家賃1万円風呂共用幽霊付き駅まで縮地2回 (ウサギとくま)
しおりを挟む

布団から食卓まで1歩

こちらでも掲載して欲しいというありがたい感想を戴きましたので、掲載します。3年近く前から連載しているものであり、初期のものは色々と見苦しい部分があるので、そちらを修正しながらの投稿となります。話の内容自体は変わりませんが、ギャグや会話のやり取りが変わると思います。


 布団の上に胡坐をかきながら、六畳ある自分の部屋をぐるりと見渡す。

 築30年の古参物件にしては、目に見えて気になる汚れや損傷はない。

 俺が越してくる前から、大家さんがこまめに掃除や修繕を行っていたのだろう。

 風呂は共用だが、トイレは部屋にある。何より大学に近い。

 ここはいい物件だ。

 一ヶ月過ごしてきて、改めてそう感じる。

 端的に言って素晴らしい、自分にはもったいないほどの良物件。

 

 ――が、しかし。

 

 この部屋に越してきて一ヶ月、俺の周りで妙な出来事が起こり始めた。

 はっきりとは分からないが、何かが起こっている。それだけは確かだ。

 

 ついでに言うと、明らかに俺以外の何かしらの存在がこの部屋にいる様な気もする。

 その何かは気配も感じないし、姿を見たことも無い。

 ただ、何かがいる気がする。

 ずばり言おう。

 

 この部屋、幽霊いんじゃね?と。

 

 そもそも、だ。

 まずこの部屋の家賃を聞いたときにおかしいと思うべきだったのだろう。

家賃1万円。

 くっきりぽっきり丁度1万円だ。1コインならぬ1ペーパー。

 幾らなんでも安すぎる。

 一般的な人間であったら、まず何かしらの陰謀を怪しむところだが、残念ながらこの部屋に越してくる前の俺は一般的な人間ではなかった。

 正確に言うならば、一般的な人間が持つほどの財産を持っていなかったのだ。

 念願叶って大学に受かったのはいいものの、入学金、借金、その他もろもろを払い終わった時には、俺の手元には一枚のお札しか残っていなかった。わずか1万円。

 こうなれば闇金(ダークマネー)に手を出すしかねぇ、とダークサイドへと落ちかかっていた俺は『痴漢が出ます!』と貼られた電柱に寄りかかり、ふと地面にこのアパートのチラシを見つけた。

 

『家賃1万円ポッキリ! 美少女大家もついてくるくる!』

 

 眼の前に蜘蛛の糸が降りてきた。

 俺はそのチラシを見るやいなや、他の連中に先を越されてはならぬ、とそのアパートへ向かった。

 その時の俺は阿修羅をも凌駕し、他に糸に群がる連中がいたなら毒ガスを使ってでも蹴散らす、そういった荒ぶりようだった。

 幸い糸を奪い合うような相手はおらず、その日にアパートの104号室を契約した。

 ちなみに大家はかなり美少女であった。やったね。

 

 それから一ヶ月。

 俺は不可解な現象に直面している。美味い話なんてないものだ。

 

 つい先日現在俺が直面している妙事を踏まえて、大家さんに『この部屋出るんじゃないスカ? どうなんスカ? ええおい?』と問いただしたところ、

 

『え、えええっ? な、何を言ってるんですかっ? え、出る? 出るって何がですか? あ、もしかして私の体の一部分が出てるとか出てないとかそういう話ですかー? もうやだー、エッチなのはいけませんよ一ノ瀬さん? うふふー』

 

 と、大変うざ可愛いリアクションをされた。

 ちなみにその時の大家さんは箒をレ○レのおじさんの様な速度で前後に動かし、目は石川賢に出てくるようなグルグル目であった。怪しい。

 

 なにかある。俺は大家さんのリアクションからそう確信した。

 

 しかし現象の正体が幽霊だとして……幸か不幸か、俺に霊感の様なものは一切ないようで、ハッキリとした証拠を見つけることができないでいる。

 もしかすると幽霊なんてものはいなくて、俺の脳に何らかの異常があり、そのせいで何かがいると錯覚しているという可能性もある。

 その場合は速やかにプリズン病院へ行かなければならない。

 檻の中で一生過ごすのとかマジ勘弁なんで、脱走する予定も並列して立てつつ。

 

 ともかく、いるのかいないのか、だ。ハッキリさせておきたい。

 俺の勘違いなのか、はたまた本当に『いる』のか。

 

 俺は答えを出すために、大学へ向かった。

 

 

 

※※※

 

 

 

 俺の数少ない友人に、遠藤寺という人間がいる。

 大学に入った頃からの付き合いだ。

 互いに大学には友人がおらず、入学式後から何だかんだと行動を一緒にしている。

 

 俺は大学内に二つある内の近い方の食堂に入った。

 テーブルを中心に雑談をしたり、カードゲームをする生徒の集団をすり抜け、一番奥へ向かう。

 食堂の一番奥にはテーブル郡からポツリと離れて一つだけテーブルが存在する。

 壁や観葉植物の死角になっており、未だこの席の存在を知らない生徒もいるかもしれない。

 

 そこに遠藤寺はいた。

 実質そこは遠藤寺の専用席だ。

 うどんを啜っている遠藤寺の正面に座る。

 

「……おや、今日授業は無かったはずじゃ?」

 

 椅子を引く音で気付いたのか、遠藤寺が顔を上げながら言った。

 つるんと音を立てて麺が、遠藤寺のほんのり赤い唇に挟まれ吸い込まれていく。うどんが羨ましい……俺も遠藤寺の唇に吸い込まれたい……。

 

「ふむ? ボクの顔に何か付いてるかい?」

 

 相変わらず見ているだけでこちらが眠くなってくるようなジト目でこちらを見つめてくる。相手に威圧感を与えるその目だが、俺はもう慣れた。

 次に目に入るのは、ふんわりウェーブがかかった肩まである茶髪……の上で自己主張するドでかい真っ赤なリボンだ。

 リボンだ。リボンなのである。

 いい年してとかそういうレベルではない。

 こんなリボンをつけている大学生は現状、眼の前にいる遠藤寺だけだろう。

 そして着ているのはフリフリのロリータファッション。

 

 言っておくが遠藤寺は飛び級してきた小学生でもなければ、未だ中学生に間違えられる様な合法ロリでもない。

 それなりに小柄で童顔ではあるが、どれだけ頑張って見ても高校生に見えるかギリギリのところだ。

 

 そんな女性がフリフリのロリータでリボンである。加えてどことなく芝居がかった口調。そして一人称はボク。

 

 そりゃ友達もできないだろう。

 そしてそんな彼女しか友達がいない俺はなんなんだろうか。

 多分友神(友達を作る能力を司る神)は俺のことが大嫌いなんだろう。いや、もしかすると逆に大好き過ぎてツンデレっぽく『ほ、他の奴なんて近づかせないんだから!』とか職権乱用をしてるのかも……?

それならよし! 

 

「授業は無い。遠藤寺、お前にちょっと相談があってな」

 

「ボクにかい? それは嬉しいね。ボクは人に頼られるのが三番目くらいに好きなんだよ」

 

「へー」

 

「2番目はうどんだ」

 

「知ってる」

 

 毎日食ってるからな。最早見慣れすぎて、遠藤寺がうどん以外の物を食べてると違和感すら覚える。やっぱりうどんは遠藤寺に限るな。

 

「言うまでもないことだけど、1番好きなのは……推理をすることさ」

 

 遠藤寺は推理大好き人間である。そして学生の傍ら、探偵業を営んでいる。ハッキリ言うと変人だ。

 

 しかし変人ではあるが、知識量は凄まじい。

 今まで数多の難事件をその知識、推理力、財力(こいつん家マジ金持ち)で解き明かしてきた。

 その難事件だけで、アニメにして1クールほどの番外編ができるだろう。タイトルは『遠藤寺の極めて不本意な名推理』でどうだろうか。

 

 ともかく何らかの相談をするのにはうってつけだ。

 俺は早速、現在自分の部屋で起こっている出来事について話してみた。

 

「……ふぅん、幽霊ね」

 

「ああ」

 

「君がそんなオカルトじみた存在を信じていることに、ボクは驚くよ」

 

 

 俺がオカルトを信じてない? それどこ情報よ。

 俺ほどオカルトっつーかファンタジー好きな人間はいないぜ?

 モンスター娘とかめちゃくちゃ好きだし。

 

 それにサンタさんの正体を知ってなお、サンタさんへのお手紙を続けてるくらいファンタジーを信じてるし。

 しかし、サンタさんマジ日本語うめぇ。

 ただ俺の妹と筆跡がクリソツなのが少し気になるけど。

 

「だって仕方ないだろ? 実際明らかにおかしいことが起こってるんだ」

 

「ふむ。具体的には何が起こってるんだい?」

 

 遠藤寺には俺の部屋に幽霊的なものが出る、としか話しておらず、具体的なことは話していない。

 そうだな……。

 俺はここ一ヶ月で起こった出来事を頭に浮かべた。

 

「まず、部屋が綺麗だな」

 

「それはあれかい? 自分が掃除好き、ということを言いたいのかい?」

 

「いや、そうじゃない。俺は越してきて一ヶ月、一度も掃除をしていない。なのに埃の一つも積もらない、窓はピカピカ、トイレの蓋に顔が映る。廊下はスケートできるくらい磨かれてるんだぜ?」

 

「……」

 

 遠藤寺は『何で一回も掃除してないんだよ……』みたいな顔で俺を見た。

だってしょうがないジャン。

 そういうのってさ、普段の習慣でしょ?

 俺って今まで掃除なんてしたことないし。

 むしろ実家にいた頃は、妹が絶対にさせてくれなかったし。

 自分の部屋くらいは自分やるって言っても、ギラギラした目の妹に押し切られてたし。

 

 どーでもいいけどエロ本の中身をすり替えんのとかマジ勘弁して欲しい。

 さえない草食系の青年が小悪魔ちっくなロリに誘惑される系とか、俺あんまり食指が動かないんだけど。

 でもそのジャンルしか残ってないから読まざるをえない。

 え? もしかして実の妹に調教されちゃってる?

 あはは、まさかナ!

 

「他には?」

 

「朝起きたら食事ができてる。学校から帰ってきても同じく」

 

「……昼は?」

 

「ほれ、これ弁当」

 

 俺は遠藤寺の前に弁当箱を置いた。

 中身はタコさんウインナー、卵焼き、一口ハンバーグと定番のものが入ってる。

 そして美味い。

 ちなみに大学用の鞄の中にいつの間にか入っているのだ。

 

「確かに。ここ1ヶ月で君という人間をある程度は理解したが、どう考えても料理をしそうにない」

 

 遠藤寺は眉間にシワを寄せ、右手で顔を覆った。

 

「……もしかして、食後の皿も気付けば洗われてたり?」

 

「よく分かったな」

 

「君今までに遅刻してきたことないよね?」

 

「まあな。何か朝スッキリ目が覚めるんだよ。起きる時も心地よい揺れと共に。まるで誰かに起こされてるみたいに」

 

 遠藤寺はフゥとため息をついた。

 

「君、それ幽霊じゃなくてお嫁さんじゃないのかい?」

 

「いや俺結婚してねえし」

 

「知ってるよ……ふむ」

 

 遠藤寺はうむうむと唸り始めた。珍しい。

 いつもだったら俺の質問や相談に対して、ものの数秒かからず『それはだね』と皮肉気に微笑みながら答えを返してくるのに。

 これはもしかすると遠藤寺探偵もお手上げですかな?

 お、つまり次は助手的立場にある俺がこのロートルを下して、主人公になったり?

 いいね!

 あ、でも俺推理とかできないな……。

 いや、これからの時代、専門職一辺倒だけではやっていけない。

 探偵だって推理以外の何かが必要として然るべきだ。

 そして俺にできるのは……脱ぐくらいか。

 こ、これいいんじゃなイカ?

 犯人を追い詰める時、おもむろに脱ぎ出す探偵。犯人を押し倒す。

『犯人はあんただ。今からあんたの謎(ボディ)を俺が解き明かしてやんよ』暗転。

 何やかんやで犯人が白状。自首しようとする犯人を引き止め囁く。

『あんたを警察には渡さねえ。俺ンとこで罪を償いな』

 一話毎に増えていくヒロイン。プレイの幅も増していく……そして伝説へ。

 はいきた!

 これ海外狙えるで! 人気出てズルズル引き伸ばしてメインキャラ殺したりして話題性を再燃させようとする展開が見えた!

 

「しかしそれが幽霊の仕業だとしたら……幽霊という存在の認識を改めなければならないね。幽霊ってのは基本的に誰かを怖がらせるものだと思っていたけど……ふむ。幽霊にも色々いるのか、はたまた何らかの目的があるのか」

 

 俺がゴールデングローブ賞を受賞し、隣にエマ・ワトソンを侍らせている光景から現実に帰ってくると遠藤寺が鞄から眼鏡を取り出した。

 何の変哲もない、普通の黒縁メガネだ。

 俺に眼鏡属性はないので、それに欲情することはない。

 

「これを君にあげるよ」

 

「え、何で?」

 

 どういうことだろうか。

 眼鏡を俺にプレゼント?

 なんだ遠藤寺は眼鏡フェチだったのか。

 しかし残念ながら俺とは相容れない。俺は眼鏡ってやつが大嫌いなんだ。

 人間ってのは素の状態、神に与えられた肉体そのものが美しい。

 ピアスや刺青、眼鏡や指輪、そんなもん糞喰らえだ!

 はぁ、やれやれ俺とコイツの関係もここまでか。

 

 俺は遠藤寺に絶縁を申し出ようと、受け取った眼鏡を振りかぶった。

 

「それは少し特殊な眼鏡でね」

 

 振りかぶった手をさながら竜の様な動きで戻した。

 え? 特殊な眼鏡?

 ……。

 透ケルトングラァァァスッ!(必殺技っぽく)

 

 俺はおもむろに眼鏡を装着し、目の前の遠藤寺を穴の空くほど見つめた。

 だが透けねぇ! 微塵も透けねぇ!

 遠藤寺の着痩せしている(と思われる)瑞々しい肢体が見えん!

 

「その眼鏡をつけると、普段は見えない物が見える……らしい。ちょっとしたツテで手に入れた物でね、ボクはオカルト方面には興味がないんで持て余していたんだ。ま、もしかすると今日君に渡す為にボクの手元に来たのかもしれないね、ははっ」

 

 『運命は繋がっている、なんてね』とか痛いことを言いつつ笑う遠藤寺を無視して、俺は身体の全能力を視力に集中した。

 視ることに集中しすぎて心臓の鼓動すら弱まっていく。頭はぼぅっとしてきた、血液がうまく循環していないんだろう。

 しかし、それでも。

 俺の魂(イノチ)を削っても、遠藤寺の服の下が見えることは無かった。

 

「何も見えざらんや!」

 

「こんな人の集まっている所にはいないんじゃないか? 『そういうの』は。まあ、常識的に考えて、だけど」

 

「常識なんてぶっ飛ばせよ!」

 

 んだよ糞!

 これから少年漫画レベルのエロ展開が繰り広げられるんじゃなかったのかよ! エロ展開だったら売れるだろうが!

 ふざけんなよ糞編集! 第二の矢吹神になりたくねーのかよ!

 

 裸も見れない眼鏡なぞ不要! へし折ってやる!

 

「あ、その眼鏡はね、何やら結構有名な職人が作った物みたいでね、世界に三つしかない。価格にするとしたら……ま、こういうのは無粋かな? 小さな国くらいは買えるかもしれないけどね。でも、それはもう君の物だから、好きにするといいよ。ただせっかくプレゼントしたんだ、大切にはして欲しいけどね」

 

「……これからよろしくね、眼鏡様」

 

 今日この日、俺は眼鏡に屈した。

 自分より価値のある存在に媚へつらうのは人として当然だろう?

 これから俺は眼鏡様の意思に従い、眼鏡を普及していこうと思う。

 ただ忘れないで欲しい。

 心まで眼鏡に屈したわけではないと。

 いつか眼鏡レジスタンス(コンタクトは可)のリーダーとして立ち上がると。

 未来への宣誓をしつつ、俺は眼鏡を装着した。

 度は入っていなかった。

 

 

■■■

 

 

 適当に遠藤寺と駄弁った後、早々に大学から出た。

 友人の少ない俺にとって、大学というのはただの勉学の場だ。

 間違っても友達とモ○ハンをやる場所じゃない。

 一応サークルに属しているといっても、幽霊部員だ。

 

「……ふふ」

 

 幽霊部員の俺の家に、幽霊(らしき物)がいるなんて……皮肉だな。

 これで俺が幽霊(ゴースト)という名でかつて、不良達を震え上がらせた伝説の不良狩りだから更にドン!(寝る前にする妄想の話です)

 俺のチャリの名前はゴーストシップ!(これは本当)

 中学生の頃好きだった女子に『あ、いたの? あははっ、ごめん。君って何か幽霊みたいだよね、存在感のないところとか』と言われたことあり。

 幽霊のカルテット……か。

 あれおかしいな? 何か胸が痛い……。

 

「どうして人は黒歴史を掘り出そうとするのか。埋めたままでいいのに」

 

 人の業の深さに涙を流しつつ、アパートへ到着。

 アパートの庭にはいつも通り大家さんがいた。

 今時和服を着た大家さんなんて、は彼女くらいじゃないだろうか。

 そもそもこの人いくつなんだろう……。

 かなり歳下に見えるけど……女ってやつは分からんからな。

 あのピチピチした肌は化粧によるコーティングであり、下には砂漠地帯が広がっているかもしれない。

 

「ただいま大家さん」

 

「あらー? 一ノ瀬さん、お帰りなさーい。学校は楽しかったですか?」

 

「ええ、まあ。友人達との交流は、それ自体が本を読むこと以上に勉強になります」

 

「わー、友達全然いないのに、そういうこといえちゃうポジティブさ! 一ノ瀬さんのそういうところカッコイイと思います!」

 

 ニコニコと満面の笑みを浮かべる大家さん。

 この人の相手をするのもそれなりに楽しいが、今は自分の部屋の幽霊だ。

 大家さんには悪いが、早々に切り上げさせてもらおう。

 

「あ、ちょっと用事があるんで――」

 

「おやおや? わっ、その眼鏡お似合いですね!」

 

「お目が高い。流石美少女大家を職業としていることはある、見る目が違いますな!」

 

 俺の中で大家さんに対する好感度が20ほど上がった。

 

「やだもぅ、美少女大家だなんて……照れるじゃないですかっ。私の好感度が200も上がちゃっいましたよっ」

 

「いえいえ。謙遜しないで下さい。俺はこのアパートで暮らせて本当に嬉しいです……大家さんみたいな美少女(びしゃうじょっ)!に毎日会えますからね」

 

「はふぅ……。今ので好感度が5000も上がっちゃいました。もう、一ノ瀬さんは好感度を上げるのが上手いですねー……上げるのが上手い男――上げマン! ヨッ、上げマン! カックイー!」

 

「今の発言で大家さんに対する好感度ゲージが無くなりました。さようなら」

 

「攻略対象外に!? なにゆえ!?」

 

「一言多いんですよ大家さん。せっかく美少女で大家なんですから、もっと自分を大切にして下さい。下ネタなんてもっての他です」

 

「し、下ネタ? わ、私なんか破廉恥なこと言っちゃったんですか!? あわわぁ……」

 

 天然だったのか……。

 顔を両手で覆い座り込んだ大家さん。

 俺の中で好感度ゲージが復活した。

 

 俺の中の好感度ゲージは現在3本である。

 大家さん、遠藤寺そしてサンタさんだ。

 何気にサンタさんの好感度が一番高いのは、恐らく毎日のようにメールを交換しているからだろう。

 残りの二人にはもっと頑張って欲しいものだ。

 

 何だかんだで大家さんと駄弁っていたら、2時間も経っていた。

 もう辺りはすっかり日が暮れたが、よくよく考えると夜は『そういうの』が活発に活動する(ような気がする)のでよしとしよう。

 

 大家さんと別れる前『最近、この辺りで痴漢が出るらしいから一ノ瀬さんも気をつけてくださいねー』と言われた。一番気をつけるべきなのは大家さんの方だと思うけど。

 

 大家さんから貰った大根を手に、自分の部屋へ入った。

 

「ただいまー」

 

 当然返事はない。

 この部屋に住むのは俺一人……多分だが。

 それが今日明らかになる。

 

 六畳部屋の中心にある丸机、そこには今日も夕食が用意されていた。

 オムライスとサラダ、コーンスープである。

 ホカホカと湯気を立て、俺の空腹中枢を刺激する。

 さて、取りあえずは飯を食べてから真実を解き明かそう。

 正体を暴くやいなや『ウォォォォォォォォ! 我の正体見たなァァァァァァ! 殺してやるぅぅぅぅぅWRYYYYYYYYYYYY!!!』なんて幽霊ムーブ(幽霊特有の動き。緩急の付け方が匠)で襲われたらたまったもんじゃない。

 飯食って体力を充実させてからだ。

 幽霊が悪い幽霊だった時のことも考えないといけないからな。

 もしやすると俺が中学生の時に鍛えた我流アーツ『カポエラン』が役に立つかもしれない。

 あれ、対人間じゃないモノ用だからな。

 

「しかし相変わらず美味いなぁ……こんな飯作れるお嫁さんが欲しいわ」

 

『ガタタッ』

 

「……なんだ?」

 

 部屋の隅から何かがぶつかる音がした。

 

 食事の手を止め、じっと部屋の様子を伺う。

 しかし、これといって変わった様子もない。

 音もこれ以上する気配はない。

 

 こういうことはよくある。

 俺が突然全裸になったり(一人暮らしの特権)、妙にハイな気分で(一人暮らしだとタマにある、異様なテンション)おもむろに繰り出したバク転を失敗した時とか、政治番組を見ながら自分流の『日本をよくする方法』を声高々に語っている最中突然『猿のようなセッ○ス!』と叫んだ時とか……そういう時にこんな音がする。

 やはり何かいるのか?

 この部屋に幽霊がいるかも、と考えたのは三日ほど前だ。

 それまでこの音は俺の史実に無い動き(イリーガルアクション)が世界を動かした際に発生した世界の軋みのようなものだと思っていたが……。

 

「ごちそうさま。今日もとても美味しかったです」

 

 飯も食い終わり、俺は眼鏡を手にとった。

 遂にこの部屋にいるナニカの正体が明らかになる。

 俺の精神的不調による妄想なのか、はたまた『ナニカ』がいるのか、実は大家さんが勝手へ部屋に侵入して飯作ったりしていたのか……。

 この眼鏡によって全てが明らかになる。

 

「さーて、舞台の幕開けだぜ――その前に風呂に入っておくか」

 

 飯を食い終わった後は、無性に風呂に入りたくなる。

 入らないとモヤモヤするし、風呂上がってからでいいか。

 俺は用意されていたパジャマを手に取り、部屋を出て共用の風呂に向かった。

 

「おっと」

 

 風呂へと歩いている時、まだ自分の手に眼鏡があることに気づいた。

 眼鏡ケースを探す、がない。

 部屋に置き忘れたようだ。

 このまま脱衣所に置いておくのは怖い。何せ小国家が購入できるほど価値があるものだ。

 部屋に戻っておいてくることにした。

 

 部屋の入口のドア。

 このアパートは妙に部屋のドアが重い。

 恐らくは老朽化が原因だと思われる。

 パワータイプの俺ですら、両手でなけりゃ開けられないほどだ。

 両手を使おうとしたが、手に持った眼鏡が邪魔だったので、とりあえず装着した。そして思い切り扉を開けた。

 

 靴を脱ぎ、短い廊下を抜け、六畳間の襖をあける。

 

 

――全裸の少女がいた。

 

 

 少女は鼻歌なんぞを歌いながら、俺が食べ終わった食器の後片付けをしていた。

 機嫌がよさそうだ。

 小ぶりな尻が揺れている。

この揺れが世界に生中継されれば、きっと戦争も終わるだろう、そう思った。

 

「つっつくつー、つっつくつー、今日も完食うれしいなー、明日は何にしようかなー、らんらんらー『今日は……同じ布団で寝ないか?』な、なんちゃってー! まだ早い! まだ早いよ! 隣でいっぱいいっぱいですからー、残念!」

 

 珍しい髪の色をしている、真っ白な、光の加減によっては銀色にも見える。

 肌は白い。全体的に小柄で、身長170cmの俺より頭二つ下くらいだろう。

 胸は控えめだ。

 しかし、こう、明け透けに裸を見せられると、逆に興奮しないな……。

 やはりチラリズムこそが正義!

 やっぱり父さんの言葉は正しかったんだ!

 正義はあったんだ!

 

「辰巳君はお風呂ー、おふろージャブンジャブン! 私は洗い物ー、じゃぶんじゃぶん! 二人でジャブジャブ、ジャブ漬けだー……っと。あれ?」

 

 ノリノリな少女の視線が入口にいる俺へと向いた。

 少女はムッと眉を寄せ、人差し指を立てた。

 

「こらっ、早すぎるでしょっ。鴉もびっくりだよ。肩まで浸かって100数えてないよね、絶対! むぅ……風邪ひいちゃうよ? まぁ、ひいたら私が看病するけど……ってそれが目的かっ? 策士だなー。よっ、現代の孔明!」

 

 何が孔明だ! あんなもん相手は狭いとこにおびき寄せて『今です!』とか叫ぶだけの簡単なオッサンじゃねーか。

 男だったらやっぱり呂布だろ。

 ちなみに自慢話になるが俺、中学生の時自分のこと呂布だと思ってた。

どういうことかって言うと、朝俺が教室に入るとクラスの連中が俺見て『い、一ノ瀬だ……うわぁ』とか怯え気味に言うの、超小声で。

 いや、もう俺マジで朝から肩すくめまくり。おいおいクラスメイツ、俺のことビビリ過ぎだろと。俺カタギには手出さねぇから。

 ははっ、懐かしい過去だぜ。

 ……あ、あれおかしいな? 武勇伝の筈なのにどうして涙が出ちゃうの?

 

「あー、困ったな。辰巳君がお風呂入ってる間に、洗い物とか洗濯とか済ましときたかったんだけど……まぁ、辰巳君が寝た後でいいかな? 辰巳君一回寝たら馬鹿みたいに起きないし、ふふっ」

 

 なんだと。

 

「よしそうしようSo she yo! 決定! 辰巳君が寝てから、辰巳君の寝顔を1時間……いや、2時間、うん。2時間見て、それから家事だっ。そうと決まれば、辰巳君がよそ見をした隙にサッとお布団ひこうかな。辰巳君って結構馬鹿だからねー『あれ? 布団がいつの間に……? 俺無意識にしたのかな?』なんて! そーいう所もかわいいなー」

 

「ちょっと馬鹿って言い過ぎじゃないですかね?」

 

「えー、でも馬鹿って言っても、いい意味での馬鹿だよ? いい意味の、長所的な部分で」

 

「そうか、いい意味でなら……まあいいか」

 

「そーそー……ん?」

 

 つまらない真面目より楽しい馬鹿って言うもんな(今作った)

 しかしこの少女、一体何者なのか。

 なぜ俺の部屋で、家事をしているんだろうか、全裸で。

 意味が分からない。

 いや……何かが俺の中で繋がろうとしている。

 まさか、そういうことなのか?

 

 少女は訝しげな目でこちらを見ている。

 

「え、えーと……あれ? 辰巳君?」

 

「イカにも」

 

「あ、あれれ? お、おかしいな……これってどういうことなのかな? わ、私の気のせいなのかな? ……も、もしかして私のこと見えちゃったりしてる?」

 

「見えるか見えないかで言うなら……まあ見えてるな、全部」

 

「……はわっ」

 

 少女の顔が真っ青になった。

 次いで自分の身体を見下ろし真っ赤に。

 途中で黄色を挟んでいれば、信号になったのにな。

 

「――はわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」

 

 少女は悲鳴をあげ、グリングリンと周囲を見渡し、テーブルの下に潜り込もうとし頭をぶつけ、頭を抑えながら涙目で押入れの襖を開け、毛布を引っ張りだし、その毛布にくるまった(この間およそ3分である)

 かたつむりの様にくるまり、涙目で俺を見つめる少女を見て、俺は全て理解した。

 目の前にいる存在の正体を。

 

 全裸、勝手に人の部屋に侵入、見知らぬ少女――全てのピースが繋がった。

 

 汝の正体見たり!

 

「――君は最近この辺りを荒らしている痴漢!」

 

 QED……俺はクールに呟いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

トイレまで壁蹴り2回

 謎の全裸少女との遭遇してから、次の日。

 講義が一限目からある俺は、朝の準備を済まし早々に家を出ることにした。

 

「い、行ってらっしゃい……辰巳君」

 

 ぎこちない様子で手を振ってくる少女(装備・毛布)にぎこちない挨拶を送って家を出た。

 

 昨夜は取り合えす色々あった。

 話すべきことは多岐に渡ったが、生憎と遅くまで話せるほど時間に余裕はなく『明日学校から帰ってから続きをしましょう』と、早々と床に着いたのだ。

 問題の先送りともいう。

 結局分かったのは、少女が痴女ではなく幽霊であるということだけだ。

実質殆ど何も分かっていない。

 

 アパートの庭に出る。

 入学して一ヶ月、春真っ盛りで温かな日差しが俺を包み込む。

 庭を通ると、いつもの如く大家さんがいた。。

 家庭菜園の側で屈みこんでいる。

 

「育てー育てー、私の愛をしっかり吸い込んで育って下さいねー。ぐんぐん育って最終的に私の胃を満たしてくださいねー」

 

 食われる為に大きくなれ、とは言われる方はどんな気持ちなんだろうか?

 食される側の野菜の気持ちになってみる――動けない、気持ちを伝えることもできない、ただ自分の身体を意思とは関係なく肥大させていくことしかできない。そしていい具合に育ちきると……噛み砕かれ消化される。絶望、絶望、絶望――その言葉が体に纏わり付いた。。

 な、なんてことだ……。目の前の大家さんが野菜を育てる可愛らしい天使ではなく、絶望を培養する悪魔に見える。

 

『た、たすけて……』

 

 今の俺には聞こえてる、野菜達の救いを求める声が。

 お、俺は今までそんな気持ちの野菜を食していたのか。

 ひ、ひどい……酷すぎる。

 ここは真実を知った人間として、野菜達の人権を守る為に立ち上がるべきじゃないのか!

 野菜にだって命はあるんだ! 野菜の人権を守れ!

 あ、でも俺今眼鏡教の信者だしナー。

 信者とレジスタンス2足の草鞋履けるほど器用じゃないし。

 うん、野菜達には今の現状に甘んじてもらうことにしよう。

 大丈夫大丈夫。痛覚とか無いんでしょ?

 

 俺が野菜達を守る為に立ち上がり、そして即座に座り込むという波乱に満ちた意思の変更を行なっていると、背後に立つ俺の気配に気づいたのか、大家さんが振り向き立ち上がった。

 満面の笑みと共に、ペコリと一礼。

 

「あ、一ノ瀬さんっ、おはよーございます! 今日もいいお天気ですねー!」

 

 朝からキラキラ眩い笑顔を浮かべる大家さん。

 貴方の笑顔は空にきらめく太陽よりも眩しい、なんて花輪君みたいな返事で返そうとしたが……今日の俺、そういう気分じゃねーから。

 つーか、結構怒ってるんだよね。

 怒髪天が空を貫きまくってるんだよね。何で怒ってるかって、アレだよ。幽霊の件だよ。入居するとき何も問題はない部屋だって、ハッキリ言われたのに。

 

「ご飯はしっかり食べましたか? お漬物無くなったら言って下さいよ? 夜更しは体に悪いですからあんまりしちゃ駄目ですよ……って、私も人のこと言えませんけどね、てへへ。昨日も深夜アニメ見るために頑張っちゃいましたっ。てへぺろっ」

 

 おどけた調子で舌を出す大家さん。

 俺を心配してくれるお母さんっぷりに、俺の怒りゲージはゆるゆると降下していった。

 いかん、いかんよ!

 頑張って踏みとどまってくれ、怒りゲージ!

 今日はこの向日葵の様な笑顔を浮かべる少女に一言言ってやる筈だろ?

 怒りの伴わない発言なんて痛くも痒くもない!

 怒りをエンチャント!

 

 俺が怒りエンチャントの一撃を食らわせようとした瞬間、その先の先をとった大家さんに出鼻をくじかれた。

 

「そう言えば一ノ瀬さん、聞いて下さいよぉ。今日の朝、私大変だったんですよっ。朝起きて冷蔵庫から牛乳パック取り出して一気飲みしたら……」

 

「男前ですね」

 

「清楚な大家さんの意外な一面、ってやつです。で、一気飲みしたら、もう酸っぱくて酸っぱくて! 思わず天井に向かって『へぶしゃん!』って散布しちゃいましたっ。朝から顔も身体も牛乳まみれで……ひどい目に遭いましたよー。ちなみに牛乳が腐ってたんじゃなくて、気まぐれに買った飲むヨーグルトだったってオチなんですけどねっ」

 

「はい、どーも。朝からオチ付きの微エロ萌え話、ありがとうございます」

 

 『え、えろくないですよ!』と頬を膨らませて、割烹着を両手でギュッと握り締め抗議してくる大家さん。

 普通の面相(かお)の俺だったら『はいはいすいませんぬ。大家さんは清純派でしたよね』とか言いながら大家さんの頭を撫でて、大家さんは『そうですよっ、私は清楚でお淑やかななお姉さんなんですからね! あ、あとお姉さんの頭を撫でたりしちゃいけませんっ』なんてラブペロ(ラブコメ+イチャイチャペロペロ)展開が繰り広げられるわけだが。

わけだが!

 そんな展開を望んでいた諸君らには悪いが、今の俺、心の面相(かお)、『怒り』に切り替えてるから。

 アシュラマン的な意味でな!

 

 ああ、憎い、憎くてたまらんぜ……!

 今の俺には何もかもが『怒り』の対象にしかならぬ。

 例えば目の前に対する大家さんの容姿に対しても怒りが湧く。

 何だこの黒髪おかっぱは! ちょっと一部層を狙いすぎじゃないんですかね!

 自分の身長よりちょっと長めの箒を懸命に動かす様子が癪にさわるぜ! 

 そして何だその甘々斎藤○和ボイスは! 耳が幸せになっちゃうでしょ!?

 あとあんた微妙にボディタッチが多いんだよ! 惚れてまうやろ!

 

 ……ふぅ。

 取りあえず胸の内に湧いた怒りを吐き出すことができた。

 さて、本来の目的、大家さんへの追及を始めようか。

 

「ところで大家さん、俺の部屋のことなんですけど」

 

「はい? 一ノ瀬さんのお部屋ですか? えっと……なんでしょう? あっ、もしかしてこの前、庭で秋刀魚を焼いた時の煙が入っちゃってましたかっ? ご、ごめんなさい、今度から気を付けますねっ」

 

 俺の部屋はどうやら風の通り道になってるらしく、よく部屋にいると窓から外の匂いやら声が入ってくる。大家さんの鼻歌なんかも聞こえてくるので、それをBGMにしながら勉強するのも乙なもの。この間なんか『20代前半が懐かしいと感じるアニメソングメドレー』が大家さんの歌声で流れてきて、勉強どころではなかった。

 それはいい。非常にいい。

 お裾分けに戴いた秋刀魚も大変おいしゅうございました。

 

「違います。この前……三日くらい前でしたっけ。俺大家さんに聞きましたよね? 『俺の部屋、ナニカ出るんじゃないですか?』って」

 

「……はて? そ、そんな話しましたっけ? いやぁ、して無いと思いますよ、はい。あっ、確かその時はお風呂に入ってまずどこを洗うか、みたいな話をしませんでしたか? あははっ」

 

 えー、マジで?

 何で俺の記憶分野ちゃん(萌えキャラ。眼鏡かけた金髪ツインテール司書)ったらそんな重要な記憶忘れちゃってるの?

 ちょっと思い出してくれよ。あぁ? 何が涙目で『わ、わたしのデータベースには無い記憶ですぅ……』だ! 可愛いから許す!

 

「しらばっくれないで下さい。あの時の大家さん、態度がおかしかったですよね? ……あの部屋、何かあるんですよね?」

 

「い、いえですから。そ、そんな、ねえ? 親御さんから預かってる大切な息子さんをそんな曰くつきの部屋に案内するわけないじゃないですかっ、あはははっ」

 

 サッサッサと箒で地面を掃きながらぎこちない笑みを浮かべる大家さん。目があちらこちらへ泳いでいる。怪しい。

 額から浮き出た汗がたらりと首筋まで垂れ、僕はいつかこの汗の流れに乗せて素麺流しがしたいんだなぁ(大将風に)

 

「だ、大体何かあるって、何があるんですか? 一ノ瀬さんは何か見たんですか?」

 

 ここだ!

 俺は大家さんの発言に『異議アリ!』の心の叫びと共にその決定的な言葉(証拠)を突き出した。

 

「何か、ね。ええ見ましたよ。この目でハッキリとね」

 

「……ゴ、ゴクリ」

 

「――幽霊、ですよね? 女の子の幽霊、それがあの部屋にいる『ナニカ』です」

 

「……う、ううう……!」

 

 俺の決定的な言葉は、大家さんにダメージを与えたようだ。

 しかし未だ大家さんの眼は敗北を認めていない。

 

「……ゆ、幽霊? あ、あははっ、そんな幽霊なんて、非科学的なものいるわけないじゃないですかー。い、一ノ瀬さんはきっと親元から離れた寂しさで、ちょっと頭がおかしくなってるんですよっ、うんっ。大丈夫です! 大家である私に任せて下さいっ。さ、今すぐ一緒に病院へ行きましょう! 私がついてますから、安心して下さい!」

 

 それ絶対檻のついた病院でしょ?

 やだよ、もー。

 ただでさえ法律(ルール)っつー名の檻に閉じ込められてんだ、シャバでくらい自由にさせてくれよ!

 あ、ちなみにここで俺が病院に行くことを肯定すれば『プリズンブレイカー辰巳! ~第一話 女看守の心の鍵を盗め~』に派生するから。

 まあ、需要ないから派生とかしないけど。

 だって今の日本でそんな煤にまみれた青年がムショから脱走するなんてニッチなもん流行らんぜ?

 やっぱり矢吹神を見習って、みんなおっぱいとかギリギリへの挑戦とかすればいいと思う。

 でも監獄○園は別な。俺あれVシネ辺りで実写化すんの希望してっから! と、思ってたらアニメ化していた。規制とか大変だと思いますけど、頑張ってください。メデューサには期待してます。

 

 大家さんの手が俺の手を包み込むようにギュっと握った。

 温かくて柔らかい。

 

「ねっ、ねっ? 一ノ瀬さん疲れてるんですって。ほら、学校も色々大変なんじゃないですか? 勉強とか、人間関係とか、サークル内の痴情のもつれとか」

 

 まあ、学校が大変というのは概ねあってる。

 何が大変かっつーと、そりゃ友達がいないことですがね。

 遠藤寺だって全ての授業を一緒に受けているわけじゃない(アイツ『中世における拷問史~実践編~』とか常人にはノーセンキューな授業を嬉々としてとってるからな、俺はついていけん)

 だから学校内に一人ぼっちになる時間が結構あるわけ。

 その時に気になるのは周りの視線だよ。『あの人一人よ? 侘しくないのかしら?』みたいな。自過剰とかじゃなくて、実際にかなり向けられてると思う。

 

 ん、いや待てよ? よく考えると大学内に一人でいることなんてそうそう珍しいことじゃなくなイカ?

 いくら友達が多い人間でも、ゼミやら何やらで一人になることもある。

 あれ? だったら何だ俺に向けられるあの視線の数々は?

 ちょっと記憶分野ちゃん、視線向けられた時の音声、再現してよ。

 

『ねー、あの男の子』『あ、知ってる。あのフリフリ女といつも一緒の子だよね』『遠藤寺さんだっけ、カワイイけど痛いよね』『痛い痛い』『拙者、遠藤寺殿に骨折しやすい部位をバットで殴られたいでござる』『あんな子と一緒にいるってことは、多分あの子もちょっと変なのかな』『多分ねー。類は友を呼ぶって言うらしいし』『せ、拙者の同類でござるか! フォヌカポゥwww』

 

 あ・い・つのせいかよ!

 ざっけんな! 通りでただ教室の場所聞いてるだけなのに引き気味な態度ばっかとられてると思ったわ!(その時は前向きに、俺が放つモテオーラが逆に近寄りがたいのかな、って思っといた)

 悪いが俺のモテルート開拓の為に遠藤寺には一人で4年間を過ごしてもらうか。

 あ、でも……オレ、トモダチノツクリカタ、ワカラナイ……ウゥ。

 いつか現れる(と思われる)多数の友人たちか今いる可愛い(けどちょっと変)な異性か……。

 よし、とりあえず保留で。

 

「そ、そうですよ。幽霊なんているわけないですよ? 幽霊なんてないさーふんふんふーん」

 

 ピューピュー口笛を吹きながら目を逸らす大家さん。

『疲労が精神に負担を~』とか『統合失調が~』とか『不思議なアリスが~』とか『TSUTAYAの延滞金が~』とか言い訳がましく述べ、話を誤魔化そうとしているはまるっとお見通しだ。

 

 はぁ、こうなったら仕方がない。

 ここは大家さんをおもむろに押し倒し、『そのピーピーとやかましい口を綴じナ。閉じネェなら俺の口で塞いでやんヨ。後はあんたの謎(ボディ)に聞くだけさ』って感じのニュー探偵スタイルで行くか……。

 ところで着物の下は何も履かないって言うけど、大家さんの場合はどうなんすかね。

 あ、いや別にいやらしい気持ちで考えてるわけじゃないけどね。

ほらあくまで学術的好奇心っていうか……俺文系だし(文系ならしょうがない)

 

「あのさ、大家さん。ネタは上がってるんですよ。色々と周りから聞いたんですけどね……あの部屋、俺が越してくる前にも『出た』らしいじゃないですか」

 

「はわわっ、ど、どこでそれを!?」

 

 いや、まあどこっつーか、その幽霊本人なんすけどね(笑)

 本人の発言だから、恐ろしく信憑性がある。

 本人曰く、俺の前にも色んな人間が入居してきて、彼女の姿を見て退去していったらしい。

 

「今まで越してきた人、みーんな速攻で出てったらしいじゃないですか。で、みんな言ってたらしいですね?」

 

「い、いや、ち、違うんですよ……」

 

「とぼけるのはもう無理ですよ? 出てった人はみんなこう言ってました『化け物が出た』ってね」

 

「はぅ……」

 

 俺の言葉(ダンガン)で論破された大家さんはふらりとよろめいた。

 勝った! 勝ったぞ!

 お部屋の幽霊さんありがとう!(ちなみにその幽霊さん『化け物だなんて酷いと思うよね!』といたく憤慨されておった)

 

 大家さんが俯き、30秒の時が過ぎた。

 俺が勝利の感慨に浸り、DOYA顔を決めていると、大家さんは亀の様な動きでゆるゆると顔をあげた。

 

「……す、ずびばせんでした……!」

 

 ひっでぇ顔だった。

 顔はりんごみたいに真っ赤だし、両の目からは濁流の様にボロボロと涙がこぼれ落ちている(俺はこの光景を『大家さん悲しみの滝.jpg』として記憶野に保存した)

 

「ご、ごめんなさい……っ! 嘘ついてっ、ぐすっ……本当にすいませんでした……!」

 

 あーあー泣ーかっしたー、こんなちまい子泣かしよったー。

 俺は小学校の終わりの会で『一ノ瀬君が私のことずっと見てくるんです……うぇぇぇ』とちょっと心当たりがなさすぎる冤罪をかけられたことを思い出した。

 まあ、あの頃は『一ノ瀬を陥れる会』みたいなんが発足してたからな……小学生の俺は一体何をしたんだろう。

 

 大家さんはボロボロ涙を流したまま、俺に突撃してきた。

 すわ自滅覚悟の特攻か、と構えたものの、大家さんは俺の腹に顔を埋めただけであった。

 

「あ、謝りますから……! だ、だから出ていかないで下さいっ! お、お願いですぅ……!」

 

 グリグリと俺の腹に顔を押し付けてくる。

 今俺のTシャツ(ユニクロ産980円)は大家さんの流した涙やら鼻水で、べっとべとの透ケルトンTシャツに進化しているだろうが……不快感は無かった。

 むっさい男の鼻水が手に付着したら速攻でその手を切り落とすけど、それが美少女の物なら……な?

 

「へぐっ、えぐっ……」

 

 全く、泣いてる女の子には適わねえーな。

 

 俺の心の面相は怒り面から慈愛面へと切り替わった。

 慈愛に満ちた今の俺は、目の前の存在が愛しくてしょうがない。

 俺の腹に顔をうずめ、涙やら鼻水を擦りつけてくる大家さんに対し仏スマイルで対応、仏掌で頭を撫でる。

 やれやれ、命拾いしたな……。

 今の俺が慈愛面でなく怒り面であったなら……グーで顔殴ってたよ?

泣いてるとか美少女大家さんとか関係ねえ、『オゴォッ』とかリョナ好きな悲鳴をあげさせて。

 しかもただのグーじゃない。

 母親から貰った頑丈な腕時計を巻きつけたグーだ。美少女を時計パンチした時、俺はもう一つ上の段階にいけるかもしれない(その時には胸を張って、自分の前世がこの世界を統べていた王であることを声高々に叫ぶのだ。んで、前世が俺のシモベとかのたまう電波的な女がやってくるわけ、当然超美少女)

 

「やれやれ」

 

 取りあえず泣いている大家さんを泣き止ませないとな。詳しい話も聞けない。

 

 アパート正面に住む一軒家のオバさん(噂好きのマダム。彼女にかかれば噂は容易く全世界に発信される)が、近所のオバさん連中を集めまくってるが気になる……。

 合体してキングマダムでにもなる気か? ゴールドだけは持ってそうだな。

 

 俺は興味津々なマダム達の視線が集まる中、大家さんをまるで恋人にするように泣き止ませるのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

TSU○AYAまで走って3時間(実話)

 そういえば俺の自己紹介が遅れてたな。ここらで一つぶちかまして差し上げようか。

 え? 野郎の自己紹介なんていらない?

 ふぇぇ……ボク男の子だよぉ……。

 これでいいか?

 

 俺の名前は一ノ瀬辰巳。

 それなりに普通の高校を卒業し、それなりに普通の大学に入った、どこにでもいる普通の大学生だ。

 家族は今年高校に入った妹が一人、豪快な母親(牛乳を煮込んだものに野菜を入れ、それをシチューだとかのたまって食卓に出す)、行方不明の父親(職業冒険家、最後に『群馬に行く』と言ったきり、連絡はない)の4人家族だ。

 現在は親元を離れ、大学近くのアパートで一人暮らしをしている。

 つい最近一人暮らしでなく、二人暮らしであることに気づいたが……その話はおいおいと。

 容姿は普通だと思う(でもそれは一般的な感性であって、俺の中では俺≧キアヌリーブス)

 ただ唯一普通と違う部分を上げるとするならば、年中首に巻いているマフラーだろうか。

 大学進学祝いに妹から貰ったものだが……これ外れねーの。

 絶対呪われてる。

 近くに教会もないし、近所の雑貨屋に解呪石も売ってないんで、取りあえず諦めている。

 趣味はサブカルチャーを少々、リアルタイムで見る深夜アニメはたまらんでゲソ!

 嫌いな食べ物は特にない。が、あえて言うなら牛乳を煮込んだものに野菜をぶちこんだだけの冒涜的な鍋かな。

 彼女いない暦=年齢、つってもほら、別にモテないわけじゃなくてさ、女性と話す機会が無かったていうか、女子が俺の姿を補足するなり『あ、一ノ瀬だ。あの顔見て。あれ絶対私達がチョコくれるとか勘違いしてる顔よ。ふふっ、あげるわけないじゃん、バーカ。泥でも食ってろ』ウワァァァァァァ!

 

 ……ふぅ。

 ま、俺の自己紹介はこんなもんか。

 あ、言っとくけど、俺の個人情報とか漏洩したらマジでキレっから。

 俺キレっとマジみさかいないぜ?

 具体的にはお前ん家の犬『何か常に口からバターの匂いがする』ってご近所さんに吹聴する奥義(ザ・ムラハチブ)お見舞いすっから。

 そこんとこヨロシク!

 しかし個人情報ってのはどこから漏れるか分からんから怖い。

 情報化社会の弊害ってやつだな。

 この間も全く知らない番号から『しまくろファッションです。この度そちらの近くに店舗を新しく展開しまして、近い内に説明会を開こうと思っています。無料で手に入るプレゼントも用意してますので是非、いらして下さいね!』とか超カワイイ姉ちゃんの声で詐欺確定な電話があったわけ。

 しまくろファッションとやら、一つ言っておくぞ……。

 

 俺の部屋にある服――妹が買ってきた服だから!

 自慢じゃないけど自分で買いに行ったこととかねーから!

 もうちょっとリサーチしてから声かけろよ。

 

 

※※※

 

 

「……ぐすっ、すんっ」

 

 大家さんが俺の鳩尾辺りに顔を埋めて、鼻を啜っている。

 やれやれ、やっと泣き止んだか。

 さっきまでわんわん泣き喚いて大変だった。

 

 周囲を見渡すとどこから沸いたか、マダムの軍勢(恐らくこの地域に棲んでる全マダムが集結していると見た)が遠くから俺達のことをOA(オバサンアクション。手首のスナップを利かせ、こちらを煽ってくる行動。主に『ヤァネェ』なんて言葉と共に発動される)しながらジッと見つめている。

 俺は覇気の伴った魔眼を発動し、マダム達を追い払おうとしたが、マダム達のレベルはざっと俺の8倍ほどであり、完全にディスペル(無効化)された。流石はマダム。スーパーで『豚』と呼ばれ半額弁当を荒らしていることはある。

 

 俺が改めてマダム達に対し戦慄を覚えていると、完全に泣き止んだ大家さんが、ゆるゆると俺の鳩尾から顔を離した。

 そしてペテペテと数歩下がり、はにかむ。

 

「……てへへ。は、恥ずかしいところを見せちゃいました……。この歳になってあんなに泣くのは久しぶりです」

 

 真っ赤に充血した目で「そ、それにしても女の子を泣き止ませるのは上手ですね? 今までに何人もの女の子を泣かせてきたんじゃないですか?」とかちょっと話題をずらそうとしている大家さん。

 そんなことよりさっきの大家さんの言葉『は、恥ずかしいところを見せちゃいましたね』って言葉、凄くいいと思う。

 今は『見せちゃいましたね』だけど、そのウチ『わ、私の恥ずかしい所……み、見てください……(裾を自分で持ち上げつつ)』って言葉を聞く方向で行こう。もちろん俺の部屋でな。

 

 大家さんは照れ顔から、真面目な表情に切り替え、ペコリと頭を下げてきた。

 

「……すいませんでした。今まで黙ってて。本当に……ごめんなさい」

 

「いえ、俺もちょっと言い方が悪かったって言うか……大家さんを追い詰める様な言い方になってしまって、反省してます」

 

 してねーけどな。

 それどころか大家さんの泣き顔見れてラッキーとか思ってるし。

 おっといけねえ。これ以上いらんことを考えると俺の性癖が『泣き顔フェチ』であることがバレてしまうな!

 え、泣き顔のどこがいいかって? ……零れ落ちた涙が鼻筋を通って首までたどり着く光景とかマジ幻想的じゃん。

 

「じゃあ、聞かせて下さい。あの部屋のこと」

 

「はい……で、でも」

 

 大家さんが上目遣いでチラリと俺を見上げてくる。

 何を考えているのかはすぐに分かった。

『あの部屋の秘密を知っても……私のこと好きでいてくれる?』

とかそんな感じだろう(多少恋愛寄りの思考)

 

「別に聞いたから『ハイ、じゃあ出て行きますね』なんて言わないですから。そもそもこんなに安い部屋他にないですし」

 

 あと大家さんカワイイし。隣人がまるで死んでるかの様に静かだし。いつも飴くれる小学生住んでるし(全く、最高な小学生だぜ!)。まあ、マダムのボス的存在がアパートの目と鼻の先に住んでるのがネックだな。それ以外はよし。

 できれば近くにT○UTAYAの一軒は欲しかったなってのが本音だけど。

 そしたらそこのAVコーナー商品を全網羅して『禁書目録』なんて二つ名で恐れられるのであった~一ノ瀬辰巳パーフェクトガイドブック P32~より抜粋。

 

「それを聞いて安心しました。一ノ瀬さんが出て行ったら……私とっても寂しいですから」

 

 「な、なんちゃって、えへへ」なんて照れながら上の台詞をおっしゃる大家さん。

 ……え、嘘、マジで?

 これってちょっと俺に惚れてる系じゃねーの? い、いやそんなのありえるはずがない……でももしかして……もしかしてワンチャンあるかも? たまたま大家さんが俺みたいな男がタイプな趣味の悪い女の子だったとしたら……ありえる。

 

 ヤダどうしよう……。好かれてるかもしれないって思ったら、何かますます大家さんが可愛く見えてきた……。

 家事万能で性格もよくてナイスバディ(人によっては)な女の子か……俺この子と結婚するわ。

 もうこれでルート確定やな!

 

「このアパートでゲームの相手してくれるの一ノ瀬さんだけですし。いなくなったらすっごく困ります」

 

 まあ、分かってたけどな!

 いや、本当に。

 この世で俺にLOVE光線向けてくる女の子なんていやしねえのは、この世界に生れ落ちた時点で分かってたことだし。

 だから痛くも痒くもないね。

 ただちょっと……胸の辺りがチクンとする、それだけさ。

 そうだ、この気持ちを歌にしよう……世界中の俺と同じ様な人間に送る歌を……題名は『童貞っていいな』で。

 そしてどっかの動画辺りで初音ミクに歌わせたこの歌が大ヒットするわけ。

 メディアでも取り扱われ、俺ん所にも『あの素晴らしい歌の作曲者』みたいな煽りでテレビカメラが来るわけ。

 え、あの曲を作ったきっかけですか? ……ええ、昔僕が怪我をして入院した時にある一人の女の子と出会ったのが始まりですね……。彼女の病は重く、しかし彼女はそれを感じさせない明るさで……。え? 事実と違う? いいんだよ、みんな美談が大好きなんだから、捏造しても。

 

 俺は試写会で大爆笑をお見舞いする予定のギャグ(今のところ、俺の名前の辰巳を『タッチミー』って感じで捻るギャグを土台としている)を考えつつ『で、俺の部屋のことなんスけど』という顔で大家さんを見た。

 大家さんは少し躊躇している様子で、それを振り切るかのようにぷるぷる首を振り、話し始めた。

 

「……はい。あの部屋、104号室にその……幽霊、さんが出始めたのはは4年ほど前からです」

 

 そうなのか。

 てっきり何十年も前からあの部屋に住み着いているとばっかり。

 ちなみに大家さんは俺と同じく、全く霊感がないようで、今まであの部屋で幽霊自体を見たことはないらしい。

 つーか幽霊さんって。

 幽霊にもさんを付ける、そういう所すごい大家さんっぽいけさぁ……。

自分よりも明らかにロリ(年下)にさん付けるってのはねぇ……いや大家さんも同じロリではあるけど。

 ただちょっと違うのは俺にとって、大家さんは裸を見たくなるタイプのロリだけど、あの幽霊の裸は……まぁ、あれもあれでいい物だな。

 つまるところロリは正義ってことだな!(真理)

 

「今年に入ってからも、突然入居者の人が出て行って。それからすぐに新しい人が越して来たんですが、その人も三日と経たずに出て行って……それが何回も続いていたんです」

 

 三日、か。

 随分と早い。三日坊主ならぬ、三日退居ってやつだな。

 

「それでその内、『何かが出る』って噂が流れ始めて……あの部屋に越してくる人が誰もいなくなりました。幸い他の部屋の人達は噂とか気にしてないって言ってくれたんですけど。でもずっと部屋を空けておくと、噂が加速していくと思って、何とかしないとって考えて……」

 

「で、1万円ですか」

 

「……ハイ」

 

 

 大家さんは申し訳なさそうに俯いた。

 相当切羽詰っていたのだろう。アパートの一室がいつまでも空いている、ついでに妙な噂付きで。そんなことが広まったら、将来的に他の部屋にも越してくる人間がいなくなるだろう。

 故に取りあえず誰かを住まわさなければならない、だからこその1万円(エサ)か……。

 そしてそのエサに釣り上げられた俺。

 

 しかし分からないのが、『あんな幽霊』にビビッて出て行く奴らだ。

 あんなチビっ子幽霊(カワイさ当社比3倍)に「う、うらめしや~」なんて迫られても、「かわい~い」なんてほのぼのとした気持ちになるだけだろ。

 前住んでた奴らどんだけチキンなんだよ。

いや、チキンなんて言ったらチキンにも失礼だな。

 よし、この鮭野郎!

 え、何で鮭? ああ、俺が遠足の時に妹が作ってくれた鮭弁当を一人で食ってたら、トンビがヒューって飛んできて、やっこさん俺の弁当箱から鮭のみを奪い飛んで行ったのよ。俺思わず『ヒューゥ』なんてセクシーな姉ちゃんに愛用する口笛をしちゃったの。

 その時悟ったね。鳥>魚ってな。

 それ以来俺、水棲系のモン娘(モンスター娘)から鳥系のモンスター娘に乗り換えたわけ。

 ンー、ハーピーは正義!

 

「あの、その幽霊のことなんですけど」

 

「や、やっぱり怖かったですか!? だ、大丈夫です。今まで騙していたお詫びですっ、私が一ノ瀬さんのお部屋に寝泊りしてその幽霊から一ノ瀬さんを守りますっ」

 

 そいつはグッドな提案だ。つーかそれでよくね?

 同じ部屋で過ごす二人、その距離は様々なイベント(主に風呂トイレでの遭遇)を経て接近していく。

 そして結ばれる二人。

 後はアパートという閉じられた世界の中で蜜の様な甘くドロドロした日々を過ごしていく……。

『大家さん。ジッとしてて下さい。今ティッシュで拭きますから』

『もぅ……いつまで大家さんって呼ぶ気なんですか? こ、こんな事までしておいて……』

『分かりましたよ。……大家。ハイこれで満足ですか? ……あっ、ちょっとそんな急にそこはまだ敏感(略』

 ……ふぅ。

 

「その幽霊のこと詳しく知りたいっていうか……今まであの部屋に住んでた人の話とか聞きたいんですけど」

 

「敵を知り、己を知れば何とやら、ですね!」

 

 何言ってんだこの人。

 何でちょっとドヤ顔なの?

 いや、可愛いからいいんだけど。

 

「分かりました。今まであの部屋を使っていた人達、ですね。私も越していく前にちゃんと何があったのかは聞いておきましたから、大丈夫ですっ」

 

 そうして大家さんは、俺の前にあの部屋を使っていた連中(鮭野郎)のことを語り始めた……。

 

 

※※※

 

~戦場帰りのニック(37)の場合~

 

 ん? ああ、なんだ、またあの話を聞きたいのか?

 はっ、あんたも物好きだな。いいぜ聞かせてやるさ、何度でもな。

 俺がこのアパートに来た理由は知ってるな?

 ああ、そうだ。あの戦場に生き残ったからだ。

 あの硝煙と血の匂いに満ちた戦場。

 俺はあそこで生き残った、生き残っちまった。

 本来なら俺はあの戦場で死ぬ運命だった……マイクがいなけりゃな。

 ああ、マイクはいい奴だった。

 マイクの話すジョークはいつも俺たちを楽しませてくれた。

 あのジョークはもう一生聞けねえ……一生な。

 あの塹壕の中、俺とマイクは二人きりだった。

 弾丸がすぐ側を跳ねる穴蔵、俺たちは気楽にもタバコを吹かしていた。

 いつものことだって、ヘラヘラしながらな。

 ただ、まあ、そうやってヘラヘラ過ごして来て、残ってるのが俺とマイクだけだった。

 俺たちは分かってたんだ、次に死ぬのはどちらかだって。

 俺は別に死んでもよかったよ、俺みたいなクズはどうせ戦場から離れても生き場所はねぇって。

 マイクには才能があった。生きる才能がな。

 だから俺はマイクに生き残って欲しかったんだ。

 でもマイクは死んだ。

 俺を庇って死んだ。俺みたいなクズをな。

 それから俺は生き残ってこの国にやってきた。

 何のことはない、マイクが生前この国に来てみたいって言ってたからさ。

 特に目的もなくこの街にやってきて、ただ安いってだけでこのアパートを借りた。

 アパートを借りたその夜、俺は暗がりの中に何かを見た。

 最初俺はそれがマイクの亡霊に見えた。

 あまりにも不確かで、朧気だったからだ。

 だが違った。

 あれは、俺が見たあれは……死神だった。

 血塗れで濁った瞳の女……死神だったんだ。

 俺はすぐにそいつの目的が分かった。

 やっぱりあの戦場で死ぬのは俺だった。

 が、何の手違いか代わりにマイクの奴が連れていかれちまったんだ!

フ○ック!

 俺は怒りに任せて懐のベレッタを死神に撃ち込んだ、全弾をくらわせてやったさ。

 が、死神の奴ピンピンしてやがる。

 生憎俺はビル・マーレイじゃない。

 次の日、俺はそのアパートを出た。

 当然生きる為さ。死神から逃げる、その為にな。

 俺は生きる、マイクの代わりに。

 アイツがしたかったことを全部俺がやるんだ。

 死神になんて負けやしない。

 話はこれで終わりさ。

 さ、俺はそろそろここを離れるぜ?

 そろそろ死神の奴に嗅ぎつかれるだろうからな。

 次の目的地?

 ああ、何だって言ってたかな……アキ、アキバハラ? 

 確かそんな地名だ。

 それが終わったら……一度故郷に帰ってみるかな。

 キャロラインにプロポーズの答えをもらってないからな。

 じゃあな、酒美味かったぜ。

 

 

 

~クローズドサークル大好き五反田弘(45)~

 

 ……またあの話か?

 もう私はあの件とは関係が無いと何度言えば分かるんだ!

 ええい、もういい分かった!

 これが最後だぞ?

 そして何度も言うが、この話の出所が私であることは絶対に外部に漏らすな。

 あの日、私はとても気分が悪かった。

 ミステリー小説大好きオフなんてものに参加したのがそもそもの間違いだった。

 どいつもこいつもミステリーが大好きだとほざいておきながら、何だ!

東野圭吾? アガサ? 

 馬鹿馬鹿しい! 他にもっと読むべきものがあるだろうに!

 特にあのゴスロリ服を着た変な女と来たら……この私を『自分が認めたものしか読まない狭量な人だね。そんなんで人生はつまらなくないのかい?』などと……!

 

 私はその下らない集まりを早々に見限り、帰宅した。

 そこそこ綺麗に掃除された廊下を通り、自分の部屋へ。

 ふと、自分の部屋であるはずのそこが、どこか別の場所の様な気がした。

この感覚はどこかで感じたことがある。

 そうだ。これは某有名ミステリーの舞台になった山荘へ泊まった時の感覚だ。

 あの山荘には昔本当に殺人事件があり、小説はその話を元にしたと聞き、恐怖と好奇心が混ぜこぜになった、あの素晴らしくも寒気が走る……あの時の感覚だ。

 なぜ私の部屋で……。

 私はここで引き返すべきだった。

 しかし愚かにも私は六畳間に何の心構えもなく入った。

 そこにあったのは死体であった。

 血まみれの少女の死体。

 銀色の髪に血が染みこみ、不思議と綺麗に思えた。

 少女に近づく。

 小説の文章では伝わらない、濃密な『死』がそこにあった。

 私は不謹慎にも、笑っていた。

 死者を笑う、それは何と冒涜的な行為だっただろう。

 しかし、その時の私は嬉しくてしかたがなかった。目の前で少女が死んでいる、そして私の部屋で。まるでミステリー小説のようだ。

 その時、私は確かに『探偵』だった。

 部屋は密室、現場にある痕跡、遺体に残されたメッセージ。

 私は定石通りそれらを調べ、瞬く間に犯人を特定した。

 密室であるこの部屋に入るためには、私が持っている鍵がいる。

 現場に荒らされた形跡はなく、この部屋の住人もしくはそれらに近しい人間が怪しい。

 遺体の首には手の型……絞殺だ、手の大きさから推定して、一般的に男性か。

 ふと、私は何気なく自分の手を見た。

 手には無数の引っ掻き傷があった。首を絞めた犯人の手につく傷が。

 犯人は私だった。

 探偵の私は犯人でもあったのだ。

 私は犯人を見つけた喜びと自分が犯人であったことの絶望をミキサーにかけた様な悲鳴をあげた。

 気付けば私は包丁を持っていた。

 そうか、遺体の血は殺害した後にこれで刺したのか、なるほど。

 私は遺体を見た。

 遺体は立ち上がり、こちらをジッと見つめていた。

 血にまみれた美しい少女だ。

 私が殺した美しい少女だった。

 少女の口が動き、こう呟いた。

 

「い た か っ た よ」

 

 私は逃げ出した。

 そしてそのまま帰ることはなかった。

 あれから時間が経ち、私は今も少女から逃げている。

 本当にあれは私がしたのか、それともただの幻だったのか。

 それを確認する術もなく、私は逃げている。

 ……。

 これで終わりだ。

 くれぐれも言っておくが、この話は……。

 あ、ああ、ああああああああああ!

 いる! そこに少女が! 私が殺した少女がいる!

 い、いやだ!

 ここはあの部屋なんだ!

 こんな部屋になんていられない! 私は出て行く!

 

 

※※※

 

 他にも『窓に! 窓に!』とか叫んで消息不明になった人やら、一緒に住んでた恋人に『ここは俺に任せてお前は逃げろ!』とか行ったきりやっぱり行方不明になった人の話が続いた。

 

 その人たち今もリビング(生きてる)してるんでしょうねぇ。

 話を聞いた俺の感想がそれだった。

 つーか俺がいる104号室と話で聞いた連中の104号室って同じ部屋か?

 平行世界かなんかじゃねーの?

 登場人物(ゆうれい)がちょっと別人過ぎやしませんかね。

 おばけ(舌っ足らずな声で)とAKUMA(デスボイスで)くらい違うんすけど。

 

「俺の部屋にはとんだ化け物がいるようですな」

 

「大丈夫ですっ、私に任せてください! こう見えても私、幽霊とかには強いんですよっ」

 

 バンバンと架空の銃を撃つジェスチャーをする大家さん。

 それってゲームですよね。

 現実(リアル)に妄想(ゲーム)持ち込むとか……ちょっとひく……。

 そもそも幽霊とか銃きかなくね?

 ここはやはり俺の『カポエラン』がベールを脱ぐ展開か……。

 滾ってくるぜよ……!

 

 大家さんといかに効率よく幽霊をぶちのめすか談義をしていると、ちょっと洒落にならない時間になってしまったので「スイマセン。ちょっとアレ(講義)がコレ(遅刻)なんで……」とジェスチャー付きで話を中断する。

 若干寂しそうな大家さんの笑顔と、手をヒラヒラと振られつつ「頑張って勉強してきてくださいね!」の声援を受け、俺は大学に向かうのだった。

 アパートの門を出るとマダム達の『ヒューヒュー』って囃し立てる声がマジうぜぇって思った。

 あと、マダム達の中に紛れていた小学生に貰った飴が超うめぇって思った。

 そんな飴を食べられる俺って特別な存在なんだなぁって思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

コンビニまで全力疾走4分(ただし衣服は着用しないものとする

 大学に着き、早足で大教室に向かうも、時既に遅し。

大教室のドアは両開きに開かれており、そこから授業を終えた学生達がぞろぞろと吐き出されていた。

 俺は何となく、その光景は朝、電車のホームで見る光景に似てるなって思った。

 どっちも吐き出される人間が気だるそうな顔してるし。

 

 そんな有象無象の生徒の中、明らかに周りから浮いている生徒がいた。

 まあ、遠藤寺である。

 遠藤寺の周りはエアポケットの様に、ぽっかり人がいない部分が存在するので、非常に分かりやすい。

 俺が「おーい遠藤寺!」と声をかけると、遠藤寺じゃない奴ら(ザ・モブの人達)がギョロリとこちらに視線を向けてきたので、俺は『あァ? 誰だよでけぇ声出してんのは?』みたいな顔で後ろを振り返った。

 視線を向けてきた連中のそれが俺の後ろへと流れていく。

 その隙に俺は雑踏をスルスルと抜け遠藤寺へと接近した。

 これぞ奥義!……あ、いや何も浮かばねぇ。

 

 遠藤寺は両開きのドア辺りで立ち止まり、首を傾げながら周囲をきょろきょろと見渡していた。

 ここで俺が背後から忍び寄り『だ~れだ?』みたいな中性的な声を出しつつ胸を鷲掴み、遠藤寺が『キャッ、もうっ、たっちゃんたら! え~い、私もこうだ!』なんて俺の胸を鷲掴み。そうすることで百合の花が咲き乱れ、この学園に新たなサークル『ゆるゆり部』が発足したら……勿論入ってくるのは女の子、しかも同性にしか興味が無い子ばっかり。

 俺や遠藤寺、そして新しく入ってきた女の子達でキャッキャウフフな毎日……それって凄く淫靡だなって。

 しかし、俺はいくら中性的だといっても男に変わりは無い。

 俺が女の子だと勘違いして入ってきた女の子達にもバレてしまう(合宿とかで)が、俺達にとって性なんてものは既に超えてしまっていた壁だった。

『辰巳先輩! わ、わたしのお姉様になって下さい……!』

『で、でも僕……男の子だよぉ』

『そんなの関係ありません! 偉い人にはそれが分からないんです!(そーだそーだ、と他の女の子達の囃し立てる声)』

『だったら行こうか? 僕たちの……境界線の果てに!』

 

~ご愛聞ありがとうございました! 一ノ瀬先生の妄想が聞けるのは俺の脳内だけ!~

 

 ……ハァ、やれやれ。

 また新たなルートの可能性を見つけてしまった。我ながら人生の開拓に余年がないな……。

 よし、まずは俺が中性的にならないとな。

 よくよく考えると俺ってかなり中性的だし。

 高校の時にやったメイド喫茶でも何やかんやで女装してメイドさんすることになったし、みんなから写メとられまくりで、文化祭が終わった後も『おい一ノ瀬お前またメイドさんやれよ』とか言われる始末。おいおいクラスメイツ、今は授業中だっての! こーら、脱がすなって。もう先生もよそ見してないで止めてくださいよぉ。ンモー、女物の下着は流石に勘弁だよぉ~。

 

 

「……ん? 何やら鳥肌が立つほどのおぞましい情念を感じたかと思えば……君か」

 

 遠藤寺が振り返って俺を見た。

 ふんわりヘアーとその上に乗ったリボンがフリフリ揺れた。

 

「で、どうしたんだい? こんな時間に。もう授業は終わってしまったよ。てっきりサボったものかと思って、君の分のノートも取っておいたんだが」

 

「それは貰っとく」

 

 友達想いのフリフリガールだ。ここが欧米なら感謝のキッスを差し上げるところだが、残念ながらここは日本。日本はハンバーガーとか火縄銃とか輸入する前にまず、挨拶にキッス制度を取り入れるべきだったと俺は言いたい。

 

 今日のファッションは水色を基調とした涼しげなロリファ(ロリータファッション)だ。アクセントの白が目に優しい。ズバリ! テーマは青空と見た!

 赤い口紅が太陽みたいでベネ!

 

 出入り口であるドアの前で立ち止まっているので、周囲の視線がかなり痛い(てめえら超邪魔みたいな)

 俺は不特定多数に視線を向けられると吐いちゃうタイプ(だから泣く泣くアイドルは諦めた)だから、勘弁して欲しい。

 取りあえず遠藤寺のすべすべした手を掴み、いつもの食堂へと向かった。

 

 食堂のいつもの席へ。

 俺は早々に席に着くが、遠藤寺が座る気配がない。

 椅子の傍に立ち、何やら興味深そうな表情で自分の右手を見ている。わきわきと開いたり閉じたり。

 

 何だ? 右手が自我でも持ったのか?

 あ、いいなその設定。

 ある日自我を持った右手に振り回される毎日。んでそのウチ他にも体の一部に自我を持つ人間とかが現れて、まぁバトル展開だな。

 部位を生かした攻撃とか、そのウチ能力とかも出たり『全てを食らう右手オールイーター』『語りすぎた二枚舌ダブルトリック』『翼のない肩甲骨フォーリンエンジェル』『制御できない目オプティックアイズ』『暴れ尻(ヒップヒップヒップ!)』……みたい、な?

 これで一本書けるか……いや、まだ煮詰めたりないな。

 取り合えず妄想脳に保管しておこう。

 

「ミ、ミギィ……ぼ、防御頼む」

 

「……」

 

 既にプロローグまで考えた俺の妄想小説の名台詞に、全くツッコミを入れる様子がない遠藤寺。

 無視? いや、別に無視されようがどうってことなウワァァァァァァァッ!

 やめて! 無視せんといて! 俺ただでさえ少ない友達に無視されたら寂しさパンデミック!

 

 一ノ瀬を殺すには寂しさを与えてやればいい~一ノ瀬史十章 永遠のライバル、ザ・デスキングの言葉より抜粋~

 

 遠藤寺は俺が触れた部分をさすさすと擦っている。

 

「……異性に腕を握られたのは初めての体験だ」

 

 え~、何その聖処女メイデン発言。

 女に幻想抱いてる処女厨にはさぞ受けるわな。そうやって人気稼ぐのが遠藤寺のスタイルってわけだ。

 じゃあ俺も言ってやんよ。

 

――女の子の手握ったのとか初めてっ!

 

 ンー? 言ってみたのはいいが、これ人気出んのか? 何か自分で言ってて哀れみを感じるわけだが……。

 あ、ちなみに妹相手ならいくらでも手とか足とか考えうる握れる部位は全て握ったことあるが、まあノーカンだろ。妹相手だしな。

 

「男性の手は思っていたより、ゴツゴツしているんだね」

 

 未だ手を擦る遠藤寺に「そうかい。まあ取りあえず座れよ」と言い急かすようにテーブルを揺らした。

 遠藤寺は「……ん」とかちょっと普通の女の子っぽいトーンで言いながら、席に着いた。席に座るも、まだ俺に握られた方の手をニギニギと開いたり閉じたりしている。

 

「……ふむ、ふむ。なるほど……ほうほう」

 

「何だよさっきから、気色悪い」

 

 ホーホーってお前は梟かよ、と続けようとしたが、流石に女を鳥呼ばわりするのはどうかなって思ったんでやめといた。

 ここで遠藤寺が『……ニャン』とか言ってたら、おいてめぇは猫ちゃんかよ。かわいいにゃん!って言って差し上げるんだがな。

 遠藤寺に猫耳か……。既にゴスロリファッションでかなりキャラ稼いでるのに、その上猫耳は……いや、最近はミニスカ・ブレザー・マント・金髪・ツインテール・ロリ・鬼畜・ドS・眼鏡・貧乳・魔女という要素を纏めて詰め込んだ化物みたいなキャラがいるし、問題は無いか。

 

 俺の気色悪い発言に、遠藤寺は『ムッ』と眉をひそめた。

 

「気色悪いとは心外だね。今ボクは異性に始めて腕を握られ、若干の戸惑いと共に仄かな羞恥心を感じているのだが……それを気色悪いの一言で済まされるのは、正直寂しい」

 

 んな自己分析し過ぎな女には萌えねえーよ。

 こいつどんだけ客観的なんだよ。

 大体羞恥心感じてるなら感じてるなりで、大家さんまでとは言わないけど頬染めたり……あ、よく見たら赤い……つーか桃色?

 や、やだ何その反応……かわいいにゃん!

 

「まあ、この感覚については後ほど家に帰ってからゆっくり考察してみるとするよ。……それで、どうだい?」

 

 さて、本題だとばかりに遠藤寺は切り出した。

 

『どうだい?』

 

 あぁ? 何がだよ?

 俺こいつのこういう主語抜きで、いきなり『君は分かってるだろうけど』みたいな話の始め方、結構嫌い。

 これってさ、つまりあれだろ。

 あくまでも主観的な考え方だけどさ、会話ってのは武士同士の決闘みたいなもんじゃん。

 礼に始り、切り合う。そして敗者に礼、それで終わるわけ。

 会話もさ、主語(礼)って超重要。

 それがこいつの場合はあれだ。

 いきなり出会い頭に『パウッ』って切りかかっちゃう。そういうのって凄く冒涜的だよな。

 現在に生きる武士もののふである俺はコイツに一言言ってやりたい。

 

『お主! それではあまりにも人の道から外れていなイカ!』

 

 ってな。……あれ? おかしいな。何かイカ娘っぽくなったぞ。

 つまりイカ娘=武士?

 イカ娘は武士だったんだよ!

 いや、俺は常々思ってたよ。あの凛とした立ち振る舞い、義に対する厚 さ、人を思いやる心――イカちゃんこそが現在の武士だ!

 俺なんかせいぜいが足軽だヨ……。

 

 俺が思春期の足軽らしく被った傘の角度なんかに悩んでいると、遠藤寺は「ふむ」と首をかしげた。

 

「どうやら、主語もなしにいきなり本題入ったことが気に障ったのかい? だったら謝るよ」

 

 え、何で俺が考えてること分かんの? ニュータイプ? 見聞色? ダービー?

 

「でもボクの言い分も聞いて欲しい。確かに君の思う通り、会話における一連の流れは重要だ。でもこうは思わないかい? 大学生活というのはそれこそ湧き出る泉の様に時間が有り余っている。でもいくら有り余っていても大学生活にもモラトリアム、時間は有限なんだ。時間の泉はいつか枯れる。ボクはできるだけ君との会話を長く楽しみたい、この大学生活の内にね。だからこそ、できるだけ言葉を省きつつ、たくさん話がしたい。これはまぁ……一種の乙女心とも取れるかな」

 

「お、おう……」

 

 やっべ、何言ってんのか分からんね。

 え、モラトリアム? 神器か何かの名前? 二階級神器《モラトリアム》とか?

 カッコいいじゃねえか……。

 

 えっと、要するに『もっといっぱい色んな話がしたいから、つい言葉が足りなくなっちゃうの、ごめんにゃん』(cv水橋)ってことか?

 ああ、そういうことね。

 

「おーけー分かった。よしお前の言い分は分かった。じゃあズバっと本題に入ろう」

 

「あまり伝わった気がしない様な……まあいいか。ん、じゃあ改めて本題に入らせてもらおう。……どうだい?」

 

「何が?」

 

「え、いやだから……え?」

 

 遠藤寺が『え? コイツマジで?』みたいな目で見てきた。

 

「その……君がボクをここまで引っ張ってきたのも、その話をする為なんじゃなかったのかい?」

 

 別にあのまま教室の前にいたんじゃ、周りの視線がウザかったからだ し、ここに来たのは他に行く所が無いからだけど。

 そういう旨を伝えた。

 

「うーん、昨日君の話を聞いて、夜中まで色々考えていたのが馬鹿みたいだ」

 

「考えていた? 何を?」

 

「……君の部屋に出たっていうナニカの話だよ」

 

「ああ、それか!」

 

 ああ、そうだったそうだった。

 そう言えば今日はコイツにそのことを話そうと思ってたんだっけ。

 何か結局部屋の幽霊も拍子抜けするほど怖くなかったし、すっかり忘れてたわ。

 

「ああ、そうそう。その話をしようと思ってたんだ」

 

「……本当かい? 忘れてたんじゃないのかい?」

 

 ただでさえ鋭い目を更に細めて視線を向けてくる遠藤寺。

 視線が物理的作用しそうだ。

 具体的に言うと俺の体に穴が開く。

 

 俺が「マジでマジで」と頭の足りない高校生の様に連呼していると、遠藤寺は「はぁ」とため息をついた。

 

「分かった。それで、結局どうだったんだい? 何か見えたのかい?」

 

「ああ、見えた見えた」

 

 俺は昨日自分の部屋で見たものについて語った(全裸云々は抜きで)

 

 遠藤寺は少し驚いたように目を見開いた。

 

「……本当に幽霊が? どれ、ちょっとこの紙に書かれた模様を見て、それが何に見えるか答えてくれないか?」

 

「いや、俺正常だから。それ綺麗なチョウチョに見えるから」

 

 唐突にロールシャッハテストを繰り出してくる遠藤寺は、一回マジで自分で受けた方がいいと思う。ちなみにロールシャッハテストは対象が正常か異常であるかを判別するテストみたいなもので、見せた模様が何に見えるかでまともかそうでないかを判別するのだ。ここだけの話、チョウチョに見えたのは嘘で、スク水幼女がプールから上がって座った後の地面に残ったお尻の形に見えたが……みんなには内緒だよ?

 

 遠藤寺は興味深そうに、頷いた。

 

「いや、何と言うか……幽霊か。本当に存在していたとは。その眼鏡もてっきりただの伊達眼鏡とばっかり思っていたけど……いや、世の中まだまだボクの知らないことは多いね」

 

「何だと」

 

 すっかり俺の一部分になった眼鏡様に大して何たる言い様。

 お前マジで眼鏡様ディスってっと、眼鏡の縁の部分がゴキ○リでできてる特注眼鏡がサンタさんから漏れなくプレゼントしちゃうぞ?

 形状記憶ゴ○ブリ。あれ、もしかして俺とんでもない存在生み出しちゃった?

 世界大丈夫?

 

「さて、本当に幽霊が出て、君の頭もしっかりしている……はず」

 

「いや、しっかりしっかりしてるから」

 

「と、なると幾つかのプランを破棄。残るは3つほどか。精神に異常をきたしている方向の方がやりやすかったんだけど……」

 

 頭がパーの方がいいとか、どんな友人だ。

 俺なんでこんな友達しかいねーの?

 ギャルゲに出てくる女の子の好感度教えてくれる都合のいい親友みたいなのいねーの?

 あ、でも最近は妹とかが教えてくれたりするんだよな。

 ウチの妹、教えてくれるかなぁ……無理だよなぁ。

『兄さんを好きな人の好感度? ゲームの中の女の子ですか? それともアニメの? え、現実の? ……まだ現実に未練があったんですか? てっきり既に見限ったものかと』

 俺だって自分の子供とキャッチボールがしたいんだい!

 

「3つあるプランの内、選ぶのは君だ。さて、まず一つ目だが……」

 

「だから何の話だよ?」

 

「何のって……君が置かれている状況を改善するプランだよ」

 

 え、それを夜遅くまで考えてたのか……?

 何この子、めっちゃいい子やん……。

 こ、今度こそ俺に気があったり……あ、でもただの勘違いだったら……。

 

「どうしてそこまでしてくれるんだ……?」

 

「どうしてって……君のことが好きだからだよ」

 

 ルート確定!

 大家さんなんていらんかったんや! 遠藤寺最高や!

 

 はぁ、改めて見ると遠藤寺めっちゃ可愛ぇ。

 (多分)服の下にある若干ムチっとした体とかマジ天使。

 そして一ヶ月共にいながら全く手を出す気配の無かった俺、マジ我慢強い。

 つまり……俺が……最高ってことなのか? 俺ルートも探しておくか……。確実に平行世界とか絡んでくるルートになるな。

 

 遠藤寺はいつも如く、皮肉気な笑みを浮かべた。

 

「君はいつもボクの元へ興味深い事象を運んできてくれる……最高の相棒さ。ちなみに言っておくと、今まで異性として君を意識したことはないよ」

 

 トドメまできっちり刺していきやがった!

 今までって一度もかよ……うわ、結構凹むな、これ。

 え、ってことはなに? コイツもしかして百合畑の人?

 あー、つまりPY(プロジェクトユルユリ)始動ってこと?

 ンモー、こうなることが分かってたら、妹に化粧の方法とか習っとくんだった!

 一度でいいから『これが……僕?(鏡見ながら)』とか言ってみたーい。

 

「まあ、異性を意識した経験すらまだ無いんだけどね。だけど君の手を握られて生まれたこの感情……」

 

「え?」

 

「いや、なんでもないさ。さて、三つのプランだけど……一つ目は、ボクのツテで霊媒師、退魔師を呼び、その幽霊を退治する」

 

「退魔師か……」

 

 アリだな、特に美少女退魔師だとなおよし。

 今まで魔を狩ることしか知らなかった少女、俺と接する中で情緒を育み、最終的に『お前と会って、色んなことが知れた……楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと……恋も』みたいな展開がベネ!

 PC版ではその後に『房中術の訓練の……相手になって欲しい』って展開になるよ! みんなソフマップにダッシュだ!

 

 遠藤寺が指を2本立てて言う。

 

「二つ目はその眼鏡を破棄する。前の生活に戻り、何もいない、気のせいだったと日々を過ごす」

 

「今更無理だろ……」

 

「大丈夫さ、つい3日前まで『ナニカ』がいることにさえ気付かなかった鈍感な君なら、ね」

 

 うぅ……どうせ鈍感って言われるならツンデレヒロインが珍しくデレて『おい、急に顔を赤くしてどうしたんだ?』『う、うっさいバカ! ……もう、鈍感なんだから……』みたいな方向でお願いしたかったよ……。 

 

 

「そして最後。最後は……まぁ、そのアパートから引っ越す。幽霊から物理的に距離を置く。正直これが一番お勧めだね」

 

「なるほど。確かに一番いいかもしれない。だが大きな問題が一つある」

 

「それは?」

 

「マネーだよ! 今の俺の戦闘力マネーパワーじゃ、あのアパート以外に住める場所なんてねーんだよ。俺のマネー力(ちから)舐めんなよ?

「そうか……」

 

 うむむ、と唸る遠藤寺。

 さあ、どうする?

 俺のマネーで住める様な物件を紹介してくれんのか?

 ま、無理だろうけどな。

 

 俺の挑戦的な視線に、遠藤寺は何故か視線を若干逸しながら言った。

 

「あー……ボクのマンションは広いんだ。使ってない部屋もいくつかある。その、もし君が嫌じゃないなら……」

 

「あァ? 何それ、お家自慢? ていうか俺、別に広い部屋とかいらねーし。人間六畳ありゃ、充分なんだよ。それをお前らみたいな金持ちはとにかく広さを求める……掃除する人の気持ちとか考えたことあるか? まあ、お前ん家にはメイドとかいてやってくれんだろうけど」

 

「いや、君、それ……」

 

「何だよ?」

 

「……何でもないよ」

 

 おっ、珍しく遠藤寺を論破してやったぞ。

 え? ブーメラン? 何のこっちゃ。

 

「で、部屋が何だよ。マンションが広いから何だってんだよ」

 

「いや、何でもない。……よく考えるとかなり早計だった。うん、一ヶ月やそこらの関係で家に引き込むなんて、流石に親友でもどうか……うん、早計だった」

 

「何か言ったか?」

 

「いやいや何でも」

 

 ハハハと笑いつつ手を振る遠藤寺。

 

「で、どれにする?」

 

 遠藤寺は指を二本立てた。

 一つ目か二つ目、どちらにするかってことだろう。

 俺の答えは決まっていた。

 

「どれも選ばない。四つ目の選択肢だ」

 

「四つ目? ふむ、四つ目か。へぇ、面白いね。なるほど……聞かせて貰ってもいいかい?」

 

「ああ、いいぜ」

 

 俺は四つ目の選択肢を遠藤寺に告げた。

 遠藤寺はそれを聞いて目を丸くした。

 

「君、それ正気かい? やっぱり一度病院に……」

 

 だからプリズン病院はイヤだっつーの!

 何で皆して病院に入れたがるんだか!

 

「正気も正気だ。つかこれ以外選択肢ねーし、色々考えてきてくれたお前には悪いけどな」

 

「……おや、珍しい。ボクにそんな言葉をかけるなんて。何だか今日の君は優しいね。普段なら『色々考えてくれたテメェには悪いけど……完全に無駄足だから!』なんて言葉でボクの乙女心を削るのにね」

 

「俺そこまでクズじゃねーよ」

 

 冗談だよフフフと笑う遠藤寺。

 どうでもいいけど、遠藤寺の笑顔って結構怖い。

 口元は笑ってるんだけど、目元は普段通りジトっとした睨みつけてるような眼だから、なんか相手を殺す前に拷問にかけるのが趣味なヒットマンみてぇ。

 

 俺が選んだ四つ目の選択肢を遠藤寺は拍子抜けするほどあっさり受け入れた。

 

「まあ君がそうしたいなら、それでいいさ。それで困ったらいつも通り、ボクに相談すればいい」

 

 コイツのこういう淡白なところは好きだ。

 必要以上に踏み込んでこない。俺も同じくアイツには必要以上に踏み込まない。

 

 心地よい関係ではあるが、たまに少し寂しく思う。

 本音を言えば、俺はもっと遠藤寺のことを知りたい。

 家族のこと、中学高校の学生生活のこと。

 恐らく遠藤寺は聞けば、答えてくれるのだろう。

 

 ただ、問題は俺の方なのだ。

 この大学で出来た初めてのそしてただ一人の友人。

 未だ遠藤寺のパーソナルスペースが分からない。

 近づきすぎて、悪い感情をもたれたら、面倒くさいと思われたら。

 そんなことばかり考えてしまう。

 多分こういう距離の測り方は中学や高校生の時に友人との関わりの中で自然と覚えるのだろう。

 俺にはその経験が圧倒的に欠けていた。

 

 欠けていたそれを大学で学びたくて、俺は迷走している。

 タイムリミットはいずれ訪れる。遠藤寺の言うとおり、大学生活も無限ではない。

 まだ大学生活が始まり一ヶ月とはいえ、人との接し方の糸口さえ見えない現状に、焦りを覚える。

 大学生にもなってこんな事を思うのは些か幼稚だとは思う、それでも俺は少なくても一緒にいて楽しいと思える友人達と過ごせる居場所が欲しいのだ。

 遠藤寺はその第一歩だった。

 

 幽霊の話は取りあえず保留し、俺と遠藤寺は取り留めのない会話を交わした。

 遠藤寺は俺が振るどんな話題にも興味を示し、話を広げてくるので、何気ない会話が全く苦にならない。

 

 講義に向かうと席を立つ遠藤寺を、俺は呼び止めた。

 最後に一つ、どうしても言いたいことがあったのだ。

 これだけは言っておかなければならない。

 じゃないと後悔してしまう。

 後悔だらけの人生を歩んできた俺からすれば、大した進歩だと思う。

 

 俺は言いたかったことを遠藤寺に向かって言った。

 

「退魔士の子のアドレス教えてくれ!」

 

 と。

 遠藤寺は俺の質問に答えることなく手を振り、去っていった。

 畜生デース……。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ジャスコまでワープ5回(ワープ1回につき、23万円)

 大学で遠藤寺と駄弁り、その日の残りの講義は出なくていいタイプの講義(テストの点さえ良ければ、出席しなくてもいい)だったので、早々に帰宅することにした。

 大学の門から駅まで真っ直ぐ伸びる下り坂の途中で脇道に入り、そのまま進むとそこそこ広い商店街だ。商店街のアーケードを抜けると住宅街がある。

 そのまま住宅街を3分ほど歩けば、俺が住んでいるアパート『一二三荘』がポツンと建っている。

 

 しかし大家さんには悪いが、相変わらずセンスの欠片もない名前だ。

 こんな名前じゃ通りがかった時「おっ、いい名前だ。ちょっと住んでくか」みたいなノリの住民は来ないだろう。

 

 俺みたいなヤングセンシスト(センス溢れる若者)が名づけるとしたら――『僕らはみんな楽し荘』これだな。

 なんかこう『俺らめっちゃ楽しいんすよwww』って感じの仲のいいサークルみたいな雰囲気、伝わってくるだろう?

 

 お、いいじゃんこれ。ちょっと大家さんに改名を勧めてみるか? あ、いや別に改名してから住民が増えたって金取ろうなんて思わないよ。ただ名前の由来を聞かれたとき『かつてこのアパートには才能溢るる若者が一人住んでおった……彼はあらゆるこの世の不義と戦い、常にこの世界の行く末を憂いておった。そんな彼が圧政を敷く君主に対し、その牙を食らいつかせるのは当然のことじゃったじゃろう……』みたいに始まる壮大なサーガで俺のことを語ってほしい。

 

 アパートの敷地内に入る。

 当然だが、朝方にアパートの前で集まって駄弁っていたマダム達は既にいなくなっていた。マダムもああ見えて忙しい。帰ってくる子供や亭主の為に夕食を作らないといけないからな。

 

 敷地内に入るとそこそこ大きな庭がある。

 この庭には大家さんの家庭菜園やら、製作者不明のブランコ、何が棲んでいるか不明な池が存在している。

 アパートの建物はぼろいが、俺はどことなく懐かしさを感じられるので好きだ。田舎のお婆ちゃん家のような安心感がある。

 

 そんな愛すべきアパートの庭に大家さんがいた。

 俺に背を向け、箒を懸命に動かしてる。この人は俺が見るとき、いつも箒で庭を掃いているんだけど、他に仕事とかしてるのだろうか。

 いや、そもそも大家さんの仕事ってなに?

 俺が昔プレイしたゲームじゃ、大家さんはアパートの住民を守る守護者的な存在だったわけだが。え、何のゲームかって? エロゲだよ。言わせんな恥ずかしい。

 

 大家さんは機嫌よく、鼻歌なんかを歌いながら箒をサクサク動かしていた。

 

「さっさっさー、お掃除お掃除楽しいですー。お掃除お掃除――えーい! やぁー! ――ふふふ、油断しましたね? ただ掃除をしていた、そう思い油断した貴方の負けです。これぞお掃除戦闘術――クリーンアーツ! ……あ、やっぱりクリーニングコマンド、の方がよかったでしょうか、うむむ」

 

 個人的には掃除殺法~箒ノ一~とかがいいと思いますねぇ。

 それにしてもか~わ~い~い。誰にも見られてないと思って自分の世界に入ってる大家さん、いやここは敢えておーやしゃん(こずぴぃっぽく。誰? ああ、俺の嫁)と呼ぼうか。

 箒を構え片足でピョコンと立っているポーズがクソ可愛い。

 

 あ、もしかして俺が部屋で電灯の紐相手にボクシングとかしてたのも、傍から見ればあんな感じだったのかな?

 あれ? でもその現場を妹に見られた時の妹の顔「……こういう人とは絶対結婚したくない」みたいな軽蔑顔だったんですけど……。

 俺と大家さん同じことをやっているのに、一体どこで差が付いたのか……。

 

 俺は複数に分割した思考の内の一つにその考察を任せ、そろそろと大家さんの背後から近づいた。

 このまま大家さんの二次性徴を迎えてないだろう小さな胸を鷲掴み『お~れだ』と囁く。大家さんは振り返って『やんっ、部屋まで待てないんですかっ?』って言うけど待てるわけねーだろうが! もう我慢できなぁい!(ゴリラっぽく) そんなイチャイチャができる仲になりたいんですけど、どうすればいいのか。ひたすらカブを貢いで好感度を上げるしかないのか。

 

 今の好感度で胸なんか鷲掴みしたら、恐らく速攻でポリンスメンが来ちゃうだろう。

 今の好感度できるコミニュケーションを実行することにした。 

俺は大家さんの頭頂部が見える辺り、ほぼ真後ろに立った。大家さんのオカッパ頭を迂回するように、手をするすると伸ばす。

 

「だ~れ――」

 

「奥義からの連携技! ニノ太刀! ぶおんっ!」

 

 大家さんが箒を掃く動きからそのまま、勢いよく箒をスイングした。

 箒の先の部分が俺の顔面目掛けて鋭い風切音と共に接近してくる。

 なかなか速い……が、それだけだ。動きが直線的過ぎる。俺ほどの猛者(プロ)相手だと、有効的とはいえない。

 欲を言えばそのこの一閃の他に全く同時に死角から襲い掛かってくる二閃、三閃が欲しいところだ(この複数の三閃は全く同時に存在するとする)

 俺は大家さんの放った箒が顔面に当たる寸前、地面を一息で9回ほど蹴った。

 瞬間的に圧縮されたエネルギーをコントロールし、後ろへ下がる。

 周りから見れば突然、俺が大家の3メートルほど後ろに現れた様に見えるだろう。しかし未だ大家さんの背後には俺がいる。

 同時に二人の俺が存在している。当然片方は残像だ。

 

「フッ、残像だぶっ!」

 

 馬鹿な……当たった、だと?

 俺は後ろへ回避したはず……なっ、後ろにいる俺が……消えた。

 残像はあっちだったのか。

 もう分かってると思うけど、今までの一連の流れ、全部俺の妄想なんで。実際は大家さんの後ろに立ってたらバチコンと箒で叩かれたわけで。

 

「ふふふ、またつまらぬモノを切って……切った? はて?」

 

 俺のSMAAAASH!!した大家さんは、箒の柄を地面に突き立て決めポーズをとろうとしたところで何かの手応えがあったことに疑問を覚え、首を傾げながらくるりとこちらに回転した。

 ズザザと箒の柄がコンパスでしたかの様な半円を描く。半円が完成する直前、大家さんと俺の目が合った。

 目と目が合った瞬間、大家さんはニコリと笑みを浮かべ口を『お』の形に開いた。

 

『お』兄ちゃん? あー、すいません。もう妹枠は埋まっちまってるんですわ。

 大家さんさえ良ければ、ロリ姉っつー個人的に優遇したい枠が残ってるんすけど。

 

続いて大家さんはクパリと口を開け『か』の形にした。

 

『おか』?

 

 いやー、確かに俺ってサッカーの監督としての才能はあるけどさ(プロサッカーチームを作ろうで証明されている)

 だからって岡ちゃんはねぇ……。眼鏡かけてねーし。

 

「おかえり――」

 

 オカエリ?

 誰それ? もしかして俺の守護霊の名前? ミカエル的な?

 え、俺に守護霊とか、いたんだ……。

 は、恥ずかしい……だってずっと見られてたってことでしょ?

 あんなこともそんなことも……もう恥ずかしくって今すぐ人界から去りたい!

 あ、でもよくよく考えるとウチの幽霊も俺のアレ(アブノーマルプレイの略)やソレ(ソロアブノーマルプレイの略)を散々見てるわけか……だったら今更か。

 

「お帰りなさいっ、一ノ瀬さ――ってきゃあああっ!?」

 

 満面の笑みから反転、大家さんの視線は自分の持つ箒と俺の顔面に残った殴打跡を一瞬の内に三回ほど往復し――布を割くような悲鳴をあげた。

 ンモー、悲鳴はやめてってばぁ。

 ほら、まだマダムが家から出て来ちゃったじゃーん。

 まるで壁に耳あり障子にマダムだよぉ(などと意味不明な供述をしており)

 

「そ、その顔……!」

 

 顔のことは言うなよ!

 俺だって好きでキアヌ・リーブス似かつそれ以上の容姿で生まれてきたわけじゃないやい!

 あーあ、毎朝鏡を見るのが憂☆鬱!

 

「ご、ごめんなさいっ、誰もいないと思って……あわわっ」

 

 えらいこっちゃと、箒を持っていない方の手で口を覆う大家さん。

 俺は架空の奥義でちょっと気になってる男の子をぶちのめした大家さんの心情トラウマをくみ取り、ヒラヒラと顔の前で手を振った。

 

「あ、全然大丈夫じゃないですから。(ショック死するほどには)痛くないです。というか当たる寸前に身体を背後にずらした(と思い込んでます)んで、実質的にはダメージゼロ(だったらいいのになぁと)です」

 

 俺はバトル漫画でよくある『無傷、だと? そうかっ、当たる瞬間に後方に飛んでダメージを軽減したんだ』を参考にして、大家さんのフォローすることにした。

 

「で、でも顔が赤くなってますよ!?」

 

「はい赤いですけど? 青いよりはいいですよね?」

 

「え……あ、はい。青かったら大変ですね」

 

 俺はトークアウェイ(論理のすり替え)を行なった。

 今起こっていることよりも重い事案をあげることで「今のコレって別に大したことなくね」と誤解させる手法である。

 

「で、でもでも……」

 

「大家さん、ただいま帰りました」

 

「あ、はいっ。お帰りなさいっ」

 

 にぱっと笑いペコリと頭を下げる大家さん。

 ははは、コイツちょろいわ。もう俺のことぶん殴ったの忘れてやがる。

 これでいつか『はいこれ(プレゼント』『え、これ……こんな高そうな物、貰えません!』『ばーか。今日は俺と大家さんが付き合い始めて一年だろ?』『……あっ、嘘、私……ど、どうしましょう! い、今すぐ買い物に……!』『いいんですよ』『でも!』『分かりました。じゃあプレゼントの代わりに……その指輪俺に付けさせて下さい』『え……はい。あっ、そ、そこって……』『……そういうことです』『こ、こちらこそ……そ、その末永く、宜しくお願いします』的な展開が有効だな。

 エンディングが見えた!

 ただその時の俺は高そうな指輪を買えるほどの財力を有しているのか……いざとなったら妹銀行に融資を頼むか……。

 

 母親銀行に融資を頼もうとかほざく分割思考の一つを鈍器で殺害し、「じゃ、大家さん。俺部屋に帰りますんで」と大家さんの横を通り、部屋へと足を向けた。が、不思議なことに足が止まる。体が動かない。

 はて、誰か時間系の能力でも使ったか……?

 

「あの、大家さん。ちょっと腕離してもらえませんか?」

 

「だーめです」

 

 今日の朝は遠藤寺の腕を掴み、昼には大家さんに掴まれる、まるでサンドイッチみたいなライフ(そうか?)

 大家さんは笑顔のまま、俺の右腕を掴み離さない。

 

 な、何なんだ一体……まさか掃除戦闘術の奥義を見せた相手を生かして逃がすわけにはいけないとかそういう……?  弟子になるから命だけは!

 ただ弟子の仕事ってのは夜のお世話も入るんですかねぇ……入るんだったら、俺、結構凄いよ? ベッドの中限定で、主従逆転……しちゃうかも?(この妄想は一ノ瀬妄想集~ベストバウト編~に収録予定! みんな脳内本屋さんへゴー!)

 

 土下座も辞さない覚悟の俺だったが、俺の覚悟むなしく大家さんはその無慈悲な鉄槌(コトバ)を俺に叩きつけた。

 

「一緒に私の部屋に来てください。ちゃんと手当しないと傷が残っちゃいますよ」

 

 どうやら大家さんはあまりチョロくなかったようだ。

 俺はずるずると大家さんの部屋に引きずられていった。

 初めて入った大家さんの部屋は、向日葵の様な匂いがした。

 

 

※※※

 

 

 大家さんの部屋から開放され、頬に湿布を貼った俺は自分の部屋へと向かった。

 ふと大学のことを思う。

 大家さんと話していた時の『楽しい気持ち』がみるみる消失した。

 大学生活は楽しくない。もっと楽しくなかった中学・高校生活よりはマシだといえ、また別種のつまらなさを感じる。

 授業を受けている時、キャンパス内を一人で歩いている時、一人で食事をしている時、それを感じる。

 自分の居場所がない。

 どこに居ても、まるで他人の家にいる様な不安定な心地。

 どうやったら楽しいキャンパスライフを過ごすことができるのか。

 一ヶ月経った今でも、分からない。

 これがあと4年も続く、それを考えると、反吐が出る様な気分だった。

 

 あー、駄目だわ。

 もっと楽しいこと考えないと。

 楽しいこと、楽しいこと……そうだ。

 楽しいことはすぐ傍に転がってたんだよ!(灯台下暮らしイズム)

 今、俺の部屋には――全裸の美少女がいるんだ!

 

 家に帰ったらほぼ全裸のメイドさん(申し訳程度のメイド要素→カチューシャ、ガーターベルト)が出迎えてくれる、そういうシチュが俺の妄想集にある(一ノ瀬辰巳ピンクイメージ~12巻~)

 限りなくそれに近い現実がすぐ近くにある。全裸美少女が家にいる日常、それってすっごい理想郷やん。

 この世にわずかに残った理想郷それがすぐ傍に!(他の理想郷? そうだなぁ……すぐ隣の可愛い幼馴染が住んでて「何で最近俺の部屋来ないんだよ?」「……だってあんたの部屋の匂い嗅いでたら胸がドキドキして……な、なんでもないっ」「なんでもない、ねえ。この映像、なんだと思う?」「……っ! これ、あんたの部屋の……」「そう。俺の部屋でお前が、俺の体操服顔に押し付けてヌハハハハ! 我が覇道成就せり!」「流石でございます魔王様!」「美しい少女(12~14才限定)以外の全ての人間を滅ぼしたぞ! ヌハハ! 我のハーレム完成せり!」……ん? 何か途中で妄想が混じったぞ?

 

 いいや、今は全裸美少女だ。

 

 陰鬱な心が一瞬の内に満開の桜模様になった。

 やれやれ、美少女の裸一つでそうも変わるとは、現金な心だぜ……でもそういうの嫌いじゃない、ぜ。

 

 俺は期待感に胸を膨らませ、自分の部屋の扉を開いた。

 そのままタックルする勢いで短い廊下を駆け抜け、六畳間に続く襖を開く。

 

「あっ、お帰りなさい、辰巳君」

 

 美少女が迎えてくれた。

 ただ俺の求める美少女とは違った。

 具体的にいうと衣服を着用していたのだ。どっかの学校指定のジャージであった。

 

「……」

 

「あ、えっとその……学校はどうだった? お腹空いた?」

 

 俺のメンタル大暴落。

 そのまま闇墜ちして魔人化し、三千世界の全てを掌握する『魔王・辰巳~美少女以外全滅セヨ~』ルートに突入しかけたが、グゥという自らの腹部から鳴る音で延期することにした。

 良かったな世界。

 

 俺の腹の音を聞いた幽霊少女は、にへらと笑みを浮べた。

 

「すぐにご飯作るね!」

 

 と腕まくりしながら言うのだった。

 

 廊下に備え付けてあるガスコンロに駆けてく少女を見ながら、六畳間のテーブルの前に座る。

 ぼーっとしながら、料理を作る少女を見ていると視線に気付いたのか「見ないでよー」と六畳間と廊下を隔てる襖を閉められた。

 

 あ、今の同棲してる恋人っぽいな、と思った。

 

「……い、今の何かすっごい同棲してる恋人っぽかったかも。……にへへ」

 

 襖の向こうからそんな声が聞こえた。

 

 

※※※

 

 

 ほどなくして少女が料理をテーブルに並べ(八宝菜と餃子)「どうぞ!」と笑顔で言う少女に軽く頭を下げ、食べ始める。

 おいしかった。

 ただ俺の言う『おいしい』は妹曰く「兄さんは何を食べてもおいしいと言うので、正直張り合いがありません。もっと語彙を増やして出直して下さい」とのことなので、こう言おうか。

 すっげぇおいしい。

 食べてる間、少女はテーブルの上に両肘をつき、その上に顔を乗せ、にやにやしながらこちらを見ていた。

 

「ごちそうさまでした」

 

「お粗末様でした!」

 

 少女が皿を下げる、手馴れた動きだった。

 彼女はそうやって、今まで俺の皿を下げていてくれたのだろう。

 今まで突然皿が消失していたのに不信感を抱いてなかった俺って、相当ヤバくなーい? 

 

 少女は再び襖の向こうに消え、襖の向こうからは皿同士がこすれる音と流水の音が聞こえた。

 数分して、少女は手を拭きながら現れた。

 

「……ふぅ」

 

 何か掛け替えのない物を見るような目で、部屋をくるりと見渡す。

 くるりくるり、と瞬きもせずに、ゆっくりと。

 そのままその視線は俺に。ジッと少女は俺を見つめ続けた。

 まるで網膜に焼き付けるかのように。

 心の中の宝箱に仕舞いこむように。

 

 そして少女は何かを振り切るかのように、一度大きく頷いた。

 

「……うん、じゃあわたし行くね」

 

 少女は小さな鞄を手に、そう言った。

 はて? 行く? 

 人はどこから来てどこに行くのか、常に考えている俺だが、未だ答えは分からぬ。

 ただこれだけは分かる、最後に行き着くのは母なる海だってこと。俺を導いてくれ! イカちゃん!

 

「行くって……え、なに?」

 

「だってわたしのことバレちゃったから。もうここには居られないよ」

 

 少女は「えへへ」と笑った。

 俺は知った。

 笑顔は楽しいときだけじゃなく、寂しいときにも使えるんだって。

 

「ほんとはね、ずっとここに居たかった。ここで辰巳君のお世話をしたかった。ずっとずっと……辰巳君がいつか出て行くまで」

 

「……」

 

「楽しかったよ辰巳君。人生でいっちばん楽しい一ヶ月だった。幸せで幸せで……死んじゃいそうになるくらい。……最後にこうやって辰巳君と話せて良かった。辰巳君、元気でね。風邪とかひかないでね。何日分かのご飯は冷蔵庫に入れてるから。それがなくなったら……あの、大家さんって人に助けてもらって。それからそれから……ぐすっ。……じゃっ、ばいばい」

 

 言葉の途中で涙を浮かべ、それを見られまいと俺に背を向けた。

 そのまま部屋の外に向かってゆっくりと歩き出した。

 一歩一歩。

 踏みしめるように。

 少女の一歩はただの一歩じゃなく、色んなものを振り切るかの様な重い一歩だった。

 背中に見える哀愁は少女の秘めた感情を具体化していた。

 

 少女は最後の一歩を踏み出す前に、くるりと振り返った。

 

「さよなら……好きだった人。幸せになってね」

 

 そして再び背を向け、歩き出す――

 

「いやいやいや、意味分からんから」

 

 外へ出ようとする少女の脚を、座ったままの俺の手が掴む。六畳間って結構狭いので、十分に手が届いた。

 少女は「ふぎゃっ」とか尻尾を踏まれた猫の様な悲鳴をあげ、顔から畳に突っ伏した。

 ガバっと腕立て伏せの要領で身体を起こし、こちらに向き直る。

 少女の鼻は赤く畳の跡がついており、目の端には小粒な涙が溜まっていた。

 少女はがおーっと吠えるかの様に口を開く。

 

「な、なにするのっ?」

 

「いや、何すんのよっつーか……何自分の世界入っちゃってる系なわけ?」

 

 最近流行りの世界系ってやつか……?

 俺自分の世界入んのは好きだけど、他人が自分の世界に入り込んでるの見るのって嫌いなんだよね。

 

「え、出て行く? それがまず分からん。凄い急展開だな」

 

 まるで俺が中学の時に書いてたラブコメ小説みたい(ある日空から女の子が落ちてきた! 彼女は自分が宇宙人でお婿さんを探しに来たって言うんだ! え? ボ、ボクがお婿さん!? → ハァ、あれから3年。昔は良かったなぁ、水だっていくらでも手に入った。コンビニに行けばいくらでも食べる物が手に入った。今じゃランキングの上位に入らないと肉も食えない……嘆いてばかりもいられない、か。さて、87位をぶっ殺して、オレが次の87位になってやるさ。ん、87位は女か。……コイツ、どこかで……見たような……気のせいか)

 瓶に入れて海に流したあの原稿用紙400枚にも及ぶ壮大なサーガは、今頃どこの国に流れ着いたのかな?

 

 俺がとある原住民の手に渡り神から託されたこの世界の成り立ちを記す本として祀られているだろう小説に思いを馳せていると、少女は震える声で言った。

 

「だ、だから……! わたしがいるの、辰巳君にバレちゃったから出て行くの!」

 

「何で俺にバレると出て行くわけ? なに君ツル?」

 

 絶対襖を開けないで下さいね? 絶対ですよ? 絶対ですからね!?な童話の話である。

 あの昔話で俺が感じたのは、何でツルが出て行くって言ったときに押し倒して自分のモノにしなかったってこと。

 そこは鬼畜っぽく「どこ行くんだよ? お前はオレの大切な金鶴なんだ……逃がさねえよ。お前は大切な……金鶴なんだよ」ってジュウジュウカンカンしとくべき、そう小学生ながら思った。

 

「つ、鶴じゃないけど……わたし幽霊だもん」

 

 だもん、の言い方がすっごい子供っぽーい。

 でも『あなたにしか……見せないんだもん(28歳・処女)』って書くと、すっげえエロティック。

 これ文字の魔力ね。

 

「うん、幽霊だろ。で、何で出て行くわけ? 幽霊って正体バレたら出て行く掟とかあんの?」

 

 だったらしょうがない。

 掟ならしょうがない。

『掟だから、掟だから夫じゃない男に体を許しても……いいんだもんっ』(やっぱりエロイね)

 

 少女の涙に塗れた目は、何かありえないモノを見る様な目で、俺を見ている。

 

「だ、だって……わたし幽霊だよ? 幽霊なんだよ? し、死んでる……んだよ? こ、怖いでしょっ」

 

 いや、死んでるって言っても、見た目普通の美少女ジャン?

どっか臓物はみ出てたり、骨がはみ出てたりしてたら確かに怖いけどさ(新ジャンル・ハミデレ)

 足もしっかりあるし、普通に触れるし。

 あれ? もしかしてこの女の子、自分が幽霊とか勘違いしちゃってるだけの普通の女の子なんじゃね?

 あー、あるよね。そういう自分は特別な存在だっていう妄想。

 かくいう俺も、中学生の時、自分がこの世界と似て非なる世界『アルハザット』で魔王を守護する四神将の一人、深闇のリクルスって名前の銀髪イケメン(実は魔王よりも実力があるが、面倒くさいので隠している)って妄想してた。

 いや……あれは妄想だったのか?

 よくよく考えてみると、妄想にしては……妙にリアルな設定だった。

 最後の戦いで深手を負って別世界の赤ん坊に転生して……もしやあれって妄想じゃなくて転生前の記憶なんじゃ……?

 そ、そうかっ。どおりで妙にリアルな夢も見ると思った! 俺ってリクルスだったんだ! ……そうだ。高校時代に隣に座っていたあの女の子、俺を見た時「リ、リクルス……」って吃驚した表情で言ってたっけ……。

まさかあの子も転生してたのか……?

 ええい、こうしちゃおれん! 今すぐあの子に会いに行こう!

 確かこの辺に住んでたはず……あっ! あの子が黒い影に襲われてる! ああっ! お、俺の右手から剣が!? な、名前……? そうか、この剣の名前は――『リ・ワールド(創世の剣。所有者の思念を読み取り、所有者の望む未来を引き寄せる)』 ←ここまで妄想(new

 

「ほ、ほらっ、わたし浮くんだよ? 壁だって通り抜けれるんだよっ?」

 

 少女はふわりと浮いたり、畳に潜ったりした。

 あ、やっぱ幽霊か。

 俺だってクラスで浮くことはできるけど、畳には潜れないな……(ただ数分前まで女の子が寝ていた布団ってミステリースポットには是非ともいつか潜りたい)

 

 怖いでしょ怖いでしょっ?と半ばムキになって連呼してくる少女に、俺は肩をすくめた。

 まるで、子供だ。駄々をこねる子供。

 そんな子供に生活を支えて貰っていた男ってだーれだ? はい俺。

 

「怖くないな、全然。まだ将来に対する漠然とした不安感の方が怖い」

 

 しかもあれ、夜中に急に襲い掛かってくるの。……あれ? 何か幽霊っぽいな。

 幽霊と将来に対する不安の相似性を述べよ。

 どっちも地に足がつかない(あ、これマジで上手くね?)

 

「ほ、本当に……怖くないの?」

 

「だから怖くないって」

 

「ほんとのほんとに?」

 

「本当だって」

 

 ん? もしかしてあれか。

 俺が怖がるから出て行くって言ってるのか。

 

「じゃ、じゃあわたし……もしかして出て行かなくても、いいの?」

 

「つーか出て行かれたら困る。俺お前がいないと(食事・洗濯・掃除・その他etcが)駄目なんだ」

 

「はぅっ」

 

 少女は宙に浮いたまま胸を押さえた。

 ボッとジャージから露出した首から上の肌が赤く染め上がった。

 おや、どこかで何かのポイントが上昇する音が聞こえた気がするぞ?

 

「そ、そうなの……? わたしが出て行ったら、辰巳君……困るの?」

 

「ああそうだ。(俺が家事をしなくなった)責任、とってくれよ」

 

「ふぁゃあっ!?」

 

 少女は上の様な奇声をあげ、部屋の隅に吹っ飛んだ。

 胸を押さえながらぜーぜーと荒い息を吐いている。

 俺の言葉、もしかして破邪の気、纏ってる?

 

 少女は大きく息を吸い、吐くを数回繰り返し、ピンと背筋を伸ばした。

 そのまま俺に近づき、赤みがかった真剣な表情の顔を俺に向けた。

 

「わたしで……いいの? わたし、幽霊なんだよ?」

 

「幽霊とか、妖怪とかどうでもいい。ただここに居て(家事をして)くれたらな……」

 

「――っ」

 

 少女は本当に心から欲しい物を手に入れた子供の様な表情を浮べ、俺に飛びついてきた。

 幽霊らしく予備動作のないその動きに、俺は全く対応できずそのまま押し倒された。

馬 乗りにされ、身体をぎゅーっと抱きしめられる。

 

 いやー! 本性出しおったでこの子! 祟り殺されちゃう!

 助けて雪菜ちゃーん!(妹の名前)

 

「わ、わたしっ、ずっと辰巳君の傍にいるからっ。辰巳君が死ぬまで傍にいるからっ。好き! 大好き!」

 

「重いな!?」

 

「わたしいいお嫁さんになるから!」

 

「あ、頑張って下さい」

 

 幽霊だろうと少女の願い、特にお嫁さんになりたいというピュアな想いは是非とも支えてあげたいと思うのが俺だ。

 協力してあげたいのだが、この歳で所帯持ちはちょっと勘弁して欲しい。

 少女には悪いが、お友達兼同居人のままでいて欲しい。

 いいよね、お友達って、超便利な言葉。

 俺が中学の時に告白して「お友達でいようね」って言ったあの子は元気かな? 実際お友達どころか「一ノ瀬に告られた~やだぁ~」「かわいそぉー」みたいな展開だったわけですけどね。

 あの時の俺に世界を混沌に陥れる類の力があったなら、即発動してたよ。

 残念ながら俺にそんな力は微塵もなかったわけだけど。よかったね世界。

 

 

 こうして、俺と幽霊少女の生活は改めて始まったのである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

アニメイトまで……え? ……無い……だと

 俺が中学生の頃、こんなことがあった。

 夕方俺が部屋で漫画を読んでいると、着替えを持った小学生の妹が部屋に入ってきたこう言った。

 

「兄さん、お風呂が沸きました。冷めてしまうので、早く行きましょう」

 

 って。その頃、俺は普通に妹と一緒に風呂に入っていた。

 別にそれがおかしいとは思ってなかったし、いつまで一緒に入るもんなんなんだろうなぁとそう思っていた。その日までは。

 その日学校で、こんな会話を聞いたのだ。

 

 クラスメイトの女子達の会話だ。

 

『昨日さぁ、オヤジが一緒に風呂入ろうとか言ってさー』

『うわマジで! それキモ!』

『だしょー? つーか中学生にもなって一緒に入るわけないっつーの』

『小学生までよねー』

『そうそう。大体イケメンならともかく、オッサンの毛深くてダルンダルンの裸なんて見たくないっつーの』

『……ん、いや、毛深くてダルンダルダンの裸もさ、まー、ね。ほら……それはそれで味があるっていうか』

『え?』

『……』

 

 この会話を聞いて俺は思った。

 俺もいつか妹に『兄さんとお風呂に入るとか気持ち悪くて無理! 5万円貰っても無理!』なんて言われるかもしれない、と。

 だから言われる前に自分の方から断ることにしたのだ。

 

「今日は一人で入るわ。……つーか、今日からは別々に入ろうぜ」

 

「どうしてですか?」

 

「ほら俺もう中学生だし、お前ももう高学年だろ? なんつーか、お互いさ、なんていうか……なあ……分かるだろ?」

 

「……兄さんがそう言うなら、分かりました」

 

 妹はそう言って部屋から出て行った。

 ただその時何故か、妹は残念そうな顔を仄かに赤く染めていた。

 

 次の日、母親に『女の子の裸に興味を持つのはそういう歳だから仕方ない。でも小学生の妹の裸に興奮するとかお前マジ救えねーわ』とかどん引き顔で言われた。

 どうやら妹が母親に『兄さんが私に欲情して襲ってしまいそうなので、今日からは別々にお風呂に入るらしいです』と報告したらしい。

 この経験から伝えたいのは、事実ってやつは個人によって曲解されるってこと。

 本当に伝えたいことは、ちゃんと一から十までしっかり伝えなきゃいけないってこと。

 

 

 

 

■■■

 

 

 さて、4番目の選択肢である『そのまま幽霊の同居する』を選んだわけだが。

 俺と幽霊子(仮称)は部屋の中心にある食卓を挟んで向かい合っている。

 幽霊子は先ほど前のテンションの上がりっぷりはどこへやら、借りてきた猫のように大人しく座っている。

 

「一緒に住む上で、君に一緒に聞いておくべきことがある」

 

「……う、うん」

 

 少女は遂に来たか、そういった何かをこらえるかの様な顔で頷いた。

 そのまま胸の奥にあるとても辛いものを吐き出すかのように、口を開く。

 

「……うん。わたしが死んじゃった理由、それはね……」

 

「いや、それはどーでもいい」

 

「ええっ!?」

 

 少女はガクリとうなだれた。

 そりゃそうだろう。

 何が好きで他人の死因なんてものを聞かなければいけないんだよ。

 下手すりゃトラウマものだ。

 この世界が中学生の頃、俺が構想を練っていた漫画トラウマバーサス(トラウマを使い戦う漫画。トラウマ使いは相手に自らのトラウマを武器にして攻撃できるのだ! 我ながらなかなか面白い出来だったんだけど、登場人物の抱えるトラウマのネタが尽きて、俺自身のトラウマを使ったら、登場人物が……なんか全員死んだ。何を言ってるか分からないと思うが、俺も分からない……)だったら、喜んで聞くけどさ。

 

「ほ、本当に知りたくないの?」

 

「ああ、過去ムカシより現在イマだろ? 過去ムカシのことなんてどうでもいい。俺とお前の現在イマはこれからなんだ。……俺とお前の現在イマはこれからなんだよ」

 

 俺は何か良い事言った風に締めた。

 別に死因とか聞いて夜トイレに行けなくなるのが怖いとかじゃない。

 トイレで思い出したけど、昔よく怖い映画を見た後の夜、妹が部屋を訪ねてきて『……に、兄さん。あ、あのコンタクトを落としてしまって……ちょっとトイレまで着いて来てくれませんか?(もじもじ』みたいなことがあった。

 ああ可愛かったなあ、あの時の……俺。

『やれやれ仕方ねえな』とか言いながら、もし妹が来なかったら怖くて一人でトイレなんて行けねえし、いざとなったら窓からライフシャワー(生命の雨)する覚悟してたし。いやあの時は若かった。

 ただライフシャワーは諸刃の剣。一度でもしてしまえば、倫理が崩壊し、もう自分の部屋の窓からライシャることが癖になってしまう……ゆめゆめ気を付けることだ、かつて過ちを犯した人間の言うことは聞いておくべきじゃよ。

 

 俺がかつて手にしていた諸刃の剣について考えていることなんて知る由もない幽霊子は、上目遣いでこちらに問いかけてきた。

 

「じゃ、じゃあ聞きたいことってなに?」

 

「年齢だよ年齢」

 

「へ? 年齢? 何で?」

 

「いいから教えるんだ。お前は、一体、何歳、なのか」

 

「う、うん……」

 

 俺の発する妙なプレッシャーに押されたのか、少女は若干後退りをしながら頷いた。

 でも、これってすっごい重要。

 この子の年齢によって、ヨージョラチカンの罠が発動し、俺がギルティーかそうでないかが決まるのだ。

 この歳で豚箱にインは勘弁だよ~。

 

「えっと、わたしはじゅうよ――」

 

「よし待とう。ちょっと待とう。うん、言うのを忘れた。死んでからの年数も含めてくれ」

 

「え? えっと……」

 

 少女は指を折り、ぶつぶつと呟いた。

 おねがいゴッド! 俺の願い聞き届けたもう!

 

「んと……今年で19になるね」

 

 イエス! イエスイエス!

 神様ありがとう! 今度の三箇日は旨いもん供えるよ!(鯖の味噌煮)

 なんだよも~、殆どタメじゃんこの子~。

 ちょっと気遣って損した!

 

「ヘイ、ヨロシクな」

 

「う、うん。何で急にフレンドリーになったんだろ……ん、でもいっか。よろしくね辰巳君!」

 

「HAHAHA!」

 

 最大の懸念事項はクリアされた。

 これさえこなせばもう憂いもない。

 

 その後、俺は特に取り留めもない質問を少女にした。

 

「そういえば塩かけるとやっぱヤバいのか?」

 

「んーん。別に何ともないよ。あーでも、しょっぱいのはあんまり好きくないかな」

 

 なるほど、幽霊に対してソルトアタックは効果がないらしい。

 

「お経とかは?」

 

「お経ってあれでしょ? 頭ツルツルのおじさんがするヤツだよね? 何回か聞かせて貰ったことあるけど、別にどってことなかったよ」

 

 被除霊経験(すっげえ言葉)アリか。

 そりゃ何年も幽霊やってれば、あるだろう。

 んー、塩もお経も効かない、と。あれ? 幽霊無敵じゃね? ゴ○ブリ並みな生命力じゃね?

 

「飯とかは?」

 

「食べられるよ。でも、食べなくても別に何ともないよ。お腹は空くけどね」

 

 へー、死んでも腹は減るんだー。

 ん? つまりアレか。仮に俺が死んで幽霊になっても普通に腹は減るわけだ。

 だったら墓前には好物を常に常駐させておいて欲しいものですなぁ。

 よし、妹にメールをしておこう。

 

『俺が死んだときは、墓前には年中、鯖の味噌煮を供えておいて下さい』

 

 さて、次は……

 

「ね、ねえ辰巳君……」

 

 俺が次の質問を考えていると、少女はチラチラとこちらに視線を寄越しつつ、もじもじと言葉を発した。

 

「あのね、もっと辰巳君は知りたいっていうか、辰巳君が最初に聞いておくべき質問っていうか、そういうのがあると思うの辰巳君。ね、辰巳君」

 

 もっと俺が知っておくべきこと、だと?

 俺はまだ未熟な若輩者であり、知るべきことは多々ある。

 その中で今、知っておかなければならないこと……。そうか!

 

「排泄関係ってどうなってるんだ?」

 

「うわー! わー! わぁー!」

 

 その怪アヤカシ大声を用いてこちらを驚嘆せしめん。

 突然大声で怒り始めた少女に俺たじたじ。

 幽霊ってやつはよく分からんね……。

 いや、実際気になるじゃん? するのかしないかは元より、ふわふわ浮いてる状態でシたらやっぱり無重力みたいにアレもふわふわ浮くのかな、とか。

 ふわふわ浮いたソレがうっかり開けていた小窓から出ていっちゃって、秋空にフライアウェイして、偏西風に乗って世界へ……。

 世界中に人が空にたゆたうソレを見た時、その時、一瞬とはいえ世界は一つになる……そいういった世界の統一をライフワークとする人間に、俺はなりたい。

 

「違うでしょ! そーじゃなくて最初に聞くべきこと! 常識的に考えて!」

 

 常識的? え、幽霊がそーいうこと言っちゃうワケ?

 幽霊がいる以上、現在の一般的な常識ってのは根本から覆ってると考えるべきでしょ?

 素で言ってたら鼻で笑われる空想も、今となったらその存在を否定することはできないってわけ。

 つまり俺が長年追い続けている妖怪、筆下ろし女もただの空想なりえない(ちなみにどんな妖怪かっていうと、これ語ると長くなるからまたの機会に、な)

 

 俺が本気で常識について考えていると、少女はムスッとした表情で俯いた。

 俯いたまま、小さな声で言う。

 

「……なまえ」

 

 なまえ? な(まいきなんだよお)まえ?

 いや、違うだろ。この場で恐喝に至る言葉はない。

 なまえ……名前か!

 

「……辰巳君、わたしの名前興味ないんだ」

 

 頬を膨らませてそっぽを向いた少女。

 

 おやおや拗ねていらっしゃる。

 つか、完全に忘れてたわ。幽霊にも名前あるんだよな、そりゃ当然か。

 オケラだってアメンボだって水虫にだって名前はあるんだ……雑草なんて草はないんだよな。

 

 生活の初日から不和が発生しても面倒なので、フォローの言葉をかける。

 

「いや、興味あるある」

 

「……でも、聞かなかったもん」

 

「俺って好きな物は最後まで取っておく性格じゃん。だから、さ」

 

 これは本当。

 だからギャルゲーとかでも、気に入った子は最後に攻略する。

 で、気に入った子に限って、実はルートないとかね……もう、ね。

 もうヒロイン追加の要望メール送るのは疲れちゃったよ……。

 その点、渡良○準にゃんのシナリオを追加してくれた某メーカーには頭が上がらない。その他メーカー様にはユーザーのニーズにばっちり応えるその姿勢を是非見習っていただきたい。

 

 少女はまだブスッとした表情をしながらも、こちらに視線をよこしてきた。

 

「……ほんとに? ほんとは興味あるの? 嘘じゃない?」

 

「本当本当。俺って今まで嘘吐いたことないし」

 

 恐らく嘘吐きの8割が使ってるであろう言葉に、少女はさっきまでの不満顔が嘘のようにパッと笑った。花が咲いたような満面の笑み。

 

「そうなんだっ、よかったっ。辰巳君、わたしの名前興味ないんだと思って落ち込んじゃった。でも、あるって分かってすっごく嬉しい! えへへっ」

 

 少女の笑みは俺のハートに刃となって突き刺さった。

 ほ、ほほう、やるじゃないか。俺の罪悪感をここまで刺激するとは……。これだから子供って苦手。無意識に人の罪悪感を煽ってくるもんな。いっそ罵ってくれたほうが楽だわ。

 

 さて、ここまで来たら名前を聞かねばならない。

 幽霊子も結構カワイイと思うんだけど。

 

「じゃあ、君の名前を教えてくれ」

 

 俺の言葉を聞いた少女は、大切な宝箱から取り出した宝石を目の前に掲げるかのように、その言葉を紡いだ。

 

「わたしの名前はね。――エリザ」

 

「……え?」

 

 外国籍の方でしたか……そうですか。

 う、ううむ。何で相手が外人ってだけでこうも腰が引けてしまうのだろうか。

 これは俺だけじゃないはずだ。日本人なら殆どの人が持っている感覚だと思う。

 やっぱりあれか、外人=アメリカ人=体デカくて強そうってイメージから苦手意識があるのか?

 

 でも、よくよく考えたら俺、アメリカ人に勝てるわ。タイマンって前提だけどな。

 アイツらの強みは馬鹿でかいバーガー食ってデカくなった体――つまりパワータイプだ。

 あの丸太みたいな豪腕から繰り出される拳を一撃でもくらえば……一発でノックアウト。

 だが昔の偉い人は言った「当たらなければどうということはない」と。

 あれは確か……織田信長だっけ。

 うん、そうだ。長篠の戦いで火縄銃の弾幕をくぐり抜けながら言った格言だった。

 そんな格言に乗っ取り、かつてスピードキングの異名を持った俺は相手の拳を交わしつつ華麗に接近。

 自慢の拳を避わされ唖然としている相手の顔面に俺のナックルが抉り込む――寸前に相手の拳銃がズドン! あっ、俺撃たれた!? 

 やっぱり銃には勝てなかったよ……アイツら基本子供から老人まで銃装備ってのがなぁ。銃社会マジ怖い。

 

 しかしいい響きの名前だ。

 名付け親はさぞセンスがよかったのだろう。

 何となく、口ずさんでしまう名前だ。

 

「エリザ、か」

 

「……辰巳君が初めてわたしの名前呼んでくれた。……えへへ、嬉しいなぁ」

 

 名前を呼ばれただけなのに、胸をギュッと握り締めちゃう乙女っぽい仕草とかマジ現代人が捨て去った夢の欠片。

 なんだかそんな反応されると、俺のこと好きみたいじゃん?

 いや、どうなんだろうか……さっき押し倒してきた時も俺のこと好きとか言ってたような……。俺のことを好き? 

 まさか、ありえない。

 俺は自分が他人に好かれるような人間でないことはハッキリと理解している。

 嘘と妄想で固めた何一つ誇れる物を持たない、それが俺だ。ラノベとかに出てくる主人公の『冴えないボク』には、大体なんだかんだいって人を引き付ける魅力とか長所があったりするけど、俺にはそんなものはない。断言できる。

 

 もしそんな俺を好きなんて言ってくれる存在がいたとしたら……それは、砂漠に落ちたゴマほど稀有な存在じゃないだろうか。

 仄かな、本当に仄かな期待感を抱いてしまう。

 

「あ、あのさ。ちょっと聞きたいんだけどさ……何で俺の世話とかしてくれたわけ?」

 

 俺は名前を呼ばれて頬を緩めている少女にそう問いかけた。

 

 率直に俺のこと好きなの?なんて自意識過剰レイジバーストな発言はできない。

 だって間違ってたら恥ずかしいもん!

 もしそんな質問をして「……は? 何言っちゃってんの? え? もしかして勘違いさせちゃった? ゴメンネゴメンネーーwww」なんて指さされつつ言われたら、俺ショックで胞状分解する自信がある。

 

 だからこその遠回り発言だ。

 俺に好意を持ってくれたから、俺の身の回りの世話をしてくれたんじゃないか、そんな淡い希望。

 世話をされる俺と、脅かし追い出された前の住民達、その差は一体なんなんだろうか。

 

 俺の質問に、少女はじんわりと赤くなった顔を俯かせ、ポツポツと震えの混じる声で言った。

 

「……あのね、さっきも言ったけど……辰巳君のことが好きだから、だよ」

 

 愛は絶対ビクトリー!

 愛はあったんだ! 愛はすぐ傍にあったんだよ! 俺超愛されてた! 父さん母さんありがとう!

 いやぁ、やっぱり愛か。愛って世界を巡るファンタジー粒子なんだね。興奮しすぎて自分でも何言ってるのか分かんないけど。

 

 目の前の少女の反応から、今の『愛』が友人としてのいわゆる『Like』ではないことは決定的だ。つまり『LOVE』だ。『LOVE』、何て心地のいい響きなんだろう。

 なんか俺自信持てたよ! 俺なんかでも愛されるんだ!

 愛は平等、愛受給資格の条件は『心がある生物』であること!

 

 しかし、なぜ俺を好きになったんだろうか……。

 別段捨てられた猫に傘を差してあげたり、子供をトラックから庇ったり、異能を持たないボクが敵の刃に貫かれそうなヒロインの前に躍り出て「なんでっ、私の傷はすぐ治るのに! どうしてこんな真似を!?」「……それでも、君が傷つくのが、イヤだった、から」な自己犠牲に走ったりしたことは無いのに。

 まさかあの一目惚れとかいう――都市伝説、か?

 そうだ。幽霊だっているんだ、現実にはありえないような都市伝説が現実にあってもおかしくない。

 

 俺が自分に向けられた愛を噛み締めていると、エリザが頬を伏せたまま語り始めた。

 

「……最初はね。他の人たちと同じように、追い出そうとしてたんだ。でも辰巳君ってば、わたしがいくら脅かしても、全然気付いてくれないんだもん。今までたくさん追い出してきたわたしのプライド、粉々だった」

 

 最初は敵だと思っていた……うん、イイネ!

 そういう展開俺だーいすき。

 それで徐々に俺のいいところとか見つけて「……この人、本当は凄くいい人間なんじゃ……って馬鹿! 何言っちゃってんのわたし! 人間はみんな悪魔、そうでしょ!」とか葛藤しちゃうんだ。

 揺れ動く心の機微ってなんであんなに切ないの? 教えてアルムのもみの木さん。

 

 ちなみに俺を含めた住民を追い出そうとしていた理由は単純に『怖いから』らしい。

 幽霊の癖に人間が怖いとか正直噴飯ものだよね。だけどまあこの子まだ、じゅうよ――んん! 十九歳らしいじゃん。

 そりゃ知らない大人が同じ部屋にいるとか恐怖以外のなにものでもないよね。

 つーか俺だって例のマイクさんだとかと一緒に暮らすの無理。絶対掘られる(友情を掘り下げるって意味で)

 

「辰巳君全然気づいてくれないから、どうやって追い出そうかって悩んで、辰巳君のこと3日くらいずっと観察してたの」

 

「されてたのか……」

 

 思い出せば、確かに何かに見られている感覚はあった(後付け)

 ただ俺って町とか歩いててもギャルとかの視線釘付けにしちゃうし、それの延長線だと思ってた(勘違い)

 

「それで観察してたら辰巳君……ぜんっぜん家事しないの。料理もお掃除もお洗濯もなーんにも。わたしびっくりしちゃった」

 

 何がびっくりしたかよく分かりませんね。

 一人暮らしを始めたからって、必ずしも家事をしなければならないなんてこと、あります?(あります)

 確かに俺全然家事しなかった。

 つか、3日目にして餓死寸前だった。

 

「辰巳君がお腹がぐーぐーうるさくて……あんまりにも可哀想だから、ついご飯作っちゃって。その時だけの例外ってそう思ってたのに……辰巳君がおいしそうにご飯食べてる姿見たら、なんかこう……胸の奥がキュンって」

 

 ほほう、それは恐らく母性本能というやつですな。

 ヒモなんかはそれを刺激する異能スキルが必須だとか。

 それを俺は先天的に持っていた……?

 俺って自然発生型の異能力者スキルホルダーだったってこと?

 

「それからもつい、ご飯作ったりお洗濯とかお掃除してたら、なんて言うのかな……この人はわたしがいないと駄目だなーって思って」

 

 あー、それ典型的なヒモパターンですわ。

 ヒモは甘いところ見せちゃ駄目だよー。アイツらどんどん調子乗るから。

 

「だらしなく寝てる辰巳君の傍でお掃除とかしてたら……自分がお嫁さんになったみたいで……それで辰巳君が旦那さんに思えてきて、それで、それでね! ……い、いつの間にか好きになってたの。……な、なんかこういうこと言うの恥ずかしいっ」

 

 キャーなんて真っ赤顔を手で覆いつつ言っちゃうエリザさん。

 いや、キャーって言いたいのはこっちなんすけど。

 何で今更自分の駄目っぷり、いや最早クズっぷりを他人に語られないといけないわけ? これ新手の拷問?

 つーか幽霊さん、それって錯覚だわ。

 典型的な離婚推奨夫婦の妻側だわ。

 旦那はあんたのこと必要だけど、よく考えてごらん。奥さんは別に旦那がいなくても何にも困らないってこと。

 ほら、さっさと子供連れて出て行っチャイナ!

 

 好きってさ、色んな種類あるけど……こういうのってどうなの?

 いや、好きって言ってもらえて嬉しいんすけど、やっぱ好きってのは対等でなくちゃ駄目じゃん? なんつーか完全にこの子優位だよね。

世話してあげてる、みたいな。私がいなくちゃ、駄目みたいな?

 

 いや、まあ実際そうなんですけど! そうなんですけど!

 ……そうだ、俺の大人のテクでこの雌の体に快楽を味合わせてやればいいんじゃね?

 家のことやってもらう代わりに、俺は快楽を与えてやる。

 そうすることでいわゆるwinwinの関係が……ってこれまるっきりヒモの考えか。

 だがいい考えじゃないか? 

 ただ問題は俺が童貞だってことなんだよな。妄想の中では百人切りの英雄なんだけど。

 

 まあ、とにかく目の前の少女が俺のことを好きらしいことは分かった。

 

「何で家事をしてくれていたか、それは分かった」

 

「う、うん」

 

「で、まあここからが本題なんだけど」

 

 さて、本題に行こう。

 今までこの質問は避けていたが、しないわけには行かない。

 この質問をしなければ、お互いこれから生活していく上で、シコリの様な物が残ってしまう。

 シコリは取り除く。

 俺はそのシコリ(質問)を口にした。

 

「――何で全裸だったの?」

 

 と。

 次は何かな?とちょっとわくわくした表情の少女の顔が固まった。

 パリパリと表情が剥がれ落ち、現れたのは先ほどの好意を伝えてきたのとは違う顔の赤さと、動揺のせいかグルグルと渦巻いた瞳とふるふる震える唇だった。

 

「――あ、あれはぁ! ち、ちがくて! そーいうんじゃなくて! そ、そのなんていうか……違うの!」

 

「何が違うのかな」

 

「だ、だから……違うの! べ、別に変な意味で服を着てなかったんじゃないのぉ! 違うの!」

 

 違う違うってなあ……そんな言葉で無罪証明できたらナルホド君いらねえだろうが!

 ちゃんとした証拠を寄こせよ、そしたら納得してやるさ。

 

『自分の姿を認識していない男の前。全裸で家事をしていた。しかもノリノリであることから、常習犯だと思われる』

 

 誰が見ても痴女の証明でしかないこれを、覆す証拠があるのかねぇ……。俺はないと思う。

 

 さて痴女幽霊のお手並み拝見といくか。

 

「……ち、痴女とかじゃないの! わたしが服を着てなかったのには、ちゃんと理由があるの!」

 

「お聞かせ願いたいですな」

 

「だ、だから、その……辰巳君はわたしのこと見えてないし……そう! 暑かったから! 暑かったから服脱いでたの! あの、その……暑すぎて服がどっかに、あれなの……逃げたの! だって暑かったから! 夏真っ盛りだもん!」

 

 いやイエーイめっちゃ春デイだったんですけど。

 暖かくはあっても、暑いなんてこと全くなかったんですけど。

 しかし分かりやすく錯乱してるな……。

 言っている意味が全く分からん。これは地雷だったか?

 

「だってわたし幽霊だから……幽霊だから暑いと服が逃げちゃうの! べ、別に辰巳君の前で裸でいることが気持ちよくなってたとかそーいうんじゃないの! 奇数日は裸の日なんて決めたりしてないの! わ、わたし痴女じゃないから!」

 

「ええそうですね。君は痴女じゃないですね(棒)」

 

「だよね! わたし痴女じゃないよね!」

 

 追い詰められた人間特有の勢い強めな笑顔を浮かべる幽霊子さん改めエリザさん。

 まあ、痴女ではないけど、露出狂の一種ではあるよね。

 人は誰だって潜在的にそういう面があるらしいけど、ぶっちゃけ見えてないからって男の前で二日に一回のペースで全裸るとか、ちょっとひくよね。

 

「よかったっ、わたし痴女じゃないんだ! えへへっ、痴女なんていなかったっ」

 

 何か言い訳がましく「痴女はいない」と連呼するエリザを見て、俺は優しくなっている自分に気づいた。

 人は自分より駄目な人間を見ると、安心する。

 俺はその時、限りなく自分より駄目な面を持つ少女を見て、安心していた。どうやら上手くやっていけそうだ。

 

「……ん?」

 

 携帯が震えた。メールが来ていた。

『せっちゃん』――妹からだ。

 恐らくさっき俺が送ったメールの返信だろう。

 

≪ふざけた遺言は死んでからお願いします≫

 

 死んだら遺せねーよ。

 

≪もしかして本当に死ぬ気ですか? でしたら事前に連絡していただかないと、色々な準備があるので。できれば死ぬ際は3ヵ月前までに連絡いただけるとありがたいです≫

 

 じむてきー。

 超じむてきー。

 兄として妹がしっかりしてくれるのは嬉しいけど、もっと俺のことに触れてー。兄ちゃん悲しいわー。

 

≪鯖の味噌煮を墓前に欲しいとのことですが、そういう物を置くと腐って臭いを発するので他の人に迷惑です。実際兄さんがそっちに引っ越す前に食べ残した鯖の味噌煮が、兄さんの部屋で凄まじい臭気を発していますから≫

 

 片付けてー、ねー片付けてー?

 もう一ヶ月だよー?

 えー、一ヶ月放置ーマジでー?

 もう部屋に残してるイカちゃんのねんどろいどとか、絶対鯖の味噌煮の風味が香ばしくなってるじゃーん。

 鯖の臭いのイカ娘とか誰得なんだよー。俺得だわ。ただでさえペロペロしたいイカちゃんに鯖の臭い付いてるとか無敵じゃん。……ん? 匂い付きフィギュア……これは売れるんじゃなイカ?

 

≪流石に私もあの臭いの部屋で寝るのは限界なので、そろそろ片付けます≫

 

 そうして、マジで。いや、鯖云々は流石に冗談だとは思うけど。

 ……ん? しかし、何で俺の部屋で寝てるんだウチの妹は? 冗談か?

 

 

≪近いうちに兄さんの様子を見に行きます。見られたら困る物は片付けておいて下さい。一人暮らしをこれ幸いと無垢な幼女を監禁しているでしょうから、それもきっちり処分しておいてください≫

 

 んー、お前の兄さんは幼女を監禁するタイプの人間じゃないゾー?

 実家にいた時もそんな片鱗見せたこと無かったよねー?

 

 俺はふとエリザを見た。

 

「これから服はちゃんと着ないと……やだなぁ。でも辰巳君が見てるしちゃんとしないと嫌われちゃう。……はぁ、同棲するのって大変。でも……これから楽しそう、ふふふっ」

 

 何やら葛藤している様子のエリザさん。

 さて、幼女は監禁していないが、幽霊少女が同棲しているけど……まあ大丈夫だろう。

 うん、きっと大丈夫大丈夫。

 何かフラグぽいけど、気のせいだろう。

 

「じゃあエリザ。これからよろしくな」

 

「うん!」

 

 

――後に俺は、全然全くこれっぽちも大丈夫じゃなかったことを思い知るのだが……それはまた先のお話。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最寄りの派出所まで全裸スキップで7分(ただ、捕まる)

俺、人に自慢できることって殆どねーけど、ただ一つだけちょっぴり自慢できることがある。

それは寝起きの良さ。

『寝』の方は子供の頃からの強みで、一旦布団に入るとものの数分でグゥグゥ。これには付き合いの長い妹も「兄さん、のび太君みたいですね」なんて尊敬の言葉あり。

俺とのび太君って結構似てると思う。部屋に人間じゃないナニカが住んでるし。アッチは青い狸with未来の道具でこっちは銀髪の美少女with家事万能……どっちを選ぶかはあなた次第。

あと俺って射撃も結構上手い。縁日の射的で『最終話のガンダム』の二つ名を頂戴して、屋台のオッサンを震え上がらせ、最近じゃ出入り禁止にされちまった。

最近眼鏡かけてるから、またのび太君との接点が増えた。

まあ、俺とのび太君の類似性はひとまず置いとこう。

 

寝起きの『起き』の部分だ。

これはこの部屋に引っ越してから、一気によくなった。

多分部屋の環境や風水的に、この部屋が俺の寝起きにとても合うのだろう。

遅刻なんて一度もない。

 

『た、辰巳……お主は私が怖くないのゲソ?』

 

ところで俺は現在、大好きなイカちゃんの夢を見ている真っ最中だった。

もし海の家れもんじゃなく、俺の家にイカちゃんが現れたらってIFの話。

 

『だって、私は人間じゃなくて……イカでゲソ。お主達とは違うでゲソ』

 

怖い、か。確かに怖いな……君の可愛さが。

どこからどう見ても、普通の可愛い女の子にしか見えないな。

 

『なっ、なにを言うでゲソ!? お、お主は馬鹿じゃなイカ!?』

 

ハハハ、よっちゃんイカみたいな赤くなっちゃって……ンモー、イカちゃんがオワコンとか言ったやつどこの誰だよ。

こんな可愛いイカちゃんをディスるとか、俺には考えられないね!

オチがない? あのさぁ、そう言うってことはテメェの日常には毎日オチがあんのか? ないだろ?

イカちゃんってさ、つまるところ人生じゃん。だから人生にオチとか無粋なモンいらないわけ。

お分かり? 分かったらさっさとイカちゃんのねんどろいど買ってこいや。

 

『お、おおっ!? こ、これは何でゲソ!?』

 

おっと、部屋が揺れてるな。

これは俺が目を覚ます前兆だ。

じゃあ、俺そろそろ行くよ。

 

『……い、行ってしまうのでゲソ? また、来てくれるのでゲソ?』

 

ああ、来るよ。

また今夜に、な。

 

俺の意識は上へと引っ張られていく。

俺とイカちゃんが住むアパートの部屋の天井を突き抜け空へ。

揺れは更に大きくなっていく。

この揺れがまた心地よく、それでいて眠気を散らす。

 

「――きーてー!」

 

おや、今日は揺れ以外にも声が聞こえるぞ?

これは今までに無かったことだ。

ふむ、これもまた成長か。

声と揺れで俺の意識はみるみる覚醒へと向かっていった。

天蓋を突き抜けた瞬間、俺の体に重力の負荷がかかった。目を覚まし、現実の俺の部屋の布団の中に戻ったのだ。

眠気が霧散し、脳が覚醒する。

そして目をパチリと開いた。

 

「あ、起きたっ。おはよー、辰巳君」

 

銀髪の少女が俺の顔を覗き込んでいた。

や、やだ……すっぴんなのに……恥ずかしい。

 

ムクリと体を起こし、その反動で俺の体の上に乗っていた少女がフワリと上昇した。

頭上から少女が声をかけてくる。

 

「今日もちゃんと起きて偉いねー、辰巳君。ご飯食べよっ」

 

嗅覚は台所から漂ってくる香ばしい味噌の匂いを捕らえていた。

それよりも俺はある事実に気付いてしまった。

 

先ほどの揺れ、アレはこの子が俺を起こして発生していたらしい。

そしてその揺れは、今までずっと共にあった。

つまり――俺今まで自力で起きてたわけじゃないのね、と。

 

あと夢から覚めた今だからこそ、言うけど――イカちゃんもいいけど鮎美さんも可愛いよね!

 

 

※※※

 

 

 

昨日と同じく、正面に少女を見据え、朝食をとる。

秋刀魚を口に運ぶ俺を、何が楽しいのか、にこにこ笑いながら見つめてくる少女。

食事中に完全に意識が覚醒した俺は、ふと少女の前に食事がないことに気付いた。

 

「……何で、お前んとこ朝飯ないの?」

 

「えっ? だって、わたし幽霊だし」

 

昨日の会話を記憶野から引き出す(金髪ツインテールの司書があっちやこっちと図書館を走り回ってるイメージ、あっこけた!)

鼻の頭に絆創膏を貼った司書ちゃんから記憶を受け取り、俺はお礼にと司書ちゃんの頭を撫で――朝から俺なに考えてるんだろう……。

確か昨日この子はこう言っていた『幽霊でも餓死はしないが、お腹は空く』と。

 

「幽霊でも腹減るんだろ? 食えばいいじゃん」

 

「で、でも……二人分作ったらお金かかるし……」

 

「いーよ別に。そんな切羽詰ったほど金ないわけじゃないし」

 

実際結構切羽詰ってるけど、いざとなったら俺の後ろには妹銀行がある。

更にその背後には母親銀行が(これは最終手段。命を捨てる覚悟がないと利用しないように!)

 

「それに一人で食ってもつまらんし」

 

一人で食べる食事の空しいこと空しいこと。中学生の俺は自分の身を守る為に昼休みは一人になる必要があった、その時の食事の辛いこと辛いこと……って、だから何で朝からこんなテンション下がること思い出さなきゃいけないんだよ。

あー、朝は駄目だ。

いつものバリバリ上げてく感じが出ない。

 

俺の言葉に、少女はまるで飼い主に餌を渡され「食べてもいいの?」と恐る恐る様子を伺うリスの様に言った。

 

「……じゃ、じゃあ……わたしも一緒に食べるっ」

 

テテテ、と台所に駆けてく少女。

まだ余りがあったのだろう。

お盆に載せてきたそれを食卓に並べ、少女は白い歯が見えるほど口を開いて「いただきます!」と言った。

 

 

※※※

 

 

出席点重視の授業があるので、朝から大学に行くことにした。

いくら大学に近くても、1限目から出るのはしんどい。

まだ寝ていないと渋る体に鞭を入れる。

妹コーデの服を着て、鏡の前に立ち髪形をセットする。

俺の髪の毛はなかなかわがままだ。

生半可なワックスじゃ、すぐにおねんねしちまう。

だから俺は近所の薬局で言った。

『ハードを超える……インフェルノなワックス、ありますか?』って。

そして俺の手元にあるのがこれ『フェニックス』あの幻想の生物であるフェニックスのタテガミの様な荒々しい髪形をも可能とする超ハードワックスなのだ。

これを手に一つまみし……髪に馴染ませる。

立てて立てて立ててたまに揉む。そうすることで躍動感が生まれる。

髪は命だ。

死んだような髪形じゃ、女も落せねえ。

だからまずは立てろ! いいから立てろ! 生命の象徴のように立てるんだ!

そうしてできあがったのが俺の髪形――一ノ瀬フェニックスSTYLE。

風に吹かれようが、雨に濡れようが、変わらないその髪形――まさに不死鳥!

俺は不死鳥の生命力を得て、一気にテンションが高まった。

そのまま幽霊子に「言ってくるフェニ!」と叫び、出撃!

 

「あ、辰巳君っ、ちょっと待って」

 

出撃は中断された。

ふわぁと宙をスライドしてくる少女。

やれやれ、出撃迫った俺を止めるとは命知らずな女だ……なんて思っていると、頭の上に何やら温かい物が落とされた。

これは……蒸しタオル!

そしてその蒸しタオルを少女の手がゴシゴシと動かす。

 

『ケーン!』

 

不死鳥ヘアーが断末魔の悲鳴をあげた。

いくら生命力溢れる不死鳥でも、蒸しタオルだけには適わない。

 

『いや、マジで濡れタオルだけは勘弁な』

 

哀れ不死鳥は生まれる前の卵に逆戻り。

つまりぺったんこヘアーってこと。

 

「お、おまっ、一体何を……してくれるんですかねぇ!?」

 

「え? 寝癖を直した……だけだよ?」

 

「寝癖じゃねーよ! ヘアースタイルだよ! フェニックスなんだよ!」

 

俺の生命力溢れる主張にも、少女は『ちょっとこの人何言ってるか分かりませんね……』みたいな怪訝な表情を浮かべた。

 

「だって辰巳君、それどこからどう見ても……寝癖にしか見えないよ?」

 

あーもうやだ。これだから女子供は困る。

女には分かんないのかねぇ! あの髪形の素晴らしさが! 

……ん? 女にモテる為の髪型なのに……女には理解できない……?

俺は恐るべき矛盾にぶち当たり……時間がヤバいのでその矛盾の考察を放棄した。

しかたないが、髪形もナチュナルのまま、部屋を出る。

 

 

※※※

 

 

重い扉を開け、部屋の外に出る。

心地よい冷気が肌をサラリと撫でた。

天気は快晴、空は青一色だった。

 

さて、学校へ……というところで、俺は妙な物を見つけ立ち止まった。

俺の部屋の扉、そのすぐ隣の壁を背にして何かがいる。

つーか大家さんが箒を抱きかかえて座り込んでいた。

 

「……どういうことだよ、おい」

 

俺の脳が早々に理解を放棄した(ホウキだけにね!)

何だろう、こんな画像どこかで見たことがある。

電車の中でスナイパーライフルを構えて眠る中学生の……あんな感じだ。

つまり大家さんって殺し屋?

大家は仮の姿で真の姿は裏社会で恐れられる『仕込み刀の童女』だったりするの? なにそれカッコイイ! ズルイ!

まあ俺も前世で四神将の一人だったって真の姿があるから、対等かな。

 

「……むにゅむにゅ……それは違いますよぉ……それはウナギじゃなくてドジョウですってばぁ……」

 

なにその寝言?

え? ウナギ、ドジョウ? ……大家さんも、そんなエッチな夢見るんだ。

常日頃からエッチな夢を見ている俺は、大家さんに共感を覚えた。

よーし、大家さんとの話題が一つ増えたぞ! 今度『ウナギやドジョウもいいですけど、電気ナマズもニュルニュルビリビリして凄いですよ』って言っチャオ!

 

とりあえず春とはいえ、朝から外で寝るのには寒い。

俺は大家さんの肩を揺すった。

 

「おーい、大家さん」

 

「……んぅ……いえ、ですからそのヌルヌルはローションとかじゃなくて……ローションってなんですかぁ? ……へむ?」

 

ぱちりと大家さんの大きな瞳が開いた。

瞳は未だゆらゆらと定点が定まらず、覚醒後の朧気な意識に引っ張られるように、ふらふらと周囲に向けられる。

と、その視線が俺をロックオンした。

ふにゃり、と寝起きスマイルを浮かべる大家さん。

 

「……一ノ瀬さぁん、おはよーうございますー」

 

ペロペロしていいですかね?

つーかここでペロペロしないで何がペロリストか!

ここだけの話、俺ほどのペロリストになっちゃうと、女性に会ったとき「どれくらいペロペロできるか」ってのでその女性の価値を判断しちゃうんだよね。

その点、大家さんは合格。

P値が大体27000くらい。これ人類としては相当高い方。

まあ、イカちゃんは18億くらいあるけど、イカちゃん人類じゃねーし。

 

「んんー、んー……はれ? ……一ノ瀬さん?」

 

徐々に意識がハッキリしてきたのか、言葉も超舌足らずな状態からまあ舌足らずな状態へシフトする。

目をゴシゴシと擦り、周囲を見渡す。

 

「……私、寝てましたか?」

 

「ええ、まあ。寝ているといえば寝てましたし、寝てないと言えば嘘になります」

 

「……うわぁー、これは恥ずかしいところを」

 

寝起き顔を見られるのが恥ずかしいのか、和服の袖で顔を隠してしまう。

大家さんの恥ずかしい所、見せていただきありがとうございます。

代わりに俺の恥ずかしい所も見せましょうか?

ただ俺の恥ずかしいところは、尋常じゃないほど恥ずかしがりやさんで……。

優しい声とふんわりタッチをして頂ければ、窓からチョコンと顔を出しますよ、フフ……。

 

「……!」

 

と、俺はその大家さんの口の端に、垂れる涎を見つけてしまった。

もし、大家さんがこれに気付いたら『寝顔を見られた上に涎まで!? もう死ぬっきゃないnight!(昼なのに)』なんて軽くトラウマを負うカモ……。

俺は素早くハンカチ(パリッとアイロンがかけられている)を取り出し、たこ焼きをひっくり返す要領で大家さんの口元をかすめた。

涎をデストローイ!

俺は大家さんの涎付きハンカチを手に入れた!

やった! 大家さん三大秘宝の一つを手に入れたぞ! あと大家さんの脱ぎたて足袋と使い終わった歯ブラシを手に入れたら三大秘宝が揃う!

三大秘宝を手に入れた俺は……一体、どうなっちまうんだ!?(多分豚箱にイン)

 

「して、大家さん。何でこんなところで……?」

 

「……は! そうです! そうなんです! 一ノ瀬さん、大丈夫でしたか!?」

 

そりゃまあ一ノ瀬さんは大丈夫でしたけど。

大家さんの方は大丈夫じゃないみたいですね。

やっぱりこんな所で寝るから、頭に酸素がいかなくて……。

 

「大丈夫って……何がですか?」

 

「何がって、幽霊さんとの勝負ですよ! 昨日決着をつけるって、言ってたじゃないですか!」

 

あー、そういえばそういう話、しましたね。

いや、決着をつけるとは言いましたけど、別にバトるつもりじゃなかったんですよね。

 

「私心配で昨日はずっとここで待機してたんですよ! もし一ノ瀬さんの悲鳴が聞こえたなら、すぐさま飛び込んで加勢するつもりで、ふんすっ」

 

鼻息荒くしてるとこ悪いんですけど、そーいう展開はねーから。

良く見ると大家さん、かなりの戦闘態勢だ。

割烹着下の着物は肩まで捲くりあげて、太もも辺りで短く縛ってるし。

額には『武神装甲』って鉢巻までしてるし。

箒も良く見れば、いつもの箒と若干違い毛先がすんげえ尖ってる。

大家さん最終決戦仕様みたいな感じ。これねんどろいどで出たら買うわ。イカちゃんの隣に並べる。

 

「でもよかったです、無事で……もう心配で心配で」

 

でもあなた寝てましたよね。

あと俺一回ビックな悲鳴あげたと思うんすけどね。

いや、言わないけど。

 

「で、勝負の方はどうなったんですか? 勝ったんですか? それとも負けて……あれ? で、でも負けた場合一ノ瀬さんは……? あ、あの一ノ瀬さん、つかぬことを伺いますが……一ノ瀬さんですよね? 一ノ瀬さんの中の人、入れ替わったりしてないですよね? 乗っ取られたり、してないですよね?」

 

この人は一体何を言ってるんですかね?

俺が一ノ瀬じゃなかったら、一体誰が一ノ瀬をやるんです? 一ノ瀬は俺しか、いないんです! 

つーか大家さんちょっと甘いわ。

世の中の勝負が勝ち負けしかないと思ってる。

そうじゃない、世の中には勝負には勝ったが結果的には敗北条件を満たしていることもあるし、負けたけども勝利よりもずっと大切な物を手に入れる、そういうことがあるんだ。

例えば俺は高校の時の体育際の打ち上げには呼ばれなかった。それって一見負けっぽいけど、実際は打ち上げした連中が全員、先生の差し入れの寿司食って食中毒起こした。これってつまるところ俺の勝ちだよな。

つまりそーいうこと。

世の中winとloseだけじゃ語れねーんだよ。

だから俺は言ってやった。

 

「ま、ボッコボコにしてやりましたわ」

 

「わあ! スゴイ! 幽霊をボコったんですか!」

 

「ええ、まあバッキバキですね。幽霊も『命だけわぁ、お助けぇ』てなもんで。まあ、今じゃ舎弟みたいなもんですわ」

 

「ス、スゴイです! ストロング! ストロングですよ一ノ瀬さん!」

 

「幽霊に物理攻撃が効かないって言った昔の人はアホですね。……魂さえ篭ってれば、幽霊も物理法則の名の下に、ですわ」

 

「意味は分かりませんがスゴイです! かっこいいー! 一ノ瀬さんかっこいいです!」

 

キラキラした目で俺を見てくる大家さん。

俺は嘘を吐いてるけど、この場合の嘘は誰も傷ついてないからいいと思う。

嘘ってのは本来こういう風に使うんだよ。

今、俺の嘘は眼の前の女の子を喜ばせてる、それってスゴイ素敵。

 

「というわけで、あの部屋の幽霊については大丈夫です。俺があの部屋にいる限り、二度と悪さはさせませんから」

 

「……はふぅ。なんてお礼を言えばいいか……私にできることなら、何でもします。今、なにかして欲しいことはありませんか? もー、私、一ノ瀬さんに感謝し過ぎて、この気持ち、もう……どうすればいいんですかっ」

 

まあ、とりあえず今日の夜、俺の布団にこっそり入ってきてください。そんで『……来ちゃいました。もう、分かりますよね……女の子に恥をかかせないで下さい』的な体から始まるラブストーリーを一つお願いしますわ。

最終的に気持ちが通じていれば、始まりはどうだっていいタイプだから俺。

極論を言えば、憎しみから愛に終わってもいいってこと。

『あの頃私はお前を殺そうと思っていたが……そうしなくてよかった。お前がいない世の中なんて、考えられない』みたいなVS元暗殺者とのピロートーク大好き!

 

「お礼とかはいいですよ。あの部屋、このアパートに住ませてくれている……これ以上大家さんに望むことなんてありません。俺このアパートに住むことができて、本当に幸せですから」

 

これは本音。

俺このアパートで大家さんと出会ってなかったら、大学の空気に馴染めないでソッコーおうちに帰ってたと思う。

大家さんがいなかったら、マジで引きこもりになってた。

大家さんの何気ない優しさは俺にとって、大学に残るギリギリの命綱だった。

 

「一ノ瀬さん……」

 

そんな俺の言葉に若干目を潤ませながら、両手を胸の前で組んじゃう大家さん。

これは好感度上がったね。

 

「……えへへ、嬉しいです。このアパートをそんなに好きになってくれていたなんて……」

 

「いや、まあ……はい」

 

「ふふふ」

 

何だか照れるな……。

 

「と、ところで! その髪形なんですけど!」

 

「……!?」

 

シット!

うっかり髪形のこと忘れてたぜ!

やっばいわ! こんな無防備ヘアーじゃあ、大家さんに嫌われちゃう!

 

「い、いやこの髪形はですね、その何ていうか幽霊が勝手に……!」

 

「いいと思います、すっごく」

 

「……なに?」

 

これは予想外の展開。

てっきり『フェニックスじゃない一ノ瀬さんとか、タマちゃんのいないバンブレみたいなもんですよねー』とか言われると思った。

 

「もうちょっと短くすればもっといいと思いますよっ。やっぱり今までの髪形がアレでしたから……でも、気付いてくれてよかったです。一ノ瀬さん今までの髪形気に入ってたみたいだから、私は何も言えませんでしたけど……やっぱり凄くアレでしたからっ。自分で気付いてくれてよかったです」

 

「……その、スイマセン。アレっつーのは、何すかね?」

 

「アレはアレですよー。えーと、何ていうか……『あんな髪形にするくらいなら、まだカイワレ大根を植えてた方がマシ』みたいな、アレです」

 

……。

 

「いやー、一ノ瀬さんがあの悪夢から目を覚ました今だから言っちゃいますけど、あの髪形はないですよー、ふふっ。あんな髪形で世紀末世界に行ったらヒャッハーな人達にも『ヒャア! だっせえ髪型だぜ!』なんて言われちゃいますよねー」

 

「……」

 

モヒカントゲ付きの連中、以下、だと?

 

「もし、朝起きてあの髪型になってたら、私は迷わず剃ります……それくらいアレでしたよ。本当に目がさめて良かったですねっ」

 

「……もう、いい。やめてくれ」

 

これ以上俺を虐めないでくれ。

そうかー、アレかー。

よく考えたら俺と初めて会った人間って、まず俺の頭見てそれから目を逸らすんだよな。あんまりにも俺の髪形が神々しすぎて直視できないからだって、思ってたけど……俺ポジティブ過ぎだろ。

近所の小学生にも指さして笑われてたし(そん時は小学生の未熟な精神が俺の偉大な髪形を見るに足りず発狂して笑っていたと思った)

つーか言えよ。誰か言ってくれよ。

『その髪形正直変ですよ』ってよォ……。

何で誰も指摘してくれねーんだよ。

俺は現代社会における人間関係に希薄さを感じた。

 

もっとさあ、他人に興味持とうぜ?

道端で血まみれになって倒れてる女の子いたら、即家に連れ帰ったりさぁ。

んで、その子を追う組織の人間に『何故無関係のその子を庇う』なんて聞かれたら『困ってるヒトがいたら誰だって助けるだろうが!』みたいに言い返せるタイプの主人公になろうぜ。

続編でまた違う子助けて前助けた子に『もうまた女の子助けて! この節操なし! ……で、でもそういうとこが……好き』俺も好き!

