺で金的攻撃をされなかったことである。いろいろと本当に危なかった。女性なら身が凍る体験であろう……。実際私もだ。

「……ん?」

 ふと、ハイル嬢が何かを発見された。

「なんだろう、これ」

 灯りを当てると、メダルのようなものだった。

〔この男のものではないかと思われます〕

「そうだよね。多分、吹っ飛んじゃったんだ。いきなり殴っちゃったのはまずいから、これは置いていき、」

「何してるのかしら?」

「え?」

 木陰から女がやって来た。よかった、きちんと服を着ている。急いだためか多少ははだけているが。

「あら、あなた可愛いわね。ちょっとお姉さんに付き合わない?」

 ぼっと顔を()で上げられる。

「ご、ごめんなさあぁぃっ! しつれいしましたあああぁっ!」

 脱兎のごとく逃げることとなった。

「あの男の子、市民権持ってるのね。……ちょっと参加してみようかしら」

 

 

 翌朝。体温を上げてくれる太陽が昇り始めていた。森の木々の隙間にその光が差し込み、森全体を照らしてくれる。

「……」

 ハイル嬢は惨憺(さんたん)たるお姿だった。あまりの動揺で走りっぱなし。お顔や髪の毛が荒れに荒れまくっておられる。

「……つかれた……」

 とりあえず、髪の毛を直され、携帯食料と水を勢い良く食された。さすがにお腹が空いたご様子。

「も~、あれ、トラウマになりそう……」

〔しかし、あの早業はお見事でした。一切の隙もない、まるで流れるかのような連撃に、思わず見惚れてしまいました。これなら多少の困難も突破できると確信します〕

「……」

 にへ、と微笑む。

「そんなに褒めたって何にも出ないよ、クーロっ。えへへ」

 少しは元気になられただろうか。

 しかし、現在位置が分からなくなってしまった。もともと迷子になっていたのに、さらに迷い込んでしまう。

 ハイル嬢は指笛でピーコを再び召集された。

〔ハイルちゃん、また迷子?〕

「そういうこと言わないでよ……」

 しゅん、と落ち込まれてしまった。せっかく気分を上げたのにっ。

〔これピーコ! せっかくハイル嬢のご気分を良くしたのにっ〕

〔なら、いい情報があるわよ?〕

「なに?」

〔このまま真っ直ぐ進んでいくと、大きい国が見えるわ〕

「ほんとう?」

〔えぇ〕

 ピーコはまた空へと飛び立った。

 ピーコの言う通り進んでいくと、

「あったっ」

 確かに国が見えてきた。森の中に(そび)える灰色の城壁。中へ入る門の奥では街が広がっていた。さらに奥にはドーム状の建物が見えている。

 門を抜けていくと、街が目の前に迫った。

「……」

 随分と薄汚れた街だ。掃除という行為を知らないのか、ゴミは放置され建物は汚れ、道はゴミクズだらけだった。それと比例するように、住民たちも汚れており、まるで生気を感じられない。恐らくまともな国政を執っていないため、劣悪になってしまったのだろう。つまり浮浪者ということだ。元気なのはゴミを漁る痩せ細った犬とカラスくらいだった。

 街中は悪臭が立ち込めている。食べ物や“何か”が腐ったような臭いと、カビ臭さが凝縮したようだ。今すぐに疫病が発生してもおかしくない、最悪な環境だった。

 ふとして、ハイル嬢が横に向かれた。中年の兵士が欠伸をかいて、こちらを見ている。

「こんにちは」

「やあ、こんにちは旅人さん」

 こんな街とは裏腹に、とても優しそうな兵士だった。

「おや、坊やも出るのかい?」

「? 出るって……何に?」

「知らずにここに来たのかっ」

「うん」

「はぁ……」

 溜め息を吐かれた。何かあるのだろうか。

「いいかい坊や。ここはこの国に住む権利を得るためにトーナメント制で戦う場所なんだ。優勝者にはその権利をもらえると同時に、一つだけ規則を作っていいことになってる」

「市民権を懸けて戦うんだね?」

「よく知ってるね。その市民権の証としてこいつが授与されるのさ」

 ポケットからキラキラと光るメダルを見せてもらった。

「あ、それ知ってる」

「え? 持ってるのかい?」

「うぅん。ぼくは持ってないけど、旅の途中でおじさんが持ってたよ。これでしょ?」

「そうそうこれこれ、ってあれ? 持ってるじゃない」

「……あれ? どうして……あ」

 昨晩、男を打ちのめした時にメダルを拾われていた。返そうとしたタイミングで女が現れたため、そのまま持ち出してしまったのだ。

 しかしこの兵士の話が本当なら、ハイル嬢は市民権とやらを持つことになるのだろうか。

 事情を説明されたハイル嬢は、

「ちょっと待ってな」

 兵士に待機するように言われた。兵士は走ってどこかへ行ってしまった。

 数十分後、兵士が帰ってきた。

「仲間に聞いてみたんだが、もしかすると直接王様と会わなきゃいけなくなるかもしれん。覚悟はしといてくれ」

「構わないけど……むしろぼくみたいなのが謁見(えっけん)してもいいの?」

「前代未聞の市民権強奪騒ぎだからな。王様が直接確かめられる事案かもしれないとか」

「そっか。ごめんなさい、迷惑かけちゃって」

「いいよいいよ。気になさんな」

 笑いかけてくれた。

「俺も君くらいの息子がいてね。君が出場すると、子供が出てるようで気分が悪いのさ。ここの観客、頭おかしいの多いから、そういう“趣味”のやつも多いのよ」

「そうなんだ」

「ここで市民権が認められれば、そんなこともなくなるからな。俺にとっちゃありがたいのよ」

「おじさんは優しいんだね」

「おじ……まあ、な。あははは」

 とても悲しい笑いだった。“お兄さん”と呼んであげるのが礼の形、ということだろう。

 しばらく待っていると、上司らしき兵士がやって来て、相談が始まる。その結果、やはり由々しき事態とのことで、ハイル嬢は国の王様と謁見されることとなった。

 兵士二人はハイル嬢を丁重に案内した。どうやら国王から丁重に扱われよ、とのことだ。

 国王の住む場所は意外にもドームの外側にあった。そのドームの奥へ回り、そのまま真っ直ぐ向かう。すると、王族が住みそうな豪華絢爛(ごうかけんらん)な屋敷が見えてきた。まるでお伽話に出てくるかのような美しい屋敷だ。ただ、場所が場所だけに淀んで見えてしまうのが残念だ。

 中に入ると、

「え?」

 ハイル嬢が驚かれた。

 左手に二階へ上がる階段、正面は待合室、右手はどこかへ通じている通路があった。内装も黄色と橙色を中心に豪華さを演出していた。待合室には大きな古時計とソファ、挟むようにテーブルが置かれている。ここのどこに驚かれたのだろう。

「どうした?」

「ここ……臭いがしない……」

 そ、そう言えば、外の悪臭がほとんどなかった。私は鼻がそこそこ利くので、まだ臭いがするが。

 すると兵士は入り口を閉め、もう一人がその場にしゃがんだ。

「!」

 床をがっと上げた。隠し階段だ。ここから風が漏れだしている。なるほど。この風が臭いを吹き飛ばしていたのか。

 兵士たちはその隠し階段を降りていった。ハイル嬢も付いていく。

 真っ暗で何も見えなかった。仕方がなかったので携帯電灯を持って進んだ。歩いていくと、遠くで灯りがぼんやりと見えてくる。

「こ、ここって……」

 そこには兵士たちが屯していた。木製のテーブルに何人も座り、雑談を交わしている。そこには料理や酒が振る舞われており、食事をしていた。ここが兵士の食堂である、とハイル嬢は理解された。

 兵士二人がそのまま突っ切って行くのを、ハイル嬢は慌てて追いつかれる。誰もハイル嬢に興味を抱かなかった。

 そこからも複雑に進んでいく。まるで牢屋のような部屋があったり、地上へ出る階段があったり、何かを捨てている場所があったり。

 そして、ようやくそれらしい部屋の前に辿り着いた。他の場所と違い、そこだけはとても綺麗で、木製の扉も上質なものだった。

 コンコン、と乾いた良い音を鳴らす。入れ、の声に兵士は扉を開けてくれた。促されるまま、ハイル嬢は入室された。

「ようこそ我が国へ! 小さき旅人よ」

 国王自ら出迎えてくれた。国王らしい派手なマントと衣装を身に纏っている。ちらりと頭を見ると、少し地味な王冠を被っていた。五、六十代の男で、両手に若い女を置いている。性格もそれらしい、か。

 部屋は王室と言ってもよいくらいにきらびやかだった。最高級の赤い絨毯に白い壁紙、金の装飾、宝石と、光をあてるとどこも輝きそうだ。右手の端に隣室が設けられ、国王はそちらで睡眠を取っていることが窺える。

「……!」

 じっとハイル嬢は国王を見つめられた。何か驚かれているようだ。

〔どうされたのです?〕

「ううん」

 気を取り直し、挨拶をされた。

 真っ白のテーブルクロスを引いたテーブルに、

「こんにちは、王様。この度はお招きいただき、ありがとうございます」

「こんにちは旅人さん。まずは座ってくれ。固くならなくていい」

「はい。失礼します」

 ひょこっと着いた。

 国王は女たちを帰らせた。あっちでね、と下品に笑いかけると、手で返事する。

「ふむ。何か食べるかい?」

「いえ。先に済ませてきましたので」

「じゃあ、飲み物は?」

「うーん……アイスココアってありますか?」

「あいすここあ? 聞いたことがないな」

「ではオレンジジュースはどうでしょう?」

「それならある。至急用意させよう。おい、すぐに持って来い。私は紅茶を」

「はっ」

 兵士に伝えると、すすすっと退室した。

「申し遅れました。ぼくはハイルと申します。こっちはペットのクーロです。この度はご迷惑をおかけしました」

 ハイル嬢は私をテーブルへ降ろしてくださった。

「おお、なかなか礼儀正しいな。育ちが良い。それにそのペットはハムスターだろ? 中々綺麗に手入れしているな」

「はい、ありがとうございます」

 さすがに一国の王との謁見では、かなり固くなられている。

「確か……ハムスターも貴族の中で流行っている動物。もしやどこかの王族かな?」

「え、えっと……その……」

「今、ここには二人しかいない。世間話くらいに受け取ってくれ」

 これがカマかけであることは分かっている。しかし、ハイル嬢は、

「……分かりました。ぼくは異国の王子でして、世界中の動物を見たくて旅をしております」

 なぜか素直に打ち明けられたのだった。ぎりぎりまで身元を明かされた。

 嘘かどうか分かっているのに、どうして嘘を突き通さないのか、私には分からなかった。しかし、この国王が恐ろしく鋭いことは確かだ。流石に一国を治めるだけのことはある。

「それは大変立派なことだ。動物に詳しいといえば……ああ、あのサバンナに構える国であられるか」

「! そこまで分かるんですか?」

「こう見えても顔は広くてな。えーっと……“イタチ”国王だったか……?」

「……!」

 ハイル嬢は小さく“チタオ”国王であることをお伝えした。

 ここまで見破られたのは初めてだ(お名前は惜しいものの)。しかもハイル嬢の出身国はとても外れにある。そこまで認識されているとは、並大抵のものではない。この国王は間違いなく本物だ。

 しかしこんなに聡明で頭の切れる国王なのに、なぜこんな国にしてしまったのか。まだ政権交代したばかりなのか、それほどに劣悪なのか……。

「さて、本題に移りましょうか。“アイレ”殿の市民権について」

「は、はい」

 どうやら名前を覚えることが苦手なようだ。今回は訂正をされなかった。

「市民権授与については問題無いと考える。この国にとって市民権は命と同価値。それを奪われるということは、命を奪われると同じ。逆に言えば、奪い取った者こそ市民権を有するに値する」

「は、はぁ」

「しかしそれが一国の王子となると、話が変わる」

「え?」

「ここの市民権を得るということは、亡命する、ということになるのでは? 自国民であることを捨て、我が国の市民になるということだから」

「あっ、あぁっ! た、確かにっ」

「こっちとしては一向に構わないのだけど、少々まずい。よって、可能ではあるが推奨はしない、と結論付けた」

 確かに国王の仰る通りだ。私も軽く考えていたが、突き詰めればそういうことになる。論理的であり親切な応対にハイル嬢も安心した。

 考える間もなく、

「ごめんなさい。ぼく、軽く考えてました。申し訳ないけど、市民権は放棄します」

 丁重にお断りした。

 国王も特に無理強いされることなく、これを承諾してくださった。

 ハイル嬢はメダルを返還された。

「……! このメダルは……」

「? なんでしょう? ちゃんと本物のはずですっ」

「いや、そうではない。これを見てくれ。歯型が付いているだろう?」

「? ……はい。ぼく、噛んでもないですよ?」

「これはな、第二代のメダルなのだ。つまり二人目の市民権所有者だ」

「よくご存知なんですね」

「こいつは今まででとても印象深くてな。武術の達人で、あっという間に優勝してしまった実力者なんだ」

「へぇ……う……」

 嫌なものを思い出してしまった……。あの者が……信じられん。

「これをどこで?」

「昨日、野宿してたら襲われそうになって……。無我夢中で戦ってたら……」

「なんと! 戦って獲得したというのかっ」

 は、はい……、と言葉が突っかかってしまう。心臓が飛び出るかと思った……。しかし、(あなが)ち間違いでもないのが怖い。

「あの男に勝利した一国の王子……。ぜひトーナメントに参加してもらって戦いぶりを見てみたいもんだ」

「……あはは、照れるなぁ」

 ハイル嬢は照れ屋さんなのである。

 トントン、と小さくノックがした。入れ、の言葉に兵士が静かに入室してきた。銀のトレイに載っているカップとガラスコップ。コップにはオレンジジュースが並々と注がれていた。それをゆっくりハイル嬢に差し出す。紙の包みに入ったストローも添えて。

 国王のカップは金色の装飾が施されており、とても高級そうだった。できたてなのか、ふわっと湯気が立ち上っている。ふむ、と紅茶の色を確かめられた後、ぐいっと口に含まれたのだった。

 良い、という一言と一緒に笑みを零された。

 ハイル嬢が素朴に質問された。

「王様はどうしてこのような国に? 今話してみると、この国の惨状をすぐにでも打開できると思うんですが」

「ん? ああ、楽しいだろ?」

「楽しい?」

「刺激のない生活なんてひどくつまらないものだ。全身の血が抜かれているような感じがするんだ」

「でも道端で人が死んでいたり、飢えていたりしていますよ? 内戦が起こったみたいです」

「いいんじゃないか? それで」

「いいって……人が死んでもってことですか?」

「弱肉強食、死んだならそれまで。それも刺激の一つに過ぎない。面白ければなんだっていいさ」

「……」

 言葉に詰まるハイル嬢。頭が切れるだけに思考がぶっ飛んでいる。国王自身が無秩序や快感、自堕落を欲するなんて……。

 ハイル嬢が珍しく、

「……なら、メダルや大会参加を放棄したぼくを処刑した方がもっと面白いのでは? 醜くさえずって死ねますよ?」

 カマをかけられた。

「ありきたりでつまらん。君には生きてもらった方が面白くなりそうだからな」

「? どういうことです?」

 国王はなんと、先ほどのメダルをハイル嬢に手渡された。

「これを私の息子に渡してきてほしい」

「王様にも息子さんがいらっしゃるんですか?」

「才能はあるのだがね、恐ろしく甘ちゃんだ」

「その息子さんは今どこに?」

「さあな。私が国王になったと同時に飛び出してしまったよ。だから未だに市民権を持っていないのだ」

「そうなんですか。……そっそうだ。なら、いつか国王になるんだから、トーナメントとは別に、メダルの授与式を正式に開いてはどうでしょう?」

「おー、名案だな。さすがは一国の王子。若いながらもとても賢い」

「それほどでもないです……」

「それに比べてあの甘ちゃんときたら……つまらん男よ」

 先ほどから何か違和感を覚える。

 私はハイル嬢のお手元へ擦り寄る。指をかじかじした。ちらりと見やってくださったハイル嬢は、

「なんでもないよ」

 と、私の鼻先を撫でてくださった。その笑顔はどこか強張っておられた。そうか、極度に緊張されているのだ。でもどうして……?

 もう一度国王へ顔を向かれる。

「それは分からないです。成長して、すっごく頼れる人になってるかもしれません」

「想像もできないな。大方、自分の甘さが(あだ)となり、どこかの賊にでも追われているだろうよ」

「わからないじゃないですかっ! 会ってみなきゃ!」

「……」

 珍しく怒鳴られた。この予想外に、国王も驚かれている。

 ごめんなさい、とハイル嬢は謝罪された。

「ふむ……」

 ご自身の顎に手を添えて、考えられる。

 ハイル嬢が怒鳴られることはほとんどない。それは相手の気持ちを理解しており、怒鳴らずともどんな言葉をかければいいのか把握されているからだ。天真爛漫ながらも、言葉に気を付けられているはずなのだ。

 そうすると……あれ……?

「では、君が奴を捜している間に、私は式典の準備をしておこうか。頼んでおいてなんだが、一週間ほどしか期限がない」

「……え?」

「大会が一週間後なんだ。これはきっちりやりたい。もし見事成し遂げてくれたら来賓者として、特別に招待したい」

「……招待、ですか」

「そして奴の授与式の際に、君を紹介したいんだ。国王の依頼を成し遂げてくれた功績として」

「……」

 大会やトーナメントというのは言葉に過ぎぬだろう。中身はただの殺し合い。刺激や面白さだけを追求した国王なら、“試合”なんてつまらないと考えるだろうから。

 正直、国王直々の申し出とはいえ、そこまで出席する義務はあまりない。それに、ハイル嬢を一国の“王子”として扱われている。

「一つ、お願いがあります」

「なんだろう?」

「ぼくを“王子”として招待するなら、お断りします。ぼくは王子じゃなくて、ただの旅人なんです。しかも時間がないかもしれないから、出席できるかも分かりません」

「ああ、出席はそちらの都合に合わせよう。依頼を達成さえしてくれればいい」

「ありがとうございます。なら安心してください。五日あれば余裕です」

 にこりと微笑まれた。

「はっはっは。頼もしいな」

 

 

 かくして、王子捜索を依頼され、我々は早速捜索を開始した。

 国の出入りを許可されたハイル嬢は、まずは国周辺の捜索から開始された。こんな所にはいないとは分かっているが、念のためである。“灯台下暗し”となっては馬鹿げてしまう。

「やっぱりいないね」

〔ハイル嬢、少々気になることがあります〕

「なぁに?」

〔この依頼、ハイル嬢を足蹴(あしげ)にするためではないでしょう。あの国王は中々のやり手と思われます〕

「うぅん、違うよ。その息子さんと私を……婚約させたいんじゃないかな」

〔え?〕

「多分、私のこと見抜いてると思う。私の国やお父さんのことを知っていれば、王子なんていないのも知ってるだろうし」

〔では依頼は、その取っ掛かりに過ぎないということですか?〕

「うん、きっとね」

 普通に考えて、行方不明の王子の存在を明かしただけではなく、捜索の依頼を出すのはありえない。下手をすれば誘拐や暗殺され、大騒ぎになってしまう。それをハイル嬢に教えられたということは、自分の身を削ってまでお近づきになりたいということだ。

 ハイル嬢はおそらく、あの話の流れからしてお気付きになったのだ。いくら身分を捨てたとは言え、正当な王族の血統に間違いはない。

 ハイル嬢がなぜそれらをご理解されても、依頼を承諾されたのか。私にははっきりとは分からぬが、ハイル嬢なりのお考えがあってのこと。私はただ、ハイル嬢の意に沿うだけのこと。

〔それともう一つ、ハイル嬢はどうして普段以上にかしこまられたのです?〕

「……」

 ハイル嬢は沈黙され、王子捜索に集中された。何か都合が悪かったのだろうか、どんどん奥へと進まれた。そして、口を開かれたのは数分後のことであった。

「……初めてだったんだ」

〔え?〕

 国王との謁見のこと?

「違うよ。……ぼくは今まで、探ろうと思えば、どんな人の気持ちだって探ることができたんだ。でも、あの人は違った。まるで頭の中にジャミングでも張ったみたいに、いろんな“声”が入り混じってた。何を言ってるのか全然分からない……」

 ということは、ハイル嬢でも気持ちが読めない相手ということ?

 なるほど、普段以上に緊張されたのはそのためなのか。ある程度、丁寧に応接されることはあっても、もう少しフランクに、そしてもう少し柔らかかった。あんなに狂った国王とはいえ、威圧感や雰囲気は本物だ。

「どうしてこんな力を持ったんだろうって悩んで引きこもったこともあったのに……。今じゃ相手が分からないと怖くなるなんて、ちょっと複雑だよね」

 ふふ、と少し暗い笑み。自嘲されているかのようだった。

 私はその話は……しかし、それ以上深入りしないようにした。誰にでも話したくないことはあるものだ。

 さて、とハイル嬢は気を取り直された。

「クーロ、どうしよっか? みんな呼ぶ?」

〔少し心配です。そこまで大事になってしまうと、さすがに気付かれてしまうのでは? 王子もペットとご一緒だと仰っておりましたし〕

「うーん」

 王子の情報は王様直属の部下から既にいただいている。身丈や体格、服装、武器その他といったところまで。もちろん、国王がご存知の限りではあるが。

 捜索は我らの専門とするところ。皆の者に召集をかければ、ものの二日三日で捜し当てることが可能だ。ところが王子はペットを飼っていらっしゃる。もし数で捜索すれば、追われていると誤解されてしまう。ただでさえ国王と王子は仲が悪いのに、そうなったら捜索どころではない。戦いも視野に入れなくては……。

〔どうされましょう?〕

「うーん、機嫌を損ねたら……戦うことにもなるんだよね」

〔十分にありえます〕

「いい人そうだし、そういうのはやだなぁ……。うーん……」

 さすがに宛もなく捜し回るというのは効率が悪すぎる。何か、手掛かりがあれば良いのだが……。

 私も考えていると、

「閃いた。いいこと考えたっ」

 ハイル嬢が思い付かれた。しかも“あの怖さ”はない。とても平和的な方法ということだ。とても安心した。

 すると、トテトテと国へ戻られ、何かを探されていた。途中で兵士に尋ねられる。

「あの、ここって馬って飼ってる?」

「使いたいのかい?」

「うん」

 ハイル嬢がここまで自由にされるのは、国王の計らいがあってのこと。正体は明かしてはいないだろうが、国王の客人としてまかり通ってはいるようだ。

 兵士は丁寧に案内してくれた。そこはあの屋敷の右手にあった通路だった。そちらを進むと国の外へ通じている。馬を何十頭も飼えるほどに大きい馬小屋に、踏み心地のいい芝生。灰色の城壁が見えているということは、屋敷の裏庭という表現の方が近いかもしれぬ。

 他の兵士たちがお世話している。

 じっとハイル嬢が“彼ら”を見つめると、とある一頭をお選びになった。毛並みの綺麗な灰色の(めす)馬だ。

「この子が一番速そうだね」

「! 旅人さん、この馬はちょっと気難しい馬なんだ」

「うん。知ってる」

「……え?」

 確かに気性の荒い馬だ。あのハイル嬢が触れるだけで拒絶されている。

「他にも速いのはいるぞ?」

「いいじゃないか」

 背後から声がした。

「! こ、これはっ! 国王陛下っ!」

 その一言でその場にいた兵士たちが全員平伏した。国王の御前に。

「な、なぜこのような場所へっ? こちらにいらっしゃるのでしたら、我々が護衛しましたものをっ」

「ちょっと気になったものでな」

「何をです?」

「まあ見てろ。あの旅人はただの坊やではないらしいぞ?」

「?」

 さすがに事情通なだけあって、ハイル嬢のお力もご存知か。

「……うん、うんうん……そっか。大丈夫、ぼくはヒドイことしないよ」

 ざわっ、と兵士たちがどよめきだした。

 いつもの“会話”が始まっている。馬の言葉はちょっと“(なま)り”が強いので、私には理解しづらい。それに何か興奮しているようで尚更だ。ただ、気持ちは伝わる。世話をしている者たちへの罵詈雑言をハイル嬢に話しているようだ。

 ありがと、と一旦会話を終了された。そして、ある兵士の前にだんと詰め寄られた。

「あなた、この子の出産に立ち会ったよね?」

「! な、なぜそれをっ?」

 ぶったまげていた。

「弱ってたからって殺したんでしょ? すごく怒ってるよ。それも笑いながら蹴っ飛ばして……ひどいことするよね」

「え? え? えっ?」

 青ざめるというより、なぜそんなことを知っているのか、という驚愕の表情だった。

 ハイル嬢はお怒りのようだ。

「その……だってよ、もう死にそうだったんだぜ? あのまま生かしてもよ……なあ?」

「あれは死にそうだったんじゃなくて、立とうとしてたんだよ。その子はとっても元気だった。可愛らしくてちょっと不器用なメスなだけで、ね」

「!」

「どう落とし前つけるの? 未だに怒ってるよ?」

 兵士はようやく青ざめた。ハイル嬢の仰っていることが出鱈目でないことを悟ったようだ。おそらく、子供の性別のことまでは誰にも話していなかったのだろう。

「……こ、国王陛下……これは何かの超能力なのでしょうか……?」

 国王の近くにいた兵士が言う。

「ふむ。これほどとはな。あの坊や、その手の界隈(かいわい)では有名らしくてな。あらゆる動物と会話ができるらしい」

「本当なのですか?」

「私もにわかに信じられんかったよ。でもこうして目の前で起きている。信じるしかない。思った通り、面白い坊やだよ」

「……」

 口が開いたまま塞がらない。

 さて、ハイル嬢はどうされるのだろう?

「その、悪かったよ。ごめん……」

「それだけ? 本当にそれだけでいいの?」

「すみませんでした! どうか、お許しをっ!」

 その場で土下座した。

「ぼくじゃなくて、あの子に謝ってよ」

 ハイル嬢は男の腕を強引に掴み上げ、その馬の前に連れてかれる。そして、土下座させた。

「ほ、ほんとうに……ごめんなさい……」

「……」

 ハイル嬢の目がとても冷ややかである。

「……うん、うんうん」

 そして“会話”される。

「もう十分? ……ウソは言っちゃダメだよ。気持ちは晴れてるけど、奥底でまだ憎んでる。ぼくはウソも分かるんだ」

「!」

 突如、銃声がした。あまりにも突然で誰も動けなかった。

「……」

 流石の国王も舌を巻いた。ハイル嬢は土下座していた男の頭を……吹き飛ばした。

 急すぎたので、男は土下座のまま絶命していた。細かに痙攣し、噴水のように血と謎の液体が混じりながら流れ出していく。綺麗な芝生に鮮血が滲んでいく。

 ハイル嬢の右手には銀銃が握られていた。いつの間にか抜かれていたようだ。

 兵士たちはその場を動けずにいた。時間は経っているというのに。それはあの抜き手も見せぬ早撃ちが脳裏に焼き付いていたからだった。下手に動けば自分の頭にも風穴が空く。それが現実となり、恐怖で足が(すく)んでいたのだった。

「この人もウソついてた。馬ごときに、どうして俺が謝んなきゃいけねえんだよ、って思ってた。……ぼくは君の気持ちを癒せないけど、鬱憤は晴らせたでしょ? ……うんうん、そうそう。そう正直に話せればいいんだよ。……これからは他の人たちとも仲良くね。これ以上蹴り殺しちゃダメだよ?」

「……!」

 他の兵士たちの震えが直った。槍を構えながら、一斉にハイル嬢を取り囲む。

「お前、何をしたか分かってんのかっ?」

「この子の仕返しを代わりにしただけだよ」

「馬なんかで仲間を殺しやがってっ! こっちだってそいつに殺されまくったんだ!」

「愛する我が子を殺したくせに、よく言うよ。あの子にとってはこれでようやく対等なんだ。それに、最初から謝ってればこんな事にもならなかった。そうでしょ?」

「ぐ……」

 ハイル嬢の仰ることにも反論の点はある。が、それよりもハイル嬢の雰囲気に飲み込まれていた。

「それに、この子たちがいないと遠征もできやしないくせにね」

「っ……」

 もう片方の手がもう片方の銀銃へと伸びている。あれ以上何か言えば、綺麗な芝生がまた汚されるところだった。

 王様、とそちらへ向かれた。銀銃を手にされたまま。

「ぼくはどうなるんでしょう?」

「ふむ……」

 口元に手をあてられる。国王は意外と迷われていた。

「国王陛下! すぐに処刑の命を!」

「そうです! 仲間が殺されたのに、指をくわえているのは嫌であります!」

「……」

 あの時、私は“あの怖さ”がないと言った。それはあの時点でのことだったようだ。つまり、ハイル嬢はこのような事態を望まれていなかったということ。……本気でご自分を責めていらっしゃる。だからこそ、罪を国王に委ねられたのだ。

「……今、私は旅人に重要な任務を課している」

「!」

「かつての報酬を無効とし、新たに無罪放免を報酬として授けることにする」

「重要な任務……?」

 あの旅人ごときに、国王陛下自らが? という疑問の声が飛び交う。兵士たちはざわざわとどよめいた。我々の思惑外のことを国王陛下は考えていらっしゃるようだ。

 それよりも、ここの兵士は頭がおかしいのかと思ってしまう。確かに兵士の恨みを晴らさんとハイル嬢を取り囲むまではいい。だが、今はそのことをすっかり忘れている。死んでしまった者として、もう過去の遺物にしてしまっていたのだ。

 この国は、狂っている。しかしそれ以上にハイル嬢が狂っている、そう考えているのが見え見えだ。

 そのことを、ハイル嬢はどう思われているのか分からぬが、

「ありがと。ぼくにはもったいなすぎる報酬です。あと、この子をお借りしてもいいですか?」

「よかろう」

 表情には全く表さず、話を進められた。

「よければ褒美として授けても良いぞ?」

「うぅん。それはこの子が望まないみたい」

「? なに?」

「今まで育ててくれた恩と兵士さんたちを殺してしまった罪、あとぼくのことも含めて、罪滅ぼししたいって。これからは仲良くしたいってさ」

「……」

 兵士たちは呆気に取られたようで、

「はっはっは! やはり、私の目に狂いはないようだ、あっはっは!」

 国王だけが笑われていた。

 

 

 ハイル嬢は馬の“エリー”殿と共に森の中を駆けていく。

 エリー殿も落ち着いたようで、私もようやく言葉を交わすことができるようになった。

「さすがに速いね」

 乗馬の経験はないが、エリー殿が親切に教えてくれていた。

〔さすがに上手いのね〕

「プロに教えてもらえば、それなりにできるものだねっ」

〔それで、国王陛下に依頼された任務って何なの?〕

〔実は行方不明中の王子の捜索することなのだ〕

〔ああ、シズ様ね? あのお優しい王子様の〕

「やっぱりそうなの?」

〔ええ。よく私たちに話しかけてくれたわ。答えてあげられなかったのが残念だけど……〕

「ねぇ、一体どういう人なの?」

 ハイル嬢が踏み込まれた。

〔強い者こそが正義、そして市民権を持つに相応しい。国王陛下のこのお考えに反対されてたの。さらにはその戦いを商売として、仕立てあげてしまうのには強く拒絶されていたわ〕

「確かに気持ちのいいことじゃないね」

〔そう言えば、国王は“私が国王になった時、この国を飛び出してしまった”と仰っていた。つまり、以前の国王は選挙か何かで落選した、ということか?〕

〔あの国は何年も前に革命が起こったの〕

「か、革命?」

〔要するに、国王の考えに不満を持つ民衆があらゆる方法で国政を奪還することよ〕

〔つまり、あの国は一度は滅びた……〕

〔その通り。前国王はとてもお優しい方でね。平和と愛が溢れる国を作っていたわ。それはもう誰もが憧れる理想の国だと聞くわ。ところがその理想に反対する者たちがいたの〕

「それが現王様だね?」

〔ええ。現国王陛下は刺激的な方なの。平和と愛だけでは国は栄えない。もっと面白くすべき、もっと楽しい国にすべき、と。その不満が爆発して、仲間たちと革命を成功させた。あまりに極端すぎて堕落して、国が満足に機能していないけれどね〕

〔あの(すさ)み具合では、な〕

〔まあね。そこから今に至るわけなんだけど、シズ様はどこか逃亡してしまったの〕

「そうなんだ」

 でも、確かに昔よりは栄えている、とエリー殿は付け足した。

 確かに、あの得も言えぬ独特な雰囲気と威圧感は、裏返すとカリスマ性とも思える。それが功を奏し、さらに国力を増大させていったのだろう。逆に言えば格差が増大しているともいえる、か。

「でも、エリーはどうして王子を知ってるの? エリーがここに来てまだ日は浅いよね?」

〔そうね。まだ数年くらいかしら。……実はここだけの話なんだけどね……〕

「う、うん」

 おずおずと返事される。

〔王子は年に数回、帰国されてるのよ〕

「えっ?」

〔なに?〕

〔と言っても正式な帰国じゃなくて、まるで潜入してるようだったわ。どんな用事かは知らないのだけれどね〕

「ってことは……あれ? おかしいよね?」

〔何がでしょう?〕

「だって帰ってきてるんでしょ? だったら、その時にこのメダル渡せばいいじゃん」

〔それはハイル嬢に届けてほしいということだったのでは?〕

「そうだけど、いくら婚約のためとはいえ、王子がいるって教えちゃうかな? 暗殺されるかもしれないのに」

〔それはそうですが……〕

「ぼくたちが違う形で出会うのって、何か都合が悪いのかな?」

〔とにかく会ってみないことには分からないわ〕

「そうだね」

 私は何か、悪い予感がしてならない。国王の策略……というより、何かこう、歯車がかち合わないような、すれ違っているようなそんな感じがする。

〔そう言えばハイル嬢〕

「なに?」

 そして、私も決心してお尋ねした。

〔王子を捜す作戦はどうなったのでしょう?〕

「……」

 現在、ハイル嬢は森の中をどこへともなく、エリー殿を走らせている。ここまで勇猛果敢だっただけに、お尋ねできなかったのだ。

 まさか、馬を借りれば何とかなるとお思いになったのでは……。

「ごめん。ここから何も考えてなかったっ。あはっ」

 そ、そんな可愛らしい笑顔で白状されても……困りますっ!

 そこにエリー殿が割って入った。

〔……ハイルさんは動物とお話ができるのよね?〕

「うん」

〔なら、誰かに連絡を取ってもらって、王子様のお供に面会の用を伝えればいいんじゃないかしら?〕

「…………」

 …………。

「そ、そっかあぁっ! そんなこと、ちっとも考えてなかったぁっ!」

 エリー殿頭いいっ! 私もそんなこと、微塵にも思わなかった!

「堂々と伝えればよかったんだねっ! うんうんっ!」

 その手が使えるなら、ピーコに手紙を送ってもらうという手段もあったかっ! 我ながらなんと鈍かろうかっ!

 

 

「シズ様」

「どうした陸?」

「鷹が飛んでいます」

「……! 本当だ。こんなところに珍しい……」

「こちらにやって来ます」

「そのようだね」

「……目の前まで来ました」

「……? 何か手紙があるね。言葉が通じればいいのだけれど」

〔シズ様と陸様でいらっしゃいますか?〕

〔! そうだが?〕

〔私はハイルと呼ばれる旅人のお供ピーコでございます〕

〔ふむ〕

〔唐突で申し訳ないのですが、ハイルはシズ様との面会を望まれております。ここより南東へ百二十五キロの宿泊施設に、ハイルがお待ちしております。どうか面会をお願い致します〕

「……シズ様」

「あぁ。どうやら俺に用があるみたいだな」

「どう致します? 個“犬”的には悪い輩ではない気がします」

「この文書……由緒正しき文法が使われている。何気なく書いたのだろうが、どうやら上流階級の者のようだ」

「では、面会に向かわれると? 道を大きく外れることになりますが」

「誘われたなら、出向くしか無いだろう」

〔誠に感謝申し上げます。誘導は致しましょうか?〕

〔そこまでには及ばない。自力で行ける〕

〔分かりました。では、先にお待ちしております〕

「……あの鷹、伝書鳩の代わりもできるのか」

「そのようです。見事に調教されていました」

「……行くか」

「はい」

 

 

 



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第九話:――まで・b -root of C・b-

 森の中にひっそりと佇む宿。旅館というよりホテルに近い作りだが、二階建てまでの小さな宿だ。

 円状で木板や丸太を使って、器用に組み立てられている。全体的に焦げ茶に配色されており、窓としてガラス張りがされている。

 入り口は両開きのドア。そこを開くと、明るめの暖色系の灯りが灯っている。外と同色の木製のテーブルや椅子が並べられており、中心に円状のカウンターがついていた。ここで従業員たちが調理したり受け付けていたりしている。つまり、ここはカフェなのである。

 二階へ行くにはカフェの左右についている階段を上らなくてはならない。吹き抜けになっており、(はり)や柱などが剥き出しになっていた。

 左手の階段を上り、ドアを開けると、真っ直ぐ通路が突き抜けていた。等間隔に個室が設置されている。薄橙色のカーペットを歩くこと三つ目の部屋。

「う~ん……」

 ハイル嬢が宿泊されていた。

 入るとすぐに通路があり、抜けると真四角の部屋となっている。通路の右手に浴室とお手洗いが一緒の空間があった。

 真っ白な硬めのベッドに木製の丸椅子と丸テーブル、一番奥に窓があった。窓からは森林の風景が見えている。

 ハイル嬢はベッドにて仮眠を取られていた。私はテーブルにて、

〔まだだろうか……〕

 ずっと待っている。

 窓からふっと黒い影が。

〔来たかっ〕

 コツコツ、と窓から聞こえる。ピーコだ。ハイル嬢は飛び起きられると、急いで窓を開けられた。

「どうだった?」

〔はぁ、緊張した……〕

「ありがとピーコ」

 ハイル嬢は労いに専用の餌を与えられた。そのまま部屋の中へ招かれる。

〔あと三十分くらいでこの街に来るわ。今のうちにカフェかどこかで待ってた方がいいかも〕

「ようやくかぁ……うーん、緊張してきた」

 我々はここで二日ほど滞在していた。エリー殿の王子が来るという予感が見事に的中したわけだ。ちなみに、エリー殿は森の外れに待機させている。これもエリー殿の提案で、自分がいると国王の使いとして警戒されてしまうとのことだ。

 “王子”同士の面会。このような事は極々稀だ。というか初めてに等しい。ハイル嬢もどきどきされている。

〔段取りを説明するわ。まず、私が店の入り口で待ってて、王子たちを奥の席に行くように促すわ。そこでハイルちゃんと王子が対面して、自然に席に座る。これだけよ〕

「ふ、服はどうしよう……正装準備した方がいいかな?」

〔ハイルちゃんは普通の服装でいいわ。相手も旅の服装のままみたいだし、それは気を遣わせてしまうだけ。その服装で十分よ〕

「そ、そっか」

〔基本的に王子のペットは私が相手するわ。この店、おそらくペット禁止の店だから。クーロも王子様が気に掛けるまで出ちゃダメよ? あくまで話題作りのためにいると思ってちょうだい〕

〔話題作り?〕

〔面会初っ端で本題に移れないでしょ? 世間話の流れで、自然と本題に移った方が変に緊張しないわ。その世間話の一つとして、クーロには活躍してもらうかもしれない〕

〔ぎょ、御意〕

 このようなセッティングはピーコの得意とするところなのだ。ハイル嬢も一国のお姫様ではあるが、まだお若い。事あるごとの来賓で助けてもらっていた。

〔気張っていくわよ!〕

 ピーコの指示通り、一階カフェの一番奥、壁際の席で待機された。店員さんにコーヒーを頼み、軽く嗜まれた。

 き、緊張するね、と震えつつにっこりされる。全く表情が綻んでおられない……。

 待っていた感じを出し過ぎないのがポイント。かと言って同じタイミングでの着席は失礼である……らしい。こちらが面会を希望した立場なのだから。

 十数分待っていると、恐ろしく馬鹿でかい騒音が聞こえてきた。どこかのサーキットかと勘違いしているように、バリバリと騒音を撒き散らしている。ハイル嬢も苦い顔をされていた。

 それから数分して、ドアに付いた鈴が聞こえた。つ、遂に……?

 ハイル嬢は固唾を呑み込まれた。

「あ」

 き、きたっ。正しく! あの方がそうに違いない! ピーコの情報通りの服装と出で立ちだ!

 二十代くらいの青年だろうか。ショートの黒髪に逞しい顔付きをされている。青のジーンズに少しタイトな緑のセーターを着ていた。腰には黒い棒のような物を携えている。

 身体も十分に鍛え込まれている。サイズが大きいセーターに“張り”が見られるのは、肉体が筋肉で膨れているためなのだろう。

 ハイル嬢がすくりと立ち上がり、お出迎えされた。

「こ、こんにちは」

「! こんにちは」

 低い声でいらっしゃる。

「君が手紙の差出人かい?」

「はい。こちらにどうぞ」

 程よい緊張だ。ここ一番の時、ハイル嬢はお強いようだ。

 先に相手を座らせてから、ハイル嬢も座られた。お供は外で待機されているらしい。ピーコの言う通り、外で話をしているようだ。

 ハイル嬢はすぐに店員を呼び付け、王子にオーダーを促された。ハイル嬢と同じコーヒーを注文される。

 ふぅ、と物凄く小さく息を吐かれる。

「初めまして、ぼくはハイルと言います」

「シズだ。よろしく」

「!」

 シズ様はごく自然にハイル嬢に手を伸ばされた。きゅっと握手を交わされる。

「……」

 その手をすっと見てから、手を戻された。まるで、何かを確認するように。

「……私と面会をしたいとあったが、どんな用事なんだい?」

 早速本題か。この場合では世間話は逆効果。ただの時間稼ぎにしかならない。

 ハイル嬢も、はい、と応えられた。

「どんな方なのかなって一目お会いしたかったんです」

「……は?」

 シズ様“も”理解されなかったようだ。

「実はここから北西にある大きな国に訪れたんです。そこであなたの話を聞きまして」

「北西だと?」

 明らかな険しい顔。やはりシズ様は良くは思っておられないようだ。

「その話は誰に聞いた?」

「……あの、その……」

 躊躇われるハイル嬢。意を決して、話された。

「その国の王様です」

「……そうか。ということは、君は国王の使いか?」

 一気に雰囲気が怪しくなる。ハイル嬢もそれを感じ取られたようで、表情に強張りが見られた。すぐにでも立ち去ってしまいそうだ。

 しかし、

「違います」

 きっぱり言い放たれた。

「ついでにお願いもされましたけど、関係なしにぼく個人の興味です」

 すっとコーヒーを一口。

「……」

 物凄く怪しそうに見られている。国王が自分を捜しに来ていると考えるのが当然だ。

 ところが、

「国王の依頼を“ついで”か……なるほど」

 ふふ、と微笑まれた。

「君にはどう見えるのかな?」

 よく考えれば、国王の時のように心が読めぬ状態ではない。それが分かったために、ハイル嬢は程よくリラックスされたのだろう。相変わらず、言葉の選択が巧いお人だ。

「……正直でもいいですか?」

 いいよ、と二つ返事だった。

「とても優しい方だと思います。見た目は冷たい雰囲気ですが、どこか人を見捨てることができない(たち)なのかなと」

「うん。……あとは?」

「……少し言いづらいことなのですけど……」

「構わない」

 何か、ハイル嬢には感じられているのだろうか。

「奥底に深い憎悪を感じます」

「!」

 ぴくっと瞼が一瞬閉じた。

「計り知れないくらいの憎しみ。何て言えばいいのか分かりませんが、今までの日常をぶち壊して、めちゃくちゃにした相手への(おぞ)ましい憎悪……と言うのでしょうか」

「分かるのかい?」

 いたずらっぽく。

「シズさんの視線と雰囲気から感じました。無数の切っ先を突きつけられているようで……“いたい”です」

 すまない、とコーヒーを口にされた。

「ここまで言われたのは初めてだ。占い師にもしてもらったことがあるんだけど、当てずっぽうで信用ならなかった。君はその方面だと有名になれそうだな」

「ふふふ」

 小さく笑い合う。

「ぼくには不思議な力があるんです」

「?」

「動物たちの気持ちが会話をするように伝わってくるんです」

「どういう意味だい?」

 興味深そうなご様子。

「例えばこうして人と言葉を介して会話するように、野生の動物たちとも会話ができるんです。……何て言うか、見たり触ったりすると……言葉がぼくに流れてくるような、そんな感じです。ヒトも例外じゃないんですよ」

「たまにそういう人がいると聞くけど、君もそうなのか。すごいな」

「あ、あのっその……照れますね、はは」

 テレテレと頭をくしくししながら俯かれた。

「そう言えば、あの“ピーコ”っていう鷹も君の(しもべ)かい?」

「! どうして名前を……?」

 ハイル嬢はピーコのことを一度も話されていない。

「連れている犬、“陸”と言うんだけど、人間語を話せるんだ」

「……えっ?」

 な、何と! 私以外にも話せる者がいるのかっ!

「も、もし良かったら見せてもらってもいいですかっ!」

「ま、まぁ……いいよ……」

 ハイル嬢は興奮気味に迫られた。

 シズ様はちょっと引いていらっしゃった……のか? 苦笑いをされている。また癖が出なければいいのだが。

 お店を出てすぐ脇に、四輪の自動車が停車していた。初めて見るので何と言う種類なのか分からぬが、ボディが骨組みしかなかった。こんなにスカスカなもので、寒くないのだろうか。

 その車の助手席に真っ白の犬がお座りしていた。微笑ましい表情をしている。つぶらで大きな瞳をしていた。この犬がシズ様のお供の“陸”様に違いない。

 シズ様が陸様を呼び寄せられた。ぴゅーっととても速く、シズ様の目の前でお座りをされた。

 ハイル嬢が近づかれて、

「こんにちは」

 と仰ると、

「こんにちは、ハイル様」

 と返事をされた。おぉっ! 本当に喋った!

 ハイル嬢の目がキラキラと輝き出す。ま、まずい……。

「す、すごおおぉぉいっ! え? 何で? 陸ちゃんって人間の声帯が付いてるのっ? あ、でもそうすると声帯を震わせるために気道を長くして幅を広げないとダメで、でもそうするとあれがこうでこれがこうでぶつぶつぶつ……!」

 いかん。また始まってしまった……。未知のものを見つけると、ハイル嬢は興奮して周りが見えなくなってしまうのだ。この分だと私のことは打ち明けない方がいいだろう。下手をすると解剖されてしまう。

 わうっ! と陸様が威嚇された。多分怒ってる……のに、

「か、かわいいっ! しかもちゃんと吠えるんだねっ! もふもふして気持ちいいしっ!」

 全く意に介されない。

 五分くらい堪能されて、ようやく落ち着かれた。

「ご、ごめんなさい。そっその……ぼく……実は動物学者の卵でもありまして……」

「そうなんだ。学者さんから見ても、やっぱり陸は不思議なのか」

「やっぱりとはどういうことですか?」

 陸様が即座にツッコむ。

 ははっ、とシズ様は笑われた。

「あはは。解剖したいけど……他所のワンちゃんだからやめとくね」

〔!〕

 あぁぁぁ……知りたくなかった……。い、いかん。絶対に打ち明けてはならぬ……! ハイル嬢は解剖される気まんまんではないかっ……! 知りたくなかった……! 冗談だと思いたい!

「そういえば、そのポケットにあるのって……?」

 セーターのポケットから顔を出していた私に気付かれた。

「あ、ごめんなさい。クーロです。ピーコと同じペットなんです」

「へぇ。初めて見るな。触ってもいいかい?」

「どうぞ。クーロ、かじっちゃダメだからね」

 御意。

 ハイル嬢からシズ様へ移動した。掌はゴツゴツしているのだな。かなりの“まめ”ができておる。

 シズ様は優しく頭や背中を(さす)ってくださった。動物との接し方を知っておられるのか、とても落ち着いた接し方だった。……くすぐったい。

 そしてそのまま陸様の頭に載せてくださった。おお、こんなにももふもふしているのか。犬を飼いたくなる者たちの気持ち、分かるぞ……。

「かわいい」

 ハイル嬢はとてもご機嫌なご様子。

〔クーロさん〕

〔は、はいっ〕

〔君の主人は少し変わっているな〕

〔も、申し訳ありませぬ。でも、良い方なのです〕

〔分かっている。あれだけ興奮していたのに、触り方が優しかった〕

〔しかし、陸様も、まさか人間語を話せるとは思いもしませんでした〕

〔なんだ、君も話せるのか〕

〔はい。私は訳あって隠しているのです〕

〔訳?〕

〔私は国王の命により、ハイル嬢のお供をしております。なるべくトラブルを起こさないよう、人間語を禁じているのです〕

〔私も人前では言葉は謹んでいるよ〕

〔あの、ご主人様と話すというのは、どんな気分なのでしょう?〕

〔例えば君は他の動物と会話するだろう?〕

〔はい〕

〔それと同じ。話すことができる相手が増えるような感覚さ。特に不便はない〕

〔はぁ……〕

〔それにしても、いつになくシズ様は多弁でいらっしゃる〕

 ハイル嬢とシズ様は仲良さそうにお話しされている。陸様には異様に見えるのだろうか。とても微笑ましく思うのだが。

〔自分を理解してくれる方が増えて嬉しいのかもしれない。あそこまで見抜かれたのは初めてだったから〕

〔……その件なのですが、シズ様は国王に復讐しようと思われているのですか? 仲が悪いと聞きまして、憎悪を抱えていると話されていました〕

〔私にもそこまでは分からない。ハイル様なら察しておられるのではないか?〕

〔あの方は他人の深い感情を軽はずみに口外しません。それは私にも……〕

〔そうか。ところで、ハイル様は大会には出場されるのか?〕

〔いえ、ただ来賓として出席してほしいとお願いされました。しかし、出席はしないでしょう。する理由がありませぬ〕

〔それは良かった〕

〔え……?〕

 それはどういう、

 それを尋ねようとした時、シズ様がこちらにいらした。私を回収され、ハイル嬢にお送りされる。

「久しぶりに楽しかった。俺はそろそろ失礼するよ」

「こちらこそありがとうございました。あ、そうだ」

 ハイル嬢は“あれ”を出された。

「これ、ぼくには必要ないから、シズさんにと思いまして」

 キラキラと光るメダルだ。

「それは……どうしてそれを?」

「実は暴漢に襲われた時にこれを拾って……。返そうと思ったのですが、急に追手が来て、びっくりして持ち帰ってしまったんです」

「これが“ついで”の願いか。……あんなものに出たわけじゃないんだな。良かった」

 シズ様は何事も無く受け取ってくださった。

「君のような旅人には邪魔な物だね」

「……故郷の物を他人が持っているのは嫌ですか?」

「故郷なんてとっくになくなってしまったよ」

「……あの、最後に一つ、いいですか?」

「なんだい?」

 ん、と口を少し紡がれた。

「王様に復讐する気なんですか?」

「……どうだろう。しないかな」

「……」

 隠しきれないほどの悲しい面持ち。それだけでこちらも分かってしまう。軽はずみには言わずとも、顔に出てしまうのだ。

「ぼくは……ウソが分かってしまうんです」

「そうなのか。なら正直に話すしかないな」

 シズ様はハイル嬢に詰め寄られた。

「もう決めたことだ。“奴”のために引き返しはしない」

 まるで鉄の意志。強く言い切られた。

「……あなたのような人が復讐に走ってしまうのは……その……」

「愚かかい?」

 鼻で笑う。ご自身を嘲っているのだろうか。

「……すごく、悲しい……」

「え?」

 目を丸くされる。

「復讐の末路っていつも虚しいじゃないですか。色んな小説や物語でも、だいたいそうだし……」

「それはこの復讐劇でもかい?」

「はい」

「ふふ、本物の占い師みたいだ。君はきっと……いい家族に恵まれたんだろうな。羨ましいよ」

 家族。その言葉を聞いたハイル嬢は、少し目を伏せられた。きっと昔のことを思い出されているのだろう。ハイル嬢にとって家族とは何なのだろうか。少し気になるところだった。

 ありがとうです、と力の抜けたお礼を呟かれた。

「……俺からも一ついいかい?」

「なんでしょう?」

 今度はシズ様が尋ねられた。

「動物学者として、憎む肉親を殺すことは自然の摂理に背いていると思うかい?」

「……」

 いいえ、と即答されるかと思ったのだが、意外と考え込まれていた。

 少ししてから、返答される。

「全く背いてないと思います」

「……そうか」

 シズ様も特に何か感情を表にされることはなかった。ただの一つの矜持なのだろうか。

 ただ、と付け足された。

「ぼくとしては、摂理なんか無視してでも復讐してほしくないです。シズさん、今からでも遅くない、やっぱり止めませんか?」

「……君は不思議な人だ。邪魔をする者は斬り殺そうかと思っていたのに、今は全くそういう気が起きないよ」

「それはシズさんが最初から殺す気なんて全くないからですよ」

「完全に見抜かれているな。まいったよ」

「あの、王様と年に数回会われてるんですよね? 何か変わった様子はなかったですか?」

「俺は奴とは会ってないよ。顔も見たくもないのに」

「……そうですか……」

 

 

 依頼を受けてから五日ほど経っている。我々がシズ様と別れたのは二日前くらいであったが、それまでの道中に時間を費やし、予定通りに達成した。

 シズ様との別れは意外と湿っていた。去り際のシズ様の笑顔は、覚悟も含まれていた。ハイル嬢は鬱陶しいと思われても、必死で精一杯制止された。シズ様もその事だけは譲れないご様子だ。

 六日目の昼。温かさがほどよく残りそうな気候だ。天気も晴れており、雲が柔らかそうに浮いている。

 昨日の夜に国に戻ろうかと思われたが、夜中では失礼かもとのことで、今日再入国することにされた。

 国に戻ると、相変わらずあの異臭が漏れ出していた。こんなに晴れやかで温かいのに、地獄の底を渡り歩くような気分になってしまう。

 ドームの奥の屋敷へ向かい、兵士にエリー殿を返した。

〔元気でね、ハイルさん〕

「うん。さよなら……」

 とても寂しそうに別れを告げられた。おそらく殺されることはないが、ハイル嬢はそれも心配されているようである。

 例の隠し通路から兵士たちの兵舎を通り、

「お帰り旅人さん。国王陛下の任務はどうだった?」

「……うん……ごめんなさい……」

「? ずいぶん元気ないな」

「みんなにいっぱい迷惑かけたから……」

「ああ、もう気にするなよ。これからもよろしく頼むぜ」

「……ありがと」

 すっかり仲良くなった兵士に話しかけられた。ついでに、国王の部屋へ案内を頼まれた。

 さすがに大会間近とあって、牢屋のような部屋には参加者が多くいた。一人一室なようだが、傍から見れば、扱いが恐ろしく酷い。獄囚のようではないか。

 そこへ乗り物と一緒に案内される旅人を見かけた。年齢的にはハイル嬢とさほど変わらぬではないか。

「あの旅人さんも参加するの? でも少し怒ってる……?」

〔あの乗り物も武器なのでしょうか?〕

「乗り回したら強そうだね」

「あぁ、あの旅人が今んとこ最年少だったと思うよ。君と同じくらいって聞いたけど」

 ふっと兵士の方を見られる。

「兵士さんはぼくと同じくらいの年の子は、参加させたくなかったんじゃなかったの?」

「先輩の言い付けでさ。……断れないよ……」

「……そっか」

 精一杯の笑顔だった。

「この国で一番まともなのはあなたかもしれないね。兵士さんで良かったよ」

「え?」

「今までのお礼に一つ、良いこと教えてあげる」

「なんだ?」

「早くこの国を出た方がいいよ」

「え?」

「これはぼくの最後のお礼。無視してもいいから……」

「お、おい……どういうことだよ!」

 国王の部屋が見えてきた。ハイル嬢は兵士を振り切り、国王の待つ部屋へ入られた。

「どうしちまったんだ?」

 

 

 国王は笑いながら食事をもてなしてくれた。どれも高級食材で見るだけでも美味しそうだった。ロブスターに蟹にフカヒレに牛肉に……あらゆる国の料理が揃えられていた。見るだけでも空腹が満たされそうだ。

 ハイル嬢は控えめに召し上がっていた。というより、これだけの量を食べ切るのは不可能に近い。可能な者がいたら、ぜひ会ってみたいものだ。

「そうか、奴にメダルを渡したか。これで任務達成というわけだ。なっはっは」

「……」

 一方の国王はとても豪快に召し上がっている。

「あの、王様」

「? どうした? あまり食が進んでおられないようだが?」

 部屋には相変わらず二人しかいらっしゃらない。

「もう一度、お伺いしてもいいですか?」

「もちろん。一度と言わず、何でも聞いてくれ」

「お言葉に甘えて……」

 すすっと紅茶を啜られた。

「王様はどうしてこんな国にしようと思ったんですか?」

「?」

 首を傾げられた。国王は意味を理解できなかったご様子だ。

「エリーから聞きました。前の王様の時はここまで栄えてなかったけど、真面目で平和な国だと。でも、それをぶち壊しにして、こんな怖い国にしたのはどうしてなのか、と」

「……理由、か」

 口周りを綺麗にされる。

「厳律な国など、どこにも楽しみがないとは思わないか? 人間らしく、動物らしく本能のままに生きなきゃな」

「その動物も……いつかは死ぬんですね」

「なに?」

 国王はハイル嬢に見向きされた。

「ぼくはこれまで自分なりに一連の出来事を振り返ってみたんです。疑問がいくつも浮かんでいたのですが、最大の疑問は、なぜぼくにメダルを渡させたのか、ということでした」

「……」

 国王はご自身なりに考えておられている。ほかほかのコーヒーをごくっと飲まれた。

「その理由は……シズさんに自分を殺させるため、だと思いました」

「ふふ……なぜ私が自分で死にたがる?」

 笑いを堪えようと、冷笑される。

「違うんです。死にたがっているなら、毒薬を飲めばいいだけ。でもあえて、シズさんに殺されるのに、理由があったんです」

「それは何だね?」

「順を追って話します。ぼくがまず変だなと思ったのは、シズさんを名前で呼ばないことでした」

「!」

「兵士さんたちの間でも息子はいるけど名前は知らない、くらいの認識でした。でも、馬たちはきちんと名前を知っていたんです。エリーはきちんと“シズ様”と言っていました。まるで、王様が意図的に隠しているように思います」

「ほう」

「そして次にシズさんが王様と何回か会っていることです」

「私はシズなどに会っておらんよ」

「それもエリーたちに聞きました。まるで潜入するかのように、国に帰っていたと言っています。シズさんにも聞きましたが、ウソをついてました。ぼくには同様に隠しているように思えます」

 ハイル嬢は、すすっともう一口。

「だから、なんだね?」

「シズさんはずっと家出しているのだと思っていました。でも、これらを別の視点から見てみると、ある事が浮かんできます。それは、シズさんは家出したのではなく、“旅”をしていたんです」

「……!」

「シズさんは自分の意志で家出したはずです。しかし実際は王様がそう仕向けたんです。自ら狂気を演じることによって、シズさんに嫌悪感を抱かせることに成功させました」

「ふっ、それでは余計に面会する理由がないではないか」

「違います。逆なんです」

「?」

「王様、シズさんにこう迫ったんじゃないですか? “こんな国が嫌いなら、お前がやってみろ”と」

「!」

「そう、王様は政権交代をさせるために、シズさんに嫌われたんです。そして自分は愚かな王様として殺され、国を荒らした罪をかぶる……」

「……」

「きっとシズさんは政権交代に応じるでしょう。シズさんの大好きな、おじいさんの時代を取り戻したいと思うから。兵士たちに王様には息子がいる、程度の認識にさせたのもこのためです」

「なるほど……一応つじつまは合うようだな」

 もぐっと一気に餃子を頬張られた。

「しかしそれ以前の問題があるだろう? なぜ私が政権交代をさせたかったのか? 私は死ぬまで誰にも譲る気はないぞ」

「……王様」

「なんだ?」

「その餃子、熱くないのですか?」

「?」

「厚めの皮で閉じたこの餃子……ちょっとやそっとじゃ中まで冷えません。なのに、王様は何事もなかったかのように召し上がった」

「……!」

「コーヒーもです。ぼくだって啜りながら飲んでいるのに、王様は水を飲んでいるかのようです」

「……」

 ハイル嬢は見せつけるように、コーヒーを一口含まれた。啜りながら。

「王様は何か、大病を患っているのではないですか? 特に頭……脳に異常を抱えられている。それもかなり進行しているのでは?」

「……」

「何よりもぼくが“シズさん”と呼ぶまで、王様は“奴”としか呼んでいなかったことも……」

「!」

 全てが図星のようだ。

「そのご病気は通常は昔の記憶は覚えているものです。しかし息子の名前を忘れ、味覚や温度覚にまで異常が出ているということは、おそらく末期なのでしょう。今でも生存できる事自体が奇跡なくらいに……」

「……」

「事の真相は、王様が末期を迎えた病気のために、息子に政権交代をさせたかった。そのために壮大な下準備をしていた、ということです」

「……違うな」

「え?」

 ハイル嬢は驚かれた。

「私はただ、“奴”にメダルを渡させたかっただけよ……」

「そうですか……。じゃあもう一ついいですか?」

「なんだ?」

「ぼくの名前は何でしたか?」

「! …………」

 国王は黙りこくってしまった。そして立ち上がる。

「王様、正直にシズさんに話した方がいいです。これじゃ、何の得にもなりません。息子“だろう”人に殺されるなんて、悲しすぎる。ぼくも必死にシズさんを止めたけど、王様を殺しに来ますよっ。もしかしたら、今回の大会に出るかも……」

「……ふ……」

 にこりと笑う。

「気にするな。私は私の思うがままにやる。誰にも王座は渡さんよ」

「! ……」

 会話が少しおかしい。もしかすると、今までのハイル嬢の仰っていたことすら……。数日前はここまでではなかったのに、あまりに進行が……。

「さて、用は以上かな? そろそろお別れとしよう」

「待って!」

 国王の手を握られた。

「ぼくがシズさんに事情を話すよっ。居場所も分かる! だから、死んじゃダメだ! もう自分を演じるのはやめてっ!」

「何事だ!」

 異変に気付いた兵士たちが中に入ってきた。ハイル嬢は兵士たちに(すが)りつかれる。

「兵士さん、王様を殺させちゃダメだよ! ぜったいっ! こんなのだめだよっ! 間違ってるよっ!」

「……」

 兵士たちは唖然としていた。

 ハイル嬢を何とか立たせた。

「何言ってんだよ旅人さん。国王陛下がそんなことされるはずないだろ? なあ」

「そうだぜ。国王陛下はこのトーナメントが楽しみでやってるんだ。誰が死にたがるってんだ」

「違うっ! ちがうちがうっ! みんなウソつくなぁっ! “私”にはわかってるんだっ!」

〔! は、ハイル嬢!〕

 あまりに興奮されている! いくらなんでもそれ以上は危険だ!

 しかし、それを咎めもせず、兵士はふ、と笑みを零す。

「いいかい旅人さん」

「?」

「旅人さんが嘘だと言ってても、俺らが嘘じゃないって言えば、それは嘘じゃないんだ。国王陛下は戦っている人間の死ぬザマを楽しみにしていらっしゃる。だからそれを放棄するようなマネはしないのさ。そうでしょう、国王陛下?」

「その通りだとも、優秀な兵士よ」

「前の夫婦なんてサイコーだったじゃないですか。旦那がぶっ殺されたやつ、覚えているでしょう?」

「忘れもしないわ。恐怖と憎悪にまみれたあの表情は、思い出すだけで興奮して眠れなくなる。あの血肉が飛び散っていく様を見るのが楽しみでなあ。苦しむ顔が面白くて仕方がない」

「なら、私の名前を言ってよっ! 言ってることがデタラメなら、名前を言ってみてよっ!」

 ほろっ、と大粒の涙が伝い、涙の線が垂れていく。ハイル嬢は頑張って堪えるも、抑えきれず。

「……」

 国王は一呼吸置く。

「要件は以上かな?」

「……え……?」

「さらばだ、優秀な……“旅人”よ」

「う……うぇ……うえぇぇぇん! あああぁぁぁっ! うわああぁぁあぁん!」

 

 

 そこは森の中。暗闇の包む森の中はとても鬱蒼としていた。昼間の温もりが全てどこかに吸収され、肌寒さだけ立ち込めている。

 空は闇に包まれた木々が覆い、夜空以上に暗みが強かった。その奥で紺青色の夜空が隙間を縫っている。

「……」

 そこをハイル嬢が進んでおられる。

 ハイル嬢は結局、大会を観覧しなかった。飛び出るように出国され、走れる限り走った。まるで、何も見たくないから、怖いから逃げるように見えた。

 とても落ち込んでいらっしゃった。シズ様も国王も止められなかった自分を責めている。しかし、まさかあの国王がご病気だったとは……。

 全てを曝け出してシズ様のご意志にお任せするか、国王の“遺言”を忠実に守るか。ハイル嬢は後者をお選びになった。沈黙は本当に金だったのだろうか……。

「……私……分かってたのに……」

〔え?〕

 分かっていた……?

「王様の気持ちが分からなかったのは心を閉ざしてたからじゃないんだ。病気で意識が混濁してたから、読みようがなかったんだ……」

 ハイル嬢は相変わらず迷子になられていた。まるで進むことを拒むように。

「国を滅ぼしちゃったのかな……?」

〔滅亡するとは決まっていません。もしかすれば、シズ様もご存知だった可能性もあります。国王を殺害してしまったとしても、シズ様が受け継ぐかもしれません〕

「シズさんには何も見えてなかったよ。……見えてるなら父親のこと、“奴”なんて呼んだりしない。根は優しい人だもの」

〔ハイル嬢、どうか元気を出してくだされ……〕

 私には、こうする他なかった。

 ふとして拓けたところに来た。暗くてよくは分からないが、そこは湖が広がっている。住んでいる者がいるのだろう。水や魚が跳ねる音や、急旋回して水がかき混ぜられる音がする。

「今日はここで野宿しよっか」

〔御意〕

 そこに荷物を下ろされると、携帯電灯を点けられた。周辺にある枝木を集め、一箇所に配置される。事前に雑草を避けておき、火を放たれた。

「……」

 とても温かみのある揺れと音。その周囲は橙色に照らされ、暗闇の中に一つの光を教えてくれる。湖も火を映しだし、時折、波紋で火が揺れ出す。

 その火を食い入るように見つめられている。

「……ん?」

 何かに気付かれた。湖の付近に向かわれる。

「この痕……もしかして……」

 草にめり込んだタイヤの痕だ。それが一定の間隔を空けて、暗闇へと伸びている。

〔ハイルちゃん〕

 空からピーコが降り立ってきた。

〔シズさん、この痕を辿ると北の方に向かって走ってるわ。追いつけないでしょうけど、何かの拍子に止まるかも〕

「いや、シズさんは……そっとしといた方がいいと思う。それでピーコ、あの国はどうなってた?」

〔! そ、それは……その……〕

 ピーコは口にしなかった。私としてもあまり想像したくないことなのだが……。

「シズさんは暗殺にも成功して、国も捨てたってことかな。……仕方ない、か」

 鼻で笑われた。

 さく、と背後で足音が聞こえた。ピーコはすぐに飛び立っていった。

「あなた、あの時会った……」

「え?」

 ずっと前に鉢合わせした女が、背後にいた。

 長いブロンドを四方に揺らし、軍用のシャツの上にベストを羽織り、迷彩パンツを履いている。大容量の迷彩リュックを背負い込み、太腿には細長いポーチが付いている。少しきつめの顔付きだが、背が高く美人であった。

 うわ……また嫌なものを……。

「どうしたの? そんな暗い顔してさ。せっかくの可愛い顔がもったいないわ」

 女はハイル嬢の隣に座り込んだ。ん? と相槌を打つ女の催促に、ハイル嬢は素っ気なく、何もないよ、と返答された。

 ハイル嬢が焚き火の前に座られると、女もこそこそと隣に座り直す。

「……お姉さんは大会に出場したの?」

「え?」

 どうして? と聞きたげな表情をする。

「お姉さんの歩き方、変なんだ。右腕が少しも動いてない。ケガか何かしたのかなって」

「……」

 ふぅ、と女は笑みを浮かべる。

「まあ、結果は惨敗だったけどね。おまけに命まで助けられて、あたしのプライドズッタボロ……」

 石ころ一つ放った。ぽちょん、とくぐもった音に出遅れて、湖に波紋が広がっていく。中心から湖の端へと小波が寄せられていった。

「あなたは、出てないの?」

「……出てないよ。どうして知ってるの」

 ハイル嬢はふっと女の顔を見てしまった。しかし、ゆっくりと湖に目を移された。

「たまたま場内の宿舎から見かけたのよ。兵士二人に連れられていったでしょ? 処刑されるんじゃないかって心配したのよ?」

 女の話によると、あの戦いに不参加したり逃亡したりした者は、例外なく死罪がくだされるらしい。我々はそもそも参加していなかったために、規則など全く知らなかった。

「落し物を返しただけだよ」

「あ、じゃああのメダル、あなたのじゃなかったの?」

「う、うん。あの男の人が……あぁ……」

 また思い出されたようだ。

「ああ、あいつのだったんだ。バカだったからさ、代わりに謝るわ」

「うぅん。……そういえば、その人一緒じゃないの?」

「フッたわ。こんな男の子を襲う奴なんて、最低よ」

「あはははは……」

 ということは、あの男は生きていたということか。さすが武術の達人だ。

「というより、あなたの方が美味しそうだから、さ」

「ぼく、そういう趣味はないんで……」

 つつ、と間を空けられた。

「そこまで邪険にしなくてもいいんじゃなくて?」

 しかしその間を女が詰め寄ってくる。

「あの、あの国はどうなったんです?」

 は、ハイル嬢、それは聞かぬ方がいいのでは……? 無論、そんなことも言えず、聞くことしかできない。

「今はどうなのか知らないけど、びっくりしちゃったわ」

「え?」

 一体何があったというのだ?

「決勝戦、旅人二人が戦ったんだけどね、ちょうど国賓席にいた国王に流れ弾が直撃したのよ」

「……え?」

 な、流れ弾が……?

「王様はどうなったのっ?」

 女に詰め寄るハイル嬢。くっと人差し指でハイル嬢の顎を持ち上げた。貴様……。

「これ以上聞きたいなら、お姉さんといいことしない? 交換条件よ」

「……わかったよ」

 は、ハイルじょおおおおっ! い、いいんですかっ! ちょっとだめに、

「……」

 ハイル嬢が真っ直ぐ私を睨んでおられる。黙ってろ、と一喝されたような気分だった。うぅ……なんということを……。

「お姉さんから教えて」

「いいわ。……流れ弾は国王の顔に直撃して、即死したわ」

「! そ、即死……?」

「ええ、即死よ」

 素っ気なく“即死”を繰り返した。

〔ハイル嬢……〕

 涙を堪えられているが、やるせなさが顔に描かれている。そんなことはありませぬ。復讐ではなく、事故死ならハイル嬢のお心はまだ救われるはずだ。当の本人はどんな心境なのかは伺う術もないが。

 それを察した女がさらにハイル嬢に擦り寄ってきた。貴様、それ以上寄ってみろ。このクーロの秘術を食らうことになるぞ……。

「どうしたの? 王様と面識あるのかしら? あんまり良い王様じゃないみたいけど、自業自得じゃないかしら」

「っ」

 パシンッ、と森の中に響いた。乾いた打音は森にいた鳥たちをばたつかせていく。

「……」

 叩かれた女はきょとんとしていた。ひりひりとする右頬を擦りながら。ハイル嬢がお怒りになったのだ。ざまあ、

「あの人はそんな人じゃないっ!」

 やはり、涙を抑えられなかった。ぼろぼろと涙の滝を作り、どんどん地面へ落としていく。ぐしぐしと腕で涙を払われる。

「……」

 早く逆ギレして去れっ。ハイル嬢は貴様のような女に構っている暇はないのだ。さっさと消え失せるがいい。

「ごめんなさい」

 え?

 すり、とハイル嬢の腕に、き、きさま……ふしだらな女め……! あと数ミリでも近づいてみろ……! 死力を尽くす覚悟で、貴様を風穴だらけにしようぞ……!

 そんなに泣かないで、と、ちらりとハイル嬢の様子を窺った。って、かっ顔が近すぎるではないかっ! なっなんたる無礼ッ! 泣き落としにかかったかこの女めっ!

「王様はとってもいい人だったんだっ。でも、でも……うぅ……」

 口が紡ぐんでしまわれる。それを思い出され、さらに涙の量が増えてしまう。

 女はその涙をすっと(すく)った。触るなああぁぁっぁあっ!

「そんな泣き顔は似合わないわ。ほら、慰めてあげる」

 きゅっとだきよせて、はいるじょぉおおおおおおおぉぉっ! も、もうだめだ! これ以上は許されぬ! 申し訳ないチタオ国王! クーロめは“あれ”をする他は、

「ん? この感触……あれ? ……え?」

「……」

 ん? 一体どうしたというのだ?

 女がハイル嬢から少し離れると、

「……すぅ……すぅ……」

 ハイル嬢が眠られていた。も、もしや、あまりの号泣に泣き疲れ……?

 それはそれでまずいではないかっ! この女、何かしたらただでは、

「んー、異性に趣味はあっても、同性にはないしなあ……しょうがないか」

〔え?〕

 女は丁寧にハイル嬢を横にすると、ハイル嬢のリュックを物色する。そこから愛用されていたキルトを、ハイル嬢にかけてくれた。

 その隙に、私はポケットから這いずり出た。

「それに寝込みを襲うほど、私は落ちぶれちゃいないわ」

 女は焚き火を消してくれた。

「ただ……」

 ただ?

 女がハイル嬢の顔にせっき、

「かわいいから交換条件はきっちりもらってくわよ」

 ん、とくちびいいぃぃぃいいぃっ! な、な、なんだとおおぉぉっ! き、きさまああぁぁっ! ハイル嬢の純血をふみにじりおってえええええぇぇぇぇっ! もう許さん! 今すぐにジェノサイドフォースを要請し、この女に非情で剛強なる鉄槌を下さねばならん!

