詩羽無双 (黒猫withかずさ派)
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詩羽無双~彼女の告白と彼氏の理想
「先輩」
「…………」
こっくんこっくんと俺の右肩に重みがかかり、さらさらりんと目の前を黒髪が流れ……。
「詩羽先輩」
「……んぅ?」
さっきから俺にもたれかかって爆睡している彼女に、何時間ぶりに声をかける。
「いい加減おきてよ……」
「ん~……そっか、もう着いたの?」
「……いや、まだ和合市」
「……んぅ?」
けれどそこは電車の中ではなく、電車の駅のホーム。それも帰り着いた先ではなく、始発駅……。
「えっと、電車を待ってる間に二人して寝こけてたみたい」
「……ふぅん」
「で、さらに悪い事に終電出ちゃってるみたい」
「……へぇぇ」
……の、午前0時半。実は俺が起きたのもついさっきだったり。
「どうしよう先輩?」
「そうね、じゃあ、始発まで時間潰しましょうか……水族館行く?」
「いかないから!」
詩羽先輩は体をピクリと震わせ、両腕で自分の体を抱きしめる。9月中旬の生温かい風が吹き抜けていったせいではない。静寂が広がる駅構内に響く俺の声に驚いていたせいであった。
「倫理君?」
「そんな冗談言わないでくださいよ。昼間っからラブホに連れて行かれたのは冗談で済みますよ。いつもの毒舌の延長線上だって俺だって思う事ができますよ。でも、今は違うじゃないですか」
俺はやめない。俺は止まれなかった。強気の彼女から毒気は霞んでいき、俺の意味不明の怒りは彼女の体を震わせてしまう。
「今は深夜なんですよ。しかも終電ないんですよ。そりゃあラブコメ展開ならホテルっていう選択肢もあります。ファミレスで朝まで時間をつぶしましたっていうお決まりのパターンだって、そりゃあありますよ。でも、俺の目の前にいる人は霞ヶ丘詩羽なんですよ。俺の情熱を全て注いでいる霞詩子であって、俺の憧れにの詩羽先輩なんです」
「倫理、くん?」
「だから冗談であっても、いつもの我儘であっても、そんな悲しい嘘を言わないでくださいっ」
言ってしまった。しかも自意識過剰の場の雰囲気さえも無視した馬鹿正直なお説教をご高説してしまった。普通の女の子だったら絶対ひく。普通じゃないオタク女子だったら2次元に帰れって言われさえする、と思う。
そんな先輩の冗談を本気で答えるだなんて俺、どうかしてるだろ。
「ごめんなさい……」
「…………え?」
「だから、その、ごめんなさいって言ってるのよ」
「いや、その、それは聞こえてます」
「じゃあ聞き返さないでよ」
「ごめん。でも……」
「さすがは倫理君っていうお答えだったわね」
「そういうわけじゃあないと思うんですけどね」
「そう? 冗談では言ってほしくなかったのよね?」
「ええ、まあ」
「だったら、そうね。一緒にホテル行きましょう。そして私をあなたの女にして」
えっと……。ごめん。これってどこのラブコメ展開だよっ!
思考が停止しかかった俺は、どうにか二次元的発想に逃げ込むことで自我を維持した。
「本気?」
「本気よ。だって倫理君。冗談で言ってほしくはなかったのでしょう?」
「そうだけど」
「でもそれって……」
「でもも冗談もなにもないわ。ストレートにセックスしてって言ってるのよ」
「言わないでください。いくら毒舌で下ネタオンパレードの先輩でも、そんなストレートに提案してこないでくださいっ」
「だって、それは倫理君が冗談が嫌だって言ったからじゃない」
「そうかもしれないですけど、ちょっとどころかだいぶ論点がずれている気がしますけど、今は違いますって言わせてくださいっ」
またしても俺の真面目すぎる反応に先輩のご機嫌は急降下中。寒そうに身を震わせていたその体は、今や熱気で陽炎が立ち上っている……わけはなく、俺の幻覚フィルターが黒い熱気を知覚した。
「だったらどういえばいいのよ?」
「それは、そのですね。ちょっと待っててください。今考えますから」
「じゃあ倫理君が考えている間に参考意見をあげていくわね」
思考の海に身を浸そうとした瞬間、詩羽先輩は容赦なく熱湯を注ぎこんでくる。いつもの毒舌プラスなんだか意味不明の苛立ちが通常比2倍の威力で俺を襲ってきた。
「そうね、あなたの事だからファミレスで時間をつぶそうとか言ってくるのよね」
「それさっき俺が言いました。……いいえ、なんでもありません」
さらにつり上がる眉に俺の声はしぼんでいく。一方で先輩の苛立ちは破裂しそうだけど……。
「だったらタクシーで帰ろうとか言うのよね。あとで編集部に請求するとかいんでしょ? 新人作家が終電逃した程度ではお金出してくれないわよ。それこそ徹夜で執筆して時間をつぶせって言ってくるわね」
「それはご愁傷さまで……、いえ、なんでもございません」
「でも倫理君は倫理君だものね。そういう判断を下すのも倫理君だからこそだもの。でもね倫理君。女の私が馬鹿正直に愛の告白をしているというのに、その返事はないと思うのだけど」
「すみません……、ってセックス本気だったんですか?」
「本気に決まってるじゃない。私の処女をあげるっていってるのに、どこかの馬鹿がいらないって言ってきたけど」
「違いますって。詩羽先輩の事だから、いつものように俺の事をからかってるんだと思って」
「そう? だったらもう一度言うわね」
いったん全ての怒りを俺に放出した先輩は眉を肩を下ろし、背筋をぴんと伸ばして俺と向き合った。
「安芸倫也君。あなたのことが好きです。だからホテルに行きましょう」
「…………」
「これでも、だめなのかしら?」
ぴんと張り詰めた気迫はここまでで、詩羽先輩は今度こそ心底心細そうに身を震わせる。
「ねえ倫理君。私もまじめにいったのだから、倫理君も真面目に答えちょうだい」
「…………」
「倫理君?」
「あっ、はい。すみません。予想を大きく超える出来事に頭がフリーズしてまして」
「それで答えは?」
「ごめんなさい。俺は詩羽先輩のご要望には応えられません」
