愛縁航路 (TTP)
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Ep.1 末原恭子のモラトリアム
1-1 噂に聞く名は、麻雀仮面


 つい一週間前までは咲き乱れていた桜もすっかり散って、四月も半ばを迎えようとしていた。厳寒であった今年の冬を引き摺ってか、肌寒さが抜けきらない。ゴールデンウィークを明ければ温暖になるであろうという気象庁の見通しを信じる他ないが、のほほんとそれを待つ余裕など、彼女にはなかった。

 

 彼女の名は、末原恭子。

 大阪出身、現住所は東京都。

 齢は二十歳、東帝大学教育学部所属の三年生。

 そして、同麻雀部部長。

 

 その立場が今、彼女を思い悩ませていた。

 講義の終わりを教授が告げ、講義室に弛緩した空気が訪れる。学生が一斉に文具を片付け、鞄を背負う。椅子の引く音と喧噪が混じり合う一方、しかし恭子はその場から立ち上がれずにいた。

 

 隣で共に講義を受けていた学友の一人がふと気付き、座したままの恭子へと声をかける。

 

「どうしたの恭子。早く行かないと学食混むよ」

「え、ああ、うん。今日は食欲ないからパスで。うちのことは気にせんでええから先行って」

「そう? あんまり無理すると倒れるよ」

「大丈夫大丈夫、軽いダイエットみたいなもんやから」

 

 ふぅん、と学友は頷いてから、

 

「そうだ。次の土曜日にみんなで温泉行こうって話あるんだけど、恭子予定空いてない?」

「あー……」

 

 一応、手帳をめくってから恭子は答えた。

 

「ごめん、練習日やから」

「そっかー、残念!」

「毎回ごめんな」

「恭子が付き合い悪いのは一年のときから慣れてるよー」

 

 何も言い返せず、恭子は愛想笑いを浮かべるしかできなかった。学友たちはさして気にする様子もなく、手を振って講義室を去って行く。友人に恵まれているな、と恭子は一人溜息をついてから、重い腰を上げた。

 

 教育学部の講義棟を出て、恭子は人の流れに逆らってキャンパスの南を目指す。ふと後ろを振り向けば、学生食堂には既に長蛇の列が生まれていた。食欲がないのは正直な回答であった上、今更あそこに並びに行くのも気が滅入る。昼食への未練はすっかり消え失せていた。

 

 このキャンパスに通う学生は軽く一万人を超える。当然全員が常にキャンパス内にいるわけではないものの、外を歩けばひっきりなしに人とすれ違う。

 

 不思議なもので、そんな中でもすれ違う相手が新入生かどうかの判別にはすぐにつく。高校生らしさが抜けきらない初々しさというべきか、大学生活への希望が溢れんばかりというべきか。ともかく、顔をみればすぐに分かってしまう。

 

 ――二年前はうちもあんな感じやったんかなあ。

 

 恭子はそう、自問する。答えは明白であるのだが。

 

 広いキャンパスを歩いて五分ほど。

 辿り着いたのは、キャンパス南の一角を支配する部室棟であった。

 

 部室棟は比較的新しい、いわゆる「新館」と、耐震設計に不安が残る「旧館」の二つが並んで建っている。恭子が足を踏み入れたのは、旧館であった。

 薄暗い館内は、冷房器具もないが陽の光が差し込まずひんやりとしている。これが夏ならばまだ良いが、冬は足元まで寒くて仕方ない。スプレーでの落書きのせいで、壁は本来の色がよく分からない有様である。一体いつの時代のものなのか、いまいち恭子には分からない。

 

 旧館三階、階段を上がって右手の突き当たり。

 そこが、現在の東帝大学麻雀部の部室である。

 

 ドアノブに鍵を差し込むが、錠は既に下りていた。――先客がいる。恭子はゆっくりとノブを回した。

 さほど広くもない部室の数少ない自慢は、綺麗に整理整頓されていることだろう。やや埃臭い廊下と違って、室内の空気は清浄だ。入って左手側の本棚には、麻雀関連の蔵書――大半が部員の持ち寄りである――が整然と並べられている。部屋の中央に鎮座するのは、一つだけの全自動卓だ。年代物だが、代えは利かない。卓の傍には、部員の一人が持ち込んだファンヒーターが設置されている。

 

 本棚とは逆、右手側のホワイトボードだけが最近買ったもので、ヒーターを除けばこれが一番真新しい。赤字で踊る文字は、「目指せ! 関東一部リーグ!」。

 

 そのホワイトボードの手前には、ミーティング用の長机が二つ並べられている。パイプ椅子に座る先客の姿を見つけたとき、恭子の心臓はどきりと跳ねた。

 

「あ、末原先輩。こんにちはー」

 

 お箸を持った手を軽く掲げて挨拶をしてきたのは、今年入ってきた新入部員。

 

「――なんや、須賀やったんか」

 

 そして唯一の男子部員である、須賀京太郎だった。できる限りなんてない風を取り繕いながら、恭子は部室の中に入る。

 

 金髪長身の後輩は、「なんや、とはご挨拶ですね」と文句を言いつつもその表情は明るい。見た目は軽薄そうな男子だが、存外礼儀正しく不快感はない。加えて人と壁を作らないスタイルなのか、誰とでもすぐ仲良くなっている。先日も、学内で多くの友人に囲まれているのを見かけた。

 

 しかし。

 

 恭子はあまり、京太郎の相手をするのが得意ではなかった。その理由は――恭子自身にも、よく分からない。嫌いというわけでは決してない。ないが、とにかく彼を相手にすると過剰に意識してしまい、上手い距離感を掴めないのだ。男子と女子の違いからだろうか。高校時代の後輩たちを相手では、もっと強気でいられたというのに。

 

 当然、二学年先輩としてはそんなものをおくびにも出すわけにもいかず。恭子は京太郎の対面に座りながら訊ねた。

 

「えらい早く来たみたいやけど、どうしたん?」

「二コマ目、急に休講になったんです。大学って思ったより適当ですねー」

「あー、もしかしてリーディングの工藤先生? あの人すぐ海外行くからなぁ」

「そうなんですか?」

「そうそう。別にあんな人ばっかりちゃうで」

 

 学部は違うが、一般教養の講義は大抵被るので恭子もすぐにピンと来た。よしよし、と彼女は一安心する。ひとまず先輩らしく振る舞えている、はずだ。

 

 と思ったら、

 

「ああ、暇だったんで牌譜の整理しておきましたよ。前節の関西一部リーグのやつ」

「……すっかり忘れてたわ」

「先輩たちみんな忙しそうでしたもんね」

「いや、ごめんな、雑用ばっかやらせて。助かったわ」

「慣れてるから平気です。一年、俺だけですし」

 

 京太郎の言葉は至極真っ当であり、恭子も理解出来る。麻雀は文系競技だが、ここは大学公認のインカレを目指す競技志向の部である。そこらの林立するサークルとはわけが違う。一種の体育会系、縦社会が横行して当然だ。事実、恭子の母校でも一年生が雑務を担当する決まりであった。

 

 しかしながら、東帝大学麻雀部に所属する部員は、現在部長である恭子を含めてたったの五人だ。高校の部活とは違い処理しなければならない仕事も多い。負担が偏重するのは避けたかった。それが原因で数少ない部員が離れていったら元も子もない。

 

「でもうちの部はこういうの分担してやる方針やから。次はちゃんと言ってな」

「あ、はい。分かりました。すみません、勝手やって」

「あんま気にせんといて。元々うちの落ち度やし」

 

 恭子は苦笑しながら、京太郎と目を合わせられず、視線を机に落とす。彼の手元には、お弁当箱があった。

 

「……須賀って、実家暮らしとちゃうよな?」

「今は一人暮らしですよ。実家は長野です」

「そのお弁当って……えっと、誰が作ったん?」

 

 女子学生でもお弁当を作ってくるのは少数派だ。男子なら言わずもがな、講義のある日のお昼は学食で済ませるのが主流である。ならば――と、恭子は想像を巡らせる。しかし京太郎はあっさりと、

 

「これは自分で。高校時代、料理教えてくれる人がいて、これが結構はまっちゃって」

「へ、へぇー。偉いやん」

 

 予想していた返答とは異なり、恭子はほっとする。

 

 ――っていやいや、何を安心しとんねん。

 

 自分でも意味が分からず、恭子はぶるぶる首を振った。それから誤魔化すように、彼の弁当箱の中身を覗き込む。おかずの内容は、鶏の唐揚げ、卵焼きに、ほうれん草のおひたしときんぴらごぼう。主食は麦御飯。

 

 ぐぅ、と恭子のお腹が鳴る。確かになかったはずの食欲が、そそられてしまった。

 

「……お昼、まだなんですか?」

「食べへんつもりやったんやけど」

 

 恭子は頬を朱に染める。恥ずかしい音を聞かせてしまった。

 

「お一ついかがですか。なんでもどうぞ」

「えっ」

 

 京太郎がお弁当箱を目の前に差し出す。恭子は僅かに逡巡してから、

 

「なんか、ねだったみたいで悪いな」

「良いですよ、このくらい」

「それじゃ、遠慮なく」

 

 唐揚げを一つ、つまむ。ひりりと辛味が効いていて、冷めていても美味しいように工夫がなされていた。

 

「……美味いやん」

 

 賞賛を送りつつも恨みがましい語調になったのは、敗北感からか。男子なのに、女子力がとても高い。

 

「どうもです。お茶もどうぞー」

「あ、ありがと」

 

 水筒に注がれるお茶を眺めつつ、恭子は内心溜息を吐いた。

 

 ――こいつが女子やったら、もっと色々楽やったんかなぁ。

 

 そんな、益体もないことに想いを巡らせてしまう。

 

 春は出会いと別れの季節というが、今年はほとんど別ればかりで、現状出会いはほぼない。唯一の例外が、京太郎だ。一人でも入部してきてくれたのは本当に嬉しい。嬉しいが、女子部員は四人だけ。関東麻雀大学リーグ戦へ参加するために必要な人数は五人からなので、このままだと人数合わせの助っ人を友人に頼むことになってしまう。

 

 正式な部員全員がインハイ経験者ということもあり、下部リーグまでならそれも通じたが、そろそろ限界が近い。即戦力かどうかはともかくとして、麻雀に熱意を燃やす上昇志向の強い部員が必要だった。

 

 だが、諸般の事情で東帝大学麻雀部が敬遠されているのも事実。中々思うように新入部員は入ってきてくれない。

 

 新学期が開講して既に二週間。じわりじわりとタイムリミットが迫ってきていた。彼女が悩むのも無理なきことであった。

 

「末原先輩」

「ん? ど、どうしたん?」

 

 京太郎から呼びかけられて、恭子は声を上擦らせる。

 

「眉間に皺寄せて、考え事ですか?」

「ああうん、ちょっとな。大したことないから気にせんでええよ」

 

 あまり心配をかけたくなく、歯切れの悪い返答になってしまった。京太郎は「そうですか」と軽く流してから、

 

「そういえば」

 

 と、何事か思い出したように切り出してきた。

 

「例の噂、聞いたことありますか」

「噂? 何の話?」

「あれですよ、あれ」

 

 お弁当箱を包みながら、彼は言った。

 

 

「――麻雀仮面の噂です」

 

 

 言葉の意味を理解出来ず、恭子は目を瞬かせる。それから眉根を寄せて、鸚鵡返しに訊ねた。

 

「麻雀仮面? なんやそのけったいな名前は」

「自称らしいです」

「らしいってまた曖昧な」

「俺も噂に聞いただけですから」

「どんな噂なん?」

 

 こほん、と京太郎は咳払いしてから続けた。

 

「なんでも、最近都内の雀荘に仮面を被った女が出没するそうなんです。そして、大学生相手に勝負を挑んでいるらしいんですよね。それでもって、連戦連勝。真偽は不明ですけど、一部リーグのレギュラー選手もやられたとか」

「……ほんまなら凄いけど。なんで仮面被っとるん?」

「知りませんよ。でも、『負けたら仮面を脱ぐ』と宣言しているとか。その物珍しさから、勝負を受ける人が多いらしくて」

 

 ただの客寄せか、他に別の意図があるのか。少なくとも、現状では恭子にも京太郎にも判断を下す材料はなかった。

 

「とにかく、あまりの強さに麻雀仮面と渾名されるようになったそうです。物腰から年若い女性と目されていて、勝って仮面を剥がしてやると息巻いてる人もいるそうですよ」

「ふーん」

「あんまり興味ないですか?」

「須賀もそいつの仮面の下、見てみたいん?」

「そりゃあ。超美人、みたいな予想もありますからねー」

 

 冗談めかして言っているのは、恭子も分かった。分かったが、どうも納得できない。胸の中が、もやもやする。

 

「まぁ、あくまで噂ですよ」

「にしては、えらい具体的やったな。どこでそんな話聞いてくるん?」

「独自の情報ルートがあるんですよ」

「須賀は東京来てまだ半月くらいやん」

 

 突っ込むと、京太郎は「確かに」と笑った。全く、と恭子はこれみよがしに溜息を吐いてから言った。

 

「昼休みの余興にしてはおもろかったわ」

「信じてませんね」

「信憑性なさすぎやもん」

 

 恭子は大袈裟に肩を竦め、後輩に向けて微笑みかける。

 

「次は、もっとおもろい話を期待してるで」

 

 麻雀仮面なんて下らない噂だ。大学生に勝負を挑む女性雀士は実在するかも知れないが、そこに尾ひれがついたのだろう。恭子はそう判断した。

 しかし意外にもすぐ、彼女は別の人間から麻雀仮面の証言を聞くこととなった。

 

 

 ◇

 

 

 翌日の夜。

 部の練習後、恭子は一人渋谷駅で電車を降りていた。彼女の下宿先はここではないが、今日は学外の友人と会う予定だった。

 

「っと」

 

 駅を出てすぐ、探し人は見つかった。

 モデルばりの高身長に、怜悧な瞳。高校時代から艶やかさを失わない髪は、いつも通り腰まで落ちている。

 

 帰宅ラッシュと若者で溢れかえる人混みをかきわけ、恭子は彼女に声をかける。

 

「菫、こっちこっち」

「ああ、恭子。久しぶりだな」

 

 弘世菫。高校女子麻雀界でも有名な、白糸台高校の元部長である。シャープシューターの二つ名を背負い、大学でもその名を轟かせている。

 

「三年になってから直接会うんは初めてやったか」

「それどころか二月から一度も会っていなかっただろう」

「そうやったっけ? ネト麻でよく打ってるから、そんな気せぇへんわ」

 

 二人は肩を並べて歩き出す。

 彼女たちは、高校時代からの知己である。東に白糸台あれば、西に姫松ありで、遠方ながら練習試合もよく組んでいた。その際部員代表として菫と一番接していたのは、他でもない恭子であった。当時はライバルとして気を許せない部分もあったが、現在はまた話が別である。

 

 二年前、単身上京した恭子を何くれと世話してくれたのが、他でもない菫であった。東京での生活、大学麻雀部の運営についての助言、その他諸々枚挙に暇がない。そこには多分に同情が含まれていたのだろうが、恭子は非常に感謝していた。学外では、東京における一番の友人なのは間違いない。

 

 客引きの声が一番大きかった居酒屋を選び、恭子と菫は個室に案内される。大学に入りたての頃は緊張もしたが、今は立派にアルコールを注文できる年齢にもなった。昨年二十歳を迎えてから気付いたが、恭子も菫も酒は結構いける口であった。

 

「改めて。聖白女、前節一部リーグ一位おめでとー」

「東帝も三部リーグ昇格おめでとう。と言っても、もうじき次節が始まってしまうがな」

 

 グラスをかつんとぶつけ、乾杯。

 関東麻雀大学女子リーグは、一部から六部までの六部制リーグである。一年に二回あるリーグ戦で昇格、残留を懸けて多くの大学が鎬を削る。大学生雀士の最大の目標、インカレに出場できるのはリーグの頂点・一部リーグに属する大学のみで、当然恭子たち東帝大学麻雀部も一部リーグ昇格を目指して下部リーグで戦っている。

 

 対して、菫が所属する聖白百合女子は関東リーグの頂点だ。この辺りの立場の違いがまた、恭子と菫の間に気安さを生んでいた。

 

「うちは無事にリーグ開幕を迎えられるかも不安やからな」

「まだ新入部員は掴まらないのか」

「中々苦戦しとるわ。そっちは調子どうなん?」

「完全に気が緩んでいる。特に二年がな。正直次節は不安だよ」

 

 こうしてたまに会っては、愚痴を言い合う仲だ。元々菫も苦労人気質なところがあり、恭子は共感を覚えていた。

 

「どこも大変やなぁ」

「お前に比べれば贅沢な悩みだよ。まぁ、まだまだ勧誘の時期だ。ゴールデンウィークまでには新入部員の一人や二人、見つかるだろう」

「だったらええんやけどな。今のところ、男子一人だけやから」

「……それはもしかして、須賀君のことか」

「知っとったん?」

 

 恭子は少し驚いた。薄いながらも、菫と京太郎には縁がある。菫の元チームメイト・宮永照には妹がいる。かつて恭子も同じ卓を囲んだ、宮永咲。その彼女と京太郎は、同じ高校で同じ部活に所属していたのだ。

 

 とは言っても、恭子の知る限りでは菫と京太郎に面識はほぼないはずだ。京太郎の進路を知っているほうが不思議である。

 

 あるいは後輩のあの子から直接聞いたのか、とも恭子は考えた。繋がりと言えば、彼女のほうがよっぽど濃い。

 しかし、菫が口にしたのは別の名前だった。

 

「淡だよ。大星淡」

「……大星プロ?」

 

 菫の後輩にして、今年の麻雀プロ大型ルーキーの一人、大星淡。麻雀界に身を置いて彼女を知らぬ者などモグリであろう。

 

「何があったか知らんがな、高校時代から淡は須賀君に懐いているんだよ。プロのスカウトを蹴って須賀君と同じ大学に行く、なんて言い出すくらいに」

「……ほんまに? え、付き合ってるん?」

「いや、それはない。淡が一方的に押しかけているだけだ。結局須賀君と照に説得されてプロを選んだみたいだが」

 

 寝耳に水とはこのことである。恭子とて、まだ京太郎とは付き合いが浅い。彼が誰とどんな関係を築いているかなんて、詳らかに知るわけがない。

 

「この間、須賀君に会いにお前の大学に遊びに行ったらしいが、空振りだったそうだ。……知らなかったのか」

「いいや、聞いてないわ。……他の誰かが上手くとりなしてくれたんかな」

「かも知れんな。もしもまた淡が来たら、追い払ってくれて構わないからな。迷惑をかけたらすぐに私に言ってくれ」

「菫は大星プロに厳しいなぁ」

「高校の内にもっと躾けておけばよかったと後悔してるんだよ」

 

 ぐい、と菫はサワーを煽る。丁度、恭子のグラスも空になった。

 タッチパネルで次のドリンクをオーダーしながら、恭子は恐る恐る訊ねてみた。

 

「……菫は、須賀のことよく知ってるん?」

「淡に惚気話を聞かされているのと、多少会話したぐらいだが。どうかしたのか」

「んー、ちょっとな。なんでうちの部、入ったんかなーって思って」

 

 菫は首を傾げて、「どういう意味だ?」と恭子に訊ね返す。

 恭子は一度思案してから、答えた。ここのところずっと考えていた悩みの一つだ。

 

「ほら、あいつ高校時代一、二年のときはぱっとしない成績やったけど、三年じゃインハイでそこそこいったみたいやん。せやのになんでうちみたいな訳あり麻雀部に入って来たんかな、と思って」

「麻雀じゃなくて大学で進学先を選んだんじゃないのか」

「打つだけでええなら、いくらでもサークルあるやん。うちじゃろくすっぽ打てへんのに。事実男子部員は須賀だけやし。菫はなんか聞いとらへん?」

「いや、知らないな。進路相談を受けるほどの仲でもなかったし。……というより、そんなこと本人に直接訊けば良いだろう」

 

 正論だった。ぐうの音も出ない。だが、正論だけで世の中が回るほど単純ではない。はぁ、と恭子は深い溜息を吐いて、

 

「それができたら苦労せんわ」

「……なにかあったのか?」

「なんもないけど。なんかこう、須賀相手やと訊きづらくて」

「そんなものか」

「そんなもんや」

 

 そうか、と菫は曖昧に頷く。どうにもピンとこないらしい。恭子は手をひらひら振って、軽く謝る。

 

「変な話でごめんな」

「いや、こちらこそろくにアドバイスできずにすまない」

「ええってええって。……変な話といえば、その須賀が昨日変なこと言うてたな」

「変なこと?」

 

 運ばれてきたサラダを取り分けながら、恭子は首肯した。

 

「そう。けったいな噂が流れてるらしいで」

「ほう、どんな噂なんだ?」

「麻雀仮面」

 

 恭子がその名を告げた途端。

 すぅっと、菫が目を細めた。

 

「この辺の大学生相手に、仮面を被った女が次々と勝負を挑んでるって噂なんやけど――菫?」

「知っている」

 

 まさかの菫の返答に、恭子はぽかんと口を開けた。

 

「は?」

「知っているぞ、その話。――麻雀仮面の名前はな」

 

 

 

 




次回:1-2 麻雀仮面の挑戦


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1-2 麻雀仮面の挑戦

 胡散臭いとしか言えない麻雀仮面の名は、冗談半分で口にしたものだった。菫も笑い飛ばしてくれると思っていたら、意外にも彼女は表情を引き締めた。話を振った恭子も、思わず居住まいを正す。

 

「知ってるって、えっ、麻雀仮面、麻雀仮面やで?」

「近頃雀荘で勝負を吹っかけている女の話だろう。それならば聞いている」

「ほんまに? 菫がこんな妙な噂知っとるとは思わんかったわ」

「できれば私も知りたくなかったよ」

 

 注文した料理が届き、一度会話が途切れる。グラスの中の氷が溶けて、からんと滑り落ちた。その間に、恭子は落ち着きを取り戻す。

 

「……どういうことなん? 麻雀仮面ってほんまにおるん?」

「そのようだ。私は直接お目にかかったことはないがな」

 

 だし巻き卵に箸を伸ばしつつ、菫はゆっくり話し始めた。

 

「どうも麻雀仮面は、不規則に雀荘に現れる場合と、挑戦状を叩き付ける場合の二つのパターンがあるらしい」

「挑戦状?」

「ああ。調べたところ、麻雀仮面が初めて姿を現したのは四月に入ってからのようだ。そのときはふらりと雀荘に現れると、大学生に同卓を申し出たらしい。二部リーグの学生に声をかけたことから、おそらく初めから狙っていたんだろうな」

 

 ほう、と恭子は頷く。関東リーグはかなりレベルが高いと言われている。二部リーグの大学でも、名前の売れている選手はいくらでもいるものだ。

 

「で、その子たちを倒したんか」

「この辺りは断片的にしか聞いていないがな。圧勝だったらしい」

「凄いやん。麻雀仮面は一人なんやろ?」

「そうだ」

 

 真実であれば、相当な強者だ。思わず恭子は唾を飲み込む。普通なら笑い飛ばしていただろうが、他でもない菫の口から語られたことだ。信憑性はかなり高い。

 

「麻雀仮面はかなり派手に動いたみたいだ。一日にいくつもの雀荘で目撃証言がある。そしてどの雀荘でも勝利を収めたそうだ」

「……そこまで来たら、プロなんとちゃうん?」

「平日の夕方から雀荘に入り浸るプロがいるものか」

「それもそうか」

 

 三杯目の酒を注文し、菫は続けた。

 

「聞いた背丈からするとおそらくは高校生から大学生……現れた時期を考えれば新入生か。去年のインターミドルの上位を調べ上げたが、流石にそこまでの選手は見当たらなかった」

「そうなると大学一年のほうか……」

 

 とは言っても、一ヶ月前まで高校生だった少女の中でも、トップレベルのプレイヤー――件の大星淡など――はプロか実業団に進んでいる。彼女たちを除けば、結論は中学生と同じだ。

 

「正体を特定するにはまだ情報が足りないな。――話を戻そう。麻雀仮面は、ある程度暴れて名を売った後、戦略を切り替えた」

「それが、挑戦状?」

「そうだ。大学の麻雀部のメールフォームに叩き付けられた」

「その口振りからして、菫のところにも来たんか」

 

 菫は溜息を吐いて、頷く。

 

「ホームページの管理は二年がやってるんだがな。悪戯メールとして処理すれば良いものを、面白がって受けてしまったんだよ」

「で、叩きのめされたと」

「恥ずかしながらな。良い薬にはなったが、気が緩んでいるにも程がある。そういう経緯もあって、一応調べさせたわけだ」

 

 なるほど、と頷きながら恭子は動揺を隠せなかった。まさか、菫のところの学生も負けているとは。レギュラーではないだろうが、名門聖白女の選手だ。下手な二部リーグの選手よりも打てるはず。

 

 さらに菫は体を乗り出し、個室で誰も聞いていないのに声を細めて言った。

 

「ここだけの話だがな」

「うん?」

「多治比もやられたらしい」

「……ほんまか」

 

 多治比真佑子――恭子たちの一つ下の世代の中でも、五指に数えられる実力者だ。現在も一部リーグで、菫とも鎬を削っている。

 

「今はまだ上位リーグの大学だけで噂は留まっているが、このままいけば関東全域にその名が知れるだろうな」

「……なんか嫌やわ。麻雀仮面なんて名前が流行るとか」

「それに負けたと揶揄される私たちの身にもなってみろ。下手に噂が広まらないよう必死なんだぞ」

「ご愁傷様やわ」

「他人事だな」

「残念ながら、やけど」

 

 恭子は自嘲気味に笑う。

 

「うちみたいなこの間まで五部四部で戦ってた大学に用はないやろ、麻雀仮面さんも。話を聞く限り、強い相手を求めてるみたいやし」

「そうかも知れんが、実績はなくともお前のところもタレント揃いだろう。……まぁ、もしも麻雀仮面から挑戦状を叩き付けられたら私にも連絡してくれ。舐められたままってのも、癪だ」

 

 ごくごくとカシスオレンジを一気飲みし、菫は力強くグラスを机に叩き付けた。何だかんだ言って、後輩がやられたのに憤っているようだった。

 

 この負けん気の強さを見習わなければならない――恭子はそう思う。高校時代とは違い、今は自分が部長だ。だというのに皆を引っ張っていく力と経験が、足りていない。下部リーグでは通じたかも知れないが、上位リーグでは菫のようなリーダー資質を持ち得る選手と戦わなくてはならないのだ。

 

「了解了解。麻雀仮面さんの挑戦があったら、な」

「頼むぞ。――ほら、お前ももっと飲め。明日一コマ目は講義ないんだろう?」

「そうでもなかったら平日に飲んだりしてへんよ。自主休講できるほどえらないし。菫はええん? 門限あるやろ、お嬢様」

「いつまでも子供扱いされたくないんだよ、こっちとしては」

 

 酒が入り、口も回ってお互い溜め込んだ愚痴をこぼし合う。女子会にしては色気も欠片もないが、これが二人の平常運転であった。

 

 あっという間に時間は過ぎ去り、菫のタイムアップを迎えたところで宴会はお開きとなった。実のある話は一つもなかったが、恭子としては充分な時間であった。

 

 ほろ酔い気分で浮かれていた彼女であったが。

 例の名前と対面するのは、すぐのことであった。

 

 

 ◇

 

 

 珍しく酔っ払った菫を邸宅にまで送り届けた後、恭子は住まうアパートに帰ってきた。両親の援助でそこそこ良い部屋を借りており、不自由はしていない。浴槽も広く、ゆったり湯船に浸かって一日の疲れを癒す。

 

「はぁー……」

 

 思わず、長い息が漏れる。

 最近疲れが溜まってばかりだ。入ってこない新入部員、それから入って来た新入部員のこと。三部リーグでも戦って行けるのか。部長として部員にできることはないか。ゴールデンウィークは実家に帰る余裕もない。片付けなければならないレポートはまだ少ないのが幸いか。

 

「勧誘のやり方も改めてみんなと相談せなあかんなぁ」

 

 現状、無差別に新入生に声をかけるやり方はどうも上手くいっていない。部室にまで連れて来ることすらままならない。あの古ぼけた部室棟の見た目もマイナス要素だ。

 

 入学式のその日に扉を叩いた京太郎が特別なのだ。変わり者にも程がある。

 

「む……」

 

 彼のことを思い出すとどうも調子が狂う。心がざわめくのだ。あまり深く考えすぎるとドツボに嵌まりそうで、恭子は一度頭のてっぺんまで湯の中に浸かった。

 

「……ふうっ」

 

 風呂から出て寝間着に着替える。このままベッドにダイブしても良かったが、その前に恭子はパソコンを立ち上げた。

 

 ネット麻雀のソフトアイコンへマウスポインタを動かしそうになるが、我慢。

 目的は、麻雀部のホームページだ。もっと興味を引くような作りにしたい。もしかするとホームページを見て入部を希望する子がいるかも知れないのだから。

 

 アップされた練習風景の写真を眺めながら、レイアウトを変更する。だが、どうにも見栄えはよくならない。

 

「堅苦しいのがあかへんのかなぁ」

 

 試しに他のサークルのホームページを覗いて見れば、旅行に行っただの何だの、主旨とは関係ない活動をアピールしている。こういうレクリエーションも必要なのだろうかと恭子は悩む。昨年は合宿と遠征が一度ずつあっただけだ。それもほぼ全て麻雀漬け。もし今の部員たちも不満に思っていたら、と考えると空恐ろしくなった。

 

「……ん?」

 

 念のため入部希望のメールが届いていないかメーラーを立ち上げると、一通だけ新着メッセージが届いていた。

 

 件名は、「挑戦状」。

 

 恭子はどきりとした。

 まさか、と思いながら震える指でクリックする。

 

 中身は、まさしく東帝大学麻雀部への挑戦状であった。――今週日曜日の十八時に、指定の雀荘で勝負されたし。

 文末に記された署名は、

 

 

「麻雀仮面ッ? 嘘ッ!」

 

 

 椅子を押し退け、恭子は立ち上がる。

 

 メールの送信日時は昨日だ。菫の言っていた挑戦状は、既に恭子の元にも送られてきていた。菫から何も聞いていなければ、悪戯メールと判断してすぐにゴミ箱行きであっただろう。

 

 だが、今はそうしない、そうできない。麻雀仮面は――謎の実力者は、この東京にいる。

 

「……ええ度胸や」

 

 何のつもりで自分たちのような小規模麻雀部に挑戦状を叩き付けてきたかは知らないが、喧嘩を売られて引き下がるわけにはいかない。

 

「後悔させたるわ」

 

 恭子はにやりと笑った。

 こちらもハイレベルと言われたインハイで戦った身だ。心強い仲間だっている。返り討ちにしてやる、とキーボードを叩く。酒に酔った勢いも手伝って、すぐに恭子は挑戦を受ける旨を返信した。

 

「ようし」

 

 今度はSNSのアプリを立ち上げる。東帝大学麻雀部のグループチャットを開き、麻雀仮面のあらましと挑戦状を受け取ったことを書き込んだ。幸い今週の日曜日は部活も休みだ。みんな都合もつくだろう。

 

 ――という恭子の見通しは、あっさりご破算となる。

 

『ごめんなさい、その日はアルバイトが入っているの』

『友人とレポートを仕上げる先約がありますので……』

『その日は箱根に遊びに行くので行けないですねっ。残念!』

 

 女子部員三人に、立て続けに振られる。

 慌てて恭子はさらにチャットに書き込みを加える。

 

『麻雀仮面やでっ? みんな興味ないんっ?』

『ええっと……』

『その……』

『はっきり言って胡散臭いですね!』

 

 容赦なくたたき切られ、恭子はくらりとする。酔いが一気に冷めてきた。そうだ。どう考えても、胡散臭い。数少ない同期と後輩の白い目が、画面越しに伝わってくる。羞恥で体が熱くなった。

 

 しかし既に麻雀仮面には了承してしまっており、後には引けない状況だ。一人でも対峙しなくてはならない――と思っていたら、

 

『あ、日曜なら俺空いてますよ』

 

 突然京太郎がチャットに参加してきた。彼のカピバラのアイコンを目にした瞬間、恭子の体がびくりと震える。

 

 そんな恭子をよそに、話は勝手に進んでいく。

 

『それじゃあ京太郎くん、恭子ちゃんと一緒にお願いできるかな?』

『よろしくね』

『すばら! 頼みましたよ!』

「えっ、えっ」

 

 ――女子三人が来られなくて。

 ――男子一人が、自分と共に。

 

 恭子がキーボードに触れる暇もない。

 

『そういえば京太郎くん、東京の地理がまだ良く分かっていないって言ってたよね』

『はい、よく使う駅は覚えましたけど』

『いつかみんなで色々案内してあげようって思ってたんだけど』

『それなら日曜日に末原先輩が案内してあげれば……ということですか』

『すばら! 名案です!』

「ちょ、え、ちょっ」

 

 さらに話は、明後日の方向に。おそらく麻雀仮面のことなど既に思慮の外であろう、女子三人はそこが良いどこか良いと、好き勝手を言い出す。断れない空気があっという間に醸成されていく。

 

『え、でも良いんですか? 末原先輩もお忙しいでしょう?』

 

 そこで、京太郎が諫める方向に話を持っていこうとした。その調子やええぞ須賀、と内心恭子は応援するものの、

 

『恭子先輩は後輩想いのすばらな先輩ですから!』

 

 と、一人が力強く断言した。断言されてしまった。彼女たちに悪意はない。面倒事を押し付けようとする意思もないだろう。都合がつくのならついでに、くらいの気持ちなのだ。

 

 しかし結果的に梯子を外され、恭子はモニターの名前で頭を抱える羽目になった。――どうしてこうなった。

 

『恭子ちゃん?』

『末原先輩?』

『恭子先輩?』

 

 何も発言できずにいると、さらに追い詰めてくるように自分の名前がチャットに並ぶ。恭子は頬を引き攣らせ、半ばやけくそ気味にキーボードを叩いた。

 

『もちろんや! 大阪もんが東京案内したるわ!』

『ありがとうございます、末原先輩!』

『わぁ』

『お願いします』

『すばら!』

 

 既に深夜ということもあり、グループチャットはそこで一旦中断される。恭子は背もたれに体を預け、一度大きく溜息を吐いた。

 

 ――年頃の男女が二人きりで一緒に遊ぶことを、何と呼ぶのか。

 

 経験がないとはいえ、知らないわけがない。名目上は東京案内でも、誰も額面通りに受け取らないだろうし、恭子自身そう思えない。

 

 パソコンの電源を落とし、暗くなった画面に映った自分の表情に、恭子は愕然となる。

 

 ゆらり、と彼女は立ち上がり。

 

「ああああもおおおおお」

 

 何もかも放り出して、そのまま彼女はベッドに飛び込んだ。枕に顔を埋め、ばたばたと足を振る。ベッドはぎしぎし悲鳴を上げた。

 

 

 ◇

 

 

 東帝大学には、ここ二年、夏にだけ顔を現す正体不明の美人の噂があった。曰く、「マフラーの姫」、「水着を着れたらミス東帝」、「サウナクイーン」、「一人暑さ我慢選手権」――数々の二つ名をほしいままにする彼女は、しかし夏以外の季節でも嫌でも目に付く。

 

 その厚着の量が、尋常ではないのだ。

 

 確かに未だ肌寒い時期が続いている。それでも春の兆しは見えてきているし、少なくともコートは脱いでも全く問題ない。

 

 だというのに彼女の重ね着が減る気配は全くない。むしろ一時より酷くなっているレベルである。顔の半分を隠すマスクと、野暮ったいまでの眼鏡。首元はぐるぐるとマフラーが巻かれ、桜色の手袋を常時装備。

 

 いくら学生の海に飲まれるキャンパス内とは言うものの、これで目立つな、というほうが無理な注文だ。

 

 経済学部棟の近くで張ること五分。

 講義を終え出てきた彼女の肩を、恭子はがっしりと掴み取った。

 

「宥ちゃーん?」

「きょ、恭子ちゃんっ? どうしたのっ?」

 

 友人のかつてない剣幕に、マフラーの姫――松実宥は、激しく狼狽えた。眼鏡を外して、恭子の前に立つ。

 

「どうしたもこうしたもないで……? うち、昨日ほとんど寝られんかったんやから」

「ま、麻雀仮面さんのこと? ごめんなさい、一緒に行けなくて」

「そっちじゃなくてっ! ああ、今の今まで麻雀仮面のこと忘れてたわ……どうでもええわ麻雀仮面なんか。それよりも、須賀のほう」

「京太郎くんが、どうしたの?」

「宥ちゃんが言い出したんやんか、須賀に東京案内したれって!」

「ああ……」

 

 ようやく合点がいった、と言った様子で宥は頷く。しかしすぐに、

 

「もしかして、駄目だったの?」

 

 彼女は小首を傾げた。可愛い、と恭子は勢いを失いそうになる。

 

 末原恭子と松実宥の付き合いは、二人が大学に入ってからだ。もっとも、恭子は宥のことを認識していた。宥がインハイに出場した回数はたった一回、されどその一回の成績は非常に優秀であった。特異な体質とそれをよく理解した打ち筋、状況への対応力と戦術を実行する手腕、いずれもなぜ遅咲きであったのか分からないレベルだった。

 

 そんな彼女とこの大学で出会えたのは、恭子にとって様々な意味で僥倖であった。学外の親友を菫と言うならば、学内の親友は間違いなく宥である。共に廃部同然であった麻雀部を建て直した戦友なのだ。

 

 ――なればこそ。

 今更、恭子は宥に遠慮しない。

 

「日曜、バイトで来れんのは分かった」

「う、うん」

「せやけど、責任はとってもらうで」

「ええっ」

「嫌とは言わせんからな」

「ええーっ」

 

 季節外れのマフラーをがっしり掴んで、恭子はこめかみに青筋を立てながら笑う。あったかくない、という宥の呟きは春風に飲まれて消えた。

 

 

 




次回:1-3 ギャラリーデートとミニスカメイド


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1-3 ギャラリーデートとミニスカメイド

 平日練習の後、恭子は宥の手を引いて彼女を支度へと招き入れた。決戦の日曜日まで時間はあまり残されておらず、恭子は切羽詰まっていた。

 

 小さなテーブルを挟んで向かいに座る宥に向かって、恭子は深く頭を下げる。

 

「せやから、お願い宥ちゃん」

「お願いと言われても……」

 

 室内でもマフラーを外さず、顔の半分は見えていないが、宥は明らかに困惑していた。

 

「京太郎くんに東京案内するだけ、だよね。昨日は自信あるように見えたけど」

「売り言葉に買い言葉っちゅうか、勢いでつい。正直、後輩を楽しませるような案内できるか不安なんやって。去年は宥ちゃんが全部仕切ってくれたやろ?」

「菫ちゃんに頼るっていう手もあるような」

「それはあかん」

 

 ばっさりと恭子は否定する。どうして? と宥は素直に疑問を口にした。何かと頼りにしている相手だし、彼女もまた嫌とは言わないだろう。恭子もそこは理解できる。

 しかし、

 

「後輩一人の面倒も見れへん奴と思われたくない」

「今更なような気も……」

「そうは言うてもこんな細かい話まで相談できへんわ」

 

 大体、と恭子は恨みがましく宥を睨め付ける。

 

「そもそもの言い出しっぺは宥ちゃんなんやし、責任とってもらわんと。大見得切った以上、後輩二人には頼めんし」

 

 恭子の必死な様子に、宥はやや怯えながら頷く。

 

「わ、分かったよぅ。でも、観光地とか無難なところを案内すれば良いんじゃないかな? スカイツリーとか雷門とか、東京タワーとか」

「そういう有名所は高校のインハイで観光したって言ってたわ」

「それじゃあお台場は? 去年、行ったよね」

「そこはこないだ行った言うてたな」

「……東京駅の周りはどうかな」

「あかん、そこは今度別の友達と遊びに行く言うてたわ」

 

 宥の言葉が、途切れる。そのことに恭子は一拍遅れて気付き、戸惑い気味に彼女の顔を覗き込む。

 

「ど、どうしたん、宥ちゃん?」

「恭子ちゃん、京太郎くんとよくお話してるんだねぇ」

 

 微笑ましい視線を向けられ、恭子は自分の顔が急激に熱くなるのを感じた。いや、だとか、その、だとか、舌が回らず上手く言葉が続かない。深呼吸を繰り返し、何とか落ち着きを取り戻してから恭子は言った。もとい、照れ隠しの言い訳をした。

 

「ほらうち、部長やん。須賀も男子一人で心細いやろ思て、色々話相手になってるんよ。うん」

「そっかぁ。やっぱり偉いなあ、恭子ちゃんは」

「そ、そんなことあらへんて」

 

 純粋に感心する宥を前に、恭子は一安心する。――そうだ、妙な勘違いをされても困る。二つも下の男子を意識しているなんて思われるのは、釈然としない。

 ともかくとして、恭子は話の軌道修正を図る。

 

「で、宥ちゃんなんか他に案ある? 否定してばっかで申し訳ないんやけど」

「うーん。だったらもう、恭子ちゃんが勉強に使ってる喫茶店とか図書館とかを案内してあげれば良いんじゃないかなぁ。恭子ちゃん、そういう穴場なところよく知ってるでしょう? 大学生活に関わってくるんだし。男の子と女の子の違いもあんまり気にしなくて良いよね」

「それや!」

 

 ぱちん、と恭子は指を鳴らした。まさしく名案である。

 

「先輩っぽい! ナイスや宥ちゃん!」

「良かったぁ」

 

 なお、京太郎との遭遇率が高まり恭子を悩ませる結果となるのは別のお話である。

 

「あ、そうだ」

 

 宥は何か思い出したのか、自らの鞄に手を入れる。

 

「どうしたん?」

「えっとぉ。この間バイト先で貰ったものがあって」

 

 鞄から出てきたのは、二枚のチケット。上野の美術館で開催されている、絵画の展覧会のものだった。

 

「良かったら使って」

「ええん? 貰っちゃって」

「私は絵のことはよく分からないから……」

「うちもや。須賀もそうやろたぶん。でも、たまにはええか。ありがとな、宥ちゃん」

「いえいえ」

 

 それじゃあそろそろ、と宥は帰ろうと立ち上がる。

 が、その腕を恭子は掴み取った。逃さないと言わんばかりに指先へと力を込める。

 

「ど、どうしたの?」

「まだ、もう一つ、相談が……」

 

 目線を逸らしつつ、恭子は懇願する。

 

「着てく服、見繕ってくれん?」

「え、ええっ」

「ほら、あいつ大学デビューか何か知らんけど、割と洒落た格好で大学来てるし。部室の中はともかく、外でいつもの色気ない格好言うのも流石に悪いような気がして」

 

 気にしすぎ、と言われてしまえばそれまでだが、不安は拭えない。そもそも男と二人きりで出歩くなんて、親を除けば初めてなのだ。末原恭子、麻雀はデータ重視の打ち筋である。事前にできる限りの情報を集め作戦を練りたいと思うのは最早性であった。

 

「私、厚着専門なんだけど……」

「でも宥ちゃんセンスええやん。一度レクチャー受けたかったんや」

「上下の色の組み合わせくらいしか考えてないよぉ」

 

 それから恭子の箪笥の中をひっくり返して、二人はああでもないこうでもないと言い合った。もっと時間があれば買い物にも行けただろうが、残念ながら宥とはタイミングが合わず。一人で乗り切る自信は恭子になかった。

 

 こういう悩みを抱える羽目になるとは、恭子はつい一ヶ月前まで思いもしなかった。麻雀と、麻雀部のことだけに集中していた。友達からの誘いもほとんど断って、大学生らしい遊びへの参加は数えるほど。高校時代から変わらず、半ば自分には麻雀しかないのではないか、みたいな考えもあった。

 

 けれども。

 

 ――こういうのも、悪くない。

 

 そんなことを三年にもなって思う自分に、恭子は内心苦笑いを浮かべた。

 

 そうこうしている内に時間はあっという間に潰れ、今度こそ宥は帰宅の準備を始める。玄関先で靴を履きながら、宥は首だけ振り返って、

 

「すっかり忘れてたけど」

 

 恭子に訊ねた。

 

「麻雀仮面さんは、どうするの? 日曜日、戦うんでしょう?」

 

 今朝は恭子もさらりと流したが、割と重要なことだ。落ちぶれたとは言え、東帝大学麻雀部の名前を背負って戦うのだから。

 

「んー。宥ちゃんが来てくれたならもっと話は簡単やったと思うけど」

「ご、ごめんなさい」

「ま、そこはなんとかするわ。強いんは強いんやろうけど、どこぞの馬の骨とも知れん奴やしなぁ」

 

 にやりと、恭子は力強く笑った。

 

「インカレ出場するまで、そんな奴に負けられへんやろ」

「――うん。頑張って、部長」

 

 宥の湛える微笑みに宿るぬくもりは、恭子の心に安寧をもたらす。今日だけでなく、何だかんだと二年間、お世話になりっぱなしだ。

 

「気ィ付けて帰ってな」

「徒歩一分だから大丈夫」

 

 さらりと宥は扉をくぐって出て行った。ひらひらと手を振って彼女の背中を見送って、恭子は小さな溜息を吐いた。まずは、おもちゃ箱をひっくり返した有様の部屋を片付けなければならない。

 

 だというのに、足は軽い。心が躍る、とはこのことか。麻雀以外で楽しみに「その日」を待つのは、初めてだった。

 

 

 ◇

 

 

 スカートを履くのはいつぶりだろうか。高校時代はできるかぎり避けていたものだ。

可愛らしいという修飾語は、高校時代から自分には相応しくないと恭子は考えている。無愛想な態度は割と表に出てしまう――高校時代の監督相手だと特に――し、周囲にはずっと可愛い女の子ばかりで溢れていた。そこに引け目じみたものを感じていたと認めるのは、それなりに時間がかかった。認めたからと言って、どうこうするわけでもなかったが。

 

 ついに訪れた日曜日。たまたま部活も休みにしてしまったこの休日を、よく麻雀仮面は指定してくれたものだ。おかげで半日以上も京太郎と共に過ごさなければならない。まだ見ぬ敵を、恨みがましく呪った。

 

 そろそろ出かけようか、という段階になって、恭子は余計なものを見つけてしまった。

 

 かつてつけていた、赤いリボン。

 

 二十歳を超えた身でつけるのは、かなり勇気がいる。評判は良かったものの、正直みんなお世辞で言っているのではないか、と高校のときから疑っていた。ただ、今日は普段と違う気分になりたい。そういうときは見かけから――と教えてくれたのは、例の監督だったか。勇気を出して、恭子はまとめていた髪の一部を下ろし、リボンを手に取った。

 

「……よし」

 

 気合を入れて、待ち合わせ場所の大学の最寄り駅に向かう。集合時間は午前十時と取り決めたが、到着は十五分前。少し早く着きすぎたかと思ったら、彼は既に改札の前に佇んでいた。長身と金髪のおかげですぐに分かった。あ、と恭子が短く声を漏らすのと同時、彼もこちらに気付いて駆け寄ってくる。須賀は犬タイプと思った。

 

「おはようございます、末原先輩」

 

 低い声で挨拶され、恭子は彼を見上げる。京太郎は普段と対して変わらない様子で、にこにこと笑っていた。

 

「お、おはよう須賀。ごめん、待たせてしもた?」

「いえ、今来たところですから」

「そ、そか」

 

 ――あかん。これはあかん。

 

 恭子は愕然となる。この型にはまった会話は、漫画でよく読んだシチュエーションと同じだ。意識しないように努めていたのに、のっけから引きずり込まれそうだ。

 

「末原先輩、今日はまた可愛い格好ですねー。すごく似合ってます」

「――、まぁ、たまにはな」

 

 相手の服装を褒めるのも、大昔予習した内容と同じであった。狼狽える恭子はまともに京太郎と向き合えなくなり、そっぽ向いたまま歩き始めた。

 

「ほら、行くで」

「はい」

 

 この場合京太郎の服装も褒めなければならないのかも知れないが、恭子にその余裕はなかった。一歩分の距離を先行しつつ、早歩きになってしまう。やはりどうも、他の後輩相手と同じようには振る舞えない。

 

 事前に検討しておいた通りに、恭子は自分がよく巡るコースを紹介した。女子向きな場所は除いて、書店、喫茶店、図書館、それから雀荘。京太郎の受けもよく、ひとまず恭子は胸を撫で下ろした。

 

 すぐに昼を迎え、昼食は大学からやや離れた洋麺屋でとることとなった。一応、恭子行きつけの店である。一番行くのはお好み焼き屋だが、東京案内でそれもどうかと思い避けた。

 

 この時間帯になってようやくはあるが、恭子はある程度落ち着きを取り戻していた。今のところ共通の話題は麻雀のみであるが、その麻雀が潤滑油となって恭子のぎこちなさを取り払ってくれた。一緒にパスタを食べながら、麻雀談義に花を咲かせる。

 

「宮永プロ、早速活躍してんなぁ。良かったやん。プロでの姉妹対決もこの分やとすぐとちゃうんか」

「だと良いですけど、あいつ、麻雀以外は抜けたところありますから不安なんですよね。……友達作れてるのかどうか」

「あんたらの同期って後は原村と片岡やろ? また厄介なことにこっちなんよな」

「そうですね、和も優希もこっちで咲だけ関西です」

 

 そうかぁ、と恭子は一度頷いてから、

 

「まぁ、関西人は何だかんだ言うて面倒見ええから、大丈夫やよきっと」

「末原先輩もそうですもんね」

「褒めても何も出ぇへんで」

 

 軽口を叩く余裕も生まれた。パスタの味も、しっかり分かる。緊張もすっかり解れ、普通にお喋りするだけで楽しかった。

 

「――なぁ、須賀」

「なんですか?」

「あー、いや……その」

 

 ただ、やはり京太郎に例の質問をすることはできなかった。

 

 ――どうして、うちの麻雀部に入って来たのか。

 

 たったその一言を、中々紡げない。

 

「麻雀仮面って、どんな奴やと思う?」

 

 結局、誤魔化しついでに無難な質問をぶつけてしまった。京太郎はフォークを置いて、少し考える素振りを見せてから、答えた。

 

「……悪い人じゃないと思います」

「なんで? 美人って噂やから?」

「ち、違いますよ。ほら、強い人を倒してもそれを喧伝することもないし。果たし状じゃなくて挑戦状ってところがまた、純粋に腕試ししてるみたいな感じがして」

「ふぅん」

 

 恭子は曖昧に頷いた。一理ある意見だった。だが、どうにも釈然としない。

 ――なんか、引っかかる。

 恭子はぶるぶる首を横に振った。今は目の前の彼に集中するのが筋というものだろう。がたりと音を立て立ち上がり、

 

「次、行こか」

「はい」

 

 京太郎を促した。

 麻雀仮面との約束まで、まだしばらくある。他のおすすめスポットを巡っても良かったが、そろそろネタ切れしそうだった。そこで、例の手札を切ることとした。

 

「須賀は、美術館とか興味ある? 宥ちゃんに展覧会のチケット貰ってるんやけど」

「あんまり行ったことないですねー。でも、折角だから行ってみたいです。長野には美術館自体少なかったし」

「それじゃあそうしよか。宥ちゃんにお礼言っといてな」

 

 京太郎の同意もとれ、電車で上野に移動する。若干迷いながら、目当ての美術館の門を二人はくぐった。

 

「新印象派展、ですか」

 

 受付で受け取ったパンフレットの題目を、京太郎が読み上げる。

 

「新印象派って、どういう意味ですか?」

「モネは分かる? 印象派って呼ばれる絵描いてた人なんやけど。そこからスーラやシニャックって人たちが発展させたのが新印象派」

「へぇー。流石末原先輩、博識ですね」

「こ、こんなん大したことあらへんよ」

 

 昨日の内に予習を済ませておいて良かった。恭子は心底そう思った。入口の掲示板にも書いているような付け焼き刃の知識ではあるが、何も答えられないよりはマシだった。

 

 展覧会の室内は薄暗い。客入りはまばらだが、カップルらしき男女が目立つ。自分たちもそう見られているのだろうか、と恭子は若干どぎまぎしつつ、順路に従い歩みを進めた。

 

 初めて来るような催し事ではあるが、大きな音を立てるのがマナー違反だということはすぐに理解した。他の客たちは声を潜めて喋っているし、足音も小さい。自然と、恭子と京太郎の間に会話は減っていった。

 

 古い時代から新しい時代に繋がるように順路は設定されており、素人目にもタッチの変遷は見て取れた。隣の京太郎の様子をそっとうかがってみれば、意外にも彼は目の前の絵画に集中していた。真剣な表情に、恭子はどきりとする。まるで麻雀を打っているときと同じみたいだった。

 

 たっぷり一時間かけて、およそ100点の絵を見終える。

 出口に設えてあったベンチに二人は腰掛け、ひとまずの休憩をとっていた。

 

「須賀、結構気に入ったみたいやね」

「え? ああ、そうですね。とても面白かったです。何て言うか、どこの世界も同じなんだなって思って」

「どういうことや?」

 

 京太郎の言わんとすることが掴めず、恭子は首を傾げる。

 

「んー。俺、絵ってセンスある人が凡人には理解できないようなやり方で描いてるものだって思ってたんですよね。でも、解説にあったじゃないですか。新印象派は色彩理論だとか、光学だとかに基づいて絵を描いてるって。そしてさらにそれを発展させてすげー絵を描いてましたよね。――そういうのって麻雀も同じと思いません? 確かにとんでもない打ち手はいます。けど、ちゃんと歴史の古くから伝えられてる技術ってのもあるじゃないですか」

 

 恭子は、黙って京太郎の話に耳を傾ける。

 

「正直、俺は咲の打ち筋とか全く理解できない凡人ですけど。でも、凡人でも理論とか技術は分かります。そういうのを積み重ねて、発展させていけばちゃんと勝てるじゃないかって。凡人でも、すげー絵も描けるんじゃないかなって。……すみません、なんだかとりとめのない話しちゃって」

「……ううん」

 

 恭子は――強く、彼に共感した。きっと、彼の言いたいこと全てを飲み込めたわけではないだろう。けれども――ちゃんと、心に伝わってきた。何よりも、自分と彼が同じタイプであるということがとても嬉しかった。

 

 凡人、と恭子は自らを揶揄してきたが。

 それがとても誇らしく思えた。

 

「……そろそろ、出発しよか。合流する相手もおるし」

「分かりました」

 

 疲れていたはずの足取りは軽く。いつの間にか、恭子は京太郎の隣を歩いていた。背中だけを見せていたときよりも、よっぽどしっくりきた。

 再び電車で移動した先は、麻雀仮面に指定された池袋。

 

 駅前の通りで待つこと五分、

 

「恭子」

「菫」

 

 姿を現れたのは、弘世菫。約束通り、麻雀仮面の件は彼女に連絡しておいた。菫にとって厳しい日時指定だったようだが、何とか時間を作ったようだ。

 

「今日はすまないな」

「ええってええって。ことのついでやし、菫がいてくれたほうが心強いわ」

「須賀君は……いつ振りだ? ああ、大学入学おめでとう。祝辞が遅れてしまってすまない」

「いえいえ、ありがとうございます弘世さん。直接会うのはもう一年ぶりくらいですかね」

 

 握手を交わした後、菫は京太郎にそっと訊ねる。

 

「淡は、迷惑をかけていないだろうか」

「あー……まぁ、最近は対局で忙しいみたいですよ」

「そうか。何かあったら私にすぐに言ってくれ」

「いえ、別に迷惑だなんて思ってませんし、弘世さんが気に病むことでも」

「君には苦労をかけたからな。そうもいかない」

「はい、そこまでや」

 

 放っておけばいつまでも続けそうだったので、恭子は二人の間に割って入る。男子に対して堅物かと思いきや、意外と菫は京太郎に好意的だった。二人の握手を切ったのには、決して他意などない――つもりである。

 

「会いに行こか、麻雀仮面とやらに」

「そうだな」

「はい」

 

 指定された雀荘は、駅から歩いて十分ほど。

 人気の少ない路地に入り、縦に長いビルの階段を登る。古ぼけた、客など一人も入っていないような雀荘だった。

 

 入口の扉を開く。煙草の匂いが漂ってきた。

 しかしやはり客はいないのか、牌を打つ音は聞こえない。受付にはお爺さんが一人座っているだけで、他に店員は見当たらない。

 

 だが、狭い店内の中央、そこに一人の女が佇んでいた。

 すぐに、分かった。名乗らなくとも、分かった。

 

 

 ――こいつが、麻雀仮面……!

 

 

 名前の通り、女の顔は狐面に覆い隠されていたのだ。狐の目元には、ハートマークのシールが貼られているが、可愛らしさは感じ取れない。

 

 背後で菫が固まるのが、分かった。本音を言えば、恭子も思考が真っ白になりそうだった。

 

 だが、末原恭子は関西人である。由緒正しき、大阪生まれ大阪育ちである。そのプライドがあるのだ。

 

 故に。

 突っ込むべきと思ったら、

 

「ってなんでメイド服やねん!」

 

 すぐさま突っ込まなくてはならない。

 

 

 ――驚愕すべき事実。

 

 麻雀仮面は、ミニスカメイドだった。

 

 

 




次回:1-4 あなたがいたから


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1-4 あなたがいたから

 恭子の渾身の突っ込みにも、麻雀仮面は動じなかった。いや、狐面のせいで表情の変化はさっぱり分からない。だが、身動ぎ一つ見せなかったのは確かだ。

 

 身長は恭子より高め。ほっそりした体格も、肩まで落ちた綺麗な直髪も、間違いなく女性のものだ。異彩を放つのは、やはりそのメイド服。ただ着慣れていないというか、本物のメイド服とは違う――ミニスカだから当然だが――というか、どうもコスプレ感が漂う。ぱちもんくさい、と恭子は思った。

 

 静かな雀荘の店員は、老人が一人のみ。ささっと受付を済ませて、恭子たちは改めてミニスカメイドと向かい合った。

 

「あんたが、麻雀仮面か」

「はい、麻雀仮面です」

 

 恭子の問いかけに、仮面の女はこっくりと頷いた。酷い会話だった。フリルだらけの派手な格好の割に、麻雀仮面は落ち着いている。

 

「東帝大学麻雀部部長、末原恭子や」

 

 しっかりと狐の細目を睨め付け、恭子は名乗った。

 

「こっちの男子は同麻雀部員須賀京太郎。もう一人は見届け人で聖白女の弘世菫や。――今日はあんたの挑戦、受けに来たったで」

「どうも」

 

 麻雀仮面から返ってくるのは、短い返答。抑揚のない、まるで機械のような声だ。恭子は僅かに眉をひそめてから、言った。

 

「早速やけど、勝負と行こか。うちとあんたのサシウマでええか。25000点持ちの半荘二回でトータルスコアの上のほうが勝ち。後の面子はこの二人。心配せんでもコンビ打ちとかせえへんから」

「私は三対一でも構わない」

 

 変わらず平坦な声で、麻雀仮面は宣った。隣の菫がぴくりと肩を震わせる。だが、堪えたようだ。あくまで勝負を受けたのは東帝大学麻雀部であり、この場での立場を弁えているのだろう。真面目な菫らしい、と思いながら恭子は麻雀仮面へ言い返す。

 

「ぼっちをいじめる趣味はあらへん。連戦連勝で調子乗っ取るみたいやけど、そう簡単にいくと思われても困るな」

「そう」

 

 挑発しても、さらりと受け流される。中々間合いに入ってこない。

 

「あんたが負けたらその仮面外してもらうで。それからなんでこんな辻斬りみたいな真似してるんか洗いざらい吐いてもらうからな」

「分かった」

「うちらが負けたら――」

「ここの場所代だけもってもらう」

「……偉い軽い条件やけど。まぁ、挑戦受ける側やしな。それでかまへんわ」

 

 恭子は一度京太郎と菫に向き直り、

 

「よろしくな、二人とも」

「はい」

「頼むぞ、恭子」

 

 恭子は強く頷いて、卓につく。

 上家と下家にそれぞれ菫と京太郎、そして対面は麻雀仮面となる。改めて麻雀仮面と向かい合うと、そのふざけた仮面が実に鬱陶しい。

 

 日本の大学麻雀の公式ルールに則ると、対局中に表情を隠す道具――つまり仮面や色つき眼鏡の着用は認められていない。野試合の経験は恭子もそれなりにあるが、そのためここまであからさまな仮面を着けた相手と戦うのは初めてだ。

 

 ――相手をよく観察し、データを積み重ね、傾向を読み打ち崩す。

 

 一雀士としての恭子の戦術を大雑把に説明すると、そうなる。この戦術の上では、相手の表情が分からないというのは大きなディスアドバンテージとなってしまう。例えば視線の動きなどは、熟練の打ち手であっても癖が残っている場合がある。口よりも多くを語るのが、表情なのだ。

 

 加えて、今回は未知の相手とのたった半荘二回の勝負だ。情報を読み取って戦うには時間が少なすぎる。恭子のプレイスタイルは今回のルールでは明らかに不利だった。

 

 しかし、恭子に焦りはなく、淡々と配牌を確認する。

 

 情報がない、データがない、と泣き言を漏らす時期はとうに終わっている。なければないなりの戦い方をすれば良いのだ。そして戦いの中で必要なものを集めれば良い。

 

 何よりも。

 後輩が見ている前で、情けない打ち方はできない。

 

 常に負ける可能性を考慮して戦うのが持ち味だ、と高校時代の主将は褒めてくれた。しかし今は――

 

「リーチ」

 

 こんな訳の分からない相手に挫かれるつもりは毛頭ない。恭子はリー棒を卓に投げ込む。

 

「ツモや」

 

 そして三巡でツモ上がり。早速麻雀仮面の親を蹴っ飛ばした。調子の良さを感じる。

 さらに東二局、

 

「リーチや」

 

 恭子は麻雀仮面に先んずる。場の流れは、確実に彼女の元に来ていた。これが通常の四人打ちなら話はまた別だったろうが、少なくとも現状その流れが途切れる気配はない。

 

「ツモ! 3000・6000!」

 

 一気に麻雀仮面を突き放す。この序盤で勝負を決めてしまう勢いだった。

 親となり、サイコロを回しながら恭子は麻雀仮面を盗み見した。顔は見えないが、動揺している気配はない。どっしり構えた姿は、場慣れしている感があった。この程度の点差、ピンチでもなんでもないと言うように。

 

 だが、今回の配牌も早上がり、高得点を狙える手であった。これがリーグ戦でいつも来てくれたらな、などと考えながら打牌する。

 

「リーチ」

 

 恭子の内に灯る熱が、一気に冷える。

 

 今度は麻雀仮面のリーチ宣言だった。――この感覚。恭子の背筋に冷たいものが走る。全国区の魔物クラスと相対したときと、同じだ。

 

 ――ああ。

 

「ツモ」

 

 ――ここからってわけやな……!

 

 四巡目即ツモ、満貫親被り。

 

 牌を卓内に送り込みつつ、恭子は考える。突然出てきた超新星でもない限り、この麻雀仮面は確実にどこかの大会で名前を売っているはずだ。そしておそらくは同年代。大学リーグに入ってくる可能性も考慮し、三つ学年下までの名だたる打ち手の牌譜は常日頃からチェックしている。

 

 ――思い出せ。

 

 打ちながら、記憶を照合させるのだ。特に重要なのは、昨年のインハイの牌譜だ。麻雀仮面が大学一年生という仮定が確かなら、そこで行き当たる可能性が高い。当然、他の学年の可能性も考慮しなくてはならないが。

 

 勝つために、そして正体を暴くために。

 

 麻雀仮面のデータはまだたったの三局だけ。だが打牌の動作や対局のリズムといった視覚情報もある。動画で見た選手の記憶を引っ張り出せば、さらに特定へと近づく。

 

 恭子は現在行っている対局のクオリティを一切落とさず、並列して脳内の記録を洗う。

 

 思考することこそ、彼女の強みだ。一見してデータが役に立たない状況でも、その可能性を見出す対応力。役立つものを内に取り込むのではなく、取り込んだものを役立たせる姿勢。いずれも思考を続けるからこそ為せる技術だ。

 

 南場に突入するが、点差で言えばまだ恭子が優勢である。緩みを見せなければこの半荘は凌げる。

 

 南二局、八巡目で恭子は七対子をテンパイする。データの海に潜ってはいるが、麻雀仮面は未だ得体が知れない。リーチで攻めるよりも、点差を活かしてダマで恭子は振込を待つこととした。

 

 しかし、同巡。

 

 麻雀仮面はこれまで淀みなく動いていた手を一瞬止め――それから手配に指をさまよわせ、切ったのは二索。恭子の捨て牌からすれば、決して安全とは言えない一手だった。

 

 だが恭子は確信する。かわされた、と。テンパイ気配を察せられ、この北待ちを読み切られたと。まるで高校時代の主将を相手にしているかのような鉄壁を感じたのだ。最終的に、この局は流局。

 

 そのまま最初の半荘は終了。恭子が麻雀仮面にプラス8800でリードする。

 

「――どうだ、恭子」

 

 インターバル、麻雀仮面と少し離れて三人は集まる。急くように質問を飛ばしてきたのは菫だった。

 

「まだ特定できへんな。菫はどう思った?」

「照や淡のような分かりやすさがあれば良かったが……読みがかなり上手い打ち手という印象しかないな、今のところは。確かに強いが、このレベルなら複数人候補が上がる」

「うちも似たようなもんや。須賀は?」

「俺も、守りが一級品としか。南場はもっと攻めてくるかと思ったんですが」

「確かに、そこは引っかかったわ」

 

 ビハインドを背負っているにも関わらず、追いかけようとする気配が感じられなかった。後半戦に勝負をかけようとする意図なのだろうか。

 

「……いずれにせよ、このリード守り切るで」

「頼んだぞ」

「頑張って下さい、末原先輩」

 

 再び恭子は麻雀仮面の対面に。今度は上家が京太郎、下家に菫。

 麻雀仮面の立ち上がりは、再び静かなものだった。しかし、恭子の調子の良さも失われていた。テンパイまでかなり遠い。上手くテンパイしてダマで待っても、麻雀仮面は振り込まない。

 

 流局と安手のみで、あっという間に南三局まで辿り着く。

 

 依然恭子がリードを保ったままである。このままだと順当に勝ち上がるが――恭子は再び嫌な予感がしていた。

 

 序盤感じたようなプレッシャーが、彼女の身を包んでいたのだ。

 恭子の手は早々に一向聴まで辿り着く。

 

 だが、

 

「ポン」

 

 それよりも早く。

 

「チー」

 

 麻雀仮面が、

 

「ツモ」

 

 早上がりを見せた。

 しかし、

 

 ――えらい勿体ない上がりや。

 

 役牌のみの上がり。だが手牌と捨て牌を見れば、充分染め手に育てることも、面前で進めることもできただろう。これでもう後はオーラスのみだ。残り少ないチャンスを自ら棒に振ったように思える。直前に感じたプレッシャーはなんだったのか。

 

 けれども恭子は、油断しない。

 

 ――うちの手が、潰されたと見るべきか。

 

 ここで自分が上がっていれば、オーラスのチャンスもほぼ潰えていただろう。自棄になったのではなく、麻雀仮面は冷静に首の皮一枚繋いだと考えるべきだ。

 

 はっきり言って、今この場で麻雀仮面に味方するものはない。コンビ打ちをしないと言っても、恭子は京太郎と菫の打ち方をよく知っている。序盤から運に恵まれ続けているのは恭子のほうであり、麻雀仮面に良い手が入っている気配は薄い。

 

 問題は、それでも腐らず虎視眈々と勝利を狙ってきているということ。経験的に、こういう相手が一番厄介だと恭子は知っていた。

 

「オーラス――うちの親や」

 

 速攻で流す。恭子はその決意と共に、サイコロのボタンを押した。

 

 牌をツモり、牌を捨てる。

 無言のまま、四人はその動作を繰り返す。場の緊張はピークに達していた。麻雀仮面は満貫ツモで逆転だ。口で言うのは簡単だが、早々都合の良いタイミングで作れるとは限らない。対して恭子は何でも良いから上がれば勝ち。心理的な重圧も比ではない。

 

 振込だけには気を付けて、恭子は打牌するが二向聴から手が進まない。これは面倒なことになりそうだ、と思った矢先、

 

「――リーチ」

 

 麻雀仮面が、1000点棒を卓に乗せる。これまでにない怖気が、恭子の体を駆け巡った。同時に、脳裏に過ぎるのはここまでの牌譜、そしてあの夏の記録。

 

 次の京太郎の捨て牌を、

 

「ポン!」

 

 食い取る。

 手の進まない鳴きを、恭子は実行した。――ツモをズラさなくてはならない。最後に従ったのは、その直感だった。

 

 麻雀仮面に、動揺はない。

 恭子は振り込まないことだけを心がけ、牌を切る。下家の京太郎の捨て牌も、麻雀仮面はスルー。

 

 そして。

 

「ツモ」

「――ッ!」

 

 ズラしても、麻雀仮面は牌を倒した。だが、現状満貫には足りない。5200の手だ。

 問題は――裏ドラ。乗れば逆転負け。こればっかりは、祈るしかない。果たして結果は、

 

「……私の負け」

 

 乗らず。

 小さな声ながら、はっきりと麻雀仮面は敗北を宣言した。

 

 状況は恭子に有利だった。故に、独力で勝った気はしない。そもそも半荘二回で全てを図れるほど麻雀は単純ではない。

 

 それでも、勝利は勝利。そこに、疑う余地はない。

 

「さぁ――麻雀仮面。その仮面、脱いでもらおか」

 

 がたりと恭子が席を立ち、麻雀仮面を見下ろす。菫もそれに続いた。

 

 見下ろされた麻雀仮面は――椅子を引く。

 静寂に包まれる雀荘。

 

 その中に響くのは、麻雀仮面の足音だけ。すたすたすた、と彼女は受付まで歩き、財布を取り出し料金を支払い、そのまま出口から出ていった。

 

 流れるような動き。

 余りに堂々とした振る舞い。

 

「……は?」

「……え?」

 

 恭子も菫も、声をかけられずにぽかんと彼女を見送っていた。見送ってしまった。

 

 しばしの沈黙。

 恭子の口が動き出したのは、たっぷり十秒ほど経ってから。

 

「須賀」

「な、なんですか?」

「追いかけぇ」

「えっ」

「ぼーっとしとらんで、早うあの狐メイド追いかけぇ!」

「は、はいーっ!」

 

 京太郎の巨体が駆けていく。流石元スポーツマン、素早い。あっという間に見えなくなる。

 

「私たちも行くぞ」

「せやな」

 

 菫と共に恭子も麻雀仮面を追いかける。

 雀荘を飛び出して、階段を一気に下る。路地を抜けた先は、人の海で溢れていた。見つかったのは、立ち尽くす京太郎の姿のみ。

 

「すみません、見失いました」

「……そうか」

「いや、須賀君は悪くない」

 

 謝る京太郎を、菫が慰める。

 

「とんだ狐やったな」

「全くだ。……しかし、これでまた振り出しだな」

「いや、ひとまず麻雀仮面には土をつかせたんや。その噂をばらまけば、あの狐メイドもでかい顔できへんやろ。正体を暴けんかったのは、心残りやけど」

「……それもそうだな。まぁ、これで諦めるとも限らんが。私の知る限りの麻雀部とは連絡をとっておこう」

「頼むわ」

 

 恭子が手をひらひらさせ言うと、菫は訝しげに眉をひそめた。

 

「なんだ、やけにあっさりだな。折角勝ったというのに」

「ちょっと疲れたわ。今日は帰ろか」

「お前がそう言うのなら、そうするが……」

 

 若干菫は心残りを見せていたが、結局駅で解散となった。

 

「それじゃ、また。次に会えるんは大分後になるかな」

「ああ、これからお互い忙しいだろうからな。リーグ戦勝てよ、恭子」

「そっちもな」

「須賀君も、くどいようだが淡を……」

「ああ、はい、分かりました」

 

 激励と心配を残し、菫は去って行った。苦労人やなぁ、と恭子はしみじみ思った。

京太郎と二人で、恭子は電車に乗り込む。それなりに車内は混み合っており、二人は並んでつり革を掴む。

 

「いやぁ、今日は凄かったですね末原先輩。あの麻雀仮面、ただ者じゃなかったのによく勝てましたね」

「ま、不意打ちされたわけでもないしな。このくらいはやらへんと」

 

 恭子はにやりと笑う。

 

「須賀もあんくらいはできるようにならんとあかんで」

「頑張らないといけませんね」

「晩ご飯どうする? 何か食べたいもんある?」

「んー、そうですね。魚食べたい気分です」

「へぇ、男の子はお肉好きやと思ってたけど。違った?」

「昨日友達と焼肉だったんですよね、もちろん肉も好きですよ」

「メイド服は須賀の趣味なん?」

「あれは高校時代の先輩の実家で使ってるもので、貰った――…………」

 

 京太郎の言葉が、途切れる。二人の間に、沈黙が落ちた。

 ちらりと盗み見すれば、後輩はだらだらと汗を流していた。

 

「やっぱりか」

 

 はぁ、と恭子は溜息を吐く。

 

「……いつから気付いてたんです?」

 

 観念したように、京太郎は苦笑いを浮かべる。恭子は大袈裟に肩を竦めて言った。

 

「上位リーグの大学で止められていた噂をあんたが知ってる時点で、おかしいんとちゃうかと思ってたわ。あんたが麻雀仮面の噂を話したその日に、当の麻雀仮面からメール来てたりな。昼間も麻雀仮面を擁護するようなこと言ってたし」

「う……」

「なによりさっきの何なん? いくらあの人混みでもあんたが本気出したら追いつけんわけないやろ。ミニスカ言うても逆に走りづらいで、あれ」

「……はい」

「人騙そ思ったら、もっと細部まで詰めな。麻雀でも同じことや。逆に足元すくわれるで」

「肝に銘じます」

 

 全てを見抜いて説教して、勝ち誇っているわけではない。逆に高揚感など欠片もなく、恭子の気持ちは冷えていた。

 

「あんたの地元の友達……とはちゃうか」

「え、ええ。そこまで分かるんですか」

「できる限り喋らんようにして、イントーネーション隠そうとしてたからな。どっちかっていうと西側の人間やろ、アレ」

「流石です、末原先輩」

 

 いつもならこんな白々しい褒め言葉でも、動揺していただろう。だが、今の恭子の心は動かない。

 

 どういう理由があったのかは知らないが――結局京太郎は最初から最後まで、あの妙な狐メイドのために動いていた、ということだ。京太郎に悪意がないのは分かっている。恭子をやりこめようとか、そんなことを企てる人間ではない。だからこそ、あの麻雀仮面のためというのが分かってしまうのだ。

 

 それが、たまらなく嫌だった。

 

 彼の目が、自分に向いていなかった。そう思うと、今日のために色々思案し宥に相談し、準備を進めたのが途端に馬鹿らしくなった。一人だけ舞い上がっていた自分が惨めではないか。恭子は歯噛みする。

 

 ――こんな黒い気持ちを後輩にぶつけるわけにはいかない。そもそもデートだの何だの考えて、自分が勝手に舞い上がっただけなのだ。それなのに京太郎を責めることなど、どうしてできようか。

 

 ただただ、今はもう何もかもを放り出したかった。麻雀仮面に勝てた喜びなど、とうの昔に霧散している。

 

「あの麻雀仮面、東帝の一年か」

「えっ、はい、そうです」

「何がしたかったんか分からんけどな。麻雀、本気でやりたいならゴールデンウィークまでに部室顔出せって伝えとき」

「……分かりました、ありがとうございます! きっと来ます、これで女子部員五人揃いますね!」

 

 顔を輝かせる京太郎。――ああ、なるほど。細かい話はなおも分からないが、麻雀部のために動いていたのは確かのようだ。だからといって、凍った恭子の心は解けたりしないが。

 

「すまん須賀、うち用事思い出したわ。次の駅で降りるわ。晩ご飯は一人でな」

「あ、はい。お疲れ様でした」

「はい、お疲れさん」

 

 口から出任せであったが、京太郎は納得したようだ。

 

 電車が止まり、扉が開く。

 恭子は電車を降りて、一瞬躊躇ってから、京太郎に振り返った。――今なら訊けそうだ、と投げ槍に彼女は考えていた。

 

「須賀」

「どうしました?」

「なんでうちの大学に――麻雀部に入ったん?」

「え? 末原先輩がいたからですよ」

 

 彼がさらっと答えた瞬間、電車の扉は排気音を立てて閉じた。がたん、と車体が揺れて動き始める。

 視界の端で、京太郎が手を振っているのが分かる。が、恭子は応えられなかった。そのまま彼は、フェードアウトしていった。

 

 ――顔が、熱い。

 

 人生でこんな経験したことないくらいに熱くなる。さっきまで冷えていたはずの心が、一気に沸騰して湯気を出しているかのよう。どんな気持ちであったかなんて、もう思い出せない。心臓がうるさいくらいに鼓動する。

 

 周囲の乗客から「気分でも悪いんですか」と声をかけられるくらいに、恭子の顔は真っ赤になっていた。そしてその場で固まってしまった。駅員がやってきて、危険だからと無理矢理肩を掴むまで彼女はそこに、延々と突っ立っていた。

 

 どうやって帰路に就いたかも分からず。

 気付けば恭子は、自宅の玄関にいた。

 ぱちりと電気をつけ、自分の部屋に入った瞬間、

 

「ああああもおおおおおなんやそれええええええ」

 

 恭子はベッドに飛び込んだ。枕に顔を埋め、ばたばたと足を振る。ベッドはぎしぎし悲鳴を上げた。ずっと、悲鳴を上げ続けた。

 

 

 

                     Ep.1 末原恭子のモラトリアム おわり

 




次回:Ep.2 松実家シスターズウォー
    2-1 襲来、ドラゴンロード


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Ep.2 松実家シスターズウォー
2-1 襲来、ドラゴンロード


 松実宥は、東帝大学でも指折りの有名人の一人である。知らぬ者と言えばまだ夏を迎えていない新入生くらい。そんな彼らでも、先輩たちから宥の話だけは聞かされる。「マフラーの姫」という二つ名と共に。

 

 広いキャンパス内でも彼女が目立つのは、ひとえにその服装によるもの。春先や冬はともかくとして、その過剰なまでの厚着は常識外れである。真夏でもマフラーは当然、手袋にコート、冬場では顔をすっぽり覆うマスクに耳当て。道行く人全てが驚く格好である。

 

 それだけなら変わった人だという認識で終わったかも知れないが、マスクを脱いだ顔立ちは可憐であり男子学生からの人気は非常に高かった。一部からは「病弱っぽいのがまた良い」という根強い支持がある。

 

 女子校育ちの宥としては、男性相手は興味よりも苦手意識が先立ってしまう。入学して二年経った現在でも方々からのアプローチは絶えないが、部活やアルバイトを言い訳に――実際そちらに集中したいのだが――全てお断りしていた。

 

 そんな身持ちの堅い宥ではあるが、この春は少し状況が変化した。――彼女が所属する零細麻雀部に、男子の後輩が入って来たのだ。

 

 講義の合間のお昼休み、宥は友人たちと別れ部室棟へ移動する。立派な新館をちょっと羨ましく見上げながら、入るのは古ぼけた旧館。外よりも一段と冷えるこの棟が、はっきり言って宥は苦手だった。冬は特に隙間風が酷い。どうにか建て直しを要求したいところだが、在学中に実行される見込みは薄いだろう。

 

 階段を昇っていると、視界の端で長い丈のスカートが翻った。見上げた先にいたのは、数少ない後輩の一人だった。

 

「あ、尭深ちゃん」

「松実先輩……こんにちは」

 

 感情の薄いのっぺりとした顔に添えられるのは、フレームレスの眼鏡。ぺこりと下げられる頭と共に、ショートカットの髪が少し揺れた。どちらかというと図書室に佇む文学少女といった雰囲気の持ち主で、お人形さんのように可愛い、と宥は彼女を見るたびにそう思う。

 

「こんにちは。今日も部室でお昼御飯?」

「はい。松実先輩も、ですね」

「うん。最近の楽しみになっちゃった」

 

 微笑みながら、宥は尭深の隣に並ぶ。かつてインターハイではライバルチームとして鎬を削った仲である二人は、しかしお互い穏やかな性格ということも手伝って、大学で再会した当初からわだかまりはなかった。

 

 部室の鍵は、開いていた。ここからなら大講義室のある棟が最も近い。今日も彼が一番乗りだ。

 宥が扉を開いてすぐ目に飛び込んでくるのは、いつもホワイトボードに書かれた「目指せ! 関東一部リーグ!」の赤字。それからそのすぐ傍の長机に座る、後輩の姿。この麻雀部唯一人の男子部員にして、現在のところ唯一人の新入部員である須賀京太郎だ。

 