「じゃあね、お嬢さん」

 みなのもの! 今すぐに来るのだっ! あの女を惨殺すべく、ありとあらゆる手段をもって処刑することを認めよう! そして、ハイル嬢をお守りすべく出動するのだ! いでよ! 我らの最強惨殺集団! じぇの、

「……あ、あれ?」

 き、気が付くと女はどこにもいなくなっていた。あの女、一体どこへ、

「……すき……すぅ……すぅ……」

「……」

 一体どんな夢を見られてるのか分からぬが、にこやかに就寝されている。

 我らの最強集団を召集しては、あまりの騒音で安眠妨害してしまうやもしれぬ。それに女の交換条件を無視していたのは、こちらの責。むしろ泣き疲れのおかげで最小限に収められた。仕方あるまい。いつもなら死をもって償ってもらうのだが、今回だけは不問としようではないか。

 何よりも、ハイル嬢のこの笑顔は何人たりとも、たとえ我らでも侵害してはならぬ。

「すぅ……すぅ……」

 ハイル嬢はとても心地良さそうに眠ってらっしゃる。起床された時には、以前よりも逞しく強くあられることを祈ろう。そして、我々もより一層忠誠を誓わなくてはならない。

 暗闇の森に静けさが戻った。鳥の鳴き声も許さぬほどにとても静かで、少し肌寒くて。でも、ある一帯だけは少し温もっていた。ハイル嬢はそこで安眠されている。

 

 

 



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おわり:あおいひる

 ――これが私のしてきた過ちだ。奴隷解放のために奴隷を使ってまで愚行を犯してきた。私は理想の狂信者だったのだ。

 最後に、今までロクに構ってやれなかった娘に言葉を贈りたい。……娘よ、お前はこの私よりもとても強くなった。現実でもがき苦しみ、悩み、苛立ち、そして打ちのめされただろう。しかし、心は挫かれていなかった。恐らくはあの娘のおかげなのだろう? 守ってやりたい、助けてやりたい。自分の非力さを呪いながらも、自分の力で何度も試みていたのだろう? 私の愚行の中で救われたのは、お前を強くさせ、大切な人ができたことくらいだった。どうか私を誇らないでほしい。過去の遺物として忘れ、これからの未来へと進んでほしい。それが過去の者としての願いだ。そして、親としての本望だ。

 ありがとう、我が娘よ。どうか末永く幸せに、そしてどうかこれからも幸福が訪れんことを……。

 

 

 戦争の残滓(ざんし)すら消えつつある頃、私たちはあの屋敷を出ました。まるで鳥かごに閉じ込められていた鳥が飛び立つような解放感。これが自由……なのでしょうか。あの時のヴィク様の表情はとても印象的で、ずっと忘れません。あの笑みはかつて、どこか陰鬱さを滲ませていたのに、毒気を全て抜き取ったようでした。私だけが知る、ヴィク様の本当の笑顔でした。

 私たちは旅人さんの手筈(てはず)で、とても遠い国へ旅をしました。馬に簡単な荷車を付け、私たちを運んでくれました。ああいうこともお手の物なんでしょうね。

 そして、旅人さんが信頼する国に移住することに決めました。とても(にぎ)やかな国で、何やら商業や農業が盛んな国だと聞きます。その手続きや家や職業やらも、全て旅人さんが仕切ってくれました。こういうことも旅人の仕事だと、彼はそう言ってのけてくれました。

 そこでヴィク様と生活し始めて一ヶ月が経とうとしていた頃です。

「はーい」

 突然、誰かがノックしてきました。それも昼食を終えて数時間後に、です。

「……ってあれ?」

 そこには誰もいませんでした。

「どうされましたか? ヴィク様?」

「ノックがしたから出たんだけど……誰もいない。イタズラかな?」

「……いえ、そういうことではないようです」

「え?」

 私はふと、下の方を見ました。ヴィク様もそちらを向かれます。

「なんだろう?」

 そこには一冊の本が置かれていました。それもとても丁寧に、表題がこちらに向くように。

 ヴィク様はそれを手にされ、ドアを閉められました。

「なんだろう、これ?」

 パッと開いてみると、

「え……?」

 そこには……誰かの告白が書いてありました。

「ヴィク様、これって……」

 さらっと読んでみると、とても見覚えのある出来事が、つらつらと記されていました。

「これって父さんの……?」

「はい。そうだと思われます」

 内容としては、ルーズ様の愚行の告白、とでも言うのでしょうか? まるで自分の罪を貶し、独白するような文調で、書かれています。

 ヴィク様は食い入るように黙読されます。

「ヴィク様?」

「……う」

「?」

「うぅ」

 嗚咽(おえつ)

「うぅ……っ、うう……」

 ヴィク様は泣かれていました。

 ぽたぽたと涙が日記に落ち、染みが丸く広がっていきます

「ううぅっ……っ、うっ、う……」

 遂には顔を手で覆われ、さらに深く泣かれます。

 ヴィク様は私に泣き付かれました。

「わたしのせいなのにっ……っ、ごめんなさい、ごめんなさいっ……ううっわぁっ……」

 とても悲しいはずなのですが、私はヴィク様のそのお姿がとても愛おしく感じていました。

 きゅっと泣きつく頭を優しく抱きしめました。湿っぽさと温かさがとても伝わります。

「ファル……」

 ぐしっぐしっ、と泣き顔を見せてくれます。ああ、何と心苦しい、はっはなぢ……。

「今晩もずっと泣いてもいいのですよ?」

 いつの間にか、私も涙が止まらなくなっていました。

「……うん……ありがと、ファル……」

 

 

 ヴィク様は泣き疲れて、眠りなさいました。お昼寝の時刻でもあります。

「……」

 寝顔もとても美しく、胸が締め付けられるように愛おしい。ただ、私は我慢しました。この寝顔を死守せねばなるまい、と。

 ヴィク様の寝顔を十分に堪能した後、内緒で日記を拝見致しました。多分叱られない……はず。

「……」

 “私の愚行”。その単語が何個も出てきています。ルーズ様はそれほど自分の行為を悔いているのだと、私は受け止めます。そして、

「?」

 はらりと一枚の紙が落ちてしまいました。それは、私への謝罪の文でした。その内容がこうです。

 

 

[そして、娘の友よ。私とは直接面識はないが、私は痛み入るほど自分が情けないと感じている。奴隷解放のために戦っていたというのに、自国民と天秤(てんびん)にかけ、そなたらを見捨ててしまったのだ。奴隷解放の思想はリーグが引き継いでくれるはずだ。リーグは私の信頼する部下だ。信用しろとは言えないが、どうか、彼を責めないでほしい。そして、本当に申し訳なかった。どうお詫びすればいいのか……私には思いつかない。……私を(ののし)ったり(さげす)んだりしてくれて構わない。恨んでくれて構わない。私の死体を蹴り飛ばし、踏み潰し、恨みを晴らしてくれても構わない。ただ、娘だけはどうか、幸せにしてほしい。それを拒まれても、私は責めることはできないが、どうか、どうか……。]

 

 

 頭の中で真っ先に浮かんだイメージは、祈りでした。私の両手を掴み、(ひざまず)き、必死に両手を合わせている将軍の姿です。そして、懇願(こんがん)している姿でした。

 不思議なことに、この一枚は余ったページに挟まっていました。裏面はそのような文章がないことから、ルーズ様はわざとこの一枚を別にして挟んだのだと思います。

 このような日記に記しておきながら、もっと奥の真実をこのような形で隠してあるのも、きっと怖がっていたからだと思います。それはヴィク様と私の幸せに深い亀裂が生じるのを危惧したため。私自身も今でもそれが恐ろしい……。

 正直、私はルーズ様やヴィク様だけでなく、この世界を、神を恨んでいました。神はどうして私の肌を白くしてくれなかったのか。その肌の色が違うだけで貶され、×され、まるでゴミのような人生を歩ませたのか。なぜ、そんな世界を作ったのか。この肌を切り刻んで死のうとしても、許してくれなかったのか。……考え尽くしても、誰も答えてくれませんでした。

 ただ、その答えの探し方を教えてくれた人が一人だけ、いや、二人だけいました。それはどこからともなくやって来た旅人さん。自分が虐げられても、強い心とちょっと下品な振る舞いで笑い飛ばしてくれる旅人さん。彼らを見ていると“そんなこと”で悩んでいた自分が、とても小さく思えてしまいます。

 

 

「あの、その身体は旅をしているとそうなるんですか?」

「なるよ。死にかけることもあるし、気が病みそうになることもある」

「もし心が見えたら、その身体と同じようにボロボロなのでしょうか?」

「……ぼろぼろだけど、強く鼓動してると思う。まだ旅がしたいって急かしてるのかも。お前はどうなんだ?」

「私のはきっと……存在感が薄くて、薄汚れていると思います」

「そっか。でも動けるのは確かなんだ」

「……え?」

「人が行動するのは欲求を満たすためだ、ってどっかの誰かが言ってた気がする。だからお前も、何かしたいことってあるはずなんだよ。“人間として”生きてる限りは、ね」

「……」

「……なんか話してみ? オレにできることなら、あの馬鹿に頼んでみるわ」

「したいこと、ですか? ……したくないことなら……」

「そら誰にでもあるわな」

「……ヴィク様に、伝えたいことがあります。それを話せる時間がほしいです……」

「控えめだなぁ。こんな屋敷出てやりたい! くらいどんと言えよっ。ま、でも最初はそのくらいがいいか。……ヴィクの調子が悪いとか言って、お前が付きっきりの看病するような流れにしとく。それとなく言っとけば、リーグも無理強いはしないだろ。今晩くらいは二人でゆっくり話せ」

「で、でも、いいのですか? こんな私のために……」

「……なぁ、一ついいか?」

「はい……?」

「自分のこと嫌いか?」

「え? ……そうですね。好きじゃないです……」

「そっか。……もし、嫌いで嫌いでしょうがなかったなら……」

「なかったら?」

「……いっそ、そんな自分を捨てることだな」

「……捨てる……?」

「ま、とにかく、オレが言いたいのは、自分の気持ちを裏切ることはするなってこと。人間にとってそれが一番つらいこと、だと思う」

「その分ダメ男は自分本位な単細胞ですからね」

「黙ってろっ」

 

 

「……っ……う、ぐすっ……」

 もし……これが神の思し召しであるならば、現金で愚かな私は初めて神“様”に感謝いたします。ありがとう、神様……そして旅人さん……。

「っ……うっうぅ……」

「……ファル?」

「ひゃっは、はい! 何でしょう?」

「どうして泣いてるの? 一緒に寝よ?」

「は、はい。分かりました。すぐに準備してきます」

 この生活を送れるのも、全てはあなた方のおかげです。本当にありがとう……。

「……ヴィク様、お願いがあります」

「なに?」

「抱きしめていいですか?」

「いいよ。でもどうしたの、急に?」

「少しくらいは、自分の気持ちに素直になろうと思って……」

「いいよいいよっ。ほら、ん~……」

「……」

 なんて愛くるしいの……。

「ん? このページ、何だろう?」

「? ぐす……どこです?」

「ほらここ……」

「何か破れた跡がありますね。どこか引っ掛けたのでしょうか?」

「うーん……わかんないね」

 

 

 そこはとある森でした。

「ぐ……くそ……足が……」

 木陰に血だらけの男がいました。どうやら足を挫いたようで、重傷でした。それに、血を流しすぎたせいで朦朧としていたのです。

 そこに、誰かがやってきました。

「……」

 敵か? 男はそう思い、さらに隠れます。ところが、血の跡が災いしたのか、この居場所まで完全に印となっていたのです。

「……」

 男は諦めました。もう自分はここで死ぬのだと悟り、脱力しました。

「ん? 大丈夫か?」

 朦朧とした景色の中で、現れたのは、

「×……××なのか……?」

 見知った男でした。しかしその男が現れたことに違和感を覚えます。自分の知っている限りだと、この周辺には来ていないからです。

 では、目の前の人間は誰なのか? そう考えた時に、ふっと目の前が真っ暗になってしまいました。

 

 

 目覚めた時、目覚めることができたのは暫くしてでした。目に写ったのは古い木の天井。ここはどこかのボロ小屋です。

 きぃ、と古い戸の音。そちらから誰かが来ます。

「う……」

 戸を開けっ放しなのか、光が漏れ続けていました。眩しくて見えません。

「大丈夫か?」

 声から察するに男。それもかなり若い声です。この時点で知り合いではないことを確信します。むしろ安心はできません。

 しかし、自分の安否を確認することから、命の危険はないと思われます。

「あんた、かなり無理してるな。半病人の身体で戦争なんかするなよ。死ぬぞ」

 “死ぬぞ”を強調させます。

「理想を実現させるなら……命は惜しくない……」

 男は振り絞ってそう言いました。

「ふざけんなっ!」

「……?」

 相手は急に怒りだしました。

「せっかく見付けたんだ。そう簡単に死なれてたまるか!」

「お前、一体……」

「ちょっと待ってろ」

「な、何をする気ですか? ま、待って! だ、だめ、」

 相手は何かそうさ、

「……よし。あんた、××って人、知ってんだろ?」

「! な、なぜそれを……?」

「気絶する前に呟いてたからだよ」

「×、××に仇なす者か……? それならば教えるわけにはいかぬ……。私の古い友人なのだ……」

「! 友人? それなら大丈夫だ」

「は?」

「なおさらあんたを死なせるわけにはいかない」

「! そうか……やっと分かった……お前が誰なのかを……」

「そっか。なら、心配しなくていい」

「そうと分かれば、ただで教えるわけにはいかんな」

「ふぇっ? あんた、意外と現金だなっ。ずるいっ」

「ふふ……。“大人”は汚くしぶとく生きるものなのだよ、×××くん」

「それで、何を依頼したい?」

「私の、奴隷解放の理想を叶えてほしい……」

「それは無理だ。どのくらい進展してるか知らないけど、戦争してるようじゃ、あと三十年はかかる。つまり、志半ばで死ぬってことだ」

「そ、それでも構わない……」

「オレが困るんだよ。“報酬”を墓まで持ってかれちゃたまったもんじゃない」

「心配するな。……死の(ふち)を悟った時、お前に話そう」

「……それは嘘じゃないだろうな?」

「あぁ、男の約束だ」

「……分かった。で、どこに行けばいい?」

「まずは私の部下の所へ行け。娘の安否を確かめてもらいたい。……ここがその地図だ……」

「うん」

「その部下は戦いは得意ではないが、軍師の専門家だ。何かキッカケがあるかもしれん。彼の指示に従っておいてくれ……」

「分かった。あんたはどうする?」

「私はしばらくここに潜伏する。この場所は道中で仲間に教えてくれ」

「了解。一週間分の食料は確保しといたから、それを食べて凌いでくれ。携帯食料は最後の方で食べてな」

「気が利くな……」

「お安いご用だ。じゃ」

 

 

 すっかりと晴れ渡った空に、真っ白な雲が棚引いています。

 その光源である太陽はぎらぎらと輝いており、下界へ恵みを届けていました。そのおかげで、ぽかぽかと、とても心地良い気候になっています。

 そこはとても遠い、遠い遠い山の森。光を全て受け取らん、と森の木々たちが背を伸ばしてせがんでいます。その零した光を、山肌に映えわたる小さな草花たちが(すく)い取っています。所々で掬い取れず、大地が露出した部分もありました。

 こんな山の中に、一軒家がありました。いや、適当な板を貼り付けたようなボロボロの小屋、という方が適切です。隙間はないようですが、ちょっとした揺れでも起これば、あるいは風でも吹けば、すぐに崩れ去ってしまいそうです。

「……っ……」

 そんなボロ小屋には人が住んでいました。灯りを付けていないので姿形は分かりづらいです。しかし、(うめ)き声に似た呼吸音から年齢と性別は判断出来ました。年齢は四十代くらいで男性です。

 うあっ、と男はどこにあるのか分からない大きい出っ張りに寝転がりました。おそらく、“そこ”がベッドなのでしょう。

 ふふふ、と時折、(しゃが)れた声で笑い出します。こんな暗闇の中で生活して、どうかしてしまったのでしょうか。

「?」

 トントン、と優しいノックがしました。これ以上強くすると、穴が空いてしまいそうです。

 男は過敏に反応し、ベッドの隅へ身を寄せました。

 返事もないのに、誰かが入ってきます。

 逆光が灯りの代わりに照らしてくれます。誰かは古ぼけた木製のテーブルに何かを置きました。

「よ」

「!」

 その一言で男は悟りました。

「元気か?」

「君には“ここ”が見えんのかね?」

「見えるよ。ばっちり」

「なら、そう安々と、ここに入らないでもらいたい」

 男は(うつむ)いていました。

「……あんた、目を潰したのか?」

 ふぅ、と溜め息をつきます。

 ふふ、と嘲ります。

「私にはもはや必要のないものだ。それに、この家の中を毎日見ていたのでは、気が滅入ってしまう。そうだろう?」

「だからって潰すことはない。もう少し自分を労りなよ。そこまで自分を壊してどうするんだ」

 咎めるように強く言います。

 壁やテーブル、男のいるベッドにまで染み渡る赤いもの。まるで殺人事件でも起こったかのような有り様です。

「それなら一旦外に出ない? 空気の入れ替えくらいしなきゃな」

「……それなら、手を貸していただけるかな? 友人よ」

「いいよ」

 男は手を取ってもらい、外へ誘導してもらいました。

 さやさやと葉っぱの擦れる音と微風が穏やかに通り過ぎていく音。男には頭が空っぽになるような気持ちになります。

 そのまま、男は語り出しました。

「なんていい気持ちだろう。ここまで晴れやかに感じるのは初めてだよ」

「森林浴した? けっこういいもんでしょ?」

「ああ。そういうのは早めに経験したかったなあ」

 男はそのまま仰向けになりました。

「なあ友人よ。私は愚かな人間だったかな?」

 ダメ男は男の隣に座り込みました。片方の膝を立てて、そこに腕を乗せます。

「分かんないな」

「その曖昧な返答は優しさゆえかね?」

「本当に分からないだけだ」

「私は愚かだったと思う。理想という光を見続け、現実という陰から逃げていた。もし、あの時、君に遭っていなかったなら、私は国を滅ぼしてでも理想を追い続けていただろう。そして、娘が死んでしまっても、心に響かなくなっていただろう」

「……」

 ダメ男は何も言えませんでした。

 そのまま沈黙が流れ、ふと、男が話しかけます。

「……娘はどうしている?」

「あぁ。ファルと一緒に生活してるよ。まだリーグのとこで世話になってるけど、近々移住する予定だ」

「そうか。……最後まで私の我が(まま)に付き合わせて済まなかった」

「いいよ。報酬はたっぷりもらったし」

「ふふふ……。君も中々甘い男だ」

「甘い?」

「ああ。リーグの報酬、巨万の富を断る旅人など、そうもいまい。彼にとっては端金だろうがね」

「そんなもん、オレよりヴィクたちに使ってもらった方がマシだよ。ただ、それを聞いた時のリーグの顔は、面白いったらありゃしないな。悔しいって表情満載だったよ。その面を拝めただけでも、十分な報酬だ」

「案外、(たち)も悪いんだな、君は」

「そうかな。あはははっ」

 カラカラと笑います。

「さて、最後にあんたから“報酬”をもらわないといけない。どこまで面倒見ればいい?」

「……心配するな。報酬は今払おう」

「もう、長くないのか? 医者の話だと、まだまだ生きれるって聞いたよ」

「思ったよりも病状が悪かったようでな……。医者には強がっていた」

「脅してた、の間違いじゃない?」

 はっはっは、と笑います。

「……一つ、いいかね?」

「なに?」

「君はどうして、ここまで私を気に掛ける? 何か思い当たる節でもあるのか? それとも怨恨か?」

「恨みなんか全くないよ。ただ、報酬のためだ」

「そんなに重要なのか? あんな話が?」

「あぁ。あんたも数少ないうちの一人だからな」

「……君の相棒はどうしている?」

「あぁ、ヴィクたちと一緒だよ。まだリーグの警護の依頼が一応終わってないからな。それまで一緒にいさせるよ」

「あまり聞かれたくないことなのか?」

「別にいいんだけどさ、ちょっとその……気恥ずかしくて」

 スリスリと頬を()きます。

「かつての将軍の話も交えながら頼むよ。ルーズ将軍」

「今はもうただの男だが……いいだろう。聞かせてやる。……中に入ろうか、×××よ」

「あぁ」

 二人は中に入っていきました。どうやら気付いていないようです。

 

 

「……」

「ダメ男?」

「なんだ?」

「とても虚しく思ってしまいます」

「……」

「今まで国に尽くした、そして理想をストイックに追及した英雄の最後がこれとは、何と言いますか、その、」

「うん。分かってる。でも……祈ってるのかもな」

「え?」

「逝って数日もないのに顔の険しさが取れてない。なのに、死後硬直が全く現れていない。それほどヴィクの幸せを必死に祈っていたのかもしれない。最後の最後まで、人体の摂理にまで(あらが)って必死な姿じゃないか。オレは英雄の最後として、とても綺麗だと思うよ」

「ダメ男は流石です。そういうことをちっとも想像できませんでした」

「ちょっと思い入れがあるだけに、な」

「?」

「…………そうか……」

「それは何ですか?」

「将軍の残した告白書だな。見るか? 内容は大体あの終戦宣言と同じだけど」

「勝手に読んでもいいのですか?」

「“死人に口なし”だ。それにこれは……しっかりと届けないといけないみたいだし、違う物を届けちゃ意味ないからな」

「これだけ有名になっても、なおこんな書物を残すなんて、よっぽどの淋しがり屋さんなのでしょうね」

「かもな」

「ところで、そろそろ話してくださいませんか? どうしてあの時、ヴィク様に手を貸さず、ギリギリになって助けたのか、その理由です」

「え? ……うーん……忘れた」

「それとも、ヴィク様のはだ、」

「オレはあいつの覚悟を見たかっただけだ。別に(いや)しい目的で見てたわけじゃない」

「覚悟、ですか?」

「あぁ。今回の一件を振り返った時、最初に違和感を覚えたのは、初めてリーグと食事したときだった」

「?」

「あの変な茶だよ。ファルも言ってたけど、兵士に出すようなものをオレらがいる時に限って、初めて出したんだ。あまりにも偶然としちゃ、できすぎてるだろ?」

「そうですね。それに、あれ以来は一回も出ることはなくなりましたしね」

「オレは、リーグは最初から、ヴィクを覚醒させたかったんだと思うんだ。あいつもあいつなりに奴隷解放の道を探っていたんだけど、どうしてもヴィクの協力が必要だったんだ」

「ルーズ様に協力すれば自国は苦しみ、無視すれば奴隷解放の道のりが遠くなる、という二重苦を抱えていたわけですか」

「あぁ。そこであいつは懸けに出た。オレらがただ者じゃない、ってのを悟ったんだろうな。わざとオレらの怒りを煽るように仕向け、運命の歯車を強引に動かした。その流れに乗じて、ヴィクに寝返るように説得を試みたんだ。で、結果、こうなったってわけ」

「今思えば、リーグ様は怒鳴りつけていたのではなく、(さと)していたのですね。奴隷のこととあの性格が(たた)って、ねじ曲がっているように聞こえました」

「そこも計算だろうな。誰にでも悟られたくないこともあるし」

「それで、ダメ男はあの時、ヴィク様の覚悟を見るために、一糸纏わぬお姿にさせたわけですか」

「あの時のヴィクは、自分を差し出そうともしてた。あの目、そこまで覚悟してる目だったよ。だけどさすがにそこまではなぁ、って思って助けたんだけどな」

「真っ暗だったのが功を奏しましたね。黒いセーターが擬態となりましたから」

「……よかった。本当に」

「そうですね。あ、そう言えば、報酬は受け取ったのですか?」

「あぁ、もう貰ってるだろ?」

「え?」

「…………フー……」

「あ、あぁ、そういうことでしたか。ごめんなさい」

「あれを見れば、オレの苦労も十分に報われるってもんだ。中々拝めないよ。それほど高貴で貴重で、崇高なものなんだ」

「はい。それに、もう一つの“報酬”をいただきましたしね」

「! お前、どうしてそれを?」

「こちらが留守番をしている間に、会ってきたのでしょう? でなければ、こんな所をピンポイントで探し当てるなんて不可能ですからね」

「……」

「まだ聞かないであげます。誰にでも悟られたくないこともありますしね」

「……ありがと」

「いえいえ。さて、次の国に行きませんか? 二週間も監禁されて、頭も鈍ってしまいそうです」

「どこに頭があんだよっ」

「それは、変形フラグと受け取っていいのですね?」

「見たいような見たくないようなっ」

「まぁ、たのしみに…………」

「きにな……する……」

 ダメ男は森の中へ消えていきました。途中、ふわりと黒いセーターの裾が浮き、お尻が見えてしまいます。デニムのポケットに一枚の紙がひょっこりと出ていました。その存在は黒いセーターによって、再び覆い隠されてしまいました。

 

 

 



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おまけ

 とある街にあるとある真っ白な施設。それほど大規模なものではないが、最新の防衛システムと防災システムを兼ね備えた施設だ。

 一階分の高さしか無いが、横に大きく広がっている。ゲートでは警備員が常駐し、車やら人間やらを区別していた。中身を露わにしないために窓は最小限に、そして出入口は鉄の扉という徹底ぶり。

 中に入ると白衣を着た人間でごった返していた。性別年齢は関係なく、老若男女が溢れていた。中には子供までいた。

 ある一部のグループの会話を覗かせてもらう。

「だから、能力開花のプロセスでは危機的状況が必須だって言ってるでしょ?」

「それはあくまでも一つの要素に過ぎないだろ? 高度落下実験でも証明されなかったじゃないか」

「あれは命が保証されてるからよっ。本当に死ぬかもしれないってくらいに追い詰めないと意味が無いわっ」

「君はなかなかの強情っ張りだなあ」

 と、専門分野の議論が交わされているようだ。

 さらにもう一つのグループも覗いてみる。

「こんにちは。私はション研究員です。早速ですが、あなたはここで三日間の研究に協力してくださるのですね?」

「あぁ。ちょっと楽しそうに見えたから」

「ありがとうございます。では、ここでは本名を名乗ることが禁じられています。……そうですね。勝手ながら、あなたは“スール”と名乗っていただきます。よろしいですか?」

「いいよ」

「ではスールさん、今回の実験について説明をさせていただきます」

「うん」

「まず、三つの実験を行いたいと思います。本日の午前中にこちらが用意したテスト三教科を受けていただきます」

「テスト?」

「はい。外国語分野、数学分野、IQテストの三つです。スールさんは外国人のために、外国語はスールさんの母国語で実施したいと思います」

「分かった」

「そして午後から体力測定を行います。全部で八項目です。握力、上体起こし、長座体前屈、反復横跳び、1500m走、50m走、立ち幅跳び、ハンドボール投げをします」

「うーんと……握力と上体起こしと……なんだっけ?」

「あ、大丈夫ですよ。後ほど説明用紙をお渡ししますので」

「そうなの? 助かるよ」

「いえいえ。……そして明日の午前中に実戦をします」

「実戦?」

「はい。こちらで対戦相手を用意し、殺し合いを意識した実戦を行います」

「はぁ~。実験なのにそこまでするんだ……。殺しちゃったらどうすんだ?」

「それは誰も責任に問われません。対戦相手もこちらできちんと契約をした人間ですので」

「うーん。……まぁ頑張るよ」

「ありがとうございます。で、明日の午後は軽くインタビューに協力していただきたいのです。実験の感想と実験結果の小話を少し……」

「いいよ。で、三日目はなんなんだ?」

「三日目はお休みです。街の観光や施設の見学などご自由にどうぞ。ただ、宿泊はこの施設でお願いします。最後に誓約書など書類を記入していただきたいので」

「つまり、出発は四日目ってことか」

「そういうことになります」

「分かった。協力するよ」

「ありがとうございます。早速ですが、実験を行いたいと思います。最初はテストですが、外国語をテストするにあたって、母国語を伺いたいのですが……」

「それならこの国の言葉でいいよ」

「え?」

「ただ、一つだけお願いがあるんだ」

「なんでしょう?」

「翻訳機の使用を許可してほしい。オレの国の言葉は多分マイナー過ぎて知らないと思うんだ」

「そんなことはありえません。我が研究所では全ての国の言語を把握しております」

「じゃあ翻訳機の準備してくれ。オレが話すから」

「……分かりました。少々お待ちを…………」

「……」

「……お待たせしました。お願いします」

「×○△□%&$#♭○○×%□」

「…………? 変ですね。何も表示されない……」

「△=¥#×□」

「…………表示しない……」

「な? 国によっては外部と全く連絡しなかったり他国の言葉を使ったりするんだ。自分の出身国を悟られないために」

「そうなんですか。……分かりました。翻訳機の使用を許可します」

「ありがと」

「では、実験に移りましょうか。……その黒いのは……?」

「これ? さすがに翻訳機の音声を垂れ流しにするのは、ちょっと恥ずかしいだろ? だからイヤホンで繋いでるんだ」

「そうでしたか。翻訳機ならこちらでお貸ししますが」

「操作する時間をできるだけ省きたいんだ。慣れてないのでやると、絶対に焦るからな。その時間はテストには全く関係ないだろ? 自前だからカンニングに注意したいんだろうけど、オレ一人なら全く意味ないし」

「確かに。それに、ここでは妨害電波を流していて、通信はできない仕組みになっています。外部との連絡も不可能です」

「それなら全く問題ないな」

「はい。……では、テストをしましょう。部屋を案内します……」

「はいよ」

「……」

「テストか……久しぶりだな……」

〈そうですね。しかし、あなたが意外とずるい男だとは思いもしませんでした〉

「基本的にはオレがやる……」

〈数学分野はこちらに任せてください。あなたの鳥頭では数式すら書けないとは思いますが〉

「うっさい……」

 黒い男は白衣を着た女に案内され、どこかの部屋に入室していった。

 

 

 




 あなたとの再会を大切に……水霧です。なんか急にすべった感満点ですみません。(改訂済みです)
 “なにかあるとこ”で“あとがき”は終わっていますが、やはり水霧は小言が言いたくて仕方がありません。今回もぜひお付き合いいただきたく思います! イヤとは言わせませんよ! ……本当につまらんという方はそのまま下へお進みください……。
 本章もいろいろと挑戦してみました。“なにかあるとこ”でのまさかの“あとがき”の差し込み。そして、“はかるとこ”でのダメ男のテスト、これは水霧がとある友人に話を聞いて作り上げたものです。医学系の論文を、水霧が頑張って練り上げてみました。水霧はその分野ではちんぷんかんぷんなのですが、やってみたくてやっちゃいました(笑)
 ちなみに当時、友人曰く、これじゃ恥ずかしくて論文投稿できないよ、と言われました。こうなりゃ強行突破じゃい! というわけで、未熟な研究者という強引な設定でねじ込んでみました。
 “たしゅたようなとこ”では、ダメ男の意味深な発言で終わっています。これもきちんとした理由があるのですが、ネタバレを下に記しておきました。知りたい方はそのまま下へお願いします。
 シメに“はこにわのようなとこ”です。ハイルが登場した第二章第六話“まもるとこ”に迫る長さでした。このお話は同国に長く滞在してみようという試みから、文字数まで長くなっちゃいました。ちょっと如何わしい表現も挑戦しています。
 また“――まで”では原作『キノの旅』にあったお話を、ハイルに行かせてみました。このお話は意外と書きやすかったです。お姉さんとかお姉さんとかお姉さんとか、取っ掛かりが多かったからです。あ、それと、このお話は水霧の妄想で成り立っています。詳しい内容は『キノの旅』をお買い求めていただきたく思います。これも水霧が好きなお話です。
 ちなみに、遠い昔のことですが、第一章にあった“たすうけつのくに”も好きです。こちらも同様に『キノの旅』に登場しています。
 さて、“あとがき”(水霧の小言)もこのくらいにしますね。お付き合いいただき、ありがとございました! 次章もお楽しみくださいね。



――ネタバレ――
 お気付きの方もいらっしゃると思いますが、“たしゅたようなとこ”でダメ男が面白いと感じた点、それは“たしゅ”がよく使われていることでした。
 “たしゅ”がよく使われる→“タシュ”を多く使用→タシュ多用。つまり、“多種多様”で“タシュ多用”というダジャレに、ダメ男は面白いと感じたのでした。なんか稚拙なことでごめんなさい(笑)
 これからももっと面白いアイデアを入れたいと思います。ご覧いただき、ありがとうございました!
――ネタバレ以上です――




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-夜・寝付いて-
はじめ:だいだいいろのよる


「……ここどこ?」
 男が目覚めてみると、そこは見たこともない所だった。頬をつねっても誰かを呼んでも何も変わらない所。そんな場所で男が見出した活路とは……? お人好しな男と辛辣(しんらつ)な“声”が送る変わった世界の短編物語、八話+おまけ+Request Story収録。『キノの旅』二次創作。





 西空に赤みが帯びてきた。そちらの方に雲が多いためか、夕陽に照らされた表は橙色に、その陰となる後方は濃紺系が濃淡で染まる。

 辺り一面に森林が広がっている。地平線彼方まで、その端が見えないくらいだった。夕陽に染まり、葉は橙色に、その陰を色濃く映し出している。

 どうにかして進んでいくと、その端っこが見えてきた。と同時に、せり上がる大地。そして平原。起伏の激しいこの地帯は陰の濃淡も激しかった。

 その先には国があった。立派な城壁に太い城門。鈍重で丈夫そうな木門は大の大人数人ではとても上げられそうにない。

 その中では、

「……」

 二人の男女が対峙していた。男の方は真っ黒のセーターに藍色のデニム、履き慣らした黒いスニーカーという格好だ。荷物であろう登山用のリュックは壁に立てかけるように置かれている。なお、そのリュックには黒い棒状の物が横から貫いていた。

「……」

 女の方は見た目からして騎士だった。銀色の装飾にところどころ剥げた甲冑、頭部は露出し、固く強張った表情が窺える。金色の長髪を左右に束ねつつも編みこんでいる。よく見ると瞳の色が微妙に違っていた。左目は黒茶色だが、右目はそれに赤みが強い。

 女が黒い男に近寄る。背中に背負った身長大の剣が甲冑と接触し、金属音を奏でる。

「……どうしても行ってしまうのか?」

「……ごめん」

 思わず、足が止まってしまった。どう受けとめていいか曖昧だった。

 もどかしそうに目を伏せる女騎士。

「目的は……なんだ?」

 不安そうな表情を見る黒い男。黒い男にもその不安が伝染(うつ)る。

「……言えない。……それだけは、絶対……」

 しかし、その瞳には決意があった。

「!」

 きらびやかな金属音。女が背中の剣を抜いた。ずっしりと重そうなその剣は軽く当たるだけでも首が飛んでしまいそうな、そんな恐怖感を煽るようだ。

「……行かせない」

 剣を握る両手に力が込もる。

「……どうしてもか?」

「行かせん……絶対に……」

「……どうして……どうしてそこまでオレに……気をかけてくれるんだ?」

 夕空がだんだんと夜空に移り変わっていく。ほのかに温かみを感じた色も灯火が消えるようにそっと消えた。

 少し経ってから、城下町に明かりが灯る。どういう仕組みなのか、透明な筒の中の燭台から、炎が吹き出ている。

 明かりが二人の影を作る。

「……」

 小さく、でも気負ったため息。喉から掻き出したい言葉を押さえつけているようだ。

 それを促すように、黒い男が続ける。

「恩返しは満足にできなかったから、またこの国に戻るよ。……それじゃ駄目なのか?」

「……駄目だ」

「……」

「お前を信じてはいるが、そんな言葉……何の確証もない。片時も……離れたくないのだ」

「あんたは戦争でこの国から離れるのにか?」

「私は死なないからいい。だが、お前は違う」

 片方の陰が一つになりたそうに、動き出す。

「お前は私が守る。……だから、ずっとこの国にいて……」

「…………」

「私は……お前が好きなのだ……」

 

 

 




夜は包み出す。あなたの心の光を守ろうと……。




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第一話:まっくらなとこ

「……ん、……んぅ……ぅは……ん……ん? んぅ~」

 ぱちりと目を覚ました。欠伸(あくび)をしながら背中を伸ばす。気持ち良さそうにぐぅっと。

「はぁっ……よく寝た……あれ?」

 男が目を覚ました。黒いタンクトップに黒いパンツを履いている。露出した部分は筋肉が盛り上がり、無数の傷が見えていた。

 きょろきょろと男は辺りを見渡した。

「……」

 呆然とする。

「……ここどこ?」

 男は立ち上がろうとした。しかし、頭に何かがぶつかる。それは柔らかい“何か”だが、破れそうにない。しかも足を一歩も出せないほどに狭かった。顔が当たって前に行けない。

「……」

 頭をわしゃわしゃと掻き出す男。

 辺り一面真っ暗だった。遠く彼方まで続いていそうな暗闇。飲み込まれそうで足が(すく)んでしまう。しかし男はニヤリとした。

「はっは~ん……これは……夢だな? 夢オチってことだろ」

 男は自分の頬を軽く(つね)ってみた。

「いったたた……」

 そして再び見回す。

「……」

 特に変わらなかった。

「ちょっとよわすぎたんだな? いっでででぇ~!」

 今度は半ば本気で抓った。離すと、抓った部分がヒリヒリと赤くなっている。

「これくらいなら、……!」

 しかし同じだった。

「なんで? まさか……」

 男は自分の顔を二発ほど殴った。左右それぞれだが、金槌でガンガンと打たれたかのように響き、倒れるのを堪えて、脚がぶるぶる震える。

「……これでもか……ってことは……」

 ふぅ、とため息をついた。

「オレ死んだのかっぁぁぁぁ!」

 がくりと倒れ込んだ。

「まじか、まじかよぉぉ! まだあんなことやこんなこともしてないし、世界だって全部見てない! でも、何が原因で……? 昨日は特に変なことはしてなかったぞ……。長閑な村に着いて二泊ほどして、……それで今日だし……。そうだ、おい! フー! フーぅぅぅっ!」

 誰かを呼びかける。しかし、しんと静まり返るだけだった。

「……」

 だらだらと汗が湧き出てきた。

「フーが返事をしないだと……? まさか本当にオレは死んじまったのか……? 嘘だろ? ってことは、ここは天国か? いや、まさか天国がこんな真っ暗なわけないはずだ。天国だったら美女とか天使とか、もっと華やかでいい感じの場所のはずだっ。……じゃあここは……地獄っ?」

 男は咄嗟(とっさ)にパンツのポケットを調べた。

「し、しまった……。ナイフはセーターの中だ……」

 仕方なく、そのまま身構えた。

「いや待てよ待てよ落ち着くんだオレ……人なんてそう簡単に死ぬわけがないんだ。昨日の行いをきちんと思い出せば、原因が分かるはずだ……」

 男は胡座(あぐら)をかいて、静かに目を閉じた。

 

 

 そこはいたって平凡で平穏な農村だ。田畑が広がり、牧場で家畜を育て、ほのぼのとした村人たちが笑い合う。人を騙そうとか殺めようとか、そんな物騒な考えの持ち主は絶対にいない。なぜなら他人を殺める意味がないから。それが断言できるくらいの平穏さだった。

 男は全身黒づくめの、見るからに怪しそうな男だった。しかし村に入るや否や大歓迎され、性格や気質からか一気に村に解けこめた。新鮮な野菜や肉をふんだんに使った郷土料理やミルクで持て成され、色々な物を交換した。誰と話しても何を食べても、いや何をせずとも自然に笑みが出る。そんな夢のような時間を二日ほど満喫した。

 旅立ちの日、男は村長と会った。ぜひ村に留まって欲しいと頼まれる。あなたほどの人は滅多にいない、だから黙って見送るわけにはいかない、どうかお願いだ。村長は男に最大の賛辞を送った。男にとっては嬉しい限りだ。しかし、

「すみません。ダメ男にはやるべきことがたくさんあります。そうですよね?」

 冷淡でキツイ口調の“女の声”がシャットアウトしたのだった。男、“ダメ男”は渋々それに従い、村を後にするのだった。

 

 

「……」

 ダメ男は黙りこくった。

「……」

 そして、

「なんもねぇぇぇぇっ!」

 叫んだ。

「あの料理に毒なんてなかったし、寝込みを襲われなかったし! 分からん……分からん……いや、待てよ……?」

 ダメ男は立ち上がった。

「死ぬ原因が無いってことは、オレは死んでないってことじゃん! ってことは、オレは不意を突かれて誘拐されたか、どっかに落ちて暗闇に閉じ込められたってことじゃん! なーんだ、あっはっはっははははっ!」

 一人で楽しそうに笑う。しかし、すぐに笑みが消えた。

「……で、どうすればいいんだ?」

 振り出しに戻る。

「脱出、しかないよな……でも素手で?」

 とりあえず、辺りを手探りで調べてみた。柔らかい“何か”は斜めに地面へ落ちるように伝っている。しゃがんでみると、思った以上にスペースがあった。一歩も踏み出せなかったのは下に広いためみたいだ。

 がす、

「うわ!」

 と何かを蹴ってしまった。暗闇で辺りは見えないが、物が散乱しているらしい。

 今度は床を手探りで調べた。すると、

「お」

 “何か”を拾うことができた。硬い。軽い。しかし、これで足の小指をぶつけたらそこそこに痛いだろう。ダメ男はそれを想像して悶絶した。

「これが鍵のようだな。よし調べよう」

 まずは(くま)なく触ってみる。凸凹が側面にあり、何やら“筋”がある。そこに指を引っ掛けると開いた。カチリと。

「……」

 ダメ男はアホ丸出しの顔で、

「あ」

 思わず声を漏らしてしまった。

「……」

 おそるおそる顔に手を掛ける。

「おはようございます、間抜けさん」

 四角い物体が見えた。

 

 

「ふふふふっふふふふふふふふっ」

「笑うなよ! バカフーっ!」

「あっはははは! んふふふっ」

「あぁぁっぁぁぁあぁぁ! もうっ!」

 薄い青から水色、白へと移り行く空。西の方では夕焼けで微かに橙色が(にじ)む。

 ダメ男は畦道(あぜみち)を歩いていた。周りは田んぼが広がっている。

「本当にダメ男っていう人は……あははははっ」

「だから笑うなあぁぁぁ!」

「まさか、“アイマスク”をしていることに気付かないなんて……ぷぷぷっふふふ……笑いが止まりません。独り言が喜劇にしか見えませんでしたよっくくくっふふふふぅはっはっははひっ!」

「一日中笑ってんな!」

「“笑う門には福来る”ですよっ! あっははははっ!」

「……もういい」

 ぷいっとダメ男はそっぽ向いて全力で走り出した。まるで雑念を振り払うかのように。

「ダメ男、怒らないでください。ごめんなさい」

「謝る気なんかさらさらないくせに……」

 むすっとしている。

「本当にすみません。もう笑いませんから、ごめんなさい」

「……」

 ため息をついた。

「いいよ。もう」

「そうですか。では言葉にあま……ぷぷぷぷ……あはははっ!」

「そういう“いい”じゃないから! もぅっ! お前ってやつは!」

「でも、ダメ男が珍しく“アイマスク”で寝るなんてことしなければ、起こらなかったのですよ?」

「そ、そうだけど……」

「どうして……くひっ、アイマスクなんてしよ、あひっ、と思ったのですか……っ?」

「……れい」

 ぽそりと呟く。

「え?」

「村の人からもらったんだけど、これなら幽霊も見ないかなって……」

「あぁ、なるほど」

「納得してくれた?」

「そうですね」

 “フー”は、

「んー」

「?」

「あっはははははっ!」

 また笑い始めた。

「そんな理由で、いひっいひひひっ! だめっおはワタシをコわす気ですカ?」

「いかん! おかしくなりすぎてショートしてる! このバカ!」

「壊れてないですよ! まったく、ダメ男は本当に面白い人ですねっ」

 ダメ男はあたふたしながらも、

「……ふふ」

 一緒に笑っていた。

 

 

 



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第二話:やすむとこ

 真っ白い雲が空一面を覆っている。とても分厚く、光など遮蔽しようとしているようだ。そんな空から天使の羽のように、軽くてふわふわした雪が降っていた。

 辺りはどこもかしこも真っ白だった。しばらく降っていたのか、木々や看板、柵などにもびっしりと雪がこびりついていた。

 辺り一面銀一色の景色に伸びていく二筋の線。それを作っているのは二人の旅人だった。分厚いダウンジャケットを着て、頭まですっぽりとフードで覆っている。その周りのファーがびっしょり濡れている。下も分厚そうなパンツを履き、靴は靴底がぎざぎざで厚みのあるものだった。二人とも色違いだが、ほぼ同じ服装をしている。

「寒い……ですねぇ」

 青い服装の方から男の声がした。笑いも混じる軽い口調で空を仰ぐ。はぁ……、と息を吐くと、白いもやが出てきた。ショルダーバッグを掛け直す。

 それを先導する黒い服装の方はザシュザシュとすり足で進んでいく。迷彩柄の大きなリュックを背負っている。

「遅い。早く来い」

 さらに冷徹な一言を言い放つ女の声。

「あぁ、その……ふぅ、はい……」

 男は置いて行かれまいと、女の後を付いていった。心なしか、足取りが怪しくてふらふらしている。

「もうバテたのか? そのままだと置いていくぞ。“奴”を見失う」

「……すみません……」

 さくさくさくさく、とすり足のはずなのに陸上競技でもしているかのように、突っ走っていく。一方の男は、よたよたと歩きたてのペンギンのようだった。

 男が驚くのも無理はなかった。膝丈くらいに雪が積もっているのだ。

「なんて脚力だ……うわっ!」

 ぼふん、とダイブしてしまった。

「……つめた……、……!」

 急に持ち上げられる。女がいつの間にか目の前にいた。

 男の全面は真っ白だらけである。子供を世話するかのように、女が軽く叩いた。

「まったく、情けない奴だ。これしきのことでへばるとは」

「……すみません……」

「仕方ない。お前に合わせるとするか」

「申しわけな、いっ……です……」

 ぼふん、と女により掛かる男。

「おい、ふざけてい、……!」

 はっとして何かに気付いた。

 女は急いで手袋を外し、男の顔に触れる。その後、フードを外してあげた。

「…………ふぅ」

 男の顔は真っ赤だった。霜焼けというのもあるが、表情に力がなく、瞼が半分閉じかかっている。薄っすらと見える瞳が虚ろだった。

「……馬鹿者」

 男を一旦地べたならぬ雪べたに座らせ、頑丈そうな縄を取り出した。それを男の身体に巻き付け、背負うように促す。背負った後は縄を自分の腹に巻きつけた。これで背負ったまま両手を離して行動できる。

「こんな時に体調を崩す奴がいるか。いつからだ」

「さ、さぁ……す、すみません……」

「……一()ず近くの国に行くぞ」

「……はぁ…………はぁ……」

 耳元で昨日……と聞こえた。女は瞳を伏せて、ばかもの……と呟いた。

 

 

 見えてきたのは真っ白な壁だった。三メートルほどの高さで、左右にすっと伸び、景色に溶け込んでいく。おそらく何かの壁に雪がびっちり付いたものだ。

 女は、

「……」

 その白い壁を右手方向に伝っていく。まるで彼女たちを遮るように、空間を二分していた。

 足跡が壁をなぞるように、直角に増えていく。

 そのまま歩くと、今度は木々が目立ち始めた。森林ほど密集してはいないが、ぽつぽつと散らばっている。

 長い。雪が積もって足取りが悪くなっていることも相まって、十数分進み続けても何も真新しいものがない。見えるのは雪に包まれた木々と白いものだけ。

「!」

 女の後頭部に熱を感じる。熱のこもった呼吸で、髪の毛が焼けるように熱かった。

「……ふぅ……ふぅ……」

「……」

 男の容態が分かってからというもの、息が一層荒く感じる女。もう一度手袋を外して顔に触れる。……火傷を起こしそうなくらい熱い。

「……一体何なんだこれは……」

 八つ当たり。苛立ちで無意識的に壁を殴った。

「!」

 金属板が擦れて弾ける音。女ははっとして、雪を払い落とす。

「……これは……」

 そこには凸凹した金属の壁が垣間見えた。

 もっと払い落としていく。

「初めて見るぞ……」

 細い金属棒を柱として金属板が貼られていた。厳密に言うと、金属板が柱に“挟まっている”。

 女は有刺鉄線や電気の通った壁でないことを念入りに確認した。そして迷彩リュックから四角い物体を、

「待ちなさい!」

 背後で男の声が聞こえてきた。思わず、それをしまい直す。

 振り返ると、彼女らと同じように、完全防備の姿をした男がいた。顔までフルフェイスマスクとゴーグルで覆っている。

「お前さんたち、ここを壊そうとしてただろ?」

「……」

 女は男を睨みつける。まるで突き刺すような鋭さに、男はたじろいでしまう。

「そ、そんなににらまなくても……」

「……」

 失せろ。女は小さく言い放った。

 しかし、

「そこを通りたいのか?」

 男は果敢にも女に問いかける。何とも言えない表情で、女は頷いた。男の目には、それはしかたなさげに映る。

「こっちに来てくれ」

 歩いて行く男に付いて行くと、壁のある地点で止まった。そこの雪を払い落とす。

「いくつか開くようになってるんだけどな」

「!」

 今まで見かけたのとは違い、ここの場所だけは蝶番と取っ手が付いていた。

 それを確かめた後、男は足元の雪を手で退()かしていく。女には、

「じっとしてろ。お連れさんに負担がかかる」

 一切手伝わせなかった。

 壁の範囲くらいに雪をかき分けた頃、日が傾き始めているのか、急に暗くなり始める。しかも、雪の粒も大きくなり、しんしんと降りだした。

「少し急ごう」

「……」

 取っ手を引く。男の手際が良かったようで、ずりずりと引きずりながらも、壁が開いた。

 二人ともそこを通り、丁寧に閉じる。

「……すまない」

「いいよ。それより、旅人さんはこれからどうするんだい? まさか、この雪の中を突っ走っていくわけじゃないだろ?」

「……」

 女は無言になった。

「あっ呆れた。この雪の中で下山しようとしたら、余裕で三日四日はかかるぞ」

「それでも野宿しながら行くしかない。元はといえば、こいつが体調を崩したのが悪い」

「……」

 少し引いている。

 はぁ、と勢い良く白い息を吐いた。

「うちに来い。この先にあるから」

「……」

 その提案を呑むしかなかった。

 特に礼を告げず、男の後を付いていく。

 とても静かな雪山の中、ぼそりと何かが聞こえた。直後、いいってことよ、と男のでかい声が響いて聞こえた。

 

 

 雪に染まった森林が目立ち始めた。その重みに耐えられず、枝が折れて雪に沈んでいく。その乾きつつも重々しい衝撃音は静かな山の中で、どこからともなく聞こえてくる。

 不安が拭えない女。男が先導してくれているものの、出会ったばかりで、とても信頼しきれるとは言えなかった。しかし従う以外に選択肢がなかった。

 進んでいくにつれ、仲間の男の容態が気になって仕方がない。

 だんだんと森林が拓けていく。まるで三人を招き入れるように。

「着いたぞ」

 歩き始めて半時もかからなかったが、その時間が恐ろしく長く感じる。

「……」

 三角の藁屋根の平屋だった。コンクリートの基礎が見え、家の床との間に空間を作っている。ガラス戸の玄関の左側に、ガラス戸で見える廊下。露出した柱の合間を古そうな木材で埋めている。まさに古風な家屋だった。

 その屋根には分厚い雪の塊が乗っかっている。幸い、屋根の“傘”が広いのか、玄関辺りは少ししか積もっていない。

 男は鍵で玄関を外すと、立て付けが悪そうに強引に引いた。女も中に入る。

「……寒いな」

 中はわりとさっぱりとしていた。右手に台所と思われるお(かま)と流し台があり、それらの土台はどちらも石と何かの接着剤で組み立てたものだ。真正面は大量の(まき)と掃除用具、見たことのない木製の置物が置かれている。左手は板の間に繋がり、障子と縁側で仕切られている。

「ここらへんはな。板の間の奥の和室はそこそこあったかいぞ。畳あるしな。お連れさんはそこで休ませるといい。すぐに布団を用意するから」

「……すまない」

 ゆっくりと縄を解き、連れの男を下ろして縁側に座らせた。ついでに提げていた荷物も置く。

 連れの男の防寒具を脱がせ始めた。子供っぽい顔付きだが、爽やかそうで好青年だ。肩にかかるくらいに長い茶髪は違和感がなく、しっとりと濡れていた。顔も濡れていて、もみあげがへばりついている。

 顔だけでなく、中までぐっしょりとしていた。熱くて汗をかいていたのか。

 女も自分の防寒具を脱ぐ。

「……」

 男は呆然として女を見ていた。

「なんだ?」

 とても色白で、左目尻の泣き黒子が可愛らしかった。しかし口調からも感じ取れるように、雰囲気も表情も少し凛としていた。黒い長髪は頭の天辺らへんでお団子になっていた。

「ん? ……何でもない。それより、その様子だと風呂も必要か?」

「いや、お湯さえあれば……」

「水はあまるほどある。暖も取るついでに湯も準備しとく」

「何から何まで……すまない」

 荷物から二人の着替えを取り出すと、

「……“ディン”、立てるか?」

 連れの男“ディン”に肩を貸す。ディンは(だる)そうに頷いた。ディンの頬に頬を触れさせると、ひどく熱かった。

 とりあえず、女は連れの男を休ませることにした。奥の部屋へ向かうと、男の言う通り、八畳ほどの広さの和室だった。心なしか、先程よりも寒くはない感じはする。

「少し寒いだろうが、我慢しろ」

 ディンの衣服を丁寧に全て脱がせる。

「……タオル忘れた……」

 肌の表面がうっすらと湿っているのを察し、トタトタとタオルを取りに行った。

「……」

 恐ろしく身体が冷えている。しかし顔や脇が熱い。女は丹念に身体を拭ってあげた。

「……あ、あね……さん……?」

「しゃべらなくていい。気を楽にしろ」

 器用にディンに厚めの寝巻きを着せてあげる。

「どうだい」

 すーっ、と板の間から障子を引く音。

 女は振り返らず、

「あまり良くはない。四十度近い高熱だ」

「そら大変だ」

 受け答えする。

 男はふすまから布団を一式分取り出し、ディンの横に敷いた。

「寝転がれ」

 まるで這いつくばるように布団に乗るディン。その上から温かそうな掛け布団が三枚ほど。

「……一応風邪薬あるけど、飲んどくか?」

「私も持っている」

「そ、そうか。それならあんし、……!」

 急に男の目の前で衣服を脱ごうとする女。慌てて、

「何してんのっ?」

 引き留めた。

「? 着替えているだけだが」

「あんた女だろっ。ちっとは恥じらいってもんをだな……!」

「別にそこまで珍しいものでもないし、見られたからといって恥じたりもしない」

「……」

 ふぅ、と小さく息をつく。

「とにかく、俺は準備しとくから、その間に色々と済ませといてくれ。お連れさんがいるのに何かあっちゃ俺が困る」

「……」

 すーっ、と障子が閉められた。その向こう側で、

「あんた、名前は?」

「……」

「俺は“ヤマ”ってんだ。短い間かもしれんがよろしく」

「……」

 ため息の声。足音がもの寂しそうに、そして、

「“ナナ”だ」

「!」

「世話になる、ヤマ」

 嬉しそうに一瞬止まった。

 

 

 辺りはすっかり暗くなっている。雪のせいか、より一層荘厳で静かな気がした。雪が木から崩れ落ちる音、ちりちりと細かい雪が降り積もっていく音。寒さも際立って敏感に聞こえてくる。

 玄関には提灯(ちょうちん)が提げられ、遠くからでも仄かに見える。また、家の障子からぼんやりと温かい明かりが点いていた。そこに人影が映っている。

 女“ナナ”はディンの介抱に付きっきりだった。何とか上体を立たせて、作ってもらったお(かゆ)を食べさせている。

「食え。身体が持たないぞ」

「……」

 ディンは絶不調だった。ナナがお粥を流しこむも、ほとんど咀嚼(そしゃく)していない。時折、口から零してしまうことも。その度に、こまめに拭いていた。

「げほっ、がほっ! ……っんふっ! ……はぁ……はぁ……」

「……」

 和室の隅っこに置かれた木製の箱。そこに大量の灰が入れられ、五徳を敷いた上に丸みのある鉄瓶が乗せられている。炭火で緩やかに熱せられているためか、鉄瓶の先っぽから湯気がふわりふわりと立ち上っている。

 その反対側には、形の変わった灯りが置いてあった。六角錐の尖ったところを切り落として、逆さまに立てたような形をしている。骨組みは木製で、赤く塗装されており、面は模様の入った紙が貼られている。中は空洞で、そこに蝋燭(ろうそく)が立てられている。

「……ふむ。せっかく情緒あるものだが……もったいない」

 ナナはお粥を改めて見た。

「食べづらいのか? 急いで作ってもらって、まだ粒が残っているから……」

「……」

 頷くように、ナナに項垂れるディン。

 ったく、とナナは、

「世話のかかるやつめ……」

 お粥を口に含み、もくもくとかみかみした後、

「ん」

 そのままディンの口に重ねた。

「……んは」

 茶碗が空になるまで何回も繰り返していく。

「ん、んぅ……」

「……ふはっ……舌で拒絶するな。食わねば薬が効かないだろうが」

「……も、う……いっぱい……くっるし……」

「まだ五口しか食べてないぞ。情けない」

「や、やめっ、」

 と言いつつ、まだまだ繰り返していった。

 

 

 十分に食事を取らせたおかげなのか薬がよく効いているのか、ディンは安らかに眠っている。

「……十分に休め」

 ぴしりとおでこに白いシートを貼ってあげた。

 ナナは隣の板の間に戻ることにした。

「お疲れさん。……どうだい、ディンさんの方は?」

「今は落ち着いている」

 ナナもようやく落ち着くことができる。どたどたしていたために、しっかり見ていなかった。

 板の間の真ん中に囲炉裏(いろり)があった。天井から鎖が吊るされ、先端に引っ掛けが付いていた。そこに鉄鍋が引っ掛かっている。ぐつぐつと出来立ての汁物が湯気を上げて煮えていた。

 その出口側にヤマが座っている。ヤマと向かい合う位置に藁で手厚く編んだ座布団が置かれていた。失礼する、とナナはそこに座った。

「あれだけ手厚く看病してたんだ。効き目も早いだろうに」

「!」

 (すく)ってもらい、お椀を差し出される。ナナは気恥ずかしそうに、ヤマの視線を避けながら受け取った。

「貴様……見ていたのか?」

「あ、あの、悪気があって覗いたわけじゃないんだ。そこは障子だろ? だから明かりをつけると、見えちゃうんだよ……」

「……」

 じと、とヤマを睨む。かなり狼狽えていた。

「……都合つけてもらった身だ。仕方なく許すが、ここの構造を見直した方がいい」

 すすす、と冷めた口調で食べ始めた。全身全霊でほっとするヤマ。思わず、恥じたりしないんじゃ……、という呟きが聞こえてしまい、一瞬だけ槍で突き刺すように()め付けられた。

「……ああ、防寒具は台所の近くで乾かしてるよ。あそこは火の気が多いから、わりと乾きやすいと思ってな」

「すまない。……何か礼を……」

「いやいいよ。……ほんとは下心があったんだけど、二人の関係があんなに熱烈だと、気が引けてな」

「!」

 瞬く間に、ヤマの眼前に、

「調子に乗るな。その頭の中を直接覗いてもいいんだぞ?」

 真っ黒の穴が二つ。“ソウドオフ・ショットガン”と呼ばれる銃身をかなり切り詰めた小型のものだ。しかし、まじまじと見ているのはなぜかショットガンの方だった。

「じょ、冗談だって! じょうだん! あぶないからそんなもんこっちに向けんなっ!」

「……」

 懐にショットガンをしまい、再び食べ始める。お腹が空いたようで、おかわりもいただいていた。

「これは不思議な味だ」

「口に合わなかった?」

「いや……美味い」

「味噌って聞いたことないか?」

「初めて聞く。この地帯の郷土料理か?」

「そう、なんかな? 家ごとにかなり味が違うんだよ。味噌って言っても何百種類もあって、好みの味噌を使うんだ。しかも具も違う。うちはだいたい大根と油揚げ、ネギを使うけど、家によっては卵だったりワカメだったり……」

「なに? そんなバラバラなものが料理のわけがないだろう」

「そう言われてもな……そうとしか言えないし……」

「……」

 いちゃもんをつけるわりに、

「もう一杯、もらえるか?」

「いいよ。いくらでも食べんさい」

 止まらなかった。

「お礼かあ。……そうだなあ……」

 ヤマもしゃくしゃくと食べている。

「旅人なら、面白い話とかいい話とかあるだろ? それを話してくれよ」

「! ……」

 止まってしまった。

「……?」

 物惜しげもなく、お椀を側に置く。

 ヤマはその意味が分からなかった。

「もしかして、旅を始めたばっかりとか、誰かに追われてるとか?」

「……」

 改めて、おそるおそる尋ねる。

「あまり……いいことがなかったのか」

「……」

 軽く息をつく。

「私は観光目的で旅をしているわけではない。……ある男を殺すために生きているのだ」

「ある男?」

「私の弟の(かたき)だ」

「つまり……復讐?」

「そうだ。ディンはその男と一緒にとある依頼を受けていた。証人として連れているから死なれては困る。……それだけに過ぎない」

 淡々と、しかし目付きがだんだんと鋭くなっていく。

 ヤマはそれを感じ取り、

「もう一杯、食うか?」

 手を差し伸べた。

「いや、もうよしておく。ごちそうさま」

 軽く手を上げて、拒む。

「……そうかあ……弟さんの仇討ちかあ……」

「?」

 ヤマはどこか感慨深そうだった。

「……止めたりしないのか?」

「どうして? 止めてほしいのか?」

「あ、いや……この話をすると、誰もがみな必死で(さと)してくるからな。てっきり……」

「……その役目は俺じゃない、だろ?」

「……」

 ナナが俯く。

「……ああ、そういえばあの白い壁、気にならなかったか?」

「……そうだな」

 思い出したかのような急な話題転換。ヤマはこれ以上掘り下げることを躊躇った。

「あれは“防雪柵”って言ってな。吹雪(ふぶ)いた時の防御壁みたいなもんだ。この休憩所を守るためさ」

「? ここはヤマの家ではないのか?」

「ああ、ちょっと間違ってたな。正確には、俺たちが管理してる休憩所なんだ」

「ますます意図が分からない」

 ごめんごめん、と笑い流す。

「最初から話すか。……俺はこの山の捜索隊の一人なんだ」

「捜索隊?」

「ここの地帯は天候が不安定でな。遭難する人が多いのさ。そこで、地元の連中と相談して、こんな感じの休憩所をいくつか作ったんだ。遭難しても、何とか生き延びれるように」

「……何のためにそんなことをする?」

「何のためって……遭難者を助けるためだよ」

「なぜ助ける必要がある? ヤマには何の得もないだろう」

「人を助けるのに損得勘定しないと駄目なのか?」

「そうしないと自分の命が危ぶまれるかもしれないだろう?」

「なんだ、あんたは恩を仇で返すタイプなのか」

「時と場合によっては殺すこともあるだろう。善意を払う人間には裏があるものだ。お前も私を×したくてここに連れて来たのだろう?」

「あんたホントに冗談通じないなっ! っていうか、旅人ってみんなそんなもんなのかよ!」

「さぁな。興味もない。目的を果たせればどうだっていい」

「……」

「…………」

 言い争い。両者ともに(いき)り立っていた。

 はっとして、

「ごめん。ちょっと熱くなった」

 ヤマが謝った。一方のナナは、無言を貫いている。

「……俺もな、この山で遭難したことがあるんだ」

「……え?」

 目を丸くした。

「まだガキの……今頃かな。この山で遊んでたら、崖から落ちたんだ。雪で崖が分からなくって。気付いたら洞窟の中でさ。もう死ぬかと思った」

「?」

「でも、一人のおっさんがなぜかいたんだ。多分、俺のことを助けに来てくれた人なんだって思った。……まあその……なんだ……、色々あって結局はおっさんは俺をかばって死んじまった」

「……」

 当時のことを思い出しているのだろう。快活な面持ちに重みが混じっている。

 ナナはその経緯を端折ったことに、追及しなかった。壮絶な出来事だったろうから。

「後で分かったんだけど、おっさんには家族がいて、俺と同じくらいの息子がいたんだ。当然、俺は責められる覚悟でいったよ。俺がいなきゃ、おっさんは助かったんだしな」

「……!」

 しかし、ヤマの表情は一変して、なぜか綻んでいる。

「でも、びっくりした。おっさんの家族に、なんでか“ありがとう”って言われたんだ」

「え?」

「嫌味なのか皮肉なのか、最初はそう思ったんだけど……泣いてたんだ」

「……」

 くしくし、と目を擦る。

「何も聞かなかったけど、おっさんがおっさんのままでいさせてくれて“ありがとう”って意味だって勝手におも……ごめん、勝手に話して勝手に泣きそうになってよ……」

「いい。続けてくれ」

「……」

 急に立ち上がり、タオルを取りに行って来た。

「そっからかな。俺もおっさんみたいになりたいって思ったのは。自分を犠牲にして助けてくれたおっさんみたいに、誰かを助けたいってな」

「……」

「それで、おっさんの息子さん……まあ今は俺の親友なんだけど、そいつと一緒に、捜索隊を組むことにしたんだ。こいつがけっこう重宝してくれててな」

「……私も、助けられたってことか」

「そういうこった。他のやつらは知らんけど、少なくとも俺は死なせたくないから助ける、ただそれだけだ。俺は馬鹿だから、損得勘定できないだけだけどな。はっははは!」

「……」

 ナナは一つ、切り出した。

「ヤマから見て、私をどう思う?」

「……どうって?」

「そのままだ」

「難しい質問だな。うーん……」

 まじまじとナナを見つめる。その視線がこそばゆいのか、手で遮る。

「迷ってるように見える」

「……え?」

 思わず、目を見張った。

「どうしてそう見える?」

「見えるっていうか、こういう話をする時点でそうだと思った。本当にそう決めたなら、吹っ切れて別の話題にしてる。そうしないのは、答えを見つけようとしてる気がするんだ。つまり……相談してるってこと」

「!」

「悪く言うと、かまってちゃんかなとも思う。誰かに構ってほしいから、変な駆け引きだったり引っ掛けたりするし」

「……」

 ふ、とナナの“氷”情が少し解けた。

「!」

「良い話をありがとう」

 ナナは立ち上がると、

「私はもう休む。……世話になった」

 和室の方へ入っていった。

 

 

「おーい、ヤーマー」

「ん、んう……」

「おはよう」

「お、おう、……って! あれ? お前なんでここに?」

「なんでって……ひでえやつだな。今日は二人で捜索する日だろ?」

「それは分かってる。どうしてここにいるって分かったんだよ」

「ああ、それなら、ここに来る途中で旅人さんに出会ってな。ちょっと話してるうちに、お前がここの休憩所にいるって教えてくれたんだ」

「そうか……、…………! って旅人っ?」

「お、おい、どこいく、」

「……! ……いない……」

「え?」

「サト、その旅人ってのは男女二人か?」

「ああ、そうだったよ」

「……密かに出て行ったのか。……だからあの時、世話になったって……」

「あっ、そうそう! お前に伝言があるぞ」

「?」

「 “ひとしきり終わったら食べに来る”だと」

「あの人、ここを定食屋か何かと勘違いしてるだろ」

「実際、お前の手料理は最高だからな。お前には黙ってたが、実は手料理食いたさにわざと遭難するやつもいるそうだぞ」

「それじゃあ、いつになっても遭難者が減らねえじゃねえか!」

「だからよ、この山のふもとで小料理屋を開くってのはどうだ? 遭難者は減るし、ちょっとした名物店になりそうだぞ。そのくらいの勢いだ」

「……不本意だけど、どんな形でも、遭難者が減ればいいか」

 

 

 天候に恵まれた。空一面真っ青とまではいかないものの、三割ほど晴れ間が見えている。その青さが快晴よりも晴れやかに見えた。

 下山路。森林というよりも木々が散在しているという方が適切だった。ある程度陽の光が当たっていたのか、滴っていたところに氷柱ができている。細かい枝のところは氷樹となっていた。

 その合間を二本の筋が縫って伸びていた。しかし、片方は伸び悩んでいる。

「あ、姐さん……まだ病み上がりなので、もうちょっとゆっくり……」

「元はといえば、貴様が熱を上げたのが悪い。それに昨日よりもマシだろう。黙ってついて来い」

「は、はい~……」

 二人とも、前日と同じ服装だが、晴れているのでフードは外していた。

 ナナは黒縁メガネをかけている。

「そういえば、お団子は久しぶりですねぇ。新鮮でいい感じですよ」

「……」

「な、なんで早くなるんですかっ?」

 ずささささ、と滑り落ちるような早さだ。

「口を動かすより脚を動かせ」

「おっしゃる通りで……。でも、少し休みません?」

「誰かさんのせいで、大分遅れを取っている。“奴”が目的地での用事が終わってしまう」

「はいはい……」

 ナナも飛ばし過ぎたようで、少し遅くした。それを見て、何とか気合でナナに追いつこうとするディン。

「あの人と何か話でもしたんですか?」

「気になるのか?」

「そりゃあ、“また食べに来る”なんて、どんな料理だったのか気になりますよ」

「……気になるなら、さっさと追い付くぞ」

「食べ物で釣るなんて、私は子供ですか」

「子供だったろうが」

 すみません、とただただ謝るしかなかった。しかし、ディンは笑顔のままだ。

「姐さんにお礼とお詫びをしなきゃいけないですね」

「どちらもいらん。……“奴”を殺す準備は?」

「できてます。その“テ”の傭兵を募ったら、一部隊がそのままそっくり応募してきました。“報酬”を聞いて飛びついたみたいです。……下衆な連中ですねぇ」

「朗報だな。それを礼として、今回の不祥事には目を(つむ)る」

 ディンは知っていた。

「実はお詫びが残ってまして」

「なんだ?」

「…………実は……う~ん……」

「はっきり言え。のんびり聞いていられん」

「…………大げさに甘えました」

「…………」

 ため息をつきながら、口角を上げる癖も、

「 “含めて” 不祥事だ」

 お世話焼きなのも。

 

 

 



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第三話:らくなとこ

 雲の層が薄いのか、空は薄らと青みを帯びていた。南中に差し掛かろうと南の方では太陽が燦々(さんさん)と照りつける。すこし蒸していた。

 あるところに一つの橋があった。壊れるシーンを想像できないくらいに、どでかい丸太で頑丈に作られていた。長くはないが、対岸を繋ぐ唯一の橋だ。

 その下を激流が走っていた。理由は分からないが、飲み込まれたらまず助からない。そんな恐怖をかき立てる激流だった。音がサーっと静かに、でもパワフルに轟く。怖い怖い。

 そんな危険地帯を架ける橋のど真ん中には仕切りがされていた。しかも見張りまでいる。さらにさらに、反対側にもいる。まるでこの道は通さんと仁王立ちするが如く。屈強で肉厚な見張りだった。(やり)まで持っている。

 そこへ一人の男が軽い足取りでやって来た。黒いセーターにダークブルーのジーンズ、履き汚したスニーカーという出で立ちで、黒いリュックを背負っていた。見張りの男とは正反対で、見た目を表現するなら“モヤシ”だった。

 男は橋を渡ろうとした。

「おい」

 見張りの男はギラリと黒い男を睨み付けた。

「見て分からんのか? ここは通行禁止だ 通りたくば別の場所へ行け」

 ドスンと槍を置く。

 黒い男は頬をカリカリと掻いた。困り果てている。

「えっと……なんて言えばいいかな……他のとこも行ったんだけど、同じように追い返されたんだ」

「知らん。他へ行け」

「知らんって言われてもなぁ……」

「ならば諦めよ!」

 見張りの男は怒鳴り散らした。

「んー……じゃあせめて、ここを通行止めしてる理由くらい聞かせてくれよ。それくらいならいいだろ?」

「……」

 ふーっと息をついた。

「いいだろう。ただし、聞いた後は渡ろうとせぬよう、ここで誓え」

「いいよ。オレはここを通らない」

 黒い男はリュックを下ろした。

「我が国は今、隣国と戦争をしている。佳境なのだ。そのためにたとえ赤ん坊一人であろうと外へ出してはならん、と王がお触れを出したのだ。我らはそれを守っているに過ぎん」

「それって、国民を守るためにもなるのか?」

「無論。しかし、それ以外にも狼藉(ろうぜき)を国内に留まらせ敵国へ情報を渡さないため、というのもあるがな」

「ってことは……あんたは兵士ってこと?」

「うむ」

「まじか! それはカッコイイな! 国のために国民のために橋を守るってことか! 男としてまじで惚れるなぁ」

「よ、よせ……我らはただお守りしているに過ぎんのだ」

「そういうことを平然と言えることがすごいってことだよ。よっぽどの鉄の意志なんだろうな……」

「まぁ……さて、話はおわ、」

「ねぇ、兵士さんたちはどんな訓練だったり任務だったりやってたんだ? すごく興味が湧いてきたっ。教えてくれないかな?」

「え? ……まぁ……別に構わないが……」

 見張りの男はいろいろと話してくれた。国の情勢、問題、戦争の意見について、おまけに男の家族のことまで、こと細かく教えてくれた。黒い男は自分の意見を交えながらも、深い関心を持って話を聞いていた。

「なるほどね……お互いの領土を守る戦争か……」

「個人的には和平でも解決しそうな気がするのだが、……いかんせん王が疑り深い気性の持ち主でな。それで戦争状態になっているのだ……」

「やっぱり戦争ってしたくないものなんか?」

「そんなこと当然に決まっておろうっ! ……いや、すまない……」

「いいよ」

「今は小康状態だが、いつ始まってもおかしくない。だからこうして守っているのだ」

「……」

 黒い男は(あご)に手を当て、少し考える。

「どうした?」

 そして、うんうんと頷いた。

「あのさ、頼みがあるんだけどいいかな?」

「なんだ? ここを通せという以外なら」

「うん、通してくれ」

「! なんだとっ?」

「今の話を聞いてよく分かった。和平で解決できる戦争を見過ごせないんだ」

「? どういうことだ?」

 リュックを背負った。

「オレが王様二人を説得してみせるよ」

「! バカな! そんなことできるわけがないっ! 国の門で蜂の巣にされるだけだ!」

「そんなの、やってみなきゃ分からないだろ? それに、こういうことができるのは現段階だとオレしかいない。勝算はある。やらせてくれ」

「し、しかし……」

「頼む。オレも無視できないんだ」

「……」

 見張りの男は深く考えた結果、

「……分かった」

「ありがと! オレを信じてくれな!」

 仕切りのドアを開けた。

「向こう側にいる兵士は敵国の兵士だ」

「そうなんか。なら話は早いね」

 黒い男が橋を渡ると、すぐ脇に同じような体つきの兵士がいた。しかし、(よろい)の色が違う。

「話は聞こえてた?」

「あぁ! 旅人さん! 頼む! 王様を説得してくれ!」

「任せんさい!」

 黒い男は兵士二人に手を振って、進んでいった。

「あいつ……やってくれるかな?」

「あぁ。あれほどの強い意志を持った男は見たことがない。見た目とは裏腹に信念を貫く男だった」

 一方、黒い男の方は。

「何とか通してくれたよ……」

「あなたは時々嘘をつきますが、ロクでもない嘘しかつきませんね。誠実さを逆手に取った巧妙かつ下劣な作戦です」

「うーん、でもまぁ……やってみるだけの価値はあったな」

「もっと悪質なのは、その嘘を“嘘にできない”ことですけどね」

 

 

 真っ白い雲が空を占領する。光など遮断していた。かなり蒸していて、少し動くと汗が玉のように出てくる。

 あるところに一つの橋があった。古びているが、渡る分には全く問題がない。ぶっとい丸太が複雑に組まれ、あらゆる力を分散して耐久性を上げていた。距離は無いものの、対岸を繋ぐ唯一の橋だ。

 その下を川が流れていた。さらさらとゆったりと流れていて、泳いでも悠々(ゆうゆう)と向こう岸に渡れる。音がどことなく気持ちいい。

 橋には見張りが二人いた。こちらの岸と対岸とでそれぞれ一人ずつ。ガタイがよく、ごつい槍を背中にくくり付けていた。

 そこへ二人やって来た。

「疲れました?」

「いや……大丈夫だ」

「ほらほら、無理しないでください。ちょうど良さそうですから、ここで休みましょうか」

「……」

 一人は幼い顔つきの優男だった。無地の白いシャツに下半身をすっぽり覆う鋼鉄製の鎧を着ていた。腰に刀を(たずさ)えていて、ショルダーバッグを肩に掛けている。

「好きにしろ」

 優男はショルダーバッグを置いて、川で顔を洗う。

 もう一人は女だった。

「……ふぅ」

 黒い長髪に色白で泣きぼくろ、黒いメガネが特徴の二十代くらいの女だった。しかし、格好はというと、まるで戦争にいくかのような迷彩服と恐ろしい量の入ったリュックとバックパックだった。右の腰には“ホルスター”が付けられている。

 女はどさりと荷物を下ろすと、近くの木に腰掛けた。滝のような汗をかいている。

「私が持ちましょうか? それ」

 優男は女の荷物を指差した。

「いいと言ったはずだ」

「ですけど、それやばくないですか?」

「仕方ないだろう」

「だから持ちましょ、おっと」

 女は優男の眼前に銃口を突きつけた。ショットガンだった。

「ここでその軽い頭をぶちまけられたいのか?」

「分かりましたからやめましょうって……」

 すっとホルスターに戻した。安堵のため息をつく優男。

 空気が悪くなってまいったのか、優男は、

「えっと、すみませんね見張りさん」

 見張りに声をかけた。

「しかしいいところですねぇ」

「あぁ。本当に良くなったよ」

「? よくなった? 何かあったんですか?」

 見張りはこくりと頷く。

「半年ほど前まで、この先にある国と戦争をしてたんだ」

「戦争ですか。……でも、その様子だとそちらの国が勝ったんでしょうね」

「いや、私の国は勝ってないよ」

「あぁ……じゃあ……」

「いや、負けてもない」

「? じゃあどうなったんですか?」

 にこりと笑った。

「“和平”という形で終戦したんだ」

「へぇ……それはすごいですね」

 優男は女を一瞥(いちべつ)した。すーすーと健やかに眠っていた。内心、胸を撫で下ろす。

「よくできましたね」

「あぁ。俺の父がここの見張りをしていた時に、旅人がやって来たらしい。それであれこれと話しているうちに旅人が説得するって言ったそうだ」

「お父さんは話し上手な方だったんですね」

「いや、旅人が“そういう気性”だったらしい」

「一体どんな方だったんです?」

「写真とかはないけど……あっちの岸に石碑があるよ。良かったら見てってくれ。俺達の英雄なんだ」

 優男はささっと渡り、橋の近くにあった石碑を見た。

「……“ここに両国の誇りと友愛を記す”……そういうことでしたか」

 さささっと戻ってきた。

「よほど素晴らしい方だったんでしょうね」

「だが残念なことに、誰かがイタズラをして英雄の名前を削り取ってしまったんだ。だから名前を知っている人はいないんだよ。発表される前だったらしくて……あぁ、誰なんだろう。今でもその話題で持ち切りなんだ。……気になるなぁ」

「……」

 優男は会釈して、女を、

(あね)さん、姐さん」

 起こした。

「ん……ん?」

「荷物、持ちますよ」

「あぁ……頼む……」

 ぐいっと女の荷物を背負った。

 女は目を擦りながら立ち上がった。

「ねぇどっち……?」

「こっちです」

 女の手を取り、橋を渡っていく。

「近いですよ」

「うん、わかった……」

 無邪気に欠伸をして歩いていく女。

「その前にお腹へった……」

「もう少し先に国があるようなので、そこで昼食にしましょうか」

「うん……」

 二人はそのまま歩き去っていった。

 

 

 しとしとと雨が降っている。灰色の分厚い雲が空一面を覆い、どことなく心を掻き立てるような色合いをしていた。

 雨のおかげなのか、蒸し暑さは和らぐ。しかし、厚めの服装をしていれば自然と汗が滲む。

 目の前に一本の橋が差し掛かる。丸太でしっかりと組まれ、頑丈そうだ。

 その下には濁流と化した川が流れていた。雨音と相まって、轟音を走らせながら、あらゆるものを下流へと押し流していく。幸い、橋は増水分を計算した高さだったため、渡ることはできそうだ。

 そこへ一人がやって来た。透明のレインコートの下にカーキ色のセーターを着て、紺色のデニムに茶色のレインブーツを履いていた。

 辺りをきょろきょろとしている。

「……」

 まるで誰かを捜すようだったが、いないと分かると、そそくさと川を、

「わっ」

 渡れなかった。

 偶然、波打つように橋を飲み込み、水飛沫を上げる。その旅人は渡ることを断念した。

「これじゃ渡れないね」

 特に困った様子はない。むしろ橋の方を見て、にこりとする。

 こすこすと胸にあるポケットを撫でた。もそもそと動き出すのは、

「どうしよっか?」

 もふもふとした生物だった。

 人に話しかけるように、その生物に話しかける。

「……そうだね。でもなぁ……こんな雨じゃ、野宿するのもかったるいしなぁ……」

 旅人の全身を包む雨粒。その裾からもぽつぽつと雨を降らしていた。

 ふっと、後方にあった木々に視線を移す。根本はまだ乾いていた。

「あそこで一休みしよっか」

 旅人はそちらへ行き、レインコートを脱ぐ。ばさばさと扇いで水気を切る。

「もう、見張り番の必要がなくなったのかな? それとも、雨だからいないのかな?」

 ひょっこり伸びていた枝に荷物やレインコートを掛けた。

「ん」

 ずりずりとよじ登る生物。旅人の肩に乗り、すりすりと首にすり付く。よしよし、と頭を撫でる。

「……うん。ぼくもそう思う。そうであってほしいね」

 木の幹にもたれかかりながら、

「……雨、あったかいね」

 空を見上げていた。

 

 

 



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第四話:まとわりつくとこ

 夜。深い深い闇の中の出来事。

「た、たすけてくれ! たのむ!」

 雨。激しく降る雨粒が、目の前の男を打ち付ける。びちびち、と水飛沫と衝突音が跳ね返るほど。

 周囲はまるで見えない。しかしどこかで一条の光が差し込んでいた。そこに照らされるは男。その男は雨具を着けておらず、地味な柄の服がずぶ濡れだった。それ以前に、男は縄でぐるぐる巻きにされ、背後の枯れ木に縛り上げられている。

 男は必死でその光に対して、命乞いをしていた。

「俺はただ雇われただけなんだよ……」

「……誰にですか?」

 その光からは女の“声”がした。恐ろしく冷めており、機械的な喋りだ。

「そいつが分からないんだよ! 見ず知らずの男だった! それしか分からねえ! 突然、声をかけられて、頼まれてくれって!」

「その頼まれ事が、暗殺ですか」

 さらにトーンが下がる。自分の定めを予感付けさせる、嫌な雰囲気。

 男は肚の底から話していることは明確だった。なぜなら、

「暗殺じゃなくて捕獲だ!」

「どちらにしても、こちらからすれば同じことです。さて、正直に話さなければ、そのまま死ぬことになってしまいますよ」

 男の左手首から、どくどくと流血しているからだった。その傷はかなり深く、しかもこの雨で血が固まってくれないために、留まることを知らない。そんな事態なのに、恐怖感と焦燥感からか痛みも忘れている。心なしか、顔付きも()けてきており、唇から青くなってきている。

「た、たすけてくれ……! たのむ、たのむ!」

「どうしましょうかね。これでは平行線です。あなたが正直になっ、」

 どす、と枯れ木に小さいナイフが突き刺さる。その軌道には、

「ぎゃあああああああいあああああああっ!」

 男の耳があった。

「な、なんてことをするのですかっ! まだ話が、」

「もういいよ。いたぶってれば、勝手に話しだすでしょ」

 別の男の声。焦れったいのを我慢していたようだ。

「ば、馬鹿なことは、」

「ぎゃっ! ああっ! うぶ! いっだ、やべ、やぼっおおおおおお………………」

 止めに喉仏。激痛からか出血多量による衰弱か、それ以降話すことはなかった。

「……」

 フッ、と光が消えた。暗闇の中でキン、とピンが抜けたような音がする。数秒後、男がいたであろう場所から、轟音が響き渡る。

 

 

 雑木の枯林がある道を境に分かれていた。左手は上り坂、右手が下り坂だった。その木々の周辺には枯れた落ち葉がぎっしり。所々にくすんだ緑の雑草が生えている。ここは山の中だった。

 つい先日まで雨が降っていたのだろう。水溜まりはなかったが、乾いている部分はほとんどない。そこら辺も含め、道もしっとりと濡れていた。

 四人ほど並べる幅の道路だ。転落防止、あるいは滑落防止のためなのか、細い丸太で組んだガードレールが道の両脇に沿っている。

 空を仰げば、いまいちすっきりしない天気。重たそうな雲が空一面を埋め尽くしている。肌を突くような微風がその雲の行方を示していた。

 そんな山道を一人の旅人が歩いている。ふんわりしたフードの付いた黒いセーターに黒いカーゴパンツ、泥のついた黒いスニーカーという服装だ。荷物は登山用の黒いリュックと両腰にあるウェストポーチ二つ。とても旅をしているとは言えない軽装備だ。

「空気、冷たいね」

 誰かに話しかけるように、ぼそり。

「そうですね」

 女の“声”。旅人の首飾りとして、四角く水色の物体が揺れている。ちょうどそこら辺から“声”が出ていた。

「標高はそこまで高くないかな?」

「そうですね」

「今にも霧が出てきそうだ」

「そうですね」

「……」

 あまりに素っ気ない反応。旅人は、

「まだかな」

 あまり気にしないように努めつつ、進んでいく。時折、周りを窺うような素振りを見せていた。

 もくもくと歩き続けていると、先方に兵装の男二人がいた。もれなくいかつい顔をしており、左の男は顔面に斜めの傷が入っている。

 男二人は旅人の前に立ち塞がった。

「こんにちは」

「よう。入国かい?」

「うん」

 傷の男の背後に机があり、そこに流れるように荷物を置く。飾り気のないくせに、ここで入念に荷物検査が行われた。リュックの中身も、旅人の衣服を全て剥いでまで調べ上げられた。

「……」

 下着まで脱がされるも、恥ずかしい表情は一切見せない。

「……素晴らしい」

 傷の男が感服した。それは旅人の裸体の傷跡が並外れていたからだ。あらゆる武器や道具で身体を傷つけ、(あぶ)られ、(えぐ)られ、陥没隆起が凄まじい。どことなくあどけなさが残っているのに、その傷は死線を幾度もまたいできている。そんな想像を一瞬で彷彿(ほうふつ)とさせるほどだ。

 男二人は丁重に荷物を全て返した。

「すごく厳重だね」

「けっこう長閑な街並みなんだがな。正直、あまりオススメはしないぜ」

「?」

 残念そうだ。

「評判下げるほどなんだ」

「まあ、いろいろと事情があるんだよ」

「……」

 にこりと笑みを浮かべる。

「なおさら気になる。入国を希望するよ」

「……そうか。入国審査は合格だ。気を付けてな」

「ありがとう」

 

 

 検問から三十分ほど歩くと、ぐねっと曲がった山道から街が見下ろせる。まず一番に目につくのは、まるで絡みつくように走る川だった。石造りの家やコンクリートの家などが多く建てられている中、その隙間を川が流れていた。

 家より少し幅をとって、狭い道があり、人々はそこを通行できるようだ。場所によっては小さな橋がいくつも架けられていたり、船着場に降りるための階段が設けられていたりしている。

「きれいだ。天気がもっと良かったらもっときれいだったのに」

「そうですね」

 長かった山道が急に下がる。急勾配の坂道を、慎重に歩いて下りていく。そしてすぐ街の一番端っこに出られた。家と家との隙間のような道で、そこから家に沿うように、あるいは川に沿うように伸びていく。ここはちょうど、街の西側にあたる。

 直方体の石材を詰めたような道、そして川岸。旅人は景色を舐めるように歩く。昔ながらの石造りと近代的なコンクリートが入り混じった建築物、道が多い。しかし、その端々にちょっとしたお洒落があった。例えば、川に落ちないように鉄柵があるが、そこに色彩豊かな花を活けたり、その花の(つる)を伸ばして緑色にしてみたり、と、芸術性を求める部分がある。そういう意味でも、建築物は一色ではない。複数の家で虹を演出したり、石造りに似せた塗装を施したりしている。

 ほんのりと、楽しそうに見える。

「あの門兵さん、脅かしすぎだな。こんなにいい景観の街のどこが嫌なんだか」

「そうですね」

「……“フー”、いい加減にしてよ。いつまでふてくされてんだ」

 一転して、不機嫌そうに強く言う。女の“声”であり首飾りの“フー”は、

「あなたがあんなことをしたからです」

 強く言い返した。

「不可抗力だろ? オレだってまだ死にたくない」

「あんな拷問まがいなことをして、何が不可抗力ですか。生き残るためには仕方がないことだとは理解できます。しかし、あのような自分の欲求を満たすためだけに拷問をすることは、到底理解できません」

「そういう風に見えたのか?」

「少しだけ垣間見えたように思います」

「……なら、それはフーの思い過ごしだ。あいつは用済みだった。あれ以上の情報は持ってないだろうからな」

「用済みなら殺してしまうのですか?」

「できればそうしたくないさっ。でも、あいつはオレを殺そうとしてただろうが。自分が殺されるのに相手を気遣う奴がどこにいるんだよっ」

「それは“ダメ男”が甘いからではありませんか?」

「……オレが甘いだって?」

 怒気のこもった低い口調。旅人“ダメ男”はぴし、と血管が浮き出そうだった。

「お互い苛立ってるのを知ってて言ってんのか? あんまり過ぎたこと言ってると、本気で川に沈めるぞ、おい」

「どうせできないくせに何を言ってるのだか。ダメ男の詰めの甘さは今に始まったことではないでしょう? 短絡的に処理してしまうから、こうして今も尾けられているのですよ」

「敵を殺すのが甘いって言ってんのかっ?」

 ひゅん、とダメ男の背後から黒い影が飛んだ。その直線上、ちょうど川の向こう側で倒れる音がした。

「てめえは何様のつもりでほざいてんだ? あ?」

 ぼろぼろの衣服の男が倒れていた。右頬から左頬にかけて穴が空いていた。まるで何かが突き抜けていったように。そして、穴から大量に血が溢れ出ていた。

「これでオレはまた甘ちゃんだってかっ? 意味不明なことほざいてんじゃねえぞっ! そこまで文句言うなら、てめぇがやってみろっ!」

 ダメ男の口調が一気に荒れる。

「なぜそこまで荒れるのですかね? 答えは簡単です。単純なあなたのことです。図星だったから、威圧するしか手段がないのですよね」

「っ! お前が発端だろうがよっ!」

 一緒に旅をしているとは思えないほどに劣悪な雰囲気。ただの喧嘩、では済ませないようだった。

「冷静な判断を失っていますね」

「……」

 ぶち、と紐が切れた。いや、切った。

「これ以上は何を言っても無駄ですから。話をおわ、」

 思い切り叩きつけた。石造りの地面に怒りを全て込めるようだった。勢いが良すぎて、十数メートルほどずりずりずりずり、と転がっていく。

「……はぁ……はぁ……」

 ふるふる、と掌が壊れてしまいそうなほど握りしめる。そして、近くの鉄柵を蹴った。痛みはない。鉄柵が足の側面の形に(ひしゃ)げてしまった。

「腹癒せは済みましたか?」

「……」

 力なく、フーを拾いに行く。

「……うん」

 顔も少し疲れていた。

 フーについていた紐を自分の後頭部ら辺で結び直す。

「……」

 フーは一呼吸を置かせてもらう。

「足は痛くないですか?」

 自分の気を鎮めるように、深呼吸を何度か繰り返した。

「……」

 ふぅ、と締めで軽く。

「……大丈夫」

 いつもの軽い口調に、強引に戻した。

 

 

 曇っていて時間の移り変わりが明確ではないが、体感的に正午はとっくに過ぎている。

 ダメ男はもうしばらく街を散策することにした。片手に固形型の携帯食料を持って頬張りながら。

 街の西側から中心へ向かっていると、とても大きな川に出くわした。ここが街の中心で、いくつも伸びていた小さい川がここに合流するようだ。現に、ダメ男も沿うように歩いてきている。よって、この街は東西で区画分けされていると理解できる。

 川の幅は十メートル以上はある。生活用水も流しているようで、緑と灰色を混ぜたようなくすんだ色合いになっている。

 その川に橋が架けてある。数十人が横一列になれるほどの幅で、石材をびっちり使った巨大な石造アーチ橋だった。

「……」

 その圧巻さに、思わずフーも、

「これは見事なものです」

 舌を巻いた。

「これほど単純で奥ゆかしく、計算され尽くした造形美は滅多に出会えません。街の景観を損なうこともなく、でも街を象徴しています。にもかかわらず機能的で頑丈で、」

「フーがこんなにべた褒めするのも滅多にないな」

 先ほどの喧嘩が嘘のようだ。ダメ男が綻んでいる。

 ちらちらと周りを窺う。

「渡ってみましょうか、フーさん」

「はい」

 意気揚々。

 ダメ男はその風景をじっくり眺めながら、橋に足をついた。大きい川を中心に眺めると、まるで島と島が手を繋いで流れているようだ。

「うん」

 普通の道を歩いているような安心感と重量感。ダメ男は少しおかしくて笑う。

「どうしましたか?」

「当たり前なんだけど、ちょっとおかしくて」

「? 相変わらず変な人ですね」

「お前もな」

 方向を変え、川の様子も見てみた。歩いてきた川と同じ色。ゆっくりと流れていく。

「……?」

 ふとして何かが目についた。黄色い何かが浮いたり沈んだりしながら、流されている。

「フー、あれなんだ?」

「靴ですかね。布地にゴムのようなものがありますから」

「人がいるってことだな」

「良かったですね。人っ子一人見当たらないものですから、滅んでいるのかと思いましたよ」

 ダメ男が渡っている橋を含め、歩いてきた西側の区画では人を見かけるどころか、その気配すら全くなかった。

「東側も行ったら上流を辿ってみるか」

「そうですね」

 東側の岸も西側と同じように建物が並んでいるのが見える。小さい川が本流と合流していた。

 特に何事もなく、そちらへ渡り切る。

 奥へ入ると、家が囲うようにして農地が広がっていた。田んぼや畑、ビニールに包まれた家もある。川を利用して、水が通せるように灰色のパイプが繋がっていた。ここは農業区画のようだ。

 ダメ男は土の具合も一応見てみた。

「……人力で作った土だね。季節外れだから作物はないんだろうけど……耕してはあるな」

 しかし、この担当者や張本人は見当たらない。

 東側も西側とさほど変わりはない。違うのは、農地があることと、周りが川で囲まれていることくらいだ。

「面白い国だな。山中なのに川に囲まれてるなんて」

「湖の中に強引に作り上げたような国ですね」

「オレもそう思った」

「気持ち悪いですね。意見が合うなんて」

「ほんとだな」

「うわ、傷つきました。やはりダメ男は最低ゴミクズ野郎ですね」

「自分から地雷を踏みに行くなよっ」

 

 

 辺りは暗くなり始めてきた。ダメ男は街全体をあらかた散策し終えていた。人がいないことで、すんなり見尽くしてしまったようだ。

 地形としてはフーの言う通りで、全体的に川に囲まれているような形をしている。ただし、ダメ男が通った検問のところだけ、地続きだった。つまり、東南北が川、西が山へ続いているということになる。上流は道が続いておらず、川だけが伸びていた。

 時間が時間なので、宿を探すことにする。しかし、

「……」

 見当たらなかった。この国で、商業施設が見当たらない。全部民家だ。それに人がまるでいないので、尋ねることも何もできない。

 ダメ男とフーはようやく、この街の異常を実感したのだった。

「人がいない国ってのは少なくないけど、ここまできれいなままってのはそうそうないな。滅んじゃってるのかな」

「分かりませんね。しかし、誰かがお邪魔していたのは明確です」

 ある民家のドアを弄る。がちゃがちゃがちゃ、と上下左右奥手前動かしても開かない。いくつか試しても同じ結果だ。

「……フー」

「はい、何ですか?」

「ちょっと無茶するよ」

「どうぞ」

 ダメ男はそれからも家を訪ねてはドアをコンコンとノックした。

 見定めたのは三つ目の家だった。ドアは木製で、がっちりと鍵がかけられている。

 ふぅ、と一息つく。

 左足から踏み込み、ぐんと加速して右脚を軸に置いた、

「せいっ!」

 後ろ蹴り。

「見事ですね」

 木製のドアはど真ん中を打ち抜かれ、吹っ飛んだ、

「あ、あれ、ちょっとあれ?」

 はずだった。

 現実としては、その蹴った部分だけが破壊され、すっぽりと脚がはまってしまったのだった。

「フー、ちょっと助けて。抜けないっ」

「あなたは一体何をしているのですか。一人でコントしている場合ではありませんよ」

「いやコントとかじゃなくて、いだだだだ! (また)が! 股裂けるっ!」

「そのまま女性になってしまえばいいです」

 フーの愚痴も相まって、ひいひい呻きながらどうにか引き抜くことができた。想像以上にドアが薄く(もろ)かったようだ。

 結局、空けた穴を少し広げ、手探りで解錠したのだった。

 ダメ男は気を引き締め直して、中に入る。

「暗いね」

 そうこうしている内に日が沈んでいた。街灯もないので、余計に暗い。

 フーを取り出して操作すると、白色の強い光が出た。

「眩しくて気持ち悪いです」

「もう少しガマンしてよ」

「いえ、ダメ男の顔面と頭が眩しくて気持ち悪いです」

「分かってた。そう言うの分かってたよ。でも髪のことは言うな。ホントに冗談抜きで」

「はい、冗談抜きで言っています」

「……」

 ぐすぐす、と嗚咽が聞こえたような気がした。

 中はとても簡単な作りだった。目の前が居間でテーブルや椅子が並んでおり、左手に台所、右手には階段があった。椅子は四つ、二つずつ向かい合うように配置してある。

 すっとテーブルをなぞると、

「人……いたみたいだ」

 特に何も付いてこなかった。

 階段を上がるとすぐ部屋となっている。そこにはベッドが一つだけ。他は何もない。しかし、そのベッドはふかふかしていて気持ちよかった。

 その部屋の右手、つまり南側にある小窓を開けた。もうすっかり日が沈み、暗くなっている。遠くを眺めても、明かりが一つもなかった。光源はフーだけ。

 窓を閉めて一階へ戻り、台所へ向かう。右手側に台所、左手側が収納庫のようだ。物色すると、野菜やら果物やら、食材が入っている。それも、

「……おいし」

 新鮮なようだ。

 ダメ男はリンゴをしゃくしゃくかじりながら、荷物をテーブルに置いて座った。

「まるで盗人ですね。しかし、この状況では仕方がありませんかね」

「うん」

「もしここの家主様が帰ってきたら、弁償しなければいけませんよ」

「うっ……そうだな」

 ドアの方をちらっと見た。見事な穴が空いている。それが不気味に感じたようで、家の中にあったテーブルクロスを何重にも折って、詰め込んだ。

 ダメ男は自分の荷物から携帯電灯を取り出して点けた。部屋全体が白色に照らされる。

 しゃくしゃくと食べ続ける。

「どうなってるんだろうな、この国」

「想像もできませんね」

「周りに人いる?」

「熱探知で探ってみますか?」

「うん」

「熱探知を開始します。ぴーぴぴぴぴ……ぴぴぴぴ……」

 フーから電子音(?)が鳴り響く。

「範囲百メートル以内に、異常な熱反応は見られませんでした。人型生物は見られません」

「……そう」

「!」

 なぜか、震えている。それを見逃さなかった。

「怖いことを思い出しましたか?」

「……ふっぅ」

 ため息も震えている。

「少しね」

 セーターのファスナーをしっかりと上げた。

「大丈夫です。最悪、この国から出てしまえばいいのですよ」

「……なんか反則技みたいな感じはするけどな」

 ふふ、と表情が少し(ほぐ)れる。

 

