ロリータ・コンプレックス (茶々)
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プロローグ

にじファン閉鎖に伴い移転してきました。
既に完結済みではありますが、七月いっぱいかけて移転作業を完了したいと思います。


 

 

 

―――バスケットボールがフローリングに弾む音が、やたら大きく響いた。

 

 

 

開け放たれた部屋から一陣の風の様に鼻孔を擽る臭いと、防音完備であるが故に外部の音による干渉を遮断し続けてきた空間からつんざく様に響く嬌声が、今目の前に広がる光景が夢や幻の様な空想上の嘘ではなく、紛う事無き真実である事を雄弁に告げる。

徐々に力を失い、やがて床を転がり始めたボールはそのまま駆けあがってきた階段を転げ落ち、盛大に何か陶器の様なモノを粉砕する音を響かせて姿を消した。その轟音に、漸くといったタイミングで入口の方を見やった部屋の主とそれに連れられた少女は、しかし先程まで浮かべていた恍惚とした表情を蒼白に染め上げる。

 

憾むべきは年不相応に成熟した知識を生半に覚えてしまっていた少年の知性か、或いは禁忌でありながらその背徳の果実に酔いしれてしまった二人の行動か。その空間に理性は存在せず、快楽すらも失せてしまった世界に残ったのはただ恐怖と拒絶。

 

 

全てが止まっていたかの様な世界に、下階から響いた女性の声が再び時計の針を進める、と同時に少年は弾かれた様に駆けだし、転げ落ちる様に階段を下り、逃げる様にして家を飛び出した。普段から朝夕の走り込みと兄弟で鍛えてきた脚力の賜物か、陸上部もかくやと言わんばかりの速度で駆け出した少年の背が完全に家から見えなくなった頃になって漸く自分達の姿を思い起こした青年と少女は、しかしバタバタと音を立てて階段を上がってくる女性が自分達を視界に収めた瞬間に響いた絶叫に、世界の終わりの音を聞いた。

 

 

 

下校際、昼間の快晴が嘘であったかのように曇り出した空からは何時の間にか大粒の雨が大地に降り注ぎ始め、春先にその可憐な花弁で優美な空間を生み出す木々に容赦なく打ちつける。唐突な大雨に人々があちらこちらに蜘蛛の子を散らす様に雨宿りする場所を求めて走る中、少年は当ても無く我武者羅に走りながら、やがて行きつけのバスケットコートへと自然と辿りついた。

 

 

荒々しく乱れる息も気にせず、天から降りしきる雨に打たれる身体を気遣う事もなく、少年はフェンスの金網をこれでもかと力を込めて握り締めた。

錆ついた金属の奏でる不愉快な不協和音が、コートに打ちつける雨が鳴らす拒絶の合唱が、全てが今感じている世界が、あの時視界に映ってしまった光景が現実で、真実で、事実である事を何よりもハッキリと自覚させる。

 

 

 

いっそ、夢であって欲しかった。

幻であれば、どれ程楽だっただろうか。

 

砕け散った理想が現実に押しつぶされ、真実という重圧に何もかもが消えてなくなりそうになる。

あの行為が何を意味するのか、それがどういう意図で行われたのか。そんな事は何一つ分からないし理解も出来ない。

 

 

 

ただ一つ、少年は分かっていた。

 

 

 

だからこそ少年は泣きじゃくった。大粒の涙を零し、豪雨の中に消えてしまいそうな程にか細い声で、全てを押し殺してただ泣いた。

 

 

 

 

 

春新しく、希望に芽吹く四月の季節外れの大雨に見舞われた、その日。

少年は、絶望と出会った。

 



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S1 男バスVS女バス
第一Q 水崎進と言います


水崎進(みずさきすすむ)の朝は早かった。

朝方の走り込みとシュート練習の為に毎朝五時半に起き、六時までに準備体操を含む諸々の準備を終えなければならないからである。兄と一緒に暮らしていた頃は毎日の様に眠い目を擦りながら兄の背を追いかけて同じものをこなそうとしたもので、しかし未だ中学生未満であるが故にそれ程傑出した体力も持たない身の上では精々兄の行程の六割から七割程度が精一杯だった。

 

最も、最近では早起きの習慣ばかりが無駄に残ってしまい、する気も起きないトレーニングに励む程の気力もない為に、準備体操を中心とした柔軟と申し訳程度のランニングで身体を解す事が殆どである。

バスケを離れてから――正確に言えば、一家が離散してから――進はそれまで熱意や情熱を注ぎ続けてきたあらゆるものが酷く下らなく、つまらないものに思えてしまった。

 

実の兄、水崎新は近隣にもその名を轟かせるバスケットボールの名選手であった。同年代の相手なら敵なしとまで謳われ、個の力も然ることながらチーム全体の力を引き上げる卓越したセンスを持っていた。

専業主婦であった母や中堅会社の管理職を務める父は無論のこと、実弟の進もそんな兄の事を誇りに思い、また同時に目標にしていた。だからこそ小学校入学と同時に『バスケを始めたい』と嘆願し、兄と同じ様にトレーニング漬けの日々を送り始めていたのである。

 

だが、ほんの数週間前。

兄が、これまで羨望と尊敬の対象であった兄が、所属する高校のバスケ部顧問の娘と関係を持っていた事が露見して、その瞬間に進の世界は一変した。

 

穏やかな笑顔が美しかった母はノイローゼに陥り、見るも無残な程に痩せこけていった。

父は肩身の狭さから退職を余儀なくされ、やがて酒に溺れる様になった。

それまで親しかった友人からも腫れ物の様に扱われ、やがて見かねた叔父夫婦が進の養育保護を申し出てくるまで、進にとっては全てが絶望だけの世界だった。

 

以来、叔父夫婦の家に居候の身となった進は、子供のいない二人にとって実の息子の様に可愛がられながら、しかし心の何処かで疎外感の様なものを鋭敏に感じ取っていた。

居候すると同時に転校となった小学校でも、春先の唐突な転校生という異分子に対する抵抗にも似た感情を感じた進は、学校でも自宅でも一人で過ごす事が多くなっていた。

 

兄、新とは『あれ』以来口もきかなければ、居候後は顔すら合わせていない。自主退学扱いで学校を追いだされたと叔父が語っていたが、率直に言えば進にとって最早兄は『どうでもいい』存在だった。

 

否、『家族にとっての自分自身』がどうでもいい存在なのか。

 

「……ッ」

 

あの時、自分が逃げ出さずにいれば母が気づいて上に上がってくる事はなかった。

あの時、自分が兄をミニゲームに連れ出そうとしなければあの現場に居合わせる事はなかった。

あの時、自分があんなに早く帰って来なければ―――

 

『あの時』から、進の中の時計は止まったままだった。

喜びも、悲しみも、憎しみも、怒りも、何一つ浮かばない心のままで惰性の様に数週間を過ごし、ただただ罪悪感だけが膨張する風船の様に膨らみ続ける毎日。

自分の所為で家族が崩壊し、自分の所為で母が、父が―――そして兄が今も苦しんでいる。

 

そう考えただけで胸が張り裂けそうになる。息苦しくなる胸を鷲掴む様にして進は手をやり、そうして初めて今朝の時間の浪費に気づいた。

 

「……やっべ、今日当番だ」

 

今朝の分は夕方に―――いや、もうバスケをする事はないのだから別にいいか、とも考えたが生来の律儀さからくる実直な心根がそれを咎め、結局は夕方に今朝の分も追加する事を決意して部屋へと戻っていく。

 

今朝は学級全員に割り振られた係当番、日直だった。

 

 

 

転校生、という存在は多かれ少なかれ奇異な目で見られる者が多い。それは年齢を重ねる毎に淘汰され徐々にその異分子に対する抵抗感も薄れていくのだが、小学生という十代になりたての頃では自分達の知らない場所から来た存在というものには様々な興味が湧くモノである。その興味が抵抗感なのか、単純にもっと知りたいという欲求からくるものなのかはさておいて、進級間もない時期にこの慧心学園初等部へと転校してきた進もまた、相応の好奇の視線と幾多の質問を以て迎えられた。

元々在学していた小学校では兄の名は轟き過ぎており、故にこれまでその重圧を寧ろ率先して背負ってきた節もあり、故に周囲の白い目に耐え切れず転校を余儀なくされた進のある種の対人恐怖症にも似た斜に構えた態度は、一目置かれるというよりも何処か異物として6年C組に抱え込まれた。

 

小学校中高学年の、主に男子生徒で構成される仲間集団を指して『ギャング・グループ』と呼称する事がある。嘗て見られたガキ大将とその取り巻きを総称して言う言葉であるが、初等部から大学までエスカレータ式の由緒ある私立校である慧心にはその様な悪戯ばかりを繰り返して教師を困らせる様な腕白な生徒はおらず、しかし元々その腕白坊主ばかりが集う様な市立校に通っていた進にしてみれば慧心のお坊ちゃん・お嬢様的な空気は何となく居心地が悪かった。

私服で通っていた所も制服に正され、ランドセルはバックに変更。スクールバスでの通学や一部のプチブルジョワ特有の成り金染みた鼻に付く態度も進の反抗心を刺激した。

 

担任の篁女史があれ程奔放で、それでいて真摯な人物でなければ早々に進は不良のレッテルを貼られていただろう。

何処となく猫っぽく「にゃふふ」と笑いながらどら焼きを齧る担任の姿が一瞬脳裏を過り、何も朝っぱらからこんな事考える事もないだろうと思いながら慣れた手つきで花瓶の水を入れ替えた進は半分空いていた教室の扉を足で全開にした。

 

「ひゃぅっ!」

 

と、教室前方から妙にか弱い声が響いた。

ドアの叩きつける様な音にびっくりしたのだろうか、同年代にしては随分と発育の良い背丈の体躯を小さく竦めて、おっかなびっくりな表情で目を潤ませながら此方を睨む……訂正、見つめるクラスメイト。

 

「……香椎、愛莉」

「は、はぃっ?」

 

凄い及び腰である。

それはもう凄い及び腰である。

 

特に大事でもないけど何となく繰り返した進は、本日のもう一人の日直担当者の名前を口にした。

 

香椎愛莉。

中学生どころか下手をすれば高校生に見えなくもない身長と相応に発育した体躯、その癖赤子の様に気弱で貧弱なメンタルと態度の少女は、淡いピンクの制服に包まれた身体を若干縮こませてビクビクしながら此方を見ている。

何だろうか、特に何かしらの圧力を加えた覚えは全くないのにまるで自分が悪者であるかのようなこの状況。

 

……余り面白くない事ではあるが、或いは自分のこのふてぶてしい態度が如何にもお嬢様らしく蝶よ花よと育てられた温室お嬢様には不良に見えたのだろうか。

だとすれば、このまま日直だからという理由で彼女に圧力を強いるのも酷な事ではなかろうか。

 

「後やっとくから、香椎はもういいよ」

 

胸中でそう結論付けた進は、花瓶を置いた踵をそのまま黒板の方に向けて歩き出し、香椎が手に持つ黒板消しを求める様に手を出す。と、そんな動作にも一々怯えながら身体を竦ませる香椎の態度に若干の苛立ちを覚えた。

 

はて、果たして自分はこれ程沸点の低い人間だったのだろうか。

何故かはさっぱり分からないが、香椎に怯えられるという事が進にとっては酷く不愉快な事に思えた。

 

「ふぇ?……だ、駄目だよっ!日直はみんなで順番にやらなきゃ……いけ、ないんだから…………」

 

徐々に語尾が弱くなっていくのは、その怯える様な視線にイラつく自分の眼光に更に怯えるという負のスパイラルが連鎖反応を起こしているからか、差し出したまま虚空に浮かぶ右手が彼女には捕食者の牙にでも見えるのだろうか。

 

そのまま睨み睨まれがきっかり十秒続き、根負けしたのか呆れたのかどうでもよくなったのか、本人が言うのだからいっそ任せてもいいかと思ったのか。右手を下ろした進はそのまま香椎の隣を通り過ぎて出席簿を取りに職員室へと向かう。

 

教室を去り際、やたら安堵した様な面持ちの香椎の横顔が妙に進の印象に残った。

 

 

 

 

 

 

私立とはいえ、初等部の昼食に学食などといったシステムは存在しない。故に生徒達は配給される昼食をクラス内の好きな座席に座って食べる形になる。

これが市立であれば班分けなどが存在して孤立する生徒はまずいないが、それでも孤立する子供というのはある種の疎外感を感じ易いものである。取り分け多感な時節にあたる初等部高学年ともなると、それまでの理由のない単純な「好き・嫌い」が仲間意識や体裁などを気にした「包容・排斥」になり、そこから来る拒絶反応は凄まじいものがある。

 

だから、どうしても打ち解けられない・あぶれてしまう生徒が出てしまうのだ。

これがいじめの要因となる事も決して少なくない。

 

「………………」

 

以前居た学校ではそれなりの付き合いがあったから合わせていたが、基本的に進は食事をする時に相手がいようがいまいが会話なしで食事を黙々と進めるタイプの人間である。

食事そっちのけでお喋りしたり、食事と会話を同時進行する器用な人種と違い、進は何か食べている時は余り喋ろうとしない性格だった。それも別に行儀云々の話ではなく、単純に食べている最中は話したくないだけなのだが。

 

こういった生徒がいると、大抵お節介焼きのクラスメイトや担任の教師は自身の心持としては気を利かせたつもりになって一緒に食事をとったりするものだが、この時進に投げかけられた誘いは最終的にグループへの取り込みが介在する事になる同席勧誘ではなく、

 

「水崎、バスケしようぜ!」

 

群青ツンツン頭のクラスメイトによる強制連行だった。

 

 

 

五月を間近に控えたある日の朝。

新しい学年、新しいクラスでの生活が始まって一カ月近くが過ぎ、クラス内における人間関係がすっかり定着して、生徒達は新しい環境でそれぞれに毎日を過ごしていた。クラス替え前からの友人や新しいクラスで出来た新しい友人、それに部活動で日常的に顔を合わせているチームメイト等々、いずれもが楽しそうに談笑していた。

 

そんな中にあって、窓際の席に座りながら外をぼんやり眺めていた竹中夏陽はちょっとだけ不機嫌だった。

自分以外の男バス部員がこのクラスにいない事が退屈で、既に公然の秘密となっている(本人は未だに隠し通せていると思っている)自らの懸想する相手――袴田ひなた――が同じクラスである事が幸福で、幼馴染の三沢真帆まで一緒のクラスである事が憂鬱なのだが、今自分の心をざわめかせる原因はそれらではない。

 

先程からクラスのあちらこちらでちらほら聞こえる『転校生』というワードと、何処から聞いてきたのか女子の一人が口走った『芝浦小』という単語。

こんな中途半端な時期になんで?とか、最早虚実の区別もつかない様な噂はどうでもよく、問題なのは『芝浦小からの転校生』という新しいクラスメイトの事のみだった。

 

市立芝浦小学校。

自身が在籍するこの慧心学園とは比べる事もないどころか共通点も接点も皆無な、取り立てて学力が県下トップクラスであるとか今をときめくスターを輩出したとかそんな小学校ではない。

 

しかして。

 

バスケットボール。

その一点において、夏陽にとって芝浦小は忌むべき宿敵とも云えた。

 

忘れもしない、先の県大会第一回戦。地区大会を見事優勝で飾り意気揚々と本戦に乗り込んだ自分達を徹底的に叩きのめした県下屈指の強豪チーム。昨年度の全国大会にも出場し、同区内でなかった事をむしろ喜ぶべきかもしれない相手。

 

そんな所からの転校生、と聞いて夏陽は朝から少しの不安を抱える事となった。

六年生の五月直前という時期の転校。もし仮に、その転校生が男であれば―――もし仮に芝浦小の元バスケ部員であれば―――もし、もしもそいつが慧心でもバスケ部に入ろうというのなら――――――

 

ただでさえ現在進行形で練習時間が不足している男バスに、控えですら県大会常連校クラスとさえ謳われる芝浦小の選手。

仲間意識の一際強い夏陽にとって、その異分子が自分達のチームに割って入り、そこに居座るのではないかという危惧と、昨年の雪辱を晴らす為には貴重な即戦力とも取れる新しい人材の加入が彼の天秤を揺らしていた。

 

チャイムが鳴って担任の篁美星が入ってくる。と、その二歩後ろをついて続けて入ってきた男子にクラスが俄かにざわめいた。

お祭り好きの三沢辺りがさも騒ぎ出しそうな空気の中、夏陽は目を見開いてそれまでの憂鬱さや不機嫌さなど微塵も残らない程の衝撃を受けた。

 

変な飾り気など微塵も感じさせない真っ黒な髪に、何処か達観した様な澄んだ目つき。柔らかな曲線を描く眉に縁取られた様な双眸はクラス内をぐるりと見回し、傲然とクラス中の視線を集めながらまるで他人事の様に落ち着いている。

クラスの中が活気づく中、夏陽だけはこの中の誰とも違う事を思っていた。

 

―――楽しかったよ!またやろうね

 

自分より頭一つ高い身長でありながら、むしろ自分より余程子供っぽく楽しそうに笑って、『バスケを心から楽しんで』いた芝浦小の背番号5番。

大会終了後に刊行されたスポーツ誌にも満面の笑顔を浮かべていたあの少年が、試合において無類の奮闘とチーム躍進の原動力となったあの選手が、どうしても夏陽の脳裏にこびり付いて離れない。

 

その少年が今目の前にいて、しかし夏陽には彼が以前とは違って見えた。

 

よくよく注視してみれば、その表情は何処か憔悴して見える。これからの新生活に対する不安や希望とは違った、まるで罪悪感の塊を背負いながらも逃げ続けている様な面持ちに、仮面の様に冷たい微笑を湛えて美星の独壇場と化した演説、もとい転校生の紹介時間を潰している。

 

「じゃあ、水崎の席は……っと、そこが空いてるね。じゃああそこに座って」

 

美星の言葉に従い、水崎はもう一度クラス内をぐるりと見回してから再び能面の様な笑みを静かに浮かべて定型句の挨拶を述べる。

 

「水崎進と言います。これからどうぞ、宜しくお願いします」

 

 




誰得な個人情報・その一

[名前] 水崎 進
[生年月日] 12月24日
[血液型] B型
[クラス] 6年C組
[身長] 153cm
[ポジション] PF
[所属係] 飼育係
[学業] 中


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第二Q そう考えていた時期が私にもありました





 

―――歓声の中にあって、驚く程に意識は集中していた。

 

まるで自分の周りだけが静寂に包まれているかの様に静かで、ボールが跳ねる音も、バッシュが床を擦る音も聞こえない。途切れそうになる息すら落ち着いている様に感じ、次にどう動けばいいのか―――ただそれだけに神経を注ぐ事が出来る。

 

キュッ……キュ!キィ!キッ!

 

身体が軽い。まるで羽でも生えたかの様に素早く、鋭くコートを駆け抜けられる。

 

進路を塞ぐ様に身体を割り込ませる―――身体を翻してかわす。

ボールを奪わんと手を伸ばす―――ドリブルを止める。一歩、二歩。

二人の相手が一斉に迫り来る―――遅い。もうコースは見えている。

 

放った瞬間から綺麗な放物線を描いたボールは、吸い込まれる様に一直線にゴールへと向かう。

止められない。止まらない。

 

止まる訳がない。

 

全てが予定調和であるかの様にネットを揺らしたボールがコートに落ちる。と同時に、けたたましいブザーを皮きりに周囲の歓声が一気に押し寄せてきた。

 

それは終了の合図であり、同時に勝者を決めた瞬間だった。

その瞬間の光景は、今尚目に焼き付いて離れない。

 

――――――世界があんなにも輝いて見えたあの瞬間を。

 

 

 

 

 

 

その日、教室に入った愛莉を真っ先に出迎えたのは「転校生が来る!」と喜色を満面に浮かべて知らせてきた友人、三沢真帆の笑顔だった。

 

「さっき聞いたんだけどな!今日転校生が来るんだって!しかもウチのクラス!!」

 

あっちこっちに忙しなく動き回りながら騒ぎ立てる真帆に、呆れた様に彼女の幼馴染である紗季がため息を洩らした。ちなみにもう一人の幼馴染は窓の向こう側を眺めながら何だか憂鬱そうな雰囲気を漂わせている。

 

「今からそんなにはしゃいでどうするのよ真帆」

「何だよー、紗季は楽しみじゃないの?ねっ、ねっ!ヒナは楽しみだよねー?」

「おー」

 

真帆の言葉に、こちらも顔を綻ばせながらヒナこと袴田ひなたが同意を示す。

 

「どんな子が来るのかな?」

 

と、疑問符を浮かべたのはこちらも一年程前に転校してきた元転校生の湊智花。

小首を傾げる友人に「そういえば」と一拍置いて紗季が口を挟んだ。

 

「芝浦小からの転校生、って聞いたわね……」

「芝浦小って?」

「バスケの強豪校だよ。男子も女子も、去年の全国大会に出場しているんだよ」

 

愛莉の問いかけに、バスケ経験者である智花が素早く返した。と、その言葉を聞いた真帆は真夏の太陽よりも輝かんばかりに顔を綻ばせた笑顔を浮かべて跳ねた。

 

「じゃあさ!じゃあさ!!もしかしてその子もバスケ経験者かな!?」

「いや。別に経験者とは限らないでしょ……第一、男だったら女バスには入れないわよ?」

「なんだよ紗季ー、まだ男だって決まった訳じゃないだろ?」

「女と決まった訳でもないけどね。それに、仮に経験者だったとしても、こっちでもバスケ部に入るとは限らないでしょ?」

 

冷静な紗季の指摘に、一転して真帆は不機嫌そうな面持ちになった。

 

そんな話を聞きながら、愛莉はふとどんな子が来るのだろうかと想像してみる。

男だろうか、女だろうか、得意なスポーツはなんだろうか、仲良く出来るといいな……等々。クラス内のそこかしこで似た様な話が飛び交い、一部誇大妄想とも思える様な話も飛び出している。

 

「ほらー、チャイム鳴ってるわよ。席着きなさーい!」

 

と、チャイムと同時に担任の美星が笑顔で教室に入ってくる。普段であればその一言で皆がテキパキと席に戻るのだが、今日ばかりは担任の二歩後ろを歩く新顔の登場にその動きも鈍り、むしろざわつきが一層高まる。

 

「ほーら!さっさと席に着く!」

 

パン!と手を叩き、その音に漸く教室内に普段の空気が戻り皆が椅子に座る。女バスの仲間と共に愛莉も急いで自分の座席に座り、鞄を置いて前を向いた。

 

「じゃあ今日はまず最初に、みんなも知っての通りでお待ちかねの転校生の紹介から始めるぞー!」

 

その声に、クラス中が一斉に活気づいた。真帆などは椅子から飛び上がらんばかりに悦びを露わにしており、隣に座る紗季に宥め躾けられている。

 

転校生は男の様である。着ている制服が男子用の青いものである事からも容易に察しがつく。髪の毛は一般的な黒で、しかし茶髪や金髪など様々な色が揃っているこのクラス内にしてみれば少し真新しいものを感じる。緊張はしていない様だが、何処となく硬い感じの表情はどうにか作りましたという申し訳程度の微苦笑を湛えており、隣であれやこれや質問や紹介をしている美星の攻勢を凌いでいる。

 

「水崎進と言います。これからどうぞ、宜しくお願いします」

 

―――大人しそうな、ちょっと無口な感じの男の子かな?

 

その転校生―――水崎進に対して、香椎愛莉が抱いた最初の印象は、そんなものだった。

 

 

 

 

 

大人しそうな、ちょっと無口な感じの男の子かな?

そんな風に考えていた時期が私にもありました。

 

「もっぺん言ってみろ!」

 

鼻息荒く詰め寄る男子生徒数名を真正面に相手取りながら、酷く冷淡な声音で進が淡々と口を開く。

 

「ロクな練習をした事もないくせにバスケをつまらないとか決めつけた挙句、負け組の分際で八つ当たりとか、もう一度幼稚園からやり直してこい……って言ったんだけど、もしかして日本語通じないの?」

 

可哀そうなものを見る様な目つきで、酷く憐れんだ様な口調で、無表情なのに何だか物凄く怖い雰囲気を漂わせながら進の言葉は続いた。

 

「何語なら通じるの?ばか語?幼稚園児語?悪いけどどっちも習得してないからせめて日本語が理解出来る頭になってくれる?ああ、出来ないから通じてないんだっけ。悪いとは全く思わないけどとりあえず謝ってあげるからその臭い息吹きかけるの止めてくれる?君の存在が環境汚染の一端を担っているって事を数万分の一でも理解出来るんだったら今すぐ呼吸を止めるか人間を辞めてくれれば二酸化炭素による環境汚染が六十億分の一も止まるんだよ?ワォ、地球に優しいエコロジー精神万歳だね」

 

事の発端は何だっただろうか。

確か体育の時間にバスケをやる事になって、いつもの様に女バスの面々がチームを組んで、いつもの様に徐々に熱中し始めた智花の孤軍奮闘というか一騎当千な無双ぶりで男子のチームを蹴散らして、そうしたら相手チームがぶーたれたというか臍を曲げたというか、そんな感じでそのうちバスケそのものに対する不平不満になった途端、物凄く分かりやすい程に馬鹿にした嘲笑を浮かべて進が口を開いたんだっけか。

 

初めは苦々しそうな表情だった女バスの面々も、何か言いたげだった夏陽も、今や揃いも揃ってぽかーんとした表情で事の成り行きを見続けている。

 

「んだと……テメェ!」

 

ぐいっ、と襟の辺りを掴んだ男子生徒が今にも殴りかからんと拳を振り上げる。どこからかひっ、と悲鳴が聞こえるが、まるで他人事であるかのように落ち着いた進の声が尚も続いた。

 

「すぐ手を上げる時点で頭の出来が知れるよね。馬鹿語も幼稚園児語も通じないって理解出来るんだったらもう少しその足りない脳みそ絞って自分の存在が間違っているっていう事を認識したらどう?そこの床に這いつくばって地球に生まれてきてごめんなさいとか言ってみなよ、盛大に笑ってあげるから」

 

言って、進があくどい笑みを湛える―――瞬間、中立静観を保っていた美星が両者の間に割って入った。

 

「はーい、そこまで」

 

一瞬で、それまで張り詰めていた空気が一気に霧散する。何処からともなく安堵の息が漏れ、体育館の中にいつもの空気が戻ってきた。

 

「アンタ達は一人相手に寄ってたかって詰め寄らない。ゲームに負けたからってぐちぐち文句をいうのも男らしくないな。男だったらスパッと負けを認めなさいよ」

 

次いで進の方を向いた美星は少し眉を顰め、

 

「アンタも、そうあからさまに喧嘩を売るんじゃないの。分かった?」

「はい」

 

返事だけはしっかりとして進は先程まで自分が座っていた壁際に戻って行く。

対面の壁に寄りかかる様にして座っていた愛莉には、その背が何故か大きく見えた。

 

 

 

その頃からだろうか。

水崎進という転校生の立ち位置が、クラス内で微妙に浮いた存在となったのは。

 

別段いじめの対象になったとかそういう訳ではない。

ただ何となくクラス内の輪から微妙に距離を取って、何処か客観的な視点から教室を眺めるというスタンスを取り始めたのだ。

クラスの人間も、初めの頃は休み時間になれば興味津津にあれこれ問いかけようと彼の机に迫ったというのに、今となっては教室内で彼と接触するという事すら殆どなくなっていた。

昼食も一人で黙々と食べるし、登下校のスクールバスの中でも一人で窓の外をぼんやりと眺めている。割り当てられた係の仕事や日直などはしっかりとこなしているし、誰かと言い争いになったりなどはしていない為か取り立てて問題視されている訳でもないというのに、まるで異物を取りこんでしまったかのようにクラスの空気がどんより重くなる。

 

その内、女子バスケットボール部の廃部存続云々の話が持ち上がると愛莉もそちらに意識を傾ける様になり、次第に進を観察する事も少なくなっていった。

そして、女バスの存続を賭けた対抗試合が徐々に迫ってきたある日―――

 

「水崎、バスケしようぜ!」

 

そんな声が真昼の教室内に響いた。

 

 




誰得な個人情報・その二(捏造篇)

[名前] 竹中 夏陽
[生年月日] 8月9日
[血液型] A型
[クラス] 6年C組
[身長] 149cm
[ポジション] SF
[所属係] 飼育係
[学業] 中


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第三Q 水崎、バスケしようぜ

 

その日、夏陽は何時になく焦っていた。

理由は単純、幼馴染であり女バス成立の立役者である真帆が朝っぱらに自信満々に話していた台詞が原因で、要約すると、

 

「すげーコーチが来たから日曜の試合はアタシらの圧勝だぜ!!」

 

といった内容である。

 

お遊びのボール遊びしかやってこなかった女バスにコーチがついて、しかもそのコーチは真帆曰く『すげー』コーチで、真帆の運動神経の良さは幼馴染である自分が一番良く知っており、その真帆をして『すげー』と言わしめるコーチが来た……その事実に、夏陽は何時になく焦りを感じていた。

 

これでは自分達の望みである練習量の増加、ひいては昨年の雪辱を晴らす為の特訓の機会が失われてしまう。

一バスケ選手として、そして男子バスケ部キャプテンとして思い悩んでいた夏陽は、女バスとの対抗試合に備えて芝浦小からの転校生であり、昨年の県大会初戦でその実力をまざまざと見せつけられた進に協力を仰ぐ事を考えた。

 

無論初めから彼の力をあてにする訳ではない。そんな事は仲間の信頼を裏切る愚行であり、何より自分自身のプライドがそれを許す筈もない。そもそも自分達の地力を充分に発揮すれば、遊んでばかりでロクに練習もしない女バスなど相手ではないのだ。

 

だが、同じクラスであり真帆に女バス設立を決意させた去年の転校生、湊智花。

以前の体育の時間でもその力は十二分に脅威として認識しており、下手をすれば自分よりその実力が上である相手を抑えるには、相応の鬼札(ジョーカー)が必要になる。

そこで――この間の体育の時間を見た限りでは――プレイスタイルの似ている彼を『仮想敵』としてはどうだろうか。

 

自分が智花をある程度抑えられれば、あとは素人のお遊び集団。男バスの敵ではない。

 

そう思い立った夏陽は、給食の中でも大好物であるシチューをおかわりもせずに即座に片付けると、一人で黙々と食べ進める進の元に向かって、

 

「水崎、バスケしようぜ!」

 

 

 

 

 

美星がその姿を見止めたのは、全くの偶然と言ってよかった。

甥っ子を焚きつけて女バスの臨時コーチに仕立て上げ、今度の日曜日に迫った対抗試合に備えて準備万端と思っていた矢先に、ふと目にとまった光景。

 

キュッ……キュ!キィ!キッ!

 

体育館の方から聞こえたボールの弾む音やバッシュの擦れる音に、さては智花が昼食そっちのけで自主錬でもしているのかなと考えて様子を見に行ったらさに非ず。

二人の男子生徒―――男バスキャプテンの竹中夏陽と噂の転校生水崎進が1on1をしているではないか。

 

しかもよく見れば、夏陽の方は手を膝に当てて息を切らしているというのに進の方は漸く身体が温まってきたといった様子で未だ余裕綽々な面持ち、等と考えている間にも進がドリブルで軽やかに夏陽をかわしてレイアップを決めた。

 

「くそっ!」

 

即座に攻守が交代され、今度は夏陽が攻めかかる。地区大会優勝の実力は伊達ではなく鋭いドリブルで進をかわし―――途端、ボールがあらぬ方向へと跳ねた。

進の手がボールを弾いたのだ。完全に死角に潜り込んだ筈の夏陽のボールを。

 

「うわ……すっげ…………」

 

その様に、ただただ美星は感嘆の息を洩らした。

転校早々クラス内で浮いてしまった進は、丁度一年ほど前に転校してきた智花に良く似ていると美星は思っていた。

 

バスケ馬鹿で、人と接する最初の一歩が苦手で、負けん気が強くて、頑固で。

 

だからこれはいい兆候なのではないだろうか、と美星は思い、いやいや、もうすぐ対抗試合だというのにこのタイミングであのカマキリの手駒が増えては困ると考え、けれど折角打ち解けてくれたんだから邪魔したくないなぁ、と、色んな考えや思いが美星の中で渦巻いた。

 

智花にとって、周囲と打ち解ける切欠が真帆であった様に。

進にとっても、夏陽がその切欠になってくれるのであれば……

 

キュ!キッ!

 

もう随分と見慣れてきたのだろうか。地力での順応性が高い夏陽が進のコースを塞いで動きを封じ込め始めた。僅かに夏陽の表情に笑みが戻る―――と同時に、その表情が一瞬にして凍りついた。

 

「なっ……!?」

 

驚きの声を洩らしたのは夏陽か、或いは美星か。

一瞬何が起きたのか分からず、しかし次の瞬間にはボールが吸い込まれる様にゴールネットを揺らし、てーんてーんと皮の跳ねる音が体育館に響く。

 

「冗談でしょ……?」

 

思わず苦笑が洩れる。

苦戦なんてレベルじゃない。

 

―――このままじゃ、負ける!

 

 

 

何度目のシュートを決めただろうか。

ボールの弾む音よりも、目の前で呼吸を乱す夏陽の息使いの方が余程大きく聞こえる空間の中で進は考える。

 

昼食を黙々と食べていた所をいきなり腕を掴まれ、何事かと考える暇も与えられず体育館へとバッシュ片手に連行され、何時の間にか「俺が勝ったら男バスに入れ!」だの言いだした夏陽を相手に1on1を始めて十数分。

流石にそろそろ体力的にも空腹具合的にも宜しくないのだが、しかし既に体力が自分よりずっと尽きかけて見える夏陽が未だに闘争心をギラギラ滾らせた眼で此方を見ている以上この勝負は続くのだろうと思い、思わずため息が洩れる。と、その瞬間に夏陽の手がボールに迫る。

 

「んっ」

 

ターンから一歩、二歩と軽やかに飛び上がりシュート。

さて次は夏陽の攻撃、と思った所で後ろでドタンと盛大な音を立てて何かが倒れた。

 

慌てて振り返ると、やはりというか予想通りというか見事に仰向けにぶっ倒れた夏陽の姿がそこにあった。

 

「大丈夫?」

「ぜぇ……ッ、ぜぇ……やっぱ凄ぇな、水崎は」

 

息を切らしながらよくもまぁ喋れるものだ、と内心関心しながら手を差し出す。手を掴んだ夏陽を立ち上がらせると、再び先程の闘争心剥き出しな瞳が進の双眸を射抜く様に見つめた。

 

「なぁ水崎、やっぱ男バス入ろうぜ」

「それは……お前が勝ったらっていう話だろ」

「でも、さっきのお前は良い顔してたぜ」

 

そこで一旦区切ると、何を思ったのか覗きこむ様にして夏陽が顔を近づけた。唐突な接近に思わずたたらを踏む様に数歩下がった進を見、夏陽はニカッと笑みを浮かべると、

 

「今の仏頂面より、よっぽど楽しそうな顔してた」

「……ッ」

 

悪意のないその言葉に、しかし進はグサリと肺腑を抉られた様な感覚を覚えた。

 

そのままそっぽを向いた進の行動を照れと思ったのか、夏陽は先程進がした様に手を差し出す。

 

「水崎、バスケしようぜ」

 

 

 

 

 

 

それは一種の罪悪感なのかもしれない。

悪意のないあの一言に、言い様のない痛みを感じたのは。

 

『水崎、バスケしようぜ』

 

無理やりではあったが手渡された入部届け。けれどそこに名前を、『バスケ』の三文字を書き込む事が酷く罪深い事の様で、手に握ったボールペンが鉛の様に重く感じられた。

 

家族を壊したのは自分。

父母を不幸に追いやったのは自分。

兄からバスケを奪ったのは自分。

 

『今の仏頂面より、よっぽど楽しそうな顔してた』

 

ギリッ、と奥歯を噛み締めた。

 

楽しんではいけないんだ。

喜んではいけないんだ。

 

何故なら自分は、大切な肉親を、大好きな兄を不幸に追いやった張本人なのだから。

 

だから自分は幸せになってはいけない。

だから自分は喜んではいけない。

だから自分は――――――もう大好きだったバスケと、関わってはいけない。

 

そう思って―――そう思い込もうとして、けれど。

 

『なぁ水崎、やっぱ男バス入ろうぜ』

 

あの時あの瞬間、自分は何を思っていた?何を考えていた?

 

 

 

部屋の中に月明かりが差し込む。夜の帳が降りて、世界は静寂に包まれる。

 

酷く綺麗な満月の夜に、一筋の雫が零れ落ちた。

 

 

 

 

 

後に6年C組において『真昼の決闘(マッチ・ディ)』という妙な呼び方をとある養護教諭から授けられた一件から、クラス内に妙な変化が訪れた。

 

その起因となったのは言うまでも無く夏陽なのだが、彼本人としては進を対智花用の『仮想敵』とする事を当初の目的としていたのだが、何故かクラス内では『袴田ひなた争奪頂上決戦』という認識がなされ、当人たちの預かり知らぬ所で「どちらが無垢なる魔性(イノセント・チャーム)を射止めるか」という話で日夜盛り上がっているとかいないとか。

終いには「今度の対抗試合でより多くの点をとった方がひなたと付き合える」とか「水崎進と竹中夏陽を倒せばひなたに告白出来る」とか、何処から出てきたのかも分からない様な妙な噂まで飛び交い、後者の話を鵜呑みにした一部の男子生徒が昼休みになると体育館でひたすら1on1を繰り返す――というより、二人しかいないのだからそれ以外出来ない――二人に勝負を挑んではあっさり破れる光景が日常的にみられる様になったとか。

その中には男子バスケットボール部員によるキャプテンへの反逆染みた面白半分の参加もあったとかなかったとかいう話だが、こちらも呆気なく潰されたとかそうでないとか。

 

ちなみに噂の出所が男バスキャプテンの幼馴染で実家がお好み焼き屋を営む女王陛下という話もあるが、真偽の程は定かではない。

 

そんなこんなをしている内に――最も、そんなこんなをしていたのは主に夏陽と進だけだったのだが――決戦の日曜日が訪れる。

 

 



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第四Q 勝ちたいんじゃない

 

女子バスケットボール部対男子バスケットボール部。

体育館の使用日数の分配と、女子バスケットボール部の存続を賭けた対決。

 

試合日が近づくにつれて露骨に対決姿勢を深めていった――何故か当人達ではなく――両部の顧問が宣伝効果を成したのか、日曜日だというのに多くの生徒が観戦に訪れた。

そんな多数の生徒達が群れをなすキャットウォークの片隅で、進はコート中央に整列する両チームをぼんやりと眺めていた。

 

進としては別に来るつもりがあって来た訳ではなかった。だが何時の間にか自分の携帯の番号を入手していた夏陽からの再三に渡るコールに観念して休日だというのに態々登校せざるを得ず、だからここに居るのは自分がバスケットの試合を見たいからとか、あれだけ毎日自分に1on1を挑み続けた夏陽がどんな動きをするのか気になったからとか、決してそういう心づもりがあった訳ではない。そうに決まっている。

 

誰に対して言い訳しているんだと一人でツッコミをしている内に、選手がコートに散らばる。

中央に残ったのは夏陽と、クラスメイトの湊智花だ。

 

あちこちから「頑張れー」だの「しっかりー」だの、実に他人事な呑気な応援が飛び交っている中に暫しの静寂が訪れ、

 

―――ピッ!

 

始まりの笛が鳴り響く。

 

 

 

 

 

前半戦は大衆の予想を裏切る形で、意外な展開を見せていた。

運動神経に定評のある真帆、弾道予測に優れた紗季がボールを確保して智花にパス。最初に高さを生かした愛莉のシュートを連続でたたき込む事でマークを集中させると、今度は左右に広がった真帆と紗季がそれぞれにゴールネットを揺らす。かといってそちらに意識を裂けば、元々高いポテンシャルを誇る智花が自在に攻め込んで得点を重ねる。

 

俄仕込みなんて生易しいものじゃない。それぞれに役割がキチンと割り振られ、各々がその役目をしっかり果たした立派な戦術と化している。

 

(くそっ!くそっ!!)

 

夏陽は苛立っていた。

焦燥感ばかりが募り、咄嗟の判断を僅かに間違える。

 

そしてその隙を見逃す程、智花は生易しい選手ではない。

 

「あっ!」

 

パスミスを拾われ、瞬く間に切り込まれる。そのまま愛莉にパスが回り、再びネットが揺らされた。

 

「……ッ、タイムアウト!」

 

顧問の小笠原教諭の声に、一瞬安堵にも似たため息が洩れた。

コートに戻ろうとした矢先、駆け寄って来た戸嶋がポツリと呟く。

 

「らしくねぇな、竹中」

「あ?何がだよ」

「まだ試合は半分も過ぎてねぇんだから、もう少し楽に行こうぜ」

 

ポンポン、と肩を叩かれる。

 

確かに戸嶋の言う通り、まだ試合は半分も過ぎていない。充分に追いつけるし、逆転だって出来る差しかない。

なら、どうして自分は焦っているのだろうか。

 

―――こんな光景が、前にもあったからじゃないか?

 

ふと見上げた先に――本当にただの偶然なのだろうが――進の姿が見えた。

瞬間、夏陽の脳裏に『あの』試合が蘇る。

 

 

 

県大会本戦、第一回戦。

私立慧心学園初等部対市立芝浦小学校。

 

地区大会初優勝の看板を引っ提げて臨んだ初戦でぶつかったのは、県下屈指の強豪と名高い市立の名門、芝浦小。相手にとって不足なしと意気込んで臨んだ試合は、前半戦に夏陽を主軸としたパスワークと、一対一の場面においても負けない勝負強さを発揮して善戦。少しのリードを許したが充分に逆転を狙える位置まで近づけて前半戦を終えた。

 

しかし後半。

高さを生かして得点を重ねていた相手Cに代わって入って来た――夏陽より頭一つ分程高いだけの――背番号5番を中心に、試合は一変した。

 

チームワークを意識したパスも、毎日練習してきたドリブルも、シュートも。何もかも全てを否定し、見下す様な圧倒的な強さ。最早暴力としか言い様のない芝浦小のプレイスタイルにかき回され――――――気づいた時には最早追いつく事すら叶わないトリプルスコアの大惨敗。

 

試合終了を告げるブザー音に心が折れてしまいそうになった夏陽を、しかし『彼』の言葉がコートに夏陽を引き止めた。

 

『楽しかったよ!またやろうね』

 

コート内において魔物としか思えない様な強さを見せつけた選手と同じ人物とは思えない程に朗らかで―――楽しそうな笑顔。

 

それがどうしようもないくらいに癪で、どうしようもないくらいに悔しくて―――だけど、相手を恨む気にはなれなかった。

だから差し出された手を叩く様にして握った。

 

そして誓ったのだ。

 

『次は……負けないッ!』

 

 

 

 

 

約束したのだ。次は必ず勝つと。

誓ったのだ。絶対に負けないと。

 

だから―――だから!!

 

「竹中ァ!!」

「ッ!」

 

智花の手がボールに迫る。

 

バウンドの直後を狙われたこのタイミングでは捌き切れない筈。

天性のセンスと多くの経験が成すその一歩は防御不可の一撃―――!!

 

刹那、世界が止まった。

 

 

 

 

 

 

『なぁ水崎』

『ん?』

『お前ってさ、何であんな無茶苦茶な体勢からでもシュートが打てるんだ?』

『なんでって…………まぁ、前は結構練習してたから、かな』

 

ボールをつきながら、少し渋る様な口調で進は答えた。

 

『フォームなんて、ぶっちゃけた所重心を安定させておく為に必要な形なんだから』

 

グッ、と溜めこむ様に膝を曲げ、

 

『重心がコントロール出来れば、フォームなんて身体を痛めない為のおまけみたいなものだし』

 

手から放たれたボールは綺麗な放物線を描き、吸い込まれる様にしてネットを揺らす。

 

『レイアップみたいな、際立ったボールコントロールを必要としないシュートなら、俺はむしろこっちの方が打ちやすいんだ』

 

 

 

―――つま先を軸にターンを返す。手首のスナップを利かせて、前にボールを弾きだせ。

 

「ッ!?」

 

―――踏み込みは強さよりも速さ。一歩よりも半歩短く、細かくステップを刻め。

 

脳裏にあの試合の―――幾度となく繰り返した1on1の光景が蘇る。

もっと早く、もっと速く。

 

―――余計な高さは不要。姿勢は低く、相手の懐を抉る様にドリブルを切りこめ。

 

誰も追いつけない。

誰も追いつかない。

 

あの背中を幻視する。芝浦小の、漆黒のユニフォームの、背番号5番。

 

―――重心は全身を使ってコントロール。走れば足、跳べば指先に巡らせろ。

 

高さを誇る愛莉が前に立ちはだかる様に跳ぶ。

コースが塞がれた。誰もがそう思った筈だ。

 

――――――けれど、見えた。

 

―――コースはどんな状況でも常に存在する。自分と相手の動きから、次に打てるコースを読み切れ。

 

「勝ちたいんじゃない……ッ!」

 

思いだせ、あの悔しさを。

そして何千、何万本と繰り返した一瞬の動作を。

 

「絶対に―――勝つんだァッ!!!」

 

跳べ、誰よりも高く。

届け、誰よりも遠く。

 

ゴールに。

ゴールに!!

 

―――最後に勝負を決めるのは、根性と、気合いと、気迫だ。

 

此処で勝たないで―――此処で勝てなくて、何が雪辱だ!!

 

「い―――っけぇーーー!!!」

 

裂帛の気勢と共に放たれたボールが、ネットの擦れる音と共にコートを叩くバウンド音がいやに大きく響いて――――――

 

何かがぶつかる鈍い音が、衝撃と共に夏陽の意識を刈り取った。

 

 

 

 

 

「竹中!!」

「夏陽!?」

 

歓喜の声が、一瞬で悲鳴の渦に様変わる。

驚愕の色を隠せないままでいた進が、弾かれた様にコートへと走り出して辿りついた頃には、夏陽は尻もちをついたまま片手で頭を抑えていた。

 

「竹中!」

「ん……?あぁ、水崎か。ちゃんと試合には来てた、みたいだな……」

 

進の姿を視界に捉えて微苦笑を浮かべた夏陽は、しかし次の瞬間激痛に顔を歪めた。

 

「ッ!?」

「動かんでいい竹中!!誰か、担架を持ってきてくれ!!」

 

何時になく取り乱して叫ぶ小笠原顧問の声に周囲が慌ただしくなる中、コートに居た面々が慌てて夏陽の元に駆け寄った。

 

「大丈夫か夏陽!?」

「へっ……大丈夫に決まってんだろーがバカ真帆。てめぇに心配される程、やわじゃね、え……ッ!」

「大丈夫なわけないでしょ!頭を打ったのよ!?下手したらどうなっていたか、アンタ分かってるの!?」

 

幼馴染の怒鳴り声に顔を顰めながらも夏陽は立ちあがろうとする。が、それを制したのは急かされる様にして体育館に来た羽多野養護教諭ではなく、

 

「バカはお前だ大バカ野郎」

 

頭を打った怪我人への所業とは思えぬ程に無情な進の強烈なグーパンだった。

 

「~~~ッ!?」

「ちょ、水崎!?」

「お、おまッ!?夏陽に何すんだー!?」

 

突然の暴行に夏陽は更に強まった激痛に顔を歪ませ、普段の冷静さの欠片もなくした様に紗季は声を上げ、最も激昂し易い真帆は今にも喰ってかからんばかりに怒鳴り声を上げた。

周囲を見れば他の面々も目の前で散弾銃をばら撒かれた伝書鳩の様に目をまんまるにして驚いているが、今の進の双眸には夏陽しか映っていなかった。

 

「あんな無茶苦茶なシュート打って、しかも着地に失敗して頭部強打だぞ?普通に脳震盪起きているだろうし、そうでなくても滑らした足を痛めているに決まってる。そもそも俺だって初めの頃は何度も失敗して昏倒間近な経験繰り返して、つい最近になって漸く完成形が見えたばっかりの必殺技をパッと見ただけの形で完璧に再現できると思ってるの?お前何様?自称俺様のつもり?バカだろ、死ぬだろ。つうか今すぐ死ね、でなけりゃベッドに帰って寝ろ超バカ野郎」

「へっ……ったく、少しは怪我人を、労われっての……」

「そう思うんだったら怪我人らしく寝てろ宇宙最強デラックスハイパースペシャルレジェンドクラス最大特級テラバカ野郎」

 

グッ、と夏陽のユニフォームを鷲掴むと、鼻先が擦れるくらいに間近に顔を寄せた進がニヤリと笑んだ。

何時ぞや、クラスの男子数名に対して向けたあのあくどい笑みだ。

 

「火ぃつけたのはお前なんだ。あの時の約束、しっかり果たして貰うからな」

 

言うだけ言って、突き放す様にユニフォームから進が手を離す。羽多野の指示で持ってこられた担架が夏陽の横に置かれる中で、進は小笠原教諭に向き直った。

 

「水崎……?」

「小笠原先生、以前打診して頂いた入部の件ですが、此処でご返答させて頂きます」

 

言って、進が取り出したのは一枚の用紙だった。

夏陽に手渡され、幾度となくペンを奔らせようとして、留まって、そうして今日の彼の姿を見て、漸く決心をした文字がそこには書かれていた。

 

「慧心学園初等部6年C組在籍、出席番号39番水崎進。男子バスケットボール部への入部を強く希望するものとして、入部届を提出します」

 



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第五Q 『初めまして』の方がいいかな?

 

レギュラーユニフォームというものには、言い知れぬ『重み』がある。

幾代にも渡って受け継がれてきた背番号があり、何代にも渡って受け継がれてきた伝統と共にそれを示すものがある。

 

だから、この背番号4のユニフォームの重みもまた、それと同等―――否、それ以上のものである事を進は感じ得た。

 

(……大丈夫だ。落ちつけ)

 

結局あの後、夏陽の事もあって試合は十分程の休憩を取る事になった。

試合時間は、残り後半の十五分弱。

 

(これは俺が幸せになる為じゃない。俺が喜ぶ為じゃない。……あのバスケバカにあてられて、あいつの猿真似が下手くそ過ぎて見てられなかったからであって、俺自身の為じゃない)

 

自分に言い聞かせる。思い込ませる。

所詮言い訳でしかないそれを、しかし何度も懸命に、必死になって身体にしみ込ませる。

 

歓喜するな罪人よ。

興奮するな咎人よ。

 

お前にその権利はない。

ただ行為として、基礎代謝として消費しろ。

 

「………………よしっ」

 

背番号4を身に纏う。

夏陽の代わりとして、お手本として。

 

『次は俺達が勝って、全国に行くんだ!』

 

―――ロマンチストな彼の妄言を現実とする、その第一歩の為に。

 

 

 

 

 

十分間の休息は、後半になって体力が目に見えて落ちていた女バスの面々にとっては幸福だった。その原因が怪我人の発生、という事では素直に喜べないが、女バス存続の為には形振り構っている暇はないし、それで罪悪感を覚えてもいられない。

 

「柔軟と水分補給はしっかり行って。筋肉を固まらせない様に、あと疲れない様にゆっくりとね」

 

小学校教諭を務める叔母の美星に乗せられる形ではあったが、この試合に向けて女バスのコーチを任された長谷川昂の指示に皆はしっかりと柔軟を繰り返す。

だが幼馴染が怪我をしたという事態に、人一倍感情が表に出やすい真帆は正に心ここに非ずといった雰囲気でしきりに男バスサイドのベンチで休んでいる夏陽の事を気にかけていた。

 

「真帆、今は試合に集中して」

「……ッ、うん。分かってる」

 

紗季の言葉に一応は頷いて見せたものの、やはり何処となく落ち着きがない。

声をかけるべきかと思った矢先、

 

「昂、ちょっといい?」

「何だよミホ姉?」

 

ちょいちょい、と手招きする美星に従って、昂は体育館の外に連れ出された。とはいっても扉を隔てたすぐ向こう側にはベンチがあり、戻るのに五秒とかからない場所だ。

 

照りつける太陽がやたら眩しい外で一体何事かと昂が顔を顰めるが、くるりと向き直った美星の表情に顔を引き締めた。

 

「あの助っ人、正直言って最悪の相手だよ」

「助っ人って……さっきの?」

 

昂の脳裏に浮かんだのは、頭を打った怪我人を殴ってベンチに引っ込ませた黒髪の少年の姿。休憩に入った直後に智花に聞いた限りでは、自分達と同じC組の生徒で、以前はバスケの強豪・市立芝浦小に在籍していたらしい。体育の時間に行われたバスケの試合ではパスを中心とした動きで味方のアシストを徹底し……そう言えば、男子生徒数名を相手取って揉めたというエピソードもあったか。

 

「あの子はパサーなんてアシスト系じゃない。バリバリでガチガチな超攻撃型のワンマンフォワードタイプの選手なの」

「……どういう事だよ?」

「…………『水崎』進。それがあの子の名前」

 

聞いた瞬間、昂の表情が凍りついた。

 

一陣の突風が舞い、木々を揺らして虚空に消えていく。

春先の柔らかな日差しは燦々と大地に降り注ぎ、鳥の声が酷く遠く聞こえる。

 

「……みず、さき?」

「春先に転校してきたばっかりの子でね。今も実家じゃなくて、叔父夫婦の家から通っているの。元の家族構成は兄一人を含んだ四人家族。その兄の名前が……」

 

水崎新(みずさきあらた)。

元七芝高校三年、男子バスケットボール部部長。部の顧問の娘である11歳の少女と関係を持っていた事が発覚し、自主退学扱いで退学処分。

 

「……こんな事、大事な試合の合間に言う様な事じゃないってのは分かってる。だけどそれよりヤバいのは、あの子のプレイスタイルの方」

「…………チームメイトを、自分と同等の域に引き上げるゲームメイクテクか?」

 

『桐原中の知将』

万年一回戦負けの弱小校を県大会ベスト4にまで上り詰めらせた、徹底したデータ理論と卓越した戦術眼を以てその名を響かせた昂の、その最も根本となる部分に影響を与えてくれた稀代の名選手。

個のセンスも然ることながら、自身と同等の域にまでチームメイトを引き上げ、最大限に生かすそのプレイスタイルは、昂に多大な影響を与えたものである。

 

「や、そっちはまだ全くの未知数。アタシが視たのは夏陽とのタイマンだけだったからさ」

「……1on1の事か?」

「そ。そん時さ、アイツはただの一回も夏陽に防がれなかったし、ただの一回も夏陽に抜かれなかった」

 

今度こそ昂は驚きを隠せなかった。

先程の試合でも、何度も智花からボールを奪った夏陽ですら、ただの一度も抜けなかった相手?

 

そんなとびっきりの規格外な選手が、そうゴロゴロいるものなのか?

 

「それにさっきの試合で最後に夏陽が見せたフォーム無視の無茶苦茶なシュート。あれも一回だけ、夏陽相手に進が見せた奴なんだよ」

 

もう何に驚けばいいのか分からなかった。

自分の先輩であり目標であった人物の実弟がこの学校にいた事を驚くべきか、高校生の自分ですら躊躇う様なあんな現代スポーツ理論に真っ向から喧嘩売る様な直感的シュートを小学生の身の上で放つ進に驚けばいいのか、そのシュートを一回見ただけで真似てしまう夏陽のセンスに驚いたらいいのか。

 

「……でも、バスケは個人技じゃない。チームでのプレイが重要なんだ」

「そう、バスケはチームでやるもの――――――そしてそのチームプレイで県大会に進んだ男バスを捻り潰したのが、進のいた芝浦小バスケ部」

 

何時になく鋭い美星の声音に、僅かに昂がたじろぐ。

 

「気をつけて昂。あの子は『まだ』何かを隠し持っている」

 

 

 

 

 

 

コートの中央に、進と智花は向かい合った。

一度中断した試合の、ジャンプボールからのゲーム再開の為である。

 

「『初めまして』の方がいいかな?クラスメイトの、湊智花さん」

「…………」

 

ゲーム開始前だというのに、既に汗を滲ませながらもお手本の様な笑顔を湛えて進が口を開く。

 

「さっきは夏陽相手に随分と頑張ってくれたみたいで、お陰さまでいい試合を見させてもらったよ」

「…………」

「そのお礼、っていうのも変な言い方だけどさ……」

 

―――ピッ!

 

ガッ!キュキュキュキュィ!キィ!キッ―――パサッ。

 

 

 

「……えっ?」

 

何が起こったのか。

目の前にいた筈の進がジャンプボールを取ってコートに足をついた瞬間に目の前から消え、振り返った時にはゴールネットの下をてんてんとボールが転がっていた。目で捉えるのもやっとだったという感じで、コート内にいた人間――女バス、男バスの別なく――は誰一人としてロクに動けず、

 

「…………何も負けらんないのは、君達だけじゃないんでね」

 

不敵な笑みを湛えた進が、コート全体を見下す様にその双眸に輝きを映す。

 

「―――半端な希望も持てないくらい、全力で叩き潰してやるよ」

 



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第六Q 下らなくなんかない

 

身体が酷く重く感じる。

足が今にも折れてしまいそうな程に弱弱しく震え、膝についた手が、腕が、肩が軋む様に痛みを訴える。

 

肉体的な、直接的なものではない。

 

「ハァッ……!ハッ……!」

 

再開した試合は、一方的なワンサイドゲーム。初めは僅差だった筈の点数は何時の間にかぐいぐいとその差を広げ、既に十本近いシュートをただ一人で決めている進は未だに余裕綽々の面持ちで此方を見ている。

 

バスケを続けてきて、試合でこれ程までに精神的な苦痛を感じた事が今まであっただろうか?

どんな局面でも諦めようとはしなかった生来の負けず嫌いで頑固者の一面が強い筈の智花は、しかし今にも倒れてしまいそうなひなたや愛莉の姿を視界に映すと、思わず顔を後悔や申し訳なさに歪める。

 

対戦相手の心をへし折る事に何の躊躇いも見せない圧倒的なワンマンプレイ。まるで自分一人だけで試合全てを支配出来るとでも言いたげな挑戦的なその姿が、嘗ての自分に重なって見える。

 

勝ちに拘り、勝利に縋りつき、勝者であり続けようとして盲進していた愚かな過去。

それが齎したもの―――そこに拘り続けて得た筈の経験と実力の全てを否定するかの様な、遥か上を往くドリブル、パス、シュート。

 

楽しいバスケをやりたかった。

もう勝ちに拘る事なんてない。その必要はない。

 

この場所にいれば、この場所であれば、私はもう嘗ての嫌いな自分を見なくて済む。

そう、思い込んでいた。

 

「ハァ……ハァ……」

 

―――だが、今まさにその場所が奪われようとしている。

自分が居続けたいと思った場所が。自分に大切な事を教えてくれた場所が。

 

「ハァ……ハァ…………」

「……そろそろ、ゲームセットと行こうか」

 

進が正面に立ちはだかる。

 

「ねぇ湊さん、一つだけ聞いてもいい?」

「…………」

「どうして君みたいな凄い選手が、こんな所で燻ぶっているの?」

 

乱れた呼吸音も、観客の声も遠い。

ボールが床を跳ねる音が、進の声が酷く大きく智花の鼓膜を揺らし、響く。

 

「全国大会とか色んな試合を見てきたけど、同年代の女子でこんなに出来る人はそうそういなかった。君ならもっと上を目指せた筈なのに、どうして自分からその全てを捨てようとしているの?」

 

『―――それにちょっとだけ、男バスの気持ちも分かるんだ』

 

ふと、昂の言葉が智花の脳裏を過った。

 

試合とは勝つモノ。

勝負とは勝つモノ。

 

勝った者だけが、その先の選択を選ぶ事が出来る。

負けた者は、何一つ得られるものはない。

 

嘗ての自分はそう思っていた―――そう思い込んでいた。

 

「―――俺みたいに捨てざるを得なかった訳じゃないのに、そんなのはただの我儘だよ。そんな勝手な贅沢を許せる程、俺は大人じゃない」

 

フェイントも通じない。

フットワークも向こうが遥かに上。

 

どうあがいた所で、止められる未来が目に見える。

 

だから諦めかけた。

心が折れかけて―――

 

「ぬるま湯につかるのは今日で終わりにしなよ。こんな『下らない』場所で君の才能を腐らせるのは、余りにももったいない」

 

その一言が切欠だったのか。

何かが切れる音が、智花の頭を揺らした。

 

「……………かない」

「もう終わりだよ。あと五分もないこの状況で、体力も底を尽きかけている仲良しこよしなお遊び集団に群れている君に、ひっくり返せる点差じゃない」

 

煩い。

ウルサイ。

 

「―――なんかない」

 

その見下した様な目が煩わしい。

そのへし折る様な声が煩わしい。

 

何も知らない癖に。

私の事を、『私達』の事を何も知らない癖に。

 

『勝ちに拘るとしたら、その大切な場所をなくしたくない……それだけです』

 

「――――――下らなくなんかない!!!」

「ッ!?」

 

動け!