 

どん底まで落ち込む俺を尻目に、大家さんは俺の周りをクルクル回り「ほほう」とか「いいわぁ」なんてため息交じりの声を出している。

 

「……何すか?」

 

「え、ええっ? あ、ああ、えっと……大学終わったら、その……髪切ってあげましょうか?」

 

「……何で?」

 

「それは勿論私好みに、んんっ――ほ、ほらっ、一ノ瀬さん貧乏ですから、散髪に行くお金ないんじゃないですか?」

 

そこまで貧乏ではねーよ。

この人俺をどんだけ貧乏だと思ってんだよ。

いや、確かに地面に落ちてる金見つけて、それがボタンだって分かったときマジ泣きしたこととかあったけどさあ。

「ど、どうかしたんですか」って泣いてる俺を大家さんが見つけて「100円玉じゃなくて、ボタンでした……ボタンだったんですよぉ!」とか言ったことあったけどさあ。

でもその時の俺、大学に入学して勇気出して行った新歓コンパの自己紹介でお茶の間失笑レベルに滑って、精神的に参ってたからであって……。

……お、おうぅ、あの時のことを思い出すと吐きそうになる。

 

「……あの、そもそも大家さん、髪切った事とかあるんですか?」

 

「え? ああ、はいそれは大丈夫です。こう見えて私、昔は美容師を目指してましたから」

 

指をピースにしてチョキチョキと開閉をする大家さん。

意外な事実だ。

しかし、何だって美容師の道から大家へ。

とても興味がある話だが、長くなりそうなのでまた今度聞くことにしよう。

 

「あー、じゃあまた今度お願いします」

 

「はいはいー。腕が鳴りますねっ」

 

「じゃ、行ってきます」

 

「行ってらっしゃい。車に気を付けて下さいねー」

 

俺は大家さんと別れ、門近くでいつもの小学生が俺の髪を見ながら『グッ』と親指を立てられ飴を貰い、アパートから出たのであった。

飴は黄金糖だった。

今の俺の苦い気持ちを皮肉るかのように、それは甘かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大学までこの近道を通れば8分(ただしその前を陣取るデスクラッシャーを倒せたら、な)

 時間が経つのは早いもので、幽霊少女が俺の前に姿を現してから、1ヶ月の時が過ぎた。

 その一ヶ月の間に、それはもう波乱万丈なイベントの数々が――特に起きることはなかった。

 それもそうだろう。

 もともと見えないだけでそこにいた存在が、ただ見えるようになっただけなのだ。

 そうそう生活環境は変わらない。

 

「朝だよ辰巳くーん。起きてー、おいしーご飯があるよー」

 

 朝、いつも通りエリザに起こされ、一緒に朝食をとる。

 

「いただきます」

 

「召し上がれー」

 

 ここでちょっと怖い話を一つ。

 俺が着けている眼鏡だが、当然眠る前には外して眼鏡ケースに保管する。

しかし。朝起きる時、夜中ふと目が覚める時――何故か装着しているのだ。

 エリザに聞いても、知らないと言う。

 もしかしたら、この眼鏡、夜な夜な勝手に動き出して俺の顔までやってきてるのか?

 い、いや……まさかな。そんなことありえないし。

 

 顔を洗い、最近大家さんにカットしてもらった髪を申し訳程度にセットする。

 パジャマを脱ぎ、私服に着替える。ちなみにこの時、エリザは「ひゃぁっ」とか言って真っ赤な顔で台所に逃げていく。んでこっそりこっちを覗いてる。

 俺も異性の裸に興味がある年頃の事情は理解しているつもりだから、ちょっとサービスしながら着替える。

 気分はフルモンティ。焦らすように服を脱ぎ、無駄に回ったり、ポーズを決めたり。ついつい見られていることに興奮して、脱がなくてもいいモノまで解☆禁――という辺りで時計見てヤッベェってなる。

 宇宙刑事バリに服を瞬着して、玄関へ。

 

「行ってらっしゃーい!」

 

 エリザの声を背に、アパートの部屋から出た。

 アパートから出ると、時間帯によって大家さんと会えたり、会えなかったりする。今日は会えた。

 いつもの様に箒で庭を掃いている大家さんだが、今日はどうも動きが軽やかだ。

 鼻歌もかなりアップテンポで、箒で掃く音に合わせて一人ライブをしている模様。

 このまま見ていたら、箒をエアギターにしたり、エア客弄りをしそうだ。

 それも楽しそうだが、あまり時間がないので普通に「おはようございます」と挨拶をする。

 

「あ、一ノ瀬さん。おはよーございますー、いやぁ、いいお天気ですねぇ」

 

「ですね。それにしても大家さん、今日は何か機嫌がいいですね?」

 

 いつもニコニコ笑みを浮かべている大家さんだが、今日はいつもに増してにこやかだ。

 何かいいことでもあったのかな?

 俺の予想は当たっていたらしく、大家さんは「えへへ」と若干照れながら

 

「大したことじゃないんですけど……昨夜、すっごくいい夢を見たんですよー」

 

「夢、ですか」

 

「はいー。たかが夢と侮ることなかれ、夢から覚めたら気分爽快で、今日も一日頑張りましょー!とそんな次第です」

 

 あー、分かるそれ。

 とてつもなくいい夢見た後の目覚めって最高だよね。

 一時的にとはいえ、自分の人生は最高なんじゃないか?って錯覚してしまう。

 俺も見知らぬ可愛い女の子といちゃいちゃする夢を見て起きた朝、何となくいい出会いがありそうだなぁって思ったことがある。

 ちなみにこの話のスゲェとこは、その夢の中の彼女とその日に出会うことができたってとこ。

 まぁ、子持ちだったんだけどね。しかも二児の母。夢もキボーもねぇ。

 しかし、大家さんがここまで機嫌よくなる夢か。俺、気になります!

 

「で、どんな夢だったんですか?」

 

「んふふー、内緒です!」

 

 人差し指を小さな唇に当て、パチリとウインクをする大家さん。

 あー、内緒かー。

 女の子が言う『内緒』って言葉いいよね。

 それだけで例えどんなことでも許せちゃう。

 俺もし自分の頭に爆弾が仕掛けられてその停止番号を大家さんしか知らないって状況で、大家さんが『停止番号? 内緒です、フフフ』って言われたら『内緒か。だったらしょうがないな』って諦めて爆散しちゃう自信あるもん。

 ただ個人的に言うならば『内緒』って言葉は、放課後の教室で仲良くなった教育実習のセンセイに言われたいものだね。

 『他のみんなには……内緒よ?』いやぁ、この言葉だけで広がる無限のシチュエーション。せんせぇ、ボクのここが病気になっちゃったよぅ……。

 

 しかし『大家さん』の『内緒』の『夢』か……。

 そんな素敵ワードが三つもならんでしまうと、どうしようもなく、こう……滾っちまうよね、妄想が。

 一体どんな夢だったんだろ……。

 俺のHENTAIを司る部位(ワイシャツ着たおっぱいでかい女教師)は間違いなくエロイことだって告げてるけど……。

 こんな天真爛漫で無邪気な笑顔浮かべてる女の子が、内心そんなドエロス抱きながら『内緒です!』なんて言うか?

 いや、言わねえな。こんな穢れている世の中だけど、大家さんだけは清らかであってほしい。

 ンー、きっとあれだ。夢の中で宝くじが当たったとか、そーいう感じだろ。

 

「あ、ちなみに一ノ瀬さんは昨日、どんな夢見ました?」

 

 大家さんはそんなことを聞いてきた。

 俺? 俺はまあ自分の前世である銀髪イケメンの力をふとしたことで取り戻して、現世の生活を乱す連中と戦ってる系の夢だったけど……。

 夢の最後に実は仮面をつけた敵のボス的キャラが大家さんだったっていう、超サプライズな展開があったわけだけど……。

 言えねぇ……そんな夢見てたなんて言えねぇ……。

 そんなことしたらイタイ夢を見る俺=イタくてキモイが成立しちゃうじゃーん!

 

 つーわけで、ぼかすことにした。

 

「大家さんが出てきました」

 

「へっ? わ、私ですか!?」

 

 嘘を成立させるにはほんの一粒の真実を混ぜること。

 これって地味に重要。

 

「ええ、はい。大家さんが出てきました。それもあんな(仮面着けて、スケスケヒラヒラした衣装)格好で」

 

「どんな!? ど、どんな格好だったんですか!? え? でも、夢で私がそんな格好で……ええ!?」

 

 大家さんは俺の些細な言葉にばたばたと混乱した。

 ククク、メダパニっておるわ!

 

「い、一ノ瀬さん! ゆ、夢の中の私は、そ、そんな格好で……一ノ瀬さんと何をしてたんですかっ!?」

 

 大家さんが想像する『そんな格好』でどんなんだろ。

 あと、別に何かしたとかは言ってないんだけど。

 

「内緒です」

 

「ず、ずるいですよ!」

 

「大家さんだってどんな夢を見てたか内緒にしたでしょう? だから俺も夢の中の大家さんについては内緒です」

 

「そ、そんなぁー」

 

 教えてくださいよーと縋り付いてくる大家さんを、講義に遅れるからという理由で引き剥がし、俺はアパートの敷地から出た。

 

 

※※※

 

 

 

 ウチの大学は駅から長い一本坂があって、その上にドンと鎮座している。

 坂の途中にはファーストフード店とか、ゲーセンとか普通の八百屋とかがごちゃごちゃ混じってる商店街になってて、夕方には子供連れの主婦とか講義終わりの学生がごっちゃになって、なんつーかサラダボウルみたいな感じになる。

 俺が住んでるアパートからちょっと歩くとその坂道の横から合流できる。

 そしてえっちらおっちら大学へ向けて登る。

 登るっつっても、そこまで角度がキツイわけじゃない。でもやっぱり朝から歩くのはシンドイ。

 原付とかかっ飛ばしてく奴ら見ると、俺も原付買おうかな、とか思う。

 でも買わない。金ないから。

 ただ手に入れる方法はある。

 遠藤寺だ。

 ちょっと前にアイツと飲んでた時に、どうしてもアイツが食ってた豚ペイ焼きが食いたくなったの。

 んで、頼んでも『ボクが口をつけてるから』とか『いじきたない』とか断られた。

 で、ちょっとカチンときて隣に座ってガンガン押しながら『頼む! 頼むから! ほんの少し! 先っちょだけでいいから!』って酔った勢いで頼んで、それでも断るからもっとガンガン押して、一旦酔いの限界を超えたのか記憶が飛んで(タマにある)、気付いたらアイツに膝枕されて豚ペイ焼き食べさせて貰ってた。

 何が起こったのか良く分からないけど、この経験で分かったのは、アイツ本気で頼むと結構聞いてくれるってこと。

 だから俺が本気で『げんつきー! げんつきがほぢいの~!』とか駄々こねまくったら、多分買ってくれると思う。

 しないけどな。

 友情って、そんなんじゃないしな。

 

「くはぁ……ねむ」

 

 欠伸を噛み殺す。周囲を見ると俺と同じく欠伸をして気だるそうな学生らしき奴らがちらほら見えた。

 そんな連中と坂を歩いてると、俺も他のヤツと同じなんだなぁって仲間意識を勝手に感じてちょっと嬉しくなる。

 で、そいつらが見知った顔見つけて固まりが大きくなっていくと、俺みたいな固まりから弾かれた人間は肩身が狭くなる。

 やっぱ俺、他のヤツとは違うんだなぁって。

 こーいうのって、中学生の頃によくなるらしいけど、俺は未だにそれを引きずっている。

 少しでも居心地が悪くなると、そこは自分の場所じゃないって、そう思ってしまう。

 多分大家さん辺りにこんなこと話したら『考えすぎですよ。もっと気楽に行きましょう』みたいに言われるんだろうな。

 気楽に行くってなんだろう。

 

 とか考えてるウチに大学に入った。

 真っ直ぐに講義のある教室に向かう――前に掲示板を見に行くことにした。

 ウチの大学……というか普通の大学もそうだと思うけど、掲示板は二種類ある。

 学校側からの連絡が貼られている掲示板(教務部からの呼び出しとか、提出物の催促とか)とその他の掲示板。

 その他の掲示板には、サークル主催のイベントの告知とか、サークルのミーティングの集合場所とか、個人に対する個人的な告知(今日のモンハン、3階の休憩スペース的な)とか、そういうのだ。

 

 俺はその他の掲示板の方を見に行った。

 目的はサークルの告知辺り。

 俺は幽霊部員ながら、あるサークルに属しているので、一応自分の属しているサークルの告知は見ることにしているのだ。

 といってもまあ、2週間ほど顔を出していないので、そろそろ忘れられてる頃だと思うけど。

 で、見た。

 

『学生番号31404 一ノ瀬辰巳 これを見たら速やかに部室へと顔を出すコト。これを無視したならば、お前の息子がEDになる』

 

 と書かれた紙が貼られていた。

 やめろよ~、俺の家族に手を出すのはやめろよ~。

 つーかまだ生まれてない人間、今のところ生まれる予定の片鱗すらない人間を呪うのはヤメテー。

 

 俺のこと憎からず思ってる女の子がこれ見て『……え? 一ノ瀬君って子供いたの? そ、そっか……ははっ。最初から、叶わない恋だったんだね』って橋から身投げしたらどう責任取るつもりなんですかね。

 そんで未練抱えたまま幽霊になって、永遠にその橋の下に囚われたりしたら……そしてたまたま通りがかった俺が、彼女を見つけてなんやかんやで家まで連れて行ったら……『ちょ、ちょっと辰巳君? この子誰? また他の子に優しくして! ……でも、そういう所好きになったんだけど』あ、言うなこれ。アイツは言うわ。

 いや、そもそも幽霊が家に二体も居たら、俺に気が滅入ってしまう。

 幽霊って時点でキャラ被りしてるしな。話が展開しづらいし。

 新キャラで新展開欲しいなら、幽霊に負けないインパクト……吸血鬼とか欲しいな。

『がおー、お前の血を吸っちゃうゾー』みたいな、ね。

 

 ちなみにこの掲示板サークル専用のスペースがあって、サークルの名前毎に貼られる場所が決まってる。

 それで俺の名前が貼ってあるサークルの名前。

 

『闇探求セシ骸』って名前。

 

 闇にシンジツってルビが振ってあんの。

 そうだね。何のサークルか分からないよね。

 うん、俺も分からない。今のところオカルト研究会的なサークルだと思ってるけど。

 

 何だってこんな分けの分からないサークルに入ったのか。

 俺だって最初はテニスサークルとかいわゆる飲みサーに入ろうとしたさ。たださ。

 サークル勧誘の時に黒いローブ来た女の子にいきなり『……あら、アナタ。アチラ側を見た人間ですね』って言われたんだよ。

 俺アチラ側ってのが良く分からなかったけど、多分俺の中に記憶としてある前世の世界のことだと思ったから『……へえ、見えるのか?』って返したの。

 ローブの子が『はい、見えます。私のはそういうチカラですから』ってニヤリって笑ったから、俺も触発されて『いい眼だ。ただまだ未覚醒段階らしいな』『なに、を?』『俺は見たんじゃない――アチラに居た』『な――!?』『チカラは失ったけどな』『面白い、ですね。まさかこんな辺境の学校でアナタの様な逸材に会えるとは――』って会話をして、のせられるままにサインしたら、いつの間にか入部してた。

 その時のことを思い出すと未だに夜ワァァァァァァァッってなる。

 ちなみにアチラ側を見た云々ってのは、俺だけじゃなく声をかけた人全員に言っていたそうだ。

 

 俺は告知を無視することにした。

 このサークルの会長、正直苦手なのだ。

 色々と理由はあるが、とりあえずはこのまま幽霊部員を続けて、そのウチ忘れられる方向で進めて行きたい。。

 

 講義室に入ると、一直線で教室の前の方の左側へと向かう。

 まだ誰もいないスペースにリボンがとても目立つ少女がいた。

 遠藤寺である。リボンの自己主張がかなり激しいため、人ごみに紛れてもすぐに探し出せるのがあのリボンの利点だろう。

 

「うーす」

 

 声をかけつつ、隣の席に座る。

 講義の予習かなにか分からないが、何かをルーズリーフに書き込んでいた遠藤寺は顔を上げ、こちらを見た。

 

「やあ、おはよう。今日はちゃんと授業に来たようだね」

 

「当たり前だろ。俺ってば超真面目人間だし」

 

「昨日の授業に来なかったのはどこの真面目人間かな?」

 

「さあな、知らん」

 

 遠藤寺と駄弁っていると、教授が入ってきて講義が始まる。

 大学の講義室ってのは結構独特な雰囲気がある。

 真面目に授業を受ける人間、授業を全く聞かずに内職をしている人間、こそこそと隣の席の人間とお喋りをする人間、馬鹿でかい声でダチと駄弁り教授に注意される人間、携帯ゲームで遊ぶ人間、同じ部屋にそんな人間達が詰め込まれているのだ。

 ちなみに俺は真面目に授業を受けるタイプの人間。

 だって講義中に喋るような相手……いないし。

 遠藤寺は講義を聴くのと内職を平行にしてるから、話しかけるのに戸惑うし。

 

 俺も最近流行りエア友達ってのを作ってみるかな?

 エア友達さえいれば、大学で1人で居ても寂しくないし……。

 エア友達がいれば、1人じゃ入りにくい焼肉店にも入れる。映画だってカップルを気にせず堂々と見られる。あれ? エア友達、いいことずくめじゃね?

 

 よーし、俺エア友達作っちゃお! 俺、なんか子供の頃、イマジナリーフレンドとか居たらしいし、エア友達作成も上手くいきそうだ。

 どうせなら可愛い女の子がいいよね。黒髪でお姫様カット、服はそうだな……ちょっと遊んでる風のがいいかな。ミニスカでちょっと露出が多め。胸の大きさは控えめ、身長は俺と同じがちょっと低いくらい。

家事も万能。今風の格好だけど性格はドが付くほど清楚。で、俺が他の人と話していると嫉妬して袖を引っ張ってきたりなんかして……。

 あ、これ雪奈ちゃんだわ。妹の雪奈ちゃんだわ。8割くらいウチの妹だわ。

 

 そういえば雪奈ちゃんは元気してるだろうか。ウチの妹結構可愛いからタチの悪い虫が寄ってくるのが心配。まあ、雪奈ちゃん馬鹿じゃねぇし、そんな悪い虫は無視するだろうけど。無視だけに。

 

「……むむ」

 

 実家にいる妹のことを考えていると下腹部に猛烈な尿意を感じた。

 妹のこと考えてて、尿意を感じるって一見変態っぽいけど、ただの生理現象だから。そこは誤解しないで欲しい。

 だからイカちゃんのこと考えてて、下腹部がもぞもぞしちゃうのも生理現象なんだよ? 誤解しないでね。

 

 ちょっと講義終了まで我慢できないタイプの尿意だったので、席を立ちステルス状態で講義室から退出する。

 

 トイレに入りさっさと用を足してトイレの外へ――と、男子トイレの出口に一人の人間が立っていた。

 気配も感じさせない登場に、思わずジッパーを上げる手が止まる。

 

「やあ、どうも一ノ瀬後輩。久しぶりデスね」

 

 目の前の変わった格好――黒いローブを着て黒い三角帽子を目深に被った女性は、親しげに片手をあげて言った。

 

 どうやら相手は俺を知っているようだ。

 ウーン、誰だろう……ちょっと覚えてないかも。

 変わった格好してるけど可愛い声だ。

 前髪が長いせいで、目が隠れちゃってのがもったいないなぁ。

 黒い三角帽子に黒いローブ、まるで魔法使いみたい!

 お? とすると彼女の右手にあるのは魔法の杖かな?

 

「何度も何度も呼びかけを行っていたのデスけど、一向に来る気配がないので、こちらから向かうことにしました」

 

 呼びかけ? 黒魔術的な? 召喚?

 ンー、覚えがありませんなー。

 中学生の頃『目覚めよ勇者よ……』って声が1月ほど脳内に響きわたったことがあったけど、あれもストレス性の幻聴だったし……。

 中学生二年生の春だったか、あまりにも現実が辛くなって、ある時家の鏡を見たら妙に鏡面が波打ってたから、ああこりゃ異世界への扉かって、現実世界への未練を2秒で振り切って飛び込んだら当然のように鏡が割れて30針を縫う怪我したし……。

 高校生一年生の夏だったか、妙に親しげな女性に声をかけられてホイホイついてったら、クソ高い壷買わされたし……。

 ンー、こういうのに本当いい経験がねぇな。

 

「すんません。人違いじゃないっすかね? 俺、壺とかに興味ないですから」

 

「いえいえ、ワタシが探していたのはアナタで間違いないデスよ。ずっと、探していました」

 

 ずっと探していた、か。

 小学生の頃、友達とかくれんぼしてて、俺が鬼になった瞬間みんな家に帰ったせいで、俺、次の日の昼までずっと探してたって苦い記憶があるんだよね。

 次の日、のうのうと授業受けてた連中見て、俺は鬼にトランスフォームした。

 今思えば、あれで俺の人生のレールが切り替わったのかもしれない……。

 

 黒いローブの女性は、ニヤリと怪しげな笑みを浮かべ、俺に手を差し出してきた。

 

「さあ、行きましょうか一ノ瀬後輩。――アチラ側へ」

 

 『アチラ側へ』その言葉で俺は眼の前の女性が誰だか思い出した。ってのは嘘で、本当は会った時から分かってたんだけどね。

 こんな個性的な格好した女、この大学に一人しかいねーし。

 俺はすぐさま反転し、窓から逃げようとしたところで、ここが3階だったことを思い出し、バンジキュウス!

 そ、そうだ……このトイレと講義室は殆ど距離がない。

 助けを――

 

「たす――」

 

「困りますネ。――スリープ」

 

 黒ローブ女は睡眠誘発系の呪文を唱えながら、右手に持つ杖を俺の腹部へと押し当てた。

 途端バチバチとした青白い光が杖から放出される。

 

「ァモンギィッ!」

 

 まるで体の内側が爆発したかのような衝撃に、俺の意識は吹っ飛んでいった。

 意識を失う瞬間、俺は思った。

 

 それ、スリープじゃなくてサンダーでしょうが……と。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

県内ならどこへでも9秒(これが縮地を超えた縮地――縮々地)

前回までのあらすじ

 

『組織』の中の仮面付きに追い詰められた俺、一ノ瀬辰巳――前世名『深淵のリクルス』

仮面付きの一撃が俺の急所を捉える寸前、かつての愛剣《リワールド》の 能力の一端を引き出すことに成功――形勢は逆転し、反対に俺の一撃が相手を捉えた。

 相手の仮面を破壊する一撃、崩壊する仮面。そしてそこに現れたのは――日常の象徴である彼女の顔。

 

 大家さんだった――

 

「大家、さん?」

 

「……お見事、と言っておきましょうか。野良能力者さん? それとも普段通り、一ノ瀬さんと呼んだほうがいいですか?」

 

「ど、どうして貴方が!? まさか――」

 

「洗脳でもなければ人質をとられて無理やりやらされてる、なんてことないですよ? これが私の本来の姿です。大家として、あなたをずっと監視していたんですよ、ふふっ」

 

「そんな――」

 

 不敵な笑みと共に去る彼女を追うこともできず、ただ絶望に浸る一ノ瀬辰巳。

 家には帰れない、路地裏で夜を超す。

 そんな彼の元に一人の少女が現れる。

 もう一つの日常の象徴である彼女。

 彼女もまた、仮面にて顔を隠していた。

 

「……遠藤寺?」

 

「いや、違うよ。ボクの名前ははジョーカー。――能力を支配する方法、知りたくはないかい?」

 

ジョーカーとの会合はこの世界に一体何をもたらすのか?

崩壊していく日常、気づかない内に踏み込んでいた非日常。

光は一体どこにあるのか、闇の中に落ちていく俺には分からない。

 

 

次回、第8話――『覚醒-Awakening-』

 

俺は君に問う――

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

「――深淵(カオス)を感じたことがあるか」

 

 というところで目が覚めた。

 まさか遠藤寺まで関係者(アチラ側)だったなんてな……我が夢ながらスゲェ展開だぜ。ただあの夢って俺の人間関係を元に構築されてるっぽいから、あと出てくるのって妹くらいしかいねーんだよね。あとイカちゃん。やっべえ、イカちゃんが敵になったら、俺確実に寝返るわ。

 

 さて、目も覚めたところで現状の確認をしよう。

 

 ここ……暗い、お香みたいな香りがする。俺……座ってる。俺……座ってる椅子に縛られてる。俺……なんかお腹の辺りがピリピリする。

 

 こんなもんか。

 

 ここから導き出される答えは――拉致監禁。

 

 え? マジで? 俺ってば拉致られちゃってる?

 困るってそーいうの、ちゃんと事前に連絡してくれてないと。それ相応のリアクションとれないじゃん。

 さっきトイレしてきたばっかりだから、あまりの恐怖に失禁ってリアクションもできねぇし。

 ほんと娯楽性を理解してくれない誘拐犯って困る。

 

 やれやれ――

 

「だ、誰か助けて……!」

 

 暗闇の中、俺は助けを求めた。

 

「――フッフッフ……目が覚めたようデスね」

 

 声は俺のすぐ目の前から聞こえた。

 しかし声の主の姿は見えない。部屋の中に満ちる闇がその姿を覆い隠している。

 助けが来たか……とは思えなかった。だって笑ってるし。どう考えても俺を拉致った側の人だわ。

 

 俺は目の前の(恐らく)誘拐犯に対し、恐怖を堪えながら話しかけた。

 

「だ、誰だ? お、俺をどうするっていうんだ? や、やめてくれ……美少女小学生達の保健体育の授業の教材として使われるなんてイヤダ! ヤダヨー!」

 

「随分と都合のいい解釈デスね」

 

 あと美少女しか泊まれないホテルのオーナーもイヤだー!

 美少女しか服役してない刑務所のただ一人の看守もいやだー!

 女子中学生の寮の管理人なんて、妹を人質に取られてもやらないぞー!

 まんじゅうこわーい。

 

「で、俺に何の用ですかね? 会長」

 

「おや、気付いてましたか?」

 

 ぼぅと目の前に蝋燭の火が灯った。

 小さな灯りに照らされて現れたのは、小さなテーブル。そしてそのテーブルに両肘をつき、組んだ両手に顎を乗せる全身を黒いローブで包んだ女性だ。

 女性は頭まですっぽりローブを被っており目元が見えず、顔は口元が見えるだけだ。その口元を歪ませて笑う。

 

「こんばんは、一ノ瀬後輩。元気そうでなによりデス」

 

「元気じゃないんですけど。お腹ビリビリしてるんですけど」

 

「フッフッフ……」

 

 人を拉致っといて悪びれもせず意味深に笑う怪しい女性。

 この人こそが俺が(一応)所属しているサークル『闇探求セシ骸』の会長、デス子先輩だ。

 本名は知らないから、俺が勝手にそう呼んでるだけだけど。

 

「この闇の中で、更に隠蔽術式を行使した魔布を纏ったワタシの正体を見破るとは……流石『こちら側』だけありますね、フフフ……」

 

「いや、この学校でそんな格好してるの先輩しかいませんし……。つーわけでさっさと縄を解いてください」

 

「まーまー、そう急ぐことはないデスよ。時間は……まだまだあるのデスから。そう……まだまだ、ね」

 

「いや、ねーから。俺講義の途中だから。つーか今何時ですか?」

 

「今は10時頃デスね」

 

 10時か……講義が9時半に始まったから、実際拉致られてから、殆ど時間は経ってないってわけか。

 だったら下手に駄々こねるよりも、先輩のお遊びの付き合って、解放してもらった方が早いかもしれない。 

 

「用件は何ですか? さっさと済ませて下さいよ」

 

「おや、従順デスね。そういうところ、好きデスよ」

 

 フフフとか怪しげな笑み浮かべる人に好きって言われても、嬉しくない。

 これで先輩が、ローブを持ち上げるほどの豊かな胸の持ち主じゃなかったら、横っ面叩いて帰ってたけどな。

 よかったな先輩、あんたのおっぱいに感謝しとけよ。

 

「では、本題に入りましょうか。――一ノ瀬後輩、定期報告を」

 

「は? 定期報告? 何のですか?」

 

「ふむ、ここに入部した際、掟について教えておいたはずデスが……」

 

 あァ? 掟?

 それってアレ? 部室で見せられた長ぇ巻き物みたいなやつ?

 覚えてないわー、先輩の胸ガン見すんのでいっぱいおっぱいでしたから。

 

「覚えてないデスか。ならしかたないですね」

 

 じゃあ俺帰っても――

 

「では改めて一から『掟』について説明するとしましょう」

 

 ですよねー。

 

 先輩はローブの胸元から、巻物を取り出して、眼前に掲げた。

 胸元を引っ張った時に肌色のプリン体が一瞬見えて、すぐさまその映像は俺の脳内図書館未成年立ち入り禁止フロア――通称ピンクゾーンに保存された。今夜はこの映像の試写会といきますか。無論0.5倍速で、な。

 

 先輩は巻物をテーブルの上に広げ、ゲフンと咳払いをした。

 

「掟一――『汝、同胞を裏切ることなかれ』。このサークルに入った人間同士、絶対に裏切らない、そういった掟デスね」

 

 人類みな仲良しこヨシ!をモットーにする俺的にはかなりいい感じの掟だけどさ……それってどこまでなの?

 具体的にさ、裏切りってのはどういうもんなの? 友人同士の借金の踏み倒しは入るの? マラソンで『最後まで一緒に行こうな』って言って先に行っちゃうのは? 敵に寝返ったけど、実は敵の動向を探るためだったとかの展開は? TOA(テイルズオブアルヴィン君)はありなの? 裏切りの定義ってナニ? 

 

 モテない仲間の中で先に結婚しちゃったらやっぱり裏切り者になっちゃうの?

 でも恋とか愛ってさいわゆる治外法権(アウトサーダー)じゃん? 愛の前には法律とかモラルとか投げ捨てるものだろ。

 よく地球侵略に来る地球外生命体も『愛』の存在を知って『地球カ……。マアイイ、今ハ目を瞑ロウ。コノ胸ニ芽生エタ感情ノ正体ヲ知ルマデハ……』とか言って母星に帰っちゃうのが常じゃん。

 そう考えると愛ってやっぱ超越物質だよな。恋人を救うか世界を救うかって選択を迫られたら、俺最高即で恋人選ぶもん。

 つまり何が言いたいかって言うと、世界を選んだライナーは死ねってことかな。

 

「掟二『情報は共有すべし』これはこの世あらざる現象、存在を発見、体験したら報告し、互いに共有する掟デス」

 

「……」

 

 ちなみにこのサークルは『この世の不思議現象や魑魅魍魎を観測し、考察する』といった活動を行っている。言いたくはないが涼宮さんのところのハル……いや、何も言うまい。

 

 しかし、この世にあらざる現象か……。

 あ、やっべーわ。これめっちゃ引っかかってるわ。

 やっぱそうだよなー。

 現在進行形で、俺の家に<あらざる現象>と書いて<カワイイ奴>いるもんなー。

 いや、ほんと……

 

――イカちゃんの可愛さはこの世あらざるよなあ!

 

 まあ報告しねえけどな

 だってあんまりメジャーになったりしたら、俺だけのイカちゃんじゃなくなるもん!

 先輩が『なんデスって? よし、じゃあそのイカちゃんとやらを捕獲しにアナタの家に行きましょう』とか言ったら、俺全力で先輩をナックルオブデスることになるだろうし。

 

「掟三『月二回の会合には必ず参加すべし』これは言わなくても分かりますね? 何故、前回の会合を欠席したのか、それを問いただす為に、今回はこんな荒っぽい方法をとらせてもらった次第デス」

 

 んだよもー。大学のサークルでしょ? もっと気楽でいーじゃん。

 テイクイットイージーで行こうよ。

 どうせ会合たって、UFOを見たとか、どこぞのネッシー(ネス湖)ならぬチンポジー(チンポー湖。本当に存在する)の目撃情報がとか、一緒に映画撮影してた先輩が実は宇宙人だったとか、みずほ先生のはちみつ授業でねっちょんねちょんとか……そういう下らない噂話でも語り合うんでしょ? 薄暗い部屋で、ロウソク囲んで。

 やだよ俺、そんなカビでも生えそうな会合。

 俺の輝かしいモテロードには不要だっつーの。まあ、まだモテロードの入り口すら見つけてないけどね。

 

「お陰でワタシ、○タミの宴会料理を一人で平らげることに……」

 

 先輩はその時のことを思い出したのか、表情に影を落とし、げんなりと溜息をついた。

 

 会合ってただの飲み会のことですか。

 てっきり真っ暗な部室で儀式るもんだとばかり……。

 

「フフフ……周りは仲良さげに盛り上がってる中、ワタシは1人、フライドポテトを肴にカシスオレンジをちびちび……1人でビンゴを回し、数字を読み上げ、カードに穴を開ける……」

 

 ただでさえ闇寄りな声を更に沈み込ませていく先輩。

 ぶっちゃけかなり申し訳ないと思っています。

 幽霊部員とはいえ、新人の俺が飲み会に参加しないとか……。

 マジねーわ。今はサークルだからいいけど、これが会社だったら、間違いなく上司に目を付けられるレベル。

 

「……いや、すいません。でも俺、飲み会があるなんてこと知らなくて……」

 

「知らなかった? 毎日掲示板に告知をしていたのに? 会合までのカウントダウンもしていたのに? 校内放送も行っていたのに?」

 

 そ、そこまでしてたのか……。

 そういえば、掲示板に貼ってた紙も毎日変わってたな。

 

『会合まで一週間デス! 』

『会合まで6日デス! ビンゴ大会もありますよ!』

『会合まで――』

『会合まで――』

『会合まで――』

『遂に明日が会合デス! 一発芸の準備は十分デスか? ワタシはできてますよ……フフフ。腹筋に気をつけることデス……』

『とうとうこの日がきました! 今日の夕方6時! 遅れたら呪いますよ!(何らかの事情により遅れる際はワタシにメールを一つお願いします)』

 

 掲示してたのを見たとき、エブリデイ更新の力の入れ具合に、『一体何が始まるんです……?』って感じで逆に近寄り難かったわけだが。

 しかし校内放送までやってたのか……。

 そういえば食堂とかで聞いたような気が……。

 でも俺学校の中にいる間は、かなり五感制御してますから……ほら、悪口とか遮断する為に。

 

「さて、基本的な掟をあげましたが……一ノ瀬後輩、アナタは二つの掟を破りました。裏切りの掟、会合の掟。掟を破った人間には罰が下ることは知ってますね?」

 

 知らねーよ。何で大学のサークルで罪とか罰とかあんだよ。

 ただまあ、罰の内容によっては、それを甘んじて受け入れることもやぶさかではない……。

 『美人家庭教師にエッチな本が見つかって説教される(ただし家庭教師はウブっ子で、顔を真っ赤に染めながら行うものとする)』的な罰だったら、喜んで受け入れるがね……。むしろウェルカム。

 

 さあて、センパイ。あんたは俺にどんな罰を与えてくれるんですかねぇ。

 ちょっとワクワクしてきたぞ。

 

「で、先輩。罰ってのは一体?」

 

「罰の内容――それはとても恐ろしく冒涜的でかつ陵辱的なものデス。一ノ瀬後輩の自尊心を破壊し、身も心もシュレッダーにかけられたかのようにバラバラに引き裂きます。二度と掟を破る、この組織を裏切る、そんなことを考えなくなる、いやそもそも考えるという行為すら不可能に……フフフ」

 

 おーい! 最後! 最後なんか人権侵害の匂いがしますよー!

 なんか、脳に頭空ける的な行為じゃねーの?

 ちょっと待ってよ、現代ですよ? 現代社会でこんな人のお脳味噌を迫害するような行為が許されていいわけ?

 いや、ダメだろ。言っとくけど俺、ここから無事脱出できたらこのサークルのこと全部暴露っちゃうよ?

 

 実は組織とか言いながら、先輩一人しかいないワンマンサークルだってこと!

 俺がサークル入部したその日、俺が退室した後「や、やったやった! 遂に部員ゲットデス! ……嬉しいデスっ」ってぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでたこと!

 弁当を食べてる時、ものすっごい笑顔なこと!

 結構な頻度でローブに躓いて転ぶこと!

 黒いローブの下、実は下着だけ!

 先輩は寝るとき、全裸派!(靴下除く)

 俺の中学生時代のあだ名は『倒れたままのダルマ』!

 世界のどこかには幼女が統治してる国が存在する!

 もしも世界が素直になれない幼馴染だけの村だったら!

 俺はまだ本気出してないだけ!

 

 全部ある事からない事まで捏造して……言っちゃいますよ?

 それがイヤなら、秘密が漏れないようにしっかり確実に俺にトドメを刺しておくべきですぞ!

 ……ん? おかしいな、俺が助かる方向じゃなくなったぞ?

 

「世にも恐ろしい罰、それは――」

 

 先輩は口元を歪ませながら、呪詛を呟くような口振りで言葉を紡いだ。

 俺は悟った。俺の人生、ここでDEAD ENDだって。だって出会い頭に人に睡眠魔法(という名のスタンガン)ぶちかますクレイジーガールだぜ?

 肉体的に死ぬ、もしくは社会的に俺を殺すことだって躊躇するはずがない。

 

 俺の脳裏に大切な人たちの幻影が浮かんだ。

 

 雪菜ちゃん、エリザ、大家さん、母様、先立つ不幸をお許し下さい。

 俺、一ノ瀬辰巳は、このド田舎の大学で生涯を終えることになりそうです。

 雪那ちゃん、実家の俺の部屋、天井に隠してる一ノ瀬辰巳×ドラゴンボールのクロス漫画、燃やしておいてください。

 エリザ、畳の裏に貼り付けてる18禁書目録、近所の中坊の帰り道にさりげなく置いてあげて下さい。

 大家さん、俺のこと見上げてる時、タマに服の隙間からキワドイとこ、見えたりしてたこと黙っててスイマセン。

 お母様、中学1年生の夏、俺に下の毛が生えた情報を近所にリークしまくったこと……絶対に許さねえ! おかげそれから1年間、マダム達の視線は俺に釘付けだよ! 中学生の繊細な心は傷ついたよ! 俺あの世に行ったら『俺は地獄でもいい! だがあの女だけは絶対に天国に行かせないでくれ!』って天使の偉い人に頼んどくから! ざまあみろ!

 

 ……ふぅ、これで死ぬ準備はできた。

 だが、俺もただでは死なねえ。死ぬときは、会長、あんたも一緒だぜ?

 まあ、縛られてる状態で相打ちにはできないから、あの世で<デス子先輩、毎週金曜日はノーパンデー!>って噂を広めとくくらいしかできんな。

 あんたがあの世に来たとき、道行く天使達に週一でいやらしい視線を向けられる謎、解けるかな?

 

 俺は次回(あの世)への布石を打ちつつ、デス子先輩から罰を受けいれる覚悟を決めた。

 先輩は罰についてこう言った。

 

「次回の会合の幹事、それを全て――アナタに任せます」

 

 まるで死の宣告をするように、重々しい口調で……そう言ったのだった。

 

「は?」

 

 聞き間違いかと思った。

 だって罰にしては軽すぎる、っていうか特に罰になってねえ。

 罰ってのは普通、正月に親戚が集まった居間で甥っ子に「お兄ちゃんは学校卒業してから今は何してるの?」って尋ねられたり、自作の小説を母親に朗読されたり、父親が突然「オレ、仕事やめてユーチューバーになるわ」とか言い出したりすることでしょ?

 

 こんな飲み会の幹事なんて、罰でもなんでもない。

 

 だから俺は「へ?」って間抜けな感じで聞き返した。

 

「いや、罰って、それだけですか?」

 

 俺の言葉に先輩は、挫折しダークサイドに堕ちんとする主人公を見下ろすように笑った。

 

「フ、フフ、フフフ! どうデス!? 恐ろしいでしょう!? 全て、デスよ? お店の予約方法や入店方法の確認で頭がいっぱいになり、まともな日常生活を送れることはできないものと思っておいた方がいいデス。おタバコはお吸いになりますか?と聞かれたときの対応法……アナタに分かりますか? ラストオーダー、グラスコウカンセイ、ゴヨウノサイハソチラノボタンヲ、ホカノオキャクサマハナンジゴロイラッシャルノデショウカ……未知の言葉に怯えるアナタの顔が浮かびます――フフフ……!」

 

 ローブの裾で口元を隠しながら笑うデス子先輩を見ながら思った。

 この人も、友達、いないんだな……って。

 多分、この歳になるまで居酒屋に行ったこと、なかったんだろうなって。

 初めての居酒屋に一人で……俺はその光景を脳裏に浮かべ、そっと心で涙した。

 

「フフフ……! どうデス? 頭を下げ、心の底から請うならば……ワタシが作った『居酒屋予約の書~予約から当日の精算~』これを貸してあげることもやぶさかではありませんが?」

 

 ローブから取り出した手書きの冊子をまるで賢者の石の様に見せびらかしてくるデス子先輩に「分かりました。その罰受けましょう。でもそれはいりません」と返した。

 すんなりと罰を受け入れた俺に、先輩は「恐怖を知らないというのは……本当に滑稽デスね」とか言いながら不敵に笑った。

 

 というわけで次回の会合の幹事を任せれた俺は、早々と縄を解いて貰い、部室から退出することにした。

 退出する直前

 

「あ、言い忘れていましたが……」

 

「はい?」

 

「その髪型、似合ってますよ」

 

「あ、どうも……ありがとうございます」

 

 不意にかけられた言葉に、俺から出た言葉は嘘偽りない、真実の言葉だった。

 人に褒められたり、お礼を言われたりするのは、何というか……痒くなる、心が。

 それは多分、俺の心がそういった言葉に耐性がないからだろう。他人との関わりが極端に希薄だったから。

 

「どうしました? 顔が赤いデスよ?」

 

「い、いや何でも、ないです」

 

 あちらからすれば、何とはない社交辞令的なものだろうが、どうしてこうも恥ずかしいのだろうか。

 くそう、俺の心よ、もっとエヴォれよ! エヴォって『はい? 髪型っすか? あー、もうこれで20回目だわー。似合ってるって言われたの20回目だわー』とか言い返せるようになってくれ。

 そんなんじゃいつまで経ってもモテロードに入れないぞ! 入り口どころか、その存在すら怪しいところだけども。

 

「髪型を変えたということは……やはり失恋デスか?」

 

「一言多いな!」

 

 真顔でそう言った先輩に返した俺の言葉は、俺の心から出た嘘偽りないツッコミだった。

 やはりって何だよやはりって……。

 

 部室から出ると、廊下の照明は全て落され、アラウンドダークネス、深い闇に覆われていた。

 

「はぁ?」

 

 人の足音、気配が全くしない。

 おやこれは? と携帯を見てみると現在時刻は22:00。

 夜の10時ですか、そうですか。嘘は言ってないですね。

 俺12時間近く失神してたわけですね。

 

「あの女……単位落としたらどうしてくれるんだよ」

 

 責任とって養ってくれるんでしょうね。言っとくけど三食鯖の味噌煮付きTSUTAYAまで3分、起床時と就寝時にキスがないと養ってやられないんだから!

 鯖の味噌煮は缶詰でも可!

 

 俺は妄想内で先輩を筆舌しがたい恥辱に塗れさせながら帰宅した。

 帰宅中に気づいたのだが、不思議なことにトイレから出た後あげていなかったズボンのジッパーが上がっていた。

 ジッパーを上がったということは、そこに人為的な力が加わったわけだ。しかしそれを俺が行うのは、気絶していた為不可能。

 つまり俺が気絶している間に、何らかの力が俺のジッパーに発生したとしか考えられないわけだが……一体なにが。

 わ、分からない……帰ったらでんじろう先生に電話で聞いてみよーっと。

 

 家に帰ったら、エリザが「遅い!」とカンカンに怒ってた。

 

「こんなに遅くなるならちゃんと連絡してよっ、心配したんだからっ」

 

 とちょっと涙目で言っちゃうエリザに『別に辰巳君がどこで何をしようがあんたには関係ないでしょ!』と俺の乙女的な部分に出てきて言ってもらおうと思ったが、女ってやつは怒っていると手がつけられないことは知っていたので、下手な言い訳をしないで有りのままあったことを話した。

 

「大学の先輩にスタン狩られて、こんな時間までお寝ンネしちまってました。すまんこって」

 

「辰巳君のバカっ! もう知らないっ!」

 

 と更に怒らせてしまった。エリザは「そこのご飯勝手に食べたらいいよ! レンジでチンして温めればいいじゃん! サラダはチンしたら許さないからっ」と言い放ち、押入れの中にスーっと消えてしまった。

 世の中ホントのこと言えばいいってモンじゃないんだなぁ、じゃあホントのコトってどこで言えばいいの? 穴掘ってそこに叫ぶの? 現代社会で外に漏れないくらいの穴掘ったらポリスメンに叱られちまうなあ……世間は世知辛い、とか思うのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

世界中どこへだって10秒(これが縮地を超えた縮々地を超えた――縮々々地!)

 幽霊との同居を始めて、俺の日常は凄まじい変化を遂げた……なんてことはなく、フツーの日々が過ぎていった。

 

 部屋に幽霊は増えようが、俺を取り巻くセカイは変わらない。

 

 同居人が1人増えたくらいで、人生のレールが大きく変わることなんてないらしい。 

 

 

 そんなある日。

 

「ふんふんふふーん

 

 部屋で育てているカイワレ大根に水をあげている幽霊少女の背を見て、俺はあることに気付いた。

 

 少女はふわふわと浮きながら、手作りの如雨露で水を降らせている。

 俺は彼女を見て、このまま寝転がってテレビを見ているフリをして柔道の授業でさせられた運動(仰向けになって左右の足を交互に床を蹴って進むヤツ)で彼女の下まで行けばパンツが見れるんじゃないだろうかという画期的なアイデアを思いついたが、それとは別に彼女が着ている服を見て、あることに気付いたのだ。

 

 今彼女の服は、どこぞの学園の制服。昨日はどこぞの学園のジャージ。

一昨日は制服、その前はジャージ、その前は制服、たまに上ジャージ下制服のスカート、以下ループ。

 

 俺は思った。

 

 あれ? それ以外の服、見たことないなぁって。

 

 だから聞いてみた。

 

「なあ、エリザさあ」

 

「ん? なーに?」

 

「ジャージと制服以外の服ねーの?」

 

 俺が聞くと、エリザは「あー」とちょっと気まずそうな顔でうなずいた。

 

「そうだねー。無いねー、でも別に大丈夫だよ。上手いことローテーションしてるし」

 

「二着でローテもなにもねーだろ」

 

 組み合わせ4種類しかねーじゃねえか。

 あ、いや、でも下をパンイチ(ウィッチスタイル)にすれば、もう少し増えるか?

 ただパンイチだと恥ずかしがって料理作ってるときとか、俺の視線が気になってモジモジしちゃうんじゃ……それも含めてのファッションか。

 ファッションって奥が深いな……。

 

 ただファッション云々はおいといて、同居している人間の服が二着しかないのは由々しき事態だ。ひいてはこの家の主である俺の沽券に関わる。

 

「なんか服買いに行くか」

 

「い、いーよっ、大丈夫だよっ。 ……そ、そもそもそんなお金ないし」

 

「あのなぁ、そんな服の一着や二着買えないくらいの貧乏だと本気で――」

 

「はい」

 

 少女は制服のスカートの中から何かを取り出した。

 俺には見覚えのないそれは、世間一般でいう『通帳』というものだった。

 エリザは通帳の中身を開き、パラパラと捲り、「ここ」とあるページを俺に見せた。

 そのページに現れた現在の預金総額である数字は、何だか見ているだけで尿を我慢している時のようなもにょもにょした感覚に陥る、非常に心もとない数字であった。

 この通帳の持ち主はさぞ幸薄い顔をしているのだろう。

 

 エリザは俺が誰ぞの通帳を見たのを確認した後、俺に同意を求めるかのようにコクリと頷いた。

 

「ね?」

 

「いや『ね?』じゃねーよ。その尿もにょな数字がどうしたよ」

 

「尿もにょ?」と首を傾げるエリザ。

 そのどこかの誰かさんの預金通帳が、俺に何の関係があるのか。

 

 エリザは通帳を閉じ、俺に向けて表紙を見せてきた。

 そこにある名前――『一ノ瀬辰巳』

 へえ、あんたも一ノ瀬っていうんだ……?

 

「これ辰巳君の通帳だよ」

 

「は? 俺の……通帳? え、いや……え?」

 

 その尿もにょな貯金額が……俺の?

 あ、いや確かにそれくらいだろうとは思っていたけど、実際に目にすると……。

 

――うわっ、俺の貯金額、低すぎ……?

 

 具体的な数字は敢えて言わないけど、この数字だと初めてベジータ襲来してきた時、悟空負けちゃうな……。

 

 そもそも俺、通帳作った覚えが無いんだけど。

 

「辰巳君いっつもお金とかその辺に放り出しとくでしょ? だからわたしが作ったの、ネット使って」

 

 カチカチとエアマウスをエアクリックするエア少女。

 

 我が家のマネー事情はこの女が掌握してたのか……。

 いや、別にいいんですけどね。

 害はないし。助かってるし。

 

「わたしも頑張って節約とかしてるんだけどねー、やっぱりカツカツなんですよ。カツカツ」

 

 一丁前に主婦の様な口を聞きやがる。

 

 節約か……。部屋でカイワレを育ててるのも、俺に大学帰り公園でペットボトルに水を入れるようにさせてるのも、食事後に『皿洗いのスピードが上がって水道代が減るから』って理由で頭を撫でさせるのも節約ってわけか……。

 

 ほんまエリザちゃんの節約っぷりは心に染みるで……。

 よーし、ここは俺も何か節約して家計の手助けをしよう!

 んー、そうだな……よし! 自分のホームページを開設して、前々から脳内で進行してるイカ娘二次を掲載! アフィでボロ儲け! はいきたこれ!

 

「だから、わたしの服なんて買う余裕ないの。ただでさえ、わたしの分のご飯作るようになってから、カツカツ度が増したのに。ムリだよー」

 

 にへらと笑いながら顔の前で手をぶんぶん振る少女。

 

 そんな少女を見て、俺は自分が情けなくなった。

 家事全般をさせている上に、服を買ってやる財力もない。

 俺ってサイテーじゃないか? こんなんじゃ、イカちゃんにも嫌われちゃうよ……。『人間的にクズじゃなイカ?』とかタイトルコールみたいに言われちゃうよ! 嫌だぁー!

 

 俺はスクリと立ち上がった。

 

「え? どこ行くの?」

 

「服を……用意してくる」

 

「え、でもお金が……。……っ! だ、駄目だよ辰巳君! いくらなんでもその辺を歩いている女の子から服を奪い取るなんて!」

 

「しねーよ。お前俺をなんだと思ってるの?」

 

 んなコトしたら、速攻で豚箱インからのネックギルティ(絞首刑)のコンボだろうが。

 つーかそんなスキルあったら、アキバでトリップしてるわ。

 

「ち、違うの? そ、それじゃあ……命を引き換えに練成するの!? そ、その気持ちは嬉しいけど……やっぱりダメ!」

 

「だからちげーよ」

 

 俺の命安すぎね? 何で女の服如きと等価交換なんだよ。

 

「いいから黙って待ってろ」

 

「で、でもぉ……」

 

 女の感傷には付き合ってられないので、無視して部屋を出た。

 

 向かう先は101号室。大家さんの部屋だ。

 

 右手で三回ノックすると中から「どなたですかー?」と甘ったるい舌足らずなボイスが返ってきた。このままノックで『あ・い・し・て・る』ってモールス信号を送って大家さんルートに途中したい誘惑に駆られたが、大家さんにモールス信号解読技術が無ければ、ただ無言でノック音が続くホラー的空間が構築されそうなのでやめておいた。

 

 普通に「ども、一ノ瀬です」と言い返す。

 

「あ、はーい。ちょこっと待ってくださいねー」

 

 と言われ、10秒ほど待つと目の前のドアが開いて、その隙間からぴょこんと大家さんが体を出した。

 大家さんの姿を見た瞬間、俺は衝撃に体を仰け反らせた。

 

「あははー。一ノ瀬さん、おこんばんはー」

 

 大家さんが……眼鏡をかけている。

 ちょっとやぼったい感じの縁が太く黒い眼鏡だ。

 

「お、大家さん、それは?」

 

「はい? ……あ! ちょ、ちょっ、これは、その……眼鏡、です」

 

「Exactly(その通りでございます)」

 

「……うぅ。うっかりかけたまま出てきちゃいました。……似合ってないですよね? あ、あの他の人には内緒にしてて下さいね?」

 

 よーし! 大家さんのプライベートゲッツ!

 いいじゃんいいじゃん。ぶっちゃけ小さなお顔に対して、眼鏡が大きすぎるせいで似合ってないけど、そこがギャップがあって、何か……いい。

 俺のなんちゃって眼鏡じゃなくて、ちょっとかけ慣れてるのがまたよし! 眼鏡キャラ不人気の呪いは今打破された! みみみ先輩の時代は来た!

 

「大家さん顔小さいですから、眼鏡大きく見えますね」

 

「で、ですよね! だからイヤなんですよぉー。なんか眼鏡にかけられてる、みたいな感じがして」

 

 『眼鏡にかけられる』という言葉に俺の性欲を司る部分が、反応したが、何故だかわからない。

 

「あ、それで私に何か用ですか? もしかして遊びに来てくれたんですかっ? だったらちょうどよかったですっ、『絶対包囲INF』手伝ってください! あれ、もー、昨日から50回くらいトライしてるんですけど、一向にクリアできなくて!」

 

 じゃあー、俺、昔、蟻に酸かけられてその時に感じた不思議な刺激が忘れられずに今日も過酷な最前線で戦う……って設定のペイルウイングしますねー――とノリノリで参加しようとしたが、脳内司書ちゃんが『服の件!』ってカンペを出してきたから、本来の目的を思い出した。

 

 ああ、そうだった。俺は苦笑しつつ言った。

 

「あー、スイマセン。遊びに来たわけじゃないんですよ」

 

「え? あ、あー、そうなんですか? 残念です」

 

 少ししょんぼりする大家さんに、罪悪感がちりちり。

 

「ちょっとお願いがあって」

 

「お願い、ですか? いーですよ、何でもお願いしちゃって下さい」

 

 落ち込んでいた様子から一転、大家さんはパッと笑顔を浮かべた。大家さんって頼み事とかされるの好きなんだよね。

 

 それはそれとしてさ……モー、大家さんすぐそうやって『何でも』とか言っちゃうー。俺はさ、紳士だから『何でも? だったら大家さんのさくらんぼが食べたい!』とかを妄想で済ましちゃうけどさ。世の中俺みたいな優しい賢狼だけじゃなくて、むしろ飢えてる狼、いわゆる餓狼の方が多いの。

 そこんとこ大家さんは分かってない。男が持つ野生ってやつを知らない。そんなんじゃ、配達員を装った狼のぱっくんちょ(性的な意味で)されちゃうよ?

 ここは、一つ俺が男の怖さってヤツを教えてあげないとな。一ノ瀬辰巳の人間試験、ここに開始!

 

「あの、実はウチの幽霊がちょっと……急に反抗してきて。恥ずかしながら追い出されてしまって……」

 

「ええ!? ホントですか!? わ、分かりましたっ、私が行って成敗を――」

 

「いえ大丈夫です。一晩立てば落ち着くでしょう」

 

「は、はあ……そういうものなんですか?」

 

「それで、今日、ちょっと寝る場所がなくて。もし良かったら……大家さんの部屋で、一晩明かせたらなあ、と」

 

 さあどうだ?

 ちょっと仲よくなったくらいで、男ってやつはすぐに調子に乗る。

 一晩泊まるだけ? 何もしない? ただ寝るだけ? ――んなわけねーだろ! 一晩泊めたらもう既にコンバートしたも同然だろうが! 通信ケーブル直結確定だろうが! ユンゲラーがフーディンになっちゃうんだよ!

 

 そんな男の恐ろしい欲望を前に大家さんは平然とした顔で言った。

 

「いいですよー。あ、パジャマだけは用意してて下さいね。私の服を貸してもいいんですけど、流石に大きさとか無理だと思いますし」

 

 「ぶかぶかですよー」なんて言いながら割烹着の袖からちょこんと指の先を出しちゃう大家さん。

 

 あ、ダメだわこの人。

 防御力低すぎ、男舐めてんわ。いつか男関係で泣きを見るね。んで、乱れた服のまま俺の部屋にやってきて『え、えへへ……わ、私、汚れちゃいました……』的なNTR展開になるね。んで俺が『大家さんは汚れてませんよ。俺が全部……忘れさせてやんよ……』的なNTRゲーの純愛EDに突入しちゃうね。

 でも見捨てることはできない。今まで色々とお世話になった人だ。この人のおかげで俺はこうして大学生活を送っていられる。

 

 守りたい、この向日葵の様な笑顔。

 

 次はこれだ。

 俺は頭をカリカリ掻きつつ、明後日の方を向きながら、チラチラと大家さんを見つつ次の台詞を吐いた。

 

「あ、実はその、俺って……同じ布団に誰かいないと、眠れないんですよ。だから、その、えっと一緒の――や、やっぱり、な、なんでもないですっ。この話はノーゲーム(なかったこと)に!」

 

 さて、さて。

 ここまで来れば、もう分かるだろう。男はいつだってあんたを狙ってるんだよ。

 だからさ、いつか現れる王子様が来るまでは防御力を高めてほしい。俺からの願いだ。

 

だが――

 

「お、同じお布団ですか……。えっと、あー……はい。わ、分かりました。そうですね……はい! いいでしょう。同じお布団で寝ましょう」

 

 「しょうがないですねー、一ノ瀬さんってば。甘えたい年頃ですか? お家が寂しくなっちゃったんですか、ふふっ」なんて母性的な笑みを浮かべちゃう大家さん。

 俺は戦慄した。

 

 ――なんて――ノーガード戦法――。

 

 おい、なんだよこれ……。この大家さん、バケモノかよ……。

 もうここまで言えば、男ってやつが分かるだろ!?

 男はいつも牙を剥いてて、いつでもあんたの首に食らいつこうとしてんだよ!

 何で分からないの? もしかして誘ってるの? まさか大家さんに限ってそんなことはあるまい……。

 だとすると何で? こんな露骨に狼アピールしてるのに――も、もしかして。ただ単に俺が男と思われてないだけ? 生物学的にはそれなりに男なんすけど……。

 

 でも、そう考えると辻褄が合うよな。俺の前で大家さんがやたら無防備なこととか……(胸チラの件)

 普通ちょっと仲良くなったくらいで、男を部屋に上げないよな。

 でも、それが全く異性として認識していないなら話は違う。

 異性として認識されてない状態から始まる恋なんて……ないよ。

 

「で、でも私のお布団すっごい小さいですから……か、かなりくっつかないといけませんね! えへへっ」

 

「はい、そうっすね……」

 

「一緒にゲームしましょうね! こ、今夜は寝かせませんよ?……なんちゃって!」

 

「あ、スイマセン。俺やっぱり帰ります……」

 

「えぇ!? お、お泊りは!?」

 

「お泊りはない。いいね?」

 

「あ、はい」

 

 俺は肩を落としながら、大家さんの前から去った。

 辛いヨ……ちょっと気になってる女の子から『男として見てないから』って言われるのは、嫌いって言われるより辛い……。

 

 俺のメンタル値はみるみる下がっていった。

 もし眼の前に拳銃が落ちていたなら、即座にロシアンなルーレットに挑んでいただろう。そんなどん底メンタルのまま部屋に帰る。

 

 部屋には両手を胸の前で組みながら、こちらを案じているエリザがいた。

 

「あっ、辰巳君おかえり。……え、えっと……どうだったの、かな?」

 

「すまない……俺、無力だ。女の子の服一つ用意できねえなんて……屑だ。……俺ってほんと屑」

 

 ああ……気分がどん底まで沈んていく……。

 こんなに落ち込んだのは、高校の時に好きだった女の子を映画に誘ったら『その日家の用事があるから』って断られて、仕方が無いから妹と映画行ったら、映画館でイケてる大学生風の男とイチャイチャしてるその子を見た時以来だわ。

 その日の晩から、3日3晩相手の男がイ○ポになる呪いをかけ続けたのは、よく覚えている。

 ちなみに俺の呪いは全くきかず、それどころか相手の男は精力絶倫になったらしい……(クラスでその子が話してるのを聞いた)

 でも、最近テレビの『大家族スペシャル』でその子が9児を抱える肝ッタマ母さんになっているのを見て、何だか微笑ましい気持ちになった。

 

「だ、大丈夫だよっ。わたし服カワイイ服とかなくて全然大丈夫だし! ほ、ほらっ、幽霊だから他の人には見えないから……ねっ?」

 

 エリザが俺の周囲を飛び回りながら、そんなことを言う。

 俺の失敗をフォローしてのことだろうが、その健気な言葉の数々が逆に俺の精神にダメージを与えていることに気付いているのだろうか。

 

「ほ、ほらっ。辰巳君が行ってる間に、ドーナツ作ったのっ。お豆腐使っててヘルシーだよー。ねっ、一緒に食べよっ?」

 

 それにしても優しい女の子だ、それに比べ俺のクズっぷりたるや……。

 本当にこのままでいいんだろうか。俺の人生このままどん底街道まっしぐらでいいの? 魚でいったら海底を這うもの(ヒラメ)だぜ?

 ヒラメとか……もし、海の中でイカちゃんに出会っても無視されちゃうよ……。

 

 そんなのは嫌だ!

 

 俺は、そう……イルカだ!

 世界で二番目に知性溢れる生物、イルカでありたい!(ちなみに一番はネズミ、人間は三番目だって。映画で見た)

 それで運命的にイカちゃんと出会って『お主、なかなか知性溢れる顔してるでゲソ。一緒に侵略活動しなイカ?』って誘われ鯛!

 

 絶望的な状況にこそ光は現れる。

 俺にとっての光――これが俺のイカちゃん攻略ルートだ! 俺は! 俺は――

 

「俺はイルカだ!」

 

「辰巳君!? ど、どうしたの? た、辰巳君はイルカじゃないよ?」

 

 俺の海洋生物宣言に心底心配した様子で語りかけてくるエリザ。

 何だか頭がパーになっちゃった子を心配するような接し方だが構うまい。とにかく今の俺はイルカだ。イルカになった青年だ。

 

 俺は再び立ち上がり、玄関に向かった。体が軽い。こんなの初めて!

 今の俺なら何だってできる気がする。大統領だってぶん殴ってみせらぁ! 

 

 部屋を出る前に、エリザへと振り返る。

 

「なあエリザ、俺の生き様、しっかりと目に焼き付けろよ?」

 

「え? あ、う、うん。……うん?」

 

 俺は再び、大家さんの部屋の扉の前にいた。

 そして力強くノック。

 

「はいはーい、どちら様ですかぁ……って、一ノ瀬さん? あ、やっぱりお泊りですかっ?」

 

 「今夜はフィーバーですねっ」と両手を合わせながら満面の笑みを浮かべる大家さん。

 俺は大家さんとお泊りという誘惑をつらぬき丸で貫き心の中のゴミ箱に放り投げた(ゴミ箱を空にはしなかった。いつか元に戻す予定)。

 

 そしてイルカの様な流線的な動きで、頭を下げる。

 

「大家さんっ! ――服を下さい!」

 

 

■■■

 

 

 俺の発言に何の誤解をしたのか、顔を真っ赤にして、随分長い沈黙の後、俯いたまま着ている服を脱ぎだした大家さん。

 事情を説明し、今家にいる幽霊に着る服が無いことをしっかりと伝えた。

「ああ、はいはい! そーいうことですか! び、びっくりしましたよ……いきなりルートに入っちゃったかと……」とか意味不明なことを言う大家さん。

 そして服を取りに部屋へ……と思いきや、足を止めた。

 

「……んー?」

 

 何故か大家さんの反応はあまり芳しくない。

 俺の予想では『あっ、そういうことですか! おっけーだにゃん!』とか快い返事を返してくれるものだと思っていたが。実際は顎に人差し指を当て、何やら思案顔をしている。

 

 どうしたんだろうか?

 

「あの、俺、何か変なこと言いましたっけ?」

 

「いや、変なことというか……幽霊さんに服なんているんですか?」

 

 ここでまさかの幽霊差別発言。

 まさか大家さんの口から特定種族を蔑視する言葉が出るなんて思いもしなかった。いや、そりゃあ人間なんだがら、苦手や嫌いな相手がいるのは当然だけど。

 大家さんだけは、全てを受け入れる母なる海のような人間であって欲しかった。

 

「い、いや幽霊っつても、ほら着るものないと裸なわけで……」

 

「裸だと何か問題あるんですか? 幽霊なのに?」

 

 きょとんと童女のような仕草で首を傾げる大家さん。そんな愛らしい仕草とは裏腹に、言っていることは残酷この上なかった。

 

 なんてナチュラルに幽霊を差別するんだ……!

 確かに誰だって妬み恨みの感情は持つよ。それでも大家さんにはそういう差別的発言はして欲しくなかった。俺みたいな奴に優しくしてくれる大家さんは全てを受け入れる広大で恒久的な優しさを持って欲しかった。

 

 まあ、それはそれとして幽霊をディスるのはいただけませんな。

 ただでさえ最近カワイイ幽霊ちゃん出てくる漫画とか増えてきたじゃん? 夕子さんとかひな子ちゃんとかぼたんちゃんとか……。

 そういう風潮の中で幽霊ちゃんディスっちゃうと、ファンからのバッシングが怖い……大家さんそれ理解してるのかな?

 

「んー、ちょっと待って下さいね」

 

 大家さんはそう言うと、ぱたぱたと足音を立てながら部屋の中へと戻っていた。

 一分もしない内に戻ってくる。その手にあるのは……スケッチブック?

 

「幽霊ちゃんっていうのは……」

 

 大家さんがスケッチブックを胸の前で固定し、ペラリペラリとページを捲っていく。

 大家さんは身長が低いので、俺の視点からだとページの中身、大家さんが書いたであろうイラストがちらちらと見えた。

 

 大家さん絵上手いな……。

 漫画とかアニメのキャラが、整合性のないパラパラ漫画の様にくるくると現れては消えていく。

 限定的動体視力スキルB(アニメとかで主人公の部屋のフィギュアとか棚の漫画のタイトルを完璧に読み取ることができる)持ちの俺には、一瞬で過ぎさるそれらの絵をはっきりと観ることができた。

 

 あ! キュアピースだ! お、次はアナスタシア(シャドハってゲームのキャラ)だ! 次は夕子さんか……相変わらずペロペロしたくなるソックスだ。そこからの――グリフィス! テーマ性を全く感じられない面子ですね。

 

 と、それらのキャラの中で全く見たことのない、マフラーをつけた男のキャラが見えた。

 そのマフラー男は結構描かれている頻度が多いようで、かなり枚数が多い。そして書き込みも他のキャラと比べるとかなり濃い。んー、一体何のキャラなんだ? 大家さんがここまで熱をあげるマフラー男……一体何者なんだ。

 

「こーいうのですよね?」

 

 と、大家さんがこちらにページを見せてきた。

 そこに書かれていたもの……幽霊。ただ幽霊って言っても、貞子ちゃんや夕子さんみたいな人間的な感じではなく、白い餅に目と口を付けたような……絵本の表紙を飾るような『オバケ』みたいな絵であった。

 寝ない子誰だ?みたいな。申し訳程度についてるリボンが女の子を表しているっぽい。

 

「その、幽霊さんを差別するわけじゃないんですけど……私の服じゃ、幽霊さんにはフィットしないと思うんです。ほら幽霊さんの手って凄い短いですし。ズボンとかスカートも……履けないですよね?」

 

 あー、そうか。大家さんって幽霊見えない人だったっけ。

 そりゃ誤解するわな。

 今まであの部屋で幽霊ちゃん見た奴らは、逃げ出すように部屋を出たみたいだし。大家さんが幽霊の姿について知る機会はなかったってわけか。

 

 俺は大家さんの誤解を解いた。

 

「えっ? と、ということは……普通に人間っぽい幽霊ちゃん、なんですか?」

 

「ぽいっつーか、まんま人間ですね。ご飯とか食べますし。夜は寝ますし」

 

「はー、なるほどー。それなら服もいりますねー。……ん?」

 

 うんうんと頷いていた大家さんだが、ふと眉根を寄せて怪訝な表情を浮かべた。

 

「あ、あの……一ノ瀬さん?」

 

「はい一ノ瀬さんですけど、どうしました?」

 

「い、いや……一ノ瀬さんって、幽霊ちゃんと一緒に住んでるんですよね?」

 

 何を今更……つーか、そもそも大家さんの広告トラップに引っかかって入居したんですけど……。え? 本当に何で今更?

 

「一緒に住んでる幽霊ちゃんは、『おばけなんてないさ』の幽霊みたいなお餅っぽい幽霊……じゃあない」

 

「違いますよ」

 

 つーかそれだと今まで出ていった奴ら、何でそんなおばけにビビって逃げてったって話になるわけですけど。特にニックとか言う軍人。

 

「人間と変わらない、女の子と一緒に暮らしてる、わけですよね?」

 

「浮いたりすり抜けたりする以外は、まあ普通ですね」

 

「普通の女の子……同棲……」

 

 大家さんはわなわな震えた。

 

「だ、だめですよっ!」

 

「え? な、何がですか?」

 

「お、女の子と一緒に同じ部屋で暮らすなんて駄目ですよ! そ、そんな羨まし――いや倫理的に! 倫理的に問題があります!」

 

「い、いや……そう言われても……」

 

「親御さんから預かった大切なお子さんを、女の子と一つ屋根の下でなんて……駄目ですよっ! 羨ましい!」

 

 一体大家さんはどうしたんだ? 確かに女の子と一つ屋根の下で暮らすとか、一般的には問題あると思うけど……幽霊じゃん。

 しかも、一緒に暮らすことになったのも大家さんの策略に引っかかったからなんだけど。

 

「駄目って言われても、どうすれいいればいいんですか? 出て行けと? 行っておきますけど、俺ここ出ていったら行くとこないですよ?」

 

 まあ最悪、遠藤寺ん家行くけど。それが部室で寝るか……どちらにしろまともな生活を送れそうはねえな。

 

「で、出て行けなんて言いませんよ。で、でも……女の子と一緒に……こ、困りましたよこれは! 一ノ瀬さんが出ていくのは問題外ですし、でも女の子と同棲……下手したら幽霊ちゃんのルートに……くっ、こうなったら仕方がありません!」

 

 どうやら何かが決定したようだ。

 

「大家として、親御さんから預かった大切な子供さんが異性と一緒に暮らしているなんて認められません。しかし、一ノ瀬さんはあの部屋以外に行く場所がない」

 

 まあ、あの世って場所ならいつでも行けますけどね(米笑)

 

「ですから、その……私が定期的に、一ノ瀬さんの部屋に行き、問題が無いか確かめます」

 

「問題? 問題ってなんですか?」

 

「それはその……こう……あれやこれが……なんやかんやで……ねえ?」

 

 顔を赤くしてこちらに同意を求めてくる大家さんマジ大家さん。

 あれやこれやについて具体的に説明を求めたいところではありますが、下手したらポリスメンがカミングスーンなので自重した。

 

「流石に大家として、越権行為なのは分かってます。住民のプライバシーを侵害するあってはならない行為……ですが、どうか分かって欲しいんです。これも一ノ瀬さんを想うが故の行為と! 一ノ瀬さんの部屋に行く為の理由が欲しいとかそういうのじゃないと!」

 

 グっと力強く俺の手を握ってくる大家さん。

 やっべ、何か知らないけど感動した! 俺のことをここまで想ってくれるなんて!

 

 俺の中の冷静を司る部分(ローブを深く被った老人……に見せかけてローブを外すとマブい女の子)が『でも、それって大家がプライバシーを侵害する根本的な理由にはなってないですよね。そもそも幽霊が居るって知ってて住まわせたのはアナタですよね? 今さらどうこう言えるんですか?』とか囁くけど、その声は小さすぎて俺の耳には入ってこなかった。

 

「よく分かりませんが、分かりました。それなら好きな時に俺の部屋に来てください。別になんの問題もないことを見せてあげますよ」

 

 ただ、たまにスカート履いてふわふわ浮いてるエリザの下をわざとらしく通って、上を見上げる的な行為に耽ってる時がありますが、その時以外に来て下さいね。

 

 そんなこんなでこの日以来、俺の部屋に大家さんが訪ねてくることになった。

 大家さんが訪ねてくる度に、部屋の中にいる何かを威嚇したりするけど、理由は分からない。

 

 エリザは

 

「あ、キモノの人だ。あの人ここに住んでた人が出ていった後とか掃除に来るから、知ってるよ。たまにご飯とかとか持ってきてくれてたから、結構好きなんだっ」

 

 大家さん曰く、お供え物を捧げることで、一刻も早く成仏してくれるようにとのことらしいが……まあ言わなくてもいいだろ。

 

 こうしてエリザの服に、大家さんの私服が追加されることになった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

太陽系内なら11秒(これが父さんの遺した船――縮地号!)

 我が家の食生活について語っておこう。

 

 以前、この家にエリザがいることを知らない状態の話である。

 俺がふとテレビを見ていてカレーかなんかのCMが流れ、呟く「カレー食いてぇなー」と。

 そうすると突然まるで最初からそこにあったかのように、テーブルの上に紙が一枚。

 紙にはカレーのレシピがつらつらと書かれている。

 俺、そのレシピ通りに買い物をする。家に帰り、食材を保存。

 

 ~時間経過~

 

 暫くぼんやりいていると、何とテーブルの上には見た目から食欲を誘うカレーが! 

 俺手を合わせて食べる。

 ンー、旨い! レシピの中にホールトマトがあったからか、酸味が聞いててベネ! ご飯が進む進む!  

 ……え? 今日もカレーおかわりしていいのか? よしおかわり!

 

 以上が我が家の食卓に食事が並ぶまでの行程である。

 

 纏めると俺が食べたい物を呟くとその材料が書かれた紙が現れて、その材料を買ってくるといつの間にかその料理ができていたのだ。

 

 今思うと明らかに全てがおかしいのだが、当時の俺は特に不思議には思っていなかった。

 何故かレシピが現れ、何故か料理が用意される、そんな奇妙な出来事を日常として受け入れていたのだ。

 

 多分その頃の俺は、遠藤寺ともそこまで親密じゃなかったし、大家さんともまだ距離があったりで、精神的に余裕が無かったから……そこまで深く考えなかったからだと思う。。

 

 そして現在、彼女(幽霊)の存在が明らかになった今、余計な手順を踏む必要はなかった。本人に食べたい物を申告すればいいのだ。

 簡略化が進む昨今、この部屋にも簡略化の波がやってきたのだ。

 俺はその波に乗りまくり、いずれは大学の講義、テスト、就職活動を簡略、更には面倒な飲み会、上司との接待ゴルフ、気だるさしか残らないワイフとの営み、父兄参観を簡略化し、そのままお墓にインしたい……。

 憂鬱な時そんな終末的な思考をしてしまう。こんな俺を励ましてくれるお便りはいつでも募集中(美少女限定)

 

 俺は洗濯物をぺてぺてと畳む幽霊少女に向けて言った。

 

「ハンバーグが食べたい」

 

 少女――幽霊少女ことエリザは振り向いた。

 ここで特筆しとくべきことが一つ。

 エリザは俺に背を向け、正座の姿勢で洗濯物を畳んでいた。そのまま振りかえる、反転するということは膝を支点にして回る、もしくは立ち上がり180°回転した後に座る、といった方法があるわけだ。

 しかし彼女のとった方法は違った。

 ふわぁっと正座のまま浮き、ゆらぁと宙で横回転、そしてこちらに向き直ったところで再びふわぁと沈む。

 幽霊ムーブメントここにあり!(だからなんだって話)

 

 こちらに向き直ったエリザは顎に人差し指を当てつつ返答してきた。

 

「ハンバーグ? いいよー! えへへ、わたしハンバーグこねるのって楽しいから好きっ」

 

 そんな微笑ましいことを言うこの子も、大人になったら『カレシの○○○こねこねすんの楽しいから好き、スパァ……(煙を吐く音)』とか言っちゃうんだろうなぁ。時間の流れって残酷! 誰か時間を止めて! 俺を高みへと導いて!

 あ、でもよく考えたらこの子幽霊だから大人にならないのか……。

 幽霊最高やな! みんな幽霊になればこの世の不満とか全部無くなるんじゃね?(破滅的思考) 少なくともロリコン、ショタコンの皆様は大勝利だな。

 

「ハンバーグの材料はねー……っと」

 

 俺はチラシを切ったメモを彼女の前に出し、いつもの様にレシピを書いてもらった。

 後はこの材料を買って来て、エリザの料理を作ってもらうだけだ。

 俺は財布を持って立ち上がった。

 

「ちゃっちゃと買いに行ってくるわ」

 

「うん、お願いっ――あ、ちょっと待って」

 

 俺の前に差し出したメモを突然引っ込めるエリザ。

 

 な、なんだよ……この開いた口(手)はどうすればいいんだワン!

 俺は眼の前に差し出された骨付き肉を突然引っ込められた犬の様な目でエリザを見た。

 

 メモを抱え込んだエリザは少し迷った様に口を開いた。

 

「……やっぱり駄目」

 

「あ?」

 

「辰巳君、買い物行っちゃ駄目」

 

 あァ? 今こいつ何つった? 駄目? 駄目っつったの?

 え? 何様? 何様のつもりで俺の行動を制限しようってわけ?

 俺の行動を制限できんのは、ポリスと妹とイカちゃんだけだぜ?

 なにお前イカちゃんなの?違うよね。イカちゃんではないよね。

 どちらかといえば俺の方がイカちゃんに近いよね。二足歩行してるとことか。

 

「辰巳君は一人でお買い物に行っちゃだめっ」

 

 まだ言うか……イカちゃんでもねーくせに。

 

 一体何を根拠に――まさか。

 ま、まさかこいつ……気付いたのか?

 気づきやがったのか!? あの事実に!

 

 現在この部屋の家主は俺である。

 当然だろう、俺が家賃を払っているのだから。そして無論主導権を握っているのは俺……普通ならそのはずだ。家賃を払っている者が主導権を握る、それは世の中の常だ。

 だがこの家では違う。

 この家で主導権を握っているのは――眼の前のエリザだ。

 彼女はこの家の衣食住の住以外を全て担っている。彼女が突如「伏せカードオープン! <家事放棄!>」したら、俺はもれなく死ぬ。とりあえず餓死する。そういう意味で彼女は俺の命を握っていると言っても過言ではない。

 

 この事実にてっきり気付いていないものだと思っていたが……そこまで馬鹿じゃなかったか。

 

 ああ、いいだろう。

 言うことを聞いてやろうじゃないか。飯の為だ。犬の真似だろうが、何だろうがやってやるよ。だが一つだけ言わせてもらいたい。

 

 ――どうか人語だけは奪わんといて!

 

 それ奪われたら俺、身も心も犬になっちゃう!

 美少女に飼われるワンワンライフも魅力的っちゃあ、魅力的ではあるが、俺はまだその階級には至っていない。そこまで人間捨てる気ないし、捨てる予定もまあ、今のところない。将来的には分からないが。

 

 俺はそれだけは忘れないようにしつつ、立った状態から両手を前に伸ばし、前のめりに倒れた。犬にトランスフォームするのだ。

 犬になり「どうか我輩にハンバーグを買いに行かせて欲しいワン(犬なのに我輩ってのがミソ)」と切なげに囁くのだ。

 かつて容易く妹に小遣いをねだることを成功させた切なげな囁きに、耐えられるかな?

 

 俺がトランスフォームの最終段階まで至った時、エリザは言った。

 

「わたしも一緒に行くっ」

 

 と。

 想定外に発言に俺のトランスフォームは中断、中途半端に腰を曲げていたので、そのまま畳みに突っ伏した。

 突っ伏したままの姿勢のままエリザを見上げる。

 

「あ? 一緒に……何で?」

 

「だって辰巳君、いっつも高いお肉とか買ってくるんだもん! もったいなくていつもウーって思ってたの! だからわたしも一緒に行って、買う物選ぶ!」

 

 スカートを両手でぐっと握り、訴えかけてくる。

 

 確かに俺、値段とかあんまり気にせず買い物してたっけ。

 うーん、なら選んでくれた方が出費の痛手も気にせず、いいんだけど。

 

「いや、別にいいんだけどさ。……確かエリザってこの部屋から出られないんだよな?」

 

 いつだったか、そんな話をしたはずだ。

 幽霊は一度とり憑いた部屋からは出ることができないらしい。

 その他幽霊には独自のルールが色々あるらしい。やれ幽霊の姿が全く見えない人にはラップ現象などの物理的作用も観測できない、見える人間の中にもハッキリ見えたり朧げにしか見えないなど差がある、幽霊は食事をとる必要が無い、夜12時以降に食事を与えると分裂する、犯人は真ん中の死体、ラストに自由の女神象が出てくる、本編のデンゼル○シントンは何度かループしてる、コテージに集まった連中は全部主人公の別人格、キックアスのクロエちゃん可愛い……などなど。

 色々とエリザから幽霊事情について聞いたが、結局本当に知りたかった排泄関係の件がどうなってるかは教えてもらえなかった。これに関しては継続した調査でその内、ハッキリとした答えを出せると思う。

 

「それは大丈夫。辰巳君、ちょっと立って」

 

 畳みに突っ伏して一ノ瀬たたみ君になっていた俺にそんな指示を出すエリザ。

 取り合えず言われた通りに立ち上がる。

 

「それから、しゃがんで」

 

「これでいいのか?」

 

 現在俺は畳みの上でうさぎ跳びの状態になっているわけだが。

 このまま部屋の中を何十周して、ダンスでもしろってか?そういう儀式をこなすことで、幽霊の制限を解除できんのか?

 でも、儀式ってのはイケニエが必須だよな……。イケニエって大体処女の生き血とかだよな……俺も一応処女ではあるけど、それで代用できるのかな?

 

 俺が自らのアナル・バジーナちゃんについて思いを馳せていると、背後にエリザ立つ気配を感じた。

 あれ? マジでバジーナちゃん出撃? ちょ、ちょっとまだ心の準備が……。慌ててバジーナちゃんを手でガードしようとするが、やっこさんの行動はそれより早かった。

 

「じゃ、じゃあ……えいっ」

 

「ぬっ!?」

 

 想像していたのとは違う衝撃が俺の身体を襲った。

 背後から首に回されるエリザの真っ白な腕。そのまま更に背中にかかる体重。

 いわゆるおんぶの状態だ。

 懐かしい、子供の頃を思い出す感覚だった。昔もこうして雪奈ちゃんをおんぶしたっけ。転んで泣きじゃくった雪奈ちゃんを背負った帰り道。今でも覚えている。

 まあ、今は俺が雪奈ちゃんにおんぶに抱っこの状態なんですけどね(笑)

 

 さて、亀の甲羅の様にエリザを背負った状態になったわけだが。

 取りあえず立ち上がる。

 

「わわっ。た、立ち上がるなら言ってよっ。び、びっくりしたー」

 

 前兆無しに立ち上がった為、エリザの身体がビクリと震えた。

 同時に背中に当たっている小さいながら柔らかい何かも震え、俺の将軍様が暴れん坊将軍に進化しそうになった(将軍様は普段城の中で大人しくしてるけど、ちょっとテンションが上がると勝手に城から出ちゃう困った将軍なんだ)

 

 小娘(しかも幽霊)の胸の膨らみの動揺してるなんて知られたら恥ずかしいので、毅然とした態度でエリザに問いかける。

 

「おっぱ――んん。で、この状態に何か意味があんの?」

 

「うん、あるよ。こうして人にとり憑いてるとお家からも出られるの」

 

「へー」

 

 ただ、そうでもしないと自分の住処から出られないってのは、不便だなぁ。

 俺、死後の就職先は無制限覗き放題特典付きのの幽霊にしようかなって考えてたけど、もう少し別の方向も考えよっと。個人的には死んだ後に死体を美少女ネクロマンサーに回収されて、彼女を守るキョンシーとして日々過ごすルートを探してるんだけど、今のところ入り口すら見つかっていない。

 

「じゃ、行こう辰巳君! ……えへへ」

 

「いきなり笑ってどうしたよ」

 

「え? あ、えっと……辰巳君とお出かけするの、初めてだから……」

 

 恐らくは頬を染めているであろうエリザの発言に、俺の顔も赤くなった。無条件に向けられる好意に戸惑いよりも嬉しさが勝った。

 ただ同時に不安な気持ちも存在した。いつか彼女が俺に向けているこの好意が尽きた時、彼女は一体俺にどんな表情を向けているのだろうかということだった。

 心の隅でそんなことを思う。思わなければきっと楽なのに。

 

 

 

■■■

 

 そんなこんなで商店街に向かった俺たち。

 恐らくは本当に久しぶりに外に出たであろうエリザの興味は尽きることなく、見る物全てにその好奇心を向けていた。年相応の行動は微笑ましい。

 これからは一緒に外出する機会を増やそう、そう思った。

 

「わわっ、お野菜安い! あっ、あそこのスーパー、タイムセールなんてやってたの!? 商店街のスーパーってネットに情報が載ってないから……ああ、もう! もっと早く知りたかった!」

 

 ただもっと好奇心の対象を年相応にして欲しい。好奇心が完全に主婦のそれだ。

 

「もー辰巳君! コンビニで食材買うの禁止! めんどくさくても商店街で安いの買ってきてっ」

 

「……すいません」

 

 いつも俺が買ってきた食材のレシートを見てうんうん唸っている彼女には頭が上がらない。

 コンビニは近くて便利だけど、ちょっと割高なのだ。商店街の方がずっと安い。だがこの商店街には少し問題があって、出来るだけ近づきたくない……。

 そんな俺の想いも知らず、背後霊ちゃんは次々と俺に指示を出してきた。

 

「あ、次っ、あそこ! ティッシュペーパー買って!」

 

「へ、へいっ」

 

「卵1パック98円!? う、うそ……。そ、そんなことって……! た、辰巳君ダッシュダッシュ! 早くしないと売り切れちゃうよぉっ」

 

 エリザ船長の指示に従い、スーパーの中を駆け巡る。食材という大海を割って走る俺は最早ただの船だ。

 振り返り船長――エリザの顔を見る。……イキイキしていた。ちょっと目が血走っていた。

 そう、まるでスーパーの半額弁当を荒らす主婦達のように……。

 本当に連れてきて良かったのだろうか。俺はちょっと後悔し始めていた。

 

「これお一人様1パックだから……1回お店出てからもう1回買おうっ」

 

「そ、それって駄目なんじゃ……」

 

「みんなやってるからいいのっ」

 

 もしかするとエリザの中の未知なる扉を開いてしまったのでは……?

 野菜コーナーの角をドリフトしつつ、そんな事を想った。

 

「よし……これで今月かなり食費が浮くから……この調子で節約できたら、ふふっ、ふふふっ……」

 

 背中のエリザが何やらぶつぶつと呟いている。

 そこはかとなく嫌な予感がしたが、もう俺は走り出してしまっていた。もう戻れない。

 

「辰巳君! あれ! 最後の一つ! ――ああっ!? た、辰巳くんーーーーっ!!」

 

 ただこんなに元気なエリザを見られるなら、まあいいか、そう思った。

 突撃級の主婦の突進を真正面から喰らい、宙に舞いながら……そう思った。

 

 

■■■

 

 

 

 商店街のアーケードの中にある、肉屋の前に来た。

 俺の前では主婦とその娘だろう5才くらいの女の子が並んでいる。

 肉屋の親父(坊主、ハチマキ)は暑苦しい笑顔で応対している。

 

「さあ奥さん! 何にしますかい!」

 

「そうねぇ……今日はすき焼きにしようと思っているんだけど……」

 

「すき焼き! わーい」

 

 母親の言葉に両手を上げてぴょんぴょん跳ねながら喜ぶ娘。心が潤うほのぼのとした光景だ。

 肉屋の親父もいかつい顔をほっこり破顔させている。

 

「わたしこのお肉がいいー」

 

「おっと嬢ちゃん目の付け所がいいね! そいつぁうめえぜ! テイストグットだぜ! 」

 

「あら、でも高いわねぇ」

 

 家計を司る神である主婦にはホイホイ出せる金額ではないのだろう。

 だが母親としては娘のいい肉を食べさせてやりたい。

 そこで母親はこんな行動をとった。

 

「ねぇお肉屋さぁん……ちらり。もうちょっと安くならないかしら……ちらり」

 

 ロングスカートを持ち上げてのチラリズム粒子散布である。際どい所までスカートを持ち上げ、見えるか見えないかギリギリの位置で降ろす。そんな扇情的な行為を繰り返す。

 店の前を通りがかったオッサン共の目がスカートのアップダウンに釘付けになった。

 

 当然目の前でそれを見せつけられている肉屋の親父も釘付け――

 

「ちょっと奥さんそういうのは困りますって! いやいや本当に!」

 

「そう言わないで……チラリラリ」

 

「困るって言ってるでしょうが! そんな事するなら帰ってくれ!」

 

「あら、残念」

 

 どうやら肉屋は真面目なオッサンだったようだ。母親のパンチラインにも真剣に迷惑している様子。

 昨今、性に惑わされ道を外す人間が多い中、見上げたオッサンだ。

 

 ふと、母親の痴態を見上げていた娘が肉屋に声をかけた。

 

「ねーねーおじたん」

 

「ん、何だい?」

 

「……ちらり」

 

 子供は親のオウム鳥(格言っぽい)

 母親の行為を真似し、拙い手つきでスモックを持ち上げる。これには俺を含め、周囲のオッサン達も苦笑い。

 俺も子供ができたら、迂闊な真似はしない様にしようって思った。

 

 さて、娘の背伸びし過ぎな行為を見た肉屋のオッサン。

 これまた注意するのかと思いきや――

 

「うおおおおおおおおおお!!」

 

 大興奮。

 

 カウンターから身体を乗り出して幼女の痴態に見入っている。目を血走らせ、鼻息をフンフン鳴らし、歓喜の雄叫びをあげている。

 

 日本は終わったなって思った。

 

 少なくともこの肉屋は終わってる。

 あとまんまと高い肉手に入れて娘に「ナイスよ!」とか親指立ててる母親も終わってる。

 ああ、終末の時は近いな……。

 

 母親と娘が去り、俺は肉屋と相対した。

 よし、ここは先ほどの親子を見習うとしよう。

 

 俺は両の人差し指を頬に当て「おじたーん、このお肉もっと安くしてちょーらいっ」と首を傾げながら可愛らしく言った。

 

 これぞ奥義~幼児性限定開放~である。開放の段階は参式から零式まであり、今のは参式だ。つまりこれ以上に俺は幼児性を開放できる。

 ……この意味が分かるか?

 

 さて、俺の幼児性解放をずっきゅんハートにぶち食らった肉屋のオッサン。

 中指をおっ立ててこう言いやがった。

 

「おい坊主。てめぇミンチにされてぇのか?」

 

 坊主頭に青筋を浮べ、今にも肉切り包丁で、俺をミンチよりもヒデェことにしそう。

 

「お、おいおいオッサン。さっきの幼女との差はなんだよ。俺もまけてくれよ」

 

「ふざけろカスが! 15年おせえんだよ! 死ね! 死んで肥料になれ!」

 

 客に暴言吐きまくりの肉屋とかマジないわぁ……。しかもこのオッサン、どうやらショタもいけるらしい。

 一体ポリスメンは何をやってるんだか。すぐここに豚箱にインすべき人間がいるというのに。

 

 俺に一しきりの暴言を吐いたオッサンはようやく落ち着いたのか、何かに気づいたかのように「ん? てめぇは……」と俺の顔を見ながら言った。

 

「てめぇ、例のアパートにに最近入居した坊主か」

 

「何回かこの店に来てるんですけど……」 

 

「うっせーよ。野郎の顔なんて一々覚えちゃいねぇ」

 

 それについては同感。

 男の顔なんて覚えたって一銭にもならないよねー。まあ、チャイナドレスが似合う男の娘なら別だけど。

 

「辰巳君。あのお肉っ」

 

 背中にくっ付くエリザが俺の肩越しからニュキリと指を突き出し、ショーケースの中の肉を指す。

 

「おっさん。この肉をくれ」

 

「ちっ。なんで男なんぞに肉を売ってやらねえといけねえんだよ……。もっとロリロリした女の子に売って『オジさんのウインナーもどうかな?』とか言ってみてえよ……クソ!」

 

「おっさんマジで捕まんぞ……いやマジで」

 

「ハッ、ポリ公なんぞに捕まるかよ! 俺に触れられるのは幼女だけだっつーの!」

 

 俺はオッサンの堂々とした駄目人間発言に戦慄を覚えた。

 どうしてこうもまあ、商店街に響きわたる声でそんな性癖を暴露できるのか。周りの店の連中もさぞドン引き……している様子はない。オッサンの奇行に慣れているのか、全く無視している人間、聞き流している人間、同意している人間、オッサンに粘っこい視線を向けている魚屋のオッサン……と、そんな様子だ。

 お分かりだろうか。この商店街には変態しかいない。俺がここを避ける理由はこれだ。

 

 オッサンが肉を包んでカウンターの上に出した。

 

「ほらよっ。おら280万だ、さっさと払え。そして失せろ」

 

 さきほどこっそり撮影したオッサンが幼女に食い入る映像を警察に送りつけようと思ったが、エリザが「た、辰巳君。お、怒らないで、ね? ね?」と耳元で囁くので、くすぐったくて怒りも失せた。

 

 俺は財布を取り出し、札を一枚抜き出した。と、札と一緒に財布の中にあった写真も出てしまった。

 ヒラヒラとオッサンの目の前に落ちる写真。

 俺は写真を拾いあげようとするが、それよりも先にオッサンが凄まじい速さで写真を取り上げた。

 

「こ、これは――!?」

 

 オッサンの目がくわっと見開かれる。限界まで開かれた目が血走っており、ぶっちゃけ怖い。

 背中のエリザも「ひっ」と小さく身体を震わせた。俺もちょっと漏らしそうになった。

 

「お、おっさんさん……あ、あのその写真、返してくれませんかね」

 

 写真を食い入るように見つめるオッサンに、ちょっと腰が引ける。

 一体あの写真の何がオッサンの琴線に触れたのか。

 

 オッサンは全身を震わせながら、震える口で呟いた。

 

「こ、これは――SSランク……SSランクじゃねーか!」

 

 オッサンは俺に写真を向ける。

 そこに写っているのは――どこぞの高校の制服を着てる大家さんだ。桜が舞う校門の前に立っており、はにかみながらピースをしている。ちなみに今と容姿は変わらない。

 この写真は以前、大家さんの部屋にお邪魔になった時見せてもらったアルバムで、俺が「この大家さんマジキュートですね」と言ったところ「あげます!」と満面の笑みでプレゼントされたのだ。

 実は「キュートですね……で、いつ頃の写真なんですか?」と真相を追求しようとしたのだが……にへにへ笑う大家さんを前に、結局聞くことができなかったのだ。

 

「俺が持ってる最高ランクでも精々Aランク……いと羨ましいじゃねーか! 小僧!」

 

 オッサンが変になってきた。

 

「あ、あのランクとかってなんすか?」

 

「何だ知らねえのか? 仕方ねえ、説明してやる。この町に大家ちゃんのファンクラブがあるのは知ってるだろ?」

 

「いや、初耳なんですけど」

 

 まあ、大家さん可愛いし、ファンクラブがあってもおかしくはないか。

 

「ファンクラブ内で大家ちゃんの写真がやり取りされてるんだよ。レア度によってランクを付けられてな。基本は写真同士のトレードだけだが……ここだけの話、高ランクのやつは金銭で取引されてるって話だ」 

 

「色々と終わってますね」

 

 背後でエリザが「うんうん」と頷いた。

 

「しかしSSランクをこの目で見ることができるとは……もう死んでもいい」

 

 今度はうっとりした目で写真を見つめるオッサン。頬をピンクに染めるハゲのオッサン。無性に通報したくなった。

 

「なあ、ものは相談なんだが……この写真、譲ってくれねえか?」

 

 先ほどまでの態度はどこへやら、真摯な表情で言うオッサン。

 

「無論タダとは言わねえ」

 

 その発言にエリザがピクリと反応した。

 

「……臨時収入……貯金が増える……えへへ」

 

 エリザちゃんらしからぬ邪な感情に満ちた呟き。まあ、そういう黒い部分もペロペロしたくなる要因の一つになってますけどね。

 

 オッサンはバンとカウンターを叩いた。

 

「この店をやるッ!」

 

「馬鹿か!」

 

 思わず普段はやらないタイプの突っ込みをしてしまった。

 しかし突っ込まざるをえなかった。

 あまりにも刹那的な生き方……このオッサン近い内に間違いなく破滅する……!

 

 馬鹿と言ったことでキレるかと心配したが、写真欲しさに夢中なオッサンは気にしなかったようだ。

 

「店だけで足りねえなら、俺の命も賭ける!」

 

「お、おいおい……」

 

「それで足りないなら俺の母ちゃんの命も! 従兄弟で入院中の華京院の命も! ホームステイしているインド人、アブダルの命も賭ける!」

 

 巻き込まれた人達はたまったもんじゃないだろう。特にインド人の人。

 

 俺はオッサンの熱意に気圧されていた。

 下手に断れば、俺の命が危うい。冗談ではなく、本気でそう思った。殺しても奪い取る、狂気に満ちたオッサンの目からはそういった『凄み』が感じ取れた。

 これ以上関わりたくない。俺はオッサンからできるだけ早く離れる為に、写真を手放すことにした。

 

「い、いや店とかいらないんで……写真はあげるっす」

 

「な……ん、だと? お、おいそれはマジで言ってんのか? 俺たちの命だけで、この写真を譲ってくれるのか?」

 

「いや、命はもっといらない……」

 

 貰ってどうしろって話だ。

 いや、待てよ。

 

「あの、入院中の華京院さんとやらは……」

 

「ああ、レースゲームにハマり過ぎて失明しかけた36歳のサラリーマンだが……どうだ?」

 

「お大事にと」

 

 もし、華京院さんとやらは美人なOLさんだったら、別の展開があったかもしれない。少なくともこの世界線ではそういう展開は無さそうだ。

 

 俺はオッサンに写真を差し出した。

 

「店も命もいらないんで……どうぞ」

 

「マ、マジで言ってんのか……小僧……」

 

「ええ、まあ」

 

「お、お前……何ていい小僧なんだ……よく見るとなんだ、おまえ……結構、いい体してんな」

 

 オッサンの俺に向ける顔が幼女に向けるそれと等しくなってきたので、 早々に立ち去ることにした。

 肉を取り、背を向ける俺をオッサンが呼び止める。

 

「お、おい小僧! お前名前は!?」

 

 俺は走り出しながら答えた。

 

「遠藤寺です! ボクの名前は遠藤寺です……! じゃあ、これで!」

 

 俺は走り出した。あの夕日に向かって。振り返ることはなかった。

 友人の名前を使ったことに罪悪感はない。アイツだって許してくれるはず。多分。

 

 「いつでも買いに来いよ! 安くしとくぜ! ……ちゅ」というオッサンの声を背に受けながら、帰宅した。

 最後のキス的なものは、写真に対するものだったのか、それとも俺への投げキッス的なものなのか、それは誰にも分からない。神でさえも。

 

 色々と恐ろしい事実を知ってしまった買い物だったが、鼻歌を歌いながら気分よく料理を作るエリザを見て、まあいいかなと思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

並行世界移動を小ジャンプ12回(他の並行世界を滅ぼす力――縮地機械神・マタタキ!)

 一人暮らしを始めるうえで覚悟していたことが一つある。

 

 それは――奴との対決だ。

 

 奴ってのは、黒くてテカテカしててカサカサ動く、主に台所で見かけることが多い――奴だ。

 俺はアレが物凄く苦手で、もし奴と相対して仲間が『ここは俺に任せて先に行け!』なんて行ったら、これ幸いと『はい喜んで!』と居酒屋のノリで置いて逃げちゃう……それくらい苦手だ。

 見た目も、生態も、羽音も……全てがおぞましい。だってアイツら意味が分からない。顔なくなっても生きてるとか……んで暫くしてから死ぬけどその死因が餌食べられなくて死ぬからとか……マジ怖い、理解不能。

 ん、そういうえば愛と勇気が友達のパンの人も顔なくなって生きてるよな……ついでにあの人も怖い!

 

 実家にいた頃、アレが出た時はウチの頼もしい妹ちゃんが無表情で踏み潰してくれていた。

 そんな時、俺は妹ちゃんの背後で『これが人間様の力だぜ!』ってはやし立てるのが仕事だった。その後妹ちゃんが足をこちらに向けて『汚れてしまったので、綺麗にして下さい』って言われて足をぺろぺろするのも仕事だった(こっちは願望)

 

 だが、今は違う。

 今の俺は一人暮らし。正確にはエリザとの二人暮らしだ。

 もし仮にアレが出たら、俺はなんとかしなくてはいけないだろう。か弱い女の子であるエリザにやらせるわけにはいかない。

 

 俺がやるしかない。

 

 そうやって覚悟を決めていたある日、とうとう奴が現れた。

 正直今まで一度も遭遇しなかったのは、奇跡かもしれない。

 奴はどこにだっている。

 いくらこの部屋がエリザによって、綺麗で清潔に保たれていても、だ。

 奴らはどこにでも蔓延し、人の生活領域に侵入してくる。

 

 奴は仰向けで漫画を読んでいる、俺の腹の上にポトリと落ちてきた。

 

「……?」

 

 最初『とうとう俺の元にも空から落ちてくるヒロインが現れたのかしたら?』なんて思った。

 それが現時的思考でないと思い、じゃあエリザちゃんが膝枕ならぬ腹枕でも求めてきたのかな?とか思いつつ穏やかな表情で腹の上を見たら……奴がこちらをジッと見つめていたのだ。

 

 黒光りする体躯、蠢く触覚……奴――ゴキブリである。

 

 思わず俺の心の中の『いつでも帰っておいで』区画にある海の家れもんに逃げそうになった。

 でもたかがGさんがお腹の上に落ちてきただけで妄想の中に逃げてたら、イカちゃんに嫌われれる、そう思ってなんとか踏みとどまった。

 そして俺がここで気絶したら、次はエリザが標的になる。エリザとイカちゃんの為、俺は命をかけて踏みとどまった。

 

 今にもディラックの海に入水自殺しそうな意識を必死で止め、台所で洗い物をしているエリザに声をかけた。

 

「……エ、エリザー。ちょっと新聞紙取ってくれるかな?」

 

 冷静に、慌てず、騒がず。

 手は綺麗に、心は熱く、頭は冷静に……俺の心の先生の言う通りに。

 

「んー? なに辰巳くん?」

 

 エリザが台所からこちらに視界を向ける。

 瞬間、その動作に反応したのか、Gさんが羽を広げて飛び立った。

 

 ――エリザに向かって!

 

「え? にゃわぁぁぁぁぁぁー!?」

 

 自分の顔に向かってくるGさんに恐怖の悲鳴をあげるエリザ。

 悲鳴と取り落とした皿が割れる音が響き渡る。

 

 まずい。

 このままではエリザが大変なことになってしまう。

 具体的にはGさんに驚いたショックで転倒、皿洗いに使っていた泡が飛び散りエリザの顔にかかり、卑猥な一枚絵が――!

 

 それはそれでいいんじゃない? 心の中の悪魔が囁く。

 適度なエロスは天使的にもありですよ? 心の中の天使も囁く。

 

 ただ、それでも――俺は嫌だった。

 例えラッキースケベ的な展開を否定してでも……エリザにはいつも笑っていてほしい。

 悲しい顔なんてしてほしくない。

 

 俺がエリザと初めて会ったあの日、彼女が泣きながら言った『一人は寂しかった……』その言葉を聞き、ずっと彼女の笑顔を守っていこうと思ったのだ(そんな話あったっけ?と思う方。正解。これは俺の捏造)

 

「――!」

 

 Gさんがエリザの元に辿り着くまで、殆ど猶予がない。それこそ刹那。

 俺の体は驚くほど軽く、そして俊敏に動いた。

 立ち上がり、すぐ傍にあった漫画雑誌を手に取り丸める。そしてGさんを追い越しエリザの前に立つ。

 その動作をほぼ同時に行えた。

 

 普段の俺からは考えられない動き。人間の可能性。

 人は本当に守りたいものができた時、その可能性が開花する。

 

「た、辰巳君!」

 

 背中からかけられるエリザの声。

 守らなきゃいけない。戦わなければ守れない。今まで闘争とは無縁の人生だったけれど。闘いの本質が理解できた。

 闘うことは守ること。守る為に戦うのだ。

 この本質は決して間違ってなんかいない。

 だって今の俺は、こんなにも力が溢れてくる――心の奥の熱、信念から。

 

 Gさんは耳障りな羽音を響かせながら、俺の元へ向かってくる。顔に。

 

 俺は正眼に丸めた雑誌を構えた。Gさんが俺の射程距離に入る。

 

「――シッ!」

 

 体が自然に動いた。

 腕を動かす動作、腰を捻る動作、踏み込む動作――まるで昔からこの動きを知っていたかのように。

 

 それは記憶を参照した動き。……記憶?

 俺にそんな記憶はない。武器を持って闘った記憶なんて……ない、はず。いや、記憶の奥、もっとも原初の記憶、赤子の頃の更にその奥に――その記憶はあった。闘争の記憶。

 剣を奮い、魔力を放ち、荒野を駆け抜けた記憶が。

 

 ……なんだこの記憶は。矛盾している。赤子の前? そんなのまるで前世……前世? 前世の、記憶

 

 それを自覚した途端、原初の記憶の奥にあった枷が外れ、膨大な量の記憶が流れ込んできた。

 溺れそうになりながら、その記憶に触れる。

 前世、四天王、魔界、勇者、深淵……深淵の……リクルス。

 そうか、そうだったのか……、今全てを理解した。

 俺の存在、この世界での意味を。

 

 ゴキブリは恐らく自分が斬られたことに気づくことはなかっただろう。

それほどに速く、そして鋭く、現実離れした剣の軌跡だった。魔法のような。

 それを俺が……行ったのだ。

 奇跡も、魔法も……あったのだ。

 

「た、辰巳君? 大丈夫?」

 

 背中からかけられたか弱い言葉に、振り返る。

 少女、エリザがこちらを気遣うような表情で見つめていた。

 

 彼女を守る。この力で。

 俺はもう二度と失わない、大切なものを。二度と離したりしない。

 どこにもいかないよう、彼女の小さな体をしっかりと抱きしめる。

 

「へ? あ、え……は、はわぁ!? た、辰巳君!? ど、どうしたのいきなり!? こ、こんなお昼から、こ、こんなの……だ、だめだよ……」

 

 やんわりとした拒絶の言葉を吐きながら、体をこちらに預けているエリザ。

 俺は彼女の頬を手を当て、その唇に――

 

 

■■■

 

 

「……めだよ辰巳君。辰巳君ってば!」

 

 ん? んん?

 おかしいな。急に真っ暗になったぞ。え? もしかしてコンシューマー版? 暗転して事後? ンモー、こんなの絶対おかしいよ!

 これから俺とエリザのちゅーちゅートレインが出発するところだったのに、そこをカットするとかなに考えてんだよ!

 責任者出てこい! こんなの、俺が許さないぞ!

 

「たーつみくーん! 起きて、もう起きてよー!」

 

 待ておかしいな、色々混乱してる。一体何が起こったんだ?

 取りあえず目を開けてみる。

 

「あ、辰巳君! よかったー……もう心配したよ」

 

 視界に入ってきたのは、ドアップのエリザの顔。

 あれ? やっぱり事後? キンクリしたシーンは後に出るPC版で?

 

「辰巳君、大丈夫? 痛いところない?」

 

「え? いや……ないけど、あれ?」

 

 記憶を整理してみよう。

 部屋でごろごろしてたら、Gが俺のお腹に落ちてくる→Gエリザの所に飛んでいく→俺前世パワーに覚醒、Gをブチ殺す→エリザとちゅっちゅ→暗転。

 で、今に至るわけだが。

 

 エリザはさっき『起きて』って言ったよな。

 つまりさっきまでのは……夢?

 全部夢、なのか? 全部? 全部ってどこからが夢なんだ?

 覚醒したところ? それとも今日部屋でごろごろしてたところ? いや……そもそも俺がこのアパートに越してきたのは……現実なのか?

 今こうしてここにいること自体、現実とはいえるのか?

 俺が認識している現実は……本当に現実なのか?

 今ここにある世界は、誰かが見ている夢……胡蝶の夢じゃないと、言えるのか?

 

 と俺がマトリックス的思考に陥っていると、優しいエリザちゃんが説明してくれた。

 

「びっくりしたよー。辰巳君いきなり気絶したんだよ? わたし驚いてお皿割りそうになっちゃたよー」

 

「き、気絶? 俺が?」

 

「うん。なんか『ミッシェルさん助けて!』って言いながら泡吹いて気絶したの。……ミッシェルさんって誰?」

 

 フィギュア4レッグロックが得意な肉食系美人だよ。

 

 いや、しかし何で俺は気絶したんだ?

 理樹きゅんじゃあるまいし、ナルコなんとか煩ってないし。

 

そんなことを思いつつ、現状把握しようと部屋を見渡したら……

 

『……』

 

 背後にいたんですよ、Gが。

 ふわふわと宙を浮いてこっちをジッと見てるの。

 

 ここで悲鳴をあげながら気絶しなかったのは、すぐ側にエリザがいたからだろう。

 二度も気絶した無様な姿を見せるわけにはいかないと俺のライオン(実はノミ)ハートが頑張ってくれたからだ。

 ズリズリと後ずさり、宙に浮いたGから距離をとっているとふと奇妙なことに気づいた。

 

『……』

 

 Gが動かないのだ。

 機敏な動きがウリのGが全く身動きもせず、宙に留まっているのだ。

 不思議な事に羽を広げてもいない。

 これは一体……。

 

「お部屋ちゃんと綺麗にしてるんだけど、どうしてもゴキブリって出ちゃうんだよね」

 

 俺が今まで直接的に出さなかった名詞を、平然とエリザは呟いた。

 ほんのり眉を寄せた困り顔で。まるで『今日の夕食なににしよう、迷うなあ』と思っているような顔で。

 

「こ、これ一体どうなってるんだ? 何でその……Gが、浮いてるんだ?」

 

「へ? ああ、これねー、わたしがやってるの。えっと……幽霊的な力で?」

 

 小首を傾げながら言っちゃうエリザは可愛い。

 だがそれはそれとして、俺は納得した。

 エリザは幽霊だ。俺が彼女を認識する前から、この部屋では物が勝手に浮いたり、何もない場所から物音がしていた。

 それはエリザの力だったのだろう。

 幽霊なら、そういうことができてもおかしくない。

 

 それはそれとして、いくら幽霊的パワーで動きがとれないとはいえ、いつまでも部屋に俺の最悪の天敵が浮いているのは気分がいいものではない。

 先ほどからジッとこちらを見ている様な気がして、正直気が気ではない。

 

「エ、エリザちゃん。できればそのG、早くどうにかしてくれると、うれしいんだけど」

 

 自然とへりくだってしまうのは仕方がないことだ。

 だってこのままエリザがふとした拍子にプンスカ怒ったりなんかしたら、あのGが俺にぶつけられるのは自明の理だからだ。

 エリザは優しいからそんなことしないだろうけど。

 

「うん、分かった。じゃあ辰巳君、窓開けてもらってもいい?」

 

「あ、はい!」

 

 俺はとてもいい返事をしつつ、窓をガラリと開けた。

 さあ、森へお帰り。もうここには近づくんじゃないよ。もし帰ってくるとしたら、美少女に擬人化してからだよ……。

 

「さ、どうぞ」

 

 窓の横でドアボーイの如く、構える俺。

 

「はーい」

 

 エリザは右手をスイと上げた。

 そのままGを窓の外へと――飛ばすかと思いきや、上げた右手をぐっと握り締めた。

 ガッツポーズをするかのように、平然とした顔で。

 

 Gは俺とエリザの中間地点に浮いている。

 俺からはGの姿がハッキリと見えている。

 

 エリザが右手を握り締めた瞬間――Gを包んでいた不可視の力が凝固し、縮むような錯覚を覚えた。

 いや、それは錯覚ではなかった。

 だって……

 

『ピギィ!』

 

 まるで周囲の力で圧壊されたかの如く、その体は粉々に霧散したのだから。

目の前で弾け飛ぶGの体。

 不可視の力は未だ存在し、その肉片はその中に漂っている。

 

「はいっ、おーしまい。よいしょー」

 

 エリザは一仕事終えてスッキリした笑顔で、右手を前に振るった。

 Gの破片がふわふわと窓の外へと運ばれていく。

 俺はなんとも言えない顔で、それを見送った。

 

 そうか……エリザってゴキブリとか普通に殺っちゃえるタイプだったか……。

 俺が守ってやるって思ってたけど、そうだよな……今までウチの全部の家事やってたんだよな……。

 多分ゴキブリとか出ても俺が気づかないうちに処分してたんだろうな……。

 それも知らず守るとか……俺ってほんとバカ。

 

 

 

■■■

 

 

 Gの脅威が失われ、再び台所仕事に戻ったエリザに俺は問いかけた。

 

「エリザはその……ああいう虫とか怖くないのか?」

 

「ん? 虫? 子供の頃は怖かったけど……もうわたし大人だしっ、今はぜーんぜん」

 

 にへへ、なんて笑っちゃうエリザに、じゃあGがお腹に落ちてきてお漏らしそうにそうになった俺って子供なの?と問いかけようとしたが、それは残酷な真実を招きそうなんでやめといた。

 実際、俺のプライドは守られたわけだし。

 エリザには俺が虫が嫌いってことは、バレなかったわけだし。

 

「でも、辰巳君」

 

「ん?」

 

「虫が怖くて気絶しちゃうなんて……可愛い!」

 

「……知ってたのか」

 

 悪意なく俺を可愛いとか言っちゃうエリザに、お前の方が可愛いにゃん!とか言って飛び掛ったらどうなるだろうと思いつつ、見た目年下の女の子に可愛いと言われて赤面する俺ってひょっとして可愛いんじゃないか……?そんなことを思いつつ、赤面した顔を隠すように居間に戻って漫画を読み直すのだった。

 

 

 

■■■

 

 

 後日、アパートの庭掃除をしている大家さんに出会ったときにこんなことを聞いてみた。

 

「大家さんってゴキブリとか大丈夫な人ですか?」

 

「大丈夫か大丈夫じゃないかでいうと……まあ、実写映画を見に行った後に電話レンジで過去に飛んで無かったことにしたいくらいですね!」

 

 大家さん見に行ったんだアレ……。

 

「いや、そういうことじゃなく。ほら、部屋でいきなり出た時とか、どんな感じかなーって」

 

「はあ。部屋でですか。虫の1匹くらい、そんなの別に……」

 

 と大家さんは言葉を途中で止め、思案顔になった。『いや、ここは……うん』と小声で呟いている。

 と、大家さんはぱっと顔を上げ、両手を口横に持ってきてヨヨヨ……不安そうな表情を浮かべた。

 

「えっと私……すっごく怖いです! 悲鳴とかめっちゃあげちゃいます!」

 

「あ、やっぱりそうなんですか?」

 

 よかったイメージ通りだ。

 

「そういう女の子って可愛いですよね」

 

「か、可愛いっ、ですか? ……やった!」

 

 実際虫とか怖がって可愛らしい悲鳴あげちゃう女の子っていいよね。

 守ってあげたくなるっていうか……いや、実際俺はエリザに守られてるんだけど。

 それはそれとして、母性本能をくするよな。

 俺なんかイカちゃんが早苗に迫られて涙目のシーンで何度……ふぅ。

 

「雷とか怖がる女の子もいいですね」

 

「へ? 雷ですか? あんな自然現象……めちゃくちゃ怖いですー! 想像しただけでキャー!」

 

 大家さんが気のせいかワザとらしい悲鳴をあげながら俺に抱きついてきた。

 雷を想像しただけで悲鳴あげちゃう大家さんマジ大家さん、悲鳴がワザとらしいけど。

 大家さんの悲鳴に反応したのか、近所のマダムが集まってきてマジ勘弁。あんたら魔物かよ。

 

「お、大家さんちょっと離れて欲しいなあって」

 

「へ? あ、ご、ごめんなさい……ちょ、ちょっと調子に乗りすぎちゃいました、えへへ……」

 

周りのマダムが見ていることに気づいて、大家さんは頬を赤く染めつつ俺から離れた。

 俺の中の天使と悪魔が腕を組みつつ『何でそこで諦めるんだよ! もっとギュッとしろよ! この童貞!』とか罵ってくる。あんたら仲いいね。 結婚すれば?

 

 しかしよかった。

 大家さんが虫を見て悲鳴あげちゃう系のガールで本当安心。

 平然とした顔でゴキブリつぶす女の子は一人で十分!

 

 と、俺と大家さんの間の地面を何か黒くて小さい物がサッと走った。

 どこかで見たようなそれは、つい最近、家の中で見た、ような……。

 それは多分、とってもゴキブリだなって。

 

 俺がその姿を捉え、ハッキリと正体を見極める直前――

 

「えーい」

 

 と気の抜けた掛け声と共に大家さんが笑顔を浮かべながら、箒の背でその黒い物を潰していた。

 

「やりましたっ、今年4匹目です! ……はっ」

 

「……」

 

 俺の信じられないものを見るかのような視線に、大家さんは眼に見えて慌て始めた。

 

「……い、いや、違うんですよ」

 

「なんか今の虫っぽかったですよね?」

 

「そ、そうですか? いやー、私は違うと思いますけど」

 

「でも黒くてゴキブリくらいの大きさでしたよね」

 

「そうとは限らないんじゃないですかねー、あははー」

 

「俺にはそう見えましたけど」

 

「私には見えませんでしたよ」

 

「でも、明らかに何か潰しましたよね?」

 

「いえ、何も。ただ何となく箒の背でトンってやりたくなっただけですよー」

 

「じゃあ、箒の背見せてください」

 

「だ、だめですよー」

 

「何でですか?」

 

「もー、辰巳さんってば、女の子が見ちゃだめだって言ってる場所を見たいなんて変態さんですか? ふふっ」

 

「……」

 

「……」

 

「もう、学校行った方がいいんじゃないですかー? 遅刻しちゃいますよ?」

 

「そうですね」

 

 議論は平行線を辿り、俺は何も見なかったという結論を出した。

 笑顔でGを潰す大家さんはいない。そう、いないんだ。こんなの絶対おかしいと思うけど……いないといったらいないんだ。

 わざわざ最後に残った希望を自ら潰す必要はない。

 俺は本当の気持ちから目を背けつつ、学校へ向かうのだった。

 

 

 

 

■■■

 

 

「会長はゴキブリとか好きそうですよね。黒魔術的な意味で」

 

「きゃ、きゃっ! ど、どこ!? どこにいるの!?」

 

「……いや、いないですけど」

 

「……」

 

「……」

 

「ゴホン。さて一ノ瀬後輩。アナタに伝え忘れた掟が一つあります。このワタシの前で、その名を口にすることを許されない、いいデスか? 仮に呼ぶとすればそう――例のあの人と」

 

「その名ってゴキ――」

 

「ストップ! 奴らに嗅ぎつかれます! 命が惜しければその名前は口にしないよう! ……ゆめゆめ気をつけることデス……フフフ」

 

「……」

 

「……フフフ」

 

「ゴキブリ」

 

「あああ、もう! やめてってば! 怒るよ!?」

 

 今日分かったのは、先輩が可愛いってことだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

俺は友達が少ない(縮地は置いてきた……これからの戦いについていけない)

 ――俺は友達が少ない。

 

 とか言うとラノベのタイトルっぽいが、実際俺には友達が殆どいない。

 20年ちょっとの人生を通して、その数は片手で数えられるほどだ(しかも妖怪人間ベムの手)

 

 その数少ない現在進行形の友人が、遠藤寺だ。

 

 遠藤寺について語ろう。一言で言うと変わった女だ。

 

 大学生にして、巨大なリボンを装備しており、私服は年中ゴスロリ。

 目つきはいつも人を観察するかの如く鋭い。

 うどんが好き。自分のことをボクとか言っちゃうボクっ娘で、実家はかなりの金持ちらしい。

 何よりも『謎』という物を愛しており、自分の周囲で起こる事件に大小問わず首を突っ込む。その生態から出身は魔界だという説が濃厚(俺の中で)

 俺のことをワトソン的な存在だと思っているのか、首を突っ込んだ事件にいつも俺を引きずりこむ。

 

 強い。事件解決時に犯人が襲い掛かってくることが多々あるが、基本ワンパンでKO。

 

 服装のせいで分り辛いが、ほどよく肉がついたむっちりとした体型(居酒屋で膝枕をしてもらった時に確信した)

 

 いい匂い。柑橘系の匂いがする。風呂にフルーツとか浮かべて入ってるらしいから、そのせいかも。

 

 ずらっと羅列してみたが、こんな感じだ。

 やはり変わっている。浮いていると言ってもいい。実際遠藤寺は大学でもかなり浮いていた。

 容姿的な意味でもそうだが、大学内で探偵業的なものをしているのもその要因の1つだろう。

 

 そんな変わっている遠藤寺が、俺のようなフツメン(顔がじゃなくて、存在的な意味ね)とどうして友達でいるのか?

 

 それこそが――最大の謎だ。

 

 よし、上手いこと言えたし、窓から大家さんを視姦しよーっと!

 おや、大家さん……木に引っかかった風船を取る為とはいえ、そんなにジャンプしたら下着が……! み、見えない……ナンデ!? 明らかに見えるくらい捲れてるのに、ま、まさか――大家さん、はいて――

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

「ノーパンスタイリスト!!」

 

 というところで目が覚めた。くっそ、もう少しで夢の中とはいえ大家さんの秘密の小部屋を拝見できたのに……!

 もう1回寝るか? あ、でも同じ夢を見れるとは限らんしな……。肉屋のおっさんに賢者の石を見せつけられる夢なんて見た日にはトラウマでアズカバンに引き篭もるわ。

 

「……」

 

 と、視線を感じたのでそちら――今座っている食堂のテーブルを挟んで向かいに目を向けると、遠藤寺がいつも通りジトっとした目で俺を見ていた。

 俺は口についた涎を拭い、片手を上げた。

 

「おはよう遠藤寺」

 

「ああ、おはよう。ところで君、もしかしてだけど。もしかしてだけど、ボクの話の最中に寝ていた、ということかい?」

 

「えっ」

 

 そうだ。さっきまで遠藤寺から最近この界隈で起こっている謎の事件についての話を聞いていたんだった。

 その途中で睡魔たんがおいでおいでしてきたから、その手を握ったら寝てしまったというわけだ。

 まあ、昨日夜更かししたからしょうがない。

 エリザとおままごとしてた

 最初は普通にサ○エさん遊んでたからな。最初は軽いノリで付き合ってたけど最終的にすげえ盛り上がった。最初はサザエさん的なな世界観だったのに、最終的に銀河○英雄伝説みたいな展開に発展してしまった。深夜テンションって怖い。

 

「ね、ねてないけど」

 

「本当に? 今おはようと言わなかったかい?」

 

「それはね、お砂糖と言ったんだよ。おはようとお砂糖似てるしな、聞き間違っても仕方がない」

 

「そうかい? じゃあお砂糖遠藤寺とはどういう意味かな?」

 

 しつけーなこいつ。お前が砂糖みたいに甘くて可愛いってことだよ!とペロペロしながら叫ぼうとしたが、物理的に不可能なのでやめた。

 

「……お砂糖遠藤寺取って、って言おうとしたんだ」

 

「そうかい、どうぞ」

 

 うーん、学食のカレーに砂糖をかけちゃう困ったちゃんになってしまったぞ。

 いや、意外といけ……ないな。まあ食べるけど。せっかく遠藤寺に奢ってもらった物だし。

 

「本当に寝ていなかったのかい?」

 

「だから寝てないって」

 

「本当に?」

 

「だから本当だって」

 

「じゃあ、ボクがしていた話の内容は?」

 

 話の内容、か。

 さっぱり分からん! だって寝てたもの。いや、少しは覚えているか、プロローグ的な部分だけ。

 最近この辺りでいかにも怪しい男が、怪しい行動をしているとか。

 

 なんだ、タキシード仮面か。

 

「大丈夫だ遠藤寺。その人怪しいけど悪い人じゃないから。どちらかといえば正義の味方だから」

 

「へー、随分詳しいね。しかし奇声をあげながら忍者走りで商店街を駆け抜けていたり、小学生女子のスカートを捲り上げていたとの報告もあるんだけど」

 

「それアカン人やわ」

 

 完全にアウトじゃん、その人。セーラー戦士助ける類の変態じゃないわ。別の変態だわ。

 変態番付に乗るが議論されるレベルの変態だ。

 

「そんな変態がこの辺りにいるのか!?」

 

「ああ、その話をさっきからしていたのだけど」

 

「そ、そうだったな、うん」

 

 しかしそんな変態がいるのか。

 許せんな……大家さんを守る為にも、この事件俺が解決してやる!

 イカちゃんの顔にかけて! 違う! イカちゃんの名にかけて!

 

「しかし参ったよ。今回の事件はボクの専門じゃない。ボクは謎を解決したいんだ。変態を捕まえたいわけじゃない」

 

 遠藤寺の口から変態ってワードが出るとこう……フフ。いやいや何がフフだよ俺。遠藤寺にそういうこと言われない願望でもあるのか? ……ないとは言えないですね。

 

「でも頼まれたんだろ?」

 

「……そうなんだよ。依頼者はボクを何でも屋と勘違いしているらしい」

 

 上の方でも言ったと思うけど、遠藤寺は趣味と実益を兼ねた探偵業を行っている。

 そこそこ事件を解決してきたので、そこそこ依頼も増えているのだが、中にはこのようなお気に召さない事件もあるのだ。

 

「大変だな遠藤寺も」

 

「他人事のように言っているけども」

 

 遠藤寺はいつも通り口角を釣り上げるだけの、独特な笑みを浮かべた。

 

「当然君にも手伝ってもらうよ、相棒」

 

「変態に関わりたくないんすけど」

 

「ボクもだよ。だから今回は君に任せる。実はもう1件依頼があってね、そちらの方が実に興味深い」

 

「俺一人で変態と戦えと?」

 

 遠藤寺来ねえのかよ! 戦闘になったらどうするんだよ! 今まで戦闘面では遠藤寺のバリツに任せきりだったのに!

 つーか探偵の相棒役としての俺って、悲鳴をあげる役くらいなんだよね。あと人質にされる役。

 

「フフフ……大学の生徒会で起きた事件。生徒会長の下着が全て消失し、行方不明に。副会長が食堂で下着の繊維を発見し、そこから行方を追っているところだが……膨大な量の下着は一体どこへ消えたのか、謎だ」

 

 一番の謎は下着の繊維から会長の下着だと見抜いた副会長の鑑定眼だと思うんですけど。

 つーか、それ副会長が犯人じゃねーの?

 

「さて、ボクはそろそろ捜査を再開するよ。君も頑張ってくれ」

 

「一緒に! 一緒に行ってくれよ! 一生一緒に行ってくれや!」

 

 変態と孤独な戦いに赴く俺の動揺が、三木道さんの歌詞みたくなってしまった。

 

「……今のは胸にきた。何故かわからないけど。一生、か。フフ……君と一生を過ごすのも、考えたら楽しそうだ。フフフ……」

 

 いつも通り鋭い目で口角を釣り上げなら笑い去っていく遠藤寺。

 対する俺は泣きそうだった。

 だって怖いもん! 変態と戦うとか、そもそも俺の戦闘力はそこらの小学生並みなのに! 低学年の!

 

「エ、エリザに手伝ってもらって……イカンイカン」

 

 小学生のスカートを捲り上げる変態なんかに、エリザを会わせたくない。じゃあ別の誰かに……誰か……誰もいない。

 だって俺は友達少ないから……(タイトル回収)

 

 仕方ない、一人で行くか。いざとなったら土下座して命乞いすればいいしな。

 

 

 

■■■

 

 

 まずは情報がいる。

 とりあえず小学生女子の知り合いに会うことにした。家へ。

 

 アパートの門をくぐると、大家さんがホースで水を撒いていた。

 

「あははははっ、わーいっ、気持ちいいー」

 

 何だ天使って外界に降りてきてたのね。全裸系の天使じゃなくて残念だが……大家さんマジ天使!

 普段の割烹着の裾と袖を捲って、くるくる回りながら水を撒く大家さん。あー、浄化されるー。

 

「えーい、ウォーターブレード! ぷしゃー!」

 

 ホースの先を指で押してできた鋭い水流。それを刀のように振る。

 俺も昔よくやった。懐かしい。

 

 大家さんに近づいていく。

 一瞬、大家さんが来ている和服の袖から脇が見えた。ほんの僅かな時間だったが、俺じゃなきゃ見落としてたね。

 

「そりゃー! 『な、なんだと……禁鞭をここまで扱うとは……やはり天才か』びしびしー!」

 

 今度は鞭のように水流を振るう大家さん。セリフ付きだ。

 びしびしされたいなあと思いました。

 

 大家さんからびしびしされる妄想をしつつ、ゆっくり近づき声をかけた。

 

「楽しそうですね、大家さん」

 

「はい? い、一ノ瀬さん!?」

 

「ええ、まあ一ノ瀬さんですけど」

 

「い、いつから見てたんですか!?」

 

「ウォーターブレードの辺りから」

 

「……ぬわぁ」

 

 顔と晒した手足を真っ赤に染めて俯く大家さん。

 可愛すぎる。

 はぁ……デュエルしてぇ……。真剣デュエルで命と命をぶつかり合わせてぇよ……。

 

「ち、違うんです……一見はしゃいでいた様に見えますけど、違うんです」

 

 なおも水が流れるホースをぶんぶん振りながら、あわあわと言い訳をする大家さん。

 

「へー、ところで大家さん」

 

「子供じゃないですから! ああすれば効率よく水を撒けるからであって」

 

「うん。分かりました。で、大家さん」

 

「……あ、呆れちゃいました? いい歳してあんな風にはしゃいで」

 

「いや、正直可愛かったですけど。で、大家さん」

 

「か、かわっ、可愛かったですか! そ、そうですか……それなら、よかったかも……えへ」

 

 きっと今すげぇ可愛い表情してるんだろうなぁ。anotherなら萌え死んでるだろうなぁ。でも見えない。

 だってさっきから大家さんの出している水(意味深)が俺の顔面直撃してるから。避けても追尾してくるし。命中率高いわ。

 

 

 

■■■

 

 

 

 謝りながら俺の全身を拭いてくる大家さんに別れを告げ、目的地へと向かった。

 アパートの裏手、建物の影になっている部分に目的の少女がいた。

 白いワンピースに麦わら帽子を被ったショートカットの少女。

 格好とその容姿は夏以外のなにものでもなかった。

 

 俺はロリコンに間違われないようなオーラを出しつつ、麦わらロリ子に接近して、片手をあげた。

 

「おっすおっす。元気か?」

 

「……」

 

 影の中蹲り、アリの観察をしていたらしい少女が顔を上げた。

 ジッとこちらを見つめる。くりくりとした愛らしい瞳に俺が映った。

 

「……」

 

 少女は無言のまま傍らに置いていたスケッチブックを手に取り、さらさらとマジックを走らせた。

 笑顔でスケッチブックを見せてくる。

 

『ロリこんにちは!』

 

「……」

 

『間違った。ロリコン、こんにちは、だった! えへへ』

 

 舌をぺろりと出し、照れる少女。

 

「あのね、前も言ったけどね、俺ね、ロリコンじゃないの」

 

『え~、でもその顔どう見てもロリコンじゃん』

 

「顔のことは言うなぁ! てめぇ小学生だと思って調子乗ってると……イワスぞ?」

 

『ロリコン弱いのに、いきがるなよ。あんまり強い言葉を使うと、弱く見えるぞ』

 

 俺と少女の仲は大体こんな感じだ。

 

『で、なにか用? もう今日の分の飴はあげたよね?』

 

「ああ、ちょっと聞きたいことがあって」

 

『私の胸の大きさ?』

 

「びっくりするほど興味ない。アナ○と○の女王並みに興味ない」

 

『それは相当興味ない感じだ……』

 

 腕組みしてウムウムと頷く少女。

 こんなんでも女子小学生だ。きっと怪人物について少しは知っているはず。

 

「近頃怪しいヤツ見なかったか?」

 

『ほい』

 

 速攻で指さしてくる少女。

 

「違うよ。俺は怪しくないよ。俺はいい辰巳だからな」

 

『具体的に言って。どう怪しい感じ? 毎日近所の小学生に飴をねだっちゃうダメな大学生?』

 

「それ俺だけど、違う。小学生のスカートを捲りあげる変態がいるんだ。聞いたことないか?」

 

『かなりレベルの高い変態だな。近所に住んでいる大家さんの頭を撫でながら服の隙間から見える胸を覗く変態がいるけど……それとタメをはるレベルだ』

 

 それも俺だ。

 

「いや、覗いてないから。見えちゃうだけだから」

 

 本当にもう、大家さんの油断っぷりたるや……ねぇ。今後もその無防備を貫いていて欲しいものです。主に俺の精神安定の為に。

 

 いかんな。この小学生と話していると俺の知能レベル下がってしまう。

 

「で、見たことあるのか? 情報提供してくれたら、アイスくらい買ってやるぞ」

 

『ん? 今なんでもって言った?』

 

「言ってねーし。つーかどこでそんな言葉覚えてくるんだ?」

 

『……』

 

 そして無表情で俺を指さす、と。そうか俺が変な言葉教えてるんだった。

 汚れない少女を汚していくのはたまらんな……。

 

 今ではこんな感じだが、俺が越してきた頃はかなり内向的な少女だった。目も合わせてくれなかったし、そもそもある程度の距離まで近づくと逃げる。ちなみに俺相手だからというわけではなく、誰に対してもそうだったらしい(シュワちゃんみたいなパパが言ってた)

 

 それがいろいろあって今ではこんな具合だ。一体誰のせいなのか……責任の所在はしまっちゃおうね。

 

「で、その変態について聞いたことは?」

 

『ないなー』

 

「使えねー」

 

『でも見たことはある』

 

「マジで!? ど、どんなヤツだった? 強そうだった? 不意打ち武器アリで勝てそう?」

 

 少女はスケッチブックにマジックを走らせた。

 

「……」

 

 無言でスケッチを見せてくる。書いてあったのは矢印。

 俺を指す矢印。

 

「こっちにいるのか」

 

 矢印を避ける。

 

「……」

 

 少女がスケッチを動かし、矢印が俺を再び指す。

 俺が動く。矢印がついてくる。動く。ついてくる。

 

「犯人は……チープトリック? 俺取り憑かれてる?」

 

『たわけ。お前ですよ』

 

「犯人は……俺?」

 

 なんてこった。犯人は俺だったのか。スゴイザンシン! 探偵役が犯人の話なんて今までになかった……え、いっぱいある?

 

「俺は変態じゃない!」

 

『こないだ。わたしが転んで膝擦りむいたでしょ?』

 

「あ、もう治った?」

 

『ん』

 

 と、少女はワンピースの裾を持ち上げ、膝小僧を露出した。

 傷ひとつない、すべすべとした膝小僧があった。

 さすがに若いと回復が早い。俺なんか先週エリザの寝ポルターガイストでできた青痣まだ治ってないからな。

 

『絆創膏貼ってくれてありがと』

 

「べ、別にお礼を言われたくてやったんじゃないし!」

 

『ほら、これだろ。いやしんぼめっ』

 

 飴を手渡してくる。これマジで美味いんだよなー。あれ、餌付けされちゃってる?

 

「で、それと俺が犯人なのと何が関係あるんだよ」

 

『だから今の。今のがまさに女子小学生のスカートを捲り上げる変態の図』

 

「……え?」

 

『見る人が見る角度で見たら、完全にアウト』

 

 た、確かに。偶然通りがかった人がこの光景を見たら、小学生女子に無理やりスカートを捲らせているように見えるかもしれない。

 つまり犯人は……俺?

 

「そ、そんなバカな……」

 

『よしよし』

 

 呆然とする俺の頭を背伸びして撫でてくる。

 

『はい、これも女子小学生に体を触らせる事案ね。別に変なことしてるわけじゃないのにね。大人の誤解って怖いよね。大人になりたくないわー』

 

「……俺も」

 

 まあ、俺はもう大人になっちゃってるけど。

 子供の頃になりたかった大人とは全然違う、想像もしてなかった大人に。なりたくてなったわけじゃないんだけどな。もっと子供でいたかった。

 

『もんだいかーいけつ☆ よかったね!』

 

 影から出てキラキラした太陽の光をまとった少女を見て思う。子供だけが持つ無垢の光だ。俺もこんな風にキラキラしていた頃があったのかもしれない。

 いつからこのキラキラしたものは消えてしまったのか。今となっては分からない。悲しいねバナージ。

 

 謎の変質者については解決したので、前々から気になっていたことを聞くことにした。

 

「ところで前から聞きたかったんだけど」

 

『あっつーい。ん、なに?』

 

「答えづらかったらいいんだけどさ。……あ、いややっぱりやめようかな」

 

『お前のそういうところ面倒くさい。わたし……友達にしなくてもいい遠慮の仕方だよ、それ。だから友達少ないの』

 

「リアルに傷つくからやめて。……え、友達って」

 

『で聞きたいことって? 法に触れない類のなら、なんでも答えるけど』

 

 この小学生、俺のこと友達と思ってくれてるのか。

 嬉しいな、普通に。うん、普通に。

 

「じゃあ聞くけど」

 

『ん?』

 

「何でずっと筆談なんだ? ……その、もしかして、病気とか……いや、ごめん」

 

 このアパートに着てから彼女に避け続けられた俺だが、懲りずに彼女に話しかけ続けていた。そんなある日、ついに彼女からこちらにコミニケーションをとってくれたのだ。言葉ではなく、筆談という手段を使って。

 そこにどんな意味があるのか。遂に聞いてしまった。

 

『別に。ただの無口キャラだけど』

 

「キャラかよッ!?」

 

 俺のツッコミはアパート中に響き渡ったとさ。

 

■■■

 

 

 

「で、事件は解決したのかい?」

 

「まあな。そっちは?」

 

 何日か経って、俺と遠藤寺はいつもの場所で事件の報告をしていた。

 流石に犯人は俺だったとは言い辛かったので、犯人を見つけてボコボコにした後、2度と悪さはしないようにSEKKYOUした……と嘘の報告をしたが。

 さて、遠藤寺の方はどうだったのだろうか。

 

「ああ……凄まじい事件だった。まさか副会長が……」

 

 やっぱり犯人副会長かよ。

 俺が想像した通りだ。

 

「会長を庇って刺されるとは……」

 

「マジで!? ど、どどどどういう!? なにゆえ!?」

 

「突入した地下室で見たのは、会長の下着を触媒に召喚した悪魔……」

 

「で? んでんで!?」

 

「続きは後にしよう。それよりも今日、授業が終わってから行くお店についてなんだけど」

 

「悪魔は! 悪魔の話聞きたいんだけど!」

 

 悪魔の話の続きはWEBで。

 あとこの界隈を騒がせていた犯人はやっぱり俺だったぽいぽい。

 奇声を上げて云々は、エリザを背負ってタイムセールに向かっていた途中を目撃されたらしい。

 あまりのショックに引き篭もろうと思ったけど、エリザが笑顔で送り出してくれるから、できないのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

さよなら辰巳くん……どうか死なないで(やめろーっ!! 縮地ーっ!!)

午前中最後の講義が終わり、俺と遠藤寺は一緒に講義室から出た。

 

「今日の弁当は何かな? 最近はこれが楽しみで楽しみで」

「……すっかり幽霊に餌付けされているね」

 

遠藤寺が呆れたように言うが、こればっかりは仕方がない。

エリザの作る食事は本当に美味いのだ。

生活費を切り詰める為に、安くて品質が悪い食材を使っているのにも関わらずだ(たまに大家さんがいい食材を差し入れしてくれる)

どうしてこんなに美味いのか、本人に聞いてみた。

 

『美味しさの秘訣? ん~とね。それはその……あ、あ……愛、かな? ……にゃ、にゃんちゃって!』

 

とか言ってた(顔真っ赤にして)

それを聞いた俺は笑いながら『そっか。ありがとな』なんて言いながら頭を撫でてたけど、内心心臓バクバクして枕に顔を埋めてバタバタしたかった。

エリザの乙女っぷりも相当だが、俺のもかなりのものだと思う。

 

「はぁ……エリザたんギザかわゆす」

「あまり言いたくはないけどね、人間じゃないものに肩入れし過ぎるのもどうかと思うよ。物語の中でも人間と人外の関係は悲しい終わり方をするのが常だ。それよりももっと生身の人間に目を向けた方がいいと思う。……例えば、すぐ近くにいる……ボクが言いたいことは分かるだろう?」

「え、なんだって?」

「……」

 

お、遠藤寺の唇がわなわな震えているぞ。

珍しい反応だ。脳内HDDに保存しとこーっと。

 

遠藤寺は何かを諦めるようにため息を吐いた。

 

「……ふぅ。ところで今日の夜は暇かい? 依頼人からいいワインがある店を聞いたんだけど」

「たつみお金ないでち」

「この間の依頼の報酬で奢るよ。そもそも君と一緒に飲みに行って君に支払わせたことがあったかい?」

「……いつも、その……ありがとう」

 

ここで衝撃の事実判明。実は飲み会に行くと毎回遠藤寺に奢ってもらっているのだ。

参ったな……俺の株、爆下がり過ぎ? え、もともと底辺? あ、そうですか。

 

「では6限が終わってからいつもの場所で。さて、食堂に行こうか。今日のうどんは何にしようか……」

 

こころなしか嬉しそうな遠藤寺の背を見ながら、食堂へ向かう。

遠藤寺が廊下の角を曲がり姿が見えなくなった瞬間――俺の背に何か硬い物が押し付けられた。

 

「――そこで止まるのデス」

「ひ、ひぃっ」

 

反射的に立ち止まり、ポケットから財布を取り出そうとする。

 

「動くな、デス。お金はいりません。こちらの言うことを聞く、それだけデス」

「は、はい! 何でも聞きます! だから殺さないで……!」

 

まさか平和な大学の構内で背中に硬い物を押し付けられるとは、誰が思うだろうか。

白昼堂々、小学生女子のスカートを捲りあげる変態が現れる世の中だ、大学に強盗が出ることもあるだろう。

 

「た、助けてぬ~べ~…!」

 

学校だし、一番可能性のある救世主を呼んでみたけど、来なかった。ドラマ出てくるから忙しいもんね。

 

俺は強盗の言う通り、身動き一つとらなかった。

俺は英雄じゃない。テロリストを撃退する妄想はすれども、実際に行動に移す実力を伴ってはいない。

蛮勇犯すは愚か者なり……惨めでもいいからガンガン命乞いをしていのちをだいじに!(今作った格言)

何でもいいから生きて帰りたいよ! 生きて帰ってパインサラダを食べたい!

 

「フフフ……素直な一ノ瀬後輩は好きデスよ」

 

耳元に吐息が伝わる距離で、強盗が囁く。

くっ、一体誰なんだ……この硬い物とは別に押し付けられる柔らかい双山から察するに、相手が女性であることには違いないのだが、しかも相当大きなお山の持ち主。

……あれ? 相手女の子? だったら余裕じゃん。俺って生物学的にはいわゆるメン(男)だし、いくら何でも女の子には負けないし。

 

ククク、俺を捕えたと思って安心している強盗よ――俺の美技に酔いしれるがいいッ!

 

「一ノ瀬流奥義サンダークロス――」

「あ! 動いてはダメと……えいっ」

「な゛の゛です!」

 

相手の防御を無効化しつつ必殺の一撃を放つ奥義を出そうとした瞬間、薄暗い廊下をプラズマ現象の様な光が照らし、俺の全身を稲妻が駆け抜けた。

ビクンビクンと体が痙攣し、その後廊下に倒れる。。

ゆか……つめたくてきもちいい。綺麗だわ……天井。

 

「全く、動いてはダメと言ったのに……仕方がない後輩デス。部室まで運びましょう」

 

うっすらと薄れていく意識と、引きずられていく体。

俺は願った。

どうか後ろの処女だけは勘弁して下さい、と。

 

 

■■■

 

父の遺した宇宙船『縮地号』に乗り、愛犬縮地丸と宇宙を旅するタツミ。

住人の口と肛門が人間とは逆という衝撃的な惑星を発ち、次なる惑星を目指す。

そんな時、旅の途中に発見した『イベントホライゾン号』に残されていたロボット『マーヴィン』が起動、暴走を始めた。

 

「わんわんわーん(パンドラム症候群だわん!)」

 

何とかマーヴィンを取り押さえ、その辺に捨てたタツミ達。

だが、暴走による損害は大きく、近くの惑星に墜落してしまう。

 

「わんわんわん!(助けてヨーダ!)」

 

墜落した惑星には、遺跡が一つあるのみ。

遺跡に書かれている文字は解読できなかった、一つの言葉以外は。

 

その言葉は――『マタタキ』

 

タツミ達は遺跡の奥で眠る1人の少年を見つける。

少年はタツミと同じ容姿をしていた。

 

「わんわん!?(ご主人と同じ顔!?)」

 

タツミが少年に触れた瞬間、光が溢れた。

少年が目を覚ます。

 

「俺の名前はタツ・ミ。――世界を破壊する縮地破壊神マタタキのパイロットだ。お前は……そうか、お前がこの世界の俺か」

 

胎動する遺跡、遺跡はその姿変える、その姿はまるで――破壊の神。

 

 

※※※※

 

 

(一ノ瀬辰巳の脳内)で絶賛連載中の2作品がまさかのコラボレーション!

この世界もマタタキによって破壊されてしまうのか? それとも真の黒幕が現れ何やかんやで二人が手を組むのか!

 

劇場版一ノ瀬辰巳脳内劇場『縮地機械神マタタキVS縮地号~ビューティフル・ドリーマー~』同時上映『大家さん12歳の夏休み』

公開日未定! 公開場所未定! 来場された方には漏れ無く『エリザちゃんとお風呂で一緒ポスター』『肉屋のおっさんと巡る温泉旅行2泊3日券』をプレゼント!

続報を待て!

 

 

 

 

■■■

 

 

「エリザと温泉旅行の方がいいなぁ……」

 

一瞬脳裏に映った肉屋のおっさんお風呂ポスターを焼却処理し、俺は目を覚ました。

 

周囲は闇に覆われており、一切の光がなかった。

体を動かそうにも、椅子に座った状態で縛られているようで、全く身動きが取れなかった。

だが、不思議と不安感はない。それどころかこの闇に心地よささえ感じている。

恐らくは俺が『闇』に属するものだからであろう。闇はに生きてきた俺にとって、暗闇は味方だ。

何より仮に全裸でいても、通報されないというのが素晴らしい。

ここだけの話、裸族(自分の部屋では基本全裸の種族)の俺にとって、全裸こそがもっとも落ち着くスタイル。

エリザが来てから、そのスタイルが貫けなくなったが……これはチャンスじゃないか?

いまがそのときじゃないか?

これを逃したら、もう全裸でいる機会なんて風呂の中くらいじゃないか?

ええい、ままよ! 俺は今、限りなく自分になる!

 

「キャストオフ!」

「目覚めて第一声がそれデスか……相変わらず面白い後輩デスね」

 

闇の中から、滲みだすかのように聞こえる女性の声。

その声は俺の正面――正確には縛られているせいでズボンを半分ほどしか脱げなかった俺の正面から聞こえた。

 

「フフフ……ようこそジプシー、我が神秘のサークルへ」

 

ぼぅ……とロウソクの火が灯り、声の主が見えた。

黒いローブを被り、その顔は目から下しか見えない。

だが俺は知っている。我々はこの女性を知っている!

ていうかこのパティーン5回目くらいなんですよね……。

 

「あのパイセン、スタンガンでビリッとやって拉致るの、マジ勘弁して欲しいんですけど……」

「スタンガンではないデス。『闇ノ雷撃柱』――かつて雷神トールがミョルミルと共に使ったとされる神器デスよ」

 

俺アベンジャーズ見たけど、そんな防犯グッズ出てなかったと思う。

 

「ていうか、マジで命に何らかの別状がありそうなんで……」

「大丈夫デス。これは体には無害デスよ。愛すべき後輩に害する物は使いません」

 

その口調でダイジョウブデースって言われても、全然大丈夫じゃなさそう……。もし何かあっても人生はリセットできないんですよ? サクセスモードも。

 

「つーか普通に呼んで下さいよ。何であんな強盗じみたことするんですか?」

「一応授業が終わってからという配慮はしましたよ。……それに、この格好で明るい場所で話かけるのは少し恥ずかしいのデスよ」

 

もじもじする先輩。

だったら着なきゃいいじゃん! と言っても聞かないんだろうな。キャラだって言われたらそこまでだし。

俺だってマフラー外せって言われても外さないしな。俺の場合外せないんだけど。

 

「で、用はなんですか? 定例会合この間したばっかりですよね。俺腹減ったんで、飯行きたいんですけど」

「おやおや、いつから会合が定期的なものだけだと錯覚していました? 今日は緊急会合デスよ……フフフ。緊急時に突発的に開かれる会合、それが緊急会合デス」

「そんなんあったら、俺安心して大学歩けないんですけど」

 

嫌だ……何で背中を気にしながら日常生活を送らなければいけないんだ……。

仮に俺がモテロード爆走中で、七股修羅場道を流出していたなら、甘んじて受け入れるけどよぉ。

見つからないもん! モテロードないもん! もう人間界にモテロードは存在しないと薄々感じている今日この頃。天国か地獄、はたまた来世に存在しているのでは?と脳内議会ではそんな意見も。この意見が可決され次第、明日への扉~next life~に飛び込む所存です。

 

「まあ安心して下さい。緊急会合はそんなに頻繁にはありませんよ。せいぜいワタシが突然一ノ瀬後輩に会いたくなった時だけデス」

「つまり予測は全くできないってことじゃないですか! ヤダー!」

「……ふむ。分かりました。これからは緊急会合を行う際は、5分前にLINEで知らせるとします」

 

譲歩したったで、と言いたげな先輩。どちらにせよその5分間は地獄なんですけど。

……いや、待てよ。つまり言いかればその5分で先輩が確実に現れるというわけだ。

たまたま! たまたま俺がトイレでお花を摘んでいたら? どうなる? ねえ、どうなっちゃうの? ゼロはこんなこと教えてくれないだろうし、実際にやってみるしかないな!

あくまで知的探求ですけどね。

 

と、俺が知的探求という名のムフフイベントについて思いを馳せていると、俺のお腹からかなり前に流行った女性芸人のギャグの様な音が聞こえた(表現が周りくどい)

 

「……おや、今の音。もしかして一ノ瀬後輩、空腹を感じているのデスか?」

「そりゃそうですよ。もうお昼時ですよ、つーかさっきも言いましよ」

「空腹、デスか。ワタシには無縁なものデス。ワタシは悪魔に魂を売った身、そういった人間的な欲求が非情に希薄で……」

 

『くおえうえーーーるえうおおお』

 

先輩の言葉を遮り、先輩のお腹からそんな音が聞こえた(マジで)

 

「おや、今の音は? 先輩、もしかして……空腹を感じて」

「違います」

「ですが今の音は」

「き、気のせいデス! 幻聴以外のなにものでもないデス!」

「幻聴ですか、でも……」

 

俺はテープレコーダーを取り出し、数秒前録音した音を再生した。

 

『くおえうえーーーるえうおおお』

 

こんな音が再生された(マジで)

 

「や、やめなさい! やめるのデス! いや、その前に何で録音をしているのデスか!? 意味が分からないデス!」

 

そりゃまあ、いつか法廷に出た時の為に……というのは冗談。

ここだけの話、俺はそこまで仲が深くない相手と会って会話をする時、こうやって会話を録音している。

何故かって? そりゃ家に帰って、自分の発言に変なところがなかったかを確認する為だ。

みんなやってるだろ? で、ああこの時こう言えばーってバタバタするじゃん?

 

『くおえうえーーーるえうおおお』

 

「あははは」

「何を笑っているのデスか!? そ、そんなに人のお腹の音がおかしいのデスか!」

 

珍しく先輩が余裕を失っている。こりゃいいな。電撃の仕返しといこう。

 

『くおえうえーーーるえうおおお』

『くおえうえーーーるえうおおお』

『くおえうえーーーるえうおおお』

 

「ちょ、やめっ、連続再生はやめっ……フフッ」

「あれ? 先輩今笑いました?」

「わ、笑ってなどいないデス。ワタシは悪魔との契約により喜びという感情を『くおえうえーーーるえうおおお』ブフッ! や、やめて……!」

 

先輩はローブの袖で口元を隠し俯いているが、体の震えから笑っているのは確定的だ。

ひゃあ! たまねえたまんねえ! もっとだ! もっと倍プッシュだ!

 

『くおえうえーーーるえうおおお』

『くおえうえーーーるえうおおお』

『くおえうえーーーるえうおおお』

 

「や、やめてっ……お、お願いだからやめてっ……何でもするから……っ」

 

ん? 今何でも(ry。じゃあもっと押そうか。

 

『くおえうえーーーるえうおおお』

『くおえうえーーーるえうおおお』

『くおえうえーーーるえうおおお』

『くおくお、うえうえ、くおうえーーーるえうおおおるえう……うおおおおおおおおお!』

 

「ラ、ラップ調っ……にっ、しないで……!」

 

『うおおお! うおおおお! くおおおおお! くるおおおおお! くえるおおおおおおお!』

 

「わ、分かったからっ……もうワタシの負けでいいから……!」

 

よし最後のトドメだ!

 

『くおえうえーーーるえうおおお』

『くおえうえーーーるえうおおお』

『くおえうえーーーるえうおおお』

 

『――たす、け……て』

 

「「!!!?????」」

 

 

 

■■■

 

 

 

捨てた。

 

「さて、何の話だったでしょうか」

 

先輩がしきり直すように、両手を叩き言った。

その目は不自然なほど、部屋に隅にあるゴミ箱を見ていない。俺、今日は神社でお祓いしてもらおーっと。

 

「お腹が空いたって話ですよ。もう1時っすよ。先輩も空いたでしょ?」

「……ワタシはほら、悪魔の契約で……感情がアレで」

「この間の飲み会でカマコロ(カマンベールコロッケ)8つも食べてたじゃないっすか。その後ラーメンも」

「あ、あれは違います。悪魔との契約によって、定期的に食物を多量に摂取しなければならない時期があって、たまたまあの日がそれに該当したのデスよ」

 

この人の設定、かなりガバガバなんだよなぁ。そこがいいんだけど。

 

「俺弁当あるんで、食べていいですか?」

「ええ、構いませんよ」

「じゃ、縄解いて下さい」

 

実はまだ縛られていたりする。

縛り方が上手いのか、縄がいいのか分からないが痛みは全くないが。

……まさか、あのローブの下……いやいや、まさか、そんな……まさか、ね

だが可能性は否定できないので、寝る前行われる今日の一ノ瀬脳内議会の議案にあげておこう。

今日の議案はこれと『はたして大家さんは処理をしているのか』か……。主に『している。している所を目撃してしまい、涙目にしたい』『してない。というかそもそも生えてないし、生える予定もない。そのことを言及して涙目にしたい』の意見が対立しそうだが……ここで俺もひとつ『処理は処理でもあっちの処理は?』という燃料を投入して、議会を荒らすか……。フフフ、今日の議会が楽しみ。

 

さて、腹の虫も無視できなくなってきたし、さっさと縄を毟りとってもらうか、このままじゃ蒸し焼きになってムスっとした表情を浮かべてしまうぜ(少し苦しいけど5コンボ達成!)

 

「それは無理デスね」

「は?」

「解いたら逃げるでしょう?」

「はい!」

「フフフ、素直デスね」

 

だってこの部屋辛気臭過ぎるもの! 先輩とこそこそ駄弁る時はいいけど、飯くらい日の当たるところで食わせてくれや!

 

「だったら、どうやって食べろと? ま、まさか犬のように……?」

「いえ、流石にそこまで外道なことが言わないデスよ……」

「だったら、ハイエナのように……?」

「一ノ瀬後輩? 大丈夫ですか? な、何か悪い物でも食べたのデスか?」

 

おっとイカンイカン、先輩がちょっとヒいているぞ。

美少女に命令されてそういうことをするって願望もあるにはあるけど、俺の中でかなりレベルが高い欲望だ。まだお前が出てくるのは早い。いずれ、な。

 

「ふむ。ではそうデスね……。この間の約束を果たす、というのはどうでしょう?」

「この間?」

「前回の会合、一ノ瀬後輩が幹事をしたあの時の約束デスよ」

「や、約束?」

 

首をかしげる俺。

先輩はローブから見える顔の部位をうっすらと赤く染めた。

 

「あ、あの時後輩は嫌がるワタシに無理やり口を開かせ、ワタシの口にたこわさをねじ込みました……まさか忘れたとは言わないデスよね?」

 

無理やり口にたこわさ? なにそれ? え、何かの隠語? たこイコールが成立する隠語ってなーんだ?

いやいやいや、待て待て待て。

思いだそう……記憶分野ちゃん頑張って!

擬人化した記憶分野ちゃんがグッと親指を立てた。

おっ。もう見つかった? なに? アルコールによって映像データが破損している? 音声だけ? 

まあいいわ。よし再生。

 

『ほら、先輩っ、たこも食べなきゃ! わさわさ食べなきゃいかんでしょうが!』

『一ノ瀬後輩……ちょ、ちょっと近いデスよ』

『何が近いんですか! 駅までですか!?』

『うーん、まさか一ノ瀬後輩にこんな積極的な一面があったとは……普段間に感じている壁が嘘のようデスね……フフ。……ちょ、ちょっと一ノ瀬後輩、それはワタシの箸で、ちょっと……ちょっと待って』

『ほら口開けて下さいよ! できるできる! 先輩ならできる! お米食べろよっ!』

『いや、それたこわさ……恥ずかしいデス……は、恥ずかしいってば、もうっ、仕方ないなぁ……』

 

音声が飛びます。

 

『先輩どうですか? おいしいですか?』

『……はい、デス。じゃあそろそろ箸を……』

『追撃のセカンドブリット!』

『……デス。もぐもぐ……そ、そうデス! 交代! 交代しましょう! 次はワタシの番デス!』

『ずっと俺のターン!』

『……むむぅ。わ、分かった、分かったてば。その代わり! 次! 次の会合の時はワタシがするからね! いい?』

『や、優しくしてくれるなら……』

『じゃあ決まりね! ……ふふっ、楽しみ』

 

音声再生を終了します(リピートします?)

しない。

 

え? 誰コレ? 誰コレって誰と誰? え、もしかしてこの男俺?

え、全く覚えてないって言うか……いつも遠藤寺と飲み会行っても途中で記憶飛んでたけど……。

え? 俺こんなんなの? 酒飲んだらこんなのなの? 教えてハニー!

いや、落ち着け。

それよりも相手はデス子先輩か? デスデス言ってるからそうだと思うけど……本当に?

 

マズイ、これ以上考えると闇の飲まれそうだ。帰ってゆっくり考えることにしよう!

 

「じゃ、おつかれーっす」

「どこに行こうと言うのデスか? さて、これが一ノ瀬後輩のお弁当デスね」

「ああっ、いつの間に!」

 

テキパキと目の前のテーブルに弁当が広げられる。

うわぁ、エリザのお弁当おいしそーう。桜でんぶのハートマークだー。

ハートの中心にYESって書いてあるけど、何がYESなのか意味が分からん……。辰巳君の食べっぷり、イエスだね!ってこと?

 

「……一ノ瀬後輩、確か一人暮らしだったと思うのデスが」

 

いつの間にかすぐ横に椅子を移動して座っていた先輩が言った。

その声は、不安と警戒心が混ざったような問いかけるような声色だった。

 

「はい、1人暮らしですけど」

「デスよね。……もしかしてデスけど、多分ありえないとは思うのデスけど……一ノ瀬後輩には付き合っている女性がいたり……するの?」

「いや、最近めっきりごぶさたで……」

「……付き合っている、おと――」

「それ以上はいけない!」

 

何がいけないって、色々いけない。

それが疑われた時点で真実じゃなくても、俺はとてもショックを受けてしまう。

具体的に言うと、今年いっぱいは大学に来れないほどに。

家でイカちゃんを愛でながらエリザを眺めて『利根ちゃん可愛すぎて足の間をくぐり抜けたい艦隊』でランキングトップに君臨する未来が見える……!

それもそれで……。

 

「付き合ってる男女、動物、無機物はいません! 妄想の中で上○彩と付き合ったことがあるだけです(しかもピュアな付き合い)」

「そっか。……ん? つまりこれは一ノ瀬後輩が作ったもので……あっ」

 

何か凄まじい誤解をされた気がするが、男と付き合っていると思われるよりマシだ。

 

「……可哀想な一ノ瀬後輩。せめてワタシが食べさせてあげることが、慰めになるでしょう……」

「え、何か同情されてる?」

「はい、口開けて……あーん」

「あ、はい」

 

この後めちゃくちゃあーんされた。

 

 

■■■

 

 

 

「……ふむ、今日の会合はここまでにしましょうか」

 

いつも通りテーブルを挟んだ正面に座り、組んだ手に顎を乗せながら言う先輩。

その表情が暗闇ながら、何かをやり遂げた満足感に満ちていた。

対する俺は先輩の手が尋常じゃなく震えていた為にできた口内の傷で、口の中がカーニバルだよ!

まあ美少女の先輩にあーんしてもらったんだ。これで満足するしかねぇ!

 

しかし、会合って飯食っただけじゃねーか!

その為に俺先輩のサンダー(物理)食らったわけ?

 

「フフフ……」

 

しかし先輩を糾弾することはできない。だってあんなに満足そうなんだもの。

 

「では……」

 

先輩がパチンと指を鳴らした。

俺を縛っていた縄がスルリと落ちる。

 

「いや、ナンスカ今の?」

「フフ、闇の力のちょっとした応用、デスよ」

 

ドヤと言いたげな口元。是非ともその技、教えていただきたい。俺、その技で戦った相手の女の子の服だけを細切れにするんだ……え? ただし真っ二つ?

 

「じゃ、俺授業あるんで」

「はいはい。しっかり学び、単位を落とすことのないように。試験前には顔を出さなくてもいいデスが、1度は来るのデスよ」

「えっと、何でですか?」

「過去問を渡す為デスが……何か?」

 

その時、初めて先輩が先輩だったことを思い出した。

何を言っているか分からないと思うが、フィーリングで分かって頂きたい。

 

俺は立ち上がり、扉へ向かった。

扉を開ける寸前、先輩が言った。

 

「おっと、一応言っておきますが、今日の集合時間は18時デスよ」

「集合? えっと……え?」

「会合、デスよ。前にも言ったはずデスよ。昼の会合があった日には夜の会合……あなたの言葉で言うなら『飲み会』、があると」

「いや、聞きましたけど……今日のって緊急会合、ってやつですよね?」

「緊急だろうがなんだろうが会合は会合デス。先輩命令デス、分かりましたね?」

「はぁ……」

 

先輩命令なら仕方ないか。それに先輩と飲むの楽しいしな。

ただ、ちょっと飲む量を考えた方がいいかもしれない。

今まで飲むだけ飲んで酒の酔いに流されていたけど……記憶が無くなるのってよく考えたらヤバイんじゃないか?

少し自重しよう。遠藤寺と飲みに行く時もな。

でも遠藤寺めちゃくちゃ飲ませて来るんだよなぁ……しかも何かを期待するみたいな表情で。

 

酒は飲んでも飲まれるな。闇の力にも呑まれるな。時代という名の激流に飲み込まれ、僕たちは生きていく。飲み込まれた後に待ち受けるのは希望かそれとも(今日のポエム)

 

しかし何か忘れているような……。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ここは……一体?(ここは死んでいった縮地が向かう場所――縮地墓場だ、コーホー)

大学受験に合格した。

入学案内やらでパンパンに膨らんだ封筒を手にそう報告した俺に、リビングで新聞を読んでいた母親はこう返した。

 

「へぇ、そりゃおめでとう。じゃあ1週間……は短いか。2週間以内に住むとこ見つけて出て行け。ん? 言わなかったっけか? ウチの爺さんの遺言でな、子供は高校卒業までは面倒見ろ、その後は独り立ちさせろってのがあってな、まあそういうこと」

 

 と。

 まあ、いくらなんでも実際には追い出されないだろうし、受験勉強終わって少しくらいのんびりしたかったし、見たかったアニメ溜まりまくってたしで、2週間だらだらしてたら……2週間後――

 

「じゃあ元気でやれよ。荷物はアレだ、後で送ってやる。そんくらいの金は出してやるよ」

 

 と言いながら、マジで家から放り出された。

 ポーンと、玄関から放り出された。

 

「えぇ……」

 

 そんなこんなで俺は着の身着のままで、家から出ることになってしまった。

  所持金は貯金箱に入っていた1万円のみ。

 

「嘘……俺の貯金、少なすぎ」

 

 銀行に口座も作っていなかったので、これは俺の全財産だ。

 だが仕方がない。

 俺は学生をやっている傍ら、やれプロデューサー、やれ提督、やれ狩人、やれ神殺し(ゴッドイーター)、じゃぶじゃぶ課金したくなるような射幸心を煽りまくられる団長、やれ、やれ、やれやれだぜ……とまあ、色んな職業を兼任してたので、金がないのだ。最近になって親方も始めたしな。

 お仕事してるのにお金がないことの矛盾について、指摘があるとは思いますが、そこはまあ……な。

 

 あと純粋にアニメのDVDとかフィギュアとか買ってるからね、ちかたないね。ガン〇ソードのボックス買っちゃったからね。

 

「しかし、一人暮らしかー」

 

 全く考えていなかった、と言うと嘘になる。

 そういう選択肢も考えてはいたが、実家の快適性や大学までの距離、自信の家事スキルの無さを考慮し、実家から大学に通うつもりだった。

 もし突然家事やら何やらをやってくれる可愛い女の子が空から降ってきたら、もちろん1人暮らし確定だったのだが。ついぞ空から美少女が降ってくることはなかった。地面の下からも出てこなかったし、宇宙から侵略しても来なかった。自称魔法少女のレインボーゆりかも現れなかった。ザンタ〇ロスを探しに来たリ〇ルとも遭遇することはなかった。

 

「遂に来るべき日が来たか……」

 

 とうとう俺に巣立ちに日が来たというわけだ。

 まあ、こうなったら仕方がない。

 この1万円で住むところを見つけるとしよう。

 大丈夫、1万円もあるんだ、何とかなるだろう。

 

 俺は1万円冊をポケットに入れ、とりあえず大学から近い方がいいという考えのもと、大学がある駅へ向かった。

 

 

■■■

 

 

 見つかりませんでした。

 

「……やべぇよ」

 

 じわじわと冷や汗が流れ、背中がびしょびしょになる。

 正直甘かったと言わざるを得ない。

 1万円あれば、1人暮らしとか余裕だと思ってあの頃の俺(具体的には3時間前)をはっ倒したい。

 

 駅近くの不動産屋を尋ねたが、費用1万円から住める家なんてなかった。曰く、1万円で住める家賃のアパートなんてない。敷金礼金って知ってる? 社会舐めてる? 大人しくママの脛でもペロペロしときな! とのことだ。

 口が悪い店員に「うっせ! ペロペロできるもんならしてるわ!」と負け犬の遠吠えをしつつ、他の不動産を巡ってみたが、どこも大体そんな感じだった。

 

「1万円って……安いんだなぁ」

 

 子供の頃、1万円があれば何でもできると思ってた。

 だが、実際はこれだ。先ほどまであれほど力強く感じていた1万円札が頼りなく見えてしまう。

 まるで敵の時は強かったのに、味方になったら明らかに低スペックになったキャラのような……(○リー、てめぇのことだよ)

 

「ぐぬぅ……」

 

 家に帰ることはできない。だがこのままでは下手すれば公園一夜を明かすことになるかもしれない。

 すぐそばの電柱に寄りかかりながら、最悪のパティーンを脳裏に描いていると、侵略したくなっちゃう軽快なBGMと共に携帯電話が震えた。

 携帯を取り出す、妹ちゃんからのメールだった。

 

『お元気ですか兄さん。変態行為、具体的にはその辺りの小学生のスカートを捲るなどの行為をして、警察のお世話になっていませんか?』

 

「なっていませんよ」

 

 うーん、妹のこの……。

 雪菜ちゃんの平常運転っぷりときたら……こんな調子で学校でうまくやっていけてるのかな?

 

『住む家は見つかりましたか? 私の予想では今頃、たった1万円で住む家なんて見つからないということを知り、ショックのあまり電柱に寄りかかっていることだと思います』

 

 監視されてるのかな?