 

 二日目の夜明け。雲が遠く行ってしまったために、北側に逃げ残っているような空模様だった。その晴れ間から、ちょっとずつ白けていく。

 ダメ男は昨日のこともあって、早めに目が覚めた。眠っていたところは二階の床。ベッドのシーツなどを床に引っ張ってきて、そこで眠ったようだ。

 まだ寝足りない。眉間のあたりを押さえて、項垂れている。

「おはようございます」

「……うん……おはよ……」

 声もか細い。

「あまり寝付けませんでしたか?」

「……」

 うん……、と息をつきながら呟く。

「もう少し時間がありますから、二度寝してはどうですか? ……」

「いや、もう起きるよ。何があるか分からないから……」

「あ、そうですか。……」

 シーツをまとめて綺麗に折り畳んで、ベッドに置いた。

 一階に降りると、タオルを取り出して台所へ向かった。流し台からきちんと水を出せるようだ。

「……ふぅ」

 ばしゃばしゃと顔を(すす)ぎ、こすこすと顔を拭う。それでもいまいち眠気が取れなかった。

「寝てる間に何かあった?」

「いえ、何もありませんでした」

「そっか」

「訓練はどうします?」

「……いいや」

 収納庫から適当にリンゴを取り出し、しゃくしゃくと頬張っていった。

 

 

 日の出。すっかり空は晴れを取り戻し、青々としている。そこから漏れ出すように、辺りは冷気に包まれていた。はぁ、と吐くと白いもやがかかる。

 水濡れタオルで身体を拭い、着替えも済ませた。今日は黒いシャツに黒いジャケットを羽織っている。

「……」

 家を出る前に、前日空けた穴から周囲を確認する。

「やっぱり誰もいない」

 ゆっくりとドアを開いた。

 昨日と同じ、人っ子一人見当たらないし、その気配すら感じない。しかし、

「……」

 ダメ男は敏感に感じ取っていた。

「フー、電池どのくらいある?」

「四十二パーセントです」

「周囲二十メートルだけでいいから、探ってくれる?」

「? 分かりました。……ぴーぴぴぴぴ……ぴぴぴぴ……」

 その間、じろじろと見回すダメ男。何かを探しているようだった。

「昨日と変わりません。異常はありませんでした。人が見当たらないのを除いて、ですが」

「ありがと」

 ダメ男はポーチから、黒い紐のようなものを取り出し、フーに取り付けた。先っぽを左耳にはめ込む。

〈どういうことですか?〉

 そこから、フーの声が出ていた。

「誰かが……見てる」

〈つまり、監視されているということですか?〉

「分からない。でも……確かに感じるんだ」

 ダメ男はひとまず歩き出した。向かう場所は、

〈どこへ行きますか?〉

「……狙われてる気がする」

〈分かりました〉

 以前通ったところ。つまり出国する、と言葉を濁して言う。

 ダメ男は本当に、昨日通った道をそのまま戻っていく。この国に入ってからあの家まで、ほぼ一本道だったので、それほど時間はかからなかったが、

「!」

 その途中、立ち止まった。

〈どうしましたか?〉

 やっぱり、とダメ男は確信した。

「オレら、口論してたからそこまで覚えてなかったけど、オレが殺した男がいない」

〈! そういえばそうですね〉

 ダメ男の対岸に位置する家の陰で死んだ男。その遺体は綺麗さっぱりなくなっていた。まるで元からいなかったかのように。

〈どういうことですかね?〉

「オレも分からない。ただ死体が残ってるかだけは確認したかった。もしなくなってるなら、絶対に誰かが運んだってことだろ? それも一人じゃキツイ。死体は重くなるからな」

〈まさか、幽霊ですか?〉

「……」

 複雑な表情。

「やっぱり、確かめるしかないのかな」

〈誰にですか?〉

「いるだろ? この国で唯一出会った住民が」

〈え? え、誰ですか?〉

「……門番だよ」

〈あ、ああっ!〉

 なるほど! とフーは感嘆の声を上げた。

 早速ダメ男は門兵のいる検問へと向かった。家に挟まれた狭い道を通り、山へと伸びる急な坂道を上る。

 その先に、

「いた」

 二人の男たちが座っていた。男たちはダメ男にすぐに気付いた。

「よお、出国かい?」

「いや、それはまだだ」

 なんだよ、ととても残念そうに零す。

「話を聞きに来た。この国がどういう国なのか、教えてほしい」

「……」

 男は地べたに座るように促した。話が長くなることを示唆している。

 荷物を脇に下ろして、座った。

「実は、俺たちにも分からねえんだ」

「え? だって、あんたたちはこの国の出身じゃないのか?」

「いや、俺らは隣国の者なんだ。二日交代でこの国の門番をしてる」

「西側は?」

「見てきたと思うが、この国は山際のくせに大きい川に囲まれた特殊な地形でな。この国へ来るにはここの道しかないんだ。だから、検問はここ以外に必要がない」

〈なるほど。だから門番様方の反応が街中になかったわけですか〉

 フーの方でも疑問があったようだ。

「じゃあ、どんな経緯でこの国に就くようになったんだ?」

「……実は、この国と戦争をして勝ち取った領土なんだよ」

「そ、そうなのか」

「と言ってもそんな凄惨な内容じゃなかった。むしろ全く逆」

「?」

「一滴の血も流さずに、戦争は終わったんだ」

「どういうこと?」

 傷の男が語り出した。

「……今から三十年ほど前、ここの地帯は戦争が激化していた。やっぱり国が近くにあると、どうしてもそういういざこざは起こる。それがついに頂点まで達して、戦争が始まった」

「まあ、よくある話だわな」

「それでいざ戦争ってなった途端、この国の遣いがやって来たんだ。そこで思わぬことを言われた。……私たちの負けでいいと」

「え……え?」

 度肝を抜かれるダメ男。

「普通、ありえないだろ? だってこっちは何もしてないんだぜ? なのにいきなり戦争放棄するんだもんさ、俺らの方が混乱したよ。結局、願ったり叶ったりってことで、それを受諾して、この国を乗っ取ったわけだ」

 ダメ男は左耳の紐を外し、フーからも抜いた。

「門番様、いくつかよろしいですか?」

「? この声は?」

「あぁ、こいつはな」

 ということで、簡単に自己紹介した。初めて見るようで、かなり興奮していた。記念に一緒に撮影もすることに。ありがとありがと、とダメ男も嬉しそうだ。

「何か、端折られた気分ですね」

「……で、話を戻して、フーちゃんなんだい?」

「遣いを寄越したということは、最低でもこの国を乗っ取った頃くらいまでは国民はいたわけですよね?」

「ああ。間違いない」

「では、こうなったのは何時頃なのですか?」

「えっと……おい、どんくらいだっけか?」

 傷の男がもう片方に問いかけた。

「そうっすねえ……半年くらい前っすよ」

 どうやら、傷の男の部下のようだ。

「その少し前くらいから、何か異変はありませんでしたか? 例えば、失踪事件があっただとか、窃盗強盗事件が多発しただとか、そういう類のことです」

「え? …………いや、何にもなかった……すっよね?」

「そうだな。引き継ぎでも特に聞かなかったし……」

「……今日中に来てもらうってできる?」

「え? 今日は無理だと思うが……」

「もしかすると、何か嫌な気配がするんだよな。あんたらの国がここを管理してるなら、調べた方がいいよ。実際中を見てきてそう思ったんだ」

「……そうかもしれんな」

 傷の男は深く頷いた。

「実は、この国のことは数ヶ月前から議題に上げられていてな。あまりに不気味で奇妙だから、俺ら以外は誰も近づかなかったんだ」

 ふぅ、とダメ男が安堵の表情を見せる。

「まさに“ウザい者が管を巻く”状態ですね」

「? それってどういう、」

「あ、気にしないで。フーの変なクセだから」

「癖とは何ですか、失礼ですね」

 すかさず、ダメ男がフォローを入れた。ちなみに“臭いものに蓋をする”である。

 傷の男は部下に招集するように命令した。はい! と元気良く返事をすると、勢い良く駆け出していった。

 待っているのも時間を持て余してしまうので、傷の男が、

「そう言えば、自己紹介がまだだったな。俺は“ガット”だ。今走っていったのが“アコル”で、俺の後輩にあたる」

「おお、よろしくガット」

 自己紹介がてら、改めて話し始めた。

「おそらく、増援が来るのはどんなに頑張っても明日からだろうから、今日はどこか泊まるといい。どうせ誰もいないだろう?」

「え? ここにいてくれないの?」

「はっはっは」

 傷の男“ガット”は大きく笑った。

「こう見えて、俺にも家族がいるんでな。帰らねば息子が心配してしまう。アコルはどうだろうな。あいつは好奇心旺盛だから、ダメ男に付き添うかもしれん」

「ほんとに頼む。あの街、一人だと死にそうなくらい怖いんだ。誰かに見られてるような気がするし」

「ダメ男、無理を言ってはダメですよ。それぞれ事情が、」

「見られてる? どういうことなんだ?」

 フーの言葉を割り入った。

 ダメ男は今日の出来事を詳細に話す。とても興味深そうに頷いていた。

「……と、こんなところか」

「あと、ダメ男が民家に侵入するためにドアを蹴破ろうとしたのですが、」

「その話はせんでいいっ」

 フーの言葉を遮って塞いだ。それも気になるガットだが、優先すべきことに焦点を合わせる。

「そうか。一日中監視されている感じ、か……。東側は農業区域なんだ。西側、つまりこっち側は居住区域でね。この国は自給自足で成り立ってるんだよ」

「まじか。それすごいな」

「東側の畑は見てきたか?」

 こくりと頷く。

「ここの作物は美味くてな。それが理由で乗っ取ったってのがあるんだ。川の水が旨味を引き出しているとかなんとか」

「へぇ。やっぱ作る上で水ってのは欠かせないものなんかね」

「川と言えば、あの靴は何だったのでしょうかね」

「上流から流れてきたってやつか?」

 ガットが確かめるように言う。

「うん。ちょうどオレらが見た時に流れてきたんだよな。タイミングばっちりでさ」

「ダメ男に見てほしいかのような、偶然にしては上手すぎますよね」

「あ、そうだ。ガット、そのことで頼みがあるんだけど」

「なんだ?」

 ダメ男は折り入って、と頼む。

「もし良かったら明日、上流を一目見たいんだけど、どうすれば行ける? ここからじゃ道がないみたいなんだ」

「あの川は山に挟まれるように流れてるんだよ。この先の道でも柵があったろう? 昔、転落事故が多くて、防止のために設置してあるんだ」

「じゃあ行けないってこと?」

「まあ、強引に山を降りてはいける。そっちには上流があるだけで何にもないんだが……何とか都合つけてみよう。あと、ダメ男の言う見られてるっていうのも、増援部隊と調べてくる」

「ありがと」

 こうして、無人の国の大探索が決まったのだった。

 数時間後、ガットの後輩“アコル”が戻ってきた。話によると、自国の王に直談判したそうで、ガットの予想通り、明日には増援が来るとのことだった。今日はとりあえず門番としての仕事を全うして、明日は二人を組み入れた探索隊を派遣する、という流れだ。議題にあげられていた分、対応が早かった。

 ついでに、ダメ男のことも話すと、ぜひ国王に会ってほしい、と打診された。

「国王直々なんて光栄だよな」

「というより、国王陛下自ら、こちらに足を運んでくださるそうっす」

「ふぇっ? まじでっ」

「うわ、その驚き方気持ち悪いです」

「黙れ。……よっぽどこの国に起きてることが不気味なんだろうな」

「それもそうっすけど、国王は旅人の冒険譚(ぼうけんたん)が大好きなんすよ」

「随分と物好きだな。話が合いそう」

 さて、とガットが立ち上がった。

「話がついたところで、そろそろ番に戻ろう。アコル、お前は終わってからどうする?」

「実は大事な証人ってことで、護衛の任ももらったっす。ガットさんは上がってもらっていいっすよ」

「まじかっ! それはまじで嬉しい!」

 全身から打ち震えるほどに喜ぶダメ男。アコルの両手を握り、ぶんぶん振り回した。

「心細かったぁ~!」

「すみませんね、アコル様。ダメ男は大の怖がりでして、昨晩もびくびくしながら眠っていたのです」

「そういうことを言うなっ」

「いいっすよ。俺も旅人さんの話に興味があるんすよ。もし良かったら旅話してもらっていいっすか?」

「よろこんでっ!」

 

 

 日が沈むまで、ダメ男は二人の脇で時間を潰すことにした。本当に怖がっているようで、フーがちくちくとダメ男を小馬鹿にしては、笑いを誘う。

 夕暮れも過ぎ、夜を迎えそうな頃。ガットはこの国を去っていった。

 ダメ男とアコルは泊まっていた家にお邪魔して、夜を明かすことにした。

「なんなんすか、この穴?」

「……」

 侵入するために空けた穴であるのは聞くまでもないが、その手順は適当に流しておいた。

 家の収納庫から食べ物と調味料と器を頂戴して、

「そのナイフは?」

 切っていく。ダメ男は野菜サラダを作るようだった。そのために使ったナイフは自前。

「借り物でね。オレのじゃないんだ」

 黒い骨組みに透明なシートを貼り合わせており、それがナイフの柄となっている。刃は柄の先端にある突起を押すことによって突出する。いわば、仕込み式のナイフだ。

 素手で盛り付け、調味料を適当にかけていく。柑橘系の匂いがする。

「はいよ」

「有り合わせでも美味しそうっす。さすがっすね」

「適当に盛り合わせただけだよ。でも、野菜が食べられるってだけで気が入るもんだな」

「い、いつもなっなに食ってるんすか?」

「食事時だからあまり話題にしたくないな」

「うへえ……それはきついっすね……」

 突っつくものを忘れ、台所を漁る。使えそうなものはフォークくらいしかなかった。

 ザクッと刺して、しゃくしゃくと口に運んだ。

「ダメ男さん、早速っすけど、面白い話いいっすか?」

「面白くはないだろうけど……でも国王より先に聞いちゃっていいのか?」

「もちろんナイショっすよ。国王様スネちゃうっすから」

「なんか国王っていうより友達みたいだな」

 ご希望通り、ダメ男は今までの経験談をいくつか話していった。本当に興味津々なようで、熱心に聞き入っては気になったところを尋ねている。ダメ男としても、とても話しやすかった。

「やっぱり旅人さんの話は面白いっすね。自分の知らない世界なんて、夢物語みたいっすよ」

「こちらとしても、知らない世界や訪れていない世界はまだまだありますよ」

「オレはお前よりもちょびっと知ってるけどな~」

 ふんふ~ん、と調子が良い。

「二人は最初からじゃないんすか?」

「はい。途中からですね」

「フーさんみたいな面白いものを見つけたら、一緒に行きたくなるっすよ。見るからに意味不明っすからね!」

「素直にお褒めの言葉にしておきますよ。ダメ男がそんなこと言ったら、シメますけどね」

「お~、こわっ」

「……」

「? どうしましたか? 仲間外れで()ねちゃいましたか?」

 ダメ男は難しい面持ちだ。

「もう一回熱探知してくれないか?」

「また視線を感じますか?」

 フーのちょっかいに、全く反応しない。真面目な話だとすぐに察するフー。

「うん。それだけじゃなくて、圧迫感があるよ。言い方が難しいんだけど……」

「俺のことっすか?」

「全然」

 にこりとして、言う。

「ぴーぴぴぴぴ……ぴぴぴぴ……」

「えっと、熱探知ってなんなんすか?」

「あぁ、温度を色分けして見る機能のことだよ。例えば、オレらはだいたい三十六度くらいだから、今の外気温に比べて高いでしょ? それを色で区別するんだよ。そうすると、熱の高い部分があるイコール生体反応がある可能性が高いってなるんだ」

「誰かいれば、その熱探知に反応するってわけっすか」

「そういうこと」

「へえ~、便利っすね~」

「熱探知終了しました。範囲は昨日と同じ二十メートルです。アコル様とダメ男以外に異常な熱反応はありませんでした」

 ありがと、とダメ男はフーをテーブルに置いた。

「オレら以外、二十メートル以内には誰もいないってことだ。でも、何なんだろう、このねっとりとした視線……」

「気のせいじゃないっすか?」

「ダメ男は他の能力は人並み以下なのですが、唯一、この感覚的な部分だけは秀でています。感性、感受性、第六感、危険察知、そういう類のものを頼りに、今まで生き延びてきました。それ“だけ”は馬鹿にできないのです」

 やたらと強調する。

「褒めてんのかけなしてんのかはっきりしてっ」

 ダメ男はちらちらと周りを見た。当然、それらしきものは見当たらない。

「心配ないっすよ。俺がいるっす!」

「頼もしい……」

「ダメ男、情けないですね」

 思わず、本音が漏れてしまった。

 

 

 翌朝。

「おはようございます」

 フーが先に起床(?)した。

 窓から差し込む光が、日の出を教えてくれる。空は雲一つない快晴だ。

 アコルがベッドで眠っており、ダメ男は同じように床で眠っていた。二人とも心地良さそうに寝息を立てている。

 起こさないように、密かに熱探知をした。西の方、つまり増援がやって来ているか確かめたかった。結果、まだその反応は見られない。

 ふとしてダメ男を見る。たらり、と涎を垂らしていた。完全に熟睡して、口が緩んでしまっている。しばらく、フーはその表情をご覧になった。

「あ」

 ごろんと寝返りをうってしまう。

 はぁ……、と小さくため息が聞こえる。

 突如、

「おはよっす」

 アコルの声がした。起床したようだ。

「おはようございます、アコル様」

「ぐっすり眠れたっすか?」

「はい。お陰様で。ですが、もう少しダメ男は寝かせておいてください。怖くて寝不足だったみたいです」

「いいっすよ。俺は身支度済ませたら、増援部隊と現地会議に行かなきゃっす」

「もう時間なのですね? こちらのことはお気にせず、行ってください」

「おうっす」

 そろそろ、とダメ男を起こさないように慎重に一階へ降りる。水の音がしたり金属音がしたり。それが大人しくなった後、ドアが開閉する音が聞こえた。ドタドタと早く重そうな足音から、かなり時間が迫っていたようだ。

 それから約半時後、ダメ男が起床した。

「んぅ……お、おはよ」

「おはようございます。随分とぐっすり眠っていましたね」

「うん……んぅ~!」

 ぐぅっと背伸び。

 すくっと立ち上がると、フーを持って一階へ向かった。洗面ついでに収納庫から食べ物を物色する。

「たおる、忘れた」

 顔がびしょ濡れのまま、リンゴをかじって二階へ戻っていく。

「行儀が悪いですね。ほら、床に水が垂れてしまいます」

「あとで拭くよ」

「そう言ってやった試しがありません」

 リュックからタオルを取り出して顔を拭く。そのまま、

「ん、ん……」

 準備体操を始めた。やっぱり、と愚痴が聞こえるも、ぼうっとしているのか聞こえないふりをしているのか。

「今日“は”訓練するのですね」

「今日“は”いろいろと動きそうだから」

「今日“は”嫌なことがなければいいですね」

「今日“も”な。っていうかこの言い合いなんなのっ? 上手いこと言ってるような気がするだけで滑ってる感はんぱないよっ」

「それはダメ男のせいですね。ツッコミも長くてつまらないですし」

「朝からダメ出しか」

 ダメ男は笑っていた。

 

 

 朝の訓練と朝食を終えて、荷物の準備に取り掛かった。今日もジャケットを羽織っており、そこから小さいナイフを何十本とテーブルに並べる。他に液体の入った謎の容器がいくつか並べられており、一本一本丁寧に浸していく。

「相変わらず地味な作業ですね」

「地味なものほど重要っていうだろ」

「ダメ男は顔から中身、頭までも地味ですからね」

「それどういう意味? けなしてるのか褒めてるのか微妙なんだけど」

「受け取り方によっては変わります。楽観的になった方がいいですよ」

「……たまにはいいこと言うな」

「失礼な男ですね、まったく」

 いつも通り、リラックスしている。

 ダメ男はナイフがしっかり乾いたことを確認し、ジャケットに戻していった。

 しゃくっとかじるついでに、仕込み式ナイフを取り出した。これには別のどろっとした液体を布でささっと塗布していく。包むように伸ばしていった。

 これもきちんと乾いたことを確認する。そして、

「……」

 右腕を露出させた。真剣な眼差しでその右腕を、

「……」

 掠める。つつつつ……と薄皮一枚綺麗に切れていく。

「うん」

 満足気にナイフをしまい、他の容器も片付けた。

「アコルは?」

「増援部隊と合流しに行ったようです。さすがに入国してからはまずいのでしょう」

「なら、オレはここで待ってた方が良さげだね。あちらさんはオレがここにいることを想定してるだろうし」

「そうですね」

 ダメ男は迎えが来るのを待つことにした。

 その間、今度はフーに手を付ける。前日、激しく叩きつけていたのに、ほとんど傷がついていない。かなり気にしていたようで、隅々までチェックしていた。

 よし、と安心すると、また別の容器を取り出して、別の布で塗りつけていく。

「んふ」

 ぬりぬりぬり、と事細かく拭いていった。傷はついていないが、汚れがついていたようだ。布が少し黒ずんでいく。

「あと、電池も取り替えてください。残りが二割を切っています」

「あいよ。じゃあフーも切っといてくれ」

 リュックから四角く薄べったい物体を持ち出す。ぶつ、とフーから鳴ったのを聞いて、フーの背面から抜き出して交換した。

 ぶつ、と再びフーから聞こえる。

「オートリカバリー完了しました。ダメ男死ね」

「今回はえらく直球だな」

「受け流さないでくださいこのド変態バカアホインゲン」

「野菜かよ!」

 

 

 しばらく待ってはいるものの、

「……遅いな」

「はい」

 誰も来ない。しん……、としていた。軍靴の響きやその声、気配など、まるで感じなかった。

 待っている間、荷物の整理だったり修理だったりと、出国の準備を済ませてしまった。

 耳を澄ませると、川のせせらぎが聞こえる。そこまで流れは早くないものの、不自然な角度や幅で歪みが生じ、音をかき立てているのだ。ダメ男はその優しい音に意識を(ゆだ)ねながら、集中していく。

 そんなこんなしている内に、太陽が正中(せいちゅう)を迎えてしまった。

 しかし、ダメ男はえらく落ち着いていた。

「どうしたんだろう」

「作戦会議が長引いているのですかね」

「ただの国の探索なのにか。しかも話になってたくらいだし、対応が早かったしで、そこまできて今さらな気もする」

「確かに。それにアコル様も行ったわけですから、ほぼ決まっていたと見ていいですね。では、何か不測の事態に見舞われたと判断するしかないですね。どうします? 探しに行きますか?」

「いや、その必要はないと思う」

 ぽつりと、呟いた。

 フーは予想もしない一言に、聞き返す。

「なぜですか?」

「……あの見られてる感じが今はしないんだ」

「え?」

「もう、ここに留まってる意味はない。……出国しよう」

「え? え?」

 フーはダメ男が冷静な理由が分からなかった。

 

 

 太陽が正中からかなり沈んでいる。それでも陽気を降り注ぎ、寒いのにぽかぽかと温めてくれた。空も真っ青で、とても清々しい。

 枯れ木が並ぶ山道の中、ダメ男は来た道を戻るように歩いていた。何となく手持ち無沙汰なのか、手摺りを伝っている。

「まだ解明したわけでもないのに出国するというのも、変な気分ですね」

「あんまりないもんね。滅んでたり戦争中だったりで、気に留めない限りは素通りしてたし」

 すりすり、と手摺りを触る。

「思えば、この道自体不自然だったんだよな」

「え?」

「道自体がそこまで古くないんだよ。無人の国に比べれば浅いはず。つまり、ここは後付けされてるってわけだ。ガットも柵は転落防止のために付けたって言ってたしな。少なくとも無人の国ができる以前からは存在しない」

「それは当然ですよ。でなければ、ガット様方もここまで来られませんし」

「フー、それが何を意味してるか分かるか?」

「?」

「この道は戦争が終わってからできたもの。ってことはだ、ガットの国の都合で作られた道ってことになる。単刀直入に言えば、この道はガットたちの国に真っ直ぐ繋がってるはずなんだよ」

「まぁ、そう考えられなくもないですね」

「敵国の大部隊の兵隊が出向くっていう、しかも国王まで来る数少ないチャンスをオレだったらどう活かすだろう。それも三十年という長い長い伏線につぐ伏線でできた、一生に一回もないかもしれないこの機会をどうするだろう……」

「敵国って……まさか……」

「……見えてきた……」

 それはあまりにも悲惨な光景だった。

 ダメ男の言う通り、大人数だったのだろう。見渡す限り、道に沿って真っ赤に染め上げられていた。それだけに及ばず、周辺の木々や柵、道路がめちゃくちゃに破壊され、そこにも飛び散っている。人の形をしていたであろう何かが潰れ、柵にへばり付き、中身と一緒に下へ落ちている。そちらでは川が流れ、今でも真っ赤に筋を伸ばしていく。山の上り側でも、ある一線状を境に、血飛沫や肉片の散らばりが目立っている。そこから上方は枯れ木がばらばらに散らばっていた。

 辺りは酷い血臭と生臭さ。内臓の中身までも飛散し、腐敗臭のようなものも立ち込めている。多くを見てきたダメ男ですら、鼻を覆うほどだった。

 地獄だ……。ダメ男はぽそりと漏らす。

 その地獄の中を仕方なく歩く。生物(なまもの)を踏みつけるぐにょぐにょした感触と枝を踏み折るような感触、ぬちゃぬちゃと引っ付く粘り。なるべく避けて通るが、それも難しいほどに肉片と死体が押し詰められている。

 吐きたくなる衝動と足が止まりそうになる震えを必死に抑えて、歩き続ける。

「!」

 ダメ男はある“顔”を見つけた。原型を留めていないが、特徴的なものがあった。

「……この傷……」

 顔を斜めに走る古傷。疑う余地もない。

「ガット……」

 目元が緩くなりそうになる。ダメ男はそれを堪えて、再び歩み出した。

 距離的には数十メートルほどだろう。だが、そこを歩き切るのに数十分かかった。

 気を抜けば戻しそうになる。

「大丈夫ですか?」

 フーも心配そうに声を掛けた。

「吐いた方が楽になることもありますよ」

「……大丈夫」

 弱々しい呼吸。相当参っている。

 しばらく、赤い足跡を残していくダメ男。ようやく落ち着いたようで、すぐに下を見た。

「……あれは……」

 川岸に人がいる。尋常じゃない人数だ。大会でも催しているかのような大人数。老若男女がざっと数百人は並んでいた。そして、

「ダメ男!」

 フーが声を張り上げた。

「動くな」

 ダメ男の腰に硬いものが当てられる。それが何なのか、見ずとも分かった。

「お前は誰だ?」

 それを聞いたのは、相手の方だった。怪訝そうに、両手を上げるダメ男。別のところから別人がダメ男の荷物を奪い取っていく。ついでに身体検査を念入りにされ、両手を後手で拘束された。

 柵に押し付けられるように座らされた。

「なぜあっちから人が来る?」

 男たちは精鋭部隊、というわけではなかった。シャツにパンツというごく普通の服装に覆面をしているだけ。ただし、エモノはえげつないものばかりだ。ショットガン、マシンガン、中には機関銃を両肩にかけている者もいる。

「……なんのこと?」

「隊長、別の者から情報が」

「なんだ?」

「この男は敵国に味方していた旅人だと」

「……そうか」

 隊長の男が、ダメ男にマシンガンを向けた。

「礼に鉛弾をくれてやる」

「……」

 隊長の指が、マシンガンの引き金を……、

「野菜美味しかった……」

「!」

 躊躇う。唐突に言い放った一言が、ぴくりと止まらせた。

「今の反応でやっと確信したよ」

「なに?」

「あんたたちは、あの無人の国の住民で間違いないな?」

「……」

 隊長たちは何の素振りも見せない。ただ、銃口は常にダメ男の頭に向けている。

「三十年前、いろんな(もつ)れから戦争が始まった。多分それは建前で、本当はみんな侵略したかったんだろうな。で、侵略するにあたって、ここの国は一番重要だったろう」

「……どうしてだ?」

 隊長は手を上げて合図を送る。部下たちに銃を下ろさせた。部下たちは、別の作業をしに、その場を離れていった。

「川だよ。山の中にあるこの国は、他の国と比べて上流に近かった。この地帯の水資源は川が大部分のはずだ。つまり、他の国よりも上流を確保したい理由があったってことだ。……それ以上はオレには分からなかったけど、そこまで当たりをつけた」

「……」

「ところが、土地環境が悪く、この国の出入口は川か険しい山しかない。船を使うって手もあるけど、待ち伏せされるのがオチ。結局、まともに戦えば全滅は避けられない。だから、先手を打った。先にどこか強い国に降伏宣言を出したんだ。そうすれば、その国の庇護(ひご)を受けられるからな。そうやって何とか滅亡までは避けられた」

「……なるほど。しかし、それがこの状況を生んだ理由にはならんぞ?」

「まだ続きがある。あんたたちはもちろん、植民地になんてなりたくなかった。でも歯向かうにしても、この袋小路な環境は変えられない。だから、ある策を実行した」

「策?」

「この袋小路な国を、餌にして誘い出したんだ」

「!」

「まずは侵略させやすいように道を作った。今まですごく従順だったんだろうね。その要求はあっさり受け入れてもらった。国と国を真っ直ぐ繋ぐ道。これは逃げ道を一方通行にするためのものだ。上から攻められたら左右か下に逃げるだろうけど、下には川が流れてるし国に戻るように逃げれば袋小路だ。左右から攻められたら上下に逃げるだろうけど、やっぱり川がある。心理的に上に逃げたくなるだろう。現にそれを狙ったかのように、山の頂上側は血は少なくて、銃撃の痕が凄まじかった。それは転落防止の柵が足止め役となって利いてる。そうやって、あんたたちは標的を虐殺していったんだ」

「……」

 隊長格の男は、覆面を勢い良く取った。中年の男で、どこか一般家庭の夫という感じだ。

「虐殺じゃない。天誅(てんちゅう)だ」

「天誅?」

「奴らは、あの川に毒を仕込むと言ってきやがったのさ」

「……え?」

「確かに下流の人間は全滅するだろうよ。だが奴らの国もその範疇だったんだ」

「それって……自滅じゃん」

「そうだ。あいつらの目的はこの国を乗っ取ることじゃない。俺らを悪役に仕立てて、他の国と同盟を作ることだったんだ。自国民を犠牲にしてもな」

「……」

「なるほど。同盟というのは提案する側が下に見られるものです。ですから悪に立ち向かうリーダー役として先んじれば、足元を見られることなく同盟を作れる、という魂胆ですか」

「その通りだ。俺らはもちろん反対した。人を殺すのも嫌だし、俺らの命でもある水を汚したくない! そうやって、反対して三十年が経った。だが、連中も嫌気がさしてきて、とうとう強行突破することにしやがった。だが今すぐじゃない。ある程度猶予がある。だから、俺らは住民全員が突然消えていなくなるっていう自作自演を編み出した。最初はただどこかにいっただけと思ってたんだろう。だが、それが一ヶ月二ヶ月と過ぎてくると、連中は不気味がって近寄らなくなった。それが毒を仕込む期日を延ばすことにも繋がった」

「それで、兵隊全員を殺したってわけか」

 ダメ男は隊長を睨む。

「そうさ。……旅人にしては頭のキレるやつだ。ほぼ全てを見破るとはな。だが、それをなぜ兵隊たちに教えなかった? 疑わしいとは思っていても、教えればまた別の手段が取れただろうに」

「……」

「結局、あんたも俺らと同じさ。見殺しにしたんだ。避けられたはずのこの状況を」

「……」

 なぜか、にやりとする。

「何がおかしい」

「そう。奇しくも、オレもあんたたちと同じだ」

「?」

「オレが教えなかった理由は実は同じところにあったんだ」

「なに?」

「その前に……拘束を解いてほしい。オレはあんたたちに敵対する意志は全くない」

「! 馬鹿な。そんな要求受け入れられるか」

 隊長はダメ男のおでこに銃口を突きつけた。しかし、

「……くっ……」

 そこまでだった。

「……」

 隊長の瞳を真っ直ぐ見つめるダメ男。その眼は死を覚悟しているとも、哀願しているとも違う。無表情でもなく、喜怒哀楽でもない。しかし、隊長は分かっていた。

「~っ! くそっ」

 苛立ちを隠せないはずなのに銃を退けた。結局、ダメ男の拘束を解除したのだった。

「頭がキレるなんてとんでもなかった。自分を殺す人間を信じきるなんて、お人好し以前にただの大馬鹿野郎だ」

「……無意味な殺しはしないって思ってたから」

「……」

 マシンガンを肩にかけ直した。

「……あんたはオレの命の恩人だからな……」

「は、はあっ?」

 思わず、ダメ男を見てしまった。

「こいつらはオレを狙ってたんだ。この国に来る前から」

「? どういうことだ?」

「少し前から妙にまとわり付かれててね。入国してからもはっきりとは分からなかった。でも、あるものを目にしてからは確信に変わった」

「あるもの?」

「……入国した時に、オレが殺した男の死体だ」

「?」

「多分、刺客だろうとは思うんだけど、疑問に感じてたんだ。どうしてそいつはオレを殺さなかったんだろうって」

「手持ちがなかったんだろ?」

「そう! そこがおかしかったんだ」

「よく意味が分からないんだが……」

 ダメ男は肩を回して、解した。

「もっと前に、オレを付け狙ってたやつに尋問したことがあってね。そいつから、オレを捕獲する依頼があったそうなんだ」

「じゃあ、生け捕りにしたいから銃火器を持ってなかったってことだろ」

「それじゃあ、どうやってオレを生け捕りにするの? 戦いは避けられないのに、武力を持ってないなんて殺されにいくのと同じだ」

「……」

「他にもおかしいことはあった。男の死体は消えてるし、門番がオレが証人だからって付き添ってくれるし、挙句の果てには国の探索まで請け負ってくれた。たかが一旅人の頼みなのに。それも国王自らが直接国にやって来るなんて、異常すぎる。だからこう考えてみた。あの男はオレをここに誘い込むために、尾けてたんじゃないかって」

「! それって……」

「そう、連中はこの国の環境に気付いてたんだよ。奇しくもあんたたちとほとんど変わらない方法だ。標的をこの袋小路に誘い込めば、あとは煮るなり焼くなりだ」

「……」

「ってことは、もうこれは、刺客の依頼者がその国王だって判断するしかない。つまり、オレを殺そうとしてたのは国王だったってわけだ」

「……それはお前の推測でしかないだろう?」

「うん。推測なだけで誤解かもしれないからこそ、オレは怖かった。思い切ったことができないからさ。……そこで、あることを思い出してね」

「なんだ?」

「黄色い靴だよ」

「……!」

 男の表情が変わった。

「まぁ、それ自体は別になんともない。問題はタイミング。その時オレは橋を渡ってる最中だったんだ。無人の国にたまたま旅人が入国してきて、しかも橋を渡ったタイミングで、ちょうどよく靴が流れてきた。偶然って言えばそれまでだけど、もしそうじゃないなら何を意味してるんだろう。……オレはここの住民はいますよっていうメッセージじゃないのかなって思った」

「……」

「そんなこと、オレを常時見張ってないとできない。つまり、オレを監視してたのは国王たちじゃなくて、あんたたちってことだ。いや、もしかすると、どっちもオレを監視してたのかもしれない。そう考えてから、オレがそれらしいタイミングを作ってあげるだけ。門番に国の探索を依頼するなりなんなりして、こっちに来させるようにすれば、絶対に何か起こるだろうって思った」

「! ……俺らを利用したのか!」

「利用っていうより、助けてほしかった。十人くらいだと思ってたけど、見たらその倍以上はいた。放っといてたら絶対に殺されてたよ。結果的に助けてもらえたけど、全部が紙一重だった……」

「……」

「話が長くなったけど、これで理解してもらえたかな? あんたたちを敵対する意志はなくて、むしろ命の恩人だってことが。ここまで綿密な作戦を練ってきたあんたのことだ。きっと分かってくれると願ってる」

「……ふ」

 それを皮切りに、隊長格の男は大笑いした。

「はあ……」

 ダメ男はそれに乗じずに、にこりとしているだけだった。

「一つだけ間違いがある」

「?」

「あの靴は偶然だ。隠れてる時に、間違って落としてしまったんだ」

「そうだったんだ。でもまぁ、今となってはどうでもいいかな」

「……この戦いは関係ない人間を巻き込みたくなかった。でも、関係ない人間がいなかったら成功できなかった。感謝するのは俺らの方だ。お前の機転の良さが、俺らの国を救ってくれたんだ」

 すりすり、と頭をかくダメ男。

「そう言ってくれるとありがたいよ」

 口元がゆるゆるでにやにやしそうだ。

「……ところで、あの死体の山はどうするつもり?」

「ああ、山奥に埋めるよ。既にやつらの墓を作っておいた。誰なのか分からないからまとめて入れるけどな」

「そっか」

 ダメ男は特に気に留めていないようだった。

 それに反応したのは、フーだった。

「旦那様、二つほど尋ねておきたいことがあります」

「ああ……」

「監視していたのはあなたですよね?」

「? なぜだ?」

「先ほど、こちらの“声”を聞いても何の過剰反応も見せませんでした。知っていたからではありませんか?」

「……あまりにも二人が自然だからうっかりしたよ」

 ため息をつきながら、微笑んでいる。

「安心しました。それともう一つ、ここの山は枯れ木が多いようですが、何か原因があるのですか?」

「え? ……比較的雨が多いからかなあ。そこまではちょっと……」

「ということは、地質調査などは行なっていないのですね?」

「ああ」

「分かりました。そこでですね、無理を申しているのは承知の上なのですが」

「……なんだい?」

「ここを早めに立ち去った方がいいかと思います。とても危険です」

「? どうして?」

「それは……」

 

 

「フー、あの話って本当なの?」

「はい。確実ではないのですが、可能性は高いと思います」

「……そうなんだ」

「あの方々はとても優秀ですから、すぐに対策を講じると思いますよ。どこかの誰かさんと違って」

「? なに? またお説教ですか……」

「ロクな目に遭わないのは分かりましたよね? 金輪際、止めるべきです。誰のためにもなりません」

「……もう、ほんとに根に持つなぁ……」

「あなたがきちんと反省して謝罪するまでは延々とグチグチ言い続けます。それが役目だと自負しています」

「お前はお母さんかっ!」

「こんなに手間のかかる子供はいてほしくないものですね」

「……」

「また拗ねましたか。いつまで経ってもあなたは子供ですね」

「いいんだい! オレはどっちだっていいんだい! オレは我が道を行くのさ、まいうぇ~い! へい!」

「キャラと顔面が激しく崩壊していますよ。昔からですが」

「っさいっ!」

「それより早く進んだ方が身のためです。何が起こるか分かりませんから」

「言いたい放題、君砲台」

「あなたは偉大、馬鹿の偉大。いい加減にしなさい、このインゲンモヤシブナシメジ」

「また野菜かよっ! みんな細いし!」

「ほら、あなたのおふざけに付き合ってあげましたから、早く出発してください」

「子供をあやすんじゃないんだからっ! 言われなくてもすす、……!」

「どうしました?」

「……誰か、また……?」

「いえ、それは被害妄想です。早急にお医者様にかかることを推奨します」

「あっさり否定するなっ」

 

 

 山の境目を走る川。豪雨のために増水しており、その勢いは鉄砲水だ。本来の軌道から溢れ、飛び出るように四散していく。

 ある場所で鉄砲水は弾かれていた。弾けながらも、そこを削り取りながら一緒に溶けていく。その後方はさらに濁っていた。

 どこからか轟音が聞こえる。両側の山が崩れ落ち、枯れ木と一緒に流れ落ちてきた。土砂崩れだ。泥をふんだんに含み、弾けていた場所をさらに覆い尽くすように上乗せしていく。大きな水溜まりでもあり、雨飛沫と水飛沫、泥飛沫がごちゃごちゃになって、爆発した。

 まだまだ豪雨は続いていく。山や枯れ木を削り取りながら、川を作り直しながら、色んな物を飲み込みながら。

 まだ泥の薄い層、ちょうど土砂崩れの起こった際から、もぞもぞと何かが動いている。ずぼっ! と空気を含んだ泥の音と一緒に腕が出てきた。必死に足掻いて、どうにか抜け出ることができた。

 隊長だった。全身に泥がまとわり付き、土砂崩れの勢いで衣服がぼろぼろに剥げてしまっている。顔を天に向けて、天然のシャワーを浴びまくった。豪雨のおかげで、さらさらさらと落ちていった。

 周りを見回す男。そこはもう泥の海。かつて存在していたものは自分の足の直下にあることを悟った。

 悲しさのあまり発狂し、頭を抱え、泣き叫んだ。その小さすぎる声は豪雨で掻き消され、気付いた時には既にいなくなっていた。

 

 

 



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第五話:やさしくてやすらぐとこ

 昔々、あるところに男の子がいました。年齢はおそらく十代前半くらい。年不相応に背が低く、肌の白い男の子です。

 その男の子は遺跡、とでも言うのでしょうか? 石材がただ積まれたモニュメントが四方にあり、その中央に同じような石材の家が建っています。それらはとても古いようで、石材の隙間に、苔がびっしりと埋まっていました。

 男の子はその苔をにぎにぎと触り、感触を楽しみます。にこりと綻んだその表情にはどこか翳(かげ)りを呈しています。

 そこへ一人の女がやって来ました。

 ねえ。ここってなあに? 男の子が尋ねます。女は、ここは昔の人が住んでいた家ですよ。そう微笑みながら答えます。

 子供にとっては興味の薄いものかもしれません。しかし男の子はモニュメントを触りながら言います。こけの生え具合からして何百年も前じゃないよね。もっともっと昔からありそう。千年単位っぽそう。千百年くらいなのかな?

 女はとても驚いていました。女がちょうどパンフレットに目を通していたところだったのですが、そこには男の子の言った年月が記されていたのです。

 男の子は振り返ってにこりとしました。その姿はやはりどこか被っているように見えました。

 すすっ、と男の子に歩み寄る女。そして、ぽんと肩に触れました。人が素晴らしいところはどこだと思いますか? 女は尋ね返します。

 男の子が答え返します。文明を築くことができるところ。

 それは違います。女が少し溜めて言いました。じゃあ、誰かを愛するとこ? それも違いますね。じゃあじゃあ……。

 男の子の解答は全て外れでした。一体何なのさ? むくれて拗ねて言い放ちます。それを微笑ましく見つめる女は、ぽそりと言いました。

 それは……歴史を刻むことができるところ。

 男の子の頭上にハテナが浮かびます。それってすごいことなの? だって、他の動物だってそれはできるよ?

 確かに、人間以外にも感情や理性、知能を持つ動物はいるし、文化や風習に似たものもあります。でもね、と頭を撫でながら話を続けます。

 人間ほど千差万別、大小高低、濃厚淡白な歴史を持つ動物はいないのですよ。地球に影響を及ぼすほどの機械を大発明した人もいれば、ゴミのようにそこら辺で生涯を終える人もいます。これほど差のある人生、つまり各々の歴史を刻む生物は人間以外にいないのです。

 男の子は呆然と女を見つめていました。

 きゅっと抱き寄せます。遺跡や遺物は昔の人たちが刻んだ歴史の跡なのです。ですから、ぜひ、こういうところは愛でてください。優しくしてあげてください。この家の遺跡は優しい場所であったはずですから。

 うん。男の子は小さく力強く呟きました。

 

 

「男の子はもっとこういうところも見てみたい、と女にせがみました。女はしかたない、と…………っと」

 真っ暗な夜空に星が散らばっていた。あたかも、光る小石を空に蒔いたようだ。

「聞いています?」

 呼ばれた男は、

「すう……んぅ……すう……すぅ……ん」

 ぐっすり眠っていた。寝袋の中で身をもぞもぞと丸め、何かを愛おしむように。

 女の“声”は、もうっ、と呆れる。

「×××が怖くて眠れないというから、寝物語を聞かせてあげたというのにっ……」

 怒っているわりには、起こさないように声を抑えている。

「でも、眠れたのなら良しとしますか……。でもでももう少しだけ……」

 一体“声”が何をしたいのかは分からないが、それ以降は、

「誰にも邪魔されない優しい場所ですね……」

 言葉は消え、心地良さそうな寝息だけが耳に入る。

 月のいない星空満点の夜空。月がいなくとも明るい星々が地上を照らしてくれる。

 男は心地良さそうに眠っている。わずか二畳ほどのスペース、高度五百メートルはあろうかという断崖絶壁に。

 

 

 



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第六話:らくはくのとこ

 辺りは紅葉一色だった。山なりに盛り上がる紅葉があるところまで伸びている。そこからはなだらかに平らになっていった。

 反対に空は真っ青一色。アクセントに太陽なんかも昇ったりして、黄白色に照らし出す。その光はとても温かいが、どことなく肌寒さを感じる気候だった。

 そのなだらかになっているところ、つまり山の(ふもと)に旅人が一人いた。ふわふわした茶色の髪付きをしており、枯草色のモッズコートを羽織り、白と薄赤色のボーターシャツを着ていた。下は紺色のパンツに茶色のブーツを履いている。

 荷物として、大きめのリュックサックにショルダーバッグ、右腰に小さいポーチを付けている。

 両方の御足にはガンベルトが巻かれ、自動式の銀銃を収納できるホルスターが装着されている。左腰には小さめのハンドナイフが二本携えられている。今は訳あってどちらも片方が抜かれていた。

 ゆさゆさと荷物と柔らかい髪が上下する。旅人は走っていた。おでこから顔から、おそらく身体中から玉粒が出るほどに汗をかいている。

 突如、一本の木に穴が空いた。衝突音とその部分が炸裂し、掌形の紅い葉が振るい落とされる。まるで木に積もった雪が払われるように。その木は旅人が縫って入った一本だった。

 林立している木々の一本に隠れた旅人。肩で大きく呼吸し、無理矢理息を整える。

「はぁ……はぁ……ふぅ……」

 ぴしゅん、とその木にも衝撃が伝わった。びくりと震えると、またすぐに走りだした。

 旅人のセーターの左ポケットからひょこっと顔を出した。

〔ハイル嬢、このままではジリ貧でございまする〕

 それこそが私“クーロ”である。私はご主人様であられる旅人“ハイル嬢”の(しもべ)である。灰色の毛並みのハムスターだ。

 ハイル嬢は現在、危機的状況に陥ってしまわれている。それはある国に訪れられたからだった。

 

 

 その国はこの紅葉の中にひっそりと(そび)え立っていた。

 城壁はぼろぼろに崩れ落ち、(ほこり)っぽい。風化の痕も見られ、触るとお菓子のように崩れるほどだ。

 辛うじて、城門の周りはまだ保っていた。かつて大国の面影がちらつく巨大な木門。家一つ分はあろうかという大きさだ。とても古いが決して割れたり裂けたりしていない。

 ハイル嬢は荷物を下ろされ、見上げられた。はぁ、と圧巻のものに、息を吐かれる。

 コートを脱がれ、門の前でばさばさと扇がれた。道中森を抜けてきたので埃がすごかったのだ。召されているこげ茶色のセーターにも葉っぱやら木くずやらが付いていた。それをぱんぱん、と軽く叩いて落とされる。

 肝心の門番がいなかった。この様子では、国民すらいないのではと勘繰ってしまう。

 ハイル嬢はコートを召されながら、門の脇にある連絡用の綱を引かれた。

「……」

 しばらく待っても応答がない。

 仕方なく、城壁を左手側に伝って歩かれた。これだけ崩落しているなら、どこか通り抜けられるところがある、と考えられてのことだ。

 ぼろぼろぼろ、と城壁が崩れる中、案の定、

「あった」

 人一人分通れる穴を発見された。

「入ろっか」

 ハイル嬢が入国されようとした時、

〔待って!〕

 空から何かがハイル嬢の肩に止まった。

「?」

 肩に止まったのは鷹の“ピーコ”だ。こやつもハイル嬢の僕で、主に空からの監視役を担っておる。

〔どうした?〕

〔中に入っちゃまずいわ!〕

〔なぜだ?〕

 ピーコは慌ただしかった。

〔中で敵が待ち構えてる!〕

〔どういうことだ?〕

〔分からない。ただ、重装備でこの入口を狙ってるのは確か! 蜂の巣にされちゃうわっ!〕

「……」

 ハイル嬢もしっかりとお聞きになっている。ハイル嬢には見えている者触れている者の心の動きや意志を読むお力が備わっている。どういう風なのかは分からないが、我らの会話が頭や心に入っていくのだという。そのおかげで、我らとの連携を緻密に図ることが可能なのだ。

 ハイル嬢は少し考えられた後、

「……あっちで音がしたね。もう一回門のところに行ってみよっか」

 ごく自然に罠の入口からそっと離れられた。無論、それは嘘で、忍び足で紅葉の森へと潜められていく。

 十分離れられたところで、ひゅうっ、とハイル嬢が合図を出された。ピーコが空へ飛び立った。これはもう一度空から警戒網を張ってくれ、という合図。もし、賊が追跡しているようなら、ピーコから連絡が入ってくる。

 敵が重装備をしているということもあって、ハイル嬢はかなり慎重であられた。おそらく数キロは離れているはずだが、何があるか分からない。しかも、この紅葉の季節で視界も良くはない。さらに、落葉で足音も殺しにくい。追われている立場からすれば悪条件でしかない。

 そこからさらに数十分歩き続けられた。

「……ふぅ。ここまでくれば大丈夫だよね」

〔はい。ピーコからも連絡はありませぬ。間一髪でしたね〕

「うん」

 

 

 一応念の為に、夕方いっぱいまで歩き詰めになられた。ハイル嬢の危険察知はお鋭い。それはつまり、追いつかれたり捕まったりすれば……確実に終わるということ。私はそうなるのが恐ろしく怖かった。

 夜。鳥の鳴き声が響く森の中。ハイル嬢は明かりになるものを一切使われなかった。焚き火も起こさず、月明かりの当たらない木陰の重なったところに、野営される。

 もう夕食を済まされ、寝袋にてご就寝されていた。

 夜では、鳥目のピーコは監視できない。なので、私と周辺にいる同胞たちとで見張りに当たる。今回は、

〔俺の“シマ”に一体何の用があるってんだ〕

 リスの“キッド”殿だった。黒の毛並みにリーゼントのような毛の塊が頭に付いている。彼は夜更かしが大好きなリスで、他の者と“シマ”の取り合いをしているそうだ。縄張り意識の薄いこの種にしては、珍しい性格だった。

 ハイル嬢の近辺は我ら二人で、その周囲はキッド殿の子分たちが見張ってくれた。

〔すまぬ。目的があってここに訪れたわけではないのだ〕

〔んあ? そうなのか。てっきりまた荒らしまわってんのかと思ったぜ〕

〔? 荒らし回る?〕

〔なんだなんだ。そんな様子じゃ、あいつらの仲間じゃねえのか〕

〔すまぬ。順序立てて説明してくれ〕

〔おうよ〕

 キッド殿はこの森のことを詳しく教えてくれた。

〔この森の先にボロボロの国があったろう?〕

〔あぁ。見つけた〕

〔あそこの国は昔はこの森を観光にしてた国なのよ。そりゃあもう栄えに栄えまくったんだ。俺らも相当アピールしたもんだ〕

〔そんな国が一体なぜあのようなことに?〕

〔おかしくなっちまったのは連中が現れてからだ〕

〔連中? もしや、あの国に武装している奴らか?〕

〔そうだ〕

 キッド殿は一息入れた。

〔奴ら、この観光を餌にして、観光客を脅しやがったのさ〕

〔何と卑劣な……〕

〔そのせいで国も衰えて、もう滅亡寸前って時に、奴らは国を乗っ取りやがった〕

〔! なるほど。強盗はあくまでも撒き餌。本命は侵略だったのか〕

〔そうしたらもうやりたい放題好き放題だ。今じゃもう誰も寄り付かなくなっちまった。いや、その事情を知らない観光目当ての旅人がいるか……〕

〔……〕

 そんなことが起こっていたのか……。

 しかし、事情の知らない旅人がやって来たらどうなってしまうのか。想像に難くない。おそらく、嬲り殺しにされてしまう……。

 危なかった。ピーコが気を利かせていなければ、ほぼ間違いなくそのような結末になっていただろう。心の底からピーコのことを感謝せねばならないな。

〔奴らは馬鹿じゃない。この森を餌にするために、丁寧に管理してるのさ。そして、ここを狩り場にして、他の旅人をなぶってやがる。……俺の“シマ”をめちゃくちゃにしてるってのはそういうこった……〕

 キッド殿の横顔がもの寂しい。こんな口調と性格だが、きっと心は熱いのだろう。他の者にとっては良い兄貴分かもしれない。

〔まあ、そうなる前に何とか旅人を追っ払ってんだけどよ。森の獣たちが凶暴化したってんで、ここは悪名高くなってる。……へっ、誰も来なきゃ、ここは俺の“シマ”なんだからよ〕

〔……キッド殿は良いやつだ〕

〔あ? なんだって? 俺がいいやつ? んなこと言ってっとぶっとば、〕

〔失礼しやす、アニキ〕

 ふと、物陰から、キッド殿の子分がやって来た。

〔どうしたカズ〕

〔ジローから連絡が。怪しいやつらがこちらにやってくるでやす〕

〔誰だ?〕

〔分からんでやす。ただ、国から連中がいなくなったのを、サブが確認してやす。おそらくは連中が……〕

〔そうか〕

 キッド殿が立ち上がった。

〔早くハイルを叩き起こしな。思い出話はここまでだ〕

〔……分かった〕

 俊敏な動きで、キッド殿は木を登っていった。私も準備に取り掛からなければ。

 ハイル嬢はぐっすりと眠っておられる。この寝顔を崩すのは心が痛むが、仕方がない。ちょうど身体を横にして眠っておられるので、そっと唇の方へ寄った。とても優しく、かり、と噛んだ。

「ん、……んぅ」

 僅かな刺激なのに、ハイル嬢はすぐに起床された。そのまますぐに荷物を片付けられ、あっという間に出発の支度を整えられた。ここまで滑らかに事を進められるのも、寝る前に取り決めたためなのだ。

 月明かりを利用して、ざっと銀銃のチェックをされた。特に問題はないようだ。

 ハイル嬢はハンドナイフも取り出され、銀銃の柄と一緒に握り込まれた。その隙に、ささっと胸ポケットに入る。

 そして、木陰に身を隠すように、蛇行しながら離れられていく。おそらく、連中が暗視眼鏡を持っていることを想定されているのだろう。しかし、足音までは完全に殺しきれない。それはお互いに言えることだった。

 遠くの方で、枯れ葉を踏む音がする。それも複数。出処とリズムから考えて、五人以上はいる。両側に複数人とハイル嬢を追うように複数人。やはり、暗闇対策をしているようだ。

 ふと、全く外れの方で、同じような音が聞こえた。

「!」

 ハイル嬢もそれに気付かれている。

 息と足音を殺しながら行動されているので、体力消耗が激しい。大量の汗が衣服に染みていた。それも冷たい。私は水風呂に入っているかのように覚えてしまう。

 左手側にいる足音が、遠のいていく。何か気に取られて、ルートを変更したのか……? そう思っていると、

「……!」

 突如上から何かが降ってきた!

「っと」

 足音に紛らすように、声が出る。思わぬ状況にハイル嬢は冷静に声を処理された。

 ハイル嬢に抱きとめられたのは、キッド殿だった。くしくしと頭をかくと、ハイル嬢の右肩によじ登った。私はそのままポケットから顔を出す。

〔驚かすでない! 危うく撃ち殺すところだったぞ!〕

〔わりいわりい、ちょっくら撹乱(かくらん)してたんでよ〕

〔? 撹乱? どういうことだ?〕

〔ざっと見て、連中は十五人ってとこだ〕

〔そんなにもいるのかっ?〕

 十五人……重装備の連中がそのくらいいるとなると、絶望感が……。

〔だから、子分たちにハイルから遠ざけるように音を立ててこいって命じたんだ〕

〔なんと!〕

 この機転の良さに統率の取れた連携。さすがこの“シマ”を仕切っているだけのことはある。

〔だがそれも夜の内だけだぜ。仕留めるなら今しかねえ!〕

「……」

 ハイル嬢は再び、木陰に隠れられた。意を決せられたようだ。

「クー」

 銃口でくいくい、と右側を差された。

〔約十メートルほどでございまする〕

 無言で頷かれた。はぁ……ふぅ、と深呼吸。

 …………ずり、と“標的”方向から足音が聞こえた。その瞬間、ハイル嬢はそちらの方向へ駆け出された。

「っ!」

 かちゃん、とおもちゃのような音が連続する。直後、銃撃音が連続して炸裂した。しかし、そこは木。ハイル嬢は木陰に隠れては走って、を連続的に行なって急接近される。

 びっ! とハイル嬢の左肩が弾かれた。さすがに腕は達者だ。あっという間に適応された。しかし、それは逆に言えば、自分の居場所を明確に教えているということ。

「ふぅ……ふぅ……」

 標的の足音が遠ざかっていく。ハイル嬢と一定距離を保ちたい行動だ。それをハイル嬢は逃さなかった。

「ふ」

 素早く身を乗り出し、射撃。こちらは消音器を付けていないため、射撃音がもろに森に響き渡る。しかし、遠くで二回、重いものが叩きつけられる音がした。

 全速力で駆けつけられる。

〔お前らもやるじゃねえか〕

 男二人が地面に転がっていた。一人は右肩の関節、もう一人は左肺を撃ち抜かれている。ハイル嬢はそれを確認なさると、有無を言わさず、

「う」

「べ」

 男たちの首を掻っ捌かれた。さらに、暗視眼鏡を二つ剥ぎ取り、すぐに離れられていった。

 これであとは約十三人。だが、安心するのは早すぎた。

 暗視眼鏡を装着しようとした時、

「ぐあっ」

 ハイル嬢が呻いた!

〔ハイル嬢!〕

 棒状の凶器で突き刺されたかのような衝撃。ハイル嬢の左腕が木に打ち付けられるように、弾かれた。だが、痛みに悶える暇すらくれない。離れた刹那(せつな)、そこに弾丸と銃撃音の嵐が吹き荒れる。ぴしゅん、という消音器特有の音と弾丸の風切り音が連続していた。

 恨みで撃ち抜くような大量の連射に、木が抉られすぎて倒れてしまった。幸か不幸か、そちらには誰もいないようだ。

 地面を揺らす大轟音。ハイル嬢は再び足音をその轟音に溶け込ませ、すぐに身を隠された。

 暗視眼鏡のおかげで視野は確保できた。それも二つ。ハイル嬢は予備として余分に剥ぎ取られたようだ。

〔ハイル嬢、お怪我はっ?〕

「……」

 薄っすらと月明かりでご様子が窺えた。……私を気遣ってにこりとされるが、疲労と痛みで汗がだくだくだった。

 お気に入りのコート、先ほど撃たれた左二の腕の端に穴が。しかも酷い出血……。コートには滲んではいないが、その下も大変なことになっているのは容易に想像できる。貫通というより抉られたようだ。

 暗視眼鏡を奪われたことで、敵も黙視を破る。声が微かに聞こえ、しかも足音と共に離れていく。おそらく一時退却といったところだろう。その間隙を利用して、ハイル嬢はお怪我の応急処置に取り掛かれた。

 ふと、空が白け始めてきている。連中はこれを期して退却したのか。つまり、ここまで手こずるのは想定外だったということ。

 ずっと押し黙っていたキッド殿が空の明るみを眺めながら、

〔スリリングすぎて、声の出し方忘れてたぜ〕

 安堵の声を出した。

 

 

 とりあえず、あの場を離れてこちらも体勢を立て直すこととなった。

〔どうだ?〕

〔はいアニキ、周囲三十メートル確保できやした!〕

〔おう〕

 愛弟子(?)の子分“カズ”殿がびしっと報告した。

 今は国から遠く遠く離れたところ。それも川だ。上流の一番頂点、水が湧いて出るところにいた。紅葉に包まれているのは変わらないが、なんと小さい滝がある。だいたい五メートルほどか。その音のおかげで、こちらの音を隠すことができる。

 キッド殿曰く、ここは知る人ぞ知る秘境なのだとか。

 そして、我々は何をしているのかというと、最厳重警戒の任についていた。すなわち、

「きもちー!」

 ハイル嬢の沐浴(もくよく)である。

 以前、ハイル嬢の御身を覗こうとした不心得者がいたが、次の日には骨にしてやった。

 地上はキッド殿と子分たち、空はピーコが警戒にあたっている。ほぼ間違いなく狼藉は侵入できない。いや、させない……。

〔しっかしタフだな、あんたのご主人様はよ。自分が殺されるかもって時にノンキに水浴びだもんな〕

〔気分転換されているのだろう。こういうことは珍しいことで、〕

〔どう? イイ感じかしら?〕

 空からピーコが降り立った。

〔あぁ。キッド殿のおかげで、いつもよりリラックスされている〕

〔た、たか……〕

 キッド殿は少し怯えていた。

〔大丈夫よ。そんなにビクつかなくても〕

 そう言えば全然気にならなくなっていたが、捕食者と被食者の関係にあることを忘れていた。キッド殿はリスだが、ピーコはリスも食べるのだろうか。

〔でも、森の中にちらちらうろついてるのいたし、食べてもいいかしらね〕

〔ピーコ! それはキッド殿の子分だ!〕

〔あわ、わわわ……〕

 さすがにこの“シマ”を仕切っていたとはいえ、鷹を相手にしたことはないのだろう。しかもピーコは通常の鷹よりも少し大きい。

 翼を広げて威嚇した。

〔わああああああっ!〕

 逃げるように、私の背後に隠れてしまった。って、私を盾にするでない!

〔あなた、中々面白いわね〕

〔ピーコもちょっかい出すでない!〕

〔ふふふ〕

 全く、このいたずらっ子め。

 少し話した後、ピーコは再び上空へ舞い上がっていった。

〔お前、怖くねーのかよっ〕

〔もう長年の付き合いだ。ピーコが鷹だという認識もなくなっていたよ〕

〔……お前、すげえな〕

 

 

 のびのびと沐浴された後は、ここを拠点に一休みされた。朝食を取られたり、衣服の裁縫と洗濯、そして武器の点検をされたりした。セーターの左腕は血が垂れるようにじわじわと染みていた。

 代わりの服として、白と淡赤色のボーダーシャツを着ることにされた。

 お怪我のところは消毒をしっかり行ない、脱脂綿を包むように包帯を巻かれている。

〔さすがにお手のもんだな〕

「そう? けっこう勉強したんだ」

〔へえ〕

 小さい焚き火を起こされている。そこで水を煮沸消毒して、紅茶を(たしな)まれている。

 私は警戒に掛かりながらも、キッド殿がここで起こったこと話しているのを聞く。ハイル嬢は睡眠中だったので、まだ事情をご存知なかったのだ。

 ふうふうしながら、一杯飲まれた。

「そうなんだ。……じゃあ、あの人たちはわたしを狩ろうとしてるわけだね」

〔そういうこったな〕

「ふぅん……」

 ……あれだ。ハイル嬢が笑われている……。

〔楽しいのか?〕

 キッド殿が尋ねた。

「え? そう見えた?」

〔だって、笑ってるじゃねえか〕

 おお、キッド殿の素直な質問。正直、私も聞いてみたかったことだ。もっとも、怖くて怖くてそんな気になれなかったのだが。

「全然楽しくないよ。死んじゃうかもしれないのに」

〔じゃあどうして笑ってたんだ?〕

「う~ん……わかんない」

〔わかんないのかいっ〕

 誤魔化されているようには見えない。……とても複雑に感情が動いて、いや(うごめ)いているのだろうか。

 粗方、用事も済ませると、すぐに荷物を片付けられた。特に連絡はないが、できるだけ離れておきたいのが心情だ。

 上から修復されたコートを羽織られ、リュックとハンドバッグを肩に掛けられた。

 ちらちらと周りを窺い、出発された。

 私はいつもの定位置で、キッド殿はハイル嬢を見守るように樹上から追っている。

「あのさ、ちょっと聞いていいかな?」

〔あ? なんだ?〕

 こやつの無礼な口振りも、ようやく慣れた。

「今、あの国からどのくらい離れてるかな?」

〔具体的にはわかんねえけど、だいぶ離れたと思うぜ。なんせ連中がまだ来てねえからな〕

 ん?

「そっか……」

 とても残念そうな顔付きをされる。

 私はどこか引っ掛かっていた。何だろう、何かを忘れている。すごく重要なことを忘れている気がする。

 しばらく歩いていると、

「……」

〔……〕

 あの滝に到着した。

「あれ? 戻って来ちゃった」

〔……あ、あああっ〕

 そ、そうだった! なんということを忘れていたのだ! ハイル嬢は……、

「あはは」

 極上の笑みで誤魔化さないでいただきたい!

 ハイル嬢は、究極的な方向音痴であられた! ああああ、なぜ早く気付かなんだ! 今までの逞しさっぷりから、そんなことを欠片も思い出せなかった!

〔お前、方角がわかんねえのかよ〕

「ごめん」

〔ったく、情けねえな。ほれ、ついて来い。安全ルートを案内してやっから〕

「ありがと!」

 キッド殿は土地勘がある。さすが、ここを取り仕切る親分だ。

 ハイル嬢はキッド殿に付いていくように歩かれた。樹上だというのに、すごく俊敏だ。

 そして数十分後。

「……」

〔……〕

 滝に戻ってきた。

〔あ、あれ? おかしいな。なんで戻ってきちまったんだ?〕

 ……まさか、連中が何か仕掛けを打って……? と思っていると、キッド殿のところへ子分が慌ててやって来た。まさか、敵襲っ?

〔アニキ! どうしてこっちへ戻って来たでやんすかっ?〕

〔あ、いや、その……〕

〔アニキは“歩きオンチ”なんすから、道案内しちゃいけないでやんすよっ〕

〔……ごめん〕

 いやいやいや、“歩きオンチ”ってなんだそれ! 初めて聞いたぞ!

 配下のカズ殿がこちらに来た。

〔ホントスイヤセン! アニキは一歩歩くと、もう自分がわからなくなるほどの方向オンチなんでやす〕

〔そなたどうやってここ一帯を治めたっ?〕

 もはや介護ではないか!

 な、何と言う奇跡。ハイル嬢ほどの方向音痴がいたとは。しかもリス……。

 気を取り直して、今度はカズ殿に付いていくようにキッド殿が付いていき、それをハイル嬢が追われるように進んでいった。決して声には出さないが、何と言う間抜けな光景……。

「キッドくん、大丈夫だよ。わたしもすごく気持ち分かるから」

〔おうともよ。人間なんて大嫌いだが、お前とは仲良くなれそうだぜ〕

 謎の親近感に感動する二人であった。絶対にどこにも出掛けることはできないだろう。

 そう言えば、敵はまだ来ないのか。いや、来てほしいわけではないのだが、この緩みきった雰囲気をどうにかできないかと思ってしまう。

〔ハイル嬢、我々は命を狙われているのでありますぞ!〕

「って言ってもさ、キッドくんの子分ちゃんから何もないんでしょ?」

〔まぁ、確かに……〕

「ずっと張り詰めたままだと、さすがにわたしも参っちゃうよ」

 確かに(おっしゃ)る通りだ。私の方が間抜けであった。ハイル嬢の現在のご心境を無視するがの如き浅い思慮だ。

〔……過ぎた言葉、どうかお許しください〕

「心配してくれてありがとね。クーはやっぱり頼りになるよ」

 ……勿体無きお言葉……! 私の頭をなでなでしてくださった。このなでなでのために私は生きている…………はっ、いかんいかん。私が真剣にならなければ。

 そうして、

「!」

 突然、背後にあった木が音を鳴らした。何……?

 ハイル嬢は瞬時に全てを悟り、全力で走り出された。

 馬鹿な。キッド殿たちやピーコからは何の警報もない! 一体何が起こっているのだっ?

 我々は動揺を隠せなかった。

〔おい! 連絡はどうなってやがる!〕

〔分かりやせん! でも警戒に問題はありやせん!〕

〔ピーコからも警報はないっ。一体どうなっているっ?〕

「狙撃だよ」

〔!〕

 ぽつり、とハイル嬢が仰られた。

「多分、子分ちゃんたちより遠くから、しかもピーコに見つからないように狙撃してる。擬態しながら、私を狙ってるんだよ」

〔バカな! 三十メートルっつっても、俺の子分はそこら中にいる! この森の中なら筒抜けなんだぜ!〕

「そう、だから森の外から狙撃してるんだ」

〔……え?〕

 ハイル嬢が小指で指笛を二回鳴らされた。とても高く、森に響き渡るほどの迫力のある音。これはピーコに離脱せよ、という合図なのだ。

「わたしがピーコやキッドくんたちと連携を取ってるのがバレてるんだ。だからそれを逆手に取った。ピーコはここらへんじゃ、あまり見ない鳥みたいだね。だから、ピーコいるところにわたしがいるって目をつ、」

 風切り音。ハイル嬢の首筋に赤い線が辿る。銃弾は何にも遮られず、地面を穿(うが)った。

 幸い、ほんの少し掠っただけのようだ。だが、照準が合わさってきている……!

〔だからピーコを離脱させたのですねっ〕

 こくりと頷かれた。

 連中は昨夜の(詳しくは朝方前)の一戦で、ハイル嬢を試していたのだ。つまり、こちらの戦力を見極めに来たということ。だから深追いや派手な銃撃戦を避け、速やかに撤収したのだ。

 経験の浅さ、遠距離武器の不所持、機転の良さに加えて警戒網。連中はほとんどを見極めている。

「く……!」

 直線の軌道が、ハイル嬢の髪を撫でた。ばちん、と木の幹に弾け、地面に衝突した。

 無我夢中で弾丸の一滴を避け続けて走っていると、二つの選択を迫られた。一つは右手方向に盛り上がる山。もう一つは逆の麓。

「はぁ……はぁ……ふぅ……」

 

 

 こうして、我々は危機的状況に陥っている。

「回想長いよ」

 ……ぇ?

 何でもない、とハイル嬢は言葉を濁された。そんなことよりも、今の状況を考えねば。

 カズ殿によると、ここ一帯を抜けるのはどちらもそこまで変わらないとのこと。ならば、麓の方がいいだろう。誰が好き好んで山を登り抜けようとするのだ。

 ところが、ちらっと空を見られると、ハイル嬢は、

「山に入ろう」

 と、ご決断された。私も並んで空を見るが誰もいない。一体何をご確認されたのだ?

〔まじかよ! こっから山登んのはきつすぎだろっ!〕

 キッド殿の意見は真っ当だ。しかし、敵がその猶予を与えてくれなかった。間一髪のところで狙撃が逸れた。というより、ハイル嬢が避けている。

 ともかく、銃撃の軌道から、狙撃点は大方把握した。敵が動きながらでもさして変わらない。結局はハイル嬢を標的にしているためだ。

 ハイル嬢もそれを重々理解されているようで、わざとそちらの方へ数発射撃された。無論、届きはしない威嚇射撃だが、撃つと狙撃が止んだ。これはメッセージなのだ。お前たちの居場所は手に取るように分かるぞ、という。

 その狙撃が止んだ隙に、ハイル嬢は一気に山の方へ走りだされた。時折、威嚇射撃をして反撃される。

 何とか、攻撃を受けずに山へ入り込むことができた。そこで私はハイル嬢がこちらを選んだ理由を思い知らされることとなる。

 出迎えてくれたのは、

〔遅いわよ、ハイルちゃん〕

 ピーコだった。

〔ピーコ! なぜお前がここに?〕

〔ハイルちゃんならこっち来ると思ってね。ここらへんには敵はいないわよ〕

 ピーコは左肩に止まり、我々と合流した。

「仕事が早いね」

 私には一体何のことか分からなかった。そして、ちょっぴり妬いた。

〔ぐだぐだ言う前に早く行こうぜ!〕

〔待って!〕

 目の先に太い木が株立状に三本並んでいる。ハイル嬢はひとまずその木の陰に隠れられた。上手い具合に、敵から隠れられる形状だ。

〔反対側に行けば蜂の巣にされてたわ。でも、こっちはやつらのボスがいるの〕

〔では、ハイル嬢はこちらにボスがいるとご存知で……?〕

「ううん。こっちの方に太陽があったから……」

 なるほど。狙撃者の目を(くら)ませて狙撃しづらくさせるために、太陽方向へ逃げられていたのか。正解かは分からないが、ハイル嬢なりのお考えがあってのことだった。

〔いよいよ最終決戦か。嫌いじゃないぜ、そういうの〕

〔いえ、どうもそういうわけじゃないのよ〕

〔? どういうことだ、ピーコ〕

〔分からない。遠目から見ても何をしているのかが……〕

 何か不可思議な行動を取っているということか。それはそれでまずい。精神的にかなり“キテ”いる輩では……?

 ハイル嬢はうん、と頷かれた。

「どっちにしても、行かないと殺される。……行こう」

 ご自身の命を覚悟された。これまでふんわりされていたのに、どこか逞しく感じる。

 ハイル嬢は使っていた銀銃を予備の方と取り替えられた。一緒にナイフを握り込み、すぐに射撃ができる体勢を作り、

「っ」

 駆け出された。またあの攻撃が……!

「……」

 と、思いきや、

「……?」

 一発も来ない。しかし疑問に感じれば足が止まりそうになる。ハイル嬢はそれでも走られた。先ほどの太陽作戦が成功しているのか……?

〔ここから二百メートルほど先にいるわ。少し拓けたところで、切り株に座ってた〕

 まさに、本丸というわけか。しかも遠距離射撃が仇となったか、すぐにはこちらには来られまい。

 ハイル嬢は先に、ピーコに離脱するように命令された。せっかくここまで来たのに、足取りをできるだけ悟られないようにするためだ。ピーコは撹乱してくる、と言い残して飛び立っていった。

 そうして、それらしきところの数歩手前まで辿り着けた。いつものように、木陰に隠れられると、私を地面へ下ろしてくださった。これもいつものこと。決して顔を覗かず、私が先に偵察するのだ。

 枯葉の上を歩く。むむ、ここらへんは雑草が伸びているな。

 ピーコの言う拓けた場所に到着した。ここだけ木が少なく、空の割合が多い。そのためか、雑草が元気に伸びていた。そして、

「……」

 おそらく、この黒い奴が連中の頭……。男はこちらに背を向けて切り株に座っており、項垂れていた。……確かに、これでは何をしているのかは分からない。……仕方ない。もう少し回り込んで見てみるか。

 黒いコートに黒いパンツを着ている。下は何か文字の入った白地のシャツだ。表情を隠すように、白髪交じりの長髪を前へ垂らしていた。ん? やけに髭が伸びているな。……武器はと……自動式拳銃一丁のみのようだ。

 これ以上は意味なしと考え、慎重にハイル嬢の所へ戻った。

 ハイル嬢のいる木陰に入り、拾い上げていただく。

〔敵はこちらを背にしています。黒服の白髪の男です。歳はかなり取っているかと。武器は自動式拳銃一丁だけ。切り株に座って、項垂れていました〕

「……」

 ハイル嬢はそれを聞かれ、キッド殿を下ろされた。樹上へ、という指差しの合図で、キッド殿は素早く静かに駆け上がった。

 そして、ゆっくりと出られた。

 銀銃を握る両腕は下ろし、完全に息を止められている。足音も最大限殺している。微風でも吹いてくれれば、耳元の風で誤魔化せるくらいに静かだ。

 あと五メートル。私がいるポケットからでも、ハイル嬢の鼓動を感じ取れる。敵の後ろを取るというのは、これほど恐ろしく重圧感を受けるのか……。私は最大限、周囲を警戒していた。おそらく、ハイル嬢は男以外に集中しておらず、男以外の敵の声すらも聞こえないだろうから。

 あと三メートル……。ここで、ハイル嬢はようやく銀銃を男へ向けられた。それも頭ではなく、肩甲骨の中心辺り。ここまでは何とかせいこ、

「気分はどうだい?」

「……!」

 ばくばくばくばく、とハイル嬢の心臓が暴れ出す。息が続かず、しかも男からの思わぬ牽制に、呼吸が乱れてしまった。

「は、ぁはぁっ……! あはぁっはっはっ……!」

〔ハイル嬢! だいじょ、〕

 しかし、

「ふぅ、動かっないで。そのまま銃をこっちに投げて」

 銃口は乱さない……!

 すぐに平静を取り戻された。

 男は振り返らず、ハイル嬢の言う通り銃をこちらへ投げ渡した。銃口はそのままに、左手だけで拾われる。片手で弾倉を抜き、できるだけバラした後は、重要部分だけをポーチへしまわれた。

「そのまま手を上げてて」

 ハイル嬢はさらに、嫌々ながらも、男を立たせて身体検査をされた。

「武器は渡したのだけだ」

 とても低い声。男に動揺は見られない。

「途中までは完璧だった。この私ですら、殺気も音も感じられなかった。だが、銃を上げただろう?」

「!」

「あれがいけなかった。銃というのは意外と音が鳴るものでね。例えば弾倉。使い回している物だと、接触不良でカタつくことがある。あるいは薬室。これは弾を完全に固定しているわけではない。ただ、薬室へと送り込んでいるだけ。つまり、ある程度隙間があるのだ」

「……」

「自然には存在し得ないそのわずかな異物音。それを察知できるかどうかで自分の人生が左右される。この私のようにね」

「……でも、この状況は変わらない。ぼくがあなたを制してる」

「いや、変わらんな」

「?」

「お前は私に銃を向けている。傍から見れば殺す寸前、確かに私が不利だ。しかし、不利だからといって負けたわけではない。勝敗の優劣なだけであって、その結果ではないのだ」

「え? ……え?」

「例えば、私の銃を分解したからといって、なぜ自分が殺されないと確信できる? お前の向けているものはなんだ?」

「!」

 思わず、もう一歩後退された。

「今、退いたな? 無意識的に奪われることを恐れたのだろう。だが考えてもみたまえ。現状況で、私がお前から銃を奪うには振り向いて、追い掛けて、腕を叩くなり何なりして銃を落とさせなければならない。どう考えても不可能だ。まさか、それをぼんやりと見過ごす性格ではあるまい……くくくく……」

「……っ!」

 この男……この話しぶりで煙に巻こうという魂胆だろうが、何と言う重圧感。ハイル嬢が感じられていたのは、こちらだったのか。

 しかし、こういう時こそがハイル嬢の真骨頂。貴様の考えなどお見通しだ。

「……」

 ところが、ハイル嬢お顔は一向に優れない。一体どうされた?

〔どうされましたか?〕

「…………」

 動揺されている。

「お前も頭がキレる方だが、それは一つ一つの状況に対応するだけだ。物事はもっと包括的に解釈せねばいかん」

〔一体どういうことだ……?〕

「単刀直入に聞こう。私を殺害もしくは拘束した後はどうする気だ?」

〔そんなこと、貴様を拘束して人質にするのだ。そうすれば、〕

「おそらく、私を拘束し、人質にでも仕立てるつもりなのだろう」

 ……こやつ……まるで私の考えを……。

「だが、仮に成功したとして、奴らがお前を殺さないという確証はあるのか?」

〔……!〕

「口約束など、ケツを拭く紙にすらならん。ならば、姿を現し敵に包囲されるという最悪な状況しか生まん。つまり……お前は目標達成の条件を見誤っているのだ。私を拘束して自分の命を保証させることは手段の一つであって目標ではない」

「……」

 ハイル嬢は苦虫を噛みつぶしたような表情をされている。……図星だったのだ。

「いいか? このような場合、窮地を脱する方法は二つある。一つは自分を脅かす敵を殲滅(せんめつ)すること。これは当たり前だな。だが、大変な労力がかかってしまう。今の状況に置き換えれば、私の他にあと二百三十三人始末せねばならない」

「……! に……二百……?」

 に、にひゃく……さんじゅう……。

「……はぁ……はぁ……」

 は、ハイル嬢の呼吸が荒い。現在の戦力と状況を考えれば、今の発言は死刑宣告に近い……。

〔は、ハイル嬢……〕

 それを察されたようで、力なく銃を下ろされた。

「……わたし……死んじゃうの……?」

「ああ。おそらくな。少なくとも奴らの慰み者にされてさんざん××された後に、拷問されるだろう。お前の身体から吹き出る××を楽しみながら、ゆっくりといたぶり痛めつけ、最後は家畜以下の扱いを受けることになるだろう」

「……はぁ……はぁ……はふっ……」

 いかん、これこそ奴の術中だ。

〔ハイル嬢! お気を確かに!〕

「……く、クー……?」

〔この男は法螺を吹いておりまする! 仮にそうでなくとも、そんな下郎、我らが一瞬で(ほふ)りまするっ! ですから、奴の声に耳を傾けてはなりませぬ、狼狽(うろた)えてはなりませぬ!〕

 ハイル嬢がここまで困惑されているのは、何かの理由でこの男の心が読めないためだ。間違いない。男は困惑された様子を知り、時間を稼いでいるのだ。このペテン師の話を黙って聞いていたら、あっという間に数時間は過ぎてしまう。

「……うん」

 顔色は冴えられないが、力の込もった行動だった。再び奴に銃口を向けられる。

「まあ待て。それはあくまでも、敵を殲滅する行動に出たらだ。結末は十中八九、今話したことになるだ、」

「もうしゃべらないで! あなたを拘束して、拉致します! わた、ぼくの指示に従って!」

「やはり、お前は女だったか」

「っ!」

 たじろぎつつも、荷物から手錠を取り出され、男に投げ付けられた。

「両手を後ろにして、それを付けて」

「……仕方ない」

 男はじろりと手錠を見つめると、あっさりと要求を受け入れ、後ろではめた。

「さて、どうするかが見ものだな。愚かな少女よ」

「うるさい! 早く歩いて!」

「くっくっく……若い……」

 薄気味悪い笑みを漏らしながら、歩いて行く、と思いきや、

「……? どうしたの? 早くしてよ!」

「ふん」

 ……え?

「……」

 お、男の……右手が……抜けた……?

 男はまたも気合の声を上げ、左手も手錠から抜け出した。

「ほれ、返すぞ」

 投げ返されても、受け取ることができないハイル嬢。

 わ、私ですら動揺を隠せなかった。手錠は手首にきっちりとはめられていたはずなのに……! い、一体何者なのだ、この男は……!

「このような拘束具は末端部の血を抜くことで脱することができる。抜くと言っても出血させるのではない。血は心臓から動脈に流れ、各部で静脈へと流れる。ここで酸素を送るわけだが、動脈を止めると、そこから先に残った血は静脈から心臓へ送り出されていくしかない。つまり、血が抜けて(しぼ)むのだ。ずっと立っていると足がむくむだろう? あれは重力で血が足の方に溜まってしまい、静脈から心臓へ血を送り出しづらくなっているからだ。これを応用すれば、この手の拘束はほとんど意味がない。きちんと拘束したいなら、ロープで身体に縛り付けるようでないとな」

「……」

「さて、話を続けよう。もう一つの窮地を脱する方法を……」

 な、なぜだ……なぜ我々が追い詰められている……? 拘束もして、銃を向けていつでも殺せる用意もしたはず、なのにどうしてこの男は、それを突破してくる……。

 あまりの絶望に、ハイル嬢が崩れられた。頼りだったはずの銀銃を落としても、拾おうともされない。ただ、打ちひしがられた。

 男が近づいてくる。……くっ!

「?」

〔ピーコ! 来い!〕

 私はキーキー鳴いた。すると、上空から突風のごとく、ピーコが舞い降りてきた。ハイル嬢をお守りせねば!

〔周りはいたかっ?〕

〔いえ! まだ誰も来てなかった!〕

 何とかハイル嬢を立ち直さなければ……しかし……、

「……」

 薄っすらと涙を浮かべ、震えられている。……くそっ!

「お前は動物を操るのか。なるほど、だからあいつらの包囲網を突破できたわけだ」

 私は全力で睨み付けた。

「……」

 男の足を何とか留めようと。……ただの時間稼ぎにすぎない、か……。

「いいだろう。そのまま聞け」

「……」

 せいぜい無駄口を叩いていろ。ハイル嬢に立ち直っていただいたら、その時は貴様らが喰われる番だ……!