「あ、どうもです、松実先輩、渋谷先輩」

「こんにちは、京太郎くん」

「こんにちは、須賀くん」

 

 尭深と声を合わせて挨拶をする。彼の向かいが宥、その右隣が尭深というのが最近の定位置だ。三人は揃ってお弁当箱の包みを取り出す。

 

「お茶いれますね」

「ありがとうございます、ポットのお湯湧かしておきましたよ」

「うん、ありがとう」

 

 この部活において、お茶をいれるのは尭深の仕事である。京太郎が入部してなお、彼女はこの役割を頑として譲らなかった。お茶研究会なるものにも所属している尭深にとっては、譲れない何かがあるのだろう。尭深のいれたお茶はあったかく、とても宥の好みである。

 

 月曜日、木曜日、金曜日はこの三人が揃って昼前まで講義のある日だった。全員が弁当持参派であり、宥の提案で部室に集まって食べる決まりとなっていた。

 

 目的は京太郎の大学生活の相談や、軽いミーティングである。だが、すぐにもう一つの主旨が加わった。

 

「俺の今日の弁当はサバの味噌煮です」

 

 京太郎が大きめのお弁当箱を開き、

 

「私のメインは豆腐ハンバーグです……」

 

 尭深が小さなお弁当箱を開き、

 

「いつもと趣向を変えてサンドイッチ作ってみたの。卵と野菜とハムの」

 

 宥がタッパーを開く。

 

「おお、良いですねー」

「それでは」

「いただきまーす」

 

 それぞれ箸と指を向けるのは、自分のお弁当ではなく、他者が作ってきたものだ。はっきり言って、一人分のお弁当を作るのは非常に手間だ。昨日が日曜日で、夜に時間が余ったので宥もサンドイッチを用意できたものの、普段は残り物であったり冷凍物が中心であったりするのが当たり前だ。そうなるとどうしてもメニューが単調になりがちで、彩りも悪くなる。

 

 故に、こうしてお弁当を分け合える仲ができたのは僥倖であった。少ない準備で、多くの味が楽しめる。しかも三人ともかなりの技術を持っており、切磋琢磨できるのだ。宥のレパートリーと挑戦したい料理は、この半月でぐっと増えた。

 

「京太郎くん、もう大学には慣れた?」

 

 宥の質問に、

 

「はい、先輩たちのおかげで。いやー、でも楽しい反面忙しいですね。講義も本格的に始まりましたし」

 

 京太郎は笑って答えた。

 

「教養科目ならノート回せるから、いつでも頼ってね」

「あ、ありがとうございます。松実先輩の字って綺麗で読みやすいですよね」

「ほ、ほんとう? ありがとう」

 

 ほっと、宥は安心する。男子が苦手と言って逃げ回っていたが、後輩相手にはそうはいかない。上手く先輩として立ち回れるか不安であったが、思いの外上手く行っているようだ。京太郎の作ったサバの味噌煮は舌の上で溶けるように美味しく、二重の意味で有は頬を緩める。

 

「ところで」

 

 有のサンドイッチを小さな口で食みながら、切り出したのは尭深だった。眼鏡の奥の瞳が、京太郎に向けられる。

 

「昨日は、どうだったの?」

「あっ」

 

 その一言で、今更ながら宥は思い出す。――そうだ。昨日の件と言えば、一つしかない。

 

「麻雀仮面さん。恭子ちゃんと一緒に会いに行ったんだよね」

「あー……」

 

 京太郎は苦笑いを浮かべ、豆腐ハンバーグを口に運ぶ。やや言い辛そうに、彼は答えた。

 

「はい、会いました」

「どんな人だったの?」

「…………まぁ、ちょっと奇抜な格好してる人でしたよ」

「ふぅん。奇抜、なんだ」

 

 奇抜な格好とは、どんなものだろうか。宥は考え込むが、隣の尭深が先を促す。本筋ではないのだから、当然だ。

 

「それで?」

「戦いましたよ、ちゃんと」

「それでそれで?」

「勝ちました。末原先輩が」

 

 おお、と宥と尭深の口から感嘆の声が漏れる。噂される麻雀仮面の強さは、生半可なものではない。恭子から聞いた話では、一部リーグの学生を寄せ付けないというのだ。下手をすればプロクラスの実力者なのかも知れない。

 

 その麻雀仮面を打ち破ったのだから、流石我らが部長と言わざるを得ない。常日頃から選手としての自己評価が低い恭子であるが、宥はちっともそうは思っていなかった。不利な状況、自分よりも強い敵を相手にしてなお、最後まで諦めない姿勢は中々真似できない、と宥は考えている。

 

「じゃあ、須賀くんは見たの? 麻雀仮面の正体」

「それが、勝ったのに逃げられちゃいまして。結局見てないんですよ」

「ええっ」

「すみません、ほんとに」

「残念……」

 

 湯飲みを置きながら、尭深が呟くように言った。

 

「私はてっきり淡ちゃんかと思っていたけど」

「あ、淡? どうして?」

「昨日も電話貰って。『たかみ先輩だけキョータローと一緒とかずっこい!』って延々と言われたの。それで須賀くんに構って貰いたくて麻雀仮面なんて真似をやり始めたのかと」

 

 さもありなん、と宥は思った。尭深の高校時代の後輩である大星淡――現女子麻雀プロ――は、京太郎にとても懐いている。一度だけ彼女が京太郎にじゃれついている光景を宥は見たことがあるが、とても微笑ましかった。

 

「いや、それはないです」

 

 しかし、京太郎はやけにはっきりと否定した。仮面の下を見ていないというのに、確信しているかのような物言いだった。宥は首を傾げたが、問いかけた尭深が「そう」とあっさり引き下がったため何も言えなくなる。

 

 代わりに、別の質問をぶつけてみた。

 

「恭子ちゃんとは、どうだったの? 一緒に遊びに行ったんでしょう?」

「ああ、とてもお世話になりました。末原先輩ってやっぱり凄く博識なんですね。美術館に連れてってもらったんですけど、すらすらーって説明してくれて。俺、芸術家の名前なんてピカソとミケランジェロくらいしか覚えてないですよ」

「……そ、そうなんだぁ……」

 

 確か、絵のことなんかよく分からない、と恭子は発言していた。予習したんだなぁ、と宥は彼女の努力を察したが、黙っておくことにした。

 

「他にも色々教えて貰ったし、良い休日でしたよ」

「ごめんね、私たちは都合がつかなくて」

「今度は煌ちゃんも誘って、五人みんなで行きましょう」

 

 尭深の提案に、宥は笑顔で頷く。京太郎も同じくであった。

 

 しかし、このまま五人というのもまずい。とてもまずい。

 

 二年前、一度廃部扱いとなった東帝大学麻雀部は、未だに黒い噂が飛び交っている。事実無根の中傷だとしても、未だに拭い切れていないのは事実であった。学生の伝聞というものは恐ろしく、先輩が「あそこは危険だから近づくな」と言えば、詳しい理由を知らなくとも後輩は従ってしまう。この春も、同じようなやりとりが繰り返されたのだろう。新入生は麻雀部という名前を出すだけで二の足を踏み、他のサークルに流れていった。

 

 部活連や大学側にも目をつけられており――宥や恭子には全く非はないと言うのに――入学式での勧誘も許されなかった。方々でこの麻雀部は理不尽な目に合っている。

 そんな中でも、入学式のその日に入部してくれた京太郎はとても有り難い存在だった。希望の象徴である。

 

 だが、今年はその後が続かなかった。あるいは続かせることができなかった。京太郎の入部は本当に嬉しいが、彼は男子である。女子にはなれない。リーグ戦には最低五人の選手を登録が必要だ。最後の手段として友人に助っ人を頼む手もあるが、できることなら避けたい。

 

 本気で麻雀に打ち込み、共に戦ってくれる仲間が欲しい。腕は二の次だ。それに、もう自分たちの大学生活は折り返し地点を過ぎている。部員確保もままならない状況を、後輩たちに託すのは到底許されることではなかった。

 

 ――よし、と宥は意を決する。

 

「……さっき、噂の恭子ちゃんから連絡があったんだけどね」

 

 全て食べ終えて、タッパーを片付けながら彼女は提案する。

 

「今日は部活連の会合やら何やらで、練習に顔が出せなさそうなんだって」

「あちゃー。昨日の感想戦もしたかったのに」

「珍しいですね。末原先輩、どれだけ忙しくても練習には出てくるのに」

「それで、何だか煌ちゃんにも色々頼み事をしているらしいの」

「花田先輩に?」

 

 京太郎の疑問符に、宥は頷く。

 

「だから煌ちゃんも部活に出てこられないかも知れないって」

「それじゃあ、三人だけですか」

「うん。三麻か、みんなで雀荘に行って練習でもしようかと思ってたんだけど……折角だから今日の練習時間は、勧誘に充てようかな、と思ったの。部活連に登録していたら、この時期中央広場での勧誘は無条件でできるんだって」

 

 この辺のノウハウも伝わっていなかったというのが、宥自身溜息が出る。自分たちはどうせ許可が下りないから、と勝手に諦めていたのも悪いが、一度全てが途絶えたハンデは思いの外大きい。もう見逃しがないように、と校則やらルールやらを宥は必死で読み込んだ。

 

「それで……こういうの、作ってみたの」

 

 鞄から取り出したのは、入部勧誘のチラシだった。フリー素材と自前の絵を組み合わせ、実に半月もの時間がかかったが、宥が一人でレイアウトから作り上げたものだ。自分が作ったものを、人に見て貰う――ここに来るまでは大したことではないと思っていたはずが、実際にはとても勇気が必要だった。

 

 果たして後輩二人の反応は、

 

「おおー、牌の絵かっこいい!」

「分かりやすいです」

 

 上々であった。宥は一安心する。

 

「今日はこれを使って勧誘してみようかな、って。ど、どうかな」

「やりましょうやりましょう!」

「流石副部長です」

「恭子ちゃんにばかり負担はかけられないから」

 

 ぐっと、宥は握り拳を作る。京太郎と尭深はしっかりと頷いた。二人はチラシを相当気に入ったようで、あれこれ感想を言い合う。その様子を見ているだけで、宥の胸の中はあったかくなった。

 

 

 ◇

 

 

 宥はその日の講義を終えると、部室で京太郎と尭深の二人と合流し、チラシを分け合いキャンパスの中央広場に移動した。

 

 一番勧誘が隆盛する時期はとうに過ぎたが、それでもまばらに勧誘の声が聞こえる。みんな元気で明るく、何より笑顔だ。接客と勧誘は似ている、と宥は思う。要は、悪い気分にさせてしまえば負けなのだ。

 

 そのためには、やはり朗らかな態度。やり過ぎでも駄目だが、勧誘する側が緊張していては話にならない。ましてやメインターゲットは入学したての新入生なのだから。

 ようし、と気合を入れて広場を通り過ぎる人たちに宥は声をかけようとし、

 

「麻雀部でーす! 麻雀部は熱意ある雀士を求めていまーす!」

「ひゃうっ」

 

 京太郎の大声で怯んでしまった。

 

 彼は道行く人に何の躊躇いもなく近づいていき、チラシを渡す。通りの良い声と、その巧みな人との距離の詰め方を使って、麻雀に興味なさそうな人にもチラシを受け取って貰っていた。とても目立ち、あちこちから無遠慮な視線が京太郎に飛んでいるが、彼に気にしている様子は全くない。それどころかもっと俺を見ろと言わんばかりに声を張る。結果、彼に自分から近づいてくる新入生さえいた。

 

 ふと尭深を見れば、こちらも順調にチラシがはけていた。京太郎のように目立つことはないが、立ち止まった新入生一人一人に丁寧に部について説明している。質問されたことにはなんでもすらすらと答え、実に堂々とした立ち居振る舞いであった。どちらかというと自分と同じタイプだと宥は思っていたが、その実全く違った。

 

 決意したはずが、最初の一言が出てこない。指先が震え、連動してチラシも揺れ動く。かぼそい声が通行人に届くはずはなく、足を止めてくれない。

 

 ――そうこうしている内に、あっという間に三十分が経った。

 

 一度、京太郎と尭深が宥の傍に帰ってくる。

 

「中々部室まで来ようって奴はいないですね」

「こちらも同じく」

 

 と言いながら、二人のチラシはかなり減っている。宥はまだ、片手で数えるほどしか渡していない。がっくりと肩を落とし、

 

「ごめんね、足を引っ張っちゃって」

「何言ってるんですか、松実先輩が作ってきてくれたチラシがあるからこそですよ」

「須賀くんの言うとおりです。ここから頑張りましょう」

 

 二人の励ましに、宥は少しだけ元気を取り戻す。――そうだ、まだ弱音を吐くには早い。新入部員を見つけて、恭子を安心させるのだ。

 

「うん、頑張る」

「その意気です、先輩」

 

 ジュースで喉を潤し、もう一度三人は散り散りになる。相変わらず京太郎の大きな声は耳に入ってくるが、負けられない。

 

「ま、麻雀部です……」

 

 か細い声と共に、とにかくチラシを渡そうと、腕を伸ばす。一人でも受け取って貰えれば、そんな想いで声を張り上げようとする。人と目を合わせられず、どうしても俯き加減になってしまう。それでも宥は、チラシを掲げ続けた。

 

 ――やがて。

 

 かさりと、向こう側からチラシを掴む手応えを宥は感じた。

 

 はっと、彼女は顔を上げる。興味を持ってくれた人がいた。逃してはならない。必死で次の言葉を繰ろうとし、

 

「えっ」

 

 出てきたのは、戸惑い。

 

 目の前で、チラシに指をかけていたのは――ここにいるはずのない、少女。目を引く艶やかな黒髪は腰まで届き、いかにもお嬢様という容姿。ずっと毎日見ていた、けれどもここ数年顔を合わせる機会自体が減った彼女は、笑っていなかった。笑顔を浮かべれば見る者全てを魅了するのに、今は眉を吊り上げ憤怒を体現している。

 

 彼女は、ぶっきらぼうに宥へと声をかけた。

 

「久しぶり、おねーちゃん」

「玄……ちゃん……どうして……」

 

 遠くで暮らしているはずの妹を前にして、宥の体は縮こまる。

 阿知賀のドラゴンロードは、今にも火を吹きそうだった。

 

 

 




次回:2-2 参上、麻雀仮面N


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2-2 参上、麻雀仮面N

 十八年間過ごした阿知賀の土地を離れ上京したのは、宥にとって一大決心であった。家族から反対の声は上がったが、彼女は粘り強く説き伏せた。普段は自分の意見を表明しない宥に、結局折れたのは家族のほうだった。

 

 きっかけは、三年前のインターハイ。

 あの夏、宥は決めたのだ。もう一歩踏み出してみよう、と。

 

 その選択に後悔はない。東京では新しい友人との出会いがあり、苦労も多いながらも宥は充実した日々を送っていた。

 

 けれども、彼女は一つだけ心残りを故郷に残してしまった。

 最後まで宥の上京に反対した、大切な妹を。

 

 

 ◇

 

 

 中央広場から、宥たちは一旦部室に戻ってきた。出発したときとは三人、帰ってきたときは四人。これが待望の新入部員であれば良かったが、残念ながら彼女は学外の学生である。

 

 長机を挟んで、宥は妹の玄と向かい合って座る。しかしまともに目を合わせられず、宥はマフラーで顔の半分を覆い隠してしまう。そんな彼女の隣には、後輩の京太郎が控えていた。

 

「どうぞ」

 

 人数分のお茶を運んできたのは、もう一人の後輩、尭深だった。彼女のいれてくれるお茶はいつも美味しい。だが、今の宥に味わう余裕はない。

 それでも頑張って、宥は妹に声をかける。後輩たちの前で、情けない姿は見せられない。

 

「玄ちゃん、どうしてこっちに来たの?」

「どうしてもこうしてもないよ、おねーちゃん」

 

 むふー、と鼻息荒く玄は詰め寄る。

 

「質問したいのはこっちだよ。おねーちゃん、どうして奈良に帰ってこないの? ゴールデンウィークもこっちに残るって、どういうことなの」

「だ、だって。部活もあるし、私も副部長だから忙しくて。夏休みには必ず帰るから」

「この間ゴールデンウィークは絶対に帰ってくるって言ったよね」

「う……」

「春休みも絶対に帰ってくるって言ったのに、うやむやにしたよね」

「うう……」

「お正月は二日しか家にいなかったし」

「か、家庭教師してる子が受験生だったから……」

「その前のお盆だって、三日だけだよ」

 

 頬をぷくりと膨らませて、玄は姉へと文句を言う。あうう、と宥は慌てふためくが、当然玄の機嫌は直らない。

 

 玄の指摘したことは、全て事実だった。ここ一年で、阿知賀に帰る時間はめっきり減ってしまった。親不孝であるのは重々承知しているが、元々出不精な性格も手伝って、どうしても足が遠のいていたのだ。

 

「あの」

 

 助け船を出すように口を挟んだのは、京太郎だった。

 

「玄さんは、わざわざこのために東京まで来たんですか? そっちもまだ講義普通にあるんでしょう?」

「当然なのです!」

 

 胸を張って、玄が答える。

 

「講義よりも、妹としておねーちゃんが心配なのです!」

「でも、便りがないのは元気な証拠とも言いますし」

「それにだって限度があるんだよ。東京は怖い街だし」

 

 京太郎の進言にも、玄は耳を傾けない。むしろヒートアップする勢いだった。宥はますます縮こまり、尭深一人がマイペースにお茶をすする。

 

「大体、部活部活って言ってるのに、さっきのは何なの、おねーちゃん」

「え……か、勧誘だよ。新入部員を集めてるの。懐かしいよね、阿知賀でも灼ちゃんを誘ったりして」

「うん、そう言えばそんなこともあったね…………じゃなくて!」

 

 がたん、と椅子を倒して玄は立ち上がった。

 

「全然勧誘になってないよ! ずっと須賀くんと渋谷さんに任せきりだったじゃない!」

「そ、それは……」

 

 痛いところを突かれてしまった。自覚している分、宥は何も言い返せなくなってしまう。

 

「そんなので部活やってるって言えるのっ?」

「松実さん」

 

 詰め寄る玄をやんわりと止めたのは、湯飲みを握る尭深だった。

 

「松実先輩は、副部長として部活を支えてくれています。それは、一年間一緒にいた私が保証します」

 

 思わぬところからの反撃に、玄は言葉を詰まらせる。その隙を逃さない、と言わんばかりに京太郎が続いた。

 

「今日の勧誘だって、松実先輩がチラシを作って提案してくれたんです。俺たちだけじゃ実行さえできていなかったと思います」

 

 後輩二人の援護射撃に、宥は照れ臭くなるのと同時に、胸があったかくなった。こんな風に庇って貰えるとは思いも寄らなかった。

 

 一方玄は、むうと唸って、

 

「……須賀くんは、同じおもち愛好家として認めていたのに」

「すみません玄さん……!」

「もう須賀くんも知らないよ!」

 

 つん、と玄はそっぽを向いてしまう。

 

「とにかくおねーちゃん、ゴールデンウィークは帰って来て貰うから!」

「だ、だめだよ。みんなで練習することになってるんだから。合宿もしようと思ってて」

「関係ないのです!」

「ひぅっ」

 

 玄が机を掌で叩く。気圧された宥はのけぞって、安物のパイプ椅子はすぐにバランスを崩した。――身を包むのは浮遊感。このまま床に背中から落ちてしまう。そう覚悟した瞬間、

 

「っとと」

 

 隣の京太郎に、抱き止められた。パイプ椅子だけが、音を立て転がる。背中に回された大きな腕はとても頼りがいがあって、椅子に座るよりもむしろ安定感があるくらいだった。

 

 初めての男子の後輩、というのは言葉の上では理解していた。していたつもりだった。初めて彼が、「男性」であることを宥は意識させられた。

 

「大丈夫ですか、松実先輩」

「う、うん……だいじょうぶ」

 

 ぼうっと、彼の顔を見上げてしまう。自分で立てるはずなのに、されるがまま京太郎に背中を支えられてしまった。

 

「ご、ごめんおねー……」

 

 狼狽して謝ってくる妹の声も、耳に届かない。 狼狽えて謝ろうとする玄の声は、途中で途切れた。

 

 宥の瞳と、その視線の先にいる青年。玄の体が、よろめく。

 

「……もしかして」

「く、玄ちゃん?」

 

 そこでようやく、宥が反応する。しかしもう遅かった。

 

「おねーちゃんが帰ってこない理由って、須賀くんっ?」

「は、はぁっ?」

「え、な、なんでそうなるのっ?」

「須賀くんとおねーちゃんは既にそんな関係だったんだね!」

 

 宥の声も京太郎の声も、玄の耳には届いていないようだった。まなじりに涙を一杯に貯めて、玄はぶるぶる肩を震わせる。――これはまずい。宥は焦った。だが、おろおろとするばかりで最初の一歩を踏み出せない。先に、玄が決壊してしまう。思ってもいなかったことを、傷つける意図などこれっぽっちもなかったというのに、口走ってしまう。

 

「おねーちゃんのばか! 東京で悪い男にひっかかっちゃダメってあれだけ言ったのに!」

 

 宥も、動揺していた。電気代以外の話題で妹からこれだけ責め立てられたのはほとんど初めてだった。普段は穏和で争い事を避ける彼女が珍しく、厳かな声で妹を窘めた。

 

「京太郎くんは悪い人なんかじゃないよ、玄ちゃん。京太郎くんに、謝って」

 

 そして妹もまた、姉からこのような態度をとられるのも初めてだった。思えば、正面切っての姉妹喧嘩なんてもう何年もしてこなかった。幼い頃、一度あったかないかというレベルだ。それほど仲が良かった。

 

 故に、一度火が付いてしまうと消化方法が分からない。どちらも引き方が分からないのだ。

 

 最終的に、玄はうるうると瞳を濡らして、

 

「お……」

「お?」

「おねーちゃんのおもちは私のものだったのにーっ!」

「それは違うよっ!?」

 

 悲痛な叫びとともに部室を飛び出して行ってしまった。宥たちの突っ込みも意味を為さず、一陣の風のごとく消え去った。

 

 三人は、ぽかんと部室に取り残される。はぁ、と宥は深い溜息を吐いた。

 

「……なんだかごめんね、変な話になっちゃって」

「いや、俺のほうこそすみません。話をややこしくしてしまったみたいで」

 

 宥と京太郎が頭を下げ合う傍ら、尭深が扉を指さして訊ねた。

 

「良いんですか、放っておいて」

「良いの」

 

 珍しく、本当に珍しく宥は不機嫌さを露わにしていた。頬を膨らませ、そっぽを向く。

 

「玄ちゃんなんて放っておけば良いの。きっともう大阪に帰ってるよ」

 

 完全にむくれてしまった。後輩の前でみっともないと思いつつも、既に姉妹喧嘩を見せてしまった手前、ひっこみがつかない。

 

 宥が初めて見せる姿に、京太郎は戸惑いを隠せなかった。どうしましょうか、と彼は尭深に視線で訴えかける。

 

 元々の性格の違いか、尭深はさして動揺する様子もない。京太郎へこっくりと頷きを返し、宥の肩に手を置く。

 

「松実先輩」

「……なぁに?」

「こういうときは、ひとつです」

「な、なにかな?」

 

 小首を傾げる宥へ向かって、いつもの小さくも優しい声で東帝大学麻雀部宴会部長は告げた。

 

「――飲みに行きましょう」

 

 

 ◇

 

 

「――それで、どうして私が呼ばれるんだ」

 

 空になったジョッキを机に荒く叩きつけながら、弘世菫は京太郎と尭深に文句をつけた。反射的に京太郎が頭を下げる。

 

「すみません、ほんとに」

「いや、須賀君は良いんだ。君も巻き込まれた口だろう。――で、尭深、どうして私なんだ」

「私も須賀くんも未成年ですから……」

「恭子はどうした」

「掴まりませんでした。松実先輩も一緒に飲める相手がいたほうが良いと思って、それなら菫先輩が適任かと。飲み放題ですので遠慮なくどうぞ」

「全く……」

 

 悪びれる素振りもなく、尭深は湯飲みを両手で握りながら淡々と答える。結局、溜息と共に菫は引き下がった。来てしまったからには、これ以上は不要な問答だった。

 

 客たちの喧噪に、店員たちが忙しなく動き回る雑多な雰囲気。大学近くの学生向け安居酒屋の角、そこを東帝大学麻雀部の三名と部外者一人が陣取っていた。

 

 主賓は当然、松実宥その人である。

 

「はい、菫ちゃん。まだまだいけるでしょう?」

「明日は一コマから講義……」

「いけるでしょう?」

「あ、ああ、頂こう」

 

 ビールのピッチャーを掲げる宥に気圧される形で、菫はジョッキを差し出した。鼻歌交じりに宥は彼女にビールを注ぐ。既に彼女は相当にできあがっていた。

 

 あまりお酒を嗜まない宥ではあるが、下戸というわけでもない。むしろお酒を飲むと体があったかくなって気分が良い。恭子から飲み過ぎないように、特に男子の前ではアルコール厳禁と言いつけられているため触れる機会は少ないが、飲むときは相当飲む。

 

 今日は京太郎が目の前にいるが、彼は同じ麻雀部員であるし問題ないと宥は判断した。溜まっていた鬱憤を晴らすかのように、次々とグラスを空けていく。

 

「いつもより激しくないか、宥」

 

 菫の質問に、宥はくすくす笑う。

 

「普通だよお、このくらい。――あ、店員さんピッチャーもうひとつー」

 

 お酒の力で気分は高揚し、宥はさらに注文を加えていく。嫌なことは頭の隅に追いやって、ついには後輩にも絡み始める。

 

「須賀くんはー、どうして玄ちゃんのことは名前で呼んでるのぉ?」

「えっ、や、高校のとき練習試合で話して意気投合して……」

「私が受験勉強してたときかぁ。ずるいなぁ」

「ず、ずるいと言われましても……その、ごめんなさい」

「謝るなら、私も名前で呼んで」

 

 素面なら絶対に言わないことまで、口走ってしまう。しかし今の宥を止める者はこの場にはいない。企画しておきながらマイペースな尭深は静観しているし、菫はごくごくと一人酒を呷っていた。

 

「ゆ、宥先輩……? こんな感じで良いですか?」

「うん、すごく良いよぉ」

 

 若干耳がくすぐったくなる響きだが、酔っぱらった宥には些末なことだった。むしろさらに胸があったかくなって、嬉しい。後輩との距離が縮まった喜びと、自分でもよくまとめきれない気持ちと、アルコールの影響がない交ぜになって、宥の頭はさらに混迷を極める。

 

 明日のことも忘れて酒は進み、隣席で酔いが回り始めた菫と愚痴り合う。

 

「私だってな、いつまでも面倒見れないんだぞー。なのに照と淡と来たら世話を焼かせて……」

「ほんとそうだよねぇ。大変だよねぇ菫ちゃん」

「全くだ。全くもってその通りだ」

 

 会話は噛み合わないまま、しかし当人同士はなぜか通じ合う。京太郎と尭深は置いてけぼりとなって、二人のまとまらない話に耳を傾けていた。

 

 飲み放題の制限時間を迎え、四人は店を出る。その頃には宥と菫の二人ともが完全に出来上がっていた。

 

 頭は回らず、体がふらふらする。店の外に出て冷たい風に当たっても、宥の意識ははっきり定まらなかった。

 

「それじゃ、菫先輩は私が送っていくから」

「お願いします、俺は宥先輩を」

「送り狼になっちゃだめだよ」

「なりませんよ!」

 

 後輩二人の会話が、とても遠くに聞こえる。ふらついてもたれかかったのは、男の子の肩だった。

 

 視界の端で、尭深とその肩を借りた菫が立ち去っていくのが見えた。ばいばい、と宥は小さく手を振る。

 

「先輩? 大丈夫ですか?」

「だいじょーぶ、だいじょーぶだよぉ。私たちも帰ろう、京太郎くん」

「……ちゃんと掴まってて下さいね」

「はぁい」

 

 言われなくても、宥は京太郎の手を取っていた。真っ直ぐ歩ける自信がない。

 

「京太郎くんの手、おっきくてあったかーい」

「そ、そうですか?」

「そうだよぉ」

 

 住宅街を、二人で歩く。くっついているとよりあったかいので、宥は京太郎の腕に自分の腕を絡めた。隣で京太郎がびっくりしているのが分かったが、酔っ払いの宥は気にしない。あったかいのが最優先である。彼の傍にいるとあったかいのに気付いてしまった以上、譲れない。

 

「宥先輩」

「なぁに?」

「明日、玄さんともう一回話してみたらどうですか。話をややこしくした俺が言うのもなんですけど」

 

 京太郎からの提案に、宥は言葉を詰まらせる。その内に、京太郎は続けて言った。

 

「一晩経ったらお互い頭も冷えて、ちゃんと話し合えると思いますよ」

「……うん、そうだね」

 

 宥は、しっかりと頷いた。それから空を見上げる。東京の夜空は、星が見えないのが残念だと彼女は思う。

 

「私ね、もっとしっかりしたお姉ちゃんになりたいんだ。麻雀のこと以外でも、もっと玄ちゃんから頼られるお姉ちゃんに。だから私が玄ちゃんに頼ってばかりじゃいられないって思って、東京に来たんだ」

 

 つい、彼に甘えて自分語りをしてしまう。先輩として格好悪いと思いながらも、彼女は抗えなかった。

 

「玄ちゃんはずっと待ってたから……私のこともきっと待ってくれるって甘えてた……」

「はい」

「姉妹なんだからそういうわけにもいかないよね……謝らないと……」

「きっと、許してくれますよ」

「うん……ありがとう、京太郎くん……」

 

 視界が、暗くなってゆく。足が重い。彼のほうへと、体重を預けてしまう。

 

 この辺りが、宥の限界で。

 彼女の意識は、一度そこで途切れた。

 

 

 ◇

 

 

 目覚めると、知らない部屋にいた。

 

 混乱よりも早く、宥は頭痛を自覚する。がんがん頭の奥底まで響く痛みは、何度か経験した二日酔いによるものだ。

 

 ぼうっと、辺りを見渡す。

 

 自分のベッドよりも若干硬い。本棚の位置もテレビの位置も違えば、漂う香りも、他の細々としたものも、とにかく何もかも違う。共通するのは、麻雀関係の雑誌くらい。ここが自分の部屋ではないことは、確かである。外から聞こえてくる鳥の鳴き声が、朝だと教えてくれた。

 

 ――何があったんだっけ。

 

 宥は、ぼうっとしながらも、昨夜の記憶を辿る。

 

 玄ちゃん。

 喧嘩。

 お酒。

 泥酔。

 後輩。

 男の子。

 知らない部屋。

 

 並べられたキーワードが繋がり、さぁっと宥の血の気が引く。途端に半分寝惚けていた意識が覚醒した。慌てて自分の格好を確認するが、胸元のボタンが外されている――おそらく息苦しさを与えない処置だろう――だけで特に乱れはない。体も、特に違和感はなかった。ひとまずほっと一安心してから、ベッドから立ち上がった。

 

 目に付いたのは、部屋の中央に鎮座するテーブル、その上に残された書き置きだった。

 

 

『おはようございます。

 宥先輩の家が分からなかったんで俺の家に運ばせてもらいました。すみません。

 俺は友達の家に泊まります。

 シャワーとか部屋にあるものは好きに使って下さい。

 合鍵を玄関に置いてあるんで、今日大学で渡して下さい。

                     須賀京太郎』

 

 

「やっちゃった……」

 

 がっくりと、宥は膝を着く。出会って間もない後輩にこうも迷惑をかけてしまうとは。先輩としての威厳が保てない。宥本人は自覚していなかったが、京太郎相手には「良いお姉さん」でありたいという欲求が彼女にあった。

 

 ともかくとして、宥は一旦自分の部屋に慌てて戻った。今日の講義は自主休講である。とてもそんな精神状態ではない。体を清めて、頃合いを見計らいキャンパスへ向かう。

 

 部室棟の扉を開くとき、激しい緊張が宥を襲ったが、逃げるわけにもいかず。意を決して、宥はノブを捻った。

 

 部室には、昨日と変わらず京太郎と尭深の二人の姿があった。彼らの姿を認めた瞬間、宥はがばりと頭を下げた

 

「昨日はごめんね二人とも!」

「ああ、宥先輩」

「こんにちは」

 

 しかし二人は特段気にする様子もなく、宥を受け入れる。尭深はいつものように「お茶いれますね」と席を立った。

 

「まぁ、宥先輩は飲み会の誘いに乗っただけだしそんなに気にしなくても」

「気にするよぉ」

「まさかここまでになるとは思っていなかったので……」

 

 湯飲みを運びながら、尭深も頭を下げる。

 

「ごめんなさい」

「う、ううん。尭深ちゃんのおかげで私も気が晴れたから」

 

 ひとしきり謝り合って、ようやく宥は一息吐く。

 それから、京太郎をちらりと見上げた。記憶に残っているだけでも、彼に対して恥ずかしいことを口走っている。もしかして覚えていないところではもっと妙なことを話していないだろうか、と危惧してしまう。

 

 けれども京太郎のほうは、特段動揺するところもなく、普段通りだ。わざとそう振る舞ってくれているだけなのかも知れないが、宥としては有り難い。何度目かも分からない安堵の息を吐いてから、はっと思い出す。

 

「きょ、京太郎くん」

「はい?」

「これ、京太郎くんの家の鍵。ありがとう」

「ああ、どうもわざわざすみません――」

 

 彼の鍵を手渡そうとした瞬間。

 誰かが、膝を着く音がした。音は、扉の前から聞こえてきた。尭深は椅子に座っている。はて、と宥が振り向いたその先にいたのは――

 

「おねーちゃんが……須賀くんの家にお泊まり……」

「く、玄ちゃんっ? 大阪に帰っていなかったのっ?」

 

 顔を青くした、実の妹であった。

 これは不味い、確実に勘違いされてしまう、と宥が恐れるよりも早く、玄は叫んだ。

 

「やっぱりおねーちゃんと須賀くんはそんな関係だったんだね!」

「そんなこと――」

 

 否定しようとし、宥は京太郎の顔を一瞬見上げ、それから俯いて顔を赤面させた。

 

「そんなことないよ……?」

 

 実に、逆効果であった。

 ――阿知賀のドラゴンロードが、火を吹く。

 

「勝負なのです、おねーちゃん!」

「え、ええっ?」

「私が勝ったら、ちゃんとゴールデンウィークは阿知賀に帰ってくるのです! 男の子と遊んでばかりなんてだめ!」

「あ、遊んでなんかいないよおっ」

 

 宥の否定も、玄は聞く耳を持たない。

 

「勝負を受けないのなら、この場で引き摺ってでもおねーちゃんを連れ帰すのです!」

「わ、分かった……」

 

 玄の決意は、固く。そしてその勢いは激しく。宥を無理矢理頷かせるには充分であった。

 

「でも、どうやって勝負するんですか? 麻雀で、ですよね?」

 

 質問したのは、京太郎。なお、尭深はお茶をすすって静観している。

 玄は京太郎をきりっと見つめ、指を二本立てた。

 

「二対二での勝負だよ、須賀くん! おねーちゃんは返して貰うからね!」

「いや、宥先輩は俺のものでもないし……って、二対二?」

 

 京太郎の疑問はもっともだ。宥の相方候補は京太郎と尭深の二人がいる。だが、ここは東京、関西を拠点とする玄には仲間集めは不利な土地だ。何人か知り合いはいるものの、そう上手く都合がつくものでもなかろう。

 

 だが、玄は自信ありげに「ふふふ」と笑う。

 

「こんなこともあろうかと、助っ人を用意してきたのです!」

 

 どうぞ! と玄が勢いよく扉を開く。

 

 そこに現れたのは――

 宥の目から見ても、奇抜な格好をした女性であった。

 

 顔を覆い隠す狐面。加えて宥なら着るだけで赤面するだろうミニスカートのメイド服。本場のものとは明らかに違う、コスプレ感漂う一品だ。彼女は恥じることなく、堂々と着こなしていた。

 

 そして、もう一つ。

 頭の上に乗せられたのは――猫耳、だった。

 

「どうも。麻雀仮面ver.猫耳――」

 

 彼女は胸に手を当て、名乗りを上げる。

 

「もとい、麻雀仮面Nです」

 

 宥は絶句してしまい。

 尭深の「可愛い」という一言が、部室の中に溶けて消えた。

 

 

 

 




次回:2-3 決戦、松実姉妹


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2-3 決戦、松実姉妹

 突如部室に現れた狐面のミニスカメイドを前にして、宥は困惑を隠せなかった。――彼女が、恭子たちが戦ったという麻雀仮面なのだろうか。浮かび上がった疑惑を視線で京太郎にぶつけてみると、彼はしっかり頷いてくれた。

 

 この猫耳ミニスカメイドが、麻雀仮面。

 

 何かの間違いであって欲しいと宥は思ったが、現実は変えられない。なぜか得意気な顔つきの玄の隣に、麻雀仮面は並び立っている。

 

「ええっと」

 

 恐る恐る、宥は訊ねてみた。

 

「なんで玄ちゃんが麻雀仮面さんと一緒にいるの?」

「実は――」

 

 人差し指を立てて説明しようとする玄の口を、

 

「はひゃぁっ」

「余計なことは言わないように」

 

 麻雀仮面がその手で塞いだ。

 表情の窺い知れぬ彼女は、抑揚のない声で宥へと語りかけた。

 

「私のことを教えて欲しいなら、麻雀で勝ってみせて」

「一昨日恭子ちゃんが勝ったんじゃ……?」

 

 真っ当な宥の突っ込みに、部室内に沈黙が落ちる。麻雀仮面はあちこちに視線を彷徨わせてから、言った。

 

「それは、普通の麻雀仮面。今は、麻雀仮面N。だからノーカウント」

「はぁ」

 

 宥は曖昧に頷くしかない。京太郎や尭深からも追求はなかった。

 

「さぁ、おねーちゃん、須賀くん、勝負なのです!」

「あ、コンビ役俺なんだ……」

「当然! 須賀くんは当事者なんだよ!」

 

 玄の強弁に京太郎は突っ込む気力がないのか、「はい」と素直に頷く。それを受けて、玄は満足気に微笑んだ。やる気たっぷりである。そのまま麻雀仮面を伴って、卓の傍まで歩み寄った。

 

 一方の麻雀部員三人は、部屋の隅に集まってひそひそ声で話し合う。

 

「ごめんね、京太郎くん。変なことに巻き込んじゃって」

「いえ、打つ分には構わないんですが……」

「松実先輩の帰省がかかるとなると、責任重大だね。連休が明けたらすぐにリーグが始まるから合宿に参加してもらいたいし」

「プレッシャーかけないで下さいよ、渋谷先輩。……末原先輩がいたら良かったんですが」

「電話しても繋がらないね」

 

 はぁ、と宥と京太郎は一緒に溜息を吐いて。

 

「やろっか」

「はい。あ、その前にあの麻雀仮面対策なんですけど――」

 

 宥の耳元で、京太郎が囁く。くすぐったくて、彼の息が首元にかかり、宥はどきどきした。ちゃんと彼の話を聞けているか不安になる。

 

「じゃあ、行きましょう」

「う、うん」

 

 宥と玄が対面に、それぞれの相方がその下家に座る。

 両手を強く握りしめ、玄が気合を入れる。麻雀仮面は特に動きはないが、向かいの京太郎をじっと見つめているようだった。その京太郎は、ばつが悪そうに麻雀仮面から目を背けていた。

 

「ルールは、半荘二回で合計点数が多いチームの勝ち。途中で誰かがハコになったら、そのチームの負け。後は大学リーグルールに準拠。で、良いよね」

「うん、大丈夫」

 

 宥は一息深呼吸してから、僅かに目を細める。

 

 何はともあれ、麻雀での勝負だ。

 例え最愛の妹が相手だとしても、手を抜くわけにも、やすやすと負けるわけにもいかない。関東三部リーグの小規模麻雀部とは言え、目標は一部リーグ、引いてはインカレだ。この部の副部長として、譲れない矜持がある。

 

 卓の外では些細なことでも狼狽える宥ではあるが、中では違う。内心どれだけ動揺したところで、表情一つ変えずに自らの役割をこなす実行力が彼女にはある。それもまた、彼女の強みの一つであった。

 

 起家は玄。

 妹の戦い方は、よく知っている。

 

 ――まだ、未完成だけど。

 

 彼女が相手なら、やれる。宥は確信をもって、弦を引き絞る。照準は、当然玄。

 

「ロン」

「っ、……はい」

 

 七巡目、玄の手から溢れ出た牌を宥は狙い撃つ。

 弘世菫直伝、シャープシュート。菫との交流は、ただの飲み友達で終わっていない。お互い吸収できるものがあると判断した結果、麻雀技術を積極的に伝え合っている。もっとも所属するリーグに格差があっての話であろうが、ともかくとして、宥の麻雀の幅がぐっと広くなっていた。

 

 親は流れて、麻雀仮面。素性が知れない彼女は、何をしでかしてくるか分からない怖さがある。できるなら、何もさせたくない。

 

 ちら、と京太郎に視線を送る。京太郎は僅かに目配せで応えてくれた。

 

「ポン」

 

 京太郎の捨ててくれる牌を、

 

「もいっこ、ポン」

 

 食い取る。宥が欲しい「あったかい牌」を、彼は的確に寄越してくれていた。

 

 ――凄い。

 

 思わず宥は感嘆の息を漏らしそうになる。まだ、まともに話すようになって一ヶ月足らず。だというのに、京太郎は宥の癖や打ち方をきちんと把握していた。まるで、隣に恭子が座っているかのような安心感がそこにある。ただ赤い牌を捨てれば良いというものでもない。場の流れや宥の捨て牌を、全て読み切った結果だ。

 

 こればっかりは、天性の感覚を持つ者たちにもその才能だけでは真似できない。純然たる、技術の粋だ。インターハイ男子個人の決勝卓まで残っただけはある。努力の結果と言えば簡単だが、魑魅魍魎が跳梁跋扈する現代麻雀において、高みに辿り着くまで努力を続けること自体困難を極める。

 

 だからこそ、頼りになる。努力に裏打ちされた技術は、爆発力はなくとも簡単には崩れない安定性があるのだ。

 

「ツモ」

 

 染め手を作り上げ、麻雀仮面の親を蹴る。点差においても、まずは宥チームが先攻した形となった。

 

 宥は、ちらりと対面の玄を見遣る。彼女は真剣な表情で配牌を覗き込んでいた。

 松実玄と言えば、高校時代には既に全国で名が売れた「阿知賀のドラゴンロード」である。彼女が卓についている限り、ドラが手に入ってくる希望は捨てなければならない。宥の能力と引っ張り合いになっても、ドラに限っては玄の支配から逃れられないのだ。

 

 先の二局も、宥は上がったがドラは一つも乗っていない。自分だけ高火力になるという玄の力は、しかし同時に弱点でもある。

 

 姉は知っている。妹がドラを切ること即ち、己の力を切り捨てることに他ならないと。結果的に彼女の手を窮屈にする結果となっていた。

 

 流れてきた、宥の親。彼女はサイコロを回しながら密かに決意する。

 

 ――ここは、攻める。

 

 流れに乗って、一気呵成にカタをつける。

 宥の気持ちに牌は応えるかのように、四巡目でテンパイ。京太郎のおかげか、調子に乗れていた。

 

「リーチ」

 

 その宣言に、ぴりりと場全体に緊張が走る。あったかい牌が来ることを望みながら、宥は千点棒を置く。

 

 京太郎の牌は、差し込みをする状況でもなく当然スルー。できるなら、玄の手を狙い撃ちたい。集中攻撃でハコにすればその時点でゲームセットだ。

 

 しかし。

 

 ここにきて、玄は想定外の手を打ってくる。

 

「リーチ!」

「えっ」

 

 滅多にリーチをかけない玄が、おっかけリーチ――それも、ただのリーチではない。

 

「ドラ切り……」

 

 観戦していた尭深が、ぽつりと呟いた。

 何よりもドラを大切にする玄が、ドラを捨てた。しかも、こんな序盤に。玄が何を考えているのか、宥には読めなかった。

 

 それから二巡。

 掴まされた牌に、宥は微かな吐息をついた。

 

「ロン! 12000!」

 

 玄への振り込み。一枚ドラを切ったところで、相変わらずのドラ爆体質である。これで一気に逆転されてしまった。

 

 だが、大局的に見れば有利なのはこちらだ。玄は、自らの最大の武器を捨てたのだ。半荘二回では、復活まで辿り着けまい。

 

 次局、当然のように宥の手には大量のドラが入ってくる。

 

 ――できるなら、射かけたいけど。

 

 どうしても手は重くなり、思うように狙えない。ここで麻雀仮面に上がられるのが最悪のパターンだが、彼女に動きはなく、ひとまずは一息つけた。

 

 京太郎の親は流局と相なり、スムーズに南入する。

 

 その、南一局。

 宥はすぐに、事態の変化に、そして深刻さに気付いた。

 

 ――まさか……!

 

 配牌にドラが、一枚もない。

 顔を上げ、玄を見据える。彼女が浮かべる表情は、強気な笑顔。状況は明白だ。

 

 たった一局。その一局で、玄の竜は復活していた。私の知っている玄ちゃんじゃない、と宥は歯噛みする。ここで疑ってかかれるほど、宥は軽率ではなかった。

 

 そこからペースを掴んだのは、やはり玄と麻雀仮面だった。麻雀仮面のサポートを受けつつ、玄は自前のドラを使った高火力で攻め立ててくる。

 

 玄に振り込めば一気に危うくなる現状、宥の手は縮こまってしまう。――強い。玄もそうだが、麻雀仮面もまた非常に厄介だ。決して出張っては来ないものの、その分玄を見事に補助している。噂は伊達ではなかった、ということだろう。

 

 何とか食い付いているが、開いた点差は埋められない。

 

 迎えたオーラス、玄はリーチこそかけてこないがテンパイ気配は濃厚だ。おそらくかなり高い。宥も安手をテンパイするものの、リーチをかけるべきか悩ましい。ここでの振り込みは敗北に直結する。

 果たして結果は、

 

「ろ、ロン!」

「はい」

 

 京太郎から宥への差し込みであった。最初の半荘が、決着する。

 安堵の息を吐く間もなく、宥は席を立ち、京太郎と共に部室の隅へと移動する

「……やられちゃった。まさか、玄ちゃんのドラ支配があんなに早く復活するなんて。これじゃあ隙がないよ」

 

 がっくりと肩を落とす宥。しかし京太郎は、

 

「いえ、たぶんもう玄さんはドラを切れません」

 

 と、言い切った。

 

「ど、どうして?」

「最初にドラ切りリーチして以降、玄さんは何度も同じ攻め方をできたはずです。他にも色々選択肢はあったでしょう。でも、やらなかった」

 

 はっと、宥は気付く。

 

「早い復活は一度きり、ということ?」

「おそらくは。玄さんの性質をよく知っている俺たち相手なら、早々に見せつけておくだけで強力なブラフになる――そう踏んだんでしょうね。実際、警戒しすぎて俺たちの手は遅くなってしまった」

「……希望的観測も、混じってるよね」

「もちろんです。でも、そう割り切って戦わないと勝てない。高校時代の玄さんよりも、ずっと強くなってます。研究する暇のない短期決戦で躊躇う時間はありません」

 

 京太郎の言葉に、宥は頷くほかない。胸にちくりと突き刺さる痛みがあった。ふるふると宥は頭を振って、決意を改める。

 

「次の半荘は、負けないから」

「はい。逆転しましょう」

 

 四人が、同じ席に着く。今度の起家は再び玄。回るサイコロを見つめながら、宥は神経を研ぎ澄ます。

 

 ――集中するんだ。

 

 五感全てを全開にして、宥は卓上の136枚の牌へ意識を集中させる。

 

「リーチ」

 

 早い巡目で、宥は仕掛ける。いける、という確信が彼女にはあった。

 そして。

 

「一発ツモ!」

 

 予測した通りの牌が、手に入った。

 いきなりの跳満親被りを玄にお見舞いする。止める余地のない早上がりに、玄は驚く。これまでとの姉とは違う何かに、彼女も勘付いた。

 

 ――あったかい牌を引き寄せるだけでなく、どこにあるのか感じ取る。牌ごとに異なるぬくもりを、ツモる前に把握する。上手く嵌まれば、攻防どちらにも使える。

 

 自らの性質を応用した新しい技術。これもまた未完成ではあるが、今の玄に対抗するにはあらゆる手段を用いなければならない。

 

 さらに、

 

「ロン」

「……、はい」

 

 隙を見つければ、宥は妹を狙い撃つ。相手に合わせた柔軟な変化は、高校時代の監督に教えられているのだ。

 

 配牌にも助けられ、前半戦の点差はすぐにひっくり返った。

 迎えるは最後のオーラス、ここを宥か京太郎のどちらかでも上がってしまえば、あるいは流局でもそこで勝ちが決まる。だが、リードは僅か。気を緩めることはできない。

 

 部室内に、牌が落ちる音だけが響き渡る。決着の時は近く、緊張はピークへと達する。見守る尭深も、湯飲みを握る手に力が入った。

 

「リーチ」

 

 動いたのは、ここまでサポートに徹していた麻雀仮面だった。まさかここで、とは思わない。想定済みである。彼女の対策は、既に京太郎から聞かされていた。

 

 再び宥は神経を研ぎ澄ませる。そのぬくもりから、京太郎の手牌を察する。

 

 ――これだ。

 

 宥の切った牌を、

 

「チー」

 

 京太郎が鳴く。

 よし、上手くいった――宥と京太郎がほっと安心するのと同時、

 

「残念」

 

 麻雀仮面は、口を開いた。

 

「そこまでやられるのも、想定済みや」

「――っ」

「ツモっ」

 

 宥と京太郎が息を飲むのと同時、ツモを宣言したのは玄だった。晒された手はドラばかりで、逆転に足るには充分すぎる。

 

 静かな、決着だった。

 

 負けた宥は嘆かずそっと目を閉じ。

 勝った玄も、ただただ俯くだけ。

 

 震えを押し殺した声で、京太郎が言った。

 

「……すみません、宥先輩。俺の読みが甘かったです」

「ううん、京太郎くんは悪くないよ。私たちが負けたのは――」

 

 京太郎の言葉を否定し、宥は玄に優しげな視線を送る。

 

「私が、玄ちゃんをずっと見てこなかったから」

「おねーちゃ……」

「ごめんね、玄ちゃん。こんなに強くなってたんだね。自分のことばかりで、玄ちゃんから目を逸らしてた。ほんとうにごめんね」

 

 ううん、と玄は首を横に振る。

 

「勝てたのは、麻雀仮面さんのおかげだよ。おねーちゃん、私よりずっと強くなってた。ちゃんと部活やってるのか、なんて酷いこと言ってごめんなさい」

「玄ちゃん……」

 

 いてもたってもいられず、宥は立ち上がって玄を抱き締める。ぎゅう、と宥は思いきり力を込めた。懐かしい、妹のぬくもりだった。

 

 玄に心配をかけないですむ、強い姉になりたかった。震えるばかりの自分を変えたくて、単身東京までやってきた。その選択は、今でも悔いたりなんかしていない。けれども、結果妹を泣かせていてはどうしようもない。

 

「悪いおねーちゃんでごめんね」

「我が儘な妹でごめんなさい」

 

 二人は謝り合い――それから、玄からそっと離れた。

 

「おねーちゃん、暑い……」

「ご、ごめんっ」

 

 慌てて宥も距離をとる。そう言えば、あの夏も同じやり取りをした。玄も思い返していたようで、二人はくすりと微笑み合う。

 

「須賀くんも、色々ごめんね」

「いえ、俺は気にしてないですから」

 

 かくして姉妹喧嘩はここに決着し、京太郎と尭深もほっと胸を撫で下ろす。

 

 一方で。

 

 宥の視界の端で、麻雀仮面が立ち上がる。何も言わずに彼女はすたすたと歩き出し、部室を去ろうとしていた。

 

「ま――」

 

 宥の制止の声が音になる直前。

 

「ちょっと、待ちぃや」

 

 外から、部室の扉が開かれた。

 現れたのは――

 

「恭子ちゃんっ?」

 

 東帝大学麻雀部部長、末原恭子であった。ここまで姿を現してこなかった彼女の急な登場に、宥は驚いてしまう。

 

 恭子は唯一の出入り口の前に立ちはだかり、麻雀仮面の足を止める。ぎろりと麻雀仮面を睨み付ける眼光は、どこまでも鋭かった。

 

「今日は逃がさへんで、狐メイド。こないだの負けの負債はちゃんと払って貰うで」

「今の私は麻雀仮面N――」

「いやそういうんはほんまええから」

 

 厳しく突っ込みを入れてから、恭子は小さな溜息を吐く。

 

「まぁ、どのみちあんたは詰んどるけどな。――頼むわ」

 

 恭子に名前を呼ばれ、壁の影から一人の学生が姿を現す。

 

「あ、煌ちゃん」

「みなさんおそろいのようですね。すばらです!」

 

 出てきたのは、東帝大学麻雀部最後の部員、二年の花田煌であった。どんなときでも絶えない笑顔と明るい性格の、麻雀部のムードメイカーである。

 

「真打ちは後から登場するって!」

 

 親指で自らを指差し、煌は部室内に足を踏み入れ、麻雀仮面と真っ向から対峙する。

 

「恭子先輩から指示が下りましてね。今年の東帝の一年を片っ端から調べさせて貰いました。結果としては、恭子先輩の出した条件に当てはまりそうなのが一人いました。ええ、本当に驚きましたよ。まさか貴女がここに入学しているなんて」

 

 煌は不敵に、そして嬉しそうに笑う。

 

「そこまでするなら教えたのに……」

「須賀は黙っとき」

「は、はいっ」

 

 恭子の鋭い声に、京太郎は竦み上がる。宥はついていけないが、何やら恭子は怒っているように見える。

 煌が一歩前に歩み出て、言った。

 

「逃げてくれても結構ですが、あまり意味はありません。貴女の所属や学籍番号、住所と電話番号も手に入れています。何なら今日の昼食も当てて上げますよ」

「き、煌ちゃん、うちそこまで頼んでないで……?」

「やるからには徹底的にです!」

 

 恭子のささやな突っ込みは意に介さず、きらん、と煌の瞳が輝く。

 

「何にせよ、その仮面脱いで貰いますよ!」

 

 びしりと煌に指差され。

 

 麻雀仮面は、微かに肩を竦めた。

 そして――その手の指が、狐面にかかる。

 

 あっ、と宥は短い悲鳴を上げた。仮面の下から現れたのは、宥も知った顔だった。ただ、記憶にあるより髪は伸び、肌の血色も良い。だが、見間違えようもない。あの夏、直接ではないにしろ矛を交えた相手なのだから。

 

 うっすらと、しかしどこか挑発的な微笑を湛え、

 

「麻雀部入部希望、東帝大学経済学部経済学科一年(・・)――」

 

 ゆっくりと、その涼しげな声で彼女は名乗りを上げた。

 

 

「園城寺怜です」

 

 

 それから彼女は素早い動きで卓の傍まで戻ってくると、京太郎の腕をとり自らの胸元に引き寄せた。突然の行為を宥は咎められず、その光景に苦みだけが胸の中に残った。

 

「ちょ、怜さんっ」

「同じ一年のきょーちゃん共々よろしくお願いします、先輩方」

 

 狼狽する京太郎をよそに、メイド衣装の園城寺怜は淡々と言ってのける。

 頬を引き攣らせる恭子と、平気な顔をしている怜が睨み合う。そんな二人を交互に見て、宥は思った。

 

 ――嵐の予感がする、と。

 

 

 

                     Ep.2 松実家シスターズウォー おわり

 




次回:Ep.3 明日望む者のレミニセンス
    3-1 背中と太股


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Ep.3 明日望む者のレミニセンス
3-1 背中と太股


 ――麻雀仮面が現れる三年前の、夏のこと。

 

 

 

 指先で持つ牌が、重い。吐く息が、荒くなる。

 

 視界が揺らぐ。全身を覆う倦怠感は、どうやっても拭えない。それでもなお満身創痍の体に鞭打って、園城寺怜は目前に座る敵と相対していた。

 

 前年度インターハイチャンピオン、宮永照。

 

 間違いなく、最強の女子高生。関西最強の千里山女子、そのエースという自らの肩書きが虚しくなるほどに強い。

 

 既についた点差は十万点以上。各校持ち点十万点で行われるこの団体戦においては――しかもまだ先鋒戦で――異常とも言える事態だ。怜はまだ良いほうで、同卓している新道寺や阿知賀の選手はさらに凹んでいる。

 

 この準決勝、先に進むためだけならこのまま二位を維持すれば良い。だが、怜はそれを良しとしなかった。次鋒以降の戦いを考慮してのことではない。千里山女子の選手としての矜持が、白糸台の後塵を拝することを許さないのだ。

 

 結果として、元々人並み外れて少ない怜の体力は残り僅かとなっていた。こんなにも熱血な性格だったっけ、と彼女は自問したくなるが、支えてくれたチームメイトや部員を想えば手を抜けるはずもなかった。

 

 怜は、呼吸を整えもう一度集中を高める。彼女だけに許された力を行使するために。

 生死の境を何度もさまよった経験からか、発現した少しだけ先の未来を見る能力。この力は、基礎雀力に劣る怜を名門千里山の一軍にまで押し上げてくれた。

 

 この、他を圧倒する力をもってしても、このチャンピオンには通じない。誰かが言っていた――宮永照は人ではない、と。的を射た表現だと、怜は拍手を送りたくなった。

 

 だから。

 

 ――みんなごめん……!

 

 もう一段、無理をする。しなければならない。

 トリプル。練習でさえ試みた経験のない、三巡先の未来を見通す。色の消えた世界で、彼女たちが牌をツモり切ってゆく。

 

 ――ここしかない……!

 

「リーチ」

 

 チャンピオンのリーチ宣言。それを、

 

「ポン!」

 

 新道寺が食い取る。

 さらに怜は未来視の力を行使する。肘掛けを握る手に力を込め、崩れ落ちそうになる体を必死で支える。

 

 ――ここで来るんか……!

 

 未来の光景の中で、前進する者の姿を確認して、怜は彼女のために道を切り開く。打五索、五萬――いずれもドラ。その間のチャンピオンのツモ順は、新道寺が無理矢理飛ばしてくれた。独りでは、まずこの状況を作るのは不可能だった。

 

 そして、彼女がドラを切る。

 初めて河に姿を見せたドラに、怜は微笑みを浮かべた。きっと、彼女にとって大切なものだったはずだ。それとお別れすることを、選んでくれたのだ。

 

「ポン!」

 

 宮永照の牌を、鳴く。改変完了、ではあるが、河から牌を拾うだけで一苦労だ。情けないにも程がある。

 

 だが、これで成った。

 

 ――そうやチャンピオン。

 

「ロン!」

 

 ――それが阿知賀の和了り牌や……!

 

 阿知賀の点数申告を聞きながら、怜はようやく肩の力を抜く。これほど長い半荘二回は、生まれて初めてだった。装っていた平静は一瞬で崩れ去り、意識が朦朧としてきた。

 

「園城寺さん、大丈夫ですかっ?」

 

 心配の声をかけられる。誰の声か、よく分からなかった。目を開いても、視界がぼやけている。それでも心配はかけまいと、怜は足に力を込めて立ち上がろうとした。

 

「よしょっ……大丈夫、仮病やから……心配、せんとって……」

 

 そこが、彼女の限界だった。

 

 ぐるん、と世界がひっくり返り。

 いつの間にか、頬が床にくっついていた。

 

「怜!」

 

 親友が、涙声と共に駆け寄ってくる。

 

「学校より床が冷たい……」

 

 ぽつりと呟いた感想は、自分でも間が抜けていると思った。

 

 助け起こされながら、怜は見た。

 チャンピオンの、静かな表情を。

 

 そこから病院に運ばれるまでの記憶は、ある。だが治療を受け始めたところで、彼女の意識は途切れてしまった。

 

 目が覚めたときには、既に日も暮れ始めた大将戦。

 みんなが頑張ってくれたおかげで、あれだけ酷い点差がついていたというのに、場は平たくなっていた。

 

 親友の戦う姿を見守り続け。

 最後のツモ宣言を聞き、千里山の夏が終わったと理解して、再び怜は深い眠りに落ちていった。

 

 

 一矢、報いることは出来た。

 だが、逆に言えば一矢しか報いることはできなかった。自分がもっとしっかりしていれば。エースとしての役割を果たしていれば。

 

 チャンピオンに、勝てる力があったなら。

 

 思えば、と園城寺怜は振り返る。

 自らの懊悩はこの日から始まった、と。

 

 

 ◇

 

 

 残された高三の夏を、怜は病院の中だけで過ごした。正直つまらない日々ではあったが、ひっきりなしに竜華を初めとする麻雀部員が見舞いに来てくれたので暇はしなかった。

 

 夏休み最後の日も、ベッドで横たわる怜の元へと竜華とセーラが訪れていた。

 

「セーラ、プロの話はどうなったん?」

「おう! いくつかのチームから声かかっとるで!」

「どこか決めたん?」

「まだまだ迷い中や。でも、コクマを待たずしてプロ行きは確定やな」

 

 男勝りな頼れる友人は、希望通りの進路を選べるようでほっとする。

 

「竜華は大学から推薦の話来とるんよなぁ」

「そやで。今のところは西阪か近大のどっちかって考えとるけど……でも、怜やって推薦受けられるんとちゃう?」

「んー……監督からちょろっと話は聞いとるよ」

「せやったらうちと同じ大学にせぇへん?」

 

 竜華の提案に、「そやな」と怜は頷こうとした。それが当たり前の流れだった。高校進学のときからずっと、怜は二人を追いかけてきた。

 

 しかし、だというのに、できなかった。いつもの竜華への意地悪ではなく、何かが心にひっかかって頷けなかった。

 

 結局出てきたのは、

 

「考えとくわ」

 

 という保留だった。えぇー、と口を尖らせる竜華には申し訳なかったが、怜は笑って誤魔化した。

 

 その後無事退院し、怜は日常生活に戻ってきた。

 

 周囲は受験ムード一色であったが、一応は推薦の話が来ている怜には余裕があった。体調を考慮してコクマへの出場は辞退したものの、優勝を狙うセーラのため練習に付き合う運びとなった。

 

 久々に牌に触れ、怜は微かな昂揚を覚える。

 一方で彼女は、すぐに自らの変調に気付いた。

 

 一巡先を見る力を使うのは、体力を消耗する。体の弱い怜にとって、諸刃の剣でもあるこの力は、しかし一度や二度の使用ぐらいで動けなくなるわけでもなかった。

 

 二巡先、三巡先を見るのなら話は別だが――とにかくとして。

 

 この日、能力を使用して戦えたのは半荘一回にも満たなかった。すぐに竜華の膝枕にお世話になる羽目になってしまった。百巡先など、夢のまた夢だった。

 

 翌日怜は、一人だけで病院を訪れた。

 主治医に全て打ち明けて、何とかならないかと相談した。

 

「このまま静かに日常生活を送るだけなら、問題ありません」

 

 医師は、そう切り出した。

 

「しかし、園城寺さんが麻雀を打つためには人並み以上の体力を使うようです。これまではその消耗も問題ないレベルでしたが、現在は蓄積した疲労が取り除けていません」

 

 きっかけには、心当たりがあった。繰り返し使った、ダブルとトリプル。あれは、体に相当なダメージを残した自覚があった。

 

「手慰みでやる麻雀程度なら気にする必要もないでしょう。ですが、このまま競技麻雀を続けるのはおすすめできません。体もそうですが、貴女は性格的に無理をする。きっといつか――不幸な結末が訪れる」

 

 慎重に、されどはっきりと医師は言った。

 ショックはそこまで大きくない、そう怜は思った。自分の体のことだ、なんとなく察していた。医師との間に流れた空気は暗くて、受験勉強に切り替えなくてはならないのか、なんて冗談めかそうと思った。

 

 だというのに、口から出てきたのは全く別の言葉だった。

 

 

「なんとか、ならないんですか」

 

 

 縋るような声に、怜自身が一番びっくりした。おそらく、医師も驚いていたことだろう。

 

 それから親も交えて何度も相談した後、出てきた結論は一つだった。

 

「何度かの手術を経れば、競技麻雀に耐えうる体力を得られる……」

 

 ただし。

 

「一年から二年の療養が必要になる、か」

 

 決して、短くない時間である。人生単位でみればそうでもなかろうが、そんな巨視的にばかり考えられない。

 

 その時間が過ぎる間に、竜華もセーラも先に進んでしまう。中学時代からずっと一緒にいた友人たちと、今度こそ離れ離れになってしまう。時間と距離の両方で、だ。それは耐えがたきことで、安易に選べる道ではない。

 

 けれども、希望に縋った瞬間から怜の心は決まっていた。

 

「ごめんな、竜華。一緒に進学できへんくて」

「何今更言うてんの。謝るようなことちゃうやん」

「せやで怜。何かあったらすぐ俺が飛んでったるわ!」

「ありがとセーラ」

 

 卒業式は、無事三人で迎えることができた。いつまでも泣きじゃくる竜華をなだめるのは、大変だった。

 

 先に進む二人を見送り、怜は一人足踏みする。

 

 予定通り、春先に怜は一度目の手術を受けた。結果はあまり芳しいものではなく、夏になるまでずっと病院で過ごした。

 

 多忙ながら時折見舞いに来てくれる竜華とセーラに感謝しつつ、その日々はもどかしかった。牌に、触りたかった。

 

 その夏千里山女子は十二年連続のインターハイ出場を決め、時間を持て余していた怜は東京まで後輩の応援に向かった。竜華から部長役を引き継いだ浩子や、名実ともにエースとなった泉の目覚ましい活躍を嬉しく思い、同時に羨ましかった。

 

 彼女たちの戦いを見届けた後、怜はそのまま大阪に引き返さなかった。

 

 夏の熱気が酷い大阪の街よりも、避暑地での療養を医師から勧められたのだ。秋には二度目の手術が待っている。今度こそ、完治の見込みをつけたかった。

 

 いくつか挙げられた候補地の中から怜が選んだのは、

 

「長野に行ってみたいんやけど」

 

 あの、チャンピオンの生まれ故郷だった。

 

 

 ◇

 

 

 長野に行けばチャンピオンの強さの秘密が分かる――なんて考えは、当然なかった。だが、興味はあった。あの鉄面皮が生まれ育った土地というのは、一体どんなところなのだろうか。加えて言えば、彼女の妹も最強の女子高生の一角である。さらには有名な原村和、説明不要の龍門渕の天江衣、大学一年生にしてインカレで活躍した福路美穂子や竹井久と、有力選手は枚挙に暇がない。

 

 空恐ろしくもあり、期待感もあり、怜は療養先として長野を選んだ。

 

 生まれて初めて長野に足を踏み入れたとき、彼女が感じたのは空気の清浄さであった。故郷の大阪を貶めるつもりはないが、その差は明確だった。確かに療養向けの土地だと、頷くしかない。

 

 体力をつけるため、という名目の元怜は毎日病院を抜けだし散歩に向かった。

 

 静かな町は心が落ち着く。

 触れ合う人々は皆優しい。

 

 僅かにあった長野への忌避感はすっかり消え去って、すっかり怜はこの地を気に入っていた。設備さえ整っていればここで手術を受けたいくらいだった。

 

 ――その日も、怜は散歩に出かけた。

 

 病院の周囲はあらかた歩き回ったので、許可を取り電車を使って怜はさらに遠出した。長野に来てからずっと、調子の良い日が続いていたので問題ないと考えた。

 

 辿り着いたのは、チャンピオンが生まれた、清澄の町。

 静謐さと自然に囲まれた清澄を、怜は一目で気に入った。涼しげな風は心地よく、飲み込む空気に味がある。

 

「ええとこやん」

 

 人影の見当たらない畦道を歩きながら、しみじみと怜は一人呟いた。今すぐにでも駆け出したい気分だった。

 

 畦道の終わりに、ふと、森の中に細い道があることに怜は気付く。道はどうやら山へと続いているようだった。

 

 興味が湧いた。――この道の先は、どんなところなのだろう。

 想いに身を任せて、怜は山道へと足を踏み入れた。舗装などはされていないが、意外と道はしっかりしており、足を踏み外すようなことはない。それがまた、彼女に躊躇いを失わせた。

 

 いくら涼しいと言っても、夏。

 

 怜は額に汗を浮かべながら、十分あまり山道を歩き続けた。暗い森の中に深く分け入り、しかしその先に光を見つける。

 

 森を出た先に広がっていた光景に、怜は溜息を吐いた。

 

 そこは、長野の美しい嶺たちを一望できる丘だった。連なる山は、神秘的とも言える厳かな雰囲気を漂わせている。冷めた性格だと自負する怜でも、これには唸らされた。

 

 ――ああ、来て良かった。

 

 丘の中央まで歩を進めながら、怜は頬を緩める。

 そこで、彼女は胸に強い痛みを覚えた。

 

「あ……」

 

 その感覚を、怜はよく知っていた。

 

「あか、ん……」

 

 これは、まずい。ふらふらと、頭が揺れる。山々が霞み、足から力が抜ける。調子に乗って、出歩きすぎた。だが、後悔先に立たず。

 

 ばたりと、怜はその場に倒れ伏せた。こんなとき、いつも助けに走ってきてくれた親友は当然いない。

 

「くすり……」

 

 自らに言い聞かせるように呟いて、怜は鞄に手をかけようとする。だが、転げたときに鞄も放り投げてしまっていた。中身は散乱して、ぼやけた視界ではどれが薬かもよく分からない。

 

 何度も生死の境をさまよったおかげで、よく分かる。現状は、相当にまずい。

 

 ――嘘やん。

 

 こんな簡単に、終わってしまうのか。

 何もかも中途半端で、終わってしまうのか。

 

 悔しいやら情けないやらで、怜は泣きたくなった。じわりと眦に涙が溜まり――こぼれ落ちる寸前、

 

「大丈夫ですかっ?」

 

 降りかかる声が、あった。おそらく、同じ年頃の少年の声だった。

 抱き起こされて、怜は彼を見上げる。といっても、ぼやけた視界では輪郭程度しか分からない。それでも、首元に回された腕の体温は確かだった。

 

「しっかり掴まってて下さいね!」

 

 背負われた怜は、声を出せず、言われるがままに彼の首に腕を回した。

 名も知らぬ少年の背中はがっしりとして暖かく、安心感を与えてくれた。山を駆け下りているというのに、揺れはほとんどなかった。

 

 ――ああ。

 

 こんな、酷い状況で。

 この背中は竜華の太股くらいの価値はあるな、と怜は冷静に品評していた。

 

 

 




次回:3-2 彼女の影


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3-2 彼女の影

 病室のベッドに寝転がりながら、怜はウィークリー麻雀トゥデイのページを捲っていた。今週はプロルーキー特集で、一際大きく取り上げられているのは、当然と言うべきかやはり宮永照だった。既に今年の新人賞は確定的と目されており、早くも日本代表のBチームにも選出された。

 

 高校時代から変わらず、世代のフロントランナーとして活躍する彼女のグラビアは、眩しいほどの笑顔だ。

 

「意外と愛想ええんよなぁ」

 

 ぽつりと、怜は文句を零す。対局中は表情一つ変えなかったというのに、詐欺くさい。ぱたんと雑誌を閉じて、怜は枕に頬を寄せた。

 

 昨日散歩の途中で倒れてしまったせいで、しばらく一人での外出は禁じられてしまった。様子見とは言え入院させられてしまったし、検査も増えた。地元から遠い長野の地では、見舞いに来てくれる友人もいない。部屋の外から聞こえてくる蝉の鳴き声が、酷く虚しかった。

 

 テレビをつけても、特に面白い番組はやっていない。インハイシーズンも終わり、プロの試合の中継も時間帯が合っていなかった。長野にいる間は、さほどお世話になる必要もなかったはずの入院生活に、早速辟易してしまう。

 

 ごろん、と怜は寝返りを打つ。

 できるなら、昨日自分を助けてくれた人に会って御礼を言いたい。そんなことも自分の意思でできず、もどかしい。

 

 と、思っていたら。

 

「――……」

 

 扉の向こうから、何者かの声が聞こえてきた――気がする。

 怜は、そっと耳を澄ませてみた。

 

「おい咲、だからそっちじゃないって」

「ご、ごめん京ちゃん」

「二人とも、静かに。病院ですよ」

 

 今度は、はっきりと聞こえた。男の子が一人と、女の子が二人。男の子の声は、つい最近聞いた覚えがあった。

 

 続いて、扉をノックする音。

 

「どうぞー」

 

 おそらく、医師や看護師ではない。体を起こし、できる限り平坦な声で怜は客を促した。

 

「失礼します」

 

 優しい声の挨拶と共に、ゆっくりと扉が開かれる。

 

「あ」

 

 先頭と、最後尾の二人の少女は知った顔だった。

 二年連続インターハイ長野代表、清澄高校の二大エース。原村和と、そして因縁深い血統の宮永咲だ。

 

 話したことは、いずれもない。彼女たちとは二学年離れている上、怜は遅咲きの選手だった。インターミドルで活躍した原村和とも、活躍の場が被った時間は少ない。あの夏はAブロックとBブロックで別たれており、千里山は決勝に進出できなかった。

 

 そして、もう一人病室に入ってきたのは男子。すらりと背が高く、整ってはいるものの若干軽薄そうな顔立ち。こちらは、見覚えがなかった。

 

 ともかくとして――

 どうしても、怜の視線は宮永咲に向かってしまう。

 

 まとう空気はまるで違う。姉のほうは常に淡々と、かつ堂々とした立ち居振る舞いをする。一方の妹は、卓についているときはともかくとして、どこか自信がなさそうな印象を受けるのだ。それでも顔つきや体つきは姉である宮永照に似通っており、姉妹と言われれば頷かざるを得ない。

 

 ――どうして彼女たちが、こんなところに。

 

 一瞬、そんな考えが怜の頭を過ぎる。

 

「もしかして」

 

 だが、そこまで難しい問題ではなかった。

 

「昨日、私を助けてくれたんって、貴女たち?」

「あ、はい。そうなります」

 

 やや躊躇いがちに、先頭の和が頷いた。

 

「こんにちは。えっと」

「園城寺です。園城寺、怜」

「ありがとうございます、園城寺さん。私は――」

「知っとるよー。原村さんやろ?」

 

 和は目を瞬かせたが、すぐに「そうですか」と納得した。流石有名人、こういう対応にも慣れているようだ。

 

 続いて和は、隣の咲を紹介してくれる。

 

「こちらは宮永咲さんです。昨日、園城寺さんを一番に発見したのが彼女です」

「それはそれは。ほんま助かりました」

「い、いえ」

 

 恥ずかしそうに咲は両の手のひらを振って、言った。

 

「私、おろおろするばかりで何もできなくて。救急車を呼んだのは和ちゃんだし、山の下まで園城寺さんを運んだのは京ちゃんだったし」

「見つけてくれただけで十分やって」

 

 やはり性格も、姉のほうとは大分違うようだ。どちらが良い悪いという話ではないが、あまり身構える必要もなさそうだ、と怜は思った。

 

「そんで――私をおぶって走ってくれたんが、そちらの『きょーちゃん』さん?」

「え、あ、はい」

 

 少し間の抜けた怜の呼び方に、彼は戸惑い気味に答えた。

 

「須賀くんです。須賀京太郎くん」

 

 和のフォローを受けて、ふむ、と怜は呟く。

 

「ありがとな。おかげで助かったわ、きょーちゃんさん」

「……さんは余計だと思うんですけど」

「ええやん。男の子が細かいこと気にしてたらあかんで」

「はぁ」

 

 首を傾げる京太郎が何だかおかしくて、怜はくすりと笑った。体は大きいが、嗜虐心がそそられる可愛らしさを感じる。

 

 それから怜は、三人へ改めて自己紹介した。

 自分の出身や体のこと、麻雀をやっていること、実は女子の部で同じインターハイに出場していたこと、長野には療養に来ていること。

 

 途中麻雀の話題で盛り上がりながらも、ひとしきり説明を終えると、怜は三人にもう一度頭を下げた。

 

「ほんまにありがとう、三人とも。あそこまで酷いのは滅多にないから、ちょっと油断しとったみたい」

「いえいえ」

「園城寺さんが無事で良かったです」

 

 やはり麻雀という共通項があるためか、怜は三人とすっかり打ち解けることができた。初対面だというのに、軽やかに口が回る。

 

 気付けば時間も忘れて、話し込んでしまっていた。夏場の陽はまだ高いが、時計の針は容赦なく進む。

 

「それじゃ、この辺で」

「あ……うん。ごめんな、すっかり引き止めてしもうて」

「いいえ、お気になさらず」

 

 三人が、病室から出て行く。

 思わず、怜は彼女たちを引き止めてしまいそうになった。倒れてしまったせいで、色々としがらみが増えている。しばらく一人で自由に出歩ける身ではなくなった。竜華あたりに電話をかければ紛らわせるだろうが、彼女もまた忙しいだろう。

 

 当然、和たちも暇なわけではない。たまたま出会った病弱な娘にいつまでもかまけている時間などないはずだ。

 

 我が儘など、言えない。人肌恋しいなど、言ってはならない。かけたい言葉を飲み込んで、怜はぎゅっとシーツを掴んだ。

 

 和と咲が、病室を出て。

 最後に残った京太郎が扉に手をかけたまま、首だけ振り返って、怜に声をかけてきた。

 

「園城寺さん」

「ん?」

「それじゃ、また」

 

 そう言い残し、彼は出て行った。病室に一人残された怜は、小首を傾げた。

 

 

 ◇

 

 

 翌日の夕方、京太郎は当たり前のように怜の病室に現れた。

 

「こんにちは、園城寺さん」

「……こんにちは」

 

 びっくりしすぎて、挨拶がワンテンポ遅れた。まともな突っ込みもできず、関西人として情けなかった。

 

 ベッドの近くの椅子に腰掛ける彼に向かって、怜は疑問を投げかける。

 

「なんで来てくれたん?」

「昨日、『また』って言ったじゃないですか」

「いやいや、そうやなくて。わざわざこんなところまで来るなんて、暇なん?」

 

 関西の言葉は聞く者が聞けば辛辣に聞こえるから、余所では穏やかに喋るように――そう注意されたこともあったが、怜はそんなこと構っていられなかった。驚きと困惑と、それから言い表しようのない感情が胸で渦巻く。

 

「暇でもないですけど。麻雀の練習もしなくちゃいけないし」

「そんならなんで?」

「だって、園城寺さんが寂しそうだったから」

「……はぁ? 何言ってんの?」

「うわ、冷たっ」

 

 悪態でもつかなければ、色々とぼろが出そうだった。怜はふいっと顔を逸らしてから、

 

「まぁでも、……あんがと」

 

 と、お礼を言った。ほっと安堵の息を吐く音が聞こえた。

 

 特に何をするというわけでもない。二人で麻雀をするのも寂しいし、そもそも道具だってない。ただ、怜は女子校育ちである。男子に免疫がない、とまでは言わないが、同年代の男の子というのは日常から離れた存在だった。京太郎の口が特別上手いのか分からないが、二人だけでも会話は弾んだ。

 

「そもそもなんやけど、きょーちゃんさんたちはなんであんな山の中おったん?」

「あそこは俺や咲のお気に入りの場所なんですよ。綺麗だったでしょう?」

「確かにそうやったけど」

「で、あの日後輩たちが夏風邪こじらせるわ優希はタコス食い過ぎで腹壊すわで部活出たの俺たち三人だけだったんですよ。仕方ないから早めに部活切り上げて、たまには外出歩いてみるかって話になったんです」

「なんや、それじゃあ私は風邪とタコスに救われたん?」

「まさしくその通りですね」

 

 酷い話やなぁ、と怜は笑う。とても楽しかった。彼が帰ってしまうのが、とても名残惜しくなるくらいに。

 

 ――けれども。

 

 翌日も、その翌日も、彼は病室を訪れてくれた。毎日ではないものの、和や咲、他の清澄高校の部員もお見舞いに来てくれた。一々寂しいなどと思う暇もないくらい、賑やかな日々が続いた。

 

 高校生の夏休みも残り僅か、というその日は麻雀部が休みということで、朝から京太郎は見舞いに来ていた。

 

 この頃になると、彼との距離はかなり短くなっていた。少なくとも、怜はそう思っていた。

 

 りんごの皮を剥く京太郎の頭のてっぺんから足の指先まで観察してから、ううむと唸り、怜は彼に声をかけた。

 

「ちょっとちょっと、きょーちゃんさん」

「はい?」

「こっち座って」

 

 ぽんぽんと叩くのは、自分のベッド。京太郎は、「はぁ」と曖昧に頷きながらも、包丁を置いて言われるがままに従う。

 

 怜はそんな彼の膝元へ、自分の頭を預けた。膝枕の形である。

 