 俺の現在のポーズどころか、預金残高まで把握している雪菜ちゃん。だが、いつものことだ。

 

 『雪菜ちゃんは何でも知ってるなぁ』と言うと『ええ、何でも知ってますよ。兄さんがいつ糖尿病になるかも教えましょうか?』と冗談交じりに答えちゃうのがウチの妹(もしかしたら冗談じゃなく、マジだったかもしれない)

 

 俺とは違い、何でも完璧かつそれ以上にこなしてしまう。雪菜ちゃんはそんなパーフェクト妹だ。そんな妹に劣等感を感じることはなかった。そのあまりな完璧振りに嫉妬すら覚えなかったからだ。 あと俺とおなじ種族とは思えないほど超可愛いし。胸は小さいけど。

 ちなみに現在イギリスの留学中。帰ってくるのは来月だ。帰ってきたらデースをつけるイギリス系女子にキャラ変していないかちょっと不安。

 

『1つ世の中を知って絶望している兄さん。言っておきますが、兄さんが思っている3倍は世の中厳しいですよ』

 

 まず妹のメールが厳しい。

 住むとこなくて絶望しているのに、更に追い打ちかけてくるとか……。

 だが、俺は知っている。雪菜ちゃんが鞭をビシバシ叩きつけた後は、あんま~い飴が待っているということを……!

 

『生きる希望を失い、公園のブランコに頭を打ち付け自殺されでもしたらかないません』

 

 そんなアグレッシブな自殺はしない……。

 俺死ぬ時は、ヒロインを庇って敵の刃に貫かれるって決めてるし(その後の覚醒込み)

 

『いくらかお金を都合しましょう』

 

 いやっほーう! 予想通り!

 

 妹に頼って情けない、プライドあるの?――だって?

 そんなもの俺にはないよ……。

プ ライドとかいう不定形なものに縛られるなんてまっぴらごめん! 縛られるなら美少女(表の顔は清楚な生徒会長。だが裏の顔は昼に溜まった鬱憤を解消する為に、スクール水着と蝶の仮面を付け変身! 夜な夜な好みの男達を縛っては調教する危ノーマル系女子)にお願いしたい。

 

『ですが、条件があります』

 

 まあ、そうなるな。

 いくら雪菜ちゃんでも、ノーリターンで俺を助けてくれるとは思えない。しかも恐らく母親から、俺の手助けをしないように言われているはず。そのリスクを背負って俺を助けてくれるんだ。

 俺もそれに答えなくちゃ、男がすたるってもんだ。

 

 大概のことなら聞こう。

 パシリにもなるし、肩だって揉むし、最近告白されるのが面倒くさいから彼氏のフリしてって言われたらやるし、プロレス技の実験台になってと言われたら是非お願いしたい。

 

「さてさて、鬼が出るか蛇が出るか……」

 

 携帯が震え、雪菜ちゃんが言う条件が提示された。

 

『今後の人生、永遠に私の言うことに従い、ありとあらゆる面において私の手となり足となり働くこと』

 

 ……うん。

 それってつまりアレだよな。犬になれってことだよね。

 

『簡単に言えば、永久に私の犬になってもらいます』

 

 あ、やっぱりそうなんだ。

 兄を犬にしたい妹、うーん……もしかしたらと思ってたけど……ウチの妹ちょっとおかしい。

 前兆というかそういう伏線も今までの人生であったけども、信じたくはなかった。

 ちょっと変わってるだけで、可愛い妹だって信じていたかった。

 

『さあ、兄さん。どうします? 兄さんも知ってると思いますが、私、自分のモノは大切にする性分ですよ。……自分のモノは、ね』

 

 つまりアレでしょ? 言ってしまえば私のモノになれば、世界を見せてやる的な覇者的表明でしょ?

 そういうの勘弁! 俺人の下に付くのって死ぬほど嫌いだし、さっきも言ったけど縛られるのも遠慮願いたい!

 雪菜ちゃんの胸がもうちょっと大きかったら、揺れてた(俺の心がね)かもしれないけど……。

 

『兄さん。私のモノになりますか? なりませんか?』

 

 なりますに丸付けても、この場合可愛いお人形さんハーレムじゃなくて妹のワンワンライフが待ってるからなぁ。

 

「……はぁ」

 

 雪菜ちゃんにお断りメールを送りつつ、ため息を吐いた。

 雪菜ちゃんから金を引っ張ってくるルートも潰れたし、どうしようか。

 

 とりあえず今日は友だちの家に泊めて……と考えたら友達がいないことに気づいて吐きそうになった。

 

「おぇぇぇ」

 

 さっきよりも深く電柱により掛かる。

女 子高生がこちらを見てスマホをパシャパシャしているが構わない。

 勝手にツイートでも何でもすればいいよ。炎上した暁には、炎上のショックで落ち込んでいる君を慰めに行くから覚悟しとけよ!

 

「……ん?」

 

 ほぼ電柱に抱きつく形になっていた俺の視界に、1枚にチラシが入ってきた。

 

「んんん?」

 

『家賃ぽっきり1万円! お風呂は共有で部屋にトイレ付き! 今なら可愛い大家さんも付いてくる! 場所はこちら! よろしくメカドッグ!』

 

 一瞬、『付いてる大家さん』に見えて、何が付いてるんだろうとかアストルフォちゃん的な男の娘的思考に走ってしまったが、慌てて引き戻す。

 1万円……1万円ちょうど!

 なんてご都合主義的展開! 渡りに船! 千客万来! 因果応報! 痴漢冤罪!

 

「これが運命の選択か……」

 

 チラシを手に取り不敵に笑い、その場を去る。

 目指すはチラシのアパート。家賃1万円のアパート。

 こりゃ乗るしかねえな! このビッグウェーブに!

 

 

■■■

 

 

 チラシを頼りに歩き、そのアパートに到着した。

 門にはアパートの名前である『一二三荘』と書かれた大きな表札があった。

 門からアパートまでのスペース(庭と言っていいのか)がかなり広く、池や何故かブランコまでありどこか学校のような印象を受けた。

 肝心の建物は1階建てであり、外観的に年季を感じさせる老朽化は見られるものの、しっかりと掃除が行き届いた好感の持てる建物だった。

 

 門を抜け広めの庭へ。

 まずは大家さんに会って、例の部屋について聞かなければならない。

 

 ちなみに美少女という部分には期待していない。

 今まで自称美少女の人間を見て美人と感じたことなんてないし。大体『美少女制服女子衝撃のデビュー』とか言っておきながら、合ってるのは『衝撃』って部分だけだったりな。パッケージで「お、いいね」って思って買っても、中身がブタゴリラそっくりの女が出演してたりな。

 はい、エッチなビデオの話ですけど、なにか?

 

「さて、自称美少女の大家さんはどこかね」

 

 ぐるりと庭を見渡す。庭にいなかったら部屋にでもいるのか……と思っていると、庭の隅、日当たりのいい場所にベンチがあるのを見つけた。

 そしてそのベンチに横たわる人影。

 近づいてみる。

 

 輪郭がはっきりする距離まで近づくと、その人影が和服割烹着を着た少女であることが分かった。

 少女は合わせた両手を頬に当て、体を丸め寝息を立てている。ベンチには先ほどまで役割を果たしていたであろう箒が、立てかけられていた。

 

「すぅー……すぅー……」

 

 少女の顔から目が離せなかった。

 幼いながらも整った顔立ち。閉じられた瞳、小さな鼻、果実を連想させる柔らかく瑞々しい唇。

 日差しのせいか汗を吸った黒髪が、紅潮した頬に斜線を描くようにかかっていた。

 

「……」

 

 見惚れていた。小さな雷に打たれたかのような衝撃が、体の中をざくざくと走る。心臓が脈打つのを感じる。

 触れてはいけない、そう思った。

 この光景はこのまま、永遠にここにあって欲しいと思った。

汚されてほしくない、このまま時間が止まって欲しい、心の底からそう思った。

 今この瞬間の為に俺の人生はあった、そんな馬鹿げたことを思ってしまい、しかしそれを肯定したいと思った。

 彼女を守る為ならば世界中の人間に敵対してもいい、そう思った。

 

「……えへへ……お饅頭がいっぱい……こわーい……くぅ……」

 

 色々と表現してはみたものの、ざっくり言うと――ずっきゅんハートでめろめろきゅん! ……大丈夫か俺?

 

 いや、実際こんなに可愛い存在を見たのは生まれて初めてだ。

とうとう二次元からの侵略が始まったかと思った(ちなみに脳内議会で無条件克服賛成が全会一致で確定した)

 

「この子が大家さんか? まさか、そんな……いやいやいや……」

 

 そんな美少女大家みたいな都市伝説が存在するわけ……漫画じゃあるまいし……。あんたもそう思うだろ?

 

「……んん。くぁー……ふぁ」

 

 少女がぴくりと体を震わせ、丸めた体をぐっと伸ばした。

目を覚ましたらしい。

 

「……っと。んー、お日様が気持ちよくてつい寝ちゃいました。……あ、汗かいちゃってます。今何時かな?」

 

「2時です」

 

「うわっ。30分くらい寝ちゃってましたかー、いかんいかん。……まだ眠たいですねぇ……ふわぁ」

 

 ベンチに腰掛け、眠気を払う為か、顔をふるふると振る少女。汗が飛沫のように飛び散り、俺の顔にかかった。やったぜ。

 

 割烹着からハンカチを取り出し額の汗を拭う、そして目の前の俺に気づいた。

 少女の睡魔を払いきれていない瞳と俺の瞳がぶつかる。

 

 ぼんやりとした目と同じように、開ききっていない口が言葉を紡いた。

 

「……ジャイス?」

 

 首を傾げながら紡がれた意味不明な言葉。

 ジャ、何? ジャ……ジャスコ? ハハハ、まさかな。ジャスコはもう死んだんだ……いくら呼んでも帰ってこない。もうジャスコは消えて、俺達もイオンと向き合うべきなんだ。

 

「ジャイス……はれ? これ夢……かぁ。ジャイスが現実にいるわけないですよねぇ……そろそろ起きようっと」

 

 少女がぼーっとした、夢を見ているかのような虚ろな表情で俺を顔を見つめる。

 あまり人に注目されるが苦手な俺は、顔を背けながら言った。

 

「あ、あのすいません。俺このアパートに用があって……」

 

「……へっ!? あ、ああ、はいっ。あ……これ現実ですかっ、びっくりしました! す、すいませんっ、えっとえっと……」

 

 完全に覚醒したのか、目を大きく開きバタバタと手を忙しなく動かす。

 

「大家さんに会いたいんですけど」

 

 俺はこの言葉に一縷の希望をかけた。ロリ大家さんが存在するという小さな、本当に小さな希望に――

 

「えっ? 大家ですか? えっと……私が、その……このアパートの大家さんだったりします」

 

 ぱんぱかぱーん!! 辰巳くん大勝利! ロリ大家さんは実在したんだ! こんなに嬉しいことはない! マジで!

 

「あ、そうなんですか。ちょっと大家さんにお話がありまして」

 

 心の中で行われている狂喜乱舞のカーニバルを悟られぬよう、努めて冷静に、若干棒読み気味に話を進める。

 

「あ、もしかして入居希望の方ですか?」

 

「そうです」

 

「あー、すいません。今お部屋の方が満室で……本当にごめんなさい。わざわざ訪ねてきたのに。あっ、お茶だけでもどうですか?」

 

 謝罪の後、花が咲いたような弾ける笑顔を浮かべる大家さん。

 俺はチラシを取り出した。

 

「で、でもこのチラシで募集を……」

 

「……あ」

 

 大家さんの顔に、先ほどとは拭ったはずの汗が浮かんだ。

 笑顔が固まる。

 

「……そ、そのチラシどこで?」

 

「駅近くの電柱でですけど、なにか?」

 

「い、いえいえ! ……全部剥がしたと思ったのに……ど、どうしましょう」

「部屋いっぱいなんですか?

「い、いや本当は1部屋だけ……そのチラシの部屋は空いてるんですけど……でも」

 

 でも、なんだろうか?

『 でも……あなたみたいな人はちょっと、生理的に……』ってこと? そんなこと言われた日には俺、この場で何らかの手段を以って焼身自殺しますよ?(何らかの手段→吸血鬼に覚醒)

 それが嫌ならさっさと部屋を見せてくださいよ!

 

 俺の熱意が伝わったのか、相変わらず汗を止めどなく流す大家さんは「……じゃあ、部屋行きましょうか」と諦めたように言った。

 

■■■

 

 扉を開けて家賃1万円の部屋の中に。

 正直、1万円の部屋だから多少の汚さや劣化は覚悟していた。

 だが実際

 

「ここ本当に1万円なんですか?」

 

「はい、そうです……よね?」

 

「何で俺に聞くんですか? めっちゃいい部屋じゃないですか! 綺麗だし、古さも感じないし」

 

 室内は埃一つ落ちておらず、窓ガラスもピカピカだ。

 俺の部屋とは大違い。

 

「綺麗ですか。えっと、一応私が毎日掃除しているので……あはは」

 

「そうなんですか。掃除上手なんですね、本当に汚れ全然ないし」

 

「そ、そうですか? え、えへへっ。お掃除が趣味なんですよ! 綺麗になると凄く気持ちよくてっ」

 

 俺の言葉に照れ笑いを浮かべ、楽しそうに体を揺らす大家さん。

 うーん、行動があざと可愛い。こりゃあざとさを司る神アザトゥースに愛されてるに違いない。

 

 部屋を見渡すとタンスやテレビ、エアコンが目に入った。

 

「あの、この家具って」

 

「前の入居者さん達が逃げ……けふんけふんっ。退去した時に置いていった物ですよー。まだ新しいし、バリバリ動きますよ」

 

「もし、入居したらこれって……」

 

「使って下さいっ。……あ、いや、もし入居するなら、ですけど……あはは」

 

 家具付きでこの広さ(六畳)で押入れもあって美少女大家さんも付いて1万円……。

 住んじゃゃうぅぅぅぅ! らめぇぇぇ! こんな好条件な部屋、辰巳住むって言っちゃうのぉぉぉぉぉ!

 

 というわけで言った。

 

「住みます」

 

「えっ」

 

「1万円ですよね。現金でいいですか? ていうか今日から住んでもいいですか? ……あ、もしかして敷金とかそういうのって……」

 

「い、いえいえ! 丁度1万円ですよ! ……え、住むんですか? も、もうちょっと考えた方が……。あの学生さんですよね? 親御さんと相談して――」

 

「――帰る家、ないですから」

 

 俺は窓の外を見ながら、何らかの過去を感じさせる表情で呟いた。

ここで『あははっ、全然似合ってないですよー』とウケを狙う寸法ですよ。

 

 が、大家さん予想外のリアクション……!

 「はわぁ……」とため息を吐きながら頬を染めて言った。

 

「……か、かっこいい」

 

「え?」

 

「あ、いやいや! 何でもないですよジャイス!?」

 

「いや、辰巳なんですけど。一ノ瀬辰巳です」

 

 コロコロと表情を変わる人だ。見ていて面白い。

 それはそうとして、何としてでもこの部屋を借りたい。是が非でも。

 

「お願いします! どうしてもこの部屋に住みたいんです!」

 

「で、でも……他にも探した方が」

 

「いや、この部屋以外目に入りませんよ!」

 

 よし、ここで一気に攻める!

 俺の中に眠る褒め殺しの才能よ! 今だけでいい! 目覚めてくれ!  持ってくれよオラの体っ!

 

「このアパート一目見た時から気に入りました! 名前もセンスありますよね!」

 

「あ、ありがとうございますっ。ここ私のお祖母ちゃんから引き継いだんですよー。子供の頃からずっとここで大家さんがしたくて、夢が叶って毎日楽しくてしょうがないんですよー!」

 

「何ていうか、いいですよね! 昔の情緒を感じさせるというか……周りが新しい家ばっかりの中、心から安らげるというか」

 

「ですよねー! 一ノ瀬さん分かってる人だー」

 

 ぎゅっと手を握ってくる大家さん。

 手に伝わる柔らかさと暖かさが心地よく、俺の脳髄を麻痺させる……。

 イ、イカン! ここで駄目になっては駄目だ! 応援してくれイカちゃん! 伊東○イフの同人誌みたいに!

 

「庭にブランコとかいい感じです!」

 

「子供の頃、アレで遊んだんですよー。い、今でもたまに遊んだり……」

「池もいいですね! 明らかに浮いて……いや、個性的な感じで!」

 

「あの池、私が大家さんになってから作ったんですよー。えへへっ、そんなに褒めてくれて作った甲斐がありますっ」

 

 ちなみに俺は嘘を吐いておらず、心の底から思ったことを伝えているぞ。

俺は勢いよく頭を下げた。

 

「お願いです。俺この部屋に住みたいんですっ。大家さん、俺……この部屋に住みたいです!」

 

「そ、そこまで言われたら……もー、住んでください! こんなにこのアパートを気に入ってくれた人は初めてです! むしろこっちからお願いします!」

 

「やった! 流石美少女大家さん!」

 

「そ、そんな美少女なんて……照れるじゃないですかーっ。もーもー! よーし、特別ですよっ。この部屋の家賃半分の5千円にしちゃいますぅ!」

 

「それはいけない」

 

 俺は慌てて止めに入った。

 何だかよく分からないが、5千円はまずいと思う。いや、安くなる分にはいいんだけど……でもアカン。

 何ていうか、根本的に駄目というか、宇宙の法則が乱れるというか……何言ってんだろ俺。

 

 とにかく俺はこの部屋に1万円で住むことになった。

諸々の手続きをする前、大家さんが

 

「あの、一ノ瀬さん。この部屋に入ってから、こう、なんていうか……何か感じたりしましたか?」

 

「え? いや、いい部屋だなぁとは思いましたけど」

 

「そ、そういうことじゃなくて。えっと……寒気とか? あと視線を感じるとか?」

 

「いや、そういうのは全く」

 

「全く、ですか? ちっとも? ぜーんぜん?」

 

 一体大家さんは何が言いたいのか。その言い方だとまるでこの部屋に何かあるみたいじゃないか。

 

「あの、この部屋って何かあるんですか?」

 

「ひゃいっ!? な、なんか!? な、なななんかって何ですか!?」

 

「いや、それを聞いてるんですけど」

 

 露骨に目を泳がせる大家さん。

 

「……た、例えばですけど。例えば! 一ノ瀬さん、この部屋にその……幽霊、が出るとしたら……どうします?」

 

「幽霊?」

 

「は、はい」

 

 幽霊ってアレだよな。血まみれで内蔵とかボロってはみ出してて、テレビから出てきて脱出不可能なデスゲームを仕掛けてくるチェーンソー持ったヤツ?

 俺あんまそっちには詳しくないから、よく分かんないけど、そんなんが部屋に出たら……

 

「当然出ていきますけど」

 

「で、ですよねぇ」

 

「火放って」

 

「洋館物のラスト!?」

 

 俺の言葉を聞いた大家さん、目を閉じ「む、むむむ……」と唸り始めた。

 何か迷っているような、そんな様子。

 

そ して大家さんはカッと目を開いた。その目は決意に満ちていた。

 

「こ、この部屋には……何も……何もありません!」

 

「そ、そうですか」

 

「はい、大丈夫です! ……だ、大丈夫ですよね? 全く何も感じないなら……うん」

 

 無理やり納得するかのように頷く大家さん。

 

 手続きを済ました後、最後の掃除があるから2時間ほど時間を潰してきて欲しいと言われた俺は、大人しくそれに従った。

 部屋を出る前に、改めて部屋の中を見渡す。

今日からここで住む、そう考えると少しの不安とそれ以上にワクワクする。

 初めて親元から離れて生活する。

 

 少し大人になった気がした。

 

 

■■■

 

 

 あの日から数ヶ月、大家さんが隠したがっていた秘密は

 

「ふんふんふん、お料理するよー♪ じょ、お、ずに、にゃにゃにゃにゃにゃー」

 

 今、目の前で楽しそうに料理をしている。

 最初、幽霊と同居することになって、どうなるか少しは不安を感じていたが、今はすっかり慣れてしまった。

 俺が想像していたひとり暮らしとは随分違うけど、まあそれなりに……いや、かなり楽しくやってる。

 多分俺思うよりずっと、エリザの存在は精神的に脆い俺を支えていてくれている。

 

 家賃1万円で可愛い幽霊が憑いてくる生活。

 できるなら、ずっと続いて欲しい。叶わない願いかもしれないけれど。

 

 ――家賃1万円風呂共有トイレ付き駅まで縮地2回。

 

 俺は今日も、そしてこれからもこの部屋で日々を過ごしていく。

 

 

 

 

 

 

 何だか終わりっぽいけど、まだまだ続くんじゃよ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

未定

とある何でもない日の夕方。

 

「エリザさ、風呂っていつ入ってんの?」

 

 俺の口から漏れた何気ない一言。本当に何気ない、何の意識もしていない言葉だった。

 普通の人間なら、いきなりそんなこと言われたら『え、なんだって?』とか『ぷんすこっ』とか『お、それ聞いちゃう系? カァーつれーわ!』なんて反応をするだろう。

 だが、どうやら幽霊の彼女はヒトではない(分かりにくいパロディ)。エリザは俺の予想外のリアクションをとった。

 

「え?」

 

 先ほどまでふわふわと宙に浮いて機嫌良く縫い物をしていたエリザが、俺の些細な一言を聞いて……ポトリと床に落ちたのだ。さながら蚊取り線香に捉えられた蚊の如く、床にぺしゃりと落ちたのだ。

 この場合に落ちるは重力に引かれて落下するという意味の落ちるであり、女騎士の『堕ちる』ではない。だが堕ちたエリザ『ダークエリザ』はいつか見てみたい。心優しいエリザが闇堕ちしたことによって、俺をどんな目で見てくるのだろうか、俺気になります!

 

(あ、やべ。まずいこと言っちゃった?)

 

 尋常じゃないそのリアクションを見て、俺は今更後悔した。

 床に落下したエリザは、ゆっくりと体を起こし、ゆっくりと四つん這いのまま俺の方を向いた。そしてシャカシャカと素早い動きで四つん這いのまま俺に迫ってきた。

 

「うおっ」

 

「な、何で!? なんでどうして!?」

 

 獲物に追い詰められたリスのような、今にも泣き出しそうな……っていうか実際目の端に涙を浮かべたエリザは、あぐらをかいている俺を真正面から見つめてきた。

 

「ねえ辰巳くんっ? も、もしかして、もしかして……わ、わたし臭いの!? に、臭っちゃってるの!?」

 

 その言葉を吐いたエリザは、それはもう混乱していて、パニックを起こした子供のようだったよ……(孫に語り掛ける風に)

 それはそうと、実際エリザが臭いかどうかは後に置いておいて、エリザのような美少女が臭いっていうのは、かなり興奮する要素であると思う。

これに関しては否定派もいるだろうけど、俺は肯定派だ。美少女が臭い、いわゆるギャップだ。人はギャップに惹かれる。

会社では冗談の一つも言わない糞真面目な女上司が夜はSMのキングだったり、男と遊びまくりのビッチが実は惚れた相手には尽くしまくる一途系女子だったり、半人前以下のへっぽこ魔術師が実は無限の……だったり。

 人はそういったギャップに惹かれてしまう。ちなみに俺も基本的に人見知りだけど、漫画とかアニメの話題の時はすげぇお喋りになるってギャップがあるから、惚れてもいいよ?

 近づいてきたエリザを落ち着けるように、穏やかな声で話しかけた。

 

「いや、臭くないと思うけど」

 

「ほんとに!? ほ、ほんとに臭くない?」

 

「いやいや本当だって」

 

「ほんとに? ……そ、そっか。よかったー」

 

 未だ涙を浮かべたままほっと胸をなでおろすエリザ。

 が、何かを決意するかのように、その口がキっと結ばれた。

 

「……い、一応確認して。ちゃんと確認してくれたら納得するから」

 

 俺が答えるのを待たず、そのまま近づいて体を預けるように俺の胸元に頭を押し付けてくる。『いくらなんでもこんな至近距離から匂いなんてかげるか! ちょっと冷静になれよ! ロックユー!』と俺のワイルドな部分がズズイと前に出てきそうになったが、ほぼ真下にあるエリザの頭から香る髪の匂いでディラックの海に還った。

 一言で言うといい匂いだった。頭に顔を近づける。シャンプーの匂いなのか、エリザ本来に匂いなのか、俺のスメルリストにない、いい匂いが鼻腔内に満ちた。

 何だろうか、いつまでも嗅いでいたくなるような、魅惑的な香り……やめられない止まらない。

 

「た、辰巳くん? 確認してる? ちゃ、ちゃんと確認してる?」

 

 うっせえ! ちゃんと確認して、スメルリストに『毎日寝る前に嗅ぎたい匂いです。これから成長していくにつれて洗練されるであろう期待を込めて☆4.6で!』ってコメント付きで登録したわ!

 

「く、くすぐったいよぉ。た、辰巳くん、も、もうっ」

 

 気づけばエリザの銀髪に顔を押し付けるようにして匂いを嗅いでいた。エリザがくすぐったそうに、身をよじる。

 い、いかんこれは罠だー! 確認のためにエリザの髪を匂う辰巳。だが、それはエリザの巧妙な罠だったのだ(ビクンビクン)

 

「ひゃ、ひゃんっ、た、辰巳くん、そこはダメだって……!」

 

 なんということでしょう。今やエリザの匂いを嗅ぐマシーンとなった俺は、その歩みを進め、気がつけば未踏破地域である、首へと到達していた

。髪の毛とはまた違う、別次元の匂い。髪の毛というある意味人体の付属品ではなく、生のエリザの匂い。その衝撃たるや、具体的な匂いの説明で文庫換算10ページはいきそうだ!

 そんなことになると『正直この辰巳はキモイ 24歳男』『幻滅しました、辰巳くんのファンやめます 15歳アイドル』『蝕を起こしたくなるくらいショックです 年齢不詳ゴッドハンド』『世の中クソだな 26歳警察官』みたいなご意見を頂戴して、後の人気投票に影響が出るかもしれない。自重しよう。

 何かフルーティな香りがした、これくらいシンプルでいい。

 

「も、もー。お返しにわたしも嗅いじゃうんだからっ」

 

 などと言いつつ、俺の胸元のスメルを嗅いでくるエリザ。

 

「や、やんっ、や、やめっ」

 

 今のは俺の声だ。ぐりぐりと押し付けるように匂いを嗅いでくるので、俺の敏感な部分が敏感サラリーマンになってしまったのだ。

 

「ちょ、エリザ。ストップ!」

 

「……くんくん」

 

「はいさいっ、これでおしまい! ちょっと離れ……エリザ?」

 

「……くんくん」

 

「エ、エリザさん?」

 

「……」

 

 先ほどまで『ひゃん』やら『んんっ』とか『やんっ(これは俺か)』みたいな可愛らしい悲鳴をあげていたエリザだが、今は無言だ。

無言だが、すんすんと小さな呼吸は聞こえる。

 俺の胸元にすっぽりと収まるように体を預けている為、その顔は見えない。

 

「お、おーい。エリザー。エーちゃん。えの字、えの助、えーたん、戯言遣い」

 

 繰り返し呼びかけ、更に色々な呼び方で呼びかけるが反応はない。仕方がない。

 

「タツミクラッシュ!」

 

「あいたっ」

 

 タツミクラッシュとは、一ノ瀬辰巳の顎を相手の頭部に振り下ろす技である。一ノ瀬辰巳がこの技を編み出したのは、中学3年生の夏、あの忌まわしき夏の日……ラブレターを貰って向かった校舎裏にはクラスの中心的存在であるAが待っていて……(思い出したら胃が痛くなってきたので、今日はここまで)

 

「しょうきにもどったか?」

 

「え? えっと、何が? って、わぁっ! い、いつの間にこんなにくっついて……た、辰巳くんっ」

 

 先ほどまでの奇行は記憶から消失したのか、何故か俺を責めるような視線を向けるエリザ。

 

「わ、分かるけど! 男の子がそういうのに興味があるってのはわ、分かるけどっ」

 

 そういうのがどういうのか、是非詳しく、非常に詳しく聞きたい。

 

「まだ早いからっ、も、もうちょっとだけっ、じ、時間が欲しいかなぁって……ね?」

 

 何でガツガツ行き過ぎて年上のお姉さんに窘められる年下彼氏みたいな図になってるわけ?

 もー、女の子のこういう部分ってほんと分かんない! この経験が元で『女より男っしょ』って感じで俺が衆道に飛び込んだら、誰か責任とってくれんの?

 

「そ、それよりっ、その……どうしてわたしがお風呂に入ってないと思ったの?」

 

「ああ、それなんだが」

 

 俺はそれを思い至った要因を脳裏に思い浮かべた。

 

・昨日のエリザの私服は○カチュウの着ぐるみ

 

・エリザは誰かに取り憑いていないと外に出れない

 

・エリザは辛い物を食べると目が><←こうなる

 

・エリザの寝言は意味不明なものが多い。例→『金星ガニが……』『見て辰巳くん、今動いたよ!』など。エリザが寝てる押入れから聞こえた。

 

・幽霊だって汗をかく

 

 5つほどワードが浮かんだが、これ関係ないのばっかだな。最後の寝言は気になるけど、多分複座型のロボットに一緒に乗ってる夢かな?

 

 さて、まずはこれ『エリザは誰かに取り憑いていないと外に出れない』だ。本人の話では、エリザはいわゆる地縛霊であり、この部屋に縛られている存在だ。だからこの部屋から出ることができない。

 だが、例外として誰かに取り憑く(接触)している状態だと、外に出ることができる。

 

 そして風呂場があるのは、この部屋の外。アパートにある共有風呂だ。その風呂にエリザは一人では行けない。俺が風呂に行く時に憑いてきた記憶もない。

 つまりエリザは風呂に入っていないという考えに至ったわけだ。

 

 ところで話は変わるが、共有風呂という言葉に『キャー、タツミさんのエッチ!』的なムフフイベントを期待しているそこのあなた。

そんなものはない! 今までの生活の中で、大体誰がどの時間に使用するか分かるし、そもそも風呂に誰か入ってたら分かるし。

 が、一度だけ混浴イベントがあった。相手は俺が入っているのに気づきながらも、浴室に入ってきて一緒に湯に浸かることになった。

その相手は、いつも飴くれる女子小学生……のパパさんだった。なんか『最近娘は目に見えて活発になってきた。君のおかげかもしれないな』なんて渋い声でお礼を言われた。その後『ところで最近、娘があまりよろしくない言葉、いわゆるネットスラングを使用するようになったんだが、何か知らないかね』って言われたから、多分それ妖怪の仕業ですよって言って逃げた。そんな水に流したい苦い思い出(風呂だけに)

 

 話は逸れたが次、『幽霊だって汗をかく』これだ。これは先ほどの相互匂いクンカクンカ活動の際に、改めて確認した。エリザの首元にはうっすらと汗が浮かんでおり、幽霊だって汗をかくというのが再確認できたわけだ。

 まあトイレも行ってるし、汗もかくわな。ちなみに部屋とトイレの距離の関係上、かなりの確率でトイレ内の音が聞こえてしまうのだが、エリザは毎回『今からお化粧直しに行きますので、これを』と俺にヘッドホンを装着させてくるので、大丈夫だ(何が?)

 当然外すこともできるのだけど、それをやってしまうと変な趣味に目覚めてしまいそうなので、自重している。

 

 汗をかくということは、体が汚れるということ。体が汚れるということは、風呂に入って体を清めなければならない。

 そしてこの部屋に風呂は存在せず、風呂に行く為にはこの部屋の外に出なくてはならない。

 

――つまり……あれ? どういうことだ?

 

 エリザは部屋の外に出れないから風呂に入れなくて、でもいい匂いがして、でも汗はしっかりかいているから体は汚れる。

 矛盾しているぞ。これは一体……うーん、エリザは清めの炎を使えるフレイムヘイズの可能性あり?

 

「おかしいな。どうなってるんだ? エリザ風呂ってどうしてるんだ? 部屋の外だから、風呂には行けないだろうし、それにしてはいい匂いだし……え、実際風呂には入ってないの?」

 

「は、入ってるよぉ! お、女の子だよ、わたしっ。入ってるに決まってるでしょっ」

 

「でも実際問題風呂まで行けないだろ?」

 

「いや、それは……その……」

 

 俺の指摘に、エリザの目はあちらこちらへ泳ぎ始めた。さて、どうでるか?

 

「……お、女の子には色んな秘密が……あるんだよ?」

 

 出たよ! 女の子の秘密出たよ! もうそれ言われたら俺何も言えないじゃん! その魔法の言葉ってズルイ!

 いや、言論は自由のはずだ、俺だってその魔法の言葉が使えるはず。よし、今度外出先で職務質問されたら『男の子には色んな秘密があるんだよ?』って言って切り抜けよっと! まあ、多分最寄りの派出所に連行されるだろうけど。

 

 しかしどうしたものか。エリザの表情や仕草を見る限り、嘘をついてはいないようだ。エリザは嘘をつく時、両方の人差し指をツンツンとつつき合う癖があるからな。今はその癖が現れてない。

 だが、ますます分からん。

 

「も、もう辰巳くん! 女の子のお風呂事情なんて気にしちゃダメしょ! ほ、ほらっ、おやつにしよ! 今日は辰巳くんの大好きなフィナンシェだよ?」

 

 おやつか。丁度小腹が空いて……ん?

 

 おやつという言葉に、俺の視線は四畳半と玄関を繋ぐ廊下にあるキッチンに向かった。

 キッチン。古いが現役バリバリのコンロとそこそこの広さのシンク、そしてすぐ隣に冷蔵庫。……シンク。頑張ればエリザくらい小柄なら何とか、体を浸せるシンク。

 

(……まさか)

 

 俺の脳裏に、恐ろしい仮説が浮かんだ。そしてその仮説は、今までの証拠を立証してしまっていた。

 

「エ、エリザ……お前、まさか台所で……」

 

「え? ――ち、違うよ!? そ、そそそそそんなっ、台所をお風呂代わりにしてるなんて、ありえないよ! 台所はご飯作るところ! お、お風呂なんてまさかそんな……あるわけないよ」

 

 嘘が下手だな、エリザ。

 

 エリザの両人差し指の動きは、今の発言が嘘であることを示していた。

 確定だ。エリザは今まで、台所で水浴びをしていた。俺がのうのうと浴室で温まっている間、この狭いシンクで体を清めていたのだ。

 

「……なんてこった」

 

「た、辰巳くん!? 泣いてるの!? だ、大丈夫? お、お腹痛いの? 膝枕する!? 撫で撫でしてあげようか!?」

 

「ごめんな、今まで気づかなくて。辛かっただろ、あんな狭いところを風呂代わりにして、女の子なのにな……」

 

「だ、だから違うの! お風呂はちゃんと入ってるし、台所をお風呂代わりにしてるなんて――」

 

「俺の目を見て、嘘じゃないって言えるか?」

 

「……嘘つきました、ごめんなさい。ずっと台所をお風呂にしてました。で、でも、快適だったよっ? わ、わたし体小さいから、すっぽり入っちゃうしっ、ついでに台所のお掃除もできるし!」

 

 取り繕うように続けるエリザの発言に、俺の罪悪感はザクザクと蹂躙されていった。

 自分の間抜けさに涙が出る。エリザが台所で風呂に入っていたのもそうだが、エリザに嘘をつかせてしまったのも。そして台所で湯浴みをする美

少女幽霊なんてレア過ぎる光景を目撃しなかった己の運命に対する怨嗟に。

 

「本当にごめんな。何かして欲しいことあるか? お詫びに今なら何だってするよ」

 

「え? だったら、一緒にお布団で寝るのを週2日から3日に増やして……じゃなくてっ! わたしが勝手にしてたことだから、辰巳くんは悪くないの!」

 

「とりあえず風呂入るか」

 

「え!? さ、さすがにこのシンクに二人は無理だと思うよ?」

 

 そりゃそうだろう。そんなことしたら、俺とエリザが密着し過ぎて融合、新しい生物が今度ともヨロシクしちゃうわ。

 

 混乱しているエリザを尻目に、俺は風呂の用意を始めた。いつもは1人分だが、今日は2人分。エリザがいるから、アヒルのおもちゃとかも必要か。

 

「ちょ、ちょっと辰巳くんっ。え、お風呂? お風呂って……え!?」

 

「エリザって石鹸何使ってんの?」

 

「わ、わたしは手作りの牛乳石鹸……じゃなくて! い、一緒に? も、もしかして一緒にお風呂入るの!?」

 

「そう言っただろ。さ、エリザも準備しろよ」

 

「いやいや! お風呂だよ!? お風呂ってことは裸なんだよ!? まだ結婚もしてないのに、裸を見せ合うなんてダメだよっ!」

 

 あ? 俺が見えないのをいいことに、全裸で過ごしてたのはどこのゴーストだよ。とか昔の黒歴史を突きつけてもいいが、多分泣くな。

 

「水着着るに決まってるだろ」

 

「え、水着? で、でもわたし水着なんて……」

 

「この間、大家さんに貰った服の中にあったぞ」

 

「あ、あったっけ?」

 

 あ、そうだ。大家さんの水着というレアリティ高すぎる逸品に目が眩み、アイテムボックス『辰巳と秘密の小箱』に仕舞い込んだんだっけ。

 

「あるから。だから行くぞ」

 

「で、でも……その……」

 

「そりゃ、男と一緒に風呂入るのは嫌だろうけど、そこは我慢――」

 

「嫌じゃないよ!」

 

 食い気味に言ってきた。

 

「い、嫌じゃないけど……むしろ凄く嬉しいけど……何か順番が……好きな人とお風呂は、もっとこう、後の方というか……辰巳くんがわたしの体に飽きちゃう可能性が……」

 

「ここの風呂は超気持ちいいぞ。浴室に温泉の素がいっぱいあって、好きなの使ってもいいんだぞ?」

 

「……うっ」

 

「風呂も広いしな。成人男性が2人入っても余裕が……あ、いや今のはなかったことに。それにアレだ。風呂の壁にでかい絵が書いてるんだぞ?」

 

「ふ、富士山のやつっ?」

 

「それは行ってからのお楽しみだ」

 

 ここを見ているあなただけ正解を先に公開! 正解は――『フルアーマーユニコーンガンダムの絵』だよ! お湯をかけるとデストロイモードになるオーバーテクノロジー付き! 大家さん作。

 

 俺が差し出す誘惑の数々に、最初は渋っていたエリザもとうとう諦めた。

 

「……一緒に入る」

 

「よし、行くか」

 

 そういうことになった。

 あとは俺の理性がデストロイモードにならないかだけが心配だが、これコンシューマー版だからダイジョーブでーす。

 

 

■■■

 

 

 

「えっと……お待たせっ」

 

 押入れが開いてエリザが幽霊特有のふわふわムーブで出てきた。

 

「お、お部屋の中でこんな格好、ちょっと恥ずかしいねっ」

 

 言葉の通り恥ずかしさを感じているのか、その顔には朱色が指している。さて、エリザが言うこんな格好とは。ずばり、スクール水着である。

 紺色の、室内の光を反射する艶を持つ、学校指定の、スクール水着だ。

 

「よし」

 

 俺は人知れずガッツポースを取った。

 何故かは分からないが、そうするべきだと思ったからだ。

 

 しかし、このスクール水着……。

 

「これって学生が着る水着なんだよね? えへへっ、変な感じ」

 

 変な感じにはなりそうなのは同意だが、このスクール水着、大家さんから譲り受けたものなのだ。

エリザは窮屈さやその反対を訴えていないということは、大体大家さんとエリザの体型は一緒ということで……。

 いや、それはいいとして、俺のインターネッツ知識が正しければ、あのスクール水着の形状はいわゆる旧型というやつ。

 旧型を知らない人の為にあくまでネットから入手した知識から説明するが、前身頃の股間部の布が下腹部と一体ではなく分割されており、下腹部の裏側で重ねられて筒状に縫い合わせてあるものであり、なぜそのような形状をしているかと言うと一説では胸元から入った水を逃がす為だとか成長に応じた伸縮性を実現させる為だとか、俺的には前者がいい、何故なら未成熟な女子の胸元から入った水流は股間部から抜けていくその流れになんとも言えない魅力を感じるのだ、ここだけの話俺はその水流になりたかった。水流になり、女の子の水着の中とプールを往復するそんな現象へと進化したい。

 まあ、ネットから得た知識の話だから鵜呑みにしないでね。

 

 話は戻すが、この旧型スクール水着、使用されていた年代は敢えて具体的な数字は出さないが、結構前だ。果たして大家さんはこのスクール水着を着ていたのだろうか、それともただのコスプレないしはそれに近いプレイに使用していたのだろうか。

前者だとすれば、以前から俺の脳内議会で度々上がる議題『大家さんロリBBA説』が信憑性を帯びてくる。

だが、俺は敢えて真実から目を閉ざした。

 大家さんが幾つなのか、それを考察するのはいい。だが答えを出すことはしない。謎というのは、それを論じている内が最も楽しいものだ。一度答えを出してしまうと、一時はその熱も燃え上がるが、後は冷めるだけ。

曖昧な物は曖昧にしておいた方がいい、俺が今までで生きてきて得た持論だ。

 何が言いたいかって言うと、○ラピカと○ズマは性別をはっきりさせない方がいいってこと! あんなに可愛い子が女の子のはずないし! 

 

「じゃあ、行くか」

 

「うんっ」

 

 久々にまともな風呂には入れて嬉しいのか、ぴょんと跳ねながら返事をするエリザ。

 そんな姿を見て俺の心もほんわか温かくなった。俺の心もぴょんぴょんするんじゃ~。

 

「いつも通りおんぶすればいいんだよな?」

 

「うん、いつもごめんね」

 

 遠慮がちな声色と共に、背中にかかるほんのわずかな重み。重いわけなんてなかった。心地よい重み。幽霊だから軽いのか、それとも女の子だから軽いのか。

俺には分からない、だって男の子だもん。

女の子を背負った時に感じる、心の中から染み出てくるこの暖かさはなーに? 分からない、だって男の子だもん。

この子を守らなきゃって思う、使命感にも似た想いはなーに? 分からない、だって男の子だもん。

男の子も大変なんだよ。だって女の子の前だと精一杯意地っぱりにならないといけないんだもの。

 

 と、俺が男心溢れるポエムを奏でていると、別の男の子の部分、いわゆる股間にある真理の扉がぎぃぎぃ音を立てて開き始めた。

 いや、開き始めたというか起動し始めたというか……とにかくアカン。

 

「わっ、た、辰巳くんの背中あったかい……そっか。きょ、今日はいつもと違って服着てないから……」

 

 原因は明白だった。俺の背中に当たる柔らかい感触、決して大きくはないが、無限の潜在能力を秘めた胸、それが今日は当社比10倍ほどの柔らかさを弾き出しているからだ。

 柔らかすぎてダメになる。『絶対おっぱいには勝てなかったよ』みたいな早すぎる即落ちコンボを決めてしまう。

 

「落ち着け……!」

 

 小声で真理の扉を諌めるが、そこは俺であって唯一俺でない部分、理性が届きえない場所だ。収めようと思って収められる場所ではない。

 

 普段ならともかく、今はいかん! なにせ今俺が身につけているのが、ボクサーパンツみたいなピチっとした水着とマフラーのみ。

水着は、まずい……(ビジュアル的に)

 仮に真理の扉が全開になった場合、俺を信用して体を預けてくれるエリザの信頼を確実に裏切るだろう。

 ヘタしたら明日から口を聞いてもらえなくなる。それはまずい。

 

 こうなったら、アレをするしかない。

 家族の顔を浮かべる、アレだ。アレは諸刃の剣、下手をすれば自ら致命傷を負いかねない自滅の刃。だが今真理の扉、いわゆる○んこを落ち着ける為にはこれしかない!

 

 俺は家族の顔、一番先に浮かんだ雪菜ちゃんの顔を思い浮かべた。

 

『もう兄さんは仕方ないですね。ほんと、私がいないと速やかに死ぬんでしょうね』

 

 いつもの冷ややかな表情と次いでに酷いセリフが脳裏に浮かんだ。傷ついた。

 だが、これで真理の扉も閉ま……何でさっきより開いてるの? 何で妹の顔浮かべて勢い増しちゃってんの?

 

『もう兄さんってば、ふふふ……』

 

 やめてー、脳裏に浮かぶ雪菜ちゃん妖艶な笑みやめてー。開いちゃうから! 真理の扉開いちゃうから!

 くっそ、母さんだ母さん。母さんの顔を浮かべよう。

 

「……ふぅ」

 

 効果は覿面で、真理の扉は猛烈な勢いで閉まり、次いでに鎖で雁字搦めになって、錠前が30個くらいついた。あれ? これはこれで大丈夫? これでEDになったとか洒落にならないよ?

 

「辰巳くん? どーしたの? お腹痛いの?」

 

 背負ったエリザが頬と頬を擦り付けるように、顔をぐっと突き出し心配そうな声を出した。

 

「あ、もう大丈夫だよエリザ。俺、これからも頑張っていくから」

 

「う、うん……うん?」

 

 俺の中で行われていた小さな戦いはエリザに感じ取られることなく終結を迎えた。水着の中の戦争~完~

 

 それはそれとして、エリザから与えられた胸の柔らかさは、俺の心の中にある『secret base ~エリザがくれたもの~』にしっかりと保管しておいた。これは2039年に公開予定! 乞うご期待!

 

 

■■■

 

 

「「さむい!」」

 

 部屋入り口の扉を開けた途端、俺とエリザは揃って同じセリフを吐いた。日は暮れ、アパートの庭にある筈のブランコが見えないくらい、すっかり夜の闇に染まっていた。

 

「さ、最近暖かくなってきたと思ったけど、夜はまだ寒いね辰巳くん」

 

「そ、そうだな」

 

 夏を間近に迎える今日このごろだが、水着一枚で外に出るにはまだ寒すぎた。

 だが、引き返しては風呂にいけない。

 

「ささっと行くか」

 

「うん。辰巳くん、その、もっとくっつくともっと暖かくなると思うから……もっともっとくっついていい?」

 

「ああ、うん。いいよ」

 

「やったっ」

 

 エリザの密着度が更に増して、何だかどえらいことになりそうだが、幸い俺の股間は反応しない。もう、しない。

 正直エリザは幽霊の体質からか、ちょっと体温が低いのでくっつかれると俺の体温が下がるのだが……あんな期待込めた声色で言われたら断れない。

 

 と、向かうべき風呂の方から、目にやさしい暖色系の和服を着た少女、大家さんが歩いてくるのが見えた。

 大家さんは歩みは俺の部屋の方へ向かっており、その手に持っているタッパーから、今日も何らかの差し入れを持ってきてくれたことを察した。

 感謝の意を込めて、先手を取る。

 

「大家さん、こんばんわ。いい夜ですね!」

 

「あ、一ノ瀬さん!」

 

 俺の呼びかけに笑顔を浮かべ、ぱたぱたと駆け寄ってくる。大家さんの履いている赤い鼻緒の草履が発するぺたぺたという音が廊下に響いた。

 大家さんがこちらに近づいてきて、その表情が笑顔→あれ?→いやいやまさか→い、いやいや……→う、うそやん→ナンデ!?と近づく距離に応じて変化した。

 俺の正面に立つ。その評定を困惑と羞恥が混ざったような複雑な表情だった。

 

「な、ななななななんて格好しているんですかー! な、なんて格好、何て格好!」

 

 と頬を染めながら、至近距離でガン見してくる大家さん。

 

「いや、いやいや……ふふふ。これはこれは……まさかの隠しイベント……えへへ」

 

 至近距離で笑う大家さん。

 きっちり1分間ガン見してきた後、手に持っていたタッパーを俺の部屋の中において、再び俺の目の前に戻ってきた。

 

「はい。……きゃぁっ! 一ノ瀬さん、何て格好してるんですか、もーっ!」

 

「はいじゃないが」

 

 両手で自分の目を隠しながら、悲鳴をあげる大家さん。指の隙間から目がバッチリ見えている。

 可愛らしい悲鳴をあげる可愛らしい大家さん、対する俺の態度は彼女のそれに反比例していた。

 

「なんすか今の流れ」

 

「な、なにがですか?」

 

「混浴露天風呂に若いお姉ちゃんが入ってきた時のおっさんみたいにガン見してきたじゃないですか」

 

「ちょっ、一ノ瀬さん!? なんてこと言うんですか!? やめてくださいよ!」

 

「いや、ツッコミ待ちかなって」

 

「わけの分からない格好でわけの分からないことを言わないでくださいよ!」

 

 ぷんすか、と箒片手に言う大家さん。さっきの大家さんは俺が見た幻か何かか? 

 

「ってそうですよ! なんて格好してるんですかっ、そんな下着一枚で! ……武装解除の魔法でも食らったんですか?」

 

「UQ○ルダーあれどう思います?」

 

「まあ一言で言うと……キリエちゃんマジペロペロですよねー」

 

「ねー」

 

 大家さんとの漫画談義に花が咲いた。大家さんはかなり上位レベルのオタであり、同じく半神クラスの俺と話が合う唯一の人間だ。可愛いだけでなく、趣味も合う、この縁は大切にしていきたい。いや、マジで。

 

 話が盛り上がり、自分だったらM〇手術のベースの生物を何にするかの話になった辺りで、肩がトントンと叩かれた。

 背後を見ると、エリザがちょっと頬を膨らませて「むー」と不満気な表情をしている。大家さんとの話に夢中になりすぎてしまった。いかんいかん。

 

「で、やっぱり私だったらカエンタケをベースに――」

 

「あ、すいません大家さん。俺風呂行くとこなんですよ」

 

「お風呂ですか? あー、ごめんなさい引き止めちゃって。そうですよね、一ノ瀬さん下着一枚だからそりゃお風呂に行くところなんですか!?」

 

 途中からスゴイ勢いで疑問形になったぞ。

 

「だ、ダメですよ! いくらなんでも下着一枚でお風呂まで行くとか、アパートの風紀的にも……」

 

「いや、これ、水着なんで」

 

 パンツじゃないから恥ずかしくない理論だ。

 

「あ、そうだったんですかぁ。もう私ったら勘違いしちゃって、えへっ。そりゃお風呂に行くんだから水着を着ますよね。……一ノ瀬さん水着でお風呂に入っちゃう系の人なんですか!?」

 

 ガビーンと効果音が見えるような驚き方をする大家さん。一々リアクションが面白い大家さんは嫌いだ……。ごめん嘘、大好き。

 

 しかし水着を着ている理由を説明するのは面倒だな。

 エリザと一緒に入る為なんて説明した日には『そんなエリザちゃんだけズルい! 私も私も!』なんて言いながら俺のファンが集まっちゃうだろうし。そんな俺のファン、いわゆる『辰巳君を愛するスール達が所属する~海百合会~(部長はイカちゃん)』と一緒にお風呂でおしくら饅頭状態を妄想していたら、残りの思考力で

 

「入っちゃう系の人です」

 

 と適当に答えてしまっていた。

 俺は度々、こうやって適当に物事を答えては自らの首を締めることになるのだが、これがいわゆる辰巳イズム。身に染み付いた癖と罪は永劫纏わり付くのだ、ククク……。

 

「はわわ……これはまさか……いつでも混浴イベント……一気に距離を……」

 

 俺の適当発言を真に受けた大家さんだが、あっちはあっちで何やら思案顔でぶつぶつ呟いている。

 さて、俺の妄想お風呂イベントも、唯一の男である辰巳が浴槽の中で女の子達の下敷きになるありがちなオチを迎えたので、ぼちぼち風呂に行こう。

 

「じゃ、大家さん行ってきます」

 

「……へ? あ、は、はい。えっと……近いうちに!」

 

 大家さんが何を言っているかよく分からないが、それを追求できるほど俺の体に余裕はなかったので、さっさと風呂に向かった。

 それから普通に風呂に入った。久しぶりに広い風呂に入れて嬉しそうなエリザの顔を見られたのでよかったと思いました。明日も一緒に入ろうと思いました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Sleeping Beauty~前編~(縮地もいい歳だし嫁でも探すべ? 斜向かいの遠当てちゃんはどや? え? 好きな子がいる? 発勁さんってお前……まだ諦めておらんのか)

「――エリザの寝顔が見たい」

 

 呼吸をするより自然に口から零れれてしまった言葉に、慌てて口を閉ざす。

 当のエリザ本人を見てみると、パソコンの画面を頭突きでもせんばかりの距離で見つめており、どうやら俺の呟きは聞かれなかったようだ。

 

「……ふぅ」

 

 危ねぇ危ねぇ……こんな呟きはエリザの耳に入ったら……どうなるんだろうか? 『へっ? 寝顔? は、恥ずかしいからヤダ……よ』なんて真赤な顔で言うかな? それとも汚物を見るかのような蔑んだ目で見てくるかな?

 おそらく前者だろうが、最近俺の中では『エリザに罵られたい院』が設立後、急速にその勢力を増しているので、後者を求める声もあるのだということを知って頂きたい(誰にだよ)

 

 それにしても思わず呟いてしまったが、俺の中でエリザの寝顔を見たいという願望はムクムクと大きくなっている。

 何故見たいのかと問われれば『人間だもの』『見たいから』『それが答えだ!』などと要領を得ない言葉でしか返せない。だが見たいのだ。

 あのエリザが無防備に眠る姿を見たい。どんな顔で寝ているのか、どんな寝言を呟いているのか、彼女が奏でるイビキはどんな音色なのか、口から流るる涎の輝きは……想像するだけでも摩訶不思議アドベンチャーだ。

 

 しかしこういうことを考えていると『一ノ瀬殿がまた変態なことを考えておられるぞ』とdisられる気がしないでもない。確かにちょっと変態的な面があることは認めるしキャラ紹介でも『言葉に出さないタイプの変態』って書かれてるけどさ。でもこの世界に生きる人間は何かしら変態的な一面を持っていると思うんだよ。それが人間だろ? 今まで少しでも変態的なことを考えた経験がない人間がいたら出てこいよ! もれなく俺の変態オーラを中にサッと注入してやんよ! 

 

 俺を変態だと罵しりたいなら罵ればいい 罵ってもいいさ――あんたが美少女ならな。むしろ美少女かつ罵りとは無縁な心優しい性格だったらもっとベネ!

 好きに罵ろうが、ネット上に拡散しようが、記者会見で報道しようがいい。

 だが美少女、いや美少女幽霊の寝顔が見たいという願いはそんなに変態的だろうか。俺はそうは思わない。別にパンツの匂いを嗅ぎたいとか汗を舐めたいとか言ってるわけじゃないんだし。……あ、汗舐めたいは言ったことあったっけ。まあいいか。

 

 難しい顔でパソコンと睨めっこするエリザを見る。

 

「うーん、今月の広告収入はあんまり増えてないなー」

 

 人は最も無防備な瞬間、それが睡眠中だ。普段はテキパキ家事をして、ちょっとドジっちゃうエリザが無防備な姿を晒す瞬間を見たい。というかもうそのことだけしか考えられない。エリザの寝顔見ないと一生後悔するわ。○サトさんだって『自分自身の願いの為に!』って言ってたしな。

 つーわけで、本作戦をオペレーション《スリーピングビューティ》と名付ける。全力を持って完遂するように!

 

 しかし、いざ寝顔を見ると言っても現状かなり問題が多い。

 何せエリザと暮らし始めてから今日まで、1度も彼女の寝顔を見たことないのだから。

 

 寝る時間は俺より遅いし、朝起きるのも俺より早い。

 具体的に言うと、寝る前はエリザの希望で『お話』を語っている内に俺が眠り、朝は俺が起きた時には既に朝食を用意している。

 俺より先に寝るな、俺より遅く起きるな、そんな前時代の遺物とも言えるような様式を体現する尽くしちゃい系ヒロイン、それがエリザだ。そして尽くされる系主人公の俺。すっごい幸せだけど、来々世までの運を使い果たしちゃった様な気がして怖い。来世の俺、打ちっぱなしのゴルフボールとかになっちゃってそう。

 まあ来世のことは来世の俺に任せて、今を楽しむことにしよう。

 

 だが作戦の前に、一つ懸念事項がある。

 他人に寝顔を見られるのって、どうなんだろうかってことだ。

 

 以前、(俺の中で)アイスフェイスと呼ばれるほど冷たい表情しか浮かべない雪菜ちゃんのあどけない寝顔を見ようと、夜中に雪菜ルームに忍び込んだことがあった。

 しかし、俺が部屋に入った瞬間に目を覚まし、その寒気が走るような冷たい表情に獲物を狙う狩人のような笑みを浮かべ『……どうやら、やっと薬が効いてきたようですね』って言って、俺を布団に引きずり込もうとした。恐らくは寝ぼけていたであろう奇行だが、あまりにも恐ろしく、正直に侵入した目的を告げると1年に1度くらいしか見られないレアな表情(真っ赤な顔)で俺をボコボコにして、最終的に鼻をへし折られた。翌日、通学した俺の負傷に対してクラスメイトが誰一人として触れて来なかった件と合わせて非常に痛々しい思い出だ。

 

 この事件から考えるに、女性にとって寝顔を見られるのはかなり(禁忌)タブーなんじゃないかといういこと。

 だが禁忌と聞いて燃えるのが俺という男。

 エリザには是非とも作戦の同意を頂きたい。

 

 つーわけで聞くことにした。

 自信が運営するサイトの更新が終わったのか、近所のスーパーのチラシがまとめてあるサイトを眺めているエリザの背に声をかけた。

 

「なあエリザ、いいかな?」

 

 具体的なことを聞かず同意だけ得る。

 エリザの銀髪がサラリと流れ、振り返りながら答えた。

 

「へ? 何が?」

 

「いいかな?」

 

「えっと、何の話かな辰巳くん?」

 

「いいかな?」

 

「……よく分からないけど、別にいいよー!」

 

 やったぜ。

 こうして俺はエリザから直々許可を貰い、オペレーション《スリーピングビューティ》は発動した。

 

 

~1日目~

 

 

 取りあえず遅くまで起きておくパターンで攻めてみることにした。

 しかし、少々恥ずかしい話なのだが、この歳で夜更かしといったものを上手く遂行できた試しがない。

 

 例をあげてみよう。俺の経験談だ。 

 友達同士のお泊り会でも定番の『お前好きな奴いんの?』をする前に就寝、友達同士でキャンプに行って定番の『なあ、女子のテントに行ってみねえ?』が遂行される前に就寝、友達同士のクリスマス会で定番の『プレゼント交換はんたーい! だって私のプレゼント渡す相手は……一之瀬君だけだもん!』も始まる前に就寝、友達同士で大晦日に集まって定番の『わたし……年越しの瞬間に告白する!』『ずるい! 私だって一之瀬君に……108つの鐘よりもたくさんの想いを伝えたい!』『あたしだってお節料理がずっと続いても飽きないくらい一之瀬君が好き!』って恋のから騒ぎを観戦する前に就寝。

 それほど俺の夜更かし苦手は業が深い。何が一番恐ろしいってお察しの通り、都合のいい一ノ瀬君大好きイベントが起こる以前に、そういう行事に一切誘われたことがないってこと。

 

 唯一夜更かし……というか完全徹夜をした期間が、高校受験の1週間前だ。希望していた学校への学力が足りなかった俺は、俺に厳しいことで定評のある雪菜ちゃんに泣きついた。雪菜ちゃんは『全く、兄さんは仕方がないですねぇ……ふふふ』と冷たい表情に隠し切れない笑みを浮かべ、それから6日間、雪菜ちゃん式スパルタ勉強術が幕を開けた。

 正直あの6日間は思い出したくない。眠ることなく机の前に向い、少しでも睡魔に負けそうになったら雪菜ちゃんの鞭が飛ぶ。鞭といっても物理的な物ではない、精神的なものだ。俺の心を抉る言葉のナイフ。今思い出しても涙が溢れ、軽く3日は引きこもりたくなるそれらは、俺の心を穴だらけにする代わりに確かな学力を与えてくれた。次いでに軽い悪口にはビクともしない鋼の心も。

 最後の1日、鞭の後に来た飴は……穏やかな眠り。一緒に徹夜をして流石にちょっと頭がおかしくなった雪菜ちゃんが『今日は安息日です。布団を整えておいたので、一緒に寝ます。拒否権はありません』とか言い出したのだ。連日の徹夜に頭がパーマンになっていた俺は『あ、ハイ』と素直に頷き、人生で最も穏やかな眠りについたのだった。

 後日、合格したお礼に初めて俺から雪菜ちゃんを遊びに誘って、色々あったのだがこれはまた別のお話……。

 

 話は逸れたが、あの6日間で出された雪菜ちゃん特性のコーヒーは、それはもう眠気を抑えてくれた。あれを飲むと零号機がロンギヌスを宇宙に向かって投擲した時に弾け飛んだ雲のように、眠気が吹っ飛んだものだ。多分ヤバイ物が多分に含まれていただろうが、今こうして元気に生きているから……うん、まあ大丈夫かな。

 あれほどの物は必要ないが、眠気覚ましにコーヒーは必要だ。

 

 いつの間にか俺の背後に回り込み肩を揉んでいた(恐らく無意識に『肩凝ったかな』とでも呟いたと思われる)エリザに、肩越しに問いかける。

 

「なあエリザ。コーヒーってウチにあったっけ?」

 

「コーヒー? コーヒーって、あの苦くて黒いのだよね? ないけど……えっと、ミロならあるよ?」

 

 ミロはあるのか……。

それはそれとして、苦くて黒いという言葉に太いを付け足すだけであら不思議! え? 何が不思議か分からない? そうか……わからないか、この領域の話は。

 しかしコーヒーはないか。だったらある所に行けば良い話。

 

「ちょっと出てくるわ」

 

「え? もう7時だし危ないよ。どこ行くの? ついて行こうか?」

 

「いや大家さんの所に行くだけだから」

 

「そっか。じゃあ、足元に気をつけてねー。あっ、寒いからこれ着て行ってね。あ、あとこのタッパー持って行って。『この間頂いたじゃが芋とてもおいしかったです。ポテトサラダを作ったのでお口に合うか分かりませんが、召し上がってください』って言っておいて」

 

 お嫁さんというよりは、お母さんみたいなエリザちゃん。アリだと思います。ロリ母というジャンル需要あるらしいし。雷ちゃんは俺の母親になってくれる艦娘だし。鈴谷には姉になってもらいたい。幼なじみは榛名で、隣の席は摩耶。でち公はオリョール行って来い。

 

 部屋を出て20秒も経たず目的の扉の前に到着。

 

 夜分遅めなので、心持ち静かにノックを3回した。ノックして、すぐに中から「はーい」と相変わらず聞くだけで頬が緩んでしまうような可愛らしい声が返ってきた。

 足音がパタパタと聞こえ、目の前の扉がゆっくり開いた。

 夜は眼鏡をかける習慣なのか、以前見た黒縁眼鏡を装着した大家さんが、開いた扉から顔だけ出しながら

 

「えー、ウチにN〇Kはありません、ではっ」

 

 とシンプル過ぎて逆に行けるのではと思わされる撃退方法を披露し、そのまま部屋の中に引っ込もうとした。

 慌てて、扉の隙間に足を挟み込む。

 

「ひぃっ! いつものN〇Kの人ならこれで帰るのに!? な、ないですから! テレビも2台あって地上波どころかBSもアニマックスもバリバリ見れますけど、N〇Kだけは見れないんですっ! ほ、ほんとですからっ!」

 

「いや、落ち着いて下さいよ大家さん! 俺ですって!」

 

「ひぇぇ……N〇Kと俺俺詐欺が合わさって最強に――ってこの声、一ノ瀬さんですか?」

 

 どれだけN〇Kを恐れているのか。親でも殺されたのか?

 声を聴くまで俺と気づかなかったらしく、大家さんは安堵した表情で胸をなでおろした。次いで俺の顔を見て恥じらいと、一瞬夜闇がパッと明るくなったと錯覚するような眩い笑顔を浮かべた。

 

「びっくりしちゃいましたよっ、えへへ。こんな時間にどうしました? もしかして遊びに来てくれたんですかっ?」

 

 子供のようにあどけない笑顔を浮かべる大家さんには悪いが、本来の要件を告げる。

 

「大家さんコーヒーとかあります?」

 

「へ? ええ、ありますよー。普段は飲まないんですけど、夏やら冬の締切前には、濃いコーヒーとレッド〇ルは必需品ですからねー」

 

 大家さん生産者の方かよ。まあ前に見せてもらった絵とか、超上手かったしおかしくはないか。

 俺は基本的に消費者スタイルを貫いてきたが、そろそろ脳内で進行しているイカちゃんとのラブラブ恋愛黙示録がラノベ換算で10巻に到達したので、同人作家としてデビューしてもいいかもしれない。サークル名? 一ノ瀬ライフとか?

 

「よかったらでいいんですけど、コーヒー御馳走になってもいいですか?」

 

「ええ、いいですよー。それくらいお安い御用です! ――けど、あの……」

 

 どうしたことか。笑顔で話していた言葉の途中、急に頬を染めてもじもじと人差し指を突き合わせ始めた。

 

「も、もしかしてなんですけど……そ、それって……夜明けのコーヒーを一緒に飲みたいとか、そういう意味……」

 

「ではないですね」

 

「で、ですよね! そーですよね! い、いえいえ分かってましたよハイ! そんなそれなんて(ryみたいな美味しい展開はないですよね!」

 

「大家さん、結構時間遅いんで……声が」

 

「ですよね! 大きいですよね! あははははっ」

 

 恥ずかしさを誤魔化すかのように笑う大家さん。あんまり声が大きいと、近所マダムがポップするから勘弁願いたい(マァムがポップと見間違えたそこのアナタ……握手しよう)

 

「え、えっと、じゃあお部屋の中にどうぞー」

 

 大家さんが扉を開き、室内の灯りに夜の影が侵食された。それに伴い、首から上しか見えてなかった大家さんの小さな体が見えてくる。扉が開くにつれて以前お邪魔した時にも感じた、向日葵のような爽やかな香りが徐々に濃くなった。

 大家さんは――ジャージを着ていた。ちょっと色褪せた赤色に白いラインが走る、ちょっと古い学園ドラマとかで見るタイプのジャージ。サイズが合っていないのか、袖が余っていわゆる萌え袖になっているのが蝶サイコー。

 胸元のゼッケンは……外されたのか他の赤より若干濃い赤が残っていた。残念、大家さんの本名が分かるチャンスだったのに。

 

「一ノ瀬さん? 何をジッと見てるんですか? え、えっとですね、チラッと見るだけならいいんですけど、あんまりガン見されると、その……ね」

 

 何を勘違いしたのか、胸元を隠す大家さん。当然ジャージのジッパーを上まで上げているので何も見えない。いつもの和服だったら、胸元がお留守になってて肌色地帯が見放題だったのに残念! 

 ん? 大家さんの発言、あれって俺がチラ見してたのに気づいて……ま、まさかね。そんな筈ないよね。そんな『気づいてたけど見逃してた』みたいな感じだったら、俺、恥ずかしくて心の岩戸に篭っちゃうよ!(岩戸を開ける方法? 原作通りとだけ言っておこうか)

 

「いや、大家さんってジャージとか着るんだなぁ、って思って」

 

「え、ジャージですか? ん? あっ――」

 

 一瞬しまったという表情を浮かべ、素早い動きで扉の内側に隠れる大家さん。追従するように扉も閉まり、室内から溢れていた光が夜の影に逆襲されるように侵食された。

 そろそろと首から上だけを扉の隙間から出す。奇しくも(訪ねてきた時と)同じ構え……!

 

「み、見ましたよね?」

 

 肌をじんわりと赤く染めて、尋ねてくる。

 見ました? 一体なにをだ? そんなパンツを咥えたパンツを見られた転校生のようなパンツを見た記憶はないパンツ。

 

「ジャ、ジャージ姿ですよぉっ。部屋にいる間はジャージを着ているなんて、すっごいダサいじゃないですかぁ! ふ、普段は和服なんですよ! た、たまに、本当にたまにジャージを着てるだけなんですっ」

 

「いや、何焦ってるんですか? ジャージdisってんですか?」

 

「だ、だって大家と言えば和服だって言ってたんですよ……」

 

 誰だそんなこと言ったのは。大家さんを困らせるなんて、この俺がぶっ飛ばしてやるぜ!

 

「一ノ瀬さんが言ったんじゃないですかっ!」

 

 俺だったのか。大家さんを困らせるなんて、もぅマヂ無理。自害しよ……。

 

「も、もしかして覚えてないんですか!? 『大家さんって本当に和服似合いますよね。何ていうか漫画のイメージですけど、大家といえば和服、みたいなイメージありますよね。その点、大家さんは和服が似合ってるから、マーベラスですね!』って言ったじゃないですか!」

 

 言っただろうか。一体何話で言ったか……履歴を探っても出ないな。ただ俺が言いそうではある。

 

「ああ、言いましたね。……たぶん」

 

「何か小声で言いませんでした?」

 

「いえいえ」

 

 扉の隙間から見える大家さんの顔、その目は涙目になっていた。涙を浮かべでちょっと責めるような目で睨みつけてくる大家さん。コレ以上俺を萌えさせてどうするのだろうか。こんないつもいつも萌えさせられてたら、責任取って結婚でもしてくれないと割に合わんな。

 

「うぅー……だから一ノ瀬さんの前では、絶対に和服を着て出るようにしてたのに……不意打ちはずるいですよ! 来る時は事前にメールを下さいっ」

 

 先輩といい大家さんといい、何でこう事前連絡を求めるのだろうか。ヤグチる時に困るからか?

 

「ちょっと着替えてくるんで、外で待っててくださいっ」

 

 言うやいなや、大家さんはバタンと扉を閉じた。が、すぐに開き再び顔を覗かした。

 

「た、例えばですけど……和服をいつも着てるロリ系のヒロインがパジャマを着てたとして。キャラ通り和服っぽいパジャマか、ロリさを極限まで活かすふりふりとしたパジャマか、ギャップ萌えを狙ったセクシーランジェリーか……一ノ瀬さんならどれががいいと思います?」

 

「うーん」

 

 なかなか難しい質問をしてくる。

 ここは『一之瀬ヒロインルート希望ランキング』で10年連続3位に位置している『〇リヤスフィール・フォン・アインツベルン』を例にしてみようか。

 要するに相手に何を求めるかだろうな。彼女に『姉』のような面を求めるならセクシー、『妹』を求めるならフリフリパジャマ(敢えて無邪気性を押し出した全裸でも可)、『同棲感』を求めるなら裸ワイシャツ、『無人島感』を求めるなら貝殻とかぶれない葉っぱ、『未来感』を求めるならピッチリボディスーツ、『野生感』を求めるなら腰ミノ。

 ぶっちゃけイリヤたんなら何でも似合うわ! 型月はさつきルートもいいけど、はよイリヤルート作れや! ついでにエリザベート=バートリーちゃんのルートもキボンヌ。

 

 というわけで、答えを返した。

 

「その人に合っていれば何でもいいと思いますよ」

 

「何でもが一番困るんですよぉっ!」

 

 その後、パジャマに着替えた大家さんに部屋の中へ招かれ、コーヒーを頂いた。

 俺が飲んだ大家さんのコーヒーは思っていたより苦かった。何となくイメージ的に砂糖とミルクをたっぷり淹れて甘くした物を飲むと思っていたので、意外だった。それを大家さんに言うと

 

「ふふっ、まだまだ一ノ瀬さんの知らない私はたくさんあるんですよ。私ももぉっと一ノ瀬さんの知らない面を知りたいですねー、えへへ」

 

 と言って笑った。その笑顔が今までに見たことがない、可愛らしさの中に色気を含んだものだったので、不覚にも顔が熱くなってしまった。

 え、パジャマ? それはまた別のお話。だた凄かったとだけ言っておこう。

 

 

■■■

 

 その後、妙に話を引き延ばそうとする大家さんに礼を言って部屋に戻った。

 そして普段通り布団に入り、『お話』を求めてくるエリザに俺が中学生だった頃の話をした。と言っても学生生活は聞かせられるものではなかったので、主に家族でどこに行ったとかの話だったが。

 

「で、北海道旅行の時、家族と別れて雪菜ちゃんと2人で行動してたんだけど、うっかりすすきのの風俗……ぐぅ」

 

「あ、寝ちゃった」

 

 話の途中だが、今日は別の目的があるので寝たフリをすることにした。 うっすら目を開けると、布団に入った俺のすぐ横で自分の腕を枕に顎を乗せてうつ伏せになっていたエリザが「よいしょ」と腕立て伏せの要領で体を起こした。

 

「辰巳くん、おやすみー。いい夢見てね」

 

 思わず胸に飛び込んでしまいそうなくらい母性溢れる笑みを浮かべるエリザ。そのまま眠る俺の顔に自分の顔を近づけてきて、何をするかと思えば……頬にキスをしてきた。驚いて『ンヒィ!』みたいなキモイ声が出そうになったけど、思い切り飲み干した。その飲み干した『ンヒィ!』がどこに行ったか……それはまた別のお話。

 

「……えへへっ、また明日ね。いつか起きてる辰巳くんにキスできる日が来るといいなぁ……なんちゃって!」

 

 はにかんだ笑みを浮かべる。そのままスゥっと足音を立てない滑るような動きで部屋の端にある机に向かい、小さな電灯を点けた。

 

 あれ? 寝ないのか?

 

 薄目で観察していると、どこから取り出したのか青い毛玉と棒針が現れ、ぬいぬいしだした。ぬいぬいマジぬいぬい! ぬいぬい? ぬいぬい……ぬいぬーい!? ぬいぬい……ぬい、ぬ……い。

 ぬいぬいってのはつまり、編み物ってことだよ。言わせんな恥ずかしい。

 

「エリザが夜なべをして~手袋編んでるよ~今年の冬は寒かろうて~せっせと編んだのです~」

 

 眠ってる俺に気遣ってか、小さな声で歌うエリザ。この歌もキャラソンに収録されるんですか!? やったね!

 エリザ視線は編んでいる手袋と眠っている俺へと交互に移動している。実に楽しそうだ。いや、本当に。

 しかし俺の為に手袋を編んでくれてるのか……えらいネタバレ踏んじまったよオイ。貰った時どんなリアクション取ればいいんだ? いくら俺が鶏頭だっつっても、流石にこんな印象的な場面忘れんぞ。

 

 演劇部見学して演技の勉強でもしようか……と考えていると、いつの間に編み物が終わったのか、次は俺のズボンを取り出していた。

 

「んっと……あっ、膝の所穴が開いちゃってる……。では塞ぎましょう、そうしましょう」

 

 と独り言を呟くや、針と糸でぬいぬいしていく。そのワザマエは実にお見事で、瞬く間にズボンに開いた穴は塞がれた。

 

「ああっ、こっちにも開いてる! うーん、大きいなぁ……これは縫うのは無理かー。よしっ、これを使おう」

 

 またしてもどこからか取り出したのは……鯖のワッペン。鯖のワッペン!? あんのそんなの!?

 ワッペン業界のバリエーションに驚いていると、エリザはズボンの穴を鯖ワッペンで塞いでしまった。

 そうか……俺の服に何故か鯖やら可愛いキャラクターのワッペンが貼られていく謎の現象が解き明かされてしまったぞ……。

 そういえばエリザが見えるようになる前から、この現象は起きてたっけ。この現象の正体に気づいていれば、もっと早くエリザの存在を発見できただろうに……。遠藤寺も毎日俺の服見てるんだから、何か言ってくれればいいのに。

 

 その後、エリザはいくつか俺の服を確認した後、ワイシャツのアイロンをかけ、家計簿をつけ、やっと眠るかと思えば眠る俺に寄り添い10分ほど顔を見つめ、パソコンをカタカタし、眠る俺に寄り添って顔を見つめ、明日の朝食の軽い仕込みをして俺の顔を見つめ、俺の顔を見つめてから……俺の意識が落ちた。

 

 翌日、いつも通り朝食の匂いとエリザの声に起こされた。

 エプロンを着けて、炊飯ジャーからご飯をよそうエリザに問いかける。

 

「なぁ……昨日っていつ寝た?」

 

「え、わたし? ふつーに辰巳くんが寝た後に寝たよー」

 

「そうか……」

 

 楽しそうに食卓を準備するエリザに『嘘だ!』と突きつけるほど空気の読めない俺ではなかった。

 

 こうして1日目は終了、作戦は失敗に終わった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Sleeping Beauty~中編~(縮地と発勁さんは何だかんだあって結婚しましたとさ)

~2日目~

 

 

 前日の反省を活かし、今日……というか明日はエリザより早く起きる作戦でいくことにした。

 とは言っても、今までの生活ではエリザに起こしてもらってばかりで、自分で早起きをする自信が全くない。

 

 そういえば実家に居た頃も雪菜ちゃんに起こしてもらってた。個人的には隣に住む幼なじみに起こしてもらうシチュエーションに非常に憧れていたが、残念ながら隣に住んでいたのはギネスに挑戦していると思われるレベルの超浪人生と反対隣にたった一人で住んでいる無職のオッサンしかいなかった為、その夢が叶うことはなかった。ホラ吹き過ぎて『ピノキオおじさん』と呼ばれていたあのオッサンは元気だろうか。『僕はね鼻じゃなくて、別の部分が伸びるんだよ』って笑って言ってたけど、今考えるとヤバイこと言ってたんだなって思う。

 

 まあオッサンのことはいい。今はどうやってエリザより早く起きるかだ。

 

 ここで『よーし、これを機に自分で早起きする癖をつけるんだぜ~』と奮起するなら、人間としてかなり将来性が見込めるが、あいにく俺はそういった将来性とは無縁な人間だ。できるだけ他人におんぶに抱っこスタイルを維持していきたい。

 

 というわけで、エリザ以外の誰かに起こしてもらうことにした。とは言っても身近で起こしてくれる人間なんて大家さんくらいしか浮かばないし、昨日大家さんには夜更かし作戦を手伝ってもらったばかりで流石に連続して頼むのは忍びない。

 

 ここは誰かにモーニングコールでも頼むか……。

 

■■■

 

 大学の講義が終了後、サークルの部室に行ってみた。目的はデス子先輩だ。デス子先輩なら、可愛い後輩のお願いをホイホイ聞いてくれるような気がする。

 

 デス子先輩が着替え中だったらいいなぁ、と淡い期待を抱いて3回ノック、返事が帰ってくる前に扉に手をかけた。

 

「闇に飲まれよ!」

 

 今思いついたサークルの挨拶と共に引き戸タイプの扉を開く。

 珍しいことに室内は、開かれたカーテンから入ってきた外の光で満たされていた。基本的に先輩に拉致られて闇の中で目覚めるか、事前に行くことを伝えて真っ暗な室内に入るかのどちらかだから、今回のように明るい室内に入るには初めての体験だ。

 

 室内を見渡すと普段先輩と向かい合わせで座っている赤いテーブルクロスのかかった丸テーブルの前に、先輩がポツンと一人で座っていた。テーブルの上にはいつも置いてある水晶球や蝋燭の代わりにマ○ドの包み紙が散乱していた。あと開いた状態のノートパソコン。

 どうやら食事&パソコン閲覧中だったらしい。

 先輩は普段と同じ黒いローブを着て、ポカンとした表情でこちらを見ている。その表情を言葉にするなら『何故、一ノ瀬後輩がここに……』といった感じだろうか。

 

「な、何故一ノ瀬後輩がここに……?」

 

 ビンゴ! クイズの優勝商品はその食べかけハンバーガーでいいよ! そして副賞を頂けるならその食べかけハンバーガーを先輩の目の前でゆっくり蹂躙するようにじわじわと食べる権利を頂きたい……!

 

 俺は後ろ手で扉を閉めつつ、口をいい感じに突っ込みやすい形に開いて驚いている先輩に近づいた。

 え? 何を突っ込むかって…? そんなのあんた次第だろ。まあ、俺ならちくわを突っ込んで、その中にチーズを……いかんいかん、コレ以上は迷惑思考条例違反に引っかかる。

 

 俺は可愛げのある後輩っぽいポーズをとった(挿絵よろ)

 

「来ちゃいました」

 

「く、来る時は事前に連絡をしてからと、あれほど……!」

 

 一人メシの邪魔をしたからか、険のある口調で説教モードに入ろうとした先輩。だが言葉の途中でその視線がテーブル上にあるバーガーの包みに向かった。

 

「……っ!」

 

 ローブから見える表情(といっても頭まですぽり被っているので、口元しか見えない)が焦りに変わった。表現するなら\やべえ/といった感じだろうか。

 黒いローブから伸びる手がサッとテーブルを走り、照り焼きバーガーを掬い上げそのまま先輩の胸元からローブにインした。ローブを押し上げる膨らみが、普段の2割ましほど大きくなる。

 普段見せないタイプの素早さを披露した先輩は、何事もなかったかように口角を釣り上げた。

 

「さて、一体何のようデスか?」

 

「先輩ってジャンクフードとか食べるんですね」

 

「はて? 何を言っているのデスか一ノ瀬後輩? 闇に生きるワタシは人間界の食物を口にすることはありません。ジャンク? フード? ……うーむ、ワタシの辞書には存在しませんね」

 

「さっき食べてたじゃないっすか」

 

 先輩が回収し損ねた包み紙を指さす。空の包み紙を含めて、この場にあるハンバーガーは4つ。ちょっと食べ過ぎなんじゃないでしょうか。まあいいけど、よく食べる女の子って個人的に好きだし。もぐささんマジもぐもぐ!

 

 俺の指摘を受け、先輩の手が残像を残しつつテーブルを走った。テーブル上にあった空の包み紙が消失した。そして先輩の胸の膨らみが更に大きく。

 

「いえ、食べてませんが? 闇に生きるワタシの主食は……ワイン。ヤギの頭蓋骨に汲んだワインを摂取しているのデスよ、フフフ……」

 

「先輩織田家の人なんすか?」

 

 どうやらジャンクフードを食べていたことは、なかったことにして欲しいらしい。しかし無理がある……飲み会で普通に山盛りポテトフライを食べていた過去は消せない……! なかったことにしてはいけない……!

 ただ先輩の設定破綻はいつものことだし、あまり突っ込んでパンピーになったら面白くないので、ここは先輩の希望通り、見なかったことにしておこう。これ『超法規的処置』ね。

 

 さて、さっさと本題に入るか。

 

「で、先輩話なんですけど……」

 

「その前に一度この部屋を出て下さい」

 

「へ、何で?」

 

 確かにお食事と趣味の邪魔をしたのは悪いけど、いきなり出てけって……。

 俺と先輩の仲なんですから、そこはもうちょっと多めに見てくれても……。いや、そもそも俺と先輩の仲ってなんなんだ? サークルの先輩と後輩? 先輩曰く『同じ闇を抱いた同士』? 今更だけどどうにも色気がねーな。できれば揉んだり揉まれたりする仲に発展したいんだが……帰ったらyaho○知恵袋に方法を尋ねてみるか。

 

「いや先輩。ちょっと話があるだけで……」

 

「部屋から出て下さい」

 

「いや、でもすぐに……」

 

「いいから」

 

「でも」

 

「いいから早くして。早く。お願いだから」

 

「はい」

 

 先輩の圧力が篭った言葉に押し出されるように、部屋を出た。

 扉の前で待っているとまず室内の電気が消え、何かを動かすような音が聞こえた後に何か重い物が落ちる音と「キャッ」と小さな悲鳴が響き、また電気が点いた。それから3分ほど何かを動かしたり、カーテンを閉めたりする音が聞こえ、再び電気が消えた。

 

「では入りなさい」

 

 部屋を出てから5分、扉から聞こえてきた厳かな声に従い部屋に入った。

 部屋に入ると普段ここに来る時と同じく、真っ暗な室内に蝋燭がポツンと立ったテーブルが見えた。そしてテーブル前に座り、いつものポーズ(ゲンドウのアレ)をとる先輩。

 

 色々ツッコミたかったが、ここで突っ込みを入れても何も解決しないということを知っていないので、スルーすることにした。

 

「フフフ、さあどうぞ……迷えるジプシーよ」

 

 先輩の向かいに座り、早速要件を伝えることにした。

 

「明日モーニングコールしてくれません?」

 

「はぁ!?」

 

 先輩がガタンと音を立てて立ち上がり、何故か室内の電気が点灯した。

 

「ちょ、ちょっといきなり何を言っているのデスか!? びっくりして電気が点いちゃったじゃないデスか!」

 

「何のシステムだよ」

 

 先輩の感情と部室内の電気が連動してんのか? だったこの室内で先輩が一人遊び(一人遊びの意味が分からない君はそのピュアマインドを大切にしてね)してたら、電気が点いたり消えたり点いたり消えたりラジバンダリ……最後に爆発するかのように電気が光り、そして冬に吐いた熱い吐息のようにゆっくり消えていく……。最高じゃないか! そのシステム、是非我が社にも導入したい!

 

 可愛い後輩のお願いに、顔を赤くしてもじもじと可愛い反応をする先輩。

 

「も、モーニングコールなんて……そ、そんな彼女じゃないんだから……」

 

 先輩の中ではモーニングコールをするイコール彼氏彼女の事情という式が構築されているらしい。

 取り敢えずモーニングコールをして欲しい事情……といっても本当のこと『同棲している可愛い幽霊にゃんの寝顔を見たいにゃん!』を言っちまうと、先輩のUMA大好き魂に火を着けて最終的に大火傷しちまいそうなので、誤魔化すことにした。

 事前に考えていた『愛用の目覚まし時計が壊れて、起きられそうにないので助けてほしい』といった旨のことを伝える。

 

「お願いします!」

 

「いきなりそんなことを言われても……そもそもワタシもあまり朝が……」

 

 渋る先輩。そりゃいきなりこんなことを言われて二つ返事で了承する人なんていないだろう。俺だって後輩の女の子が同じようなこと言ってきたら『コールだけでいいのかい、プリティガール?』と直に起こす方向へ誘導尋問するだろう。

 これも想定していた。ここでこう行く。

 

「先輩しか頼める相手がいないんです!」

 

「……そ、そうなの?」

 

「はい。俺こんなこと頼める友達なんていないし……先輩しか、先輩しか……いねーんですよ」

 

 哀愁の表情を浮かべ、先輩心をこちょこちょくすぐる様にか弱い声で呟く。最後の方、ちょっとニナチャーンみたいな口調になったけど、問題ないだろう。

 俺は知っている! 先輩はマミさんばりに先輩風をビュービュー吹かしたがるタイプだということを……! 可愛い後輩にお願い事をされると、喜んじゃう人だということ……!

 

「へ、へー……そうなんだー」

 

 口元にニヤつきから、満更でもない様子が伺える。クリティカルヒット! 先輩のハートをキャッチ! 

 ま、親父はもっと上手くキャッチするな、キャッチする時罪悪感を感じないからね。

 実際、先輩を騙しているような気がして、チクチクと罪悪感を感じていた。

 だが、この罪悪感を乗り越えなければ、エリザの寝顔は見られない!

 

「そっかー……うん、いいよ。あ、いや……げふんげふん――いいデスよ、フフフ。我ら同じ『闇』を抱く者同士、それくらいの頼み容易いデス」

 

 どうやら上手く行ったようだ。これで先輩からのモーニングコールを取り付けることができた。

 これでミッションコンプリート! 

 

 目標を達成した俺は、先輩の膝に置かれているノートパソコンに興味がいった。

 先輩がどういうサイトを見ているか……俺、気になります!

 

「先輩ってパソコン持ってたんですね。どんなサイトとか見てるんですか?」

 

 作戦が上手くいった俺は、勢いに乗っていた。普段は他人のインターネッツ事情なんてパーソナルな領域に踏み込もうとしないのだが、高揚感がそれを麻痺させていた。

 

「……んー」

 

 先輩はチラリと膝元を見た。その口元に浮かぶのは……逡巡か。

 これはやってしまったかもしれない。人には入ってほしくない領域があって、その領域を侵犯することで人間関係は簡単に壊れる。そういう経験があった。学習能力のない、俺。

 

 俺は慌てて「やっぱり何でも……」ないです、と発言をなかったことにしようとした。

 だが、その前に先輩の口が、先ほどの迷いを吹き流すように、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「ふむ……そろそろ一ノ瀬後輩に教えてもいいかもしれませんね」

 

 先輩は奥義を伝授するトーンで重々しく言葉を発した。

 どうやら、先輩のパーソナル・スペースに踏み込むことができたらしい。胸を撫で下ろす。今のは危なかった。今まで築き上げた仲に罅を入れる行為だ。軽率過ぎた。

 だが、まあ結果的には先輩の新しい一面を知ることができそうだ。

 

 さて、先輩の口からどんな言葉が出るのか。

 

「今まで言っていませんでしたが、ワタシは最初からこちら側――『闇』側の存在ではありませんでした」

 

 先輩は恥じるように言った。

 

「アレは高校2年生の夏デス。その頃のワタシは自らの『闇』に気づくこと無く、その他大勢の普通の人間と同じように退屈な日々を過ごしていました。ええ、それはもう退屈な、まるで眠っているような日々でした」

 

 遠い目で語る先輩。

 JKの先輩かぁ……普通にJKしてたって言われても信じられんなぁ……。

 

「他の人間と同じように大学受験を控えていたワタシですが、常に胸の内に違和感を抱えていました『何かが違う』と。デスがその何かが何なのか分かるはずもなく、ただ漫然と流されるまま、自分から動くこともなく過ごしていました。ひたすら受け身で、他の人間と同じような行動をとり、同じようなつまらない話を繰り返して、安心している自分がいました。実に愚かなことデス。そしてそのまま、退屈で当たり前なその他大勢が踏み均した盤石なレールの上を、世界に囚われた傀儡のように歩いて行く……その筈でした。それを見つけるまでは」

 

 先輩は熱の入った口調で、カタカタとキーボードを叩いた。

 

「この――『黒ノ軌跡』を!」

 

 ババーンと効果音を付けるならそんな感じで、ノートパソコンをこちらに向ける先輩。

 パソコンの画面には、大きな文字で先輩が先ほど言った『黒ノ軌跡』という文字がデカデカと表示されていた。

 その下に5行ほどの文章、更に下がって話数とサブタイトルらしき物が見えた。

 どうやらこのサイトは小説投稿サイトで、表示されているのは誰かしらが投稿した小説のページらしい。

 

 タイトルから香ばしい……背中が痒くなっちまう痛々しいオーラを感じる。

 

「小説ですか?」

 

「ええ、このサイトは『小説家になってやろう』という小説投稿サイトで……まあそこはいいデス。本題はこの『黒ノ軌跡』デス!」

 

 どれだけ思い入れがあるのか、先輩は珍しく上ずった口調で続けた。

 

「ワタシは偶然この『黒ノ軌跡』を見つけ、暇つぶしにと読み始めました。最初はただの暇つぶしと思っていたのデスが、読んでいく内にどんどん引き込まれ、気がつけば自らの胸の奥に何かが現れたのを感じました。いえ、現れたのではなく本来あったものに気づいた、と言うべきデスか。それは『闇』デス。ワタシの胸の奥深く、根源とも呼べる場所にそれは根付いていました。そしてワタシはそれを自覚すると同時に目を覚ましたのデス。今まで見えていた世界から霧が晴れるような感覚。この世には嘘と欺瞞が満ちており、それらを見通す真実の眼が開き、闇の奥に潜む失われた者達の声を聞く耳を手に入れました。そう、ワタシは真実の自分を手に入れたのデス! それからのワタシについては、このサイトに投稿している『闇を見通すモノ~覚醒~』に詳しく書かれているので、どうぞよろしくデス」

 

「さり気なく自分の作品をアピールしましたね」

 

 要するに先輩が邪気眼に目覚めた原因ってことだろ。多分超純水培養の汚れないピュアJKだった先輩にとって、この小説が刺激的過ぎたってことか。人間何が原因で目覚めるか分からんね。

 まあ、分からんでもない。ひよこじゃないけど、最初に見たもの、経験したものってびっくりするほど印象に残るもんな。俺だって初めて読んだチャ○ピオンでイカちゃん見て以来、あまりの可愛さに日常生活でイカ食えなくなったもん。

 

 さーて、先輩を悪い子にしちゃった痛い小説の中身はどんなもんかね。

 最終更新が……昨日か。先輩が高校生の時にプロローグが投稿されて、月1話のペースで現在まで更新してるわけね。結構長いシリーズだな。

 

 まずはあらすじか。どれどれ。

 

 『十ノ瀬竜也は一見どこにでもいる中学生だ。だが、その正体は夜を駆け、闇に潜む『魔態』を屠る――執行者だった。かつて所属していた退魔の組織『身食らう蛇』から抜けた彼は、自身が憧れていた平凡な日常を謳歌していた。だが、彼の持つ『因子』は魔を引き寄せる。平凡な日常を守る為、彼は呪われし力を行使する。――これは彼の残した軌跡。ここに記されているのは、彼が残した軌跡の欠片――黒ノ軌跡』

 

「……」

 

「どうデスか一ノ瀬後輩? あなたも闇に生きる者なら、何か感じたのでは?」

 

「え、ええ……感じましたよ」

 

 俺の答えに先輩が『本当ですか!? やはり一ノ瀬後輩は運命の……』とか嬉しそうに言っているが、それどころじゃなかった。

 俺は感じていた、恐ろしい悪寒を。露出した心臓にナイフを突き付けられるような、恐ろしい感覚。

 あらすじを読んだ瞬間、背筋に汗が溢れお尻の辺りまでびしょびしょになった。

 

 何も痛々しいあらすじを読んで鳥肌が立ったとか、そういうわけじゃない。これくらいの小説はいくらでもあるし、まだまだ『濃さ』は低い。世の中にはもっと凄い、業の深い小説がある。

 だったら、何故こんなにも怖気を感じるのか。

 

 

 

 この小説が――俺が中学生の頃に書いた小説にそっくりだからだ。

 

 

 

 これにつきる。タイトルを見ても気付かなかったが、あらすじを読んだ瞬間気づいてしまった。

 俺が昔書いた小説をあらすじってるし、何より主人公の名前も一緒だ。

 

「……偶然という可能性も」

 

 たまたま内容が被って、たまたま主人公の名前が一緒なだけかもしれない。

 可能性に縋るような気持ちで、1話を開いてみた。

 

 完全にメイドイン中学生の俺だった。

 

「ひぃぃぃぃ!」

 

 恐ろしさの余りに椅子から転げ落ちてしまう。突然の俺の奇行に、突っ込み役である筈の先輩は『やはりこの出会いは運命……同じ闇を持つもの同士の運命』とかニヤニヤした笑みを浮かべながら絶対運命黙示録厨になっていたので、反応はなかった。

 

 しかしマズイ。マズイっつーか、吐きそう。

 押入れの中に閉まったはずの黒歴史が、どうしてよりにもよってワールドワイドなウェブに流出しちゃってんの? 押入れから世界って……田舎から出てきた女の子が一躍ハリウッドスターなシンデレラストーリーじゃねーんだから。

 

 あれか。人の黒歴史を集めてばら撒く、鼠小僧的な義賊でもいんのか? 

 いや、ネズミはちゅーちゅー鳴くじゃん。で、黒歴史ってのは大体中学生の頃に作られるから……その……ちゅう繋がりで……言ってみただけ、です。

 

 待て待て真面目に考えよう。よくネットで芸能人のプライベート写真とか個人情報がウイルスで流出してるってのはよく聞くけど、物理的に保管してる物がネットに流出するなんてありえるか? ウイルスってそこまで進化してるわけ? そんなもん人的に力が加わらない限り――

 

「あ」

 

 思い当たる節はあった。あってしまった。

 携帯を取り出し、妹……雪菜ちゃんに『兄ちゃまの部屋、押入れの中にある段ボール箱、開けたら呪うと書いた張り紙』とだけ打ち、送信。20秒で帰ってきた。

 

『開けましたが……何か?』

 

 ウチの妹がウイルスだッた件について。

 あ、あの妹……開けやがった! パンドラの箱を開けちまいやがった!

 妹が行った、いともたやすく行われるえげつない行為に戦慄する。わざわざそれっぽく呪いの札まで作って封印してたのに、どうして開けちゃうかなぁ……。呪われたい年頃なのか?

 

 だが箱自体は中学の教科書が詰まってて、本命の小説はダンボールに作った偽底の下に隠していたはず……! 仮に偽底に気づいても正しい手順を踏まないと、仕掛けが発動して小説が消滅するはず……!

 

『なにやら箱の底に稚拙なトラップが仕掛けられていましたが、2秒で解除できました』

 

 3ヶ月かけて作ったトラップを2秒で解除されちゃった……。 

 くそ、どうして処分しておかなかったんだ俺! 

 

『兄さんが高校生になった夏休み、掃除中に見つけ、兄さんが書いた小説を発見しました。そして将来の目標に『小説家』を抱いていた兄さんの為に、こっそりネットに投稿しておきました。素人の皆様の酷評を受けて叶わない夢は早々に放り出して堅実な職業を目標にして欲しいという妹の切なる想いからでしたが……余計なお世話でしたか?』

 

 確かにそういう夢を抱いてた時期もあったけどさぁ……。何でよりによって中学生の時に書いた小説とかアップロードしちゃうかなぁ。余計過ぎて怒る気にもなれん。

 

『感想がいくつか集まった辺りで兄さんに見せ、現実を直視してもらおうと思っていたのですが……どうも兄さんの書いた小説は流行から外れていたのか、純粋に面白くなかったのか……1話につき1つしか感想が付きませんでした。それも毎回同じ人です。名前は……「闇の住人」でしたか』

 

 その闇の住人とやら、恐らくだが俺の目の前にいる。

 

 『他の人の感想がつくように時間を空けて、月に1回更新していたのですけど……結局先日の更新まで他の人の感想が付くことはありませんでした。それにしても毎月欠かさず感想を付けてくれたこの人も、相当な変わり者ですね』

 

 目の前にいるんだけど、変わり者については否定できない。

 

『昨日の更新でストックが尽きましたので、兄さんには新しい話の執筆をお願いします』

 

 中学一ノ瀬先生は体調不良の為、永久にお休みを頂いております! つーか無理に決まってんだろうが。

 今の俺が続きを書いたら、主人公以外全員女の子にして相手の服を芸術的に破った方が勝ちってルールに変更したバトルラブコメになるっつーの。それでもいいなら書きますけどね。

 

 しかしパンドラの箱を開けたことで、恐ろしい真実が解き明かされてしまった……。

 先輩がこんな感じになってるのって、もしかして俺のせい? 俺が残した黒歴史が先輩の人生捻じ曲げちゃった感じ? ノーマルJKからノーマルJDになる予定が、ワープ進化を遂げて闇を抱える美少女大学生になっちゃった?

 いや、そんな人の人生変えちゃったみたいな重い真実突き付けられても、俺どうすりゃいいんだよ……。 大学生なのに中学生の娘が2人もできちゃったくらい重い……。DADDYFA○Eの新刊はいつ出るんですかね。

 

 俺が頭を抱えていると、運命厨から抜けだした先輩が首を傾げた。

 

「どうしたのデス一ノ瀬後輩? 何か悩み事でも?」

 

「いえ、実は一人の少女の人生を大きく捻じ曲げてしまったかもしれない、ということに気づいてしまって」

 

「はて? よく分かりませんが……その少女は後悔しているのデスか?」

 

 話題の中心が自分であることなんて露知らず、そんなことを言う先輩。

 後悔……しているようには見えないか。まあ、楽しそうにやってるし……端から見ればバリバリ人生謳歌してる。

 

「楽しそうにはしてますけど……」

 

「だったらいいのでは? そもそも人生というものはそんな簡単には変えられませんよ。一ノ瀬後輩がその人の人生を変えてしまったと思っていても、案外アナタが何をしなくてもその少女はその人生を歩んでいたのかもしれませんよ」

 

「そ、そういうものですか」

 

「ええ、そういうものデス。おっと、今の言葉は『闇』を抱く同士としてではなく、あくまで人生の先輩として聞いて下さいね」

 

 1つしか変わらないのに、隙あらば先輩風を吹かせてくる先輩。

 取り敢えず色々なお詫びと責任をとる意味で、頑張って『黒ノ軌跡』の続きを書こうと思った。

 

 その後、先輩と他愛もない雑談に耽り、最後にもう一度モーニングコールの約束を取り付けてから、帰宅した。

 

 家に帰り、夕食を食べると早めに寝る旨をエリザに伝える。

 モーニングコールは取り付けたが、少しでも早く起きる可能性を高めておいた方がいい。

 

「ま、まだ6時だよ? そ、それに今日のお話は……?」

 

「今日は休み」

 

 ぶーぶーと頬を膨らませるエリザに「明日は今日の分多く話すから」と宥め「多くって、辰巳くんいつも途中で寝ちゃうから意味ないよ……」と不満顔を浮かべる彼女に背を向け、眠ることにした。

 睡魔はあっという間にやってきた。

 

 

■■■

 

 

 翌朝、俺は自分を呼びかける声に起こされた。

 

「おっはよー、辰巳くん! 今日は雨だよー、ジメジメしてやーな感じだけど――元気だしてこっ」

 

 ジメジメした空気を吹き飛ばすような笑顔を浮かべるエリザだった。

 どうやらエリザより早く起きる作戦は失敗したらしい。

 

「おはようエリザ。今何時?」

 

「8時だよー」

 

 台所へ向かってトテトテ歩きながら返してくる。

 おかしい……先輩には6時頃のモーニングコールをお願いしていたはず。

 

 携帯を見てみるが、着信記録は残っていない。

 エリザが食事の準備をしている間に、電話をかけてみることにした。

 

 電話口から着信音が流れ続け、そろそろ留守電に切り替わる……というところで、相手に繋がった。

 

 

『ふぁい……わたしですけどぉ』

 

「名乗って下さいよ。パーソナルデータをもうちょっと公開してくださいよ」

 

 誰か分かんねーよ。ていうか、舌足らず過ぎて聞き取りにくい。とてもじゃないが先輩の声とは思えない。

 

『えっとぉ……ハンバーガーとか好きでぇ……コーラも大好きですぅ。でも一番好きなのはぁ……にへへぇ――ないしょっ』

 

「あのすんません。これ先輩の携帯で合ってますよね? どっかの幼女と繋がってたりしませんよね!?」

 

 それはそれで非常に使い道はあるが、今は先輩の携帯だ。番号間違って教えられたのか? いや、でも前にかけた時は繋がったし……。

 

「先輩! 昨日の約束の件なんですけど」

 

『きょうは早くおきて……いちのせ君に……モーニング……モーニングコーヒーをかける』

 

「なんすか先輩? 俺のこと嫌いなんですか?」

 

 俺の名前を呼んでるし、どうやら先輩の携帯で合ってるらしい。だがどうにも様子がおかしい。

 怪しい黒魔術のやりすぎでスパイラルマタイしちまったか……?

 

『モーニングスターで……たたく。できるだけこっせつしやすいぶいを……たたく、ぶいはかいを、する』

 

「それ報酬どころか賠償請求しますけど……」

 

 うーん困ったぞ。全然話が繋がらん。

 相変わらず続く先輩のパラッパラッパーなトークに頭を抱えていると、電話の向こうからノックらしき音とドアを開ける音が聞こえた。そして近づいてくる足音。

 

『もうっ、お姉ちゃん! いい加減に起きなさいっ!』

 

『あぁ……美咲ちゃんらしきひとだぁ……』

 

『らしくないよ! そのものだよっ! 昨日早く寝ないから起きれないんでしょっ? よく分かんないけど、遅くまで電話の文章考えてて! 結局起きれてないじゃん! モーニングコールするから早く起こしてねってあたしに投げっぱで! 時間になって起こしたけど起きなかったじゃん! あとで絶対ぐちぐち言う癖に!』

 

『よくわかんないけどごめんね。お姉ちゃん……ほら、闇だから……あさほんとダメなの。闇にいきる闇にんげんだから、日の光はほんと、ダメなの。はやくにんげんになりたい……』

 

『やみやみやみうるさいっつーの! いいからっ、布団から出なさいっ!』

 

『お布団とっちゃやだぁー』

 

『いーいーかーら! 出てきて……って、あれっ!? お姉ちゃん……だ、誰かと電話してるの?』

 

『わからん。あはは』

 

『いやいや笑ってる場合じゃないから。え、誰にかけてんの? ちょ、ちょっとやめてよ、知り合い? いや、知り合いでも困るし、知らない人でももっと困る……』

 

『いちのせくん』

 

『誰だよ! あ、いや、お姉ちゃんの話題によく出る人か……ん? いや、アカンでしょ! 待って待って色々待って。ちょっと取り敢えず……電話没収』

 

『アイフォン返してぇー』

 

『アンドロイドでしょ。……ごほんっ。えっと……あの……も、もしもし?』

 

 完全に蚊帳の外だった俺だが、ここでようやく話に入れた。

 何だか本当によく分からんが、電話向こうのやりとりを聞く限り、今先輩の携帯を持っているのは先輩の妹らしい。

 そういえば、妹がいるって話はちらほら聞いていた。

 

 取り敢えず待たしてもアレなので、対応する。

 

「もしもし。えっと……一ノ瀬ですけど。先輩の……」

 

『は、はいっ、妹です!』

 

「……っ」

 

 電話口から聞こえた元気な声に、耳がキーンとなった。

 

『み、美咲です! 高校2年生です! 空手を少々嗜んでいます! 趣味はランニングです! 好きな食べ物はハンバーガーです!』

 

「あ、はい。一ノ瀬辰巳です。大学1回生で、趣味はアニ……いや映画鑑賞です。好きな食べ物は鯖の味噌煮です」

 

『そうですかっ』

 

「う、うん」

 

『……』

 

「……」

 

 沈黙を表す「シーン」という音が響いた(気がした)

 気まずい。顔を見てない分、相手の表情が分からないので更に辛い。

 

『――あ、あのお姉ちゃん料理得意なんですよ!』

 

「え、あ、うん」

 

『鯖の味噌煮も! ……あ、ごめんなさい。今のナシで。料理は期待しないであげて下さい。で、でもっ! えっと、あのウンチクっていうんですか!? トリビアみたいなのいっぱい知ってて……す、凄くはく、はく……そう博識なんですっ!』

 

 困ったぞ。会ったことないタイプの人間で、対応方法が全くわからない。つーか会っても居ない。どうすんのコレ。どうすんのこの感じ。

 

『それに凄く優しいんです! あたしが小学生の頃――』

 

「うん。で、そのお姉ちゃんに代わってもらったりは……」

 

『……そ、それは、ちょっと……あの、今アレなので……』

 

「アレ」

 

『は、はいアレで……ちょっと厳しくて……。は、初めてできた男友達の人をヒかせるのは、妹的にもナシかなーと。で、ですので! 3分! いえ、10分でいいので時間を下さい! 何とか! 何とかしますから! お、お願いですからさっきの姉を姉と思わず、できれば忘れてあげて下さい!』

 

「わ、分かった。うん、待つわ」

 

『あ、ありがとうございます! ……お姉ちゃんの友達になるくらいだから、覚悟してたけど普通にいい人っぽくてよかったぁー』

 

 多分小声で言ったんだろうけど、丸聞こえだからな妹ちゃん。

 

 そして10分……を超えて20分後、俺の携帯がなった。

 表示されていた名前は『先輩』。画面をスライドして、耳に当てる。

 

『フフフ……おはようございます、一ノ瀬後輩。約束通り、モーニングコールを進呈デス。感謝の言葉は不要デスよ……これくらい闇の力を持ってすれば容易いので』

 

「色々ナメてますよね?」

 

 俺は生まれて初めて、先輩への言葉から敬意を取っ払った。

 

『おやおや、どうしました一ノ瀬後輩? 朝から機嫌が悪いようデスね。悪いものでも食べましたか?』

 

「いいもん食べましたよ」

 

 先輩が再起動する間にな。

 

「先輩、頼んでおいてなんですけど、モーニングコールが2時間ほど遅れてるんですけど」

 

『……おや、そうでしたか。申し訳ありません、どうも最近、人間だった頃とくらべて時間の感覚が曖昧で……』

 

「……」

 

『お、怒ってる?』

 

「いや、怒ってませんよ」

 

『そ、そうデスか。ん? なんデスか美咲ちゃん? それを読む? はぁ……えっと、今度の日曜、ワタシの家で、食事でも、どうですか――い、一ノ瀬後輩? ちょ、ちょっと失礼しますね』

 

 そう言うと床に携帯を置いたのか、電話口から布を擦るようなノイズが聞こえた。

 そして聞こえる姉妹同士がじゃれ合う声。

 

『何で勝手にこういうことしちゃうの!?』

 

『お姉ちゃんが変なことばっか言うからフォローしてあげたんでしょ!? あんなん普通の人ドン引きだよ!? むしろあたしがドン引きしたわ!』

 

『一ノ瀬君は普通じゃないからいいの! あ、いや、一ノ瀬後輩は普通じゃないからいいんデス!』

 

『何で言い変えてんの? え、もしかして大学でそういうキャラ作ってんの!? ちょ、ちょっと信じられない……!』

 

『いや、その……こっちの方が闇のアレで……普段はほら、一般人に紛れ込む為のフェイクで……』

 

『家でも外でも普通じゃん! そんな喋り方初めて聞いたよ!』

 

 そんなやりとりを聞いていると、いやぁ姉妹って本当にいいもんですねぇと自分の心が穏やかになっていることに気づいた。

 作戦は失敗したが、先輩の新たな一面が見れたことでよしとしよう。

 

 しかし明日こそは……明日こそは作戦を成功させてみせる……! 

 俺は頼りになる親友の姿を脳裏に浮かべ、姉妹の仲良さ気な声をバックミュージックにしつつ食事をとるのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Sleeping Beauty~後編~(幸せな生活は長く続かなかった。始まったのだ――異世界からの侵略が)

~3日目~

 

 タッツミーン! 皆元気? 俺は一之瀬辰巳。タツミン星からやってきたタツミン星人なんだ。タツミン星人はさびしくなると死んじゃう(死因:涙で溺死)から、恐らくは兎の祖先だと思われるよ! 主食はサバの味噌煮! 趣味はネットサーフィングとフィギュアの鑑賞! 服のチョイスは妹! 

 

 え? タツミン星人についてもっと知りたい?

 

 そうか……。

 そんなの俺が知りたいよ……何なんだよタツミン星人って……。何で大学最初のコンパで俺はウケ狙ってそんな自己紹介しちゃったんだよ……。結局周囲ドンドンビキビキで、遠藤寺しかウケてなかったよ……。お酒の力ってホント怖い。

 まあ、今思えばあの自己紹介が無ければ遠藤寺が俺に興味を持つこともなく、そうなったら俺は完全に絶対ナル孤独者だったわけだ。そう考えたらあのぶっ飛び自己紹介もよかったのかもしれない。

 

 なんで今遠藤寺のことを思い浮かべているかというと、今から遠藤寺に会いにいくからだ。

 会ってエリザの寝顔を見る為のいい知恵を頂こうと思っている。一休さんに縋りつく新右衛門さんの如く。

 

 そういうわけで俺は朝から大学にえっちらおっちら向かっていた。道中に妹である雪菜ちゃんにメールを送る。

 

『雪菜ちゃん……寝顔が見たいです』

 

 と。正直自分でも狂気の沙汰としか思えない。いくら連日失敗続きだからって無謀が過ぎる。女神が出る泉に身投げをするような暴挙。平気で大破進軍しちゃう恐ろしさ。女子校に全裸突撃する蛮行。

 だが遠藤寺に頼んでも失敗する可能性を考え、少しでも選択肢を増やしておきたかったのだ。備えあれば嬉しいし。

 

 送ってしまってからちょっと後悔していると、1分も経たずメールが返ってきた。

 

『寝顔がみたいですか? 普通なら恋人でも作ればいいとアドバイスをするところですが、兄さんは現在の輪廻の輪にいる限り恋愛とは無縁なのでこれは却下します』

 

 なに俺って現世どころか来世でも恋愛とは縁がないの? 

 

『であれば。さっくりそこら辺を歩いている女性を捕まえて監禁すればいいのでは? そうすればお縄につくまで好きなだけ寝顔を見ることができますよ。……いえ、よく考えると兄さんに監禁された時点で、兄さんの内面から溢れる下衆さを感じ取り普通の女性は自害しますねこれも却下です』

 

 兄を精神的に追い詰める妹がいる、これってトリビアになりませんか? そうですか、なりませんか。

 

『深夜の駅前にでも張ってみてはどうです? 運が良ければ酔いつぶれたOLの寝顔を見ることが……いえ、兄さんが深夜に出歩くだけでも即通報の可能性が……これも却下ですね』

 

 されるかされないかで言えばされるけどさぁ……でもさぁ……。

 

『と言うわけで兄さんが寝顔を見ることは不可能です。いえ、待ってくださいその縄を置いて下さい。ショックで命を絶つのはまだ少し早いです』

 

 しねーし。

 

『流石に寝顔を見られなかったなんて下らなすぎる理由で自殺した兄さんのお葬式に出るのは、それこそ死ぬほど嫌ですので、これで譲歩してください』

 

 と返ってきたメールには画像が添付されていた。

 開いてみる。

 

 何故か元俺の部屋にあるベッドで眠っている雪菜ちゃんの画像。

 ご丁寧に真上、真横、部屋の入り口からと様々な角度から撮っていた。

 なんつーか、グラビアJKのプライベート風イメージPVみたいな感じ。

 

 こんな作りもん見え見えの寝顔写真集なんて俺が今求めてるもんじゃねーんですよ! 俺が見たいのは養殖ものの寝顔じゃなくて、もっとこう……無防備さ全開の天然寝顔なんだよ!

 まあ、これはこれで頂いておきますがね! 

 

 そんなメールのやりとりを終えると、目的であるいつもの場所に辿り着いた。

 遠藤寺と俺が拠点としている場所、学生食堂の一角。

 昼時の学生食堂の喧騒から隔絶された一種の異界。柱と観葉植物で遮られた死角。

 

 遠藤寺は今日もそこにいた。

 

 頭に付けた大きなピンク色のリボンと、黒一色のゴシックロリータファッション。

 異界に存在するに相応しい、相変わらず独特なファッションだ。なんか魔女っぽい。

 

 遠藤寺は涼しげな表情で本を読んでいた。タイトルは『ロートレック荘殺人事件』。俺の中に眠るネタバレ魂がむくむくと沸き上がってきたが、遠藤寺ちゃん、ああ見えてネタバレとかしたら本気でキレるタイプなので自重した。いや、マジで怖いの。ただでさえ怖い目で睨みつけてくるの。無言で。

 

「よっこらしょ」

 

 俺は椅子を引き、遠藤寺の正面に座った。本に没頭しているのか、遠藤寺が俺に気づいた様子はない。

 そのままジッと遠藤寺の顔を見つめてみる。うーん、相変わらず綺麗な顔だ。俺が首から上だけを集めるタイプのサイコパス、もしくは美しい顔を集めることが武勇に繋がる部族だったなら、さっくり首から上をカットして週に5日は顔を見つめるデーを設ける自信がある。首から上を集めるといえば、最近ヒロインが実はみたいなエロゲが……イカンイカン、静まれネタバレ魂よ。

 

 しかし遠藤寺、俺の存在に本当に気づかない。ちょっと無防備過ぎやしないだろうか。俺だからこうやって正面から視姦するだけに努めているけど、他の人間だったら邪な行為不可避だろう。下からパンツ覗いたりとか。上からブラチラ覗いたりとか、横から腋チラ覗いたりとか、鎖骨クンカクンカするとか……鎖骨にお酒溜めて啜ったりとか……そういう変態もいるってこと、遠藤寺は分かっているのか?

 

 俺が思うに、遠藤寺には圧倒的に危機感が足りていない。もっとこう……自分がイヤらしい目で見られるかもしれないっていう危機感を持つべきだと思う。言ってやりたい『お前、もしかして自分が下着を見られないとでも思ってるんじゃないか』って。

 だが遠藤寺のことだ。俺がそんな忠告をしても『ん? ボクの下着なんて面白くもないもの、見たい人間なんていないだろう?』なんて真顔で言うかも。ありえる。そんな遠藤寺に言いたい。ここにいるぞ!と。少なくとも俺は遠藤寺のスカートの中に顔を突っ込んで深呼吸をしたい。スカートの中は真っ暗で心細くなるかもしれないけど、その中に煌めくパンツを見て『パンツは○かった』みたいな名言を残したい(○の中身は不明。白かもしれないし、黒かもしれない。もしかしたら無かもしれない。覗いてみるまで分からない、これがシュレディンガーの猫ってわけニャ)

 

 大いに脱線したが、遠藤寺には人並みに危機感を持って欲しい、これが本音だ。だが頭でっかちな遠藤寺には言葉じゃ伝わらない。言葉で伝わらないなら……行動で示すしかないだろう。実際に覗いてから『ほらね。こうやって覗かれることもあるんだよ』と優しく声をかけよう。親友のパンツを覗くなんて罪悪感が半端ないけど、遠藤寺の為だ。遠藤寺がパンツを覗かれるどころか盗撮されて何やかんやで薄い本みたいな展開になってほしくない。そんな俺の切なる思いを分かって頂きたい。下心などない、と。分かった? よし、じゃあ行こうか。

 

「おっと、小銭を落として~」

 

 流石にいきなり机の下に潜り込んだら不審者感丸出しなので、小銭を転がす。小銭は食堂の床を転がり、上手いこと遠藤寺の靴に当たり停止した。遠藤寺の顔を見る。

 

「……」

 

 相変わらず熱心に読書をしている。それを確認してから、俺は机の下に潜り込んだ。

 

「おうふ!」

 

 ワックスをかけたばかりなのか、体を支える手が滑ってナチュラルに土下座をしてしまった。額を床に打ち付ける。床から伝わる冷たさで脳が『俺何やってんだろ』と冷静な思考を伝えてくるが、それを振りきって四つ這いのまま前に進んだ。机は小さい。すぐに目的の場所、遠藤寺が座る椅子に辿り着いた。

 

 最初に目に入ったのは、遠藤寺が履いている靴。底が厚い黒のパンプスだ。先端に赤いリボンが付いている。頭にもリボン付けてるし、遠藤寺って本当にリボンが好きだな、リボンが好きだからゴスロリ着てるのか、ゴスロリ好きだからリボンが付いているのか……これっていわゆる卵が先か鶏が好きかみたいな話? よく周囲の学生が『いい年してリボンってw』『あれくらいの年でリボンが許されるとか、佐祐理さんくらいだよねーw』と笑っているのを見るけど、俺は遠藤寺のリボンが好きだ。基本的に遠藤寺は武道(多分バリツ)をやっているからか歩く姿勢とかがすっごい綺麗で、身体とか全然揺れないけどリボンは揺れる。ふりふり揺れる。そのギャップがいい。そしてまあ……リボンが純粋に似合っているってこともある。

 

 さてお次は靴下だ。今日はどんな靴下かな? 個人的に遠藤寺の魅力の一つは絶対領域だと思っているのでニーハイを履いていて欲しい。ニーハイと素肌の境界のちょっと盛り上がったところ……辰巳、好きぃ! まあオーバーニーもタイツもガーターベルトも好きなんでつまり何でも好きな全方位超長距離射程捕捉型性癖持ちの俺が一番強い。

 

 で、靴下を見てみる。すると妙なことに気づいたんですよ……。最初は変わった色の靴下だなぁって思って……肌色の靴下なんてあるんだーと驚いたんですよ……。で至近距離でマジマジ見るとね……無いんですよ。靴下がね、無いんですよ。

 

「は、履いてない、だと……?」

 

 い、いかーん! 今スグDVD化で消える不自然な光もしくは不自然な湯煙を彼女に! ……いやいや落ち着け俺。履いてないのは靴下だ。靴下だからダイジョブ。靴下だから恥ずかしくないもん。

 

 改めて遠藤寺の足を見てみる。やはり履いてない。素足だ。生足だ。普段は靴下に覆われているムッチリとした足が、眼前に広がっている。絶対領域という限られた面積の肌しか見たことがなかったので、衝撃的だった。衝撃!素足編!

 しかし素晴らしいムッチリ具合だ。太すぎず細すぎず、そしてシミ一つ無い美肌。俺の中で『挟まれたい』という未だ感じたことがない未知の感情が生まれた。蟹の様な感情。今すぐ挟まれたいガニー。

 最早哺乳類という殻を捨て去って、甲殻類の殻を纏い畜生本能に身を任せた俺は、それはもう息のかかるほどの至近距離でその足をガン見したとさ……(蟹だけに昔話風)

 

「――少し息がくすぐったいな。見るのはいいけども、少し離れてくれないか?」

 

「あ、ごめん」

 

 天から降ってきた声に、ほぼ無意識に従った。肌色いっぱいだった俺の視界に、遠藤寺の下半身全体が映った。目の高さにはつるつるした膝小僧がぴったりと並んでおり、そこから上は挟まれ帯である太ももが、トンネルに入っていく新幹線のようにスカートの中に伸びていた。残念ながら足をぴったり閉じているせいでスカートの中は暗黒領域と化していた。

 うーん葉賀ユイ……いや歯がゆい。後3cm……いや2cmで十分ですよ。2cmでいいから開いて欲しい、その願いを天に向けて祈ってみた。

 

「ちょっと足を開いてくれたら嬉しいんだけど」

 

「……いや、流石にそれは……困る。何というか……足を見せるのはいいが、そこから先は親友同士の戯れじゃすまないと思う」

 

「だったらどうすればいいんだ! どうすれば見せてくれるんだ!?」

 

 金か!? 金なら俺の親友の遠藤寺が腐るほど持ってるぞ!?

 まあ、俺は持ってないな……うん。どれくらい貯金あるかすら自分で把握してないし、エリザ任せだし。

 いつか将来大金持ちになったら、ANIMATEをカネの力で無双したいものじゃー、です。

 

「どうすればって、それはまあ……親友より先の段階に行けばいいと思うけど」

 

 なるほど、親友より先に進めばスカートの中を見放題なのか。しかし親友より先ってなんだ? 超親友? 心の友と書いて心友? 真友? 魔友? まおゆう? ……あれ、何の話してたっけ?

 

 と、ここで俺は気づいた。俺がさっきから話している天の声って誰? メタ的なことを言うとcvが遠藤寺の中の人とそっくり。そっくりっつーか同じ。つまりこの声の主=遠藤寺? バーロー?

 

「え、遠藤寺?」

 

「そうボクだ。やあ元気かい? ――ところでボクの足はどうだい?」

 

 遠藤寺の顔は見えない。だが怒っているような声には聞こえない。どちらかと言うと期待感に満ちたような、若干の緊張を含んだ……そんな声だ。

 

 感想を述べる前に、取り合えず気になっていたことを聞いてみた。

 

「な、何で素足なんでしょうか?」

 

「ん? ああ、この間大学内を歩いている時、君が素足をさらけ出している生徒をこれでもかと熱心に見ていたからね。隣で歩いているボクの声が届かないほどに。だから素足に興味があるのかと思って試してみたんだ」

 

 女子大生ってホント馬鹿。あんな水着みたいなショートパンツ履いて生足曝け出しよってさぁ……そりゃ見るだろ! 親御さんに悪いなーとか思いつつ見ちゃうでしょうが! 俺は悪くねぇ! 

 

 しかし遠藤寺さん、俺が素足に興味ありそうだから試してみたって……なに俺って実験動物扱い? モルモット? そりゃ美少女に身体を弄繰り回されたいって欲望は誰にだってあるだろうけどさぁ……。

 それはそれとして感想を求められたからには返すのが礼儀だろう。

 

「いや、まあ……凄い綺麗だけど。多分、この大学にいる女子の中じゃあ、一番きれいな足だと思う」

 

 偽りも脚色もない心から取り出したばかりの新鮮ピチピチな感想。

 普段だったら言えないだろうけど、机の下にいて顔を見ていない今なら言えた。こういう時、モテロード爆走する主人公だったら面と向かって笑顔浮かべながら言えるんだろうな。俺にはこれが精いっぱい。

 

「そ、そうかそうか。ふむ……自分の足を褒められたのは生まれて初めてだけど……嬉しいものだね。何だろうか、胸の奥が仄かに温かい。高揚感もある。大学にいる女学生はファッションショーでもやっているのかと問いたくなるような女性ばかりだけど……少し気持ちが分かった気がする。なるほど、これは挙って着飾る理由も理解できる……独特な快感だ」

 

 珍しく上ずった声で捲し立てるような早口。今遠藤寺はどんな顔をしているのだろうか。

 気になってテーブルの下から這い出る。勿論入ったところから出た。出口はもう一つあったけど、それってつまり正面、いわゆる這いよれ遠藤寺さん状態で、遠藤寺という山を登らないといけない。それはそれで登山魂が刺激されるけど、今の俺にはレベルが高すぎる。

 

 テーブルの下から這い出て、咳払いをしながら着席した。遠藤寺を正面に捉える。

 遠藤寺は仄かの頬を赤く染め、その口は両サイドにつりあがっていた。擬音を付けるなら『にやにや』だ。

 

「ふふっ。お粗末様でした、とでも言えばいいのかな?」

 

 からかうような口調で問いかけてくる遠藤寺に、少しむっとしたがら返した。

 

「……俺が来たのっていつから気づいてた?」

 

「君が席に着いた時には気づいていたさ。いや、君が食堂に入ってきた時にうっすらと気配を感じてはいたけど」

 

 ぱねぇー。遠藤寺さんの円の範囲すげぇー。ノブナガさん涙目っすわ。

 

「いや、でも……熱心に読書してたじゃん」

 

「いくら本に夢中だからといって、親友の君の存在に気づかないなんてことあるはずないだろう?」

 

「だったら声掛けてくれよ」

 

「いや、そうするつもりだったさ。それから席を立ってボクの装いを見てもらおうと思っていたんだ。……まさか席の着くなりいきなり机の下に潜り込むとは思わなかったよ。思わず声をかけるのも忘れうくらい滑らかな動きだった」

 

「いきなり?」

 

「そう、いきなりわざとらしい口調で小銭を落としたよね」

 

 席に着くなりいきなり? いや俺の主観時間では5分ほど席に座ってたはずだ。だが遠藤寺が嘘を言っているように見えない。遠藤寺の感じている主観時間と俺が感じた主観時間の相対性。よし、これを特殊な相対性理論と名付け、卒論のテーマにしよう。

 

「ま、いいさ。君に足を見せるという本日の目標は完遂した。うん、満足だ。……さて、では君の番だよ」

 

「え? 俺の番って……俺も生足になれと!?」

 

 いや、まあなれって言うんならなりますけど。でも処理とかしてないし……いや、してたらしてたでキモイか。

 

 俺がズボンを捲り上げるか上げまいか一瞬悩むと、遠藤寺が呆れたような表情で言った。

 

「……違う、そうじゃない。君、ボクに何か用があるんだろう?」

 

「あ、そうだけど。え? 俺言ってたっけ?」

 

 実の所、今日はノーアポだ。多分この時間に食堂来たら遠藤寺がいるだろうなーと思って来ただけだ。

 事前に用件を伝えていたら、円滑に話が進むだろうけど、俺は遠藤寺との回りくどい会話が大好きなので、伝えてなかったのだ

 

「ほぼ四六時中一緒にいたら、顔を見ただけで何を考えているかぐらい分かるさ。それにボクは探偵だよ?」

 

 「君の振る舞いから推理することも朝飯前だよ」と人差し指を立てる遠藤寺。

 こりゃうかつにエロいことも考えられねぇな。まあ、昔から俺は顔に出ないタイプの助平って言われてるからその辺は大丈夫か。

 遠藤寺との雑談は惜しいが、仕方ない。本題に入ろう。

 

「あー……俺んちに幽霊いるじゃん」

 

「ああ、いるね。ここだけの話、君が精神を病んで幻を見ている可能性も未だに少しは考えているんだけれど……あの幽霊だね?」

 

「それ初耳だし、俺心患ってないからその可能性は捨てて」

 

 これを冗談で言ってないから困る。素面で『おまえ、頭でえじょうぶか?』と言っちゃう遠藤寺さんは当然のように友達がいない。まあ、俺もだけど。

 

「で、君の家に出没するようになった……いや、君が入居する前からいたんだっけか。その幽霊がどうしたんだい? 今まで見せていた新妻のような献身的な態度は演技で、遂に本性を現したのかい?」

 

 楽しそうな遠藤寺。ちなみに本性云々の疑惑は俺の中にほんのわずかにだが存在する。だからこそ、今回の作戦で寝ている姿を通してエリザの本音を聞きたいと思っているわけだ。

 

 遠藤寺はエリザが本性を表した体の話を続けた。

 

「それなら前も言ったように、ボクの家に来るといい。家賃なんてケチ臭いことは言わないさ。ただボクの助手としてもっと働いてくれたら御の字だ」

 

「助手とかいって、前みたいに孤島の洋館に連れていったりするのはもう勘弁してくれ……ってそうではなく」

 

 俺の脳裏にあの惨劇の1泊2日が浮かんだ。もう第一発見する度に悲鳴をあげる役はコリゴリだよ~。

 

「おかげ様で幽霊とはうまくやってるよ」

 

 毎日一緒に風呂に入ってるくらいには上手くやっている。『辰巳君と……これからもずっと入りたいな』ってモジモジしながら言っちゃうエリザちゃんマジ綺麗好き。

 

「だったら何が問題なんだい?」

 

「うん。じゃあまあ単刀直入に言うけど」

 

「ふむ」

 

「寝顔を見たことないんだよな。で、寝顔見たいから協力してくれって話」

 

「なんだそんなことか」

 

 遠藤寺は「やれやれ」と肩をすくめた。

 

「寝顔が見たい、ね」

 

 そして目閉じて3秒ほど間を開けてから

 

「……寝顔?」

 

 と眉を寄せて言った。ちょっと何を言っているか分からない、みたいな顔だ。

 

「そう寝顔。寝ている時の顔な」

 

「いや、寝顔の意味は分かる。君が幽霊少女の寝顔を見たくてボクの元へ相談に来た、それはまあ……分かった」

 

「話は早いな。じゃあ早速――」

 

「いやいや待ちたまえ。要件は分かった。だが理由が分からない。君が寝顔を見たいという理由を考えてみたけど、ちっとも分からない」

 

 遠藤寺は食堂という場にふさわしくない、緊迫した表情を浮かべた。

 遠藤寺は推理中毒を患っているので、分からないことがあるととてもイライラするのだ。

 

「ちっとも分からんの? どうした名探偵」

 

「……ぐぬぬ。……君が寝顔を見ようと色々試みているのは分かる。最近……そうだな2日ほど前かな。コーヒーを飲んだだろう? 若干口臭にコーヒーの匂いが混じっている。それに普段より幾分か目が冴えているように見える。寝顔を見る為に夜更かしをしようとしたんじゃないか? そして失敗した。その流れで考えるなら、次に対象よりも早起きをしようと君は思うだろう。そしてそれも失敗した。そしてボクの元に来た。いや、その前に……君の交友関係から考えると……家族辺りにでも相談したんじゃないか?」

 

 俺の行動を次々と当てる遠藤寺。まるで前回前々回のあらすじのような内容だ。

 

「そこまでは分かった。だが君の動機が分からない。何故同居している幽霊の寝顔を見たいと思うんだ? そこに何の意味がある? 寝顔を見ることで君に何の得がある?」

 

 むしろ得しかないと思うんだけど。

 

「ただ見たいからじゃダメなのか?」

 

「ああダメだね。物事には理由があって然るべきだ。誘拐にも殺人にも……そして寝顔を見ることにも」

 

 そこに並べちゃうと寝顔を見ることが犯罪みたく思える。

 まあ、そこまで言うなら理由を教えよう。遠藤寺が納得するかは置いておいて。

 

「理由か。――可愛い幽霊の可愛い寝顔を愛でたいからだ」

 

「……」

 

「なんだその顔は」

 

「これが本邦初公開、ボクが生まれて初めて浮かべる『嫉妬と呆れ』が混ざったなんとも言えない表情だよ」

 

 確かにそんな感じの表情だ。なんともいえない感がなんともいえない。

 

「本当にそれだけの理由なのかい?」

 

「まあ、うん。ていうかたかが寝顔を見たいってだけで高尚な理由を求められても困る」

 

 俺は改めて遠藤寺に、現在の状況について伝えた。

 エリザは俺より早く起きて、遅く寝る。夜更かしも試したが無駄で早起きも失敗した。残る手段は遠藤寺の策か、雪菜ちゃんの策を借りて狭い部屋に監禁して四六時中観察をする、くらいしかない。

 

「……はぁ」

 

 遠藤寺は組んだ手に額を載せて溜息を吐いた。表情から嫉妬が抜け、呆れだけになっている。

 

「どうかしたか?」

 

「いや、なんでボクはこんな意味の分からないことを相談されているのか、と。そう思ったら溜息が出た。君、一応聞くけど幽霊少女の寝顔を見たいのかい? それとも寝顔だったら誰でもいいのかい? 後者だったらボクが協力しても……」

 

「いや、前者だな」

 

「……あ、そう」

 

 遠藤寺の寝顔も見たいが、今はエリザだ。2人同時に寝顔見るなんてできないからな。

 昔の人は言った。二兎を追うものはズッ友だよ……って何言ってんだ俺。

 

「……はぁぁぁぁぁ」

 

 遠藤寺が今まで見たことのない、それはもう長くて深いため息を吐いた。

 朝食に食べたのか、リンゴの匂いが仄かに香る。うーん、愛媛産かな?

 

 遠藤寺が顔を上げた。笑っていた。いつものニヒルな笑顔ではなく、自嘲的な力ない笑み。

 

「……何が一番悔しいって、こんな下らなくて会った事もない幽霊に塩を送るような相談をされているのに……君に頼られていることを嬉しいと感じている自分にだよ。はぁ……これが……惚れた弱みってやつかな」

 

「幽霊に……塩……」

 

「君、人の言葉の中に面白いフレーズを探すのはやめろ。今最後の方、凄く恥ずかしいことを言ったんだけど。……何を言っているんだボクは、まったく……」

 

 遠藤寺が白い頬をうっすらと赤く染めていた。そりゃ惚れた云々なんて言葉使うのは遠藤寺だって恥ずかしいのだろう。

 俺の中の検索エンジンが『もしかして:恋』とか勘違いするから、その手の言葉は本当に勘弁してほしい。遠藤寺が俺のことを好きなのが知っているが、それは友人としてのものだ。普段から本人が明言しているだけあって、それは間違いない。そもそも遠藤寺の辞書には恋愛って言葉ないっぽいしな。

 

「それで何とかなりそうか?」

 

「まあ……要するに幽霊少女を眠らせればいいんだろう?」

 

「ああ。でもだからってバーリトゥード(何でもあり)はダメだぞ? 氷で作った鈍器で後頭部を殴って眠らせるとか走ってるジェットコースターの上でピアノ線を使って何やかんやで眠らせるとか」

 

「何で〇ナンみたいな方法なんだい?」

 

 お、通じるのか。流石ミステリーものなら古今東西読んでいると豪語するだけある。

 

「まぁ……ないこともないよ」

 

 遠藤寺は自分のカバンを漁り、何やら錠剤の入った瓶を取り出した。

 

「これは即効性の睡眠薬さ」

 

「……」

 

「分かるよ。君のその顔『そんなもの効くのか?』『何故そんな物を持ち歩いている?』そんな疑問だろう」

 

 正解。

 

「前者から答えると……効く。ある事件で知り合った自称天才発明家の老人が作ったこれは……非常に効く。1錠でちょうど30分、幼児から成人男性、老人問わず眠らせる。副作用はない」

 

「怪しすぎること山の如しなんすけど」

 

「だが非常に重用している。それが後者の理由だ。ボクは今でこそ、そこそこ名が売れて『漆黒衣探偵――遠藤寺』と呼ばれているが」

 

 まずその二つ名が初めてなんすけど。

 

「まだ名前が売れてない頃、事件に巻き込まれて真相が分かり解決しようにも探偵という肩書が信じてもらえなかった。そこでこの薬を使って適当にそれらしい人間を眠らせ探偵七つ技術の一つ、声真似を使って事件を解決していたのさ。最近でも、信じてもらえない時はこの手段を使っている」

 

「お前小〇館に訴えられるぞ」

 

「というわけで、これを持って行くといい」

 

 そのまま瓶をスライドさせてくる。

 

「いや……この手段はどうなんだ?」

 

 いくら寝顔を見たいからって、薬使ってまで眠らせるのは人としてかなり……畜生にも劣るのではないだろうか。

 

「だが他に方法があるのかい?」

 

「……いや、ないけど」

 

「なら使うといい。余談だがその薬を服用すると、非常に心地よい眠りにつくことができる。30分の睡眠で、9時間ぐっすり眠ったような質のよい睡眠をね。君の話を聞くにその幽霊少女は十分といえる睡眠時間をとっていないように思う。普段お世話になっている代わりにこれを使って休んでもらう、そう考えれば君の罪悪感も少しは薄れるんじゃないかな?」

 

 そう聞くと自分がやろうとしていることが善行なのではと思う(錯覚)

 それにもう手段がない。ただでさえ交友関係が狭い俺は、他に相談する相手がいないのだ。

 これしかない。

 

 俺は瓶を受け取った。ラベルに小さく『くれぐれも悪用するんじゃないぞ』と書かれていた。大丈夫なのか。

 

「ふむ。どうやら本当に服用してもいいものか、不安なようだね。じゃあ、試してみよう」

 

 そう言うと遠藤寺は柱と観葉植物の隙間を指した。

 

「あそこに今にも倒れそうな体で課題に取り組む男子学生がいるだろう?」

 

「ああ」

 

 遠藤寺の言葉通り、指差す先には6人がけのテーブルに教科書を広げ、目を血走らせた状態でシャープペンシルを走らせている男子生徒がいた。額には『背水の陣』と書かれた鉢巻。目の下にできたクマは男子生徒が1徹や2徹どころではない徹夜を続けているだろうことを思わせた。口の端からは自分でも気づいていないのか余裕がないのか涎がダラダラと垂れている。

 耳を傾けてみた。

 

「――ケヒヒヒッ! ケヒッ! ケヒヒッ! ウヒヒッ! きょ、今日中に課題を提出できなかったら……留年確実ゥ! しゅごいッ! ウフフッ! 留年したら実家に帰って幼なじみと……結婚するプロミスゥッ!(約束) ヘケッ! 限りなくゴリラに近い幼馴染(アダ名:カイザーコング)と……結婚しちゃうのぉぉぉぉぉぉほぉっ! ……イクッ!」

 

 ビクビクと痙攣しながらそんなことを言っていた。

 うーん、人間って追い詰められるとあんな風になっちゃうらしい。ああはありたくないですね。

 あの課題の量と何よりも彼の状態、確実に今日までに課題を仕上げるのは不可能だろう。

 

「であの今にも爆発しそうなダイナマイト系男子がどうした? お得意のタンテイ=ジツを使って介錯、ネクストライフに送ってやるのか?」

 

 それをしてあげた方が彼の為だと思った。甘くもないし優しくもないこの世界では、彼の人生は詰んでいる。コレ以上彼の人生が上方修正される予定はないだろう。早々に今の人生からログアウトして次の人生に賭けた方がいいと思う。もしかしたら次の人生は異世界で奴隷ハーレムとか築けるかもしれないしな。

 

「まあ、見ているといい。この錠剤をボクの探偵技術の一つ、狙撃で……弾く」

 

 遠藤寺が手のひらに載せた錠剤をデコピンで飛ばした。錠剤は観葉植物の隙間を抜け、見事カイジ(人生詰んでる)系男子の口にインした。

 即効性の名に恥じず、男子学生はテーブルに額を打ち付ける勢いで眠った。

 

「……」

 

 遠藤寺はいつも通り鋭い目つきを浮かべたまま、器用にどや顔を浮かべた。

 男子学生は食堂に響き渡り大きないびきをかき眠り続けた。その顔は先ほどの(人生の)崖っぷちにいる男のそれではなく、大好きな母親に抱かれる少年のようなあどけなく安らかなものだった。

 

「……うーん、むにゃむにゃ。やーいブース。お前のアダ名今日からカイザーコングな!……むにゃりむにゃり」

 

 アダ名付けたのてめえかよ。ゴリラと結婚するのも自業自得のような気がしてきた。

 

 そのまま30分、柱の影から男子学生を観察した。30分と分かっているんだから、席で待っておけばいいと俺が言ったが「いや、しっかりと効果があるか最後まで観察した方がいい。その方が君も納得するだろう」という遠藤寺の強い主張により観察を続けることになった。30分は短かった。柱の影で遠藤寺と密着しながら過ごす30分間はそれはもう短かった。授業の30分より圧倒的に短く感じた。これも相対性理論かもしれない。

 

 そして30分が経ち、男子学生が目を覚ました。

 

「……はっ。俺……寝てたのか」

 

 貴重な30分を費やし、さぞ後悔するかと思いきや

 

「何だろうか……凄く、気持ちが落ち着いている。ははっ、何をピリピリしてたんだろうな。俺、今まで生き急ぎ過ぎてたんだな……目が覚めたよ」

 

 先ほどまで血走っていた目は知性の揺らめきを感じさせるそれに代わり、纏う雰囲気は悠久の時を生きた賢者の様。憑き物が落ちたような表情。

 

「課題、か。これくらい今の精神的山頂に上り詰めた俺なら……今日中に終えることも容易い。だがそれよりも大切なものがある。アイツに会わないと。田舎で待ってるアイツに。ずっと好きだったんだ。恥ずかしくて言えないまま都会に出てきたけど……どれだけゴリラの様な容姿でも……好きなものは好きだったんだ。ははっ、何だ好きだって認めちまえば楽だな。よし、課題は昼までに終わらせよう。それから田舎に帰る。帰ってアイツに告白する。告白のセリフはどうしようかな? 動物園のゴリラに興奮するようになった責任、とってもらうんだから……これにするか」

 

 今や精神的超人になった彼は、圧倒的な余ーラ(余裕+オーラ)を放ちつつ食堂を去った。

 彼が進む道はバッドエンドかハッピーエンドか。それは誰にも分からない。神ですらも。

 

 男子学生を見届けて、遠藤寺が振り返った。

 

「どうだい?」

 

「いや……どうなんだアレ?」

 

 このままだとあの男子学生、ゼロから始める田舎生活~ゴリラ系幼なじみといく~みたいな展開に進みそうなんだけども。これ明らかに一人の人間の人生を操作しちゃったような……。

 

「さて、効果も確認できただろう? ふむ、そろそろ昼時か。君今日は昼食を持ってきていないんだろう? うどんで良かったら奢るよ。ああ、そうだ。前から試してみたかったカップル限定うどんという物があるんだが、よかったら協力してくれないか?」

 

 遠藤寺は去っていた学生に何の思う所もないらしく、上機嫌で食券販売機に向かった。

 

 俺の手元にはたんまり錠剤が入った瓶が。

 使うべきか使わざるべきか、それが問題だ。

 

 まあ、今はお腹が空いたので遠藤寺が笑みを浮かべながら運んでくる巨大なうどんを食べるとしよう。

 カウンターに貼ってあるメニューを見た。

 

 『カップル限定うどん:ルール……箸は1膳だけしか使えず。破ったカップルは破局します』

 

 俺はやれやれ系主人公のようにやれやれを連呼しながら、いつもの席に向かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ

「本当にこれでよかったのか……」

 

 昼食後『ゾンビ映画における最も高い生存方法は面白黒人になること~cvエディ・〇ーフィー~』という色んな意味で頭がおかしい講義を受ける遠藤寺と別れ、俺はアパートへの帰り道についていた。

 去年の誕生日に雪奈ちゃんが買ってくれたお洒落な肩掛け鞄の中には、遠藤寺から渡された即効性の睡眠薬がたんまり詰まった瓶が入っている。

 効果の程は確認できたが、本当にそれを使ってしまっていいのか、俺の胸に罪悪感が靄のように漂っている。

 

「だがもう、他に方法がないんだよなぁ」

 

 他に方法がないイコール他に相談できるような知り合いがいないということである。俺のコミュニティ狭すぎ……。

 まあ、正直今のコミュニティで満足しちゃってる部分もあるけど。十分に楽しいし。

 友達とか増え過ぎたらアレだ、フラグ管理とかヘイト管理とか大変なんでしょ?(ゲーム脳)

 

 そんなことを考えながら歩いていると、アパートに近くまでたどり着いた。

 今見える角を曲がれば愛すべきアパートが見える。

 

 さて、今日の大家さんへの第一声はどんな感じにしようか。タツミン星人行ってみるか? ノリのいい大家さんなら合いの手入れてくれるか? だが滑った時の痛さは骨折の比ではない……。

 

 なんてことを考えながら歩いていると、すぐ側の電柱脇にある、よく見るタイプのゴミ箱が――ガタガタと……動いたぁ(森本レオ風)

 

「わぁぁぁぁぁい!?」

 

 俺は悲鳴をあげた。遠藤寺のおかげ(せいとも言う)で、普通の死体では気絶しないくらいメンタルが鍛えられた俺でも、突然ゴミ箱が動き出したら叫んでしまう。

 住宅街に俺の悲鳴が轟いた。

 幸いお昼過ぎでテレビ番組をウキウキウォッチング中なのか、近所のマダム達は召喚されなかった。

 昼過ぎでよかった。朝方とかだったら旦那を会社に送ってそのまま世間話モードに入ったマダム達がわんさか沸いてきちゃっただろうからな。

 そのマダム達を薙ぎ倒す爽快アクション『マダ無双』の発売マダー?

 

 俺が悲鳴をあげつつ慌てて逃げ出そうとすると、ゴミ箱の蓋がバンと持ち上がった。

 そして現れたのは――蓋を持ち上げる腕、麦わら帽子、少女の顔、白いワンピース。

 同じアパートに住む女子小学生だ。麦わら少女は両手でゴミ箱の蓋を持ち上げ(サザエさんのOPのアレを想像するといい)、おびえた表情でキョロキョロと周囲を見渡している。

 一通りクリアリングを行うと、愛用のスケッチブックにこれまた愛用のマジックペンをさらさら走らせた。

 

『静かに!』

 

 見せられたスケッチブックにはそんな文字が書かれていた。ちなみにスケッチブックを両手で持っているので、支えられていた蓋は頭の上にのっている。麦わら帽子onゴミ箱の蓋。

 

 俺は先ほど悲鳴をあげてしまった恥ずかしさを誤魔化すように、未だ周囲の警戒を怠らない麦わら少女に心持ち強気で話しかけた。

 

「……何をやっているのかね? 何でゴミ箱に入ってんの? 履歴書に書けないタイプの趣味か?」

 

『趣味なわけねーでしょうが! 隠れてんの! ハイドしてんの!』

 

 なーんだ隠れんぼか。深刻な表情してるからよほどの事だと思ったぜ。

 しかし隠れんぼって、随分と子供らしい遊びを。いっつも蟻の観察してたり、その蟻の巣の前に餌を置いたり、他の巣と交流するように仕向けたり……蟻の巣経営シュミレーション『アリシティ』してる姿しか見てないから意外だ。

 この子も普通の小学生と同じってことか。

 

 最近公園とかで頭突き合わせて携帯ゲーム囲んでいる子供達見かけるけど、あーいうのはいかんよね。やっぱり外で遊ぶなら、こういうアナログな遊びしないと。

 

「ふふふ……」

 

『なに慈愛の表情で見てんだキモイ! さっさと消え――』

 

 膨れっ面を浮かべる少女だが、突然その顔が真っ青になった。ジワリと目の端に涙が浮かぶ。

 

『も、もう駄目だぁ。おしまいだぁ……見つかっちゃったぁ……』

 

 絶望的な表情。死を迎える者のそれ。見つかったって……鬼に?

 最近の隠れんぼって、凄いリアルっつーか、演技がかってるのね。まあ、子どもの遊びってそういうところあるよな。鬼に触られたら死んだことなーとか、砂があるところはサメがいることなーとか。そうやって設定作ることで盛り上げてるんだよね。そうやって培ったノウハウが大人になった後、夫婦間のイメージプレイにも役立つんだろうね(台無し)

 

 しかし、この麦わら少女。演技が堂に入り過ぎだ。マジで殺人鬼にでも追われてるみたい。将来は女優かな? できることなら、子供向け教育番組から新人女優知名度向上の為だけに作られた映画、少年漫画原作の実写映画、誰でも知ってる小説原作の映画主演、ハリウッド映画へ……といった具合にエリートコースを進んで欲しい。

 まあ人生何が起こるか分からないし、途中でグラビアからAVってルートもあるだろうけど、それはそれで……ね。 

 

 俺がそんな下衆い未来予想図を描いているとは思いもしないだろう少女。それどころではない様子で震えていた。

 

『や、やつが来る……』

 

「鬼?」

 

『あたしはここにいないってゆって! なんでもすろから! おわがり!』

 

 焦りと手の震えで、スケッチブックの文字に誤字が目立つ(この誤字は意図的な誤字なので指摘はいりません。何を言っているのか分からないが、分かって欲しい)

 

 少女の遊びに巻き込まれて俺は微笑ましい気持ちになった。少女達の遊びに触れ合うことで、少しだがかつての童心を思い出したのだ。何より遊びに混ぜてもらうのが嬉しい。

 よーし、パパ頑張っちゃうぞー。

 

「分かった分かった。鬼が来ても別方向に行ったって言うから」

 

『ありがとう……ほんとうに……ありがと』

 

「で鬼が明後日の方向に行きそうになったら、馬鹿もんルパンはここだー!ってゴミ箱の蓋開ければいいんだろ?」

 

『ぶっこおすぞ! FACK!』

 

 スケッチブックに描いたおっ立てた中指を見せ付けてくる。

 

『いいからふつうにかくまえばりりの! よけいなことすんあ!』

 

「はいはい」

 

 少女は再びゴミ箱の中へ戻った。

 蓋が少し持ち上がり、そこからジッと視線を感じる。

 

「さてさて、どんな可愛らしい鬼が来るやら」

 

 できるならちょっと嫉妬深いヤンデレタイプの鬼は来てほしいっちゃ!

 

 1分も経たず鬼とやらはやってきた。

 角の向こうから、サクサクと足音が聞こえる。次いで声。

 

 

 

「――どこだ……。どこにいやがる……。はぁはぁ……」

 

 

 

 ……なんだろうか。思っていたより、声が野太い。少女と同年代の子供にしてはちょっと……年季が入りすぎてるような。

 ズズンと体に響くような低い声。

 

「麦わらちゃん……怖くないよー……へっへっへ……出てきて遊ぼうよ……」

 

 足音と声が近づく。近づくにつれ背後にあるゴミ箱ががたがた揺れる。隙間から漏れ出る押し殺した恐怖の声。

 ふと、シャツの背中がが張り付いていることに気づいた。汗をかいているのだ。それも多量の。

 額や首元、至るところから汗が流れる。口内が乾き、舌が上顎に張り付いた。

 心臓が今すぐ逃げろと言わんばかりに早打つ。が、足が動かない。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 鬼の声じゃない吐息が聞こえた。これは俺の声だ。無意識に呼吸が荒くなっている。

 なんだこれは。いったいなんなんだこのプレッシャーは。

 

「この先かなぁ……?」

 

 鬼の声がすぐそこ、目の前にある角から聞こえた。この先にいる。

 逃げようと思った。だが足が動かなかった。逃げるならもっと早く逃げるべきだったのだ。俺は選択を誤った。バッドエンド。

 

 角から影が見えた。大きい。想像以上に大きい影。

 鬼の濃密な雰囲気が角から一気に漏れ出す。

 

 

 

「――みつけたぁぁぁっぁぁぁぁ!!!」

 

 

 鬼は身長180cmを越える大男で、血走った目と膨れ上がった筋肉の固まりで……鬼以外の何物でもなかった。

 

「うわぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 そんな物が角から飛び出してきたから、俺は悲鳴をあげた。本日2回目の悲鳴。

 俺は思った。大学を出る前にトイレに行っておいてよかったと。もし行ってなかったら、誰得サービスシーンが展開されたであろう。

 そんな誰得サービスシーンが見たい危篤(誤字にあらず)な方いるなら、まあ……期待に応えていつか、な。

 

「見つけたぞ麦わらちゃん!……って違うじゃねえか!」

 

「うわぁぁぁぁ!……え?」

 

 鬼の声が聞き覚えのある声だったので、取りあえず叫ぶのを止めて鬼の姿を見た。

 180cm筋肉モリモリの大男、ピンク色のエプロン、片手に持った虫取り網、完全に禿げ上がった頭にハチマキ、鬼と見間違えるような恐ろしい顔。

 

 肉屋のオッサンだった。

 

 映画シャイニングの有名なシーンみたいな強烈な顔をしていたオッサンだが、俺の顔を見るなりその顔をしかめた。

 

「んだよ! てめえかよ。くっそ、こっちにいるような気がしてたんだけどなぁ」

 

 キョロキョロとあたりを見回すオッサン。

 俺は恐る恐る問いかけた。

 

「あ、あの……何やってるんすか?」

 

「ああ? 日課の大家ちゃまウォッチングの途中だよ。で、その途中で無茶苦茶可愛いロリを見つけたんでな、捕まえようとしてた」

 

 当たり前のように意味不明なことを言うオッサン。

 どうやら、麦わら少女のかくれんぼの相手はオッサンだったらしい。

 そりゃあんだけ震えるわ。

 

 しかし、聞き捨てならない言葉が一つ。

 

「……大家ちゃまウォッチング?」

 

「なんだてめえ知らねえのか? 俺達の星、いとしいあの人、永久幼女、至高天、黄金の幼女、幼精王オベイロリ――まあ呼び方は色々あるが、その大家ちゃんを視姦する楽しい楽しいレクリエーションのことだよ」

 

 なんだ、俺がいつもやってることか。

 

「非公式ファンクラブ【OOO(おっすおっす大家さん)】の規則で、アパートの敷地内に入れねえからな。出待ちしてんだが、今日は外れみたいでどうにも姿を見せてくれねえ。涙を呑んで帰ろうとしたら……麦わらちゃんが現れたんだよ!」

 

 オッサンの気合に入った呼びかけに、背後のゴミ箱が揺れた。

 

「いやぁ、俺としたことが大家ちゃまの近くにあんなすんばらしいロリがいたとは、気づかなかったぜ。あの子はいいぜぇ、纏ってる炉気がハンパねぇ。そんじょそこらのロリコンじゃ、視界に納めただけで精神的に去勢されちまう。10年に、いや100年に一人に逸材! まさか、この極東の片田舎にいるとは、仏様でも思うめえよ」

 

「仏様もそんなとこで引き合いに出されるとは思ってもいないだろうな」

 

 鼻息荒く語るおっさんには悪いが、俺は今すぐにこの場を去りたい。

 ロリロリ連呼するオッサンの近くにいたら、俺まで同種に思われる。

 

「つーわけでおい。麦わらちゃんを見なかったか? こっちに逃げたとはずなんだが……おっとどんな子が言ってなかったな。一言で表すなら――『L〇の夏号表紙を飾ってそうな田舎麦わら少女』って感じか」

 

 あまりにも酷すぎる例えだが、なるほどと納得してしまう俺がいた。

 

「で、どうなんだ?」

 

「いやぁー……」

 

 背後にあるゴミ箱からは、恐怖に震える少女の気配が漂ってくる。恐らく距離的に俺にしか聞こえないであろう、小さな小さな嗚咽も。

 ここはまあ、人として当たり前の行動をとるべきだろう。流石にここで少女を差し出すという外道にはなりたくない。

 

 だが、待てよ。オッサンの目的はなんだ? ただロリとお話がしたい、健全な遊びがしたい、年経た自分がロリと触れ合うことであの頃の思い出に浸りたい。そういう無垢な願いを抱いているならどうだろうか。

 見た感じ、人殺して店に並べるタイプのサイコパスに見えるオッサンだが、心は綺麗な宝石のように輝いているかもしれない。人は見かけで判断してはいけない。

 

 というわけで聞いてみることにした。

 

「ちなみに……その子を捕まえてどうするんです?」

 

「ん? まあ……そうだな。取りあえず家にお持ち帰りしてスモック(園児の服)を着せた後――」

 

「あ、もういいです」

 

 完全にyesロリータyesタッチの人じゃねえか。

 執行対象待ったなしのサイコパス……!

 何故ポリスはこの男を放置している……! 俺の職質してる暇あったら、まずこのオッサンを豚箱にぶち込んで欲しい……! 俺のたった一つの望み……!

 

 当初の目的通り、少女を助けることにした。

 俺が今まで歩いてきた道を指さす。

 

「あー、そういえばそれっぽい女の子とすれ違った気がしますね」

 

「あっちか?」

 

「はい」

 

「そうかそうか。じゃさっさと追いかけるぜ!」

 

 オッサンが大股で俺がさした方向に歩いて行く。背後のゴミ箱から安堵の溜息を感じた。

 

 と、数歩歩いたところでオッサンが立ち止まる。

 

「そういえば言い忘れてたんだけどな」

 

 背を向けたままで語るオッサン。

 

「可愛いロリには特有の空気、つーかオーラか? そういうもんがあるんだよ。俺はそれを炉気って呼んでんだよ」

 

 女子力みたいなもんか? 

 

「で、俺レベルの猛者になるとその炉気を感じ取ることができる。自慢じゃねえが、30メートル内なら家の中にいようが完全に一人一人識別できる」

 

「本当に自慢になってない……」

 

「ちょっと離れたところにデカい炉気が一つ――これは大家ちゃまだな。で、だ。すぐ近くから薄い炉気――これはお前だ坊主。何で男のお前から炉気を感じるか……これはまあいい。尋常じゃないほど濃い時もあるし、今日みたいに薄い日もある。前々から疑問だったが……大家ちゃまの近くに住んでるから、その炉気が身体に染みついてるのかもしれねえな、すっげえ羨ましいなおい!」

 

 なおも背を向けたままのオッサン。

 

「いや、オッサンのスカウター特技自慢はいいから。何が言いたいんだよ? さっさとオッサン目的のロリを追いかけたらどうだ?」

 

「ああ、悪い悪い。じゃあ率直に言うぜ?」

 

 オッサンが振り返る。

 その顔は――捕食者の眼。獲物を前にした獣の表情。

 

「てめえの後ろにあるゴミ箱……怪しいよなぁ、おい。炉気がそこら辺から漂ってくるんだよなぁ。かなり小さめのゴミ箱だが、小さな女の子くらいだったら隠れられるんじゃねぇか?」

 

「え、エ〇パー伊藤だっていけると思うよ?」

 

「いいからどけ! そのゴミ箱からぷんぷん匂ってくるんだよっ! ゴミの匂いじゃとても隠しきれない、ロリ特有の匂い――炉臭がなぁ!」

 

 ずかずかと筋肉の固まりが俺に迫ってくる。思わず道大名行列を前にした農民のように道を空けそうになるが、そうすると後ろの少女がエライことになってしまう。

 

「ちょ、ちょっとオッサン。一回待とう! 落ち着いてくれ!」

 

「いや待たねえぜ! 邪魔をすんならてめえでも……つーか、今の炉気の薄いてめえだったら躊躇いなくぶっ飛ばすぜ?」

 

 オッサンの目はマジだった。マジで俺を排除するつもりだ。

 オッサンは強い。そしてロリを前にしていることで、パッシブスキル【ロリコン】が発動し、身体能力も上がってるだろう。なんだったら、大家さんが住んでるアパートの近くということで、地形効果の補正も受けてるかもしれない。

 

 オッサンを止められるか? ……無理だ。というより、平時で不意打ち武器アリという条件付きでも勝てる気がしない。

 だからといってここで退けば、少女に一生残るトラウマを植えつけてしまう。

 多感な時期に刻まれたトラウマは、人間の成長を著しく阻害する。俺のように。

 

 考えろ。オッサンを止めて少女を助ける方法を……! 他に助けを呼ぶ暇なんてない。

 何か、何かないか……!? 

 

 瞬間、俺の脳内に閃くものがあった。

 鞄に手を突っ込み、遠藤寺から譲り受けた飴の瓶を取り出す。

 

「――オッサン! 飴を! 飴でも食べないか!?」

 

「飴なんていらねえよ夏! 悪いが今から飴なんかより、もっと甘いもんを戴く予定なんでなぁ!」

 

「いや、この飴は……お、大家さんが口の中でコロコロしたやつなんだ」

 

 バカか俺は! そんな見え透いたっつーかありえないウソに引っかかるわけが――

 

「なんだとっ!? その瓶の中全部か!? 集めたのか!? おまえとんでもない変態だな! やるじゃねえか!」

 

 引っかかった挙句に褒められたぞ。

 オッサンは鼻息を荒くして、俺が差し出した瓶を見つめている。

 

「何回だ!? 何回コロコロした飴だ!?」

 

「え、何回? えっと……8回、くらい?」

 

「8kr!? 8krだとッ!? 8KrつったらSSクラスに相当するブツじゃねーか!?」

 

 オッサンが謎の単位と謎の階級を叫んだ。

 

「くれっ! 何でもするから! お前のことこれから『お兄ちゃん』って呼んでやってもいいから!」

 

「やだよ! 何そのlose-loseな提案!? 誰も得しないだろ! い、いーよ。何もいらないからあげるよ」

 

「お前本当にいい奴だなぁ! うっひょお! 頂きマース!」

 

 オッサンは俺の手から瓶を奪い取り、風呂上りの牛乳を飲む勢いで瓶の中身をひっくり返した。

 錠剤がざらざら音を立ててオッサンの口に流れ込む。

 

「大家ちゃまの8krキャンディーマジデミゴッドデリシャスだよぉぉぉぉっぉぉぉ――う……ぐぅ」

 

 そして昏倒した。崖から巨大な岩を落としたような、重々しい音が住宅街に響いた。

 地響きのような鼾を鳴らすオッサンは、それはもう幸せな寝顔をしていた。

 

 先程までオッサンが持っていた瓶を見る。空っぽになっていた。

 食堂で1錠服用した学生が眠った時間から計算して、80錠近く服用したオッサンは一体どれくらいの間……まあいいか。

 

「いい夢見ろよ」

 

 オッサンを道の端に寄せ、ゴミ箱に近づく。蓋を空けた。

 

「……」

 

 少女は気絶していた。オッサンが発するプレッシャーに耐えられなかったのだろう。

 俺はごみ箱から少女を抱え上げた。軽い。少女の柔らかさと特有の甘い香りが……いや臭いわ。マジで臭いわこいつ。ゴミの臭い凄いわ。

 

 ゴミの臭いが染み付いたヒロインって需要あるのだろうか。

 まあ、ゲロ吐くヒロインが増えてきたり、主人公の家燃やすヒロインが存在するくらいだから、そういうヒロインもアリなのかもしれない。

 

 少女を抱えアパートに戻りながら、そんなことを考えた。

 

 あとはこの姿を近所の人間に目撃されないことを願う。

 

■■■

 

 

 少女を送り届け、ゴミ臭い理由を説明していたら、すっかり夕方になってしまった。

 

「はぁ、結局今日もダメだったか……」

 

 俺はアパートの扉前で肩を落とした。

 少女を助けたのはいいが、結果的に薬を全て失ってしまった。

 これでエリザの寝顔を見る手段はなくなった。完全に八方塞がりだ。

 

 ここまでエリザの寝顔を見る手段が失敗するのは何らかの意志すら感じる。もしくはここはエリザの寝顔を見ることができない世界線なのか? 

 どう足掻いても失敗する……俺はただエリザの寝顔を見たいだけなのに。

 

 ただエリザの可愛らしい寝顔を見て、できるなら寝起きの言葉でも寝言でもいいから、彼女の本音を聞きたかっただけなのだ。

 彼女が俺の側にいる本当に理由を。

 

 初めて彼女が俺の目の前に現れたあの日、彼女は俺を世話する理由を『俺が好きだから』と言った。

 それから結構な時間が経ったが、今でもあの言葉が本当だったかどうか俺には分からない。

 

 だって俺だぞ。俺なんかを好きになる人間……いや幽霊か。そんな存在が本当にいるのか?