「そう……。悪いけどタクシーで帰ってくれないかしら。駅前にはまだタクシーがいるはずだから。そうね、編集部あての領収書を貰っておいてくれれば大丈夫なはずよ」
「詩羽先輩?」
「ごめんなさい。ほんとうに悪いのだけど、一人にしておいてくれないかしら」
「あの、先輩? どうして晴れて恋人同士になったというのに、真夜中に彼女一人を残して帰らないといけないのですか?」
「は、い?」
俺の顔を覗き込むその美しい顔は涙で歪んでいた。でも、その端正な顔に流れ落ちる涙と涙声さえも可愛いと思ってしまうのは、男としてどんなものかと疑問を抱いてしまう。けっしてサドっけがあるわけではないはずなのに、こうも愛おしく思えてしまうのは、きっと俺が好きな詩羽先輩だからなのだろう。
「だから詩羽先輩が俺に告白してくれたじゃないですか。ギャルげーでいえば一番のイベントですよ。ルート確定後の最大の山場で、このままエンディング一直線じゃないですか。それなのにどうして悲しそうに泣いて、いや、別れ話のような展開になってるんですか? これじゃあバッドエンド一直線ですよ」
「……倫理君」
「はい」
「まずはその間抜けっ面を正しなさい」
「はい」
「背筋も伸ばすっ」
「はいっ」
「ではこれから質問をしていきます」
「わかりました」
「まず、倫理君は私の彼氏になってくれるのよね?」
「はい、光栄にも」
「だとすれば、私霞ヶ丘詩羽は安芸倫也と恋人になるわけよね?」
「はい、そうですね」
「わかったわ」
「ええ、ありがとうございます」
「じゃあ、昼の水族館ホテルに行きましょう」
笑顔でそう核爆弾を投下し俺の手を引っ張る詩羽先輩は、のりのりで改札口に向かおうとする。
「ちょっと待ってください。どうしてそうなるんですか? 告白イベントですよ。最重要イベントですよ」
「そうね」
「だからどうしてその告白イベントのあとにラブホテルなんていかないといけないんですかっ?」
「それは、男と女だから? 太古の昔よりセックスをして人は子供を作ってきたわけじゃない。いくらオブラードに包んだ表現をしようと、セックスはセックスじゃない。涼しい顔をしているヒロインも、夜は主人公の攻めに喜んでいるのよ?」
「やめてください。全年齢版なんですよ。そういうのはやめてください」
「わかったわよ。じゃあ、さっき倫理君が私の告白を拒否して、泣かして、地獄の底にまで叩き落として、鬼畜で、サディストで、もし他の女に走ったらその女を刺殺してやりたいと思わせたのは、ホテルに行くのはまだ早いということのみを拒絶してというわけね?」
「えっと、色々と怖い発言のオンパレードでしたけど、おおむね最後のほうの言葉が俺の心情と一致します」
「でも、倫理君も性欲はあるのよね?」
「そりゃあありますけど、でも初めての場所がラブホって味気ないじゃないですか」
「いかにも童貞臭が漂ってくる意見ね」
「悪いですか?」
「悪くはないわよ。私も冷静に考えてみれば、隣の部屋から聞きたくもない男女の卑猥な声なんて聞きながら処女を捧げたくはないもの」
なんか今、さらっと最重要発言をしたような気がしたけど、詩羽先輩もさらっと流しているようだし、触れない方がいいのか、な?
「ちょっと倫理君」
「はい?」
「今の発言はくいつくところでしょ。処女を告白したのよ。中二脳全開で、女に現実ではありもしない理想を押し付けてくる処女厨の倫理君だったらよだれをたらしながらくいついてくるところでしょ」
「なんだかひどい言われようだった気がしましたけど、処女に反応したら先輩が照れるかなと思いまして、あえてスルーしておいただけですよ」
「じゃあ、うれしい? おもいっきり叫びたいほど嬉しい?」
「叫びはしませんけど、嬉しいと思います」
「思います?」
ピクリと反応した眉に俺は全力の謝罪を込めて訂正に走る。
「嬉しいです。すっごくうれしいです。叫びはしませんけど嬉しいです」
「ならよろしい。では、ラブホじゃなけれなOKってことね」
「え?」
今度こそ俺の返事を聞く事もなく詩羽先輩は俺の手を引っ張り改札口へと向かって行った。その手が、その腕が、震えているような気がして、俺はこれ以上の言葉は全て飲み込むことにした。
俺がタクシーで連行された場所は、自宅を通過し、日本最大の利用者数を誇る某駅近くのKOブラウザホテルのスイートルームであった。いきなりの飛び込みではあったが、運よく?部屋を確保する事が出来た。
ちらりとのぞき見た部屋の金額は一泊十万を越え、これだったら真っ直ぐ家に帰っても……とは言わないでおいた。
「さあ倫理君。いえ倫也君? 倫也さん? やっぱ倫理君かな。最高のシチュエーションを整えたわ。これで朝まで私といっしょに盛り上がって、私を泣かせてちょうだい」
「いや、待ってください。いや、待って、お願い。襲いかからないでくださいって」
「だって、感情が抑えきれなくて」
「それでもです。お願いですから」
「もういいじゃない。最高の部屋を用意したじゃない。もうこれで心おきなく「やれる」わよ」
「もう、いや……。ほら、夜景とか見ませんか?」
俺は詩羽先輩の拘束をやんわりほどいて逃げようと……、夜景を見ようと窓際に歩み寄ろうとした。が、詩羽先輩の拘束は頑丈であった。
「さ、倫理君。今夜はちゃちな倫理観なんて忘れてしまいましょう……」
「いや、それ男の台詞だよ? ね、先輩……」
朝日が眩しい。もう、朝だってことは理解できる。甘ったるい部屋の空気は悪くはない。むしろ肺いっぱいに吸い込んで保存しておきたいほどだ。
もぞもぞと動く隣の物体が俺の体に絡みつく。甘ったる空気の根源たる詩羽先輩は、昨夜たくさん俺にこすりつけてきたのに、いまだに飽きもせず俺に臭いを染み込ませていく。
「これは朝チュンってやつかしらね?」
「どうでしょうかね? ホテルの上層階ですし、さすがにスズメはいないと思いますよ」
「そう現実的な返事をしてこられると意地悪したくなるのだけど」