「あの、園城寺さん?」

「しっ。黙って」

「は、はい」

 

 いつになく真剣な怜の声に、京太郎は押し黙る。そのままたっぷり三十秒、そうしていた。やがて怜は体を起こし、

 

「やっぱあかんな。男の子の膝はゴツすぎるわ。セーラが柔らかく感じる」

「……なんだかすみません」

「むぅ。それじゃ、元の場所座って。背中はこっち向けてな」

「は、はい」

 

 怜の視界に広がるのは、大きな背中。試そう試そうと思ってはいたが、中々機会が回ってこなかった。

 

 ごくりと生唾を飲み込んで、怜は頬を彼の背中に寄せた。

 

「おお……」

「ちょ、え、何やってるんですか園城寺さんっ?」

「この感触中々ええな、と思って狙ってたんや。動いたらあかんで」

「これって逆セクハラなんじゃないんですかね」

「ええやん減るもんやあらへんし」

 

 しばらく怜は京太郎の背中にくっついていた。検診にきた看護士さんに驚かれて、ようやく離れたときには彼の背中は汗ばんでいた。剥いてもらったりんごを頬張りながら、怜はいけしゃあしゃあと言う。

 

「次回もよろしくな、きょーちゃんさん」

「次回もあるんですか」

「当然やん。これがあったらしばらく生きて行けそうやわ」

 

 堂々と胸を張る怜に、京太郎は溜息を吐く。

 

「今日、近くで夏祭りあるの知ってます?」

「ん?」

「気分転換がてらに一緒にどうですかって思ってたんですけど、どうやら要らぬお世話――」

「行く!」

 

 元気よく、怜は手を上げた。ここのところずっと病室に引きこもり続けていたのだ。付き添いがいれば外出も可能、と昨日医師から許諾は得ている。今更夏祭りくらいで浮かれる年頃でもなかったが、溜まっていた鬱憤は大きかった。

 

「連れてって!」

「全く、調子良すぎですよ」

「そうは言っても連れてってくれるきょーちゃんさんが好きやで」

「……む」

 

 少し頬を朱に染めて、京太郎はそっぽ向いた。やはり可愛い。年下の男の子をからかうのは、とても楽しい。

 

 結局甘えに甘えて、怜は京太郎を口説き落とした。

 考えてみれば男の子と出歩くなんて初めてだ。もうちょっと着飾りたいな、とは思うが突然のこと、浴衣など当然準備できない。残念だった。

 

 夕刻を過ぎ、二人は病院を出た。

 祭りは近くの神社を中心に行われていた。ずらりと夜店が立ち並び、おお、と怜は興奮する。

 

「京ちゃん」

「園城寺さん」

 

 背中から、自分たちの名を呼ぶ声がかかった。振り返れば、和や咲、もう一人の同級生である優希が立っていた。二人とも、綺麗な浴衣を身に纏っていた。

 

「おー、これでみんな揃ったな」

 

 京太郎が満足気に頷く。彼の顔を見上げながら、怜は思った。

 

 ――なんや、二人きりやないんか。

 

 残念であると。

そう考えている自分に気付いて、はたと彼女は足を止めた。ほう、と妙な声が出た。それからしばらく目を閉じ、思索した結果。

 

「いや、それはないわ」

 

 確かに魅力的な背中ではあるが、そういうのではない。園城寺怜、命を助けられたからといって惚れるほど安っぽい女ではない。彼女は自嘲気味に笑って、呟いた。

 

「なにせ、昔っから誰かに助けられてばっかりやったからな」

「何か言いました?」

「なんでもあらへんよ、きょーちゃんさん」

 

 京太郎から離れて、怜は和たちに挨拶をする。

 清澄の面々と、怜は祭りを練り歩いた。普段聞かない喧噪や太鼓の音が、耳に心地良い。優希が次々と食べ歩いていくジャンクフードに心惹かれたが、一応は自重しておく。

 

 代わりと言っては何だが、射的やら型抜きやらで盛り上がった。和が意外に不器用であったり、初めて挑戦したという割に咲が精密な射撃を見せてみたりと、中々に興味深かった。

 

 幼い頃一度やったかやらなかったくらいだが、怜は綺麗に型抜きをクリアし、景品を貰った。子供が喜びそうなシールの詰め合わせだった。

 

「この歳になると使いどころが分からへんな」

「昔はあちこちぺたぺた貼ったものですけどね」

 

 咲も同じようにシールを貰って、苦笑いを浮かべる。彼女ともすっかり打ち解けることができた。

 ただ、彼女の姉の話はできていない。しなくてはいけない、というわけでもない。だが、怜は意図せずして忌避していた。

 

 宮永照と、宮永咲は違う。

 

 分かってはいる。知っている。だが、彼女を見ているとどうしても宮永照の影がちらついてしまうのだ。

 

 迷いを振り切るように、怜は顔を上げた。

 

「あ、あれ可愛い」

 

 その先、射的屋で追加された賞品に目が止まり、怜は歓声を上げる。

 

「可愛い……ですか?」

 

 問うたのは、京太郎。何せ怜が指差したのは、どちらかというと不気味な感じのする狐面だったのだから。子供向けのお面屋で売っているような、安っぽいプラスチック製のものではなく、かなりしっかりした作りのものだ。それがまた、妙な威圧感を醸しだしている。

 

「あれとって、きょーちゃんさん」

「簡単に言ってくれますね」

「こういうとき格好ええとこ見せたら女の子はころっといくもんやで」

「どうせ『私は違うけどな』とか言うんでしょ?」

「きょーちゃんさんも私のこと分かってきたやん」

「はいはい」

 

 何だかんだと言いながら、京太郎は挑戦してくれた。三度目のチャレンジで、見事に狐面を台から叩き落とした。

 

「おお……」

 

 怜は狐面を受け取り、近くでまじまじと観察して、

 

「……やっぱりあんま可愛くないな」

「酷っ!」

「ああ、でもさっきの」

 

 取り出したるは、型抜きで貰ったシール。その中からハート型のシールを選び取り、怜は仮面の目元に貼り付けた。

 

「うん。これで大分可愛くなったわ」

「わっ、可愛い」

「アリですね」

「ほんどだじぇ!」

 

 女子たちが追随してくれる中、京太郎だけが納得していないようだった。男子は感覚が違うのか、と思いながらも怜は彼に文句をつけた。

 

「もうちょっと喜んで欲しいわ。きょーちゃんさんと私の初めての共同作業やで」

「その言い回しはおかしいです」

「ん? 照れとるんか?」

「照れてませんっ」

 

 ぷいっとそっぽを向く京太郎がおかしくて、女子たちは揃って笑った。

 怜の事情もあり、あまり長居せずに一同は帰路に就いた。帰り道、狐面は怜の腕の中で大切に抱かれていた。

 

「それじゃ、ここで」

 

 病院前まで送ってもらい、怜は四人と別れの挨拶をする。

 

「今日はありがとな、みんな」

「私たちも楽しかったです」

 

 二つ年下の彼女たちは皆優しく、怜は今まで以上にこの地を気に入っていた。だが、そろそろタイムリミットが近づいていた。清澄の面々も、二学期が始まってしまえば今までのようにお見舞いに来てはくれなくなるだろう。

 

 最後の瞬間まで怜は悩み、しかし、彼女ははっきりと言った。

 

「咲ちゃんにお願いがあるんやけど」

「はい? 何でしょう?」

「――私と麻雀、打ってくれへん?」

 

 その希望は、どこから生まれたものなのか。

 口にした怜自身、未だによく分かっていなかった。

 

 

 




次回:3-3 彼がいたから


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3-3 彼がいたから

 宮永咲は、疑いようなく現在最強の高校生雀士の一人である。昨年度の団体戦、新鋭である清澄高校優勝の立役者にして個人戦ファイナリスト。今年度のインターハイでは、個人戦でも初の栄冠を手にした。

 

 宮永の血統。

 長野の嶺上使い。

 引き継がれし「最強」。

 

 メディアがこぞってかきたてる煽り文句にも負けない活躍を、彼女は見せていた。姉と比べると対局中に動揺するメンタル面での不安定さも指摘されるが、最後には笑顔と共に勝利する姿は、怜からすれば誰よりも強い精神力を持っているように感じる。

 

 例え宮永照に含むところがなくとも、打ってみたいと思っていただろう。

 だが、今はそんな単純なものでもなかった。この行動は、確認に近いのかも知れない。何はともあれ、怜の願いを咲は聞き届けてくれた。

 

 昨今の防犯事情から、校舎内への部外者の立入は厳しく、清澄高校での対局は断念せざるを得なかった。

 代わって怜が連れて来られたのは、とある雀荘だった。

 

「roof-top……?」

 

 看板の文字を目で追う怜に、京太郎たちが説明する。

 

「ここ、この間引退した先輩ん家の雀荘なんですよ」

「中々良い雀荘です」

 

 心なしか和が嬉しそうだ。怜は首を傾げるが、ともかく咲も含めた四人で中へ入る。

 入口で待っていたのは、眼鏡をかけた――メイドさん、であった。

 

「お、来たな」

 

 にやりと笑う眼鏡メイドには、見覚えがあった。

 今年度清澄高校を率いた、唯一人の三年生、染谷まこだった。

 

「なぜメイド服」

「そりゃあここがメイド雀荘じゃからな」

「なるほど、分かったわ」

「納得しちゃうんだ……」

 

 後ろで咲が苦笑いするが、気にしない。

 まこと軽く自己紹介し合ってから、怜は改めて彼女の格好をまじまじと観察する。きらん、と怜の目が輝いた。

 

「アリやな」

「でしょう」

 

 和と意気投合していると、

 

「そんなら園城寺さんも着てみるか?」

 

 まこがそう提案してきた。

 

「ええん?」

「元々場代として和たち客寄せパンダさせるつもりじゃったから。ほら、和たちもさっさと着替えぇ」

 

 恥ずかしがるのは咲だけで、その抵抗も虚しく、怜たちは三人揃ってミニスカートのメイド服に着替えた。ひらひらして可愛らしい。コスプレなんて経験は初めてだったが、意外に面白いではないか。

 

 ふと、視線を感じて怜は顔を上げる。

 

 完全に鼻の下を伸ばした京太郎が、そこにいた。にやり、と怜はほくそ笑み、あざとく上目遣いで彼の顔を覗き込む。

 

「きょーちゃんさんはこういうん、好きなん?」

「えっ、あっ、そのっ」

「もっと見ててもええんやで……?」

 

 なまめかしく、怜はしなを作る。首元まで京太郎の顔は赤くなった。さらっと怜は元の姿勢に戻って、一転冷ややかな声を投げかけた。

 

「今変なこと想像したやろ」

「し、してません!」

「恥ずかしがらんでもええで。すけべぇなきょーちゃんさん」

 

 ぐぬぬ、と完全に言葉を詰まらせた京太郎はそっぽを向く。くすくすと怜は笑って、彼の背を叩く。

 そうしている内に、

 

「そろそろ良いですか?」

 

 和に呆れられてしまった。

 

「きょーちゃんさんのせいで怒られたやん」

「今のは俺悪くないでしょうっ?」

「ま、ええわ。ともかく打とか」

 

 マイペースに卓につく怜の背後で、京太郎が盛大に溜息を吐いた。先輩のまこに慰められるレベルであった。

 

「今日は私の我が儘に付き合わせてごめんな」

「いいえ、千里山の元エースと打てるなんて勉強になります」

「和ちゃんの期待に応えられるかは、ちょっと分からんな」

 

 自分の力の中核を担っていたものは、使えないし使わない。療養の成果が出るまで封印すると決めたのだ。

 

 千里山では三軍レベルに過ぎなかった雀力だけで、戦わなければならない。しかもブランク有りで。初めから結果は見えている。

 

 場決めの結果、下家に咲、対面に京太郎、上家に和となった。

 席につき、怜は一度深呼吸する。卓についたときの緊張感も久方ぶりで、気分が高揚していくのを自覚した。

 

 だが、勝負が始まってしまうとすぐにそんなものは霧散する。

 最初の局から、流れは彼女たちにあった。

 

「カンっ」

 

 宮永咲の、加槓宣言。耳にした瞬間、ぞくりと怜の背筋に冷たいものが走った。咲の手が王牌に伸び、

 

「ツモっ」

 

 引かれた牌が、そのまま卓に置かれる。淀みも迷いもない、確信に満ちた動き。まるで背面の牌が透けて見えているようだ。

 

 ――これが、清澄の嶺上使い。

 

 涼しげな表情で、常識外のプレイを平然とやってのける。

 打ち筋も性質も全く姉とは違う。それでいて、感じる壁の高さは同じ。牌譜を見る限りは、どちらかと言うとスロースターターなタイプかと思っていたがそんな隙もない。

 

 さらに。

 

「ロン」

「……はい」

 

 切り捨てた牌で、和に和了られてしまう。速い。力を使えば回避することも難しくないだろうが――

 

 使ったところで、二人を止められる気がまるでしなかった。

 

 その後も、ペースは咲と和二人だけのものだった。彼女たちの和了宣言を聞く度に、心が沈んでいく。

 

 怜は結局、焼き鳥で半荘を終えた。

 

 ――こんなもんか。

 

 失望と諦観が体を支配する。悔しさなんて言葉だけで、この気持ちを表せてなるものか。

 

 今感じているより距離よりも、宮永照との距離はさらに大きいはずだ。その事実を確認して、怜は小さな息を吐いた。

 これで終わりと、彼女は終止符を打つ。

 

 ――だと、言うのに。

 

「それじゃ、もう一回」

 

 力強い声で、宣言した者がいた。

 

 はっと、怜は顔を上げた。そこにいたのは、これまで見たことのない表情をした京太郎だった。どちらかというと軽薄そうな印象だったのに、今の彼からはそんなもの欠片も感じない。思わずどきりとした。

 

「あ……園城寺さんは大丈夫ですか? 体調とか」

「ううん、平気や」

 

 呆気にとられながらも、怜は応ずる。あれだけ大敗を喫しても、気にしていないというのか。それとも、彼女たちに負け続けて感覚が麻痺しているというのか。

 

 怜はすぐに気付いた。その、どちらでもないと。本気で悔しがって、それでいてもう一度戦いを挑んでいるのだと。咲や和も、黙ったまま頷いて、場決めに加わる。

 

 次の半荘も、咲たちの独壇場だった。怜たちは蹂躙されるばかり。

 

 怜の目から見ても、京太郎に特別才能があるように見えなかった。とりわけ見るべきところもない、平凡な打ち手。多少読みは良いが、武器と言えるものは一つもない。大口をたたける立場ではないが、むしろ穴のほうが多いくらいだろう。

 

 けれども、彼は食らいつく。何度振り込んでも、何度大物手を流されようとも、諦めない。今すぐにでもプロに通じるだろう宮永咲を前にして、恐れを見せないのだ。

 

 ――なんで。

 

 気が付けば、この場で取り残されているのは自分一人だけになっていた。三人が集中している世界に、入っていけない。

 

「カンっ」

 

 今日何度目か分からない咲の槓。嶺上牌で、当然のように彼女は和了る。

 この半荘もオーラスを残して、咲と和のツートップ。一万点以上離れて怜、京太郎が続く。ただし、怜の現状の三位も常に守勢でいたためだ。攻めに行った結果、京太郎が振り込んでしまっただけ。

 

 オーラスの親は京太郎。彼の目は――やはり、死んではいなかった。

 だが、咲の手が早い。すぐに流されてしまう予感がした。今度こそ終わり、と諦観した怜は目を伏せ、

 

「――っ?」

 

 目の前に現れた光景に、驚く。

 意図して使ったわけではない。使おうなんて、思いもしなかった。しかし確かにその瞬間、彼女は一巡先の未来を見た。

 

「ロン!」

 

 そこで見たとおりの姿が、再現される。

 咲が、京太郎に振り込んだのだ。

 

「っしゃ!」

「上手くテンパイ気配を隠してましたね」

「むぅ。京ちゃんのくせに」

「くせにとはなんだ、くせにとは」

 

 少しの間、怜は呆けていた。あの、宮永咲に振り込ませた。何十局も戦って、たったの一度。されどその一度が、どれだけ難しいか怜はよく知っている。

 

 結局京太郎は連荘できず、逆転の目は途切れた。

 

「このあたりでお開きやな。三人とも、ありがとう」

「いえいえ。私たちも楽しかったです」

 

 卓を片付けた後、咲と和はまこに頼まれて雀荘の仕事の手伝い、もといバイトをすることとなった。怜は一人休憩室に通され、机に突っ伏す。

 

 出てくるのは、大きな溜息ばかりだった。

 

「お疲れ様です」

 

 目の前に、缶ジュースが置かれる。京太郎だった。

 

「きょーちゃんさんは手伝わへんでもええの?」

「今は男は戦力外だと言われました。今度来たとき荷物運び手伝ってくれって」

「世知辛い世の中やなぁ」

 

 アップルジュースをちびちび飲みながら、怜は京太郎に問いかける。

 

「なぁなぁ、きょーちゃんさん」

「どうしました?」

「きょーちゃんさんは、……なんであそこまで、頑張れるん?」

 

 京太郎は、要領を得ない、という風に首を傾げた。

 

「はぁ。まぁ、咲たちに好き放題やられるのはいつものことなんで。いつまでもやられっぱなしでいるつもりもありませんけど」

「でも。――あの強さは、凡人の心を折るには十分やと思う」

 

 敢えて、怜は言葉を濁さなかった。京太郎の目を見据えて、言った。怜の意思を感じ取ったのか、京太郎も居住まいを正す。 

 

 どうして自分が咲に挑んだのか、怜はようやく理解した。

 

 諦めようとしていたのだ。所詮、自分はこの程度なのだと。宮永の名には敵わないのだと、実際に戦って負けることで納得しようとしていたのだ。

 

 そして、この療養生活を終わらせようとした。友人たちに置いて行かれた寂寥。完治するかも分からない不安。一人病室で眠る毎日。自らを苛むあらゆるものに、彼女は白旗を上げそうになっていた。

 

 京太郎は、笑顔を消して答える。

 

「正直、折れたことはあります。この夏を最後に、きっぱり選手は諦めて、後はマネージャーとしてやっていこうかとも考えていました」

「……今は、ちゃうん?」

「はい」

 

 京太郎は、しっかりと頷いて、言った。

 

「俺に咲たちみたいな才能がないってのは、よく分かりました。でも、才能がないならないなりに戦ってみようって、そう思うようになったんです。凡人でもやれるって、証明してやるって」

 

 だから、と京太郎は一度目を伏せて。

 それから彼は、はっきり宣言する。

 

「あいつらに負けない雀士になって――絶対、来年こそはインハイに出る。それが今の俺の目標です。小さな目標、かも知れませんけど」

「――……そんなこと、あらへんよ」

 

 ああ。

 格好良いなこいつ、と怜は思った。

 

 自分には、目標を口にできなかった。競技麻雀に復帰する道を選んでおきながら、そもそもその動機をはっきりさせてこなかった節があった。

 

 不言実行なんて、聞こえの良いものではない。口にすれば、もう退くことはできないと思っていた。要は、逃げ道を作っていたのだ。諦めても良いように、諦められるように。それが、一番傷付かずに済む方法なのだから。

 

 だから、京太郎が眩しく見えた。心が折れても、また立ち上がって前を向く彼が、格好良かった。

 

「きょーちゃんさんや」

「どうしました?」

「私の目標も、聞いてくれへん?」

 

 京太郎は、はい、と応えてくれた。

 怜は一度大きく息を吸い込み、逸る気持ちを押し止めて、言った。

 

「私は、プロになる。なって、もう一度宮永照と戦う。そんで――」

 

 言って、のけた。

 

 

「――次は、勝つ」

 

 

 それを口にした瞬間、体が熱くなった。不思議な高揚感が、胸の内に沸き立つ。血がたぎる、とはこのことか。

 

 京太郎に微笑みかけて、怜は訊ねた。

 

「大それた目標、かも知れへんけど」

「そんなこと、ないですよ」

 

 もう迷わない。もう逃げない。怜は決意する。決意させられた。一人では、できなかっただろう。

 

 長野に来て、良かった。彼と出会えて、良かった。進むべき道を、示して貰えた。

 

「ありがとう、きょーちゃん」

「あ、やっとさん消えた」

 

 くすりと彼が笑い。

 ジュースの缶を握りしめる怜の手に、過剰な力が加わった。途端に、彼の顔をまっすぐ見られなくなる。視線はプルタブに落ちて、体の熱さが顔にまで伝わってきた。

 

 ――昔、恋に落ちる音という言い回しを聞いた覚えがある。

 

 どういう音だ理解できない、と当時は顰め面になったものだけれども。

 きっと、この胸の鼓動が答えなのだろう。

 

 

 ◇

 

 

 その夏、惜しみつつも世話になった清澄の面々と怜は別れ、大阪の地へ舞い戻った。随分と長く長野に滞在した気もしたが、実際は二週間程度の短い時間であった。

 

 お土産は、あの夏祭りで手に入れた狐面と、まこに貰ったミニスカのメイド服。長野らしさは欠片もなかったが、怜は気にしなかった。自分が長野に居た、何よりの証がこれらだったのだから。

 

 そして秋、彼女は二度目の手術を受けた。

 

 コクマの時期、忙しいであろう竜華やセーラ、後輩たちも駆けつけてくれた。大袈裟だ、と怜は困り顔を作ったものの、内心とても嬉しかった。

 

 これで彼も来てくれたのなら、と思わないでもなかった。しかし本人は出場しないとはいえ、清澄からコクマに出場する選手も多い。遠く離れた大阪に、学生の身空で来られるわけがない。実際、手術前には電話一本あっただけだった。その一本で、ベッドの上でじたばたするくらいには嬉しかったのだけれども。

 

 現れたのは、術後の病室だった。

 びっくりしすぎて、口に入れようとしていたメロンを零してしまった。

 

「きょーちゃんも暇人やな」

「見舞いに来た人に言う台詞ですか」

 

 ついつい悪態をついてしまう。そうでもしなくては、綻ばせた口元をさらけ出しそうだった。からかうのは、自分だけの特権である。

 

 同じく見舞いに来てくれた竜華と一悶着あったもようだが、結局二人とも打ち解けてくれていた。それどころか意気投合するレベルで、若干怜は不安になった。

 

 そして、季節はさらに巡る。

 

 最初の手術よりも経過は良く、軽い運動くらいなら十分こなせるようになった。リハビリを続ける内に、京太郎にとって高校最後の夏が訪れる。

 

 今度は、怜が長野を訪れた。

 昨今男子のレベルは女子と比較して下がっていると言われているが、少なくとも長野のレベルは低くなかった。そうやすやすと上位に食い込めるものでもない。観客席で、祈るように怜は彼の試合を全て見届けた。

 

 京太郎がトップ通過を決めたときは、清澄の面々に混じって大喜びした。みんなで彼をもみくちゃにするのは、とても楽しかった。

 

 ――彼は、目標を達成した。

 

 怜に、道を示してくれた。やってやれないことはないのだと、教えてくれた。その日、彼女は少しだけ涙した。

 

 インハイの日程も全て終え、怜は京太郎に訊ねた。

 

「きょーちゃんは、大学行くんやろ?」

「そのつもりです」

「希望は『例の人』が、おるところ?」

「はいっ」

 

 嬉しそうに答える京太郎に、苛立ちなどは感じない。そういうところもまるっと含めて、愛おしいと思ってしまう自分がいた。――惚れた弱みというのは、こういうことか。彼といると、新しい発見ばかりで日々が鮮やかになる。

 

 次の模試で、怜は第一志望に東帝大学の名前を書き込んだ。

 

 

 ◇

 

 

 さらに時は流れ、春。

 場所は、東帝大学麻雀部部室。

 

 すっかり陽も落ち、周囲は夕闇に包まれた。他の部員は強制退去させられ、部室に残っているのは部長である末原恭子と入部希望の新入生、園城寺怜の二人のみ。

 

 奇しくも大阪出身の二人が東京の地で、長机を挟んで向かい合っていた。

 名目は、入部面談である。

 

「つまり目標はプロ、なんやな」

「ん、そうやで。高校のときの戦績だけじゃ、流石に無理やったから。療養でのブランクもあるしな。そんなわけで、インカレ目指すこの部に入りたいと思うて」

「ふん」

 

 恭子が鼻を鳴らして、背もたれに自重をかける。怜の説明に、どうも彼女は納得していない様子であった。

 

「どうしたん? 何か気に入らへんことでもあった?」

「本気でインカレ目指すなら、もっと他に良い大学あったやろ。なんでわざわざうちに進学したんや」

 

 ほとんど恭子に睨み付けられながらも、怜は微笑みを絶やさなかった。むしろ挑発するように恭子の瞳を覗き込み、

 

「そんなん決まっとるやん」

「な、なんや」

 

 他に誰かが聞いているわけでもないが、怜はそっと彼女に耳打ちする。

 

「――きょーちゃんと同じ大学行きたかったからやよ?」

「な、ななななっ」

 

 顔を真っ赤にして慌てる恭子に、怜は肩を震わせて笑った。少し話した程度の高校時代から薄々感じていたが、彼女は竜華や京太郎と似たタイプだ。からかうと面白い。

 

「冗談はともかくとして」

「冗談なんかい」

「本気って言って欲しかったん?」

「う、うちは関係ないし。その、部の風紀を乱されても困るだけや。そんなあざとい格好して、恥ずかしくないんか」

 

 指摘され、怜は自らのメイド衣装を改めて確認する。ふむ、と頷いてから、彼女は恭子に言い返した。

 

「きょーちゃんの好みって、こういう服やで」

「……っ、し、知らんわそんなこと!」

 

 今一瞬興味持ったな、と怜は目聡く勘付く。こういうお堅いタイプにふりふりの格好をさせるのも面白そうだ、と怜は考えたが、今のところはひとまず脇に置いておく。

 

「ま、実際プロになるにも話題性があったほうがええやろ。不毛の大地から生まれたニューヒロイン、みたいな見出しでな」

「千里山のエースが偉い地味なこと言うんやな」

「昔の肩書きに拘るほど、年食ったつもりはあらへんよ」

 

 口では敵わないと判断したのか、恭子はわざとらしいくらい大きな溜息を吐いた。指先で机をとんとんと叩きながら、彼女は最後の質問をぶつけてきた。

 

「で、麻雀仮面ってのは何がやりたかったんや」

「リハビリ」

「は?」

 

 しれっと怜は答え、恭子眉を潜める。

 

「リハビリって、どういう意味や」

「きょーちゃんがこんな偏差値高い大学選ぶから、療養生活を終えた後そこからずっと受験勉強やったんや。麻雀やる暇なんかあらへんから、ブランクは長引く一方。せやからリハビリしたかったんや」

「そんなけったいな格好してたんは――」

「麻雀部入った後、他の大学と軋轢残さへんためや。負けたら仮面脱ぐ、みたいな条件がいつの間にかついた後は冷や冷やもんやったわ」

「……いや、ちょお待ち」

 

 折角説明してあげたというのに、恭子はなおも胡乱げな眼差しを送ってくる。

 

「リハビリなら、うちの部に入ってやれば良かったやろ」

「それじゃ、意味あらへんもん」

「なんでや」

「秘密」

 

 眉間に皺を寄せる恭子には申し訳ないが、こればっかりは彼女に言いたくなかった。

 

 大学に入ってまず倒したかったのは――末原恭子、その人だったのだから。

 

 そのために、京太郎にも無理を頼んであんなリハビリを強行したのだ。

 この対抗心を、今の恭子は知らない。教えるつもりもない。大体、「あんな負け方」をしておいて言えるわけがない。

 

 だから今は――

 

「きょーちゃんの好みの女の子って、おっぱい大きい子やで」

「なんで一々須賀の話するんやっ」

「ええやん別に、末原さんも興味あるやろ?」

「いや、そら、……ないわっ!」

 

 からかえるだけ、からかっておく。

 

 

 

 麻雀仮面N、改め園城寺怜。

 この日彼女は、東帝大学麻雀部の名簿にその名を加えることとなった。

 

 

 

                    Ep.3 明日望む者のレミニセンス おわり

 




次回:Ep.4 たかみープロデュースミッドナイトティーパーティー
    4-1 春季合宿のしおり


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Ep.4 たかみープロデュースミッドナイトティーパーティー
4-1 春季合宿のしおり


 ゴールデンウィークを目前にした水曜日。渋谷尭深はその夜、高校時代の友人と先輩に誘われて、場末の雀荘を訪れていた。

 

 一度目の半荘はラスを引かされた。

 二度目の半荘も、既にオーラス。今回も一位に点差をつけられ、尭深は追いかける立場となっていた。

 

 だが、渋谷尭深は強力な一撃を秘めている。オーラスまでの局の第一打が、そのままオーラスの配牌となる「収穫の時」。三年前、猛威を振るった白糸台の高火力チーム・虎姫に彼女が選出された理由でもある。25000点持ちのゲームなら、下手をすれば一撃で勝負を決めかねない力だ。

 

 今回の配牌も、これまでの局は早上がりで流されながらも、大三元を狙えるまで葡萄は実った。後は食すだけ――ではあるものの。

 

「チー!」

 

 対面に座る亦野誠子が、それは許さないとばかりに速攻をしかけてくる。高校時代の同期であり、付き合いの長い友人だ。故にお互いの手は知り尽くしている。

 

「ポン!」

 

 河から自在に牌を釣り上げるフィッシャー。今日は普段よりも切れの良さを感じる。同卓している先輩、弘世菫も対応しきれていない。

 

 あっという間に誠子は二副露まで辿り着く。自然と、尭深の牌を掴む手に力が籠もった。しかし、有効配を引き込めない。二向聴から進まない。

 

 誠子以外のプレイヤーもまだ手の進みは遅い。気を付けるべきは、誠子一人。その彼女も、危険水域の三副露にはまだ辿り着いていない。

 

 逆転は、十分に可能。

 尭深がそう考えた瞬間、

 

「ツモ!」

 

 無慈悲な宣告が、下される。顔を上げると、にやりと笑う誠子がそこにいた。尭深は小さな息を吐き、手配を伏せた。

 

 

 ――場所を移して、雀荘近所のファミレス。

 

 同じ卓を囲んでいた一人離脱し、尭深は菫と誠子の二人と遅めの夕食と洒落込んでいた。混雑のピーク時はとうに過ぎ、客もまばらで店内は比較的静かだ。油断すると、三人の話し声が無駄に響いてしまいそうだった。

 

「亦野、今日は随分調子良かったじゃないか」

「そうですね。まぁ、気安い相手ばかりでしたから。伸び伸び打てました」

「その調子で来月のリーグ戦も頼むぞ」

「あんまりプレッシャーかかること言わないで下さいよ」

 

 対面で、菫と誠子が笑顔を零しながら言い合う。二人は高校から引き続き、同じ大学に籍を置く先輩後輩の仲だ。やはり麻雀部で、両者とも一部リーグのトップを走る聖白女にあってレギュラーを張っている。

 

「そうだ、尭深」

 

 パスタをフォークに巻き付けながら、菫が突然訊ねてきた。

 

「麻雀仮面のほうは、何か進展があったか恭子から聞いていないか」

「……いえ、特には」

 

 内心菫に謝りながら、尭深はしらを切った。

 四月頭に現れた麻雀仮面というおかしな通り名を持つ女は、この近隣の大学生雀士に勝負をふっかけては次々と負かしていったという。聖白女の部員もその毒牙にかかったと、菫から愚痴られた。それ以降、彼女は麻雀仮面の正体を探っているのだ。

 

 それだけなら、尭深も素直に応援しただろう。

 

 問題は、麻雀仮面の正体が尭深の通う東帝大学の学生、引いては麻雀部の新入部員ということにある。

 

 麻雀仮面が残した爪痕は大きい。この界隈に限っての話だが、どういう形であれ彼女に拘る雀士は多いはずだ。東帝大学の部員だと露見しようものなら、間違いなく周囲の大学と軋轢を生む。

 

 リーグ戦での居心地の悪さや練習試合が組みづらくなることは、想像に難くない。他にもどのような不利益を被るか分かったものではない。

 

「そうか。残念だな。今週は全く現れていないみたいだし、あの負けで大人しくなったか」

「かも知れませんね」

 

 菫や誠子のことは信頼している。黙っていてくれ、と言えば黙ってくれるだろう。が、尭深の今の所属は東帝大学麻雀部だ。長である恭子の指示に従わなければならない。

 

 尭深の芳しくない反応に、菫は話題を移した。

 

「新入部員はどうなった? 宥にも相談を受けたんだが。中々集まっていないんだろう?」

 

 しかし、こちらも答えづらい質問だった。件の麻雀仮面と直接関わっている。

 

 その点を伏せて話せれば良いのだが――その正体のネームバリューは、菫や尭深の世代にとって大きい。警戒して然るべき相手だ。

 

 できるなら、三部リーグ開幕まで伏せておきたい。実に複雑そうな表情で恭子が語ったのを、尭深はよく覚えている。

 

「……その点は、解決しました」

「ほう。ついに掴まえたのか」

「良かったじゃないか。どんな奴なんだ?」

 

 誠子に問われ、尭深は一拍の間を置き、

 

「秘密」

 

 と答えた。

 

「秘密兵器ということか?」

「さぁ、どうでしょうね」

 

 にべもない尭深の返答に、菫は苦笑し誠子はちぇ、と軽く舌打ちする。尭深は気にせず、ちまちまと熱いお茶をすする。

 

「それにしても」

 

 少しだけ、菫の視線が鋭くなるのを尭深は察知した。

 

「最近緩んでいるんじゃないのか、尭深」

「……そうでしょうか」

「この間から、私たちと卓を囲んだときの成績は明らかに悪いぞ。数字上の問題じゃない、内容もあまり良くない。今日も亦野に良いようにやられたしな」

 

 尭深は黙って、彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「東帝だって一部リーグを目指しているんだろう。今のままでは足を引っ張りかねないぞ」

「……はい」

 

 こっくりと頷く尭深の表情に陰を見たのか、菫は慌てて付け足す。

 

「いや、小言を言って済まない。もう先輩面する立場でもないのにな」

「いいえ、菫先輩はずっと私の先輩ですから。ありがとうございます」

 

 そう答えながらも――尭深は心の隅に、引っかかりを覚える。菫への反発心ではない。消化しきれない感情に、しかし彼女は蓋をして微笑んだ。

 

 

 ◇

 

 

 翌日のお昼休み、普段通り尭深は部室棟に向かっていた。月、木、金の昼食は部室で他の部員と弁当を突き合う。それが最近のトレンドだ。

 

 去年までは先輩の松実宥と二人きりだったが、今年の四月からは変化が起きた。一人目の新入部員、須賀京太郎が加わったのである。

 

 この麻雀不毛の地である東帝大学にあって、能動的に麻雀部に入って来た奇特な男子である。元々尭深も何度か会話した相手であり、彼の進学の際も多少ながら相談を受けた。正直なところ本当に入ってくるとは思っておらず、びっくりしたものだ。

 

「こんにちは、尭深ちゃん」

「あ……こんにちは、松実先輩」

 

 背後から声をかけてきたのは、宥。相も変わらずマフラーと厚着という、とても暑そうな格好だ。喧嘩をした妹と一昨日和解したためか、普段に輪をかけてにこやかだ。

 

「今日も寒いね」

「そろそろ暖かくなってきたかと……」

「え、そ、そう?」

 

 動揺する宥に代わり、ノブをひねる。扉は当然のように開いていた。今日もまた、京太郎が先に来ているのだろう。

 

 と思ったら、開かれた部室の光景はいつもと少し違っていた。

 京太郎がいるのは変わりない。「こんにちはー」、と彼はすぐさま挨拶してきた。ここまではいつもの通り。

 

 今日はもう一人、追加メンバーがいた。

 

「お、来た来た。どうも、先輩方」

「あ、怜ちゃん。こんにちは」

「……こんにちは」

 

 椅子にだらりと座って尭深たちを待っていたのは、もう一人の新入部員、園城寺怜だった。

 

 年齢の上では尭深の一つ上。ただし彼女は二浪しているため、学年の上では尭深の一つ下となる。このような立場の違いは昨年度までは経験しておらず、尭深はやや戸惑いを覚えていた。

 

「今日から私も食事会に混ぜてもらおう思て。かまへん?」

「もちろん!」

「はい」

 

 断る理由もない。

 いつものように、京太郎の前に宥、宥の左隣に尭深。そして京太郎の右隣、つまり尭深の前に怜が座る。

 

 どことなくマイペースな空気を持つ園城寺怜とは、これまでほとんど接点がなかった。ただ一度、三年前のインターハイの準決勝で対戦した間柄だ。それも先鋒と中堅で、直接顔も合わせていない。あの夏のことを考えれば、まさか彼女と同じチームメイトになろうとは思いも寄らなかった。

 

 自分のお弁当箱を取り出しながら、尭深ははたと気付いた。

 

「須賀くん、それ……」

「はい?」

 

 京太郎のお弁当箱はいつも通り。おかずの中身は豚肉の生姜焼きがメインだ。中々に美味しそうで、尭深の密かな対抗心が煽られる。男子の割には、という枕詞は時代錯誤であろうが、世間一般の男子大学生と比較して彼の調理技術は群を抜いていた。

 

 ここ一ヶ月弱の経験で、見た目から彼が作ったかどうかはすぐに分かる。今日の内容も、間違いなく彼のお手製だ。

 

 問題は、怜のほうである。

 京太郎のお弁当箱から一回り小さいそれに詰められた料理は、そっくりそのまま彼のメニューと同じであった。

 

「園城寺先輩」

「ん? どうしたん、渋谷さん。私先輩とちゃうで。後輩として扱ってええから」

 

 さらっと言う怜に、突っ込みを入れたのは京太郎だった。

 

「怜さん、その割に渋谷先輩たちに敬語じゃないんですね」

「あんまり固すぎると渋谷さんたちが困るやろ、きょーちゃん。大体それ言い出したらきょーちゃんもいつまで私に敬語使ってるん? 同学年やん。他の浪人生とは普通に喋っとるのに」

「今更変えられませんよ」

「いけずやなぁ。怜って呼んでくれてもええやん」

 

 園城寺怜はどちらかと言えば落ち着いていて冷めたタイプ、というのが尭深の印象であった。しかし京太郎が隣にいると、途端に柔らかい表情を浮かべるようになる。少々意外な姿だった。

 

「ま、少なくとも先輩は要らへんから」

「……分かりました、園城寺さん」

「で、何かあったん?」

 

 改めて訊ねられると、言葉に詰まる。ここまできて確認する必要もないだろうが、ひとまず尭深は訊いてみた。

 

「そのお弁当、須賀くんが作ったものですか?」

「ん、そやで。いつもきょーちゃんが作ってくれるんよ」

 

 どこか自慢気に、怜は胸を張った。尭深の隣で、ぴくりと宥が肩を揺らした――気がした。

 

「一人分作るより助かるんですよね。食材もまとめ買いできるし」

「せやろ、きょーちゃん。私の存在に感謝して欲しいわ」

「感謝して欲しいならたまには怜さんが作って下さいよ」

「私病弱やから……」

「もう病弱アピール通じませんよ」

「ほんまいけずやわ、きょーちゃん」

 

 文句を言いながらも、怜はとても楽しそうだ。ぴくぴくっと、宥の肩が二度揺れた――気がした。

 

 食事会に一人加わっただけで、部室の空気がかなり変容した。先日まではもう少し穏やかではなかっただろうか。いや、今も穏やかではある。目の前の光景は、とても微笑ましい。微笑ましくはあるが、どことなく漂うのは甘さである。

 

「こないだきょーちゃんの部屋掃除したの、私やん」

「うっ、や、あれはその、怜さんがどうしてもやるって言うから」

「二人は近くに住んでるの?」

 

 素朴な疑問を尭深が口にすると、怜は平然と答えた。

 

「あ、部屋隣同士やねん」

「いざってときのために、怜さんの親御さんに頼まれて」

 

 慌てて京太郎がフォローしてくる。しかし尭深は思ったことをそのまま言った。

 

「……半同棲?」

「せやで」

「違います! ちょっと怜さん勝手なこと言うの止めてもらえますっ?」

 

 大声で顔を赤くした京太郎が否定する。怜は楽しそうににやにや笑っていた。尭深の隣で、宥の肩がぴくぴくぴくっと、三度揺れた――気がした。

 

 いつものように、お弁当の内容を交換する流れに中々ならない。

 

「きょ、京太郎くん」

 

 と思っていたら、宥が動いた。

 彼女は自分で食べていたチキンライスを一掬いし、スプーンの影に左手を添えて、彼の口元に持っていく。

 

「今日は結構自信作なの」

「えっ、はいっ」

「食べてみて」

「わ、分かりました」

 

 動揺しながらも、京太郎は差し出されたスプーンに食らいつく。ごくりと彼の喉が揺れ、チキンライスが彼の食道に落ちていった。

 ぱっと、彼の顔が輝く。

 

「ほんとだ。美味しいです」

「良かったぁ」

 

 彼が食べ終えるまで表情を強張らせていた宥であったが、彼の賞賛を聞いた瞬間に相好を崩した。

 

 それから彼女はチキンライスをもう一度掬い、今度は自分で食べようとし、途端に動きを止めた。宥の視線に注がれる先にあるのは、自らのスプーン。やらかした、という彼女の表情は真っ赤に染まり、それを隠すように宥はマフラーを被り直した。

 

 一方の京太郎も、恥ずかしそうに顔を背けている。男子としては喜びそうなものだが、意外にシャイだ。

 

 反射的に、尭深は怜の様子を窺った。

 予想外にも、彼女は特段気にした様子はない。それどころか実に楽しげに笑みを噛み殺している。彼女の真意が、尭深には分からない。

 

 何だこの展開は、と眉一つ動かさず尭深は思った。

 いつの間にか部内の人間関係が色々動いている。園城寺怜の加入はもちろん、宥も何やら様子がいつもと違う。

 

 しかし、それらは現象の枝葉。

 

 大元の原因を辿れば京太郎にあるのだろう。確証はないが、尭深は理解した。高校時代から予兆はあった。尭深の後輩も、どういうわけか彼を慕っている。この妙な空気は、そこに通じるものがあった。

 

 ――自分はそうはならないようにしよう。

 

 密かに尭深は決意する。様々な意味で、面倒事に発展してしまう。それだけは避けねばならない。幸いというべきか、今のところそんな気配は芽生えていない。ならば大丈夫だろう、と彼女は安心する。

 

 宥のチキンライス以降、おかず交換は行われない。怜が「あーん」と京太郎に食べさせようとするが、彼は必死に拒絶した。その様を見て、怜はまた喜んでいた。

 

 そのまま昼休みが終わるかと思われた、そのとき。

 

「お、揃っとるな」

「すばらです!」

 

 部室の扉が開かれた。

 入って来たのは二人。部長である末原恭子と、尭深の同級生、花田煌だった。

 

「二人ともお昼休みに来るなんて珍しいですね」

「軽くミーティングしたかっただけや」

 

 京太郎が声をかけると、恭子はそっけなく返答する。今週に入ってから、この二人も様子がおかしい。いや、京太郎はいつも通り。変わったのは、恭子だ。警戒しているというか、若干距離をとろうとしているというか、怖がっているというか。あまり彼を近くまで近づけようとしない。近くにいると、慌てて距離をとろうとするのだ。少し京太郎が凹んでいるのが見て取れる。

 

「ご飯食べながらでええから、みんな聞いて」

「はーい、末原先輩」

「……園城寺は静かにしとき」

「はーい」

 

 恭子は怜を冷たくあしらい、怜はにこにこ恭子に笑いかける。この大阪人の関係も、尭深はいまいち掴み切れていない。

 

 こほん、と恭子は一つ咳払いする。

 

「園城寺が入ったけど、ゴールデンウィークはリーグ戦に向けて予定通り合宿をします。ただ、状況が一つ変わりました」

「私、だね」

 

 宥が苦笑し、恭子は頷く。

 

「宥ちゃんが妹さんとの約束通り、奈良に帰らなくてはなりません。大学の合宿所借りるつもりやったけど、そのままやったら宥ちゃんが合宿に参加できません。宥ちゃんがいない合宿は流石にNGです」

 

 そこで、と恭子は一度言葉を切る。目配せしたのは、宥と後ろに控える煌だった。

 

「昨日宥ちゃんと相談して、合宿場所を変更することとしました。煌ちゃん、お願い」

「はいっ」

 

 煌が全員に配ったのは、B5サイズのお手製の冊子だった。表紙には、「東帝大学麻雀部春季合宿のしおり! すばら!」と書かれている。

 

 ぺらり、と尭深が一ページ目をめくると、でかでかと旅館の写真が貼り付けられていた。ネットで拾ってきたのだろうか――その割には解像度が良い気がする。とにもかくにも、尭深の知らない旅館であった。

 

「ここ、どこなんですか?」

 

 同じ感想を抱いたのだろう、京太郎が訊ねる。苦笑いを浮かべたまま答えたのは、宥だった。

 

「私の家なの」

「えっ?」

 

 尭深、京太郎、怜の疑問の声が重なる。

 拳を振り上げ、恭子が高らかに宣言した。

 

 

「合宿は――奈良阿知賀、松実館で行います!」

 

 

 




次回:4-2 肩に預くは


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4-2 肩に預くは

 宥の実家が旅館を経営している話は、尭深も耳にしたことがあった。いつか松実館で合宿できたら良いね、といった冗談交じりの軽い雑談もした覚えがある。

 

「合宿は――奈良阿知賀、松実館で行います!」

 

 しかしまさかこのタイミングで持ち出されるとは思っておらず、堂々たる恭子の宣言に、尭深は一瞬呆気にとられてしまう。

 一瞬の間隙を突いて訊ねたのは、京太郎だった。

 

「宥先輩の実家って……本気ですか? この時期、部屋とか空いてるんですか?」

「も、もちろん本気や。え、ええっとな」

 

 京太郎の視線から逃れるように、恭子は顔を背けた。それまで滑らかだった口が、途端に詰まる。

 すかさずフォローに入ったのが、煌だった。

 

「残念ながら、須賀くんの言うとおりゴールデンウィークは一年前から予約満杯だそうです。そもそも身内割引を頂いても学生がおいそれと払える額ではないかと」

「ごめんねぇ」

「宥さんが謝るようなことちゃうと思うけど。それならどうするん?」

 

 怜の疑問はもっともだった。苦笑を浮かべたまま、宥が答える。

 

「みんなには私の部屋と居間に泊まって貰おうと思うの。もう許可はとったから大丈夫だよ。もちろん宿泊費は要らないから」

「ほんま宥ちゃんごめんな。急なお願いになって」

「ううん。元はと言えば私のせいだから。逆にみんなに負担を強いることになって、ごめんなさい」

「かまへんよー。ちょっとした旅行みたいで楽しそうやもん」

 

 既に怜は乗り気だ。ぱらぱらとしおりをめくりながら、気持ちは奈良に向かっている。

 

 はて、と尭深は首を傾げた。全員女子ならそれで問題ないだろうが、この部には男子が一人だけいる。彼を無視するわけにもいかないだろう。尭深はしおりを握る煌に訊ねてみた。

 

「須賀くんはどうするの?」

「従業員用の仮眠室を一つ開放してくださるそうで。須賀くん、我慢して貰えますか?」

「我慢なんてそんなこと。わざわざありがとうざいます、宥先輩」

「ううん。狭くてあまり使っていない場所だから申し訳ないくらいだよ。代わりと言っては何だけど、露天風呂はみんな使って貰えるから。是非堪能していってね」

 

 おおー、と怜が喜色を露わにする。有名旅館の露天風呂を味わえるのは、尭深にとっても魅力的だった。大学の合宿所は質素なもので、必要最低限の設備しか整っていない。寝床も窮屈で、人の家で雑魚寝するのもあまり変わらないだろう。条件としては悪くない、いやむしろ良いほうだ。

 

 煌が部員全員を見渡し、しおりを開く。

 

「みなさん、しおりにはちゃんと目を通しておいて下さいね。当初の予定通り、合宿開始は明明後日。東京駅を明後日の夜出発します。集合時刻は夜十時」

「交通手段は……高速バスですか」

「チケットは私が抑えておきました。行きは夜行、帰りは昼行便です。往復で一人8000円弱ですが、部費の補助が出るのでもっと安くなります。お金に困っているなら簡単なバイトを紹介するので、後で相談してください。食事はキッチンを借りて自分たちで作ります。卓は松実館にあるものを使用させて貰えるそうなので、麻雀道具の準備は不要ですね。近くにコンビニとスーパーがあるそうなので細々とした買い物は可能でしょう。ただし各自タブレットだけは忘れないようにしてください。牌譜とリーグ戦で当たる大学をチェックするので。Wi-Fiはただ乗りさせて貰えます」

 

 合宿の注意事項について、てきぱきと煌が説明していく。浮かんできた質問も、大概はしおりが回答してくれた。聞けば昨夜の内に恭子と煌の二人だけで作り上げたという。全く頭が下がる想いであった。

 

 少しだけ、尭深は俯く。胸の内に宿るのは、焦燥感にも似た感情だった。

 

「それでは皆さん、また今日の練習時間に!」

 

 お昼休憩は無情にも終わりに近づき、その場は解散となる。颯爽と煌は部室を去って行った。バイタリティ溢れる彼女は、あちこち飛び回っているというのに常に元気だ。

 一方、共に部室に入ってきた恭子は妙な様子だ。残った弁当をかきこむ京太郎をちらちらと見ては、髪の毛先を弄っている。ふと京太郎が顔を上げ、彼女の視線に気付く。

 

「末原先輩? どうしました?」

「なんでもあらへん!」

 

 彼が訊ねると、途端に恭子は部室を出て行った。ばたん、と力強く扉は閉められ、京太郎は複雑そうに顔を歪める。一方宥は小首を傾げ、怜は軽く肩を竦めていた。

 

 ――状況はまた随分と混迷しているようだ。

 

 尭深はそっと、誰にも気付かれないような溜息を吐いた。

 

 

 ◇

 

 

 ゴールデンウィーク初日、土曜日の夜。東京駅の人混みは一向に減る様子は見せず、人の熱気で溢れていた。重たい鞄を細腕で支えながら、尭深は他の部員と落ち合う約束をした八重洲口に向かっていた。

 

 出発前にお風呂に入ってきたため、若干体温が上昇している。移動している内に自然と汗ばんでしまった。改札をくぐり、尭深は一息つく。まだ集合時刻まで充分時間はあった。早く着きすぎた。どこか喫茶店にでも入ろうか、と思っていたら、

 

「こんばんは、渋谷先輩」

「あ……こんばんは、須賀くん」

 

 後輩の男子が声をかけてきた。高校のときからさらに伸びたという身長はいやに目立つ。

 

「早いですね」

「須賀くんこそ」

「朝買い物してたらちょっとトラブルに巻き込まれて。夜は絶対に遅れないよう早めに出てきました」

「ふぅん。園城寺さんは一緒じゃないの?」

「今日は宥先輩と遊んでから一緒に来るそうで」

「そうなんだ。……よいしょ」

 

 人の流れが少ない壁際まで移動しようと、尭深は重い鞄の取っ手を掴み直す。そこに、長い手が伸びてきた。途端に尭深の腕にかかる負荷が失われる。

 

「……須賀くん?」

「あ、すみません、重そうだったのでつい。余計な真似でしたか」

「ううん。手慣れてるなって」

「いやぁ、高校のときはよく荷物持ちしてましたからねー。癖みたいなもんです」

 

 そんな意味で言ったつもりはなかったが、尭深は深く突っ込まず彼に任せることとした。二人で壁に背中を向け並び、他の部員を待つ。

 

「合宿楽しみですね」

「そうだね」

「俺、阿知賀は一度行ったことあるんですよ、高校の練習試合で。山が綺麗なところなんですよね」

「そうなんだ」

「宥先輩の家は初めてだから、そこも楽しみですね。露天風呂とかも」

「そうだね」

 

 あまり口数の多くない尭深は、しかし悪気はない。喋るときはすぱっと言い切るタイプ、と友人の誠子に評されたこともあるが、普段は自他ともに認める物静かな性格だ。あれこれと話しかけてくれる京太郎にもう少し答えたいと思いつつ、上手く言葉を紡げなかった。されど京太郎は嫌な顔一つしない。

 

 結局彼のおかげで、他の部員が集まるまで間が持たないということはなかった。こういうコミュニケーション能力の高さもまた、彼の武器なのかと尭深は推察する。同時に、警戒レベルを引き上げた。

 

「――さて、みんな揃ったな」

 

 恭子が部員五名を見回して、しかと頷く。

 

「バスの中では他のお客様に迷惑をかけんように。消灯後は静かにな。東帝の学生として節度ある行動をとるように。――煌ちゃん、続きお願い」

「任されましたっ」

 何故かバスガイドの旗を持った煌が、恭子に代わって部員たちの前に立つ。

「ではまずバスチケットを配布しようと思うのですが――なにぶん急だったので、女性専用シートはとれませんでした。ですが幸い二列シートを三組とれたので、知らない人と隣り合わせということはありません。とりあえずはペアを決めて貰いたく」

「じゃあ私はきょーちゃんと」

「公平にくじびきや」

 

 怜の希望を恭子がばっさり切り捨てる。何かと京太郎にじゃれつこうとする怜と、それを一喝する恭子。この二人の構図も、あっと言う間に定着した。何だかんだと言って、険悪な空気にはなっていない。恭子は若干疲れ気味のようだが、怜は実に楽しげだ。これが大阪人の気質なのだろうか、と尭深が思索していると、

 

「はい、尭深の番ですよ」

 

 割り箸を握った煌の手が、目の前に差し出された。

 

「うん」

 

 促されるままに、尭深は一本割り箸を引く。割り箸の先端は、赤いインクで染められていた。周囲を見渡す。恭子と怜が青。煌と宥が緑。残る赤は当然、

 

「すみません、図体でかい奴が隣で」

「ううん」

 

 京太郎だった。気心の知れた煌がベストだったのは確かだが、知らない男性が隣に来るよりもずっと良い。

 

「ええなぁ、尭深さん」

 

 怜から羨ましがられ、尭深は「代わりましょうか」と申し出ようかとも思った。しかし怜の背後で恭子が睨みを利かせていたので、叶わなかった。

 

 やがて高速バスが到着し、麻雀部一同はバスに乗り込む。

 尭深たちの席は、後部座席寄り、進行方向に向かって右側だった。

 

「通路側と窓側、どっちにします?」

「それじゃあ、窓側で」

「はい、どうぞ」

 

 促され、先に尭深は席に着く。隣に京太郎が乗り込んできて、少しばかり彼女は身構えた。

 

 バスの中は狭く、思っていたよりも距離が近い。部室で一緒にお弁当を食べるときも、彼の前に座るのは宥と相場が決まっていた。怜が現れてからは、彼女が彼の隣を支配していた。彼と尭深が初めて知り合ったのは高校生のときだが、付き合い自体は浅い。ここまで傍に寄った経験はなかった。

 

 バスが走り出す。車中の空気はまだ明るい。細々とした声だが、あちこちで会話が飛び交っている。

 

「末原先輩と」

 

 何とはなしに、尭深は目の前の座席を真っ直ぐ見つめながら、京太郎に訊ねてみた。

 

「末原先輩と、何かあったの?」

「えっ」

「須賀くんと話すとき末原先輩の様子が、なんだかおかしいから」

 

 うーん、と京太郎は僅かに唸り、

 

「この間麻雀仮面と――怜さんと戦って、次に会った日から確かにあんな感じですけど。よく分からないんですよね、何だか急に変わっちゃって」

「変なことを話しちゃったとか?」

「世間話程度ですよ。俺が東帝に入った理由とか、そのくらい」

「それは関係ないね」

「ですよね」

 

 二人の間に沈黙が落ちる。周囲のささやかなはずの会話が、やけにうるさく聞こえた。

 尭深が黙っていると、今度は京太郎から話しかけてきた。

 

「渋谷先輩は、どうして東帝に?」

「農学部があって、学力に見合ってて、家から近かったから」

 

 さらりと尭深は答える。一年前、入学した当初に飽きるほど口にした台詞だ。嘘は一つもない。正直な彼女の志望動機である。

 

「麻雀は関係なかったんですね」

 

 これもまた、度々訊かれた経験がある。尭深は高校女子麻雀界でも最強と謳われる白糸台で、二年間レギュラーを張り続けた。全国的にも有名な選手である。

 

「大学では勉強に集中しようと思ってたから」

「それじゃあどうして麻雀部に?」

「最初は末原先輩に助っ人を頼まれて」

 

 目を細めて、尭深は当時を思い出す。――彼女の強い意志と、瞳に宿った光。押し切られる形で、尭深は頷いていた。

 

「そのままいつの間にか、正式な部員になっていたの」

「はは。流石末原先輩、と言うべきでしょうか」

 

 そうだね、と尭深は首肯する。

 同時に、バスは新宿駅に到着した。新たな乗客が乗り込み、バスは奈良に向けて出発する。間もなく消灯時間が訪れ、バスの中に静寂の帳が落ちた。尭深は眼鏡を外し、目を閉じる。

 

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 

 京太郎と交わした会話は、そこまでだった。

 暗闇の中、今一度昨年のことを思い返す。決して乗り気ではなかった。麻雀は好きだったが、仕事にするつもりも、できるつもりもなかった。インカレを目指すような部活動に身を置く予定はなかったというのに、結局居着いてしまった。

 

 一度上昇した体温が下がってくると、途端に眠気が襲ってきた。思考は止まり、うつらうつらとしてしまう。揺れるバスの中、座ったままでは寝心地も何もなく、一度目が冴えてしまえばおそらく眠れなくなるだろう。このまま尭深は抗わずに睡魔に身を委ねる。

 

 

 ◇

 

 

 柔らかくも固い感触を頭頂部に感じながら、尭深はゆっくりと目を開けた。低い視力と寝起きでまとまらない頭のせいで、すぐには自分がどこにいるのか分からなかった。がたん、と体を座席ごと揺らされて、ようやくバスに乗っていたことを思い出す。

 

 それでも尭深はしばらくその体勢のままでいた。頭を何かに預けて、右手は何かを握りしめ、ぼうっとしていた。

 

 周囲から聞こえてくるのは、寝息ばかり。閉められたカーテンの隙間からは、薄い日光が漏れ出ている。

 

 光が目に入り込み、ゆっくりと意識が覚醒し始める。

 ふと、彼女は気付く。

 

 頭を預けた先は、隣で眠る京太郎の肩だった。握っていたのは、彼の指先。

 

「――ッ?」

 

 心臓が飛び跳ねて、尭深は彼から離れる。びっくりするどころではなかった。自慢ではないが、男の子の手に触れたのは初めてだ。動揺するなというほうが無理だ。

 胸元を押さえて尭深は落ち着きを取り戻そうとする。そうしている内に、

 

「……おはようございます」

 

 京太郎が、目を覚ました。

 

「おはよう」

 

 できる限り平然と、尭深は目の前の座席に目線を集中させて挨拶に応じた。

 

「よく眠れた?」

「こういうの、慣れてるんで大丈夫です。渋谷先輩はどうですか」

「問題ないよ」

 

 大ありであったが、そういうことにしておく。

 

 

 ――長い旅程を終え、一同はバスを降りる。電車に乗り換え、ようやく辿り着いたのは阿知賀の町。

 東京と違って、建物の背が低く空が広い。朝から降り注ぐ陽光が気持ちよく、尭深の足は自然と軽やかになった。

 

「こっちだよー」

 

 先導するのは、当然宥。その後ろに恭子と煌。さらに京太郎が続き、彼の隣にはぴったりと怜が寄り添う。尭深は最後尾だった。京太郎たちが入ってくる前から、ここが彼女の定位置である。

 

「おおー」

「でかっ」

 

 写真で見る以上に、松実館は大きかった。尭深も思わず感嘆の声を漏らす。門構えは立派であり、年月を感じさせる。

 

「入るのは裏口からだけどね」

 

 宥の案内で、松実館――否、松実家の居間に集合する。その前に、部員全員で宥の家族に挨拶して回っておいた。

 しかし、見当たらない人間が一人。とても重要な人物だ。

 

「玄さんはどうしたんですか?」

 

 京太郎が訊ねる。元々、東帝大学麻雀部が阿知賀を訪れるきっかけを作ったのは宥の妹、松実玄である。彼女の要求により、宥は阿知賀に帰ってきたのだ。だというのに呼び戻した本人が姿を見せないとは、どういうことか。

 

 悲しげに肩を落としながら、宥は答えた。

 

「玄ちゃんは玄ちゃんで麻雀部の合宿があるの忘れてたって……」

「あー、竜華や泉がそんなこと言うてたなぁ」

「ごめんね。だけど、少しくらいならこっちで合流できるみたいだから」

「何はともあれ宥先輩が久しぶりにご家族に会えたのならすばらです!」

「ありがとう煌ちゃん、おとーさんには怒られ気味だったので反省してます……」

 

 沈む宥の肩を叩き、恭子は部員たちの顔を見回して告げた。

 

「さて。旅の疲れもあるやろうから、予定通りお昼までひとまず休憩や。ご飯食べてから練習開始。用もなしに旅館のほうには行かへんこと、松実家の皆さんとお客さんに迷惑をかけへんこと。ちゃんと守ってな」

「あ、でも露天風呂は使えるから」

「ん。それでは解散!」

 

 と宣言されながらも、全員一斉にお風呂へ向かっていた。バスの中は蒸し暑くて汗をかき、すぐにでも体を清めたい気分だった。

 

 ――固くなった体を湯船で解し、尭深は青空を見上げる。吐息が生まれ出でた。朝のピーク時間を超えたのか、さほど他に客はいない。広々とした風呂場を思う存分使えた。

 

「きょーちゃんだけ仲間外れみたいで可哀想やなあ」

 

 ぼやきながら隣にやってきたのは、怜だった。染み一つない肌は、どことなくお嬢様という単語を思い浮かばせる。ごく自然に、彼女は尭深の隣に腰を下ろした。ちゃぷん、と音を立て水面が揺れる。

 

 結わえた髪をいじりつつ、怜はさらにぼやく。

 

「髪伸ばすとこういうとき面倒やな。手入れも手間かかる一方やし」

「……なら、どうして伸ばしてるんですか?」

「きょーちゃん、髪長いほうが好みやもん」

 

 怜は平然と答え、尭深は言葉を詰まらせる。こんなにもストレートな物言いをされるとは、思いも寄らなかった。何も言えないでいると、怜はさらに付け加える。

 

「後、おっぱい好きや。せやから部内やと宥さんと尭深さんは強敵やな」

「強敵と言われても……」

 

 敵になるつもりはさらさらない。そう釘を刺そうとして――できなかった。こちらを見つめる怜の視線が、鋭いものに変化していた。

 

「冗談はともかく」

 

 彼女はうっすらと微笑み、

 

「この合宿で、強敵の尭深さんと一杯打てるんは楽しみやな」

 

 と、言った。

 

「……期待に添えるかは分かりませんが、精一杯頑張ります」

「高校のときの成績を考えれば、私のほうが挑戦者や。白糸台が誇った超高火力プレイヤーの名は伊達やないやろ」

 

 持ち上げられても、尭深は嬉しくともなんともなかった。そんなものは全て過去の栄光だ。今の実力とは関係がない。そう、今の実力とは。

 

「昼からよろしくなー」

 

 一方的に言い残し、怜は宥たちの傍へと移動してゆく。恭子にからかいじゃれつく怜の姿に、尭深は不安しか生まれてこない。怜が思うような対局を演じられるかどうか、自信がなかった。

 人一倍、尭深は露天風呂に居座る。思い浮かぶのは、ここのところの対局の成績ばかり。誠子に連敗を重ねている現状。

 

 

 

 昼を過ぎ、あらかじめ用意しておいたお弁当を食べ終えて。

 日が暮れるまで、尭深たちは卓を囲んだ。何度も何度も、牌をつもりは切って捨て、鎬を削り合った。

 

 ――しかし、けれども。

 

 尭深は怜の後塵を拝し続けた。

 その日終ぞ、彼女に勝つことはできなかった。

 

 

 




次回:4-3 夕焼けの君


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4-3 夕焼けの君

 園城寺怜は一巡先を見ている。三年前のインターハイで、まことしやかに噂された話だ。異常なまでのリーチ一発、鳴きでツモをズラされても本来ツモるはずだった牌が当たり牌。無名の選手であった園城寺怜が名門校のエースに据えられた所以。

 

 当時尭深は、白糸台に所属する選手として、園城寺怜擁する千里山女子と対戦した。中堅を務めていた尭深が共に卓につくことはなかったが、白糸台のエースであった宮永照が直接対戦している。その際、宮永照は「鏡」を用いて怜の本質を見抜いたはずである。

 

 元チームメイトでありながら、「はず」という類推になったのはその試合の後怜が倒れてしまったためだ。何となく怜の名前を口にするのははばかられ、また彼女がその後公式大会に姿を現さなくなったため、照が見抜いたものを聞く機会はなかった。

 

 故に、後輩として大学に入学してきた怜自身から、尭深はことの真相を聞くこととなった。

 

「一巡先が見れるって、本当なんですか?」

「うん、そやで」

 

 随分あっけらかんと、彼女は答えてくれた。本当なのか、と尭深は改めて疑問を呈する。

 

 だが、しかし。

 この奈良阿知賀合宿――園城寺怜と対局を重ねる度に、尭深は体感する。

 

「リーチ」

 

 リー棒が、怜の手により卓に突き立てられる。これでもう何度目かも分からない。場に緊張が走る。

 

 鳴かなければいけない。

 しかし尭深の手では、止められない。そっと、下家に座る宥の河と表情を窺う。――これだ、と打牌する。

 

「チー!」

 

 それに、宥が応えてくれる。よし、と顔色一つ変えずに尭深は一安心する。合宿中、怜のリーチ一発率はここまでで100%である。しかし今回はズラすことができた。これでひとまずの脅威は退けられたはず、と考えた矢先、

 

「ツモ」

 

 怜が、手牌を倒した。全員がはっと、息を呑む。ズラしても、上がられた。

 

 たった一度の出来事。

 それでも尭深は察した。高校時代とは、一線を画している。ブランク持ちだのなんだのぼやいていたが、謙遜も良いところだ。二年以上にも渡る療養生活においても、決して麻雀から離れていなかったことが覗える。

 

 むしろ、結びつきはより強固に。

 まざまざと、差を意識させられる。

 

 しかし迎えたオーラス、尭深には逆転の一手が訪れる。収穫の時――彼女だけに許された、圧倒的な火力。ここまでの局で捨てた第一打が、配牌となって戻ってくる。

 

 今回のスロットは十一。速度も充分。やってやれないことはない。

 ――はずだった。

 

「ツモ」

「……ッ」

 

 たった三巡で、怜がダマテンツモ。速すぎる。勝利を手にしても、怜に驕りの色は見られない。すぐさま次の対局に向けて切り替えていた。

 

 対して尭深は、これで二連続の四着。短期的に見れば、このような結果は珍しくともなんともない。だがそれでも、胸の内に広がる気持ちを彼女は止められない。

 

 煌がいつもの笑顔を浮かべながら対面に座る。抜けていったのは、怜。この辺りで連敗を止めたい、と尭深は盤面に集中する。

 

 なのに、牌は応えてくれない。いや――この一年で勝手知ったる仲となった相手である。尭深の戦術戦略は全て理解されている。それだけではなく、彼女もまた高校時代と比べて飛躍的に雀力が上昇していた。思うように、種を蒔かせてくれない。

 

 オーラスも煌に蹴られ、三着。卓の下で、尭深は握り拳を作る。

 

「それじゃ、次は尭深ちゃんが抜けて――」

「やります」

「え」

「もう一回だけ、やらせてください」

「……分かったわ」

 

 ローテーションを拒否し、彼女は卓に残った。大きく深呼吸する。尭深は、自分の横顔を見つめる恭子の視線にも気付かなかった。

 

「よろしくお願いします」

 

 新たに卓に入って来たのは、京太郎。

 インターハイ出場者とは言え、後輩である。ここで簡単に負けているようでは、先輩としての面目が立たない。対面には変わらず煌、下家には恭子。いずれも油断できない相手ではあるが、彼女たちにもそろそろ一矢報いなければならないだろう。

 

 それらが気負いだと尭深が気付くのは、対局が終わってからだった。

 決して、彼らは尭深だけを潰そうと協調しているわけではない。自分の力が、足りていないのだ。要所を押さえようとする彼らを、はね除けられない。

 

 序盤に差をつけられ、

 

「ポン!」

 

 種を蒔こうと安易に字牌を切れば逃げ切りの特急券を与えてしまう。京太郎と卓を囲むようになって、まだ一月。人数が少ない部故に対局する機会が多いと言っても、研究され対応されるまで早すぎる。さらにその精度は上がる一方。まるでこれは――

 

 ――末原先輩、みたい。

 

 そう言えば、と尭深は思い出す。同じような感想を抱いたと、宥が述懐していた。

 怜や自分のように、目立つ能力があるわけでもない。相手を見極め、対策を立て技巧で対抗する。口で言うのは簡単だが、実行するのは容易ではない。

 

 彼を、心のどこかで侮っていた。昨今男子のレベルは女子よりも低くなっていると言われているが、個人個人はその限りではない。強いプレイヤーは、結局どういう条件であれ強いのだ。

 

「ツモや」

「あー、やられちゃいましたね」

「もう一歩だったのに」

「ま、こんなもんやな」

 

 オーラスのスロットもぼろぼろで、良いところ一つなく尭深はラスを引く。避けられたはずの振り込みも、数多くあった。反省と後悔しか残っていない。

 

 ここで、合宿は一区切りつく。

 そろそろ夕食の時間であった。

 

「さて、まずは食材の買い出しやけど――」

 

 恭子の指は、尭深に向けられる。

 

「尭深ちゃん、行ってくれる?」

「私ですか」

「そ。一応、罰ゲームや」

「……分かりました」

 

 何の罰ゲームかまでは、はっきり言わないものの。こういうところは、恭子も容赦がない。昔は後輩のおでこに落書きしていたというのだから、これでも軽いほうと思うべきか。

 

「場所、分かる?」

「はい」

 

 宥から地図を受け取る。その傍ら、恭子がそっと耳打ちしてきた。

 

「外の空気、吸ってき」

「……はい」

 

 頷く他、ない。

 部屋を出て行こうとすると、

 

「須賀くんは荷物持ちですね! 女の子一人で行かせちゃだめですよ!」

「あ、はいっ」

 

 煌が京太郎の背中を押してきた。断る理由も見つからず、尭深は彼と肩を並べて、松実家を出発する。

 

 元々口数が少ない尭深である。

 連敗に連敗を重ねた現状、愛想良く振る舞える自信は彼女になかった。先輩として恥ずかしい、と思いながらも黙ったまま歩く。自然と同居した町並みは東京とまるで違い、同じ日本とは思えない。川のせせらぎの穏やかさとは裏腹に、尭深の胸中は強く波打っていた。

 

 それでも京太郎は、気にする素振り一つ見せずに朗らかに話しかけてきてくれる。

 

「晩ご飯のメニュー、どうします? 今日は昼食会のメンバー全員で作れますからね、凝ったものもいけますよ」

「あまり時間をかけると練習時間が短くなるから」

「そ、そうですね」

 

 なのに、尭深は素っ気ない返事をしてしまう。それに、合宿が求めているのは練習効率だけではない。生活を共にして、結束力を高める目的もある。目指すインカレは団体戦、足並みを揃えられないチームから落ちていく。

 

 小さな溜息を吐き、

 

「……ごめんね」

「どうして渋谷先輩が謝るんですか」

「今のは、八つ当たりだから」

 

 足を止め、尭深は山間に沈もうとする夕陽を眺める。澄んだ空気を通る残光は美しく、心を奪われそうになった。

 

「愚痴なら聞きますよ」

 

 京太郎は尭深の数歩後ろで立ち止まり、そう言った。僅かな間、尭深は躊躇った。後輩にそのような役目を押し付けても良いのか。情けない。情けないが、今更でもある。既に彼を侮って、痛い目を見た後。

 

「……伸び悩んでいる気がするの」

 

 ぽつりと、尭深は呟くように言った。

 

「高校のときは、誠子ちゃん……同じチームの同級生とそう変わらない実力だと思ってたんだけど、最近負け続けていて。でもそれは、誠子ちゃんが強くなったからだと思う」

 

 尭深は自分の掌を見つめながら、続ける。

 

「部内でも、同じ。一年前は煌ちゃんに負けてなかったはずなのに、ここのところどんどん勝てなくなってきたの。末原先輩や松実先輩も同じ。周りは強くなって、私のことは理解されて、でも私は対応できていない」

 

 一度に、こんなにも長く喋るのは久しぶりだった。お茶が欲しい、と彼女は思った。そう言えばさっきの対局も途中から、お茶をいれるのも忘れていた。集中していたと言えば聞こえは良いが、そんな上等なものではない。焦燥ばかりが募っていた。

 

「どうしてこんなにも差がついたのか、分からなかったけど……園城寺さんを見て――園城寺さんと打って、分かったかも知れない」

 

 最初は、環境のせいだと言い訳しようとした。誠子のいる聖白女は関東一部リーグの大学で、頂点を究めんと日々鎬を削っている。学内だけでもレギュラー争いは熾烈を極め、高校で言えば白糸台のようなものだろう。

 

 片や自分は三部リーグの弱小麻雀部。昨年度まではもっと下のリーグでしか戦っていなかった。それこそ収穫の時を使わずとも倒せる相手ばかり――侮るつもりはないが、事実そうであった。強者と戦うことこそが、上達への道。それは間違いない。

 

 けれども、同じ部の恭子も宥も煌も違う。ちゃんと強くなっている。実戦から離れていたはずの怜も、実力に磨きをかけていた。

 

 彼女たちと、自分の何が違うのか。

 考えてみれば、答えはすぐに出た。

 

「私とは、みんな心構えが違う」

「心構え……ですか」

「うん。昨日話したよね、私が入部した理由。ただの助っ人で入って、そのまま居着いただけだって」

 

 そんな自分と、他のみんなは違う。

 

 恭子は、麻雀を通した先にある夢のために。

 宥は、強くなろうとする確固たる意思のもとに。

 煌は、何度挫けても立ち上がる不撓不屈の精神をもって。

 怜は、遙か高みにある目標に恐れず立ち向かわんとして。

 

 いずれも、自分が持ち得ないもの。持とうとも思わなかったもの。

 

「――みんな、自分で決めたことを元に頑張ってる。そんな人たちと自分を比べるのも、おこがましいのかも知れないね」

 

 溜息だけは、吐かないように口を閉じる。

 尭深は一拍の間を置いて、背中を京太郎に向けたまま訊ねた。

 

「きっと、須賀くんもそんな動機があったんだろうね」

「えっ」

「だから麻雀を始めてたった二年でインターハイにも出場できたのかな」

 

 しばらく京太郎から返答はなかった。「あー」だとか、「うー」だとか、妙な唸り声ばかりが聞こえてくる。首だけ振り返ってみると、彼は頬を掻いて明後日の方向を向いていた。

 

「どうしたの?」

「いや……確かに強くなりたいって、咲たちに――高校のときの仲間に負けたくないって思って練習するようになったのは確かです。でも、そもそもなんで強くなりたかったのかって動機は、深く考えて来なかったと思います」

 

 一度京太郎は言葉を切り、やや間を空けてから、言った。

 

「で、今考えてみたら、そんな上等な話じゃないって言うか、目を逸らしていたっていうか」

「……どういう意味?」

「あー、そうですねー」

 

 苦笑を浮かべながら、彼は言葉を探しているようだった。辛抱強く尭深が待っていると、ようやく京太郎は答えてくれた。

 

「ほら、俺、高校のときも女子ばっかの麻雀部だったんですよ。今と同じで」

「ああ……そう言えばそんなことも言ってたね」

「で、元々入部した動機なんて、和に憧れたってくらいです。不純で、それこそ渋谷先輩の入部理由とは比べものにならないですよ」

 

 飾らない言葉は、嘘を吐いていないことを示していた。尭深はしっかりと、彼の話に耳を傾ける。

 

「でもですね、やっぱり負け続ける男って格好悪いと思うんですよ。部内でも部外でも。あいつらそういうの気にしないタイプですけど、俺個人としては納得いかなかったんだと思います、今から考えると。つまり格好つけたかったんです、女の子に」

 

 男の子の心理は、尭深には分からない。そういうものだと言われれば飲み込むしかないだろうが、理解はできなかった。

 

 ――けれども。

 

「要するに」

 

 京太郎が、尭深の前に出る。今度は彼が、尭深に背中を見せた。

 

 

「あいつらのことが――清澄が好きだったんですよ。きっとそれが、始めの一歩だったんです」

 

 

 そのシンプルな理由は、尭深の胸にすとんと落ちた。

 

「どうでも良い奴ら相手なら、俺だって格好つけたいとは思いませんから」

「……そっか。うん」

 

 尭深は何度も頷き、それから言った。

 

「羨ましいな。そんな風に言える相手がいて」

「えぇー?」

 

 京太郎から返ってきたのは、戸惑いの声。びくりと尭深の肩が震える。京太郎が体ごと振り返り、目線を真っ直ぐ合わせてきた。

 

「ど、どうしたの」

「どうしたって、何言ってるんですか」

 

 彼は、尭深の言うことがちっとも分からない、という様子で訊ねてくる。

 

「渋谷先輩は、この麻雀部が好きでしょう?」

「え?」

「だって、いつもみんなの後ろにいて、見守ってくれてるっていうか。振り返ったら、いつも渋谷先輩が微笑んでくれてるじゃないですか」

「……あ」

「だから――好きなんでしょう?」

 

 いつもの、自分の定位置。恭子を先頭に歩いて行くみんなを、尭深は最後尾でずっと見つめていた。

 そのときの表情なんて、知らなかった。自覚していなかった。

 

 ――きっかけは、助っ人を頼まれただけ。流されて、そのまま残っただけ。自らの意思など、どこにもなかった。

 

 でも、今は違う。残った後、残り続けることを選んだのは、自分だった。

 

 我ながら間が抜けている、と尭深は自嘲する。――好きだなんて単純な感情に、人に指摘されるまで気付かないなんて。

 

 大層な夢も目標も要らない。

 

「ただ好きだってだけで……良かったんだね」

 

 ちゃんと、頑張る理由が自分にもあった。のめり込む理由が、ここにあった。眼鏡を外し、目元を拭う。

 始まりとなる一歩を、踏み出せる気がした。

 

「ありがとう、須賀くん」

「はいっ」

 

 沈む夕陽に照らされて、彼の笑顔はとても美しく輝いていた。

 

 

 ◇

 

 

 夜のメニューは、中華でまとめた。食材を買ってきたその足で、尭深はキッチンに向かった。京太郎もまた手伝ってくれて、調理は実にスムーズに進んだ。彼と一緒に作業するのは、楽しかった。時に冗談を交え、笑い合いながら作り上げた料理は、部員たちと松実家全員に好評だった。

 

 夜の練習も充実したものになり、尭深は遅くまで京太郎とリーグ戦で当たる大学の研究を進めた。大学に入ってからここまで麻雀に打ち込んだのは、初めてだったかも知れない――尭深はそう思う。

 

 恭子に促される形で一度眠り、目覚めたのは早朝。

 

 枕が変わって寝付けないということはなかった。むしろぐっすり熟睡したおかげで、寝覚めは良かった。ほどよい疲労感に加え、朝が来るのが待ち遠しかった。すぐにでも打ちたかった。

 

 宥の作った朝食を摂り、松実館の麻雀室に集まる。

 

「それじゃ、合宿二日目――いや、三日目か。開始です!」

 

 軽いミーティングを終え、恭子の宣言と同時、尭深は卓に着こうとした。試したいことは、いくつもある。

 

「おじゃましまーす!」

「おねーちゃん! ただいまなのです!」

 

 その足を、止める二つの声があった。

 同時に扉を開く音が、室内を切り裂く。

 

 東帝大学麻雀部一同が、一斉に入口へと振り返った。

 

 そこに居たのは、いずれも長い黒髪とふくよかな体つきをした、二人の女性。一方は怜悧な印象を与える目元、もう一方はどちらかと言えば穏やかな空気を纏っている。

 けれども二人は共通して、とても明るい笑顔を浮かべていた。

 

「玄ちゃんっ」

 

 宥が、妹の名を呼ぶ。そう、一人は尭深も先日会ったばかりの松実玄だ。

 そしてもう一人は――怜に向かって、駆け寄ってくる。

 

「ときーっ」

「なんや、竜華か」

「ひどっ。折角会いに来たのに!」

 

 清水谷竜華。かつての怜の、戦友。怜にあしらわれながらも、実に嬉しそうだ。怜もまた、何だかんだと言いながら彼女の傍を離れない。

 

 

 並び立つのは、二人の竜。

 