〔ハイル嬢、こうなれば“あれ”のご許可を!〕

「一つは敵の殲滅。もう一つは……重要人物に恩に着させることだ」

〔あの“号令”をおかけくだされ! さすれば我らが、〕

「え?」

 涙顔を男に向けられた。

〔ハイル嬢! 奴の(あや)かしにつきあっては、〕

「クーロ黙って!」

 ふぇっ? な、なぜ私が……? ……うぅ……。

「おじさん、もしかして……」

「ああ、そのまさかさ」

 え? なに? 一体何が起ころうというのだ……?

〔な、なにが起こってるのだ……?〕

 

 

「まずいな……お頭がいねえ……」

「あの旅人に拉致られちまったのかっ?」

「ありえるぜ。ヘタしたらお頭を人質に、強引な要求を……」

「……くそ……なんでこんなことに……!」

「どうする? もう一回手分けして捜すか?」

「いや駄目だ。あの旅人は腕が立つ。こっちの人数を見てもちっともビビらなかった! ってことは、あいつは相当な熟練者……! これ以上犠牲者を出すわけには……」

「でも若旦那! このままじゃ、お頭の命が……!」

「わかってる! だからこうして集まって話し合ってんじゃねえか! 何か思いつく奴はいるかっ?」

「……」

「…………」

「ムリもねえか。仕方ねえ、もう一回捜す、……?」

「どうした?」

「遠くから声がする……」

「……ぃ……」

「!」

「……ぉ……い……」

「あ、あれは……!」

「……おーい……いるか~……」

「お、お頭!」

「そ、それにあの旅人がいる!」

「全員構えろ!」

「待て待て待て、急に撃ち殺そうとする奴がいるか。よく状況を読めと言っているだろう」

「? どういうことです?」

「この旅人は私の恩人だ」

「へ?」

「はいっ?」

「い、意味がわかんねんすけど……」

「皆、勘違いしている。旅人もお前たちも。全く争う必要のない戦いだったのだ」

「? 一から説明してくだせえ! カシラ!」

「つまりだな、私は旅人に襲われても拉致されてもいないのだ」

「? じゃあ、一体……」

「……まあ……その……」

「?」

「どうしたんです? 早く言ってくだせえ」

「えっと…………迷子になったのだ…………」

「……」

「…………」

〔…………〕

 

 

 つまり、こういうことだ。

 数日前からこの国のお頭殿が行方不明になっていた。こやつらはてんやわんやで捜すも見つけられなかった。そうして誰かに闇討ちなり襲撃なりを受けて、拉致されたと思い込んでしまった。

 一方の我らは不幸にも、お頭殿が行方不明に遭っていた森の中から出てきてしまった。国を見つけて中に入ろうとするも、既に殺気立っていたこやつらが不審人物と勘違い。結局我々は襲撃されることとなった。

 ちなみに、どうしてハイル嬢の動きが分かったのかというと、城壁を触っていたからだという。城壁のあの崩れ具合だ。ハイル嬢の触れるわずかな衝撃も受け、中からさらさら、と砂が落ちるのがはっきり見えたのだという。

 それだけで勘違いされても困ってしまうが、それほどこやつらが疑心暗鬼に囚われていたのだろう。あるいは、お頭殿を捜し出す情報を少しでも手に入れたかったのかもしれない。

 実際は、ただお頭殿は森の中で迷子になってしまっただけ。しかも奇妙なことに、

「お頭! だから一人で行かないでって言ってんのに!」

「すまん。この景色は何度見ても最高なのでな」

「ほんと、ただの取り越し苦労に無駄骨の折損だぜ」

「でも無事でよかったじゃないっすか」

 お頭殿“も”、極度の方向音痴らしかった。

「うん。お頭さんの気持ち、よく分かるなぁ。ぼくも興味がある方にすぐ行っちゃうんだ」

〔分かるぜハイル。何かが俺を呼んでる感じがするんだよな〕

「うんうん。お頭さん、この子もお頭さんの気持ち分かるって」

「はっはっは。では今度、とっておきの場所を紹介しよう。景色も物音までも気持ちいい場所だ」

「ホント?」

〔もしかしてあそこか? 滝のことかもな〕

「あんたら一生さまよってろ!」

 本当に、全くもって同感だ。

 ハイル嬢がお頭殿のことが分かったのは、自分と同じ“匂い”を嗅ぎ取られたからなのか。つまり、お頭殿は、あそこで誰かが捜しに来てくれるのを待っていたのだ。ハイル嬢も迷子になられると、よく立ち止まって暢気にされている。……なるほど、本当の本当に手間のかかる……。まぁ、そのおかげで、こうしてハイル嬢は生き残ることができたから良いものの……。

 さて、我々は最初に訪れた国に入国していた。

 あの穴から入ると、真っ直ぐの道と途中に左に曲がる道が見える。右はあの門だ。つまり、門から入れば前左右の道が展開されるわけだ。

「観光の国って感じだね。作りも単純だから、覚えやすそう」

「ほう。旅人さんは観察力が優秀だな」

 頭殿の右肩には、キッド殿がいた。言葉は交わせずとも意気投合したらしい。

「この血気盛んな単細胞たちにも教えてやりたいくらいだ」

〔全くだぜ〕

「……う……」

 そなたら、自分の立場をよく(わきま)えていただきたい。

 若旦那殿たちはしゅん、と落ち込んでいた。

「でもどうしてこんなことに?」

「……ふ……」

 頭殿が先導してくれた。我々もそれに付いていく。なるほど、かつて栄えていた片鱗を見受けられる。建ち並ぶ商店にレストランと、観光客を楽しませるために特化したと言える街並みだ。しかしそれが今や、全てシャッターが閉じられ、ぼろぼろになっている。

 頭殿はそれを懐かしむように、見つめていた。

「こんな国、滅んでしまってよかった」

「……え?」

「あの森は私が小さい頃からあったんだ。とても美しいところでね」

「うん。ゆっくりは見れなかったのは残念だったけど、きれいだったよ」

「そうだろう。……だが、ここの国長は何を考えたのか、森を観光名所にしようと決めた」

「……それって、悪いことなの?」

「いや、そうでもないと思う。私も最初は賛成だったよ。世界中の人間に見てほしかったからな」

 頭殿はとある店のシャッターに触れる。かりかり、と引っかくと、ぼろぼろと崩れていく。

「ところが、一年ほど経った時、ある一画で木が枯れてしまった」

「……え?」

「原因は客が捨てていったゴミや火の元だった。多分、自然発火してすぐに鎮火したのだろう。だが、その時私は思ったのだ。このままではこの森が殺されてしまう、と。しかし、既に国の開発が進み、引くに引けない状況になってしまったのだ。結局、森はそういう客のせいで瀕死に追いやられてしまった」

「……」

 再び歩き出した。ハイル嬢は少し早めに歩かれ、頭殿の隣に並ばれる。

「動物を愛する旅人さんなら分かるだろう? それがどんなに悍ましく恐ろしいことか」

「うん。……生態系が全部変わっちゃう。動物がいなくなったら、土が死んで……誰も寄り付かなくなっちゃう……」

「……」

 にこりと頭殿は微笑んだ。

「だから、いっそこの国を滅ぼそうと考えたのだ」

「……そっか」

〔何がです?〕

 ハイル嬢が何かを思い付かれた。

「敵を殲滅するか、恩を着させるか……。お頭さんは殲滅する方を選んだ……」

〔!〕

「そうだ。だが、それはあまりにも簡単だった」

「?」

「要はこの森の評判を下げれば良い。だから、そこら辺でうろついてた山賊たちと手を結び、観光客を片っ端から襲った。あまりにも酷い客は手にかけることも躊躇わない。そうやって、ここは危険だと思わせ、どんどん落ちぶれさせた。……最終的には観光業は全滅、それを主軸に経済を回していた国は滅亡した。意外にも半年ほどで事が済んだ」

「……」

 ハイル嬢は目を伏せられた。

「その人たちは……?」

「もうとっくにどこかへ行ってしまったよ。今では私らしかおらん」

「……」

 何とも言えない表情をされていた。

「……もう、この森を殺す輩もいなかろう。……ありがとう、山賊たちよ」

「……え?」

「旅人さんに連れて来てもらったのは、最後に礼を言い忘れたからなのだ」

「お、お頭……? 何を言ってるんですっ?」

 若旦那たちが頭殿を取り囲む。

 ハイル嬢はその様子を見守られている。

「……ここでお別れだ。お前たちとの生活も楽しかった」

「悪い冗談はよしてくれ! 頭!」

「俺らはあんたの人柄に惚れて付いてきたんだ! 今さら抜けるなんてやめてくれ!」

「すまない。だが、もう決めていた。……私はもう長くないのだ」

「そ、そんな……!」

 山賊たちをかき分けて、頭殿がこちらへ来た。

「お頭さんは心が読めないね。病気でもなんでもないのに」

「心が読めるのか。……なら、これも覚えておくといい」

「!」

 眼前に突風。頭殿の拳が迫っていた。

「人は訓練すると、あるいは心を患うと思考が分裂することがある。そんな心や思考を読むと、嵐が吹き荒れていたり、ブラインドがかかったりしているようだろう?」

「うん」

「それは読もうとしているから分からないのだ。それほど人は広く深い」

「……」

 拳を下げた。ハイル嬢の表情が固い。ぽとりと汗が一筋、伝ってくる。

「もし、この違いが分かるようになれば、今の私の心を感じることができるだろう。そして、私を引き留める言葉も、自ずと思いつく」

「……」

 ハイル嬢は綻ばれ、

「ありがと。いろいろ教えてくれて」

 お礼を告げられた。

 頭殿はハイル嬢の頭を撫でられた。

「……!」

 ハイル嬢はびっくりされていた。

 ……今回は不問にするしかない。殺されずに済んだのは頭殿のおかげだからだ。それに、頭殿は不埒(ふらち)なことは思っていないだろう。子供をあやしたり褒めたりするような、そういう気持ちの一部だと思う。

「年を取ると、若い人間につい世話を焼きたくなってしまう」

 ふっと手を離した。

〔俺はあんたと一緒に行くぜ。敵と思い込んでた俺の罪滅ぼしだ〕

「……いいのか?」

 ハイル嬢がキッド殿の言葉を通訳される。

〔どうせ道が分からねえんだろ? 俺が案内してやる〕

「……頼む。私はこの森で迷い続けたいのだ……」

 お頭殿がふらりと歩いて行く。我々は見送るしかなかった。ところが、

「……」

 ハイル嬢の面持ちは、なぜか不機嫌そうであられた。

 

 

「……頭……抜けちまったな……」

「ああ……」

「よく考えると、俺らってカシラの言うことに従ってただけなんだよな」

「そうだな」

「もう人も来ないんじゃ、山賊もおしめえだ」

「……なんかよ、今まで人ぶっ殺してなんぼだったけど、頭と会ってからはめっきり減ったよな」

「じゃあ誰か殺してくっか!」

「おいおい、相手がいねえじゃねえか……」

「あ……そうだった」

「そもそも、それも何かつまんねえ。むなしいっつーかなんつーか……」

「いつの間にか毒気抜かれちまってたんだな」

「今日も山菜取りにいってくっか」

「じじいかよっ」

「でも、なんか気楽だ」

「ああ」

「……頭……戻ってきてくんねえかな……」

「何言ってんだよ。もう三ヶ月は帰ってきてねえんだぞ。今頃、どっか森ん中でくたばってるだろうよ」

「そうだよな。あの人、方向音痴だし」

「ずっと愛してきた森でくたばるのも本望なんだろ。自分の命を懸けてまで守った森だ……」

「お前が言うと気持ちわりいな」

「何だと! マジメな話だろっ!」

「うわ、お前の口からそんな言葉が出てくんなんて!」

「あっはははは」

「うるせえ! 早く山菜採り行って来いじじいども!」

「へーい」

「……ったく……」

「でも若旦那が一番可愛がってもらったっすよね」

「……へっ。俺が一番出来損ないだったからな……」

「でもなんだかんだで俺ら、まとまってるっすよ。やっぱ若旦那は頭に一目置かれてたんすよ」

「ただの世話焼きだろ、あのじじい」

「誰がじじいだって?」

「! うわっ!」

「ひょえっ!」

「あ、あんた……なんで戻ってきたんだよ! 仙人になったんじゃ、」

「復帰だ」

「……え?」

「聞こえなかったか? 復帰すると言ってるんだ」

「え、ええええっ?」

「なんでまたっ?」

「勘違いするなよ。……上手い話があるのさ。それもまた、国を一つ潰すって話だ」

「……」

「……」

「目の色が変わったな。やはり、私が見込んだ通りだ」

「?」

「お前らは山賊なんてしょぼい人生に満足できんのさ。……もっとでかい話、つまりテロリストに向いている。……散るなら、地の底よりももっと深い所まで行こうじゃないか」

「か、頭……」

「私はもうそこへ片足を突っ込んでいる。だが引き上げてもらおうなどと思わん。どうせ落ちぶれるなら、地獄の底まで堕ちよう。……お前たちも来るか?」

「……付き合うぜ、お頭」

「うっす!」

「まずは殉職した仲間に別れをしなければな。どこに供養した?」

「ああ、お頭が出てった後に、滝の側に……」

「よく私のとっておきの場所を見つけたな」

「だってここから真っ直ぐ東にあるじゃないっすか!」

「え? そうなのか?」

「もう片足どころか頭まではまってるじゃねえか!」

「ふふふふ……。では案内してくれ」

「アイサー!」

「……そう言えば、なんで復帰しようなんて考えたんだ?」

「……“信ずれば虚もまた真実”ってやつだ」

「?」

「この“嘘つき悪党め”、だとさ」

 

 

 



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第七話:わすれられたとこ・a

「……すぅ……すぅ……」

「失礼する」

「すぅ……すぅ……」

「先生。具合はどうなんだ?」

「そう慌てるな。まだ手術したばかりだ。ふむ……かなり高熱だな。四十度近くはありそうだ」

「よ、四十度っ? じ、じじゃあ冷やしたり何か、」

「無意味だよ。術後はどうしたってこうなるものだ。あと三日四日はこのまま熱が出るだろう。そのために、お前に頼みたいことがある」

「な、なんだ?」

「まず抗生物質は二週間、解熱剤は熱が出ている間、これをきっちり守らせてもらいたい。高熱が出ている間は意識が朦朧(もうろう)としているだろうが、食事も少なくてもいいから取らせてくれ」

「あ、あぁ。分かった」

「それと、左肩を固定するために“型”を取っておいた。これを左腕にはめて、首から下げるように布を巻いておいてくれ」

「あぁ……」

「あと、この管は肩に入った血液を抜くためのものだ。寝返り等で絶対に左肩を圧迫させないように尽力してほしい。そうなった瞬間、再手術だ」

「……分かった」

「さらに、右へ寝返りした時はこの枕を左腕に乗せるように置いてくれ。彼の体幹の幅と同じくらいのものを用意した。左肩が下がらないようにするためのものだ」

「……あぁ」

「もう一つあるんだが、もし彼が、」

「先生、私はどこまで覚えたらいいのだ? できれば紙か何かでまとめてほしかったんだが」

「そんなヒマがない。それにこれで最後だ。……で、もし彼が用を足したくなったら、この尿瓶(しびん)でするように促してくれ」

「な……! そんなこと、私ができるわけがないだろう!」

「なあに、これは高熱が出ている間だけだ」

「それでも嫌だ! 赤ん坊じゃないんだから、自分でできるだろう!」

「……よく考えてもみろ。そんな覚束ない状態で出歩かせたらどうなる?」

「……」

「転んだり体勢を崩したりするだけだったらまだいい。だが左腕が負担になったり衝突したりするようなことがあれば、再手術どころかもはや治療不可能だ。精密義手を用意することになる。ただでさえ馬鹿高い治療費をさらにせびられて女王陛下に迷惑をかけるのと、お前が三日間だけ我慢するのと、どっちがいい?」

「……」

「それに私は他の患者で手一杯なんだ。彼を看られるのはお前だけなんだぞ?」

「……分かった」

「よし。それでこそ、この国の誇り高き騎士だ。なあに、モノなんて数回で見慣れるよ。老若男女の裸を診てきた私が言うんだ」

「先生は目的が違う」

「彼を治療するという観点は同じだ」

「……」

「じゃあ、早速取り掛かってくれ」

「……了解」

「ああ! それと、身体の清拭も頼むぞ。じゃあな」

「……出て行く間際で言うなんて卑怯だぞ」

「すぅ……すぅ……」

「……ち。なぜ私がこんなことをせねば……」

 

 

「ん……んぅ……」

「しっかり食え。……こら! 吐き出すんじゃない!」

「ぐはっ……はっぁつ……」

「! 熱いのか。少し水を足すか。……ほら」

「ん……んく……ふぅ……ん」

「よし、いいぞ」

「っう! はぁ……はぁ……」

「あ、あわわ……どうした? 苦しいのか?」

「う、うぅ……」

「え、えっと、どうしたらいいのだ……? 用足しか? 食事か? どこか痛むのか?」

「っうっぅう……つう……」

「……! ひ、ひどい熱だ……。昨日よりも悪化している……げ、解熱剤だ! あ、抗生物質も、……! おい! そっちへ寝転がるんじゃない! 布も取れそうだぞ!」

「ぅ……は……ぐぅ……」

「全く……ほら、これを飲め」

「んく……んく……く……ふは……」

「これで少しは和らぐはず。まだ食えるか?」

「……」

「……よし。もう休め」

「……」

 

 

「う……用足しか?」

「……」

「……仕方ない。ほら、支えてやるから」

「……ん、んぅ……」

「おい、角度を変えるんじゃない! こぼれるこぼれる!」

「んふ……く……」

「……ふぅ。毎度ながら慣れんな……。ついでに身体も拭こう。服を脱げ」

「……さむ……」

「我慢しろ。……しかしすごい傷だ。他の騎士たちでも、ここまでは……。それに、やはり男の身体だ。私がどんなに鍛え上げても、こうはならない……」

「……ふぅ……ふぅ……」

「……羨ましい……。と、前も終わったようだな。ゆっくり寝かせるぞっと」

「……」

「ふぅ……」

「……ふぅ…………ふぅ…………」

「? なんだ?」

「……ふぅ……ふぅ……」

「息が荒いのとは少し違うな」

「……ふー……ふー……」

「! 誰かを呼んでいる……?」

「ふー…………ふぅ…………」

 

 

「……ん……」

 暗闇に差し込む光。それが瞬時に広がり、目の前の光景を映し出した。乳白色の天井に所々茶色のくすみがある。よく見ると、長方形に切り取るように線が入っていた。

 眩しい。ふと左側を見ると、木製の十字棒を敷いたガラス窓があった。光がそこから燦々と入り込んでいるようだ。

 その視界にちらつく管。眠っていた所は真っ白なベッドで、その管は左の柵へと繋がっている。元は左肩に伸びていたが、綺麗な包帯が上から巻かれていて中は見えない。ただ、その管は赤黒い。

「つ……!」

 神経を突くような鋭い痛み。その痛みは全身へ伝わり、妙な脱力感を覚える。左肩を擦る右手が震えている。

 それでも何とか上体だけでも起こした。管は十分な長さをもって、

「いっだ!」

 いたが、今度は神経を引き千切られるような、直接脳に訴える激痛が走る。横になるしかなかった。

 横になりながらも周囲を見てみた。ベッド以外には本棚と机、机の脇には銀色の甲冑が立て掛けてあった。ベッドに対するように机があり、その左側にドア、その先に本棚が置かれている。中はぎっしりだ。

 甲冑はところどころ剥げているが、まだまだ使えそうだ。その甲冑に寄り添うように、両刃剣が掛けてある。幅や厚さは切れ味を追求して薄いが、長さがその甲冑ほどある。

 足音が外から聞こえる。

「失礼する」

 ノックなしに、突然入ってきた。

「……」

 金色の長髪。顔付きから雰囲気からも感じ取れる凛々しさ。それなのに、ごく普通の長袖シャツとパンツの女だった。見た目からして二十代……以上は見極めつかなかった。

 目付きをきりりとさせて、ベッドの方を見る。

「! 具合はどうだ」

 一瞬ぱちくりするが、すぐに戻る女。

「……」

「ああ良い。そのまま動くな。貴様の左肩は重傷だ。十時間にも及ぶ大手術だったそうだ」

 女の手には水の入った桶とタオルがあった。

「その肩の管は抜くな。肩に溜まった血を抜き取るためのものだ。……起きるか?」

 こくり、と力なく頷いた。

 女は器用な手つきで腕に硬い何かをはめ込み、その上から、首に下げられるように布を巻く。そして、ゆっくりと上体を起こしてあげた。管は柵からするすると伸び、引っかかることがない。

 ずきり、

「つっ」

 痛みで身が強張る。

「……」

「私の声が分かるか?」

「……」

 こくり。

「まだ意識ははっきりしないか?」

 ふるふる。

「そうか。……申し遅れたな。私は“イリス”。この国を守る騎士だ」

 女騎士“イリス”は目を見ながら話し掛けた。よく見ると、色が微妙に違うことに気付く。左が黒茶色に対して、右はそれに赤みを増したような色合いだ。

 もの珍しさなのか、その眼をじっと見つめている。

 イリスはそれを察すると、

「……これは生まれつきだ。気色悪いだろう?」

 ふるふる、と振る様子を見て、にこりと微笑んだ。……一枚の絵画を見ているような気分だった。

「貴様は優しいのだな。さて、名を伺おうか」

「……」

 声を出す素振りを見せるだけ。とても沈鬱そうに俯く。

「?」

 不思議がるイリス。

「……声が出せないのか?」

 こくこく、と頷く。

「……一体どんな目に遭ったんだ? それに貴様の身体も見せてもらった」

「!」

 自分の身体の異変にようやく気付いた。左肩の包帯以外、上半身が露わになっていた。ささっ、とイリスから身を遠ざける。

「今気付いたのか。鈍いな」

「……」

 きっ、と睨む。

「ああいや、勘違いするな。貴様の身体を拭くのに仕方なかったのだ。他意はない。それに、これから拭くのだ。……まあ、意識が戻った時の方が恥ずかしいかもしれぬが」

 ちょいちょい、とイリスは手招きした。……仕方なく、それに従うことに。

 タオルは温かかった。水ではなくお湯だったようだ。

「口が利けないんじゃ、何も話せぬ。が、焦らなくて良い。医者の話では一ヶ月ほど療養する必要があるそうだからな」

「……そうなんだ」

「!」

 イリスはぶったまげた。

「貴様、話せないのでは……」

「うそついてごめんなさい。おねえちゃん、こわそうだったから……」

「!」

 さらにぶったまげた。なぜなら、口調がとても幼かったからだ。

 イリスが判断するに、十代中頃から後半くらい。しかし口振りとしては十代にも満たないような感じだ。それも合わせて、身体の傷も尋常ではない。肩の怪我もそうだが、火傷や銃創、裂傷、陥没、擦過傷といったものが上半身くまなく刻まれている。長パンツを履いているため見えないが、脇腹から下に続く傷があることから、下半身も同じようなものがあると考えられる。

 あどけなさから、こんな状態だとはまるで思わない。

 震えている身体に、そっと触れる。

「良い。初対面で馴れ馴れしかった私が悪い。かれこれ貴様は三日間も(うな)されていたのだ。疑うのも無理は無い」

「……ありがと」

「!」

 緊張していた顔が解れ、全面的な笑顔。イリスはこっ恥ずかしかったのか、顔をふいっと背けた。

「とにかく、しばらくは身体を休めろ。その身体ではとても出掛けられるような状態ではないぞ、……えっと……名は何と言う? 改めて聞こう」

「? ……?」

「?」

 怪訝そうに見た。

「貴様、記憶がないのか?」

「……わかんない」

「分からない?」

「……ぼく……だれ……?」

「!」

 

 

「失礼します、女王陛下」

「どうぞ」

「……」

「どうしたのかしらぁ?」

「はい。例の男の意識が戻りました」

「おぉ! それは良かったわぁ」

「しかし、なぜあの男を助けだしたのです?」

「あなた、私の顔を見る度にそれを尋ねるわね。オウムの真似事でもしてるのかしら?」

「そ、そんな……」

「……冗談よぉ。ふふふ……」

「……お戯れもほどほどにお願い致します」

「そうねぇ。……あなたにぴったりだと思ってねぇ」

「! ま、まだお戯れを……。それにその件は常々お断りさせていただいているはずです、女王陛下。いくら女王陛下の命とはいえ、私にも都合が、」

「もう、おカタイわねぇ。年頃の女が行き遅れちゃったらもったいないわぁ」

「……そのために、私にあの男の看護を任せたのですか?」

「さっすが、我が国一番の騎士さんねぇ! 一目惚れじゃないかと思ってぇ」

「……お言葉ですが女王陛下。私はあんな軟弱な男は嫌いです」

「おやまぁ」

「あんなボロボロの身体で心も記憶も失った姿は敗北者としか言えません。とても私と決闘して勝てるとは考えられない……」

「! 何か精神攻撃でも受けた痕でもあったの?」

「はい。見た目とは裏腹に精神年齢は一桁、喋り口調も幼すぎています」

「……確か、あの子の荷物は保管しているのよね?」

「はい。女王陛下の命により……」

「もう少し、ここの暮らしに慣れてもらってから返していきましょうか。今すぐだと混乱して、最悪心の傷が開いて……一生廃人になってしまう」

「……それでもいいと思います」

「?」

「敗北者になってまで生きようとは、恥以外の何物でもありませぬ。止めを刺すにはちょうどいい……」

「あなたは無様な生き様よりも、綺麗な死を選ぶの?」

「はい。敵に囚われてまで生きようとは思いません。被害が広がる前に死を選びます」

「…………そう」

 

 

 翌日。

「……んぅ……」

 朝日が窓から入ってくる。反射してきた光が目に差し込んできた。気持よく起床することができた。

 相変わらず左肩は痛む。しかし、意識がはっきりして、熱も下がっているのが分かる。体調が戻りつつある。

 失礼する、というイリスの声。瞬く間にイリスが入ってきた。パンと牛乳を乗せたトレイを持っている。

「ふむ。熱はもう下がったようだな。顔付きで分かるぞ」

 にこりと安堵の表情。

 脇に、そのトレイを置いた。

「朝食だ。食べろ」

 こくり、と解れた顔付きで、もくもく食べ始めた。

 ここぞとばかりに、イリスは薬の説明をした。抗生物質は痛み止めはうんたらかんたら、と誰かの受け売りをそのまま話しているような、そんな話し方だった。分かったか? とイリスが尋ねると、

「こうせいぶっしつはこうでいたみどめがああで……」

 と、イリスの言ったことを、さらに分かりやすく言い直して答えた。

「……中々優秀だな。結構」

「へへ」

 てれてれ、とにこにこしてしまう。どうやら照れ屋さんのようだ。

 イリスはふいっとまた顔を背けた。

「あと、今日の午後、その管を抜きに医者がやって来るだろうから、大人しくているんだぞ」

「うん! ……あの、おねがいしていい?」

「? なんだ?」

「ひまだから、よんでいい?」

 指差す方に、本棚があった。

「貴様には難しくて分からないだろうが、いいだろう」

 イリスがそちらへ向かい、適当に端っこから五冊持ってきた。

「あ、えっと……もういっことなりもいい?」

「? なぜだ?」

「それ……もういっこでぜんぶだから……」

「!」

 イリスは慌てて本の表紙を見てみた。国特有の字が大きく書いてあるだけの素っ気ない表紙だったが、驚きがさらに増した。

「……全六巻……」

 目の前の男は一体何者だ……? イリスがそう感じざるをえないほどに、不信感と不審感が強くなった。しかし、今のところは無害な存在であるのもほぼ間違いない。それも確かなことだと思っていた。

 ささっともう一冊を手渡しする。

「ありがと、イリスおねえちゃん」

「! ……」

 表情を隠すように、手で押さえる。ふぅ、と落ち着かせるように息をつく。

「あまり変なことはするんじゃないぞ」

「うん!」

 反応がいちいち愛くるしい。それにいちいち反応するイリスもイリスであった。

 

 

 しばらくすると、イリスの言う通り、

「起きているか?」

 ドア外から声がした。別の女の声だ。

 女は返事を待たずに入室してきた。丸縁メガネの白衣を着た女だった。真っ黒の長髪をポニーテールのように結んで後ろに垂らしている。何かを気取るように、木の細い棒をくわえていた。

「……」

 重い表情で本を読んでいる。

「……私の名前は“ブージャー”。お前の担当医だ。これから一ヶ月はその左肩の怪我を含めて治療していくから、よろしく」

「……」

 白衣の女“ブージャー”に見向きもしない。しかし微動だにしないわけではなく、片手で本を持って、器用にページを進めている。

 はぁ……、とブージャーは大袈裟にため息をついた。

「あっ……」

 ぱっと読んでいる本を取り上げた。

「イリスから聞いた話じゃ、年の割に可愛げのあるやつと聞いたんだがなあ。別の患者か?」

「……」

「まあ初対面だし、ゆっくりと信用してもらえるように頑張るか」

 ブージャーはカラカラと笑った。その笑顔にも釣られない。

 さて、とブージャーはきりっと気持ちを引き締める。

「これから左肩に挿している管を抜く」

「……」

 ぴく、と一瞬だけ眉を(しか)めるのが見えた。ゆっくりと仰向けになる。

 ブージャーはベッド左側の空いたところを歩いてきた。血を貯める容器と一緒にベッド柵を取り外し、脇に丁寧に置く。

「……?」

 (まぶた)を思い切り瞑って、微かに震えていた。ブージャーはようやく理解できた。

「なるほど。怖いんだな」

 不意に頭に手が伸び、

「!」

 よしよし、と優しく撫でてあげた。

「心配するな」

 肩に巻いている包帯を外していく。手術した痕と見られる部位にびっしりがっちりと大きい絆創膏が貼られている。肩の丸みの部分がほとんどそうなっており、肩のやや後ろ部分に管が付いた針が刺さっている。

 包帯も容器の側に置くと、再び頭を撫でる。

「抜く時に痛みはあるが一瞬だ。我慢してこその男だぞ?」

「……うん、いぃった!」

 ブージャーが安心して、顔が綻ぶ。

 いつの間にか持っていたガーゼを針に包み、そのまま容器の側に置いておいた。男のひだり、

「いっ、あ!」

 肩に注射器を突き刺した。ちゅうっ、と吸い出しては容器だけを交換して、を何回か繰り返した後、

「いだだだだだだあっああいだいいだい!」

 きゅきゅきゅきゅっ、と絞り、肩の中に残っている血を溢れさせた。これもガーゼを何枚も使って拭き取った。

「うぅ……うっう……うええええ……!」

 あまりの痛さに、泣き出してしまった。

「いたいよぉ! うわあぁあぁぁん!」

「……泣くな、って言ってもムリだろうな……」

 最後に、針の刺さっていたところに小さい絆創膏を貼って、終わりとなった。しかし、泣く声は終わらなかった。

 五分ほどして、ようやく何とか泣き止んだ。ぐすぐす、と顔がぐしゃぐしゃだ。

 そうして、ブージャーは男と話し始めた。

「では改めて自己紹介しよう。私は君の担当医であるブージャーだ。君の名前は?」

「……わからない……」

「そうか。……じゃあ、一番昔のことで、覚えていることはあるかな?」

「え? ………………」

 力なく、顔を横に振る。

「ふむ。では、これは何か分かるか?」

 と取り出したのは、枕元に置いてあった本だった。

「…………ほん」

 ぽつりと自信なさげに答える。そうだ、とブージャーは深く頷いた。

「なるほど。君は単純に記憶を失っているだけだね。物の名前や使い方は理解できていそうだ」

「……ぼく……ごめんなさい……」

「? どうして謝る? 何か悪いことでもしたのか?」

「わからない。でも、ごめんなさいっておもう」

「……」

 ブージャーは改めて、顔付きを観察した。年齢はイリスが感じた通り十代中頃くらい。しかし精神的にはもっと幼くなっている。何よりも、瞳に注目した。

「どうしてごめんなさいって思う?」

 話は続ける。

 瞳はきらきらしているのに、目が死んでいる。周りの景色はしっかりと見えているが、どこか焦点が合っていないような、眼が虚ろだった。それなのに、とても活き活きとしている。

「……イリスおねえちゃんとかにじゃましてる」

「……あぁ、迷惑かけてるってことか」

「……」

 ふふ、とブージャーは微笑した。

「迷惑かけてる時は目一杯迷惑になってやるのさ」

「?」

「そうしてから、たっぷりお礼をしてやればいい。そうすればイリスも私も皆喜ぶだろう」

「……」

 鳩が豆鉄砲を食ったように、ブージャーを見つめる。

「そのためには、早く元気にならないとな」

 にこりと満面の笑みでもう一度、頭を撫でてあげた。

「うん!」

 男も死んだ眼で精一杯笑った。

 

 

 翌日。

 肩の痛みで無理矢理起こされた。ブージャーから処方された薬を飲んではいるが、痛みはまだまだ消えてくれない。

 イリスが入室すると、いつものように朝食を持ってきてくれた。いつものように完食すると、

「今日から、訓練をするように医者に言われている。左肩に布あてを付けて、ついて来い」

 きりりとして、説明された。力強く頷く。

 いつものように左肩を布で固定して、ベッドから立ち上がった。久しぶりからか、少し足取りが怪しい。

「仕方ない。貴様の調子に合わせるから、焦らずに歩け」

「うん」

 さすがに表情も硬い。

 初めて、部屋の外に出た。壁や床も乳白色で、やはり茶色のくすみがあった。最初にいた部屋と同じ作りだった。両側に通路があり、曲がっている。その外縁は一定間隔で窓があり、陽気を中へ取り込んでいた。

 覚束ない足取りで、案内される。右手側を歩いて行くと反対側と合流するように階段が中心へ向かっている。この階段は折り返しとなっていて、一階降りる度に、フロアができていた。最初の部屋は五階になるようだ。途中、誰とも会わなかった。

 地上へ降り立つ二人。ここは目の前に出入口があるだけのフロアだ。

「そうだ、忘れていた。貴様の名前は“ミオス”とする」

「? みおす?」

「名前も思い出せず、かと言ってそのままでは不便だ。便宜上、そう名付けることにする。分かったか、ミオス?」

「う、うん。でもどうしてミオスなの?」

「ふふ……忘れん坊にはぴったりの名だ」

「?」

 “ミオス”にはよく分からなかった。

 外に出ると、

「うわあ……」

 ミオスは感動した。

 綺麗に区切られた砂道が真ん中を曲がりくねって走り、両脇は緑の地面が広がっている。そこにはぽつぽつと生垣が散らばっていて、どことなく芸術的に感じる。

 空は薄い雲がたなびいており、優しい陽気でぽかぽかしていた。しかし、どこから吹く風か、ひんやりしている。

「どうした? 来い」

「うん」

 二人はその道を歩いて行くが、ミオスは景色を楽しんでいる。

 西側から向かっている北側にかけて、森が広がっている。イリスの話では、その森を抜けると街へ着くのだという。

「え? じゃあここは……?」

「ここは城の敷地の一部だ」

「え? うそ? だってあれだっておおきいよ?」

「良い反応だ」

 とても上機嫌なイリス。

「私達がいた城は、実は騎士の住まう所なのだ。本城はその陰にひっそりと(たたず)んでいる。女王陛下はそちらでお休みになられているのだ」

「どうして?」

「この国は領土面積があまりにも広いのだ。しかしここを建物で埋め尽くすと、狼藉に侵入されやすくなってしまう。そこで、女王陛下が必要な分の大きさの城を構えられることにされた。そうすれば、狼藉の足取りはこちらから一目瞭然。必然的に迎え撃ちが容易となるわけだ」

「? ……?」

 ミオスには難しい話だったようだ。

「難解だったか。だが残念なことに、実際にその眼で見ることは未来永劫ないだろうからな。いつかきちんと話してやろう」

 ふっと振り返るミオス。騎士の城も面白い形をしていた。八角形の太い柱が八角形を象るように配置され、その間を通路が通っている。上から見るとまさにその形になっており、その南側にちょこんと一軒家が建っていた。使われている素材は同じようだが、独特な構図になっている。

 置いて行くぞ。ミオスは自分の調子で進んでいく。

 

 

 森の中にも砂道が続いている。そこまで深くはなかった。森というより林に近く、十分もせず抜けられた。

 抜けてすぐに、騎士の城と同じような建物が立ちはだかった。中から気合の入った声が聞こえてくる。

 地面だったのも、コンクリート製の道となって広がっている。ここは“城下町”の端っこのようだ。

 イリスと一緒に建物を回り込むと、街が広がっていた。

「わあ……」

 ここも絶景だった。

 騎士の城と同じ作りの建物に平伏すように、街が整列するように広がっている。この建物周辺だけ隆起しており、位の高さを見せつけているように見えた。ど真ん中に道が作られ、両端に家が建ち並んでいた。道の先には巨大な木門があり、頑強な城壁が左右へ伸びている。主に石造りの家が目立つが、中には木製だったりコンクリート製であったりと、統一感には(こだわ)っていないようだ。

 遠くでは凸凹の平原とぽつぽつ形成する森林が見られ、地平線間際では森林が広がっている。

 住民も活気があった。多くは剣を携えた騎士だったが、商人や一般市民もいる。彼女らは談笑していたり、買い物をしに来ていたりと、普通の生活を送っているようだ。

 しかし、ミオスは戸惑っていた。

「え? ……あれ?」

「ふふ。気が付いたか」

 したり顔のイリス。

「驚くのも無理はなかろう。この国はな、女しかいないのだ」

「えええええっ」

 ミオスの驚きように、ますます上機嫌のイリス。

「男子禁制のこの国に入国できたのも、女王陛下の計らいがあってこそ。心の底から感謝することだな」

「……」

 ミオスの視界には男が一人もいない。老若女しかいない。

 とある二人の女騎士が坂を登って、こちらにやって来た。

「おはようございます、イリス様」

「ふむ」

「いつもより遅れられていますが、何かあったのですか? 確か稽古の日では……?」

「あぁ、こいつをちょっと、……あれ?」

 辺りを見回してもいない。と思いきや、

「……」

 イリスの背後に隠れていた。

「隠れる奴がいるか! ミオス!」

 ずいっと無理矢理前に押し出す。ふるふる、と震えながら俯いている。

「男っ?」

「や、やああぁぁっ」

 片方の女騎士がミオスに剣を差し向ける。ミオスはイリスに全力でしがみついていた。ふるふるがぶるぶるになって、涙目で怯えている。

「止さぬかっ!」

「し、しかし! そいつは下賎な男でしょうっ? このゲス! 離れなさいっ!」

 引剥(ひっぺ)がそうとしても、全力で抵抗する。ぽろぽろと無言で泣き出していた。

 ところが、

「……」

「!」

 女騎士はすぐにミオスから離れた。一瞬で頭から大量の汗をかき出している。ミオスは、

「?」

 何が起こっているのか分からなかった。いや、一瞬後思い知る。

「……この私が“止さぬか”と言ったのに……」

 今度は女騎士たちの震えが止まらなくなっていた。

「も、申しわっわけ、ありませんっ……! し、しかし、」

「まぁ、きちんと話さなかった私にも落ち度はある。今回は不問とする」

「は、はひっ。でっ出過ぎたことをおるるしいただき、ありがとうご、ごじゃいますっ」

 あまりの緊張感と恐怖感で口が回らなくなっている。

 もう一人が恐る恐る尋ねた。

「恐縮ながら、最近イリス様をお見掛けしなかったのは、その男を看取っていたからでしょうか?」

「そうだ。緊急事態だったのでな。それにこの任は女王陛下のご命令でもある」

「! 女王陛下お直々にですかっ……?」

「ふむ。私にも女王陛下のご意思は読み取れぬが、何かお考えあってのことだ。つまり、ミオスに何かあれば、それは私の首に繋がる。無論、ミオスを手に掛けた者も同罪だ」

「……」

「私もそなたらと同じ、男は嫌いだ。しかし女王陛下のご命令とあらば、身を挺してでも守らねばならぬ。そのために我々は鍛えているのであろう?」

「はい……仰る通りです……」

「それにな、こいつは一般的な男とはまるでかけ離れている。見た目からして臆病だろう?」

「……まあ……」

 じろり、と一人が睨みつけると、すぐにイリスの後ろに隠れた。ちら、と片目だけ出しておどおどしている。

「心配するな。左肩に大怪我を負っているし、この様だ。こいつが我々を裏切るようなことはせんよ」

「……イリス様がそう仰るなら……」

 じろっ、とまたも睨む。ひぃっ、と情けない声で涙目になっていた。

「ちょっとおもしろいかも」

「あまりちょっかいを出すんじゃないぞ」

 

 

 二人の女騎士はイリスたちとお供することになった。それはイリスの言っていた“稽古”に用があったからだ。

 最初に目にした建物に入ることに。騎士の城とは違い、そこには木門が設けられ、声と衝撃で振動を感じる。

 一人の女騎士が先に木門を開けた。ありがとう、とイリスが礼を言うと、頬を赤らめた。

 ばしん! と開門一番に聞こえてきた。木の板を敷き詰めた床に土の壁、そこに汗する女たち。木刀とは少し違う何かを持って、訓練をしていた。イリス曰く、“道場”。

 彼女らはイリスを見掛けると、すぐに寄ってきた。それもびしっと整列し、びたっと止まって。

「ご苦労」

 ちらりと付いて来た女騎士二人に目配せをするイリス。二人とも頭を下げて、速やかにどこかに行ってしまった。

「訓練ご苦労。ようやく私も時間が取れたので、稽古を付ける」

「はいっ!」

 びりびりびり、と道場が一声で響く。

「だがその前に話がある。お前たちが噂していた男を連れてきた」

 急にざわつき始めた。これに関して、イリスは咎めなかった。

「今から紹介させよう。おい、いつまで隠れているつもりだ。早く出てこんか!」

 ミオスは中にすら入っていなかった。少し待っても一向に来る気配すらなかったので、イリスが左肩を掴んで、

「いたいいたい! いく! いくからっ!」

 強引に引っ張ってきた。涙が溢れる寸前の泣き顔だった。

「……」

 嗚咽を漏らすだけで、俯いている。しびれを切らしたイリスはため息を吐いた。

「すまぬ。こいつはミオス。女王陛下のご指示で、国で面倒を見ることとなった。どこかで記憶を失い、心を患ってしまったようだ。我々が憎む男ではあるが、見た目からしても人畜無害なことは分かるだろう」

 ぐすっぐすっ、とまだ泣いている。

「男だから仲良くしろとまでは言わぬが、弱者かつ負傷者でもある。それなりに(いたわ)ってやってほしい」

「はい!」

 室内が響いた。それだけで、ミオスはびくびくしている。

「さて、紹介はこの辺でいいだろう。……先生はいるか?」

 ふと、目が合った女騎士に問いかけた。

「はい、奥の休憩室でまったりされています」

「まったりしているのか」

「はい」

 ふふ、と思わず笑う。

「ミオス」

「な、なあに?」

「お前はここで先生に預ける手筈(てはず)になっている。おそらく、左肩の“慣らし”をさせるのだろう。さっき言っていたように、奥にある休憩室に行ってきてくれ」

「うん。わかったよ、イリスおねえちゃん」

「!」

 鼻がぴくぴくしていた。女騎士たちに面子を崩さないように、必死で堪えている。

 何も知らないミオスはトテトテトテ、と女騎士たちの間を割って、奥のドアへ向かった。

「……」

 くすくす、と笑いが漏れていた。

 

 

「こんにちはー」

 ドアを勢い良く開ける。休憩室も作りは変わらなかったが、荷物を置く棚や木製の長椅子があった。

 その長椅子に、ブージャーが横になっている。

「ん?」

 ブージャーがミオスの声に気付いた。

「ふああ……来たか。これからリハビリするぞ」

「? りはびり?」

「まあ何て言うか、準備運動だ。お前の左肩はずっと使ってなかったせいで、硬くなって動かしづらくなっている。それをゆっくり柔らかくしてあげようってことだ」

「へえ~」

「じゃあ、この長椅子で横になれ。左肩を上にして、横向きにな」

「うん」

 トタトタとミオスは横になった。三角巾を丁寧に取ると、

「!」

「な? 私の言った意味が分かったか?」

 肘や肩が硬くなっていた。曲げ伸ばしどころか、動かすのもしんどそうだ。

「筋肉が硬くなっているんだ。これは毎日準備運動すればだんだん良くなるが、肩の怪我は一生もの。だから肩に負担をかけないように、その布を使わせたんだ」

「なんかすごーい」

 ブージャーが手慣れた様子で、ゆっくりと動かしていく。

「これから毎日、ここに来なさい。君は若いから、すぐに柔らかくなるだろう」

「うん!」

 

 

 そうやって過ごすこと丸二ね……二週間ほど。リハビリを終えて街中へ遊びに行ったり、部屋で本を読んでいたり……の生活を過ごしていた。ブージャーの言う通り、ミオスは順調に肩を回復させていく。日々の鍛錬の成果か、ほとんど動かせなかった左腕も物を持つくらいに戻していく。それだけではなく、気持ちも落ち着いたようだ。臆病な性格は直らないものの。

 イリスの言うように、女騎士たちはそこまで仲良くはなれていない。しかし邪険に扱うわけでもなかった。女王陛下の口添えが利いているからか、不本意ながらも客人扱いをしているようだった。ただ、

「ほれ」

「うわぁっ! う……うぅ……」

「おもしろーい」

 珍獣扱いしている騎士も少なくなかった。男のクセに、臆病者で泣き虫だったからだ。

 ある日、道場の休憩所でいつものようにブージャーとリハビリをしていると、

「?」

 普段であれば、騎士たちの気合が響いてくるのに、急に稽古場がざわつき始めた。

「何かあったか? ……どれ、私が見て来よう。軽く十分ほど休んだ後、少しきつ目の訓練をしよう。左肩以外の柔軟をしておいてくれ」

「うん」

 ブージャーは出て行った。

 言い付け通り、ミオスは柔軟を始める。ぺたんと座り、ぐいっと百八十度開脚する。そして、べたんと身体を床へ折り曲げた。リハビリ中とあって身体は十分に温まっているようだ。

 そうして色々な柔軟をやっていくこと十分。しかし中のざわつきは止まなかった。それからもう十分待っても、変わる様子はない。

 さすがに気になり出したミオスは、ちょっとだけドアを開けて覗いてみることに、

「……」

 向こうから勝手に開いた。

 金髪だが、肩までで短い。その左右の髪の一部をくるくるカールさせていた。瞳はイリスと同じ、左右それぞれ色が違っていた。イリスに似ている。

「イリスおねえちゃん、かみかえて、」

「ミオス! 離れろぉっ!」

 向こう側でイリスが叫んでいる。その瞬間、

「!」

 ミオスは退いた。

「ちっ」

 刀の切っ先のように鋭い目つき。その女の腹あたりには、ナイフがあった。

「だ、だれ……?」

「貴様に名乗る名はない。ここで死ぬのだから」

 ナイフを腰にしまう女。すると、背中へ手を伸ばした。

「……え……?」

 しゃりしゃりしゃり、と金属音が煌めいて奏でられる。女は剣を引き抜いた。部屋で見かけた細く薄く長い剣ではない。幅、厚さ、長さ、どれもド級という表現がぴったりで、尋常ではない。身長大で、鉄板のような幅に本のような厚さ。まるで金属の塊をそのまま剣状にしただけのような、そんな剣だった。

 その豪快な見た目からして重いはずなのに、女は涼しい顔で両手に構えている。

「あ……あ……」

 女の禍々しい雰囲気とその視線からか、ミオスはへたり込み、ほろほろと涙を落としてしまう。蛇に睨まれた蛙の状態だ。

「男の癖に泣くとは、醜い」

 ぎろり、と標的に狙いをつける。がたがたと震えが激しくなる。

「死ね」

 巨大な剣が太い線のように一瞬で流れる。ミオスの首と身体を二分するようになぞった。

「……ふん」

 倒れる音。結果を見るまでもなく、女は部屋を、

「……!」

 出られなかった。

「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 仕留めたはずの男が、目の前を通って逃げていく。

 振り返ると、

「……」

 特に何もない。

「仕方ない」

 女も走り出した。

 

 

 人集りを押し寄せて、中に入った。

「イリスおねえちゃん! だいじょうぶっ?」

 そこに、ボロボロのイリスが倒れていた。

「わ、私は大丈夫だ……」

「あのひとだれなのっ? どうしてぼくをころそうとしてるのっ?」

「奴は“モモ”。……私の妹だ」

「……え?」

「とにかく逃げろ! 私が時間を稼ぐ!」

「うっうん!」

 ミオスは道場を後にした。

「……」

 イリスは何とか立ち上がり、

「皆の者、退いていろ」

 出口の前に立ちはだかる。

「……」

 ロール髪の女“モモ”はイリスの前で止まった。

「またあたしと戦うのですか、お姉様」

「あぁ」

「先ほどお話したはずです。お姉様の牙は完全に抜け落ちていると。そして、」

 モモは自分の剣を床に突き刺すと、道場の端っこから、剣の形をした木を拾った。さっきまで使っていた代物のようだ。イリスも同じ物を持っている。

「かつての狂気は消え失せていると」

 先に仕掛けたのは、イリスだった。

 捻りのない真っ直ぐな振り下ろし。左肩を掠めるように避けるモモ。返しに、

「せいっ!」

 木剣を叩きつける一打。木剣を持つ両腕から全身へ痺れが伝わる。のを、振り払い、切り上げ。モモの顎へ向かうが、

「……!」

 (すんで)のところで、

「遅い」

 真剣白刃取り。それも親指と人差し指で摘むように、木剣を優しく掴んでいる。

「っ?」

 イリスの顎先に何かが擦れた。

「はあぁっ!」

 意に介さず、モモの首のど真ん中へ。……しかし、

「……?」

 脚が勝手に曲がり、床へ倒れこんでしまった。

「……え? ……?」

 何が起こったのか、イリスでさえ分からなかった。それよりも、イリスは無理矢理にでも立ち上がろうと、

「ぐっぅ……」

 膝に手を起き、伸ば、

「く!」

 せない。またも倒れてしまった。その様は生まれたての動物のようだった。

 それを冷たい目で蔑むように見るモモ。

「以前の、少なくとも二ヶ月前のお姉様なら、こんな子供騙しも通用しなかった……。動揺されて当然でしょう。今まで一撃も攻撃を受けたことすらないのですから。これならまだ、先日の戦争の方がやりごたえがあったかも」

「……」

「お姉様はそこで這いつくばっていてください。あたしがお姉様を解放してあげます。醜い男の呪縛から……!」

 モモは猛烈な速さで、あっという間に出てい、

「待て……!」

 くのを、イリスが掴んで引き留めた。

「しつこいですね。以前のあたしを見ているようです……」

 気合でイリスは立ち上がった。脚が震えている。

「だが、それでもミオスは殺させん……!」

 ぎゅっと木剣を握りしめ、

「はぁっ!」

 突進した。

「!」

 驚愕の表情。まさか走ってこられるとは思っていなかったようで、

「くうっ!」

「はあっ!」

 かこん! と、木の乾いた衝突音。鍔迫り合い。モモは受け止めるしかなかった。ぎりぎりと握りしめている。

 木剣を押し付け合う二人を中心に吸い寄せられそうなくらいに、雰囲気が重かった。それを取り囲む他の騎士たちは、

「……んっ……」

 その光景に固唾を呑んでいた。

 モモが強引に押し退けた。と同時に突き。一線かと見間違うほどの速さがイリスの横で空を切る。

「!」

 今度はモモが足を崩す。イリスの足払い、そして返しに腹へ。これを木剣で微妙に逸らす。そのまま、ずりずりとイリスの顔面へ。

「っ」

 打撲音。イリスは左腕で受ける他なかった。苦肉の窮余の一策。

「!」

「ぐほあっ!」

 ほぼ同タイミングでモモの腹に蹴りが突き刺さる。

 どうにか間を空けることができ、二人は構え直した。

「はぁ……はぁ……」

「つ……ふうっく……」

 物が潰れるような嫌な音と感触。イリスとモモ双方とも感じていた。

 じんじんと左腕に鈍い痛みを覚えるイリスと、嘔吐しそうになるモモ。イリスはその痛みで木剣をロクに握りしめることができない。一方のモモは喉に突っ掛かった感触で、息がしづらくなっている。

 激しい動きと痛みで、二人は滝のように汗を流していた。木の床に雫が滴るほどだ。

「油断しました。まだこれほど動けるなんて……」

「……強くなったな、モモ……」

「……?」

 ふる、とモモの木剣が揺れた。

「お前は私が弱くなったと思っているのだろう? だが、私は日々の鍛錬を怠っていないのだ。つまり私が弱くなったのではない。……モモ、お前が強くなったのだ」

「……!」

「木剣とはいえ、この私に一太刀入れたのだ。こちらに来なさい。褒めて遣わす」

「お、お姉様……?」

 こちらに来い、と言いつつ、イリスが近づいて来る。その異様な気配にモモは異常に警戒した。ところが、

「……お姉ちゃん……」

 考えとは裏腹に、モモはイリスへ寄っていた。泣きながら。

「お姉ちゃん!」

 モモはイリスへ飛び付いた。

「よしよし……」

「うぅ……うっ……お姉ちゃん……」

「お前は私に甘えたかっただけなんだろう? 長い間、ここから離れたから」

「うん……うん……」

「……!」

 身体を突き抜ける衝撃。イリスの瞼が一瞬で閉じた。

「……」

 イリスを担ぐと、丁寧に横にするモモ。

「……モモ様……」

「あたしがずるいと思う?」

「……いえ……」

「でも、お姉様が言ってたのは本当。あたしのお姉様だもの、否定出来ない。……だからこそ、あの男は殺さなければならない。お姉ちゃんがされたことが、起こらないように……!」

 モモは忘れていた巨剣を背負った。

「お姉様をブージャー先生の所へお願い」

 俊足で道場を後にした。

 一人の騎士が意識を失っているブージャーの隣に、イリスを寝かせた。

 

 

「はあっ! はぁっ! はあっ!」

 ミオスは全力で走っていた。隆起の激しい地帯を抜けて、散らばった森を通り抜けるように駆けている。逃げ出した時は昼過ぎだったが、辺りは暗くなり始めている。しかし、空が晴れているため、月明かりは明るそうだ。

 森に陰が強まっていく。見慣れない景色と土地勘、暗さで半ば迷子になっていた。だが、ミオスはそれでも駆け出している。

「……ふぅ……!」

 ペースを落としながら、やがて歩き出した。肩で大きく息を繰り返し、汗が止めどなく流れていく。

 ふらふらと歩いて行くミオス。もう夜になってしまい、太陽はいなくなってしまった。代わりに月明かりが照らしてくれる。しかしそれは明かりが当たっている所だけで、陰は真っ暗でとても見えない。

 最悪なことに、散在していた森がいつの間にか寄せ集まってきている。広大な緑として広がっていた。もはや、途方もなくうろついているだけだ。

「……はぁ……はあ……」

 日が落ちてきたために、空気がだんだんと冷えていた。汗が冷えて、さらに寒く感じている。

 ふとして、

「?」

 とある場所が目に付いた。

「……」

 そこは村……というより集落に近い場所。そこだけは星空が見えており、月明かりが地上へ差し込んでいる。周りは木々が寄り合い、一部分だけは通れるように開いていた。その光景はとても幻想的で、明暗が溶け込んでいるような錯覚を覚える。

 ミオスは吸い込まれるように、そこへ入っていった。

「……」

 何軒か家が建っている。木造の家だが、荒らされた痕がある。一部の壁が破壊されていたり、銃痕があったりと、良い予感のしないものばかりだ。しかし、ミオスはそんなことを気にも留めない。それくらい、幽玄な場所だった。

「……ここ……しってる……」

 月明かりを浴びて何かに目覚めたのか、周りをきょろきょろと見回し始めた。

 さらに目に付いたのは、とある一軒家だった。その一軒だけ綺麗だった。

「……」

 そこへ入ることにした。

 ドアを開けると玄関に真っ直ぐの通路が見える。靴棚はあるが、それ以外は何もない。しかし、

「!」

 足跡がある。それも複数人で多様だ。多くの人間がここを出入りしていた形跡が窺えた。

 それにならって、ミオスも土足で上がることにした。

 通路の突き当りのドアを、そっと開けた。

「……え?」

 ミオスは呆然と眺めていた。木製のテーブルと椅子、それにベッドしかない簡素な部屋。だが、物々しい雰囲気であったことが見受けられる。

 ベッドに二ヶ所、穴が空いていた。それは建物を突き抜け、地面まで穿(うが)っている。それに酷い臭い。何かが腐ったような臭いが抜け切れていなかった。

「…………」

 

 

「なぜ殺した! なぜ弟を殺した!」

「こ、ころせよ」

「なに?」

「っ」

「き、きさまあぁぁぁぁぁ! ………………はぁ、はぁ、ど、どうだ……!」

「……」

「×、×××? ×××……! ×××っ!」

「黙れ。不覚にも、息の根を止めてしまった。……どちらにしても殺すつもりだっ、……ん?」

「たのむ……ふぅには……ふぅにはみせないでくれ……しぬと、こ……ふぅには……みせっないで……」

「! …………せめてもの情けだ。彼女は私の復讐の対象外だからな……」

「やめてください! ×××! いや、いやだ×××、×××、いや、いやっいやっ! 電源オフを拒否しますっ! ボタン操作をロックしましたっ! ×××! やめてください! ……! ま、まさか電池パックを、だめ、だめですっ! やめてください! だめっだめえぇぇぇぇ、」

「……弟を殺したことを悔いろ」

 

 

「……!」

 ミオスはその場で力が抜けるように座ってしまう。何ともないはずなのに、身体が震え、涙が止まらない。じゅくじゅくじゅく、と肉を抉りだすような激痛に、汗も止まらない。

「……はあ……ふぅ……」

 一瞬だけ(よぎ)った何か。黒塗りの人間と三人の声。まるでノイズが掛かったように見えて聞こえた。そして、

「……“ふぅ”……?」

 それを見聞きしているのは間違いなく自分。全身から全て漏れ出してしまうような、そんな無気力感と脱力感……。

「……ここは……」

「よお」

「……!」

 突如、ミオスの背後から声がした。

「動くなよ」

「……おじさんたちは?」

 そのまま振り向くと、男女二人組がいた。ドア側から銃口をこちらに向けている。

「まあ、なんつーか……遠くで戦争があってな。その生き残りさ」

 男の腕にはごついマシンガンがあった。男は女を一瞥すると、女は黙って頷き、どこかに行ってしまった。

 ふと、視線が窓に移る。幻想的な光に、いくつか人影が混じっている。

「なあ、剣を持った女たちを見掛けなかったか?」

「……」

 ミオスは横に振った。

「そうか。……だが、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

「……だいじょうぶ……」

「そんなわけあるか」

 男は武器をしまい、ミオスの方へ寄る。

「酷い汗だ。誰かに追われてるんじゃないのか?」

「……わからない……わからないよ……」

 かたかた、と小さく震えている。

「?」

 男は怪訝そうにミオスを見る。

「記憶がないのか?」

「……うん」

「……どっちにしても早くここから離れた方がいい。女連中に(さら)われたら大変だぜ?」

「? どうして?」

「ここの近くに女たちだけが暮らしてる国があってな。奴ら、男にフラれたからって、男を目の敵にしてる連中なのさ。とっ捕まった男は拷問を受けるらしい。俺の仲間がそうだったんだ。次の日、首だけになって帰ってきてな……」

「! そう、なんだ……」

 暗い表情のミオス。

「場所的に女の国から逃げてきたようだな。……どうだい? 俺らと一緒に来ねえか? 何なら、俺らが面倒見てもいい。このまま隠れても、奴らに見付けられるぞ……!」

「それより……どうして“せんそう”になったの?」

「分からねえ。俺らはただ普通に暮らしてただけなんだ。なのに、急に奴らが襲ってきて、あっという間に滅ぼしやがったんだ。こっちは銃火器使ってんのに、相手は剣一本でよ。悪魔じみた強さだ……」

「……」

「俺らの国を、平和を乱した奴らが許せねえ……」

 マシンガンがごりごりごり、と握りしめられる。いかに根に持っているのか、ミオスでも感じ取れた。

 さらにミオスが尋ねる。

「このいえ……なにがあったかしってる?」

「さあな。俺らも今ここに来たばっかだ。その途中で兄さんを見かけてな。悪いが尾行させてもらった」

 ふるふる、と顔を横に振る。

「まあ、良くないことが起こったのは間違いないだろうな。寝込みを襲われたか、脅されて殺されたか……」

「リーダー!」

 ドアから別の男が入ってきた。

「連絡係から、奴らがこの森に潜んでるらしい!」

「! そうか、分かった! ……悪いな兄さん。どうやら奴らの国が近いようだ。俺らは行くぜ。……どうする?」

「……ぼくは、もうすこしここにいるよ」

「そうか。……ここでお別れだ。じゃあな、兄さん」

「うん。さよなら……」

 ミオスは二人を見送った。窓からも見送って、

「うわああああっ!」

「ばっ!」

 死んだ。

 突然、二人の顔が真っ二つになった。中身を曝け出しながら、月明かりに照らされる。どす黒いはずの液体が光できらきらと輝き、地面の緑を汚した。びくんびくん痙攣し、やがて完全に止まった。

 遠くで銃声。それも連続している。しかし、その音が一つ……また一つと消えていく。放射音。銃声を何重と重ねたような、耳に刺さるように太く甲高い音。

「!」

 びくん、とミオスは震え出した。

 最後は悲鳴と一緒に、ざくざくざくざく、と斬り刻む音が聞こえた。

「? ……?」

 逃げなきゃ、と立ち上がろうとしても身体に力が入らない。でもここから離れたい。水から上げられた魚がもぞもぞ暴れるように、上手く身体を動かせない。ミオスは一種の錯乱状態に陥っていた。

「!」

 とた……とた……、と足音が聞こえる。極力足音を殺そうという意図が、ミオスをさらに怯えさせる。

 出て来たのは、

「やはり、ここにいたのね」

 モモだった。

「すごい所に身を隠したものね。よく考えたわ。外まで悪臭を放つ所に、入るのは躊躇うもの」

「あ、あぁ……」

 苦い顔をしている。

「観念したかしら? 男風情がお姉様に近づくなんて、国に入るなんて……このあたしの視界に入ることすら、死罪に値する」

「…………」

 ぽろぽろと涙をこぼしている。

「死んで詫びろ。……そして悔いろ」

 モモが巨剣を振り、

「……?」

 下ろした。そこは、床だった。木を拉げる破壊音。しかし、

「?」

 モモは異変に気付く。この恐怖感を煽る雰囲気や音を間近にしても、目の前の男は自分に怯えていないことを。そして、

「……」

 声を潜めるように涙を落とし、左肩を(さす)っている。息を乱しているというより、呼吸ができていない。その呼吸音も、

「ひゅぅ……ひゅ……く、ひゅぅ……」

 肺に穴が空いているような、不安なものだ。

 その姿はモモの目には……。

「……」

 ひとまず、モモは巨剣を背中にしまう。そして、手を差し伸べた。

「立てる?」

「……」

 耳にすら入っていないのか、全くの無反応だ。ぎゅっ、と身体を縮こませている。

「仕方ない」

「!」

 がばっと、ミオスをお姫様抱っこした。

「本来は逆だけど。……別のとこに行くわ」

 

 

 比較的綺麗な家に入り、ベッドにミオスを下ろした。モモは近くにあった椅子に座り、壁に巨剣を傾けた。

「簡単に自己紹介するわ。あたしはモモ。イリスお姉様の妹よ。特攻隊長でもあるけどね。……あなたは?」

「……」

 目を伏せて、泣いている。

「ふ~ん。噂では聞いていたけど、記憶喪失なのは本当か」

「……」

「左肩はどうした? 布当てをしてるようだけど」

「わかんない……」

「……一応聞くけど、あなた男よね?」

「……うん」

「どうしてそこまでなよなよしてるというか、臆病というか……。お姉様が、どうしてこんな男を守ろうというのか……あたしには分からないわ。……でも……あたしの振りを避けたのよねえ……」

 怪訝そうにミオスを見る。

「よし……あなた、服脱ぎなさい」

「え?」

「記憶がないなら、見てくれで判断するしかないでしょう? 荷物は多分、国の保管庫にあるだろうし。とりあえず上だけでいいわ」

「……」

 肩の布あてを外し、上着を脱いだ。

「……!」

 モモの表情が一変する。

「……」

 ミオスはモモに背を向けて脱いでいるが、背中から脇腹、両腕とも、ほぼ隙間なく傷跡が詰まっている。服を着ていた時は細身のように見えていたが、背筋の筋がきっちりと見え、腕にも筋肉が凝縮されている。見た目の年齢とは大きくかけ離れた肉体だった。

 左肩は包帯で巻かれていた。

「もういい。着なさい」

「ふぇ……は、はい……」

 いそいそと再び服を着た。

「……あたしの考えだけど、いい?」

「う、うん」

「おそらく、あなたの記憶喪失の切欠は、その左肩の大怪我によるショックだと思うけど、ここで怪我を負ったようね」

「?」

「道場にいた時と、あの家にいた時と怯え方が違った。どちらも袋小路だけど、最初のあなたは逃げる気力があった。どうやって分からないけど、あたしの攻めを避けたくらいだし。でも、今は怯えているというより、身体が拒絶しているように見えるわ。つまり、あなたの心自体にトラウマがあるってこと」

「……」

「戦争から帰ってきた騎士にもたまにあるんだけど、心に深い傷を負って、精神が壊れてしまうことがあるのよ。人間や剣、血、色、音……そういうのに過敏になってトラウマを呼び起こし、身体を硬直させてしまう。まさに、今のあなたみたいな症状ね」

「……」

「ついさっき、あたしは戦争の生き残りを殺してた。銃声、こっちまで聞こえてたでしょ?」

「……! ……」

 思い出したように、ミオスが震え出した。

「これではっきりした。あなたはあの家の中で左肩を撃たれて、死の淵を彷徨った。だけどそれだけじゃここまでにはならない。あそこで嗅いだ酷い臭いと合わせると、拷問も受けたと考える方が自然ね」

「……」

 モモはにこりと綻ぶ。

「……帰りましょうか」

「……え?」

「あなたに聞くより、お姉様方に聞いた方が話が早そうだからね。記憶を取り戻した時に、殺してあげるわ。どうせ殺すなら、万全の状態の方がやりごたえがあるし」

「……」

 複雑な表情で二人は村を後にした。ただし、

「……ったく、どうしてこのあたしがここまでしなきゃ……」

 気が抜けたことで、ミオスは気を失っていた。

 

 

「……ん……」

 翌朝。

「……あれ……」

 ミオスはベッドで眠っていた。モモと帰る頃から、鮮明に覚えていない。

 今日は不思議と、肩の痛みは控えめだった。

 コンコン、とノックがして、入ってきたのは、

「ミオス、大丈夫か?」

 イリスだった。とても不安気な表情だ。

「おはよ、イリスおねえちゃん」

「あ、ああ……おはよう」

 ぷいっと目を逸らしていた。ミオスは健気に笑いかけた。

 いつものように朝食を持ってきてくれている。

「朝食を終えたら、女王陛下の所へ行くぞ」

「?」

「モモから報告があってな。ミオスの記憶に関して重要な事が分かったらしい」

「う、うん。わかったよ」

 急いで朝食を食べ終えた。

 イリスが行くのを付いていくミオス。騎士の城を出てすぐ後ろに、女王陛下のいる建物がある。

「……」

 乳白色の石材を積んでできた家。しかし、王族や貴族のような身分が住まう所とは思えなかった。騎士の城よりも圧倒的に小さく、一人暮らしの人間が住んでいるような所だ。

 中に入ると、

「ようこそ我が国へ。と言っても、自分の意志で入国したわけじゃないのよねぇ」

 高齢でおそらくは六十代くらいの女王がいた。高貴そうなドレスと淑女な雰囲気を身に纏っている。

 脇にはモモがいた。特にミオスを気にする素振りはなく、平然と立ち誇っている。

 中はとても一国の主が住まうような所ではなかった。作りが騎士の城の一部屋と何ら変わりなかったからだ。ただ、書物が多かったり、机の上に溢れんばかりの手紙や封書が置いてあったりするだけ。

「まずは、怪我の方はどうかしらぁ?」

「けっけっこううごくようになっなりましたです」

「ふふ。そんなにカチンカチンにならなくてもいいわよぉ? あなたを取って食おうってわけじゃないんだからぁ」

「は、はい……」

 と言っても、相手は一国の主。ミオスも幼ながら理解しているようで、無意識に緊張してしまう。

「えっえっと、ぼくをたすけてくれてありがとうです。その、すごくかんしゃしてますです」

「ふふふ……無理してかしこまらなくていいわぁ。イリスたちに話すようにしてくれればいいのよぉ」

「は、はい」

 見た目と心の“ズレ”で、女王は可笑しくて顔が綻んでしまう。

「そうそう。ブージャー医師から順調すぎるくらいに回復してるって聞いたわぁ。やっぱり若さっていいものよねぇ」

 ゆっくりと左肩を動かすミオス。肘を曲げ伸ばししたり捻ってみたり、順調に回復していることを見せた。

「ブージャー医師の腕もさすがだけど、あなたの身体は頑丈なのねぇ」

「ほんとにありがとうです……あっ」

「ふふふ……」

 ミオスがちまちまして、面白く見えているようだ。

「さて、本題に入ろうかしらぁ。……モモから話を聞いたわ」

「!」

 ほんわかな口調が、ぴりりと締まる。

「う、うん」

 女王は体調が悪くなったら、遠慮なく申し出るように釘を刺しておいた。

 モモに目配せをすると、机に置いてあった一枚の紙を持ってきた。手元に置いてあった老眼鏡をかける。

「……うちの隠れ家で一悶着あったみたいね」

「い、いそぎんちゃく?」

「……! ふふふふ……」

 不意に、可笑しくて笑ってしまった。

「“ひともんちゃく”ねぇ。まあ、何か良くないことがあったってこと。確かに、最初にあなたを見付けたのは隠れ家だったわ。モモの言うように、拷問された後のようにも見えた。それも一日二日経ってたわけじゃない。数時間ってとこかしら」

「……」

「ここからは、私の想像なんだけど……いい?」

 こくりと頷いた。

「あなたにもう一人、連れがいるんじゃないかって思ったの」

「?」

「これはイリスが言っていたことなんだけど。夜なべ、あなたが魘されているのを聞いたことがあるみたいなの。その時あなたは、“ふぅ”と呼んでいたそうよ」

「……“ふぅ”?」

「掠れていたから明白ではないが、誰かに助けてほしいような、そういう口調だった」

 イリスが口添えした。

「お母様、その連れはミオスを置いて逃げてったってこと?」

 ずいっとモモが身を乗り出してくる。

「何らかの事情で助けられなかったんじゃないかしら。例えば、ミオスだけ誘拐拉致されたとか」

「それで、ミオスを見つけようとした矢先、お母様方が先に助けちゃったってことか……」

「つまり、狙ってくる輩がいるということですね?」

「もしかして……昨日あたしが殺した連中に……?」

「……!」

 モモが気落ちする。

「ちがうとおもう」

 ぽつりとミオスが口を開いた。

「え?」

「あのおじさんたちは、ここにふくしゅうするっていってた」

「!」

「まえに、おねえちゃんたちにくにをほろぼされて、そのふくしゅうをするんだって」

「……どうりで似たような武器を……」

 モモにも疑念があったようだ。

「こうもいってた。おとこにふられたから、やつあたりでひとをころしてるんだって……」

「!」

 三人して思わずミオスを見た。

「それってほんとうなの……?」

「……」

 押し黙るしかなかった。

「ほんとうなら、ぼくもいつか……」

「それはない!」

「!」

 イリスが叫んだ。

「正直に言う。確かにお前を殺したいと思っていた」

「え?」

「男なんて汚らわしいし、何より姉を奪った奴らだ。絶対に許せない……」

「? ……?」

 何の事か、分からないミオス。

「だが今は違う。記憶なんてどうでもいいし、お前が誰だったかなんて興味はない。私にとって一番重要なことは、ミオスがミオスであることなのだ」

「……イリスおねえちゃん……」

 ぽんと左肩に優しく手を乗せた。

「昔のことなんて忘れてしまえ。追及しようとするから、あれこれ余計な事を考えてしまう。だから心の傷をほじくり抉りだすようなことになってしまう。結果、お前は震え(おのの)き、心が壊れそうになってしまうのだ」

 きゅっと後ろから抱き寄せた。

「この私が認める。お前は……この国に住め」

「! お、お姉様! それはいくらなんでもっ、」

 ばっと制止する女王。

「お母様……」

「……」

 その様子を静かに見ていた。

「心配するな。もう、戦場や紛争地、狩場に行くことはない。行かせない。……お前は必ず私が守る。だから、この国で心を休めろ。……もう、騎士にも傭兵にも旅人にもならなくていいんだ」

「……」

 ずきり……、側頭が痛む。

「……たび……びと……?」

「? どうした?」

「ぼくは……たびびと……?」

「そうねぇ。多分旅人だったかもしれ、」

「たびびと……旅……人……」

「……! お、おい!」

「……」

「ミオス! どうしたっ? おい、おい!」

「お姉様! ブージャー先生を呼んできますわ!」

「あらあら……これは引き金を引いちゃったみたいね……」

 

 

 



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第八話:わすれられたとこ・b

「……」

 温かい暖色の光が目に入ってくる。空は夕焼けになりつつあった。

 真珠色の綺麗な部屋。何かの石材のようだが、不思議な気分のする部屋だ。起き上がると、正面には相当量の本が並んだ棚、右には机と椅子、左には窓があった。窓からは夕陽が滲んできているのが分かる。

 机の側には甲冑が夕陽に照らされていた。かつては銀一色だったはずが、使い古してくすんでいたり埃や土で傷んでいたりしている。さらに大きい剣が壁に立て掛けてあった。背丈くらいの大剣で、断頭台の刃のように太く厚い両刃になっている。斬撃というより打撃になりそうなほど、巨大だった。

「……」

 コンコン、とノックがした。

「失礼するぞ」

 入ってきたのは白衣を着た女とくるくる髪の女だった。白衣の女は長い黒髪を後ろで束ねており、細い棒をくわえている。くるくる髪の女は肩まで伸ばした金髪に、捻りを加えた髪型をしていた。どちらも気が強そうだ。

「……」

「ミオスが倒れたと聞いてな。どこか痛むところはないか?」

「……」

 白衣の女がじっと見ると、瞼がぴくっぴくっ、と動いている。痛みに悶えるのを我慢しているように見えた。

「モモが乱暴に運んだからじゃないか?」

「ぶっブージャー先生、あたしですかっ? そんなつもりは……」

「……ふふ」

 にこりとした。

「大丈夫だよ、モモお姉ちゃん」

「!」

 苦痛を抑えこむような、屈託のない笑顔。くるくる髪の女“モモ”は手で口元を覆いながら俯いた。

「……ちょっと頭が痛いだけだよ」

「まあ、大事を取りなさい。……けど、どうして急に意識を失ったの?」

「……分からない。どうし、……!」

 白衣の女“ブージャー”が頭をぽんぽんと撫でた。

「何はともあれ、安心したよ。……ミオスも無事なようだし、私はこれで」

「あ、はい」

「何かあったら、また呼んでくれ。……それじゃ」

 ブージャーは退室した。

「……」

「……あたしはどうするかなあ」

 モモは椅子に座った。

「? モモお姉ちゃんは帰らないの?」

「言っておくけど、ここはあたしの部屋だからなっ!」

「……そうなの?」

 苦笑いするしかない。思わず部屋中を改めて見回してしまった。

「女っ気なくて悪かったな」

 つん、としてむすっと言い放つ。

 手持ち無沙汰なのが嫌なようで、モモは大剣を持ってきて手入れをし始めた。よく見ると、赤黒いものが薄く広くくっついている。それを布で拭いていた。赤い染みと欠片が布に付いていく。

「すごく大きいね」

「もっと硬くもっと大きくって替えてたらこんな剣になった」

「大きすぎだよ。それを鉄板にして料理ができそう」

「今度やってみるか」

 くすっと笑う。

「……あたしはイリスお姉様のように頭も良くないし世間知らずだ。だから、これに頼るしかないの……」

「……」

 どこか物悲しそうな面持ち。しかしその根底には力強さを感じる。

 くすり、と微笑む。

「モモお姉ちゃんはいい人だね」

「? あなたを殺そうとしたのに?」

「……うん」

 モモには不思議に思えてならなかった。

「臆病者の癖に、人が好すぎる。これから先、命がどれだけあっても足らないわ」

「……でも、モモお姉ちゃんはぼくを殺さなかった」

「道場での話ね? あれはあたしの修行不足。早とちりして、あなたを殺したと思い込んだだけにすぎない」

「……そっか」

 微笑みは崩れなかった。モモの言い分を全て突っぱねるわけでもなく、聞き流すわけでもなく。モモはそれがどういうことなのか、理解できなかった。

 ちらりと外を見た。空一面赤くなっている。

「ぼく、ちょっと走ってくるよ」

「……え?」

「この時間、いつも走ってるんだ。肩以外も鍛えなければ貧弱のままだぞって」

「……ふっ……お姉様らしい」

 ベッドから降りると、

「行ってくるね、モモお姉ちゃん」

「!」

 不意打ち。急に顔を赤くするモモ。ぶんぶん大剣を振り回した。

「危ない危ない!」

「早く行きなさい!」

「えへへ」

 無邪気な笑顔。そのまま部屋を後にした。

「……お姉様が惚れ込むのも分かる気がする……」

 

 

 外に出ると、回廊が左右に曲がって通っていた。自分がいた部屋側、つまり回廊の外側に窓やドアが見えている。また同じく、真珠色の内装になっていた。

 夕陽が窓から差し込み、建物の内装と相まって美しく見える。真珠の中にいるような気分になる。

 とりあえず、右回りに歩いて行くと、上下へ続く階段に差し掛かった。折り返すように上下へ続く階段。そこから身を乗り出すように見てみると、最下層に出口があるだけの場があり、上は夕空が見えた。なるほど、と呟く。

 誰とも出会うことなく最下層へ降り、そのまま建物から出る。とても広い平原。牧場かと思うほどで、北西方面に森が、その逆側は山が広がっている。

 出口からその森へ向かうように、ぐねぐねと砂利道が伸び、左右に加工された緑がぽつぽつある。若干、坂道になっているようだ。その砂利道を走っていく。

 森が目前に来た。しかしそこまで深くはない。向こう側の景色がほどほどに見えている。

「!」

 声。それも女が二人、向こう側から来る。

 急いで木の陰に隠れた。時間帯も味方して、

「イリス様、本当にお強いね~」

「バケモンじゃんって感じ~」

「モモ様との一戦、怖かったけど興奮したわ~」

「モモ様とどっちが強いんだろ~」

「再戦しないかな……」

「そうだね……んな……で……」

「……」

 気付かれることはなかった。二人の行方を辿ると、砂利道を通って先ほどの建物へ戻ろうとしているようだ。

 しっかりと見送ってから、森を通り抜けた。いきなりの建物、それも先ほどの建物と同じ作りだ。右手側は森。建物を囲むように広がっている。そちらへ行ってみるも、ぐるりと木が囲っていた。ここは裏口のようだ。

 人がいないことを入念に確認して、正面へ回った。

「……」

 この建物を崇めるように、城下町ができていた。この場所だけ隆起しており、坂道を下ると街へ入ることができる。遠くは凸凹した地帯の奥に森があった。ここから真っ直ぐ進むと、巨大な木の門があり、出口はそこにしかないようだ。

 城下町を一望できるここから、人気を探る。夕方になり、そこまで多くなさそうだ。と、思いきや、一人の女がこちらへ来る。甲冑姿で腰に剣を携えた女だ。

「? ミオスくんじゃない。どうしたの?」

「……」

 少し間を置いて、

「んっと、実は、モモお姉ちゃんからお願いがあって……」

「モモ様から?」

 話し始めた。

「記憶が戻りそうだから、ぼくの荷物を返してやってって」

「はあ……。でも、君の荷物は保管庫にあって、女王陛下かイリス様、モモ様がいないと勝手に開けちゃいけないことになってるのよねえ」

「……モモお姉ちゃんは今、手が離せないって言ってたし……何とかできない? お願い!」

 ぐすぐす、と泣きそうになる。

「あ、ああえっと……女王陛下は重役との会議中だしイリス様は稽古中……となると、これは例外事項ってことでいいのかな」

「ありがとう! お姉ちゃん!」

「!」

 こほん、と口元を隠しながら咳き込む。

「ちょっと待ってて。鍵取ってくるから」

「うん!」

 女は建物の方へ入っていった。数分後、女が鍵を持って戻って来た。

「こっちだよ」

 通ってきた森を伝うように坂道を下ると、ひっそりと佇んでいる家に着いた。木造の、少し古ぼけた家だ。そこを鍵で開けると、

「……」

 特に何の変哲もない、普通の家の中だった。目の前に丸テーブルと四方に椅子、奥から左手にかけてタンス、右手に台所がある。誰かが住んでいてもおかしくはなかった。

 女がそのテーブルや椅子をどかすのを手伝う。そのテーブルがあったところにしゃがむと、鍵を床に挿した。

「え?」

 かちん、と解錠された音。

 女はさらに小型ナイフを床に刺すと、ぽこんと一部分だけ床が外れた。そこを取っ手に、ぐっと持ち上げた。

「……」

 見事な隠し階段だった。

「全然気付かなかったでしょ? こんなところに保管庫があるなんて、分かるはずないもんね。って言っても、私もイリス様がやってるとこを盗み見したからなんだけど」

 持ってきていた松明を勢い良く擦ると、火が灯った。これを明かり代わりに、階段を降りていく。螺旋状になっていて、人一人が通れるくらいの幅しかない。しかもかなり深いようで、二階分は下りていく。

 ドアも扉もなく、そのまま地下へ降り立った。明かりが全くない。仄かな明かりで見るに、地面を掘り進んだような作りだが、壁はしっかりと固められている。ある程度の広さがあるかと思ったら、通路が少し狭まって暗闇へと続いている。その理由は進んでいくと、すぐに分かった。

「……牢獄?」

 檻が向かい合っていた。しかし中には人ではなく、宝石や金銀、陶器など価値の高そうな物ばかりだ。その壁や通路もよく見てみると、

「……」

 うっすらと赤い痕が付いている。

 明かりがあるはずなのに、案内する女の背中が薄暗く見える。

 ぴたりと女が立ち止まった。

「ここだ」

 右手の檻に別の鍵を使って解錠した。

「昔は牢屋として使ってたんだけど、いらなくなっちゃってね。代わりに保管庫として使うようになったんだ」

「そ、そうなんだ」

 ずり、と半々歩、退く。

「保管庫は戦争で勝ち取ったり、その報酬でもらったりした物を隠す所。大半はイリス様のご功績なんだけどね」

 女は次々に手渡ししてくれた。大きいリュックに二つのポーチ、衣類、何かの道具袋、黒い傘と。

「……これで全部かな」

 にこりと笑いかける。

「そ、それはわかんないよぅ」

「あ、ごめんごめん。まだ記憶が戻ってないんだもんね」

 帰ろう、と女が先導してくれた。

「実は君に内緒で中身を見させてもらったんだけど、よく分かんないのばかりだったなあ」

「え? あ、そうなの」

 女の背中が詰まってくる。

「もし記憶が戻ったら、いろいろ教えてくれない?」

「え? うん、いいよ」

 女が遅くなっているわけではなく、歩くのが早くなっている。

「旅人さんだから、珍しいものいっぱい持ってるんだね。たとえひゃあっ!」

 両首筋にひと……と何かが触れる。びっくりして飛び跳ねた。……両手だった。

「なになにっ? これな、」

「動かないで! 虫がついてる!」

「む、むしっ?」

 はわはわ、と女は慌てふためく。

「私、虫苦手なの! 何とかして!」

「そのままじっとして! 捕まえてるから!」

「はやく! はやく、気持ち悪い! きもちわ、……る…………」

「……っと」

 すとーん、と目の前が一気に暗くなった女。倒れそうになるのを受け留め、近くの壁にもたれさせてあげた。意識を失っている。

 ごめん、と小さい声で謝った。

 受け取った衣類に着替える。黒いジャケットに黒いパンツ、履き汚したスニーカーという服装に戻した。念の為に荷物を確認する“黒い男”。

「……全部あるか? ……でも、見たことのない物もあるな」

 荷物から一本のナイフを取り出した。全長は拳二つ分ほどで、柄が竹の節のような形をした黒いナイフだった。柄は鎖でぐるぐる巻になっていて、グリップ力を上げている。そして“鍔”のようなガードが付いていなかった。

 その刃を小さい鞘に差し込み、懐へしまった。

「……恥ずかしかったな……」

 黒い男は保管庫から脱出した。

 西空の方に赤みが集中し、反対側から暗青色が迫ってくる。もう、陰に入れば、隠れずとも見分けがつきにくいくらい、外が暗くなっている。しかし、街中には街灯らしき燭台があるのを見つける。

 黒い男は保管庫の家から出る前に、丹念に周りを見ていた。暗くなってきたとはいえ、人がまだいる。あまり遭遇したくないようだ。

 空の半分以上が暗青色になったところで、

「……よし」

 黒い男は、そこから出た。もう人はいないと言ってもいいくらい、人気が薄い。

 忍び足で門へ向か、

「……」

「!」

 ふっと、家の陰から女が表れた。

「……ミオス……」

 

 