動け!!

 

止められる?

防がれる?

 

―――それがどうした!!

 

「私はこの場所が好き!!真帆と紗季と愛莉とひなたと、みんなとバスケが出来るこの場所が好きだから!大切だから!!」

 

止められないくらい強く走ればいい。

防がれないくらい速く動けばいい。

 

諦めるにはまだ早すぎる。

泣くのも、悔やむのも、全てが終わった後にしろ!

 

「お遊びなんかじゃない!ぬるま湯なんかじゃない!!下らなくなんかない!!何も知らない癖に、私の―――私達の大切な場所を悪く言わないで!!!」

 

負けたくないんじゃない。

 

負ける訳にはいかないんだ。

負けられないんだ。

 

絶対に、何があろうとこの試合だけは―――この勝負だけは!!

 

「ッ!?この距離で!?」

 

弾丸の様に速く、砲弾の様に力強く放たれたボールがなだらかな丘陵の様な線を描いてネットを揺らす。

普段であれば届く筈もない程に離れた位置からのシュートは、しかし智花の激昂を示す様に力強くコートに落ち、音を立てて弾む。

 

「ハァ……!ハァ……ッ!」

「………………」

 

唖然とした様な表情を浮かべ、進が棒立ちのまま智花の方を向く。

その双眸を射抜く様に鋭く、強く睨みつけたまま、智花は何時になく荒々しい声音で口を開く。

 

「ハッ……だから、ッ……負けない。絶対に……ッ!!」

「――――――ハッ」

 

進が『哂う』。

鋭い智花の眼光を真正面から受け、漸く対等な敵を見つけた格闘家の様に獰猛な笑みを湛えて哂った。

 

 

 

―――ガッ!キュキュキィ!キィ!キッ!

 

「動きが急によくなってんじゃねぇかっ!!まだそんな力隠し持ってたのかよっ!」

「ッ!!」

 

トラッシュトーク――というよりは進の一方的な発言――の中で、急激に二人のレベルが周囲をつき放し始めた。

 

ダムダムッ!

 

「やっぱ下らねぇだろあんな場所!!みんな置いてけぼり喰らってるぜ!!」

「うるさいっ!!」

 

キュキュキキキキィ!

 

「なんでこんだけ力があって今の今まで隠れてたんだっ!?地区大会ぐらい余裕で勝ち上がれるレベルじゃねぇかっ!!」

「一人で戦ったってっ!勝ったってっ!ハァッ!意味がないもんっ!!」

「試合は勝たなきゃ意味なんかねぇだろっ!!」

 

ダンッ!シュ……ガゴッ!

 

誰も介在しない、たった二人の戦場。

 

たった二人の、二人だけの決闘。

 

「負けて慰められれば満足かっ!?泣いて思い出にすればいいのかっ!?違うっ!アンタも俺と同じっ、勝ちに拘る人種だろうがぁっ!!」

 

ダンッ!

 

無情に弾かれた智花のシュートボールが虚空を舞う。

そこに向かって一斉に飛び上がる進と智花。

 

身長的には進の方が上―――が、ボールを奪い取ったのは智花。

着地した瞬間――否、空中にいた時から既に――ボールに向かって伸ばされた進の腕を、身体ごと捻って智花がかわす。

 

「負けちまえば終わるっ!何一つ残らず、それまで積み上げてきた努力がっ!全てがゴミの様に捨てられるんだっ!!」

「違うっ!そんな事無いっ!!」

「負けた事のねぇ勝ち組聖人君子様は言う事が違うなぁっ!?」

 

ダムダムッ!

キュキキキキィ!

 

一瞬、距離が開く。

 

「自分がどれだけ恵まれた世界にいるかっ!少しは自覚しやがれぇっ!!」

 

抉る様にうねりをあげて、進の腕が智花に迫る。

 

「智花ッ!!」

 

誰かが叫ぶ。

世界から音が消える。

 

 

 

―――フッ

 

 

 

コートを駆けるバッシュの音すら響かぬ刹那、進の視界から智花が消える。

空を切った右腕が延び切った時、

 

――――――パスッ……ターン……ターン

 

ネットをすり抜けたボール。

コートをバウンドするボールの音が体育館に響いた。

 

 

 

 

 

 

「何ぼけっとしてるんだよ、水崎」

「ハッ……ハァッ…………え、と……菊池?」

「ま、あんだけ無茶苦茶動きまわればそりゃ足だって止まるさ。次、一本決めようぜ」

 

ポン、と叩かれた肩に意識を取り戻した進は、心ここに在らずといった感じでぼけっとした表情のまま問うた。

 

「な、なぁ菊池」

「ん?どうしたんだ?」

「今、さ……湊は一体、何をしたんだ?」

「は?何って……よく視えなかったけど、『普通に』抜いたんだろ。お前、足が疲れて一歩も動けなかったんだろ?」

 

違う。

そうじゃない。

 

『普通に』抜いた?

 

―――違う。

 

(完全に……視界から『消えて』いた)

 

 



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第七Q みんなと一緒に

 

キュキキキキィ!ダンッ―――パスッ

 

興奮と歓声の渦に包まれた体育館で、戦女神の一人舞踊が鮮やかに演じられる。

戦女神―――智花の通算八本目となるシュートに、その点差はとうとう僅かな所まで詰められた。

 

巻き起こる歓喜の渦。

興奮に盛り上がる体育館。

 

その渦中に一人佇む智花の表情は―――酷く鋭く、強張っていた。

 

 

 

「―――ッ!タイムアウト!」

 

小笠原顧問が最後のタイムアウトをコールする。

その声に、女バスの面々は一様に智花の元へと駆け寄った。

 

「凄いねもっかん!さっすが女バスのエースだよっ!」

 

いの一番に駆け寄った真帆が、滴る汗も気にせず満面に笑みを湛えて智花に話しかけた。

 

「………………」

「……もっかん……?」

「智花……」

 

だが、返答がないどころか聞こえてすらいない様子で智花は黙々とベンチに戻り、昂の呼びかけすら殆ど無視に近い状態で自分のタオルとボトルを取った。

 

「智花ちゃん……?」

「ともか、具合悪い?」

 

愛莉やひなたの言葉にも、軽く首を横に振るだけで言葉を返そうとしない。ただやや乱れた呼吸音だけが響き、上下する肩がその疲労具合を物語っていた。

 

 

 

空気が重苦しいのは、男バスも同じであった。

 

先程の、進が智花に抜かれたあの後から、ただの一本も男バスは智花のシュートラッシュを止める事が出来ないでいた。

 

ドリブルやシュートの精度、速度が段違いに上がり、後半になってやや疲れが見え始めていた状態では対応しきれないでいるのである。

 

「……先生」

「何だ、水崎」

「湊には俺があたります。女バスの他の面子はもう殆ど動けず、ロクなサポートも出来ません。それに多分……」

 

そこでふと、言いにくそうに言葉を区切ったが、

 

「―――今のアイツを止められるのは、俺だけです」

 

尋常でない量の汗を滴らせながら、そう断言した。

 

 

 

 

 

「…………」

「…………」

 

幾度目かも分からない1on1。

進と智花による、一対一の真剣勝負。

 

「……それが、アンタの全力か」

「…………」

「いい顔してるじゃねぇか。勝ちに拘る、本当の『湊智花』ってのはそういう顔をするのかよ」

 

ダムッ、ダムッ

 

「こっから先は全部本気で行こうぜ。後腐れするのは、正直もう勘弁だからな」

「…………」

「捕まえて見せろよ湊智花。こいつが今の俺の―――フルスピードだ」

 

ダンッ―――キュキキキキキ!

 

「!」

 

驚く暇すら儘ならない。

 

バシッ!

 

一瞬で弾かれたボールはそのまま3Pゴール目がけて放り―――かけられて瞬間的にコートに爆ぜる。

打てば取られる、直感がそう告げたからだ。

 

キキキキィイキキキッ!

 

そこには魔法もトリックも存在しない。

純粋な速度と力と、瞬間的な判断力の真っ向勝負。

 

キキキュ―――ダンッ!バシッ!

 

「遅ぇ!置いてくぞ湊!!」

「ッ!」

 

進が細かくステップを刻む。右、左。

バウンド直後のボールに智花の手が伸び―――それより早く触れた進の手がボールを弾く。

 

グリンッ!キュキキキキュイ!パスッ

 

愛莉のディフェンスも全く間に合わない速度で進がレイアップを決め、女バスのネットを揺らす。

 

 

 

「ッ!」

「さぁ来い湊ッ!!」

 

キュキュキュ!

キキキキュキュキィ!

 

ドリブルが、シュートが、フェイントが。

全ての動きの一つ一つが、まるで協奏曲の様に美しく、猛々しく、素早く繰り返される。

 

最早観客も、ベンチも、コート内も全てが二人の決闘に魅了されていた。審判すらも笛を吹く事すら忘れ見入っている。

 

全ての動きが次への動きに、シュートへの道に。

 

パスという選択肢が存在しないドリブルが、まるで機関銃の様な轟音と共にゴールに迫る。

 

体力の限界などとうに超えている。

全身が苦痛と疲労に悲鳴を上げている。

 

ダンッ!

 

進が渾身の力でコートを蹴り跳び上がる。誰も追いつけない、何者にも縛られない空へ。

 

―――違う。すぐ横、否、真上?

そこに智花がいた。身動きすらロクにとれなくなる中空に。

 

『次は俺達が勝って、全国に行くんだ!』

 

少年は誓った。

一度は諦めかけた夢を、あのロマンチストなバスケバカの夢を、現実のものにすると。

 

『勝ちに拘るとしたら、その大切な場所をなくしたくない……それだけです』

 

少女は誓った。

失いかけた情熱を、失くしかけた大切な思いを取り戻せたあの場所を、守り抜くと。

 

「エア・ウォーク……」

 

誰かが呟く。

だがそんなものは一瞬で掻き消される。

 

「あああぁぁああぁあっ!!!」

 

どちらのものかも分からない絶叫が会場に轟き――――――

 

ブーーーーーーーーーー!!!!

 

 

 

 

 

 

鳥の囀る声が鼓膜を揺らす。

闇の中、浮上する意識の端の方で、ふと智花は考えた。

 

夢だったのかもしれない。

たまに、何だか物凄く面白くて楽しい夢を見ていた事を覚えていて、目が覚めてから五分くらいはその事を思い出して凄く興奮したりするのだが、顔を洗ったり歯を磨いたりしている辺りで徐々にその光景がぼやけていって朝食を取る少し前くらいになると霧散し、結局食卓を囲む頃には「物凄く面白い夢だった」という輪郭しか残らない。

そして少しも面白くない夢ばかり詳細が明確にいつまでも脳裏にこびりついて離れない事も何度も経験した。あるいは夢の様で夢でなかったり、その逆だったり。

 

「…………ていうかさぁ、普通今の今まで戦っていた敵同士を並べて寝かせるか?普通」

 

瞼を開き、疲労感たっぷりな愚痴が隣から聞こえてきた時、智花が思った事はそんな事だった。

 

「……ここ、は?」

「保健室。羽多野先生はついさっき職員室の方に行った」

「私、どうして…………」

「試合終了と同時にぶっ倒れたってさ、俺も湊も。で、そのまま保健室に放り込まれた。一時は救急車でも呼ぼうかっていう話にもなったらしいけど、どうせ原因は疲労に決まってんだから寝てれば回復するだろうって」

 

言って、進が上体を起こし、

 

「―――オゥ!?」

 

思いっきり激痛に顔を歪めた。

 

「だ、大丈夫っ!?」

「っつぅ……やっぱここ最近ロクにトレーニングしてなかったくせにあんな動いたから、全身がハンスト起こしやがった……ッ!」

 

痛いなんて次元じゃないだろう。

何しろ横になっている智花すら、手足どころかあらゆる筋肉の痛みに身体を動かす事もままならない状態なのだから。

 

と、不意に智花が弾かれた様に上体を起こそうとして、

 

「そういえッ!?」

 

実に不穏な音と共にビクン、と全身を震わせて身体を硬直させる。

プルプルというか、ピクピクというか、何だかイッパイイッパイな感じが体中から滲み出ている。心なしか、顔がどんどん青ざめている気がした。

 

「……大丈夫か」

「…………う……うん。た……ぶん」

 

 

 

少し間をおいて。

 

「それで……試合は?」

「ドロー」

 

答えは三文字で帰って来た。

 

「へ?」

「日本語で言うと引き分け。おあいこ。五分五分。両成敗。……最後のシュート、入ったはいいけど2Pだったらしくてドローゲーム。ゆーあーあんだーすたん?」

「お、おーるらいっ……」

「…………別に無理して乗っからんでもいいよ」

 

「まぁいいや」と進が一度区切った。

 

「……女バスは」

「ん?」

「廃部に、なっちゃうのかな……?」

「―――さぁね」

 

問いかける様に呟いた智花の言葉に、酷く冷淡な口調で進が返した。

 

「さぁね、って……」

「さっきの試合中にも言っただろ?あんなぬるま湯に浸かってたら、湊の才能は腐って駄目になっちゃう。そんなの勿体ないって」

 

進の言葉に、智花が僅かに頬を膨らませた。

 

「俺、こう見えても兄貴以外の相手に抜かれた事なんて殆どなかったんだよ?それなのにあんなあっさり抜き去るわ、俺のドリブルバシバシ止めるわ……」

「…………」

「湊はもっとちゃんとした指導者の元でしっかりと教わった方がいい。そうすれば速ければ全中、遅くたってインターハイや国体も充分狙える。同年代の選手で湊に比肩する女子なんて、数えるくらいしかいないんだから」

「―――それでもっ」

 

進の言葉を遮る様にして、智花が口を開く。

 

「それでも私は、みんなと一緒に楽しくバスケをしたいから……楽しむ事の大切さを、みんなが教えてくれたから…………だからっ」

 

ギュッ、とシーツを握り締めて、絞り出す様に智花は続けた。

 

「だから私は、みんなと一緒にバスケがしたい……」

「―――でも、さっきの試合の事は覚えているんだろ?」

 

突き立てる様な声音で進が言った。

顔を見せようとせず、智花に背中を向けたまま喋る。

 

部屋の中に舞い込んだ風が、ゆるやかにカーテンを揺らした。

 

「たまにいるんだよ。所謂『天才』って奴の中にも、生まれついて何かしらの才能が突出した本当の化け物みたいな奴が」

「…………」

「今はいいかもしれない。まだ湊の力の全てが出しきれている訳じゃないから、他のメンバーも辛うじてついていける。けど三年先、六年先の事を考えてみなよ?中学生、高校生になった時、今いる女バスのメンバーの中で何人が湊と一緒にずっとプレイ出来ると思う?」

「…………」

「そうやって頑張って頑張って、頑張り続ければ続ける程―――報われる事無く、結局一人ぼっちになるんだ」

 

進がどんな表情をしているかは分からない。

けれど智花には、進の言葉が他人事を話す様な単純な事ではない様に思えた。

 

「ぬるま湯につかって仲良しこよしで続ける事と、バスケを楽しくやる事とは全くの別物だよ。いつか必ず、湊も周りの状況にイラつく時がくる。足を引っ張るだけの周囲と自分との違いに絶望して、失望して―――」

「そんな事無いっ!!」

 

突然、個別にベッドを区切っていたカーテンが開け放たれた。

声の主は長い金髪を怒りに揺らし、目に怒りの色を浮かべて叫んだ。

 

「もっかんとアタシ達はずっと一緒だっ!!何があったってどんな事があったって、アタシ達はずっとずっともっかんと一緒にバスケを続けるんだっ!!お前なんかが知った風にもっかんの事を言うなっ!!」

「ま、真帆っ!?」

「俺達もいるよ、智花」

「す、昂さんっ!?それに紗季達まで……っ!」

 

唐突な闖入者に智花は驚きを露わにして目を白黒させるが、対極の様に進は落ち着き払って迷惑そうにその双眸に五人の姿を映す。

 

「盗み聞きですか?随分と良い趣味をお持ちの様ですね」

「そのつもりはなかったんだけどな……出るタイミングをなくしちゃって」

「放せ紗季っ!そいつ殴れないっ!!」

「殴るなバカ真帆」

 

と、進の視界に六人目の姿が映った。

 

「なんだよ夏陽っ!」

「竹中……お前もか」

「このロリコン野郎と一緒にすんな。俺にそんな趣味はねぇよ」

「竹中君、もう大丈夫なの……?」

「お前も人の心配している場合かよ……特にそっちの宇宙最強デラックスハイパースペシャルレジェンドクラス最大特級テラバカ野郎」

「誰かさんの猿真似の負債を抱えたお陰で全身筋肉痛だよ銀河無双ウルトラエクセレントロイヤルキングオブギガントオメガバカ野郎」

「はーなーせー二人ともっ!もっかんを泣かせる奴にてんちゅーをーっ!!」

「ああもうっ!試合が終わったばかりなのにどうしてアンタはそうバカ力なのっ!?」

「あわっ、み、みんな落ちつこうよ!ね、ねっ!?」

「おー、ひなもてんちゅーするぞー」

「ひなたちゃん、せめて意味を分かってから言おうね……真帆も落ち着いて、相手は怪我人なんだから」

 

やんややんやと、先程までのシリアス風味たっぷりな空気はどこいったとツッコミたくなる様な騒がしい空間に、羽多野養護教諭の鉄槌の言が飛び出すまで、あと三分。

 



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第八Q どうせお前も

 

微妙な緊張感が張り詰めていた。

 

本来であれば祝勝会……とはいかなくても、無事に女子バスケットボール部存続が決まった事を祝うささやかな宴を催す筈であった長谷川宅のリビングに迎え入れられたのは、家の住人である昂や七夕、身内の美星を除いて『七人』。

 

五人は女バスの面々であり、その他二名は本来なら招かれざる客である筈の男バス部員―――夏陽と進であった。

 

「…………」

 

痛いくらいに張り詰めた沈黙の空気が異様に重苦しく、それぞれがそれぞれに困惑の色を浮かべて周囲の顔を見比べたりしている。若干名、あからさまに敵意むき出しに睨みつける様な視線を向けている者や非難する様な視線を向けている者もいる中で、事の元凶である美星はいつもの様に猫っぽく「にゃふふ」と笑いながらグラスを傾けている。

そのオレンジ色の液体は未青年お断りの飲料水ではあるまいな、とジト目になりながらも、甥っ子であり未青年代表として昂が口を開いた。

 

「どういうつもりだよ、ミホ姉」

「ん?どういうつもりって?」

「どーして男バスの俺達が女バスの打ち上げに連れてこられたんですか篁先生」

 

不満気に口を開いた進は、しかししっかりとグラスを傾けてオレンジジュースを呷る。

 

「や、もう後半のスーパープレイの連続に私は大感激しちゃってさ。折角引き分けっていう形で終わったんだし、みんなC組のクラスメイトとして互いの健闘を―――」

「チームの輪を乱すに飽き足らず大事な試合を私物化した人間をどう讃えろと?」

 

追撃の様な一言に、思う所があったのか智花が少し顔を俯かせる。

それに気づいた真帆がいきり立って立ち上がり、進を指差して叫んだ。

 

「なんだお前はっ!?もっかんを苛めるつもりならアタシが許さないぞっ!!」

「別に真帆に許してもらう必要なんてないけどな」

「んだと夏陽ィ!?」

「あぁ!?やるかぁっ!?」

 

横から口を挟んだ夏陽とそのままあわや大乱闘でも起こすか、というタイミングを見計らったかのようにキッチンから呑気な声が舞い込んだ。

 

「はいは~い、お料理が出来上がりましたよ~」

 

芳しい香りに、それまでの重苦しい沈黙が嘘の様に皆が目を輝かせた。

 

「わぁ……!美味しそう!」

「おー、ひな、おなかペコペコ」

「ほら、真帆も夏陽も座りなさいよ。行儀悪いわよ」

「……あれ?昂さんは?」

 

ふと、思い出した様に智花が口を開いた。

その言葉に他の面々もリビングを見回すが、そこに昂の――そして進も――姿はなかった。

 

 

 

「ご飯、食べていかないのか?」

 

バッグを背負って靴ひもを結ぶ背中に、昂が問いかけた。

ピクリと反応した様に一瞬動きを止めた進だったが、直ぐに靴ひもを結ぶ作業を再開して立ち上がった。

 

「家に帰る途中で何か買えば済む」

「折角だし食べていけばいいだろ?母さんの料理、マジで上手いからさ」

「いらない」

 

取り付く島も与えないつもりか、吐き捨てる様に言うと進は扉に手をかけた。

―――と、それとは逆の手を掴んで昂がその動きを止めた。

 

「待てって。何でそうやってみんなの事を避ける様な態度を取るんだ」

「別に……そんな態度をとった覚えはない」

「じゃあ何で、竹中にも黙って帰ろうとするんだ?」

 

沈黙が降りた。

 

「真帆の事だってそうだ。ちゃんと誤解を解けばいいのに、何でそうやって―――」

「……るせぇ」

 

ピクリ、と影が揺らめいた。

一瞬そちらの方を見やった昂は、

 

「―――うるせぇ!!」

 

唐突に腹部を襲った衝撃に身体をよろめかせた。

 

「ッ!?っ、うっ……!」

「さっきから大人しくしてりゃあつけ上がりやがって!年上だからって上から目線で説教かよ!?随分な御身分だなぁえぇっ!?」

 

鈍痛に顔を顰めながらも、昂は顔を上げて暗がりの中で必死に進の姿を捉える。

 

「どいつもこいつも分かった風な口ききやがって!うざってぇんだよいい加減っ!!そうやって同情されりゃあ俺が騙されるとでも思ってんのか!アァッ!?舐めんのも大概にしやがれっ!!」

 

怒鳴って、蹴破る様に扉を開けた進は弾かれた様に夜道へと駆け出した。

リビングの方で何事かとドタドタ音が聞こえるし後ろの方から自分を呼ぶ声が聞こえた気もしたが、昂にそれらを確認する余裕はなかった。

 

「水崎ッ……!」

 

靴をまともに履いた覚えはない。

どこに向かって進が駆け出したかなど、最早分からない。

 

だが、追いかけなければならない。

 

追いかけて―――あの震えていた声の主を捕まえてやらなければ。

 

 

 

 

 

 

『流石、あの水崎先輩の弟さんね』

『この調子でお兄さんの様に頑張りなさい』

『やっぱ水崎なら、これくらい余裕だよなー?』

 

『大丈夫。貴方とお兄さんは違うから』

『お兄さんの事、本当に残念だったわね……』

『悪い、また今度にしようぜ……』

 

『―――どうせお前も、同じ事をするんだろ?』

 

ガッ!!

 

フェンスが歪な音調を奏でた。

何時の間にか降り出したとおり雨に全身はびしょ濡れ、バッグの中もこれでは悲惨な状態になっている事だろう。

金網が不快な音を立てながら錆ついたその身を削って行く。力を込めてその速度を速め、元の形さえも歪ませていく。

 

「……ッ!ゥ、ア…………ッ!」

 

指に傷が奔る。血が滴って、地面を僅かに赤黒く滲ませて―――消えていく。

血が消えて、なくなって、失せて、失せて、失せて――――――

 

「アァアァァァアアッ!!!」

 

殴る。渾身の力でフェンスを殴りつける。

何度も、何度も何度も何度も何度もなんどもなんどもなんどもナンドモナンドモ!!

 

「ッ!?止めろ水崎ッ!!」

「あぁああぁっ!?放せッ!!放しやがれぇっ!!」

 

後ろから腕を抑えつけようとする何かを振り解く。柵の様に絡みつくそれを振り払って、両の拳をフェンスに叩きつける。

 

血が弾ける。弾けた血が顔に付く。

 

―――あの人と同じ、穢れた血が。

 

「ッ!?うあぁああぁぁぁああっ!!?消えろっ!!消えろォッ!!!」

 

金網の歪は大きくなり、やがて音を立てて食い千切られた様な穴が開く。そこに腕を突っ込み、引き抜いて―――彼岸花の様に艶やかな血飛沫が一瞬舞い上がり、雨の中に散った。

 

「ッ!水崎ッ!!」

 

その光景に一瞬我を忘れていた昂は、しかし思い出した様に慌てて正面から肩を掴み、抱き締める様にして進の動きを強引に封じる。

尚も赤子が愚図る様に身動ぎを繰り返した進は―――やがて嗚咽と共に身体を震わせた。

 

「うぐっ……えぐっ……ぁ、うぁ……!」

 

雨は小振りになって、徐々に夜の空に星の光が戻り始める。

だが進の心が空の様に晴れる事はなく、そのまま涙と共にその胸中に再び雨が降り始めた。

 

 

 

 

 

パチパチと音を立てて、鮮やかな光と色と共に花火が弾けた。

満天に星がまたたく澄んだ夜空の下で、少しだけ肌寒い中敢行されたプチ花火大会with女バスをぼんやりと眺めながら、昂はこの場所にいない少年―――進の事を思い出していた。

 

結局あの後、女バスの面々や美星が来るまで泣き続けた進はそのまま病院へ直行となり、幸いにも大事には至らなかった。

だが、腕に奔る傷が余りにも多く、そして深い為に完全に消える事はなく、少しではあるが一生残る傷もあるそうだ。

 

「…………アイツ」

 

狂った様に泣き叫びながら、何度も「消えろ」と叫んでいた進。

その背景にあるのは、やはり――――

 

「……先輩」

 

『春先に転校してきたばっかりの子でね。今も実家じゃなくて、叔父夫婦の家から通っているの』

『どいつもこいつも分かった風な口ききやがって!うざってぇんだよいい加減っ!!そうやって同情されりゃあ俺が騙されるとでも思ってんのか!』

 

身内が―――それも実の兄が、世間から追い落とされる様な事態に小学生やそこいらの子供が直面し、あまつさえ転校を余儀なくされ、実家からも離れ。

 

その歪んだ環境が、彼を歪にしてしまったのだろうか。

 

「……くそっ」

 

同情は簡単だ。

「お前の事を分かってやれる」、口で言うだけなら容易い事だろう。

 

だが、それでも結局人間は心の何処かでそういった人を侮蔑し、軽蔑する。

ましてや彼はまだ多感な子供。そんな大人達の歪んだ思惑に侵食されて、歪みを抱えたまま今まで過ごしてきた彼に、自分の様な部外者の声が届くのだろうか?

 

―――届く訳がない。

そんな事で解決するくらいなら、とっくの昔に解決している。

 

「どうすりゃいいんだよ……」

 

答えの返って来ない問いかけは、打ちあげ花火の音に掻き消えた。

 

 



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S2 強化合宿
第九Q 水崎はバスケ、嫌い?


 

女バスの存続が正式に決まって――あの流血と病院送りの騒ぎ――から数日経って、進は再び学校に登校し始めた。

 

怪我による出席停止、とクラス内に周知させた美星の手腕によって特に目立った騒ぎもなく、幾人かの「大丈夫?」等といった心配する様な声と共に迎えられた進は儀礼的な微笑と模範的な会釈を以て答え、日常に復帰した。

 

「それじゃあ、今度の球技大会の参加種目を決めるよー」

 

その日の学級会での議題は、間もなく開催される球技大会についての説明と、各自の参加種目決めだった。

各々があれやこれやと、自分の出たい種目に名前を書いていく光景を自分の座席に座りながら進はぼんやりと眺めていた。

 

と、そこに人影が映る。

 

「水崎、お前は何にする?」

「……竹中?」

 

前の座席に腰かけ、夏陽が声をかけてきた。

僅かに視線を傾けた進だったが、ふと黒板の方から肩を怒らせて、それこそ何処かの怪獣映画に流れそうなBGMが聞こえてきそうな程にずんずんと歩み寄ってくる人影を捉えて不思議そうな色を浮かべた。

 

「おい夏陽」

「何だよ真帆」

「何だよじゃねぇよっ!何でバスケじゃなくてサッカーにエントリーしてんだよっ!?」

 

バンッ!と思わず手の心配をしたくなる程に力強く机を叩いて真帆が怒鳴る。

だが夏陽はそんな真帆を見ようともせず、呆れた様な口調と他人事の様な声音でただ淡々と、

 

「お前なんかと一緒にバスケが出来る訳ねぇだろ下手くそ」

 

―――その一言を最後に、進はそこから保健室のベッドで横になっていた今までの間の事をよく覚えていない。

何だか筆箱とか教科書とか黒板消しクリーナーとか椅子とか、最終的に机とか人とかがバスケットボールの様に放り投げられまくって宙を飛びまくる光景が脳裏を一瞬過った気がしたが、余りにも非現実的な光景だなと結論付けて、何やらやたらクラスメイトの姿が多い保健室のベッドの上で肩を竦めた。

 

 

 

 

 

生徒全員に割り振られた係仕事の中で、進が充てられた係は『飼育係』だった。

以前いた学校でも競争率の低かった同様の係を務めていた事もあり、内容もよく知らない妙な係仕事を割り振られるくらいなら知っている物の方が良い、と考えたからである。

 

ただこの係、以前は男子生徒の競争率が某国家の年間業績成長率より低かったというのにこの慧心学園初等部6年C組ではバブル崩壊直後に訪れた大企業への求人応募率より高かった。というよりクラスの男子ほぼ全員が希望していた。

何故か、とふと思った進だったが、厳正なあみだくじの結果見事係を射止めた後になって同じく係に就任した夏陽にその訳を聞くと、

 

『えっ!?お、お前っ、そりゃ……あれだよ、えと……』

 

何だか顔を赤らめながらしどろもどろになって非常に言いにくそうに口ごもっていた。

進の呟きを聞いたのか、血の涙を流していた男子生徒達がギロリと進の方を睨んだ気もしたが、そんな敵意むき出しな視線にもこの時の進は気づく事無く、ただただ目の前で指をもじもじさせたり視線を彷徨わせたり、宛ら恋する乙女の様な仕草を見せるクラスメイトに小首を傾げていた。

 

「おー、水崎ー」

 

と、考え事をしながら兎にレタスを齧らせている所に後ろから声がかかった。

顔を後ろに向かせると、そこには給食室で余った野菜をいっぱいに持ったバケツを両手で運ぶクラスメイトで同じ係の袴田ひなたの姿があった。

 

「お疲れ様、そこに置いといて」

「おー、ひなもウサギさんにご飯上げるぞー」

 

言って、進の指差した辺りにバケツを置いたひなたは早速レタスの葉っぱを取り出して進の隣にちょこんと座ると、同じ様にしてレタスを兎の前に差し出した。

進の方から二、三羽靡いた兎達がひなたのレタスを齧り始めると、途端に顔を喜色に綻ばせながらひなたが御機嫌を露わにした。

 

6年C組の中でも一際異彩を放つクラスメイト、袴田ひなた。

確か先日の対抗試合では女バスチームにいた様な気もしたが、進は終始自分と真っ向勝負を繰り返した智花以外の女子のクラスメイトは、未だに顔と名前が一致しないどころかどちらも覚えていない生徒の方がむしろ多かったりする。

……ちなみに、男子生徒もクラスメイトの夏陽以外顔も名前も全く判別がつかないのだが、そこら辺は進的には正直どうでもよかったりする。

 

そういった所が、未だにクラスの中で進が少し周囲から距離を取っている様に見られる一因になっていたりするのだが、特に困った事もないからまぁいいか、と進は思っていた。

 

 

 

「水崎」

「ん?」

「水崎はバスケ、嫌い?」

 

パリッ、とレタスの芯を齧る兎の歯音が嫌に大きく響いた。

 

「ひなはバスケ、好き。みんなとするバスケ、面白い。練習は大変だけど、みんなと一緒なら頑張れる」

「…………」

「ひな、水崎と違ってバスケ下手。みんなよりも下手。けど、みんなと一緒なら楽しく出来る」

 

宝石の様に澄んだ小豆色の双眸が、ジッと進の瞳を捉えて離さない。視線をそらそうとしても、まるで石化の呪文でも唱えられたかのように動けない。

 

「この間の試合の水崎、楽しそうだった。でもバスケ終わったら、水崎、辛そうだった。泣いてた。水崎はバスケ、嫌いだった?」

「…………そんな事、ない」

 

そんな事、在る筈がない。

あんなにも輝いた世界を見せてくれたバスケを、嫌いになれる筈がない。

 

ない、筈だ。

 

 

 

 

 

 

『やっぱり兄貴が出来ると、弟も出来が違うんだよな』

『流石、水崎さんの弟さんね』

 

天才と謳われた兄。

兄と比較され続ける自分。

 

自分が『水崎進』である事を証明する為なら他にいくらでも方法があったかもしれない。

だが、自分が自分自身を『水崎新の弟』以上の存在として認める為には、これしかなかった。

 

バスケ以外の道で、自分は兄の幻影を振り払う事は出来ない。

バスケで、自分は兄を越えなければならない。

 

その為にもがいた。

その為に足掻いた。

 

初めてシュートを決めた瞬間の、初めてドリブルが上手く行った瞬間の感動を糧に頑張り続けた。

兄から様々なテクニックを教わって、学んで、時に盗んで。

 

そうやって自分を磨き続けて、高め続けて―――それでも結局、兄の背中は遠ざかる一方で。周囲はただ自分を『水崎新の弟』としてしか捉えず、そして自分がバスケで培った全てすら、むしろ『水崎新の弟』であれば当然であるとしか思わず、それ以上を求め続けた。

 

だから足掻いた。

だからもがいた。

 

地区大会も圧勝した。

県大会では最優秀選手に輝いた。

全国大会ではメディアにも取り上げられた。

 

―――――――それでも結局、つき纏うのは兄の影。

誰も彼もが自分の事を『水崎新』の付属品(スペア)としか見ない。

 

憧れは鬱陶しさに。

喜びは妬みに。

 

何時からか『楽しむ』事は『勝つ』事に変わった。

喜びも、嬉しさも、何もかもも勝つ為の方法として、手段として、基礎代謝として消費し続けた。

 

勝つ事が、勝ち続ける事が兄に勝る唯一の方法だと考えたからだ。

 

慣れ合いの仲間なんかいらない。

勝利に必要な要素なら誰でもいい。

 

チームの人間は所詮、勝利というパズルを組み立てる為の部品(パーツ)。

その為に利用して、利用して、利用して利用して利用して利用して利用して、いらなくなったら捨てる。

 

チームメイト?

自分が勝利という成果を得る為に使えそうな備品。

 

チームワーク?

隣に立つ事もままならないレベルの弱者がほざく、傷の舐め合いの為の妄言。

 

そうやって戦い続け、そうやって勝ち続けてきた。

 

 

 

―――それなのに。

 

あれ程盛名を轟かせた兄が、あれ程気高い目標として君臨し続けた兄が、たった一つの汚点によって全てを失った。

 

その引き金を引いたのは、付属品(スペア)でしかなかった自分。

 

その時から、バスケに関しては兄の幻影は振り払えたのかもしれない。

 

―――違う

 

こんな形で兄を振り払っても意味はない。

こんな形で終わっても何も解決しない。

 

自分が足掻き続けたのは、もがき続けたのは兄に、『水崎新』に『バスケで』勝つ為。

その為に何もかもをかなぐり捨てて、全てをバスケに注いできた。捧げてきた。

 

けど、

 

―――どうして俺は、強くなろうとしたんだ?

 

あんな兄に勝つ為?

あんな兄を超える為?

 

下らない。

下らない下らない下らないくだらないくだらないくだらないクダラナイクダラナイ!!!

 

そうして、自分は情熱を失った。

熱意も、意欲も、家族も、何もかもを失って、それまで抱えてきた重みすら失って。

 

残ったのは勝利に固執し続けて歪んだ、兄を蹴落として自分という存在を確立した、歪んだ『水崎進』という人間ただ一つ。

 

―――くだらない。

 

何の為に俺は生きている?

何の為に俺は存在している?

 

答えの見つからない問いかけを続けて、たった一人で戦い続けて。

兄からバスケを奪っておいて、そのバスケすら止めて。

 

そうやって残ったのは、この世界でたった一つの家族を狂わせた『水崎進』という存在の、父や母や兄に対しての罪悪感だけだった。

 

 

 

 

 

――――――水崎はバスケ、嫌い?

 

夕焼け色に染まった街をバスが往く。車内にはのどかな声が溢れ、それぞれが楽しそうな笑顔を浮かべている。

 

窓辺の席に座り、流れる様に過ぎていく車外の光景を眺めながら、ひなたの言葉が進の頭の中に反芻された。

噛み締める様にして、その言葉を心の中で繰り返し呟く。

 

「俺は…………」

 

分からない。

頭の中はぐちゃぐちゃにかき回された様に何一つまとまらず、答えのない問い掛けを繰り返してふと思う。

 

―――俺は、バスケが嫌いなのか?

――――――俺は、バスケから逃げているのか?

 

 



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第十Q 待てよ夏陽

 

―――事の起こりは何だっただろうか、と思い起こしてまず真っ先に思い浮かぶのは、担任の何が面白いのかよくわからないのにとりあえずいつもニコニコと猫っぽい笑顔を湛えたまま告げられた一言である。

 

「水崎。アンタと竹中、バスケにエントリーしたから」

「……はい?」

 

昼休み終了間際、いつもの様に特にする事もなくぼんやりと過ごして教室へ戻ろうと廊下を歩いていると後ろからぽんと肩を叩かれ、振り返ってみればそこには美星が「にゃふふ」と笑みを湛えながら先述した一言を告げてきたのである。

 

「いやー悪い悪い。うっかり間違えてエントリーしちゃったんだけどさ……やっぱサッカーの方がいいか?」

「…………いえ、別に構いませんが」

 

と、ふと視線を自身の腕に落としながら進が口ごもった。

怪我が開くと不味いから一応安静に、と医者から言われてはいるが、別に荷物を持ったり走ったりしても痛みがそれ程激しい訳でもないのだから別にいいんじゃないかと考え、しかし一応手を使う球技は避けた方がいいかなーという思考が四割と、夏陽がサッカーにエントリーしていたからじゃあ俺もそこでいいかなという考えが六割で選んだ競技だから特に固執するつもりはない。

 

ないのだが、だからといって「はい、分かりました」とあっさりバスケが出来るかと問われれば…………まぁ所詮お遊戯会とどっこいどっこいの低レベルな争いなんだからそこまで真剣にやる必要も、真剣にならざるを得ない程に白熱出来る様な相手もいないのだから構わないか。

 

智花や夏陽が相手だったとしたら、どうなるかは分かったものではないが。

 

「そ?じゃあ良かった。あ、あと竹中にはもう言ったんだけどさ、バスケ参加者は全員今度の合宿に出来る限り参加して貰う事になってるから」

「……随分と大仰ですね」

「まま、そーいいなさんなって。男バスだって今月末には地区大会が始まるだろ?それに備えて主力のアンタと竹中の調整もしとかないといけないし」

 

そういうのって男バスの顧問がするもんじゃないのか、と思ったが、よくよく考えてみたら顧問の顔がよく思い出せないし、そもそも名前なんだったっけ、と進は小首を傾げた。

もう少し考えれば、あの対抗試合以来個人的な基本的なフットワークと体力づくり以外バスケに触れていないし男バスの練習にも参加していない事が思いだせるのだが、それよりも早くチャイムが五時間目の予鈴を校舎に響かせた。

 

「んじゃ、そーいう事だから、合宿サボるなよ?」

「はい」

 

 

 

そう答えたのが、ほんの数日ほど前。

着替えなどを纏めた荷物を持って合宿所――といっても体育館と学園に附設されている宿泊所を併用しただけではあるのだが――へと夏陽と共に向かい、肩慣らしがてら1on1を始めたのが確か十数分ほど前だったか。

気がついたら汗を垂らして結構調子を上げ、肩慣らしはどこいったと云わんばかりに本気状態(マジモード)で攻防を繰り返し、そろそろ腕がちょっとだけ痛んできた気がするから一旦休憩を挟みたいなぁと思った辺りでここ最近になって漸く聞き慣れてきた勝気な声音が進の鼓膜を震わせた。

 

「な、夏陽ッ!」

「水崎君も……!?」

 

唐突な闖入者―――いや、彼女達の側からしてみればむしろ此方が闖入者か。予想だにしていなかったであろう人物の登場に困惑気味の女バスの面々をチラリと見、次いで夏陽に視線を向けた進だったが、

 

「―――ッ!?」

 

まるで女バスなど空気であるかのように気にしたそぶりも見せず、そんだけ汗を垂らしておきながら何処からそんな速度が出せるんだと疑いたくなる程に素早くドリブルで切り込んできた夏陽の猛攻を捌く。

 

キュキキキッ!ガッ!バシッ!

 

一瞬近づいたボールを即座に弾き、どちらともなくふぅと息が洩れた。

何やら随分と目つきが鋭くなった夏陽の表情に疑問符を浮かべていると、ツカツカと音を立てながら真帆が怒鳴った。

 

「何でお前がいるんだよっ!?」

「うるせぇ、お前には関係ねぇよ」

「何ぃっ!?」

 

まるで相手にせず黙々とタオルで汗を拭く夏陽と、それに詰め寄って尚も怒鳴る真帆。

二人の姿を眺めていた進は、ふと思い出した様に女バスの方を見やった。

 

「コーチは?」

「えっ!?あ、えと……」

「今紗季が呼びに行ったけど……」

「おー、水崎」

 

相変わらずマイペースなひなたにはあえて触れず、何故かビクリと身体を震わせた愛莉を怪訝に思いながらも、智花の答えを聞いてもう一度二人を見る。

 

「何だよっ!?」

「何だぁっ!?」

 

……二人が睨みあう少し先の壁に置かれた自分のタオルと水をどうやって取ろうかと思索を巡らせてみるが、どう考えても上手くいかなそうな現実にため息が洩れた。

 

 

 

 

 

「どういう事だよ?」

 

体育館を半面ずつ割り振る様にして練習をする子供達を見やりながら、呆れの混じった声音で昂は問うた。

 

『あぁ悪い、言っとくの忘れてた。合宿参加者二名追加、竹中夏陽、水崎進……以上』

 

電話越しに全く悪びれのない声音で美星が返すと、昂は顔を顰めて口を開く。

 

「水崎は怪我人だろ?」

『本人が別に大丈夫って言ってたし、男バスは今月末に試合もあるからねぇ。あんまりなまらせておくのも不味いだろうし、いい機会だったから』

「……竹中と真帆が喧嘩してるって事は?知ってたんだろ」

『―――あいつさ、断らなかったんだよ』

 

え、と昂が言葉に詰まった。

 

『竹中に、間違えてバスケにエントリーしちゃったんだけどそれでも構わないか?って聞いたんだよ。そしたら別に構わないって……合宿の参加も嫌がってる感じじゃないし』

「嫌がってない?だってあいつ真帆に……」

『よーするに、真帆との諍いなんかよりも、本心ではバスケの方が大事なんだよ。私はそれを選ばせてやっただけ』

「……試したってのか?相変わらずいい性格してるよ」

 

受話器の向こうで猫の様な笑い声が洩れる。それに耳を傾けながらも、昂は館内のもう一人の男子―――進を視界に収めた。

 

「水崎は?まさか智花の練習相手とか、真帆と竹中の仲介役に選んだとかいうんじゃないだろうな」

『まさか。そんな小手先染みた事、私がすると思うか?』

「思わん」

 

即答かよ、とやや非難めいた声が聞こえた気がしたが、昂はまた1on1を始めた二人の方を見た。

 

両者共にその動きは小学生離れしているが、特に傑出しているのは進だ。

ドリブルやステップといった基本的な動作一つとってもミスがない。全ての動きが次に繋がり、シュートへと結びつく。小手先のフェイントや力押しのパワープレイとは全くかけ離れた、純粋に基礎を昇華させたプレイスタイル。

それに応えるだけの骨格が出来ていない事や年相応の体力面でやや不完全さは否めないが、逆にあの年であれ程の技術を身に付けた実力は大したものだと云える。

一対一の場面における練習なら、自分よりもむしろ同年代の彼の方が智花の相手としては相応しいのではないだろうか。

 

頭の中でいくつかの練習パターンを構築していると、美星の声がスッと耳に入って来た。

 

『水崎をそっちにやったのはさ、友達作りの第一歩ってところかな?』

「友達作り?」

『そ。アイツさ、休み時間は一人で過ごすし昼飯も一人で食べる。割り振られた仕事は要領よく片づけるからいいんだけど集団作業みたいな事を全くしないからねぇ。担任としてはそろそろ周囲に馴染んで欲しい訳よ』

「それこそ担任の出番じゃないのかよ」

『バーカ。友達ってのはなる・なられるの上下関係じゃ絶対になり立たないんだよ。自分で作れる様にならなきゃ本当の意味での友達とは呼べないんだよ』

「……まさかとは思うが、真帆と竹中の問題も自分達で解決させる為に丸投げした訳じゃねぇよな」

 

一瞬間があって、

 

『……にゃはっ』

「図星かよっ!?」

 

 

 

 

 

犬猿の仲、という言葉がある。

顔を突き合わせただけですぐ喧嘩に発展する程険悪な仲を指して言う言葉だが、恐らくこれ程分かりやすいお手本も早々ないだろうなぁと考えながら、スポーツドリンクを呷りつつ目の前の光景を眺めていた。

 

「すばるん!そんなバカほっといていいってっ!」

「黙れアホ真帆っ!」

「もっぺん言ってみろこの野郎ぉっ!」

 

口を開けば罵り合い。

ちょっと近づけば取っ組み合い。

 

白熱すれば何時ぞやの様に色んな物体が空中を右往左往する事態に陥る大合戦。

 

この二人、実は前世で何かあったんじゃないかと、別に神を信仰している訳でもないのに進はふと輪廻転生という言葉を思い起こしていた。

 

「真帆と何があったんだよ?」

「別に何もねぇよ。アイツとは絶交ってだけだ」

「嫌ならとっとと帰れバカ野郎ぉっ!」

「るっせバーカッ!」

 

目の前の昂と喋るかコートの向こう側の真帆と喋るかどっちかに絞ればいいのに、と実にどうでもいい事を考えながら進は体育館の出入り口へと向かう。

 

「―――だからそういう事だっての!」

 

と、声を荒げた夏陽の声にふと立ち止まって振り返った。

見れば昂を睨みつける様にして夏陽が怒鳴り、次いで女バスの方を見て視線を一層強めた。

 

「例え湊がいたって、俺や水崎がでなきゃあいつら6-Dには勝てねぇだろうが」

「ざけんなっ!夏陽なんかいなくたって勝てるもんっ!」

 

真帆の言葉に、しかし全く反応を見せず夏陽は進の立ち止まる出入り口へと向かって挑発的に鼻を鳴らして歩く。

 

「行こうぜ水崎」

 

誘う言葉をかけておきながら待つ素振りも見せず外履きに履き換えて夏陽は走りだそうとする。が、

 

「待てよ夏陽」

 

後ろから聞こえてきた言葉に鬱蒼しそうに顔を歪めながら振り向いた。

 

「何だよ?」

「今から球技大会のレギュラー決めだ」

 

「あぁ?」とこいつ正気かとでも言いたげな夏陽の声と、「えぇ?」とやや驚いた様子の昂の声の両方が一瞬聞こえたが、直ぐに真帆の声にかき消される。

 

「お前とアタシで、勝った方がレギュラーだ。喧嘩は駄目でも、バスケでタイマンならすばるんだって文句ねぇしっ!」

 

握り拳を作って今か今かと試合開始のゴングを待つチャンピオンマッチの挑戦者の様な面持ちの真帆に、しかし酷く冷めた様子で夏陽はポツリと、

 

「……お前のバスケなんて見る価値ねぇよ」

 

呟いて、勝ち逃げの様にさっさと走りだした。

その背中を追いかけようとして怒鳴る真帆を、智花とひなたの二人が抑え込み、後ろの方で昂と紗季がため息を洩らす中、結局待って貰えなかったというか若干空気みたいに存在が忘れられている気がした進は気持ちを共有してくれそうな愛莉の方を向いた。

 

「……じゃ、俺も走ってくるから」

「え、あ……うん」

 

やはり何だか自分に怯えている様な雰囲気の愛莉に告げて、進は真帆達とすれ違う様にして夏陽の元に向かおうとする。

 

と、慌てた様にして昂が口を開いた。

 

「あっ、水崎」

「……はい?」

「いや、その……合宿、頑張ろうな」

「……別に球技大会はどうでもいいんですけど、まぁ月末には地区大会も始まりますし、調整代わりに有意義に利用させて貰いますよ」

「んだとぉっ!?」

 

藪をつついた覚えもないのに蛇が出てきたか。

怒りに声を荒げる真帆を見て咄嗟にそんな事を考えた進はさっさと階段を跳び下りると、既に姿の見えない夏陽に追いつく為に少しだけ早いペースでランニングを始める。

 

その背中が消えるのを眺めながら、どうしてどいつもこいつも挑発的な言葉しか出さないんだろうなぁと昂は頭を抱えた。

 

 

 

 

 

 

合宿において体育館が使用出来る時間が限られている以上、ボールに触れている時間もその中に縛られる。

しかして普段の生活と違い門限云々で時間が縛られない夕方や夜の時間帯にこうして基礎練習が出来るのであれば、この合宿に参加した価値はそれなりにあったのだろうかと進はシャトルランを繰り返しながら考えた。

 

夏陽は裏山の神社に自前のゴールを作っておりそこに練習へと向かったが、昼間の1on1を主な原因とする腕の痛みの所為で進はそちらへの参加を丁重に断り、こうして体力づくり――というよりは以前の体力や感覚を取り戻す特訓――を繰り返していた。

 

『次は俺達が勝って、全国に行くんだ!』

 

夏陽がああ言って、自分がその熱にあてられた以上これまでの様に怠けている訳にはいかない。

自身にとって最大の禁忌に近いものであっても、もう一度ボールを手に取る必要があるのだ。

 

―――そうやって自分に何度も言い聞かせる様にして、まるで呪詛の様に自分自身に絡みつけて縛りつけて、逃げ出さない様にする為に思い込ませる。

 

『水崎はバスケ、嫌い?』

 

ひなたの言葉が頭を過る。

 

好きとか嫌いとか、そんな単純で簡単な感情でバスケをやっていたのはいつまでだっただろうか。

勝ちに固執して、しがみ付いて、拘り続けて。好きとか嫌いとか、そうした事を考える事自体を放棄していた。

 

「ふぅ……」

 

汗を拭い、ふと満天に星が輝く夜空を見上げてみた。

そう言えば夜中にこうして練習するのは何時以来だっただろうかと思い―――蘇った記憶に映った光景に、思わず顔を歪めた。

 

「……ッ」

 

それは幸せだった頃の記憶。

まだ『好き』とか『嫌い』とか、そんな単純な感情で色んな事を捉えられていた事の思い出。

 

『ほら進、もうちょいだ。頑張れ』

『うんっ!』

 

兄と一緒に練習に励んだ、そんな夏の夜の思い出だった。

 



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第十一Q 止めた方がいいよ

引き受けたからにはしっかりとこなす。

頼まれた以上は全力でそれに応える。

 

生来の苦労人気質というか、世話人的体質の昂はそんな自分の性格を度々面倒に思いながらも、結局はいつもそれらを乗り越えてきた。

その辺りを上手く利用されたんだろうなぁ、と思いながら、目の前に律儀に正座しながら自分の話を聞いてくれる智花と共に作戦を練っていた。

 

竹中と真帆をどうやって仲直りさせるか。

 

こうした問題に真っ先に取り組まねばならない筈の担任から直々に丸投げされた以上、自分が動かなければどうしようもない。

和菓子を齧りながら「にゃふふ」と笑みを零す叔母の姿を脳裏に思い浮かべて、昂はため息を洩らした。

 

「ふぇっ!?だ、駄目でしたか……?」

「えっ?……ああいや、違うって!これは駄目だとかそういうんじゃなくて」

 

紗季や真帆が見たら喜色を浮かべながら騒ぎ出し、進や夏陽が帰ってきたら「この二人何やってんだ?」と首を傾げるであろう程に近づいて考え込んでいる事に当人達は全く気づかず、あれでもないこれでもないと悩んだ挙句、二人は幾つかのプランを打ちたてた。

 

題して『真帆と竹中 仲直り大作戦!』

 

 

 

―――結果から言うと、二人があれこれ考え抜いて打ちたてたプランは時に夏陽と真帆の喧嘩っ早さに、時に智花が自らぶち壊し、時に事情を全く鑑みないというか理解していない進やひなたの悪意なき言動によって悉く潰されてしまい、合宿終盤の夜になっても二人に進展は全くなかった。

 

「中々上手くいかないなぁ……」

 

薄暗い廊下に立って昂がぼやく。

智花を除く女バス及び夏陽と進は現在厨房に籠ってカレーを作っており、除かれたというか昂によって連れだされた智花は昂と共にため息混じりに顔を俯かせた。

 

「あの二人、以前は仲が良かったそうなんです。真帆がバスケ始めてから急に仲が悪くなったって、紗季が首を傾げてました」

「って事は……真帆がバスケをやる事自体が、竹中にとっては癇に障るって事?」

 

昂は疑問符を浮かべながらここ数日間の二人を思い起こした。

ゲームをやっている時や食事をしている時はそれ程険悪な雰囲気を醸している気はしない。むしろ仲のいい友達の様に息があっていた光景も何度もあった。

だが、ことバスケとなると途端に二人の間に亀裂が奔る。真帆も夏陽もさっぱりしているというか、後にズルズル引きずる様なタイプではない事が幸いだったのかもしれない。

 

流石に合宿所に帰ってまであんな空気で居られては、こっちの方が困ってしまう。主に愛莉辺りが怯えて。

 

「……原因は私なのかもしれません」

 

そんな事を考えていた昂は、消え入りそうな声で呟いた智花の言葉への反応が一瞬遅れた。

 

「真帆が私の為にバスケ部を作ってくれたから……」

 

罪悪感に押しつぶされてしまいそうな程に小さく、か細い華奢な体躯。

バスケをしている時はあんなにも力強く、頼もしく周囲を勇気づける事が出来ても、そんな鎧を剥いでしまえばただの小さな女の子でしかない。

 

そんな子供が、態々自分で自分を責めて重荷を背負う事なんてない。

 

「―――とぅ」

「わひゃぅっ!?」

 

暗闇から唐突に伸びて自分の頬に触れた人肌の温かさ――昂の掌――に、吃驚した様に智花が声を上げた。

 

「関係ない、そんなの。智花には、何も関係ない。喧嘩はあくまで二人の問題だよ?」

 

慈しむ様に、いとおしむ様にして智花の柔らかな頬を昂の指がそっと奔る。男の自分では想像も出来ない様な手入れのなされているであろう肌は最上級のシルクの様にきめ細かく、それでいて今にも溶けてしまいそうな程にゆるやかで、温かくて。

 

昂はそっと智花を撫でた。その重荷を紐解く様に。

智花はそっと目を閉じた。この瞬間が永遠に続く事を祈って。

 

小さな呼吸の音だけが静寂の闇の中に静かに響く。一分か、二分か、或いは十秒も経っていなかったかもしれない二人だけの世界は、

 

「―――何やってんの?」

 

その世界の全てを嫌悪し侮蔑し、ありとあらゆる要素の全てを否定するかの様な刺々しい声音と鋭い眼光によって唐突に打ち崩された。

 

 

 

「み、水崎……?」

 

声の主は進だった。

だが夕刻に飼育小屋の方に赴いて兎に餌やりをしていた時に見せていたのんびりとした空気は微塵もなく、昼間に智花と1on1で真剣勝負を繰り広げていた時の様に鋭く、相対した何者をも威圧する様な雰囲気を放ちながらその双眸を昂に向け、智花に向け、

 

「……三沢と夏陽がまた喧嘩始めて、永塚がさっさとコーチ呼んでこいっていうから来たんだけど」

 

先程より幾分か鋭さの増した眼光で再び昂を睨んだ。

 

「アンタさぁ、湊と付き合ってる訳?」

「ふぇっ!?ち、違うよ!?わ、私と昂さんはまだそんな仲じゃなくてああでもいつかはそうなりたいなーと思ってたりもしたりしなかったり、じゃ、じゃなくてっ!違うからっ!それは誤解だからね!?」

「そ、そうだぞ水崎!第一智花はまだ小学生で……ッ!」

 

言いかけて、進の眼光の奥に潜んだ感情に昂は射抜かれた。

 

そこにあるのは明確な敵意。嫉妬だとか羨望だとか、そういった余計な感情の一切が介在しない、相手の絶対的な否定。

その者の存在の全てを嫌悪し、侮蔑し、軽蔑し、否定するかのような色を浮かべた双眸が真っ直ぐに昂を睨みつけ、その遥か深奥に潜んだ『怯え』にも似た感情が僅かに滲んでいる事を昂は見逃さなかった。

 

と、そんな事を考えている間に全く動けなくなっていた昂をまるで初めからいなかったかのように無視して進は智花の手を握った。

 

「行くよ湊」

「ふぇっ!?え、ちょ、あの……っ!」

 

何か言おうとしているけどそれを言う程の暇も与えない速度でずんずんと歩き出した進に連れられる様にして智花はたたらを踏みながらも何とか転ばない様に歩き、助けを求める様な視線を暗闇の中に確かに存在する昂に向ける。

しかし昂は力なく伸ばしかけた手を虚空に彷徨わせたまま動けず、やがて廊下を曲がって二人の姿が消えた頃になって漸くその手をダラリと下ろした。

 

「……何やってんだよ、俺」

 

非常灯の灯りが僅かに灯る廊下に立ちつくして、昂は嘲笑にも似た表情のまま上を向いて呆れた様に呟いた。

 

 

 

廊下を何度か曲がって玄関近くまで連れてこられた智花は、痛みを訴える暇も与えられずひたすら歩き続けた連行主―――進に困惑と非難が七対三くらいの割合で混ざった色を浮かべてその背中を見た。

 

ぐいぐいと自分の腕を引っ張る力は強く、しっかりと握られた腕にはその力強さを象徴するかのような圧迫感と温かさと、相応の痛みが伝わってくる。

 

「ちょ、水崎君……っ!痛い……っ」

 

遠慮を知らない足音に掻き消されてしまいそうな程に小さな智花の声は、しかししっかりと進の鼓膜を揺らしたのか不意にその歩みを止めさせ、我に帰らせたかのように腕の拘束を弱めた。

 

だが以前、腕はしっかりと握られたままでその拘束を解くには多少の力が必要な様だ。

智花がその拘束を解こうと小さく息を吸ったその瞬間を狙い澄ましたかのように、

 

「……湊」

 

普段より幾分か冷たい印象を受ける声音で進がポツリと呟いた。

 

「な、何?」

「―――止めた方がいいよ」

 

振り返り、自分を射抜いた進の双眸に智花は一瞬呼吸を奪われた。

 

「自分の人生も相手の人生も、何もかもを背負える覚悟もないのに『そういう』関係になっても、結局お互いに傷つくだけ傷ついて何も残らない。いい思い出なんてあったって、人は生きていけないんだよ」

 

寂しさを、虚しさを秘めた瞳が僅かに揺れて、

 

「湊にはまだ将来がある。その可能性を、高々一回二回の『過ち』で全部台無しにされちゃうなんて可哀そうすぎるよ。だからあのコーチとは、止めた方がいい」

「な、何を言って……」

「―――無知なままで、純粋なままでいられる湊がうらやましいよ」

 

口元に歪な笑みを湛えながら、進の双眸が智花を捉えて離さない。

 

「昨日まで友達だった奴に白い目で見られた事がある?隣近所に住んでいるだけで嘲笑われて、侮蔑の視線で見られた事がある?知りもしない奴に指差されて笑われた事は?教科書やノートに家族の事を犯罪者呼ばわりする落書きをされた事は?ないよね、在る訳がない。だって湊はずっと無知で無垢で純粋で、生まれた時からずっと選ばれた勝ち組で、俺みたいな成り上がりの凡人とは生まれも育ちもかけ離れているんだから」