 関西一部リーグ最強の西阪大学麻雀部が誇る、新時代のダブルエース――双竜が、東帝大学麻雀部に襲いかかる。

 

 

 




次回:4-4 ミッドナイトティーパーティー


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4-4 ミッドナイトティーパーティー

 東帝大学麻雀部、奈良阿知賀春季合宿。配られたしおりのタイムスケジュールには、練習試合の文字は書かれていなかった。関西の大学とは元々繋がりが薄く、また一度凋落した東帝では新たに関係を築くのも難しい。大阪出身の恭子は個々のパイプを持つであろうが、あくまで学生レベルの話だ。顧問の許可もなしには正式な練習試合は組めない。

 

 リーグ戦も近い現状では、実戦を重ねておきたいというのが本音である。

 故に、清水谷竜華と松実玄の二人がこの合宿を訪れたのは、麻雀部一同にとって僥倖だった。理由はさておき、鴨が葱を背負って現れたとようにしか見えない。

 

「清水谷さん、久しぶりやなあ」

「ああ、末原さん。お久しぶり」

 

 部長の恭子が、朗らかな笑顔と共に竜華へと声をかける。竜華もまた、怜と再会できたことで機嫌が良いのか、表情は緩みきっている。

 

 大阪南部の姫松。

 大阪北部の千里山。

 

 どちらも関西を代表とする高校女子麻雀界の強豪校――そして恭子と竜華のそれぞれの母校であり、当然地理的にも近い関係にある。竜華は部長、恭子も主将ではなかったが参謀役として部を率いる立場にあった。自然と話す機会は多く、最も身近なライバルとして、同時に同じ雀士として彼女たちは良好な友人関係であった。

 

 ――という話を、尭深も聞いたことがある。

 

「怜が迷惑かけてへん?」

「いえいえ。……うん、かけとるわ」

「あ、やっぱり?」

「ほんま困っとるわ」

 

 二人が直接顔を合わせている場面は意外にも初めて見るが、どうやら真実であったようだ。恭子は冗談半分、本気半分と言ったところであろうが、ともかく笑い合う姿に嘘偽りはないだろう。

 

「今日はまたどうしてこっちに?」

「うちの合宿、昨日で終わりやったから。玄ちゃんが実家帰る言うから、怜に会えると思うてついてきたんや」

「そうなんや」

 

 尭深は見た。恭子の瞳が、「逃がさない」と言わんばかりに光るのを。

 

「ごめんねおねーちゃん、帰って来いって言っておきながら……」

「ううん、大丈夫だよ。良い機会になったから」

「おねーちゃん……!」

 

 松実姉妹のほうを見れば、こちらは妹が姉にじゃれついていた。すぐには帰らない、という強い意志が垣間見える。

 

「合宿中やのにお邪魔して悪いなぁ」

「いやいや。折角やし、清水谷さんたちも打ってかへん? 丁度八人になって二卓立てられるしな」

「ええん?」

「お互い練習になるやろ。すぐには公式試合で戦うわけでもないやろうし。損はさせへんわ。玄ちゃんもどうや?」

「やりますっ! 是非とも!」

 

 あっという間に恭子が交渉を終え、竜華たちを卓に加えることに成功する。

 

「久しぶりに竜華と打ちたいな」

「ええでー、怜。うちももう一回怜と打てるん楽しみにしてたんやから」

「あ、私も園城寺さんと打ちたいですっ」

 

 割って入って来たのは、玄だった。

 

「この間はコンビ打ちだったし、今度は戦ってみたいのです!」

 

 園城寺怜。

 清水谷竜華。

 松実玄。

 

 揃った三人は、現在の大学麻雀界でも指折りの打ち手たちだろう。それこそ関東一部リーグ、その上位チームの卓と何ら遜色ない。

 

 二の足を踏むのが、普通なのかも知れない。少なくとも一種のスランプに陥っていた昨日までの自分なら、そうしていた――尭深はそう思う。

 だが、彼女は真っ先に前に出た。

 

「よろしくお願いします」

 

 怜や玄と因縁深い煌よりも早く、四人目に尭深は手を上げた。椅子を引く前に一度だけ、京太郎へ向かって振り返る。彼が頷き、尭深も頷き返した。

 

 場決めの結果、上家に玄、下家に竜華、そして対面に怜となる。

 出親となった怜がサイコロを回しながら、

 

「今日は調子ええんかな、尭深さん」

「はい」

 

 彼女の問いかけに、迷いなく尭深は答える。

 

「期待に添えられるよう――いいえ、期待を超えて見せます」

「……うん、よろしゅう」

「気合入っとるなー」

「楽しみなのですっ」

 

 一巡先を見る者、園城寺怜。

 彼女の能力は、速度と防御を両立させる。加えてリーチ一発による瞬間的な火力も決して低くない。一方でその能力は使う度に体力を消耗するらしく、高校当時は乱発が難しかったという。しかし今の彼女は体力の問題を改善している。弱点の少ない、オールマイティな力と言えよう。

 

 早い巡目での、怜のテンパイ気配を尭深は感じ取る。リーチはまだかけていないが、いつ仕掛けてきてもおかしくない。オーラスまでの局数が増えれば増えるほど有利になる尭深の能力ではあるが、いきなり怜に連荘させて調子に乗せるのも嫌な流れだ。

 

「リーチ」

 

 だが、先手を打ったのは竜華だった。

 

「ツモ!」

「ん」

 

 怜の親を蹴っ飛ばしながら、満貫ツモ。たった一局、しかしこの一局で尭深は肌で感じた。――彼女がこの場で、一番強い。

 

 高校では千里山の大将として怪物たちと戦い、大学でも一年生からレギュラーとして第一線に在り続ける。どんな些細な変化も見逃さない正真正銘の、関西の英雄。

 

「そう簡単にはやらせへんでー、怜」

「始まったばっかりやん」

 

 尭深の体が震える。恐れではない。武者震いだ。

 

 彼女たちばかりではない。

 一切姿を現さないドラ。考える必要もなく、全てのドラは彼女――松実玄の元に集まる。先日の東帝大学での対局でも、その力に翳りはなかった。

 

 いや、今やそれどころではないだろう。

 松実玄には、ドラを切れないという決して低くないリスクを抱えていた。少なくとも、高校のときまでは。

 

 それを、全てではないにしろ玄は解消していた。尭深と同学年の彼女は、確かに成長していた。――手本にすべきは、玄。彼女のような大胆な変化が必要なのだ。

 

「ロン! 12000!」

「……はい」

 

 尭深は彼女に振り込んでしまう。だが、動揺はない。今はあらゆることを試す段階。挑戦する立場。王者白糸台の選手であったことなど忘れ、尭深は戦う。

 

 怜の速度に負けないように。竜華に己の細やかな変化を見抜かれないように。玄の火力に気を払いながら。

 

「ツモ」

 

 尭深は、連荘を狙う。

 まずはスロットを一つでも多く稼ぐ。早々に収穫の時を意識させる。

 

「ロン」

 

 さらに、もう一回。食いタンのみだが、玄から上がり返す。――プレッシャーを与え続ける。そうすることで、相手の選択を狭めるのだ。

 

 気を付けるべきは、オーラス。できる限り連荘はせず、早々にゲームを終わらせよう。

 

 そんな彼女たちの考えが、伝わってくるようだった。

 

 ――そこを、突け。

 

 やれるかどうかなんて、分からない。けれどもやれなければ、いつまで経っても足踏みしたままだ。

 

 誠子にこれ以上負け続けるのは嫌だ。

 恭子たちに置いて行かれるのも嫌だ。

 自分の気持ちを教えてくれた京太郎に、応えたい。

 

 あらゆる想いが、尭深を支えていた。熱いお茶をすすり、尭深は集中力を高める。

 

 南三局、尭深の親番。

 今こそ仕掛けるべき時だった。

 

「ポン」

 

 鳴いたのは、竜華。ここは確実に尭深の親を蹴り、自分の親番でのオーラスでできる限りの安全を確保しようとしているのだろう。

 

「チー!」

 

 速攻は止まらない。しかし、尭深に焦りはなかった。

 

「ポン」

 

 今度鳴いたのは、尭深。西を卓に晒す。さらに、

 

「ポン――」

 

 次は、東を鳴く。ざわりと場に緊張が走る。異常事態に、全員が気付く。

 

 だが、もう遅い。

 尭深は最後の牌を、掴み取る。

 

「――ツモ」

 

 ツモ牌は、南。雀頭ができあがり、倒した牌の中には北の刻子。

 

「小四喜っ」

「まだオーラスじゃないですよねっ」

「すばらです! 超すばらー!」

 

 大逆転劇。思わず観戦していた恭子たちから歓声が上がる。

 

「これって……」

「たまたま、ちゃうな」

 

 してやられた側のはずの怜が、どこか嬉しそうに言う。

 

「ちゃんと、これまでの第一打が配牌に戻ってきとる」

「いいえ。全部は無理でした」

 

 オーラスのときにのみ発動していた収穫の時。それを、その手前の局で持ってきた。初めての試み、できるかどうかも分からなかったが、挑戦しなければ何事も成せない。早すぎる収穫では蒔いた種全てを実らせることは叶わなかったが、相手の虚をつくのには充分だった。

 

「凄いです、どうやったんですか?」

「え……」

 

 京太郎に訊ねられ、尭深はしばらく考える素振りを見せ、ううん、と唸ってから、

 

「……頑張って?」

「そ、そうですか」

 

 ともかくとして。

 この半荘を制したのは、尭深だった。久しぶりのトップ、そして強者たちを制した達成感を手にし、彼女は微笑みを浮かべる。

 

「もう一回や!」

「次は私が!」

「俺もやらせてくださいっ」

 

 午前中から、合宿の熱気は一気に上昇する。

あっという間に一日を終え、翌日、実質的な合宿最終日もまた、共に宿泊した竜華と玄が参加した。

 

 かつてないほどに充実した合宿は、尭深に大きな自信を植え付けた。強豪校のエースとも、五分に戦える。心の何処かにあったリーグ開幕への恐怖は、とうに消えていた。

 心地よい疲労感を全身で感じながら。

 

 ――松実館で過ごす最後の夜が、訪れた。

 

 

 ◇

 

 

「打ち上げをします」

 

 言い出したのは、尭深だった。明日の朝出発するバスに備え、早めに寝ようという恭子の提案を蹴る形であった。

 

「え、えらいやる気やな」

「宴会部長なので……」

 

 麻雀部の会計を務めるにあたり、いつのまにか任命されていた役職である。だが、尭深は意外とこの仕事を気に入っていた。

 

 どこか店に飲みに行く、という案も出されたが、

 

「宴会部屋が一つ空いてるらしいから」

「飲み物はお安く提供できるのです!」

 

 宥と玄、松実館の好意に甘える形となる。もちろん料理は自分たちで用意しなくてはならなかったが、尭深は率先して調理にとりかかった。隣で手伝ってくれる京太郎と宥の存在が、とても居心地が良くて嬉しい。

 

 交代で露天風呂に入り、浴衣に着替えだだっ広い宴会場に集合する。八人で使うには、とても贅沢だった。

「えー、それでは開始の挨拶は尭深ちゃんで」

「えっ、そ、そういうのは末原先輩のほうが」

「この宴会の主導は尭深ちゃんなんやから」

「……わ、分かりました」

 

 恭子に無理矢理立ち上がらされて、尭深は戸惑う。こういう目立つ立場は、慣れていない。部内だけならともかく、今は玄と竜華もいる。七人の視線が集中して、羞恥から一瞬彼女は俯くが、京太郎と視線がぶつかり勇気付けられた。

 

「その……まずは松実さんと清水谷さん、ありがとうございました。お二人にこの合宿に参加して貰えて、とても充実したものになりました。きっと次節のリーグ戦は良い結果を出せると思います。――いいえ、出して見せます」

 

 すばら! と囃し立てる声が上がる。大人しい尭深にしては珍しい、力強い宣言だった。

 

「私の料理では物足りないかも知れませんが、松実先輩と須賀くんが手伝ってくれたのできっと美味しいと思います。……えっと、で、では」

 

 グラスをかかげ、上擦りながらも、

 

「か、乾杯っ!」

「かんぱーい!」

 

 尭深は音頭を取った。かちゃかちゃとグラスがぶつかり合う音の中、するりと尭深は座布団の上に座り直す。

 

「お疲れさん」

「あ、はい」

 

 隣の恭子と乾杯を交わす。二十歳組の彼女はアルコールである。お酒に興味がある尭深としてはちょっと羨ましい。それを目聡く感じ取ったのか、

 

「まだあかんでー、後二ヶ月くらいやろ」

「は、はい」

 

 恭子に釘を刺される。くすりと笑って、彼女は続けて言った。

 

「悩み、解決したみたいやな」

「あ、は、はい」

「もうちょっと時間かかりそうやったら声かけようと思ってたんやけど、良かったわ。あんまり手ぇかからんのも寂しいもんやけど」

「いえ……」

 

 ちゃんと、見てくれていた。それだけで充分。だから尭深は、彼女が――この麻雀部が、好きなのだ。

 

「ありがとうございます、末原先輩」

「ま、大事な後輩やからな。料理は美味しいし」

 

 焼き魚に舌鼓を打ち、恭子のお酒は進んでゆく。

 成人している宥と竜華もまた、手にするのはアルコール類である。怜だけは今なお服用している薬の関係で、お酒の解禁はもう少し時間がかかるということ。しかし酒の入った人間から緩んだ空気は次々と伝播し、正に宴会という状況ができあがる。

 

「須賀くん、須賀くん。いつも怜がお世話になってごめんなー」

「い、いえいえ。怜さんには俺も麻雀教えて貰ってますし」

 

 既に顔を赤くした竜華が京太郎の隣につく。お風呂上がりの浴衣姿は同性の尭深から見ても艶めかしく、京太郎は明らかに鼻の下を伸ばしていた。

 

「で、どうなん? 怜はどこまで進んだん?」

「進んでませんってば!」

「照れんでもえーやん」

 

 今照れているのは別の理由だ、と尭深は突っ込みたくなったが、その場に留まる。

 代わりに怜が、二人の間に割って入った。

 

「わっ」

「どうしたんときー」

「久しぶりに膝枕を堪能しとこうと思うてな」

 

 彼女はすかさず竜華の膝に頭を乗せる。これや、と怜は満足気に呟いた。

 

「きょーちゃんの背中でも味わえん感触やな、やっぱり。あ、でも後できょーちゃんよろしくなー」

 

「贅沢しすぎです、怜さん」

「ほんまやで、あんま須賀くんに迷惑かけたらあかんでー」

「ええやんちょっとくらい」

 

 あの三人も、妙な関係だ。京太郎と竜華が夫婦で、怜がその子供にも見えてしまう。いずれにせよとても仲が良さそうだ。

 

 気が付けば、尭深は立ち上がっていた。

 一度キッチンに戻り、自慢のお茶をいれ、

 

「どうぞ」

 

 と、彼女たちに向かって手渡していた。

 

「飲み過ぎは、よくありません」

「せ、せやな」

 

 やや困惑気味に竜華が受け取る。よし、と謎の満足感に浸っていたら、

 

「尭深、私にもください!」

「私も渋谷さんのお茶飲みたいのです!」

 

 煌たちからもリクエストの声が上がった。まだ料理も残っているのに、と思いながらも尭深はみんなのためにお茶をいれる。多幸感を、彼女は覚えていた。

 

 尭深によって企画された宴会は、夜遅くまで続いた。カフェインのおかげで半端な眠気は退けられ、麻雀論や大学のことで議論が巻き起こる。それはきっと、その場にいた全員にとってとても楽しい時間だったろう。そうであって欲しいと、尭深は京太郎の横顔をうかがい見ながら願っていた。

 

 

 ◇

 

 

 楽しい時間の反動は、苦しみの時間として返ってくる。少なくとも、アルコールを飲んだ年長組にとっては。

 

「頭痛い……」

 

 恭子と宥がうんうん唸っている。

 

「眠い……布団欲しい……」

 

 一方下級生たちも睡眠不足により、苦悶の声を上げていた。

 しかし高速バスの出発時刻は容赦なく訪れる。

 

 竜華と玄に別れを告げ、一行は駅に向かった。行きの夜行バスと同じく、とったチケットは二列シートが三組。

 

「きょーちゃんと……」

「公平に……くじ引きや……」

 

 覇気のない恭子の手から、尭深は割り箸を引く。先端の色は、赤。見回してみれば、同じ色の割り箸を持っていたのは――何の因果か、京太郎だった。抗議が怜から出たが、恭子が退けた。「尭深ちゃんなら心配ないやろ」、と。

 

 人一倍体力はある京太郎だが、昨日はとても働いていた。彼もまた憔悴気味で、目元をこすりながら尭深に話しかけてくる。

 

「すみません、また俺で」

「……ううん」

 

 問題ないと言おうとして、しかし尭深は少し迷いを見せた。往路とは、何かが違う。何かが変わっていた。

 

 バスに乗り込み、出発してもしばしの間は二人とも起きていた。だが、その内にまず京太郎が船を漕ぎ始める。

 

「ごめんなさい、ちょっと寝ます……」

「うん」

 

 すぐに彼は、寝息を立て始めた。寝心地は悪かろうが、それよりも眠気が勝ったようだ。

 

 同時に尭深も、そろそろ限界が訪れる。

 ちらりと見るのは、彼の肩。一晩頭を預けた場所。

 

 ――自分はそうはならないようにしよう。

 

 この合宿前に、決意したこと。面倒な人間関係に巻き込まれないようにと彼女は決めた。その決意は、今もちっとも揺るいでいない。尭深はそう確信している。

 

 何故なら自分は、自分の感情に気付かないほど間が抜けている。この気持ちの正体を、一人では理解できないのだ。

 

 だから「そうなった」かどうかなんて、分からない。分からないのだから――

 

 ――こうしても、構わない。

 

 睡魔によってか、無意識か。彼女の論理的な思考は奪われていた。

 

 彼の肩に頭を預け、そっとその指先に手を重ねる。体を包むのは、安心感。眼鏡を外すのも忘れて、そのまま瞼を閉じる。

 

 尭深は東京に着くまで、一度も目を覚まさなかった。

 

 

 

        Ep.4 たかみープロデュースミッドナイトティーパーティー おわり




次回:Ep.5 すばら探偵花田女史のケースファイル
   5-1 浮気疑惑、彼にちらつく女の影


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Ep.5 すばら探偵花田女史のケースファイル
5-1 浮気疑惑、彼にちらつく女の影


 五月の連休も明け、一週間。花田煌は夜の新宿に降り立った。夕方から降り出した小雨から頭を傘で守りながら、煌は人混みをかき分け目的地に向かう。福岡もそうであったが、都会という場所はとにかく人が多くて困る。利便性で言えば比べる余地もないが、長野はのどかな土地で息苦しさを感じることもなかった。

 

 かつての故郷に想いを馳せるのは、これからの予定のせいだろうか。いつも笑顔を絶やさない煌は、しかし今日はまた一段と頬が緩む。

 

 指定されたのは、駅から歩いて十分ほどのメキシコ料理店である。やや早めに着きすぎたかとも思ったが、既に彼女たちは店の軒先で待ってくれていた。二つの傘は、高さにはっきりと差があった。

 

「原村さん、片岡さん!」

「花田先輩――」

「久しぶりだじぇ!」

「すばらですっ」

 

 おおよそ半年ぶりに顔を合わせた後輩二人と、煌は握手を交わし合う。

 厳しさと穏やかさを同居させた雰囲気を身に纏うのは、原村和。中学時代から変わらない豊満な体つきはそのままに、大人の色香を漂わせている。幾分か身長も伸びただろうか。

 

 片や全く変化がないように見えるのは、片岡優希。思わず頭を撫でたくなる小ささは、中学時代から健在だ。ただ着ている服は、以前と比べて若干落ち着いたものに変わっていた。和の趣味が中学当時から変わっていない分、こちらには少し驚かされた。

 

 ともかくとして。

 原村和と片岡優希。

 

 彼女たち二人は、煌が通っていた長野・高遠原中学麻雀部の後輩である。中学卒業後、煌が九州に引っ越して以来疎遠になったが、インターハイで再会後は交流が復活していた。

 

 今日は彼女たちが大学生になってから初めての、ささやかな同窓会であった。

 レストランに入って、優希が真っ先に注文したのはタコス。懐かしい光景に、煌は目を細めた。苦笑する和と合わせて、彼女はエンチラーダを頼んだ。

 

「それにしても、こうして二人と東京で会えるようになるとは思いませんでしたよ。大変すばらですっ」

「そうですね……。大学に入学してから一ヶ月以上も経ってしまいましたけど。すみません挨拶が遅れて」

「いえいえ、お気になさらず。入学後は何かと忙しかったのでしょう? それに二人とも麻雀部に入ったそうじゃないですか、三橋大の練習は大変でしょう」

「そうだじぇ! もう毎日疲れ果ててるんだじぇ……」

 

 がっくりと肩を落とす優希であったが、タコスが到着した瞬間目を輝かせてかぶりつく。もう、と和は少し憤慨して、

 

「先輩の前ではしたないですよ、ゆーき」

「まぁまぁ、私は気にしませんから」

「タコスうまー!」

 

 満面の笑みを浮かべる優希を見れば、何もかも許してしまえる。そのくらいには、煌は彼女たちに思い入れがあった。小さいながらも――だからこそか――同じ麻雀部で過ごした仲だ。

 

「原村さんたちは随分長い付き合いになりましたね。中学の途中から大学までなんて」

「正直ここまでとは思ってませんでした」

「照れ隠ししなくてもいいんだじぇ、のどちゃん」

 

 去年まで高校麻雀界を席巻した清澄高校のトリオ――その内二人が、三橋大に入学した。このニュースは、関東リーグに所属する雀士たちにとって看過できない話であった。元より三橋大は大学麻雀界の名門、一部リーグに十年居座り続ける実力は本物だ。そこに彼女たちが加わったことにより、勢力図は塗り替えられるという予想もなされている。

 

「麻雀部の調子はどうなんですか?」

「特待で入ったのに私はベンチだじぇ。のどちゃんはレギュラーなのにー」

「三橋で即ベンチ入りでも充分すばらですよ」

「そうですよゆーき。四月の成績がたまたま良かっただけです」

 

 和のほうは、受験組である。色々悩んだ結果、彼女は法曹への道を選んだらしい。しかし同時に、少なくとも大学では麻雀も一線で続ける覚悟だという。高校三年間で一回り成長した彼女たちといつか公式戦で相見えるときがくると思うと――煌はわくわくする。

 

「特待と言えば」

 

 ふと、思い出したように和が言った。

 

「須賀くんもうちの大学から推薦が来てたんですよね」

「初耳です」

 

 煌は目を丸くして驚く。いや、彼も男子インターハイで決勝まで残った身。三橋の男子麻雀部も女子に劣らず名門であり、そのような話が来てもおかしくない。

 

「まさか花田先輩と須賀くんが同じ学校に通うようになるなんて、思いも寄りませんでした。彼は元気にしてますか?」

「元気も元気ですよ、この間もリーグ戦の相手の分析を恭子先輩とやってくれまして、どんぴしゃでした! おかげさまでリーグ開幕から二連勝! 大変すばらです!」

「京太郎も中々やるようになったじぇ。私たちが鍛えてやったおかげだじぇ」

 

 偉そうに胸を張る優希に、意外にも「かも知れませんね」と和が同意する。彼の現在は、やはり彼女たちに鍛えられた結果なのだろう。

 

「三橋も調子良さそうですね」

「次は聖白女と同じ卓なので、どこまでやれるか不安です」

 

 と言いながらも、和はどこか嬉しそうだ。聖白女は、弘世菫を初めとする王者白糸台の出身者が多い関東リーグ最強校の一角である。一人の雀士として、思うところがあろうのだろう。

 

「むぅ。のどちゃんだけ打てて羨ましいんだじぇ。私なんかいつも鬼軍曹に怒られてばかりだじぇ」

「それはあの人なりにゆーきに目をかけてるからだと思いますよ」

「あの人?」

「うちのエースです」

「ああ、彼女ですか」

 

 すぐさま煌は理解する。現在の三橋のエースと言えば、彼女しかいない。

 和は小首を傾げながら優希に問いかける。

 

「でも、何だか最近は機嫌良くありませんか?」

「んー、確かにゴールデンウィークに入ってからは優しくなったような…………でもやっぱり鬼軍曹だじぇ!」

 

 最後のタコスを平らげて、優希は怒りに任せるまま追加注文する。もちろんメニューは、タコスである。

 

「どこの麻雀部も大変なようですね……」

「部員不足の花田先輩のところほどじゃないじぇ!」

「ふふふ、ですが今期からは事情が違いますよ!」

 

 きらん、と煌が目を輝かせる。それだけで二人は察したようだ。

 

「園城寺さんですね」

「あの人も変わり者だじぇ。でもいきなり活躍してて流石だじぇ」

 

 関東リーグが開幕してからの最大の話題と言えば、間違いなく園城寺怜の復帰であろう。前情報もなしに、東帝大学の選手として関東三部リーグに彼女が現れたときは、会場全体がどよめいた。話を聞きつけたマスコミが、一部リーグの会場から移動してきたくらいだ。

 

 そして見せた打ち回しは、他を全く寄せ付けず。

 東帝のエースとして、華々しいデビューを飾ったのだ。

 

「そう言えば二人は、二年前に長野で会っていたんでしたね」

「はい。あのときは療養生活中だと仰っていましたが――こうして活躍の噂を耳にすると、感慨深いものがありますね」

 

「ええ、インハイで同じ卓を囲んだ身としても、大変すばらです。それにしても――」

煌は続いて、ある話題を口にしようとした。

 

 麻雀仮面について、である。

 しかし彼女は寸前、思いとどまった。

 

「どうしました? 花田先輩」

「いえ、なんでもありません」

 

 一度、煌は誤魔化すことを選んだ。

 麻雀仮面と名乗る狐面の女は、四月にこの近隣に現れた謎の雀士である。彼女は大学生を中心に相手取り、並み居る強者をばったばったと薙ぎ倒した。その正体は一切謎に包まれ、仮面の下の顔は誰も知らない。――ということになっている、少なくとも表向きには。

 

 麻雀仮面の正体は、件の園城寺怜である。この事実は東帝大学麻雀部と、現在は大阪に住む松実玄だけの秘密になっている、はずである。

 

 しかし、和たちは怜と友人同士だ。彼女たちにも話は通じているのだろうか。

 

 食事を進め、しばらくして後、改めてとぼけた様子を振る舞いながら煌は切り出した。

 

「そういえば、お二人は麻雀仮面の噂を聞いたことがありますか?」

「麻雀仮面というと、先月東京や横浜の雀荘に現れたという、あれですか」

「それですそれです」

 

 和は悩ましげに眉を寄せる。彼女は何やら言い辛そうな雰囲気を醸し出すが、代わりに優希があっけらかんと答えてしまった。

 

「うちのレギュラーも負けたんだじぇ」

「なんと」

「もう、ゆーき。あまり口外してはいけないと言われたじゃないですか。……ともかく、うちでも正体を探ろうとしていたみたいですよ。私は直接お会いしていませんが。花田先輩は麻雀仮面を追ってるんですか?」

「ああいえ、ちょっと興味があるだけで」

 

 嘘を吐いている様子はない。二人とも本当に知らないようだ。余計なことを言わずに済んだ、と煌はほっと胸を撫で下ろす。

 

 麻雀仮面が残した遺恨は、麻雀仮面本人が考えているよりもずっと大きかった。五月に入りぴたりと姿を現さなくなり、麻雀仮面の正体を探る動きは沈静化に向かわれるかとも思ったが、まだまだその勢いは保たれている。もしも正体が外部に露見すれば、面倒な事態に発展しかねない。煌たちに責任はなくとも、麻雀部自体が一度問題を起こしているため、余計なトラブルは避ける方針でいた。

 

 おそらく夏になる頃にはこの流れも沈静化に向かうだろうが、今は大人しくしておくのが一番である。和たちを信用していないわけではないが、三橋の麻雀部でも探る動きがあるならば黙っておくのが無難だろう。

 

 煌はそう判断しながら、心の中で二人の後輩に謝った。

 

 

 ◇

 

 

 連休が明けてからの東帝大学麻雀部の空気は、実に明るい。リーグ戦が開幕してから二戦、いずれも圧倒的トップで勝利を収めた。新入部員の怜も元来の気質故か、あっという間に部に溶け込んでいる。部長である恭子とのいざこざこそ絶えないものの、じゃれ合いの域を出ていない。

 

 次の試合もまるで負ける気がしない。煌はこの麻雀部に、確かな手応えを感じていた。驕る必要はないが、自信を持って戦いに挑めば良い。

 

「ロン」

「す、すばらっ?」

「まくったで、煌さん」

 

 ――煌自身は、部内ではあまり勝てていないが。

 

 零細麻雀部とは言え、部員全員タレント揃いである。皆、今すぐにでも一部リーグの大学のレギュラーになれる実力は秘めているだろう。先日まで同期の渋谷尭深はスランプに陥っていたようだが、合宿を経て一皮むけたようだ。むしろこれまでの遅れを取り戻すかのように、リーグ戦でも大活躍を見せている。

 

 彼女たちに比べたら、自分がぱっとしないことを煌は自覚している。少数精鋭の部活動であるからこそ、まざまざと差を見せつけられる。

 

 劣等感のようなものを、覚えないわけではない。悔しいとも思う。

 

 けれども。

 

「なんの。ここからまくりかえしますよ、怜さん」

「……流石やな、煌さん」

 

 そうは簡単に挫けないのが、花田煌である。幼い頃から培った不撓不屈の精神は、誰にも真似できないものだ。

 

 もしかすると、彼女がいなければ――彼女でなければ、部内はまた不協和音が発生していたのかも知れない。問題が頻出していたのかも知れない。他の部員全員にそう思わせるだけのものを、煌は秘めていた。

 

 何もかも絶好調。

 恐れるものはなにもない。

 

 東帝大学麻雀部全員が確信している――最中の出来事であった。

 

「すみません、今日は先に帰らせて貰います」

 

 牌譜の整理を終え、そう言い出したのは唯一人の男子部員、京太郎だった。まだ、練習時間は一時間ほど残っている。彼が練習を早退するなんてこの一ヶ月超の中では初めてであった。

 

「どうしたんや、気分でも悪いんか」

 

 いの一番に訊ねたのは、恭子だった。京太郎を相手にしたときのぎこちなさは解消されていないものの、異変の際にはそんなことも言っていられないのだろう。部長としての役割を、恭子はきっちりこなしていた。

 

 しかし京太郎の返事は、

 

「そういうわけじゃないんですけど、すみません。用事を思い出して」

 

 実に曖昧なものだった。らしくない、と言えるほど付き合いが長いわけではないが――煌はかすかな違和感を覚えた。

 

「用事ってなんやそれ。聞いてないで、きょーちゃん」

 

 口を尖らせて文句を言うのは、怜。

 

「私の晩ご飯はどうするん?」

「ごめんなさい、適当に何か食べてて下さい」

「えー、きょーちゃんが作ったハンバーグが良いー」

「子供かあんたは」

 

 恭子が怜の頭を軽くはたいてから、

 

「ま、シーズン中に根詰めすぎるのも良くないしな。須賀もこないだから情報収集ばっかで疲れとるやろ。ええで、今日は帰り」

「ありがとうございます」

 

 鞄を引っ掴むと、さっさと京太郎は部室を出て行った。

 成り行きを静かに見守っていた宥が、ぽつりと呟く。

 

「京太郎くん、最近何だか大変そうだねぇ」

「合宿明けから少し慌ただしくなってみたいですが」

 

 湯飲みを抱えた尭深も心配そうに追随する。

 恭子はむぅ、と少し唸って、

 

「……まぁ、子供やないし困ったことがあったら自分から言うてくるやろ」

「冷たいなぁ、部長さんは」

「園城寺は黙っとき」

 

 再び軽く恭子は怜の頭をはたく。煌は苦笑いを浮かべつつ、次の局に気持ちを切り替える。

 

 この時点ではまだ、煌もとりわけ気にしていなかった。新入生の繁忙期はまだ続いているし、彼も煌と同じく多くのコミュニティと繋がりを持っている。

 多少忙しくても、何ら不思議ではない。

 

 ――そのはず、であった。

 

 

 次のリーグ戦も、東帝大学は大勝した。打ち上げでは京太郎も参加し、盛り上がりに盛り上がった。大変すばらな夜だった。

 

 しかし翌日からまた、京太郎はちょくちょく部活を早退するようになった。時には、まるごと欠席する日もあった。

 

 その度繰り返される言い訳も苦しく、怪しさは拭えない。

 彼が何かを抱えているのは、明白だった。しかし京太郎からは何も言い出してこない。恭子が「待ち」の姿勢を見せたため、麻雀部からアクションは起こさなかった。

 それがいけなかったのだろうか。

 

 ――三部リーグ第四戦。

 

 この日も、東帝大学は勝利をあげた。ただ、これまでと同じように快勝とまではいかなかった。もちろん毎回毎回上手く行くわけではないのが、競技というもの。だが、これまで好調であった麻雀部に歪みが生まれていたのも確かだった。

 

 加えて、この日の打ち上げでは――

 京太郎が、欠席であった。

 

 レストランの片隅の席に、麻雀部の五人は集まっていた。各々のグラスには、既に飲料が注がれている。しかし、誰も乾杯の音頭を取ろうとしない。勝ったはずのチームは、どんよりとした空気が漂っていた。

 

「……皆さん!」

 

 見かねた煌が立ち上がる。

 

「何はともあれ、今日の勝利を祝いましょう!」

「そ、そうだね」

 

 賛同してくれたのは、宥だけだった。それも、小さな声で。怜は不機嫌そうに机を指で叩いているし、尭深は黙って膝に置いた手を見つめている。

 

「す、すばらくない……。きょ、恭子先輩……」

 

 恭子に縋り付くような目線を送ると、彼女は盛大に溜息を吐いた。

 

「……煌ちゃんの言うとおりや。あのアホはほっといてさっさと始めよか」

「ちょお待って」

 

 待ったをかけたのは、怜だった。恭子が眉を潜める。

 

「どうしたんや、急に」

「言おうか言うまいか迷ってたんやけど……流石にここまできたら見過ごせんと思て。飲み会の前に、言わせて」

 

 要領を得ない怜の物言いに、煌も首を傾げる。

 

「どうしたんですか、怜さん」

「こないだな、きょーちゃんの部屋行ったんやけど」

 

 怜と京太郎の住まいは隣同士である。頻繁に怜が京太郎の部屋に出入りしているのは既知であったが、恭子はぴくりと肩を震わせた。しかし、彼女は突っ込みを入れず先を促した。

 

「――知らへん女の髪が落ちててん」

「なっ」

「えっ」

「ええっ」

 

 怜がその言葉を口にした瞬間、あちこちから困惑とも悲痛ともとれる声が上がった。煌は一人、ごくりと唾を飲み込む。

 

「一応確認しとくけど――この中で最近きょーちゃんの部屋に入った子はおる?」

「い、いやいや一度も入ったことなんかあらへんしっ」

「わ、私は先月に一回だけ……」

「ないです」

「当然ありませんよっ」

 

 皆一斉に否定する。せやろな、と怜はすぐに納得した。

 

「この部の誰のものでもない髪や。長い黒髪。しかもきょーちゃん最近熱心に掃除してたみたいやから、隠したかったんやろな」

「ま、待って下さい……つまり女の人を連れ込んでいたというわけですか、須賀くんが」

 

 硬直する三人に代わり、煌が疑問を投げかける。怜は、こっくりと頷いた。いつもと同じように表情の変化は少ないのに、内に激情を秘めているのが煌にもすぐに分かった。

 

「彼女……なんですかね?」

 

 煌が誰へともなく訊ね。

 

 ぴしり、と空気が割れる音がした。失言だったと、煌は慌てて自分の口を閉じる。

 

 恋愛は自由である。ましてや京太郎は大学生、もうほとんど大人に片足を突っ込んでいるのだ。周りがとやかく言うのも野暮というもの。咎める権利を持つ人間は、この場には誰も居ないはず――である。

 しかし、それが許される空気ではなかった。

 

「たぶん、学外の人間や」

 

 滔々と、怜が語る。

 

「根拠はなんや」

「大学の中は私が睨み利かせとるから。でも、そうなるとどこのどいつか分からへん」

 

 煌はとても嫌な予感がした。この流れはいけない。

 

「末原部長」

 

 かつてなく真摯な声色で、怜は恭子に話しかける。

 

「きょーちゃんが部活に出ずに、浮気にかまけてる現状は良くないと思うねん」

「……浮気かどうかはともかく、確かめる必要はあるな。今のままやとモチベに関わるし」

 

 恭子の視線が、煌に向かう。非常に嫌な予感はした。というよりむしろ、確信だった。

 

「煌ちゃん」

「はい」

「須賀の彼女について、調べてくれん?」

「……了解しましたっ」

 

 目が必死な部長に請われれば――否、部員全員の強い願望を一身に受ければ、煌に断る選択肢はあるはずもなく。

 

 東帝大学麻雀部兼探偵研究会会員、花田煌のあまりすばらではない任務がここに始まった。

 

 

 




次回:5-2 ハンド・イン・ハンド


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5-2 ハンド・イン・ハンド

 日曜日、時刻は午前九時。立ち並ぶアパートの入居者はほとんどが大学生で、惰眠を貪る者が多いのか、近隣一帯は未だ静けさに包まれている。鳥の鳴き声がいやに大きく聞こえた。

 

 花田煌は、ターゲットの住むアパートから百メートルほど離れたコンビニの前でたむろしていた。朝食代わりのアンパンを食べ終えて、牛乳を一気飲み。エネルギーは充填完了。後はターゲットが動き出してくれるかどうかであったが――

 

『こちら捜査本部、園城寺。応答せよ』

 

 インカム越しに、呼びかけてくる声があった。

 

「はいはい、こちら花田です。どうしました、ホシに動きがありましたか」

『ホシはどうやら部屋を出る模様。隣室からの監視はここまでのようや』

「了解。ホシの進行方向を確認できますか」

『窓から覗いてみる』

 

 しばしの間があった。コンビニのゴミ箱に牛乳パックを突っ込み、煌は焦らずに待った。

 

『こちら捜査本部』

 

 再び、呼びかけてくる声。

 

『ホシは駅に向けて歩き始めた模様』

「すばらです。では、後のことはお任せ下さい」

『……頼んだで、煌さん』

『よろしくね』

『お願い』

 

 ぶつり、と通信が切られる。煌は一度深呼吸してから、顔を上げた。朝の日射しがとても眩しい。

 

 ――果たして鬼が出るか蛇が出るか。

 戦々恐々としつつも煌は駆け出す。損な役回りだ、とは思う。だが、心に翳りはない。自ら言い出し、託された仕事。

 

 彼女が思い返すのは、数日前の作戦会議であった。

 

 

 ◇

 

 

 煌が所属する探偵研究会は、とりわけ定期的な活動内容もない緩いサークルである。サークルボックスに集まって読んだミステリ小説の考察や議論を交わすぐらいで、丸一日誰も姿を表さないのもざらである。

 

 一方で、誰が始めたかも分からない「なんでも屋」な一面も持つサークルだ。会員たちは、東帝大学の学生から寄せられる依頼――主に失せ物探しを請け負っている。探偵っぽい、というだけの理由で。犯罪に関わることは禁止されているが、概ね評判は良い。煌も何度か手伝った機会があった。

 

 その経験もあって、彼女は情報収集能力――とりわけ学内の――にそれなりの自信があった。重要なのは、依頼を通して得られるコネクションだ。また、探偵研究会を名乗ればある程度協力して貰える風潮さえ東帝の中にはあった。

 

 以前、恭子からもたらされた僅かな情報を元に、数多くいる新入生の中から園城寺怜に一晩で辿り着いたのは煌の手腕と活躍があってこその結果だ。他にも彼女には数々の実績があり、他の部員からも信頼厚い女性である。

 

「取り急ぎ昨日集めた情報をまとめたのが、こちらのレジュメです」

 

 ――須賀京太郎に、彼女ができたのではないか。

 そのような疑惑が麻雀部内で芽生えた翌々日の早朝、東帝大学麻雀部の女子部員たちは部室に集まっていた。こんなに早くにミーティングを開催されるのは初めてである。ただし、目的は麻雀に関してではない。

 

 議題は、たった一人の男子部員、須賀京太郎の動向についてであった。

 

 煌が配る「第一次須賀くん調査報告書」なる資料に、恭子たちは躊躇いながら手を伸ばした。何だかんだと言いつつも、人のプライベートに足を踏み入れるのに罪悪感があるのだろう。しかし、下手をすれば京太郎が何かしらの事件に巻き込まれており、自分たちにも相談できないという可能性だってある。同期の怜も含めて、皆年長者だ。責任感は、当然ある。

 

「最初に言っておきますが、大した情報は得られませんでした」

「そうなん?」

「申し訳ありませんが。……一ページ目から、お話ししましょう。まず、須賀くんの高校時代の友人――原村さんや片岡さん、それから宮永さんに連絡をとりました。彼女たちに何か相談がいっていないかと」

「空振りやった、と」

 

 恭子に先を言われ、煌は頷く。

 

「残念ながら。連絡はちょくちょく取り合っているそうですが、とりわけ気になることもないと。念のため彼女たちの先輩にも確認してもらいましたが、特に変わった連絡は来ていないそうです。原村さんたちは嘘をつけるタイプではありませんし、先輩たちは長野住まい。まず信じて良い情報かと思います」

「……須賀くんが、清澄の人たちにも話していないんだね」

 

 ぽつりと呟くように言ったのは、尭深だった。どこか思うところがあるのか、じっと資料を見つめている。それ以上の言及はなく、煌はこほんと咳払いしてから続けた。

 

「それから、学内の須賀くんの友人に聞き込み調査をしました」

「そんなことやったらうちらが調べてることばれるんとちゃう?」

「こういうとき頼りになる人脈はそこそこあります」

 

 煌ちゃん怖いだの、あんまりあったかくないだの、畏怖の呟きがあちこちから聞こえてきたが煌は無視した。

 

「須賀くんに彼女はいないのか、最近できたのか――と訊ねたところ、皆口を揃えて『園城寺さんが彼女じゃないの?』と言ったそうです」

「分かっとるやん」

 

 怜が嬉しそうに微笑むが、隣に座る恭子は深く溜息を吐く。

 

「デマに踊らされてるんは可哀想やけど……少なくとも、須賀は同級生にも隙は見せとらへんのか」

「いえ、そういうわけでもありません」

 

 次のページをめくるように、煌は部員を促した。

 

「……最近、急に付き合いが悪くなった?」

 

 宥が読み上げた一文に、煌は首肯する。

 

「ほとんどのご学友がそう答えました。時期は、ゴールデンウィークが明けて少ししてから。つまり、リーグが開幕してからですね」

「部活を休みがちになった時期と一致しとるな」

「はい。ご学友たちは麻雀部が忙しいと解釈していたようですが、そうではないと私たちは知っています」

「園城寺の、学外が怪しいという推測は濃厚ちゅうわけか」

「その通りです」

 

 となると、調べる範囲が広すぎる。一番濃厚な清澄関連が早々に切り捨てられた以上、とっかかりが見当たらない。

 

 ――こうなれば直接京太郎に訊いてみるのが良いのではないか。

 

 おそらく一度は思いつき、しかし誰もそれを言い出さない。

 残念ながら、はぐらかされたり、誤魔化されたりするであろうことは明白である。加えて「貴方を疑っています」と自分から言い出すようなものだ。疑念を悟られるには早すぎるし、何より心情的に言い辛い。

 

 さらに言えば、京太郎の口から直接「彼女ができた」と聞くのも嫌なのだろう。何も言われなくとも、煌は察していた。

 

 では煌が訊ねれば良い。それもまた正論ではあるが、煌はそうはしなかった。

 

 理由は――勘、である。

 

 彼は大事な何かを隠している。下手に訊ねればより態度は頑なになり、その隠した何かを知る機会は失われてしまう。そしておそらくその何かは、自分たちにとっても重要なことなのだ――そんな気がしてならないのだ。

 

「どうしたら良いのかな」

 

 眉をハの字にした尭深に訊ねられると、煌も弱る。一年間付き合ってきて、ほとんど初めて見せた彼女の望みに煌も応えたかった。

 

「全くの手詰まりというわけではありません」

「何か案があるん?」

 

 一瞬溜を作ってから、煌は答えた。

 

「須賀くんを尾行し、彼女と思しき人物を確認します」

 

 一斉に息を呑む音が、聞こえた。皆、色々言わんとするところがあるだろう。だが煌は、機先を制して言った。

 

「ただ恋人ができただけなら、私たちにも正直に報告しているでしょう。しかし彼はそうしていない。それに須賀くんの性格から言って、彼女ができたからと言って急に部活動を放棄するわけがない。何よりここのところの彼の態度は明らかにおかしい。……皆さん、そう思っているからこそこうして彼を心配しているんでしょう?」

 

 言い訳染みているのは確かだ。おそらく彼女たちには、他に含むところがあるだろう。

 

 だが同時に、京太郎を慮る気持ちも本物である。

誰にも話せないようなトラブルに巻き込まれていたのなら、助けたい。お節介だと言われようともだ。少なくとも煌はそのつもりだったし、ここに集まった者たち全員そうであるはずだ。待つだけ待って、手遅れになるのはどうあっても許せない。

 

 結局、反駁の声はどこからも上がらなかった。各々顔を見合わせ、頷き合う。

 

「責任はうちがとる」

 

 立ち上がり、毅然と言い放ったのは部長の恭子だった。

 

「須賀のしっぽ、掴まえるで」

 

 かくして。

 須賀京太郎追跡作戦は、ここに幕を開けた。

 

 

 ◇

 

 

 リーグ戦の合間に設定された完全休養日は、恭子の手によって急遽生み出されたものであった。目的は、当然京太郎を泳がせるためである。宥と怜は二人で買い物に、煌と尭深は他サークルに参加、恭子は旧友と会う――という架空の予定を入れ、少なくとも部内では京太郎を孤立させた。

 

 思い通りに動いてくれるかは分からなかったが、この朝ひとまず京太郎は家を出た。

 スニーキングミッションを担うのは、もちろん煌である。彼女も尾行は初経験であったが、言い出しっぺであるし恭子はともかく他の面子では運動能力に欠ける。やるしかなかった。順調に歩を進める彼と距離を取りながら、しっかりとその後を追う。駅前にまで行けば人波に紛れることもできるだろうが、住宅街は人影が少なく慎重にならざるを得ない。

 

 あまり不自然な格好をするのは望まれなかったが、今回の場合はホシに面が割れている。視界の端に入っても気付かれない程度には変装するべきと煌は判断した。髪を下ろし、眼鏡をかけ、帽子を被る。やや厚着気味の、趣味が異なる衣装は宥に協力して貰った。自分で言うのも何だがぱっと見では分からないだろう、そう煌は思う。

 

「はてさて、どうなることやら」

 

 予想通り京太郎が向かった先は、駅だった。流石に休日、家族連れやカップル、大学生の集団などで駅前は人で溢れていた。彼は比較的身長が高く、人混みの中でもどこにいるか分かりやすいのが救いである。

 

 改札を通り抜け、丁度やってきた電車に乗り込む。煌は車両を変えて乗り込もうかとも考えたが、車内には充分な数の乗客が乗っており問題ないと判断する。入口だけ別の場所を使って京太郎と同じ車両に乗り込んだ。人陰に隠れながら、煌は京太郎の姿をそっと窺った。

 

 入口付近に立ってスマートフォンの画面に視線を落とす様は、普通の大学生だ。特別気負っている様子もなければ、表情にも変化はない。あのスマートフォンの中を調べることができれば何もかも分かるだろうが――しかし、怜曰くここのところ肌身離さず持ち続けているらしい。これまた怪しい要素の一つだった。

 

 山手線に乗り換え、最終的に京太郎が電車を降りたのは新宿だった。

 

 つい先日、煌も後輩たちと食事をするため訪れた場所だ。ダンジョンか何かと見紛う広さと複雑さを誇る駅の構内、さらには道一杯に詰まった人々。初めてこの駅を訪れた日は目を回す思いであった。出発駅の比ではない。

 

 一人で歩いていても迷いかねないこの駅では、油断すればすぐに彼の姿を失ってしまうだろう。煌は大胆にも距離を詰める。

 

 京太郎自身、新宿駅に慣れておらず何度も行く先を確認して立ち止まる――なんてことはなかった。意外にも、と言っては失礼に当たるかも知れないが、しかし彼はこの春東京に出てきたばかりである。すぐに迷子になってもおかしくない。確かに大きい駅ではあるが、東帝の学生は立地的に好んで使う場所でもないのだ。少なくとも、麻雀部としては一度も降りた経験がない。

 

 だが、京太郎は手慣れている。歩みに迷いがない。既に何度も通った道だと、その足が告げていた。

 

 ――密会は、ここでということでしょうか。

 

 頭の中で、疑問が浮かぶ。

 

 京太郎は西口交番前で立ち止まると、手近な壁に背中を預ける。待ち合わせのようだ。彼の斜向かいを陣取り、煌も待つ。

 

 一分、二分と腕時計――変装用に、これまた宥のものを借りた――の長針が進む。やけに時間が長く感じられる。雑踏が遠くに聞こえ、視界は彼の姿以外ピントがずれた光景となる。あまり意識しすぎると気付かれる。そう考え、持参した雑誌に目を落とそうとした。

 

 その瞬間、であった。

 

「……っ」

 

 京太郎に声をかける女性が、現れた。思わず煌は息を呑む。

 

 ぱっと見の年頃は煌と同じ、二十歳程度。背丈は女子としては平均的、おそらくは160cm前後だろうか。背筋はぴんと伸ばされ、どこか凛とした雰囲気を漂わせている。可愛い系ではなく、美人系。胸は普通。

 

 何より煌の目を引いたのは――

 

 背中ほどまで落ちた、艶のある黒髪である。

 

 心の何処かで期待していた相手は、弘世菫である。部屋に残されていた髪の特徴に合い、この近隣で彼と接点があり、なおかつ顔見知りであるため話が通じる。彼女であればあまり悩まずに済んだだろう。

 

 だが、今現れた彼女はどうだ。

 

 煌は、僅かながらひっかかりを覚える。もしかしたらニアミスした、あるいは写真や動画で見た程度はあるのかも知れない。

 

 だが、外見からすぐに思いつく名前はなかった。雀士として最低限の記憶力を持っているつもりだが、唸っても出てこない。

 

 一旦記憶を探るのは放棄して、煌は密かに彼女の姿をカメラで撮影する。被写体に気付かれないようにシャッターを切る技術くらいは持ち合わせていた。

 

 京太郎と彼女は顔見知りのようで、声は聞き取れないが会話している。まるで恋人のようなやりとりに見えるのは、思い込みからだろうか。

 

 ――ともかくとして、まだ焦る段階ではないと煌は自分を落ち着かせる。気付けば、心臓が早鐘を打っていた。かなり不味い現場に出くわして緊張しているのだ。

 

 そう、浮気相手だと決まったわけではない。黒のロングヘアという特徴が一致しただけ。全く別件なのかも知れない。ここで結論付けるのはあまりに短絡的すぎる。

 

 自分に言い聞かせて頭を冷やそうとした矢先。

 

 京太郎に声をかけた女性は、そっと彼に向けて手を伸ばした。京太郎は一瞬躊躇いを見せたが、すぐにその手に応える。――ぎゅっと、掴み取ったのだ。右手と左手が重ねられ、指と指が絡み合う。

 

 俗に言う、恋人繋ぎである。

 

 女性は悪戯っぽく、それでいながら少し嬉しそうに微笑み、京太郎は頬を染めてばつが悪そうにそっぽを向く。

 

 付き合い始めのカップル。

 

 煌の脳内に浮かび上がった単語は、彼女の頬を引き攣らせた。

 

 ――全くもって、すばらじゃないっ。

 

 頭の中に浮かび上がるのは、悲しげな部員たちの表情。

 二人の姿を写真に収めながら、煌はどうするべきか悩んだ。今恭子たちに報告してしまうか。自分が直接二人に割って入り、事情を聞くか。いくつものパターンが思い浮かぶが、動揺してどれも実行に移せない。

 

 そうこうしている内に、京太郎たちは歩き始めてしまった。慌てて煌は彼らの後を追う。今やれることは結局、より多くの証拠を掴み取ることだけ。判断を下すのは、それからでも遅くない。

 

 京太郎一人の時よりも歩く速度は遅く、煌も速度を緩める。さらに今回は二人分の視界を考慮しなくてはならない。こっちは知らなくても、向こうは知っている可能性だってある。何より彼女は警戒心が強そうだ。細心の注意を、払えるだけ払う。

 

 手を繋いだまま彼らは、駅前の服飾店などを回る。交際の経験は煌にないが、それでも普通のデートに見えた。何も知らなければ、ただのカップルに見えただろう。

 

 あまり時間もかけずウィンドウショップを終えると、京太郎たちは駅を離れ始める。駅前の人混みに紛れられなくなるのは辛いが、追わないわけにもいかない。

 

 しばらく歩き、歩道を行き交う人の数も減ってきた頃。

 

 赤信号の交差点で、二人は立ち止まった。彼らは何やら会話をしている。せめて一部分でも聞き取れないかと、煌はさらに一歩距離を詰めようとした。

 

 その刹那――

 首元に、刃を突き付けられた感覚を煌は味わった。

 

 ぴたりと足を止める。否、正確には止められた。僅かな間、京太郎と手を繋ぐ女性がこちらを振り返った――気がした。しかし彼女はすぐに、京太郎との会話に戻っていた。

 

 敢えて煌は隠れようとしなかった。この場面で逃げようものなら、むしろ怪しさのほうが勝ってしまうだろう。

 

 ――尾けているのが、バレたのか。

 

 冷や汗が背中を伝う。取り逃がしたくない。気付かれたのか、そうでないのか。どきどきしながら、煌は信号が青に切り替わる瞬間を待った。

 

 結局京太郎たちは、普通に歩き出した。特に慌てた様子も、走り去ろうとする予兆も見られない。ほっと、煌は安堵する。それからすぐに気を引き締め直した。危ないところだったのは、間違いない。後半歩でも近づいていれば、あるいは視線を彼女に向けていれば――結果は想像に難くない。

 

 二人が入っていったのは、公園である。公園の遊具で興じる子供たちと、その親たち。少し離れたベンチに座り、京太郎たちはその光景を眺めていた。やはり会話を聞き取れる距離までは近づけないが、まるで「将来あんな子供が欲しいね」と話しているみたいだと煌は思った。穿ちすぎと自覚しつつも、二人の距離は近く、どうしてもそう見てしまう。

 

 ただ、会話は弾んでいる反面あまり笑顔は見られない。女性のほうは表情の変化に乏しく、京太郎は体全体が強張っているように見受けられる。そのくせ手は繋いだままで、若干のちぐはぐ感があった。その分、ときたま女性が見せる強気な微笑みは印象に残るのだが。

 

 休憩だったのか時間つぶしだったのか、しばらくしてから彼らは時刻を確認し、立ち上がった。煌もまた、カメラを携えたまま動き出す。

 

 ――こうなれば、どこへでも着いていきますよ……!

 

 半ば自棄であったが、改めて煌は決意する。

 彼らは公園を出て、またもう少しだけ歩いた。向かった先は、一つの大きな建物。その看板を目に収めたとき、煌は大いに戸惑った。

 

 年頃の男女が、共にそこへと入っていく。

 

「病院……?」

 

 ぽつりと煌の口から零れた単語は、風にさらわれ消え失せた。

 

 

 




次回:5-3 猛る探偵


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5-3 猛る探偵

 病院近くの喫茶店に入った煌は、窓際の席を陣取った。ここからなら、病院の入口を一望できる。用もなしに院内に入るのはリスクが高いと判断し、二人が出てくるまで待機することに決めた。

 

 既に彼らが病院に入って二時間。注文したコーヒーは、三杯目。

 監視の目を怠るわけにはいかないが、煌はコーヒーを飲みながらしばしの休憩をとる。何よりも、心を落ち着けなければならなかった。

 

 ――あの二人の目的が、産婦人科だったらどうしよう。

 

 京太郎が挙動不審な理由にも説明がつくし、恋人同士ならあってもおかしくない。しかしそうなると、色々と完全に手遅れだ。

 

 何度目かも分からない溜息が、勝手に出てくる。

 

 ややぎこちない感じはあったが、傍目には間違いなく恋人同士だ。あれで彼氏彼女の関係でなく、他人と言われても信じられない。カメラの中のデータを確認すれば、手を繋いだ二人の姿を収めた写真がいくつも出てきた。今更なかったことにはできない。

 

 これを、怜たちにどう報告すれば良いのか。

 

 煌は頭を悩ませる。京太郎に彼女ができたとなれば――それを彼自身が隠していたとすれば――みんな怒るだろう。悲しむだろう。しかも今季のリーグ戦は終わっていないのだ。落ちたメンタルが結果に直接繋がりかねない。それ以上先のことは、今は考えたくもない。

 

 ――いやいやっ。

 

 煌は頭を振る。逃げてはならない。現実がいくら厳しくとも、直視しなければならないのだ。

 

 今、自分がすべきこと。

 

 それは、京太郎と女性の事情を聞き出すことだ。状況証拠では恋人同士としか考えられないが、何か事情があるのかも知れない。四月まではそんな気配もなかったのに、急に麻雀部の外で彼女ができたのもおかしくはないだろうか。黙っているのにも腑に落ちない。

 

 直接聞き出すか、あるいは京太郎たちの会話を盗み聴くか。

 

 前者はしらばっくれる可能性がある。

 後者はリスキーだ。尾行が露見するのは頂けない。盗聴器も持っていないし、これまでよりもさらに近づかなくてはならない。

 

 悩んだ果て、煌は後者を選択した。――まだ、尾行の警戒はされていないはずだ。上手く立ち回れば、近づける可能性は充分ある。

 

 それから煌は、少し迷ってから、恭子にだけ現状報告した。

 

「須賀くんとその恋人らしき人物を発見。追跡中、と……」

 

 恭子ならば、何かあってもきっと冷静に対処してくれるだろう。煌の部長に対する信頼は、誰よりも篤い。

 それにしても、と煌は写真の中の女性を睨め付ける。

 

「一体、何者なんでしょうねえ」

 

 他大学の学生となると、範囲が広すぎて特定できない。雀士ならばもっと当たりをつけられるのだろうが――

 

「……雀士?」

 

 はて、と煌は首を傾げる。既視感らしきものはたしかに覚えた。漂わせる凛とした雰囲気、射殺すかのような視線、ぴんと伸ばされた背筋。

 

 ふと、煌は自分の髪に触れる。髪を下ろしたまま外出するのは、久方ぶりだった。髪に触れた指先は、そのまま度の入っていない眼鏡に移動する。

 

「あ……」

 

 頭を過ぎったのは、一つの名前。

 

「あああっ」

 

 思わず悲鳴が漏れて、煌は慌てて自分の口を塞ぐ。

 

 ――あの人だっ。

 

 公式の場で出てくる姿格好とは違って、すぐに分からなかった。だが、一度気付けば分からないはずがない。なにせ、大学麻雀界での有名人だ。つい先日も、中学の後輩たちの会話でも話が出た彼女。

 

 動揺した心を落ち着かせるため、煌はコーヒーカップに口をつけようとする。

 

 同じタイミングで、京太郎と彼女が病院から出てきた。ひとまず思考を打ち切って、煌は鞄を背負い喫茶店を出た。

 

 今度の二人は、手を繋いでいない。しかし彼らは寄り添うように立ち並び、元来た道を引き返している。

 

 煌は彼らとの距離を詰めながら、追いかける。危険な領域であるが、彼女は攻めた。安牌を切っているだけでは、麻雀には勝てない。攻めよりも守りが得意な彼女だが、勝負に出るべきところでは出るのだ。

 

「……今日は……ったな……」

「いえ……です……」

 

 途切れ途切れだが、声が聞こえる位置まで辿り着く。もう三歩分、いや二歩も間合いに入ればもっと明瞭に聞き取れるはずだ。だが、他の通行人に阻まれて思うように動けない。焦らずに行きたいところだが、このまま駅で別れて終わりになってしまえばそれまでだ。

 

 叶うなら、どこかで立ち止まって欲しい。昼食を食べにどこかに入らないだろうか。

 願いが通じたのか、京太郎たちは今朝立ち寄った公園で足を止めた。今度は向かい合い、何やら話し込んでいる。

 

 煌は幹の太い木の背に隠れ、手鏡を使って二人の様子を窺う。

 

「さて、どうする」

 

 女が、京太郎に向かって言った。ちゃんと会話は聞き取れる。

 

「そうですね……お昼ご飯くらいは食べて行きますか」

「違うだろう?」

 

 一歩、彼女は京太郎の傍へと近寄る。京太郎は若干怯えた態度を見せ、

 

「ど、どうしました?」

「折角二人きりなんだ」

 

 彼女の指先が京太郎の頬に触れる。

 

「えっ」

「労いくらいはくれてやらないとな」

「……っ!」

 

 二人の顔が近づいてゆく。唇と唇が触れ合いそうになる。

 煌は激しく動揺した。知人の接吻など見たことがあるわけがない。京太郎が後退るよりも僅かに早く、煌は足を踏み出してしまった。その先にあったのは――木の枝だった。

 

 ぱきり、と小枝を踏み折る音が静寂を打ち破る。

 しまった、と煌が後悔するのと同時、

 

「ようやく隙を見せたか」

 

 女が、したり顔でこちらを向く。

 

「出てこい」

「……はぁ」

 

 観念するしかなかった。相手のほうが、二枚も三枚も上手であった。

 木の陰から、煌は姿を現す。

 

「どうも、こんにちは」

「は、花田先輩っ?」

「出歯亀の中に子ネズミが紛れているかと思ったが――なるほど、東帝の部員か」

「いやはや、やられました」

 

 半ば睨み合う形で、煌は彼女と対峙する。

 

 ――煌たちの世代で最強の女子高生と言えば、まず挙がるのが宮永照の名前だろう。正に圧倒的、十代の雀士としては間違いなく規格外だった。プロとしてはまだ若輩でありながら日本代表に選出されるなど、第一線で活躍を続けている。

 

 昨年度まで高校生だった実妹の宮永咲もまた、同じ尊称で呼ばれていた。彼女も今年度からプロ入りし、三人のスーパールーキーとして数えられ、四月に華々しいデビューを飾った。

 

 では、当代最強の大学生は誰かというと、ある程度意見は分かれる。確かな実力を持つ高校生雀士たちは卒業後プロ入りするのが主流ではあるが、全員が全員というわけではない。初めからプロになるつもりのない者、大学に進学して勉学に励みたい者千差万別だ。必然、毎年優れた雀士たちが大学に進学し鎬を削り合っている。

 

 入学して間もない一年生を除けば、神代小蒔、荒川憩、天江衣、清水谷竜華、弘世菫――

 

 そして、忘れてはならない人物がもう一人。煌と同じ関東リーグに所属する、三橋大学の絶対的エース。

 

 彼女の名は、辻垣内智葉。

 

 三年前煌も出場したインターハイ、世界レベルの留学生たちが集まった東東京・臨界女子高校において、エースを務めた唯一人の日本人である。

 

「まさか貴女とこんなところで会えるとは思いませんでしたよ……!」

 

 不敵に微笑む辻垣内智葉を前に、煌は精一杯の笑顔で応えた。

 

 

 ◇

 

 

「先日祖父が入院してな」

 

 澄まし顔で紅茶に口をつけながら、智葉は事情の説明を始める。

 

場所は移されファミレスの隅の席、智葉の隣に京太郎、向かいに煌が座っていた。――傍から見れば、浮気の末の修羅場だろうか。煌は若干の居心地の悪さを覚える。

 

「自分が死ぬ前に、私の婿になる男を見つけると言ってきかないんだ。余計なお世話だが中々強引な人でな。全く、後三十年は生きられるだろうに。だが、上手く躱す手も見当たらなかった。――そんな折、出会ったのがこいつだ」

 

 ぱん、と智葉は京太郎の背中を叩く。

 

「どういうことですか」

 

 煌の問いかけは、京太郎に向けられたもの。彼は気まずそうに顔を背けながら、答えた。

 

「ゴールデンウィークの初日、立ち寄った雀荘に辻垣内さんが――」

「智葉と呼べと言っただろう。あれだけ練習させたのに、気を抜くな」

「……智葉さんがいたんです。そのとき智葉さんは、他のお客さんに絡まれてて。店員さんが駆けつける前に、ちょっと割って入ったんです」

「あの程度は私一人で対処できたが、その男気を買わせて貰った」

 

 智葉は嬉しそうに微笑む。それで、煌は大体察した。

 

「須賀くんを、恋人に仕立て上げたわけですね。それで今日、そのお祖父さんと会ってきたと」

「そういうことだ」

 

 無理矢理見合いをさせられるくらいなら、自分で恋人を作ったと紹介する。分かりやすいくらい、古典的な手だった。現実で見聞きするのは初めてだったが。京太郎から伝わるぎこちなさの理由も、理解できた。

 

「随分と手が込んでいましたね。駅からずっと手を握っているなんて、まるで本当の恋人のようでしたよ」

「祖父が差し向けた監視の目があるからな、油断はできない。それに、実際に紹介するまで『らしく』振る舞えるよう仕込ませて貰った」

 

 全く気付かなかった。

 

「そ、そこまでやるんですか」

「やる人だ。今は離れているが、ここでの会話は気付かれないだろう」

「そうですか……」

 

 頷きながら、煌はようやく安心する。何はともあれ京太郎の不審な行動には事情があった。ほいほいと何でもかんでも引き受けてしまうのは頂けないが、部員に悪い報告をせずに済む。

 しかし、京太郎も人が悪い。

 

「偽の恋人役をやっているというなら、そう言って下さいよ。とても心配したんですからね」

「ご、ごめんなさい花田先輩。それが、その……」

 

 京太郎の声が、尻切れ蜻蛉になる。煌は訝しげに、眉根を寄せた。何やら様子がおかしい。

 

 そんな京太郎の肩に腕を回し、彼を引き寄せながら智葉は宣った。

 

「ちょ、智葉さんっ」

「一つ訂正させて貰おうか」

「な、なんです?」

「京太郎は偽の恋人役ではない。歴とした私の恋人だ」

 

 開いた口がふさがらない、とはこのことか。

 ゆっくりと、煌は京太郎に向き直る。

 

「須賀くん……? どういうことですか……?」

「いやっ、そのっ、これには事情があってっ」

「事情とは、何ですか?」

「う……」

 

 ことここに至っても、京太郎は言葉を濁す。煌はしびれを切らしそうになり、寸前、智葉に止められる。

 

「あまり虐めてやるな。私と京太郎は、取引を交わしただけだ」

「取引、ですか。一体それはどういう……?」

 

 煌の疑問符に、智葉は嗜虐的な笑みを浮かべた。

 そして口にした単語は、

 

「――麻雀仮面」

 

 煌の表情を強張らせるには、充分だった。

 

「先月、この周囲で猛威を振るった謎の雀士――だったな。うちの部員も世話になった。ふざけた名前だが、実力は確かなようだ」

「……何が言いたいんですか?」

 

 訊ねつつ、煌は予感がしていた。彼女は全て、察していると。

 

「リーグ戦が開幕して、あの園城寺怜が東帝に入学していたと知ったときは私も驚いたよ。二年の間、どこで何をしていたかは知らないが結構なことだ」

 

 さて、と一旦智葉は言葉を切る。

 

「麻雀仮面との対局だが、うちの部員が牌譜に起こしてくれてな。その打ち筋にどこか既視感があったんだが――ようやく分かったよ」

 

 彼女ははっきりと、核心を口にする。

 

「麻雀仮面は、お前のところの園城寺怜なんだろう?」

 

 今更煌が否定したところで遅い。この状況が、既に京太郎が認めてしまったことを示していた。項垂れる彼を、しかし責める気にはならない。煌は彼の選択を察した。

 

 散々暴れ回った麻雀仮面が、東帝の麻雀部員と知れればどんなトラブルが起こるか分かったものではないのだ。

 

「言っておくが、黙っておいてやるなんて安い脅迫ではないぞ。火消ししてやると言ったんだ、麻雀仮面についての全てを」

「で、代わりに自分の恋人になれと」

「噂が沈静化するまでの間、という条件付きだがな」

 

 煌は、瞼を閉じる。漏れ出そうになる溜息を抑え、心を落ち着かせる。

 

「須賀くん」

 

 呼びかける相手は、京太郎。彼は頭を下げてくる。

 

「……すみません、迷惑をかけて」

「いえ。これは麻雀部全員の問題です。責任を須賀くん一人に押し付けてしまった」

「花田先輩……」

 

 改めて、煌は智葉と視線をぶつけ合う。

 

「須賀くんを返して貰います」

「正当な取引の結果なんだが」

「不当です。私が認めません。それに、貴女の用件はもう終わったんでしょう?」

「まだ半ばと言ったところだ。ここで別れようものなら疑われる」

 

 いやに京太郎に拘る。だが、煌も引き下がれない。二人は半ば睨み合う形となる。

 

「こういうのはどうだ。お前も雀士だ、麻雀でお前が私に勝ったら京太郎は返してやる。負けたらお前も京太郎と一緒に私のために働いて貰う。――東帝の女探偵は、有能と聞いている」

 

 折れたように見えて、実質的な拒絶だ。

 

 花田煌では、辻垣内智葉には勝てない。

 格の違い、高校時代から開いていた埋めようのない差。煌は自身が、平凡を逸脱する技量を持っていないと知っている。対する智葉は、今からでも世界に飛び出し戦える雀士だ。

 

 見えた結果。

 歴然たる実力差。

 

 だがそれは、

 

「私が引き下がる理由に、たり得ません!」

 

 煌はむしろ笑顔を浮かべて、宣言する。智葉と京太郎は、揃って呆気にとられた。

 

「後輩が体を張って麻雀部を守ろうとしたんです。ならば、私もそのすばらな覚悟に応えるまで!」

 

 彼女の姿に、京太郎は見惚れながら呟いた。

 

「か、かっけー……」

「その覚悟や良し」

 

 智葉もまた、満足気に頷く。

 

「近くに雀荘がある、行こうか」

「――行かせへん」

 

 そこに割って入った四人目の声。いつの間にかテーブルの傍まで近寄ってきていたのは――

 

「恭子先輩っ?」

「末原先輩!」

 

 東帝麻雀部部長、末原恭子だった。胸元で腕を組み、見下ろすのは辻垣内智葉。同期に当たる二人は、ご多分に漏れず高校時代からの知人である。だが、清水谷竜華や弘世菫と言った他の部長級ほどの縁はない。敵愾心を抱くほどではないが、仲の良い友人同士でもない。

 

「ど、どうしてここにっ?」

「煌ちゃんに何かあったら困るから、悪いけど二重尾行させてもろてたんよ。事情は一緒に聞かせて貰ったわ」

「用意周到だな」

「当然の処置や」

 

 恭子は顎でしゃくって、煌たちを促す。

 

「煌ちゃん、須賀。帰るで」

「待て。話を聞いていたのなら分かるだろう。今の京太郎は――」

「そんなん無効や。知ったこっちゃない、下らん勝負に乗る必要なんかないわ」

 

 ばっさりと切り捨てる恭子に、煌も京太郎も唖然とする。

 

「良いのか、麻雀仮面の件は」

「触れ回りたいのなら触れ回ればええ」

 

 一切の迷いなく、恭子は言い切った。

 

 

「何があっても、みんなはうちが守る。そんだけや。面倒事には慣れとる」

 

 

 すばら、としか煌には言えなかった。流石我らが部長だと、拍手を送りたくなる。これには智葉も二の句を継げないようだった。

 やがて彼女は、くつくつと笑い、

 

「私の負けだな」

 

 意外にもあっさりと、降伏した。

 

「安心しろ、初めから吹聴する気はない。だが、私が気付いたと言うことは他にも気付いた人間がいるかも知れない。気を付けろ」

「ご忠告痛み入るわ」

 

 二人の間で散る火花が、煌にははっきりと見て取れた。だが、どうにかこの場は収まったようだ。京太郎と二人で、安堵の息を吐く。

 

 それから四人はファミレスを出る。京太郎の腕はがっちりと煌が掴み、智葉と距離を取らせていた。

 

「――らしくないな」

 

 別れ際、智葉に声をかけたのは恭子だった。

 

「どういう意味だ」

「恋人役を頼むにしても、あんたが人の弱みにつけ込むような真似する人間には見えへんかったからな」

「ああ」

 

 智葉は納得したように頷き、それから、

 

「正直言って、祖父の件は方便みたいなものだ」

「なんやと?」

「初めから、個人的に京太郎に興味があったんだ。そのために多少強引な手を使ってしまったのは謝ろう」

 

 恭子の追求が、ぴたりと止まる。京太郎もまた「えっ」と困惑の声を上げた。智葉はしてやったり、という風に微笑んでから、

 

「昨年の秋だったか。うちの男子麻雀部が特待枠を検討していてな、男子インハイ個人決勝の牌譜が部室に置いてあったんだ」

 

 智葉はしっかりと京太郎の瞳を見つめ、言った。

 

「――痺れたよ。はっきり言って大した才覚があるようには思えない。しかし、だからこそか。持てる力を全て使って戦う情景が頭に浮かび上がった。女子の牌譜を見ても、中々ないことだ。今月出会えた偶然には、感謝している」

 

 厳しさの塊にしか見えない智葉が、他人を賞賛している。煌はびっくりして、全く口を挟めない。それは恭子や京太郎も同じようだった。

 

「お前が三橋に来てくれれば、また面白いとも思ったんだが。今更言っても詮無きことか」

 

 だが、と智葉は言葉を継ぎ足す。ここからが重要だと、言わんばかりに。

 

「余計なお世話かも知れないが。――お前は戦う人間だ、京太郎」

 

 その言葉は、刃と同じ鋭さを伴っていた。切り裂いたのは、京太郎の心か。あるいは別の誰かのものか。

 

「マネージャー業などでその腕を腐らせるな。もっと打て」

「……はい」

「またいつでも連絡してこい。麻雀とデートなら付き合ってやる」

 

 冗談なのか本気なのか判別できない捨て台詞を残して、智葉は去って行った。煌に呼びかける気力はなく、それは恭子たちも同じようで。

 小さくなっていく彼女の背中を、いつまでも見つめていた。

 

 

 ◇

 

 

 怜の部屋に戻ってきた三人は、きちんと事情を説明した。結果は当然、全員が謝罪し合うという展開。特に怜は相当落ち込み、京太郎に何度も謝っていた。京太郎は京太郎で、宥と尭深に怒られてもいた。

 

 しかしながら、彼女たちを心配する必要はさほどないと煌は思う。

 

 以前京太郎が欠席した宴会を仕切り直す運びとなり、怜宅はあっという間に宴会場と姿を変える。一番端の部屋、隣は京太郎宅ということもあり、飲めや騒げやと皆鬱憤を晴らしていた。反省はしても、引き摺りすぎはしないだろう。

 

 酔っ払った宥がまず眠りに落ちると、心労が溜まっていたのか尭深も同じくベッドの虜になっていた。

 

 家主の怜も、先週から解禁されたお酒に口をつけてすぐに酩酊していた。京太郎の背中に体を預け、今は静かな寝息を立てている。

 

「花田先輩」

「なんですか?」

「今回は本当、色々手間かけさせてすみませんでした」

 

 半端に残った料理を片付けながら、京太郎が謝ってくる。煌はちょっと迷ってから、正直な気持ちを伝える。

 

「そうですね。かなり苦労させられましたよ。すばらじゃありませんでした。次からはちゃんと相談してください」

「うぅ……」

「でも――」

 

 煌は目を閉じて、

 

「いいってことですよ」

 

 優しく、言った。

 

「それが先輩というものです。それに、須賀くんは須賀くんなりに部活を守ろうとした。すばらなことです」

「……ありがとうございます」

 

 半ば惚けたように礼を言ってくる京太郎に、煌は肩をすくめて答えた。

 ひとまずは、こちらは良い。京太郎も怜も、ちゃんと折り合いをつけてくれるだろう。

 

 しかし煌は目聡く、新たに浮上した問題を見逃してはいなかった。

 部屋の隅で一人、ちびちびと飲み続けるのは――末原恭子。全くもって、すばらじゃない姿。彼女が何を考えているかは分からないが――まだ、問題は終結していないようだ。

 ――それでも、今日のところは。

 

「休ませて貰いましょうかね……」

 

 疲労に満ちた体をうんと伸ばし、煌は呟く。

 

 すばら探偵花田女史の事件簿に、「須賀京太郎浮気事件」と書き記される今回の事件は、こうしてひとまずの終局を迎えた。

 

 

 

                   Ep.5 すばら探偵花田女史のケースファイル

 




次回:Ep.6 末原恭子のアンビション
   6-1 気になる彼は、アンノウン


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Ep.6 末原恭子のアンビション
6-1 気になる彼は、アンノウン


 春季関東三部リーグを、東帝大学麻雀部は堂々一位で突破した。一時はどうなることかと冷や冷やしたが、戦績だけ見れば文句はない。このままの勢いで、週末の入れ替え戦も突破したいところだ。相手は二部リーグのチームだが、現状の戦力なら充分に勝ち目はある。

 

「先鋒は園城寺として、次鋒は誰がええかな」

「そうだねぇ」

 

 リーグ戦では、オーダーを自由に変更することができる。園城寺怜が加わった新体制において、恭子たちはいくつかのオーダーパターンを試した。丁度一コマ目が休講になった恭子と宥は部室に集まり、リーグ戦の結果を踏まえ、入れ替え戦のオーダーを検討していた。

 

「私は煌ちゃんが良いと思うな」

「理由は?」

「煌ちゃんが次鋒にいると、怜ちゃん生き生きしてる気がするの。煌ちゃんも、怜ちゃんに応えようっていつもより力を発揮できてるみたい。……精神論みたいで、だめかな?」

「そんなことあらへん。うちもこのツートップはええと思うてたから」

 

 理を重視する恭子であるが、感情や心構えを蔑ろにはしない。むしろそれで発憤できるなら利用するくらいだ。

 

「同じ卓で共に強敵に挑んだ絆、かな」

「なんや、あんまり宥ちゃんらしくない言い回しやな」

「京太郎くんがそう言ってたよ」

 

 メモをとっていた恭子の手が、ぴたりと止まる。

 

「恭子ちゃん? どうしたの?」

「……いや、なんでもあらへん」

 

 恭子は頭を振って、話を戻す。

 

「中堅はどうしよか。やっぱりこのポジションやと尭深ちゃんが安定感あると思うんやけど」

「そうだね。高校時代の経験を活かして貰いたいし」

「となると、残りはうちと宥ちゃんで担当するわけやけど――」

「大将は恭子ちゃんしかいないよ」

 

 断言されてしまい、恭子は鼻白む。

 

「な、なんで?」

「やっぱり最後に恭子ちゃんがいると安心感があるから。みんなもいつもそう言ってるよ」

 

 褒められて悪い気はしない。それに恭子も、団体戦の大将なら経験は豊富である。勝利と敗北のどちらも、だ。

 

「それじゃ、副将は宥ちゃん、大将はうちで」

「うん。京太郎くんも大将は末原先輩だって言ってたよ」

 

 再び、恭子の手が止まった。自分の名前が中途半端な状態で書き記される。

 

「恭子ちゃん?」

「う、うん?」

「京太郎くんと、何かあったの?」

 

 何の衒いもなく、宥が訊ねてくる。同時にびくりと恭子の肩が跳ねた。

 しかし恭子は、

 

「……何もあらへん」

 

 そっけなく、否定した。それ以上、追求を許さないという顔つきで。微かな溜息を残して、宥は引き下がる。

 

 全く、自分でもどうかしていると思う。

 けれども今は――その後輩の男子の名前を聞くだけで、心がざわつくのだ。

 

「とりあえずこれでええやろ。後はみんなの意見聞こか。……ごめん宥ちゃん、うち次の講義に行くわ」

「あ、え……うん、行ってらっしゃい」

「ほんまごめんな」

 

 逃げるように、恭子は部室を出た。

 講義棟に向け歩きながら、彼女は彼のことを思い返していた。

 

 あの日――麻雀仮面と戦って、彼と共に帰ったあの夜。別れ際に聞かされた一言は、激しく恭子を動揺させた。頭の芯まで熱を帯び、まともに思考もできなかった。結局疲れて自然と眠ってしまうまで、ベッドの上で身悶えた。

 

 翌日から、彼との距離の取り方がわからなくなった。自分でもつっけんどんな態度をとってしまったと思う。

 

 しかし、園城寺怜の入部や彼女の挑発的行動、さらに合宿での共同生活を経て、ある程度は元通りになった――少なくとも、恭子はそう思っていた。

 