もうしてるじゃないですかっとは言わない。言えない。だって、緊張しまくった昨夜の心地よい疲労はまだ回復してはいないのだ。これで朝からだなんてことになったら……そりゃ俺も男だし嬉しいけど。
「すみません」
「そんな酷い事を言う倫理君には、ここのホテル代の半分、いえ理想の初夜を演出したい倫理君のことだから全額支払って下さるのでしょうね?」
「そ、それは……」
昨夜見たホテル代を一部が俺の頭をよぎる。あれが部屋の使用料であって、このあとルームサービスで朝食とったりしたりしたらいくらかかるんだ? そもそもホテルなんて高校生の俺が使う機会なんて少ないわけで、しかもこんな一流ホテルのスイートルームの使い方なんてしるよしもない。
だから俺は顔を青ざめて返事を返すのがやっとであった。
「いいわ。今回は貸しにしおくわ。今度何らかの形で返してくれれればいいわ」
「そうして頂けると助かります。いつか必ず返します」
「でも、そうね……」
また何か悪巧みですか? じぃっと俺の顔を見つめるその瞳は俺だけの物になり、その感動は言葉にはできない。ただ、ゆっくりとその感動を噛み締める時間がないのがちょっとものたりないというか、リアルを実感できないでいた。
「やっぱりこうしましょう」
「どうするんです?」
「倫理君」
「はい」
「結婚しましょう」
「はい?」
「だから結婚」
「はい?」
「だって私は今年で高校卒業じゃない。そうなると来年からは今までみたいに気軽に会う事が出来なくなるじゃない」
「だからといっていきなり結婚はないかと」
「でも、私が安心して大学に行けないじゃない。いつ倫理君がハーレム思考に目覚めて浮気に走るかわかったものじゃないわ」
「いや、それないから。俺は詩羽先輩一筋だから」
「最初のうちは男はそういうのよ。でも、いくら素晴らしい肉欲がはじける私の体であっても、つまみ食いがしたくなるのよ。貧弱な胸とお尻。幼児体型の幼馴染みなんてものを食べてみたくなるものなのよ。たしかに毎日極上のステーキでは、たまにはお茶づけも食べたくなる気持ちもわからなくはないわ」
「いや、その例え話具体的すぎるから。でも、その心配はいらないですよ」
「どういうことかしら。ちゃんと私が納得できる説明をしてほしいわね」
「俺の方こそ心配ですよ。俺の目が届かないところに詩羽先輩がいってしまいそうで怖いです」
「そうかしら? あなたこそ私の事を忘れてオタク活動に励んでいそうな気もするのだけど」
「それはいいじゃないですか。俺はオタクなんですから」
「それもそうね。でも、オタクだからといって浮気しない保証にはならないわ」
なおも詰め寄る先輩に俺はまっすぐと視線を返す。俺に擦りつけてくる柔肌も、鼻をくすぐってくる甘い香りも、幾重にも張り巡らされる甘い誘惑を払いのけ、俺は詩羽先輩に向き合った。
「俺が詩羽先輩に惚れているじゃダメですか? 霞詩子に心酔しているように、俺は霞ヶ丘詩羽に恋してるんです。これじゃだめですか?」
「それをいってしまうのね。ずるいわ」
「俺の本心ですから」
「そう、わかったわ。でも保険だけはかけさせてもらうわね」
「ええ、保険程度なら」
俺は気がつかなかった。怪しく光るその黒い瞳の奥にうごめく策略に、俺の今後の高校生活を波乱に叩き落とされるなど思いもしなかった。まあ、ある意味リア充爆発しろってことなんだろうけど。
「さっき言ってたホテル代の借り、早速だけど返してもらおうかしら」
「はい?」
なんだか理解できないのはどうしてだろうか? 詩羽先輩は日本語使ってるはずなのに。
「結婚はまだ早くても婚約はできるわよね? だからホテル代クラスでいいから婚約指輪をこのあと買いに行きましょう」
「ちょっと待ってくださいって。いや、待って、お願いだからストップして~」
「なによ、まだなにかあるの?」
「だから人生の重要イベントをすっとばそうとしないでくださいよ。先輩は俺にプロポーズされたくないんですか?」
「それは、……プロポーズされたいわね」
小さくうずくまるその体を俺はぽんっと手で撫でる。さらっさらな黒髪が俺の手をくすぐり、愛おしさが沸き出てくる。
「一歩ずつ進んでいきましょう。歴史に残るような名作ギャルゲーも徹夜してクリアーしたいですよ。でも、俺と詩羽先輩の歴史はしっかりとかみしめて進めていきたいんですよ。大切な人生をスキップするんなんてもったいないじゃないですか」
「たまにはいいこと言うのね、普段はどうしようもない事ばかり言うくせに、生意気ね」
「そりゃどうも」
「でも、でも……」
「なんですか?」
「ペアリングだけはしようね。ホテル代の十分の一でいいから」
この極上の笑みにどうやって逆らえっていうんだ。しかも涙目で、ちょっと押しさえしたら涙しそうな不安定さを演出までもして。これが素の霞ヶ丘詩羽であり、俺だけに見せてくれる詩羽先輩なんだろうけど、この敗北感やみつきになりそうで、怖いかも。
「わかりましたよ。それで詩羽先輩が満足して頂けるのでしたら」
「倫理君も高校に指輪していくのよ」
「わかってますよ」
まあ、オタクでしられている俺が指輪をしていこうが、なんらかのオタクグッズだとおもわれるのが関の山だな。たとえ先輩が指輪をしていようが、それがペアリングだとわかるやつなんて近しい人間にかぎられるだろうし。
「なんだか安心してない?」
「え?」
「もちろん登下校は手をつないで登校するのよ? あっ、お昼のお弁当イベントと、「あ~ん」って食べさせあうのもしたいわね。なんだか新しいネタが浮かびそうで執筆活動もはかどりそうだわ」
「えっと……、そうですね」
この人類最強の笑顔と霞詩子の執筆を盾にされたら俺には何もできないって。つまりは、俺が読んで楽しんできたラブコメ展開を明日から身を持って実感することになるんだろう。
まあいいいか。この笑顔が手に入ったのならば、もはや怖いものなどないはずだ。
こうして俺はゆっくりと感動を噛み締める間もなく月曜日からリアルを突き付けられることになった。
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続・詩羽無双