 

進の瞳から色が失せる。

ハイライトを失くした双眸が虚ろに揺らめいて、ゆるりと弧を描いた口元が智花には不気味に映った。

 

「けど仕方ないんだよ。侮蔑も侮辱も軽蔑も嫌悪も否定も、全部俺が受け止めなくちゃいけないんだ。だって俺の所為で俺も俺の家族もみんなそれまでの幸せを失くしちゃったんだから、俺が家族みんなを不幸にしちゃったんだから俺が侮蔑されて侮辱されて軽蔑されて嫌悪されて否定されなくちゃいけない。殴られても蹴られても罵られても、俺はその全部を受け止めて背負わなくちゃいけないんだ。そうやって自分がそれまで頑張ってきた事も全部、ぜーんぶ否定されて穢されなくちゃいけない。だってそれは全部、俺の所為なんだもん」

 

進は嗤っていた。

薄暗く、外に虫の鳴き声が僅かに響く廊下に立ちつくす様にして、目から幾筋もの涙を零しながら、嘲笑っていた。

 

「けど、湊は違う。俺とは違う。無知で無垢で純粋で、生まれた時から勝ち組な湊には将来がある。大好きなバスケだってそれ以外の道だって、自分で好きな未来を選べる無限の可能性が、湊にはあるんだよ?」

 

「だから」と一拍置いて、

 

「―――湊は、湊だけは俺の様にならないで」

 

凛然とした声音で、静かにそう告げた。

 



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第十二Q まさに今の状況が戦争なのですが

 

うなされる様にして開いた視界に飛び込んできたのは、朝日が差し込んで幾筋かの線が模様の様に奔る天井だった。

練習後のストレッチを欠かさなかったお陰で合宿最終日を明日に控えた本日も体調は良好、身体も昨日よりむしろ軽く感じる程であった。

 

だが、

 

『―――止めた方がいいよ』

 

昨日、戒める様に囁かれたあの一言が胸の奥底に打ちつけられた様にして離れない。

自分の様になるなと、自分とは違うのだと、たった一度だけ案じる様にして云われたそれが、まるで古びたレコードの様に断片的に、しかし何度も何度も繰り返して智花の頭の中をぐるぐると廻った。

 

「…………あの時」

 

泣いていた様に見えた。

あの後すぐに進は姿を消し、智花は自分を探しに来た紗季に連れられてお風呂へと向かったから廊下で彼の涙の痕を確かめる様な事も出来ず、かといって比較的早く起きた今から探りに行くと云うのも何だか良心の呵責が心をチクリと諌める様に痛めた。

 

部屋の中に響く真帆の乙女らしからぬ鼾やひなたのちょっとアブナイ気がする寝言も耳をすり抜けるだけで、智花はギュッと掛け布団を握り締めて顔を埋めた。

心の中にもやもやした何かがしこりの様に残り、まるで真っ白な紙の隅の方にツンと鉛筆の先で突かれた黒点の様に小さく、しかししっかりとその存在感を示す様にして言い知れぬ感覚を覚えさせる。

 

「……水崎、進くん」

 

ふと、何となく彼の名前を呟いてみる。

特に意味なんてないそれを、何度も、何度も繰り返して。

 

 

 

―――だから智花は、その呟きにずっと気を傾けていたから気づけなかったのかもしれない。

布団を被って自分に背を向けていた少女が、ほんの僅かではあっても身動ぎしていた事に。

 

 

 

 

 

昔、どっかの偉い人は白鷺城を眺めながらこういったらしい。

 

「大学より上の仲間で何か食べる時、お好み焼きだけは止めろ」

 

お好み焼きの起源は安土桃山時代、天下の茶人千利休が作らせた茶菓子『麩の焼き』にその端を発すると云われている。この麩の焼きは「秋の膳」に出されたれっきとした茶菓子であり和菓子であり、小麦粉を水で溶いて薄く焼いたものに芥子の実などを入れて山椒味噌や砂糖を塗って茶会の席に出したものである。江戸末期には味噌の代わりに餡を巻いた――今で言うどら焼きの様な――『助惣焼』が生まれるが、これがどうした事か明治期には東京で『もんじゃ焼き』『どんどん焼き』へと変貌し、昭和期に大阪へ伝わると鉄板料理各種へと派生して『お好み焼き』へと姿を変えた。

 

所でお好み焼きには大きく分けて「関西風」と「広島風」の二種類がある事は皆さんもご存じの事だと思う。何で広島一県で関西相手に出来るんだとか突っ込んではいけない。どこからともなくはだしの少年が現れるかもしれないから決して触れてはいけない。

 

ではこの二つ、何処がどう違うのだろうか。

そんな事を大学の打ち上げでうっかり聞いてしまったどっかの偉い人は、後に述懐してこう語る。

 

「私は大学の仲間と一緒にとあるお好み焼き屋で楽しく卓を囲んでいたと思ったら、何時の間にか先輩方が関西派と広島派に分かれて第一次お好み焼き戦争を勃発させていた。な、何を(ry」

 

……要するに、嘗て関東大震災後に主食として大流行し、それ以前から間食として高い人気を誇っていたお好み焼きは、地域によっては時としてこだわりを持つ人々によって談義という名の戦争が起こりうる程に愛されており、親しまれている一品なのである。

 

例えば関西風は具と生地を混ぜて鉄板で焼くが、広島風は小麦粉を水で溶いた生地をクレープ状に伸ばして焼いて、その上に具を重ね焼きしていく。関西では麺類を入れず山芋を入れる事が多いが広島は真逆。ソースは地元愛からオタ○クソースをかける広島と市販の中濃ないし特濃ソースや各々にブレンドしたソースをかける関西etc。

 

先輩方のご高説を賜ったどっかの偉い人は、その後広島風と関西風の二種類の食べ比べ談義という名の戦争に強制召喚され、そのヘビーパンチも真っ青な重量にそれからの打ち上げではお好み焼き屋を選ぶ事は決してなかったという…………

 

余談ではあるが、その道の人を前にして「関西風」とか「広島風」とか、そうした呼び方は口にするだけでもタブーらしい。そういった差別的な(別に差別でも何でもないのだが)呼称は結構癇に障るものがあるとかないとか。

 

 

 

「っていう話を前にミホ姉……美星先生から聞いたんだけどさ」

「……まさに今の状況が戦争なのですが」

 

何処か遠い目をしながらそんな事を語る昂と、現在進行形で目の前で繰り広げられる談義という名の戦争に顔を引き攣らせる智花。

ひなたはよくわかっていない様で終始楽しそうに笑顔、愛莉は引き攣らせるを通り越して顔面蒼白、そして戦場の真っただ中に取り残された夏陽と真帆は、まだ敗残兵の方がマシな待遇を受けられるかもしれない程に過酷な状況下で、

 

「だぁかぁらぁっ!何で具と生地を別にしてる訳!?信じらんないっ!!」

「はぁっ!?んなぐちゃぐちゃにかき混ぜた挙句、だし汁入れるわ山芋入れるわそれだけでも堪忍出来ないっつぅのに、あまつさえ焼きそばは入れないとかどんだけ邪道な代物で最後の晩餐を飾ろうとしてるんだよ!?しかも何でソースが○スターなんだよ舐めてんのか!!普通にオ○フク一択だろ常識だろ掟だろ!買い出しは……昨日って事はお前だったよな夏陽ィ!!」

「は、はひっ!?」

「真帆!!アンタは何でわざわざモダン焼きにしようとしてんのっ!?お好み焼きは青海苔・ソース・マヨネーズの三種の神器をかけてからそのまま食べるのが一番美味しいのよ!?何で分かんないの信じらんない理解出来ない認可出来ないーっ!!」

「は、はぃっ!?」

「第一何だこの火力は!?こんなチビチビチビチビ子供の火遊びじゃあるまいし何でこんな弱い火力しか出せねェんだよ!?ふっつーに鉄板持ってこいよ鉄板!!」

「何よ!?確かに鉄板が無い事は不服だけど、ない物はしょうがないからそこにある物を上手く使うしかないでしょっ!?ああもうっ!これだからお高く止まった広島風は嫌いなのよっ!!ひっくり返すのだって一苦労だってのにぃっ!!」

「えぇえぇ客引きに奔った挙句お子様仕立ての二流に成り下がった御方は流石に云う事が違いますねぇっ!!散々ソースで浮気した挙句マヨネーズなんて玩具に頼る様な焼却ゴミの分際でお好み焼き語るなんて十年早ぇんだよ!!」

「何ですってぇっ!?」

 

……過去、進がバスケ以外の事でこれ程激しく感情を露わにした事があっただろうか。

智花や愛莉の反応を見る限りなかったんだろうなぁと昂は遠い目をして、所で進の夏陽の呼び方が何時の間にか「竹中」から「夏陽ィ!」に変わってるのは何でだろうなぁとふと思ったが、多分言っている本人も気づいていないのだろう。だって夏陽も気づいている感じじゃないし。顔真っ青だし。つぅか汗が尋常じゃないよマジ二人ともパネェっすよ。

 

実家がお好み焼き屋の紗季は云うに及ばず、手際の良さからその情熱から、進もお好み焼きでは一家言持つ様なお好み焼き奉行だったのかなぁと、先輩でもないのに何となく一成辺りのノリで体育会系的挨拶をしたくなった昂だった。

 

「あ、あわ、あわわ、わわ、はわわ、はわわ、はわわ、はわはわ」

「あ、愛莉!?恐怖のあまり蟹の様に口から泡をっ!?というか何だか身体が変な踊りを踊りだしてるっ!?」

「何だとぉっ!?」

「何よぉっ!?」

「おー、二人とも、仲良し」

「ひ、ひなたちゃん?あれは仲良しとはちょっと違うんじゃないかなぁ……?」

「だ、誰でもいいから……」

「助けてくれぇ……」

 

折角真帆と夏陽が仲直りしたというのに、今度はその保護者と付き添い人が騒動を起こして、そんなこんなで第二次お好み焼き戦争を経て合宿最後の夜は騒々しくも最後に相応しく楽しさの中で更けていった。

 

……と思ったのだが。

 

 

 

 

 

 

「いなくなった?」

 

ジュースを買った帰り、玄関で待っていた智花から告げられた一言に昂は目を丸くした。

別に着物で三つ指ついて待っていた訳ではないし、見れば並んで立つ三人―――女バスの面々も一様にやや俯き気味に暗い面持ちである。

 

「はい。夕食の後から……」

「ひながいなくて……」

「手分けして探したんですけど……」

「夏陽の奴、ひなが好きだからってとうとう我慢できなくて誘拐を……!」

 

一人だけ言っている内容が違うし若干どころではなく飛躍している。誰なのかは云うに及ばず。

 

「いやいや……まだ探してない所は?」

「学校の中で行ける所は大体……」

 

昂の問いかけに智花が答える。

暫し思考を巡らせた昂が口を開こうとした矢先、

 

「あっ、もしかして裏の神社かも!」

 

天啓を得た様に紗季が顔を上げた。

 

 

 

普段の練習でも人一倍努力する夏陽は、しかし女バスとの折り合いから練習が出来ない日は一人で自主錬に励むという。

その為に自作したゴールが学校裏の山奥に建てられた神社にあり、ひょっとしたら夏陽はそこに行ったのではないか、というのが紗季の意見である。

進は第二次お好み焼き戦争で同盟国だと思っていた『いのせんと・ちゃぁむ王国』国王の夏陽が自分が推す広島風よりも『スットン共和国』首相の紗季の関西風を選んだ事にロシア参戦を告げられた大日本帝国軍総司令部幕僚長よりも驚き、食事が終わると戦争末期の神風特攻隊もかくやと云わんばかりの速度でさっさと不貞寝してしまった。

ちなみに夏陽が関西風を選んだのは幼馴染の好云々ではなく、単純にひなたが昂の真似をして関西風を選んだからだったりする。更にちなみに智花は昼間の進との1on1で相当に体力を消耗して空腹加減が凄まじかった事からついつい昂の前だという事も忘れる程にボリューム感たっぷりな広島風を選び、進と紗季の剣幕に押しに押された愛莉は結局二つ食べるというヘビーパンチを選択した。

 

後日二人は乙女の測定器に乗って愕然とする未来が待ちうけていたりするのだが今の彼女ら+男一名には関係のない話である。

 

「真っ暗だな……」

 

夏とは云え既に夜中の八時半を回っている時分。流石に山の中ともなれば周囲は真っ暗で、ライトを手に持つ昂でさえも時折囁く様に揺れる木々の音に警戒心を抱いてしまうのだから、その灯りを頼りに暗い山道を歩く少女達はもっと不安を感じているだろう。

 

「うぁぁ……」

 

『こういった』話が実は一番苦手だという真帆は大量のペンライトで完全武装してすら怯えを露わにしている。

 

「竹中はともかく……本当にこんな所を通ったのかな?ひなたちゃんは」

「と、通ってないよぉ……!別な場所をもっとよく探した方がいいってぇ……!」

 

普段の勝気な姿からは想像を絶する程に想像出来ない様な弱気な真帆の声は既に震え上がっている。

そんな幼馴染の姿に紗季はため息交じりに呟いた。

 

「だから留守番してればって言ったのに……」

「それはそれで怖いだろぉっ!?」

 

情けない事を何故か逆切れして叫ぶ親友の姿に、今度こそ隠す事無くため息を洩らす紗季。

そんな二人のやり取りに苦笑していた昂が、淡いピンクが混じった白い『ナニカ』と遭遇するまであと三秒。

 

 

 

 

 

竹中夏陽は上機嫌である。

ニヤニヤと締まりのない笑みを満面に湛えたそれは、普段クラス内ではクール&エリート+イケメンという有望株で高評価な女子達には見せられない程に締まりのない顔であった。

おまけに鼻歌まで謳いだして顔を赤らめた姿を見られた日には、こいつとうとう妄想癖に目覚めたかとクラスの面々から可哀そうな目で見られてちょっとどころではなく距離を置かれる事必至である。

 

とはいえ、夏陽が上機嫌なのも無理はないと言えよう。

 

シュ……ガコッ

 

『よしっ!ナイスシュッ!』

『おー、竹中直伝のシュート』

 

パンッ!

 

「へへっ……」

 

顔の筋肉という筋肉の一切が緩みっぱなしの笑みのまま、夏陽は寝間着用の上着を着た。

 

以前から恋心を抱いていたひなたとこの合宿の期間だけでも急接近したに飽き足らず、今し方はマンツーマンでの指導にハイタッチをかわす程の間柄に成長したのだ。真帆がこの間「今日一日だけでレベルが5上がったぜっ!」とか言っていたがそんなものは今の夏陽には相手ではない。さっきの二時間程度で最早夏陽のレベルは10をも数えんばかりに上昇している。

 

―――こんな調子で、合宿が終わった後も色々話せたらいいなー……

 

自分は飼育係だし、ひょっとしたら一緒の当番の時にはもっと話せるかもしれない……いやいや、クラスで顔を合わせたら些細な世間話でも……もしかしたら登下校時のスクールバスの中で隣の席に座ったり出来るかも……

 

そんな淡い幻想で、甘い妄想に浸りながら服を整えて―――ふと、淡いピンクが混じった白い『ナニカ』が目に映った。

 

「ん?何だ?」

 

手に取り、確認の為にその両端を握る。

そして何気なーく広げて、

 

「―――ッ!?」

 

愕然とした。

否、愕然と云う言葉すら生ぬるい驚愕の事態が夏陽の脳内に緊急警報・第一種戦闘配備命令を下した。シグナルレッドは最早真紅すら凌駕せんばかりに赤々と光り輝き戦術レベルは一瞬にして最大級まで引き上げられる。

 

「こ、これは―――ッ!?」

 

淡いピンク、可愛いパンダプリント、5-C はかまだひなた

 

―――最早その瞬間に夏陽の脳内にはオゾンホールから降り注ぐ紫外線やら赤外線よりも濃厚にそして濃密にして濃縮された映像が駆け巡り瞬時に永久脳内保存、五重のパーフェクトロックは鉄壁のディフェンスを誇りながらしかし主の命令とあらば即座に閲覧可能状態へと移行できる万能型ハイスペックな、

 

―――――ガラッ

「すっかりのぼせたなぁ……」

 

昂が浴場のドアを開けた『ガ』の音が聞こえた瞬間に夏陽は衣類、タオルが丁寧に畳まれた状態にプラスαを抱えてダッシュ。普段から進との一騎打ちによって日々練磨された脚力を如何なく発揮して咄嗟にその場から逃走した。

後に残された昂が暫しその背中を呆然と眺め、やがてその挙動が『アレ』に拠るものだと気づくまであと五秒。

 

――――――そう。対球技大会用バスケットボールチーム強化合宿最後は、まだ眠らない。

 

 

 



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第十三Q このまま隠して持ち帰る

 

「―――ハァッ……!ハァッ……!」

 

胸の動悸が止まらない。

鼓動は早鐘の様に盛大に打ち鳴らされ、嘗てない程の緊張と困惑に身が竦みそうになる。

 

しかし立ち止まる訳にはいかない。

 

例えどんな物を犠牲にしても、何があろうと。この身、この命が尽きる事になろうとも、これだけは死守せねばならない。

 

この――――――ひなたのパンツだけは!!

 

 

 

 

 

「…………」

 

三度左右と後方を確認した夏陽はそぉーっと部屋の中を覗き、同部屋の進や昂がまだ戻っていない事を確認して室内へと戻った。

そして驚異的な速度で自身のタオルや衣類を仕舞い――その過程で脱衣所で入手した『ブツ』を隠す事も怠らず――早々に布団を敷いて床につく体勢をとった。

 

進は風呂に入る前にもうひと汗流すつもりなのかランニングに出かけ、多分その足で風呂に入ってから戻ってくるだろう。早朝といい夜中といい、この合宿中も自主錬のペースをしっかり管理したその徹底ぶりからも平生のあの底知れぬ実力の一端が窺い知れるというものではあるが、だからといって練習終了後のこのどっと疲れが押し寄せてくる時間帯にそんなもんこなすとかお前は本当に同じ小学生なのかと疑いたくなる。が、今はむしろその化け物染みたバスケバカぶりに感謝しよう。

昂は……よく確認しなかったが気づいていない様子だったし、恐らくは就寝前に一度女子部屋の方の様子を見て戻ってくるだろう。そして女子部屋に行けば十中八九真帆にとっつかまって就寝間近まで抑留されるに違いない。

 

結論付けとして、恐らく後小一時間はゆっくりと対応を練る事が出来る。

最も、その内容は決してゆっくり出来る様な代物では断じてないのだが。

 

「…………」

 

立ちあがり、もう一度部屋の周囲や廊下に誰もいない事を確認する。

右、前方、左。右、前方、左。

 

「……よしっ」

 

念には念を入れて扉には鍵をかけておこう。

これで万一二人の内のどちらかが戻ってきても大丈夫。扉をあける前に『ブツ』を隠せば無問題。

 

そして布団の上に座った夏陽はおもむろに―――そして丁重に『ブツ』を目の前に広げて置いた。

 

「………………」

 

もう一度確認する。

 

淡いピンクの布地に描かれた可愛らしいパンダのプリント。その上に達筆ながらもその人と成りを表しているかの様な柔らかなタッチで書かれた文字は『5-C はかまだひなた』のアルファベット三文字、ひらがな七つの計十文字。

洗剤特有の匂いの中に仄かに香る芳しくも悩ましい蜜の様な香りは、無垢な花弁の中に潜む魔性の毒の様に蝶を集めそして永劫の虜にして二度と放さなくする様に―――

 

「ハッ!?」

 

本能のままにひくひくと匂いをかぎ分けようとする鼻をつまみ上げ正気を取り戻す。

 

危ないどころの話ではない。これではただの変態だ。日々嫌悪するあの変態ロリコンコーチと同類だ、同族だ、同種だ。

 

それだけは死んでもいやだ、と夏陽は頭をブンブンと左右に振る。

 

そう今の問題は匂いをかぎ分ける事ではない。

『これ』をどうするか、だ。

 

「…………」

 

夏陽は考える。普段は男バスキャプテンとしてコート上で瞬間的な采配に長ける明晰な頭脳を以てこの窮地の打開を図った。

最早頭脳の無駄遣いだとかそういったツッコミの一切を彼は聞き入れない。そんな余裕は全くない。本能の赴くまま匂いをかぎ分けそうになる余裕はあっても他人のツッコミに耳を貸す余裕は夏陽には存在しないのだ。

 

 

 

プランA:ひなたの所に持って行く。

……女バスの面々と切り離してひなただけを連れていく事は現段階では至難に近い。今頃彼女は部屋でまったりと仲間内の遊びに興じている事だろうしそれを邪魔するなど到底出来ない。仮に出来たとしても二人っきりになった途端自分のパンツを他人――それも男――から渡されてどんな反応が返ってくるか、想像に難くない。よって却下。

 

プランB:脱衣所に置いておく。

……まだ進が風呂に赴くという確定的未来が残っている以上、下手をすれば今し方から現時点の自分と同じ事態に陥る可能性はかなり高い。いや進なら平然と女子部屋に行ってひなたにパンツを渡しそうだが、そんな事をすれば今後ひなたとお近づきになるどころではない。下手すれば第二次男女バスケ部対抗戦争が勃発しかねない。よって却下。

 

プランC:誰か他の人に持って行って貰う。

……誰に頼めというんだ。真帆や紗季は面子的な意味でも精神的な意味でも当然却下。智花では無茶苦茶追求されそうだし、愛莉では真帆辺りに追求されてうっかり自分の名前が出てしまったらアウトなのでどちらも却下。昂は考えるまでも無く却下。進は……うん、プランBの悪夢再びなのでこれも却下。よって全滅。

 

プランD:このまま隠して持ち帰る。

―――アホか!!」

 

咄嗟に叫び、瞬間に口を塞ぐ。

ドアに耳を当てて外の様子を確かめる。用心の為に一度ドアをゆーっくりと開けて目で見て、耳で聞いて再度確認。

 

……無音。どうやら誰もいないようだ。

安堵の息が洩れた。本番の試合でも感じた事のない程の疲れに軽く眩暈を覚えるが、こんな所で立ち止まってはいられない。

 

どうすればいい?どうすれば―――

 

……コン、コン

 

考えろ、竹中夏陽。お前はこんな所で終わる様な男じゃない筈だ。もっと冷静になれ、もっともっともっと―――

 

「……何してんの?竹中」

「くぁWせdrftgyふじこlp@!!??」

 

心臓が止まったなんてもんじゃない。

口から心臓が飛び出るとかそんなちゃちなもんじゃない。

 

恐ろしいなんて言葉じゃ表せない程に凄まじい驚きが脳天から足先を一瞬で駆け抜けて―――

 

(――――――ハァッ!?)

 

進の穢れを知らない深く澄んだ双眸はジィッと夏陽の顔を見つめ、咄嗟に夏陽が確認する様にして見た自身の後方に隠した『ブツ』に、まるで視線誘導される様にその瞳が―――

 

「そうだ水崎っ!本読もうぜっ!?」

 

気がつくと夏陽は、ビシィッ!と効果音が聞こえてきそうな程に軽快なサムズアップと共に「ヒャッホゥッ!」な掛け声が似合いそうな作り立てホヤホヤな作り笑顔を満面に浮かべてかなり上擦った声で進を誘っていた。

 

一瞬、間を置いて、

 

「……バスケの本?」

「あ、あぁっもちろんっ!!一昨日発売したばっかの『月刊バスケ』最新号だぜっ!?」

「読む」

 

即答だった。何の迷いもない即答だった。

言われるまでも無く進は夏陽のバッグをガサ入れに入り、その間に夏陽は自身の枕の下に『ブツ』を隠した。

そして今の今まで自分がやった事言った事の全てに凄まじい羞恥を覚えて死にたくなった。進が嬉々として本を胸元に抱えて小躍りしそうな程に軽妙なステップで自身の隣に座らなければ、夏陽は布団の上で身をちぎらんばかりに悶えていたかもしれない。

 

「あっ、インハイ特集やってる」

「マジ?どこどこっ!」

 

が、そこら辺はやはり子供というか、年相応というか。

進が指差した記事に自覚がないだけのバスケバカはあっさりと興味を惹かれて進の横に座り、『インハイ特集 今年注目の新人!』という見出しに目を奔らせた。

 

「『歴代屈指の黄金世代集結!今年のインハイはルーキーズが熱い!』……かぁ」

「去年の全中は凄かったしなぁ……特に志津野中のあの人とか」

「……ん?今年のルーキーって事は、コーチもだよね?確かコーチも高一でしょ?」

「え?……あぁアイツか。アイツは出ねぇよ」

「何で?」

 

疑問符を浮かべて小首を傾げた進は、しかし次の瞬間息を呑んだ。

 

「何か先生が言ってたんだけどさ、アイツの高校のバスケ部はキャプテンが問題起こして一年間の活動停止処分が下されたんだってよ。けど中学からバスケのスポ薦で入った実力は本物だからって女バスのコーチに推薦したらしいんだけどよ―――」

 

―――え、と進が言葉にならない呟きを洩らした。

気づいた様子もなく、そして事情を知る由もない夏陽は淡々と続けた。

 

「何つってたっけか……そう!確かそのキャプテンが顧問の子供の、それも小学生の娘に手ぇ出したっていうのが理由らしいぜ?全く困るよなぁ、よりにもよって女バス(ひなた)のコーチにそんなロリコン一味の変態を推すなんて…………まぁ、バスケの指導はそこまで悪くはないけどな」

 

何時の間にか一人で喋り出している事に全く気づいていない夏陽を余所に、進は胸が張り裂けそうな程に痛みを覚えていた。

 

よく憶えのある痛みだ。罪悪感に拠る贖罪の為の痛み。甘んじて受け入れなければならない痛み。自分が招いた痛み。

 

自分の所為で兄はバスケを奪われた。

自分の所為で家族は崩壊してしまった。

 

―――そして、自分の所為でバスケを自由に出来なくなった人が、そこにいた。

 

「竹中……と、水崎。帰ってたのか」

「遅かったな。どうせ真帆に捕まってたんだろ?」

「ああ、まあな……と、どうした水崎?顔が青いぞ?」

 

心配そうに顔に不安の色を浮かべて自分を覗きこむヒト。

額に手を当てて熱がない事を確認して、一応の安堵を浮かべるヒト。

気遣う様にして自分の分の布団を敷いて、寝かしつけようとするヒト。

 

「ほら、横になって。……ったく、合宿の最後の夜ってのは一番疲れが出るんだから、ゆっくりしてなきゃ駄目だろ?」

「大丈夫か水崎?」

 

声が上手く出せない。

言葉が捻り出せない。

 

罪悪感に押し潰されそうになる。

責任感に張り裂けそうになる。

 

何もかも自分の所為なのに。自分の所為で全てがコワレテシマッタのに―――

 

『―――ゴメンな、進』

 

どうしてアナタは、そんなカオヲシタノデスカ?

 



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幕間
タイムアウト 慧心学園初等部6年C組劇場 題目『シンデレラ』


キャスト
シンデレラ:湊 智花
継母:永塚 紗季
姉その一:三沢 真帆
姉その二:香椎 愛莉
魔法使い:袴田 ひなた
王子様:長谷川 昂
侍従その一:竹中 夏陽
ナレーション及び侍従その二:水崎 進
その他諸々:6年C組一同

*本作品はフィクションであり一般的な『シンデレラ』及び現実世界における個人、団体、企業とは一切関係ありません。
また本作品をご覧になった上での社会的、個人的損失の一切につきましては当方では責任を負いかねますので予めご了承頂きますようお願い申し上げます。

作中全個所においてグダグダ感がMaxな上原作及びオリジナルキャラの崩壊が激しいです。それでもよいという方はお進み下さい。よくないという方は注意してお進み下さい。どっちでもない方はとりあえずお進み下さい。





―――昔々という程昔でもないけど、別に19世紀とか20世紀とかに起きた話でもないので一応『昔々』という冠詞をつける程度には昔という前提でのお話です。

イギリスだがフランスだか知りませんが、まぁその辺りのヨーロッパ地方と思しき田園風景が判然と広がる光景をイメージすれば大体正解なある所に登場するのは物語の設定上日本ではないので当然お爺さんお婆さんではなく一人のお嬢さんでした。

 

「うんしょ……うんしょ……」

 

彼女の名前はシンデレラ。素材はいいのに纏っている服が何もかもを台無しにしている残念な少女……世間が五月蠅いので訂正、二十歳前後の女性と仮定して話を進めます。

見た目はどう見ても十五歳未満ですがまぁその辺りに突っ込んだら負けと考えて下さい。

 

…………つぅかタイトルが『6年C組劇場』なのに王子役も大概だよな。何でコーチが王子役なんだよ。竹中とかでよくないか?篁先生ー、やっぱこれおかしくないですかー?

 

「あ、あの……水崎君」

 

あ、失礼。

 

 

 

……コホン。

兎も角、そんなこんなでシンデレラは幸薄で可憐な『美』の冠詞が付く見た目少女な設定二十歳前後の女性なのです。誰が何と言おうと物語の進行上この点が改善される事はないので予めご了承ください。

 

シンデレラのお父さんは地元ではそこそこの地主的な立場の人ですが、シンデレラを生んだお母さんはシンデレラが小さい頃に亡くなってしまいました。お父さんは間もなく再婚しましたが、そのお母さんはお父さんよりお金持ちな家の未亡人で二人の娘がいました。

どうやってお父さんを垂らしこんだのかお父さんが逆玉を成功させたのか、その一切は物語の進行には何ら関係ないのでこの点も解明される事はないまま話は進んでいきます。

 

「シンデレラ!掃除は終わったのかしら?」

 

……えらく役にハマっているな焼却ゴミ信望者。もとい、継母。

 

「はぁっ!?だから、お好み焼きは関西風の方が優れているってあの後何度も!!」

「さ、紗季……お話が進まないから」

「はっ!?……お、おほん!それでシンデレラ?掃除は終わったのかしら?」

「は、はいっ」

「へぇ……これで?」

 

窓枠をつつぅっ、となぞって埃を目ざとく見つける継母もとい焼却ゴミ信者。

 

「……っ、も、もっとちゃんとなさいな!次は洗濯とゴミ出しと、他にもまだまだやることはあああるんだからね!?」

 

とかなんとか、一見すると負け犬の遠吠え的な言葉を吐き捨てて継母退場。ってうわっ!?こら何する止め「うっさいわね!?あんたのせいでしょうが!!大体お好み焼きはお手軽で誰でも出来る関西風の方が優れているって何度も何度も言ってるのにいい加減理解しなさいよ!?というかさっきからアンタのナレ適当過ぎるのよ!!ああもう台本貸しなさい!私がやるから!!」「ざっけんな!これなくなったら俺の役『侍従その二』とか適当な上に相当後半になんねぇと出てこねぇんだぞ!?ええいくそっ!その手を離しやがれ焼却ゴミの分際で小生意気な!!」「何ですってぇ!?大体聞いていればさっきから焼却ゴミ焼却ゴミってアンタは!!」

 

 

 

「え、えっと……進めていいのかな……?」

 

―――暫くお待ちください。

 

 

 

 

 

 

「ああ楽しみ!今夜のぶどーかいでは王子様と踊れるのかしら?」

 

……舞踏会、よ。ちゃんと台本読んでおきなさいよ真帆。大体真帆にお嬢様っぽい喋り方っておかしくないかしら?

 

コホン。

シンデレラの継母の連れ子である二人の娘はシンデレラの姉として、毎日の様にシンデレラを小間使いの様にいびり倒していました。

 

「い、いびりっ!?そ、そんな事出来ないよぅ……」

「ダメだぞアイリーン、頑張んないとすばるんとダンスが出来なくなっちゃうじゃないか」

「ぅ、そ、それはそうだけどぉ……」

 

……ほら二人とも、早くしなさいよ。

 

「あ、あぅっ!?……し、シンデレラ!食器洗いは終わったのかしら!?」

「そーだぞもっかん、それが終わったら炊事も待ってるんだぞ!花嫁修業の道はけわしーんだ!!」

 

真帆!台詞中途半端にしか覚えていないからってアドリブみたいに適当な事言ってんじゃないわよっ!というか呼び方!

 

「えっ?あ、うー、えっと……シンデレラ、あー、そう!こんやわたしたちはぶどーかいでおうじさまとだんすにいくから……えー……あなたは一人で、そ……そー……え?そうじ?えっと、掃除でもしていなさいな」

「えっと……そ、そうですわ。お、おーっほっほっほっほ」

 

……愛莉?

 

「ひぅっ!?お、おーっほっほっほっほっ!?」

 

「……役者に圧力かけるナレーションとか前代未聞だなオイ」外野、うっさい。

 

 

 

 

 

「はぁ……お姉さま達は今頃、お城の舞踏会かぁ…………」

 

シンデレラは床を磨きながら、一人空を見つめました。

空には悲しく浮かぶ月が一つ、シンデレラを淡く照らしてその姿を幻想的に、儚げに映して…………嗚呼、何と言う事でしょうか!幼くして母を亡くし、不遇の中でも健気に心根を保ち続けた気高いシンデレラ!!だというのに天は!神は!!彼女を見捨てようというのでしょうか!?その様な事が、許されるとでもいうのでしょうか!?「えらい熱の入れようだな」「というか紗季、ナレーションが興奮してどうする……」「紗季は熱中すると周りが見えなくなるからなー」嗚呼可哀そうなシンデレラ!彼女はこのまま小間使いの様にこき使われて一生を終えてしまうのでしょうか!?嗚呼、嗚呼!!「……ん?そういえば袴田は?」「えっ?次ヒナの番だっけ?」「そうだよっ!あれ!?ひなちゃんは?」「って事は今までの全部紗季のアドリブかよ!?やべぇひなたは何処行った!?早く探せ!」……嗚呼!シンデレラ!どうか、どうか彼女に救いの手を差し伸べてくれる人は現れないのでしょうか!?「やべ、永塚のフォローがそろそろ限界だ」「てかホントにヒナは何処行った!?次ヒナの番だよ!」「ってあぁっ!あそこっ!!」

 

照明係!!ライトそっちじゃない!あっち!!

 

「おー、呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん」

 

…………「ヒナ、流石にそれは古いんじゃないか?」「……ひなちゃん」「どうしたの竹中?ねぇ何で前かがみになってるの?ねぇ何で鼻を抑えているの?ねぇ、ねぇってば」「い、いや……ふ、深い意味は、ないぞ?」嗚呼何と言う事でしょうか!?健気なシンデレラの心根に応えて、見目麗しき魔女が彼女の前に現れました!!手には星程に眩い輝きを放つ杖を持ち、漆黒のローブから覗く白磁の肌と深く澄んだ瞳は妖しくも美しく、その姿は正に、天から舞い降りた天使!!「設定は魔法使いだけどな」「ひ、ひなちゃん……流石に裾が短くないかな?」「そぉか?この方がすばるんも喜ぶだろ」「ふぇっ!?」「なぁっ!?」

 

「あ、貴方は……?」

「おー、ひなはよい魔法使いです。だからあなたのがんばりをたたえて、ごほうびをあげます」

 

「……自称よい魔法使いって怪しすぎないか?お客さん疑問符だぞ?」「ていうかひなちゃん、台詞が殆ど違うんだけど……」「い、いいんじゃないか?俺はいいと思うぞ?」「ん?なんで夏陽前かがみになってんだ?何で鼻抑えてんだ?なぁ何で?何でだよ?」「う、うっせぇよばーかっ!」「んだとっ!?誰がバカだバカヤロー!!」ちょっと!いい加減裏方で暴れるの止めなさいよ!!

 

「……ご、ご褒美ですか?」

「おー、しゃらーん」

 

―――暫くお待ちください。

 

「……ぶー、もー一回。しゃらーん」

 

―――暫くお待ちください。

 

「ぶー!ちちんぷいぷい!ひらけーゴマ!アブラカタブラ!てくまくまやこん!びびでばびでぶー!」

「……さ、紗季!早く続き!続き!!」

 

えっ!?ご、ゴメンッ!今直ぐ二人を黙らせるからっ!!

 

―――ゴンッ!!ゴンッ!!

 

……コホン。

魔法使いが魔法の言葉を唱えるとあら不思議!たちまちシンデレラが光に包まれて、気が付くとその服は見る者を魅了する美しいドレスに!「……おい、あれおかしくないか?」え?

 

「……ふぇ?ふぇぇぇえぇえぇええぇえぇぇぇぇええぇっ!?」

 

ちょ、何でメイド服なの!?ドレスは!?衣装係!どうなってんのよ!?ちょ―――「っておい永塚!ナレ!!ナレすっぽかして行くな!!オイ!」

 

「な、何でメイド服!?ひ、ひなっ!?」

「おー、これでお兄ちゃんのハートもゲットだぜ」

「違うからねっ!?これ絶対違うからねっ!?そもそも昂さんはメイド服が好きとかそういった設定は一切ないからねっ!?これ舞踏会用の服じゃないからねっ!?」

「ぶー、ダメ?(キラキラ)」

「ふぇっ!?そ、その……だ、駄目って訳じゃないんだけど、でも流石にこれは……」

「じゃあこっちにします。しゃらーん」

 

「真帆!!アンタね元凶は!!」「えー、だってあっちの方が絶対すばるん喜ぶって」「いいからドレス!!さっさと出しなさいよ!!」「……なぁ三沢、参考までに聞くけど」「んぁ?」「まさかアレ以外に何か用意したのか?」「えーっと、確か……」

 

「す、スク水エプロン!?だ、駄目ッ!!これは絶対駄目ッ!」

「ぶー、じゃあ次。しゃらーん」

「ば、バニーさん!?む、無理無理ムリってあぁ前が捲れちゃう!!別のにしてっ!」

「ぶー、じゃあ次。しゃらーん」

「……何でセーラー服?」

「しゃらーん」

「あ、着物……これならまだ」

「しゃらーん」

「って何で替えるの!?しかも裸ワイシャツ!?……あ、昂さんの匂い」

「しゃらーん♪」

 

「……永塚、そろそろ三沢の頭が原型留めてないからタンコブ山築くの止めてさっさとドレス出させろ。何か袴田が「しゃらーん」にハマり始めて劇が湊の一人ドレスアップコンテストになってる」「ハァッ……!ハァッ……!さ、さぁ……!さっさとドレスを出しなさい!さぁさぁさぁっ!!」

 

「しゃらーん」

「あ……やっとドレスに」

「しゃらー―――」

「もう駄目ぇっ!?」

 

おぉっとシンデレラ!華麗なスティールで見事魔法使いの杖を奪取!!流石はシンデレラ!凄いぞシンデレラ!「杖がないと魔法使いは魔法が使えない、か。まぁありきたりな設定ではあるな」「…………しゃらーん。ふ……フヘヘ」「……そ、そろそろ進めないと不味いんじゃないかなぁ?」

 

―――暫くお待ちください。

 

 

 

 

 

 

……えー、コホン。

そんなこんなをしている内に魔法使いに汚い服をドレスに変えて貰い、次いでに今晩スープにしようとしていたかぼちゃを馬車に変えて貰ったシンデレラは舞踏会の開かれているお城へと向かいました。

 

「おーじさまの、おなーりー」

「……竹中、大根過ぎ」

「うっせ。ったく、何でアイツが王子様役なんだよ、大体これ6-Cの劇じゃねぇのかよ……」

「あ、アハハ……」

 

現在進行形で苦笑いを浮かべながら居心地悪そうにちびっ子オンリーで構成された舞踏会の客をモーゼの様に割って歩くのは我らが王子様であーる。年齢的にギリギリアウトな女バスのコーチは世を忍ぶ仮の姿、しかしてその正体は国を上げてお嫁さんを探して貰える程に超が七つくらい付くスーパーなリッチマンなのであーる。

……まぁ身長云々を言いだしたらどっかの次女が泣きそうなので割愛するが、兎も角王子様は現在お嫁さんを募集中なのであーる。

 

「……なぁ水崎、その語尾何とかなんないか?」

「これが私の口癖なのでありますなのであーる。だから侍従その二は語尾に常に「あーる」をつけないといけないのでありますなのであーる」

「お前の適当っぷりも大概だよな……」

「おーい!すーばーるーんっ!!」

「真帆!アンタはいい加減にしなさいよっ!」

「あはは……」

 

……コホン。兎も角、王子様はお嫁さん探しの為に舞踏会を開き、国中の女性達が我こそが玉の輿に乗ってやろうと息まいて舞踏会に乗り込みますが、そうした奴は大概厚化粧で似合いもしないドレスを着飾って上辺を飾る醜い連中な上、気合いの入り過ぎで香料がやたら厭味ったらしく臭いので王子様は相手にもしませんでした。

そんな連中を蠅を追い払う様に追っ払った……ほらいい加減三沢離れて!えーっと、兎も角王子様は、一人でお城の裏側にあるテラスを訪れました。

 

「ハァ……今夜も私の結婚相手となる女性は現れなかったか」

 

……上から目線の上にロリコン確定とか人間として終わってますね、コーチ。

 

「じゃあ水崎とか竹中がやればよかっただろ?何で俺なんだよ」

 

篁先生の推薦。

 

「…………ミホ姉」

 

ほら、湊早く早く。

 

「は、はいっ……え、えっと……アレ?どうするんだっけ」

 

そこの噴水の影からコーチを覗くんだよ。ねぶる様に、ストーカーの様に。

 

「わ、分かった……!よしっ……ジーーーーーー」

「……水崎」

 

ほらコーチも。いい加減尺がなくなってきたんだからチャキチャキお願いしますよ。

 

「……ハァ。んと…………おや?そこにいるのは何方ですか?」

「は、はひっ!?」

 

この後王子様は見ず知らずの少女もとい女性に一目惚れして噴水をバックにダンスを踊りテラスでいい雰囲気になりますが十二時の鐘がなって魔法が消えてしまう前に設定二十歳のシンデレラは慌てて姿を消しますが去り際に落ちたバッシュを手掛かりに王子様は女性を探す決意をするのでしたはい終わり!!

 

「ってえぇっ!?ダンスシーンとか全部カット!?」

「というか落としたのバッシュだったのっ!?普通ガラスの靴じゃないのっ!?」

 

知るか!!どっかの誰かがこれ以上は世の中的に不味いからって全部カットしたんだよ!察せそれぐらい!!

 

 

 

 

 

 

はい時間飛んで次の日!王子様ご一行が国中の女性の中にバッシュを履かせて昨夜の女性を探すフリをしつつそのおみ足を舐める様に見つめて興奮するという特殊な性癖を暴露しているシーン!ほらみんな適当に履きたいけど履けないフリ!足は半分くらい入れるか入らないフリすればいいからほら行って行って帰る!!こらそこの男子!お前らは行かなくていいからっ!そこら辺で見物人やっとけ!!

 

「俺にそんな性癖はない!」

「おーじさまあなたの性癖はどーでもいいのでこちらの家が最後ですからさっさと行きましょう」

「竹中もせめて弁解を手伝ってくれぇっ!?」

 

はい三人もぶかぶか、ぶかぶか、入らないで終わり!次湊、はいピッタリ大正解!!ほら尺ないんだからさっさと退場!コーチは湊をお姫様だっこで次の台詞!

 

「ちょっと水崎!!いい加減適当なナレ止めなさいよ!」

「そーだぞっ!だいたいアタシとすばるんのダンスシーンはどこいったーっ!?」

「ふぇえ……私だけ入らないよぉ……」

「ああくそっ!おぉ貴方が昨夜の御方でしたか!?どうか私と結婚して下さい!」

「は、はひっ!わわわた私も貴方のお嫁さんになりたいですっ!?あぅ……昂さんにこんな事……恥ずかしいよぉ…………」

 

こうして見事玉の輿に乗ったシンデレラは王子様とキャッキャウフフなお気楽ライフを送りながら幸せに暮らしましたとさはい終わり!袴田!

 

「おー、めでたしめでたし。チャンチャン♪」

 

「「「「ちっともめでたくなーいっ!!??」」」」

 



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S3 初夏
第十四Q 更衣室使えよ


 

―――観衆の大歓声が響く中、弾ける様に汗が虚空を舞った。

その雫がコートに落ちる前に床を蹴り、空を飛ぶ。誰も追いつけない、誰にも邪魔されない空を鳥の様に舞う。

 

撫でる様に触れて指先から離れたボールが白地の板で弾け、ネットへと吸い込まれて重力に従う様にして落ちる。

 

ブザーのけたたましい騒音は自分のチームに加点を告げ、コート上の味方に活気を与え、相手の選手に絶望を知らせる。観衆は一層歓喜の声に包まれて、その渦中に佇むたった一人の少年に敵味方の別なくただ魅了されていた。

 

だが、渦中の最中にある少年―――進の表情は酷く無機質で、冷たく異彩を放っていた。

 

 

 

興奮も歓喜も何一つ存在しない。運動すれば腹が減る様な、夜になれば睡眠をとりたくなる様な、日々の練習と同じ一種の基礎代謝と何ら変わらない―――勝つ事は当然の結果であり、むしろ必然ですらある。

 

6年という歳月を以て築いた実力を如何なく発揮し、5年という年月を経て培ったその『常識』を鑑みれば、むしろこの程度で喜ぶ方がどうかしている。

心の一方でそう考えながらも、進はふと同じチームの面々を見やった。

 

皆が一様に歓喜に拳を天に向かって突き出し、或いは喜びの笑顔を満面に浮かべている。その光景が何だか妙に珍しく見え―――と、コツンと後頭部に軽い衝撃を感じて振り向けば額に汗を湿らせながらも平生より余程緩んだ笑みを浮かべた夏陽の姿があった。

 

「お疲れさん、スーパーゲッター」

「……ん」

 

――――――何時か見た顔だな。

 

夏陽の顔を見てそんな事を思いながら、進は挨拶の為にコート中央へと進んだ。

 

 

 

 

 

 

篁美星は不愉快であった。

廊下を歩く様はそこら辺の怪獣映画さながらに壮大なBGMでも流せば最早首都壊滅も目前かという具合に緊迫感漂うワンシーンになりえただろう程に不愉快極まりなかった。

 

事の発端は、今朝の出勤に遡る。

 

 

 

「篁先生、宜しいですか?」

 

職員室に入って早々、朝一で会いたくない奴との面合わせに美星は内心で「うげぇ……」と顔を顰めながら一応儀礼的に会釈をした。

 

「おはようございます、小笠原先生。あっ、そういえば先日は地区大会優勝、おめでとうですね。鼻も高いんじゃありませんか?」

「ええまぁ。子供達の技量を見れば寧ろ当然とも取れる結果ではありましたが」

 

てっきり厭味ったらしく自慢するかと思えばその逆、むしろ当たり前すぎて何の感情も浮かばないといった様子で眼鏡の蔓を弄る小笠原の様に美星は内心で舌打ちした。

前々からこの男とは馬が合わないのだ。只でさえ少し前までは女バスの存続云々で揉めに揉めた相手である。ある程度ほとぼりが冷めたとはいえ、これでまた調子づいて練習時間云々に口を挟まれては面倒だ。

 

そう思って身構えた美星だったが、小笠原の「そんな事よりも」という言葉に一応耳を傾けた。

 

「先日の球技大会のバスケでは、見事先生のクラスが優勝したとか。寧ろ其方の方を褒めて上げた方が宜しいのでは?」

「いえいえ、神様がくれたあの子たちの頑張りに対してのささやかなご褒美って奴ですよ。私が褒めるのは筋違いですって」

「で、しょうね」

 

クィッ、と眼鏡の蔓を指でなぞりながら、

「―――女子生徒と男子生徒を同じ合宿に参加させた挙句、実質的な指導を甥っ子の男子高校生にまかせっきり、という体たらくですからね」

 

一瞬、小笠原が眼鏡のレンズ越しにその眼光を鋭く光らせた。

 

「先日、貴方が不在の折にも会議の議題に上りましてねぇ。何しろ名目上は貴女が監督していた筈なのに、その貴女は合宿中一切練習を指導していない。それどころか体育館にも合宿所にも姿を見せていない」

「……何が云いたいんですか?」

「困るんですよ。貴方の身勝手な指導方針に振り回されて、ウチの大事な生徒に好奇の視線が集められるのは」

 

底冷えする様な声音と共に視線が交錯する。

体格的に見上げる格好となった美星と、身長差そのままに見下す様な視線の小笠原の両者の様はさながら男バスと女バスの決戦前日の再現であるようだった。

 

「竹中はウチの部のキャプテン。そして何より水崎はこういった問題には一番デリケートでなければならないという事くらいご存じの筈でしょう?貴女の甥っ子がどんな問題を起こそうとその結果女バスがどうなろうと私の関知する所ではありませんが、その騒動に我が部の大事なエース達を巻きこまないで頂きたい」

「…………っけんじゃねぇ」

「そもそもお遊びでしかない貴女達の気まぐれの為に貴重な練習時間が削られているというだけでも此方としては―――」

「ざっけんじゃねぇっ!!!」

 

一閃、衝撃と共に小笠原の視界に花火が飛んだ。

肺腑がごっそりと抉られた様な激痛が一瞬で全身を駆け抜け、そのまま力なく崩れ落ちる小笠原に向けて美星は怒鳴る。

 

「黙って聞いてりゃ云いたい放題言いやがって!!ふざけんじゃないよこのカマキリッ!!アタシの事なら兎も角、あいつらの事をバカにしてんじゃねぇっ!!!」

 

驚きにどよめく教職員を尻目に美星は蹴破る様にしてドアを開け、そのままずんずんと廊下を行進して職員室から遠ざかって行く。

腹を抑えて蹲る小笠原に真っ先に駆け寄ったのは養護教諭の羽多野だった。

 

「…………相変わらず容赦ありませんね。貴方達はお互いに」

「……ええ、まぁ」

 

手を貸して貰いながらも、小笠原は自力で立ち上がる。

苦痛に顔を顰める小笠原を眺めながら、羽多野は既に姿を消した美星の背中を幻視して呟く。

 

「あの人が自分の大事な生徒の事を何も考えていない訳ないじゃない」

「そんな事は分かっていますよ」

「だったら……そんな云い方すれば、幾ら美星先生だって怒りますよ」

「それくらい理解しています」

「なら何で……?」

 

羽多野の非難する様な眼差しに、しかし小笠原は相変わらずの不敵で不遜な表情のまま鼻を鳴らして一言、

 

「私個人として、これだけは譲れないからですよ」

 

始業を告げるチャイムに合わせて小笠原は自分の席へと戻って行く。大きくため息を洩らした羽多野もやがて肩を竦め、自分の座席へと戻って行った。

 

 

 

 

 

球技大会が終わってはや二週間ばかりが過ぎ、ふと気づけば季節の巡りと共に慧心学園初等部の服装も彩り鮮やかな冬服から簡素で通気性に優れた夏服へと様変わりしていた。

とはいえそれで既に二ヶ月近くが経過したこのクラスでの生活に特別な変容が起こる訳でもなく、しかし初めの頃よりは随分と賑やかになった昼食の集い――合宿終了から間もなくして自分と夏陽がお呼ばれして女バスの面々と卓を囲んで食事を取る集まりがぽつぽつとその回数を増やして既に日常化しつつある――の中で、本日のメインであるサンドウィッチを齧りながら進はつんざく様に響いた真帆の言葉に耳を傾けた。

 

「それってデートじゃん!」

「ふぇっ!?ち、違うよ!」

「いいなー、ひなも行きたいなー」

「いやいや、ここは若いお二人だけで……!」

「初めてのデートだもんね?」

「そ、そんなんじゃないよぉ!ただ新しい靴を……」

 

開口一番何事かと思った進は、同じく隣で目を丸くしている夏陽の方を見た。

 

「……ん?」

「えぇっとだな……何か湊があのロリコン野郎と一緒に新しいバッシュを買いに行くらしいんだが、どうもそれがアイツらには『デートする』という事らしい」

 

食事中は必要最低限の単語――酷い時は目線や身ぶりだけ――しか発しない進の通訳役を何時の間にか定着させつつある夏陽の言葉に、進はレタスと卵とマヨネーズがサンドされたパンの端切れを噛み千切って咀嚼しながら興味のなさそうな視線を向けた。

 

要するに人様の有難い忠告を端から無視してこの子は自ら進んで将来を潰したいというのだろう。類稀なる技術を錆つかせるに飽き足らず、これでは最早バスケに対する冒涜そのものではないか。

そんな風に考えていると、不意に自分の表情が強張っている事を進は察した。心なしか頬の筋肉が引っ張られ、サンドウィッチを噛み千切る音が随分と大きく響く。いや、音を響かせているのは恐らくマヨネーズが程良くトッピングされたレタスだろうが、それにしたって普段の進であれば「シャク……シャク……」と兎が齧るよりも小さな音しか鳴らさないというのに今は「バリッ!バリッ!」と煎餅を齧る様な豪気な音を立てている。

 

そんな進の様子に目ざとく気づいたのは、お好み焼き戦争を勃発させて以来随分と進を観察する様になった紗季だった。

 

「あら?水崎は随分と不機嫌そうね?」

「おー!?ここでずっきんがもっかん争奪戦に名乗りを上げるのか!?」

「別に……」

 

悪乗りする様に身を乗り出した真帆をかわす様にして進はそっぽを向いた。

ちなみに『ずっきん』というのは真帆が進に付けたあだ名である。とはいっても進は勿論の事ではあるが付けた本人である真帆も今一納得していない様で現在もあだ名については思案中らしい。

 

「おー?水崎は智花とお兄ちゃんがでーとするの、嫌?」

「別に」

 

窓際の席に座るひなたの双眸を避ける様に顔を明後日の方に向けながら進は付け合わせのプチトマトを口の中に放る。口の中で弾ける様に広がる青臭い匂いに多少顔を歪めながらも進は黙々と食事を続ける為にサンドウィッチに手を伸ばし―――つと、視線を感じた方に顔を向けた。

 

「……ッ!?」

 

慌てて視線をそらしたのは何故か愛莉だった。

心なしかその表情は先程の進よりも硬く、両手で持ったサンドウィッチをネズミの様に齧っては咀嚼し、細い喉を通して小さく音を鳴らす。

 

この微妙な気まずさは何時から続いているんだろうか、と進は空とぼけるつもりは全くなかった。

考えるまでもない程に原因は痛いほどよくわかっており、しかしその代償は先日までの『上納』で一応収めたとはいえ精神的にそれで納得出来るかと問われれば進は男だから当然分からないが、女子の――特に愛莉の様に繊細な女の子なら顕著なくらい――心情的には無理がある話だろう。

 

 

 

 

 

 

何の話かと云えば、先日の球技大会の話である。

美星考案の昂実働で決行された強化合宿の末に、夏陽は球技大会で女バスの監督を執ることとなり、進は合宿終了後間もなくして医師の診断書を提出して大会不参加の旨を美星と夏陽、それに女バスの面々に伝えた。

別に腕は全くと言っていい程痛んではいないのだが、元々照準を球技大会後に開かれる月末の地区大会に合わせていたのだから前座である球技大会は調整程度のものでしかなく、であれば夏陽の云う様に男バスの他の面々の様子をコートの外から眺めてみるのも一考だと考えた次第で、結果として女バス対男バスレギュラー(夏陽、進を除く)の構図となった球技大会は見事女バスが勝利を修めた。

 

大会中ずっと――何故か体育館のコート近くのベストポジションにポツンと置かれていた――跳び箱の上に乗って試合観戦をしていた進はその日の放課後に行われる男バスの練習の為に夏陽と二人で一足早く体育館へと赴き、テキパキと片づけを始めてさっさと練習を始める為に準備を開始した。

 

そのままでいけば練習前に夏陽と1on1をやるのも充分な時間が確保出来る筈だったのだが―――

 

「ったく……何で実行委員でもないのに俺達がこんな事しなくちゃいけないんだよ……」

「仕方ないよ。その分地区大会までは練習時間も融通して貰えるんだし」

「だからってさぁ……」

 

ガラッ―――

 

その瞬間の光景を進は今でも覚えている。

 

ゼッケンやらストップウォッチやらが入った籠を片手に持って用具入れのドアを開けた自分が見ていた夏陽の表情が一瞬にして呆然、唖然、驚愕へと変容し最終的に林檎よりも赤々と染まった表情はおたふくかぜでも流行らせたかと思う程で、彼の視線を追う様にして自分も用具入れの中を見、そしてどうして彼が呆然、唖然、驚愕へと変容し最終的に林檎よりも赤々と染まった表情はおたふくかぜでも流行らせたかと思う程になったのかという事に納得した。

 

「…………」

 

誰の分の沈黙かは分からない。恐らく全員分ではなかろうかと進は思った。

白かったり淡いピンクだったりスカイブルーにレースがあしらわれていたりレモン色とでも表現すべきかどうかという色だったり花柄だったり――――――そこら辺で進は考えるという愚考を停止した。

 

取りあえず、そこから先の事は余り覚えていない。

ただダンベルやらボールやらポールやらが凄まじい勢いで投げつけられ、阿鼻叫喚の地獄絵図もかくやと云わんばかりの悲鳴と怒声の中で視界の端に一瞬コーチの姿がチラリと見えた気がしないでもない様な空間の中でひたすらに響いた轟音の中、進は嘆息混じりに呟いた。

 

「……更衣室使えよ」

 

無論、進の至極尤もに思える正論が怒りと羞恥に染まった女子に通じる筈もなく、結果として散々に平謝りする事と昼食のおかず献上等の諸々の不平等条約の末にどうにか和解へとこぎつけたその労力を指して『無駄』という以外何があろうか。

 

取り分け図体の割に大泣きしていた愛莉との冷戦状態は今もって進行形であり、しかしそれが仲の悪さに直結している訳でもなくただ会話が極端に少ないという――少なくとも進にとっては――問題の少ない問題で済んでいる。

 

そんな事を考えているなど知る由もない紗季は、全く効果がない事も同様に知る由もなく進を挑発する様に智花を激励した。

 

「トモ、しっかり頑張るのよ!手を繋ぐとか肩を抱いて貰うとか!」

「智花ちゃん大人……!」

「おー!頑張れもっかん!」

「いいなー、ひなも抱いてもらいたーい!」

 

最早面白さの方が圧倒的に比率を占めているであろう空間の中で、進は再び表情を強張らせながらサンドウィッチを貪る様に咀嚼する。ひなたの言に噎せた夏陽すら眼中に収めず黙々と食事を進め、その後は紗季と真帆が勝手に考案するデートプランを右から左へ聞き流しながら昼食を進め―――そんな感じでその日の昼下がりは過ぎていった。

 

 

 

 

 

バスケ部復活へと向けて設立された七芝高校バスケットボール同好会の活動に、昂は基本的に女バスのコーチが無い日は極力参加する様に心がけていた。

練習用のコートは参加者で割り勘して借りる事が主だが、公園附設の野良コートでやる事も少なくない。

 

奇しくもその日のコートは昂の家からほど近い公園にあり、フェンスの一角には喰い破られた様な歪な穴があった。

 

「…………」

 

唐突に曇りだして大量の雨粒を地上に叩きつける空と雨に打ちつけられるコートに、昂はもう思い返す程に昔の事となった――今でも鮮明に思い出せる――光景を幻視した。

 

『うぐっ……えぐっ……ぁ、うぁ……!』

 

コート上でたった一人、堪えてきたものを吐き出す様に泣き続けた小さな肩。

年の割に少し高い身長と、それに反して随分と華奢な印象を与える幼い体躯。

 

合宿ではその折の様子を露ほども見せなかったからあえて踏み込む様な真似はしなかったが、

 

『―――何やってんの?』

 

あの瞳は、今までどれだけの穢れた大人達を見続けてきたのだろうか。

あの目は、今までどれ程の年不相応な地獄を見続けてきたのだろうか。

 

腕の傷は消える事がなく、心の傷も癒える事はない。

傷だらけの小さな身体は、しかし誰にも助けを求めようとせず―――否、誰も助けてくれない事を知ってしまったが故にその概念が抜け落ちたままバスケを続けて、戦い続けた。

 

その行為は贖罪であるかの様に。

自分自身を罰する為である様に。

 

喜びも楽しみも何一つ介在しない、まるで消耗する為だけの様な無茶苦茶なプレイスタイルは、けれど世間には『期待の超新星』として大々的に取り上げられた。

 

(水崎…………)

 

関わってしまって、事情も知っていて。

 

―――けれど、自分が立ち入っていい問題なのだろうか?