 リーグ戦に集中していたというのも、あった。他大学の対策について議論を交わし合っている内に、一ヶ月前にあった出来事など忘れてしまったと、そんな風に振る舞えるようになった。彼は彼で、何も気にしていないように見えた。それがまた腹立たしいが、恭子の心の安寧には一役買った。

 

 だから浮気事件のときも、恭子は冷静に部長としての役割を果たせた。彼を守ることができたと、確信を持って言える。

 

 けれども。

 

 あの事件の最後、辻垣内智葉が彼に向けて残した言葉。

 

 ――マネージャー業などでその腕を腐らせるな。

 ――お前は戦う人間だ。

 

 思い出すだけで、俯き、唇を噛んでしまう。

 

 恭子の足は講義棟まで辿り着かず、道中のベンチで腰を降ろしてしまった。鞄の中から、取り出すのは一枚の牌譜。強い力で握りしめすぎて、あちこち皺が寄ってしまっている。インターネットでダウンロードしてから、もう既に何度も見た。

 

 一年前の、インターハイ男子個人戦決勝。

 

 彼がその卓で戦ったのは、知っていた。だが、戦い自体は知らなかった。四月は部員集めにかまけて、彼のことを知ろうとしなかった。五月に入れば、リーグ戦に集中していた。そうやって、彼から目を背けていた。

 

 一手一手から、血が滴るような意地と信念が感じられる。確率や運に見放されながらも、腐らずに勝機を窺うその姿勢。最後に勝負を分けたのは、僅かな差。それを実力と言うには、あまりに惜しい。勝者を貶めるつもりはないが、この卓で誰が一番輝いていたかと問われれば、皆口を揃えるだろう。

 

 ――そんなことも、知らなかった。

 

 知らずに恭子は――浮かれていた。あの日、どうしようもない恥ずかしさの中で、確かに喜んでいる自分がいた。

 

 溜息が出てしまう。辻垣内智葉の言うとおりだ。彼は、戦う人間だ。団体戦が前提のインカレにも出られない、麻雀不毛の地で骨を埋めて良いはずがない。もっと相応しい場所が、もっと彼が成長できる場所があるはずだ。

 

「……ほんま、あほやな」

 

 この二ヶ月でいつの間にか、恭子は彼に甘えていた。高校で仕込まれた雑用技術に、調整相手としては充分な実力。人員が常に足りない東帝大学麻雀部において、魅力的な人材であったことは間違いない。

 

 しかしそれは、間違いだったと。

 彼のためにならないと。

 

 悔恨の呟きは、五月の曇り空に吸い込まれる。

 じきに、雨が降り出しそうだった。

 

 

 ◇

 

 

 結局二コマ目以降は自主休講し、恭子は図書館でレポートを書いていた。一度、麻雀から離れたい気分だった。利用者はそれなりに多いが、恭子が拠点とする中央図書館は東帝大学内でも最も大きな図書館だ。広い机に資料を存分に広げて、恭子はレポート用紙にペンを走らせる。

 

 ふと、視界に影が差した。

 

「――末原さんって、先生になりたいん?」

 

 顔を上げるとそこにいたのは、恭子の教育概論のテキストを眺める園城寺怜だった。すぐに恭子はレポート作成に戻り、そっけなく答える。

 

「教育学部やからな」

「ふぅん。小学校?」

「高校や」

 

 許可など出していないのに、怜は恭子の向かいの席に座る。恭子はこれ見よがしに溜息を吐いて、ペンを机上に置いた。

 

「講義はどうしたん? 一年はこの時期全コマ埋まっとるやろ」

 

 ひとまず自分のことは棚上げし、先輩として後輩をたしなめる。

 

「私病弱やから……」

「病弱アピールやめい」

「あ、今んちょっと竜華に似とるわ」

 

 そんな褒められ方しても嬉しくない。

 

「何の用や」

 

 頬杖をつき、資料を捲りながら恭子は訊ねる。今、彼女に優しく接することができる自信がなかった。ついつい、ぶっきらぼうな態度をとってしまう。

 

 しかし、

 

「ごめんなさい」

 

 真摯な声でかけられたのは、謝罪の言葉だった。はっと、恭子は視線を元に戻す。しっかりと、怜が頭を下げていた。四月からまた伸びた彼女の髪が、はらりと机に落ちる。

 

 恭子は困惑を隠せず、

 

「何や何や、急にどうしたんや」

「麻雀仮面のことで、迷惑かけたやろ。辻垣内さんにバレて、それでも庇ってもろて。ちゃんと、謝ってなかったやん」

「……あほか」

 

 今更な話だった。

 

「あんたを入部させた時点で、そういう問題もひっくるめて引き受けるつもりやったんや。気にする必要なんかあらへん」

「せやけど――」

「押し問答する気もない。同い年でもうちは先輩で部長、あんたは後輩でヒラ部員や。口答えは許さへんで」

「ここって、そんな体育会系やったっけ?」

「今決めた」

 

 強張らせていた肩から力を抜き、怜は微笑んだ。同性の恭子から見ても、可愛い。やはり彼も、こういうタイプが好みなのだろうか。

 

「甘えさせてもらうわ、先輩」

「言っとくけど、麻雀は甘えさせへんで。入れ替え戦も先鋒で稼いで貰うから」

「分かっとる」

 

 はっきりと怜は頷き、それから彼女は首を傾げた。

 

「せやけど、リーグ戦から思てたんやけど、私がずっと先鋒でええん? 他の子らは色々オーダー変えてたのに」

「あんたはプロ志望やろ」

 

 ペン先で怜を指差し、恭子はつっけんどんに言う。

 

「伝統的に大将や中堅にエース置く学校もある。作戦で副将に置くとこもある。けど、なんだかんだ言うてエースと言えば先鋒や。他校のエースと鎬を削って実力を磨くならここしかない。マスコミも一番注目しとる。何もアピールせずにプロになろうなんて甘いやろ。そう考えたらあんたが適任や」

「……びっくりしたわ」

 

 今度驚いたのは、怜のほうだった。

 

「そこまで考えてくれてたんや」

「あほか。あんたは他の相手全員プロを目指しとるような場所で、勝ち続けなあかん。優しさで先鋒にあんたを据えたんとちゃうで」

 

 恭子はそっぽを向きながら言った。

 

「私頑張るわ、末原さん」

「頑張ってもらわなうちが困るわ」

「ん」

 

 雨が、降り出した。

 急速に雨足が強まってゆく。二人の間に、しばらく沈黙の帳が落ちた。元々静かな図書館の中は、地面を叩く雨音だけに支配される。

 

「須賀は」

 

 手元の中でペンを回しながら、恭子は訊ねる。その疑問を口にするには、それなりの懊悩があった。

 

「須賀は、どうしたん? 大学やといつも一緒やろ」

「反省中やから、ちょっと距離置いとる。今回は迷惑かけすぎたから」

 

 しゅん、と怜は俯く。

 現在の東帝大学麻雀部において、麻雀仮面の正体は弁慶の泣き所である。それが露見しないよう、誰にも相談せずに――あるいはできずに――京太郎は文字通り体を張っていた。原因を作った怜としては思うところがあるのだろう。

 

「今須賀を一人にしとくのも心配とちゃう? また辻垣内がちょっかい出してくるかも分からへんし」

「その点は心配ないわ。少なくとも大学の外は尭深さんが一緒におるから」

「それなら心配あらへんな」

「やろ」

 

 満足気に怜は頷いてから、思い出したように質問を投げかけてきた。

 

「末原さん、きょーちゃんと何かあったん?」

「な、なんや急に」

「急にでもないやん、きょーちゃんの話やったんやし。……末原さん、こないだの一件からえらいきょーちゃんのこと気にしとるやん」

 

 宥に続いて、怜にまで彼とのことを訊かれてしまった。――いや、それほど分かりやすいということか。恭子は自分にうんざりする。

 

 じっと自分を見つめてくる怜の瞳に宿る光は、どこか覚束ない。しかし未来を見通すという彼女の目は、半端な嘘も許してくれそうになかった。

 結局恭子が選んだのは、黙りこくることだった。付き合いの長い宥にも話せないことを、怜に打ち明けるのは中々ハードルが高かった。

 

 怜は苦笑して、軽く肩を竦める。

 

「その気になったら、話してな」

 

 実にさっぱりとした態度だった。反面、恭子はうじうじしている自分がみすぼらしく思えた。

 

「……あんたは、須賀のこと好きなんやろ」

「な、なんなん、いきなり直球やな」

「それやのに、他の女が須賀にかまけてる話なんておもろないんとちゃう?」

 

 その質問に、怜はあっさりと首を縦に振った。

 

「うん、おもろないよ。きょーちゃんが幸せならそれで良い、なんて達観したこと絶対言えへんし」

「なら、なんでうちのこと心配してるん?」

「私は誰かに助けられて生きてきたから」

 

 迷いなく、怜は言った。団体戦で迷惑をかけられたら困るとか、友達としてだとか、お為ごかしを言うだけならいくらでも言えただろう。

 

「せやからたまには誰かを助けへんと、割に合わへんって。そう思ただけやよ」

 

 だからこそ、それが彼女の本心だと恭子には分かった。いつものらりくらりとして、どこか冷めたところのある人間だと、思っていた。

 

「あんた、そんなキャラやったっけ?」

「きょーちゃんの影響かも」

 

 そう言って微笑む彼女は、実に幸せそうだった。全く、羨ましい。

 ふぅ、と恭子は小さな息を零してから、

 

「気持ちだけ受けとっとくわ」

「ん」

 

 そろそろ二コマ目が終わりそうな時間だった。学食が混み合う前に行こうと、恭子は広げていた筆記用具を片付け始める。

 

「そうや、末原さん」

 

 怜に呼び止められ、恭子は首を傾げる。

 

「今度はどうしたんや」

「こないだ尭深さんと話しててな、女子会やりたいなって話になったんや。入れ替え戦前の決起集会ってことでここは一つ、部長の許可を頂きたく」

「ええー? 本気?」

「もちろんや」

 

 いつもの変化に乏しい彼女の表情には、いくらかの強い決意が込められていて。

 恭子は頷く他、なかった。本音を言えば、飲みたい気分だった。

 

 

 ◇

 

 

「――それで、どうして私が呼ばれるんだ」

 

 空になった空きビール缶を机に荒く叩きつけながら、弘世菫は東帝大学麻雀部女子部員一同に文句を付けた。反射的に煌が頭を下げる。

 

「すみません、わざわざ来て貰って」

「いや、花田は良いんだ。君も巻き込まれた口だろう。――で、尭深、どうして私なんだ」

「末原先輩たちも飲める相手が一杯いたほうが楽しいと思って……」

「何があっても呼ばれるんじゃないか!」

 

 怒り狂いながらも、菫は次のビール缶に手を付ける。彼女も色々と鬱憤が溜まっているのか、今日はまたやけにテンションが高い。尭深はやはり、悪びれる素振りもなく、湯飲みを両手で握っていた。ここの先輩後輩の仲も面白い、と恭子は笑ってしまう。

 

「宥ちゃん、ごめんな急に大勢で押しかけて」

「ううん、一杯お客さんが来てくれてあったかいから嬉しいくらいだから」

 

 今宵の宴会場は、宥の下宿先。それなりに広くて良い部屋だが、女子麻雀部の面子に菫を加えた六人が集まると流石に手狭である。それでも皆さほど気にする様子もなく、思い思いに歓談していた。

 

 テーブルの上に広げられたつまみに手を伸ばしながら、恭子はアルコールを体に流し込む。時期が時期なだけに飲み過ぎは禁物ではあるが、今日のペースは速かった。

 

「やっぱりビールはあんま美味しないわ」

 

 つい最近お酒が解禁になった怜が、ビール缶を片手に文句を垂れる。

 

「子供やな、園城寺は」

「あっ」

 

 恭子はひょいとそれを奪い取り、口につける。むぅ、と何か言いたげな視線が送られてくるが無視。宴会が始まって三十分、早くも恭子はできあがり始めていた。

 

「菫のところはええなー、入れ替え戦なくて。次のおっきな大会はインカレやろ?」

「馬鹿を言うな、リーグ戦二位だぞ二位。確かにうちも本調子ではなかったとは言え、辻垣内の調子が良すぎだ。この勢いのまま来られると思うと先が思いやられる」

 

 菫のぼやきに、怜がぎらりと目を輝かせる。

 

「辻垣内さんはほんま一回叩き潰さなあかんな」

「な、なんだ園城寺。奴に恨みでもあるのか」

 

 困惑する菫の肩を、恭子は叩いておく。その辺は、あまり深く突っ込まないほうが良い。

 

 そのまま宴会は進み、成年組は充分に酔いが回ったところで、

 

「今日は女子会と言っていたが、須賀くんは無視していいのか」

 

 実にシンプルな質問が、菫からなされた。ぴくりと、恭子の指先が震える。

 

「今日須賀くんは自宅謹慎です……」

 

 静かに答えたのは、監視役の尭深だった。菫はぎょっとして、

 

「き、謹慎? 一体どうしたんだ?」

「……部外秘ですので」

「そ、そうか」

 

 藪蛇だと思ったのか、菫はその点について深く追求しなかった。恭子も少しほっとしながら事態の推移を見守っていたのだが、

 

「そう言えば――」

 

 次に彼女は、割とクリティカルな爆弾を投げつけてきた。敢えて東帝の麻雀部員が触れてこようとしなかった爆弾を。

 

「そう言えば、恭子は彼のことをどう思ってるんだ?」

 

 その質問の意図を、確かめるほど誰も初心ではない。

 口にお酒を含んでいれば、吹き出していた。事実、あちこちから咳き込む声が聞こえてきた。顔を真っ赤にして――既に赤くなっていたが――恭子は菫に抗議する。

 

「な、なんやいきなりっ」

「いきなりも何も、この間一緒に麻雀仮面と戦ったじゃないか。そのとき随分と彼を気に入っているというか、買っているようだったからな。私と彼が話をしていると、割り込んで来たし。何かあるのかと勘ぐるのも、当たり前だと思うが」

 

 あかんこいつ完全に酔っとる、と恭子は焦った。素面ならもっとこちらを慮ってくれるはずだ。それなのにこの直球ぶり。しかも、他の部員が聞いている中で。

 

 はっきりとは誰も口にしないが、「気になる」という視線が四方八方から寄せられる。恭子は頬を引き攣らせ、この状況をうやむやにしてしまおうとするが、

 

「どうなんだ?」

 

 すわった目で訊ねてくる菫に、阻まれる。

 

「どう、思ってるんだ?」

「……なんも思っとらへんっ。ただの後輩や!」

 

 必死になって、恭子は告げる。しかし菫はやれやれといった様子で、

 

「なんだ、好きな男もいないのか。寂しい奴だな」

 

 あんたにだけは言われたないわ、と恭子は文句を言いたかったが、何故か出てきたのは売り言葉に買い言葉。

 

「気になってる男くらい、おるわっ!」

 

 一斉に、部屋の中がざわめいた。

 

「どどどどどなたですかっ!」

「恭子ちゃんそれほんとっ?」

「詳しくお願いします」

「え、ほ、ほんまっ?」

 

 麻雀に青春をかける少女たちと言っても、色恋沙汰に興味がないわけではない。むしろ大ありだ。飲んだ組も、飲んでいない組も、一種の異様な空気に中てられ気分が高揚している。恭子に詰め寄るのも無理はなかった。

 

「誰なんですか! 名前はっ?」

 

 嬉々として訊ねてくる煌に向かって、恭子は顔を背けながら、

 

「……知らへん」

「は? し、知らない?」

 

 恭子はそうや、と半ばふんぞり返って答える。

 

「名前は、知らへん。どこの人かも知らん」

「そ、それじゃあ顔は? どんな人ですか?」

 

 その質問も、同じく。

 

「知らへんっ。顔も見てないっ」

 

 本当だった。嘘は言っていない。名前も顔も知らない。

 けれども恭子は確かに、彼と会った。彼は確かに、あの夏、この東京にいた。

 

 それでも当然、疑惑の視線はあちこちから飛んできて。

 

「ちゃ、ちゃんと直接話したからっ。ネットの出会い系とかちゃうからっ」

 

 一体自分は何を言い訳しているのだろう。何を説明しているのだろう。恭子は疑問に思いながらも、繰る言葉を止められない。

 

「一から詳しく教えて下さい!」

「そうだそうだ、教えろ」

「うう……」

 

 みんなに取り囲まれた恭子に、もはや逃げ場はなく。語り尽くさねば、許して貰えない状況になっていた。

 

 ――始まりは、きっかけはどこにあるのか。

 思い返してみれば。

 

 全ては、進路の選択から始まっていた。

 

 

 




次回:6-2 隣の彼


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6-2 隣の彼

 末原恭子、十八歳。高校三年生。

 最後のインハイを終え――残念ながらコクマの選手には選出されず――彼女は進路選択に悩まされていた。正確に言えば、高校生活の半ばからずっと悩んでいた。

 

 今更、麻雀から離れた道を選ぶつもりはなかった。

 

 しかし、プロになれるのは本当にごく僅かな雀士だけだ。恭子はそのことをよく理解していた。身近な人間で言えば、愛宕洋榎。彼女の非凡なる才覚は、十二分にプロの世界で通じるだろう。事実、既にいくつかのチームから打診が来ている。

 

 残念ながら、恭子にそれはない。名門姫松高校を裏方から支えた自負はあるが、全国レベルの選手としては際立った結果を残せなかった。そこが自分の限界だと諦観するのは難しかったが、さりとて現実を覆せるわけでもない。

 

 麻雀そのもので食べて行くことはできない。けれども何かしらの形でずっと付き合っていきたいと、彼女は考えていた。

 

 漠然としながらも、なりたいものはあった。

 それは、指導者としての道だった。

 

 敬愛してやまない前監督、とぼけながらも実は有能な現監督。自らの力を十全に引き出せたのも、あの人たちがいたからだと恭子は思う。気付かぬ内に、多くのものを受け取っていた。

 

 プロになれない自分が高校チームの監督を務めるなら、教員として顧問になるしかない。そう考えれば、自然と志望する進路は決まっていた。

 

 当然、姫松のような名門校は望めないだろう。そういう学校は、外部から有能な監督を呼び込むものだ。

 

 しかし、だからこそ恭子はやり甲斐があると考えた。牌に愛された子、魔物と呼ばれた少女たち――彼女たちは、やすやすとその他大勢の雀士の心を折る。諦めさせてしまう。恭子は全国の舞台で身をもって実感した。圧倒的な壁を前に挫けることを、どうして責められようか。

 

 それでも恭子は知っている。

 

 ――立ち向かう術はあることを。

 ――胸に勇気を灯す意義を。

 

 凡人だからこそ、伝えられるものがある。伝えたいものがある。きっと、それらに助けられる者たちがいるはずだ。

 

「大学に進もうと思てるんです」

 

 麻雀に関わることだ――不承不承ながら、恭子は進路相談の教師だけでなく当時のチーム監督、赤阪郁乃にも相談を持ちかけた。

 

「麻雀強くて、できたら教育学部に力入れとるところで」

 

 プロを経由しないといっても、目指しているのは監督。実績はないよりあったほうがよっぽど良い。となればインカレで優秀な成績を残すのが常道だ。

 

「前から自分なりに色々調べてたんですけど、どこが良いのかよく分からんくて」

「せやな~」

 

 恭子が集めてきたパンフレットに一通り目を通してから、郁乃は訊ねてきた。

 

「なんで関西の大学ばっかなん~?」

「え、それは実家から近いから……」

「確かに女の子はあんまり遠く行くのは良くないかも知れへんけど~。初めから選択肢を減らすんも良くないと思うんよ~」

 

 む、と恭子は唸る。まともな意見だった。

 

「例えば関東リーグは間違いなく一番レベル高いで~。そういうところで自分を一から鍛え直すんもええんとちゃう~?」

「確かに、関東リーグは一番大学の数も多いですしね」

「それに、末原ちゃんの目標は人にもの教えられる立場やろ~? ずっと同じ場所でおるよりも、新しい場所に飛び出して見聞を広めといたほうがええと思うんよ~。外に出てったって経験と自信は身になるで~。いつかは独り立ちせなあかんねから~」

「……はい」

 

 彼女の言葉は、恭子の胸に突き刺さった。郁乃を相手に、素直に頷いたのは本当に珍しいことだった。

 

 それからも多くの人と相談した結果、恭子が第一志望に選んだのは、東京にある東帝大学だった。

 

 戦乱状態の関東リーグで古くから上位リーグで戦ってきた強豪であり、インカレでの成績も申し分ない。ここのところ成績に翳りが見えるが、好不調の波はどこにでもあるというもの。そもそも学校の名前に乗っかかるのではなく、自分が引っ張り上げるくらいの気概は必要だ。専攻したい学科もあり、申し分なかった。

 

 特待枠では学部を選べない都合上、恭子は一般入試で東帝を受験した。偏差値の高い大学で、元々成績の良い彼女ではあるが相当に勉強した。

 

 合格通知が届いたときには、少し泣きそうになった。

 

 これで麻雀に打ち込める。

 真っ直ぐ夢を追いかけられる。

 

 きっと、高校時代からのライバルと競い合うのだろう。はたまた、まだ見ぬ強敵と相見えるかも知れない。

 

 そのとき恭子は、そんな未来を信じて疑わなかった。期待しすぎれば裏切られるのが世の常だが、躍る心は止められない。誰が止められるというのだろうか。下宿先を決めるときなど、鼻歌が勝手に出てきていた。日用品の買い出しも、丸一日かけた。わくわくしながら、一人で眠る夜を過ごした。

 

 ――しかし、けれども、残念ながら。

 彼女の夢は、入学を果たした四月の頭から蹴躓いた。

 

 

 ◇

 

 

 広い部室に男女の区別なく集まったのは、八十名余の東帝大学麻雀部員たちだった。入学と同時、一昨日入部届を出したばかりの恭子もそこにいた。普段ならば打牌の音と論議の喧噪で包まれているであろうこの部屋は、しかし今は通夜のように静まりかえっていた。

 

 座る椅子にあぶれた恭子は、雀卓の傍に立っていた。近くには、同じく新入部員の女子が二人。気まずそうに顔を俯かせ、先程から一言も発さない。腕を組み、平然とした態度をとる恭子も内心穏やかではない。

 

 それは、先輩たちも同じことだった。いや、悲壮感はさらに上だ。これから聞かなければならない話は、どう転んだところで面白くはないのだから。

 

 ――重厚な音を立て、観音開きの扉が開かれる。

 

 部員たちは一斉にそちらを仰ぎ見た。座っていた者は立ち上がり、体を強ばらせる。

 部室に入ってきたのは一組の男女。それぞれ男子麻雀部と女子麻雀部の部長であった。一縷の望みに期待する視線が彼らに突き刺さる。恭子もまた、そうせざるを得なかった。

 

 しかしながら。

 宣告は、どこまでも非情であった。

 

「――休部。いや、実質的には廃部だ」

 

 前置きはなかった。それで彼は全ての力を使い果たしたかのように、動かなくなる。

 言葉を引き継いだのは女子部の部長。

 

「男子部も、女子部も。大学の決定です」

 

 反応は様々だった。落胆する者、怒る者、へたり込む者、部室を出て行く者、部員同士で諍いを始める者。

 

 誰一人として、困惑し狼狽える新入部員の恭子たちを気にかける者はいなかった。

 

 

 ――事の発端は、恭子が東帝大学に入学する以前にあった。

 

 ここ数年で、東帝の麻雀部は男女共に絶頂期と比較して翳りを見せていた。一部リーグの中では下位に甘んじ、二部リーグ上位校との入れ替え戦をどうにかこうにかしのぐ状況。次から次へと出てくる強豪校に高校生たちは目移りし、有望な新入部員の確保も容易ではなくなる。

 

 結果、入部にあたっては実力とともに素行も精査されていたはずが、段々とおざなりになっていった。悪い噂があろうが、人間関係に問題があろうが、優先されるのはあくまで雀力。そのとき麻雀部に漂っていた閉塞感を打ち破れる人材が、求められた。

 

 それが間違いだったと断言できるのは、全て終わった後だからだろうか。

 

 決して善良とは言えない人間たちが、東帝麻雀部に籍を置いた。彼らは――あるいは彼女たちは、徐々に部内で影響を強めていった。

 

 彼らは皆黒い噂は絶えず、人格にも問題があり部内で多くの軋轢を生み出した。しかし、雀力だけは人一倍あった。リーグ戦を始めとする対外試合でレギュラーを務め、部内では決して主流派ではないものの、東帝の顔となっていった。

 

 部内にも快く思わない人間はいた。しかし、あくまで噂は噂。馬が合わないのは確かだが、結果だけは出す彼らに堂々文句を言える者はいなかった。

 

 そのような原因が絡み合い、結局、外部には気付かれずにひっそりと、そして急速に彼らは悪行を重ねた。

 

 その筋の者を交えた賭け麻雀。

 公式試合での八百長疑惑。

 

 恭子が入学した翌日、それら全てが一気に噴出した。

 

 大学麻雀連盟は厳罰を求め、大学側はとかげのしっぽ切り。その他あらゆる意図が絡み合い、結論はすぐに下された。

 

 東帝大学麻雀部は、こうして廃部状態に追い込まれた。

 

 

 ◇

 

 

 自分の目が節穴だった。

 ただ、それだけのこと。

 

 恭子はすぐに割り切った。正確には、割り切るしかなかった。ひととなりも知らない、既に退学した人間を責めても仕方がない。責めたところで、結論は覆らない。どのみち、二度と会うことはないのだから。

 

 大切なのは、ここからどうすべきか。

 

 麻雀を諦めて大学生活をエンジョイしようなど、思いもしなかった。夢のため、インカレを目指すのは当然だった。

 

 麻雀部再建のため、まず恭子は先輩たちに働きかけた。

 

「一からやり直しましょう」

 

 けれども、返事は全て芳しくなかった。

 

 先輩たちは皆、既にうんざりしていた。悪徳者により様々な意味で麻雀部を荒らされ、周囲からは自分たちも同類とみなされる。低迷期にあった彼らは、麻雀自体への情熱もすっかり消え失せ、恭子の訴えかけに耳を貸さなかった。貰った助言は、一様に「諦めろ」。

 

 共に麻雀部に入った同期たちも、すぐに離れていった。僅か三日足らずの入部期間、事件には全く関わりのない恭子たちもまた、麻雀部員の一人と目されていた。あまりに理不尽な話だが、世間とはそういうものだ。さっさと縁切りし、入部自体なかったことにするのが利口なのは明白だった。

 

 孤立無援になった恭子だったが、ならば、と奮起する。

 頼る者がいなくても、自分一人だとしても、彼女は麻雀部を建て直すことを決意した。

 

 署名活動から始まり、大学側とも何度も話し合い、一般大会に参加しては好成績を収めてアピールする。どこまで効果があるか分からなかったが、やるしかなかった。

 

 賛同してくれる部員は中々集まらず、しばらく恭子は孤独な戦いを続けた。

 インハイにも出場経験のある松実宥と出会ったのは、偶然であった。彼女もこの大学に進学しているとは、思いも寄らなかった。宥も宥で、麻雀部に入るかどうか悩んでいる間に――中々腰が重い性格なのだ――事が露見してしまった。

 

 全く無関係の宥を巻き込むのも、恭子は気が引けた。しかしながら、宥は協力を申し出てくれた。宥にもまた、思うところがあったのだろう。

 

 二人になったものの、そこからの進展は中々なかった。

 

 大学側は麻雀部の復活に中々首を縦に振らない。周囲の色眼鏡も変えられない。苛立ちと焦燥ばかりが募ってゆく。リーグ戦に復帰できたとしても、ペナルティとして一番下の六部リーグから再スタートだ。一年後期の次節から復帰できなければ、恭子がインカレに出場できる目は消えてしまう。それも、ストレートにリーグ上位まで駆け上がらなければいけないのだが。

 今後続く後輩のため、というお題目では自分を誤魔化せなかった。

 

 夏になっても、状況に大きな動きはなかった。

 長い大学生の夏期休暇を、恭子は素直に喜べない。

 

 されど、高校の後輩たちはインハイ出場を決め、東京を訪れた。先輩として、応援しないわけにはいかない。

 

「末原先輩!」

「お久しぶりです!」

 

 手塩にかけて育てた愛宕絹恵と上重漫。

 今は名門姫松を牽引する立場となり、恭子が知っている二人よりもずっと立派になっていた。人として、雀士として、確かな成長を遂げていた。

 

 インハイ本戦でも大活躍し、清澄や阿知賀といった新鋭の活躍に押される古豪、という姫松の印象を見事払拭してくれた。そのこと自体、恭子はとても嬉しかった。

 

 一方で、歯に衣着せない物言いをすれば、惨めにもなった。

 

 光り輝く彼女たちとは違い、自分は麻雀をやる場所の確保もままならない。自らを高めるために飛び出したはずが、一歩たりとも前進できていない。何より、後輩を妬ましいと思ってしまった自分自身に、恭子は打ち拉がれた。挫折を味わったのだと、このとき彼女はようやく理解した。

 

 まだ、後輩たちが戦っているというのに。

気が付けば、恭子はインハイ会場近くの喫茶店に入っていた。

 

 両隣をついたてに区切られた窓際の席に座り、ぼうっとアイスコーヒーの水面を見つめる。外から聞こえてくる蝉の鳴き声が、虚しく聞こえた。

 

 からん、と溶けた氷がグラスにぶつかる。

 大きな、とても大きな溜息を吐き。

 

「メゲるわ……」

「メゲるなぁ……」

 

 零した言葉が、重なった。

 

 聞こえてきた男の子の声は、ついたてを挟んだ左隣の席から。はっと、恭子は俯かせていた顔を上げた。隣の彼からも、同じく身動ぎする気配が感じられた。

 

 恭子も彼も顔を合わせるような真似はしなかった。ついたて一枚ではあるが、区切られたプライベート空間。相手の領域に首を突っ込むのは憚られた。

 

 しかし、

 

「どうしたんですか?」

 

 恭子は彼に、話しかけていた。視線はアイスコーヒーに注がれたまま、少しだけ口元を緩めて。聞こえた彼の声色は、自分の気持ちとよく似ていた。

 

「そちらこそ、メゲるだなんてどうしたんですか」

「ここのところ、ずっと凹むことばかりなんですよ」

「ああ、俺もです。そろそろぽっきり心が折れそうで」

「うちもうちも。もうやってられへんわ」

 

 愚痴や弱音を吐くことは、間違いだと思っていた。強者たろうと思えば、そんなものは胸の内に仕舞っておかなければならないと。――けれども今、そのたった一言を呟いた瞬間、心が軽くなった。

 

「……どこのどなたかも知らへんけど。これも何かの縁や、うちの話聞いてくれへん?」

「構いませんよ。俺の話も聞いてくれるなら」

「もちろんそのつもりや」

 

 恭子は、大学に入ってからのことを滔々と語った。顔も名前も知らない相手に――だからこそ、自分の感情も包み隠さず話すことができた。

 

 彼は、静かに聞いてくれた。余計な言葉を挟まずに、三十分近くも、ただただ聞いてくれた。それだけで良かった。それが、良かった。

 

 全てを話し終えたとき、恭子の心は幾分か軽くなっていた。

 

「君は、どうしたん?」

 

 ついたての向こう側に、訊ねかける。

 

「……周りのみんなが凄くて、自分が情けなくなったんです」

 

 彼の悩みも、部活のことだった。

 

 同じ学年の選手の中で、一人だけ何も活躍できていない。今年は後輩にも負けている。去年は来年こそと誓った。けれども今やっていることは、一年前の焼き直し。雑用と応援を腐すつもりはないが、目標には届かなかった。

 

 ――それでも周囲の人間は容赦なく眩く輝き、嫉妬してしまう。

 

「あれだけ練習したのに、何もできず足踏みしたまま。来年も、同じことを繰り返してるのかなって思うと、嫌になるんです」

 

 少し、自分に似ていると恭子は思った。

 どちらの悩みが深いだとか、事情が厳しいだとかは、比べる意味がない。できる限りの努力は続けてなお、行き詰まっているのは同じなのだから。

 

「ありがとうございます、聞いて貰ってすっきりしました」

「そんなんうちも同じや。ほんま、ありがとう」

 

 ひとしきり愚痴り合った後、恭子は微笑んだ。きっと、隣の彼も笑ってくれていると思った。

 

「これから、どうするんですか」

「……せやな。部活動としては諦めて、趣味でやってくってのも一つの手なんかも知れへん。君は、どうなん?」

「迷ってます。もういっそ、マネージャーとして支えるのが一番なのかなとも、思うんです」

 

 でも、と彼は言った。

 せやけど、と恭子は言った。

 

「――やっぱり、諦めたくないんよな?」

「――やっぱり、諦めたくないんですよね?」

 

 再び重なった声は、今度は互いに向けられていて。

 恭子は自分の気持ちを、再確認した。そうだ。その通りなのだ。彼は、この短い付き合いで全てを理解してくれていた。あるいは、似た立場だからこそか。

 

「うち、もっかい頑張るわ」

 

 恭子は言った。

 

「だから君も頑張ってくれへん? 一緒に、頑張らへん?」

「……――はい」

 

 絞り出すような力強い返事に、恭子は首肯した。分けて貰った勇気を胸に、彼女は立ち上がった。

 

「うち、行くわ。まだ、後輩の応援せなあかん」

「はい。行ってらっしゃい」

「ありがとう、どこの誰かも知れへんけど――君に会えて、良かったわ」

 

 顔は、合わさないほうが良かった。名前を訊くのも、止めた。情けない話ばかりをしてしまい、名乗るのは随分とハードルが高かった。

 

 要は、格好付けたかったのだ。後に、彼のことが気になるように成って、やっぱりちゃんと訊いておけば良かったと後悔するのだが、そのときの恭子に迷いはなかった。

 

「縁があったら、また会おか」

 

 その一言だけ残して、恭子はその喫茶店を去った。入って来たときよりも、足取りは随分軽かった。

 

 ――共に、頑張ってくれる人がいる。

 

 そう思えば、どんな困難も乗り越えていけそうだった。

「もっかい大学との交渉やって……署名集める範囲も広げて……」

 全てを一から練り直す。彼女の努力が実を結ばれるのは、もうじきだった。けれどもこの日諦めていれば、結ばれることはなかっただろう。

 

「後は――今日からメゲるは、禁止やな」

 

 もしも次に彼と会ったとき、同じ言葉を呟いていては格好がつかない。

 拳を振り上げ、恭子はもう一度歩き始めた。彼女のモラトリアムは、まだ始まったばかりだった。

 

 

 ◇

 

 

 小さくなっていく恭子の背中を、隣にいた金髪の少年はしっかりと見ていた。恭子は最後まで、彼の視線に気付くことはなかった。そのことが良かったのか悪かったのかは、分からない。少なくとも、彼女には。

 

 

 

 




次回:6-3 君がいたから


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6-3 君がいたから

「――つまり末原先輩は、そのとき喫茶店でお話しした人が好きなんですね」

 

 恭子が二年前のことを全て語り終えてから、いの一番に切り出してきたのは尭深だった。珍しく彼女の目は好奇心に輝いている。しかし恭子は頬を染めてそっぽを向き、

 

「す、好きとかそんなんとちゃう」

 

 と、否定した。

 

「でも、めっちゃ感謝しとる。あの人がおらんかったら、今の麻雀部はもしかしたらなかったかも知れへん。……その点考えたら、一番ええなって思っただけや」

 

 ほお、と感心する声が宥の部屋のあちこちから上がる。

 突発的に企画された飲み会の席で、どうしてこんな小っ恥ずかしい過去の話をさせられているのか。恭子は訳が分からなかったが、酔いもあり半ば自棄になっていた。

 

 この場にいる宥を始め、尭深、煌、菫には麻雀部の事情を一通り説明したことはあるが、自分の心情を交えここまで事細かに話すのは初めてだった。一方、怜に対しては何もかも初めてだった。もっとも、彼女の場合は他の誰かから聞かされていたようだったが。

 

「すばらです! まさか恭子先輩にそんな人がいただなんて、思いも寄りませんでしたよっ」

「そうだね。でも、確かにあのインハイの後から恭子ちゃん凄く元気になってたね」

 

 煌と宥も、実に楽しそうだ。二人とも異性からモテる反面、浮いた話は聞かない。その割には他人の恋愛事には興味津々といった様子で、恭子の眉間に皺が寄る。

 

「煌ちゃんたちこそ、なんかおもろい話ないん?」

「少なくとも大学に良い人はいませんねっ」

「わ、私は別に、そんな……」

 

 答え方は違うものの、二人から返ってくるのは否定。ただ少し、宥のほうは気になった。何か誤魔化している感じも、した。ここであまり突っ込みすぎると、また面倒になりそうだったので恭子は止めておいた。

 

 代わりに矛先を向けたのは、菫だ。

 

「人に寂しい奴言っといて、あんたは何もないん?」

「ふん。どうせ親が見合い話を寄越してくるから、面倒になるだけだ」

「辻垣内んとこと同じか。金持ちは大変やな」

「気に入らない相手なら、私も須賀くんに偽の恋人役を頼もうか」

 

 菫が笑いながら言った。冗談であることは明白だった。だがしかし、部屋の空気は一瞬で凍り付く。

 

「な、なんだ。どうした」

「いえ、なんでもありません……」

 

 狼狽える菫をよそに、尭深はお茶をいれなおす。えらく事務的な対応に、菫は首を傾げた。何か気に障ることでも言ってしまったのかと。だが、回答する者はいなかった。

 

 それがきっかけとなり、恋愛話は打ち切られた。女子会の議題は、いつもの麻雀に。恭子はほっとしながら、話題に追随した。

 

 気が付けば夜も更け、解散の流れとなる。部屋を片付け、恭子は宥の部屋を後にした。

 

 煌は自転車で駆け抜け、菫と尭深は一緒に駅に。

概ね方向は同じと言うこともあり、恭子は怜と肩を並べて帰路に就いていた。閑静な住宅街を、二人はゆっくりと歩く。

 

「飲み過ぎたんか?」

 

 純粋に心配して訊ねたのは、恭子。女子会の途中から、いやに怜は静かだった。

 

「ううん」

「それじゃ、どうしたん?」

「……うん」

 

 怜は生返事するばかりで、要領を得ない。随分と妙な様子だった。彼女は決して騒がしいタイプではないが、全くの無口というわけでもない。

 

「気分悪いなら、どっかで休んでくか」

「ううん。帰ったらきょーちゃんに甘えるから、平気」

 

 若干いらっとしたが、恭子は何も言わない。

 その内、怜が住むアパートが見えてきた。

 

「じゃ、明後日の入れ替え戦は頼むでエース」

「うん」

 

 これにも怜の反応は、乏しい。折角発奮させようと背中を叩いたのに、怜はぼうっと空に浮かぶ月を眺めている。

 

「ほんま大丈夫なんか?」

「末原さんこそ、きょーちゃんのことは大丈夫なん?」

「またその話か」

 

 ちょっとうんざりしながら、恭子は手をひらひらする。

 

「別に――」

「一回、きょーちゃんと話したほうがええで」

 

 恭子の声を遮って、怜は言った。

 

「は、はぁ?」

「末原さんが悩んどるきょーちゃんのこと、なんとなく分かるで」

 

 彼女は平気で、核心部分に触れてくる。恭子は思わず言葉を失った。

 

「怯えてないで、ちゃんと話したほうがええよ。それだけで、末原さんの悩みは解決するわ。話さないでも分かるなんて、甘えたこと考えたらあかんで」

「……先輩に向かって、偉そうに」

「きょーちゃんを相手にするなら私のほうが先輩や」

 

 怜は微笑んで、

 

「またな、末原先輩」

 

 恭子の返事も待たずに駆けて行った。はぁ、と恭子は溜息を吐く。

 

「怯えてる、か……」

 

 全くその通りだと、恭子は納得する。してしまう。自然と、顎が上がっていた。

 怜が見上げていた月は、とても丸く。朧気な輝きは、確かに地上に降り注いでいた。

 

 

 翌々日に行われた関東二部・三部リーグ入れ替え戦の決着は、速かった。

 

 先鋒・園城寺怜の活躍はリーグ戦以上であった。リーグ戦の結果を研究されているはずだが、彼女はものともしなかった。10万点持ちの団体戦で、二位と七万点の差をつけて次鋒にバトンタッチしたのは、このシーズンの最高記録だった。

 

 次鋒の花田煌も、見事にリードを守り切った。敢えてエースを次鋒に置くという戦略を図ったチームもあったが、抜群の煌の防御力を突破するには至らなかった。

 

 そして、中堅。

 決着は、ここで着いた。二部リーグの二チームが、まとめて尭深の手によって飛ばされた。

 

 高校時代のデータから、渋谷尭深は研究されつくされている、はずだった。だがこの日見せた彼女の打ち筋は、あらゆる面でそれらを凌駕した。最後は役満を二局連続で上がり、ゲームセット。

 

「出番が回ってこなくて、ほっとしたような寂しいような」

「ま、出来すぎやな」

 

 恭子と宥、上級生二人で、苦笑を浮かべ合った。

 これで、次のシーズンは二部リーグ。さらにそこで昇格を決めれば来年は一部リーグ。二年前は絶望的だったインカレの参加資格が、見えてきた。

 

 関東春季リーグが全日程を終えたその夜、恭子は自宅のベッドで寝転がっていた。

 

 ――もう、リーグ戦を言い訳にできない。

 

 思い浮かべるのは、控え室で怜や尭深とハイタッチを交わす京太郎の姿。枕に頬を埋め、深い溜息を吐く。

 

 スマートフォンの画面には、起動したSNSのアプリ。彼個人を相手にするメッセージウィンドウを開いたまま、指は固まっていた。

 

「ちゃんと話せ、なんて言われてもな……」

 

 どうすべきか、分からない。何を話して良いのかなんて、さっぱりだ。勢いに任せるよりも、じっくり研究してからとりかかるのが恭子の信条である。だが今は、とっかかりすら見えてこない。

 

 諦めて、スマートフォンの画面を閉じようとしたときだった。

 メッセージが、京太郎のほうから飛んできた。

 

『こんばんは、今大丈夫ですか?』

 

 慌てて恭子はベッドから体を起こす。一つ深呼吸してから、探るようにタッチパネルを操作した。

 

『大丈夫やけど。何かあったん?』

『明日、部活休みですけど、お暇ありますか?』

『昼からなら、時間作れるけど』

『良かった。あの、この間智葉さんの件で迷惑かけたじゃないですか。その埋め合わせというか、お詫びをしたいんです』

 

 詫びだなんてそんな、と恭子は内心焦る。直接言われていたら激しく狼狽えていただろう。しっかりと恭子は深呼吸してから、返信した。

 

『別に気にせんでもええで』

『そういうわけにもいかないですから。こないだ一緒に行った美術館、覚えてますか? 末原先輩ああいうの、好きなんでしょう?』

 

 好きと言うより、詳しい振りをして見栄を張っただけなのだが――この場合、勘違いされたままのほうが、良い。そう彼女は判断した。

 

『うん、好きや』

『今度は俺がチケット貰ったんです。また一緒に行きませんか?』

 

 半ば嘘とはいえ、好きと言ってしまったし、後輩からの誘いを断るのも問題があろう。そう判断し、

 

『ええで』

 

 と、恭子は反射的に返信した。

 返信、してしまった。

 

『ありがとうございます! じゃあ時間は――』

 

 約束のメッセージが、彼から飛んでくる。恭子はじっくり読み進めながら、はたと気付く。

 

 ――これは、デートの誘いという奴ではないだろうか。

 

 瞬間、恭子はスマートフォンを手から零していた。

 腹水は盆に返らず、時間を遡ることはできない。今更断る雰囲気は、なかった。彼の文面からは、喜びの感情が伝わってくる。

 

『明日はよろしくお願いしますっ!』

 

 メッセージはそこで打ち切られ。

 恭子は、再び枕に顔を埋める羽目になった。

 

 

 ◇

 

 

 考えようによっては、チャンスである。元々こちらから距離を詰めるつもりだった。同じ部活に籍を置いている以上、いつかは解決しなければならない問題だ。

 

 しかしもう少し心の準備が欲しい、と思っていたのも事実。デートに着ていく服も、まともに用意できない。

 

 結局は、前回とほとんど同じ格好。

女子力の低さを露呈する形となったが、背に腹は代えられない。待ち合わせ場所も、やはり前回と同じ大学の最寄り駅。

 

「こんにちは、末原先輩!」

「ん、こ、こんにちは」

 

 やや強張りながら、先に到着していた京太郎と挨拶を交わす。ここで「他の部員も一緒です!」みたいなオチを密かに期待したが、彼は一人だった。

 

「それじゃあ、行きましょうか」

「う、うん」

 

 こくりと恭子は頷く。これでは、どちらが年上か分かったものではない。

 前は恭子が先頭を歩いたが、今度は京太郎が半歩前を行く。終始恭子は俯いて、京太郎から話しかけられたときのみ反応する。

 

 ――あかん。

 

 これでは本当に、怜の言うとおり怯えているだけだ。

 しかし、自覚してなお恭子はどうしようもできなかった。周囲からどんな目で見られているかなんて、考えたくもない。

 

 折角入った美術館も、ろくに作品を見る余裕はなかった。徐々に徐々に、彼との距離が離れていく。

 

 ここまで来ると、京太郎に申し訳なくなってくる。ちらりと彼の様子を窺ってみると、しかしそれでも彼は穏やかに笑っていた。

 

「……須賀」

 

 美術館を出た後、恭子はおずおずと切り出した。

 

「はい?」

「なんで、うちなんか美術館に誘ったん? こんなうちなんかとやったら、つまらへんやろ」

 

 自分でも酷い物言いだと、自覚する。自覚しながら、止められない。

 

「園城寺とか、宥ちゃんとか。尭深ちゃんでも、煌ちゃんでも。もっと楽しく、回れたんとちゃうんか。迷惑かけたんは、うちだけやないんやから」

「ん……」

 

 京太郎は、恭子と向かい合い、それから言った。

 

「他のみんなには、別の形で埋め合わせをします。――でも、末原先輩とは二人きりで話しておきたかったことがあるんです」

「え……?」

「ちょっと距離がありますけど、俺のお気に入りの喫茶店があるんです。そこに行きましょう」

 

 そう言って、ずんずん京太郎は歩き出した。恭子は慌てて彼の後を追う。

 一体どこに行くというのだろうか。先輩相手には基本的に従順で逆らわない彼にしては珍しく、強引な態度だった。

 

 辿り着いたのは、こぢんまりとしたビルの一階にある喫茶店。窓際の席は、ついたてで仕切られ半ば個室になっている。

 

 入口の前で、恭子は立ち尽くす。

 

 ――見覚えが、あった。

 

 あの夏、恭子は確かにあそこにいた。あそこで、アイスコーヒーを飲んだ。

 あそこで、彼と出会った。

 

「二年前、ふらっと立ち寄ったんですよね」

「えっ?」

 

 京太郎の言葉に、恭子は肩を震わせる。

 

「自分が情けなくって、凹みまくってて。色んなものから逃げてたんです」

 

 どきどきと、恭子の心臓が痛いほど脈打つ。彼は一体、何を言い出そうとしているのか。微かな予感が、彼女を支配する。

 

「格好悪いって分かってても、どうしようもなかった。でも、どうして良いか分からなかった。俺は、ずっと項垂れてた。――丁度、そこの席です」

 

 京太郎が指差したのは、窓際の席の、一番端。

 やはり恭子は覚えている。二年前の夏、その隣に自分も座っていたことを。

 

「そこで、俺は出会ったんです。俺の馬鹿みたいな愚痴に、付き合ってくれた人と」

「あ――」

 

 口元を、抑える。感情の奔流が体を駆け巡る。けれども言葉らしい言葉は、一つたりとも浮かび上がってこない。

 

「その人は、一緒に頑張ろうって言ってくれました」

 

 そう、言った。恭子も――恭子は、言った。

 

「だから、俺は頑張れた。挫けていた心を、救って貰いました」

 

 少しだけ、恥ずかしそうに京太郎は笑った。彼は慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと恭子に訊ねてきた。

 

「あの……最近末原先輩、俺と距離とってましたよね」

「あ、そ、それはそのっ」

「何となく、理由は分かってます。智葉さんが言っていたことを、気にしてるんですよね」

「……うん」

 

 お前は戦う人間だ。

 

 何度も反芻したその言葉は、まるで重石のようだった。京太郎に誤った道を選ばせたのではないか、と恭子を悩ませた。

 

 けれども、京太郎は。

 彼は、はっきりと断言した。

 

 

「俺が戦う人間だって言うのなら――そうしてくれたのは、末原先輩です」

 

 

 胸に広がる気持ちを、何と呼ぶのか恭子は知っている。

 

「末原先輩がいなければ、俺は立てなかった。とんでもない連中に、立ち向かえなかった。末原先輩みたいに、立ち向かいたいって思ったんです。俺は貴女の姿に、多くのことを教えて貰ったんです。諦めていたら、清澄が好きだって気持ちにもきっと、気付けなかった」

 

 話にとりとめがなく、彼もまた自身の感情を上手く言葉にできていないようだった。しかし恭子はしっかりと耳を傾ける。いつまでも、彼の話を聞いていたかった。

 

「ずっと、お礼を言いたかった。もっと、色んなことを教えて貰いたかった。だから俺は、東帝を選んだんです。誰かのためじゃない。俺自身のために。俺が、もっと強くなって――それこそ、戦う人間だってことを示すために。……いざ末原先輩に会ったら、恥ずかしくて面と向かって言えなかったんですけどね」

 

 半ばストーカーだし、と京太郎は苦虫を潰したような顔で呟く。恭子は首をぶるぶると横に振った。そんなことは、些末な話だった。

 

 京太郎は、続けた。

 

「後悔はしていません。間違いだとも、思っていません。ここに来られて良かった。東帝の部員になれて良かった。そう、思っています」

「……全く、ほんま、なんでそんな……ほんま、あほやな」

 

 恭子の呟きにも、まとまりはない。どうしようもなかった。

 辻垣内智葉が残した言葉など、すっかり吹っ飛んでいた。

 

 初めて会ったその日から、気になって仕方がなかった後輩。その原点が、ここにあった。ここで出会った彼と同じ声、同じ空気。――顔や名前を知らなくても、心が全てを覚えていた。気になって、当たり前だ。

 

 彼はあの日、自分を救ってくれた人なのだ。自分の本当の気持ちを、教えてくれた人なのだ。

 

 その人は、自分の夢の体現者として目の前に現れた。

 凡人だからこそ、伝えられるものがある。伝えたいものがある。――それを受け取ってくれた人だった。

 

 ――ああ。

 

 これ以上幸福なことが、この世にあるのだろうか。

 あるはずがない。恭子は確信を持って言える。

 

「あんたは、ほんまあれやな」

「な、なんですか」

「あほや、あんたは」

 

 目元を拭いながら、恭子は微笑み言った。

 

「あほやけど……ありがとう」

「……はい」

 

 恭子はもう、沸き立つこの気持ちに目を背けられなかった。

 

 君がいたから、ここにいる。

 君がいたから、諦めずに済んだ。

 君がいたから、いつの日か描いた夢を今に繋げた。

 

 彼の目を覗き込む。吸い寄せられてしまう。身長差は大きく、目一杯見上げなければならない。鳴り響く鼓動の音が、うるさかった。

 

 他には何も聞こえない。街中の喧噪はどこかに消えた。視界に映るのは、京太郎の姿だけ。彼もまた、地面に足を縫い付けられたように動かない。頬を染め、恭子の顔をしっかりと見据えていた。

 

「す、須賀っ」

「は、はいっ?」

 

 名前を呼ぶ声が上擦る。呼ぶだけで、とても大きな力が必要だった。

 

「うちは、うちはっ」

 

 一度認めてしまうと、もう止められない。暴走列車のように突き進む。全くもって、自分らしくない。

 

 ――だからどうした。

 

 ここまで来て、偽る必要がどこにある。躊躇う要素がどこにある。今の自分は茹で蛸状態だろうが、関係ない。

 

「うちは、あんたのことが――!」

 

 最後の言葉を告げるため、彼へと向かって歩み寄る。

 恭子の口が半分開き、そして――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「キョォォォータロォォォォーッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――喜色に塗れた、自分とは全く違う声と共に。

 恭子の視界に、一筋の黄金の光が走った。

 

「うおおおっ!?」

 

 悲鳴を上げたのは、京太郎。完全に虚を衝かれた形でありながら――流石元スポーツマンと言うべきか、横から飛び込んできた「それ」に押し倒されることなく、抱き止めた。

 

「な、ななななっ」

 

 恭子もまた、突然の闖入者に激しく狼狽する。だが、飛び込んできた「彼女」は恭子に一瞥をくれることなく、京太郎の体を抱き締めた。

 

「久しぶりだねキョータロー! もー、最低一週間に一度は会おうって言ったじゃんー」

「ちょ、まて、なんでお前がここにいるんだよっ?」

 

 京太郎は、あらん限りの声で彼女の名前を呼ぶ。

 

 

「淡っ!」

 

 

 恭子も知っている彼女は、快活に笑う。

 

「それはもちろん、愛の力で!」

 

 高校一年のときから変わらないあどけなさと愛らしさ、それでいてどこか鋭い眼光。体の一部は発育したものの、ほっそりとした体格に変わりはない。

 

 今年度プロ麻雀界のスーパールーキーの一人、大星淡。

 

「私の準備はできたよ、キョータロー!」

「じゅ、準備? 何のだよっ」

「もー、とぼけちゃってー」

 

 彼女は京太郎を見上げ、衆目を浴びながらも、宣言した。満面の笑みで、言い放った。

 

「結婚しよ、キョータロー!」

 

 京太郎は声も出せずに戸惑って。

 恭子の顔面が、蒼白になる。

 

 彼女もまた声を発せず、しかし胸の内で力一杯叫んだ。

 

 

 ――ああああもおおおおおなんやそれええええええっ!

 

 

 当然、その咆哮が誰かの耳に届くことはなかった。

 

 

 

                     Ep.6 末原恭子のアンビション おわり




愛縁航路・第一部はこれにておわりです。
(第一部が終わったからといって、何かが変わるかと訊かれれば何も変わりません)

次回以降の予定:
Ep.Ex 夢見る者たちのデイリーライフ
Ep.7 超新星はコメットガール

Ep.Exは第一部の補完エピソード・番外編(短編集)です。基本ラブコメです。


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Ep.Ex 夢見る者たちのデイリーライフ
Ex-1 夜空の下で


Ep.2-2の補完エピソードです。


 東帝大学麻雀部部員、須賀京太郎は、大学に進学して以来最大の葛藤に悩まされていた。いや、もしかすると人生最大かも知れない。

 

 住宅街の夜道を歩く彼の隣には、二つ年上の先輩がいた。

 

 名前を、松実宥。

 

 物静かでおっとりとした、お嬢様然とした女子の先輩。一緒にいるだけで、こちらまで心が暖かくなる。同時に、体温も物理的に上昇するが。

 

 彼女の足取りは非常に怪しく、覚束ない。重心は明らかに傾き始め、京太郎の肩にどんどん寄りかかる状態になっていた。マフラーで半分隠れた顔は紅潮し、目元はとろんと眠たそうに垂れている。完全に無警戒で、京太郎との距離は縮まるばかり。

 

 ――お酒の力って怖い。

 

 大学に入学したてで、京太郎は酒を飲める年齢ではないが、歓迎会という名の飲み会には何度も参加していた。その度に散々酔っ払う先輩や同期の姿を見てきた。しかしまさか、宥までこんなに酔いつぶれるとは思いもしなかった。

 

 何だかんだで、宥が男子である自分としっかり距離をとっていることは京太郎も知っていた。まだまだ付き合いも浅いので、それは仕方ない。

 

だが今の状況はどうだ。ついに距離はゼロ、肩と肩がぴったりとくっついてしまっている。さらには掌も取られてしまった。繋がれた手を一瞥し、それから「えへへ」と笑う宥を直視できず、京太郎はそっぽを向いてしまう。

 

「京太郎くんの手、おっきくてあったかーい」

「そ、そうですか?」

「そうだよぉ」

 

 さらには無警戒に腕が組まれ、ふくよかな感触はどうしても伝わってきてしまう。その正体を深く考えないようにしなければ、理性が飛びそうだった。

 

 彼女がここまで深酒してしまったのには理由がある。

 

 実妹、松実玄との仲違いだ。兄弟のいない京太郎にはイマイチぴんと来ないが、姉妹には姉妹の譲れない理由があるのだろう。今回の場合、玄の勘違いではあるものの、その一端を担ってしまったのが京太郎にとって不幸な出来事だった。

 

「宥先輩」

「なぁに?」

「明日、玄さんともう一回話してみたらどうですか。話をややこしくした俺が言うのもなんですけど」

 

 触れる手から伝わってくるのは、微かな動揺。京太郎はたたみ掛けるように言った。

 

「一晩経ったらお互い頭も冷えて、ちゃんと話し合えると思いますよ」

「……うん、そうだね」

 

 宥がしっかり頷いて、京太郎はほっとする。

 

「私ね、もっとしっかりしたお姉ちゃんになりたいんだ。麻雀のこと以外でも、もっと玄ちゃんから頼られるお姉ちゃんに。だから私が玄ちゃんに頼ってばかりじゃいられないって思って、東京に来たんだ」

 

 宥の語る決意は、どこか自分と似ていて。それでいて、もっと上等だった。

 

「玄ちゃんはずっと待ってたから……私のこともきっと待ってくれるって甘えてた……」

「はい」

「姉妹なんだからそういうわけにもいかないよね……謝らないと……」

「きっと、許してくれますよ」

「うん……ありがとう、京太郎くん……」

「ゆ、宥先輩?」

 

 宥の足が止まる。さらに体重がかけられ、京太郎は慌てふためいた。

 

 ――もしやこれは、そういう意味なのではないだろうか。

 

 京太郎がそう考えるのも、無理なきことだった。最早宥が完全に無防備なのは間違いない。アルコール臭にまじって、主張されるは女性の香り。ぴったりとくっついた体。男子であれば、誰でもそこに考えが至るのは当然であった。

 

 送り狼になっちゃ駄目だよ、という別れ際に残された注意がなければ京太郎も危うかったかも知れない。

 

 加えて実際のところは、

 

「あの、宥先輩……?」

「んー……」

 

 はっきりとした返事はなく――すぅすぅと、宥は心地良さそうに寝息を立てていた。京太郎が支えているとは言え、実に器用だ。もしや狸寝入りかとも思ったが、その気配もない。

 京太郎は小さな息を零してから、ポケットからスマートフォンを引っ張り出した。

 この近辺で、家の場所を知っている、今から女性を連れて押しかけても問題のない相手。選択肢は、たった一つしかない。

 

 コール音は、三つだった。

 

「もしもし」

『はいはい、愛しの怜ちゃんやでー』

 

 どこまで本気か分からない、平坦な声が受話口の向こうから聞こえてきた。

 電話の相手は、園城寺怜。京太郎の二つ年上ではあるが、大学では同期の仲。そしてお隣さんである。

 

「すみません、今からお邪魔して良いですか?」

『きょーちゃんならいつでもウェルカム言うてるやん』

「今日はその、宥先輩がいるんですよ。かなりお酒飲んじゃったみたいで、帰ってる途中に眠っちゃって。困ってるんです」

 

 本当のところ、おそらく怜はまだ宥と顔を合わせたくないはずだ。例の、麻雀仮面の件がある。けれども、京太郎も困り果てた末での選択だ。彼女しか頼れる人間はいない。

 

『……きょーちゃん。私の部屋は今、ちょっと不味いと思うで』

「な、なんですか」

 

 返されたのは、思った以上に深刻な声。

 

『今、私の隣で寝とるん誰やと思う?』

「え、と、怜さんの隣で? 俺の知ってる人ですか」

『知っとるもなにも、今日きょーちゃんも顔合わせた人や』

 

 まさか、と京太郎は頬を引き攣らせる。怜はどこか疲れ切った声で、続けて言った。

 

『玄ちゃんや』

 

 

 ◇

 

 

 結局宥は、京太郎のベッドに寝かせる運びとなった。怜以外の女性を自分の部屋に入れるのは初めてで、妙な背徳感を京太郎は覚える。ベッドに横たえた途端、寝苦しそうに宥は呻き、目を背けながら胸元のボタンだけ外した。零れる彼女の吐息が指先にかかり、さらに彼の神経は削れてゆく。書き置きだけ残して、逃げるように京太郎は部屋を後にした。

 

 向かったのは、すぐ右隣の部屋。預けられている合鍵を使い、扉を押す。

 

「お邪魔します、怜さん」

「おかえり、きょーちゃん」

 

 部屋の奥から、怜が挨拶を返してくる。いつもならぱたぱたと玄関先まで飛び出してくるのに、珍しく動く気配がなかった。

 

「玄さん、今も寝てますか?」

「ぐっすりや、安心して入って来てもええで」

「はい」

 

 自分の部屋と同じ1LDKの部屋は、しかし調度品から漂う香りまで全て女性のもので、雰囲気は全然違う。それでもこの半月毎日のように出入りしているせいで、すっかり慣れてしまった。

 

 だが、今日のところは見慣れない光景が待ち受けていた。

 

「……何やってるんですか、怜さん」

 

 リビングのベッドですやすやと眠っている長髪の女性は、宥の妹、松実玄。そこまでは良い。彼女の存在は、事前に聞かされていた。

 

 問題はベッドに腰掛けて、彼女の太股に指を這わせている園城寺怜の存在である。京太郎が突っ込むのも無理はなかった。

 

「いや、なかなかの太股や思てな。……竜華の傍で鍛えられとるみたいや。まだまだ伸びる逸材やな、これは」

「無駄に真剣な顔で何言ってるんですか」

「なんや、ほんとはきょーちゃんも触りたいくせに」

「人聞きの悪いことは止めて下さいっ」

 

 京太郎が怒っても、怜は何処吹く風だ。高校時代の部活の部長から始まり、年上の女性にはまるで弱いことを京太郎は自覚していたが、怜が相手でも例外ではなかった。

 

「それにしても、よく玄さん保護できましたね」

 

 松実玄が東帝大学麻雀部を訪れたのは、青天の霹靂だった。姉である宥自身知らされていなかった。さらには喧嘩の果てに部室を飛び出して言ってしまう始末。呆気にとられて、止める暇などなかった。追いかけるにしても、宥が許してくれそうになかった。

 

「竜華から連絡あってな。トラブル起きるかも知れへんからよろしく言われてたんや。まぁ、部室から出てきて会えたんはたまたまやけど」

「そういうことですか。……玄さん、ほんとにまるで起きる気配ないですけど、どうしたんですか」

「あんまり女の子の寝顔見つめたらあかんで、きょーちゃん」

「す、すみません」

 

 そこだけは本気で怒られて、京太郎はすぐに玄と怜に背中を向ける。くすりと怜が笑う気配があった。

 

「さっきまでわんわん泣いてたわ。で、晩ご飯食べたら疲れて寝てもうた。おねーさんのことで大分鬱憤溜まってみたいやけど、それだけやないんとちゃうか。なぁ、きょーちゃん?」

 

 探るように怜が訊ねてくる。京太郎は背を向けたまま、とぼけるように言った。

 

「別に、宥先輩と喧嘩したってだけで何もないですよ?」

「なんで松実さんの呼び方変わっとるん?」

「う」

 

 墓穴を掘った。些細なことでも聞き逃してくれる人ではなかった。京太郎が何も言えないでいると、怜は小さな溜息を吐いた。

 

「ま、ええわ。――なぁきょーちゃん。今日はどうするん? きょーちゃんの部屋は松実さんが寝とるんやろ?」

「友達の家に泊めて貰いますよ。さっき連絡したら、一人許可くれた奴いますから」

「うちに泊まっていけばええのに……とは、今日は言えんな。玄ちゃんおるし」

「いつでもそんなこと軽々しく言わないで下さい」

 

 軽々しくなんかないのになー、と怜は、実に軽々しい口調でうそぶく。今度は京太郎が溜息を吐く番だった。

 

「もう行くん?」

「部屋片付けるから少し待ってくれって言われたんで。後、俺も風呂入って行きたいし」

「じゃ、一緒にうちのお風呂入る?」

「入りません!」

「あんま大きな声出したら玄ちゃん起きるで」

 

 この人は本当にもう、と京太郎は怒りたくなる。しかし、普段の澄まし顔が可憐な微笑を作ると、何も言えなくなってしまうのだ。

 

 それに――こうして元気な姿を見せてくれるだけで、嬉しいのも確かだ。病室暮らしの頃はあれだけ肌は青白かったというのに、今はとても血色が良い。人並みからはやや落ちるが、それでも充分健康体だ。

 

「どしたん、きょーちゃん。まじまじと見られたら照れるんやけど」

「なんでもないですっ」

 

 強い言葉で言い返すと、怜はくつくつと笑った。それから、

 

「いつものとこ、行かへん?」

 

 と、脈絡なく提案してきた。

 

「え、今からですか?」

「うん。まだ時間はあるやろ。ちょっとだけ」

「……分かりました」

 

 怜に請われると、中々断れない。実際のところ、女性に頼まれたら大体京太郎は断れないのだが。

 

 玄を残し、二人は部屋を後にする。昇るのは、階段。住人のみだが、この学生向けマンションは今日日珍しく屋上への出入りが許可されている。二人は最上階を通り過ぎ、鍵付きの鉄扉を押した。

 

 冷たい夜風が頬を撫でる。東京という街においては、実にこぢんまりとした建物だ。見下ろす光景など高が知れて、自然と顎が上がる。

 

入居してすぐ、怜がこの場所を気に入ったのだ。以来、二人きりで度々ここを訪れていた。

 

「長野と違って、星があんまり見えないのが残念なんですよね」

「うん、ほんまに長野の夜空は綺麗やったわ。都会育ちやと中々見えんもん」

 

 時折先客がいるのだが、今日は京太郎と怜の二人だけだった。ステップを踏むように怜は屋上の中央に躍り出る。その姿に目を奪われながらも、京太郎も彼女に続いた。

 

 空に浮かぶのは、欠けた月。怜は真っ直ぐにそれを見上げる。そんな彼女に向けて、京太郎は訊ねるかどうか悩んでいたことを、思い切って口にした。

 

「怜さん」

「どうしたん?」

「まだ麻雀部に来る気はないんですか」

 

 本当は今日、来てくれると思っていた。昨日、部長である末原恭子に、麻雀仮面として負けてなお怜が逃げ出したのはあの場に弘世菫がいたからと京太郎は解釈した。恭子も受け入れる旨の発言をしてくれた。ちゃんと日を改めて、来てくれると思っていたのだ。

 

「私はそんな安い人間とちゃうからな」

「今日、部室の近くで玄さんと会ったのはたまたまじゃないんでしょう? すぐ近くまで来てたんじゃないんですか」

「そういうとこばっか、すぐ気付くんやから」

 

 怜は、唇を尖らせる。

 

「そこまで来たなら、入ってくれば良かったのに。何意地張ってるんですか。そもそも麻雀仮面に何の意味があるんですか、そろそろ教えてくれたって良いでしょう」

「嫌や」

 

 ばっさりと切り捨てられ、京太郎は二の句を継げなくなる。その隙に怜は、京太郎の近くまで歩み寄ってきて、上目遣いで彼を見上げた。

 

「きょーちゃんさん」

「……なんですか」

 

 あ、これやばい、と京太郎はすぐに気付く。自分を「きょーちゃん」ではなく「きょーちゃんさん」と呼ぶときは、大抵怜は機嫌を損ねているのだ。

 

「確かに私は言ったわ。末原さんに負けたら、自分から麻雀仮面や言い出すって。それで麻雀部入るって」

「で、実際負けたじゃないですか」

「負け方に、納得いってへんもん」

 

 雀士というのは、誰も彼も負けず嫌いだ。強い者こそ、そういうものだ。負けず嫌いだからこそ、強くなると言うもの。

 

 だが今の怜は、我が儘を言う子供みたいだった。全く以て、彼女らしくない。

 

「何が気に食わないんですか」

「きょーちゃんさんは自分の胸に聞いたみたほうがええんとちゃう?」

「ええー……?」

「ふん」

 

 怜は鼻を鳴らして顔をつんと背ける。京太郎は困惑するばかり。損ねてしまった機嫌をどう取れば良いのか、分からなかった。

 しかし、やがて怜はくすりと笑った。

 

「冗談や冗談」

「なんですかそれ。こっちは気が気でないっていうのに」

「ええやん細かいことは気にせんでも」

 

 屈託なく笑う怜に、今度は京太郎が不機嫌になる。

 

「俺、もう行きますから」

 

 怜に向かって自室の鍵を放り投げる。彼女は華麗にキャッチした。

 

「悪いですけど、宥先輩の様子見て上げて下さい。かなり飲んでたみたいなんで」

「はいはい。でも、変な話やな。喧嘩しとる姉妹が、壁一枚挟んで他人の部屋で寝とるなんて」

「姉妹ってのは、どこまで行っても切れない縁ってことですかね」

 

 せやな、と怜は頷き、月を背に笑った。京太郎はどきりとした。降り注ぐ月光はまるで彼女のためだけのスポットライトみたいだった。

 

「私ときょーちゃんにも、あるんかな?」

「えっ?」

「どこまで行っても、切れない縁」

 

 彼女の言葉はビルの谷間に吸い込まれてゆく。そのくらい、か細く震えた声だった。

 京太郎は――誤魔化すように、視線を怜から引き剥がす。

 

「そうでもなければ、隣同士になってなんかいませんよ」

「それも、そうやな」

 

 瞼を閉じて、怜はしみじみと呟く。それから彼に向かって、優しく言った。

 

「行ってらっしゃい、きょーちゃん」

「……行ってきます、怜さん」

「なんか新婚夫婦みたいやな」

「夫婦違います!」

 

 顔を赤くして京太郎は駆け出す。どこまでいっても、からかわれるのは苦手だった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 一人夜空の下に残された彼女は、改めて月を見上げる。

 

「次は、負けへんで」

 

 聞く者はいないその決意は、誰に向けられたものなのか。

 それはきっと、園城寺怜自身にしか分からない。

 

 

 




次回:Ex-2 偽る愛と真の恋・前


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Ex-2 偽る愛と真の恋・前

Ep.5の補完エピソードです。


 三橋大学麻雀部は、男子部女子部を問わず関東リーグでも常に上位に位置する、いわゆる名門である。特待生、一般受験を問わずこの部に籍を置く者は、皆麻雀の腕に自信を持つ者ばかりだ。

 

 辻垣内智葉は、その猛者たちの中で一年生からレギュラーを務めている正真正銘のエースだ。現在の大学生雀士最強の呼び声も高い。プロの道を選んでいたとしても、十二分に活躍していただろうと評価されている。

 

 この春大学三年生となった彼女は、名実ともに三橋女子麻雀部の大黒柱になろうとしていた。副部長の肩書きも得て、後輩を指導する立場ともなる。部の指揮は当然監督や四年の部長が執っているが、智葉がそこに深く関わることを咎める者などいない。

 

 それ故に、彼女が新入部員の歓迎会の企画へ口を出すのに不思議に思う部員もいなかった。普段はクールな彼女だが、面倒見が悪いわけでもない。高校時代も、年下の留学生から慕われていた。

 

 学生食堂の一角を借り切っての歓迎会は、立食形式で行われた。当然アルコール類は厳禁であるが、先輩は後輩たちへドリンクを注ぎに行く。大学に入学したばかり、加えて実力ある雀士に囲まれて新入生たちはほとんどみんな緊張していた。

 

 そんな中でも、最も声をかけられながらも、どこ吹く風の新入生が二人いた。

 一人は先輩たちの質問攻めにも如才なく答え、一人は目を輝かせながらひたすら食べ続けている。どちらも高校麻雀界で一躍名を馳せた清澄高校出身の少女たち。

 

 原村和と、片岡優希。彼女たちが三橋に入学したことは、関東の大学の中では大きな話題となった。三橋の中でも入学前から何かと注目されていた。

 

 体格的にも性格的にも対照的な二人だが、中学からの付き合いであり非常に仲が良いという。今もテーブルの合間に二人揃っており、彼女たちを中心に人の輪が形成されていた。

 

 そこへ、智葉は足を踏み入れた。

 

 すぐさま彼女のために、道は開かれる。智葉が近づいてきたことを和はすぐさま察したが、優希は構わずタコスを頬張っていた。

 

「久しぶりだな、原村、片岡」

 

 入部のときに二人の自己紹介は聞いていたが、彼女たちが大学に入って智葉から声をかけるのは初めてだった。和はぺこりと頭を下げ、ようやく気付いた優希は「むむ」と眉間に皺を寄せる。

 

「お久しぶりです、辻垣内さん」

「久しぶりだじぇ」

「ゆーき、辻垣内さんに失礼ですよ」

「……お久しぶりです、だじぇ」

 

 相変わらず活きが良い、と智葉は口角を釣り上げた。

 彼女たち二人と、智葉は三年前のインターハイで顔を突き合わせている。優希とは団体戦で、和とも個人戦で同卓もした。一年生でありながら、智葉から見てもどちらも見所のある打ち手だった。もっとも優希にとっては苦い経験なのか、渋い顔をされてしまった。

 

「入学おめでとう。これからよろしく頼む、活躍に期待しているぞ」

「こちらこそよろしくお願いします。三橋でレギュラーをとるのは難しそうですが」

「あの清澄出身が謙遜するな」

 

 智葉が諭す傍ら、優希がタコスを掲げる。

 

「そうだじぇ、のどちゃんと私なら余裕だじぇ!」

「お前はもう少し慎みを持ったほうがいいな。去年のコクマも攻めっ気がある余り無駄な振り込みが目立っていた」

「よ、よく調べてるじぇ……」

「特待で呼ぶ相手だ、当然だろう。あまりうちを見くびるなよ」

 

 澄まし顔で答えてから、智葉は優希から視線を切った。顔を合わせる相手は、和だ。

 

「特待と言えば」

 

 やや慎重に言葉を選びながら、智葉は訊ねる。

 

「清澄にはもう一人、うちから声をかけていたが」

「須賀くんのことですか?」

「そうだ、そいつだ」

 

 名前のみならずプロフィールまできちんと覚えていたが、智葉はあえてとぼけた。

 

「うちの男子部としては期待していたみたいなんだが、あえなく断られたようだ。彼はどうしたんだ? 大学には進学しなかったのか」

「いえ、須賀くんも進学組ですよ。私たちと同じ東京です」

「なんだと? どこの大学だ?」

「あいつは東帝だじぇ」

 

 つまらなさそうに、優希が答えた。智葉は訝しげに訊ね返す。

 

「東帝? 東帝というと、あの東帝か」

「東帝は一つしかないと思いますが……それです」

「麻雀を続ける気がなかったのか」

 

 思わず、智葉は和に詰め寄ってしまう。

 東帝大学麻雀部は、二年前に不祥事を起こして男子女子ともに一度解体されている。女子麻雀部は何とかリーグ戦に復帰したが、それでも部員不足に喘いでいると聞く。肝心の男子部はさらに酷いもので、今なお一人の部員もいないはずだ。

 

「え、えっと、止める気はないはずですよ。麻雀部に入った、って連絡も貰いましたし」

 

 困惑しながらも、和が言った。

 

「どうかしたんですか?」

「いや、彼も最後のインハイでかなりの成績を残しただろう。あのレベルなら、もういくつかの大学から声がかかったと思うんだが」

「みたいでしたけど、東帝に拘りがあるみたいでしたから。結局全部断ってましたよ」

「勿体ない話だじぇ」

「そうか……なるほど、すまない」

 

 どうして東帝などに入学したのかはさっぱり分からないが、何はともあれ、彼は麻雀を続けている。しかも、この東京で。それが分かっただけでも収穫というものだ。

 

 ――いずれ、会う機会も出来よう。

 

 智葉の予想は、程なくして的中することとなる。

 

 

 それから、少し時間は流れて。

 

 

 四月の頭に現れた麻雀仮面の名は、当然の如く三橋麻雀部の中にも広く知れ渡った。現役レギュラー選手が、返り討ちにあったのだ。

 

 恐ろしく強い謎の女性雀士。

 

 普段の智葉なら一笑に付すところだが、時期が時期。部内が浮き出し立つのは大いに困る。最近連敗している聖白女に勝利しリーグ戦を制するために、部の空気を引き締め直す必要があった。

 

 正直言って、いくら強かろうが表に出てこない雀士に智葉は興味がない。そのためいまいち乗り気になれなかったが、形だけでも麻雀仮面征伐に向かわなければならなかった。

 

 対局したチームメイトが覚えている限り書き起こした牌譜を読み込み、余った時間を見つけてはふらりと雀荘に立ち寄る。四月の後半からは、智葉はそんな日々を送っていた。

 

 その日、ゴールデンウィーク初日もそうだった。

 

 部の練習は昼から、朝も早くに目覚めてしまった。普段よりも少しだけ遠出して、智葉は目に付いた雀荘に入った。特にそこに決めた理由はなかった。

 

 残念ながらと言うべきか当然と言うべきか、麻雀仮面らしき人物はいなかった。

 

 智葉は面子を欲しがっている卓に、同卓させて貰った。それがいけなかった。

 人を見た目で判断してはいけないが、見るからに荒っぽそうな男がいた。しかし智葉は臆せず打った。結果叩きのめしてしまった。

 

 対局後、納得いかないのか男は智葉に食って掛かった。文句があるなら麻雀でかかってくれば良い、と智葉は考えるが、理屈に合わない行動を取る者もいる。虫の居所が悪かったのか本来の気性なのか、男は智葉を口汚く罵った後、あまつさえ殴りかかろうとした。

 

 その程度、対処する心得はあった。

 

 しかし智葉よりも速く、割って入る人間がいた。店員ではなかった

 

「止めろっ」

「痛たたたっ!」

 

 男の腕をねじり上げたのは、長身の少年だった。大人と呼ぶにはやや幼さが残っている――けれども毅然とした態度は、堂に入っていた。

 

 智葉は彼の顔を見て、まさかと息を飲む。だが、店員が駆けつけて声をかけるタイミングを逸してしまった。

 

 結局、智葉は何ら被害を受けることはなかった。しかし、店側から事情聴取を受ける羽目になった。目撃者もおり、智葉と助けてくれた少年が出禁になるような問題には発展せず、智葉はほっと安心する。

 

 だが、たっぷり一時間以上も無為に過ごしてしまった。

 

「すまなかったな」

 

 少年と二人で雀荘を出て、智葉はまず頭を下げた。

 

「面倒事に巻き込んでしまった」

「ああ、いえ。お気になさらず。俺が勝手にやったことですから」

「気にもする。それから――助かった。礼を言う」

 

 要らぬお世話であったが、単純に嬉しかったのも確か。

 

 ――何よりも。

 

「こんなところで君に出会えるとは思っていなかったよ」

 

 にやりと智葉は笑う。

 

「須賀京太郎君」

 

 名前を言い当てられた少年は、目を丸くした。

 

「ええっと……その、どこかでお会いしたことありましたか」

「直接はないな。しかし、顔くらいは知られていると思ったが……っと、この格好がいけなかったか」

 

 すっかり忘れていた。髪を束ね、眼鏡をかける。それだけで、少年――須賀京太郎は、「あっ」と驚きの声を上げた。

 

「辻垣内、智葉……っ?」

「ご名答だ」

 

 彼が、自分の名を知っていた。その事実に、珍しく智葉の心は躍っていた。

 

 

 ◇

 

 

 スマートフォンの画面に表示された京太郎の名前と連絡先を、智葉はじっと眺めていた。日を改めて助けられた礼がしたい、と教えて貰ったのだ。

 

 連絡先を手に入れるだけなら、原村和や片岡優希に頼めば良い。だが、同じ部活仲間となったとは言えまだ日の浅い後輩に男の連絡先を訊くのは流石に気が引けた。だからこそこの偶然自体、智葉の機嫌をすこぶる良くしていた。

 

「どうかしたんですか?」

「っ、なんだ、原村か」

 

 背後から声をかけられて、慌てて智葉はスマートフォンの画面を胸元に隠す。

 

「お前こそどうしたんだ。休憩時間なんだからゆっくり休め」

「はぁ。いえ、辻垣内先輩、最近とても楽しそうなので。ゆーきが気になって仕方ないんです。何があったか訊いてきてと言われまして」

「そんなことを頼む片岡も片岡なら、訊いてくるお前もお前だな」

「そうですか? 私もちょっと気になっていたので」

 

 苦言を呈しても、和は首を傾げるばかり。この後輩も、何だかんだでかなりのマイペースだとこの一ヶ月で気付かされた。自分に全く物怖じしない当たりは、智葉も気に入ってはいたが。

 

「別に何でもない」

 

 和たちに京太郎のことを話すつもりは、今のところなかった。和だけなら問題ないだろうが、優希に知られると酷い面倒に発展する予感がした。

 