時は深夜0時前。日付がもうすぐ変わる頃。隣の部屋の連中は温泉やら観光やら…………ええいっ、羨ましくなんかない。温泉旅行本来のまっとうすぎるイベントに疲れて布団の中でぐっすりと眠っているのだろう。一部のリア充共は今もお盛んな最中かもしれないが、それはそれだ。
かくいう俺達もはた目からは仲がいいカップルに見られているのかもしれない。
いや、カップルにさえ見えないで、お付きの下僕に見られてしまっていても致し方ないと思えなくもない。たしかに詩羽先輩を見て振り返らない男はいないし、つい数時間前もこれから自分たちの部屋にしけこもうとしているカップルの男が詩羽先輩に見惚れてしまい、楽しいはずの夜のイベントが修羅場へとすり替わってしまっている。
ま、この男性に関してはご愁傷さまと言うしかないんだけれど。
ただ、当の本人たる詩羽先輩は、自分に向けられてくる特定の視線以外には全く興味がなく、最初からなにもなかったかのように過ごしているのだから、やはり先ほどすれ違った男には再度ご愁傷さまといいたい。
そして今現在、詩羽先輩はただ唯一興味を持つ俺の視線を見て、形良い唇を緩ませて微笑んでいた。
「あの、詩羽先輩?」
「なにかしら倫理君。いいえ、今は不倫理君と言ったほうが正しいかしら? なにせこの温泉旅館の一室で、男の肉欲をたぎらせてしまう美女の前にいるんですもの」
「一部は認めますけど、詩羽先輩の発言のほとんどが見当違いですと言わせてください」
「でも……、一部は、認めるのよね?」
ニヤついた唇が妖艶な笑みへと変化していく事に俺の体が反応しないようぐっと握っていた拳にさらなる力を込めてやり過ごす。
ただ、その無駄な努力さえも詩羽先輩の糧になってしまうのだから、素直に負けを認めてしまえと、弱い心が囁いてくる。でも、一度屈してしまえばどこまでも甘えてしまい、さらに悪い事に、詩羽先輩も俺を過激なまでに甘やかしてしまうだろう。
それはまずい。理屈であっても、理屈じゃなくてもやばいってわかる。俺は詩羽先輩のヒモにはなりたくない。事実上のヒモであっても、対等な関係とはいかないまでも、もがき続ける努力をしなければ、俺は詩羽先輩の横に立つ自信を持てなくなってしまう。
「ここは温泉旅館ですし、詩羽先輩が美女だということは間違えようのない事実ですからね」
「あら? 私が美女だと倫理君は認めてくれるのね」
「はい。詩羽先輩は綺麗ですよ。それもとてつもなく」
「倫理君に真顔で言われると、裏になにかあるって疑ってしまいそうになってしまうのよね」
「別に裏なんてないですよ。それとも俺以外の男連中の意見が欲しいですか? なんならうちの学校のやつらの……」
「興味ないわ」
「ですよねぇ~」
「でも、本当に裏がないのかしら? それとも旅先で気が大きくなってしまったのかしら? 普段は言えない事でも、旅先で普段とは違う環境に身を置く事で興奮状態に? でも、いくら旅先の事であっても、地元に戻ってからなかったことにするなんて認めないわよ」
「それもないから安心してください」
「なら、そういう事にしておきましょうか。せっかく倫理君が美しすぎる私にかしずき、一生を捧げたいといっているのだし、ね」
「そこまではまだ言ってませんって。ほんと勝手に話をもらないでくださいよ」
「……そう、「まだ」なのね」
そう嬉しそうに小さく呟く詩羽先輩に、俺は聞こえないふりをして視線をそらした。
「それはそうと詩羽先輩」
ちょっと強引過ぎたか? でも、このままの流れは非常にまずいよな。せめて終わってからにしてくれないと。
「なにかしら? 話題を強引に変えようと必死な倫理君」
「わかっているんでしたら少しは協力してくださいよ」
「はいはい、わかったわ。で、なにかしら?」
「だからぁ、俺をからかっている時間があるのでしたら原稿のほうを進めてくださいよ。まじでやばいんですって。町田さんからも言われているように、明日の午後4時までに仕上げなければ穴があくんですって」
「わかっているわよ、そんなこと」
「わかっているんでしたらまじでやってくださいよぉ」
「編集の仕事は作家が気持ちよく執筆できる環境を提供することだと思うのだけれど?」
「そうですよねぇ、そうですよ。でも、バイト編集の俺が副編集長たる町田さんに土下座までしてこの温泉旅館で缶詰できるように頼んできたんじゃないですか。詩羽先輩が正月はどこにも行けずに家にいるはめになったから、こうして温泉に来たんじゃないですか」
「あら? 頑張って結果を出している私にご褒美を渡すのは当然の義務だと思うのだけれど?」
「だからこうして温泉旅館で缶詰できいるんじゃないですか。普通でしたら編集部提供の一室でひたすらノーパソに向かい合っていなければいけない状態なのに、町田さんのはからいで温泉旅館なんていう最高すぎる環境を用意してもらったんじゃないですかっ」
俺、間違ってないよな? うん、間違ってないはず。
でも、あら何変な事言っちゃってるの?って顔をされてしまうと、俺の方が間違っている気がしてしまうのは、きっと気のせいのはずなのに、はずなのに、どうしてこうも正しい事をしている俺に多大なプレッシャーをかけるんですかっ。
「最高の環境ならば、美味しい料理を食べたあとは、美味しい肉体を堪能するべきだと思うのだけれど?」
「だあぁっ。だ、か、ら、仕事、してください、お願いします。まじでやばいんですって」
「わかったわ」
「は? ……はい。はい、ありがとうございます」
拍子抜けもいいところで、あっさりと身を引いてくれる詩羽先輩に俺は単純すぎるほどにほっと胸をなでおろす。
一息つこうとコーヒーを口に含んだが、あまりにも勢いよく喋りすぎたせいか、乾燥している唇がぱっくりと割れてひりついてくる。
「ねえ倫理君」
「はい?」
顔をあげると、「今は」見たくないものが目の前に待ちうけている。
赤い唇を舌先で濡らしながら獲物を吟味している雌豹がいるんですけど、気のせいですよね?