 

自問する様な昂のため息は、雨音鳴り響く世界に掻き消された。

 



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第十五Q 落ちつけ

 

ある日の放課後。

 

「水泳の練習?」

「そうよ、今度の日曜日に真帆の家でやるの」

 

珍しく真帆とセットでない紗季からの誘いに何事かと思いながらも駅前の○スタードーナツへとやってきた夏陽は、先日男バスの面々で来た折には「何この豆汁」といつもは喜怒哀楽に関しての表情の変化が乏しい進がハッキリと顔を歪めて一口で拒絶したコーヒーを啜りながら幼馴染の言葉に耳を傾けた。

 

「県大会まではまだ時間あるんでしょう?息抜きがてら、夏陽も来なさいよ」

「断る。大体日曜は練習が……」

「水崎は来るわよ?」

「はぁっ!?」

 

がたっ、と音を立てて夏陽が立ちあがる。一瞬何事かと店内の老若男女問わず視線が夏陽へと集中し、それに気づいた夏陽が居心地悪そうに席に腰かけなおしてコーヒーを啜った。

 

「日曜に真帆の家に行かない?って聞いたら『いいよ』って」

「アイツ……」

 

何のつもりだ、と考えて夏陽の脳裏を過ったのは学校での一幕。

 

『お疲れ様、そこに置いといて』

『おー、ひなもウサギさんにご飯上げるぞー』

 

飼育係は当番制であり、その当番日数は各学期で均等になる様に割り振られている。当然自分とひなたが一緒に当番をする事もあれば相方が進であったり真帆であったりする日もあり、それは他の三人も同じである。

だが、飼育係の仕事というのは実は二人だけでやるには少々大変な作業が多かったりするのである。小屋の中のえさ入れの掃除に始まり水の補充や兎が掘った穴を埋め直したり……ともかく仕事がある時には放課後の部活に遅れるという事は最早恒常化しているといっても過言ではない。

 

そんな作業を、しかし進はかなり効率的に片づけるのである。何度か彼と組んで当番をやった事のある夏陽がその余りの手際の良さに驚嘆を禁じ得なかったのは記憶に新しい事で、早い時には部活開始前に終わる事もある。

 

そうして余った余剰時間に何をするかと云えば自分や真帆の場合は部活の準備であったりするのだが、ひなただとそうもいかない。

二人が組んだ場合、ひなたが水の補充と給食室から餌用の野菜くずを貰いに行っている間に進は作業の殆どを終わらせてしまう。そうするとひなたは持ってきた野菜くずを手ずから動物達に上げたりするのだ。それもこれも余剰時間のお陰であり、これが仮に自分や真帆であった場合はそんな時間が発生する事も無く結局部活動時間まで作業が伸びてしまう事の方がむしろ当たり前になりつつある。

 

そうなってくると、ひなたも――無意識的にか意識的にかはさておいて――進を頼りにする事が自然と多くなり、表現的にはおかしいだろうが進に懐いている節がある。

そんなこんなをしている内に、進の通訳役としてその観察眼も理科のルーペ程度には養われてきた夏陽には――恐らくは紗季も――気づけた事だが、ひなたと一緒に居る時の進の表情が実はかなり柔らかいものになっているのだ。

 

心なしか二人の距離が少しずつ近づいている……そんな気がしてならない。

そこに来て今回の水泳、である。

 

(ま、まさかアイツ……ひなたの事を!?)

 

可能性はなくもない。

 

―――あの『無垢なる魔性』を前にして自らを律し続けられる者がいるだろうか、否!いる訳がない!!ひなたの愛くるしさは無限大だ、宇宙の神秘だ、大自然の奇跡だ!そんな偉大なる存在を前にしてひれ伏さず、焦れる事無き男など最早男ですらない!

 

しかも水泳―――つまり、水着だと!?

 

先だって合宿中の風呂場で見た進の身体は、まるでワイヤーでキリキリと締めあげた様に鋭く、年相応に筋肉質な自分とは比べ物にならない程に逞しく見えた。

もし、もしだ……あの肢体にひなたが魅了されたら―――!?

 

『ひなた……』

『すすむぅ……』

 

「うっ、がぁああーーーー!!??」

 

突如椅子を蹴倒して立ち上がり絶叫。再び何事かと集められた衆目をしかし一瞬で遠ざけたのは、向かいに座っていた紗季の、

 

「落ちつけ」

 

……訂正、女王陛下の渾身の一撃だったりする。

 

 

 

 

 

 

明けて日曜。三沢邸の正門前にて。

 

「…………」

「…………」

「よ、よぉ……」

「お、おはよう二人とも……」

 

沈黙、敵視、苦笑、困惑の四つが顔を揃えて奇遇にも同じ時間に登場した。

目の前に広がる馬鹿でかい敷地と如何にもゴージャスそうな見てくれには目もくれず、昂と智花がやや気不味そうに笑みを浮かべると夏陽は思わぬ新たな敵の登場に驚きながらもこの男は懲りずにまた同じ事を、と言いたげな視線を向け、夏陽と一緒に来た進は至極どうでもいい様な感じであっさりと重厚さたっぷりな外観に気押された様子もなくチャイムを鳴らした。

 

「三沢真帆さんの学友の水崎です」

『お話はお嬢様より承っております。只今参りますので少々お待ち下さい』

 

言葉に従って待つ事にした進は、ふと後ろの方で何やら言い合っている三人――正確には夏陽と昂――の方を見た。

 

「何でお前がいるんだよロリコーチ」

「何でって……竹中こそどうして此処に?」

「えっ、俺!?……お、俺の事はどうだっていいんだよ!大体、お前が此処にいる方が不自然じゃねぇか!」

「俺は愛莉の水泳の練習の為に呼ばれたんだけど……」

「はぁっ!?そんな事いって、どうせみんなの水着姿を視姦する為に来たんだろうがこの変態腐れロリコン野郎!」

「ふぇえっ!?」

「違うよっ!?というか、何でそこで智花が吃驚した様に声を上げるの!?違うからね、誤解だからね!?」

「うるせぇっ!大体この間はそこの湊とデートしたばっかだってのに、もう他の奴に手を出す気かよこの節操無し!!」

 

ぎゃいぎゃい、と騒がしい事この上ない面々である。

門を開けた向こう側で驚きに目を丸くしていた出迎えの人は、何を思ったのかクスクスと鈴の鳴る様な笑みを零している。

 

外気温がいい加減暑いのでそろそろ室内に入りたいと思い、実は直射日光が一番嫌いな進のささやかな願いは季節に相応しくその羽音を懸命に鳴り響かせる蝉の声にかき消された。

 

 

 

 

 

荻山葵は不遇の女性である。

幼馴染である昂に幼馴染以上の想いを寄せていても、持ち前の男勝りな勝気さや昂の鈍感さ、タイミングの悪さその他諸々が影響してその気持ちを伝えられずにいる。

とは言え気不味い空気がたちこめる訳でもなく、周囲から見れば最早夫婦を通り越したどつき漫才が定形化している為にこの関係を壊したくないという臆病な想いと、自分の気持ちをありったけぶつけてすっきりしたいという強い願いが天秤の様に揺らめいていた。

 

今日だって本当は勉強会という名目で昂と二人っきりに……

 

「ハッ!?」

 

ブンブン!と音が鳴るくらい激しく頭をシェイクする。

何を考えているんだ自分は、と葵は自分を激しく自制する。そもそも来る中間考査で幼馴染が赤点などという悲惨な結果を迎えない為に自分が『仕方なく』付き合ってあげる筈だったというのに一方的にその約束を反故にされたのだ。怒る権利は当然自分にあって反省する義務は昂にあるのにどうして自分がこんなに思い悩まなくてはならないというのか。

 

「ハァ……」

 

心なしか、ため息と共に足取りも重くなっている様に感じた。

今日は帰ろう、そう思って長谷川家の玄関口から踵を返してどれだけ歩いただろうか。

 

気が付けば普段はバスで移動する様な距離を徒歩で移動していた事実に人知れず葵は驚き、そして急激に身体に纏わりつく様な不快な汗と強烈な喉の渇きが神経を襲った。

 

「……暑い。ちょっと涼んでいこ」

 

とりあえずスター○ックスでいいか、そう思ってテラス口から店先へと入った葵はふと―――本当にふと街道に視線を向けて、宝くじの一等よりも余程珍しい人物をその視界に収めた。

 

「…………水崎、先輩?」

 

 

 

 

 

 

庭先に噴水。

広大な敷地。

自宅にプール。

眼下にコート。

 

最早どの辺りから突っ込めばいいのだろうか、と三沢邸初見の昂は驚きに周囲をきょろきょろと見回していた。

 

「落ちつけ」

 

先日幼馴染に拳と共に自分が言われた言葉をそのまま口にした夏陽の視線に、昂は苦笑気味に腰を下ろす。

 

「凄いんだな、真帆の家って……」

「アイツの両親は実業家だからな。別荘もかなりの数を持っているらしいぜ」

「へぇ、詳しいんだな」

「ま、一応幼馴染だし」

 

云いながら、ふと思い出した様に昂が口を開いた。

 

「そう言えば―――」

「すみません!遅くなりました!」

 

二人の間に舞い込む様にして飛び込んできた言葉につられる様にして二人は声のした方を向き―――然る後夏陽は絶句した。

 

何でここで湊だけ学校指定の水着なんだとか、随分と彩り豊かだなとか、そんな事はどうだってよかった。

 

「おー、竹中ー」

 

何時だってにこやかで朗らかで、見ているだけで心洗われる様な現世の天使がそこに降臨していた。最早賛辞においては言葉を尽くす必要もない程にただ一言『美しい』以外の何事も要らないであろうその少女の姿を視界に収めた瞬間、夏陽は思った。

 

生きててよかった、と。

 

「随分とご満悦ねぇ?夏陽」

「ひぅっ!?」

 

そんな風に油断している内にあっさりと後ろを取られた夏陽は、つつぅっと背中をなぞる指先に素っ頓狂な声を上げ、指の主である必殺の右ストレートを持つ女王陛下―――紗季の方を見やった。

 

「お、おま……ッ!」

「今日は来てよかったでしょう?体育館は暑いからねぇ……偶には色んな保養も兼ねてリフレッシュしなきゃ疲れる一方だもんねぇ?」

「……ッ!そ、そんな事より、み、水崎はどうしたんだ?」

「ん?……あれ、そういえばそうだ。水崎は何処行ったんだ?更衣室にはいなかったっぽいけど」

 

そう。

今回夏陽がこの場所に来たのも、そもそもは進が此処に来ると言ったからであって自分から真っ先に望んだ訳ではないのである。それから一応保護者役、それくらい把握しておけ。

 

ツッコミは兎も角誰に対してのいい訳だ、と思いながらも紗季の言葉を待った夏陽は、

 

「んぁ?ずっきんなら荷物持ったままトレーニングルームにすっとんでったよ?」

 

横槍の様に唐突にそんな言葉を投げつけた真帆を見やり、ギギギと音を立てながら紗季を見た。

 

「紗季……?」

「あら?言ってなかったっけ?」

 

紗季はすっかり忘れていたわ、とでも言いたげに空とぼけて、

 

「日曜に『バスケ専用コートは勿論、トレーニングルームその他諸々取り揃えていて何でも自由に使いたい放題の』真帆の家に行かない?って言ったら『いいよ』って―――」

「ちょっと来い!」

 

夏陽と紗季、プールサイドの一角に移動開始。

何事かと不審げに顔を顰めた真帆を、しかし意外な事に紗季が宥めて二人は他の面々から聞きとられない位置まで移動した。

 

「どうしたのよ夏陽。ひなの水着姿に興奮するのは分かるけど、少しは落ち着きなさいよ」

「そういう事じゃ……!いや、あれは確かに興奮しないって方がおかしいかもだけど、って違う!今言いたいのはそっちじゃねぇ!!俺を騙したのか!?」

「騙す?人聞きの悪い事言わないでよ、これはアンタの為でもあるのよ?」

 

紗季の言葉に、夏陽は顔を怒調に染めたまま小首を傾げた。

その様にニヤリ、と紗季は満面に不敵な笑みを湛える。

 

「いい?夏陽、あと半年もしたら私達は中学生よね?」

「まぁ、そうだな……」

 

思えばもうそんな時期なのか、と感傷に浸る余裕も与えないのがこの状態の紗季である。経験則で夏陽はそれが痛いほどよくわかっていた。文字通り『身に染みて』理解している。

 

「慧心の中等部ともなれば、これまで他の小学校に通っていた奴も当然入ってくるわよね?」

「そりゃ……そうだろうな。一応この辺りの学区じゃそこそこ有名な私立校だし」

「有名無名はどうでもいいのよ!いい事夏陽?これはアンタがそんな悠長に構えていられるのも、あと半年しかないって事なのよ?」

 

何で俺が怒られなきゃならないんだ、と思った夏陽だったが、続く紗季の言葉に顔を顰めた。

悠長に構えていたつもりは全くといっていい程ないのだが、と反論する間も与えず紗季は続ける。

 

「中等部ともなれば思春期、つまりは男女関係の発展時期に当たるわ。そんな時節にひなみたいな美少女と出くわしてみなさいよ。どれだけの野蛮な獣がその目をぎらつかせると思っているの!?」

「……穏やかな話じゃないな、それは」

「それだけじゃないわ。そんなポッと出のそこいらの馬の骨にひなを奪われるくらいなら……っ!っていう覚悟を固めた初等部出の連中も虫の様に湧いて出てくる筈よ。そうなれば今よりもっとひなと接する機会が失われるかもしれないわ……そうなってからじゃ手遅れなのよ!?」

「…………」

「いい夏陽?アンタのひなに対する思いがどれだけ真剣なものかなんて事はアタシや真帆は充分知ってる。だから、アンタとひなが上手くいく様に出来る限り応援する事にしたのよ」

「応援……?」

「そう、題して―――!」

 

そこで一旦区切り、日陰で話している筈なのに何故か眼鏡をギラリと光らせて、

 

「―――『夏陽。をプロデュース』大作戦!!」

 

ババァン!……と効果音を鳴らせば満足してくれるのだろうか。呆然とそんな事を頭の端っこで考えた夏陽であった。

 

「ちなみに目標はクリスマスまでに恋人になる事だから」

「ハードル高ッ!?」

「大丈夫よ!こんな面白……ゲフンゲフン!重大な事なんだから、私達も全面的に応援するから!」

「今一瞬面白いって言いかけたよなおい言おうとしたよな?本心じゃ面白がってひっかきまわしたいだけだろ首突っ込みたいだけなんだろコラ目ぇ逸らしてんじゃねェよこっち向けよキリキリ本音を白状しろやゴラァッ!?」

 

 

 

―――一方、その頃。

 

「ふぅ…………」

 

物珍しさにあれやこれやを試しまくって、最終的に午前中はランニングマシーンで締める為に小休止に入っている進であった。

 

 

 

 

 

 

「しかし驚いたな……まさかこんな所で後輩に出くわすとは」

 

実の弟が「なにこの豆汁」と切って捨てたブラックコーヒーを呑みながら、驚きと感心が半々で混じった表情を浮かべて男―――水崎新は苦笑を浮かべた。

 

「しかし本当に、よく俺だと一発で分かったよな。男バス以外の一年生は俺の顔なんて殆ど知らないと思ってたから、本当に驚いたよ」

「いえ、まぁ…………」

 

言えない。

まさか中学時代に自分の幼馴染を散々に負かして、その経験をばねにする為に日夜研究に励むその幼馴染と一緒に研究用にビデオを毎日の様に鑑賞させられたから顔を覚えていましたとは……色んな意味で言いづらい事この上ない。

 

「ふぅ…………」

 

よもや全く同じ瞬間に実弟も設備が完全に充実しているトレーニングルームで兄と一緒のタイミングで息を洩らした事など、兄も弟も知る由はない。

カップの中になみなみと揺らめく水面を眺めながら、ぼんやりとした声音で新は呟いた。

 

「……男バスは、どうなった?」

「……一年間の休部、だそうです」

「そっか……顧問はさぞ喜んだだろうな」

 

誰が見てもやる気のない上、明らかに指導力の欠如していたインテリ肌のいけすかない顧問の顔を思い浮かべて、新は実に情けない微苦笑を湛えた。

 

「先輩は、今はどうされているんですか……?」

「学校は退学喰らったし、親父もお袋も世間様に見捨てられてノイローゼ。俺は従兄の家に転がり込んで半分主夫業の傍らで勤労戦士の真っ最中、ってな」

 

そう言って笑った新であったが、ふとその表情が曇る。

何だろうかと思った葵は、しかし口を挟む訳でもなく大人しくカプチーノに口をつけた。

 

「…………ホント、駄目な兄貴だよ俺は」

「え?先輩って、弟さんがいらっしゃったんですか?」

「いるよ?俺に似ず親父に似ずもう滅茶苦茶出来のいい自慢の弟が……」

 

そこでふと視線を落として、

 

「―――いや、アイツはもう俺の事を『兄』とも思ってないんだろうけどさ」

 

自嘲する様に呟いた。

 

「俺の所為でアイツは親父やお袋からも散々に責められて、周りから追いやられて、転校を余儀なくされて……俺がアイツをウチから追い出したも同然だよ。アイツの帰る場所を奪って、その上大好きだったバスケまで…………」

「その、弟さんは……?」

「今は叔父さんの所に居候しているってさ、前に従兄が言ってたんだよ。元気でいてくれりゃあ、何にも心配はない!……って言いたいところだけど、まだまだガキな小学生だからさ、周りがちゃんと見てやらなきゃいけないんだ。それなのに……さ」

 

車のクラクションが酷く遠く感じる。

ふと気づけば周囲の音がやけに小さく思える空間の中で、葵は新の独白にも似た言葉に耳を傾けていた。

 

「アイツ、それまで仲の良かったチームメイトからもつき放されてさ。もう精神的にもイッパイイッパイだったから、何度か『切った』事があるんだよ」

「『切った』って……!?」

「そ。リストカットって奴」

 

言って、新は自分の手首に親指を押し当ててナイフで切るような動作を見せた。

 

「見れば分かるくらいに大量に傷跡が奔っていてさ、ある時は手首から血ぃ垂らしたまんま泣きじゃくってた事もあるんだ。そんな時にさ、アイツ決まってこういうんだ、『ごめんなさい』って…………」

「………………」

「アイツは自分の所為で家族が壊れたんだと思い込んでる。だから大好きだったバスケで自分を追い詰める様な真似を繰り返して、未だに自分を責め続けているんだ。楽しんじゃいけないんだ、喜んじゃいけないんだ、って自分に言い聞かせるみたいに」

 

そこで一瞬、静寂が訪れた。

新が呷る様にしてコーヒーを呑みほして、表情を先程の微笑に戻して立ち上がる。

 

「悪かったな、変な話を聞かせちまって」

「いえ、そんな事は……」

「奢るよ。こんな時くらい先輩らしい事、しないとな」

「そんな、悪いです!」

「いいっていいって」

 

言いながら伝票を掻っ攫った新がレジへと歩き出す。

と、思い出した様に葵はその背に声をかけた。

 

「あのっ!」

「ん?」

「私達、今バスケ同好会として活動しているんです。そのメンバーの一人ですば……一年生の男子の一人が、先輩のバスケスタイルを目標にしているんです」

「……それで?」

「いえっ、それだけです!」

 

「ではっ」と小さく頭を下げて葵は席を後にした。

遠のいていく背中を眺め、やがてその姿が見えなくなると新は再びレジに向かって歩き出した。

 

 




誰得な個人情報・その三(捏造篇)

[名前] 水崎 新
[生年月日] 2月17日
[血液型] B型
[身長] 178cm
[ポジション] SG
[背番号] 23
[最高到達点] 約350cm
[バスケットシューズ] ナイキ社製 エア・ジョーダン10シカゴ・ブルズ


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第十六Q 喧嘩はコートで買ってやる

 

「暑い…………」

 

教室を出た瞬間に、思った事がそのまま口をついて出た。開け放った後方のドアからひんやりと流れ出る空気は、しかしスライドの面を境に見えないカーテンで遮られたかの様に突如その心地よさを失い、むわっとした外気が一瞬で不快指数を急上昇させる。

 

「水崎ー、帰るんなら早くドア閉めろよー」

「……はいはい」

 

教室内から響いた誰とも知らない声に一応従って進はドアを閉め、改めて向き直った途端窓辺から燦々と照りつける日光に顔を顰めた。

 

「…………今日って練習なかったよな」

 

覚束ない脳内の記憶帳を探り、そう言えば夏陽の姿が午後から見えなかったがと思い返して、ああ今日は県大会の抽選会で夏陽と小笠原顧問はどっかの学校に行ったんだっけかと真新しい記憶を掘り返した。

 

―――顧問がいないんだったら練習はないよな、うんというか無しにしよう。

 

そう思い立った進は、さて夕方から夜にかけての練習時間に昼間の不足分をどうやって割り振ろうかと考えながら廊下を歩く。

夏陽達が抽選に行ったから今日の練習は無し。直射日光に早々に白旗を上げて撤退を決め込んだ為にそこで思考停止した進は割と重大な事実を見落としていた。

 

夏の全国小学生バスケットボール大会県大会抽選会場。

そこが奇しくも進が数か月前まで在籍していた母校、芝浦小学校であるという事実を。

 

 

 

 

 

私立慧心学園

 

「……?」

 

放課後、来る中間考査に向けた自作の対策ノートを昂に渡す為にその後を追いかけてきた葵は導かれる様にして其処へと辿りついていた。

 

確かこの辺りではそこそこ有名で、大学までエスカレータ方式の中堅私立校だっただろうか。

いや、その辺りは今はどうでもいい。

 

(何でこんな所にアイツが……?)

 

確か慧心学園と云えば、初等部と中等部が美南市郊外にあって高等部や大学はもっと都心の方だった筈…………だとすれば進学関係云々でこの場所を訪れるのは怪しい。

 

であれば、

 

(美星さんに用事か……?)

 

昂の叔母で、確か慧心学園初等部で教鞭を揮っていると話していた知己の猫っぽい顔を思い起こしながら葵は歩を進めた。

シンメトリーを基調とした外観は綺麗に整備されており、初等部でこんな立派な建物とは流石県下随一の私立校、と内心感心する。

 

七芝高校の貧相な鉄筋コンクリ仕立ての校舎に嘆息を洩らしながらも日陰に差し掛かった辺りで、葵は正面から歩いてくる一人の少年を見止めた。

 

「…………」

 

今まで何度かすれ違った小学生とはまるで異なった、異物を見る様な眼差しが黒髪の合間から葵を覗きこんでいた。直射日光を避ける様に日陰で太陽に辟易とした視線を向けていた双眸に今は驚きの色を浮かべ、まるで予定調和の様に手元に握られた自衛用の警報ブザーの紐を―――

 

「って!ちょちょちょっと待った!!」

 

思いっきり不審者扱いしそうだった少年に向かって葵は叫んだ。その声に少年は動きを止め、しかし警戒の色を露わにしたまま探る様に口を開いた。

 

「……どちら様ですか?」

「ええっと、あの……そう!私、篁美星先生の知り合いで、先生に用事があって来たんです!」

「だったら何で来校者カードをつけていないんですか?用務主事室はもう通り過ぎてますよ?」

「ええっと、その……」

 

よもや小学生相手にこれ程困惑する事になろうとは思いもよらなかった。

確かに敷地内に此処まで入って今の今までそれらしき受付の様な場所がなかったのは妙だとは思っていたが、まさか入る場所を間違えてしまったのだろうかと葵は考えた。

 

だとすれば少年の反応は比較的自然なものだが、しかしだとしたらどうして今まですれ違った子供達は誰も自分の事を不審者だと見なかったのだろうかとも考える。

そこら辺のセキュリティは甘いのか、お坊ちゃんお嬢ちゃんばかりだから警戒心が緩いのか、自警団染みた何らかの規律組織任せなのか、色々と考えてみても結局現状の打破に繋がるとは思えず、取りあえず当初の目的を果たす為に葵は問いかけた。

 

「あの、この学校に来たのは今回が初めてで…………その、篁先生の甥っ子で私と同じ高校の男子生徒を探しているんですけど、そういった人は見かけませんでしたか?」

「篁先生の……?」

 

ふと考え込む様にして小首を傾げた少年は、しかし数瞬置いて「ああ」と声を上げた。

 

「もしかしてコーチの事ですか?」

「こー、ち?」

 

今度は葵が首を傾げた。

 

「長谷川コーチの事ですよね?」

「え、えぇ!…………にしても、長谷川コーチ、ねぇ……?」

「コーチなら今は多分体育館の方にいますよ」

 

「こっちです」と、多少警戒感を解いた声音が案内する様に歩き出した。この広大な敷地で見失っては大変とばかりに慌てて葵は少年の後を追いかける。

 

その道中でふと気になった事を聞いてみた。

 

「コーチって何の?」

「バスケのコーチです」

「バスケ……アイツが、コーチ…………!?」

「……?そういえば、篁先生に用事があるんじゃなかったんですか?」

「えっ!?あ、あの実はすば、じゃなくて……その『長谷川コーチ』にも用があって、先にそっちを済ませようかなぁ、と……」

「……そうですか。あぁ、あそこです」

 

と、少年が指差した先には実に堂々とした構えの講堂染みた建物があった。

流石私立、金のかけ具合が違うなぁ……と、葵は最早達観染みた考えを浮かべていた。

 

「用事は立ち話で済む様な事ですか?」

「え、えぇまぁ……」

「じゃあ勝手口の方からでいっか…………あっちからならコートに直ぐ出ますから、そちらをどうぞ」

「い、いえ……親切にどうも」

「どういたしまして。それでは失礼します」

 

軽く会釈して、日向を避ける様に早足に少年の背中が小さくなっていく。

その後ろ姿を眺めながら、葵は少年の指差した『勝手口』の方へと向かって歩き出した。

 

ドアをスライドさせた瞬間、遠くの方で「あっ、篁先生」という少年の声が聞こえた気がしたが、開き始めたドアは止まらずそのまま開け放たれる。

 

―――先程まで少年に感じていた妙な既視感もあっさり吹き飛ぶ程の衝撃が待ち構えているとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

雪が降り出しそうな、寒い冬の日だっただろうか。

 

その日夏陽は、いつもの様にバスケの練習を終えてから、少しだけ遠出して商店街方面へと足を運んでいた。

妹達は既に帰宅しており、今日は父親も母親も夕飯までには戻るとの話だったから、本来であれば早々に帰宅して然るべきなのだが、この日ばかりはそうもいかなかった。

 

息が白く視認出来る程に冷える世界の中を黙々と歩くその手には、小学校低学年とはいえ男の子には凡そ似合わない動物の人形が綺麗に包装された袋が握られており、歩調は心なしか緊張気味に早足を刻んでいた。

 

まぁその原因が、冬休みを間近に控え家族で小旅行に出かける事が急遽決まってしまったが故に、ひと足早めのクリスマスプレゼントを贈る為に態々贈り先まで出向くというのであれば、それも仕方のない話ではあるのだが。

 

(ひなた……喜んでくれるといいけどな)

 

想い人の姿を想像しながら、ふと夏陽は手に握った袋の中身を幻視する。

どんなものがいいのか、それとなく妹や幼馴染といった身近な女の子に話を聞いて、そこに無意識下での若干の脳内補正やらが助長した結果として如何にも女の子に似つかわしい人形という選択肢を選んだわけだが、果たして男の身である自分から贈るに相応しいものなのだろうか、笑われたりしないだろうか……といった疑問や不安が頭の中をぐるぐると廻っていた。

 

と、前の方から兄弟と思しき二人が仲良さそうに手を繋いで歩いてくる。

慌てて夏陽は荷物を壁側の見えにくい方の手に持ちかえて、身体を横にずらして道を譲る姿勢を取った。

その様に兄と思しき長身の男性が軽く会釈し、自分と同じくらいの年頃に見える少年が兄の動作を真似て頭を下げ、二人は夏陽の横を通り過ぎていく。

 

「進はサンタさんに何が欲しいってお願いしたんだ?」

「僕ね、兄さんと同じバッシュが欲しいっ!」

「そっかそっか!じゃあちゃんといい子にして、毎日の練習も頑張らないとな?」

「うんっ!」

 

首元に兄と同じ柄のマフラーをした少年のはちきれんばかりの笑顔に、夏陽はふと、今年のクリスマスは自分もあんな風に笑っていられるんだろうか、と思った。

このプレゼントを受け取って貰えなかったら、自分はきっとあんな風に喜んでクリスマスを迎える事は出来ない。そうでなくとも、今年は幼馴染の一人が開くバカでかいパーティに参加する事も叶わなくて揉めたばかりだというのに追い打ちをかける様な事は起こらないで欲しい、と祈るばかりである。

 

兄弟の姿が完全に曲がり角の向こう側へと消えた頃になって、不意に空から白い粒が降りてきた。

 

「雪…………」

 

空から降り立つ、白銀の奇跡。

その一粒が、また一粒が、やがて世界を白く染め上げて、凍りつかせていく。

 

「……寒っ」

 

出来るだけ早く要件を済ませてしまおう。

そう思い立った夏陽は、先程よりやや駆け足気味に目的の地へと向かった。

 

 

 

―――それは、4年前のある冬の日のお話。

 

 

 

 

 

帰り路を往く夏陽の足取りは、普段のそれと比べると遥かに重かった。

面持ちも暗く、どんよりと沈んで重苦しく、バスケの時に浮かべる様な勝気な表情はなりを顰める様にそこにはまるでなかった。

 

と、俯く様に地面に伸びる自分の影を見ながら歩いていた夏陽の影を遮る様に声がかけられた。

 

「竹中先輩」

「……かげつ?」

 

夏陽が顔を上げると、果たしてそこには自身の想い人の妹でありながら実の姉より余程背丈の高い、しかし自分より一つ年下の学友である袴田かげつの姿があった。

 

 

 

「どうしたんだ?こんな所に」

「私は塾の帰りです。先輩こそどうしたんですか?そんな顔をして」

 

共に並んで歩く姿は、男女の性差を考えた気恥ずかしさはまるでなく、しかし円熟した夫婦の様であるかといえばそうでもなく、一言で言うならそれは『同志』といった感覚であろうか。

4年前のある『事件』以来、年や性別は違えど二人は一種の同盟にも似た関係を結んで久しく、帰り道を往く間も会話が途絶える事はなかった。

 

主に夏陽の想い人の話であったり、かげつの姉の話であったり……要するに会話の主軸は公私におけるひなたの情報交換にある。それ以外だとバスケの話であるとか、昨日見たドラマの主演が大根だとか、バラエティの大御所のスキャンダルであるとか、そんなよく合う友達の四方山話が主になる。

本日の話題も、かげつの心中としてはそんな四方山話の一つにカウントされるであろう男バスの話であった。

 

「今日、県大会の組み合わせ抽選会に行ってきたんだ」

「顔色から察するに、その結果が喜ばしくなかったんですか?」

 

かげつの言葉に夏陽は肯定を示す。

 

「……一回戦の相手は去年の新人戦で優勝したチーム。で、二回戦はシード校の『芝浦小』」

「芝浦、ですか……」

 

バスケの知識にやや疎いかげつでも、その勇名は聞いた事があった。

昨年の全国大会ではベスト4、秋の新人戦では準優勝に輝き、冬に開かれた大きな大会でも入賞したという県下屈指のバスケ強豪校。

そして何より、昨年の県大会初戦で夏陽達の男バスを徹底的に叩き潰したという因縁の相手。

 

「中々厳しい相手ですね……」

「…………」

「……けど、その顔色の原因は別の事の様ですね?」

 

射抜く様なかげつの言葉に、口にこそ出さなかったが夏陽は同意を示す様に頷いた。

 

 

 

『―――慧心学園?あぁ、あの弱小チームだっけ?』

『勝てもしないくせに無駄な足掻きばっかしてきて、鬱陶しいったらねぇよな』

『ま、精々練習台くらいにはなってもらわないと困るけどな』

 

煩い。

うるさい。

 

『ラッキー、慧心が持ってってくれたぜ?』

『二回戦で早くも強豪同士が潰し合いか、助かるー』

 

ふざけるな。

舐めるんじゃねぇ。

 

―――そう、言い返したかった。

 

「俺さ、好き勝手言われても言い返せなかったんだ」

 

初めから自分達が負けると決めつけられて。

普段の練習も特訓も、何もかもを否定されて。

 

「男バスのキャプテンなのに……みんなの、代表なの、に…………ッ!」

 

悔しくて、悔しくてたまらない。

堪え切れない程に苦しくて、悲しくて。

 

「みんなの事、バカに、され、って……けど、けど…………ッ!!」

 

怒りを押し殺した様に夏陽は俯き、隣を歩くかげつが夕陽に照らされていながらハッキリと白く染まる事が視認出来る程に手を力いっぱい握り締めた。

歯をギリギリと音を立てて食い縛り、込み上げてくる思いを必死に閉じ込めようとして―――そうしなければ、憎しみの赴くままに暴発してしまいそうで。

 

そしてそれが、昨年の雪辱を生み出したのだと理解しているから夏陽は踏み止まる事を選んだ。

秋の新人戦、冬の大会と緒戦で敗北を喫したあの時も、直前の県大会の大敗が頭を過って、攻めを躊躇したが為の緒戦での敗北。

 

あの悔しさをばねにして、糧にして築き上げてきたものを、自分一人の癇に障った程度で壊したくない。

 

だから夏陽は押し殺した。

それが最善である事を、最上である事を理解していたから。

 

―――しかし、それで納得出来るかと云えばそんな事はない。

 

大切なチームメイトをバカにされ、日々の練習をコケにされて、みんなの努力を笑われて、それを我慢出来ようか?

 

相反する二つの感情が胸中で鬩ぎ合い、理性が辛うじて勝っているからこそのこの様相である。

かげつはそんな夏陽の様を見、そして口を開いた。

 

「竹中先輩」

「ああ……分かってる」

 

ギロリ、と夏陽の双眸が虚空を―――その遥か先を幻視し、

 

「―――喧嘩はコートで買ってやる」

 

鋭い声音が、そう紡いだ。

 



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第十七Q 吉と出るか凶と出るか

 

目の前で黙々とフリースローの練習に勤しむ智花を眺めながら、昂はぼんやりと昨晩の事を思い起こしていた。

 

コーチ先の慧心学園にいきなり姿を現した葵に驚かされたものの、美星の機転でどうにか事無きを得て無事に帰った時の、葵の自宅の前での事だった。

 

 

 

『―――そういえば、さ』

『うん?』

『この間、水崎先輩に会ったよ』

 

瞬間、世界から音が消えた気がした。

少なくとも昂の鼓膜には、葵の紡ぐ言葉以外の如何なる音も聞こえなくなっていた。

 

『正直、直接会って吃驚した。だって噂に聞いた様な変な人には全然見えなかったんだもん』

『そっ、か…………』

『―――けどさ、世の中っていうのはその人の本質なんて全く顧みないんだよ?事実とまるで関係ない様な噂を立てられて、見も知らない人に貶されて……』

 

そこで少しだけ、葵が俯いた。

 

『…………私は、昂にはそんな風になってもらいたくなくて……だから、その…………』

 

何かを言いたくて、けど言いづらい様に口ごもって、

 

『……ゴメン』

 

何かを呟いて、途端に身を翻して扉の向こうにその背中を消した。

バタン、と扉の閉まる音と共に昂の鼓膜に音が戻り、やがて運転席の方から調子を問う様な美星の声に昂は漸く我に返って座席に深く座りこんだ。

 

 

 

―――ビュ、ガコッ

 

ボールが弾かれる音と、智花の息を呑む声に昂は回想からの帰還を果たす。

しゅんとして俯いた智花に昂は励ます様に声をかけた。

 

「たまには調子の悪い時だってあるし、気にする事ないよ」

「…………」

「……智花?」

 

返事のない智花の様子に、昂は問いかける様に口を開いた。

自分を見つめる様に顔を上げた智花の表情は困惑と不安と―――少しだけ嫉妬にも似た感情が見え隠れし、おずおずと云った風にその唇を開いた。

 

「あ、あの!昂さん…………私、もうお邪魔しない方がいいんじゃ……」

 

えっ、と昂の口から空気が洩れた。

慌てて問い返してみると、何故か智花は両手を年相応に起伏に乏しい――女バスでは若干名規格外もいるが――胸の前でもじもじさせながら、言い辛そうに続けた。

 

「その……彼女さんが嫌がるんじゃないかと…………」

「彼女?」

「昨日いらしてた……」

 

智花の言葉に、昂の脳裏に昨日の光景が蘇る。

体育館、スクールバッグの落ちる音、戸惑う様な声、驚愕に染まった幼馴染の―――

 

「もしかして葵かっ!?全然違うよっ!」

「ふぇっ!?」

「あいつはただの幼馴染だよ!同じ中学でバスケ部だったから仲がいいだけで、誤解だよ」

「そ、そうですか!」

「智花と毎日朝練するのは、俺にとって大事な時間だから……これからも宜しくな」

「はいっ!」

 

昂の言葉に智花は花の様な笑顔を浮かべる。その様につられて昂も笑みを零し―――と、不意に背中の辺りに視線を感じて昂が振り返る。

呆気に取られていた智花も昂の動作につられる様にしてその視線を追い、そしてキッチンの方でニコニコと満面に笑みを湛えている七夕の姿を見止めた。

 

「……何?母さん」

 

嫌な予感しかしなかったが、昂の口は質疑という選択肢を選び取った。

そして返って来た応答に、

 

「昂くんたら、お嫁さんに浮気を弁解するみたいに必死だったわね?」

「―――母さんっ!!」

 

やっぱり聞かなきゃよかったと激しく後悔した。

 

 

 

 

 

「一回戦が新人戦優勝の三草小……で、二回戦がシードの芝浦、ねぇ…………?」

「…………」

 

組み合わせ結果が纏められた対戦表を眺めながらぼんやりと呟く進を、夏陽はジッと見つめていた。

先日かげつに徹底抗戦を宣言した目とはまた異なった鋭い眼光に、やがて呆れが混じった様な声音で進が向き直った。

 

「……竹中、別にお前のクジ運の悪さを嘆いている訳じゃないよ?むしろこっちの手の内がバレる前に芝浦と戦えるのは好都合だと思うんだけど、だからって態々初戦の相手に名門とはいかなくても中堅より上の方の相手がいるところへ飛び込んだのはお前のハングリー精神が影響したと云えなくも―――」

「進、お前さ」

 

進の言葉を遮る様にして、夏陽が口を開いた。

 

「―――お前、どうして芝浦から転校してきたんだ?」

 

凛然とした夏陽の言葉に、進は先程までの気の抜けた様な頬を引き締めてその双眸に真正面から対峙した。

 

「……何時だったか似た様な質問をされた気がするけど、その答えなら前と変わらないよ。『家庭の事情』、興味本位で他人が首突っ込むのは流石に不躾な問題だよ」

「慧心から電車一つで着く様な距離を態々転校してまで、どうして強豪でもないウチのバスケ部に入部したんだ?」

「…………竹中、向こうで袴田が長谷川コーチのお嫁さん宣言してるぞ」

「俺の質問に答えろ。話題をそらすな」

 

普段なら絶対喰いつく筈の話題すら全く興味を示さず、夏陽の瞳は射抜く様に進を捉えて離さない。

 

「……どうしてお前はそう小っ恥ずかしい過去の振り返りたくない様な思い出を引きずり出そうと―――」

「水崎」

「…………」

 

どうやらちゃんと答えるまで離すつもりはない様子である。

進はこの時程一時間目のチャイムを待ち焦がれた事はなく、そしていつまでもならないチャイムにいっそ屋上へ駆けあがって自力で鐘を叩き鳴らしてやろうかとも思ったが、夏陽の余りにも真剣な様子にそんな事は考える事すら馬鹿馬鹿しく思えて早々に思考を切りあげた。

 

「―――夏陽」

 

だから、向き合う様にして進は初めて夏陽の事を名前で呼んだ。

 

何時か、こんな時が来るんじゃないかと一応の覚悟はしていた。

 

例えその結果拒絶されようと侮蔑されようと、その全ては自分が原因なのだから甘んじて受け入れる心構えなど当に出来ている。

ただほんの少しだけ、芝浦の面々とは違って、目の前で自分と本気でぶつかろうとするこの同い年の友人にそういった軽蔑の眼差しを向けられる事が、進の心はどうした事か異常なまでに『怖く』感じたのだ。

 

これまで一度たりとも覚えなかった『恐怖』は、思い浮かべたくもない程に鮮明な映像を以て脳内に映写され、途端に進はその光景に激しい苦痛と吐き気を催しそうになった。

 

夏陽や男バスの仲間だけではない。強化合宿で幾度となく互いを高め合った智花やお好み焼き論争を繰り広げた紗季、飼育係で共に過ごす事がやたら多いひなたや度々日直の仕事を一緒にこなす愛莉ややたら突っかかってくる事の多い真帆ですら、その瞳が侮蔑と軽蔑の色に染まり、明瞭な拒絶や排斥を伴った光景が映る度に進は心が張り裂けそうな程に痛く感じた。

ぐるぐると頭の中を駆け巡る光景と、繰り返される嫌悪の言葉に何もかもが壊れてしまいそうになって、いっそ壊れてしまった方がいいんじゃないかと思えるくらいで―――

 

――――――キーンコーンカーンコーン

 

「おーっす!みんなおっはよー!」

「……篁先生が来たから、また今度にしよう」

「…………」

 

待ち侘びていた筈の鐘の音が、しかし今の進にはやたら鬱陶しく思えた。

 

 

 

 

 

 

紗季が主導する『夏陽。をプロデュース』大作戦は、その第一段階に一先ず「夏陽がひなたと普通に世間話が出来る」くらいに親密度を上げる事を目標としていた。

では今まで出来ていなかったのかと云えば正しくその通りで、大抵夏陽が緊張の余りぶっきらぼうになってしまうか真帆辺りが横槍を投げ入れてしまっておしゃかになるかが殆どであった。

 

しかし現状として、夏陽とひなたには共通の話題として『バスケ』があり、更にもう割と前になるが強化合宿でのマンツーマン指導等を通して、ひなたの意識下における夏陽のポジションは着々と上昇している、と紗季は考えていた。

無論、4年前にひなたと知り合っていなかった紗季は実はひなたが随分と前から夏陽の事を割と上位に位置づけていた事など知る由もないし、その原因も知る筈がない。その顛末は当事者である所の少年少女三人を除けば知るのは羽多野養護教諭ぐらいなもので、担任の美星ですら事件の大筋を聞いただけだったりする。

 

閑話休題。

 

兎にも角にも、紗季考案のこの作戦は速やかに遂行されるべく、現在進行形で愛莉の水泳特訓の為に今日もまた真帆の家のプールに来た女バス+昂&夏陽――進は早々にトレーニングルームへと向かった為不在――の七人が柔軟体操を終えて、各々に目標を以てさぁプールに出陣、と思ったその矢先、

 

「あの……すばるん様、お客様で御座います」

 

真帆命名『やんばる』こと三沢家のメイドである聖の言葉に、呼ばれた昂は振り返り―――然る後絶句と驚愕にその表情を凍りつかせた。

 

そしてその数秒後、女性にしては随分と逞しい感じを思わせる怒声と共に繰り出された一撃に昂と、そして『お客様』こと葵の二人は揃ってプールへと飛び込む事となる。

その光景に、そしてその後繰り広げられた高校生二人の論争の果てに何故か明日行われる事が急遽決定した試合の報せに、先日とは違って早々にプール組に合流する為に出てきた進とその場にいながら蚊帳の外的な立ち位置だった夏陽は状況がさっぱり呑み込めずに小首を傾げる事となった。

 

 

 

で、その翌日。

 

「見学?」

「そうだな……正直、今回は俺達には殆ど関係ないし」

 

「これは女バスの問題だからな」と言いつつも、少しだけ歯痒そうな面持ちの夏陽の横顔を見て、進は少しだけ頬の筋肉を緩めた。

なんやかんや言いながらも、結局夏陽も昂がコーチを辞めてしまう事が惜しいのだ。合宿を通してその指導力を一応は認めているが故に、口惜しく思っているのだろう。

 

しかし進は、だったら女バスに混じって参加すればいいのに、とは思わなかった。

夏陽の言う様にこれは女バスの問題であって、書類上男バスの選手である自分や夏陽の介入する問題ではない。以前の様な男バスにも何らかの影響があるのであれば兎も角として、今回は完全に女バス内部の今後の問題なのだ。

 

それこそ女バスが勝って昂がコーチを続けようと、先日のちょっと怪しい来校者――昂の幼馴染であり兄と同じ高校の生徒であるという事をこの時になって知った――が率いるチームが勝って昂がコーチを辞めようと、それが直接的に男バスに影響を与えるかと言えばそうでもなく、しかし進としても心情的には昂にコーチを辞めて欲しくない―――正確に云えば、昂からバスケと触れる機会を奪わないで欲しい、と思っていた。

 

そういう意味合いで云えば夏陽は兎も角自分はそれなりに参加する大義名分を掲げようと思えば掲げられるのだが、進はそれをするつもりもなかった。

 

「夏陽はさ、どっちが勝つと思う?」

「ん?そりゃぁ……分かんねぇな。確かに体格差はあるけど、人数的には女バスが勝ってるし、それに―――」

「ゲームなんて、鬼札(ジョーカー)一枚でひっくり返るから面白いんだよ」

 

図らずも、夏陽と進の視線は全く同じ人物を見ていた。

審判役を務める昂が若干居心地悪そうに顔を赤らめるコート上に散る、各々に相応に露出度の高い水着を着こなす中で唯一学校指定の水泳水着を着た少女―――湊智花。

クラス内では控えめで穏やかな印象を受けるその様は慧心学園で彼女と一緒にバスケを経験した者に言わせれば正しく仮の姿でしかなく、内実夏陽に負けず劣らずのハングリー精神に高校生の昂すら驚嘆させる程の身体能力を持ったスーパープレイヤー。

 

「さてこの鬼札(ジョーカー)、吉と出るか凶と出るか」

 

進の試す様な呟きは、試合開始を告げる笛の音に掻き消された。

 

 

 

 

 

試合は十点先取のワンセットマッチ方式。

女バスが勝てば昂のコーチは継続、敗れれば昂はコーチを退任するという約束の元で行われた試合は、序盤こそ普段からの連携や智花の活躍によって女バスが先取点を奪い主導権を握った様に見えたが、始めて二ヶ月という短期間の間では細かい所まで手が回らなかったという――察するまでもなく当たり前な――欠点を突かれて連取を許し、瞬く間に女バスは逆転を許してしまった。

 

「あー……こりゃちょっとマズイかな?」

「あの帽子被ってない人がキーマンだろうな。女バスの攻撃パターンを短時間で読み切った上に、パスの切り崩しまで……他のメンバーを上手く動かしてる」

「ポジション的にはセンターかな?女子とは云え高校生にしては少し背が低い感じだけど、司令塔の役割に慣れている感じだよね」

 

まるっきり他人事の様に一見すると呑気な二人だが、その実表情はコート上で笛を鳴らし続ける昂と同じくらい真剣そのものだったりする。

そうこうしている内にもゲームは進み、気が付けば6―4で高校生チームがリード。

 

そして、

 

「―――って、オイオイ……」

「湊の悪い癖だな……アレは」

 

コート中央付近で対峙した二人の様子に、進は呟く様に声を洩らした。

 

「エース同士のマッチアップ…………湊の奴分かってるのか?」

 

これ以上点差が広げられれば女バスとしては厳しくなる。

だからこそ湊が前に出たのだろう。

 

戦術レベルとしてみれば、確かに現状取れる最良の選択。

―――しかし、

 

「この状況で止められたら、最悪試合が決まるぞ?」

 

ひんやりとした汗が進の頬を伝う。

 

今、鬼札(ジョーカー)が切られようとしていた。

 



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第十八Q 『仲間』と一緒だから

 

芝浦に居た頃の、まだ進が兄の情事を目撃する前。

慧心学園初等部男子バスケットボール部を初戦で破った1年程前の全国大会の話に遡る。

 

その時の芝浦小学校男子バスケットボール部の成績は、結果だけ見ればベスト4止まりであった。

とはいえそれは結果論であり、内容を見れば進は今でもその時の試合結果を悔いてはおらず、むしろ貴重な経験であったと胸を張って語る事が出来る自信があった。

 

小学生の大会とはいえ準決勝ともなればそれなりに緊迫した試合運びとなり、事実その時の準決勝もまた緊迫感漂う試合展開となっていた。

というのも、第一セットが開始して五分近くが過ぎながら、お互いが攻守の巧みさに点を奪う事が出来ず、当時の大会上では初となる無得点時間記録の更新が続いていたのだ。

 

そのゲームが動きそうになったのが、第一セット終了一分前の一幕。

進がパスを受け、前評判から既に全国区にその名を轟かせていた相手のエースとのマッチアップを迎えた瞬間だった。

 

興奮の渦冷めやらぬ会場が一瞬、まるで予定調和の様に静まり返って会場から音が消えた。進はパスを受けたままボールを両手で抑えており、相手は進の出方を窺う様にしながらしかし隙あらば即座にそのボールを奪わんとその目をぎらつかせていた。

緊張と静寂が支配したその数秒間、観客にはまるで二人が石化した様に固まった末、進が仲間にパスを回した事から進が勝負を逃げた様に映った事だろう。

 

だが進には周囲のそんな反応はどうでもよく、ただ勝利という最終目標の為の最良の選択肢として回避を選んだに過ぎなかったのだ。

 

相手と視線が交錯した瞬間、進には明瞭なビジョンと共に確かな確信が脳裏を過った。

それは単に先制点を許すという目先の結果だけでなく、そのまま相手に主導権を許してしまうという最悪の結末を伴ってその光景が網膜に焼きつく様にありありと映しだされた。

 

結果として試合は好ゲームの末に芝浦小が惜敗したが、進は今でももしあの時逃げずに我武者羅に立ち向かえばどうなっただろうかと、勇猛と蛮勇を履き違える自分自身に唾棄しながらハッキリとこう告げるだろう。

 

―――試合の大事な局面で、エースの敗北は即ちチームの敗北を指し示す。

 

 

 

切り札とは、ここぞという時に切るからこその切り札なのだ。

それは単純に局面を制するという目的の為ではなく、試合そのものを支配する為に用いられるべきなのだと、少なくとも進はそう思っていた。

 

だからこそ、今まさに目の前で1on1を挑もうとする智花の勇ましさに進はいっそ感嘆すら洩れでそうになる。

但しそれは賛辞ではなく戦慄を伴うものであった。

 

(長谷川コーチのクイックステップはさっき見せた以上もう通じない―――どうするつもりだよ?)

 

 

 

 

 

 

葵の智花に対する評価は、このゲーム中にバブル景気以上の急角度を以て急上昇していた。

スピードといいボールコントロールといい、その実力は天賦の才というに相応しいものだろう。

 

自分など、後数年もしないうちにあっさり追い越される―――そう認識しながらも、しかし今の葵は負ける気はしなかった。

単純に身長差もあるが、何よりもこなしてきた試合数と絶対的な経験値の差だ。

 

昂と同時期にバスケを始めた葵は、当然の事ではあるが智花よりも経験してきた試合数は遥かに多い。そしてその中で確かな実力を培ってきた葵と、幾ら才能に恵まれていようと未だ小学生の身の上でしかない智花では、そもそも勝負になる方がおかしいのだ。

その辺りは中学生どころか高校生にすら匹敵する智花の力によるものなのだが、その辺りを考慮しても葵は負けない自信があった。

 

(さぁ、どうするの智花ちゃん?私に昂と同じフェイントは二度も通じないよ?)

 

この状況下で自分にマッチアップを仕掛けてきた智花の胆力にいっそ賛辞を贈りたい気分だったが、今は試合中である。それは後回しだ。

 

どう抜くつもりか、それともパスか。

 

身構える葵を前に、智花が一瞬前に詰める様に身を屈めたかと思うと―――

 

(―――ッ!?)

 

ボールの音すら消えた刹那、智花の姿が葵の視界から一瞬消える。

 

だが気を取られたのもほんの僅か、

 

「っ!」

 

葵を抜いたかに見えた智花だったが、背丈同様に差のあるリーチで即座に反応した葵に後方からのスティールを許してしまい突破失敗。そのままボールを奪われ攻守が目まぐるしく代わる代わるした末に葵の2Pシュートが決まり8-4。

 

前半のリードを守れぬまま、女バスは窮地に追い込まれた。

 

 

 

 

 

水崎進は基本的に無表情がデフォルトの様な人間である。

5年生当時の彼の様相を知る者がいれば目を疑うであろう程にその表情が、或いは口調が激変した理由は極々一部の人間しか知らず、それを知る由もない大多数の知己と聞こえのいい他人には、彼が淡白無表情無感動状態こそが常の、クールという形容が恐らく相応しい人間だと思われている。

その認識は彼の転入先である慧心学園6年C組のクラス内においてはほぼ周知の事実であり、それが誤りである事を知るのは彼が唯一クラス内で会話のキャッチボールを成立させようとする夏陽を除けば、この年頃の少年にしては意外な事に五人程の女子しかその事実を知らない。その五人というのは言うまでも無く女子バスケットボール部員達の事であり、取り分け女バス対男バスの対抗試合で彼と白熱した接戦を演じた智花や対球技大会用強化合宿にてお好み焼き論争を繰り広げた紗季には、彼の周囲に対する反応の冷淡さとの余りのギャップ加減に当初は驚きが隠せなかった。

とはいえその驚きも時の経過と共に薄れ、今では冷淡な彼も激情な彼も同じ『水崎進』として彼女達は捉えている。

 

が、だ。

 

それで彼女達が進と常に会話のキャッチボールを成立させているかといえばそんな事は全くなく、自分から若干微妙な距離を取っている様な愛莉や何かと衝突する上殆どといっていいくらい彼と一緒にいる夏陽と言い合い取っ組み合いに発展する真帆はいうに及ばず。学級のリーダー的存在である紗季や部活時間外にも度々進とバスケをする智花、果てはクラスの男女問わず人と出会えば会話の途絶える事の方が少ないひなたですらも二言三言会話が続けばマシな方、という状態が彼の転校から三カ月近くが過ぎようとしている今も尚続いていたりする。

 

そんな状況が長々と続くものだから担任の美星もあれやこれやと策を練り、その都度甥っ子である昂が右往左往して戦場の指揮官と歩兵みたいなコント染みた事態が起こったりそうでなかったりするのだが、そんな担任の気苦労なんて知る由もない進は正に我が道を往くが如くクラス内では孤立、というよりもむしろ外観だけみたら『孤高』と呼んだ方がいっそ正しいかもしれないくらい凛然として日々を過ごしている。

 

だから彼がその表情を年頃の少年相応に微細に変化させようと、胸中で思った事を言わんとしていようと彼と同年代で未だボーイズ・アンド・ガールズでしかない周囲にそれを察しろというのはむしろ難題でしかなく、そういった場合は察しのいい美星や紗季が気を利かせたりするのだが、それ以外だと彼の変化に気づける人間は一人か多くて二人程度に絞られてくる。

その一人というのは最早言うまでもない事ではあると思うが夏陽の事であり、C組において進とまともに会話が成立する唯一といっていい存在だったりしてある種のスポークスマン的通訳的中継的なポジションを確立している男子バスケ部キャプテンは、無表情こそがデフォルトである様な振る舞いが常である所の進が驚愕と戦慄にその身を震わせている事実を、僅かに見開かれた目と半開きの唇の様相から素早く察した。

 

自身では理科のルーペ程度には鍛えられたと自負しているそれは最早外宇宙惑星表面観察専用望遠鏡レベルといっても過言ではなく、察した内容を告げれば恐らく進自身も驚くであろう程に鋭い観察眼を持った夏陽は、現在進行形でコートを―――否、休憩の為にコートサイドのベンチに腰掛けた智花を吸い寄せられる様に見つめる進の横顔を眺め、そこに浮かんだ彼の心情的な何かを察した。

 

確か前にもこんな顔をしていたな、と過去の記憶を掘り返して見れば何の事はなく、何時ぞや男バス対女バスの試合で自分が頭を打った時に見事な拳骨をかました進がこんな感じの顔をしていたと思いだした。

こう、投球フォームがガタガタな初心者にしっかりと手本を見せる様な先輩染みた表情で、

 

「―――ッ……」

「何か、気になる事でもあったのか?」

 

疼いている。

凄いウズウズして今にも飛び出しそうな勢いを必死に抑え込んで疼いている。

 

傍目から見れば苦虫を少しだけ舐めた様な表情の変化だが、夏陽にはもう普段との違いに――失礼とは知っていても――笑いがこみあげてきそうなくらいにその表情は変化している。

 

「言いにいってやれよ。それくらいなら、別にあいつらも文句は言わねぇって」

「……ッ、けど…………」

 

何処か遠慮がちな瞳が、行こうか行くまいか、言おうか言わないかで天秤の様に忙しなく揺れている。あっちへ行ってこっちへ行って、普段の落ち着き払った他称クールな性情は何処へいったと云いたくなる様な変貌っぷりに、夏陽は自然と何だか可愛らしいものを見る様な目つきに変わっていた。

 

何に迷っているのかは知らないが、この自分のバスケ以外で自己主張力が恐ろしいくらい欠如している友人の背中を推す様な見下した真似はしなくても、手を引いて一緒にコートサイドに向かうぐらいの事はしてやってもいいんじゃないか。

そう思った夏陽はさっさと進の手を掴むと、何か言い淀んだ彼の様子を尻目にさっさとコートへと向かった。

 

 

 

コートサイドに着くと、何やら女バスの面々が団結した様に気勢を上げていた。

各々が気合いを入れている最中に水を差す様な登場が、そもそもバスケとお好み焼き以外では殆ど自己主張しない進には苦手なのだろうと解釈した夏陽はさっさと目当ての人物である智花に声をかけた。

 

「おい、湊」

「ふぇ?」

 

既に自身を除く女バスの仲間達が意気込んでコートに向かい、さぁ自分もと思っていた智花は出鼻をくじかれた様な声を上げながら振り向き、後ろの方で自分と同じ様に状況が今一呑み込めていない様相の昂を尻目にして声をかけてきた夏陽と、彼に連れられる様にしている進に目を向けた。

 

「ほら、進」

 

ぐいっと手を引っ張り、智花の前に進を立たせる。

慌ててたたらを踏む様にして体勢を立て直した進は、結構な至近距離に現れた智花の顔に若干吃驚した様に目を丸く見開き、そのまま言い淀んだ様に口元を開いたり閉じたりしながら時間を浪費した。

 

が、やがて背中に突き立つ様に「さっさと話してやれ」という様な夏陽の視線を感じ取ったのか、やがておずおずと云った風に口を開き、

 

「――――――何で湊はそんなに頑張れるの?」

 

その問い掛けに、智花の返答は早かった。

驚いた様な表情もつかの間、花の咲く様な笑みと共に真摯な声音で言の葉を紡いだ。

 

「みんなと―――『仲間』と一緒だから」

 

 

 

 

 

 

智花の言葉に、進は言葉を失ってその顔に見入った。

 

そうして、やはり自分とこの少女とは全くの対極に位置する存在なのだとその認識を再確認した。

 

同じ様に勝利に拘り続けて孤独となり、迷い込んだ異分子でしかない自分とこの少女は、しかし全く別の道を歩んだ。

 

彼女の周りには笑顔が溢れ、彼女自身が笑顔に溢れて。

自分の周りには誰もおらず、自分自身も誰とも寄らず。

 

その原因が何であったのか。

どうして自分と同等の実力を持つ彼女が、あれ程他者と慣れ合えるのか。

 

進は漸く、その理解に至った。

 

彼女は得たものを理解し、そして歩み寄ったのだ。自分から歩み寄る事で多くの知己を得、多くの努力と頑張りを続けた結果『仲間』を、自身と同等に大切に出来る『チームメイト』を手に入れた。

 

反対に自分はどうだ。初めから無意味と切り捨てて、『仲間』だの『チームメイト』だのを無価値な存在だと拒絶し続けて時間を浪費し、無駄なまでに様々なものを摩耗してその腹いせであるかの様にバスケを続けて―――結果として何を得た?