 何も誇れるものを持っていない、どこにでもいる『冴えない僕』それが俺だ。人の記憶に残らないモブ、その他。実際中学生、高校生と俺のことを覚えている人間がどれくらいいるだろうか。

 ……いや、中学時代に関しては別だな。覚えてるだけなら、結構な数がいるはずだ。

 

 そんな俺を好きだというエリザ。

 あの日以来『好きだから』という言葉について、今日まで深く触れたことはない。

 だが、そろそろはっきりさせておくべきだ。

 彼女との生活をこれからも続けるのなら、彼女の本当の意思を聞かなければならない。

 

 例え今までの俺に向ける好意が全て演技だったとしても。

 

 まあ正面から『お前本当はどう思ってるの? 俺のこと好きとか嘘っしょ。ハーン?』なんて聞けないチキンだから、こうして回りくどすぎる方法をとっているわけだが。

 

「まあ、また別の方法を考えるか」

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 扉を開け六畳あるマイルームに入ると、窓から入ってくる夕日が体を覆った。その眩しさに思わず目を逸らす。

 

 

 カーテンを閉めようと窓に近づいていくと――窓のすぐ下、少し乱れた布団に横たわるエリザがいた。

 

 

 猫のように体を丸め、穏やかな寝息をたてる少女。窓から差したオレンジの夕日がスポットライトのように彼女を照らしていた。スポットライトに照らされた舞台の上で眠る少女。舞台の下から眺める俺。

 

 綺麗な光景だ。

 

 真夜中の美術館にひっそり飾られる絵画。誰にも触れられていない天然の宝石。生まれて初めて見た雪。

 美しさを例えようと出てきた言葉の数々がどれも陳腐に思える。

 

 剥き出しになった心に嵐のような感情が吹き荒れた。

 

「――」

 

 言葉を失った。綺麗なものがそこにあった。

 日常にある些細な光景の筈なのに、現実感を感じさせない。

 

 そんな光景が自分の部屋にあり、目の前に存在することを未だ信じることができない。

 

 時間にして5分ほど、体感的にはその何十倍にも感じた時間俺は立ち尽くし、エリザが覚醒する余波を感じた。

 

「……んぅ」

 

 小さな唇から靄のような吐息が紡がれ、追従するようにエリザの小さな体が布団の上をごそごそと無軌道に動いた。

 布団との摩擦で青いスカートが捲れ、シミひとつない白い太腿が露わになった。

 

「……ふわぁー」

 

 気怠げに体を起こしながら、夕日が眩しいのか目をくしくし擦る。

 寝起き特有の緩慢な動作で布団の上に正座となり、ゆっくりと目を開いた。焦点の定まらない青い瞳が部屋のあちこちを飛び回る。そして目の前にいた俺を捉えた。夕日とは違う、眩しいものを見るように目が細まった。口がへにゃりと未完成の笑顔を浮かべた。

 

「辰巳くんだぁ……」

 

 エリザは覚醒しきっていない、とろんとした眠気の残った声で呟いた。普段の聞いていて心地いいハキハキした声とは違う、泡がぽつぽつ弾けるような不安定な声。

 

「えへへぇ……」

 

 エリザは四つ這いのまま、ふらふらとこちらに近づいてくる。サリサリと膝が畳を擦る音。うっすらと赤くなる膝小僧。

 そのまま俺の足元までやってきて、胴の辺りに抱きついてきた。

 

 決して重くはない圧力が体にかかり、場の流れに任せるように尻もちをついた。

 

「たつみくんだぁ……いい匂いがするー」

 

 あぐらで座る形となった俺の首元に手が回される。必然的にすっぽりと密着するエリザの体。

 

「すきなんだぁ……。こうやって起きてすぐに辰巳くんの体をギュッとするの、すごいすきなのー……」

 

 眠気が覚めるにつれて聞き取りやすくなる言葉。

 エリザが頭を俺の心臓の辺りにぐしぐし擦り付けてくる。

 

「……だいすき。わたしね、今人生で一番幸せなの。大好きな辰巳くんのお世話をして、一緒にご飯を食べて、毎日行ってらっしゃいとお帰りなさいをするの。ぜーんぶね、わたしの人生になかったもの、今は全部あって……嬉しくて幸せ。いつ死んでもいいくらい幸せぇ」

 

 俺の心臓に語りかけてくる言葉。人の嘘に敏感な俺が……いや誰が聞いても嘘偽りない本当の言葉。演技ではありえない言葉が心に染み込んでくる。

 

「わたしね、辰巳君のこと――」

 

 次の来る言葉が分かってしまった。

 

「大好き」

 

 心のすぐ側で囁かれるその言葉。純粋な、ただ好意だけで作られたその言葉が俺の心を揺さぶる。

 

「大好きだから側にいたい。ずっとずっと一緒にいたいの」

 

 覚醒しきったのか、それともまだ眠気があるのか、エリザが話す言葉には熱が伴っていた。吐息の熱と言葉の熱。

 あの日、初めてエリザの姿を認識したあの日と同じ言葉。あの時は混乱からか流してしまった言葉を、しっかりと受け止める。本気で俺のことを好きと言ってくれているこの言葉を。

 エリザは最初から本当のことしか言っていなかった。

 変わっていない。初めて見たあの日から、今日までエリザはずっとエリザのままだった。 

 

「辰巳君は? わたしのこと……迷惑じゃない? わたしのこと……好き?」

 

 俺の顔を見上げながら言っているからだろうか、不安の感情が混じった言葉が伴う熱が俺の顎辺りを撫ぜた。

 

「俺は……」

 

 こんなに可愛くて優しい少女に好意を向けられる、幸せで当然だ。幸せすぎてどうにかなってしまいそうだ。

 

 涙が出そうになる。

 こんな俺を打算抜きで好きと言ってくれる存在。今までの人生にはなかったもの。

 今日まで心の片隅で抱いていた彼女への小さな不信感が霧散した。

 

 彼女と過ごした今日までの日々は、とても楽しかった。自分のことを肯定してくれる存在がすぐ側にある日々が、こんなにも安らかで心満たされるものだとは思わなかった。

 好きにならないはずがない。

 好きには家族とか恋人とか友人とか色々な種類があって、俺が抱いているそれがどんなものかは分からないし、エリザが俺に向けているものと同じか分からないけど、好きであることに違いはなかった。

 

 伝えなければならない。エリザの顔を真っ直ぐ見て、言葉だけじゃなくて心まで伝えるべきだ。そう思った。

 

 俺は視線をすぐ下に向け、エリザの顔を見て言葉を伝えようと――

 

 

 

 

『嬉しいな。私も一之瀬君のこと、好きだったんだ』

 

 

 

 

 

 ――したが、できなかった。

 

 先程までエリザの温かい言葉に包まれていた心から、染み出るように湧いて出てきた過去の言葉が俺の体を硬直させた。

 エリザの顔を見ることができない。好きだと言ってくれたエリザの顔を――見ることができない。エリザの顔を見て好きだといえない。

 だって、あの時みたいにエリザの顔が、好きだと言ってくれた顔が、今のエリザの顔があの時の彼女と同じだったら。

 

「辰巳君?」

 

「あ……ああ。俺もその、エリザのこと好きだ。好きって言っても……ほら、まあ色々あるけど」

 

「ほんとに? 辰巳君もわたしのこと好き?」

 

 俺が彼女の向けた言葉は本物だ。ただ顔を見て言わなかっただけ。

 そしてその言葉はしっかりとエリザに伝わったようだ。 

 

「辰巳くんも幸せ? そっか……そうなんだぁ……。よかったぁ……。えへ、えへへっ……嬉しいなぁ」

 

 ギュッと俺を抱きしめながら、堪えきれない幸せを噛みしめるようにつぶやくエリザ。

 

 結局、俺は最後までエリザの顔を見ることができなかった。きっと幸せな笑顔を浮かべていたであろう、エリザの顔を。

 

 だから気付かなかったのだ。心の底から幸せに浸っているエリザに起こっていた些細な変化に、気づく事ができなかった。

 

 後悔はいつだって取り返しのつかない段階になってから、目の前に現れる。

 そして代償を求めてくるのだ。重い代償を。

 いつだってそうだったし、これからもそうなんだろう。

 

 この日の後悔に対する代償を払うのは、もう少し先の話だ。

 いつも通りどうしようもなくなったその時。

 蝉の鳴き声が煩わしい、夏の日。

 

 エリザが消えてしまう、その時だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

......んだよ、意味が分かんねえ(異世界からの侵略から1ヶ月。生き残りが集まった避難所で暮らしていた俺は縮地力とかいう謎の力に目覚め、謎の組織にスカウトされたのだった)

変わらないものなどない。

 

 どんなものであっても、時間と共に変化していく。

 

 

 俺が一人暮らしを始めて3ヵ月、その間様々な変化が起こった。

 

 生活環境、人間関係、そして俺自身。

 

 

 今まで停滞していた変化が、ここに来て一気に進んだように感じる。

 

 あの頃の灰色の止まったような時間。思い出したくもない日々。

 

 

 このまま変化に身を委ねれば、あの頃はなかったことになるのだろうか。

 

 なかったことにできるのだろうか。

 

 よくどんな辛くて苦しい過去でもその経験が役に立つって言ってる人がいるが、俺はそうは思わない。

 

 俺の過去は思い出す度に惨めで泣きそうになるし、今でもあの頃の出来事が頭をよぎる度に足が止まってしまう。役に立ったことなんて一つもない。

 

 忘れたくても忘れられない思い出。どこの誰でもいいから記憶を都合よく消去してくれる装置を発明して欲しいものだ。

 

 

 そんなことを考える今日この頃、俺はちょっとした悩みを抱えていた。

 

 

 エリザのことである。

 

 

 

 

 ■■■

 

 

 

「で、こうやって……ここをぐにぐに摘んで、あ、優しくね? それから指の先でちょんちょんって」

 

 

 エリザの手が妖しくも滑らかに動く。俺はその動きをジッと観察していた。

 

 一瞬エロい想像した貴方には悪いが、別段猥褻行為をしているわけではない。

 

 現在時刻は夕方の16時。俺とエリザは夕飯である餃子を作っているのだ。

 

 

 まあ、エリザから「辰巳君も一緒にやろ! たのしーよ!」と誘われたからなんだが、たまにはこういうのもいい。

 

 今まで料理に携わったことのない俺だが、これを機に料理を覚えるのもいいかもしれない。

 

 正直毎日エリザに料理を作ってもらって俺はただ待っている現状にちょっとした罪悪感を覚えていたのだ。

 

 

 エリザの手本通り、白くてぺらぺらな皮にたねを包み、形を整える。

 

 

「こんなもんか?」

 

 

「わわっ、辰巳君すごーい。それワンちゃん? 可愛いねっ。でもそれじゃ焼けないねー」

 

 

 ぱちぱちと拍手をしながら、多分悪気なくディスってくるエリザ。

 

 どうやら俺が餃子を作ると犬っぽくなるらしい。

 

 

 ちょっとムッときたので、先ほどより集中してもう1つ作る。

 

 

「どや?」

 

 

「あ、分かった! それブドウだ! ブドウでしょ?」

 

 

「いや、クイズしてるわけじゃねーから。もういいよ。俺には才能ないわ」

 

 

 別に餃子作る才能なくても生きていけるし。料理できなくてもいいし。レンジがあれば何でもできる!って昔の人は言ってたし。いや、レンジ使えるの?って聞かれたらまあ無理なんですけど。

 

 餃子すら作れないのに生きていけるほど世の中甘くないという意見もあるとは思いますが、その意見はしっかり拝聴してゴミ箱にポイする所存でございます。

 

 

「そんなこと言わないで一緒につくろーよ。ね、ほら、わたしが作り方教えてあげるから」

 

 

 と言うとエリザは正座した状態からフワリと宙に浮き、俺の背後へと回った。

 

 

 この話から読んだ早漏さんはびっくりして『え? 何この子カッパーフィールドの系譜?』と混乱するかもしれないので、ネタバレするとエリザ=幽霊である。

 

 幽霊と暮らしている俺? 普通の人間だよ。ちょっとキアヌリーブスに似てるだけの……な。

 

 

 ここらで初見の人のために、ちょっとエリザと俺を軽く紹介しておこう。『初見ですが、帰ります』なんて言われたら寂しいもんな。

 

 

 エリザは見た目14歳くらいの銀髪可愛い幽霊少女である。今日の格好はピンクのスカートにハートの中によく分からん英字が描かれた白いシャツ、その上からエプロンを羽織っている。

 

 足は最近街で見かける膝の部分が猫の顔になってるニーソックスを履いててカワイイにゃん。最近夏も近づいて暖かくなってきたし、ニーソックスは蒸れて大変じゃないかと心配している。

 

 一方の俺は蒸れる心配なんてないザ・裸足である。

 

 ここだけの話、裸族(家の中で全裸の人。詳細画像? あの夏で○ってるでも見たら?)である俺だが、エリザと暮らし始めて裸るわけにもいかず最低限のオシャ裸として、家の中ではずっと裸足でいるのだ。どうでもいい? そうですか。

 

 

 彼女は俺がこの部屋で一人暮らしを始めるより、ずっと前から住んでいた先住幽霊である。

 

 現在、俺と彼女は手を取り合って仲良く衣食住を共にしている。

 

 家事は全てエリザがしてくれている。では俺は何をやっているかというと……何もしてないんだなこれが。

 

 

 エリザはふわふわと浮きながらテーブルを迂回し俺の背後に回りこんだ。そのまま背中越しに両手を伸ばし、俺の手を優しく握る。

 

 

「力抜いてね?」

 

 

 耳の側で囁かれる言葉がくすぐったい。

 

 俺はエリザの言う通り手の力を抜いた。

 

 脱力した俺の手を、覆うようにして握ったエリザの手が操作する。

 

 

「こーやって、形を作って。それからぐいぐいって優しく閉じていくの。そうそう……ほらっ、できた! やったねっ」

 

 

 嬉しそうに笑うエリザ。目の前にはお手本ともいえるような形の餃子があった。

 

 

 対する俺は背中にあたる感触に妙な違和感を覚えていた。

 

 なんというか……ね。当たってるんですよね。尋常じゃないほど柔らかさを伝えてくる胸と、それから……ね。

 

 胸のほら……アレが。アレって言うのはアレだよ。クリスマスツリーの上に飾る星、鏡餅の上のみかん、聖帝十字陵の頂上に立つシュウ……ここまで言えば分かるでしょ?

 

 それがツンツン当たってやがるんですよ! つまり何が言いたいかって言うと。

 

 

 ――エリザさん、ノーブラじゃないですか?

 

 

 それが気になってしょうがないんすよね。

 

 いや、別にノーブラが悪いとかそう言ってるわけじゃないんだよ。むしろ善だし。どんどん広まっていけばいいと思うし。でも広がり過ぎはノーだね。広がり過ぎてブラが根絶されたら困る。夏の暑い日のブラ透けも未来永劫伝えて行きたい立派な文化だし。

 

 

 エリザの話だ。

 

 ノーブラが初めてなわけじゃない。というよりエリザは定期的にノーブラな日がある。具体的には月・水・金の3日間。週に3日はノーブラの日があるのだ。

 

 

 何故そんなことを知っているのか?

 

 別に俺が相手がノーブラかそうでないかを判別できる魔眼を持っているわけではなく、単純にエリザと過ごしてきた日が長いので、着けているかそうでないかを判別できるようになっただけだ。着けてなかったらちょっと揺れるからね。

 

 

 だったら何が気になっているかって言うと……今日木曜日なんだよね。ノーブラデーじゃないんだわ。ノーノーブラデーなのだ。

 

 

 この1週間エリザを観察してたけど、日曜もノーブラだったから、ノーブラデーが5日に増量している。

 

 この事実が何を示すかというと……分からん! さっぱり分からん!

 

 

 同居している少女のノーブラデーが増えました。その意味は?

 

 知らん! 全く理解できん!

 

 

 本人に向かって聞くわけにもいかないし、こうやってただ考察することしかできないのだ。

 

 

 ただ一ついえること。ノーブラデー増量が始まった日は分かっている。あの日だ。

 

 

 エリザが改めて俺に『好き』と言った日。そして俺もエリザに抱いている感情を伝えた日。

 

 あの日からエリザは変わったのだ。

 

 

 なにもノーブラだけのことじゃない。

 

 他にも変化は見られた。

 

 例えば体への接触。以前まで外へ出かける時のおんぶやら、うっかりハプニングの時くらいしか接触はなかったが、最近は増えた。

 

 今も……

 

 

「じゃ、もう1個一緒につくろー。あ、これだとやりにくいね。えっと……あ、わたしが前に座ればいいのか」

 

 

 と言いながら背中から回りこみ、あぐらをかいた俺の上に座る。つまり俺自身が椅子になることだ……。

 

 エリザの小さな体がすっぽりと入り込む。

 

 俺の体に背を預け、顔を見上げてはにかむ。

 

 

「えへへー、辰巳君の膝って凄く座り心地いいねっ」

 

 

 とまあこんな様子だ。

 

 こうして隙を見ては体の接触を行使してくる。

 

 

 全く困ったものです……。いやマジでな。ただでさえ可愛いのに、そんなぽんぽん体に触ったりくっつけてきたらさぁ……どうなるのこれ?

 

 俺だって男なわけで。そりゃまあ……色々と危ない。危険がデンジャーだ。おっすおっす大家さんならぬ、おっきおっき大家さんしてしまう。

 

 いくら思春期を遥か昔に終えた俺もさあ……始まっちまうよ! 一体何が始まるっていうんです? ――第2次思春期だよ。

 

 このままだと狼にトランスフォームして、瞬く間にリベンジポルノからダークサイドムーンにまっすぐゴーだよ! 何言ってんのか分かんねえけど!

 

 

 危ない時は例の如く、秘技『母顔想起』を使用してるんだけど、これもまあ最近多様し過ぎたからか効果がなくなってきた。恐ろしい想像だが、いずれは母親の顔を思い浮かべた瞬間に興奮してしまうという大事故に繋がってしまいそう。

 

 

「じゃ、また手借りるねー。えへへっ、辰巳君の手って……おっきいね!」

 

 

 あぶなーいっ! その手のワードはいかーん! 俺の脳内辞書ツールは無駄に高性能でそういう妖しい言葉は勝手に『辰巳君の○○っておっきいね』ってモザイクをかけてしまう!

 

 くっそー……パッシブスキル『桃色E単語』にこんな弊害があったとは……。

 

 

 ていうかエリザさん……。気のせいとは思いたいんですけど……なんか、こう太ももに当たる感触が立体的というか、柔らか過ぎるというか……。

 

 ノーパ……いやいや。まさかそんな、ねえ。

 

 そういう健康法があるのは知ってるけど、それを実践してたら間違ってもこんな風に接触してきたりしないだろうし。

 

 このスカートの生地が薄い。そうに決まってる。

 

 

 だが、そろそろエリザには美尻……いやビシリと言っておくべきだ。共同生活を行う上で風紀というものは大切じゃないかと。

 

 あんまり日ごろからべたべたしすぎるのは、エリザの将来的な人格形成にも問題をきたすのだと。

 

 そんな風に男慣れしちゃうと、将来は男をコロコロ転がす尻軽ビッチになっちゃうよ、と。

 

 ここは年上として(と言っても年は殆ど変わらないんだけど)、言ってやるべきだ。

 

 

「なあエリザ」

 

 

「なぁに?」

 

 

 俺は意思を固めるように深く息を吸った。そして言葉と共に吐く。

 

 

「……もうちょっと深く座った方が安定するんじゃないか?」

 

 

「あ、ほんとだね!」

 

 

「あはははっ」

 

 

「えへへっ」

 

 

 今日も一之瀬家は平和です。

 

 

 

■■■

 

 

 

 

「というわけなんだ遠藤寺」

 

 

「ふむ。同居している幽霊少女が最近ベタベタしてきて困る、か。」

 

 

「そうなんだよ。もっとこう恥じらい? そういうのを大切にして欲しいんだよなー」

 

 

 大学のいつもの場所。正面に座る遠藤寺はいつものようにうどんを食べていた。

 

 俺はそんな遠藤寺に最近のエリザの目に余るベタベタっぷりを相談していた。

 

 

 遠藤寺は箸を置いた。

 

 

「それはそうと」

 

 

「何だよ」

 

 

「今ボクが食べているこの熱々のうどんを、君の顔面に叩きつけても……いいかな?」

 

 

「微塵もよくねえよ! 何で今の話を聞いた後に、俺の顔面にうどんを叩きつける発想に至るわけ!?」

 

 

「いや、すまない。自分でも分からないが、君の話を聞いていると胸の奥底からドス黒い未知の感情が沸いて来てね。それが『やっちまえ』とボクに囁いたんだ」

 

 

 いつものように無表情な遠藤寺だが、よーく見ると不機嫌なオーラが感じ取れた。

 

 

 このゴスロリファッション+リボン装備の少女の名前は遠藤寺。俺と同じ大学に通う、唯一の友人だ(『大学で友達一人とかwww』と俺をディスろうとしているそこの貴方、ちょっと待って欲しい。まずは自分の姿を鏡でみてくれ。美少女か? 美少女なら好きなだけディスっていい。それ以外は漏れなく朽ちろ)

 

 

 趣味と実益を兼ねて『探偵』をしており、俺の相談を快く聞いてくれる素敵な友達だ。

 

 間違ってもいきなり人の顔に熱々のうどんをぶっかけてくるクレイジーガールではない。

 

 

 遠藤寺は不機嫌なオーラを纏ったまま続けた。

 

 

「あと未知の感情がこう言えと囁いてくる」

 

 

「なんと?」

 

 

「ちょームカつく」

 

 

「!?」

 

 

 遠藤寺の口から出てきたありえない言葉に、俺は驚愕した。

 

 だってよ、遠藤寺なんだぜ……? 基本的に頭よさげなことしか言わない(うどんに関しては別)遠藤寺が、そこら辺の女子高生とかが使いそうな言葉を使うなんて……。

 

 うーん、遠藤寺がそんな言葉を発する発端となった未知の感情……俺気になります!

 

 

 当の遠藤寺は何やら満足げな顔をしていた。

 

 

「……うん。少しスッキリした。今まで使ったことない言葉だけどいいじゃないかこれ。今度から何かあったら使うとしよう」

 

 

「やめて」

 

 

 そんな台詞使ってたら、遠藤寺のキャラが壊れちゃうよお!

 

 ん? ギャップ萌え? ……そうか、そういうのもあるのか。

 

 

「さて、未知の感情も消えたところで君の相談を受けようか。……何の相談だったかな」

 

 

「ああ。エリザが最近ボディタッチっていうの? 体への接触が多くてさ、何かにつけて体をくっつけてくるんだよ」

 

 

「……そうか。そういう話だったね。なるほど……ふむ。ボクから言える言葉は――」

 

 

「うんうん」

 

 

「リア充爆発しろ」

 

 

「遠藤寺さん!?」

 

 

「すまない。また未知の感情が……しかし初めて言った言葉だけど、中々にスッキリする言葉だね。今度から街を歩いていて職務質問されたら使ってみよう」

 

 

 ここでまさかの新事実。俺と遠藤寺にはよく職務質問されるという共通点があった……!

 

 なるほど、親友同士、こうした共通点があるものなのか。全然嬉しくねえわ。

 

 

 しかし……

 

 

「なあ遠藤寺。もしかして怒ってる?」

 

 

「怒る? ボクが? クククッ! 君は相変わらず面白いことを言うね。怒る? くくくっ、ボクに向かってそんなことを言う人間は君が初めてだよ」

 

 

 覚醒した主人公にボコられる中ボスのような台詞を吐く遠藤寺。

 

 何がツボに嵌ったのか、珍しく爆笑している。といっても普段の表情のままなのでこわい、です。

 

 

「いいかい? ボクは探偵だ。そして探偵に最も必要なものが何か分かるかい?」

 

 

 うーん……オペラかキューティクルか痛がりの灰色狼か……。あれ? 遠藤寺に当てはまる要素がないぞ?

 

 

「それはね――感情のコントロールだよ。冷静な感情と完璧な推理はイコールなんだ。間違っても怒りなんて振り幅の大きい感情に振り回されるなんてことはあっちゃあならないんだよ」

 

 

「割りばしバキバキに折りながら言っても説得力が……」

 

 

 本人は否定しているが、遠藤寺ちゃん激おこらしい。そしてどうも自分が表現している感情が、怒りだとは気づいていないっぽい。

 

 怒ってる自覚がない遠藤寺もカワイイ!と言いたいが、あの割り箸みたいにバキバキにされそうなので自重した。

 

 

 どうにも今回の相談は遠藤寺さんには不評なようだ。

 

 なぜだろうか。

 

 

「というわけでボクは怒っていないよ。だがまあ一般的な人間だったら、人の惚気話をこれほど聞かされたなら……殺意を抱くと思うね。おっと、一般的な人間の場合であって、ボクは違うよ? 何度も言ってるけど、ボクは怒ってもいなければイラつきもしていない。親友である君が同居している少女といちゃつこうがそれを本人の口から聞かされようが……怒ることはありえない。理解したかい?」

 

 

「あ、はい」

 

 

 別に惚気話をしてるわけじゃねーんだけどな。

 

 どうやら、この話は遠藤寺相手には相応しくないらしい。

 

 

 遠藤寺がクールダウンするまで、待つことにした。つるつるうどんを啜る遠藤寺を眺める。

 

 ふとうどんを啜る唇が、いつもより若干赤みを帯びていることに気づいた。あれは、口紅か? 

 

 珍しい。格好こそこんな感じだが、遠藤寺が服装以外に装飾――化粧をしているのを見たことがない。

 

 一体どういう心境の変化だろうか。

 

 

「……何をジッと見ているんだい? 見ていてもあげないよ。一口しか」

 

 

 何を勘違いしたのか、うどんを摘んだ箸を差し出してくる遠藤寺。

 

 まあ貰えるものは病気以外貰っておく性分なので、戴いておく。

 

 うーん旨い! うどんにこだわる遠藤寺が、ポケットマネーで質のいい材料を横流ししてるだけあってその味は無類である。 

 

 

 うどんを食べ終わる頃には、遠藤寺の不機嫌オーラも霧散していた。

 

 

 遠藤寺は深くため息を吐いた。

 

 

「この間の相談もそうだが、君がボクに持ってくる相談事はどうしてこうもボクの専門外のものばかりなんだい? やれ幽霊が家にいる、やれその幽霊の寝顔が見たい、そしてその幽霊がべたべたしてきて困る。……ボクは探偵だよ? もっとこう――家族が誘拐されたが諸般の事情で警察には相談できないとか、祖父が亡くなって遺産相続をするんだけど『今から記す人間を私の館に集めろ』と書かれた意味深な遺書が出てきた……そんな相談はないものなのかい?」

 

 

「パンピーな俺に無茶言うなっつーの」

 

 

 ほんまこの推理厨は……。

 

 そうそう〇ナン君の手を借りるような事件なんてないっつーの!

 

 でも何だかんだで専門外の相談でも引き受けてくれるのが遠ちゃんのいいところ。

 

 文句の後、助言を与えてくれた。

 

 

「それで君はその幽霊にどうして欲しいんだい?」

 

 

「いや、まあ……もう少しスキンシップを控えてもらえたらいいんだけど」

 

 

 このままべたべたされたら、流石の俺もやばい。

 

 未成年に手を出すなんて……いや、待てよ? 確かエリザって14歳の時に死んで5年経ったから今は19歳ってことだよな? あと1年経ったら……問題ないんじゃないか? 

 

 9歳の壁ならぬ19歳の壁を越えてしまえば……合法? エリザは合法? どうなんだ? 幽霊に俺達人間の法律は準じられるのか?

 

 今はアレだから、次の機会に遠藤寺に相談することにしよう。

 

 

「だったらそう言えばいいさ。もう少し距離を置いて欲しいと。今までの話を聞く限り、その子は聞き分けのいい性格のようだ。君がそう言えば素直に聞くだろう?」

 

 

「いや、まあ……そうなんだけど」

 

 

 遠藤寺の言う通りだ。エリザに直接言えばそれで済む話だろう。

 

 

 だが――

 

 

『「辰巳君は? わたしのこと……迷惑じゃない? わたしのこと……好き?」』

 

 

 不安が混じった表情で問いかけてきたエリザの顔が頭から離れない。

 

 あの日からエリザの態度が変わって、それを拒絶したらあの時のエリザの言葉まで否定してしまうような、そんな気がするのだ。

 

 

「……煮え切らないね。折れた割り箸で刺してもいいかい?」

 

 

 一瞬で不機嫌オーラを纏う。

 

 

「よくねえよ。……ほんとに機嫌悪いな。大丈夫か?」

 

 

 俺の問いかけに遠藤寺はため息を吐いた。

 

 

「……すまないね。怒ってはいないが……冷静ではないのは認める」

 

 

「変な相談した俺が悪いな。今度から相談は控えるよ」

 

 

「いやそれは違う。前も言ったが君からの相談を受けるのが嫌なわけじゃない。それどころか親友である君から相談をされるのは、その……嬉しいんだ。初めてできた友人に頼られている、それが。悪いのはボクだ。未知の感情くらいで冷静さを失う未熟なボクが悪い」

 

 

 自分に言い聞かせるように遠藤寺は言った。

 

 

「正直怖いんだ。未知はボクにとって歓迎すべき好物そのものだけど、この未知の感情は……解き明かしてしまったら、ボクが変わってしまうような気がして」

 

 

 悩む遠藤寺を初めて見た。いつも自信満々で、余裕に満ちた遠藤寺だけど、こんな風に人並みに悩むこともあるらしい。

 

 それをもたらしたのが恐らく俺であり、俺の中でそのことに対する罪悪感と独占欲染みた優越感が胸の中で混じりあった。

 

 そんな遠藤寺にかける言葉は何だろうか。

 

 

 考えるより前に、自然と言葉は出た。

 

 

「まあ、あれだ。お前が変わっても……ずっと親友でいるよ」

 

 

 全く吟味せずに思ったことをそのままの口に出したが、この雰囲気の中では正しい言葉に思えた。

 

 実際に遠藤寺は俺の言葉を受けて……

 

 

「……ずっと親友、ね。今までだったら胸に響く心を打つ言葉に違いないんだろうけど、今のボクはとても不満に思っている。自分でも何故だか分からないけど」

 

 

 あれ!? なんで不機嫌!? これ正解だろ! 俺達ずっと友達だよな!って魔法の言葉だろ!?

 

 

 その後、ツンとした雰囲気を崩さない遠藤寺だったが、授業の時はいつも通り隣に座ってくれたし、俺が教授に当てられた時はこっそり答えを教えてくれたりしてくれた。

 

 

 その授業が終わり別々の講義を受けるため別れた。

 

 去り際

 

 

「……別に怒っていないけど、今日の講義の後……飲みに付き合ってくれたら許す」

 

 

 とそっぽを向きながら言ったから今日は遠藤寺記念日にしようと思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

しゅっくち!(縮地特有のくしゃみ。もう何かネタが尽きたんでこれで……)

――いち……せ…うはい……

 

「……ん?」

 

 授業が終わり大学構内を遠藤寺と歩いていると、ふと誰かに呼ばれた気がした。

 現在俺達が歩いているのは、大学の1号館と2号館を繋ぐ廊下だ。周囲を見渡すもあるのはリノリウムでできた床と外を眺めることができる窓、廊下にポツポツと配置されている休憩スペースの3人がけの小さなテーブルと椅子だけだ。

 

「おや、どうかしたのかい?」

 

 立ち止まり周囲を見渡す俺に、遠藤寺が首を傾げつつ聞いてきた。

 

「いや、なんか名前を呼ばれた気がしてさ」

 

「ふむ? だが辺りに人影はない様子だけど。そもそもこの大学内に君の本名を知っているような稀有かつ酔狂な人間がいるのかい?」

 

「お前は今かなり酷いことを言った」

 

 俺の名前を知ってるだけで酔狂とか……よくもまあそういうことを真顔で言えるよな遠藤寺って。多分悪意はなく、本気で言ってるだろうし。そこも性質が悪い。

 しかし、まあ……遠藤寺の言葉も一理ある。

 酔狂とまでは言わないが、この大学で俺の本名を把握している人間は珍しいだろう。

 顔を知っている知り合いと名前を知っている知り合いとでは大きく差がある。顔なんて1回見れば興味なくても頭の片隅には残るけど、名前は少しでも相手に興味を持たないと頭の片隅にも残らない。俺の名前を覚えるほど俺に興味を持つ奇特な人間なんて早々いないだろうし。

 

 ふと気づいたけど、遠藤寺って俺を名前で呼んだことないんだよな……。

 かれこれ3ヵ月近くの付き合いになるが、遠藤寺の口から『一之瀬』や『辰巳』、『たっちゃん』『たーくん』『たっつん』『たーたん』『たー』といった、俺の名前に関する言葉を聞いたことがない(ちなみに最後の方は恋人に呼んで欲しい呼び方)

 

 遠藤寺の顔を見る。

 

「ん? ボクの顔に何か付いてるかい?」

 

 何かってそりゃ一見すると睨まれているみたいで恐縮しちゃうけど慣れると見られるだけですんごい気持ちよくなっちゃうジト目やら、思わず口を使って収穫したくなるようなプルンプルンな唇がついてますけれど(しかも年中収穫できる!)

 

 名前の話だっけ。

 いつも遠藤寺が俺を呼ぶときは『君』や『親友』といった呼び方で、親からつけられたそこそこ気に入っている名前をその口から聞いたことがない。

 俺は血界の眷属とかじゃないので、名前を知られても痛くも痒くもない。というか普通に知ってて欲しい。友人である遠藤寺が名前を知らないなんてことがあったら超ショックだ。 

 俺は内心ちょっとドキドキしながら尋ねた。

 

「え、遠藤寺さ……俺の本名って知ってる?」

 

 俺の質問に遠藤寺は呆れたように肩をすくめた。

 

「また君は唐突に……いや、君が突拍子もないことを言うのは今に始まったことじゃないか。名前? ああ、もちろん知ってるとも。――一ノ瀬辰巳、だろう?」

 

 俺は遠藤寺にばれないようにこっそり安堵のため息を吐いた。

 

 ここで『君の名前かい? ああ、そうだった。君にも名前はあるんだったね。えっと、ヌケサク、だったかい?』みたいなこと言われたらショックのあまり石化して、鉱石と生物の中間存在となって考えるをやめたくなるところだ。

 

 それはそれとして遠藤寺に初めて名前を呼ばれたわけだけど、呼ばれた瞬間、胸がこう『トゥンク……』みたいな音を立てて波打った。普段名前を呼ばれない人から名前を呼ばれるのってこんなにドキっとするのね。

 アニメとかで普段苗字で呼ばれてるヒロインが主人公から初めて名前で呼ばれて『キュン』ってしちゃうのを見てチョロイン乙って思ってたけど……こりゃ乙るわ、恋に。

 余談だけどギャルゲーとかで主人公のことを『さん』とか『君』付けで呼ぶ丁寧形ヒロインが、ルートに入って主人公から呼び捨てを強要されて勇気を振り絞って名前を呼んだ瞬間に恥ずかしそうに照れる展開……好きかも。

 

「最初に会ったときに互いに自己紹介しただろう? まあ、君が自己紹介しようがしなかろうが、ボクが調べようと思えば名前から家族構成、世帯年収から両親の恋愛遍歴、中学生時代のあだ名、小学生の頃教師のことを何回「お母さん」と呼んでしまったか……それくらい調べるのは容易いけどね」

 

 サラッとプライバシー保護の原則(バリア)をぶち破る発言をしてくる。

 何が恐ろしいってこの遠藤寺、本気でそれができちゃうってこと。遠藤寺のタンテイ=ジツにかかれば国家機密すらちょちょいのチョイサーだろう。

 俺はもしかすると恐ろしい人間と友達になってしまったんじゃないだろうか……今更恐ろしくなってきたぞ。

 

 ていうか遠藤寺、もしかして俺の中学生時代のこととか知ってんのか? ……知ってたらイヤだなぁ。

 

「ま、しないけどね。仕事で知り合う相手のことは完膚なきまでに調べるのがボクの信条だが……プライベートは別だ。それに……君のことは調べたくない」

 

「なんだよ。俺にそこまで興味がないってことか?」

 

 調べて欲しい……。俺のエロ本購入履歴とか調べてそこから導き出された性癖を暴いて『こ、こういうのが好きなのか……ふ、ふーん』って感じで翌日にその性癖に合わせたファッションしてこられちゃたら、俺、速攻で遠藤寺に告白しちゃうよ……。え? 俺の性癖? 白いワンピースの下に白いスクール水着を着て頭にはイカの頭部に似た――(以下娘の描写が続く)

 

 俺の問いかけに遠藤寺はその鋭い視線で俺を真正面から捉えたまま答えた。

 

「いや違う、逆だよ。興味がある。大いにね。それこそ骨の髄まで君のことなら何でも知りたいと思っている。だがね、ボクはあくまで君自身の口から聞きたいのさ。君がどういう人間でどういう人生を送ってきたのか、何を見てどう感じるのか、どんな人間関係を経て……そしてどんな異性に心を奪われたのか。その全てを君自身の言葉で聞きたい。君の主観だけの、君の感情が篭った言葉で聞きたいのさ」

 

「……トゥンク」

 

 俺は思わず遠藤寺から顔を逸らした。遠藤寺からの視線を頬の辺りにジットリ感じてその部分が熱い。

 

 遠藤寺ってこういうこと真正面から真顔で言うんだよね。普通の人間ならストッパーがかかってまず言わないような誤解を招く発言。

 異性の思わせぶりに発言でバッキバキに痛い目を見た過去がある俺だから耐性があるし問題なけど、他の男だとまず間違いなく『あれ? コイツ俺のこと好きじゃね』って勘違いするわ。将来、遠藤寺がそういう厄介毎に巻き込まれないように、少し助言しておこう。

 

 俺は遠藤寺から顔を逸らしたまま言った。

 

「お前って凄いよな。そういう誤解を与えかねない台詞を平気で言えるし。でもな俺だからいいけど、他の奴にそんなこと言ったらさ、アレだぞ? 面倒くさいことになるぞ? 絶対勘違いされるだろうし、勘違いした奴が奴がストーカーになったり――」

 

「ボクはいつだって君に対しては本音しか言わないさ。それに君も勘違いしている。いくら僕でもこんな言葉平然と言えるわけないだろう?」

 

 そう言うと遠藤寺はいつも通り鋭い目つきのまま、俺の右手をとり自分の頬に持っていった。

 持って行かれた右手を視線が追ってしまう。そのまま遠藤寺の顔を正面から見つめる。

 よく見ればほんわずかに朱色が混じっている遠藤寺の頬は、見た目では考えられないほど熱を持っていた。

 

「なんなら胸にも触ってみるかい? 今いい具合に心臓が脈打ってるけど」

 

「あ、いや……いいです」

 

 チキンっぷりを発揮した俺を見て、遠藤寺が何やら勝ち誇ったような表情を浮かべた。

 

「どうした親友? 随分と顔が赤いよ?」

 

「……ぐっ」

 

「どうも君は直接的な好意の言葉に弱いらしいね、フフフ……」

 

 してやったりと言わんばかりの遠藤寺の顔に、俺は呻くことしかできなかった。

 

「犯人との駆け引きもいいけど、こんなむず痒い感情の駆け引きも実に面白いね」

 

 遠藤寺が俺の右手を離した。引っ込めた手に残った遠藤寺の熱がなかなか消えない。

 

「じゃ、今日の夜は楽しみにしてるよ。今日は色々と聞くよ……君を勘違いさせるようなことをね。――また後で、親友」

 

 そう言うと遠藤寺は、俺に背を向けヒラヒラと手を振りながら歩き去って行った。

 残されたのは所在なせげに佇む俺。

 ふと右手で自分の頬を触ってみた。右手から感じる熱はやはり熱く、遠藤寺の熱と混じり熱くなりすぎた俺の右手は最早感覚すら無くなっていた。

 

■■■

 

 遠藤寺が視界から消えた後、どこからか声が聞こえてきた。

 

「……うはい。……せ……こう……はい」

 

 やっぱりだ。誰かが俺を呼んでいる。

 周囲を見渡すも、やはり人影はない。

 

 もしかしてアレか。昔患った幻聴が再発したのか? もー勘弁して下さいよー。中学の時に『聞こえますかイチノセよ、今あなたの心に直接呼びかけてます』とか脳内ボイスに誘われて『そう。その水に飛び込んで下さい。世界がクリアを待っています……さあ!』って言われて異世界召喚キタコレとばかりに異世界への門と思わしき川に飛び込んだら、当然のようにただの濁った川で俺泳げないし、通りがかった人が助けてくれたのはいいけど、脂ぎったオッサンで大丈夫って言ってるのに人工呼吸されそうになるし……幻聴にはトラウマしかねーんだよ! あれ? あの時、本当に未遂で済んだんだっけ? うっ頭が……。

 

 声は徐々にハッキリと聞こえるようになってきた。

 

「……ククク……こちらですよ。さあ、こちらに来るのデス。そう……ワタシが発する闇の波動に導かれるのデス……」

 

 闇とか言ってるし、これ絶対やばいタイプの幻聴だわ。

 ホイホイ言葉に従ったら第二、第三ののトラウマ作るやつだわ。きっとあれだ。このまま幻聴に従って歩いて行った先がぼったくりバーで一しきりボラボラされた後でお酒注いでくれてたネーちゃんが実は隣に住んでる43歳の化粧しまくったババアで……何だかんだで知らないガキの認知を迫れるちゃうんだ。そうに違いない。

 

「さぁ来るのデス……我が波動を感じとるのデス……おじぎをするのだ……」

 

 波動とか言っちゃってる人にまともな奴はいねーよな。

 よし無視して帰ろう。帰ってエリザと一緒にホラー映画でも見よーっと。

 あの子幽霊の癖にホラー映画とか超怖がるから面白可愛いんだよなー。んで「きゃっ」とか可愛らしい悲鳴をあげつつ俺に抱き着いてくんの。ただ俺は俺でホラー映画とか超苦手で、ゾンビランドですらちょっとしんどいくらい。そんな俺は一体誰に抱き着けばいいの?

 

「さ、さぁ……早く、早くしてください……お願いデスから……こっちに来て下さい……」

 

 なんか幻聴さんの様子がおかしいな。何やら切羽詰っているような、若干苦しげな感じだ。

 まあ知らんけど。幻聴さんは幻聴さんで大変だと思うけど、俺は現実に生きている身だからね。幻聴は頭の中でじっとしていてくれ。

 

 

 

「こちらへ……こちらへ来るのデス、さあ……さあ――た、助けてぇ……一ノ瀬くぅん……」

 

「あ、この声もしかして先輩ですか!?」

 

 よくよく聞けば妙に聞き覚えのある声に、慌てて再度周囲を見渡す。しかし廊下にそれらしき人影は見えない。この声の主が俺の予想通りの人なら、すぐに見つかるはずだ。あの変わった格好してる先輩が見つけにくい状況とか、ハロウィンの時くらいだし。

 声に従い、遠藤寺と歩いてきた道を引き返しながら探していると……休憩スペースであるテーブルの一つ、そのテーブルの下に何やら黒い物体が蠢いていた。

 

「助けてぇ……出れないよぉ……」

 

 黒い物体は一見、たっぷりゴミに詰まったゴミ袋に見えた。どうやら声の主はこのゴミ袋らしい。ゴミ袋から靴らしき物体が二足生えている。

 ん? つまり先輩=このゴミ袋? 

 まさかな……俺の尊敬する先輩がゴミ袋のはずないし。

 

「い、一ノ瀬くーん……え? も、もしかしてもう行っちゃったの? ま、待って―! 私ここにいるよー!」

 

 沈黙していると、俺がいなくなったと誤解した先輩らしき物体が、慌てた様子でごそごそ体を揺らした。

 足の生えてる場所から考えるに、お尻辺りだろう部位がフリフリ揺れた。

 

 しかし見た目はアレだが、随分と可愛らしい声だ。もしこの声の持ち主がラジオ番組をしていたら、毎週かかさず聴くし人数限定の公開録音なら他の参加者をアレしてでも参加するだろう。

 例えるなら、そう……妖精の声。夢の中へと誘われたくなるような魅惑的な声だ。

 よし、このゴミ袋のことを『ダストフェアリー』と呼ぼう。……なんか自給230円くらいの喫茶店で働いてそうな名前だな(怖ろしく知名度の低い元ネタ)

 

「いちのせくぅーん……私ここにいるよー……うぅ」

 

 よくよく見るといつもの黒いローブを纏った先輩が、土下座をするような姿勢でテーブルの下に潜り込んでいるだけだった。状況から察するにどうやらテーブルの下から出られないらしい。

 何やってんだこの人……。

 

 俺がいなくなったと思った先輩は、『しくしく』とオノマトペを織り込んだように悲しげに呟いた。

 

「うぅ……一ノ瀬君行っちゃったみたいだし、わ、私もしかしてずっとこのまま? い、嫌だよ……このまま死んじゃって明日の朝刊で『〇〇大学にて女性の変死体? 女性は何故か黒いローブを被ったまま死亡しており……』みたいなニュースになったらどうしよう……。そんなニュースが流れたら美咲ちゃんが学校で虐められちゃうよ……!」

 

 『やーい、お前のねーちゃんゴミ袋ー』とクソガキが喚く光景を幻視した。許せん! その呼び方していいのは俺だけなんだぞ!?

 

「こ、こんな所で死にたくないよぉ……。そ、それに、まだ一ノ瀬君ともお話ししたいことたくさんあるし。――えいっ。えいっ!」

 

 先輩がローブに包まれたお尻を揺らしながら体を揺らす。テーブルがガタガタ揺れるが、先輩が出てくる気配はない。

 ローブがテーブルの足に挟まっているからか、ローブの生地が突っ張って体のボディラインがはっきり出ている。

 前々から思っていたが、やはり先輩ってかなりのナイスバディに違いないよ。要チェックや!

 

「な、なんで出られないの? こ、このっ――あああっ!? 今なんかビリっていった!? 破ける音がした!?」

 

 それは大変だ!と先輩を凝視するが、残念ながらローブの裾の部分が少し裂けていただけだった。

 艦〇れの大破イラストみたいに、都合よくお尻の部分だけ破れて下着が見える展開を期待していたのに……。

 

 流石にこれ以上は見ていられない。俺は先輩(のお尻)に声をかけた。

 

「あの、先輩らしき人。大丈夫ですか?」

 

「へあっ!?」

 

 ガコンと音を立てて、テーブルが一瞬浮いた。

 頭をぶつけたらしい。

 

「い、痛ひ……。あっ、この声……一ノ瀬君!? よ、よかったぁ……てっきり気づかずに行っちゃったのかと……」

 

「そんな所で何してんすか?」

 

 テーブルに潜り込むのが趣味なのかな? 最近流行ってるらしいじゃん。机の下でキノコ育てたり、むぅりぃーとか言ったりハイライト消したりするの。何の話かって? 俺の大好きなアイドルの話に決まってんだろ! 元ネタ言わせんな恥ずかしい。

 

「じ、実はね、ちょっと困ったことになっちゃって……あ、いや――けふんけふん!」

 

 先輩はわざとらしく咳をした。

 先程の甘えた子供のような声から、いつもに無理やり作った低音の声に。

 

「フフフ……よくぞ聞いてくれましたね我が同志、一ノ瀬後輩よ。実はこのテーブルの下になんとカオスゲート――闇の世界の入り口があることをワタシの魔眼『ダークアイ』が看破したもので、思わず飛び込んでしまったのデスよ。おっと、既にゲートは閉じられていますよ。ワタシが接触した事で『アチラ側』にも気づかれたみたいデス。あっという間にゲートを閉じられてしまいました。中々に早い対応――もしかすると超級者以上の手練れが対応したのかもしれませんね。デスが収穫はありました。何と近いうちにアチラ側では準超越者級の魔人が終結し、会合を開くという情報が……」

 

「はい」

 

「フフフ……」

 

「……」

 

「フフ……」

 

「……」

 

「フ……」

 

 俺と先輩(のお尻)の間に静寂を表す『シーン』というオノマトペが通り過ぎた。

 

「で、本当は?」

 

「……あー、一之瀬後輩の後ろ姿が見えたので声をかけたのデスが、すぐに知らない人が隣に歩いているのに気づいたもので……ついとっさに隠れてしまいました」

 

「なんで隠れるんですか……」 

 

 と、呆れたように返した俺だが、先輩の気持ちは大いに理解できる。気軽に話しかけることができる仲のいい友達相手でも、友達の友達がいたら何故か話かけるのを戸惑ってしまう。

 コミュスキル高かったら「おっす〇〇。あれ? そっちの誰? ダチ? ○○のダチなら俺のダチみたいなもんだな! 俺□□、よろしくな!」みたいな『ズッ友の友達もズッ友だょ』みたいな感じで話しかけれるんだろうな。まあ、俺には一生縁のない話だけど。

 

 この黒いローブを纏った、テーブルの下から抜け出せない不審者丸出しの人物は――デス子先輩。

 俺が所属しているサークル『闇探求セシ骸』の会長だ。

 先輩は一言でいうと……オカルトマニアだ。日々、非日常的なオカルトを求めており、このサークルもそういったオカルトに纏わる情報や事件などを集めるサークル……らしい。

 らしいというのは、実際活動している姿を見たことがなく、いつも拉致られて部室で駄弁ったり居酒屋で飲み会をしているだけだからだ。

 言動は中二病丸出しの痛い人だが、テストの過去問を渡してくれたりよく生徒を当ててくる教授から当てられにくくする方法などを教えてくれる優しい先輩的な面がある。

 ローブの下の素顔を見たことはないが、この可愛らしい声だ。きっと中の人も可愛いに違いない。だからってみんなは可愛い声の声優さんを無闇に画像検索するんじゃないぞ? ショックを受けたくないならな。一之瀬お兄さんとの約束だ。

 

「一之瀬後輩。その、できれば……このテーブルから出るのを助けて頂けると……」

 

「ダークなんとかで何とかしたらどうですか?」

 

「い、いや魔眼『ダークアイ』は……その……せ、精神に作用したり隠されている物を見破るメンタル属性のアレなので、その物理的なアレはちょっとアレで……」

 

 い、いかん……先輩の中二設定に早くもボロが出てきたぞ!

 このままガバガバになった中二設定を後で何とか持ち直そうと頑張る先輩は見ていて微笑ましいのだが、同時に心が痛くなる。かつての自分と重ねてしまうからだろうか。

 自分の傷が開く前にさっさと助けよう。

 

「分かりました。ちょっと待っててください」

 

 先輩が潜り込んでいるテーブルに近づく。予想通り、テーブルの足にローブが挟まっていた。恐らく慌ててテーブルに潜った際にテーブルが浮き、その時に挟まってしまったのだろう。

 

「先輩。俺がテーブル持ち上げるんで、その隙に出て下さい」

 

「わ、分かりました! では合図を決めるとましょう。一之瀬後輩が『Verderb(破滅の)』、それに合わせてワタシが『Windhose(竜巻)』と詠唱するのでその隙に――」

 

「せーの!」

 

「あ、はい!」

 

 俺がテーブルを持ち上げた隙に、先輩がカサカサとテーブルから這い出してきた。

 普段の先輩が見せない滑稽な動きに思わず軽く噴出してしまった。

 

「……ふ、ふぅ。やっと出られました……よいしょ」

 

 四つんばいの態勢だった先輩が、疲れたような動きで椅子を支えに立ち上がった。

 お尻しか見えていなかった姿の全体像が目に入る。と言っても全身ローブなので、特筆すべきことはないのだが。いや、這い出てた時に床と擦れたのか、ローブが捲くり上がって普段は見えない足が膝上くらいまで見えている……! 肌白いっ……いや、白すぎるぞこれは……! 違う、素肌じゃない、これは……白タイツ! ローブの下、まさかの白タイツ……! 

 

「はぁ、はぁ……長く辛い戦いでした……」

 

 ただテーブルに服を挟んで出られなくなっただけなのだが、モンスターと一戦やらかした後のように疲れている先輩。

 ローブから露出している肌に、うっすら汗が浮かんでいてエロい。

 

 息を整えた先輩は、俺に向き直った。

 

「ところで一ノ瀬後輩の隣を歩いていた、とても奇抜な格好をした女性は誰デスか? ……どうしました一之瀬後輩? 何やら理解し難いものを見る目でワタシを見て」

 

 黒いローブ来てる先輩が奇抜な格好って言っても説得力がないデース。

 

 しかし遠藤寺と俺の関係か。まあ、親友だよな。かけがえのない唯一の親友。俺あいつとだったら『俺たちずっと親友でいような』みたいなギャルゲーのバッドエンド迎えてもいいと思ってるし。

 

 ここで『友達ですよ』と本当のことを言ってもいいが、そろそろ先輩との仲も深まっただろうし、冗談の一つも許されるだろう。

 女と仲良くなりたいなら、冗談を磨きなって昔近所に住んでた『ほら吹きの銀二』ってオッサンが言ってたし。銀二さん最後に会ったとき『俺な。お星さまになるんだぜ? 誰よりも早く落ちる、一番綺麗なお星さまにな』って冗談いってたけど、今思えば銀二さん完全にヤの付く人だったし、完全に『鉄砲玉』になるって意味にしか聞こえないんだよな……。

 

 さて、冗談ね。どうせ冗談を言うんだから、先輩をめいっぱい驚かせたい。そう思ったらスルリと言葉はでてきた。

 

「彼女ですね」

 

「ほほう、なるほどなるほど――って彼女!? ほ、ほーう……なるほど。か、彼女デスか……へー、そうデスか……はー。あ、いや待って下さい。この間、一ノ瀬君後輩に彼女はいなかったって言ってたじゃない! ……言ってたデスよね?」

 

 さすが先輩。キャラがブレブレだ。

 

「あー、彼女……遠藤寺、俺はえんどりんって呼んでるんですけどね。あいつ、ああ見えてすげぇ恥ずかしがり屋で自分が彼女だってこと内緒にしてくれって言うんですよ。でも、俺と先輩の仲ですから明かしちゃいました。これ禁則事項ですよ?」

 

 俺の冗談は効果てきめんで、先輩は戸惑いを隠せない様子でギュッと自分のローブの胸元を握った。

 口元はひくひくと微動している。

 

「へ、ヘェー……はー……そ、そうデスか。よ、よく秘密を明かしてくれました、う、う……嬉しい、デス、よ。……はぁ」

 

 分かりやすく戸惑っていた先輩だが、深くため息を吐くと何故か回れ右をして先程まで自分が挟まっていたテーブルに潜り込み始めた。

 

「え、どうしたんです先輩? な、なんで出てきたばっかりのテーブルにまた戻ろうと……」

 

「ちょっとその……アレです……カオスゲートに用事が」

 

 そういうと先輩は完全にテーブルの下に潜り込んでしまった。

 

 テーブルのの下に潜り込んだまま、もそもそと体を動かす先輩。次いで携帯の呼び出し音が聞こえた。

 

「……あ、三咲ちゃん? ……い、今大丈夫? ううん? 泣いてないよ……ぐすっ。あのね、お姉ちゃんがこの間言ってた後輩の子ね……うん、そう。な、なんかね……恋人いたんだって……ぅん。うんうん……ふぐっ。ご、ごめんねっ、今度家に連れて行くって約束してたのに……っ、だめなお姉ちゃんでごめん。……ありがとね。三咲ちゃん優しいね。うん、うん……え? えっと……よく分からないけど……あんまり鍛えてるようには見えない、うん。最近ちょっとポチャッとしてきて……うん。え? 真夜中に背後から襲われて対応できるタイプか? ど、どうかな? 分かんないけど……え? た、たぶん背後から頭を思い切り鈍器で殴られたら普通に死んじゃうタイプだと思う……。えっと美咲ちゃん、何かブンブン振る音が聞こえるけど……え? 素振り? 部屋の中で?」 

 

 どうやら例の妹ちゃんに電話をしているようだ。テーブルの下で聞き取れない部分が多いが、このままだと不味い気がする。このままじゃ、バッドエンドに直行しそうな気がする。しかもタイプムーンのゲームとかのバッドエンドに。

 

 慌ててテーブルの下にいる先輩に呼び掛けた。

 

「せ、先輩! ストップ! 嘘ですから!」

 

「……え、嘘?」

 

「はい嘘です! 彼女じゃなくて普通に友達です!」

 

「お友達? 普通の?」

 

 普通かと聞かれると、明らかに普通じゃないタイプの友人だが、ここで先輩を刺激する必要はないだろう。

 

「はい普通です。普通の友達です」

 

「限りなく彼女に近い友達とかじゃなくて?」

 

「限りなく友達に近い友達です。つーか俺、彼女いない歴生まれてからずっと更新中なんで……」

 

「そ、そうなの? へー……そうなんだぁ」

 

 俺の彼女いない暦年齢を聞いた先輩の声は何故か嬉しそうだった。

 人がモテないのを聞いて悦ぶのって人としてどーなの? 先輩愉悦サークルも掛け持ちしてんの?

 

 先輩が再びもそもそと這い出してくる。

 ローブで隠れてよく見えないが、目元が若干赤い気がした。

 

「ただの友達……なの?」

 

「ただの友達です。それ以上でもそれイカでもない」

 

 俺は念押しするように言った。アルフォース○イドラモンはカッコいいね。

 だが、俺の言葉に先輩の口元は「むむぅ」と曖昧な形で歪んでいる。納得していない様子だ。

 

「本当にただの友達? あ、あのね。三咲ちゃん――妹から聞いたんだけど、最近友達って言いながら、その……キスしたり、一緒に寝たりする友達関係もあるんだって……だから、その……」

 

「はぁ? 何すかその得体の知れない友人関係は? どうせ口裂け女みたいに都市伝説の類でしょ」

 

 全く妹にそんなことを吹き込まれて信じちゃうとか先輩ってばチョロイのな。

 そんな俺の理解を超越した友人関係なんて存在するわけないじゃん。

 

 俺はスマホで『キス 友達』と入力して検索してみた。

 

 ――そしたら出るわ出るわ……。

 

 あくまで遊びの感覚で異性とキスする『キス友』、一緒の布団で寝る『寝る友』。そんな情報がネット上に乱舞していた。

 どうやら俺が知らない間に『友達』という概念は随分進化していたらしい。

 

 つーか何これ!? 俺が高校通ってたときこんな羨ましい友達関係なんてなかったぞ!

 くっそ……あと数年遅く生まれていれば……俺にもこんなキス友ができて恋人でもない女の子達と朝のHRちゅっちゅ、お昼休みちゅっちゅ、帰りのHRちゅっちゅ、俺と一緒に帰りたくて下駄箱で待ってた後輩とちゅっちゅ、家で妹とお帰りちゅっちゅ、モニターの中の利根ちゃんと夜戦ちゅっちゅ……そんな素敵なキスマイライフが待ち受けてたのに! あ、最後のは普通にやってたわ。

 

 ……い、いや、待てよ。今からでも遅くないんじゃ……?

 そう、例えばだ。遠藤寺はかなり常識に欠けているところがある。普通に生きてたら絶対知りっこないレアな情報とか知ってたりするけど、反対に子供でも知ってるような当たり前の常識を知らないことが結構ある。

 友達に関してもそうだ。遠藤寺は俺と知り合うまで友達がいなくて、友達関係というものに疎いらしい。たまに友達としてはちょっと刺激ある行為が見られるし。

 そんな遠藤寺に今得たばかりのキス友やら寝る友などの情報を友達の常識と吹き込んだら――これワンチャンあるで!

 

 俺は今しがた思いついた恐ろしい作戦を胸の内に秘めた。もう少し練り込んだ方がいい。今夜の脳内議会はこれだな。

 

 妹ちゃんに吹き込まれた情報に踊らされ落ち着かない様子でそわそわしてる先輩に言った。

 

「何回も言いますけど、普通に友達です。一緒に授業受けたり、昼飯食ったりする普通の友達ですよ」

 

 天才が集められた孤島に連れて行かれて殺人事件に巻き込まれたりもするけどな。

 

「ほ、ほんとに?」

 

「ええ、本当です」

 

「……そっかぁ」

 

 先輩が非常に分かりやすい安堵のため息を吐いた。

 ため息とともにローブの胸元をギュっと握っていた先輩の手が、ゆっくりと開かれた。

 

「もぅ、本当にびっくりしたよぉ……はぁ、本当によかったぁ」

 

 『よかった』を繰り返す先輩。

 そんな先輩をジッと見ていたら、俺の視線に気が付いたのか先輩が「んっん!」と咳払いをした。

 ローブについた埃を叩き落とし、いつもの如く「フッフッフ……」と黒魔術系の笑みを浮かべた。

 

「――まあ、一ノ瀬後輩に恋人がいるなどというのは嘘だと最初から気づいていたのデスが。一ノ瀬後輩のように深い『闇』を抱いた存在が放つ波動に、常人が恋人なんて近い距離にいて正気を保てるはずがありませんからね」

 

「人をワキガみたいに言うのやめてくれません?」

 

「しかし……フム、先ほどの女性、なかなかに興味深い……」

 

 お? こんな所にキマシタワーが生える兆しあり? キマシタワーに百合の花が乱舞しちゃう?

 俺花粉症だけど百合の花だけは大好き! 見るもよし! 嗅ぐもよし! 撮るもよし! 

 

「一ノ瀬後輩の友人となると相当な変人なのでは?」

 

「先輩。話したこともない人間をディスるのやめた方がいいよ」

 

 俺は正論を以って先輩を諭した。

 

「まあ変わってるっちゃあ変わってますけど」

 

「やはり! 一之瀬後輩ほどではないとはいえ、彼女からもかなりの波動を感じました……! 恐らく只者ではないのでしょう……!」

 

 先輩は手に汗握るといった面持ちで口元に笑みを浮かべた。

 

「ワタシの推測では彼女は――代々竜脈を守りし破邪の霊力を生まれ持った巫女」

 

「じゃないですね」

 

「ではこの街に巣食っている魔の物を刈る為にバチカンから派遣されたシスター?」

 

「ノー」

 

「ふーむ。この街に古来より住み着いてる吸血鬼の一族……」

 

「ナイ」

 

「ならば、そう――かつて存在した人外を狩る一族の生き残りで、人間社会に紛れる人外に出会ってはその本性を剥き出しにしてハンティングに耽る殺人鬼……!」

 

 ある意味近い。殺人鬼とかを相手取る方だけど。

 

「いや、SOA(そんなオカルトありえない)ですから。アレですよ。アイツ探偵なんですよ」

 

「ほう探偵デスか! ……へー、そうデスか、なら別にどうでもいいデスー」」

 

 自分の分野じゃないと知るやいなや、先程まであった熱意はどこに行ったか興味を放り出す先輩。これは友達できませんわ。興味なくてもあるふりをするコミュニケーション術って人間関係ではかなり重要なんだぜ? 俺もそれに気づいたの最近だけど。

 

 完全に興味を失ったのか、それ以上遠藤寺に対する追求はなかった。

 

 先輩は何かを思い出したのか、ポンと手を打った。

 

「そうだ、一ノ瀬後輩。今からお暇デスか?」

 

 夜に遠藤寺と飲みに行くから、それまでは暇だな。

 

「ええ、まあ」

 

「では部室に行きましょう。少々、一ノ瀬後輩と共用したい情報がありましてね」

 

 特に拒否する理由もないので、歩き出した先輩についていった。

 先輩の後ろについたことで、先程破けたローブが広がってチャイナ服のスリットみたく太ももが露わになっていることに気づいた。だが俺は指摘することをしなかった。何故かって? それはその……普段露出しない先輩の太ももがじっくり視姦できるいいチャンスだからですが何か? 白タイツに覆われた先輩の太もも……んー、グッド!

 

「ワタシのネットワークに入ってきた情報なんデスが。どうもこの街に人魚の肉を食した少女がいるとか」

 

「人魚の肉? それってアレですよね。不老不死の……」

 

「ほほう、一之瀬後輩、知ってましたか。流石ワタシの見込んだ同志だけありますね」

 

 まあ、高橋留美子の漫画で知ったんですけどね。

 

 しかし人魚の肉か。そんなん手に入ったら、まず近所の麦わら小学生に食わせるね。永遠にロリ、素晴らしいじゃん。ロリは期間限定だから価値があるって意見には同意するけど、永遠のロリも人の夢の一つじゃん? 叶えたくなるじゃん? え、金朋? あれはまた別……。

 

 廊下を歩いていると、向こうから男子生徒が歩いてきた。俺は先輩の後ろからすぐ真横に並んだ。

 

「見た目は和服を着た少女なんデスが、どうもこの街にある昔の写真にちらほらとその姿が確認されており、その頃と今で全く見た目が変わっていないとか……」

 

「へー。写真が残ってるんですか。それは結構信憑性ありますね」

 

「……ところで一ノ瀬後輩。いつの間にか、随分とその……近くはないデスか? 距離が」

 

「そうですか?」

 

 俺は露出した先輩の太ももを隠すような位置にいる。

 言われてみれば少し近すぎる気がしないでもない。

 実際俺の腕に先輩の肩とか当たってるし。でもしょうがない。こうでもしないと他の人間に先輩の大切な部分が見られてしまうからだ。

 

「……まあ、別に構わないのデスが。……いや、一気に距離が近づいて戸惑いはあるけど、むしろウェルカムなんだよね……」

 

「先輩何か言いました?」

 

「いや何も言ってないよ! あ、じゃなかった。……何でもないデスよ。さて、今日はこれからその人魚の肉を食べた少女が生息するらしい場所を訪ねるつもりなんデスが……一ノ瀬後輩も一緒にどうデス?」

 

 先輩とフィールドワークかー。

 先輩の格好を見る。真っ黒なローブを頭まですっぽり被った格好。

 

「ちなみにですけど。その格好で行くんですか?」

 

「えっ? あ……ダメ、デスか?」

 

 先輩の声に不安が混じった。

 考えてみる。先輩と並んで外を歩く光景を。

 恐らくは間違いなく周囲の視線に晒されるだろう。先輩は顔を隠しているからしい。だが俺は完全にメンを晒さなければならない。色々な意味で苦しい。

 

 けど……まあいいか。先輩がこの格好にこだわるのには何か意味があるんだろうし、それを尊重したい。

 そもそも、ゴスロリファッションが私服の遠藤寺としょっちゅう街中を歩いている。奇異の視線に晒されるのは慣れたものだ。

 

「いいですよ。行きましょうか」

 

「……本当に? この格好デスよ?」

 

「だからいいですって。先輩はその格好で行きたいんでしょ?」

 

「……」

 

 先輩はジッと俺の顔を見た。ローブで見えない筈の先輩の目から、今まで感じたことのない感情が伝わってきた気がした。

 

「ありがとうね」

 

 先輩の口から、作った声ではない幼さを残した少女の声が発せられた。

 

 先輩が咳払いをする。

 

「フフフ……! では行きましょうか一ノ瀬後輩! 目的の場所に行く前に、部室に行きますよ」

 

「え、なんでですか?」

 

「何を言っているのデスか。まさか一ノ瀬後輩はその格好で外に出る気デスか? 忘れているかもしれないデスが、我々は闇に生きる者、その正体を知られてはならないのデス」

 

「つまり?」

 

「今日この日の為に、ワタシが自ら魔力を込めて……『闇探求セシ骸』の正式装備、この『闇の衣』を作っていたのデス! 一ノ瀬後輩の分を!」

 

「え」

 

 妙にウキウキモードに入った先輩にノーとは言えず、俺は部室へと連行された。

 

 この日、この街に存在する変態番付が更新されたのだが、俺がその番付の存在を知るのはまだ先の話だ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

これが――俺の縮地力?(遂に手に入れた力。斬ったものを万物問わず任意の距離を一瞬で移動させる――縮地刀《マタタキ》)

ある日の午後。

 

 食堂でエリザが作った弁当を食べ終わった俺は、その足で自宅への帰路についていた。

 

 午後からも授業はある。……が、どうにも出席する気にならなかった。

 

 やる気の問題だ。

 

 今日は何となくやる気が午前中までしか維持できなかったのだ。

 

 

 午後までやる気が維持できなかった要因は色々ある。

 

 いつも飴くれる小学生が風邪ひいてて飴貰えなかったり、通学中に肉屋のオッサンが小学校の前でにやけているのを目撃したり、午前中は遠藤寺と違う授業で遠藤寺と会えなかったり、1人で昼食を摂ることになったり……と色々あるが、一番大きいのは、朝に大家さんと会えなかったことだ。

 

 

 朝、学校に行く前に大家さんとお喋りするのは俺にとってやる気を充電する重要な機会なのだ。

 

 可愛らしい大家さんの溌剌とした(それでいてあざとい)仕草や言葉を味わうとそれだけで来世分まで生きる気力が湧く気がする。

 

 そんな大家さんとのグッドコミニュケーションがなかったのだ。

 

 それだけで午後の授業に挑むやる気は失われてしまった。

 

 

 そういう日は早々に帰るに限る。

 

 

「それに大学生ってサボってなんぼってところあるしな」

 

 

 サボっていることにまだ罪悪感を覚えているのか、自然と自己弁護の言葉が出てきた。

 

 これで開き直るようになれば、もう立派なサボリ常習者だ。

 

 まだ言い訳をしている時点で、俺は大丈夫……のはず。心の底から常習者になれば罪悪感なんて覚えてないはず。

 

 

 実際たまにしかサボってないし……。『テストだけ出れば余裕っしょ』とか言って最初の授業以来1度も出席していない頭の悪そうな奴に比べれば……。ああ……でもどうなんだろ。イカちゃんは1回でも授業をサボるような奴、嫌いかなぁ……。だったら嫌われたくないし、今からでも皆勤賞狙うけども。でもぶっちゃけイカちゃんって漫画のキャラで現実には存在……イカンイカン! それを考えちゃイカん! 

 

 

 二次元愛好家にとって至ってはいけない結論にたどり着こうとした思考を、頭をぶんぶん振ることで追い出す。

 

 イカちゃんはいる。まだ俺の前に現れていないだけで、この広い海のどこかにいるんだ。いいね。

 

 そういえば最近イカちゃんのこと考えるのが少なくなってきた気がする。

 

 代わりに遠藤寺とかエリザとか先輩とか、身近な人のことを考えるのが多くなってきた。

 

 これっていいことなんだろうか。

 

 

 それはそれとして、遠藤寺にLINEでメッセージを送る。

 

 

『午後からの授業サボサボするので、代返よろしくお願い』

 

 

 という文章を打ちながら歩く。

 

 授業中のはずだが、遠藤寺からの返事はすぐに帰ってきた。

 

 

『了解です。一応聞いておきますが、授業に来ない理由はなんですか? 体調でも崩しましたか?』

 

 

 遠藤寺はメールやLINEだと普通の敬語で正直戸惑う。

 

 最初返事が来たとき、業者からのメールと思って消去しかけたくらいだ。

 

 何となく気分が乗らないので、と返信。

 

 

『そうですか。あまり褒められた理由ではありませんね。できればそういった理由で授業に来ないのは控えて欲しいと思います。それに1人で授業を受けるのは正直退屈です。隣に君がいるとそれだけで退屈な授業もそれなりに楽しいと思えます。明日はちゃんと来てくださいね』

 

 

「……」

 

 

 正直リアクションに困る内容だ。

 

 隣に俺がいた方が楽しいって言うけど、一緒に授業受けててもアイツ真面目に授業聞くだけで俺と雑談するわけでもないし……。

 

 

 LINEの画面を睨みつけるように歩いていると、突然

 

 

「そこのおにーさん」

 

 

 と声をかけられた。

 

 いきなりかけられた声に、スマホから視線を上げ声の主を見る。

 

 ポニーテールが似合うジャージ少女が、ランニング状態で足を止め、こちらを見ていた。

 

 こちらを諭すような表情。

 

 周りを見るが、俺以外に人はいない。

 

 俺に話しかけているのか。

 

 少女は俺の手元を指差した。

 

 

「歩きスマホは危ないからやめた方がいいよ」

 

 

 どうやら歩きスマホを注意されたらしい。

 

 高校生くらいだろうか。見知らぬ相手を注意するのは相当勇気がいる行為だろうに、それも年上相手に。

 

 気持ちのいい正義感。素直に好感を持った。

 

 スマホをポケットに入れ、頭を下げる。

 

 

「そうだな危ないしな。ありがとう注意してくれて」

 

 

 俺が素直に謝罪とお礼を述べると、ジャージ少女はニンマリと満足げな笑みを浮かべた。

 

 歯並びのいい白い歯が太陽に照らされてキラリと光った。

 

 あの歯で手首の出っ張ったところアマガミされてぇ……そんな欲求が生まれたが、それを表に出すとポリ公がカミングスーンなので、心の奥に閉まった。

 

 

「ん! じゃあねおにーさん!」

 

 

 少女は元気の篭った声でそう言い、ポニーテールを揺らしながら走り去っていった。

 

 汗の混じった残り香が風に運ばれてきた。

 

 

「スポーツ少女か……いいな」

 

 

 自分の中に無かった新たな嗜好が生まれるのを感じた。

 

 中学高校と部活に縁のなかった俺にとって、初めてのタイプだ。

 

 何だかよく分からんが……いい。

 

 よし、今日の脳内議会には『スポーツ少女萌え』を議題にあげよう。あまり白熱し過ぎて『谷○子のどこに萌えを感じるか』みたいな議題までいかないように、俺が調整しなければならない。これ理性担当の辛いところね。

 

 

 しかし、あのジャージ少女、どこか引っかかる。会ったことがないはずだけど、何故か覚えがあるというか……。

 

 それにあの顔。誰かの面影を感じてしまう。

 

 多分気のせいだろうし「君、どこかで会ったことない?」なんてナンパ王道セリフを吐いたら、それこそポリ公のお世話になってしまうだろう。

 

 2度と会うこともないだろうし、気にすることもないか。

 

 

 そんなことを考えながら、スマホを取り出し、遠藤寺に伝言を送る。

 

 

『いつも代返ありがとう。お前にLOVE☆ズッキュン!』

 

 

 スポーツ少女と出会って若干テンションが上がったのか、文面も少々ノリ気味だ。

 

 

 このときの俺は気づかなかった。メールの宛先が間違っていたことに。

 

 遠藤寺ではなく――雪菜ちゃんにメールを送っていたことに。このことに気づくのは、もう少し後の話だ。

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 夏になり厳しくなってきた暑さを避けるように影を歩き、やっとこさアパートに辿り着いた。

 

 汗で服が張り付いて不快に感じる。

 

 

 まだ本格的な夏にもなっていないのに、この暑さは正直しんどい。

 

 夏本番になったら、俺は一体どうなってしまうのだろうか。

 

 溶けてバターになってしまうかも……まあ、その時はそこそこ高級な食パンに塗られて、できることなら大家さんに食べられたいね。

 

 

 食べられるで思い出したけどこの間、ビルくらいの大きさになった大家さんに丸呑みされる夢を見たんだけど……俺大丈夫かな。夢って人間の深層心理とか表すらしいけど、そんな夢を見る俺ってどうなんだろうか。

 

 

 何はともあれ大家さんだ。朝補給できなかった大家さん成分を補給しなければならない。

 

 今の俺には早さよりも何よりも大家さんが足りない。足りないで思い出したけど、ボク達には野菜が足りないってラノベが昔あったね。全然関係ない話だね。

 

 

 アパートの門をくぐり、周囲を見渡す。感覚を鋭敏にして、大家さんの痕跡を探す。気分は○ィッチャーだ。

 

 だがこの時間に庭を掃いていることが多い大家さんの姿は……なかった。

 

 大家さん特有の向日葵のような匂いの残滓も感じない。

 

 

「はぁ……」

 

 

 可愛いジャージ少女との遭遇で若干満たされたやる気が、一瞬で底をついてしまった。

 

 今日は大家さんと会えない日らしい。憂鬱だ。

 

 

 肩を落としながら庭を突っ切り部屋に向かう。

 

 

 庭を突っ切る際、大家さん手作り家庭菜園とかなり大きめの池を通る。

 

 

 この池、かなり大きく長さが10メートルほどある。そんな巨大な池がある庭はどれだけデカいんだよとか、これ絶対最初の方の描写より庭でかくなってるだろといった突っ込みが入ると思いますが気にしないで欲しい。彼岸〇に比べたら可愛いもんだろ。

 

 

 その池の側と通る際、妙なことに気づいた。池の水面が揺れている。風も吹いていないのに。

 

 少し気になって池に近づいた。

 

 

「ん?」

 

 

 岩でできた池の囲いに足をかけ水面を観察していると、水中に小さな黒い影が見えた。

 

 影は徐々にその面積を増やしていく。

 

 何かが浮き上がってきているのだ。

 

 

「なんだ?」

 

 

 観察を続ける。

 

 影は結構な大きさになり――ザバっと音を立てて水面を突き破った。

 

 

「――ぷはぁ! やりました! 私の勝ちですねっ!」

 

 

 何かが喋りながら水面から現れたので、あ、これ斧落としたら金銀パールの斧とかにして返してくれる系の女神だわって思った。

 

 女神はスクール水着を着ていた。脇を恥ずかしげもなく露にして、右手を突き上げていた。

 

 

「これで28戦14勝13敗1引き分け――ふっふっふ、まだまだ私もいけますね! ブーちゃん、貴方の敗因は一つ、魚介類ということにあぐらをかいていたことです! 人類舐めとったらいかんですよー!」

 

 

 勝利の笑みを浮かべていた女神は、水面を心なしからしょんぼりしながら泳ぐ背びれに向かって言った。ブラックバスだろうか。

 

 女神は架空のカメラと観客に向かってダブルピースをしている。

 

 

「はい、ダメかと思いました。でも応援してくれてるみんながいたから、頑張れました! ちょうきもちいい!」

 

 

 そして架空の勝利インタビューらしき行為。

 

 事情はよく分からないが、何か勝負のようなものに勝ったらしい。

 

 

 で、よくよく見たら池の中から女神は……スクール水着を着た大家さんだった。まあ女神には違いないわな。

 

 普段は和服を着ていて滅多に露出しない肩やら脇が丸見えで、俺は喜びと賞賛を表すように親指を立てた。ついでに軽く写メった。

 

 

 満足するまで写メったので、学校の池で飼っている亀に餌をやるポジションで、大家さんに声をかけた。

 

 

「どうも大家さん」

 

 

「へ? この声は……一ノ瀬さんですか? ドーモ。イチノセ=サン、オオヤサン=サンです」

 

 

「どーもオオヤサン=サン、イチノセ=サンです」

 

 

 俺は陸から、大家さんは水の中から挨拶をした。

 

 挨拶は大切だ。挨拶をしない人間はクズといってもいい。

 

 

「で、何やってるんですか大家さん」

 

 

「やーですねぇ、見て分かりませんか? 泳いでるんですよー。いやー、例年通りなら我が家の池開きはまだまだ先なんですけどねー。ほら、最近暑いじゃないですか。というわけでいつもより早く池開きです!」

 

 

 池開きなる行為が何か分からないが……確かに最近は暑い。日中もそうだが、夜ともなると日本特有のじめっぽい暑さが部屋に蔓延する。

 

 我が部屋にはエアコンなんて高度な文明の利器はない。ではどうやってその暑さを乗り越えるかというと……秘密だ。だがヒント一つだけあげるなら――ネクストタツミズヒント! 『エリザの体温は低い』これだ。発達した幽霊の体温はエアコンと変わらない……何言ってんだ俺。

 

 

「そうだっ、一ノ瀬さんも一緒に泳ぎませんかー? 冷たくって気持ちいいですよー」

 

 

 水面から首だけを出していた大家さんが、岩で作った池の囲いに上半身を乗り出しつつ言った。

 

 アシカショーのアシカみたいだ。

 

 そのままオイデオイデと手招きをしてくる。

 

 

 対する俺はちょっと及び腰。

 

 

「いや、流石に何がいるか分からない池の中に入るのはちょっと……」

 

 

「えー? だいじょーぶですよ! この池に住んでるのは優しいお魚ちゃんや蛙さんや水棲昆虫、可愛いワニちゃんなので、安全ですよー?」

 

 

「明らかに生態系ぶっ壊してんのがいるんですけど」

 

 

 ワニって言ったか? ワニなんてグレネード食わせて爆殺されるイメージしかないけど……実際はマジでヤバイんだよな。何か嚙む力が生物の中で一番凄くて、2トンとかあるとか……。美○蛮さんのざっと10倍だ。そんなヤバイ生き物がいる池とか、マジで穏やかじゃないわね……。

 

 

「さあさあ、遠慮せずに。あ、もしかして一ノ瀬さんって金槌だったりします? だったら私が泳ぎ方教えてあげますよっ。私こう見えて泳ぐのすっごい上手いんですから! 学生の頃、おてんば人魚ってあだ名つけられてましたからっ」

 

 

 電気属性に弱そうなあだ名だ。

 

 

「いいえ、俺は遠慮しときます」

 

 

「まあまあそう言わずに。ザバンと入っちゃいましょうよ。流石にそのまま入ると危ないので、水着に着替えてからですけど。あ、でも……下着でも大丈夫かも……な、なんちゃって!」

 

 

「ですからパスで」

 

 

「あ、もしかして溺れたりするの心配してます? だいじょーぶです! 私、こう見えて水難救助の資格も持ってますから!」

 

 

「いいですって」

 

 

 繰り返し否定する俺に、流石に何かおかしいと気づいたらしい。

 

 

「……あ、あの一ノ瀬さん? さっきからなんか、こう……距離を感じるんですけど」

 

 

「いやぁ、気のせいじゃないですかね」

 

 

「で、でも何ていうか……私を見る目が何やら痛い子を見る目なんですけど」

 

 

 隠していたつもりだが、俺の視線は思っていた以上に素直らしい。

 

 正直に言うと俺は、若干大家さんに対してひいていた。

 

 想像して欲しい。もし貴方が学生で憧れの先輩がいて、ある日その先輩が学校の池でザバザバ泳いでいるのを目撃したらどう思う? ブラックバスと競争して。しかも超楽しそうに。まず間違いなく距離を置くだろう。 

 

 もしここがプールなら、ジュニアアイドルのイメージPVみたいに健全かつさぞ魅力的な光景だろう。だがここは池だ。藻とか浮いてるし、大家さんの言葉が正しいなら、夢の水棲生物王国状態だ。

 

 

 大家さんは俺の態度に違和感を覚えたのか首を傾げ、腕を組んで何やら考え込んだ。

 

 そして徐々にその顔を真っ青にした。

 

 

「い、いや……まさか。――あ、あのー……た、例えばですよ? 例えばの話なんですけど! 自分の敷地内にある池で泳いでる女の子がいたとして、一ノ瀬さんはその子を見てどんな感想を抱きます?」

 

 

「やべえ奴がいるぞって思います」

 

 

「マジですか!? ヤベエですか!? な、なんでですか? あ、じゃあアレは!? 家の庭でビニールプールで遊んでる子供は!?」

 

 

「可愛いと思いますね。もし大家さんがビニールプールで水遊びしてたら、さぞ魅力的に映るでしょう」

 

 

「池なら!?」

 

 

「正直ひく」

 

 

「うわあああ!」

 

 

 大家さんが悲鳴をあげた。悲鳴が水面を揺らす。

 

 

「うわぁぁぁん! 一ノ瀬さんにひかれたぁ! 嫌われたぁ!」

 

 

 立ち泳ぎをしながら涙を流す大家さん。なかなかにシュールな光景だ。

 

 

 とか観察してる場合じゃねえ!

 

 

「ちょ、大家さん!? そんな大きな声で泣かないで下さい!」

 

 

「そりゃ泣きますよ! 良い年してワンワン泣きますよ! よくよく考えてみたら、家にある池で泳いでたら私だってドン引きですよ! 昔から泳いでたから疑問とか無かったですけど、これよく考えたらかなり変な子じゃないですか!? 池で泳ぐとか! 好感度が流れ去っていきますよ! 池だけに! うわぁぁぁぁぁん! 自分で言ってて全然上手くないよぉぉぉっ」

 

 

 ボロボロ涙を流す大家さん。

 

 大家さんの涙で池の嵩が増えたように錯覚してしまう。

 

 

 ヤバイ。何がヤバイってこの光景を見られたら俺がヤバイ。

 

 大家さんを泣かせてる時点でかなりギルティーなのに、傍から見るとこれ俺が大家さんと突き落として泣かしたように見えるんじゃないだろうか。

 

 実際は大家さんが自主的に泳いでたんだけど、事実が捻じ曲がるなんて珍しくもないもんな。アニメ化における○ュッケバインとか。

 

 

「サブヒロインは嫌だ……実質メインヒロインの10分の1くらいしかルートがないヒロインは嫌だ……」

 

 

 何やら意味不明なことを言いつつ、目からハイライトを消し体を掻き抱く大家さん。

 

 ここで俺の好奇心が爆発して『滑りだぁぁぁい!』と某帽子のように叫びだしそうになったが、何とか抑えることができた。

 

 

 俺はなんとか大家さんを泣き止ませようとした。

 

 

「だ、大丈夫ですって! さ、下がってませんから! むしろ上がってますよ! ほ、ほら……池で泳いじゃうとかマジでワイルドですよ! 可愛い大家さんにワイルド感が合わさって最強ですよ!」

 

 

「……ほ、ほんとですか? 嫌いになってませんか? 魚臭いんだよこの半漁ZINが、とか思ってませんか?」

 

 

「何言ってるんですか。俺が大家さんのことを嫌いになるなんて……絶対ありませんよ。例え何があっても」

 

 

 俺は本心で答えた。

 

 確かに池で泳いじゃう大家さんには若干ひいたが、それで大家さんを嫌いになるわけない。

 

 それに俺、モビルスーツの中じゃゴッグとか好きだしな。ジオン水泳部最高!

 

 

「い、い……」

 

 

 大家さんが顔を伏せた。

 

 ぷるぷると震えている。水中、ぷるぷる震えている……これは……俺の想像が正しければ……今すぐ池に飛び込むべきじゃなイカ!?

 

 心の中のナポレオンが『ハイニョーシルバー!』と勢いよく叫んでいる。

 

 ワニに嚙まれて命を失うリスクよりも圧倒的なリターンがある。その可能性だけで十分だった。

 

 よし飛び込むか!

 

 

 しかし俺の想像した行為(いわゆるCC。シーシーと読む)とは違ったようで、顔をあげた大家さんは何やら感極まった顔をしていた。

 

 どうも感動で震えていたらしい。

 

 

「い、いちのせさん……わ、私……嬉しいです……! 一ノ瀬さぁん!」

 

 

「ちょ、おまっ……!」

 

 

 感極まった大家さんが俺の脚にしがみ付いて来た。

 

 体がバランスを崩しそうになる。これがゾンビなら喜んでサッカボールキックをお見舞いするのだが、相手は大家さんだ。そういうわけにはいかない。

 

 

「トキメキました! チョロインって言われてもいいです……! 私、今の言葉嬉しかったです……! キュンキュンしましたっ」

 

 

 体の密着度を高めるように深くしがみついてくる大家さん。

 

 最近エリザのご飯はおいしいし、春だから食が進むしで、体が緩みきった俺はそれに耐えることができず……池に落ちてしまった。

 

 水の中で特徴的なヒレと牙が目立つB級映画に引っ張りだこの生物らしき何かと目が合い、慌てて水面に顔を出す。

 

 同じように水面から顔を出している大家さんが目の前にいた。

 

 

「ぶはぁ!? 大家さんマジで勘弁して下さいよ! ていうか今さっきサメ……!」

 

 

「ご、ごめんなさい。つ、つい一ノ瀬さんの言葉が嬉しくて……ゆ、許してニャン?」

 

 

 クソが! 可愛いから許しちゃう!

 

 

 1度池に飛び込んでみると冷たくて気持ちいいし、スク水の大家さんが近くにいるしで、結局泳いでしまった。

 

 結果オーライってやつだな。

 

 でも、防水スマホがちょっと壊れて画像が全部吹っ飛んでたのはショック。これはもう大家さんに責任を追求するという名目で撮影会を開くしかないな……。

 

 

 

■■■

 

 

「あははー。2人ともびしょびしょですねー」

 

 

 池から上がった俺たちは、大家さんの部屋に向かっていた。体を拭いてくれるらしい。

 

 俺は部屋で着替えるからいいと言ったが、大家さんがどうしてもと聞かなかったのだ。

 

 池に引きずり込んだ責任を感じているのだろうか。

 

 

「先にちょっと着替えてくるんで、そこで待ってて下さいねー」

 

 

 大家さんの部屋に案内されて、指示通り敷かれたタオルの上に座る。

 

 大家さんはというと、部屋の中にある大きなクローゼットの中に入ってしまった。

 

 クローゼットの中から、ごそごそ衣擦れの音が聞こえる。どうやら中で着替えているらしい。

 

 大家さんがスク水を脱ぐところを想像して、興奮よりも寂しさを覚えてしまった。もう大家さんのスク水は見られないと思うと、悲しい。大家さんのスク水の似合いっぷりたるや、彼女の為にスク水が生まれたのではないかと錯覚してしまうほど。恐らくはスク水を司る系の神にそれはもう愛されているのだろう。

 

 

「あっ、これその辺に置いといてもらえますか?」

 

 

 とクローゼットの中から大家さんの手だけが出てきた。手には先程まで着ていたスク水が握られている。

 

 慌てて受け取る。

 

 当然ながら湿っている。だがそれでいて温かい。大家さんの残滓を感じる。

 

 スク水を持っていた手が引っ込んだ。そのままゴソゴソ音が再開された。

 

 今大家さんは全裸……いや、今はそんなことはどうでもいいんだ。重要なことじゃない。

 

 

「ゴクリ……」

 

 

 生唾を飲み込みながら、自分の手にあるスク水を見つめる。

 

 なんてこった……。まさかこんな風にして大家さんの脱ぎたてのスク水を手にすることになるとは。こんなイベント死海文書にも書いてなかったぞ?

 

 俺の人生でこの先、大家さんの脱ぎたてスク水を手にするなんてイベントが起こるだろうか。いや起こるまいよ。

 

 自分の中で悪の部分がむくむく成長しているのを感じる。

 

 

 成長した悪はこう囁いた『選べ!』と。

 

 

 

 

・貰う

 

・ギる

 

・頂く

 

・ゲットする

 

・受け賜る

 

・拝借する

 

・パクる

 

 

 

 脳内にそんな選択肢が浮かんだ。黙って返すという選択肢はないらしい。

 

 だが脳内議会でも全開一致でパクる方向で進んでいる。理性である俺はそれを止めなければならないのだけど……現物が自分の手にあるという誘惑には勝てなかった。『しょうがないよ。辰巳君は悪くない、うん』よし。脳内エリザからも許可が出たことだし、戴いてしまおう。

 

 

 だがどうする? このまま懐に収めたところで、無くなったことに気づいた大家さんにすぐバレるだろう。

 

 そして速やかに通報……はないか。だが、少なくとも大家さんの好感度は下がってしまう。

 

 

 方法はないか。例えばそう……他に代替品があれば……。

 

 代替品? そうだ!

 

 

「思い……出した……」

 

 

 俺の脳内に過去の記憶が蘇った。メタ(具体)的に言えば10話の記憶を。

 

 あの日、大家さんから大量にエリザの服を貰った。そしてあの中に――

 

 

 俺は大家さんに気づかれないようにこっそり部屋を出て、猛ダッシュで自分の部屋に帰った。

 

 タックルする勢いで部屋に飛び込む。

 

 

「辰巳君おかえりなさーい――そして行ってらっしゃい!?」

 

 

 部屋に入るやいなや、俺が帰ってくるタイミングを見計らっていたのか玄関にいたエリザの脇を通り抜け、秘密の小部屋からスク水を回収した。

 

 そのまま速攻で大家さんの部屋に戻る。

 

 

 そして……今持って来たスク水と脱ぎ立てのスク水を……すり替える!

 

 それを鞄に仕舞う!

 

 

「――ミッションコンプリート」

 

 

 ほぼ無呼吸で部屋を往復したので、息が苦しい。

 

 だが俺はやり遂げた……俺はやり遂げたのだろうか……?

 

 鞄の中には確かにスク水の重みがあった。どうやら本当に成功したらしい。

 

 

 大家さん3種の神器の1つ『脱ぎたてスクール水着』を手に入れた――!

 

 

 やったぜ! あと2種類を手に入れた暁には、晴れて大家さんに求婚を申し込めるとか……!

 

 

 喜びの余り脳内ポイズンベリー状態の俺がガッツポーズを取っていると、クローゼットがパタンと開いて、和服に着替えた大家さんが出てきた。

 

 

「はいはーい。お待たせしましたー。いつもの大家さんですよー……ってどうしました一ノ瀬さん? ガッツポーズなんかして」

 

 

「はぁ!? な、なにがですかぁ!? どこからどう見てもいつもの一ノ瀬辰巳ですけど!? 普通の大学に通ってるんですけど!?」

 

 

「お、落ち着いて下さいよ一ノ瀬さん」

 

 

 人生最大のイベントをクリアした俺の内心は未だ興奮冷めやらない。

 

 普通ではない俺の様子に大家さんが戸惑っているのか首を傾げたまま、タオルを手にして俺の背後に回った。

 

 

「と、とにかく体拭きますから……なんかさっきよりも濡れてませんか?」

 

 

「き、気のせいですよ」

 

 

「まるで全力疾走と後ろめたいことを同時に行ったような冷や汗が……」

 

 

 この時以上に『気のせい』という言葉を多用する日は、2度と訪れないだろう……。

 

 

 

 

■■■

 

 

 

「ささ、一ノ瀬さん。タオルで拭きますねー」

 

 

 タオルを渡してもらえば自分で拭くと言ったが、聞き入れられなかった。お詫びのつもりとのこと。

 

 されるがままに体を拭かれる。

 

 小さな体で一生懸命俺のの体を拭く大家さん。

 

 他人に体を拭かれるのなんて久しぶりだ。

 

 昔、学校帰りの大雨に降られて泣きながら帰ったら、ぶつくさ言いながらも体を拭いてくれた母親を思い出した。

 

 

 体を拭かれながら、大家さんの部屋を眺める。

 

 俺の部屋と同じ間取りの6畳の部屋だ。先ほどのクローゼット以外に、丸テーブル、化粧台、テレビ……とどこにでもある女性の1人部屋。

 

 が、そのどこにでもある部屋、俺の部屋だとただの壁に当たる部分に――引き戸がある。

 

 引き戸の先は……隣の部屋だ。

 

 何と大家さん、大家権限で隣の部屋との壁をぶち抜いて使用しているのだ。ついでに言うと隣の部屋にも同じような扉がある。つまり3部屋を繋げているってことだ。

 

 隣の部屋は超デカイモニターが鎮座しており、それを囲むように○ァミコンから最新ゲーム機が置いてあるゲーム部屋。

 

 その隣の部屋は、天井まで届く巨大な本棚がみっちり詰まった漫画部屋だ。

 

 

 初めて大家さんの部屋に上がって、俺がゲームや漫画を好きって話をしたらもじもじ恥ずかしそうにしながら、その部屋を見せてくれた。

 

 大家さんと同じ趣味があって嬉しいと思うより、自分より圧倒的に上を行くその趣味のコレクション率に敗北感を感じたのは懐かしい。

 

 

「それにしてもアレですねー。時間が経つのは早いですねー」

 

 

 大家さんが体を拭きながら言った。

 

 俺は頷いた。

 

 

「ですね。もうここに越してきて3か月ですか」

 

 

「ええ。あっという間でしたねー」

 

 

 大家さんの言う通り。この3か月はあっという間だった。俺の人生で最も濃い3か月だった。

 

 大家さんと出会ってこのアパートで初めて1人暮らしを始めて、大学で遠藤寺に出会って、デス子先輩のサークルに入って……それからエリザと出会った。自分が1人暮らしだと思っていた1ヶ月間は実はエリザとの2人暮らしだと知って、それから2ヶ月。

 

 何が驚きって色んなことがあったわりにはまだ3ヵ月しか経ってないんだよな。○イの大冒険と同じくらいの時間しか経ってないとか……。

 

 

「一ノ瀬さんと初めて会ってからもう3ヵ月も経ったんですねー」

 

 

「初めてといえば、あの日大家さん庭で寝てましたね」

 

 

「……うっ。お、覚えてましたか……だ、だってあの日、すっごく暖かったですもん!」

 

 

 はっきりと覚えている。

 

 それくらい鮮烈な記憶だった。ロリ大家さんなんて漫画くらいでしか見たことが無い生き物に、初めて出会ったのだから。

 

 

 眠っていたことを指摘された恥ずかしさを誤魔化すように、大家さんが咳払いをした。

 

 

「そ、それにしてもですね。最初に一ノ瀬さんを見たときは、すっごく驚きましたよー」

 

 

「驚いた?」

 

 

「はい、それはもう。何せあの私が考えた空想のキャラであるジャイス――げふんげふん! い、いやアレです。えっと……そうです! そうですよ! 春なのにマフラーをしてる一ノ瀬さんを見て凄く驚いたんですよ!」

 

 

 途中『あ、やべえ』みたい口調になった大家さんだが、苦し紛れに証拠を突きつけるなるほ〇君のように俺のマフラーを話題に出した。。

 

 

 マフラー? 

 

 

 ……あ、俺ってそういえばマフラーしてたんだっけ。そうだよ。 

 

 何か俺自身うっかり忘れてたし、殆どの人が忘れたと思うけど……マフラーしてたんだった。やべー……自分のことながら完全に忘れてた。こんなんじゃイラスト化した時に『なに勝手にアクセサリー増やしてんだよ! 原作じゃこんなんなかった』って原作厨のラッシュをお見舞いされるところだった。ついでに言うと眼鏡もしてるんだよな。

 

 今更だが俺やべーな。メガネにマフラーとか、滅茶苦茶キャラ立ち過ぎじゃね? こりゃヒロインを差し置いてフュギュア化待ったなしだな。その際はマフラーは勿論、流○馬みたく盛大にたなびいたデザインにして欲しい。

 

 

 それにしてもこのマフラー、着けているのを忘れるくらい付け心地に違和感がないんだよな。

 

 服はまだじっとり湿ってるのに、マフラーは完全に乾いてるし。

 

 

 でも春なのにマフラーってやっぱり変なのかね。

 

 

「やっぱりこのマフラー気になります?」

 

 

「ええそれはもう。だって一ノ瀬さん、ずぅっとそれ着けてるじゃないですか。暑くないんですか?」

 

 

 暑いか暑くないかでいうと、そりゃ暑い。

 

 風通しのいい素材で作ってくれたからか、この季節にしてはそこまで汗をかかないが……暑いものは暑い。

 

 だが外そうと思っても外せないのだ。

 

 恐らくはこれを編んだ雪菜ちゃんの呪いがかかっているのだろう。呪いなんて信じていなかった俺だが、幽霊がいると分かった今はありえる話だと思っている。

 

 

「もう慣れましたから」

 

 

「そうですかー。でも……似合ってますよ。それがあるお陰で、遠くからでも一ノ瀬さんが分かりますから」

 

 

「あはは、ありがとうございます」

 

 

「個人的にはバスターソードとかも似合うと思うんですけど……どうです?」

 

 

「何が?」

 

 

 マフラーの話から、何でバスターソードの話になるんだろうか。

 

 大家さんは悔しそうな声で「惜しかった……! もう少し上手いことやれば、一ノ瀬さんジャイス化計画が進展していたのに……!」と意味不明なことを言っている。

 

 

 大家さんに頭を拭かれている時に気づいたが、このタオル大家さんの匂いがする。

 

 もしかすると大家さんが体を拭いたタオルなのかもしれない。

 

 普通だったら、自分を拭いたタオルを使いまわすなよと怒るべき場面だろうが、俺にとってはGOHOUBI以外のなにものでもなかった。なんだったらタオルだけでなく、大家さんが使った箸や歯ブラシを使いまわしてもいい。というかお願いしたい。

 

 

「それにしても、最近の一ノ瀬さんは楽しそうでいいですねー」

 

 

 脈絡なくそんなことを言われたので俺は「へ?」と間の抜けた声で返してしまった。

 

 

「楽しそう、ですか?」

 

 

「はいー。毎日が充実してるっていうか……いわゆるリア充? みたいな?」

 

 

「リア充って俺には縁遠過ぎる言葉なんすけど……」

 

 

 生まれて初めて言われた。

 

 が、今の生活が充実しているかそうでないかと聞かれると……かなり充実している。

 

 

 大学に入る前の生活が無味乾燥じみた心が動かないものだっただけに、今の生活は毎日がキラキラ輝いている。

 

 朝起きてエリザとご飯を食べて、大家さんに見送られて、学校で遠藤寺と授業を受けてデス子先輩とサークル活動をする。帰ったら大家さんが迎えてくれて、エリザの作った夕食を食べる。

 

 これといって大きなイベントのない日々だが……楽しい。毎日心が動くのを感じる。

 

 大家さんに言われたことで自覚した。今の生活は楽しい。

 

 

 大家さんがクスクス笑いながら、続けた。

 

 

「初めて会った頃と比べると大違いですよ。特に目がキラキラしてます。」

 

 

「目、ですか?」

 

 

「はいー。初めて会った一ノ瀬さんの目は、こうなんていうか……えっと……」

 

 

 大家さんが口淀んだ。

 

 思い当たる節があったので、言ってみる。

 

 

「金魚すくいで最後まで底の方に残っちゃう金魚みたいな目、ですか?」

 

 

「あ、それ! それですそれ! ……あっ、いや……そ、そうではなく。そ、そうです! こう、何ていうか、繰り返し同じ漫画を読んでるみたいなつまらなそうな目です、はい!」

 

 

 途中フォローする発言が入ったが、どうやら金魚の目は正解らしい。

 

 これ、昔、雪菜ちゃんに言われた言葉なんだよな。雪菜ちゃんって基本的に俺に対してキツイこと言って楽しんでるところがあるから、この言葉も本気にはしてなかったんだけど……大家さんに言われた以上、間違ってはいないらしい。

 

 

 実際、今の生活を送るまで俺の人生は正直かなりつまらないものだった。

 

 普通の小学校生活を経て、退屈とはいえないが辛い中学生活。それから灰色の止まったような時間の高校生活。

 

 一番多感な時期である中学生の頃の記憶は辛い記憶しかなく、高校生活の記憶は恐ろしいほど残っていない。

 

 だが今は違う。毎日の生活が色濃く、新鮮で温かい記憶が蓄積されている。

 

 それもこれも周囲にいる人間のお陰だろう。

 

 

「やっぱりアレですか? 大学生活が楽しいからですか? あ、そうだ! お友達は増えました?」

 

 

「いや、ずっと友達は1人だけですね。でも、まあ……いい奴ですよ。一緒にいて楽しいし」

 

 

 初めて遠藤寺と友達になった日、そのことを大家さんに報告するととても喜んでくれた。

 

 その後、一向に友達が増えない俺に対して色々助言はくれたものの、今のところ友達は遠藤寺だけだ。

 

 俺は満足しているが、大家さん的にはもっと俺に友達が増えて欲しいと思っているらしい。

 

 

 俺の報告にちょっと残念そうにため息を吐いた大家さん。

 

 

「……もっとお友達がいた方が楽しいですよ? ……あ、でもあんまり増やしすぎると今度は私と遊んでくれなくなるジレンマ……ぐぬぬ」

 

 

「それです。あんまり友達多いと大家さんと遊べないですからね。そう思うとあんまり友達作る気にならないって言うか」

 

 

「友達できないのをサラッと私のせいにするの止めてくださいねー」

 

 

 グシグシと抗議するように頭を拭われる。

 

 

「あとはそうですねー。一ノ瀬さんが特に楽しそうに見えるようになったのは、幽霊ちゃんのことがあってからですね」

 

 

 確かにそうだ。エリザが一緒に暮らすようになってから、俺の生活は更に潤いを増したように感じる。

 

 自分を肯定してくれ、好意を持ってくれる相手との生活は心地がいい。

 

 テレビとか見てて何気なく呟いた一言に対して答えてくれる存在がいるのは、些細なことだが嬉しいものだ。

 

 何よりも毎日の食事が本当に美味い。最近ますます料理の腕に磨きがかかって、外で食べる食事に物足りなさを感じてしまうこともある。

 

 

 最初こそ他人と生活することに対して、多少の不安感はあったが……今はエリザがいない生活なんて考えられない。それくらい俺の生活の一部になっている。

 

 

 だが、何よりも俺の生活が楽しいのは、この人がいるからだろう。

 

 

「でも今の生活が一番楽しいと思える理由は他にあるんですよ」

 

 

「ほほーう? 気になりますね。あ、もしかしてぇ……可愛い大家さんがいるから、なんちゃって!」

 

 

「あ、それです」

 

 

「ふぃっ!?」

 

 

「あいたぁ!?」

 

 

 大家さんが小鳥の鳴き声のような声を出して俺の頭を小突いた。

 

 

「あ、ご、ごめんなさいっ! びっくりして手が滑っちゃって……。え、えっと……何か私が難聴系主人公じゃなかったら、今、一ノ瀬さん……私といるのが一番楽しい理由とか何とかかんとか……」

 

 

「そう言いましたよ。今更ですけど、俺によくしてくれて本当にありがとうございます。いつも遊んでくれるのも、親元を離れて寂しさを感じてる俺を気遣ってくれてたんですよね」

 

 

「い、いや最初はそういう面もあったんですけど……。一ノ瀬さん、すごい趣味が合うから普通に遊ぶのが楽しみって言うか……下心もありありっていうか……あ、最後のはなしで!」

 

 

 大家さんへの感謝の言葉は自然と出てきた。

 

 

 ずっと一緒だった雪菜ちゃんたちと離れた1人きりの生活に、言葉には出さないが寂しさを感じていた。

 

 そんな俺を大家さんは気遣ってくれた。

 

 生活する上で困ったことがないか、大学で友達はできたか、学校は楽しいか……。

 

 まるで母親みたいな言葉だが、その雰囲気は長年連れ添った友人のようであり、俺は彼女に何でも話すことができた。

 

 大家さんと話すと元気が出て来るし、かったるい帰り道も大家さんが出迎えてくれると考えれば足も軽くなる。

 

 

「大家さんといると楽しいですよ。あんまり考えたくないですけど、もし大家さんがこのアパートの大家さんじゃなかったら、俺、金魚の目どころか売れ残って捨てられた鯛焼きの目をしてたかもしれません。だから、その……ありがとうございます。大家さんでいてくれて」

 

 

 感謝の言葉を伝えるのはどうしても慣れない。言葉もかなり支離滅裂だ。

 

 俺が人としてのレベルが低いからだろう。人との付き合いが希薄だったツケが今になってきてるってわけだ。

 

 でも、こういう勢いがついた時じゃないと言えない。

 

 

「大家さんと会えて本当に幸運だったと思います。来来世くらいまで運を使ったかもしれないですけど、まあそれでもいいと思ってますし」

 

 

「ちょ、ちょっと一ノ瀬さん……すとっぷ! そ、その言葉は私に効く……!」

 

 

「もし大家さんといなかったら俺、一人暮らしする決心つかないで実家に引きこもってたと思います」

 

 

「ま、まってまって……セーブ! セーブさせて下さい! え、こんな胸キュンイベントくるなんて聞いてないですよ……! 準備してないですよぉ……」

 

 

 大家さんが何やら言っているが、ここで言葉を止めてしまうと次いつ言えるか……。

 

 今の勢いで言いたいことを言っておきたい。

 

 時にはテンションに身を任せるのも重要って対○さん家のレオ君が言ってたしな。

 

 

「だから……ありがとうございます。お礼言うくらいしかできませんけど、心の底から感謝しています。1人暮らしを始めた俺のすぐ側にいてくれて……ありがとうございます」

 

 

 ずっと言いたかったことを言えた。

 

 言い切ったことで胸の奥に生じた満足感がぼんやりと暖かい。

 

 

 ここで俺はハッと我に帰った。

 

 感謝の言葉を伝えるという、普段しないことをしたせいかどうも勢いづいて喋り捲ってしまった。 

 

 思い返してみると、どうも恥ずかしい……いや、キモイことを色々言ってしまった気がする。

 

 

「……うぅ……ぐぅぅ……」

 

 

 背後から大家さんの苦しんでいるような声が聞こえた。

 

 俺の感謝が長文かつあまりにもキモ過ぎたからか?

 

 くそっ、感謝って難しいな……。もっと正面から『いつもありがとうございマース!』って感じで感謝のバーニングラブをするべきだったか?

 

 

 首を回して、大家さんの方を見ようとする。

 

 

「わあっ、こっち向いちゃダメですっ」

 

 

 が、頭を抱きしめるように固定されたため、後ろを向くことができなかった。

 

 

「い、いま私、あかん顔をしてるから見ちゃダメですっ。て、ていうか一ノ瀬さんなんですか急に! こ、こういうのはもっとこう事前にお知らせしてくれないと困りますよっ。……私、そういう直球の言葉に弱いんですからぁ」

 

 

 ほういいことを効いた。大家さんは直球の言葉に弱い、と。

 

 ここでまさかの共通点。

 

 俺もなんだよとっつぁん(誰だよ)

 

 

「ぜ、ぜったい見ないで下さいよ……ああ、もう……顔が熱い……!」

 

 

 『絶対』『熱い』の言葉が最早フリにしか聞こえなかったが、今はそういう雰囲気じゃないので自重した。

 

 

「何かすいません。急にこんなこと言って」

 

 

「本当ですよっ。本来ならもっとこう、今から真面目かつ胸をキュンキュンさせるような台詞を言いますよー、みたいなBGMを流してからでしょうよ!」

 

 

 三種の神器を持ってこいってクエストより難しい要望だな……。

 

 

「……ふぅ。もう、いきなりそんなこと言われたから、びっくりしましたよ。でも……嬉しいです。私の存在が一ノ瀬さんの『楽しい』の中心になってるのは……う、嬉しいですけど……かなり照れますね。……照れ過ぎて死にそうなんですけど……うぅ」

 

 

 後頭部から伝わる大家さんが発する熱で、汗をかいてきた。

 

 頭を抱きしめられているからか、大家さんの言葉が吐息すら感じられるほど近く、くすぐったい。

 

 あと、大家さんの胸が後頭部に当たって幸せ。

 

 

「……むむぅ。本来なら『可愛い大家さんがいるから』って私の言葉の後に一ノ瀬さんが『は、はぁ? そんなわけないでしょう?』みたいにドギマギしながら言って私が『どうしたんです一ノ瀬さん? 顔が赤いですよ。図星……ですか?』的な一ノ瀬さんを大人の私が手玉にとるみたいな展開を予想していたのに……箱を開ければ照れ殺されているのは私……! 何を言っているのか自分でも分かりませんが、私も何をされたのか分かりませんでした……!」

 

 

「大家さんってアレですよね。テンパると饒舌になるタイプですよね」

 

 

「人が照れくささを誤魔化そうとしてるところを冷静に観察しないでくださいっ」

 

 

 抗議するようにギュギュウと頭を締め上げてくる。

 

 非力な力で痛みはないが、それ以上に胸が後頭部に押し付けられる。俺が探していた圧迫祭りの会場がこんな所にあったとは……。

 

 

「ぐぬぅ……このまま責められっぱなしだと、納得いきません。というわけで私からも、一ノ瀬さんに言いたいことがあります」

 

 

 先ほどの早口気味の言葉から一転して、落ち着いた口調に変わった。 

 

 

「――私もなんですよ」

 

 

「はい?」

 

 

「一ノ瀬さんは、私と一緒にいて楽しいって、そう言ってくれましたよね。――私もですよ」

 

 

 それはつまり――

 

 

「私こんなんですから、アパートのほかの皆さんは私のことを娘だったり、孫にするみたいに接してくるんです。それがイヤってわけじゃないんですけど、やっぱりどこか距離を感じちゃうんですよね。大家と店子だから距離があって当然なんですけど。でもやっぱり少し寂しさと感じたりするんです」

 

 

 いつも楽しそうな大家さんに、そんな悩みがあるなんて知らなかった。

 

 

「私が差し入れとか持っていくと『えらいね』って褒めてくれるんですよ。何ていうか料理を覚えたばかりの子供が頑張ってるのを見守る……みたいな感じで。確かに私は大家になって日が浅いし、先代……おばあちゃんに比べると威厳とかはないと思いますよ。でも……もうちょっと同じ視点で接してくれると嬉しいって、そう思ってたんです」

 

 

「大家さんは立派に大家さんやってると思いますよ」

 

 

「えへへ、ありがとうございますっ。で、一ノ瀬さんは私のことをまるで友達みたいに、凄く身近に接してくれるんですよ。差し入れ持って行くと凄く喜んでくれますし、一緒にゲームをするとお互い手加減抜きで楽しんでる、自然に。一ノ瀬さんといると大家って立場でありながら心の底から一緒に楽しめるんですよ」

 

 

 大家さんがいくつかは知らないが、色々大変なこともあるんだろう。

 

 俺が知ってる限り、このアパートには大家さんと歳が近い人間はいない。

 

 今まで等身大の彼女と接してくれる相手はいなかったんだろう。

 

 俺が普通に友達のように、言い換えれば慣れ慣れしく接している――

 

 

「それだけですか?」

 

 

「それだけですよ。それだけのことが嬉しいんです」

 

 

 そう言って大家さんは、俺の頭を抱きしめる腕をギュッと強めた。

 

 

「だから私も――楽しいですよ。一緒にいて、一ノ瀬さんが私といて楽しいと思っている以上に……私はもっともっと楽しいと思ってます」

 

 

「大家さん……」

 

 

「だから私も――ありがとうございます。……えへへっ、お返し成功ですね」

 

 

 大家さんがくすくす笑っているのが、後頭部越しに伝わる。

 

 感謝を伝えてよかったと思った。やっぱり感謝って大切だな。 

 

 あとは正面からこういう言葉を伝えることができればいいんだろうけど、まだまだ難しそうだ。

 

 

 後頭部の拘束が緩んだので、体ごと振り返る。

 

 

「あ。も、もう……見ちゃだめって言ったのに」

 

 

 大家さんは照れくさそうに笑っていた。

 

 その顔は頭から首の後ろまで真っ赤になっていた。

 

 

「大家さん顔赤いですね」

 

 

「一ノ瀬さんもですよ」

 

 

 いつも言わないような感謝を伝えて、大家さんからも感謝を伝えられたせいだろうか。

 

 顔が熱い。

 

 

「えへへ」

 

 

「あはは」

 

 

 大家さんの笑みに釣られるようにして俺も笑った。

 

 ひとしきり笑いあった後、俺と大家さんは無言になった。

 

 だが、嫌な感じの無言ではない。心地のいい雰囲気だ。

 

 お互い思っていたことを伝えたからだろうか。心が通じ合った気がする。

 

 大家さんとの間に、見えない空気の糸みたいなものを感じた。

 

 

「……」

 

 

 大家さんが突然目を閉じた。

 

 

「……ん」

 

 

 大家さんがそのまま口を突き出した。

 

 

 大家さんが目を閉じたまま、20秒ほど経過した。

 

 一体なんなんだろうか。

 

 ジッと見ていると、大家さんが震える口を開いた。

 

 

「――え、えっと……まだ、ですか?」

 

 

「は?」

 

 

「へ!? い、いや流れ的に……え!? 違うんですか!?」

 

 

「だから何がですか?」

 

 

 大家さんが言っている意味が分からない。

 

 目を開けた大家さんが、落ち着きなく部屋のあちこちに視線を向ける。

 

 口が金魚のようにパクパク開いたり閉じたりを繰り返す。

 

 挙動不審以外のなにもでもなかった。

 

 

「で、でも……えぇー!? 今がその時だって感じだったじゃないですかぁ!?」

 

 

「何すか? ゲッター○ボの主題歌がどうしたんですか?」

 

 

「いやぁぁぁっ!」

 

 

 俺が本気で理解していないことを悟ったのか、更に顔を真っ赤にして目をグルグルと回した大家さんはそのままクローゼットに飛び込んでしまった。

 

 

「どうしたんですか大家さん!?」

 

 

「ルート突入だと勘違いして内心ガッツポーズしてた大家さんはいません! 私今からタイムマシンを探しに旅に出ます! さっきのなかったことにします! うわぁぁぁん! 恥ずかしいよぉぉぉ!」

 

 

 クローゼットを前に呆然と立ち尽くす俺。

 

 

「コミニュケーションって難しいな……」

 

 

 大家さんの奇行の理由が分からない俺は、まだまだコミニュケーションのレベルが低いんだろう。

 

 いつか大家さんが何をしたかったのか、分かる日が来るのだろうか。

 

 だとしてもそれはだいぶ先の話だろう。

 

 そう思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縮地四天王第一の刺客――早歩きの雅夫(雅夫の異能は早歩きを行っている状況限定で――時間を止める))

俺『……うっ。ここは一体……どこだ? 砂浜……か? 何で海になんかいるんだ俺は……?』

 

俺『確か大学に行ってて……それから……うっ、頭がっ。思い出せない……』

 

俺『何も思い出せない……家族は? 住んでる場所は? 名前……そう名前を思い出せる。俺は――一ノ瀬辰巳』

 

辰巳『思い出せるのは……それだけか。ん? 誰か近づいてくるぞ』

 

???『むむっ、そこにいるのは誰でゲソ!』

 

辰巳『……え?』

 

???『こんな真夜中に砂浜にいるなんて……怪しい奴でゲソ!』

 

辰巳(真っ暗だった砂浜に、月明かりが差し込み彼女を照らした。スポットライトに照らされた彼女は愛らしく、それでいて美しい……)

 

辰巳『き、君は?』

 

???『私はイカ娘! 人類を侵略するためにやってきた海の使いでゲソ!』

 

 それが俺と彼女の出会いだった。

 そしてその日から、海の家れもんでの波乱万丈な生活が始まるのだが、この時の俺はまだ――

 

 

 

 

■■■

 

 

「――し、ら、な、い……と。うん、できたぞ。あとは投稿するだけだな」

 

 日曜日の昼前。俺はパソコンに向かってキーボードを打っていた。

 最初は講義で出たレポートを書いていたのだが、いつの間にか昔書いた俺×イカちゃんSSのリメイクを書いていたのだ。最新話では異世界に迷い込んだ俺とイカちゃんがいくつかクエストをこなし、新しく入ってきたパーティメンバー(ダークエルフ)に優しくする俺にイカちゃんが嫉妬する展開を連載中なんでよろしく。リメイクverは今連載しているのとちょっと展開を変えるつもりで……え? 興味ない? マジで?

 

「んんー……!」

 

 長時間座ってパソコンを見ていたからか、体を伸ばすとボキボキと骨が鳴った。気持ちいい。

 ふと、いい香りが部屋に漂っていることに気づいた。

 

 時計を見る。そろそろ昼時だ。

 

「エリザー」

 

 廊下にある台所に向かって声をかけた。

 調理中なのか体を仰け反るようにしてヒョコンと顔を出すエリザ。

 

「はいはーい。辰巳君なーに? もうすぐお昼ご飯できるよー」

 

「お、そうか。今日は何だ?」

 

「今日はねー、カツ丼だよー」

 

 メニューを聞いた途端、腹の虫がグーと鳴った。

 昼からカツ丼とか……最高じゃなイカ! 暑いからスタミナつけないといけないしな!

 

「あとお素麺もね」

 

 ここ1週間食べ続けているものの名前を聞き、ちょっとげんなりした。

 大家さんが大量にくれた素麺だが……実家の雪菜ちゃんからも送られてきたので、消費が追いつかない。

 美味いのは美味いんだが……流石に飽きる。

 実家にいた頃も夏は素麺ばっかりだったし、こればっかりは夏の風物詩として諦めるしかないのだろうか。

 まあ、かなり腹減ってるし、食卓に並んだら結局全部美味しく戴いちゃうんだろうけど。

 

「私がやるから座ってて」と止めるエリザを振り切り、皿を食卓に並べる。

 俺にできるのはこれくらいだ。ていうか少しは手伝わないと、申し訳が無い。ただ座って料理の準備ができるのを待つほど、まだ亭主関白になりきれない。

 

 そうこうしてる内に、食卓には昼食が並んだ。

 今日のメニューはカツ丼と素麺と卵焼きとソーセージ入りの野菜炒め。

 どの料理もかなり量が多いが……まあ問題ないだろう。

 最近俺はよく食べる。料理が美味いのは勿論だが、残さずに完食するとエリザが嬉しそうにするのだ。

 その期待に応えようと、食べているうちに気づけば全て完食できるようになっていた。胃のキャパシティが上がったのかもしれない。

 

 しかしカツ丼の食欲を煽るジューシーさもさることながら、錦糸卵にキュウリにさくらんぼと色々と盛り付けられた素麺も涼しげで美味そうだ。

 さっき飽きてきたって言ったけど撤回。素麺は飽きない。色々食べ方あるしな。キムチ乗せたり、納豆混ぜたりしても美味い。

 

 エリザと向かい合って手を合わせる。

 

「いただきます」

 

「うん、召し上がれー」

 

 そして食す。今更言うまでもないが、その味は無類だった。箸が止まらない。

 カツ丼で胸焼けするのを感じたら、素麺を食べる。素麺の涼やかな喉越しを堪能したら、再びカツ丼へ。合間に卵焼きと野菜炒めを食べる。

 カツ丼、素麺、卵焼き、野菜炒め順番に食べたり、時には逆に食べてみたり。

 ともかく食べ続ける。ひらすら食べる。

 

「はいお茶どうぞ」

 

 ちょうど水分が欲しかったタイミングで、湯のみにお茶が満たされた。

 冷たい麦茶だ。夏はこれに限る。

 そして食べる。食べて食べて食べまくる。うおォン俺はまるで人間火力発電所だ。発電した電気は主に脳内妄想に活用されてます。

 

「えへへ」

 

 ふと顔を上げると、エリザが優しげな笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 

「どうしたエリザ。俺の顔なんか見て」

 

「へ? あはは……辰巳君が美味しそうにご飯食べてくれるから嬉しくて……ずっと見てたいくらい」

 

「そうか。見とれるのもいいけど、エリザも食べないと」

 

「うん。食べるよー」

 

 お返しとばかりに、エリザが食べているのを見つめる。

 エリザが箸を取り、素麺を掴んだ。そのままツルツルと素麺を吸い上げるようにして食べた。

 音を立てない、上品な食べ方だ。

 前から思っていたが、エリザはところどころの所作に気品が漂っている。

 食事の時もそうだが、たまにふわふわ飛ばずに歩いているとき、その歩き方も綺麗に整っている。

 

 もしかしてエリザっていい所の出だったりするのかな? 

 うーん、今更だけど、エリザの出自について尋ねる機会を逃した気がする。

 まあ、そう慌てんでもいいか。その内聞けばいいし。

 

 ジッと見ている俺に気づいたのか、エリザが恥ずかしそうにはにかんだ。

 

「なーに辰巳君? も、もうそんなに見られたら恥ずかしいよぉ」

 

 食事姿見られるくらいで恥ずかしがってたら、本当に恥ずかしい所見せるときに困るよ、マドモワゼル?と紳士風に言おうとしたが、その台詞自体が紳士とは程遠かったので、自重することにした。

 

 食事を全てたいらげ、手を合わせる。

 

「ごちそうさま、今日も美味しかった」

 

「お粗末様ー。デザートにケーキも焼いてるからねー」

 

 通りで甘い匂いがすると思った。

 しかしケーキってウチにオーブンなんかないはず。

 それをエリザに聞いてみると、炊飯器でケーキを作っているとのこと。

 炊飯器でケーキ作るとか、VHSをPS3で見るくらい意味不明だったが、実際に作ったケーキを前にするとそんな些細な疑問はどこかへ吹き飛んでしまった。

 

「チョコケーキだよー。生クリームも作ったから、たっぷりかけて食べてね」

 

 もちもちふわふわしたケーキに生クリームをたっぷりつけて食べた。

 ほんのり苦くはあったが、生クリームの甘さとあわせって非常に美味かった。

 敢えて言うなら、エリザの顔に生クリームが付着するアクシデントを期待したが、そんなことは無かった。残念だ。仕方ないので妄想の中で補完する。え? おいおい舐めとってくれってエリザさん、大胆ですね……。

 

 しばし妄想(大家さんも乱入してきて百合要素マシマシ)に耽る。

 食後の妄想は非常に有意義なものだ。

 

「ふんふんふふーん。にゃんにゃかにゃんにゃーん」

 

 食器を洗うカチャカチャした音とそれにあわせるようなエリザの鼻歌。

 それを聞いていると、満腹感もあってか瞼が重くなってきた。

 そのまま睡魔に抗うことなく、眠りについた。

 

 

■■■

 

 

 目が覚めると、夕方になっていた。

 窓から夕日が差し込んで体を包んでいる。この眩しさで起きたらしい。

 体を見ると薄いタオルケットがかけられていた。

 タオルケットには1人分くらいの膨らみがある。

 

 そっとタオルを捲り上げると、俺の胴辺りに抱きついてるエリザがいた。

 穏やかな寝息を立てている。

 

「えへへぇ……待ってよ辰巳くーん……あはっ、つめたーい。もう、お返しだー……むにゃむにゃ」

 

 雪合戦の夢でも見てるのか?

 夢の中ではどうかは知らないが、現実の一ノ瀬辰巳は『赤い雪原』と二つ名で呼ばれるほど雪合戦において並ぶものがいない猛者だ。エリザよ……夢の中の俺を倒せ。そして現実で合間見えようぞ! あと俺を倒しても『氷雪魔女』ことウチの妹が控えているので、頑張ってね。

 

「つかまえたー……にへへ……ちゅー……」

 

 しかし今日は平凡な1日だった。

 朝からレポート書いて、イカちゃんのSS書いて飯食って、昼寝して……うん、平和だ。

 もっとやるべきことがあるだろうとか、下らない過ごし方だな……なんて思う人もいるかもしれないが、俺はこういうのんびりした過ごし方が好きだ。出きれば老後もこんな風に過ごしたい。問題は俺が老人になる頃までイカちゃんが連載されてるかってことだが……まあ大丈夫だろう。それまで人気は続くはず。俺の見立てでは近いうちの人気が再燃して再アニメ化。大手スポンサーがついて、昔のサザエさんみたく週2回放送される予定。

 

 とスマホを見ると、メールの着信を知らせる光が点灯していた。

 エリザを起こさないように手を伸ばし、スマホを取る。

 

 送り主は――せっちゃん。妹の雪菜ちゃんだ。

 一体何の用件だろうか。この間みたいに俺が中学生の時に書いたポエム『学校の廊下は人生のレール~俺は窓から飛び降りる~』を音声ファイル付きで送ってくるのは止めて頂きたい。

 どうやら画像や音声ファイルが添付されてはいない。ただのメールのようだ。

 

 内容は――

 

『こんにちは兄さん。明日が毎月恒例のアレの日ですが、お忘れではないでしょうか? 準備はしていますか? 限りなく鶏に近い脳をお持ちの兄さんのことですから、恐らく忘れているだろうと思って確認のメールを送りました』

 

 兄を鶏扱いする妹ってどうなの? コケにしてんの? 鶏だけに。

 まあATM扱いされるよりはずっといいけどさ。

 

 しかしアレ、だと? 月1回のアレとか……下ネタですか雪菜ちゃん! ちょっと兄ちゃんお前をそんな風に育てた覚えは無いぞ。

 いや……違うか。雪菜ちゃんは俺が下ネタを言おうものなら、何か(恐らく棒状の物)をチョキンと切るジェスチャーをするくらい下ネタが嫌いだからな。

 文面から察するに、俺もそのアレの対象みたいだ。俺って男だから月1回のアレはないしな……あったとしたら第2のシュワちゃんとして『ジュニア2』の主人公に抜擢されるわ。

 とすると……アレってアレか!

 

 俺はカレンダーを見た。明日の日付に赤丸がついていた。アレの日だ。

 

 そうか。もうそんな日か。すっかり忘れてた。

 

『では、明日の10時にメールを送りますので。くれぐれも寝ていた……なんてことはないように。返信が確認できなかったら、兄さんの部屋にあるお人形さんを10分ごとに焼却炉に突っ込みます』

 

 思考が完全にテロリストのそれだな……。

 俺の可愛いお人形ちゃんたちの為にも、明日はちゃんと起きないとな。

 

 

■■■

 

 

 その家独自のルールってのが、どこの家にもあると思う。

 例えば、日曜日の昼食は家族全員で鉄板焼きを食べるとか、休日は家族揃って買い物に出かけるとか、食事中はテレビをつけないとか、いくら暑くても扇風機は7月になるまでと出さないとか、カレーに大根を入れる……とか。

 他人からすると『え、なにそれ? おかしくね?』と思われるようなルールも、その家庭で育ったなら常識として刷り込まれている。そんなルールだ。

 

 そしてウチにも変わったルールがあった。

 それが月の1度のアレの日だ。

 

 アレ――身体測定だ。

 

 ウチ、正確に言えば俺と雪菜ちゃんの間には月に1度身体測定を行って互いに確認をするってルールがある。

 身長と体重を測って、お互いに確認するのだ。

 

 家の柱で背比べをしてどれだけ成長したかを確認するってイベントがあるだろ。それに近い。

 そのイベントが今も継続しているのだ。

 どうして今でもとか、何でそんなことを……なんて聞かれても困る。

 何となく止めときが分からなかったし、子供の頃からやってたから理由なんてない。

 成人しても親と風呂に入ってる子供とかいる。アレと一緒のようなもんだ。

 

 そのイベントは俺が1人暮らしを始めてからも続いていた。

 月に1度、自分の体を写メって送りあう。

 

 今日はそのイベントの日だ。

 

 朝食後、半そでと短パンに履き変える。準備は完璧だ。

 10時きっかりにスマホが振動して、雪菜ちゃんからのメールが届いた。写真つきだ。

 

 写真を開くと、学校の水着だろうか、競泳水着を着た雪菜ちゃんが鏡に映っていた。

 ほぼ直立不動で、面白みもない写真だ。

 何より顔がこちらを見下すような冷たい表情で、スクール水着を着た雪菜ちゃんにそんな顔で見下ろされたら変な趣味に目覚めてしまいそう。

 

 しかし相変わらずスレンダーな体型だ。

 全体的にシュッとしている。腰にはモデルが羨むような美しいくびれがある。

 足とかも外人モデルかよって言いたくなるくらいすげー長い。

 肌のケアも怠っていないからか、シミなんて全く見られない。映像でもその滑らかな肌を感じ取れるほどだ。

 中学に入った頃から常に腰までの長さに保っている髪も、丹念に手入れをしているのが分かる艶が光り輝いている。

 

 誰が見ても完璧だと羨む体だ。――胸を除いてだが。

 恐らくこれ以上、雪菜ちゃんの胸は大きくならないだろう。中学生の頃に止まってしまった成長。

 本人は『ただの脂肪でしょう? それくらいで一喜一憂する人が哀れに思えますね』と気にしてはいない様子。

 だが俺は知っている。彼女が夜な夜な密かに豊胸マッサージをしていることを……! 

 

 自分の体の一部の成長を気にしている――彼女がそんな俗っぽい悩みを持っているのは俺が完璧な彼女に感じる数少ない親近感だ。

 もし、これが無ければ俺は彼女に対して距離を置き、こうやってメールをすることなんて無かったかもしれない。胸が小さいことが、俺と彼女を繋いでいる絆のようなものだ。その絆に感謝したい。

 ありがとう、胸が小さくて。本当に……本当にありがとう……。それしか言う言葉が見つからない。

 

『体型に変化はありません。体重は0.3kgほど増加しましたが、身長が0.5cmほど伸びていたからでしょう。報告は以上です。早く兄さんも送ってください。こんな面倒くさいこと、早々に終わらせたいので』

 

 また、身長が伸びたのか……。このままだと追い抜かされるかもしれないぞ……。

 

 そういえば俺が1人暮らしを始める際、いい機会だしこのイベントを終わらせてもいいのではと雪菜ちゃんに言ったことがある。

 だが答えはノー。理由を聞くと、俺の測定結果を見ることで、俺がちゃんと生活できているかを把握するためとか。

「仮に体型が大幅に変わるほど不養生をしていたなら、即刻家に帰ってもらいます。兄さんが孤独死したとして、迷惑がかかるのは妹の私なので」とのこと。

 エリザのお陰もあってか、俺は健康そのものだし、今まで雪菜ちゃんに生活の問題点を指摘されたことはない。

 今回も大丈夫だろう。

 

 よし、後でパソコンのほうに写真を移すとして、俺もさっさと写真を撮ろう。 

 

「エリザー。すまんけど、いつもの写真撮ってくれ」

 

「オッケーだよー。えへへっ、わたしもこれ楽しみなんだー。写真撮るのって楽しいよねっ」

 

 自分で自分の全身像を撮ることはできないので、毎回エリザに撮影してもらっている。

 エリザと遭遇する前? 何とか頑張って撮ろうとしてたけど失敗しまくってたら、いつの間にか撮影できていた。 後で聞いたら、エリザがこっそり撮影を手伝ってくれていたらしい。

 

 カメラを構えるエリザの前に立つ。俺はカメラを前にすると変顔をしてしまうタイプだが、流石に雪菜ちゃんに送る写真で変顔をする勇気はない。

『兄さん。ふざけないで下さい。今送られてきた写真の顔に整形させますよ?』とか言われそうだからな。

  

「よし。じゃあ頼む」

 

「うん。いくよー……ハイチーズ!」

 

 スマートフォンから某有名ネズミの『ハハッ』という甲高い笑い声が響いた。

 現在設定しているシャッター音だ。特に意味は無い。

 

「あははははっ」

 

 シャッター音を聞いたエリザが笑う。よく分からんが、このシャッター音が相当にツボらしい。

 

「あははっ、あはっ、あはははっ……ふぅ。ご、ごめんね?」

 

 一しきり笑った後、目の端の涙を拭うエリザ。

 箸が転がってもおかしい年頃なのだ。シャッター音で爆笑してもいいだろう。

 

 カメラを真面目な表情でジッと見るエリザ。その顔が笑顔に変わった。

 

「うん。上手くとれたよっ」

 

「いい感じか?」

 

「うん! 辰巳君かっこいいよー!」

 

 ちょっと照れながらスマホの画面を覘く。エリザの言う通り、ブレや逆光もなくしっかり撮影できていた。

 画面の端に透明がかったゴ〇ブリや魚、大根が写りこんでいるが、まあいつものことだ。どうやらエリザが撮影すると、この部屋でお亡くなりになったものが写りこんでしまうらしい。いわゆる心霊写真だ。

 最初こそビビりまくったが、今は慣れた。それどころか大根の幽霊なんてレアリティ高いもの見れてラッキーと思っている。この特性を利用して有名なミステリースポットで心霊写真をとって出版社に送りつけて一儲けすることを考えたけど、俺もエリザもお互いにホラーは苦手なので、その計画は頓挫した。

 

「兄さんは元気です。警察のお世話になることもなく、穏やかに過ごしています……と」

 

 軽く現在の近況を文章にして、先程の写真を添付。送信した。

 すぐに携帯が振動した。

 メールかと思ったら……電話らしい。

 相手は勿論雪菜ちゃんだ。

 メールは来るが、電話がかかってくるのは久しぶりだ。あれかな? 久しぶりに兄ちゃまの姿を見て、寂しくて声を聞きたくなったのかな? 俺も俺で久しぶりに雪菜ちゃんの声を聞けるので、百年ぶりの世紀末が来たとばかりに胸がドキ☆ドキ。そのドキ☆ドキを悟られないように、普段の調子で電話に出た。

 

「はいもしもし一ノ瀬です。雪菜ちゃん、どしたの?」

 

『――糞豚野郎』

 

 開口一番、電話口から聞こえたのはそんな言葉だった。

 無防備な心に言葉の刃(氷属性)が突き刺さり、数字にして13くらいのダメージを受けた。

 もしかしてドM専用窓口と間違ったのかしらと思ってスマホを見るが、やっぱり電話の相手は雪菜ちゃんだった。

 

 なおも電話口からの攻撃(精神)は続く。

 

『ファットユー』

 

『オークの下っ端』

 

『ドーナツばかり食べているアメリカの警官』

 

『カロリーモンスター』

 

『死因は脂肪による溺死』

 

『肉纏い達磨』

 

『太ってるタイプのニート』

 

 新雪にツララを落としたような、冷たくそれでいて殺傷性のある声が俺の耳を侵す。

 俺は罵声を気持ちよくする機関(マゾヒズムエンジン)が搭載されているから大丈夫だけど、一般人なら間違いなく舌を噛み切って自害するだろう攻撃力の高さ。い、いかん……! エンジンが許容量を超えた罵声のせいでオーバーヒートを……! 泣きそう……!

 

 一通り言いたいことを言ったのか、間を置くように吐息が聞こえた。

 

『兄さん、久しぶりですね。お元気でしたか?』

 

 人をディスるだけディスったあとに普通に挨拶をしてくるウチの妹は頭おかしいと思う。

 

「あのさ。久しぶりの電話なのにさ。何なの? 人ことを肉とか何とか……」

 

『ごめんなさい兄さん。兄さんから送られてきた写真を見て、気が動転してしまって』

 

 気が動転って、雪菜ちゃんには似合わな過ぎる言葉だ。

 どんなときだって冷静沈着な彼女が珍しい。

 初めてブラを買いにいった時も、戸惑うどころかいつもの調子で店員さんに質問して逆に困らせたくらいだぞ?(この件は番外編『雪菜ちゃんが初めてブラを買って、何だかんだで俺が原付に轢かれる話』に収録してるぞ)

 

 そんな雪菜ちゃんを驚かせるなんて、さっきの写真に何か問題でもあったのか? 

 それともやっぱり久しぶりに見た兄さんがあまりにもカッコメンでキュンってきちゃったとか? いかんいかん、ヨスガはいかんぞ? 

 

『ですか私の気持ちも察してください。兄さん、この1ヶ月に何があったんですか?』

 

「え、何がって……何が?」

 

『体型の話です。先月先々月と送られてきた写真は健康そのものの写真でした。突然メガネをかけていたことには少々驚きましたが、生意気にもお洒落をし始めたのだと、そう思いました』

 

 それもこれもエリザのおかげだ。

 あと、兄のことを生意気に思わないで。

 

『正直、兄さんのことを侮っていました。生活力皆無の兄さんのことですから実家を出て1週間ほどでで私に泣き付いてくると思っていたのに、もう3ヵ月。1人暮らしが兄さんを真人間に変えたのかと納得する一方で、兄さんが私の手から離れたようで若干の寂寥感を感じていました』

 

 その言い方だと俺が真人間じゃなかったように聞こえるんですけど。

 

『でも、どうして今月に入ってこんなに……太っているんですか? この1ヶ月の間に何があったんですか?』

 

 困惑したような雪菜ちゃんの声。

 困惑しているのは俺もだ。雪菜ちゃんが驚くほど、体重が増加しているなんて自分では全く感じない。確かに食べる量は増えたけども。

 

『写真から見るに、おおよそ3.2……いえ、3.1㎏でしょう。先月から増えているはずです』

 

 写真を見ただけでハッキリと数字を出されてしまった。

 だがいくら、雪菜ちゃんでも写真だけでそこまで分かるはず無いだろう。

 きっとアレだ。1月ぶりに俺の姿を見たから、勘違いしているんだ。そうに違いない。

 だが、念のために確認しておこう。

 

 ニコニコしながらこちらを見ているエリザに言う。

 

「エリザ。体重計ってある?」

 

「体重計? ん、ちょっと待ってねー」

 

 エリザが持って来た体重計に乗ってみる。

 体重計に表示された数字を見るも、自分の体重なんて把握していないから正直分からん。

 

 一緒に体重計を見ていたエリザが笑った。

 

「あははっ。先月よりちょっと増えてるねー」

 

「え、先月よりって……記録してるのか?」

 

「うん。あ、一応身長も記録してるけど……そっちは……」

 

 伸びてない、と。まあいいんだけど。

 エリザが持って来たノートには俺の体重やら、食べた食事の量、その時の感想などエリザが書いたイラスト付きで記されていた。

 

『オムライス……美味しそうに食べてくれた!』

 

『ゴーヤチャンプル……苦手みたい。凄く苦そうな顔で食べてた。でも全部食べてくれた!』

 

『ビーフストロガノフ……3回もお代わりしてくれた! 「このビーストガノンドロフ美味しいな」って言ってくれた! 違うけど別にいっか』

 

『野菜炒め……わたしが人参を除けてると「好き嫌いはダメだぞ」って怒られた。でもそう言いながらわたしの人参食べてくれた! 代わりに辰巳君が残してたピーマン食べてあげた!』

 

『すき焼き……わたしがお肉を取ろうとしたら「それまだだから」って怖い顔で言われた。わたしがジッとしてたら、無言でお肉とかお野菜をお皿に乗せてくれた。ちょっと怖かったけど……何かかっこよかった』

 

『お鍋……やっぱり怖い顔でジッとお鍋を睨んでた。よくわかんないけど……たまにはいいかも』

 

 パラパラと捲ると、そんな感じでエリザの一言コメントが書いてあった。

 俺が販売担当なら、長期的な展開も見込んで上司に出版を打診しちゃうくらい、エリザの想いが篭もった本だ。

 流石に自分が書いたものを見られるのが恥ずかしいのか、エリザは照れくさそうに笑っていた。

 つーか俺も恥ずかしいんですけど……俺の恥ずかしい勘違いも載ってるし……。

 

 いや、今は体重だ。

 体重は雪菜ちゃんの指摘通り、3.1㎏増えていた。

 

「本当だ。太ってる」

 

『……兄さん? もしかしてですけど……誰か部屋にいるんですか?』

 

 雪菜ちゃんの声に殺気がエンチャントされた。

 いかん、いつもの癖でエリザに話しかけてしまったが……これはまずいぞ。

 雪菜ちゃんのことだ。俺が美少女と同棲しているなんてことを知ったら『ついに監禁してしまいましたか。いつかはやると思っていましたが……残念です。では兄さん、警察にお世話になってその無様な醜態をお茶の間に晒す前に命じます――自害しなさい』って具合に積極的に死ぬことを勧めてくるはず……!

 

 ここは誤魔化すしかない。

 

「え、誰もいないけど?」

 

『ですが今、誰かに話かけていたようですが?』

 

「いや、それは……その……あれだ。独り言をね」

 

『何やらエリザ、と。名前も呼んでいたようですが?』

 

「あのね、一人暮らしが長く続くとね、独り言の相手にも愛着が湧くんだよ。そりゃ名前も付けるよ」

 

『……』

 

 電話口から、何かを探るような気配を感じた。

 

『……兄さん以外の息遣いや気配は感じない、と。本当にただの独り言のようですね。兄さん、独り言の相手に名前を付けようが人格を作ろうが勝手ですが……手遅れになる前に病院に行った方がいいかと』

 

 おっと、これはかなり引かれたな。

 まあ、エリザの存在がバレて自害を強要されるよりかはマシか。

 

『――ともかく。体型の変化から見て、兄さんがまともに生活できているか、という面に非常に疑問を抱きました。兄さんには即刻そのアパートを引き払ってもらい、実家に帰って頂きます』

 

「はぁ?」

 

急すぎる展開に思わず抗議の言葉をあげた。

 

「何でそうなるんだよ」

 

『初めに言ったでしょう。兄さんが1人暮らしをする上での条件として、自己管理は徹底する、と』

 

 言ったような気がする。

 

『ですので兄さんには実家に帰ってきて頂きます。そして私の支配――もとい管理のもと健全な肉体を取り戻してもらいます』

 

 俺の脳裏に雪菜ちゃんの管理のもと、受験勉強に挑んだあの日々が浮かんだ。

 確かに雪菜ちゃんが人を管理する手腕は素晴らしい。最早人を管理することが運命付けられたかのような天才的な采配。こんな俺ですら自分よりそこそこレベルの高い今の大学に入学できたくらいだ。

 だが、雪菜ちゃんが俺に行った教育は恐ろしいものだった。

 

『フィギュア爆破式教育』

『オカズ画像クラスの男子顔に加工式教育』

『恥ずかしい過去インターネット流出式教育』

『痛々しい写真辛うじて知り合いには分かる程度に加工してインターネットに流出式教育』

 

 と、思い出すだけで鳥肌が立つ恐ろしい教育の数々。というかネットに流出しすぎ。

 そんな恐ろしい過去を思い出して「じゃあお願いしまーす」と雪菜ちゃんに身を委ねるほど俺はバカじゃない。

 

「待った待った! ちょっと体重が増えただけだろ? それくらいで実家に帰るとか……」

 

『1月で3kgですよ? このまま増えていけば1年で36kg、10年で360kg増える計算になります』

 

「ねーよ」

 

 どんだけ頑固な棒グラフなんだよ。山も谷もないじゃん。

 

 雪菜ちゃんたまーにこういう発言するんだよな。真面目な顔と口調で言うから、本気で言ってのかふざけてんのか分かりづらい。

 

 ともかく、実家に帰ることは避けたい。

 

「分かった。じゃあ、元の体重に戻せばいいんだろ? そうすれば文句はないよな?」

 

『……ええ。できればの話ですが』

 

「やってやるよ」

 

『分かりました。そこまで言うのなら――1週間。1週間以内に3kg減量してください。それができなければ、実家に帰っていただきます』

 

 妹である雪菜ちゃんの言うことを何故素直に聞く必要があるのか。そう思うかもしれない。

 だが、雪菜ちゃんには俺が1人暮らしをする時に大きな借りを作ってしまったのだ。だからしょうがない。

 

『では1週間後を楽しみにしています。私は今から兄さんの部屋を片付けておきますので』

 

 既に失敗する気でいやがる……。

 

「じゃあ1週間後に。あ、あとアレだ。……久しぶりに声聞けてすげえ嬉しかったよ」

 

 短い会話だったが、メールではない、生の声を聞けたので楽しかった。

 色々問題はある妹だが、両親以外の唯一の肉親だ。誰よりも大切に思っている……恥ずかしいから言わないけども。

 

『……』

 

 電話の向こうから戸惑うような感情が伝わってきた。

 

「どうかした?」

 

『……いえ。兄さんが少し変わったような気がして。前はそんなこと言わなかったのに』

 

「そんなことって?」

 

『私の声が聞けて嬉しいなんて……いえ、まあ……いいです。……悪い気はしませんから』

 

 雪菜ちゃんはそう言って電話を切った。

 電話を切る直前、かすかに笑う声が聞こえたが……気のせいだろう。 

 

 ふぅ……しかし厄介なことになったな。

 1週間中に3kg痩せなかったら実家に送還か。

 

「たーつみくんっ。何の電話だったの?」

 

 電話が終わるまで待っていたのだろう。エリザが背中から手を回して抱きついてきた。

 ほぼ全体重をかけられているが、重さは殆ど感じない。リンゴで例えると3個分くらいか?

 

 そうだ。エリザにも言っておかないと。

 

「何かダイエットすることになった」

 

 俺の発言に首を傾げるエリザ。まあ、当然の反応か。

 

「3kg太ってただろ。だからダイエットしないと」

 

「えぇー? 大丈夫だと思うよ? だって、ほらお腹だってそんなに……あははっ、ぷにぷにー」

 

「摘まむな摘まむな」

 

「絶対これくらいの方がいいよ! 今くらいが一番健康的な体型だと思うし! ……そ、それに今の辰巳君ギューってした時気持ちいいし」

 

 もじもじと頬を染めながらそんなことを言うエリザ。

 エリザがデブ専の可能性が浮上してきたが、今は重要なことじゃない。

 

 とりあえずダイエットをする以上、料理を作るエリザにも協力してもらわなければならない。

 ダイエットできなければ実家に帰らないといけないということを告げると、流石のエリザも顔を強張らせた。

 

「え!? わ、分かった! じゃあわたしも協力する! 辰巳君がいなくなっちゃうなんて絶対イヤだもん!」

 

「ああ頼むよ」

 

「うん。頑張ってヘルシーなご飯作るね! ……あ」

 

 エリザが何かに気づいたような声をあげた。

 台所から漂ってくる甘い匂い。

 

「チ、チーズケーキ作ったんだけど……ど、どうしよう?」

 

 エリザには悪いが、ダイエットをする上でケーキなんてカロリーの高いものは間違いなく敵だろう。

 俺は確固たる意思を持ってエリザに告げた。

 

「――ダイエットは明日から始めよう」

 

 と。

 明日って今さ!とか言った人がいるらしいが、明日は明日だろう。明日できることは明日やればいい。

 明日からダイエット生活のスタートだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縮地四天王第二の刺客――兎跳びの吾郎(吾郎は世界で唯一縮地ができる兎である。雅夫はオフの日にそんな吾郎を見に来たのだが、その途中車に轢かれて死んだ。……死んだのだ)

 

 朝。

 俺はエリザが作っている朝食の香りを楽しみながら、パソコンの前に陣どっていた。

 カタカタとキーボードを打つ。

 今は俺が1年近く書き続けている長編小説『イカ×オレ』の番外編を執筆中だ。

 番外編は主人公である俺とイカちゃんが艦○れの世界に迷い込んで、俺は提督にイカちゃんは艦娘になって過ごすといったほのぼの日常系の話だ。

 イカちゃんの艦種は『イカ釣り漁船』で全く戦力にはならないが、そこはまあ俺が愛を持って錬度を上げている。

 イカちゃんばかり贔屓する俺に他の艦娘が嫉妬しちゃうから、ほんともー提督って大変!

 今回の話は俺がどうにかして利根ちゃんの足の間を潜り抜けようと奔走する話なんだが……非常に難産だった。だがそれだけに完成した今の達成感は心地がいい。

 

「よし、投稿だ」

 

 ターンとエンターキーを押す。

 自分が書いた作品を投稿する瞬間は未だに緊張する。果たして読んだ人に楽しんでもらえるのか。感想は付くだろうか。前の更新で応援してくれた人が急に手のひらを反して来たりしないだろうか。

 そんな緊張感。だがその適度な緊張感が心地良い。

 

「……って、いつもの癖で更新しちゃったけど。……違うんだよ!」

 

 ツッコミを入れてくれる人がいなかったので、自分でツッコミを入れる。

 何で俺は朝から小説を書いてるんだよ。何が『作戦その2。居酒屋の暖簾と勘違いしてくぐろうとする』だよ。頭おかしいじゃないの?

 

 昨日のダイエット宣言から夜を跨ぎ、俺は朝からダイエット方法についてネットで調べていた。

 俺自身、今まで雪菜ちゃんが完璧にカロリー計算をした料理を食べてたので太った経験は無く、ダイエットなんてものに縁が無かった。 そうなれば現代っ子の俺はインターネットに頼らざるをえない。

 そうして朝からザブンザブンとネットの海を泳いでいたわけだが……。

 

 ダイエット情報多過ぎぃ!

 検索しただけでも何万とダイエットについてのサイトが出てきた。

 内容も「ダイエットに効く筋トレ」とか「私のダイエット記録」とか「〇〇堂のサプリだけ飲んでたら80kg以上あった私の体重が……!」とか「ダイエットをしたいそこのあなた。ここをクリックして下さい。いますぐナウ!」などなど。イカにも怪しいサイトから一見有用そうなサイト、その他諸々の情報に溺れてしまった。つまり情報の取捨選択に失敗してしまったのだ。

 ネットは便利だし、情報も溢れるほど手に入るけど、どれが正しいのか分かる能力がないと逆効果なんだよな。

 ダイエットについて調べようと思っていたのに、ダイエットの知識がないとまともな情報か判断できない……そんな矛盾。

 

 そんな矛盾に翻弄されていると、気づけばお気に入りの投稿SSサイトにアクセスしていた。完全な現実逃避だ。

 そうなれば後は野となれ山となれ。お気に入りのSSが更新されていたのでそれに触発されて俺も自分が手掛けている作品を更新してしまったのだ。

 

 つまり一言で言うなら……何の成果も得られませんでした!

 そういうわけだ。

 

「辰巳くーん。朝ごはん用意できたよー」

 

 エプロンを着けたエリザがおたまを片手に言ったので、朝食タイムだ。

 食事を食べていると、エリザが聞いてきた。

 

「あ、どうだった? ダイエットについて何か分かった?」

 

「いや、正直サッパリだな」

 

「そっかー。ごめんね、わたしも全然詳しくなくて……」

 

 申し訳なさそうに眉を下げるエリザ。

 エリザも生前はダイエットを意識したことがなく、幽霊になってからは全く体型が変わらないらしい。

 どうやら幽霊というのは、生前の姿のまま姿が固定されてしまうらしい。

 ずっと今のままの姿だ。そして怪我なんかもしない。

 言ってみれば不老不死みたいなもんなんだよな。いや、死んでるんだけど。 

 この事実を知った破滅型思考のロリコンが『じゃあ、今いるロリを全員アレしたらこの世界はロリ天国になるんじゃね?』と暴挙に走ることを避けるため、この秘密は墓の中まで持っていこうと思う。

 

 エリザと食事を食べながら、今後について考えることにした。

 本屋に行ってダイエット専門の書籍を購入する、または図書館に行って借りる。近所にダイエットコースがあるジムがあるからそれに体験入門してみる。

 色々考えてみたけど……面倒くせ。

 こういう時はあれだ。あいつに聞くに限る。

 

 困ったときの遠藤寺さんだ。

 

 

 

■■■

 

 

 

 食堂内は閑散としていた。

 現在時刻は午前10時。昼時ともなれば学生でごった返すこの食堂も、この時間は殆ど人がいない。

 友達同士で雑談してたり、1人で携帯を弄ってたり、机に突っ伏している生徒がいたり、そういう奴らがちらほら見えるくらいだ。

 食堂の奥、いつもの場所に向かう。

 いつも通り遠藤寺が席に座って――いなかった。

 

「あれ?」

 

 まあ、アポも取ってないし、いなくても当然なんだが。

 

「でも、まだ残り香を感じる」

 

 テーブルに近づくと遠藤寺特有の柑橘系の香りを感じた。

 ついでにいつも遠藤寺が座っている椅子に触れてみる。

 温かい……。まだ遠くには行っていないはず。

 よく見るとテーブルの上に遠藤寺のであろう単行本が置いてあった。

 席を外しているだけで、すぐに戻ってくるのだろう。

 

「よし、座って待つか」

 

 俺は遠藤寺を待つことにした。

 遠藤寺の体温が残る椅子に座る。

 普通、人が座って間もない生暖かい椅子ってのは気持ち悪いもんだけど、これが遠藤寺の温かさって感じると、こう……フフフ。未来永劫座っていたくなるよね。何ともいえない背徳感のある温かさ。この熱を利用した発電で一儲けできないだろうか、みたいなことを考えていると、後頭部を突かれた。若干湿り気のある感覚。

 振り返る。

 発電エネルギーの源たる遠藤寺がいつものジト目で人差し指を突き出していた。

 

「こら。人の席で一体何をしているのかな君は?」

 

「いや、別にお前の席じゃないだろ。ここ食堂だぞ? パブリックスペース、いわゆる公共の場だ」

 

「いいや、違うね。この席に限ってはボクの席だ。椅子の背もたれを見てみるといい」

 

 何言ってんだコイツ、と思いながら今座っている椅子の背もたれを見た。

 

『遠藤寺専用椅子。許可なく座ったものには罰金10万円を処す』

 

 と書かれていた。

 遠藤寺が指を引っ込め、胸の前で腕を組んだ。

 

「ボクは潔癖症だからね。他人が座った椅子は使いたくないのさ。だからその椅子の権利を買った。――お金でね」

 

 フフッと皮肉気な笑みを浮かべる遠藤寺。

 俺はコイツYTAO(やっぱりちょっと頭おかしい)だわと思いつつ、罰金払わされては適わんので、そそくさと正面の椅子に移動した。

 遠藤寺がゴスロリスカートの裾を抑えながら金で買った椅子に座る。

 

「……ん、椅子が温かいね。ボクは冷え性だから助かるよ。ありがとう」

 

「席暖めておきました……って誰が猿やねん」

 

 BASA○Aでの持ちキャラが秀吉な俺は即座に反応してのけた。

 しかし潔癖症の癖に、俺が座ったあとも普通に座るのな。いや、座る前にファブリーズとかで丹念に消毒されたら、ショックで吐くと思うけど。

 

「どこ行ってたんだ遠藤寺?」

 

「ん? いや、別に大した用事じゃないよ」

 

「じゃあ教えてくれていいじゃん」

 

「……花を摘みにね」

 

 へー、何それ。すっごい乙女っぽいじゃん。

 最近うっすら化粧とかするようになってきたし、遠藤寺さん女子力上がってるわ。

 でも自分磨きもほどほどにね。唯でさえ遠藤寺さんマジ美人なんだから、女子力上げすぎたら遠藤寺の魅力に気づいたナンパ男とか寄ってくるだろうし。俺、遠藤寺が見ず知らずのチャラ男と仲良さ気に歩いてるの見たら、間違いなく世を儚んだ辞世の句を読んでから命を絶つわ。

 

 花を愛でる趣味がバレたからか、ほんのり頬を赤く染めた遠藤寺が咳払いをしてから口を開いた。

 

「ところで……授業はないはずだけど、どうかしたのかい?」

 

「お前に会いに来たんだよ」

 

 言ってしまってから、やっちまったと後悔した。

 こんな胸キュン台詞お見舞いしちゃったら、男に免疫のない遠藤寺のことだ。勘違いして「嬉しい! 抱いて! 今すぐナウ!」みたいに発情する可能性もないとは言えない。

 いや、まず無いだろうけど確率は0ではない。0ではない限り発生しうるイベントだろう。

 宝くじの1等が当たるよりも低い確率だろうけど……やべーな、本当に起こっちゃったらどうしよう。

 今日は勝負下着じゃないし、できれば後日にして欲しいな。

 だが、どうしてもというのなら相手をしてもいい。でも初めてが食堂とかマニアックすぎるので、できれば高級ホテルの最上階でお願いしたい。あ、でも……橋の下とかも……ワイルドでいいかも。

 

「……はぁ」

 

 どうやら俺の心配は杞憂だったようだ。

 遠藤寺は俺の言葉に胸キュンして服に手をかけたりする様子も無く、それどころか露骨に嫌そうな表情でため息を吐いた。

 露骨と言ってもちょっと眉を寄せたくらいの些細な変化だが、3か月の付き合いがある俺にはしっかりと分かった。言葉にするなら「うわ、面倒くせ……」といった感じだろうか。

 

「お前、そんな露骨に嫌そうな顔しないでくれよ」

 

「顔に出ていたかい? それは申し訳ない。だけど、君の顔を見てこの後の展開が予測できてしまったものでね」

 

「予測?」 

 

「当てて見せよう。――君、また面倒な相談事を持って来ただろう?」

 

 俺も顔に出やすいタイプなんだろうか。

 

「よく分かったな」

 

「分かるよ、君の顔を見ればね。……はぁ、こういう時、自分の洞察力がイヤになるよ」

 

 やれやれとかぶりを振る遠藤寺。

 

「で、今度はなんだい? ……どうせまた君の家にいる幽霊関係のことだろうけど」

 

 相談する前から、目に見えて不満な表情を浮かべる遠藤寺。

 どうも遠藤寺にエリザ関係の相談をすると不満になる傾向がある。

 何でだろうかと考えるが、遠藤寺が幽霊に興味が無いからくらいしか思い当たらない。

 

 だが、今日の相談にエリザは関係ない。

 俺は今日の相談について遠藤寺に話した。

 

「ダイエット?」

 

「ああ、そうだ。ダイエットだ」

 

「ダイエットってのは世間一般でいう……あのダイエットかい?」

 

 俺からダイエットなんて言葉が出るとは思っていなかったのか、遠藤寺は少し驚いた顔をした。

 おっ、もしかして興味ひいちゃったかな?

 

「なるほどダイエットね。ふーん。少し興味が……ないね。驚くほど興味が湧かないよ。毎度の話だけど、ボクの興味が湧かない話題を持ってくることに関しては右に出るものがいないね」

 

 何かしらんが褒められたのか?

 

「……はぁ。しかし君ダイエットって。まだ幽霊に関する相談なら分かるよ。幽霊なんて常識外のものを普通の人間に相談したら頭がおかしいと思われるからね。でもダイエットって……これ、もうボクじゃなくてもよくないかい? こんな相談ボクじゃなくてもできるだろう?」

 

 確かに。言われて見ればそうだ。

 遠藤寺の言う通り、最近困ったら何でも遠藤寺に尋ねる癖がついてしまっている。よくない傾向だ。

 他に聞く人間はいくらでもいたはずだ。例えば大家さん……はないか。あの人もたいがいダイエットからほど遠いしな。となると先輩……も『ダイエット? はて? そんな儀式は存じ上げませんね』なんて言われそうだ。

 雪菜ちゃんは……いや、ないか。俺を実家に連れ戻そうとしている張本人だしな。

 じゃあ肉屋のオッサンだったら……『ほぉ? 痩せたいのかてめえ。だったら丁度いい、今店に出す肉が足りなくてなあ』みたいな怖いこと言われそう。

 他には……あれ、いないぞ。俺のコミニュティってこんなもん?

 

 じゃあ、やっぱり遠藤寺しかいないじゃん。

 だが当の遠藤寺は乗り気じゃない様子。

 どうにかして遠藤寺をその気にさせなくては。いや、その気にさせようがさせまいが、最終的には相談に乗ってくれるだろうけど、どうせならお互い気持ちよくいきたいしな。

 

 そういえば最近、遠藤寺って乙女度が増してきたし、女性扱いされると結構満更でもない感じなんだよな。

 そこを責めるか。

 

「ほら、遠藤寺ってダイエットに詳しそうじゃん」

 

 世間一般的にダイエットといえば女性が励んでるイメージがある。

 つまりダイエットに詳しい=女子力が高いということになるのではないだろうか。

 そう思っての発言だ。

 俺の予想では『……まあそうだね。ボクも生物学的には女性に分類されるし、一般的なダイエットの方法くらいは熟知している。そう女性だからね。仕方ない、女性として君に教えてあげるとしよう』そんな展開を期待していた。

 

「……」

 

 が、どうにも雲行きが怪しい。

 俺の言葉を受けた遠藤寺だが……サッと真顔になった。いつもの皮肉気な笑みも呆れるような視線もない、ゼロの状態。人形めいた表情と言えばいいのか。人形のように可愛らしいって言い方もあるけど、さっきまで普通に表情があった相手から急に表情が消えると実際コワイ!

 

「……へぇ、面白いことを言うね。ボクがダイエットに詳しそう、今そう言ったかな?」

 

「あ、うん。そう言ったけど」

 

 面白いと言う割りには、遠藤寺が面白がっている様子はない。

 

「つまり君はこう言いたいのかな? ボクにはダイエットの知識が必要。ボクにはダイエットが必要だと」

 

「いや、そういうこと言ってるわけじゃ」

 

「いいや、そうに決まってるね!」

 

 珍しく声を荒げた遠藤寺。その表情を見ることはできなかった。

 何故なら遠藤寺の右手が俺に伸びてきて、その手が俺の鼻の上から頭部までをガッシリ掴んだからだ。

 いわゆるアイアンクローだ。

 

「お、おい落ち着けよ遠藤寺。いったいどうしたんだよ?」

 

「ハハハハハ。ボクは落ち着いているよ。いつだったか君に言っただろう? 探偵はどんなときだって冷静でいなくちゃいけない。だからボクは冷静だ。いいかい?」

 

 冷静な人間はいきなり人にアイアンクローかまして来ないんですけどね。

 突然の奇行に俺は混乱した。

 一体先ほどの発言の何が遠藤寺をこの行動に走らせたのか。 

 

 しかし、このアイアンクローとやら、初めて食らったけど……なんだろう。凄いドキドキする。

 握られている皮膚のすぐ下に重要器官である脳が存在していて、命の危機を感じているからか、それとも単純に俺がMだからなのか……その答えを出すにはまだ足りない。さあ、遠藤寺よ、もっとギュッとするのだ! ああ、たまんねえ! たまねえたまんねえ!

 どうにかしてアイアンクローを行った原因を突き止めて、今後も遠藤寺からアイアンクローを戴きたくなった時にすぐさま発動できる安定したシステムを構築したい。

 

 アイアンクローに慣れたことで気づいたが、俺の頭を掴んでいる手が若干震えている。これは動揺だろうか。

 遠藤寺が動揺している……非常に珍しいことだ。

 俺はジッと待つことにした。

 待つこと3分。長いようで短い3分間。

 遠藤寺の手がゆっくりと俺の頭から離れた。

 遮られていた視界が開き、遠藤寺の苦虫を噛み潰したような表情が目に入った。

 

「……いきなりすまなかったね。痛くなかったかい?」

 

「いや、別に何とも無いけど。ていうか本当にどうしたよ?」

 

 俺の問いかけに、迷う素振りを見せる遠藤寺。

 ゆっくりと口を開いた。

 

「君の発言があまりに図星だったので、動揺してしまった」

 

「動揺?」

 

「まさか君に看破されるとは思っていなかったよ。どうしてボクが、その……太ったことに気づいたんだい?」

 

 太った? 遠藤寺が?

 いや……そう言われても、目の前にいる遠藤寺を見ても全く太ったようには見えない。

 それを確かめるためには、服の下の体を見ないといけないわけで……そういう方向に進めるにはどうすりゃいいんだ? 『じゃあ、ちょっと確認しますねー』って服の下に手を突っ込んでもいいのか?

 

「ああ、そうだ。君の言う通り、ボクは少し太った。確かに世間一般で言うダイエットが必要だ。だがね、それもこれも君のせいだぞ? 君とつるむようになってから、飲酒の機会が以前より明らかに増えた。君に会う前のボクはせいぜい週末に書庫に籠ってワインを1本開けるくらいだった。それが今となっちゃあ、週に5日は君と飲み歩いている。ボクは大学生か!」

 

「いや、大学生だろ」

 

 大学生は酒飲んでなんぼってところがあるからな。

 ていうか何だこの流れ? 何で俺が責められてるんだ?

 

「食事に関してもだ。ボクは元々少食でそこまで食べないのに、君が目の前でとてもいい顔をして食事をするから、ボクまで箸が進むんだ。その君の顔を肴にしてお酒が進むし。そりゃ太るよ。そりゃ太ってしまうよ! 太らざるをえないよ!」

 

 ドンと机を叩く遠藤寺。

 今までに見たことがない遠藤寺の剣幕に俺は「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。

 

「家でもふと君の顔が浮かぶとそれが食事時なら、条件反射的に食が進む。……ボクは犬か!」

 

 なんだよ全部俺のせいかよ。もういいよ。そうやって世界中の悪いことは全部俺のせいにして、最終的に俺が死ぬことで怒りの矛先を霧散させる計画、タツミレクイエムが成功してから好きなだけ泣けよ。だが扇は許さん。決してな。

 

 しかし遠藤寺にもそんな悩みがあったとは。同じく体重を気にしている同志として親近感が沸く。

 

「じゃあ、ちょっと飲みに行くの控えるか。俺たち目的が同じみたいだし」

 

 俺がそう言うと遠藤寺は、テーブルをたたく手を止めた。

 そして何かを考え込むように顎に手を当てた。

 

「いや、それは軽率だ。問題を解決する際、問題そのものを潰す方法は誰にでもできる。だがボクは好きじゃないね。いいかい? ボク達は人間なんだ。人間は考える生き物。思考停止しちゃいけない。そうだね……よし、いいことを考えた。この間、駅の近くにサラダのBARが出来たんだ。あと、一駅離れた所に、豆腐料理の店があったはず。今後はそういった重くない食事を摂る場所でお酒を楽しむことにしよう。いいかい?」

 

「あ、はい」

 

 畳み掛けるような言葉を前に、反射的に頷いてしまった。

 

 俺は改めて、遠藤寺にダイエットについて尋ねた理由を伝えた。

 あくまで女性としての遠藤寺に尋ねたこと。

 別に遠藤寺が太って見えたことを遠まわしに伝えたわけではないこと。

 

「……つまり、ボクは自分で藪を突いて勝手に自爆したってわけか。ハハハ……滑稽だね。実に……滑稽だよ」

 

 力なく自嘲気味に笑う遠藤寺に、俺は声をかけることはできなかった。

 ここで『俺はムッチリした女の子も好きだよ』って声をかけてもいいが、だから何だよって切れられてることは明白だろう。

 

 しかし遠藤寺も体重とか気にするんだな。やはり遠藤寺も女の子ってわけか。

 これから遠藤寺に対して体重のことを聞くときは気をつけよう。タツミ覚えた。

 

 改めて遠藤寺にダイエットの方法について尋ねた。

 

「ボクからは一般的なダイエットの方法しか教えられないけど、それでいいのかい?」

 

「ああ、それでいいよ」

 

 遠藤寺の言葉は、ネットで転がっている有象無象のどの言葉よりも信じられる。

 

 そして遠藤寺から語られたのは、本人が言っていた通り、ダイエットの基本的なことだった。

 重要なのは2つ。

 

 食事制限と運動だ。

 

 食事制限については問題ないだろう。エリザに任せておけばいい。

 だから問題は運動だ。

 

「運動といっても色々あるけどね。効率的なのは水泳だと言われているよ。アレは体に負荷のかかる水中での全身運動だからね。近くに泳げる場所があるならオススメするよ」

 

 水泳できる場所か。

 つい最近大家さんが泳いでいたアパートの庭が思い浮かんだけど……あそこ、ヤバイ生き物たくさん住んでるんだよな。大家さんが言うのは、最初はメダカとかアメンボとか普通の生き物しかいなかったのに、気づけば訳の分からないカオスな状態になっていたとか。そんな所で平然と泳ぐ大家さんマジタイプワイルド。

 まあ、ないわな。リスクが高すぎる。あんな所で泳いだら脂肪を落とす前に命を落っことすわ。

 

「泳ぐ以外で何かないのか?」

 

「ふむ。だったらジョギングだね。最初はウォーキングから始めてもいいけど、手っ取り早く体重を落としたいなら、走ったほうがいい」

 

 走るか……。

 俺、走るのって苦手なんだよな。基本移動が徒歩のゲーム並みに日常生活でも極力走らないし。

学生時代でも走るのっていったら、授業が終わって夕方アニメに間に合うように走るくらいだったし。

 授業のマラソンとかも辛くて仕方がなかった。携帯ゲーのリセマラなら苦にならないんだけどな。

 

 しかしもっとこう……お手軽に行かないものだろうか。

 

「なんか、こう……飲むと痩せるお薬とか――」

 

「ないよ。そんな夢物語の産物が現実に存在するわけないだろう。少し考えれば分かるだろう」

 

 食い気味かつ若干キレ気味に言われた。

 飲むと都合よくお休みしちゃうお薬を常備していたとは思えない言葉だ。

 

 どうやら地道に走るしかないらしい。

 今日帰ってから……いや、明日の朝から始めることにしよう。

 

「しかし、いきなりダイエットなんて、どういう風の吹き回しだい?」

 

「あー……実はな」

 

 遠藤寺に説明した。

 妹と月に1回写真を送りあっていること。妹に体重が増えたことを指摘されたこと。

 1週間以内に体重を落とさなければ、実家に強制送還させられること。

 

 内容が内容だけにちょっと引かれるかと心配したが、遠藤寺の表情を見る限りその心配はないようだ。

 遠藤寺は俺の話を聞いて興味深そうに微笑んだ。

 

「ふぅん。妹、か。君、妹がいたんだね」

 

「あれ、言ってなかったっけ?」

 

「ああ、初耳だよ。しかし……ふふっ。3ヵ月目でようやく家族構成の一端を引き出せた、というわけだ。まだまだ君について、ボクが知らないことは山ほどあるんだろうね。焦れるような感情はあるけど……これがなかなか心地いい」

 

 遠藤寺はその辺にいる女の子みたいにくすぐったそうに笑い、鞄の中から手帳を取り出した。

 そしてペンで何やら手帳に書き込む。

 

「なにその手帳?」

 

「これかい? 今まで得た君についての情報をまとめている手帳さ」

 

「へー……え?」

 

 サラっと言ってのけたが、なに勝手に人の個人情報まとめてくれてんだコイツ。

 

「簡単な日記も兼ねていてね。えっと『今日、突然太っていると指摘された。衝撃の余り前頭葉の辺りを握りつぶしてしまいそうになったが、どうやら誤解だったようだ』と」

 

「心情を素直に書きすぎだろ。こえーよ」

 

 もし遠藤寺が何かしらの犯罪で捕まったとき、この手帳は間違いなく重要な証拠になるだろう。

 

「『どうやら彼には妹がいるらしい。実に興味深い情報だ。妹はどんな防寒着を身に着けているのだろうか』」

 

「いや、夏でもマフラーつけてるの俺だけだから。一族全員が着用強いられてるわけじゃないから」

 

 遠藤寺は一体俺を何だと思っているのだろうか。

 

 遠藤寺が手帳を鞄にしまった。

 

「しかし兄妹同士で身体情報を交換しあってるなんて、変わっているね」

 

 遠藤寺に変わっていると言われるとか遺憾の意以外の何物でもないけど、間違っていないから言い返せない。

 

「まあ、そういった変わったイベントなら我が家にもあったよ」

 

「へぇ。どんな?」

 

「毎年誕生日に、拉致されて見知らぬ場所で目を覚ますのさ。場所はその年によって様々で、廃屋、閉鎖された精神病院、どこぞの国にある古城の地下牢、今にも沈みそうな客船の一室……そこから自分の探偵としての力を駆使して脱出。見事脱出したら、そこにはクラッカーを構えた家族達が迎えてくれる……というサプライズイベントがあってね。毎年のことだから、もうサプライズでも何でもないけど、これが結構楽しみでね」

 

「お前よく人んちのイベントを変わってるとか言ってのけたな」

 

「フフフ。去年は毒ガスが充満する廃校から脱出するイベントだったが、これがまた冷静さを養ういい訓練になったよ」

 

 何かウチのイベントがすげえ大したこと無い気がしてきたわ。

 つかなにそのイベント。もしクリアできなかったらどうなっちゃうの? 毒ガスってマジな毒ガス? それとも毒ガスと偽った吸っちゃうと体がトロントロンになっちゃうガス?