「さきほどから乾いた唇をなめたりコーヒーの水分でまぎらわせたりしているのを見ていると、気になってしょうがないのだけれど」
「すみませんっ」
「リップクリーム、持っていないのかしら?」
「あいにく持ってきていないんですよ。家にはあるんですけど」
「今持っていなければしょうがないじゃない」
「急な旅行でしたので支度も慌ただしくて」
「私のせいだって言いたいのね。原稿を完成できず、缶詰をするはめになった私が、霞ヶ丘詩羽が、霞詩子が、悪いって言うのね。倫理君は」
「違いますって。忘れ物をしたのは俺のミスです」
「そう。……でも、このまま倫理君の唇を乾いたままにしておくのは私も困るから、このリップクリームを貸してあげるわ」
「ありがとうございます」
和テーブルの上に置かれていた小さなバッグの中から取り出したのは、この旅行中も何度かみた詩羽先輩が使っているリップクリームであった。
色つきのリップクリームでもないし、口紅も使っていないように思えるんだけど、どうしてこうもつやっつやで色彩豊かな唇をしているんだろう? いや、つやっつやなのはリップクリームの効能もあるか。いやでも、夏でも同じくらいつやっつやでひきこまれそうな唇しているんだよな。
まあ、あまり見過ぎてしまい、ニヤニヤしている詩羽先輩の視線に冷や汗を何度もかいていたんだけど。
「あっでも、そのリップクリームは詩羽先輩が使っていて」
「あら倫理君は、この淫乱女が使って唾液まみれになっているリップクリームは使いたくはないというのね。ええそうね。私が悪いのよね。ただ私は、倫理君の唇が心配で心配で、勇気を振り絞って提案しただけだというのに」
わざとらしく「よよよ」っと泣き崩れる真似をしないでくださいよ。しかも明らかに演技だとわかる演技だし。
「そ、そっこまで言っていませんから。むしろ俺が詩羽先輩のリップクリームを使っていいのか気になっただけですから。ほら、男の俺が簡単に借りられるようなものではないじゃないですか」
「そうかしら?」
「そうですって」
首を傾げ肩から流れ落ちる黒髪にどきりとしながらも、俺ははっきりと言いきった。
「でも、私は、たとえ貸す相手が女であってもリップクリームを貸そうとは思わないわよ。今回リップクリームを使ってもらいたいと思ったのは、それは倫理君だからよ。いくら同性であっても貸す事はないわ。そもそも私のものを使われるのは不愉快だわ」
「それは、光栄なこと、です」
「さ、ここにいらっしゃい」
「はい?」
間抜けな返事しかできない俺の前には、体一つ分だけ和テーブルから身を引いた詩羽先輩がここに頭をのっけろと柔らかそうな太ももを、ぽんっと叩いて手招く。
「せっかくだから私が塗ってあげるわ」
「いいですって。自分で塗れますから」
「あら、倫理君にしては大胆発言をしたものね」
「べつにリップクリームくらい自分で塗れますって」
「そうではなくて、私の唾液が付いたリップクリームをむしゃぶるように舐めまわそうとするなんて、倫理君も策士になったものね」
「だからぁ、そんなこと、一言も言っていませんから。そもそもその発言、最初は逆だったじゃないですか。俺が詩羽先輩のリップクリームを使うのが嫌だとか、そういう事を言ったのは詩羽先輩の方であって……、あぁもうっ。いいですよ、わかりました。俺が詩羽先輩の膝枕を素直に受け入れればいいんですね」
「たしかに最初から素直になる事が大事ね。でも倫理君。男のツンデレは見ていてもあまり気持ちのいいものではないわよ? たしかに、金髪ツインテール娘がツンデレをしても、はり倒して埋めてしまいたくなる気持ちは倫理君ではなくても抱いてしまうけれど」
「それ。詩羽先輩の気持ちであって、俺は関係ありませんよね?」
「まあいいわ。今は勝ち組正妻である私が至福の時を味わうとしましょう。雑念は最初からなかった。幼馴染みのお嬢様も、慣れ慣れすぎるイトコも、人懐っこい後輩も、頼りになる同級生も、最初からいなかった。そう、すべて脳内設定」
「やや友人関係を破壊しそうな思想が聞こえてきましたけど、それこそ最初からなかったことにしておきますね。さっさとリップクリームを塗ってくださいよ」
「そうね。いつまでもおあずけをしておくのも、倫理君に悪いものね」
「わかりましたから、あの……、その」
「あら、私の膝枕が気持ちよすぎて気が気じゃないのかしら? それとも私の胸を正当な理由で見あげられてご満悦かしらね?」
「わかりましたから。その通りですから、あの、いつまでも俺をいじめないでくださいって」
「わかったわよ。もう、せっかちね。…………きゅんっ。あの倫理君。あまり見つめないでくれないかしら。いくら純情すぎる私であっても、頬が火照ってしまうわ」
作家が使う日本語としてはどうかとは思うけど、詩羽先輩が言いたい事はわからない事もないな。かくいう俺も至近距離で詩羽先輩に見つめられていて、手が汗で湿ってしまってるよな。
あと、気持ちよすぎる多重攻撃の影響もあるんだけど……。
「目をつむればいいんですね」
「そうしてくれると助かるわ」
「…………………………………………………………………………まだですか?」
「もうそろそろいいかしら。今から塗ってあげるわ」
ふわりとした感触が唇を覆い、そして遠慮がちに唇の上を湿った感触がなぞっていく。何度も何度もゆっくりと丁寧に、柔らかく温かみがある「リップクリーム」が俺の唇を塗っていく。
…………なんてこと、あるかっ。