 

気づいた時には自分ではどうにも出来ない事でバスケを続けられず、状況が似ていた自分と彼女が違ったただ一つの点。

彼女は―――湊智花は諦めなかったのだ。

 

手を取ってくれる存在を受け入れ、自分から歩み寄って、頑張って、努力して、努力して、努力して。

そうして理解者も、実力も手に入れた。

 

そんな彼女が疎ましくて――――――羨ましかった。

 

「……『仲間』のせいで智花が勝てなくてもいいの?」

「誰か一人のせいじゃないよ。負けは負け、みんなで一緒に反省して、考えて、次に繋げればいいんだよ」

 

―――お前は何がしたかったんだ?水崎進

自分の存在を誇示し続ける為だけにバスケをやるのか。

 

大好きなバスケを思う存分やりたいのか。

 

「……湊。俺、お前の事がやっとわかった気がする」

「ふぇ?」

 

嗚呼、と進は自分の胸の内に積っていた靄が晴れていく様な感覚を覚えた。

それまで心の中に降りしきっていた雨がすぅっと上がる様に。日の光を浴びて凛然と輝く雫が宝石の様に可憐で鮮やかな花弁を彩る様に。

 

漸くと云っていい程に久しく思う様な感情の中で進は理解した。

 

自分は、水崎進は湊智花に憧れているのだと。

彼女の様になりたいと、彼女の様でありたいと。

 

恐らくはあの日の1on1の時から、ずっとそう願っていたのだと。

 

自分にとって太陽の様に輝く彼女が要らぬ雲に陰る事に、天馬の様に自由に空を駆けるその翼が奪われる事に、まるで自分の事が酷く傷つけられた様に苛立ちを覚える。

誰にもその輝きを奪わせたくない。誰にもその翼を捥ぎ取らせたくない。

 

そう思い、思った事で進の口は自然と開いた。

 

「……湊」

 

疑問符を浮かべる彼女に、何時か夏陽に見せたあの挑戦的な光をその目に宿して、

 

「―――勝ってこい」

「―――うん!」

 

どちらともなく笑みを浮かべ、完璧に完全に全壁に同じタイミングで握り拳を中空に持っていったかと思うと、全くの打ち合わせなしのまま予定調和の様に拳を突き合わせた。

 



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第十九Q 好きだよ?

 

ある日のSNSにて。

 

まほまほ「アイリーンすげーじゃん!きょうは25mばっちり泳げたし!」

ひな「おー、あいりえらい」

あいり「えへへへ……けど、みんなのお陰だよ」

紗季「そうね、長谷川さんや葵さんも手伝ってくれたもんね」

智花「けど、愛莉が自分で頑張ったから出来たんだよ。お疲れ様」

あいり「うん……ありがとう」

まほまほ「いやーそれにしてもアイリーンかわったよねー。これもすばるんのコーチのおかげだよねー」

あいり「うん、長谷川さんにもいっぱい感謝しないとね」

ひな「おー!」

紗季「……変わったって言えばさ」

智花「どうしたの?紗季」

紗季「水崎もこの頃、少し変わったよね。こう、クラスの中でも夏陽以外の人と話しているのちょくちょく見かけるし」

まほまほ「うーん……そっか?」

紗季「ま、ニブい真帆には分からないだろうけど」

まほまほ「なんだとー!?」

智花「ま、真帆!落ちついて!」

ひな「おー」

 

昂や葵による水泳のコーチの甲斐あってか、プールの授業においてそれまで水の中に入る事も覚束なかった愛莉は無事に25mプールを泳ぎ切り、その感動を皆で分け合っている様子を実は五人がSNSで思い出しているのと時を同じくして彼女達のコーチがビデオで眺めている事など知る由もない少女達は、紗季が話題に上げた進のここ数日間の様子を思い起こしてみた。

 

智花「私は部活のない時とかに偶に水崎君とバスケするけど、そんなに変わった風には思わないよ?」

あいり「けど、言われてみれば確かに少しだけ話し易くなった……気がする」

ひな「おー?水崎、変わった?」

まほまほ「そっか?サキのおもいすごしじゃね?」

紗季「……そうかなぁ。まぁ愛莉のは自信がついたって事だろうから省くとして」

あいり「ふぇぇ!?」

智花「紗季、もう少し優しく言わないと……」

 

と、そこで智花が不意に動きを止めた。

 

まほまほ「どったのもっかん?」

紗季「長谷川さんからのラブコール?」

ひな「いいなー、ひなもおにーちゃんからラブコール欲しいなー」

智花「ち、違うよっ!!えと……水崎君からメールが来たみたい」

まほまほ「みずっちから?なんて?」

紗季「またあだ名変えてるし……」

智花「えっと……『次の土曜日、県立総合体育館前に朝10時集合』だって」

まほまほ「しゅーごー?なんの?」

紗季「アンタ聞いてなかったの?この間夏陽が言ってたでしょ、次の土曜日に県大会があるって」

あいり「じゃあ智花ちゃんは、試合を見に行くの?」

智花「うん、この前水崎君に『参考になるよ』って誘われたから」

まほまほ「おぉー!?ここでみずっちがもっかんにもうあぷろーちかー!?」

紗季「『俺の勝利を君に捧げるぜ、I LOVE YOU』……って訳ね!?」

あいり「智花ちゃん大人……!」

智花「ふぇええぇ!?違うよ!そんなんじゃないってばぁ!!」

 

と、本当ならこんな感じのからかいの後で紗季辺りが「まぁトモには長谷川さんがいるものね」とかなんとか言って終わる筈だったのだが、

 

ひな「いいなー、ひなもいきたいなー」

 

何て言いだしたのが事の始まり。

 

智花「ふぇ?」

あいり「けどひなちゃん、朝早いのは苦手じゃないの?」

ひな「けど水崎、いつもひなに優しくしてくれる。だからひなは、水崎をおーえんしたいです」

まほまほ「じゃあやんばるにむかえにいかせよーか?」

ひな「おー、だいじょーぶ。ひな頑張る」

紗季「トモやひなが行くっていうなら、私達もいかないとね」

あいり「うん、私もみんなの事、応援したい」

紗季「っていう訳でトモ、水崎に連絡しといて」

智花「うん、分かった」

まほまほ「じゃあすばるんにもれんらくしとかないと」

紗季「そうね。トモ、悪いけど二人に連絡するの頼める?」

智花「分かった。じゃあまた明日」

あいり「うん、またね」

ひな「おー」

 

SNSから落ち、自分の携帯を手に取った智花は――話す内容の多さをふと思いなおして――メールよりも電話の方がいいかと電話帳から進の名前を選択しコール。二回程呼び出し音が鳴った所で、押し当てた耳に聞き慣れた声が響いた。

 

『どうした湊?』

「あ、あのね……次の土曜日なんだけど、みんなと一緒でもいいかな?」

『別に大丈夫だけど……』

「だけど?」

『行くこと前提で尋ねるのはやめてくれる?』

「ふぇえ!?」

 

何で分かっちゃったの?

問いかけるより早く、向こうの声は答えた。

 

『湊が女バスに相談しないでそんな事聞く訳ないし、相談してもみんながいかないなら聞く必要ないだろ?』

 

見透かした様に洩れる微笑を集音器は拾い、智花の鼓膜を震わせる。

うぅ、と声を洩らす智花は、恐らく携帯を耳に当てながら微笑を湛えているだろう進の姿を幻視して、ふと先程までの会話を思い起こした。

 

「水崎君」

『ん?』

「水崎君さ、少し変わった?」

『変わ、った……?』

 

何のことだ、と小首を傾げる様な声が智花に届く。

 

「さっきみんなと話してたんだけどね、水崎君がこの頃明るくなったって話してたの」

『その言い様だと、以前の俺はさぞ暗い人間に見えたんだろうな』

「ふぇ!?違うよ!そういう意味じゃなくて」

『いや……まぁ割と自覚はあったし、別に気にしてる訳じゃないから』

 

「けどさ」と、進は続ける。

 

『もし変わったんだとしたら、それは湊のお陰だと思うよ』

「ふぇ?私?」

『ん。湊みたいに頑張ってみよう、変わってみようと思ったから俺なりに色々やってみて、その結果として湊とかが言う様に変わったんじゃないかな』

「そ、そうかな…………」

 

何だか褒められている様で少し照れくさい。

血の気が少し強く感じられる頬を掻きながら、智花は微苦笑を湛えた。

 

「えへへ、何だか恥ずかしいね……」

『恥ずかしい?何で?』

 

月が何で上るのか、太陽は何故輝くのか。

そんな疑問を問う様な声音で、世間話でもするかの様な口調で酷くサラリと、

 

『俺は湊の事好きだから、全然恥ずかしくもなんともないけど』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

間。

空恐ろしい程の間がそれまでの気恥ずかしさや微妙にほんわかしていた空気をあっさりと奪い去り、告げられた言葉を脳内で正確に認識した瞬間、それまでの血の気など比べ物にならないくらいに凄まじい熱量が智花の顔面どころか全身を襲った。

 

「え……え?」

 

何度も瞬きを繰り返して、既に電源の落ちたパソコンを見て、常日頃から整理整頓を心がけている甲斐あってか随分と綺麗な部屋で視線が花火の様にあっちへいったりこっちへいったりして、背筋が定規でも入れたのではないかと思うくらいにピンと張りつめて、

 

『どうしたの?湊』

「お……あ、え?あ、あの……え、えと……あれ?」

 

言ってる事は言葉にすらならない雑音の羅列に、表情も定まりがつかない程の滅茶苦茶で、

 

「…………い、いまの、って……」

 

もしかしたら紗季とか真帆とかの様に、自分をからかっているのではないだろうか。或いは打ち解けて早速の冗談の類ではないのだろうか。

一瞬、そんな逃げの思考が頭を過って、

 

『好きだよ?俺は、水崎進は、湊智花の事が、大好きです』

 

改めてハッキリと、一言一句を噛み締める様にして告げられた台詞に、今度こそ言葉を失った。

 

「ぁ…………と、あ……あの、えと……」

 

口が上手く開かない。

喉がちゃんと動かない。

 

困惑して、混乱して、困りに困った思考回路がそれでも酸素を求めて活発に動き回り、何度かの深呼吸を経て姿勢をピシッと正した智花は、

 

「……ご、ごめんなさい」

 

見えない筈の相手に深々と頭を下げながら、そう告げた。

 

 

 

 

 

 

食事を終えて、昂と葵は昂の部屋に引き揚げてビデオを見ていた。

聖が編集した愛莉の水泳の様子を映した映像を繰り返し見ては、昂も葵もその表情を和らげて愛莉の努力の結実を我が事の様に喜んでいた。

 

「はぁ……やっぱり何度見ても感動するなぁ」

「そうだね。愛莉ちゃん凄いや」

 

感嘆した様に息を洩らす昂の様子に葵は同意を示しながらも、停止ボタンを押してビデオを取り出した。

 

「あれ?どうすんだよそれ」

「私が管理しといてあげる。アンタが変な事に使わない様に」

「使わねぇよ!?」

「分かってるって……うん、最初っから分かってた」

 

一瞬笑みを浮かべた葵だったが、やがてその表情は申し訳なさそうな面持ちに変容してどんよりと淀んでいった。

 

「ほんと、馬鹿だよね私。……昂が、バスケそっちのけで子どもたちにいかがわしいコトしてるなんて、そんなのありえないのに」

「葵…………」

「アンタはほんとにただのバスケ馬鹿で、バスケの事となると他の事なんか全く頭に入んなくなっちゃう様な奴なんだって、分かってたのにさ……」

 

葵が言い辛そうに語尾の音量を徐々に下げていき、やがて突き立つ様な沈黙の空気と静寂が二人の間をすり抜けていく。

妙に重苦しくなってしまった空気を振り払う様に、たった今思い出したとでも言いたげに顔を上げて昂が口を開いた。

 

「そ、そういえばさ!今度の土日は特に予定ないんだけど、良かったらどっかに出かけないか?」

「え、えぇっ!?」

「この間、ちゃんと埋め合わせする、って約束したからさ。どうだ?」

「そ、そうね……そういう事なら、一緒にどっか買い物でも」

 

と、先程までの痛い様な空気は何処行ったんだと誰かがツッコミを入れたくなる様なくらいに初々しいバカップルみたいな雰囲気を醸し出した幼馴染二人が、どちらともなく笑みを浮かべた、そんな時、

 

―――プルルルル!!プルルルル!!

 

「うん……?」

 

ナチュラルな着信音と共に震えだした自分の携帯を開いた昂は、そこに表示された『湊智花』の文字に疑問符を浮かべながらも応答した。

 

「もしもし、どうしたの智花?」

『あ、あの……す、昂さん』

 

第一声からしてどうした、と思わず昂は小首を傾げた。何やらプランを空想しているらしき葵が一人百面相を繰り広げているが、それよりも智花の様子が気になった昂は尋ねた。

 

「どうしたの智花、もしかして何処か具合でも悪いのか?」

『い、いえ…………そういう訳じゃ、な、ないんです、けど……』

 

じゃあどういう訳でそんなぎこちないんでしょうか。

ちょっと意地悪な気もするので尋ねるのは止めて、昂は取りあえずそろそろ葵の様子が気になり始めたので手短に済ませようと口調を速めた。

 

「何か用事?」

『あっ、は、はい……あの、次の土曜日なんですけど、その……あ、空いてますかっ?』

「次の土曜?一応空いてるけど、どうして?」

『そ、その……みんなで男バスの応援に行こうって話になって』

「男バスの?…………ああそっか、次の土曜って県大会の」

『はい。それで、その……』

「分かった。次の土曜だよね、時間と場所は?」

 

かくて、すぐ隣であれやこれやと妄想している幼馴染を余所に勝手に休日の予定を埋めてしまった昂はその数秒後に渾身の右上段回し蹴りを喰らう事となる。

 

 

 

 

 

「はふぅ…………」

 

携帯を切り、ベッドに仰向けに倒れた智花は木目が模様の様に浮き出る天井を眺めた。

未だに心臓の動悸は鳴りやまず騒音とも思えるくらいに大合唱を奏で、一向にその演奏を止めようとしない。

 

「…………」

 

何気なく携帯を弄り、電話帳に並ぶ名前の中から『水崎進』の欄を引っ張り出して表示する。

たったそれだけの事で、顔に血の気が集まる事が容易に察せた。

 

『――――――好きだよ?』

「……ッ」

 

寝返りを打ってうつぶせになる。枕に埋めた顔は酷く熱く感じられ、怒っているのか照れているのか、何と云えばいいのかよくわからない感覚がぐるぐると全身を巡る様な、そんな感じがする。

血の奔流が止まらない。体中が火照った様に熱いのに、それでいて胸の奥底が氷の様に凍てついている。

 

 

 

『……ごめんなさいって、別に付き合って下さいとか結婚して下さいとかそういう意味合いで言った訳じゃないのに何か結構傷つくな』

「ふぇ、ふぇぇえっ!?」

 

携帯越しに淡々と紡がれた言葉に智花は飛び上がりそうになった。

付き合うとか、結婚とかの辺りに。

 

「で、でも、その……」

『ん。分かってる分かってる。湊はコーチの事が好きなんだよね?』

「―――ふぇ?ふぇぇええぇぇっ!!ち、違う違う違うよぉっ!!す、昂さんの事はたた確かに尊敬してるけどその、す、好きとかそういう訳じゃなくてああでも嫌いって訳でも全然ないわけであのあのあの!!!」

『……ああ、だったらこっちの方が都合いいか』

 

思いっきり動揺しまくりな智花を余所に、一人得心が行った様に進は洩らした。

 

『ん。そうだね智花、もっかい言ってくれる?』

「だからあの、おおお付き合いとかもっとちゃんと順序を…………ふぇ?」

『ふぇ?じゃなくて、もう一回ごめんなさいって、ちゃんと断って』

「あ、あの……それってどういう」

『だからそういう事。俺は湊の事が好きだけど、湊はコーチの事が好き。だから俺の好きは届かないって事で、それをちゃんと認識させて』

「…………」

『それでちゃんと区切り付けるからさ。サッパリすっぱり、俺は後腐れが嫌いだから……って、これは前にも言ったっけ?』

「…………して」

『ん?』

 

沸々と、智花は自分の腹の底で何かが滾る様な感覚を覚えた。

 

「……どうして、そんな簡単な事みたいに言えるの?」

『どうしてって、何が?』

「人を『好き』になるって、そんな簡単な事なの?そんな風に、簡単に割り切れるものなの……?」

『……湊、何が言いたいの?』

 

怪訝そうな声音が鼓膜を震わせる。

それが、決壊の合図だったのかもしれない。

 

「―――どうしてっ!!そんなに自分の気持ちを大切にしないのっ!?」

 

家の中に声が響いたかもしれない。

父や母が心配したかもしれない。

 

けれどそんな事は今の智花にとってみれば瑣末な事でしかなかった。

 

「自分の事をどうでもいい事みたいに扱って!!自分の気持ちをいつも押し殺して!!水崎君はそれでいいの!?ねぇ、ねぇっ!!!」

『み、湊……?何でそんなに怒って、らっしゃりますか?』

「割り切れるとか、そんな簡単なものじゃないんだよっ!?誰かを好きになるのって、そんなに、かなしい、こ、とじゃ……ッ!!」

 

声が詰まりそうになる。

何時の間にか目からは大粒の雫が幾つも零れ落ちて、声も怒気を孕みながらも震えてロクに伝わりそうにない。

 

両者の間に若干の静寂が訪れる。

智花の啜り泣く様な声だけがやたら大きく響く中、

 

『―――何でそんなに怒ったり泣いたりしてんのかはよく分からないけどさ』

 

心底不思議そうな、他人事の様な口調で進が智花の鼓膜を揺らした。

 

『ドラマとか小説みたいに、ずっと想い続けていれば何時か二人は結ばれるなんてのは夢物語でしかないんだよ。世間はそんなに寛容じゃないし、社会はそれ程優しくもない。想い合ったって叶わない悲劇なんて腐る程あるのに、片道切符でしかない気持ちなんてあるだけ無駄じゃない?』

「……ッ、そんな……事!」

『ない、って?どうして言いきれるの?湊は何を知ってるの?その身で成功例を経験した事があるの?片道切符でしかない気持ちが報われた事を、両想いの二人があらゆる障害を乗り越えた事を。知ってるなら教えてよ湊、ねぇ』

 

―――だからもう一度、ごめんなさいって言ってよ。

 

救いを求める様な彼の声音に、智花は応える事が出来なかった。

 

 



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第二十Q 凄く、大きいです

 

金曜日。

翌日に県大会初戦を控えた男バスの面々は、軽い調整とミニゲームでこの日の練習を終えて、今は体育館から場所を移してミーティングをしていた。

 

内容は主に、明日の試合のスターティングメンバーとベンチメンバーの選別。

本来であれば当日や前日に自分達にそれを告げてくれる筈の小笠原顧問は急用でゲーム途中から席を外しており、この場にもまだ現れていない。

 

その為全体の司会進行を務める事となったキャプテンの夏陽は、教室の脇にあったボードにメンバーの名前を書き込み、明日の先発メンバーをある程度選ぶ事になったのだが、

 

「…………」

 

十数人が席に座りながら、それぞれにボードを眺めたり、或いは俯いたりして重苦しい沈黙が空間の中に鎮座していた。

顧問の決定であれば皆が納得するし、部員全員から信頼を寄せられており、部内における実力も傑出している夏陽の選抜であれば文句はない、といった空気の中、しかし夏陽は先発する部員の名前を書きだす事が出来ないでいた。

 

候補は既に上がっている。

自分を含め、これまでレギュラーだった者が五人。この数カ月で実力をつけた者が数名いるが、それでもレギュラー陣にはやや劣る。

 

問題なのは進だった。

 

「………………」

 

男バス対女バスの対抗試合、それと前後して『白昼決闘(マッチ・ディ)』、更にここ数週間の練習において昨年の全国大会準決勝進出校のエース足る実力を存分に示した進をレギュラーとして使うべきか否か。

もし使うのであれば、これまでのレギュラーから誰を外すべきなのか。

 

その選択肢を何時の間にか迫られていた夏陽も、そしてその選択を迫ってしまった部員達もいつしか無言に陥り、時間の経過を知らせる様な時計の針が進む音だけが教室の中に響いていた。

 

「…………」

 

これまで共に戦ってきた仲間を切り捨てる様な真似はしたくない。それは誰だって同じだった。

だが今回は初戦に秋の新人戦優勝校である三草小、二回戦にはシードで昨年の覇者である芝浦小という強敵が立て続けに立ちはだかり、どう考えても苦戦は必至。であれば、チーム全体を通しても群を抜いた実力を持つ進をレギュラーで使った方が当然対抗できる可能性は大幅に引き上げられる。

 

チームワークを重視すべきか、勝利を引き寄せるべきか。

両立し難い二択を迫られた夏陽に、しかし救いの手を差し伸べたのはその渦中の中心たる進だった。

 

「あのさ、夏陽」

「……何だ?」

「もし俺を使うかどうかで迷ってるなら、その必要はないよ」

 

一瞬、張り詰めた弦の弾かれる様な音が幻聴となって聞こえた気がした。

部員全員の視線を集めながら、しかし相変わらず夏陽以外の部員は顔と名前が今一一致しない進は当たり前の事の様に淡々と告げた。

 

「もともと小笠原顧問にも話した事なんだけど、初戦の三草小との試合に、俺は前半出ないつもりだったから」

 

 

 

 

 

 

明けて土曜日。

夏本番の到来を告げる様な喧しい蝉の声と燦々と大地に照りつける灼熱の太陽の輝きと共に、全国で最も熱い時節がやってきた。

 

夏の全国小学校バスケットボール大会、県大会。

県内各地の地区大会を勝ち上がった地区代表校が一堂に会し、そして全国大会への切符を賭けて熱戦を繰り広げる夏の祭典。

その開会式会場であり、初日にして早くも第一回戦を戦う事となる慧心学園初等部男子バスケットボール部の面々は、昨年も足を運んだ県立の総合体育館を見上げる様にして並んでいた。

 

休日の朝方にも関わらず、総合体育館前に設けられた広場の様に開けた公園にはそこかしこにジャージに身を包みバッシュやユニフォームを詰め込んだであろうバッグを持った小学生やそれらを先導するコーチの姿が見え、空間全体がある種の異様な雰囲気に包まれていた。

 

「前にも見たけど、やっぱり凄いな……」

 

辺りを見回しながら、感嘆した様に夏陽が呟く。

するとその隣に立ち、帽子で直射日光を避けながらも鬱陶しそうに突き抜ける様な青空を睨んでいた進がその横顔に声をかけた。

 

「去年までの大会成績を統合して上位4チームはシード、それ以外の地区大会を勝ち上がったチームが全部で40校ちょい…………といっても、今日一日で六割近くは消えるんだけどね」

「今日と明日の二日で県代表が決まる、か…………」

 

何かを噛み締める様にしながら、夏陽が独り言の様に呟いた。

 

「……なぁ、進」

「ん?」

 

ふと、見合わせる様に視線を交錯させた二人だったが、

 

「おーい!みずっちー!ナツヒー!」

 

闖入者……もとい、応援に駆け付けた女バスの中でも一際大きい真帆の声が鼓膜を揺らした。

その声にげんなりした様な表情を浮かべながらも振り向いた夏陽だったが、ブンブンと手を振る真帆の後ろの方に居た少女を見止めた瞬間、その顔が一瞬で紅潮した。

 

「おー、たけなかー」

 

喜色を浮かべながら手を振る、儚くも可憐な現世の天使―――まぁぼかすまでもなくひなたの事であるのだが、普段の制服や合宿の時に見た体操服とも違った私服の装いに夏陽の気恥ずかしさと嬉しさは一気に天元突破しそうになった。

フリルのあしらわれたピンク地の服に身を包み、さながら中世期の上流貴族を模した精巧なアンティークドールの様に美しいひなたの姿に、夏陽のみならずすれ違う様に通り過ぎていった他校の男子生徒も結構な数が見惚れていた。

 

別段ひなたのみに見惚れていた訳ではなく、ただ普段から見慣れている為かあんまり自覚に乏しいだけで実は女バスの面々は容姿的には全体的にかなり高いレベルを誇っており、他にもノースリーブの真帆とか薄手の紗季とかどっかのお嬢様みたいな愛莉とか結構隙の多そうな智花とか、そういった面々に見惚れている者や、付き添い兼引率の様にそんな少女達の後ろを歩く昂と葵の物珍しさにひかれている者もいたりするのだが、夏陽にしてみればひなたが薄汚れた目で見られる事が酷く不快で、本人としては少しだけのつもりだったが隣に立つ進にしてみれば「いきなりどうした?」と首を傾げたくなるくらいにかなりの度合いで顔が不機嫌さを露わにしていた。

 

「……何でお前らが此処にいんだよ」

「俺が湊を呼んで、湊がみんなを呼んだ」

 

目の前で「にししっ」と笑みを湛える真帆に問うたつもりの疑問は隣から即座に返答が返り、思わず「はぁ?」と眉を顰めながら夏陽は進の方を見やった。

 

「試合観戦も、立派な練習の一つでしょ?」

「……そりゃ、そうだけど」

「まぁまぁ、そんなにしかめっ面しないの」

 

何時の間にか進とは反対側の隣に寄っていた紗季が夏陽の脇腹を小突きながら耳打ちする。

 

「それに、ひなたにいいとこ見せるチャンスでしょ?」

「おま……っ!!」

 

思わずひなたの方を見やり、ひなたが「おー?」と小首を傾げた所でその余りの可愛らしさに眩暈を覚え、ぶっきらぼうにそっぽを向こうとして同じ様に首を傾げて興味深げに自分を見る進の視線を感じて反対側を向いて、意地悪く笑みを浮かべる紗季の顔に再び戻った。

 

「今日はしっかり応援してあげるから、頑張りなさいよ」

 

バシッ、と音がなるくらい背中を叩かれ思わず前のめりになる夏陽。

図らずも滑稽に映ってしまい、真帆に大笑いされてしまったのは御愛嬌。

 

ついでにそれで不機嫌になりかけても後でひなたに「おー、たけなか頑張れー」とエールを送られてあっさり御機嫌になったのも御愛嬌。

 

 

 

 

 

体育館に入り受付を終えると、早くもコートで練習時間を与えられた。

この段階で夏陽達試合組と別れた昂達観戦組は、取りあえず座席確保の為に観客席へと向かった。

 

「凄く、大きいです…………」

「県立の総合体育館だからね。もっと大きい所だと、コートがもっと沢山あるところもあるんだよ」

「すっげー!天井があんなに高い!」

「ちょっと真帆落ちつきなさい!恥ずかしいでしょ!!」

「おー、人がいっぱい」

「はぐれない様にしないとね。お手洗い行きたい人、いる?」

「あ、じゃあわたし、飲み物用意しておくね」

 

気分は小旅行か遠足的な雰囲気である。

 

「水崎君達は第一試合だそうです」

「へぇ……今日一日でベスト16まで出そろうのか」

「試合数も結構あるよね……小学生にはキツいんじゃない?一日に二試合三試合やるのは」

「これでも夏の大会はトーナメント方式になって随分とラクなんですよ?冬の大会なんかは未だにリーグ戦で、多い時には一日四試合の強行軍ですから」

「へぇ……って、うぉ!?水崎!?」

 

感嘆した様に息を吐いた昂を驚かせたのは、何時の間にか客席の方に居た進だった。

 

「び、吃驚した……脅かすなよな、全く」

「水崎君、練習は?」

「ん、もう終わり。流石に参加校が多いと割り振られる時間も少なくてさ。後は試合前にちょっとあるだけだから」

「おー、みずさきー」

 

両手にジュースを持って戻って来たひなた達に軽く手を振った辺りで、ふと気付いた様に葵が声をかけた。

 

「……もしかして、君が?」

「ん?……ああ、何時かの不法侵入者さん」

「ふぇ!?」

「あ、違うか。この間女バスと試合やってた…………えーと……」

「葵さんだよ水崎君、昂さんと同じ学校の」

 

智花のフォローに「ああ」と思いだした様にポンと手を叩きながら進は声を上げた。

驚いたように目を見開いている葵を余所に、進はひなたから差し出されたジュースを口に含んで踵を返した。

 

「じゃあ、俺はこれで」

「何処に行くんだ?もうすぐ開会式だろ?」

「ちょっとそこら辺を走ってこようと思いまして。開会式は出ようと出まいと一緒ですし、試合は途中からしか出ませんから」

 

疑問符を浮かべる昂を余所に進はさっさと客席から姿を消し出入り口の方へと消えていった。

その背中を眺めていた昂だったが、隣に座る葵から恐る恐るといった風に呟かれた言葉に耳を傾けた。

 

「ねぇ……昂」

「うん?」

「もしかしてあの子が……水崎先輩の?」

「…………ああ」

 

肯定を示し、それきり昂は口を噤んでしまった。

不安そうな面持ちを浮かべる葵を余所にはしゃいでいた真帆達も、開会式を告げる放送の音にやがて静かになっていった。

 

 

 

 

 

右を見る。

何処かのフロアに通じているらしき大仰な入口が魔窟の口の様にぽっかりと開いている。

 

左を見る。

やたらだだっ広い公園には休日だと云うのに人っ子一人おらず閑散としている。

 

後ろを見る。

きちんと整備された、延々と続いているのではないかと錯覚するぐらい長い舗道がある。

 

前を見る。

きちんと整備された以下省略。

 

「…………えぅ、どうしよう……」

 

傍から見れば、休日の昼前に少しお散歩に出かけた何処かの箱入り娘にしか見えないいでたちで、しかし実際は完全無欠の迷子状態に陥った愛莉は大きな目を潤ませてしょげていた。

 

ひなたや葵達と一緒に飲み物を買いに向かった愛莉だったが、その途中で試合前にお手洗いに行った方がいいと判断した愛莉は途中でひなた達と別れた。

一緒に行こうか、と引率担当の葵が尋ねたが、すれ違った観客や出場選手と思しき男の子達が足早にコートの方に向かった事から開会式が近い事を悟り、自分一人でも大丈夫だと勇気を出したのが裏目に出たか。

 

紗季や智花の言う様にちょっとだけ自信の付いた自分がこの時ばかりは恨めしかったが、それも後の祭りである。

 

「うぅ…………」

 

連絡しようにも、そんなに遠出をする訳でもなかったから携帯は置いてきてしまったし、じゃあ受付を探せばいいと思っても今自分が何処にいるのか、受付に行くにはどう行けばいいのか、それすらも全く分からない。

 

あっちだろうか、こっちだろうか。

誰か通りかかってくれればありったけの勇気を振り絞って道を尋ねるだけの気構えをしていながらも、こういった時に限って誰も通りかからない。

まぁ愛莉が知らないだけで、体育館内では既に開会式が始まっており関係者各位は皆一様に会場内に入っているから誰もいないだけなのだが。

 

迷いながらも愛莉はテクテクと歩を進め、俯きかけていた顔を不意にちょっとだけ上げてみる。

 

と、

 

「…………ぁ」

 

遠目に誰かの背中が見えた。

やや横向きではあるが顔は見えず、しかし背丈から推察するに恐らくは小学校高学年から中学生と思しき……少女、だろうか。腰元に手を当てて遠目からでも随分と威圧感を感じる様相は、もし真正面から立ち合えば思わず萎縮してしまいそうなくらい愛莉には恐ろしく感じた。

 

だが、そんな小さな恐れなど今は構っていられない。

兎に角出来るだけ丁寧に道を尋ねて、相手の機嫌を損ねない様にしよう。

 

気質そのままが出た様な思考回路に気づかぬまま、愛莉は歩を進めて声を掛けようと口を開き、

 

「―――へぇ……この間の総合大会でも見ないと思ったら、慧心なんて三流校に行ってたんだ」

 

ピクリ、と、少女の口から紡がれた『慧心』の二文字に動きを止めた。

 

「…………今更何の用だ」

 

次いで愛莉の鼓膜を震わせたのは、ここ最近随分と距離感が近くなった様に感じられる進の声。

だがその声音は彼らしくも無く酷く嫌悪を露わにしており、会話を続ける事自体を嫌っている様な印象さえ感じられるものだ。

 

「何の用、って随分な言い草ね?それが元とはいえ『彼女』に掛ける台詞?」

「誰が何時お前なんかを『彼女』にした。俺はただの一度もお前の事を好きになった覚えなんかねぇよ」

「ふふ……けど、私はずっと貴方の事をこんなにも好きなのよ?愛してさえいるわ。そして貴方はバスケの上手い人はみんな好きなんでしょ?それなら両想いじゃない?」

「残念ながらお前はたった一つにして最大の例外だ。俺はお前が嫌いだ。大っ嫌いだ。お前なんかとは口もききたくなかったし顔も合わせたくない。今すぐ消えろ」

「やだ。もしかしてまだ『あの時』の事を怒ってるの?あれは貴方の為だったのに……」

「そのうぜぇ口を今すぐ閉じろっつってんだよ!!聞こえねぇのかっ!?」

 

突如轟いた怒声に、愛莉は全身を竦ませて思わず目を閉じた。

イラつきを前面に押し出す様に、相手を圧迫するかの様に上げられた怒鳴り声は、しかし眼前の少女にはまるで意味をなしていない様に進はその顔を苦渋に歪める。

 

「『あれ』は私一人の所為?違うでしょ?それは貴方自身が一番良く知っているじゃない。私も、貴方も、あの子も、そしてあの時私達に関わっていた人間全ての所為。それなのに貴方が一人だけ罪の意識に苛まれる必要が何処にあるの?あの時の人間は、私や貴方を除けば誰一人としてあの惨劇を忘れたかの様に毎日を送っているわ。にこやかに、健やかに……」

「―――るせぇ、うるせぇ!うるせぇ!!」

「貴方一人が苦しんで何になるの?それはただの自己満足でしかない。自分一人を痛めつけて、悲劇の主人公を気取って……そんな事をして、一体何の意味があるというの?」

「黙れっつったのが聞こえねぇのか!?今すぐ失せろ!!」

「……ねぇ進、もうやめましょうよ?」

 

諭す様な口ぶりで。

酷く冷淡な声音で。

 

「―――貴方のお兄さんが退学に追い込まれてしまったのも、あの子が退学を迫られたのも、全ては『不幸な事故』だったのよ」

 



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第二十一Q 全力で応えてやる

 

―――初めて出会ったのは、バスケ部の男女合同練習の折だっただろうか。

入学早々即決で女子バスケットボール部に入部した自分は、同年代の中ではそれなりに上手い方だったが市立の名門である芝浦小においては中の下程度の実力しかなく、毎日の様にレギュラー組の球拾いや雑用に追われていた。

 

期待していた楽しい筈の毎日は疲労と絶望に充ち溢れ、入部して間もないというのに何人もの部員が涙を流しながら辞めていった。

そんな中で行われた合同練習で、自分と同じ1年生の、ある男の子が視界に止まった。

 

背丈が突出して高い訳でもなく、体つきだって年相応に幼い印象を受ける。

 

だがプレーを見た瞬間、そんな先入観は一瞬にして吹き飛ばされた。

荒削りながらもしっかりと骨格を持ったプレイスタイルから繰り出されるドリブル、パス、シュートの一つ一つが洗練されていて、力強くコートに弾ける。

同い年の選手では相手にならないからとコーチが判断し、二ゲーム目からは上級生を相手に試合をしていたその子の名前を知ったのはそれから間もなくの事。

 

話しかけようと思った。

同い年だし、色々と教えて貰いたかった。

 

だが、そんな少女に立ちはだかる様にして部活内の空気は見えない壁の様に厚く、そして高かった。

 

レギュラー組、控え組、補欠組に割り振られた中で自分は最下層の補欠組、彼はレギュラー目前の期待のスーパールーキー。

格の違いはそのまま二人の距離となり、その差は幾ら縮めようと少女が努力しても大海の様に一向に先が見えない程だった。

 

諦められたら、いっそ楽だったのかもしれない。

 

だが知ってしまったのだ。

一度目に焼き付けてしまったその光景は脳裏に焦げ付く様にして残り、そしていつまでも頭の中から離れようとしない。心の底から消えようとしない。

 

それが原動力となって、今も尚力強く自分自身を後押ししてくれている。

 

対外試合で見せた、彼の戦いぶりが。

シュートが、パスが、ドリブルが。

 

―――何もかもが輝いて見えたあの瞬間が。

 

 

 

 

 

 

「不幸な、事故……だと?」

「あの子をクラスの中で孤立させた起因が私でも、それに乗っかったのはその当時私と同じクラスだった39人の生徒で、それを知っていながら見過ごしたのは教師の無能と怠慢と体裁ばかりを気にする学校が原因。様子の変化に気付けなかったのは貴方の所為で、縋る様に寄って来たあの子に手を出してしまったのは貴方のお兄さんでしょ?」

「………………」

「それで私だけを責めるのも貴方が自分を追い詰めるのも筋違いじゃない?本当に罪を償うというのなら私や貴方だけじゃない、あの時同じクラスに居た39人の生徒も当時の担任も学校の関係者も、そして貴方のお兄さんも一緒に贖罪しなければならない。けどそんなのは全然現実的じゃないって分かっているから、貴方は自分一人を苦しめて罪の意識を消そうとした。それはただの自己満足でしょ?」

「…………黙れよ」

「もういい加減認めなさいよ、進。貴方一人がそうやって自分を痛めつけても、何一つ戻りはしないのよ?貴方のお兄さんだってきっと―――」

 

―――バキッ!!

 

突如響いた鈍い音に、物陰から二人の様子を見ていた愛莉は思わず目を瞑った。

 

「……ッ、そうやって自分を痛めつけて、自分一人の所為にして、周りにも冷たく当たって近づけない様にして、そんなに自己満足に浸りたいの?それで周りが同情してくれれば満足なの?」

「―――黙れっつってんだろ!!!」

 

右腕を振り抜いたままの姿勢で進は最大級のボリュームと共に怒鳴った。

 

「俺の事は幾らほざこうが勝手にすればいい!けどな!!兄さんの事をテメェ如きが知った風に語るんじゃねぇ!!!」

 

尻もちをついたままの少女に詰め寄る様にしてその襟首を両手で掴んだ進は、鼻先が擦れそうなくらいに至近距離に少女と顔を近づけて尚も怒鳴った。

 

「全部俺の所為なんだよ!!!自己満足でも何でもない!!それが事実なんだ!俺がアイツを家に連れていかなければ!!俺が兄さんとアイツを惹き合わせなければ!!俺がアイツの事をもっと気にかけてやっていれば!!こんな事にはならなかったんだ!!全部全部俺が悪いんだよ!!!それが自己満足だと!?一人で何でもかんでも背負い込んでるだと!?俺はなぁ!!身内でも何でもない赤の他人が俺の事を分かった風に喋るのが一番嫌いなんだよ!!!」

「……怒った顔の進も綺麗ね。また惚れ直しちゃいそうよ」

「―――ッ!!テ、メェ……ッ!!!」

 

既に切れていた堪忍袋が袋ごと弾け飛ぶ破滅的な音が聞こえた気がした。

勢いよく振り上げられた拳が、弾丸の様に少女の顔面に叩きつけられる―――そんな未来が幻視され、愛莉は思わず目を硬く瞑った。

 

――――――だが、響いたのは少女の顔面に叩きつけられる拳の音ではなく、砲弾の様に力強く振り下ろされる腕を止める乾いた音だった。

 

「―――そこまでだ進。安条も、それ以上煽るな」

 

唐突に鼓膜に響いた第三者の凛然とした声音に、愛莉は目を見開いてその光景を見つめた。

背丈は目測で進よりも頭一つ半から二つ程高い。切り揃えられた濃い茶髪としっかりした体躯はいっそ中学生にも見えそうだったが、安条と呼ばれた少女の「あら、キャプテン」という言葉から恐らくは自分や進と同い年なのだろうと推測が付く。

 

「ッ!!放せ憲吾!!」

「放すか馬鹿者。一応そんなんでも女子のエースなんだ、殴るなら傍目からは見えない所にしておけ」

「こんな下衆野郎共と同じ真似が出来るかッ!!」

「なら止めておけ。顔は流石に不味い」

 

憲吾、と呼ばれた少年の言葉に盛大な舌打ちを響かせながら、射抜く様な鋭い眼光のまま、しかし一応受け入れたかの様に進は二人から距離を取った。

図らずもその体勢は覗き見ていた愛莉に背を向ける格好となり、相対的に二人からこっちが見えてしまうと思った愛莉は慌てて柱の陰に身を潜めた。

 

「……開会式の会場に姿が見えないから、どうせまたいつもの様に外を走っているかと思えば…………」

 

嘆息した様な少年―――憲吾の声が響く。

 

「進、もうすぐ第一試合が始まるというのにいきなり暴力沙汰で出場停止になりたいのか?」

 

その言葉に即座に進が返した。

 

「元はと云えばそいつが原因なんだよっ!!人のウォームアップの邪魔どころか集中すら奪いやがって!!猿轡でも填めて何処ぞの倉庫にでも放り込んどけそんな女!!」

「酷い言い草、折角袂を別ったとは言っても元『恋人』にエールでも送ろうと思ってこっそり後をつけてきたのに……」

「ッ!どの口がぬけぬけと…………ッ!!」

「進、落ちつけ。安条の非礼は俺が詫びるからその拳を収めろ。安条、お前はもう喋るな」

 

じゃじゃ馬の扱いに手慣れた様な憲吾の言葉に、恐らくはいきり立っていたであろう進も口数の減らなかった安条も口を閉じた様だった。

 

「進。俺はお前と安条の間に何があったのかは知らんし詮索するつもりも全くない。それが例えどれだけお前や安条にとって重大な事でもだ、だ」

 

「だが」と一拍置いて、

 

「大事な試合を前にして、お前がすべきことはなんだ?生意気な口をきいた女を殴り飛ばす事か?怒りに我を忘れる事か?違うだろう、それぐらいの事はお前なら分かる筈だ」

「………………」

「安条と争った事を責めるつもりはない。お前がこいつを毛嫌いしている事は重々承知しているし、こいつの生意気さなど今に始まった事ではないからだ。……が、どんな理由があろうと、スポーツ選手以前に人間として、暴力で物事を解決しようとする事は絶対に看過出来ん。俺と同じ、バスケを愛するお前なら尚更だ」

「…………」

「幸い、という言い方もおかしいが、俺達は皆バスケをやっている。決着をつけたいなら、試合で勝負をつければいい。丁度、第二試合で当たる予定だからな」

 

カツン、と、舗装された道にやたら甲高い音が響いた。

 

「文句も怒りも、全てを力に変えてコートでぶつけてこい。全力で応えてやる」

 

そのままカツ、カツ、と音が徐々に遠のき、やがて聞こえなくなった頃になって今度は怒りに震えた様な歯軋りの音が聞こえた、かと思うと、

 

「――――――アァッ!!!」

 

ダン!!と地面を叩きつける様な轟音。そのまま萎縮していた愛莉に気づいた様子は欠片もなく進はずんずんと愛莉の横を通り過ぎ、そのまま体育館へと姿を消した。

 

ややあって、へなへなとすっかり抜け落ちた腰から波打つ様に身体をへたり込ませた愛莉はそのまま地面に座る様にして気抜けた表情を浮かべていた。

何が何なのか何一つ理解出来ず、しかし言葉の端々にあった単語が断片的に頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 

「…………ぁ……ぅ」

 

やがて、体育館の外まで響き始めたブザー音と歓声が耳を打っても、愛莉はそのまま一歩も動けずにいた。

 

 

 

 

 

 

夏の県大会、第一試合は例年以上の観客によって大いに盛り上がりを見せていた。

 

昨年秋の新人戦で、県下屈指の名門である市立芝浦小を破った私立三草小学校が初戦から登場する事に、大衆の下馬評では今年の県大会は二回戦にして早くも夏の覇者と秋の王者が激突する、と信じて疑う者はいなかった。

三草小と姉妹校に当たる全寮の私立女子校・硯谷女学園バスケットボール部顧問の野火止初恵や、その妹で高等部所属の麻奈佳も、大勢の予想通り三草小が勝つであろう事を予測していた。

 

だからこそ、正に今観客を興奮して止ませない慧心学園の一人の選手の動きが信じられなかった。

 

―――ビーーー!!

 

既に何度鳴ったのか数えるのも億劫になるくらい響くブザー音。

それはこの試合において、本来であれば三草小のリードを知らせる為だけに存在した筈なのに―――

 

「……凄いね、あの5番」

「…………ええ」

 

普段の性格そのままに頑なな態度を崩さないにしても、初恵の頬にも冷や汗が一筋垂れているのを麻奈佳は見止めた。

 

「あの子だっけ?結構前にお姉ちゃんが言っていた……」

「水崎進。三草小のスポーツ推薦を蹴って芝浦に行ったかと思えば、今はあんな三流校でエースを気取っていたとはね」

「気取る……って、実際エースじゃん。一人で三草小の子達からバシバシ点奪っているんだから」

 

言いながらも、麻奈佳の表情は何処か硬い。

コート上の進を見つめる目は真剣そのもので、いっそ剣呑な雰囲気さえ漂わせている。

 

「……けど」

「けど?」

 

囁く様にして呟かれた妹の一言を、オウム返しの様に姉が聞き返す。

麻奈佳はそんな姉の様子に気づいた様子もなく、誰に聞かせる訳でもない、まるで独り言の様に呟いた。

 

「……あの子、何でバスケをやっているんだろうね?」

 

 

 

 

 

進の様子が異常だと夏陽が感じたのは、彼が更衣室に入って来た瞬間だった。

開会式に姿を見せなかった彼が試合開始直前になって戻ってきて、「何をやってたんだ」と尋ねる小笠原顧問に、

 

「―――小笠原先生、俺をスタメンで使って下さい」

 

形振り構っていられないとばかりに早口に言ったかと思うと、射抜く様な鋭い眼光が真っ直ぐに顧問の双眸を捉えた。

何かを噛み締める様な、堪える様な口調で紡がれた嘆願を、少しの思考時間を経て顧問は了承し進は先発出場となった。

 

いきなりどうした、と尋ねる者はいなかった。夏陽すら尋ねなかった、否、尋ねられなかった。

 

獣が完全な空腹の状態で格好の獲物を目の前にした時の様な、幾星霜も掛けて漸く見つけた一族の仇を捉えた様な、形容する事すら憚られるくらいにおぞましい闘気を全身に漂わせ、今か今かと開始のゴングを待つ挑戦者の如く息まいた呼吸音は普段の様に整っていながら、夏陽には嵐の前の静けさにしか感じられなかった。

 

その予感が的中していたと知ったのは、コートに進が立った瞬間だった。

 

「―――ッ!?」

 

彼の背を追う格好でコートに入ろうとした夏陽は、しかしその背中を見た瞬間に身体が完全に硬直してしまったのだ。

 

何故か、なんて疑問は全く意味をなさない。

何故なら夏陽は人間以前に生命体としての『本能』でその危険を察知したからだ。

 

恐れるとか怖がるとか、そんなチャチな言葉では到底言い表せない。

対抗試合の時に見た智花の小6離れしたバスケテクや、それに合わせる様に飛躍的に高みへと向かっていった進の動きが赤子の様に可愛く思える。

今にも弾け飛びそうなくらいに限界ぎりぎりまで凝縮されているであろうその躍動は、今か今かと爪を研いで静かに開始のブザーを待つ。

 

「これより県大会一回戦、私立三草小学校対私立慧心学園初等部の試合を始めます」

 

審判の言葉などまるで耳に届いていないだろうその双眸には、しかし眼前の敵を捉えていた訳ではない。

目の前の敵をその照準で捉えず、誰を見ているのか?

 

答えを知らぬまま、進と相手のジャンパーを残して夏陽達はコートに散った。

 

 

 

 

 

―――見つけた。観客席の、今俺が立つこの場所と相対する様に二人がいた。

 

「へっ……!まさかアンタとこんな所でやりあえるとはなぁ」

「…………」

 

―――相変わらず、目の前のデカブツも、ゴールも透けて見えるくらいに圧倒的な存在感を感じさせる。

 

「覚えてるだろ?黒岩颯太、秋の新人戦で最優秀選手に輝いた得点王。アンタがいた芝浦小を下した王者だよ」

「…………」

 

―――流石は憲吾、と云った所だろうか。思えば一年の頃から、アイツには世話になりっぱなしだった気がする。

 

「……チッ!おい聞いてんのか!?ビビっちまったのかよ!?」

「…………」

 

――――――つぅか、さっきから目の前の三下がうぜぇなオイ。

 

「誰だよ」

「アァ!?」

「テメェなんかしらねぇし興味もねぇ。黒岩だか黒ゴマだか知らないけど、テメェにもテメェらにも、俺ァ割いてやれる程の時間がねぇんだよ」

 

―――俺が闘わなきゃいけないのは、こんな蠅どもじゃない。

 

「どけ、俺の邪魔をするな」

 

――――――ピッ!!

 

 

 

 

 

「鈴本キャプテン、あのデカブツは何ですか?」

「ああ……確か三草小が去年の新人戦で優勝した時に、得点王とかで最優秀選手になった黒岩颯太だ。中学生クラスの巨体を生かした当たり負けしないフィジカルが自慢で、ことリバウンドにおいてはかなりの得点力を持つ」

「へぇ……ま、『私の』進には到底及びませんけど。第一何ですかあの顔?顔面崩壊なんてレベルじゃありませんよ」

「…………あの強面のお陰で、相対した相手DFが悉くビビったというのが得点王の要因らしい」

「けどそれにしたって、去年の新人戦は進やキャプテンが出なくて、ウチの控え組と補欠組にお鉢が回って来たからとれたものでしょ?それに、総得点は新人戦初出場の時の進より下だって言うじゃありませんか」

 

チームの輪を離れ、二人で試合観戦をしながらぼやき続ける。

その目に映るのは誰あろう進であり、進が胸中で、安条が口頭で『デカブツ』と形容した黒岩を強引に抜き去ってゴールネットを揺らす様に、熱の籠った視線と声音で安条が呟いた。

 

「……はぁ、やっぱり進のプレイはいつ見てもゾクゾクしちゃう」

 

 

 

―――ある者がそのプレイに疑問を感じ、ある者が歓喜に身を捩らせる中、都合十回を数える進のシュート音が体育館に響いた。

 




誰得な個人情報・その四

[名前] 鈴本 憲吾
[所属] 市立芝浦小学校男子バスケットボール部
[生年月日] 1月21日
[血液型] A型
[身長] 174cm
[ポジション] C
[背番号]4


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第二十二Q 勝つのは俺達だ

 

―――世の中には、選ばれるべき天才とそうでない雑種しかいない。

 

鈴本憲吾は、小学校低学年の頃に既に自身の異常性を自覚していた。

それは自身が世俗一般でいう所の『天才』的才能を持った人間であり、それをどの様に生かせばよいかという事実を知覚した事に端を発する。

 

教育に一際厳格な、郊外にかなり豪奢でありながら純和風の趣がある武家屋敷の様な邸宅に住んでいた祖父の元で育てられたという教育環境がそれに拍車を掛ける様に、本人の預かり知らぬ所で彼の天才ぶりを加速させていった。

入園当初から世の中に圧倒的多数を占める雑種と遊ぶ事よりも厳格な祖父によって選び抜かれた教育者に英才教育を施される事がむしろ当たり前であると叩き込まれ、幼稚園を出る頃にはその才能が最も比重を占めるスポーツ、即ちバスケットにおいてトップを勝ち取る事を強要された。

 

だが、憲吾が自身を異常だと自覚したのは、その強要すら彼にしてみれば『当然』でしかないと納得していた事実だった。

 

自分は選ばれた天才で、圧倒的多数を占める雑種を導かなければならない。その為には自分が最も優れているスポーツにおいてトップを勝ち取る事、そして勉強においてより優秀な結果を出し続ける事が必然であり当然である、と幼心に彼は思った。

 

だから、彼は、

 

『―――お爺様』

『何だ、憲吾』

『僕のお父さんとお母さんはどこにいるんですか?』

 

本来であれば絶対にあり得ない反応を以て、

 

『……もうこの世にはおらんよ』

『何故ですか?』

『――――――鈴本の血筋に、劣等種は要らぬ』

 

絶対にあり得ない認識を以て、

 

『お前は下らぬ感情に溺れた幸枝やあの雑種とは違う。生まれながらにして鈴本の才に恵まれた、私の本当の後継者だ』

『―――分かりました、お爺様』

 

ただ淡々と、その事実を受け止めた。

 

 

 

 

 

バスケットをやるのなら、より優れた者の元で指導を受けるのは当然利点である。

だからこそ、授業料免除の特待生入学を提示した三草小よりも元全日本の選手である横山HCを迎えていた芝浦小を憲吾は選択した。

県下でも屈指のバスケの強豪校として名を馳せているこの場所で、まずはトップに立つ。

 

その為に憲吾は入学し、そして入部テストの折に―――

 

『はへぇ…………君、すっごいおっきいね』

 

一年生ながら既に身長が160cmを超えていた憲吾に気押されて近づけない周囲の雑種を余所に、ひょうひょうと近づいてきた少年がそんな事をのたまった。

 

思えば、それが始まりだったのだろうか。

 

『僕、水崎進って言うんだ!君は?』

『すっげー!やっぱそんだけ背が高いとバスケも有利だよね』

『憲吾憲吾!横山コーチが来るまで1on1やろう!!』

 

気が付けば何時の間にかその少年は自分に付き纏う様になり、何時の間にか自分と同じ様にレギュラーから背番号を奪っており、何時の間にか自分を脅かす程に恐るべき成長を遂げていた。

思えば入部当初からレギュラー候補として騒がれていた気もしたが、入部直ぐにレギュラー組となった憲吾には他の雑種の事はどうでも良く、故に余り覚えていなかった、というのが実は正しい。

 

だが、憲吾は後に彼の名前を魂魄に刻みつける程に鮮明に覚える事となる。

その事実を、その時はまだ知る由もなかった。

 

 

 

「……あ、三草がタイムアウトを取りましたね」

「妥当な判断だろうな。ここまで進一人に20点以上も得点を許しておいて、漸くといった感もあるが」

「あのデカブツで『私の』進を止められるとか馬鹿げた事でも考えていたんじゃないんですか?ホント、身の程を弁えないお馬鹿共はこれだから」

「…………安条」

「何ですかキャプテン?私は今、汗をタオルで拭う進を見つめるという重大且つ重要な任務があるのですが」

 

息を一つ零して、淡々と憲吾は紡いだ。

 

「進を『物』の様に言うのは止めろ」

「何でですか、キャプテンには関係ない事じゃないんですか?私と進の愛の繋がりには、キャプテンは口出ししないんじゃなかったんですか」

「貴様のその自意識過剰さなどどうでもいい。だが進は貴様ら『雑種』とは違う、『人間』だ」

 

唐突に語調の変わった憲吾の様子に、それまで嬉々として進をねぶる様に見つめていた安条がギロリ、と擬音が聞こえそうなくらい剣呑な瞳を憲吾に向けた。

 

敬意も何も存在しない、明確明瞭な敵意のみを浮かべた瞳を、しかし憲吾は真正面から叩きつける様に睨みつける。

 

「進が幾ら貴様を殴ろうと罵倒しようと挙句殺そうと知った事ではないが、貴様の様な『雑種』の所為で『人間』の進が満足にバスケを出来ない等不条理極まりないだろう。進は選ばれた、選び抜かれた『天才』だ。この俺が生涯で唯一好敵手と定めた『人間』だ。その進の足枷にしかならん貴様など『雑種』以下、存在する事すらおこがましい塵芥に過ぎん。そんな分際で進を『物』扱いなど、図々しいにも程がある」

「……随分な言い様ですねぇ。雑種だの塵芥だの、キャプテン実は私の事を知らないんじゃないですか?」

「市立芝浦小学校女子バスケットボール部キャプテン、安条結菜。去年の県大会MVPで女子の得点王。逆らう者には容赦しない、最強最悪の女帝(ロード・オブ・ミネルバ)」

 

淡々とした口調で目の前で睨みつける様にその双眸を向ける『雑種』にチラリと視線を向け、憲吾は鼻を鳴らした。

 

「それが何だ?所詮は『雑種』の中で毛一本ほど秀でただけの事。その程度で俺や進と並び立ったつもりでいるなら早々にその脳みそを捨ててこい」

 

心底侮蔑した様な声音が吐き捨てる様にして結菜の鼓膜を打つと、憲吾の視線はコートへと戻った。

 

「『天才』とは即ち『異常』だ。故に異質、故に異物なそれを大多数の『雑種』はただ恐れ、敬い……まるで災害であるかのようにそれが過ぎ去るのをただ待つ事しか出来ん。慕われもしない、話題の中心になろうと話に加わる事は絶対にない。恐れられ、怖がられ……その孤高の渦中で『天才』は輝き、飛び立ち―――歴然たる力の差をただ示す」

 

目に怨恨の炎を宿し、射抜かんばかりに自身を、そして隣の雑種を睨みつける進に正面から憲吾が対する。

 

「覚えておけ。貴様ら『雑種』がどれだけ賢しい小細工を弄しようと」

 

嘗て雑種によって折られかけた最強の存在が、今再び大衆の前にその眠りを覚まそうとしていた。

 

「『天才』は、その障害を全て捩じ伏せる」

 

――――――ピッ!!!

 

 

 

 

 

 

―――キュキィキキキィ!!!

 

それは暴力でしかなかった。

それは暴虐でしかなかった。

 

―――ダムダムッ!!ガッ!!

 

三草小の猛攻を防げない自分達を嘆く暇さえ、彼は与えない。

相手が自身の優位を保つ事を、彼は許さない。

 

―――キュキキキィ!!

 

スコアは差が詰まらない、開かない等と云った単純な話で済む様な問題ではない。

殆ど1対5で試合をやっている様な状況で、僅差のまま試合が進行しているというのが問題なのだ。

 

―――ダンッ!!ガコッ!!

 

相手の強面な11番がシュートを決めれば、すかさず進がパスボールを奪い相手ゴールに叩きつける。

チームワークだの協調性だの、そういった単語の一切が欠落した傲慢で不遜なプレイは、しかしその実力のほどをまざまざと見せつける様に相手を翻弄し、観客を魅了している。

相手の執拗なマークも堅牢なディフェンスも、何もかもを強引にこじ開けて無理やり捩じ伏せる。

 

最早何度目か数えるのも面倒なくらいに進がゴールネットを揺らした頃になって、漸く前半戦終了を告げるブザーが夏陽の鼓膜を打った。

 

だが、会場を埋め尽くす大衆とは裏腹にコート上の選手たちに笑顔はない。

それは緊張だとか接戦故の緊迫感だとかそういったものでは一切なく、三草小は焦りが、そして慧心学園は部員の沈黙と夏陽の苛立ちが子供達から笑顔を奪っていた。

 

「ハァ……フゥ…………」

 

これから折り返しだというのに既に汗でぐっしょりと濡れたタオルを鬱陶しそうにベンチに置いて、進はドリンクを呷る。

その肩をやや乱暴に掴んで、夏陽は問うた。

 

「おい進」

「……何?夏陽」

「何、じゃねぇよ。何だよあのプレイは!」

 

苛立ちを隠そうともせず、夏陽は進に詰め寄った。

 

「試合はお前一人のもんじゃねぇんだよ!!勝手な事ばっかやってんじゃねぇよ!」

「勝手……?何寝ぼけた事言ってんの夏陽」

 

夏陽の苛立ちにつられる様にしてか、普段の彼にしてみれば実に『らしくない』様相で進が夏陽の手を払った。

 

「高々去年の新人戦で一位になった『だけ』の相手にビビってロクに攻められないのは誰?あんなデカブツが突っ立っただけのド下手糞なディフェンスを満足に抜けないのは誰?ビビって腰抜かしてるだけしか出来ないならベンチにすっ込んでろよ!んな奴がレギュラーユニフォームなんて着てんじゃねぇ!!」

「んだとぉ!?」

 

突っかかる様な彼の言葉に夏陽は詰め寄ろうとするも、それを見止めた周囲が慌てて止めに入ろうとする、が、

 

「こんなチンケな試合でけっ躓いていられる程、俺はお前らと違って暇じゃねぇんだ!!!」

 

その一言を聞いた瞬間、夏陽の中で何かが音を立てて切れた。

 

―――ドゴッ!!

