その日、私は見てしまった。
大井さんと付き合っているはずの提督が、北上さんと、体を重ねているのを…。
「大井っち。提督とはどう?」
「私と北上さん程じゃないかな」
「もう、大井っちったら」
仲良くしている二人。
それでも、北上さんは、大井さんの気持ちを裏切っている。
どうして、あそこまで平然を保っていられるのだろう。
「大井、少しいいか?」
「提督。じゃあまたね、北上さん」
「うん。頑張ってきなさいな」
去る大井さんを見守る北上さんの目は、いつもより、深い色をしているように見えた。
言った方がいいのだろうか。
私が、見ていた事を…。
「お、阿武隈じゃん。こんなところでどうしたのさ?」
「え…あ…いや…」
「へんなヤツ」
そう言って、北上さんは去っていった。
言えない。
言ってしまったら、何かが壊れてしまう。
今の所は、大井さんも、北上さんも、提督も、上手くやっている。
このまま、何も言わない方が、幸せなのかもしれない。
寒い夜だった。
トイレから戻る途中、厨房から光が漏れているのに気が付いた。
覗くと、そこには大井さんがいた。
「大井さん、こんな時間にどうしたんですか?」
「あら、驚いたわ。阿武隈、貴女こそこんな時間にどうしたの?」
「私はおトイレに…。大井さんは?」
「私は、仕込よ」
「仕込み?」
「提督の朝ごはんのね。この料理は、結構煮込むのに時間がかかるから」
「こんな時間から!?でも…そんなに手の込んだ料理をどうして?」
「あの人が、この料理が好きだって言うのよ。いつも頑張っているようだし、私もあの人の為に、出来る事をしてあげたいってね」
本物だ。
大井さんは、本当に提督を愛しているんだ。
そんな気持ちを…提督は…北上さんは…!
「もう寝なさい。明日も早いんでしょう?」
「大井さん…」
「なあに?」
私は、見た事を全て話した。
私が話している間、大井さんは、恐ろしいほど冷静に、鍋から目を離さず、まるで興味のない話を聞いているような態度をとった。
「そう…。見てしまったのね」
「大井さん…まさか…知っていたんですか!?」
「えぇ」
「じゃあ…どうして北上さんに…提督に問いたださないのですか!?」
「阿武隈。どうして北上さんと提督は、私に内緒で行為に及んでるんだと思う?」
「そんなこと…分かりません…」
「北上さんはね、協力しているの。提督にね」
「協力…?」
「私、見ちゃったのよ。提督が、北上さんに行為を迫っているところ」
「え…」
「提督はね、私の事、良く知っているのよ?嫉妬しやすいこととか、色んな事」
「…」
「提督は私からの愛が足りなくて、もっと愛されたいから、私を嫉妬させようとしているの」
「嫉妬…」
「だからね、わざと私にばれるように、行為に及んでいるらしいの。そうすれば、私が嫉妬して、提督をもっと愛すって、信じているようよ」
「で、でも…どうして…その…北上さん何ですか…?」
「相手が北上さんなら、私は手出しできないと分かっているからでしょうね。本当、提督は私の事、何でも知ってるんだわ」
「そんな事言っても、北上さんと提督は…あんな事…してるんですよ!?どうして…許せるんですか…!?」
「だって、それだけ私を愛してくれてるって事でしょう?」
「え…?」
「提督がそこまでして、私に愛してほしいって事でしょう?北上さんと行為をすればするほど、私は愛されるのよ」
「…おかしいですよ。そんなの…おかしい…!」
「おかしくないわ。提督が誰と寝ようが、私の為なのですもの。私は幸せだわ」
そんな大井さんの手首には、何回も斬ったのであろう傷跡が見えた。
「あ、これ?恥ずかしいわ。これはね?提督と北上さんが行為するたびに、傷つけているの。私のせいで、北上さんが苦しむ。だから、私は私に罰を与えているの」
私は怖くなって、厨房を飛び出した。
部屋に入って、すぐに鍵を閉めた。
お腹がグルグル鳴って、そのまま嘔吐した。
「あんなの…おかしい…狂ってる…」
嘔吐した汚物が、淡白な電灯に照らされ、キラリと光った。
「話ってなに?阿武隈」
私は、誰もいない所に北上さんを呼び出した。
「北上さん…私…北上さんと提督が…その…」
「…ああ、その事か」
北上さんも、やはり大井さんと同じように、つまらなそうな顔をした。