 どっちにしろ正気とは思えんな。他所様の家族を悪くは言いたくないけど……俺遠藤寺の家に生まれなくてよかった。

 

 その後もどれだけ予算かけてるんだよとツッコミを入れたくなるサプライズイベントを聞いて食欲が無くなる俺。一方の遠藤寺はスペクタクルなイベントの思い出を語って空腹になったのか、席を立ってうどんを購入してきた。

 

 ツルツルとうどんを啜る遠藤寺。

 遠藤寺は肉うどんが好みのようだが、今日はワカメうどん。そういえばここ数日はワカメやら野菜うどんなどヘルシーな昼食だった気がする。

 体重を気にしているのは間違いないようだ。

 

 少し早いが俺も昼食を食べることにした。

 エリザが持たされてくれた弁当箱を取り出し開く。

 

 ヘルシーな食事にすると言われていたので、弁当箱いっぱいの野菜なんかも覚悟していたが……普通の弁当に見えた。

 米も入ってるし、ハンバーグ何かも入ってる。

 

「ふーん。玄米か。ちゃんと食事も考えているんだね。こっちは……おからのハンバーグか。相変わらず手の込んだ食事だ。……見ているだけで君への想いを感じるよ」

 

 遠藤寺がうどんを啜りながら、ジトッとした目で弁当の評論をしてきた。

 フハハ、羨ましかろう! しかもご飯の上に海苔でハートである!

 食べてみると……まあ、いつものことながら普通に美味かった。ありがとうねエリザちゃん。

 残さず召し上がり、早めの食事を終える。

 家にいるエリザに向けて、ご馳走様と頭を下げた。

 

 そういえば俺がいないときのエリザって何してんだろうな……。

 気になるからDLCで番外編を希望するわ。200円までなら払う。

 

 遠藤寺の食事風景を眺めていると、携帯が振動した。

 雪菜ちゃんからのメールだ。

 

『残り6日』

 

 とだけ書かれていた。

 こえーよ。シンプルさで恐怖と焦りを煽ってくるパティーンだ。

 俺が怖気づいているのを予想して、くすくす笑っている雪菜ちゃんが想像できる。

 くそっ、雪菜ちゃんなんかに絶対負けないんだから!

 

「メールかい?」

 

「ああ、妹から。ダイエット頑張れってさ」

 

 ワカメを箸で摘みながら首を傾げる遠藤寺に言った。

 

「ふぅん。仲がいいようで何よりだ。しかし君の妹か……個人的になかなか興味がある。君という面白い人間と血の繋がった存在に対する興味でもあるが……まあ、将来懇意にするかもしれない、という点でもどういう人間か知っておきたいね」

 

 あまり他人に関心を示さない遠藤寺にしては珍しい。

 百合の木はどこにでもニュキニョキ生えてくるし、遠藤寺と雪菜ちゃんが百合の木から舞い散る花の下でチュッチュする展開もありうる。大切な親友と妹が百合な関係になるとか……NTR要素も込み込みでお得じゃない? こりゃ見逃す手はねーぜ!

 

「写真あるけど見るか?」

 

「うん、見たいね」 

 

「可愛い写真と、凄い可愛い写真と、物凄い可愛い写真があるけど、どれにする?」

 

「……普通の写真はないのかな?」

 

「普通に可愛い写真ならあるけど」

 

「じゃあ、まあ……それで」

 

 何やら疑惑の視線を向けてくる遠藤寺。手帳を取り出し、サラサラと何かを書き加えている。「……シスターコンプレックスの気あり? 要観察継続」みたいなことを呟いている。

 誰がシスコンだよ全く。失礼しちゃうわ!

 だってどの写真も可愛いんだから、しょうがないだろ。

 まあ、遠藤寺も雪菜ちゃんの写真を見れば納得するだろう。驚く顔が楽しみだ。

 

 スマホを取り出し、ロックを外す。

 待ち受け画面が表示され、ポップアップしたメニューにタッチして写真が入ったフォルダを選択――

 

「ちょ、ちょっと待った」

 

 しようとしたところで、遠藤寺から待ったがかかった。

 遠藤寺が箸でうどんを掴んだまま、片方の手の平を俺に向けていた。

 

「なんだよ?」

 

「いや、今君のスマホの画面が目に入ってね。恐らくはボクの見間違いだろうけど、その画像が……ボクの写真だったように見えたんだ。いや、間違いなく見間違いだろうけど。君がボクの写真を待ちうけ画面にする理由がないしね。だけど少しでも疑問を持ってしまったらそれを解消するまで我慢できないのが、ボクの悪い癖でね」

 

「ははは、確かに遠藤寺ってそういうところあるよな」

 

「我ながら困った癖だよ。些細な疑問も見逃せなくてね」

 

 うどんを掴んだままやれやれとかぶりを振る遠藤寺。

 そんな遠藤寺を見て笑う俺。

 どこからどう見ても平和な普通の食堂の光景だ。

 

 俺は遠藤寺の疑問を解消するため、スマホの画面を遠藤寺に向けた。

 

「ほら、遠藤寺の写真だ。で、雪菜ちゃんの写真なんだけどな」

 

「待て待て待て待て。あまりの予想外な展開に、君の妹への興味なんか明後日の方向に飛んで行ったよ」

 

 じゃあ、明後日にまた聞かれるのか?

 そんなことを考えていると、遠藤寺が素早い動きで俺からスマホを奪い取った。

 は、早い……! 俺じゃなくても見逃しちゃうね。

 

 遠藤寺は奪い取ったスマホを食い入るように睨みつけた。

 

「……や、やっぱりボクの写真だ。とりあえず聞くけど……こ、これ、いつから待ち受けにしていたのかな?」

 

「1週間くらい前からかな」

 

 その前はスクール水着で戯れる大家さんを待ち受けにしていた。

 その前は編み物をするエリザ。

 

 遠藤寺は困惑と羞恥が混ざったような複雑な表情でスマホの画面を見ていた。

 

「……り、理由を聞かせてくれないかな? 何を思ってボクの写真を待ち受けに? いつどうやって撮ったのかはこの際どうでも……よくはないけど! まずは理由を。ボクを納得させる理由を聞かせてくれないかな?」

 

 スマホを持った手を震わせながら問いかけてくる遠藤寺。額には汗が浮かんでいる。

 確かに……納得は全てにおいて優先するもんな。

 しかし遠藤寺を納得させる理由か。

 

「理由って言われてもな」

 

 待ち受けにしている写真は遠藤寺がこの席に座って、読書をしている写真だ。

 空調の風が当たってなびいた髪をかきあげる仕草を奇跡的に撮ることができた。

 

「綺麗だと思ったからやった。反省はしていない」

 

「きっ!?」

 

 遠藤寺が普段あげないタイプの声を出しながら席を立った。

 テーブルを押しのけながら勢いよく立ち上がったので、勢いよく移動してきたテーブルが俺の鳩尾に直撃した。

 

 遠藤寺の動揺が伝わっているのかテーブルがカタカタ揺れている。

 遠藤寺は深く息を吸い、大きく吐いてから席に着いた。

 

「……綺麗って君、そういう冗談は笑えないな」

 

「い、いや冗談とかじゃなくて。ほら、例えばさ、道を歩いててふと虹が見えたら写真撮ったりするだろ? で、上手く撮れたら何回も見たくなるじゃん。そしたら待ちうけにするだろ? そんな感じで遠藤寺の写真を待ち受けにしたんですけど……」

 

 最後の方の声は遠藤寺の顔がこちらを探るような疑惑の表情になっていたので、小さくなってしまった。

 

「……嘘は言っていないようだね。その……つまり、ボクの写真が君にとって何度も見たくなるような価値があった、と。そういうことかい?」

 

「あ、ああ。そうなんだけど……え、もしかしてマズかった?」

 

「当たり前だろう。勝手に写真を撮った上に、それを待ち受け画像にしていたとか、常識的に考えて普通はマズいに決まっているだろう? まあ、気づかなかったボクもボクだけど……」

 

 遠藤寺から常識について諭されてしまった。

 そ、そうだったのか……。これってマズいことだったのか。

 実家にいた頃、雪菜ちゃんに同じことして注意されるどころか『待ち受け画像にするならこちらにしてください』って指示されたくらいだから、問題ないと思ってた。大家さんも『特別に一ノ瀬さんだけは著作権フリーですよー』みたいに自画撮りの写真くれたし。

 うっわ、遠藤寺のこと常識ないと思ってたけど、俺も人のこと言えんな……。

 

「ごめん。えっと……全部消した方がいいかな?」

 

 そう言うと遠藤寺は、深くため息を吐いた。

 俺の顔を見ずに、自分の髪を弄りながら言う。

 

「まあ……いいさ。ああは言ったけど、ボク自身君に対して怒りやそれに近い感情は抱いていないし、戸惑いはしたけど、どちらかというと嬉しいという想いの方がある。自分でも不思議だけどね。君にとって価値の存在ある存在であるということが分かったからかな」

 

「そ、そうか……」

 

 よく分からんが許してもらえたようだ。

 

「ただ、今後写真を撮るなら一声かけてからにして欲しい」

 

 何言ってんだこいつ。被写体がカメラ意識しちゃったら、自然な写真なんて撮れないでしょうが!

 これだから素人は困る。

 ん? でもカメラを意識して不自然な挙動になる遠藤寺も……アリだー!

 今後はカメラを意識した被写体という素材も考慮しつつ、より素晴らしい写真を撮って至福を肥やすことを誓いまーす。

 

「ん。全部ってことは……他にもボクの写真が?」

 

 遠藤寺は何気に隙が多いからな。シャッターチャンスも多い多い。

 まあ、隙が多いって言っても周りに他人がいないって時限定だけどな。

 

 スマホを操作して遠藤寺フォルダを開く。

 

「……いつの間にこんな量を。君、盗撮の才能があるね」

 

「いらねーよそんな才能」

 

「しかしなかなか上手く撮っているね。自分で言うのも何だけど、被写体が綺麗に映っている」

 

「遠藤寺って写真映りいいからな。俺みたいな素人が撮ってもいい絵になるんだよ」

 

 お陰で撮影スキルが低い俺でも、かなりペロペロしたくなる写真が簡単に撮れる。

 遠藤寺は俺の発言に対して、肩をすくめた。

 おどけたような仕草だが、その頬は仄かに紅潮していた。 

 

「しかし撮られっぱなしってのもシャクだね」

 

 遠藤寺がいつもの皮肉気な笑みを浮かべて、思いついたとばかりに言った。

 

「そうだ。君の写真を撮らせてもらおうか。そしてボクの携帯の待ち受けも君にしよう。これで手打ちということにしようと思うが……どうかな?」

 

「え、嫌だけど。俺写真撮られるのってあんまり好きじゃないし」

 

 遠藤寺は美少女可愛いからこの世界にいくらでも写真っていう痕跡を残してもいいだろうけど、俺なんかの痕跡残してもしょうがないだろ。

 

 俺の発言に遠藤寺は笑顔を浮かべた。

 普段浮かべる皮肉気な笑みではなく、童女のような純真な笑み。

 

 その笑みを浮かべたまま、右手で俺の顎を掴み固定し、左手で構えたスマホでぐにゃりと変顔になった俺を撮影した。

 そのままスマホの待ち受けにされる俺の変顔。

 「何か文句でも?」と言いたげな顔の遠藤寺に、当然文句はあったがそのまま顔をトマトみたいに潰される危険があったので泣き寝入りするしかなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縮地四天王第三の刺客――仮面雅夫(雅夫は改造人間である。車に轢かれた彼は謎の組織の手で蘇り薬漬けによる洗脳の結果、悪の組織と戦うヒーローとなったのだ)

 

「ボクは調べ物があるから図書室に行くけど、君はどうする?」

 

 右手で持った俺の変顔アップを待ち受けにしたスマホを満足そうに眺めつつ、反対の手に持ったハンカチで優雅に口を拭う遠藤寺。

 昼食を食べ終わり、現在の時刻は12時30分。

 今日の授業はもう無いし、どうせだから遠藤寺に付き添って図書室で○ラックジャックでも読もう。それか、○ッコケ三人組でもいいかな。 

 

 そういうわけで、遠藤寺と一緒に図書室へ向かう。

 道中、他の生徒からの視線を浴びる。遠藤寺と一緒に過ごして長いし、こういった視線にも慣れた。

 視線に含まれる言葉だって感じ取れる。『あ、アイツだ』『なにあの格好?』大きく分けてこの2種類。前者は遠藤寺を見たことがある人間、後者は初めて遠藤寺を見た人間の視線だ。その視線の数々は容赦なく遠藤寺に降り注ぐが、遠藤寺が気にした様子はない。気品を感じさせる歩みは決してぶれることはない。ちなみに俺に向けられる視線は……ない。遠藤寺が目立ちすぎるせいで、俺という存在は完全に影になっているからだ。もしかしたら突然全裸になったとしても、誰も俺に気づかないかもしれない。……ん、閃いた。この現象を『幻のシックスマン』現象と名づけよう。この現象を利用すれば――みたいなことを考えていると、何かに手を引かれた。

 

「ほら、何をぼんやりしてるんだい? 時間は有限なんだ」

 

 そう言って俺の手を引く遠藤寺。遠藤寺に手を握られるにも慣れたものだ。遠藤寺も慣れた様子で……あ、ちょっと顔赤い。

 

 図書室に向かって歩いていると、途中俺が所属しているサークル『闇探求セシ慟哭』の部室の前を通った。

 そうだ。デス子先輩に挨拶でもして行こうかな。

 せっかく遠藤寺も一緒にいることだし、先輩を紹介してもいいかもしれない。

 遠藤寺ってば、俺以外に友達いないからな。ここらで一つ、友好関係を広げてもいいかもしれない。

 先輩なら遠藤寺のいい友人になれそうだ。

 2人とも変人……いや、ちょっと変わってるし、相性はいいだろ。

 

 部室扉の前で急に立ち止まった俺に、手を引いていた遠藤寺が若干つんのめった。

 

「こんな所で立ち止まってどうしたんだい? 次の講義が始めるまでそんなに時間は無いんだ。早く行かないか?」

 

 そう言って手をグイグイ引いてくる遠藤寺。

 その勢いを利用して遠藤寺の体を押し倒し『こ、これは事故だ!』と無実を証明したい欲望に駆られたが、今は遠藤寺に先輩を紹介する方が重要だ。

 

「ここさ、俺が所属してるサークルの部室なんだよ」

 

「……サークル?」

 

 詳しくは話していないが、俺がサークルに入っていることは遠藤寺に説明している。

 俺が取ってない講義を遠藤寺が取っている時、俺は手持ち無沙汰になる。1人で時間を潰すことになる俺に対して遠藤寺が気を遣ってくるのでそういう時に、サークルの部室で暇を潰してくると言っているのだ。

 

「サークルというのは……君がたまに言っている……あの?」

 

「そうそう。お前が講義受けてる間、ここで時間潰してるんだぜ」

 

 なんせいつ行っても先輩がいる。

 少なくとも俺がここを訪ねて、先輩がいなかったことがない。

 ……先輩、授業とか受けてるのか?

 

「……そ、そうか。なるほど……ふむ」

 

 何故か表情に気まずいものを浮かべ、俺の顔と部室の扉を交互に見る遠藤寺。

 妙な反応だ。

 

「え、なにその反応?」

 

「いや……その、な、何でもないさ」

 

「明らかに何でもある反応だろ。言えよ」

 

 遠藤寺は申し訳なさそうな顔で口を開いた。

 

「その……本当に実在していたんだなぁと、そう思って」

 

「は? どゆこと?」

 

「てっきりボクと離れて一人孤独な時間を過ごすだろう君が、ボクに心配をかけさせないように作った架空のサークルだとばっかり……」

 

 なに? つまり遠藤寺の中では、俺って『遠藤寺が講義受けてる間、ちょっとサークル行ってくるわ』とか言いながら、一人寂しく時間を潰してた可哀そうな子になってたわけ? クビになったサラリーマンが出社するフリして公園でブランコをキコキコしてるが如く? 

 あ、だからいつもその後で合流した時、妙に優しくしてくれてたんだ。へー、些細な疑問が解☆決!(横ピース)

 

 何勝手に勘違いしたうえ、人を哀れんでくれてるんですかね。

 この女、マジでどうしてくれようか。その界隈(主にインターネット)では『ナチュラルボーンカッター』と呼ばれた俺のアイコラ技術でアレしてやろうか。

 

「……う。そんな目で見ないでくれ。勝手に勘違いして申し訳ないと思っているよ。それに正直、ボクと一緒にいない時の君に居場所があって安心してたよ」

 

 誤魔化しているわけでもなく、心の底から俺を案じた言葉。

 うっわ。コイツマジでずるいわ。そうやって人のことディスった後に案じてくるとか……まあ嬉しいですけどね。ありがとね。

 

「で、その部室の前で立ち止まってどうしたんだい?」

 

「サークルでいつもお世話になってる先輩がいるんだけど、ちょっと遠藤寺に紹介でもしようかなぁって」

 

「紹介?」

 

 首を傾げる遠藤寺。

 

「うん。その人、デス子先輩っていうんだけどな。結構変わってるけど、世話焼きで優しいし、あと結構変わってるしお前と合うと思うんだ。変わってる人だけど、実際付き合ってみると面白いし」

 

「……君がボクをどう思ってるか今一度問いかけたくなる紹介ありがとう。ふむ。もしかしてだけど君、ボクに友達を紹介しようとしているのかな?」

 

 話が早い。

 遠藤寺は博識だ。様々な方面の知識と情報を持っている。

 遠藤寺は友達ができるし、都市伝説とかの情報を求めてる先輩には情報源ができる。これぞwin-winだ。

 そして俺は可愛い女の子同士がキャッキャウフフする百合の花満開な光景を目にすることができる。最高だ。

 もしかすると2人が仲良くなりすぎて、俺を置いて買い物に行ったり遊びに行ったりするかもしれないけど……それはそれで。その光景を隠れながらこっそり眺めるっていう若干NTR要素を含んだ願望も満たされるし。やべーな、いいとこだらけじゃん。俺人生の勝ち組だわ。最早優勝だわ。

 

「……正直あまり気乗りがしないな」

 

「え?」

 

 俺の邪悪な展開を見破られたのか?

 いやいや、俺のポーカーフェイスは完璧なはず。どこからどう見ても、助兵衛心なんて微塵も無い、友達の輪を広げたいだけの人畜無害青年って顔のはず。

 

「友達、ね。そもそもその『友達』という存在自体、ボクの人生には無縁の物だったんだ。ボクはこんな……君の言葉を借りるなら、変わり者だろう? そんなボクに世間一般の『友達』という存在なんて縁が無いと、物心ついたときには思っていた。今の今になるまでね。君がこうして目の前に現れるまで、こうやって心を許して、何の利害もない会話を交わせる相手が現れるなんて思っても居なかった」

 

 遠藤寺は俺の顔を見ながら続けた。

 

「つまり君はイレギュラーなんだ。ボクの人生にとってはね。本来、ボクが歩む人生には決して関わるはずの無かったファクター、それが君なんだ」

 

 つまり俺はイレギュラー(例外)ってことか?

 や、やめてくれよ……。そんなイレギュラーだとかファクター(因子)とかシンギュラリティ(特異点)だとか言われたら再燃しちゃうだろ!

 ブラックヒストリー(黒歴史)という名の闇からいっぱい引っ張りだしたくなっちゃうじゃん! この歳で右手が疼きだしたらどうしてくれんの? 当然の流れで右手に包帯とか巻いて『怪我でもしたのかい? じゃ、じゃあボクが……君の右手の代わりになろうかな』みたいなこと言ってくれるの? 遠藤寺の日々? 防御もお願いできるのか? 

 落ち着け俺、中二病は先輩だけで十分だ。

 

「何が言いたいかって言うと……うん、そうだね。十分なんだよ。ボクの人生で『友達』という枠は君で一杯なんだ。これ以上増えることはない」

 

 世界に1人だけの友人認定されて、嬉しいっちゃあ嬉しいけども。

 はいそうですかって引き下がれるほど、俺の計画――YMO作戦、つまり『Y(百合の花を)M(愛でる)O(オペレーション)作戦』は甘くないぜ!

 こんな風に断られる可能性も作戦の内。

 

「そうか……」

 

「そういうことだ。ボクのことを想って提案してくれた君には悪いけどね。……うん、ボクのことを考えてくれたことは、その……とても嬉しいよ」

 

 照れているのか、若干頬を染めながら言う遠藤寺。

 普通の人間だったら、こういう時恥ずかしくて相手の顔なんて見られないはずだろうけど、遠藤寺はガッツリ見ながら言ってくる。

 まあ、俺は普通の人間だから、そんな遠藤寺の視線向けられたら恥ずかしくて顔を逸らすわけですけど。

 

「……んんっ。分かった、遠藤寺の言葉はよく分かった。だがお前は勘違いしている」

 

「勘違い?」

 

「そうだ。お前は『友人』という枠は一つで十分、そう言ったな?」

 

「ああ、言ったよ」

 

 よし言質は取れたぜ。今の言葉が遠藤寺の堅牢な城壁を崩す最強の矛となる。

 遠藤寺は言った。友人は1人だけ、と。

 つまりその枠から俺が外れれば、その枠は空くということだ。

 

「なぁ遠藤寺……」

 

 俺は遠藤寺に近づいて、馴れ馴れしく肩を抱いた。

 一瞬遠藤寺の体がビクリと震えたが、今日までこんな風に身体的に距離が近づいたことは何度でもある。

 出会った頃なら、突き飛ばされていただろうけど、今は慣れたものだ。実際飲みに行ったときとか、最初は机を挟んで正面同士で座ってるけど、いつの間にか隣に座ってほぼ密着して飲んでるしな。

 

「……ち、近いな君。一体なんだい? その……ここはいつ人の目が来るか分からないし、できればこういうのは2人だけの時に……」

 

「俺とお前って友達か?」

 

「なんだい薮から棒に。その筈だろう?」

 

「そうか。俺は違うと思ってる」

 

「……んん? そ、それはつまり……その、友達以上、と。そういうことかな?」

 

「……」

 

 俺は答えなかった。言葉は必要ないからだ。

 俺の沈黙を是と受け取ったのか、遠藤寺は表情こそ冷静そのものだが、口をわずかに震わせていた。

 しかし、コイツめっちゃええ匂いするわ。甘味値高めの果物みたいな匂い……苺みたいな。思わず練乳ぶっかけたくなるわ。今日は黒一色にゴスロルファッションだし、練乳の白が映えるだろう。だが残念ながら手持ちの練乳はない……残念だ。今度からチューブの練乳携帯しとこ。

 

「……ここだけの話、その……ボクも、そう思っていたよ。確かにボクと君の関係を表すに『友人』という言葉は不相応じゃないかと、そう思っていた。まさか君の方からそういった話が出るとは思っていなかったけど」

 

 なるほど。遠藤寺もそう思っていたなら、話が早い。

 

「色々考えてはいたんだが、ボクと君を繋ぐ関係として近いのは……あ、あくまで近い関係だけど。それは、世間一般で言う、こ――」

 

「『親友』」

 

 そう親友だ。

 ここらでハッキリさせておこう。俺と遠藤寺の関係は友人以上親友イカの辺りをフワフワしていた。

 俺は遠藤寺のことを唯一無二の親友だと思っていたし、遠藤寺も俺を呼ぶときは『親友』と呼んでいた。

 だがハッキリと親友の関係にあったか、そう言われると疑問だ。

 そもそも友人と親友の違いは何かという話だが、そんなのは分からない。恐らく誰にも。

 だからこそ、ここら辺でハッキリと言葉にしておくことが必要だと思った

 俺と遠藤寺は親友。

 

「……親友?」

 

「そう、親友だ」

 

「も、もう一声……はないのかな?」

 

「は?」

 

 何を言ってるんだこいつは。親友の上ってなんだよ。義兄弟とか? 

 いや、流石にそこまでは……まだ早い……よ。

 

 遠藤寺は何か言いたそうに『いや、その……』『もっと、こう……』『その、なんだ』みたいな短めな言葉を口をパクパクさせながら呟いた。

 だが、それがハッキリと言葉になることはなかった。なので続ける。

 

「親友だろ、俺とお前。違うか?」

 

 ここでもし『は? 何を言っているんだ君は? 親友? バカバカしい。ボクは君のことを辛うじて友人としか思っていないよ。それを親友? 君それはちょっと図々しいだろう。厚かましい。いっぺん死んでみる?』なんて言われたら、ショックのあまり自作のポエムをネットに流出して憤死する。死んで地獄行って可愛い鬼の子と恋人になってから浮気して嫉妬に狂った鬼の子に電流を流されるっちゃ!

 

「……ああ、そうだね。親友、うん。ボクと君の関係性はそれだね。うん、ボクもそう思っていたよ」

 

「本当に? 何かあんまり納得してない感じだけど」

 

「いや、そんなことはないよ。……はぁ」

 

「ため息出てるけど」

 

「出てないよ。……はぁぁ」

 

 おかしいな。ここは『親友――なんて素敵な響きだ』みたいに感動する場面なんだけど。

 滅茶苦茶ため息吐いてるし、拍子抜けした顔してるし。

 

 ま、まあいい。俺と遠藤寺は親友。問題はここからだ。

 

「で、俺と遠藤寺は親友だ」

 

「そうだね。……はぁ」

 

「ため息やめて。で、そうなると空くよな」

 

「空くって何が?」

 

「遠藤寺の中の『友人』枠だよ。言ったよな、友人枠は1人で十分って。今お前の中の友人枠は空っぽ、つまり誰かを受け入れる余裕があるってわけだ」

 

 そう、これこそが俺の対抗策だ。

 友人枠は無いなら友人枠を作ればいい。

 

「……いや、あくまでアレは比喩的に言ったわけで……いや、まあいいか」

 

「と、いうことは?」

 

「分かった。君が言ってるその先輩、紹介されるよ。君がそこまで会ってほしいとそう言うなら、会うよ。君の顔を立てると思ってね」

 

「やったぜ」

 

 YMO作戦第一段階成功!

 遠藤寺が諦めたような表情なのは気になるけど、とにかく上手くいったぞ。

 

「ちなみにそのデス子先輩とやら、あくまで女性のような呼び方はあだ名で、実際は男性だったり……」

 

「いや、女性だけど」

 

「……そうか。だったら、なおさら会っておくべきだね」

 

 というわけで、遠藤寺を紹介しようと部室に入ろうとしたが……部屋の扉には鍵がかかっていた。

 部屋の中に気配も無いので不思議に思っていると、扉の隙間には一通の便箋が挟まっていた。

 

『一ノ瀬後輩へ』

 

 と書かれた便箋。この大学で俺のことを後輩と呼ぶ人間はデス子先輩だけだ。

 これは先輩から俺に宛てられた手紙だろう。

 つーか先輩って、結構……字が下手なんだな。何つーか、普通に下手。読めないってことはないけど。

 

『我が親愛なる闇の同士――一ノ瀬後輩。この手紙を読んでいるということは、一ノ瀬後輩は我が闇探求セシ躯の本拠地に来たが、ワタシが不在だったということでしょう。ワタシは今、自宅にて休息をとっています。我が妹の戯れに付き合い町内を走ったことで人間でいうところの筋肉痛を患ったわけで……忌々しきは人間の体デス。ワタシが真の姿である『闇の躯』となれば肉の体を捨て魔力で構成されたアストラル体となりこのような痛みとは無縁になるのデスが……まだまだその日は先のようデス。つきましては当分の間、部室は閉鎖します。ワタシがいない間も、闇に生きる同士として決してサボることのないように。そしてどうしてもワタシに助言を求めたいことがあるのなら、電話を下さい。待ってます。基本的に朝の9時頃から夜中の3時頃までは大丈夫なので、好きな時にかけて下さい』

 

 と書いてあった。

 へー、先輩もランニングとかするんだ。ていうか筋肉痛で学校休むとかどんだけだよ。

 

「すまん。先輩今日はいないみたいだ」

 

「そうかい。少し残念だね。会ってみたかったんだけどね。……本当に残念だよ。」

 

 そう言う遠藤寺の顔は残念そうな表情ではあるけども、何かを企んでいるような闇を感じさせた。

 

 

 

■■■

 

 

 遠藤寺様の有難いダイエットアドバイスを戴いたその日の晩、風呂に入ってサッパリした俺とエリザは食卓に着いていた。

 ちなみに今日は汗を流す為、いつもより長湯だった。

 エリザが湯船の中で楽しそうにアヒル隊長と遊ぶ一方、俺はどうすればエリザに気づかれないようにお風呂のお湯をゴクゴク飲めるだろうかという難問に挑んでいた。エリザの汗がじっくり染み込んだお風呂の湯。当然俺の汗も染み込んでいるだろうが、俺なら自分の汗が溶けた部分は避けてエリザのお湯だけを飲むことができるという根拠のない自信に満ち溢れていた。そういった根拠のない自信が俺の原動力なのだ。

 

 さて、風呂が終われば次は夕食だ。

 風呂上りのいい匂いを振りまきながら、エプロンをフリフリしながら料理を作るエリザを見る。ガン見し過ぎると「恥ずかしいよー」と言って台所と六畳間の隔てる襖を閉じられてしまうので、こそこそ見る。テレビを見ながらチラリとエリザを見る。たまに視線が合う。エリザがはにかむ。可愛い。衝動的に金を払いたくなる可愛さだ。『いつも可愛くてありがとう。好きな物を買うんだよ』とか言いながらポケットに諭吉さんを捻じ込みたい。そしてそのお金を自分の為じゃなくて俺の為に使って欲しい。みたいなことを考えていると

 

「お待たせー。ご飯できたよー」

 

 とエリザがお盆を運んできた。てきぱきと食卓の上に夕食を並べていく。手伝おうとするも「だめー」と笑顔で拒否されるから、ただひたすら待つ。待てと命令された犬の如く。

 

 さて、今日の夕食だが――ラーメンだ。

 湯気を立てたどんぶりの中に麺が沈んでいる。その上にはもやしや海苔、あとは……めんまみーつけた。

 どこからどう見ても、普通のラーメンだ。

 

「これ、ラーメン?」

 

 俺はわずかな可能性にかけた。

 一見ラーメンに見えるが、これはそう……ラーメン以外の何物でもないな。

 

「そうだよー」

 

 やはりラーメンだった。

 ラーメンってかなり高カロリーだったような……。

 俺ダイエット中なんだけど。

 おかしいな。朝にエリザが『ダイエット用の食事は任せろー』って言ってたのに……。

 エリザを見る。

 

「熱いうちに食べてねー」

 

 ニコニコしていた。

 ここで『俺は遠慮しておきます』と言えるシタン先生がいたら、出てきてほしい。少なくとも俺は言えない。

 エリザのこの笑顔が悲しそうに歪むのを想像するだけで胃が痛くなるし、そもそも凄い旨そうだし、腹が減って我慢ができない。

 ……よし、明日からだ。明日から頑張ろう。今宵はラーメンを楽しもうじゃないか。

 そうと決まれば早速食べよう。鉄は熱い内に打て、ラーメンは熱い内の食えって言うしな。

 

「いただきます」

 

「どうぞー!」

 

 手を合わせて、箸を持つ。

 湯気を立てるどんぶりに箸を差し込み、ナルトやワカメ、メンマを避けるように麺を掬い上げる。

 掬い上げた麺をジッと見る。醤油ベースだろうか、香ばしい汁が麺に絡んでツヤツヤと輝いている。

 食欲を誘う見た目と匂い。

 腹の虫が辛抱たまらんと先ほどから胃の辺りをガンガン蹴り付けている。

 待て待て落ち着け。もう少し香りを楽しませてくれよ。

 

「えへへー」

 

 エリザは相変わらずニコニコしたままこちらを見ている。

 毎回のことだが、エリザは俺が最初の一口を食べるまでジッと見つめてくるのだ。

 本人曰く『趣味』とのこと。俺もエリザが家事をしているのを見るのが趣味だし、似た物同志かもしれない。

 しかし可愛い女の子が家事してるのを見るのは分かるけど、俺みたいな男が飯食うの見て何が楽しいのか。

 

 俺が麺を見つめていると、エリザが何かを思いついたかのように口を尖らせた。 

 

「フーフーした方がいい?」

 

 恐ろしいほど魅力的な提案をしてくるエリザだが、それをさせちゃうと唯でさえ底辺を走っている俺のクズっぷりが地下に潜りクズによるクズのためのクズだけの王国を建国しちまいそうなんで、さすがに遠慮した。未だ見ぬ国民たちには悪いが、俺はまだ辛うじて地上にいたい。

 

 掬い上げた麺を口に含み――一気に啜り上げる。

 口内に侵入してきた汁の絡んだ麺。それを咀嚼すると違和感を覚えた。

 妙に歯応えがある。噛み切るのに普通の麺より力を要する固さ。バリカタだとかモチモチだとかそんなもんじゃない、グニグニとした歯応え。

 ゆっくりと咀嚼し飲み込む。

 熱を持った麺が喉を滑り落ちていくのが心地よい。

 だが何だ今の感触は……?

 

「これは……一体……?」

 

 俺が問いかけると、エリザが「ふふーん」と満足げな笑みを浮かべて言った。

 

「こんにゃくだよー」

 

 こんにゃくだと?

 こんにゃく……アニメ化……うっ、頭が……。

 

 この弾力ある感触――そうかこんにゃくか!

 確かに言われて見ればそうだ。言われてから気づいたが、ほんのわずかにこんにゃく特有の生臭さを感じる。

 だが、それもコクのある醤油の匂いにかき消されて殆ど感じない。

 

 満足げな表情のエリザは続けた。

 

「ネットで調べて、作ったんだー。こんにゃくってすっごいカロリー控えめだからね! ダイエットに最適だよ。明日はこんにゃくのステーキ作るよ。他にもお刺身とか煮物とか色々できるし。えへへっ、こんにゃくって万能だね!」

 

 確かに。

 ラーメンにもなるしステーキにもなる。こんにゃくってスゴイ……俺は素直にそう思った。

 食べるだけじゃなくて翻訳したり異世界でクッションになったり、数多の可能性を感じる。それに切り目を入れればオ……いかんいかん、食べ物を粗末にしちゃいかんぞ。間違ってもカップラーメンにいい感じの穴を開けたり、片栗粉をチンしてXにしたり、アレをソレしちゃいけないぞ? 仮にエンジョイしたとしても、ちゃんと残さず食べること。一ノ瀬お兄さんとの約束だぞ。

 

 ラーメン特有のシコシコ感は無いものの、歯応えのある触感に珍しさもあってかこんにゃくラーメンは美味しく戴けた。

 デザートにコーヒーゼリーも出てきて、満腹になった。

 うん、エリザも頑張って食の面で俺をサポートしてくれているし、俺も自分にできることを頑張ろう。

 改めてそう決意し、明日からジョギングする旨をエリザに伝えた。

 

「おぉー、すごい辰巳君! やる気いっぱいだぁ! すごいすごい!」

 

 まだ実行してもいないのに、成し遂げたかのように拍手をしてくるエリザ。

 ここで「やっぱり止めた」と言うとエリザがどんな反応するかという悪戯心が沸いたが、それやっちゃうと間違いなくクズの地下帝国と魔王として君臨することになるから、その願望は地下帝国に作ったダンジョンの最奥に仕舞いこむことにした。

 

「で、明日は5時くらいに起こして欲しいんだけど」

 

「うん、分かった。ジャージとかタオル用意しておくねっ」

 

 ああ、そうか。走るんだったらジャージとかもいるんだよな。完全に失念してたわ。

 いそいそと箪笥からジャージやら何やらを取り出すエリザ。

 俺のだろう、青いジャージの上下を畳みの上に置く。

 続いて俺の物よりも随分小さい、ピンク色にジャージを取り出した。あれは大家さんから貰った服の中にあったジャージ。

 エリザはそのピンクのジャージと青いジャージを広げて、俺に見せてきた。

 

「ほら見てみてー。肩のところにね、辰巳君の大好きな鯖のワッペン付けてるんだ。お揃いだねー」

 

 鯖のワッペンが付いた俺のジャージと、小さいジャージの2着を交互に見せてくる。

 相変わらずエリザ手作りのワッペンはクオリティが高い。これで鯖だけに固執せずキャラ物とか作ればそこそこ稼げるんじゃないか?

 いや、それよりも何故小さいジャージを取り出したのか? しかもピンク。どっちか選べってことか? 無理だろ、パツンパツンとかそういうレベルじゃねーぞアレ。ゴンさんみたいになるぞ。

 

「辰巳君といっしょ~、いっしょにランニング~」

 

 が、俺の心配は見当違いだったようだ。

 どうもピンクのジャージはエリザの物らしい。一緒に来る気満々のようで、遠足前日の子供のような期待感に満ちた笑顔を浮かべながら、鼻歌を歌っている。

 俺は恐る恐る問いかけた。

 

「もしかしてエリザも来るつもり、だったり?」

 

「うんっ。……え? ダメ、なの?」

 

 俺の言葉に、EZS(遠足前日スマイル)から一転、TAS(当日雨でショック)な表情に移り変わる。

 そんな悲しげな表情で言われたら、無条件承認しちゃうぅぅぅぅぅ! 一緒においでって言っちゃうのおぉぉぉぉぉ!

 いかんいかん落ち着け俺。

 

 エリザが一緒に来るのはちょっとどうかと思う。

 何せエリザと来たら俺を甘やかすことにかけたら右に出る者はいないとこの界隈では有名だ。大家さんも最近グイグイ来てるとこの界隈では噂になっているが、エリザには適わない。キングオブ甘やかせ。それがエリザだ。

 そんなエリザが一緒となると……。

 少し試してみよう。

 

「あのさエリザ。今からちょっと質問するけど、答えてもらっていいか?」

 

「え? う、うん。何でも聞いてっ」

 

 俺に質問されるのが嬉しいのか、目をキラキラさせはにかむ。もし尻尾があれば、ぶんぶん暴れまわっているだろう。

 お、そういえば大家さんから貰った中に、猫耳と尻尾もあったっけ。美少女幽霊であるエリザに猫耳尻尾が加わったら……もう分かんねえなコレ。

 とにかく今はエリザへの質問だ。

 

「じゃあ第1問。えー……朝、俺に5時に起こして欲しいと言われたエリザは、そのとおり俺を起こそうとしました。ですが俺が起きる気配はなく『今日はいいや。明日にするわ……むにゃむにゃ』そう言いました。――どうする? はい、エリザさん」

 

「はい!」

 

 手を上げて元気に返事をするエリザ。

 予習をバッチリしてきた生徒の如く自信満々の表情だ。

 

「一緒に添い寝する!」

 

 はい、不正解ね。

 

「じゃあ第2問。ジャージに着替えた俺とエリザは、部屋から出ました。その日は珍しく朝から冷え込んでいました。俺は『寒い。少しも寒く無くないわ。よし家に帰ってぬくぬくしよう』そう言いました。どうするエリザ?」

 

「お部屋に帰って一緒のお布団に入って暖めてあげる!」

 

 お、ぶれないねー。全くもってぶれる気配がないねー。

 もうこの時点で不合格なんだけど、せっかくなので最後まで質問することにする。

 

「最後の問題です。俺とエリザはランニングを始めました。走って100メートルほどしてから俺は立ち止まり『疲れた、もう一歩も走れない。足が痛くて動かないんです! 足の骨が折れた……気がする! 帰ろう、帰ればまた来れる』そう言いました。どうする?」

 

「うん、帰ろう辰巳君! 帰ってお休みしよ? あ、わたしマッサージしてあげるね! それから――」

 

「はい終了」

 

 以上の質疑応答の結果から、エリザさんは誠に遺憾ではありますが、採用を見送らせていただくことになりました。貴殿の今後のご活躍と発展をお祈り申し上げます。

 この子、どんだけ俺を甘やかす気だよ。もう逆にどこまで甘やかしてくれるかお手並み拝見してみたい。甘やかされきって糖尿病になる未来が見える。それもそれでよし。

 平時だったら俺もどんどん甘やかされていきたいが、流石に今回に限ってはそうはいかない。今後の俺の進退がかかってるからな。

 

「というわけで、1人で行くから」

 

「えぇー!? な、なんで!?」

 

 先程のテストの結果でレギュラーを外されたのが不服な様子なエリザ。

 

「そもそも、誰か、つーか俺に触れてないと部屋出られないんだろ? どうするつもりだよ」

 

「え? えっと、それは……手を繋ぎながら、とか?」

 

『ダメ?』と可愛らしく首を傾げながら言うエリザ。

 当然ダメだ。手を繋ぎながらランニングとか……どこのバカップルだよ。もし俺がそんな奴らみたら率先して、間を突っ切るわ。

 

「とにかく悪いけどダメだ。エリザはアレだ。俺がクタクタに疲れて帰ってきても食べやすい朝食を用意しててくれ」

 

「……うぅ、分かった。一緒に行きたかったのに……クスン」

 

 戦力外通告をされ、落ち込むエリザを見て非常に心が痛む。

 だが、それでも。それでも! 男にはやらなきゃいけない時があるんだ。それが今なんだ。

 俺にとってやらなきゃいけない時、それが今なんだ。

 

 でもダンボールに捨てられた子犬のような目で、裾をチィチョイ引っ張ってくるエリザに負けそう。

 頑張れ俺。負けるな、力の限り生きていけ! 一ノ瀬辰巳!

 

 

 

■■■

 

 その日の夜、エリザを泣かせた罰が当たったのか、今世紀最悪の悪夢を見た。

 

『ガハハハハ!』

 

 肉屋のオッサンに監禁される夢だ。

 肉屋の地下に作られた秘密の地下室に捕えられた俺は、なんだか良く分からない歯車的なもの(奴隷が回してるやつ)を回す作業にひたすら従事させられた。床は一面、健康サンダルに生えている突起のようなものが敷き詰められており、健康に気を使っているのかそうじゃないのかよく分からない頭のおかしい場所だ。

 

『ガッハッハ! もっと回せぇ! 回して回して回しまくれぇ!』

 

 SM嬢がつけるような目を隠す蝶マスクを装着し、鞭で床をピシピシ叩くオッサン。

 少しでも休もうとするならオッサンの鞭……ではなく、舐め回すような視線が主に尻を中心に向けられた。

 その不快感から逃れるように、必死で歯車を回す。

 

『そうだぁ! 回すんだよ! 特に意味のないその歯車をひたすら回せい! ガハハハ!』 

 

 意味が分からなかった。せめてこの歯車に何かしらの意味があれば……いや、そういう問題じゃないか。

 一刻も早くこの悪夢から抜け出したい。だがそういう時に限って中々目が覚めない。いい夢の時はすぐに覚めるのに。不公平極まりない。

 

『あと100回まわしたらぁー――あんな所にレバーがありまぁす! 次はあの8つのレバーをひたすら上下するトカしないトカ! 特に意味はない! ゲッゲッゲ!』

 

 も、もう嫌だ……。何らかの手段で自害してでもこの場から逃げたい……。

 どうして俺がこんな目に……。

 あれか? 『カルマを貯めて地獄に行こう!』キャンペーンに見事当選しちゃったの? 送った記憶ないけど。

 俺ってそんなに罪深いか?

 

『さらにその次はここに用意したヒヨコ10000匹をオスとメスに分けるピヨォ! ちなみに全部オスだぁ! オッスオッス! ピヨヨヨヨ!』 

 

 殺してくれ……誰か俺を殺してくれ……。

 できれば優しく、できるなら豊満な胸で窒息死を……それが無理ならムッチリとした太ももで絞め殺すのでもいい……。とにかく何でもいいからこの場から速やかに開放してくれ……。

 

 かくして俺の願いが届いたのか――

 

「たつみくーん、起ーきーてー」

 

 と天から神々しくも身を委ねたい声が降り注ぎ、視界が真っ白に染まって行った。覚醒の時だ。

 俺はオッサンに向かって中指を立てつつ、その穏やかな覚醒に身を委ねたのだった。

 

『See you in your nightmare……』

 

 意味深な笑みを浮かべながらギースのような台詞を吐くオッサン。

 もう2度と悪夢は見たくないので、これからはエリザにもっと優しくしよう、そう思った。 

 

 

■■■

 

 悪夢から目を覚ました俺は天使と出会った。

 天使は枕の横、俺の頭のすぐ近くに右手をついて、真上から俺を覗き込んでいた。もう片方の手で髪をかきあげる仕草に、ちょっとドキっとした。

 

「あ、起きた? えへへ、おはよー辰巳君」

 

 視界いっぱいに広がる天使の顔。

 近い。俺がちょっと腹筋運動を行えば、チュッと行っちゃう距離だ。脳内国会では『キッスキッス!』という野次が飛ばされているが、俺の腹筋は障子並にペラペラソースなのでこれからビルドアップしたビルドバーニング辰巳に乞うご期待。

 

「起きないからチューしちゃうとこだったよ……なんちゃってっ」

 

 なんだ天使じゃなくてエリザか。やっぱ天使じゃん。エリザエルの天使っぷりに朝から浄化されそう。

 ゆっくりと布団から起き上がった俺だが、何だかいつもと違うことに気が付いた。

 いつもと違って起きた時に香る朝食の匂いがない。

 そして窓の外を見ると、真っ暗だった。まるで夜。

 

「……え? 今何時これ?」

 

「5時だよ」

 

「は?」

 

 時計を見る。時計の短針は5を指していた。マジらしい。

 現在時刻は朝の5時。普段8時ごろまで休む俺にとって未知の領域。未知の時間を見た。

 

「Acta est fabula」

 

 ショックのあまり、意味不明な詠唱を呟いてしまう。

 

「5時って……夜じゃん!」

 

「朝だよ?」

 

 きょとんと首をかしげるエリザ。

 何言ってるの?と純粋に問いかけてくる表情だ。

 問いかけたいのはこちらの方だ。何が好きでこんな朝早くに起きなきゃいけないのか。

 

 大学受験の勉強をしてる時でさえ、朝6時起床だったのに。 

 う、懐かしくも苦い記憶を思い出してしまった。

 

 大学受験の時、雪菜ちゃんによって朝6時に起きてみっちり勉強するスケジュールが立てられていたのだが、俺が時間通りに起きないでいると、雪菜ちゃんが枕元に立って『ど、れ、に、し、よ、う、か、な』と手に持ったハサミをシャキシャキ鳴らしながら、俺の愛するフィギュアたちを値踏みするのだ。愛するフィギュアたちへの危機感と純粋な恐怖で起こしに来る雪菜ちゃんなりの目覚ましらしいが……妹なら妹らしく、伝統を見習ってに騎乗位目覚まししてくれよ! したらしたで怖いけども!

 

 しかし、エリザは何故にこんな時間に俺を起こしたんだ?

 枕元を見るといつもの着替え……ではなくジャージ。

 そこでようやく、俺は目的を思いだした。

 今日からランニングを始めるのだ。

 

「……うぅ」

 

 いつもより3時間ほど早いだけなのに感じるこの倦怠感は何なんだろうか。

 今すぐに布団に潜り込んで惰眠を貪りたいという衝動が俺の全身を蝕んでいく。

 ああ、きっと今から2度寝したらさぞ気持ちいいだろうなぁ。

 誘惑に負けそうになる俺を押しとどめたのは……目の前にいるエリザだった。

 

 きっと俺がこのまま布団に戻ろうが、エリザは何ら変わらず俺を肯定してくれるだろう。

 だが、そんな情けない姿をエリザに見せたくない。そんな感情が俺を布団の誘惑から引き剥がした。

 ……今までバカみたいに情けない姿を見せておいて、遅いかもしれないけど。

 

「起きるわ」

 

「うん! 眠気覚ましに抹茶淹れてるからね。カフェインたっぷりで目が覚めるよー」

 

 朝から元気なエリザの声に背を押され、洗面台に向かった。

 顔を洗う朝6時の水は、それはもう冷たかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四天王最後の刺客――雅郎(遂に雅夫は吾郎を打ち倒し、その身体を取り込んだ。生まれた者の名は雅郎。人類では再現できなかった古の奥義、縮地を得た初めての人間。そして雅郎は最後の戦いへ赴く)

冷たい水で顔を洗い、エリザが差し出してくれたタオルで顔を拭く。

 

 歯を磨いてから、肩の部分にエリザ作の鯖ワッペンが縫い付けられたジャージにいそいそと着替える。

 

 ジャージ姿の自分を鏡で見る。

 

 

「に、似合わねえー……」

 

 

「そんなことないよっ、辰巳君のジャージ姿かっこいいよっ」

 

 

 エリザはそう言ってくれるが、似合わないものは似合わない。

 

 何というか違和感がハンパない。大学の入学式で生まれて初めて着たスーツよりも似合ってない。

 

 ネットゲームでアニメ作品とのコラボで生まれた、アニメキャラ再現装備みたいな違和感ある格好。

 

 何だかこの姿で外に出るのが恥ずかしくなってきた。が、今更そういうわけにもいかない。

 

 

「はい、ウエストポーチにお水とかタオルとか入れておいたよ。ちゃんと水分補給しなきゃダメだからね? 絶対だよ?」

 

 

 夫のネクタイを締める新妻のような手つきで、俺の腰に手早くウエストポーチを取り付けるエリザ。

 

 こうやって突っ立ったままウエストポーチを着けられていると、何だか自分が外装交換中のラ○ガーゼロになったみたいだ。

 

 

「はいできたっ」

 

 

「ありがとうエリザ。じゃ、そろそろ行くわ」

 

 

「うん。えっと……まだ暗いから気を付けてね? 足元とかしっかり注意しなきゃダメだよ? 車にも付けてね? 変な人には付いて行っちゃダメだよ? それかそれから……」

 

 

「子供か」

 

 

 初めてのおつかいに行くわけじゃないんだからさ……心配しすぎだろ。

 

 何が心配なのか不安げな表情でそわそわ落ち着かない様子のエリザ。

 

 そのまま俺の袖を掴み

 

 

「……や、やっぱり付いて行っちゃ……だめ?」

 

 

 と上目遣いのまま聞いてきやがった。

 

 これには俺の心臓も大ダメージ。ダメージの正体はジャパニーズ『萌え』。萌えはいくら鎧を纏おうとも簡単に貫通して心臓とかの重要機関に直接ダメージを与えてくるのだ。

 

 俺は萌えへの対処法である『マザーノラタイ、マザーノラタイ』を心の中で連呼しつつ、エリザの頭に手を置いた。

 

 

「ごめん。なんていうかさ。エリザと一緒に走るよりも、エリザが家で待ってくれてるって考えた方が、その……なんだ。そっちの方が頑張れる気がするんだ」

 

 

「……そうなの?」

 

 

「多分。ほら、1週間で頑張って痩せないとだし。この1週間だけは本気で頑張らせてくれ。それが終わったら、まあ……一緒にジョギングでもなんでも付き合うから」

 

 

 本当にな。あの雪菜ちゃんのことだから、宣言通り1週間以内に痩せなければ、俺の縄に首を付けてでも俺を実家に送還するだろう。

 

 俺は今の実家を離れた1人……いや、エリザとの2人暮らしが非常に気に入ってるし、このまま続けたい。実家から学校に通うのも面倒だしな。

 

 そして何より、俺がこの家を離れたら……エリザはどうなるんだろうか。それが不安で仕方が無い。

 

 またたった1人で、この部屋で新しく入居してくる人間を追い返す生活に戻るのだろうか。

 

 

 部屋の中にポツンと佇むエリザを想像して、何だか胸が痛くなった。

 

 

「……うん、分かった。辰巳君が頑張るなら……わたしも頑張って我慢する。ほんとはすっごく付いて行きたいけど……我慢するね」

 

 

 エリザは頭に置いた俺の手に触れながらそう言った。

 

 でも……と続ける。

 

 

「も、もうちょっと頭撫でてくれたら……もっと頑張れるかも」

 

 

 エリザがそう言ったから今日はエリザ撫で撫で記念日。

 

 

 エリザが満足するまで頭を撫でた後、俺はアパートの扉を開けた。

 

 振り返ると、いつも大学に行くときと同じく、エリザが玄関マットの上に立ち、胸の辺りで手をヒラヒラと振っていた。

 

 いつもと同じように少し寂しそうな表情で俺を見送ってくれた。

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 朝5時過ぎのアパートは人気が無く、非常に薄暗かった。

 

 見慣れたアパートの姿とは全く違い、知らない場所に感じる。

 

 ここ半年で慣れ親しんだホーム感を感じない、圧倒的なアウェイ感が俺を襲った。

 

 そして何よりも寒い。

 

 体の芯まで染み込んで来る寒さだ。

 

 

 このまま「暗いよ寒いよ怖いよ~」と情けない声をあげつつ、バックトゥザホームしたい衝動が湧き上がる。

 

 恐らく俺が出て行って間もなく帰宅しようともエリザは温かく迎えてくれるだろう。

 

 一瞬困った顔をしてから、パッと花が咲いたような笑顔で俺を迎え入れてくれるはず。

 

 そんな甘美な欲望に身を委ねなかったのは、委ねたらそのままだらだらと日々を過ごし、結果この部屋を出ることになってしまう結果が見えたからだ。

 

 今頑張らなければ、期限内に目的を達成することなんてできない。

 

 逆に言えば今だけ頑張ればいいのだ。そう考えると気が楽になる。

 

 

 エリザとの幸せハッピーライフホームを守るため、俺は一歩を踏み出した。

 

 スポーツシューズが地面を踏みしめるサクサクという音がアパートの庭に響く。

 

 

「……しかし寒いな。本当に夏かこれ?」

 

 

 早起きして知ったが、夏でも朝ってこんなに寒いのね。

 

 いつも起きるのは暑さが本調子になる時間だし、夏になってこんな寒さを感じるのは初めてだ。

 

 地球温暖化がどうこうとか騒がれてるけど、アレって本当なのか?

 

 夏なのにこの寒さの前では、ちょっと信じられない。

 

 

 しかし暗い。寒い。人気が無くて切ない。

 

 特に1番最後が問題だ。

 

 交友関係が非常に狭い俺だが、ここだけの話、とても人恋しいタイプなのだ。

 

 常に誰かしらが側にいて欲しいと思ってしまう寂しんボーイ。それが俺だ。

 

 いつも起きてからはエリザと一緒だし、家を出ても大家さんと会えるし、通学中はまあ……イカちゃんが脳内にいてお喋りしてくれる。最近はナーベラル・○ンマちゃんもな。

 

 学校では遠藤寺と一緒だし、遠藤寺が用事で離れてもデス子先輩に会いに行ってるしで、基本的に1人になることが少ない。

 

 だから今、超心寂しい。イカちゃんもまだ寝てるみたいで、話しかけてくれないし、夜行性なのにね。

 

 このままじゃ人恋しさからくる寂しさのあまり死んでしまいそうだ。タツミンは寂しいと死ぬってちゃんとwikipediaにも書いてあるし。

 

 

 いかんいかん。このままじゃダメだ。楽しいことを考えよう。

 

 そうだ。せっかくこんな早起きをしたんだ。

 

 世の中には『早起きは三文の得』ってありがたいお言葉がある。

 

 きっともうすぐいい事があるはず。

 

 具体的には……そうだな。ジョギングを始めたら、同じようにジョギングをしてるスポーツ女子高生と仲良くなって、いずれお茶する関係になったり……とか。

 

 そういうハッピーな展開が待っているに違いない。

 

 

 そう考えたらやる気が出てきた。

 

 庭を歩く足も軽快だ。

 

 そのままアパートの門を出て外へ――といったところで、アパートの門に入ってすぐ横に作られている大家さんの家庭菜園で、何かが動く気配を感じた。

 

 

「ん?」

 

 

 そちらに視線を向ける。

 

 農園の前に立ててある『欲しい方は大家さんに一声掛けてくださいねー』と書かれた看板。

 

 その向こうでもそもそと何かが蠢いている。暗いため、はっきりと姿は分からないが人影だ。

 

 

 もしかして……野菜泥棒か? 

 

 大家さんが汗水垂らして育ててる野菜を泥ップするとか、マジで許されねえな。大家さんが頑張って育てて、俺を含めた皆様にお裾分けしてる野菜を無断で……許せん!

 

 

 大家さんがお裾分けしてくれる野菜は旨い。俺、正直野菜ってそこまで好きじゃなかったけど、大家さんの野菜を食べるようになってから大好きになった。

 

 それくらい大家さんの野菜は美味しい。大家さんが作ってるって考えたら、更に美味しく感じる。

 

 何故か最近、狂ったようにカブばっかりお裾分けしてくるのがちょっと気になるけど……そこはまあいい。

 

 とにかく美味しくて大家さんの愛がたっぷり詰まっているのだ。それを盗むなんて不届き者は完全にギルティーだ。

 

 

「警察……いや」

 

 

 警察が野菜泥棒くらいで動いてくれるとは思わない。というか呼んでる間に逃げるだろう。

 

 だったら俺がやらねばなるまい。

 

 やってやるさ。殺して解して並べて揃えて晒して畑の肥料にしてやんよ。

 

 

「……」

 

 

 俺は今までプレイしたステルスゲーを参考にして、慎重に賊へと接近した。腰を落としつつ、足音が鳴らないようにかかとからゆっくり足を下ろす。

 

 賊は野菜に夢中なのか全くこちらに気づく気配はない。どうやらゲーム内とはいえ、レイ○フと一緒に熊を前に隠密技術をカンストさせた俺のレベルは相当なものらしい。

 

 簡単に手が届く距離まで近づいた。無防備な首が丸見えだ。

 

 よしここまで近づけば、ボタンが表示されるからテイクダウン、周囲に敵兵はいないからそのままノックアウトスマッシュを……いかんいかん、ダークナイト脳落ち着け。ここゴッサムじゃないし、リアルだからボタン出ないし。

 

 

「よし。……一ノ瀬抜刀」

 

 

 俺は指先を揃えピンと伸ばした。手を刀と見立てる構え――手刀だ。

 

 意識を刈り取る形をしているだろう?

 

 これで相手の首をトン! 相手は崩れ落ちるって寸法だ。漫画とかで見たし、上手くいくだろう。多分。

 

 

 俺は手を振り上げ、賊の首後ろに一気に振り下ろし――

 

 

「――へくちっ」

 

 

 という可愛らしいくしゃみを聞いて手を止めてしまった。

 

 くしゃみの発生源は俺ではない。俺のくしゃみはエリザをして「トドの鳴き声みたいで可愛い」と呼ばれるタイプのくしゃみだからな。

 

 この可愛らしいくしゃみは……目の前の賊、女の子のものだ。

 

 

 何となく先入観から、相手は男だと思ってたけど……そうか女の子。美少女泥棒だったか。

 

 

 いや、相手が女の子だからと言って差別してはいけない。泥棒は泥棒だ。捕まえることには変わらない。

 

 まあ、その後の処遇については検討しなおすけども。

 

 男だったら捕まえた後、肉屋のオッサンの店の前に全裸で放置するつもりだったけど、女の子なら話は別だ。

 

 捕まえた後、2人っきりで徹底的な尋問をさせてもらう。壁ドン、肩ズン、股ドン、アゴくい、などなど最先端の尋問を駆使する一ノ瀬尋問術。

 

 一ノ瀬尋問術の結末は罪の告白か、はたまた愛の告白か……。

 

 さてさて、先に相手のハートを盗むのは俺か美少女泥棒か――どっちかな?

 

 

 ん? どうして美少女だって分かるかって? そりゃこんなに可愛らしいくしゃみをする女の子が美少女じゃないわけないだろう。

 

 くしゃみにはその人間の容姿が現れるからな。ブサイクはくしゃみもブサイクだし、美少女のくしゃみは美しい。可愛い女の子のくしゃみは当然可愛い。

 

 ん? エリザにトドのようなくしゃみって言われた俺って……いやいや深く考えまい。

 

 

「……うーん、風邪ですかねー? 夏っていっても朝は寒いですねぇ。もっと厚着してこればよかったです」

 

 

 美少女野菜泥棒は俺が背後にいることなんて全く気づかず、そんな暢気なことを呟いていた。

 

 その言葉に思わずあすなろ抱き(知らない人はお母さんに聞いてね)をして暖めたくなったが、まだまだネタバレには早い。

 

 

 しかし、この美少女野菜泥棒……長いな、略して美少女棒にするか。ん? 美少女棒? なんだそれ。美少女の棒ってお前……女の子にも棒があるの? 不思議!

 

 美少女棒については後でゆっくり考えるとして。この少女の声だ。この声……どこかで聞いたような……。

 

 

「それにしても……えっへっへ。お野菜さんたちも随分大きく育ってきましたねー、これも私が注ぐ愛の賜物ですかねぇ。これを一ノ瀬さんにお裾分けして……あ、あわよくばそのついでにお部屋にお邪魔したりなんかしちゃって! むふふっ……へくちっ」

 

 

 あ、これ大家さんだわ。

 

 暗くてよく見えなかったけど……泥棒じゃなくてウチの大家さんだわ。

 

 

「大家さん?」

 

 

「はいー? いかにも私が大家さんですが、そういうあなたは……一ノ瀬さん?」

 

 

 振り返って現れた顔は、やはり大家さんだった。

 

 いつもの和服にほっかむりを被り、軍手を嵌めて長靴を履き、スコップを装備した――農業仕様大家さんだった。

 

 どうやら野菜を盗もうとしていた泥棒ではなく、農作業をしていた大家さんだったようだ。残念ながら一ノ瀬尋問術を披露する機会は失われてしまった。まあ、妄想の中で美少女クノイチを捕獲してるから、そっちで我慢してもらおう。

 

 

 しかし、大家さんはほっかむりを被ってても可愛いなぁ。

 

 田舎で一緒に農業をしながら慎ましく暮らしたい。田舎で特にやることないから、やることばっかりやって結果、子沢山な生活を送りたい。農家初のサッカーチームを結成してJリーグに殴りこみだ(サッカーなのに殴りこみとはいかに)

 

 

「一ノ瀬さんじゃないですかぁ!」

 

 

 大家さんは膝に手を付き「うんしょ」と言いながら、立ち上がった。

 

 立ち上がったことで距離が近くなり、いつもの向日葵の臭いに若干の土臭さが混じった香りが俺の鼻をくすぐった。

 

 

「あはっ、おはようございます一ノ瀬さん!」

 

 

 早朝の薄暗さが一瞬眩しくなったと錯覚するような笑顔を浮かべる大家さん。

 

 

「どうしたんですかっ? こんな朝早くに? 私、こんな朝早くに一ノ瀬さんを見たの初めてだから、すっごくビックリしましたよっ、あははっ」

 

 

「いや、実は……」

 

 

「ビックリマンならぬビックリウーマンですね! なんちゃって!」

 

 

「……」

 

 

「どうしたんですか一ノ瀬さん! 今の笑うところですよ? お茶の間ドッカンドッカンするところですよ? うードッカーン!って」

 

 

 ……なんだろう。

 

 大家さんといえば元気の代名詞みたいなところあるけど、これはちょっと元気過ぎじゃないだろうか。

 

 しかもこの早朝から、色々振り切った元気具合。声に無茶苦茶ハリあるし。さっきからリアクションがやたらとオーバーだ。

 

 間違って畑に生えていた危ないキノコを摂取したと言われても納得してしまいそうなテンション。

 

 

「いやあ、それにしてもこんなに朝早くから大好きな一ノ瀬さんに会えるなんて、早起きは三文の徳って言葉もあながち嘘じゃありませんね、えへへっ。これはもう三文どころじゃありませんね、500000ペリカくらいの価値がありますよ! 劣悪な地下での労働の後に清清しい地上に脱出、それくらいの感動です! もーっ、嬉しいですっ」

 

 

 嬉しさを体で表そうとしてるのか、シャドーボクシングを始める大家さん。やばい。

 

 何がやばいって分からないのがやばい。

 

 

「まあ、早起きは三文の得って言いましたけど、実際のところ私、早起きどころか寝てないんですよね! 超ウケますね!」

 

 

「え、大家さん寝てないんですか?」

 

 

 俺の言葉に大家さんは片足をぴょこんと上げて、大きく挙手をした。

 

 

「はーいっ。一ノ瀬さん! 徹夜ですよ徹夜! ツバメ返しですよ!」

 

 

 それは哲也じゃ……。

 

 なるほど、徹夜か。それならこのアッパッパーなテンションも納得できる。

 

 よく見ると目のしたにうっすらと隈ができている。

 

 しかしこの危ういテンション、一徹(鈴木ではない)だけとは考えられないな。もっと行ってるはず。

 

 

「大家さん、どれくらいですか?」

 

 

「はい? どれくらい? えっと……学校を卒業してから、ひーふーみー……ということは今年で――」

 

 

「いや年齢じゃなくて!」

 

 

 危ねー。いきなり大家さんの年齢が暴露されるところだった。

 

 誰も大家さんの年齢が明かされることなんて望んでないしな。大家さんみたいな年齢不詳ロリはそのまま年齢不詳を突き進んでいて欲しい。

 

 安部菜々さんじゅうななさいの年齢を明かしてしまった公式を俺は許さない……絶対にな。

 

 

「徹夜ですよ。今日で何日目ですか?」

 

 

「ああ、徹夜の話ですか。えっとぉ……3徹目ですっ、あはっ」

 

 

 何故かピースサインをしながら笑顔を浮かべる大家さん。

 

 これが大家さんの3徹目テンションか……。

 

 

「恥ずかしい話、この間出た新作ゲームが面白くて面白くて。お話は面白いし、○コネちゃんは可愛いしで、つい夢中になっちゃいまして。今、ものすごーく盛り上がってるところなんですよ! この後まだまだ続くだろう展開を考えたら……まだまだ徹夜は続きそうです。わーい! あ、今のは嬉しい悲鳴ってやつです」

 

 

 俺もそのゲームはクリアした。

 

 確かに○コネちゃんは可愛いし、話も面白い。だが最後に関しては……いや、何も言うまい。アニメがどうなるかが見物だ。

 

 

「それにしても一ノ瀬さんがこんな時間に外出してるなんて珍しいですね!」

 

 

「まあ……あはは」

 

 

 果たして何と説明すべきか。

 

 素直にダイエットをするためと説明してもいいけど、何だか気恥ずかしい。

 

 俺が言葉に詰まっていると、大家さんの表情が不審な物を見る目になった。

 

 

「……むむっ。何だか怪しいですねぇ」

 

 

 そのままツカツカ歩み寄ってくる。

 

 

「なーんか変ですねー。こんな時間に、それもジャージで。気になりますねー」

 

 

 眉を顰め、じーっと俺を顔を見つめてくる。

 

 まあ、隠しておいても仕方が無いか。

 

 

 俺はダイエットの件を説明することにした。

 

 

「実は――」

 

 

「いや、待ってください」

 

 

 大家さんはビックバンアタックを発射するみたいに、こちらに手の平を向けてきた。

 

 

「一ノ瀬さんが隠している秘密、私が解き明かしてみせましょう。おばあちゃんの名にかけて!」

 

 

 さっさと説明してもいいが、大家さんが楽しそうなので付き合うことにした。

 

 

「まあ、秘密と言っても、そこまで大したものじゃありませんね。証拠は十分に出揃っています。あり得ない時間に現れた一ノ瀬さん、一ノ瀬さんのイメージからはもっとも遠い服であるジャージを着ている、そして私は徹夜明け」

 

 

 最後のいるか? ていうか俺にジャージって最もイメージからかけ離れてるの? もっと遠い服あるだろ、メイド服とかさ。

 

 

「さて、決定的な証拠が3つ……来ますよ一ノ瀬さん!」

 

 

 まあ、朝からジャージ姿で外出する人間なんて、目的はジョギング以外のなにものでもないだろう。

 

 誰だって分かる。

 

 

 大家さんはビシリと人差し指を俺に向けた。

 

 

「以上の証拠を組み合わせ、私の知識の泉が導き出した答えは――そう! 一ノ瀬さん。今、私の前にいるアナタは――私が生み出した幻!」

 

 

 ババーンと背後に効果音を背負ってそんなことを言う大家さん。

 

 何だか凄いことを言い出しだぞ。

 

 

「フフフ……Q・E・D」

 

 

「いやいやQEDじゃないですよ。なにドヤ顔で言ってんすか」

 

 

「もーっ、何ですかっ? せっかく人が謎解決の余韻に浸ってるっていうのにー」

 

 

「解決してないですから。俺、幻とかじゃないですし」

 

 

「またまたー。幻はみんなそう言いますよー」

 

 

 繰り返し幻じゃないことを力説するが、大家さんは「あなたを幻です」の一点張り。

 

 ここまで強く主張されると俺もなんだか自分が幻のように錯覚して「俺の夏休み終わっちゃった……」とか言いながら感動的に消えてしまいそうになるが、実際のところ俺は現実なので消えることはない。

 

 

「ふぅむ。どうやら答えに納得がいっていないみたいだね、ホームズ君」

 

 

「どのポジションの台詞だよ」

 

 

 俺のツッコミを無視して、推理の過程を説明し始める。

 

 徹夜明けのテンションのせいで、いつも以上にマイペースだ。

 

 

「いいでしょう。ではまず最初の2つ。ありえない時間に現れた一ノ瀬さん、そしてジャージというありえない格好。一ノ瀬さんが日が昇る前のこんな時間に活動するわけありませんし、一ノ瀬さんはジャージなんて着ません。よってその2つから導き出される答えそれは――あなたが本物の一ノ瀬さんではない、ということ」

 

 

 具体的にどうありえないかを考えていない辺り、大家さんの推理がガバガバ過ぎるんですけど。つーか推理でもなんでもねえ。

 

 

「そして3つ目。私が3日目の徹夜明けだということ。徹夜明けの私は愛すべきお野菜さん達に水をあげながら、こんなことを考えていました。『ああ、いい感じに育ってきましたねー。あ、これなんかいい形ですね、一ノ瀬さんにお裾分けしましょう』『んー、朝から1人で農作業も寂しいものですねー。やっぱり誰かと一緒にしたら違うんでしょうね。……今度、一ノ瀬さんでも誘ってみましょうか。2人で農作業……ふ、夫婦みたいですね! 農家の! てへへ』『カブを……もっとカブを育てて……カブ……かみ……』といった具合に私の頭の中は一ノ瀬さんでいっぱいでした!」

 

 

「俺のことを考えてくれるのは嬉しいんですけど、最後の方、俺関係ないですよね」

 

 

「その時不思議なことが起こりました……。徹夜明けでいい具合にバーストしていた一ノ瀬さんでいっぱいの私の脳がこう……なんか……わーってなって、結果――幻であるアナタが生まれたのです!」

 

 

 肝心なところがフワフワな件について。

 

 

「フフフ……Q・E・D」

 

 

「いや、だから――もういいです」

 

 

 俺は諦めた。大家さんは俺が幻であると完全に思い込んでしまっているようだし、俺は彼女を納得させることができる気がしない。

 

 まあ、少し休んで落ち着いたら冷静な思考が戻るだろう。

 

 

 推理後の余韻とやらに浸っていた大家さんは、大家さん曰く幻であるところの俺をジッと見てきた。

 

 

「しかしアレですね。私が生み出した幻ながら……凄いクオリティですね! 本物の一ノ瀬さんと遜色ない出来でびっくりです」

 

 

 そのまま近づいて目と鼻の先に。

 

 そして真っ直ぐ手を伸ばして、俺のお腹の辺りに触れた。

 

 

「ほわぁっ!? さ、触れる……!? ま、幻なのに触れちゃってますよ! こ、これは一体……?」

 

 

 これで俺が幻じゃないと分かっただろう。

 

 

「い、いや、待ってください。きっとこういうことです。幻を生み出した私の脳がこう……ガーってなって、目の前の幻に触れていると錯覚している、そうに違いありません! ブブゼラ効果ってやつですね!」

 

 

「プラシーボな」

 

 

「そうですそれ! いやぁ、しかしリアルとほぼ変わらない幻を生み出すどころか、触感まで再現するとか……我ながらどんだけ一ノ瀬さんを好きなんだって感じだ。正直引きますね……」

 

 

 恋愛的な意味の好きじゃなくても、目の前でこういうこと言われると流石に恥ずかしいな……。

 

 まあ、俺も大家さんの幻を生み出せるくらい大家さんのこと好きだしな。脳内には1人で寂しくないように、常駐型のミニ大家さんとミニエリザが待機してるし。

 

 

「ふむふむ。お腹の辺りはこんな触り心地なんですか。あはっ、ぷにぷにしてますねー」

 

 

「ほっといてくださいよ」

 

 

「いやいや。気持ちよくていい感じですよー。よし、上の方は……」

 

 

 と言いながら、するすると手が這い上がってくる。

 

「ほうほう」と言いながら胸、首元に手が触れる。途中、俺の性感帯であるINS48のいくつかに触れ、体がビクンとなったが、なんとか耐えた。

 

 更に上へ。顔の辺りに触れようとするが、届かない。

 

 

「んーっ、んんーっ。と、届かない……。ちょっと、一ノ瀬さん。いえ、ここは幻にちなんでファンタズム一ノ瀬さんと呼びましょうか。少しかがんでくれませんか?」

 

 

 カッコイイが安直過ぎる名前だ。ここはもっとこう……メキシコに吹く熱風という意味でサンタナ――とかそういうネーミングセンスを魅せて欲しかった。

 

 ていうかさっきからペタペタ触られてるけど、ここまで大家さんに付き合う必要があるのだろうか。

 

 俺を幻だと思い込んでる大家さんが体を触らせるっていう、もう2度と来ないだろうイベントは楽しんでいるけど……。

 

 まあいいか。どうせ時間はあるし、いつもお世話になってる大家さんが満足するまで付き合うことにしよう。

 

 べ、別に大家さんに触られて気持ちいいとかじゃないんだからねっ。

 

 

 俺は大家さんと目線が合うところまでかがんだ。

 

 

「ではでは。はー……男の人の顔って触るとこんな感じなんですねー。私と全然違います。ちょっとカサカサしてますね。保湿は?」

 

 

「いや、特には……」

 

 

「ダメですよ? 男の人でも保湿はしっかりやらないと。今は夏だからいいですけど、冬になったらもっと乾燥しますからねっ。ちゃんとしないと」

 

 

 目の前にある大家さんの肌は、乾燥のかの字も見えないくらい潤っていた。モチモチしてそう。唇もぷるぷるツヤツヤで、この唇を通って声が出てくるんだなあって考えたら、あの可愛らしい声も納得だ。

 

 

 一通り顔に触れて満足したのか、立ち上がるように指示を出す大家さん。従って立ち上がる。

 

 そして大家さんの視線は、再度お腹の辺り……いや、それよりも若干下の方へ向いていた。

 

 

「じー」

 

 

「……」

 

 

 無言でジッと俺の腹部の下辺りを見つめる大家さん。

 

 俺の位置から、大家さんの表情は見えない。何を考えているかも。

 

 

 1分ほどその状態が続いた後、大家さんの右手がそろそろと何かを誘われるかのように前へ伸びてきた。

 

 腹部の下。股間の方へ。

 

 流石に見過ごせない。

 

 

「大家さん。正気ですか?」

 

 

「え、ええ? な、何がですか? わ、私はほら、あくまで学術的興味のもと、ここはどうなってるのかなぁという疑問を持ち行動を起こしているのであって、べ、別に変な気持ちは一切合財全くこれっぽちも微塵もありませんよ? ほんとですよ?」

 

 

 手つきが生まれて初めて下着泥棒を犯そうとしている犯人のそれなんですけど。

 

 

 まあ、大家さんも年頃の女の子だ。異性のそういった部分に興味があるのだろう。

 

 だが、だからといってハイどうぞと触らせるわけにはいかない。

 

 何せその部分はまだ誰にも触らせていないパンドラの箱。中に眠っているのが希望か絶望か、それも理解していないまま開けるのはあまりにも危険だ。

 

 大家さんにとっても、そして俺にとっても。

 

 

「もう1度聞きます。正気ですか? そこはお腹や顔とは違います。別領域です。ベータ版と製品版くらい違います。本当に幻とはいえ、それに触れるつもりですか? その覚悟があるんですか?」

 

 

「……う。あの……ほら、あくまでこれは……その保健体育的な……教科書でしか見たことがないので……そういうことじゃ……ダメですか?」

 

 

 ダメだ。ダメに決まっている。

 

 俺がこの箱を開くとき、それは新婚旅行の初夜だと決まっている。そう古事記にも記されている。

 

 間違っても朝から外で徹夜明けの人間相手に披露するものではない。相手は大家さんという部分に関しては問題ないけども。

 

 

「み、右手が勝手にー……とか? だ、だめですかね?」

 

 

「そういうのは間に合ってるんで」

 

 

 流石に1作品に中二病が2人とか完全に属性が飽和してるからな。何言ってるか分からんけど。

 

 

「……うぐぐ。幻に拒否されてしまった……。た、確かに相手が幻とはいえ、私のキャラである清楚系大家さんとはかけ離れた行動でした。……自重します」

 

 

「それでいいんです」

 

 

 大家さんのキャラは守られた。

 

 これでいい。名残惜しそうな大家さんには悪いが、その箱を開けるには正当な手順を踏んでからにして欲しい。待ってます。

 

 

 さて、大家さんも満足しただろう。そろそろ行くか。

 

 

「じゃ、俺行くんで」

 

 

「え! 行くって……私の部屋ですか!?」

 

 

「違いますよ。ちょっと外に用事があるんで」

 

 

「え? あれ? 私の幻なのに、勝手にどっか行っちゃうんですか? え、ええ? よ、用事って?」

 

 

「ジョギングですよ。ジョギング」

 

 

「ほぁー……ジョギングですかぁ。でもそんなことしたら痩せちゃいますよ?」

 

 

「痩せるためにジョギングするんですよ」

 

 

 俺がそう言うと、大家さんはギョッとした表情で俺の行く手を遮ってきた。

 

 

「ちょ、ちょっとちょっと! 何を言ってるんですか一ノ瀬さん! いやファンタズム一ノ瀬さん! や、痩せるなんて……それ(脂肪)を捨てるなんてとんでもないですよ!?」

 

 

「何なんですか一体」

 

 

「せっかく私が今まで差し入れとかして、頑張って一ノ瀬さんを太らせようとしてたのに……それが全部水の泡じゃないですか!」

 

 

 おい、こんな所に黒幕がいたぞ。

 

 俺がいい感じに太り始めていた原因は大家さんだったのか? 確かに思い当たるフシがないこともない。

 

 差し入れされる食材。俺とエリザに2人で消費するには多いそれらを、腐らせては勿体ないからとエリザが多めに調理をする。結果食卓に並ぶ食事の多さよ。

 

 そして今の俺のボディが出来上がったのか。

 

 

「もう少しで! もう少しで私の理想の体型に……一ノ瀬さん改造計画が成就するというのに……! それを邪魔するのなら、例え一ノ瀬さん本人とはいえ、容赦しませんよ!?」

 

 

 何だか勢いに任せて謎の計画を暴露し始めたぞ。問い詰めたい気持ちもあるが、そろそろ行かないと時間がなくなる。

 

 つーか俺が幻って設定はどうしたのか。

 

 

 大家さんがファイティングポーズをとった。

 

 

「ここを通りたければ、この私を倒し……」

 

 

 優しくデコピン。

 

 

「やんっ。い、いたいですよぉ……一ノ瀬さん。……え、えへへ……一ノ瀬さんにデコピンされちゃいました。も、もういたいじゃないですかー」

 

 

 何故か嬉しそうな大家さん。

 

 まあ、なんちゃってデコピンだから、痛みはないはずだ。

 

 というわけで大家さんの脇を抜けて、アパートの外へ。

 

 

「い、いいでしょう。ここは負けを認めましょう。ですが覚えて置いてください! 例え私が負けようとも第2第3の私が一ノ瀬さんの前に現れ、太らせるということを……!」

 

 

 その言葉を背に、アパートの門をくぐった。

 

 何故俺を太らせようとするのか、一ノ瀬改造計画とは、そしていつ俺が幻じゃなかったと気づくのか。それはまだ分からない。

 

 だがいずれ分かるだろう。そんな気がした。

 

 

「あ、まだ暗いから車には気をつけて下さいねー」

 

 

 アパートの敷地から出た俺の耳にそんな声が届いた。

 

 エリザといい、大家さんといい、どれだけ俺の心配しているのか。嬉しいけども、ここまで心配されると逆に何だかフラグのように感じて怖い。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終末を抱くモノ(雅郎は縮地を使い全てを終わらせる為に、原初の地に辿り着いた。そこにいた全ての元凶、異世界の侵略者の名前は――)

朝からテンション↑↑↑の大家さんとのコミニュケーションを終えた俺は、アパートから出てすぐの道に立っていた。

 

 さて、ジョギングを始めるとしよう。

 

 と、思ったところで、まず何から始めればいいのか分からない。

 

 

 何度も言うが、俺は運動という物を可能な限り避けてきた人間だ。

 

 体育の授業なんか、サボる口実に腹痛を使いすぎて「年中あの日男」って陰で呼ばれてたらしいし。

 

 人間、学生時代の体育さえ何とかすれば、後は強制的に運動する機会なんてない。強いて挙げればコミケの開幕ダッシュくらいか?

 

 そうやって俺は運動から縁の遠い人生を歩んできた。

 

 

 結果、ジョギングの方法すら分からない俺がここにいるわけだ。

 

 

 まずどうするべきなのか。いきなり走り始めてもいいのか。走るとしてどちらの足から進めればいいのか。走っていく方向に祈りを捧げたりは? 走っている時に誰かと擦れ違ったら何て言えばいいの? 途中で困ってるお婆ちゃんがいたら? そもそも俺走っていいの? ジョギング申請書とか資格とか必要じゃないの? 赤ちゃんはどこから来るの? 本当にアベ○ンジャーズに必要ないキャラはいないの? ハンターハンターとベルセルクは俺が生きてる間に完結するの? 幻想水滸伝の続編は? どうして俺の元に桜セイバーちゃんは降臨してくれないの? 無課金だから?

 

 

――などなど。考えるだけで思考の海で溺れそう。

 

 

 普段の俺だったら『全然ジョギングできないじゃん! 私馬鹿みたいじゃん! もうジョギングやめる!』そう叫んで、家に帰っていただろう。

 

 だがそうはならない。

 

 何故なら俺には強い味方がいるからだ。

 

 

「デデーン」

 

 

 ウエストポーチの中から、1冊の本を取り出す。

 

 表紙に「猿でも分かるジョギングガイドブック」と書かれた本だ。この中には猿でも分かる優しいレベルでジョギングのhowtoが書かれているのだ。著者は遠藤寺。俺がダイエット宣言をしたその日の講義中に作ってくれたのだ。

 

 

『まあ、これをボクだと思って頑張るといいよ』

 

 

 どんな授業だろうと真面目な受ける遠藤寺が珍しく内職をして、この本を作ってくれたとき、俺はコイツなら掘られてもいいと思った。いや……やっぱり掘られるのは嫌だな。一文字足して惚れられる方がいい。

 

 

 中は手書きの文字と手書きの絵で分かりやすく、ジョギングについて説明している。

 

 ガイドはパート毎にlesson1、lesson2……と分かれている。

 

 例えばlesson1は「ジョギングを始める前に」と題してあり、ジョギングに必要な衣服や水分などの物品、適切なコース選択の重要さ、ジョギングの効果が表れ始める時間……などの知識が書いてある。

 

 

 そして今から見るのがlesson2、「ジョギング直前にすること」だ。

 

 ページをめくると、手書きのゴスロリ少女……これ遠藤寺か? そのプチ遠藤寺がアキレス健を伸ばしたり、背中を反らしたり、座って伸ばした足に手を延ばしたり……そんな絵が説明文付きで描いてある。これ、ストレッチの方法か。

 

 各ストレッチの効果や費やすべき時間も書いており、かなりクオリティが高い。これ売れるかもしれんね。

 

 しかし遠藤寺と「いっしょにトレーニングEX」もいいけど、ストレッチとか面倒くさいな……。

 

 適当にやるか。

 

 

 そう思いながら何となく次のページをめくる。

 

 

『ありえないとは思うけど、ストレッチを面倒くさいと適当に済ませようとしている君の為に忠告しておく。ストレッチを甘くみない方がいい。ストレッチを甘く見る者はストレッチに泣く』

 

 

 とデカデカとした文字と書かれており、その後ストレッチをしなかったせいで体を壊した運動選手、ストレッチをしなかったせいで会社をクビになり家族を路頭に迷わせた男、ストレッチをしなかったせいでFXで有り金全部溶かした女、ストレッチをしなかったせいでちょっと気になってる女の子に告白もできず一生結婚できなかった青年……そんなストレッチをしなかった哀れな人間の末路が事例として挙げられていた。

 

 

「やべー、ストレッチしなきゃ」

 

 

 俺はストレッチを舐めていた自分を猛省した。

 

 

 大人しくガイドブックにかいてある通りにストレッチを行う。足や手の健をしっかり伸ばす。

 

 ストレッチの効果かさっきより目が冴えてきたことに気づいた。かなりストレッチパワーが溜まってきたようだ。

 

 体も温まってきている。ストレッチ様様だ。よし、もっとストレッチする!

 

 

 そう思い立ったのはいいが、座って伸ばした足の先に手を伸ばすストレッチが全然うまく行かない。

 

 説明を読むと『慣れていないなら、誰かに手伝ってもらって後ろから押してもらうといい』と書かれていた。

 

 誰かって言われてもな……アパートに戻って大家さんに頼むか? いや、あのテンションの大家さんに頼むのは怖い。

 

 

 誰か知り合いでもいないかと探していると、アパートのすぐ近くの公園に見慣れた人影を発見した。

 

 麦わら帽子に白いワンピースの少女が、屈みこんで地面をジッと見つめている。

 

 同じアパートに住む小学生だ。

 

 最初はお互いの人見知りもあってか距離があったが、最近は気軽にディスりあえるほどの仲になった。

 

 

「しめしめ……」

 

 

 よーし、あいつに手伝ってもらおう。

 

 俺は「今から幼女に近づきますけど、知り合いですからねー。ハイエースとかしませんからねー」というオーラを出しつつ、麦わら少女に近づいた。

 

 背を向けて座り込む少女のすぐ後ろに立つ。

 

 

「ワイール!」

 

 

「わっ!?」

 

 

 メルニクス語で語りかけた瞬間、飛び上がるようにして振り返る麦わら少女。

 

 驚いた表情で口をパクパクと開閉しながら、俺の顔を見た。

 

 

「……っ!」

 

 

 少女はしまったとばかりに自分の口を押え、どこからか取り出したスケッチブックにペンを走らせ、こちらに見せてきた。

 

 

『わっ!?』

 

 

「いや、今口に出した言葉だろそれ?」

 

 

『ぐ、ぐぬぬ……不覚だった。朝からありえない物を見たからつい声を出してしまった……』

 

 

 なんだろうか。声を出してしまったことがそんなに悔しいのか、こちらを睨みつけてくる。

 

 あれか? 無口系キャラとして、やっちまったって感じか? 不良が捨て猫に傘をさしてるとこを見られた、みたいな?

 

 ていうかありえない物って……ひどくない?

 

 

「こんな朝から何してんの? 公園に1人で」

 

 

『その言葉そのままお前に返したいよ。ウチは自由研究。この街にいくつかある蟻の巣にそれぞれ違った餌を定期的に――ん? どうかした?』

 

 

「自由研究、だと?」

 

 

 あいたたた……! その言葉は俺に効く……!

 

 小学生の頃、みんなを驚かせようとして、雪菜ちゃんに手伝ってもらって超クオリティの高いアサガオの観察日記を提出したら、それが学校の自由研究コンテストみたいなんで金賞とってみんなに尊敬されると思いきや「自由研究ごときで何マジになってんの?」としらけた視線を向けられた記憶がががががが……!

 

 

『急に胸を押さえてどうした? 恋か? 恋……ウチにか!? やっぱりロリコンだったんだな! ひくな!』

 

 

「安心しろ。恋じゃない」

 

 

 基本的にロリから熟女まで全属性に対応できるジムカスタム(悪く言えば特徴がないのが特徴)な俺だが、目の前のロリには何故か食指が動かない。理由は恐らく見た目が健康的すぎるからだろう。年相応の幼さが目立ち過ぎて、クジラックス的な感情が湧かない。だが他に何か要素が加われば十分に射程距離に入るので、諦めず最後まで頑張って欲しい。

 

 

『よく分からんが、失礼なことを考えられた気がする』

 

 

「気のせいじゃよ」

 

 

『それにしても……そっちこそこんな朝っぱらから何してんの? 珍しい。夜逃げならぬ朝逃げ、とか?』

 

 

「見た目で分かれよ。ジョギングだよジョギング」

 

 

『(笑)』

 

 

 うっわ腹立つ。笑顔は普通に無邪気な笑顔なんで怒りたくても怒れない。

 

 

『ウチが知ってるお前はそんなこと言わないし。お前がジョギングとかありえないwwwww』

 

 

「草を生やすな草を」

 

 

 全く、純真無垢の化身だったこの子をこんな風に変えたのはどこの何ノ瀬だよ。

 

 

「まあいいや。暇だろ? ちょっとストレッチするから手伝ってくれ」

 

 

『いや、自由研究してるって……まあいいや』

 

 

 少女はてこてこと寄ってきて、俺の顔を見上げた。

 

 

「じゃあ、今から俺が足伸ばして座るから。後ろから押してくれ」

 

 

『りょう』

 

 

 ビシリと敬礼をする少女。

 

 俺は少女に背を向け、地面に座り込んだ。そのまま真っ直ぐ足を伸ばす。

 

 

「じゃあ頼むわ」

 

 

「んっ……!」

 

 

 少女の手が俺の背中に触れ、グッと力がかかる。

 

 少女が発した消えそうなくらい小さな声が耳を触った。

 

 

「んんんっ……!」

 

 

 俺はそのまま伸ばした足のつま先に手を伸ばそうとする……が、一向に届かない。というか殆ど近づいた様子がない。

 

 力が足りないのか?

 

 

「もう少し強く押せないか?」

 

 

「んんんんっ……!」

 

 

 少女の力が増す……が、やはり足の先に手が近づくことはない。

 

 暫くの間、少女の押す力に合わせて手を伸ばしてみたが、結局届くことはなかった。

 

 

「ま、いいか。もういいぞー」

 

 

 少女の手が離れる。

 

 座ったまま背後を振り向くと、地面に手を付いて息を荒げる少女の姿。

 

 少女は顔を上げると、キッとこちらを睨みつけ、持っていたスケッチブックで俺の頭を叩いた。

 

 

「なにをする!?」

 

 

「っ! っ!」

 

 

 こちらを睨みつけたまま、ペンを走らせる。

 

 見せられたスケッチブックにはこう書かれていた。

 

 

『固すぎるわ!』

 

 

 え、やだ……下ネタ? こんな朝から下ネタとか……ひくわ。

 

 

『お前体固すぎ! びくともしないわ! 完全に角度90度のまま、全く動かなかったわ! 不動の90度か!』

 

 

 なんだよ不動の90度って……。

 

 ていうか俺ってそんなに体固いのか? 今まで意識したことなかったけど、ここまで言われると流石にムッとする。

 

 

「いや、これくらい普通だって」

 

 

『普通じゃないから。ありえないレベルの固さだから。体が固い人コンテストがあったら、優秀賞とるレベルだから』

 

 

「そんなコンテストねえよ。そこまで言うなら、お前がやってみろよ」

 

 

『別にいいけど』

 

 

 俺がそう言うと麦わら少女は、立ったまま腰を曲げ地面に手を伸ばした。

 

 そのまま手のひらがペタリと地面に付いた。今にも何かを練成しそう。

 

 しかしこの柔らかさ、正直凄いと思うけど、ちょっとキモイ。

 

 

「うわ、きもっ」

 

 

「きっ――」

 

 

 頬を膨らませ何か言おうとした少女が、慌ててスケッチブックを手に取った。

 

 

『きもくない! これくらい普通だし! ていうかそっちの固さの方がきもい!』

 

 

「きもくないし! 不動の90度とか言ってたけど、実際はちょっと鋭角だったし」

 

 

『ぶっちゃけるけど90度すらいってなかったからね! 微妙に鈍角だったからね!』

 

 

 朝の公園で口論する大学生と小学生。

 

 旗から見れば、スケッチブックを掲げる少女相手に俺が1人で叫んでるようにしか見えないので、この公開を善良な一般市民が見たら間違いなく通報するだろう。

 

 だけど今は早朝で人がいなくて通報はされなかった。

 

 そういう意味では俺のような即通報される人間にとって、朝は結構いい環境なのかもしれない。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ストレッチを終えた俺は、あかんべーをする麦わら少女に別れを告げて、ついにその一歩を踏み出した。

 

 ゆっくりと走り出す。

 

 遠藤寺のガイドブックによれば、大体心拍数が分回120くらいだといい具合に脂肪が燃焼されて、ダイエットにはいいらしいが、心拍数なんて数える方法はないので、適当なスピードで走る。

 

 

「はっ、はっ、はっ……」

 

 

 暫く走ってみると、思った以上に走れていることに気付き少し驚いた。

 

 てっきり1分も経たないうちに息があがり、リタイヤし『全然走れないじゃん! あたしもうダイエットやめる!』みたいな展開も可能性としてはありえると思ってたんだけど……結構いけるやん。

 

 ていうかあれだ。気持ちいい。

 

 冷たい風を切りながら走る感覚とか、誰もいない道を独占する楽しさとか、今自分頑張ってますみたいな喜びとか……色々感じてなんか楽しい。

 

 なるほど、これがジョギングの楽しさか。みなさんが夢中になるわけだ。

 

 

「はぁっ、はぁっ……!」 

 

 

 つーか凄い。俺凄い。

 

 めっちゃ足動くわ。息も殆ど上がらない。

 

 

 これはもしかすると……目覚めてしまったかもしれんな。

 

 俺の中に眠っていた『超高校級のランナー』という才能が、この歳にして目覚めたのかもしれん。あれか? 見えないけど○ンテン君がいて、俺の才能を開花させてくれたのか?

 

 まったく……遅すぎるっつーの!

 

 この才能がもっと早く、具体的には小学生くらいの時に目覚めていたら、クラスの女子達にキャーキャー言われてモテまくっただろうに。ガキのうちは足が速いだけでモテるらしいし。

 

 実際のところ女子達にキャーキャー言われたのは、例のアサガオの自由研究の件で全校集会の時に前に立たされて緊張でゲロ(ファンタズムリバース)した時くらいだからな。

 

 ほんと……もっと早く目覚めろよ。

 

 

 内心文句を言いつつ、体感的には気持ちよく走っていると、背後から自分のじゃない軽快な走る音が聞こえた。

 

 音はかなりの速度で近づいてくる。

 

 足音はあっという間に俺に迫り、そのまま俺のすぐ隣を追い抜いていった。

 

 追い抜く瞬間、どこか聞き覚えのある

 

 

「おはようございまーす!」

 

 

 という少女の声と汗の匂いだけが残滓として俺の元に残った。

 

 声の主は俺の抜き去った勢いで、走り去っていく。赤いジャージ姿が瞬く間に小さくなっていく。

 

 

 普段だったら横を通ったときに香った汗を一ノ瀬スメルランキングのどの位置にするか、小一時間考察していただろう。

 

 だが、今の俺の胸にある感情は違った。

 

 

 今まで感じたことのない、チリチリと胸を焦がす感情があった。

 

 燻る火のような小さな灯り。

 

 その感情の正体は――闘争心だ。

 

 それを理解した瞬間、小さな火が一気に燃え上がった。

 

 

 よく家で雪菜ちゃんとゲームをしていたが、格闘ゲームや戦略ゲームで負けても何とも思わなかった。

 

 だがレースゲームだけは違う。負けると心がざわつくのだ。負けたくないと思ってしまう。

 

 どうしてだか分からないが、誰かに追い抜かれる行為は俺の心を昂ぶらせて止まないのだ。

 

 俺の悪い癖だ。この癖のせいであの雪菜ちゃんに何度も何度も勝負を挑み『私の負けでいいので、勘弁してください』と言わせてしまった。

 

 

 この火を鎮火させるには、追い抜いた相手に勝たなければならない。

 

 つまり先ほどの少女を追い抜く。

 

 

 だがどうする。そうこうしてる内に随分と差が空いてしまった。

 

 ここから追いつく方法は――ある。

 

 

 アレを使えばいい。

 

 

『だ、駄目だよ辰巳君!』

 

 

 アレを思い浮かべた瞬間、脳裏にエリザの声が響いた。

 

 次いで視界の端にSDエリザが現れた。

 

 勿論妄想の産物だ。しかし声だけでもギャラは発生するぞ。

 

 

『もしかして辰巳君――あれを使う気なの!?』

 

 

 ああ、そうだエリザよ。アレを使う。

 

 アレを。アレ、つまりエリ――

 

 

『エリンザムを使う気!?』

 

 

 妄想のエリザに被せられてしまったぞ。

 

 

『駄目だよっ。エリンザムは帰宅の為の切り札だよ! こんな時に使っちゃ駄目!』

 

 

 妄想のエリザは慌しく手をバタバタさせている。可愛い。

 

 

『アレは学校から帰ってる辰巳君が、ふと過去の痛すぎる黒歴史とか将来の漠然とした不安、遠藤寺さんに自分以外の友達ができてそっちに夢中になってしまったらどうしよう……そういったどうしようもない感情で立ち止まりそうになった時! そういう時『家にはわたしみたいな可愛くて優しくてやっぱり可愛い美少女幽霊がご飯を作って待ってくれてる』そんな希望を一気に爆発させて家に帰る燃料にする――そのための切り札でしょ!?」

 

 

 凄いな。妄想とはいえ、エリザが自分のこと可愛いとか美少女とか言ってる。レアな光景だ。

 

 

『も、もー、そこはいいのっ。とにかく今は使っちゃ駄目! いい? 分かった辰巳君?』

 

 

 うん、確かにエリザの言う通りだ。アレを今使ってしまうと、今日大学から帰る時に困る。

 

 よし、了解――

 

 

「エ リ ン ザ ム」

 

 

『ああー!?』

 

 

 駄目と言われても今はこれしか手段がない。

 

 だいじょーぶ。エリンザム無くても、あとエンドリンザムとかオオヤサンザムとかあるしな。切り札ってのはいくつも用意しておくもんだ。しかし、エリンザム以外の語呂ハンパなく悪いな……。

 

 

 とにかく俺はエリンザムという名の切り札(自己暗示とも言う)を発動し、一気に駆け抜けた。

 

 家に美少女幽霊がいるという希望はどこまでも俺を力づける。今だったら何だってできそうだ。

 

 うっかりするとその美少女幽霊が待ってる家の方に全力で疾走してしまいそうになるのが玉に瑕。

 

 

 俺はコンクリートで舗装された道を全力で疾走した。

 

 先ほど感じた少女の匂いが徐々に濃くなってきた。

 

 角を曲がった瞬間、少女の背が目に入った。

 

 その背に向かって一気に走り抜ける。

 

 

 そして――追い抜いた。

 

 

「おはようございまーすっ!」

 

 

 追い抜きざま、先ほど返せなかった挨拶を残していく。

 

 そのまま誰の背も見えない俺だけの道を駆け抜けていく。

 

 

 俺は勝ったのだ。

 

 負け続けの人生だったが、数少ない勝利の甘美なことよ……。

 

 

 俺は気分アゲアゲで勝利のいう名のロードを走り続けたのだった。

 

 

 おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 

「あれ?」

 

 

 気がつくと俺はコンクリートの地面に倒れ付していた。

 

 頬に当たるコンクリートが冷たい。

 

 朝の冷気と相俟って、どんどん体の体温を奪われていく。

 

 

「え? 俺……何で倒れてんの?」

 

 

 場面転換をしたと思ったら地面に倒れていた。何を言ってるか分からないけど、俺も分からない。

 

 確か俺を追い抜いた少女を追い抜き返したところまでは覚えている。

 

 そう、それから確か……ふわっといい気持ちになって……膝に力が入らなくなって……そのまま倒れた?

 

 え、何で?

 

 

 と、とにかく立ち上がろう。このままじゃ風邪ひくし。道路のど真ん中だから、車に引かれる。

 

 

「よいしょ……ってアレ?」

 

 

 しかしいくら体に力を入れても、立ち上がれない。

 

 それどころか腕も足もピクリとも動かない。

 

 なになに? え、これってどういう状態。

 

 教えてエリザちゃん!

 

 

『辰巳君は限界を超えたんだよ……』

 

 

 随分悲しそうに言うね。ていうか限界? え、限界って……いい意味で?

 

 

『悪い意味だよ辰巳君。辰巳君は自分に運動の才能が目覚めたと思ったけど違うの。運動とは縁の遠い人生を歩んできた辰巳君は、自分の体に蓄積した疲労に鈍感だっただけなの。走ってる間も確かに疲労は蓄積していった。運動不足もあって凄い勢いで。でも辰巳君は疲労を疲労と感じずに無理なペースで走り続けて、挙句の果てにはエリンザムまで……ぐすん』

 

 

 そうだったのか……。

 

 そりゃそうだよな。そんな都合よく才能とか開花しないよな。ていうか疲労を疲労って感じなかった俺ってヤバイな。

 

 

『だからね、辰巳君は限界を超えちゃったの。もう1歩も動けない。……後はそこで、緩慢に訪れる死を待つのみ、なんだよ』

 

 

 なんだよ、じゃねーよ! こえーよ!

 

 え、俺死ぬの!?

 

 

『そう辰巳君は死ぬの。朝の冷え込みとコンクリートの冷たさにじわじわと熱と体力を奪われて、まるで凍死するみたいにゆっくり死んじゃうの……フフフ』

 

 

 なに笑ってんの!?

 

 

『辰巳君が死んだらわたしと同じ幽霊になって……これで一緒だね……フフフ』

 

 

 ヤンデレ幽霊はノー!

 

 俺の妄想ってことは、ちょっとそういうエリザもいいなって思ってる証拠だけど、今は勘弁願いたい!

 

 

「だ、誰かっ、助けてっ……こ、声が……!」

 

 

 体温を奪われつつある俺の声はとてもか細く、朝の空気の溶けて消えてしまった。

 

 気のせいか眠くなってきた。いや、気のせいじゃない。眠い。

 

 穏やかな睡魔に身を委ねてしまう。

 

 

「う、うう……眠いよ。ボク眠いよ、ネロラッシュ……」

 

 

『エリザだよ。さ、行こうね、辰巳君……』

 

 

 ふんわりと、妄想のはずのエリザが覆いかぶさってきた。

 

 その存在しない重みと馴染みある冷たい肌を感じたような気がして、俺はゆっくりと、意識を、手放した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

タイトル今でも募集中

 

 

「う、うーん、違うんだよ雪菜ちゃん……別に嫌がらせとかじゃなくて、本当に善意のつもりだったんだよ。心の底から喜んでもらおうと思って……だ、だって見てたじゃん! 俺のパソコンの履歴に残ってたもん! 色んなメーカーの豊胸マシーンのページが! だ、だから誕生日プレゼントに渡そうと思って。え、ちょっ、何で俺に向けて、いやいや! それそういう使い方するもんじゃないから!? や、やめっ――はっ!?」

 

 

 随分懐かしい悪夢から目を覚ますと、目に前には不思議な光景が広がっていた。

 

 

 白い。

 

 

 圧倒的な白さ。

 

 漂白剤に三日三晩漬け込んだタオルのような白すぎる空間がどこまでも広がっていた。

 

 

 上下左右、どこまでも白い空間。

 

 見ているだけで頭がおかしくなりそうな空間に、俺は1人立ち尽くしていた。

 

 

「え、何ここ……」

 

 

 この白さ……北海道か?

 

 いや、いくら北海道でもここまで白くはないな。

 

 まるで白いペンキの中で目を開けたみたいだ。

 

 

「えっと……おーい! 誰かいませんかー!」

 

 

 俺が呼びかけた声は反射することなく、どこまでも通り抜けて行った。

 

 この空間どれだけ広いんだよ。

 

 

 そもそもどうして俺はこんな所にいるんだ?

 

 全く思い出せない。

 

 

「何だよここ。まるで――」

 

 

 不思議なことに、俺はこの空間をどこかで見たことがあるような気がする。

 

 いや、正確にはこんな空間を、文字で見たことがある。

 

 具体的には、異世界物の小説で、だ。

 

 

 異世界転生系の小説は、大体主人公がトラックに轢かれたり、トラクターに轢かれかけて心臓発作起こしたり、姪に全裸ブリッジしてるところ見られたりで……死ぬところから始まる。

 

 死んだ主人公は異世界で新たな人生を始めるわけだが、その前に結構な確率でこういう謎の白い空間を訪れるのだ。

 

 そこで神様的な存在から素敵な能力を貰ったり、最近ではその神様的存在を異世界に連れて行ったり、そういうレクリエーションが行われる。

 

 

 転生者控え室みたいな?

 

 この場所はまさにそれっぽい。

 

 

 いや、しかし冴えない主人公が異世界に行って冒険……みたいな小説増えたよな。いや、昔からあるにはあったけど、最近は尋常じゃないくらい多い。個人的には結構前になるけど〇君17歳の戦争とか好きだった。あと、海外の最後の物語とか。やっぱいいよね異世界物。自分を知らない世界で新しい自分になりたいって願望はいつの時代も変わらないのな。ここだけの話俺にもそういう願望はある。異世界で○ぐみんに零距離爆裂魔法打ち込まれたいんじゃ~。

 

 

 おっと思考が寄り道に行ってしまった。

 

 

 しかし、ここが例の空間だとすると……一つの事実が導き出される。

 

 

「俺……死んだのか?」

 

 

 ま、まさかな……そんな馬鹿な。ありえない。

 

 そもそも死んだ覚えが全くない。

 

 確か俺はダイエットを始めて、朝からジョギングをしていたはずだ。

 

 それはもう軽快に足が進んで、それから……それから。

 

 

 ――冷たいコンクリート。

 

 

 そうだ。

 

 俺は倒れたんだ。調子こいて自分の限界も知らず走りぬけた俺は……倒れた。

 

 そしてコンクリートの地面にキッスをして……じわじわと熱を奪われ――

 

 

 死……マジで!? 認める!? 否、無理――

 

 

「おぇぇぇぇぇぇっ!?」

 

 

 思い出し直面した衝撃過ぎる事実に、精神的なアレがアレして、盛大にリバースをした。

 

 しかし何も出て来なかった。

 

 ゲロゲロする感覚はあるのに、何も出て来ない。

 

 その事実はまさしくここが死後の世界であることを感じさせた。

 

 

 全身が脱力して、地面に突っ伏す。

 

 

「畜生……! 畜生……!」

 

 

 あまりの不条理さに涙が出てくる。

 

 まだまだやりたい事もあった。

 

 今まで低空飛行だった人生だけど、やっと友達とか信頼できる人ができて、上昇気流を感じていたのに。

 

 なのに……!

 

 

「いやだあぁぁぁ! 俺はまだ、死にたくない! お、俺にはまだやりたいことが残ってるんだ! お、俺にはまだ……」

 

 

 俺の慟哭は虚しく白い空間に吸い込まれていった。

 

 

 こんな事なら、もっとやりたいことをやっておくべきだった。

 

 エリザにいつもお世話してもらってるお礼をしたり、大家さんと遊んであげたり、うっかり転んでデス子先輩のローブの中に頭を突っ込んだり、たまには遠藤寺を酔い潰して介抱するという名目でアレしたり……いくらでもあった……!

 

 だがもう遅い。俺は死んでしまったのだ。

 

 圧倒的な後悔が体の内側からズキズキと痛みを伴い這い出てくる。

 

 

 俺は泣いた。おんおん泣いた。

 

 CLANNADのafter18話を初めて見た時よりも泣いたと思う。

 

 

 暫く泣いていると――

 

 

「――何じゃ、随分やかましいと思ったら、珍しい客が来とるの」

 

 

 ふいに、背後から声がかけられた。

 

 

 蠱惑的な声だ。例えるならそう……お話の中に出てくる女盗賊団の首領のような、そんな声。人生に退屈しきった気だるい声。

 

 その声は、財宝の中に埋もれ、どこかつまらなそうな表情で1人酒を飲む寂しげな女性をイメージさせた。

 

 

 声だけでそこまでイメージが湧くとか、俺って結構想像力豊かなのね。

 

 せっかくだしもっと広げとこうか。

 

 

 俺は彼女を殺す為に雇われたヒットマンで、盗賊団に潜入する為に女に化けた。他の団員にない男性的(実際男性)な雰囲気を纏った俺に、彼女は目を止め興味心からか身の回りを世話させるようになった。すぐ側で過ごすことで彼女が他の団員に見せない不思議な魅力に取り込まれていく俺。だがそれは彼女も同じだった。異性(実際異性)の雰囲気を感じさせる俺に少しずつ惹かれていった彼女はとうとう自分の寝所に俺を招き『な……!? き、貴様……そこにぶら下がっている物は一体――』思いのほか初心だった彼女に俺は保健体育の教育をすべく――おっと。これ以上はここでは語れない。続きは脳内図書館で!

 

 

「だ、誰だ!?」

 

 

 俺は声の主を見る為に振り返った。

 

 

 そこには……まあ、美女がいましたね。逆にこの場面で微妙な女性、いわゆる微女が出てくる流れとかないわな。

 

 

 目を引いたのは褐色の肌と、エリザを思わせる銀色の長髪。

 

 顔から察するに年齢は……20代中盤か?

 

 だが纏う雰囲気が老成してるとかそういうレベルじゃねえ。仙人レベルだ。

 

 

 服装はドレスだった。白いドレスの至る所に装飾品が飾られた豪華絢爛な衣装。

 

 俺の拙い語彙じゃ、言い表せない神秘的で魅力的なドレスだった。

 

 だが数々のアニメ作品を見てきた作画厨の視点から言わせてもらうなら……あの衣装動かすとしたら、秒間2~3人はアニメーターが死ぬ。

 

 そんな緻密かつ豪華な意匠が施されたドレスを着た美女。

 

 

 そんなイカにもなオーラを纏った美女が目の前に現れたので、俺死後異世界出発直前説は濃厚になってきた。

 

 

 間違いない、この美女は女神的なアレだ。転生を司る系の女神だ。

 

 

 きっと俺の次なる人生が豊かになる素敵なサムシングを与えてくれるに違いない。

 

 まあ、貰える物は貰っておこう。病気以外はな。

 

 

 女神は何故かニヤニヤと面白い物を見る目で俺を見ている。

 

 

「違うぞ。妾は神などではないぞ」

 

 

「へ?」

 

 

 俺、声に出してたっけ?

 

 

「もう一つ答えておくと、ここは死後の世界でも無ければ、異世界とやらに行く前の待機室でもないぞ」

 

 

 美女から語られた衝撃の事実。

 

 

「え、ち、違うんですか? でも、俺死んだんじゃ……」

 

 

「生きておる。意識を失っておるだけじゃ」

 

 

 美女の言葉は不思議と信じてもいいと思わせる何かを感じた。まるで直接心に語りかけているような染み込んでくる言葉。

 

 

「マジで……よ、よかった……」

 

 

 安堵感で体の力が抜けた。

 

 そのまま真っ白な地面にくたくたと座り込む。

 

 

「ふむ。正規の方法で来たのではないな。また早すぎるしのう。意識を失った事で、偶然繋がった……か」

 

 

 美女は興味深そうに俺を見ながら、何やら呟いている。

 

 

 しかし座り込んだことで気づいたが……この美女、凄い、胸が。

 

 俺が今まで会った中で、一番ビッグだ。

 

 『あのね、大きさじゃないんだよ』という偉人の言葉を信奉している俺だが、こんな凄い物を目の前で見せられちゃ『大は小を兼ねる』派に鞍替えせざるをえない。何らかのアクシデントに乗じてラッキスケベ的に胸の中に飛び込みたいが、相手の正体が分からない以上、迂闊な行動はできない。ノーモーションで首刎ねられたりしたら笑えないしな。

 

 

「まあ少々フライング気味じゃが、いい機会と思っておこうかの。どれ、よく顔を見せてみい」

 

 

 そう言うと美女は俺に近づいてきた。

 

 

 そしたらね……揺れるんですよ。お山が。皿に上に乗せたプリンみたいに。

 

 身近にエリザというお手本がいるから分かる。この女……ノーブラだ。間違いない。

 

 こんな凶悪な物を拘束具も着けずに野放しにしてるとか……こいつ、サードインパクトを起こす気か? 

 

 

 そんな新世紀何とかゲリオンの始まりを感じていると、いつの間にか目の前に来た美女が俺の顔に手を伸ばしてきた。

 

 冷たい指が俺の顎に触れ、優しく上を向かされた。やった! 顎クイ童貞卒業!

 

 

 何故かその指の冷たさを、どこかで感じたことがような気がした。

 

 

「ほうほう……冴えない顔じゃの」

 

 

「なんだと」

 

 

「まあ……よいか。必要なのは内面じゃからな」

 

 

 などと供述した美女は、満足した表情で俺から離れた。

 

 

 ていうか何なんだ一体……分からない。意味不明な空間に、意味不明な褐色美女。

 

 これは夢か?

 

 

「そんなものじゃ。正確には――ここはお主の心の中。イレギュラーじゃが夢を通じて、ここにアクセスしておる」

 

 

 俺の心臓を指で指しながらそんな事を言う。

 

 だーかーら、イレギュラーとかアクセスとかそういうのやめて! 中二病が再発しちゃうでしょうが!

 

 うっかり出席表に†虚無の申し子†とか書いちゃったら、責任取ってくれんの?

 

 

 しかし……ここ、俺の心の中なのか。

 

 真っ白なんですけど。これは俺が穢れのない純白な存在であることを表しているのか? いや、まだ穢れてないことは認めるけど、それをこんな壮大な形で見せつけられても……。童貞を卒業すると、この空間は綺麗な白じゃなくなるのかな? 大人になるって寂しいことね。

 

 

「ククク……」

 

 

 美女は相変わらずニヤニヤと俺を見ている。

 

 そこに嘲笑はない……と思う。誰よりも嘲笑の目に晒された俺だから、相手が浮かべる笑みが嘲笑なのか、そうでないのかは分かる。

 

 だがなんだろうかあの笑みは。ケージの中のモルモットを見るような、わが子に向ける慈愛のような……そんな矛盾した物を感じる。

 

 

 つーか誰だよテメーは。人の心の中に現れて好き勝手言いやがって。

 

 心不法侵入の罪で一ノ瀬交番にしょっぴいてやろうか。ウチの巡査長は容赦ないぞ? 母の味を再現したカツ丼で容易く犯人を自首させるからな。犯人じゃなくても自首するレベルだぞ。

 

 

 いや……マジで誰なんだこの人。

 

 

 俺の心の中にいるってことは……遊〇王的に考えて、もう1人のボク?

 

 いやいやいや……別人過ぎるだろ! 2Pカラーとか、殺意の波動に目覚めたとか、ツキノヨルオロチの何とかとか、もし俺が殺人貴として育ったらとか……そういうレベルじゃねーぞ? 性別すら違うし。いや……生えてるのか? あの見た目で? あり、いや……なし、か……いやいや……保留にしておこう。

 

 

「妾の事が気になるようじゃな」

 

 

「え、いや……はい」

 

 

「まあ、名乗ってもよいが……今のお主には聞き取れんと思うぞ?」

 

 

 どういう意味が聞き返す前に、美女は名前らしき物を言った。

 

 らしき物ってのは、それが名前かどうか分からなかったからだ。

 

 具体的には

 

 

「妾の名は――■■■通■銀■。シルバ■■ー■とも呼ばれておるな。む、その顔、やはり聞き取れておらんな」

 

 

「何かノイズが走ったみたいで。銀とかシルバとかは聞こえたんですけど」

 

 

「ほう!」

 

 

 ここで美女は先ほどとは違う笑みを浮かべた。喜びだろうか。

 

 

「まだ3月ほどしか経っておらんのに、そこまで聞こえたか。ほうほう……いや、此度の■■■は想像以上に合うのう」

 

 

「はぁ……」

 

 

「よい。妾のことはそうじゃな……シルバちゃんとでも呼ぶといい」

 

 

「汁婆?」

 

 

「シ・ル・バじゃ。尊敬と畏怖を込めてシルバちゃん、じゃ」

 

 

 何がちゃんだよ、ババア自重しろ。

 

 もちろん思っただけで口には出さなかったが、汁……もといシルバちゃんの目に殺気らしき物が浮かんだので、素直に従うことにした。

 

 シルバちゃん神々しいよ! シルバちゃん!

 

 

「無論じゃが、お主の別人格とかそういう存在ではないぞ?」

 

 

 よ、よかった……。

 

 何がよかったって、これで安心して攻略できるってことだよ。流石に自分自身を攻略はちょっとな。ハードルが高い。

 

 

 だったらシルバちゃんは何者なんだ? 何で俺の心の中に?

 

 

 シルバちゃんは挑発的な表情を浮かべた。

 

 

「一応聞いておくが、妾の存在に思い当たるフシはないかの?」

 

 

「そう言われても……」

 

 

「何じゃつまらんの。1発で当てれば、褒美に先ほどからお主がジロジロ見てる妾の胸を好きにさせてやろうと思ったんじゃがな」

 

 

「5秒待て」

 

 

 やべー、絶対に当てないと。

 

 こんなチャンス見逃す手はねーぜ。

 

 

 俺の心の中にいるってことは間違いなく人間じゃないよな。何かエリザ的な雰囲気するし。人間じゃないオーラっていうの? そういうのビンビン感じる。

 

 ん? エリザ的? 俺の心の中?

 

 

 アレか? 守護霊か? いや、でも昔気まぐれで町の占い師さんに占ってもらった時、俺の守護霊『カナヅチのペンギン』って言われたんだけど……。やっぱりあの占い師フカしてやがったのか! そうだよな、俺の守護霊がペンギンのはずないしな!

 

 よし、決まりだ! シルバちゃんは俺の守護――

 

 

「……クク」

 

 

 こちらを見るシルバちゃんの目が「それでいいのか?」そう語っている気がした。

 

 まるで心の中を覗き込まれているような深い瞳が、そう思わせた。

 

 途端に自分の答えが間違っているような気がした。

 

 

「え、えっと……幼い頃の俺が生み出したイマジナリーフレンド『綾南零』ちゃん?」

 

 

「大外れじゃ」

 

 

「ですよね!」

 

 

 ちなみに件のイマジナリーフレンドちゃんは、その頃たまたまテレビで見た例のアニメの例のヒロインが元ネタだったりする。

 

 幼稚園くらいの頃のアルバムに、その子の絵書いてる俺がいっぱい映ってるんだ。

 

 

「ちなみにお主が考えていたもう一つの答えである守護霊でもない」

 

 

「あ、そうなの?」

 

 

「……まあ、あながち間違いでもないと言えなくもないが」

 

 

「マジで? じゃあ半分くらいは正解ってことで、片方だけ好きにさせて貰ってもいいの?」

 

 

「いいや……よくはないが。お主、思っていたより厚かましい思考をしとるの」

 

 

「いいじゃねえか! そんなに立派なもん持ってるなら、少しは俺にもお裾分けしてくれよぅ!」

 

 

「おい、普段心の中で思ってることが、駄々漏れになってるぞ?」

 

 

「マジで?」

 

 

 た、確かに……普段の紳士さを感じさせない発言をしてしまっている。

 

 どうやらここが心の中だからか分からないが、どうにも心の弁的な物が緩い。

 

 ふとした瞬間に思ってることが漏れ出てしまう。こんなんじゃ迂闊に町を歩けない。

 

 

「まあ、そもそもお主の思考は妾に筒抜けじゃから、今更という話じゃが」

 

 

「マジで!?」

 

 

 そんな気はしてたけど!

 

 え、ということはアレやコレ、具体的には盗賊の女首領が云々も丸聞こえってこと!?

 

 キャッ、恥ずかしい!

 

 

「うむ。ついでに言うなら、お主の脳内図書館とやらに蔵してあったその話の続きも読んだ」

 

 

「やめて!」

 

 

「あの図書館は面白いの。お主の多々な欲望がこれでもかと詰まっておる。お陰でここでの生活も飽きん」

 

 

 ひぃ!? 知らない内に俺の脳内図書館に侵入者が! 

 

 

 決して知られてはならない俺の大切な場所を知ってしまっているシルバちゃん。

 

 こりゃどうにかして口封じをしなければ、と口にはできないエロ方面の作戦を考えていると、この思考も筒抜けなわけで、もう詰んだ! 

 

 もう秘密を漏らさないことを条件に俺の体を好きにしてもらうしかないか……。

 

 

「む、そろそろ時間か」

 

 

「え? あ、か、身体が!?」

 

 

 違和感を覚えて自分の体を見ると、足元から薄ら消え始めていた。

 

 スタ○トレックのトランスポートみたい。

 

 

「中々に楽しい時間だったぞ。次は正当な方法で来るようにな」

 

 

「正当な方法って」

 

 

 自分の心の中にアクセスするとか、どうやんだよ。

 

 セラピストを訪ねるとか?

 

 

「それはいずれ分かる。近いうちにな。お主はきっと、妾に会いに来る」

 

 

 その予知染みた言葉は、やはり確信を感じさせた。

 

 彼女は最初から真実しか語っていない。

 

 

「そうじゃな。あの霊、名前はエリザと言ったか? あ奴のことでお主は、妾を訪ねてくる。いずれ必ずな」

 

 

「え? エリザ?」

 

 

 シルバちゃんの口から思いもよらない名前が出たので、詳しく聞こうとしたがどうやらその時間もないらしい。

 

 体は既に首辺りまで消えていた。

 

 

「さて、今代の■■■よ。暫しの別れだ。いずれ来るその時までの、な。お主の覚醒を待ちわびているぞ」

 

 

 覚醒って……バトル漫画かよ。

 

 

 おいおい、俺の人生ってゆるふわ日常系じゃなかったの? なもり先生辺りが作画した。

 

 日常物からバトル物に路線変更とか少年誌じゃありがちだけど、俺の人生もその煽りを受けちゃったのか? 色々大丈夫? トーナメント編とかに突入されても、誰もついていけないよ?

 

 

「最後に言っておくが。1日に1度でよいから、しっかりと妾の手入れをしろ。お主は妾の扱いが少々杜撰過ぎる。よいかくれぐれも――」

 

 

 そこで俺の意識はホワイトアウトした。

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

「むにゃむにゃ……いや違うって。豊胸マシーンはそういう風に使うものじゃ……だ、だから雪菜ちゃんに買った物であって、俺に使う為に買ったんじゃ……あ、だ、駄目、ひっ、ら、らめ――ひらめぇっ」

 

 

 懐かしい悪夢から目を覚ますと、不思議な光景が――広がってはいなかった。

 

 特にこれといって異常な所もない、普通の見覚えがある光景だ。

 

 

 ここは……近所の公園だ。間違っても真っ白な空間じゃない。

 

 ん? 真っ白な空間? 何の話だ?

 

 

 どうやら俺は公園のベンチに横になっているようだ。

 

 体を起こすと、額の上から何かが落ちた。濡らしたタオルだ。

 

 

「何で公園のベンチに……」

 

 

 未だぼんやりする頭を働かせると、少しずつだが記憶が戻ってきた。

 

 俺はかつて魔王軍の四天王『深淵のリクルス』として人類を粛清していたが、ある日昔失った恋人の面影がある少女を拾って……いかんいかん、前世まで戻ってしまった。

 

 

 えっと確か……そうだ。ジョギングしてたら、女の子に抜かされてちょっと競争意識が燃え上がって本気で追い抜いたら……倒れたんだ。

 

 

 そうだ。倒れてゆっくり意識を失ったんだ。頬に感じた冷たいコンクリートの感触が今でも残っている。

 

 

 それから……なんで公園のベンチに?

 

 考えていると

 

 

「あ!」

 

 

 という声が、セミの泣き声に混じってハッキリと聞こえた。

 

 声の方に視線を向けると、ジャージを着た少女が少し驚いた顔で俺を見ていた。

 

 

 少女は俺を見た後、ハッと何かを思い出したようにスマホを取りだし

 

 

「け、警察呼ばなきゃ!」

 

 

 と俺を見ながら言うのだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

タイトルいつだって考案中。

「け、警察呼ばなきゃ……!」

 

 目の前でジャージ少女が、慌ただしくスマホを取り出そうとする。

 何がどうなれば目を覚まして速攻で警察を呼ばれることになるのか、事情が把握できない。

 

 だがリアルタイムで通報されようとしているのに、俺はとても落ち着いていた。

 全く焦ることもなく、そして心中も冬のなまずのように穏やかだった。

 

 ――逆に考えてみるんだ。「通報されてもいいさ」そう思うんだ。

 

 別に自分が通報される何かをした覚えがあるわけでも、JK(らしき)女の子に通報されるのとかマジSSRクラスの得難い経験なんじゃ……と乗り気なわけではない。勿論、通報されるという行為に快感を感じる性癖が発芽したわけでもない。

 

 俺には通報されても「何とかなるだろう」という確信があった。

 具体的にはここいらのポリスメンには一通り職質されているので、どうせ通報されたところで「またお前か」と呆れられるくらいで済むだろう……そういう勝算があったのだ。

 世間的には明らかに敗北しているが、今の俺にとっては勝算だ。

 

 よかった、職質されやすい体質で。

 

 さあ通報するならいつでも来い……!

 

 俺はベンチの上であぐらを組み、少女のアクションを待った。

 が、どうにも少女の様子がおかしい。

 

「え、えっと呼んだ方がいいんだよね? どうなのかな?」

 

 などと俺に聞いてくる始末。

 俺にそんな決定権があるのか……! と百式に乗ったバジーナさんの如く、少女にがっぷり組み付きたくなったが、それやっちゃうとマジで言い逃れできないので、様子を見る。

 

 警察を呼ぼうとしているのに、どうもこちらに対する警戒心を感じない。それどころか、俺を心配するような目で見ている。

 何か食い違っているような気がする。

 

 

 

■■■

 

 

 

 落ち着いて少女の話を聞いてみると、ただの勘違いだった。

 どうも少女は警察ではなく、救急車を呼ぼうとしていたらしい。

 というのも、彼女は道端で倒れている俺を発見して、この公園に運んだ。介抱している間に、助けを呼ぼうかと考えていると俺が覚醒。慌てていた彼女は救急車と警察を間違えた……と。

 聞いてみれば、本当に些細な間違いだった。

 ていうかいくら慌てているからって、警察と救急車を間違えるとかこの子……い、いやいや! 介抱してくれた少女に向かって何を考えようとしているんだ俺は。助けてくれてありがとう、それでいいじゃないか。

 

「ご、ごめんね! あたし慌てててて……そ、それで救急車呼んだ方がいい? 体、大丈夫?」

 

 てが多いな……。

 

 体は……大丈夫だろう。と思う。

 倒れた時にちょっと擦りむいたが、問題はなさそうだ。帰ってエリザにペロペロして貰えば、すぐに完治するはず。

 少し頭がフラフラするけど、これもすぐに収まるだろう。帰ってエリザにナデナデして貰えば(ry

 

 それでも俺の体が気になるなら、そうだな……好きに触診すればいいさ。ただ男の体には至る所にモンスターハウスが存在するから、それを覚悟して挑んでほしい。

 触診の許可を視線に含ませつつ、体調が良好であることを説明すると少女は胸に手を置きホッと安堵の息を吐いた。どうやら触診する気はないらしい。残念。

 

「そっか、よかった。はぁー……ほんっとにびっくりした。普通にジョギングしてて追い抜かした人が、物凄い勢いで追いかけてきてそのまま走り去って。んで、暫く走ってたら、いきなり倒れてるし。こんなの初めて」

 

 不可抗力とはいえ1人の少女の『ハジメテ』を奪ってしまった……。これはもう俺の『ハジメテ』を差し出すことで何とか相殺する方向に持っていくしかないな。

 

「えっと……ごめん。あ、いや、ありがとうか。ここまで運んでくれてありがとう。助かったよ」

 

 今思うと、俺は何であんな奇行に走ったのだろうか(ジョギングだけに)

 初めてのジョギングでちょっとテンションが上がっていたのかもしれない。エリンザムとか分けの分からない自己暗示生み出してたし。

 調子こいてぶっ倒れた上に、見ず知らずの少女に迷惑をかけるとか……恥ずかしいな。

 こんなに恥ずかしい謝罪と感謝は初めてだ。羞恥心が抑えられず、顔が赤くなってしまう。

 

「あー、うん。気にしなくていいよ。困ってる人を助けるのって当たり前のことでしょ? それに初対面ってわけじゃないし」

 

 格好つけてる風でもなく、サラリとそんなことを言ってのける少女。

 やべー……かっけえわ。惚れちゃいそうだわ。

 

 ん? 初対面じゃない?

 俺この子とどっかで会ったことあったっけ? どうにも記憶にない。

 

 少女はフレンドリーな笑みを浮かべた。

 

「それにね。同じジョギング仲間だしね。仲間はどんな事があっても助けろって、部活の先輩から言われてるし」

 

「部活……。あー、えっと、今更だけど、君は、その……」

 

「ん? なに?」

 

「いや、名前とか聞いてなかったなって。いやアレだよ? 変な意味じゃなくてね? 助けてくれた恩人の名前を知らないのはちょっと問題があるかなぁとかそういう意味で聞いたのであって、女の子とお近づきになりたいとかそういうキモイ考えから導き出された行動じゃなくて! そこんとこどうなんでしょう!」

 

 落ち着け俺。

 こんな所でコミュ症が発揮させてどうする。

 

 い、いかん……めっちゃ緊張してるわ。

 そういえば俺ってこんなんだったわ。初めて会う人相手だと大体こんな感じだったわ。

 遠藤寺とかデス子先輩とか、俺より不審者度が高い相手が相手だから今までファーストコミニュケーションも問題なかったけど、普通の人間相手だとこれだわ。

 最近コミュ力高まってきたなぁとか思ってたけど、生まれ持ったコミュ症は早々改善しないらしい。

 

 俺の噛みまくりかつ、どもりまくりの言葉にも、特に少女は不快な感情を表した様子もなく、ハッと何かに気づいたかのような表情を浮かべた。

 

「あー、そっか。自己紹介とかしてなかったっけ。ていうか、そんな余裕なかったね。あははっ」

 

 ジャージ少女はケラケラ笑いながら、こちらに近づいてきて隣に座った。

 ふんわりとどこかで嗅いだことのある、汗混じりの良い匂いを感じた。

 不思議に思ってスメルリスト(今まで嗅いだことのある香りを108まで完全に記憶できる。それ以上記憶したければ要課金)を参照すると……どうやら過去に会っていたようだ。といってもすれ違っただけだが。特徴的な匂いだったから覚えていた。

 この間、歩きスマホをしていた俺を注意してくれたジャージ少女に間違いない。

 

「もしかしてこの間、すれ違ったり……」

 

「あ、思い出した? 酷いなー、あたしはすぐに分かったよ? まあ、マフラーが凄い特徴的だったから、印象に残ってただけなんだけど。じゃ、改めて自己紹介するね。あたしは――」

 

 ジャージ少女の名前は美咲ちゃん。近所の女子高に通うJKだ。

 毎朝この辺りをジョギングしているらしい。部活は空手部。

 その他諸々、ほぼ初対面の相手に公開するには少し多すぎる量の個人情報を提供してきた。

 聞いてもいないのに住所まで教えられてしまった。

 

 それにしても――JKである。

 女子高生だ。その単語は多くの人間を狂わせる魔性の称号だ。よくニュースでもJKと猥褻な行為をしてしょっ引かれる馬鹿な連中が後を絶たない。

 つい最近DK(ゴリラに非ず)――男子高校生であり、JKがすぐ身近にあった俺でさえ、JKを相手にしていると妙に緊張してしまう。

 

 人は何故JKという言葉に異常な希少性を感じるのか。それは誰にも分からない。

 

 だがいつだって人はJKという眩い光に惹かれ、近づきすぎて奈落へと堕ちていく――太陽に挑んで堕ちたイカロスのように。

 

 まさかイカロスさんもこんな風に引用されるとは思わなかっただろうが、実際JKという存在は太陽のように眩い。

 そんなJKとリアルタイムでコンタクトしてる俺。

 

 やべー……俺朝から、JKと話しちゃってるよ……。大丈夫かな? 捕まらないかな? 自首した方がいいかな?

 

 何だか分からないが、妙に罪悪感を感じてしまう。

 

 俺も簡単に自己紹介をした。といっても近所に住んでることと、名前を名乗っただけだが。

 

「辰巳、ね。苗字は……んー、いいや。あたし馬鹿だから、人の苗字って覚えられないし。あはは」

 

 そうやって笑う美咲ちゃんの苗字を聞いて、苗字にもDQNネームってあるんだなぁ、なんて思ったのは内緒だ。

 具体的にどんな名前かは彼女のプライベートにも関わるので黙秘したい。敢えて言うなら竹〇10日作品に出てきそうな苗字だった。

 

「辰巳辰巳……うん、いい名前。あ、辰巳って呼んでもいい?」

 

 そう言って笑う美咲ちゃん。

 

 流石の俺も、この時点で何かおかしいと感じていた。いくらなんでも気安すぎる。

 たまたま出会った少女(しかもJK)が最初から妙にフレンドリーだとか、明らかにおかしい。あと妙に距離感も近いし。頬に残ったニキビの跡すら見える距離だ。

 

 女性慣れ、ていうか人間慣れしてない俺でも、今の状況がおかしいことくらい分かる。

 

 これは何らかの罠の可能性がありますぞ。美人局とかな(どうでもいいけど、昔、美人局のこと美人アナウンサーが多いテレビ局のことだと思ってた)

 

 このまま彼女のペースに乗せられて「あれ? この子俺のこと好きなんじゃね?」と錯覚したら最後、そのまま喫茶店とかに連れ込まれてクソ高い絵とかツボ買わされるに違いない。

 いや、もしかするともっと直接的にこの後路地裏に連れ込まれて、カツアゲをされる可能性もある。

 

 昔の俺なら美少女相手なら例え騙されると分かっていてもホイホイついて行ってだろうが、今は違う。家にエリザという家族がいるわけだし、そんな風に騙されるわけにはいかない。

 

 絶対に騙されたりなんかしないんだから!

 

「ね、呼んでもいい?」

 

「いや、あのそういうのは、ちょっと……あはは」

 

 俺は美咲ちゃんから距離を置いた。

 

「え、どうかしたの?」

 

 ベンチに隅に移動したが、すぐに距離を詰められた。

 

「別にどうもしないけど……」

 

 更に距離を空ける。もうケツが半分ほどベンチからはみ出てしまって宙に浮いている状態だ。

 

 さて彼女の目的は分からないが「こいつ、カモかも!」と確信される前に、何とかこの場を去りたい。

 取りあえずは妙に近い距離で話しかけてくる美咲ちゃんから、距離を置きつつ、文字通り「ちょっと近寄りがたい男」を印象付けようと思う。

 暫く美咲ちゃんから距離を置いて「どうかした?」「いや、別に……ははは」といったやり取りを繰り返していると、美咲ちゃんの顔がサッと青ざめた。

 そして突然、顔を伏せた。

 

「ね、ねぇ……正直に答えて欲しいんだけど、あたし……変だった?」

 

 震えながら紡がれる言葉に俺は「え?」としか答えることができなかった。

 変だったって言われても、見た目はどこからどう見ても妙になれなれしいくらいの普通のスポーツJKにしか見えない。

 どちらかと言えば変なのは、ジャージマフラーという痛すぎる格好している俺の方がよっぽどだと思う。

 

 ただ「変じゃない」と言うのもなんだかおかしい気がして、口ごもっていると美咲ちゃんが突然、顔を上げた。

 その顔は真っ赤だった。瞳は渦を巻いて正気でないことを表していた。唇はフルフル震えている。

 

 そんな顔をグイと近づけてくる。

 

「――だーかーら! あたし、変だった!? 喋り方とか! 距離感とか! あと色々! 変だったんでしょ!? だから急によそよそしく……ていうか引いたんでしょ!? 絶対そう! うわああああ!」

 

 二重人格を思わせる変わりように、俺はポカンとしていた。

 

「あー、もー、やっちゃったあああ! 上手く話せてると思ってたあたし、めっちゃ恥ずかしい! あああああ!」

 

「え、本当にどうしたの?」

 

 頭を抱えて叫び出した美咲ちゃん。

 唐突に挙動不審レベルを上げた美咲ちゃんを前に、俺は冷静になっていた。

 

「いや、だからね。ほら、あたしってずっと女子校に通ってたでしょ? で、男の人と話す機会とか全然ないでしょ?」

 

「それは知らんけど」

 

「そうなの! パパも単身赴任で全然帰って来ないし、今の今までまともに男の人と話したことなくて……でも、流石にこのままじゃ将来的にもヤバイなって思ってたら、前に1回会ったマフラーの変な人がジョギングしてて、しかも急に倒れて。運んでる内に顔見るのにも慣れたし『あれ? これって男の人と話すチャンスじゃない?』ってそう思ったの」

 

 マフラーの変な人って……。

 ハムの人みたいに言わないで欲しいんすけど。

 

「目が覚めてから内心ガチガチに緊張しながら話してたら『お? 普通に話せてる! あたし凄い!』なんて思ってたら……ねえ! 変だったんでしょ? 正直に答えて!」

 

「いや、まあちょっと慣れ慣れ過ぎるとは思ったけど」

 

「やっぱりー! あーもー! こんなんじゃ今度お姉ちゃんが連れてくる例のアイツが相応しいかどうか観察するどころじゃないよぉ!」

 

 両手で顔を覆い、慟哭する少女を見て、俺の中に先程までの緊張感は無くなっていた。

 美咲ちゃんは俺の中で普通のJKから変なJKにシフトしたのだ。

 変な人間相手だと、不思議と落ち着く俺のパッシブスキルが発動したのかしれない。

 

 俺は美咲ちゃんが落ち着くまで待つ事にした。

 

「……はぁ、ごめんね? 急にワーってなっちゃって。ヒいたでしょ?」

 

「少し」

 

 ついさっきまでにこやかに話していた相手が突然、物凄い剣幕で喋りだしたら普通にヒく。

 

「うっ……正直だ。あたしって昔からこうなんだよね。何か自分の中の許容量っていうの ?それが溢れたら、ワーってなっちゃうんだ」

 

「それ分かるわ」

 

「え?」

 

「許容量云々ってやつ。俺も結構そういうところあるし」

 

 俺の場合は、そのワーってやつが内面に向かうわけだが。

 

 ただ慰めるだけに言ったわけじゃないのが伝わったのか、美咲ちゃんはホッとした笑みを浮かべた。

 

「……そ、そっか。あたしだけじゃなかったんだ。そっかそっか」

 

 少し安心したように頷く。

 

「ねえ、もうちょっと話してもいい? さっきも言ったけど、あたし出来るだけ早く男の人と話すのに慣れないといけないんだ。いや、会っていきなりこんな事言われても困ると思うけど、こんな機会でもないと男に人と話すチャンスなんて無いし……」

 

 俺に断る理由はなかった。

 どうもただ人付き合いがアレなだけで、俺を騙す為に近づいたのではないと分かったし、何よりも助けてくれたのは間違いない。

 恩返しというには少し俺に理があり過ぎるが、それでも相手が望んでいるなら応えるべきだろう。

 

 なにより例え変なJKだろうとJKはJKだ。

 JKと話し貴重な機会、いわゆるJKチャンスを逃す手はない。

 

「ほんと? ありがと! じゃあ、えっと、辰巳のことなんだけど……今ままでジョギングしてるの見たことないんだけど。いつもは夜に走ってるの?」

 

「いや、それなんだけど――」

 

 俺は迷った。ほぼ初対面に人間相手に『実家にいる妹に連れ戻されない為に、ダイエットをしなければならない』という文字にしたら中々アレな己の恥部を見せるのはどうだろうか、そう思った。

 だけど嘘を吐きつつJKを喜ばせるような話の展開を広げるほどトーク技術はないし、JKに己の恥部を見せつけるという背徳感に身を委ねるのも乙な物。

 というわけで一切合財余さず話すことにした。

 

「あははははは!」

 

 未だに身長の図りあいっこをしているという所で、爆笑をとれた。やったぜ。

 

「な、なにそれ、すっごく面白い! それで、太った分痩せないと実家に連れ戻されるの? 冗談だよね?」

 

「それがマジなんだ。多分ダイエットに失敗して家に帰るの拒んでたら、夜遅い帰り道とかに襲われてズタ袋に詰め込まれて家に戻される。ウチの妹はそういう奴なんだ」

 

「なにその妹、こわっ」

 

 何が怖いって、ほぼ誇張なしだったりするのが怖い。

 あの妹、ステルススキルもカンストしてるからな。実家にいた頃も、当たり前のように背後に立ってたり気が付けば部屋にいたり。よく俺の心臓止まらなかったな……。

 

「へー、あたしの家にお姉ちゃんがいるけど、人を袋に詰め込んだりはしないなー」

 

「ウチのがおかしいんだよ。ん? お姉ちゃんいるの?」

 

 美咲ちゃんのお姉ちゃんか……。

 今更だけど、美咲ちゃんかなり美人だな。ジョギングしてるせいか、小麦色に焼けた肌とハッキリとした顔立ちがベストマッチしてる。

 胸もジャージだからあんまり体の形出ないけど……それでもなかなかの戦闘力と分かる。

 

 こんな美咲ちゃんのお姉ちゃんだから……そうだな。美咲ちゃんかなりアレ、もといお転婆っぽいし、それを窘める優しくて心の広い女性なんだろう。

 

「ウチのお姉ちゃんはね、すっごく可愛いよ。いつもあたしに優しいし頭もいいし、ちょっとズボラな所もあるけどそこも何だかんだで可愛いの!」

 

 きっと姉のことが大好きなんだろう。熱の篭もった声で姉を語る美咲ちゃん。

 ズボラな所でさえ可愛いくらいなんだから、きっと凄く可愛らしい女性なんだろう。いつか会ってみたいものだ。

 

「まあ最近ちょっと色々と変な部分が見えてきたんだけどね……うん。いや、よくよく考えたら結構前からそういう所あったような……部屋にある本とか、占い好きなんだなーってくらいしか思ってなかったけど、黒魔術の本とか何とかTRPGとかも山ほどあったし……」

 

「どうかした?」

 

「え、ああ、いやっ、何でもないよ、あははっ」

 

 とりとめもない雑談をしていると、太陽が随分高く上っているのに気が付いた。

 

「あ! もうこんな時間!? やっばい、遅刻しちゃう!」

 

 スマホを取り出した美咲ちゃんが慌てたように言った。

 どうやら結構な時間、話し込んでしまったらしい。

 

 俺は……3限目からだから大丈夫だな。

 

 いそいそと立ち上がり、帰る支度をする美咲ちゃん。

 

「あっ、そうだ。ダイエットしなきゃいけないって事は、明日も走るんだよね?」

 

「いや、それなんだけど――」

 

 もう倒れて意識不明になって謎の空間にぶち込まれるのはゴメンだ。……ん? 謎の空間? 何の話だ?

 とにかく俺にジョギングは向いていないようだ。明日からは別の方法を考えよう。最悪、もしイカ娘が完結してしまったらっていう妄想をして、精神的ダメージを受けることで食欲を無くす手段もある。本当に最後の手段だが。

 

 という事を説明しようとしたが、慌てている様子の美咲ちゃんが先に行った。

 

「あのさ、だったら明日から一緒に走ろうよ。うん、それがいいよ。ここだけの話なんだけど、最近ちょっとお肉がついちゃってって悩んでるお姉ちゃんの為に、軽めのコースを用意してたんだ。まあ、昨日一緒に走って速攻でリタイヤしたけど。だから明日からはあたしがそのコースを先導してあげるよ」

 

「いや、その――」

 

「そしたらあんな風に倒れることもないでしょ? それに1人で走るのもいいけど、2人で走るのってやっぱり楽しいしね。うん、決定。その代わりって言ったらアレなんだけど、あたしの特訓に付き合ってね! じゃ、そういうことで!」

 

 と言いたいことを言って、走り去っていった。

 そして1人公園に残された俺。

 

「ど、どうしよう……」

 

 俺の呟きは鳴き始めた蝉の合唱にかき消された。

 

 

■■■

 

 

 通学する高校生や中学生の集団と擦れ違いながら、俺は帰宅した。

 玄関の扉を開けると、すぐにパタパタと足音を立てながらエリザがやってきた。

 

「お帰りー辰巳君! 遅くて心配したよー……ってえええええ!? ど、どうしたのその傷!? 車!? 車に轢かれちゃったの!?」

 

「躓いて転んだだけだって」

 

「車に躓いちゃったの!?」

 

「落ち着け」

 

 エリザは「えらいこっちゃだよ!」と慌てた様子で俺を部屋に引っ張り込み、救急箱を探し始めた。

 

 そんなエリザをぼんやり眺めながら、明日のことについて考えてみる。

 さっきはああ言ったが、やはりジョギングを諦めるのは早いかもしれない。なにせまだ1日目だ。三日坊主どころじゃない。

 エリザやガイドブックを作ってくれた遠藤寺にも悪い。

 

 そしてJKだ。

 JKと一緒にジョギングをするなんて機会、この先の俺の人生で絶対にありえないだろう。

 いや、もしかしたらJKと散歩をするビジネスがあるくらいだから、将来金払ってJKとジョギングするビジネスが生まれるかもしれないけど……恐らくは望み薄だ。

 なにより話していて楽しかったし。普通のJKだったらとてもじゃないが普通に話せない。しかし美咲ちゃんはかなり変わったJKだ。変な人間を相手にするのに慣れた俺には丁度いい。

 

 というわけで明日も頑張ってジョギングすることにした。

 

 とりあえず今日大学に行ったら、遠藤寺に今朝のことを話してやろう。

 JKと知り合いになってジョギングをすることになった、なんて絶対に信じないだろうけどな。それどころか可哀想なものを見る目で俺を見てくる

かもしれない。最近遠藤寺の視線が優しいし、たまには昔みたいな距離のある目で見られながら鼻で笑われるのも乙なものだ。

 

 

■■■

 

 

「んしょ、んしょっと。どう辰巳君? 痛くない?」

 

「ああ~……気持ちいいわ」

 

 さっさと飯を食って大学に行こうとした俺だが、突然やってきた今まで感じたことのない激痛――筋肉痛に襲われ、1歩も動くことができなくなった。

 そういうわけで、今はエリザにマッサージをしてもらっている。エリザには何から何まで申し訳ないが、なぜか凄くやる気満々だったので、あまり申し訳ないという気持ちにはならなかった。

 

「んしょっと。ここは……どうかな?」

 

「あっ、そこいい!」

 

「なるほど……辰巳君はここが気持ちいいんだ。えへへ、勉強になるなぁ。いっぱい辰巳君の体を勉強して、もっと気持ちよくしてあげるね! 将来の役にも立つし、一石二鳥だね!」

 

 グイグイ弱いところを押されながら、これがいわゆる開発なのだろうか……そんなことを考える俺であった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

タイトル今日も瞑想中

エリザの開発……もとい献身的なマッサージを受けていると、体と心が少しずつ解され、凝った部分を解されることで生じた快感が心地のいい眠りを誘ってきた。

 

「んんー……しょっと。あ、ここすっごいカチカチだ。ぐにぐにー、どう辰巳君? 気持ちいい?」

 

 勿論気持ちよかったので、そう返事をしようとしたが口を開くとあまりの快感に「らめぇぇぇぇ!」という情けない声が出てしまいそうで、俺は自分の口を手で押さえ込んだ。そんな声を出してしまったら、俺は駄目になってしまうだろう。いろんな意味で。

 

「……っ」

 

 何か不倫の真っ最中、不倫相手から旦那に電話をかけるように命令された奥様みたいでちょっと興奮する。

 口を開かないように必死で耐えつつ、このまま寝てしまったら午前中の講義には出られないので、眠りの誘惑にも抗う。

 だが誘惑というのは抗えば抗うほどその濃度を増していくもので、体の中からあふれ出す眠気は限界に来ていた。

 

 そして――プツンと。

 

 俺の中で何かが切れた。決定的な何かが。

 

 決壊した眠気は瞬く間に俺の体を包み込み、俺は穏やかな眠りに身を委ねたのだった。

 

「あれ? 辰巳君? あ、寝ちゃってる。……えへへ、かわいい寝顔」

 

 

 

■■■

 

 

 夢の中で目を覚ました瞬間

 

『ガハハハ! 待ってたぜ坊主!』

 

 と蝶のマスクで顔を隠した肉屋のオッサンが鞭を構えてスタンバってたので、心臓が止まりそうになった。

 以前見た夢の続きだ。

 ここまで露骨な天国から地獄があっただろうか。

 このままだとこの地下室にある特に意味のない歯車を回しつつ、オッサンに舐めるように視姦される拷問を受けることになってしまう。

 

 にじりよってくるオッサンから、逃げようとするも背後は壁で逃げ場はない。

 万事休す――そう諦めかけた瞬間、空から眩い光が降りてきた。

 

 その光は神々しく輝き――

 

『辰巳に酷いことをするのは許さんでゲソ!』

 

 そう言って触手を発射、オッサンを貫いた。オッサンはなんか死んだ。

 

 俺はこの声を知っている。この穏やかで可愛らしいCVは金元――

 

『……辰巳が無事でよかったでゲソ。最後の最後に辰巳に会えて……よかった』

 

 最後、だと?

 何だよ……その言い方だと、まるでもう会えないような、そんな……。

 

『大丈夫でゲソ。いつだって私は辰巳の心にいるでゲソ。会えなくなっても……一緒じゃなイカ?』

 

 俺は得体の知れない焦燥感に導かれるように光に手を伸ばした。

 だけどすぐ側にあるはずの光には決して手が届かず、光の中で微笑む彼女に触れることはできなかった。

 俺はゆっくり消えていく彼女の名前を叫び――

 

 

■■■

 

「――はっ!?」

 

 俺は目を覚ました。どうやらエリザのマッサージが気持ちよくて眠ってしまったらしい。

 畳にうつ伏せで寝たため、頬に畳の跡が残っていた。

 

 ふと頬に残った畳の跡に触れていると、冷たい物を感じた。

 その冷たい物は涙だった。なぜか俺は涙を流していた。よく分からない喪失感が胸の中に横たわっている。

 それが何かは決して分からなかった。きっと、その喪失感の正体が分かる日は永遠に来ないだろうと、それだけが理解できた。

 

「とりあえず起きるか」

 

 今が何時か分からないので、起きてスマホを取ろうとしたが不思議なことにあまり体が動かない。

 その原因は俺の背中に乗っかったまま、穏やかな寝息をたてているエリザだった。

 

「えへへぇ……辰巳君の背中あったかぁい……」

 

 などと言いつつ、背中にしがみ付いているので、上手く身動きが取れない。

 しかし決して不快ではない。密着している体から感じる暖かさは心地よく、抱きしめられるという行為は相手からの信頼を感じて精神的な満足感を得ている。

 それに背中に柔らかい物が押し付けられる、いわゆる『当ててんのよ現象』をリアルタイムで観測できて学術的にも興味深い。

 拘束されているという点でM的な要素も若干満たされている。

 

 あれ? この状態無敵じゃね? 最強スタイルだわ。

 

 このままこの状態を維持したまま一生を過ごすにはどうすればいいかを考えてみたが、その前に絶対に抗えない生理現象に襲われたので、どうやらこの状態を永遠に続けることはできないらしい。超残念。

 

「おーいエリザー。トイレに行きたいんで、ちょっと離してくれー」

 

「むにゃんむにゃん……」

 

「いやむにゃんむにゃんじゃなくて。何だその寝言、かわいいな」

 

 そうではなく。

 

 俺はエリザを起こす為に、体を揺すった。背中に乗ったエリザも揺れる。背中に当たる2つのプリン体も一緒に揺れて、俺の心も揺れ動いた。

 だが、エリザが起きる気配は無い。よっぽど俺の背中の寝心地がいいのか、眠りの国から帰ってこない。

 

 そうこうしてる内の俺の生理現象ちゃんもその勢いを増してきた。いつ『尿意――ドン!』とスタートしちゃうか、分からない状態まで来つつある。

 

「お、おーいエリザ! マジで! マジで起きてくれよ!」

 

「うへへ……メリーゴーラウンド楽しいね辰巳君……」

 

 かなりの勢いで体を揺らしているのだが、今のエリザにとってはアトラクション感覚でしかないらしい。

 

「ヤバイよヤバイよヤバイよヤバイ!! ヤバイって!! 本当にヤバイよ コレはヤバイ!!」

 

 焦りによって誘発されたのか、尿意は更に勢いをドンドン増していく。

 このままじゃ、エリザを背中に乗せたまま、部屋の中でこの年になって失禁、ポルノ的に言うならジョバっちゃうよ! 俺、ジョバっちゃうよ!

 そんな事になったら、目覚めてはいけない性癖が目覚めてしまいそうだ。できれば心の中でじっとしていてくれ……。

 

「くっ、こうなったら!」

 

 俺は全身に力を入れて、立ち上がった。立ち上がることでエリザが離れることを期待したが、奴さん抱っこちゃん人形みたいに俺の背中から離れない。仕方ないので、そのままトイレに向かう。

 

 そして――

 

 

■■■

 

 

 全てが終わった後、手を洗っている最中にエリザは目を覚ました。

 背中に張り付いたまま眠ってしまったことに、照れながら謝罪をしつつ「でもね、すっごく居心地よくていい夢も見たんだ。辰巳君と遊園地に行ってね、それから家に帰って沢山のお花に一緒に水をあげたんだ」とニコニコしながら夢を語った。

 

 花の香り……水をあげる……。

 いや、何も言うまい。エリザは幸せな夢を見た。それでいいじゃないか。

 真実は時に残酷だが、語られなければそれは存在しないものと同じだ。 

 

 その後、昼食を食べた後、夕方にある講義の時間までエリザと遊んだ。

 最初は講義をサボるつもりだったが、夕方の講義は完全に出席重視の授業で出席さえしていればテストで下手の点をとっても単位が貰えると、デス子先輩から教えてもらったので、面倒だが出なければならない。

 

 エリザとはオセロゲームをして遊んだ。実家から越してきた時に持ってきた物だ。

 昔はよくこれで雪菜ちゃんにボコボコにされたものだ。いくらハンデを貰おうとも、雪菜ちゃんに勝つことはできなかった。最終的に目隠しをした雪菜ちゃん相手に挑んだが、それでも、まあ負けましたね。ボコボコにね。それでも決して手を抜かなかった雪菜ちゃんのそういう所は好きだったりする。

 

 さて、エリザとのオセロゲームの結果だが。

 白が7分に黒が3分、繰り返すが白が7分に黒が3分で――俺の勝ちだ。

 

「ぐぬぬ……」

 

 不満げに頬を膨らませながら、盤面を睨みつけるエリザ。その表情には普段の彼女からは珍しく『悔しい』といった感情が強く出ていた。

 

「も、もう1回!」

 

 そしてすぐさま、再戦を挑んでくる。

 

 再戦の結果はやはり俺の勝ちだった。俺の名誉の為に言っておくが、別にイカサマをしてるわけでもハンデを貰っているわけでもない。

 だた純粋に、エリザがクソ弱いだけだ。そう、びっくりするほど弱い。

 俺如きが思いつく罠に簡単に引っかかるし、小学生でも鼻ほじりながら見抜くような見え見えの罠を張って来る。

 

 最初あんまりにも弱いので、俺を哀れんで手を抜いてるかと思い

 

『見下すな! 俺を! お前は! お前だけは!』

 

 と症年のように激昂しかけたが、何のことは無い。ただ単純に弱いだけだった。

 真剣に本気でゲームに挑んで、この強さなのだ。

 そして負けると年相応に悔しがって「もう1回!」と何度も勝負を求めてくる。

 

 普段は天使で出来たお嫁さんのような振る舞いを見せるエリザだが、こうやって子供っぽい姿を見せられると素直に微笑ましい気持ちになる。

 いつもは見せない本気で悔しがる顔が見られるので俺としても素直に楽しいのだが、あまりに弱すぎるので何度も求められるとちょっとげんなりしてしまう。

 

「よし、じゃあ終わろうか」

 

「えぇー!? あ、あと1回! あと1回だけ!」

 

 そう言って破滅していったガチャラーがどれだけこの世の中にいるのか、エリザは知らないだろう。

 だが、このままじゃキリがないし、俺も疲れてきた。

 

「……わ、分かった。じゃあ次、辰巳君が勝ったら、何でも好きなこと質問してもから! だからもう1回!」

 

「先攻はそっちに譲るわ」

 

 何でも好きなことかぁ。

 何聞こうかな、普段じゃ絶対聞けないことを聞くことにしよう。楽しみだなぁ。

 

 今日のパンツの色……は、聞いても意味ないか。さっきマッサージされてる時にも気づいたけど、今日例の日(ノーパンデー)だったわ。

 だったら風呂に入ったらどこから洗うか……も知ってるか。足の先から洗うんだよな。ちなみに俺は膝の裏から洗うんだ。クラスのみんなには内緒だよ?

 となるといつまでおねしょをしてたか……いや、自分の体のどの部分が敏感……いやいや、異性のどんな部分に魅力を感じるか……駄目だな。間違いなくヒかれるわ。辰巳君きんもーい☆とか言われちゃうわ。

 

 いざ何でも聞いていいって言われても、あんまり変なこと聞くと嫌われるし、これ正直あんまり美味しくないな。

 

「……ひぅ。また負けた……ぐすん」

 

 質問について考えていると、いつの間にか勝負は決していた。

 目の端に涙を浮かべて悔しがっているエリザを見れば、その勝敗は明らかだろう。

 

 がっくり肩を落としているエリザに変な質問をして鞭打つのもアレだし、ここは当たり障りない、それでいて前から地味に気になったことについて聞いてみよう。

 

「ぶっちゃけ聞くけど……エリザって日本人じゃないよな? どこの出身なんだ?」

 

「え? それが質問でいいの? 別にそれくらい、聞かれたらいつでも答えるのに」

 

 確かにそうだ。

 

「うん、じゃあ答えるけど。えっとね、わたしが住んでたのはイギリスだよ」

 

「イギリス……」

 

 イギリスかぁ。確かにイギリスっぽい美少女オーラ出てたしな。こう何ていうの? 北欧的な? まあ、適当だけど。

 

 しかし、いざイギリスって言われても、具体的に浮かばないな。飯が不味いらしいのと、ヘルシングの本部があって、アナコッポラちゃんの出身地ってことくらいしか分からないな。

 

 それにしてもわざわざイギリスから、どうして日本に来たんだろうか。しかも幽霊ってことは死んでるわけで。死んでから日本に来たのか、それとも日本で死んだのか……。

 

 今更だが、そういったエリザの核心について、聞くタイミングを逃してしまったように思う。

 多分会ってすぐの時でも、俺が聞いたらその辺り答えてくれたんだと思うけど……何であの時の俺は深く聞こうとしなかったんだろうか。

 

 必要以上にエリザの事情に踏み込みたくなかったからだろうか。

 同居することになったとはいえ、そこまで親しくもない相手からの情報は煩わしいと感じていたのかもしれない。

 それに相手に踏み込めば踏み込むほど、距離が近くなって……裏切られた時の辛さが増す。

 

 裏切る。そう裏切られるのが怖いんだ。

 過去のあの時の出来事があって、裏切りに対して嫌悪感と恐怖を覚えている。

 あの出来事が俺の中に深くにある黒い部分を形作っている。

 

 その黒い部分がいつ無くなるのか、それとも一生付き合っていくのかが分からないが、少なくとも……エリザが裏切ることはないだろう。

 

 エリザなら大丈夫だ。俺を裏切ることはない。

 

 俺は自分にそう言い聞かせた。

 

 

■■■

 

 未だ未練がましくオセロボードを見つめるエリザを背に、俺は大学へ向かった。

 

 通学途中、メールが届いた。送信主は――今俺を取り巻く厄介な状況を引き起こしている人物、雪菜ちゃんだ。

 震える手でメールを開く。

 

 件名『あと5日』

 

 うひゃー! コワーイ! つーかもしかして、最終日までこのメール毎日届くの? 雪菜ちゃんって暇なの?

 

 いやあの子、生徒会長だし弓道部の部長でもあるし、自分磨きの為に日々の勉強と運動は欠かさないしで、暇なんてことはないと思うんだけど……。

 忙しい時間の合間を見つけてこうやってメールを送ってくれている……なんて考えると非常に萌えるのだが、我が妹に限ってそういうことはないと思うので、単純に俺を焦らせる為だけに時間を作っているのだろう。

 

 昨日とは違い、今日のメールには本文があった。

 

『今日は兄さんが帰ってきた後に過ごして頂くスケジュールを作りました。添付しておきますので、今の内にある程度は把握しておいて下さい』

 

 とのこと。あの妹、完全に俺がダイエットに失敗するものと思っていやがる。まあ、実家にいた頃の俺なら、間違いなく失敗していただろうけど、今の俺には頼るべき仲間がたくさんいる。

 雪菜ちゃんの敗因はただ一つ、俺の交友関係を調べていなかったことだ。

 

 とりあえずジュルスケを確認しておこう。

 

6:00 起床

 

6:15 朝の体操

 

6:30 奉仕(調教)

 

6:45 朝の勉強

 

7:00 朝食

 

7:30 奉仕(調教)

 

7:45 朝の運動

 

8:00 奉仕(調教)

 

「な、何だこれは……」

 

 起床してから2時間で既にこの過密スケジュールである。小学生が考えなしに立てた夏休みの予定かよ。

 つーか、間に挟まる奉仕(調教)ってなに? 15分の間に何されちゃうの? 奉仕をするの? されるの? それによって大きく意味が変わるんですけど。

 

 こ、こんな分けの分からないスケジュールに従ってられるか! 俺は家に帰らない!

 

 俺は雪菜ちゃんに『トイレに行く時間がない。やり直し』とだけ打ってメールを返した。

 するとすぐにメールが返ってきて『吸収性が高く漏れにくい物を用意しているので、夜まで持つ予定です。ご心配なさらず』と書いてあったから、ウチの妹は頭がおかしいんだなぁと、改めて思った。

 

 

 

■■■

 

 

 

 大学に辿り着くと、校門の辺りで美少女と遭遇した。

 妹から送られてきた恐ろしいスケジュールを見てすっかり拗ねてしまったマイお目目がパッチリ開いた。

 

「……おや」

 

 美少女はどうやら俺の知り合いのようで、俺を見つけるやいなや、そのムスっとした表情をわずかに綻ばせ分かる人にしか分からない笑みを浮かべた。

 全体的に黒が多い、ゴシックロリータな服と赤白のストライプリボンを揺らしながら、ゆっくりだが、先ほどより若干小走りに見える速度で近づいてくる。

 

 美少女は彼女の香り(柑橘系)が漂ってくる距離まで接近してから、アメリカ人がやるような「やれやれ」といったポーズをとった。

 このやれやれ系美少女の正体は一体誰なんだ……あ! 俺の親友こと、遠藤寺ちゃんじゃないですか!

 

「やれやれ、随分な重役出勤だね。もう夕方だよ」

 

「そういう遠藤寺は今帰りか?」

 

「まあね。もう暫くいつもの場所で時間を潰して君が来たなら雑談でもしようかと考えていたんだけど、少し用事が入ってね」

 

「ふーん。あ、遠藤寺、その用事とやらまで、まだ時間ある? 聞いてくれよ、実は今朝の話なんだけどさ」

 

 早速俺は今朝の素敵な出会いについて語ることにした。

 俺の超スーパーすげぇどすばいコミニュケーション能力に遠藤寺が俺をリスペクトするか、もしくは妄想甚だしいと可哀想な者を見る目で見られるか……2つに1つだが、どちらにしたって俺に損は無い。

 

「へぇ、その話がボクの好奇心を少しでも刺激してくれる物なら、とても嬉しいけどね――っと、話の途中ですまない。電話だ」

 

 そう言うと遠藤寺はスカートのポケットから、スマホを取り出した。

 一瞬、この間撮られて待ち受けにされた俺の変顔が映った画面が見えて、ちょっと恥ずかしかった。

 そんな変顔スマホを耳に当てる遠藤寺。

 

「――ボクだ。すまないが急用でないなら、後にしてくれないかな? ボクは今、愛すべき親友からとても素敵で愉快な、抱腹絶倒間違いなし、構後世に語り継ぐべき壮大な話を聞くところなんだ」

 

 電話口の相手にそんなことを言う遠藤寺。愛すべき親友って部分でキュンときたが、首が痛くなるくらいの高さにハードルを上げるのはやめてほしい。そんな大した話じゃないのに。

 ここは遠藤寺の期待に応える為に、話を盛っておくべきだろうか。そうだな……とりあえずメインの登場人物である美咲ちゃんに漆黒の片翼が生えていたことにしておこう。

 

「そんなボクの貴重な時間を邪魔するような事情が――なに? 2人目の犠牲者が出た?」

 

 犠牲者とか、どうにも穏やかな話じゃないですね。

 

 スマホから聞こえてくる声に、俺は聞き覚えがあった。この甘ったるいアニメ声のふにゃふにゃした情けない声。

 恐らくは遠藤寺の知り合いである女刑事だろう。

 妙に事件に巻き込まれやすい体質で、巻き込まれては手に負えずしょっちゅう遠藤寺に助けを求めてくるのだ。今回も恐らくなんらかの事件に巻き込まれて、遠藤寺を呼んでいたのだろう。用事ってのはこのことか。

 

「確かボクが行くまで、全員部屋から出さないようにと指示を出していたはずだが」

 

 遠藤寺の声が低くイラついたものになる。

 

「ほう。犠牲者が? 『犯人がいるかもしれない部屋になんていられない』そう言って出ていたった? なるほど……で、君はそれを黙って見ていたのかな? 止めようとはしたがあまりの剣幕に腰を抜かしてしまった?」

 

 表情こそいつもの遠藤寺だが、かなりイラついてるのが分かる。

 目がいつもより若干細まって、口角が吊りあがっている。遠藤寺の怒っている姿なんて珍しい。

 レアなのでとりあえず写真に撮っておこう。

 

「何とか立ち上がって追いかけたら、既に犯人に手にかかった後だった、と」

 

 電話口から、泣き声混じりの謝罪が繰り返し聞こえた。

 

「そうかそうか。今から君の為を思って、かなり酷いことを言わせてもらう。いや、君の許可は聞いていない。では――」

 

 遠藤寺はニコリと笑顔を浮かべた。だが俺と一緒に飲んでいる時とかに浮かべる本当に小さな笑顔ではなく、どこか攻撃的な笑顔だった。

 正直怖い。夜中トイレに起きて廊下でこの笑顔を浮かべる遠藤寺と遭遇したら、体中の穴という穴から失禁する自信がある。

 

 そんな笑顔を浮かべたまま、遠藤寺は言った。

 

「――無能。キミは一体、どれだけ無能なんだい? ボクは何も難しいことを言っていないだろう? ただ暫くの間、集めた人間を部屋から出さないように指示しただけだよ? 犯人に繋がる証拠を探しておけ、怪しい人物がいたらそれとなく情報を引き出しておけ、なんてことは言っていないだろう? ああ、いい。もういい。もう謝罪はいい。君の謝罪は聞き飽きた。耳にタコが出来るのほどにね。いいかい? 今度こそ、ボクがそちらに行くまで、誰も部屋から出すな。1人もだ。何なら支給されてる拳銃で脅すなりなんでもすればいいさ。とにかく……なに? 拳銃を忘れた? ……もういい。知らないよ。誰かが出そうになったら、その無駄にでかい胸でも使って足止めでもすればいいさ。うるさい黙ってくれ。泣いてないで行動しろ。じゃあ切る」

 

 そして遠藤寺は泣き声が止まないスマホを乱暴にポケットにしまった。

 先程の攻撃的な笑顔から、自然ないつもの表情に切り替わる。

 

「や、すまなかったね。じゃあ君の話を――」

 

「いやムリムリムリ! この流れで俺のそこまで面白くない話はできねーよ! いいから早く行ってやれよ!」

 

 巨乳の女刑事さんが涙を流しつつ遠藤寺を待っているのに、俺のどうでもいい女子高生との出会い話なんてできねえよ。

 この流れで「今朝ジョギング中に漆黒の羽を生やしたJKとさあ~」なんて切り出せるほど、俺は常識人をやめてない。

 

「む。なんだい? 君はボクに君との雑談より、今孤島の洋館で起こっている事件の方を優先しろと、そう言うのかい?」

 

「そりゃそうだろ。人が死んでねんで!?」

 

「ああ、そりゃ誤解だよ。死人は出ていない。ただ被害者は体中の体毛を剃られてその画像をネットにアップロードされるだけだよ」

 

「死んだ方がマシだろそれ……」

 

 何が怖いって、犯人の目的が一切理解できないところが怖い。

 

 俺は必死で遠藤寺を説得した。今、遠藤寺を必要としている人間がいること。俺の話なんていつでも聞けること。探偵としての頑張ってる遠藤寺は素敵、抱かれたい、と。

 俺の説得の甲斐もあってか、やっと遠藤寺が折れた。

 

「まあ……君がそう言うなら、分かった。行く事にするよ。君の教科書に載せるべき、いやモノリスに刻んで宇宙に住む他の知的生命体へ送り届けるべき愉快な話を聞けないのは残念だけど、それは次君に会う時の楽しみにしておくよ」

 

「お願いだからあんまりハードル上げないで」

 

 もうハードルが上がりすぎて、成層圏を突破している。

 

「ん。なんだったら君も一緒に行くかい? 使えない無能刑事よりもまだ君の方がよっぽど使える。それに君が傍にいてくれた方が、ボクのモチベーションも上がる」

 

「嫌だよ。間違いなく俺が酷い目にあうって前の時で学んだわ」

 

 以前、こういった誘いに乗って遠藤寺の事件に巻き込まれたことがある。その時のことはあまり思い出したくない。

 ただその時の事件のせいで、ホッケーマスクに対して強いトラウマを抱いた、言えるのはそれだけだ。

 

「なんだい。まだ前のことを根に持っているのかい? あの時だって、済んでのところでボクが助けに入ったじゃないか。今回も責任を持ってボクは君が守る、必ずね」

 

 遠藤寺のことだから、守護ると言った以上必ず守護ってくれるとは思うけど……でも、怖いものは怖いんだよ!