 

誰かが叫ぶ様にして制止する声すら掻き消す程に鋭く、そして何かを抉る鈍い音が響いた。

その音の元凶が自分の右の拳だと気づいたのは、盛大に音を立ててベンチに突っ込んだ進を視界に収め、右手が異様なくらいに熱量と鈍痛を訴えた頃になってからだった。

 

そうして、立ちあがって何かを言おうと上体を起こしかけた進を見て、

 

「―――いい加減にしやがれっ!!!」

 

衝動のままに夏陽は叫んだ。

 

「試合はお前一人の為のもんじゃねぇんだよっ!!チームメイトってのはお前にだけ都合のいいもんじゃねぇんだよっ!!俺達だって足掻いてきたんだ!!這いあがってここまで来たんだ!!それを全部否定するみたいに……見下して寝ぼけた事言ってんじゃねぇ!!!」

「タケッ!!落ちつけ!!」

「夏陽ッ!!」

 

慌てて菊池と戸嶋が夏陽を抑え込む。

怒りに我を忘れたのか、その夏陽に詰め寄ろうとした進を呆然としていた部員達が慌てて止める。

 

突然の出来事に騒然となる観衆を余所に、二人の叫びが会場に轟いた。

 

「テメェ一人の身勝手に俺達を巻きこむんじゃねぇ!!」

「身勝手結構!!それでテメェらがおまけで勝てるんだから上等じゃねぇかっ!!」

「ふざけた事抜かすな!!そんなんで勝ってうれしい訳がねぇだろっ!!」

「実力も半端なくせに妄想抜かしてんじゃねぇっ!!!」

 

夏陽の怒りに上乗せする様に進の激昂が響いた。

 

「県大会出場が何だ!?全国大会出場が何だ!?世界から見ればんなもん何の価値もねぇ小せぇ目標じゃねぇかっ!!何で頂点(てっぺん)を目指そうとしないんだ!?何で世界を目指そうとしないんだ!?行けるとこまで行きたい、そう思う事が悪いのかよっ!?」

「それが仲間を無視した独断プレイをしていいって理由にはならねぇだろうがっ!!」

「勝てなきゃ何の意味もねぇんだよっ!!勝たなきゃ―――勝ち続けなきゃならねぇんだよっ!!だって!!」

 

堰を切った様に、進が叫ぶ。

 

「―――だって俺には、初めっからバスケしか残ってねぇんだっ!!!」

 

 

 

 

 

 

「あー……何か凄い事になってんな、慧心」

「そりゃあんなワンマンプレイ延々やられたら、誰だって嫌になるって」

「だよなー、ウチは確かにワンマンっぽい奴はいるけどどっちかっていうとボールは回す方だし…………」

 

チラリ、と一人が視線をベンチに向ける。

 

「―――ろす、殺す、ぶっ殺す、ぶっ壊す、ぶち壊す、ぶち殺す…………!!」

「……こーなると、俺らがフォロー回らなきゃだし」

「前半あれだけ抜かれまくったら、そら颯太だったら殺したくもなるか」

「殺すのは流石に不味いけどな……」

「ア゛ァ゛!?」

「何でもありませんよだからその目をそらして下さい拳を収めて下さい怒りを抑えて下さいお願いしますぅぅぅっ!?」

 

呆れた様にいつもの光景を眺めながら、各々にベンチから立ちあがる。

 

「……ま、後半はキリキリ締めていきますか」

「だな。流石にこれ以上は許してやれないし」

「つぅか俺らのプライド的な問題でな」

「そそ。ほら颯太、行くぞ」

「アイツは俺が殺す……!!ぶっ殺してやる……!!」

「…………何か、今日はいつにもまして怒り狂ってるな」

「試合前に何か言われたんじゃね?ほら、颯太が何か自分から絡んでたし」

「あー……かもな」

 

間の抜けた会話だが、その瞳は真剣そのもの。

自分達だって、昨年の秋の新人戦優勝という看板を引っ提げて望んでいるのだ。たかが初戦で負ける訳にはいかない。

 

「じゃ、チームワークもばらばらな所から切り崩していきますか」

「だな。少なくとも後半開始直後はあの二人は滅茶苦茶になるだろうから、そこを狙って行くか」

「うーっし、じゃあ締まって行くぞー!」

 

 

 

「……試合の最中に、一体何をやっているのやら」

「ま、あれは怒りたくもなるって。けどどっちの子の言い分もわかっちゃうんだよなー…………」

「勝利に徹する為に最善の選択がワンマンプレイだった、それだけの事でしょ?明らかに自分よりレベルの低いチームメイトなんて足手まといでしかない。仲良しこよしのままで勝てる程、試合というのは甘くはないのに……」

「や、きっとあの子が怒ってるのはそっちじゃないんじゃないか?」

「じゃあ何?」

 

麻奈佳の言葉に初恵が小首を傾げる。

「だってさ」と前置きしてから、麻奈佳が口を開いた。

 

「勝つ為だからって友達が一人で何でもかんでも背負い込んだら、そりゃ男の子なら怒りたくもなるでしょ?」

 

『―――お前は一人じゃねぇだろっ!!』

 

会話を断ち切る様にして夏陽の絶叫が二人の耳にも入る。

 

「ほら」

「……そんな感情論、全くの無意味よ」

 

ばつが悪そうにそっぽを向く初恵に、麻奈佳は仕方ないなぁとでも言いたげな笑みを零して視線をコートに戻した。

その表情はさながら、不器用な弟を見る姉の様な笑顔だった。

 

「熱血だなぁ、あの子」

 

 

 

 

 

 

騒然と唖然が同居した体育館に後半開始を告げるブザー音が響くと、鼻息荒く息まいて颯太は慧心の選手を睨み―――然る後、自身の前に立ちはだかる様にしてサークル内に立つ少年にその目を細めた。

 

「アァ?誰だテメェは」

 

嘲笑う様な口調に、眼前に立った少年―――夏陽はその様相を見、そしてニヒルに笑みを湛えた。

 

「アンタ相手に態々進が張り合う必要もないんでな、俺が相手になってやるよ」

 

夏陽の発言に一瞬呆気に取られた様に目を見開いた颯太は、しかしその表情を怒気に染めて口を開いた。

 

「舐めてんのかテメェ!?この俺を誰だと―――」

「アンタが誰でも、前に何のタイトルを取ったのかも関係ねぇよ」

 

審判がボールを構える。

グッと膝に力を込めて、呟く様に夏陽が宣言する。

 

「勝つのは俺達だ」

 

射抜く様な双眸に睨まれ、そして颯太は本能的に理解した。

今目の前に立つこいつは、邪魔者であると。

 

「―――ハッ!ならテメェをぶっ壊して、あの野郎を引きずりだしてやる!!」

「やってみやがれ電柱野郎」

 

一触即発。

正に今か今かと弾け飛ぶ瞬間を待ち侘びる緊張感は、張りに張り詰めて―――

 

――――――ピッ!

 

開始の笛の音と共にコートに轟いた。

 




誰得な個人情報・その五

[名前] 安条結菜
[生年月日] 4月4日
[血液型] AB型
[身長] 147cm
[ポジション] PG
[二つ名]最強最悪の女帝(ロード・オブ・ミネルバ)


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第二十三Q 頼れる存在なんだ

 

バラガキ。

 

小学生の身の上でありながら近隣の中学校の不良相手にやりたい放題に暴れまわり、毎日の様に喧嘩に明け暮れていた颯太の事を周囲はそう呼んで、怯えた。

 

花弁なき無骨な茨、触れれば傷を負う棘だらけの子供。

誰が付けたのかは知らないが、何時からか颯太には『バラガキ』というあだ名が付けられ、益々傍若無人ぶりに拍車をかける様にして毎日を過ごしていた。

 

彼の親は片親である。

母親は幼い頃に亡くなり、父は日雇いの土木工を転々としながら、息子である颯太にバイトを強要して酒を飲んだくれては颯太に辛く当たっていた。

周囲の子供に比べて体格の成長が著しかった颯太はその度に父親と喧嘩に発展し、いつもの様に自分の稼いだ金でコンビニ弁当を買って夜の公園で食べ、バイト先の新聞配達屋の休憩室に忍びこんで寝入る。朝になれば新聞配達をこなして行きたくもない学校に行くか、近隣の不良を相手に日頃の憂さを晴らす日々。

 

そんな日々に終止符を打つ切欠が何だったのか、颯太は今でも鮮明に思いだす事が出来る。

 

四年生になった頃の、ある雲行きの怪しい午後の事だった。

その日は前日に父親と派手な大喧嘩を繰り広げて一際不機嫌だった為に颯太は学校にも行かず商店街を闊歩していた。

 

そうして、肩のぶつかった学生に喧嘩を売ったのが事の始まり。

 

不幸な事にその学生は近隣でも名の知れた不良グループのナンバー2とその取り巻きであり、既に少年院すら経験した事のある名うての札付きだった。

三人程度なら年上相手でも引けを取らない自信と確信のあった颯太は、しかし喧嘩慣れしたその男に散々に敗れ、路地裏のゴミ捨て場に叩きこまれた。

全身に強烈な激痛とはれ上がった肉体の鈍痛に失神する事すら儘ならず、何時の間にか降り出した雨が打ち付ける様にして大地に降り注ぐ中で意識は薄れ、或いはこのまま二度と目覚めないのかと思い―――それも別に構わない、と颯太は思った。

 

母親の事は顔も声も仕草も何一つ知らないし覚えていない。

父親は自分に暴力を振るうか自分を抑圧しているだけの存在。

周囲は自分を恐れ、怯え、避け……誰一人として近寄らない。

 

バラガキと呼び恐れられる颯太は、誰からも必要とされない自分自身を嫌っていた。

自分自身が自分を必要としない、出来ない自分を不良よりも、周囲よりも、何より父親よりも嫌っていた。

 

だからこのまま自分が此処で死のうが誰も悲しまない。

そう思って颯太は目を閉じ――――――不意に、雨がやんだ。

 

『…………』

 

否、誰かが自分に打ち付ける雨を遮っているのだ。

誰だと思い目を薄く開けると、一人の老人の姿があった。

 

『……誰だよ、ジジィ』

『…………楽しいか』

『ア?』

『そうやって喧嘩に明け暮れて、ゴミ屑の様に毎日を過ごして楽しいのかと聞いている』

 

 

 

その後の事は良く覚えていない。

気が付くと颯太は何処とも知れぬ和室に寝かされて、枕元には握り飯が数個と湯気の立つ味噌汁が置かれていて、

 

『あら、目が覚めたの?』

 

やたら着物が似合う妙齢の女性が、鈴を鳴らした様な笑みを浮かべて自分を覗きこんでいた。

 

 

 

聞けば女性は自分を此処まで運んでくれた男の妻だと言い、やがて現れた男というのが颯太が最後に見たあの老人で、しかし和服に身を包んだその様は老人と云うよりむしろ何処ぞの任侠一家の大親分とでも言った方がいっそ正しい気がしてならない気質を醸し出しており、数瞬訪れた沈黙ののちに不意に颯太のお腹が盛大に音を立てた。

 

『あらあら、子供がお腹をすかせるものじゃありませんよ?』

 

言って、女性は握り飯と味噌汁の乗ったお盆を差し出した。

 

『さぁ、たんと食べなさい』

 

言われるままに米粒の一つ一つが輝く様な握り飯を手に取ろうとして、

 

『待て』

『……んだよ』

『ご飯を食べる時は『いただきます』だろうが』

 

叱りつける様に、といってもあの男の様に暴力を振るうのではなく諭す様に紡がれたその声音に大人しく従って、呟く様に「いただきます」と言ってから握り飯を齧る。

 

二口、三口と噛み締める内に頬を何かが伝う。

 

『あら?どうしたの?』

『あったかい握り飯は旨いだろう』

 

女性が戸惑った様な声を上げ、男はかんらかんらと豪気な笑みを湛える。

女性の声が妙にむず痒くて、男の言葉が妙に気恥かしくて、颯太はそっぽを向きながら言ってやった。

 

『……塩、きつ過ぎ』

 

そうだ、そうに決まってる。

この頬を伝う熱い何かは、塩がきつ過ぎて辛いから出たに決まってる。

 

そう自分に言い聞かせるようにしながら、颯太は目から幾筋もの涙を零しながら握り飯を食べ続けた。

 

それが、颯太が『黒岩』と改姓する事となる――後に自分の養父母となる――黒岩夫妻との出会いだった。

 

 

 

 

 

―――ガッ!キュキィキキキキ!!

 

黒岩孝一は元はあちこちの中学や高校で教鞭を取り、それこそ何処かの熱血国語教師の様に社会から不良だの腐った果実だの揶揄されてきた子供達を更生させ、或いは導いてきた実績を持つ教師という職業に就いており、養子となって間もなく養母から聞かされた馴れ染めによれば彼女もそんな孝一の教え子の一人だという。

養母もまた私立の小学校で教鞭を取っており、夫は退役して今は地元の教育委員会で後進の育成に努めているという。

 

―――ダムダムッ!

 

黒岩夫妻は颯太を引き取る為の諸々の手続きを経て彼の養親となり、颯太自身の同意もあって特に問題もなく颯太は間もなく『黒岩颯太』となった。

そして母が教鞭を取る私立へと編入する為に孝一による厳しい教育を経て三草小へと入り、趣味と適性が一致したバスケが顧問の目に止まって六年に上がる頃にはバスケ部のエースとなった。

 

―――ダンッ!!ガッ!

 

秋の新人戦を制した時、養父母はその事を盛大に祝してくれた。普段は厳格な孝一すらも顔を綻ばせ、「よくやった」と褒め讃えてくれた。

 

自分を救ってくれた両親に報いたい、もっと二人を喜ばせたい。

そんな気持ちで続けていたバスケをいつしか颯太は好きになり、だからこそ負ける訳にはいかなかった。

 

負けてしまえば―――勝ち続けなければ、自分はまた『捨てられる』

要らない子だと罵られ、殴られ、また存在を否定される。

 

自身でも気づかぬ内にそんな強迫観念に囚われていた颯太は、しかしその迫り来る足音から逃れる為にバスケを磨き己を鍛え、一年前の屈辱を晴らすべく此処まで来たのだ。

 

―――ガシュッ!!

 

同年代とは思えないくらいに周囲が見上げる様な背丈から繰り出されるシュートに、元々傑出して背の高い選手がいない慧心はそれを防ぐ手立てがない。

徐々に揺れる比率の傾き始めた慧心のゴールネットが再び揺らめき、その点差が着々と広がり始めていた。

 

 

 

 

 

 

「目を背けないで見つめろ、水崎」

 

沼底の奥に沈んだ様な意識が浮上し始めた切欠は、小笠原顧問の言葉だったと記憶している。

はれ上がった頬を冷やしながら俯いていた進はその言葉に顔を上げ、顧問の後ろ姿を見た。

 

「よく見て、竹中にあってお前に“足りないもの”を見つけてみるんだ」

 

言われるまま、顧問の視線の先を―――コートの上に立つ夏陽の姿を見止めた。

 

点差は徐々にとは云え開く一方で、本来の力量差が見え隠れする展開で進んでいる。

恐らくは会場にいる誰もが、このまま三草小が勝ち進むであろう事を疑わない筈だ。前評判然り、現状然り。

 

―――だというのに、彼らは未だ諦めていない。諦めようとしない。

 

「パス早く!!一本取り返すぞ!!」

 

皆が声を張り上げて、強く叫んで、コートを駆け抜ける。

負けが見えている様な試合で、それでも尚勝ちを得る為に戦い続けて――――――

 

違う。

 

不意に、進は体育館の中だというのにそこに風を感じた。

夏の青空の元に吹き抜ける様な、力強く、暖かい風を。

 

負けそう?

勝てない?

 

―――そんな空気をあっさりと吹き飛ばして、彼は奔る。

 

体格差にブッ飛ばされようと、ドリブルやパス、シュートの精度に差があっても、圧倒的に身長差があっても、それでも彼は―――夏陽は、皆は喰らい付いていく。

 

そんな彼の姿に励まされる様に、皆が彼の背を追う様にコートを駆ける、敵に立ち向かう。

壊れかけた空気が、砕かれかけた希望が、再び形を成す。

 

「―――ッ」

 

その中心に、夏陽(かれ)がいる!

 

「エースの称号を背負えるのは、チームの中で一番信頼されている選手。チームが苦しい時に助けてくれる、“頼れる存在”なんだ」

 

―――シュッ!!ガコッ!

 

「上手い選手がエースを名乗る、確かにそれもアリだ。…………だが、エースを背負うという意味を、もう一度よく考えてみろ」

 

1on1を繰り返して、毎日顔を合わせていて、見知ったと思っていた奴を。

 

竹中夏陽の事を、突然見た事もない人間に感じた。

 

一人のバスケ選手として。

一人の人間として。

 

進はこの時、初めて竹中夏陽(エース)という才能(こせい)を意識した。

 

 

 

―――ビーーーーー!!

 

休息を告げるブザーが鳴り響く。

 

何時の間にか、一時は離れに離れていた筈の点差がまるで魔法にでもかかっていたかのように僅差に思える。

勝てないとか、負けそうとか、そんな空気はまるでない。

 

勝ちに縋り、拘り、しがみ付き続けていた事が馬鹿馬鹿しく思えるくらいに、今は―――

 

「水崎、次は頭から行くぞ」

「―――ハイッ!!」

 

――――――今は、バスケがやりたくてたまらない!!

 




誰得な個人情報・その六

[名前] 黒岩(旧姓:山本)颯太
[所属] 私立三草小学校男子バスケットボール部
[生年月日] 8月6日
[身長] 176cm
[ポジション] C
[個人成績] 秋の新人戦:最優秀選手賞


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第二十四Q 強い奴が勝つんじゃない

 

水崎新にとって、水崎進とは何なのか。

そう問われた時嘗ての彼なら、バスケ選手としての『水崎新』なら、芝浦小のスーパーアタッカーであった『水崎進』を指して恐らくは少し考えた後に、自信を持ってこう答えただろう。

 

「根っこの末端から幹の天辺に至るまで一色に染まったバスケ馬鹿」

 

天才とは5%の才能と95%の努力で形成されるものだという言葉は世界最高峰の野球選手を指して云うものだが、それは上限を100%で区切って考えた場合の話である。

進のバスケを形成する比率を100%という区切りの良い上限で区切る様な真似は、少なくとも彼の事を最もよく知る血を分けた肉親である所の新はしない。

 

彼ならば、苦笑しながらこう告げる。

 

「水崎進のバスケは100%の努力に5%の才能が上乗せされている」

 

要するに才能すらも努力で補い、且つその上に才能がプラスされるというのである。

 

その原動力となったのが何であったのかは新は正確に把握する事はなかった。というより気づく事が出来なかった。

進が何かに追われる様に、急かされる様にバスケに一層打ち込む様になった頃には彼自身にも周囲を気にする程の余裕はなく、何時しか毎日の様に繰り返していた兄弟での練習も少なくなって自主錬が多くなり、その関係がそのまま影響したかの様にやがて両親の間にも冷えた風が吹きつける頃になるという悪循環が堂々巡りを始め、最早惰性の延長線上に成り立っていた『家族』という名を借りた同居人達の繋がりは件の事件によって遂に崩壊を迎えた。

 

 

 

 

―――もし、という仮定の話。『if』の未来に逃避するのであれば、それが許されるのであれば。

 

新は力の限り弟を抱きしめてやりたかった。

 

離れて初めて気づいた、あれ程に小さく弱弱しく震えるその肩を抱きしめて、凡そ年頃の少年に似つかわしくない程に溜めこまれた思いの全てをぶちまけてほしかった。

 

進がそうしなかった―――そうしたくなかった原因が自分であると気づいた時には全てが遅く、何もかもが手遅れで。

だから自分にはもうその資格はないんだと、新はそう思っていた。

彼を追い詰め続けた自分には、そんな資格は存在しないのだと、そう思い込んでいた。

 

――――――だが、その考えすらも過ちであったと気づいたのは正に今この時。

 

コートに立ち、敵陣を鋭く切り裂く様なドリブルで観客を湧かせる実弟の、あの今にも壊れてしまいそうな程に脆く弱弱しい仮面の『笑み』の下に隠された、血を分けた兄だからこそ見抜けた『怯え』を見止めたこの瞬間だった。

 

 

 

手すりを握る手に力が籠る。

奥歯が音を立てて噛み締められる。

 

どうして、と新は顔を歪めた。

 

どうしてそんな笑顔を浮かべられるんだ―――どうしてそんな、自分を『演じ』続けようとするんだ。

 

―――ダンッ!!

 

コートの上で進が飛ぶ。誰にも邪魔されない空を駆ける様に飛び上がる。

相手のCが立ち塞がった。巨大な城壁の様に、その滑空を阻害する様に。

 

僅かに腕が交錯する―――だがボールは未だ放たれない。

腕が速度を上げてコース上からボールに迫る―――まだ、まだボールは進が持ったままだ。

 

―――そして、その腕がボールを持つ腕を横殴る様にぶつかった瞬間、ぐらりと中空で体勢を崩しながら、しかし既に腕へと移っていた重心を軸にしてボールが虚空へと舞い上がる。

実に手本の様な緩やかな放物線を描きながら、コンパスで半円を描く様な軌道でふわりと動くボールはまるで吸い込まれる様にしてゴールへと迫り、

 

――――――ビーーーーー!!!

 

決着のブザービートが響いた。

 

 

 

 

 

 

―――あと6秒

 

夏陽は相手の一瞬の隙をついてボールを進に回す。

やや右サイド寄りに駆けあがって来た進がボールを受け取ると、一気に中空へと跳ねあがった。

誰も追いつけない、誰も近寄れない空へ。

 

「行か、せるかぁっ!!」

 

―――あと5秒

 

否、一瞬にして障害が現れた。

突如として立ちはだかった城壁は瞬く間にその高さを上げ、更に高い位置からボールを狙う。

剛腕が、巨木の様に進を襲う。

 

「進っ!!」

 

―――あと4秒

 

腕が、激突した。

弾かれる様に進の腕が、ボールを持った手がぐらりと下がる。

 

終わった。

 

誰もがそう思った瞬間、夏陽は駆け出した。

相手をぬう様にして駆け抜け、進からボールを貰ってゴールに叩きこむ為に。

 

―――あと3秒

 

進の腕が、弧を描く―――違う、弧をなぞっているのはボールだ。

弾かれた筈の腕がぐるんと回り、手首のスナップによってボールだけが空中へと舞い戻る。

 

完全に崩れた体勢からの強引なシュート。

誰も入る訳がないと思った筈だ。

 

――――――けど、夏陽にはその意味が見抜けていた。

 

―――あと2秒

 

審判が笛を吹く仕草を見せる。

相手Cの反則を取るのだろう。そんな事はわかってる。

 

ボールはゆっくりと、放物線を描きながらゴールへと向かう。

 

何時の間にか、夏陽は自分の口元に笑みが浮かんでいるのを感じた。

 

―――あと、1秒

 

―――パサッ

 

予定調和の様にゴールへと吸い込まれたボールが、乾いた音を会場に響かせる。

瞬間、審判の声が夏陽の耳を打った。

 

「イリーガルユースオブハンズ!!」

 

時が、止まる。

 

 

 

終了間際、点差は僅かに3点。

しかし『普通』なら、例え3Pを決められても最悪延長戦に入るだけ。

 

それならば問題はなかった。

 

そう、『普通』なら。

それ『だけ』だったのなら。

 

「本当(マジ)かよ……」

 

得点を示す電光版を見て、誰に聞かせる訳でもなく昂は呟いた。

 

進のシュートのカウントは3点。

本来であれば、あんな崩れた体勢からそもそも平時ですら入れる事が困難な、そういった諸々の事情を鑑みれば入る筈もないフォーム無視の無茶苦茶なシュートは、しかしまるでそうある方が当たり前であるかの様にゴールネットを揺らした。

 

そして、ファウルによるフリースローが一本。

得点は、1点。

 

―――パサッ

 

会場にいる誰もがその目を疑った事だろう。

誰がこんな事態を予測出来ただろうか。

 

秋の新人戦の王者が、今年の全国大会出場候補と目されていた名門私立が―――

 

―――ビーーーーー!!!

 

1回戦で、その姿を消すなど。

 

 

 

歓喜の声が響く。

どよめきを覆い隠す程に雄々しく、騒々しくその声が会場を揺らし、コートへと降り注ぐ。

 

Cだった少年がボールの擦りぬけたリングをただ呆然として眺めていた。

ありえないと、そう叫びたかったのかもしれない。

 

自分が、強者である筈の自分達が負けるなど、ありえないと。

 

それでも、誰一人としてその言葉を口にして出す事はなかった。

分かっているからこそ、誰も云わなかったのだ。

 

「強い奴が勝つんじゃない、勝った奴が強いんだ……か」

 

強かに打ちつけられた腕を見やりながら、進はひとり言のように呟いた。

 

悔しさに涙を堪える者、喜びに涙が溢れかえる者。

どちらも同じ液体を流している筈なのに、どうしてこうも姿が違って見えるのか。

 

進には、まだ分からなかった。

分かろうと、そうは思わなかった。

 

グッ、と握り締めた拳を階上の男に向ける。

その眼光は既に標的をしっかりと捉えて離さず、それは向こうも同じなのか口元に歪な笑みを湛えながら猛禽類の様な瞳に攻撃的な色を浮かべて自分を見つめる。

 

―――次は、テメェの番だ。憲吾

―――いいだろう。相手になってやる

 

声に出さずとも、両者は互いの言葉を理解して背を向ける。

次に相対するのは、コートの上で。

 

二人は歩き出す。

嘗て同じ地で共に戦い、今再びコートの上で―――今度は相対する者として。

 

 

 

夏の県大会、第一回戦。

私立三草小学校対私立慧心学園初等部。

 

38-39で、慧心学園の勝利。

二回戦に対するのは、昨年の覇者にして今大会最有力候補。

 

市立芝浦小学校。

 



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S4 決戦
第二十五Q よかったらどうぞ


 

―――ビーーー!!

 

幾度目かのブザー音が鳴り響き、会場のあちこちから歓声や嘆く様な声と共に拍手が巻き起こる。

既に試合は本日予定されている分の凡そ四割を終え、殆どの学校が一回戦を終了させている。

 

「それにしても、珍しいよね」

 

会場の外に附設されている公園で昼食を取る事にした慧心の面々がそれぞれに昼飯にかぶり付く中、葵がふと呟いた。

 

「珍しい?何がだ?」

「だって普通、小学生のやるバスケってミニバスが主流でしょ?けどこの大会は、普通の……私や昂が普段やるバスケと同じ方式を採用してるじゃない?」

「ああ……そういえばそうだな」

 

と、葵に同調する様な事を言いながら昂は手近な所にあった握り飯を咀嚼する。

塩加減の程良さと具の昆布が素晴らしい調和を奏で、作り手の技量の高さを知らしめた。

 

「にしても、葵の作った握り飯は旨いな」

「えっ?そ、そう……?」

「ああ、マジで旨いよ」

 

そう言って昂が破顔すると、一瞬パァっと顔を綻ばせておきながら次の瞬間には何が不服なのか急にそっぽを向く。心なしかその横顔は無理やりに引き締めている様にも感じられ、頬に血の気が集まっている様子がその紅さからもありありと窺い知れる。

 

幼馴染のそんな様子に昂が小首を傾げていると、葵とは真反対側の自身の隣から「うぅ~……」と何やら恨めしそうな声が聞こえた。

視線を其方にやれば、それまで自分の事を見ていたのであろう智花が途端にばつが悪そうに慌てて手元のサンドウィッチに目線を落としその先っぽを咥える。

 

どうしたんだろう、と疑問符を浮かべた昂に、そして黙々と咀嚼を繰り返す智花の姿に眼鏡をキュピーンッ!と、直射日光も当たっていないのにレンズをいきなり光らせた紗季がずいっと昂に詰め寄った。

 

「長谷川さんっ!」

 

何事か、と思わず後ろに退く様にたじろいだ昂は、眼前に紗季が差し出したバスケット―――の中に沢山作られたサンドウィッチを見て、差し出してくる紗季を見て、何やら「さ、紗季っ!?」と吃驚した様に声を上げる智花の姿を視線を向けずとも把握して紗季と目線を合わせた。

 

「ど、どうしたの?」

「長谷川さん!サンドウィッチがあるんですが、如何ですか?」

 

それは見ればわかる。

どうしてそんな一世一代の大勝負をかける様な眼力でいらっしゃるのですかと思わず心中の呟きすら下手になりながら問いかける様な視線を向けるが、紗季はただ押し黙って「さぁ!」とひたすらバスケットの中身を差しだしてくる。

 

このままだと永遠にこの状態が続くのではないかと思った昂は、取りあえずその言に従ってサンドウィッチを一つ手に取った。

形こそ多少は不格好だが、手作り感満載なそれを口に含むと途端に口の中に瑞々しいレタスの歯ごたえとハム、マヨネーズの絶妙なハーモニーが大合唱を奏でた。

 

「うん、旨いな!これ」

「そうですか!?そうですよね!よかったねトモ!長谷川さん美味しいって!」

「え?これ智花が作ったのか?」

「ふぇっ!?は、はい……」

「合宿の時のおにぎりも美味しかったけど、やっぱり智花はいいお嫁さんになれるな」

「お、お嫁っ!?」

 

恥じらう様な仕草を見せる智花に特大級の爆弾を無自覚にシュートした昂は、そのまま軽く悲鳴染みた声を上げた智花が胸中で妄想開始のブザービートを鳴り響かせてそのままとんでもない暴走に奔っている事などまるで気づかず、もう一つ食べようとバスケットの中身へ手を伸ばした。

そんな様子に今度は昂を挟んで智花の反対側に座っていた葵が不機嫌そうに頬を膨らませて、幼馴染が絶賛するサンドウィッチが如何程のものかとひょいと手を伸ばす。

 

と、

 

「「あっ」」

 

期せずして二人の手が同じサンドウィッチへと伸びてしまい、触れた手に静電気でも発生したのかと思えるくらいの速度で手をひっこめた葵は、隣で「どうした?」と心配する様な声を掛けてくる昂の方を向く事も出来ずに触れた手や頬に急速に集まる熱の扱いに困惑していた。

昂は昂で、そんなにこのハムマヨサンドが食べたかったのかなぁと全然見当違いな事を考えており、そしてその思考回路が、

 

「ほら、葵」

 

手ずからサンドウィッチを取ってあげるという――乙女にとって――特大級の爆弾を投下させた。

見様によってはそれは恋人同士でやる定番イベント『はい、あーん(はーと)』に見えなくもない訳であって、

 

「えっ……えっ!?」

「ふぇっ!?」

「おー?」

「にゅわっ!?」

「と、トモ!?ぶっ飛んでる場合じゃないわよっ!?」

「あ……そんな、駄目ですよぉ昂さぁん…………えへへ……」

 

周囲は一気に色めき立って上から下の大騒ぎ。

そのまま葵の口へとゲームを決めるダンクシュートが叩き込まれるかと思われたが―――

 

「……いちゃつくなら余所に行って貰えませんか」

 

最早提案ではなく要求に近い声音でばっさり斬り付けたその一言は嫉妬とかそんな感情から出たんじゃないと進は後に語る。

 

 

 

ひなたから貰ったご飯で夏陽が気合いを充分過ぎる程に充電している様を尻目に、進は黙々と自身の弁当を片付けていた。

消化に良く、直ぐに試合に赴く事も可能とする様に計算し尽された献立は傍目からすれば随分とあっさりしたもので、特に男の子はもっと沢山食べるものだと自身の兄からしてそれが当然だと信じて疑わない愛莉などは、下手をすれば自分と同量かそれ以下しかない進の昼食を見て目を大きく見開いた。

 

「水崎くん、それで足りるの……?」

「ん」

 

相変わらず、何かを食べている時の口数の少なさが凄まじい進は周囲のざわめきを何処吹く風と言わんばかりに無口なまま食事を続けた。

見れば男バスの面々は特大のおにぎりやいつもより大きめの弁当を持ってきているというのに、この食事量は流石に少なくないだろうか。

 

「……あ、あの。水崎くん」

「ん?」

 

咀嚼していたおにぎりを呑みこんで、進は片手でペットボトルを手繰り寄せながら返事を返す。

と、幾度か視線をあっちこっちに彷徨わせた挙句、まるで一世一代の告白でもするかの様に思いっきり意気込んだ様相で愛莉がずいっとバスケットを差しだして、

 

「こ、これ!よかったらどうぞ!」

「お、サンキュー」

 

予想に反してあっさりと感謝の意を示された愛莉はぱぁっと顔を上げると―――横合いからひょいと手を伸ばした美星が差し出されたバスケットからサンドウィッチをパクリと食べている様が映った。

当の進はペットボトルを傾けて喉を鳴らして水分を補給し、愛莉の様子には欠片も気づいていない。

 

「……………………ふぇ」

 

数秒後、周囲の視線を根こそぎ集める様な少女の泣き声が公園に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

午後から合流した美星を含め、女バスの面々が愛莉を宥めている様子をチラリと見て、眼前でまるで何が起きたのかまるで理解していない、というより理解するつもりもなければ何が起きたのかそもそも分かっていない様子の進に心中でため息を洩らしつつ、気持ちを切り替えて昂は口を開いた。

 

「まずは一回戦突破、おめでとう」

「ありがとうございます」

 

柔軟を繰り返しながら、昂の方を見ずに進は返す。

 

「俺なりに試合のデータとか、出来る範囲で集めた情報は役に立ったかな?」

「さっきの試合でそれを役立てている様に見えたんですか?」

 

吐き捨てる様に進は呟く。

 

「……なら、もう少し周りを頼ってもいいんじゃないか?」

「分かってますよ。そんなこと」

「だったら、」

 

「けど」と、昂の言葉を遮る様にして、進は柔軟を止めて昂の方を向いた。

 

「俺は勝ちたいんです。例えどんな事をしても、勝ち続けたいんです。勝ち続けなくちゃいけないんです。誰に何と言われようと、俺は」

 

力を秘めて、心から渇望する様な声音で、

 

「夏陽と一緒に、もっとバスケを続ける為に勝たなきゃいけないんです」

 

それが己の存在意義の全てであるかの様に。

 

「夏陽と一緒にもっと高みへ昇る為に、俺は勝つんです。どんな事をしても」

 

それが己の生涯唯一の願いであるかの様に。

 

「―――それが、俺に出来るたった一つの償いの方法なんです」

 

進は、一言一句を噛み締める様に言いきった。

 

 

 

 

 

―――芝浦小学校、ロッカールーム。

まるで軍隊の整列であるかの様に規律正しく揃えられたメンバーを前に、顧問である横山HCは手元のボードを見ながら口を開いた。

 

「では、次の試合のオーダーを発表します」

「横山コーチ」

 

と、話の腰を折る様に結菜が口を挟んだ。

 

「鈴本キャプテンがいません」

「彼なら、今はウォームアップの最中です。次の試合では最初から出ますから」

 

その言葉に、俄かに芝浦の面々はどよめいた。

 

彼らの様子に油断はない。

ただ歴然たる力量差を鑑みて、当然の様に一軍控えや二軍で相応だろうと思っていた相手に対して、最初から全力でぶつかると宣言したと同義の発言である。

 

これが昨年の秋の王者・私立三草小ならまだ分かる。

だが今回の相手は殆どノーマークと言っても過言ではない慧心学園。

 

何故か、と誰かが口を開く前に横山は視線を部員達に戻す。

ただそれだけでざわめきはピタリと止み、生徒達は続くであろうスターティングメンバーの発表を待った。

 

「今回、我々の相手は予想に反して慧心学園です。あそこには数か月前まで君達と同じユニフォームを着ていた水崎くんがいる事を思えば、ある意味では当然とも取れる結果ではあります―――が、だからといって何かを憂慮する必要は全くありません」

 

横山の涼やかな声音が黙祷の様に静まり返ったロッカールームの中に響く。

 

「相手が誰であれ、君達がする事はただ一つ。『勝利する』事です。昨年の全国大会準決勝敗退、そして秋の新人戦における決勝敗退。これらの雪辱を果たす為にも、常勝と謳われる芝浦小バスケ部の名に恥じぬ戦いを期待します」

 

全員が一斉に「ハイ!」と大きな声で返事を返す。

一糸乱れぬその様子に横山は僅かに目を細めて頷くと、メンバーの発表へと移った。

 

 

 

―――勝つという事は、自分にとっては酷く当たり前の事だった。

 

滴る汗を拭う暇さえ惜しんで、憲吾は身体を動かし続けた。

 

―――今年こそお前と一緒に全国を制覇出来ると思ったのにな。

 

あの準決勝。

直前の試合で疲労しきってしまったが為に途中交代を余儀なくされた自身の不甲斐なさを悔いて、周囲が危惧するくらいに憲吾は自身を鍛え続けた。

その隣には当然の様に彼がいて。その光景はこれまでも、そしてこれからも続くものだと思っていた。

 

ずっと、ずっと一緒にバスケを続けて。

もっと高みを目指せると、そう思っていた。

 

「―――ッ!!」

 

今、彼は自分と戦う『敵』として再び合見えようとしている。

 

その事に対して、自分の胸中に浮かんでいる想いは?

 

怒り?

悲しみ?

 

それとも―――喜び、だろうか。

 

「……ハッ」

 

口元がつり上がるのを感じる。

表情が歪に笑みを浮かべるのが分かる。

 

楽しみで、愉しみで、堪らない。

 

『俺はお前と安条の間に何があったのかは知らんし詮索するつもりも全くない。それが例えどれだけお前や安条にとって重大な事でもだ、だ』

 

傍観を貫いたが為に、結果として彼を引き止める事をしなかったが為に、彼は芝浦から消えてしまった。

だが、憲吾は心の何処かで確信していた。

 

―――必ず、進はコートに帰ってくる。

 

奇しくもその予想がこんなにも早く、こんなにも『喜ばしい』形で実現しようとは、流石に思いもしなかったが。

 

「……嗚呼、楽しみだよ。進」

 

『敵』となったお前が。

『障害』となった俺が。

 

今までぶつかった事のない全力でぶつかった時、どんな戦いになるのだろうか。

どんなプレイで、どんなテクニックで、どんなスピードで、どんなパワーで。

 

その全てが、堪らなく待ち遠しい。

待ち遠しくて堪らなく、愛おしささえ浮かんでくる。

 

「始めよう進……俺とお前の、戦争(たたかい)を」

 



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第二十六Q 関わり抜くって、そう決めた

 

―――声が、聞こえた気がした。

 

「進ッ!!こっちだ!!」

 

違う。この声じゃない。

懐かしさを感じさせる、あの声じゃない。

 

「水崎!!」

 

違う。これでもない。

温かさを感じさせる、あの声じゃない。

 

懐かしくて、温かくて、優しくて。

俺が大好きだった、ずっと追いかけていた声が、聞こえたんだ。

 

幻聴なんかじゃない。

誤認なんかじゃない。

 

しっかりと聞き慣れた、誰よりも綺麗にこの名前を紡ぐ事が出来る、たった一人のヒトの声。

 

聞き間違える筈がない。

取り違える筈がないんだ。

 

俺にとって、この世界でたった一人の繋がり。

俺がバスケを続ける、勝ち続ける、贖い続ける全ての起点にして終点。

他の誰でもない『あのヒト』の―――

 

「進!!!」

「ッ!!」

 

腕が矛と化して、俺を貫く様に襲い来る。

風を貫く轟音が耳を震わせ、両手で抑えていたボールが次の瞬間には捥ぎ取られる様に手元を離れた。

 

「クッ!!」

 

早さ。

強さ。

 

何もかもがけた外れの規格外。

矢の様に早く、槍の様に鋭く、剣の様に力強く。

 

相対しただけでも竦み上がりそうな程に強烈な存在感も相まって、最早攻略不能防御不可の絶対兵器にさえ思える。

 

伝統的にヨーロッパスタイルを主軸としてきた芝浦のバスケ。

センター勝負といっても過言ではないこの戦法を代々継承してきて、尚且つ今年はこの世代No.1センターの呼び声も高い鈴本に加え各選手の資質も歴代トップクラス。

 

そして―――

 

「やっぱ面倒だな!!コイツはよっ!!」

「ハッ!恨むなら個の戦力に欠けた三流校にいった自分を恨め!!」

 

試合開始からずっと付きまとう様に徹底されたマンツーマンプレイ。

延々と続けられる1on1は、もう都合何度目か数えるのも億劫なくらい繰り返された。

 

嘗て全日本のユニフォームを着た事もある横山HCが叩き込んだ、もう一つの戦術。

個の練度に勝るこの世代だからこそ許された、徹底された『個人戦』は、チームプレイを主とする慧心の連携攻撃を完全完璧に遮断してゲームを支配する。

 

「去年の夏!!俺が不完全でなければこの戦術で勝てた!!俺達が最強だと証明できた!!」

「ああそうかいっ!!」

 

―――キュキキキィ!!キキキキィ!!!

 

「なのに貴様はっ!!俺と対等だと思っていた貴様は!!その機会をっ!!最後の機会を捨てた!!」

「傍観決め込んでた奴が偉そうにぬかすなっ!!部外者気取ってた時点で俺的にはっ!テメェもあのクソ女と同列だッ!!」

「他人(おまえ)の評価など知った事かっ!!俺はっ!!!」

 

―――ダンッ!!!

 

「俺はっ!!今まで貴様を同等だと認めていた俺自身をっ!!下らぬ理由で落ちぶれた貴様をっ!!許さないっ!!!」

「偉そうに好き勝手ほざくんじゃねぇっ!!!」

 

疾走(はし)る。

疾駆(かけ)る。

 

最早幾度目か分からぬ激突が、コートに弾けた。

 

 

 

 

 

 

『憲吾の3P成功率は大凡七割から八割。残りの二割から三割を詰めていたのが俺って訳です』

 

芝浦のバスケはチーム全体がヨーロッパスタイルを主軸にしている。

センター勝負といっても過言ではないこの戦法を伝統的に継承してきて、尚且つ今年はこの世代No.1センターの呼び声高い鈴本に生まれて持った様な超攻撃型フォワードの素養を持つ進という二枚看板によって、実質的に去年はこの二人だけで全国に駒を進めた様なものだったのだろう。

 

無論他のチームメイトの実力も然るものではあるのだが、試合の様子をビデオで見る限りはそれでも圧倒的成功率を誇るシューターとコート半面を自在に攻めるアタッカーの動きを邪魔しない様にサポートに回る事が主だった。

 

そこへ来て、嘗て全日本のユニフォームを着た事もある横山HCの采配が加われば正に鬼に金棒。

歴代屈指の面々を揃えた芝浦小は、男子においてはここ数年低迷気味だった全国大会における成績を見事準決勝進出まで押し上げ、女子はリーグ戦形式の県大会でここ数年の覇者である硯谷女学院から総合一位の座を奪取し全国大会に駒を進めた。

 

…………と、試合開始前に昂は進から聞いていた。

それらの証言に加えて、かき集めた幾つもの情報を纏め、総括として『知将』たる自分が導きだした答えは、

 

―――水崎進は、鈴本憲吾に『勝てない』

 

「ヤバいよ……完全にゲームを支配されてる」

 

隣で呻く様に葵が呟いた。

ゲームが始まって既に第一、第二Qが終わっている。だというのに試合は殆ど一方的で、その点差は広がり続ける。

 

既にタイムアウトは二回消費された。

これ以上は無駄遣いが許されない。悪い空気を断ち切る意味でも、最後の最後までこのカードは温存しておくべきだ。

 

そんな事は所詮学生の身分でしかない見習いコーチよりも顧問である小笠原の方が重々承知しているだろう。

 

「水崎くん……!」

 

祈る様な声が聞こえる。

女バスの面々も、皆が必死に応援を繰り返す。祈る様に手を握り締める様。声を張り上げて懸命に応援する様。不安と心配を顔に出してコートを見つめる様。

 

―――だが、それでも。

 

例えどれ程不利な状況下でも、それらをひっくり返す事を得手としてきた昂ですらも、最早勝利は不可能だと思わざるを得なかった。

 

1on1によるマンツーマンの戦術で徹底的に連携を分断。個の実力で勝る選手達がそれぞれに相手を抜き去り、ボールを奪い、ゴールを決める。

恐らくは対チーム戦術用に練習してきたもう一つの戦法なのだろう。その練度の高さからも、それが一朝一夕のものでない事は素人目にも分かる。

 

そして、平均身長の違いもあった。

突出して背の高い選手がいない慧心と比べて、芝浦小にはセンターの鈴本を始め、多くの長身選手がいる。それだけならまだしも、各々のフィジカルの強さ、ジャンプ到達点の高さが安定して得点を量産する原動力となっている。

 

何より絶望的なのは―――夏陽が完全に抑えられている事。

 

ともすれば本当に小学生なのかと疑いたくなる様な巨体と、それに似合わぬ細やかなプレイを自在に駆使する相手を前に、チームの絶対的エースたる夏陽すら自身の持ち味を完全に封じられている。

 

そしてそれを指揮するのは、コート上で先程から何度も進と激突を繰り返す芝浦のキャプテン、鈴本憲吾。

 

全体的戦略を組み立てるコーチと、コート上で戦術を指揮するエース。

 

……最早笑うしかあるまい。

こんなにも規格外が集まった人外魔境の巣窟としか思えないチームが、あれ程の高次元で傑出した『連携』を見せている。

選手一人一人が自身の役目に徹し、チームの勝利へと邁進している。

 

慣れ合いのチームプレイなど鼻先で笑い飛ばせる様な、凡そ年齢にそぐわない連携攻撃。

 

「ナツヒー!!負けんじゃねぇー!!」

 

真帆の怒声が響く。

会場中が熱気の渦に巻き込まれ、異様なくらいに盛り上がっているその空間の中に一瞬で溶け込んで霧散する。

静寂の暇が存在しない世界にボールが弾け、汗が飛び散る。

 

酷く真剣な眼差しは標的(ボール)を捉え、爆音の様に足元を弾いて駆け抜ける。

 

―――だが、それでも届かない。届く事はない。

 

―――ビーーー!!

 

絶望を叩きつける様なブザー音と共に、慧心のゴールネットがまた揺れた。

 

 

 

 

 

 

新は会場の外に向かっていた。

誰も彼もが会場へ、観戦へと向かうその波に逆らう様にして一人、外へと逃げる様にして歩いていた。

 

『……進』

 

実の弟の、古巣との対決を見て。

『見ている』という行為すら、弟に対する侮辱に思えて。

 

呟いたそれを最後に、新はコートから、弟から目を逸らした。

 

『あの時』と同じ様に―――

 

「―――ッ」

 

噛み締める様に噤んだ口元に血が滲む。鉄臭いドロリとした液体が口の中に広がる。

その全てが『敗者』の証で、『負け犬』の証拠で、

 

――――――何もかもが、自身の『罪』の証。

 

だからこの惨めさも、絶望感も、何もかもを受け入れなければならないんだ。

何一つ守ろうとせず、逃げ続けた結果がこれなのだ。

 

新はそう思った―――そう、思い込もうとしていた。

 

だからつと、会場の入り口に仁王立つ様にして自身を遮る影の存在に顔を上げて、

 

「ちょーっと待ったぁー」

 

世界一有名な猫の様な微笑を湛えながら、悪鬼羅刹の如く剣呑な瞳で自身を見やる女性の存在に、その足を止めた。

 

 

 

 

 

「どーもどーも、アンタの弟さんの担任やらせてもらってる慧心のとある教師さんなんだけどさ、ちょーっといいかい?」

「…………学業関係なら、叔父夫婦の方が適任だと思いますけど」

「ん、そだね。―――けど、『学外』関係なら、アタシはアンタの方が適任だと思うけど?」

 

スルリと滑りこむ様な声音で、しかしその瞳にはその口調程緩んだ様子は欠片も存在せず、むしろ猫の皮を借りた虎の様に鋭い双眸がジッと新を見つめた。

 

「こんな所で何してんだ?アンタが居るべき『場所』は、こんな所じゃないだろ?」

「…………何を」

「逃げんじゃねぇっつってんだよ」

 

唐突に、首元が締めあげられた。

外見からは凡そ見当もつかない程に素早く、そして一瞬にして懐にまで潜り込まれた新は、バスケで鍛えてきた反射神経をも上回る速度で伸びた腕に為す術もなく締めあげられた。

 

「何時まで目を逸らし続けるつもり?何時までそうやって逃げるつもり?アンタは自分の、この世界でたった一人の弟すら見捨てて逃げるつもり?そうやって逃げ続けて、目を逸らし続けて、何時までもアイツを苦しめるつもりなのか?」

「……ッ!アンタに、何がッ!!」

「何も分からないよ、アタシには。アタシは自分の生徒の事で手一杯なんだ、アンタみたいな外の人間の事まで面倒見切れる訳じゃないんだ」

 

「だけどな」と。

そこで初めて、新は美星と目線が重なった。

 

「だからアタシは、アタシの生徒全員に関わり抜くって、そう決めた。何があってもアタシはアイツらの味方でいてやるって、最後までアイツらを見放さないって、そう決めたんだ。目を逸らさない、絶対に逃げないって、そう誓ったんだよ」

 

決意を湛えた瞳は真っ直ぐに新を睨む。

 

「―――だけど、結局アタシはアイツらにとって『先生』でしかない。結局は『他人』以上にはなれないんだ。本当にアイツらを救ってやれるのは、学校でも総理大臣でも法律でもない……たった一つの『家族』だけなんだよ」

 

グッと、美星が新を引き寄せた。

鼻先が擦れ合いそうになる程に間近で、美星の声が新の鼓膜を揺らした。

 

「今、アイツはたった『一人』で戦ってる。自分の為でも、仲間の為でもない。

 

―――他の誰でもない、アンタの為に。

 

アイツが勝ちに拘るのは、アンタの教えが正しかったんだって証明したいから。

アイツが戦い続けるのは、アンタからバスケを奪ってしまった自分を認められないから。

アイツが一人なのは、誰かに頼る事でまた裏切られるんじゃないかって怯えているから。

 

そうだよ、全部アイツ一人の自己満足だよ。だけどその原因はアンタだ、アンタら『家族』なんだよ。守ってやらなきゃいけないアンタ達が逃げて、目を逸らして、アイツを追い詰めてどうすんだよ?」

 

朗々と、独白の様に美星は言った。

尚も沈黙する新の首元を更に強く締めあげて、美星の双眸に新の顔が映る。

 

酷く憔悴しきった、負け犬の様に情けない顔を、新は美星の瞳越しに知った。

 

「…………なぁ、何とか言えよ。アンタは、アイツの兄貴なんだろ?バスケが滅茶苦茶上手くて、優しくて、アイツにとっての憧れで!目標で!帰る場所で!!『兄貴』ってのはそういうもんだろ!?『家族』ってのはそういうもんだろ!?足掻けよ、足掻き続けろよ!!泥臭くてもみっともなくても、それでもアイツの味方でいてやれよ!!最後までアイツの傍にいてやれよ!!いい加減アイツを―――進を助けてやれよ!!!」

 

 

 

 

 

 

―――疲労は、限界を超えた。

 

震えて、今にも崩れ落ちそうな足を必死に励まして脚立させる。倒れてしまいそうになる精神を激励し、奮い立たせる。

 

ここで終わる訳にはいかない。

例えどんな事をしても、負ける事だけは許されない。

 

兄の教えが正しい事を証明する為。

兄の行いが間違っていない事を証明する為。

全ては兄から―――新からバスケを奪ってしまった自分こそが誤っているという事を、刻みつける為。

 

その為だけに、三草小との試合でも、この試合でも、昂が必死になって集めてくれたデータの受け取りを断ったのだ。兄の教えだけで、『水崎新』の指導だけで勝てなければ、そんな『勝利』には意味はない。負けが許されないものだとしても、その一線を越えてしまえば、今度こそ自分の世界は崩れ落ちてしまう。

 

―――足が、もう動かない。

 

しかし今、自身の意識は絶望の沼底に沈んでいく。

周囲の声も、観客の声も、何もかもが遠い。

 

「……もう、無理だよ」

 

その時、不意に頭の中に響いた言葉に。

 

ふっ、と。今まで自分を支えてきたナニカが急速に失われていくのを感じた。

 

―――もし、此処で勝って。勝ち続けて、それでどうなる?

 

兄がバスケを再び始める保障など何処にもない。

家族が再び元に戻るという事など起こり得ない。

何よりも、自分が―――自分自身を許せるなどと、思えない。

 

「……諦めようぜ。よくやったよ、みんな」

「元々負けて当然の試合だったんだ。これで終わったって、誰も文句言わねぇよ」

 

煩い。黙れ。口を開くな。

外野の言葉の全てを遮断する。拒絶する。拒否する。

 

聞くな。聞くな。聞くな。

 

「また『次』の機会に頑張ればいいって」

「そうそう。まだ他にも大会はあるんだから」

 

何も知らない連中の戯言に耳を貸すな。眼前の試合に集中しろ。

それまで自身を保ってきた鎧は無残にも壊れ、崩れ落ちた。故に言の葉の限りが脳髄に突き刺さる。心臓の奥底を抉る。

 

「だから最後は思いっきり楽しめばいいさ」

「そうだよ。練習だと思ってさ」

 

それは、侮辱でしかなかった。

 

耳を塞ぎたくなる。だけど腕はもう動かない。

何処かへ逃げ出したい。だけど逃げ場所など初めから存在しない。

 

兄のバスケが穢されて。馬鹿にされて。

それでおめおめ引き下がれと―――『負け』を認めろと。

 

言いかえしたいのに、何も言い返せない自分がいる。反論出来ない自分が、それを認めている事を雄弁に語っている。

 

視界がぼんやりと滲んでいく。

足元から世界が崩れ落ちていく。

 

心が―――『水崎進』を構成するありとあらゆる要素が、なくなってしまう。

 

 

 

「――――――最後まで諦めんじゃねぇ!!進ーーーッ!!!!」

 

 

 

―――声が、聞こえた。

 

 

 



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第二十七Q それが、今の俺の

 

「――――――最後まで諦めんじゃねぇ!!進ーーーッ!!!!」

 

声が聞こえたその瞬間、進は一切の生体活動を停止せざるを得なかった。

 

余りにも非現実的。

余りにも非科学的。

余りにも非論理的。

 

あり得る筈がない。あってはならない筈の事象。

その現実が、目の前に唐突に現れた。

 

「に、い……さん……?」

 

絞り出す様に呟かれたそれはあまりにも小さな声で、受け入れ難い現実を未だに認識出来ずに呆然と進を立ち尽くさせた。

 

「何……あれって?」

「水崎先輩!?」

 

突如として会場に轟いたその声に、昂は驚愕を露わにして声のした方を向く。

そこには手が白くなるほどに力を込めて手すりを握り締め、存在そのものが声を上げる様にして大音声を響かせる一人の男の姿があった。

 

観客の多くは、唐突過ぎる事態に理解が及ばず困惑のままどよめいている。

そしてそんな会場のどよめきを余所に、12年間生きてきて初めて聞く兄の渾身の怒声が進の鼓膜を揺らす。

 

「進ッ!!馬鹿かテメェは!お前の夢(バスケ)は、お前だけのモンなんだよッ!!誰かの夢を背負う必要なんてないッ!!お前が、お前の為だけに叶えればいいんだよッ!!!」

 

『水崎進』を象っていた無色透明な世界が一つ、また一つと欠片を零していく。

兄の言葉の一つ一つが、それまでの自分の全てを打ち壊すかの様に進の心臓の奥底に叩きつけられる。

 

「俺の叶えられなかった未来を!!続けられなかった夢(バスケ)を!!今お前が叶えようとしているんだッ!!!俺は夢を諦めたんじゃねぇ……!!お前の夢を、俺の!俺達(かぞく)の夢にしたんだよッ!!」

 

今まで保ち続けてきた『水崎進(おとうと)』の仮面がひび割れる。

剥がれ、零れ、崩れ落ちていく。

 

―――全てが崩れ落ちた先に広がる暗い水底の奥に、酷く弱弱しく、恐怖に怯えて震える子供の姿が瞼の裏に蘇った。

 

「今度こそ俺が守ってやるからッ!!世界中の人間がみんな背を向けたって!!今度は絶対に俺が最後までお前の傍にいてやるからッ!!だから―――だから!!」

 

不意に、世界に一条の光が差し込む。

見上げれば、誰かの手が伸びているのが見える。

 

まるで、この手を取れと、そう言っているかの様に。

 

進は手を伸ばす。

 

光を求めて。

温もりを求めて。

 

繋がりを、求めて。

 

「――――――最後まで!!諦めんじゃねぇッ!!!進ーーーッ!!!!」

 

 

 

 

 

会場の九割九分を置き去りにした大音声が止むと、声の主である新はただジッと進を見つめていた。

肩を上下させて呼吸を整えて、しかしその瞳は揺らぐ事無く真っ直ぐに進を射抜く。

 

もうその足は立ち去る事も、逃げる事も選ばない。

しっかりと大地に立脚し、全てを見届ける様にその瞳も揺らがない。

 

「……分かってる」

 

呟く様に、進の唇が開いた。

真正面に居た憲吾は、ともすれば会場のどよめきに消えてしまいそうな程に小さな、しかししっかりと意志を以て紡がれたであろうその声音を聞きとる。

 

そしてその瞬間、ゾワリと背筋を何かが舐める様に駆け上がる感覚を覚えた。

 

「どんだけ綺麗事言ったって、俺の根っこが変わるわけじゃないんだ」

 

恐怖?―――否。

戦慄?―――否。

 

これは負の感情じゃない。

憎しみや怒り、ましてや罪の意識に苛まれたモノでもない。

 

「どうしたって、俺の本心は勝ちたい、勝ち続けたいって叫んでいる」

 

獣の様に獰猛であった筈の威圧感は霧散し、しかし次の瞬間膨大な程に膨れ上がった他を圧する程に力強い『何か』が、足音を介して憲吾の鼓膜を揺らした。

 

「だけど、今のそれは俺一人の為なんかじゃない」

 

瞳の奥に湛えたものは歓喜。

声の端々に滲ませるのは興奮。

 

怜悧であった感覚全てを消失させて、それでも尚、否。むしろ今の『彼』の方が憲吾には余程脅威であった。

 

この彼を、『水崎進』を憲吾は知っている。

 

「―――このチームで、この仲間と、もっとバスケを一緒にやりたいんだ」

 

嗚呼、と憲吾は胸中で一人得心をしていた。

今まで感じていた違和感がすぅっと抜け落ちていくのを覚え、そしてグッと足に力を込める。

 

その数秒先の未来を幻視しながら。

 

「だから俺は勝ちたい。贖う為に勝つんじゃなくて、楽しむ為に戦うんだ」

 

審判の笛の音が耳を打つ。

中空へと放りあげられたボールが、しかし今の憲吾には酷く遠い。

 

そして目の前から、進が消える。

 

「それが、今の俺の――――――水崎進の全てだ!!!」

 

待ち侘びた宿敵(ライバル)の再来(ふっかつ)に、自身の遥か上を跳ぶ進を見上げて。

 

ただ強かに、憲吾はニヤリと笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

たった数十秒。

新の大音声は、その数十秒で先程まで慧心学園側に漂っていた敗北ムードも、会場全体を覆っていた諦観ムードも、何もかもを吹き飛ばして再び興奮の渦へと落とした。

 

応援する者が声を懸命に張り上げる。

誰も彼もが興奮と歓喜を露わに、皆が一つとなってこの試合を、バスケを心から楽しんでいる。

 

戦う者がコートを全力で駆ける。

上位も下位も存在しない。誰もが同等のバスケ選手として、全力を尽くして駆けて、跳んで、ぶつかる。

 

「いっけー!!ナツヒィィィ!!」

「おー!みんな頑張れー!」

「ああん、もうっ!!もっとしっかりしなさいよっ!」

「が、がんばってー!!」

「そこっ!!リバウンドッ!!」

 

眼下に、慧心の選手達に激を飛ばしまくる女バスの姿が見える。

その傍で本日の引率役を務めている葵もやや興奮気味にコートに見入って、時折声を上げては真帆につられる様に応援する。

 

そんな様子を視界の端に収めながら、昂は隣に立つ青年―――新の方を見た。

 

「……お久しぶりです。水崎先輩」

「ああ……荻山から話は粗方聞いているよ。長谷川……昂だったか?」

 

コートから目を離さずに新が返すと、昂は「はい……」と呟く様に応える。

 

「―――ありがとな」

「え……っ?」

「本当なら兄貴(おれ)がやらなきゃいけない事を、結果的に全部押しつける事になっちまって本当に済まなかった……許されるとは思ってないけど、これだけは言っておきたかったんだ」

「いえ……そんな事は…………」

 

新の視線を追う様にして、昂もコート上に―――進に目をやった。

 

「……俺は何にも出来ませんでしたよ。あいつの事を何一つ考えてやれませんでした。助けたのはむしろ、あの子たちの方ですよ」

 

夏陽がいて、智花がいて、真帆が、紗季が、ひなたが、愛莉が。

 

「最初は俺が教えているつもりだったのに、気づけば沢山の事を教えられていて……ほんと、小学生は凄いですよ。最高です」

「…………そっか」

 

心なし、和らいだ声音で新は続ける。

 

「――――――だけど、そんな強がりは今日で終わりだ。今日、アイツは『水崎進』に戻れた」

「戻る……?それって、どういう……」

 

「言葉通りの意味だよ」と、僅かに笑んだ新の横顔を見て昂は再びコートを見やる。

 

―――キュキキキキィ!!!キキキィ!!