「なら良いんですが。――そう言えば、聞きましたか? 三部リーグのこと」

「園城寺怜か」

 

 少し得意気に微笑んで、和は首肯した。

 千里山女子の園城寺怜。辻垣内智葉と同い年であり、三年前のインターハイでも注目を集めた選手だった。当時無名の選手でありながら、突然台頭してきたのを智葉はよく覚えている。対戦する可能性もあり、牌譜も相当読み込んだ。確固たる信念の持ち主と、智葉は彼女を高く評価もしていた。

 

 準決勝で千里山が敗退したため、矛を交える機会は訪れなかったが――確かその試合で倒れて以降、園城寺怜は公式試合に出場していなかったはずだ。

 

 しかし彼女は、先日開幕した関東リーグ戦で何の前触れもなく卓に現れた。しかも、一年生として。まさか浪人しているとは思わなかった。

 

「かなり話題になっているみたいですね」

「あれだけの打ち手だ、当然だろう。……なんだ、もしかして知り合いなのか?」

「ええ、ちょっとだけ。この二年、園城寺さんは療養していたんですが、長野に来ていた時期もありまして。打ったこともありますよ」

「……中々重要な話じゃないか、それは」

「園城寺さんにリーグ戦開幕までは秘密にしておいて、と頼まれまして」

 

 その義理堅い性格には溜息が出るが、智葉は「まあ良い」とさほど問題視しなかった。

 

 園城寺怜が出てきたのは、関東三部リーグ。一部リーグからさらさら落ちるつもりのない智葉たちがリーグ戦で戦うのは早くても一年後だ。他の大きな公式試合で顔を合わせるにしても、まだ先の話。そもそも直近の情報さえ少ないのだから、大して調べることもできない。今は心に留めておくだけで充分だ。

 

「確かに奴らにも情報戦があるだろうからな。園城寺ほどの打ち手が突然現れたら、慌てふためく連中もいるだろう」

「実際、萎縮していたみたいですね。牌譜を見る限り、それを差し引いても園城寺さんの強さは圧倒的でしたが」

「ブランクはあれど、やはり関西の雄か。……それにしても、奴ならもっとランクの高い大学にも入れたんじゃないのか。三部の、どこの大学だったか」

「東帝です」

 

 さらっと和が答え、ぴくりと智葉は眉を動かした。

 

「なんだと? 東帝?」

「はい」

「と言うと……例の、須賀某と同じか」

「ええ、そうですね。須賀くんと園城寺さん、仲が良かったですから」

「ほう」

 

 中々に、面白い組み合わせだ。

 智葉はスマートフォンを操作し、先日の関東三部リーグ戦の牌譜を引っ張り出す。なおさら現在の園城寺怜に興味が湧いた。

 

 もう少し詳しい話を聞こうと、智葉はなおも和に話しかけようとするが、

 

「原村さん、ちょっとこっちに来てー」

「あ、はいっ。すみません、失礼します」

 

 他の先輩に呼ばれ、和は駆け足に去って行ってしまった。取り残された智葉は、しかしすぐに気を取り直して牌譜を確認する。

 

 東帝と言えば、彼がいる。

 彼とともに、園城寺怜がいる。

 

 その符丁に、奇妙な感覚があった。見過ごしてはならない、何かがある。もう一つでもここに要素が加われば、あるいは。半ば勘ではあるが、彼女の先読みはよく当たる。

 園城寺怜の牌譜は、和の言うとおり確かに圧倒的だった。牌譜を眺めているだけで、対戦相手たちの暗澹たる表情が目に浮かぶ。

 

 だが同時に、胸に宿った不定型の感覚がどんどん確かなものになっていく。

 

 これとよく似た牌譜を、最近も見なかったか。

 ごくごく最近、拘っていなかったか。

 

 はっと、智葉は気付いた。

 全てを繋ぐキーワードが、ある。

 

「練習再開するよー」

 

 部長が、休憩時間の終了を告げる。あちこちで椅子を引く音がした。だが、智葉は一人立ち上がらない。

 

「どうしたんだじぇ?」

 

 声をかけてきたのは、片岡優希だった。

 彼女の頭に手を乗せて、智葉はにやりと笑った。

 

「少し外す」

「ちょっと、次は私と打つ番だじぇ!」

「後でいくらでも打ってやる」

 

 練習時間を無視するなど、生まれて初めてだった。しかし、この逸る気持ちはどうにも抑えきれるものではなかった。

 

 部室を出る智葉を止められる者は一人としておらず。

 彼女はすぐさま彼の番号を呼び出した。

 

『はい、もしもし。須賀です』

 

 ほとんど間を置かずに、彼は応答した。智葉は自分の頬が緩むのを感じた。彼の声は、良い。余計な修飾をつける必要なく、智葉はとても気に入っていた。

 

「辻垣内だ。突然すまないな。今大丈夫か」

『ええ、大丈夫ですけど……何でしょう?』

「約束していただろう、先日の礼をすると。その日程を決めたくてな」

『ええと、すみません。リーグ戦が終わるまで待ってもら――』

「麻雀仮面」

 

 彼の声を遮って、智葉はその名を呟いた。

 

 沈黙が、訪れる。智葉の言わんとすることを、京太郎はこの一瞬で察したようだ。辻垣内智葉は、獰猛な獣染みた笑みを浮かべて言った。

 

「彼女について、話し合おうじゃないか」

 

 狙った獲物は逃がさない。

 彼女の胸は、あらゆる意味でとても高鳴っていた。

 

 

 




Ex-3 偽る愛と真の恋・後


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Ex-3 偽る愛と真の恋・後

Ep.5の補完エピソードです。


 智葉が京太郎を呼び出したのは、三橋大学近くの喫茶店だった。人目に付きにくい奥の席で、智葉はまだかまだかと彼を待つ。

 

 ウェイトレスに通されて現れた彼の姿を認めた瞬間、口元が綻びそうになる。だが、智葉は強い意志でそれを抑え付けた。余計な隙を見せる必要はない。

 

「こ、こんにちは」

「ああ。今日はいきなり呼びつけてすまなかったな。まあ座れ」

「失礼、します」

 

 当然と言うべきか、彼の表情は緊張で強張っている。申し訳ないという気持ちはあったが、それだけでは衝動を止められなかった。

 

「奢りだ、好きなものを注文してくれ」

「け、結構です」

「遠慮するな。足代と思ってくれれば良い」

 

 しかし固辞されてしまう。む、と智葉は僅かに顔を歪めた。

 

「何か勘違いしているようだが、私は別にお前を責めるために呼び出したわけじゃない」

 

 その言葉でも、京太郎は臨戦態勢を解かない。ここではいそうですかと頷かないのは評価できるが、事実、例の件で智葉に彼を咎めるつもりなどなかった。

 そう――麻雀仮面の件で、だ。

 

「麻雀仮面の正体が園城寺怜、だとしてもだ」

「……なんのことだか――」

「今更しらばっくれる必要はないし、意味もない」

 

 京太郎の退路を、智葉は一刀両断にする。

 

「疑惑の目で見れば気付く者は出てくる。四月はかなり暴れ回ったらしいからな。事実、直接対局していない私でも牌譜だけで察しが付いた。勘付く者が現れれば、追求する者も出てこよう。そうなったとき、果たして庇いきれるかな」

 

 ただの辻試合で収めるには、麻雀仮面は活躍しすぎた。下手をすれば、逆恨みを買っている可能性すらある。そこまで考慮していなかったのだろうが、いずれにせよ立場の弱い東帝大学は僅かな瑕疵も許したくないはずだ。

 

 智葉の煽り立てるような言葉に、しかし京太郎は居住まいを正し、真っ直ぐ智葉の瞳を射貫いて言った。それまでの軟弱な物腰が嘘のように、毅然とした態度だった。

 

「脅迫には屈しません」

 

 目に宿る強く真剣な輝きは、大変智葉の好みだった。

 

「見下げるな。そんなつもりはない」

「……では、どういうつもりですか」

「麻雀仮面を探ろうとする動きは、私が潰してやる」

 

 この流れから出てきた一言は、完全に予想外だったのだろう。京太郎は目を見開いた。

 

「ほ、本当ですか」

「ああ。私の力が及ぶ範囲でなら、な。うちの麻雀部も麻雀仮面に手酷くやられて追いかけている連中がいる。他の大学とも連携をとっているらしいが、まずはそのあたりから口利きしていこう。お前には一つ借りがあるからな」

 

 自慢ではないが、麻雀のことに関わらず東京という地での智葉の影響力は強い。完全に根絶できるかまでは保証できかねるが、今の活動を抑え込むには充分だ。

 

 一転、京太郎が頭をがばりと下げる。

 

「ありがとうございますっ、良かった、安心しました」

「そんな安い脅迫をする人間に見えたか?」

「誰にも言わずに来いって言われたら身構えもします」

「ちょっとした冗談だよ」

 

 コーヒーを一口含み、一拍の間を置いてから、智葉は言った。

 

「――ただ、な」

「なんですか?」

「私も今、ちょっとした困り事を抱えているんだ。一人では中々解決できない問題でな」

 

 誘うような物言いに。

 京太郎は、智葉が頼むよりも早く笑顔で答えていた。

 

「俺で良ければ力になりますよ! お世話になるのはこっちも同じですから、何でも言って下さい!」

 

 安心によって一度解けた警戒心は、反転してそのまま大きな信頼となっていた。その隙を、智葉が見逃すわけがなかった。

 

「そうか、そう言って貰えると助かる」

「で、困り事って何ですか? 俺、何をやれば?」

「やるというより、なってくれ、だな」

「は?」

 

 智葉は、京太郎の手をがっしり掴む。京太郎の困惑が、手からそのまま伝わってくるようだった。しかし彼女は構わず告げた。

 

「今日からお前は私の恋人だ」

 

 辻垣内智葉、生まれて初めての愛の告白は、相手に一切の口答えを許さなかった。

 

 

 ◇

 

 

 望まぬ婚約を回避するための、恋人役。一度祖父に会って誤魔化すだけで良い。ただし、やるからには本気で、偽物ではなく「本物の恋人として」振る舞うこと。そうでなければ目聡い祖父には見抜かれてしまう。

 

 背景に麻雀仮面の件をちらつかせながら、智葉は京太郎にその約束を取り付けた。彼に選択の余地はなかった。

 

「良い部屋じゃないか」

 

 その日の夕方、智葉が押しかけたのは京太郎の部屋。男子の部屋はもっと雑然としているものと思っていたが、存外整理が行き届いていた。

 

「綺麗好きなのか」

「ま、まぁお客さんがよく来ますから」

 

 堂々とリビングのテーブル傍に腰掛ける智葉とは対照的に、家主のほうがそわそわしていた。自分でいれたお茶にも手を付けず、たびたび時計を気にしていた。

 

「隣の園城寺が気になるのか? 今は出かけているんだろう?」

「でも、いつ戻ってくるかも知れませんし……」

「まるで浮気がばれるのを恐れている亭主みたいだな」

 

 智葉はからかうように笑う。

 

「私のほうが正妻のはずだが」

「せ、正妻って何言ってるんですか」

「今、恋人はいない。そう言ったのはお前だろう」

 

 下から覗き込むように、智葉は京太郎の顔を見上げる。気まずそうに、京太郎は顔を背けた。

 

「で、今日は何の用なんですか」

「恋人の家を訪ねるのに理由が必要なのか」

「必要です!」

 

 半ばやけっぱちのように京太郎は叫ぶ。

 

「あんまりからかわないでくださいっ。あくまで智葉さんの婚約を回避するための恋人役でしょうっ?」

「つれないことを言うな。そうは言っても、恋人は恋人だ。……とは言っても、もちろん用事はあるがな」

 

 智葉は鞄からクリアファイルを取り出す。中に入っていたのは、一組のレジュメ。怪訝に眉を潜める京太郎の胸元に、それを突き付けた。

 

「……なんですか、これ?」

「私の趣味嗜好をまとめたものだ。覚えておけ」

「ええー」

「ええー、じゃない。恋人なんだ、このくらいは知っておいて貰わねば困る。祖父に会ったときにぼろが出るぞ」

「ああもう、分かりました、分かりましたよ」

 

 有無を言わさない智葉の態度に、京太郎は半ば投げ槍に受け入れる。若干不満は残ったが、ひとまず智葉は満足する。――自分のことを、彼に知って貰う。中々に心地よい響きだった。

 

「さて、次はお前の話だな」

「俺の話って、何ですか」

「私もお前のことをまだまだよく知らない。聞かせてくれ」

「質問が曖昧すぎます」

「そうだな。じゃあ、なぜ東帝に進学した?」

 

 京太郎は、すぐには答えなかった。問うた智葉も、自分で気付かない内に声色が真剣なものになっていた。ぴりっと、室内に緊張が走る。

 

「……その、なんだ。うちの大学からも推薦が来ていたんだろう。麻雀をやるなら、うちの環境のほうが良いと思うんだが」

 

 誤魔化すように、智葉は重ねて訊ねる。すぐに後悔した。こんな、東帝大学を貶めるような発言をするつもりはなかった。

 

 京太郎は一度目を伏せてから、言った。

 

「自分のためです」

「しかし――」

「俺にとっては、東帝が最高の環境なんです」

 

 自然に笑う京太郎に、智葉はそれ以上言い募れなかった。その一言に込められた想いは、問い詰めるまでもなく重かった。簡単には立ち入ってはいけない何かがあった。

 

「智葉さん、晩ご飯の予定はありますか」

 

 その質問は唐突であったが、微妙になった空気を入れ換えるには丁度良かった。

 

「あ、ああ、いや、特には。家に帰って適当に食べるつもりだった」

「どうせです、うちで食べてって下さい。いつも怜さんがいるから二人分用意しているのが癖になってるんで」

「分かった。頼む」

 

 ここは自分が作ると言ったほうが良いのではないか、と自問する声もあったが、言い出せなかった。

 

 ――なるほど。

 

 以前戯れで読んだ少女漫画に書いていた、「胸がときめく」という表現がこれか。一人納得しながら、智葉は京太郎の料理をわくわくと心待ちにする。

 

 昨今は料理上手な男子が増えていると智葉は聞いていたが、京太郎もその例に漏れなかった。聞けば高校時代、友人の執事に色々教えて貰ったという。

 

「すっかりご馳走になってしまったな」

 

 二人で食器を洗いながら、満足気に智葉は言った。二人でシンクの前に立つと手狭でどうしても肩が触れ合ってしまうが、気にしなかった。少なくとも、智葉は。

 

「いえ、食べて貰うのは好きなんで」

「なら、またお邪魔しても良いか」

「……怜さんがいないときで、お願いします」

「本当に浮気みたいな会話だな」

「う……い、いや、怜さんとも友達ですし……じゃなくて、そういう問題でもなく」

 

 罪悪感を覚えているのか、京太郎はしどろもどろになる。そんな彼に向かって、智葉は直球で訊ねた。

 

「好いた女が他にいるのか」

「い、いません。……たぶん」

「どうして自信がないんだ」

「最近は、あんまりそういうこと気にせず突っ走ってきましたから」

「ふぅん。まあ良い」

 

 蛇口を閉めて、智葉は手ぬぐいで手から水気を落とす。手ぬぐいを受け取ろうとする京太郎だったが、智葉はそのまま彼の手を抱き包むようにして拭いてやった。

 

「明日はどこに行こうか」

「え、明日ですかっ? 俺、練習があるんですけどっ」

「少しくらいなら時間を作れるだろう。映画でも見に行くか。まさか付き合い始めたばかりの恋人を蔑ろにする男ではないよな」

「ああもう、分かりましたよ」

「ふふ」

 

 智葉は微笑む。この調子なら、しばらくこの戦術は通じそうだ。

 

「駅まで送っていきましょうか」

「そこまでやれば園城寺とばったり、という可能性もあるだろう。気にしなくても良い」

 玄関先で靴を履き終え、智葉はくるりと京太郎に向かって振り返る。

「しかし、あれだな」

「なんですか」

「若い男女が部屋で二人きりなんだから、押し倒されるくらいは覚悟していたんだが」

「やりませんよっ! あんまりからかわないでもらえますか!」

「卓上ではあれだけ勇ましいのに、しょうがない奴だな」

 

 やれやれ、と肩をすくめてから。

 智葉は身を乗り出して、京太郎の口元に口付けた。

 

「ッ? さ、さささ智葉さんっ? ちょ、ええええっ」

「お前から言わせれば偽りだろうが、何事も本気でやらなければ人は騙せん。これもその一環だ。心に留めておけ」

 

 なおも戸惑い続ける京太郎を玄関に残して、智葉はさっさと部屋を出て行った。階段を降りて、マンションの外に出る。

 

 自然と、早足になっていた。

 

 衝動に任せるまま、やってしまった。

 

 電車に乗り込み、智葉はぼうっとする。後悔はしていない。していないが、普段の冷静さがいつの間にかどこかに消えていた。高校時代のチームメイトに見られたら、間違いなく驚かれてしまう有様だ。

 

 しかしながら。

 

 窓に映る自分の顔はほんのり赤く、それもまた悪くないと智葉は思っていた。

 

 

 ◇

 

 

 二人のデートは、それからしっかり重ねられていった。僅かな期間で、逢瀬は幾度となく繰り返された。

 

 集合地点で揃えば、まず智葉が手を出す。京太郎が、その手に自らの手を重ねる。特に取り決めたわけでもないが、そうするルールになっていた。

 

 これまで自覚はなかったが、智葉は触れ合うのが好きだと気付かされた。高校でもチームメイトのネリーが何かとくっついてきたが、そのときも悪い気はしなかった。京太郎の腕を絡め取るのに、全くの抵抗がないわけではなかったが、多幸感を前にすれば些末な問題だった。

 

 智葉の祖父の前で恋人らしく振る舞うために、練習する。

 

 この名目は、かなり有効だった。初めは智葉の手をとることに躊躇いを覚えていた京太郎だったが、今ではすぐさま応じてくれるようになった。智葉に対しての遠慮や距離感も徐々に失せているのも明白で、

 

「智葉さん、次あそこの水族館行きませんか?」

「ああ、それも良いな。動物園はこの間行ったしな」

 

 目的地の提案までしてくれるようになった。その後に、「はっ」と自分の言動に気付いて後悔しているようだったが、智葉はさして気にしなかった。

 

 園城寺怜や他の部員がいない時間を見計らって、彼の部屋にも度々遊びに行った。隙を見つけては、唇を重ねようとした。彼としては智葉が来た後はその痕跡を消すのが大変だったようだが、智葉は攻め続けた。

 

 確かな手応えは感じていたのだ。

 

 しかし、この状況があまり長く続くとまずいと考えたのだろう、ある日京太郎は智葉に進言してきた。

 

「そろそろお祖父さんに挨拶して、一区切りつけたいんですが」

「む」

 

 やはり東帝の麻雀部を裏切れないという気持ちが強いのか。

 

 急きすぎたか、と智葉はやや悔やんだ。この楽しい時間が終わるのは、好ましくない。だが、強く断る理由もなかった。それに上手く行けば、逆に退路を断てる好機でもある。

 

 実際、祖父はいたく京太郎を気に入った。

 そこまでは良かった。智葉の目論見通りであったと言って良い。

 

 けれども、そこで介入してきた人物が二人。結局のところ、智葉は彼女たち二人に勝てなかった。全くもって、侮れない連中だった。

 

 ただ、最後に一言だけ、大事な言葉はかけておいた。冗談まじりでからかったことも多々あるが、それだけは智葉の偽らざる気持ちであった。彼がどのように受け取るかは知らないし、本当に自分が正しいのかなんて保証はどこにもなかったが、言わずにはいられなかった。

 

「ただいま」

 

 ひとまず最後のデート――最後にするつもりはなかったが――を終え、智葉は帰宅する。このところ京太郎の家や大学で晩ご飯を食べることが多かったため、久しぶりに家族で食卓についた。

 

「智葉、貴女、お義父さんに恋人を紹介したんですって?」

 

 母親からの質問に、智葉は眉一つ動かさずに答えた。

 

「耳が早い」

「もしかして、婚約のことを気にして無理矢理恋人を作ったんじゃないでしょうね」

「まさか、そんなわけがないだろう」

 

 智葉はとぼける。もっとも、ふられてしまった後ではあるのだが。

 母親は盛大に溜息を吐いてから、言った。

 

「お義父さんの言う婚約者なんて、毎度毎度適当に言ってるだけじゃない。実際に連れてきて紹介した試しなんてないんだから。貴女だってそのことくらい分かってるでしょう?」

「そうだったのか。いやいや、全く分からなかった」

 

 智葉は笑みを零しながら、口元を拭う。

 

 お腹一杯にはなったが。

 もう一度、彼の料理を食べたい気分だった。

 

 

 ◇

 

 

 その日、一本のニュースが麻雀界を駆け巡った。

 当然この業界に身を置く者として、智葉もそのニュースに触れることとなった。

 

「全く、須賀くんは……」

 

 隣でパソコンの画面を見つめながら、和が盛大に溜息を吐く。

 

「何をやってるんだか、心配になります」

「そうか?」

 

 スマートフォンで同じ内容を確認しながら、智葉は口角を釣り上げた。

 

「そんなところも愛らしい奴だと思うが」

「……辻垣内先輩と須賀くんって、お知り合いでしたっけ?」

「言っていなかったか」

「聞いていません。どんな関係なんですか?」

「そうだな」

 

 智葉は指を一本立て、悪戯っぽく答えた。そう、以前読んだ少女漫画に則って答えるなら、こうだ。

 

「元カノだ」

 

 

 



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Ex-4 第三回新生東帝大学麻雀部忘年会

時節ネタなので時系列上Ep.9よりも未来の話です。


 年の瀬も迫る十二月、末原恭子はすっかり馴染みになったスーパーマーケットを訪れていた。大抵は一人で食材を吟味するところであるが、今日はお供を伴っている。

 

 東帝大学麻雀部の後輩、花田煌と渋谷尭深の二人だ。

 彼女たちはカートを押しながら、恭子の三歩先を歩いて行く。今夜は麻雀部の忘年会で、鍋パーティの予定である。

 

 ああでもないこうでもないと議論する煌たちの背中を見つめながら、恭子は微笑みを浮かべた。特に心配していた尭深の様子も、すっかり以前と同じに戻っている。もっともそれは煌の活躍があってのことだろうが――とにかくとして、一安心だ。

 

 今月から始まった関東女子二部リーグは、既に前半戦を終えている。現在の東帝のランキングは三位。入れ替え戦を狙える位置にあり、ハイレベルと言える二部リーグでそれなりの成績と言えよう。

 

 ――逆に言えば、「それなり」止まりやった。

 

 恭子は胸の内で、独りごちた。

 

 今の東帝の戦力ならば、ダントツとまではいかなくとも前半戦一位は充分に狙えただろう。それが恭子の見立てであった。だが、現実はそううまくいかなかった。

 

 部員各々が、十全に力を発揮できなかったのだ。

 原因は――はっきりしている。少なくとも、恭子の中では。そっと目を閉じれば、彼の影がちらついた。

 

「恭子先輩」

 

 突然声をかけられ、恭子ははっと顔を上げる。煌が不思議そうにこちらを覗き込んでいた。思わず後退ってしまう。

 

「ど、どうしたん?」

「お酒はどうします? 怜さんの好みは一番恭子先輩が詳しいですよね」

「あ、あー、うん。チューハイでも買ってったらええやろ。ビール苦手言うてたし」

「了解しました!」

 

 敬礼してから、煌は俊敏に酒類コーナーへ駆けて行く。――彼女がいてくれて良かった。心の底から恭子はそう思う。僅かに溜息が漏れそうになり、しかし慌てて恭子はそれを飲み込んだ。今度は尭深が、じっと恭子を見つめていた。

 

「どうしたん、尭深ちゃん」

「いえ……」

 

 一度尭深は頭を振って、煌の後を追う素振りを見せた。けれどもその足はすぐに止まった。彼女は視線をあちこちに彷徨わせてから、再び恭子と向かい合う。

 

「あの」

 

 そうしてようやく、おずおずと言った様子で切り出してきた。

 

「大丈夫、ですか?」

「え? な、なんのことや」

「私が偉そうに言えた話でもないですけど……末原先輩、ここのところずっと気を張っていましたから」

「――……」

 

 一瞬、上手く言葉が出てこなかった。嬉しさ半分、恥ずかしさ半分と言ったところか。いや、後輩に心配されているようではまだまだだろう――恭子は片目を伏せ、小さく息を吐いた。

 

「心配あらへん。うちはいつものとおりや」

「そう……ですか?」

「そうや。それでも心配っちゅうなら、リーグ後半戦もっと頑張ってもらわなあかんな。うちを安心させて、尭深ちゃん」

 

 じっと、恭子は眼鏡の奥の瞳を覗き込む。そこには、小さくとも確かに点る火があった。

 

「――はい」

 

 尭深は力強く頷いて、今度こそ煌の後を追っていく。恭子はしばらくその場に留まって、二人の姿を遠巻きに眺めていた。

 

 

 ◇

 

 

 買い出しに出かけた三人の帰りを待ちながら、宥は忘年会の準備を進めていた。と言っても食材がなければどうすることもできず、調理器具を取り出した後は折り紙で輪飾りを作り続けていた。

 

「なぁなぁ、宥さん」

「どうしたの?」

 

 もう一人のお留守番組である園城寺怜に声をかけられ、宥は手を止める。その手を愛用のこたつの中に入れたい衝動に駆られたが、それをしたら最後二度と抜け出せなくなるのは分かっていた。

 

「宥さんは、いつまでサンタクロースの存在信じとった?」

「サンタさん?」

「そ。もうクリスマスも過ぎてしもて、古い話題やけどな」

 

 クリスマスというワードを自分で出しておきながら、怜は不服げな様子だ。そんな彼女に苦笑を浮かべながら、宥はおっとりと答える。

 

「えっと、小学校の三年生くらいだったかな。それまでは正体がお父さんだって、全然気付かなかったなあ。でも、それがどうかしたの?」

「ん……別に大した話やないんやけど」

 

 自嘲を含んだ笑みを浮かべ、怜はゆっくりと口を開いた。

 

「私って子供の頃から病弱やったから、欲しいもんねだったら親はすぐに買い与えてくれたんや。クリスマスプレゼントとか関係なしに。だから、うちにはそもそもサンタクロースっちゅう概念がなかったんや。もちろん不自由せんようにしてくれた親には感謝しとる」

 

 そやけど、と怜は一つ間を置いた。宥は、しっかりと耳を傾けていた。

「みんなが目を輝かせて話すサンタクロースにちょっと憧れとった。欲しいものを届けてくれる、夢のような存在に。そういうん、信じたかったなって。酷いないものねだりなんは分かっとるけど」

 

 ――それでも、信じたかった。

 

 怜は、小さく呟き。

 宥は、優しく笑ってこくりと頷く。

 

「信じたかった、だけじゃないよね」

「え?」

「怜ちゃんは、今、サンタさんを信じたいんだね」

 

 一瞬の沈黙。帰ってきたのは、肯定だった。

 

「……夢って、分かっとるのにな。バカみたいや」

「そうかも」

 

 宥が同意したのが意外だったのか、はっと怜は手元に落としていた視線を宥に向ける。その目を受けて、宥は一層微笑みを深くした。

 

「でも、私も同じ気持ちかな」

「……そっか。それなら宥さんも、おバカさんの仲間入りやな」

「うん、そう。私たち、仲間だよ」

 

 二人はくすくすと笑い合う。買い出し組が帰ってきても、仕事は止まったままだった。

 

 

 ◇

 

 

 騒ぎに騒いで、飲みに飲み、鍋の中身を空にして。

 こたつと一体化し、宥はすうすうと寝息を立てていた。風邪を引きますよ、と肩を揺すっても起きる気配は一向にない。諦めるほかなく、煌もまたこたつのなかに冷えた手足を突っ込んだ。包む熱気が心地よい。

 

 家主はこの通り撃沈状態、恭子と怜は夜風に当たると言って下のコンビニに出かけてしまった。実質的に、煌は同期の尭深と二人きりの状況だ。その尭深も、未だアルコールをちびちびと飲み続けている。目の焦点が微妙に合っておらず、こちらも酔っ払い同然であった。

 

「ううん……」

 

 傍で、宥が僅かに身動ぎする。こたつ布団をかけ直そうと煌は手を伸ばし、

 

「きょうたろうくん……」

 

 宥の口から漏れた一言と、目端に浮かぶ水滴に動きを止めた。

 

「……す……き……」

 

 続いた言葉の意味を、煌は敢えて深く考えなかった。ただ、尭深のほうを振り返った。今のを聞かれていたら、不味い気がしたのだ。

 無情にも、尭深はしっかりと宥の寝顔を見つめていた。

 

「た、尭深? これはその、えっと、あの……」

 

 なぜ自分が言い訳しなくてはならないのか、理不尽に思いながらも煌は言葉を紡ごうとする。しかし尭深はぷっと吹き出した。珍しい――本当に珍しい姿だった。

 

「そんなに慌てなくても平気だよ、煌ちゃん」

 

 悪戯っぽく笑う尭深は、これまた珍しい。随分と酔いが回っているようだ。

 

「松実先輩がそうだっていうのは、ずっと前から知ってたから」

「……尭深」

「だから、平気」

 

 全てが全て、平気なわけではない。すぐに煌は悟った。もう、彼女との付き合いも一年半にも及ぶのだ。そのくらいは分かって当然だった。

 

 けれども一つ、確認しておきたかった。

 まだはっきりとは、聞いていなかった。

 

「尭深」

「なに?」

「須賀くんのこと、好きなんですか?」

 

 ストレートすぎたためか、一度尭深は目を見開く。しかしすぐにいつもの穏やかな所作を取り戻すと、しっかりと頷いた。

 

「うん」

 

 これ以上なく、しっかりと。

 頬が朱に染まっているのは、アルコールのせいだけではないだろう。煌は満足気に笑い、言った。

 

「それじゃあ私は、尭深を応援します」

「えっ……い、良いの?」

「もちろん。ライバルは多そうですからね。尭深はいつも遠慮しがちですし、背中を押す人が一人くらいいても良いでしょう」

「でも――」

「あんまり言わせないで下さい、同期のよしみってやつです」

 

 なおも尭深は何か言い募ろうとし、しかし最後には目を伏せた。代わりに残っていたお酒を、煌のグラスに注いだ。

 

「煌ちゃん」

「うん?」

「ありがとう」

「いいってことですよ」

 

 かつん、と二つのグラスが優しくぶつかり合った。

 

 

 ◇

 

 

 コンビニの軒先で、怜は恭子と肩を並べていた。手の内に収めた肉まんをカイロ代わりに、冬の夜の寒さを堪え忍ぶ。

 

「東京って、ほんま寒いな」

「大阪もこんなもんとちゃうか」

「いやいや、絶対こっちのほうが寒いわ。恭子さんすっかり東京人になったんとちゃうか。三年も住んでると変わるんやな」

「なんや東京人って。うちは今でも心は大阪に置いとるから」

 

 はぁ、とこれみよがしに恭子が溜息を吐く。同郷同士、同い年同士ということも手伝って、学年の差異はあれど普段二人の間に遠慮はない。

 ただ、今日は少し怜のほうに躊躇いがあった。妙に茶化そうとするのがその証拠であり、恭子も敏感に感じ取っているようであった。

 

「で、わざわざ二人きりになってまで何の用なんや」

「む」

 

 機先を制され、怜は一度言葉を詰まらせる。ここで誤魔化すのも手ではあったが、それは逃げだ。恭子から逃げ出すことを、怜は良しとしなかった。

 

「……こないだまでのリーグ戦、活躍できんかったから」

「誰にだって調子の波くらいあるわ。気にせんでもええ」

 

 まるで準備していたかのような恭子の答えに、怜は羞恥心を覚えた。あるいは敗北感が胸を焦がす。――これはいけない。これではいけない。彼女とは、対等でいたい。対等でならなければ、いけない。

 

「調子の波とか、そんなんとちゃう」

 

 だから怜は、矜持も何もかもかなぐり捨てて、口を開く。

 

「試合中、きょーちゃんのこと考えてた。余計なもんを、卓に持ち込んでた。だから、あかんかったんや。いくら謝っても、みんなに謝りきれん。私は、エースやのに」

「……だったら、どうするんや」

「決まっとる」

 

 怜は、毅然とした態度で答える。夜空に浮かぶ月を見つめながら、決意を新たにする。

 

「次は、勝つ」

 

 至極単純な回答に、恭子は笑った――ように、見えた。彼女はすぐにいつものように唇を真一文字に引き結び、歩き出した。

 

「宥さんの部屋、戻るで」

「うちはもうちょっとここにおるわ」

「……そうか」

 

 頷き、未練の欠片もなく恭子は去って行く。その愛想のなさが、今の怜には心地よかった。

 

「もう二度と、言い訳には使わへん」

 

 再び月を見上げながら、怜は一人呟く。

 

「きょーちゃんも、きっと頑張っとるもんな」

 

 その笑顔は美しく、しかし一番見せたい相手は傍にいないのが彼女の不運であったろう。

 

 

 ◇

 

 

 階段を登り切ることができず、恭子はその場に腰を降ろした。出てくるのは、溜息ばかり。

 

「ばーか」

 

 罵倒は誰に向けられたものか。チームメイトか、自分自身か――それとも彼にだろうか。恭子自身にも、分からなかった。

 

 リーグ後半戦は、きっと巻き返せる。その手応えは確かにある。

 けれども。

 

 ――けれども、その先は? その後は?

 この、軋んだ心の行く末は?

 

 答える者は、いるはずもなく。

 

「はよ帰って来ぉへんと、泣いてまうで」

 

 既に瞳から落ちる雫にも気付かず、末原恭子は彼の名前を呼ぶ。

 

 

「――京太郎」

 

 

 

                     東帝大学麻雀部忘年会・三年目 終わり

 



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Ex-5 ハイスクール・バレンタイン

バレンタイン特別編。
京太郎が高校二年時のお話です。


 京太郎が高校一年時のインターハイ、その女子団体戦決勝で清澄高校と阿知賀女子学院が相見えて以降、二校の間で定期的な練習試合が開催されるようになった。長野と奈良、決して近所ではなかったが、原村和、松実玄、新子憧、そして高鴨穏乃の四人が幼馴染という縁も手伝って、良好な関係が築かれたのだ。時折他校も交えるこの練習試合は、麻雀名門校で行われるそれらと遜色ないレベルである。

 

 清澄高校唯一の男子部員である京太郎も、ハイレベルなこの練習に欠かさず参加していた。彼の目標はインターハイ出場。今回の定例練習試合――普段と比べてやや時期外れだが――が開かれた時点で、既に高校二年の二月。目標達成のために残されたチャンスは、後一回しかない。高い意識を以て、彼は奈良阿知賀女子学院に乗り込んだ。

 

 それに、今回は現三年の壮行試合の意味合いもあった。清澄の染谷まこ、阿知賀の鷺森灼と松実玄、いずれも麻雀推薦で既に大学進学を決めていた。そのため受験シーズンとは関係なく、また引退した身でありながら、全員参加している。彼女たちと打てる残り少ない機会に、滾らないわけがなかった。

 

「……ふーっ。ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 

 初めて訪れた頃は緊張した女子校の雰囲気にもすっかり慣れた。昼間からずっと集中して打ち続け、一区切りついたところで京太郎は椅子に背中を預けた。この半荘も、かなりの激戦だった。

 

 広い阿知賀女子麻雀部の部室には、四台の自動卓が設置されている。その席全てが埋められていた。近年の活躍により、清澄も阿知賀も新入部員がどっと増えた。今回はある程度選抜されているとは言え、抜け番は必ず発生する。

 

「じゃ、一旦俺はこれで」

 

 もう少し打ち続けたい気持ちはあったが、いつまでも自分だけが卓を占拠するわけにもいかず、京太郎は席を立った。

 他の卓の様子でも観に行こうか、と視線を彷徨わせていたら、

 

「お疲れ」

「お」

 

 湯気の立つ紙コップを、胸元に突き出された。隣を向けば、阿知賀女子麻雀部の現部長、新子憧がそこにいた。強気そうな眼差しと垢抜けた雰囲気は、清澄の女子とは少し印象が異なる。ややどぎまぎしながら、京太郎はコーヒーを受け取った。

 

「サンキュ。わざわざ悪いな」

「良いの良いの。今回はこっちがホストなんだから」

 

 ひらひら手を振りながら、憧は何ら含みなく笑った。出会った当初は彼女に警戒されていたというのは京太郎も承知だったが、ここ一年の付き合いでかなり打ち解けられた。間に入ってくれた和のおかげだったが、同時に好きにモノを言い合える性格だと気付けたのも大きい。――「まぁ、どういう出会い方をしてもあんたとどうにかなるなんて思えないけどね」、というのは憧の弁であるが。

 

「調子、悪くないみたいね。今も玄相手にプラス収支で終わるなんてやるじゃない。去年の夏前からすると見違えた」

「トップは玄さんにとられたから、まだまだだって」

「謙遜する余裕も生まれたか」

「からかうなよ」

 

 二人は窓際に移動して、隣に並ぶ。熱いコーヒーに口をつけると、ほっと一息つけた。憧はぐるりと部室を見渡して、うん、と頷く。

 

「染谷さんも楽しそうで良かった。企画した甲斐があったわね」

「今回は何から何まで世話になりっぱなしだな。夜もレクリエーション考えてくれてるんだろ?」

「遠路はるばる来て貰ってるからね。それに、下心だってあるわよ。――悠長に構えてたら、あっという間に春季大会始まっちゃうでしょ。新入部員確保とか考えてたら、今から準備してても時間が足りないくらいだから。清澄には今回来て貰って大助かり」

「……腹立つくらいしっかり者だよな、新子」

 

 ふふん、と憧は得意気に笑った。それから思い出したように彼女は、小さな紙包みを取り出した。

 

「はい、これあげる」

「ん? 何だよ、急に」

「ちょっと早いけどバレンタインのプレゼント」

 

 おおう、と京太郎は戸惑いと喜色の入り混じった歓声を上げた。女子の多い麻雀部に所属しているため、去年もバレンタインチョコは頂戴した。ただ、他校の女子から貰うという予想外のイベントは男心をくすぐる。それが例え、明らかに市販の小さなチョコレートであっても。

 

「ありがたく貰っとくよ」

「ふふふ。ホワイトデーは三倍返しで良いわよ。うちの学校の住所は分かるわよね?」

「お前やっぱりしっかり者って言うよりちゃっかり者だよな……」

 

 何言ってんのよ、と憧は肩をぶつけて抗議してくる。コーヒーがこぼれそうになり、京太郎は慌てふためく。

 

「っと、お前、危ないだろうがっ」

「あんたがちゃんと立ってないのが悪いんでしょうが」

 

 などと言い合いながら、京太郎と憧はじゃれ合う。当然部室は対局中なのである程度は声を潜めていたが、咎められても仕方ない――京太郎はそう危惧し、そして実際、がたりと音を立てて席を立つ人物がいた。

 

 彼女は、対局者たちにぺこりと頭を下げてから、京太郎と憧に振り返った。それから大股で歩み寄ってくる。

 

 この場で唯一人、制服ではなくジャージを着用している少女――阿知賀女子学院が誇る不動の大将、高鴨穏乃。

 彼女の性格は天真爛漫の一言に尽きる。常に明るく前向きで、諦めという言葉とはほど遠い。どんな不利な盤面でも、絶望的な状況でも、笑顔を作って強敵に立ち向かう姿は京太郎の眼にも焼き付いていた。今の自分にはない力。目標にするべき在り方の一つ。そう、京太郎は認識していた。

 

 ――特に、一年のインターハイの頃は。

 

 と言うのも、練習試合を重ねるにつれて彼女の態度に変化が生じ始めたのだ。出会った当初は距離も近しく、屈託のない笑顔を向けてくれた。

 

 だと言うのに今は、避けられている気がするのだ。声をかけても、逃げ出されてしまう。一瞬目が合っても、すぐ逸らされてしまう。馴れ馴れしくし過ぎたせいで嫌われてしまったのかと和に相談したことさえあったが、「穏乃はそんなことを気にする子じゃありませんよ」と一蹴されてしまった。

 

「た、高鴨さん……?」

 

 しかしながら、事実として彼女が他者に向ける態度と自分に向ける態度は異なると、京太郎は実感していた。

 

「ごめん、うるさかったよな。ほら、憧も謝れって……あっ、おいっ」

 

 いつの間にか、隣にいたはずの憧は穏乃の背後に回り込んでいた。彼女は京太郎の言葉はどこ吹く風で、穏乃の背中を押す。

 

「ほら、しず」

「あ、う、う」

 

 口ごもる穏乃に、ますます京太郎は戸惑う。全くもって、彼女らしくない。赤面を俯かせ、もじもじと身動ぎして、

 

「その、これ」

 

 どこからか取り出したのは、立派な箱包みだった。彼女はそれを京太郎に向けて突き出す。

 

「も、貰ってくれるかな」

「え、俺?」

「う、ん。うちの家で作ってるいちご大福だから」

 

 一度言葉を切って、穏乃はぎゅうっと目を瞑って、付け足した。

 

「ば……バレンタイン仕様なんだ。食べて」

 

 穏乃の緊張が伝わってきて、京太郎もごくりと生唾を飲み込む。しかし突っぱねるわけにもいかず、

 

「あ、ありがとう」

 

 大きな箱を、受け取った。

 穏乃はほっと安堵の息を吐き、強張らせていた顔を緩ませる。少女らしい可愛げな笑みと共に京太郎を見上げ、京太郎もまた彼女を見下ろす。視線と視線がぶつかり合い――穏乃の頬の朱色が、さらに濃くなる。

 

「高鴨さん?」

 

 不安になった京太郎が声をかけた途端、

 

「わあぁぁっ!」

 

 穏乃は踵を返すと、咆哮と共にあっという間に部室から姿を消してしまった。彼女の叫び声に驚いた麻雀部員たちは、しかしぽかんと見送るしかできなかった。それは京太郎も同じで、彼に残されたものはいちご大福だけだった。

 

「受け取りどーも」

 

 突っ立っている京太郎の肩を叩いてきたのは、憧。彼女はにやにや笑いを浮かべながら、京太郎の顔を覗き込む。

 

「味わって食べて上げてね。後、ちゃんとお礼しなさいよ」

「言われなくても分かってるって。こんな良い物貰っといて無視できないだろ。ま、みんなで美味しく頂くさ」

「ばか」

 

 容赦なく、頬を抓られた。

 

「あんた一人で食べなさい」

 

 痛い、と京太郎が文句を言う前に憧はその場を離れていった。別の卓についてしまい、もう一度声を掛ける隙はない。

 仕方なくいちご大福の箱を鞄に詰め、京太郎は空いた卓に向かう。その大福一つ一つが穏乃の手によって丹精込めて作られたことを彼はまだ知らない。

 

 

 ◇

 

 

 阿知賀女子学院との定例練習試合を終え、清澄一同が帰路につく中、京太郎は一人だけさらに西へと向かった。

 

 訪れたのは、北大阪。練習試合の度に毎回、というわけにはいかなかったが、学生の身空早々西日本まで出てこられるわけではない。だから、できる限りこういう機会を逃したくなかった。大切な友達と、直接会える機会を。

 

「園城寺さん」

 

 待ち合わせに指定された病院の正門で佇む彼女――園城寺怜の姿を、京太郎はすぐに見つけられた。

 

「おー、久しぶりきょーちゃん」

 

 表情の変化に乏しい怜だが、うっすらと微笑むのは京太郎にもすぐに分かった。

 

「外に出ていて大丈夫なんですか? 今日はまた冷えるでしょう」

「心配してくれるんは嬉しいけど、あんまり過保護にされてもなぁ。このくらい平気や。あんまり引き籠もってたら体力つかへんし」

「でも、今日も検査だったんでしょ?」

 

 怜はうん、と素直に頷くと――僅かに眉を潜めた。はて、と京太郎が首を捻るよりも早く、

 

「きょーちゃんはそんなことまで気にせんでええの。ほら、うち行くで」

 

 むくれた怜が歩き出してしまう。慌てて京太郎は彼女の後を追うが――何だか突然機嫌が悪くなったみたいで、困惑してしまう。

 

「あの、園城寺さん?」

「なんや」

「何か俺、変なこと言っちゃいました?」

「なんも」

「だったら……」

「きょーちゃんさん」

 

 ああこれダメなパターンだ、と京太郎は察する。察したところでどうにもできないのだけれど。

 

「阿知賀との練習試合は、どうやったん?」

「ああ、ええ、そうですね。凄く身になりましたよ。ようやくみんなのレベルが実感できてきたというか」

「きょーちゃんさんもレベルアップしとるもんな」

「ま、まぁ、ほとんどトップは穫れなかったんですけどね」

「ふーん」

 

 信号が赤になり、怜はぴたりと足を止める。京太郎は、その隣に並ぶ勇気がなかった。何だか末恐ろしい気がした。

 

「でもなぁ、きょーちゃんさん」

「な、なんでしょう?」

「トップは獲れんくても、チョコレートは一杯貰ってきたんやろ?」

「えっ」

「めっちゃチョコの匂いするで」

 

 怜の指摘は、正しかった。まだまだ育ち盛りの体、怜と合流するまでに小腹が空いた京太郎は、阿知賀で頂いたバレンタインチョコをいくつか抓んでいたのだ。

 どうやら、それが怜の不興を買ったらしい。別に怜と自分はそういう関係ではないが、確かに不誠実だったかも知れない――京太郎は反省する。謝ろうと口を開きかけ。

 

 ――あれ、これってもしかして。

 

 はたと気付く。嫉妬、されているのだろうか。彼女は自分に特別な感情を抱いているのではないか。その考えに至るのは、ごく自然な流れであったろう。

 

「お、園城寺さん」

「どうしたんや、チョコレート一杯貰うモテモテのきょーちゃんさん」

「いやいや、全部義理ですって。憧なんか三倍返ししろって言いながら渡してきたんですよ?」

「じゃあ、その手に持っとるんはなんなん?」

 

 指摘され、京太郎は手提げ袋に目を落とす。そこに入ってるのは、穏乃がくれたいちご大福だ。立派な箱包みは、隠しようもない。

 

「義理でそんなん、貰えるん?」

「あ、当たり前ですよっ。ほら、高鴨穏乃って覚えてます? 和菓子屋の子だからこういうのくれただけですよ。そもそも最近避けられてるくらいで……」

「ふーん。ふーん」

 

 言い訳を重ねても、あからさまに機嫌が悪くなっていく。もう京太郎の手には負えない。ここにはいない清水谷竜華に心の中で助けを求めるが、当然現れるわけもなかった。

 

「モテモテのきょーちゃんさんは、これ以上チョコは要らへんよな」

「えっ、な、なんですか急に。どういう意味ですか」

「言葉通りや」

 

 信号が、青になる。だが、怜は横断歩道を渡りだそうとしなかった。冷えた道路にぴったりと足の裏がくっついてしまったかのよう。そしてそれは、京太郎も同じだった。

 

「分かってへんとは、言わせへんで」

「園城寺さん……?」

 

 ひんやりとした、あるいは緊張感とも言い換えられる沈黙が、二人の間に落ちる。ともすればそのまま一時間でも二時間でも突っ立っていられそうだった。

 しかし怜は、振り返った。京太郎と、目と目を合わせた。逃れられない呪縛が、京太郎の体を絡め取る。

 

「私も……ちゃんと、用意してたんやからな」

「そ、それは――」

「きょーちゃん」

 

 怜が、小首を傾げる。僅かなその仕草が、しかし彼女の中に潜む妖艶さを引き立てる。

 

「受け取ってくれるんなら……目、閉じて」

「っ!」

 

 もはや、京太郎に逃れる術はなかった。憧れの人は、いる。だがそれは恋愛対象としてではない――少なくとも今は。

何よりも、今の怜を前にして拒絶できる男がどれだけいるというのだろうか。

 意を決し、京太郎はゆっくりと瞳を閉じた。乾いた足音が、聞こえてくる。近づいてくる怜の気配。鼻腔をくすぐる彼女の匂い。全てが、チョコレートよりも甘美だった。

 身構え、体を強張らせ、ついに鼻先で空気が揺れ――

 

 

 固い感触が、唇に押し付けられた。

 

 

「……は?」

 

 断じて人肌などではない。目を開けると、口元に突き付けられていたのは桃色の紙袋だった。その向こうで、怜がにやにやと、そう、心底にやにやと笑っていた。

 

「はい、きょーちゃん。私からのバレンタインチョコやで。そこのコンビニで買ってきたもんやけど、受け取って」

「……」

「実はさっきまでバレンタインのこと忘れててなぁ。ほんま慌てたわ」

「…………」

「あ、コンビニやからって舐めたらあかんで。割とええの買ってきたんやから。まぁ、一番高いやつは止めといたんやけど」

「………………園城寺さん」

「どうしたん、きょーちゃん?」

「行きますよ」

「あっ」

 

 肩をいからせ、ずかずかと京太郎は歩き出す。縋り付こうとする怜を、意にかけようともしなかった。

 

「もう、きょーちゃん怒っとるん?」

「怒ってなんかいませんっ」

「やっぱり怒っとるやん。ちょっとした茶目っ気やから許して」

「だから怒ってなんかいませんってばっ」

「ほら、ちゃんと受け取って」

「……はいはい、分かりましたっ」

「なんだかんだ言うて貰ってくれるきょーちゃん、好きやで」

「もうからかわないでください!」

 

 二人は冬の街を歩いて行く。少女の楽しげな笑い声と、少年の拗ねた声を混じり合わせながら。

 この日以降、京太郎は怜の「好き」をなかなかまともに取り合わなくなった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 長野に帰る京太郎を見送り、怜は自室に戻ってくる。コートとマフラーを脱ぎ捨てて、海溝よりも深い溜息を吐いた。

 

「あああああもおおおお私なにやっとるんんんんんー!」

 

 そしてそのまま、彼女はベッドに飛び込んだ。枕に顔を埋め、ばたばたと足を振る。肝心なところでへたれてしまった自分を、全力で殴りつけたい気分だった。

 

 彼に渡したチョコレートが、既製品のわけもなく。

 

 ベッドはぎしぎし悲鳴を上げた。母親が部屋に飛び込んでくるまで、悲鳴を上げ続けた。



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Ep.7 超新星はコメットガール
7-1 謝罪行脚


 

 

 スクープ!

 麻雀界のスーパールーキー大星淡プロに恋人発覚! 結婚まで秒読みか

 

 

 池袋ムーンライツ所属大星淡プロ(18)に交際相手の存在が発覚し、大きな話題を呼んでいる。お相手は一般人男性で、高校時代からの付き合いだという。

 

 

 五月末日都内にて、大星プロは交際相手と熱い抱擁を交わし、公開プロポーズに踏み切った。一連の様子は多数の目撃者に確認されており、写真も公開されている(プライバシー保護のため、本誌ではお相手の男性の写真には加工処理をしています。ご了承下さい)。

 

 大星プロはこの春から麻雀プロとして活動を開始し、同期の高鴨穏乃プロ、宮永咲プロの二人とスーパールーキーと並び称される活躍を見せている。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの中でもたらされたニュースに、各界は動揺を隠せていない模様である。

 本誌インタビューに、大星プロは「とても優しい人です。ずっと傍にいるって言ってくれたんです」と熱いコメントをくれた。二人の今後を見守っていきたい。

 

 

 

 

 

「――だ、そうだ」

 

 ばたん、と荒々しく雑誌が閉じられ、淡はびくりと肩を震わせた。

 正座である。丸テーブルの前に、正座。広々とした部屋だというのに、肩身が狭い。取り囲まれ、遠慮なく注がれる視線のためだ。

 

 テーブルを挟んで淡の真正面に座るのは、家主の弘世菫だ。淡よりも二つ年上の、高校の先輩である。友人や仲間に対しては温和な顔を見せる彼女だが、基本的に相対する者には容赦はしない。怜悧な瞳で相手を捉え、確実に射貫いていく。

 

 その相手が、今は淡であった。先輩に対しても平気で生意気な口を叩く彼女であるが――流石に今の菫を相手に、そうする度胸はなかった。

 

「この雑誌はまだ良い。好意的に書いてくれている。このお相手の彼が誰かも分からないようになっている。もっとも、無加工の写真がネット上に出回った後だがな」

「も、もー、ほんと困っちゃうよねー」

「は?」

「ご、ごめんなさい……」

 

 菫に怒られた経験は幾度となくあるが、ここまで強いプレッシャーをかけられるのは久方ぶりだった。白糸台を卒業した後も何かと気に懸けてくれる良い先輩だと淡自身理解しているが、同時に口うるさい小姑じみた存在だった。

 

「今私を小姑だとか考えなかったか」

「滅相もない!」

 

 ぶるぶると淡は首を振る。この状況で菫に逆らってはならない。淡はよく理解していた。

 

「大体お前ノリノリでインタビューに答えておいて、困るとは何だ困るとは!」

「ほんとのことなんだもん!」

「嘘をつけ嘘を!」

 

 菫の手が伸び、淡の両頬をもにっと引っ張る。

 

「雑誌によってはあることないこと書き立てる! マスコミは須賀君に取材しようと取り囲む! お前は何でもかんでも認めてしまう! 東帝の麻雀部はしばらくまともに活動できなかったんだぞ! どう責任をとるつもりなんだ!」

「それはもちろん結婚して!」

「バカなのか!」

「痛い痛い痛いー!」

「ま、まあまあその辺にしましょう」

 

 割って入ったのは、菫と淡と同じく白糸台出身の、亦野誠子だった。現在も菫と同じ大学に通っている彼女もまた、この場に参集していた。主に、菫のストッパーとしての役割を果たすため。

 

「ひとまず事態は沈静化したんですし」

「させたのは私の家だ。……まあ良い。私も熱くなりすぎた」

「ううう……」

 

 菫の手がようやく離れ、淡は赤くなった自分の頬をさする。――週末は写真撮影もあるというのに。菫に文句を言いたかったが、頭が上がらないのも事実。

 

 多大なる弘世家の権力をもって、異例の速度で報道合戦はひとまずの収束を見せた。当然それだけでは済まないほど波紋が広がっているが、人の口には戸を立てられない。噂が沈静化するまで相当な時間がかかるだろう。淡としても京太郎に迷惑をかけるのは本意ではない。

 

「ほら、淡。恭子たちにも謝れ」

 

 菫に促され、淡は自分を取り囲む面々を仰ぎ見る。

 東帝大学麻雀部。淡の将来の旦那様――当人の認識としては――である京太郎が現在所属するコミュニティである。

 

 いずれも、かつてインハイで顔を見たことのある人間ばかりだ。

 

 阿知賀女子、松実宥。既に蒸し暑くなってきた時期だというのに、一人格好が暑苦しい。

 新道寺女子、花田煌。心なしかどこか疲れているように見える。

 淡の高校の先輩でもある、渋谷尭深。穏やかでいつも優しく、菫が鞭なら彼女は飴だ。

 そして姫松の末原恭子。ほとんど交流のない相手ではあるが――彼女を見ていると、淡の心はとてもざわめく。苛立たしい、と言い換えても良い。

 

 マスコミの取材の手は、彼女たちにまで及んだらしい。彼女たち自身が麻雀界隈ではちょっとした有名人であることも手伝って、随分と悪目立ちしたという。先ほどからずっと黙っているが、かなり手を煩わせたことは間違いない。

 

「……ご迷惑をおかけしましたゴメンナサイ」

 

 たびたび自由奔放と目される淡ではあるが、きちんと責任感は持ち合わせている。この春からは社会人にもなったのだ。いつまでも子供ではいられない。しっかりと頭を下げる態度に、煌や尭深は嘆息する。宥などは逆に恐縮するばかり。

 

「わ、私は大丈夫だったからっ。あったかい部屋に引きこもっていたからっ」

「そうです、大した被害もありませんでしたし」

「気にしないで、淡ちゃん」

「みんな……!」

 

 ぱあっと淡の顔が輝く。

 ――たびたび自由奔放と目される淡ではあるが、きちんと責任感は持ち合わせている。触れた優しさに報いるのは当然であった。

 

 故に。

 

「私とキョータローの結婚式には絶対呼ぶから!」

 

 一切の悪意なく、彼女は言った。

 

「え?」

「え?」

「は?」

「えっ」

 

 一転して冷ややかな声色に切り替わり、淡は狼狽えた。おかしい、今のは和解する流れだったのに――彼女の疑問に答える者はいない。誠子と煌が苦笑いを浮かべ、菫はそれはもう深い溜息を吐いた。

 

「た、たかみ先輩……?」

 

 縋るように淡が視線を送ったのは、斜向かいに座る尭深。彼女は京太郎との仲も、積極的にではないにしろ応援してくれていた。

 

 しかし、ふいっと尭深は目を逸らした。これには淡もショックだった。尭深にこんな態度をとられるのは初めてだった。一体何があったというのか。まさか、大人しくて奥手な彼女が京太郎とどうこうなるとは思えず、淡は首を傾げるしかなかった。

 

 正に四面楚歌。卓上では誰にも負けるつもりはないが、この状況、間違いなく不利だ。

 

 何よりも。

 一人、部屋の奥に座る末原恭子から注がれる視線が、一番痛い。単純に睨み付けるわけでもなく、多くの言葉を投げかけてくるわけでもなく、しかし静かな気迫を感じる。麻雀で強敵と相見えたときに似ていた。

 

「……さっきから、なに?」

 

 元々我慢強いほうではない。殊勝な態度を脱ぎ捨てて、淡は恭子に問いかける。

 

「結婚式に呼ばれたくないの?」

「呼ばれても行かへんし、須賀はあんたと結婚する気ない言うてたで」

「それは聞いてる!」

 

 あっけらかんと淡は言い放つ。まさかの返答に、宥が鸚鵡返しに訊ねていた。

 

「え、き、聞いているの?」

「これ九十一回目の告白だったんだけど、また断られちゃった」

「ええー……」

 

 戸惑う声を上げたのは、煌。笑顔のまま表情を凍り付かせていた。白糸台の面々は聞き慣れているためか、大した表情に変化はない。ただ湯飲みを握る手に力が入っているのを、淡は見逃さなかった。

 

「あ、諦めないの?」

「なんで諦めないといけないの?」

 

 宥がおそるおそる訊ねるが、その疑問こそが分からない、と言わんばかりに淡は首を傾げた。煌が今一度確認するように訊ねる。

 

「振られたん、ですよね?」

「でも明日には気が変わってるかも知れないじゃん!」

「は、はぁ?」

「ううん、気を変えるの!」

 

 力強く、淡は言った。

 

「確かにキョータローは今私のことを好きじゃないかも知れないけど。でも、配牌で一喜一憂してるようじゃ雀士じゃないでしょ。たぐり寄せなきゃ」

 

 部屋の中が、一瞬静まり返る。

 淡は全員の顔を見渡して、宣言した。

 

「何より、私の点箱はまだ空っぽになってないから。――諦めるわけないじゃん」

「バカなのか」

「うひゃっ」

 

 再び菫に頬をもにっと引っ張られ、淡は短い悲鳴を上げた。

 

「お前が諦めないのは勝手だが、それで須賀君に迷惑をかけてどうするんだ」

「……ごめんなひゃい」

「私はもう謝ってもらった。次はちゃんと須賀君に謝ってこい。落ち着いた今なら会いに行けるだろう。ただし、恭子たちに随伴してもらうこと」

「ひゃーい」

 

 右手を上げて、淡は威勢良く返事をする。菫はもう幾度目か分からない溜息を吐くしかなかった。彼女は恭子たちに向かって、

 

「うちの車を出させるから、今日はそれで帰ってくれ」

「すまんな、助かるわ」

「いや、元はと言えばうちの後輩の不始末だ。わざわざ来て貰ってすまない」

「次はまたどこかで飲もか」

「そうだな」

「会話がおじさんみたい」

 

 ぼそっと淡が呟き、彼女の頭に菫の拳骨が降り注いだ。

 

 

 ◇

 

 

 聖白女も巻き込んだ長い会議と説教が終わると、既に日が暮れていた。淡たちを乗せた車が、夜の街を走る。

 

 結局、京太郎の家に向かう淡に連れ添うのは恭子だけとなった。恭子がいれば滅多なことにならないだろう、という判断の下である。それに、今彼の傍には園城寺怜もいる。宥たちは麻雀部の活動再開に向け準備をする運びとなった。

 

 運転手を除けば、車中は二人のみ。後部座席の中央は緩衝地帯となり、淡は進行方向に向かって右側、その逆側に恭子が座っていた。

 

 淡は自分が他者からどう評価されているかよく知っている。高校の頃から麻雀雑誌で何かにつけて記事を書かれてきた。――自信家、ビッグマウス、対戦相手のことなど気にも留めない。

 

 それらの評価が全て間違っているとは言わない。だが、全て正しいとも言えない。

 

 自信過剰で他の人間が眼中にもない、なんてことはない。敬愛すべき先輩たち、同学年最大のライバルである高鴨穏乃と宮永咲、他にも挙げだしたら切りがない。気になる人間には、とことん拘る節もあるくらいなのだ。

 

 だから――この隣に座る末原恭子に対しても、無関心というわけではない。

 

 もしかしたら、普通に会っていれば路傍の石のような扱いになっていたかも知れない。しかし今は、そうもいかなかった。

 

 何故なら、向こうがそれを許してくれないから。

 

 強烈に意識されてしまっている。好意的ではないことくらいは、分かる。迷惑をかけた自覚は当然ある。だが、それだけでは済まされない何かを淡は感じ取っていた。

 

「ねぇ」

 

 見つめるのは、窓の外。かすかに窓に映る恭子の姿も背中を向けられており、同じように顔を逸らしているのが分かった。

 

「なんや」

「あんた、キョータローの何なの?」

 

 投げかけた質問に、回答はすぐに返ってこなかった。

 

「ねぇってば」

 

 再び、淡は促そうとする。思い通りに事が進まないと苛立つ性格を自覚していたが、ここ数年でそれも改善したと彼女は自負していた。それでも、この場で無視されるのはとても癪に障った。

 

「部活の先輩や」

「そういうことを聞きたいんじゃないんだけど」

「そんなら何が聞きたいんや」

「……なんだろ」

「質問しといて何やそれ」

「ふん」

 

 淡は鼻を鳴らす。ちょっと強がりだった。彼女からは、菫に似た空気を感じられる。

 同時に、危険な匂いもした。

 

「好きになっちゃだめだからね」

「は、はぁ? 何をや」

「キョータローに決まってるじゃん」

 

 淡は振り向く。恭子もまた、こちらに振り返っていた。

 

「キョータローは、私と結婚するんだから」

 

 そこだけは、しっかりと釘を刺しておかなければ。特に彼女には。

 

 同時に、車が目的地に到着する。

 淡は踊るように階段を駆け上がる。部屋の場所は、既に調べ上げていた。

 

「ちょ、待て!」

「待たないっ!」

 

 後ろから追いかけてくる恭子は無視。

 辿り着いた部屋の前で、深呼吸を一つ。チャイムを鳴らす。

 

 しかし、京太郎は出てこない。玄関先に人がいる気配もない。家にいるはずなのに、どうして。

 

「須賀は、そっちにはおらへん」

 

 息を切らしながら追い縋ってきたのは、恭子。

 

「こっち」

 

 彼女がチャイムを鳴らしたのは、隣の部屋だった。淡が呆けている間に、控え目に扉が開かれた。

 

 出てきたのは、確かに京太郎だった。

 慌てて淡は部屋番号を確認する。何度見ても、間違ってない。

 

「園城寺の様子はどうや」

「ゆっくり眠ってます。熱は下がりましたから、もう心配はないかと」

「ま、しょうがないな。五月からずっと忙しかったし、疲れ溜まってたんやろ」

「そうですね。エースとしてずっと気を張って、ここに来て色々ありましたから」

「大体あんたが原因やけどな」

「それを言われると辛い……」

 

 今すぐにでも京太郎の胸元に飛び込んでしまいたいが、さりげなく恭子が経路を塞いでいる。加えてかなり真面目な話をしている感じだったので、流石に淡は自重した。

 

 しかし、今回は京太郎から気付いてくれた。

 

「淡」

「キョータロー!」

 

 途端に淡の表情が緩む。恭子を押し退けてでも駆け寄りたかったが、

 

「夜だし、今は静かにしてくれよ?」

「……はい」

 

 京太郎に注意されて、両手で口を塞ぐ。

 

「俺の部屋に行きましょう」

「せやな」

「はぁい」

 

 隣の部屋の鍵を閉め、京太郎は初めに淡が入ろうとした部屋の鍵を開ける。やはり間違っていなかったと安心しながら、淡は訊ねる。

 

「あっちは誰が住んでるの? 知り合い?」

「同じ麻雀部員だよ。ちょっと体調崩してるから、今日は紹介できないけどな」

「……もしかして、女の子?」

「そうだよ」

「キョータローが看病してたりとか?」

「そりゃするっての。こういうときのために隣に住んでるんだから」

 

 むむ、と淡はふくれっ面になる。とても面白くない。こんな近くに女の子が住んでいるなんて話は聞いていなかった。

 

 何はともあれ、京太郎の部屋に入るというビッグイベントだ。淡のテンションは上がりっぱなしである。さり気なく腕をとってみる。

 

「おいこら、何してんだっ」

「別に良いじゃん! 結婚するんだし!」

「だから結婚なんてしない!」

「ええー」

 

 あっさりと振り払われてしまった。

 整然とした部屋に通され、淡はきょろきょろと辺りを見回す。

 

「長野の実家と似てるねっ」

「似るように配置したからな。……おい淡、あんまりいじるなよ。お前には本棚ぐちゃぐちゃにした前科があるんだからな」

「もうやらないよ、いつまでも子供じゃないから!」

「ったく。大人ならもうちょっと落ち着いてくれよ」

 

 こうしてゆっくり話すのも久しぶりだ。この春からお互い新生活で忙しくなり、折角京太郎が東京に来たというのに、淡自身あまり会いに行けていない。前回街中で会ったときも、野次馬のせいですぐにその場を離れなくてはならなかった。

 

 あしらわれようとも、淡はさして気にしない。京太郎のことはよく分かっている。本気で嫌がっているかどうかの境目を見極めるなんて、簡単だ。折角部屋に入ったのだし、もっとくっつきたかったが――

 

 ごほん、と背後から咳払いが聞こえた。

 

 今日は菫に代わるお目付役がいる。この状況では、あまり思い切ったことはできない。

 

「末原先輩も淡もご飯まだですよね」

「え、そうやけど……」

「うんっ」

「来るって聞いてたから一応準備しといたんです。折角ですし食べてって下さい」

「ありがとーキョータロー!」

「だからくっつくなって!」

 

 狭い食卓にずらりと並べられた料理に淡は目を輝かせる。京太郎の隣に座るのが恭子というのには納得いかなかったが、これまた久しぶりの京太郎の料理だ。

 ハンバーグを口に運び、淡は舌鼓を打つ。

 

「やっぱりキョータローは私のお婿さんになるべき!」

「ならない」

「それよりあんた何か言うことあるんとちゃうか」

 

 恭子に箸で指差され、淡はむすっとする。彼女に指摘されるのは気に入らなかったが、目的を忘れてはならない。

 

「……キョータロー」

「ん、どうした」

「迷惑かけて、ゴメンナサイ」

 

 京太郎は微かに溜息を吐いて、

 

「良いよ別にもう。済んだことだし、先輩たちにも謝ったんだろ?」

「ゆ、許してくれる……?」

「二度としないって誓うならな」

「キョータロー……!」

 

 淡は笑顔を取り戻して、彼にすり寄った。

 

「結婚しよ!」

「あんた今の話聞いとったんか!」

 

 鋭い恭子の突っ込みも、淡は全く気にしない。挑発的な笑みさえ浮かべて、恭子に宣う。

 

「人前じゃだめってことでしょ? うん、私も自分の立場をちゃんと理解してなかったから反省してるよォー。でーもー、迷惑さえかけなきゃ大丈夫だよね! ねっ?」

「この小娘は……!」

「末原先輩、こういう奴だから諦めたほうが良いです」

 

 最早慣れきっているのだろう。京太郎から漂う諦観に、恭子も拳を引っ込める。

 だが、次の一言はそんな京太郎でさえも聞き逃せなかった。

 

「ねーねー、キョータロー」

「今度は何だよ」

「私、今日からここに住むね! そうしたら人の目も気にせずくっつけるし!」

 

 淡はあっけらかんと言い放つ。これには淡に慣れていたはずの京太郎も、お茶を吹き出しかけた。

 

「滅茶苦茶人の目気にしなくちゃならなくなるわ!」

「えー、そうかな?」

「そうだよ!」

 

 京太郎の熱弁にも、淡はまったく堪えない。恭子はもう呆れてものが言えなくなっている。

 

「隣に女の子が住んでるんでしょ? その子だけずるい」

「いやだから事情があるし、ずるいとかそんな問題じゃないし、そもそも同棲なんてできるわけがないだろっ」

「私はキョータローとならいつでもオールオッケーだよ」

「オッケーなわけがあるか!」

「どうして?」

「どうしてってそりゃ――」

「私はいつでも良いのに」

 

 上目遣いに京太郎の顔を覗き込む。う、と彼は言葉を詰まらせた。長年の研究により、京太郎がこの仕草に弱いのは知っている。押せ押せでいけば何かしらのハプニングを期待できる、と思っていたら、

 

「いい加減にしとき」

「あいたっ」

 

 我に返った恭子に頭をはたかれた。これが関西の突っ込みなのか、痛みは少ないが一瞬で雰囲気を壊されてしまった。

 

「さっさと食べな。そろそろ出発するで。菫んとこの運転手さん、わざわざ迎えに来てくれるそうやから」

「一人で帰れば良いじゃん」

「ああ?」

「……はい、なんでもありません」

 

 やはり、この女は厄介だ。淡ははっきりと意識する。せっつかれたせいで京太郎の料理を味わう暇もなかった。けれども凄まれると怖いので逆らえない。とても後輩慣れしている様子だった。

 

「――それじゃ、須賀。明日からは部活再開やから」

「はい」

「キョータロー、また来るね!」

「そのときは絶対に連絡入れろよ」

「分かってるって!」

 

 名残惜しいが、ひとまず京太郎とお別れだ。

 ちらり、と淡は恭子の様子を窺う。彼女が靴を履き替えている今がチャンスだ。京太郎に飛びつこうとして、

 

「むぎゅ」

「おい、何しようとしてた」

 

 京太郎に頭を抑え付けられてしまった。

 

「お別れのちゅー。まさか捕まるとは……」

「最近不意打ちには慣らされたからな」

「? どゆこと?」

「……なんでもない」

 

 気まずそうに顔を逸らす京太郎に、淡は首を傾げる。そんな彼女を、今度こそ恭子が引き摺って部屋から引っ張り出した。

 

 部屋を出た瞬間、恭子が深い息を吐いているのが淡にも分かった。まるで、緊張から解放されたかのような姿だった。淡はますますもって、疑念の目を彼女に向けなければならなかった。

 

 しかし、帰りの車内で淡はご機嫌だった。京太郎とゆっくり喋れた上、手料理まで食べられた。明日のプロリーグ戦はきっと絶好調だ。

 

 ――これで、邪魔者さえいなければ最高だったのに。

 

「なぁ、大星」

 

 淡の内心を読み取ったかのようなタイミングで、今度は恭子から話しかけてきた。流石に応えないわけにもいかない。

 

「なに?」

「あんた、なんであんなに須賀のこと気に入ってるん?」

 

 その質問は、淡にとっては鼻で笑ってしまいそうなものだった。

 

「びびっと来たから」

「なんやそれ、一目惚れってやつか」

「一目惚れじゃなかったけど――でも、人を好きになるのなんて、そんなものじゃないの?」

「……知らんわ」

 

 ぽつりと恭子が呟く。納得したのかしていないのか、淡には判別できなかった。

 

「ねぇねぇ」

「なんや」

「気になるなら教えてあげるよ、私とキョータローのことっ」

 

 純然たる善意で、淡はそんなことを言い出した。人の惚気話など聞きたくもない、と言った様子で恭子は一度顔を歪めるものの――

 

「そんなら、聞かせてもらおか」

「うんっ」

 

 何かが彼女の興味をそそったのか、食い付いてきた。淡は心底嬉しそうに、笑顔で頷いた。

 

 彼女は語り始める。

 京太郎の存在を、初めて認識したその日のことから。

 

 

 




次回:7-2 あなたとわたしのシェイクハンド


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7-2 あなたとわたしのシェイクハンド

 大星淡が初めて須賀京太郎と出会った場は、高校一年生のインターハイだった。

 

 団体戦から個人戦までの全日程を終えた後、淡の所属する白糸台は、長野代表清澄高校の面々と顔を合わせることとなった。お互い団体戦決勝で相見えた仇敵たちではあったが、宮永姉妹という因縁が、二つの学校を結びつかせた。

 

 それぞれが顔を合わせたのは、清澄高校が宿泊するホテルの一室だった。

 

 宮永姉妹は二人きりでどこかに消え、部長同士が挨拶をし、他の部員も談笑に興じる。競い合った仲ではあるが、一皮剥けば女子高生。同好の士ということもあり、打ち解けるのは早かった。

 

 しかし、淡は出遅れた。

 正直言って、団体戦で上をいかれた清澄にはわだかまりがあった。大将として決着の場に居合わせたのだから、なおさらである。淡には、いきなり何もかも水に流すのは無理だった。

 

 テーブルを囲む面々から離れた場所に淡は独りでちょこんと座り、あまり使わないスマートフォンの画面を弄る。笑い声が随分遠くに聞こえた。

 

 苛立ちばかりが募る。胸の奥がむかむかする。

 ――そんな彼女の目の前に、

 

「ほら、どーぞ」

 

 お茶が注がれたコップが、置かれた。

 顔を上げると、見知らぬ男子がそこに立っていた。すらりと背が高く、立っていても見上げなければならないだろう。彼はお盆に載せたコップを、次々と部員たちに配っていく。

 

 当然、女子校である白糸台の生徒ではない。制服姿から、ホテルの従業員でないことも確かだ。大体、年のころも同じくらいだろう。

 

「ねぇ」

「ん?」

 

 手持ち無沙汰になっていた淡は、お盆を下げようとする彼に声をかけた。特に深い理由はなかった。

 

「あんた、清澄のマネージャー?」

「マネージャー……いやいや、歴とした部員だよ」

「ふぅーん、男子のインハイには出てないの?」

「……予選落ちだよ」

 

 彼は、不本意な結果だったのだろう、口を尖らせてそう言った。

 

「なんだ。清澄ってみんな強いんだとばかり思ってた」

「俺はこれからなんだよ。練習積んで、来年は俺もインハイに出る」

「これから?」

 

 淡は挑発するような笑みを浮かべる。溜まっていた鬱憤を、机の向こう側に立つ少年が、むっとするのが分かった。

 

「なんだよ、何か文句でもあるのかよ」

「これからだなんて言って、ずっと負け続けたりして」

「ふん、自分は咲に負けたくせに」

「むっ」

 

 思わぬ反撃に、淡は一度言葉を詰まらせた。今一番突かれたくない点である。ちょっとからかってやろう、なんてぬるい考えは即座に頭から抜け落ちた。

 

「もう一回やったら絶対に私が勝つからっ」

「はいはい、大星さんは強いですねー」

「なにその言い方! ぜんっぜんいけてない!」

「いけてなくても大いに結構だっての。……おい、お茶入ったコップ振り回すな」

「あ、ごめん。……とにかく、あんまり舐めてると痛い目に合わせるんだからっ」

「やれるもんならやってみろよ、派手頭」

「派手頭なのはあんたもでしょ、ばーかばーか!」

「お前小学生かよ」

「違う、高校百年生なんだからっ」

 

 冷めた視線を向けてくる彼を、淡は思いきり睨み付ける。麻雀で負けたときと同じくらいに、腹立たしい。この男を見ていると、無性に胸の奥がざわめいて仕方がないのだ。

 

「……あんた、名前は?」

「須賀京太郎だよ」

 

 その答えに、淡は拳を振り上げる。

 

「麻雀で勝負しろスガー! あんたなんかこてんぱんにのしてやるんだから!」

「なにをやってるんだ淡」

「むぎゅ」

 

 後ろから、頭を抑え付けられる。先輩の弘世菫だった。彼女は淡をひとまず無視して、京太郎へと声をかけた。

 

「すまないな、君。うちの大星が迷惑をかけて」

「ああいえ、こちらこそ喧嘩に乗っちゃってすみません」

「そうよー、須賀くん。インハイ終わったからって他校とトラブル起こされちゃ困るのよ?」

「その割には部長、楽しそうに見てませんでした?」

「ちょっと和、そういうこと言わないでよ」

 

 部屋の中が笑い声で満たされ、空気は明るいものとなる。

 しかし、淡の心は晴れない。菫に頭を抑え付けられたまま、上目遣いに笑顔の京太郎を睨み続けていた。

 

 ――ほんっと、むかつく!