だけど、緊張しきっている俺の体は俺の意思に反して動かない。気持ち悪いくらいかいていた手の汗は、さらにどばどば噴きでていて、背中の方もけっこうやばめな気もする。
せめてもの抵抗として瞼を開けようとするが、俺の心理状態を事細かに理解してしまう詩羽先輩が先回りして、その手のひらで瞼は覆われていた。
「もう、いいわよ。…………ふぅっ。それとももう一回塗ってあげましょうか」
瞼を開けると、予想通り満足げな顔をしている詩羽先輩が出迎えてくれる。だけど、どこか予想とずれていないか? なんというか微妙な違いなんだろうけど、ただたんにセクハラまがいの行為を強行して満足しているわけでもなく。
「二年参り、よ」
「二年参りって、初詣の事ですよね? なにが二年参りに?」
「倫也神社に、17歳の私が、18歳の私になるための、二年参り、ということになるのかしらね」
「もう31日になったんですか?」
「ちょうど先ほど、ね」
「はぁ……。キスはともかく、詩羽先輩の誕生日を俺が忘れると思っているんですか?」
「うっ……。倫理君のことだから忘れはしないとは思っていたわ。でも、キスは、キスは、してくれなかったでしょう? 高校最後の、しかも18歳になる誕生日。子供から大人へと成長するこの微妙な一瞬。あどけない頬笑みから妖艶な笑みとが混ざり合うこの一瞬は、今しかないのよっ」
子供みたいに駄々をこねながら、子供がねだるにはアダルトすぎる要求を突き付けないでくださいよ。しかもそのギャップがすさまじく可愛すぎるもんだから、一瞬俺の方が間違ってるって思っちゃったじゃないですか。
「その理論からすると、二十歳になるときにも同じ事を言いそうですよね?」
「ううっ…………」
「しかも俺の誕生日の時も使えますから、少なくともあと3回はありますよ?」
「ぐっ!」
「はぁ……」
「でもっ、私の、霞ヶ丘詩羽の、18歳の誕生日は、一度きりしかないわっ」
「そんなわかりきったことをドヤ顔で言われなくても理解しています。そもそも今回の誕生日だって、詩羽先輩が締め切りをきっちり守ってくれていれば缶詰なんてしないでふつうに祝っていられたんですよ?」
「ぐはっ……。倫理君にいじめられたわ。きっとSに目覚めたんだわ。普段はおとなしい草食動物でマゾっけをのぞかせていたのに、私が18歳という大人の、子供とは分類されないカテゴリーになってしまったから、今までかぶっていた仮面を取り去って真正のSになってしまったのね。でもいいわ。私は倫理君を愛しているんですもの。たとえ倫理君が真正のサディストになってしまっても、全て受けれてみせるわ」
「わざとらしい演技をしないでくださいっ。しかもなんですかその台詞。まったくもって違いますからっ」
しかも今度はわざとらしくても、わざとらしすぎない演技へと微妙に変化を加える余裕さえあるんですね。
「やはり倫理君は私の足で踏まれるのが好きなのかしら?」
「きょとんとした顔で言っても駄目ですからっ。しかもそのいいようだと、俺が前から詩羽先輩に踏まれるのが好きみたいじゃないですか」
「違うのかしら?」
「だからそのきょとんとした顔はやめてくださいって。本当に俺の方が間違っている気がするじゃないですか」
「わかったわ。許してあげるわ」
「ありがとうございます。」
「感謝しなさいね」
「なんで俺が感謝しないといけないんだろうか……。そもそも詩羽先輩が早く原稿を仕上げていれば…………」
「何を言っているのかしら? そもそも今回締め切りを守れなかったのは倫理君のせいなのよ」
「俺が?」
「倫理君があれもこれもと仕事を持ってくるからいけないのよ? 拝金主義の店舗特典のショートストーリー。最初から本編に加えておけばいいだけなのに、違う店で何冊も買わせるためだけに抜き取ったショートストーリーなんて誰得なのかしら? あぁ、出版社だけが得するわね。作者は読者から叩かれるだけで、なにもメリットがないもの。いくら部数が伸びたとしても、読者が納得してくれなければ次は買ってもらえないというのに」
「詩羽先輩?」
「あとは雑誌に載せる短編小説もくせものよね。あれってなんなのかしら? あれこそ出版社の利益しかないわよね? 普段は買わない雑誌を、お目当ての作者シリーズの短編を読む為だけに読者に買わせるのよ? しかもあとで短編集なんて形で発売するものだから、どのくらい部数を積み上げられるのかしらね? そもそも今はネットで違法ダウンロードされ放題なのだから、こういった姑息な手段は読者に見捨てられることこそあれ、読者を獲得する手段にはならないのに」
「う~たは、先輩っ?」
「出版社なら、売れる作者を目指すのなら、姑息な手段を用いず、どうどうと中身で勝負すべきなのよっ。こういった卑劣な手段を出版社がするからネットで叩かれて、いかに最低な作者だと吊し上げられるのよっ」
「どうどう、詩羽先輩。ここまでです。これ以上はまずいです。なにがまずいかを言うのさえまずい状況ですっ。…………えっと詩羽先輩。どうせ徹夜になるかと思って、誕生日のケーキ、用意していたんです。夜中にケーキは胃に重いかもしれませんけど、執筆活動で疲れた脳にはいいですよね? しかも誕生日なのですから、ほら。…………ちょっと待っててください。今用意しましたか」
ちょっと飛んじゃったハイの状態の詩羽先輩を背に、部屋に備え付けの冷蔵庫からケーキを取り出す。
今の詩羽先輩に無防備な背中を向けるのには勇気がいるが、いくら詩羽先輩でも襲い掛かってくる事はない……はず?