 この恐怖は1度事件に巻き込まれた人間にしか分からない。コナン君の取り巻き小学生は凄いよ……あんだけ事件に巻き込まれて平然としてるとか……。

 

「つーか、次の講義出ないとヤバイやつなんだよ。悪いけど何言われても、行けないものはいけないから」

 

「むぅ……そうか。そういうことなら仕方が無い。君が居てくれると推理が捗るんだけどね」

 

 しょんぼりする遠藤寺にちょっと罪悪感を覚えた。

 まあ……いつもお世話になってるし、そこまで危なくなさそうなら、付き合ってやってもいいかもしれない。

 でも孤島とか洋館、先祖の呪いみたいなキーワードが入った事件はマジで無理。

 

「じゃあ行ってくるよ」

 

「心配はしてないけど、まあ気を付けてな」

 

「ふふっ……ありがとう。ボクの身を案じる君の言葉は素直に嬉しいよ」

 

 そう言って遠藤寺は校門まで歩き、そこに止まっていたリムジンに乗り込んだ。

 走り去っていくリムジン。

 リムジンに乗るゴスロリ女を見た周りの連中がザワザワしてるけど、先程まで一緒にいた俺のことは誰も見ていない辺り、俺の影ってやっぱり薄いんだなぁって思った。いや、遠藤寺が濃すぎるだけだろうけど。

 

 

■■■

 

 退屈な講義が終わり、せっかく大学に来たことだし先輩に会いに行くことにした。

 この間会いに行った時は留守だったしな。

 たまに会いに行っとかないと、変わり者の先輩のことだし「はて? どちら様デスか?」とかいって忘れられる可能性もないとはいえない。

 

 サークルの部室に向かうと、小窓から見える室内はいつものごとく真っ暗だった。

 もしかして今日も留守だろうか。そう思い扉に近づくと――

 

 

 

「――んっ、はぁ……あっ……っん」

 

 

 

 そんな水っぽい声が聞こえたので、とりあえず次回に期待することにした。 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

タイトル明後日に向かって迷走中

エロ本を買った帰り、うっかり石に躓いて転んでしまった俺は、道路に飛び出してしまった。

 

 そして最悪のタイミングで突っ込んで来るトラック。

 

 

 さらば!!! 愛する地上よ!!!

 

 

 観念して来世への扉を開きかけた俺だが、トラックの運ちゃんが超S級ドライビングを発揮して、ギリギリの所で轢かれなかった。

 

 降りてくる運ちゃん。

 

 

「馬鹿やろう! てめえ! 死にてえのか! このアホ!」

 

 

 悪鬼羅刹の表情で怒鳴ってくる運ちゃん。

 

 これまでの人生、人に怒られることなく(つーかそこまで怒ってくれるほど俺に労力裂いてくれる人はいなかった)、温いメンタルライフを送ってきた俺にとって、その罵声はとても深く突き刺さった。

 

 というか、人に本気で怒鳴られたショックで、心臓がバクバクとアクセル全開になった。

 

 バクバクバクバク……ブスン。整備不良の心臓はエンストした。

 

 そんなわけで俺は死んだのだ。

 

 

「目を覚まされましたか! 勇者様!」

 

 

 で、目を開けると目の前に、エロく改造した巫女服着た美少女が居て、俺を勇者様とか呼んでいた。

 

 周りには同じような美少女改造巫女服集団(バイク乗って珍走しそう)がいて、全員俺を拝んでいた。

 

 美少女巫女集団のボスらしき彼女は言った。

 

 

「この世界は滅びに瀕しています。謎の奇病が蔓延し、男が生まれなくなったのです」

 

 

「そこで我々はこの病気に感染しない、異世界の男性を召喚することにしたのです」

 

 

「そうです。あなたこそが――我々の希望! どうか我々を導いてください!」

 

 

 とか言われて、おいおいこれって最近流行りの異世界召喚ものかよ? しかもこの展開……成人向けじゃねーか!と内心大喜び。

 

 はぁーやれやれ。俺ってばこの世界でこの美少女達相手に希望という名の――種馬にならざるをえないってわけか。

 

 いいよ、やってやるよ。俺が希望の星になって……この世界をミルキーウェイで輝かせてやろうじゃん! 俺のエクスカリバーが約束された未来を切り開くぜ!

 

 

「何と言うありがたいお言葉……!」

 

 

「では早速お勤めを――」

 

 

 展開はえー。ますます成人向け雑誌に載ってる21ページくらいの漫画っぽい。でもいいよ。こういうの嫌いじゃないわ。

 

 あんまり背景ストーリーとか描写されても、何カマトトぶってんだよ! さっさと本番行けや!って怒っちゃうタイプだしね俺。

 

 

「ではあちらの部屋に――」

 

 

 待ってるわけか……ハーレムが。俺だけのハーレムが……!

 

 ンモー、俺の体力持つかなぁ? それともご都合主義的に精力が限界突破してるとか? 課金もしてないのに。

 

 

「あちらには――我が国が総力を上げて用意した、医療研究設備があります」

 

 

 えっ。

 

 

「あなた様には、我々より何百年も進んだ知識を持って、この病気の治療法を研究していただきます」

 

 

「この世界の行く末は――あなたにかかっております! どうか! どうか!」

 

 

 

■■■

 

 

 

「そっちかよ!」

 

 

 妄想の中でくらいいい想いさせてくれよ。どう考えても種馬ハーレムライフもの(こういうジャンルあるか知らないけど)な展開だったじゃんか! んもー! あの展開から誰がJ○N-仁-的な展開予想できんだよ!

 

 

 さて、何だかとてもショックな事があったせいで、妄想の世界にインしてしまったわけだが……あれ? 何があったんだっけ?

 

 

 今いるここは……俺が通ってる大学の廊下だな。んで、目の前にあるのは……扉だ。

 

 ここは俺が所属してる同好会の部室。その扉の前だ。

 

 

 そうだ。ここで何だかすんごい事があったような……。何ろうか最近あった衝撃的なことって、田中ロ〇オ先生が10年ぶりくらいにエロゲのシナリオを書くくらいしか――とか考えていると

 

 

 

「――んっ! はぁはぁ……うんっ……はぁっ……だめ……」

 

 

 

 という水っぽい声が目の前の扉から聞こえてきたので、俺は前話……もとい少し前の記憶を取り戻した。

 

 そうだ。部室の扉の中から、こんな色っぽい声が聞こえてきたんだ。

 

 しかもちょっと普段より声が高いっていうか、苦しそうな声色だけど……この声、デス子先輩の声なんだ。

 

 そんな声が聞こえてきたから、びっくりして最近流行りの異世界転生小説の冒頭が始まったってわけだ。

 

 

 よし、説明終了。

 

 

「いやいや、いやいやいや……!」

 

 

 え、マジで!? この声先輩……え、マジでマジなの? なんなのなの?

 

 この愛しさと切なさと心強さが混ざった声って……どう考えてもアレの声だよな? アレってのはつまりアレで、1人でアレをするアレで……あれれぇ~? おかしいぞ~?

 

 

 いかん落ち着け俺。クールに行こう。

 

 

「……ふぅ」

 

 

 先輩、マジで何やってるんだよ……。あんた神聖な部室でナニやってるんですか!?

 

 

 ん、待てよ? よく考えてみると、この部室……神聖ではないよな。そもそも『闇探求セシ躯』って○リーポッターに出てくる秘密結社みたいな名前だし(出てくるとは言ってない)

 

 部室の床に、魔法陣とか書かれてるし、本棚には『黒魔術師になろう(略称:なろう)』とか『暗暗11月号~今流行りの生贄特集~』、『闇の魔術に対する防衛術に対する防衛術』、『クトゥルフ神話TRPG』、『闇金○シジマ君』……とか、どう考えても神聖からは程遠いラインナップしか並んでないし。

 

 

 でも……先輩なんだぜ? ちょっと軽めの下ネタとか振っただけでもローブから見えるちょっと見える肌を赤くしてモジモジしちゃう、そんな先輩が昼間のしかも学校の部室でそんな危ない刑事……じゃなくて危ない情事に耽るか? 

 

 しかし、そういう「私、ドスケベ事には関心がなくってよ」みたいな人に限って、家で1人でいる時はエロに興味津々で、ネットに履歴には見られたら思わず自害しちゃうようなハレンチワードがずらりと並んでたりするんだよな。まあ、俺のことでもあるけど。

 

 

 もしかしたら先輩もそんなムッツリスケベな可能性もあるのか?

 

 よくよく考えてみると、先輩が普段から連呼する『黒魔術』って性的な面があるもんな。黒魔術に夢中になったことで、先輩が性的なものに興味を持ったとしてもおかしくはない!

 

 完璧な推理だ。俺って名探偵になれるかもしれないぞ。すまんな遠藤寺、お前のお株を奪っちまって。

 

 

「デス子先輩、ムッツリドスケベ疑惑か……」

 

 

 そう考えてたら、何だか興奮してくるな。あの清純っぽい性格の先輩が昼間の部室で1人で……おいおい、考えるだけで、ムラムラしてきますね。

 

 俺の中のムラムラを司る『モンモン君』が落ち着き無くそわそわしてきたぞ(モンモン君は見た目だけでいったら、ゆるキャラランキングで20位以内に食い込めるキャラデザ)

 

 

「しかし、俺はどうするべきなんだろうか」

 

 

 相変わらず部室の中からは、切なげな声が染み出るように続いていた。

 

 ここで俺がとる選択肢は3つ。

 

 

 まず1つ目――聞かなかったことにして立ち去る。事なかれ主義の日本人的選択肢だ。実際、この選択肢が一番双方にとってダメージはないだろう。

 

 先輩は恥ずかしい秘密を暴露されることもなく、俺と先輩の中は変わらない。それどころか俺にとっては利点が大きい。今度から先輩に会ったとき「先輩、こんな風に真面目に話してるけど、部室の中でやることやってる淫乱ドスケベパイセンなんすよね~」みたいな新しい視点で先輩を観察することができる。

 

 

 そして2つ目――普通に入る。当然、黒いローブで全身を覆った『レアリティ6 孤独な攻略組――デス子先輩』のソロプレイを目撃することになるわけだ。するとどうなるだろうか? 

 

 

『ひっ!? 一ノ瀬後輩……!?』

 

 

『ご、ごめんなさい先輩! そ、そのノックはしたんですけど……返事がなくて……』

 

 

『あぅぅ……こ、これは……その……』

 

 

『本当にごめんなさい……俺、その……お疲れ様です!』

 

 

『あ、待って……!』

 

 

 的な展開になるだろうな、現実的に考えて。エロ漫画的な展開だと、この後、純愛なり鬼畜なりで俺がやることやるんだろうけど……まあ、現実的には無理だろ。やってしまったら、お互い気まずくなるだろうし、下手したら俺が豚箱行きだ。あま○み的に言うならソエンENDだ。この世界が小説で軽いエロ入ったラブコメ系小説ならワンチャンあるけど……現実だから。俺達はこの現実で生きてるから。

 

 何より、童貞の俺にこの選択肢は無理。

 

 

 それから3つ目――弱みを握って脅迫する選択肢があるな。これはまあ、部室に突入して真っ最中の先輩を撮影。その動画データで先輩を脅迫して、アレやコレを強要するルートだな。具体的に何をさせるかは規約とかに引っ掛かりそうで言えないけど、言える範囲でなら……そう、例えばあのローブを着せたまま、商店街を歩かせる究極の羞恥プレイ……とか、フフフ。

 

 いや……やったな、そのプレイ。この間、ロードワークと称してあのローブ着て先輩と2人で商店街を練り歩いたわ。今思えばアレ、究極に恥ずかしいな……。たまたま出会った大家さんなんか、泣いて逃げてったし。

 

 その他エロい脅迫は、俺が童貞だから無理。

 

 

 結局2つ目も3つ目の選択肢も俺が童貞故に選べない……と。もしこの後の人生で俺が童貞を卒業して、死んだ後に2週目の強くてニューゲームを歩むことになってから選べる選択肢なのかもしれない。ペル○ナ的な意味で。

 

 

 さて、ここは先輩の名誉を守る為にも、俺は静かに去ることにしよう。

 

 

「はぁ……あぅっ、……ん……んんっ」

 

 

 ただそれだと勿体ないから、中の様子を想像するくらいはいいだろう。

 

 先輩が、蝋燭の明かりだけが照らす暗い部室の中で、長いローブを太ももまで捲り上げて、白い指をローブの中に……うっ――

 

 

「悶々するモン!」

 

 

 やっべ、あんまりにも興奮しちゃって、モンモン君の決め台詞が暴発! おい、学校に居るときは出てくるなって言っただろ? 全く……。

 

 俺が胸ポケットから出て来た(という設定)のモンモン君を諌めていると、扉の中から何かが倒れる音が聞こえた。その次に「誰です!?」という声。どうやら思っていた以上に決めセリフのボリュームが大きく、先輩に聞こえてしまったらしい。

 

 だがまだ挽回できる。ここにいるのが俺だとはまだ気づいていないはず。

 

 

 ベタだが、動物の真似でやり過ごすことにしよう。

 

 

「――にゃーん」

 

 

「む! その独特な鳴き声は、アフリカ大陸熱帯雨林に生息されているとされるUMA――モケーレムベンベ!」

 

 

「一ノ瀬辰巳ですよ先輩」

 

 

 猫の鳴きまねをした筈が、意味不明なUMAと間違われたんで恥ずかしくなって自首してしまった。

 

 俺が名乗ったからか、警戒の強かった先輩の声が和らいだ。

 

 

「はぁ……一ノ瀬後輩でしたか。ん? い、いつからそこに?」

 

 

「5分くらい前ですかね」

 

 

「ご!? と、ということは……ワタシの声は……」

 

 

 ここで俺が普段から『え? なんだって?』を多用する難聴系主人公としての伏線を張っておけば、聞こえませんでしたと返答できただろう。

 

 だがアニメでキャラが喋った声にならない声(「……っ!」みたいな)だけで声優を特定できるレベルで俺の聴覚は正常なので、そういうわけにはいかなかった。

 

 大人しく真実を伝える。

 

 

「ええ……まあ、はい。聞こえてました」

 

 

「うっ……不覚デス。まさか外まで聞こえているとは……」

 

 

 不思議なことに、先輩の声には殆ど焦りが含まれて居なかった。少し困った、くらいの声色である。悲鳴くらいあげると思ってたのに。

 

 

「はぁ……つまり、ワタシが何をしていたか、一ノ瀬後輩にもバレてしまったというわけデスね」

 

 

「ま、まあ、そうですね。苦しそうなヨヨ様の……じゃなくて先輩の声が聞こえたので、もしかしたら、アレかなーて」

 

 

「やれやれ、恥ずかしいものを聞かせてしまいましたね……フフフ」

 

 

 ソロプレイを見られたとは思えない声。

 

 そんなちょっと早弁がバレちゃったくらいのノリで言っちゃうんだ……。え? 先輩ってそういうタイプなの? オープンスケベなタイプ? マジで?

 

 

「まあ、聞かれてしまっては仕方がないデス。一ノ瀬後輩入ってください」

 

 

「え、いいんですか?」

 

 

「ええ。せっかくですから、手伝ってもらうことにします」

 

 

「手伝――え!?」

 

 

 手伝うってつまり……そういうこと!? 先輩ってマジでそういうタイプなの!? そこまでオープンなの!?

 

 俺の前では初心キャラ被ってて、実は今の先輩が本当の先輩だったってこと?

 

 

「さあ、入ってください。もうワタシ1人ではダメなんデス……一ノ瀬後輩、早く手伝って……」

 

 

 少し息があがっているからか、色っぽさが混じったの声で誘ってくる先輩。

 

 

 でも自分アレですから。こう見えてかなり硬派なんですよ。こういう一時の過ちとかはノーサンキューなんですよ。

 

 やっぱ、こういうのって愛と順序が無いとダメだと思うんですよ。

 

 だから先輩、こういうのはもっとお互いを知り合って段階を踏んでから――

 

 

「フフフ、いらっしゃい一ノ瀬後輩。待っていましたよ」

 

 

「え!?」

 

 

 気が付けば、部屋の中に入っていつもの椅子に座っていた。

 

 どうやら俺の体は正直者らしい。誘惑に負けて俺の意思とは無関係に入ってしまったようだ。

 

 

 部屋の中はいつものように暗く、テーブルを挟んで正面の先輩の顔はうっすらとしか見えない。

 

 だが蝋燭の光で照らされる先輩の顔は、明らかに何か疲れる運動をした後のように、汗が浮かんでいた。

 

 室内には嗅いだことの無い、不思議な香りが充満していた。どこか癖になる匂いだ。この香りは俺のスメルリストに登録されていない。

 

 

 周りを見ると、床に何やら白い紙のような物がクシャクシャに丸まって落ちていた。

 

 これは……生々しい! 実家に居た頃、俺の部屋もこんな感じで『……床を妊娠させるつもりですか、兄さん』とか雪菜ちゃんに心底呆れられたものだ。

 

 

「では早速、手伝ってもらうことにしましょう」

 

 

「いや、でも先輩……やっぱりこういうのはマズイですって」

 

 

「何を言っているのデスか。ワタシ、もう我慢できないのデスよ。一ノ瀬後輩が手伝ってくれないのなら、嫌ですけど他に人に手伝ってもらうしか……」

 

 

「それはもっとマズイ!」

 

 

 くそ……まさか先輩にこんな一面があったなんて。だが知ってしまった以上、知らん振りはできない。

 

 手伝うしか……ないのか。でも俺……ハジメテなのに、そんなこと言われても……困るんですけど。

 

 

 内心ドキドキしてる俺をよそに、先輩は鞄の中から何かを取り出そうとしていた。

 

 

「ではこれをワタシにお願いします」

 

 

「えっ。……道具を!? いきなり!?」

 

 

「道具? ええ、まあ……道具には違いないデスね。ワタシ1人ではどうにも上手く使えなくて……こう、本当に触れたい場所に届かないというか……」

 

 

 大丈夫なのかこの会話!? つーか先輩の未知部分開きすぎ! オープン! オープンパンドラ!(これが言いたかっただけ)

 

 よーし、今度からビッチです子先輩って呼んじゃうぞ! 

 

 

「では残り少ないので、慎重にお願いします」

 

 

 そう言って、例の道具を俺に手渡す先輩。

 

 思っていた以上に軽い。そして冷んやりしている。

 

 へー、初めて触ったけど、スベスベしてるんですねー。それに何だか薄い。

 

 まるで湿布みたい。

 

 

 つーかこれ、湿布だわ。

 

 

「あの、これ……湿布ですよね?」

 

 

「ええ、そうデスが? 貼るのを手伝ってくれるんデスよね?」

 

 

 俺は手元に湿布を見て、それからページを上にスクロールした。

 

 

 なるほど……湿布だな。アレか、あの悩ましい声は……湿布を貼ろうと頑張っていた声か。

 

 で、何回も失敗したと。床に落ちてるのはその残骸と。先輩、体固そうですもんね。

 

 

 うん、まあ……知ってた。知ってたもん。

 

 だから……残念じゃないもん! もんもん!

 

 

 

■■■

 

 

 

「ひゃっ、ちべたい! ……んんっ」

 

 

 俺は椅子に座る先輩の前に跪き、先輩の脹脛に湿布を貼っていた。

 

 可愛らしい悲鳴が聞こえたので顔を上げると、わざとらしく咳払いをする先輩の顔が薄ら赤くなっていた。

 

 

 しかし……いい足だ。染み一つないスベスベした足。

 

 今湿布を貼ってる脹脛もやわっこくて……突き立てのお餅みたい。大根おろしを乗せてパクっと行きたいものですな。勿論、醤油に浸して。

 

 それにしてもいい肌触りだ。女子大生の足を合法的に触れるとか……筋肉痛様様だな。

 

 

「……一ノ瀬後輩、少し触りすぎでは?」

 

 

「え!? あ、いや……ちゃ、ちゃんと貼れてるかと思って! あはは!」

 

 

「……別にいいんだけどね。……ふふっ」

 

 

 いかんいかん触りすぎた。変態後輩だとか思われたら、間違いなく嫌われちゃう。自重しよう。

 

 でも、あんまり怒ったような声じゃなかったな……ちょっと笑ってたような。いや、人ってマジ切れしたときは笑うって言うし……。

 

 

 とりえあえず先輩の気を逸らすために、何か適当に話題でも……。

 

 

「せ、先輩! 筋肉痛って何かしたんですか?」

 

 

「それがその……ちょっとジョギングとやらを」

 

 

 先輩の口から、今俺の中でホットな話題が出た。超奇遇。

 

 

「先輩がジョギング? 正直意外ですね。そういうのやるタイプなんですか?」

 

 

「まさか。ワタシ、肉体的な性能を上げることは必要ないと思っているので。闇に生きるワタシにとって必要なのは精神的な性能。飛んだり走ったりするのはナンセンスデスよ」

 

 

「でもやったんでしょ? ジョギング」

 

 

「それはまあ……ちょっと妹に誘われて。基本部屋に篭もりっきりのワタシを心配したのか、半ば無理やり引っ張り出され……」

 

 

 妹の事を語る先輩の声は、いつもの作った声ではなく自然なものだった。

 

 確か前に電話で話したけど、空手やってるんだっけか。電話口でも分かる元気な声だったし、先輩とは真逆なタイプらしい。先輩が闇としたら妹ちゃんは光……光ちゃん? 光ちゃん……電波○な彼女……新刊……うっ、頭が。

 

 

「ワタシが渋ると『お姉ちゃんは最近ちょっと肥えてきたでしょ。このままじゃ、ぽっちゃり系女子大生になっちゃうよ』なんて失礼な事を言う妹デスよ。もっと姉であるワタシに敬意を持って欲しいものデス」

 

 

 いや、先輩はもう少しぽっちゃりした方がいいかもしれない。ローブで分かりづらいけど、足見る限り、結構痩せてるっぽいし。おっぱいは大きいけど。おっぱいは大きいけどな。

 

 

「まあ妹の顔を立てる意味もあって付き合ってあげたのデスが……このザマデスよ。翌日には体中に耐え難い痛みが……! 例えるなら、ケロベロスに牙を突き立てられたかのような、鋭く熱い痛みに襲われたのデス」

 

 

「ケロベロスて」

 

 

 よく分からない例えに、思わず笑ってしまう。

 

 

 しかし先輩。肌が白い。本人の言う通り部屋に篭もりがちだからだろうか。黒いローブのお陰でより一層白く見える。

 

 

「先輩、めっちゃ肌白いですね」

 

 

「ええ、まあ。殆ど外出はしないので。妹からは不健康に見える、と言われますよ」

 

 

 不健康。確かにそう見えるかもしれない。

 

 でも、俺は好きだ。もともと白い色は好きだし。

 

 青い空に浮かぶ白い雲、町に降り注ぐ白い雪、海との境界線である白い砂浜、そして海に漂う白いイカ、やっぱり大正義の純白パンツ……白って最高やね。

 

 

 そんな想いも込めて、白を讃えた言葉が口からポロリ。

 

 

「そうですか? 俺は綺麗でいいと思いますけどね、先輩の肌。好きですよ」

 

 

「……」

 

 

「あれ? 何か肌が赤くなって……」

 

 

「んんっ! んんんっ! もうそこはいいから! 次! つ、次お願いね、一ノ瀬君!」

 

 

 先輩が慌てた口調になったので、不思議に思い顔を上げようとしたが、先輩の右手に頭を押さえつけられたのでそれは叶わなかった。

 

 

「じゃ、じゃあ次に貼るところは……」

 

 

「太ももとかはどうです? 脹脛がこんなだから、太腿も結構きてるでしょ? そうでしょ? ついでだから俺、貼っちゃいますよ!」

 

 

「い、いや、確かに結構痛いけど……そこは自分で貼れるから」

 

 

 ちっ、残念だ。このままローブをずり上げてもらって、太腿を拝見できると思ったんだけど。

 

 大変残念だ。思わず溜息が出ちゃう。まあ、先輩のおみ足を膝から下とはいえ拝見できたのでよしとしよう。

 

 

「……一ノ瀬君って意外と……ふーん。よ、よし……ここは……」

 

 

「え、何ですか?」

 

 

「い、いえいえ! な、何でもないデスよ?」

 

 

「でも何かニヤついてたような……」

 

 

「気のせいデス!」

 

 

 そしてまた、グイと頭を押さえつけられる。さっきから人の頭を押さえつけて……変な趣味に目覚めたらどうしてくれる気なんですかね?

 

 定期的に這い蹲らせてくれる権利を頂けるならどんどんやってくれて構わないんですけどね!

 

 

「あ、あれデス! 次は……肩をお願いします!」

 

 

「え、肩って……」

 

 

 とりあえず立ち上がり、先輩の背後に回る。

 

 しかし先輩が着ているのは一枚の布で構成されたローブである為、当然肩は露出していない。

 

 背後から先輩を見下ろす俺からは、黒い布しか見えない。

 

 この状態でどうやって肩に貼るんだ? いや、そもそも太ももはダメで肩はいいの?

 

 

「背中の部分にジッパーがあるでしょう? それを引き下げてください」

 

 

「あ、マジでジッパーがある」

 

 

 よく見ると黒い布、先輩の首の付け根辺りから背中に向かってジッパーが見えた。

 

 ジッパーの色も黒いから、殆ど分からない。

 

 

「あ! い、言っておきますけど……少しだけ、デスよ? 下まで下げてはダメデスからね!」

 

 

 反逆者精神バリバリの頃だったら間違いなく、お尻の辺りまでジッパーを下げていただろうが、今の俺にそこまでの反逆精神はない。言われた通り、首から少し下に向かって下ろす。

 

 

 ジッパーを下ろした瞬間、黒い卵が割れて中から生まれるように白い肌が現れ、同時に汗混じりの体臭を感じた。闇に輝く光――神秘的なものを感じて、思わず生唾を飲み込んでしまう。

 

 この感動を文章にするとしたら、鈍器ラノベ並みの厚さになりそうなので、ここは省略。

 

 

「……ふぅ、肩に風がかかって……涼しいデス」

 

 

 ていうか今更だけど……この状況、結構ヤバイよね。

 

 蝋燭の明かりだけで照らされる部室の中で、男女が2人っきり。男が女の背後に立って、女は背中の一部を露出させている。

 

 この光景を目撃されたら間違いなく――邪教の儀式に思われるわな。何か召喚する系の。

 

 

 そんな勘違いされたら、間違いなく俺の大学生活は終わるので、初めて先輩の肌を見た感動は胸の中に保存しつつ後で取り出して感慨に耽るとして……さっさと湿布を貼る。

 

 

「ちめたいっ! ……んんっ」

 

 

 さっきから湿布貼った時のリアクション可愛いな。

 

 

 さて、これでミッションコンプリート――んん!? あ、あれ……先輩の背中に、あるはずの物がない。

 

 普通、この辺にブラ紐があるはず……。それが無いってことは、先輩はアレってことで、つまり俺が以前に妄想していた説が実証――

 

 

「終わったのなら、いいからジッパー上げてもらってもいいデスか? いえ恥ずかしいとかそういうわけではなく! そ、そうです。肉体を長時間、下界に晒すことは闇に生きるワタシにとって致命的なアレで……!」

 

 

「あ、はい」

 

 

 何やら凄い説が実証された気がするが、それはまあ後で考察するとして、ジッパーを戻した。

 

 先輩の白い肌が、闇に溶け込んでいく。

 

 

「あ、ありがとうございました一ノ瀬後輩。お陰で助かりました」

 

 

「いえいえ後輩として当然ですよ」

 

 

 果たしてそうなのだろうか。どこの大学に、後輩に肌を晒して湿布を貼らせる同好会があるのだろうか。

 

 ここにあるぞ! そうだね、あるんだから仕方がない。

 

 今回のラッキスケベ的な展開を経た俺の感想……先輩、マジで一生付いていきます!

 

 今度もこういうイベント期待してますからね!

 

 

「ええと、その一ノ瀬後輩……どうでしたか?」

 

 

「え、何がですか?」

 

 

 今回のラッキスケベイベントの感想か? んなわけないわな。

 

 

「いえ、デスから、その……綺麗って……だから……えっと、足以外の……か、かたは……」

 

 

「あの、ちょっと意味が……」

 

 

 本気で先輩の言葉の意味が分からなかったので、首を傾げる。

 

 暫く先輩を見ていると、顔を伏せてしまった。そのままプルプル震える。

 

 

「や、やっぱり何でもないデス! おっと、もうこんな時間デスね! 黒魔術の練習の時間デス! さあさあ一ノ瀬後輩! 早く出て行くのデスよ! いくら一ノ瀬後輩とはいえ、ワタシの秘奥を見せる位階にはまだまだ達していないデスからね! さあさあさあ!」

 

 

 とか言いなが先輩が『早く出て行け』という意味を込めてか、部屋の電気をカチカチとオンオフに切り替えまくるので、ちょっとうっとおしくなって部屋から出た。

 

 

 部屋から出ると、すぐに先輩のちょっと興奮した声が扉越しに聞こえた。

 

 

「も、もしもし美咲ちゃん!? わ、私! お姉ちゃん! あ、あのね、お姉ちゃん……やったよ! 超攻めちゃった! この間、ネットで見た『男を落とすテク』ってのやったの! え? あんなの鵜呑みにしちゃダメ? で、でも……効果あったもん! ちゃんと効果あったもん! 足すっごく見てたもん! は、恥ずかしかったけど肩も……見せちゃったっ! 私ってば大胆! い、今になって……死ぬほど恥ずかしい……うわ! 死にそう……恥ずかしくて死んじゃうかも! で、でも一ノ瀬君も多分喜んでたし……鼻息とか肩に当たってたし……え? どうしたの美咲ちゃん? なんか風を切る音が聞こえるけど? 新しい技の練習? 煉獄?」

 

 

 このまま先輩のお家モードの声を聞いていたかったが、何だか先輩の妹ちゃんに倒れることもできないほどの連打を食らわされるような悪寒がしたので、大人しく退散することにした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

タイトル~おかえり~

 

 

「――だよー。辰巳くーん」

 

 

 声が聞こえる。

 

 未だ殆ど覚醒していない俺の耳に、優しい声が響く。

 

 

「辰巳くん、朝だよー。起きる時間だよー」

 

 

 耳元で囁かれるは天使の歌声か。

 

 蜂蜜ようにトロリと耳の中に染み込んでくる甘い声と、頬にかかる柔らかい髪の毛がくすぐったく、布団の中に潜り込んでしまう。

 

 

「……あと少しだけ……あと30行……」

 

 

「え、えぇ……わ、わかんないよ辰巳君。それってどれくらいなの?」

 

 

 眠い。このまま心地のいい眠気に身を任せて眠ってしまいたい。

 

 だが同時に、眠りに落ちてしまえば、この天使の囁きが聞こえなくなってしまう。

 

 そんな相反する感情に身を委ねつつ、眠っているのか起きているのか中途半端な状態で過ごすこの一時は至福の時間だ。

 

 このまま後1時間ほど、天使ちゃん(ネタバレするけど実はエリザ)の歌声をバックミュージックにしつつ、布団でぬくぬくしたい。

 

 

「もー、起きてってばぁ……んもー」

 

 

 ゆさゆさと揺さぶられるが、そんなことで眠たさを司る天秤が覚醒に傾くことはない。

 

 それどころか、海に漂うヨットの上の如き緩やかな揺れは、俺の心地よい至福のまどろみを更に加速させる。

 

 

「うぅ……全然起きない。こうなったら仕方がない……恥ずかしいけど、この手しかないかな」

 

 

 ほう、この状態の俺を完全に覚醒させる術を持っているのか貴様は?

 

 どれどれお手並み拝見といきましょうかね、ホホホ(中ボスっぽい笑い)とか内心で笑っていると、腹部にポスンと何かが乗っかった。柔らかい物体だ。俺のデータからするとこの感触は99.89%の確率でエリザのお尻だな。感触から察するに、どうやら今日はノーパンじゃないらしい。

 

 そして胸元には手がトンと乗せられた。

 

 

 それから声の主が、小さく息を吸い――

 

 

「ねぇ……起きてってば――おにーちゃん」

 

 

 と俺の耳元で囁いた。

 

 

「うお!?」

 

 

 予想外の言葉が耳元で囁かれ、一瞬で覚醒してしまった。

 

 覚醒した勢いで、布団から転がり出る。

 

 ゴロゴロと3回転した後に、体を起こし膝立ちになる。

 

 先程の『お兄ちゃん』という言葉を発したアンノウン――エリザに視線を向けると、その頬は薄らとピンクに染まっていた。

 

 

「は、恥ずかしかった……」

 

 

「エリザ……一体どうしたんだよいきなり。俺はお前の兄じゃないぞ?」

 

 

「知ってるよ! もう! ……辰巳君が全然起きてくれないから、いつもと違った起こし方しようと思ったの」

 

 

 なるほど。確かに効果は抜群だったようだ。お陰で完璧に目が冴えてしまった。

 

 しかし、何でお兄ちゃん?

 

 

「この間、辰巳君がアニメで主人公の男の子が妹にこうやって起こされてるシーンをすごく羨ましそうに見てたから……」

 

 

 そりゃ見るよ。だって羨ましいもん。例えフィクションだと分かってても、羨ましいことには変わりないよ。

 

 そんな羨ましそうな俺を見て『じゃあ、やろうっと』って思い立ってくれるエリザは、本当にいい子だなぁ。もうエリザ記念日とか作って、大々的にお祝いをしたいくらいだ。いや、記念日だけじゃ足んねーな。年に1度のエリザ祭、週刊エリザ、ポケット○ンスターエリザバージョンの発売、エリザふりかけ、エリザ米……うおおお! 忙しくなってきやがった!

 

 

 しかし……まさかこの年になって、妹流騎乗位起床法(お兄ちゃん起きてってば)を体験できるなんて……辰巳感激! いやぁ、生きててよかった。

 

 

 ウチにも雪菜ちゃんっていう血の繋がった妹がいるけど、こんな起こし方されたことないしな。多分お金払ってお願いしても、絶対にやってくれないタイプだし……。

 

 いや……待てよ。確か少し前、俺がまだ実家にいた頃に……そんな起こし方をされた記憶があるぞ……。

 

 そう、確かアレは俺がこのアパートに引っ越す前の日だったはず。

 

 

 

■リアル妹がいる辰巳君の場合■

 

 

辰巳「……うーん、うーん」

 

 

辰巳(何だろう……体が重い……何かが上に乗っているような……金縛りかな……)

 

 

辰巳(目を開けて何か幽霊的なものがいたらどうしよう……怖いなぁ)

 

 

辰巳(ええい! 俺は男だ! 目を開けてその正体を確かめてやる!)

 

 

パチリ

 

 

雪菜「……」ジー

 

 

辰巳「ひっ!?」

 

 

辰巳「な!? え!? せ、雪菜ちゃん……? そんなに顔近づけて……何を……?」

 

 

雪菜「……」

 

 

雪菜「……チッ。あと少しだったのに……あと少しで……まあ、いいでしょう」スクッ

 

 

スタスタ

 

バタン

 

 

辰巳(そう言って雪菜ちゃんは俺の部屋から出て行った)

 

 

辰巳(何があと少しだったのか。雪菜ちゃんは俺の寝込みを襲って何をしようとしていたのか)

 

 

辰巳(後で雪菜ちゃんに聞いても『知りません。兄さんが寝ぼけていただけでは?』ととぼけられた)

 

 

辰巳(分からない。何もかも分からない)

 

 

辰巳(ただ本能的に――あのままだと、何か俺の大切な物が奪われていた)

 

 

辰巳(それだけは分かった)

 

 

辰巳(不思議で恐ろしい思い出)

 

 

辰巳(次にこの奇妙な出来事に巻き込まれるのは……あなたかもしれない)

 

 

■おしまい■

 

 

 

 そういえばこんな事もありましたねぇ。

 

 アレは間違いなく俺の大切な物――命を狙ってましたね。完全に目が獲物を狙う目でしたもん。

 

 未だに何であの時、雪菜ちゃんが俺の命を狙ってきたか、分からない。もしかしたら前の日に雪菜ちゃんが大切にしてたプリンを食べてしまったからかも。その敵討ちをする為に、俺が家を立つ前にサクッとやっちゃう気だったのかもしれない……プリンの恨みって怖いね。

 

 

「ご馳走様でした」

 

 

「お粗末さまー。はい、着替えだよー」

 

 

 それから俺はエリザが作ってくれた朝食を平らげ、ジャージに着替えて外に出た。

 

 現在時刻は朝の6時。こんな時間に起きた理由は勿論――ジョギングをする為だ。

 

 

 そう、俺のジョギングは続いていた。今日で3日目である。

 

 

 そこのアナタ。面倒くさがりの俺のジョギングがまだ続いていることに驚いているだろう。

 

 疑いのあまり『貴様は辰巳ではない』とか言って腹パンしたくなる気持ちは分かる。俺自身、未だに続いている事実がちょっと信じられないしな。

 

 普通のジョギングをしていたなら、多分初日で諦めていただろう。普通のジョギングなら、な。

 

 なにせこの後俺を待っているジョギングは普通のジョギングではなく……おっと、ネタバレはやめておこう。いずれ分かるさ……フフフ。

 

 

 早朝の薄暗い庭の地面を踏み歩く。

 

 

 ジョギングを始めて3日目ということは、早朝の庭を見るのも3度目ということだ。

 

 初日は暗くて寒くて人気がなくて寂しい……なんてネガティブ要素しか見えなかったこの早朝の庭だが、3日目で余裕が出てきたこともあって、中々よい面も見えてきた。

 

 

 肌に感じる涼しさは夏という季節を思わせないほど過ごしやすい。

 

 耳を澄ますと聞こえてくる雀の囀りも耳に優しくて心地いい。

 

 思いっきり息を吸うと朝露に濡れた草花の独特な匂い、地面から立ち昇ってくるのはほんのり残っている夜の残り香だろうか。そして――鯖を焼いた香ばしい香りがいっぱいに入ってきて気分が高揚する。

 

 ん?

 

 

「……鯖の匂い?」

 

 

 明らかに朝の風景とはかけ離れた異質な物を感じて周囲を見渡すと、アパートの入り口に皿に乗った鯖が置いてあった。

 

 多分見間違いか何かだろうと思って目を擦るも、鯖は消えずにそこにあった。 

 

 だったら朝食べたエリザ特製の朝食に幻覚作用を誘発させる類の物質が含まれていたのかもしれない。

 

 とにかく鯖があった。あったのだ。

 

 

「ん? アレは……」

 

 

 よく見ると、鯖が乗った皿の周辺には、皿に覆いかぶさるように大きなザルと、そのザルを支える棒が存在していた。

 

 その棒には紐がついていて、その紐を辿っていくと……大家さんの秘密の園(と俺が勝手に名付けている)である家庭菜園へと続いていた。

 

 慎重に、足音をたてないように紐を追っていく。

 

 

 すると、作物の中に紛れ込むように人影があった。

 

 その人物はジッと息を潜め、紐を握り、アパートの入り口にある鯖の皿を見つめている。

 

 迷彩柄の和服を着たその謎の人物は――なんと大家さんだった(知ってた)

 

 

「何やってるんですか大家さん」

 

 

「ひゃあ!?」

 

 

 俺は呆れつつ、出来るだけ驚かせないつもりで大家さんに声をかけたが、大家さんは悲鳴をあげながら、その場飛び上がり2秒ほど滞空した。

 

 地面に着地し、こちらに振り返る。

 

 

「だ、誰ですか!? ……って一ノ瀬さんですかぁ。もうっ、驚かせないでくださいよ!」

 

 

「今大家さん、2秒くらい宙に浮いてませんでした?」

 

 

「何言ってるんですか。人は宙に浮きませんよ? ……と、とにかく、静かに!」

 

 

 再び、作物の間に紛れ込み、アパートの入り口の監視に戻る大家さん。

 

 

「……朝から何やってるんですか?」 

 

 

「見て分かりませんか? 罠ですよ。鯖トラップ。この紐を引っ張ると――棒がパタリ。ザルがバサッ、ってな感じです。今は獲物が罠にかかるのを待ってるんですよ……ふふふ」

 

 

「何を捕まえるんですか?」

 

 

 大家さんの家庭菜園を狙う動物だろうか。

 

 ちょっと離れたところに小さいけど山があるし、そこから迷い込むのかもしれない。

 

 ハクビシンか狸か、アライグマか……イタチとか。

 

 

「ふっふっふ、よく聞いてくれましたね一ノ瀬さん。実は私――一一ノ瀬ファントムさんを捕まえるつもりなんですよ」

 

 

 ニッシッシと悪っぽい笑みを浮かべる大家さんの目元には昨日よりも濃くなった隈があった。どうやら連続徹夜記録は更新中らしい。

 

 へー、一ノ瀬ファントムをねー。ここらに生息してたんだー。知らなかった(棒)

 

 

「一昨日、昨日とファントムさんをここで目撃したから、今日も来るはずなんですよ。そこをこの罠で……ガバッと捕まえてやるんです!」

 

 

 大家さんが仰る一ノ瀬ファントムさんとやらの正体を知りたい方は、数話前に戻って下さい。

 

 戻るのが面倒臭い人にザックリ説明すると……早朝にいるはずのない俺を見た徹夜明けの大家さんが勘違いした俺だ。自分でも何言ってるか分からないから、やっぱり数話前に戻ってください。

 

 

「はぁ……。で、捕まえてどうするんです?」

 

 

「え? そ、それはまぁ……ほら、まあ……ね。本物の一ノ瀬さんとの本番前に色々と……えへへ……もうっ! 言わせないで下さいよ恥ずかしい!」

 

 

 そう言って俺の肩をバンバン叩いてくる大家さん。

 

 ところで大家さんは誰の肩を叩いているのか分かっているのだろうか。いや、分かっていないだろう。もう目が本当にヤバイ。虚ろだ。

 

 明らかに現実が見えてない目だ。

 

 睡眠の重要性という言葉を改めて理解した。

 

 人って寝ないとこうなっちゃうんだね。辰巳ぃ、覚えた。

 

 大家さんには少しでも早い睡眠が必要だと思われる。このままだと何しでかすか分からん。

 

 ジョギングから帰ってきたら、多少無理やりにでも寝てもらおう。

 

 

「ところで、あの罠の中にあるのって」

 

 

「鯖ですね。鯖の塩焼きです。一ノ瀬さんの好物が鯖ってことは、大家さんチェックで事前に把握してますからね! 一ノ瀬さんの分身である一ノ瀬ファントムさんも当然鯖が好物のはず! 後は好物に釣られてフラフラ寄ってきたところを……ゲットだぜ!」

 

 

 微妙に甘いな大家さんチェック。俺が好きなのは鯖は鯖でも鯖の味噌煮なんだよな……。

 

 

「あの……基本的な質問していいですか大家さん。その一ノ瀬ファントムとやら、霊的な存在なんですよね? 物理的に捕まえるの無理じゃないですか?」

 

 

「大丈夫ですよー! やる気さえあれば何とかなります! 一ノ瀬さんだって、お部屋の幽霊さんを物理的に倒して和解したんですから、私にだって出来るはずです!」

 

 

 随分と懐かしい話を持ち出してきたな……。そういえばそんな話をしたこともあったっけ。

 

 おっと、そろそろ行かないと。美咲ちゃんを待たせてしまう。

 

 

「じゃあ俺もう行くんで……頑張って下さい」

 

 

 俺は鯖トラップを迂回しつつ、その場を去った。

 

 

「はーい! 一ノ瀬さんも頑張ってくださいねー。……あれ? 今の一ノ瀬さん? こんな時間に一ノ瀬さんが出歩くなんて……は!? ばかもーん! 今のが一ノ瀬ファントムさんじゃないですかぁ! やられたー!」

 

 

 という声が背後から聞こえてきたが、これ以上徹夜続きの大家さんに絡まれるのは面倒なので無視して走り去った。

 

 

■■■

 

 

 アパートから出てすぐの公園が、俺と美咲ちゃんの待ち合わせ場所だった。

 

 昨日俺が『まあ、昨日のお誘いは社交辞令的なものだろう』と思いつつ公園へ向かうと、ブランコをキコキコこいでる美咲ちゃんがいて、俺を見つけるや否や飼い主を見つけた忠犬のように走り寄って来て笑顔を浮かべ『来てくれてよかったぁ』と言ったのは記憶に新しい。

 

 どうも昨日は爆上げテンションに任せて俺をジョギングに誘ったものの、帰ってから本当に来てくれるかずっと心配していたらしい。

 

 

『昨日は時間なくて全然話せなかったけど……今日からヨロシクね! 辰巳!』

 

 

 満面の笑みで握手を求めてきた美咲ちゃんを思い出すと、頬がにやけてしまう。

 

 

「さて今日もJKジョギングと洒落込むか……」

 

 

 この後の楽しい時間に思いを馳せる。

 

 現役女子高生と肩を並べてジョギング。オプションとして一緒にストレッチや、運動後の楽しいお喋りもついて至れり尽くせり。

 

 そんな素晴らしいレクリエーションが……なんと今ならタダ! 0円! タダで楽しめちまうんだぜ!

 

 

 いや、ほんとに……信じられないよね。

 

 こんな素敵なコンテンツに恵まれる俺は、世界で一番幸運な男子大学生かもしれない。それか前世での俺は男子高校生のブリーフとしての過酷な人生を送って、その時に必死で貯めた幸運を消費しているのかもしれない。なんにせよ、この幸運を楽しむとしよう。

 

 

 が、一方で『もしかして美咲ちゃんに騙されてるんじゃ?』という一抹の不安も少しはあった。

 

 

 実は美咲ちゃんはいわゆる美人局であり、一昨日、昨日の出会いは当然仕組まれた物だった。

 

 この後向かう公園に美咲ちゃんはいない。代わりにガタイのいい黒づくめのオッサンがいて『よお、兄ちゃん。昨日、一昨日はお楽しみやったのう。さあ、JKとジョギング2時間で――20万円や。さっさと払うもん払えや』とか脅迫してくる。無論俺にそんな大金が払えるはずもなく『だったら体で』と同人誌お決まりのパティーン、後は野となれ山となれ……数日後、家で俺を待つエリザの元に1本のビデオテープが届く。中身は信じて(ジョギングに)おくりだした俺がアヘ顔ダブルピースを決めてんほおおお――とか妄想の木をよいしょぉ!(ト○ロっぽく)と育てていると、いつの間にか公園に着いていた。

 

 

 妄想通りになったらどうしよう、と若干怯えながら公園を覗くと、やはり俺の心配は杞憂だったようでそこにはジャージ姿のJK――美咲ちゃんがいた。

 

 

 今日はブランコに乗っていないのか……と暫く様子を見ていると、深く腰を落とした美咲ちゃんがフッと息を吐き、鋭い表情を浮かべ、左の拳を突き出した。

 

 

「――せっ! はっ!」

 

 

 そのまま流れるように、右手刀、膝蹴り、肘打ち、回し蹴り、掌底からの正拳突き……と怒涛の連続技を決めて行く。

 

 汗を飛び散らせながらほぼ無呼吸で繰り広げられる華麗な技の数々に、俺はただただ見惚れるしかなかった。

 

 連続技はそのまま暫く続き、最後に食らったら戸○呂弟みたいに首から上が消し飛びそうな鋭い上段回し蹴りを放ち――

 

 

「……ふぅっ」

 

 

 と深く息を吐いた。

 

 そういえば美咲ちゃん、空手部に入ってるって言ってたっけ。その練習か。

 

 しかし……

 

 

「……はぁ、はぁはぁ……ふー」

 

 

 額を流れる汗。その汗で濡れて張り付く前髪。激しい運動をした結果、口から漏れ出る荒い吐息。

 

 上下する肩と、深く呼吸をする度に揺れる胸。

 

 

 え、エロ過ぎる……! 犯罪的だ……圧倒的な犯罪的エロさ……エロ過ぎ波道をビンビン感じちゃうぜ……!

 

 

 現役女子高生の艶かしくも健全なエロさを目撃して、何か胸がドキドキ。これって恋?

 

 思わず俺の醜い顔を仮面で隠したまま彼女の目の前に飛び出し『武の気配を感じたから』という名目で彼女にストリートファイトを挑みたい。そして一ノ瀬流寝技に持ち込み、超至近距離でその香りやら何やらを堪能した後に、3ゲージ技である『一ノ瀬流奥義~尾勿華衛理~』を決めて、家の布団でリベンジマッチを受けて立ちたい。

 

 

 そんな考えるだけでも手錠をかけられそうなことを考える一方、先ほどの技のキレを見る限り、多分ストリートファイトを挑んだところで即効ワンパン返り討ちから無様な敗北姿をSNSにアップロードされてまとめブログとかに拡散されちゃうネット世代特有の恐ろしい結末が予想されるので、やっぱりネットは怖いなぁと思いました。

 

 

 俺は映画館とかで金払わないと見られない、生女子高生のド迫力の生アクションに感謝の意味を込めて拍手をしつつ彼女に近づいた。

 

 

「――いやいや、中々面白いものを見せてもらいましたよ」

 

 

 おかしいな。何か黒幕っぽい登場シーンになってしまったぞ。

 

 

「だ、誰!? ……って、辰巳かぁ。もう、びっくりさせないでよ」

 

 

「ごめんごめん」

 

 

 謝りつつ、美咲ちゃんの隣に立った。

 

 先ほど激しい動きをしていたせいか、ふんわりと汗の匂いを感じる。決して不快ではない、多分缶詰とかに詰めて『女子高生の香り~空手美少女編~』とか名付けて売ればボロ儲けできそう。少なくとも俺なら買う。部活美少女シリーズをコンプしてから、一気に全部開けて体育倉庫の中に各種部活美少女達と一緒に閉じ込められた妄想をして楽しむと思う。

 

 

 そんなお金を払いたくなるようないい匂いをタダで楽しんでいると、美咲ちゃんの頬がほんのり赤くなっていることに気づいた。

 

 モジモジと恥ずかしそうにこちらを見ている。

 

 

「……も、もしかして最初から見てた?」

 

 

 見ていたというのは、先ほどの空手の型のことだろう。

 

 

「あー、うん見てた」

 

 

 嘘を吐いても仕方ないので、俺は素直に白状した。

 

 

「うあー……恥ずかしい……。ということは、1人でラジオ体操してたところも見てたんだよね……うぅ」

 

 

 穴があったら入りたいといった感じで赤くなった顔を両手で覆う美咲ちゃん。

 

 一方俺は生女子高生の生ラジオ体操という期間限定超レアイベントを見逃していたことに、とてつもない後悔を覚えていた。

 

 後少し早く起きれ居れば……! そんな後悔と共に、明日は絶対にもう少し早く起きようと誓った。 

 

 

「誰も見てないからって朝から1人でラジオ体操して、技の練習するとか……あたしって変、だよね?」

 

 

「まあ変か変じゃないかといえば……変だけど」

 

 

「うわぁー! やっぱりー!」

 

 

 でも大丈夫! 俺の知り合いには黒いローブ着て大学内を練り歩く先輩とか、年中ゴスロリ服着てうどん食ってる探偵、後はロリショタを涎たらしながら視姦する肉屋とか……もっと変な奴いるから! 

 

 そうフォローしようと思ったが、これ全然フォローになってないな……。つーかなんだ俺の周りに人間。変なやつしかいないじゃん……。

 

 

 しかし、このまま恥ずかしいところを見られて頭抱えて落ち込んでる女の子を放ってはおけない。

 

 

 そこで別方面からフォローすることにした。

 

 

「でもアレだ。技は凄くよかった。正直見惚れたよ」

 

 

「え? ほんとに?」

 

 

 よし、食いついてきたぞ。

 

 何となく理解してきたけど、美咲ちゃんは結構単純なタイプだ。

 

 こうやって別のことを褒めれば、多分、ラジオ体操やらを見られたと思って落ち込んでいたことも忘れるだろう。

 

 

「ほんとほんと。めっちゃカッコよかった」

 

 

「そ、そう? 格好良かった? そっかぁ……えへへ」

 

 

 先ほどまでの落ち込みようはどこにやら、こっそり練習していた技を褒められて満更でもないJKが目の前に。

 

 どうやら上手くいったようだ。

 

 

 しかし、くっそチョロイなこの子。

 

 悪い大人に引っ掛かりそうでちょっと心配。

 

 

「で、どの辺が? どの辺がよかった?」

 

 

「え? えっと……ほら、技一つ一つの一撃に重みを感じるところとか……」

 

 

「それで? それでそれで? 他には?」

 

 

「他に? つ、突きのキレが……」

 

 

「キレが!? 具体的にどんな感じ!?」

 

 

 グイグイと距離を詰めながら技の感想を聞いてくる美咲ちゃん。

 

 一方の俺は、武道なんて齧ったどころか舐めたことすら無い、素人中の素人だ。そんなグイグイ来られても困る。

 

 これ以上に感想を求められても、何も出ない。

 

 

「ねえねえ! どこが? どうよかったの?」

 

 

 そんな俺の思惑なんて知らない美咲ちゃんはなおも追撃をやめない。

 

 容赦ないマスコミのように俺は追い詰められ後退、気がつけば背中にはジャングルジムがあった。

 

 に、逃げられない……!

 

 美咲ちゃんのこの顔、俺から具体的な感想を聞くまで納得しないって顔だ。

 

 マズイな……こっちはこっちでかなり面倒なことになったぞ。

 

 まだ落ち込んでるほうがマシだったかもしれない。

 

 

 退路を完全に絶たれ、絶体絶命な俺。その刹那――俺の目の前に黄金に輝く川が見えた。

 

 

 こ、この川は……知ってるぞ! ニワカを極めた人間だけが見ることが出来るあの――ニワ川!

 

 ええい、こうなったらヤケだ! 飛び込め!

 

 

「まあ――アレだな。確かに一撃一撃の重みは感じたよ。だが技と技の繋ぎに、若干のラグを感じた。格下相手だとゴリ押しで技を連続で叩き込めるだろうけど、同じ力量、もしくは格上の相手だとそのラグを狙われて反撃されるだろうな。そのラグを埋めるには……まあ、純粋に練習を重ねるか、敢えてそのラグ自体をフェイントに使うか……」

 

 

 ニワ川に流れに身を任せた俺は、漫画やらゲームやらで得たニワカ知識でニワカ武装して彼女の技をニワカ評論した。

 

 ニワカ知識に身を任せて口がペラペラ動く。正直我ながら突っ込みどころ満点なことを言っているが、1度川に飛び込んでしまった以上、後は流れるまま……滝壺に一直線だ!

 

 

「――というわけで、現状の課題はもっと相手の存在を意識した練習だな。相手の存在をイメージしろ。別に人間だけが相手じゃない。そう例えば……蟷螂とか、ゴキブリとか……何ならトリケラトプス相手を想定してもいいかもしれない。後はまあ……これくらいで勘弁してください」

 

 

 俺は一体何を言っているんだ……意味が分からん。

 

 俺は頑張ったよ……ニワカなりに頑張ったんですよ! この結果がこれなんですよ!

 

 

 美咲ちゃんの『適当なこと言ってんじゃねーよテメー!』という怒りと鋭い突きを覚悟しつつ、身を強張らせる。

 

 

「……おおー! 凄い凄い! 辰巳凄いね! 先輩に言われてたのと同じ指摘だー!」

 

 

 が、どうやら俺のニワカ知識は奇跡的にも有効だったらしい。

 

 目を輝かせ、興奮した様子でグッと拳を握る美咲ちゃん。

 

 

「辰巳凄いね! 辰巳もなんか格闘技とかやってたでしょ?」

 

 

「ん? まあ……ちょっとね、ははは」

 

 

 鉄拳やらブレイブルーやらEFZとかその辺りを……ちょっとな。

 

 

 これ以上、美咲ちゃんに突っ込まれるとボロが出てしまうので話を変えよう。

 

 

「かなり気合入れて練習してたみたいだけど、近いうちに部活の試合でもあるの?」

 

 

「試合? あ、違う違う。今、練習してるこの技は、試合には使わないって約束で先輩に教えてもらったの」

 

 

「ん?」

 

 

 別に試合に使うわけでもない技をなんで練習するんだ?

 

 

「あたしね。ちょっと悩み事があったんだけど、それを先輩に相談したら『ではうぬにこの奥義を伝承する――この奥義を持って、使命を果たせ』って」

 

 

「先輩めちゃ大きい馬とか飼ってない?」

 

 

「わっ、凄いね辰巳。そうなの、先輩凄く大きくて黒い馬飼ってるんだ!」

 

 

 世紀末覇者だ……多分その先輩、剛の拳を奮う武人だ……サイを相手の足に突き刺して小パン連打する人だ……間違いない……!

 

 美咲ちゃんを泣かしたりしたら、下手すればそんなヤバイ人が出張ってくる可能性もあるのか……気をつけよ。

 

 

「えっと……悩み事?」

 

 

「そうなんだ。んー、まあ……辰巳になら教えてもいいかな?」

 

 

 JKの悩み事か……。このくらいの年頃の悩みっていったら、まあ恋とか勉強とか、進路とか……後は体の悩みかな。成長するに従って変化していく自分の体に戸惑いを覚える……心と体のバランスが上手く行かない時期だ。

 

 いいよ聞いちゃうよ俺。展開によっては、保健体育の授業とかもやっちゃうよ。希望者のみ実施体験もするけど……親御さんには内緒だよ?

 

 

 ん? 都合よく悩みを解釈しちゃったけど、よく考えたらこの展開で技の伝承イベントには繋がらないな……。じゃあ、何だ?

 

 

「あたしが先輩に相談したのはね――」

 

 

 さて、どんな悩み事なのか。

 

 リアルJKのお悩み相談にちょっとワクワク。

 

 

「あたしね――今、ボコボコにしてやりたい男がいるんですって!」

 

 

 好きな人が出来たの、そう父親に報告する娘のようにちょっと照れた感じの笑みを浮かべつつ美咲ちゃんは言った。

 

 

「……お、おう」

 

 

 ああ、これ聞かなかった方がいいやつだ……。

 

 そう後悔するも、既に聞いてしまった以上、聞かなかったことにはできないのだった。

 

 時間は巻き戻らない。時間はいつだって川の流れのように、同じ方向に流れ続けているのだから……。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

タイトル~ただいま~(信じて送りだした縮地が以下略)

走りながら美咲ちゃんのお姉ちゃんに近づく悪い虫をどうにかする方法を話し合うつもりだったが、実際走りながら喋るのってって非常に疲れる。ジョギング歴の長いジョギングビッチの美咲ちゃんならともかく、ほぼジョギング童貞の俺には無理だ。

 といわけで走り終わってから話し合うことになった。

 1時間ほどかけて町内を1周するコースを走り、スタート地点でもあったアパート近くに公園にたどり着く俺たち。

 

「ゴール! あ、ダメダメ! 急に立ち止まっちゃダメだって! 歩く歩く! クールダウンクールダウン!」

 

 俺としては今すぐにでも地面に倒れ伏したかったが、鬼コーチである美咲ちゃんが背中をドンドン押すので仕方なく公園内を歩く。確かに遠藤寺著のジョギングノートにもジョギング後にすぐ立ち止まったら、急激な負荷が体に掛かったり、明日に疲労が残ったりするとか書いてあった。

 そういうわけで歩く。とぼとぼ歩く。

 極度の疲労に肩を落としながら公園内を練り歩く俺の姿は、餌を探し彷徨う熊のように見えたかもしれない。

 

「はい、オッケー! もういいよ!」

 

 暫らく歩いて美咲ちゃんの許可が出たので、ベンチに全体重を乗せる勢いで座り込んだ。

 

「やれやれ、疲れた……」

 

 ジョギングも3日目だが、走り終わった後のこの疲労がコンクリートのように固まって体に纏わりつく感覚は慣れない。

 今も「やれやれ」とか少し余裕ある感じで文字にしてみたけど、実際は

 

「ヅ、ヅガレ……ダハァ……ハァ……ドフゥ……エハァ、ガホゥ、フォカヌプゥ……ダディャーナザァーン……」

 

 こんな感じである。

 今も頭は酔拳2でジャッキーがやってた両手で輪っか作ってグルングルンするやつ(分かるかな?)をされてるみたいにフラフラだし、肩もちょっと軽めの力士が乗ってるみたいに重い。足なんか台風に弄ばれて今にも折れそうな小枝みたいにプルプルしてるし、喉もガラガラだ。喉から出る声も第四次変声期が来たかってくらい低い。デバフもりもりの状態だ。

 たぶん今だったら超過保護な親にクソ甘やかされて育った軟弱小学生の一撃でもKOされそうなくらい疲労困憊だ。

 

「ハァ……ヒィ……オエェ」

 

 汗が止まらない。体の内側からビュッビュッビュとあふれ出す。

 必死で息を整えようと頑張るが、自分の体から立ち昇ってきた汗の匂いにえづいてしまう。

 超臭い。走ってる時は必死で分からなかったけど、俺の汗臭い。例えるなら地上に出てきたモグラの臭いみたいな、そんな臭さ。

 最近、ジョギングから帰ってジャージ脱いだら、そのジャージをエリザがクンクンして「これすきー」とか言うんだけど、どうかしてると思う。多分あの子幽霊だから、嗅覚が人間とは違うんだと思う。

 

 次に一撃くらったら一発轟沈しそうなくらい疲労の溜まっている俺だが、一方の美咲ちゃんは。

 

「よし、よし……っと」

 

 特に疲れた様子もない。

 ピンピンした様子で軽く屈伸したり、アキレス腱を伸ばしたり、手ブラ(手をブラブラさせる行為。別のことを考えたあなたは間違いなくドスケベ)をしている。。

 そのまま俺と同じく休憩するのか、と思いきや。

 

「じゃ、辰巳は少し休憩しててね。あたしはさっきのコースをダッシュしてくるから」

 

 と敬礼するように手を上げ、全力ダッシュで公園から消えた。

 

「い、行って、らっしゃい……はぁはぁ。……はぁー、ふぅー」

 

 残されたのは、最近あんまりやらない『懐かしのアニメ名場面ランキング』常連の真っ白に燃え尽きたジョーを再現した俺。 

 暇なんで力石、ジョーを女体化して再構成した同人アニメを1話から妄想していると、第26話のジョー子がパンチラクロスカウンターを編み出した辺りで美咲ちゃんが公園に戻ってきた。現実時間にして15分の出来事である。

 

「ふぃー……疲れたー」

 

 そういう美咲ちゃんはあまり疲れた様子はなく、何ならもう2.3周は行けるくらい余力を残しているように見えた。

 どうやら美咲ちゃんは相当なバイタルモンスターらしい。将来彼女の伴侶になる人は大変だ。夜の生活的な意味で。

 

 何はともあれ、今日のジョギングは終了。

 今にも倒れそうなくらい憑かれている俺だが、少しは体が慣れてきたようだ。最初の頃なんか実際に倒れてたし。

 

「お、つ、かー、れ!」

 

 美咲ちゃんが1歩ずつ近づいてきて『れ』の部分で、ストンと俺の隣に腰を落とした。

 美咲ちゃんが発する汗の匂いと、ジャージに染み付いた洗剤の匂いが混ざり合って何とも言えない不思議な香りを醸し出した。

 嫌いじゃない匂いだ。むしろ好きかも……。この香りを嗅ぎつつ執筆作業とかしたら、いい感じに傑作を書き上げることができそう。

 しかし不思議だ。同じ人間の筈なのに、俺と美咲ちゃんでどうしてこんなに汗の匂いに差が……? 慢心? 環境の違いか? 上澄みの薄いオイルで作られたのが俺で、濃いオイルで作られたのが美咲ちゃん? 

 何にせよ神様ってば不公平! もし神様に会ったら? モチのロン神殺しよ! チェーンソーが唸るぜ! え、ア○ア様みたいな駄女神だったら? ……馬小屋で一生アク○様の水芸(意味深)を見るだけの人生を送りたいですね。

 

「ああ、お疲れ美咲ちゃん」

 

 ともかく、こんなマイクソスメル(悪臭)を現役JKに至近距離で嗅がせてたら、どっかの団体から抗議が来そうなので、さりげなくベンチの端に寄る。自分の体温で温まってない部分に移動したので、尻が冷たい。

 

「あっ、また! 何でそうやってすぐに離れるの? もう!」

 

 が、すぐに美咲ちゃんに見つかってしまった。

 勢いよく距離を詰めて来て、何ならさっきより距離が近くなっている。俺が近距離パワー型のスタンドの持ち主だったら、今すぐに一発ぶちこめる位置だ。

 こんなに近いと左折で巻き込んじゃうよぉ……。

 

「いや、ほら。だ、だって俺汗臭いし」

 

「何言ってんの? 走ったんだから汗かくのあたり前じゃん。あたしだって汗臭いし」

 

 んー、どう説明しようか……。同じ汗でも俺と美咲ちゃんの間にある圧倒的な差……。

 スマホゲーに例えるならノーマルとウルトラレア、Zガンダムならカツとカミーユ、スタンドならサバイバーとザ・ワールド、アムロとヤムチャ、ラインハルトとスバル、千早ちゃんとあずささん……同じ存在だけど、そこにはマリアナ海溝よりも深い、圧倒的な隔絶があるのだ。

 それを美咲ちゃんに説明する方法を考えていると

 

「……すんすん。別に普通だけど。普通の汗の匂い。フツーフツー」

 

 とか言いながらいつの間にか、美咲ちゃんが俺の胸元辺りに顔を寄せてクンカクンカしてたので、冗談抜きで5秒ほど俺の時間は止まった。

 時間停止が解除された後「ほんと? じゃあ、俺もお返しに美咲ちゃんの匂いクンカクンカするねー」と臨機応変に対応できるくらいコミニュケーションレベルが高かったら、みんな幸せになれただろうけど、実際は

 

「あ、そう……あ、ありがとう……フヒヒ」

 

 みたいにぎこちなくなってしまって、すんごい恥ずかしかった。

 

 

 

■■■

 

 

「さて! じゃあ作戦でも話し合おうか!」

 

 恥ずかしさを振り切るように、ちょっと声を張り上げた俺。

 

「……作戦?」

 

 一方の美咲ちゃんは困惑した表情で首を傾げていた。

 

「いや、美咲ちゃんのお姉ちゃんの、ほら」

 

「お姉ちゃんの?」

 

「……最近お姉ちゃんに近づくムカツク男をどうにかする作戦」

 

「あっ、そうだった!」

 

 どうやら忘れていたらしい。つい1時間前の話なんだけど。

 全力疾走したせいでいい感じに汗と一緒に記憶も流しちゃったのか?

 薄々理解し始めてきたが、美咲ちゃんはVITとかSTRにばっかりステータスを振ってて、INTには殆ど手を付けていないらしい。

 ぶっちゃけ、かなりアホの子という説が俺の中で濃厚に……。

 

「そ、そうだった! 辰巳が手伝ってくれるんだよね! どんな作戦だっけ? えっと……あたしがそいつを空き地に呼び出して、辰巳が後ろからボコボコにする、んでダンボールに詰めてから川に流す……んだよね?」

 

「……」

 

 思わず絶句してしまう。

 何もかも違う。つーかまだ何の作戦も話し合ってないし、何かいろいろ混ざってるし、俺が主犯格になってるし。

 

「……」

 

「うぁ!? 何か凄い残念なものを見る目で見られてる!? ちょ、ちょっと待ってね! え、えっとえっと……あ、そうだ! ボコボコは駄目なんだっけ!?」

 

「そうだね。捕まっちゃうからね」

 

 よかった。それすら忘れていたら、さっきの俺の説得は全く無駄になっていたところだ。

 

「ということは……辰巳が後ろからアイツを捕まえてる間に、辰巳ごと袋に詰めて……ダンボールに入れて川に流す……で、いいんだっけ?」

 

「そんなに川に流したいの?」

 

 もしかすると俺が先ほどした例え話(ダンボールの猫)が、美咲ちゃんの中でかなりインパクトがあったのかもしれない。

 勿論、俺は身代わり(ピッコロさん)的行為もしないし、川に流したりも流されたりもしない。直接姿を現して暴力を振るうなんてもっての他だ。

 俺の作戦は可能な限り、相手の前に姿を現さないようにしつつ、地味だが確実に相手にダメージを与えていく方法だ。

 

「え? 直接アイツに会わないの?」

 

「ああ、会わない。相手がどんな男か知らないけど、報復とか怖いからね」

 

 美咲ちゃんのお姉ちゃんから引き離すことに成功はしたけど、逆恨みで美咲ちゃんが狙われる……なんてことは絶対に避けたい。

 確かに美咲ちゃんはかなり強いけど、いくら強くたって女の子であり、1人の人間だ。絶対なんてことはない。

 実際試合前からコールドゲームが発生するくらい強さに差がある俺でも、その気になれば美咲ちゃんを倒すこともできるだろう。え、方法? そりゃ、あれですよ。こっちは大人、あっちはまだ子供……ちょっと大人のテクでアレをアレすれば、ワンパンイチコロでメス顔カーニバル開催まったなしですよ。

 

 何はともあれ、まずは相手に自分が狙われているという危機感と若干の恐怖感を与えなければならない。

 幸い、相手が通う学校と下駄箱は分かっている。

 

「というわけでまずは手紙だ」

 

「手紙?」

 

 ぶっちゃけ不幸の手紙だ。相手に精神的なストレスを与えたい。『お前を見ている』とかそういうシンプルなものがいいかも。ちょっと飛躍して『俺を見ているお前を見ている』とか『その目誰の目』、『上野さんは不器用』とかそういう内容でもいいかな。あ、最後のは最近おすすめの漫画のタイトルだった。

 

 最初は悪戯にしか思われないだろうけど、徐々に本人しか知らない情報なんかを混ぜていって、身近にいる誰かの仕業だと思わせる。

 それを続ければ少しずつだが、周囲の人間に対する疑心暗鬼が膨らみ、相当なストレスになるだろう。

 同時に手紙以外にそいつの嫌いなものを下駄箱に入れたり、相手に気取られる程度に後をつけたり、ネットの掲示板に悪口を書いたり通ってる大学の男子トイレにそいつの電話番号を『誰でもいいから滅茶苦茶にして!』って文字と一緒に書いたり、相手の住所を調べて宅配テロしたり……まあ、そういう地味だけど陰湿な作戦を考えているわけだ。相手の周囲を包囲して徐々に殲滅していく――名付けて包囲殲滅作戦。

 

 相手のメンタルの強さによって方向性を考えていく必要はあるけど、これで大体なんとかなるはず。会ったこともない男子大学生相手に正直やりすぎだと思わなくもないけど、実際もし自分の家族、俺だったら雪菜ちゃんに悪い虫が近寄って2人っきりの部室でアレやコレをしてるなんてことになったら……よし、やっちまえ長門!ってなるよね(長門は関係ない)。完膚なきまでに追い詰めて、生きていることを後悔させたくなるよね。

 

 相手の男子大学生には悪いが、俺の作戦の犠牲の犠牲になってもらおう。なに、美咲ちゃんにボコボコにされて入院するより、軽い精神的ストレスで引き篭もりになる方が、ずっとマシだろう。美咲ちゃんも暴力行為で捕まらない、相手の男も怪我しない、美咲ちゃんのお姉ちゃん――1人の美少女大学生の貞操も守れる、俺は女子高生に感謝され自宅に招かれたり美咲ちゃんのお姉ちゃんと知り合ったりして最終的に姉妹丼ルートを開拓できる――WIN×WINだ。これ以上ないほどのWIN×WINだ。損した人は誰もいない、弱者などなど何処にもいない、俺たち全員が勝者なんだ。

 

「手紙って……こういうの?」

 

 俺が作戦の展開について考えていると、美咲ちゃんはジャージのポケットから何やら手紙を取り出した。

 なに? 作戦を説明する前から既に用意してるとか……美咲ちゃんってエスパーだったの? 美少女JKエスパー(空手部所属)とか、ちょっと盛りすぎじゃないですかね。

 

 いや……違うな。手紙に果たし状って書いてある。

 そういえば、今朝相手を呼び出す果たし状用意してるとか言ってたっけ。

 

「いや、こういうのじゃ無くて」

 

 違うけども、個人的に現役JKがどんな文章を書くのか気になったので読んでみる。やっぱり顔文字とかギャル語とか使ってたりするのだろうか。

 手紙の表紙にはこう書いてあった。

 

『県たし伏』

 

 ん?

 

『始めまして。あたしはお姉ちゃんの妹の美咲っていいます。いきなりですけど、あなたが凄くムカつくので、ボコボコにしたいと想います。理由は言いませんけど、すっごくボコボコにします。この手紙を読んだら、学校近くの空き地(手描きの地図)に来てください。そこでボコボコにします。多分病院に行かなきゃならないくらいボコボコにするので、出来たら人院の隼びをしておいてください。あたしの怒りレベル的に、金沿2ヶ月くらいボコボコにします。多分固い物も食べれないくらいボコボコにするので、ゼリーとかプリンもあったほうがいいと想います。来なかったらあなたの家族もボコボコにします。お母さんもお父さんも兄弟も姉妹も全員ボコボコにします。おじいちゃんとおばあちゃんはしません。あとペットがいたら犬はボコボコにします。可愛い犬種だったら見逃します。。猫は可愛がります。島は空に逃がします。魚系は近所の川に流します。虫は近所の森に逃がします。そのほかも基本的に森に逃がします。あと、絶対に1人で来てください。池の人も連れてきたら、その人もボコボコにします。その人の家族はボコボコにしませんけど、森に逃がします。そんな感じでよろしくお願いします――させこ』

 

 俺はなんとも言えない気持ちで手紙を折り畳んだ。

 

「うん。……うん」

 

「それちょっと修正したら、使えるかな」

 

「うん、それ無理」

 

 俺は素敵な笑顔でそう言いつつ、手紙をクシャクシャに丸めた。

 

「ひ、酷い! 辰巳酷い!」

 

「酷いのはこの手紙だよ」

 

 何が酷いって、もう全部酷い。

 とりあえず誤字が多い。池の人って誰だよ。島は空にってラピュタか?

 つーか文字汚ねえ! 全体的に汚い! お手紙じゃなくて汚手紙だよ! 身近に先輩……同じくらい文字が汚い人がいるから、何とか読めたけど……その経験がなかったら、絶対読めてない。それくらい汚い。

 

「つーかこの紙……裏に何か書いてる。――卵1パック98円」

 

 チラシ! 近所のスーパーのチラシ! 俺とエリザがよく行ってるスーパーのチラシ!

 

「そ、そんなに酷いかな……」

 

「酷いね。酷い手紙オブジイヤーで金賞取るレベル」

 

「金賞? ……えへへ」

 

「えぇ……」

 

 金賞って部分だけ聞いて喜んでるよ……。

 他にもいろいろツッコミどころはあるけど……とりあえず近所の森が大変なことになってるな。

 ん? よく見たら隅の方に……動物の絵が。

 

「た……ぬき?」

 

「うん狸。ほら、本とか文字って読むのってすっごい疲れるでしょ? だからゲーム性を出して飽きないように、クイズにしようと思って。ほら、子供の頃あったじゃん。文字の中に『た』がいっぱいあって、たぬきがヒントで『た』を抜いて読むとちゃんと読める、みたいな」

 

「うん。……うん。でも文章中に余分な『た』無いよね」

 

「だって書き終わった後に思いついたし」

 

「そっか」

 

 ならしょうがないな。書き終わった後に思いついたならちかたない。

 

「そうそう」

 

「ははは」

 

「えへへ」

 

「フフフ」

 

 俺は丸めた手紙を丁寧に伸ばしてから、再びクシャクシャにした。

 

「もう1回酷い!? 何でこんな事するの!?」

 

「自分の胸に聞いてみるといいよ」

 

 ただ物理的に自分の胸の音を聞くのは難しいので、俺が聞いてやってもいいけどな。

 とりあえずこの手紙は無しだ。修正も何も無い。これは貴重な生女子高生の生手紙として、我が一ノ瀬ラボが接収する。これがあれば未知の部分が多い女子高生の生態についての研究が進むだろう。

 

「せっかく先輩に手伝ってもらって書いたのに……」

 

 果たしてどこまで手伝ってもらったのか、何割ほどが美咲ちゃんの手がけた部分なのか……俺は怖くて聞けなかった。

 結局手紙は俺が用意することにして、今後の作戦展開は俺から美咲ちゃんに連絡をするということで連絡先をゲットした。やったぜ。

 

 

■■■

 

 

 アパートに戻ってくると、出発した時にあったファンタズム一ノ瀬を捕えるトラップが消失していた。

 罠があった場所には、同じアパートに住む麦わら帽子の小学生がいてトラップ――鯖の塩焼きを食していた。

 トラップのパーツであるザルを頭に乗せたまま、パクパク頂いていた。 

 

「もぐもぐ、むぐむぐ」

 

 いつも持ち歩いているスケッチブックを地面に置き、その上に体育座りで座っている少女は、恐らく家から持ってきたであろうマイ箸(ウサギが跳ね回っている柄)を巧みに使い、鯖の身をほぐし次々に口に入れていた。

 この歳にしては随分箸の使い方が上手い。恐らく親の教育がなっているのだろう。こういう箸の使い方とかって子供のころからしっかり親が教えてないと大人になってから恥かくんだよね。

 俺? 自分で言うのもなんだけどかなり箸の使い方は上手い方だ。みっちり使い方を叩き込まれましたからね……雪菜ちゃんに。小さいサイコロをね、箸で積み上げるの。で、もし崩したらその時に出たサイコロの目の合計だけ……いや、やめておこう。もうアレは終わったことだ。俺の特訓は、とっくに終わってるんだ!(バトーさんっぽく)

 

 俺は未だに鯖を食べ続ける少女に接近した。足音に気付いたのか、少女の視線が俺を捉えた。

 

「……!」

 

 少女は口内の鯖を飲み下し、慌てて空になった皿を地面に置き、麦わら帽子の中からマイペン(ウサちゃんの顔シールが貼ってる)を取り出した。

 そして右手にペンを持ち、左手に――何も持っていないので、首を傾げる。左手にあるはずの何かがない、そんな困惑した表情だ。

 あるはずの物――ウッチャンに対するナンチャン、高森朝雄の原作に対するちばてつやの『あしたのジョー』、ウルゥルに対するサラァナ、ミナミィ……に対するなぁにアーニャちゃん♪ ではペンに対する何かは……何だ?

 

「……?」

 

 その何かを探すように視線をあちこちへ向けるが、どうやら目的の物は見つからないらしい。

 

「……!? ……!?」

 

 困ったような表情でワンピースのポケットに手を入れ、麦わら帽子をひっくり返す。

 だが見つからない。

 座ったままカルタ遊びのように、周囲の地面をバンバン叩く。

 

 そして最後にスカートを捲りあげてその中を覗き込もうと――

 

「あいや待たれよ!」

 

 探す前に俺がスカートの端を掴んで、ストップをかけた。

 危ない危ない。朝っぱらから女子小学生にスカート捲らせるとか、目撃されたら言い訳できない光景だ。

 少女が『なにするの?』みたいな抗議的な表情で見てきた。

 こっちが『なにするの?』だっつーの! 女の子が自らスカートを捲るのは、校舎裏か体育倉庫裏って決まってんでしょうが! あと処女だけど淫乱の気のある女の子との初夜! そんなん小学生だって知ってるわ!

 

「なに? なんなのなの? 一体何探してんの?」

 

 小学生が探す物といえば……妖怪かな? ポ○モンかな?

 どちらにしろスカートに中にはいないだろうよ。

 でも、もしスカートの中にいるんだったら……流行りに乗るようで癪だったポケモンG○を今すぐにでもやる。親を質に入れてでもやる。

 

「……っ、……っ」

 

 少女は身振り手振りで、探している物を俺に伝えようとする。

 だがどうにも要領をえない。

 ペンを片手に持って……それを何かに書く? その何かを探している。その何かは四角い物で? ペラペラと捲れる? ……捲れる? スカートの話か? わからん。リントの言葉で話せ。

 

 もっと分かりやすい方法はないだろうか。

 そうだ。

 

「ちょっと分かんないな。尻文字を使ってくれ」

 

「……?」

 

 首を傾げる少女。どうやら最近の小学生は尻文字という文化(文化か?)を知らないらしい。

 ので、説明する。

 

「……っ! ……っ!」

 

 顔を赤くした少女に腰の横ら辺にある骨が出っ張った部分を殴られた。結構痛い。

 ぷんすか怒った少女は、ハッと何かに気付いてペンの裏で地面に『スケッチブック』『わたしの宝物』『ないと困る』と書いた。最初からそうしろよ。なるほど、スケッチブックを探してたのか。

 つーかその宝物(スケッチブック)……

 

「さっきから座ってるじゃん」

 

「……!?」

 

 ギョッとした表情で立ち上がり、自分が尻に敷いていた物――スケッチブックを手に取る。

 パンパンと土を落とし、白紙のページにペンを走らせ、俺に見せてくる。

 

『そっか。本当に大切な物って、いつだってすぐ近くにあるんだ』

 

「宝物をレジャーシート代わりに使っといて、何言ってんだお前……」

 

『う、うっさいな!』

 

 顔を赤くしたまま、スケッチブックでポカポカ殴ってくる。宝物の扱いぞんざいすぎ。

 

「つーかさ、朝っぱらから何食ってんの?」

 

 俺は皮の一片まで食べ尽され、綺麗になった皿を指しながら言った。

 

『鯖』

 

「いや、それは分かってるんだけど」

 

『落ちてた鯖』

 

「落ちてる物食べるなよ」

 

 自分で言っておいてなんだが、凄くまともなことを言ってる気がする。

 

『だってちゃんとラップしてたし』

 

「ラップしてたら何でも食うのかよ」

 

 ん? 今、何でも食うって言ったよね?(俺が)

 だったらもし俺がラップに包まれてても食べてくれるの? ペロっといっちゃってくれんの? 

 もしそうなら、次回の誕生日で俺やるよ! 「プレゼントは……あ・た・し」――やっちゃうよ?

 あの箸捌きだ。さぞ綺麗に俺を召し上がってくれるだろう。身も心も残さず余さず。うーん、楽しみ!

 

『だって落ちてた物は1割貰えるって、テレビで言ってたもん。もんたさんが言ってたもん』

 

 ケンミンSH○Wか? つーか

 

「10割食ってんじゃねーか」

 

「……!?」

 

「いや、口を手で押さえてそんな今気づいたみたいな驚き顔されても……」

 

 可愛いとしか言えないでしょうが!

 

「そもそもその鯖、大家さんのなんだよ。大家さんがそこに置いてたの。だから落とし物じゃないんだよ」

 

『……何でおーやちゃんの鯖の塩焼きが、お皿に乗ってラップしてあって、庭のド真ん中に置いてあるの? 何の目的で? どんな意味があるの? どうして?』

 

 麦わら少女は心底不思議そうに尋ねてきた。その瞳には純粋に、わからないものに対する疑問が浮かんでいる。

 まるで赤ちゃんはどこからやってくるの? そう親に尋ねる子供のような純粋な瞳。

 その質問なら問題ない。どこからやってくるのか、その入り口から出口まで注釈付きで答えよう。

 ただ実際は大家さんが何故鯖を庭に仕掛けていたかを説明するわけで……そうなると必然的にファンタズム一ノ瀬とかいう大家さんが生んだ妄想の産物の話をしないといけないわけで。たぶんその説明をすると大家さん、そして下手すれば俺も頭のおかしい人扱いをされるわけで……。

 そういうわけでいろいろ面倒くさくなった俺は

 

「大人になればわかるよ」

 

 と投げやりに答えた。

 少女は腑に落ちない表情で『大人意味分からん。やっぱりわたし、大人になりたくない……』と力ない文字で書いたのだった。

 

 ところでこの少女は大家さんのことをおーやちゃんと呼んでいるが、ちょっと前までは普通に大家さんと呼んでいたはずだ。

 どうやら俺の知らないところで、2人の関係はほんの少し変わっていたらしい。

 自分が知らない場所で人間関係が変化するのは当たり前のことだけど、何だか少し寂しい気がした。

 

 

 

■■■

 

 

 少女と別れた後、俺の中には1つの疑問が残った。

 

「大家さんは?」

 

 この鯖トラップを仕掛けた本人である、大家さんの姿が見えない。

 外れとはいえ、罠に人がかかったんだから、ここにいてもおかしくないのに。

 ざるを支えていた棒に括りつけられた紐は、朝と同じく大家さんの家庭菜園に続いていた。

 朝の行動を繰り返すように、紐を伝って菜園に足を踏み入れる。

 

「大家さん?」

 

 返事はない。

 暫らく野菜やら何やらをかき分けて進むと、そこにいた。

 

 大家さんが――目を閉ざし、横たわっていた。

 

「――」

 

 あまりに神々しい光景に言葉も出なかった。

 太陽が少し上り暖かくなってきた空気の中、植物に囲まれ、地球というベッドに横たわる大家さんの姿は、虚飾抜きで神がかった美しさを感じた。

 あまりに現実離れした美しさに、今この瞬間に地球(ガイア)が人間との対話の為に作り出した星の代行者ではないかと……そんな突拍子もない考えが、割りとマジで浮かんでしまった。

 もしこの大家(ガイア)さんが「ちょっと最近の人間調子こいってから、滅ぼして来いや」って号令を発したら、vs地球全人類っていう無謀な戦いに喜んで挑んじゃいそう。世界を牛耳る2つの組織のどちらにも潜入して潰しあうようにスパイとかしちゃう。

 そんなアホなことを考えてしまう。

 和服を着た美少女が土の上で寝ているという現実感のない光景がそんなことを思わせたのかもしれない。

 

「アホなこと考えてないで、大家さん起こすか」

 

 しゃがみ込んで、大家さんの肩を揺する。

 大家さんの和服は、地面の湿気を吸い取ったのかほんのりと湿っていた。

 

「大家さん。こんなとこで寝てたら風邪ひきますよ」

 

 何度か揺すってみるが起きる気配はない。

 これはもう、うっかり手を滑らせて胸元に手がスルンと行っちゃう事故覚悟で、揺する力を強くしなければ起きないだろう。

 

「大家さん! 起きてください!」

 

 さっきよりチカラ強く揺する。大家さんの体はゆさゆさ揺れるが、大家さんの胸にあるお山は全く揺れない。このお山を動かすのは熱気バ○ラでも無理だろう。

 

 よし、それじゃあ事故を起こすとしよう。

 今です! パワーを右手に!

 

「あっ、ミギー(右手のこと)が勝手に……! ……ん?」

 

 右手がうっかり滑って胸元にスルンと行く直前、今から右手が向かおうとしていた胸が……全く動いていないことに気が付いた。

 揺れないのは当たり前だが、いくらなんでも全く動かないのはおかしくないだろうか。呼吸をしている以上、多少は上下するはず。

 

「ん? んんん?」

 

 改めて大家さんの起伏のない胸を観察するが、その起伏のない胸が起伏する様子は全くない。

 右手を伸ばし、大家さんの口元に持っていく。

  

 大家さんは呼吸をしていなかった。

 

「え……嘘……だろ……」

 

 大家さんは。

 まるで眠るように。

 静かに。

 

 死んでいた。

 

 さっきまでうるさかった蝉の鳴き声が、聞こえなくなっていた。

 何も、聞こえない。

 

 何も。何も。

 自分の吐息すら、聞こえない。

 

 静寂だけが、ここにあった。

 

 そして次第に、俺の中で大きくなっていく音。

 

 それは――日常が壊れる音。

 

 

 

■■■

 

 

 

 あまりに衝撃的な展開過ぎて、衝動的にホームページを破いて俺に送りつけた人には悪いが、大家さん生きてた。

 胸が上下してなかったように見えたのも純粋に大家さんの胸が小さかったからだし、呼吸を感じなかったのは大家さんが寝るとき鼻呼吸をするタイプだったからだ。めっちゃ普通に生きてたよ。死んだように眠るってこういうことなんだね。ごめんニャン!

  

「ふわぁぁぁぁぁ~……あふぅ」

 

 と長い欠伸と共に起き上がった大家さんは、それはもうスッキリとした表情で3日寝ていない人間がマリアナ海溝より深く質の濃い睡眠をとったような……そんな表情だった。目の下にあった隈も消えてるし、心なしか肌がツヤツヤしている。

 

「うーん、よく寝ました。ほんと、こんなに気持ちよく眠れたのはひさしぶりですー。学生時代に自転車に乗って不眠不休で有明まで行ってアレコレした後、そのまま不眠不休で家に帰って布団に入った……あの時以来ですねー」  

 

 などと言いつつ、ぼんやりとした表情の大家さんと、俺の視線が交差する。

 

「あ、一ノ瀬さん、おはようございます! って、どうしたんですか一ノ瀬さん? そんな黄天化が背後から剣を刺された時みたいな顔して。……というか、何で穴掘ってるんですか? その穴なんです?」

 

 まさかあまりの事態に錯乱して『私が死んだらお庭の菜園に埋めてください。……私の体がお野菜ちゃんたちの栄養になる、えへへ、素敵ですよね』って大家さんが言った過去を捏造、その(捏造した)言葉通りに大家さんを埋める穴を掘っていたとは言えないので……

 

「いや……その……菜園の……お、お手伝いを……」

 

「え、本当ですか! わあ、嬉しい! ジャージまで着てやる気まんまんじゃないですかぁ! ……えへへ、ありがとうございます!」

 

 と心底嬉しそうに大家さんが言うので、ジョギングで疲れた体のまま手伝うことになってしまった。自業自得とも言う。

 

 ところで久しぶりの睡眠から目覚めた大家さんだが、自分が何故ここに眠っていて、何をしようとしていたかを全て忘れていた。

 鯖トラップを仕掛けていたことも、一ノ瀬ファントムを捕まえようとしていたことも、全てスッキリ忘れていた。

 長い徹夜から開放されたせいかもしれない。大家さんの目からは一ノ瀬ファントムに対する病じみた執念が消えていた。

 

 そう、一ノ瀬ファントムは……本当に幻想(ファントム)になったのだ。

 覚えているのは俺だけ。

 俺の心に中に眠る……ファントム。今度こそ俺の中だけで眠っていてくれ。

 そう思うのだった。

 

 いや、まあだから何だって話なんだけど。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

タイトルとは一体……何なんだろうか……

現在の時刻は深夜3時。

 

「ぐぅぅ……ぐぅぅ……うぅ……」

 

 草木も昏々と眠るそんな宵闇の中、部屋の主である男もイビキをかきながら眠っている。

 

 そんな男の枕元に、男をジッと見つめる何かがあった。

 部屋の中に差し込む月光の光を反射し煌く、美しい存在。数多の宝石の中に紛れても、その頭1つ抜けた美しさ故に宝石達は路傍の石ころと化すだろう。

 見る人の心をどこまでも魅了し、未来永劫釘付けにする美しさの極致。

 美という概念を形にした物。

 

 ――そう、妾のことじゃ。

 

 ん? 誰、じゃと?

 何じゃ妾を知らんのか。さてはお主モグリじゃな。

 

 む……ああ、そういえば、まだ名乗っとらんかったな。

 妾の名前はシルバという。気軽にシルバちゃんと呼ぶがいい。気安い? 構わん構わん。妾は寛大な心を持っとるからな。

 

 ん? 妾が何か、じゃと?

 ああ、なるほど。そういうことか。

 妾はアレじゃ。世間一般でいう――眼鏡じゃな。

 

 人としての妾の姿――その肌の色と同じ褐色のフレーム。そして全てを見通す曇りない透き通ったレンズ。

 その2つで構成された物――それが妾じゃ。

 

 ただの眼鏡が何故喋るか、じゃと?

 それは当然、ただの眼鏡じゃないからじゃ。妾は■■■。又は■■■。■■■と呼ばれたこともあったの。よく分からん? ふむ……凄まじい力を持った眼鏡、とでも思っておけ。

 なれば意思を持ち、喋ることも当然じゃろう。

 まあ、あくまでこの姿は現世で活動する現し身であり、ここに眠る男の心の中に宿る人の姿こそが真の姿とも言えるが……その辺りは詳しく語るまい。

 

 今でこそ眼鏡の姿をしているが、昔は違う姿をしていた。

 妾が生まれて数1000年、時代の流れと共に数多の人間の手を渡り、妾の姿も移り変わっていった。

 モノクルじゃったこともある。遠方を見通す双眼鏡じゃったこともある。どこぞの城で真実を語る鏡として国の宝として存在したこともある。遺跡の奥深くで、持つ者の真実の心を暴き出す宝石として何百年も眠っていたこともある。星と星の間を行き来する船の心臓部であったことも……おっと、これは先の話か。何でもない、今のは忘れろ。

 

 ……今、妾のことを年増やらBBAなどと少しでも思ったそこのお主、今日という1日を永遠に繰り返した後に惨たらしく死ぬ呪いをかけるぞ。 

 

 さて、そんなありとあらゆる時代、世界を渡り歩いてきた妾じゃが、今はこのような狭い部屋の一室。特にこれといって特徴もない男の元にある。 

 

「ぐぅぅ……うぅぅ……」

 

 しかし改めて思うに、この男はどこまでも平凡な男じゃな。

 雑踏に紛れてしまえば、2度と見分けが付かないようなどこにでもある顔。

 何か秀でた技を持っているわけでも、未だ目覚てはいない秘めたる力を持っているわけでもない。

 魔力や妖力、そういった外法の力は素質すら微塵もない。

 身に宿す血筋に特殊なものはなく、凡百な一般的な人間そのもの。

 今まで妾を所有した人間達が持っていた、世界の変革を成し遂げると感じさせるオーラもない。

 

 どこまで行っても普通の人間。

 それが今の妾の所有者じゃ。

 だが今のところこの男の元にいて、退屈じゃと思ったことはない。

 こやつの人生や在り方は極一般的な人間の範疇に納まるものじゃが、少し変わっていて中々に面白い。

 

 特に面白いのが魂の色じゃ。

 人間の本質を示すその色は、常に落ち着き無く流動する不安定な色。

 万華鏡のように移り変わるその色は、側で見ていて飽きることはない。

 

 心の在り方も面白い。

 自身の心と過去に翻弄され、霧がかった道を手探りで歩くようなその道程は年甲斐もなく興味心をくすぐられる。

 こ奴の向かう先に何があるのか……破滅か、希望か……どちらにしろ、妾を失望させるものでないのは確かじゃろう。

 

 この男自体は普通の人間じゃが、周りにはかなり癖のある人間ばかりが集まる。

 偶然なのか、またはこの男は持つ何かに引き寄せられているのか……どちらにしろ興味深い。

 

 そして何よりも眼鏡としての付けられ心地がよい。これは妾的にかなり重要じゃ。

 こやつの顔は飛行機のファーストクラスのように、座り心地がよい。

 妾に会うまで眼鏡を付けたことがないとは思えないほど、眼鏡にとってはこれ以上ないほど最良で整った席である。

 

 それが今代の契約者。

 今まで妾が出会ったことがない、どこまでも行っても普通の人間。

 特にこれといって何かが起こるわけではない、代わり映えのない日々じゃが……今のところ、退屈はせずに過ごしておる。

 

「う、うぅぅ……」

 

 さて、そんな現在の主である目の前の男じゃが……何やら随分うなされておる。

 顔を苦悶の表情に歪ませ、口からは何かを堪えているような声。

 悪夢でも見ているのじゃろうか。

 

「うぅ……嘘だ……朝起きたら……何だよこれ……」

 

 ふむん?

 

「朝起きたら、肉屋のオッサンになってる……いやぁ……やだよぅ……」

 

 紛れもない悪夢じゃな。

 そりゃ魘されもするのう。

 

「ひぃぃ……指に毛が生えてる……そ、それにクサイ。ワキガだ……ワキガ臭いわ……!」

 

 顔にじっとり汗を浮かばせながら、布団の中を暴れるように体を捩らせる。

 じゃが起きん。全く覚醒する気配がない。

 この男は、1度寝付くと何があっても起きん。朝、同居している幽霊の娘が起こすまでは決して起きん。

 例えこんな悪夢を見ようが、別々の床についた筈の幽霊娘が布団に潜り込んでも、その娘が布団の中で衣服をいそいそと脱ごうが……決して起きんのじゃ。

 こやつは知らんじゃろうが、隣の部屋に住む人間は深夜になると奇声をあげたり床を思い切り叩いたりなど、随分と五月蝿い。じゃが、それでもこやつは決して起きん。仮にこの瞬間、この部屋が倒壊したとしても眠り続けるとさえ思える。

 これも一種の才能と言えるのじゃろうか……。

 

 じゃが、このままにしておくのも、目覚めが悪い。

 何より五月蝿くて妾が眠れん。

 

「お、大家さん……お、俺です! 辰巳です……! オッサンと入れ替わって……ち、違う! そっちの俺は俺じゃない! お、おまっ、やめろ! 大家さんをそんな目で見るんじゃない! 大家さん、後ろ! 後ろ後ろ! 後ろ見て! いや、シムラとかじゃなくて!」

 

 しかし、やかましい。自分の寝言の大きさで起きんのじゃろうか。

 フグが自分の毒では死なんのと一緒の理屈か?

 

「ふにゃふにゃ……えへへ……」

 

 そしてそんなデカイ寝言の隣でピースカ眠る幽霊娘も相当じゃな。

 この娘、男が眠るやいなや自分の寝床から現れて当たり前のように男の布団に潜り込みよった。いつものことじゃが。

 

「え……元に戻る方法? オッサンの……口噛み酒を飲む? ……ヴォエエエエ! 無理! まだ自害する方がマシ! ちょっ、やめっ、近づけんな! 臭っ、腐った牛乳を煮詰めたような――ヴォエエエエェ!」

 

 見ていて哀れになってきたぞ……。

 やれやれ、仕方あるまい。こんなんでも今の主じゃ。

 妾が助けてやるとしよう。妾の寛大さに感謝するのじゃな。

 

 妾はもそもそと体を動かし、いつもの場所――男の顔の定位置に陣取った。

 契約によって繋がったラインを通じて、男を夢の中から引きずり上げた。

 

 

 

 

■■■

 

 

「――君の名は!?」

 

 何かから逃げるように目を覚ます。

 何だか物凄い悪夢を見ていた気がする。夢を、夢を見ていました……とかか○なみちゃん風に語りたいが、内容は覚えていない。とにかく酷い悪夢で、覚えていたらきっと2度と眠りたくなくなるようなトラウマ確定な夢だったことだけは覚えている。

 だが助かった。途中で目が覚めたようだ。テレビを叩いて壊すような強引な中断だった気がするけど。

 

「ふぅ……」

 

 額に浮かんでいた汗を袖で拭う。

 ふと、寝る前に外したはずの眼鏡をつけていることに気づいた。

 寝ぼけて装着したのかな? 我ながら凄い寝ぼけ方だな。

 

「ん? 今……何時だ?」

 

 部屋の中は暗い。いつもだったら目を覚ましたときは、エリザが朝の準備をしているから部屋は明るい。それに香ばしい朝食の匂いもしている。

 だが今、部屋の中は暗く、そして静かだ。何の匂いも音も感じられない。

 月明かりを頼りに、自分のスマートフォンを探す。

 

「お、あった」

 

 発見したスマホを手に取って時間を調べようとした瞬間、メールの通知を知らせる音が鳴った。

 こんな時間にメール?

 どうせ悪戯メールだろう、そう思いメールを開くと――

 

『おはようございます、兄さん。今日は随分と早いですね』

 

 という我が妹、雪菜ちゃんからのメールだったよ。

 どうしてこのタイミングがメールが届いたのか、俺が起きた時間をどのような手段で知ったのか、こんな時間に起きてたら唯でさえ育ってないおっぱいに栄養が行かないよとか……色んなことを思ったが

 

「まあ……雪菜ちゃんだしな」

 

 そう思うことにした。そう思わないと何だか怖くてやってられない。

 俺の現在状況を知る特殊なチカラを持っているのか、妹としての唯の勘か、盗聴器でも仕掛けられているのか……いずれにしろ深く考えたくない。

 深く考えちゃうと……体がマジ震えてきやがった……。

 

『約束の日まで、残り4日ですね』

 

 そうだ、約束の日まであと4日だ。

 4日しかないか、まだ4日もあると考えるか……。

 いずれにしろ、約束の日までに目標体重まで落とさないと実家に送還することになってしまう。

 そして雪菜ちゃんの元で、彼女が考案した分刻みのスケジュールの生活を送る……大学受験前のあの日々のように。

 あんなのはもうゴメンだ。つーかマジで勘弁して欲しい。トイレくらい好きな時間に行かせて欲しいんすよ! 深夜アニメはリアルタイムで見たいんすよ! 俺からイカちゃんフィギュアを眺める素敵な余暇を奪わないでくれ!

 

『まあ、無駄だとは思いますが、せいぜい頑張ってください。足掻くだけ足掻いて、それでも無理だった時の兄さんの表情が楽しみです。一筋の希望が潰え絶望に染まるその表情が……ふふふ』

 

 畜生! 完全に俺には無理だと思ってやがる! 何だこの上から目線は……私の下でAGAKEってか?

 やってやる……やってやるよ! 雪菜ちゃんが何でも思い通りになると思ってるなら――そのふざけた幻想(おもいあがり)をぶち殺す!

 

 とりあえず例のAAを雪菜ちゃんに送り、時間を確認する。

 現在時刻は3時。

 

「……3時?」

 

 デジマ? 3時って……夜じゃん。

 そりゃこんなに暗いし、エリザも朝の準備始めてないわけだ。

 つーか、こんな時間に起きたの生まれて始めて。

 

「そうか。夜は暗いんだ」

 

 スマホが放つ人工的な光と、窓から差し込む月明かりの光に挟まれ、そんな当たり前のことを思う。

 

 部屋の中が静かだ。

 いつもはエリザの足音とか、料理を作ったり裁縫する時の衣擦れとか、何かしらの音が聞こえるこの部屋だけど……こんなに静かなのは始めてだ。

 自分の吐息すら聞こえる静寂の中、心がざわざわと落ち着かない。

 自分の部屋なのに、自分の部屋とは思えない不思議な感じ。

 ホテルの部屋で目覚めたような、心寂しい違和感。

 まるで世界に自分だけしか存在していないような錯覚。

 

「えへへぇ……たつみくん……」

 

 と、聞いてるだけでこちらも幸せな気持ちになる声が聞こえたので、視線を向けた。

 エリザがそこにいた。

 掛け布団の中から、頭だけ出したその顔はよっぽど楽しい夢を見ているのだろうか。ちょっとだらしない笑顔を浮かべていた。

 そんな姿を見ていると、先ほどまで感じたマイナスの感情は消えてしまった。

  

「……昨夜は別々に寝たはずなんだけどな」

 

 ウチにはいくつかルールがある。

 食事は一緒にとること、帰るのが遅くなる時は連絡をすること、どちらかがトイレに入った時は耳を塞ぐこと、ご飯の味付けが気に入らなかった時は必ず言うこと、など。

 殆どエリザが決めたものだが、その中に週3回は同じ布団で眠るというルールがある。

 正直最初はちょっとどうかと思ったけど、ほらエリザって14歳じゃん? こう……人の温かさを求めたくなる年頃じゃん? ほらウチの妹だって今はあんなだけど、中学入って少し経つまでは一緒に寝てたし。

 だから仕方なく了承した。仕方なく……ここ重要。幽霊に適用されるか分からないけど、淫行条例とかで俺捕まって裁判になった時、みんなもちゃんと証言してね。俺は悪くないって。

 

 しかし、昨日は別々に眠る日だった。

 どうやら俺が寝ている間に潜り込んできたらしい。

 

「悪いやっちゃなー」

 

「えへへ……」

 

 顔にかかっていた髪をどけると、くすぐったそうに身を捩らせる。

 エリザの寝顔を見るのはこれで2度目だけど……幸せそうな顔だ。

 

「たつみくん……だいすきぃ……ふへへぇ」

 

「……」

 

 ふいにあの日のことが思い出される。

 夕暮れが差し込む光の中、エリザから伝えられた言葉。

 何の虚飾もない、純粋な好意の言葉。

 あの日のことを思い出すと、心が落ち着かない。喜びと困惑が混じった不思議な感情に揺さぶられて、どうすればいいか分からなくなってしまう。心がゆらゆらと揺れる。でも不思議とその揺らぎは心地よい。

 でも同時に、ずっと昔、あの日の校舎裏。生まれて始めて好意の言葉を伝えられた日のことも思い出してしまう。人生で最高の、そして最悪の日。思い出す度に心が苦しさに身を捩るように脈動し、巻き付いた鉄線でズタズタになるような感覚。

 そんな2つの感情に翻弄されると、情けなくて涙が出てしまいそうになる。

 自分の未熟さに。心の未発達具合に。エリザの期待に応えることができない不甲斐なさに。

 

 俺はいつかエリザの想いに応えることができるのだろうか。

 今のところ、見当もつかない。

 

 

 

■■■

 

 

「むにゃむにゃ……見てみて辰巳くんっ、ほらほら」

 

 そんな朝から陰鬱な感情に支配されそうになった俺を引き戻したのは、とても楽しそうな寝言を呟くエリザだった。

 夢の中でずいぶん楽しい体験をしているのか、その表情はにへらとだらしない笑みを浮かべている。

 どんな夢を見ているのかな? 幽霊ってどんな夢を見るのか……気になります!

 

「はわぁー……凄いね、足元の東京タワーがあんなに小さく……」

 

 それどこ視点?

 なになに? ヘリにでも乗ってるの? 空中遊覧?

 

「わっ、辰巳君落ち着いて、楽しいからってあんまり暴れると落としちゃうよぉ……ふふっ」

 

 エリザに……抱えられてるのか?

 んで、空飛んでる、とか?

 さすが夢、現実的にはありえないファンタジーなイベントだ。

 そういえばさっき俺も、肉屋のオッサンと入れ替わるっていうファンタジーな夢を……うっ、何だか吐き気がしてきた。この夢について考えるのはよそう。

 

「え、もっと高く? うん、分かった! えへへ、しっかり捕まっててね……もにゃもにゃ」

 

 実は俺、結構高所恐怖症なんだけど、夢の中の俺は違うようだ。

 多分、実際にこんな「東京タワーよりずっと高い!」みたいなことされたら、漏れなく失禁して(漏れてる)東京市民に生命の雨という名のちょっと早いクリスマスプレゼントをプレゼントすることになるだろう。

 ホワイトクリスマスならぬ「ホワイ!? 尿!? クリスマス」なんちゃって。……苦しいです、評価して下さい。

 

「むにゃんむにゃん……ふわぁ……すごい……地球って綺麗だね」

 

 大気圏脱出しちゃったよ! 

 さすが夢だな……俺の呼吸事情とか考えてない。

 アニメだったら目瞑って耳塞いでたら少しの間は大丈夫だろうけど、現実だと死ぬからね。シャアだってそりゃ飛び込んできたクエス見て「何やってんだコイツ……」みたいな顔するよ。

 

「え? なに辰巳君? 地球が? ソーダ味の飴玉みたいで美味しそう? ふふっ、そうだね、美味しそうだね」

 

 夢の中の俺アホ過ぎだろ。どんだけ低レベルな感想なんだよ。

 アレか? 酸素が頭に回ってないのか? 酸素欠乏症か?

 普段のシャレオツな俺だったらもっとこう……目の前で見た地球を題材に一句読んだりしちゃうからね。地球(アース)と明日(アス)、なんだったら尻(ass)もかけたサラリーマン川柳入賞待ったなしの川柳作っちゃうからね。夏井い○き先生もあまりの出来にアヘ顔ダブルピースで賞賛待ったなしですわ。

 

「……よっと、ちゃくりーく! ここどこかな? 地面にいっぱい穴が開いてるけど。あっ、なんかどこかで見た旗が立ってる!」

 

 とうとう俺も月に進出か……。

 寂しさで死んじゃう、動物で例えれば兎の俺的には、ちょっと因縁のある土地だ。

 心の故郷に帰ってきた気分。

 

「あっ、見て辰巳君! ウサギさんだよ! あっ、ウ、ウサギさんが亀に虐められてるよ!」

 

 ウサギと亀か……。

 まあ、その2匹は色々と因縁があるからな。童話(イソップ)的に。

 

「た、助けないと……あ、辰巳君待って! す、すごい辰巳君……あんなにたくさんの亀さんを一瞬で!? え? 弱点を知り尽くしてる? 亀となら毎晩戦ってる? よく分かんないけど、す、すごい……」

 

 亀の弱点。毎晩戦って知り尽くしてる。……あっ(察し)

 

「ウサギさんたちがお礼にどこかに連れて行ってくれるみたいだよ? あのお城? かぐや姫様が待ってる?」

 

 竹取物語の後日談かな?

 クロスオーバーが自由すぎる。版権元に訴えられるレベル。

 

 その後、俺とエリザはかぐや姫様が振舞う、月で採れたばかりの餅を使った贅沢な料理に舌鼓を打ち、ウサギや亀(捕虜)の舞い踊りを鑑賞した。

 

「ふぅ……楽しかったねー。何か一生元気でいられる栄養ドリンクもお土産にもらったし」

 

 それ飲んだら人間やめるお薬や。残機が無限になる代わりに、死ぬことも出来ない無限地獄に囚われる罰ゲームだわ。

 竹林の奥に住んでて、よく夏と冬にアレを生やすウサギに犯されたり犯したりする女医さんが作る永続ドーピング薬だわ。

 そんなお薬は絶対にノゥ!!! 蓬莱のクスリ、駄目絶対。例え定命であっても閃光のように生きるのが人間ってもんでしょうが。

 

「そろそろ帰ろっか。わたしたちの地球に」

 

 どうやら夢の中のエリザと俺は地球に帰還するようだ。

 さて、俺もまだ少し眠いし、布団に中に帰ることにしよう。

 もぞもぞと布団の中に潜り込む。

 その途中、何だか柔らかい物に触れた。

 

「ふひゃっ」

 

 眠っているエリザがぶるると震えた。

 何だこれ? しっとりしてて、手に吸い付いて……極上のシルクのような肌触り。

 作りたての生クリームのようにフワフワしてて、それでいて手で押すと押し返してくる弾力もあるという矛盾した感触。

 不思議な感触の正体を確かめようと執拗に触れるも、その正体は分からない。

 今までの人生の触歴(タッチヒストリー)を遡るもこれに該当するものは見つからない。脳内司書ちゃんが顔を赤くして、この感触に近いものとして差し出してきたのは――エリザの二の腕?

 しかし二の腕だとしたら掴むことが出来るが、これは何というか……覆うようにしか触れない。

 

「ひゃっ、だ、だめだってぇ……た、たつみくん……こんな所で……ここ、宇宙空間だよぉ……」

 

 一体なんだろうか、この感触は。全く検討もつかない。

 そのはずなのに……何故かこの触感に覚えがある。記憶ではない、もっと根源的な感覚で。

 そう、まだ自我が発達していない生まれたての頃。

 本能に付属した感覚の中にこの感触はあった。

 

「見てるからぁ……ち、地球に見られちゃってるよぉ……」

 

 この暖かい感覚は母親の胸の中?

 母の胸に抱かれて……その時に触れた?

 この感覚は食欲とリンクしている。生まれたての頃、母に抱かれて食していたもの。

 圧倒的な母性を感じる触感。

 

 いや、待て、つまりこれは……。

 

 俺は布団を捲り上げた。

 布団を捲り挙げることで、首から上しか出ていなかったエリザの全身像が現れた。

 真っ白な肌は心なしかじんわりと紅潮しており、うっすらと汗も浮かんでいた。

 そう肌だ。

 本来肌を隠すべき人間の英知である文化の象徴たる服はそこにはなかった。

 ただ純粋に生まれたままの姿がそこにあった。

 

「エ、エリザさん……服はどこにやったんですか?」

 

 あまりに衝撃的な光景に、思わず敬語になってしまう。

 エリザは全裸だったのだ。

 

 エリザに初めてて遭遇した時を思い出したが、あの時は後ろから見ただけだった。

 だが今は目の前で、しかも真正面から見てしまっているわけで。

 俺の手はその真正面にある2つのお山に触れているわけで。

 俺とエリザの距離は、ほぼ密着しているくらいの距離で。

 

「あふ……はふぅ……た、たつみくん……」

 

 眠っているエリザの口元からは切なげな声が漏れてるわけで。

 妹さん事件です! 状況証拠から考えるに犯人は俺! 年端も行かない少女を全裸にして布団に連れ込んだ俺! 有罪! 有罪ですよ裁判官さん! 

 いや、でも恐らくはエリザが勝手に忍び込んできて……でもそれが通じるような世の中じゃないしね、今は。よーし、罪が重くなる前にパパ自首しちゃうぞー。

 

 待て待て。俺はまだ手を出してない。状況的に全裸の少女と一緒に布団の中に入ってるだけだ。自首は早い。

 で、ここからどうするべきなの? エリザを起こして服を着せる? 寝ている間に服を着せてしまう? 又はいっそのこと俺も全裸になってみることで、世界から服という概念が消失したIF世界でも演出してみるか?

 分からん。こんなT○Loveる的展開になったこと無いから、どうすればいいか分からん。

 頼りになる親友こと遠藤寺ちゃんも、この時間は眠っているだろう。

 俺はどうすれば……

 

『据え膳食わねばなんとやらじゃな。手を出せばいいのではないかのう?』

 

 脳内に囁く(多分悪魔)の声。

 手を出すって……アレをコレするってこと?

 いや、駄目でしょ。そもそも俺童貞だし。やっぱり最初はゆっくりデートをして何度目かのデートでホテルの最上階で指輪を渡して向かいのホテルに『アイシテル(イは左右反転)』を映し出して、最上級でスイートな部屋でこうアロマとか炊いたり、キャンドルに火を灯して雰囲気を出して……。

 とにかく眠ってる相手にアレやコレは駄目でしょうが! 眠姦ダメ絶対。ミンカーン禁止法発令!

 

『はぁ……最近の若者はヘタレじゃのう。ここまで露骨に好意を示されながらも……全く、とんだ鳥(チキン)男じゃ。ガッカリじゃ』

 

 あんまりにもあんまりな脳内悪魔たんの言葉に、思わず「誰にも腰抜けなんて言わせない」と言い返そうとしたが、所詮は脳内の相手。

 相手をするだけ無駄だ。

 

 しかし何故だろうか。エリザの裸を見ていても……そういう気分にならない。

 綺麗だと思うし、興奮からか心臓がドキドキしているけど、襲おうとかそういう気持ちが全く湧かない。

 いくらなんでも全くそういう気持ちにならないのは、ちょっとおかしく無いか……そんな考えが脳裏に過ぎったが、目の前にあるエリザの体に視線が釘付けになってしまい、そんな考えは霧散した。

 

「……肌白いなあ」

 

 改めてエリザの体を眺める。

 以前見たデス子先輩の肌も白かったけど、エリザは透明感のある白さだ。

 今にも消えてしまいそうな儚い白色。

 

 先ほどまで手を触れていた胸元の双丘。

 その下に視線を下ろすと、柔らかそうな腹部があった。

 腹部の中心部には、無人島に漂流してとりあえず雨を凌ぐ為に入り込んだものの、何だかんだ居心地がよくて拠点にしてしまいそうなくらいいい感じの穴であるヘソ。

 更に視線をちょっと飛ばして下にずらすと、ほっそりとした2本の足がある。2本の足は今もモジモジと擦り合わされ、その摩擦で生じた熱をほんのり感じる。俺、もし無人島に漂流したらこの摩擦で火を起こすんだ。その火で焼いた採れたての魚の美味いこと美味いこと……まさに犯罪的な美味さ……!

 そして。

 

「……ゴクリ」

 

 その二つの中間にある物。

 女性にとってのシークレットスペース。

 さっきは罪悪感からか意図的に見なかったけど、やはりどうしても気になる。

 ここだけの話、俺は生まれてこの方、ここを見たことがない。

 童貞であるのが理由の1つであり、雪菜ちゃんと風呂に入っていたのも随分昔のことで全く記憶にない。

 実家にいた頃、無修正のエロ本なんかを買ってきても、少し目を離した隙に処分されていた。

 だから、この瞬間が俺にとっての初体験だ。

 

 眠っているエリザに悪いと思いつつも、全裸で潜り込んでいるエリザも悪いと自己弁護し、俺はその部分に目を向けた。恐らくこの先、こんな経験は無いだろうから必死に記憶しようと目を見開いて、穴が開くほどの視線を向けた。

 

 

『プレイエリアの外です』

 

 

 エリザの秘部にはゲームのウィンドウな物があり、そこにはそんな文字が書かれていた。

 ちょっと角度を変えて見ても、そのウィンドウが正面に見える。不思議。

 なるほど。

 

「女の子のココってこうなってたんだ……」

 

 生まれて初めて見た光景に、何だかしっくりしないものを感じつつ、今まで知らなかったものを知ったことで俺は少し大人になった気がした。

 

『ヘタレなお主にはこれで十分じゃろう』

 

 誰かが脳内で嘲笑した気がした。

 

 さて、見るものも見たし、改めてここからどうするべきか。

 

「……よし」

 

 俺はエリザに布団をかけつつ、自分も布団の中に潜り込んだ。

 見なかったことにしよう。

 エリザは全裸じゃなかったし、俺は夜中に目を覚ますことはなかった。

 このまま眠り、朝になればきっと問題は解決しているはずだ。

 大抵のことは寝て起きたら解決しているものだ――昔の偉い人がそう言ってたしな。

 

 全裸の美少女が隣にいるにも関わらず、思ったよりも早く俺は眠りにつくことができた。

 そこにやはり違和感を覚えつつ、眠りの底に落ちていった。

 

 

 

■■■

 

 眠りの底に落ちた俺を待っていたは、以前見た悪夢の続きだった。

 地下室に囚われ、肉屋のオッサンに過酷で無意味な労働を強いられる悪夢。

 しかも今回はパワーアップしていた。

 

「オッサンが――三人……!?」

 

 地下室の中には、普通のオッサンの他にもう2人オッサンがいた。 

 両手に肉包丁を持った――オッサン・トゥソード。

 体全体が血に塗れた――オッサン・ブラッド。

 

 そんなオッサン達に囲まれた俺は、極度のストレスで今にも血反吐をぶちまけた。

 

「夢なら……覚めてくれ……」

 

 だが俺の望みが届くことは無く、夢時間の主観で8時間ほどその空間に囚われた。

 ニヤニヤした笑みでこちらを見つめるオッサン達の精神攻撃に、ストレスで白髪になってしまた辺りでようやく俺は覚醒の予感を感じた。

 

 カーン……カーン……カーン……

 

 音が聞こえる。

 耳元で甲高い、何かを叩くような音が響く。

 

 カーン……カーン……カーン……

 

 徐々にその音は大きくなっていく。

 いや、俺が覚醒に近づいているのだ。

 

「うぅ……」

 

 この音は苦手だ。

 

「や、やめてくれ……この音をやめなさい……」

 

 カーン……カーン……カーン……

 カーン……カーン……カーン……

 カーン……カーン……カーン……

 

 

■■■

 

 

「――那珂ちゃん許して!」

 

 俺は覚醒した。

 かつてやってしまった罪の意識に背中を押されるように、目を覚ました。

 もう2度と解体なんてしないよ。当鎮守府は誰でもウェルカムなんだよ!

 

「おはよ、辰巳君」

 

 俺を起こしてくれたエリザに目を向けると、彼女は左手にフライパン、右手におたまを持っていた。

 どうやらアニメとかでよく見る、フライパンをおたまで叩く起こし方をしてくれたらしい。

 俺を飽きさせないように色んな方法で起こしてくれるのは正直嬉しい。

 しかし……

 

「この起こし方はやめてくれ」

 

「へ? う、うん分かった」

 

 素直に頷いたエリザは、そのまま台所へ向かった。

 その姿はどこぞの制服の上にエプロンをつけた世の中の男性が大喜びする幼妻学生スタイルだった(この制服は大家さんから貰った服。ちなみに大家さんから貰った服の中には、他にも別の学校のものと思われる制服がある。あと何かどっかのゲームで見たことあるような制服もある。制服を集めるのが趣味とか、ちょっとオッサンっぽい)

 その着こなしは自然で、先ほどまで全裸だったとは到底思えない。

 もしかすると、さっきのは俺が見ていた夢なのかもしれない。

 いや……そうだ。そうに違いない。

 全裸の美少女が布団の中に潜り込んでるとか、夢以外の何物でもないからな。 

 

 それにしても夢とはいえ、あんなラノベのお色気シーンみたいな夢を見るなんて。

 溜まってる、ってやつなのかにゃ?

 そこんとこどうなんですか? 俺のエクスカリバーさん?(鞘付き)

 ふむふむ、なるほど……全く溜まってない、と。

 

 ここで皆さんが気になっているであろう一ノ瀬48の秘密の1つ――『ぶっちゃけいつどこで解消してるの?』の質問に答えてみよう。

 解消? ストレスのことかな? そう思っちゃう穢れない子供なアナタはそのピュアさを大切にして、ここら辺を飛ばしてほしい。性の目覚めという名の階段はゆっくり上がるものだ。駆け足で飛ばしたら勿体ない。

 

 さて、家では四六時中エリザと一緒の俺が、どうやってアレ……ぶっちゃけ性欲を解消しているか。

 致してる場所も気になるだろう。トイレの中、玄関の隅、押入れ、台所のシンク……そんなところでするはずもない。バレるからな。

 いつかアナタの元に幽霊なり未来人なり、空から降って来たり土から生えてきた美少女なり、ホームステイしてきたモン娘なり、未来からやってきた猫耳美少女ロボットなり……そういった存在が現れたときの為に、先人である俺の言葉をよく聞いてもらいたい。

 そう、俺は――

 

「……あれ?」

 

「へ? どうかした辰巳君?」

 

「い、いや何でもナーミン」

 

 台所から顔を覗かせてきたエリザに手を振って答える。動揺していることを悟られないように。

 俺は動揺していた。

 何故ならここ最近、そういった行為をした記憶はサッパリないからだ。超ご無沙汰。

 一体いつかだろう……と遡ってみると、何と3ヵ月近くソロで活動した記憶がなかった。

 

 3ヵ月前、エリザと始めて遭遇した日以来、全くしてない。1度も。

 

「……」

 

 いやな汗が流れる。

 正常な年頃の男性が、3ヵ月近くもご無沙汰。しかも現在進行形で特にこれといってムラっとしない。

 確かに興奮はする。遠藤寺が足を組み変える瞬間とか、デス子先輩が「今日は暑いデスねー」とか行って胸元にパタパタ空気を送りこむ瞬間とか、大家さんのあざと可愛い仕草を見た時とか……しっかり興奮する。

 だがそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。反応しないのだ。礼をしたままで、起立をしない。ノットエレクト、ノット○ンポスタンドアップ、オールウェイズスモール、ゲンキナーイ……オーマイガー。

 

 え? マジで? この年にして? もうエンディング? 早すぎない?

 い、いやいや待て待て。何か理由があるはずだ。じゃないとこの年で枯れるとかあり得ない。

 

『すまんの。妾のせいじゃ。ほら、お主魔力とか妖力、欠片もないから……。仕方なく精力で活動しとるんじゃ』

 

 何か脳内の人が言ってるけど、それどころじゃねえ!

 今すぐに病院……い、いや病院に行って確定しちゃったら怖い。

 と、とりあえずは……遠藤寺に相談だ。困ったときの遠藤寺。

 遠藤寺なら……それでも遠藤寺なら何とかしてくれる……。

 きっと、こう……探偵として培ったアレやコレやで俺の悩みを解決してくれるはず……!

 そう考えたら、何だか気が楽になった。

 

 俺は遠藤寺に『大切な話がある』とメールして、ジャージに着替えた。

 よし、今日もジョギング頑張るぞい!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

恋とか愛とかタイトルとか最初に言い出したのは誰なんだろう……

前回までのあらすじ

 

 「た、勃たぬ……勃たぬのだ……!」

 

■■■

 

「……はぁ」

 

 大学へ向かう長い坂道の途中、俺の悩みがギュッと凝縮された溜息が口から零れ落ちた。

 夏とはいえ早朝の通学路は肌寒く、溜息は白い息となってゆっくり霧散していった。

 

「はぁー……」

 

 このまま溜息と一緒に、俺の中の悩みも消えてしまえばいいのに。

 そんなことを思いながら、溜息を繰り返し吐き出すも、いつまでたっても俺の悩みは消えず、コールタールのようにベッタリ体の中に張り付いている。

 

 悩み、というのは、今朝発覚した例の事情だ。

 正確に言うならば、俺の下半身事情だ。

 簡単に説明すると、長年付き合ってきた半身とも呼べる存在であるジョニー(森見的表現)が立ち上がらなくなってしまったのだ。

 この事情について詳細に知りたい奇特なドスケベ難民がいたら、今すぐ左上にある矢印ボタンをクリッククリックッ!

 

「はぁ……どうしたんだよ、相棒」

 

 今もしょんぼり項垂れたままの相棒(直接的表現)に話しかける。が、無視。ウンともスンとも言わない。

 コイツとの付き合いも20年になる。その間、俺と彼は上手いことやっていたはずだ。

 辛い時も悲しいときもずっと一緒だった。喜びは2人で分かち合って、悲しみに暮れた時はお互いを慰め合った(直接的表現)ものだ。

 若さ故に度々暴走する彼を諌め、手綱を握り、宥め、そしてネットの海で手に入れたお宝画像達で一緒にハッスルした。

 今まで上手くやってこれたんだ。

 

 それなのに……どうしてこうなったんだ。

 

 今朝も事実が発覚してから、ただの思い違いという説に一縷の望みをかけ、美咲ちゃんとのジョギングやその後のエリザによるマッサージを受けたものの、その過程で一切反応(たちあがる)することはなかった。

 現役生JKである美咲ちゃんのすぐ後ろで、揺れるポニーテールや小ぶりなヒップを見ていても、微動だにしなかった。

 家に帰ったあと、エリザのノーパンマッサージを受けてもやはり、微塵も反応しなかった(ちなみにノーパンマッサージという言葉に何らかの違法性を感じるかもしれないが、ただ単にたまたまノーパンの日だったエリザが背中に乗ってマッサージをしてくれるだけのとても健全なリフレである。ガサ入れ不要)

 

 俺はどこにでもいる普通の男子大学生だ。偏った性癖も無いし、アブノーマルな趣味嗜好もない。

 普通の一般的ないやらしい画像や動画、本や映像を見て反応していた。

 実際、つい3か月前までは普通に問題なく機能していたはずだ。

 

 一体この数ヶ月で俺の身に何が起こったのか……分からない。検討もつかない。

 身体的……具体的に言えば泌尿器系の病気なのか、もしくは自分でも気づかない内に精神的なトラウマを抱えていて、結果反応しなくなったのか。

 

 とにかくこのままじゃヤバイ。

 将来、彼女が出来ていざ事に及ぶって時に『何の反応もしませんでしたァ!』なんてことになったら、マジで笑えない。相手の女性にも申し訳ない。

 それになにより、子孫繁栄がヤバイ。

 俺の子孫繁栄能力に問題があると一ノ瀬家がヤバイ。このままじゃ俺の代で一ノ瀬家がお家断絶になってしまう。

 

 え? 雪菜ちゃん? 

 ああ、あの子はねぇ……。16歳になったその日に「私は結婚しないので、孫は期待しないで下さい」って母親に言いきったからね。

 彼女が何を思って生涯独身宣言をしたのかは知らないし、その時は混乱したけど、今考えてみると……まあ、雪菜ちゃんならこういうこともあるか、と思う。

 だってあの子が普通に結婚生活してる姿とか想像できないからね。婚活女子に混じって婚活パーティに出たり、そこで出会った男と結婚したり、生まれた子供を乗せてベビーカー押したり、その子供を連れて実家に帰ってきたり、子供の反抗期に悩んだり、成人して家を子供が家を出て空っぽになった部屋を見て1人涙したり、孫のプレゼントに頭を抱えたり、相手に先立たれて1人孤独に生活したり……そういうの全然想像できないんだよね。

 うん。いいよ俺は雪菜ちゃんの意思を尊重する。頑張ってね。

 ただその宣言をしながら俺を見るのは勘弁して欲しかった。「どうせ兄さんも結婚できないのですから、この際一緒に宣言しては?」って視線。君の決意に俺を巻き込まんといて。

 俺は普通に結婚して、普通に子供は欲しいんだよ。子供とキャッチボールとかしたいの! 女の子だったら雷ちゃんのコスプレとかさせてツイッターにアップロードしたいの!

 

 ともかく、雪菜ちゃんに可能性がない以上、俺が頑張らなければならないのだ。

 

「何はともあれ、遠藤寺に相談だな」

 

 きっと遠藤寺なら……遠藤寺なら悩める俺を導いてくれるはず。

 なんかこう……探偵っぽく論理的な推理で原因と解決先を見出してくれるはずだ。だって遠藤寺だもの。

 

「はぁぁぁぁぁー……」

 

 しかし、朝から何でこんな憂鬱な気分にならないといけないのだろうか。

 それもこれも、早朝のこの雰囲気が悪い。

 月曜日の早朝特有の、気だるげな雰囲気が蔓延したこの空気。楽しい土日(おやすみ)が終わり、最悪な月曜日がやってきてしまった……そんな空気。

 

 周りを見渡すと、会社に向かうサラリーマンやら俺と同じく1限目の授業に向かう学生がちらほら見えるが、その誰も彼もが憂鬱そうな顔をしている。

 口から洩れるのは溜息ばかりだし、複数で歩いているグループの会話内容は愚痴とか今朝テレビでやってた暗いニュースとかばかり。

 こんな空気の中にいたら、そりゃ憂鬱な気分にもなる。

 

 何となく、周囲の声に聞き耳を立ててみる。

 

「はぁ……会社だるいわ。今すぐ会社に隕石(メテオストライク)落ちないかな……」「鈴木部長の野郎、マジムカツクわ。爆発して欲しいわ。鈴木爆発しろ、マジで爆発しろ」「授業だりーわ。なんで1限目から必修単位の講義とか入れちゃうかなぁ、ジュルスケ組んだやつの頭ハッピーセットかよ」「はぁ……早く仕事見つけないと。家追い出されちまうよ……でもなぁいい仕事ないよなぁ。どっかに巨乳JKの胸を下から支えるだけの仕事とかないかなぁ」「はぁ……深夜2時教に入信したのに、結局イシュ凛ちゃん出なかった……出たのはすまないさんだけ。もうすまないさん7人目だよ……」「この辺りにはいい感じのロリはいねぇのか。どこ見ても無駄に年食ったオッサンBBAばっかりじゃねーか。しゃーねぇ、ちょっと遠いが小学校の通学路で張り込むか」「はぁ……シドニーちゃんのホットパンツ日焼け跡エロかわゆ……」「あつまれ!ふしぎ研究部イケるやん!」

 

 などなど。

 どうやら、みんなそれぞれ悩みを抱えているらしい。つーか悩み抱えてる連中多すぎ。 

 連中が吐く白い息で通学路が喫煙所みたいになってる。

 

 だが、これだけ悩める人間達がいても、俺と同じ悩みを抱えている人間は1人もいないようだ。

 ま、俺みたいな20歳でEDに悩んでる野郎、他にいますかっていねーか、はは。みんなの悩み、会社がだるいとか上司がうぜえとか、テスト勉強してねぇとか彼女いねぇとか。ま、それは普通ですわな。

 かたや俺は電子の砂漠でお気にのエロ同人を見て、呟くんすわ。「Please wake up Johnny!(恐縮だが勃ってくれないかジョニー?)」ってね。

 

「はあ……」

 

 そしてまた一つ、悩める男子の溜息が俺の耳に入ってきた。

 発信源はすぐ目の前。俺を前を歩いている男だ。

 そいつは憂鬱な溜息を吐きながら、見ているだけでげんなりする闇のオーラを纏い、肩を落としながらトボトボ歩いていた。

 肩を落としすぎて片手に持ったカバン(大学生がよく使ってる薄っぺらいプラスチックのカバン)が地面でガリガリ擦れていた。

 

「はぁぁぁ……うぅ……」

 

 どうせコイツも他の連中と同じような、どうでもいい悩みを抱えているんだろう。ま、興味ないね。

 そう思い脳内アプリである脳内ソーシャルゲームを起動して脳内詫び石を受け取って脳内期間限定ガチャを回そうとする(通貨? 単位がSeroっていう俺の脳内独自の通貨。何か使いすぎると寝不足になる気がする……)

 じゃぶじゃぶ課金したくなるような射幸感を煽る画面をタップしようとした時

 

「何で……何でたたなかったのかなぁ……はぁ……」

 

 という発言がその男から聞こえて、思わずアプリを強制終了してしまった。

 今……コイツ、何て言った? たたなかった……そう言ったよな? た、勃たなかった……?

 

 ま、待て待て落ち着け。確かにそう聞こえたが、俺と同じ悩みを抱えているとは限らない。

 そうだ。もしかしたら、ア○プスの少女ハイジの50話を中途半端なところまで見て通学してきたのかもしれない。「クララなんかもう知らない!」って場面で家を出たのかも……だったら、この発言の意図も分かる。ネタバレしちゃうけどその後、クララ立つんだよ? 最後までちゃんと見なきゃ。

 そうだよ。俺と同じ悩みを抱えている人間がすぐ目の前にいるなんて偶然、あるはず――

 

「ぼく……EDになったのかな……まだ19歳なのに……赤ちゃんとか作れないのかなぁ……」

 

 い た わ。

 

 俺と同じ悩みを抱えた人間いたわ。しかもぼくっ子。

 まさかこの広い世界の片隅に、この時間、この場所で同じ悩みを抱える人間が2人もいるなんて……。

 これって奇跡じゃない? 運命すら感じる。つーか親しみを感じちゃう。

 よく聞くと声も可愛らしいよね。ショタ役やってる時のサイガーさんみたい。後ろ姿しか見えないけど、きっとルックスもイケメンだ。

 

 ――話しかけて……みるか?

 

 普段なら絶対思わないような考えが浮かんでしまった。

 それくらいに運命を感じたのだ。

 基本的にコミュ症の俺が、男相手に……思ってしまったのだ。

 

 新しい人間関係ってのは、こういう形で生まれる事もあるのかもしれない。

 いや、こういった変わったスタートの方が、より強固な人間関係を築けるかも……。

 俺がここで1歩を踏み出せば……新しい人間関係が築かれるのかも。

 

「こんなの……誰にも相談できないよ……」

 

 彼の心細い声が俺の心を震わせる。

 俺がいるぞ!と。

 2人なら心細くないぞ!と、言ってあげたい。そっと肩に上着をかけ「世界は終わりじゃないよ」って励ましてあげたい。

 

 そうだ。これは運命だ! 俺が彼に話しかけるのは運命に違いない。なぜなら、俺たちは運命の奴隷なんだから。

 運命に従い生きるのは人間のサガ。

 

 よし、脳内議会でも『話しかける』で意思は統一したし、話しかけよう。

 そして2人で悩みを分かち合い、協力するんだ。

 どんなに辛いことだって、2人ならきっと何とかなる。

 同盟……そう同盟を組もう。2人で問題(たたない)に立ち向かう――不起同盟。

 

 違エズ、裏切ラズ、勃タズ、我等生マレル時は違エドもにゃもにゃ……よし、誓いの言葉も80パー完成!

 あとは話しかけるだけ!

 

 知らない人に話しかけるのは緊張するけど……神よ! 俺を導いてくれ!

 

『うむ、よいぞ。行け』

 

 脳内に声が!? こ、これはまさしく信託……うおおおお! こりゃ行くしかねえ! 乗るしかねえ! このゴッドウェーブに!

 よし、あの電柱を通り過ぎたら――行くッ!

 

「キャオラッ!」

 

 電柱を通り過ぎた瞬間、俺は自分を駆り立てるように威勢のいい声をあげつつ、カカカッとフロントステップをした。

 そのまま悩める同志の肩に手を置く――

 

「だおォッ!?」

 

 ――瞬間、走ってきた何かに跳ね飛ばされ、真横にすっ飛ばされた。

 地面に倒れこみそうになるが、五点着地を駆使してなんとか体勢を立て直す。

 

 地面に手を付き、イケメンにのみ許される真実のポーズのまま、俺を跳ね飛ばしたアンノウンを睨みつける。

 

「はぁっはぁっ、や、やっと……追いついた……!」

 

 アンノウン――ツインテール金髪の何者かは息を荒げたまま膝に手を付き、俺の同志を睨みつけていた。

 同志は戸惑った様子でツインテール金髪(以下ツン髪)を見る。

 

「え? ど、どうして……」

 

「どうして、じゃないわよ! なにあたしを置いてってんのよ!」

 

 キィィィィッ! ちょっと誰よこの女! 俺と同志の間に割り込んでくるとか……許さんぞ!

 いや……女、か? 一見どう見てもテンプレツンデレ女に見えるが……男の娘って可能性もある。

 まさかコイツも同じ悩みを抱えているのか? そんな事がありえるのか? スタンド使いはスタンド使いに引き寄せられる……そんな引き寄せの法則が俺たち不起同盟にも適用されたのか?

 3人目の同志、か。そうだな。1人より2人、2人より3人……そうやって人の輪は広がっていくんだよな。よし、いいよ。君も誘ってあげる。

 これで不起同盟も3人。俺、ショタ、男の娘……ちょっとバランスが悪いな。次は男臭いマッスル辺りを募集してバランスをとりたいね。 

 

「はぁっ、はぁっ……んっ……ふぅ」

 

 いや、違う……か。こいつ間違いなく女だわ。俺の中にある女子(オナゴン)レーダーが反応している。

 コイツは女子だ。俺たち同盟とは何の縁もない一般女子。

 何の用だ……?

 

「朝起きたらベッドからアンタいなくなってるし……あたし、びっくりしたんだから」

 

「ご、ごめん……」

 

 な、何だよこの会話。まるできのうはおたのしみでしたね……みたいな。

 

「何で先に行っちゃったの?」

 

「……」

 

「あたしが……何かした?」

 

「ち、ちがっ!」

 

「じゃあ……昨日のこと?」

 

 昨日……昨日一体何があったんだよ! 同志とお前の間に一体何が……。

 というか俺はどのタイミングで立ち上がればいいわけ? いつまで生まれたての小鹿みたいにプルプル震えてればいいの?

 

「……だ、だから……その……」

 

「えっと、その……アレがその、たたなかった……そのこと?」

 

「……!」

 

 同志が泣きそうな表情になった。どうやら図星だったらしい。

 つまりこの2人は昨日アレをアレしたけど、同志のアレがアレでショックを受けてアレな感じなのか……。

 フフフ、やはり同じ悩みを抱えている同志で確定! 後は同盟に誘って2人で立ち向かっていく青春ストーリーの幕開けだ! 

 つーわけで女子、てめえはさっさと消えろ。ぶっとばされんうちにな。

 

「……ごめん。僕、その……」

 

「今日も――」

 

「え?」

 

「きょ、今日も……あたしの家、親いないの」

 

「そ、それって……えっと……」

 

 おや? 雲行きが怪しくなってきたぞ……。

 ここは落ち込む同志を説得できずに女子が去り、俺がそっと彼を慰める……そんな展開じゃないの?

 

「い、言わせないでよ恥ずかしい! 昨日は緊張してたからでしょ? ……あたしだってそうだもん。だから……何回かしたら、慣れて……ああ、もう! だから言わせないでよ恥ずかしい!」

 

「ごめん……」

 

「バカ! バカバカ! ほら、だから……学校、行こ」

 

「……うん。僕、今夜は、今度こそ……頑張るから」

 

「……もう、バカ」

 

 そして2人は幸せなキスをして終了。仲良く手を繋いでスタスタ歩いていった。

 

 残された俺はというと、同盟締結直前に脱藩者が出て、悲しくて寂しくてただ女王様に鞭でケツを叩かれるポーズのまま、彼らを見送ることしかできなかったのだった。

 ガメオベラ。

 

 

■■■

 

 ゲームオーバーの後も俺の人生は続くらしい。しかも負債満載で。

 何とか立ち直って通学を再開した俺だが、目の前では先ほどのカップルがイチャイチャしながら歩いている。

 

「……ねえ、もっとくっついていい?」

 

「う、うん。今日、寒いしね」

 

 何で朝からこんな物を見せ付けられなきゃいけないのだろうか。前世、もしくは前前世、または前前前世辺りで行った悪行の負債請求が今頃になって来ているのだろうか。

 ただでさえEDとかいうキツイ悩みを抱えているのに、目の前で朝からイチャコラパラダイスを見せ付けられるとか……俺って今この瞬間で言えば、世界一不幸な美少年かもしれない。え? 美少年ではない? 微少年? 知ってるよ……。

 

「ふふっ、あんたの手、あったかい……」

 

「ぼくも……あったかいよ」

 

 端的に言って死ね。

 つーか寒くないし! 全然寒くないし! 

 俺、今結構暖かいし。まるで誰かが側で寄り添ってるみたいに暖かいし。別に強がりとかじゃないし!

 多分あれだな。これがきっと嫉妬の炎ってやつだな。初めて同性の友人が出来るだろうチャンスを奪われた俺の心が燃やしている嫉妬の炎のおかげだ。

 はぁ……あったけえ……嫉妬の炎あったけえわぁ……。これから毎日燃やそうぜ!ってくらい心地よい暖かさだ。

 

 桃色濃霧注意報の発生源となっている目の前のカップルを睨みつけながら、大学への道をひたすら歩く。

 暫く歩いていると、突然視界が闇に覆われた。

 

「は!?」

 

 急に何も見えなくなって戸惑う。

 周囲を見渡そうとするも、首が動かせない。何かにガッチリと固定されているようだ。

 これは……腕か? 頭の左右を腕らしき物に固定されている。

 とりあえず悲鳴をあげる前に、出来るだけ状況を把握しようと試みる。目の辺りに何者かの肌の暖かさを感じる。

 どうやら突然暗くなったのは、何者かに手で目を塞がれてしまったからのようだ。

 そしてそれが何者か……

 

「……」

 

 生暖かい吐息が耳にかかる。この吐息……何か思い出しそうだ。吐息に混じってほんのり感じる香り……。

 背中には布越しでも柔らかさを感じる二つのお山。

 そして嗅ぎなれた果実のような甘い体臭。

 知っている……俺はコイツを知っている。

 

「……だーれだ?」

 

 そして発せられるどこか緊張した襲撃者の声。

 俺は架空のボタンをピンポーンと早押しして、答えた。

 

「遠藤寺!」

 

「……ふっ、正解だよ」

 

 声の主は満足そうに言って、目隠しを外した。

 目の付近を圧迫されていたからか、目を開くと風景がぼんやり歪んでいた。

 それに構わず背後に向き直ると、正解の言葉通り、そこには遠藤寺が立っていた。

 

「やあ、おはよう。いい朝だね」

 

 わずかに首を傾げ、ミリ単位で口角を吊り上げて挨拶をしてくる遠藤寺。

 

「ああ、おはよう。つーか、いきなり何すんだよ」

 

「ん? ああ、ちょっとした悪戯心ってやつで……気分を害したのなら謝るよ」

 

 気分を害しただと?

 むしろもっと堪能しとけばよかったと後悔してるわ。朝から遠藤寺に密着するとか、最高じゃん! 仮に俺がデスロード系の能力持ち(死んだらセーブしたポイントからやり直せる能力。マッドマック○とは関係ない)だったら、さっそく自害して何回でもこの瞬間をやり直すわ。

 

「怒っていないのなら安心だ。しかしアレだね。生まれて初めてああいった行為をしたけど……とても緊張したよ」

 

「緊張?」

 

「ああ、緊張したよ。今も少し心臓がドキドキしている。君に貸して貰った推理漫画に描いてあったから試しにやってみたけど……うん、ヒロインがあれほど緊張した理由を身を持って理解したよ」

 

 ああ、あのラブコメ入った推理漫画ね。

 あのシーンのヒロインがまたいいんだわ。ちょっとお茶目心出して『だーれだ?』ってやったけど、後で『……あ、あんなにくっついちゃって……恥ずかしいっ』みたいに家のベッドで悶えるヒロインの可愛いこと可愛いこと。

 つまり遠藤寺もこの後、ベッドで悶える可能性が? 枕に顔を突っ伏してジタバタしちゃうの? 見たい。超見たい。

 

「力加減を間違えれば、相手の目を潰してしまうかもしれないという緊張感。これほどの緊張感を味わったのは久しぶりだよ」

 

 想像してたのと違う。

 危うくティンペーとローチンの人になるところだったのか俺……。

 うーん、今になって俺の方が心臓ドキドキしてきたぞ。

 人の目を潰しかけといて、くつくつ笑う遠藤寺に「何が可笑しいッ!」と渇を入れようとしたが、まあ……遠藤寺さんが満足そうならいいです。

 

 しかし今日の遠藤寺、いつも通りのシニカルな笑みを浮かべている様に見えるけど……何か違うな。

 こう何ていうか表情に「ムッ」とした物を感じる。言葉もどことなく棘があるように聞こえる。

 俺の気のせいかもしれないけど。

 

「とりあえず驚くから次からはやめてくれ」

 

 と言葉では言いつつも、内心ではこういったサプライズ的スキンシップはドンドンやって欲しいと思っているツンデレな俺。だってこういうのってすげえ仲のいい友達同士のアレじゃん。

 具体的に言うなら、週4日ほどのペースで定期的にお願いしたい。んで、背中に当たる感触から、日々の遠藤寺の成長(主に胸部)を観察して記録したい。無論記録(データ)は漏洩しないよう、俺の頭の中だけにしまって墓の中まで持っていくので心配なく。

 

「驚かせてしまってすまないね。でも、君が悪いんだぞ? ……ボクを無視するから」

 

「は? 無視?」

 

「ああ、そうさ。さすがのボクもショックでね。ちょっとばかし君を驚かせたいと、悪戯心が湧いてしまったのさ」

 

 無視って、何のことだ?

 俺が遠藤寺を無視するなんてことありえないし。そんな事して、遠藤寺から仕返しに無視されたらとか考えるだけでも恐ろしいし。

 もしそうなったら、凄まじいショックで心が砕け散って砕け散った心が異世界と繋がってる井戸の中に落ちてそれを追った先で出会った犬耳少女と一緒に心の破片を探す旅に出発することになるかもしれない。そういえば○勒様にも風穴はあるんだよな……ゴクリ。

 

「無視ってなんのことだよ?」

 

「通学中に君の気配を感じたから、ずっと待っていたんだよ。少し戻った所に電柱があるだろう? あそこで待っていたのに、君はボクを無視して目の前を素通りして行ったじゃないか」

 

 わずかに眉を寄せてそんなことを訴える遠藤寺。

 電柱……? 確かに電柱は通った覚えがあるが、そこに遠藤寺がいたかどうかは覚えていない。 

 確かその時は目の前の同志を勧誘するのに夢中だったから……。

 

「スマン、まったく気づかなかった」

 

「本当に? 朝から君に会えたのが嬉しくて、柄にもなく手を振っていたのに?」

 

「……スマン」

 

 全く気付かなかった。ていうか見たかった。

 手をフリフリする遠藤寺ちゃん見たかった……心のCGギャラリーに保存したかった……。

 

「む。だったらその後、ずっと君の後ろに張り付いて歩いていたのに、それにも全く気が付かなかったのかい? ちっとも?」

 

「え……」

 

「殆ど密着するくらい、君と体温を共有するくらいの距離で歩いていたのだけど……全く?」

 

 そんな烈海王みたいな事いつのまに……あ、でも誰かが寄り添ってるみたいな暖かさを感じた記憶はある。

 アレ、嫉妬の炎じゃなくて遠藤寺の暖かさだったのか。

 気が付かなかった……。

 

「その顔じゃ、本当に気が付いていなかったんだね」

 

 呆れたような表情で遠藤寺が言った。

 そりゃそんな距離で気づかないとか、呆れるわな。

 

「……君、朝とはいえ少しぼんやりし過ぎじゃないかい?」

 

 咎めるような口調の遠藤寺。

 

「そこまでボンヤリしてたつもりは無いけど……」

 

「いいや、していたね。かなりボンヤリしていたね。ここまでボンヤリしている人間を見るのは、ボクの人生で初めてだよ」

 

「はぁ……」

 

「はぁ、じゃないよ全く。君ね、ここが何の変哲もない通学路で、ボクが何の変哲もない普通の親友だったからいいよ? もし仮に。仮にだよ? ここが外界から孤立している、連続殺人真っ最中の洋館だったらどうするんだい? そんなボンヤリしていると、真っ先に殺されるよ? ダイイングメッセージを残すこともなく、あっさりと。物語的にも2行ほどでしか描写されないくらいつまらない死に方で」

 

「普通の人間は孤立した洋館とか行かないんだけど……」

 

「仮にと言っただろう? いいかい? 要するに君は危機意識が薄いということを言いたいんだ。常に気を張ってろとは言わないけどね、最低限周りに気を配ることくらいすべきだ、と。そういうことを言っているんだ。この際だから言わせて貰うよ。ボクが言うのもなんだけど君は鈍感――」

 

 朝から多弁な遠藤寺。

 これはつまりアレか。

 

「遠藤寺怒ってる?」

 

「はぁ? 怒ってる? ボクが? ハハハ、相変わらず君は面白いことを言うね! まさかこのボクに向かって! 怒ってる、だって? どんな時、どんな場所でも常に探偵として冷静であることを誇りとしているボクが? 怒ってる?」

 

 遠藤寺はいつもの皮肉気な笑みを浮かべたまま言う。

 ていうか顔が近い。声が普段より少し大きい。ちょっと唾飛んできてる。ペロペロ。

 

「朝から目の前を素通りされたくらいで? いいや今のは何かの間違いだろう、親友である君がボクを無視するなんてありえない、ほらちょっと後ろを歩けばすぐに気づくだろう、ええいどうだ? この距離で歩いて気づかない人間なんていないだろう、だが全く気付かれなくて? おや、これはまさか、意図的にボクを無視しているんじゃないか? ボクは何か君を怒らせることをしただろうか? 分からない。分からないぞ。分からないけど、何だか心がザワザワする。ああ、もうこういう時どうすればいいんだ。――そんな風に混乱させられて? 怒ってるか、だって? ――怒ってるよ!」

 

 どうやら俺は遠藤寺を怒らせてしまったらしい。

 

「ああ、ズバリそうだ。怒ってるよ。君に朝から無視されて怒ってるさ。そして無視をされたくらいで腹を立てている自分が情けなくて怒ってるよ。君が無視をしていたわけじゃなく、ただボンヤリしてて気づかなかっただけど聞いて、ホッとしている自分がいて何だかそれも腹が立つ。それから何だかんだと君と会話を交わしていると、楽しくてもう怒っていたことなんて既にどうてもいいと思い始めている自分の意味不明さにもね!」

 

 遠藤寺は捲し立てながら、更に顔を近づけてくる。

 近い近い。

 

 遠藤寺と出会って3ヵ月になるが、こうやって分かりやすく怒っている姿は初めて見る。

 基本的には何事にも動じない、悪く言えば喜怒哀楽の機微が殆ど無い人間だったのに。

 

「ああ、認める。認めるさ。ボクは怒ってる。この際だから告白してしまうけど、この間、君が家にいる幽霊少女のことで惚気られた時もちょっと……いや、かなり怒っていたよ」

 

「食堂で箸バキバキに折ってたアレ?」

 

「そうアレだ。家に帰ってからもその時の話を思い出してしまって、お気に入りのワイングラスに皹を入れてしまったよ」

 

 想像してみる。

 家で優雅にワイングラスを片手にワインを嗜んでいる遠藤寺が、ふと日中のことを思い出し手に力が入りワイングラスにヒビを入れてしまう光景を。

 ヒビからワインがピューピュー零れて、慌てて掃除をする遠藤寺を。

 その原因が俺だということに申し訳なさを感じてしまう。

 

「ごめん遠藤寺」

 

「……」

 

 遠藤寺は無言のまま、ジッとこちらを見つめてくる。

 暫く俺の顔を見つめていた遠藤寺は、はぁと深く息を吐いた。

 

「……手」

 

 遠藤寺が手を差し出してきた。

 

「え?」

 

「だから、手……だよ」

 

 どういう意味だ?

 許してやるから、お手をしろってか? 犬になれってこと? イエスならワン、ノーならワンワン?

 

「だから。許すよ。許すから……ほら、握手だよ。仲直りの握手」

 

「ああ、うん」

 

 遠藤寺の手をギュっと握る。

 

「……ん、暖かい手だね」

 

 そう言う遠藤寺の手はとても冷たかった。見れば遠藤寺の唇は薄っすらと青白い。

 一体どれくらいの時間、俺を待っていたのか。

 分からないけど、相当長い間待っていないと、ここまで冷たくならないだろう。

 

「何か、ゴメン。結構長い間、俺を待ってたんだよな。それなのに気付かなかったとはいえ、無視して……ゴメン」

 

「いいさ。近づいてくる君を待つのは全く苦痛じゃなかったよ。それどころか楽しかった。待つだけなのに楽しいなんて初めての経験だったよ」

 

「……ちなみに俺の気配を感じて、どれくらい待ってたり?」

 

「ん? 時間にしてたった20分くらいだよ」

 

 20分も俺を待っていた遠藤寺をスルーしてしまったのか。本当に申し訳ないな。今度、何か埋め合わせでもしないと。

 

 それはそれとして、20分前から俺の気配を察していたということは、俺の歩行速度から計算すると、遠藤寺の索敵範囲が半端ねえことになるんだけど。

 遠藤寺とかくれんぼしたら、絶対に勝てないな……。

 

「うん、怒り切ってスッキリした。いきなり怒ってしまってすまないね。……どうにも君と出会ってから、こんな風に自分の感情を制御できなくなることが時々ある」

 

 確かに。昔のあまり感情を表に出さない人形のようだって遠藤寺と比べて、今の遠藤寺は随分感情を表すようになった。

 あまり交流のない人間では分からないだろうけど、怒ったり、拗ねたり、寂しがったり、喜んだり……そういった普通の女の子みたいな感情表現がかなり分かりやすくなった。

 そういう風に遠藤寺を変えてしまったのは……俺なんだろうか。俺如き存在が、本当に遠藤寺に影響を与えているのだろうか。

 俺がやったのは遠藤寺と一緒に大学生活を過ごして、遠藤寺が知らないだけで誰でも知ってるような些細で特に面白みもない話をしたり、小説しか読んだことしかない遠藤寺に漫画を貸したり、一緒に飯を食ったり、大学生らしく酒を飲んだり、困ったことを相談したり……それくらいだ。

 それくらいで人は変わるのだろうか。

 

 もしそうだったとしたら……遠藤寺という周りに決して染まらない圧倒的な『白(個性)』を俺という斑色で汚してしまったことへの優越感染みた背徳を感じる。

 恋人を自分色に染め上げる……というのはこんな気分なのかもしれない。いや、別に恋人同士ではないけど。

 

 ただ怖いのは遠藤寺本人が自分の変化についてどう思っているか、だけど。

 

「……まあ、こうやって自分の感情に振り回されるのも、これはこれで楽しい。自分の感情ながら未だに理解が出来なくて興味深いしね」

 

 と、好意的な様子。

 その様子を見て俺は安心した。

 変わることを遠藤寺が拒絶し、俺の元から離れていく可能性もないとはいえない。が、どうやら今のところは大丈夫なようだ。

 もし遠藤寺が俺に愛想を尽かして去っていったら……考えるだけでも恐ろしい。

 唯一の親友を失った俺の心はきっと耐えられないだろう。冗談抜きでマジで心が砕け散る。

 つーか『はぁ……もういい。君に興味が無くなった』って言いながら遠藤寺が去っていくのを想像しただけでも、心に皹が入りそう。俺の心脆すぎ。

 

「さて、そろそろ学校に向かうとしよう。……ふむ、せっかくの暖かい手、このまま離してしまうのは惜しいね」

 

 何やら思案顔でぶつぶつ呟く遠藤寺。

 

「ん、もう片方の手を貸してくれないか?」

 

 言われた通り、遠藤寺と握手をしていた手と反対の手を差し出す。

 そのまま先ほどまで握手をしていた遠藤寺の手が、今差し出した俺の手を握った。ややこしい。つまり俺の左手と遠藤寺の右手が連結したってこと。

 うーん、遠藤寺の手、暖かいナリ……。

 

「よし。今朝は寒いからね。うん、じゃあ行こうか」

 

 そのまま手を引かれる。

 いや、行こうか、じゃないから。

 

「あの、遠藤寺さん。手……」

 

「うん? 手がどうかしたのかい?」

 

 いや、どうもこうも、お手てとお手てがチュッチュしちゃってるわけで。手と手のシワを合わせてかなり幸せなんだけど、ちょっと待って欲しい。

 流石に親友同士はいえ、女の子と手をニギニギして通学するのはどうかと……つーか恥ずかしい。

 

「その……ね。手を繋いで歩くとか……なぁ?」

 

 「手を握って歩いて噂とかされたら恥ずかしいし……」なんて言うと、ちょっと自意識過剰みたいで恥ずかしい。

 ここは遠藤寺に自ら気付いてほしい。

 

「ほら、前を歩いてる2人いるじゃん?」

 

 目の前でイチャイチャしながら歩くカップルをさす。

 どうか気付いてほしい。通学路を手を繋いで歩くのは、カップルだけの特権だということを。

 もしくは小学生の集団下校だけ。

 それをどうか気付いてほしい。

 

「ああ、いるね。――ああ、そういう事か」

 

 さす遠。それだけで理解してくれたようだ。

 察してくれた遠藤寺は、そのまま手を放す――かと思いきや、握っている手の指をグニグニ動かし、俺の手の隙間に捻じ込みだした。

 瞬く間に遠藤寺の指と俺の指が絡まりあう。

 

 ――こ、これは恋人繋ぎ!

 

 知っているのか一ノ瀬辰巳! 

 ああ……指と指を絡め密着させる最上級の手繋ぎ……もはや手と手の間に隙間は無く、完全にお互いの手が同化していると言っても過言ではない。

 恐ろしいまでの肌の密着度合い、そして身体の一部を絡め合う……もはや一種の○ックスと言える! 通学路、衆人観衆の中でセ○クス! 

 遠藤寺と繋がったままこんな街中歩くなんて頭がフットーしそうだよおっっ!!!

 

「うん、確かに。こっちの方がいいね。肌がより密着するから、ずっと暖かい。ふふっ、さっきより一層君の体温を感じられる」

 

 違う遠藤寺、そうじゃない。

 親友同士ではちょっとやり過ぎなスキンシップ方法に物申そうとした俺だが、絡まった指の1本1本に遠藤寺の体温を感じて、この暖かさを失うことへの迷いを感じる。

 恥ずかしい。だが離すのも惜しい。

 俺の悩みを示すかのように、天秤が揺れる。グラグラ揺れる。

 

 結局。

 遠藤寺のスベスベで暖かい手から逃げられなかった俺は、生まれて初めて女の子と手を繋いだまま通学するという恥ずかし嬉し体験に身を捩りつつ、遠藤寺が振ってくる言葉に相槌を打つのだった。

 

■■■



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

そうか……過去に遡って最初にタイトルという概念を作った人間を消し去れば……!

3行で全開であらすじ

 

 オレはぁぁぁぁぁぁ! タツミン星のおおおおおお! 王子いいいいいいいい! 辰巳だぁぁぁっぁぁぁぁ!

 通学路でぇぇぇぇぇぇぇ! 親友の遠藤寺と出会ってぇぇぇぇぇっぇ! 手を繋いでああああああああ! 超エキサイティンッ!

 遠藤寺の手って暖かくてスベスベしててぇぇぇぇぇ! なんていうか! 下品なんですが! フフフ! 勃――

 

 以上。

 

■■■

 

 遠藤寺と手を繋いだまま、通学路を登っていく。

 

「ふむ? 何だか今日はいつにも増して、周りからの視線を感じるね」

 

 「まあ、どうでもいいけどね」と特に気にした様子もなく、遠藤寺が言った。

 

 遠藤寺の言う通り、今俺たちは周囲を歩く学生からかなり見られている。

 だが、カップル的なものに向ける妬みの視線というよりは『ゴスロリリボンの女が手を繋いで歩いてる……』みたいな、まるでUFOを見るようなものを感じた。

 遠藤寺へ向ける視線が大半で、俺への視線は殆ど感じない。

 

 まあ、遠藤寺は見た目とか普段の探偵活動とかで超有名だからね。個性の塊だ。

 個性ってのは言ってしまえば光だ。そして光があれば影がある。

 当然のように個性の薄い俺は影だ。遠藤寺という圧倒的な光に寄り添う今にも消えそうな影。

 別にそれが嫌とかいうわけではなく、ちょっと遠藤寺に申し訳ない。唯一の友達が俺みたいな影の薄い男でいいのだろうかって。

 釣り合いが取れていないんじゃないかって。

 

 だがそれでも一緒にいたいと思うのだ。

 遠藤寺と一緒にいると、自分の個性の薄さに劣等感を感じてしまうこともあるけど、それでも心地いい。

 遠藤寺という光の側にいると一瞬でも自分が世界の主役になれたような、錯覚を覚えることができるのだ。

 俺は虫だ。遠藤寺という光に群がり、個性という蜜を啜る哀れな虫。

 

 なあ、遠藤寺……お前は光だ。時々眩しすぎてまっすぐ見れないけど……それでもお前の側にいていいかな。

 

 とまあ、自分を虫に例えたクソポエムを奏でつつ、どこかで聞いたようなセリフで締めてみたり。

 

 

■■■

 

 

 遠藤寺が振ってくる話題に相槌を打ちつつ歩いていたが、暫くすると遠藤寺が無言になり、代わりに彼女からの視線を感じた。

 俺の頭の先から足の先端までを容赦なく観察する視線をビリビリ感じる。

 

「ほう……ふむふむ」

 

「え、何? 何か付いてる?」

 

 寝癖でも付いてたり? いや、それは無いはずだ。

 家を出る前は必ずエリちゃんチェック(変なところが無いか、エリザが確認してくれるシステム。問題ないと笑顔で親指を立ててくれる。特許申請中)を受けたところ、問題なかったはず。

 ファッションも特に問題ないはずだ。一般的な大学生スタイル。今すぐ山奥に木こりのバイトに行っても問題ない、普通の大学生ファッションだ。

 それじゃあ一体……チャックとか開いてる? いや、閉じてるよな。

 

「今朝もジョギングをしてきたみたいだね」

 

「え? まあな。……って、分かるのか?」

 朝に走ってきたとか、見ただけで分かるもんなのか? 

 遠藤寺のことだから、疲れから来る歩き方の変化とかで見極めたのかもしれない。

 歩き方の変化と言えば、昨晩主人公と初めて結ばれたヒロインが翌日友達から歩き方のおかしさを指摘されて顔を真っ赤にするアレ……好き。とんでもなく好き。略してとん好き。

 

「そりゃ分かるさ。君の体臭の中にジョギングでかいた汗の匂いを感じるからね」

 

「え゛」

 

 体臭……汗……匂い……?

 俺のくっさい臭いを……あの死んだ土竜(モグラ)みたいな……あのくっさいくっさい臭いを!?

 スメルオブアースドラゴンを!?

 

「う、嘘だろ!? ちゃんとシャワーしたけど!?」

 

「ボクは五感の内、特に鼻が利くからね。汗の種類くらい嗅ぎ分けられるさ。どれだけシャワーで洗い流そうが、微かに匂いは残る。ふふ、何なら君の朝食も当てて見せようか?」

 

 とか悪戯っぽく言って俺の口に顔を寄せてくる遠藤寺。

 一方の俺は、自分のクソスメルを嗅がれたことへの羞恥心やらで申し訳なさで、あっぷあっぷ。慌てて遠藤寺から離れようとするも、握力がハンパない遠藤寺から逃げることが出来ない。

 アパム! ファブリーズ持ってこい! 消臭の女神をここに! ファブリーズをぶっかけてくれ! プリーズ! ファブリーズ! プリーズ!