 

 いけ好かない。生意気。のっぽ。

 須賀京太郎に対する淡の初印象は、およそ考えられる限り最低の部類であった。

 

 

 しばらく顔も見たくない。

 淡はそう思っていたものの、それからたびたび京太郎と顔を合わせることとなった。

 

 まずコクマに向けての白糸台、清澄、阿知賀の合同合宿。一部受験勉強などで不参加者がいたものの、もちろん出場選手である淡は合宿に参加した。東京で行われたこの合宿に、京太郎も帯同していたのだ。

 

 旅館の廊下でばったり出会った瞬間、淡は顔をしかめた。

 一方の京太郎は気まずそうに顔を背ける。

 

「なんであんたがここにいるのっ」

「清澄が参加してるんだ、俺が来ちゃ悪いのかよっ」

「悪いでーす、弱い人は足手まといでーす」

「お前マジでむかつくな……!」

「文句があるならコクマに出てから言ってよねっ。というかスガ、人と話すときはちゃんと目を見て話なさいよーっ!」

 

 びしりと指差して淡は注意する。だが、京太郎は依然淡と目を合わそうとしない。

 

「いやお前、だから、その、自分の格好よく見ろっ」

「かっこう?」

 

 指摘され、淡は俯いて服装を確認する。

 旅館についてすぐ、汗を流したくなり大浴場に入った。今は、そこから出てきたばかり。居室に用意されていた浴衣に着替えていた――のだが。ちゃんと帯を締めなかったせいか、はだけでしまっている。おかげで火照った肌があちこち露わになっていた。

 

 かあっと、淡の頭が一気に沸騰する。

 

「スガのばかー! ヘンタイヘンタイヘンタイ! すけべっ!」

「俺のせいじゃないだろ! むしろ教えてやったのに!」

「うるさい、ばーかばーか!」

 

 その合宿では、淡から京太郎に話しかけることは二度となかった。近寄るだけで顔から火が出るほど恥ずかしかった。

 

 

 次は三年が完全に抜け新体制に移行し、企画された練習試合。相も変わらず京太郎がやっていることはマネージャーの仕事。迷子になった咲を連れてきたり、優希のためにタコスを用意したり。見ているだけで、苛立たしい。

 

「あんた、ほんとに強くなる気あるの?」

「あ、当たり前だろ」

「だったら雑用ばっかりやってないで打たなきゃだめでしょ! 折角みんな集まってるんだから!」

 

 遠慮する京太郎を引っ張り、半ば無理矢理卓につかせる。その瞬間、淡の目は怪しく輝いた。

 

 ――当然、ようやく初心者レベルから脱したばかりの京太郎が淡に敵うはずもなく。淡は思う存分、京太郎をなぶった。

 

「この、やりたい放題やりやがって……! お前俺を叩きのめしたいだけだろっ」

「ふふーん、悔しかったら強くなってみたらー?」

 

 実に大人げなかった。しかし、当時の淡は気にもしなかった。

 

 

 その次の大会会場でも。

「あ、ばかスガじゃん!」

「ばかは余計だうにょうにょ頭!」

「なにをぅ! この髪型にはこだわりがあるんだから!」

 

 

 その次の合宿でも。

「弱っ! そんなんで予選抜けられるのっ?」

「くそ、調子に乗りやがって……!」

「気に入らないんなら勝って見せてよっ」

「次は絶対勝ってやるよ!」

 

 

 その次も。

「出たなスガっ!」

「人をお化けみたいに言うな……あーお前リボンタイ曲がってんぞ」

「えっ、うそっ」

「ほら、じっとしてろ」

「あ、ありがと…………じゃなーい!」

 

 

 さらにその次も。

「最近ほんとよく会うな」

「もしかしてあんた私のストーカー?」

「そんなわけあるかバカ!」

「あ、こないだユーキに作ってたタコス私も食べたいんだけど」

「おい、会話を成り立たせろ」

 

 

 会う度に喧嘩。先輩に窘められようとも、淡は態度を改めなかった。気にくわないのだから仕方ない。どうしようもなく、仕方がないのだ。

 そして、季節は一巡りし。

 大星淡は、二度目のインターハイを迎えた。

 

 

 ◇

 

 

 最近の調子なら、大会開始前にでも清澄の面子と顔を合わせるだろう。淡はそう予想しながら、インハイの開会式に臨んだ。だが、思うとおりにいかなかった。

 

 シード権を持つ白糸台と清澄は、しかし大会序盤とは言え暇ではない。マスコミ対応、二回戦に上がってくるであろう対戦校の研究、その他諸々。昨年までは先輩かつ注目選手である照や菫が役割の大半を担っていたが、淡も二年。来年も見据えて、彼女が中核を務めていた。

 

 清澄も似たような事情らしく、咲たちとは中々ゆっくり喋る時間をとれなかった。元々馴れ合うつもりもないし外野からの邪推も鬱陶しいので、あるべき姿と言えばあるべき姿。

 

 けれども淡は不満だった。いつもの調子が出ない。大事なねじが緩んでいる感覚。昨年の準決勝、屈辱的な負けを味わったときと似ていた。このままでは、また下らないつまずきをやりかねない。

 

「あまり好き勝手出歩かないでくれよ」

「分かってるって」

 

 強者の空気を直で味わえば引き締まるかも知れない。

 半ば強引に、淡は一回戦の熱気に包まれるインハイ会場を訪れた。お目付役は、部長の亦野誠子。

 

 去年面白い力を感じた永水女子を筆頭に、一回戦でも中々の猛者たちが集まっている。新道寺の鶴田姫子も健在だ。

 

 ――これで咲や穏乃とたまたまでも良いから会えれば面白いのに。

 などと思っていたら。

 

「げっ」

「あっ」

 

 会場入口付近で出くわしたのは――天敵、須賀京太郎だった。

 

「なんであんたがここに! というか『げっ』てどういう意味っ?」

「俺がどこにいたってお前には関係ないだろ」

「むっ」

 

 正論ではあるが、突き放した物言いに淡は眉をひそめた。らしくない、と言えるほど付き合いは長くも深くもないが、違和感だけが強く残る。

 

「何かあったの?」

「別に」

 

 やはり愛想が悪い。呼応するように、淡の機嫌は悪くなる。

 

「あんた、もしかしてまた応援だけ? 自分の試合はないの?」

「……ねーよ」

 

 ふふん、と淡は笑った。

 

「あれだけ大口叩いといて、また予選で落ちたんだ。かっこわるっ」

 

 言ってから――すぐに淡は後悔した。

 僅かな時間、京太郎の唇が真一文字に引き締まった。今まで見たことのない表情だった。何だかんだ言って、これまでの喧嘩はじゃれ合いの域を出ていなかった。――それを、思い知らされた顔だった。

 

 しかし京太郎は一転、微笑んだ。明らかに作り笑いと分かるそれは、見ている淡の胸を強く締め付ける。

 

「そうなんだよ。ほんと、格好悪いよな。あれだけお前も打ってくれたのに。……俺は足踏みして、ばっかりだ」

「えっ、あっ、そのっ」

「それじゃあな。言っとくけど、今年の清澄も強いぜ。お前も頑張れよ」

 

 そさくさと、彼は立ち去ってしまう。その背中にかけるべき言葉を見つけられず、淡は見送るしか出来なかった。

 

「……言い過ぎたんじゃないか」

 

 後ろから、誠子がやんわりと注意してくる。

 

「ちょ、ちょっとくらい強めに言ったほうが良いでしょっ」

「それを本気で言っているなら私はもう何も言わないよ」

「うぐ」

 

 何も言い返せず、淡は俯く。誠子は苦笑交じりに言った。

 

「謝るなら早いほうが良い」

「……はぁい」

 

 その場では素直に頷いたものの。

 実際に謝る機会は、中々生まれなかった。昨年に引き続き清澄とはブロックが違うため日程が被っていない。

 

 そうこうしているうちにインハイは進行し。

 

 再び、白糸台は団体戦優勝を逃した。歓喜する阿知賀の面々を前に、淡は肩を震わせるしかなかった。

 

 味わう屈辱は、例えようもなく。

 続けて行われた個人戦でも、宮永咲にタイトルを持って行かれた。宮永照の妹である彼女こそが後継者に相応しい、とあちこちで囁かれるのを淡は聞いた。

 

 二年目のインハイは、そうして幕を閉じた。京太郎と会ったのは、一度きりだった。団体戦が終わってからずっと、淡は清澄の影からずっと逃げていた。

 

 何だかんだと言って、大事なところで勝ちきれない。

 大口を叩いておいて、自分も結果を出せていないではないか。

 

 情けなくて、何もかも放り投げたくなった。だが、今更それが許されるわけがない。先輩たちの夢を摘んでしまった責任、逃げ出してはならない義務感。いつの間にか胸の内に溜まっていた感情は、とても重かった。

 

 だから、昨年に続いて行われた合同合宿にも欠かさず参加した。

 ただ、京太郎と会うのは気が重かった。前回のことを謝ってすらいないのだ。何を言われるのか気が重かった。

 

 練習中はずっと卓に座り続けることで、ひたすら彼を避け続けた。

 一日目の予定を全て消化した後、淡は独り宿を出た。夜風に当たりたい気分だった。それが、失策だった。

 

「おっ」

「げっ」

 

 買い出し帰りなのだろうか、右手に荷物を抱えた京太郎と出くわした。気まずくて、思わず淡は目を逸らしてしまう。

 

「なんだよ、今日は元気がないな。というか『げっ』とはご挨拶だな」

「う、うるさいっ。あんたこそ何、また雑用っ?」

「今日は清澄の中で成績最下位だったからな。明日は咲にやらせてやるぜ」

 

 余裕を感じさせる笑みに、淡はどきりとする。以前とは、纏う空気が明らかに違った。それがまた、淡を狼狽えさせる。どうしても、発してしまうのは憎まれ口。

 

「あんたなんかがサキに勝てるわけがないでしょ」

「こないだ半荘一回だけだけど勝ったっての」

「う、うそっ」

「かなり不意打ち気味だったけどな」

 

 殊更自慢するわけでもなく、京太郎は淡々と言った。少なくとも、嘘を言っているわけではないようだ。

 淡が呆然としているのを気付いたのだろう、京太郎は続けて言った。

 

「俺にはお前や咲みたいな麻雀の才能はないけどさ。人間、その気になりゃあやってやれないことはないだろ」

「……うん」

 

 こっくりと、淡は頷く。そうするしか、できなかった。

 それから胸元で手を組み、視線をさまよわせ、意を決して次の言葉を口にした。

 

「あの、この前のインハイでは、ゴメン」

「なにがだよ」

「予選落ちしたこと、詰ったりしたでしょ。そのこと」

「ああ」

 

 けれども京太郎は、あっさりと鼻で笑い飛ばす。

 

「気にしてないって。格好悪いのはお前の言うとおりだし。……周りのみんな頑張ってるって励ましてくれるけどさ。ほんとキツいこと言ってくれるのは、お前だけなんだよ。だから、自分の努力がまだまだ足りないって気付かされる」

 

 それにな、と彼は付け足す。

 

「あのとき思いっきりヘコまされてお前から逃げ出して……そうしたから、良かったこともある」

「え……?」

「ああ、こっちの話」

 

 快活に京太郎は笑う。また、彼から目を逸らしてしまう。けれども先ほどとは、理由が違う。そんな気がした。

 

「ま、あんまり気にするなよ。俺はどうも思ってやしないし」

「……でも、あれだけ言っておいて私も負けたのに」

「俺も、あれだけお前に偉そうな口叩いて何も結果出せてないけどな」

 

 お互い様だろ、と京太郎は言って。

 荷物を左手に持ち替え、右手を差し出してくる。

 

「ほら」

「え? な、なに?」

「仲直りの握手だよ。これで全部手打ちにしようぜ」

「……うん」

 

 しばらく淡は彼の手の平を見つめてから――おずおずと、淡はそれに応える。指先が触れ、指の腹がくっつき、そのまま握り取られた。

 彼の温もりが、肌を通して伝わってくる。

 

 気が付いたときには、瞼の奥から熱いものが溢れ出していた。

 

「お、おい大星っ? どうしたっ?」

「わ、わかんないっ……!」

 

 本当は分かっている。けれども色々な感情が入り交じって、それを上手く説明できる自信がなかった。

 

 敗北の苦み。言動への悔恨。言いしれぬ不安。突然与えられた安堵。

 

 その全てが、ひとまとめになって淡の中で暴れ回る。もうどうしようもなくなって、淡は涙を零すしかなかった。

 

「ああもう」

 

 京太郎がハンカチを取り出し、淡の目元を拭う。淡はされるがままになり、彼の服の袖をつまみ取る。

 

「ちょっと、どうしたんだよ」

「なんでも、ない」

「だったらそろそろ泣き止んでくれよ」

「もうちょっとだけ、待って。ここにいて」

 

 京太郎は大きな溜息を吐いて、言った。

 

「分かった分かった。お前の気の済むまで、ずっと傍にいてやるよ」

「……うん」

 

 きっと、それが始まりだった。

 大星淡が、本当の意味で初めて須賀京太郎と向かい合った瞬間だった。

 

「ねぇねぇ、キョータロー」

「今度はなんだよ」

「結婚、しよう?」

「……………………は?」

 

 目を輝かせる淡を前に、京太郎は首を傾げるしかできなかった。

 

 

 ◇

 

 

 次の練習試合では。

「おい大星あんまりくっつくな!」

「えーいいじゃん!」

「良くない……ってお前どこ触ってんだ、ヘンタイヘンタイヘンタイ!」

 

 

 次の大会では。

「ねぇねぇキョータロー、今日の私の前髪ばっちりでしょ!」

「……いつもと同じにしか見えないけど」

「嘘ばっかり、ちゃんと見てよ!」

 

 

 翌年のインハイでは。

「勝ったよキョータロー! 私勝った!」

「敵校の俺に笑顔で報告されても困るんだけどな……!」

「優勝したら結婚してくれるって言ったよねっ」

「言ってない!」

 

 

 個人戦では。

「キョータロー決勝進出おめでとーっ!」

「ありがとよ。そっちこそ、決勝進出おめでとう」

「私は初めからキョータローはやればできる子だって分かってたからっ! 流石未来の私の旦那様っ!」

「お前よくそういうこと言えるよなぁ……」

「ん? なんか言った?」

「……はぁ。なんでもないよ」

 

 

 

 

 それまでの全てがひっくり返った後。

 

「キョォォォータロォォォォーッ!」

「うおおおっ!?」

 

 淡に残った彼に対する想いは、情熱のみであった。

 

 

 




次回:7-3 闇に訊ねて


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7-3 闇に訊ねて

 鳥のさえずりが耳朶を打ち、淡はゆっくりと目を開いた。カーテンの隙間から差し込む光が、頬をかすめる。

 

 朝は元々得意なほうではない。頭はぼうっとして、中々覚醒してくれない。ただ、何もしなくとも自分の部屋と漂う香りが違うのは分かった。最近は試合の都合でホテルに泊まることも多々あるが、横たわるベッドのスプリングはそれほどでもない。布団に染みついた匂いもだ。

 

 まさか、と一瞬期待を巡らせるも残念ながらその記憶はない。こめかみに指先を当て、昨夜の出来事に思いを巡らせていたら――

 

「お、なんや起きたんか」

「む」

 

 かけられた声は、あまり馴染みのないもの。

 声の主は、末原恭子という雀士だった。彼女は顎をしゃくって、

 

「顔洗い。それと、頭ぼさぼさやで」

「……ドライヤーある?」

「洗面所に置いとるから。昨日も使ったやろ」

「そだっけ」

「寝惚けとるな」

 

 額を小突かれた。眠気も合間って、あまり強く抵抗できない。もぞもぞと、布団の中から淡は這い出した。

 

「歯ブラシないのー?」

「昨日予備のやつ貸したやろ」

「あー、そだっけ……」

 

 そうだ、と淡はようやく思い出す。何だかんだと話し込んだ結果、半ば押しかける形で恭子の家に泊まることになったのだ。来ているパジャマも、恭子から借りたもの。

 

 末原恭子。

 

 元々三年前のインターハイで、見覚えはあった。団体戦で当たる可能性もあった。だが、そのときは歯牙にもかけなかった。麻雀でなら、簡単にひねり潰せる自信があった。

 

 その彼女に、お世話になる日が来るとは思わなかった。

 ――こんなにも、彼女に拘る日が来るとも思わなかった。

 

「ねーねー、キョーコー。歯磨き粉他にないの? 洗顔もー。このメーカー使ったことないから怖いんだけど」

「あんた人ん家に来といてよくそこまででかい態度とれるな……」

「だってなんだか雑誌の撮影とかの仕事も多いんだもん。髪質とかもチェックされるんだから」

「麻雀プロも大変やな」

 

 言葉の割には、声色には労りがなかった。しかし恭子は続けて言った。

 

「朝ご飯、食べてくやろ?」

「良いの?」

「食パン一枚だけやけどな。バターとマーマレード、あとイチゴジャムならあるけど、どうする?」

「ぜんぶっ」

「……はいはい。菫の気持ちがよう分かるわ」

 

 顔を洗ってリビングに戻ってみれば、空だったテーブルに皿が並べられていた。良い塩梅に焼けたパンの匂いが、食欲をそそる。

 

「いただきますっ!」

「いただきます」

 

 ホテルでもなく、誰かと向かい合って朝食を摂るのは久しぶりだった。表面はかりっと、中はもちりとした食感が淡の頬を綻ばせる。

 

「美味しいー」

「食パン一枚で喜んで貰えるとは思わんかったわ」

「この焼き加減はなかなかのもの……なかなかできない……」

「大星、料理とか苦手そうやもんな」

「むっ」

 

 淡は眉間に皺を寄せる。指摘の通り、確かに得意なほうではない。レシピを無視するような真似はしないが、料理中何かと別のことに気を取られてしまうのだ。時間がかかるならまだしも、焦がしてしまうこともしばしば。

 

 けれども、ここ最近は違う。

 

「これでもちゃんと練習してるんだから」

「ほんまに?」

「ほんとほんと。やっぱり奥さんになるなら家事ができないよりできたほうが良いもんねっ」

 

 得意気に淡は語るものの――恭子には、これ見よがしに溜息を吐かれてしまった。

 

「あんた、まだ須賀と結婚するつもりなん?」

「もちろん! 昨日の話聞いてなかったの?」

「うんざりするくらい聞かされたわ」

 

 恭子は手をひらひら振って、淡の話を遮る。

 

「正直に言ってええか?」

「なに? どうしたの?」

「話聞く限り、須賀があんたになびくのはかなりハードル高いと思うんやけど」

 

 その指摘に、パンをかじろうと口を開けたまま淡は固まる。しばらくの間、部屋の空気は固まっていた。言ったはずの恭子が、気まずそうに顔を逸らした。

 

「……分かってるよ」

 

 パンを皿の上に戻して、淡は神妙に頷いた。

 

「キョータローには、酷いこと言ってきたから。キョータローはもう気にしてないって言ってたけど――麻雀のことで格好悪いって言ったとき、たぶん凄く傷付いてたと思う。ずっと喧嘩してても、キョータローは本当に酷いことは絶対言わなかったのに」

 

 今でこそ笑って話してくれるけれども――嫌われていたって、不思議ではないのだ。簡単に許してくれるとは、淡だって思っていなかった。

 

 それに、淡も心にわだかまりを抱えていた。彼に水に流して貰ったとしても、自分を許せないという気持ちが燻っているのだ。

 

 一度放った言葉は取り返しがつかない。その事実を、淡は身を以て経験した。彼への想いが強いからこそ、折れそうにもなる。

 

「――でもね」

 

 それでも彼女は、前を向く。

 

「キョータローと一緒に幸せになれたら、きっとぜんぶ上手くいく気がするの。傷付けた分、ううん、それ以上に幸せになるの」

 

 再び、恭子の部屋に沈黙の帳が落ちる。

 結局恭子は顔を背けたまま、淡を促す。

 

「……はよ食べ」

「あ、う、うん」

 

 自分で言っておきながら、何も突っ込みがないとちょっと恥ずかしかった。もちろん、後悔することなんて一つもないのだけれど。けれどもやっぱり、こそばゆい。

 

「あんた、今日は対局ないんか」

「あったらこんなにゆっくりしていないっ! キョーコは大学じゃないの?」

「今日は昼から。部活がメインやけどな」

「部活っ」

 

 その単語に、淡は食い付いた。

 

「キョータローも来るよねっ」

「来るには来るけど……あんたまさか着いてくるつもりちゃうやろな」

「そのまさか!」

 

 元気よく答えると、額を小突かれてしまった。割と本気で痛かった。

 

「もー、なにするのー」

「また変な噂立ったらどうするんや」

「変装するから大丈夫っ」

「……本気か」

「本気や!」

 

 勢い余って関西弁で答えると、再び額を小突かれた。エセ関西弁が余計に心証を悪くしたらしく、今度はさらに力強かった。

 

「それでなくとも練習の邪魔なんやから」

「邪魔はしない! むしろ練習相手になってあげるから!」

「んん……」

 

 ナチュラルに上から目線の提案であったが、事実雀士としての格は淡が上である。プロと手合わせる機会など、相当太いコネクションでもなければ不可能だ。京太郎が所属する東帝大学麻雀部の状況は、淡も伝え聞いている。渋った態度を見せているが、恭子の心が揺れ動いているのは一目瞭然だった。

 

「良いでしょー、ねーねー、キョーコー」

「……はぁ」

 

 その溜息は、諦観を多分に含んでいて。

 淡の瞳を輝かせるのだった。

 

 

 ◇

 

 

「キョータローいないじゃん!」

「園城寺の看病で遅れるんやと」

 

 肩透かしも良いところである。部室の隅の席に、淡は荒っぽく座った。

 淡の常識では考えられないくらい狭い部室には、卓が一つしかない。椅子やテーブルも安っぽく、酷い環境だ。

 しかし悪いことばかりではなく、

 

「お茶どうぞ」

「久しぶりのこの味っ」

 

 高校時代の先輩、渋谷尭深がこの部にいて、お茶を出してくれるのはとても喜ばしいことだ。

 

「たかみ先輩のお茶がやっぱり一番!」

「うん、ありがとう、淡ちゃん」

「あ、お菓子もどうぞ」

「これはこれは」

 

 クッキーを差し出してきた厚着の彼女は、松実宥。尭深の物静かな雰囲気と、宥の柔和な空気に囲まれると心地よい。京太郎を待つには充分と言えよう。クッキーを口の中に運びつつ、にへら、とだらしない笑みを浮かべる。

 しかし、それを許さないのは当然恭子だ。

 

「あんまりくつろがれても困るんやけどな。何のために連れてきたと思っとるん?」

「キョータローいないとやる気出ないー」

「叩き出そか。それとも菫呼ぼか?」

「横暴だ! これが詐欺師の犯行手口っ?」

「誰が詐欺師や!」

「まあまあ。恭子先輩も大星さんもその辺にして」

「っと、煌ちゃん」

 

 煌が割って入り、二人をなだめる。後輩に諭されては恭子も引き下がるしかないらしく、しずしずと矛を収めた。それでも彼女は腕組みして、冷たい声で通告してくる。

 

「ともかく、お茶代とお菓子代くらいは払ってもらうで。後宿泊代」

「分かった分かった分かりましたー」

 

 口を尖らせながら、淡は卓に着いた。

 

「気の済むまで相手してあげる」

「ええ返事や」

 

 いの一番で卓に近づいてきたのは恭子。

 それから、尭深と宥が続いた。これまで闘争心の欠片も見せていなかった二人だったが――ここにきて、ぞくり、と淡の肌を粟立たせる気配を露わにしてきた。

 

 ――たかみ先輩も相当やる気っ。

 

 かつての先輩後輩同士での交流戦、なんて雰囲気ではない。紛れもなく、矜持を賭けた本気の勝負だ。

 

 マフラーをたなびかせながら、宥が場決めの牌を掴む。その僅かな動作だけで、伝わってくる気迫があった。先ほどまでの暖かな空気は、全て彼女の内に秘められたかのよう。

 

 そして、末原恭子は言わずもがな。

 三人に囲まれると、ますます圧迫感は強くなる。

 

「あはっ」

 

 だが、淡はそれに臆する少女ではない。むしろ燃え上がるタイプだ。

 

「いーよ、やったげる」

 

 尭深は当然として、残りの二人も決して侮れないのはよく分かった。元々インハイレベルの選手なのだ、当然であろう。

 

 ――それでも、なお。

 淡は負ける気がしなかった。

 

 事実。

 彼女は最初の半荘で、圧倒的な勝利を収めて見せた。

 

「どうしたの、キョーコ。この程度?」

「……っ」

「キョーコもなかなかやるみたいだけど――私はこの三ヶ月でさらにレベルアップしてるんだからっ。今やプロ百年生くらい!」

 

 プロの世界は、やはり他のステージの比ではない。あらゆる世代が入り乱れ、あらゆる戦型の最上級の実力者と相見える。進歩を続けなければ生き残れないと、淡は最初の三日で理解させられた。結果、その実力はもはや高校時代の比ではないと自負している。

 

「ふふん、実力差は歴然だねっ。これに懲りたら――」

「もう一回や」

「なんだ、まだやる気なの?」

「当たり前やろ。まだ泊めた分の貸しも返して貰ってないんやから」

「別に良いケド」

 

 傲慢や慢心ではなく、負けはないと淡は確信している。

 

「でも、もう一回普通にやっても面白くないよね」

「何が言いたいんや?」

「何か賭けよっか」

 

 にやりと笑って、淡は密かに考えていたある案をそらんじた。

 

「例えば――私が勝ったら、私とキョータローの結婚に協力してもらう、とか」

 

 半ば冗談、半ば恭子に対する当て擦りであったが――

 部屋の熱気が、さらに高まった。

 

「あちゃー……」

 

 成り行きを見守っていた煌が、笑顔を凍らせる。

 恭子は新たな場決めの牌を拾いながら、言った。

 

「それじゃ、あんたが負けたら二度と須賀には近づかんってのはどうや」

「え、え?」

「そんくらいは覚悟の上やろ? うちらも同じこと繰り返されたら面倒やし」

「……い、良いよ! どうせ勝つのは私だから!」

 

 と、答えつつも、淡は動揺を隠せなかった。黙りこくったままの、尭深と宥が怖い。ただでさえ強くなっていたプレッシャーが、尋常ではなくなっていた。

 

 この中で自分の絶対安全圏を突破しうるのは、オーラスの尭深だけ。淡はそう認識していたし、概ねは間違っていない。

 

 だが、

 

「チー!」

「うっ」

「ポン!」

 

 ここで、潮目が変わる。恭子が速攻で攻め立ててくる。

 

「ツモ」

「むっ」

 

 出親を流され、淡は嫌な予感がした。

 ダブルリーチを仕掛けるべきか悩んでいる内に、

 

「ロン」

 

 宥から狙い撃ちを喰らう。さながら菫を相手しているときのようだった。こんな打ち手だったとは、淡は全く覚えがなかった。

 

「ツモです」

 

 さらには尭深が親で連荘。スロット数が確実に増えていく。

 決して、三人は協力していない。そのような素振りや動きは全く見られない。あくまで全員がトップを獲らんと戦っている。それでいてなお、淡を出し抜いてくる。前回の半荘とはまるで違う。

 

 攻め時を見失った淡は、しかし、落ち着きをすぐに取り戻す。

 

 ――おっもしろい……!

 

 手慰み程度にしか考えていなかった対局に、望外の喜びがあった。賭けたものは大きく、だからこその重圧が淡のやる気をみなぎらせる。

 

「リーチ!」

 

 淡は嗜虐的な笑みを浮かべ、第一打を卓に滑らせる。正真正銘の、本気であった。卓内に緊張が走るが、誰一人として臆する様子はない。プロの試合でも滅多に味わえない感覚に、淡は卓の下で握り拳を作った。

 

「カン!」

 

 そして、

 

「ツモォ!」

 

 裏ドラを乗せ一発で逆転、トップに立つ。

 これで安心できる面子ではないというのが、また淡を楽しませる。彼女たちはダブルリーチすらも打ち破り、淡を攻め立ててくる。

 

 対局は熾烈を極め、一進一退の攻防が繰り広げられる。

 尭深だけがやや沈み気味で、迎えたのは南三局。本来であれば尭深への警戒はまだ先であるのだが、

 

 ――なんだか嫌な感じ……!

 

 絶対安全圏を突破されている予感。しかも、相当に高い手で。気のせいだと切って捨てるには余りに怪しい。

 

 いよいよもって、勝負の行方が分からなくなってきた。決して負けられないこの戦い、淡は全力で制そうと第一打を指にかけ、そして、

 

「すみません、遅れまし――」

「キョータロー!」

「うおおおっ、な、なんで淡がここにいるんだよ!」

 

 部室に入ってきた京太郎に飛びついた。狼狽える彼に構わず、ぎゅっと彼の腕を引き寄せる。

 

「もー、遅いよー。すっごく待ったんだからねっ」

「待っててくれなんて俺は言ってないっ!」

「細かいことは気にしない!」

「細かくない!」

 

 離れようとする京太郎に淡は追い縋る。

 呆気にとられていた尭深たちが、ワンテンポ遅れて席を立った。

 

「あ、淡ちゃん」

「まだ対局中だよ……?」

「キョータローが来たからノーゲーム!」

「自由すぎるやろ!」

 

 渾身の恭子の突っ込みもどこ吹く風で、淡は京太郎の傍を離れようとしない。彼が無理矢理押し返そうとしても、すぐにひっついてしまう。

 

「頼むからここでこういう真似は止めてくれ……!」

「違う場所なら良いの?」

「それも駄目!」

 

 結局、恭子に首根っこを掴まれて淡は引き剥がされた。その頃には既に勝負という空気も霧散して、再開できる状態ではなかった。

 

「全く、ほんま自分勝手やな」

「でも、あのまま続けてたらやっぱり私が勝ってたと思うよ?」

「む」

 

 淡の指摘に、恭子は声を詰まらせる。隔たる実力差は、部室にいた全員がしっかり感じ取っていただろう。

 

「ま、思ったよりも楽しかったけどね」

 

 部員を見渡して、淡は一つだけ本音を残しておく。それを聞いた尭深たちは、うっすらと微笑んだ。

 ただ一人、恭子だけの突っ込みだけは免れず。

 

「何言ってんの、まだ打って貰うで――ほら須賀、次入り」

「あ、分かりました。ほら淡、麻雀ならいくらでも付き合ってやるから」

 

 京太郎が卓につく。

 

「しょーがないなー!」

 

 目を輝かせながら、淡はすぐさま彼の後を追った。

 

 

 

 その日はぎりぎりまで麻雀を打ち続け、淡は二日続けて恭子の家に厄介になることになった。淡としては京太郎の家に泊まりたかったのだが、それは全力で阻まれてしまった。ただ、みんなで食べる晩ご飯は高校時代に戻ったみたいで、とても楽しかった。

 

「明日は試合なんやろ?」

「うん、早起きしなくちゃ」

「じゃ、そろそろ寝よか」

 

 常夜灯だけを残して、電気が切られる。譲って貰ったベッドに潜り込むと、真っ暗闇だった。枕が変わると寝付きが悪い、なんてことはないが、今日はすぐに眠れなかった。京太郎とあれこれ話して気分が高揚していたのもある。しかしそれだけではなくて、とても楽しい麻雀だったのが大きい。

 

「――大星、まだ起きとるか」

「ん? 起きてるけど……」

 

 急に恭子から話しかけられ、淡は若干戸惑った。

 

「どうしたの、急に」

「いや……今朝は意地悪いこと言ったと思て。ごめん」

「――……」

 

 意外な謝罪に、淡は僅かな間黙り込んでから、

 

「キョーコの言うとおりだから、気にしてない」

 

 と、優しく答えた。それから、

 

「でも、代わりに一つ教えて」

「なに?」

「キョーコも、キョータローのこと好きなの?」

 

 すぐに返事はなかった。だが、淡は焦らなかった。浅い付き合いながら、なんとなく彼女のひととなりは理解できた。

 やがて恭子は、

 

「うん。好きや」

 

 淡の期待を裏切らず、はっきりと答えてくれた。

 

「そっか」

「そうや」

「うん。教えてくれて、ありがとう」

 

 胸の内に抱えていたわだかまりが解消されて、淡はすっきりした。ライバルだとか敵だとか、そんな小さな区分けを彼女はしない。していい相手では、ない。そう淡は、思っていた。

 

「ね」

「今度はなんや」

「また、打ちに行って良い?」

「いつも須賀がおるとは限らへんで」

「キョータローがいたらとっても嬉しいけど。――それでなくても、今日は楽しかったから」

「……来るときは、連絡入れること。ええな」

「うん。ありがと、キョーコ」

 

 夜が、更けてゆく。

 目下最強の恋敵を隣に、淡はぐっすり眠ることができた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 玄関の向こうから聞こえてくる物音に、園城寺怜は眉を潜めた。

朝からずっと、この調子だ。本来の引っ越しシーズンからはかけ離れている時期だけに、首を捻らざるを得ない。だが、聞こえてくる複数の足音や声から察するに、新たな住人のお出ましのようだ。しかも、同じフロアだ。

 

 野次馬根性は薄いが、ご近所さんならば挨拶の一つでもしておくのが筋かと思い、怜は立ち上がる。体が軽い。一度崩していた体調も京太郎のおかげですっかり元に戻り、明日からは大学にも復帰できそうだ。

 

 ともかくとして、怜は玄関をくぐる。

 そこに広がっていた光景は、やはり引っ越しそのもの。業者たちが大荷物を右から左へと運んでいた。

 

 届ける先は、怜の部屋の隣の隣。

 つまり、京太郎の部屋のお隣だ。やはりご近所さんである。あの部屋は確かに空室であったが、果たして誰が越してきたのか――と、怜が思案していたら、

 

「こんにちはっ」

「え、ええっ?」

 

 ひょっこり現れたのは、怜も知っている少女――

 大星淡であった。

 

「な、なんであんたがここに――って、まさかっ」

「そのまさか!」

 

 じゃーん、と淡が取り出したのはお蕎麦で。

 

「三○八に引っ越してきた大星淡です、よろしくお願いしまーす!」

 

 怜は、半ば押し付けられる形でそれを受け取るのだった。受け取るしか、できなかった。

 

 

 

                     Ep.7 超新星はコメットガール おわり

 




次回:Ep.8 第二次松実家シスターズウォー
    8-1 再び聞く名は、


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Ep.8 第二次松実家シスターズウォー
8-1 再び聞く名は、


 儚い吐息が、口から漏れる。一度高まった鼓動は、収まる気配がない。

 視線と視線が、ぶつかり合う。彼――須賀京太郎とは、仲が良いと自負している。麻雀仲間で、同好の士。春先に一度誤解の元に喧嘩しかけたものの、それがきっかけで以前よりも仲が深まった気がする。

 

 だが――こんな状況に陥るなんて、松実玄は全く想像できなかった。

 

 姉の香りが染みついた布団の上、眼下に寝転がるのは京太郎の顔。彼は季節外れの冬用布団に背中を預け、やや頬を紅潮させている。

そんな彼を押し倒した形で、玄は体を傾けていた。

 

 絡み合った脚の感触がごつごつしていて、男らしさを感じる。彼の手首を掴む手の平を通して、脈拍が伝わってきた。とても、速い。

 

「玄、さん……?」

 

 沈黙の最中、彼らしくないか細い声で呼ばれ、玄はどきりとした。彼女の長い黒髪がはらりと落ち、京太郎の胸に触れる。たったそれだけのことなのに、まるで彼と繋がってしまったような感覚が玄の全身を襲った。

 

 自覚はなかったが、姉の居室という背徳感がまた玄の心を揺さぶっていた。

 

 思えば、女子校育ちの玄にとって一番仲の良い男友達は京太郎であった。大学でも麻雀と学業に重点を置いているため、声をかけられることはあっても、交際に発展したことはない。恋心などと言える感情を彼に対して覚えた記憶はないが、憎からず想っていたのも事実。何より、共通の嗜好の持ち主だ。

 

 不意の出来事に正常な判断能力は奪われ、既にのぼせ上がっていた玄の頭は混迷を極めていた。けれども間近で感じる彼の気配と匂いは、容赦なく彼女に襲いかかる。

 

「須賀くん……」

 

 意識せず、肘が折れ、膝が曲がり、玄の体が布団に沈んでいく。彼の厚い胸板に、自らの胸部が重なる。

 

「ちょっ」

「あ――」

 

 京太郎の困惑する声、そして玄を押し退けようとする力が僅かにかかり、玄の口から悩ましげな吐息が漏れそうになる。

 

 ――その瞬間。あるいは、その直前。

 

 がさりと、背後で何かが落ちる音がした。

 はっと、玄は振り返る。そこにで見つけたのは、

 

「玄ちゃん……? 京太郎くん……?」

 

 呆然と立ち尽くす、姉の姿。彼女の足元には、中身が詰まったスーパーのビニール袋。

 さあっと、玄の頭から血の気が引く。

 

「おねー……」

「ゆ、ゆうせんぱ……」

 

 京太郎とほとんど同じタイミングで彼女の名前を呼ぼうとするが、戸惑いで最後まで音にならなかった。彼女はぎゅっと目を瞑って、

 

「く……」

「く?」

「玄ちゃんの浮気者ーっ!」

「その反応はなんだかちょっとずれてる気がするのです!」

 

 悲痛な叫びともに部屋を飛び出して行ってしまった。玄の突っ込みも意味をなさず、一陣の風のごとく消え去った。いつもおっとりとした彼女とは思えない、俊敏な動きであった。

 

「……どうしよう」

「……どうしましょう」

 京太郎と玄は、互いに蒼白になった顔を見合わせる。

 ――数ヶ月ぶりに大好きな姉と会えたというのに、どうしてこうなってしまったのか。

 

 玄は、今回の東京来訪の始まりを思い返していた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 毎年八月に開催される、全日本大学麻雀選手権――通称インカレ。

 各地方九リーグから上位の大学のみが選出され、大学麻雀の覇を競い合う場である。同世代のトップ雀士たちは既にプロとして活躍しており、インハイと比べて注目度は低いという見方もあるが、昨今はその流れも見直されている。

 

 黄金世代と呼ばれる有望な選手は増加の一途を辿り、進学を選んだ学生の中にもプロクラスの実力者が多数いると目されているのだ。少なくとも、日本国内のアマチュア大会では最高峰のレベルと言えよう。

 

 松実玄が所属する西阪大学麻雀部は、関東リーグと並んでハイレベルと称される関西リーグのトップをひた走る関西最強の大学である。

 

 奈良阿知賀出身の彼女は、二年時のインハイで団体戦決勝進出の好成績、三年時では団体戦優勝の立役者として、大学のみならずプロチームからも高い評価を受けていた。最終的に学業優先で西阪大学に進学した玄は、麻雀推薦という立場に見合った活躍を見せた。結果、名うての打ち手が揃う西阪においてレギュラーの立場を確固たるものにした。

 

 春先のリーグ戦でもライバル、近央大学との激闘を制する原動力となった玄は、当然インカレのレギュラーにも選出された。

 

 そして今夏。

 インカレ開催会場は東京。

 

 松実玄は他の部員に先んじて――当然許可は得ている――東京入りを果たしていた。理由は当然、

 

「おねーちゃん!」

「玄ちゃん、久しぶり」

 

 東京に住む姉、松実宥といち早く再会するためである。

 

「わざわざ迎えに来てくれてありがとう」

「東京駅なら近いから……」

 

 最後に姉と会ったのは、ゴールデンウィーク。半ば無理に頼み込んで、阿知賀の実家まで帰ってきて貰ったのだ。結果宥が所属する東帝大学麻雀部にも迷惑をかけてしまったのだが――それでもやっぱり、会いたい大好きな姉だ。

 

「おねーちゃんの大学ももう夏休みなんだよね」

「うん。お盆までは練習だけど」

 

 宥は見る者の心を暖める微笑みを浮かべて、

 

「みんなでインカレの見学に行くことは決まってるから。玄ちゃんの応援、頑張るね」

「おねーちゃんっ……!」

 

 人混みの中でなければ抱きつきたい気分である。否、既に飛びかからんとしていた。姉のおもちの感触も最近とんと味わっていない。

 が、

 

「あ……」

 

 立ち止まった宥がスマホを取り出したため、機を逸してしまう。宥は細い指で画面をタップしながら、目尻を下げた。口元がマフラーで隠れていても、その歓喜の感情は隠し切れていない。ましてや妹である玄が見抜けないはずがなかった。

 

「誰から?」

「わわっ」

 

 玄が画面を覗き込もうとすると、宥は慌てて飛び退いた。姉らしからぬ、俊敏な動きだった。玄は呆気にとられて、今度は姉の顔を覗き込む。僅かに、しかし確かに彼女は赤面していた。

 

「どうしたの、おねーちゃん」

「な、なんでもないから」

「ほんとに?」

「ただの部活の連絡、だから」

 

 嘘を言っている様子はない。だが、正直に全て言っているようにも思えなかった。自分と再会したから、とは別の理由でご機嫌に見える。

 

 再び歩き始めながら、はてさて、と玄は思考を巡らせる。

 姉をあれだけ喜ばせるのは一体何者なのか。部活関連、部員の誰かとなると――すぐに、ぴんと来た。

 

「もしかして」

「うん? どうしたの?」

「さっきの、須賀くんから?」

 

 途端に、宥の足が止まる。ぎこちなく振り返った彼女の顔は、とても強張っていた。

 

「な、なんで分かったの?」

「なんでって」

 

 問われ、玄は一度声を詰まらせる。

 玄にとっても、未だ「なんとなく」でしかなく、憶測の域を出ない。二人が揃っているところを見たのは、四月と五月の二回のみ。確信に至るには、まだ早い。

 

 けれどもやはり、姉が彼を見る目は毛色が違うとも思っていた。当然、ストレートに訊ねるのは躊躇われるが、気になって仕方がない。玄自身、その手の話にはとんと縁はないが興味は多分にある。

 

「この間から、おねーちゃん、須賀くんと仲良さそうだったから」

「そ、そうかな?」

 

 心外だ、と言わんばかりに宥は首を傾げる。全く自覚がないようだった。

 

「おねーちゃん、ちゃんと須賀くんと話すようになったのは須賀くんが大学に入ってきてからだよね」

「うん、高校のときもちょこっとだけお話ししたけど」

「その割には、四月に私がこっち来たときにはもう凄く距離が近かったと思うよ。ちょっと妬けちゃったもん」

「そんなにかな……?」

 

 なおも宥はぴんと来ないようである。しかしながら、横目に彼を見上げる姉の姿は今も玄の脳内に焼き付いたままである。それに加えて、

 

「うちでの合宿のときも、何かと須賀くんの近くにいようとしてなかった?」

「え……?」

「覚えてないの? 一緒にご飯作ろうとしたり、ミーティングのときも近くに座ろうとしたりしてたけど」

「う、嘘」

 

 と言いながらも、思い当たるところがあったのか、宥は玄の目から逃げるように顔を逸らす。虐めているようで心にちくりと痛みが走ったが、気になるものは気になるのだ。

 

「どうなの、おねーちゃん」

「……良い後輩だな、とは思ってるよ」

 

 お為ごかしの返答とも受け取れるが、実妹である玄には分かった。言葉に乗せられた意味、感情が決して浅からぬものであることを。だからといって、これで結論を出すには短絡的すぎる――玄の興味はますます湧いてくるばかりなのだが。

 

「須賀くんとなにかあったの? きっかけとか」

「なにかあったってわけじゃないけど」

 

 宥はうーん、と唸って、

 

「そもそも初めから仲は悪くなかったし、私の格好も受け入れてくれたし……それこそ、四月に玄ちゃんが来たとき、とか」

「あのとき?」

「うん。京太郎くんに色々迷惑かけちゃって。でも、沢山私の話を聞いて貰ったから」

 

 そのときのことを思い出しているのだろうか、宥は恥ずかしげにはにかむ。それにね、と彼女は玄が訊いてもいない内から言葉を継ぐ。控えめな彼女にしては珍しく、饒舌であった。

 

「あのとき玄ちゃんに麻雀勝負、挑まれたでしょう?」

「園城寺さんとの勝負だね」

「そう、それ。そのときに初めて須賀くんとコンビ打ちをしたんだけど……なんていうか、私のやりたいこととか考えてることとか、凄く分かってくれてたの。もちろん、全部が全部というわけじゃなかったけど、まだ一緒に打つようになって一ヶ月も経っていなかったのに、びっくりしちゃって」

 

 昇りのエスカレーターに足をかけながら、宥は続けた。

 

「阿知賀のみんなや恭子ちゃんみたいに、私のことをしっかり見てくれてる人なんだな、って思って。……あったかかったの」

 

 玄は、宥の背中を見上げて小さく唸った。――やはり、どうしたって妬けてしまう。心の何処かで、姉はいつまでも自分の傍にいてくれると思っていた。宥が東京の大学に行くと言い出したときに大反対したのも、その気持ちが強かったからだと今なら分かる。

 

 そんな保証は、どこにもないというのに。

 奈良を出て、遠い地の大学に進学し、姉には姉のやりたいことがあると知った。夢があると知った。そんな当たり前を、知らなかった。

 

 別れには慣れていた。待つのにも慣れていた。

 けれどもそれは、姉がいつも近くにいてくれたおかげだった――今ならはっきりと分かる。姉を守っているつもりで、守られていたのは自分なのだ。

 

 その姉が、また一歩遠くに行こうとしている。自分とは違う、別の誰かの傍に行こうとしている。

 

 だからといって、前回みたく京太郎に勝負を挑むわけにはいかないのだけれど。それに、宥が彼に惹かれていたとしてもそのこと自体に文句はない。彼との共通の友人から聞いた評価も悪いものではないし、玄自身同じ趣味の持ち主として親近感を覚えているほどなのだ。

 

 にっちもさっちもいかない感情を持て余し、ホームで電車を待ちながら次に姉にかけるべき言葉を玄は探す。少し、別の話題で気持ちを落ち着けたかった。

 

「そう言えば」

 

 思い出したのは、さっきの話の中でも出てきた彼女のこと。

 

「園城寺さんって、最近大阪に戻ってきた?」

「え? 怜ちゃんが?」

「うん。先月の半ばくらい、かな」

 

 質問の意図が読めない、という様子で宥が眉根を寄せる。

 

「うんっと……。その頃はほとんど毎日部活してたし、実家に帰るなんて話も聞かなかったし、それに――」

「それに?」

「えっとね。怜ちゃん、今京太郎くんにべったりだから。今までもそうだったけど、近頃はもっと、その、エスカレートしているっていうか」

 

 苦笑いを浮かべ、宥は慎重に言葉を選んでいるようだった。

 

「絶対に京太郎くんのそばを離れないって感じになっていて」

「どうして?」

「たぶん、淡ちゃんが原因」

「淡ちゃんって、この間須賀くんと噂になっていた、あの大星さん?」

「そう。淡ちゃんが京太郎くんの隣の家に引っ越してきちゃって、それからはもう大変で」

「ひ、引っ越しっ?」

「うん。凄いよね」

 

 冗談めかして言っているように見えるが、宥もどこか憂いでいるみたいであった。どうやら姉のライバルはかなり多いらしい。玄は密かに溜息を吐いた。

 

 ――須賀くんが良い、って気持ちは分からなくもないけれど。

 

 中々に事態は複雑なようである。

 

「とにかく、怜ちゃんが大阪に帰ってるってことはないと思うよ。たぶん京太郎くんが長野に帰るまでは、こっちに残るんじゃないかな」

「そうなんだ……うーん、そっか」

「どうしたの? なにか、あったの?」

 

 宥の質問に、玄は一拍の間を置く。少なくとも宥は嘘を吐いていないようだし、吐く理由もない。話にも一本筋が通っていた。

 

 やや悩みつつも、結局玄は一つの単語を口にした。

 

「麻雀仮面」

「え……? 麻雀仮面?」

 

 その名を、宥が忘れているはずがないだろう。

 何故なら、玄自身が麻雀仮面とコンビを組んで、宥と京太郎に挑んだのだから。そしてその麻雀仮面の正体こそ、園城寺怜だったのだから。

 

「とき……ううん、麻雀仮面さんがどうしたの?」

 

 その事実は、一部の関係者のみの秘密とされている。東帝大学麻雀部を除けば、他に知っているのは自分程度だと玄は認識している。そのくらいには、慎重に取り扱っている話なのだ。人の喧噪と電車の走行音で塗れたホームでも、宥は声を潜め、怜の名を伏せる。玄も姉に倣うこととし、耳打ちするように言った。

 

「先月から、ちょっと大阪でも話題になってるの」

「ええっ? ど、どうしてっ?」

「うん」

 

 宥の疑問はもっともだ。東京と大阪、距離は随分と離れている。もちろん麻雀という共通の話題で繋がった人間はそれぞれの都市に住まうだろうが、麻雀仮面なんてローカルな噂が伝わりさらに話題になるというのは考えづらい。事実、七月になるまで、玄も麻雀仮面の名前を大阪で聞くことはなかった。

 

 だが今――麻雀仮面の名前は、確かに轟いている。

 

「やえ先輩、それから絹恵ちゃんや漫ちゃんも言ってたんだけどね」

 

 すっと、玄は目を細める。同時に、乗るべき電車がホームに滑り込んできた。

 

「大阪にも、現れたの」

「え……?」

「麻雀仮面」

「それって……」

「大学生雀士に勝負を挑む、仮面をつけた女性雀士――麻雀仮面が」

 

 電車のドアが、開く。しかし、困惑する宥は一人で足を踏み入れられなかった。結局玄が手を引いて、電車に乗り込んだ。

 

 園城寺怜が不在の大阪に現れた麻雀仮面。

 

 予想は外れ、筋は通らず、玄もまた戸惑う。戸惑いながら、胸の内には漠然とした予感があった。

 

 東帝大学と麻雀仮面の名は、切り離せない。

 そして姉は、東帝大学麻雀部の一員。

 ――ならばこの東京の地で、再び麻雀仮面と相見えてもおかしくはないのではないか。

 

 インカレ開幕を直前にして、嵐が吹き荒ぼうとしていた。

 

 

 




次回:8-2 ピレッジ


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8-2 ピレッジ

 阿知賀に居た頃は、毎日のように姉の部屋に入り浸っていた。しかし今は玄自身も宥も実家を離れ、一人暮らしの身。距離の壁によって、東京の姉の家に足を踏み入れた回数は片手で足りる。マンションの形も扉の色も何もかも、馴染みがないのは当然だ。

 

 それでもリビングに入ってすぐに目に付く炬燵にはほっと安心させられる。暦は八月、季節は夏。明らかに時期外れではあるが、玄の姉にとっては当たり前のこと。流石に設定温度は低めではあるようだが。

 

「晩ご飯、どうしよっか。折角だからどこかに食べに行く?」

 

 荷物を部屋の隅に置きながら、宥が訊ねる。うーん、と玄は一度首を傾げてから、

 

「おねーちゃんのオススメのお店とかあるの?」

「……あ、あんまり」

 

 目を逸らされてしまった。出不精の姉らしい、と玄は苦笑する。それを敏感に察したのか、宥は取り繕うように言った。

 

「さ、最近は部活の打ち上げとかで色んなお店行ってるから。ちょっとくらいなら」

「じゃあ、夜はおねーちゃん行きつけのお店で!」

「うん。この間煌ちゃんが教えてくれたところなんだけどね」

 

 その名前は、玄の心に深く刻まれている。初めてのインターハイ、準決勝で矛を交え、共に強敵に立ち向かった仲だ。先日の合宿でも飽きるほど麻雀について語り合った。

 

「花田さんともインカレの間にまた会えるかな」

「私たちは大きな大会もないから玄ちゃんの予定次第になりそうだけど……あ、でも煌ちゃん、インカレの間に高校の同窓会するんだって。会うなら今のうちに都合訊いておかないと」

「へぇー。白水プロや鶴田プロも東京に来るの?」

「二人はそれぞれインハイとミドルの解説があるんだって」

「おおー」

 

 思わず玄は感嘆の声を漏らす。両プロの昨年の活躍は目覚ましく、解説で呼ばれても不思議ではないが、いざ同世代があの席に座るとなると感慨深い。

 緑茶とお煎餅を載せたお盆を運びながら、宥はさらに付け加える。

 

「恭子ちゃんの姫松も集まるそうだし、尭深ちゃんの白糸台もそうだね。……はい、お茶とお菓子どうぞ」

「ありがとう、おねーちゃん。……んー、そう言えば竜華さんもこっちで怜さんやセーラさんに会うって言ってたよ」

「千里山もかぁ。良いなぁ」

「私たちも同窓会したいね」

「灼ちゃんと憧ちゃんはインカレでこっち来るけど……」

「穏乃ちゃんがねー。忙しいみたいだね」

「嬉しいけど、寂しいね」

 

 宥の零す微笑みには、どこか痛みが混じっていた。

 阿知賀女子学院麻雀部に宥が在籍していた時期の五人――松実姉妹、新子憧、鷺森灼。そして最後の一人が、三年間団体戦の大将を務めた高鴨穏乃である。

 

 彼女は今年度、プロデビューを果たした。阿知賀のレジェンド、赤土晴絵に続く阿知賀出身のプロ雀士である。現在は拠点を名古屋とし、慌ただしい日々を送っているようだ。彼女だけメールの返信が遅いことが、その生活を如実に物語っている。今から仕事もないのに東京に来てくれ、と言うのも酷な話だ。

 仕方ないと言えばそれまでだが、やっぱり寂しいものは寂しい。

 

「穏乃ちゃんや赤土さんも一緒に、お盆には阿知賀で集まれたら良いね」

「そうだね……。その前にインカレ頑張らないとっ」

「頑張って、玄ちゃん」

「うんっ」

 

 お煎餅をかじりながら、玄は力強く拳を作る。お盆を片付けようと宥が立ち上がろうとしたそのとき、彼女のスマートフォンが震えた。

 

「あ……怜ちゃんから返信来たよ」

 

 その一言に、玄は身構える。

 

「な、なんて?」

「……やっぱり、先月は大阪には帰っていないみたい」

 

 宥は首を横に振って、そう言った。対する玄は、眉を潜める。半ば予想していた答えとは言え、既に手詰まりだ。

 

 大阪の地に舞い降りたという、麻雀仮面。

 目撃情報からすると、七月第三週の土日に複数の雀荘でその姿を見せたらしい。麻雀仮面と名乗った仮面の女性雀士は、その二日間でかなりの数の大学生雀士を相手にし、ことごとくを打ち破った。その中には、玄の先輩である小走やえや、友人にしてライバルの愛宕絹恵も含まれている。噂や何かの間違いではなく、麻雀仮面という存在は確かにあるのだ。

 

 四月、東京で麻雀仮面を名乗って活動していたのは、園城寺怜その人である。彼女が大阪でも同様の活動をしていれば分かりやすかったのだが、どうやらその線は薄そうだ。

 

「園城寺さんが嘘吐いてる……」

「というわけでもなさそうだし、嘘を吐く意味もないような。それに怜ちゃん、『もう麻雀仮面からはきっぱり足を洗う』って言ってたから」

「え、どうして?」

「色々トラブルがあってね。こりごりだって。私としても、そっちのほうが良いかなって思ってるの」

 

 姉の苦笑から滲み出るのは、苦労の跡。「色々」には本当に多くのことが含まれているようだ。彼女が他人に苦言を呈する場面自体も珍しく、玄は「そうなんだ」と短く答えるに留まった。

 

「大阪の麻雀仮面のこと、もちろん怜ちゃんは知らない……よね」

「竜華さんはあんまり興味なさそうだったし、言ってないと思うよ」

 

 怜の親友・清水谷竜華にも、麻雀仮面の話は通っていなかったはずだ。あくまで東帝大学麻雀部と自分だけの秘密だと、玄は認識している。

 宥は少し悩む素振りを見せてから、玄に言った。

 

「これまで通り、怜ちゃんが麻雀仮面だったことは秘密にしておいてくれるかな。またトラブルが起きそうで……」

「了解ですのだ! ……でも、園城寺さんじゃないとなると、一体誰なんだろう。困ったね」

「うん……」

 

 物憂げに、宥が頷く。それも当然だろう。もしも悪意をもって麻雀仮面の名を騙っているのなら、由々しき事態だ。今のところ実害はないが、下手をすれば東帝大学に火の粉が飛びかねない。

 

「恭子ちゃんにも相談してみるね。愛宕さんたちが麻雀仮面に会ったなら、その内恭子ちゃんの耳に入ると思うし」

「うん。それが良いよ」

 

 ひとまず麻雀仮面の話題は打ち切りとなり、姉妹の会話はとりとめのないものに移っていく。不安を忘れるように選ばれる話題は明るいものばかりで、玄の胸が多幸感に満ちる。――この大切な一瞬を、噛み締めよう。この東京で、できるかぎりずっと姉と一緒にいよう。

 

 そう、玄は思っていた。

 

 

 ◇

 

 

 それから時刻は夕方に差し掛かり、二人は夕食のため外出する。向かった先は、新宿。

 

 そこで宥が紹介してくれたメキシコ料理店は東京らしいお洒落な雰囲気で、味も確かだった。わざわざ新宿まで出向いた甲斐があったというもの。玄はご満悦で店を出た。

 

「ご馳走様、おねーちゃん!」

「良かった、気に入ってくれて」

「タコスがとっても美味しかったよ。これなら優希ちゃんも満足だろうね!」

「優希ちゃん……あ、清澄の先鋒の」

「そっか。おねーちゃんはあんまり馴染みないんだね」

 

 高校で被ったのはたったの一年、その後阿知賀と清澄は交流を深めるも宥はその頃には受験モードに切り替わっていた。すぐにぴんと来なかったのも当然だろう。

 

 もっとも玄のほうは、団体戦で同じポジションということもあり卓の内外を問わず親交が深い。彼女の趣味嗜好も大方把握している。練習試合を重ね、大会で顔を会わせる度に仲良くなった。彼女たちは今、東京の大学に通っている。当然、麻雀部員だ。

 今回のインカレは、今一度彼女たちと会える絶好の機会ではあるものの――浮かれてばかりはいられない。

 

「優希ちゃんも和ちゃんも、レギュラー入りしたみたいなのです」

「三橋はリーグ戦でも一位だったし、最大のライバルだね。頑張ってね、玄ちゃん」

「うんっ」

 

 力強く玄は頷いて、それから付け足す。

 

「でも、来年はおねーちゃんたちにとってもライバルになってるかも」

 

 宥たち東帝大学麻雀部は、どん底の状態からついに二部リーグまで上り詰めた。来季のリーグ戦、入れ替え戦を勝ち抜けばとうとう三橋が所属する一部リーグだ。

ただ、現実味は帯びてきたといってもあくまで未来の話。確証などどこにもなく、どちらかと言えば気弱な姉は謙遜の言葉を返すと玄は思っていた。

 

 けれども宥は、

 

 

「勝つよ」

 

 

 そうはっきりと、宣言した。

 

「来季の二部リーグも勝ち抜いて、一部リーグでも上位を取って、来年は私たちもインカレに出るよ。そうしたら私たちもライバルだね」

「……うん」

 

 玄は、恐る恐る頷く。

 やっぱり姉は変わった、と思う。言葉の端々、纏う雰囲気から伝わってくるものはあたたかいままでありながら、内には一本芯が入っている。いや――昔からそうであったか。ただそれが、以前よりも強くなった気がするのだ。

 

 東京で、何が彼女を変えたのだろう。気になるが、玄は訊けなかった。敗北感にも似た感情が、問いかけを妨げているのだ。

 

「負けないよ、おねーちゃん」

 

 今は、そう返すので精一杯だった。

 

「私も」

 

 姉は、優雅に微笑んでみせる。――去年一年間で、玄はさらに雀力を高めた自信がある。あらゆる面で強くなったという自負がある。だが果たして、今真剣勝負をしたところで姉に勝てるのだろうか。本当に来年、ライバル同士になったとき彼女を打ち負かせるのだろうか。

 

 様々な――本当に様々な不安が、玄の中に湧き上がる。全てを振り払うのは、困難だった。駅へと向かう足取りが重い。

 

 顔が自然と俯き、宥の一歩後ろを歩く。馴染みのない街、歩きづらい人混みの中ということも手伝って、徐々に姉との距離が離れてしまう。

 はっと、気付いたときには遅かった。

 

「わわっ」

 

 向かいから来た歩行者の肩にぶつかり、玄はよろめく。せめて二次被害は抑えようと無理に踏ん張りを利かせようとしたのがいけなかった。背中から別の誰かがぶつかってきて、完全にバランスを崩す。

 

 景色が、スローモーションで流れていく。眼前に迫るはアスファルト。予期する痛みに堪えようと玄が目を瞑ったその瞬間、

 

「うぉっと」

「きゃっ」

 

 誰かの腕に、抱き止められた。胸の形が歪む。けれどもしっかりと支えられ、それ以上玄の体が傾くことはなかった。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 あたふたしながら、相手が誰かも確認しない内から玄はお礼を口にする。

 

「大丈夫ですか……って」

 

 労る声が、途中で途切れる。――聞き覚えのある声に、玄ははっと面を上げた。

 

「須賀くんっ」

「京太郎くんっ?」

 

 駆け寄ってきた姉と共に、驚愕の声を重ねる。

 

「玄さんに――宥先輩?」

 

 彼――須賀京太郎も、びっくりしていて。

 三人は、しばらく道の端で顔を見合わせていた。

 

 

 

 ――どうにかこうにか全員が我を取り戻すのに一分。挨拶を交わして、しかしこのままさようなら、なんて流れには当然ならなかった。

 

 場所を改めようという話になり、三人は宥の部屋に移動した。

 部屋に戻ってきてすぐ、玄は改めてお礼を言った。

 

「本当にありがとう須賀くん、助けられちゃった」

「いえいえ、インカレ前に大事なくて良かったです。玄さんが先に東京入りするって話は宥先輩から聞いてましたけど、まさかこんなところで会えるとは」

「それはこちらの台詞なのです!」

 

 やや興奮気味に、玄は食い付く。そのまま彼の腕を取りかねない勢いだった。

 

「京太郎くんはどうして新宿に来てたの?」

 

 飲み物とお菓子を机上に運び、玄たちの向かいに座りながら宥が訊ねる。

 

「和と優希と会ってたんですよ。宥先輩と同じで、インカレの激励会みたいなもの開いてたんです。優希の思いつきで、突発的だったんですけどね」

「それは是非参加したかったのです……!」

 

 非常に羨ましい面子だ。しかし、インカレ参加校の学生同士で大会直前に会うのは避けたほうが良いと釘を刺されている。談合や過度な馴れ合いをするつもりはなくとも、世間はそうは思ってくれないだろう。

 

「お楽しみはインカレが終わってからだね」

「俺はインカレ自体も楽しみですけど」

「今年は私たち、観戦だけだもんね」

 

 くすくすと、京太郎と宥が微笑み合う。仲睦まじげな様子は、やはりただの先輩と後輩の域を超えている――気もする。実際のところはどうなっているのだろうか。もっと言えば――京太郎は、姉のことをどう思っているのだろうか。玄は、彼女たちを観察しながらじっくり考え込む。

 

 少なくとも、悪感情は持っていないはずだ。何せ彼は自らと同じ趣味の持ち主。姉のおもちには大層興味があるはずだ。それに、さっきも自分の胸に腕が触れて、京太郎が照れていたのを玄は見逃していなかった。ちょっと、にやけてしまう。

 

 これは大きなアドバンテージになろう、と玄は自らの胸を見下ろす。――先ほどは緊急事態だったので何とも思わなかったが、男子に触られたのは初めてだ。しかも、結構思いっきり掴まれた。

 

 ――あ。

 

 一度意識してしまうと、もう駄目だった。普段自分から誰かのおもちを触りに行くので、触られる側に回っても大した抵抗はないつもりだったが――やはり、異性となると話は違う。赤面するのを玄は自覚する。

 

 あれは事故だと言い聞かせ、羞恥心と戦いながら、姉と京太郎のやり取りを引き続き観察する。いつのまにか宥の手には果実酒があって、頬を紅潮させていた。気分はとても良さそうで、時折京太郎を上目遣いに見つめては笑顔を零していた。――判断は、まだ保留状態にしておく。

 

「あ、お菓子切れちゃった」

 

 ぽつりと宥は呟き、それからすっくと立ち上がる。

 

「買い足してくるね。後飲み物も」

「あ、それなら俺が。宥先輩飲んでるし」

「下のコンビニに行くだけだから、大丈夫。京太郎くんと玄ちゃんはお客様なんだから、ゆっくり休んでて」

 

 玄たちの言葉も待たず、宥はマフラーだけ首に巻いてさっさと部屋を出て行ってしまった。確かにこのマンションの一階にはコンビニエンスストアが入っているので危険はないだろうが、不安に思ってしまうのは昔からの性か。

 

 ともかくとして、玄は京太郎と二人部屋に残されてしまった。テーブルを挟んだ向かいの席は誰もいなくなり、彼と肩を並べて座る形である。

 

 意味も分からず、どきどきする。だが、同時にチャンスだとも思った。

 玄は姉が飲んでいた果実酒に手を伸ばす。自分のコップに、なみなみ注いだ。

 

「須賀くんもどう?」

「うちの部活、未成年は絶対駄目ですから。玄さん、結構飲むんですか?」

「こっちはなんだかんだで体育会系なところがありまして。嗜むくらいには飲むのです」

 

 ちょっと見栄を張った。確かに先輩からの勧めで飲まされたりはするが、自分からはあまり飲もうとしない。果実の甘みと、アルコールの味が玄の気分を高揚させる。

 

「ねぇ、須賀くん」

「ど、どうしました?」

 

 彼の顔を覗き込み、名前を呼ぶ。その声は、自分が発したものとは思えないほど甘ったるさを含んでいた。

 

「おねーちゃんのこと、どう思ってるの?」

「ゆ、宥さんのことですか?」

「そう。なんだかおねーちゃんと須賀くん、仲良さそうだなって。とっても楽しそうに話しているのです」

 

 迂遠な物言いではあるが、その意図を察せぬほど愚かではないはずだ。彼が戸惑っている間に肩と肩が触れ合いそうになるくらい距離を詰め、逃がさない体勢を作り上げる。

 

「仲は良いですけど、ほら、小さい部活ですし。別に普通なんじゃないでしょうか」

「ふぅーん。普通。でも、おねーちゃんのおもちは普通じゃないよね」

「そりゃもう大変すばらで……って何言わせるんですか!」

 

 やはりそこは魅力的らしい。

 

「おねーちゃんともっと仲良くなりたいとか、思ったりしないのかな?」

「……いや、その。部活の仲間ですし、あんまりそういうのは」

「じゃあ、どうとも思ってないの?」

「そ、そんなことないですよ」

 

 そっぽを向いて、京太郎はあたふたと言い訳をする。身動ぎの気配を感じた玄は、とっさに彼の左手首を右手で押さえつけた。

 

「えっ、ちょっ」

「じゃあ、どう思ってるの?」

 

 戸惑いは完全に無視し、なおも玄は攻める。京太郎は「ああ」だとか「うう」だとか、何度か呻き声を上げてから、

 

「……すごく可愛いって思ってます」

 

 と、蚊の鳴くような声で答えた。飾らない言葉が、正直な気持ちだと教えてくれる。玄としては、満足できるとまではいかないものの、それなりに有益な回答であった。同時に彼女の胸に去来したのは、一抹の寂寥感であった。

 

 ともかく答えてくれたお礼を伝えようとし、しかしその前に京太郎が口を開いた。

 おそらくそれは、意趣返しのつもりだったのだろう。

 

「でも」

 

 玄の意図は掴めなくても、京太郎はからかわれていると判断したのだ。

 

「玄さんも、同じくらい可愛いですよ」

「な、ななななっ?」

 

 一瞬で、玄の頭がのぼせ上がる。本当に彼がそう思っているかはともかくとして――玄の感情をかき乱すには十分だった。

 

 よくよく考えれば、男子とこんなに距離が近いのも初めてだ。アルコールのせいで、胸の内から妙な気持ちが湧いてくる。

 

 ――な、なんで?

 

 姉の想い人――かも知れない相手。姉の傍に在り続ける――かも知れない相手。本来であれば、自分は役者ではない。姉の恋の行方を見守り、応援する立場のはずだ。妹として、それはかなぐり捨ててはいけないものはずだ。

 

 だと言うのに今は、玄の頭から大事なことが抜け落ちていく。味わうのは喪失感、同時に罪悪感。けれどもその感情がまた、玄を深い沼へと誘う。決して立ち入ってはいけないはずの、黒い沼に。

 

「――、もうっ!」

 

 耐えきれなくなって、玄はその場に立ち上がった。ひとまず京太郎から距離をとらねば。肌が触れ合っている現状は、危険である。

 

 しかし立ち上がった瞬間、くらりと玄はよろめいた。酒量は僅かであるが、様々な条件が重なって玄は半ば酩酊していた。

 

「あ――」

「っと、玄さん、大丈夫ですか」

 

 新宿の街に引き続いて、京太郎に抱き止められる。

 だが、今回は玄が身を捩ってしまった。触れられるのが嫌というわけではなく、けれども反射的に逃れようとしていた。

 

「わっ」

「あうっ」

 

 しかし腕と腕、脚と脚が絡み合って、二人はバランスを崩してしまう。最早持ち直すには不可能な状態で、京太郎が玄の腕を引きベッドの上に倒れ込んだ。

 

 結果。

 

 玄が京太郎を、ベッドの上に押し倒した形となった。

 

儚い吐息が、玄の口から漏れる。一度高まった鼓動は、収まる気配がない。視線と視線が、ぶつかり合う。

 

 彼と見詰め合い、名前を呼び合い、玄の体が傾いて。

 

 

 ――丁度そのとき、彼女は帰ってきた。帰ってきて、しまった。

 

 

 




次回:8-3 決戦、松実姉妹 2nd


※お酒は二十歳になってから


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8-3 参上、麻雀仮面T

 大学に進学し、一人暮らしを始めてから既に一年以上経つ。毎朝一人で起きるのにも、とっくの昔に慣れていた。

 

 けれども姉の匂いに包まれたベッドで目を覚ましたとき、玄はかつてない寂しさを覚えた。大阪で初めて夜を過ごしたあの日よりも、姉が東京に行った次の日よりも、ずっと寂しかった。

 

 時刻は朝八時。

 昨晩、宥はこの部屋を飛び出して行ってしまった。原因は、間違いなく自らの軽率な行動だと玄は自覚していた。

 

 けれども。

 ――どうして。

 

 今思い返しても、どうしてあんなことをしでかしてしまったのか、玄は理解できなかった。心の赴くまま、衝動に流されるままに体が動いていた。まるで、掴み頃のおもちを前にしたときと同じ気持ちが玄の胸を支配していた。お酒の力で歯止めは利かなかったのは確かだが――それにしたって、いささかやりすぎた。

 その真因の答えは、いくら考えても出なかった。全くもって、謎である。

 

 歯を磨きながら、ぼんやりと玄は考える。

 姉の京太郎に対する気持ちは、ほとんど確かであろう。問題は、飛び出す直前の捨て台詞からして、本人が未だ無自覚らしきところにある。

 

 あの姉ならそのくらい鈍くてもおかしくはない、と玄は思う。貶めているのではなく、むしろ美点であると。ただ、そこは自分が支えてあげなければならない、この話は私のほうがしっかりしているだろう――というのが玄の自己評価であった。

 寝間着から着替え直したところで、チャイムが鳴った。

 

「は、はーい」

「須賀です、おはようございます」

 

 慌てて玄関に駆け寄ると、ほっと安心する声が聞こえてきた。玄はすぐに扉の鍵を開けた。

 

「朝早くからすみません」

「ううん、平気だよ。入って……って、おねーちゃんの部屋だけど」

「はい、お邪魔します」

 

 玄は苦笑いしながら京太郎を招き入れる。

 昨夜、宥からの連絡は一度だけしかなかった。それも、玄と京太郎が必死で電話をかけ、捜索した結果である。

 

 友達の家に泊まる――宥は、電話口の向こうで確かにそう言った。しかし、どこの友達の家かまでは語ってくれなかった。お互い頭を冷やすには必要だと、玄は甘んじてそれを受け入れたが、心配なことには変わりはない。

 

 まさかあの姉に限って嘘を吐くなど、でもいつもの姉ではなかったし――思考は堂々巡りし、昨夜はろくに眠れる気がしなかった。

 

 けれど、京太郎がいてくれたおかげで、玄はいくらか落ち着けた。

 先陣切って捜索に乗り出してくれたし、心当たりのあるところは全部当たってくれた。実際のところ、彼に責任はほぼないと言って良いのに、だ。

 

 なにより、ずっと励ましてくれた。玄が眠気を覚えるまで、傍にいてくれた。数時間ぶりに顔を合わせて、一息つけたのも当然だろう。

 

「とりあえず、朝ご飯にしましょうか」

「あっ、えっと、おねーちゃんの冷蔵庫の中身、勝手に使っても良いかな……?」

「あ、俺作ってきたんで。口に合うかは分からないですけど」

 

 京太郎が差し出してきたパックの中には、ぎっしりサンドイッチが敷き詰められていた。用意の良さに玄は舌を巻き、お礼を言うしかない。

 

「あ、ありがとう須賀くん……何から何まで」

「いえ、正直あんまり寝られなくて、手慰みに作っちゃっただけですから」

 

 彼の作ったサンドイッチは、形も綺麗で大変美味だった。前回の合宿や、高校時代でも思ったが、彼は存外器用で料理が得意である。麻雀もかなり打てるし、かなり貴重なスキル持ちだ。

 玄が感心している内に、京太郎はおずおずと切り出してきた。

 

「さっき、うちの麻雀部の先輩たち全員に確認してきました。宥先輩、どこにも来てないそうです」

「そっか……」

「となると、部外の友達の家に泊まったんだと思うんですけど」

「須賀くんは心当たり、あるの?」

 

 東京での姉の交友関係全てを、玄は把握していない。わらにも縋る想いで京太郎に訊ねてみたが、

 

「すみません。学部の友達とかになると、全員は……」

「そうだよね……」

 

 がっくりと玄は肩を落とす。京太郎はそんな玄に向けて、重ねて謝った。

 

「本当にすみません、なんだか変なことになっちゃって」

「う、ううん。悪いのは私なのです」

 

 昨夜、何度もしたやりとり。玄は京太郎が謝る筋合いではないと信じているが、当の彼はそうは考えていないようだ。むしろ、強く責任を感じているようだった。

 

「いえ、なんだか俺が関わっちゃうとお二人ともぎくしゃくしちゃうみたいで……俺、二人のそばにいないほうが良いんじゃないかって」

「た、たまたまなのです! それに四月のときも悪いのは私なのです!」

「でも」

「でもじゃないのです!」

 

 机を叩く勢いで、玄は京太郎に詰め寄る。影が差す彼の表情を、放っては置けなかった。

 

「須賀くんが悪いなんてことは、絶対にないのです!」

 

 ぎゅっと、力強く彼の手を握りしめる。衝動的に、そうしていた。

 

「玄さんっ?」

「あんまり自分を責めると怒るから! 絶対に私たちと距離を置くなんて言わないで!」

「は、はいっ」

 

 玄の剣幕に気圧されて、京太郎はこくりと頷く。それから玄は、引き寄せた彼の手か自分の胸に触れていることに気付き、慌てて離した。

 

 気まずい沈黙が、部屋に降りる。

 玄の胸は、昨夜のように強く脈打っていた。どうしてしまったのか、彼女自身もよく分からない。分からないが、次に紡ぐべき言葉を見つけられなかった。

 

 だから、今度も切り出してきたのは京太郎のほうからだった。

 

「とりあえず、俺が分かる範囲で宥先輩の行きそうなところを探してみます」

「じゃあ、私も」

「玄さんはここで待ってて下さい。宥先輩が帰ってくるかも知れませんし」

 

 正論ではあった。一瞬、玄も頷きかけた。

 けれども結局、口を衝いて出てきた言葉は、

 

「須賀くん一人には行かせられないよ」

 

 だった。

 

「私も一緒に――ね?」

 

 玄は小首を傾げ微笑み、京太郎の瞳を覗き込む。

 彼女に自覚はなかったが、高校時代から僅かながらも年齢を重ね、少女から大人へと変わりつつあった。姉にも通じる妖艶さを手に入れようとしているのだ。

 

「……はい」

 

 それに呑み込まれ、京太郎は首肯する。させられていた。

 

 

 ◇

 

 

 本来なら、今日は姉と一緒に東京の街を散策する予定であった。

 それが今は、隣を歩いているのは姉ではなく、年下の男の子になっている。不思議なものだ。異なる歩幅を、彼はゆったり歩くことで合わせてくれる。意外と――というのは失礼だろうか――手慣れている気がして、玄は一抹の寂しさを覚えた。今はそんな場合ではないというのに。

 

 ともかく、京太郎の案内でいの一番に向かったのは、東帝大学だった。おおよそ三ヶ月ぶりである。

 

 立ち並ぶ建屋はいずれも立派で、何度来ても流石は有名校だと溜息を吐かされる。麻雀推薦で進学した自分を貶めるつもりはないが、受験を乗り越えた姉に、玄は賞賛を送りたくなる。確固たる目標を、宥も持っている。

 

 ふと、玄は思った。

 

 ――では、隣の彼はどうなのだろう。

 

 何か大きな目的や目標があって、この偏差値の高い大学を選んだのだろうか。

 

「須賀くんは、何か夢とかあるの?」

「夢、ですか?」

 

 予想外の質問だったらしく、京太郎は首を傾げる。

 

「そう。大学を卒業してから、やりたいこととかあるのかな?」

「うーん。今のところは、具体的にはありませんけど」

 

 僅かに逡巡する素振りを見せてから、彼は答えた。

 

「どんな形でも、麻雀に関わり続けたいとは思いますね。なんだかんだではまっちゃってますから」

「それじゃ、プロとかは?」

「まさか」

 

 京太郎は、すぐさま一笑に付した。

 

「俺にはそれだけの器はありませんよ」

「でも、インハイじゃ良い成績だったよね」

「あれは出来すぎなんですよ。咲や先輩たちと打ってたら毎回自信潰されてますし」

「……そっか」

 

 玄は一つ頷いてから、横目に京太郎の表情を窺う。――どこまで本気で言っているのだろうか。先日の勝負や合宿で、玄も何度か彼と打った。

 

 はっきりと、玄は覚えている。

 実力云々はさておき、卓上で彼から感じ取ったのは並々ならぬ熱意だった。それこそプロを目指す人間と同じか、それ以上かと思わせるくらいには。感じる認識の差異に玄は戸惑うが、元々付き合い自体さほど深くない。当然と言えば当然だろう。

 

 ――でも、須賀くんがそう言うのなら。

 

 思いついたアイディアは、玄は胸の内にしまい込む。簡単に口にできるものではなかった。

 

 そうこうしている間に、京太郎に連れられて、玄は部活棟やサークルボックスを歩き回った。京太郎が知る限りの、宥の友人と会うためである。夏休み中なので、所属する部活などに顔を出していないか期待したが、残念ながらほとんど空振りであった。たまたま出会えたとしても、宥の行方を知る者はいなかった。

 

 一旦カフェテリアに腰を落ち着け、二人は話し合う。

 

「どうしましょう。一度家に戻ってみますか?」

「うん……そのほうが良いかな」

「こうなったら四の五の言わず、先輩たちにもちゃんと説明して協力してもらいます」

「そ、そうなるとやっぱり須賀くんの立場が悪くならないかな?」

 

 昨夜恭子たちに連絡をとったときは、玄の判断で事情を濁して説明した。身内の恥を晒したくないというのもあったが、何かよろしくない事態に発展すると予感したのだ。

 

「俺が頭下げて済むなら、それが一番良いですから」

 

 京太郎がスマートフォンを取り出す。玄が止める暇もなく彼の指が画面に触れようとし、

 

「あっ」

「わっ」

 

 寸前、スマートフォンが震えた。誰からの着信か――玄が問いかける前に、京太郎は答えていた。

 

「宥先輩ですっ!」

「ええっ」

 

 そのまま彼は電話を取る。玄は固唾を飲んで見守るしかない。

 

「はい、須賀です。……はい。あの、……は、はい。はい」

 

 京太郎は、頷くばかり。有無を言わさない気配が、電話口の向こう側から伝わってくる。彼のスマートフォンを引っ掴みたい衝動を抑え、玄はその場に待機する。

 

 電話自体、一分もかかっていなかっただろう。だが、玄には永遠の時間にも感じられた。

 

 スマートフォンを耳から離した京太郎に、玄はすぐさま食い付く。

 

「おねーちゃん、なんてっ?」

「……部室に来いって、呼び出されました」

「部室って」

「うちのです」

 

 京太郎が椅子から立ち上がる。

 

「行きましょう」

「うん!」

 

 大学に来ていて良かった。しかし、姉の目的は一体何なのか。分からない。玄の頭の中は混迷を極めるが、ともかく旧部室棟へ走った。流れ落ちる汗を気にする暇はなかった。

 

 歴史を感じさせる古めかしい建物に、足を踏み入れる。夏の熱気とは裏腹に、中はひんやりとした空気に包まれていた。階段を昇り、奥へ奥へと進む。

 

 京太郎が、先に部室の扉の前に辿り着く。一度玄と顔を見合わせた後、彼はドアノブを捻った。鍵は、開いていた。

 

「おねーちゃん!」

 

 玄の視界に飛び込んできたのは、卓の前に佇む姉の姿。それ以外は何も見えない。

 宥から、一瞥をくれられる。だが、彼女が呼んだ名前は玄のものではなかった。

 

「京太郎くん」

「は、はいっ」

 

 上擦った声で、京太郎が返答する。宥から感じられるのは、かつてない威圧感だ。実妹である玄さえも、知らない姿。

 

「麻雀で、勝負しよう」

「しょ、勝負?」

「うん。私が勝ったら、玄ちゃんを返して」

「え、ええー?」

 

 玄と京太郎の困惑の声が重なる。

 

「な、何言ってるのおねーちゃんっ?」

「玄ちゃんをたぶらかすなんて、だ、だめ!」

「たぶらかされてなんかないよっ?」

「玄ちゃんは口を出さないで!」

 

 明らかにおかしい姉の様子に、ますます玄は混乱する。こんなことを言い出す人ではない。しかし、表情は真剣そのもの。

 

「勝負を受けないなら、玄ちゃんは二度と東京に来ちゃだめ!」

「そ、そんなぁ」

 

 逆らえる状況ではなかった。

 

「分かりました」

 

 頷いたのは、京太郎。

 

「す、須賀くんっ?」

「落ち着いて下さい、玄さん」

 

 京太郎に耳打ちされ、どきりとする。構わず彼は小声で続けた。

 

「宥さんは玄さんを取り戻したいって思ってるんですから、負ければ良いんです。それで全て丸く収まります」

「あ、そ、そっか」

 

 そんな簡単なことに気付かないなんて、本当に混乱していたようだ。前回のときとは違って、京太郎たちが背負う敗北時のリスクはない。

 

 そう思えば気が楽になったが――なんとなく、玄は面白くなかった。

 

 京太郎は、別に自分に拘りはない。穿った見方ではあるが、そう言われたのも同然ではないのか。

 

 そもそも、姉のこの行動は何だ。一見筋が通っているようで、全く通っていない。宥は、自分自身に嘘を吐いている。

 

 様々な要因が絡み合い、玄の中でふつふつと正体不明の怒りが湧き上がる。

 

「おねーちゃんが負けたら」

「え?」

 

 その、言い表しようのない感情を受け。

 玄の口は、勝手に動いていた。

 

「おねーちゃんが負けたら、何かあるの?」

「えっ?」

「おねーちゃんが拘っているのは、本当に私?」

 

 重ねられた二つの質問に、部室が緊張に包まれる。「玄さんっ?」と、京太郎が呼びかけてくるが、玄は無視した。

 

「えっと、えっと」

 

 先ほどまでの強い眼差しはどこに行ったのか、一転宥はあたふたと動揺し始める。構わず玄は続けて言った。おそらく、核心的な一言を。

 

「須賀くんが勝ったら、私は須賀くんのもの。そういうことで、いいよね?」

 

 ここにきて自分の気持ちを誤魔化そうとする姉を、玄は許せなかった。姉に対して、こんな感情を抱くことは初めてだった。中途半端な態度を取ると言うのなら――容赦はしない。

 

 宥の返事を待たず、玄は京太郎の腕を取った。あっ、と宥から短い悲鳴が上がる。

 

「私は、須賀くんにつくから」

「く……玄さん? 分かってますよね?」

「分かってるよ。うん。作戦はちゃんと分かってる」

「は、はい」

 

 にっこりと笑い、玄は京太郎を黙らせる。本当に分かっているのだろうか、という心配が京太郎の表情に浮かんでいるのは気付いたが、玄は無視した。

 

「でも、どうやって戦うの? このままだと二対一だよ、おねーちゃん」

「……大丈夫。元々、京太郎くんと玄ちゃん、二人と戦うつもりで来たから」

 

 その回答は、予想外で。

 同時に、玄は強いデジャヴを感じた。

 

「お願いします」

 

 宥の呼びかけに、ホワイトボードの影から一人の女性が姿を現す。

 

「えぇっ?」

 

 姉の姿にばかり気を取られ、全く玄は気付いていなかった。それは京太郎も同じだったらしく、突然現れた第三者に呆気にとられていた。

 

 だが、それよりも驚いたのは、その格好。

 フルレングスの黒いワンピースに、純白のエプロン。それはまるで「本物」と同じメイド服で。いつか見た、ミニスカートのそれとは違い胡散臭さは感じられない。

 

 ただ一点、その姿に奇妙な部分があるとすれば――

 

 顔をすっぽり覆い隠した、狸のお面。

 

 その奥の顔を、うかがい知ることはできない。あのときの彼女と同じ、全てを覆い隠す仮面。

 けれども、玄は直感する。

 

 園城寺怜ではない。彼女ではない。

 今目の前に居る人間は、全く異なる別人だ。

 

「こんにちは」

 

 仮面の女は、抑揚のない声でその名を名乗る。

 

 

「麻雀仮面ver.Tanuki」

 

 

 小走やえが、愛宕絹恵が大阪で語っていたその名前。

 

「麻雀仮面Tです」

 

 ――感じ取るのは、圧倒的なプレッシャー。

 

 ああ、と玄は理解した。

 いずれにせよ、手を抜いて戦うなんて有り得ない、と。

 

 

 




次回:8-4 参上、麻雀仮面T


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8-4 決戦、松実姉妹 2nd

 突然姿を現した麻雀仮面に、玄は確かに動揺した。

大阪で聞いていた噂、その衣装、そもそも姉と関係は――いずれも捨て置くわけにはいかない問題だ。

 

 だが、しかし。

 

 目の前に現れた彼女は――麻雀仮面は、それら全てを吹き飛ばした。正確には、考える余裕を玄から奪い去った。

 

 対峙するだけで、身を引いてしまいたくなるプレッシャー。

 仮面の下に隠された顔つきは覗けなくとも、鋭い視線は伝わってくる。夏のお昼の熱気も相俟って、じわりと玄の額に汗が浮かぶ。

 

 生半可な相手ではない。少なくとも、ここ最近同卓した者の中では間違いなく最強である。卓につく前からそう予感させること自体、常軌を逸している。

 

「玄さん」

 

 隣に立つ京太郎から名前を呼ばれ、玄は短く頷く。

 

「うん」

「前言を、撤回します」

「うん」

 

 京太郎の言葉に、何の反駁もなく玄はさらに頷く。

 

 ――元来松実玄は、積極的に戦いに身を置く雀士ではない。阿知賀女子学院でただ一人、みんなの帰りを待ち続けていた彼女は、その後も後輩たちに引っ張られる形でインターハイを目指した。全ては幼馴染の彼女と一緒に遊ぶため、麻雀を楽しむため。

 

 しかし、経験した二度のインターハイ、そして大学麻雀が彼女の意識に変化を与えていた。

 ただ仲の良い相手と遊ぶ麻雀だけが、楽しい麻雀ではない。もちろんそれを否定するつもりはない。

 

 けれども今の玄が求めているのは、強敵とぶつかりあう麻雀だった。

 

 勝てれば嬉しい。

 負ければ悲しい。

 

 仲間たちと悩みもがき考え抜き、牌を握る。圧倒的な強さを前にしてくじけても、立ち上がる。そこにも喜びと楽しみを、玄は見出したのだ。

 

 だからこそ、この打ち手を前にして退くなど考えられない。

 

「本気で、やらせてください」

「大丈夫だよ」

 

 男女の区別はあっても、同じ激戦のインターハイをくぐり抜けてきた者同士。京太郎もまた、同じ理由を有するのは想像に難くなかった。

 

「どうあっても、私も本気でやるから」

「はい……!」

 

 二人の意思は合致し。

 松実宥の表情に、影が差す。

 

「……勝負、だね」

 

 そのまま彼女は、卓に着いた。ロングスカートの麻雀仮面は、その下家に座る。

 宥の対面には、当然玄。その下家に、京太郎。玄と宥の位置は入れ替わっているが、ほぼ四月の再現であった。

 

 ――あのときの麻雀仮面さんは、園城寺さんだったけど。

 

 じっと、玄は麻雀仮面を観察する。とても物静かで、名乗ってからずっと黙りこくっている。背丈は玄よりも高い。胸部については少し残念である。外見的特徴からは、それ以上の情報は得られず確信には至らない。少なくとも、怜ではないことは確かだ。

 

 だが、既に玄は選択肢を狭めつつあった。否、狭めなければならなかった。

 麻雀仮面の正体を暴くのが目的ではない。あくまでそれは手段である。この対局を如何に制するか、そのためには相手の情報は必要不可欠だ。

 

 おそらく京太郎も同じ意図なのだろう、麻雀仮面にじっと熱い視線を送っている。麻雀仮面のほうは、気にする素振りなく泰然自若としていた。動揺する気配一つ見せない。

 

 一方の玄もまた、宥と視線を交わし合う。

 

 普段穏やかな宥の瞳にも、闘志の火が宿っている。思えば、姉から明確な敵対心を抱かれたのは初めてかも知れない。麻雀仮面だけでなく、当然彼女への警戒を怠ってはならない。何を仕掛けてくるか、分かったものではなかった。

 

 ――それでも。

 

 それでも麻雀なら、玄には姉に勝る自信があった。大学麻雀トップの環境で一年間磨き抜かれた経験は伊達ではない。その差は、既に先の戦いで見せている。

 

「ルールは、四月のときと一緒――半荘二回で合計点数が多いチームの勝ち、途中で誰かがハコになればその時点で終わり。玄ちゃん、それで良いかな」

「うん、大丈夫」

 

 姉妹は、牌を掴む。ひりつく緊張感は、真剣勝負特有のそれ。間違いなく、姉は本気だ。

 

 配牌にドラは、しっかり来ている。インカレのためきちんと仕上げてきた。息を一つ吐いてから、玄は第一打を切り出した。

 

 大学の競技麻雀ではコンビ打ちをする機会は滅多にないが、玄も手慰み程度には経験がある。前回、怜と組んだ際には多少ながら作戦を検討したりもした。

 

 だが今回は、突然の対局だ。京太郎と卓を共にしたことはあるが、相方として一緒に戦った経験は皆無である。作戦を立てる時間もなかった。不利な要因ばかりと嘆きたいが、四月には玄が有利な立場で戦いを挑んだ。文句は言えない。

 

 ただ己の役割を、玄は理解していた。通常は火力に優れる自分が攻めるべきだと。

 

 そもそも玄の知る京太郎は堅守タイプである。振り込まないのはもちろんのこと、鳴きたい相手を鳴かせず、気持ちよく麻雀をさせない。そうする中で隙を窺い、一撃を決めるというのが彼の基本戦術だ。それが彼の全てではないが、今はその点をしっかり抑えておくべきだと玄は考える。

 

 ――何故ならば。

 

「ポン!」

 

 相手の牌が透けて見えるほどの眼力の持ち主ならば、

 

「もう一つ、ポン!」

 

 こちらが求める牌を切り出してくれるというもの。前回の対局でも、京太郎は姉に合わせるのが上手かった。

 

「ツモ!」

「……はい」

 

 リズムよく、玄は上がる。鳴き麻雀でも、玄の火力をもってすればゲームはすぐさま傾いてしまう。

 

 たった一局で決めつけるのは早計だが、玄は自らと京太郎の相性はすこぶる良いと感じていた。ドラで窮屈になりがちな自分の手だが、彼はそれを敏感に察知し柔軟さを与えてくれる。攻めと守り、というシンプルな役割分担も余計な混乱をきたさず打ちやすい。

 

 ――よし!