と、若干失礼すぎる事を考えながら振り返ると、体を小さく縮ませた詩羽先輩がいて、拍子抜けになってしまう。
「ごめんなさい倫也君。ちょっとトランス状態になってしまったわ。正確に言うとどこからか電波が流れてきて、一瞬だけれどもどこかの作者の意識が乗り移ってしまったわ」
「それなら問題ないですよ。その作者。本音は拝金主義ですから」
「…………それもそうね」
「………………えっと、ろうそくも用意したんですよ」
「普通の高校3年生ならばセンター試験も終わって今は私立大受験に向けて追い込みをかけている時期なのに、こうやって温泉宿で倫理君としっぽり温泉だなんて最高ね」
「これが締め切り破りの缶詰じゃなければ最高だったかもしれませんね。……はは」
「来年も祝ってくれるのかしら?」
「……? でも缶詰旅行じゃなければ普通に祝いたいと思っていたんですよ? まあでもこうして高校生バイト編集者の稼ぎでは泊まることなんてない高級温泉宿に泊まれてるんだよな。それはそれで良しとしときましょうか」
「あなたの受験のことを心配しているのだけれど?」
「俺、ですか? 今のところ就職かなと」
「はぁ……。簡単に言ってくれるわね」
「……詩羽、先輩?」
「今バイトで編集をやっているけれど、そのまま正社員に本採用なんて無理よ。どこのだれが高卒を雇うものですか。たしかに能力がある人間ならば雇ってくれるでしょうけど所詮高卒で、三流大学卒にさえなっていないのよ? 編集部の出身大学を見ればわかるじゃない。いくら大学は関係ないといっても勉強もろくにやってきていない三流大学出身者を誰が雇ってくれると言うのよ? しかも高卒? 無理よ。だったら面白い文章かけなくても東大にいって、それなりの成績を収めなさい。腐っても東大生として面接を受けさせてもらえるわ。でも記念だと割り切っているのならどこの大学でも大丈夫よ。書類だけは受け取ってくれて、もしかしたら人数合わせとして上位大学だけでは不都合だから形だけは面接をしてくれるかもしれないわ。まあ、面接をしてくれても書類さえ見てくれないかもしれないけれど」
「……うっ。別に編集者になれなくても」
「この私が、どこの輩かもわからない男に、血反吐を吐いて書き上げた赤裸々なプロットや原稿を見せろとでもいうの?」
「どこの輩といわれても、担当編集かと」
「黙らっしゃい。深夜身も心も疲れ果てている状態の姿を、たとえ担当編集であったとしても、男に見られてもいいというのね。あられもない姿を見られても……」
「たしかに詩羽先輩がのっているときの姿はすさまじい……」
「ん?」
その笑顔。……笑っていませんよね?
「なんでもありません。…………でも、今の担当は町田さんであって、女性ですよ?」
「いつまでも同じ担当とは限らないじゃない。最近町田さんも忙しさが増したみたいだし」
「それこそ俺が担当になれるかどうかなんて」
「なにかしら?」
だから、絶対笑っていませんよね?