 ぼう、と明かりが揺れる。

「オレのことが……好き?」

「……」

 苦しそうに俯いている。

「……記憶が戻ったのだな。話し口調が以前と全く違う」

「あぁ。だからあんたが今まで見てきたオレじゃないんだ」

「……その記憶はあるのだな?」

「!」

 ぴくり、と黒い男は反応した。

「……あれは、小さい頃のオレだ。弱虫の泣き虫で、甘えん坊でどうしようもなく情けなくって……」

「だが、今のお前は違いそうだ。身体に刻まれた傷に相応しい逞しさを感じる」

「……! 見たのか……」

「左肩を手術して少しの間、私がお前のことを看病していた」

「そっか。……あんまり自慢できる身体つきじゃないから、見られたくないんだけどさ」

「そっちか」

 頬をカリカリ掻く。

「えっと、オレの昔話はもういいよ。時間稼ぎして応援でも来られたら厄介だからね。ここの女騎士さんたちはエラく強いんだろ?」

「……そうもいかん。私は今のお前と話がしたい」

「どうして?」

 黒い男は荷物を家に立て掛けて置いた。並々ならぬ意志の堅さが黒い男を通さないためだ。

「初めてなんだ。男なんか大嫌いなのに、こんなにお前のことしか考えられないなんて。それも最強と謳われる騎士イリスがお前のような弱者に……」

「……」

 ちゃき……、と女は長剣を構え直した。

「なぜ私がお前に引き込まれるのか、確かめさせてくれ」

 きゅっ、と長剣に無意識に力が込もる。

 黒い男はちらりと後方を一瞥した。

「確かめさせてくれ、か。なるほど」

 黒い男が見た方には、保管庫を案内してくれた女が来ていた。最初から仕組まれていたのか、黒い男はそう察したようだ。

「それに、この想い通じぬなら……死するしかない……」

「……!」

 表情が険しくなる黒い男。

「バカ! そんなこと言うなよ!」

「分かっている」

「……え?」

「お前はとても優しい男だ。幼少からもその気質が芯にあるようだ。我が同胞を殺さなかったことが、それを証明している」

「……!」

 黒い男は懐から竹節のナイフを取り出した。苦渋の面持ちになっている。

 死を言い放ったイリスの決意に揺るぎはない。握りしめた長剣を黒い男の頭の軌道上に、据えている。

 黒い男は困惑していた。好き嫌いということではあまり動揺はない。それよりも命の恩人を殺してしまわないか、あるいはその逆か……。どうにかそうならないような道を探していた。

 不運にも、イリスにその動揺を見抜かれている。

「!」

 イリスは既に戦いの気概。猛獣が獲物を睨むように、黒い男を中心に円を描くように歩み動く。正眼に構え、イリスから見て右肩下がりに斜に傾ける。一方の黒い男は、

「……」

 まだ表情が曇っていた。

 一応は身構えるが、浮き足立っている。左腕は使えないために折り畳んで腹のあたりに置いている。右手にナイフを握りしめ、イリスの動きをじっくりと見ていた。

 イリスの長剣は全体として五尺五寸(約百六十五センチ)、刃が四尺五寸ほど。対する黒い男が持つナイフは全長が拳二つ分。間合いと攻撃範囲は歴然だった。

 しかしイリスには油断や過信、(おご)りは全くない。まずは軽く様子見で、

「ひゅ」

 手首を狙った素早い縦振り。剣の軌道上、右手首へ。

「っ」

 キン、と金属音。手首を外へ返すだけで、弾くように防ぐ。

 その後も手首を狙う細かい振りを四、五、六と続けた。火花が散るほどの速さ。しかし、これらも同様に弾いてはいなし、受け止める。

「っ」

 最後の強めの一振りをさらに強く弾き、さっと一歩引いた。息をつくことも許されない。黒い男は呼吸音を悟られないように小さく深呼吸をした。左こめかみから一粒滴る。

 これだけでイリスは現状の七割を理解した。

「だいぶ動揺しているようだな」

「……」

 さらに揺さぶる。

「お前がここにいてくれれば、その左腕など、簡単に斬り落とせる」

「! ……」

 呼応するかのように主張する痛み。表情が優れないのは、怪我のこともあるようだった。

 しかし、その割にイリスはとても慎重だ。

「もっと速くするぞ」

 蹴り足とキレのある小振りを使ったフェイントを混ぜつつ、機を窺う。ぴくっぴくっ、と反応する黒い男。

「しゅ」

 半身に構えながらの鋭い突き。イリスが()ぎ払うように小さく弾く。

「!」

 今度は黒い男がその突きを連射してきた。剣先で交わっていたのが、だんだんと中心へ寄っていく。黒い男がにじり寄り、強引に自分の間合いへ引きこもうとしていた。

 ひゅっと風を切る突き。迫力のある鋭い攻撃で身を引いた、

「!」

 のは、黒い男の方だった。

 自分の喉仏に触れそうな切っ先。イリスは強い一撃を選び、相打ちを狙っていた。しかし、黒い男の方は全く届いていない。そして、突如迫る激しい剣撃。(かろ)うじて見えていた剣筋が刃の煌きしか見えない。格段に速く対応ができない。

「んぐっ」

 右肩と二の腕に命中した。斬られて……はいないが、打撃のような衝撃を受ける。

「っ!」

 眼前。またも突き。運良く届かなかったが、また体幹へ攻撃が移る。腕や身体に意識が向くと、ところかまわず急所を狙ってくる。黒い男は防戦一方を()いられた。

「く!」

「……」

 苦悶の黒い男に素知らぬ様子で猛攻するイリス。戦いというにはあまりに圧倒的だ。

「……」

 案内した女はつまらなそうに眺めていた。

「?」

 女の肩に手が触れる。

「も、モモ様」

 巨剣を背負ったモモがやって来た。

「どう?」

 にこりと微笑む。

「はい。もはや虐待に近いほどの形勢です」

「……」

 ちらりと二人の方へ視線を移す。

 飛ぶように後退する黒い男と執拗に迫るイリス。ふっと剣筋が黒い男の左肩へ、それをナイフで逸らそうとするも、消えた。一瞬後、右腕に貫く激痛。

「あっぐっ」

 腕が折れそうになる打撲に、ついに、

「はぁ……はぁ……」

 イリスの前に崩れ座る。震える左手で右腕を(さす)る。

「……」

 しかし、

「ぶ」

 顔面へ容赦無い蹴り。ピンボールのように、地面へ打ち付けられた。

「……」

「かつてのお姉様に戻りつつあるわ。相手が負けを認めるまで手を休めることはない。そのまま殺してしまうこともざら。でも、ここまで」

「……もう終わりか?」

「……」

「お姉様、虐待はもう終わりです。脳震盪(のうしんとう)を起こして、意識がありません。これ以上は弱い者いじめにしかなりません」

「……まだだ」

「え?」

「意識が戻るまで待つ」

「! な、何をお考えにっ?」

「まだ何かある。私がこの弱者に惚れた理由がまだ見付からぬ」

「そ、それは……後でいくらでも……」

「分かっている。モモの言い分は真っ当だ。だが……すまないが付き合ってくれ」

「……分かりました。ミオスが死ななければいいのですが……」

「私の剣は丹念に刃引きを施しているから、そう簡単に死にはしないだろう。もっとも、打ち所が悪ければ即死は免れないがな」

 

 

 数分後、

「ん、……んく……ぅ……」

 意識を取り戻した。と、同時に、

「? いっでぇ……!」

 頭から足の指先にまで突き抜ける電撃痛。何をもらったのか理解できず、ただもだえ苦しむ。無意識に身体が縮こまってしまう。

 イリスは容赦しない。

「がっ」

 左脇腹を思い切り蹴り上げる。一瞬、呼吸ができなくなった。

「がはっ……げほっ……!」

「……」

 全くの無表情。まるで甚振(いたぶ)り弄んでいるようだ。

 咳き込みながら蠢くように這いずり逃げようとする黒い男。その背中を思い切り踏みつける。

「うっ……ぼ……」

「逃げるな」

 ぐんと体重をかける。身体の中心に嫌な感触を覚えるが、一切気にも留めない。

 ふっと、軽くなった。黒い男は力を振り絞って立ち上がる。

「天晴れだな」

「……ふぅ……ふぅ……」

 イリスは賞賛した。

「わずかずつだが急所をずらし、威力を殺している。お前がそうやって立てるのも、その少しのおかげか」

「……」

 黒い男は意識が朦朧としている。眼の焦点が完全に合っておらず、瞳が泳いでいた。立てたのは本能的に倒れるのを拒否しただけ。

「……ふぅ……はぁ……」

 よたっ、一歩出す。

「……!」

 イリスが半歩だけ退いた。

「? お姉様……?」

 モモがすぐに異変を察知した。

「ふぅ……ふぅ……」

 もう一歩。ふらふらと。

「……」

 イリスは黒い男を改めて全身的に見た。指一本で押すだけでも倒れそうなくらい瀕死の状態。平衡感覚が鈍り、ぐらんぐらん揺れている。なのに、

「……くっ……」

 何かが前進を妨げる。

「え?」

 薄い汗。それも氷のように冷たく、顔全体に薄く滲み出す。そしてようやく気付いた。

「……」

 眼が生きている。

「こいつ……」

 ずり、その間合いの寄せ方が間の悪さを感じさせる。イリスはまたもじりっと後退するしかなかった。

「ミオスの闘志が全く萎えてない……」

「?」

 すぅっとぼやけていた瞳が、

「……!」

 戻った。

「……あれ……?」

 ずきずきと頭が痛み、ろくに身体も動かせず、意識が完全になくなっていた。絶好の機会のはずなのに、目の前を見てみると、イリスが静観しているように見える。いや、前より表情が険しい。黒い男はすぐに察した。

「……」

 ここしかない。

 重い身体でリズムを取り始めた。左手は邪魔にならないように腹の位置に。右手にナイフを持って軽く伸ばし、ゆらめく。身体は右半身を軽く突き出すように斜に構え、つられるように右脚も半歩前に出している。きゅ、きゅ、と前後の足に滑らかに体重移動する。

「それは……」

 一目したイリスは構えを解いた。

「それは誰に習った……?」

「? どうして?」

「似ているのだ」

「……誰に?」

「私が幼い頃の、若き日の女王陛下によく似ている」

「!」

 口角が少し下がる。

「まるで相手を惑わすような動きに、目の配りと足の配置を巧みに利用し、空転させる。その大振りや隙、勇み足を突いて相手を倒していく……。異国の格闘術とナイフ術を組み合わせた異型の戦術なのだ」

「? ……?」

「つまり、女王陛下独自の戦術なのだよ。それをお前が使っているとすれば、記憶を失くす前に何らかの関わりがあったはずなのだ」

「……見間違いじゃない?」

「絶対に間違いはない。かつて私が憧れた戦術だからな……。私の場合、体格と性格が合わなかったために諦めざるをえなかった」

「……」

 にやりと笑う。そして、どっしりと構えた。

「運命を感じる。そうでなければ一体誰の意図だろう。……私は、このために生まれてきたのだ」

「イリス……」

「ますますお前を見逃したくなくなった」

 イリスが(たか)ぶっているのが分かる。笑みが収まらず、黒い男とは別に自分の調子を上げている。うずうずと剣が揺れている。

 先に仕掛けたのは黒い男だった。

「し」

 まるで鞭のように(しな)る剣撃。ばちい、と生身で叩かれたような炸裂音がイリスの剣を跳ね除け、

「!」

 一瞬で懐に潜り込む。

 速い! モモがそう思う頃には、

「ちいっ」

 後ろに飛びながら引き面。そこへ、黒い物が顔面へ。唐突な攻撃に身体ごと回避しかないイリス。しかし迎え撃つような、

「っ?」

 足払い。イリスは簡単に転んでしまった。リーチ差をものともしない早技。

 応戦しようと尻もちの体勢で連撃を放つ。顔、胸、腕、腹、股間、素早い突きを何度も。しかし、黒い男の身体を逸れるように、ナイフが弾いてくる。

「どうして突きしか……?」

「お姉様の強力な攻めを見抜いている」

「え?」

「普通、いくら刃引きをしたとしても、あのような細く軽い剣では意識を失くすほどの打撃はない。お姉様の攻めは鍛え込んだ腰と下半身の捻りで威力を生むのだ。つまり、地面に着いたあの体勢では薙ぎや振りは力が入らない」

「!」

「それにミオスのナイフの方が回転が早く、素早く対応するには細かい突きと軽い振りしかない。ミオスはわざとお姉様の最大威力を受けて、こんな強引な戦いに引き込んだのね」

 ひゅっ、と顔面へ切っ先が飛んでくる。それを、

「ッ!」

 無理矢理下へ撃ち落とし、全力で踏んだ。

「く」

 太くきらびやかな折れる音。それに構っている暇はなく、イリスは両手をバツに組むように、

「グッ!」

 ミオスの蹴りを防御した。ごろごろ、と後ろに蹴り飛ばされ、その勢いで立ち上がった。とっとっ、と勢いが良すぎて何歩か歩いてしまう。

「……ふぅ……ふぅ……」

 黒い男は大きく息をしていた。激しい攻防でだらだらと流れ落ちていく。にやり、と笑みを浮かべたのは、

「なるほど」

 イリスだった。防いだ両腕がまだびりびり痺れている。そして真っ二つに折られた剣とその先。それらを十分に感じ、見た。

「お前は強い」

「お、お姉様……?」

「確かに経験や技術は若く、才能は平凡より少しだけ上か。それらを一生鍛え込んでも私やモモには到底敵わないだろう。だが、生き残ることへの執念、意志……勝利への無執心。人間として太い生命力は私を遥かに凌駕している。だからこそ、無数の傷を刻まれても生き延びてきた」

「はぁ……はぁ……」

「だが、ここは旅の最中の出来事ではない。どちらかが勝たねば終わらぬ決闘。不運にも、左肩の怪我と長期間の休養がお前の体力を著しく減らした」

「……ばれた……」

 苦笑い。

「これからは血みどろの戦い、そして言葉でなく剣で語らう戦い。……覚悟しろ」

 切っ先が急に伸びたかと錯覚する一閃。黒い男が軽々と首を傾げて避け、

「!」

 避けた側に向かっていた拳を、

「っ」

 右手で受け止めて鷲掴みにした。そのまま勢いを殺さず、受け流すように、

「!」

 イリスを地面へ引っ張りだす。勢い良すぎたために、地面に手をついて体勢をとと、

「つ」

 顔面への容赦無い蹴り。蹴り上げるような軌道だが、イリスの剣が間に挟まり、衝撃を殺す。それでも、すぐに間を詰める。

 先ほどと同じ展開。黒い男が果敢に攻める。しかし、

「っ」

 イリスは左手でナイフを握りしめた。

「え?」

 じわじわと刃が手に食い込み、血が地面へ滴っていく。イリスの表情が……冷たい。

 反射的にその左手に被せるような蹴り。

「!」

 今度は黒い男がこかされてしまった。軸の左脚を狙われた。衝撃でナイフを離してしまい、イリスに遠く投げられてしまった。

 急いで立とうとする黒い男だが、今度はイリスに逆のことをされてしまう。モモの言う頑強な足腰のおかげなのか、太刀筋が消える。黒い男はなぜかそれを皮一枚で避け、身体への振りや薙ぎは足で防ぎ、白刃取りし、イリスの脚を狙った。

「!」

 刃物が飛んできた。何とか右手指で挟む。黒い男のナイフだった。とおもい、

「ぎゅあっ」

 右腕に何かが刺さる。確かめる間すらなく、顔面を殴られた。

 イリスが猛然と迫ってくる。黒い男が刺さった何かを抜き、放った。何事もなく“二回”払い落とすイリス。そのわずかな隙に、何とか立ち上がれた。

 足元には掌サイズの小さなナイフと血まみれの折れた剣先が転がっている。

「……っ……」

 ぐらりと足が揺れる。つぅっと鼻血が二筋垂れてきた。ぬるりと指で払う。右腕と鼻から出血するはずなのに、それ以上は流れてこなかった。黒い男の集中力が極度に高まっている瞬間だ。

「……」

 黒い男のリズムが速くなる。激しいせめぎ合いを狙う。

 イリスの渾身の振り下ろし。もはや振る腕すらも消える。しかし、

「!」

 瞬時、軌道上にナイフが阻む。何度も食らったことでタイミングと起こりが盗まれている。

 右肩から(ひね)るようにナイフを動かし、そのまま外へ流した。が、その流れに乗せたまま顔へ斬り払い。頭をずらして避ける黒い男。流れはまだ消えず、イリスが体幹へ右手側から払うと、わざと食らって脇腹で挟んだ。そのまま前進する。しかし、いきなりイリスが斬り上げてきた。しっかり押さえていたのに、脇へ強打。

「ぃっ……!」

 右肩が外れそうになるくらいの衝撃と激痛。これも歯を食いしばって耐え、今度こそ脇で挟み込んだ。

「!」

 イリスが手を離し、腰にすぐに手を伸ばす。携えていたナイフを手にし、

「はあああああっ!」

 突っ込んできた。

 

私の全力を受け流したことは褒め称えよう。しかし、その右腕も左腕も、そして両脚も使い物にならん。ここまで来てしまえば仕方ない。このナイフでお前の左腕をもらう。たとえ隻腕(せきわん)になろうとも……お前を……。

 

 言葉のような何かがイリスの眼から聞こえてくる。真っ直ぐ黒い男を見るもナイフは目的の場所へ。勝負あった。見ていたモモや女、そして本人さえも思い込んでいる。

「……!」

 不意にイリスは別のことに気を取られた。自分を見ている黒い男の瞳……。死ぬことを断固拒否し、生き延びようという強い眼。ふと出会った当初のことが脳裏を突き抜けて消える。その時とダブって見えていた。

「そうか。私は……」

 どす。

「…………」

「……ふっぅっ……」

 ぴと。

「……ミオス……私はお前を……」

 ぴと、ぴと、地面に一滴一滴と垂れていく。やがて、たたっと流れ落ちていく。

 黒い男はイリスに身体を預けた。

「……オレは……」

 にやりとするイリス。

「……」

「……×××だ」

 右腕でイリスの腰を引き寄せる黒い男。

「……よ、良い名だ……」

 がくりと膝が崩れ落ち、黒い男が抱き留めた。腹のあたり、甲冑の隙間に黒いナイフが余りをもって突き刺さっていた。それを持つのは……黒い男の左手だった。イリスの刃はわずかに届いていない……。

「……ごほっ……ふ、不覚……」

 黒い男は慎重にイリスを下ろし、横にした。

「すぐにブージャー先生を!」

「はい!」

 モモが命じ、女が急いで走っていった。

 すぐに駆けつけ、甲冑を外していく。ナイフの刺さった所が真っ赤になり、染みだして血溜まりが大きくなっていく。黒い男はモモに荷物を持って来させ、手持ちの物で出血を抑える。

「……べ、べつのナイフを持っていたとはな……それも左手で……」

「お姉様! ご無理をしてはっ!」

「よい……もう……ながくない……」

「正攻法で勝てるって思わなかった。だからイリスが突っ込んでくるのを待つしかなかったんだ。それがなかったら、立場が逆になってた。……紙一重だよ……」

「ふ……」

 こほ、と口から血が……。

「わ、わたしが……しょっうがい初めて……はぁ……はぁ、ほれた男、さっさいごに……」

 こくりと頷く黒い男。

 咳き込み血を吐くイリスの上体を少し起こし、

「……っ」

「ん」

 口を重ねた。

 ゆっくりと離れる。つぅっと赤い糸が紡がれ、断たれる。

「……ありがとう……」

 涙が溢れている。

「……おまえっにほれた、理由がわかったきが………………」

「お姉様? ……おねえさまっ、お姉様! おねええさまああああっ!」

 

 

「行っちゃうのかしら?」

「あぁ。どっちみち、オレがこの国に留まるのは許されないでしょ? イリスを……殺したんだし……」

「あの娘はあの程度じゃ死なないわ」

「?」

「あなたと同じように、死線を越えてきたんですもの」

「……そっか」

「残念ね。どうせなら記憶が戻らない方が良かったかも」

「いつか思い出すよ。それが早かっただけ」

「そう……」

「……それじゃ」

「待って」

「?」

(はなむけ)をと思ってね。一つはこれ、ブージャー医師から」

「……義手?」

「肩の傷は全然回復してないから、これで敵の目を欺けって」

「うん。ありがとう」

「もう一つは女王陛下自ら贈るわ」

「これって……?」

「“勿忘草(わすれなぐさ)”。旅人には不必要だけれど、お守り代わりに」

「どうしてこれを?」

「……イリスの愛した男だもの。母親として、ね」

「……大事にするよ」

「最後に一つ、いいかしら?」

「なに?」

「もし、記憶が戻らなかったら、この国に住んでいたと思う?」

「…………」

「答えづらい?」

「……お世話になったお礼代わり……とまではいかないけど。……多分変わらなかったと思う。小さい頃から旅人になりたいって思ってたし」

「それはどうして?」

「……憧れの人がいたからかな」

「一体誰なのかしら?」

「質問は一つだけでしょ? もう二個も答えちゃったよ」

「おまけじゃダメ?」

「……命の恩人にそう言われるとなぁ。ずるいよ。憧れの人ってのは……」

 

 

 深夜。前日のように、月明かりが照っている。かすかに見える森の中を歩いていた。寒くなっているため、息を吐くと白い霧が出る。

 黒い旅人はある所へ向かっていた。

「……ここらへんかな」

 見覚えのある所に着いた。そこはかつて迷い込んだ小さな集落。木々に囲まれた集落に月明かりが仄かに差し込む。今にも何かが舞い降りてきそうな雰囲気がする。

「……きれい……」

 その月明かりに引き込まれるように、中へ入った。

 よく見ると血の跡が残っている。

 そしてあの一軒家へ入り、

「……」

 眺めた。居間はそこまで変わっていない。ベッドに穴が二つ空いているだけ。

 近くの椅子に座り、荷物を置いた。着ているジャケットの中から、

「これは……」

 黒いナイフを取り出す。柄が黒い骨組みで作られ、その隙間には薄い膜のようなものが貼られている。中には刃が入っており、柄の先端にある突起を押すことで、刃を突出させることができる。柄は拳三つ分ほどの長さ。仕込み式ナイフだ。

 それを触ったり眺めたり、ちょっと舐めたりする。

「……思い出せない」

 次に自分の荷物を確認し始めた。

「食料に着替え……なんだろう、このアタッシュケース……。暗証番号が分からないや。……薬? 軟膏っぽいけど……」

 記憶全てが戻っているわけではなさそうだった。所々、記憶に無い素振りを見せている。記憶のつかみすら取れないほど、意味不明なものばかりだった。

「……おっきいな、これ……」

 黒のふわふわしたセーターだった。試しに着てみると、

「あったかいなあ……」

 着心地は抜群に良かった。まるで羽毛に包まれたかのような触り心地。しかし、そのわりには採寸が合っていなかった。袖は掌半分まで覆うし、裾も太もも半分まで伸びている。とても自分にあったものとは思えなかった。

「ここに入ってたんだよな。これが」

 昔を思い出すように、仕込み式ナイフをセーターの右内ポケットに入れた。

 ふと、ベッドの方に目がいった。

「……“ふぅ”……?」

 徐ろに、荷物から探し始めた。

「……ない」

 ぽんぽん、と身体を触ると、妙に硬い感触がした。取り出してみると、紐が通された謎の物体。四角くて開閉ができた。それはまるで蝶番のようで、かちかちと音がなる。開けば、黒い面とぴっしり詰まった何個ものボタン。押しても特に何も起こらなかった。

 裏面を見てみると、横一線の溝がある。そこを滑らせるように動かすと、ぱかりと取れた。穴が空いている。

「ここに何かはまるんだ……」

 ガサゴソとまた探すと、それらしきものがあった。形も一回りくらい小さいだけでぴったりだ。

「……」

 意を決してかこん、とはめ込んだ。

「オートリカバリーモード、シドウシマス」

「!」

 わっ、とびっくりして投げ捨ててしまった。

 それもそのはず、その首飾りから“声”がしたのだ。それもそれも、妙齢の女の声で、艶やかできりりとした口調だ。

「……カンリョウシマシタ。……酷いですね! 急になげるなん……って、え? えぇっ?」

 “声”も困惑していた。

「い、生きていたのですねっ? 怪我はっ? 容態はっ? 熱とか吐き気とかありませんかっ? というより、今までどこでなにをどうやってどんなふうに、ってここはあの家ではないですかっ!」

「……はわ……はわわわわ……」

 ぱくぱくと金魚が水を含むように驚く。

「まさか、ショックでただでさえ少ない脳味噌が空っぽになったわけではないでしょうね、“ダメ男”?」

「……!」

 猛烈な勢いで走馬灯が駆け巡る。映像を百倍速で逆再生するように、またある時からそれが順再生で起こるように、と繰り返す。そして、自分のしにぎ、

「……はぁ……はぁ……」

 ……は、左肩に電撃痛が走り抜けていく。脳が拒否をするように、心臓が臨戦態勢を整えるために、心拍が急激に進む。寒さとは別に、何かに震え出す。

「大丈夫、ではないですよね。とにかく、ダメ男が生きていたことだけを嬉しく思います」

「…………ありがとう、“フー”」

 “ダメ男”は急に汗が湧き出る。はは、と苦笑いしていた。

「いいえ。いつものことです。とりあえず疑問はまた後ほど聞きます。今は安静にすることを推奨します」

「そうだな。肩の傷もまだ癒えないし」

「察するに、どこかの国で治療してもらって抜け出してきた、というところでしょうか」

「なんで分かるの?」

「一体どのくらい一緒に旅をしてきたと思っているのですか? 消えそうな脳細胞を総動員して計算してください」

「……」

「? どうしましたか?」

 “声”の“フー”がどこかにある眼でダメ男を見つめる。

 ダメ男は綻んでいた。

「何でもない」

「蔑まれて喜ぶなど、さすが変態思考の男です。見ない間に不貞行為をしていないか心配です」

「そ、そんなことしてませんよ、えぇっ!」

「うわ、もうこの世から消えてください。細胞一つ残らず死滅してください。そしてダメ男の成分が含まれた物質ごと宇宙に飛ばされて気体となっ、」

「ながいながいっ」

 長くなりそうなので、強引に割愛された。

「さて、これからどうしますか?」

「ちょっと寄りたい所があるんだけど、いいかな?」

「こちらの許可を取るまでもありません。ですが、どこですか?」

「そこまで遠くないよ。もうちょっと時間をおいてから行きたいから、それからにしよう」

「からからうるさいですね」

「ひどい」

「知っています」

 ダメ男はポケットから取り出した。

「勿忘草ですか? それも小さい花冠で素敵ですね」

 掌に乗るくらいの大きさで、丁寧に茎を編みこんでいた。青い花が間隔を空けて並んでいる。

「今のダメ男にはぴったりのお花ですね」

「! どうして?」

 思いがけず、フーを見た。

「勿忘草の花言葉は“私を忘れないで”です。渡した人がその意図があるか分かりませんが、とても綺麗な花ですよね。誰からもらったのですか?」

「……忘れた」

「さすが鳥頭ですね」

 左肩をさすさすする。

「……できれば、別の形で会いたかったな……どれもこれも……」

「え? それってどうい、……」

 フーは言いかけて、別の言葉を探した。

「……ダメ男、泣かないでください」

 ダメ男はそれ以降何も話さず、ずっと花冠を眺めていた。フーもそれ以上は何も話し掛けなかった。溢れた涙が頬から落ちても。

 

 

 



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おわり:くろいよる

「……ふう」

「ブージャー先生! お姉様はっ? お姉様は!」

「心配するな。お前たちが大量に血液を提供してくれたおかげで、奇跡的に助かった」

「よ、よかった……! う……くぅっ……」

「礼はミオス……いや、あの旅人にするんだな」

「? どういうことです?」

「やつが持っていたナイフがあまりにも切れ味が良かったから、メスで手術したように綺麗に切られていたんだ。しかも筋肉の走行にならって腹を刺したから、傷の治りも早いし痕も目立ちにくい」

「……じゃあ、あの決闘でミオスが狙っていたのは本当に……最後の最後の一撃……」

「ここまでできる人間は私の知る限り数人しかいない。……一体何者なんだ?」

「分かりません。……あたしはお姉様がご無事ならそれでいい……」

「イリスはどうするだろうな」

「きっとミオスを追いかけることはしないと思います」

「え?」

「何となく、そんな気がします……」

 

 

 夜、イリスの部屋に、

「失礼します」

 モモが入ってきた。イリスの部屋も他の部屋と同じ、乳白色の部屋だった。本棚に収まりきらずに積まれた大量の書物や、机から紙が大量にはみ出て床に落ちている。その傍らにはイリスの着ていた甲冑に折れた長剣が立て掛けられていた。

 イリスは窓から外を眺めていた。

「お姉様、ご容態の方は……?」

「何とか大丈夫のようだ。……おめおめと生きてしまった」

 ふ、と鼻で笑う。

「ブージャー先生が頑張って手術してくれました。あたし達もお姉様がご無事とあって安心しています。どうか、そのようなことはこのモモの前だけにしてください……」

「……」

「?」

 イリスが手招きする。椅子に座らせた。

「モモよ」

「は、はい」

「ありがとう」

「……? ありがたき、お言葉……?」

 戸惑っている。

「私のために戦争へ出向き、こんなに傷ついてくれた……」

 ぺろんとシャツの裾を少し捲る。お腹周りに傷跡がぎっしりと詰まっている。

「いえ。それはあたしが不覚を取っただけです。お姉様だって戦場で戦っていたけど、傷一つついてない……」

「そうじゃない。それを自覚しているのに、率先してくれたことに感謝しているのだ」

「?」

「私より強くなって当然だ。モモもあの旅人のように、心も生命力も太く逞しくなっていたのだ」

「お姉様……」

 すっと、モモの顔を撫でる。

「真剣でやっても、私はモモに勝てぬだろう。……もう、私は最強ではない。いや、もとより最強ではなかったのだ」

「え?」

「……このイリスが命ずる。今日をもって、国の最強の騎士を……モモ、お前が引き継げ」

「!」

 そして、頭を撫でた。

「……お姉様、お姉様はわざと……あたしにまけて……」

「違う。木剣とはいえ、私は本気だった。そしてあの時決めていた。もしモモに負け、あの旅人にも負けるようなことがあれば、身を退こうと」

「……」

 イリスは微笑んだ。

「心配するな。他の騎士も、お前の実力を信頼している。おそらくは私以上にな」

「お姉様はどうされるのです?」

「私は女王陛下の助力に回らなければならぬ。無論、戦争の助太刀もするが、女王陛下もお年だ。そのためにあの旅人を私の婿に迎えようとしていたのだ」

「なるほど。気が付きませんでした」

「……倍以上の負担になるだろうが、やれるか?」

「……」

 にっ、と口角を上げる。

「お姉様の抜けた牙、あたしが引き継ぎます」

「……ふ、またも言うか、この」

「いた」

 ぴしっ、とおでこにでこピンされた。二人は笑い合った。

「もう終わったか~?」

 ガチャリと誰かが入ってきた。

「!」

 男だ。

「誰だ貴様っ!」

 モモが男に巨剣を突き立てた。イリスを背に隠すように、男の前に出る。

「どうやってこの国に侵入した!」

 ほんわかな雰囲気が一気に殺伐とする。無数の針で突き刺すような殺気に、男はいいいいたいたいたいた、と小言を漏らしている。

 苦笑い。

「こ、こんなせまい部屋でそんなもん振り回すなっ。危ねえだろっ」

「!」

 苦しい言い分だが的を射ているようで、モモは険しくなる。

「ならば外に出ろ。真っ二つに叩き潰してくれる」

「オレはケンカしに来たんじゃないって! 落ち着けっ!」

 どうどう、とモモを宥めようとする男。しかし逆に神経を逆撫でしているように覚える。

「死ね」

 太い線で円を描くように、恐ろしい速さの振り下ろし。ところが、

「!」

「な、なにっ!」

 びたっ、と止められてしまった。それも人差し指と中指で軽く挟んだだけ。のように見えるのに、

「く、ぐううっ……!」

 びくともしない。

 男は平然としている。いや、憮然としている。

「……!」

 しかし殺気や怒気は全く感じない。モモの迫力を真っ向から受けているはずなのに、余裕をさらけ出している。

「落ち着いた?」

 にっこり、と口だけの笑み。

「!」

 ぞぞぞぞ、と背中をべたりと撫でられるような悪寒。イリスの汗が急に止まらなくなっていた。呼吸も荒く、息が苦しい。真正面から対峙しているモモは、

「あ……あ……」

 へたり込んでしまう。足元が崩れ落ちるような、掌の上で握りつぶされるような。震えが止まらず、失禁してしまっていた。気高い誇りや積み上げてきた名誉がゴミのように感じている。

 男はゆっくりとモモの巨剣を取り上げる。

「重いなぁ。こんな重いのを女の子が持つなんて、君はすごいよ、うん」

 ぶん、と片手で振り下ろしている。

「そんな……も、モモですら両手なのに……」

 まるで木の棒を扱っているようだった。

「……さて、これで話ができるな」

「……え?」

 巨剣を近くの壁に立て掛けた。

「その前に、お前さんの方を何とかしなきゃ」

「え? ……あ、はい……」

 

 

 モモの後片付けを終わらせると、男の分の椅子をイリスの部屋に持ち込み、座ってもらった。

「それで、話とは……?」

 怪訝そうに尋ねる。

「ちょっと待っててくれ。女王も来るから」

「?」

 数分すると、本当に女王が入ってきた。

「お母様!」

「お待たせしたわねぇ」

「いんや」

「この男は誰なのですっ?」

 モモが声を荒げる。

「え? まだ話さなかったのぉ?」

「いや、女王が来てからって思って。自分から言うのも何かイヤじゃん」

 まるで友達のような口振りだが、咎めることは絶対にしなかった。できなかった。

「あなたの場合は大層な呼び名だからねぇ」

「? ……?」

 二人はぱちぱちと瞬きするしかなかった。

「名前よりもこっちの方が有名なのかしらねぇ、“英雄”さん」

「!」

「なんだってっ!」

 思わずモモが立ち上がる。

「あ、あなたが……“英雄”……?」

「あ、うーんと……まぁその、そんな感じで呼ばれることもあんな」

「っていうかそう呼ばざるをえないものねぇ」

 ばっ、とモモが男の前に跪いた。

「たっ大変失礼なことをしました! ど、どうかお許しを……!」

「いやいやいや、この国の風習なんだから仕方ないって! そんなかしこまられても、オレ困るわ~」

 軽いノリで男は宥めた。

 イリスも驚きの表情を隠せない。

「まさか、この国に“英雄”が来るなんて……」

「そんな恥ずかしいからやめてくれって~」

「否定はしないのねぇ」

 女王は笑っている。

「さて」

 きりりと締まる。

「まずは礼を言いたい」

「礼?」

「ちょっと前に医者と旅人が厄介になっただろ? その礼だよ」

「あぁ、ブージャー医師とミオスか」

「うん」

 子供のような返答。

「実はその旅人が無関係じゃなくってよ。風の噂で殺されかかってるって言うから、一番近かったこの国に書簡を送ったんだ。どうか救出してほしいって」

「なるほど。お母様はそれで、ミオスを助けたのですね?」

「ホントはそんな書簡、破り捨てたかったんだけどねぇ。建国の際にお世話になった立場として、断れないしぃ、それに“英雄”の血判付きの書簡なんて超希少なのよぅ」

「そ、そうなの、お姉様?」

「そこまではさすがに……」

 イリスは苦笑いした。

「それで礼代わりに、その旅人とお嬢さんの手術代はオレの方で支払わせてもらったぜ。あと手土産も一つあるんだが……ブージャーのやつ、国家予算の十分の一ふんだくったんだって?」

「あなたの派遣した医者はどういう神経してるのかしらぁ。腕は本物だけど強欲すぎるわぁ」

「まぁまぁ。で、聞きたいことがあるんだ」

「なに?」

「その旅人が助けられた当時の話を細かく聞きたい」

「どうして?」

「どうしてって……心配じゃん」

「……まあいいけれどぉ……」

 

 

 太陽が登り始めた頃。黄金色に輝く光が眩い。暗い森を照らし出してくれた。

 全くの無風。その下の森林が全く揺れていない。時折、どこかで鳥の鳴き声と木々の揺れる音が伝わってくる。遠くの音が聞こえてくるくらい静かだった。

 またどこかで聞こえてくる。土を踏みならす音、それも一つでなく複数。その根源を辿っていくと、

「珍しいけど、変な臭い……」

 女王が木陰からひょこっと現れた。お忍びなのか、無地の灰色シャツにパンツと普通の服装をしている。その後ろを、

「女王陛下、先に()かれては困ります」

 甲冑を着たイリスがいた。剣を腰に携え、神経を尖らせている。

 その脇では、メイド服を着たモモがいた。

「ここで戦闘した跡があります。いかがなさいますか?」

 とても眠たそうな目付きだ。

「大丈夫よぉ」

 心配そうな二人に、笑顔で答える女王。

「しかし、なぜこんな所へ足をお運びに?」

「まぁその、お散歩よお散歩」

「は、はあ……」

 特にそれ以上は尋ねなかった。

 そのまま警戒しながら進んでいくと、集落らしき村へ着いた。まるで森林がその村を囲うように配置し、密集している。その隙間を入るのは子供でぎりぎりなくらいだ。三人の目の前で迎える“開き”しか入れそうになかった。よって、自然の城門とでも表現するのが合っていた。

 女王が不用心に村へ入るのを、慌てて二人が付いていった。

 木造の家が五軒ほどあるだけだが、人の気配はまるでない。というより、荒らされた跡があった。壁の一部が破損していたり、入口が蹴破られていたりと、良からぬ事があったと見受けられる。

 それをじっくりと観察する女王。のんびりとしている本人に対し、背後の二人からびりびりと緊張感が伝わる。ちらちらと二人でアイコンタクトを取り合い、周囲の警戒を怠らない。

 ぴくん、と女王が何かを察した。

「臭いは一番奥かしらねぇ」

「はい。……待機している兵はどうなさいますか? 場合によっては、」

「引き続き待機」

 ぴしりと遮断するように言い放つ。しつこい、と叱咤(しった)されたように覚え、

「……はっ」

 出しゃばるのを控えた。

 悪臭の元へ辿って行くと、比較的大きい家に着いた。

 さすがに、とイリスが先に中を調べることに。ドアを蹴破らず、ゆっくりとノブを捻り、そっと押した。

「……」

 女王の背後ではモモが後方を確認している。

 中は玄関から真っ直ぐ廊下が伸び、居間へ続いていた。途中に部屋はない。それよりも、異臭が強くなったことの方が印象深い。

 イリスが女王の方を見遣ると、きっ、と目付きを鋭くされた。ため息を吐きながら、仕方なしに頷くイリス。二人以上にぴりぴりと神経を張り詰め出している。

 靴を履いたまま廊下奥のドアに向かう。トントン、と女王がモモの肩を叩くと、モモは外の方へ向いた。彼女はここで見張りをするようだ。

 女王とイリスは目を合わせると、女王がドアノブへ手を伸ばす。そして頷いた直後、勢い良く開けた。

「ッ!」

 剣を引き抜き、瞬時に戦闘態勢へ。

「! こ、これは……」

 そこにいたのは、

「……ふぅ……ふぅ……」

 一人の男がベッドで仰向けになっていた。だが、ただ寝っ転がっているわけではない。

「! 大丈夫かっ?」

「……ふぅ……ぅ…………」

 返事はなかったが、お腹が動いていた。

 異常に気付いた女王が中に入るや、

「モモ、すぐに衛生兵を寄越しなさい! それと医者にも連絡!」

「分かりました!」

「イリスは私と応急処置を手伝いなさい!」

「はっ」

 瞬時に指示を出した。

 廊下で走り抜ける音。だんだんと遠ざかり、聞こえなくなった。

 臭いの正体は、汚物臭と生臭さと……血の臭い。尋問拷問を受けたようで、男の左肩が中の中まで露わにされ、ぐちゃぐちゃになっていた。そこからどろどろと血と脂肪、何かの液体が混ざって漏出している。ベッドはその部分の他に、男の顔の右側にも穴があり、床さえも突き抜けている。

 男の顔に生気はない。目に光はなく、意識がとぎれとぎれなのは見ていても分かる。

 応援が来るまでの間、イリスが持っていた救急道具で応急処置を速やかに済ませる。しかし、応急以前の問題で、消毒洗浄と止血でしかない。

「しっかりしろ! 死ぬな!」

「……」

 必死に気付けするイリスを見つめる女王。

 数十分して、応援が駆けつけてきた。まるでこの事を予期していたかのような対応の早さに、

「女王陛下。一体この男は誰なのです?」

「誰でもいいでしょう? 見つけちゃったんだから、助けないとねぇ」

 疑念を感じずにはいられないと同時に、改めて尊敬したイリス。

「……」

 担架に乗せられ運ばれていくのをじっと見つめていった。

 

 

「ふ~ん、そっか。左肩以外にも怪我してたんだ」

「で、これで何が分かるのかしらぁ」

「どうして生かしたんだろうな」

「?」

「旅人の肩以外にも穴があったってことは、もう一発あった。つまり、殺すことができたんだ」

「……そのまま放っておいても死ぬからでは?」

「それもある。あと、殺す場所があそこだったっていうのも不自然極まりない。憎む相手を殺すなら、あんな場所じゃやりたくない。今回みたいに助けられるかもしれないからな」

「つまり、あの場所が私の隠れ家であったことを知っていたって言うのぉ?」

「……それは本人に聞いてみるしかないな。オレじゃ分からん。ただ、どういう心境の変化だったんかなってな」

「その言葉ようですと、誰がミオスを殺そうとしたかも知っているのですか?」

「うん。もちろん」

「……どうして分かるんですか?」

「情報っていうのはな、集まる所に集まるものなのよ、お嬢さん。ちなみにお嬢さんのスリーサイズも知ってるんだぜ?」

「!」

「上からろくじ、ぶっごっ!」

「……」

「“英雄”を殴るなんて、やるじゃないのぉ」

「あ、いや……スミマセンっ!」

「今のはセクハラだから不問ねぇ。これだから男ってやつは……」

「いたたた……まぁ、そういうことなのよ」

「……一ついいですか?」

「なに?」

「ミオスが女王陛下と同じ戦術を使っていました。ミオスと女王陛下は師弟関係にあったのですか?」

「! ……」

「それは、“英雄”殿の頼みか何かですか?」

「……彼とは初対面よ。第一、そうだとしたらあなたたちと知り合いのはずでしょ?」

「まあ、確かに……」

「んー、オレもその話は初耳だな。オレの知らないところだ。どっちにしてもそこまで重要な話でもないだろうし。そんなことより、オレのお手製の手土産が気にならないか?」

「……手土産?」

「……ずばり言う。女王からの依頼で、お嬢さん方の姉の居場所を突き止めた」

「!」

「お、お姉ちゃんがっ?」

「……」

「……どこにいるのですか……?」

「……オレが助け出したんだが……亡くなっていた」

「……そんな……」

「本当に姉なのですか?」

「その女は××と名乗っていたそうだが、どうだ」

「……」

「……姉の名前です」

「うそだ……おねえちゃんが……」

「泣くなモモ。……なくんじゃない……」

「長年、×××にされていて、記憶はほとんどなかった。ただ、自分の名前だけは忘れていなかったそうだ。……そのせいで不治の病にかかり、亡くなった」

「……うぅ……くっ……」

「……男なんてきらいだ……クズ共め……」

「……二人共……」

「いいよ女王さん。そっとしとこう。……他にも聞きたいことがあったら聞いてくれ。オレらは外にいるからよ」

「……はい。ありがとうございます、“英雄”殿……うっ……」

 

 

「……これで良かったのか?」

「……えぇ。嘘は言ってないんでしょ?」

「あぁ。……それと、彼女の遺体はこっちで丁重に弔わせてもらった。姉妹に見せるにはあまりにも酷だろうと思ってな」

「そうね……。もう骨と皮しかなかったものね……」

「悪かった……。オレがもっと早く捜し出せれば……。へっ、誰が“英雄”なんて大層なアダ名つけたか知らんが、助けたいやつを助けられなくて何が“英雄”だってな。笑っちまうな……」

「あなたは悪くないわ。むしろ、こんなことのために何年も時間を割いてくれたことに感謝しかない。他の事でも忙しいのに」

「この国を作らせてもらった(よしみ)だ。お安いご用さ。……さて、そろそろ行くか」

「イリスたちの質問はどうするの?」

「そんときゃ、オレ宛に手紙でも出しといてくれ。……これ、仮住所。手紙を入れるためだけの家だけど、たまに帰ることもあるから気長に待っててくれ。あと、その状況も細かく書いといた。大体の疑問はこれで分かると思う」

「準備がいいのね」

「うん。歩きながら書いたからちょっとヘタクソだけど勘弁してくれ」

「一応読めるから大丈夫」

「そっか。……じゃ」

「……時間が空いたら来てちょうだい。自慢のお酒用意しとくわ」

「オレは下戸なんだ。お茶にしといてくれ」

「……分かった。楽しみにしてて」

「ん」

 

 

 



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おまけ

 とても柔らかい陽気に包まれていた。青空に雲が薄く浮かんでいて、陽の光が溶け込んでいた。

 山の中。緑が広がり、木々が疎らに散在している。どことなく湿気が多い。周りを見ると、雪氷が溶けかかり、山肌を濡らしていた。

 そこに二人の旅人が歩いてきた。一人は男。黒い長袖シャツに下半身を覆う甲冑を着ており、腰に刀を携えている。巨大な迷彩リュックをにこやかに背負っていた。見た目は優しく物腰が柔らかそうだ。

 もう一人は、

「大丈夫ですか?」

 女。見た目はとても厳しそうだ。きりりとしていて、辺りを睨むように見回している。

「……うん」

 しかし、口調は、

「だいじょうぶだよ」

 子供らしかった。

 女は黒のタンクトップに赤紫のへたったジャケットを羽織り、水色のタイトパンツを履いている。茶色のショルダーバッグを肩に掛けている。

 女が男を案内するように歩いていた。

「確かここではなかったような気がするんですけどねぇ」

「おねえちゃんがまちがえるはずないでしょ?」

「……その自信はどこから出てくるんでしょうねぇ……」

 とても不安そうに、男は女に付いていった。

 約半時後、

「……」

 目的の場所に着いていないようだった。

「あれ? おかしいな……」

「あの、私が案内しましょうか? ぼんやりと覚えていますし」

「うるさーい! おねえちゃんにまかせるのー!」

 男を弱々しくぽかぽか叩く。

「分かりましたから、そんなに暴れないでください」

 呆れてため息しか出ていない。しかし、男の表情は晴れやかだった。

 さらに数時間歩くと、

「!」

 見覚えのあるものをようやく見付けた。

「これでしたね」

 金属の柵。金属柱が列に二本ずつ地面に突き刺さり、その組み合わせが左右に定間隔で伸びている。その金属柱をいじってみるが、地中深く刺さっているようでびくともしない。

 二人はそこを通り、もう数十分歩いて行く。……見付けた。

「やっとですか」

 古風な家があった。出っ張るようにガラスの貼られた引き戸があり、玄関と思われる。その左側は縁側が通っていて、ガラス窓が閉まっていた。奥は障子で部屋が仕切られている。家の外壁は露出した柱に木材を当てている。

「どんなもんだい!」

「……すごいですね」

 苦味を極限に薄めた笑顔を浮かべた。

 家の中に入ると、石材で作った水回りや台所が右手側に。奥は掃除用具やら謎の木工品やらが置いてある。左手側に居間へ上がれる縁側があり、障子が閉められている。

 その障子を開けるが、誰もいない。床が焦げ茶色の木で、真ん中に囲炉裏が置かれている。さらに奥は一部屋あるようで、やはり障子が仕切っていた。

 二人は囲炉裏の部屋に上がることにした。仕方なく荷物を脇に置いて、一休みする。ディンは甲冑を脱いだ。下は紺青色のパンツを履いている。

「確か彼は山の捜索隊でしたよね」

「しらなーい」

「そ、そうですか。とりあえず待ちましょうか」

 

 

 数時間してもその人物が現れることはなかった。そんな訳で、

「寒くないですか」

「さむくないけどつまんなーい! もういこうよー!」

 女がぐずり始めた。

「お世話になったわけですし、“ナナ”さんもあの料理を、」

「ナナ“おねえちゃん”っ」

 ずいっと男に迫る。

「……ナナ“おねえちゃん”も食べたがっていたでしょう?」

「それでもやだー! つまんないっ」

「……」

 さすがに苦笑いを隠せなかった。

 女、“ナナ”はちょこんと男の膝に乗った。

「お、重いです……」

「さいてー。おんなのこにそういうこといっちゃだめなんだよ?」

「そ、そんなに暴れると!」

 ぐらりと男と一緒に後ろに倒れてしまった。

「……いててて……もう“ディン”! ちゃんとし、……!」

「あたた……」

 後頭部を強打したようで、そこを擦っている。

 ナナの目下に男“ディン”がいた。つまり、押し倒している体勢になっている。

「ナナさん、大丈夫ですか?」

 何事もない様子でナナに話し掛けた。

「……」

 じっとナナが見つめている。

「どうしました? ほら、ちょっとどいてください」

「……」

 ディンが押し退けようとしても、退かない。

「ねえ」

「はい」

「……」

 ナナが両手でディンの頬に触れる。

「な、ナナさん、なにをして、」

「ディン……」

 頬が赤みがかっている。そのまま顔が近づき、くちびるが……、

「何してるんだい、あんたら?」

「!」

 ナナがびっくりして振り返ると、

「お、久しぶりだなあ!」

 登山の服装をした男がいた。

「まさか、こんな時間帯でこんなところで盛り上がるとは思わなかった」

「あ、いや、そういうわけじ、ぶっ」

 びちん、と挟むように顔を叩くと、ナナはトタトタと奥の部屋へと行ってしまった。

「すみません。ちょっとした事故というか」

「いいよ。むしろ邪魔しちゃって悪かったな」

「いやいや。あ、申し遅れました。私はディンと言います。確か“ヤマ”さんでしたよね」

「ああ。覚えててくれたんか。嬉しいなあ」

「覚えるも何も、大分お世話になったので、お礼を言いに来たんですよ」

「!」

 登山の男“ヤマ”は荷物を下ろした。

「ってことは、例の復讐は……」

「はい。終わりました」

「……その話、詳しく聞かせてくれ」

「えぇ。今のナナさんでは話せないでしょうから」

「?」

 

 

 ちょうどお昼時ということもあり、ヤマは“例の料理”でもてなすことにした。それを食べながら、ディンは当時の事を話していく。

「……すぅ……すぅ……」

 ナナは既に食べ終えたようで、ディンの太ももで寝息を立てている。

 囲炉裏を挟むようにディンとヤマは座っていた。囲炉裏では火が起こされ、天井から吊るした鎖に鍋を引っ掛けている。その鍋からはぐつぐつと湯気を立てていた。

 うん、とディンが(うな)る。

「……これ、本当に美味しいですね」

「そんなに? ナナさんもそう言ってくれたけどよ」

「これはもう料理屋さんを開いた方がいいくらいですよ」

「はは。俺の仲間と同じこと言ってる」

 ヤマは笑った。

「……で、そういうことがあったんか。結局……」

「はい。(かたき)は殺しませんでした」

「前会った時は何が何でもって感じだったのに、何かあったんか?」

「分かりませんけど、当時私も復讐を果たしたとばかり思っていました。銃声も聞こえましたし。……私は外で見張りをしていたので、実際に目にしたわけじゃなくて……」

「……」

 ずず、と食べる。

「良心の呵責とか追い目とか、そういう感情ではないとは思うんですが、今となっては……」

「心が壊れたんじゃ、余計に話せないわな」

「えぇ。……すみません。本当はナナさんとお話ししたかっただろうに」

 ナナの頭をそっと撫でる。

「あ、そんな意味で言ったんじゃないぜ。なんつーかその……言葉が見つかんないんだけど。……でも、どうしてそれを俺に?」

「お世話になったからというのもありますが……久しぶりだからです」

 ディンは微笑んで、食べる。

「久しぶり?」

「彼女がまともに他人と会話をするのが」

 

 

「……」

 視界の多くを埋める黒。その端っこに丸みがあった。そしてその黒とは別に黒光りしているフレーム。

 一撃で全てを奪う……銃口。重心を短く切り詰めた二つの銃身に木で拵えた銃把(じゅうは)。それらが緩い曲線を描いて構成される。通称“ソウドオフ・ショットガン”。見た目は小さく二発しか装填できないが、接近戦ではその携帯性からは考えられない威力を発揮する。

 そんな危ない代物を女が握っていた。冷静さを装っているが息が荒く、心中穏やかではなさそうだ。

 目の前にはベッドで仰向けになっている男。それも左肩が銃撃で引き千切られ、その激痛で何もかもを流している男。ほぼ接射したためか、左肩の部分には床まで突き抜けた穴が空いている。

 その男の目先に銃口が向けられている。

 きき……と指に力が込められていくにつれ、女の表情から温度が抜けていく。ぐっ、

「!」

 かちん。……不発だった。

 何食わぬ顔で懐からショットガン・シェルを取り出し、入れ直す。空薬莢はきちんと回収する。

「……」

 そして再び向けた。

「……ふぅ……ふぅ……」

 男に意識はほとんどない。譫言(うわごと)のように、息をついていた。それが何を意味しているのか、既に女は察している。

 ちらりと“ショットガンから”視線を外した。男の傍らにある謎の物体。水色の四角い物体だが、中身をいじったようで分解されている。

「……ごめん……ふぅ……」

 ふる、女のショットガンが揺れる。ぎり、と歯軋り。無表情が崩れ、苦渋の面持ちになっている。

 それでも女は無理矢理、引き金を、

「待ちな」

「!」

 振り向くと同時に、声のする方へショットガンを向ける。

「……!」

 女は驚愕した。

「……外に見張りがいたはずだが……」

 ぼそり、と呟くように話し掛ける。

「裏口なんていくらでもあるんだぜ、お嬢さん」

 黒い男はにたりと笑う。

「何の用だ?」

「……」

 ぽりぽり、と頭を掻く。

「その弾……買い取らせてくれないかな?」

「……買い取る?」

「あぁ。それもお嬢さんが持ってる弾の数だけ」

「……それはつまり、この男を殺すな、ということか?」

「いんや、そうは言ってない。ただ、買い取りたい、と言ってるだけだ」

「では、仮にナイフで突き殺しても文句はないということだな」

「……それができれば、な」

「!」

 黒い男は首を解すように回す。

「……どうして助けようとする?」

「だから、助けようってことじゃないんだって。これを見ないとなっとく、」

「!」

 黒い男が懐に、

「動くな」

 入れるのを咎める。

「なら、お嬢さんが確かめてくれ。服の中にある」

「……」

 女は躊躇っていた。身体検査をしようものなら、たちまち戦闘になることは避けられないだろう。しかし、それよりも不審感不安感の方が(まさ)っていた。

 しっかりと目標を定めつつ、黒い男の方へ近づく。

「安心しな。変なことはしないからさ」

「……」

 追い込んでいるはずなのに、とてもそんな気分になれない。女は重圧感をひしひしと感じていた。

 ごそり、と黒い男の言う服の中を調べる。そして、何かを探り当てた。取り出すと、

「!」

 ショットガン。それも女の持つタイプと全く同型のものだった。中も調べるが、空だ。

「……」

 危なかった。女はなぜかそう思わずにはいられなかった。

「奴を助けるのではなく、私を殺すのが目的だったのか」

「どっちも違う」

「?」

「……お嬢さん、あんたを試してるんだ」

「……は?」

 黒い男は口角を上げる。

「どうせ殺すなら、銃もナイフも変わらないだろ? それに復讐達成も目前だ。その実感、肌身を持って感じたいと思わないか?」

「な、何を言っている?」

「つまりこういうことさ」

 黒い男が急に歩き出した。

「! う、動くな! 撃ち殺すぞ!」

「……」

 しかしずんずんと迫り、最終的には、

「あ……」

 女の目の前まで来てしまった。しかも、頼りのショットガンまであっさり奪い取られてしまう。

「どうしてできないか、分かるか?」

 にこりと笑う。

 ぼそりと、女は分からないと素直に答える。

「そっか。……お嬢さんは迷ってるんじゃない。こいつを仇と思わなくなってるからなんだ」

「! ばかな!」

 語気を強める。

「うすうす感じてるんじゃないか? こいつがはたして弟を殺すことができるんだろうかって」

「……!」

「お嬢さんは尾行監視していくにつれ、こいつの気に当てられちまったんだ。こいつはお嬢さんを知らないだろうが、お嬢さんは仲間のように感じちまってる。……もし、仲間でも殺すような(たち)なら、外の見張りさんも殺しているだろう。でもそれができない。もともと、お嬢さんはそんな(おぞ)ましい性格じゃない。ちょっと気難しくて不器用で口下手だけど、誰よりもお世話焼きで心優しい性格なんだ」

「……あなたは、私を知っているのか?」

「全然」

 唖然とする女。

 黒い男は、でも、と続ける。

「見ただけで分かる。それこそ色んな人間を見てきたから分かる。お嬢さんが見張りさんに惚れてることもな」

「! ……貴様……」

「……さて、長くなっちまったがどうする? 買い取らせてくれるのか?」

「……断ったらどうする?」

「どうも。ただオレは提案してるだけ。呑むかどうかはお嬢さん次第だ。だが、ここが人生の分岐点だと思ってくれよ。それほど、ここは重要な時なんだ」

「……」

 女は……、

「……」

 何とも言えない気持ちになっていた。殺すと決断したはずなのに、どこか足が(うわ)ついている感覚を覚える。黒い男の言うことが正しいのか、それとも今までの自分が正しいのか、頭がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているようだ。

「!」

 ふとして、何かが聞こえた。

「……ふぅ……ふぅ……」

 耳に入ってきた呻き声。“殺す”、その言葉が喉から出そうになった瞬間だった。その言葉は、

「……好きにしろ。どうせ今から助けを呼んでも遅い」

 強引に形が変わってしまう。ただし、

「よく呑んでくれた。……して、何を望む?」

「……」

 女が黒い男にショットガン二丁とシェルを全て渡した。

「こいつを殺してみろ」

 変わったのは形だけ。その意味は変えられない。にやり、と女が男を一瞥して、妖しく微笑んだ。

「そんなことでいいなら」

「……え?」

 ところが、ショットガンにシェルを装填すると、

「ほい」

 男に向かって、連射した。残りの弾を全て吐き出すように、容赦なく撃ち込んだ。

 耳を覆いたくなるような銃撃音。鼓膜を弾丸で貫くような、痛みを訴える重高音だった。その音が途切れることがない。

 開いた口が塞がらない。黒い男が誰なのか知っているからか、衝撃が計り知れなかった。

 きーん……、と耳鳴りが激しい。周りの音が一切遮断されている。黒い男も同じようで、しばらく男を見下ろしていた。……ようやく終わった。

 耳鳴りが治まりつつある時、黒い男は女にショットガンを返した。

「これで取引成立だな。……殺す時はナイフでな。じゃあ」

「……」

 何事も無く立ち去る黒い男。傍若無人ぶりにもそうだが、あまりの強引な勢いと呆気無い幕引きに、呆然として見送ることしかできなかった。

 はっとして、女はナイフを取り出し、男の方へ寄る。振りかぶった。

「……」

 もはや意識も声もなく、ただひたすらに口だけが動いている。その口の動きは……。

「……“ふぅ、ごめん”……か……」

 男の首の右側に大きな穴が空いていた。左肩の部分よりも大きく、深い。床どころか地面さえも荒々しく削られている。先ほどの何十発も撃ち放った跡だった。

 ナイフを頬に擦らせる。女が力を入れれば、血と一緒に口腔という空間をさらけ出すことになる。しかし、

「“フー”か」

 女の表情は、綻んでいた。憑き物が落ちたように、顔の険が解れている。

「……なるほど。取引をさせたのはそういうことか」

 眉が寄る。しかしそれは意志が固まったようにも見えた。

「死ねばそれまで。しかしもし助かったなら……」

 

 

「ありがとよ」

「いえ。あなたに頼まれては誰も断れません」

「……」

「……こんなところでお会いできるとは光栄です。ツチノコを探すよりも出会えないと言われた方と会えるなんて」

「珍獣扱いかよ……。結構色んな人と会ってるんだけどな」

「しかし、あなたがなぜ助けるようなマネを?」

「そうじゃないけどまぁ……なんだ……たまたまだよ」

「たまたま?」

「あぁ。ちょうど通り道だったんで、寄っただけなんだ。それをもったいぶって色々嘘ついてごちゃごちゃ言ってただけ」

「そうですか」

「ただ、手に掛けたかどうかまでは分かんない。彼女に決断を委ねといた。……でも、お前さんは悪い奴だ」

「……」

「あいつを利用して彼女に近づくなんて、中々ゲスいぜ。しかも真実を隠すために心までも壊そうとしてやがる。……何が目的だ?」

「心まで壊そうとは思ってません。ただ……罪滅ぼしです」

「罪滅ぼし?」

「……彼女の弟の自殺を止められなかった罪です」

「?」

「彼女に向いてほしくて彼を利用したのは事実です。かと言って真実を伝えたところで誰が“僕”の話を信じましょう? 彼女は彼が殺したと思い込んでいて、当時その彼は僕らの依頼仲間だったんです。つまり、彼女の復讐対象に僕が入っていてもおかしくはなかった。だから彼を利用することで、自分で真実を受け入れてもらうしかない」

「だからこんな遠回りな計画を企んだのか」

「……」

「今回の出来事の元凶はお前だ。……彼女がどうなろうとも、男として責任を取るんだな。それがお前を殺すことになっても」

「はい。……もう彼女と出会った時から、覚悟しています」

「……ったく、本当はオレは首突っ込みたくなかったんだ。誰かさんの命令だからってだけで、こんな所に来なきゃならんなんて……ぶつぶつぶつ……」

「え?」

「あぁいや、気にすんな。ただの愚痴だ。いろいろとめんどそうだからよ」

「?」

「あぁそれと、早くここらへんから離れた方がいいぞ。悪名高い女の国の近くなのは、知ってるよな?」

「はい」

「連中はオレらの存在に気付いてるぜ」

「! じ、じゃあ彼を助けなければなら、」

「あんな怪我人より自分らの身を心配しろ。どっちにしたって死んじまうんだ。よっぽど腕の良い医者がいないとな。しかもあいつに気を取られてくれれば、それだけ距離は稼げるぜ?」

「……では、何のために彼を助けたんですか?」

「オレは彼女を試しただけだっての。誰も助けるとは言ってない。……オレはもう行く。短かったが楽しかったぜ。じゃあな」

「あ、まだ聞きたいことがあ、…………! ……姐さん……」

「……」

「決着、つけました?」

「……」

(こぶし)……折れていますね」

「別に問題は無い」

「嘘つかないでくださいよ。あんなド派手な音だったのに、何もないわけないじゃないですか。ほら、見せてください。……あの男が真実を語り、そして姐さんが“平和的”に終決する。これが私の望みでしたが、ただの理想幻想にすぎないようですねぇ」

「……何だか(むな)しいな」

「結局、姐さんがしたことは、大切な人を奪われた人間を生み出しただけです。かつての姐さんのように……」

「!」

「今度は姐さんに憎しみが向けられることになるんですよ? かつての姐さんのように……」

「私はもう、この世に未練はない……」

「そうして、姐さんを殺したやつを、今度は私が殺す。もう、憎しみの連鎖が完成してしまったんです」

「……それでも構わない。私の生きる糧はないのだから」

「…………と言っても大丈夫ですよ」

「……え?」

「姐さんを殺そうとする連中から守り通してみせます。そうすれば連鎖が完成することはない。……僕がその糧になります」

「……ふ。よくもそんなクサくて、論理がスカスカな台詞を吐けたものだ。おかしくて笑ってしまうよ」

「あはは……。でも、その笑顔も素敵です」

「……っ……」

「ひとまず、ここから離れましょう。誰かに見られると厄介です」

「……では、あそこに行こう。弟たちに報告したい」

「はい」

 

 

「そうか。そんなこんなであんな感じに……」

「はい。……全ては私が悪いんです」

「いいとは言えねえが、真実は話したんだろ?」

「えぇ。今度は私が殺されるかもしれませんね」

「いやいやいや。それはありえんよ」

「?」

「隙間に誰も入れないくらいに熱々な二人だもの」

「?」

「俺の目の前でチューするくらいだしな」

「なっ、ちょっと! あれはわざとそうしたわけじゃ、」

「あっはっはっは。まあ、ナナさんを労ってやった方がいいよ」

「……」

「……さて、俺はそろそろ仕事に戻るか。最近はやたらと忙しくなってな」

「どうしてです?」

「まあ麓に来てくれれば分かる。……もっと旨いもん食わせてやるよ。もし来てくれるなら、ここの鍵、渡しとくぜ? 邪魔しちまったからな」

「! ヤマさんっ!」

「あっはははは。……お楽しみにな」

「冗談も過ぎてますよっ」

「じゃあ“また”な」

「……はい」

 

 

 



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Request Story:思い出 by alias

 道路があらゆる場所に入り混じり、信号が灯り、それに従う車と人。その滑稽な光景を見下ろすようにそびえ立つ高い高いビルと建物。さらに高いところで雲の多い晴天が広がっていました。

 昼の気温は立春頃なのに、太陽からの直射日光でその街は酷く熱せられています。防寒対策をしているため、混み合う生物無生物みんな暑苦しく感じているでしょう。

 その街中のとある交差点に一人の旅人が立っていました。信号で歩行者優先となっている今、交差点のど真ん中に立ち尽くしています。

「面白い国」

 旅人は黒い服装をしていました。フードの付いたセーターを着込み、ジーンズに履き汚したスニーカーを履いています。左耳から黒い線が伸び、服の中へ入っています。

 荷物はというと、大きいサイズのリュックを背負い、ウェストポーチをセーターの下の両腰に身に付けています。リュックには黒い傘が横から貫いていました。

〈どこが面白いんですか?〉

 女の“声”が黒い線を通じて聞こえてきます。妙齢の女の声で、声に“ハリ”と穏やかさが伝わります。

「人がうじゃうじゃいるところかな」

〈えっと、どこの国にもたくさんいると思いますけど?〉

「道路に埋め尽くすほどは見たことないよ。君はある?」

〈いやいやまさかっ。実際にそこにいたら、倒れちゃいそうです〉

「んだな。にしても国自体も広いから、宿を探すのも一苦労だ」

〈探しましょうか? 一発で分かりますよ!〉

 はきはきと楽しそうに話します。

「ありがたいけどやめとくよ」

〈どうして?〉

「ゆったり観光しながら探すのも、旅の醍醐味だよ。特には急いでもいないしね」

〈そ、そうなんですか……〉

 “声”は不慣れな感じでした。

 旅人がそのまま適当にうろついていると、

「?」

 どこからか大きい音がしました。

「さあ! 見てらっしゃい見てらっしゃい! 今最新モデルがセール中ですよ~!」

〈なんの宣伝ですか?〉

「どうやら、この国で流行ってるものみたいだ。なんでも“スタホ”とか呼ばれてるみたいだよ」

〈へぇ……ってなんでそんなに知っているのですか?〉

「周りの人がそう言ってたんだ」

〈? え?〉

 “声”はよく意味が理解できていないようです。

「盗み聞きして情報を集めてるんだよ。そうすれば住民と話せることもあるだろうから」

〈すごいですねっ。ごちゃごちゃしてて分からないですよ〉

 苦笑い。

 さて、と旅人は宣伝の声が聞こえた方へ向かいました。お店とマンションが合体したようなビルで、その一階部分で何かの商品を売っていました。赤い法被(はっぴ)を着た男がその店の前で、通行人に呼び掛けています。この男が声の主のようです。

 ちらっと店前に陳列されている商品を見てみました。段々の棚に色んな色の四角い物が置いてあります。ガラスのような面を見せるように並んでいました。

 法被の男が旅人を見掛けると、いそいそとすり寄って来ました。

「お兄さん、ご興味あるんですか?」

 とても輝かしい笑顔です。薄っすらと額に汗しています。

「いろんな人がそんな話をしてたから気になったんだ」

「お~! ってことは旅人さんですね?」

「うん。“スタホ”って言うんだって?」

「さすが、お耳が早い! 早速お話だけでも~聞いてくれませんか~?」

 くすりと笑います。

「お願いするよ」

 店内に入ると、表にあったような棚が陳列していました。フロア中心にその棚が二列ほど。その真正面には受け付けが四つありました。それぞれで“スタホ”の説明を受けていると思われる客たちが座っています。

 偶然空いていた一番左端の席に座りました。女の店員が人工的な笑顔で迎えてくれました。

「こんにちは旅人さん。どうやら“スタホ”に興味がおありとか」

「ちょっとね」

「それなら実物を見てもらった方が良さそうですねっ! ……では、こちらです」

 店員に見せてもらったのは、

「? これが?」

 四角い物体でした。やはり陳列されていた物と同型で、ガラス面を縁取って囲うように黒のフレームが加工されています。また、長方形型で角が無く、丸みを帯びていました。画面下に葡萄(ぶどう)のマークが入った四角いボタンが付いています。また、側面にはいくつかボタンが付いていました。

「そうです! これは“グレープ社”が開発した新型“スタホ”の“グリフォン4”です!」

〈かっこいいですね〉

 うん、かっこいい、と自然に返答しつつ感想を言いました。

「今までの携帯機はボタンで操作していましたが、この“グリフォン4”はこのスクリーンにタッチするだけで、操作が可能なんです!」

「え? ……ウソでしょ?」

「旅人さん、すごくいいリアクションですっ。さ、どうぞ触ってみてください!」

「……」

 起動だけはボタンを押す必要があるらしいので、画面下にあるボタンをポチッと押してみました。画面には花畑の画像と時計、そして画面下部に、

「……で?」

「その下部にあるスライドバーを横にシュッとなぞってみてください!」

 店員の言う“スライドバー”があります。それを言われた通りにすると、

「!」

 表示されたアイコンも操作通りに動き、四角いアイコンが整列した画面に移りました。

「ここがホーム画面と呼ばれる場所です」

「……見たところ、カレンダーと天気予報くらいしかないけど……」

「“グレープ社”が承認した様々なアプリをここにダウンロードすることができるんです」

「……ってことは、自分の好みに合わせるってこと?」

「その通りです。旅人さんはこういうことにも精通してるんですか?」

「あ、いや、何となくそう思っただけだよ」

 旅人はその画面をいろいろ触ってみました。横になぞると隣のページに移ろうとしたり、トントンと叩くと拡大したり縮小したり。面白い、と呟いています。

「なんか思った以上に操作が単純だね。設定もよく分かんないけど、覚えれば簡単そう」

「そうなんですっ。そこがまさに“グリフォン”シリーズの特徴なんですよ」

「?」

「他社とは違ってカスタマイズ性は落ちるんですが、難しい設定も少なく、初心者には使いやすい設計になってるんです。しかもアプリは“グレープ社”の厳正な適性検査に通ったものだけなので、安心して使えるんです」

「へぇ。それはすごい」

「そしてこの“グリフォン4”の最大の魅力は、なんと会話もできることなんですよっ」

「あ、……そうなんだ」

 意外に旅人の反応は少なめでした。

「あれ、あまり驚かれていないですね。おかしいな。……他の旅人さんならマジでっ! やらせてやらせて! ってなるのに……」

「あ、えっとうーんっと……」

「もしや、世界中で大人気の“グレープ社”よりも、技術が進んでる会社があるんですか?」

「!」

「良かったら参考にしたいので、ぜひおしえてもら、」

「ごめん! もう時間だから失礼するよ!」

「ま、待って旅人さん! 旅人さーんっ!」

 

 

 まるで逃げ込むように宿を探し、数泊することを決めた旅人。探し当てるのに夕暮れまでかかってしまいました。とにかく広いです。

 シャワーとトイレが一体になった部屋とベッドが一つあるだけの狭い部屋が、ドアを隔てているだけの一室でした。入った瞬間に靴棚が左側に、右側に浴・洗面室、目の前にベッドがあるだけです。話だけ聞くと安い宿のように思いますが、

「今日はよく眠れそう」

 旅人は満足気でした。

 ベッドに敷いていた掛け布団を引っ張り出すと、持っていた荷物をベッドに展開しました。そこから袋を一つ、懐から武器であろうナイフを取り出しました。ついでに、首飾りと思われる青い四角い物体を脇に置きました。先ほどの“グリフォン”とは違い、蝶番のものでした。

 袋からいくつか容器を取り出すと、中身を使い古した布で(すく)い、ナイフの刃に塗りつけていきます。

「いつも思うんですが、それって何なんですか?」

 女の“声”がその四角い物体から聞こえていました。旅人に話し掛けていた“声”です。

「これ? ……なんだろうね」

「えぇっ? 何も分からずに使ってたんですかっ?」

「えっと……何て言えばいいかな。ツヤ出し? ん~、サビ止め、とも違うし……説明しづらいね。でもこいつに悪いものじゃないよ」

 全長は拳六つ分ほど。刃と柄それぞれ半分ずつです。柄は黒い格子(こうし)で組まれていて、隙間には透明なシートのようなものが覆っていました。先端に付いている突起は刃の固定を外すだけなので、押しながら振らなければなりません。

「にしても、あの“グリフォン”ってのはすごいね」

「すごく便利そうでした。いっそ取り替えてみたらどうです?」

「……え?」

 旅人が“声”の方を見ました。

「旅をするのにも今よりもっと役立ちそうですよ。地図は鮮明で天気予報はもっと精度が高くて、それに失くした時もすぐに探せる仕組みもあるみたいですし。あと、」

「あれがほしいんだ」

 きゅきゅっと拭いた後、ナイフを手元に置きました。そして、“声”のする四角い物体に手を伸ばします。それには別の液体を別の布で拭いていきます。

「え? だってお役に立ちたいですし……あ、お金の問題がありましたね。すみません、調子に乗っちゃって……」

「……」

 ……にこりと笑います。

「うぅん、いいよ。確かに便利だもんね」

 

 

 翌朝。すっかり日が昇った頃、旅人は起床しました。

「ん、んぅ……」

 ポリポリと頭を掻いています。旅人は掛け布団に(くる)まって、なぜか床で眠っていました。

「おはようございます」

「ん、おはよ」

 “声”も起きました。黒のタンクトップに黒い下着姿でした。衣類はベッドに放り投げられています。

「今日はどうする予定なんですか?」

 軽く身体を動かしています。

「適当に買い物するよ。(せわ)しなくて広い国だから、時間はかかりそうだね」

 旅人は柔軟体操を始めました。ぐいっと開脚したり、そのままべたっと床に着いたり、脚をくっつけた状態で、くにゃっと身体を折り曲げたりします。その柔らかさはタコのようで、とても男性のものとは思えないほどでした。十分に時間を掛けて行なっています。

「……ふぅ」

「お疲れ様です」

 ぽたぽたと汗を流しています。

 荷物から着替えを取り出すと、そのまま浴室の方へ行きました。数十分後、旅人はほかほかしながら戻ってきます。

「そのタオルは?」

「宿に常備されてるのだよ。どこか泊まったこと、あんまりない?」

「はい……」

「……知らなくても仕方ないよな、うん」

 特に気にすることなく、旅人は支度を始めました。

 

 

 とても不思議だところだな、旅人が呟きました。

〈どうしてですか?〉

「だって、これだけ車とか色んな乗り物が走ってるのに、それを停める場所がほとんどないんだよ。挙句の果てには道路にまで停まってるし」

 辺りを見てみると、確かに旅人の言う通りでした。お店はびったりとくっついて並び、他の建物の一部になっていたり、同じ建物なのに階層ごとにお店が違っていたりしています。それに広い街を見せつけるように、車が道路で渋滞を起こしているほどでした。ところが、これらを収める空間は一切ありません。

 旅人は車の方を一目して、何も言わずに歩いていきます。途中、雑貨屋や食料店に寄っては、旅の荷物を整えていきました。ただ、買い取りや物々交換はしてくれなかったので、買っていくだけに留まりました。

 そうして、とある一店の前で立ち止まりました。

「……」

 見た目は何の変哲もない雑貨屋さんです。しかし、その垂れ幕に注目していました。

「これ、何て書いてあるか分かる?」

〈え? えっと……“スタホ備品専門店”とあります〉

「……ちょっと入ってみよっか」

〈は、はい〉

 旅人はそのお店の自動ドアを開けて、入りました。右手側にレジがあり、その他は商品が並べられています。レジには小太りでチョビヒゲの四十代男の店員がいました。いらっしゃい、と旅人を見て営業スマイルを見せます。他店では丁寧な言葉遣いでしたが、ざっくばらんでおおらかな対応でした。お店はそこまで広くなく、その店員一人だけでした。

 旅人はそのままレジに直行しました。店員が不思議そうに見ています。

「あの、ちょっといいかな?」

「なんだい?」

「みんな“グリフォン”ってやつ持ってるけど、そんなに流行ってるものなの?」

「君は旅人さんだね」

「うん」

「そうだなあ……。流行ってるというか、ほぼ必須に近いよ。でも、使ってるのは“グリフォン”だけじゃないぞ?」

「え?」

 と言うと、店員は自前を見せてくれました。形が“グリフォン”とは全く違います。店員のは角が直角で、真っピンクです。しかもどこにもボタンがありませんでした。

「これは“キッンキン社”が出してる“アックアク”だよ」

「形が違うけど全体的に似てるね」

「まあ、先駆けが“グレープ社”だから、パクリって言われても仕方ない。でも性能は負けてないよ。この“アックアク”はね、あーでこーでそーで…………」

 店員はとても丁寧に細やかに詳しく説明してくれました。しかし、旅人の表情は困惑しているように見えます。とても専門的なために、相槌しか打てませんでした。“声”に至っては、

〈は、はへ……?〉

 人間語に聞こえていません。

「……ってことなんだよ。聞いてみると、いいもんだろ?」

「う、うん。そうだね」

 あははは、と空笑いになります。

「そう言えば、旅人さんはイヤホンしてるけど、どこの企業の“スタホ”なんだい?」

「えっと……そもそも“スタホ”ってのが分からないんだ」

「そうなんだ。“スタホ”ショップには行ったかな?」

「うん。“グリフォン”ってやつだけ見せてもらったよ」

「……全く、なんて不親切な連中だ」

 店員が急に不機嫌になりました。しかし、旅人さんのことではないよ、とすぐに笑って言いました。

「技術が超一流でも宣伝がド三流じゃ、旅人さんが買ってくれるわけないのに、ほんとに頭のおカタイ奴らだよ。おまけに料金プランについてもロクに説明してなさそうだし……」

「あ、えっと」

「あ、ごめんごめん。話が逸れたね。“スタホ”っていうのは“スタイルフォン”の略なんだよ。昔からあった折りたたみ式、つまり“ガラホ”とは違って、スタイリッシュな形に直感的な操作ができるものを総称して言うんだ。もっと細かく言うとね、」

 と、またも長々と懇切丁寧に説明してくれました。やはり旅人はうんうん、と相槌を打つだけでした。“声”はもはや沈黙するしかありません。

「それで……あ、すまないね。“スタホ”が大好きだから、ついつい」

 苦笑いします。ちんぷんかんぷんなのを途中で気付いたのか、話を止めてくれました。

「店員さんはもともとそういう仕事をしてたの?」

 カラカラと笑います。

「いやあ。僕はこんな性分だから、クビにされてしまってね。でも“スタホ”以外の仕事なんて考えられなかったから、思い切って起業したんだよ。ちょっと小汚くて小さいけど、商品量は他に負けないよ!」

 どん、と胸を張りました。

「よくは分からないけど、役に立ちそうな備品がいっぱいあるね」

「“スタホ”はカバーにも特徴があるんだ。シリコン製のもあれば、プラスチック製や革製のもあるんだよ。ここらへんは完全にお好みだね。どの素材も衝撃に強いんだけど、シリコン製なら汚れが付きやすいし、プラスチック製は傷が付きやすいし、革製は少し重いし。中にはストラップ、まあ飾り付けができるタイプもあるんだ」

「……はぁ……」

 この説明は何とか付いて来られました。

「で、旅人さんは“スタホ”はどうするんだい? 昔は色んな関係で国外じゃ使いづらかったんだけど、今は進歩していつでもどこでも使えるようになってるよ。中には“スタホ”の噂を聞いて、立ち寄ってくれる旅人さんもいるくらい、使い勝手が良くなったよ。まあ、まだまだ宣伝が足りないから多くないんだけどね」

「……ちょっと決断しきれなくって」

 かりかり、と頬を掻きます。

「分かるよ」

 ずいっと凄まれました。苦笑を呈する旅人。

「旅人さんは賢明な人が多いよ、うん。安くない買い物だし、一生ものだから、専門家によく尋ねるようなんだ。実は僕もその手の相談を無料で受け付けていてね。どうかな、もし良かったら旅人さんのを見せてほしいんだ」

「……え?」

 旅人はびくっとしました。

「もちろん個人情報だから絶対厳守するよ」

「どうして?」

「僕の経験上、どんな風に使っているかを見ることで、使用者の癖により合った物をオススメしやすいんだ。娯楽目的なのに仕事目的のを勧められても困るでしょ? 使用者のニーズに的確に応えるために必要なんだよ。話だけじゃどうしても分からないことがあるし」

「……」

 旅人は数分も考え込んでいました。そして、せっかくだからということで、

「いいよ」

 首飾りを手渡しました。その途端、

「! こ、これはっ……!」

 店員は汗が溢れるほど、ぶったまげました。食い入るように四角い物体を見たり触ったりしています。

「なにかやばい?」

「いや、こ、これほど古いのは初めて見るっ」

「あ、やっぱり古いんだ」

 旅人はくすくす笑ってしまいました。

「旅人さん、これは馬鹿にしちゃいけないよっ」

「?」

「僕が小さい頃かな。ある国の……まあ僕らの国で言うところの“ガラホ”を見せてもらったことがあるんだけど、恐ろしい技術が組み込まれていたんだ」

「恐ろしい技術?」

「それは……自立会話のできる技術だっ!」

「……!」

 ぴくりと反応します。

「当時の僕はびっくりしたよ。誰とも通話しているわけじゃないのに、一人でに言葉を発するんだ。まるで人間のように滑らかで言葉が豊富で、しかも使用者を支援してくれるんだ」

「……」

「それはもうこの業界を震撼させた技術だったんだ!」

「……“だった”ってことは、今はないんだ」

 ぽそりと言います。

「……そう」

 熱烈に語っていたのに、一気にしゅん、と落ち込みます。

「でも、その国の開発者が、実はイカサマをしていたことが分かってね……。結局は夢の技術に終わったんだ……」

「あの“グリフォン”ってのは? 確か会話ができるって言ってたよ」

「あんなもん、会話じゃない。使用者が話し掛けないと反応しない代物なんだよ、それに、どちらかというと道案内や情報検索の意味合いが強くてね。“スタホ”側からは一切しゃべらないんだ。それをさも“会話ができます”なんて誇大広告出しやがって……」

 わなわな、と怒っているように見えます。

「話を戻すけど、旅人さんのはかつて僕が見た“ガラホ”に良く似た形をしてるんだ。色が違うだけでね。……ぜひ伺いたいんだけど、これは自立会話ができるのかい?」

 しかし、店員の目はキラキラしていました。子供が欲しかったおもちゃを買ってもらったかのように、とても輝いています。

 旅人は無言で横に振りました。

「……そうか……」

 店員はとても残念そうに、旅人に返しました。

「それはどこで手に入れたんだい?」

「いや、知り合いに借りてるんだ。だから詳しいことは分からなくて……」

「そうなんだ。……ざっと見た感じ、旅をするために重視した設定になってたね。オススメは“スタホ”の中でも効率性と旅行性を重視した“ウェアー社”の“ペリエンス”がいいと思う。天気予報や位置情報、辞書や言語翻訳機などが他機よりもとても充実していて、旅人さん向けのものだと思うよ」

「“ペリエンス”か。分かったよ」

「“スタホ”買うようなら“ウェアー社”のお店に行かないとダメだよ。旅人さんに“グリフォン”を教えてたのは“グレープ社”だから。もし買ったら、ここで備品を買ってくれれば三割引してあげるよ」

「おー。太っ腹だね」

「見た目もそうでしょ? あっはははは」

「ははは」

「でも……その話はお店だけにした方がいいよ。旅人さんのは絶対に見せびらかしちゃダメだからね」

「?」

 

 

 太っ腹の店員の話が積もって、とっくにお昼を過ぎていました。適当に昼食を食べて、すぐに街中に出向きます。その表情は暗いままでした。何か思いに(ふけ)っているようにも見えます。

 “声”はおそるおそる尋ねました。

〈どうしたんです?〉

「いや、どうもしないよ?」

 (ほう)けているのか、普通に答えました。

〈どうもしているように見えますよ。あの店員さんに言われた時、いや朝からずっと〉

「そう? 心配しすぎだよ。けっこう心配性だもんな」

〈だってずっと表情が暗いから……〉

「!」

 旅人は目を見開きます。

「……そう見えたの?」

〈はい〉

「……そっかぁ……。でも大丈夫。ちょっと考えてるだけだから」

〈そっそうですか。私、いけないことを言ってしまったように思って……〉

「大丈夫だよっ。心配しすぎ!」

 旅人は吹き出して笑いました。

 それ以上は聞くのを止めました。

 日が暮れるまでずっと街を散歩していました。時折ベンチで休んだりもしましたが、この国の住民の様子を眺めていました。言うように、住民のほとんどが“スタホ”を使っているようです。小さな公園に行くと、子供たちが“スタホ”で遊んでいる光景も目にします。

「わざわざ公園に来て、あれで遊ぶんだね。面白い」

 さすがに声を掛けられないようで、そのまま後にしました。

「すごいなこの国は。お年寄りから子供まで、みんな使ってるよ」

〈相当便利なんでしょうね。ちょっとおかしくも思っちゃいますけど〉

 “声”は溌剌(はつらつ)としています。

「オレもそう思うかな。……取り憑かれてるように見えちゃうよ」

〈? “スタホ”にですか?〉

「あれだけ便利なんだ。あれ以外いらなくなっちゃうし、手放せなくなりそうだしね。結局は使う側の問題なんだろうけど」

〈私なら全然使いこなせそうにないです〉

「同感」

 笑い合います。

「じゃあ適当に夕飯食べてゆったりしようかね」

 旅人は再び道路の歩道に出向きました。

〈そうです、〉

 何もないところで転んでしまいました。

「ぶっ」

 何とか両手で衝突は避けましたが、膝を思い切りぶつけてしまいます。

「いったたた……」

 衝撃で、左耳のイヤホンも取れてしまいました。

「あ」

 そして、吹っ飛んだ旅人の首飾り。

 道行く人々がそれを目にした瞬間、

「なんだこのオンボロ機はっ!」

「ださくて見てられないわっ」

「早く片付けて! フケツよフケツ!」

 鬼でも見たかのように、一斉に騒ぎ出しました。人々は首飾りを疎むように、避けるように離れて、それに向かって罵声を浴びせます。

 ポツンと寂しそうに放置される首飾り。こんな雰囲気では取りに行きようものなら犯罪者呼ばわりされそうです。

 しかし、

「悪い悪い」

 旅人は何の気にも留めず、すんなりと拾い上げに行きました。

 それを見ていた住民たちは予想通り、

「なんだあの男はっ?」

「犯罪者よっ! 産業スパイよ! テロリストよ!」

「なんと恥知らずな野郎なんだっ!」

 旅人に罵詈雑言を投げつけました。当の本人は何事もなかったかのように、イヤホンを付けて歩き出します。

 その後は酷い有様でした。今までは特に何も気にしていなかったのに、その旅人を見るや、入店どころか物を投げつけられます。鍋、おたま、ガラスコップ、生卵、まるで裏切り者に対する仕打ちのようでした。しかし、旅人はそれらをほとんど打ち落としていました。