 

「ファプリィィィィズ!」

 

「ふむ。ホッケにジャガイモの味噌汁。ほうれん草のお浸し、か。いいバランスの食事だ」

 

「お止め!」

 

 つい女王様口調になってしまう。

 くそう……勝手に人の口臭から朝食を推理して、それを本人に告げちゃうとか……頭がおかしいよ、この女。

 俺もよく遠藤寺相手に同じようなことするけど、絶対に口には出さないからね。あくまで心の中で楽しむだけ。そこの違いは大きい。

 

「ふむ、ダイエットも順調なようでなによりだよ。例のアレは役に立っているかい?」

 

 例のアレ――遠藤寺著のジョギングガイドブックのことだろう。

 それはもう役に……立っていた。最初はね。今はほら……お師匠様がいるから、うん。美咲ちゃんって言う年下のお師匠様がね。

 あの子、運動に関わる質問なら基本的に何でも答えるくれるからね。実践に基づいた効率的なストレッチ方法とか。

 遠藤寺のアレはほら、何ていうか本とかネットの知識がメインっぽいから……非常に申し訳ないけど、実際に運動をしている美咲ちゃんの話の方が説得力がある。 

 だが流石に「もう用済みなんでゲス!」とか極めて下衆いことは言えないので、とても役立っていると返答しておく。実際、ただ読んでるだけでも遠藤寺が俺の為にわざわざ作ってくれたんだって気持ちで心が癒されるからね。

 疲れた時のホイミブック(使用回数無限)、これからも大切にしようと思う。いつか俺が死んだ時には、イカ娘のコミック全巻と共に棺桶の中に入れておいて欲しい。

 

「そうかい。それは重畳。君の役に立っているなら、作った甲斐があるよ。ところで――」

 

 遠藤寺はコホンと咳払いをした。

 

「今日のボクを見て、ほら、なんだ……何か気付かないかな?」

 

「何か?」

 

「何かいつもと違うような、その……変わった所はないかな?」

 

 わざとらしい咳払いをしながら、チラチラ視線を向けてくる。

 

 特にいつもと変わらない、ノーマル遠藤寺だ。SRでもなければSSRでもない、コモン遠藤寺。

 だが遠藤寺が言うからには、何かいつもと違うところがあるのだろう。

 ふーむ、ここは遠藤寺を見習って洞察力をバリバリ働かせてみるか。

 

 俺は遠藤寺を凝視した。頭のてっぺんから、足の先までを舐め回すように観察する。

 

 頭の上には、遠藤寺のチャームポイントである大きなリボンが揺れている。今日はオレンジ色だ。今日は寒いからか暖色系を選んだのかな。しかし、毎日違ったリボンつけてるけど、やっぱりその日の気分とかで決めてるのだろうか。もしかしたら宇宙人対策かもしれない。要検討。

 リボンが乗っている髪の毛は今日もフワフワだ。きっと毎日、風呂で高いトリートメントとか使って丁寧に手入れしているに違いない。

 顔はまあ……言うまでもないけど、可愛いよね。いい意味で人形っぽい整った容姿。

 で、着ている服は遠藤寺のチャームポイントその2である、ゴスロリ服。フリルとかすげえ付いてて、見ただけでも高そうって分かる。洗濯とかどうしてんのかな……手洗い? 遠藤寺が風呂場でゴスロリ服をゴシゴシ洗ってるところは想像できんな……。

 1度でいいからこのフワっとしたスカートの中に潜り込んで、プラネタリウムをしたい。どんなときも決して消えることのない、美しい無窮のきらめきはいかがでしょうin遠藤寺スカート。

 

「……自分で見るように言っておいてなんだけど、これは何だか……むず痒いね。君にジッと見つめられていると、こう……体が熱くなる。ふぅ……暑い暑い」

 

 遠藤寺が何か言いながら、手で顔を扇ぎ、太もも辺りを擦り合わせる。

 その現在進行形でコシコシしている、遠藤寺のチャームポイントその3であるちょっとムッチリした足は白タイツに覆われて――ん?

 

「白……タイツ、だと?」

 

 そう白タイツだった。

 いつもはニーソックスだったり、オーバーニーソックスだったり、意表を付いて生足だったりするけど、今日は初めての白タイツだった。

 遠藤寺と過ごした記憶を思い返すが、やはり遠藤寺が白タイツを履いていた記憶は無い。遠藤寺の足については並々ならぬ興味を持っている俺だから分かる。

 

 しかし何だな。ムッチリした健脚美を大胆に披露する生脚や、スカートと靴下の間――肌色の絶対領域の美しさが目立つニーソックスは今更語るまでないくらい魅力的だったけども……。

 この白タイツもいい。

 肌を一切見せない、言ってしまえば守りのスタイル。

 肌を一切見せないことから、エロスとは程遠いと思われるかもしれないが……それは違う。

 

 考えてみるといい。

 この白タイツ。下半身の全てを覆う1枚の布なのだ。

 つまりは視界に入る布と、普段は隠されている尻やら股間を覆っている布はシームレスになっている。

 膝小僧を隠している布とお尻を隠している布は全く同じなのだ。

 これはエロい。オープンワールド的なエロさだ。自分で言ってて意味分からんけど。

 あと、タイツって単純に説明出来ないエロさがある。それでも敢えて説明しろ? フフッ、この先は自分の目で確かめてくれ。

 

 つまり何が言いたいかって言うと、俺は今、現在進行形で遠藤寺の膝小僧を触っているが、拡大解釈すればそれは――お尻やら股間部を触っているのと変わりは無いということ。違うか! 違うか! 違うか!? ……なあ戴宗。

 

「ほうほう……なるほどなるほど。なるほどなー」

 

「……さ、流石に、いきなり相手の膝を撫で回すのはどうかと思うよ。親しき仲にも礼儀ありという諺を知らないのかい?」

 

 遠藤寺の若干困惑した声に思わず正気に戻る。

 どうやら俺は無意識の内に、遠藤寺の膝小僧をサワサワしてしまっていたようだ。

 

「あ、いやこれは……珍しく白タイツを履いていたもんだから、つい興味が沸いて……」

 

 苦し紛れの言い訳をするが、これ本当に苦しいな……窒息寸前だわ。

 いくら遠藤寺でも、この言い訳でも納得するはず……。

 

「興味? それはいいね。それがどんな事であっても興味を持つことはいいことだよ。どんな些細なことであっても、興味を持つ――それは探偵にとって必要な資質だ。君には是非、その資質を磨いて欲しいと常々思っているのさ。何故なら君には将来、ボクが開く探偵事務所の……おっと、これはまだ秘密だった、いけないいけない」

 

 どうやら許されたらしい。どうせ許されるんだったら、膝小僧なんかよりも太腿とか膝裏とかを触っておけばよかった。

 しかし最後の方、探偵事務所がもにゃもにゃ言ってたけど……やっぱり遠藤寺、将来は探偵を仕事にするんだな。

 大学1回生にして進むべき道を決めているのは、正直立派だと思うし、羨ましい。

 俺なんか、サッパリだ。自分が将来どんな仕事をしているかなんて、ちっともイメージが浮かばない。

 スーツを着て営業に出たり、1日中パソコンと睨めっこしたり、工場で流れてくる部品を組み立てたり、口の悪い現場監督に怒鳴られながら材木を運んだり……そんなことをしている自分をイメージしてみるけど、いまひとつしっくり来ない。

 残りの大学生活でこのイメージをはっきり形にすることは出来るのか。出来なかったらどうなるのか。

 こういう将来のことを考えると、落ち着かない気分になってしまう。地に足が着かないような、ひっそり心臓がドキドキする感覚。

 

 ……しかし我ながら、白タイツのことを考えながら将来のことを平行して考えるとか、ちょっとどうかしてると思う。

 ともかく今は将来について考えても仕方が無い。白タイツだ。何はともあれ白タイツ。何はなくとも白タイツ。ああ白タイツ。

 

 というわけで俺は架空の速押しボタンをお手付き気味に叩いて、正解を発表した。

 

「正解は――白タイツだ。遠藤寺は今日、初めて白タイツを履いてきた……Q・E・D」

 

「いや、うん。自信満々のところ悪いけど、ボクが気付いて欲しかったところは白タイツじゃないよ」

 

「いや正解だから。白タイツで正解。一ノ瀬さんに100ポインツ!」

 

 見事正解した一ノ瀬さんにはもちろん、脱ぎたての白タイツを頂けるのでしょうね。

 え、商品を何に使うかって? それはもちろん恵まれない子供達の為に、俺がhshsやらprpr、nbnbしながらspspしますよ、ええ。

 その様子をyoutubeに上げたら、何とかビーバーさんが気まぐれにツイートしてくれて、一躍時の人に。そして……紅白に。年末年始は一ノ瀬辰巳をヨロシク!

 

「だから違うよ。白タイツじゃない。……まあ、初めて履いてきたことに気付いてくれたのは、正直少し嬉しいと感じるけども」

 

 ポリポリと頬をかきながら不正解を告げる遠藤寺。

 どうやら白タイツではないらしい。だが、他に何かあるだろうか。

 いくら遠藤寺を観察しても、いつもの遠藤寺と違う部分が見つからない。

 

「……すまん、分からん」

 

 俺は降参を示すように、両手を上げた。実際は遠藤寺と手を繋いでるから、2人で手を上げる形になったが。

 

「……むぅ。本当に分からないのかい? じゃあ仕方ない。ヒントをあげよう」

 

 遠藤寺は指を1本立てた。

 

「ボクが気付いて欲しいポイント……それは君にも当てはまる」

 

「俺にも?」

 

「ああ、そうさ。君とボク、互いの共通点がある。そしてもう1つヒントを与えるとするなら……この間、食堂で君と交わした会話だ」

 

 この間っつーと、アレだよな。

 俺が食堂で遠藤寺に対して、ダイエット宣言をしたあの日。

 つまりあの日交わした会話と、俺と遠藤寺の共通点……。

 

 今の俺と遠藤寺に共通点なんてあるか……? 性別も容姿レベルも、学力も全然違うし……あえて共通点を上げるとしたら、同じ人間って種族くらい。

 いや、同じ種族ってくくりも何か遠藤寺に失礼な気がする。遠藤寺と俺は人間として別格過ぎて、無理やり共通点を挙げるなら、二足歩行してるって点くらいしかないし。

 

 うーん。分からん。

 遠藤寺は一体、何を気付いて欲しいんだ?

 

「……フフ、悩む君を見るのもなかなかに楽しいね。よし、サービスで最後の大ヒントだ」

 

 そう言うと遠藤寺は、繋いでいる手を自分の腹部に持ってきた。

 俺の手のひらを柔らかいお腹に添えさせ、その上から自分の手で包み込む。

 手のひらに、服の上からでも分かる遠藤寺のお腹が発する熱がじんわり伝わる。

 

 ……え、何してんすか?

 

「ん、サービスタイム終了」

 

 あまりに突拍子もない行動に、遠藤寺のお腹を堪能する暇なんて無かった。

 

「さて、さすがにヒントを与えすぎたかな。これで分からなかったら……うん、少し残念だよ」

 

 ますます持って意味が分からない。

 まず先ほどの行動の意味が理解できない。何でお腹を触らせたの? 「殴るならここだぞコラァッ」って意思表示? 

 

 待て待て。落ち着いて考えよう。

 遠藤寺が気付いて欲しいポイントは、俺と共通点があって、ヒントがこの間の会話にあって、そしてぽんぽんさわさわ。

 

 まず一番わかりやすいこの間の会話を思い出そう。

 俺が食堂で遠藤寺にダイエットの方法について尋ねて、アイアンクローされて、遠藤寺の画像を携帯の待ち受けにしてたのがバレた時の話だ。

 アイアンクローか……アレ、よかったなぁ。遠藤寺の手を顔面で堪能出来て、気の置けない友人同士のちょっとしたおふざけ感もあって、それでいて遠藤寺が本気出したら俺の顔なんか潰れたトマトみたいになるなぁって緊張感もあって……色々お得な経験だった。我が人生のICR(アイアンクローランキング)で断トツのトップだ。まあ、他にアイアンクローされた経験なんてないんだけど。

 しかし、何であの時、アイアンクローなんてされたんだっけ?

 あ、そうだ。

 

『つまり、ボクにはダイエットが必要ってことかな?』

 

 遠藤寺の言葉を思い出した。

 あの時、俺はあくまで一般的な女子に尋ねるつもりで、ダイエットについて聞いたんだけど、実はちょっと体重が増えて気にしていた遠藤寺の図星を突いてを怒らせたんだっけ。

 ん? ダイエット? 増えた遠藤寺の体重。そして、俺との共通点。ぽんぽんさわさわ。

 

 そうか……なるほど、そういうことか。

 

 俺は自分の中で生まれた答えを遠藤寺に伝えた。

 

「遠藤寺……痩せた?」

 

 つまり遠藤寺が気付いて欲しかったのはこういう事だろう。

 俺との共通点であるダイエット、遠藤寺が体重を気にしていた、ぽんぽんさわさわ。

 

「正解だよ。出来ればヒント抜きで、気づいて欲しかったんだけどね。まあ、正解は正解だ。正解記念に、後でジュースを奢るよ。勿論、ノンカロリーのね」

 

 痩せたことを指摘されて嬉しいのか、どこか機嫌良さそうに言う遠藤寺。お可愛いこと……。

 

 そうか、遠藤寺痩せたのか……。見た目からじゃ全然分からん。ほぼ毎日会っているからかもしれないけど、変化が分からん。

 アレか? お腹を触らせたってことは、そこに分かりやすい変化があるのか? つーか痩せる前の遠藤寺のお腹触ったことなんて無いから、わかんねーよ。

 

「君にダイエットを勧めた日。あの日からボクもこっそりダイエットを始めてね。ほら、親友の君が頑張っているのをただ見ているのも、薄情だろう?」

 

「そりゃ……ありがとう、でいいのか? つーかなに、遠藤寺もジョギングとか始めたのか?」

 

 遠藤寺がジャージを着て、汗を飛ばしながら町内を走り回っている光景を想像してみる。

 無理だった。まずジャージを着ている遠藤寺を想像できない。

 

「ジョギング? ボクが? 君、ボクが汗流しながら町内を走り回る姿が想像できるかい?」

 

「さっき想像して無理だったところだ」

 

 俺がそう言うと、遠藤寺は心底おかしそうにクスクス笑った。

 

「だろう? 自分でも想像できないさ。第一、他人にそういう姿を見られるなんて考えられないね」

 

 じゃあ、一体遠藤寺はどんなダイエットをしているのだろうか。

 恐らく遠藤寺のことだから、俺如きじゃ想像もできないような、ダイエットをしているに違いない。 

 少し楽しみ。

 

「……君の期待を裏切るようで悪いけど、普通のダイエットだよ。家の中で身体を動かしているだけだ」

 

「家で運動してんの?」

 

「その通り。具体的には同居しているタマさん――メイドと一緒に組み手をしているのさ」

 

 組み手――遠藤寺が何らかの格闘技を修めていることは知っている。巻き込まれた事件の最中、襲い掛かってきた犯人を華麗に撃退している姿も見ている。

 あと、2人で呑んだ帰り道に絡んできた酔っ払いやDQN、カメラ小僧、職質警官、エウリアンをポーンと気持ちよく投げ飛ばす光景を何度も。

 

 そうか、遠藤寺は自宅でメイドさんと一緒に格闘技の練習をして、ダイエットを――ん?

 

 メイド……?

 

「え? 何? メイド? 今メイドって言った?」

 

「ん? ああ、言ったけど……ボクの家にメイドがいるの、話していなかったかな?」

 

「話してねーよ!」

 

 今、遠藤寺から語られる衝撃の事実。遠藤寺にはお付きのメイドがいるらしい。

 マジか……マジでメイドと住んでんのか遠藤寺。羨ましい。羨ましすぎて禿げそう。

 いや、金持ちそうだしメイドとかいそうだなぁとか、冗談めかして想像してたけど。

 本当にいるとは思わなかった。マジでか……!! 遠ちゃん……。

 

「ボクが物心ついた時から、ずっとお世話になっている女性でね。実家を出て今のマンションに住むことになった時も、ボクのお世話をする為にわざわざ付いてきてくれたのさ」

 

 しかも幼馴染メイド……だと……。

 ヤバイヤバイヤバイ。妄想が……妄想が逆流する……! こんなん妄想が捗りすぎてヤバイ。

 幼馴染でメイドとかこれだけで1本ストーリー書けちゃう。メイドと主人、女と女、幼馴染、何も起きないはずはなく……。

 

「メ、メイドって……み、身の回りのお世話とかしてくれるんだよな?」

 

「ん? まあ、そうだね。掃除や洗濯、食事なんかは全て任せているね。……いや、まあ、だからと言ってボクがそれらの家事を全く出来ないといいうわけじゃないことは言っておきたいね。自分の部屋の掃除は自分でしているし、料理も……まあ、簡単なお酒のおつまみくらいだったら作ることはできる、そこは勘違いしないで欲しくないね。特に君には」

 

 何やら遠藤寺が言い訳をする子供のように小さな声で呟いているが、今の俺には聞こえない。

 何せメイドだ。妄想の中にしか存在しなかったメイド。

 

「せ、背中とか流してくれたりすんの? あ、あと添い寝とか……」

 

「……子供じゃないんだから、そんなこと頼むわけないだろう? まあ、頼めばやってくれるだろうけど」

 

 やってくれるんだ! 頼めば背中流してくれたり、添い寝してくれたりするんだ!

 いいなあ! メイドさんいいなあ! 

 二次元でしか見たことないメイドさんが、すぐ側にいたなんて……!

 羨ましいよぉ……羨ましすぎるよぉ……宝くじで40億円当たって異世界スローライフを送る主人公くらい羨ましいよぉ……。

 もっと聞かせてくれよぉ……もっとリアルメイドさんとの幸せハッピーライフを聞かせてくれよ遠藤寺さん……!

 

「な、なあなあ! ほ、他には? 他にどんなことしてくれんの? アレ? やっぱり家出る時と帰ってきた時は、玄関で股間のところに手を置いて、『行ってらっしゃいませご主人様』『お帰りなさいませご主人様』ってやってくれんの? なあなあ?」

 

「い、いや、うん……な、何だ君。随分とメイドに食い付くね」

 

 リアルメイドさん(しかも幼馴染)という国宝並みの餌に食い付かないことがあるだろうか、いや無い。

 困惑した様子の遠藤寺が、ズリズリ後退りをするが勿論逃がさない。

 ガッチリ手を掴んだまま、正面から追撃する。

 

「アレは!? オムライスに上にケチャップかける時の魔法!」

 

「はぁ? ま、魔法? い、いや何を言っているのか意味が……ちょ、ちょっと、怖い怖い、目が怖いよ。何だその表情は、初めて見たよ! い、一旦落ち着いて……あっ」

 

 後退していた遠藤寺の動きが止まる。

 どうやら壁まで追い詰めたようだ。今です!

 俺はサイドに逃げようとする遠藤寺の退路を塞ぐ為に、遠藤寺と繋いでいない方の右手をドンと壁に押し当てた。

 

「っ!?」

 

 ビクリと身体を震わせる感覚が、繋いだ左手越しに伝わる。

 

「ほら、アレだよアレ! 萌え萌えキュンってやつだよ! なあ、どうなんだよ?」 

 

「ど、どうと言われても……ま、待った待った! 近い近い! ふ、普段からボクがいくら距離を縮めようと一定の距離感を置く君が自分からパーソナルスパースを縮めてくれるのは、大いに嬉しいことだけどもこれはいくらなんでも急激かつ予定にない……だから近いよっ」

 

 気まぐれな遠藤寺のことだから、次にメイドさんのことを聞こうと思っても教えてくれない可能性がある。

 だから、今しかない。俺にとってのチャンス(栄光時代)は今なんだよ!

 自分が止められない。メイドさんについてもっと知りたい欲望を押さえつけられない。もう我慢できなぁい!(CMのゴリラっぽく)

 

「やっぱりアレか? 熱い物食べるときとか、フーフーしてくれんの? んで、アーンとかも? 頬に付いた米粒とかペロッ、パクッ、フフッも?」

 

「だ、だから君が何を言っているか、分からな――ええいっ! 話を聞け!」

 

 真っ赤になった遠藤寺の顔が、クルンと360度回転した。

 何が起こったのか理解できない。

 

「……おぅ」

 

 後頭部がヒンヤリしている。どうやら地面に寝転がっているようだ。

 なるほど。遠藤寺にポーンと投げられ、ステンと地面に転がったらしい。

 

 未だ頬を赤く染めたままの遠藤寺が、見下ろしてくる。

 

「……頭は冷えたかい?」

 

「うん。何かスマン」

 

 物理的に冷えた頭で冷静になって、考える。

 どうやらメイドさんという魔性の存在に唆され、暴走してしまったらしい。

 脳内で暴走することはよくあるが、こうやってリアルに暴走するのは初めてだ。げに恐ろしきはメイドさんよ……。

 

「出来る限り衝撃を和らげながら投げたつもりだけど、大丈夫だったかい?」

 

「うん、大丈夫」

 

 実際はかなり痛かった。コンクリートの地面に投げられるのって痛い。路上で柔道はマジヤバイってセリフの意味を身体で理解した。

 だがこの痛みは必要だった。この痛みが無ければ、俺の暴走はきっと治まっていなかっただろう。痛くなければ覚えませぬ……なるほどね。

 

「さ、手を」

 

 差し出される遠藤寺の手。俺は遠藤寺の手に掴まりつつ、遠藤寺のリボンとパンツの色ってお揃いなんだという新しい発見をした。

 遠藤寺に支えられて、立ち上がる。

 

「悪かったな。ちょっと興奮して……」

 

「ちょっと所では無かったけどね。……まあ、あんな風に迫られるのは初めてで、正直……悪くは無かったよ。いや、うん。今のは忘れてくれ」

 

 コホンコホンと咳払いをしながら、何事かを呟く遠藤寺。

 まあ、この距離なんで聞こえないはずなんてことはないからバッチリ聞こえたけど。なるほど……遠藤寺って迫られると弱いのか。

 じゃあ俺もサプライズ感覚で時々迫ってみちゃおうかな! ポーンと投げられるのがセットなのがネックだけど。

 

「しかしメイドの話が出ただけで、どうしてあそこまで興奮出来るのか……何かメイドに対して思うところでもあるのかい?」

 

 逆に思うところしかないよ。

 俺、実はメイドさん大好きだからね。

 メイドさんが欲しすぎて、高2の時、サンタさんにメイドさんをお願いしたくらいだからね。え? 来たかって? 

 うん来たよ。メイド服着た雪菜ちゃんが、枕元に立ってたよ。

 「何でもお申し付けください。ご主兄様」とか斬新な呼び方をする雪菜ちゃんに、普段の仕返しとばかりに喜んで命令したけど命令されたことを逐一メモってて、後日彼女の誕生日で同じことを倍返しにされた苦い記憶。

 

「いや、別に。ほら、メイドさんなんて、普通に生活してたらまず聞かない職業だろ? だから、ほら興味がね」

 

「興味、ねぇ……」

 

 ジットリした視線を向けてくる遠藤寺。興味ってレベルじゃないだろ、って言葉を視線に感じる。

 やっぱりさっきのはマズかった。俺がメイドさんに対して思うところありまくりな事が、遠藤寺にバレてしまったかもしれない。

 

 くそっ、いいだろう……。今は雌伏の時だ。

 今、再びメイドさんについて聞いたところで、遠藤寺は警戒してきっと答えてくれない。

 ここはメイドさんについては、保留しておこう。残念だけど。

 いつか遠藤寺の警戒が解ける日が来る。降り積もった雪が必ず解けて無くなるように、いつかきっと。

 

 横で歩く遠藤寺が例の手帳に「メイドに対して人一倍興味を持っている可能性あり。タマさんとの接触回避推奨」とサラサラ書いているのを見ながら、俺は大学へ向かった。

 

 

■■■

 

 

 講義室のいつもの席に座った俺たち。

 講義まで暫く時間があったので、ようやく例の話――下半身事情について相談することにした。

 当然と言っては当然だが、俺の悩みじゃなくて友人の……と前置きをした。だって恥ずかしいもん。

 ちなみに前置きの時点で気のせいか、遠藤寺の表情から軽くやる気が失われた気がするが、気のせいだろうか。

 

「……」

 

 俺の相談を最初は「また探偵にする相談じゃないことを……」と呆れた表情をしていたが、俺が真剣であることを表情から理解したのか、真面目な表情で聞いてくれる遠藤寺。

 そして最後まで話終える。

 

「……」

 

 遠藤寺は何かを考え込むように俯いていた。

 

 ここで告白しよう。確かに遠藤寺に相談して、何か解決策をもらうのが目的だった。

 だが、俺にはもう一つ目的があった。

 下らない目的だが、そちらも重要だった。

 

 男の下半身事情を相談することで、遠藤寺を恥かしがらせたかったのだ。

 下らない? ああ、そうだな。下らないよ。でもね、見たかったんだ。遠藤寺が顔を羞恥の色に染めて「そ、それは女性にするような話じゃあ……」とか「ああ、もうっ。何て相談をするんだキミは! ボクだってこう見えても女なんだぞ!」とか「……(もじもじ)」とか!

 そういう反応が見たかったのだ。アホみたい? それ褒め言葉ね。

 

 さて、では結果発表だ。

 

 遠藤寺はゆっくり顔を上げ――

 

「何だ。つまりは――勃起不全の話か」

 

 と、言った。

 戸惑うこともなく、羞恥に声を震わせることもなく、いつもの顔で言った。食堂のオバちゃんにいつものうどんを注文する表情で言った。

 遠藤寺の声はよく響く。探偵としてのスキルか、もともとの声質か分からないが……とにかくよく通る。

 だから講義室の中にも、よく響いた。

 ざわめいていた教室が一瞬でシンとなった。

 

「そうか。3ヵ月前から、勃起をしない。ふむ、なるほど……それは心中穏やかじゃないだろうね」

 

「いや、あの……」

 

「ん? どうかしたかい? ボクが間違っていたかな? 勃起不全の話じゃなかったのかい?」

 

 やはりいつも通りの表情で、そんな事を言う遠藤寺。

 お、おかしいな……俺の想像していた展開と違う。

 

「あ、あのさ遠藤寺。女の子がほら……ぼ、ぼっ……きとか、さ。あんまり堂々と……」

 

「ん? ただの生理現象だろう? 保健体育の教科書にも載っている。小学生だって知っているさ」

 

 いや、そうなんだけど。そうなんだけど!

 

 結局、俺が期待していたリアクションはなく、逆に遠藤寺の男前さを見せ付けられて、遠藤寺さんマジぱねーわとリスペクトする結果になってしまった。

 あと、解決策については普通に

 

「病院に行った方がいい。専門外のボクなんかに相談する暇があるならね。そう友達に言ってやれ」

 

 とまあ、いつも以上に興味無さげにそう言われた。

 結局何一つ得るものはなかった。

 仕方ない。ここは大人しく……病院に行くか。ああ、嫌だなぁ。

 

 

■■■

 

 

 講義が終わり、別の講義を受ける遠藤寺と別れた俺は、用を足す為にトイレに向かった。

 ジョロンジョロンと出すものを出していると、背後の個室ドアがギィと音を立てて開いた。

 誰か入ってる気配なんて無かったけど……とどうでもいい事を思いつつ、チャックを上げる。

 そのまま洗面台まで向かおうと――

 

「フリーズ」

 

 とどこかで聞いたことのある声と共に、背中に何か硬い物を押し付けられた。

 男子トイレ、固い物……何も起きないはずはなく……。

 

 俺は最悪の想像を一瞬でイメージして、アナルバージナちゃんを奪われてはなるものか!と一気に駆け出した。

 だが、相手の方が『一手』早かったらしい。

 

「あ、だから動くなと……えい」

 

 気の抜けた声と共に、何らかの光がトイレを照らした。

 同時に俺の身体を駆け巡る衝撃。

 身体の力が抜け、トイレの床に倒れる。本日2度目の地面におやすみ。はぁ……トイレの床って……やっぱつめてぇわ。

 

 更に身体の力が抜けていき、同時に意識も薄くなっていく。

 俺はここに来て、ようやくこの展開にデジャブを感じた。

 以前にもこんな経験があった。

 そう、あの時は確かあの人に――

 

「フ、フフフ……一ノ瀬後輩。アナタが悪いのデスよ……我が組織を……ワタシを裏切ったから……フフフフ」

 

 俺の視界に入るあの人。

 黒いローブを着たあの人は、どこか悲しげに笑いながら俺を見つめていた。

 

 ブラックアウト。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

この時代にタイトルを作った人間が……ん? お、お前は……!

「……んん? どこだここ」

 

 目を覚ますと、そこは白一面の空間だった。

 360度どこまで続いているかすら分からない、真っ白な空間。3Dゲームでバグって侵入したテクスチャの裏側みたいな空間。

 長時間いたら精神に大なり小なり異常をきたしそうなそんな場所。

 そんな見覚えのない空間に俺は――いや

 

「あ、ここアレか。この間、来たじゃん」

 

 つい最近ここに来たことがある。数日前、早朝ランニング中にぶっ倒れた時もこの場所で目を覚ましたのだ。

 そうだ。ここは……俺の心の中だ。

 

「しかし……相変わらず何もねえな」

 

 自分の心に言うのもなんだけど、本当に何もない。ぶっちゃっけつまんなーい。

 荒野に無限の剣が刺さってたり、空に歯車が浮いたり、ブラックウエディングドレスが余りにも可愛すぎてこころがたりを寝る前に聞くのが日課になっちゃった責任をとってほしい前作ラスボスちゃんがいて欲しいとか……そういう贅沢は言わない。

 でもさぁ……もっとこう、なんかあるだろ?

 こんな何もない場所じゃ、誰か他の人が訪ねてきた時に「よくないね!」ボタン連呼されちゃうよ。承認欲求が満たされねえよ! 可愛らしい子猫にゃんが迷い込んできても、素通りしちゃうよ! 何もなさ過ぎて『今日はもう帰って寝ようぜ』とか言われちゃうよ!

 

 やっぱアレだな。ランドマーク的な何かがほしいね。ここが一ノ瀬辰巳の心の中だって一目で分かるサムシング。

 女子高生が自撮り写真をアップしたくなるような、ナウでヤングにバカウケな名所が欲しい。

 

「名所と言えば……やっぱりタワーだな」

 

 ランドマークと言ったらタワー。これは間違いない。タワーをぶち立てるしかねえな。

 真っ白な空間に聳え立つ雄々しくも魅力的なタワー。

 名前はどうしようか。辰巳タワー、タツミンツリー、辰巳閣、バベルオブタツミ、コースマルマークタワー、タツミパレス、タルタロス、バレンスタイン城、しっこくハウス……あれ? タワー関係なくなってきたな。

 まあ、タワーの名前は後々インタ―ネット公募とかで決めるとして。

 

 名所にはそれに相応しい名物が必要だよな。安定した収益を確保しつつ、名所としてのPRを兼ねることのできる名物。

 俺の心の中――一ノ瀬ハートインランド(仮)を代表する名物……他の名所に負けないインパクトのある名物……そうだ!

 

 エリザのおにぎり(仮)なんてどうだろうか。

 店員であるエリザが目の前で丁寧かつ愛を込めておにぎりを握ってくれるのだ。何なら『〇〇さんの為ににぎにぎしちゃいますねー』という優しい言葉と共に、満面の笑みで。

 オプションで追加料金を払えば、学生服やナース服、スクール水着だったりチアガールの恰好をして握ってくれるサービスも付けよう。ポイントカードも作って、何度も通ったお得意様にはゴールド会員特典として、何とエリザが脇で……こ、これは売れる! むしろ売れる要素しかない! 勝ったなガハハ!

 

「お主の発想が気色悪い」

 

 おい、誰だ! 俺の完璧の営業戦略にケチを付けたやつは!

 隠れてないで出てこい!

 

「妾じゃ」

 

 声は背後から聞こえた。

 この声……聞き覚えがある。世界の誕生から終焉を見届けた古の賢者の様な深みのある声。

 そうだ。この一ノ瀬ハートインランドには俺以外にも、他に人間……人間か? まあ、人間らしき存在がいるのだ。

 

 なぜか俺の心の中に住み着いてて、何もかもを見透かしたような言葉で語りかけてくる彼女。

 彼女の名前は、そう――

 

「シル――シル……シ、シル……シルシル? シルシルちゃん?」

 

 あれ? こんな『ぐだぽよ~』が口癖な妖精っぽい名前だったっけ?

 

「シ・ル・バ――じゃ、ド阿保。つい先日名乗った名前を忘れるでない。次間違ったら、手足が6本以上の生物にしか興奮できんように脳を弄る刑に処すぞ」

 

 ひぇぇ……何か恐ろしい事言ってる……。そんな脳になったらモンス〇ー娘のいる日常世界かもん〇すくえすと世界に転移するしかないじゃん! ちゃんと転移込みまで保証してくれるなら、まあ別に改造されてもいいけど。

 

「……お主、相変わらずじゃな」

 

 背後から聞こえる声が呆れたものに変わる。

 

 つーかいるじゃん! ランドマーク! 名物的存在!

 

 褐色超美女(しかもババア口調)とか、めちゃくちゃ名物になるじゃん! 美人女将が経営する旅館並みに! 少なくとも俺なら週1で通っちゃう。褐色美女にはそれくらいの価値がある。

 よし。これからはシルバちゃんを観光資源として全面に押し出した展開で進めていくとしよう。 

 シルバちゃん饅頭やタペストリー、シルバちゃんと巡る一ノ瀬ハートインランド観光ツアー。1日3回のシルバちゃんディナーショー、ダークエルフに扮したシルバちゃんが出演する劇『ダークエルフの村にオークの群れが!』を開演。

 〇レマスとバーガー〇ーガーで鍛えた俺のプロデュース力が火を吹くぜ!

 

「元気だったシルバちゃん?」

 

 俺は今後懇意にしていくことになる、愛すべきパートナーの姿を見る為に、振り返った。

 そこには想像していた通り、褐色の肌、透き通るような銀髪、そして神が手ずからハンドメイドしたとしか思えないほど整った顔の女性がいた。

 

「相変わらずお主は五月蠅いのう。前も言ったと思うが、ここではお主の思考は全て筒抜けなんじゃぞ? ちょっとは黙ることはできんのか? お主はあれか? マグロの一種か? 考えないと死ぬのか?」

 

 その整った顔を崩し、眉を寄せるシルバちゃん。

 その険しい表情さえ、神々しさすら感じほどふつくしい……。

 

 だが、何だろう……何か俺の知ってるシルバちゃんと違う気がする。

 俺が前に会ったシルバちゃんはミステリアスな魅力をムンムンに漂わせた20台中盤くらいの美女だったはずだけど……。

 

「なんじゃ?」

 

 何か……小さい。全体的に。

 俺より頭2つ分くらい高かったはずの身長も、今は俺の腰くらいの高さしかない。

 肌や髪の色は記憶通りだし、顔も綺麗なのは綺麗なんだけど、どちらかといったら幼さをたっぷり含んだ可愛いらしいものだ。

 

 何より胸。今にもドレスから零れ落ちそうだった豊満な胸がどこにも無い。ペタンだ。山も谷もない。完全な平地だ。痩せた大地、竹を割ったような胸。まな板。

 一ノ瀬辰巳が選ぶ2017年『分給1万円を払ってでも、リアルおっぱいマウスパッドになって欲しい女性ランキング』堂々1位である彼女の胸はどこにもない。

 

 以上の結果から、目の前にいる褐色ロリはシルバちゃんじゃないことが証明される。

 

「君は誰だ?」

 

「今名乗ったばかりなんじゃが」

 

 困惑した表情の彼女には申し訳ないが、やはり彼女はシルバちゃんじゃない。

 恐らく彼女は自分がシルバちゃんだと思い込んでいる一般ロリなんだろう。

 もしくは……身内か? 実際、顔立ちやら雰囲気やらはシルバちゃんそっくりなんだよな。シルバちゃんをそのまま、ミニサイズにした感じ。

 

 あれか? 妹か? 姉に憧れるあまり、姉と同じ名前を名乗っちゃう痛い系の妹かな?

 シルバちゃんの妹……シルファちゃん? うわ、語尾に『れす』とか付けちゃいそう。あとメイド服とか似合いそう。

 

「何やら勘違いしておるようじゃが、妾は妹でもなければ身内でもない。シルバ――■■■通■■色、シルバ■オ■ルそのものじゃ」

 

 またノイズが……。放送禁止ワードでも言ってんのか?

 褐色ロリは淫乱属性、ク〇エちゃんが証明してるからな。

 

「いや、でもねシルファちゃん。君のお姉ちゃんと君は明らかに違うよね。おっぱいがないよね。君の胸じゃランキング圏外だよ?」

 

「また訳の分からんことを……ん? なんじゃ、この姿か」

 

 シルバちゃんもといシルファちゃんは自分の姿を見下ろした。

 

「やれやれ。ほんの少し姿が変わったくらいで妾じゃと分からんくなるとは……薄情な男じゃのう」

 

 そう言って彼女は指を鳴らした。

 瞬間、彼女の全身が発光した。光が収まるとそこには……俺が知ってる褐色巨乳美女ことシルバちゃんの姿が。

 

「え!? あれ!? 何今の!? シルファちゃんは!?」

 

「落ち着け。この間会った時と同じ姿になっただけじゃ。ここはお主の心の中。姿形などイメージ次第でどうとでもなる」

 

「そ、そうなのかー」

 

 あの褐色ロリと目の前の巨乳褐色美女が同一人物だとは思えない(主に胸的な意味で) 

 だが、実際に青いキャンディを食べた〇ルモちゃんみたいな芸当を見せられちゃ、信じないわけにはいかない。どうやら、シルバちゃんは自由自在に自分の年齢を変えることができるらしい。

 

「その気になれば赤子になることも、老婆になることもできるぞ」

 

「老婆はやめて!」

 

 ババア口調のババアとか最早ただのババアじゃねえか。さすがの俺もまだ萌えらんない。

 

「まだと言う辺り、お主も業が深いのう……」

 

 未来のことは誰にも分からない。俺の身に何かが起こって、お軽さんやフネさんを見る為だけに日曜日を楽しみにする日が来るかもしれない。人間にはそういった無限の可能性があるのだ。

 

「……まあ、お主がそれでいいなら妾は構わんよ」

 

 やれやれと、組んだ腕で自分の胸をゆっさり支えながら溜息を吐くシルバちゃん。

 彼女はもう1度指をパチンと鳴らし、先ほどの褐色ロリの姿に戻った。

 

「え? 何でまた……」

 

「今日はこの姿でいたい気分なんじゃ。まあ、気にするな。お主ら人間でいう、ふぁっしょんとでも思っておけ」

 

 ファッション感覚でロリになったり美女になったり出来るとか……アー〇カードの旦那かな?

 

「さて、お主がここにいられる時間は限られておる。さっさと本題に入るとしよう」

 

「本題?」

 

 そもそも俺何でここにいんの?

 確か普通に朝、遠藤寺と通学して、授業受けてたはずだよな。んで、遠藤寺と別れてトイレに行って、それから……な、何かお尻の辺りがビリビリする。

 

「時間がないと言ったじゃろ。どうせ目を覚ませばお主の身に何が起こったかは分かる」

 

「まあ、確かに……」

 

「では早速……ふむ、立ちながらというのも、面倒じゃな」

 

 そう言うとシルバちゃんは指を鳴らした。どうでもいいことだけど、さっきからシルバちゃん、指全然鳴らせてないんだよね。パスン、みたいな。ドヤ顔でそんな気の抜けた音鳴らすから、滑稽すぎて俺笑いこらえるのに必死。

 

「……」

 

 睨みつけてくるシルバちゃん。そういえば俺の思考って筒抜けなんだっけ。

 ただ今のロリ褐色状態だと、どれだけ睨みつけられようが全然怖くない。伝説の焼き鳥(笑)

 

「……ふん。本来なら、妾に対してそんな無礼なことを考えた時点で、腎臓の1つを粘土の塊に変える刑に処すのじゃが……今回は許してやる」

 

 強がりとかじゃなく、マジな顔で言ってる辺り怖い。人の心の中に勝手に住み着いちゃってる理解不能なヤバイ相手だけに、マジで出来ちゃいそう。

 あまり無礼なことは考えないようにしよう。

 

 シルバちゃんが指を鳴らすと、何もなかった白い空間に突然、どこかで見たような卓袱台と座布団が2つ現れた。

 真っ白な空間に卓袱台と座布団……シュールな光景だ。

 

「さっさと座るがいい」

 

「お、おう……ん? これよく見たら、ウチにあるやつじゃん」

 

 卓袱台も座布団も俺の部屋に実際にある物、そのものだった。

 卓袱台に残った弾痕、2つある座布団の片方には俺用であることを示す鯖の刺繍、もう片方にはエリザの物であることを示す猫ちゃんの刺繍。間違いなく俺の部屋にある物だ。ここって俺の心の中なんだよな? どうして現実世界の物がここに……。

 

「ここはお主の心の中。お主の記憶にあるものじゃったら、このように再現できるのじゃ」

 

「へー。あ、俺そっちの座布団使わせて」

 

 俺は今まさにシルバちゃんが座ろうとしている、猫ちゃん柄の座布団を指した。

 

「……お主の座布団はそっちじゃろ。こっちは幽霊娘のじゃろうが」

 

「現実ではな。でも、今はそっちが使いたい。つーか、こういう機会じゃないとエリザの座布団とか使えないし」

 

 何か言いたげなシルバちゃんから座布団を頂戴し、ゆっくり腰を下ろす。

 そうか……これがエリザが使ってる座布団かぁ……。ふむふむ。心なしかエリザの暖かさの残滓を感じる。ここにエリザのお尻が乗ってるのかぁ。

 この座布団の凹み具合、これがエリザの重みか。俺が使ってる座布団と違って、全然へこんでない。エリザ軽いからなぁ、幽霊だし。

 しかしいつも、エリザに座られて羨ましいと思ってたこれに堂々と座ることになるとは……心の中さまさまだな。

 

「ふふふ……」

 

「お主、気色が悪い」

 

「はぁ? ど、どこが?」

 

「全てじゃ。まず、その手つきをやめい。座布団を撫でる手つきが気色悪い。あと顔。毛を刈られている羊のような顔が気色悪い」

 

 誰かに気色悪いって言われたの久しぶりだな。中学の頃は何かにつけて言われてたけど、あの頃言われたものに比べると心が全然傷つかない。

 どちらかというと心が穏やかになっちゃう。相手がロリだからかな。もう何か逆に気持ちがいい。

 むしろドンドン言ってほしい。大家さんもエリザも絶対に言ってくれないからな。ここでロリ罵声エネルギーを補充しておかないと。

 

「お主、思考が筒抜けだからと言って、少々開き直りすぎじゃろう」

 

 まあ、それは認める。でもしょうがないじゃん。全部筒抜けなんだし。心を無にするなんて器用な真似できないからね。完全に蛇口の壊れた水道状態。

 もう隠すこととかないわ。ぶっちゃけ全裸でM字開脚しちゃってるレベルだからね。開き直るしかねーわ。俺に出来ることと言ったら、もっと恥ずかしい部分を見せつける0-0-11の超攻撃的フォーメーションを組むことくらい。

 

「で、本題って何なの?」

 

「ここにお主を呼んだのは他でもない。お主が今抱えている悩みのことじゃ」

 

「悩み?」

 

「そうじゃ。お主の心に纏わりつき、その心に影を落としている深い悩み。率直に言おう。――その悩みの原因は、妾じゃ」

 

 俺が今抱えている悩みの原因が……シルバちゃん?

 悩みって……。

 

「魔法〇グルグルがアニメ化するけど、続編とかじゃなく最初からやるみたいで、最近の子に受け入れられるか心配している……この悩み?」

 

「違う」

 

「じゃあ、最近発売された狩りゲーが面白すぎて、今後発売されるアクションゲームのハードルがかなり上がっちゃったんじゃないかな、大丈夫かな……この悩み?」

 

「全然違う」

 

「じゃ、じゃあじゃあ!」

 

 2017年になったけど、某海底施設脱出名作ADVに何か動きがあるのか、もしかしてアニメ化何かになったら色々どうするんだろうか……とか。R〇writeの携帯ゲーム結構面白くていい感じのシナリオもあるんだけど、周りにやってる人いないんだよなぁ……とか。

 こういう悩みか?

 

「お主が今考えている悩みは全然違う。というかお主はなんじゃ。普段からそんなどうでもいい事を悩んで居るのか?」

 

 いや、どうでもよくはないだろ。

 ただ消費者でいるだけじゃ、この業界はいつかきっと衰退してしまう。消費者は消費者なりにただ消費するだけでなく、何かをしないといけない気がするんだ。そう考えることのどこがおかしい。

 

「それについては妾のいない所で勝手に悩んどれ」

 

 言われなくてもそうするけどな。

 しかし、今後のサブカルチャー業界の生末に対する悩みじゃなければ、いったい何なんだろうか。

 将来の悩み? 確かに悩んではいるけど、まだまだ先のことだし、そこまで深くは悩んでない。仮に就職失敗しても、マジに最悪な手段として雪菜ちゃんに養ってもらえるって安心感があるしな。いろいろ断捨離せんとあかんけど。

 じゃあ恋愛の悩みとか? 秒刻みで彼女いない歴with童貞featuringキッス未経験を更新している俺だけど、今はほら、音楽(リズムゲー)の方に専念したいから……。

 そもそも、童貞卒業しようにも、俺のジョニーは……

 

「あ」

 

「ようやっと気づいたか。それじゃ」

 

 つまり、ジョニーに元気が無くなったのは――EDになったのは、シルバちゃんが原因ってこと?

 ジャンジャジャ~~ン!! 今明かされる衝撃の真実ゥ!

 それって……つまり、どういうこと?

 

「どういうことも、そのままの意味じゃ。お主の男性器の不調は妾の存在が原因じゃ」

 

 シルバちゃんが原因で勃起しない?

 シルバちゃんの存在が? 俺のEDと何の因果関係がある?

 why!! わからない 考えろ!! thinking!! もっと!! thinking!! thinking!!

 

 瞬間、俺の脳裏に雷鳴の如き閃きが走った。

 

「そうか! これが真相か!」

 

 シルバちゃんの正体は俺が中学生のころに夢想していた都市伝説妖怪――筆おろし女で間違いない。

 筆おろし女の詳細については省く。簡単にいえば中学生の妄想がたっぷり詰まった素敵な都市伝説だ。

 

 筆おろし女こと、シルバちゃんは俺が寝静まった真夜中に実体化。実体化したその体でスヤスヤ眠る俺の体に跨り……絞りつくす。無論性的な意味で。

 それこそ完全に俺の性欲が無くなるほど、完膚なきまでにとことんしぼしぼ。

 正常な若い男性である俺の精気が空っぽになるくらいだから、1回や2回じゃ済まないだろう。

 1晩に5回6回、いや、もっとだろう。

 7回目8回目の時も、9回10回の時も! 12回も13回の時も! 俺はずっと! 叫んでたはず! 

 何をだって?

 助けを求める悲鳴混じりの喘ぎ声だよ! 

 

 くそう……そんだけ毎晩搾り取られちゃあ、あの暴れん坊で手が付けられなかったジョニーも大人しくなるわけだよ。つーか同じ部屋にいるんだから、エリザも気づいて欲しい。それとも気づいてたけど、恥ずかしいやら気まずいやらで、顔を真っ赤にしたまま寝たふりしてたとか? ……それはそれで見たい。

 

 人の心の中に住み着くくらいだから、人間ではないと思ってたけど……まさか妖怪だったとは。

 さて、この俺の答えに何か間違いはないかな?

 

「……あながち間違っていないのが恐ろしいの」

 

「そうなの!?」

 

 え、マジで? マジでマジに妖怪? マジで俺、寝てる間に大人になってたの? 大人になるって悲しいことらしいけど、その瞬間すら味わえなかった私は悲しい……。

 冗談交じりに思ってみたけど、真実だったとは……俺、どんな顔でシルバちゃんを見ればいいんだ? もう一線超えちゃってるんだぜ?

 

「あながち、と言ったじゃろ。妾は妖怪でも無ければ、お主は童貞のままじゃ」

 

 ……童貞のままで安心した。強がりとかじゃなくてね。

 一生に一度のことだから、卒業の瞬間はしっかり覚えておきたいし。

 なんなら記録に残して、俺という人間が一つ上のランクに上がった証拠として、墓の下まで持参したいくらいだし。

 

 では一体何が真相なのか。

 

「率直に言うが――妾はお主の精気を吸って存在しておる」

 

「精気を……」

 

「うむ。本来ならば魔力や妖力などを吸い取るのじゃがな、お主にはそれらの素質が全くと言っていいほどなかった。ので、仕方なしに精気を吸っておる」

 

 この人マジでなんなの?

 人に精気吸って生きるとか、マジで人間じゃねえ。霞ちゅうちゅうして生きてる仙人みたいなもんか? もしくは吸血鬼?

 

「違う。違うが……まあ、今はそういう物と思っておけ。人間ではない、何らかの存在とな」

 

 やっぱり人間じゃないのか……

 何でそんなわけの分からない存在が俺の心の中にいるんだ? 主人公だから? 俺の人生の主役って俺だったの? てっきり遠藤寺辺りが主役かと。

 

「妾がここにいる理由。それはまだ話せん。いずれ話せるときが来るじゃろう。……いずれ、な」

 

 不敵な笑みを浮かべる

 うーん、意味深。しかしこういう意味深な表情似合うな。同じような表情をデス子先輩もするけど、雲泥の差だ。

 つーか、サラッと魔力とか妖力とか言ってたけど、そんなもん存在するのか? 漫画とかゲームの中だけじゃないの? ……いや、でもよく考えると、幽霊やら目の前の謎の存在やら、幽霊が見える眼鏡もあるくらいだし……おかしくはない、のか?

 

「ともかく、お主の不調の原因は妾じゃ。妾が精気を吸い取ったことで、お主の精気が枯渇し男性機能に不調が生じておる。じゃが、安心するといい。最近になってようやく、精気の扱いにも慣れてきた。今までは扱いが上手くいかず必要以上に吸収していたが、今後はある程度余裕が出来るじゃろう」

 

「つまり、それって」

 

「近いうちにお主の男性機能は正常に回復する」

 

「マジっすか!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の心の中に巣食っていたコールタールのようにベットリとした悩みはすっかり消え去ってしまった。

 清々しい気持ちだ。何だか涙が出てくる。

 異常だったものが正常に戻っただけなのに……こんなに嬉しいことはない。

 これでようやく、童貞卒業が……出来るかどうかはランナー次第。つーか今のところ、そういう相手はいないから意味ないけど。

 まあ、しばらく元気がなかったジョニーを見れるだけでも、うれしい。よーし、今夜はハッスルだ! 

 問題はどこでハッスルするか、だ。エリザが家にいる以上、家は無理だし。

 外で……やるか? 夜空に瞬く星々。そして俺を起点としたミルキーウェイ。おっ、なかなか素敵な図じゃん。いい感じの一枚絵になりそう。

 

「ここまで扱いに慣れるのに苦労したのじゃぞ? 妾の人生で精気を扱うことなど初めてじゃったからな。最初のころなど、あまりに上手くいかんものじゃから、腹が立って思わず限界以上に精気を吸い上げたこともあってな。あの時は危うくお主の男性機能が完全に終わりを迎えるところじゃったわ」

 

 飲み会の席で昔の失敗談を語るOLのようにクスクス笑いながらそんなことを言うシルバちゃん。

 いや、笑いごとじゃないんですけど。

 もうすぐでTrueEDに突入するところだったんですけど。しかも俺の知らないところで。

 

 まあいいか。ちゃんと機能が回復するみたいだし、問題はないな。

 ああ、よかったよかった。

 

「……」

 

 嬉しさの余り、卓袱台の角(いつもエリザのお腹が当たってる部分)に頬ずりしていると、そんな俺をシルバちゃんが興味深い目で見ていた。

 

「何度も言うが、この空間ではお主の思考、心の動きは妾に筒抜けじゃ」

 

「え、うん」

 

 なんだろうか。今更別に聞こえて不味いことなんてないんだけど。

 

「お主は……欠片も思わんのじゃな。出て行け、と」

 

 え、何の話?

 

「普通、自分の心の中に得体の知れない物がいて、しかもそれが精気を吸い取っていたなんて知ったら……排除する気持ちを抱く。大なり小なりな。特に人間は異端を排斥しようと思う感情が強い生き物じゃ」

 

 異端を排斥する感情?

 

「幼子であろうと分別のついた大人であろうと等しく抱く感情じゃ。自分とは違う物を遠ざけようと思うそれは、人間の本能のようなものじゃ。それがお主にはない。微塵もな。異端である妾に出て行ってほしいと思う当然の感情がない」

 

 いや、別に大した実害は被ってないし、そもそも相手美女だし。

 むしろ俺何かの心にいてくれてありがたいわ。美女が心の中に住んでるって考えただけでも、何だか人生が楽しく感じる。

 たぶん同じような状況に陥った人間にアンケートをとったら、みんな同じ答えを返すだろう。

 出て行けなんて、そんな勿体ないこと考えられんわ。

 

「あの幽霊の小娘が目の前に現れた時もそうじゃ。お主の心には、あれを拒絶するという感情が微塵も無かった。無意識の中にさえ、その感情は生じておらんかった。親友とやらにあれの処遇を相談する時も、最初からお主の方針は決まっておった。受け入れる方向でな」

 

 確かに。最初にエリザを見た時から、内心共存することしか考えていなかった。

 遠藤寺が示した何らかの手段で追い出すと言った選択肢なんて頭の中に無かった。

 別におかしいことではないだろう。

 

「こう見えて俺男だし。可愛い美少女幽霊とか現れたら、100パーセント受け入れてもおかしくないだろ」

 

「じゃが、排斥の感情を一片も抱いておらんのはおかしい。お主からは何かを排斥しよう、排斥したい……そういった感情が全く感じられん。来るもの全てを受け入れる、そういった強迫観念すら感じる」

 

 シルバちゃんが言っている意味がよく分からん。

 可愛い幽霊が現れたり、心の中に褐色美女が出てきたりしたら嬉しいだろ。嫌に思う感情なんてありえないだろ。

 だって嫌だろ。どっか行けって言われたり、嫌われたり、仲間外れにされたり、無視されたり、そういうのって。自分の居場所から追い出されるのって、まるで足元の地面が崩れて落ち続けるみたいな、恐怖を感じるんだ。そういうことを平気でする人間って本当にクズだと思う。何が一番クズかって、そういうことをした相手が、それから先どういう生き方をすることになるのか、まったく考えてない辺りが特に。

 

 ……ん? 何の話だっけ?

 

「……」

 

 シルバちゃんはいつか見せた、モルモットに向けるように興味深く、それでいてわが子に向けるような慈愛を含んだ矛盾した笑みを浮かべ、ジッと俺を見ていた。いくら見た目が幼くなろうが、この目は変わらない。この目で見つめられると、無条件に体が硬直してしまう。心の奥、自分でも理解していない領域を除かれているような、そんな感覚。恐怖を感じながらも、どこか不思議と安心してしまう。

 

 ふっと、シルバちゃんが表情を和らげた。

 

「やはり面白いなお主は。いや、人間は……か。さて、お主の悩みもこれで霧散したじゃろう。この場所での記憶は現実では残らんが、感情は残る。安心するといい」

 

 そう言って、彼女は指を鳴らした。

 それが何かの呼びかけだったのか、白い空間に光の粒子が溢れていく。いや、これは俺から発せられている光だ。

 

「では戻るといい。近いうちにまた会おうぞ」

 

 ゆっくりと意識が消えていく。

 

「最後に言っておくが、お主、油の付いた手で妾の体に触るのはやめよ。あと、ネジが緩んでおるから、近場の眼鏡屋に妾を持っていけ。もちろん量販店ではなく、個人商店に持っていくのじゃぞ? 妾の体はでりけーとじゃからな。少なくとも30年はその道を修めた熟練の職人の元へ持っていくように。あと、前にも言ったが1日に1度は必ず妾を磨け。面倒じゃからと言ってその辺りに放り出すでない。あとあれじゃ。お主がいつも着けている首巻き、あれは――」

 

 シルバちゃんが何やら言っているが、今の俺にはぼんやりとしか聞こえない。

 シルバちゃんはデリケートでゆるゆるだから、熟練の職人の元に通って己を磨け? え? 立派な調教師になって調教してくれってこと? すごいこと言うなこの人。シルバちゃんマジやばくね?

 

 俺の意識は完全に消失し、そして――

 

 

■■■ 

 

 

「……」

 

 意識が戻り、薄く目を変えるとそこは――真っ暗な空間だった。

 

 360度どこまで続いているかすら分からない、真っ黒な空間。

 長時間いたら精神に大なり小なり異常をきたしそうなそんな場所。

 そんな見覚えのない――いや

 

(ここ部室だ)

 

 真っ暗で何も見えないが、匂いで分かった。

 どんな場所でも人が長く滞在すると独特な匂いがする。大家さんの部屋は向日葵の匂い。実家の俺の部屋はナンプラーでクサヤを炒めた匂い(って雪菜ちゃんが言ってた)。

 この部室はデス子先輩がどこからか持ち込んだ怪しげな儀式めいた物体が醸し出す古臭い匂いとか、体に悪そうな薬品の匂い、ジャンクフードの匂い、先輩の体臭が混じり合ってカオスな場所だ。

 

 そんな馴染みのある場所で俺は――椅子に縛り付けられていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

お、お前は……一体……なに? 神……だと? 世界を作った神、だと?

嗅覚からの情報によると、どうやらここは俺が所属している同好会『闇探求セシ慟哭』の部室らしい。

 一応味も見ておこう。

 

「すぅ」

 

 小さく息を吸うと、埃っぽい空気に混じって怪しげなお香の味を感じた。そしてその空気の中には隠し切れない――女性の匂い。

 女性特有のいい匂い。どんな香水よりも、香しい魅惑の香り。セントオブウーマン、夢の香り。

 そんな香りが舌を刺激する。

 この香り、間違いなく先輩だ。

 

 ククク……例えローブを纏おうとも、体の匂いは隠せないのだぁ……!

 

 あと新鮮なハンバーガー臭がする。これは先輩が大好きなてりやき〇ックバーガー(ソース多め)の匂いだ。

 さてはランチだなテメー。

 おねんねしてる後輩をオカズに喰うバーガーはさぞ美味しかったでしょうねぇ。

 

 というわけで、嗅覚だけでなく、味覚から得た情報により、ここは間違いなく部室だ。

 例によって、先輩に拉致されたらしい。

 先輩は忘れた頃にこうやって、サプライズ演出――背後からスタンガンでバチッとやって拉致してくるからほんとお茶目。マジ油断できない。同好会に所属してから、通算8回目のスタンガン拉致だ。そろそろ電気耐性(小)くらいは会得しそう。冬の密かな楽しみである、静電気バチビリプレイを純粋に楽しめ無くなったらどう責任をとってくれるのだろうか。

 

 さて。

 ずっと目を瞑っていたことで、部室の暗闇にも慣れたことだろう。

 俺は薄っすら目を開けて、襲撃者のご尊顔を拝見してやることにした。 

 薄く開けた目で、部室を眺める。

 若干ぼやけた視覚情報が、目に入ってくる。 

 

 ――怪しげな書籍が収まった本棚、先輩の謎グッズがたんまり入ったロッカー、先輩がよく肘をついて例のポーズをする愛用のテーブル、美少女の顔。

 

(……ん?)

 

 何か見慣れない物が映ったような……。

 もう一度ワンスモア。

 

 ――怪しげな書籍が収まった本棚、先輩の謎グッズがたんまり入ったロッカー、先輩がよく肘をついて例のポーズをする愛用のテーブル、やっぱりどう見ても知らない美少女の顔。

 

「……えへへ」

 

 見覚えのない美少女が、至近距離から俺の顔をジッと見ていた。

 テーブルの上に肘を置き、両手で作った花に顎を乗せている。え? 両手で作った花って表現が分かりづらい? ほらアレだよ。お笑い芸人のおさるがやってた『うれしいY!』みたいなポーズだよ。そこに顎乗せてんの。ゲンドウポーズの逆バージョンみたいな?

 そんな彼女はどうやら俺が目を覚ましたことに気づいていない様子だった。

 

「んふふ」

 

 少女は何が楽しいのか、俺の顔を見てクスクス微笑んでいる。

 さて、この美少女は一体誰だろうか。この同好会は俺と先輩しか所属していないはず。

 

 薄目のまま観察してみる。

 

 整った顔だ。全体的に幼さを残した造形だが、不思議と大人びた雰囲気も感じる。曖昧的な美しさとでも言えばいいだろうか。

 蕾が花開く直前、その刹那な間にのみに存在する奇跡の瞬間。角度によっては子供っぽくもあり、そして大人っぽくも見える、そんな矛盾した美しさ。

 

 全く見覚えないはずの顔だが、なぜか口元付近に既視感がある。

 視線を下に移す。

 

(はぁ?)

 

 思わず声に出してしまいそうになった。

 それくらい、彼女の首から下は現実味のないものだった。ちなみに首から下が植木鉢だったとか、そういうホラーちっくな話ではない。

 もちろん腹筋がバッキバキに割れてる、いわゆる学名〈ナガト・ナガト・ナガト〉な体形だったわけでもない。

 

 まず着ている服が――体操服。そう、体操服なのだ。

 長い間着古しているせいなのか、元は真っ白だったはずの体操服はどこか色あせている。そして色々な所にほつれが見られる。

 胸の部分には『3-A』と書かれたワッペン。そのワッペンを盛り上げる豊過ぎる胸。かなりの豊かさだ。豊か過ぎてクーデーターとか起きそう。大富豪……花輪君レベルの豊かさだ。

 

 その体操服の胸の部分がもうパッツンパッツンになっている。

 俺には体操服の悲鳴が聞こえた。いつ着ていた物かは知らないが、学校を卒業した後も酷使され成長した体(主に胸)によって、押し伸ばされる体操服の悲鳴が。

 

『助けて……もう弾け飛んじゃうよぉ……耐えられないよぅ……綺麗な花火みたいに弾けちゃう……あの地球人みたいになァ!』

 

 そんな悲鳴が聞こえたのだ。俺はそんな彼の境遇を悲しみ、そしてそれ以上に羨ましいと思った。

 美少女の体でパツパツに引き延ばされるとか何それ。最高じゃん。地獄でそんな罰があったら、行列待ったなしだわ。むしろ獄卒も並ぶだろう。

 ウーン今すぐ自害したら、この体操服に転生できるかな。自動販売機とか剣に転生する小説が流行ってるくらいだし、可能性はあるだろう。要検討。

 

 とまあ、そんなグラビアの表紙を飾ったら、保存用観賞用使用私用枕の下に敷いていい夢を見る用の5冊は買うだろう美少女が体操服着てるオーバーテクノロジーな光景が広がってるもんだから、これ多分夢だな……。

 現実味が無さすぎる。ツイッターで呟いたら嘘松認定されて炎上待ったなし。

 それか先輩が部室に置いてるヤバイ薬が漏れ出て見ている幻の可能性もある。

 

「ふふふ、一ノ瀬くーん……いつもローブ越しだからこうやって生で見るの初めてだけど……えへへ」

 

 しかもこの夢子(ドリコ)ちゃん、もしくは幻子(ファンコ)ちゃん、俺の名前を知っているらしい。

 夢の世界か幻の世界かは知らないが、人の個人情報が勝手に流出するとか、マジ情報化社会って怖いね。

 

 しかし……マジで凄い。胸が。

 胸の部分が盛り上がりすぎて、ワッペンの文字が立体的に見える。シルなんとかさんまでとは行かないけどかなりデカい。……シルなんとかさんって誰だっけ?

 

『妾じゃ』

 

 お前だったのか……。

 

 そんな事より胸だ!

 俺は寝たふりをしていた事を忘れ、無我夢中で彼女の胸を凝視していた。

 目を見開きすぎて、眼筋が筋肉痛になりそうなくらいに。

 

「あ、あれ……?」

 

 そしたら、まあ……気づかれますよね。

 

「も、もしかして起きてる?」

 

 この声、どっかで聞いたことあるんだよなぁ。

 そう思いつつも、俺は「おはようございます」と返事をした。

 

「うん、おはよっ……あ」

 

 少女は朗らかな笑みでの挨拶を中断し、ギギギと音を立てそうな動きで、視線を俺の顔から自分の体に移した。

 そしてまたギギギと顔を上げる。

 

「あ、あわ……」

 

 あわ? 泡? 粟?

 

「あわわわ……あわわわ……!」

 

 落ち着け仙道!

 

 俺の心の叫びが届いたのか、少女はピタリと動きを止めた。

 そして――

 

「わあああああああ!?」

 

 という叫びと共に、その両手を突き出した……俺に向かって。

 ドン!と胸の辺りに衝撃を受け、そのまま仰け反り、重力に引っ張られそのまま地面に。

 普段の俺なら華麗な受け身を取るが、現在緊縛中の為、文字通り手も足も出ず、椅子に座った状態で地面に頭を打ち付けた。

 

「ごっ」

 

 人間マジで痛いと「ごっ」って言葉が出るらしい。

 リアルに目から星が見えたスター。

 

「あ、うそっ、い、一ノ瀬君!? やだっ、ごめん大丈夫!?」

 

「うぐぐ……痛い……ふふふ」

 

 痛すぎて何か笑えてきた。

 

「笑ってる……よ、よかった……だいじょぶっぽい。あ、そうだ今の内に……」

 

 ゴソゴソと衣擦れの音が聞こえる。

 だが、そんな事より、俺は頭の痛みを抑えるのに必死だった。あまりの痛みに意識がアッチの世界にぶっ飛びそうになる。

 アッチの世界ってのはつまりアッチの事で、いわゆる一ノ瀬ハートインランドの事だ。

 

『さっき来たばかりじゃろうが。そんなホイホイ妾のところに来るでないわ。妾のプライベートな時間を邪魔するでない』

 

『気をしっかり持てい。ほら、アレじゃ。前に本で読んだあのアレ。〇極じゃ、無〇を使うのじゃ』

 

 脳内からそんな声が聞こえる。俺は脳内に響く声に従い、痛みを誤魔化す為に、さっき見た豊満なおっぱいで頭が包まれているイメージを浮かべた。

 ――成功。頭を金槌で叩く様な痛みは消え、代わりにふわふわしたマシュマロに包まれた。

 

 

■■■

 

 

 暫くすると痛みも完全に消え、マシュマロタイムも終わった。

 俺は未だ椅子に縛り付けられたまま、部室の天井を見上げている。

 

「これで……よし。んんっ、んんんっ!」

 

 聞き覚えのある咳払いと共に、誰かが近づいてきた。

 視線を向けると、黒いローブの何者かが俺を見下ろしていた。

 

「おはようございます、一ノ瀬後輩。気分はどうデスか?」

 

 先輩だった。

 何故か息が荒く、着ているローブがしわくちゃなので何かエロイ。

 

「いや、どうもこうも……何で俺、床で寝てるんですか?」

 

 イマイチ記憶がはっきりしない。

 確かトイレでスタンガン食らって気絶して部室で目覚めて、謎の少女を目撃して視姦、それからツッパリを食らって……あれ? でもあの少女は幻か夢だから存在しないということは、俺がこうして床で倒れてるのも矛盾している。

 え? つまりはさっきの美少女は存在してたのか?

 

「先輩。さっきここに、女の子いませんでした? 体操服着た」

 

「…………はて。ワタシはずっとここでアナタが目覚めるのを待っていましたが、他には誰も来ませんでしたよ。そもそもこの部室には認識阻害の魔術がかかっていて、普通の人間は――」

 

「じゃあやっぱり幻か。凄い可愛かったな……」

 

「か、かわっ!?」

 

 先輩の声が裏返った。

 

「……やま? え、どうしたんですか先輩」

 

「い、いえいえ。何でもありませんが。ええ、そうデス、そうデスとも。一ノ瀬後輩が見ていたのは恐らくただの幻でしょう」

 

 やはりそうらしい。まあ、この湿っぽい部室にあんな可愛い体操服美少女がいるはずないもんな。

 もしあんな素敵な存在が実在してたら、玉砕覚悟で結婚を前提にお付き合いを申し込んでるね。

 

 そんな事を考えていると、先輩がモジモジしながら言った。

 

「と、ところで一ノ瀬後輩。その……一ノ瀬後輩が見た美少女とやらは、どうでした?」

 

「はい? どうでしたって、何がです?」

 

「デスから……こう、印象? みたいな? 一ノ瀬後輩的に」

 

「はぁ。印象ですか。そうですね……」

 

「……ごくり」

 

 まあ、見た目の可愛さとかおっぱいとかも素敵だったけど……目が良かったよね。

 優しい目。見られるだけでMPが回復しそうな母性を含んだ目。あの目で見つめられてたら、1年くらい飲まず食わずでも生きてられそう。 

 そういう臨床試験のバイトがあるなら、真っ先に俺のところにリクルートしてほしい。 

 

「長くなりそうなんで、まとめると――」

 

「ああああっ! やっぱりいいデス! 何でもないデス、忘れてください!」

 

 先輩は大げさにサヨナラする人みたいに、ブンブン両手を振りながら言った。

 何だこの人、意味分からん。まあ、日常的に真っ黒なローブ着てたまに後輩をスタンガンでバックアタックする人だから今更か。

 

「えっと……一ノ瀬後輩が床に倒れている理由デスが、えー……目を覚ました時に寝ぼけたのかこう、足がビクッとなって……倒れたのデス」

 

 なぜか棒読み気味だが、そういう事らしい。あるある。

 天井を見上げるのも飽きた。

 

「取り合えず縄解くか、起き上がらせてくれません?」

 

「縄を解くことは出来ないデス。この後始まる闇の尋問から逃げられては困るので。取り合えず椅子を持ち上げますね」

 

「じん……もん……?」

 

 何か日常生活に不要な言葉が聞こえた気がする。気のせいであって欲しい。

 

 先輩が俺の頭の辺りにしゃがみ込んで、椅子を持つ。

 そして、グッと力を入れ持ち上げる。

 

「ではよいしょ……っと。ふむ、無理デス」

 

 早々に諦めやがった。

 

「先輩マジ非力過ぎ。1cmすら浮いてねーよ」

 

「うぐっ……で、でも重くて、無理なのは無理だし……し、仕方ないデス。一回縄を解くので、自分で起き上がってください」

 

「最初からそうして下さいよ」

 

「で、それから再び縛りますから、決して逃げないように」

 

「えぇ……」

 

 嘘みたいな提案だが、俺は大人しく従った。

 ここは学校。どんな理不尽な要求だろうと先輩の命令には絶対服従だからだ。

 別にリアルタイムで先輩に縛られてみたいという願望に従ったわけではない。

 

 というわけで一旦拘束を解かれた俺は、自分の足で立ち上がり、自分で起こした椅子に座り、先輩の手によって再度縛られた。

 生で縛られた感想は……まあ、悪くないかな。それ系のお店に需要があるのも理解できる。

 それよりも先輩が俺を縛る時、片手に持ってた『マンガで分かる~小学生の初めての緊縛~』って本がすっげえ気になった。まあ小学生向けにユーチューバーになるための本とか売ってる世の中だし、騒ぐほどのことでもないか……。

 

 椅子に縛られた状態で、テーブルを挟んで先輩と向き合う。

 

「では、改めてようこそ一ノ瀬後輩……我らが深淵の底『闇慟哭セシ探求』へ――」

 

 先輩がいつものポーズでそう言った。

 

「あの先輩。前も言ったんですけど、用事があるなら連絡下さい。あのバチッってやつ、マジで怖いんで」

 

「今回に限っては、アナタに連絡をする時間すら惜しかったので。大学内を走り回り、ようやく見つけたのでこう……衝動的にバチッと」

 

 衝動的に(スタン)ガンぶっぱなすとか、いつから日本は銃社会になったんだ?

 しかし、運動苦手な先輩が走り回ってまで俺を探していた理由は気になる。

 恐らくは相当な緊急事態なんだろう。もしかしたら遂に先輩が不審者として警察にマークされたのかもしれない。ありえる。

 

「回りくどい話は無しにしましょうか。一ノ瀬後輩――現在、アナタには裏切りの疑いがかけられています」

 

 そう言った先輩からは、人が人を追及する時に発する圧力のような物を感じた。

 まさか緊急事態が俺に関する事とは思ってもいなかったので、ポカンと口を開けてしまう。

 

「へ? 裏切りって……俺が? 誰を?」

 

「ええ。ワタシをそしてこの同好会を」

 

 そう言うと先輩は、以前にも見せてきた巻物を取り出し広げた(前みたいに胸元から出すのではなく、普通に鞄からだった。残念)

 そこに書かれているのは、この同好会のルールだ。

 定期的に開かれる会合に必ず参加する、この世あらざる存在を目撃または噂を聞いたら報告する、闇の生きる者としてその本質を他人に知られてはいけない……などなど。

 そういった掟(ルール)が実に達筆な文字で書かれている。先輩曰く、この同好会が発足した23年前から、その時の部長に引き継がれているらしい。こんなわけの分からない同好会が23年も続いていたのは驚きだが、いつの時代だって拗らせた人間がいることの証拠であり、何だかちょっと安心する。

 

 ところでこの掟だが、破ると酷い目に合うらしい。

 

「一ノ瀬後輩、アナタ掟を破りましたね?」

 

「マジで身に覚えがないんですけど」

 

 エリザの事は置いといて、それ以外特に掟とやらを破った覚えはない。

 ちゃんと会合にも出てるし、UMA的な存在(小学校の前でロリを視姦しているが決して捕まらない肉屋)の報告もしている。本質云々も語るような友人はいない。そもそも闇に生きる者がどうとかの意味が未だに分からないが。

 

「ほぅ……しらばっくれますか。ワタシを前にして一切の動揺も見られないその胆力……流石一ノ瀬後輩。ワタシが見込んだ人物だけはあります」

 

 さす俺。

 

「はぁ。でも本当に覚えが無くて。そもそも掟、ですか? どれを破ったって話になってるんです?」

 

「一番下を見るのデス」

 

「一番下ですか?」

 

 言われた通り、一番下を見た。

 

 達筆な文字がズラリと並ぶその最後の段――何かクッソ汚い文字で『恋や愛に身を窶すことなかれ』って書いてあった。

 

「なかった! こんなの前見たときは無かった!」

 

「ほ、ほう……よく気づきましたね。確かにこの掟は以前存在していませんでした。……こ、この『掟の書』は特別なアーティファクトであり、その時々で新たな掟が浮かび上がってくるのデスよ……」

 

 いや、でも他の文字と全然違う! 前からあったのはかなり達筆だけど、一番下のだけ浮いてる! クッソ汚い! 

 他の文字は筆で書かれているのに、最後のだけは恐らくマジックペンで書かれている。

 明らかに最近追加されたものだ。そしてこのクソ下手な文字、見覚えがある。

 しかも文字に重なる形で血みたいなのが染み込んでるけど……これケチャップ!

 どう考えても先輩がハンバーガー片手に書いた文字だ。

 

「フフ、フフフ……この同好会が発足して23年……まさか、ワタシの代で新たな掟が発現するとは……」

 

 23年伝わってきた有難い巻物に手書きで勝手に掟を追加したのかこの人……マジか……。

 いや、まあいいよ。それはまあ別にどうでもいい。俺はこの掟の書とやらに興味はないし。先輩がOBの人に怒られて涙目になるところは見たいが、基本的にはどうでもいい。

 

 それでもやっぱり身に覚えは全くない。恋や愛に身を窶すことなかれ、だっけ?

 要するに恋愛禁止ってことだろ。アイドル業界によくあるルール。

 リアルタイムで彼女いない歴更新し続けてる俺が何したって言うんだよ。

 

「一ノ瀬後輩、今だったら自ら罪を告白することで、罰を軽くしましょう。具体的に言うなら、罰を執行する時に用いる山羊の血を豚の血に変更することもやぶさかではありません……しかもイベリコ豚のデスよ……フフフ……」

 

 血をナニに使われるのか想像もできないので、山羊がいいのかイベリコ豚が悪いのかサッパリ分からん。

 分からな過ぎて恐ろしい。

 怖すぎて思わずありもしない事を告白してしまいそうだ。

 なるほど……冤罪ってこういう風に生まれるのね。

 

「それでも! ……それでも、マジで知りませんよ。つーかそんだけ言うくらいだし、証拠でもあるんですか? 無いでしょ? だったら先輩の勘違い――」

 

「無論ありますが」

 

「え?」

 

 先輩は自信ありげにそう言うと、リモコン的なものを操作した。

 部室の天井からゴゥンゴゥン音を立てて、スクリーンが下りて来る。学校の授業で映画とかスライドショーを見せられるときに使うアレだ。

 

「今から見せるのはアナタが掟を破った、決定的な瞬間を映した映像デス。……さて、これが自ら懺悔をする最後の機会デスが?」

 

 先輩の口調からは堂々とした自信を感じるが、自信なら俺にもある。

 俺には恋人なんていないし、できるはずないからな! ……おや、イタタタタ。心が痛いぞ。不思議。

 

「フッ、自白する気はないようデスね。ならいいでしょう。自ら犯した罪をその目に焼き付けるのデス!」

 

 先輩はそう言って右手で自分の右目を覆い、左手でいつの間にかテーブルに置いていたノートパソコンをカチカチ操作した。

 すると、テーブルの上に置いていた怪しげな水晶が眩い光を放つ。

 

「何の光ィ!?」

 

 突然水晶が光出したので、ヤッベ先輩マジで魔法使えるタイプの先輩だわマジリスペクトですわと驚いたけどよく見たら、ノートパソコンからUSBケーブルが伸びて水晶に突き刺さっていた。どうやら世にも珍しい水晶型のプロジェクターらしい。暗かったから分からなかったけど、明るくなったせいで値札を発見してしまった。ほう……ヴィレッジ〇ンガードですか。大したものですね。 

 水晶から発せられる指向性を持った光が、スクリーンに投影開始(トレースオン)される。

 

 暗い部室の中、ぼんやりと浮かび上がった映像は――1組の男女、その後ろ姿だ。

 

「さあ――これがアナタの罪デス」

 

 先輩が芝居がかった仕草でスクリーンに映った映像を指す。

 

 場所は……どこか見覚えがある道だ。

 画面中央に映っている男女の背中に見覚えはない。

 

 男女は深い仲なのか、手を繋いで歩いている。

 男の方は女性慣れしていないのか、静止画からでも落ち着かない様子が見られる。

 肩が強張り、手を繋いでいないフリーな左手で頭の辺りを掻いている。この雰囲気、恐らくは童貞だろう。慣れていない女性の軟らかい手に緊張しているのか体の節々がガチガチな様子、もしかしたら別のところもガチガチかもしれない。どこって? 言わせんな恥ずかしい。

 

 対する女。こちらは男とは反対に余裕が見られる。歩いている後ろ姿は自然体だ。もともとの性格か、それとも男慣れしているビッチか……いや、待て。よく見ると……フリーになった右手がガチガチに力強く握り絞められている。まるで緊張や照れを全てそこに凝縮させたような……そんな風に見える。器用だが不器用な女だ。

 つーか女の方、ゴスロリ服じゃん。遠藤寺以外にゴスロリ服を着て歩いてる女なんてそうそう……いや、まあ秋葉とかに行けば山ほどいるか。

 

「ん?」

 

 男の後ろ姿に全く見覚えはないけど、女の方……この髪型そして大きなリボン、肩から背中にかけてのライン、お尻から太もも、膝えくぼ(膝の裏のくぼみ)、ふくらはぎ……。

 

 遠藤寺だこれ。間違いない。遠藤寺検定2級の俺が言うんだから間違いない。

 うーん、相変わらずいい脚だ。このアングルからの写真は持ってないし、あとで先輩に焼いてもらおう。

 

「んん?」

 

 というこの写真は、遠藤寺が男と手を繋いで歩いてる写真か。

 え? え、遠藤寺と知らない男が手を繋いで……。ふーん、そうなんだ。

 よーし、死ぬか。

 

『超ドアホかお主は。落ち着いてこの写真を見んか。自分の後ろ姿も分からんのか?』

 

 自分の後ろ姿……?

 いや、普通自分の後ろ姿なんて分かんないし。インター〇ィメンドでも使えたら別だけど。

 

『マフラーがあるじゃろうが。この時期にマフラー巻いとる季節勘違いドアホがお主以外にいてたまるか』

 

 季節勘違いドアホって……。つーか俺さっきから脳内ボイスと喋り過ぎ。シャ〇ニングに出て来る子供かよ。

 

 でも確かにこのマフラー男……服といい、髪型といい俺だ。よく見たらマフラーにもメイドイン雪菜ちゃんの印でもある雪だるまが刺繍されてるし。

 なーんだ。落ち着いてみれば大したことない写真じゃん。

 俺と遠藤寺が手を繋いで歩いてるだけの写真だ。遠藤寺が白タイツ履いてるし、これ今朝のだな。

 

 なるほど。いつどうやって撮った写真かは知らないけど、確かに見る人が見ればマフラー男とゴスロリ女の痛いカップルの写真に見える。

 先輩がこれを見て、恋だの愛だのの掟を破ったとか勘違いするのも分からないでもない。

 全く、いかにもな顔で証拠だとか言うから、何かと思えば……やれやれ、先輩ってばあわてんぼさん。

 

 俺はウッカリさんな先輩を諭すように、優しくゆっくりと説明した。

 

「先輩、これは違うんですよ」

 

「はて? 違うとは?」

 

「確かにこの写真に写ってるのは俺ですよ。でも相手の女の子は……ほら、前に言ったし、確か先輩も見たことあるでしょ? 俺の友達の」

 

「ええ、聞いたし見ましたよ」

 

 そう、先輩は実際に遠藤寺を目撃したことがある。

 

「以前、一ノ瀬後輩と一緒に歩いている彼女を目撃しました。そして……その時、一ノ瀬後輩は彼女の事を『彼女』だと、ワタシにそう説明しましたね」

 

「え? ああ、そういえばそんな風に冗談で言ったっけ」

 

 よく覚えてるな先輩。

 確かあの時だ。先輩が大学の廊下にあるテーブルの下から出れなくなった時の話だ。

 俺が冗談で遠藤寺のことを彼女って言ったんだよな。そのあとすぐにただの友達ってことを伝えたけど。

 

 俺が以前の記憶を思い出していると、先輩が自嘲混じりに笑った。

 

「ふふ……ふふふ……いやはや、ワタシとしたことが……騙されましたよ。ワタシにとって都合のいい嘘を信じさせ、すぐそこにあった真実から目を背けさせる……一ノ瀬後輩には詐欺師の能力もありますね、フフフ」

 

「は? いやいやいや、アレは本当に冗談ですから。俺と遠藤寺はただの友達ですから」

 

「ふっ、ふふふっ、ふふふふふっ」

 

 先輩が体を震わせた笑った。どこか道化めいた笑い。

 

「友達にしては、ずいぶんと仲が良いようデスが?」

 

「ま、まあ……そこそこ。でも友達同士で手を繋ぐことなんて、別に普通でしょ」

 

「ふふっ、ふふふふっ! 普通! 普通デスか! いやはや、笑えますね……ほんと。あっさり嘘を信じて、あー彼女いなかったんだーって安心した私が馬鹿みたい」

 

 カチカチと先輩がマウスを操作した。

 映像の一部分が拡大化される。拡大されたのは、繋いだ手。

 指と指を絡めて繋がった俺たちの手だ。

 

 先輩がスゥっと息を吸う。

 

「この――手! これ! まるでウロボロスみたいに絡まりあった手と手!」

 

 先輩が声を荒げながらバンバン机を叩く。

 基本的に声を荒げたり、感情を発露しない先輩にしては珍しい行動だ。

 

「どこが……どーこーがー! どこが友達なの!? こ、こんなの恋人じゃん! 世間一般で言う恋人繋ぎじゃん! 羨ましい!」

 

「せ、先輩?」

 

「ホッとしたのに! 友達だって聞いてホッとしてたのに! 酷いよ、ひどすぎるよもうっ! うぐっ、ふぐっ……」

 

「え、泣いてるの先輩?」

 

「泣いてないし! 闇に生きるワタシに涙を流す機能なんて存在しないし!」

 

 何かその設定だとロボっぽく感じるんですけど……。

 

 急に怒ったり泣いたり情緒不安定気味な先輩を前に、狼狽える俺。

 確かに先輩から見れば、唯一の同好会メンバーである信頼していた後輩にずっと嘘を吐かれていたということになる。

 そりゃ腹も立つし、悲しくもなるだろう。

 だが俺は嘘を吐いていない。

 遠藤寺とは友人だし、それ以上でもそれ以下でもない。

 

 この映像について説明するには、いかに遠藤寺が変わり者だということを説明しなければならないのだけど。

 今の先輩に、遠藤寺のアレさを具体的に説明する自信はない。

 この場にアイツが居て、ほんの少しでも何かを話してくれたら、それだけで遠藤寺のアレさは一瞬で伝わるのに。

 

「すんっ、ふぐっ……しょ、証拠はまだあるのデスよ」

 

 先輩がローブに隠された目の辺りグシグシ擦りながら、マウスを操作する。

 画面が切り替わり、そこに写っていたのは……遠藤寺のお腹に手を当てる俺。

 それを今度は正面から撮った写真だ。 

 

「もうね! これ目撃した瞬間、膝から崩れ落ちたデスよ! ぐしゃあって! すっごい膝痛かったし!」

 

 先輩の言葉遣いが怪しい……。

 ていうかこの写真撮ったのって先輩ってこと? 確かにこの写真、妙にローアングルだ。まるで衝撃的な瞬間を目撃して、ショックのあまり膝を付き最後の力を振り絞って写真に収めた……そんな入魂の一枚だ。先輩の発言が正しければ、俺が遠藤寺のぽんぽんとさわさわしていた瞬間、すぐ近くに先輩がいた事になるんだけど……こんな怪しいローブを着た人間、見た覚えがない。遠藤寺に夢中だったからか?

 

「えっと……この写真が何か? ちょ、ちょっと女の子の方が自分のお腹を触らせてるだけですよ?」

 

 自分で言っててちょっとアレな友達関係だと感じるが、先輩が膝を崩すほどのショックを受けるくらいか?

 

「ふふっ、ふふふっ……他の人間は騙せても、このワタシは騙せませんよ? ワタシが持つ『闇の眼』……『漆黒の眼』……もう何でもいいけど! と、とにかくよく見えるこの眼は全ての真実を見通すのデス!」

 

「真実って言われても……」

 

 先輩は再度、大きく机を叩いた。

 水晶型のプロジェクターが小さく跳ね、スクリーンの画面がずれる。

 

「こんなのさ、どこから見ても――妊娠した事を彼氏に告げる彼女って絵面じゃない!」

 

 先輩は震える声でそんな事を仰った。

 

「この顔! 女の子の顔! お腹に一ノ瀬君の手を乗せてその上から自分の手を重ねてる時の顔! この優しげな微笑み! 母性しか感じないデス! 母の顔デスよ!」

 

 あの瞬間、俺は遠藤寺の顔を見ていなかったけど、写真で見てみると……母性……か? どちらかと言うと、悪戯っぽい笑みに見える。

 

「それで一ノ瀬君の顔ね。もうね、彼女のお腹に赤ちゃんがいることを告げられて呆然としているこの顔! 心の中では『ああ、親に挨拶行かないとなぁ』とか『大学中退して働くかぁ』みたいなそれなりに薄っすらと覚悟を決めている顔!」

 

「先輩って想像力豊かですよね」

 

 そうでもないとあんなネット小説書けないだろうけど。

 

「よくある出来ちゃった婚するカップルのヤツだよね! もうね、何ていうかね、敗北感通り越して逆におめでとうって気持ちになるよ……。うぅっ、やっぱ嘘……素直にお祝いできないよぅ……」

 

 そう言うと先輩は机に突っ伏してしまった。

 

「こんなんだったらもっと早く……うぐぐぅ……あぅ……美咲ちゃん……お姉ちゃん負けちゃった……もう学校行きたくない……こんな思いするんなら草や花に生まれたかったよぅ……」

 

「先輩、あの……」

 

「もういいでしょ? そういうわけだから、一ノ瀬君はこの同好会から除籍します。掟破った罰ね。彼女さんと仲良くね。……幸せにね。将来のこと考えたりいろいろ大変だと思うけど……もし、困ったら相談くらいには乗るから、お金もちょっとくらいは融通できるし。でも……出来たら彼女さんとの楽しいお話なんかは聞きたくないな……うぅ……」

 

 突っ伏していた机からズルズルずり落ち、そのまま地面に転がってしまう先輩。

 体を丸めて、黒い芋虫のようになってしまった。

 困った。このままじゃ、先輩の勘違いでそのまま除籍されてしまう。

 何だかんだとこの場所……特に先輩がいるここには愛着があるのだ。どうにかして先輩の誤解を解きたい。

 

 遠藤寺をここに呼んで、本人の口から正しい関係を伝えてもらう方法も考えたが……どう考えても事態がややこしくなりそうだ。

 つまりここは俺自身の手で、誤解を解かないといけない。

 

「ああ……このまま寝ちゃお……それで起きたら全部上手くいってるの……一ノ瀬君には彼女なんていないし、これからも仲良く楽しく同好会を続けていくの……うふふ……」

 

 この妄想状態に入った先輩を説得するのは難しそうだ。

 馬鹿正直に遠藤寺の人となりや、俺との関係性を伝えても納得する気がしない。

 ここは上手い事、嘘を吐くしかない。し〇かちゃんが言ってたけど、誰かを幸せにする親切な嘘を吐くのはいい事だって。

 

 うーん、よし。

 

「先輩、先輩」

 

「揺らさないでぇ……もういいからぁ……慰めとかいらないから、1人にして……1人、1人……これからまた1人かぁ……いいもん、元に戻るだけだし……寂しくないし……」

 

「だから先輩、勘違いなんですって。俺は掟とか別に破ってないですし」

 

「おきて破った人はみんなそういうし」

 

 聞く耳持たない先輩。

 俺はマウスを操作して、最初の画面――恋人つなぎをする俺と遠藤寺の写真を写した。

 

「確かにこの映像、ただの友人関係にしては相応しくないと思います。――でも、理由があるんですよ」

 

「……?」

 

 最初に謝っておく。ごめん遠藤寺。

 

「遠藤寺……友達なんですけど。コイツね、もうビックリするくらいの……方向音痴なんですよ」

 

「……で?」

 

「しかも放浪癖もあって……極度の方向音痴と放浪癖が融合するとどうなると思います?」

 

「失踪……行方不明……」

 

「それな。で、俺が友人として! 友人として仕方なく! あくまる友人としてアイツが行方不明にならないように責任をもって、確保! そう確保しているんですよ」

 

「確保……収容……保護……」

 

「いや、そんな理念は無いですけど。とにかく気を抜いたらフラフラーっとどっか行っちゃうから、こんなに強く手を握ってるワケで」

 

「……」

 

 黒いローブの塊から、視線を感じる。

 確かに苦しい。自分で言ってて、どうなんだと思う。

 探偵である遠藤寺にそんな迷惑な属性があったら、キャラとして完全に破綻してると思うけど……まあ、これは先輩を騙すための嘘だし。1日で記憶がリセットされるヤバイ設定の探偵もいるくらいだし、いいんじゃないですかね。

 

「……大学生にもなって、手を繋いでいないと失踪してしまうデスって?」

 

 小学生ならまだしも、この年になってそれはありえなくない? ……そんな視線。

 やっぱりこんな急ごしらえな嘘じゃ無理か?

 

「常識的に考えてありえませんが……あんな変わった格好をしてるくらいデスし、それくらい変わった癖があっても、おかしくありませんね」

 

 よっしゃクエストクリア!

 遠藤寺ありがとう! そして変な属性追加してごめん!

 

「なるほど……友人の為に身を挺して……そうデスか。この写真はそういうことデスか」

 

「そうなんですよ。いやぁ、まったくアイツには困ったもんですよ。ははは」

 

「じゃ、じゃあ……妊娠疑惑の写真については? そこのところどうなんデス?」

 

 その質問に対する答えはすでに用意してある。

 もう一回ごめんね。遠藤寺。

 

「弱いんです」

 

「はい?」

 

「遠藤寺。コイツ……すっごいお腹が弱いんですよ」

 

「はぁ……お腹が弱い」

 

「今朝って寒かったですよね。それで急にお腹を痛めたみたいで、ほら恰好もこんなんですし、弱いの分かってるなら腹巻でも巻けばいいのに『ダサイ』って拒否するもんだから」

 

「確かに今朝は寒かったデスね。ワタシも下に体操服を……んんっ! そ、それで?」

 

「で、まあ……ほら、人肌を温めるのは人肌って昔から決まってるじゃないですか。だから地元では『太陽の手』を持つって言われる俺がこう……ピタっと。お腹を温めたわけですよ」

 

「……」

 

「見てくださいよコイツのこの顔。幸せそうでしょ? 俺の手にかかればお腹痛なんて、ざっとこんなもんですよ」

 

 俺の嘘のせいで遠藤寺が放浪癖持ちかつお腹弱いキャラになってしまったわけだが、本当に申し訳ない。

 この埋め合わせはきっとする。

 

「手」

 

「え?」

 

「デスから、言葉の真偽を確かめる為に、一ノ瀬後輩の手を」

 

 黒いローブの塊から、にゅっと手が突き出て来る。

 グロ画像にも見えるその状況に萎えそうになりつつ、手を握る。

 

「ほう……ふむふむ」

 

 にぎにぎと握られる。にぎにぎ。にぎにぎ。ニギ……ニギ……。

 暫く流れに身を任されていると、黒いローブからもう1本手が出てきて、俺の手を握った。

 2本の手で握られる。にぎにぎ。にぎにぎ。ニギ……ニギ……。2つの手で握る力も2倍だな。

 

「先輩?」

 

「へっ? ああ、うん……んんっ! なるほど確かに、一ノ瀬後輩の手は暖かいデスね。それから結構ガサガサしてて、思っていたよりガッチリしてて、男の子って感じ……」

 

「先輩」

 

「んんっ! んんんっ! ……ま、まず謝罪をしておきましょう。どうやらワタシの勘違いだったようデスね」

 

「ということは」

 

「ええ、どうやら一ノ瀬後輩は掟を破っていない、と。ワタシの勘違いだったようデス。……なかなか難儀な友人をお持ちデスね」

 

 おや、何だか同情されてしまったぞ。重ね重ね申し訳ない、遠藤寺。

 でも普段から人を変な事件に巻き込んでくるし、これくらいの迷惑は勘弁してほしい。

 しかし先輩、チョロイ。ちょっとうまい言葉に簡単に騙されて絵やら壺やらを買わされるタイプだ。そういう輩から先輩を守る守護キャラとしての役目も後輩としての務めだろう。

 

「よいしょ、っと」

 

 床で黒い塊と化していた先輩が、ヌルヌルとした動きで椅子に座る。

 いつもの先輩だ。だが口元がニヤケている。

 

「ふふっ、そうデスか、勘違いデスか」

 

「ええ、そうです」

 

「そうですか……そっかぁ……ふふふ」

 

「ふふふ」

 

「えへへ……よかったぁ」

 

 暗い部室の中、響く2人の笑い声(デュエット)

 見る人が見れば邪教崇拝の本拠地の光景だろう。

 

「んんっ。いやはや将来有望な部員を手放すことにならず、安心しました」

 

「そりゃよかった」

 

「……と、ところで」

 

 調子を戻した先輩は、モジモジとした様子で例の巻物を広げた。

 

「何ですか?」

 

「いやぁ、驚きましたね。まさかワタシの代で、またしても! またしても掟が追加されるとは! この瞬間に!」

 

 何言ってんだこの人……と思いながら巻物を見ると、先ほどの掟の下にまた新たな文字が追加されていた。

 例によってクッソ汚い文字だ。いや、もっと汚い。真っ暗闇の中で急いで書き殴ったみたいな文字。

 ミミズが縦横無尽に這いまわったようにしか見えない。

 

「ほうほう……『ただし上記の掟は、同じ同好会に所属する部員同士にあっては敵用されないとする』……デスか。なるほど……さて、この掟、一ノ瀬後輩はどう見ます?」

 

 先輩が何を思ってこの掟を追加したのか分からない。

 この状況でこんな掟を追加したらまるで俺のことを……なんて、考えることもアホらしい。

 そういった勘違いは得てして勘違いの域を出ないのだ。

 だから、これは先輩のいつもの意味不明な行動の1つだろう。

 

 そう、だよな?

 

 俺は誰とも知れない誰かに語り掛けた。

 もちろん誰とも知れない誰かは返事をしてくれない。

 

「ところで先輩、これ適用って文字間違ってますよ」

 

「……はっ!? ほ、ほんとだ……。ふ、不思議ですねぇ……ふふっ、ふふふ」

 

 誤魔化すように笑う先輩を眺めながら、どのタイミングで縄を解いてもらえばいいんだろうか……でも、貴重な緊縛タイムを切り上げるのはまだ早いのでは……そんな思考を天秤に乗せながらユラユラ過ごす時間は中々に楽しかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

神よ、聞かせろ! タイトルという概念を作ったのはどこのどいつだ! なに……この世界に無かったタイトルという概念、それを未来から持ち込んだ俺こそが……

俺、一ノ瀬辰巳の朝は早い――

 

「朝~、朝だよ~。そろそろ起きてジョギング行くよ~」

 

 耳に心地よい目覚ましボイスと共に優しく揺さぶられ、俺の意識は徐々に覚醒していく。

 現在時刻は朝の6時。

 まだまだ眠いし、うぐぅとか呟きつつ、布団の中で惰眠を貪りたい。あったかい布団にポチャポチャ包まれていたい。昼過ぎまで寝てたい。ヒ〇ナンデスのBGMと共にだらだら布団から出たい。

 そんな欲望に抗う事が出来たのは、純粋に早起きに慣れたのか、公園で美少女JKが待っているからか、徐々にエリザが調子に乗ってくすぐったり息を吹きかけたりしてきているからか……。

 

 俺は冬眠を邪魔されたクマの様に、緩慢な動きで布団から這い出た。

 

「……おはよう、エリザ」

 

「おはよ辰巳君! 今日も頑張ってね!」

 

 グッと両拳を握るエリザに元気を貰いつつ、ここ数日の日課となったジョギングの準備をする。

 準備をしているとマイスマホが『ピロピロwwwwゴーウィwwwゴーウィwww』と音を鳴らす。

 これまた日課となっている雪菜ちゃんからのメールだ。

 

『残り――3日です』

 

 純粋に怖い。

 死刑執行日を待つ囚人の気持ちが分かってきた。

 残り3日で目標体重まで落とせなければ、死刑――という名の実家に強制送還だ。

 メールは続いていた。

 

『おはようございます兄さん。あと3日ですね。無駄な努力の方はどうですか? 一応言っておきますが、内臓をいくつか売り払って体重を落としたとしても、無くなった臓器の重さはしっかり換算しますので、無駄なことは考えないように』

 

 そういう発想をしちゃう雪菜ちゃんが怖い。心が病んでる。もっと穏やかかつ優しい心を持っていてほしい。ほのぼのアニメとか見て、ほっこりしてほしい。け〇のフレンズとか、G〇部とか見てさ。今季だったらダントツで〇イドインアビスだね。OPの後半に出て来るユーゼス・ゴッツォみたいなキャラに期待。きっとロボ的な無感情キャラだけど、冒険の旅に同行する中で愛や友情、希望、慈しみとか感情を学んで最終的に自己犠牲の精神を発揮して『次に生まれ変わるとしたら人間に……』と言って敵に特攻、機能停止した頭を墓標に主人公たちの旅は続く……みたいな展開に違いない。死亡回は絶対泣くわ。

 

 そういうほのぼのアニメを見て、暖かな情緒を抱いてほしいよ兄さんは。

 

『ところで兄さんの部屋を片付けてたら、またイヤらしい本が出てきたので、一部は処分させて頂きました』

 

 また俺のコレクションが犠牲に……恐らく一部というのは年下とか妹物とか以外だろう。

 まあいいさ。

 本当に大切な本……1軍のほとんどはこっちに持ってきた。家に残っているのは2軍と3軍のみ。

 

 だがそれでも――心が痛い。指先がチリチリする。口の中はカラカラだ。目の奥が熱い。

 俺は長男だからこの喪失感に耐えられるけど次男だったら耐えられてないぞコレ。

 

 例え1軍より劣る2軍や3軍でも掛け替えのないコレクションの一部だったのだ。少ないお小遣いを叩いて買い、エロ本がポップする野山を駆け抜け、初心者に平気でシャークを持ち掛けて来るオッサンとのトレードを乗り越え、エロ本神がばら撒くエロ本をゲットする為に河原でオッサン達とバトり……そうやって手に入れ、何度もお世話になった物に違いはない。エロ本に貴賤はないのだ。

 それに少し年を経て俺の趣味嗜好が変わって2軍から1軍に昇格する事案もあるからな……ぐぬぬ。

 

『全く……処分しても処分しても沸いてくるなんて、まるで兄……いえ、ゴキブリの様ですね』

 

 今、恐ろしく酷いことを言おうとしていたような……つーか、メールだから修正出来るだろ。ワザとか。

 

『間違えました。まるでゴキ……いえ、兄さんの様ですね。失礼』

 

 ワザとじゃない! マジで失礼な妹だな。

 これで可愛くなかったら、何らかの罪に問われるんじゃないか。

 

 しかし……不安だ。

 1軍のブツはほとんどこっちに持ってきたものの、荷物の量の関係で少しだけ置いていくことになってしまった。

 バレない方法で隠しているけど、世の中絶対はない。強制送還云々は抜きにして、そろそろ1回実家に戻って、ついでに回収しておいた方がいいかもしれないな。

 

『ゴキブリで思い出しましたが、この間兄さんの部屋を掃除している時にゴキブリが出ました。ごめんなさい……もしかしたら兄さんの友達かもしれなかったのですけど、反射的に潰してしまいました』

 

 ゴキブリを友達にする兄なんていない! まあ、ネズミを友達にする囚人もいるし、いてもおかしくないか?

 

『その時、咄嗟に本棚にあった辞書を使ったのですけど……』

 

 本棚、辞書……だと……。

 やばいやばい! やばばばばばッ!

 

『辞書を開いてみて驚きました。まさか辞書の中身をくりぬいて、その中にイヤらしい本を隠すなんて……ふふふ、兄さんの癖に知恵が回りますね。今日まで全く気づきませんでした』

 

 あばばばばぁッ! 1軍がぁぁぁぁ!? 中学生の頃にアビス(という名のゴミ捨て場。上昇負荷は臭い)で拾って以来、未だにお世話になってる二次元ドリームノベルスがっ! 『魔法少女侍プリティ十兵衛ちゃん~隠し剣男棒編~』がッ!

 やめて、お願いだからやめて……処分だけは嫌だ……それだけは……何でもするから……。

 

『少しだけ私を驚かせてくれたお礼に、今回だけは見逃すことにします』

 

 え、マジで? 雪菜ちゃん優しい……好きかも……。

 

『ではこの辺りで失礼します。兄さんが帰ってくるまでにすることが山ほどあるので。ドアノブに南京錠、電気椅子……いえ、なんでもありません』

 

 何でもあるんだけど。ジョークだよね……うん、そうに違いない。

 雪菜ちゃんのジョークってほんとウケル。……笑えよ俺。

 

 冷や汗を拭いつつ、ジャージに着替える。

 

「頑張ってね辰巳君、うーんっと美味しい朝ごはん作って待ってるからね!」

 

 そんな声援を受けつつ、アパートから出る。

 

■■■

 

 アパートを出て、近くの公園で美咲ちゃんと合流。

 一緒にしっかりストレッチをした後、ジョギングを始める。

 いつものルートを走った後、公園で休憩。

 

「それでね、昨日は辰巳と別れた後、例のアイツが通ってる大学に行って、いつも使ってる靴箱を特定しちゃいました!」

 

 ビシリと可愛らしく敬礼をする美咲ちゃん。

 例のアイツは美咲ちゃんのお姉ちゃんを誑かしているクソ男の事だ。

 

「グッジョブだ、美咲ちゃん」

 

 よし、靴箱を特定出来たか。

 あとはそいつの嫌いな物を何とか調べて、靴箱がガバガバになるくらい奥までぶち込んでやる……ヒヒヒ……。

 まだまだこれが前菜、これから嫌がらせフルコースが待ってるぞ……ウヒヒヒ……。

 

「嫌いな物……おっけ! アイツから聞き出すようにお姉ちゃんにお願いするね!」

 

「それとなくね」

 

「えっと、嫌がらせに使うから、大嫌いな物を聞いといてって言えばいいかな?」

 

「バカなのか?」

 

「ひ、酷いよ! あたしバカじゃないもん!」

 

「バカって漢字で書ける?」

 

「……いじわる」

 

 腕を組みながらむくれる美咲ちゃん。どうやら書けないらしい。

 衝動的にお金を払いそうになってしまうくらい可愛い。もし美咲ちゃんの銀行口座を知っていたら、定期的に入金してしまいそうだ。

 

「ごめんごめん。まあ、勉強できなくても美咲ちゃん運動めちゃくちゃ出来るし、問題ないだろ。ほら、進路とかも選びたい放題だろうし」

 

「そ、そうかな……」

 

「そうそう。受験前に気が滅入るくらい勉強した俺からしたら、羨ましいよ。いいなー、羨ましいタル~!」

 

 高校3年生の冬、スポーツ推薦が決まってアホみたいに遊んでいたクラスのヤツを見て、内心すっげえ羨ましかった。

 ピンポイントでコイツの頭に隕石落ちないかなぁとかマジで思ってた。

 まあ、隕石は落ちなかったけど、そいつ担任の人妻と恋に落ちて駆け落ちしたんだよね。

 人生何が起こるか分からないものだ。

 

「羨ましいんだ……えへへ。そうだよ、あたしめちゃくちゃ運動できるもん。勉強しなくても、だいじょーぶだもんね。羨ましいでしょー? へへー♪」

 

 まあ、でも最低限の勉強はしとかないと社会に出てから苦労すると思うけど……美咲ちゃん嬉しそうだし、黙っとくか。

 

「あ、そうだ! ねえねえ、辰巳は進路決まってるの? もしよかったらさ、その……一緒の学校行かない? そしたら、ほら、これからも一緒にジョギングできるでしょ? ねっ、いい考えじゃない?」

 

「いや……え? あ、あのさぁ美咲ちゃん」

 

「あー! ちょっと待って待って! そ、そもそも……辰巳って今、何年生なの? も、もしかして1年生だった!?」

 

「うん、まあ……1年生ではあるけど」

 

 大学のな。

 そうか……そういえば俺、大学生ってこと言ってなかったっけ……。

 うーん、高校生、しかも1年生に間違えられるとか……結構嬉しいぞ。

 

「そっか、1年生か……えー、それじゃあ、一緒の大学行けないよね。困ったぞ……うむむ」

 

 何がうむむだ!

 美咲ちゃんは暫く唸った後、コクリと頷いた。

 

「じゃああたし留年するね」

 

「マジでバカなのか」

 

 ほぼノータイムで1年を棒に振るとか、美咲ちゃんマジ刹那的快楽者主義者。

 理性が蒸発してんのか?

 

「あ、また言った! あ、あのさ、辰巳。あたし2年生だよ? 先輩だよ? 年上だよ?」

 

 美咲ちゃんは腕を組んだまま、眉を寄せた表情を近づてきた。恐らくは軽くガンを飛ばしているだろうけど、慣れていないからか微笑ましさしか感じない。こんな可愛いメンチ切られても、財布を取り出す気にはなりませんぜ。別の物は出したくなるけどね(って下ネタかーい)

 

『お主、本当に頭の中が忙しいのう』

 

 また誰かの声が……妖精さんか?

 

「ガッコーは違うけどさ、普通先輩にはもっとアレ払わないと。けー、けー……あの、アレ、なんだっけ?」

 

「ケーキ?」

 

「それ。ケーキ! 先輩にはケーキを払うものでしょ? ……あれ? ケーキって払われる方だよね、お金。ま、まあいいか。と、とにかく! そんな風に調子乗ってると、1年生の頃のあたしみたいに、先輩にボコボコにされちゃうよ? 部室の天井に裸釣りされちゃうんだから!」

 

 なにそれマジで詳しく。

 いや、まずはイメージだな。実際に詳細を聞く前にその光景をイメージして、その差異を楽しむのが上級者というもの。イメージだからいくらでも現実にはないオプション追加出来るしな。取り合えず季節は勝手に夏にしておこう。蒸し暑い部室の中で吊るされた美咲ちゃんからは大量の汗が流れて、床に汗だまりを作る。美咲ちゃんの口から漏れ出る苦悶の声が、即席の汗海を揺らす。そうそれはまるで東から吹く風が稲穂を揺らすように……うーん、文学的エロス。

 

「あのさ、美咲ちゃん」

 

「ストップ! いーい? ずっと同じ年だと思ってたから、ちゃん付けでもよかったけど、年下って分かったからには、ちゃんとセンパイって呼んでよね」

 

 バジリスクタイム(アツイ展開)到来ッ!

 

 ちょっと待って! 今年下の女子高生から先輩呼びを強要されたんですけど!

 こんなイリーガルなイベント、普通ならイメージプレイ専門店くらいしか発生しないないだろうに、生(ライブ)で遭遇するなんて……。運営は神!

 

「ほら、呼んで。先輩って」

 

「いや、でも……」

 

 お巡りさんに捕まらないかな……だって、年下生女子高生を先輩呼びとかあんまりにも罪深過ぎるし。

 小学生アイドルをママって呼ぶ世の中だから許されるか……? 

 

「なに? あたしの事先輩って呼びたくないの? むぅ、辰巳の癖に生意気。あんまり生意気言ってると、1年生の頃のあたしみたいに、合宿の時のお風呂で先輩たちに……ん、んんっ、これはないしょっ」

 

 だからさぁ! 何でそういう妄想が捗りまくる事をぶっこんでくるかなぁ! 誘ってんのか? オォンッ?

 

「もー! いいから早く! よーんーでーよ! 先輩って! ウチの部活、後輩いないから、誰もあたしのこと先輩って呼んでくれないの! だーかーら!」

 

 美咲ちゃんが俺の両肩をガッと掴んで揺さぶってくる。

 だ、だめぇ! そんなに揺すったら出ちゃう! さっき走ったばっかりだから出ちゃうのぉ! ファンタズムがリバースしちゃう!

 

「ひぎぃ! よ、呼ぶから! あんまり揺すらないでくれ!」

 

「ん。よろしい。最初から素直に先輩の言葉に従えばいいのだ、んふふ」

 

 腰に両手を当て、満足げにほほ笑む美咲ちゃん。

 やれやれ、仕方ないな。

 美咲ちゃんがどうしてもそこまで言うなら、仕方ない。

 

「さあ、来い!」

 

 バッと構える美咲ちゃん。

 美咲ちゃんを先輩って呼ぶぞ……ゴクリ。

 一応周囲に人がいないかを確認して、将来的に訴えられた時の証言も考えて、しっかり記憶する為に机に突っ伏して寝ている脳内司書ちゃんを起こして、もう一回周囲に人がいないかを確認して。あとは……。

 

「あれ? 何か落ちてる」

 

 俺が覚悟をススメていると美咲ちゃんが地面から何かを拾い上げた。

 あれは……俺の学生証だ。

 どうやらさっき揺すられた時に、ウワァァァァァ! うぁー! 落としたァー! 職質用の学生証を落としてしまったのですが!! ということらしい。

 

 ん? 学生証……。

 

 美咲ちゃんは拾い上げた学生証を空にかざし、ケラケラと笑い出した。

 

「あははは! 辰巳、何この顔かわいー! 目ほっそーい!」

 

「あー、うん。写真って撮られ慣れてなくってさ」

 

「んふふふ……へー、辰巳の誕生日も載ってる。おー、辰巳っぽい日だ」

 

「どういう意味だよ」

 

「ふふ、ふふふ……ん?」

 

 人の学生証を見て、ケラケラ笑っていた美咲ちゃんだが、唐突のその表情が固まった。

 どうやら……知るべきではない事を知ってしまったらしい。

 

「あ……え……これ……大学生の……」

 

「うん」

 

「えっと……双子のお兄ちゃんの……? 一ノ瀬辰辰……?」

 

「そんな名前の人は知らない」

 

 俺みたいなんがもう1人いるとか、考えただけでもゾッとするわ。いや、案外友達になれるかも……うーん、やっぱ無理! 究極の同族嫌悪で出会って5秒でバトル確定だな。

 

「えっとえっと……」

 

 美咲ちゃんが俺と俺の学生証を交互に見ながら、オロオロしだした(ゲロったわけではない)

 ただゲロっちゃいそうな表情ではあった。

 

「その、つまり、辰巳って……もしかしてぇ……」

 

 俺はただ頷いた。

 それだけで美咲ちゃんの顔が真っ青になった。

 この時の美咲ちゃんの気持ちを答えよ。

 

『ふむ。あれだけ先輩後輩やらの上下関係の重要さを語り、先輩として気分よく振舞っていたが実は相手の方が先輩だと知ってしまい……刀があったら自らの腹でも掻っ捌きたい思いじゃろうな』

 

 時代錯誤的な答えどうもありがとう、シルバちゃん。

 

 このあとの美咲ちゃんがどうなったか、その答えはまた後日。

 ただヒントを出すとするなら……Win-Win。俺と美咲ちゃんはWin-Winの関係になったのだ。

 正解した方には抽選で一ノ瀬ハートインランド一泊二日の旅にご招待。

 

 

■■■

 

『残り――2日』

 

『兄さん、私いい事を思いつきました』

 

『兄さんが家に帰ってきたら、私が作ったスケジュールに従って生活をしてもらいます。ですが、私も暇じゃありません。自分の部屋でやらないといけない事もありますし、ずっと兄さんの部屋で兄さんを見張るわけにはいきません。兄さんだって自分1人で過ごしたい時間もあるでしょう』

 

『ですから。兄さんと私の部屋を隔てる壁をマジックミラーに変えようと思うんです』

 

『私の部屋から兄さんの部屋を見えるようにするんです。こうすれば私は自分の部屋にいながら、兄さんの事を監視できます。兄さんだって1人の時間を過ごせる』

 

『とても有意義で、無駄のない生活……ふふふ、素敵』

 

『とてもいい考えに思うので、早速取り掛かろうと思います。一応言っておきますが、兄さんに拒否権はありません』

 

 

■■■

 

「はぁ……はぁ……」

 

 ジョギングが終わり、朝食を食べたら学校に向かう。

 学校では基本的に遠藤寺の行動を共にする。

 

「くっ……腕の震えが……」

 

 講義中うっかり寝てしまうと、当然授業の内容はノートにとれていない。

 だがどうやら俺には妖精さんが憑いているらしく、目が覚めるとノートがしっかりとられているのだ。

 そんなオカルトありえません!と怒られる前にネタバレすると妖精さん=人間さん。人間さん=遠藤寺という方程式が成り立つわけ。

 ほんと遠藤寺には頭が上がらない。

 

 ちなみに自分のノートをとりながら、俺のノートをとっている遠藤寺だが、どうやってとっているのか気になって寝たふりしたら、普通に両手を使って自分のノートと俺のノートを同時にとっていた。遠藤寺は両利き――プロフィールが更新されました。

 

 そんな両刀使いの遠藤寺と食堂で飯を食っているのだが……

 

「ふぅっ、ふぅ……くっ」

 

 遠藤寺の様子がおかしい。

 何やら震える右手を抑えている。この年で中二病とか……ただでさえ遠藤寺はボクっ子、探偵、ゴスロリ、クーデレ、リボン、うどん厨、足がグンバツの女……と属性が多いのに、これ以上盛ったら1人旅団状態だ。つーかデス子先輩のお株を奪ったら可哀そうでしょうが! 

 

「どうした遠藤寺。もう1つの人格が現れそうなのか?」

 

「君が何を言っているか分からないが違う。これは、その……ちょっとした禁断症状みたいなものだよ。昨日の夜から症状が出始めてね。全く、厄介なものだよ」

 

 サラッと凄い事を言い出したぞ。

 

「そうか、禁断症状か……なんの?」

 

「強いて言うなら……アルコールかな」

 

 アル中のヒロインは流石に需要ねーよ。

 そんなマイナス属性増やしてどうするんだよお前……ニッチ過ぎるだろ……何か泣けてくるわ。

 

「待て待て待て。君は何か勘違いしている……というより、ボクの説明が不味かったか」

 

「大丈夫だ遠藤寺。俺も治療に付き合うよ。大丈夫、お前は強い、依存症なんかには負けないよ」

 

 たった1人の親友だ。アルコール依存症でも、遠藤寺は遠藤寺だ。俺の大切な友達だ。

 

 俺は震える遠藤寺の右手を両手で握った。あー、スベスベするんじゃぁ~。

 

「むぅ……君の言葉は嬉しいし、心を打たれるが……違うんだ。少しややこしい事情でね」

 

「ややこしい?」

 

「ほら、君がダイエットを始めてから、毎日の日課だった2人の飲み歩きが無くなっただろう?」

 

 遠藤寺は酒が好きだ。洋酒日本酒ワイン焼酎……その嗜好は幅広い。

 俺はまあ、普通だ。大学生になって酒を飲み始めたが、ドハマリするほどではない。家では飲まないしな。

 ただ遠藤寺と飲むのは楽しい。仲のいい友達と酒が入って高揚した気分でどうでもいい話をするのがこんなに楽しいとは思わなかった。

 ほぼ毎日俺と遠藤寺は飲み歩いていたわけだが、俺がダイエットを始めてからその日課はストップしている。

 

「どうやら君と飲むのがボクにとって、思っていた以上に深い欲求になっていたらしくてね。3日君と飲んでいないだけで……これさ」

 

 握りしめた遠藤寺の右手が震える。いい感じの振動だ。マッサージとかに使えそう。いや、もっと他の部分……い、いかんいかん流石にそれは不謹慎だろ。タツミは悪い子! タツミは悪い子!

 

「つまり『タツミンとえんどりんなう~2軒目どうする?~酒、飲まずにはいられないッ~』禁断症状ってわけか」

 

「ボクたちの飲み歩きにそんな名前が付けられていたの、初めて知ったんだが……それにえんどりんってキミ……」

 

 しかし、こうなったら是が非でもダイエットを成功させないとな。

 もし実家に戻るとなったら、『タツミンとえんどりん以下略』も開催出来ない、つーか雪菜ちゃんが許すはずもない。

 仮に許すとしても『飲み歩き、ですか。ええ、いいですよ。ただし……肝臓だけで十分ですよね』とか最高(サイコ)な許可出しそう。 

 

「俺頑張るよ。『タツりんなう』をこれからも続けていく為にも……頑張ってる痩せる。雪菜ちゃんには負けない!」

 

「えんどりんって……えんどりん……フフフ、えんどりんか……」

 

「聞けよ」

 

 遠藤寺のどんな琴線に触れたのか、ニヤニヤ笑いながらえんどりんを繰り返す彼女を見て、マジでコイツ変わってるなと改めて思う俺だった。

 

 

■■■

 

 

「一ノ瀬後輩、何か嫌いな物はありますか?」

 

 授業が終わり、部室に遊びに行った俺に向かってデスパイ(デス子先輩の略)がそんな事を聞いてきた。死の乳ってお前……パッションリップな名前だなおい。

 

「何ですかいきなり」

 

「あー、実はその。ワタシに妹がいることは以前話したと思うのデスが」

 

 つーか電話で会話したけどな。名前は忘れたけど、デス子先輩とは違って元気全開の声のデカい子だったな。

 

「で、その妹が一ノ瀬後輩の嫌いな物を聞きたい、と」

 

「何で?」

 

「彼女が言うには、その……えー……」

 

 デス子先輩は口をモゴモゴさせ、目の前の水晶玉を落ち着きなく撫で始めた。

 

「言い辛いことなんですか?」

 

「いや、言い辛いというか、誤解を与えてしまうというか。彼女はワタシと一ノ瀬後輩の仲を少し勘違いしているようで……その、将来の……」

 

「将来の?」

 

「義理の兄に……あぅ……」

 

 先輩の手が更に加速し、水晶玉が磨かれていく。

 

「えー、まあ何と言いますか……デスから将来の為に知っておきたいと、ええ……出来たら察してほしいのデスが……ワタシの口からはこれ以上……ね?」

 

 ピカピカに磨かれた水晶に映る先輩の顔が赤い。

 そういう察するスキルって俺、あんまり鍛えてないんだよね。よく分からんが、これ以上先輩から聞き出せる情報はないようだ。

 よく分からないが、先輩の妹ちゃんが俺の嫌いな物を探ってる、それだけだ。

 別に知られても問題ない情報だし、いいか。

 

 ……しかし、これどっかで聞いた話だな。

 

「嫌いな物ですよね、んー」

 

 今までの人生で生まれた嫌いな物を頭に浮かべる。嫌いな物はいっぱいあった。

 俺には好きな物と同じくらい、嫌いな物がある。好きな物が増える度に、嫌いな物も増えていったような気がする。逆もまた同じく。

 

 好きな物を頭に浮かべるのは楽しい。

 エリザが作ってくれる美味しいご飯、笑顔、いい匂いのする髪、ひんやりとした体。 

 いつも元気な大家さん、ときおり浮かべる可愛らしくも意地の悪い笑顔、明け透けなやさしさ。

 遠藤寺、デス子先輩、美咲ちゃん、近所の小学生、雪菜ちゃん。

 

『え、妾は?』

 

 嫌いな物を頭に浮かべると、胸が鬱々する。

 例えば中学校。眼が背けたくなるほど痛い色、鮮烈な日々。煮詰まった泥の様な息苦しい教室、悪意でしかコミニケーションをとってこないクラスメイト。転校生の彼女。初めて好きになった女の子。告白。罠。逃避。

 例えば高校。灰色の日々、誰とも接しない教室、止まった時間の中で進む時間という矛盾、動かない心、今はまだ後悔の実感はないがきっともっと年をとってから恐ろしく後悔するだろう喪失。タイムマシンが発明されない限り、埋めようがない空白。

 こんなのばっかりだ。全く嫌になる。

 消してしまいたい人生の一部。でも消すには長すぎる時間。そんな長い時間を無駄にしてしまった。その事を考える度に、喪失感が心を苛む。喪失感は冷たい。心が冷えていく。

 

 心が冷え込むと不思議と体も冷えていく気がする。よくない傾向だ。

 

「……ん?」

 

 ふと、頭に何か暖かいものが乗っているのを感じた。

 

「あ、えっと……あはは……」

 

 先輩がテーブルを乗り越えるようにして、俺の頭に手を乗せていた。

 暖かい。頭に乗っているはずなのに、心が温かくなる。

 

「先輩どうしたんですか急に」

 

「えっと、分かんないけど、こうしたくなって……えへへ」

 

「はぁ」

 

 よく分からないが、俺から言わせてもらうとしたら……え、何この役得イベント。

 先輩に頭を撫でられるのもサイコーだけどさ。胸がさ……目の前にあるんだ。

 左手で俺の頭を撫でて、右手をテーブルに置いて体を支えてるからさ……胸がギュッと寄ってんの。

 マジで目と鼻の先に胸があるの。映画の最前席とかそんなもんじゃねー、ライブをステージの上で鑑賞しているようなリアル感。

 

「よいしょ、と」

 

 そんな時間が終わってしまった。あまりにも急なイベントだったので、脳内保存も間に合わなかった。

 突発イベントはマジ勘弁してほしい。クソ運営マジクソ。詫び石プリーズ。

 

「んんっ、んっん。えーと、はい」

 

 席に座り直した先輩が、わざとらしく咳をする。

 

「今の行為ですが……えー、はい」

 

「はい」

 

「その……一ノ瀬君の顔を見てたら、うん。……はい」

 

「はい」

 

「……」

 

「はい」

 

「……察してください」

 

 また出たよ! 人生ってどんだけ察するスキル必要なんだよ! スキル本とかどっかに落ちてないかな。

 

「えっと、嫌いな物ですよね」

 

「ごめんね。聞いといてなんだけど、やっぱりいいよ」

 

「いや別にいいですよ」

 

「でも……」

 

 さっきはちょっとバッドな気分になったけど、今は大丈夫だ。

 

 嫌いな物、嫌いな物……うーん。

 やっぱアレかね。

 

「パンですね」

 

「なるほどパン。……パン?」

 

「パン」

 

 はい、みたいなトーンで言った。

 

「え、パンってあのパン?」

 

「そのパンですね」

 

「『パンはパンでも食べられないパンは?』のパン?」

 

「愛と勇気だけが友達のあのパンです」

 

「小麦粉やライ麦粉などに水、酵母、塩などを加えて作った生地を発酵させた後に焼いた……あの?」

 

「ええ、多分それです」

 

「『膨らませるもの』と『膨らませないもの』とに大きく分けられ、膨らませないパンは『平焼きパン』『無発酵パン』『種無しパン』などと呼ばれ、中東からインドにかけての地域で盛んに食べられている。膨らませるものは、「酵母を使って発酵させるもの」、「種を使って発酵させるもの」、「発酵させず膨張剤を使うもの(クイックブレッド)」の3種に分けられる。もっとも一般的なものは酵母を使って発酵させる小麦のパンである。……あの?」

 

 先輩詳しいな。wikipediaから丸まるコピったような知識だ。

 

「えっと……冗談とかじゃなくて?」

 

「普通にマジです」

 

「な、何で? 美味しいよねパン」

 

 何でかと聞かれれば、まあ食わず嫌いである。あまり見たくない部類に入る。

 見ていると鬱々してしまうのだ。やっぱり米だよね。日本人は米食えよ米! お米食べろよ!

 

「そ、そうなんだ……パンが嫌いなんだ。うん、覚えとくね」

 

「焼きたてだと特に。……先輩はパン好きなんですね」

 

 そういえば先輩、いつもハンバーガーとかパンとか食べてる気がする。

 ていうかそれを踏まえて気づいたけど、部屋の隅にある謎の機械……魔改造し過ぎて黒魔術的な道具かと思ったてたけど……ただのトースターだわ。

 待てよ……先輩の私物入れに見た感じヤベー白い粉あったけど……小麦粉だ! 

 作ってんの? ここで?

 

「え、まあ……普通かな。基本朝はパンだよね。お昼もパン。夜は……まあ、パンかな。大学の近くの商店街にね『ピーターとパン』ってパン屋さんあるでしょ? あそこのね、クリームパンが本当に、ほんとーに美味しいの! クリームがトロットロで、いい感じの甘さでそれも中にたっぷり詰まってて! 思い出すだけで……もう、笑顔になっちゃう。幸せ、そう幸せになるの。何ていうか光……暖かい太陽の日差しの下でお昼寝する、みたいな。ふふふ……そのくらい幸せ。はぁ……帰りにもう1個買っちゃお……」

 

「……」

 

 俺は黙ってスマホのビデオアプリを立ち上げた。

 

「そこね、カレーパンも美味しいの。でもカレーパンが一番美味しいのは……駅前の『パンジャドラム』だよね、やっぱり! あのカレーパンになる為に生まれたとしか思えないカレーがジューシーで香ばしくて、普通に食べても美味しいんだけど、トースターでちょっとだけ焦げ目が付くまで焼くと……はぁ……生きてるっていいよね」

 

 ニッコニコな先輩の表情をアップで撮り続ける。

 テンションの上がった先輩は、椅子から立ち上がり、部室内を歩きながら高揚した口調でつづけた。

 

「あんぱん! あんぱんの話する? あんぱんはねー、同率1位が4つもあるの。『パンドラム』『マザーパンネル』『カワパンガ

!』『パンなるパンタジー10号店』……は移転して『パンなるパンタジー10-2号店』になったんだっけ。で!」

 

「はい」

 

「で! ……あ。うあぁ……」

 

 ざんねん。せんぱいはしょうきにもどってしまった。

 

 顔を覆い、スススっという動きで、椅子に戻る先輩。そしていつものポーズ。

 

「……さて、どこまで話したデスか?」

 

 口調が雑。

 

「パンなるパンタジーの話です」

 

「いや、その……ちがくて。さっきのは……あれデス! 憑依デス! な、何者かに憑依されてしまったようデス! デスがはい! 今先ほど魔眼の力を使って、ディスペルしました! お、おのれぇ……敵め!」

 

「敵って誰です?」

 

「へ? えっと……この手口は、お、恐らく……カオス四天王の1人……闇のダーク、いやブラック……あっ。そう! 執行者NO,12『操る蒼黒のトゥエルブ』に違いないデス!」

 

 途中で設定変えたな……つーか、その敵、どっかで聞いたことあるぞ。

 

「フフン、離れて相手を操ることしか出来ない卑怯者め……」

 

 そのセリフあれだ。執行者NO.3の『業炎のサーディス』だ。

 つーか俺が書いた『黒の軌跡』ネタ丸パクリしてやがる。

 

「というわけで先ほどのワタシの言葉や振る舞いは全て操られての行いデス。よろしいデスか?」

 

「光とか太陽の下でお昼寝とか、生きてるのが幸せとか言ってましたしね」

 

「え、えぇ……普段のワタシからは考えられない発言……お の れ ト ゥ エ ル ブ !」

 

 はたして先輩はトゥエルブに復讐することが出来るのか。

 何の罪もないトゥエルブの運命は。

 実はトゥエルブの事が好きで素直になれないサーディス(裏設定)の恋の行方は!

 13人いる執行者の半分以上が主人公に寝返っている組織の運営は!

 

 全ては黒ノ軌跡のみが知っている――

 

 

 

■■■

 

 

 翌日、いつも通りのタスクをこなして、いつも使っている靴箱を開けた俺。

 

「……オイオイ」

 

 パンツが入っていた。

 人生何が起こるか分からな過ぎて頭がおかしくなりそうだ。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

タイトルという概念を持ち込んだ本人だった。……ハイお疲れ! これにて面倒くさいタイトル編おしまい! 次回からはパロディ全開の誰でも分かるタイトルをお送りします、

 

 ――下駄箱を開けるとそこにはパンツがあった。

 

 まるで雪のように白く、穢れの無い、純白のパンツが。

 下駄箱の狭い空間を押し広げるように、眩い光を放ち鎮座している。

 今にも名作文化小説が始まりそうなら導入だが、残念ながら始まるのは俺、一ノ瀬辰巳の平凡な日常だ。

 

 果たしてこれは一体どういうことなのか。 

 何が一体どうなったら、俺の下駄箱に女性物の下着が詰まっているという事象が発生するのか。

 下駄箱がどこかの女の子の下着入れと繋がってしまったのか。

 もしくは俺の下駄箱は、女性物の下着を生み出す魔法の下駄箱に変異してしまったのか。

 はたまた新しいSCPが生まれてしまったのか。

 

 取り合えず俺は、この下駄箱を開けた時まで記憶を遡ることにした。

 話は10分ほど前に遡る。

 

 

 

■■■

 

 

『残り――1日』

 

『とうとう明日ですね兄さん』

 

『明日の18時。学校帰りに迎えに行きます』

 

『無いとは思いますが、逃げるなんて無駄なことをして時間を浪費することはしないように』

 

『別に逃げても構いませんが、その場合本来想定していた、優しい連れ帰り方は出来ませんので』

 

『ロープで体を縛り、口と目を塞ぎ、唯一自由な耳に向かって今日までの兄さんの不摂生を優しく罵りながら帰る……そんな優しく甘い連れ帰り方は出来ません』

 

『もし逃げたら知り合いのラグビーのむさ苦しい方たちにお願いして、兄さんをラグビーボールのように扱いながら連れて帰ってもらいます。彼らは常々言っています……ラグビーボールは恋人、と。私の方から手足の2、3本は無くなってもまあ最悪構わないと伝えますので』

 

『ああ、いけませんね。こんな事を言ってしまうと兄さんの事だからワザと逃げてしまうかも』

 

『ええ、きっとそうに違いないです。だって兄さんですもの。変態を拗らせきった兄さん……本当に、妹として恥ずかしい』

 

『そんな恥ずかしい兄さんを真人間に戻す為、これからとっても苦労するでしょうけど……妹ですから、仕方ないです。ええ、本当に。妹だから、妹の私だけは兄さんを見捨てることは出来ませんから』

 

『仕方ない兄さん、本当に……ふふふ』

 

『そういえば明日の夕飯について、もしかすると兄さんは久しぶりに実家に帰ったことで何かご馳走でもを振舞われると思っているかもしれませんね。だとしたら愚か、とても愚かです。愚かな兄さん……愚兄……兄さんは愚か……うふふ』

 

『私が兄さんの為にわざわざ料理に時間をかけるとでも思っているのですか?』

 

『兄さんなんて、昨日の残り物の――鯖の味噌煮で十分です。鯖の味噌煮、ごはん、お味噌汁、ほうれんそうのお浸し、茄子のお漬物、そういえばデザートに梨のタルトがありましたね。……兄さん如き、これだけで十分でしょう?』

 

『ふふふ……携帯電話越しに、兄さんの絶望した表情が見えます……』

 

『言っておきますが、これからは1人で暮らしていた時の様に、好きな物を好きな時に食べることなんて好き勝手は許しません』

 

『朝食、昼食、3時のおやつ、夕食、そして試験前の夜食……全て私が用意したものを食べてもらいます』

 

『私の管理した生活の下で、完璧で健全な生活を過ごして頂きます』

 

『恨むなら自らの不養生を恨むことです』

 

『今夜はせいぜいそちらでの最後の晩餐を楽しむといいでしょう』

 

『では明日。楽しみにしています。早いですがおやすみなさい、兄さん。わずかな時間ですが息災を』

 

 

■■■

 

 例によって朝起床したタイミングでスマホが雪菜ちゃんからのメールをお知らせした。

 いつにも増してロングかつテンション高めな雪菜ちゃんのメールを受け取り、最後の1日が始まった。

 全体的にメールの内容が物騒だ。内容はまあ雪菜ちゃんだからしょうがないとしても、せめてもっと文章に絵文字を使うとかさ! 読んでる人のストレスを和らげるような心遣いをして欲しい。実際唯一の読者である俺の胃は、ストレスでポコポコ穴が空いて平安京エイリアン状態だ。

 

 さて、泣いても笑っても明日がエックスデーだ。

 明日、結果を出さなければ、俺はバックトゥザ実家になってしまう。part2もpart3もない。最初で最後のバックトゥホームだ。

 実家に帰ってしまえば、あとはもう雪菜ちゃんが支配するディストピアライフだ。雪菜ちゃんが白といえば、カラスだって白くなる。彼女が緑といえば、マ〇オだって緑になってしまう。そんな生活が待っている。想像するだけで楽し……恐ろしい……。

 

 といっても、今日は特別な事をするつもりはない。

 これまで通りの生活を続けるだけだ。今更足掻いたって事態が好転するとは思えないしな。

 

 というわけで、例によって早起きをし、ジョギングをしてから学校に向かった。

 ジョギング中に美咲ちゃんが明らかに異常を来たしていたのだが、昨日の出来事が原因だろう。その時の様子についてはまた、別の機械に。

 

 学校に到着し、いつも使っている下駄箱を開ける。

 

「ん? 何だこれ……ンモー、最悪」

 

 下駄箱の中には、くしゃくしゃに丸まった白い物体が入っていた。

 恐らくはビニール袋、ゴミだ。

 

「どうしてこういう事するかなぁ」

 

 恐らくどこかの誰かが、ゴミ箱に捨てるのが面倒だからって適当に突っ込んだんだろう。

 世の中、こういう事しちゃうヤツがいるんだ。こういう事するヤツってマジで何考えてんのか分からん。止めてる自転車のカゴにゴミ突っ込んだり、缶捨てるゴミ箱に生ごみ突っ込んだり、人の傘パクったりな。

 もし俺が魔王だったら、そんなモラルの欠如した愚かな人間の行いを見続けて遂に覚醒、インスタント感覚で世界を滅ぼしていただろう。生き残るのは正しいモラルを持った人間、あとモラルは欠如しているけどそれを補っても可愛い美少女。魔王たる我の仕事はモラルの欠如した美少女たちの調教。やれやれ、魔王も大変だわ。大変な魔王に何とか補正金プリーズ。

 

「全く……」

 

 溜息を吐きながら、ビニール袋を取り出す。

 

「んん?」

 

 ビニールのツヤツヤした触感ではなく、どこか布めいた触感だった。

 布っぽい手触りのビニール袋? 何だそりゃ? あれか? 最近の高級志向の流れで高級なビニール袋でも作ったのか? デパートとかで売ってるう〇い棒とかポ〇ッキーの高級版みたいな?

 使い捨てのビニール袋に金かけるとか……物質社会も極まってるな……。そんな社会に対して魔王フラグ+1追加で。

 

「ほーん」

 

 広げてみる。

 不思議なことに、自然と逆三角の形になった。そして穴が3つある。

 少し大きめの穴が1つ、そしてそれより小さな穴が2つ。

 これじゃ、中に何かを入れても別の穴から出てしまうだろう。ゴミ袋の体を為していない。

 もしかすると、この物体はゴミ袋として生まれたのではないのかもしれない。

 

「ふむ……ふむふむ……」

 

 穴を覗く。もう1つの穴から下駄箱が見えた。

 裏返してみる。裏側の生地はどこかお肌に優しいような気がした。ハァ……クロッチクロッチ!

 少し伸す。ある程度の伸縮性を確認した。

 くしゃくしゃに丸めて手の上で弾ませる。あまり弾まないが、不思議と心は弾んだ。

 穴に手を通してみる。いい具合に肘のサポーターに使えそうだ。

 折り畳んで鶴を折ってみる……が失敗。

 フリフリ振ってみる。不思議といい匂いが振り撒かれた。そして温かい。あと白旗に使えそう。バッフ・ク〇ン相手に振ったら、1人残らず殲滅されそう。

 

「なるほど、なるほど……」

 

 以上の結果を鑑みるに、これはビニール袋ではなく――

 

 

「パンツだな」

 

 

 そういうことになった。

 純白のパンツ。

 パンティー、ショーツ、ズロース、インナーボトム、下穿き……呼び方は色々あるけど、要するに下着だ。個人的にズロースって呼び方が結構好き。オーラバトラーみたいで強そう。

 

 そんな物が俺がいつも使っている下駄箱の中に入っていたわけだが。

 

「そうか……そうかぁ……パンツかぁ……」

 

 改めて、手の中にあるパンツを広げてみる。何だかうっとりする。

 逆三角形のそれは、薄暗い下駄箱の下にあって、どこか輝いているように見えた。

 

 さて。

 さてだ。

 

 何で俺の下駄箱にパンツが入っているのか、その理由は……今はそんな事はどうでもいい、重要じゃない。

 問題は……このパンツの持ち主だ。

 

 この女性物のパンツが、本当に女性の物だったら問題はない。みんな幸せになる。俺、あなた、みんな達。全員含めてハッピーマテリアル☆!

 だが女装趣味のオッサンの物だったりしたら……マジで笑えない。今すぐ999式久遠棺封縛獄を発動し、永遠に密封する。密封したそれはセントラルドグマの底でしっかり封印。2度と日の目を見られなくしてやる。序も破もQも永久に訪れない。

 

「ふーむ」

 

 これが女の子の物か、そうでないかを調べるには、もっと詳細なデータが必要だ。

 今のところ、触感と視覚、軽度の嗅覚でプロファイリングしたが……分かったのは、まだ温かく、脱いだばかりだろうという事だけ。

 つまりこれは脱ぎたてのパンツだ。

 布地に一切の劣化がない事からほぼ新品のパンツであることも伺える。

 どうやら脱ぎたてであると同時に卸し立てでもあるらしい。

 犯人の行動原理は不明だが、下駄箱の前で新品のパンツを履いて、それを脱いで温かいうちに俺の下駄箱にぶち込んだらしい。

 

「分からんな……」

 

 いや、理由はいい。今は持ち主だ。

 これ以上持ち主の詳細なデータを取る為には、他の感覚に働いてもらうしかない。

 残るは聴覚と味覚、そして本気の嗅覚。あと直感である第六感(シックスセンス)だ。

 直感は間違いなくこれが女子の物であると告げているが、それはただの希望的観測だ。女の子のだったら素敵だなぁという願望が働いている。あとオッサンが履いた物に触れまくったとか、認めたくないって気持ちも。

 

 味覚と嗅覚を駆使すれば、確実にこれが女子の物か否かを見極めることが出来るのだけど……流石にここではリスクが高い。

 何せ早朝とはいえ、いつ他の生徒が来てもおかしくはない場所だ。

 いくらこのパンツの贈り主……もとい、犯人を突き止める為の致し方ない行為だとしても、目撃されるのはよろしくない。下手をすれば通報、最低でも『パンツ男』の汚名(人によっては名誉)を頂戴することになる。

 

 だったらどうするか。

 そう、パンツを愛でるときは誰にも邪魔されず、自由でなんというか救われなきゃダメなんだ。ひとりで静かで豊かで……

 そうなると場所は……トイレだろうな。トイレで事に及ぶべきだろう。

 1人で事を為すのはトイレで……これは昔から決まっている。〇ナニーマスター黒沢然り。

 

「よぅし……」

 

 そうだ。それがいい。それが最も正しい。この場の最適解だ。

 理性がそう告げる。

 

 

 だが――理性よりも深い部分、本能の言い分は違った。

 

 

『パンツがも゛ったいだいっ(ドン!!!)』

 

 と。

 本能がそう叫んでいた。

 

 パンツというものには鮮度があります、昔の英雄がそう言っていた。

 手の中にある『これ』は現在進行形で、その鮮度を失いつつある。

 ほんのり感じていた温かさも失われ、いずれは命が消えた肉体のように冷たくなってしまうだろう。 

 匂いだってそうだ。下駄箱の湿った空気にリアルタイムで汚染されている。

 真にこのパンツを愛でるとするなら、今しかない。後じゃダメなんだ。時間が経ってしまうとこの『パンツ』は『パンツだった布』になってしまう。『パンツ』と『パンツだった布』は別物だ。全くの別物になってしまう。パンツを真にパンツたらしめるのは持ち主の名残。それが無くなってしまえばただの布なのだ。

 

 そう、もったいない。もったいないのだ。そんなもったいないことをせず、今すぐ調べるべきだナウ!

 

 本能が喚く。

 確証もない直感に従い、誰かに見られるリスクを負ってでも、この場で新鮮な匂いを嗅ぎ、味を調べる。調べ尽くす。そうしろと言う。

 だがそれはどうしようもない蛮行だ。理性の無い獣と同じだ。後先考えない獣は駆逐される。いつの時代だってそれは同じ。

 

「……」

 

 だが……それでも、人がどうしても獣になる時はあるのだと思う。

 理性を放棄し社会的制裁を無視してでも、獣の自分に身を委ねてしまうべき時があるのだ。

 それが今だ。目の前にある神々しいパンツはそれを推進させる、抗えないカリスマめいた光を発していた。

 

「……やるしかないか」

 

 俺は本能に従うことにした。この場においては、理性より本能が優先されるべきだと判断したのだ。

 やってやる。俺は決意で満たされた。

 

 幸い周りには誂えたように誰もいない。だから大丈夫だ。かるーくハスハスして、すこーしペロペロするだけだ。

 先っちょだけ、先っちょだけだから大丈夫。セーフセーフ、ノーカンだって! ノーカンノーカン! 何がノーカンなのかよく分からんけど。

 

「……ゴクリ」

 

 パンツを顔の前に掲げる。

 どこから行こうか。パンツ、下から行くか? 横から行くか?

 ここは……やはり正面からだろう。背後からの奇襲も挟撃もこの場においては不要だ。猪の如く正面からぶつかる。だって俺は獣だから。

 

「行くぞ……」

 

 ではパンツ愛好家の皆さん、獣になりましょう!

 俺はこの世において済ませる、ありとあらゆる覚悟を済ませた。

 

 飛び込み台からプールに飛び込む面持ちで、パンツに、ダイブ(飛ぶ込む)――

 

 

 

「ふぅん」

 

 

 

 寸前、背後から聞こえた何者かの声に何奴!と振り返った。

 

「ふむ、何をコソコソしているかと思えば……いや、朝から興味深いものを目撃できたよ」

 

 ――遠藤寺がいた。

 

 我が親友こと、遠藤寺さんがそこにいたのだ。

 いつもの表情で、いつものリボンを揺らし、いつものゴスロリファッションで、ジッと俺を見ていたのだ。

 正確には、今にも手に握ったパンツに顔を埋めようとしている俺を見ていた。

 

「なん……だと……」

 

 アア、オワッタ……!

 

 はいお疲れ、おしまい、さよなら。

 

 俺の人生、ここでガメオベラだ。コンティニューもないし、リセットもできない。

 あとはただ1人の親友から『変態パンツ男』と罵られるだけの人生が待っている。それが勝ち組なのか、負け組なのか、今に俺には分からない。だが遠藤寺は間違いなく、俺と距離を置くだろう。唯一の親友を失い、消化試合の様に残りの大学生活(3年間)を過ごす日々が待っているのだ。想像するだけでつらたんでーす。

 

「いや、これは、その……違うんだ遠藤寺!」

 

 何が違うのか分からないが、口からは自然と言い訳が出てしまう。

 サスペンスとかで探偵に追い詰められた犯人が惨めに言い訳するシーンを見て「往生際悪いなぁ、さっさと認めろや」とか思ってたけど、出ちゃうわ、惨めな言い訳。犯人側の立場になって、ようやく彼らの気持ちが分かった。だって認めたくないもん。たとえ事実でも認めたくないもん。認めたら心が折れちゃうもん。心が折れたら、そこで人生終了だもの。

 

「何が違うんだい?」

 

 遠藤寺はいつものような口調で問いかけてきた。それが一層恐怖を掻き立てる。

 彼女の胸中を想像するだけで、絶望の種子が芽吹く芽吹く。この種子が花に変わる時、俺はマインドクラッシュされた海馬社長みたいに廃人になってしまうだろう。

 

「それは、その……えっと……アレだ。ほら分かるだろ? あの、その……なあ? ……ウフフフ!」

 

 言い訳が思いつかな過ぎて何だか笑えてきた。

 この境地、同じような立場に陥った者しか分からないだろう。マジでどうしようも無くて笑えて来る。

 

「何だい?」

 

 遠藤寺が優しく声をかけてくる。

 もう限界だ。この状況に耐えられない。

 いっそのこと詰って欲しい。『変態だな』とか『度し難い……』『2度とボクの前に現れないでくれるかな』『紅く美しく死ね』『アリーヴェデルチ!』とか! 何だったら問答無用にZAPZAPしてくれても構わない。

 そしたら俺は涙を流して許しを請えるのに。許すも許されなくても納得はできるのに……。

 

「ふむ。当ててみようか」

 

 遠藤寺は無慈悲にもそんな事を宣った。

 

 ああ、晒されてしまう。俺の蛮行が、惨めで情けない変態的行為が……白日の下に。

 でも……これでいいのかもしれない。親友に罪を糾弾されることで、俺はようやく自分の為した過ちを認められるだろう。

 認めたことで、新しい人生を歩む許可を貰えるのかもしれないな、

 

「推理するに……うん。朝、君が登校すると、いつも使っている下駄箱にそれ、誰かの下着が入っていた。そうだね」

 

「はい、そうですお巡りさん……」

 

 今まで誰かを追及する遠藤寺を見ていたが、自分が対象になるとは思わなかった。 

 だけど……実際なってみると、どこか清々しい。

 

「ボクは探偵だよ。……君は持ち主を特定しようとして、その下着の匂いを嗅ごうとした。そうだね?」

 

「その通りです。何なら味も見ておこうと思いました」

 

 罪という布を暴かれた俺はもはやパンツ1枚のほぼ全裸状態。こうなったら自分で残りの罪(ぬの)を脱ぎ捨ててやるぜ!

 

「パンツに顔を埋め、深呼吸をして、何なら軽くイートインする気でした……」

 

「ほう、それはそれは……」

 

「そのあと持って帰って、煮出して豚肉に包んで……いや、とても人には言えない罪深いことをしようとしました……」

 

「そうかそうか……」

 

 遠藤寺が全てわかっていたように満足そうに頷く。

 ハイこれにて一件落着、大岡裁き、QED、じっちゃんの顔にかけて。

 

「はぁ……ふふっ」

 

 自らの罪を搾りかすまで告白した俺の心はとても晴れやかだった。まる新しいパンツを履いたばかりの正月元旦の朝のように、スゲーッ爽やかな気分だ。生まれ変わるってのはこういう気持ちなのかもしれない。

 

 うーん、自白ってなんだか気持ちいいな! 自分の罪を自ら相手に見せつけるって行為がある意味露出行為と一緒だからか? このまま癖になっちゃって、わざと罪を犯して即座に自白する究極に罪深いマッチポンプをシュコシュコしちゃいそう。

 

 さて、罪を告白’(ゲロ)したし、あとやることは一つだけ。

 

 俺は顔を伏せ、両手を遠藤寺に差出した。

 

「ん? この手はなんだい?」

 

 ふん、しらばっくれやがって。

 探偵と犯人、ここまで来たらあとはED(スタッフロール)まで一直線だ。物悲し気なBGMと共に手錠を掛けられパトカーにイン! 夕日をバックに刑務所にまっすぐゴーだぜ!

 さあ、探偵(えんどうじ)さん。後は任せるよ……。知り合いの警察に引き渡しておくれ。

 できればあの巨乳アニメ声の刑事さんでシクヨロ。取り調べの時の飯は、ドンカツじゃなくて鯖の味噌煮ドンでよろしく! ……今唐突に思いついたんだけど、最近の飯漫画ブームに乗って『取り調べ飯漫画』とか描いたらワンチャンあるかも……ダンジョン飯や将棋飯、グラップラー飯があるんだし、当たってしまえばあとは野となれ山となれ……!

 

「しかし君がねぇ。いやいや……フフフ。嬉しいものだね」

 

 顔を上げると、遠藤寺がクスクス微笑んでいた。

 何コイツ? 何で喜んでんの? 犯人とはいえ、元親友の罪を暴いて愉悦を感じちゃってんの? 信じらんねぇ……とんだサイコパスだな!

 

「君にも探偵助手としての心構えが出来てきたようで何よりだよ」

 

「え?」

 

「そう。犯人を追い詰める為の証拠を見つけたら、素早く確保・収容。保護。生きた証拠の鮮度が失われないように、速やかにありとあらゆる感覚を用いて、残された痕跡を調べる。――素晴らしい。常々キミに語っていた心構えが、しっかり根付いていたようで、ボクは安心だよ」

 

「は、はぁ……」

 

「その調子で頼むよ。将来キミには、ボクが開く探偵事務所でボクの右腕に……っとと。これはまだ内緒だった。聞かなかったことにしてくれ。シークレットな情報というやつだ。いいかい?」

 

 何だかよく分からんが褒められてる? 流れ変わった?

 俺の罪、無かったことになった流れ? マジカル恩赦?

 

「しかし、まだ君には荷が重いだろう。その心構えが見れただけで十分だ。さ、あとはボクに任せたまえ」

 

 そう言うと遠藤寺は前作主人公のオーラを発しつつ、俺の手からパンツを掠め取った。

 いきなりの行動に「僕のだぞッ!」とぶち切れそうになったが、続く遠藤寺の度し難い行動にキャンセルしてしまった。

 

「スゥ……ふむ、なるほど。ペロッ……よし」

 

 遠藤寺はノータイムでパンツに顔を埋め、匂いを嗅ぎ、味を調べたのだ。

 ゴスロリの女がパンツに顔を埋める非現実的な光景を見て「あ、これ夢だわ。早く目を覚まさないと」と自分の頬を抓ったが、ところがどっこい夢じゃありません……! これが現実……!

 唯一の友人が起こした信じられない光景にドン引きしつつも、真っ赤な舌をパンツに這わせる遠藤寺を見て、今まで感じたことのないタイプのドキドキを覚えた。これジャンル的にはどういう性癖になんの? pixi〇で検索したけど見つからなかったんだ。誰か教えて。教えた上で分かりやすくイラストに起こしてくらさい。

 

「少し時間が経ったからか、8割ほどしか情報を採取出来なったけど……まあ、これで十分だろう」

 

「え。情報って何の?」

 

「もちろん犯人のさ。キミだって犯人を見つける為に、あんな事をしていたんだろ? 君の下駄箱に下着を入れた犯人……それを追及しようとしていたんだろう?」

 

 ……あーはいはい。そういう、そういう事ね。

 

 良かった、遠藤寺が普通の女の子じゃなくてよかった。遠藤寺が変人でこんなに嬉しかったことはない。

 普通の女の子だったら、間違いなく通報か、それでなくても周りに言いふらすだろうしな。

 

「俺……遠藤寺が遠藤寺でよかったよ」

 

「意味が分からないけど……褒められてると受け取っていいのかい?」

 

「おう。で犯人は? あ、一応聞いとくけど……女性で、いいんだよな?」

 

「ん? そうだが。そもそも女性物の下着なんだから、そこは女性で間違いないだろう?」

 

 えんどりんってば結構ピュアガールなのね。世の中には好んで女性物の下着を履く男もいるのよ。

 そういえば……商店街にそっち系のパブがあったな。今度遠藤寺を連れていくか。反応が楽しみだなぁ。コウノトリを信じている可愛い女のコに 無修正のポルノをつきつける時を想像する様な下卑た快感を今にも覚えそう……。

 

 遠藤寺は下着を片手に続ける。

 

「間違いなくこの下着の持ち主は女性だ。年齢は16~18、活発で細かい事を気にしない大雑把な性格なようだ。ふむ、比較的汗かきな体質のようだね。学生で、スポーツ系の部活に所属しているみたいだ」

 

「ちょっとクンペロ(クンクンペロペロ)しただけで、そんなに分かるもんなのか……」

 

「探偵だからね」

 

 自慢げに優しく微笑む遠藤寺。

 探偵って凄い。改めてそう思った。つーかもはや特殊能力の域に達している。ハンター〇ハンターでこんな念能力持ちのやついたような……。

 

「あとはそうだね。勉強はあまり得意ではないようだ。テストはいつも赤点で補修の常連者のようだ」

 

「そんな事も分かるのか……」

 

「好きな食べ物はパン。いつも遅刻ギリギリで食パンを咥えながら登校するのが日課だ」

 

「えぇ……」

 

「家族構成は、母、父、年の近い姉の4人」

 

 ちょっと怖くなってきた。俺はいつ、パンドラ(開けてはいけない)の箱を開けてしまったんだろうか。世界はいつだってこんなはずじゃない事ばっかりだよ。

 

「もう少し証拠の鮮度が高かったら、世帯年収と各テレビ局の平均視聴率まで分かったんだが……今、分かるのはこれくらいかな」

 

 何でパンツから、それだけの情報を手に入れられるのか、サッパリ分からん。

 分からんが……遠藤寺が言っているからにはマジな情報なんだろう。

 探偵ほんと凄い、最強すぎるだろ……。この力を本気で有効活用すれば、リアルに世界征服も出来るんじゃないか。情報を制する物は世界を制するって言う(say)し……。

 

 さて、遠藤寺のおかげで犯人のプロファイリングがかなり進んだが……肝心な部分を聞いていない。

 

「なあ遠藤寺よ。その、犯人の女の子の……顔はどうなんだ?」

 

 ここマジで重要。

 例え守備範囲の広い俺でも、限界はある。鵜堂〇衛みたいな顔だったら、流石にごめんなさいしちゃう。大鎌の鎌〇ちゃんだったら全然オッケー☆ そこんとこ、どうなのか私気になります!

 

「顔? 顔はそうだね……ふむ」

 

 うーん、緊張する。もし新垣〇衣(〇ッキー)みたいな女の子だったらどうしよう……お礼の手紙(ファンレター)とか書かないと。

 なんなら恋ダンスも練習して送っちゃう!

 

 果たして――

 

「顔は……申し訳ないけど、分からないな」

 

「んでだよ!?」

 

 そこまで情報搾り取っといて、容姿だけは分からんとかどういう事だよ!

 

「常識的に考えて、下着から持ち主の容姿を特定することなんて出来るわけないだろう?」

 

 遠藤寺の口から常識って言葉が出て来るとは思わなかった。

 確かに真っ当な事を言っているのだが、真っ当に受け取れない。コイツマジで言ってんのか?

 遠藤寺を観察してみる。

 

「君の力になれなくて、本当に申し訳ない。……これからはもっと精進したいと思うよ。……すまない」

 

 本当に申し訳なさそうな表情でそんなことを言う遠藤寺。

 そんな風な態度をとられたら、これ以上追及するのは不可能だ。

 

 まあ……いいさ。

 犯人は現場に戻ってくるって言うしな。この下駄箱を使い続けている限り、いつかこのパンツの持ち主にも遭遇できるはず。

 彼女が美少女なのか、またはそうでないのか……それはその時、確かめてみればいい。

 

 そして俺が彼女にパンツを渡した時の対応によって世界はルート分岐をするのだ。

 

 Law(ロー)ルート。

 「これ、君のパンツだよね。返すよ」そんな言葉から始まるピュアラブストーリー。パンツという1枚の布から始まった俺たちの交流はまるで白いパンツのように清純かつ山も谷もない平坦なイベントを経て、進んでいく。染みという名の悪意ある出来事はないけれど、ゆっくり自分たちのスピードで愛を育んでいく。白いパンツで始まった物語は、いずれ真っ白なウエディングドレスで幕を閉める――そんなラブストーリー。映画化におススメ! タイトル? 『君のパンツが食べたい』とかでいいんじゃないの?

 

 山なし谷なしの悪く言えば平坦なお話が嫌いな貴方には――Chaos(カオス)ルート。

 「これ、君のパンツだよね。返すよ」そんなどこがで聞いた言葉で始まるが次の言葉で少女の顔は絶望に染まる。「でも条件がある。ほら、分かるだろう? 君が人の下駄箱に自分の下着を入れる変態だってこと、家族や学校のみんなに知られたくないだろ? ……ククク、ならどうすればいいか……察してくれよ」闇に満ち満ちた言葉の数々。そのあとはジェットコースターのようにノンストップで駆け抜けていく物語……ただし、レールは闇の底へ向かうだけの下り坂、どこまでも、どこまでも堕ちていく。ストッパーたる登場人物は登場しない。欲望の沼に嵌まり込んだ俺たちを待っているのは、先の見えなない暗い未来だけ。白いパンツのように穢れの無い彼女の心は、次第に汚れていき――ハイ、映画化決定! タイトル? 『パンツがむきだし』とかでいいんじゃないの?

 

 君はどっちが見たい?

 

『フム、妾的には……両方見たいの。あと、妾が想像するに、そのどちらでもない――中立(ニュートラル)ルート、あるんじゃろ?』

 

 流石シルバちゃんオメガ高い! わがままハイスペックなボディの持ち主だけあって、性格もわがままだネ!

 ん? シルバちゃん、わがままボディ……何か思い出しそう。最近、そんな人と会ったような……。

 

 とにかく俺の素敵なルート開拓の為、このパンツはちゃんと保持しておこないと。

 

 まだ調べたりないのか、パンツを裏返したり伸ばしたりしている遠藤寺に向かって手を差し出した。

 

「ん? どうかしたのかい?」

 

 パンツ返せってことだよ。言わせんな恥ずかしい。

 察しのいい遠藤寺は、俺が何も言わなくても気づいてくれたようで「ああ、そういうことか」と頷いた。

 そして差し出した俺の手に、ブツを乗せた。

 

 チャリンチャリン。

 

 ブツ――俺は150円をてにいれた。

 

「なにこれ?」

 

「喉が渇いたんだろう? これでジュースでも飲むといい。出来れば500mlのジュースにして欲しい。ボクも少し喉が渇いていてね」

 

 遠藤寺とによるジュースのシェアリング希望。文字だけでワクワクしてくるそんな誘惑を断ち切って、150円を返却した。

 今は関節キッスよりパンツだ。関節キッスなんて、これ以降の飲み会とかでいくらでもチャンスがある……!

 

「おや、違うのか。ふむ……」

 

 遠藤寺はジッと俺の右手を観察した。

 そして何を思ったのか、グーにした自分の拳を俺の手にポンと乗せてきた。

 

 暫く無言で俺の顔を見つめた後、少し戸惑いがちに言葉を放つ、

 

「……わん?」

 

 「こうかな?」と首を傾げながら、犬の鳴き真似をする遠藤寺。

 何を思ってお手をしたのか分からない。遠藤寺の思考は凡人の俺には理解できない。

 理解出来ないが……これだけは分かる。唐突に犬の真似をして、実はちょっと恥ずかしがってるっぽい遠藤寺の表情……イイネ! 

 

「……少しふざけてみたんだから、何か反応して欲しい。流石に無反応は恥ずかしいんだが。――待て、写真を撮るのはやめろ」

 

「いや、待ち受けにするだけだから」

 

「そうか。ならいい……なんて、言うわけないだろう! ――全く、油断も隙も無いな」

 

 スマホをしまうフリをして、無音カメラでパシャリ。やった『お手をして恥ずかしがる遠藤寺』ゲット! 待ち受けにしよっと。

 

「つーか、それ返して」

 

 いい加減、話が進まないので直接訴える。

 

「それって、この下着のことかい? なぜ?」

 

 なぜってお前さん、それは謎の美少女(だったらいいな)犯人とのフラグを立てる為の神器だからだよ。

 何てことは言えないので、しどろもどろと説明する。

 

「いや、ほら……犯人を追い詰めるための重要な証拠だし、俺が責任を持って保管しておかないと」

 

「そういう事ならボクに任せておくといい。証拠品の取り扱いは心得ている。いずれあるだろう犯人との対決の時の為にも、しっかり管理しておくよ」

 

「ぐぬぅ……」

 

 このままじゃ、大切な神器が遠藤寺に奪われてしまう。

 さっきから俺の本能が「小娘からパンツを取り戻せ!」とうるさい。分かってるっつーの。だったら具体的に奪還案を提案しろっつーの! ほら、何も浮かばない。

 しかし……どうすればいいんだ。どれだけ考えても遠藤寺からパンツを取り上げる方法が浮かばない。

 

 強引に奪う……無理だ。遠藤寺お得意のバリツで、スポーンと転がされる。ここだけの話、遠藤寺のバリツって、こう……ちょっと癖になるんだよね。相手が俺だからか知らないけど、いい具合に加減をしてくれて、受け身をとる時間も十分に確保できて……倒された後にこちらを見下ろしてくる遠藤寺の顔をまじまじと眺めることが出来て……まあ、これ一種のレクリエーションだよね。出来たら1日1回はこなしときたいよね。

 

 ひたすら返して欲しいと訴える……選択肢としてはありかもしれない。遠藤寺は押しに弱いところがあるし。強引に押し切れば返してもらえるかもしれない。……だが遠藤寺の事だから、あの優れた洞察力で俺の目論見を看破する可能性がある。

 

 だったら女性のパンツが無いと死んでしまう持病があることにする……うん、現実的じゃない、まず頭の病気を心配されるな。ひょっとしたら遠藤寺が自分のパンツをくれる可能性も無いとは言えないけど、試すにはリスクが高すぎる。人生ローリスクアスカターンをモットーにしている俺としては避けたい。

 

 くそう、この世界がファンタジーなら、スティールでワンチャンあるのに……今からジャンル変更するか?

 ドカ〇ン、タ〇ヤ、ター〇ゃん、リボ〇ン……ジャンル変更の先人たちを参考にすればなんとか……。

 

 この状況から異世界物に推移させるにはどうすればいいか考えていると、遠藤寺が懐から真空パックを取り出し、パンツを収納してしまった。

 ああ……フラグが……俺のフラグが折れてしまった……。

 

「これでよし、と。さぁ、そろそろ教室に行こうか」

 

「はい……」

 

 さよなら、パンツの君……。

 俺は彼女にサヨナラをして、教室に向かった。

 人はこうやって色々な物を失って大人になっていくのかもしれない。

 

 

■■■

 

 

 とある女子高のとある部室。

 

「へくしゅっ」

 

 1人の少女がくしゃみをした。

 くしゃみをした少女に向かって近づいていく別の少女。白髪で華奢な、重篤な病に侵されているとしか思えないほど生気がない少女だ。

 生気の無い、しかし不思議と地に足が付いた足取りで近づいていく。

 

「……どうした美咲よ。風邪か?」

 

「あ、お疲れ様です時田先輩っ! 風邪? 風邪は引いたことないので大丈夫だと思います!」

 

 生気の無い少女の視線が、快活な少女の下半身に向かう。

 

「そうか……ならいい。ところで……胴着に下着のラインが出ていないように見えるのだが……」

 

「おっす! 履いてません!」

 

「……」

 

 思いのほか元気な返事に、眩暈を覚える時田。

 

「……なぜ履いていない」

 

「敵に」

 

「敵?」

 

「はい敵です。敵にくれてやりました、オス!」

 

 眩暈は更に強くなり、壁に寄り掛かる時田。

 何を言っているんだこの後輩は……そんな思いが胸中を支配する。

 

「敵……そうか、敵か。なぜ敵に下着をくれてやった? その……敵に塩を送る、そういった具合の話か?」

 

「え? 塩? どうして敵に塩を送るんですか?」

 

「……ゴホッ」

 

 虚脱感に襲われ、その場に座り込む時田。

 懸命に息を整える。

 

「下着をくれてやった理由は……?」

 

「敵の弱点だからです! オッス!」

 

「……」

 

「履き立てのパンツに滅法弱いと! 信頼できる筋からの情報です! オッスオッス!」

 

「そうか……こふっこふっ」

 

 この後輩は一体何と戦っているのだろうか……そう思う時田であったが、深入りすると面倒臭いことになりそうなので、そのまま畳に寝転がって眠ることにした。

 

「時田先輩おやすみですか! お布団いりますか!?」

 

「頼む……ふぁぁ」

 

 時田と呼ばれた少女は青白い顔のまま畳に寝転がった。

 そうしていると、後輩が保健室から持ってきた掛布団をかぶせて来る。

 

「お疲れ様ですっ」

 

「うむ、この世はなべて事も無し……」

 

 いつもの掛布団をいつも通り被せられ布団に潜り込み、少女は眠りについた。

 世界がどうあっても、自分は一切の影響を受けない。

 そう唱えて、彼女は自分の世界に潜り込むのだった。

 

「えへへっ、あとは辰巳先輩に任せるだけだし……」 

 

 そう言って少女は自らの世界に没頭する。

 少女の行先が凶と出るか、吉と出るか……それは誰にも分からない。

 いずれ来るその時まで、ただ傍観するしかないのだ……。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

でもパロディ系のサブタイトルってちょっと逃げた感があるんだよな……やっぱりやめようかな

 

 ――プリズンブレイカー辰巳、前回までのあらすじ!

 

 体に彫ったたタトゥー(シール)を何やかんや利用し、遂に雪菜ちゃん監獄を脱出(ブレイク)した俺。

 だがそれは雪菜ちゃんの功名な罠だった。

 脱出したと思い、安堵の表情を浮かべる俺の前に、蕩けるような笑みを浮かべる監獄長――雪菜ちゃんが現れる。

 全ては彼女の計算尽くだった。

 俺は彼女の手のひらの上で泳ぐ1匹の魚だったのだ。

 監獄を脱出する為に試行錯誤したあらゆる策――例えば若本ボイスのティー〇ッグとかいう囚人に俺の(尻)バックを貸したのも、調達屋にリタヘイワースのポスターを頼んだのも、過去にタイムトラベルして両手に鉛筆をぶっ刺したのも、あれれぇ?たつみぃのカイチューとまっちゃったのも、あれもこれもそれも……全て雪菜ちゃんの策の内だった。

 驚愕の事実を知って、心が折れかける俺……だが、それでも雪菜ちゃんが知らないだろう最後の一手がまだあった。

 俺は最後の切り札を彼女に突きつける――そう、あれは彼女が小学3年生の頃、まだ今の様に氷の女王と呼ばれていない年相応の幼い少女であったあの頃――母親が町内会の温泉旅行で不在であり2人きりで怖い映画を見たその後の深夜、おもむろに彼女は眠る俺を起こし涙を拭いながら大好きな熊ちゃん人形を抱き締めていて『兄さん、ひ、一人じゃ怖いからおトイレに――』

 

 ん? あれ、これ違うあらすじだな。

 はー、混線(シャッフル)混線(シャッフル)。

 

 本当のあらすじはこっちか。 

 

 自分の下駄箱に入ってたどこぞの美少女のパンツ(注:肌着。美少女が履いた(だろうだけの)物を指す)を遠藤寺にまんまと奪われた俺。

 お の れ 遠 藤 寺 ! !

 憤りつつ、今日の講義は全部一緒だし、どうにかその間に奪い返すチャンスを虎視眈々と狙っていたが……

 

「……」

 

 講義中、ずっと遠藤寺がこっちを見て来る。

 講義の始まりから終わりまで、ずっとずっとこっちを見ている。メトメガアウーとかいうレベルじゃない。机に肘をついてグーにした左拳に頬を乗せてこっちを見ている。結構間にバーのカウンターに2人並んで座った時を思い出す。あの時もジッとこっちを見てたっけ。

 ちょっとした隙に奪い返そうとか思ってたけど、こんなに見られてちゃムリのムリムリ!

 

「……♪」

 

 めちゃくちゃ見てるよー! あっち向いてよー!

 

 つーか何なん? 俺の顔に何かついてるのか? あれか? 額に竜の紋章でも出てんのか? もしくは十字傷?

 それか俺の目論見に気づいて、監視してんのか?