「いいえ、全て詩羽様の仰せのままに」
「……はぁ。その辺のことは大丈夫よ。私も考えているから」
「さようですか」
「私が売れればいいのよ。売れっ子作家になりさえすれば、たいていの事はごり押しできるわ。たとえ三流大学出の倫理君でも押し込む事はできるわ。でも、来年それができるかと問われれば微妙なのよね。だから倫理君。大学に行きなさい。そして少なくとも私と同じ大学にしなさい。そうすれば出身大学という問題は自然とクリヤーされるわ」
「すっごく不安な事を言っていますけど、詩羽先輩と同じ大学に行くのはいいかもしれませんね」
「でしょっ。でしょでしょでしょう。決まりね、決まり。再来年あなたは私の同級生になるのよっっ!!!」
「ちょちょっと待ってください。というか浴衣はだけていますって。いや、というか裸ですよね。しかも胸を押し付けないでぇ」
「……じゅるっ。ごめんなさい倫理君。取り乱してしまったわ」
「そういって反省している言葉を言っている割には俺の事をはなしてくれませんよね?」
「だって体をはなしたら裸を見られてしまうじゃない?」
「裸を押し付けている状態はいいんでしょうか?」
わかりました。
その笑顔、やはり凶器です。
「なんでもありません。…………ちょっと待ってくださいって」
「まだなにか問題があるのかしら?」
「問題と言うか、同級生ってなんです? 詩羽先輩と同じ大学にいければ後輩になるんじゃないですか? いや現実問題として、詩羽先輩と同じ大学だなんて今の俺には無理なんですけどね」
「はぁ……。ちょっと待ってなさい、安芸倫也くん」
もう裸でどうかとか問題にならないんだな……。むしろ堂々と裸でいるから、俺の方が間違っているような気さえするぞ。
「これを見なさい」
「企画書ですか? それにしてはずいぶん分厚いですね」
「これは倫理君のご両親に提出した倫理君の今後の進路予定よ」
「はい?」
「これを作る為に年末年始をすべてつぎ込む羽目になってしまったのだけれど、ご両親も納得して下さったから、作った私としても嬉しい限りだわ」
「ちょちょっと待ってください。原稿はどうしたんです? 締め切り忘れてなんてことやってるんですっ。……ん? 俺の両親が納得したとかしないとか言ってませんでしたか?」
「安心しなさい。ご両親は納得してくれたわよ」
「そうですか。それはよかった…………じゃなくて、なにをやってるんですかっ」
「もちろんうちの両親も承知してくれているわ。私は自分の稼ぎもあるし、いつでも一人で生活できるもの。学生としても成績も格別に優秀だし、親も私の機嫌を損ねるような要求はしてこないわ。だから大学も、倫理君と一緒に楽しみたいのよ。今まで一緒の高校だったといっても、やはり先輩後輩の壁はでかかったわ。たしかに先輩先輩としたってくれる倫理君は可愛かったのだけれど、今度は同級生として接してみたくなったのよ」
「でも、いくら同じ大学に行けたとしても、また先輩後輩では?」
「私が留年すればいいだけじゃない」
「簡単に言ってくれますね。でもいいんですか?」
「来年は執筆の方に力をいれるわ。そうすれば倫理君が大学生になった時のアドバンテージくらいにはなるでしょう。まあ、あまり前倒しにして書いても意味をなさないかもしれないけれど、勉学と両立するよりは時間的余裕を産む事ができるでしょうね」
「霞詩子ファンの一人としては嬉しいですが」
「それにね倫理君。せっかく大学生になるのだから、あなたと大学生生活を楽しみたいのよ。高校生活が残り少ないのと同じように、大学生活も有限なのよ。しかも期間限定で」
「そういってくれるのは嬉しいのですが、やはり俺の学力じゃあ先輩がいく大学には届きませんよ?」
「だからこそこの計画書よっ」
「はひ?」
「この私が倫也君の新妻のごとくお世話をしてあげるわ。家庭教師から下半身の世話まで全て任せなさい。もはや新妻ね」
「前半はともかく後半の方はご遠慮ください。……って、これ、俺の高校の成績まであるじゃないですか。あっこれ。この前の期末紙面の結果まで。ちょっと待て。これ俺の解答用紙のコピーじゃないですか。どこからとってきたんですか?」
「私に不可能はないわ」
「そもそもこの計画書作っている時間があったら、とっくに原稿仕上がっていましたよね?」
「なに言っているのかしら?」
澄まし顔で俺を見つめる詩羽先輩は頼もしく見える。
今の一言で次に詩羽先輩がなにを言ってくるか予想さえできるほどの自信をみなぎらせている。
…………けれど、裸だ。しかもわずかにひっかかっている浴衣が、艶めかしいほどにエロい。
「原稿ならとっくの昔に町田さんに渡しているわ」
「担当の俺は受け取ってませんけど?」
「そこは町田さんに協力してもらって、今回の温泉旅行計画の実行を手伝ってもらったのよ」
「職権乱用も甚だしすぎますよ。この旅館いくらすると思っているんですか? 高校生には出せない金額ですよ」
「安心なさい。今回の旅行の代金は全て私のポケットマネーで支払っているわ。おめでとう倫理君。ヒモ男としての第一歩よ」
「ありがたくない称号を勝手に付けないでくださいっ」
「だったらのし上がりなさい。私の計画書を上回る成果を出しなさい。そしていつか私の隣にたてる存在に、いいえ、私を引っ張れる男になりさない」
「……うっ。わかりましたっ! わかりました。やります。その計画書、やってやろうじゃないですか」
和テーブルの上に広げられている前回の試験結果を見ると、地獄を見るほど勉強しないといけないと脳裏によぎるが、目の前のご馳走には勝てないようだ。
「それでこそ私の倫也くんよ」
もう俺の両親にまで裏工作してくれちゃってくれているから、もはや俺には何もできないじゃないですけどね。
「今なにか失礼なことでも考えていなかったかしら?」
「いいえ、詩羽先輩の隣に立ちたいっていうのは、俺も夢にみていたなぁって」
「夢ではなくて現実にしてくれないと困るわ」
「はいっ」
「でも今は、もう一泊予定してある温泉旅行を楽しみましょう」
「あれ? まじで原稿終わってたんですか?」
「当たり前じゃない。肉欲に満ちた時間をこれから過ごさなくてはならないのに、どうして足枷を持ってくるって言うのよ。……だ、か、ら、倫也、くん」
「ちょ、ちょっと待って先輩」
「もう少ししたら先輩も卒業して同級生になる予定なのよ? ……でも、まだ先輩と後輩でもいいかしらね」
「その辺の勉学に関する予定は頑張りますけど、さっきから詩羽先輩が裸なのは覚えていましたけど、いつのまに俺の浴衣まで脱がしていたんですかっ」
やはりこの人には永遠にかなうことはないのだろう。
この心地よい敗北感に酔いしれる快感を覚えてしまっては、一生この人からはなれなれないと、はなれたくないと願ってしまう。
願うだけなら簡単だ。
でも俺は、願うだけで満足できない体になってしまっている。
だから俺は頑張れる。この愛らしい女性の隣にいる為に、俺は自分の全てをいとも簡単に捧げしまうのであった。
END
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