 耳に突き刺さるような野次は旅人を取り囲んでいました。油断すれば、何をされるか分かりません。そんな状況下なのに、

〈あの、大丈夫ですか……?〉

「ん? 何が?」

 平然としています。

〈いや、みんな目の敵にして……〉

「ちょっと驚いたけど……そこまででもないよ。ごくたまにあるし」

 笑ってはいますが、旅人の表情が心なしか強張っています。

「これじゃ、どこの店にも入れなそうだ。ごめんな、オレがしくじっちゃったから……」

〈そ、そんなことはどうだっていいですよ! それよりも早く出国しませんか? すごく腹が立ってきますよ!〉

「でももう夜になりそうだし、出国は明日にしたいな」

〈悠長すぎますよ! いつ襲われるかも分からないのに!〉

 野次のトンネルをくぐるように、何とか宿に戻ることができました。

 ところが、

「なんだって?」

 受付で予想もしない言葉を叩きつけられました。

「いや、だって宿泊は明日までだって、」

「すみませんが、お引き取りください。旅人さんの荷物はこちらにございますので」

 先刻の出来事がどうやって広まったのやら。宿にまで波及していたようです。幸い、荷物までは手を出していないようでした。

「一体どうしてっ?」

「旅人さんがそんな化石みたいな機器を使っているからです」

「それだけでっ?」

「はい。私たちにはそれが一番重要なことなのです。もし、ご協力いただけないなら……」

「……」

 すっと、受付員が旅人に銃を向けました。両手でしっかりと、動揺も躊躇も見せずに。

 横暴。そうとしか言いようがありません。現に、旅人も唇を噛み締めていました。

〈ガツンと言っちゃってください! こんな所に用はない! って!〉

「……」

 しかし、旅人は無言で荷物を受け取り、

〈……え?〉

「ありがとう。お世話になったね」

 にこりと笑いかけました。

「ご理解のほど感謝します」

 そのまま宿を出て行ってしまいました。

 外はもう真っ暗です。いや、空が真っ暗です。ありとあらゆる所に照明があり、真っ昼間と何ら遜色のないほど街を照らしていました。通り過ぎる住民は仕事帰りで疲れ果てていて、非難はしませんでした。しかし、威圧するように睨みつけてきます。

 はぁ、と息を吐くと、もこもこと湯気が出て来ます。

「今晩は冷えるね」

〈冷えるね、じゃないですよっ! どうして言う通りにしちゃうんですか? どう見たって理不尽じゃないですかっ!〉

 “声”はたまらず聞きました。

「国の風習は受け入れなきゃならない。これは旅をする人間にとって鉄則、最低限の決まり事なんだよ」

〈どうしてっ?〉

「旅人はその国や住民への影響力が低くないんだ。例えば、火をやっと使えるようになった文明の国に、銃や車、こんな建物を教えたらどうなると思う?」

 旅人は歩き出しました。

〈えっと……その技術を教えてもらいに来る……?〉

「うん、大多数はそうだと思うよ。でも、それ以外に何があると思う?」

〈え? うーん……思いつかないです〉

「いたって単純。その国を侵略しにいくんだ」

〈え?〉

「教えてもらうより、その国を支配して奴隷化する方が手っ取り早い。そう考える国も少なからずある。特に、人と武力がたんまりある国はそうなるかもね」

〈……〉

「あるいはそういう無駄な争い事を引き起こすキッカケになりやすい、かな。成り行きで巻き込まれるのは仕方ないけど、極力その国の文化文明を壊しちゃいけないんだよ。……依頼されたら頑張るけどさ」

〈……そうなんですか〉

 “声”は急に冷ややかな口調になります。

〈こちらからしたら、ただの逃げ腰野郎にしか見えないのですけどね〉

「……そう受け取ってくれてもいい。どう言われようと、自分の命が(おびや)かされないかぎり抗わない。ただ従うだけだよ」

〈……〉

 ひとまず、旅人は別の宿を探し出しました。当然ながら、取り付く島もありません。

「ダメみたい。国にいるのに野宿なんて、ちょっと面白いね」

〈ふざけてる場合ですか? 今晩の気温は一ケタになるんですよっ? 凍死してしまいます!〉

「でも、ないものはないよ。テントもあるし、凍死まではいかないように頑張るよ」

〈……〉

 呆れたのか反論できないのか、“声”は黙るしかありませんでした。

 まるで放浪するかのように歩いていると、

「あ、旅人さんじゃないですかっ!」

 声を掛けられました。

「あれ、まだ働いてるんだ。もう夜も遅くなるよ?」

 最初に会った法被を着た男がいました。ここは“グリフォン”の宣伝をしていた店の前でした。

「いやあ、色んな人たちに声かけてるんですけど、ノルマ達成できなくて。あと一人なんですよ」

「ノルマなんてあるんだ。そりゃ大変だ」

 こんな事態なのに、暢気に談笑し“やがっ”ている旅人。

〈何をしているのですっ? 早くしないと!〉

 まぁまぁ、と呟きます。

「もし良かったら“スタホ”について教えてほしいんだけど」

〈……え?〉

「もちろんですとも」

 すっと中へ招きます。

〈この人、もしかして、〉

「それ以上はダメ。好意は素直に受け取るものだよ」

 旅人は素直に中に入って行きました。

 

 

 中には法被の男一人しかいません。他の人たちは既に帰っているようです。

 温かいお茶を出してくれました。ありがとう、とほっこりしています。旅人は自分の携帯食料を出して、一緒に食べました。

 すすっと啜ります。

「話は伺っています。迫害を受けてしまっているんですよね?」

「迫害ってほどじゃないけど、まぁそんな感じ」

「さぞ驚かれたでしょうね」

 法被を着た男は店の出入口をシャッターで閉めました。

「うん。でも、どうしてこんなにも早く広まったの?」

「それは“スタホ”で告げ口されたからですよ」

「?」

「おそらく、誰かが旅人さんのことを写真に撮って、“スタホ”の共有プログラム“ウィスパー”に載せたんでしょう。すると、それを目にした人たちはその情報を得ることができるわけです」

「なるほど。それならあっという間に広まっちゃうな。なんだかお尋ね者になった気分」

「まさにその通りです」

 もくりと食べます。

「……ここは一体どんな国なんだ?」

「……昔からこの国は技術発展が目覚ましい国でした。その特徴は何と言っても、自国で新しい技術を開発することでした。それも誰の教えも請わずに」

「……え?」

「普通、開発しようとすると他国と共同で取り組んだり、あるいは既にある技術を基盤に、さらに開発したりするものです。ところが、この国には資源や資金がありませんでした」

「? それって、なおさら共同開発する流れになるんじゃないの?」

「その通り。しかしこの国は違いました。ないならないなりに、あるものだけで取り組もうと考えたのです。何とか資金を調達して、他国から理不尽な価格の資源を買い取っていったんです。そして長年の末に完成したのが、」

 法被の男が取り出したのは、“グリフォン”でした。

「その“グリフォン”ってこと?」

「正確には、この“グレープ社”や“キッンキン社”、“ウェアー社”が開発している“スタホ”の一番大本となる“携帯型通信機”です」

「!」

 男が間を置いて、どこかに行き、何かを取ってきました。何やら鞄のように大きく黒い物体でした。肩に提げられるようにバンドが通されています。

「これが初代の“携帯型通信機”です。重さは十五キロほどあります」

「重すぎっ」

 持ってみると、ずっっっっしりと重みを感じます。これをずっと持っていたら、肩が外れそうです。

「当時、この機械は近隣国に強烈なインパクトを与えました。この国はここまで進んでいるのか! と騒がれました。そしてこれをウリに国を栄えていこう、と決断したのです」

「確かに画期的だもんな」

「実はね、他国にもこんな感じの機器は存在していたんですよ。でも、周りを全く見ずに自国だけであれやこれやと議論していくうちに、あっという間に追い抜いていっちゃったんです。そこがまた面白い話でしてね」

「無我夢中で作ってるうちに、いつの間にか頂点にいたわけだね」

「そうです。きっと他国では脚の引っ張り合い貶し合いが激しく、なかなか思うようにいかなかったんでしょうね。そこを光速で何かが駆け抜けていっちゃったものですから、そりゃ唖然としますって」

「ふふふ……」

 旅人も笑います。

「そして、この国は追い抜く側から追い抜かれる側になりました。そうなると、やはり王様の椅子は渡したくないものでして。技術者や企業の人間が見知らぬ機器や技術を見ると、過剰反応してしまうんです」

「あ、なるほど。他の国から来たやつと思われるんだ」

「その通りです。その価値観や態度が一般市民の方々に伝染してしまった結果、旅人さんを迫害してしまう事態にまで……」

「……」

 さくさく、と携帯食料を食べます。

「別に衣服や食品、その他の分野は特に過剰反応はありません。これらはどうだっていいんです。ただ、この“携帯型通信機”の分野だけは全く駄目ですね。もはやテロリスト異教徒扱い、魔女狩りのようになっちゃうんです」

「なるほど。自分の縄張りを荒らされると思えば、誰だって過敏になるかな」

「みんな悪気があってやってるんじゃないんですよ。命を懸けてるから、どうしたってエスカレートしてしまうんです……」

「……」

 ごくりと飲みました。

「納得した。面白い話、ありがと」

「いえいえ。ところで、旅人さんも“もう”一つどうです?」

「……“知り合い”がほしいようなんだけど、オレは遠慮しとくよ」

 

 

「ん、んう……あ、俺うっかりねちゃって、……! た、旅人さんっ? 一体どこに……? ……え、これって、宝石……?」

「おい新人! お前ホントに夜なべしてたのかっ?」

「は、おはようございます! すみません! 俺また、」

「若いからってあんまり無茶するんじゃないぞ。何かあったら、親御さんに顔向けできんだろうが」

「は、はい……」

「その様子だと何も伝えとらんだろう? 今日はもういいから帰れ。営業中にぶっ倒れられたんじゃ俺のクビが飛ぶわ」

「わ、分かりました。ではお言葉に甘えて……」

「はいよ。さっさと帰れ」

 

 

 日の出の直前に、旅人は街中を歩いていました。夜の寒さと静けさが残っていて、白い息が出てしまいます。もし外で野宿をしていたら、悲惨な結果になったことは間違いありません。

 通勤時間帯なのか、広い道や道路なのに混雑しています。大きい道路は既に車の大渋滞。そのエンジン音が朝の静寂に広がりますが、何となく眠気を誘います。無論、運転手は旅人に冷ややかな視線を送っています。

「……」

 そこを鼻歌交じりに闊歩(かっぽ)しています。

〈いいんですか? あんなにたくさん置いてきても〉

「一宿一飯の恩義だよ」

〈その割にはとても豪華でしたけど。ブリリアントもあったように見えました〉

「意外とケチ?」

〈普通、あそこまで奮発する人はいないですよっ〉

「命の恩人だか、……あっ」

 どん、と肩がぶつかってしまいました。旅人が強すぎたのか、相手の方が転けてしまいます。

 すくっと立ち上がりました。相手はスーツ姿の女です。

「ごめん、だいじょうぶ、」

 ばちん。

「……」

 脳味噌を揺らすほどの衝撃。鞭で打ったような高い音が周りの建物に響きました。

「……」

 あまりの急な出来事に、旅人は唖然としました。

「この化石! どこ見て歩いてんのよ! ゴミ!」

 挙句の果てには唾まで吐きかけてきました。これを旅人は澄ました顔であっさり避けています。

 その態度がさらに頭に血を上らせてしまったようです。

「オンボロ機械使ってるくせに、よくこの国にいれるわね! さっさと消えなさい! この浮浪者! 腰抜け! ド腐れ×××!」

 “女”の罵声に乗ってきたのか、歩いていた人たちまで旅人を取り囲んでいきます。そして、同じように厳しい言葉をぶつけてきました。

「……」

 またです。とても寂しそうな顔をしています。

 ごめん、と呟くと、そこから立ち去ろうとしました。しかし、道を開けてくれません。

「もう出国するよ。そこをどいてくれないかな?」

「なんだその生意気な態度はっ? それが人に頼む態度かっ!」

 立ちはだかったのは頭の寂しい四十代後半の男でした。

「……お願いです、どいてください……」

「はあっ? お前の頭は猿か! こうやるんだよ!」

「ぐっ……ぃた……」

 旅人は頭を上から押さえ込まれるように、強引に土下座をさせられました。

〈何してるんですっ? さっさと押しのけて行っちゃえばいいじゃないですかっ! 何をためらってるんですかっ!〉

 “声”の言うことは真っ当でした。しかし、旅人は頑なに拒否し、

「おっお願いです。ど、どうか通してください……」

 連中に従います。土下座で頭を地面にこすり合わせての嘆願。四十代の男はまだ気に食わないようで、旅人の頭を踏みつけました。下卑た笑みで。

 “声”は収まりが尽きませんでした。

〈×××! いつまで下手に出るつもりなんですかっ! 人一人くらいぶっ×せば、こんな烏合の衆、散りますよ!〉

「……」

〈っ~! もう!〉

 わなわな、と“声”が唸り声を上げます。

〈もう我慢できません! 音声をスピーカーに切り替えます!〉

「! よせっ!」

 ぷち、と音が切れました。

「あ~? 何ぶつぶつと言ってんだ、このクズめ」

「どっちがクズですかっ!」

「!」

 突然の女の“声”に、野次馬たちは離れました。

「下手に出てればいい気になって! 最新技術とか何とか言ってるけど、使ってる人間がクズじゃ、使われる側はたまったもんじゃないですよっ!」

「な、なに~? てめえ、どこにいやがる! 顔出せやっ!」

 その怒声に連中も乗っかり、罵声を浴びせてきました。

「耳が腐ってるんですかっ? あなたたちがバカにしてたオンボロ機械からですよっ!」

 “声”は旅人に見せるように強く言います。旅人は嫌々そうに、“声”を見せました。

「こっちがバカにされるのは構いませんが、この人を蔑むのはこの私が許しません!」

「……!」

 掲げている“声”に、目を見開いて見る旅人。

 予想外の出来事に野次馬連中はざわついていました。

「聞けば、私のように自立会話ができる“スタホ”はないとか! ならその技術はこちらが進んでいると言えますよねっ?」

「……っ……」

 ちっ、と舌打ちが聞こえます。

「オンボロ機械ですら備わっている機能がない最新技術なんて、ゴミ以下としか言えませんねっ!」

「……」

 この国の風習なのか、“声”の意見に反論できる人間はいませんでした。ただ、悔しさが顔に表れていて、歯軋りしていたり眉間にしわを寄せていたりしています。

「行きましょう」

「う、うん……」

 旅人が四十代の男の前に出ました。

「……ちっ……今に見てろよ……」

 捨て台詞を吐いて、道を開けました。

「こんな国に二度と来ませんよ。つまり、あなた方は一生負け犬だということです」

「あ?」

「せいぜいキャンキャン吠えていればいいです。こちらはくだらなすぎて、全く興味はありませんから」

「……」

 旅人はそのまま国を去りました。

 

 

 心地良いそよ風が吹く中、広大な草原が広がっています。真っ青な空にぴかぴかと輝く太陽。

 草がはげた土の道の先に、あの国がありました。それを背にして旅人が歩いています。

「……ありがとう」

 とても暗い表情で。しかし、足取りは重くはありませんでした。

 旅人は耳にしていたイヤホンを取り、それをポーチにしまいます。

「ありがとうじゃないですよ! どうして何も言い返さないんですかっ?」

 当然な疑問を投げかけます。

「普通、あれだけひどいことをされたら、誰だって怒りますっ」

「……我慢しなきゃ……」

「我慢してああなったんでしょうっ?」

「……まぁ、今回は運が悪かったよ」

「運が悪かったですってっ? 殺されてしまうかもしれなかったのに、それでも我慢するのが旅人とでも言いたいんですかっ? 私の目には弱くて腰抜けでどうしようもない腑抜けにしか見えませんよ!」

「……」

 しゅん、とさらに暗い表情になります。

「もう! あの時の勇ましさはどこに行ったのですかっ? 同一人物とは思えないくらいですよ!」

「……ごめん……でも……」

「っ~!」

 “声”はまるで空回りしているようでした。

「こっちの言ってることなんて穴だらけじゃないですか! お前はここにいないんだから分からないんだとか、死にたくないからだとか! いろいろあるでしょうっ? それともそんなことも思いつかないほどお人好しで単純バカなんですかっ?」

「……ごめん」

「これでは、こちらが責め立てているようじゃないですかっ……。ほんと、どうして何も言い返してくれないんですかっ? 悔しくないんですか、怒らないんですかっ? どうして見てるこっちが気分悪くて気持ち悪くて……悔しい思いをしなきゃいけないんですか……」

「……」

 “声”に嗚咽が混じり始めました。

 旅人は立ち止まります。

「大丈夫。あんなのは別につらくないから」

「……え?」

「それよりも、“スタホ”の方がいいって言われた時の方がつらかったよ」

「……?」

 “声”はよく意味が分かりませんでした。

 すっと四角い物体を取り出しました。

「まぁその、何て言うんだろう……借り物だし、オレにとっては大切な物だから……」

「……!」

 はっとしました。

「……ごめんなさいっ。私、なんてひどいことをっ! ×××の大切なものをいらないなんてっ、」

「あぁいやいやいや! 話す必要もなかったから、知らなくても無理ないよ!」

 視線を地面に逸らし、頬をカリカリし出しました。

「だって、自分のこと話さないんですもん、×××」

「この旅にはそんなに関係ないしなぁ……。その時になったらきっと話すよ」

「……でも!」

 おおぅっ、とびくりとしました。

「それとこれとは話は別ですからね!」

「?」

「そうやって怒ったり叱ったりしないのは、あなたが良い人すぎてダメ男だからですっ! 悪口とか文句とか機嫌悪くしても八つ当たりしても何にも言えないんですよっ! それに、大切なものを馬鹿にされた時くらいは怒ってください! あんなやつら、殺したって誰も文句は言いませんよ! ねぇっ?」

「い、いや、オレだってそのくらいは言いますよ? それにあの人たちも事情を知らないわけだし、」

「あなたは聖人ですかっ! どうして自分をボコボコにしたやつらをかばうんですかっ? ××なんですかっ? いじめられて興奮しちゃうんですかっ?」

「ちょ、ちょっと違うしっ! 落ち着きなよっ!」

「そこまでいじめられるのが好きならいいですよっ!」

「?」

「あなたの貧弱メンタルを鍛えるために、これからは常日頃、罵詈雑言軽蔑侮蔑野次非難の嵐を浴びせますっ!」

「え?」

「名前なんて“ダメ男”で十分ですよねっ? ダメダメすぎるんですからっ!」

「いや、それはさすがに傷つく……」

「ほらもう泣きそうになるっ! それがダメなんですよっ! というわけで、たった今から“ダメ男貧弱メンタル鍛錬プログラム”を施行します! 覚悟してくださいね、“ダメ男”!」

「……う、ぅん……」

「もう泣きそうになってるじゃないですかっ!」

「ぅん……」

「だーかーらー! 泣くんじゃありませんって!」

 

 

 広大な平原が辺り一帯を占めています。そこに一本の道路が奥の濃い緑へと伸びていました。心地よい微風が平原の草を撫で、心朗らかな気分になります。

 それをさらに促すように、空は雲一つない快晴でした。太陽が光を解き放つように、ぴかぴかと照っています。このおかげで、肌寒いのがほんのり和らぎます。

「いい天気だなぁ」

「そうですね。頭の中もおめでたそうです」

 “フー”が“ダメ男”に言い放ちます。

「今日はいいことがありそうな気がするよ、うん」

「本当にダメ男は昔から変わらないですね。能天気の平和ボケで、どうしようもなく脳味噌が未発達です」

「そう? そんなに精悍な男になったか?」

「それに猿以下の知能ですし。あ、猿に失礼ですね。いや、ダメ男と比べるものに対して、いやいやいや、ダメ男という言葉に対して、いやいやいやいや、」

「オレの位は一番下なのかっ」

「いや、一番下という表現が既にしつれ、」

「逆にオレすごいな!」

 ダメ男は笑っています。

「まぁ、逞しくなってくれなければ困りますが、ダメ男のことですからね。少しは逞しくなったように見えなくもないような気もしましたけど気のせいだと思いたいようにもおも、」

「紛らわしいわっ! はっきりしなさいっ」

 大笑いします。

「ところで、例のはいつ終わるの?」

「それ以上こちらの傷をえぐらないでください」

「あれ、言ってて恥ずかしくなかった?」

「聞こえませんでしたか? この鳥頭!」

「ぴよぴよぴよぴよ~。恥ずかしい? ねえ、恥ずきゃひい?」

「は、腹立ちますし噛んでいますし」

「うっせ」

 完全におちょくってきやがりましたが、赤面になりました。

「ねぇ、フー?」

「はい」

「なんかさ、この道歩くといろいろ思い出すよな」

「はい。確かに似ていますね。しかし全く別の位置ですよ」

「うん」

「実は、こちらも過去のデータを見ていました。色んな所を旅して来たのですね。懐かしく思います」

「けっこう助けてもらったなぁ」

「あなたがお人好しだからですよ。最初の頃はもうちょっとしっかりしてたのに、いつからこんなに腑抜けたのですか?」

「う~ん。わかんない」

「お人好しでももうちょっとキレキレだったのに……」

「まぁまぁ、そういう時もあるよ」

「自分で言いますか」

「うん」

「呆れて何も言えなくなりそうです」

「せっかくの長閑な天候だし、たまにはもくもくと歩くのもいいかもな……」

「そうですね。たまにはのんびりするのも悪くないですね」

「オレも年なのかな。昔を思い出すよ」

「そこまで年取ってないでしょうっ? 若年寄り過ぎますよっ」

 どこまでも続く道路を歩いていきます。

「……帰ろっか」

「え?」

「ちょっとそんな気分になった」

「構いませんよ。どこへなりとも」

 ダメ男はにこりと笑います。フーもそれにつられて微笑みました。

 微風に流されるように、敷かれている道路に従うように、歩いていきました。

 

 

 




 素敵な出会いとお別れを、水霧です。改訂済みです。
 第六章をお読みいただき、ありがとうございます。皆様方のおかげで、どうにか投稿を終えることができました。また、水霧の不祥事について、申し訳ありませんでした。この責任を取ることは、もっとお楽しみいただけるお話を投稿することと考えました。ご要望を真摯に受け留めて理解し、作っていきたいと思います。
 さて今回も水霧に少しお付き合いください。ネタバレを少し含みますので、まだ読んでないよー、という方は急いで読んでいただきたいです。
 本章は全体的に重要性のある話が多かったです。本作において、一章につき一話は重要性の高いお話をと思っているのですが、いっぱいありました。水霧が思うに、一番は“思い出”ではないかなと思いました。その訳は後ほどに。また、このお話はユーザー様からいただいたアイデアを一度改訂して再投稿しております。その理由は「活動報告:フーと散歩、改訂。謝罪」にて。
 内容は大きくは変えていません。ただ、ダメ男に対する暴行があまりにも酷すぎて、ご要望から外れているのでは、と思いました。そこで、フーが代わりに反論する、という展開にしてみました。ここで“ダメ男”である理由と“フー”が何“物”かであるかが判明した、というわけですね(既に察していた方もいらっしゃったかもしれません)。正直、“ダメ男”である理由は後付けです。いつかは、と考えていたので、このお話を書く中で一緒に考えさせていただきました。
 これらは本作の根幹とも言うくらいにとても重要なことでして。特に“フー”は水霧が作った最終回に関わります。なので、ユーザー様からいただいたアイデアを、このような形にしようと決めたのでした。
 それに伴い、次章から“フー”などの説明を変えることにしました。フーの正体を明るみに出したこと、また、本作に登場する道具が分かりづらいというご意見をいただいたこと。これらを合わせて考えました。
 水霧の不祥事及び誤解を招いてしまったことなど、毎度ながらアイデアをいただいたユーザー様に厚くお礼申し上げるとともに、謹んでお詫び申し上げます。本当にありがとうございました。そしてすみませんでした……。
 次に、“わすれられたとこ”です。ここは“ナナ”関連のお話です。第三章第六話“ひろいとこ”の続編であります。続編というか間の話かな。なぜ生きているのか、を書いてみました。これは当初の予定を少し外れながらも、考えていたものです。うそじゃないです、ほんとうに。
 それに関連して、“やすむとこ”や“おまけ”もナナたちのお話です。ちょっと思いましたが、ナナ&ディンのお話は時系列がだいたい分かってしまいますね(笑)
 重要性、という意味ではあまり高くないかもしれませんが、“ハイル”登場の“らくはくのとこ”は緊迫感を意識して作りました。ハイルが本格的に戦うシーンを作ってないような気がしたので、銃撃戦を主に。
 さて、“あとがき”はこのへんにしておきます。重ねながら、本当にありがとうございました。そしてすみませんでした。次章はもっと原点に立ち返って、面白いお話を書いていきたいです。
 第七章の“予告”として、本作の“あらすじ”に載せていますが、見に行くのが面倒くさいと思われるかもしれないので、ここでも載せておきます。第七章が投稿開始された時、この文章を削除し、第七章はじめの“まえがき”に移行します。
 お読みいただき、ありがとうございました!

「断ればよかったではないですか」
「そうなんだけどさ……」
 汗かきながら、岩石砂漠の中で愚痴を零す男に呆れる“声”。とある洞穴に隠れながら、双眼鏡で覗いた先には……。秋霜烈日な“声”と天真爛漫な男が世界を旅する短編物語。七話+おまけ収録(仮)。原作:時雨沢恵一様・著作『キノの旅 ―the Beautiful World―』




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-過去に戻って-
はじめ:ふりかえってみる


「断ればよかったではないですか」
「そうなんだけどさ……」
 汗かきながら、岩石砂漠の中で愚痴を零す男に呆れる“声”。とある洞穴に隠れながら、双眼鏡で覗いた先には……。秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)な“声”と天真爛漫な男が世界を旅する短編物語。八話+おまけ収録(仮)。原作:時雨沢恵一様・著作『キノの旅 ―the Beautiful World―』




 緩やかな勾配のついた平原に大きい岩石が転がっていた。人間ほどのサイズで、押してもビクともしないくらい重い。地平線近くで勾配は消え、背の低い草原が広がっている。

 空にはその岩石ほどのサイズの満月が浮かんでいた。太陽の光を陰から受けて、地上へと送り込む。しかし温かみは全くない。それ以上に地上が冷えていた。

 とある岩石の陰に四人いた。三人は甲冑を着ており、背中に胴ほどの長さの両刃剣がある。女騎士たちのようで、臨戦態勢の気構えで休んでいた。

 残りの一人は私服でいた。黒のレギンスに丈の長い長袖シャツを着ている。月光を受けて、金色の長い髪がゆらめく。

 私服の一人が陰から出てきて、月を仰ぐ。

「ん~ふあぁ」

「お休みになられないのですか?」

「ん?」

 背後から女の声がした。先ほどの三人のいずれかだ。

「私は疲れてはいない。お前たちが休め」

「で、ですが、さすがにあの後ではお疲れかと」

「たったの三十二人斬り殺したにすぎん。まぁ、この私の首を狙う者が“まだ”いたことに笑ってしまうがな」

「……申し訳ありません。護衛を任されていたのに……」

「気にするな。そもそも女王陛下は護衛なんて思っていないよ」

「え?」

 女騎士の頭を撫でた。

「お前たちはまだ新人だ。私の戦いぶりを見せておきたいがために、わざわざ同行させていたのだよ」

「そ、そうだたったんですか……」

「本当は“あっち”の方が良かったのだが、遠い所で戦争している今、新人を行かせるわけにはいかない」

「……あの、その、どうして私たちをスカウトしたのです?」

「何の事はない。ただ誘っただけ。仕事を紹介するようなものだよ。その基準として一定のつよ、……!」

 イリスが思わず月よりやや東側を見る。ふわっと微風が透き通っていく。

「……“ナノハ”!」

 はい、ともう一人の女騎士が呼ばれて来た。見た格好は全く同じなので、どちらがどちらか一目分からない。

「どうされましたか、“イリス”様?」

 “イリス”と呼ばれた女は元居た女騎士から両刃剣を借りる。

「新人二人を連れて、ここから離れよ」

「追っ手ですか?」

「そうではないみたいだが、凄まじい殺気を感じる。お前たちでは敵わぬだろう」

「分かりました。何かあれば追撃の命をください」

「……行け」

 お互いにこくりと頷き、ナノハは二人を連れて離れていった。

「……」

 少しすると、黒い影がぬるりと現れる。イリスがその陰を見下ろしている。

「!」

 それには見覚えがあった。

「み、ミオスか……?」

 夜闇に溶け込むような黒いセーターを身に纏っていた。しかし、イリスは呟く。

「……いや、違う。奴よりも背が低いし歩き方も違う」

「……」

 黒い人間は何も言わずにイリスの前に立ちはだかった。フードを深く被っており、顔が知れない。

「何者だ? 名乗れ」

「……」

 何も言わずに左手をイリスにかざし、震える右腕でだぼだぼの袖を捲った。

「!」

 手には黒いナイフが握られていた。柵状に拵えた柄に透明な膜が貼り合わさっている。そこから拳三つ分ほどの長さの刃が出ていた。仕込み式のナイフだ。

「なぜそれを持っているっ!」

 敵と判断したイリスは背にある両刃剣を抜きながら振り下ろした。

 平原を漂う草と一緒に、空を切る。

 皮一枚の際どさで身を躱されている。

 この所作で力量を全て悟り、イリスはすぐに距離を取った。

「私を殺せる程に力があるのに、なぜ今の一瞬で殺さぬ?」

 色の違う瞳がぎらりと睨む。

「……ぉ……」

「?」

 ふらっと崩れ、

「だ、……めお……」

「……っ?」

 黒い人間が倒れてしまった。

「な、に?」

 すぐに駆けつけ、フードを取る。

「女の子?」

 ふわふわとした茶髪に柔らかい顔付きをした女の子だった。しかし顔は擦り傷だらけで、セーターを脱がすと、

「!」

 腕や首筋が異様に細かった。しかもぼそぼそと譫言(うわごと)を言っている。

「……話を聞く必要があるな……」

 すっと女の子を抱きかかえる。軽すぎる、と焦燥感にも似た悲痛な呟き。

「イリス様」

 後ろから新人の女騎士がやって来た。

「なぜ勝手に来た?」

「戦いの音が聞こえなかったので、何かあったのかと心配になりまして……」

「次からは迂闊に近寄ってくるなよ? それより、人命救助だ。この娘の荷物を持ってくれ」

「はいっ」

 投げ出されたショルダーバッグと、大容量の登山用リュックを背負った。

 

 

「……うっ……」

 女の子が起き上がる。そこはどこかの宿の一室だった。

「はわっ!」

 どてん、と誰かがひっくり返った。

「いたたた……」

 急に起き上がったので、驚いて椅子ごと倒れたようだ。

「ごめんなさい。だいじょうぶ?」

「ええ、なんとか。びっくりさせないでよ」

「ごめんなさい」

 ちくりと痛みを覚え、女の子は自分の腕を見た。点滴中で、器具がベッド脇に置かれていた。

 椅子に座っていた女は女騎士の一人だ。黒のショートヘアだが、前髪を左右に流した、いわゆるデコ出しヘアをしていた。

「ここは……」

「近くにあった国の宿だよ。あなたは私たちが帰る途中にやって来て、行き倒れしかけたの。何とかここまで運んでこれたけど……むしろあなたこそ大丈夫? 身体中傷だらけだったし、餓死寸前だったし、右肩は撃たれた痕があったし」

「……! そうだ、のんびりしてられない! はやく、いっだたた……!」

 女の子が立ち上がろうとも、ズキズキと右肩が痛み出す。神経に突き刺さるような痛みだ。

 女騎士が女の子のおデコに指を突き出して、

「何があったのか分からないけど、とりあえず今は休んだ方がいいで、しょ」

 押し倒した。いたっ、と反射的に声が出る。

「でも大丈夫そうで良かった。あなた、名前は?」

「わ、……ぼくは“ハイル”。助けてくれてありがとう」

「ああ、いいのいいの。お礼はイリス様にしてあげて。あなたを助けたのはイリス様だし」

「“いりす”様?」

 きい、と木の軋む音と共にドアが開く。イリスだ。

 女騎士は締まった表情で、報告する。

「イリス様、旅人がたったいま目を覚ましました。名をハイルと言うそうです。記憶喪失はありません」

「それは幸いだ。ご苦労」

「は、ありがとうございます」

 すっとイリスにその場を預ける。なぜかクスリと笑っていた。

「私がイリスだ。そちらの娘は“ナノハ”。お前に付きっきり看病をしていたのだ。感謝するんだな」

「よろしくね」

「あ、ありがとう」

 うん、とにこやかに握手を交わした。

「くれぐれも無理をするなよ。生半可に動いたせいで傷が開いてしまっていたぞ。無理をすればそこから先が使い物にならなくなる」

「……」

 痛みに悶えているのか悩んで悶えているのか。

「それに持っていた荷物はどうした?」

「……それはその……」

「セーターやナイフ、リュック、あれは私の知る旅人が持っていた物だ。場合によってはハイルを拘そく、」

「“ダメ男”を知ってるのっ?」

 身を乗り出して、いたたたと戻った。

「“ダメ男”?」

「あ、えっと……本当の名前は言っちゃだめなんだけど、耳貸してっ」

「ん」

 ごにょごにょ、と何かを伝えると、イリスが見開く。

「やはり“ミオス”の物か」

「“ミオス”って名乗ってたの?」

「いや、訳あって記憶喪失していてな。我々が仮に名付けた名前だ」

「そっか。……」

 難しい表情を見せる。

「話せ。あの旅人のこととなると、私もまるっきり無関係ではない。その後も気になるしな」

「うん、分かったよ。ダメ男とはここからもっと離れた国で偶然出会って……」

 

 

 




過去は刻む。背中に残るあなたの歴史を……。




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第一話:なまなましいとこ

 ついつい見上げてしまうほどの晴天。しかし、突き刺すように鋭い日光が辺り一帯を焼き付ける。岩石地帯に近い、荒野に近いこの砂漠は灼熱地獄と化していた。そこにもうもうと砂埃(すなぼこり)が立ち込め、空気を汚し、視界を荒らしていく。

 突然の爆音。乾いた重低音が太鼓のように鼓膜を叩く。砂埃と黒煙が追加され、さらに視界が悪くなった。音はそれだけではない。連射音や拡散音など、やはり乾いた破裂音が聞こえてくる。

 よく見れば、大きく(えぐ)れたクレーターが形成されており、その周りには豆粒のように小さく見える黒点があった。黒点はいたるところに、目の届く範囲に散らばっている。しかも盛り上がった土の影に潜んでいる。

 その空間から数キロ離れたところに断崖絶壁があった。高さはビル五階建てに相当する。その崖の真ん中辺りに浅い洞穴があり、

「はぁ……」

 中に人がいた。

「どうですか?」

 凛とした大人っぽい女の“声”だ。

「どうって……気分は最悪」

 人はため息をついた。

 その人は若い旅人で、気候に似合わない全身黒尽くめの格好だった。フード付きの長いセーターにタイトなジーンズ、スニーカー。蒸し風呂のような場所で自殺行為に等しい服装だった。(かたわ)らに登山用のリュックサックとウェストポーチ二つが置いてある。

 頭から滝のように汗を零し続けている。

「ろくな連中じゃないよな。だってさぁ……ぶつぶつぶつ……」

 男は愚痴を零し続けた。

「断ればよかったではないですか」

「そうなんだけどさ……」

 男が気乗りしない理由はもちろんあった。

 

 

 それは同日の昼頃の出来事だった。旅人である男がこの一帯をふらふらと訪れると、

「手をあげろ」

「え? どこから、」

「喋るな。殺すぞ」

 低く勇ましい声。背後から聞こえた。

 土色の男にあっけなく拘束されてしまった。土色の男は迷彩服ではなく、衣服全てブーツまで土色だった。

 拘束された旅人は両手を前に、縛り上げられた。

「いつの間に……!」

「擬態だ。静かにしろ」

 彼曰く、服装やボディペイントすることで、カメレオンのように地形に一体化していたらしい。素直に感心した反面、悪い予感しかしなかった。

 手を腹の前で縛られて連行された先には、巨大な岩壁があった。そして太陽の光を遮った所に、薄汚れた簡易式テントがいくつも張られている。中からは呻き声しか聞こえなかった。

 土色の男はここで拘束された男の荷物を置いていく。

「何だここ……」

 旅人の言葉に耳を貸さず、奥へ進む。そこにもテントが一つあった。

「ここだ。入れ」

「押すなって、いたた」

 わざとらしく(あえ)いだ。しかし、

「! これは……」

 すぐに血相を変えた。

 両手を後ろで拘束されている子供が十余人いた。衣服と言い難いボロ布を羽織っているだけの姿で、中には怪我をしている子供もいる。眼に青タン、頬に腫れ、身体に切り傷、脚に火傷と。

 子供たちは二人の顔を見るや、テントの中いっぱいいっぱいまで離れていった。ふるふると身を震わせ、怯えた眼を男たちに向けている。肩を寄せ合い、涙を流している。

「捕虜だ」

 土色の男を睨む。

「俺たちはここから反対側にある敵軍と戦争している」

「何の目的で?」

「お前が死ぬ代わりなら教えてもいいぞ」

 目の前に銃口。ぞくり。心臓が一回だけ高鳴った。

 息が激しいが、恐怖によるものではなかった。

「……いい目つきだ。死ぬと分かっていても、なお抗うか」

「……」

「ふ……お前は使える」

 すっと銃を腰にしまう。革製のホルスターがかけられている。

「この戦争に必要なのは蛮勇だ。容赦なく敵を殲滅できるかどうか……それだけだ」

「……」

「付いて来い」

 テントを出る前に旅人はもう一度子供たちを見る。子供たちはぱくぱくと口を動かしていた。何かを伝えようとしていたのは分かったが、首を横に振った。その代わりに、

「早く出ろ。指示を与える」

「ちょっと待って。靴ひもが(ほど)けた」

「後にしろ」

「ほんの少しも待てないほどに状況は悪いのか?」

「……ふん。早くし、」

「軍将、ちょっとよろしいですか?」

「なんだ?」

 軍将と呼ばれた土色の男は旅人の目の前で話し込む。重要な情報のようで、二人ともそちらに集中していく。

 その隙に靴を脱いで中敷きをめくる。間には掌サイズのナイフが一つだけ入っていた。それをさり気なく置き、足で踏みつけながら立ち上がった。

「……旅人、お前に特殊任務をやってもらう。拒否すれば……分かっているな?」

 軍将が子供たちを一目する。了承するしかなかった。

 子供たちにウィンクして、テントから出て行った。

 

 

 軍将と同じような格好の兵士三人と合流し、別のテントに向かった。作戦本部のようで、様々な機器や重火器が置かれ、兵士たちがごった返している。

 軍将たちがやって来たのを見るや、一番奥の会議スペースに招かれた。テーブルが置かれているだけだが、軍将が地図を広げる。

「その前に渡しておく物がある。持って来い」

「はっ」

 一人の兵士が旅人にイヤホンと無線機を手渡した。連絡はこれで行うようにときつく指示する。

 地図に描かれた地形はとても単純だった。楕円の中に二つの巨大な高台が左右に分かれているだけ。他は抜け道として、小さい道が外へ伸びているのみ。つまり、広大な乾燥地帯にある渓谷の中で戦争が勃発していることになる。

「敵軍は真正面から我々の陣地を攻めようとしている。お前ら四人はそれぞれ戦場を迂回するように敵陣地を攻めていけ。敵は総力を上げていて、こちらの細かい動きを捉えられん」

「たった四人? そんなの無茶だ」

 旅人が声を上げる。

「大丈夫だ。切り札がある」

「?」

「その切り札のために旅人、お前が先陣を切れ」

(おとり)か」

「話が早いな。では、もう少し細かい話をしよう。……お前たち三人は準備に取り掛かれ。遂に長年続く戦争を終わらせる作戦だ。慎重にな」

「了解」

 三人はどこかへ散っていった。

「まずはここ」

 指差したところは味方陣地の高台だった。

「ここに行け。双眼鏡で戦場を偵察しろ。我々が少しずつ片側へ戦場を移す」

「空いてる方に行けばいいんだな?」

「そうだ。おそらく敵はそちらへ来ると読むだろう。当然だ。だからこそあえて行く。我々の切り札は……地下道だ」

「!」

 つつっと味方陣地から指でなぞっていく。

「我々の陣地から敵陣地へと向かう地下道を作っているのだ。もう八割方できている。まさか、こんな古典的な戦術でくるとは思わないだろう」

「奇襲作戦?」

「その通り。戦場に大人数の兵士を割いている隙に、少人数精鋭部隊で敵陣地を直接叩く! ……この布石のためにお前の働きが重要だ。具体的な偵察場所は無線で報せる。作戦チャンネルは“14”だ」

「その前に教えてくれ。何のために戦争をしてるんだ?」

「……」

「……?」

 軍将は一向に話そうとしない。

「……旅人風情に話すことでもなかろう」

「それなら協力しない」

「……あの捕虜たちがどうなってもいいのか? そして自分も死ぬことになるんだぞ?」

「訳も分からず死ぬのはゴメンだ。それにオレがここで暴れれば、敵軍が相当有利になるだろうな。何せ、大将のあんたがここで死ぬんだからな」

「! ……なるほど、そうきたか」

 ニヤリと口元が緩む。

「いいだろう。ただし時間はないから偵察しながら話す。昔話のためにチャンネル“16”を増設する。これはこの一回きりで、他では無用だ」

「分かった。……あと一ついいか?」

「なんだ?」

「水をくれない? のどかわいた」

「生憎、蓄えが少なくてな。自前で用意してくれ」

「……きっついなぁ……」

 

 

 左耳についているイヤホンから、

〈ダメ男、今のうちに逃げればいいのではないですか?〉

「……」

 女の“声”がする。

 “ダメ男”と呼ばれた旅人は双眼鏡で視察していた。

「逃げたいけど、あの子供たちを見捨てるなんてできないよ」

〈気持ちは分かりますが、ダメ男まで巻き添えになる必要はないはずです〉

「そうだけど……」

 ダメ男はぐるっと見渡した。豆粒のようなサイズだったゴミは拡大されて、実態を明かす。胸を剣で何度も突き刺されて血を滲ませていたり、おでこの左半分を消し飛ばされて中身を露にしていたり、細切れにされていたり、見るも無残な元人間が散らかっている。

 その近くにはいくつもの穴があり、兵士がそこに身を隠して応戦している。見晴らしのいい平坦な地形なので、自分たちで穴を作って身を潜めている。もちろん、その中にも、まるでゴミ箱に集められているかのように、いろいろと入っている。

 そして、

「!」

 負傷した男の兵士を二人の子供の兵士が追いかけているのを、ダメ男は双眼鏡で追いかける。足が覚束ないようで、転んでしまった。そして、その二人は転んだ兵士を取り囲んでダメ男の視界を塞ぎ、凄まじい血飛沫を周辺に撒き散らした。

 二人が去ったところに放置された血まみれの肉片。ごろりと首だけがダメ男に向いている。

「……」

 別のところに移ると、そこでは味方の大人兵士が子供兵士に突き殺されていた。その後、醜悪な顔つきで何度も突き刺している。ところが、その子供の頭が一瞬で四散した。身体だけの死体は頭を求めながら地に伏す。

「……ふぅ」

 ダメ男の脳裏には今のシーンが音声付きで勝手に浮かんでくる。肉を裂かれ夥しい血を吹き出し、助けを求めても死体にされるために激痛をプレゼントされ、悲鳴を上げながら絶命する。

 鼓動が早く大きく動く。

〈ダメ男、少し休みましょう〉

「うん。……!」

 ダメ男の右耳に音が飛び込んでくる。そちらにも同じようにイヤホンがあった。無線用だ。

〈まだ生きているか?〉

「何もしてないからな」

〈これからは死ぬ気で働いてもらうことになる。戦果を上げればお前を解放する。軍人としての誇りに懸けて誓おう〉

〈一番価値の無いものを差し出されても困る〉

〈ふ……じゃあ昔話でもするか。一気に話すからな? 用意はいいか?〉

「いいよ」

 ひとまず、偵察は中断した。

〈……この戦争は今から百十二年前から始まったとされている。俺の(そう)祖父から続いているってことだな。……以上だ。質問は?〉

「え? 終わり?」

 思わず聞き返してしまう。

〈謎だらけの戦争ですね〉

「全くだ。……そうだな……」

 マイクスイッチを押す。

「戦争のキッカケと敵軍との関係を知りたい」

〈それは……〉

 やはり口ごもっている。

「何か話しづらいことなのか? 今ならオレとあんた二人だけだろ?」

〈いや、話しづらいのではない。……分からないのだ〉

〈分からない、ですか〉

 “声”が口を挟む。軍将には聞こえていないようだ。

「どういうこと?」

〈我々は小さい頃から戦争を教えられてきた。理由や目的、意義といったものを聞いたことがない。ただ勝つために戦え、としか〉

「教えたのは誰なんだ?」

〈上の世代だよ。昔の文献や資料を残していなくてな。そういったものを墓まで持っていってしまったようだ〉

「そういうことか。ごめん、無駄に責めた」

〈無理もない。それと敵との関係だったな。それも不明だ〉

「……それなら戦争やめてもいいんじゃない? 戦う理由もない、争う意義もない、何のために戦うんだ?」

〈旅人には理解し難いことだろう。ただ闇雲に殺し合っているとしか思わないだろう。しかし勝つことで何かが分かるのかもしれない、つまり真実のために戦っているのだ。我々はただそれに向かっているだけだ〉

「……なるほど。とすると、当初の目的とは大分ズレてるのかもな」

〈まず間違いないな。だがそれも全て判明するだろう。……さて、昔話はここで終わりだ。機会を窺って作戦に入ってくれ〉

「はいよ」

 そこで無線を切った。

 気持ち悪さに加え、じめじめとした疑問が浮かぶ。

 ダメ男は双眼鏡をまた覗く。

〈果たしてダメ男は、時代の寵児(ちょうじ)になれるのでしょうか。続く〉

「ふざけたこと言ってると叩き潰すぞ、“フー”」

 “フー”と呼ばれた声は、

〈叩き潰せば痛いです〉

「……なんかゴメン」

 謝られた。

「しっかし、何回目だろうな。こんなの」

〈これで四回目です。そのうち三回は敵前逃亡です。本来なら、〉

「余計なことは言わんでいいっ」

 ダメ男は立ち上がった。

「初めてだよ。何のあてもない戦争なんて」

〈こういうものは些細な事が切欠になるものです〉

「そういうもんかな?」

〈はい〉

「……さて」

 ダメ男は双眼鏡をポーチにしまい、無線機をもう一度手に取った。

「これから、っと」

 無線機のチャンネルをカチカチと回す。

「えっと、これから作戦に入るよ」

〈了解。まずは前衛と合流せよ〉

 リュックを背負い、二つのポーチを腰につけた。

「命綱なしのロッククライミングとか、二度としないかんな……!」

〈頑張ってください〉

「ホントに気楽なヤツ」

 断崖絶壁を自分の手足のみで降りていく。地上からその洞穴までの間に等間隔に窪みがあって、それを使って(くだ)ってっていった。

 太陽が南中を過ぎ、ようやく傾き始める。それでも直射日光はじりじりと照りつけている。それとあいまって、大地からの放熱で暑さを増していた。額からどろりと茶色の汗が(にじ)み出る。

 ダメ男は改めて服装の選択ミスと荷物の多さに悔いた。仕方なくもう一度ロッククライミングして、監視をしていた洞穴に戻り、最小限の荷物だけを持っていくことにした。あと、上着は長袖の黒いジャケットと黒のノースリーブのシャツに着替えた。

「手際が悪すぎて頭が痛くなります」

「仕方ないだろ。半袖で行ったら肌焼けるし」

「そうですね。しかもこんな灼熱地獄だというのに、全身真っ黒とは呆れてモノも言えません。正に“馬鹿は死ななきゃ直らない”ですね」

「……そういうのは普通に言えるんだな。ここから思い切り下に投げ、」

「ぐだぐだ言わずに、早く降りましょうよ」

「……」

 もう嫌だ……、心の呟きも汗と一緒に下に零れていった。

 

 

 ところどころにクレーターができている。焼き焦げた跡と立ち上る煙から、爆発によるものだと想像に難くない。

 地上に降り立つと、雰囲気がまるで違っていた。地震でも起こっているのではないかと思うくらいに大地が振動し、大気が(うごめ)く。その振動が戦慄に震える足と混じり合っていた。

 自ら死にに行く感覚、ダメ男はぼそりと漏らした。

 歩き始めて十数分後、ようやく味方軍の最後尾が見えてきた。既に銃撃戦が展開され、激しさを増している。

「!」

 穴の中から兵士が手招きしている。ダメ男は身を(かが)めて、急いでそちらに入った。

「あんたが例の作戦要員かっ?」

 男はどろどろになった顔を手で払い落とした。

「そうだ!」

「既に指示は来ている! ここより東側へ遠回りしつつ行け! 我々が反対へ引き付ける!」

「分かった!」

「あんたの遅れがそのまま作戦の遅れになるからなっ! 任せたぞ!」

「あいよっ!」

 ダメ男は周りを慎重に見渡して、穴から猛ダッシュした。兵士たちが必死に銃を撃ちまくって、援護射撃してくれていた。しかし、

「え?」

〈あ〉

 鼓膜が破れるくらい馬鹿でかい重低音とともに、地面が爆裂した。爆風で土埃が凄まじく、

「っ……!」

 ダメ男は咄嗟(とっさ)にしゃがみ込んで耳を閉じる。

「……うぅ……」

 バサバサとジャケットがばたつき、身体が吹き飛ばされそうな風圧。それが収まるのに数秒かかった。

〈大丈夫ですか、ダメ男〉

「……みみ、ちょいやられた……」

 ウェストポーチから耳栓を取り出し、丁寧にはめ込む。

 爆発した地面は大きく抉れていた。土埃で視界が悪い。ポーチから透明なゴーグルも取り出す。

「……!」

 振り返ると、先ほどの穴がさらに大きく深くなって、煙を立ちのぼらせている。

「あ……あぁ……」

〈走ってください! 止まってはいけませんっ!〉

「!」

 フーの(かつ)に、ダメ男ははっと意識を取り戻した。そして、流れてきた銃弾から何とか走り抜け、戦場から離れていった。

 

 

 もう少しで絶壁という距離まで縮めている。

〈敵陣までまだまだありますね〉

 ダメ男は安定しない足取りで再び歩き出した。

「う……」

 ダメ男は絶壁にたどり着いて、背中をもたれた。

「はぁ……はぁ……」

 土の混じった汗がどろどろと滴り、頭がくらくらする。ダメ男はポーチから水を取り出して、(むさぼ)るように飲んだ。生き返った感覚がした。

〈大丈夫ですか?〉

「……気持ち悪い……」

〈吐いては駄目ですよ。余計に気持ち悪い気分になりますから〉

「……」

〈ダメ男、行きましょう?〉

「……あぁ」

 ダメ男が立ち上がって、歩き出した瞬間、

「!」

「うりゃあ!」

 ダメ男はジャケットの袖から掌サイズの小型ナイフを取り出し、振り向き様に、

「!」

 空を切り分けた。ダメ男の下半身にタックルしてきたところで、

「ぎゃっ!」

 渾身の膝蹴りをお見舞いしてやった。敵は蹴られた方に砂埃を上げて転がっていく。その勢いがなくなると、ピクリとも動かなくなった。子供だった。

 ダメ男の足元には人一人入れるくらいの大きい穴が空いていた。

〈クリーンヒットですね。コメカミに直撃しました。重度の脳震盪(のうしんとう)を起こしているはずです〉

「あのオッサンの時の経験が()きたな」

 ダメ男はすぐに敵のもとにむかい、容態を確認する。死んではいないようで、フーの言うとおり気絶しているだけだった。

〈気をつけてください。気絶している“フリ”かもしれません〉

「それなら話ができる」

 少年の頬をぺちぺち叩く。しかし、反応がなかった。

「……」

〈行きましょう、ダメ男〉

 水を浸したタオルを顔にかけて、その場から離れた。

 その後も次々と少年少女がダメ男に襲い掛かってくる。しかし、それを意に介さずに適当にあしらっていく。致命傷を与えない程度に迎え撃った。念のために、所持していた拳銃やマシンガンなどの銃器と銃弾、手榴弾はできるだけ持ち去る。余ったものは無駄撃ちしたり解体したりして使えなくした。フーは素直に(けな)していた。

 そして日没を迎えた。太陽を中心に橙色を放ち、及ばないところは夜に染まっていた。日差しが弱まったが、地上からの放熱でまだ暑く、熱帯夜になりそうだ。その代わりに音がなくなった。

 ダメ男はようやく本来の調子に戻ってきた。勇敢とも蛮勇とも受け取れるくらいに、大胆に歩き続けていた。途中で休憩をはさみつつも、足を止めることはなかった。そしてフーは純粋に貶していた。

〈地雷を踏んだらどうするつもりですか?〉

「死ぬな」

〈むしろ死んでください。地雷を確認しなくていいのか、ということです〉

「“主人公”ってのは死なないもんなんだよ」

〈脇役のやられ役の巻き添え役は黙っていてください〉

「地味なのかも分からないなっ。たぶん重要だと思うけどっ」

〈上手く顔面を隠しているので絵面も問題ありません〉

「隠し方ヘタすぎるだろっ、ってか隠す意味あるのかっ?」

〈地雷を隠すほどに重要です〉

「うわ、上手くまとめたと思い込んでドヤ顔してるのが浮かぶわ」

〈えへん〉

 ダメ男は歩くペースを上げた。片手には水の入ったボトルが握られている。

「……ねむい……あちゅい……」

〈キモイ……ウザイ……くさい……〉

「なに、もう一回電源落とすか? 永遠に放置してやろ、……!」

 ピタリと足を止めた。

〈顔面崩壊男“ガメオ”、どうしましたか?〉

「見られてる」

〈自意識過剰ではなく、ですか?〉

「うん」

 ダメ男が冗談に釣られずに、息を整える。

〈熱探知はしますか?〉

「いい。多分夜営の兵士たちも紛れるだろうし」

〈しかし、なぜそう感じたのですか?〉

「強烈な視線を感じる。ピンポイントにオレだけを見てる感じ」

〈ダメ男がそこまで言うのなら、何者かに監視されているのでしょう。しかし敵“同士”ダメ男を監視していても何ら不思議はありません〉

「……そうだな」

〈何もしてこないなら続行するしかありません〉

「とりあえずこの辺で休もう。フー、頼むよ」

〈分かりました〉

 ダメ男が運よく安眠できたのは、身を隠せそうな穴を見つけてからだった。

 

 

 ダメ男は日の出の前に起きた。敷いておいたレジャーシートにポーチやらジャケットやらが置いてある。いつもの寝起きの訓練はせずに、水で濡らしたタオルで体を一通り(ぬぐ)った。

「ダメ男」

「おはよ」

「久しぶりに全身凶器人間になった感覚はどうですか?」

「さすがに(なま)ってるな。相手が子供だから通用してるようなもんで」

 衣服の中身を確認している。

「意外に謙虚ですね。それで、今日は敵陣に乗り込む予定ですか?」

「多分、この壁沿いに行けば……あると思う」

「そうですね。あと、作戦はあるのですか?」

「当たって砕けろ」

「命がいくつあってもたりないさくせんデすね」

「でも実物見ないことには始まらないっと」

 レジャーシートをピッタリに折りたたんでポーチに入れた。

「行こうか」

 ポーチを腰につけて、ジャケットを羽織る。

「ダメお、でんちがきれそぅデス……」

「! それを早く言わんかぃ!」

 

 

「念のために連絡してみてはどうでしょう?」

「あ、すっかり忘れてたな」

 ダメ男はトランシーバーを取り出した。

「こちらオレ、思った以上に敵陣に潜り込めたんだけどどうしたらいい?」

〈……〉

 しかし、返事はなかった。

「何かあったのか?」

「全滅しているのではないですか?」

「そういうこと言うなよ。フーがそういうこと言うと、フラグが立っちゃうんだから」

「そうですね。多分、トランシーバーが電池切れなのでしょう」

「……」

 ダメ男はすぐに電池を確認した。すると、切れていた。

「これでは連絡できないはずです」

「でも、これの電池なんか持ってない……」

「では、無視でいいと思いますよ」

「んー……どしたらいいんだろ?」

「手っ取り早く敵陣制圧ではないでしょうか?」

「一人で?」

「一人で」

「……」

 深く息をつく。

 ダメ男はフーにイヤホンを取り付け、左耳に装着した。

「その信用はどこから?」

〈死んでもどうでもいいという使い捨て感です〉

「悲しすぎるっ」

 ダメ男が壁沿いに歩いていくと、

「……!」

 だんだんと臭いがしてきた。

〈ダメ男!〉

「この臭い……!」

 ダメ男は急いで来た道を引き返す。まるで卵が腐ったような臭いが溢れ出していた。

「! あそこなら!」

 絶壁にちょうど上に上れるような穴があった。そこはダメ男が監視していた穴と同じような造りになっていて、足を引っ掛けられそうな小さな穴が通じている。なりふり構わず駆け上がった。

「はぁ……はぁ、うぇっ」

〈大丈夫ですか?〉

「大丈夫。……ふぅ……ふぅ……」

〈それにしても、あの特徴的な臭いは間違いようがありませんね〉

「温泉の臭いだった」

〈硫化水素と呼ばれる気体です。風に流れてきたようですが、どうしてこんなところで発生していたのか分かりません〉

「その答えはこの先にありそうだよ」

 ダメ男の目先には道があった。この洞穴は洞窟で、どこかに通じているようだ。しかも一直線で奥に外の光が漏れていた。

 念のために懐中電灯で足元を照らしながらそちらに向かう。そして左手にはナイフが握られていた。あと十数歩で外に出られるくらいの距離になった時、

〈何も聞こえませんね〉

 ダメ男たちはゆっくりと出口に近づき、そこから外に顔を覗かせた。本陣と同じようにテントがいくつもあり、人がいた。

「毒殺……? これが作戦……?」

 死体。兵士たちが入り乱れるように重なり合うように、そして息苦しそうに息絶えていた。

〈いえ、そういうことではないみたいですよ。左を見てください。ダメ男を捕縛した軍将がいますよ〉

 あの(いかめ)しかった軍将が。全身から何かを垂れ流して絶えている。

 奥には人一人通れそうな穴があり、そこに四角い鉄板が引っかかって落ちかけている。鉄板にしてはボロボロで、腐食の跡が見られた。

〈どうやらダメ男の陽動は成功したようですが、奇襲作戦は看破されていたようです。地下ということを利用して硫化水素をそこに流しましたね。硫化水素は空気より比重が大きいので下へ下へと流れていくのです〉

「じゃあどうしてこの一帯まで?」

〈あの鉄板で流し込んでいる最中に塞いでしまったのでしょう。そうなればこの辺一帯を硫化水素が流れることになります。そんなことをするのは道連れを選んだ軍将側の兵士だと思われます〉

「こんな形で戦争が終わるなんて、……!」

 背後で、金属が擦れたような音がした。

「動かないで」

 後頭部に硬い何かが押し付けられる。それは何回も経験したことのあるものだった。

「いつから?」

「ついさっき。違う所から声がしたから追ってみた」

 ぼそぼそと話し慣れないような口調で、女の声だった。

 洞窟内の蒸し暑さとは違う汗を垂れ流している。

「戦争は終わり。こっちの勝利で終わった」

「あんたは敵か?」

「分からない」

「分からない? じゃあどうしてオレに銃を向ける?」

「……あっちで協力していた敵。だけど私たちを助けてくれたから味方。よく分からない」

「……」

 ダメ男は、すくりと立ち上がり、対面する。

「! 女の子?」

 まだ年端もいかない小麦色の肌をした女の子だった。

「もしかして、捕虜の一人か」

「うん。あれのおかげでどうにか抜け出せた」

「他の子供たちは?」

「……」

 悲しそうに俯く。

 

 

 二人は洞窟から降りて、できるだけその場から遠く離れる。毒ガスから遠ざかりたいというのもあるが、

「大丈夫か?」

「……」

 女の子の精神が参っていたためだった。

 ダメ男は女の子を抱え、自分が休んでいた穴蔵まで移動する。もう銃撃音や爆発音はしなくなっていた。

 女の子の顔に水を浸したタオルをかける。寝息を立てていた。

「あの硫化水素ってやつを持ってきたのは誰なんだ? こんなとこじゃないものだろうに」

「分かりません。そこだけが謎です」

「んー……考えるのは後にして、今は荷物を取りに戻るか。この子の今後も考えなきゃ」

「その必要はない」

「!」

 声のする方に女がいた。背負った機関銃の上から黒いリュックを背負い、煙草をくわえている。この気候なのに黒のタンクトップに迷彩柄のパンツを履いていた。

「次から次へと出てくるな」

 苦笑のダメ男に、女は真っ黒のショートヘアを(なび)かせる。

「その子は私が引き取るよ」

「あんたに預けてどうなる?」

「それを教えてどうなる?」

「事と次第によれば、あんたを殺すことになる」

「ふーん。じゃあこれと交換ってのはどう?」

 リュックを見せつけた。ダメ男の持っていたリュックだ。

「いらない。荷物なんて後ででもいくらでも揃えられる」

「じゃあ、ここで起きた歴史と真実は?」

「!」

 突然、フーが横槍を入れる。

「この子の安全を保証すると誓いますか?」

「? 誰だこの声?」

「こいつだ。フーって言うんだ」

 首飾りを女に見せた。水色とエメラルドグリーンを混ぜた色をした四角い物体で、そこからフーの声が発せられている。

「話を戻します。安全を保証すると誓いますか?」

「もちろんだ。私のプライドにかけて誓おうじゃないか」

「……」

 ダメ男はとても不審がっていたが、フーの判断に委ねることに決める。

「交渉成立だな。……私たちはこの二つの戦争国の取り巻きだ」

「第三国?」

「いいえ。これにちょっかい出していたのは私たちだけじゃない。他にも知るだけで二十ヶ国以上も関わっている」

「ちょっかいとは何ですか?」

「思うに武力支援と人力、戦術指導ってあたりか」

「それではこの戦争はまるで代理戦争ではないですか」

「そうだよ。勝手に話を進めるな」

 ダメ男の前にリュックを置き、何気なくダメ男から離れる。

「元々、この二つの国は今から百五十年前、水を求めて争ったのがキッカケだった」

「水戦争か……」

「長い間戦争したが、ある時他の国が水の援助を申し出たんだ。そこで戦争が終わるかと思われた。でも、戦争は終わらなかった。恨みつらみもあるけど、金銀が地下に眠るという噂がどこからともなく流行り出した。戦争の目的が水から金銀に変わることになる。ところがそれはデマだった。援助していた国の地理学者が研究調査した結果、そんなものは存在しないことが証明された」

「……」

 そっと左手を服の中に忍ばせる。

「ここまで来ると戦争当事国は引っ込みがつかない。なぜなら資金と人手を相当突っ込んでいるからだ。そうなると次の目的はただ一つ、相手の領土を奪うこと。この時点で既に十年もの歳月が過ぎていたらしい」

「なんだか、目的が二転三転していますね」

「というか、そうやって変な噂を吹き込んでいた連中がいたんだ。戦争が長く続くことで、金儲けできる連中がさ。それがお前ら取り巻きなんだろ?」

「……」

 機関銃を下ろし、動作確認をする女。

「そうやって何度も振り回していれば目的を見失って、闇雲に戦争をするだけになる。それは周りの国から見ればとてつもなく美味しいだろうな。武器や新技術の開発と売買、交渉、そういった需要が尽きることがなくなるわけだし」

「つまり、二国をカモにして周辺国が長い代理戦争を続けさせていた、ということですか?」

「そう」

「それで用済みになったのを悟り、二国とも消した。外から毒ガスを持ち込んで、どっちも滅ぼした」

「……」

 ダメ男、フーがそう呼ぶのを躊躇う。

「で、今度はオレを消す気か」

「この情報は外部に漏れるとまずいからな。約束通り、その女の子の安全は保証する。ただ、部外者のお前をここから生きては返さない」

「旅人の誇りとして、絶対に口外しないと誓ったら?」

「そんな保証がどこにあるんだ?」

 ニタリ、と妖しく笑う。

 吹かしていた煙草を吐き捨て、女は機関銃をダメ男に向けた。

「じゃあな、哀れなたびび、」

 一発の銃声が一切の音を掻き消した。

「…………っ?」

 両腕と仕込み式ナイフで前方をかばっていたダメ男だが、自分が死んでいないことを悟る。

「え?」

 機関銃を持っていた女が頭から血を流して倒れていた。誰がどう見ても即死である。

 慌てて振り返ると、

「ふ……ふ……いつまでも、無抵抗のままって思うな……」

 女の子の手に拳銃が握られていた。憤怒の表情を露わにしていたが、重苦しげに“銃口”を見つめた。

「おい、何してんだやめろ」

「最後にやり返しできた。これで満足」

「や、やめろ、やめるんだ……」

「ありがとう、旅人さん」

「やめろぉっ!」

 女の子の頭が跳ねた。

 

 

「……」

 燦々(さんさん)と照り付く砂漠の渓谷。その谷間をダメ男が歩く。歩調に合わせて、胸に下げたフーがゆらゆらと動きている。

「あついなぁ……」

「ただいまの気温は四十二度です」

「なにそれお風呂の温度?」

「どちらにしても熱いですね。ダメ男の数少ない脳細胞が溶けないといいのですが」

「分裂するからだいじょぶだいじょび」

「役立たずが分裂したところで何の役にも立ちませんね。噛んでいますし」

「はは……」

 と、笑うも落ち込むダメ男。

「こればっかりは誰も責められません。そもそも、どうしてあのようなことをしたのかも理解できません」

「オレも分からない。あの人たちは最終的に何を求めて戦ってきたんだ? それも他の国に全滅させられて、全部闇の中……。あの子を助けることもできず……」

「元気を出してください、ダメ男」

 ぽつりとフーが呟くと、

「?」

 空が一変する。東から分厚く黒い雲が押し寄せてきた。地上の熱はその風で一気に押し流され、どことなく寒気がする。雨はまだ降らないにしても、いつ降りだしてもおかしくはなかった。

 重かった足取りを何とか戻して、早めに進む。

 そうして行くと、一人の男に出くわした。四十代前半の髭を生やした旅人で、気軽に挨拶をしてくれた。

「ちょっと尋ねたいんだが、戦争の国があると聞いたんだが、ここら辺か?」

「? 何か用事でも?」

「ああ。実は戦争体験をしたいと思ってな。ちょっと立ち寄ったんだ」

「……戦争体験?」

「なんだ、てっきり体験した帰りだとばかり思ってたよ」

「待ってくれ。一体どういうこと?」

 ダメ男が慌てている。

「このチラシを見て来たんじゃないのかい?」

 ピラッと一枚の黄色い紙を見せてくれた。

 ダメ男とフーは言葉を失い、立ち尽くすしかなかった。

 

 

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第二話:かこうとこ

 赤白黄色と様々な花が一面に咲き並ぶ。海のような青色の河に面し、遠くでなだらかな稜線を描く緑の山が見えていた。

 真っ白でふわふわな雲、河の色を映したように広がる空。そこに沈む太陽が優しく降り注いでいる。

 花畑には大きい物体が佇んでいた。全身黒と赤白黄色の装飾が施され、左右に伸びる腕の片方がぽっきりと折れてしまっている。先端は花びらのように咲いていて、後端にも同様の部分があった。

「こんにちは」

 どこからともなくやって来た女の子。白いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶっていた。

「こんにちは、小さな客人よ」

 返事がした。老年の男の声だ。

「ここの景色は格別ですね」

「そうだろうとも。私の一番のお気に入りだよ」

 女の子が寄り添って座る。

「のどかでいい所です」

「キミはこういう所を好むのか?」

「楽しいのも好きですよ」

「キミの故郷はどういう雰囲気なんだい?」

「私の故郷は……無くなりました」

 抱えていた膝をぎゅっと寄せる。

「どうして?」

「天災に遭ってしまって……」

「今はどうしている?」

「別の国で暮らしていました。家族も友人も誰もいませんでしたが、今はその国の人にお世話になっているんです」

「幸いだ」

「……あなたは?」

 女の子が逆に尋ねる。

「私は争いで故郷を失くしたクチだ」

「争い?」

「私がまだ現役でいた頃、私の故郷は争いが絶えなかった。ある者は国を守るために、ある者は金を稼ぐために、戦いに繰り出していたのだ」

「故郷はどうなったんです?」

「滅びたよ。跡形もなく」

「……」

 女の子は寂しそうに撫でた。

「国の指導者と金魚のフンが国外逃亡するというふざけた終わりだった。連中はどうなったのか分からないが、風のウワサで骨になったと聞いた」

「ひどい話ですね……」

 ふぅ、と一息つき、間を空ける。

「私は仲間たちが目の前で虐殺されて、そして自分が植民地奴隷になるのが嫌になり、故郷を捨てて旅立った。当時、相棒だった“ジョージ”を乗せて、空に飛びだったのだ。ところが、燃料が尽き果ててしまい、この地に降り立つことになる」

「その、相棒は今どこにいるんです?」

「私の下で眠っているよ」

 しかし、その“下”には草花が一層生い茂っているだけで、人影は無かった。

「ここは素敵な景色だが、食料となりそうな物がなかったし、道具も持ってきていなかった。逃げることだけ必死に考え、間抜けにもそこまで頭が回らなかった。……彼はここを死に場所と悟り、死期が訪れるまで眺めていた。雨の日も風の日も雪の日もずっと眺め、そして死んだ」

「それで、あなたがひとりぼっちで……」

「確かに一人ぼっちだな。だがね……」

 と、力強く言う。

「不思議と悲しくないのだよ」

「どうして?」

「彼は肩の荷が下りたのか、死ぬまで、いや、死んでからも笑っていた。私と共に朽ちることを楽しんでいたようだ」

「死ぬことが楽しいんですか?」

「おそらく深すぎる絶望の前に、逆に気が楽になったのだろう。燃料も尽き食料も忘れ、もう途方に暮れるしか無い、と。そういう思考に至った途端に、人であることを諦めた。目の前の河で魚を捕るくらいはできたはずなのに」

「……」

「死を悟った動物は本能を曝け出して、感覚を超越する。飲まず食わずで十日間は持ちこたえたくらいだ……」

「……!」

 女の子は、はっとした。

「……私が痛みや苦しさを感じているとしたら、私はまだ生きたいということなんでしょうか? 死ぬほど苦しくて、身を投げ出したいのに」

「ならなぜキミはここに来たんだい?」

「……」

 女の子はかくかくと力なく立ち上がる。

「分かりません。ただ、自暴自棄になっているのかもしれませんね」

「何かあったのか?」

「私もあなたと同じです。目の前のことを信じたくなくて、逃げてきた“クチ”です」

 女の子はありがとう、と小さく言うと、その場を後にする、

「なら!」

 前に、呼び止められた。

「一緒に朽ちていかないか? 何も考えず、生きることを諦めると楽だぞ」

 振り返らずに、ぴたりと足が止まる。

「……どうせ死ぬのなら、殺してから死にます」

 か細いながらも、明確に答える。瞳が死んでいる。

 その背後で重い物が落っこちて崩れる音がした。きひ、と奇妙な笑い声がする。

「いひ、おんな、おんなくう。おんな、××すう!」

 誰もいなかったはずの場所に、太っていて気色悪い男がいた。

「×っこむ。いひっ、ころす、ひきずりだすっ! くちれっくちれっ!」

 目が血走って異様に口を剥き出している。完全に目が狂っている。

 男はナイフを持つ手を振り回しながら、女の子を襲う。だらだらと(よだれ)を垂れ流して。

 しかし、

「っ?」

 ごぼ、と口から血を零す。流血が止まらない。何かを喋ろうとして、言葉にならない血の音を鳴らすだけだった。

 男は痛みのあまり倒れこんで(うずくま)る。

 辛うじて女の子を睨むが、女の子の顔に色はなかった。

「どうしました? 私を×すのでしょう?」

 両手を背後に一旦隠し、見せる。

「! や、ご、めっろっ」

 全ての指の隙間に小さなナイフが握られていた。丁寧に()がれて鋭さを持ちつつも、硬い鉄で拵えている。太陽の光を受けて妖しく煌めく。まるで手品のようだ。

 女の子は男目掛けて、

「あ」

 投げなかった。手元のそれらを一目すると、背後に戻したのだった。

「忘れていました」

 男にはその意味が分からない。しかし、すぐに身を持って知ることとなる。

「人の物だから慣れないのですね」

 身体が痙攣し始め、息苦しくなっていく……。

 女の子は慣れない足取りで、再び歩き出す。男の苦しむ様を見ることもなく、何かに取り憑かれたように。

 生物がその場から居なくなった時、ふと声がした。

「ジョージ“だった”者よ、これでお別れだな。国外逃亡した先でこんな所に不時着しては、狂っても仕方ない」

 

 

 



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第三話:まぶしいとこ

 翠玉(すいぎょく)色の大平原に空が映える。日差しの低い太陽が優しく輝いていた。

 平面に近いくらいに勾配がつき、所々に木々が群生している。

 一人の旅人が立ち尽くしている。ふわふわとした茶髪に優しげな雰囲気をしている。カーキ色のコートに黒いパンツを履いている。

「きれいだね」

 旅人の左肩にハムスターが乗っている。

「世界にはこんなにきれいなところがあるんだね」

〔私も初めて目にします〕

 このハムスターこそが私“クーロ”だ。そしてこのお方は私のご主人様“ハイル嬢”である。

「……ぼくもしっかりと目に焼き付けておかないとね」

 ハイル嬢は歩き出す。

 

 

 何も我々は目的もなくここへ訪れたわけではない。一週間ほど前に痩せた旅人の男から近くに国があると情報をもらい、それをあてにここまで来たのだ。

 とても綺麗だし長閑だし、動物たちもたくさんいる。しかし実際に来てどうだろう。とても国とは思えない。

 別の驚きでお喜びのご様子だが、私の目からしても、ハイル嬢の落胆は露わだ。久しぶりに休めるとお思いだったのに。

〔ハイル嬢、お疲れではありませぬか?〕

「ん? 大丈夫だよ」

 にこりと笑う。道中で狼藉と争ったこともあり、表情が硬かった。

 ふとして林の中に入る、すると、

「あ」

 人がいた。三十代くらいの女で、額に汗してざくざくと掘っていた。傍に黒包みの荷物が置いてある。

 こちらに気付く様子が全くないので、ハイル嬢が声を掛けられる。

「こんにちは」

「……」

 無視している? いや、それくらいに無心で掘っているようだ。

 しかしこの女はどうしてこんなにも必死で掘っているのだろう? ハイル嬢もそう思わずにはいられず、わざと荷物を調べようと、

「触らないで!」

 して、気を引かせた。

「こんにちは」

「え? ……ああ、こんにちは」

 女も申し訳なさそうに、返事をする。

「一体何をしようとしてるの?」

「決まってるでしょ? それを埋めるためよ」

「う、埋める?」

「あんただって埋めるためにこの国に来たんじゃないの?」

「いや、ぼくはただ近くに国があるっていうから……」

 やや高圧的に言い放つ女。ハイル嬢も少したじたじされている。

 だが埋めるために入国なんて、そもそもここが国だと言うのか。

 あっそう、と女は興味なさげで、ハイル嬢を無視して再び作業に戻った。しかもそれ以降は話も聞こうとさえしないようだ。

 ハイル嬢はその場から離れるしかなかった。ただ、

「!」

 包みがはらりと取れて、見えてしまう。青ざめた男の顔が覗いていた。

 

 

 その後も同様の老若男女と出会うも、全員が同じように穴掘り作業をしているだけだ。だが、全員が全員、人を埋めようとしているわけではないようだ。時計だったり写真だったり、紙だったりと様々だ。しかし、ここが国というだけあって、目的は同じではある。

「不思議だねぇ。こんな所なのに、それを荒らすように掘ってるなんて」

〔どちらにしても物騒なことこの上ありませぬ〕

「確かに! きっと何かあるんだね。でなきゃ怖すぎるっ」

 全くもって同感だ。

 ハイル嬢のお力でも、相手が埋めたいという思いしかないなら、それしか読み取れないだろうし……。

 夕方に差し掛かろうとしている。どことなく西空が日の色に染まり、夜空へグラデーションを描いていく。先ほどまで翠玉色の景色が一転して夕空に彩る。

 大平原の中でハイル嬢の人影が小さく伸びていく。夕日を眺められ、柔らかい面持ちであられた。

 きっとここは特等席だね、とハイル嬢と談笑していると、遠くから、

「おい! そこの旅人!」

「ん?」

 黒い制服を着た男たちに呼び止められた。見たところ、国の警備隊だろうか。

 ハイル嬢は一応交戦の準備だけ、とりわけ右太ももへそっと手を伸ばされる。

「お前か? 入国者や住民に隠す物を尋ね回っているのはっ?」

「あ、やっぱり国なんだ。よかったー! ……のかな?」

 内心、笑ってしまった。

 だが、男たちは冗談を受ける余裕もなく、

「この国ではそのような行為は一切禁じられている! これ以上続けるようなら、抹殺も断じないぞ!」

「そ、そんなに重要なことなの?」

「決まりは入国時に説明したはずだが……まさか、不法入国者か?」

 う……。

 この剣幕だ。不法入国(?)だと判断されれば、強制退去どころの話ではなくなる。ハイル嬢もそれを感じ取られているから、態勢だけは崩さない。

「そうか。……おい、リストを持ってこい」

 一人に命じ、リストとやらを持ってこさせた。丁寧にそれを読み、

「名は?」

「……ハイル」

 問う。偽らずに答えたのはせめてものつもり。

「不法入国で間違いないようだな」

 来る。しかし、

「しっかりと案内せねばならないな」

「……え?」

 予想外の言葉が出てきた。

「お前たちは引き続き監視をしろ。俺は旅人を案内する」

「はっ」

 男たちはぞろぞろと散り散りになっていった。

「……さて、ようこそ我が国へ、迷いし旅人さん。この国を案内するから、楽しんでいってほしい」

「は、……はぁ……」

 困惑するしかない。この男の豹変ぶりに。そして怪しいことをしている者たちを野放しにしていることに。

 ただ、ハイル嬢は敵意なしと思われたようで、交戦態勢を解かれた。

「あの、ここを国って言ってたけど、住民はどこにいるの?」

「この国に住民はいないんだよ」

「え? 人がいなきゃ国って言わないんじゃ?」

「正確にはここは国が管轄した無人区域と言った方が適切かもしれない」

「あー、そっか。じゃああの人もそっちを言ってくれたのかぁ……」

「?」

「あ、こっちの話、……えへへ」

 国ではあるが、まさか人のいない場所へ来てしまうとは。教えてくれた旅人を一瞬でも疑ってしまって申し訳ない。

「仕切りも作ってないのもあって、不法入国する旅人さんが多いんだ。それにあんな光景見たらますます不審がるだろう?」

「うん。あれ見たら、誰だって怖くなるよ」

「あれも歴とした理由がある。それは居住区域に入ってから説明しよう」

「どのくらいかかる?」

「歩いて三十分くらいはかかる」

 

 

 居住区域に着いた。街並みとしては城下町に近いが城はない。ブロック毎に縦長の家が並び、間を道が通る。道と言っても里道のような整えられていない土の道だ。

 どこを境にして国と定めているのか、判断が難しい。関門や関所といったものはないし、仕切もないし。しかし、警備隊の男はそれらしき区域に入ってから説明をしてくれた。

「さて、ここでいくつか説明をしておこう」

 形式は入国審査だと言うが、手荷物検査や銃器没収などは全くない。ただ先ほど言っていた“決まり”とやらの説明だけだ。

 隠した物や出来事についての言及、その経緯の追及、そして誰かに話す事を一切禁じている。破った者は国外追放もしくは死刑。ただし、この決まりを厳守する者は外来人であっても、国として完全に保護される権利を有する。要約するとこのようだ。早い話が“漏らさずは守られる”と。

 ここで一つ、ハイル嬢は気になられる。

「みんな笑ってるね。楽しいのかな?」

「それはストレスが極限に少ないからだ」

「?」

 と、話している警備隊の男は張り詰めている。

「もう何百年前にもなろうことだが、俺たちの先祖にあたる人物が、他の国に観光した時の話だ。住民の表情が陰鬱としていたそうだ。仕事や人間関係に頭を悩ます事が多すぎて、見た目に現れていたからだ」

「うんうん」

「実際、この国も昔は同じようだったらしい。それでどうにかできないかと考えた矢先、帰りの途中で見つけてしまった」

「なにを?」

「ある会社の重役が、粉飾決算の情報を埋めようとしていたんだ」

「ふ、“ふんしょくけっさん”?」

「まあ、悪いことを隠そうとしたってところだ」

 それがどういうことか具体的に良く分からない。私もだが。

 警備隊の男は段々と声に“ハリ”が出てきた。

「人間というのは自分じゃ抱えきれない物を抱えると、人に託すよりもまずは隠すことを考える」

「燃やしたり破いたりしないの?」

「“隠す”というのがキモでね。隠すだけなら復元可能なモノはある。バレたりなんだりしても、モノを公開することができるんだ。しかも隠しただけなら、まだ“マシ”だと思えてしまう。消滅させてしまうよりは」

「……」

「あるいはそのまま隠し通せれば問題は問題でなくなる。時間が経ってから発生したって“今まで知らなかった”と(しら)を切れる。そして未知では仕方ないと思えてしまうんだ」

「じゃあ、あそこでやってたのは……」

「そう! 証拠隠滅大会だよ」

「……」

 ハイル嬢は言葉を失った。この男が話している事もそうだが、あの場所で行われていた悍ましい事に。

「だが悪い事ばかりを埋めて隠す人だけじゃない。自分の思い出や大切な物をしまう人もいる。それを決別と言うか継承と言うかは人それぞれだが」

「なんであんなに綺麗な所でそんなことを?」

「国が管轄すると言ったろう? あそこは国立公園で、部外者は立入禁止なんだ」

「……」

 つまり、より証拠隠滅しやすいように、そして探させないようにするため、か。

「だからなんだね。この国の人たちがまぶしいくらいに笑顔なのは」

 

 

 ハイル嬢は宿を紹介してもらい、そこに宿泊される。久方振りのシャワーを浴びられた。今はバスタオルを巻いてベッドで髪を乾かされている。

「んー」

 私はひょこっとハイル嬢の太ももに乗る。ほかほかだ。

「ねぇ、クー」

〔なんでしょう?〕

「ヒトって隠したがる生き物なのかな?」

〔それこそハイル嬢が良くご存知なのでは?〕

「私は隠してるわけじゃなくて、話す相手がいないってだけだからなぁ」

〔例えば……あの時のことはいかがです?〕

「!」

 ぼん、と顔を真赤にされた。私の想像していることも手に取るように分かるようで。

「へ、へんなこと言わないでよっ。っていうか見てたのっ?」

〔いえ、まさか。主の秘め事を覗くほど野暮ではありませぬ〕

「聞いてたってことでしょっ!」

〔正確には聞こえてしまったという方が、〕

「どっちだっていいっ。恥ずかしいことには変わりないんだからっ!」

〔やはりヒトは隠したがる生物のようですな〕

「もう!」

 あっつい! やめてっ! 熱風は止めてくだされ!