 

「向こう見ずで短絡思考で鉄砲玉で直情的で、戦術だの戦略だの四の五の考えるより本能と直感であらゆる局面を切りぬける―――世界最強最高最上の、俺以上にバスケの神様に愛された天上天下唯我独尊級バスケバカで史上最強古今独歩三国無双クラスの負けず嫌いな、水崎さん家の進くんに」

 

―――ビーーーーーー!!

 

幾度目かのブザー音と共に、会場に歓喜の声が轟く。

渦中にある少年の顔には満面の喜色が浮かび、圧倒的な点差に絶望していた数分前の姿は最早過去の遺物に等しい。

 

飛び散る汗を拭って、声を張り上げて。

何よりも真摯に、真剣にバスケに向かう子供達の姿がそこにあった。

 

―――いや、子供とか大人とか、そんな区別は必要ない。

 

昂はふっと笑みを浮かべる。

視線の先には、喜びに顔を綻ばせて年相応の笑みを満面に湛えたままハイタッチをかわす進と夏陽の姿がある。

 

それは紛れもない『バスケ選手』の顔で。

見ている此方さえ、自然と興奮につられてしまいそうになる。

 

「……まったく、小学生は最高だぜ」

 

呟く様に洩れた声は、歓喜の中に消えていった。

 



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第二十八Q 昼飯は旨かったか?

 

ちゃんと笑う。

そんな、本当なら簡単である筈の行為が上手に出来なくなったのは、何時からだっただろう?

 

家族がバラバラになった時?

崩壊の引き金をひいた時?

 

それとも、それとも―――

 

「―――ッ!」

 

ボールを弾く。

ステップを刻む。

 

その動作の一つ一つが次の動作に、ゴールに繋がる。ゴールへ繋げる。

俺が兄さんから教えられた、大切な事の一つ。

 

「進ッ!」

 

夏陽の声が聞こえる。

たったそれだけの事で、驚くくらいに俺の身体は軽々とコートを跳ねる。

 

見上げれば、そこには兄さんがいる。

その隣には、コーチが一緒にいる。

視線を向ければ、女バスのみんなや荻山さんや篁先生、それに湊がいて。その誰もが笑顔であったり、喜色であったり、興奮であったりを浮かべている。

 

……今、俺もそんな顔をしているのだろうか?

分からない。というか、別に分からなくてもいいのかもしれない。

 

だって―――

 

「ッ!憲吾ォ!!」

「進ッ!!!」

 

最高の仲間(ともだち)がいて。

最強の友達(てき)がいて。

 

こんなにも楽しくて、バスケが楽しくて、バスケが出来る事が嬉しくて、この時間が大切で、堪らなく大切で。

 

―――だから。

 

「ッ、アァッ!!」

 

こんなに楽しくて、嬉しくて堪らないこの瞬間がずっと続けばいい。

その為にはどうすればいいのか。どうしたらいいのか。どうしなければならないのか。

 

とっくの昔に分かりきっている答えの為に、俺の身体が動く。

身体を傾けて憲吾に対して半身になった体勢のまま、その矛(うで)がボールに届くより早く中空へとボールを放る。

 

――――――これで、あと5点。

 

第三Q終了を告げるブザー音が場内に響く中、芝浦のゴールネットを通過したボールの跳ねる音がやたら大きく聞こえた。

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

言葉を失う。

 

何を呟けばいいのか、どう表現すればいいのか。

何一つ思い浮かばない程に魅了されて仕方なくて、興奮が抑えきれなくなる。

 

気づけば、昂は口を半開きにしたまま両の手で手すりを力一杯握り締めていた。

 

「これが……『水崎進』ですか」

「ああ。あれが『水崎進』だ」

 

僅かに呟いたそれを拾って、隣から声がする。

其方を向けば、何故か新の視線は眼下の実弟ではなく客席の―――コート全体を見回せる、観戦するというよりは『観察』する上でのベストポジションに陣取る女性を見ていた。

 

目元にはサングラスをかけており、手元には何やら書類らしきものが数枚見て取れる。その隣では同じ様に書類を手に持ったスーツ姿の男性がおり、二、三打ち合わせる様に言葉を交わしている。

 

「長谷川……あの人が誰だか、分かるか?」

「あれって…………」

 

記憶の糸を辿る。

新聞だっただろうか、TVだっただろうか―――海馬の海を探る内に、一人の『選手』の姿が脳裏を過る。

 

智花を自宅に招いた折、参考になるのではないかと海外で活躍する日本人選手の試合の様子を映したビデオを見せた事があった。

その時、一際智花の目を惹いていた―――

 

「欧州リーグで活躍した坂井菫選手!?何年か前に引退したって話だったのに……」

「父親は元日本代表で、今は協会の革新派の筆頭だそうだ。若手育成の一環として、娘である坂井選手を欧州にコーチ留学させたって専らの噂だが……どうやら、本当だったみたいだな」

 

「それと」と新はすっかり視線を彼女に釘づけにされている昂を余所に胸中で呟く。

 

(……ミニバスが基本である小学生すらも対象にした、新選抜チームの選考に携わっているっていう話だが…………だから芝浦はこんな序盤からレギュラー陣を起用したっていう訳か)

 

その選考の一環として、夏季大会のルール変更にも協会が一枚か二枚噛んでいるのだろうか。

 

とはいえ、

 

(……ま。そんなきな臭い与太話、今のアイツにとっちゃどうでもいいんだろうけど)

 

コート脇でドリンクを飲むその顔を見れば分かる。

今の進がどれだけ楽しくて仕方ないのか、どれだけ興奮が抑えきれないのか。

 

どんな理由であれ、どんな結果であれ。

 

この試合が終わった時、進はきっと『後悔』を残さない。

 

「…………頑張れ」

 

 

 

 

 

 

「あら、随分と苦戦しているみたいですね?キャプテン」

 

―――心臓のざわめきが収まらない。酷く高ぶり、今にも弾け飛びそうな程に躍動する。

 

「それより、さっきからあの客席の女(ビッチ)の視線がずぅーっと『私の』進に向いているんですけど。もっとしっかりして貰えませんか?私以外の女に進が視姦されるなんて耐え難いんですけど」

「知るか」

 

―――嗚呼、分かっているさ。

 

この試合も、大会も、何もかもが所詮は『品評会』でしかないという事くらい。

小・中学生を対象とした新選抜チームの選考を兼ねているという事くらい。

 

そして、その為に序盤から自分を含めた一軍レギュラーがフル出場しているという事くらい。

 

「いい加減あっちの選手は進以外みーんな動かなくなってきているんですから、さっさと仕留めてきて下さいよ」

「お前に言われるまでもない」

 

―――だが、アイツはそう簡単には済ませてくれない。

 

5点。

たった5点。

 

それだけしかリードを奪えず、天下の名門たる芝浦『らしくもない』試合内容。

 

やはり代表選考が関わっていると知っているレギュラー陣にとって、序盤とはいえ緊張が抜けきっていないと見える。

そして、それを知らないからこそ慧心学園の選手達はああも伸び伸びと試合が出来ているのだろう。

 

「―――が、快進撃はここまでだ」

 

掌を見る。

レギュラー陣の誰よりもボールに触れ、関わり、戦い続けてきた証がそこにある。

 

腕も、足も。何もかもが誰よりも秀でている。

全ては勝つ為。勝ち続ける為に鍛え続けてきた。

 

『勝利』こそが当然。

『鈴本』の名に、その歩んできた道に『敗北』の二文字は存在しない。してはならない。

 

何よりも――――――同じ一バスケ選手としてのプライドが、それを許さない。

 

「勝たせて貰うぞ、親友(すすむ)」

 

 

 

最終Qが始まる。

 

試合に出るメンバーだけでなく、控えも、補欠も。

皆が一様に肩を組んで、円陣になる。

 

「みんな、昼飯は旨かったか?」

 

キャプテンである夏陽の号令は、その一言から始まった。

 

「まぁ……アイツらが作ってくれた折角の差入が旨くない筈がないとは思うが、それで腹壊してる奴がいたら、多分それ作ったのは真帆だと思うから後で申し出ろ。俺が文句言っといてやる」

 

その言葉に何人かから渇いた笑いが零れる。

ノリの比較的良い深田などはこれ見よがしに「アイタタタ……」などと顔を顰めて見せた。

 

「―――手作りの御握りと応援のお陰で腹ごなしも充分、気合いも充分。後は当たって砕けるだけ、って訳か」

「水崎とかタケなら寧ろ相手を砕きそうだけど」

 

聞こえてるぞ、と夏陽がぼやく。

もう一人の関係者である進は、思い当たる節に思わず苦笑いを浮かべた。

 

「……ま、そういう事だ」

 

顔を引き締めて、夏陽が口を開いた。

 

「泣いても笑ってもあとたった十分足らず。これが終われば後で打ち上げでも何でも出来る。――――――だから、ぶっ倒れるまで走り続けろ」

 

夏陽の口元が不敵な笑みを湛える。

それは慧心の選手一人一人に伝播した様に、皆が真剣な眼差しの中に余裕すら感じられる笑みを浮かべていた。

 

「慧心学園バスケ部―――行くぞッ!!!」

 

仲間と共に。

みんなと一緒に。

 

声を張り上げて、皆が叫ぶ。

 

 

 

 

 

「これで最後だ、進」

「そうだな……このQで、最後だ」

 

センターサークルに、二人は再び相対した。

 

「認めてやろう、進。……お前は、逃げてなどいなかったと」

「………………」

「お前は環境を変えて、自分を追いこんで、それでもこうして俺の前に立ちはだかった。やはりお前は正真正銘、この鈴本憲吾の『好敵手』足る存在だ」

「……俺が、一人でそうなったと思ってるのか?だとしたら―――失望するぜ、憲吾」

 

憲吾の眉が僅かにつり上がった。

 

「俺がここまでこれたのは、夏陽が―――みんながいたから、俺は今、こうやってコートに立っていられる。バスケが出来る」

「……慣れ合いのぬるま湯のお陰だと、そう言いたいのか?」

「『慣れ合い』なんかじゃない。俺達は対等な『仲間(ともだち)』だ」

 

「だから、憲吾」と、二人の視線が交錯する。

 

「俺は―――過去の俺自身を、お前を、超える」

 

終わりの始まりを告げるブザー音が、鳴り響いた。

 



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第二十九Q 俺達が必ず

 

―――思い返すまでも無く、転校直前の水崎進にとって安条結菜は間違いなく最悪の部類に入る人間だった。

件の少女を擁護した余波が結菜の予想の斜め上を行った結果として彼をクラスどころか学校から追い出す結末となったから―――と、それだけが理由ではない。

 

進にとって、正確には彼のバスケにとって、『安条結菜』はキャプテンであり無二の好敵手であった憲吾よりも手強く、そして相容れるという妥協を許さない存在だった。

 

それが執拗なまでに自身の模倣に奔ったからとか、表裏を問わない工作活動の数々によって精神的窮地に追い込んだからとか、そういう訳でもない。

ただ単純に、進にとって彼女は『バスケが上手くても嫌い』という、それまでの彼にとって理解し得ない存在だったからに他ならない。

 

進は基本的にバスケの優劣によって対人関係を築いてきた。その為、彼はそれまでの十年少々の人生においてバスケの上手い相手を嫌いになった試しがなかったのだ。無論、下手であろうと見下す訳ではなく、単純に自分から何らかのリアクションを起こそうとしないだけであって、少なくなかった知己の中にはバスケの上手くなかった少年少女もいなかった訳ではない。

 

そこへ来て、『安条結菜』という存在が彼のそれまでの価値観を大きく変容させる事となった。

 

彼女のバスケは上手い。正確に言えば当時の女子レギュラー組と比較しても遜色ない程度には巧い、と形容出来た。

それが高さやリーチを生かした憲吾のバスケとも、スピードと天性の直感を基軸とする自身のバスケとも異なった、純粋に技術をつきつめて行ったバスケであった事が印象的で、五年生に上がった年のレギュラー入れ替え戦で垣間見たそのプレイスタイルに一時的とは云え心惹かれていた事は紛う事無き事実である。

 

では、何が原因で進が結菜を嫌う様になったのか。

 

決定打となったのは言うまでも無く兄や家族をも巻き込んだ大騒動だが、それ以前から彼は結菜と徐々に距離を置き、忌避する様になっていた。

 

それは――――――

 

「…………やっぱそーくるよな、そーだよなぁ」

 

うんざりした様な声を洩らしながら、進は自分を取り囲む『三人』の芝浦小の選手を見た。

ボールがコートに弾ける音だけが響き、ジリジリと三人のDFは一糸乱れぬ陣形で進のコースを着実に潰す。

 

小刻みにフェイントを織り交ぜても、全てを看破した様に通用しない。

 

「……研究(ストーカー)もここまで来たら呆れるよ、全く」

 

――――――彼女のバスケは、進を研究した上に成り立っているからだった。

 

 

 

 

 

『安条は女バスのキャプテンであると同時に、男バスのマネージングも兼任してるんだ』

 

徹底的に行動を制限されている進の姿を視界に収めながら、夏陽は先程の休憩時間中に聞かされた事を思い起こしていた。

 

『で、あいつは普通の奴より『目』がいいんだ』

『目?』

 

オウム返しの様に聞き返した自分に、進は一つ頷いて続けた。

 

『時間こそ多少かかるけど、あいつは相手の動きや癖とか……とにかくそういったものを徹底的に見抜いて、研究して、攻略する』

 

『硯谷の時も、相手のエースを徹底的に潰してたからなぁ……』と、知己の悪癖を懐かしむ様な声音で進は遠い目をする。

 

『だから多分、今のままだと最終Qは憲吾以外の奴にも止められると思う』

『へぇ―――――え?』

 

あっさりと問題発言をかまして夏陽を唖然とさせておいて、それを放置して更に進は『まぁ、最も』と口を開いた。

 

『―――俺が『一人』で試合をやるんだったら、っていう前提だけど』

 

 

 

「夏陽ッ!」

 

叩きつける様なパスが音を立てて迫る。

進にマークが集中した分、随分と開いたエリアに放られたボールは寸分違わず夏陽の元へと飛んできた。

 

―――慧心に進が転校してきてから間もなく行われた体育の授業を思い出す。

 

あの時も、やたらキープ力に長けていた進に相手のマークが集中していた。

そしてそのマークを嘲笑うかの様に、進のボールは何の障害もないかの様にスルリと抜けて、無人のエリアへと放られていた。

 

―――ドリブルして、シュートするだけがバスケじゃない。

 

味方に繋いで。

相手を騙して。

 

幾つもの技術があって、幾つもの戦術があって。

 

「―――ッ!」

 

中空へと跳ねあがった夏陽を追う様に―――そして数瞬で追い抜いて、立ちはだかる様に巨大な防壁が現れる。

 

――――――だが、夏陽の手元にあった筈のボールは何時の間にか消えている。

 

「ナイスパス!」

 

パスを出した事で注意のそれたDF三人を抜き去り、今また夏陽(おとり)と共に守備を離れた憲吾の妨害を受ける事無く、夏季大会限定の一般的なバスケ同様に設けられた3Pシュートがゴールへと吸い込まれる。

 

ブザー音が鳴った後、進と夏陽の掌が音を立てて重なった。

 

 

 

 

 

 

「凄(すげ)ぇ……!」

 

思わず、といった感じに昂の口から感嘆の吐息が洩れる。

 

一時は絶望的とさえ思えた試合展開は、しかし今ではどちらが勝ってもおかしくない程に切迫した状況。

そんな、極限とも云える戦況の中で研ぎ澄まされた集中力が選手達の力をメキメキと引き上げていく。

 

凡そ小学生の、それも県大会二回戦で見られる様な試合ではない目の前の決戦に惹かれるのは何も昂だけではない。

一進一退を繰り返す両者の対決に観客は沸き、歓声は止む事を惜しむ様に上げられ続ける。伝播した様な興奮は客席を幾度も巡り、留まる事を忘れて興奮の渦を巻き起こす。

 

その渦中にある実弟の姿を見、新は少し―――ほんの少し、進が羨ましく思えた。

 

打算や妥協といった、理屈的な考えを嫌った彼らしい、衝動と本能を研ぎ澄まして繰り出される行動の数々は年相応の『やんちゃ』を超えた『無茶』である様に思ってきた。これまでは。

 

だが、だからこそ彼はバスケが楽しくて仕方ないのだろう。

例えどんな事があろうと、どれ程の事があろうと、彼の根っこからバスケが離れる事は終ぞなかった。

 

逃げて逃げて逃げ続けて、弟からも家族からも友人達からも、何よりもバスケからも逃げた自分とは違って。

 

「………………」

 

向き合えば、自分もまたあのコートに立てるのだろうか?

逃げなければ、もう一度あの場所に胸を張っていられるだろうか?

 

―――傷つく事を恐れて、また打算的に物事を考えようとする自分を叱咤する様に、新は握った拳に力を込めた。

 

「…………俺は」

 

燦然と輝く太陽の様に、コートを駆け抜ける弟の姿を見て、新は静かに呟く。

大音声の歓声の中に消えたそれを拾う者は、彼の傍にはいなかった。

 

 

 

 

 

試合時間は、残り五分を切ろうとしていた。

この試合最後となる芝浦のタイムアウトによって得た僅かな休息の時間に、進は再び夏陽に声を掛けた。

 

「夏陽、まだ動ける?」

「あ、あぁ…………」

 

返事こそしっかりとしているが、その汗の量は尋常ではなかった。

問いかけている進の汗も既にタオル二枚目がずっしりと重量を増している程に流れており、持ち込んだドリンクは折り返しの時点で空となっていた。今はベンチにいた後輩が気を利かせて買ってきたドリンクを呷っている。

 

「進は……まだ大丈夫なのか?」

「ハハ……正直、結構きつい」

 

らしくもない言葉と、引き攣った様な苦笑い。

疲労の色がありありと目に見えて、それなのに随分と楽しそうに口を開くのだからこの男は本当に体力の底という物を知っているのかと、打ち上げの時にでも聞こうと夏陽は決意を新たにした。

 

「……ん。だからさ、夏陽」

「あ?」

「残り全部、夏陽は前線(まえ)で待ってて」

 

ドリンクを置いて、進は額にへばりつく髪を払う様にタオルでさっと拭いて夏陽に向き直る。

瞳には挑戦的な色をありありと浮かべて、不敵な声音がこれ以上ないくらいに頼もしい音を伴って夏陽の鼓膜を揺らした。

 

「“俺達”が必ず、夏陽の所まで繋ぐから」

 

 

 

 

 

 

『最後(エース)の時間、向こうは必ず進を軸に攻めてくるわ』

 

結菜の見立ては正しかった。

事実、そのたゆまぬ研究の全ては進をより強くする為、より高みへ至らせる為―――より輝かせる、その為だけにつぎ込まれてきたものだった。それがあったからこそ、去年は全国大会で善戦する事が出来たといっても過言ではない。

 

その研究(データ)が狂った事などない。

取り分け憲吾にしてみれば、結菜が進のバスケに関する情報で何らかの過ちを犯した事は、ただの一度として記憶にない。

 

『だからここは、鈴本キャプテンを含んだ三人で徹底的に進を潰します』

 

その戦術に自分が応と答え、監督が頷いた事で戦局は此方に傾く。筈だった。

慧心学園の破竹の勢いも此処に潰える。筈だった。

 

―――もし、何らかの誤差が生じたのだとすれば、その原因は恐らく『慢心』

 

王者である事の誇り。

知らず知らずの内に相手を侮り、見下していた。

 

「――――――だからと言って」

 

そのしっぺ返しが『敗北』という言葉と共に返ってくる事など、認可出来よう筈もない。

 

「俺達を―――」

 

正面に迫る進と向き合う―――瞬間、彼が視界から消える。

 

憲吾の腕が、唸りを上げた。

 

「王者を舐めるな!!」

 

進の十八番。

柔軟な体格と鍛え上げられた瞬発力から為される高速の『死角への』ダックインが、憲吾の怒声と共に防がれた。

 

 

 

 

 

『消失行動(インビシブル・ドライブ)』

 

進が兄から教えられた技の中で、彼が最も得意とするそれは、言ってしまえば『高速で死角を突く』ドリブルである。

小柄な全身を深々と沈みこませ、相手の視界から一瞬外れてダックインするそれは、予め予測していなければ相手には『消えた』様に見える事からその名が冠せられた。

 

尚、命名者は進ではなく彼や夏陽の自主練習を見に来ていた羽多野養護教諭だったりする。

 

身長に伸び悩む今だからこそ許された様なそれは、芝浦小に在籍していた頃にも散々憲吾を苦しめた進の切り札であった。

 

『何時だったか、夏陽と1on1やった時にも見せたよね?』

 

と言うが、そもそもこの世代No.1の呼び声高いセンターをして初見での防御を不可能としたレベルを自分に求めるのは聊か酷くないか?と夏陽が口元を引き攣らせたのは記憶に新しい。

 

が、進はこの切り札も最早通じないだろう事を予期していた。

何しろ相手は何年も自分を研究(ストーキング)してきた結菜に、散々その切り札を見せてきた憲吾がいるのだ。当然しっかりと対策が立てられているであろう事は織り込み済みである。

 

だからこそ、進は新たな対策を講じるよりもそれをより『進化』させる事を選んだ。

男女対抗戦の折に智花が垣間見せた『消失行動(インビシブル・ドライブ)』の模倣にヒントを得、進は自らを次のステップへと進ませた。

 

 

 

「―――ッ!?」

 

憲吾の顔が驚愕に染まる。

 

進から奪った筈のボールが。つい今しがたまで手元にあった筈のボールが。

気づいたその時には、進の『右手』に収められている。

 

「―――第二段階(ふたつめ)」

 

『警戒範囲』の死角からの奇襲。

意識の隙を掠め取るそれに冠せられた名は、

 

「―――『消失魔手(インビシブル・ハンド)』」

 



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第三十Q 下らなくなんか、ない

 

『―――ごめんな、進』

 

記憶の縁を過るのは、閉じゆく扉の向こうに消えて行く兄の背中。

手を伸ばす事も、追い掛ける事も出来ず、ただただ見送る事しか出来なかった、無力な頃の自分。

 

父と大喧嘩をした挙句、兄は家を飛び出した。

半ば勘当にも近かったそれは、事実それ以降の数ヶ月間に渡って進と新を隔絶し、進が年不相応なまでにやさぐれて、割と深刻な反抗期を迎える程度には十分なダメージを残した。

 

その後の兄の動向を知る由もない進は、恐らくは兄も同じ様に自分の動向を知る事もなく……或いは知ろうと、そう思わせる事もないのだろうと自己完結していた。

 

だから芝浦から転校して慧心に編入した事も、竹中夏陽という掛け替えのない友人と巡り合えた事も、湊智花という全力でぶつかりあえるライバルと出会えた事も。

 

兄は何一つ知らず、知る由もなく、知る必要もなく、その意志もなく。

 

自分の事など、最早どうでもよくなってしまったんだろう。

そう思っていた―――思いこんでいた。

 

『――――――最後まで諦めんじゃねぇ!!進ーーーッ!!!!』

 

だから。

 

だからその声が聞こえた時、進は―――どうしようもないくらい『怖く』なってしまったのだ。

 

兄の教えに反して。

兄の指導に背いて。

 

ただ自分の為に、自己満足の為だけにバスケを続けてきた自分が、今更どの面下げて兄に会えるというのだ?

失望されて、失笑されて―――再び、自分の所為で、兄が自分の傍を離れていってしまう。

 

それが怖くて、恐くて、堪らない。

 

―――もう、一人になりたくない。

―――お願いだから、兄さん。

 

――――――『僕』を、一人にしないで。

 

 

 

 

 

 

『―――兄、さん?』

 

扉の向こうに消えていった弟の最後の表情を、新は今でも鮮明に思いだせる。

父親と大喧嘩して、半ば家出同然に飛び出す事になって―――そうして、見捨ててしまった、たった一人の弟。

 

その後暫く、新は進の顛末を知る由もなかった。彼は彼であれやこれやのゴタゴタを片付けて、あっちこっちを飛び回って、漸く落ちついた頃になって叔父夫婦からそれらを聞かされて初めて知ったくらいであった。

 

弟が実家を去った事、芝浦から転校した事。そして、自主退学という名目で追い出された以上最早不成立な『後輩』という立ち位置の女子―――葵から聞かされた、新天地での彼の様子。

その一つ一つを聞いて、新は自分がどれだけ弟を追い詰めてしまっていたのかを知った。

 

進は対外的には、年不相応なまでに自分を雁字搦めに律する節があった。その原因が自分である事も新はうすうす感じてはいたが、だからといって自身の研鑽を怠る等誰よりも弟に対しての冒涜であると知っていたから彼の五十歩も百歩も先を駆け抜け続けた。

 

彼が胸を張れる様な兄に。

彼が自慢できる様な男に。

 

何時からだったか、新がバスケを続ける理由に、そんな言葉が加えられていた。

 

それが結果として弟を追いこむ事になろうと、弟なら―――進なら、きっと乗り越えてくれると、そう信じて疑わなかった。

溢れんばかりの才能に恵まれ、弛まぬ努力を惜しむ事無く――――――そして何よりも、『バスケ選手』として最も大切なモノを持っている彼なら……或いは、自分をも超えるのではないか。

 

遥か後方。姿さえ見えぬ位置に在る筈の弟の、聞こえる筈のない足音が一歩一歩近づくのを感じて。

 

―――もしかしたら、嫉妬してたのかもしれないな。

 

叶えられなかった夢を。

続けられなかった想いを。

 

何時か、自分をも上回る力を身につけた弟が、自分の辿り付けなかった遥かな高みへと至る事が羨ましくて、妬ましくて。

そんな醜い嫉妬心が、ひょっとしたら弟を突き放すという――後で思い返してみれば、何とも最低最悪な――選択に新を導いたのかもしれない。

 

『――――――最後まで諦めんじゃねぇ!!進ーーーッ!!!!』

 

だから。

 

だから口をついてその言葉が吐き出された時、新は余りにも遅く、自分の過ちに気付いて、弟の過ちを見抜いた。

 

何の事はない。

 

もしかしたら、夕餉の笑い話ですんだかもしれないささいなすれ違いが、お互いを此処まで迷い込ませて―――導いてくれたのだ。

 

―――もう二度と、俺はお前から目を逸らさない。

―――全世界を敵に回したって、俺がお前を守ってやる。

 

――――――だから、進。

 

「………………頑張れ」

 

万感の思いと共に呟いたそれは、果たして観客の声の中に掻き消えた筈だ。

それでも進は、弟は此方を見やって―――僅かに目を見開いて、途端に潤ませて。

 

やがて歓喜の面持ちと共に、コートを駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

「不思議と、負ける気がしないな」

 

滴る汗を拭い、それでもコート上に弾ける程の汗を垂らしながら、ポツリと進は呟いた。

 

「強がりは止めろ、進」

「強がりなんかじゃないさ、憲吾」

 

消耗の色を微塵も感じさせない憲吾。

全身から疲労の色が絶えない進。

 

余りにも対極で、余りにも歴然としたその差に、しかし進は喜色の絶えぬ表情で笑みを零した。

 

「点差こそ僅かだが、お前もあの男も、最早ロクに動けないだろう。どれだけ足掻いた所で、先程の試合の疲労が完全に消えたわけじゃない」

 

憲吾の言葉は的確だった。

只でさえ疲労の溜まる後半、更にその前にあれだけの激戦を繰り広げていれば、本来は現在進行形で慧心のベンチ裏で入念にマッサージを受けている選手の様に疲労困憊であるのが普通。

 

だというのに進は相も変らぬその底知れぬ恐るべきスタミナと瞬発力で未だにコートを駆けずりまわっている。それでもやはり、前半二つのQに比べればその動きは格段に精彩を欠いている。

 

「環境を自ら捨て、下らない執念に溺れたお前の負けだ。嘗ての好だ、俺自ら引導を渡してやる」

 

その台詞に。

その物言いに。

 

思わず進は笑みが零れた。

 

―――成程、これは確かに頭にくる訳だ。

 

以前似た様な事をどっかのバカが言っていたな、と思いだし、そしてそれ以上の理想論と感情論をぶちまけた大バカは今現在観客席であるからこの言葉を知る由もあるまい。

成程成程、と進(バカ)は一人納得し、不敵にほくそ笑む。

 

「……ククッ」

「何が可笑しい?」

「前にどっかの誰かさんが似た様な事をほざいていた事を思い出したんだよ。そん時にさ、何て返されたと思う?」

 

脳裏に蘇るのは、一人の『少女』―――否、一人の『バスケ選手』

同じコートに立ち、全力でぶつかりあって、思いの丈をぶちまけあって。

 

今では『仲間(ともだち)』として、あれ程必死に応援してくれている。

 

―――なら、此処で頑張れなきゃしょーもないよな。

 

自分で云った言葉をひっくり返すのはどうにも気に喰わないが、この際そこら辺のちっぽけなプライドは捨ててしまおう。

 

何せ自分は、自分でしかないのだ。

 

どれだけ仮面を被った所で、兄の様に完璧に振る舞えなどしない。

どれだけ理由を並べ立てた所で、夏陽の様に仲間の為に熱くなれない。

どれだけ激情をまくしたてた所で、智花の様に自分を強く保てない。

 

だから俺は―――僕は、ただ僕として。

この世界でたった一人の水崎進(ぼく)として。

 

ぬるま湯を肯定して、しょーもないコーチを肯定して、傷の舐め合いを肯定して……自分もその一員として、というより一因になって、他の人も巻き込んでしまおうか。

 

まぁその辺りの事はこの試合が終わってからおいおい考えればいい。

 

今はただ、言ってやらねばならない台詞がある。

 

嘗て自分に対して言われた言葉。

嘗て自分が否定した筈の言葉。

 

湿らせた唇の裏側を一舐めして、進の笑みはより不敵さを増す。

 

勝ちに拘って。

勝利に妄執して。

 

前に進むその足を止める事は許容できないが―――まぁ、多少脇道にそれるくらいなら、それも構わないと思える自分が其処にいる。

 

だから進は、ありったけの思いを込めて、しかし決して激情に呑まれた訳ではない声音を以て、告げた。

 

「―――下らなくなんか、ない」

 

囁く様に呟いて、刹那。

 

試合開始直後に巻き戻された様に両者の意地が激突し、コート上で弾け飛んだ。

 

 

 

 

 

 

進の動きが、飛躍的に速くなっている。

 

観客席の方からコートを見つめていた昂が「そんな馬鹿な」と思わず呟きたくなる様な現実に気づいたのは、試合時間も残り三分を切った時だった。

 

それまでの理論的に構築されていたと思しき無駄を省いた動きは徐々に精細さを欠き、だというのにそれを補うどころかお釣りがくるほどに上回る速度で進がコートを駆けて、跳ねて――――――以前の男バス対女バスの折に垣間見たあれが、その全貌を魅せていた。

多少は残っていた筈の論理的なフェイントやパスの一切を捨てたその動きは、まるで足枷を外して大空を舞う鳥の様に軽やかで、何よりも速い。

 

「ッ!?」

 

そんな状態で、先程傍らの人物からその構造を教えられた死角へのダックイン――後で聞いた所によると、何でも『消失行動(インビシブル・ドライブ)』という名前が冠せられているとか――を繰り出した日にはどうなるのか。

 

想像するより早く、目の前でその光景は現実となった。

 

「―――チィッ!!」

 

が、進が超小学生級というか規格外だというのであれば、試合開始直後からずっとその規格外を抑え込んでいる相手もまた相応に規格外であり、ともすれば化け物といって差し支えないだろうと思わずにはいられない。

辛うじて半身を翻し、伸ばした腕が進の手元からボールを弾く。

 

其処に芝浦の選手が寄る―――よりも速く、進は強引に殴りつける様にしてボールを虚空へと放つ。

 

「ッしゃあ!!」

 

そして、待ちわびたかの様な夏陽の声が響き、次の瞬間にはゴールネット目がけてボールが弧を描く。

 

それがネットを抜け、試合再開のブザーが鳴る―――と同時に、芝浦の選手は一斉に猛攻に至る。

言い表すならば、慧心の攻撃は斬撃の如き鋭さを持ち、芝浦の攻めは津波の様に激しい。時折津波を切り裂いて攻め上がる慧心と、それすらも飲み干さんばかりに猛々しい芝浦の攻防は一進一退という言葉がこれ以上なく相応しい。

 

或いはミニバスのルールであった場合、千日手の如く決着が見えないのではないか。そう錯覚してしまうくらいに切迫し、凡そ小学生のトーナメント二回戦とは思えないくらいに緊迫している決戦は、しかし刻一刻とその終わりが近づいている。

 

―――出来る事なら、どちらにも負けて欲しくない。

 

そんな甘言が通用しないのが勝負の世界であると云う事を痛いくらいに理解しながら、それでも昂は、そう願わずにはいられなかった。

 

「…………水崎……ッ!」

 

時間がない。

慧心のゴールが揺らされて、その点差が再び刻まれる。

 

――――――これが、ラストチャンス

 

慧心の選手がコートを駆ける。

幾度となく練習したパスが繋がる。

 

抜いて、かわして、走って、跳んで。

 

そして、ほんの数瞬。

これまで鉄壁を誇っていた芝浦のマークが、ほんの僅か、進から外れる。

 

「ッ水崎ィ!!」

 

誰の叫びか。或いは会場の声だったのか。

その言葉を受けたかの様に、ボールは予定調和の様に虚空へと舞い上がり――――――

 

ビ―――――――――!!!!

 

決着のブザービートが、鳴り響いた。

 

 



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第三十一Q 負けたく、ない

 

―――初めてボールに触れたのは、何時の日か。

―――初めてドリブルが上手く出来たのは、何時だったか。

―――初めてシュートを決めたのは、何時の事か。

 

憶えている。

思い起こせる。

 

ずっと閉じ込めていた、バスケを『楽しむ』という感情が溢れ出る。堰を切った様なその奔流は全身を駆け巡り、動きたくて、もっと試合を楽しみたくて、止まらない。

 

全ての枷が外れ、鳥の様に軽やかな足は重力から解放された様に軽く、疲労の一切を取り払った様に容易く動く。

あれ程堅牢で、手強いと思っていた筈の芝浦の選手の動きが、けれど、今はとても緩やかに見えてならない。

 

―――ずっと、分かっていて。

―――けれど、知りたくなくて。

 

兄への引け目が、ずっとしこりを残し続けていた。

 

夏陽がバスケに誘ってくれたから、正面から向かい合う勇気を持てた。

智花と全力でぶつかりあえたから、みんなと一緒に居る幸せを知った。

そして―――他の誰を以てしても補えない、この世でたった一人の兄が、『それ』に罅を入れてくれた。

 

なら、水崎進(ぼく)はどうすればいいのか。

 

揺らされた自分達のネットを抜けて、ボールがコート上に弾ける。

それを一瞬で回収した菊池が、素早くゲームを再開する。

 

嘗ての自分だったら、味方のボールであろうと強引に奪いに行って、一人で切り込んでいただろう。

 

だが――――――

 

「ッ!」

 

半分背を向けていた憲吾を、振り向きざまに抜き去る。無論、散々見慣れているフェイントが彼に通じる訳もなく、瞬く間に距離は詰められる。

その反応速度は、自他共に認めるライバルだからこそ、プライドの高さなど比ではない程に努力に修練に研鑽を重ね続けてきた実力の高さがあるからこそ可能な切り返し。

 

―――が、それこそが狙い目。

 

憲吾が反応出来るものは、概ね進も反応出来る。逆もまた然り、だ。

しかしてそれは両者が『小学生離れした』実力があるからこそのものであり、慧心は元より、地力の強さが全国クラスである芝浦のレギュラー陣であっても、それについていくのは至難の業である。

何よりの証として、芝浦に所属していた頃に進に太刀打ち出来る選手は憲吾だけであるというのはこれまた自他共に、そして横山HCすらも苦笑交じりにそれを認めた程なのだ。

 

それは現在も変わらず、恐らくは中学でも、高校でも。ひょっとしたら社会人になったとしても変わらないだろう―――と、転校という単語が脳内に全く存在しなかった頃の進はそう思っていた。

憲吾がどうであるかは全く分からなかったが、聞いた所でどうにかなる話でもないのであえて聞くつもりもなく、そしてその瞬間が全力でぶつかりあえるのであれば未来の事など知った事ではない、と進のバスケ脳は判断していた。

 

だから、進は何時か聞いてみたかった。

 

―――なぁ、憲吾

 

「ッ!?」

「ハァッ!?」

 

夏陽をマークしていた芝浦の選手目がけて突進し、次の瞬間には見様見真似で充分に再現してみせた昂のターンステップで華麗に避けて見せる。

咄嗟に憲吾も反応してみせたから激突こそ免れたものの、僅かに生じたその選手の硬直は、しかして進と夏陽にとってはこの上ない好機だった。

 

「戸嶋ァッ!!」

 

夏陽のマークが外れたのと、夏陽が声を張り上げたのはほぼ同時。

だというのに、まるで予定調和の如く夏陽の元にボールは放られ、慌ててマークに戻ろうとした芝浦の選手―――その背に、『彼』は居た。

 

ボールを持っていた時間は、恐らく一秒とないだろう。

受けた勢いをそのままに、更に加速した暴走的な速度のボールが中空へと放たれ、芝浦の選手の驚愕の表情越しに跳ねあがった進の姿が夏陽の視界に映る。

 

その手を、腕を、顔を見て。

万感の思いと共に、夏陽は叫んだ。

 

「いっ、けぇぇぇええぇーーーー!!!」

 

 

 

 

 

 

―――ボールが、来る。

 

夏陽の声が聞こえた瞬間、進はコートを抉る様にブレーキを利かせて、鳥の様に中空へと舞い上がろうとした。

夏陽が送る、最後のパスを。

 

この試合を決定付ける、ラストパスを決める為に。

 

(―――ッ!!)

 

刹那、膝が激痛と共に悲鳴を上げた。

 

そもそも、どれだけ傑出した技術を持っていようと、身体は正真正銘、まだまだ伸び代を残した『子供』なのだ。そんな身体にけた外れの負荷をかけ続ければ、どうなるのか。

答えは明瞭明確な程にハッキリと、進に現実を突き付けている。

 

只でさえ激闘だらけの連戦を続け、更に感情の高ぶりに任せて羽目を外し過ぎたツケが巡って来たと云っても良い。

それも最高最悪、この極限的な場面で、だ。

 

つくづく自分はカミサマに嫌われているのだろうか、と進はぐらりと傾く視界の中で思う。

 

思えば、色々と散々な事があった。

どれだけ全国クラスと持て囃されても、結局全国大会は去年のベスト4が最高位。しかも敗因は自分が十全に力を発揮しきれなかったからという不完全燃焼的な理由。

一家離散の口火を切ったのも自分だったか。兄からバスケを奪い、父や母を苦しめた自分が、自分だけが『楽しむ』などと、随分と虫の良い話があったものだ。

 

これは、つまりは、その『報い』という訳か?

 

―――あ

 

痛みを堪えて、強引にコートを跳ねあげて、けれど。

 

ボールが、指先のほんの少し上を掠めて、遠のいていく。

あと数センチ、あと数ミリ、腕が長ければ―――身長が高ければ――――――もっと、兄の様に飛べれば、

 

―――どんだけ足掻いたって、結局小学生並の身長じゃあ意味がないじゃん。

 

何時だったか、憲吾の小学生離れした背丈を羨ましく思いながら呟いた言葉が脳裏を過った。

バスケ選手としては聊か小さく思える自身の背丈が、体躯が、進には抗えようもない『枷』として重くのしかかっていた。

 

それを補う為の跳躍力であり、突破力であり―――そうやって誤魔化し続けても、この決定的な瞬間には、その差が顕著に現れてしまう。

ボールの軌道上、少し離れた所で憲吾が跳んでいるのを感じ取った。

 

彼は、届くだろう。

自分は、届かないだろう。

 

そして、この試合は――――――この瞬間は、終わってしまう。

 

 

 

「……や、だ」

 

終わりたくない。

終わって欲しくない。

 

まだ、終わらせたくないんだ。

 

「……いや、だ―――!」

 

憲吾がいて、夏陽がいて、兄さんがいて。

漸く『楽しい』って、そう思える様になったのに。

 

こんな形で―――!!

 

「進!!」

 

届け。

届け!!

 

「―――たく、ない……!!」

 

手を伸ばせ。

 

「負けたく、ない!!」

 

腕を伸ばせ。

 

今―――水崎進(おれ)は一人じゃない!!

 

「―――ああぁぁああぁああぁぁぁぁぁああ!!!」

 

俺には、仲間(みんな)がいる!!

 

「―――ッッッ!!!」

 

激痛が許容量の限界に迫る。

押し寄せる重力が容赦なく身体を引きずり落とす。

 

それでも――――――それがどれ程のものであろうと、その全てに抗わなければ、勝てないというのなら―――それが、たった一人の選手(てんさい)だけでは起こし得ない『奇跡』という壁だというのなら。

 

「いっ、けぇぇぇええぇーーーー!!!」

 

――――――仲間(チーム)と共に、それを飛び超えてやる!!!

 

 

 

 

 

 

その瞬間を、果たしてどれだけの人物が捉える事が出来ただろう。

 

進の手は、指は僅かに届かない―――それを判別出来た者も、実際ほんの一握りだったかもしれない。

だがそれ以上に、次の瞬間を――――――即ち、まるで虚空に足場があるかの様に足を動かし、あたかもそれが空気を蹴って更に高く、より高く、届かないと思われていたボールを下から拳でアッパーをぶちかます程に『飛んだ』瞬間を認識出来た者は、この広大な会場に何人いただろうか。

 

衆目の目には、恐らくは突如としてボールがあらぬ急角度で跳ねあがった様に見えただろう。

ボールの行く先を追う『だけ』の者であれば、それだけで終わっていた。

 

だが彼女――――――欧州リーグで以てその観察眼に磨きをかけた坂井菫には、その動きがハッキリと捉えられた。

そしてそれは強烈な既視感(デジャブ)を伴って、彼女の海馬の奥に眠っていた記憶を揺り起こす。

 

「……谷口、歩?」

 

呟きは観衆の大音声の前に霧散し、世界は誰にも均等に時間を刻みながら、しかしこの瞬間においてはまるでスロー再生の様に目の前を過ぎゆく。

 

形式や定石の一切を無視した、半ばストリートバスケからも外れた様なアウトロー極まりない前代未聞のアッパーシュートは、鋭角にも近い軌道を描きながらゴールネットへと迫り―――盛大な音を立てた後、ネットを揺らす乾いた音を響かせてコートへと落ちた。

 

瞬間、会場が爆発した。

思わずそんな印象を抱いてしまう程に凄まじい大歓声が一挙に巻き起こり、それは観客の一部を形成している自分が騒がない事がむしろ間違っているのではなかろうかと誤解してしまう程の事態だった。

誰がコールした訳でもないと云うのに観客の多くは立ちあがり、興奮を露わにして声を張り上げている。それは全国大会でも中々御目にかかれないであろう程の盛り上がり具合であり、凡そプロの公式試合と比べても何ら遜色ないであろう。

 

その渦中―――体勢を崩したのか、コート上で尻もちをついている彼の先程の姿が、焼け付く様に菫の脳裏を幾度となく過り、そして自身の深い所に根付いている記憶と不気味なくらい妙にダブって見えて仕方ない。

 

「…………彼は、一体……」

 

呟いて、それから。

戦いの決着を知らせるブザービートが、鳴り響いた。

 

 

 

 

 

――――――足が、動かない。

 

そんな笑えない事実に進が気づいたのは、立ちあがろうとしたその時だった。

体力の限界を超え、耐久力の限界を超えた無茶のツケがとうとう債務不履行に陥って、脳からの指令の一切を拒絶した。

 

―――動けよ、動いてくれよ。

 

懸命に身体を叱咤激励しても、震える様に小刻みに動くだけでそれ以上の動作はまるで起きない。

 

―――早くしなきゃ、試合が、

 

漸く上体が起きた、かと思えば足はついていかずに進は前のめりに突っ伏す。

だが、恥も外聞も気にしていられない。この際身体が動くのであれば、試合が続けられるのであればどんな様だって喜んで受け入れて見せる。

 

だから。

だから。

 

―――あと、一本

 

この攻撃を凌いで、ボールを奪って、あと一つ決めて――――――勝つんだ。

 

誰の為でもない、自分の為に。

自分達の、チームの為に。

 

はやる気持ちばかりが急く。

筋肉の代わりに鉛が詰め込まれたかの様に重い足を引きずる様にして身体を起こす。どれだけ激痛が襲い来ようと、噛み千切らんばかりに唇を噛み締めて立ちあがる。

 

身体はフラフラと安定せず、視界はぐるぐると回ってロクに機能しない。

 

―――それでも、まだ動くのなら。

 

足を踏み出す。一歩、二歩。

 

今度止まれば、倒れれば、今度こそ身体は動かなくなるだろう。

 

そうなれば、そうなってしまえば。

 

「……も、ぉ、いや……なん、っ、だっ!!」

 

止まるな。

倒れるな。

 

最後の最後まで、駆け抜けろ。

 

それが、それだけが。

自分に出来るたった一つの報い。

 

今この瞬間、誰の何でもない『水崎進』にしか出来ないたった一つのやり方。

 

「―――けん、ッ、ごォ、ッ!!」

 

悔いを残すな。

諦めを許すな。

 

どんな時でも、どんな事があっても。

兄は―――世界でたった一人の、この世で最も誇れる水崎新(にいさん)は、『後悔する』事だけは教えてくれなかった。

 

何があろうと突き進め。

どんな事があっても、自分の信じた道を往け。

 

だから――――――だか、ら。

 

 

 

 

 

 

鈴本憲吾は、どんな状況でも失われる事のない冷静さと、あらゆる事態を一瞬で『立体的に』把握しきる慧眼を以てしてキャプテンの座に君臨していた。こと、接近戦においては進に負け越しているにも関わらず、である。

だが、目の前で突如として中空を飛翔した男の登場には、流石に普段の鉄面皮を保つ事も叶わず、内心の動揺が随分と露わになっていた。

 

初めて会った時の様な、天性のセンスを超人的な直感で手繰っていたあの頃とは違う。

全国大会ベスト4に名を轟かせた時の様な、凡そ小学生とは思えない程のプレイヤーとも違う。

 

凡百の常人が及びもつかない様な才能を有し、本来であれば自分と同じ様に孤高の位置にあるべきその存在が、今は共に闘うに足る仲間を見出し―――自分の様にたった一人では辿りつく事の出来なかったその場所に、進(ライバル)は、今至ろうとしていた。

 

その結果が例えこの試合においては時間切れなのだとしても、確実に彼の一撃は自分を、自分達を凌駕した。

 

ならば、この『勝負』は――――――そこまで考えて、憲吾はこの際上だの下だのを論議する事を止めた。

そんな事はするまでもなく、こんなにも必死な彼の姿を見てしまえば、認めざるを得ないだろう。

 

時間切れ。

 

それが、たった今鳴り響いたブザー音が告げた現実だった。

 

最後のシュートは、結局2Pで計算された。

終わってみれば大接戦の54-53。

 

そう。つまりは、慧心学園は届かなかったのだ。

 

だが――――――だがしかし、それでも進の瞳に絶望の兆しは、敗北の色は見られない。

 

終わりを告げたブザー音が鳴り響いて、暫くして彼は憲吾を見て。

静かに、しかしハッキリと判別出来る程に明らかに『笑った』

 

其処には、幾百も幾千も見下げてきた敗者達に共通していた挫折の姿は欠片もなく、ただ堂々と、今にも崩れ落ちてしまいそうな程に震える脚を叱咤しながらしっかりと大地に立脚して自身をその双眸で見続ける好敵手(すすむ)の姿。

 

「……これでハッキリしただろう、進」

 

観客の大音声に掻き消されてしまいそうな程に小さな声は、しかし自分をジッと見つめる進の鼓膜を揺らしているのだろう。

その瞳は続きを促す様に、歓喜を露わにする芝浦の面々も、悔しさを滲ませる慧心の面々も誰一人映さず、正面に相対した憲吾だけを見続けている。

 

「―――お前は、俺より下だ」

 

この自信のなさは、何だ。

結果として確かに彼を打ち負かし、実績として勝利を収めていながら。

 

視線を逸らし、声は震え、冷汗は止めどなくじっとりと背中を濡らす。

 

―――それでも、俺は。

 

市立芝浦小学校男子バスケットボール部キャプテンの『鈴本憲吾』は、何があっても揺らいではならないのだ。

 

だから、彼から逃げる様にして背を向けて――――――唐突に、声が響いた。

 

「…………今は、何て罵られても構わない。それでも、これだけは言っておきたいんだ。憲吾」

「……………………」

「―――楽しかった。多分、今までで一番、楽しくて堪らなかった」

 

背に投げかけられた言葉は、震えていた。

その表情が、恐らくは涙を零しながらも必死に嗚咽を堪えているであろうその顔が、けれど自分にしてみればこの上ない『敗者(しょうしゃ)』のモノに思えて。

 

「…………フン」

 

何時か、再び交わるであろう道の先へと向かって。

鈴本憲吾は、歩き出した。

 

 



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S5 それからと、これから
第三十二Q 何か悩み事か?


 

登山の折に気をつけるべきは、登る時よりもむしろ降りる時である……とは、以前どっかの誰かが言っていた言葉が紙面に載っていたのを頭の片隅に一匙分ぐらいに記憶している。

というのも、山を『登る』という目標がある内は気持ちがピリリと引き締まっているが、それを達成してしまうと途端に気が緩んで、思わぬ怪我に繋がるからであるという警句が込められており、それを流し読みした時に夏陽はそんな事もあるのかと少しだけ気に留めていた。

 

―――そう。

多分、今目の前の彼ほどその警句が必要な人間は恐らく存在しないだろうと思い起こす程度には。

 

「み、水崎くんっ!?お水が溢れちゃってるよっ!?」

 

普段であればテキパキと仕事をこなす係当番で、何時になくぼんやりしていた進が何時まで経っても戻って来ないからおかしいと思って様子を見に来てみれば何の事はなく、水道の蛇口に兎用の水入れを突っ込んで水を出したまま、まるで彫像の様にそこで動作の一切を停止していたのだ。

お陰で水場周辺は夏本番が近付いているこの炎天下の中にあってびしょ濡れ。アスファルト周辺の気温が少し下がって良い感じではあるのだが、しかしこの水の量は幾らなんでもやり過ぎである。

 

恐らくは練習の途中で水を飲みに来たのだろう愛莉が慌てて蛇口を捻って水を止めなければ、或いは夏陽が律儀にも動物小屋で延々と作業を続けていれば、どうなっていたか。

その辺り、自分の制服が水浸しだというのにまるで他人事であるかのようにぼんやりと自身の姿を眺めている彼は全く考えていないだろう。

 

「……………………」

 

愛莉がすぐ隣で蛇口を捻って、何度か呼びかけて、漸く意識を取り戻したといった感じで進は自分の手に持った兎用の水入れを片手に持って水場を後にする――――――って、ちょっと待て。

 

「進!水が零れているっ、つうかそれじゃ水入れに行った意味がねぇっ!!」

 

中身をびちゃびちゃと零しながら歩く進を慌てて静止させて、夏陽が彼の手を取った。

 

「…………夏陽?どうしたの?」

「どうしたの……って、お前なぁ……!」

 

何だろう。この無性に殴りたくて堪らないのに良心の呵責がそれを押し止める様なこのもやもやした気持ちは。

だがそんな気持ちも、目の前の何一つ分かっていなさそうに小首を傾げる進の姿を見て何だか考えるのが馬鹿馬鹿しく思え、夏陽は大きくため息を洩らした。

 

 

 

県大会までは随分と春大名が花見に興じていたかの様に穏やかな日差しであったかと思えば、七月に入った途端夏大将が軍配片手に特攻を仕掛けて日本上空で春大名を討ち取り、あっという間に夏の燦々たる太陽がぎらつく季節となった。

この所の気温の上昇具合たるや、体育館での練習で連続して稼働出来る時間が普段の半分程度にまで落ち込む程の熱の入れ具合なのだから、時々TVで取り上げられる地球環境の問題に少しは目を向けるべきだろうかと、来る夏休みの自由研究について考えを巡らせていた夏陽は、つと隣を歩く進を見やった。

 

思えば、進が何だかおかしくなった……というより、これまでの凛とした姿勢が無残にも崩れ去ったのは、確か県大会が終わって、明けた月曜日からだったか。

週末には幼馴染二人の誕生日が控えており、練習量が普段通りに戻ったとはいえこの季節は部員達の体調を考慮して聊か練習量が減り易いから、必然的にレギュラー陣は自主錬の量を増やす必要があってそれなりに忙しい一週間だったのだが、この間の進の壊れっぷりというか崩れっぷりは凄まじいの一言に尽きた。

 

よもや夏の暑さにやられたわけでもないだろうが、どんな感じなのかというと具体的な例を彼の周辺の証言から一部上げてみる。

 

女子バスケ部のエース曰く、

『水崎君の様子?……うん、何だかいつもと違ってたよ。えっと、この間の体育の時間にバスケをやったでしょ?その時もずーっとコートサイドに座って試合を眺めてて、美星先生が何回も呼んだのに全然反応がなかったの。試合に出てからもずっとぼんやりしてて……あ、でもちゃんとパス出したり相手をかわしたりはしてたよ?』

 

氷の絶対女王曰く、

『水崎?確かにこの何日間かおかしな所があったわね。最初は漸く関西風お好み焼きの偉大さに気付いたのかと思ってたんだけど…………な、何よその目は?別に、アイツとあんまり喋れないのが寂しいとか、そんなんじゃないんだからねっ!?ただ私は、お好み焼きの素晴らしさを語りあえるのが、ってぇ!!そんなんじゃなくて―――(以下、取材対象が暴走状態に入ってしまいインタビュー続行不可)』

 

女バス一のブルジョワ曰く、

『んぁ?ずっきん?あー、言われてみれば確かにおかしいかもなー。やっぱみずっちの方が……いやでも、私的にはすっちーとかもいいんじゃないかと…………え?今話してるのそっちじゃない?つかすっちーは絶対ダメ?なんでさ!?いいじゃんすっちー可愛いじゃん!!あ、おーいアイリーン!ヒナー!こっちこっちー!』

 

学園のビックマン曰く、

『み、水崎君の事?あのね……変、っていうのかな?何だか授業中もずっと空を見てたり、教科書を開いているのに全然見てない、のかぁ……え、えっとね!あの……その…………上手く云えないんだけど、何だか前より話し易くなった気がするんだけど、話しててもあんまり聞いてくれていない、というか…………え、っとぉ…………』

 

プリンセス・オブ・プリンセス曰く

『おー?みずさき、最近疲れてる?何だか、ぼんやりしてる。うさぎさんのお世話、いつもより時間かかる。だけど、ひなはおねーちゃんだから、みずさきをちゃんと見守ってあげます。…………おー?たけなか、どうしたの?』

 

ざっとクラスメイトだけでもこんな感じである。

途中で何か色々あったが、気にしたら負けな気がするので割愛する。特に最後、おねーちゃんなのは身内に対してであって誕生日的には進の方がおにーちゃんになるんじゃなかろうかとか、その台詞に他意はないよなとかイロイロ。もし他意があったりした日には……止めよう、これ以上は心のナニカが枯渇してしまう。

 

「?」

 

上を向いて歩こう。ナニカが零れない様に。

隣を歩く進に怪訝そうな目を向けられたが、それはむしろこっちが向けるべきものじゃなかろうかと夏陽は思う。

 

―――そんなこんなをしながら、その日は二人並んで帰って行った。

 

 

 

 

 

 

金の切れ目が縁の切れ目なのだとしたら、試合の切れ目は気合いの切れ目なのだろうか。

 

久しぶりに同好会の活動に赴き、野良コートでミニゲームをやっていた昂が偶然出くわした進を見た時、最初に頭を過ったのはそんな思考だった。

 

「よっ、大会以来だな」

「…………あ。コーチですか、どうも」

 

休憩がてら声をかけた昂に、やや反応の遅れた返事を進が返す。

 

「あれ、水崎君?」

「お?なになに、そのちびっ子知り合い?」

 

と、進に気づいた葵と興味本位らしく覗きこむ一成が現れ、次いで柿園と御庄寺も此方に寄ってくる。

突然多くの年上に囲まれたにも関わらず、進はぼんやりとした眼差しでぐるりと全員を見まわしてペコリと頭を下げた。

 

「初めまして。水崎進と言います」

 

その言葉に反応を示したのは自分や葵と同じく七芝に通う一成だけだった。が、彼にしても軽く小首を傾げた程度で頭上に疑問符を浮かべるに留まり、柿園や御庄寺は早速打ち解けた様に笑顔で挨拶を交わしている。

その事に内心安堵しつつ、つと、どうして進が一人でこんな所を訪れたのかと疑問が浮かんだ。

 

「どうしたんだ?今学校から帰って来たんだろう?」

 

問うが、何故か進は小首を傾げて問いかける様な眼差しを向ける。

質問してるのはこっちなのに何故か此方が問われている様な気分に見舞われた昂は軽く苦笑を浮かべつつも、そのバックの中にバッシュとユニフォームが入っているだろう事がその膨らみ具合から察しがついた。

 

「……なぁ水崎、この後時間あるか?」

「…………はい。まぁ」

「じゃあさ、良かったら3on3でミニゲームやらないか?」

 

 

 

で。

 

「センセー。ほんとにこの組み合わせでいいのー?」

 

構図的には女子対男子で別れた格好になり、小学生とバスケの実力の低い一成が同じチームで大丈夫なのかと問う様な柿園の声が響く。

……まぁ、その隣で進の実力を知る葵が苦笑いを浮かべているのを見れば、むしろ此方の方がこの組み合わせで良いのかと聞きたいくらいなのだが。

 

「細かいルールは普通の試合と同じで……そうだな、取りあえず時間は五分でいいか?」

「………………え、あぁ。はい、それでどうぞ」

 

何処か上の空気味な進に問いかけると、ややあって返事が返ってくる。

 

その様子に若干の違和感を覚えつつも、目の前の葵にボールを渡し、葵もボールを返してゲームが始まる。

 

「水崎!」

 

様子見がてら、他の三人にも進の実力を教えておくのがフェアだろう。

そう思って進にボールを放った昂は、ゴールに対して半身になりながら進の方を見やった。

 

「悪いけど、ブチョーとチーム組んだ以上、手は抜けないんだよ、ねぇっ!」

 

と、其処に柿園が両手を大きく広げたまま詰める。

 

―――って、それは幾らなんでも悪手だろ。

 

――――――キュ、キィ。

 

「へ?」

 

昂の危惧をずばり的中させるかの様に、進は軽くステップを踏んだかと思った、途端に加速して柿園の懐を抉る様にかわす。

 

「―――っ、たくっ!ショージは昂マーク!!ゾノ!何時まで呆けてんの!?」

 

その動きに反応出来たのは、予めその実力を知っていた昂や葵だけだった。

一成ら初見の者達は一様に驚きに目を見開いて、或いは何が起こったのかさっぱり理解出来ていない表情を浮かべて硬直していた。

 

――――キキキィッ!!