「で?大井っちにその事をばらすという脅し?」
「大井さんは…知っていましたよ…」
「だろうね。だって、わざとだもん」
「提督が…大井さんを嫉妬させるため…ですよね…」
「え?」
「大井さんは…知っていましたよ…」
「あー…そうだったのか…」
私は、大井さんに話した事を全て、北上さんに話した。
「ふーん…」
「どうして北上さんは…それを受け入れるんですか…!?何か…弱みでも握られているんですか…?大井さんは…北上さんが提督と体を重ねるたびに…手首を…」
「弱みなんかないよ」
「じゃあ…どうして…」
「だって、私も提督が好きなんだもん」
「え…」
「提督は大井っちを嫉妬させたいようだけど、私はさ、大井っちから提督を奪いたくてやってるんだよね」
しれっとしたものだ。
こういう時の北上さんは、やはり、北上さんらしいのだけれど、私はどうも、不気味だった。
「奪うって…」
「提督は、大井っちにばれるように、私がわざと声を大きくして喘いでいるように聞こえるかも知れないけれど、私はそうじゃない。大井っちに見せつけるためにやってるの」
そう言うと、小さく笑った。
狂ってる…。
大井さんも、北上さんも、提督も、全て、狂ってる。
「大井っちの傷を見るたびに、私が提督に愛されるのを感じる。後何本、傷がついたら、私は提督に愛されるのかなって。私からしたら、あれはカウントダウンみたいなものなんだ」
雲が太陽を覆った。
影の中の北上さんは、いつもの表情のはずなのに、道化のように、常に貼り付いた、作られた顔のような気がして、恐ろしくなった。
「そう言うことだから。大井っちに言ってもいいよ。どうせ、私に手出しは出来ないんだから」
そう言って、去って行った。
私はしばらく、そこから動く事が出来なかった。
全てが狂っている。
この鎮守府、この世界。
私の見ていた世界は、道化の創った愉快な世界で、私はそこで踊らされていただけなのだ。
「阿武隈」
提督が私の肩を叩いた。
「調子はどうだ?」
この人が、全ての元凶だ。
この人さえいなければ、私の世界は、愉快なままであれたのに。
「そうだ、執務室に来てくれないか?手伝って欲しい事があるのだ」
「分かりました…」
執務室に着くと、提督は私を抱きしめた。
「聞いてくれ阿武隈…。実はな…」
そうして、北上さんに言ったように、私にも行為を迫ってきた。
「どうしても大井からの愛が欲しいのだ。お前なら、バレても、大井は手を出せないはずだ…」
「北上さんにも…同じ事を言っていましたよね…?」
「…なんだ、知っているのか。あいつは違う。あいつは、私を本気で好きなようだ」
え…?
提督は、知っているの…?
「私は大井を嫉妬させたい。そして、北上は私と寝たい。誰も損をしていない」
…そうか。
そういうことだったのか。
提督は、この人は、誰も愛してなんかいないんだ。
北上さんの気持ちを知っていながら、こんなことが出来るんだもの。
男としての欲望を叶えるために、大井さんを、北上さんを利用しているのだ。
そして、私も。
「道化…」
「何か言ったか?」
「いえ…いいですよ。そういう事ならば…」
私の知っている、愉快な世界は、もう、ない。
この世界は狂っている。
この世界は狂っている。
「大井っち、食堂行こうよ」
「はい。提督も一緒に行きましょう?」
「おう、先に行っててくれ」
「はーい」
「早く来てくださいね」
この世界は狂っている。
「…阿武隈」
「はい…」
「今夜も頼む」
この世界は狂っている。
道化達の踊る世界。
道化を騙す、道化の世界。
「じゃあ、今夜…」
「分かりました…」
私は、そこで踊る道化。
元の世界に戻りたい、悲しい道化。
「提督」
「ん?なんだ?阿武く…」
あふれ出る赤いジャム。
甘い甘い、甘い道化の、赤いジャム。
「か…はっ…阿武…隈…」
「提督、食堂開いてなか…」
「きゃああああああ!」
この世界は狂っている。
私は、元の世界に帰りたい、悲しい道化。
「阿武隈!?どうして…!」
「提督…!提督…!大丈夫ですか…!?」
甘い甘い、甘い道化の、赤いジャム。
私は、元の世界に帰りたい、悲しい道化。
この世界は狂っている。
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