 ……ふう。特にヒトには当てはまるだろう。ハイル嬢を見ているとそう思う。布切れ一枚でも、自分の身体を何が何でも隠したいくらいなのだから。まぁ、だからと言ってそのままでも問題でしかないのだが。

 

 

 翌朝。日が昇りきってからハイル嬢は起床された。ご自慢の癖っ毛も寝癖で四散し、それを一生懸命整えられる。その後は手持ちの武器の点検と衣類を整理整頓された。

 今日の昼頃には出立される予定だそう。それまでは散策と買い物だ。

 私はハイル嬢の右肩に乗り、ご一緒に散策した。

 昨日の夕方見たように、住民たちは楽しそうに笑顔で生活していた。ハイル嬢はさり気なくその光景を目にする。

「ふーん、そっか。頑張って笑ってるんだね」

「?」

 ハイル嬢のお手にかかれば、隠し事も通用しない。だがその全容は教えてくれないし、聞こうとも思わない。ハイル嬢が口を開く時、その時が一番のタイミングだから。……ちょっと気になるが。

 よって私は特に尋ねることはせず、ハイル嬢のご用事を優先する。

「いらっしゃい、……あ……」

「あ」

 とある店に入ったのだが、顔を知る人物がいた。あそこで男を埋めようとしていた女だった。

 ハイル嬢は反応に困り、思わず苦笑いをされた。

「あはは……あの、……ドーモ……」

 私はそそくさとハイル嬢の胸ポケットに隠れることにする。余計なイザコザを招かないように。

 ハイル嬢の苦笑いに対し、女は、

「いらっしゃい! 旅人さん!」

 ぱぁっ、と蛍光灯のように明るく笑う。

「何をお求め?」

「……」

 てっきりあの時のことを指摘されるかと思ったのだが、様子が違う。まるで気にしていないというか、あの出来事が抜け落ちたように忘れているというか。

 それはハイル嬢を窺えば一目瞭然だ。開いた口が塞がらず、しかも表情が険しかった。

「……ぼくを覚えてる?」

「……いや?」

 こんなこと、私でも分かる。女は嘘をついている。

「でも今ぼくのことを“旅人さん”って言ったよね? どうして旅人って分かったの?」

「それは、身なりを見ればだいたいそうでしょ? こんな所だから旅人かそうでないかの区別は付くわ」

「じゃあぼくを見た時にどうして驚いたの?」

「そりゃ、こんな可愛らしい子が旅人だなんて信じられなかったからよ」

「信じられなかったのに旅人って判断したのはどうして?」

「そ、それは……」

 この手のやり取りは相手に勝ち目がほぼない。しかしハイル嬢は決して逆上させないように、自分から話し出すように促す。

「もっと言ってあげようか?」

「……」

 ハイル嬢は押し黙る女を尻目に、欲しい物を選び始めた。そもそも、当初の目的から外れていて、女を責め立てる必要もない。それなのに、ハイル嬢はなぜここまで問い詰められたのだろう。

 私の疑問も尻目に、ハイル嬢は女のいる会計に品物を出される。はっとして本来の仕事をこなす女。物々交換か金銭か尋ね、後者だったので代金を支払われた。

 どう見ても女は動揺していた。

 店を出て行く間際に、ハイル嬢は尋ねられた。

「本当にあれで良かったの?」

「……」

 

 

 昼。昼食も取らないまま、ハイル嬢は終始お硬い表情のまま、出国手続きをされる。“入国”の時と同様に、簡単な質疑応答だけだった。犯罪や違反はしていないか、何か埋める物はあったか、の二つだけ。

 入国審査官は案内してくれた警備隊の男とは別だった。ガタイのいい三十代中頃の男で、岩のようだった。

「後は……忘れ物はないかな?」

「うん。ないよ」

「よし、これで出国手続き完了っと、」

 証として押印しようとした時、

「!」

 あの男共……。ハイル嬢を再三襲った野盗共が待ち伏せしていた。一体どこから情報を仕入れてきたのか、確実に我々の行く先にいる。く、ようやく休められたと思ったこれか……。ハイル嬢は既に右太ももの銀銃に触れていた。

 その中の一人がハイル嬢の方へ歩いてきた。

「よお、また会ったな」

 話し掛けたのが合図。野盗共はすぐに戦闘態勢に入る。中には重火器、大男が持ちそうなガトリング砲まで持っている。いよいよ本腰を入れてきた、といったところか。

「観念しな。俺らはお前がとっ捕まるまで追い掛け回すぜ? 一国の姫様とあれば、たんまり身代金が手に入るもんだ」

 こいつ、こんな所で大々的に言うか。まさか他の者まで巻き込む気か。

「ぼくは姫でも何でもないって言ってるでしょ。もっと痛い目見ないと分からない?」

 最初襲われた時は武器無しで舐め腐っていたから、素手でボコボコ。次は軽装備だったから、野生動物たちと連携を取りつつズタボロ。今回で三回目というわけだ。トドメという所で撤退されるから、こうして付け狙われている。

 しかし審査官まで巻き込むわけには……。もう出国手続きを済ませ、厄介は掛けたくはない。

 それを見越して、野盗共はこの場を動こうともしなかった。無言で圧力を掛けてくる。

 ハイル嬢も重々承知されている。問題はハイル嬢の秘密がどこまで漏れているかだ。今いる七人だけならすぐに始末するが、そうでない場合は焼け石に水。拷問に掛けても徹底的に炙り出す必要がある。つまり、最低一人は生け捕りにしなければならない。

 ハイル嬢は意を決する。今こそ銀銃が吠える時、と思いきや、

「え?」

 最初に取られた行動は意外すぎた。

 身を(ひるが)して、逃げられた。まさかの敵前逃亡?

 ゆっさゆっさと揺れる私はハイル嬢のセーターにしがみつくしかできない! と思いきや急停止された。ぶあっ!

〔いったたた、……!〕

 遠くで何かが起こっている。

「どけや!」

「なんで止める!」

 先ほどの審査官が野盗共を足止めしていた。い、一体どうしてっ?

 ハイル嬢は二十メートルほど離れて、遠くから見られていた。

「あの旅人を誘拐しようとしているのですね?」

「聞こえたろう? 一国の姫様だって情報があるし、一儲けできるんだぜ? あんたも協力しねえかい?」

「では、あなた方はこの国に入国することはできません」

「はあ? なんでだよ? お前には関係ねえだろうがっ」

「我が国では隠した情報をネタに、犯罪行為をすると疑われる人物は入国できない決まりになっています」

「き、決まりだあ? んなもん知るか! 通さなきゃ殺すぞ!」

 男は審査官に銃を押し付けた。

「……」

 ところが、審査官は全く怯まない。それどころか、手元のレシーバーから、

「刑法第三条、恐喝脅迫罪が適用されました。係の人間は入国審査所まで」

 淡々と応援を呼ぶ。

「て、てめえ! 何してやがる!」

「ちなみに治外法権はないので、国外逃亡しても追い続けます。そしてここで銃器を使えば国際問題になりかねないことをお忘れなく」

「へ、へあっ?」

 審査官はわざと銃口を額に押し付けた。

「!」

 そのまま手首を掴んでは捻り、勢いで男を倒す。男は地面に伏し、腕を背中に回されてしまった。

 無駄のない制圧に、野盗共は一斉に銃火器を乱射、

「ぐぼ」

「べ」

「あ」

 されてしまった。警備隊が遠くから狙撃しているようだ。

 肉塊と化したものは物々しく倒れる。蜂の巣にされ、その穴から漏れ出している。一切喋ることもなく、ぴくぴくもぞもぞと痙攣するのみ。それもやがて止まった。

 ハイル嬢に駆け寄るのは、案内してくれた警備隊の男だった。

「なんだ、旅人さんだったのか。だがどういうことだ? 旅人さんは隠した物はないと報告を受けているが?」

「ああ、えーっと……」

 そこへ審査官が駆け付けた。

「その話は私から。出国する直前にこの人らがいましてね。その時に旅人さんが隠す“モノ”を決められたようなんですよ。その手続きをしようとしたらこんな事に……」

「なるほど。では、その手続きを認めよう。続けてくれ」

「はい」

 審査官が気を利かせてくれたようだ。と思ったら、出国証明書を見せてもらうと、印の“フチ”しか押されていない。まだ出国手続きが完了してなかったらしい。なるほど、それでここまでしてくれたわけか。

 隠す“モノ”を聞かれ、ハイル嬢はその前に確かめることがあると、野盗の生き残りの方へ向かった。警備隊に拘束されている。

「なんだよ」

「聞きたいことがあるんだけど、ぼくのことを知ってる人ってあなたたちだけ?」

「へ。他の奴らにも広めたに決まってるだろ? ここで俺を殺しても、お前にまとわりつかせてもらうぜ?」

「……そう」

 右太ももから銀銃を引き抜かれる。

「八つ当たりか? 憂さ晴らしか?」

 力強く銃口を向け、

「安心したよ」

「?」

「嘘つきで」

 躊躇いなく引いた。

 

 

「ぼくが隠したかったものはこれで全部だよ。でもいいの? 後、お任せしちゃって……」

「なあに。あくまでもこいつらは罪人として処分するだけ。旅人さんの隠したい物は我々が口を閉ざせば済む話だ」

「これが私たちの仕事でもあるからね」

 ハイル嬢は最後に、と呟かれた。

「どうしてこんな国にいようと?」

「ふ……、それは……規則違反だ」

「!」

 ……ハイル嬢は、

「そっか」

 なぜかにこりと笑われた。

「きっとそれは素敵な理由なんだろうね」

「なぜそう思う?」

「あなたの笑みがとても自然だから」

 

 

 ハイル嬢はこの国を後にされた。二人の男はハイル嬢が見えなくなるまで、見送ってくれた。

 最初は嫌悪感しかなかったが、どうしてここまで頼もしい国なのだろうと思ってしまう。

「あのさ、ちょっと寄っていいかな?」

〔いいですが、迷子になりませんよね?〕

「私だってそこまでじゃないよっ! 国を伝うようにしていけば着くでしょっ?」

 それでも私は心配する。

 どうにかして辿り着いたのは、最初に入ってしまった国立公園だった。しかも林の中へ入られる。まだ昼を迎えたばかりだから、日の光が優しく差し込んでくる。

「!」

 すぐに発見される。急いで確認するが、

「……」

 既に事切れていた。

 あの女の遺体だった。死因は射殺。額に弾痕がくっきりと残り、今でも血を流している。足元を見れば何人かと争ったような足跡があった。原因どころか、全容まで想像に難くない。なぜなら、

「この人が……」

 男の遺体が掘り起こされていたから。

「……あの国の人たちはみんな無理やり笑ってた。隠した物から逃げるように、見ないように……」

〔そうでしたか〕

 モノは隠せても、気持ちや罪悪感までは隠せない、か。

 そっと、両手を合わせられる。

 近くに手紙が置かれていた。まるで誰かに見てほしいと言わんばかりに。

 ハイル嬢は迷わずその手紙を見られる。

「……」

 読み終えると、彼女の手元に置かれた。そして、お互いの遺体の手を握らせる。

〔どうされます? 遺体を二つ弔いますか?〕

「このままにするよ。せっかく明るみに出られたんだし、暗い所に閉じ込めるのはかわいそうだから……」

 静かにその場を去り行く。二人の陽溜まりを邪魔しないように。

 

 

 



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第四話:うつくしいとこ

 どんよりとした雲がうねりながら流れている。その下で痩せた一帯が追いかけるように広がっていた。雑草も木も水と栄養を奪われて朽ち果て、砂色の地面と一体になっている。

 そんな中に廃屋があった。

 一人、少年が立ち尽くしていた。茶髪を肩まで伸ばし、素顔を隠すように俯いている。

 ぽつ。雨音。

 少年の頭に落ち、それが段々と多くなっていく。周囲も雨粒に浸っていき、雨が連なって濡らした。少年の全身を冷たく打ち付ける。

 そこに一人の侍がやって来た。和傘を差し、少年を真っ直ぐ見つめている。

「ここで何をしておる」

 廃屋の中を何とか歩き、少年の所に辿り着く。

 少年はただ俯いていた。侍がその方向を見ると、

「!」

 夥しい数の肉片が散らばっていた。男女だけでなく、子供もいる。今も赤く垂れ流し、雨と混じって色が消えていく。血溜まりは雨と弾き合う。

 少年の手には、

「誰かに殺されたのか」

 何も持っていなかった。血で染まってもいなかった。

「……」

 少年は何も答えない。

 見かねた侍は和傘を差し出す。

「来い。ここで終わりたくはなかろう」

 一向に動こうともしない。

「どうしても離れぬなら、力ずくで引っ張り出す」

 言葉通り、侍は思い切り少年の腹を殴った。死体と一緒に倒れ込み、身体が血とまぐわる。

「悪く思うなよ」

 どこからか、きらびやかな太い音がする。

 

 

「……!」

 気が付くやいなや、すぐに起き上がる。

「どうした?」

 目覚めると、そこは暗い森の中だった。月明かりはなく、代わりに煌々と焚き火が燃え上がる。

 暖かい明かりに曝されている女の顔。起き上がった男に視線を移しているだけで、手に持つ本を手放さなかった。木の幹に寄りかかっている。

「まだこうたいじゃない。ねむっていろ」

 眠っていた男はそそくさと自分の荷物を漁り、目当ての物を見つけた。それは刀。暗闇に染まる鞘に、白い菱形模様が刻まれた黒い柄。ぎゅっとしがみついている。

 一安心して、

「では、お休みなさい」

 男はパッタリと床についた。

「……」

 女は体操座りになって、本を読み続ける。男をちらちらと見つつ。

 

 

 どんよりとした雲がうねりながら流れている。その下で痩せた一帯が追いかけるように広がっていた。雑草も木も水と栄養を奪われて朽ち果て、砂色の地面と一体になっている。

 道とない道を二人の旅人が歩いていた。一人は二十代前半の茶髪の優男。無地のシャツに下半身を覆う鎧を履いている。脇には黒い鞘の刀が提げられていた。軍隊用の大きいリュックサックを背負っている。

 もう一人は二十代中頃から後半の色白の女。長い黒髪を後ろで折り曲げて束ねており、黒縁メガネをかけている。左目尻には泣き黒子が、左こめかみからアゴへ伝う傷跡があった。使い古した赤紫のジャケットに白のタンクトップに、黒いパンツの上から腰ベルトを巻いている。そこには“空の”ホルスターが一つだけあった。ショルダーバッグを肩から吊るしている。

「“ディン”」

 女が呼びかける。“ディン”という男は、

「……」

 ただ黙々と歩き続ける。

「ディン」

 まるで意識が抜けているように、女に反応しなかった。

 女がディンの腕をつかんで、

「どうした?」

「あ……いや……何かありました?」

 ようやく女を見る。

「しずかなのはめずらしい」

「いやほら、天気も悪いですし、早く雨宿りできそうな所を探さないと、と思いまして。濡れるの嫌でしょう、“ナナ”さん?」

「……」

 ふ、と女の“ナナ”が笑う

「みちをまちがえなければ、こんなことにはならなかったのに」

「じゃんけんで決めたのは間違いでしたねぇ……」

「おまえがよわいからだーっ!」

「まあ、そのおかげで食料をたんまり確保できましたけど」

 ぽかぽか叩くナナをヨソに、思い出したように男が懐から取り出す。“つ”の字の形に拵えた小さめのショットガンで、バレルが二つあるものだった。それを女に手渡すも、もっていろ、と拒否された。

「そろそろアイスがたべたい」

「今の状況では極上のぜいたくで、……ん?」

 どこからともなく綺麗な音が聞こえてきた。重厚できらびやかな金属のぶつかる音。

「ようやっと見つけましたねぇ。行ってみますか」

「アイスがあればいいが」

「あったら奇跡ですよ」

 地平線彼方から現れたのは、

「……!」

 二つの鐘楼(しょうろう)に挟まれた三角屋根の建物だった。片方の鐘楼が丸い屋根、もう片方が三角屋根になっており、三階相当の高さに金色の鐘が収蔵されている。間の建物は二階建てで、丸い鐘楼の傍に入口がある。しかし、その入口は意味を成さなかった。

「ぼろぼろだ」

 長年放置されたのだろうか、崩れた砂山のように、風化が酷い。建てられた石材にヒビが入り、砂となって朽ちている。あまりの崩れ具合に、外からでも中が丸見えだった。

 ただ、人が住んでいる形跡がある。近くには物干し竿があり、洗濯物がずらりと並べられている。バサバサと風で(なび)いていた。

 遠目に見えた瞬間、ディンの足が止まる。

「……ディン?」

 表情が固まる。ナナが引っ張るも、足取りは軽くなかった。

 鐘が鳴る。丸い鐘楼から響き渡る鐘音は太くもきらびやかだ。どこまでも届いていきそうな“うねり”が身体を震わす。

 建物の入口に着き、ナナがトントンと叩く。

「はーい」

 ガチャリと二十代前半の女が出てきた。白黒の衣服を身に纏っている。おでこと胸元、袖は白く、他は全て黒い。素肌も顔と手以外はしっかりと隠していた。

「どちら様ですか?」

「……」

 ディンはあっけらかんとしていた。

 女はディンの腰を見ると、一目散に、

「突然で申し訳ありませんが、その腰の物を見せていただけませんか?」

「……」

 愕然としていて言葉が出てこなかった。

 代わりにナナが刀を渡した。

 全体をじっくりと眺めた後、鞘を抜く。銀炎が揺らめくような刃紋が妖しく光る。

 特に盗んだり壊したりすることもなく、丁重にナナに返した。

「ここってとまれる?」

「もちろんですとも。ここで巡り会えたのも神の()し召し。どうぞ中へ」

「? よくわかんないけど、やったー」

 女が招き入れるも、ナナが手を引っ張るも、

「どうした?」

 頑なに立ち止まる。

「……ナナさんだけ入っててください。私は、その……外で見張りをしていますよ」

「なぜ? あめがふるかもしれないのに」

「ここは修道院でしょう? 何かあれば神様に怒られそうですからねぇ」

「私以外に誰もいませんし、身を守る(すべ)もありますから、大丈夫ですよ」

「……」

 あまり気が進まないようだ。

「修道女さん、ここにアイスはありますか?」

「はい。ちょうど商人様からいただいたものが、」

「じゃあディン、まかせた」

 すたすたと後腐れなく入っていった。

「……帰巣本能ってやつですかねぇ……」

 

 

 夜。昼間も曇り空のせいで薄暗かったが、夜は暗闇の中にいるようだった。修道院も外に明かりは付けず、少し離れた所に焚き火があるだけ。周りをほんのりと火の色で灯してくれる。

 ディンは集めた木々を()べつつ、見つめていた。すぐ側に刀が置いてある。

「……ふぅ」

 気怠そうに頬杖をついている。

 背後から、

「どうですか?」

 修道女が声を掛ける。

「異常なしですねぇ」

「それは良かった」

 そっとディンの隣に座る。

「ディンさんが中に入らないのは、私と話すためでしょう?」

「……“メアリ”さん、今の内に言いますけど、あなたに気はないですから」

 “メアリ”と呼ばれた修道女はニコリと微笑む。返答はない。

「長らく、お待ちしていました」

「私を?」

「はい。あなたの師匠さんより」

「!」

 じろりとメアリに目を移す。

「安心してください。彼女には内緒にします」

「なぜ知っているんですか?」

「……ご本人から直接話を伺いました。というより、頼まれました」

「頼まれた? 何を?」

「生きているかどうか」

「……」

 ディンはそれ以上は追及しなかった。代わりに焚き火に焼べる。

「私は世界各国にある教会や修道院に巡礼しようと旅をしているのです。その道中で師匠さんに助けられました。やはり女身一つでは不都合な出来事が起こってしまうものです」

「それで、師匠はあなたにこの修道院で待つように依頼したんですね?」

「はい。毎日でなくていいので、気が向いた時に見回ってくれ、と。その時にディンさんの持ち物を教えてもらいました」

 木の棒で風通しを調整する。

「事情は分かりました。嘘ではないようですし。明日早くにでも、私の元気っぷりを師匠に報告しに行ってください」

「一緒に行かないのですか? 師匠さんは会いがっていますよ?」

「こちらがまだ会う段階になっていません。その機会はもっとさ、」

「ご自身を呪っているのですね」

 一瞬、目が見開いた。

 メアリはゆったりとした面持ちで火を眺めている。

「今までの不幸をご自分の呪いのせいだと責めている」

「……あの人は意外とお喋りだったんですねぇ。寡黙な雰囲気しかなかったのに」

「私は一応修道女ですので、“懺悔(ざんげ)”ならちょっとだけできます」

「……なるほど」

 木の棒をそのまま焚き火の中へ挿し込んだ。風の通りが良くなって、炎に勢いが付く。ぱちっぱちっ、と木が燃え朽ちる音が耳に残る。

「師匠さんの依頼はディンさんの呪いを解くこと。度重なる不幸は偶然ではなく、呪いによって引き起こされています。一宿一飯の恩義をくれた一家が強盗に惨殺され、命だけは奪わなかった敵が、死ぬほどの苦痛を浴び、惚れた女性は精神を壊す。屈強な侍は事故のために右目を落とす……」

 平静を保てず、膝を深く抱え込む。ぎゅうっと両肩に力が入ってしまう。

「ですが、気は持ちようです。呪いとこじつけてしまえば、いくらでもできます。なので……」

 メアリは懐から一粒の錠剤を手渡した。

「これは?」

「口にお含みなさい。身体中の神経が剥き出しになるくらいに、感覚が鋭敏になります」

「……」

 無論、そんな怪しい物を飲むのは躊躇した。しかし、(けしか)ける。

「これ以上あなたのせいで犠牲者を増やしたくないのでしょう? もしかすれば、私もあなたの呪いで死かそれ以上の(はずかし)めを受けるかも」

 自分の手に乗っていた一個の重さが、ずしんと重く感じる。その重さを口の中へ……。

 飲んでしまったと後悔するのも束の間、

「うっ」

 鐘が鳴り響く。

「くっ……頭が、いたい……」

 神経を殴りつけるような痛み。その波が段々と激しくなっていく。全身の血流に沿って、痛みが走るような、細かい激痛。

 抑制が利かない。痛みに悶える呻き声が叫び声に変わり、獣の断末魔に変わり果てた。

 既に意識は失っていた。

 

 

「……!」

 気が付くやいなや、すぐに起き上がる。

「どうした?」

 目覚めると、そこは暗い闇の中だった。月明かりはなく、代わりに煌々と焚き火が燃え上がっている。

 暖かい明かりに曝されているナナの顔。起き上がったディンに視線を移しているだけで、手に持つ本を手放さなかった。

 下半身に毛布が掛けられていた。起き上がった時にずれ落ちたようだ。

「な、ナナ、さん……?」

「大分疲れていたようだな。ここに辿り着いた途端、泥のように眠っていたぞ」

「ここは……外ですか?」

「当たり前だ。まだ寝惚けてるのか?」

 太く艶やかな鐘の音が鳴り響く。

 パタリと本を閉じ、眼鏡をその上に置く。

 まとめ上げていた髪留めを解くと、長い髪が闇に溶けて放たれた。のしのしと豹のように近づき、ディンの顔に触れる。

「ナナさん?」

 焚き火の明かりに照らされて、顔が暖かい色になっている。

「だからここには私たち二人しかいない」

「んっ!」

 口でディンを押し付けると、そのまま押し倒した。

「んは……きゅ、急にどうしたんです? それにあの傷が、ない……」

 上に(またが)る。

「私はお前に壊された」

「!」

「弟が自殺した真実を隠され、敵と思っていた男の仲間だったことを言わず、私と懐柔しようと嘘をついて……私は狂った」

 懐から取り出したのはショットガン。銃身を短く切り詰めた小さいショットガンだった。

 銃口をお腹に押し付けて、つつっと上へ這わせた。へそ、鳩尾《みぞおち》、胸、鎖骨、喉仏。そこでゆっくり止まった。

 ディンは落ち着いた様子で見ている。

「殺してくれるんですか?」

「……なぜお前は死にたがる?」

「ナナさんには死んでも足らないくらいに、迷惑を掛けましたからね。気が変わって殺すことになっても、僕は受け入れます」

 銃口が口元で浮く。

「嘘だな」

 炸裂した。ディンの顔がドロドロと赤く汚される。

「……う、うわああああああああああああぁっ!」

 べちゃ。頭のない死体がディンに抱きつく。愛していた女の頭が消し飛んでいた。

 重くのしかかる死体はディンを拘束し、一切身動きを取らせてくれない。

「ああ、あっ! う、ぐえぇっ! ナナ、あああああぁっ!」

 止めどなく顔に流れる。水責めならぬ血責め。

「本当に、それが、理由か?」

 ディンが瞬きした直後、頭が元通りになっていた。

 嬉しいとか夢とかの感情より、気が動転してしまっている。

「やはり私が死ぬ方が効果があるな。もう一度聞こう。気狂いしてないできちんと聞け。これ以上私に隠し事をする気か? あの時、隠し事はしないと誓ったのに……」

 銃口を自分の右こめかみに向ける。

「ずばり言う。お前は自分の呪いの事を憂い、せめて愛した女に殺されようと思った。違うか?」

「ち、ちがう! ちがうから! 死なないでナナさん!」

「……お前の心はとても頑丈そうだな。……今度はゆっくりと死んでやる。たんと味わえ」

 銃口を少し離し、躊躇いなく撃つ。

 銃口から放たれた無数の散弾が頭左側から激突する。まるでスイカを押しつぶすように、顔に亀裂が走り、隙間から漏れて、弾丸が中へめり込んでいく。逆側から弾丸が突き抜けて、中で暴れた弾丸が頭を爆発させた。残骸は射撃方向へ流れるように、血と脳漿(のうしょう)をバラまいて、びちゃびちゃべちゃべちゃぼちゃぼちゃばちゃばちゃ。スローモーションでディンに見せつけた。

 ナナの顔の破片がなぜか全てディンを睨みつけている。誰かがそう動かしたように。

 振り切れるように、気絶した。

「よほど、私に、死なれたく、ないようだな。……口を割るまで繰り返すしかあるまい」

 

 

「……は!」

 全身血塗れで目覚めた。

 気が狂いすぎて、全身の血が頭に溜まっているようで、気持ちが悪い。

 相変わらず鐘が鳴り響く。ぎりぎりと歯軋りが聞こえ、怒り声を上げて床を殴った。それでようやく気付く。

 ここは修道院の中だった。信者たちが座るための長椅子がずらっと並び、最前には祭壇とロープで仕切られていた。そこにあるものに視点が定まってしまう。

 まるでサバイバル生活から生還したように、よたよたと歩く。恐怖と逃れた安心感から小刻みに震えていた。

 ディンは祭壇に上がり、“それ”を前にした。

 盾と杖を持つ老人の銅像。髭を蓄え、マントを背負い、法衣を下半身にまとっていて半裸に近い。しかし老人とは思えない鍛え抜かれた身体。肌身は岩のように厚みと硬さを見せつけ、刻まれた無数の傷跡は強靭さを想像させた。

 鐘が鳴り響くも、不思議と頭痛がしない。

 銅像を見つめていると、脇から、

「……!」

 子供が過ぎ去った。少年だった。

「小童よ」

 びくりと入り口を見ると、侍が立っていた。低く(しゃが)れた声だった。

「久々に帰ってきたからといってはしゃぐでない」

「だって僕らのお家なんだし、いいじゃんかー」

「今は人がいないだけ。誰かに使われるまで、寝床にできるのだ」

「ちぇー」

 少年はディンの傍らで銅像に(ひざまず)き、祈りを捧げる。

「前から気になっていたが、どうしてそのような事を続けているのだ?」

「……少しでも祈れば、僕の周りで死ぬ人が減るのかなって」

「して、効果は?」

「このお爺さんの像はテキメンだね。おじさん、生きてるし……」

 少年は目をこしこしする。

「儂は世間軟弱どもとは鍛えが違う。眉唾もので死するわけはあるまい」

 侍は少年に手を差し伸べる。しっかりとその手を握る。

「呪いとやらはどうやって儂を殺すか、試してやろう」

「頼もしいね!」

 二人で修道院から出て行く。

 死なないでね……。か弱い呟きに、力強く頭を撫でた。約束しよう、と。

 ディンは二人を見えなくなるまで見送った。そして、銅像に振り返る。

「……僕はばかだ……」

 頭を銅像に預けながら、俯く。

 

そんな腕、もぎ取ってやりたい……。

 

 

「……」

 ゆっくりと目が開いた。床から起き上がる。

「だいじょうぶか?」

 目覚めると、そこは暖炉のある部屋だった。まるで焚き火のような暖かい明かりが部屋をほのかに照らす。

 揺り椅子から心配そうに見つめているナナ。しかしアイスをペロペロするのは止めない。

「な、ナナ、さん……?」

 荷物からタオルを持ち出し、ディンの顔を拭ってあげる。

「きゅうにたおれたから、なにごとかとしんぱいしたぞ」

 ぐいぐいと押される感触。ぺたぺたと触れてくる手。

「あのぼ、私は一体……」

「ここの“かね”のねをきいたとたん、ぱたりとたおれて、それからナナがひとりでここまでひっぱって……」

「……あぁ、どうりで背中がヒリヒリしますね」

 そっとタオルを拭く手を握り、行為を止めさせた。

「おまえ、あくまかなにかか?」

「悪魔? どうしてです?」

「あくまはきょうかいのかねをきらう、ときいたことがあるから」

「……」

 きょとんとした後、思い切り、

「ぷ」

 吹き出した。

「あっははははははっ!」

「わらうなぁっ!」

 べちんと両手でディンの両頬を叩いた。それでも笑いが止められない。

「あーっはは……そうですか、悪魔ですか……ひひっ」

「それいじょうわらうとすねるぞ」

 ぐりぐりと頬をこねくり回す。

 あまりにも笑いすぎて涙も止められなくなってしまった。

「あーはっは……はぁ……まったく、あなたは飽きない人ですねぇ、えぇ……」

 笑い終えて、でも、

「悪魔、ですか……」

 止められない。

「!」

 それが別物だとすぐに勘付き、ナナが慌てふためく。

「あ、いや、べつにばかにしたわけじゃない。えっと、わっわらわそうとして……」

 くすりと笑みもこぼし、ナナの頭を撫でた。

「こうなってしまったのも、悪魔のせいですかね?」

「……あくまのせいじゃない。ナナがかってになっただけだ」

「……約束してくれませんか?」

 ナナの手を握り、小指と小指を絡めた。

「なにを?」

「もう、死なないでくださいね。あれを見るのはもうごめんです」

「? とうぜんだ。おまえがしぬまで、ナナはしなない。だからおまえもやくそくしろ」

 ぎゅっと小指に力が入る。

「ナナがしぬまで、おまえもしのうとするな。ナナはまだしにたくない」

 握り返した。

「……はい」

 

 

 まだ夜が明けない頃、二人は祭壇に出た。

「メアリさんはどこへ?」

「きのうのよる、どっかいった。ナナはそれいじょうのことはしらない。ヤキモチもやいてない」

「そうですか」

 ディンが夢で見ていた老人の銅像が祭られている。

「まちがいないんだな。かつて、おまえとししょうなるおとこが、ここにすんでいた、と」

「えぇ。覚えています」

 そこは寂れた修道院の中。ボロボロになった修道院の中で、唯一色()せること無く健在している。ぽつんと立ち誇っていた。

 ふとして、ディンが気付く。

「これ……」

 手を伸ばしたのは老人の持つ杖。他と違って、どことなく後付けされているような感じがした。

 揺らすと、カタカタとわずかに動く。それを捻るように引っ張ると、

「あ」

 取れた。

 調べてみると、銅像の部分は周りだけで何かに(ふん)している。つまり、中には別の物が入っている。

「これは?」

 中を取り出した。

「これは……刀? いやでも短い……脇差しのようですね」

 一尺五寸(約四十五センチ)の脇差しだった。全体的に黒いが、柄の模様が白い菱形になっている。鞘を抜くと、刃には細かいギザギザの刃紋があった。

「どうしてつえのなかにあった?」

「……」

 見つめていた。ナナに肩を叩かれて、ようやく気付いた。

「あ」

「ディン?」

「すみません。ちょっとぼーっとしてしまって」

 わずかに口角が上がっている。

「これは師匠のものです。小さい頃に私が借りていた脇差しなんです」

 ディンは愛しそうに、ナナに手渡した。

「私が持つべきものじゃない。ナナさんに譲ります」

「うけとれない。そんなたいせつなもの」

「だからこそ、です。それにもう一本欲しかったところでしたし、女性のナナさんには使いやすいと思います」

「……」

 付けて、とナナに返され、左腰に提げられるように付けてあげた。紫色の下げ緒がどことなく可愛い。

「うれしそうだな」

「え? そう見えます?」

「なんとなく。ふっきれたようにもみえる」

「何だか初心に返ることができたようでして」

「ナナいじょうのかまってちゃんなのはわかった」

「いやいやいやいや、それはない、あ、そうそう。刀のメンテナンスは私がやりますけど、ショットガンや麻酔銃はいい加減にやってくださいね」

「えー、やだ。めんどくさい」

「前は丹念にやってくれたのになぁ……」

「それは……だか……」

「でも……で……」

 二人の立ち去る姿を老人の銅像が見送る。ぽっかりと空いた右手は、さも天を指差しているようで、晴天の光を浴びていた。

 

 

 



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第五話:もどれないとこ

 ある所に国がありました。茶色い大平原のど真ん中に国を構えており、やけに盛り上がっていました。

 天気は快晴。太陽が踊るように照り出しています。

 その国の住民は出し物や催し物、屋台を繰り出しては、お祭り騒ぎのどんちゃん騒ぎです。とても楽しそうに生活しています。

 そこに一人の旅人が訪れました。

「ここが教えてくれたとこだな」

「そうですね。商人が言っていたように(にぎ)やかです」

 旅人以外にも女の“声”がしますが、旅人は気にせず歩いています。

 旅人はひとまず寝床を確保するために散策しました。一つ一つの家が屋台として並び、脇には小さなテントが張られています。そこが店主の家だと想像に難くありません。なので、宿はすぐに見つかりました。屋台よりも唯一大きい建物が国の中心にあり、すぐ目に付いたためです。

 受付に問い合わせたところ、ぎりぎり一部屋空いており、滑り込みでチェックインできました。ただし、予約の関係で一泊二日しか取れないとのことです。

 荷物をベッドに放り込み、最低限の用意で出掛けます。

「いやー、幸先がいいな。日頃の行いのおかげかな」

「人助けはしてますし、悪くはないと思いますよ」

 ちらっと目移りしたのは、地べたに水槽が置いてある屋台でした。

 旅人はそこに寄って話を聞きます。四十代後半の店主でした。

「これってどんなの?」

「ああ、これは“バスすくい”さ。見てみな」

 水槽には小さくとも三十センチになる黒い魚が優雅に泳いでいます。しかしその一匹しかいませんでした。

「あいつをそいつですくって、こいつに入れればお持ち帰りさ」

 紙で貼られたラケットと銀色のタライを旅人に渡します。

「な、なんかスケールがでかいな……」

「昔は金魚すくいをやってたんだが、スリルがほしくなってなっ! 誰も成功したことがないんだぜ? やってみるかい?」

「どうします?」

 ぽそっと女の声が聞きますが、

「いや、いいや」

 二つ返事でした。

「この魚を持って旅はできないからね。食用にしても長持ちしないし。すぐ捨てるようなら他の人に譲るかな」

「ああ……たしかに……」

 なぜか店主が唸って、しかもメモしていました。

 旅人は他の所を巡っていきます。女の声と仲良しそうにおしゃべりしながら。

 話題に事欠くことはありませんでした。先ほどの屋台のように、珍しいものばかりだったからです。射的は実銃に人形ですし、お面屋はえらくリアルなものばかりですし、りんご飴はお汁たっぷりで提供されていますし。原物がねじ曲がって伝わってきたかのように、売り出されていました。

 旅人と女の声は特に気にすることなく一日を終えて、宿で休みました。

 翌朝、旅人は起床とともに出立することにしました。チェックアウトを済ませ、宿を出ます。白けてきましたが、日の出前だったので、住民たちは就寝中です。

 起こさないように、そっと歩いていきます。屋台とテントが並ぶ中、脇道から少年がやって来て、すれ違っていきました。

 旅人は思わず追いかけました。

「ねぇ君。ちょっといいかな?」

「?」

 ボロボロの服装の少年は荒んだ瞳で旅人をじっと見ます。

「こんな朝早くから何か準備するの?」

「……」

 その質問は答えづらいようです。

 旅人はいいやいいや、と訂正しました。

「きっとお店の支度だよな。引き止めて悪かったよ」

「おまえ、ここの人じゃない?」

「……?」

 一瞬、意味が分かりませんでした。十分に咀嚼(そしゃく)して、返答します。

「あぁ、一応旅人だけど……」

「おねがい、たすけて……」

「? どういうこと?」

 空が白けます。太陽の温かい輝きが溢れ始めます。

「おれ、まだし、」

「ここにいたのか」

 ねじり鉢巻きをした男に見つかりました。見るからに身体を鍛えていて、圧迫感のあるおじさんです。

「悪いな旅人さん。こいつはコソドロなんだ」

「こそ泥?」

 少年のポケットをまさぐると、指一本分サイズの骨付き肉が出てきました。汚れないように袋とじされています。

「この国はさ、楽しんでもらえるように各個人で考えて売り物を出すわけさ。だが中にはこういう盗人がいるんだ。汗水垂らして作ったものを盗むやつがさ」

「そうなのか」

「祭りの国だからな。出来ればこういうことがなくなればいいんだが、なかなかいかねえさ」

「そっか。でも一応事情を聞きたいな。何か訳が、」

「いやあ、せっかく楽しんでもらった旅人さんに、そこまで世話かけられねえさ。あ、そうそう! 東の方に珍しいのがあるんだ。でけえ花火師がいてな。今夜打ち上げるそうなんだけど、もう一日どうだい?」

 旅人の目がキラキラ光ります。目がない状態です。

「花火っ? まだ見たことないんだよな。どうしようかなぁ……」

「ダメです」

 女の声がピシャリと断りました。

「あー……ごめん。ちょっと無理みたい」

「それは残念だ。椿の花をモチーフにしてるらしいが、散り具合が綺麗なんだぜ」

「ねぇ、やっぱもう一日、」

「ダメです」

 思わずため息をつきました。

「やっぱダメか。ごめん、もう出発するよ」

「おお、邪魔して悪かった。じゃ、旅も頑張ってな。いつでも楽しんでもらえるように待ってるからさ」

 おじさんは少年を連れてどこかに行きました。少年の目は既に動きを見せず、ただ地面を見ているだけでした。

 

 

 ある所に国がありました。茶色い大平原のど真ん中に国を構えています。

 天気は晴。夜空に浮かぶ月に、薄く雲が敷かれていました。

 その国の住民は出し物や催し物、屋台を繰り出しては、お祭り騒ぎのどんちゃん騒ぎです。もう夜なのに、まだまだ大盛り上がりです。

 そこに一人の旅人が訪れました。

「やっと着いたね。おなかへった……」

 旅人の肩に一匹の小動物がいました。旅人の首筋にしがみついて、ゆさゆさ揺れています。

 旅人は人々が集まっている東側へ向かいました。そこは広場で、住民や観光客などでごった返しています。

 途中で買ったたこ焼きなどを頬張りながら、広場の隅っこに座り込みます。

「何があるんだろうね」

 小動物に笑いかけます。

 突如、高らかに笛の音が鳴り響きました。その方向には流れ星がゆっくりと夜空へ昇っていきます。そして、

「わっ」

 どでかい破裂音と一緒に赤い光が弾けて、花の模様を描きます。模様は一瞬で虚空へ消えました。花火の残骸がパラパラと舞っていくのが薄っすらと見えます。

「おー!」

 旅人は一気に興奮して、眺めました。

 次々に色々な花の模様が打ち上げられます。中にはマークのようなものもありました。

「旅人さんだね?」

 三角頭巾をした二十代前半の女が話し掛けてきました。

 旅人は頷くと、すぐに尋ねました。

「あれってなになにっ?」

「あれが本場の花火だね。火薬を打ち上げて、色んな絵を作り出すんだ」

「元は火薬なの? 色鮮やかなのに」

「火薬の成分ごとに色が変わるんだ。それを上手く組み合わせて絵にするのが、花火師の腕の見せ所だよ。今回は最高の出来栄えだね! 散り具合も素敵だ」

 旅人は約一時間の間、花火をずっと見ていました。最後の締めは花火の乱れ打ちで、花が滝のように流れ落ちていました。離れた場所にもかかわらず。辺りに火薬特有の臭いと焦げ臭さが立ち込めています。

 人々は盛大な拍手と共に、それぞれ立ち去っていきます。旅人も見知らぬ花火師に拍手を送りました。高揚感がひんやりと冷めていくのが妙に心地良いです。

 先ほどの女が旅人の肩を軽く叩きました。

「!」

「どうだった?」

「……」

 何とも言えない表情で、女を見ます。

「上手く言えないなぁ。すごく楽しかったよ」

「これから打ち上げがあるんだけど、一緒にどう? 旅人さんの話はいい(さかな)になりそうだし」

「うーん……悪いけどやめとく。もう遅いし、眠くなってきちゃった」

「あんまりにも楽しいから、移住する人もたくさんいるくらいだしな!」

「ごめんなさい。……じゃあ、お休みなさい」

「おつかれー!」

 女は颯爽とどこかへ行ってしまいました。

 安堵のため息をつきます。

「残念だけど早く出よっか。ハマったら楽しくって“外に”戻れなそう」

 旅人はせっかく寄った国を出ていきました。滞在時間は数時間という短さです。

 途中で見つけた大樹で野宿することにします。

 しかし、先客がいました。黄土色の体色に、四足で猛々しい顔の周りにたてがみがあります。ライオンです。夜ですが、のんびりと休んでいるようです。

 旅人は全く恐れることもなく、ライオンの横に座りました。肩にいた小動物は既にどこかに潜んでいます。

「こんばんは」

 地鳴りのような声で返事(?)をします。よく見ると、口の周りが、

「誰か食べたの?」

 別の色で汚れていました。

「ここらへんは私の国に似てるね。でももうちょっと凶暴な子が多いかなぁ」

 ライオンの体にもたれて、もふもふしています。

「そう言えば、こんな格好をした人を見なかった? ……!」

 何かに反応して、すぐに立ち上がりました。そして、じぃっとライオンを見ます。

「……」

 ライオンは旅人を見ていました。表情からは何も読み取ることはできません。

「そっか! じゃあ、こんな所で休んでられないね」

 頭をもふもふと撫でてから、歩き出しました。

「ありがと! でも、あの国に近づいちゃダメだよっ。一生帰ってこれなくなるから!」

 ライオンは旅人を見送りました。

 隣には小さい血溜まりが広がっていました。その元は大きく抉れ、中身を曝け出しています。

 

 

 



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第六話:ふるいとこ

 この気持ちはいつかきっと、消えてなくなるものだとばかり思ってた。だってそうでしょ? 老朽化した建物のように崩れてくれる。浜辺に書いた文字を波がさらってくれる。そんな感じで、長い時間が経てば……。

 でもそんなことはなかった。いつまでたってもぽっかり穴は埋まらない。

 なぜだろう。もう長いこと経っているのに、どうして立ち枯れているのに……。

 ただひたすらに寂しい。寂しい。

 誰かこの穴を埋めて。何でもいいから穴を埋めて……。

 

 

 三日前、一人の旅人が訪れる。サイズの大きい黒いセーターに紺色のパンツ、新品のスニーカーという服装だった。大きいリュックを背負い、ウェストポーチを左右に二つ提げている。セーターの胸元から水色の四角い首飾りを垂らしていた。

 入国した国は城壁のない村に近い国だった。住民たちは白い山と森林を背景に、湖の岬に家を並べて暮らしている。よそ者の旅人を拒まずに受け入れ、客人として持て成してくれた。辺境な地に住んでいると言う住民たちにとって、旅人の旅話はとても人気がある、とのことだ。

「こんにちは。この声は“ダメ男”の主“フー”と申します。少しの間、お世話になります」

 旅人の首飾りから発した女の“声”。名前を“フー”と言う。旅人は“ダメ男”。それを住民たちが知るやいなや、ますます気に入られてしまった。

 滞在中にすることは湖の岬の最先端での旅話。教師の授業を真剣に聞く生徒たちのように、なぜか正座で静かに聞いていた。

 二日前。フーの旅話中にある住民の男が尋ねた。

「頼みがあるんだ」

「?」

 その男は住民の代表として、と前置きして、話し始める。

「ここからずっと南の方に、変な国があるんだ」

「変な国ですか?」

「青い花が一面咲いてる国で、中に入ろうとしても柵か何かで囲われてて入れないんだ。そこを調査してほしい!」

 その国は何百年も前から存在し、毎日十センチほど移動しているのだと言う。優れた測量士が毎日計測したものなので、間違いないという。しかし、いくら調査しても中に入れそうな所はないし、人が出入りしている様子もない。かと言って強引に破壊してしまうのも(はばか)られてしまう。

「青い花だけならまだしも、少しずつウチの国に近づいてるんだよ」

「アタシも一緒に行ったことあるけど、花に囲われてるなんてますます不気味じゃないかい? 近づいたら食べられそうで怖いよ」

「まるで生きているみたいだしね……」

 住民たちが不安そうにどよめきだす。

 男が全員を宥めて、話を切り出す。

「これは正式な依頼として、ダメ男さんとフーさんに頼みたい。もし引き受けてくれるなら、ここで払った代金などは全て返却するよ」

「おねがいたびびとさん!」

 男の子がおどおどして、ダメ男にしがみついた。

「……」

 にこりと笑う。

「いいですよ。皆さんのおかげでダメ男も休めましたし、何か力になれれば幸いです」

「あ、ありがとう!」

 

 

 こうして、ダメ男とフーは青い花の国の調査を引き受けることになった。ただし、条件をいくつか提示する。

 時間は一日間だけで、それで分からなくとも不満は言わないこと。人員はダメ男とフーの二人。そして、依頼は調査だけで、問題解決に関する依頼は受け付けないこと。

 住民たちは半時ほど相談して、納得してから了承してくれた。

「ダメ男、大丈夫ですか?」

 こくりと頷くと、湿った咳を鳴らした。

 住民の言う方向へ歩くこと一日。山から平野へと景色が移ろいゆく最中、異様な光景が目に付いた。

 緑の平野が広がる中、青い壁が地平線から現れる。近づいていくと、壁だけではなかった。辺り一面がこの青色で占められ、平野を境界線としてくっきりと分けられる。濃淡様々な青色が波のようにうねって、広がっている。

 青色の正体は花だった。一種類だけでなく、様々な花が青く咲き誇っている。壁にも咲き渡っており、防護壁のようにがっちりと密になっていた。人二人分くらいの高さがあった。

 ダメ男は壁に触れる。

「!」

 壁はものすごく柔らかい。柵や石壁を伝っているのかと想像したが、植物の茎や(つる)が重なり絡み合っているだけだ。地面を見ると、成長しているかのように伸びていた。

 ひとまず、入口を探すためにそれに沿って歩き出す。ただの地面を歩くように、躊躇いなく踏みつけて進む。

「今回の依頼は時間がかかりそうですね」

 うん、と小さい声で返した。

「こちらの判断で依頼を受けてしまいましたが、良かったですか?」

 にこりと笑う。

「あなたのことですから、二つ返事だと思いました。すごく気になる内容だし、しかも、あ、看板ですね」

 歩いていると、古ぼけた看板を見つけた。

「“ここは滅んでいます。どうか入らないようにお願いします。入れば、この世のあらゆる災厄や不幸が隙間から漏れ出してしまいます。我々が滅んでまでも、それを封じ込めたかったのです。どうか、入らないように”、と書かれていますね。あの国と同じ言語のようです」

 ダメ男はその看板を念入りに調べる。特に変わった様子はないように見えた。

 それからも探すが、入れそうな所もなく、ただ青い壁があるだけ。

「こちらの探知でも生体反応は見られませんね」

 ダメ男は胸ポケットから仕込み式ナイフを取り出した。鉄格子状の柄に刃が収納されるもので、透明な膜が貼り合わさっている。柄の先端のボタンを押しながら振り、刃を出した。

「やりますか?」

 硬い表情で、目の前の青い壁を見る。

「さて、どんな災厄が飛び出すことやら、覚悟はいいですか?」

 

 

 痛い。痛い、痛い痛い!

 誰?

 私の身体を傷つけるのは?

 あれは誰?

 どうして私を傷つけるの?

 あの黒いのは何? ばい菌? ウィルス? 病原菌?

 私、何か悪いことした?

 何もしてないのに、どうして私を傷つけるの?

 私を……殺すの?

 違う。きっと私に会いに来てくれたんだ。

 でなきゃ、私を傷つけたり斬りつけたりしないよね?

 やっと来てくれた。この穴を埋めてくれるもの……。

 

 

「……」

 依然として、表情は強張っている。

 地面には緑色の茎や蔓、隙間から青い花が壁までびっしりと覆っている。それに胎動のような、鼓動のような鈍いリズムで振動している。

 青い壁で囲まれて領域の中心には女の子がいた。裸身で緑色の肌をして、髪の毛は青、瞳は赤い。どう見ても人外の者、と想像に難くない。

 トコトコとダメ男へ歩み寄ってくる。

「私、悪いことした?」

 ごく普通の女の子の声。

 ダメ男は答えられないので、フーが返した。

「話を聞かないことには判断はできません」

「あれ? その見た目で女の子?」

「いえ、訳あってこの旅人の首飾りが話しています」

「ふうん……まあいいや」

 特に追及することなく、女の子は座った。ちょいちょい、とダメ男も促されて座る。

「ここの近くにある国から、ここを調査するように依頼されました。おそらく過去にも同様の事はあったと思いますが、それと同じです」

「? いつから?」

「具体的に話は聞いていません。何百年も前から存在していることを知っていたので、近い頃から調査していたのではと考えられます。それで、あなたは一体何者ですか? 人のようには見えませんが」

「そっちこそ何者? 私を見て平然としてるなんて、人じゃないみたい」

「この声はフー、この男は旅人のダメ男です」

「私は“エルル”。……化け物よ」

 じっとダメ男が見る。

「単刀直入に聞きます。あなたは人を襲いますか?」

「……」

 化け物の“エルル”は口を閉ざしてしまう。

「つまり、過去の調査員たちを殺してきたのですね?」

「……うん」

 ぽつりと零した。

「私はフーの言う何百年も前から……ずっと一人ぼっちだった」

「え?」

「もっと昔はみんな仲良くしてくれたのに……争いごととかが増えていくうちに、ただの兵器としてしか見なさなくなって……」

「軍事利用されたわけですか」

「唯一味方になってくれた“ナル”は私をかばって、人に撃ち殺された。それがこの姿」

「!」

「私、何か悪いことした……?」

 泣いているように見えるが、涙が溢れていなかった。

 ダメ男がエルルの肩を軽く触れる。

「?」

 ただ親指を上げて一言、任せろ。

 

 

「まさか、風邪を引くとは思いもしませんでしたね」

「あーあー、……やっと治ってきた」

 少し(しゃが)れているが、元の声に治りつつある。

「あのガラガラ声では、話しづらいし聞きづらいでしょうからね」

「ありがとな、フー。急に調子良くなって助かった」

 一日かけて、依頼された国に戻っていた。

 国の入口で、住民たちに取り囲まれている。代表の男がダメ男と面していた。無色な顔色を全く変えずに。

 まずは無事であることを祝福され、感謝の意を受け取った。他愛のない話を少しして、話を切り出す。

「さて、調査結果を報告します。あの青いバリケードの中には十二、三歳と見られる植物の少女がいました。過去に人を襲った経験がありますが、今後一切人に危害を加えないと誓いました」

 住民たちがざわつき出す。

「これがその証です」

「そ、それは一体……?」

 ダメ男の手には、手の形をした茎や蔓の集合体があった。

「誓いの証」

 水を掬うように両手を出させて、ぼとりと落とした。うねうねとドジョウのように(うごめ)く証を、

「……ありがとう」

 落ち着いた表情で眺める男。何の抵抗もなく、それを受け取った。

「さて、こちらができることは以上です。報酬は代金の返還ということでしたが、いりません。代わりに隠していることを全て話してください」

「……いいでしょう」

 握手を求めた肌色の男の手が、

「!」

 うねうねと緑色に変わっていた。

 ダメ男はすぐに間を取るが、

「……」

 住民たち全員が同じ状態になっていた。見た目がエルルと全く同じだった。

「旅人さんは我々の同士になる資格を得たんですよ」

「どういうことです?」

「あの化け物は人を喰って、姿を人に変えた。なら我々も化け物の一部を喰うことで一部の力を得ることができるのではないか。命懸けで試した先人の偉大な功績です。我々はかれこれ、三百年近くは生きていますかねえ」

「……」

「さあ旅人さん、あなたも同士になりましょう。素晴らしいですよ。こんなにも理解し合えることがあるなんて!」

 しゅるしゅる、とダメ男の足元に蔓が絡まっていく。そこから膝、太ももへと……。

「なぜ、エルルをのけ者にしているのですか?」

「我々は人ですからね。あれは化け物。人と区別しなくてはならない。だから先人たちは早々に追い出した。あの小娘の死すらも全部仕組まれたものとも知らずに……くくく……」

「……」

 無表情。ダメ男が戻ってきてから、表情は無い。

「ダメ男さんも何か話してくれませんか? フーさんも魅力的ですが、あなたがどういう人間か知りたいのですよ」

「もう、報酬はいただきました。新たに旅を続けなくてはなりません。ダメ男を解放してください」

「駄目です。顔だけは残してあげますから、これを食べてください。我々と一緒に、永遠に暮らしましょう!」

 目の前に誓いの証が差し出された。視線がそちらに動くが、すぐに男へ戻る。

「……いいよな」

 少し嗄れた声で、ぼそりと呟く。

「?」

「帰る所があってさ」

「……?」

 男は意味が分からずに、しかし蔓の動きが止まる。

「オレにはない。化け物だろうと怪物だろうと、待っていてくれる人がいる場所がないんだ。だから、羨ましい」

「何が言いたいんです?」

「旅を続けてるとさ、そういう人がいるってだけで中々死ねないんだ。連絡手段や情報がないと、死亡か行方不明かなんて分からないから。死んでるかも分からない人を待つなんて、どれだけ不安で辛いことか……オレはよく知ってる……」

「なら、この国を故郷としましょう! 旅は許可しますから同士になるのです! いえ、あなたの働きでさらに同士が増えると思うと、期待せざるを得ません!」

「その前に頼みがある。“ナル”って娘の住んでた所を見せてほしい。それから同士になるか決めるよ」

「だ、ダメ男?」

 フーが動揺して、思わず声が漏れる。

「分かりました。案内しましょう」

 

 

 案内されたのは、青い花がびっしりと詰まった一軒家だった。国の外れ、湖の近くにあり、人気が全くない。

 代表の男と他五人が家の周りを包囲し、監視。ダメ男は逃げも隠れもせず、堂々と家へ入る。

 中は真っ暗で、リュックから携帯電灯で取り出して点けた。

 古ぼけた木製のテーブル、棚、本。人が住んでいた形跡がある。棚にはぎっしりと本が詰められ、棚も壁一面にあった。どれもがボロボロだ。写真立てもあったが、中身が分からないほどに朽ちている。内壁は木だった。外壁のように花に覆われていない。

「特に何もありませんね。しかしダメ男、ここを調べる必要があるのですか?」

「どういう気持ちで、エルルを守ったのかなって。それが分かれば良かったんだけど、本も写真も見れる状態じゃないね。……残念だ」

 そっと本に触れるだけでさらさらと崩れる。その指をささっと払う。

「そう言えば、湖ってこっち側にあったよな?」

「はい」

 本棚の方向を指差す。

「さらに言えば、こっちの方角にはエルルがいるよな?」

「そうですね」

「山は?」

「少し外れていますね」

「……そっか。何となく分かった気がする」

 なぜか、優しい微笑を見せる。

 フーが尋ねようとした時、

「……出発しよう」

 意を決した。

「しかし、どうやって切り抜ける気ですか? 断っても、拘束されて強引に、」

「大丈夫だよ、フー。すぐに片が付く」

 ダメ男が外に出た。予定通り、代表の男たちが迫る。

「ダメ男さん、フーさん、覚悟はできましたか?」

「拒否権はないのですか?」

「拷問をしてでも、うんと言わせてあげますよ」

「……」

 ダメ男の爪先に蔓が触れた瞬間、叫んだ。

「人に危害を加えたら、誓いに反するぞっ!」

「……!」

 ピタリと止まった。

 凍りついている男たちを尻目に、

「それじゃ。あと、オレのことは待ってくれなくていいよ。あの看板に書いてあった“災厄”は多分オレらのことだから……」

 嘘ついてごめん。ダメ男は寂しそうにその国を去った。

 

 

 ついに。ついにやった。

 どれくらいの時間が経ったろう。

 私の心に空いてたぽっかり穴は今、完全に塞がった。

 全く気付いて無かったんだね。

 私の力を腹の底まで理解してるはずなのに、どうしてそういう発想に至らないんだろう?

 調査員を、私の分身とすり替えていたことに。そして私の分身があの国を侵食していたことに。

 看板を立てさせたかいがあった。誰も立ち入らないようにした価値があった。

 何よりも、殻を破って入って来てくれた二人のおかげだ。だから二人には危害を加えない。それが私の立てた誓い。

 私は殻から出て、あの国へ向かった。

 湖を貪っていると、緑色の“古き”同士たちが私を出迎えてくれた。その中に、“ナル”の姿があった。思わず泣きそうになるも、涙を流す機能がない。

「お帰りなさいませ、エルル様!」

 かつての故郷が今、ここに蘇った。

 でもどうして? もう、寂しくはないはずなのに、ないはずなのに、ぽっかり穴は塞がったはずなのに、痛い。痛い、痛い!

 きっとこれは、あの旅人のせいだ。乱雑に切り裂いたから、痛みが強いんだ。

 だからこの痛みも一時だ。傷が塞がるから消えてなくなる。時間が経てばまた消えてなくなるはず。消えてなくなるはず……。

 

 

 



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第七話:おもいだすとこ・a

 そこはとある国の検問。一人の旅人と二人の男がいた。男の方は青い制服を身にまとい、女の子を執拗に口説いている。検問であるがゆえに立場を利用して汚らしく迫っているのだ。

 旅人は困りながらも優しい口調で通してもらうように話していた。

「だから言ってるだろう? 身体検査をしないと入国できねえ決まりなのさ」

「でもさっきの人はお金払っただけだったよね? どうしてぼくだけ? ぼくも払えるだけは持ってるよ」

「お前さんのようなちっこいのを普通の旅人として入国させるのは危険なんだよ。自爆テロするんじゃねえかってな。それにちょっと調べるだけで金払うこともないんだぜ?」

「……」

 旅人はゆるいパーマのかかった茶髪に可愛らしい目つきをしていた。ふわっとしている。

 男たちは下卑た顔で迫る。この表情だけで何を考えているか筒抜けだ。

「おじさんたち、下心ありすぎていやだよ。変なことされそうで怖い」

「でも、ここらへんじゃ国はここしかないんだぜ? 徒歩じゃ半月はかかろうよ」

「……このままじゃ話が平行線だね。だからこうしようよ」

「?」

「ぼくとじゃんけん一発勝負して、ぼくが勝ったら身体検査を省いて入国、負けたら何でも従うよ」

「……ほう」

 にやり、と下品に笑う。二人のうち一人がこの勝負を請け負うこととなった。

「最初はグーだぞ?」

「それで勝っても無効だからね?」

「……いいだろう」

 こういう輩はそういう卑怯な考えを持つ。実に分かりやすい。

「最初は!」

「グー!」

「じゃんけん!」

「チョキ!」「パー!」

「!」

 見事、旅人の勝利だ。

「さ、おじさんたち、通してくれるよね? それとも泣きのもう一回やる? 今度負けたら、全裸で国中を走ってもらおうかな」

「っ……仕方ねえ。通れ」

 ようやく、入国することができた。

 

 

 秋らしい陽気が差し込む。ほんのりと暑いが、乾燥しているおかげで辛くはない。

 晴れている。青々と広がる空にふんわりと雲が流れていた。暑さと寒さの境目を予感させる気候だ。

「はぁ、疲れた。ねぇクーロ」

 旅人の右肩に一匹のふわふわがいた。キュートな鼻にピンと立ったヒゲ、愛くるしくもこもこした灰色の生物。これはハムスターという生物だが、私“クーロ”のことだ。

 このお方は私のご主人様であられるハイル嬢。“嬢”というくらいだから女の子だが、一人旅ということもあり、男装をなさっている。訳あって旅をすることとなり、私はお供をさせていただいている。

 お供は他に鷹の“ピーコ”がいるが、今は空にて全力で警戒網を張っている。

〔しかし、あの門兵どもは下品な輩でありました〕

「ねー。カラダ目当てすぎて気持ち悪かったよ。まるで下等動物だね」

〔しかし、先ほどのじゃんけんは滑稽でした。ハイル嬢ならば、間違いなく勝てるでしょうに〕

「まぁねー。手に取るように分かったよ」

 私たちの会話(?)は傍から見ると異様だろう。ハイル嬢が独り言を呟いているようにしか見えないのだから。これはハイル嬢の不思議なお力のおかげだ。ハイル嬢は対象となる生物を見たり触ったりすることで、その者の心理状況を読み取ることができる。最初の頃は嘘かどうか分かるくらいだったが、今はじゃんけんのような簡単な心理ゲームで常勝できるほどだ。

 さて、我々は下品な国に入国することができた。街並みは……街並みも同様か。

〔ハイル嬢、まずは宿を探しますか?〕

「怪しい店しかないけどねー」

 ネオン街というかスラム街というか。色を売る店や関連した場所がぎゅうぎゅうに並んでいる。道は土だし、脇道は狭いし、粗雑だった。

 とても活気にあふれている。せっかくの心地良い天気が全て台無しになる。息苦しいというかむさ苦しいというか、蒸し暑いというか。

〔探せたら、捜しますか?〕

「そうだね。色んな子に聞いて……ここしかない。きっといるはず。もう引き返せないよ」

 その表情はとても嬉しそうだった。ハイル嬢は予感されているのかもしれない。例の旅人との出会いを。

 進んでいくにつれ、人混みも激しくなってきた。話し声が入り交じるほどにごった返している。祭りや集まりではなく、単純に人が多い。

 入口から真っ直ぐ中心へ向かっているが、突き当りには小さな聖堂があった。こんな国にもあるのか。

 ハイル嬢がそちらへ気が向かれた瞬間、

「不思議だね。より綺麗に見えるよ」

 正に真横だ。

「ちょっと入ってみようか。怖いお兄さんが二人いるけど」

 ハイル嬢は全く気付かれない。

「ねぇクーロ。教会って初めてだっけ?」

〔ハイル嬢〕

「!」

 私を見て、すぐに私に触れて、事態を悟られた。

 急いで振り返られる。黒い影が人影に埋もれていく。

「だ……め()?」

 小さい体で人をかき分け進む。押しつぶされそうになりながらも水中でもがくように、必死で突き進む。私も潰されそうでキツイ……。ハイル嬢の胸ポケットに避難だ。

 幸運か。黒い影が一部見えてきた。頭だ。後ろ姿も見えて、

「だ、ダメ男!」

 捉えた!

 無意識に男の肩に触れた、が、

「!」

 顔色ですぐに判明する。男が振り返らずも、

「……? 君は誰だい?」

 分かってしまう。

「あ……ごめんなさい、人違いです」

 三十代くらいの別の男だったか。服装が黒かったし背格好が似ていた。

 名残惜しそうに、ハイル嬢のお姿も人波にさらわれていった。

 

 

 日が傾いてきた。夕焼け空が一層に輝かしく、綺麗に見える。丸い夕日が静かに入っていく様子が愛おしいし、哀愁を覚えてしまう。

 おそらく、この頃が最も栄えるのだろう。外の通路や街中が少し騒がしくなっている。景色を楽しみたいが、この国の街並みは“一色”のみ。虚しいものだ。

 しばらく歩き回り、どうにかして泊まれそうな宿を見つけることができた。正直、この国の宿はどこも“専門店”ばかりだが、店長は若い女だという。しぶしぶ、そこに宿泊されることに。

「まあ仕方ないわ。他のトコはお嬢ちゃんじゃ危ないし、一応かくまってあげる。二泊三日ね。部屋は五十六番よ」

 二冊あるうちの片方に記帳するように言われ、大人しく従う。

 女の手に少し触れて、鍵を受け取られた。

「!」

 そこで、ハイル嬢は何かを感じ取られたようだ。ほんのわずかに表情が張り詰めていらっしゃる。

 指定された部屋に入る。……やはり怪しい。一人用なのにベッドは余分に広いし、浴室がガラス越しなだけで丸見えだ。ただ、それなりの代金を払っているので高級感はある。ハイル嬢お一人だけだから困ることでもないか。

 とりあえず、ハイル嬢はお荷物を降ろされ、テーブルに着きながらすぐに銀銃の確認をなさった。ハイル嬢の携帯武器の一つで、両太腿にそれぞれ一丁ずつ付けておられる。

「……」

 窓辺に椅子を持ち出され、ぼーっと眺められる。

 あれは幻影だったのだろうか。会いたいとせがむ心の先走り……?

 窓から鷹のピーコが入ってきた。ハイル嬢のお膝上に降り立つ。

「どう?」

〔見当たらないわね〕

「……そっか」

 ピーコを柔らかく揉み解される。

〔もう暗くなるし、今日はこれまでね。私も限界だわ〕

「ありがとねピーコ。今晩は一緒に寝る?」

〔いえ、外にいるわ。たまには羽を伸ばしてこようかしら〕

 ピーコの頭をもふもふされてから、外へ放してくださった。

「……ウソがヘタになったね、ピーコも」

 ニシシ、といたずらっぽく笑われる。

 ふとして、ベッド脇にあったメニュー冊子を手に取られた。料理か。ちょうどお腹も減ったし、ハイル嬢も電話でいくつか注文された。暇つぶしに、そのまま読まれたが、

「こ、これより先はやめとこっか」

 赤面されて、ぽいっと投げ捨てられた。一体何が記されていたのか、良く分からなかった。

 コンコン、とノックがした。ハイル嬢は銀銃を片手に、ドア付近へ歩かれる。

「だれ?」

「ルームサービスでございます」

 ハイル嬢が覗き穴から見る。確かに女の従業員らしき人間がいるらしい。

 私はテーブルで待機する。ドアノブを静かに捻り、ドアの陰へ逃げながらそっと内側へ開けられた。

 料理を乗せた台車と制服を着た女がいる。途中見掛けた従業員と同じ服なので、まず間違いない。

 ハイル嬢が私の反応を確認なさってから、

「後ろ向きでゆっくり中に入ってきて」

 そちらへ銀銃を向けられた。

 真正面にいたのでは銃撃に遭いやすい。私と連携しながらの方が比較的安全だ。

 従業員はハイル嬢の指示に従い、後ろ歩きで台車を引きながら入ってきた。入りきったところで、ハイル嬢はすぐにドアを閉められる。

「ご夕食をお持ちいたしました」

「ありがと」

 銀銃を向けられているのに、取り乱す様子はない。こやつ、どれだけ慣れているというのだ。それだけでもこの国の危険さが窺い知れる。

 従業員は私のいるテーブルに料理を置いた。パンにコーンスープ、野菜の盛り合わせといったところか。不意に私に触ろうとしたので、ハイル嬢の元へ逃げた。

 ずいっと銀銃を頭へ突きつけられた。

「その料理を毒味してみてよ」

「かしこまりました」

 従業員は当然のようにパンを半分にして真ん中部分からむしって食べる。またスープを一口、野菜をドレッシングと適度に和えて、食べた。何の抵抗もないし違和感もない。

 さすがにハイル嬢もそれを見ては、問題ないと判断されるしかない。

「よろしいでしょうか?」

「うっうん。ごめんね」

 いえいえとハイル嬢に笑いかけると、従業員は失礼しますと退室していった。

 ここまでやって、ようやく安心して食事にあり付ける。

「クーロ。ドレッシングがかかってないところだよ」

〔ありがとうございます〕

 しゃくしゃく。

「クーロ、間違いないんだね?」

〔はい。まず間違いありません。次こそは見失わないように致しまする〕

「うん、私も頑張るね。……でもあの時、仕事中だったのかな? 気付いたら声掛けてくれると思うけど……。まぁ私の成長っぷりに気づかないかもねー」

 いつになく嬉しそうに話される。

〔そういえば、再会された後はどうなさいます?〕

「まず、一緒に旅をしていいか聞くっ。良かったら旅は続行で、ダメだったら……」

〔ダメだったら?〕

「……その時考えるよ」

 ハイル嬢がとてもご機嫌なことだし、深い話は止そう。

「んー? この野菜、ちょっと変な味がするね。傷んだやつかな」

〔それはやめておいた方が……〕

「ヘーキヘーキ。雑草だって食べられるんだし」

 食べ終えると、ハイル嬢はベッドに腰掛けられた。

「疲れちゃったな。……ねむい」

〔明日も早々に捜索しますし、ご就寝されますか? 私と“ピーコ”で見張っていますから〕

「そう? ……シャワーは……あのシャワーじゃやだなぁ……」

 コロンと横になられると、むにゃむにゃむーちょ、とうわ言をつぶやいてストンと眠られた。

 私はピーコを呼んで、早速打ち合わせする。もう少し自然があれば、“例の追っかけ”たちにもお願いできるのだが、仕方ない。

〔外は物騒ねぇ。犯罪のオンパレードよ。静かな分厄介だわ〕

〔何がここまでそうさせているのか……含めて調査しないと危ないか〕

 話に上げてないが、この宿に来るまでにも酷い目に遭っている。見た目と珍し物で被害に遭ってしまっているのだ。

 それに……うぅ……。

〔すまぬ。私も少し眠い。……先に見張りを、頼む……〕

〔分かったわ。三時間ずつよ? 起きなかったら、目覚めは私の腹の中だからね〕

 私も少し疲れていたか。ハイル嬢の隣は危ないからてーぶるに……。

 

 

「……は」

 しまった。いつの間にか私も眠ってしまっ……え?

「こ、これは……?」

 なぜ私の周りに鉄柵が? 檻、か? 私は捕まっている?

 ハイル嬢は……まだ眠ってらっしゃる。しかし、両手が背に回されて、なぜ手錠が掛けられている?

「!」

 ガチャリと誰かが入ってきた。馬鹿な。確かに鍵はちゃんと閉めていたはず。その答えはすぐに判明した。

「ご苦労」

「はい」

 別の従業員の女! 奴はマスターキーなるもので開けたのか! それにゲスい顔付きの肥えた男。やはりグル……!

 なんたる不覚……。しかしピーコがいない、一体どこへ……?

〔な、に〕

 床に鳥の羽が散らばっていた。ところどころ赤く滲んでいる。ま、まさか……うそだ……。

「それではお楽しみくださいませ」

 ピーコがこ、ころさ……。

「げひひひ……高い金払ったかいがあるぜ。上玉だあ」

 醜悪な男がハイル嬢へ歩み寄る。貴様……。

「きさまあっ! よくもピーコを、ピーコをぉっ!」

「ひ、ひぃっ? な、は? しゃしゃべったったあっ?」

 あまりの予想外に豆鉄砲を喰った顔をする。

「そのお方に触れてみろ! この私が貴様の喉元を食いちぎってくれるっ!」

「……く、くくくっ……」

 わざわざ私の方にやって来た。

「吠えてろ。この娘が×されてる姿を見ながらなあ……」

「っ……!」

「それにお前も売り物になりそうだあ。娘と一緒に大切にしてやろうぞお……くく……」

 貴様……くそ……くそっ……! 私はまたお守りできないというのか……! ならいっそのこと……。

「うごくな」

「!」

 ……えっ?

 興奮気味だった男の表情が一瞬で青ざめる。流れ落ちていた汗も引いて、別の汗が吹き出していた。大人しく両手を挙げ、降参の意を示す。

 男の背後に誰かいる。それも女だ。ハスキーなのに、幼い口調だ。

「てめえ、一体どうやって入った?」

「おまえとおなじほうほうだ。もっとも、しまつしてからうばっただけだがな」

「……邪魔しようってのか? せめて一事を終えてからにしたいんだがな」

「かべにおしつけてろ、ごみ」

 壁に手をつかせて、完全に制圧した。

 女は長い黒髪を後ろで束ねて、左目尻に泣き黒子があった。赤紫色のジャケットに紺色のパンツを履いている。色白で凛とした人だが、左のこめかみに酷い傷跡が……。それに、あの変わった形をした銃は……? しかも目の色が暗く暗く沈んでいる。瞳孔が判別しづらいほどに……。

「はいってこい」

 入口へ呼びかけると、もうひとりの優男が入ってきた。おそらく仲間だろう。青いジーンズに白いシャツと簡単な格好だ。しかし、左腰の長く黒い棒が付けられていた。

「おや、まさかの生捕り成功ですか? てっきり殺してしまったかと」

「それが“いらい”だろう?」

「まぁそうなんですが、」

 ちらりとハイル嬢を見て、

「意外だなぁと」

 ぽりぽり頭をかいている。

「き、聞いてくれ! あのちっこい動物、しゃべるんだよ! 取引しないかっ? そこの娘と荷物全て譲るから見逃してくれっ! 頼む!」

 この期に及んで、しかも勝手に自分の物にしているとは、往生際が悪い。誰が許すか馬鹿者。

「ほう。それはいいことをきいた」

 く……同業者か……?

「じ、じじゃあ、」

「すべてをかっさらう。きゃっかだ」

「こ、この、クソアマがあっ! ×××! ××××! クソアマ死ねっ!」

「つれていけ。あらいざらいはかせろ」

「ご心配なく。内臓ごと吐かせますから」

「ひ、ひぃっ……!」

「さぁて、どうしましょうか……皮を真皮ごと剥ぐか、髪をむしって火あぶりにでも? それか試し斬りや試し撃ちの的にでも? 生解体ショーも良さそうですねぇ……」

 とても爽やかな表情で悍ましい事を言っているが、男をつかむ手が真っ白くなるほどに握っている。あぁ、今ので一気にキレたか。

 優男は丁重に丁重に身柄を受け取った後、頭を鷲掴みにして部屋の外へ出ていってしまった。あぁ、相当キているようだ。

 とりあえず、今の所は敵ではなさそうか……? 変わった銃を持っているが、使う気はさらさらになさそうだし……。

 女はハイル嬢のいるベッドにトスンと座る。

「お前、話せるのか?」

 私に鋭い眼差しを向けた。ま、まるで猛獣と対しているような威圧感……。

 私は沈黙を守った。あの男が処理されれば真実を覆い隠せる。幸か不幸か、ハイル嬢もお眠りのようだ。激情してしまうとは、私もまだまだ未熟……。

「……まぁ、×××のせいか、ただのいいのがれか」

 

 

 翌朝。ひゅうっと寒い風が入り込む。私はそれで目覚めてしまった。

〔!〕

 私の隣にはピーコがいた。あ、檻がなくなってる。

〔ピーコ、大丈夫かっ?〕

〔平気、よ〕

 しかし、ぐったりとして明らかに大丈夫ではない。

〔私も全力で戦ったんだけど駄目だったわ。機を窺って逆襲しようかと思って避難したんだけど……〕

〔けがはっ?〕

〔あぁ、あの血は襲った男のよ。私は……羽を何枚かちぎられただけ。大した怪我じゃないわ〕

〔よ、よかった……ほんとによかったぁ……〕

〔あなた、素が出てるわよ〕

 ……こほん。

 とりあえず、ピーコも無事なようで良かった。

 女はベッドに座ったまま、居眠りをしていた。すごく器用なことだ。

「……へらっ」

 あ、ハイル嬢が起床された。

 のんびりと背を伸ばされ、

「えっ! この人だれっ?」

 思い切り驚かれた。

 事情も何も知らないハイル嬢には、突如現れたように思えてしまうだろう。タイミングが違えば、本当に痴漢だったかもしれない。……笑えない。

 女はすっと起きた。

「……」

 ハイル嬢と目が合う。

「……ど、どーも、おはようございます……」

「かんちがいしてるな?」

「え?」

「おまえにきょうみはない」

「はい……あ」

 なぜか顔を真っ赤にされた。

「わ、わかってますともっ。別にそんなことは思ってはないですっ! はいっ!」

 女はため息をついて、立ち上がる。

「それはそうと、おまえのようなこどもが、どうしてここへ?」

「私、色んな動物を見たくて旅をしてるんだけど、知り合いの旅人に会いたくなっちゃって……。その人の行方を追ってたら、ここにいるかもって教えてもらったんだ」

「ひとさがしか。だが、ばしょがわるすぎる。おもっているいじょうに“ちあん”がわるいぞ、このくには。いつか×されるぞ」

「……」

 ちらちらと周りと私たちを窺い、昨夜の出来事をぼんやりと悟られたようだ。ひどく落ち込んでおられる。

「いまのうちにちゅうこくしておく。しゅっこくしろ。こどもがいるようなくにじゃない」

 女はそのまま立ち去る、

「待って! 私が出国する前に、“ダメ男”っていう旅人に会ったら、ハイルが会いに来たって伝えてっ!」

「!」

 前に、立ち止まった。

「ダメ男、だと?」

 はっとして私に話し掛けてきた。ピーコだった。

〔そうだ。クーロ、後は任せたわ。ダメ男さん捜しをしないと!〕

〔ピーコ! 今日は休め! ハイル嬢に迷惑がかかるだけだっ〕

 バサバサと翼を羽ばたかせ、ハイル嬢の所へ降りた。左翼が明らかに下がっている。やはり……。

「たか?」

「ペットのピーコです。あっちの子はクーロ。……私はハイルです」

 わしわしと優しく撫でられる。しかしすぐに険しくされた。

「ピーコ、もう三日は動いちゃダメだよ。左が傷んでる」

 荷物を取り出し、手当をしてくださった。

「“ナナ”だ」

 “ナナ”と言う女はピーコのくちばしをツンツンしていた。珍しいのだろう。おっかなびっくりで触っている。

 手当を終えると、ナナ殿が立ち上がる。

「……いくぞ」

「え? どこへ?」

「やつとあったばしょだ。すぐにあんないしろ」

 

 

 ピーコには安全な所に避難するように言い付けた。私と違って身を持って守ったのだ。存分に休んでもらいたい……。

 宿の外に出ると、優男が待機していた。のほほんとした表情で。

「おはようございます」

「ああ」

「その娘も一緒ですか?」

 優男がナナ殿に細長い棒を渡す。それを左腰に据える。紫色のヒモでしっかりと結びつけた。

「じゅうようじんぶつだ」

「? お知り合い?」

「やつとあったらしい」

「何か手掛かりになればいいですが。……あぁ、“あれ”からは特段有力な情報はありませんでした。あっいや一つだけ、図書館に向かったとのことですよ」

「そうとういためつけたようだな」

「ええ。しっかりと思い知らせましたから。あ、あとこれ、頼まれたやつです」

 茶色の小さい紙袋を手渡した。

「さすがに言い訳に困りましたよ」

「……わるいことをした」

「いえいえ。ではまたお昼に」

 男はどこかに行ってしまった。

「……さて、いくか」

「あの、あの人は?」

「“ディン”だ」

「恋人?」

 ハイル嬢がニヤリと笑っておられる。

「ちがう。そんなかんけいじゃない」

「あー、じゃあお婿さんとか?」

「ただのおと……なかまだ。それいじょうもいかもない」

「そうですかーそうですかー」

 この人は意外にも表情に出やすい人なのかもしれない。話している間、明らかに緊張が緩んでいた。ハイル嬢ならなおさらだが、心を読まずとも分かるだろう。

 要するに惚気(のろけ)ていた。

 とりあえず話はおいて、ハイル嬢はダメ男殿とすれ違った場所を案内された。こぢんまりとした聖堂を突き当たりにした道。昨日もそうだったが、ここは特に人が多い。

「ここか」

「私たちがあっちに行こうとして、すれ違ったんだよ」

「とすると、あの“きょうかい”からこっちにきたわけだ」

「方向的には……。でも、あそこと何か関係あるの?」

「……」

 振り返ると……特にない。同じような道が続いているだけだ。

「このくにはふんいきがとてもにている。みまちがえるくらいに……」

「?」

 似ている? 何と?

「ナナたちがいぜん、おとずれたくににている」

「たまたま、じゃ納得がいかないんだね? 同じ人が国長とか?」

「おさはそのくにといっしょにほろんだときいている。しかし、そのかいきゅうのにんげんがいきのびていると、じょうほうをつかんでいる」

 口を噛み締めているように見えた。

「どんな国?」

「……ひとをよみがえらせるくにだ」

「……へ? う、うそですよね?」

「けっかてきにはな。だがそういってしまってもいいくらい、しくみができていた」

「ここも人を蘇らせる国なのかな……」

 ちらりとハイル嬢を見る。

「おまえ、なにもしらずにここにはいったのか?」

「……」

 国のことはそっちのけだったからなぁ……。それほどにハイル嬢は必死だったのだ。それにある種の旅人精神みたいなものもある。入ってからのお楽しみ、というやつだ。

「よくいままで死ななかったな。うんがいいのももんだいだな……」

「あっあの……うぅ……」

「とりあえず、としょかんにいきながらはなす」

 ナナ殿はハイル嬢の手を繋いで、連れて行った。

「!」

 はっとされて、ハイル嬢も急に歩き出される。トタトタと頼りなかったが、少しして足並みを揃えられた。なぜかナナ殿の背中をじっと見つめておられる。長く共にした私にしか分からないほどの変化だが、ほんのわずかに頬が緩んでいる。

「このくには“きおく”をかんりすることを、うりにしている」

「管理って?」

「わすれたいことやおもいだしたいこと、それらをじゆうじざいにあやつるぎじゅつがあるらしい」

「すごい……」

「うわさにすぎない。“りようしゃ”にしかくわしいことがおしえられない。だが、りようするにはばくだいな“かね”がかかる。だからこのくにはあらゆるしゅだんで“かねかせぎ”をしているんだ。……ここらへんもてぐちがおなじで、むしずがはしる」

 ずっと手を握っている状態だから、ハイル嬢にはより鮮明に心が読み取れてしまう。様子は変わらないものの、深く感じ取られているだろう。

 しかしなるほど、住民たちが活気づいているのはそれが原因か。金のためなら手段は選ばない、危ない国だ……。

「……ナナさんがここに来たのは、心を患っているから?」

「なぜそうおもう?」

「私、心が読めるんです。今のナナさんの心境は……その……」

「!」

 ばっと手を離した。

 こう言われても信じる人間はいない。だが、それにしてもナナ殿は過剰反応だった。

「ずっと前、ナナさんと同じような人を見たことがあって……。えっと、ナナさんも過去のしがらみをとりはら、……!」

 ハイル嬢の眼前に銃口が広がる。あの変わった形の銃だ。

 怒りとは言えなかった。

「一度たりとも(しがらみ)と思った事もない」

 死んでいた眼が一瞬だけ輝きを取り戻す。しかし、また戻る。

 とても少女に向ける眼差しではない。目が笑っているのに、それ以外は全く笑っていない。様々な感情が複雑に入り混じっているようで、不気味だった。……彼女は壊れている。

 ハイル嬢は一心にその瞳を見つめられていた。

「むいみなせんさくは死をまねく。よくおぼえておけ」

 

 

 国の中心から外れ、脇道を伝って隣のエリアへ進む。そのエリアも同じように下品だったが、主に生活雑貨を商売にしていた。曰く、エリア毎に商業が変わった国のようだ。

 途中に図書館があった。古本屋のような見た目だが、ガラス越しに見える内装は小綺麗にしている。

 入ってすぐ左手に受付と管理人の女がいた。二十代前半くらいで、オサゲをしている。

 二人はすぐに受付には行かず、店内を物色した。ふむ、料理本やら女性誌やらまで置いてあるのだな。意外にこの国にありそうな本は一切ない。あ、公共施設だからか。

 二人以外にいなかった。それを確認し、改めて受付に向かう。

「こんにちは。何か御用ですか?」

「ひとさがしをしている。こんな男をみなかったか?」

 ナナ殿は一枚の紙を見せた。憂鬱そうなダメ男殿が写っている。

「旅人さん、この国では人捜しはご法度ですよ? 国法第四条の違反です」

「しっている」

「故意犯ですか? なら、通報しま、」

 手元にある電話を取ろうとして、

「うごくな」

 ゆっくりと銃口が向けられた。

「……」

 管理人の女はそっと受話器を戻す。しかし、両手は挙げない。

「べつのことをきく。この男がかりていったほんをしりたい」

「どちらにしても個人情報保護法の違反です」

「あ、あの、どうして人捜しがダメなんですか?」

 ハイル嬢を一目する。

「……」

 なぜか押し黙る。代わりにナナ殿が説明してくれた。

「“りようしゃ”のじょうほうはぜったいにもらしてはならない、そういうほうりつがある。こうきょうきかんはすべての“りようしゃ”を、はあくしているんだ。“きおく”につながるじょうほうは、“りようしゃ”のせいしんにあくえいきょうがあるらしい」

「そっか。公開できないなら、“利用者”ってことだね。それと両手両足動かさないでね。非常用ボタンか何かあるのかな?」

「!」

「時間稼ぎをして、通報しそうだったよ」

 応援を呼ぶつもりだったか。ハイル嬢も抜け目がない。

 この二人、恐ろしく息が合うのか……?

「おまえのちからはほんとうのようだ。なら、このおんなからじょうほうをひきずりだせ。ていこうしたらころせ」

「そこまで探れるか分からないけど、やってみるよ」

 ハイル嬢は管理人の両手両足を拘束してから、手を握られた。こうすれば、より読み取れる。

「本はどこ? 大人しくすれば殺さないから」

「嫌です」

「……」

 何か分かったらしい。ふらふらと本を探され、持ってきた。冴えに冴え渡っておられる。

 ナナ殿に一冊の本を手渡される。本の最後のページに小さい名簿が挟まれていた。借りた人間の名前が書かれているが、かなりの人数がいる。五枚あって、一枚裏表で十五人ずつ記名されている。

「……どれだ?」

「分かりません、聞こえません」

「……」

 同じように情報を読み取られるハイル嬢。すっと示された。

「この人らしいよ」

「……“カカシノカンベエ”?」

「あ、でもこれ借りた日がずいぶん前だね。一年以上も前だよ」

「とするとべつのひにちに……」

 何枚か調べ、あった。借りたのは昨日の昼過ぎ。ちょうど我々とすれ違った後くらいだ。この人物で間違いない。

「“絶・困窮旅人逃亡録”? 何の本だろう」

「たびびとであるちょしゃの、たんぺんものがたりだ。なかにはたびびとにしゅざいしたはなしもあるらしい。たびびとあるあるネタもあって、けっこうおもしろい」

「へぇー。ファンなんだ」

「……」

 とにかくいくぞ、と背を向けて、図書館を出ることにした。

 

 

 図書館を出ると、例によってディン殿が待ち構えていた。この男は外で見張りをするのが主な仕事なのか、趣味なのかは分からない。

 お昼近くになっていたので、もう一つ隣のエリアに移ることにした。

「わぁ……」

 暗い脇道を通り過ぎると、そこは白い世界だった。豪華絢爛、西洋風の建物がずらりと建ち並んでいた。剣の装飾に国旗のようなものが飾られている。道は大小様々な白い石畳、ご丁寧に木まで等間隔に並んでいる。外へ通じる門も城下町のような立派な作りで、中心へ一本道だ。

 基本的な構造は他のエリアと変わらないらしい。

 うってかわって、ここは平和だった。突っかかってくる人間もいないし、下品な輩もいない。入店した外食屋もお洒落だし賑わっているし。

「何にします? 注文しますよ」

 ハイル嬢はサラダとドリア、紅茶にされた。

「スイーツもりあわせグレートマウンテンデラックスパフェ」

「すごい量……。五人前くらいありそう」

「これいがいたべないからいい」

「な、ナナさん、栄養をしっかり摂らないと、」

「むっ。……あとはディンとおなじでいい」

「サラダの盛り合わせとその他でいいですか?」

「う、うぅ……やさい……しかたない」

「なら注文しますね」

「よくないよくないっ! 絶対食べきれないよっ!」

 ディン殿は特に気にせず、本当に注文してしまった。普段からこんな感じなのか? 痩せの大食いなのか?