 

「ッ!?」

 

リズムを狂わせる様な不等間隔な歩幅から詰めるべき距離を見誤った葵が僅かに距離を開かれた瞬間、進を遮るモノは何一つ存在せず、

 

――――――シュ

 

何時か見た、しかし普段の彼『らしからぬ』智花の様に綺麗なフォームで放られたシュートは、そのままネットを揺らした。

 

 

 

その後、何度かのセットを繰り返して小休止を挟んだ折に、昂は進の隣に腰かけた。

付き合いの長い葵はそれだけで昂の意志を機敏に感じ取り、進に話しかけようとしていた柿園と御庄寺を特訓と称してコートに連行、次いでとばかりに一成の首根っこも掴んでいった。

 

「何か悩み事か?」

 

前置きを省いて問いかける。

 

「…………別に、そういう訳じゃないんです」

「じゃあどうしたんだ?いつものお前らしくもない」

 

大人しく、何処か気の抜けたプレイ――とはいっても、結局止められたのは葵とマッチアップした時や二人以上に囲まれた時とかそれぐらいだったのだが――は、普段の進らしからぬ様相。それでなくとも、あの大会以前にはその双眸に燃え盛らんばかりに宿っていた明瞭明確な闘志足る何かが決定的に抜け落ちて、今の進はまるで抜け殻の様に気だるげ……いや、上の空だった。

 

心此処に在らず、といった所だろうか。

突き抜ける様な空の青さと相反する様な鬱蒼としたもやもやが立ちこめているであろうその胸中を垣間見るべく、昂は進の言葉を待った。

 

「…………」

「…………」

 

長い沈黙が降りた。

凡そ外界の清々しさとはかけ離れた、いっそ沈痛にすら感じられる無言の空間は、しかしてややあって漸く決意を固めた進の言葉によって打ち破られる。

 

「…………長谷川コーチ」

「何だ?」

「……コーチには…………いいえ、コーチになら、話してもいいと思うんです」

 

ジッと、進の双眸が昂を捉える。

その奥に僅かに見え隠れする色を探る様に視線を重ねる昂に、進は言葉を重ねた。

 

「―――『あの日』の事、兄さんの事。………………それに、僕の事」

 

並々ならぬ決意を窺わせる声音が、昂の鼓膜を揺らした。

 

「―――僕の、本当の両親の事を」

 



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第三十三Q お前自身の夢は

 

谷口歩。

 

恐らく、現在日本の第一線で活躍するバスケットプレイヤーにおいてその名を知らない選手はほぼ皆無といってもいい。

高校生にしてバスケットボール全日本代表に選出され、同年の世界大会に出場。大学時代にはインターカレッジにて優秀選手賞を受賞し、卒業後には日本リーグでMVPに輝くなど数々の功績を残し、五輪にも出場して世界的にその名を轟かせた。

最多得点記録、MVP受賞回数などにおいて未だに日本バスケットボール界の頂点に君臨する数多の名選手に数えられながら、しかしてその身につけられた名は「不世出」或いは「無冠の帝王」。

 

その所以は、輝かしい個人成績の裏に隠れた『チーム』としての実績にあった。

高校から社会人、そして五輪に至るまでに彼が残してきた記録の多くは『個人』のものであり、『チーム』としての優勝、或いは日本一に輝いた事は一度もない。

在籍したチームが弱小であった訳ではない。しかし大和大を筆頭とする天下の名門を相手取るに、彼個人ならば兎も角チームの地力が足りなかった学生時代、野球の様に当初からプロリーグとして充実した設備やスポンサーが用意されていた訳ではない彼の選手人生中期から最盛期に至るまでのバスケットリーグの現実などが、事あるごとにその類稀なる才覚の芽を摘み取って来た―――つまりは、生まれる時代を違えてしまった悲運の天才、と世間に囁かれてきたのだ。

 

そして彼が悲運たる最大の理由。

それは、ことバスケットボールにおいては世界でもトップクラスとまで謳われた天才の、余りにも呆気ない最期に由来する。

 

 

 

 

 

 

「僕が本格的にバスケを始めたのは、小学校に入ってからでした」

 

述懐する様に進は口を開いた。

夏の日差しは休憩の為に日除けを設けられたベンチすら容赦なくかんかんと照りつけ、頬を撫でる様に吹き抜けた風がやがて来る季節を告げる。

 

その流れに逆らう様に、彼の言葉の一つ一つは冷たく閉ざされた記憶の世界へ向かい、語られるのは厳冬さえも生温い過去。

 

「その折に、親戚の一人にこう言われたんです」

 

『やっぱり、血は争えないわね』

 

「初めは、兄さんの事を言っているんだと思ってました。…………けど、何年も続けていく内にぼんやりとではあったんですが、違和感が生まれてきたんです」

 

血は争えない、というのであれば、自分と兄のバスケには何らかの共通点が生まれて然るべきなのに―――そのスタイルは個と全を象徴するかの様に対極。

 

余りにも違う。

決定的な程に、何もかもが。

 

「…………多分、五年生の時には僕は、1on1であれば……兄を、水崎新を超えていたんです」

 

究極的なまでに『個』の才覚に突出した自身のバスケ。

圧倒的な程に『全』の力を引き出す事に長けた兄のバスケ。

 

歳月を重ねる度、その違いは顕著に現れていった。そしてそれは彩色の黒白と等しく、余りにも違いすぎた。

 

そしてそれらの疑念が進を追いこみ、苦しめた。

 

兄を愚直なまでに、いっそ神格視とさえ思われる程に敬愛していた進にとって―――何よりも、兄の教えを誰よりも叩き込まれてきた自分が、その兄と異なっていて良い訳がない。

そんな事は、あり得てはならない。

 

慣れないチームプレイは結果として時間の浪費以外の何者でもなくなり、個の力で我武者羅に押し通してきたプレイスタイルも結局は徹底した研究の元に看破され、全国の頂を掴む事は叶わなかった。

 

全てが負の連鎖に結び付く混沌の中――――――全ては『あの日』へと繋がる。

 

 

 

 

 

「こう見えても僕、以前は結構友達とかいたんですよ。その内の一人に、一年生の時からクラスメイトで、ずっと女バスのレギュラー争いに参加していた子がいたんです」

 

だから、と進は継げる。

 

学校や部活の中でその子を含め、友達と遊ぶ時は大抵バスケだったコト。

自宅の近くの公園で遊ぶ事が主で、折を見ては兄を誘って遊んでいたコト。

そして―――それが兄とその子とを結びつける、自覚なしのキューピッド的な役割を果たしていたコト。

 

それら全ては、あくまでも偶発的なものでしかないのかもしれない。

 

だが結果としてその子と兄は戯曲さながらの大騒動を繰り広げる事となるコトを、当時の進は知る由もなかった。

 

「…………五年生に上がった時、初めてその子とクラスが別れました。その時から―――いや……もしかしたらずっと前からだったのかもしれませんけど、その子は『いじめ』の標的にされていたんです」

 

他ならぬ、そのレギュラー争いを繰り広げていた少女―――安条結菜の指図の元に。

 

「四年生の時点で、安条はレギュラー候補の中でも断トツの実力を持っていました。その時は誰もが、彼女が次期レギュラーに、女子バスケットボール部のキャプテンになるだろうと思っていたんです」

 

だが、運命の天秤は彼女には傾かなかった。

 

六年生の引退に伴う部内の次期中核(レギュラー)選手発表の時、横山HCが指名したのは『個』の実力に秀でた安条結菜――――――ではなく、水崎新同様に『全』の力を引き出せるその少女だった。

 

「横山コーチの指導方針は、既に個の力押しから総合力での安定に転換されていたんです」

 

だからこそ、進もまたキャプテンに指名される事はなかった。

前衛の主軸ではなく、後衛から全体を広い視野で見渡せるもう一人の司令官―――鈴本憲吾に、その白羽の矢が立ったのだ。

 

水崎進は、それを納得して受け入れた。

だが安条結菜は、その決定を不服としたのだ。

 

どうして実力で劣る彼女がキャプテンなのだ、と。

どうして実力の勝る進はキャプテンではないのだ、と。

 

一年生の時から――進は知らなかったが――進を誰よりも尊敬し、いっそ崇拝に近い念を抱いていた安条にしてみれば、この結果が二重三重に苛立たしかった。

 

『あの女は進の指導の元で技術を高めたのだ。だというのに、どうして進は選ばれずにあの子は選ばれる?―――どうして、バスケの実力の高い私はその指導を受けられず、実力の劣る彼女はその指導を受けられる?――――――どうして、どうして――――――――どうして、安条結菜(わたし)ではない?』

 

憎悪、嫉妬、忌避。

ありとあらゆる負の感情の全てが、その時その瞬間に爆ぜた。

 

 

 

「…………そして、時期を同じくして兄さんも苦しんでいたんです」

 

進の握られた拳の中で、爪先が掌に喰い込む程に力強く握られる。

己の無力を、不明を恨むかの様に、言の葉がゆっくりと紡がれた。

 

「兄さんは、周囲の勝手な期待や信頼に押しつぶされそうになっていたんです。バスケの才能だけを求められ、まるで勝つ事だけが存在意義であるかの様に……そんな周りの身勝手に、けれど、兄さんは答え続けたんです」

 

如何にエースと褒め讃えられようと。

如何に天才と謳われ誉れ高かろうと。

 

その身は未だ二十歳にも満たぬ子供。己の在り方を決める事すら儘ならぬ、大人が導かねばならぬ迷い子。

 

だと、いうのに。

 

「…………僕は、そんな兄さんの気持ちに気付けなかった。自分のことだけしか見えなくて、自分の事しか考えられなくて、周りの事に何一つ関心を向けなかった」

 

その怠慢が、傲慢が招いた惨劇。

己が招き寄せた、絶望の底なし沼に囚われて、そして―――

 

 

 

 

 

 

「―――『僕は、結局兄さんの本当の弟じゃないんだ。結局、本当の水崎の子供じゃないんだ』」

 

家族の崩落に終止符を打った、あの日あの時の言葉。

救いを求めた訳でもなく、ただ在るがままを呟いたそれが。凄惨な仕打ちの中、呻く様に呟いたそれが。結果として彼を地獄から掬い上げた。

 

「……父さんも、母さんも、泣いていました。何もかも、気づくのが余りにも遅すぎて、手遅れで、間に合わなくて。それでも、何度も、何度も、うわ言の様に繰り返すんです。『ごめん、ごめんね』って」

 

そうして、自分の身は叔父夫婦の元へと引き取られた。

友に捨てられ、居場所を失い、家族をばらばらにした自分が―――自分だけが、安息の逃げ道に至った。

 

「……他にも、色々と気づく要素はあったんです。転校の時の戸籍だったり、小さい時の写真がなかったり。だけど僕にとって父さんも母さんも一人ずつしかいなくて、誰よりも大切な兄さんがいて―――それが全てで、それで全てだったんです。それなのに、僕は僕自身の手で、僕自身の言葉で、その全てを壊したんです」

 

壊れてしまえれば、どれだけ楽だっただろう。

何もかもを捨ててしまえれば、どれ程幸せだった事だろう。

 

「――――――でも、慧心(ここ)に来て、出会ってしまったんです」

 

あくなき夢を追い続ける少年に。

才能も実力も兼ね備えた少女に。

 

その存在が、進を踏みとどまらせた。向き合わせた。そして、立ち向かわせた。

 

もう二度と、同じ過ちを繰り返さない。

もう二度と、あの悲劇を起こさせない。

 

 

 

「夏陽と一緒に戦えるなら、湊の未来が閉ざされない為なら、どんな事だって構いません。もう二度と、僕の所為で僕の大切な『仲間』の夢が潰える所を、見たくないから」

 

何人にも侵せぬ大望を語るかの様に紡いで、進は大きく息を吐いた。

 

其処に在るのは、凡そ小学生の身の上とは結びつかぬ程に強く、何よりも硬い信念。

不退転の決意をありありと語るその姿は、いっそ堂々とした風格すら漂わせた。

 

「…………なぁ、水崎」

 

だからこそ、昂は希求してやまなかった。

余りにも激しく、故に儚く思えるその激情の炎が燃え尽きる前に。冷徹にして強靭な、己の内に猛り狂う獣を抑えつける程に強い意志が崩れる前に。

 

何よりも先ず、問うておきたい事があった。

 

「―――お前自身の夢は、何なんだ?」

「………………僕、自身の?」

「お前の決意は分かった。その意志の強さだって、これまでのお前の言動だって、大体は納得がいった。だから、聞いておきたいんだ」

 

どうしてお前は、そんなにも『強く』あろうとするのだ、と。

 

「そんなに苦しんでまで……そんなに悲しい思い出を背負ってまで、どうしてバスケを続けるんだ?水崎先輩の事とか、昔の仲間の事とか、智花や竹中の事とか、全部抜きにして、お前に何が残ってるんだ?」

 

進の原理は、須らく『仲間』の為であり『家族』の為であった。

それら全てを取り除いた時、果たして何が残っているというのか。その空虚な器の中に、何があって――――――何を以て彼は、此処まで強くなる事を選んだというのだ、と。

 

「…………僕が、バスケを続ける、理由……ですか」

 

虚空を彷徨っていた視線が、ただ中空の一点を捉えて動かなかった。

ゆっくりと、己の内と向き合う様にその言葉の一字一句を噛み締めながら、進は、やがて―――

 

 

 

 

 

「あれ?水崎君、もう帰っちゃったの?」

「ああ。流石に帰宅途中で長居し過ぎたって」

 

特訓上がりなのか頃合いを見計らったのか、葵が歩み寄って来た。見やれば何やらコート上に死屍累々というか死期目前的なナニカが三つばかり転がっているが……まぁ気にしたら今度は自分の番な気がするので昂は全力で無視する方向に決めた。

 

「……どうしたの?」

「何が?」

「何が、って……そのニヤけた顔はどうしたんだって聞いてんの」

 

言われて、昂は漸く自分の頬が緩んでいる事に気づいた。

慌てて引き締める様に頬の筋肉を引っ張ってみるが、こういう時に限って中々上手くいかないもので、ふと見ればその百面相もどきを覗き見たと思われる葵がプルプルと笑いを堪えているのが見える。

 

「っ、葵!」

「ゴメンゴメン……ッ、プッ、クッ、アッハハハハ!!」

 

夏の太陽に馬鹿みたいに似合う哄笑が公園に響く。

咎める様な脹れっ面を浮かべていた昂も、やがてその笑い声に感化された様に口元を緩め、やがて夏場の公園に男女一組の笑い声が木霊した。

 

 

 

―――僕にとって、父さんは目標で、憧れで……言葉じゃ言い表せないくらい、とても高い場所にいる人なんです。

―――だからその人に追いつく事が、追い越す事が夢……といえば夢なんです。

 

少年は語った。

己の胸中と向き合う様に、強かに笑みを湛えながら。

 

―――だけど、そんなものよりもずっと大切なものを、僕は与えられてきたんです。

―――それは笑っちゃうくらいちっちゃな事かもしれないけど、僕にとっては何にも代え難い大切なものなんです。

 

 

 

『夢』とは少しだけ違っていて。

『理想』とは大分かけ離れていて。

 

 

 

―――僕の父さんがバスケ選手だったからといって、僕が同じ舞台に昇れる保証なんて何処にもないけれど、

―――だけど、僕の夢を笑わずに応援してくれた父さんや母さんや兄さんの、その思いを無駄にしたくないから、

 

 

 

それでも、失って初めて気づく何よりも大切な『コト』に気づいた彼が掲げた『目標』は、

 

 

 

――――――僕は、僕自身が一番大好きなバスケを、ずっと続けて行きたいんです。

 

 

 

余りにも素朴で、純粋で。

それでいて途方もなく壮大なものだった。

 



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第三十四Q 手が痛いです

 

7月18日。

 

祝日である海の日に合わせて、慧心学園ではこの月曜日から夏季休暇へと突入する。

連日のカリキュラムや放課後の部活から解放された児童達が、大会等に向けた自主錬などで各々研鑽に励む時間を大々的に確保出来ると同時に、私立故に、という訳でもなかろうがそれなりに多く用意された課題に辟易とする児童の数も結構なものである。

 

とはいえ、夏休み。

この単語に胸を躍らせないのは、余程内部進学に拘る極々一部の人間だけだろう。

 

「―――ッ!!」

「水崎!」

 

そう。

 

「そこっ!!」

「真帆っ!バックアップ!!」

 

例えば、こんな風に。

 

「ハッ!」

「ッ!?」

 

―――キュキキキキィ!!!

 

――――――パスッ

 

自主錬(マイペース)に精を出す類の人間には、特に。

 

 

 

 

 

 

5月に行われた男女対抗戦を以て、男バスと女バスの練習日はそれぞれ三日ずつと割り振られた。とは言え、男バスは6月から7月にかけて地区大会と県大会という大きな大会にぶつかった関係で多少の融通を受け、女バスは女バスで男バスが練習する前の体育館で軽く練習した後、コーチである昂や顧問の美星の引率の元、学外の野良コートを利用したりするなどして練習時間を上手く活用しあう事で双方が協力関係を築いていた。

 

その影響からなのか、それとも個々人の内縁関係なのかはさておいて、男バスキャプテンの夏陽と男バスエース格の進は、県大会終了後から度々ではあるが女バスの練習に招かれる様になっていた。

内容的には試合を想定した『仮想敵』として、智花を始めとした女バスの面々のレベル及びスキルアップを目的としており、マンツーマンの場面における対応やより高いレベルの敵とぶつかった際の攻略法などを実戦形式で叩き込む…………というのは美星指導の元に昂が苦心して捻りだしたでっち上げの『表向き』の理由。

 

表があれば、当然裏もあるわけで。

 

女バスは現在の5人のままでは公式試合に参加する事は出来ない。この事実は真帆や紗季などの初心者組には未だに明かされておらず、部外者である所の進や夏陽は空気を読んだのか当人達の問題なのだからと静観を決め込んでいる。

 

そうなると、これまでの様に『VS男バス』や『球技大会』といった大きな目標がなく、かといって先日の県大会で随分と対外試合意欲が刺激されてしまった慧心学園の打ち上げ花火こと真帆が毎日の様に二言目には「試合、試合」と急かす為、その場しのぎの苦肉の策として打ち出したのが今回の進と夏陽の招聘である。

美星の目論みは以前の対球技大会用強化合宿の時と同様『水崎進友人計画ver.Ⅱ』であり、昂の打算は『レベルアップに託けた時間稼ぎ』だ。

ミニバスの試合は24分、既に終了しているが夏季大会だと中高生クラス同様の40分。これだけの時間を最後まで戦い抜くにはもっともっとレベルアップが必要だ―――と語って聞かせた昂の言葉をそのまま呑み込んだ真帆達は、僅かばかりの良心の呵責を噛み締める昂を余所に練習に打ち込んだ。

 

実はこの二人以外にも今回の招聘について思う所のある人物が女バスの中にいるのだが、それが誰なのかは推して知るべし。

 

で、招聘。

 

男バスの練習のない日だというのに態々バッシュその他一式を持ってきた進と夏陽、それに昂や智花といったバスケ経験組の少数徹底指導によって、この二週間足らずで女バスの面々の実力は見違える程に上達していた。

その勢いたるや、美星をして「メタル○ングでも狩り漁ったのか?」と言わしめた程である。

 

そんな事をしている内に日は巡り、間もなく夏休みへと突入しようかという日の、その放課後。

 

「おーっい、ずっちー」

 

半日授業を終え、今日は男バスも女バスも練習日ではなく、更に夏陽の自主錬すらもないというないない尽くしで午後の予定がぽっかり空いていた進がどうしようかと考えを巡らせていた時、やけに間延びした猫っぽい声が背中に届いた。

 

振り向いて見ると其処には何故か真帆と紗季が居て、何やら用事があるらしく呼んだ「ずっちー」なる呼称が誰のモノであるのかと視線を巡らせて、しかし廊下に自分と彼女達以外誰もいない所を考えるにそれは自分の呼称なのかと思い至り返事を返そうと思った時には既にずずいっと顔を寄せた真帆の顔が其処にあって思わず進は後ずさった。

 

夏陽とセットの時には度々見かけるし声もかけられる事の多い真帆でも、こうして自分が一人だけの時に声をかけられるというのは割とレアなケースで、そう言えば今日は夏陽の奴随分と慌てて帰ったけどどうしたんだろ、と友人のここ数日の妙にそわそわした雰囲気を回顧して訝しむ様に疑問符を浮かべていると、真帆が「むーっ」と何故か脹れっ面を浮かべながら口を開いた。

 

「こらずっちー、あたしの話聞いてんの?」

「真帆、顔寄せ過ぎ。水崎が少しひいちゃってるじゃない」

 

呆れたような声を洩らす、真帆のお目付け役兼手綱握り兼女房役の紗季。この組み合わせは毎日の様に目にしている。

異質なのは、その二人が進『だけ』に声をかけた事だった。

 

進の友人である夏陽とこの二人が幼馴染である、という話は以前進も聞いた。それ故に遠慮のない真帆と夏陽は何かと張り合い、その度に紗季が調停に入るというのは最早恒常化しているといっても過言ではなく、だからこそその夏陽がいない時にこうして声をかけられるというのは進にしてみれば意外以外の何物でもなかった。

 

「どうしたの?」

「この間話したでしょ?夏休み始まったら、真帆の家の別荘に遊びにいかないかって」

 

言われて、記憶を探って…………と、そう言えばこの間の合同練習の終わりに三沢がそんな事言ってたっけ、と思い起こした進が得心した様な表情を浮かべると「やっぱり忘れてたか……」とでも言いたげに胡乱な目つきで紗季が溜息を洩らした。

 

「それで、それがどうしたの?」

「『どうしたの?』じゃなくて!だから、今日の放課後はその時に必要になりそうなモノをみんなで買いに行こうって言ったでしょう!?何で何時まで経っても来ないのよ!?心配して探しに来ちゃったじゃない!!」

「そーだぞずっちー!ナツヒがいないから携帯の連絡先も分からないし、大変だったんだぞーっ!?」

「え、と…………ごめんなさい?」

 

はて、そんな約束しただろうか。

記憶を探ってみても自分がそういった類の約束事に了承の意を伝えた覚えはまるでなく、とはいえどうやら彼女達はその約束を律儀に守っていたが為に何らかの不都合が生じてしまった様だから取りあえず謝っておこう、と進は軽く頭を下げた。

 

と、下げた頭よりやや遠い進の腕を取って真帆が急かす。

 

「んな事いーから、ほら!さっさと行っちゃおうよ!」

「待ちなさい真帆。水崎、取りあえず携帯出して」

「どうして?」

「あのねぇ……今回みたいな事にならない様に、今後はちゃんと連絡取れるようにしとかないと不味いから言ってんのよ!ほら、携帯出して!」

 

半ばひったくる様にして進の鞄から携帯を取り出した紗季は、しかし案の定というか当然の予防というか起動画面のパスワードロックで止まってしまい、進の鼻先に突き付けて「さっさと開けろ」と無言の要求をし、律儀にもそれに応えた進が手早く暗証番号を打ち込むと再び紗季の手元に携帯が渡る。

 

と、ふと好奇心に駆られた紗季が、未だ進の腕を引っ張る様にして急かす真帆とそれにたたらを踏みながらもついていく進を余所に、悪いとは思いながらも『連絡帳』を開いた。

開いて、しまった。

 

「………………………………」

 

登録件数とその登録先を見て、暫し硬直。心なしか瞬間的に愛用の眼鏡にピシリと亀裂が入る様な幻聴が聞こえた。

その様子のおかしさに気づいた真帆と進が「どうしたの?」と問い掛けるが、紗季は答えない。答えられない。

 

ややあって、先程までの明朗快活なまでの喋りっぷりからは到底かけ離れた重々しい声音で、

 

「…………水崎」

「何?」

「…………うん、あれよね。やっぱ何かあった時の為に、ね?一応女バスのみんなのアドレス入れておこうと思うのよ。うん、きっとみんなも良いよって言ってくれる筈だから、ね?だから私が代わりにみんなの分入れといてあげるから、真帆と一緒にちょっと先に行ってて貰える?」

「……うん、いいけど」

「んぁ?どったの紗季、顔色悪いよ」

「えっ!?べ、べべ別にだだ、大丈夫よ!?そ、そうよ!わた、私は、ち、ちっともおかしくも、な、なんともないから!うん!!」

 

怪しさ爆発にも程があるが、こういう時の彼女に深入りすると後が怖い。というか面倒くさい、という事実を経験則から知る真帆は暫し考え込む様な表情を見せるが、やがて納得したのか進を引き連れて廊下の向こうに消えていく。

その背を眺めつつ、改めて紗季は手元の携帯に目を映した。

 

「……………………」

 

登録件数と、登録先を、改めて見やる。

そうして、深い深い溜息を洩らす。

 

「…………うん。ちゃんとみんなに確認取ってから入れて、グループ分けぐらいしといてあげとかないと」

 

永塚紗季。

本人の意図せぬ所で生じる生来のお節介好きと律儀さと、やたら強い好奇心が巡り巡って彼女を苦労人に追い込む、何とも残念というか自業自得的な体質を持つ小学6年生であった。

 

 

 

 

 

女三人寄れば姦しい、というのは昔時の言葉だが、では女が四人五人寄ればどうなるのだろうか。

新しい漢字や慣用句を創作する意欲も取り立てて沸かない進は、隣で苦笑気味な顔を浮かべつつ自分と同じく荷物持ちに甘んじている昂の方を見やって、先程からあれこれ思いついたモノを買いあさる様な女子達を見やって、肩を竦めた様な息を洩らした。

 

買い物に来たのは女バスの五人と進、そして引率を担当する昂と来賓の葵、計八名。

内六人は女子であり、比率的に二割五分を占める男子は何時の間にか荷物持ちとなる事が決定し、気が付くと進は両手に満員ラッシュ時のつり革もかくやと言わんばかりに荷物をぶら下げていた。

 

何でこんなことに、と進は思う。

 

しかし此処で何か意見を言えば、必然的に皺寄せは残り一人の男子となる昂に向かう。そして既に歩く事すら覚束ない程に荷物を持たされている昂に「そんな事しないよな?お前は裏切らないよな?」とでも言いたげな切実な視線を向けられてしまえば、根がお人好しで善人というより苦労人気質な進が言う言葉を失うのは当然で、結局女子達が楽しく仲良く買い物に勤しんでいる間、進はずっと黙然と荷物持ちに甘んじていた。

ただ、その間も雲海の如く増え続ける買い物の量に昂が愕然とした表情を浮かべ、流石に普段から表情の変化が富んでいると言い難い進ですらも、それ程露わではないにしてもやや引き攣った様な笑みを湛えた。

 

道中、申し訳なさそうな顔を浮かべていた智花や愛莉には昂が軽く笑んで「大丈夫」と言って安心させたが、それを見て妙に不機嫌になった様な葵のどっさり買い込んだ荷物を積み上げられて、一瞬にしてそのスマイルが凍ったのは言うまでもない。

そしてその余波を受ける格好となった進が冷や汗を浮かべたのも言うまでもない。

 

 

 

「手が痛いです」

 

なので帰り路をたまたま一緒にした折、隣を歩く昂にぼやく様に言った進を責める謂れは、当然ながら昂にはなかった。

 

「ハハ……まぁ、その分明後日からの旅行を楽しめばいいじゃないか?」

 

言うが、先程から両腕を擦る様な動作を見せる昂の顔も若干引き攣っていた。

 

「明日一日空けたのは、その準備の為ですか」

「ああ。何でも明日はみんなが水着を買いに行くとか言ってたけど…………」

「誘われたんですか?」

「誘われた、けど断った」

 

乾いた笑みをたたえつつ、昂は回顧する。

「悩殺してやるぜっ!」とか意気込んでいる真帆の笑顔とか何やら怪しい笑みを浮かべている紗季とか見るからにテンパリまくっている智花とか愛莉とか良く分かっていなさそうなひなたといった純真無垢(?)な面々の実に魅力的な誘いではあったが、仁王立ちして阿修羅の形相を浮かべて背後に煉獄の炎を滾らせている幼馴染の姿を見止めた瞬間昂は顔を真っ青にしてブンブンと首を横に振った。

 

初めこそその返答に文句をぶー垂れていたり翻意を促そうと努力する者がいたりと、女の中に男が入って余計騒々しくなる場合果たしてどんな漢字が相応しいのだろうかと考えながらその様子を正しく他人事として傍観していた進は、最終的に「ま、明日はアタシもいないし仕方ないかっ」と珍しく先に折れた真帆の言葉を皮きりに押し切る格好でどうにか回避に成功した昂の苦労を優しく労わった。

 

(とはいえ……)

 

昂はふと、そんな進の様子を盗み見ながら記憶を揺り起こしていた。

 

思い返すのは、県大会終了直後。

昂が、新と最後に言葉を交わした瞬間だ。

 

 

 

 

 

 

コート上で互いに礼をする両陣営に惜しみない拍手が送られる中、つと新が踵を返すのを昂は横目で捉えた。

 

「水崎先輩っ!」

 

観客がその健闘を讃える会場を余所に、外へと繋がる連絡通路を歩く新の背を、昂は呼びとめる。

 

弟に、進に何か声をかけてあげないのか。

 

そう、問おうとして、しかしそれよりも先に新が口を開いた。

 

「……なぁ、長谷川」

「はい……」

「……もう少しだけ、進の事を頼む」

 

一瞬、昂が言葉に詰まった。

 

「やっぱりさ、このままじゃあアイツに合わせる顔がねぇんだよ。どんだけ情けなくて、カッコ悪くて、逃げてばっかりの卑怯者で、それが本当の俺なんだとしても……いや、本当の俺だからこそ、このままアイツに会う訳にはいかない。アイツが自分で自分の殻を破った様に、俺も変わらなくちゃいけないんだ。世界中を敵に回してもアイツを最後まで守りぬける『家族』として、どんな事があってもアイツが胸を張れる様な『兄貴』として、このままじゃいけない。いられないんだ」

 

「だからさ」と新は続ける。

 

「もう少しの間だけ、進の事を見てやっていて欲しい。随分遠回りしちまったけど、こっから先はもう逃げない。全部向き合って、ぶつかって、乗り越えて、必ず―――必ず、進を迎えに行く。アイツが帰って来れる場所を、俺達『家族』の居場所を、絶対に取り戻してくる」

「……その言葉、直接言ってやった方が喜ぶんじゃありませんか?」

「馬鹿言え、んな恥ずかしい真似が出来るか」

 

少しだけムキになった様な口調で新が言うと、昂にはその姿が拗ねた調子の進に良く似て見えた。

やがて新は向けていた半身を翻し、外へと歩いていく。

 

「……あぁ、そうだ。ついでに一つ、伝えといて貰えるか?」

「いいですよ。何ですか?」

「―――今度は一緒に、バスケしようぜ」

 

言われた瞬間、思わず昂は言葉を失った。

 

その台詞が進に向けてのものなのか、それとも――――――と、考えている間に新の背は遠くなる。

 

その背中は何処か大きく見え、本来あるべき強さと誇りに充ち溢れていて。

何時か憧れた『水崎新』の姿が、今の彼に重なって見えた。

 

 

 

後で合流した時、進や夏陽は何処となく目元が赤くなっている気がしたがそれについては敢えて触れず、昂は先の新の言葉をそのまま進に伝えた。

 

結果から言えばそれはタイミング的に完全無欠に失敗であり、恐らくは既に泣き腫らしていたのだろう進はその言葉を聞いた瞬間に色々と溜まっていたモノが溢れかえる様にぽろぽろと涙を再び零し始め、やがて人目を憚る事を忘れた様に嗚咽を洩らしてしまった。

それが屈辱の涙ではなく感涙の類であった事は明白であるとは言え、第三者視点から見れば年端もいかない敗者を高校生が詰って泣かせた様にしか見えず、事実その様に見えたのだろう遅れてきた美星がその光景を目にした瞬間に昂に踏み台なしでのシャイニングウィザードを叩き込んだ事は、ある意味当然の帰結と云えた。

 

そして罰として美星に荷物持ちを命じられた昂が諸々の重量を積載し、その前を歩いていた小学生達を見やって―――或いは、隣を歩いていた美星も同様の意見を抱いただろう。小さく笑みを湛えた。

真帆やひなたが賑やかに、愛莉と紗季が保護者の様にみんなを見守りながら、智花や夏陽と歩調を合わせて。

進は、これまで見た事もない様な穏やかな表情で帰り道を歩いていた。

 

 

それが、数週間前の話。

 

 

智花や美星から聞いた話では、あれから進はクラスの内外でも随分と打ち解ける様になったらしい。

これまでの斜に構えていた様な態度は徐々に緩和されて、少しずつではあるがこれまで全く面識のなかった相手とも会話が増えている、とは美星の弁だが、担当する生徒の事に関しては普段とかけ離れて真摯な叔母の言であれば疑う余地もなかった。

 

そして、それは彼の本来の姿なのだろう。

 

これまで進を縛りつけていた様々な事が、自分や智花、そして夏陽と関わる事で一つ一つ解かれていって、兄の言葉が彼の一番奥に根差していた楔を引っこ抜いた。

それは新にしても同様で、美星の言葉が、進の姿が、バスケに対する姿勢が新を自分自身と向き合わせた。

 

そうした幾重にも絡んだ人と人の縁が、時に人を追いこみ、そして成長させる。

 

ならば、きっと―――誰もが、変わらずにはいられない。

戻ろうと進もうと、変わる事を拒む事は出来ないのだ。

 

だから、

 

「……水崎」

「何ですか?」

「今度の旅行、楽しもうな」

 

一瞬キョトンとして、ややあって浮かべた笑みを噛み締める様な緩やかな表情が、

 

「……ええ、まぁ調整代わりに有意義に利用させて貰いますよ」

 

昂には何時かと違って、年相応に幼く見えた。

 



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第三十五Q あの瞬間から私の人生は始まった

 

『―――……はいはーいっ、久しぶりねリカ!』

「相変わらず元気そうね、アレックス」

 

電話越しに響く、耳をつんざく様な陽気な声音に菫は僅かばかり眉に皺を寄せつつ、久方ぶりに声を聞いた『戦友』の健勝加減に少しばかり頬を緩めた。

 

「所で、いい加減その『リカ』って呼ぶの止めない?」

『なによー、親しみと愛情を込めた私のニックネームが気に入らないっていうのー?』

 

『リカ』というあだ名は、彼女の名前である菫の学名でも、特に花そのものを指し示す場合に用いられる『マンジュリカ』からとったものである。

日本の知識に疎い彼女が、しかし戦友とは云えあだ名一つの為に態々図書館まで足を運んで調べたのだと知った時、感極まったのは記憶に未だ鮮明に残っている。

 

ついでにそのまま『イロイロと』はっちゃけてしまったのも記憶に新しかったりする。

 

「……貴女、もしかしなくても酔っぱらってるわね」

 

子供の様にぶー垂れた声音に拗ねた調子でそっぽを向いているだろう姿を想像し、思わず、といった風に菫はクスクスと笑みを零す。

と、集音器がその微笑を拾ったのだろうか。電話越しにアレックスの声音が更に拗ねた様なものになった。

 

『なによーっ!ふんだ、いーもん別に!後でタイガをいびって発散してやるんだから!』

「あら、私と違ってまだ純情(ウブ)な子供(チェリーボーイ)に手を出すなんて。とんだ悪女(ショタコン)ね、アレックス」

 

所々、まだ日本語に疎い彼女に分からない様に副音声を交えながら少し演技を混ぜて言ってやるが、

 

『……ねぇ、リカ。もしかして今、ジェラシー?』

「 ア レ ッ ク ス ? 」

 

無論、親しき仲にもなんとやら。

日本の精神を忘れぬ菫は、悪乗りを目論んだ親友にしっかりと釘を打ちつけた。

 

『それで?どーしたのよ一体』

「ええ…………ちょっと、頼みたい事があってね」

 

声を業務用のそれに変えて、菫は口を開いた。

 

 

 

 

 

 

話は数日ほど前に遡る。

 

県大会が終了し、しかし女バスとの合同練習に進や夏陽が招聘される少し前。

最近の進の、心此処に非ずといった雰囲気に夏陽が疑念を抱いていた頃の事である。

 

「「「有難うございました」」」

 

その日、男バスは全体的に軽めの練習メニューを終えて小笠原顧問に挨拶していた。後は片付けをして帰宅途中に軽く自主錬をするのみとなっていた夏陽の放課後の予定は、しかし思わぬ所から瓦解した。

 

「ああ、水崎……と、竹中。片付けが終わってからで良いから、後で視聴覚室に来なさい」

 

小笠原顧問の言葉に夏陽は何事かと振り返り、次いで進の何を考えているのかよくわからないぼんやりとした表情を見て、どうやら何事なのか理解が追いついていないらしい進の様子に一抹の安心感を覚えた。

これで実は進だけ先に何かあると聞かされていたら、進のスポークスマン的立ち位置は返上せねばなるまい、今更この仕事を誰かに押しつける気にもならないし、もし仮に希望者が居たとしても譲る気はさらさらない……と、こういう性分が何かと面倒事を背負い込むんだよなぁ、と夏陽は軽く自嘲気味に笑みを零した。

 

見やれば他の面々も「おいタケ、何やらかしたんだよ」とか、興味本位で口を挟んでくる。戸嶋や菊池といった、進と比較的コミュニケーションを取れる六年生は進の方に聞きに行ったりしているが、あのバスケとお好み焼き以外の殆どの事象について無反応無関心を地で行く進が相手ではその成果も芳しくない様だ。

 

兎も角、知りもしない事柄についての追求を避ける為に筆舌を繰り広げつつ、いつもより喧騒が二割増しで遂行された片付けを終えた後、夏陽は進を伴って視聴覚室へと向かった。

 

「…………」

「…………」

 

まだ女バスの練習に招聘される前だった事もあり、この時の道中は恐ろしいくらいの無言だった。ただ廊下を歩く二人分の足音だけが無人の校舎に響き、やや傾きかけた太陽が眩しいくらいに差し込んで、間もなく訪れるであろう季節の到来を待ち切れずにフライングしている様だ。

 

「何なんだろうな…………」

 

階段を上がる途中、夏陽は進に向けた訳でもなく独り言の様に呟いた。

 

「分からない……けど」

「けど?」

 

口ごもる様に進が続けて、

 

「……どうして、態々『視聴覚室』なんだろう?」

「……わっかんねぇ」

 

端的に呟いて、それっきり再び無言。

 

結局、視聴覚室に着くまで両者の間で実のある会話が交わされる事はなかった。

 

 

 

 

 

「来たか。そこに座りなさい」

 

視聴覚室に着くと、小笠原顧問は機材の準備を整えていた。

映写用のスクリーンの前には、学校設備の映写機ではなく8ミリタイプのフィルムが置かれている。足元には幾本かのコードが幾つもの筋を描いており、踏まない様にと注意しながら二人は座席に腰かけた。

 

「先生、あの…………」

「水崎、お前に見せたいモノがある」

 

言って、小笠原顧問はフィルムのスイッチを入れた。

 

「―――これは一般には出回っていない、指導用のテープなんだ」

 

 

 

 

 

谷口歩。

その名を告げた瞬間、電話越しのアレックスの雰囲気が一変したのを菫は感じ取った。

 

「貴女も憶えているでしょ?日米合同で行われた、全日本選抜(JBAドリーム)対全米選抜(NBAドリーム)の試合」

『……ええ、忘れられる訳がないじゃない』

 

その声音は、歓喜と興奮を力尽くで無理やりに抑え込もうとした様にくぐもっていた。

 

数年後のオリンピックを控えて、日本とアメリカの両協会が合同で開催したエキシビションマッチ。

 

当時のアメリカ勢でも屈指の超一流スタープレイヤーが数多く参加したこの試合は、日本とアメリカで計五戦戦ってアメリカ勢の全勝。そのけた外れの実力を内外に示した試合として今でも名高い。

 

わけても評判が高いのは、日本開催の第二戦。

 

「あの時、私はまだ小学生だった……父に連れられて、初めて見た生のバスケットボールの試合」

 

懐かしむ様に、何処か温かな口調で菫は記憶の海を漂う。

 

今でも鮮明に、鮮烈に思いだせる瞬間がある。

プロとして、幾多の試合で名勝負を繰り広げてきた今でも、尚。

 

あの興奮と情熱を忘れた事は、一度とてない。

 

『試合は4Q全てでアメリカが圧倒……当然、そのままNBAドリームが勝利を収めた――――――けど、その事よりも、あのシュート』

 

―――圧倒的大差に、誰もが敗北を疑わなかった第4Q。

パスコースを塞がれた中で、長身の相手DFすらも届かない様なハイボールをゴールに叩き込んだ、全日本の背番号5番。

 

決して長身であった訳でも、体格に恵まれていた訳でもない。

それでも尚、最後まで諦めなかったあの姿は、今でも瞼の裏に焼きついて離れない。思い起こす度、胸の奥が熱くなる程に、あの時あの瞬間は、余りにも鮮烈だった。

 

『―――“虚空(そら)を歩く男”、だっけ?あのシュートは、こっちの新聞でもデカデカと載ったわよ』

 

当時、まだ世界レベルではマイナーの域を出ていなかった日本のバスケットボール界が一気に注目を浴びる事となった全五戦の試合の後に開かれたオリンピックでも、日本勢は健闘。

結果こそ芳しくなかったが、世界的にその名を知らしめる切欠となった。

 

「あれから随分と経って、男子のプロリーグが設立されて数年…………最も、オリンピックへの出場は、モントリオール以来途切れているけど」

『彼が生きていたら、今頃は最年長選手か……監督かしら?どっちにしても、今よりも日本のバスケがメジャーになっていたのは疑いようがない、だっけ?』

「ええ……本当に、今でもそう思うわ」

 

事あるごとに口走っていた言葉を聞かされ、噛み締める様に菫は呟いた。

 

―――けど、今でもハッキリと云える事がある。

 

「『紛れもなく、あの瞬間から私の人生は始まった』」

 

ピッタリと図った様に合わさった声音に、どちらともなく笑みが零れる。

 

第一線を退いた今でも、やはりこの人とは息が合う。

言葉にこそ出さなかったが、二人は胸中で同じ事を思っていた。

 

 

 

 

 

 

「谷口歩は、当時最も将来を嘱望されたエースの一人だった……交通事故で夭折するまでは、な」

 

解説をする必要もないだろう。

告げながら、進を見やった小笠原顧問はその表情から容易に察した。

 

恐らくは、今まで一度も見た事がなかったであろう実父のバスケ。

ゴールに対する『嗅覚』、あくなき『情熱』、『執念』。一つ一つの動作から、進はそれらを機敏に感じ取っているのだ。

 

でなければ、これ程眼を爛々と輝かせて、興奮に身を震わせる事はないだろう。

 

「プレーを見るのは初めてだろう?」

「……は、い…………あの、先生」

「校門の施錠は五時だ。細かい機材が多いから、片づけは明日私がやろう」

「はい……っ!」

 

声を僅かに震わせながら、進は食い入る様に映像の虜となる。

 

息子として、一人の選手として。

興奮冷めやらぬ様子の進を見やり、夏陽を伴って視聴覚室を後にする。

 

少しばかり不服そうな夏陽ではあったが、それも進の様子を見れば納得した様な表情を見せ、邪魔をしない様に扉を閉める。

 

「…………父、さん」

 

閉める間際、室内から僅かに洩れでた、震えを振り絞った様なか細い声音を、しかし小笠原顧問も夏陽も、『何も聞こえなかった』と記憶した。

 

 

 

 

 

帰り道、進は何処か上の空だった。

結局、施錠五分前になっても戻らない進を迎えに来た夏陽に引きずられる様にして学校を後にした進は、その足で訪れた公園で昂達とミニゲームを数本やって―――昂との対話で、自分の内を見つめ直して見た。

 

「…………」

 

どこまでいっても変わらない『水崎進(ぼく)』という本音。

 

――――――僕は、僕自身が一番大好きなバスケを、ずっと続けて行きたいんです。

 

「………………」

 

偽らざる本音を吐露して、進は陽の傾きかかった空を仰ぎ見る。

なんやかんやと随分と遅くなってしまった。連絡の一つでも入れておいた方がよかっただろうかと思いつつ、先日紗季が女バスの面々のアドレスを登録した事で登録件数が倍以上に膨れ上がった連絡帳から叔父夫婦の自宅番号を選んでコールする。

 

と、電話口に出たのは叔父夫婦の穏やかな声ではなく。

 

『―――……ああ、進か?』

「ッ!?」

 

兄、だった。

どうして、と問おうとして、しかし余り動かぬ口を必死に開こうとして―――それよりも早く、新の言葉が進の鼓膜を揺らした。

 

『出来るだけ早く帰ってきてくれ。叔父さんの家に俺と…………親父と、お袋が待ってる』

 



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第三十六Q 行ってきます!

今回にて『ロリータ・コンプレックス』、完結で御座います。


 

水崎孝一は、扉を開けはなったまま硬直した。

 

「久しぶりだな……孝一」

「え、ええ…………」

 

随分と久しぶりに感じる兄夫婦と、頬を真っ赤に腫らした甥っ子の新。何処か憮然としながらも落ちついている兄がそのまま自宅へと入り、次いで兄嫁は少し困った様な表情を浮かべながら兄の後を追う。

 

玄関先に残ったのは自分と、何処か安堵した様な面持ちの新だけだった。

 

「進はまだですか?」

「あ、ああ……それより、どうしたんだ?その顔」

 

まるで殴打の痕の様に酷い有様の甥っ子の顔を見て引き攣った表情を浮かべていた孝一に、しかしさして気にした様子もなく新は「ああ」と小さく呟いて、

 

「親父と……元、顧問にそれぞれ手痛いのを喰らいまして」

 

はは、と乾いた笑みを浮かべながら、しかし何処かさっぱりした様相で新は告げた。

 

「この二週間程、あっちこっちを駆けずりまわって、色々な事に俺なりにケジメをつけてきたんです。だから……まぁ、これは犯した罪の証であると同時に、一種の勲章なんです」

 

口調こそ軽いが、果たしてそれがどれだけ想像を絶する過酷な事であるか。

 

言葉を失っている孝一を尻目に、新もまた靴を脱いでリビングへと向かった。

 

進がまだ練習から帰ってきていない旨は既に孝一の妻が話したのか、ソファに腰掛けて茶を啜る父親を見、新は向かいのソファに座った。

 

―――そして、こうやって一つの卓を一緒に囲むのも随分と久しい事なのだという事を思い出して、何処か感慨深いものを感じていた所に、

 

「…………新」

 

重々しい声音で、健介が新の名を呼んだ。

 

「……進は、『どう』だった?」

「―――あいつ、は…………進は、優しい奴だから。ずっと迷っていたんだ。バスケを続けたいっていう欲求と、迷惑をかけちゃいけないっていう意識の間に板挟みになって。誰にも相談出来ずに、ずっと一人で抱え込んでいたと思う」

 

―――心の何処かで、自分が養子である事への遠慮を感じながら毎日を送っていた義弟(すすむ)の事を、自分は気づいてやれなかった。

 

自責する様に呟いた新を見て、つと、健介は記憶を思い起こす様に一人の男の名を呟いた。

 

「…………谷口歩は、気持ちのいい青年だった。自分はバスケしか知らないから、子供と遊ぼうと思うと、自然とバスケに触れさせてしまうんだと、そう話していたよ」

 

妹の遥がバスケ選手と結婚すると言った時、真っ先に反対したのは父母ではなく、長兄である自分だった。

当時のバスケ界といえば、まだまともな体制すら整っていなかった、凡そ現在のプロとはかけ離れた状態だ。経済学部を進み、世の中に対して冷めた視線を送っていた健介にしてみれば、それはまともな職業であるとは到底思えなかった。

 

だが、時を経て歩の人となりを知る内、最初は猛反対していた自分も、それぞれに娘の幸せを願う事から難色を示していた両親も、最後には結婚を認める―――つもり、だった。

 

「そう思い始めていた矢先の事だったよ。彼と、彼を見送る為に一緒に車に乗っていた遥が事故に巻き込まれて、二度と帰らなくなってしまったのは」

 

それは、新の記憶にもあった。

白い棺の中に眠る一組の男女、そして母の腕に抱かれた、まだ幼すぎる甥っ子。

 

彼を引き取った頃から、だっただろうか。

それまで相応に理解を示してくれていた父が、自分がバスケを続ける事に難色を示し始めたのは。

 

「私の中では、あの時からバスケは悲しみと同義だ。お前や進がバスケの道を歩き続ける度、私には『あの』光景が思い起こされてしまう」

「…………けど、あの娘との事に、そんな事は関係ない。それに、進だって……ッ!」

 

口を開こうとした新は、しかし父の顔を見て踏み止まった。

そこにあったのは、嘗て勘当寸前にまで怒声を張り上げた顔でも、数カ月ぶりの再会の第一声代わりに拳を叩き込んだ時の顔でもなく、

 

「――――――だが……そろそろ、自分で決断(きめ)させてもいい頃だ」

 

何処か誇らしく、そして寂しげに笑う顔だった。

 

 

 

 

 

 

電話越しに兄の声を聞いた進は、電話が切れた直後に坂を転げ落ちる勢いで駆けだして居候先である叔父の家へと向かい、息をぜぇぜぇと切らせながらリビングへ転がり込んだ。

 

余りの登場っぷりに目を見開いた兄や―――本当に久しぶりに見る父と母の姿に、進は息を整えるのも忘れてまるで言葉になっていない何事かを吐き、かっ喰らう様に水を飲みほしたかと思えば親子共々隣の和室に座った。

 

そこは普段進が寝起きしている場所で、室内には勉強用の小さなテーブルとバスケに関する用具が数点、それに着替えやら何やらが種類別に置かれており、凡そ男子小学生らしい漫画とかゲームの類は一切存在しなかった。

 

荷物を置き、息を整えた進は着替える事もせずに制服のまま父と向かい合う様に正座し、兄の新は進より少し後ろ、母は父の後ろにそれぞれ座った。

 

「……少し、背が伸びたか」

 

数か月前、幾度となく自分を殴りつけてきた父の第一声は、驚く程に落ちついたものだった。

 

「その所為か、随分と大人びて見える…………元気そうで、安心したよ」

 

謝る事も、責める事もない。

そんなモノは今更言葉にする必要もなく、しっかりと伝わっているのだ。

 

『俺の叶えられなかった未来を!!続けられなかった夢(バスケ)を!!今お前が叶えようとしているんだッ!!!俺は夢を諦めたんじゃねぇ……!!お前の夢を、俺の!俺達(かぞく)の夢にしたんだよッ!!』

『今度こそ俺が守ってやるからッ!!世界中の人間がみんな背を向けたって!!今度は絶対に俺が最後までお前の傍にいてやるからッ!!』

 

あの時の兄の言葉は、今でも進の中にしっかりと刻みつけられている。

だから何一つ、恐れる事はない―――そう語る様な進の瞳を見て、健介は自然と笑みを零した。

 

「孝一や新から聞いたよ……お前がウチを出てからの事、転校先での事、それに……試合(バスケ)の事」

「………………」

「私達の知らぬ間に、お前はどんどん先を往くな……進」

「……父、さん。僕……」

 

―――それから、進はポツリ、ポツリと語り始めた。

それは決して巧みな弁舌でも御大層なスピーチでもなかった。だがその言葉の一つ一つには、進がこれまで進んできた自分の道の、バスケに対する想いの数々が力強く込められていて。その一方で、父である健介の意向に沿いたい、迷惑をかけたくない……それらの感情が多すぎて、進は途中から収集がつかなくなるくらい八方に飛びながら、それでも決して口を止める事はなかった。

 

「……御免なさい、父さん、母さん」

 

一区切りつける様に進はそう言って、膝の上に置いた自分の拳をギュッと握り締めた。

 

「――――――けど、僕は自分の気持ちに嘘をつきたくない。僕は、バスケをしたい。楽しくて、嬉しくて仕方がなくて……ずっとずっと、続けて行きたいんです!」

 

懇願する様な声で紡がれたそれを、しかし健介はピシャリと遮った。

 

「そう思っている子はごまんといる。だが、誰もがプロの選手になれるわけじゃない。お前は自分自身に、そんな世界に昇れる様な素養があると思うのか?」

「分かりません……けど!やってみなくちゃ……!」

「よしんばプロになれたとして、そこは実力が全ての世界だ。誰も彼もが一流のスターになれるわけじゃない。華やかな舞台に立てる極一部の選手の裏で、夢破れて消えていく選手は沢山いる。誰も助けてくれない、自分一人の力でやるしかない!『好きだから』という気持ちだけでやっていける様な、甘い世界じゃないんだぞ!」

 

諭す様な口ぶりの健介に、進はただ小さく頷いて、言った。

 

「―――例え“僕の父さんがバスケ選手でも”、僕自身がそうなれる保証は、何処にもないよね」

 

その言葉に、健介も由美も、そして新も言葉を失った。

 

――――――父さんがバスケ選手だからやりたいんじゃない。

 

「……それでも、やりたいのか?」

「―――うん」

 

進は、胸を張って頷いた。

 

――――――僕自身が、バスケを好きだからやりたいんだ!

 

 

 

 

 

『バスケ選手なんて不安定で何の保証もない。そんな君が、妹を幸せに出来るのかね?』

 

その、底抜けに優しい笑顔を浮かべた男を、健介は知っている。

 

『……お約束出来ません。けど遥さんの為にもバスケは捨てられません。すみません』

『はぁっ!?このっ、ぬけぬけとッ!!』

『―――生き物は呼吸が出来ないと死んでしまう。僕にとって、バスケとはそういうものなんです』

 

自分の事を『お義兄(にい)さん』と呼んだ、あの男とよく似た顔だ。

 

―――嗚呼、歩くん。この子はやはり、君の子だよ。

 

あんな顔を見せられてしまえば、もう反論の仕様がないではないか。

あれ程幸せそうな、底抜けに優しい笑顔に、太刀打ち出来る道理は何処にもないのだ。

 

「そう、か…………なら、私からはもう何も言わん」

「父、さん……?」

 

―――こんな男を、変わらず父親と慕ってくれる、か。

 

咄嗟に呟いた進の言葉に、健介は咳払いを一つしてから続けた。

 

「お前の人生は、誰かに決めつけられるものじゃない。自分自身で決める事だ、やるなら徹底的に、最後までやり抜きなさい。但し、泣き事は一切聞かん!中途半端にしようものなら許さんから、そのつもりで―――」

「父さんっ!!」

 

感極まった様に、健介の言葉を遮って進が抱きついた。

久しぶりに触れる進の身体の成長ぶりに感慨染みたモノを感じながら、しかしこの場には他にも妻とか息子とかの視線があるのだから、と思い直して慌てて進を引っぺがそうと健介はその肩を掴む。

 

「こら進っ!離れなさい!!」

「クッ、フフッ……アッハハハハ!」

「新!由美!お前達も見てないで……ッ!」

「あらあら、いいじゃない。久しぶりの親子のふれあいなんですもの」

 

言いながら、由美はすっくと立ち上がった。

自然とその先を追った進と目が合って、由美は柔らかく笑む。

 

「進……親はね、子供には幸せになってもらいたいの。出来る事なら苦労をさせたくないって、そう思ってしまう生き物なの――――――けどね?本当は子供が元気でいてくれさえすれば、それだけで充分なのよ」

 

抱きしめてやれる訳ではない。

この腕が、口が、幾度となく傷つけてしまった息子に触れて良い筈がない。

 

それでも、

 

「……母、さん」

 

進は、甘える様に呟いて由美に抱きついた。

その様子を見て健介と新は一足先にリビングへと戻り、叔父夫婦が用意を始めていた夕食の支度を手伝う。

 

暫くしてリビングに二人が出てきて、随分と大人数で食卓を囲んだその晩。その家から団欒とした声が途切れる事はなかった。

 

 

 

 

 

 

水崎進の朝は早い。

 

朝方の走り込みとシュート練習の為に毎朝五時半に起きて、六時までに準備体操を含む諸々の準備を終えなければならないからである。兄と毎朝続けてきた習慣が早々抜け落ちる事もなく、早起きの癖ばかり残っていた時期もあったが、最近は再び以前の練習メニューで朝練を開始した事でむしろ必然的要素の一つになったと云える。

 

とはいえ、今日ばかりはその練習も半ば程で打ち切らざるを得なかったりする。

 

「えーっと…………よし。忘れ物はなし、っと」

 

溢れんばかりの情熱の矛先であるバスケをより向上させる為にも、偶にはしっかりと身体をほぐして伸び伸びと遊ぶ事も大事である、とは新の言であり、何よりもこの合宿には夏陽や湊といった慧心学園に来てから出来た『友達』に誘われて行くのだから、進のテンションも自然と右肩上がりの坂道を描いて止まなかった。

 

「忘れ物はない?」

「うん。昨日もちゃんと確認したし、さっきもしっかり見たから大丈夫」

 

夏休みに入った直後、進は久しぶりに我が家に戻った。

とはいってもそのまま住める訳ではなく、両親はこの夏休みの間に慧心学園に近い方に引っ越す事を決めていたらしい。

 

その影響もあってか、自宅だというのに荷物を叔父夫婦の家から持ちこんでそれを合宿に持って行くという何度手間だか分からない手間をかけていたりしているのだが、それでも進の機嫌は実に御機嫌だった。

 

「ふぁ~……ぁ?進、どっか行くのか?」

「うん。今日から友達の家の別荘で合宿」

「……へぇー…………」

 

小学生の分際で別荘持ちとかそれどんなブルジョワああ慧心て金持ちの子供が多いんだっけウチの部活の合宿所なんて貧相な建物だってのになんだってんだこれが社会格差ってやつか畜生め、と新が二秒間の間に呟いた内容を知る由もなく、進は靴ひもを結んで荷物を持った。

 

新だが、後で進が聞いた所驚くべき事に駆け落ちした例の女子小学生と共に従兄の借りているマンションにそのまま転がり込んでいたらしく、先日の顔の腫れの半分はその事で向こうさんと揉めた、との事であった。

だが親の反対を押し切ってロミオとジュリエット染みた大騒動を引き起こしただけあって、その時の元顧問とその娘の口論は最早怒髪天を衝きぬける勢いだった、とは新の弁。

 

最終的に二人の交際については、新が最後の一線を踏み越えていなかった事や女子生徒がいじめから逃避する為に新に縋っていた等の諸々の事情が考慮されたのか、女子生徒が高校を卒業するまで、新はしっかりと自立するまで、二人の意志が変わらなければ前向きに検討するという確約を取り付けたらしい。

今は両名とも実家に戻り、新はこの夏休みの間に今後の身の振り方を考えるらしい。無論、バスケはこれからもしっかりと続けると語っており、その時に進が喜色に破顔したのは想像に難くない。

 

「先方さんにご迷惑をかけないようにな」

「はーい」

 

玄関先まで見送りに来てくれた父親も、以前の伝手を頼りに立ち直りつつある。元々休職扱いだった事もあって仕事先こそ困らないが、復帰してからの信頼回復が大変だ、と苦笑交じりに呟いていたのを進は憶えている。

 

だがそこに新を責める様子は見られず、家族はそれぞれに自分の事としっかりと向き合って前に進もうとしていた。

 

そして、夏休み初日。

進は先だっての約束通り、真帆の実家が所有する別荘に遊びに行く所だった。

 

「気をつけてね」

「何かお土産あったら買ってこいよー……ふぁ~ぁ」

「くれぐれも、迷惑をかけんようにな」

 

三者三様も良い所だ。

 

 

 

―――だが、こんな風に朝の一時を迎えるのも、本当に懐かしい。

 

 

 

と、考えている間にも時計は出立予定時刻を二分ほど過ぎていた。

 

少しだけ名残惜しさを感じつつ、進は家の扉を開ける。

 

満天の青空に輝く夏本番を告げる様な太陽の日差しに、自然と笑みを零しながら――――――

 

「―――行ってきます!」

 

水崎進の新しい日常は、始まりを告げた。

 

 




Qえ? これで終わり?
Aはい。これで終わり。


という感じで、ファーストシーズン完結でござい!


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