 心の中までまるっとお見通しの探偵とか最強すぎるだろ……むしろ番組としてはつまらんわ。

 

「……ふふ」

 

 そして俺の顔を見ながらたまにクスリと笑う。意味が分からん。

 1限、2限と何とか我慢できたが、耐えられたのはそこまでで、とうとう3限目の途中に降参してしまった。

 講義中に小さく両手を挙げる。降参だ。

 

「さっきから何なん?」

 

 講師に聞こえないように、小さな声で遠藤寺に語り掛ける。

 

「ん?」

 

「いや『ん?』じゃないよ。さっきからずっと俺のことジッとみてただろ(因縁)」

 

 ここで実は俺を見ていたわけではなく、俺の向こうにある窓から空を見ていただけさ……なんて恥ずかしい勘違いだったら、恥ずかしさのあまり顔から火が出るタイプの能力者としてアベンジャーズもしくはチアフルーツの一員になって、世界の平和を守る業務に取り組みまーす。担当果物? ……ドラゴンフルーツとか? 火だけに。

 

 俺の質問に遠藤寺は少し照れたように(ここ重要)笑って答えた。

 

「ああ、すまないね。ほら、なんだ、今日の講義は特に退屈だろう? レジュメ通りに進めているだけで、何も面白味もないし得るものもない。だから気が付いたら君の顔を見てしまっている。授業を聞くより、君の顔を見ていた方がが何倍も有意義だからね」

 

 講師が聞いたらプンスコしそうな発言をしつつ、今も遠藤寺の手はノートの上を滑っていた。講義を見てはいないが、講義自体は聞いているらしい。いわゆるマルチタスクというやつか。テ〇アナ・ランスターさんが得意なやつだ。誰? パンツめくれぇぇ!の人だよ。

 流石は遠藤寺。属性『両刀使い』なだけある。

 

 しかし――

 

「……俺の顔なんか見て楽しいか?」

 

「ああ、楽しいとも。とてもね。見ているとあっという間に時間が過ぎる。まるで何度読み返しても飽きない名作小説のようさ。まったく……不思議だね」

 

 不思議だね、じゃねーよ。人の顔を小説代わりに使ってんじゃねーよ。全く不思議……まったくふしぎ……M(まったく)F(ふしぎ)……MF文庫? リ〇ロ様とかノゲ〇ラ殿とか変態猫やらアリア(実はアスト〇ノトの方が好き)、今ヒモ(つよい)、ギャルゴ!!!!!(一番好き)の出版会社様じゃねーか! 訴えられたら即負けM(マゾ)F(〇ァック)確定じゃねーか。

 やべーな、今の内に謝っとこ。ぺこりこぺこりこ。

 

「ふん」

 

 そっちがその気なら、いいぜ。俺だって見ちゃうもんね! 見つけるってことは見つめられる覚悟があるってことだろ? 深淵を見つめるとき、深淵もまたこちらを覗いてるんだぜ?

 ジー(ジッパーを開ける音じゃなくて、見つめる音ね)

 きめ細かい遠ちゃんのすべすべお肌を穴が開くほど(トンネル効果的な意味で)見ちゃう! ……しかしコイツ、マジで肌綺麗だな。しかも柔軟剤使ってるレベルで柔らかそう。触るまでもなくモチモチしてて、この時期の高齢者の方が見たら問答無用で喉詰案件だな……。この場合、誰か責任とるんだ? 行政? 

 

「……ふふ」

 

 スーパーマンだったら光線が出るレベルで見つめる俺に対して、余裕の笑みを浮かべる遠藤寺。

 効いてないだと……! ははーん、さては『視線耐性』スキル持ちか。探偵には必須スキルよね。

 クッ、このままでは負けてしまう!

 

 

『お主は一体何と戦っとるんじゃ……』 

 

 

 分からん! 分からんが、意地があるんだ、男には! 

 負ける……ものかぁぁぁ!(アルベ〇ン流最終奥義っぽく) 

 あ、でも見つめるのってやっぱり恥ずかしい……。

 

「……っ」

 

「おや、うっすら顔が赤くなったね。どうかしたのかい?」

 

 面白そうにクスクス笑う遠藤寺。

 だって恥ずかしいもん! 改めて遠藤寺の顔見ると……可愛いもの! 造形が整い過ぎてるんだもの! マジで同じ人間なのか? 同じ染色体を保有してるとは思えんな……。俺らが保有するXY染色体以外に新たにZ染色体とか持っててもおかしくない……! 美を司る系の神様がきっといい事があってハッスルしちゃったんだろう。転生者ガチャで当たりでも引いたのか? マ〇サツグ様とか。そのハッスルを少しでも俺に分けてくれてばなぁ……俺もなぁ。

 

 だがここで顔を背ければ何か負けた気がするので、恥ずかしさをSATUGAIしつつ、MITUME返す。

 

「……ふふふ」

 

 くそっ、余裕ぶりやがって……!

 だが、まだだ……まだ終わらんよ!(終わるフラグ)

 授業そっちのけで、遠藤寺を見つめ続ける。今なら街中でメンチビームをぶつけ合うヤンキーたちの気持ちが分かる。目を逸らした瞬間、魂が敗北するのだ。敗北した魂ほど情けないものはない。そんな魂を抱えて生きているくらいなら死んだほうがましなのだ。

 だから死ぬ気で見つめ続ける。魂が『もう無理ッス! 諦めて白旗あげましょう! 腕が! 腕が動かないんです!!』と泣き言を喚き散らす。うっせ! お前のせいで4は駄作扱いされてんだよ!発売日に買って特典のソウルイーターストラップ貰ってニヤニヤした俺に謝れ!(言い過ぎ) 6が出たら他の真の紋章とか出て、ビッキーの謎も解けて後ついでに紋章おばさんの謎も解けたんだよ畜生! ティアクライスとか紡時とかどうでもいいんだよ! ラプソディアは許す! 3の公式コミックはクオリティ高いけど値段もちょっと高くて学生にはキツかった! ナッシュとシエラの二次創作はおおむねクオリティが高いんだよなぁ……! ……ふぅ。

 

「……ぐぬぬ」

 

 見つめ合って素直にお喋り出来ない時間がどれくらい経っただろうあ。

 余裕ぶっている遠藤寺の表情だが、よくよく見ると――汗が浮かんでいた。小さな、とても小さな汗だ。

 だがその小さな汗は、俺にとっては大きな汗だ(何言ってんだコイツ) この汗がヤツの牙城を崩すカギだ。

 さらに見つめ続ける。

 

「……むぅ」

 

 遠藤寺がふいに下唇を噛んだ。

 何かを堪えるかのように。これは……まさか。効いてるのか? うん効いてるよ!

 更に追撃のビッグヴァイパー!

 すると……何ということでしょう。

 

「……うぅ」

 

 遠藤寺の顔が薄っすらと赤くなった。

 水面に赤い絵の具を一滴垂らすかの如く――

 

「君……いくら何でもそんなに見つめられたら……流石のボクも少しその……照れる」 

 

 とモゴモゴ言いながらうつむく遠藤寺。

 やった! 勝ったぞ!  

 いや、引き分けか? でも負けではない。そう負けではないのだ。勝ちでもないけどね。

 ここまで真剣に見つめあっていたら、勝ちとか負けとかどうでもいいわ。

 

「全く、やれやれ……もうこんな時間だ。今日は君と顔を突っつき合わせていただけだったね。まあ……そういう日があっても悪くはない、か」

 

「え?」

 

 時計を見る。既に本日最後の講義が終盤に差し掛かっていた。

 へー、遠藤寺の言う通りだ。ただ顔見てただけなのに、あっという間に時間が過ぎてった。多分これが相対性理論ってやつだな。アインたん(説明するまでもないけど、アインシュタインの略)の先見パネーな。

 つーか今日の講義、全く一切これっぽちも1ミリも聞いてない。近代国家のGNPがどうとか言ってたけど……GNPってなんだっけ? OOガンダムのアレとは違うか。頑張(G)ったら何枚(N)パンツ(P)食べられるかの略か? まあ、大家さんのパンツだったらお湯に通せばスルッツルンと行けちゃいますわな。エンドレスに。あれ……でも着物の下って下着を履かないんだよな……つまり大家さんに関していえばGNPは0? いや、Pがパンツじゃなくてパイだとしたら? 大家さんのパイ……大パイ……小さいのに大パイ……はー、GNPって奥が深い。

 

「では今日の講義は……ここまでとする」

 

「……あれぇ?」

 

 講師の声がホールに響く。

 授業全部終わったわ。隙を見つけるチャンス無くなったわ。パンツ奪還作戦失敗だわ。

 遠藤寺と見つめあって、この国のGNPをプチ考えてただけで1日が終わったわ。クッソ無意味な1日だったなオイ。まあ、大学生ってはこんなもんか。

 俺がポケーっとしていると、遠藤寺はテキパキとノートやら筆記用具を片付けていた。

 

「さて、ボクは用事があるから先に帰るよ。じゃあ、明日は頑張って。朗報を期待してるよ」

 

「明日?」

 

「何だい呆けた顔をして。明日はダイエットの最終日なんだろう? その結果如何で、君の今後の進退が決まる重要な日だろうに」

 

 遠藤寺は呆れたように笑いながら、そんな事を言った。

 

 そうだ。パンツで頭がいっぱいだったけど、明日が最後の日だった。

 指定時間までに規定体重まで減量してないと、雪菜ちゃんが派遣するむくつけきラガーマンズによってボールみたいな扱いをされつつ実家に連れ戻されるのだ。

 文章だけ見てたら、ウチの妹完全にヤベー奴だな。割と昔からだけど。

 

「ボクも酒飲み相手がいなくなるのは非常に惜しいからね。せいぜい頑張ってくれたまえ。帰りに買い食いなんてするんじゃにぞ? ……まあ、君が今日までダイエット頑張っていたのはボクがよく知っている。きっと大丈夫だろうさ、多分ね、フフッ」

 

「多分てお前」

 

「ん? ……多分、か。多分、ね。……こんな曖昧な言葉、探偵として生きてきて初めて使ったよ」

 

 何がおかしいのか片手で口を押さえながらクスクス笑う。

 ちゃっかり板書していた俺の分のノートを置いて、遠藤寺はテペテペ帰っていった。

 

「俺も帰るか」

 

 今日はさっさと帰ろう。

 もしかすると今日がエリザと過ごす最後の日になるかもしれないからな。

 

 

■■■

 

 

 夕暮れの眩しさに少し目を細めながら、現在在住のアパート『一二三荘』に到着。

 もしかすると今日がこのアパートで過ごす最後の日かもしれない。

 そう思うと何だかこの当たり前の光景がとても眩しくなって、尊いものに思ってしまう。

 

「ただいま一二三荘……そして――」

 

 万感の想いを込めつつ、門柱に挨拶をする。

 アパートの門を通ってすぐ、側の茂みから何かの気配を感じた。

 

 ――何奴!?

 

 

「ニャァーン。うにゃーん、ゴローニャーン」

 

 

 茂みから鳴き声が聞こえる。

 

「何だ猫か」 

 

 この鳴き声……間違いなくイカ、もとい猫だ。

 それもこんな聞いてるだけで頬がトロトロに緩んじゃう可愛らしい鳴き声……さぞ可愛さに特化した極振り猫さんだろう。

 ぜひとも愛でたい。愛ですぎて猫ちゃんが『愛ーでー(Mayday)! 愛ーでー(Mayday)!! ワレ愛ーでー(Mayday)!!!』とか助けを呼んじゃうくらい過剰に愛でたい(新年最初のの目出度いギャグ)

 

「うにゃーん、にゃぁん、ごろなー、ふなぁー」

 

「出ておいでー猫ちゃーん」

 

「まーお、まーお、くにゃーん」

 

 なかなか出てこないな。

 さっさと出てきて俺に撫でられてばいいものを。

 

「ほら、プシッ! プシ!」

 

 こうすれば猫はイチコロだって、吉影さんが言ってた。

 

「ふにゃぁ……んなぁ~」

 

 どっかで聞いた鳴き声だな。主に四層で。

 

「にゃぁにゃぁ……にゅ、にゃ……はっぴぃにゅうにゃあ」

 

「調子に乗っちゃダメーwww――ん?」

 

「あ」

 

「……」

 

 コイツ、本当に猫か? 怪しいな……。

 

「……おい」

 

「にゃ……にゃあ! あにゃにゃあにゃにゃんあにゃあにゃにゃん」

 

 で、出たーwww頬に思った事が出る可愛奴www

 この元ネタ知ってる人、どんだけいんだろ。

 つーかコイツ、絶対獣畜生じゃねーわ。

 

「ちょっと。そこに隠れてる怪しいやつ。出てこいや」

 

「にゃ、にゃーん?」

 

「にゃーんじゃないし。本当に猫か?」

 

「猫です、よろしくお願いします」

 

 何だ、やっぱり猫だったのか。

 

「つーか、もういいですよ。大家さん、早く出てきてくださいよ」

 

 草むらに向かって声を放つ。

 暫くしてから、何かが飛び出してきた。

 

 

「――かわいい猫ちゃんだと思いました? 残念! 大家さんでした!」

 

 

 実はここだけの話最初から気づいていたが、やっぱりやせいのおおやさんがとびだしてきた!

 どうしますか?

 

 ゲットする

 捕まえる

 ⇒ハイエースする

 ワンピースする

 

 ですよねー。お持ち帰りー♪して愛でたいですよねー。色んなところにタッチしたいよねー・

 でもね、それやっちゃうとポリスメンがカミングスーンなんですよね……世知辛いよね……。

 この時代、パイタッチすんのと法にタッチはすんのは同じ意味なんすよ……とてもかなしい……。

 

「そんなところに隠れて、何やってんすか大家さん」

 

「モチのロン! 一ノ瀬さんのお出迎えですよー。えへへ、どうです猫(ニャンコ)ちゃんの真似、似てましたかニャ? にゃにゃん?」

 

 猫ちゃんのポーズをとりつつ、首を傾げる大家さん、もとい大家にゃん。

 似てるか似てないかで言ったらまあ……可愛すぎて患ってもいない猫アレルギーが発症するレベルで似てましたわ。

 両腕を使いつつ、片足をぴょこんと上げ(ちょっと和服の裾がめくれ上がってる)、ウインクしてる猫ポーズはwikiの代表画像にしてもいいと思う。だよな?

 

「猫真似上手いっすね、大家さん」

 

「にゃははー。だろうでしょー、新年会忘年会の一発芸はこれで乗り切りましたからねー。いやぁ、サークルの先輩がねー、いっつも突然無茶振りしてきてもー大変だったんですよー」

 

 俺の胸元にテシテシ猫パンチをしながらそんな事を言う大家さん。

 新年会……忘年会……サークルの先輩……いやいや、大家さんは年齢不詳……年齢不詳のロリ……シュレティンガー歳……間違っても成人とかの枠に囚われてないんだ……。

 

 しかし実際、大家さんの猫真似は超上手かった。

 いやぁ、いい物まねを見せてもらいましたわ。今夜はこれをオカズにハッスルするかぁ。

 ホッホッホ……いやいやいや……

 

「じゃ、大家さんお疲れ様でーす」

 

「はい! お疲れ様です――一ノ瀬さぁぁぁぁん!?」

 

 

 猫ポーズの大家さんの横を通り過ぎようとした俺だったが、猫並みの反射神経で腰辺りに飛びつかれ、動きが止まってしまった。

 

「な、何すか大家さん! なに!? 何男ですか!」

 

「次女ですぅぅぅ! ……じゃなくて!」

 

 早く帰って幽霊少女との最後の晩餐(仮)を過ごしたい俺に対して、腰にしがみつきながらも引きずられ地面にズリズリ線を描く大家さん。

 

「つーれーなーいー! つれないですよ一ノ瀬さぁん!」

 

「はぁ?」

 

「こうして久しぶりに顔を合わせたのに! RPG風に言うならエンカウントしたのに! つれないじゃないですかぁ! もっとお喋りしましょうよぉ……! うぅ……最近、通学時間を変えたからか、全然会えないのに……」

 

 ホロホロと涙(ちょっとワザとらしい)を流しながらそんな事を言う大家さん。

 

「いや、この間も会ったばっかり……」

 

 いや……そういえば、あの時はアレか。徹夜続きで頭のおかしい大家さんが俺のことを一ノ瀬ファントムさんとかいう頭おかしい呼び方で勘違いしてたんだっけ。

 そう考えると、普通に大家さんと会うのは久しぶりだな。

 

「ふぐぐぅ……朝起きて、庭をお掃除しながら、寝坊して一限目、二限目をサボりつつ通学する一ノ瀬さんと下らなくも楽しいお話をするのが、私の楽しみだったのに……最近は全然会えなくて、やっと今日会えてウキウキして封印した猫ちゃんの物まねまでして出迎えたのに……うぅ……。年齢も近くて、趣味も合う一ノ瀬さんとのお話が私のふわふわタイムだったのに……ぐすん、あぁクスンクスン――チラッ――ああ寂しいグスンクスン、一ノ瀬さんが相手してくれなくてとても悲しいなぁ……チラッ、チラチラッ」

 

 大家さん……俺とのクッソ下らない雑談にそこまで喜びを感じてくれていたなんて……。

 嬉しすぎる~~! おおやさん、すき~~~!!!

 と思う一方、少し面倒くさいなこの人……と思う俺であった。さっきから袖で顔を隠しつつ、こっちをチラチラ見てるから、ウソ泣きだって丸分かり。

 俺は早く帰ってエリザとの週一度の映画観賞会を楽しみたいんだよ……今日は近所の麦わら小学生に勧められたオススメ映画『メタルマン』を見るんだよ! そういえばレンタルした時、定員さんが『本当に申し訳ない……』って顔だったんだけど何でだろ……。

 

「ごめんなさい。この後ちょっと用事が……」

 

「あぁ……せっかく、一ノ瀬さんにご馳走しようと手作りのおはぎをたーんと用意してたのに……」

 

「ほら、さっさと行きますよ大家さん」

 

 手のひらクルノ瀬と呼ばれても構わない。だってよ、大家さんの手作りおはぎなんだぜ……。

 大家さんがこのちっちゃくてぷにぷにした手で、にぎにぎしたはぎはぎなんだぜ? 略してにぎはき。おおやさんがにぎにぎ、おおやさんにぎにぎ、おおやさんがにぎにぎしたおはぎ――おはぎ! そうか、おはぎの語源ってこんなところにあったのか。

 これは食べないとご先祖様に申し訳がないわ。

 

「くっくっく……その言葉を聞きたかったです! さあ、早く私のお部屋に行きましょう! この間お部屋に来てから、全然来てくれないんですから。私はいつでもウェルカムなのに。ま、いいです、さあさあ行きましょう」

 

 俺がポロっとこぼした言葉を聞いた大家さんはケロリと泣き止んで、今まで引きずられていたのが嘘のように、反対に俺を大家さんの部屋に引きずっていった。 

 先ほどまでの大家さんの様に、引きずられていく俺。

 ウーン、大家さんってば思っていた以外とパワフルなんだなー。

 そりゃこんな小さい体でアパートの掃除とか管理とかするんだし、体力も力もあるよなー。

 

「ふっふっふ……それにしてもチョロイ、チョロイですよ一ノ瀬さん。ちょっと泣くフリしただけでコロっと騙されちゃって……でもそういう所、可愛いかも……うふふ」

 

 ズリズリ俺を引きずりつつ、そんな事を呟く大家さん。聞こえてまーす。

 果たしてチョロインの男版はなんていうんだろうか。ヒーロー+チョロイだから――チョーロー? 長老、超漏……ウムム、早いとか遅いとかで人の価値を図るとかクソの所業だよね。などと思いつつ、大家さんの部屋に引きずる込まれる俺であった……。

 

■■■

 

「お邪魔しまーす」

 

 大家さんのお部屋にお邪魔する。

 俺の部屋と同く6畳間の部屋に入った瞬間、大家さんの匂いを感じた。まるで大家さんに包まれているような感覚。

 夏の日差しにサンサンと照らされスクスクと成長する向日葵の様なスメスメ(匂い)。うーん、めっちゃサマーホリデー。大家さん以上に夏という言葉が似合う婦女子はこの世に存在しない。この場で宣言しちゃう。

 

「ふぅー……」

 

 いや、いい空気いい香り。

 この大家さんの匂いが充満する部屋にいるだけで、2~3年は寿命は延びそうだ。

 あなた方の行く先に、いつも温かな空気(エア)がありますように……そんなパクリ感満載のセリフを送りたくなるほどこの部屋の空気は心地よい。うーん、住みた過ぎる~~!! いや、そこまでワガママは言わないから、せめて来世はこの部屋の畳に生まれ変わりたい。大家さんのおみ足で踏まれるだけの人生とか最高だろ、でも来世倍率高そう。今の内に勉強して備えとくか。

 

『お主はマジで一体何を言っとるんじゃ』

 

 今日も幻聴さんの声は可愛いなぁ。

 

「どぞ、どぞー。座っててくださいねー」

 

 大家さんに誘導されて、部屋の中心に置いてある卓袱台の前に座る。

 卓袱台の前にあぐらをかき、周りを眺める。

 大きめのクローゼット、テレビ、目の前の卓袱台、床には大家さんに毎日踏まれて羨ましい畳、廊下にはキッチン……一見すると普通の部屋だ。俺の部屋と同じ間取りの部屋。

 だが俺は知っている。

 本来壁があるはずの部分にある……扉。その先には大家さんの趣味である漫画が大量に蔵書されてある漫画部屋が存在する。更にその部屋にも扉があり、その先にはゲーム専用の部屋があるのだ。つまり大家さんは彼女の権限を使って三部屋をぶち抜いて自分の部屋にしているのだ。ぶっちゃけかなりの暴君である。暴君大家ちゃま。

 漫画部屋、ゲーム専用部屋……そんな風に分けて生活できるのは、大家さんか金持ちのボンボンくらいだ。

 俺だって実家にいくつものゲームやらマンガを置いてきた。でもこうして専用部屋があるなら、そこに保管できただろうなぁ……いやぁ、羨ましい。

 

 

「ん?」

 

 

 ふと、扉の向かいにある壁を見た。

 本来ならばただの壁があるはずの場所に……もう1枚扉があった。全く同じ扉(引き戸)が向い合せに存在していた。

 

「は?」

 

 

 ――扉は2つあったッ!!!

 

 

 見間違いかと思い目を擦る。

 だがこの間来た時には無かったはずの扉は、やはりそこにあった。

 なに、どういうこと?

 これもしかして俺にしか見えないタイプの扉? この眼鏡(シルバちゃん)の力で見えてたり? あれか、異世界につながってたりするのか。異世界にある食堂やら居酒屋、スローライフ満喫中主人公に繋がっててエルフやらドラゴンが働いてたりするのか。すげーな。これで俺もアニメ化か……出来たら声優さんはトム・クノレーズか、古河徹人さんであって欲しい。背景は劇団犬カレ〇さんでお願いしたい。

 

「ふっふっふ、流石一ノ瀬さん、気づいてしまいましたか……」

 

 大家さんがお茶が乗ったお盆を持ちながら入ってくる。

 視線は俺が見ている扉に向けて。

 そりゃ無かったはずの扉が現れたら気づくわ。

 

「あ、あの扉……前来た時無かったですよね?」

 

「そうですねー、無かったですねー、不思議ですねー、えへへー」

 

 何だか楽しそうに頭を左右に揺らしながら言う。

 めっちゃ聞いてほしそう。

 

「も、もしかして……」

 

「はいっ、もう1部屋作っちゃいました! ぱんぱかぱーん!」

 

 『家庭科の授業でクッキー☆を作っちゃいました!』みたいなトーンで衝撃の事実を打ち明ける大家さん。

 つまり、自分の部屋以外に三部屋を自分用に増築したってわけ? あれ、この人案外ヤバくね?

 

「マジっすか……って、あの部屋、人住んでましたよね!? あの、確か……アイドル志望の女の人が……」

 

「…………」

 

 俺の質問に、大家さんは笑顔のまま無言になった。

 怖い。

 確かにそうだ。大家さんの隣の部屋には、アイドルを目指していた女性……25歳メイド喫茶でバイトをしていた女の人(おっぱい小さい)がいたはず。たまに庭で踊ってたから覚えてる……! 内心『死霊の盆踊りかな?』と思ってしまったほど踊りのド下手な彼女がいた……いたのだ……!

 

「あの女の人、どこにやったんです……?」

 

「……勘のいい、一ノ瀬さんは……フフフ……」

 

「あわわ……」

 

 実写化の波がここまで……!

 錬金術の等価交換ってこういうことなの? 空き部屋とアイドルが等価交換とか修羅過ぎない?

 錬金術界隈(しゅらのくに)に驚愕する俺。

 

 だがどうやら、話は違うらしい。

 

「フフフ……そうなんですよぉ! お隣さん、今度デビューが決まって見事アイドルデビュー! 寮生活になったんですよぉ! いやー、自分の事みたいに嬉しいですよね! で、空き部屋になったし、嬉しさのテンションで隣の部屋も活用することにしちゃいました、えへへ」

 

 大家さんが両手を合わせながら微笑む。

 

 よかった……犬と融合したアイドルはいなかったのか……。

 いや、まあそれでも速攻で空き部屋を自分の趣味部屋にするのは正直どうかと思うけど……まあ、でも1部屋自由に出来るのは羨ましい。

 

「えっへっへ……あの部屋、何の部屋にしたと思います?」

 

 大家さんが楽しそうに頭を揺らしながら聞いてくる。

 漫画部屋、ゲーム部屋に続く第三の部屋か……。俺だったらどうするかなぁ……自分が好きにしていい部屋か……。

 うーん、考えるだけで妄想が捗るなぁ……。

 まあ、例えばだけどポリスメンの捜査能力がそこまで及ばないとしたら……大家さんか麦わらロリを捕まえて、ガチコスプレ撮影部屋にするわな(おさわり禁止)もしくは厳重に部屋を施錠して遠藤寺と一緒に監禁されて『キス(キスの定義は個人によって違うとする)しないと出られない部屋』にしちゃうとか……思い切って無人島っぽく改造して美咲ちゃんと無人島生活2泊3日を送るとか……はたまたデス子先輩と一緒に『この部屋の外は世界が滅亡してるけどどうするシチュ』をエンジョイして行けるところまで行っちゃう(アダイブ的に)とか……わぁ、俺ってイマジネーション豊か過ぎ! 妄想で取り締まられる世の中が来たら、間違いなくしょっぴかれてるな俺……。でもまだそういう世の中になってないから無罪! 無罪確定!

 

『その妄想を取り締まり抜き(ダイレクト)で聞かされてる妾の事をどうか、どうか慮ってほしい、よしなに』

 

 で、結局大家さんの『第三の部屋』が何に使われていたかというと……工作部屋だった。

 コスプレ衣装作ったり、プラモデル作ったり、『悪用するんじゃないぞー』みたいな道具を作っちゃう部屋だった。ガチの工作道具があって、ちょっと引いた。

 てっきり最近流行りのVR専用ルームとかだと思ってたから、壁に掛けてある呼び方も分からないような工具を見て、真顔になってしまった。

 

 でもこういう努力で、お風呂の壁の絵とかアパートの修繕してるんだなぁって思うと、大家さんスゲーなーって思う。

 でもやっぱり使ってない部屋の壁をぶち抜いてマイルームにするのはどうなんだろうなぁ……と思う俺だった……TTM(たつみ)

 

 

 

■■■

 

 

 

「さて、さて……えへへ……一ノ瀬さんが私の部屋に…久しぶり………えへへ……」

 

 何が嬉しいのか、大家さんはお盆を胸の前でギュッと抱えたままエヘヘと笑う。

 俺は普通の卓袱台の前に座りつつ、その笑顔を受け止めることしかできない。

 

 ――ぐ~

 

 ふと空腹の音が部屋に響く。

 この場にいるのは俺と大家さんなので、その2人のどちらかだ。

 どちらかが犯人か殺しあって判明する前に自白するが、犯人は俺だ。朝はエリザの朝食、昼もエリザの弁当……と召し上がったが、やはり夕方になると空腹を避けられない。辛うじてまだ成長期の俺だ。

 

「おっと、一ノ瀬さん。空いてますね~、うふふ、お腹空いちゃってますね~」

 

 両手を合わせつつ、笑顔で言う大家さん。

 おはぎが用意してあるのだろう。まあ、俺も一般的な成人男性だ。おやつにおはぎを食べた後、エリザが作る夕食を食べても特に問題ないだろう。

 故に大家さんの手作りおはぎ、いただきまーす!

 

「ではではお待たせしました――はい、おあがりよ!」

 

 暫くワクワクしながら待っていると、笑顔の大家さんが大皿を抱えながら台所から出てきた。

 

「どーぞ、私がはぎはぎした――おはぎでーす! おかわりもいっぱいありますよー!」」

 

 大家さんが抱える大皿を見る。

 彼女が背後にスっ転びそうな大きな皿には、やはり大きなおはぎが、大量に載っていた。

 卓袱台を半分隠すほどの大きな皿に大量のおはぎ。

 黒いおはぎはあんこで包まれている。黄金色のそれは、恐らくきなこだろう。

 そんなおはぎの群れがひしめきあうように、大皿に載っている。

 

 え、多くない……?

 

 ――食べる

 

 無論、食べる。このアパートを統べる大家さんが、てづから作ってくれたおはぎだ。

 当然、食べる。だが……ダイエット。

 

 そう、ダイエットだ。

 

 明日にはダイエットの成果、体重測定の結果が出て、その結果の如何によってはマイホームにバックトゥザホーム(物理)することになる。

 故に食べすぎはよくない……

 

「いただきます」

 

「どーぞ♪ たーんと召し上がってくださいね」

 

 食べすぎはよくないのだが……ニコニコしながらこちらを見る大家さんの期待は裏切れないし、おはぎから大家さん成分が飛ぶ前にペロリと行きたいしで、結局……全て食べてしまった。

 

「はわー、流石男の子ですねー」

 

「美味しかったです……けふ」

 

「えへへ、そう言ってもらえると作った甲斐がありますっ。では、第二弾行ってみますか」

 

 その後、すかさずおかわりを持ってきた大家さんに対して、流石にこれ以上食べるとヤバイと思った俺は逆に大家さんに食べさせて消費するという恐ろしいアイデアを生み出し実行。大家さんのお口に黒い物(おはぎ)を突っ込むという素晴らしくも淫靡なレクリエーションを堪能した。

 

「あーん……もぐもぐ。むぅ……おはぎを山ほど食べさせて一ノ瀬さんをぷっくり太らせようとしたのに……まあ、これはこれで嬉しいからいいですけど、えへへ」

 

 大量のおはぎという予想外のカロリーを摂取してしまったが、大家さんにおはぎを食べさせる行為が思っていた以上に緊張やら照れで心臓がドキドキ動きまくってカロリーを消費してるからきっとプラマイゼロだろう。

 

『なんじゃそのガバガバな理論は……』

 

 大家さんにおはぎを食べさせながら、下らなくも楽しい雑談をする。

 やっぱり楽しい。

 もし実家に帰ってしまったら、こんな楽しいこと出来なくなるんだよな。

 やだなー。ダイエット失敗したらどうしよう。

 こうなったら失敗したときのことも考えて、ラガーメンを返り討ちにする方法も一応考えとかないと。

 

「ほらほら一ノ瀬さん、なにぼんやりしてるんですか? 可愛い大家さんがお口を開けて次を待ってますよー、うふふ」

 

 取り合えず帰ってから考えるか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

次章からのタイトル案を募集します(他人にぶん投げ)

 大家さんとの素敵レクリエーションを終え、自分の部屋に帰る。

 部屋に帰ると、いつも通りエプロンを着けたエリザが、お玉を片手に迎えてくれた。

 

「お帰りなさい、辰巳君!」

 

 毎日こうやってエリザは笑顔で俺を迎えてくれる。

 最早、日常となった光景。恐らく、俺がエリザの事を視えるようになる前から、彼女はこうやって出迎えてくれていた。

 

「あ、お鍋が噴いちゃってるー!」

 

 パタパタと慌てて台所に戻っていく。

 日常だ。今日まで当たり前のようにあった日常風景。だが、もしかすると明日からは無くなるかもしれない光景。

 当たり前のようにある物が、無くなるかもしれない。

 その事実を改めて噛み締めると、どこか心の中が空寒い感覚に襲われた。

 

 

■■■

 

「えへへー、今日はどんなお話かなー?」

 

 夕食の支度を終えたエリザと一緒に、映画を見る。

 1週間に1度、映画を借りてきて2人で見る。この習慣はいつの間にか出来た。確か、意外とテレビっ子なエリザがテレビ放送された何かの続編映画(多分、某有名海賊映画。デップマジかっけえ。『シザーハンズ』のチョキチョキ最高ー!)を見ていて「前のも見てたら、もっと面白いのかなぁ」と呟いて俺がその前作をレンタルして一緒に見た時から始まった習慣だったと思う。いつも色々家事を頑張ってくれているエリザへの些細な恩返しの為に週1度、俺が近所のレンタルショップ(個人経営)で映画を借りてくる。基本的にエリザは何を見ても楽しむので、俺がその時の直感で映画を選んでいる。ただエリザ(と俺)は怖がりなのでホラー映画はノー。笑えるホラーはアリ(ゾンビランドとかキャビンとか)。あと幽霊が出て来る感動系の映画はエリザの琴線に触れるのかあいつマジでどん引きするほど大泣きするので避けてる。前に某有名な映画(ろくろで分かる人は分かる思う。アレ見てからエリザがama〇onでろくろのセットを買う買わないでめっちゃ悩んでた)見たときはワン〇ースの泣き顔かよって言うくらい大泣きして正直対応に困った。

 

 レンタルしてきたメ〇ルマンを見る。パッケージかから見るに、きっとアイアンマンのようなメカ系のヒーロー映画なんだろう。

 ある日メカ系のヒーロになってしまった主人公が手に入れた力に振り回されたり、力を持つ者の使命に目覚めたり、ベンおじさんがまた殺されたり、ライバルキャラと熱い死闘を繰り広げたりする映画なんだろう。うーん、楽しみ。

 

 86分の映画を見終わる。

 

「はー……すっごく面白かったね、辰巳君!」

 

「……うん、まあ……うん」

 

 ニコニコしながら感想を述べるエリザには悪いが、ハッキリ言ってクソ映画だった。誰が何と言おうとクソ映画に違いなかった。

 完全無欠のクソ映画だった……はずだ。だが、クソ映画特有の、鑑賞後に見てしまった事実全てを消去したくなるような後悔がない。人生における貴重な86分間を返して欲しいと思わない。不思議なことに。それどころか、劇中の印象的なセリフやシーンが頭の中をリフレインしている。無意識に再び再生ボタンを押してしまいそうにさえなってしまう。何だこの感覚は……ヤバイ……メ〇タルマンはヤバイ……路上の柔道並みにヤバイ何かを感じる……ある主の麻薬のような中毒性……そうメタみとでも言おうか、メタみを感じる……お、収まれ俺の心……amazonでDVDをポチろうとするな……うごごごご……うん、みんなもこの正体不明の感覚を味わいたかったら、ぜひメタルマンを見てね! 倍速とかすんなよ? 本当に申し訳ない。エイリアンVSアバターと恐怖!キノコ男もよろしく! エンジョイクソ映画ライフを! 責任はとらん。

 

「さて……と。お夕飯の仕上げ仕上げ……ふんふふーん♪」

 

 俺が今まで味わったことのない摩訶不思議な感情に溺れている間に、エリザは鼻歌を歌いながらテキパキと夕食の準備をしていた。

 台所からふわふわ漂ってくる、香ばしい夕食の匂い。

 それを楽しみながら、スマホを手に取る。雪菜ちゃんからのメールが届いていた。

 

「うーん、雪菜ちゃんからのメールかぁ……見なかったことにしたいなぁ」

 

 雪菜ちゃんからのメール……嫌な予感がする。

『期限は明日の正午といいましたが……やっぱり気が変わりました。私雪菜ちゃん――今、部屋の前にいます』とか嬉しくない都市伝説風(メリー)サプライズ演出をお知らせするメールだったらどうしよう。あの子、俺を怖がらせたり、驚かせたり、悲鳴をあげさせたり失禁させるの三度の飯より好きだからなぁ。でも、約束は守るタイプだし……うーん、何のメールだ?

 

「ん? 画像が添付されてる」

 

 何の画像だろうか。

 ふむ……期日前日に送ってくる画像……。雪菜ちゃんは家族の恥である俺をどうしても実家に連れ戻して管理したい思惑があるだろうし、それに関連した画像の可能性がある。俺が自ら自発的に実家に帰りたくなる画像。例えばそう……雪菜ちゃんのちょっとエッチな自撮り画像とか、有明の女王に扮したコスプレ画像とか、流行りが過ぎた童貞を〇すセーターを着た画像とかだとしたら? ……まあ、超特急で光やんって突っ込まれそうなスピードで帰宅するわな。でもあの雪菜ちゃんが俺に飴と鞭である所の飴をホイホイ与えるとは思えんが……でもやっぱり期待しちゃう!

 

「アバカムアバカム!」

 

 というわけでポチっとなと画像を開く。

 一瞬の読み込みの後、肌色率高めな画像が映し出された。

 

「おおおおおお!?」

 

 スマホの小さな画面いっぱいに映し出されるムチムチ半裸画像――ただしムチムチ(筋肉で)、ほぼ半裸(汗塗れのブーメランパンツ)の――むさ苦しい男勃ち(メンズ)の画像だ。

 

「ぐあああああああああ!?」

 

 突然現れたグロ画像に、思わず仰け反ってしまった。俺のスマホにヤバイ「画像」がIN!!!

 俺のメンタルに11連撃!! 8316イェーンのダメージ! やめて、俺のライフポイントはもうゼロよ!

 ひぃぃ……目が、目が腐る! 吐き気がする! 鳥肌が工場制手工業(マニュファクチュア)! 変な失神も出たぁ!(大山の〇代っぽく) 

 

『明日、兄さんを迎えに行ってくれる、ラグビー部所属の優しい同級生の方々です。ラグビー部だけあって、皆さん、趣味は玉遊びだとのことです』

 

 ひぇぇ……みんなめっちゃいい笑顔で映ってるぅ……。画面越しに汗の匂いがぁ……。

 

『あまり関係ありませんが、その中の半数は恋人……彼氏がいるそうです。ふふふ、青春ですね』

 

 いや、関係ありすぎるし。その情報知った後だと、さっきの『玉遊び』って完全に別の意味でとれちゃうし。

 つーかアレでしょ? その彼氏って部活内にいるんでしょ? 試合中、恋人にいい所見せようと思ってやる気を出す的な意味で。〇リフターズで見たわ。

 

「ひぇぇ……」

 

 ぶっこんできよる……ウチの妹、前日にマジでぶっこんできよる……。きっと俺の悲鳴とかを想像して超愉悦してる……。

 ストレスでさっき食べた大家さんのおはぎ分の素敵カロリーが一瞬にして消化されたわ。この余分なカロリーが無ければ精神的に即死だった……。ありがと大家さん。

 

「くそ、雪菜ちゃんめ……!」

 

 こんな過半数以上が男色のメンズに襲われたら『もう二度と百合アニメ見れないねぇ……』的な深刻な症状に陥ってしまう……! 百合アニメが見れなくなったら、ほとんどのきららアニメ見れないじゃねーか! 女の子がゲーム作ったりキャンプとか登山したり、バイク乗り回したり飯食ったり終末世界を歩くアニメが見れなくなるとか、人生の楽しみの8割を失ったと同じだわ!

 

「……はぁぁぁぁぁ」

 

 げんなりしていると、エリザが心配そうな顔で話しかけてきた。

 

「どうかしたの辰巳君? 何かあったの?」

 

「いや、雪菜ちゃん……妹からメールが来てさ。脅迫、いや発破、死刑宣告うん……まあ、そんな感じの文章で――」

 

「大丈夫だよ!」

 

 エリザは食い気味にそう言って、震える俺の手を両手でグッと握りしめた。

 幽霊特有のひんやり感。そして女の子の柔らかい手。

 

「辰巳君、今日までずっと頑張ってきたもん。わたしずっと見てたから、知ってるもん。朝頑張って起きて、寒いのにいっぱい走ってたもん! だから、きっと大丈夫だよ! ね?」

 

 駄々をこねる園児を諭す保育士のように慈愛溢れる表情で笑顔を浮かべるエリザ。

 こんな母性溢れる笑顔で「ね?」って言われたら、まあ……感じますよね、バブみ。ハーイチャーンバブーイクゥ!まったなしですわな。20万くらい投げ銭して彼氏面するのもしょうがない。

 

「そ、そうかな? 大丈夫かな?」

 

「そうそう。平気へっちゃらッだよ! ねっ、ごはん出来たから食べよっ」

 

 エリザはいつも通り、元気な笑みを浮かべてそんな事を言った。

 この笑顔を見ていると、いつだってこっちも元気が出て来る。まあ、何とかなるだろう、根拠も理屈も無いけどそんな風に思える。

 この笑顔に支えられて俺の人生は華やかになっている。もしエリザがおらずただの1人暮らしなら、きっと退屈でつまらない生活だったんだろう。高校生活のように灰色の日々だったはずだ。

 

「えへへ……今日のご飯はね、すっごい自信作なんだー!」

 

 頬を薄っすらと好調させながらテンション高めにエリザが言う。

 

(エリザはいつも元気だなぁ……)

 

 エリザの笑顔からは、もしかしたら明日俺がここを去ってまた1人になるかもしれない、そんな悲観的な感情は欠片も読み取れない。

 いつもの明るい笑顔だ。日常の象徴である笑顔に陰りはない。そこにネガティブなものは一切ない。

 

(でも……そうか)

 

 俺が来るまでずっとエリザは1人で、何年もこの部屋にいたのだ。もし俺が明日この部屋を去ったとしてもただ最初の状態に戻るだけ。

 今まで何人もこの部屋の住人を見送ってきたんだ。俺の場合は少し特殊な状況で住んでる期間も他の住人より少し長かったけど、彼女にとってはいつもの事なのだ。

 最初は少し寂しがると思うけど、それでもいつかは慣れるのだろう。

 そう思うと、何だか少し寂しいような気がした。

 

■■■

 

 そして夕食。

 ダイエット結果発表の前日の夕食だから、正直かなり控えめな食事であることは覚悟していた。

 ぶっちゃけお寺で出るようなな精進料理的な物が出ることも仕方なしと思っていた。

 だがしかし――

 

「嘘……今日の夕食、豪華過ぎ……」

 

 食卓に所狭しと並ぶ、色鮮やかかつ食欲をそそる豪華な食事を見て、思わず口を押えてしまう。

 ここはどこの料亭だろうか。

 どの料理からも一切の手抜きは感じられず、1つ1つが宝石のように輝いている。

 

「えへ、えへへ……ちょっと頑張り過ぎちゃったかも」

 

 エリザは照れくさそうに微笑んだ。

 

「辰巳君、今日までダイエットお疲れ様。えっと、こういうの何て言うのかな? 辰巳君、すっごく頑張ったねー! わーい偉いねー! ……み、みたいな? 前祝い? その前祝いで、ちょっと頑張っちゃった、あはは……」

 

 少し恥ずかしそうなエリザ。

 

「えっ、今日はこんなに食っていいのか? でも……明日が……」

 

「大丈夫大丈夫。見た目はすっごい豪華だけど、ちゃーんとカロリー抑えたごはんだから。油使わなかったり、お肉も低カロリーな物使ったり、つなぎにおから使ったり、何かこう……カロリー消えろーっていっぱい念じたり……とにかく、好きだけたーんと食べてね? 遠慮はしなくていいよ? おかわりもあるよ!」

 

 さっき食べたおはぎ分のカロリーは精神的過労によってあっという間に消化されたのか、すっかりお腹ペコちゃんな俺。

 ニコニコと笑うエリザと美味そうな匂い、湯気をたてる食事を前に逆らえず、箸を手に取った。

 

「ゴクリ……」

 

 豪華絢爛な料理を前に、思わず唾を飲み込む。

 

 まず目に入ったのはたっぷりタルタルソースがかかった――チキン南蛮。

 食べる前から分かる。こんなプリプリして柔らかそうな肉……美味いに違いない。この見た目で不味かったら詐欺だ。

 

「それね、揚げずにちょっとの油だけで焼いたチキン南蛮でね。下味にお醤油とかニンニク漬けて冷蔵庫で寝かして――」

 

 エリザは楽しそうに調理方法を語る。

 ヤサイマシマシ並みによく分からない専門用語が出てきたが、とにかく美味いのだろう。

 箸で掴み、口に運ぶ。

 

「もぐ――っ!?」

 

 柔らかい肉を噛むとホロホロになって崩れる。崩れた肉からじわっと肉汁と共に凝縮された旨味ががさながら通勤ラッシュから解放されたサラリーマンのような――

 

 

「うっま……」

 

 

 食レポ的な玄人好みの感想をエリザに伝えたかったが、あまりの上手そうに思考がシンプルになってしまった。

 

「ナニコレ……うめ、うっめ……」

 

 美味い、もしくはそれに近い言葉しか出てこない。

 今分かった。本当にうまい物を食ったとき、人はバカになる。小難しい言葉は実を結ばず、感情を辛うじて言語化したものしか出てこないのだ。1つ勉強になった。

 

「うまい……風が語り掛ける……うまい、うますぎる……」

 

「そっかぁ……よかった♪」

 

 一心不乱に食べていた俺だが、ふと顔を挙げてエリザを見る。

 

「えへへ……♪」

 

 エリザは食卓に身を乗り出すように、俺の顔を見て笑顔を浮かべていた。その笑顔はとても……言葉には出来ない。

 

「ふふふ……♪」

 

 今まで、俺の人生で見たことが無い類の笑顔だ。生まれて笑顔に尊さを感じた。

 見ていると、何故か不意に泣きそうになる。多分、こういう笑顔を見られる人間はそういない、そんな稀有な表情なはずだ。裏表のない、一切のフィルターのかかってない純粋無垢な笑顔。あらゆる虚飾も下心も混ざってない無地の笑顔だ。

 彼女はどうして、俺なんかにそんな笑顔を向けるのか。今更ながらそんな事を思ってしまう。

 

『大好き』

 

 あの日、夕日が指すこの部屋で彼女が言った言葉思い出す。

 仮にあの時の言葉が真実だったとして、その言葉に付随する感情だけで、こんな笑顔を浮かべることが出来るものなんだろうか……。

 あの時のエリザの言葉を、未だに俺は素直に心から受け入れることが出来ない。

 確かにエリザのあの言葉は本物だったと思う。それでもそのまま受け止めることができない。

 酷い人間だと思う。だけど……やはり、無理だ。どうしても人の言葉の裏やそこにある感情を疑ってしまう。

 

「えへ、えへへ……ん? どうかしたの辰巳君?」

 

「いや、えっと……なんでもない。エリザもほら、冷める前に食べたほうがいいんじゃないか?」

 

「あ、そうだね。いただきます」

 

 2人で食卓の上に並ぶ食事を食べる。

 やっぱりエリザは楽しそうだった。いつも通りに。いつもの笑顔だ。明日から見ることが出来なくなるかもしれない笑顔。

 最後になるかもしれない笑顔だ。 

 

 ふと、何とは無しに浮かんだ言葉を発した。

 

「アレだな。もしかするとこれが最後の晩餐になるかもしれないんだな」

 

「え?」

 

 エリザの箸が止まる。

 何となく浮かんだ言葉だ。明日の結果如何によっては、実家に帰らなくてはならず、こうして2人で食事をとるのも最後なのだ。

 そう思ってふと言ってみた。ただの雑談だ。

 

 エリザの事だから俺の言葉に頬を膨らませて『もう、そんな事言ってちゃダメだよ! きっと大丈夫だから!』……そんなリアクションをすると思っていた。エリザはいつだって笑顔で、俺のことを迎えてくれて、俺を励ましてくれる。そういう存在だった。

 

「……もー、そんな事言ってちゃダメだよ。きっと大丈夫だから」

 

 ほらやっぱり。想像通りのセリフと笑顔だ。

 ただ想像と違った部分もある。

 

 

「……ぐす」

 

 

 エリザの瞳から、ポロポロと雫が零れる。

 それは涙と呼ばれるものだった。

 笑顔のエリザ、その瞳から大粒の涙が溢れる。

 

「……すんっ、ぐす……あ、あれ? えへ、えへへ、おかしいね、何か涙が出ちゃう……」

 

「えっと……エリザ?」

 

「あれ、あれれ? えへへ……変だね。あ、玉ねぎとかいっぱい切ったからかなぁ? あはは……っ……ぐすっ……すんっ」

 

 何度も目を拭うも、エリザの瞳からは涙が止まらない。

 壊れた蛇口のように、涙を流し続ける。

 

「だ、大丈夫かエリザ? どうした? え、どっか痛いとか?」

 

「大丈夫……大丈夫だから辰巳君……」

 

 流れるままに涙を流していたエリザだが、とうとう顔を伏せてしまった。

 

「……ごめんね、なんか、やっぱり……大丈夫じゃない、かも」

 

 そう言うと顔を伏せたまま、体を震わせた。

 俺は状況が分からず、ただ何となくエリザに視線を向けられず、食卓の上の食事に目を向けてしまう。

 教師に怒られて机を見つめてしまう生徒のように。

 

 堪えるような泣き声は次第に決壊したダムのように大きく、はっきりとしたものになってきた。

 

「ばかぁ……」

 

 伏せたまま、絞りだすようにエリザが呟く。

 

「……ふぐっ……ひっく……ばか……辰巳君のばかぁ……ずっと我慢してたのに……大丈夫だって、きっと大丈夫で、これからも辰巳君はここにいて、ずっとずっとこの生活が続くって、そう思ってたのに……」

 

 嗚咽混じりの小さな声は、驚くほどスムーズに耳に届いた。

 その声は心の中まで染み込んできた。

 

「何でそういう事言うのぉ……? ばか、ばかぁ……そんな事言われたら、考えちゃうもん……、辰巳君がいなくなって、辰巳君の為にご飯作ったりお掃除したり、そういうことぜんぶぜんぶ意味がなくなって、1人だけになって……」

 

 エリザがグシグシと涙を袖で拭う。

 拭いきれずに溢れた涙が、畳に染み込む。

 

「いくら玄関で待っても辰巳君はずっと帰ってこなくて……お帰りって言ってもそこには誰もいなくて……お布団も冷たくて朝起きても辰巳君がいなくて……うぇぇ……」

 

 人が垂れ流す生の感情というのを初めてみた。

 食卓を挟んで距離があるはずなのに、熱が伝わってくる。ともすれば涙の冷たささえ。 

 幽霊である彼女が放つ感情の熱は、人間と全く変わらなった。その熱に気圧されてしまう。何も言うことが出来ない。

 

「ひぐっ、ひぐ……」

 

 自分の為に、誰かが本気の涙を流す光景なんてこの先あるのだろうか。そんな事を思ってしまう。

 自分の人生で、こんな自分の為に本気で怒ったり、泣いたりしてくれる人がどれだけいるのか。それだけの感情(ねつりょう)を自分に費やしてくれる人間なんているのだろうか。

 少なくとも過去にはいなかった。未来もきっといないだろう。現在、この時点、今この瞬間がその1度かもしれない。

  

「おはようもおやすみも、いってらっしゃいもお帰りなさいも……辰巳君に言うだけですごくうれしかった当たり前だけど大切な言葉、そういうのも全部ぜんぶなくなって……」

 

 俺は何か勘違いしていたのかもしれない。

 エリザはこの部屋でずっと1人だった。何年も何年も。この部屋に住人が入っても、すぐに出て行って1人きりだった。

 俺はただ、たまたまエリザの事が見えただけで、出て行った彼ら彼女らとその点が違うだけで通過点の1つだと、そう心のどこかで思っていた。

 俺がいつかこの部屋からいなくなっても、一時的にエリザは悲しんでもいつもの生活に戻る。そしてまた俺と同じような境遇の誰がが現れるかもしれない。そんな風に思っていたのかもしれない。だって俺は主人公じゃない。たまたま偶然、彼女の事が見える眼鏡を手に入れただけで一時的、借り物のような立場だったはず。自分だけが特別な存在だなんて、思えるはずがない。

 俯瞰するように自分の人生を見て、どこまでも自分はありきたりな存在だと、雑踏に紛れた灰色の群衆の一部だと、そう思っていたはずだ。中学時代。あの時の経験を経て、それを学んだはずだ。

 

「たつみくん……やだぁ……たつみくんがいなくなったらやだよぉ……たつみくんじゃなきゃやだぁ……」

 

 エリザが顔を上げる。

 釣られるように俺も顔を上げ、エリザの顔を見てしまった。見てしまったのだ。

 人が感情を溢れ出す瞬間。出来るだけ避けていたその瞬間を、見てしまった。

 

「たつみくん……」

 

 涙で塗れた顔。感情が抑えきれず、崩れた表情。

 きっと美しくもなく、可愛くもないその表情だが、心が動かされた。瞠目する思いで顔が逸らせない。

 それほどまでに彼女の泣き顔は俺の心に触れた。群衆の一部ではいられなくなってしまう。

 

 自分の心を縛っていた何かが緩み、1歩を踏み出してしまいそうになる。

 その一歩は例えばこういう状況で言うべき、漫画とか映画で見るような一言だ。例えば『ずっと俺が側にいるよ』とか『お前の涙を拭い続ける』みたいな臭いセリフだ。 

 

「……」

 

 いつもなら草生やして嘲笑するようなそんなセリフが頭に浮かぶ。

 この状況では正しい行動だと思う。人間こういうリアルな感情に突き動かされる時が、いつかは不意に来る。

 そしてそういう感情に流される行動は大体間違いではないのだ。

 

「……っ」

 

 緊張の為か粘つく口を開く。だが……何の言葉も出ない。

 以前、俺はこういう状況で間違いを起こしているからだ。

 

『嬉しいな……私も一ノ瀬君のこと、好きだったんだ』

 

 あの時、俺は状況に流されて手酷い失敗をしてしまった。未だにあの時の事は夢で見る。 

 心の奥底でヘドロのように粘つく記憶としてそこにある。

 ヘドロのような苦い記憶に足をとられ、何年もその場で踏み留まってしまった。 

 

「ぐすっ、すんっ……」

 

 動けない。

 涙を流すエリザを前に、俺は何のアクションも起こすことは出来ない。

 本来とるべき正しい行動は分かっている。泣いている女の子がいる、するべき事は一つなんだ。漫画やアニメで見たシチュエーションだ。漫画とかアニメは間違った情報も教えてくれるけど、この状況に関しては間違いない。

 だが、動くことができない。過去という記憶でしかないそれが、俺の足と心を引っ張る。

 自分が情けない。情けなくて涙が出てしまう。俺はいつまでこうなんだろう。

 泣いている女の子を前にしても、何の行動も出来ない自分。こんな自分が心底嫌いだ。

 

 もし誰かが無理やりにでも自分の背中を押してくれたなら、そんな都合のいい事を考えてしまう。

 心に根付くヘドロを物ともせずに、勢いよく押し出してくれたら……どこまでも甘えた考えが浮かぶ。

 

 

『ほんに……面倒くさい男じゃのう。貸し1つじゃぞ?』

 

 

 何かが聞こえた気がした。

 聞こえた方、背後を見る。

 そこに誰かがいた。褐色の肌の美少女だ。どこかで見たことがある。今にも消えそうな、ノイズ混じりのその姿。

 彼女は退屈そうな顔で、俺の背中を押した。

 背中には何も感じない。だが、体の内側から体を押されたような妙な感覚で前につんのめった。

 

「……っ」

 

 食卓に手を付き、エリザに覆いかぶさるよう手を回す。

 震えるエリザの背中に手を回す、恐る恐る抱き締める。

 前にも同じような事があった。だがあの時とは違う。エリザの生の感情を見た上で、行動した。

 踏み込んでしまった。いや、踏み入れてしまったのか。

 だが訪れるであろう後悔はなかった。

 

「たつみ……くん?」

 

 腕の中でエリザが身じろぎする。

 小さい。とても小さい体だ。抱き締めると分かる。消えてなくなってしまいそうな小さい体。

 こんな小さな体で、たった1人で何年もこの部屋にいたのだ。

 2度と1人にしたくないと思った。 

 

 ヘドロの沼から抜け出し、1歩踏み出して思う。

 この行動は間違いではない。

 

 背中を押してくれた何かに感謝しつつ、驚くほど凪いだ心のままエリザに言う。

 

「何かごめん」

 

「ど、どうかしたの辰巳君?」

 

「いや、分からんけど……ごめん」

 

「なにそれ……ふふっ。えへへ……」

 

 腕の中でエリザがクスクス笑う。

 胸のあたりが湿っぽい。エリザの涙が染み込んでいるだろう。

 

「えっと……うん。大丈夫だ。エリザの言う通り、俺頑張ったし。エリザも協力してくれたし……明日は大丈夫だ」

 

「え、えへへ……だからわたしそう言ってるじゃん……もう……」

 

 腕の中にいたエリザが顔を上げる。

 見下ろすとすごく近い位置にエリザの顔があった。

 目を中心に薄っすら赤くなった顔が目と鼻の先にある。

 エリザはもう一度、涙を俺の胸で拭ってから笑顔を浮かべた。 

 

「もしダメだったとしてもアレだ。何かこう、何とかして迎えに来たやつを追い返す」

 

「えー? どんな風に?」

 

「部屋に踏み込んできた奴らに対して……エリザが呪いの言葉を囁いたり、エリザがPGA(ポルターガイストアタック)で攻撃したり、アパートの前で連中が記念写真を撮る時にエリザが怖い顔で映り込んだり……」

 

「むぅっ、働いてるのわたしばっかり! ……えへへっ、うん、でも……そうだね。わたし頑張っちゃう。だって辰巳君とずっと一緒にいたいもん」

 

「……そうだな」

 

 俺は笑って、もう1度エリザの体を抱き締めた。

 温かい。幽霊特有の冷たい体なのに、温かい。もしかすると俺の体の熱なのかもしれない。

 

「辰巳君の体、やっぱりあったかいな……えへへ、幸せ」

 

 何かに手助けしてもらったような気がするが……それでも、心の中のしこりが取れたような気がする。

 あれだけ心の底で存在を主張していたそれが、すっかりなくなってしまった。さっきのあの行動だけで。

 あっけなさ過ぎて、不安にさえ思う。今まで自分が悩んでいたのはなんだったのかと。

 きっと過去の経験でまた足が止まったり悩んだりするだろうけど、それでも何かが変わったと思う。

 

 エリザとそして背中を押してくれた誰かのお陰だ。  

 

 その後、2人で夕食を堪能してから、就寝準備をして、いつもより少し遅くまで話をして、布団に入った。

 暫くしてから当たり前のようにエリザが布団に潜り込んできたが、俺は何も言わなかった。 

 いつもよりずっと密着してきたが、1人になるかもしれないという不安からだろう。

 

「むにゃむにゃ……わたしを籠から出してくれたたつみくん……すきぃ……いっしょに……ずっといっしょ……ねむねむ……ぎゅー……」

 

 珍しいことに……というか初めてエリザが先に眠った。

 よく分からない寝言を言っているが……籠? どういう意味だ? エリザの前世って鳥だったの? 確か俺の守護霊ってペンギンだったから、結構お似合いじゃん! 意味分からんけど!

 

「明日、か」

 

 明日について思いを馳せる。

 失敗して襲い掛かってくる50%ホモのラグビー部とかその裏でほくそ笑む雪菜ちゃんとか、色々思うところはあるけど……あまり不安はなかった。 

 エリザの言う通り、俺は頑張ったし、エリザや遠藤寺、そのほかに色々な人に助けてもらった。

 だから大丈夫だ。大丈夫じゃなかったとしても、何とかなるだろう。

 ダメだったとしても、何とかしてやる。あの完璧妹の雪菜ちゃんだって少しは弱点がある。その弱点を上手いこと付けばそれ以上に弱点の多い俺がゴリ押しされてゲームオーバーですね、はい。詰んだ! もう詰んだわ! ふぁっきゅー!

 本当、兄妹の関係って厄介だなぁ。知られたくない弱点とか黒歴史とか嫌ってほど知られてる。いつまでおねしょしてたとか、せいちゅー(精通の可愛い言い方)した日の事とか、俺がせいちゅーした時のオカズがオネショタだったとか全部知られてるもんな。勝てんわ! こんな状況で逆転するとかマサ〇グ様でも無理だわ!

 

 こうなったら最悪、遠藤寺の家に避難して頃合いを見計らって家に戻るか……いや、でもそれってただの先延ばしだし……デス子先輩に頼んでラグビー部のメンズに呪いを……いや、あの人なんちゃって黒魔術師だし……うーん、うーん……むにゃむにゃ……

 

 

 ――そして運命の朝を迎える。 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ(偽)

 

「……んん、今何時だ?」

 

 もぞもぞと布団から這い出て、薄暗い部屋の中、スマホを探そうと手を動かす。

 

「ひゃふっ」

 

 何か柔らか冷たい物(例えるなら冷蔵庫から出して少し経った雪見大福)に手を触れた瞬間、小さな悲鳴が聞こえたので何事かと思ったら、同じ布団に入っていたエリザだった。

 正確にはエリザの雪見大福だった。雪見大福の正体? 雪見大福は雪見大福だろ。それ以上でもそれ以下でもない。ちなみに俺はカラメルプリン味が好き。

 

「ひゃふぅ……もう、ダメだよぉたつみくん……えっち……むなむな」

 

「まだ寝てるのか」

 

 珍しい光景だ。朝はいつもエリザに起こされるから、こうやって寝ている姿を見たことがない。

 海亀の産卵シーン並みに貴重なエリザの寝顔を脳内に焼き付ける。エリザは素で可愛いから脳内フォトショップで加工とかしなくていいから助かる。

 どうでもいいが、早く誰でもいいから脳内の画像をDVDにコピーする技術を発明して欲しい。早くしないと俺の脳内HDDが破裂しちゃう。分かりにくい遠藤寺の表情の些細な変化とかをコマ撮りで画像を保存してるからな。容量が足りない足りない。

 

「あった」

 

 ようやくスマホを探り当て、時間を見る。

 5時だった。今日くらいは昼まで惰眠を貪ろうと思っていたんだが、どうやらここ数日の習慣がすっかり身についてしまったらしい。

 

「…………………うーん」

 

 結構長く悩んだ後、今日も習慣通り、ジョギングに行くことにした。

 俺の体にイカのように絡みついているエリザを起こさないように、ヌルリと抜け出す。

 

「あぅ……さむいよぉ……たつみくん……」

 

 抱きつく対象が無くなって手をワキワキさせているエリザが見ていてかわいそうなので、代わりにタンスからイカちゃん等身大抱き枕を出してそっとエリザに渡す。

 

「あ……たつみくんの匂いだぁ……えへぇ……ぎゅぅー」

 

「よし」

 

 どうやら気に入ったようだ。イカちゃんに抱き着くエリザ。イカちゃんの顔辺りにエリザが顔をぐしぐし押し付けてて、いい感じの光景だ。美少女が美少女抱き枕に抱き着く……そういうちょっと特殊なフェチ心が満たされた。はい保存保存。

 エリザを起こさないように、こっそりタンスからジャージを取り出し、もそもそ着替える。

 

「たつみくん……あ、ここ辰巳君の匂いいっぱいする、えへへぇ……」

 

 エリザがイカちゃん抱き枕のイカちゃんの唇辺りにスリスリ顔を擦りつける。何故かどうして全く不思議だが俺の匂いがその辺に集中しているらしい。イカちゃんにエリザがチュッチュしてて、朝からこんないいもん見せてもらって……今日って元旦か何かだっけ? もしくはクリスマス? とにかくめでたい日だ。エリイカ……そういうのもあるのか。イカエリだとエリ〇ベートバートリーちゃんのエクストラクラス(フォーリナー)みたいだな。エリちゃんにイカ……襲われてる光景しか浮かばんな。

 

 そうこうしている内に、ジャージに着替え終わり、適当に顔も洗った。

 洗面台に顔の水滴を垂らしたまま、タオルを待っていると、いつもタオルを渡してくれているエリザが寝ていることを思い出し苦笑する。

 エリザに頼り過ぎだ俺。

 3分くらいタオルを探し、何とか発見。顔をグシグシ拭う。タオルにしてはいい匂いだったので、変だなぁと思ってると……エリザのパンツだった。ま、ラブコメあるあるですよね。

 

「じゃ、行ってくるよエリザ」

 

「行ってら行ってら……ねむねむ」

 

 寝ている状態でもちゃんと見送りの挨拶もしてくれる辺り、エリザは本当に優しいなぁ……ただ、朝から服を全部脱いでるのは正直どうかと思うよ。人間だったら確実に風邪ひいてるよ。

 エリザに布団をかけて、部屋を出た。

 

■■■

 

 部屋を出てまだまだ薄暗い外に出る。

 最初の頃は心細いし何か寒いし人もいないしで、好きなじゃなかったこの光景もすっかり慣れたものだ。 

 軽く上半身のストレッチをしながら、ゆっくり公園に向かう。

 

 いつもの公園に辿り着くと、いつものように美咲ちゃんがそこにいた。

 

 

「――あ、お、お疲れ様ですっ!!! 一ノ瀬先輩! おはようございますです! おっす!」

 

 

 公園に足を踏み入れた俺を見るや否や、駆け寄って来て体育会系っぽい挨拶をしてくる美咲ちゃん。

 

「先輩が来るまでにちゃんと地面慣らしておきました! おっすおっす!」

 

 バッバッと格闘技っぽい挨拶(お腹の前辺りで両腕をクロスするあれ)をする美咲ちゃん。

 ふと公園の地面を見ると足跡の1つもないほど、綺麗に慣らされていた。ブランコの辺りにはよく野球部とかが使ってる整地ローラーが。

 

「……お疲れ様」

 

「っす!」

 

 バッバッバと例のアクション。

 

 美咲ちゃんだが、この間俺が大学生(としうえ)だと判明して以来、こんな体育会系対年上行動をとるようになってしまった。

 最初こそ今まで経験したことのない絶対的先輩としての地位をそれなりに楽しんでいたのだが、やっぱり美咲ちゃんはあのちょっと遠慮がないくらいの距離が近い関係が懐かしい。

 ぶっちゃけ、辰巳って呼び捨てにして欲しい。年下JKに呼び捨てされる貴重な機会を失うなんて耐えられない。泣きそう。

 精神的な距離感もそうだが、物理的にも距離が出来た。常に1歩引いてるというか、2メートルくらい距離がある。

 

「あのさぁ、美咲ちゃん」

 

「あ!? ご、ごめんなさい! っす! 朝ご飯まだですよね! パン買ってきます! えっと一番近くのあんぱんが美味しいパン屋さんはまだ開いてないから……隣町のパン屋さんに行ってきます! 5分待っててください! っす!」

 

 とか言い出してノーモーションから最高速で走りだそうとするから、俺は慌てて腰のあたりに飛びついた。

 

「スッタァァァプ! 待った待った美咲ちゃん! 止まって止まって!」

 

「うおおおおおおッ!!!」

 

 一瞬で時速0㎞から500㎞の最高速まで加速した美咲ちゃんは俺を引きずったまま、公園の外に出ようとする。……爆殺シューターかな?

 

「待って待って! 美咲ちゃんストップ! ステイステイ!」

 

「よぉし……あそこの電柱を蹴って吉山さんのお家の屋根に登って、その後小池さんの家の中を通って行けば……」

 

 パン屋への最短ルートを呟く美咲ちゃん。やばい。このまま腰にしがみついてたら死ぬ。多分、途中で小池さんの零したラーメンを被って火傷死ぬ。もしくは電線に引っかかって虹〇形兆みたいに感電死する。

 この先生きのこるには……

 

「止まれストップウェイト! ――お座り!」

 

「わふっ!」

 

 正直美咲ちゃんって動物で言ったら犬っぽいよねぇ(八重歯的な意味で)と思っていた事から発言したが、どうやら効果があったようで美咲ちゃんは急停止した。その場で屈みこむ。慣性の法則で俺はゴミ捨て場(燃えるゴミは月・水・金)に突っ込んだが、ラーメンによる熱死や感電死するよりはマシだ。

 

「はい先輩! 何でしょうか! わん!」

 

 ゴミ置き場から這い出る俺を忠犬の様に待つ美咲ちゃん。

 その目からは年上からの命令なら何でも聞きますワン……的な忠誠心を感じた。

 恐らくは年上の命令には絶対従うよう部活の先輩にそれはもう厳しく躾けられたのだろう。

 

「ゴクリ……」

 

 きっと美咲ちゃんは年上からの命令なら何でも聞いてくれるだろう。

 ん? 今何でもって言った? 言ったさ! 

 例えば俺がJKにやって欲しい……体操服を着てプロレス技をかけて貰うとか、図書室で騒いで眼鏡をかけた美咲ちゃんに説教されるとか……あとあと! 授業中に居眠りしてたら放課後になってて、夕暮れの中委員長である美咲ちゃんが残っててくれて「やっと起きたの? ほら、戸締りするから残ってたの。さ、帰ろ。……と、途中まで一緒にね」みたいな! な!? おい! おいこら!? 文句あんのか!? やんのか!? ……落ち着け俺。

 

「あのさ、美咲ちゃん」

 

「はい、何ですか先輩! っすっす!」

 

 キラキラした目で俺の言葉を待つ美咲ちゃん。あー、これはもう洗脳されてますねぇ。先輩からの理不尽な命令を聞くのが気持ちよくなってる顔ですねぇ。

 でもなぁ、やっぱりなぁ……前の方がいい。

 

「――そういうのやめてくれ」

 

「へ?」

 

「いや、だからそういう……先輩! っす! キャオラッ! みたいな?」

 

「キャオラとかは言ってな、言ってないですけど」

 

 やっぱり俺は以前の美咲ちゃんがよかった。ちょっと幼馴染っぽいくらい距離感が近い美咲ちゃんがよかったのだ。

 

「え、えぇ……でも、一ノ瀬先輩は年上だし。年上のいうことは絶対だし、年上は神様だし……先輩の言うことを聞かないと壺に閉じ込められた状態で山登りをさせられちゃうから……」

 

 ちょっと何を言ってるか分からない。

 とにかく美咲ちゃんは年上……先輩相手には絶対の忠誠を誓ってるわけだ。……うーん、薄い本が熱くなりそ(炎上的な意味で)

 

 さて、美咲ちゃんとの関係を以前の状態に持っていくにはどうすればいいか。

 うーん、美咲ちゃんはかなり頭が弱いから上手く論破すれば元通り、いやそれ以上まで持っていけるはず……。

 遠藤寺に相談すればいい知恵を……ってバカか俺は。何を遠藤寺に相談しようとしてるんだ。最近の俺、遠藤寺に頼り過ぎ! google先生じゃねーんだぞ?

 自分で頭を使わないと。うーん……よし。

 

「あのさ、俺って年上だよね」

 

「う、うん。大学生様にあらせらり……られ……らりるれろ?」

 

 首を傾げる美咲ちゃん。

 普段使わない言葉を使おうとしているせいで、呂律が回っていない。

 

「大学生様? ……ま、まあ確かに年上だから先輩だ。でもな……ことジョギングにおいては……違うよね?」

 

「へ?」

 

「だからジョギングでは美咲ちゃんの方が先輩だよね? だって、俺つい最近ジョギング初めてわけだし。美咲ちゃんは?」

 

「えっと、えっと……うん、あたしは……幼稚園に入ったころから、走ってたよ」

 

 思ったより歴史が長かった。園児がジョギングしてる光景とか想像できない。

 ヨクサルの漫画かよって思った。

 

「つまりことジョギングにおいては、俺よりも美咲ちゃんの方が先輩というわけだ。俺の方が後輩」

 

「え……う、うん」

 

「美咲ちゃんにとって俺は人生の先輩だけど、俺にとって美咲ちゃんはジョギングの先輩なわけ」

 

「え? え? ん? 一ノ瀬先輩は先輩で、私も先輩? は? え? あ、あぅ……」

 

「俺そんな難しい事言ってる?」

 

 目をグルグルさせて頭を抱えだした美咲ちゃん。

 このままだと美咲ちゃんの頭がフットーしちゃいそうだ。

 

「先輩、せんぱい。私がせんぱいで辰巳もせんぱい、せんぱいとせんぱいでせんぱいがいっぱい……あわわ……」

 

「ちょ、ちょっと美咲ちゃん。落ち着いて」

 

 ちょっとヤバイ感じの美咲ちゃんの肩を揺する。

 

「そう難しく考えなくていいって。とにかく……お互い譲歩しよう」

 

「じょう……ほ?」

 

「そう譲歩だ。俺たちはお互いに先輩なわけだ。俺も美咲ちゃんの事を先輩って呼んでいい?」

 

「む、無理無理! わ、私年下なのに先輩なんて呼ばれたら、頭がおかしくなっちゃうよ!」

 

 どうなってんだこの子の頭は。

 

「だったら俺は美咲ちゃんの事をこれまで通り、美咲ちゃんって呼ぶよ。だから美咲ちゃんも俺の事を辰巳って呼んでくれ」

 

「せ、先輩を呼び捨てなんか出来ないよぉ!」

 

 目をグルグル回したまま、涙目になる美咲ちゃん。

 俺は「最後まで聞いてくれ」と手の平を突き出した。

 

「だからこれからは……辰巳先輩、と」

 

「辰巳……先輩?」

 

「そう。美咲ちゃんは俺を先輩って呼びたい、俺は美咲ちゃんに辰巳って呼ばれたい……お互い譲歩すれば、こうなるけど。……どうかな?」

 

 これは一種の賭けだった。

 やはり美咲ちゃんの頭がクソ頑固で「いくら先輩って付けても下の名前で呼ぶなんて実際シツレイ!」と許容しないのなら、仕方がない。甘んじて受け入れよう。これ幸いとアレコレ命令してどこまでやっちゃっていいのかギリギリのラインを見定めるイケない遊戯に耽ろう。

 だが……

 

「辰巳先輩、辰巳先輩……う、うーん。これだったら……まあ、セーフ?」

 

「セーフ?」

 

「う、うんセーフ、だと思う。……うん! セーフセーフ!」

 

 美咲ちゃん何度も頷きながら眩しいくらいの笑顔を浮かべた。

 

「辰巳先輩! あははっ。いいね、これ! しっくりくる! あ、いや、しっくりきますね!」

 

「敬語禁止」

 

「で、でもぉ……」

 

「下の名前で呼んでるのに、敬語使うの変だろ?」

 

 何が変なのかは分からないが、今の美咲ちゃんにならウッホウッホとゴリ押しが通じるはず。

 

「そ、そっか……変、だよね。う、うん分かった!」

 

「よかったよかった」

 

 やっぱりゴリ押しはジャスティス! 辰巳、ゴリ押し好きぃ! ゴリザードリィも好きぃ!

 

 テンションの上がった美咲ちゃんは、楽しそうに俺の手を握って上下にブンブン振った。

 さっきまで滅茶苦茶壁を感じてたけど、すぐにこれだ。美咲ちゃんの距離感ってば超極端。

 つーか痛い。やっすいプラモデルみたいに肩パーツが取れそう。

 

「ほんとよかったー! 先輩って呼んで苗字でも呼ぶとやっぱり先輩だなぁって感じですごく先輩っぽいけど、先輩って呼んで下の名前だとあんまり先輩っぽくなくて……なんか、こう――親しみやすい!」

 

 大丈夫かこの子。

 

「とにかく安心したよー! ほんとはね、一ノ瀬先輩って呼ぶの凄く辛かったんだ。せっかく男の子の友達が出来たのに、先輩になっちゃったら距離が凄く出来た気がして……でも、辰巳先輩。うん、この呼び方だったら今まで通りいける! こう……先輩でありながら、友達みたいな? その、なんていうか、あれ、ほら……親しみやすい?」

 

「美咲ちゃんマジで語彙貧だな」

 

「ありがと!」

 

 えっへっへと笑う美咲ちゃん。褒めてはないが、もう褒めてる扱いでいいや。

 褒められて機嫌のいい美咲ちゃん。尻尾があったらブンブン振っていそうだ。

 

「じゃ辰巳先輩! えへへ……辰巳先輩っ! 今日も頑張って行こーう!」

 

 元気のいい掛け声と共に、いつものジョギングを始める。

 

 こうして俺は年下JK相手に下の名前で呼ばせつつ先輩とも呼ばせる、禁断の呼称を手に入れたのだ。

 先輩と呼ばれ若干尊敬の念をくすぐられつつ、フレンドリーな雰囲気もある。こんなチートや……無敵だ……敵が無い……最高……最も高い……俺は今、高次の存在となった……フフフ……。

 

「辰巳先輩っ! ちょっと遅れてるよ、もう!」

 

「へへ……すいやせん」

 

 いいなぁこれ! さっきまでの絶対年上服従的な雰囲気も少し惜しいけど……その何十倍もいいわ!

 年下のJKに下の名前で呼ばれつつ、先輩とも呼ばせる……そんな超特殊な状況(ガチャ)を引き当てた俺は、もしかすると一生分の運を使ってしまったのかもしれない。

 でもいいさ、こんな素敵なイベントを経験できるんだったら一生分の運くらい。

 

 いや……そういえば、この後、一世一代の勝負があるんだった……ヤッベ。

 

 

■■■

 

 

 いつも通り美咲ちゃんとのジョギングを終え「ファイトだよ! 辰巳先輩! 今日まであたしと頑張ったんだから、絶対痩せてる! 妹ちゃんを倒せるよ!」という可愛らしい後輩からの応援を受けつつ、帰宅。つーか別に雪菜ちゃんと戦うわけではないんだけどな。……そんな恐れ多い。

 

 アパートへの帰宅中、スマホが震えた。

 また雪菜ちゃんの精神攻撃か……と身構えたが、相手は遠藤寺だった。

 

『おはようございます。今日はダイエットの成果発表日でしたね』

 

 例によって何故か文章だと敬語になる遠藤寺に苦笑する。

 

『今日までの君の頑張りはボクがよく知っています。きっとうまくいくでしょう。というか、うまく行ってもらわないとボクが困ります。既に今日の夜、お気に入りのお店に予約をとっています。お祝いをしましょう。君が成功することを信じて待っています。早く来てくれないと、先に飲んでしまいますので、可能な限り早くお願いします』

 

 俺の予定も聞かずに勝手に予約を……いや、行くけどさ。

 

『今日の夕食はいらないとメイドのタマさんに伝えているので、君が来てくれないとボクは今日の夕食を抜くことになってしまいます。大切な友人を餓死させたくないなら、必ず来てください。最悪、ダイエットに失敗してても来てください。ほとぼりが冷めるまで、ボクの家に匿いましょう。それでは――頑張れ親友』

 

 以上、遠藤寺からのメールでした。

 遠藤寺の家にお泊りかぁ……いやいや、ちょっとダイエット失敗してもいいかなとか思っちゃったよ!

 あかんあかん。エリザを1人にするわけにはいかん。遠藤寺の部屋ってどんなのかなぁとか、遠藤寺って寝る時どんなパジャマなのかなぁとか、ぶっちゃけメイドさんに会いたいとか! そんな事を思うな! いや、思うくらいは自由か。

 

 ほわんほわん遠藤寺との同棲生活を妄想しながら、アパートに戻る。

 遠藤寺宅で朝起きたら、寝起きでちょっと油断したのか寝間着であるネグリジェをはだけさせた遠藤寺とエンカウントして……とか妄想しつつ、自分の部屋の扉を開けた瞬間、何者かが俺の腰辺りに突っ込んできた。

 

 ――既にラグビー部の刺客が!?

 

「く、口で勘弁して下さいっ!」

 

 想定外のエンカウントに尻を押さえ慈悲の言葉を叫びながら腰を見る。

 そこにいたのは屈強なラガーメン……ではなくエリザだった。

 涙目のエリザが顔をあげる。

 

「よ、よかったぁ……た、たつみくん、朝起きたらいなくて、もういなくなっちゃったのかって……ぐすっ、思って……ひぅ」

 

「ご、ごめんエリザ」

 

 書置きでもしておけばよかったと今更後悔。

 昨日知ったはずだ。エリザが誰よりも孤独を恐れていることを。1人なるのを怖がっていることを。

 なのに俺の……バカ! 辰巳のバカ! もう知らない!

 

「ほんとごめん。マジでごめん」

 

「ふぐっ……すんっ……」

 

「何でもするから許してくれ」

 

 俺の言葉にエリザがしゃっくりをするみたいに泣き止んだ。

 

「……じゃあ、お部屋まで抱っこして」

 

 ジョギングで疲れてる俺に抱っこ求めるとか、エリザちゃんマジで駄々っ子。

 でもやっちゃう。泣いてる女の子と初見のバル〇トスには勝てねーからな。

 

「では失礼して」

 

「お姫様だっこがいい」

 

 おひめ……さま、だっこ?

 あの、少女漫画とかでよく見る、あの? 恥ずかしいやつ?

 現実に存在してたのか?

 

「いや、俺、爵位ないし騎士でもないから……」

 

「お姫様だっこ! ロイヤルお姫様だっこ!」

 

「なにそれわかんない」

 

 ともかくやらないとエリザの気が済まないようなので、エリザの肩下あたりと膝の下に手を入れて持ち上げる。

 びっくりするほど軽い。この幽霊は体重が軽いぜ……。

 

「はわっ」

 

 一気に持ち上げて驚いたのか、エリザが俺の胸の辺りをギュッと掴む。

 

「……えへ、えへへぇ」

 

 そのまま顔を押し付けて来る。

 耳からうなじにかけて肌が赤くなっている。

 

「すんすん……あ、いい匂いがする……」

 

 俺の汗がいい匂い……だと……?

 もしかすると幽霊を引き寄せる特殊なフェロモンでも出てるのか?

 試しに俺も匂ってみよう。

 うん、臭い! 死んだ土竜の臭いがする! 吐きそう! 

 

「じゃあ、このまま部屋に戻るけど」

 

「うん。……ごめんね辰巳君、わがまま言って。嫌いにならないでね」

 

 エリザは俺の胸に顔を押し付けたまま、小さな声で言った。

 嫌いになるかならないかで言うと……ちゅき。こんなんでわがままとか言っちゃう、謙虚なエリザちゃんいっぱいちゅき。

 つーかエリザはもっと俺にわがままとか言うべきだ。それくらいの権利はある。

 

 そうだ。今度、エリザを連れて外に遊びに行くのもいいかもしれない。

 買い物とかは行ったことあるけど、普通に遊びに行ったことないしな。エリザくらいの女の子がどんな場所を喜ぶか分からないけど……幸い知り合いに女の子は多い。参考までに彼女たちに聞き取るのがいいだろう。遠藤寺……はないか。デス子先輩、いやいや大家さん……聞くべき相手がちょっと特殊で参考にならんな。

 

 

■■■

 

 

 エリザが作った朝食を食べる。

 いつもと変わらない朝食だ。いつもと変わらない朝食をいつもと変わらず何気ないお喋りをしながら食べる。

 朝食後もいつもと同じく過ごした。

 洗濯物を畳んだり、部屋の掃除をするエリザを眺めながらインターネットをする。

 たまにエリザが画面を覗き込んできて「これ面白いね」と笑う。最近ハマってるバーチャルユーチューバーの動画を一緒に見て「私もユーチューバーやってみようかな」と言ったので「エリザの場合、バーチャルじゃなくてゴーストユーチューバーだな」みたいな下らないことを言って、笑いあう。お気に入りだった可愛いバーチャルユーチューバーの動画視聴中に中の人が――映ったような気がするが幻だ。のらきゃっとちゃんに中の人なんていねーし。ほんとだし。ほ、ほんとだし……。

 

 そんなどうでもいい時間――でもきっと大切な時間を過ごしていると……タイムリミットが来た。

 

「……っ」

 

 スマホが震える。

 雪菜ちゃんからの電話だ。

 楽しい時間から現実に引き戻され、冷や汗が流れる。

 スマホに伸ばす手が震える。

 もしダメだったら、今日までの頑張りが無駄だったら……そんな恐怖で手が震える。

 

 その震える手を冷たくて柔らかい手がそっと握ってくれた。

 

「大丈夫だよ辰巳君」

 

「エリザ……」

 

 そばにエリザが居てくれる。それだけで手の震えが止まった。

 大丈夫、俺は大丈夫だ。例えこの先に待っているのが絶望だとしても、俺の心は折れない。

 いつも側にいてくれるこの優しい幽霊の少女がいる限り。

 

 スマホを耳に当てる。

 

『どうやら逃げずに家にいるようですね』

 

 電話越しにでも伝わる、冷たい声だ。雪菜ちゃんの声。

 この声で話しかけられるとゾクゾクする。

 

「何で家にいるって分かんの?」

   

『発信……いえ、電話口から聞こえる生活音で分かります』

 

 今、発信がどうとか……発進? 出撃? あっ、ラグビー部の出撃……。

 

『さて兄さん。逃げずにいたことは褒めてあげます。まあ、別に逃げてくださってもよかったんですが。そちらの方がずっと楽しめそうですし』

 

 ほんと俺を追い詰めるの好きだなこの子。

 前世は狩猟民族かな?

 

『ではさっさと本題に入りましょう。これから兄さんがいつものように写真を私に送ってきます。そして私が兄さんの健康状態を把握します。そこで私が定めたラインを下回ったなら……即実家に戻ってもらいます。そして私の徹底した管理の下で生活して頂くことになります。起床から就寝まで私が作ったスケジュール通りに、完璧な生活を送って頂きますので』

 

 雪菜ちゃんが定めるライン。

 1週間前の時点から3㎏痩せる。それも真っ当な手段で、ということだ。

 

『管理、支配、服従……フフフ、素敵な言葉』

 

 若干うっとりしたような口調。

 前世は管理職かな?

 

『当然、トイレに行く時間も決まっています』

 

「人権! 生存権! 人として最低限の! トイレくらい好きに行かせろや! 膀胱炎になったらどうすんだよ!」

 

『安心して下さい。既にオムツは購入済みです』

 

 よかった。これで多い日も安心だな。

 

『ちなみに体重ですが、売り払った臓器の分ははきっちり計算しますので、悪しからず』

 

「売ってないし。これからも腎臓ちゃんには2人で頑張ってもらうし」

 

 腎臓ちゃんは2つで1つ。どちらが欠けてもいけないのだ。

 1つだと唯の臓器だが2つ揃うと炎になる! コーチが言ってた。

 

『では早速写真を――失礼』

 

「え、どうかした?」

 

『いえ、兄さんを連れ戻す為に集まってもらった優しいラグビー部の方々が少し騒がしくて』

 

 よくよく耳を傾けると、何やら複数の男たちの騒めきが聞こえる。

 え? マジでラガーメンいんの? マジで呼んでたの?

 ここだけの話、俺を怖がらせる為の雪菜ちゃんの小粋なジョークって可能性も考えてたんだけど……そうか、本当にラグビー部が俺を襲いに来るのか……。

 貞操帯とか買っとくべきだったな。もう遅いけど。

 

『皆さん、少し静かにして頂けませんか? ……はい? ええ、最初に言った通りです。連れ帰る際、多少乱暴に扱っても問題はありません。できれば手足は使える状態で連れ帰って欲しいのですが。トイレやお風呂が面倒ですし。……まあ、最悪、私が面倒を見ましょう』

 

 いや、まだまだ家族に下の世話されたくないんですけど。あの冷たい目と言葉でお世話されたら、マジで開けちゃいけない性癖(とびら)が開いちゃう。

 

『はい? ええ、そうです。A? B? C? どこまで行ってもいいか? よく、分かりませんが……AでもBでもCでも、Zでもお好きにどうぞ』

 

 ゼェェェェット!?

 

『はい。最悪、妊娠さえしなければ問題ありません』

 

 今理解不能な発言があったんだが。

 俺は一体何をされるの? 

 

『……失礼しました兄さん。周りが騒がしくて』

 

「いや、いやいやいや……え? マジで? マジなの? マージ・マジ・マジ・マジーロ?」

 

『兄さん、あまり頭の悪い言葉を使わないでください。では電話を切るので、早く写真を送ってください』

 

 そう言って雪菜ちゃんは電話を切った。

 

「……」

 

「終わった? だ、大丈夫辰巳君? すごい汗かいてるけど……」

 

 無言で立ち尽くす俺に、エリザが話しかけてくる。

 

 気が付けば足元に水たまりが出来るくらい汗をかいていた。もしかすると汗だけじゃなきかもしれない。

 これ失敗したらマジで逃げないといけないヤツだ。恥も外聞も捨てて、本気で遠藤寺に匿ってもらわないと。マジで一ノ瀬辰子になっちゃう。標識とか武器に使いそうだな。あ、あとタグに『TS』って入れないといけなくなるわ。

 

「も、もうダメだぁ……おしまいだぁ……」

 

 先ほどまでの勇気はどこにやら、たった1本の電話で俺の心は折れかけていた。

 

 

■■■

 

 

 いつも通り着替えて、写真の準備をする。

 体重は計らなかった。もし体重が規定に達していなかったら、その時点で逃げてしまうと思ったからだ。

 約束を破った上で逃走なんかしたら、雪菜ちゃんは絶対に許さないだろう。世界の果て、いや別の平行世界に逃げても俺を追い詰めて、死ぬよりも酷い目に合わされるはず。

 

「頼むエリザ」

 

 俺は覚悟を決めて、スマホを構えるエリザの前に立った。

 軽快なシャッター音が響く。

 

「で、出来たよ辰巳君」

 

 エリザからスマホを受け取り、撮られた写真を見る。

 特に変わったところのない写真だ。例によってこの部屋で死んだ魚やら野菜が映った心霊写真ではあるが、それ以外は特に変わらない。いや、俺の背後に見覚え無い褐色美少女がピースしながら映ってるけど……誰だコレ? まあいいか。

 

「うーん」

 

 ダイエット前……1週間前の写真をスライドさせ、比べてみるがやはり変わったようには見えない。

 

 これはもしかするとダイエット失敗か?

 いや、3kg減らせばいいんだよな? 3kgって意外と少ないし、見た目じゃ分からないのかも。

 でもガンプラの『HGUC1/144デンドロビウム』が確か3kgだったはず……3㎏って結構あるな。

 

「うーん……南無三!」

 

 ええいどうにでもなれ!と画像を雪菜ちゃんに送信。

 最悪、この瞬間にラグビー部の面々が突入してくる可能性もあるので、脱出経路――窓枠に足を掛ける。

 

 しかし……暫く待っても、ラグビー部が突入してくることはなかった。

 

 雪菜ちゃんからの返事もない。

 

 電話を掛けてみる。

 

「も、もしもし俺だけど」

 

『……』

 

「おーい雪菜ちゃん」

 

『…………』

 

「せ、雪菜さん? ……せっちゃん」

 

『その呼び方はやめてください』

 

「ゆっきー?」

 

『次にその呼び方をしたら、兄さんが大切にしているお人形さんたちをお隣さんの子供に全てプレゼントします』

 

「やめてぇ!」

 

 お隣さんの子供、死怒(シド)君はおもちゃを魔改造して楽しむヤベー糞ガキだ。

 実は結構仲良かったんだけど、俺が前にあげた貧乳キャラをエイ〇ンに出て来るキャラ並みの魔乳に改造しやがった時から袂を別った。

 あんな糞ガキに俺の大切な子供たちを渡すわけにはいかない。

 

「えっと……返事がないから、どうしたのかなって。え、どうなの? ダイエット失敗? 成功?」

 

 言ってからゴクリと生唾を飲み込む。

 失敗なら即座に逃走しなければならない。何なら『しっ――』くらいで逃げ出さないと間に合わないかもしれない。

 

 

『……成功です』

 

 

「え?」

 

『ですから。成功です。ええ……1週間で、3kg、いえ3.5㎏……減量していますね』

 

「マジで!?」

 

 思わず聞き返す。『……なーんちゃって。USODEATH。さあ、ラグビー部の皆様――おいきなさい』みたいな俺の心を折りに来るフェイントだったらどうしよう。その作戦は成功だ。だってこの喜ばしい瞬間にそんな事言われたら反動でマジで心が折れる。その場で崩れ落ちる自信がある。

 

『何度も言わせないでください。確かに規定の体重を減量しています』

 

「シッ!」

 

 拳を空に突き上げる。

 成功だ……今日までの俺の頑張りは無駄じゃなかった。

 嬉しい。頑張ったことが無駄にならないのが、こんなに嬉しいとは思わなかった。

 

『ありえない……こんなの、ありえない……』

 

 スマホからブツブツと呟く様に雪菜ちゃんの声が聞こえる。

 小さい声だ。蚊の羽ばたきのような、囁く声。

 

『ただ体重を落とすだけなら、食事を抜けばいい。……でも、この肌艶、表情、髪質……適度な運動とバランスの取れた完璧な食事をしっかりとっている。そして精神的な負担、ストレスを何ら感じていない……健全で適切で無駄のないダイエット。あの兄さんが? まさか、ありえない……嘘です……こんな……私がいないと自分の体調すら管理できていなかった兄さんが……』

 

「も、もしもーし」

 

『誰か協力者が? いや……それこそあり得ない。ここまで完璧な管理、ずっと何よりも兄さんの事を優先して考えていないと出来ないはず。兄さんにそんな相手が現れるわけがない。もし仮にそんな存在がいたと仮定しても、あの兄さんが、あれだけ酷い経験をした兄さんが他人をそこまで許容するなんて……私以外の……』

 

 電話口だからか、彼女の声が小さいのか、よく聞こえない。あと後ろのラグビー部がマジでうるせえ。

 

「ちょっと! 聞いてる?」

 

『……ああ、なるほど。そういう事ですか』

 

 溜息を吐きながら言う雪菜ちゃん。

 

「何が?」

 

『これは夢でしょう? ただの夢。だってそうじゃないと、あの兄さんがこんなお手本のようなダイエットを成功させるなんてありえませんから』

 

「いや、夢じゃないけど」

 

『いえ、夢です。……ふぅ、私とした事が少し焦りました。しかし、夢は深層意識を映し出すとも言いますが……私は兄さんに帰ってきてほしくない?』

 

「だから夢じゃないってば。おーい、聞いてる?」

 

 何やら見当違いの考察を始める雪菜ちゃん。

 この子、ちょっと思い込みの激しいところあるからね。小学生の頃、誰に吹き込まれたのか「パイナップル食べると舌がビリビリするのは、発電しているからです!」とか謎の主張をして、周りに吹聴するわ自由研究の課題にするわ、その研究があまりに見事で周囲を納得させるわ……思い込みの激しさには定評がある。

 まあ発電云々を吹き込んだのは俺なんだけど。それは別のお話。

 

「雪菜ちゃんや。リアルのお兄ちゃんとお話しようぜ」

 

『何をやっているんですか兄さん。夢だったらいつものように、さっさと私の目の前にワープをしてきて好きなだけ頭でも撫でたらいいんじゃないですか? いつもみたいに少し強めに抱き締めればいいでしょう。全く……夢の兄さんときたら本当にいつもいつも、私が身動きできないのをいい事に……』

 

 完全に夢だと思っているなこれ。

 つーかなに? 夢の中の俺ってそんな事してんの? 羨ましい! 俺だってそんな事したの子供の頃だけだぞ!

 

 しかし、このままじゃ埒が明かない。痺れを切らしたラグビー部が襲い掛かってくる可能性もある。

 

「雪菜ちゃん。ちょっと自分の頬を抓って」

 

『兄さんの分際で私に命令をするなんて、まさしくこれは夢。ま、いいでしょう。……いたひ』

 

 雪菜ちゃんの珍しい痛みを訴える声だ。本当に珍しい。

 

「どうかな?」

 

『ほっぺたが痛いんですが。私に何をさせているんですか? ……死ぬまで殺しますよ?』

 

 死ぬまで殺す(深い)

 つーかかなり怒ってるし。何かメキメキ音が聞こえる……スマホの悲鳴かな?

 

「ほっぺた痛いよね?」

 

『ええ、痛いですとも。この痛み、兄さんに65535倍にして返さないと気が済みません』

 

 倍率がカンストしとる……。

 

「それはおいといて……痛いよね。つまりこれは、夢じゃない」

 

『夢じゃ、ない?』

 

「そう。だって現実だし」

 

『…………………』

 

 何かを思案している空気を電話口から感じる。

 

『この痛み、確かに。……癪ですがそのようですね』

 

「つまり?」

 

『信じられませんが……兄さんは真っ当な手段で、ダイエットを成功させた、と』

 

「ということは?」

 

『…………実家への強制送還の話も、無かったことに』

 

「ラグビー部の面子は?」

 

『ラグビー部? …………ああ、ええ。そう、ですね。では解散で、はい』

 

 これで貞操の心配をしなくてよくなる。童貞より先に処女を卒業するとかマジで勘弁してほしいからな。

 

『…………』

 

「どうかした雪菜ちゃん?」

 

『……やっぱり信じられません。もう1度聞きますが兄さん。兄さんは本当に1人暮らしなんですよね? 誰かほかの人間と寝食を共にしている、その人間が兄さんに協力をした――なんてことはありませんよね?』

 

「……うん。他の人間なんていないよ」

 

 そう。他の人間なんていない。幽霊はいるけど。

 嘘は言ってないでーす。辰巳君わるくないもーん。

 

『そう……でしょうね。兄さんと一緒の部屋で過ごすなんて、まともな人間だったら精神が持たないはず』

 

「君の兄さんは神話生物か何かなの?」

 

 流石に幽霊と同居しているなんて気づかれないだろうが、あの聡い雪菜ちゃんだ。俺の発言や些細な変化から、その答えに辿り着く可能性もないとは言えない。

 さっさと切り上げよう。

 

「と、とにかく! これでいいんだよな? 俺、実家に戻らなくて」

 

『それは……ええ、約束ですから。――今回は見逃します』

 

 何やら聞き捨てならない言葉があったぞ。

 

「は? 今回って?」

 

『当たり前でしょう。今後も月1度の写真交換は継続します。その上で兄さんに不摂生を感じたら、問答無用で実家に戻って頂きます』

 

 どうやら、今後もジョギングは続けた方がよさそうだ。

 ちょっと辟易する一方で、美咲ちゃんとの楽しいジョギングを続ける名目が出来たのでやっぱり嬉しい。

 

『…………』

 

「さっきからどうしたの雪菜ちゃん? 他に何か言いたいことあんの?」

 

『……いえ。別に。言いたいことなんて……』

 

「あるだろ、何か」

 

『無いと言っているでしょう。何ですか、分かった風に』

 

「いや分かるだろ。何年兄妹やってると思ってんだよ」

 

 雪菜ちゃんは俺と全然似てない。万人が認めるほど容姿が整っているし、勉強も出来る。運動も人並み以上にこなせるし、教師やクラスメイト達からの人望もある。俺に対する態度や発言で人格面にアレな疑いがあるが、それは俺に対してだけだ。他の人間相手にはお淑やかで優しい。

 そんな同じ遺伝子から生まれたとは思えず何を考えているのか分からないことが多い彼女だが、それでも長年過ごした妹だ。こうやって分かる時は分かる。

 

「何か俺に聞きたいことがあるんだろ?」

 

『……ありません』

 

「……まあ、いいけどさ」

 

 本人が無いと言っているんだから、別にいいだろう。

 

『ではこれで失礼します』

 

「ん。じゃあね雪菜ちゃん。雪菜ちゃんも体には気をつけろよ」

 

『兄さん如きに心配されるほど、落ちぶれていませんので。兄さんこそ通学中の小学生を視姦し過ぎて通報されないように気を付けて下さいね』

 

「そ、そうですね」

 

 既に同じアパートの小学生と一緒にいる所を通報された経験があるけど何か?

 

『……どうしてそこで吃るのか、非常に気になるのですが……まあ、いいです。では――』

 

 そう言って雪菜ちゃんからの通話が途絶えた。 

 ほぅっと安堵を息を吐く。肩の荷が下りた気分だ。

 おっと忘れていた。

 

「……どきどき、そわそわ」

 

 すぐ後ろでエリザが待っている。

 俺は振り返り、エリザに向かって、親指を立てた。

 瞬間、パァッと笑顔の花を満開にさせたエリザが、俺に向かって飛び込んできた。

 押し倒される形で、尻もちをつく。

 

「よ、よかったぁ……! 本当に……よかったよぉ……! これで辰巳君はお家に帰らなくていいんだよね!」

 

 見上げて来る顔が凄く近い。

 薄っすらと紅潮した頬、涙が滲む青い瞳、震える唇がすぐ目の前に。

 

「そうだな。うん、これで大丈夫」

 

「これからも一緒に暮らせる?」

 

 頷く。

 エリザは溜息を吐きながら微笑んだ。

 

「嬉しい……」

 

 目を細め、眩しい物を見るように俺を見つめる。

 ともすれば妖艶とも思えるそんな表情に見入ってしまう。

 

「凄く嬉しい……これからもずっと辰巳君と一緒……考えただけで、胸の中が幸せでいっぱい……えへ、えへへ……」

 

 嬉しいのは俺も一緒だ。

 朝起きてエリザに挨拶をして、大学から帰ってエリザに迎えられて、エリザの顔を見ながら眠る。

 そんな生活が続くと考えるだけで、心が沸き立つ。まるで楽しいお祭りがずっと続く様な、童心を揺さぶる喜びを感じる。

 

「わたし、こんなに幸せなの本当に初めて。辰巳君と一緒に暮らして、幸せなのがずっと続いてて、これからも続くなんて……幸せ過ぎて、消えちゃいそう」

 

「消えるってまた縁起でもない」

 

 本当に縁起でもない。やっと雪菜ちゃんの試練を終えて、これからもこの生活が続く保証がされたのだ。

 そうだ。これからもエリザとの楽しい生活は続いていく。

 いつまで続くか分からないけど、短くはないはずだ。

 俺が大学を卒業してこの家を去るか、それともここを終の住処にして老衰を迎えるか……見当もつかない。

 見当もつかない……だけどこれだけは分かる。

 この部屋で過ごす限り、そこにはエリザがいるのだ。

 例え何があっても、エリザは変わらずそこにいる。

 

 

「これからもよろしくね、辰巳君!」

 

 

 今日一番の笑顔をしっかり記憶に留める。

 きっと明日からもどんどん増えていくだろうエリザの記憶。

 宝石のように輝く綺麗な記憶。

 

 いつか何かがあって俺が彼女の前を去った後、ふとこの宝石を取り出し過去の思い出にふける日が来るのかもしれない。過ぎ去った過去を悔やむのか、それともただ懐かしむのか。今の俺には分からない。できれば、そんな時が来てほしくないと、そう思う。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ(鯛)

 

 始まりがあれば終わりもある。

 

 

 春から始まった俺とエリザの生活だが、いつかは終わりの時が来るのだろう。

 

 それがいつかは分からない。

 

 俺が大学を卒業して、このアパートを出る時か。

 

 雪菜ちゃんに実家に連れ戻される時か。

 

 それとも、ずっと先。俺がこのアパートを終の住処として、寿命を迎える時か。

 

 もしかしたらエリザが俺に愛想を尽かして出ていくこともあるかもしれない。

 

 ありえないかもしれないけど隕石が直撃してアパート自体が崩壊とか。

 

 他にもアパートがタイムトラベルして『漂流アパート編』に突入とか。ネカフェが漂流するくらいだし、アパートが漂流してもおかしくない時代だ。

 

 

 ともかく。

 

 どんな終わりが訪れるかは、今の俺には分からない。

 

 

 もしかすると、俺が想像していないような終わりがあるのかもしれない。

 

 誰でも想像できるような、ありふれた終わりかもしれない。

 

 だが分かっていることはある。

 

 始まりがあれば終わりがある。

 

 

 終わりはいつか必ず訪れるということだ。

 

 

 

■とある妹のエピローグ■

 

 

 一ノ瀬雪菜は電源を切ったスマートフォンをベッドに放り投げ、そのまま自らも背中からベッドに倒れこんだ。

 

 

「……」

 

 

 天井を見上げる。

 

 天井にはこの部屋の主が張り付けた、どこぞのアニメのポスターが貼ってある。

 

 満面の笑みでこちらに笑いかける触手の生えた美少女に煽られているような気がして少しイラっとした。その苛立ちから逃れるようにゴロリと寝返りを打った。

 

 枕に顔を埋める。部屋の主が去って暫くは匂いの残っていた枕だが、もう埃っぽい匂いしかしない。

 

 

 部屋のテレビではラグビーの試合中継が流れている。

 

 

「兄さんの癖に……兄さんの癖に……」

 

 

 顔を押し付けた枕に向かって処理しきれなかった感情を吐き出す。 

 

 普段は何があっても動じず、どんな感情もコントールできると自負する彼女だが、こと兄が関わる感情の動きに関しては、この年になっても振り回される。

 

 

「……っ」

 

 

 完全に想定外の出来事だ。

 

 まさか兄がダイエットを完遂するとは思っていなかった。

 

 本来なら既に家を出て兄を迎えに行っているところなのだ。

 

 がっくりと肩を落とした兄を見下ろしつつ、勝ち誇った笑みを浮かべていたはず。

 

 情けなくも我が身可愛さから媚びへつらう兄を眺めつつ、これから訪れるであろう愉しい日々に想いを馳せていたはず。

 

 

 それなのに――

 

 

「ぐぬぅ……ぐぬぬ……」

 

 

 どうしてこうなってしまったのか。不本意ながら内省してみる。

 

 

 兄が家を出て早くも3か月が経った。

 

 

 家を出てすぐの頃は、1週間も持たずに泣き言を言って帰ってくるものとばかり思っていた。

 

 何せあの兄だ。自分の事は何もできない兄。

 

 兄の身の回りの事は全て自分がやってきた。

 

 部屋の掃除も、兄の食事も、衣服の購入、翌日着る衣服の選択、明日の授業の準備、その他諸々……全て、何もかも自分がやってきたのだ。

 

 自己管理ならぬ妹管理――ありとあらゆる事象をすべて、妹である自分が行ってきたのだ。

 

 万象あらゆるものを自分の委託した愚かなで無能な、そんな愛しい兄。

 

 

「うぅ……」

 

 

 これからもそれは続くはずだった。永遠に。

 

 

 だがふと思ってしまったのだ。

 

 

 少しくらい……自分の有難みを感じてほしい、と。

 

 ちょっとくらいは感謝をして欲しい、と。

 

 当たり前のようにある自分という存在が、実のところは世界中を探しても見つからない、砂漠に落ちた1粒のゴマのような稀有な存在である、と。

 

 やっぱり兄にとって自分は掛け替えのない存在であり、自分がいなくては兄は生きていけない……その事実を改めて認識して欲しい、と。

 

 

『やっぱり雪菜ちゃんがいないと、俺ダメだよー。おろろーん』

 

 

 そんな想像するだけでも、臍の下が熱くなる光景を見てみたい。

 

 

 それだけだったのだ。 

 

 そんな些細な、だが今となっては愚策でしかない考え。

 

 

 もって三日……いや、二日でしょうか。

 

 

 それくらいのほんのわずかな期間だろうと、兄を手放した。

 

 自らの庇護下外へと、見送った。 

 

 だが兄は帰ってこなかった。

 

 1日経ち、2日経ち、3日、4日、1週間、1か月……いくら待っても帰ってこない。 

 

 そうこうしている内に留学の話が進み、その間に兄が帰ってくるかもしれないという危惧で色々無茶をして早めに帰国した。

 

 だが兄はここにいない。

 

 

 結果として兄は不可能とも思えるダイエットを完遂している。

 

 まったくもって想定外の事態だ。

 

 果たして、兄の為にわざわざ作ってやった手料理達はどうすればいいんだろうか。

 

 

「……っ、……っ」

 

 

 溢れる感情を口に出すのは腹立たしく、かわりに足をばたつかせる。

 

 掛け布団から埃が舞い、ほんのわずかに兄の残滓が漂ったような気がした。

 

 

「…………ふぅ」

 

 

 男子三日合わざれば刮目して見よ、という言葉がある。

 

 どんな男でも3日経てば、成長する、そんな意味の言葉だ。

 

 あの自堕落な兄もことわざ通り成長して自立心が芽生えた、というのはどうだろう。

 

 1人で生活をしなければ生きていけないという極限状況下において、埃を被っていた生存本能が覚醒した。錆びついていた危機意識が芽生え、最低限の生活スキルが人間に刻まれた遺伝子から呼び起こされた。そう考えるのはどうだろうか。

 

 

「……ばかばかしい」

 

 

 ありえない。それはない。マジでない。ありえんてぃーだ。

 

 

 なにせあの兄だ。

 

 もともとそういう気質があったが、あの出来事以来……思い出すだけでも腸が煮えくり帰るあの出来事。あれ以来、妹である自分にありとあらゆる取捨選択を委ねるようになった。

 

 掃除や洗濯といった家事以外にも、授業の準備、通学する際の通学路、制服の下に着る肌着、その他祝日の過ごし方、その日使う入浴剤――全てを自分に委託していた。思い出すだけでも愉しいあのめくるめく日々。兄の全てを自分が管理している、あの充実した日々。

 

 

「ふふ……」

 

 

 そんな兄が進学を機に1人暮らしをすると言った時は驚いたが、それも一過性のものだと思っていた。

 

 幼少期の子供がはしかにかかるような、一瞬の出来事。

 

 すぐに自分の無力さを悟り帰ってくる。そう思っていた。

 

 人はそう簡単に変わらないのだ。特にあの兄は。それは自分が一番よく知っている。

 

 この世界で一番、兄の事を理解しているのは自分なのだ。

 

 

 なのに、このザマはなんだ。

 

 

「……んー! んんー!」

 

 

 苛立ち紛れに、布団を叩く。

 

 ばさばさと埃が舞って、ゴホゴホとむせてしまう。

 

 

「……げほ」

 

 

 いつだって世の中の自分の想定内の出来事に収まっていた。

 

 自分が他の人間より優れているのは理解していたし、世の中の出来事は実際、自分が想定した範囲で推移していた。

 

 今までそうだったし、これからもそうなるはずだったのだ。

 

 

 だったら何故想定外の出来事が発生したのか。どうやって兄は自分でも素直に見事だと感嘆してしまったダイエットを成功させたのか。

 

 いくつかの可能性を切り捨て、その中で最も可能性が高い物。

 

 

「……協力者なんて……まさかありえない」

 

 

 最も一番高い可能性が浮かぶ。

 

 自己管理出来ない兄が、他者にその管理を委ねる――。

 

 自分以外の誰かが……という感情的な意見は無視をすると、その可能性が一番高い。

 

 

 だが――ありえない。ありえないのだ。

 

 

 あれほど見事なダイエット、兄の体調や癖、生活リズムを完全に把握していないと不可能だ。

 

 普段の生活、それ以外の余暇にも全て兄に情熱を注ぐ。義務的ではなく、心情面、精神面でも兄に奉仕をするような――そんな、それほどまでに兄に熱を注げる奇特な人間がこの世界にいるはずがない。

 

 仕方なくそれを行っている自分――世界で1人しか存在しない妹である自分以外に、そんな人間が――いるはずがない。それも兄が1人暮らしを始めてというわずかな期間で。絶対にありえない。

 

 

 はっきりと断言する。

 

 

 故に――分からない。

 

 いないはずなのだ、そんな人間など。だがその存在無くしては――この度の成功はありえない。

 

 圧倒的な矛盾。

 

 

「………………仕方ないですね」

 

 

 枕の顔を埋めたままの長い逡巡の後、半ば諦めた表情で顔をあげた。

 

 

「不本意ですが……ええ、仕方ありませんね」

 

 

 彼女は認めることにした。

 

 今この瞬間、ただこの部屋にいるだけでは分からない。

 

 直接兄の下へ訪ねて、自らの目で確認しなければ分からない。

 

 

 これは一種の敗北宣言だ。

 

 

 兄に対して感じた初めての敗北。

 

 少女はベッドから体を起こし、立ち上がった。

 

 

「今すぐに……とはいきませんが、近いうちに訪ねるとしましょう」

 

 

 窓を開け室内の空気を入れ替える。

 

 実に久しい行為だ。

 

 兄である男でこの部屋を去って実に3か月ぶりの行為。

 

 ほんのわずかに残っていた兄の残滓が、夏の暖かな空気に攫われていく。

 

 

「――首を洗って待っていてくださいね、兄さん」

 

 

 外に流れていく空気に乗せるように、少女は告げた。

 

 

 

■とある美少女探偵の話■

 

 

 

「――そろそろ時間か」

 

 

 少女――漆黒のゴスロリ服を身にまとった少女は、時計を見ながら言った。

 

 現在時刻は16時。

 

 相手との予定――といっても自分が勝手に定めた予定だが。その予定よりも2時間ほど早い。

 

 だが少女は自分の家であるマンション、そのリビングの椅子から立ち上がった。

 

 

「ただ待つのというのも、なかなか楽しいものだね」

 

 

 クスクス笑う。

 

 以前までの自分――大学に入学し、彼に会うまでの自分では想像しなかった。

 

 探偵にとって貴重な『時間』をこんな唯の余暇として過ごすなんて。

 

 待ち合わせ時間よりも早く目的地に着いて、相手が辿り着くまでの時間を色々と思索に耽って過ごす。

 

 それは考えるだけでも楽しい行為だった。探偵として難しい謎に挑んでいる時の様な感覚。

 

 

「さてさて、彼は見事ダイエットを成功させたのか、それとも失敗したのか……ま、どちらにしろ、ボクの下を訪ねるわけだが。ふむ、こんなこともあろうかと、隣の部屋を片付けておいてよかった」

 

 

 心底楽しそうにクスクス笑う。

 

 笑いながら思い出す。彼と出会う前、大学に入学する前――祖父である先代の『遠藤寺』に謁見した時のことを。

 

 あの時はてっきり、遂に自分の探偵としての功績が認められ次代の『遠藤寺』を襲名出来ると思った。やっとアマチュアとしてではなく、プロの探偵として活動が出来ると期待をしたあの時。

 

 だが――

 

 

『あー……遠藤寺、あげるわ。その代わり、■■ちゃん、大学行きなさい。高校生の時みたく、たまーに行くとかじゃなくて、ちゃーんと単位とって卒業しなさい。これが遠藤寺譲る条件ね。よろしくねー。あ、でもテニスサークルとかには気をつけてね。ほら大学にはヤリサーっていう乱こ――』

 

 

 あの時は、とうとう最高齢探偵である祖父がボケたかと思った。

 

 探偵である自分に大学教育を学ぶ意味など全く無いし、ただ時間の無駄遣いだと思っていた。

 

 実際、入学して暫く経つまではそう思っていた。

 

 自分にとって大学で学ぶような知識は不要だし、大学生活で得られるであろう一般的な交友関係なんてまったくもって必要がない。

 

 そう思っていた。

 

 

 ――彼、一ノ瀬辰巳に会うまでは。

 

 

「ふふ、ふふふ……」

 

 

 今でも彼と初めて出会った日のことははっきり覚えている。

 

 適当に参加したサークルの新人歓迎コンパだ。

 

 何かのスポーツサークルだったか。テニスだったか、ダイビングサークルだったか、学生生活を支援とか、ごらく、隣人、木工ボンド、ジャージ、鉱石、新大陸発見、合唱時々バトミントン……よく覚えていないが、まあその辺のサークルだ。

 

 無料でお酒が飲めるという誘いだけで参加した。

 

 そこで彼と出会った。

 

 

『えっと、一ノ瀬辰巳です。うわ……ゴスロリ……ゴス……かわ……』

 

 

 彼と初めて言葉を交わしてから今日までの全てを自らの脳に記憶している。

 

 

 彼――一ノ瀬辰巳という存在が、どうしてこんなに自らの琴線に触れるか分からない。

 

 その振る舞いも言動も……少し変わった所はあるが、一般の域を脱しない。

 

 だが――引かれる。

 

 どうしてもいつだって彼の事を考えてしまう。

 

 今は辛うじて仕事の時は考えないようにコントロール出来ているが、将来的にはどうだろか。そんな事を考えるのも楽しい。

 

 

「今日はどれにしようかな」

 

 

 何種かのゴスロリ服が吊るされているクローゼットの前で悩む。

 

 これも以前には無かった行動だ。

 

 目の前にあるのはただの服。

 

 それでもこうやって悩んでしまう。

 

 なぜや悩んでしまうのか――その思索に耽るのも楽しくて仕方がない。

 

 

「~~~~♪」

 

 

 CMで流れていた曲を鼻歌で奏でていると、部屋の扉をノックして誰かが入ってきた。

 

 

「あのぉ……」

 

 

「おや、タマさん。どうかしたのかい?」

 

 

 入ってきたのはメイド服を着た女性だ。

 

 金髪でそれなりに整った容姿をしているが、これといって特筆すべきことがない女性。

 

 

「あのぉお嬢様……ほんとに今日の夕食、用意せんでいいんですか?」

 

 

 メイドの言葉に遠藤寺は分かりやく溜息を吐いた。

 

 

「……昨日も言っただろうタマさん? 今日の夕食はいらない。愛すべき親友である彼と過ごすからね。……1週間も前から伝えていたはずだけど」

 

 

「や、それは覚えてるんですけどぉ……んん、そのぉ……ねぇ?」

 

 

「ふむ、何が言いたいんだい? ボクの行動に何かおかしいことでも?」

 

 

 メイドは困ったような表情で自らの金髪、その少し上の何も無い部分を掻いた。

 

 普通のメイドだが、唯一変わったところといえば、この癖だ。

 

 

「いやぁ、間違いというか、確かに間違いやねんけど……それを間違いって指摘するのはお嬢さんが可哀そうっていうか――そんな友達、実は存在せえへんねんでっつうかなーりきっつい事実を突きつけへんといけないわけで……ああぁぁっ! わっちはどうすればいいんやぁ! どうやって説得すればお嬢さんを傷つけずに済むんやぁ! 誰か教えてぇ! Yah〇o知恵袋では誰も教えてくれなかってん!」

 

 

 慟哭と共にその場で蹲るメイド。

 

 その嘆きは真に迫っていた。明日世界が滅びる時に人が感じる絶望を表していた。

 

 そんなメイドを見て遠藤寺は――

 

 

「では行くよ。多分、21時は過ぎるだろうし、一応2軒目も予定しているけど……鍵は開けておいて欲しい。2軒目はこのマンションの近くであることは関係ないけど、ほら……酔い潰れた彼を彼の家まで運ぶのを断念するかもしれないしね、うん、ボクも酔っているだろうし……もしかしたら、彼をこの家に招き入れることになる可能性もないとはいえない、うん、言えない言えない」

 

 

 そう早口で告げて部屋の扉を開けた。

 

 そのまま機嫌よさそうな足取りで家を出る。

 

 

 残されたのは台所に蹲るメイドが1人。

 

 

「こんなんいつまで続けるんですか……お嬢さん、ほんとは友達なんていーへんの分かってるのに……色々とアレなお嬢様に友達なんて出来へんの、わかってるのに……お嬢様、お労しや……ひんひん……」

 

 

 ただ悲しむ。本心から仕える主を悲しみ、涙を流すメイドが1人。

 

 彼女は知っている。幼い頃……それこそ赤子の頃から主を知っている彼女は、誰よりも主の事を知っているのだ。探偵として必要な知識と経験のみを、他者そして自ら得てきた主は、ぶっちゃけ人としてはかなりアレな部類なのだ。正直、自分がメイドじゃなくてパンピーだったら、興味本位近づきはするものの少し話して「あ、コイツヤベーやつだわ」と察してバックステップで距離を置くと。そんなアレな主に友達なんて、とてもとても……出来るわけがないのだ。だったら何故、主は友達が出来たとか戯言をほざき始めたのか。

 

 

「お、おのれぇ……大学めぇ……わっちはお前を許さんでぇ……」

 

 

 主が通う大学に怨嗟を声を叩きつける。

 

 きっと主はパンピー共が通う大学で過ごす事によって、ほんのわずかだがパンピー共の一般的な感性に汚染されてしまったのだ。高校にはほとんど行かなかったせいで大丈夫だったが、大学には普通に通う必要があった。だからあの年になって気づいてしまったのだ。一般的な感性を少しでも得たことで――

 

 

『あれ? ボク友達いないけど、これ4年間1人で過ごすの? ヤバくなーい?』

 

 

 と思ってしまったのだ。

 

 その恐ろしい考え、今までの主なら考えても全く動じなかったが、一般的な感性に汚染された主はその考えから逃避する為に――架空の友人を作り上げたのだ。 

 

 架空の友人と大学で学び、放課後には飲み歩く。そういった設定を作ることで、主は自分を守っているのだ。

 

 家で自分に架空の友人との楽しい日々を語る主。その姿を見る度にメイドは心の中で涙を流していた。もういい、もういいと。自分の前では嘘を吐かなくてもいいと。そう言ってやりたかった。だが今日までその行動は実現できていない。仮に自分がそう告げたところで、主の精神はその現実に耐えられるのか、そもそも理解が出来るのか……架空の友人の口調やら普通の人では気づかない癖、何度思い出しても笑ってしまう彼の話、手を引かれて胸が不思議と温かくなった思い出、そんな話を楽しそうにする主を見る度に、この強固な妄想設定を崩すのは自分には無理だ……そう思ってしまうのだ。

 

 

「わっちは弱いから……ハァハァ、敗北者やから……お嬢さんを助けられへん……畜生、畜生……もう辛い……マジで無理、しんど……いなろ……」

 

 

 四つん這いになりながら涙を流し、精神を安定させる為に稲荷寿司を食べるメイドの嘆きは、無駄に防音性の高いマンションの壁に消えていったのだった……。

 

 

■とある美少女大家の1日■

 

 

 ここはとあるアパート『一二三荘』の一室。

 

 1人の少女が椅子に座り、机に向かって熱心に何かに取り組んでいた。

 

 

「……」

 

 

 普段の朗らかな笑顔ではなく、スッと目を細め、真剣そのものな表情。

 

 小さなな顔には大きめの赤い縁の眼鏡、そして業務用のマスクが顔のほとんどを覆っている。

 

 わずかに露出した肌には、拭っても拭いきれない汗がんでいる。

 

 服はいつもの和服だが、いつも着ている物には無い、着色料の汚れや埃が付着している。

 

 

 彼女はこの一二三荘の大家である。

 

 彼女の仕事はこのアパートの管理業務である。家賃の徴収、アパートの掃除や修繕、入居者間のトラブル解決、特定入居者に対する過剰なお世話……とその仕事は多岐に渡る。小柄な体でいつも愛らしい笑顔を浮かべながらでその多岐にわたる仕事を十全にこなす彼女は、入居者からも非常に評判がよかった。通知表で例えるなら『とてもよい』と評される働きである。

 

 

 そんなスーパー美少女(自称)大家である彼女。

 

 

「……ふむぅ……ムムム」

 

 

 そんな彼女にはここだけの話、いくつもの顔がある。女にはいくつもの顔がある的なアレだ。

 

 

 優しい美少女大家さんという顔、敷地内に勝手に自分の菜園スペースを作って野菜やら果物を作る農業系女子という顔、ある特定の入居者に対してちょっとアレな感情を抱いている恋する乙女の顔、本人は知らないが勝手にファンクラブを作られ偶像として『幼聖王オベイロリ』『お親チャマ』『人魚の肉を食べさせたいロリランキング1位』などと呼ばれ祭り上げられているアイドルとしての顔、斎藤〇和に声が似ているということでそこそこ有名なゲーム実況者としての顔、そして――

 

 

「ここをこうして……うん! この調子でいけば、期日には間に合いますねー。うむうむ、我ながらいい出来です!」

 

 

 知る人ぞ知る、フィギュア造形師――『おーやーちゃん』としての顔である。

 

 あくまで大家業の副業としてのフィギュア造形師だが、ハイクオリティかつオリジナリティもあり、エロリティに溢れたシコリティ全開のフィギュアは、固定のファンが多く、ネットを介して依頼される仕事が後を絶たない。

 

 

「いやぁ、楽しいですねぇ」

 

 

 もともと手先が器用で学生時代からアニメや漫画のグッズを趣味で作成していた彼女だが、いろいろあって趣味と実益を兼ねたこの副業を楽しんでいる。最近はこの副業の為に、わざわざアパートの1室を専用の部屋にした。

 

 

「よし、と。じゃあ最後の仕上げに取り掛かりましょう!」

 

 

 砂糖を3杯ほど投入したミロを一気に飲み干し、腕まくりをする大家さん。

 

 大胆かつ繊細な手さばきで、デザインナイフ(銘:村正ちゃん)を走らせ、ヘラ(銘:大典太くん)をペタペタし、造形用ヤスリ(銘:パブリチェンコたそ)やピンセット(銘:大泉ピン子)、彫刻刀(銘:5本刀)をアレして、何やかんやすると――

 

 

「……しっ。完成でーす! わーい! いえーい! Huー!」

 

 

 完成したフィギュアの原型を前に万歳をする。

 

 

「いやー、我ながら素晴らしい、いやスバラシーバってお礼と賛美を込めた全く新しい言葉で自分を褒めたくなる出来ですねー! あはは! スバラシーバ! うふふっ、大家ちゃんマジスバラシーバ! OMS! OMS!」

 

 

 期日ギリギリで徹夜をしていた彼女は、ちょっと頭がおかしくなっていた。結構いつもの事である。

 

 

「フゥゥ……はぁ、ほんとにいい出来……」

 

 

 頬を薄っすら赤く染め、うっとりとした表情でメイドバイ自分のフィギュアを眺める。

 

 今回依頼されたのは某超有名漫画家の代表作の某太陽編の狼の皮を顔に被せられた某主人公だ。

 

 体の造形もそうだが、特に狼の顔のクオリティが凄まじい。

 

 狼の顔でありながら、人間としての顔も想起させられる恐ろしいまでのクオリティ。 

 

 

「……ん?」

 

 

 その顔を見た彼女は、何か違和感を覚えた。

 

 何かがおかしい。

 

 出来そのものに問題はない。

 

 出来の良さに思わずおわんこペロペロしたくなるくらいグンバツのクオリティだ。

 

 

「ん? んんー? ……あ」

 

 

 そして彼女は気づいた。気づいてしまった。

 

 自分が作り上げた作品の違和感に。

 

 

「これ……一ノ瀬さんの顔じゃないですかぁ!」

 

 

 フィギュアを持ち上げ、至近距離で顔面を覗き込む。

 

 その顔は狼の皮を被せられた、アパートの住人である男子大学生の顔そのものだった。

 

 

「ひぇぇ……ぜんっぜん気づかなかった。うわぁ……自分でもヒくくらい、一ノ瀬さんに似てますねぇ……」

 

 

 ジっと見つめる。

 

 

「ふーむ、ふむふむ……えへへ」

 

 

 そしてニヤける。

 

 

「えへ、えへへ、わんこ一ノ瀬さん可愛い、えへへぇ……って、そうではなく!」

 

 

 ダン!と勢いよく机を叩く……とフィギュアが壊れてしまうので、そっと机の上に置く。

 

 

「あぁぁぁぁ……やってしまったぁ。もう時間無いのにぃ……んもー、ちょっと雑念が入るとすぐこれなんだから……」

 

 

 前々から、ふとした拍子に例の男子大学生が頭にちらつく彼女だが、最近は集中しないといけない副業中にも頭をよぎるので困りものだ。極度の集中と頭に浮かんでしまったイメージが混ざり合った結果、こうして顔面のみオリジナルなフィギュアが完成してしまったのだ。

 

 

「もー、一ノ瀬さん、私の頭の中に出てき過ぎです! あんまり私を困らせないでください。 ……あ、も、もしかして好きな女の子にはいじわるをしたいとか、そーいうアレですか? だ、だったら……許しちゃいます! えへへ! しゃーねーなーもー♪」

 

 

 机の上に置いたフィギュアに向かって話しかけるその姿は、誰が見てもヤベー人だった。

 

 そのまま顔を突いたり、撫でたり、キスをしようとして……ギリギリで思いとどまったりしていると、1時間ほど経ってしまった。

 

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!? 私の馬鹿ぁぁぁぁぁっ! 時間ないのに! 期限過ぎたらすっごく怒られるのにぃ!」

 

 

 ヒンヒン涙を流しながら頭を抱える。

 

 今から新しく作り直すとして、期限に間に合うかかなり微妙だ。それも万全の状態でという前提であり、今の疲弊した体とフィギュアに話しかけちゃうくらい朦朧とした意識ではかなり危うい。

 

 

「ど、どうしましょう……」

 

 

 このままだと訪れるであろう絶望を前に、虚ろになった瞳が宙を泳ぐ。

 

 まるで助けを求めるかのように、その瞳が今しがた出来たばかりのフィギュアを捉えた。

 

 

「そ、そうだ……一ノ瀬さんに手伝ってもらえば……! あれ? これいい考えじゃないですか? 他の人は私の趣味を知らないからアレですけど、一ノ瀬さんなら……いや、フィギュア作ってることは言ってないから、ちょっとヒかれるかも……いやいや! 一ノ瀬さんだったら大丈夫! だって一ノ瀬さんだもん! こう……『もう、しょうがないなぁ仁……じゃなくて大家さんは』みたいな! な!? そんな感じで助けてくれるはず! 困ってる私をいつも助けてくれる一ノ瀬さん、好きー! そうと決まれば――」

 

 

 笹食ってる場合じゃねえ!といった具合に部屋を飛び出そうとする。

 

 が、その直前、今まで依頼された物を作る最中で出来てしまった失敗品が収まっている棚が目に入った。

 

 そこに収められているのは――一ノ瀬辰巳の顔をしたフィギュアの数々だった。

 

 

 傷一つ無い、新しい一ノ瀬辰巳が在った。

 

 未だ完成していない、骨格が剥き出しの一ノ瀬辰巳が在った。

 

 ロボットですらない一ノ瀬辰巳が在った。

 

 巨大な一ノ瀬辰巳が在った。

 

 小型の一ノ瀬辰巳が在った。

 

 獣の型の一ノ瀬辰巳が在った。

 

 気体の一ノ瀬辰巳が在った。

 

 電離体の一ノ瀬辰巳が在った。

 

 幽体の一ノ瀬辰巳が在った。

 

 神になった一ノ瀬辰巳が在った。

 

 魔に堕ちた一ノ瀬辰巳が在った。

 

 イカになった一ノ瀬辰巳以下略

 

 

 そういう感じのフィギュアがいっぱいある棚を見て「あ、これはちょっと部屋に入れられないですね」と大家さんは思った。

 

 

「これはちょっと部屋に入れられないですね」

 

 

 そして口にも出した。

 

 先ほど出来たばかりの新しい一ノ瀬辰巳フィギュアを棚に収め、机に向かう。

 

 

「孤軍奮闘……フフフ、いい言葉ですね。狐って言葉が入ってるのはちょっと気に入らないですけど……やりますよ、やあってやりますよぉ!」

 

 

 たった一人で締め切りという敵に立ち向かう。 

 

 その表情は絶望ではなく、どこか晴れ晴れとしていた。

 

 諦めた者の顔――否、それは違う。

 

 彼女は知っているのだ。

 

 心の奥底では理解しているのだ。

 

 自分は1人ではない、と。

 

 自分の作品を純粋に待ってくれているファンがいる。ツイッターの創作アカに自分が作ったフィギュアで何回アレしたとか報告してくるファンもいる。自分が作ったフィギュアを勝手に魔改造しておっぱいをエ〇ケンのキャラばりに奇乳化したファンもいる。

 

 そして自分の背中を見守ってくれているたくさんの作品たちがあるのだ。

 

 負けられない、そう、敗北は許されないのだ。

 

 

「よぅし! 私の戦いはこれからです!」

 

 

 おーやーちゃんの来世にご期待ください!

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ(真)

 

 

■とある姉妹の1日■

 

 

 

「フフフ………フフフッ……」

 

 

 

 闇より暗い闇の中、深い深淵を形にしたような声が響く。

 

 

 声は蠱惑的で、妖しく、虚ろな亡者の囁きを想起させた。

 

 

 

「フフ、フフフ……ウフフ……」

 

 

 

 闇の中に突然、怪しげな光が灯った。

 

 

 突然現れた光体を中心として、闇が薄らいでいく。

 

 

 そこはどこかの部屋の1室だった。

 

 

 しかしただの部屋ではない。

 

 

 今もなお闇に覆われ、独特な臭気を放つ煙が漂っている。

 

 

 そう、ここは――邪教の館。

 

 

 闇に魂を売り、死後地獄へと導かれることを自ら良しとした者の領域。

 

 

 正真正銘、心の欠片から体の全てまでを悪魔に売り渡した外法の住処。

 

 

 

「我が呼びかけに応えよ……我は深淵を歩む者……闇を身に宿し、その瞳で闇を見つめるモノ……」

 

 

 

 そんな闇の領域に少女がいた。

 

 

 黒いローブを纏った少女だ。

 

 

 少女は蠱惑的で、妖しく、虚ろな亡者の囁きのような声で呪文を唱えていた。

 

 

 少女は熱に浮かされたような声で、冒涜的な言葉をひたすら紡ぐ。

 

 

 少女が唱えた呪文が狭い一室に響き渡る。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 暫しの静寂。

 

 

 

 少女は胸元から量販店で売っているどこにでもあるようなメモ帳を取り出した。

 

 

 表紙には『ヤミヨム』と糞汚い文字で書いてある。

 

 

 

「……えっと、次なんだっけ。あー、えっと、そうそう、これだ。ふぅ……」

 

 

 

 深く息を吸う。

 

 

 室内に満ちた空気を肺に取り込む。

 

 

 

「――げほっ! えほっ! げほげほっ!」

 

 

 

 独特な臭気を放つ煙を吸い込み、咽せてしまった。

 

 

 

「けほっ、けほっ……うぅ、ちょっと調子に乗ってお香炊きすぎたかなぁ……」

 

 

 

 立ち上がり、少しだけ窓を開ける。

 

 

 清浄な空気が入ってくると同時に、室内の濁った空気が排出された。

 

 

 少女は部屋の中心に描かれた魔法陣の前に座り、改めて呪文を紡ぐ。

 

 

 

「うん。えー……はい。我は求め訴えたり……エ……えぇ……えろ……えろえろ……んんっ! 何とかエッサイム、何とかエッサイム……」

 

 

 

 続き呪文を唱える。

 

 

 途中、ちょっと言ってて恥ずかしくなってしまう呪文があったが、そこは飛ばす。

 

 

 

「……」

 

 

 

 暫しの静寂。

 

 

 

「……よ、よし」 

 

 

 

 そして準備は出来たとばかりに気合を入れ、右手を光源に伸ばす。

 

 

 アルコール中毒の患者が書いたと思われる魔法陣の中心、そこに光源はあった。

 

 

 光源は今か今かと、その瞬間を待っている。呪文を唱えた主が自らを手に取るその瞬間を。世界を変革せしめるその瞬間を――。

 

 

 

「いざ――」

 

 

 

 少女が光源に手を伸ばし、触れる――瞬間に手を止めた。

 

 

 

「……も、もう一回確認しとこうかな?」

 

 

 

 溜息を吐きながら、光源――スマートフォンを手に取る。つい最近創造主――パパにねだって買い替えたそれは、傷一つなかった。発売したばかりの最新型で色は黒、よく風呂に持ち込むから防水性のものだ。見た目もイケメンだ。最近部長である自分が考えた同好会(闇探求せし慟哭)のマスコットキャラ『慟哭ちゃん』のシールが貼ってて非常にキューティクル。

 

 

 

 最近通話することが多くなって少し通話料金が嵩んだが、両親ともに苦言を言うこともなく何故か嬉しそうだった。

 

 

 

「へ、変なところないかなぁ……」 

 

 

 

 スマートフォンのアプリであるLINE上に記載されている、自分が打ち込んだ文章を改めて確認する。

 

 

 一般人が見れば少し、いやかなり長文と思う文章を上から下までじっくり確認する。

 

 

 

「うん、うん……大丈夫……だよね? 変な所ないよね? 顔文字も闇系の物ばっかりだし……変に思われないよね?」

 

 

 

 虚空に向かって問いただすが、この部屋に少女以外の人間はいない。

 

 

 ここはとあるマンションにある、とある少女の1人部屋。他に誰も存在はしない。

 

 

 

 だが瞬間、まるで少女の問いかけに返事をするように――部屋の扉が大きな音を立てて開いた。

 

 

 

「お姉ちゃーん! たっだいまー!」

 

 

 

「きゃぁ!?」

 

 

 

 突然の来訪者に部屋の主である黒いローブを着た少女は、可愛らしい悲鳴をあげて持っていたスマートフォンを放り投げた。

 

 

 一瞬宙に浮いたスマートフォンが重力に従って床に落下する――その直前に来訪者である少女がギリギリのところでキャッチした。

 

 

 

「わわっ、危なかったぁ。もー駄目だよお姉ちゃん? これパパに買ってもらったばっかりでしょ? 気を付けないと。うっかり落ちて壊れちゃうところだったよ?」

 

 

 

 来訪者――ジャージを着た少女がかいてもない額の汗を拭いながら笑顔を浮かべる。

 

 

 その笑顔は闇と怪しげな煙に満ち、鬱蒼としたこの部屋には似つかない、眩しく輝いた爽やかな笑顔だった。

 

 

 

 そんな笑顔を向けられたローブ服の少女は、ローブから見える口元に怪しげな笑みを浮かべる。

 

 

 

「……クク、感謝する、と言っておきましょうか、現世にて我が血を分けし同胞よ――んんっ! ……じゃ、じゃなかった美咲ちゃん。ありがと。でもね、美咲ちゃんが急に入ってくるからね? お姉ちゃんびっくりしちゃったの。びっくりして、ポーンって、投げちゃったの」

 

 

 

 芝居がかった言葉の途中でスイッチを切り替えたのように穏やかな口調に切り替わるローブの少女。

 

 

 黒いローブを着た少女。そして先ほど入室したジャージを着た少女。

 

 

 彼女たちは姉妹である。

 

 

 

 ジャージを着た少女がムッと眉を寄せた。

 

 

 

「あー、お姉ちゃん! また部屋こんなに暗くしてー! 前もこんな感じで思いっきり壁に頭ぶつけてたんこぶ作ってお母さんに怒られたじゃん! それから、そのゴミ袋みたいな変な服、部屋で着るの禁止だって言ったじゃん! 何か怖いし! キモいし! 怖キモいし! ゴキブ〇みたいだし!」

 

 

 

「ご、ごめんね。いや、でも美咲ちゃんが急に入ってきたからびっくりして。ほら、ちゃんとノックしてくれたら私だって空気読んでこの服隠すし。……ていうか、ゴミ袋って……この服1着作るのに2週間くらいかかるのにゴミ袋って、しかもゴキ……えぇ……」

 

 

 

 妹の発言にショックを受ける姉。

 

 

 その発言を放った妹はショックを受けている姉を一瞥もせず、部屋にズカズカ入り込み、そのまま部屋のカーテンを全開にした。

 

 

 

「カーテン開けるねー! うーん、お日様ピカピカいい天気!」

 

 

 

「ぎゃー!? 溶ける! 溶けちゃうから! お姉ちゃん闇だから! 闇属性に日属性は特攻だからぁ! 1.5倍だからっ! ひぃぃぃ!?」

 

 

 

 太陽の光によって室内の闇は晴らされた。

 

 

 残るはカーテンを開けたジャージの少女と、辛うじて残った室内の隅にある影にゴキ〇リのようにシャカシャカと逃げ込んだローブの少女。

 

 

 

「はぁ……お姉ちゃん、もっとお日様に当たらないと。保健体育の先生が『人間は日の光に当たらないと、体調が悪くなるぞ!』って言ってたよ?」

 

 

 

「わ、ワタシにその常識は当てはまりません……闇に生きるワタシにはね、フフフ……あ、太陽の光きっつい」

 

 

 

「もー! そうやってまたわけわかんないこと言うー! ね、もう筋肉痛治ったでしょ? 明日からまた一緒に走ろーよ! 朝からお日様浴びて汗かくのって気持ちいいいよー!? さっぱり汗もかいてダイエットにもなるし、ごはんもおいしー! 最高じゃん!」

 

 

 

「うっ……遠慮します……ていうか、あのほんと無理、ごめん……ああいうしんどいの、お姉ちゃんの人生にほんと不要だから……あんなしんどい思いするくらいだったら、ちょっとくらいお肉ついてもいいし」

 

 

 

 つい最近味わった地獄を思い出すローブの少女。妹の甘言に騙され伴ったジョギングだが、想像以上にハードで汗や涙、その体液色々をぶち撒ける非常に苦い思い出となった。

 

 

 

「……それに一ノ瀬君、何かちょっとぽっちゃりしてる方が好きかもしれないという可能性がちょこちょこと……んんっ」

 

 

 

「何か言ったお姉ちゃん? ま、いいや。まだ暗いなぁ……電気オン!」

 

 

 

 先ほどまで部屋に満ちていた闇は隅まで取り払われ、現れたのはどこから見ても普通の少女の部屋だった。

 

 

 多少普通とは言い難い部分――壁に掛けられた怪しげな動物の頭蓋骨や『君〇届け』『ママレード〇ーイ』といった漫画本に混ざって『月刊ムー』やら『本当にあった怖い話』などの異彩を放つ本が混じる本棚が存在するが……概ね普通の少女の部屋だ。

 

 

 

「あうぅ……眩しいよぉ……はぁ……」

 

 

 

 溜息を吐きながら、ゴミ袋……黒いローブを脱ぐ少女。

 

 

 現れたその顔は、快活さ溢れる幼さが残る妹と比べどこか落ち着いた大人びた少女のものだった。

 

 

 しかし姉妹だけあって、お互いどこか似た面影を感じさせる顔だ。

 

 

 

 妹が明るくなった部屋を見渡し、鼻をひくつかせる。

 

 

 

「スンスン……何か、この部屋変な臭いしない? あ、お祖母ちゃんの家みたい!」

 

 

 

「臭い? ああ、はい。さっきまでちょっと霊験あらたかなお香を……え? お祖母ちゃんの家? Am〇zonで買った闇魔術儀式用のお香……えぇ……5980円の……ぐうぅ……」

 

 

 

 失われた貴重なお小遣いを無為にされ、悔し気な表情を浮かべる。

 

 

 そして少し眉を寄せて、妹に話しかける。

 

 

 

「……あのね美咲ちゃん。そこに座って。ちょっとお姉ちゃん、説教するから」

 

 

 

「えぇ……? う、うん分かった。えっと、ここ……よくドラマとかで殺人事件が起こった時に書かれる白いラクガキのものすっごい下手なバージョンのやつの上に座ればいいの?」

 

 

 

「ああ、あの現場保蔵の……え? それの凄い下手なバージョン……えぇ……それ魔法陣なんだけど……書くの2時間かかったんだけど……」

 

 

 

「でなぁに?」

 

 

 

 素直に魔法陣の上に座る妹。

 

 

 そんな妹の正面に座り、姉らしくどこか威厳のあるキリッとした表情を浮かべる姉。

 

 

 

「美咲ちゃん!」

 

 

 

「どしたのお姉ちゃん? 虫歯が痛いの?」

 

 

 

「いや、怒ってるの。お姉ちゃんちょっと怒ってるの。虫歯じゃないから。お姉ちゃんこう見えても女子大学生だから口臭とか気にしてすっごい歯磨いてるから。部活の前とか特に。シュシュッってスプレーのやつもしてるから、グレープ味の。……あ、あのね、もう何回も何回も言ってるけどね。部屋に入る時の約束。ちゃんと覚えてる?」

 

 

 

 半ば諦めたような表情を妹に向ける姉。

 

 

 

「お姉ちゃんの部屋に入る時は――足で蹴り開けない、でしょ? 覚えてるし、今日もちゃんと手で開けたよ? この前、足が蹴り開けたらすっごい怒られたもん」

 

 

 

 対する不満顔の妹。

 

 

 

「そうだね、ちゃんと守れて偉いね。あの時はね、いきなり部屋の扉に足が生えてきて、お姉ちゃん超びっくりしたからね。持ってた飲み物ひっくり返して、ノートパソコンがダメになっちゃったからね」

 

 

 

「うんめっちゃ怒られた、えへへ」

 

 

 

 2人して部屋の扉を見る。

 

 

 そこには妹が扉を蹴り開けた際に出来た穴に、ダンボールで蓋がしてある。

 

 

 やんちゃな妹が起こした過去の思い出だ。

 

 

 既に過ぎ去った過去を思い出し、2人でクスクス笑い合う。

 

 

 

 『で』と姉が続ける。

 

 

 

「うん。でね、もう一つ。もう一つ約束したよね、あの時」

 

 

 

「うーん……無いかな」

 

 

 

 考えるそぶりする見せずに即答する妹。

 

 

 

「あるの! 何で即答なの!? ちょっとは思い出す感じとかして!?」

 

 

 

「ご、ごめんお姉ちゃん」

 

 

 

「……うん。お姉ちゃんもいきなり怒ってごめんね? でもほら大切な約束だから。美咲ちゃんが将来に出ても忘れちゃいけないタイプの約束だから、ほんとに」

 

 

 

 諭すような姉の口調に、これはマジのやつだ……と察して取り合えず考え込む妹。

 

 

 頭の中にある記憶をひっくり返し、該当するであろう記憶を探し出す。

 

 

 そう昔の話ではないはずだ、と最近の記憶を洗いだす。

 

 

 

「うーん、うーん……ふへへ」

 

 

 

 最近の記憶を洗い出すと、一緒に朝のトレーニングをしている初めての男友達の記憶がポンポン出てきて、楽しい気持ちになった。

 

 

 

「え、何で笑ってるの?」

 

 

 

「ふへへ……あ。ごめんそれっぽいの忘れちゃった」

 

 

 

 あまり記憶力のいいタイプでない妹は、限りある記憶スペースを楽しい記憶だけで埋めてしまっている為、姉が言っている記憶はとっくの昔に消去してしまっていた。

 

 

 それを告げられた姉は、大きく一度溜息を吐いた。

 

 

 

「……うん、まあ……忘れちゃったならしょうがないね。美咲ちゃんだし」

 

 

 

 いつもの事だと、妹の頭を優しく撫でる。

 

 

 

「じゃあ、今度こそ覚えてね?」

 

 

 

「ウッス!」

 

 

 

 撫でられたまま、頷く妹。

 

 

 撫でていた手をそのまま、頬に添える。

 

 

 

「――お姉ちゃんの部屋に入る時は、絶対にノックをしてね」

 

 

 

「ノックする。お姉ちゃんの部屋に入る時はノック……うん、覚えた!」

 

 

 

「ほんとお願いね?」

 

 

 

 コクコク頷く妹の頭を優しく撫でる姉。

 

 

 

「でも何でノックしないといけないの?」

 

 

 

「いや、何でって……」

 

 

 

 本心からの疑問を浮かべる妹に困ったような表情を浮かべる姉。

 

 

 

「それは……ほら。ワタシ……んんっ、私も大学生でしょ? 美咲ちゃんも高校生になったんだし、こう……部屋の中でアレやコレや……いきなり入って来て目撃されたら困る、あんな事やこんな事が……ね? 分かるでしょ?」

 

 

 

「え? 何が?」

 

 

 

 察してほしい……そんな言外の言葉を完全に無視された姉はうなだれた。

 

 

 

「あのね、だから……」

 

 

 

「え、なになに? お姉ちゃん部屋で何かしてるの? あたしに見られたら困る何かって!? 気になる! すっごい気になる! ずーるーいー! あたしに内緒で何してるの!? 楽しいこと!?」

 

 

 

「いや、まあ楽しい……うん、楽しいっていうか……」

 

 

 

 姉は困った。

 

 

 もしここで自分が1人部屋の中でしているアレコレを告げてしまえば……きっと、今まで築き上げてきた姉の威厳は崩れ去ってしまうだろう。

 

 

 いや、だが……妹もいい歳なんだし、年頃の女の子が1人部屋でするアレやコレを知ってもいいのでは……。

 

 

 幼い頃から武道に打ち込み、女子中、女子高と通ってきた妹に、そういった足りていない知識を与えるのも、姉である自分の役目では……

 

 

 

「うむ、うむむぅ……どうしよぅ……」

 

 

 

 未だ『どうして?』『教えて?』とハナちゃん(しまじ〇うの妹)のように繰り返してくる妹。

 

 

 そんな妹に対して、姉は遂に決意した。

 

 

 意を決して妹に向かって言葉を叩きつける!

 

 

 

「あのね美咲ちゃん――察して下さい……」

 

 

 

 放った言葉は逃げの言葉だ。

 

 

 幼い頃から姉に対して多種多様な質問疑問を放ってきた妹だが、その全てを姉が応えられるわけではない。

 

 

 そうして生まれたのがこのワード『察して』だ。

 

 

 姉がこの言葉を放つとき、それはマジで勘弁してくださいといった意味。

 

 

 これが出たときはそれ以上追及しない――この姉妹に存在するローカルルールだ。

 

 

 

「あー……うん、分かった。お姉ちゃんが部屋で何してるか聞かないし調べない。すっごい気になるけど」

 

 

 

「うん、助かる」

 

 

 

「ルールに助けられたね、お姉ちゃん」

 

 

 

「う、うん、そうだね」

 

 

 

 ボクシングみたいな発言だな、と姉は思った。

 

 

 

「あ、そだそだ。携帯返さなきゃ……って、そもそも真っ暗な部屋で携帯使って何してたの?」

 

 

 

「あっ、ちょ――」

 

 

 

 姉の静止は間に合わず、妹が携帯の画面を見る。

 

 

 そこに表示されていたのは、姉は黒魔術的な儀式を用いてまで作成したラインの文章だ。

 

 

 

「んー『夏休みの間の我がサークルの活動について、今度の集まりで語ります。もし出来たら夏休み中の一ノ瀬後輩の予定を把握しておきたいので、そこのところお願いします』……と。なにこれ?」

 

 

 

「え、だから……ほら、もうすぐ夏休みに入るでしょ? だからその前に色々予定とか決めちゃわないとって。夏休みになって講義が無くなったら学校来なくなるし、えっと……なかなか会う機会が無くなるし、その……ごにょごにょ」

 

 

 

「……むー」

 

 

 

 照れくさそうにモジモジと俯く姉を見て、頬を膨らませる妹。

 

 

 

「夏休みにも会うの?」

 

 

 

「会うっていうか会いたいっていうか……ほ、ほら! 同じサークル仲間だし! 別に変なことじゃないし!」 

 

 

 

「……むむー」

 

 

 

 取り繕う姉の態度が見ていて面白くない妹。

 

 

 

「ほら、せっかく会えた同志だから! 一ノ瀬君とお喋りするのすっごい楽しいし、他の友達と話す時とは違う面、本当のワタシ見せられてるっていうか……」

 

 

 

「むむむぅ……最近、お姉ちゃんそいつの話ばっかりだよ」

 

 

 

 膨らんだ頬を更に大きくする妹。

 

 

 妹の言う通り、姉は最近、同じサークルの後輩の話ばかりしていた。

 

 

 やれ一ノ瀬君が、一ノ瀬君とこういう話をした、自分の話に一ノ瀬君がこんなリアクションをした……そんな話ばかりだ。

 

 

 最初こそ、ちょっと変わってる姉に初めて異性の友達が出来た……と喜んでいたが、流石にその男の話ばかりされると妹として少しだが姉をとられたという嫉妬心を持ってしまう。

 

 

 そのうえ例の件だ。携帯から聞こえてきた姉と例の男の怪しげな行為。

 

 

 アレがあってから、妹――美咲は例の男は姉を害している敵にしか思えなかった。

 

 

 今すぐにでも姉を正気に戻したい。

 

 

 だが、それは今ではない。今は信頼できる初めての異性の友人である彼の言葉に従い、水面下で活動する時期なのだ。

 

 

 水面下で色々な嫌がらせをして、例の男の方が自発的に姉から距離を置く、そういった作戦なのだ。

 

 

 

「ぐぬぬ……我慢我慢」

 

 

 

 拳を握りしめる妹。そして嬉しそうに例の男について訥々語る姉。

 

 

 

「でね、一ノ瀬君ってば私が顔を近づけたら顔を真っ赤にして……あ、ごめん。何の話だっけ?」

 

 

 

「……別に。お姉ちゃん、最近そいつの話ばっかりだって。別にどうでもいいんだけど」 

 

 

 

 明らかにどうでもよくない表情で、プイとそっぽを向く。

 

 

 

「あ、あはは、ごめんごめん。ほ、ほらお姉ちゃん、男の子の友達初めてだから、ちょっと舞い上がっちゃって……えへへ。で、でも美咲ちゃんにもいつか分かるよ! 大学生になったら男の子の友達も出来るし! ね?」

 

 

 

「む」

 

 

 

 ここぞとばかりに年上風を吹かせる姉に対し、妹の叛逆心がムクムク沸いた。

 

 

 姉は最近、初めて異性の友人が出来たことで、自分に対してマウントを取ってくる。その行為自体に不快感はないが、それが敵対心を持っている例の男の件が関係しているなら……話が違う。素直にイラっとするのだ。

 

 

 

 故に思ってもいない言葉が自分の口から出た。

 

 

 

「――別に、あたしだって男の子の友達いるし!」

 

 

 

 そして言った。言ってしまった。

 

 

 異性の友達が出来てちょっと距離が開いてしまった姉に対し、少しでも距離を詰めたいと思って出てしまった言葉だ。

 

 

 

「え? 男の子って……で、でも美咲ちゃん女子高だし……」

 

 

 

「……朝のジョギングで仲良くなったの。それで、最近一緒に走ってる、その……年上の」

 

 

 

「トシウエ!? え、え! それって本当のやつ!? 見栄とか張ってるわけじゃなくて!? 架空の友人とかじゃ……イマフレ!?」

 

 

 

「本当のやつだし! 年上の! 大学生の! あ、あとマフラーの!」

 

 

 

 今まで姉には秘密にしていたが、とうとう言ってしまった。

 

 

 若干の後悔はしつつも、一度言ってしまったんだからしゃーねーべ、と腹をくくった。

 

 

 

「え、なになに? ど、どんな!? どんな男の子!? 芸能人で言ったら誰似!?」

 

 

 

 妹に初めての異性の友達が出来た。それも年上、大学生の。

 

 

 その事実に興奮が抑えきれず、闇とか深淵とか完全に忘れて妹に詰め寄る。

 

 

 

「えー、美咲ちゃんに男の子の友達かー、ふふっ。ねーねー教えてー。どんな子ー? 名前はー? あ、属性で言ったら何系? 氷? 雷? も、もしかしてレアな重力属性とか?」

 

 

 

 やはり完全には忘れていなかった。

 

 

 対する妹。

 

 

 勢いに任せて言ってしまったが、姉の質問に対しては口を噤んでしまった。

 

 

 

「ねーねーってばぁ。お姉ちゃんに教えてよぉ。ママには内緒にするからね! 絶対!」

 

 

 

 俯く妹に抱き着き、頬を擦りつけながら心底楽しそうに問いかける姉。

 

 

 妹は俯いた顔を真っ赤にしていた。

 

 

 

(うぅ……どうしよ。辰巳のこと説明して、もしお姉ちゃんが辰巳に興味とか持っちゃったら……それでお姉ちゃんが辰巳に会ったりしたら、きっと辰巳、お姉ちゃんの事好きになっちゃう……だってお姉ちゃん可愛いし)

 

 

 

 そんな事を考える妹。

 

 

 そして苦し紛れに出た言葉。

 

 

 

「……な、ないしょ」

 

 

 

「えぇー! ちょっとだけでいいからお姉ちゃんに教えてよー!」

 

 

 

「ないしょ! ないしょだってばぁ!」

 

 

 

 ぐいぐい詰め寄ってくる姉を押し返す。

 

 

 

「ちょっとだけ! ちょっとだけでいいから! ね? 誰にも言わないから、ほら永劫の闇に誓うから!」

 

 

 

「だから内緒! も、もー! うざい! お姉ちゃんうざいよ!」

 

 

 

 言葉ではそう言いつつも、どこか嬉しそうな妹。

 

 

 そんな妹の内心が分かっているのか、なおもにやにやしながら詰め寄る姉。

 

 

 

「えー? うざくないよー、ね? どんな子なの? カッコいい? それともカワイイ系? あ、でも美咲ちゃんの友達だから……世紀末系? ねぇねぇ、お姉ちゃんに教えてよー。ほらほらー。あ、お姉ちゃんアレだよ? 美咲ちゃんの先輩だよ? 男の子の友達のことだったら、お姉ちゃんに聞けばいいよ! ほらほら、アドバイス求めて! 先輩であるお姉ちゃんに! 姉輩に! げほっ……う、しゃ、喋りすぎた……」

 

 

 

「うっ……」

 

 

 

 嫉妬心からちょっと姉にマウントを取り返したかった故の発言が、まさか姉の興味をこんなに引くとは思わなかった。

 

 

 後悔をするも、1度発してしまった言葉は無かったことにできないのだった。

 

 

 そう、弾丸と言葉は1度打ち出してしまえば、2度と戻すことができない。

 

 

 できないのだ……。

 

 

 

■肉屋のオッサンの話■

 

 

 

 

工事中です。

 

 

 

 

■エリザと俺の話■

 

 

 

 

「んふふー、えへへー……」

 

 

 

 雪菜ちゃんと電話で話してから、どれくらい経っただろうか。

 

 

 気が付けば窓から差し込んでくる光が、淡い赤色になっていた。

 

 

 どうやらエリザに抱き着かれて、のんのんびよりしてたらいつの間にか夕方になっていたらしい。これもまた結び。

 

 

 

「ふふふ、幸せぇ……辰巳君、だいすき……これからもいっぱいいっぱいお世話するね、美味しいご飯いっぱい作って、お洗濯して、一緒にお風呂に入って……にへへ」

 

 

 

 俺の胸に時々頭を擦りつけながら紡がれるエリザの言葉。

 

 

 それはまるで俺の心臓を直接くすぐるような、何ともいえない心地だった。

 

 

 幸せという概念の視覚化。俺の目の前で蕩けている少女を例えるなら、それが相応しいと思った。

 

 

 

「はふぅ……へ!? 何か眩しい!? あれ!? もう夕方!?」

 

 

 

 唐突に、夢から覚めたようなエリザが、驚いた顔で部屋を見渡した。

 

 

 

「そうだな、イブニングだね」

 

 

 

「た、大変! ご飯の用意しなくちゃ!」

 

 

 

 慌てた様子でエリザが立ち上がる。

 

 

 先ほどまで体を包んでいたエリザの体温が失われる。

 

 

 

「あ、あわわ……今日は辰巳君のダイエットお祝いで、いつもより頑張ってご飯作ろうと思ってたのにぃ……い、急がないと!」

 

 

 

「いや、無理しなくていいよ。いつも通りで」

 

 

 

「だーめ! 辰巳君頑張ったんだから! 頑張った人にはちゃーんとご褒美あげないと!」

 

 

 

 腕まくりをしながらそんな事を言うエリザ。

 

 

 その言葉、ブラック企業に勤めてる社畜が聞いたら泣いてしまうな。

 

 

 もしくは浄化され輪廻の輪に組み込まれるか、最近はやりのオッサン転生の輪に組み込まれるか……どちらにせよ、それもまた結び。

 

 

 

「えっと、えっとまずはお肉を解凍して……それからそれから……」

 

 

 

 わたわたとエプロンを装着するエリザ。

 

 

 うーん、エリザが本気モードだ。こりゃ、俺が中途半端に手伝いを申し出ていい雰囲気じゃねーな。大人しくテレビでプ〇ネットウィズでも見とくか。

 

 

 テレビの前に陣取る。

 

 

 

「あ、えっと、その前に……た、辰巳君?」

 

 

 

 エリザが声をかけてきたので、リモコンを持ったまま振り返る。

 

 

 

「えいっ」

 

 

 

 ポスンという柔らかい衝撃と共に、エリザがさっきと同じく胸に収まっていた。

 

 

 い、いつの間に……全く動きが見えなかった、これはまさか――縮地か。

 

 

 

「えへー、もいっかい、幸せほじゅー」

 

 

 

 グリグリと胸に頭を擦りつけてくる。どうやらエリザはこうやって頭を擦りつけるのが好きなようだ。

 

 

 だったら俺も同じくエリザの頭に自分の頭をぶち当てるダリフラ的コミニュケーションを取るべきだろうか。え、最終回? うん、まあ……あれはあれでいいんじゃないですかね。ゾロミクが尊かったし。

 

 

 俺が行動に移す前に、エリザはピョンと立ち上がり「じゅーでん完了!」と両拳をグッと握りながら言った。

 

 

 

「じゃ、ごはん作ってくるねー。ちょっと時間かかるけど、辰巳君はゆっくり待っててね? 今日は辰巳君のダイエットおめでとう記念日だから腕によりをかけてご飯作るから!」

 

 

 

「ん、じゃあ楽しみにしとくよ」

 

 

 

 ヒラヒラと手を振る。

 

 

 

「えへへっ。辰巳君の大好物ばっかり用意してるから! デザートにお祝いのケーキも……あっ、これ内緒だった。忘れてね!」

 

 

 

 オーケー、忘れましょう。ついでに発売日にガンブレ新作を買ってしまった記憶もついでに忘れよう。あ、だったら幻水4を発売日に買った記憶もついでに……あ、でも特典のソウルイーターのストラップは嬉しかったし……この記憶は残しとこう。

 

 

 

「ふんふーんふふーん♪」

 

 

 

 鼻歌を歌いながら廊下に消えていくエリザ。

 

 

 

「……ふぅ」

 

 

 

 俺はテレビの前に陣取りながら、体の力を抜いた。

 

 

 本当に……よかった。ダイエットがうまく行ってよかった。

 

 

 雪菜ちゃんは発言こそヤベーヤツだが、実際の行動も――それに違わないヤベー妹だ。つまり真性のヤベー妹ってこと。

 

 

 言ったことは絶対にするし、それを撤回することは絶対にない。それがどんな荒唐無稽な言動だとうと、発してしまえば実際に実践する。そういう子だ。

 

 

 

 昔、雪菜ちゃんが中学生の頃にふざけて『次の期末考査で全科目満点とったら何でも言うこと聞いてあげる。ちなみに神龍みたく自分の力を超える願いは~みたいな制限も無しなwww』って事を調子こいて言ったら、マジで全科目100点取って『ではこれから1か月、兄さんは犬です』という命令のもと、犬として過ごすことになってしまった。無論、家だけでなく、外でも、だ。アレはきつい思い出だ。何がキツイって、家で雪菜ちゃんに犬扱いされるのよりも、学校で犬として全く人語を使わなくても問題なく過ごせる事に気づいてしまったことだ。

 

 

 

 話は逸れたが、今回ダイエットを失敗していたら、問答無用で雪菜ちゃんは俺を連れ帰っていたはずだ。それこそ俺の言い分や待ったも聞かずに。

 

 

 逆に言えば、成功させてしまえば雪菜ちゃんの干渉は一切ない。これでようやく肩の力を抜けるってわけだ。

 

 

 

「……ふぅぅ」

 

 

 

 今の心地よいこの生活が失われるのは辛い。そして何よりも、エリザを1人にしてしまうのが……もっと辛い。

 

 

 一緒に生活をすることで、思っていた以上にエリザの事を好きになってしまったらしい。認めよう。

 

 

 彼女を1人にしてしまうのは心が痛むし、もし彼女が俺の生活から失われてしまうことを想像すると……苦しい。

 

 

 そう、苦しいのだ。想像するだけで金魚鉢の外に放り投げられた金魚のように息苦しくなる。

 

 

 金魚にとって失われてはいけない大切なもの、酸素。俺にとってエリザはその酸素と等しい。

 

 

 大切な物が目の前で失われる、その経験を1度してしまっている俺だからこそ、その苦しさが分かる。

 

 

 もう2度とあの辛い思いをしたくない。だからこの生活は……続かないといけないのだ。

 

 

 続かないといけないって……まるで強迫観念だな。

 

 

 

 

「……ん? 何か静かですね」

 

 

 

 

 先ほどまで聞こえていたエリザが奏でる包丁の音や鍋をコンロに置く音、そしてエリザの鼻歌が聞こえない。

 

 

 

「エリザー? どうかしたのか?」

 

 

 

 廊下と居間を隔てる襖に声をかけるが、返答はない。

 

 

 今までなかったことだ。いつもは声をかければ、調理中であっても襖をあけてピョコっと顔を出していた。

 

 

 

「……」

 

 

 

 妙な胸騒ぎを覚え立ち上がる。

 

 

 襖の前に立ち、もう1度声をかける。

 

 

 

「……エリザ?」

 

 

 

 ……返事はない。

 

 

 返事が出来ない状況かもしれない。例えば凄く調理に集中している状態とか。極限集中状態に入っているのかも。

 

 

 襖をノックしてみる。

 

 

 

「……」

 

 

 

 やはり返事はない。

 

 

 代わりに何かが崩れる音がした。襖の向こうからではない。それは俺の中から聞こえた。

 

 

 久しぶりに聞いた音だ。中学生だったあの頃に効いた音。初めて好きになった彼女を前に、生まれて初めて聞いた音。2度と聞きたくなかった音。

 

 

 

 

 

「エリザ!」

 

 

 

 

 

 勢いよく襖を開く。

 

 

 

『え!? 急にどうしたの辰巳君!? お腹減ったの? もうちょっとでご飯できるから、大人しく待っててね?』

 

 

 

 期待していた言葉は……返ってこない。

 

 

 そりゃ当然だ。

 

 

 だってそこには誰もいない。誰もいなかった。

 

 

 

「……エリザ? おい、エリザ」

 

 

 

 誰もいない。

 

 

 火にかけたままの鍋。切りかけの野菜。落ちた包丁。

 

 

 

「……」

 

 

 

 蠟燭を立てたケーキ。

 

 

 誕生日でもないのに、馬鹿みたいにたくさん刺さっている蠟燭。

 

 

 

『おめでとう辰巳君! これからも一緒だよ!』

 

 

 

 何度か失敗してやり直したのか、拭ったホワイトチョコソースが残ったチョコ板。

 

 

 

 ついさっきまでそこに誰かが存在していた痕跡がそこにあった。

 

 

 だがその誰かはどこにもいない。

 

 

 

 鍋の火を消す。

 

 

 

 何度声をかけても、目視をしても、そこには……誰もいなかった。

 

 

 

「エリザ」

 

 

 

 俺が発した声は反射することなく消えてしまう。

 

 

 それはつまりただの独り言。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 喉が焼けつくように痛い。

 

 

 胸がズキズキする。

 

 

 目の奥が熱い。

 

 

 走ったわけでもないのに、息が荒くなる。

 

 

 

「……エリザ!」

 

 

 

 居間に戻る。誰もいない。

 

 

 エリザの私室である障子を開く。俺の写真が天井に貼られていた。そして敷かれていた布団。

 

 

 やはり誰もいなかった。奥まで確認するも、日記を一冊だけ見つけただけだった。

 

 

 誰もいない。

 

 

 布団には体温も感じない。

 

 

 

「……」

 

 

 

 トイレも探した。

 

 

 出られないと知っていたが、玄関を開き、そしてアパートの中を探したが、大家さんは見つけたもののエリザはいない。

 

 

 アパートを出て周囲を捜索したが、蝉の死骸を集めていた麦わら少女を見つけただけでエリザは見つからなかった。

 

 

 

 部屋に戻る。

 

 

 

 いつも迎えてくれる、エリザの言葉はない。

 

 

 無言と静寂。

 

 

 

「……ただいま」

 

 

 

 発する声が返ってくる前に溶けて消えた。

 

 

 いつまでも待っても返事は返ってこない。

 

 

 俺がいくら玄関で立ち尽くしても、誰も来ない。返事もない。

 

 

 

「ただいま!」

 

 

 

 返事はない。

 

 

 

「ただいま! ……エリザ」

 

 

 

 返事はない。

 

 

 

 返事はない。

 

 

 

 返事はない。

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 そしてこの日。

 

 

 エリザは俺の前から消えてしまった。

 

 

 唐突に、何の脈絡もなく、その存在を消し去ってしまった。

 

 

 

 残されたのは俺だけだ。ただの男子大学生が1人。

 

 

 静かな部屋で俺は立ち尽くす。

 

 

 

 蝉の声が五月蠅い。

 

 

 夏は長い。まだまだ続きそうだった。

 

 

 

 

 

 1人で過ごす夏がこんなに寒いとは思わなかった。

 

 

 

 

 




これにて完結です!


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。