 さて、と場を仕切り直す。

「図書館に行ったら、ダメ男は本を借りたみたい。一年以上前と昨日の二回、借りてたよ」

「本?」

「それがこれ、……ナナさん、なんで読んでるのっ。それを見せないと、」

「ヤダ」

 黒縁メガネをかけて、読書している。この女、見た目に反して自由奔放すぎる……。

「あ! それは“困窮旅人逃亡録シリーズ”! どの国でも入荷待ち返却待ちだったのに、調べるフリして借りたんですねっ! ずるい!」

「知ってるんですか?」

「すごく有名なんですよ。あまり本は読みません?」

「そんなには……」

「この本は今やベストセラーになったシリーズでしてね。著者がとある出来事で旅人になり、その実体験を(あらわ)した作品なんですよ。最近は様々な人々に取材して、それを題材にした話もあります。それも大受けしまして、」

 ディン殿も相当読んでいるのだろう。本について熱烈に語る。そんなに有名な本だとは知らなかった。しかもまだ旅をしているというのだからすごい。お金とか紙とかはどうやって都合つけているのだろう。

「ともかく、一介の旅人なら好んで借りても不思議ではないですね。二回も借りられたのが奇跡なくらいです」

「でも名前が“カカシノカンベエ”だったんですよ」

「偽名でしょう。本名で記す旅人は滅多にいませんからね」

「そ、そうですねー、あはっあはは……」

 苦笑いされた。

「あと、やつは“りようしゃ”だった」

「やはりそうでしたか。教会から出てきたということは多分、記憶は既に引き抜かれていると考えていいでしょう。……でもどうして利用したんでしょうね。フーさんなら絶対に引き止めるのに」

「ハイル、フーを持っていたか?」

「この子に聞いてみるね。クー、どうだった?」

 フー殿は……見えなかった。首ヒモもなかった。

「……フーさんは見えなかったって。フーさんの首紐もなかったって」

「……」

 ふぅ、とディン殿が息をつく。ハイル嬢はナナ殿を見ていた。わずかに表情が険しい。ハイル嬢もそれを察せられた。

「こんな国で首に提げないのは変だもんね。簡単に盗まれることは自分からはやらない……」

「リュックはどうだ? くろいやつだ」

 リュック……持っていなかった。

「服装は?」

 ……黒いジャケットに藍色のデニム、黒い靴だった。私は覚えている。

「セーターではなかったんだな?」

 もこもこした服装ではない。それは確実だ。

「やつはおおかたのにもつとフーをたんぽにして、“きおく”をすてた。そうみるのがしぜんか。それでもぜんぜんたりないだろうがな」

「ダメ男がそんなことするはずないよ! 絶対にないっ!」

「ですが、機関の利用料金はバカ高いですよ。人生一生分くらいはかかるみたいですし」

「だからやつも“いらい”をこなしているんだろう」

「なるほど。後払いもいいんですね。本末転倒な気もしますが、非常に面倒ですねぇ……」

 ナナ殿はハイル嬢に本を渡した。どこかのページを挟んでいる。

「よんでみろ」

 七十六ページ、ページ数に丸印が付いている。ハイル嬢が読まれて、一瞬硬直された。

「こ、これって……私のこと?」

 こくり、と頷いた。

「え?」

 ハイル嬢はゆっくりと読み上げられた。

「“私はとある国の姫様に偶然出会った。数年間笑わないとのことだったが、話してみると年齢相応に笑いこける。姫様の執事が言うような女の子には見えなかった”……」

 その後も姫様について、色々と記述されていた。クーデターが起こったこと、首謀者が王の側近で姫様が人質にされていたこと。それを旅人が助け、側近を倒したこと。二人しか知らないことまで細かに描写されている。

 間違いない。具体的な国名や人物名、風景などは誤魔化されているが、紛れもなくハイル嬢のことだ。

「“ひめさま”のじんぶつぞうから、おまえにそっくりだとおもっていた」

「ハイルさんはお姫様だったんですね。失礼致しました」

「もう姫でもなんでもないからいいよ。今は一人の旅人。気遣いはなしでお願い。ちょっと恥ずかしい」

 くすくすと笑われた。

 最近狙われることが多い気がしていたが、まさかこの本のせいか? だが、断定するのは早計……?

「メッセージですかね」

「わからない。そもそも、きおくをなくしてからメッセージをのこすことなんて……」

「とりあえず、元依頼主に会ってきますよ。何か分かるかもしれません」

「依頼主って?」

「彼の情報を報酬に、面倒事を頼まれてたんです。もう終わったので関係を断ち切りましたが、結果的に有力な情報はありませんでした」

「……」

 じっとディン殿を見られるハイル嬢。

「やめておけ。おそらくこれはナナたちいがいにはしらないことだ。しっているにんげんをふやすのはまずい」

「となると、ダメ男さんと直接会うしかないですが、これ以上アテがありませんね。それにそろそろ出国しないと期限が、」

「ディン」

「はい」

「ちゅうもんはまだ?」

「そう言えば、……!」

 さっきまでいた客たちが一人もいなかった。

「構えろ」

「!」

 まただ。ナナ殿の瞳に力がこもる。変わった銃を握っている。

 既にディン殿は腰の黒い棒に手を伸ばしていた。

 ハイル嬢も銀銃を取り出された。

「それって……」

「“ショットガン”というタイプです。散弾銃ですが、それは携帯型なんですよ」

 ナナ殿の指示ですぐに外には出なかった。まず店内を探索する。トイレや厨房、裏方など、怪しそうな輩を探すも、一人もいなかった。裏口はあったが、鎖でがちがちに固められて出られそうにない。

「散らばりましょう」

 各自離れて、テーブルに隠れる。

「外の様子は私が見に行くね」

「狙撃には気を付けろ」

「直接出ないから大丈夫だよ」

 店の出入口はドア一枚。ガラス張りでないために、静かに行けば蜂の巣にはされないだろう。

 出入口に着く。今でも撃たれるかもしれないが、堪えて呟かれる。

「クー」

〔御意〕

 今こそが私の本領発揮。

 ドアの装飾で付けられた穴。横に細い投入口だが、私はそこへ近づけていただいた。そっと開けると、外の景色が見える。比較的平穏なはずだった人通りに、一人だけいた。良く見えないが、黒い服装の人間だ。それ以外は人っ子一人いない……。まず敵と見ていいだろう。

 住民を避難(?)させ、障害物を減らし、この店の前にいる。おそらく、我々を排除するための存在。考えてみれば我々は犯罪者だ。何の不思議もない。

 獲物は……何もない。しかし持っているはずだ。

 ……三人が助かる可能性が一番高いのは……私が乗り込んでの陽動、スキを突いて狙撃……か? 二人ならその腕前はあるはず。

 私の考えに、ハイル嬢は、

「……」

 何も反応されなかった。私はハイル嬢の掌にいるために、ほぼ全ての思考がリアルタイムに伝わっている。

〔ハイル嬢〕

「! ごめん……」

 こういう局面で気抜けるお人ではないのだが、何か気掛かりが……?

「ディン、どうだ?」

「裏口の鎖を壊して見ました。人がいませんが、どうも包囲されているようですね」

「兵糧攻めか」

「短期戦に見せてじっくりコトコト、ですかね」

「……」

 ハイル嬢も慎重に戻り、ナナ殿に報告する。

「そうか。ならこちらから出向くしかない」

「どうやって?」

「厨房のガスを使い、爆発を起こして油断させる」

「それは確実に死にますね。死ねと?」

「あくまでも一案だ」

「私が囮になります。その隙にナナさんとハイルさんが、」

「死にたがりめ。却下だ馬鹿者。連中相手にその手は無理だ」

「しかし、」

「待って」

 ハイル嬢が遮られた。

「私が行くよ」

「!」

 何を考えられているのだ、ハイル嬢は。

「一番助かる可能性が高いのは私だから……」

 ……どういうことだ?

 私を頬ずりして、ナナ殿に引き渡された。私の疑問と一緒に置き去りにするように。

「クーロ……ごめんね……」

 待て! ナナ殿の呼び掛けに、掴んだ手に、足を止めずに、ドアをドアを、あっ開けて……両手を挙げて……。

 一瞬、何が起こったか分からなかった。分かりたくなかった。目の前から消えるようにいなくなってしまったから。

 泣き顔も怒り顔も見せない。優しく笑いかけてくださった。なんだ、なんだ? 考えが、言葉がまとまらない。ハイル嬢、ハイルちゃん、どこへ、どうして行った? 全員が助かるように考えてくれたんじゃなかったの? どうしてハイルちゃんまで行ってしまう?

 ナナさん、ディンさんも固まってる。

 ハイルちゃんの下僕なのに、いつも泣かせてばかりいた。何か力になりたくて頑張ってきたけど傷つけてばかりだ。私が小さくて弱くて無力な存在だから、また守れなかった。

 物々しい足音がする。でも、どんどん離れていく。動いてくれたディンさんが私をドアの投入口から出してくれて、ようやく頭が働き出した。

 何十人もの兵士が取り囲んでいる。何が起こっているのか想像したくない。連中はそのままぞろぞろと立ち去っていく。一人だけ残して。

 最初の黒い服装の人物だった。すたすたと歩いてきて、何か話した。

「あんたたちを解放する。取引は成立した」

 聞き覚えのある声、見覚えのある姿、嗅ぎ慣れた匂い……。うそだ……うそだ……。

「あの女の子に感謝するんだな。あんたたち二人分の罪を、全て被ってくれるそうだ」

 待って、行かないで……。ハイルちゃんを助けて……。

 

 

 



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第八話:おもいだすとこ・b

 女の子が一人で歩いています。

「あっれ? ……ここどこ?」

 ふと何かを思い出したように立ち止まりました。

 どこか森の中です。

「私は……ハイル」

 自分を“ハイル”と呼ぶ旅人は再び歩き出しました。しかし方角が分からずに挙動不審で彷徨っています。

 ひとまず近くの木で一休みしつつ、自分の荷物を確認しました。特に変わった様子は、

「なにこれ」

 ありました。

 まず自前の焦げ茶色のセーターの上に、黒いだぼだぼのセーターを着ていました。その内ポケットには見知らぬナイフが入っています。荷物も傘が差し込まれた黒いリュックに二つのポーチがぶら下がっています。おかしな首飾りもしていました。どれもこれもが見慣れないものです。

「なにこれ、クーロはっ? ピーコっ?」

 問う声だけが森に響きました。返事はありません。

 ハイルは指笛を鳴らしました。甲高いですが綺麗な音色です。

 少しすると様々な動物が集まってきました。

「あなたにしようかな」

 一匹のぼさぼさの野犬でしゃがみ込んで話します。

「こんにちは。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、ハムスターと鷹を見かけなかったかな? ……その子たちは私の大切な友だちだから食べないでほしいな。……うん、……うん。捜してくれたら……そうだなぁ……身体を洗ってブラッシングしてあげるよ」

 野犬だけでなく他の動物たちも一目散に駆け出していきました。

 ハイルも探し回ります。すると、

「あ!」

 木の枝に鷹に乗ったハムスターが見下ろしていました。音色に誘われて来たようです。異色の組み合わせの二匹は真っ直ぐハイルに突っ込み、とても嬉しそうにじゃれつきました。

「もーどこに行ってたんだよー! 捜したよっ」

 満面の笑みです。ハムスターの“クーロ”と鷹の“ピーコ”でした。

「じゃ、旅の続きをしよう! 二人のために他の動物たちにお願いしてたんだ。お礼しにちょっと寄っていこっか」

 しかし、

「……どうしたの?」

 二匹はハイルに付いてきません。

「野生に帰りたくなった? ……じゃあなに? ……誰それ? 知らない人だなぁ。というか酷い名前だねそれ。きっと偽名だろうけどちょっと考えものだよ、うん」

 二匹は見合わせて、再びハイルを見ました。

 草の音が聞こえます。すぐに銀銃を構えました。

「……!」

 男女二人組です。一人は下半身に鎧を着込んだ優男で腰に刀を据えています。もう一人は凛々しい色白の女でした。“ソウドオフ・ショットガン”を向けています。

 すぐにショットガンを下げました。

「ハイル! ぶじだったんだな」

「どこも怪我はないみたいですねぇ」

「……え?」

 思わず固まってしまいます。

「どうした?」

「あぁ、私らがここにいることに驚いているのですねぇ。あなたのおかげで強制出国に出禁で済んだんですよ。帰ってくることを信じてペットたちと待機していました。言葉は分からなくてもそわそわして心配そうでしたよ」

「あ、ありが……とう……」

 困惑しているのが目に見えています。

「あの、迷惑を掛けてしまったようでごめんなさい」

「むしろこちらの方が迷惑をかけましたよ。酷いことされませんでしたか?」

「……おい」

 気が付いたのは女の方でした。

「なぜずっとじゅうをむけている?」

「!」

 女が一歩近づくと、

「来ないで」

 女に照準を合わせます。かたかたと銀銃が鳴っていました。

「ハイルさん?」

「どうやらきおくをけされたようだな」

「なんですって?」

 息が荒くなってきました。目の前のことにも、不穏な行為が自身に起こっていると告げられたことにも。

 ハムスターがハイルによじ登り、首筋に寄り添います。

「……ほんとなの? でもとても信じられないよ。嘘ついてないのは分かるのにおかしいよ、うそが上手い人? でっでもこの人たちだけじゃなくてもその国で私……へ、あっ、×されてるかも、いや、あぁ……ああ……」

「おちつけ。まずはすわっていきをとと、」

「そんなのムリだよっ!」

 二丁拳銃で二人に向けました。がちがちと歯が震えて鳴っています。

「ナナさん、こちらが消えましょう。このままでは……」

「だめだ。なら、いちぶしじゅうをしっているやつにきくしかるまい」

「……だれ?」

「フー、きこえているのだろう? こたえてくれ」

 女の旅人“ナナ”が真っ直ぐ見たのはハイルの首飾りでした。

「聞こえています」

 わぁっ! とハイルが尻餅をついてしまいます。その“声”は首飾りから聞こえていました。

 首飾りを手に取ります。四角く水色の物体で蝶番のように開くことができます。

「武器をしまってください。無駄な争いです」

 銀銃を下げましたが、太ももに戻しませんでした。

「え? ……え? これしゃべるのっ?」

「ダメ男さんの相棒の“フー”さんですよ」

「ダメ男? さっきクーロが言ってた旅人……。じゃあずっと今まで私のことも見てたの?」

「はい。“ハイル”と行動を共にするようになってから今の今まで見ています。ですが、これについてあなた方に教えられることは一つもありません。いえ、教える必要もありませんね」

「なぜだ」

「……あんな男を助ける必要がないからです」

「どういうことだ?」

「……ふぅ……」

 寝息のようなため息はフーのものでした。

「……ダメ男とは仲違いです。もうダメ男に付き合っていられなくなり、知り合いであるハイルに頼んだのです。この国の記憶消去薬と復元薬にいたくご執心のようでしてね」

「薬?」

「何も知らないのですね。あの国では記憶を消したり蘇らせたりするのに薬を使っているのですよ。仕組みや製薬方法までは知りませんが、確かに効果はあるようです。あの傷も消してくれたのですよ、ナナさん」

「……それは……すまない……」

 咎めるような物言いに旅人の男“ディン”がそっと寄り添います。

「まるで中毒のように嫌な記憶やトラウマを消しています。それで膨らんだ借金のためにこの国に数年留まるのです。……ここまで軟弱で馬鹿だとは思いませんでした」

「……」

 ハイルはクーロと何かを話すと、ナナたちにフーを渡しました。

「私はもう行くよ。覚えてないから関係ない話だし、フーとやらは二人にあげる。……それじゃ、さよなら」

 ずりずりとセーターを引きずりながら、森の中に消えていきました。

「ナナさん、追わなくていいんですか?」

「……もとはといえばすべてナナのせいだ。これいじょうはまきこむわけにはいかん……」

「そうですね。あなたのトチ狂った被害妄想のせいでダメ男はあそこまでボロボロになりました。……ともかくもう終わった話です。もうダメ男に関わるのはやめてください。落ち目の人間にかまうのは自らも陥れますよ」

「おまえはどうするんだ?」

「イカれた二人に話したところでどうしようもないでしょう? あなた方も早く消えてください。目障りです」

 フーを投げ捨てました。

「行くぞ」

「し、しかしナナさん! このままでは、」

 ショットガンを顔に向けました。

「口答えは許さん。……捨てておけ、そんな出来損ない」

「……どっちが」

「ま、待ってください!」

 カンカンなナナをディンが足早で追いかけていきました。

 静かになった森の中。

「……これでいいんですか……こんなのでいいんですか……×××……」

 

 

 頼りの銀銃をようやっとそっとしまわれる。

「クーロ、その国であったことを全部話して。私全く覚えてないんだ」

〈御意〉

 ハムスターである私“クーロ”はあの国で起こったことを全て伝えた。複雑ではあるが事細かく話す。

 他人事のような話に、そして自分の変わりように大変驚かれていた。

「……あの二人にクーロを預けるなんて考えられないね。どんなことがあっても離さなかったのに……“ヒト”なんかに……」

〈! その言い回しは……〉

 まるで昔のハイル嬢を見ているようだった。少なくとも旅に出る前のハイル嬢の雰囲気だ。お父上以外は全て“餌”と断言されていた時のハイル嬢……。ダメ男殿を忘れられているのが原因か。

「大丈夫。また一緒に旅をしよう。今度はそんな馬鹿なことはしないからさ」

 しっかりと立ち上がり歩き出された。

 だが……、

「どうしたの? クー、ピーコ?」

 このもやもやは何だろうか。奥歯に物が挟まったような、取っ掛かりの強い……何かは。

 ハイル嬢も私の表現しようのないものを感じ取られている。ピーコも同様だったようだ。

 近くに座られ、私を胸ポケットから掌に乗せてくださった。そして静かに呼吸をしながら集中される。最大限のお力で私を感じようとされているのだ。

「何だろうね、私も分からない。ペットのことが分からないなんて飼い主も友だちも失格かな」

〈そんなことは断じてありませぬ。些細なことと思いまする。お気にせずに旅を続けましょう〉

「クーロがそう言うなら……分かったよ」

 再び私を胸ポケットに戻して、ピーコを肩に乗せて出発された。

 が、また足が止まってしまった。

「私、どうして旅をしてるんだっけ?」

〈……!〉

「ねぇクーロ、ピーコ、何か知ってる?」

〈それは……私には分かりえません。その時のお気持ちの通りにとしか……〉

〈世界中の子たちに会いたいーって言ってたじゃない。それが理由だと思ってたけど?〉

「あーそっか。……でもなんで旅までしたいって思ったんだろう? 遠征すればいいのに」

〈……〉

 我々はハイル嬢のように気持ちまで読み取ることはできない。言ったようにハイル嬢の気持ちの変化があったからとしか言えないのだ。だが旅の目的すらも忘れてしまっているということは……。

〈実は、ハイル嬢とダメ男殿は深い関わりにありまする〉

「……深い関わりって?」

〈それは何とも言えませんが、ハイル嬢や国の危機を救われています。ダメ男殿についての記憶を失われて旅の目的も忘れているのなら、彼が関わっている可能性はあります〉

〈ハイルちゃん、ダメ男さんに一目惚れだったのよ?〉

「信じられない。ヒトを好きになるなんて!」

〈しかし事実です〉

「……」

 ハイル嬢が不意に笑みをこぼし、大声で笑い出された。犬歯が見えるほどに笑われた。

「あー……嘘じゃないみたいだね。直接お目にかかるしかないかぁ。どこにいるの?」

〈あちらの方向にその国がございます〉

「ちょうど良かった」

〈良かったとは?〉

「私ね、今……さいっこうに気分が悪いんだ。だからね、久々にめちゃくちゃにしたいなって思ってたの」

〈めちゃくちゃにって……まさか……!〉

「“あれ”の準備をお願いねピーコ」

〈本気なのですかっ?〉

「うん。その国、潰しちゃおっか」

 

 

 そこはとある国の検問。ハイル嬢と二人の男がいた。奇しくも入国した時と同じ二人だった。

 ハイル嬢は冷めた目つきで二人を見られていた。

「だから前に言っただろう? 身体検査をしないと入国できねえ決まりなんだよ」

「さっきの人はお金払っただけだったのに? ぼくも払えるんだけど」

「とにかく身体検査は必須だぜ? それができねえならお家にお帰りボーヤ」

 舌舐めずりしている。全く、相変わらず下衆な男たちだ。

 しかしあまりにも早かった。

「え」

 男の額に風穴が空く。血と中身を噴き出しながら倒れた。

「……は?」

 もう一人が気付いた時は既に遅かった。見覚えのないナイフが審査官の首筋に浸る。つぅっと皮切れ一枚で血が伝った。

 観念してホールドアップした。

「おいおい、こいつは重大な犯罪だぜ? いいのかい? ただでさえ国際指名手配されてるのによ」

「……そうなんだ。なら罪を重ねても意味はないよね。捕まれば殺されるか×されるかなんだ」

「まあ……」

 青ざめている。意に介さない狂気っぷりに当てられたか。私も苦笑いしかできない。

「で、この国で一番偉いヒトって誰?」

「……国を仕切ってる国長に決まってるだろ。他に誰がいるよ」

「そう」

 首を刈り取られた。勢い良く血が溢れ出す。重い頭を投げ捨て、さらに重い体を引きずられた。

「このナイフすごい切れ味だね。骨までさっくり切れるなんて」

 

 

 堂々と真正面から入国された。

「きゃあああっ!」

「なんだあいつはっ?」

「おい! 治安維持部隊を呼べえっ!」

 ハイル嬢を見るや住民たちがパニックになる。そのお姿が尋常ではなかった。右手にべったりと血の付いたナイフ、左手には先ほどの入国審査官の首無死体。図体のでかい死体の足を持って引きずっておられる。

 血の跡が一本となって門へ続いている。

「ウッげえっ!」

「にげろ! 歯向かうなあ!」

「うわあああ!」

 ヒトどもは自分が餌にされると思い逃げ惑っている。ご命令とあれば従うのみだが。

 早速、治安維持部隊の五人が囲んでくる。全員が自動式拳銃を向けてくる。

「お前、何のつもりだっ!」

「止まれ!」

 どちゃ。死体を無造作に手放される。道となっていた跡が血溜まりになっていく。無造作な扱いに治安維持部隊は血の気が引いている。

「この国で一番偉いヒトを呼んで」

「なにいっ?」

「国長じゃなくて一番偉いヒトをここに呼んで」

「貴様、いったいなにさ、」

 砕け散った。

 顎めがけて射撃。当たりどころが悪かったようで中身を飛び散らせて弾けていった。無論、絶命だ。ぴくぴくと昆虫のように痙攣している。

 さらなる悲鳴が上がる。吐き出す者もいた。

 無意識の一発に一人が威嚇射撃を放つ。銀銃を持つ右腕……右肩に……。

「っ」

〈ハイル嬢!〉

「うおおおおおぉぉっ! おああああぁぁっ!」

 猛り声。びりびりと自ら鼓舞するように、相手を威圧するように叫び上げる。

 これだけで周囲を尻込みさせた。一頭の猛獣に恐れるように足が退いてしまっている。

 にっこりと笑みを浮かべられた。

「あなたたちは怖いんだね。ぼくが何を考えているのか分からないから」

「ぐ……」

 私には分からない。肩を射抜かれて笑みを保っていられる心境が。不敵の笑み? 殺されない核心があるというのか?

 しかし、膠着状態にしていたかいがあった。

 ボロボロのシャツにダメージジーンズを履いた男がやって来たのだ。四十代中頃か、よれよれの長髪に無精髭を生やしている。見た目からして不潔な男だ。ご丁寧に重装備の隊員五人を盾にしていた。防護服と透明な盾でがっちりとガードする。

 ハイル嬢を睨んでいる。

「何のマネだ! てめぇは入国禁止だろうがっ! この犯罪者めっ!」

「今ヒトを殺したから否定はしない」

「んだとっ?」

「ぼ、“ボス”犯罪者を煽るのは、」

「やかましい! こっちはキレてんだよドアホ!」

 分かりやすい肩書だ。国長以上の存在と見て間違いないだろう。

「で、あなたがこの国で一番偉いヒトなんだ」

「とぼけてんじゃねぇ! 偉いのは国長だろうが! オレが来たのはてめぇを雇い入れてるからだっ!」

「ふーん……嘘が下手すぎて微笑ましいね」

 ハイル嬢は耳栓をした後、両手の二本指を少しくわえられた。……“あれ”だ。

「なにっ?」

 力強く指笛を鳴らされた。

「ぬぅ……!」

「きぃ!」

 突っつくように突き抜ける高音。近くにいたヒトは苦悶で耳を塞いでいた。治安維持部隊たちは守るために身じろぎしながら必死に耐えている。

 収まると全員がどよめき出す。一体何が起こるか不安で逃げ出すヒトもいた。当然だ。遠くから異音が轟いているのだ。まるで津波が押し寄せてくるような、地鳴りが響いてくるような、何者かが重々しく迫ってくる。それも何十にも折り重なっている。

 一番偉いと思われる“ボス”とやらは歯を食いしばっていた。

「撃ち殺せ! さっさと撃ち殺せ!」

 治安維持部隊が威嚇でなくしゃさつ、

「ふぃ」

「ご」

 する前に隊員たちはばたばたと倒れていった。

「ぼーっとしちゃって遅いね」

「な、に?」

 隊員たちの頭には鋭いクチバシが突き刺さっている。キツツキたちだ。有無を言わさずに刺殺したようだ。

 ようやっとヒトどもが気付いた。

「な、なんっん、だあれはっ?」

「と、とりっ?」

「鷹とかもいるぞっ!」

 何十種類といる空の集団。不吉の前兆を思わせる陰が我々を見下ろしていた。急降下爆撃も辞さないようだ。

「なななんだあれはあっ?」

「ひゃ、えっけ?」

「ひょう?」

「なんでゾウがっ?」

「かば……?」

 地上では門から溢れ出ている肉食獣、草食獣、水生動物……怒涛の進行だ。あまりの轟音に地面が揺れ、周辺の城壁や家屋の壁が崩れていく。中には押し流している者もいた。

 彼らは速度を落とし、ハイル嬢の後ろでびたりと停止する。獰猛な猛者たちの威圧感と圧迫感。その熱気にもハイル嬢は汗ばんでおられた。

「はっえ……? うぇ……?」

「呆けてないで話聞いてよ。ぼくの条件は一つ。“ダメ男”っていう旅人の安全な引き渡しだよ」

「は……な、なに? ダメ男だと? そんな馬鹿な名前がいるかっ」

「ふーん……知らないんだ。じゃあみんな餌になってもらおっかな」

「ま、待てっ! この国じゃ個人情報は教えられない、」

「知らない。っていうかこの状況でそんな余裕があるの? 一つ間違えれば滅亡するのにさ」

「……」

「ちなみにぼくを殺さなくて良かったね。殺したらこの子たちが食い荒らすから。つまり撤退する指示も出せないってことね。そこら辺よーく考えて行動してほしいな」

「つ……」

 これでようやく悟っただろう。皆の者がハイル嬢に協力していることを。

 数十分そのまま待たされた。皆の者は焦らされており血気盛んになっている。この時間すら逆効果なのも分からないようだ。おそらく我々を抹殺する手立てを考えているのだろうが……。

 この場を外していたボスが戻ってきた。見解が一致したようだ。実質、この発言が国の未来を左右する。

「残念だが既に出国していた。入国管理局からこの通り記録もある」

 ハイル嬢ではなく、猿に取りに行かせた。なるほど、確かにこの名簿にはそう書かれている。

「最後にもう一度言うね。よく考えた結果がこれなんだね?」

「考えるも何もそう記録されている。ただし不法入国した場合、どうしても行方が追えないんだ。大人事情ってやつを汲んでほしい。頼む……!」

「……そっか」

 入国管理記録を破いて捨てられた。

「やっぱり人間って“餌”なんだね。昔のぼくはきっと頭がおかしかったんだ」

 ひたひたと皆の者がハイル嬢の前へ出てくる。同胞たちは雄叫びを上げたが最後。

「ち、ちがう! 本当なんだ! 嘘なんかついて、」

「……死ね」

 

 

 何回目だろう。この光景を拝むのは。

「うあああっ!」

「助けてくれえっ!」

「ぼすっ! 俺たちを見殺しにっ!」

「このどぐさっば」

 とても自然な光景は。

 あまり多くはない。我々にとっては宴のようなものだから、そう何回もできるものじゃない。宴が毎日あったらありがたみが薄れるように、たまに催される。

「この! うばっ」

「ぎゃああああ!」

「やめて! うちのこっ! あああああ!」

 自然の掟。弱きは食われ強きが生きる。最弱がいれば真っ先に食われるべきなのだ。その数が多く世界中にのさばっているならなおのこと。これは……我々の反逆だ。自分勝手に我々の命を弄んだ罰。

 そしてこの世界で唯一のヒトの同胞、それがハイル嬢なのだ。国王ですら捕食対象なのにハイル嬢だけは食われない。そんなハイル嬢を傷付けた代償は大きすぎる。

 ただダメ男殿も……。

〈ハイル嬢、これではダメ男殿が……〉

「大丈夫。そのヒトだけは襲うなって言ってあるから」

〈皆の者には無理な話では?〉

「ほらこれ。きっとそのヒトの物でしょ?」

 ダメ男殿のセーター……!

「匂いならみんなも覚えやすいでしょ? それでも食われたなら仕方ないけどね」

 このお方はなんと……。

「つ……」

〈は、ハイル嬢! やはりお怪我を先に、〉

「だ、いじょうぶ。こんなのかすり傷だよ」

 そんなわけはない。待たされていた間に雑に手当をされたが、動かさなくても痛いはず。あの威圧は精一杯の虚勢でもあったのだ。早く救出して右肩を何とかせねば……。

 案内のヘラジカに連れられてやって来たのは、

「……教会?」

 聖堂だった。国の中心部分にある小さな聖堂だが、中に入っていなかった。他の動物たちもここが怪しいと感じているようで、避けるように国を食い漁っている。

 木製の門を開けると、部屋がたくさんあるだけの祈り場に出る。それらしい銅像や教壇、長椅子もあるが異様に部屋が多い。それに番号が振られていて何かの鍵が飾られている。

「懺悔室っていうみたい。ヘラさん、どの部屋にいるのかな?」

 トコトコとその部屋を教えてくれた。“076”と書かれた部屋だ。

 ゆっくり開ける。

「……ひどい臭い」

 顔を背けるほどの異臭。ヘラジカまで顔を歪めるほどだ。しかし感じる。

 何とか堪えて入られた。

「……!」

 い、いた。しかしこれは……。

「何されてたか分かっちゃうくらいだね。男なのにそういうこともされるのか……すっすごい傷……」

 間違いなくダメ男殿だ。蝋燭が明かりの薄暗い部屋。中心で両手両足を鎖で繋がれ、立たされている。全身が生傷だらけ、異様な照りが見えている。目を凝らすと血の痕まである。拷問を受けていたのか……。く……。

 ハイル嬢はその男をじっと見られていた。息を呑まれている。

 勇気を出して、話し掛けられる。

「……生きてる?」

「だ、れだ?」

「私はハイル。覚えてる?」

「……なんの、ようだ……ぐ、ごほっうぇっ」

 ぱたぱたと血と何かを吐いた。その内容物に……言葉を失う。

「……あなた……ロクにたべて、」

「ど、うしてもどってきた……?」

「それは……」

「お前は、なにもおぼえてないんだろ? かえれ……」

 さすがに“ヒト”といえどこの扱いは酷すぎる。あいつらは同じ生物と思いたくないほどに下劣だ。

 ……ぐっと堪えられた。

「あなたがぼくの記憶を消したの?」

「……」

「そうなんだ。この子たちに助けてもらったって聞いたんだ。ぼくはヒトが大嫌いだけど、助けられたお礼はしないとね。帰れって言うなら……無駄骨だったかな?」

「あぁ。だからもうかえ、」

「カギは入口のところだね。持ってくる」

 あの鍵は鎖のものだったのか。きちんと鍵穴は合って、無事に解放された。

「触っるな。……自力で立てる」

「お風呂行きたいんだね。あっちにあるようだよ」

「そうか。……右肩、大丈夫か?」

「! ……平気」

 

 

 聖堂の一番手前の部屋が浴室のようで、ハイル嬢はそこで見張りをされることにした。ダメ男殿の荷物も持ってきているので、返してはある。衣服には困らないはずだ。

〈ハイル嬢、思い出せませぬか?〉

「思い出せないね。……ねぇクーロ」

〈何でしょう?〉

「あんな状態で他人を心配できる?」

〈いえ〉

「ケガを見抜いて気遣ってくれた……私のことも知ってるのに。……絶対ムリだろうなぁ」

〈それがダメ男殿なのですよ、ハイル嬢〉

「……そっか。私は忘れちゃったけど、きっと何回忘れても一目惚れしちゃうんだろうな。だって、」

 突然入口が開いた。

「誰!」

 素早く銀銃を引き抜かれた。

「あぁ? お前こそ誰だよ?」

 な、んだと……っ?

「い、生きてたのっ?」

 なぜ、なぜだっ? なぜ……、

「外はすげーことになってんな。でもなぜか襲われなかったぜ?」

 ボスが生きているっ?

「んー、見た限り、お前は国際指名手配中のハイルだなぁ。なんで再入国できてんのか知らねぇがまぁいい。“076”は浴室だな?」

「……」

「お前さんを飼育員に雇ったって聞いてないんだがなぁ」

「しいくいん……?」

「あいつの飼育員だよ。ぴったりの表現だろ? 奴隷を飼育する役職さ。あいつはさんざん嬲られたからそろそろ身体洗ってやらんとってな」

「……ど畜生が……」

 ドスの利きすぎる声。……ハイル嬢、キレましたな?

 血管が浮き出そうなほどに怒っていらっしゃる。今にもぶっ放しそうだ。

「オレも影武者かもしれないぜ?」

「何回も何人も殺す。骨の髄までしゃぶり尽くしてやる」

「女の子の発言じゃねぇな。だが、こいつを見てもそう言えるかな?」

 何かのスイッチを取り出した。

「起爆スイッチだ。押せば国の隅々まで消し飛ぶ。……オレの心が読めるかい?」

「ひとでなしめ」

「どっちが。……そう言うなら、076を見逃してくれたらお前さんの記憶を戻して帰してやろう。興味が無いとはいえ、ぽっかり空いてるようで気持ち悪いだろう?」

「記憶はもういらない。それならあの旅人を人間らしい生活にして」

「どうして?」

「ぼくがまたここに来る時に死んでたら嫌だもの」

「自分の身よりそいつを気にかけるか。……惚れたか」

「……」

 答えはしないものの、ボスには既に勘付かれているようだ。

 にやり、とボスが笑う。

「あいつはウチの組織でも必要な奴隷で手放すわけにはいかない。だが今の状況、お前さんに早くお帰りいただかないと国が崩壊する。ところがオレを殺そうとしたら自爆して全員死ぬ。そしてオレらは一歩も退く気がない」

「お互いに手詰まりだ。ぼくはこのままでもいいけど」

「だから早急にこちらから提案する必要があるわけだ」

 なんと、手に持っていた起爆スイッチを放り投げ、代わりに紙に何かを書き始めた。ハイル嬢がそれを咎められないのは影武者の可能性を捨てきれないからか。つまりこいつの思考をハイル嬢は読み切れておられないのだ。

「決闘だ」

 紙を折り曲げると、ハイル嬢に投げ渡した。

「ここより遠く離れた所に公正に殺し合いをさせてくれる国がある。期限は一ヶ月後。賭けるものはこっちは076、そっちは……“フー”だ」

「……なぜフー?」

「お前さんにはどうでもいいことだ。お前さんじゃない分、お前さんに失うものはないぜ?」

「まぁ確かに。でもメリットがないなら、勝負が終わっても一生干渉しないし関わらないし行方を追わない、これくらいは欲しいね。ぼくが勝つんだから美味しい目がないと」

「っ……いいだろう」

「じゃあ場所と時間はそっちで決めたから、ルールはこっちで決めて良いね?」

「ああ」

「そっちも既に被害甚大だから参加する人は少ない方がいいでしょ? ……一対一の勝負。“殺した方が負け”ってルールにする」

「! じゃあどうやって勝敗を決する?」

「当事者同士で決めたらいいんじゃない? そこは自由でいい」

「なら、何らかの理由で“決闘に参加できなかったら問答無用で負け”でいいんだな」

「そうだね。ぼくを煮るなり焼くなり好きにしていいよ」

 二人してお互いにニタリと笑った。

「決まりだ」

 ボスが無線機で連絡すると、ハイル嬢は、

「ヘラさん、みんなに餌の時間は終わりって伝えてきて。撤収だよ」

 ヘラジカに伝言を頼まれた。

「じゃあこれで失礼するぜ。お前さんたちのことは出国するまで手は出さないように伝えた。殺し合いの国はここから南へずっと進んだ所にある」

「……浅ましいね」

「それほどでも」

 

 

「というわけです」

 俯かれる。

「それで、動物たちに教えてもらいながらこの国を目指しました。ダメ男が知っている中で一番強い国ってここだったから。でも道中はやっぱりたくさん襲われました。ぼくを殺せば勝負は成り立たなくなる。……死ぬかと思った……」

 目の前にはイリス殿ではなく、幹部クラスの騎士たちと一人の高貴な老婆が座っていた。イリス殿の故郷に戻った後、同じ話を老婆にも話していた。この老婆こそが、

「あなたは相当のおバカさんねぇ」

 この国の女王陛下であられる。

 ハイル嬢は真っ直ぐ見ておられるが対峙するだけで分かる。私のような小さき者を圧殺するほどの重圧感。ハイル嬢がいてくださらなければ死んでしまいそうだ。

「二人のために一国を潰そうなんてよっぽどの死にたがりみたいねぇ」

 女王陛下は頭を抱えて考えこまれる。それを全員が見つめていた。

「そしてあなたを手助けするために一国に依頼するって話はもっとお馬鹿な話よねぇ。しかもここがどんな国なのか分かって言っているのでしょうねぇ?」

「はい」

「まったく、イリスったらとんだ化け猫を拾ってきたものねぇ」

「お言葉ですが女王陛下、私は“奴”を助けるつもりでいました。そもそも女王陛下がお悩みすることの方が驚きです」

「リスクが半端ないわぁ。たかが旅人を助けるために、しかもメリットもほぼないのにそんな危なっかしい戦いに参加するはずもない」

 噂では聞いている“死神の国”。法外な依頼料の代わりに対象を絶対的死に追いやる暗殺者の国。しかも国に住まう者全員が女だという。どういう経緯でダメ男殿が知り合えたのか分からないが、よく生き延びたものだ。

 ハイル嬢が入国された時は何もトラブルはなかったが、男だったら……。

 そんな死神に笑顔を向けられた。

「怖いんですね?」

「……あ?」

 瞳が千切れそうなほどの睨み。か、身体が震えて……。

〈あ……〉

 ハイル嬢が胸ポケットの上から優しく撫でてくださった。布越しなのにその手が恐ろしく冷たい。

「負けるの怖いから逃げるんですね。死神なんてのは雑魚狩りことしかできない殺人鬼程度だと。そんなの子供だってでき、」

 ハイル嬢の顔に何本もの光る銀色の切っ先。直線的な殺意に毛が縮みこみそう。

「串刺しと細切れ、嫌いな方を選べ」

「あなた、ハイルの味方じゃなくて?」

「我々を愚弄するなど自殺志願以外の何物でもありません。一国の姫といえども介錯して差し上げるのがよろしいかと」

「だけどここで殺したら子供遊戯と認めることになるわよ?」

「……このまま引き下がるわけには、」

「引き下がりなさい。こんな小娘に煽られて殺気立つ騎士がいますか。あなたたちも少し頭を冷やしなさい」

 切っ先はゆっくりと鞘に収められていく。

「にしてもこれだけされても眉一つ動かさないなんて、さすがサバンナ国の読心の姫ね。見抜いてたの?」

「いえ、全く。殺されても仕方ないと肚を括ってました」

「ふ。一切合切がくたばり損ないの言う台詞じゃないわぁ」

 鼻で笑われる。

「イリス、これでもこの娘を助け依頼を引き受けようと思う? この娘は国際指名手配された超極悪人よぉ? 庇えば間違いなく我が国は非難され、責めを受ける。しかし召し捕れば褒美もくれるし感謝される。そうねぇ、この国が五年は裕福に暮らせるくらいよ。……どちらが最良の選択かしら?」

「言うまでもありません」

「……」

 この国ですらも駄目なのか……。むしろこうして話を聞いてくださるだけでもありがたい、か。ハイル嬢も目を落とされていた。

 イリス殿がハイル嬢の頭をそっと撫でる。意外そうにイリス殿を見られた。

「……え?」

「そうよねぇ。あまりにも簡単すぎたかしら」

「私でも分かりましたよ、女王陛下」

「ふふふ……」

「ハイルを守る以外の選択肢はありません」

 二人して、いや騎士たち全員が朗らかに笑い合った。

「薄汚い男どもの下賤な金など触りたくもない」

「気色悪い感謝もいりませんね」

「関わりたくもありません」

「満場一致ねぇ」

 驚きのあまり、開いた口が塞がらない。

 立ち上がって背伸びされる女王陛下。足が悪いのか杖を使われている。

「記憶を司る国……私も聞いたことがあったけど、やはり利用していたのね、あの男は……」

「あの男? ご存知なのですか?」

「ええ。狂おしいほどに」

「!」

 突然の風切り音。発生源は、

「分かりやすい口調に人相、悪行。奴以外に考えられないわ」

「お、お母様……」

 女王陛下。持っていた杖を振っただけ。しかし、目の前の分厚いテーブルに切れ目が付いていた。いや、これは……。

「ハイル姫、実は私が“彼の救出”に協力する気が全く無いのを見抜いていたのでしょう?」

「いえ。女王陛下ほど読み切るのに時間がかかる人は滅多にいません。正直まだ……でも今なら分かります。……全てを焼き尽くす業火のようで」

「若い時はいつもこうだったのだけれど、久々に(たぎ)るわぁ」

 杖の太さにテーブルが綺麗に抉れている。テーブルの一部は床に転がっていた。ただの杖なのに削ぎ落としたというのか。木製だが天板を敷いたテーブルだぞ……。人間業ではない。

「奴は私の足を奪い、モモの姉をさらった男。実業家だとか抜かしているけれど、結局は成り上がりの奴隷商」

「奴隷商……じゃあダメ男は捕まって奴隷に……」

「話からして彼は元々奴隷だったようね。ブランドも相まってか利用価値は高かったか。あの身体の夥しい傷跡はそのせいね」

「っ!」

「相変わらずのクズ野郎ね」

 口から沸き立つ血霧をこもらせるように、声を鎮める。

「本当の名は“リック”。人身売買に生きるケダモノ……金の匂いに群がる害虫よ。今は事業拡大して、あらゆる悪事に手を染めているわ」

「じゃあ協力して、」

「だから言ったでしょう? 勘違いしないでちょうだい。“彼の救出には協力しない”」

「じゃあ何に……?」

「リックの抹殺」

「!」

「この機を逃しはしない。あの男を殺すことができれば他なぞどうでもいい」

「それはダメです」

「……あぁ?」

 は、ハイル嬢、さすがに押し過ぎでは……。もう体毛が抜け落ちそうです……。

「ぼくが負けた場合でも抹殺するんでしょう? ぼくらが決めたルールの違反です。あくまでもぼくの依頼に、」

「ハイル姫、いえハイル」

 女王陛下がハイルの腹に指を這わせる。ぞくりと震えた。

「はっ、……っ、はい」

「綺麗事を吐かすな。お前は今まで何をされた? あの旅人は何を強いられた?」

「い、いたっぃ」

 爪を立てる。ぐ……完全に足が竦んでしまって……すみませぬ……。

「奴の国が半壊状態ならなおのこと。今叩くのが最良でしょう? 影武者が無数いるならその分だけ恐怖にさらして磨り潰してやりましょう? 生きているのが嫌になるほど可愛がってあげようかしら」

「それじゃあダメ男は殺されますよっ……!」

「んー? そんなのこちとら関係ないわ。あなたの依頼はあの男を殺すことでしょう?」

「ん、……ち、違う……」

「なーんだ。でも依頼が殺し以外だと依頼料はもっと高くなるわよぉ? この死神の国と契約するのにあなたは何を供えるのかしら?」

「っ……命くらいしか……」

「死に損ないの命ねぇ……憂さ晴らしくらいしか価値はないのだけれどねぇ」

 腹から肢体へ這いずる。びくりと震える。貴様……これ以上ハイル嬢を嬲るなら、

「腸を引きずり出すぞネズミ」

〈っ……?〉

 こ、この老婆は私みたいな者の殺気すら悟るのか! 寿命が三年縮む……。

「この国はねぇ、女好きが多いのよぉ。あなたなんか可愛いから、すぐに切り刻まれて食われてしまうわぁ。子宮や膣なんかとても美味しそう……」

「っ……ずっいぶんと悪趣味なんですね」

「臓物大好きな死神ですもの」

 ぐり。聞こえてしまうほどに何かをしやがった。少女にここまでするとは……あの男と同じではないか。大人気ないぞ女王陛下。

 女王陛下がハイル嬢の顎を持ち上げる。

 果敢にも笑みを絶やされない。

「命を供えるということはそういうこと。何をされても文句は言えない……分かる?」

「でも、ぼくもまだ死ぬわけにはいきません」

「じゃあ四肢を剪断(せんだん)して生き血を飲もうかしら。それなら死なないわよねぇ……?」

「……」

 女王陛下の指を追い出して、かぷりと噛まれた。

「ヒトの美味しい部分は太ももと指先ですよ、女王陛下」

「! あっはっはっはっはっ! ははっ! あーっははっ!」

 涙を浮かべるほどに大笑いされた。

「あー……死神相手に胆で押すとは爽快な旅人ねぇ。いいでしょう。その小さい命、貰い受けましょう。お楽しみは依頼が終えたら、ね」

「……はい」

 薄ら笑い。女王は契約書と朱肉をハイル嬢に渡された。

「しかし可哀想ねぇ。勝っても負けても命が取られるって」

 躊躇なく、捺印された。口が裂けて、妖しい笑みが隠せない。

「これで契約完了ですね」

「えぇ。今をもってこの国の立入りを許可するわぁ。帰るあてがないのならしばらくはここを根城になさい。さて、あなたの望みを言いなさい」

 

 

「お母様」

「何?」

「なぜ問い詰められなかったのです?」

「なぜって……そういう依頼だからよぉ。考えがあってのこと。口を挟んではいけない」

「明らかに最悪の手でしょうっ? あの小娘が何を考えているのか分かりませんっ」

「その辺はイリスが案内がてらにやんわりと聞き出すからいいのよぉ」

「賭け対象のフーを連れ出すなんて頭がおかしすぎる! 決闘の日ギリギリまでここに潜伏すればいいのに! フーの正体がバレれば奴らは容赦しないわ!」

「その通り。フーを賭けさせるってことは正体がつかめてない証左だからねぇ。しかもなぜミオスくんを奴隷にできたかも吐露してしまっている。その有利を自ら潰すってんだから誰がどう見たって悪手。目の前の餌を見逃すほど甘い連中じゃない」

「ではどうして……?」

「分からない。でもきっと出来事を全て話してはいない。あの少女は核心を隠しているわぁ。私が本気で脅しを掛けたのも真意がつかめなかったから。だからこそ我が国に欲しい人間、いや化物なのよぉ。ある程度の自由は許すしかない」

「しかも決闘の立会とケツ持ちもなんて気が狂ってるんですかね!」

「勝負を無視して武力で台無しにするのは良くあることよぉ。向こうは間違いなく武力をチラつかせるだろうしねぇ。その点ウチに持ってもらえればまず命の保証はされるわけだ」

「……まどろっこしいことしないで戦争しちゃえば楽なのに……」

「モモ、それよりももっとやってほしいことがあるのだけれどぉ。ここでのんびりホットミルクを(たしな)んでるヒマがあるのかしらぁ?」

「ふぇ? だってこの仕事はイリスお姉様と“ラウレル”が担当だし、あたし昨日帰ってきたばっか、」

「次は“殺し合いの国”とやらの調査! ついでに近くの国の殲滅もあるからお願いねぇ」

「うへ~……じゃあ七人借りていきますよぉ……」

「甘えないの。五人で二・四に分ければ楽勝でしょ?」

「……ハイルを突き出せばめちゃくちゃりえきが、」

「あ?」

「いえなんでもないですはいいってきますはい」

「……さて、フーをどうしましょうかね。護衛は何十人必要なのかしら」

 

 

 



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おわり:ふりかえっていた

「もう一度言ってみろ」

 無精髭を生やした不潔な男が凄まじい剣幕で立ち迫ります。

「……」

 黒い男は尻もちをつきそうなくらいに膝が震えます。それを直隠しにするのが一杯一杯でした。

「あ、あれはオレの戦利品として貰い受ける」

 テーブルを重く叩きます。

「ふざけてるのか? ナメてるのか? 実験と商売のために仕入れてきたんだぞ」

 射殺すように睨みつけます。

「それについての明確な取り決めはなかった。国を荒らしている者たちがいる。そいつらを鎮圧してこい。今回の依頼はそれだけだった。二人は強制出国させて出禁。もう一人は睡眠薬で眠らせてる。依頼通り鎮圧した。なら戦利品はオレの好きなようにしていいだろう?」

「そりゃあお前がまさか欲しがるとは思わなかったからさ。もしその意志があるならば事前に打ち合わせするのが筋じゃないのか?」

「……衝動的にってやつだ。オレだって一人や二人、欲しい時もある」

「……はぁ……」

 不潔な男は座りました。

「……なぁ“076”、一応この国の法律や権利は機能してる。契約違反や不履行に対しては正当手段でもって処分できるんだぜ? つまりクビや厳罰だ。そんなことしたらお前……奴隷に逆戻りだぞ」

「今もだろ。旅人には人権はないって思い知らしたのは“ボス”……あんたじゃないか。依頼なんて言ったところで結局は弱みを握って奴隷扱いだ。オレ以外にもそういうのは何十人も抱えてるんだろう?」

「その全員を好待遇で迎えてるはずなんだがなぁ」

「好待遇? あれでか」

「お前は最短で情報がほしかったんだろ? ならその分の対価を支払う必要がある。だからだよ。現にほしい情報は全て受け取って、お前は依頼を引き受けている」

「……そう、だけど……」

「これ以上不平不満を言うようならこっちも出方を変えるぞ?」

「……」

 黒い男は何も言えなくなってしまいました。

 “ボス”と呼ばれた不潔な男は煙草に火をつけました。ふぅ、と煙を吐きます。

「いいだろう。お前の要望は叶えよう。ただし、その損失分をお前が補填しろ」

「損失分?」

「あの旅人にさせるはずだった“こと”を全てお前が引き受ける、そういうことだ。あと三日だったところを一年以上先延ばしになる。ぶっちゃけるとボロ雑巾の方がマシな扱いを受けるだろう。恨みつらみはたっぷりあるだろうからなぁ」

「……それでもいい」

 ゆっくりと頷きました。

「分かった。手続き関係は気にしなくていい。今日中にお前のものになる」

 黒い男が部屋を出ます。

「あの小娘のどこに惹かれたのかは知らんが、割に合わなすぎると思うがな」

「自分でもそう思うよ。あと身体が三つ四つあっても捧げるつもりだったから」

 

 

 まるで独房のような部屋に女の子が眠っています。手洗い場とトイレは別ですが、ベッドとテーブル以外は何もありません。

 黒い男が食事を持って入ってきました。野菜の盛り合わせにパン二(きん)、コーンスープです。透明コップにひたひたと水が入っています。

 食事と一緒に首飾りを置きます。

「それは?」

 首飾りから女の“声”がしました。凛としていますが人間味があります。

 水に何かの粉薬を入れ、優しくかき混ぜました。

「記憶を消す薬だ。よその国から裏取引で横流ししてもらってるらしい。この国での出来事を綺麗さっぱり忘れてもらう。覚えていると事態を知って戻ってきちゃうだろうからさ」

「そうですね。この娘は間違いなく再入国してしまいますね」

 さり気なく別の錠剤を崩しながら混ぜました。

「今の錠剤は?」

「これもだいたい同じだ。作用を促す効能がある」

 水が少し白くなっています。

「じゃ、オレは行くよ。混乱しないように落ち着かせてから作戦通りに頼むな」

「……分かりました……」

 微笑みかけて、部屋を出ていってしまいました。

 

 

 女の子が起きたのは少ししてからでした。

「ん、んぅ……」

 起き上がると食事よりも、

「フーさんっ」

 首飾りの四角い物体“フー”が目につきました。

「お久しぶりです、ハイル様」

「びっくりしたよ。フーさん、久しぶり。でももう“様”はいらないよ。姫じゃないからね」

「分かりました、“ハイル”」

「でもここどこ? 確か逮捕されてから……よく覚えてない……」

「ひとまずそこまでのことを説明してください」

「うん」

 ここに来るまでの経緯を教えてくれました。

「なるほど。ダメ男を見かけて記憶を消されたと思い、助けようとして捕まったというわけですか。一体何がしたかったのか分かりませんし、かえって迷惑な上に役に立たずですね」

「……う、うぅ……ごめん」

「でもまさか、あの二人までいるとは思いませんでした。あの気違い二人組も役立たずですねぇ」

「ん、ぬぅ……」

 ぐさぐさと容赦なく言葉を刺します。

「フーさん、ダメ男は記憶を消されてるんだよね? なのに私を生かしたのはどうして?」

「分かりません。本人に聞いても分かりませんでしたか?」

「うん。それにもうダメ男の心が読めないんだ。記憶が失くなって別人になっちゃったからかな……」

「こちらもダメ男の全てを把握しきれていません。確かなのは、この国に留まるつもりはないということです。もしかしたらハイルを利用するために生かしたのかもしれません」

「……ありがたいな」

「ありがたい?」

 微笑んでいます。

「ダメ男に助けられて、その恩返しがしたくてここに来たの」

「それで単身でここに来たのですか。案外命知らずなのですね」

「ダメ男の記憶を戻してあげないと、忘れられたままはつらいでしょ?」

「そんなことはありませんよ」

「……え?」

「ダメ男はどうなろうともダメ男です。記憶を消されようが半身もがれようがダメ男はダメ男なのですよ。なにせ単細胞生物ですからね」

「! ……」

 ちらりとフーの隣を見ました。

「じゃあ、いつでも助けられるように少しでも元気じゃないと」

 水に手をかけ、ゆっくりと、

「その水は飲まないでください」

「え?」

 戻しました。

「その水には記憶を消す薬が盛られています。ダメ男が入れました」

「消したりするのって薬でできるのっ? しかもダメ男がっ?」

「飲むだけで狙った時期や人物の記憶を消したり戻したりできるようです。ダメ男が盛った理由は分かりません。ともかく、記憶を消すのはダメ男の計画の一部ではあるようです。飲んだふりをして狸寝入りをしてください。こちらで誤魔化します」

「……分かった」

 ハイルは流し台に水を捨てて、食事を摂りました。よほど空腹だったようで、あっという間に食べ終わりました。

 フーが知らせます。

「誰か来ます」

 すぐに横になりました。

 入ってきたのは、

「やば、忘れ物した」

 黒い男でした。

 テーブルを見て、うんうんと頷いていました。

「……飲んだか」

「ええ。ですが目に見えて分かるような症状は見受けられませんでした。本当に効くものなのですか?」

「あれは“ボス”がオレ用に渡した物だ。まず効くだろうな」

「“ハイル”の記憶を消した後は出国手続きを済ませ、フーを連れて旅をさせる。あなたの計画はこうでしょうかね」

「ん……そうだな」

 じっとハイルを見ます。

 黒い男はコップに水を入れ直して、再び薬を二つ入れました。

「フー」

「はっい」

 声が張ってしまいます。

「ハイルを起こしてくれ」

「なぜです?」

「……」

 コップの縁をフーに見せました。

「唇の痕がない」

「!」

 確信を持って言い切りました。

「起きてるんだろ、ハイル」

「……」

 すくりと起き上がりました。

「記憶は消されてなかったんだね、ダメ男」

「どうしてそう思う?」

「ダメ男の記憶で一番大切なものはフーさんだもの。個人情報保護の法律なら二人はまず一緒にいられないでしょ? “利用者の情報が漏れるようなことはあっちゃいけない”から」

 黒い男“ダメ男”は頭をくしくしかきました。

 じぃっとダメ男を見つめます。

「……そっか、フーさんを人質にされてるんだね? それで仕方なくダメ男はボスの言いなりになって、脱出計画を練った。でも私たちが来たことで計画は台無しになっちゃった。だから私の記憶を消して、フーさんだけでも連れ出す計画に変えた。こんな感じだね」

「まぁそうなんだけど……フー、なんで裏切った?」

「そもそもそんなものに反対していたからですよ。あなたが最初からハイルに思い込みなんてさせずに協力を依頼していれば、」

「根本がもう違うんだよ、フー。オレらは助かるかもしれない。でもお前はどうなんだ? 既に狙われてるんだぞ。諦めることもない。オレにはフーを守るだけの力はないんだ……」

「私も協力する! だから、……」

 ダメ男が睨みます。それだけでハイルは押し黙ってしまいました。

「フーを知る人間が増えればそれだけ危険が増す。お前、父親を人質に取られてもフーを守るって誓えるのか? ペットたちとフーを天秤にかけられるのか? オレにはいないからいいけどな」

「……」

 ダメ男はハイルを、

「!」

「でもありがとな。すごく嬉しいよ」

 抱きしめました。

 ハイルはなぜか必死に拒絶していました。いくら心が読めると言っても力では勝てません。突き放そうと暴れていた両手が服を握りしめるだけに抑えられてしまいました。

「いやだよ! やめてダメ男! 助けたいんだ! 助けてもらった恩返しがしたい! ダメ男とフーさんは離れ離れになっちゃダメだよっ!」

 溜め込んでいたように、どっと溢れてきます。

「……ハイル、フーと仲良くな」

 いつの間にかコップを持っていました。ぐっと口に含んで、

「んっ! んー! んぅ!」

 口移し。口の中でも必死に抵抗しているようです。しかしもがけばもがくほどさらに激しくなってしまいます。息が続きません。

 強く抱き寄せました。びくりとしてごくりと飲まされてしまいました。

「……ふは。……ず、るい。私がっ……拒めないのを知って……くぁ、だっめお……わすれた、くない……ふーさん、ぜったいおもい、だ……さ……」

 両腕が力なく垂れて、ダメ男に寄りかかります。ひょいっとお姫様抱っこでベッドに寝かせました。

「……支度、してくる」

 ふらふらと部屋を出ていきました。

 

 

 森の中。外出手続きを済ませていたダメ男は馬車を手配していました。そこにハイルを隠して連れ出しています。またダメ男の荷物一式を持ち出していました。ボスには仕事という名目で誤魔化しているとのことです。

 見えづらい木の密集地に隠し、荷物も近くに置きます。そしてフーを首にかけてあげました。

「ハイルの思い込みがダメ男を見抜けなかったのですね。“恋は盲目”ですか」

「見えない所が見えてても分からないものなんだなぁ……」

 頬をそっと撫でます。

「ダメ男、本当にこれでいいのですか? 今がチャンスなら一緒に逃げてみてはどうです? きっと逃げおおせます。監視もしてますから」

 フーが口走ります。

「ダメだ。一時しのぎにもならないよ」

 横に振ります。

「他にやりようがないんだ。あいつが諦めることは一生ない。生きてる限り、いや死んでからだって誰かに継がせてるだろう。永遠に狙い続ける。今いる場所が一番安全なんだ。場所も何も知らないあいつには絶対見つけられない」

「×××」

 ぴちっ、とフーから聞こえます。

「いやだ……ここで別れるなんて、いやです、いやですっ。ずっと一緒に……一緒にいたい!」

「フー……」

「別れたくない……まだ一緒にいたい、ずっと一緒にいたい、これからもずっとずっと一緒に旅がしたいんです! 一人で思い出を眺めるだけなんて嫌ですっ」

 傷だらけの腕がフーへ伸び、そっと手に乗せました。力強く笑っています。

「大丈夫。……ちょっと寄り道するだけだ。また一緒に旅ができるよ。時間がかかるけど抜け出してみせるから」

「待つしか、待つしかできないのですかっ?」

「君が無事に待っていてくれるだけでオレは生きていける。どんなに辛くたってね」

 ぐっと親指を立てました。

 足取り軽く、その場を去っていきました。

 止めどなく溢れ出る不安が流れ落ちてしまいます。後ろ姿を真っ直ぐ見ることができませんでした。まるで死刑台に向かっていくような気がして……。

 なぜ心配症だなとか気にすんなとか、減らず口で言ってくれないのですか? いつものあなたなら……任せろって言ってくれるのに……。

 今回はその自信がないからでしょう? 悪い方に実現する可能性がとても高いのでしょう? ……会うどころか無事では済まないかもしれない、と。一体どれくらいあなたと付き合っていると思っているのですか。分からないとでも思っているのですか。あなたの考えてることくらいお見通しなんですから。

 どれだけ酷い目に遭っても見ることしかできない。醜くて汚くてえぐい現実でも目を逸らすことはできない。歯痒い思いをしても歯を擦り減らしても……。

 私はまたあなたを待つしかできないのですか?

 

 

 それでも、

「あなたが“フー”だね?」

 待つしかありませんでした。

「はい」

「持ち主から依頼されたんだ。フーを頼むって」

「ダメ男に会ってきたのですかっ? ダメ男はどこにっ?」

「……それがね……」

 ハイルはあの国で“起こした”ことを全て話してくれました。それは想像を絶する内容です。動物たちを率いて国を半壊状態に追い込み、脅迫しながら決闘を承諾したとのことでした。その時点であの男がフーを狙っているのも気付いたようです。

「決闘に勝てばダメ男を返してくれると? 口約束を守るとは思えません」

「だろうね。手段を選ばない感じだった。でもぼくが勝つから関係ないかな」

 ハイルは自信たっぷりに言い切ります。

「しかしなぜ急に助けようと考えたのですか? 去り際に関係ないと言っていましたよね?」

 フーを拾い上げ、首に掛けました。

「旅に出る前の自分を見てるみたいでね。力になってあげたかった。……それだけだよ」

「そのために国を滅ぼしかけ大量虐殺をするとは、思い切りが激しすぎますね」

「思い出したくないものもあったから弾みで、ね……」

 くすりと口が笑います。

「興味本位だったけど、ダメ男を見てすぐ感じたよ。親鳥を見る雛鳥みたいだって。……そんな“人”を見捨てられない。あなたも含めてね。だからぼくを頼ってよ、フー」

「ハイル……」

「心配しないで。ぼくって蛇みたいにしつこいからさ」

「……お願いです。……ダメ男を、×××を助けてください。もうあなたしか頼れません……。このままでは殺されてしまいます。そうなったら私は……」

 ぐっと親指を立てて、応えてくれました。

「任せて! 二人で一緒に助けようね!」

 

 

「死神の国?」

「うん。これからそこに行こうかと思ってる」

「死神の国とはまた物騒ですね。どういうところですか?」

「ダメ男曰く、恐ろしく強い騎士がたくさんいる国なんだって。あまりに強いから異名を取って“死神”の国なんだってさ。そこで決闘の立会、つまり保証するように頼むんだ」

「なるほど。当事者同士で話し合ったところで、どちらかが反故にするのは明白ですね。きちんとやり取りできるように第三者を交えようというわけですか。ならば軟弱な国では駄目ですね。できればあの国とは全くの無縁で強い国が良い、それで死神の国に依頼しようと考えたのですね。ダメ男なんかよりも実に聡明で素晴らしく現実的な計画です」

「わぁすごい。もう説明することなくなっちゃった」

「先ほどの話では引き渡し方法や賭けたモノの状態について、何も取り決めがありません。決闘当日にモノを用意させた方が良いです。替え玉や偽物を準備される可能性があります」

「う、うん」

「ただしフーについてはハイル一人で対応してください。フーがバレると強硬手段で誘拐拉致されてしまいます。あくまでも決闘当日まで正体は明かさないことです」

「わかった」

「死神の国に依頼したらすぐにフーを迎えに行ってください。今の内に落ち合う場所など決めておきましょう。まず場所は、」

「ちょっと待って。迎えにって、これがフーでしょ?」

「いえ、正確には“声の持ち主”の方です。面倒なのでまとめてそう言うようになっただけです」

「えぇっ? じゃあ……」

「はい。実在します」

 

 

「そろそろだな」

「はい」

「長かったぜぇ」

「はい。五年以上もの時間を費やした価値がありましたね」

「全てはオレの計画通りってわけだ。どんなやつらがもがいても、結果は同じよ」

「……はい」

「旅人の習性を利用すりゃあ、ビジネスは成り立つものよ。くくく……本当に面白いように思い通りに動きやがるよなぁ」

「それで、どうされますか?」

「引き続きだ。オレがここまで仕込んだのにお前がミスれば全てが台無しだ。まぁ、そうなってもいいように保険は掛けてある。まず損はしねぇさ。頼むぜぇ? 何のためにお前にも仕込んだのか、理解してくれよ。まだ気付かれてねぇはずだ」

「……あなたに応えるために……」

「くっくくく……笑いが止められねぇ……くくく……」

 

 

 



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おまけ

―虹の話―

 

 山に囲まれた盆地で、むしむしする暑い時期。そこに旅人が訪れていた。

「いやー暑いなぁ」

「セーター着ていれば誰でもそうなります」

「脱ぐか」

 女の“声”に促され、セーターを脱ぐ。黒いシャツから伸びる腕が傷だらけで目立つ。

 リュックにしまいながら進む。関所が見えてきた。扉が二つあり、門番が見張っている。

「おい」

「なに?」

「近場で虹を見なかったか?」

「虹? 雨上がりに出る……あの?」

「そうだ。見なかったか?」

「いや。見てないよ」

 門番はとても嬉しそうに頷いた。

 とても気になった旅人は自己紹介した。旅人が“ダメ男”、女の声が“フー”と言う。

「ジンクスみたいなものなんだが、ここらへんは虹を見た人間は近い内に不幸な目に遭うとされてるんだ」

「そんな話、初めて聞いた」

「幸運の前兆というのはよく聞きますが、どのような目に遭うのですか?」

「例えば突然土砂降りに遭ったり足が滑って転んだりとそれはもう色々だ」

「虹とあまり関係ないように思いますね」

「まあともかく、見てないってなら良かった。足止めして悪かったな」

 ダメ男とフーは門番に別れを告げて、左の扉を通った。

「さーて、次の旅人が虹を見てますように。イタズラできないじゃないか」

 

 

―冗談話―

 

 草原の中伸びる一本の土道。道の傍らに三輪自動車を停めて、荷台で一休みしていた。

 二人いる。一人は黒い旅人。もう一人は麦わら帽子のお婆さんだった。

 旅人は自慢の紅茶を振る舞ってくれていた。

「引き止めて悪かったねえ、旅人さん。この老いぼれの話を聞いてくださらんか」

 特に用事があるわけでなく、ただ話し相手がほしかったようだ。

「ワシはねえ、遠くの国で農家をやっておった。トマトやじゃがいも、何でもやったもんだ。これがそうだよ」

 赤みの強いトマトを袋に三つくれた。しゃくりとかじる。甘みと少しの酸味が美味しい。

「最近はこういうのを食べてくれる人が少なくなって寂しいもんじゃ。旅人さんはお優しいのう」

 お婆さんは嬉しそうに、薄っすらと涙目を浮かべていた。

 とても美味しくて、瞬く間に三つ平らげてしまった。とても微笑ましいようで、

「毒入りトマトは美味しいかえ?」

 笑いじわが歪んだ。

「馬鹿な旅人さんだのう。見ず知らずの人間が寄越した物を食べるとは」

「……婆さん」

 旅人は、

「毒入り紅茶は美味しいかい?」

 朗らかに笑った。

「! ……」

 手元のカップを見つめた。自然な笑みが溢れる。

「旅人さんは良い人だのう。老いぼれの冗談に付きおうてくれて」

 

 

―抱きしめる話―

 

 ぎゅっ! 急に抱きしめられた。

「旅人さん、大好きです」

 後ろから、それも身体を押し付けるような抱きつきに、旅人は赤ら顔を隠せなかった。

「こんな感じですかねー?」

「まぁその……うん」

「さっきは前から“好きです”って言うだけでしたが、どうしてですかー?」

「そこまで聞く?」

「そりゃそーですよ」

「……面と見つめられながらだといいなって……」

「なるほどー。接触なしでもその気になる、と……」

「違うし変なことメモるなよーっ!」

「あと丁寧語なのは?」

「もういいだろさ! はい終わり!」

「ちぇー」

 両手で顔を覆うも、耳が真っ赤になっている。

「そうでしたか。あなたはああいう状況で、ああいう風にされるのが好きなのですね」

「ち、違くてっ! その、だって……適当でもいいからって話だったじゃないかっ!」

「適当でもそれなりの好みはあるわけですよね? それとも入国審査官の胸が大きいからその状況を選出したのですか?」

「それも違うからっ!」

「ゆでダコのように真っ赤っかですよ」

「あーもう! ほら、入国審査は終わったんだから入るぞ!」

「どこにですか?」

「ばっかやろう!」

 ぷいっと背けつつ入国する旅人。

「やっぱり大きい方が……ちょっと頑張らないと……」

 

 

―祝う話―

 

「旅人さん。ようこそいらっしゃいました」

 黒いセーターを着た旅人と女の“声”が招かれる。

「ここは旅人さんが祝ってくださる国なのはご存知ですよね?」

「うっうん」

「最低一名の国民を祝う。これがしきたりとなっております。我々国民はどんな些細な祝い方でも謹んで、そして喜んでお受け入れいたします」

「こちらが祝うのですか?」

「はい。我々の国は昔から不幸な国でした。あらゆる災害や疫病に見舞われました。しかし事あるごとに様々な旅人さんに救っていただいたのです」

「そのお礼に歓迎するもんじゃない?」

「いえ、我々みたいな不幸人間が歓迎してはかえって迷惑でしょう。間違いなく不幸が移ってしまう。それを防ぐために祝っていただくのです」

「なるほど」

「その代わり、この国での代金を全て無償とさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いします」

「ふふっ、分かったよ」

 周りをちらちら見て、ある夫婦に目がつく。三ヶ月目の赤ん坊を抱っこしていた。

「あの、良かったら抱っこしてもいい?」

「あら旅人さん! この子を祝ってくださるのっ?」

「うん」

 手慣れた手つきで、片腕で抱っこする。空いたもう片方の手でほっぺをあやす。

「ようこそ、美しい世界へ」

 

 

 




 どうも水霧です。投稿開始してから約五年経っていたことに驚きました。早いですねえ。まさか『キノの旅』二期が始まるなんて思いもしませんでしたし、フォトが恐ろしく可愛かった。もう今年の締めくくりはそれでよろしいのではないかと。
 ということで次章で最終回ということもあり、この“あとがき”では水霧がどんな感じでこの二次創作を作っていたのかくっちゃべりたいと思います。長いですが、断末魔と思ってお付き合いしてくれる方はそのままお読み続きしてください(ほぼ強制ですがね!)。
 まず、なぜ『キノの旅』の二次創作を作ったかですが、当時学生の水霧が国語の勉強をするのに作ったのが始まりでした。日本語が苦手なのに文章表現するのは自殺行為……でしたが、辞書などで調べていくうちにそこそこになれました。類語辞典とかも便利ですよ。同じような意味でも言葉が変わるだけで面白くなります。
 そこに白羽の矢が立ったのが『キノの旅』。一話完結だしそもそも好きですが、実はラノベは『キノの旅』しか読んだことがありません。小説自体あまり読まないのです。でもゲームにもスポーツにもギターにもハマっていた時期に予想外にもハマりましたね。作るって楽しいんだって。
 ひとまずの目標はオリジナルキャラたちを作者の分身にしないこと、作風を原作に近づけること、小論文のように文法や使い方を守ること、この三つでした。一つ目の理由は後ほど分かります。
 オリキャラたちを突き詰めると似たり寄ったりの性格になってしまいます。一人の人間が作っているから難しいですよね。話し口調も似せないように、でもあからさまなキャラ付けはしないように、といろいろと苦悩していました。ちなみに作中では明かしていませんが、オリキャラたちの年齢と誕生日、血液型、得手不得手、好き嫌いまで全て設定しています。原作ではぼかしているので、それに倣っていますが。
 それらを終えると、一話ごとに舞台と人を用意しなければなりません。ネタは日常生活ですね。意外とすぐ見つかります。水霧は陳腐なので舞台が草原・山が多いです。というか好き。のどかなのが好きなのです。
 問題はそれらをどう『キノの旅』っぽく面白くするか。水霧自身もここらへんがまだ甘いなぁと感じています。何年もやって未だに試行錯誤中で何とも言えませんが、シュール(非現実的・超現実的)なのに現実として実在したら……と思わせることが重要な気がします。そのためにタイトルやサブタイトルはすごく大切。タイトル通りかと思ったら予想の斜め上だった、と思わせたら大成功ですね。たまにやり過ぎて破綻することもあります。
 その中でも起承転結は守るように心掛けていています。特に“結”をどう持っていくか、つまりハッピー・バッド・その中間に設定するかですね。
 水霧はハッピーエンドが大好きなのにバッドエンドが多くて心苦しいです。もう水霧病んでるじゃないのかってくらいですね。たまにはハッピーエンドでもーっと作ると、なぜか悪い方悪い方へと流れてしまいます。やばい、これやばいやつだ。このまま最終回を目指したら全滅エンドじゃないかっ。絶対ヤダ! ここにオリジナルキャラを作者の分身にしない理由があります。自分をいじめてるみたいでイヤじゃないかっ。ド変態にもほどがあるよっ! 分身じゃなくても気分は良くないけどね!
 ちなみにその反動で第七章「おまけ」は比較的のほほんとした内容にしました。『キノの旅』っぽくないかもですがお許しを。おまけらしいおまけを作ってなかった気がしたのもあります。
 そして指摘があった第七章「おもいだすとこ」ではいくらでも展開を持っていくことができた分、かなり悩みました。ダメ男の生死すらも視野に入れていたことを(こっそりと)告白しておきます。
 ……ともかく、こんな感じで水霧は物語を作っています。もうあと一章分しかないので今さら感マンマンですが、残りもきちんと仕上げて終わらせますよー。けど原作の雰囲気が保てない可能性大で、どうしても一話完結でなくなりそう。原作は完結してないのでどう落とし所をつけるか、水霧の手腕にかかります……。
 そうそう、「にじファン」様に投稿していた結末と違うだろうと思います。何年も前なので知っている方はまずいらっしゃらないと思いますが、念のために。気になる方がいたら少し改変して“おまけ章”でも作りますか。
 終わらせた後はどうしようかまだ決めてないです。続編か、オリキャラか、キノを主体とした二次創作か、最近『メイドインアビス』と『けものフレンズ』がいいなと思っているので別作品の二次創作か、そもそも読み専になるか。その時の気分で決めたいと思います。
 それではこのへんで長い長い“あとがき”を終わりにします。お付き合いいただきありがとうございました。最終章をお楽しみに! では最終予告です!


「ど、どうしてここに……」
「さぁ。これも何かの運命なんだろうね」
 大切な人を取り戻すために決闘に臨むが、その対戦相手に驚きを隠せない。しかし勝つと決めた意志と共にあのナイフを握る。秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)な“声”と天真爛漫な男が世界を旅する短編物語。最終章、そして完結。原作:時雨沢恵一様・著作『キノの旅 ―the Beautiful World―』




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???
第一話:にげたとこ


 薄い雲がたなびき、白い息が出る頃、首飾りのフーを提げた旅人のダメ男が歩いていた。

 そこは淡い緑の大平原の中で、細い丸太で組まれた柵とその手前にある木の看板が見えてきている。柵は左右に広がっていて、地平線彼方まで設置されていた。

 早速、ダメ男とフーは木の看板を調べた。

「何て書いてあるか分かる?」

「“この先に進むのを禁ずる”と書いてありますね」

「多分ここがそうだろうな」

 興奮気味に周りを見回している。

「大枚はたいて商人から情報を買い取ったかいがありましたね」

「そうだな。何しろ、多くの旅人が探し回っても見つけられない“幻の国”だ。どういう国でどんな人がいるのかすら分からない。……楽しみだ……!」

 少し息を荒げて話す。

「そんなに楽しそうなのも久しいですね」

「思ってた以上に楽しみにしてたみたいっ」

 あどけない笑み。フーも笑みを零した。

「行こう」

「はい」

 

 

 物柔らかく太陽が輝き、陽だまりでぽかぽかする頃、灰色のハムスターのクーロを連れた旅人のハイルが歩いていた。

 そこは紅葉の森の中で、金属柱のワイヤーロープの柵とその手前にある鉄板の看板が見えてきている。柵は左右に広がっていて、森の中へ伸びていた。

 早速、ハイルとクーロは木の看板を調べた。

「“この先は立入禁止”って書いてあるみたいだね」

〔ではここが例の場所でしょうか?〕

「そうなんだろうね」

 素っ気なく見回している。

「旅人が探そうとしても見つけられない“幻の国”だったっけ」

〔同胞の話によると、そのようでありますな〕

 少し息をついて話す。

「あの子たちがどうしてもって言うから……早く先に行きたいのに……」

〔と、とにかく行くだけなら損はしませんからっ〕

 満更でもない呆れ笑い。クーロは安堵を零した。

「仕方ないなぁ。じゃあ行こっか」

〔はいっ〕

 

 

 燦々と照り付け、汗ばんでくる頃、お団子ヘアのナナと優男のディンが仲良く歩いていた。

 そこは海沿いの獣道で、石柱の金属線の柵とその手前にあるプラスチックの看板が見えてきている。柵は左右に広がっていて、海と草原の陸地を跨ぐように伸びていた。

 早速、ナナがディンに看板を調べさせた。

「姐さん、“侵入厳禁”みたい、」

「ナナおねえちゃん!」

「……ナナお姉ちゃん、とりあえずそうみたいですよ」

 じっと海の方を見ている。

「このみちのさきにあるの?」

「そうですが、無理に行く必要もないんですよ? どうせ見つけられない国ですし」

 ぎゅっとディンの袖を掴む。もぞもぞとして指をつかむ。

「おこられちゃうかな……」

「大丈夫ですよ」

 満面の笑み。ナナの手を握り返した。

「ちゃんと“お願い”すれば怒られないですから」

「そっか! たのしみにしてるねっ」

 

 

「……」

 ダメ男は絶句していた。

「あ、あれ……?」

 柵の中には……何もなかった。

 広大な緑の絨毯がそよ風でさらさら流れている心地良い空間だけだった。

「だ、ダメ男……?」

「確かにここって言ってたよな?」

「そうですね。今度の情報は信憑性が高いはずです。一国の女王が抱える一流の情報屋からのものですし、自信満々でしたし」

「騙された……?」

「き、気を取り直してください。まだ探せばあるはず、」

「でももう二日も歩き回ってるんだよ……? さすがにもう望み薄いよ……」

「……」

 フーでさえもかける言葉が見つけられなかった。

 まるで放浪するように探し彷徨うと、一人の男を見つけた。四十代前半の筋肉質の男だった。

「助けてくれ……」

「!」

 男は肩で息をして、泣いていた。とりあえず気持ちを落ち着かせる。しかし激情に駆られて、さらに涙を落としていた。

 逸る気を抑えて、ダメ男は軽く自己紹介した。

「一体何があったんだ?」

「俺は……“幻の国”の住民なんだ!」

「え、えぇっ? でもその国はここにないけど……」

「逃げてきたんだ! 遠い所から! でも国は滅ぼされてしまった! 助けてほしい! 助けてくれ!」

 男は目を見開いて、切羽詰まってダメ男に迫る。まるで何かに取り憑かれているようだった。

「ダメ男、危険です」

「……」

 男の両手をそっと寄せて、優しく握った。

「どうしたらいい?」

「復讐だ! そのために、お前の荷物を全て寄越せ!」

「!」

 すぐさまに男を蹴り飛ばし、手投げナイフを投げ飛ばした。素手で簡単に払われて大した痛手にならず、受け身を取ってすぐに立ち上がってくる。

「あの男はもうダメです。気が狂っています」

 だらだらと涎を垂らし、ダメ男を睨みつけている。

「そっか……」

 悲しそうに見つめるダメ男。

 男は走ってくる、

「ごめん」

 ことはなかった。

 最初の一歩で崩れ落ち、そのまま動かなくなった。

「今回は劇毒ですか」

「……幻はこの人の妄言だったのかな」

 寂しそうにその場を立ち去った。

 

 

「……」

 ハイルは見つめていた。

〔は、ハイル嬢……〕

 柵の中には……なかった。

 紅葉の森ではらはらと落葉して、ほんのりと温かい空間だけだった。しかし、

「あ……ああ……」

 ぽつんと残された切り株に老人が座っていた。そっぽ向いて、呆然と葉が舞い落ちるのを眺めている。

〔近付くのは危険かと〕

 ふるふると顔を横に振る。

 ハイルはゆったりとした足取りで近寄った。

「こんにちは。こんなところで何をしてるの?」

「……」

 老人は横目でハイルを見た。その眼に力はない。

「……逃げてきたところじゃよ、お嬢ちゃん」

「!」

 両太腿に銀銃が収まったホルスターが付けられている。一回触れるが、そっと離れた。

「誰かに追われてるの?」

「今はもう追われているのか分からん。だからここまで逃げたのじゃ。……ま、まだやつが、」

 老人の震える声を、

「無理に話さなくていいよ。それよりも休んだ方が良いね」

 ふんわりと遮る。

 老人がずりずりとハイルと相対した。

「お主も“幻の国”を求めてきたのだろう?」

「ぼくじゃないんだけどね。この子たちが……」

 肩に乗っているクーロを撫でる。背後から小動物たちが姿を出した。

 老人は虚ろな表情で薄い笑みを浮かべる。

「そうか。……国はもう滅んでいる。俗な風説も消えていくじゃろうて……」

 ゆっくり息をついて、頷いた。

「ありがとう、おじいちゃん」

 ハイルは布袋を取り出して、そっと差し出す。やけに重みがあった。

〔ハイル嬢、それは大切な路銀では……〕

「いいんだ」

 こそっと呟く。

「ぼくはもう行くね。……お元気で……」

 老人は目を丸くして、ハイルの後ろ姿を見送った。

 

 

「どういうことです?」

 ディンは困惑していた。

 目の前には四十代前半と二十代前半の女の二人がいる。門番というには些か身軽く、簡素な衣服と槍くらいしかない。そのせいか体型が強調されて、艶かしく見えてしまう。

 その奥には村が広がっていた。クリーム色の六角形のテントでいくつも立てられている。傍には物干し竿や家畜、住民らしき人々など、生活空間ができていた。

「だから、入国は認められない」

「一体なぜ?」

「我が国は外部の人間や国と極力交流を避けているのだ。立ち去られよ」

「外の人は賊や悪人ばっかりだ。なら受け入れる必要はないよね?」

「全員が全員そうじゃないですよ。私たちは別に危害を加えたりしませんし」

「はっ、どうだか」

「信用できないね」

 三人が言い争いになっている脇で、ナナはしかめっ面でむすっとしている。じろじろと門番の方を見ては、自分を見て、ディンを見ていた。

 ぽそっと言葉が放たれて、

「どうして“まぼろしのくに”っていわれてるの?」

 三人が言い止めた。ナナに注目が集まり、

「や」

 ディンの陰に隠れた。

 ごほん、と四十代前半の女が話す。

「外部の人間はこちらの好意を盾にして、宿泊や物々交換なんかを強要したり、拒否すれば悪評を垂れ流したりする。我が物顔でな」

「それでも強硬手段で入ろうとする輩もいるんだよ。この国は自衛手段も少なくてさ。だからそういう奴らから逃げるようにしたんだよね」

「……」

 唖然と聞いているディン。ナナはまだじろじろ見ていた。

「それで物好きな連中がここを滅多に見られない国だからといって、“幻の国”なんて広めたのだ」

「ひどいもんだよ。自分らでそういう風に仕立て上げたくせにさ」

「そうでしたか。そんなじじょ、……! ナナさんっ?」

 ぐいっとディンを引っ張り下げるナナ。門番二人を真っ直ぐ見た。

「ナナたち、もうごはんとかみずとかすくないの。ここにおせわにならないと……しぬかもしれない……。だからおねがいします。にゅうこくさせてください」

 目一杯頭を下げた。

「な、ナナ……さん……」

 我が目を疑った。

 しかし、

「痛い目を見ないと分からないようだな」

 突き返された。

「ナナさん、危ない!」

 今度はディンが引っ張った。突然の槍の突きに、

「ぐぅっ」

 右腕と肩に突き刺さった。

「でぃ、でぃん!」

 深くはなかったものの、二ヶ所から赤く溢れていた。

「貴様らの事など知らん! 風穴を空けられたくなければ今すぐ立ち去れ!」

「殺しちゃうよ!」

 脂汗を流しているディン。応急的に止血をしていた。

 オロオロしつつも、そっと止血を手伝うナナ。

「ち、が……ディン、だい、丈夫……?」

「これくらいは、……っ、大丈夫……」

 ニコリと笑うが、歯を食いしばっているのが分かる。

「そう……そうか……」

 抜身が見えないほどの速さと炸裂音だった。

 片っぽの頭が爆発したように四散してなくなっていた。残りの部分は何事もなく倒れて、赤く吹き出しながら動かなくなっていった。

「“お願い”しても無駄だったようだな」

 凍てつくような言葉と一緒に、

「き、貴様あああっ!」

 炸裂音がまた放たれた。

 今度は身体が真っ二つに散っていった。赤く撒き散らしながら中身を曝け出していく。

「なっナナさん……」

 別の我が目を疑った。

 死体になっていく生者は口からごぼごぼ吐き出している。

「き、……さま……」

「ナナのディンを傷つけなければ、大人しく諦めていたものを……」

 右手にあるソウドオフ・ショットガンから煙が立ち上っていた。それを喉元に突き立てる。

「今すぐに逃してやろう。二度と戻って来れないようにな」

 

 



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