 

 上々の出だしに手応えを感じつつ、玄は牌を卓内に放り込む。

 その刹那、だった。

 

「――ッ?」

 

 ほんの僅か、ほんの微かな違和感が、玄の背中に走った。振り返ったところで、なにもありはしない。気のせいだと片付けてしまいそうになるくらいであったが、しかしだからこそ玄は見過ごせなかった。

 

 京太郎は、何も気付いている様子はない。彼には何もなかったのか、あるいは察することが出来たのは自分だけなのか――判別は、できなかった。

 

 ――気を引き締めなくちゃ。

 

 玄は視線だけを京太郎に送る。彼は静かに頷いた。

 

「一本場っ」

 

 配牌にはきちんとドラが来ている。麻雀仮面の正体が、高校時代の後輩、高鴨穏乃のような支配を打ち破るタイプの可能性も考えられるが、現状ではその気配はない。もちろん、穏乃本人ということもないだろう。流石によく見知った仲ならば、仮面一つで分からなくなるなんてことはない。

 

 ならば、宥が東京で知り合った友人と判断するのが妥当だが――あまり、仲睦まじいというわけでもなければ、打ち解けている気配もない。あちらも急造コンビという印象がどうしても拭えないのだ。

 

 ならばすぐにでも勝負をつけてしまえ――そう、玄が攻めに出ようとしたときだった。

 

「チー」

 

 麻雀仮面が、鳴いた。テンパイ気配はまだ感じられないが、念のため玄は麻雀仮面へと注意を払う。

 

 が、真に警戒すべき相手は違った。

 次順、手が進んだ玄は溢れた牌を切り落とす。

 

「ロン」

「……はい」

 

 弓弦を引き絞っていた姉に、狙い撃たれた。弘世菫から直接指導されたという、シャープシュートだ。

 

 上がったのは宥だが、仕掛けたのは麻雀仮面であることを玄は察する。ツモをずらし玄に当たり牌を取り込ませながら、自身が囮となって宥のテンパイ気配を隠した。偶然ではなく、この麻雀仮面は狙ってやってのけたと玄は確信する。それほどの圧を、今この瞬間にも感じているのだ。

 

 その後は、玄と宥が上がり合う流れとなった。京太郎と麻雀仮面はあくまで二人の補助に徹していた。

 

 一度目の半荘が終わり、インターバルが取られる。点棒の状況は、やや宥の側が有利だ。

 

 部室の隅に移動するや否や、玄と京太郎は口を揃えて言った。

 

「本気、出してませんよね」

「本気、出してないよね」

 

 誰が、と具体的に名前を挙げる必要もない。玄と京太郎は揃って溜息を吐いた。

 

 麻雀仮面。

 彼女は巧みな技術と読みを見せているが、それをフルに活用している気配がなかった。まだまだ底知れぬ凄味を感じ取れる。

 

「……これから、どうしよっか」

「俺の点棒もかなり削られてますからね。宥先輩が狙い撃つのを俺に切り替えてきたり、麻雀仮面が本気出してきたりしたらかなり危ういです」

「ん……、一度須賀くんに上がってもらって」

「いいえ」

 

 京太郎は、即座に首を横に振った。

 

「今ここで逃げるのは、思うつぼです。俺たちは現状負けている。俺が飛ぶかどうかなんて二の次で、玄さんは攻めに集中して下さい。そうでないとあの二人相手から勝機なんて掴めっこない」

「……うん」

 

 押し引きどちらが正しい選択なのか、玄には分からなかった。だが、京太郎の言葉には熱と重みがあった。自然と頬が綻び、頷かされていた。

 

 お昼ご飯も食べず、空腹ではあるが我が儘は言っていられない。年長として、玄は京太郎に呼びかける。

 

「行こう、須賀くん」

「はいっ」

 

 四人は、再び卓につく。

 後半戦開始早々、先に攻めたのは宥だった。

 

「リーチ」

 

 投げ込まれる点棒。仕留めにいくぞ、という意思がありありと見えた。

 だが、既に玄も腹をくくっている。

 

「通らば――リーチ!」

 

 ドラを切り捨て、懸命のリーチ宣言。

 

「ポン」

 

 そのドラを鳴いたのは、麻雀仮面。――ズラされた。玄は内心顔を顰めながら、ツモる。和了牌ではなく、切り捨てるしかない。これが宥に狙われた牌なら、とひやりとするが、

 

「チー!」

 

 今度鳴いたのは、京太郎。

 京太郎と麻雀仮面が厳しく視線を交わし合うのを、玄は見た。彼らの間で火花が散るのを幻視する。

 

 宥はツモった牌を一度見て、軽く溜息を吐いてから河に落とした。

 

「ロン! 24000!」

 

 玄の和了宣言が部室に響く。

 

「……はい」

 

 決着には至らないが、勝負の行方をはっきり決めてしまう一撃。玄もほっと胸を撫で下ろし、京太郎と笑顔を見合わせる。

 しかし、次局。

 

「ロン。1000点」

 

 麻雀仮面に、玄は振り込んでしまう。安手ではあるが、あっさりと親を流されてしまった。まだまだ安全圏、と思っていたが、

 

「ツモ」

 

 立て続けに、麻雀仮面が和了る。嫌な、予感がした。同時に、既視感も。

 

「ロン。8000」

「……はい」

 

 さらに玄は振り込んでしまう。どんどんチームの点差は縮まる。どうやら、とうとう麻雀仮面はその真価を発揮しはじめたようだ。

 

 ――これって。

 

 遅まきながら、玄は麻雀仮面の正体に勘付く。

このまま行けば、逆転されてしまう。負けてしまう。狸の面を、玄は見ていられなくなり、そして、

 

「――ごめんなさい、麻雀仮面さん」

 

 宥が、謝った。

 

 部室に漂う緊張感が、一瞬で霧散する。けれども宥は、構わず言った。

 

「ここで終わりにして下さい。――このまま麻雀仮面さんに頼って勝っても、意味がないと思うから」

「……良いの?」

「うん。我が儘言ってごめんなさい。それから中途半端になっちゃって」

「……ううん。構わない。分かった」

 

 麻雀仮面はこっくり頷き、牌を倒す。それきり彼女は何も言わなくなった。

 

「玄ちゃんも」

「え、えっ」

「ごめんなさい、心配かけて、急にこんなことしちゃって。この勝負は、私の負け」

「う……ううん!」

 

 椅子を蹴って、玄は立ち上がる。

 

「組んだ人の力のおかげって言うなら、私も同じだから! 須賀くんだったからここまでやれたと思うから……! このまま続けてたら、私の負けだったのです!」

「玄ちゃん……」

「だから、だから……!」

「うん」

 

 宥も立ち上がり、玄の傍へと歩み寄り、彼女を抱き締める。

 

「分かってる。ごめんね」

 

 姉妹に、それ以上余計な言葉は要らなかった。

 しばらく玄は抱き締められ、姉のおもちを堪能し、ゆっくりと離れる。苦笑いしている姉の背後で、京太郎がほっと安心している姿を認めた。

 

「あ、そ、その、須賀くんのことだけど」

「あー……」

 

 取り繕うように手を振る玄とは裏腹に、宥はますます苦笑を深めて、

 

「ほんとはもう、怒ってないよ。昨日はちょっとびっくりしちゃっただけで」

「えっ、えっ?」

「よく考えたら京太郎くん、他の女の子ともよくあんな感じになってるから。でも、実は大した話じゃなくて。……落ち着いて考えれば、急に玄ちゃんと変なことになるのもおかしいし。電話で説明してくれたとおりって、分かったから」

 

 ぽかん、と玄は口を開く。それから京太郎に目線を送る。彼は気まずげに目を逸らす。ちょっと、玄の胸がざわついた。

 それはともかく、

 

「じゃ、じゃあどうしてこんな勝負をしようなんて思ったの……?」

「え、えっと……それは麻雀仮面さんに頼まれて……でも、私も……」

 

 歯切れの悪い言葉を吐き、宥はちらちらと京太郎を見遣る。けれども長続きせず、彼女は頬を染め顔を俯かせた。

 

 その仕草で、大方玄は察した。

 

 ――ああ、そっか。

 

 大した話ではない。感情を理屈で割り切ることができなかった、ただそれだけのこと。玄を取り戻すという方便で、自分と京太郎を引き離したかった。

 

 大事なのは、引っ込み思案な姉がそんな大それた行動を起こしたことだ。それはきっとつまり――

 

「おねーちゃん」

「え?」

 

 玄は、そっと宥に耳打ちする。

 

「そういうこと、なんでしょ?」

「――っ! く、く、玄ちゃんっ」

 

 たったそれだけで、宥は頭から湯気を湧き立たせる。見ている玄が心配になる勢いだった。

 

 なんやかんやと心配をかけさせられたが、悪いことばかりではなかった。この姉が、ちゃんと自覚してくれたのだから。良かった、と玄は心から思う。きっとこれで、姉は前に進める。どこかやりきれない想いは、気付かない振りをした。

 

 ともかく、安堵する三人の傍で。

 

「――私はこれで」

「あっ」

 

 麻雀仮面が、立ち上がる。

 そさくさと去ろうとするその背中に、玄は必死になって声をかけた。

 

「あっ、あのっ」

「なにか?」

「私ともう一度、打ってくれますか?」

 

 麻雀仮面は、首だけ振り返ってその狸面を見せつける。玄は唾を飲み込んで、重ねて言う。

 

「今回は負けです。でも――でも」

 

 意を決し、玄は請い願う。

 

「二度目のリベンジの機会を、私に下さい」

 

 その言葉に麻雀仮面はこっくりと頷いて、

 

「……貴女が強くなって勝ち上がれば、いずれまた」

 

 今度こそ部室を去って行った。

 あまりにも鮮烈で忘れられない打ち手に、玄は頭を下げる。ずっと、頭を下げ続けた。

 

 

 ◇

 

 

 今度こそ姉とともに二人で一夜を過ごし、翌日の昼過ぎ。

 

「それでは行ってくるのです!」

「うん、がんばって、玄ちゃん」

 

 玄関先で、姉に見送られる。これから西阪大学の面々と合流し、最終調整しつつインカレに備えるのだ。

 

「調子は大丈夫?」

「もちろんなのです! 昨日のおねーちゃんとの対局はすっごく勉強になったから。須賀くんの打ち方とか戦い方とかも、とても参考になったし」

「……ふぅん」

 

 玄が京太郎の名前を出した途端、つまらなさそうに姉は膨れる。昨日からずっとこの調子だ。分かりやすくて、逆に愛らしい。

 

「おねーちゃん」

「どうしたの?」

「おねーちゃんのやりたいことって、なぁに?」

 

 その質問に、宥は恥ずかしげに、けれどもしっかりと答える。

 

「松実館を継いで、お客様にもっと喜んで貰える旅館にすることだよ」

「うん」

 

 その夢のため、姉は自分を鍛えようと遠くの大学へと進学した。そこでまた、姉はまた遠くに行こうとしている。それを寂しく思っていた。

 

 けれども、まだその先があった。

 

 姉の顔を見上げ、玄はにっこり笑って言った。

 

「おねーちゃん」

「こ、今度はなに?」

「それじゃあ松実館に帰ってくるときは、ちゃんと須賀くんを捕まえて来てね!」

「く、玄ちゃんっ――?」

「それじゃあ、行ってくるね!」

 

 くすくす笑いながら、玄は宥の部屋を出る。

 

 ――想いを馳せる未来はとても幸せで。

 

 傍に誰がいなくとも、自分一人であろうとも、玄はずっと待ち続けられそうだった。

 

 

 

 集合場所の駅で、すぐに玄は先輩の姿を見つけた。

 

「小走先輩!」

「ああ、松実」

「……どうかしたんですか?」

 

 一目見ただけで、彼女が不機嫌状態であることに玄は気付いた。同郷出身という気安さが、二人の距離を縮めていた。

 

「松実は聞いていないのか、東京に先に来ていたんだろう」

「聞くって、何をですか?」

「麻雀仮面の話」

 

 どきりと玄の胸が跳ねる。小走やえは、構わず続けた。

 

「麻雀仮面さんって、この間大阪で出たって言う……?」

「ああ。だが、今回は違う」

 

 すっと、目を細めて彼女は言った。

 

「件の麻雀仮面だが――昨日のお昼頃(、、、、、、)新宿の雀荘に現れたそうだ(、、、、、、、、、、、、)

 

 嵐はまだ、過ぎ去っていない。

 

 

 

                  Ep.8 第二次松実家シスターズウォー おわり




次回:Ep.9 明日望む者とのディスタンス
    9-1 音なき声


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Ep.9 明日望む者とのディスタンス
9-1 音なき声


 雨が、降っていた。

 

 右手に携えた傘が弾く雨粒の衝撃は重く、陽の遮られた視界は昼間だというのに暗い。しかし清水谷竜華の瞳は、目の前の少年の姿をしっかり捉えていた。

 

 大きな黒傘から覗く彼の眼差しは鋭く、竜華の瞳をたやすく貫く。彼女の胸にこみ上げるのは、味わったこともないような熱だった。

 

 同年代の男子から浴びせられる視線は、いつも憧憬か下心が混じっていたことを竜華はよく理解している。けれども今の彼は違う。それらとは、一線を画している。

 

 ――純然たる、戦意。

 

 同性相手なら幾度となく受け止めてきた。はじき返していた。しかし、異性からはぶつけられるのは初めてだった。

 

 理由は、分かっている。これは自分の蒔いた種だと竜華は正しく知っている。それでもどう対応して良いのか、分からなかった。彼女にできるのはただただ病院に続く歩道を塞ぎ、彼の歩みを止めること。他にどうしていいのかも分からない。

 

「清水谷さん」

「……なんや」

 

 返す言葉はつっけんどんになる。みっともないと分かっていながら、竜華はそうせざるを得なかった。張っているのは、ただの意地。理などそこになく、ただ自分の情を優先させている。しかし彼は、そんな細かな話は気にも留めない。

 

「俺と、もう一度勝負して下さい」

 

 だからこそ、竜華の良心を痛ませる。

 

「お願いします」

「嫌や、言うたらどうするつもりや」

 

 なおも出てくる意地の悪い言葉に、竜華は辟易しそうになる。

 しかし、京太郎の瞳に宿る光は一向に揺らぐ気配はなかった。

 

「それでも――お願いします」

 

 繰り返されるのは、同じ言葉。その威圧感に、竜華は一瞬目を瞠る。言い返したのは、ほとんど意地だった。

 

「人にもの頼むんなら、もうちょっと――」

 

 最後まで、音にはならなかった。

 傘の柄が、京太郎の手から零れる。次の瞬間には、彼の膝は地面に着いていた。

 

「ちょっ、あんたっ」

「お願いします。もう一度、俺と戦って下さい」

「っ……!」

 

 雨も意に介さず頭を垂れる京太郎に、竜華は声を詰まらせる。反射的に伸ばしかけた手を止め、胸元に引き寄せた。

 

「……そんなに、怜に会いたいん?」

「それもあります。でも」

 

 振り絞るように、彼は口を開く。

 

 

「――――」

 

 

 音なき声が、耳を打つ。あるいは記憶を拒否したか。

 いつの間にか、彼女の手からも傘は滑り落ち。長い髪を、冷たい雨粒が伝っていた。

 

 

 ◇

 

 

 自己嫌悪にばかり襲われる二年前の記憶を、しかし清水谷竜華は拭わない。混雑極まる電車の中、吊革を掴んで車窓の風景をぼうっと眺めながら、当時のことを何度も思い返していた。

 

 既に和解した話。水に流し、流された話だ。今では彼と会えば、嘘偽りのない笑顔で応じられる。好意的にさえ、思っている。彼女との仲も、認めている。

 

 だから、これは竜華自身の問題だった。当時の失敗を、引き摺る自分自身の。

 いくら思い返しても、思い出せないのはあのときの彼の言葉。聞いていなかったのか、聞けていなかったのか。聞く気が、なかったのか。

 

 ――あかんあかん。

 

 彼女は背筋を伸ばす。気付かぬ間に、ナーバスになっていたようだ。それもそのはず――もうじきインカレが始まるのだ。

 

 竜華も既に大学三回生。頂点を獲るチャンスは、限られている。

 

 一足先に――といっても後輩の松実玄はもう一足先に――東京入りしたのは正解だったようだ。おかげで、親友の顔を見て落ち着く時間を得られるだろう。

 指定された駅で降り、改札をくぐる。すぐに、彼女の姿を見つけられた。

 

「怜ー!」

「りゅーか、久しぶり」

 

 うっすらと微笑みを浮かべ、呼びかけに答えてくれたのは旧知の親友、園城寺怜であった。相も変わらず線の細いシルエットだが、肌の血色は随分良くなった。春前から伸ばし始めた髪はさらに伸び、既に背中まで届こうとしている。化粧の癖が変わったのだろうか、どことなく漂わせる大人びた雰囲気を漂わせる彼女に、竜華は一瞬鼻白んだ。

 

「どうしたん? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」

「ううん、なんでもあらへんよ。それよりお迎えありがとなー、怜。暑くなかった? 気分悪ない? 大丈夫?」

「問題あらへんって、このくらい平気や。相変わらず心配性やなー」

「そやけど、こないだ体調崩したんやろ?」

「……誰に聞いたん? きょーちゃん?」

「うん」

 

 怜はあからさまにむすっとして、今はここにいない彼に文句をつける。

 

「竜華には言わんといてって言うたのに」

「いやいや、なんかおかしいな思てうちが聞き出しただけやから」

「きょーちゃん、隠し事下手なんやから」

 

 はぁ、と溜息を吐く怜の横顔は、しかしどことなく嬉しそうだ。それを見逃さない竜華ではない。

 

「なぁ、怜」

「どしたん?」

「……なんでもあらへん」

「変な竜華」

 

 くすくすと怜は笑う。

 

「とりあえず、私の家行こか。何だかんだで竜華を招くんは初めてやったな。全然遊びに来てくれへんもん」

「それは怜もやろ」

「お互い麻雀で忙しいもんな」

 

 肩を並べて、竜華は怜と共に歩き出す。駅舎から出ると、眩い日射しが頬を掠めた。日傘を取り出した怜の姿はまるで深窓の令嬢のようである。

 

「インカレの準備はどうなん?」

「ばっちりや。今年の関西勢は強いで、関東リーグにも負けへんわ」

「その調子でしっかりきっちり三橋締めてな、頼むで竜華。絶対に倒してや」

「三橋って、今季関東トップの? えらい目の敵にしとるなぁ。何かあったん?」

 

 日傘を掴む怜の手に、力が籠もるのを竜華は見逃さなかった。

 

「ちょーっと、辻垣内智葉とな」

「辻垣内さんがどうしたん?」

「……ああいや、うん」

 

 自分から言い出しておきながら、怜は言葉を濁す。それからしばらく考え込む素振りを見せてから、改めて彼女は言った。

 

「やっぱり、ええわ」

「なんなん、さっきから」

「来年、私が直接倒すから」

 

 ざわりと竜華の肌が粟立つ。どこか冷めた性格をしているようで、根は熱いのが園城寺怜という人間であることを竜華は知っている。――知っている、はずだった。一年前よりも、あるいは半年前よりも、さらに彼女は変化していた。より強き意思を胸に秘め、前を向いている。自らの夢へと向かって進んでいる。

 

「……そっか」

「そんときは、竜華もライバルやな」

「その前に、一部リーグ上がってこれるん?」

「問題あらへん。うちの部長は頼りになるからな」

 

 へぇ、とこれにも竜華は感心する。入学前から怜は、東帝大学麻雀部部長の彼女を強烈に意識していたはずだ。けれども今の言葉から滲み出るのは、信頼の情。ちょっと妬けてしまうくらいだ。

 

「すぐに追いつくから」

 

 おそらく、怜は何気なくその一言を発したのだろう。だが、竜華は上手く返答できなかった。

 

 ――追い縋られる立場なのは、本当に自分なのだろうか。

 

 会話が途切れ、間が空く。それを埋めたのは、怜だった。

 

「ま、今年は竜華の応援に徹するわ」

「……あんがとなー。でも、船Qも応援したらな」

「関西リーグで正面から倒した竜華が言うんおかしくない?」

「ちょ、勝負は勝負やもん」

 

 からかわれながら、ようやく怜の居室へと辿り着く。大学でも実家暮らしの竜華にとっては、少し羨ましい一人暮らしだ。何もかも一人でこなさなければならないのは面倒だろうが、それでも憧れる。

 

 それに――怜の隣には強い味方が住んでいる。

 

 怜が扉のロックを外す傍ら、竜華はその隣室の様子を窺う。どうしても、そうせざるを得なかった。

 

「きょーちゃん、今おらへんで。なんか朝忙しなく出かけてったわ」

「あ、そ、そうなん?」

 

 どきりとした。怜は不思議そうに小首を傾げ、

 

「何か用でもあったん?」

「う、ううん。ここに須賀くんも住んどるんやなーって思っただけで」

「ふぅん。――ほら、いらっしゃい」

「お邪魔しまーす」

 

 さして興味なさげに頷く怜に、部屋の中へと招かれる。怜の実家の部屋には何度も通っていたが、家具の質感や色合い、雰囲気はそっくりそのままであった。

 

「ええ部屋やん」

「家賃高いけどなー。お茶でええ? 尭深さんにええ茶葉もろたんやけど」

「お、ええなー。渋谷さんとも仲良くやってるんや」

「そりゃチームメイトやもん」

 

 かつてのライバル校の選手とも打ち解けているようで、何よりだ。

 怜はお茶の他に、タッパーにぎっしり敷き詰められたサンドイッチを用意してくれた。

 

「これ、怜が作ったん?」

「これは今朝きょーちゃんが押し付けてったもん。もうお昼過ぎやし、お腹減っとるやろ」

「へー、須賀くんが……」

 

 間に挟まれた具材が一切潰れていない切り口に、相変わらず主夫やな、と竜華は感心する。家事能力で負けるつもりはないが、男子と張り合うのも竜華の矜持が許さない。

 

 ともかくとして。

 室内に二人きりのこの状況、彼の話題になった今、良い機会なのは確かだった。

 

「で、怜」

「どしたん?」

「その須賀くんとは、どこまでいったん?」

 

 沈黙の帳が、部屋に降りる。

 サンドイッチを掴む怜の手が、止まっていた。竜華はしばらく待ち続けたが、一向に返事が返ってくる気配はなかった。

 

「……あれだけお熱やったのに、何やっとるん?」

「ちゃう。ちゃうから。ちゃんとやっとるから」

 

 竜華と怜のパワーバランスは、基本的に怜に傾いている。からかわれたり攻められたりするのはいつも竜華だ。けれども今回は珍しく、竜華が怜を追い詰める立場であった。はぁ、と彼女は深い溜息を吐いて、

 

「ちゃんとやっとるって、何も進展ないんやろー? しかもお隣さん同士で何やっとるん」

「……そんなん分かっとる」

 

 不服そうに唇を尖らせ、怜は目を逸らす。

 

「でも……今は何かちゃうなって」

「え、それって須賀くんのこと――」

「ちゃう。きょーちゃんへの気持ちは、変わっとらへん」

 

 頬を薄く朱に染めつつも、怜ははっきりと言う。聞いている竜華が恥ずかしくなってくるくらいだ。

 

「でも、麻雀部にいて、麻雀やってるきょーちゃん見てて……今は、まっすぐ麻雀とだけ向かい合いたいって思うようになったんや」

「怜ならどっちも取るくらい言いそうやのに」

「麻雀部も、色々あるから簡単には動けんもん」

 

 怜は一瞬苦笑いを浮かべてから、居住まいを正し、言った。

 

「それに、そういうしがらみ関係なくてもな。――今の仲間と強くたりたいんや」

 

 真摯な態度に、竜華はそれ以上追求できなくなる。

 

 ――再会したその瞬間から、薄々分かっていたことだけれども。

 

 少し見ない内に、怜はまた変わっていた。成長していた。新しい環境に身を置き、新しい仲間と切磋琢磨し、高みを目指している。ただひたすらがむしゃらに、前を向いている。

 

 翻って、自分はどうなのだろうか。竜華は自問せざるを得ない。インカレで勝利するという目標はある。しかしその先を、もっと未来を、自分は見てきただろうか。漫然と、麻雀を打ち続けてきたのではないか。

 

「さっきも言ったけど、はよ竜華にも追いつかなあかんしな」

 

 怜は、悪戯っぽく笑ってそう繰り返す。

 彼女の言うとおり、距離は開いた。学年の差。麻雀環境の差。何もかも、高校時代と一緒というわけにはいかない。それもまた人生なのだと、割り切れるようにもなった。

 

 けれども今、竜華は思う。

 

 背中を向けているのは、どちらなのだろうか。この距離を埋めようと、真に追いかけなくてはいけないのはどちらなのだろうか。

 

「どうしたん、竜華。ぼーっとして。長旅で疲れたん?」

 

 怜に顔を覗き込まれ、思わず竜華は背中を反らす。

 

「う、ううん。なんでもあらへんよ」

「そう? そんでなー、きょーちゃんの隣に大星淡が引っ越してきた話なんやけど」

「ああ、電話でめっちゃ怒ってたやつ」

 

 話題はまた、別のものへと移り変わってゆく。

 

 しかし、竜華の心は置き去りにされたまま。ただただ怜が繰る言葉に、耳を傾け続けるだけだった。

 

 

 ◇

 

 

 日が傾き始めた頃、隣室の扉が開かれる音がした。すぐさま怜が立ち上がり、竜華が止める間もなく出ていった。

 三十秒後、戻ってきた怜の傍らにあったのは、

 

「須賀くん……」

「お、お久しぶりです、清水谷さん」

 

 おっかなびっくり部屋に入ってくる須賀京太郎の姿だった。怜は彼の腕を引っ張りながら、文句をつける。

 

「なんで直接こっちの部屋に来ーへんかったん」

「その、今日は清水谷さんがいるって聞いてましたから」

「だからこそやん」

「だからこそなんですよ……」

 

 はあ、と深い溜息を吐く京太郎の表情には疲労の色が濃い。まるで一戦交えてきた後かのようだ。竜華は疑問を口にする。

 

「用事で朝から出かけてたみたいやけど、何かあったん?」

「ちょっと色々あって、宥先輩と玄さんたちと一緒に打ったりしてまして。あ、俺すぐに出て行きますんで、今日はお二人でゆっくりして下さい」

 

 ええー、と再び不満気な声を上げたのはもちろん怜。

 

「宥さんたちと一緒にいたんなら、今度はうちらの番やん。大体そんな話聞いてへんし、何やってたん?」

「ノーコメントです」

「そんな生意気なきょーちゃんは帰さへんで」

 

 京太郎の体にまとわりつく怜は頑固で、押し問答を繰り返した後、結局折れたのは京太郎だった。既に何度か似たような光景を経験している竜華は、微笑ましく二人のやり取りを見守っていた。

 

「晩ご飯作ったら帰りますからね!」

「やったー」

「ごめんなー、須賀くん」

「いえ、いつものことですから……」

 

 ただ、やけに京太郎が距離をとってくるのが気になった。竜華は首を傾げながらも、深く追求する機会に恵まれなかった。

 結局、怜の押しにより京太郎も一緒に夕食も摂ることになったのは言うまでもない。

 お酒の入った怜はさらに京太郎に絡み、彼を戸惑わせた。何だかんだ言い訳していたが、何も進展がないことを気にしているようだと竜華は察する。

 

 それもあまり長く持たず、怜は船を漕ぎ始める。お酒慣れしていないのに、ペースを上げすぎたようだ。ベッドに寝転がせると、彼女はすぐに寝息を立て始めた。

 

「そろそろ俺はお暇しますね」

「あ、もう行くん? なんか今日はやけに急いでるみたいやけど」

 

 何気ない質問のつもりだったが、京太郎はバツが悪そうに頬を掻いて、

 

「すみません、清水谷さんがどうこうってわけじゃないんですけど」

「いやいや、うちはええけどあんまり怜に冷たくせんといてなー。これで結構寂しがり屋なとこあるし」

「あー……はい。気を付けます」

 

 それじゃあ、と京太郎は一礼してから去ろうとする。

 うん、と竜華は頷こうとして、

 

「――須賀くん」

 

 思わず彼を、呼び止めていた。

 

「はい? どうかしました?」

「あー、えっとな」

 

 竜華は一度、言葉を濁す。二人は沈黙し、室内に響くのは怜の寝息だけ。京太郎は、首だけ振り向いて竜華の発言を待っていた。

 

「……あの日のこと、覚えとる?」

「あの日って――」

 

 京太郎は眉をひそめ、僅かの間逡巡し、

 

「……もしかして、あの日のことですか?」

「うん、あの日のこと」

 

 噛み締めるように、竜華は頷く。

 そう、二年前のあの日のこと。

 清水谷竜華が、須賀京太郎に敗北した日のこと。

 

「なぁ、須賀くん」

 

 訊ねる声は、静かに震え。

 清水谷竜華の、苦い記憶を刺激する。今更それを確認したところで何になるというのか。彼女自身、分かっていなかった。

 

 それでも彼女は問いかける。問いかけざるを、得なかった。

 

 

「あの日君は、何て言ってうちに挑んできたんやっけ――」

 

 

 




次回:9-2 ミステイクファーストラブ


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9-2 ミステイクファーストラブ

 親友たる園城寺怜には、もう牌を握って欲しくなかった。

 

 高校最後のインターハイが終わった後――彼女が人生の岐路に立たされたとき、清水谷竜華は心の底からそう思った。怜の力が、彼女自身の命を削っているのは誰の目にも明らかだった。これ以上無理な闘牌を続けるよりも、平穏な日々を送って欲しい。竜華の望みはただそれだけだった。

 

 だが、怜は平穏な生活を望まなかった。彼女が闘病生活に入るのを尻目に、竜華は大学に進学した。口では怜を応援しつつも、竜華はそれがたまらなく嫌だった。ずっと一緒にいたのに、いつの間にかはっきりと道が別たれてしまった。

 

 加えて言えば、当初怜の治療は順調ではなかった。一回目の手術も大した成果は得られず、明らかに怜は落胆していた。竜華が大学一年の夏、怜が療養のため長野に向かったときも、その表情は憂いを含んでいた。――怜自身も自らの選択を悩んでいるのだと、竜華は察した。

 

 ――怜が長野から戻ってきたら、もう一度話し合おう。

 

 きっと怜なら、自分の気持ちを理解してくれる。そして、また隣を歩いて行ける。その確信が、竜華にはあった。

 

 しかしながら。

 長野から戻ってきた怜の表情は、それはもう、晴れやかだった。確かにあった迷いが、綺麗さっぱり消えていた。

 

 見舞いに訪れた病室で、まず目に付いたのは狐のお面。あまり趣味が良いとは言えないそれを、しかし怜は愛おしそうに抱えてきた。

 

「……長野で」

「んー?」

「長野で、何があったん?」

 

 竜華の質問に、怜は微かに笑う。

 

「色々ありすぎて、何から話してええんか悩むわ」

「そんなに……色々あったん?」

「うん。行って良かったわ。ほんまに、行って良かった」

 

 普段青白い肌に、うっすらと赤味が差している。普段なら調子が良さそうと安心するところだが、どういうわけかとてもそんな気分になれなかった。

 

「竜華」

 

 目線を合わせられ、竜華は鼻白む。呼びかけられても、何も言えなかった。

 

「ほんまは私、まだ手術を受けるか悩んでたんや。完治できるかもわからへんし、手術にリスクがないわけとちゃうし。そうまでして麻雀に拘る理由があるんかって、ずっと考えとった」

「怜……」

「でも、あった。ううん、気付かされた。私には、まだ麻雀に拘る理由があったって。戦う理由があったって」

 

 胸の奥が、ざわめく。どうにも落ち着かなかった。ちりちりと、毛先が焦げるような感覚があった。

 

「せやから、もうちょっと頑張ってみるわ」

「……そ、か」

 

 怜の瞳が、強い決意を雄弁と語っていて。

 どれだけ自分が望んでも、怜の気持ちが変わることはない。その事実を、竜華は正しく理解していた。ここで信念を翻すようなら、高校時代で怜は麻雀を辞めていただろう。だからもう、竜華はこれ以上引き止めようとは思わなかった。

 

 だが一方で、どうしても譲れないものもあった。

 

「色々だなんて言って誤魔化さんと、ちゃんと教えて」

「え?」

「長野に行く前は、怜、もう一回手術を受けるかどうか悩んでたやろ」

 

 だから、問いたださねばならない。

 

「長野で、何があったん?」

「……何っていうよりも、誰っちゅうほうが正しいな」

 

 悪戯っぽく笑い、怜は答える。

 

「宮永さんの妹と、打ってきてん」

「妹って……宮永咲?」

「そう。めっちゃ強かったわ。でもあの子と打って、自分の目標がはっきり見えたんや」

 

 嘘を言っているようには、見えなかった。真実宮永咲と長野で出会い、共に卓を囲んだのであろう。

 けれども、彼女はまだ全てを語り終えたわけではなく。

 

「そんでな」

 

 肌の赤味が、一層増す。体力を取り戻している兆候――とは、どうしても竜華には思えなかった。

 

「おもろい男の子と、会ってん」

 

 ――ああ。

 それだけで、竜華は察してしまった。

 

 その男の子が、怜の向かう先を決めてしまったのだと。自分と怜の間に隔てるものを、生みだしてしまったのだと。

 

「……竜華?」

 

 黙りこくっていると、怜が心配そうに顔を覗き込んできた。

 

「どないしたん? なんか暗いで、竜華」

 

 いつもの竜華なら、笑って誤魔化すところであったろう。

 だが、今の彼女はそういうわけにもいかず。

 

「……認めへん」

「は、え?」

「うちはそんな男、認めへんからなー!」

 

 燃え上がるのは、敵愾心。

 どんな男だろうと、怜を誑かすなんて許せない。かつてない激情に身を任せるまま、竜華は病室を飛び出した。

 

 背後から聞こえてくる怜の制止の声も、通じず。

 

 ――どこの馬の骨か知らへんけど。

 ――その顔を拝んだら、この掌で張り倒してやるっ。

 

 竜華の決意は、限りなく固かった。

 

 

 ◇

 

 

 その顔を見上げながら、ほうっと竜華は甘い息を吐いた。長い時間湯船に浸かった後みたいに、体が火照っている気がする。実際は雨に打たれて服が肌に貼り付き、気持ち悪さしか覚えないのだけれど――今の竜華は、意に介さなかった。

 

 彼女の掌が、自身の胸元へと伸びる。とくん、とくん、と心臓が高鳴っていた。

 

「これ、どうぞ」

 

 目を逸らしながら、彼は渇いたタオルを差し出してくる。竜華は何も言えずに、それを受け取った。視線は目の前の少年に注いだまま。

 

 ――なんなん、これ。

 

 疲れからだろうか。頭は上手く働かず、どうしてもぼうっとしてしまう。

 

 馴染みのない土地。

 偶然の出会い。

 優しく引かれた手。

 

 何もかもが、竜華をのぼせ上がらせていた。

 

 

 

 

 ――怜の病室を一方的に飛び出して、ろくな準備もせずに竜華は新幹線に飛び乗った。

 目的地は、当然長野。

 新幹線の中で気持ちを昂ぶらせ、電車を乗り継ぎ、辿り着くは清澄。怜が療養していた土地である。

 

 おそらくはこの周囲に住んでいるはず、と踏んで来たのだ。後は特徴を頼りに探せば――

 

「……あれ?」

 

 駅前でぽつんと一人佇みながら、竜華は首を傾げた。

 

 そう言えば、肝心の男の情報を全く怜から聞いていなかった。名前も知らない。外見も知らない。体格も知らない。肌の色も、髪の色も、性格も知らない。長野自体も、生まれて初めて訪れる。何もかも知らないことだらけの状況で、特定の人間を見つけるのは至難の業であろう。

 

「どないしよ……」

 

 怜のこととなると、途端に冷静さを失ってしまうのは悪い癖だと竜華は自覚していたが、後悔してももう遅い。

 

 今から怜に連絡して「今からあんたの惚れた男をシメに行くからどんな奴か教えて」なんて訊ねるわけにもいかず、竜華はしばらく二の足を踏んだ。

 

 しかしながら、既に長野に着いてしまった後。今更引き返す気にはなれない。

 ならば、ここは前進あるのみだ。

 

 たった一つの手がかりは、怜が口にしていた「宮永咲」の名前だ。怜の決意のきっかけなったというのなら、例の男と何らかの関連があってもおかしくはない。

 

「目指すんなら、清澄高校やな」

 

 目的地を決め、竜華は第一歩を踏み出した。

 残暑厳しいこの時期だが、大阪と比べれば過ごしやすい気候だ。歩いても苦にならない。目的が目的なだけに鼻歌交じりとはいかないが、竜華の足取りは軽くなっていた。

 

 地図を片手に、川沿いの道を進む。民家はほとんど見当たらず、文字通り田舎であった。何だかんだ言って都会育ちでお嬢様の竜華にとっては、物珍しい光景だ。気が付けば地図を鞄にしまい込み、森と河川の風景に見入っていた。

 

 ――ええとこ、やな。

 

 怜が気に入ったというのも頷ける。空気も清浄で、健康にも良さそうだ。今回のような目的でなく、旅行で訪れたかったと思えるほどに、竜華はこの地を気に入った。

 

 ここまでは、順調だった。

 彼女の受難は、次の瞬間訪れた。

 

 若い女性の一人旅としては、竜華の危機感は欠けていたと言わざるを得ない。向かい側から、一台のバイクが走ってきた。彼女の意識は依然長野の風景と、まだ見ぬ男に傾けられていた。鞄紐を握る手に込められた力は、限りなく緩められていて。

 

「えっ?」

 

 一陣の風が、竜華の脇を過ぎ去った。同時に、指先から重みが失われる。振り返れば、バイクの姿が凄まじい速度で小さくなっていく。運転手の左手にあるのは――竜華の、鞄。

 

「ひ……ひったくりー!」

 

 痛烈な竜華の悲鳴に、反応する者はいない。ここが大阪ならば応じてくれる人間もいただろうが、そもそも人影一つ見当たらないのだ。運動神経には自信があるが、二輪車に追いつけるわけもない。

 

 携帯電話も財布も地図も、なにもかも、あの鞄に詰めていた。一瞬で、竜華は全てを失ってしまった。

 

「嘘ぉ……」

 

 彼女の呟きに、やはり応える者はいない。指先が震え出す。心細い、なんて一言で済ませられるほどの不安ではなかった。突然の苦難に、竜華は冷静になろうと努めるがうまく体が動いてくれない。

 

「け、警察行かな……」

 

 おろおろと辺りを見回すが、建屋一つ見当たらなかった。交番はおろか、駆け込む家すら望めない。

 さらに、竜華を追い詰める要素がまた一つ。

 

「あ……」

 

 冷たい雫が、彼女の頬を打った。――雨が、降り始めた。山の天気は変わりやすいと言うが、またもや未経験の事態に竜華は慌てふためく。だが、折りたたみ傘も鞄の中だった。

 

 雨足は信じられないほど一気に強まり、少し先も見通せなくなってしまう。とにかく駅前に戻ろうとするが、目印一つ見当たらない。土地勘のない竜華にとっては、辛い状況であった。

 

 大学生になってまで泣くわけにはいかない、と自分を奮い立たせようとするが、心に点った熱は急速に冷えていく。例の男を見つけ出す、という目的すらも見失いそうになる。

 さらには、

 

「わっ」

 

 足を滑らせて、転んでしまう。膝を擦りむき、血が滲み出た上に容赦なく雨粒が落ちてくる。ひりひりとする痛みが、一層竜華の心を責め立てる。

 

 立ち上がる気力さえ、失い。

 竜華はその場にへたり込む。

 

 ――あほみたいや。

 

 独りよがりに飛び出した結果が、これだ。情けなさしか出てこない。長い髪を、雨が滴り落ちる。

 

 いつまでそうしていただろう。

 ふと、頭上の雨が途切れた。

 

「あの」

 

 かけられたのは、躊躇いがちの声。ゆっくりと、竜華は顔を上げた。

 

「大丈夫……ですか?」

 

 そこに立っていたのは、黒傘を差した一人の少年。大きな掌が、差し出される。吸い込まれるように、竜華の右手がそこへ伸びていった。彷徨う指先が触れ合うと、どきりと胸が強く跳ねた。

 

 気遣いを多分に含んだ力をもって、竜華の体は引き上げられた。少年は学生服姿で、竜華よりも幾分か年下のようだった。

 

 交わす視線が、竜華の冷え切っていた心を暖める。灰色だった世界が、一瞬で色づいていく。

 

 ――それが、清水谷竜華と須賀京太郎の出会いだった。

 

 

 ◇

 

 

 竜華が一通り事情をすると、偶然出会った少年――京太郎は、近くにあった自宅に案内してくれた。タオルだけでなくシャワー、着替えまで世話をしてくれた彼には感謝しかない。さらには警察に連絡をとり、ともに事情聴取まで受けてくれた。

 

「ほんま何から何までありがとな、須賀くん」

「いえいえ、困ったときはお互い様ですよ」

 

 そして今も、竜華は彼の家にお邪魔している。すっかり日は落ちてしまい、今からでは到底大阪に帰れそうにもなかった上、宿の手配をしていなかった竜華は行く当てがなかった。金銭的にも無一文で、彼女にとれる選択肢はなく――「よければうちで泊まって行って」という京太郎と彼の家族の言葉に甘えることしたのだ。家族への連絡、携帯電話会社や銀行への通知なども全てお世話になってしまった。須賀家には、一生頭が上がらないだろう。

 

「それにしても、一人で大阪から長野までなんて大変ですね。よっぽど大事な用事だったんですね。――はい、どうぞ」

「あ、ありがと」

 

 熱い珈琲の入ったカップを受け取り、竜華は体を縮こませる。テーブルを挟んで向かいに座る京太郎の顔を、真正面から見ることができない。カップに視線を落としたまま、竜華は言い訳するように言った。

 

「大事な用事っちゅうほどのものやないんやけど。会わなあかん男がおって」

「男」

 

 京太郎が、興味深そうに訊ねてくる。

 

「もしかして、好きな人ですか? 遠距離恋愛の恋人に会いに来たとか」

「ちゃ、違う!」

 

 否定の声は大きく、京太郎はおろか発した竜華自身もびっくりした。だが、到底看過できぬ発言だった。

 

「そいつはうちの親友を騙しとる男なんや。めーっちゃ悪い奴なんやで――」

 

 実際に会ったこともない相手だが、竜華は必要以上に例の男を悪し様に罵った。怜の件で気に入らないのはもちろんだが、京太郎に勘違いされるのが嫌だった。

 

「……聞けば聞くほど、悪い人間ですね」

 

 竜華の説明を聞き終えた京太郎は、顔をしかめた。ほっと、竜華は胸を撫で下ろす。

 

「どこのどいつかまでは分かってないんですよね。目星とか、ついてるんですか?」

「たぶん、この辺に住んどるんやと思うけど……もしかしたら、清澄高校の生徒かも知れんってうちは思とるねん」

「清澄って、うちの高校じゃないですか」

「ほんまにっ?」

 

 あるいは、と期待していたが、まさかの展開に竜華は身を乗り出す。京太郎は竜華がお願いするよりも早く、

 

「そいつを探すの、俺に手伝わせてくれませんか。そんな女の子を騙して弄ぶような男、俺も許せません。このままとんぼ帰りするなんて、清水谷さんも悔しいでしょう」

「須賀くん……!」

 

 瞳を潤ませ、竜華は京太郎の手を掴み取る。

 

「うち、迷惑ばっかりかけてんのに……」

「い、良いんですよ。さっきも言ったでしょ、困ったときはお互い様です」

 

 恥ずかしげに顔を赤らめて、京太郎は目を逸らす。はっと、竜華は手を離して彼と距離を取る。借り受けた寝間着はサイズが合っておらず、また服地も薄く、彼が目のやり場に困ったのは竜華にもすぐに察せられた。

 

 普段であれば、多少なりとも嫌悪感を覚えるところであったが――不思議と、竜華は悪い気はしなかった。

 

「――ありがとな、須賀くん」

 

 改めて、竜華はお礼を言う。目を細めて、満面の笑みを浮かべる彼女に影はなく、京太郎の視線を釘付けにした。

 

「いえ、まだ何もしてませんから。明日、頑張りましょう」

「ふふ。そうやな」

 

 零れる微笑みは、とても無垢だった。

 ――この時点では、二人とも重大な勘違いに気付いていなかった

 

 

 

 翌朝、朝早くに目覚めた竜華はどうにも落ち着かず、彼の匂いのするベッドを抜け出した。勝手の知らない他人の家、おそるおそる廊下を進む。

 

 昨日夜遅くまでお喋りしたリビングに入ると、まず目に飛び込んできたのはソファの上に寝転ぶ京太郎だった。むしろ、彼以外目に入らない状態だったと言えよう。

 

 ソファの傍まで近寄り、竜華は京太郎の顔を上から覗き込む。彼は静かな寝息を立てており、これだけ近づいても起きる気配はなかった。

 

 竜華は雀力と容姿両面から麻雀雑誌に取り上げられることが多く、高校時代から男子に言い寄られるのも珍しい話ではなかった。その中には、誰もが羨むような容貌の男性がいたことも間違いない。

 

 しかし竜華が良いな、と思った男性は一人としていなかった。怜しか見えていなかったというのが最大の理由だろうが――しかし、今は違う。

 

 一目惚れ、なんて単語なんて創作の世界の中だけのものと竜華は思っていた。

 

 ――せやけど。

 

 この気持ちが「そう」だと言うのなら、有り得るのかも知れない。年下の子供に何をバカな、と一笑に付すのは簡単だったが、彼の顔を見ていると悩むことこそバカらしく思えてくる。

 

 自然と、竜華の腰は屈んでいた。考えての行動ではない。彼の頬に触れないよう、髪をかき上げる。

 

 理性は止めろ、と叫んでいても。

 体は言うことを聞きはしない。

 

「――っ!」

 

 唇と唇が、微かに触れてしまった。我に返った竜華は、がばりと顔を上げる。心臓が張り裂けそうなほど脈打っていた。

 

 なんとなく、直前で相手が目覚めるのがこの手のパターンと思い込んでいた。様々な意味で予想外の事態に、竜華は自分の唇に指先を這わせながら戸惑いを隠せない。赤面したまま、彼女は再び京太郎の顔を覗き込んだ。

 

 もう充分に反省していたはずが――竜華の口は、彼に引き寄せられていく。

 

 今度は、しっかりと。

 彼女はその唇を、押し当てていた。

 

 

 

 それから三十分後、須賀家の面々が起床し始め。

 

 朝食では、まともに彼と顔を合わせられなかった。ここのところ後悔してばかりだと竜華は羞恥心に見舞われたが、京太郎とならと思えばそれも悪くないように思えた。重症だという自覚は、当然あった。

 

「それじゃ、行きましょうか」

「須賀くんは授業あるんとちゃう? 今からでええん?」

「そうですけど――放課後まで待ってたら、捕まえられる奴も捕まえられないかも知れませんし。もしも例の野郎が見つかったとき、すぐに連絡つけるよう清水谷さんにも学校来て貰ったほうが都合良いと思います」

「うちとしては有り難い提案やけど、部外者が入ってええんかな?」

「俺のとこの部室で待ってて貰えれば、問題ないでしょう。見回りとか来ないようになってますし」

「ならお言葉に甘えるわ」

 

 大学生になって、母校でもない高校に忍び込むことになるとは思ってもみなかった。少しだけわくわくするのは、共犯者が彼だからだろうか。

 

 清澄高校に入るまでは、特に問題はなかった。京太郎が上手く先導してくれたおかげで、他の生徒の目は避けられた。

 

「ここがうちの部室です」

 

 京太郎に通されたのは、校舎の奥も奥。

 

「そういえば、須賀くんの部活ってなんなん?」

「あれ、言ってませんでしたっけ?」

 

 部室の扉を開けながら、京太郎は竜華の質問に答える。

 

「――麻雀部です」

 

 え、という竜華の困惑する声は、扉を押す音にかき消された。

 部室の中央には、確かに自動卓が鎮座しており。ここが昨年度インターハイ団体王者、清澄高校麻雀部の部室であることは確かだったようだ。

 

 望外の喜びである。ここで待っていれば、手がかりの一人、宮永咲に会えるのは間違いない。

 

「適当に掛けといて下さい。ベッドも使ってくれて良いですよ。珈琲と紅茶も飲んでくれて構いませんから」

「う、うん」

 

 言われるがまま、竜華は近くにあった椅子を引き寄せた。京太郎は――純粋に雀士としての自分を知らなかったようだと、竜華は理解する。

 

 ふと、机に並べられた麻雀雑誌の存在に竜華は気付いた。数年前までのバックナンバーが揃っている。記憶を辿り、その内の一冊を竜華は抜き取った。

 

「それじゃ、俺一回教室行きますから――」

 

 京太郎の声が、途切れる。それから彼は、「あっ」と竜華の手にある雑誌を指差した。

 恥ずかしげに、竜華ははにかむ。その表紙を飾るのは、高校時代の竜華のグラビアだった。

 

「清水谷さんって――ああ、千里山の去年の大将っ?」

「それなりに有名人のつもりやったけど、自惚れてたんかな。同世代の高校生雀士に顔覚えられてないんは、ちょっとショックやわ」

 

 気付いてくれた嬉しさと、麻雀という共通点に喜びを覚える自分を誤魔化すように、竜華は意地悪く皮肉った。

 

「いえ、その、まさかこんなところで会えるとは思ってもみなくて。去年のインハイも、ブロック違いましたし」

「冗談やよ、男子と女子の差もあるやん」

 

 だから気にせんでええよ、と微笑みかけようとして、

 

 

「千里山ってことは、怜さんと同じ学校だったんですよね!」

 

 

 ぴたりと、竜華の全身が硬直した。

 

 ――今、彼は何と言った?

 

 怜の名前。

 彼女が長野で知り合った男。

 きっかけとなった宮永咲。

 麻雀。

 

 一方の京太郎も、何か重要なことに気が付いたのか動きを止めていた。彼の額から、冷たい汗が流れ落ちる。

 

「まさか」

「あの、清水谷さん」

「あんたが」

「ちょ、待って」

「あんたが怜を誑かしたんかーッ!」

 

 絶叫が、部室に響き渡り。

 清水谷竜華の感情は、一瞬にして沸騰した。京太郎に、弁解の余地は与えられなかった。

 

 

 




次回:9-3 風にまみえる


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9-3 風にまみえる

 長野旅行の顛末を、最後まで竜華は怜に伝えられなかった。伝えられるはずがない。あの二日間の、あの夜の記憶は固く封じられた。彼、須賀京太郎とのやり取りなど、もっての外。二度と顔を見たくなかった。――少なくとも、当時は。

 

 実際は、次に彼と再会するまで間もなかった。

 

 怜の手術の前日、京太郎は大阪に現れた。もちろん、怜のお見舞いのために。しかしそれを察知した竜華は、彼を門前払いにしようとした。

 

「納得いきません」

 

 京太郎の抗議は、至極当然のものだった。いくら親友と言えど、彼と怜の関係性に本来口を出す権利などあるはずがない。僅かな後ろめたさを覚えた竜華は、一つの提案をした。

 

「あんたも雀士なら――麻雀で勝負や。うちに、麻雀で勝てたら会わせたる」

 

 京太郎はそれに応じ、そして竜華は彼を叩きのめした。高校ではトップクラス、大学に入学してすぐ一軍入りした竜華と無名の男子では話にならなかった。

 心が痛まないと言えば、嘘だった。一度は彼に対して抱いた淡い想いを、全て飲み込めるほど大人ではなかった。だが、対局を終えた頃には竜華はすっきりしていた。この程度か、と彼に対する失望による見切りもあった。

 

 ――しかしながら。

 

 怜の手術が終わった後、彼はもう一度竜華の前に現れた。

 

「俺と、もう一度勝負して下さい」

 

 最初に竜華が勝負をふっかけたときと、明らかに雰囲気が違った。――覚悟。その重みは、竜華を圧倒させた。

 

「そんなに、怜に会いたいん?」

「それもあります。でも」

 

 雨の中、ぼろぼろになった姿で、彼は言った。

 

「――――」

 

 

 ◇

 

 

 インカレ二日目、竜華はホテルの自室でベッドに寝転がっていた。

 竜華属する西阪大学女子麻雀部は、団体戦初日の一回戦を危なげなく突破していた。大将を務めた竜華の出番が回ってくる頃には、大差がついてほぼ終戦状態。二回の半荘を竜華は守り通した。

 

 しかし、「きっちりと」とはいかなかった。

 

 不用意な振り込みや、防げたはずの他家の和了を止められなかった。誰かに指摘されるまでもなく、精彩を欠いていたのを竜華は自覚していた。

 

 ごろり、とベッドの上で竜華は寝返りを打つ。溜息が出た。

 次の試合まで中二日、今日は全体ミーティングのみという軽いスケジュール設定だった。

 

「調子の悪い日くらいありますよー」

「玄ちゃーん」

 

 同室の後輩、松実玄に慰められて竜華は彼女の太股に縋り付く。玄はよしよし、と竜華の頭を撫でた。先輩と後輩の関係性としては逆転しているが、二人にとっては特段珍しい姿ではない。怜を甘やかしてきた反動なのか、ここのところ竜華は彼女に依存していた。一方の玄も、竜華を実姉代わりに見ている。

 

「でも、流石に次の試合までにはなんとかせなあかんよなぁ」

「何かきっかけでもあったんですか?」

「きっかけ……かぁ」

 

 問われ、竜華は天井を見上げる。

 本当のところを言えば、分かっている。――思い出してしまったのだ。ここのところはずっと、忘れていたのに。もう、振り返ることはないと思っていたのに。

 

 ほんの少し、目を離した隙に変わっていた親友を目の当たりにして。

 彼女と共に歩み続ける京太郎と話して。

 二人と大きな距離が生まれてしまった、と感じるのだ。

 

 怜から言わせれば、先を進んでいるのは自分のほうなのだろう。傍目に見てもそうなのだろう。だが、真に足踏みをしているのはどちらなのか――竜華にとっては、答えは明白だった。

 

「竜華さん竜華さん」

「どうしたん?」

「私、お昼からおねーちゃんとお散歩に行く予定なんですけど、竜華さんはどうしますか? ご一緒します?」

「むー……」

 

 竜華は僅かな間逡巡してから、

 

「玄ちゃんところのデートを邪魔するんもあれやし、うちはネト麻で調整するわ」

「園城寺さんとは会わないんですか?」

「……それも考えたんやけど、不甲斐ないまま遊ぶのもどうかと思て」

「そんなに深刻に考えなくても良いと思いますけど」

 

 竜華の髪を撫でながら、玄は「それに」と付け足す。

 

「気分転換は大事ですよ」

「……ん」

 

 玄の太股から頭を上げ、竜華はぱん、と自らの頬を叩いた。

 

「うち、今から怜と会ってくるわ」

「分かりました!」

 

 敬礼する玄を尻目に、竜華は出立の準備を始める。それから携帯で怜にメッセージを飛ばしておく。荷物の関係上、あまり私服を持ち込めていないのが恨めしい。

 

「それにしても」

 

 ふと、このホテルから既に出て行った部員たちのことを竜華は思い出す。

 

「やえたちは麻雀仮面とやらにご執心みたいやな」

 

 巷で噂の麻雀仮面。大阪で猛威を振るい、多くの大学生雀士を屠ったという。

 その麻雀仮面が初めて現れたというこの東京の地、さらには全国の大学生雀士が集まるインカレの時期――ここにきて、何かしらの動きがあると言う噂がまことしやかに流れているのだ。やえたちはその噂を信じ、今日も朝から雀荘へ繰り出していた。

 

 もっとも麻雀仮面と直接顔を合わせていない竜華は、さして興味もなかった。相当の打ち手、という評判には惹かれるが。

 

「うちはちょっと胡散臭すぎて近寄る気せぇへんわ」

「そう――ですね」

 

 玄の相槌は、どこか曖昧なものだった。はて、と竜華は首を傾げる。大阪に麻雀仮面が現れたという一報が入ったとき、詳しく話を聞いていた部員の一人が玄である。竜華は彼女が麻雀仮面に強い興味を抱いていると思っていたが、この反応を見る限りそうでもないようだった。思えば麻雀仮面に拘るのであれば、やえたちに追随していただろう。

 

「ほんとは玄ちゃんも麻雀仮面、探したかったん? もしかしてうちのせいで――」

「いえいえいえ!」

 

 ぶんぶんと勢いよく、玄は横に振った。

 

「全然! 麻雀仮面さんなんてどうでもいいのです! さっきも言った通りおねーちゃんとゆっくりするので!」

「そ、そう……」

 

 玄にも、何かしら含むところはあるのだろう。竜華の目は誤魔化せない。しかしここまで力強く否定されると、流石に追求できなかった。

 

「それじゃ、行ってくるわー」

「お気をつけて!」

 

 玄に見送られて、竜華はホテルを出発する。丁度そのタイミングで怜からの返信があった。丁度近くの駅に来ているから、そこで合流しようという提案だった。

 高校時代からこちら、東京を訪れる機会は多い。その大半は麻雀絡みなのだが、いずれにせよ竜華はそれなりの土地勘を持っている。集合場所までは難なく向かえたが、夏の暑さと人混みにはうんざりさせられた。

 

 それでも怜の姿を見つければ、元気になる――そう彼女は思っていた。

 

 しかし。

 

 指定された駅前の広場で待ち受けていたのは、怜と、それから――京太郎だった。駆け寄ろうとした竜華の足が、ぴたりと止まる。

 

 別に、あの二人が一緒にいても不思議ではない。同じ大学の麻雀部、お隣同士、少し特別な関係。二人が出会ってからまだ二年未満。それなのに談笑する姿は自然体で、もう何年も連れ添った仲に見えた。それこそ、自分よりも深い付き合いがあるように。

 

「あ、竜華っ!」

 

 声をかけるよりも早く、怜に気付かれてしまった。昔よりもずっと明るく、大きな声で呼びかけられる。元気に駆け寄ってくる姿も、ほとんど見覚えがなかった。

 そして、そんな彼女の傍に京太郎は控えている。いつでも何が起こっても、対応できるように。自分の役割が引き継がれたことに、わだかまりはもうない。ただ一抹の寂しさを覚えるのは、どうしようもなかった。

 

 それよりも、今は。

 

 あの長野の出来事を思い出したせいか、彼の顔を直視できなかった。捨て去ったはずの、終わらせたはずの過去。

 

「竜華? どうしたん、ぼーっとして」

「わっ」

 

 いつの間にか、怜に顔を覗き込まれていた。竜華は思わず後退ってしまう。

 

「び、びっくりさせんといて」

「声かけたやん。ほんまどうしたん?」

「どうしたって言われても……」

「一回戦の疲れが残ってるんですか?」

 

 割り込んで訊ねてきたのは、京太郎だった。うっと竜華は声を詰まらせ、視線を足元に落とす。しかし心配してくれる彼に申し訳なく、次の瞬間には笑顔を作っていた。雑誌の撮影での経験が生きた。

 

「疲れなんて全然! でも心配してくれてありがとなー、須賀くん」

「ああいえ、だったら良いんですけど……」

 

 完全には納得していない様子であるが、それで京太郎は引き下がる。ほっと一息つく竜華であったが――親友の目は誤魔化せなかった。

 

「りゅーか」

「な、なんなん真面目な顔して」

「何を悩んどるんか知らんけど、そんなんで勝てるほどインカレは甘いん?」

「――……」

 

 怜の指摘が、容赦なく竜華の胸に突き刺さる。反論はいくつも思い浮かぶが、すぐに泡となって消えていった。

 結局出てきたのは溜息と、苦笑い。

 

「怜には敵わんな」

「で、ほんまどうしたん? 来年はライバルさんなんやから、相談乗れるんは今の内だけやで」

「相談……って言うよりも、お願いがあるんや」

「お願い? ……竜華?」

 

 疑問符を浮かべる怜をよそに、竜華は京太郎に向き直る。彼は怪訝そうに眉を潜めていた。

 胸に渦巻く靄の正体。本当は、ずっと前から気付いていた。知っていた。あのときの忘れ物を、取り戻さなくてはならない。

 

「須賀くん」

「――、はい」

 

 竜華の眼差しに、気圧される様子を京太郎は見せた。だが、それも僅かな間であった。竜華の真剣な態度は、彼の姿勢を正させる。怜は二人の顔を見比べるが、ただならぬ様子に口を挟むまでには至らなかった。

 

「どうしても君に、頼みたいことがあるんや」

「俺に、ですか?」

「そう、君に」

 

 熱っぽい竜華の視線に、怜は動揺する。だが、今更止められる気配はなかった。竜華が、京太郎の手を取っても。

 

「し、清水谷さんっ?」

「うちと、うちと――」

 

 ぎゅっと両手で彼の手を包み込み、

 

「うちと、麻雀打ってくれへんっ?」

「え?」

「は?」

 

 望みを口にしたのだった。

 

 

 ◇

 

 

 唐突な竜華のお願いに、しかも竜華が動機を語る前に、京太郎は即応してくれた。怜も賛同の意を示し、三人は雀荘に向かうことにした。

 

「ここからですと、うちの大学行くより近場で広いところありますからね」

「場所代はうちが持つから」

「そんなん気にせんでええのに」

「この中やったらうちが一番先輩やん」

 

 くすりと竜華は笑い、怜の頭を撫でる。

 

「怜が後輩って言うんも最近慣れてきた気がするわ」

「どっちかと言うとこれ子供扱いやん」

「前からそんな感じやったやろ」

 

 軽口を叩きつつ、竜華は雀荘に続く階段を昇る。

 前を行く京太郎が、先に扉を押し開く。そのまま彼は雀荘の中へと一歩足を踏み入れて――ぴたりと止まった。

 

「きょーちゃん?」

「須賀くん?」

 

 竜華と怜は揃って首を傾げ、彼の背中から雀荘を覗き込む。

 

 ――その光景に、竜華は目を疑った。

 

 椅子に座ったまま項垂れる多数の人間たち。皆一様に表情は暗く、覇気がない。死屍累々、そんな単語が竜華の脳裏に過ぎった。雀荘の店員たちも、その顔を歪ませている。彼らの視線の先、そこに立つのは一人の女性。

 

 彼女は、明らかに場違いな格好をしていた。

 

 薄紅色の和装の上に、白いエプロン。腰では大きな帯が存在を主張している。まるで大正時代の給仕服のよう。室内であるのに、彼女の手には和傘の柄が握られていた。

 

 何よりも、おかしいのは――

 

 顔をすっぽり覆い隠した、ひょっとこのお面。一方で、長く白銀に輝く髪は隠し切れていない。何とも珍妙な姿、としか評せなかった。

 だが、この場を支配しているのは間違いなく彼女。圧倒的な存在感のプレッシャー。思わず竜華は身構えて、

 

「っ?」

 

 風が、吹き荒んだ。

 一歩、京太郎が前に出て竜華と怜を庇う。大きな背中に視線を遮られるが、すぐに風は止んでくれた。

 

「……なんなん?」

 

 ひょこりと顔を出し、竜華は改めてひょっとこ面と向かい合う。幻覚でも何でもなかった。給仕服の謎の女は、確かにここにいる。

 

「なぁ、怜? ……怜?」

 

 竜華は親友に呼びかけるが、返事はなかった。思わず隣を振り向く。

 怜は、思い切り顔をしかめてひょっとこ面を睨み付けていた。京太郎も困惑気味の視線を送っている。彼は、重々しく口を開いた。

 

「麻雀仮面……っ?」

 

 その名前に、竜華ははっとした。やえたちが騒いでいた、麻雀仮面。――まさか、この女性が。しかし、明らかにこの雀荘の状況を作り上げたのは彼女だ。これだけの数の雀士を打ちのめしたのだ。

 

「はい」

 

 ひょっとこ面はたやすく頷き、まず京太郎、怜、そして最後に竜華へと面を向けた。

 

「麻雀仮面は、私です」

 

 強い。竜華の雀士としての直感が、告げている。

 

「丁度今、お相手してくれる人を探していたんです。――こちらの皆様方は、既にお疲れのようで」

 

 麻雀仮面は雀荘内を見回してから、竜華たちに語りかける。再び風が、渦巻いた。握りしめた手には、既に汗が滲んでいた。

 

「一局――いかがですか?」

 

 興味はなかった。やえや大阪の皆がどれだけ騒ぎ立てても、竜華は重い腰を上げようとしなかった。彼女の中で、麻雀仮面の比重は小さかった。

 しかし、それらは全て一撃でひっくり返された。

 

 まず一歩、前に出たのは怜。

 

「ええ度胸や」

 

 無感動な表情に、強い意志を秘めつつ彼女は応じた。

 

「相手させてもらうわ」

 

 次に動いたのは、京太郎だった。彼はちらりと竜華を見遣り、竜華は首肯で答える。――それで別に、構わなかった。

 

「俺も――お願いします」

 

 低い声には、確かな熱が点っていた。

 

「ここで引きたく、ありません」

 

 そして、二人に引っ張られるように、竜華もまた麻雀仮面へと歩み寄った。

 

「邪魔せんといてって言うところやけど、面子足りてなかったんも確かやからな」

 

 吹き荒ぶ風の中で、火花が散った。

 

「勝負や」

 

 ――各地で勃発している大学生雀士対麻雀仮面。

 その一幕が、上がろうとしていた。

 

 




次回:9-4 明日望む者の告白


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9-4 明日望む者の告白

 東帝大学の大型ルーキー、園城寺怜。

 同じく東帝大学のルーキーにしてインハイ経験者、須賀京太郎。

 そして――謎の和装の麻雀仮面。その正体を窺い知ることはできないが、通常から逸脱した実力者なのは間違いない。

 

 いずれにせよ、全員が不足なき相手。油断ならぬ打ち手ばかり。

 

 彼女たちを前にしても、西阪大学のエースとして清水谷竜華は一歩たりとも譲る気はなかった。牌をツモる指先に、自然と力が入る。

 

「ツモ」

 

 だが、心構えだけでは勝利に直結しない。対面に座る怜が、早速リーチ一発ツモを決めて見せた。ちらりと彼女の顔を盗み見るが、特段表情に動きはない。いつもの怜だ。

 

 高校時代、名門千里山のエースとして選ばれたのは竜華ではなく怜だった。ポジションへの適正、戦略戦術、その他の要素を考慮した結果であり、単純に竜華が怜に劣っているというわけではない。そのことは竜華自身よく理解していたが、同時に、やはりエースは怜と確信もしていた。――彼女には、自分にない力と苦境でも折れない心があるのだ。

 

 けれども、兜を脱いだわけでもない。ただでさえ怜には二年というブランクがある。その間に全く打っていなかったわけではない、この春から実戦も積んできただろう――だがそれらは、竜華の濃密な二年間とは比べようもない。

 

 すぅ、と竜華は一つ息を吸い込んだ。

 

 視界が、変貌する。卓に座る三人の動作の癖が、呼吸の乱れが、瞳孔の開閉が、体温の昇降が、手に取るように理解できる。後輩に言わせれば、「最高の状態」。この状態なら、一巡先を視る怜にだって後れを取るつもりはない。

 

 自分から頼んで始めたこの戦い、モチベーションは充分に高い。先般のインカレよりも調子は良いくらいだ。

 その、はずなのに。

 

「ポン」

 

 仕掛けられる、速攻。

 

「もいっこ、ポン」

 

 決して油断していた訳ではない。むしろ、一番意識すべき相手。だと言うのに、竜華は対応できなかった。

 

「――ツモ。1000・2000」

 

 牌を倒したのは、この場唯一人の男子。

 上家に座る、須賀京太郎だった。

 

「はっや……」

 

 思わず竜華は、感嘆の息を漏らしてしまう。そう簡単に追いつける速度ではなかった。かつて戦ったときと比べると、一枚も二枚も上手だ。――思い返すのは、高校時代何度か練習試合で卓を囲んだ末原恭子。今の速攻は、彼女の打ち筋に似通ったものがあった。それも不思議な話ではない。今の彼は、末原恭子その人の後輩なのだから。

 ここからどう攻めるべきか、竜華が建て直しを図ろうとしたとき。

 

「失礼」

 

 ごほん、と咳払いしたのは下家に座る謎の女性――麻雀仮面だった。正体不明の彼女は、胸元に手を置き、一つ大きく息を吸い込む素振りを見せた。何する気ぃや、と竜華が眉を潜めるよりも早く、

 

「んっ」

 

 と、麻雀仮面は声を詰まらせた。それから彼女は首を横に振り、

 

「……仮面が邪魔で、上手く歌えそうにないですね」

 

 残念そうに呟いた。思わず竜華は突っ込んでしまう。

 

「歌いづらかったら仮面脱げばええやん!」

「麻雀仮面はそう簡単に仮面脱いだらあかん。そんなんも知らへんの、竜華」

「なんで怜に怒られなあかんのっ?」

「常識やで、りゅーか」

 

 どことなくぴりぴりしている怜は、ぎろりと麻雀仮面を睨み付ける。こちらはこちらで因縁があるのだろうか――竜華は疑問に思う。もっとも、当の麻雀仮面はどこ吹く風だ。溜息を吐いて、改めて竜華は訊ねた。

 

「というか、そもそもなんで歌わなあかんの?」

「それはナイショですね」

 

 仮面の下で、麻雀仮面が微笑んだ――気がした。彼女から滲み出る雰囲気は、いつかどこかで味わったもの。

 

 ――なんて、とぼけてたらあかんな。

 

 この時点で、竜華は麻雀仮面の正体をおおよそ把握していた。「彼女」を知る者ならば、すぐにぴんと来る。もちろん全て演技でミスリードの可能性はあったが、深読みしても仕方ない。どうしてこんなところでこんな真似をしているのかはさっぱりだったが、気にしている余裕はなかった。竜華は巻き返しを図ろうとする。

 が、次に彼女を阻んだのはその麻雀仮面だった。

 

「ポン」

 

 鳴いたのは、自風牌。そして二巡後には、

 

「ツモです」

 

 あっさりと先手を取られてしまう。警戒は微塵も怠っていない。単純に、速度で上回られた。

 園城寺怜、須賀京太郎、麻雀仮面、三人のプレッシャーが竜華にのし掛かる。インカレの卓でも、これだけの実力者が揃うのは稀であろう。

 

 ――このままやと、あかん。

 

 まだ序盤とは言え、竜華だけが出遅れた形となった。相手が半端な相手ならば、ここからでも逆転のチャンスはいくらでもあろう。しかし彼女たちはいずれも、それを許してくれない打ち手ばかりだ。

 

 この悪い流れを断ち切るため、竜華も最速の和了を目指したい。枕神がそばにいた過去ならば、それも可能だったろう。しかし今、太股にその力は蓄えられていないし、怜自身が対戦相手だ。望むべくもない。

 

「ツモ」

 

 などと考えている内に、再び和了したのは京太郎。これで彼がトップに躍り出る。じわり、と竜華の額に汗が滲み出る。

 

 ――何をやっとるんや、うちは……!

 

 叶わぬ力に夢を見て、今を疎かにする――いや、それも正確ではなかった。

 自分はいつも、過去ばかりを思い返している。後ろを振り返ってばかりいる。それでは、前を向いている者たちに敵うはずがなかった。今もこうして京太郎に対局を申し込んだのは、過去への拘りから。前に進もうとする者との差は、開く一方だ。

 

「竜華」

 

 怜に名前を呼ばれ、はっと竜華は俯かせていた顔を上げる。そこにあったのは、親友の鋭い眼差しだった。彼女はそれ以上何も言わず、じっと竜華と視線を合わせ続けた。

 余計な言葉は要らなかった。それだけで、冷めかけていた熱が点る。拳を握りしめる力が、強くなる。

 

 彼女とはもう、同じ制服に袖を通さない。同じ通学路を歩かない。同じ釜の飯は食べない。

 

 ――ああ、そやけど。

 

 けれども、目指すものは同じだ。それは、変わっていない。変わったのは、歩いて行く道。ずっと昔に、永遠に別たれてしまった。竜華はそれを、苦々しく思ってきた。長々と、そう思ってきたのだ。

 

 ――でも、もう終わりや。

 

 ここで京太郎に勝つために。怜に勝つために。

 

 全力で、今の道を肯定する。怜とは違う道で、怜よりも強くなるために。自分のやり方を、貫き通す。

 

 自分は未来を見ない。未来など見えない。だから――徹底的に、思い出す。この「最高の状態」で見た彼女たちの情報を、全て事細かに振り返る。そうすることで、見えてくるものがある。個々人の、本人さえ気付いていない癖。特定の条件で見られる反応。彼女たちよりも、彼女たちのことを知り尽くす。

 

「リーチ」

 

 リー棒を卓に突き立てるのは怜。その牌をすかさず、

 

「ポン!」

 

 竜華は食い取った。一発ツモを阻止する。自分の目論見を崩されたはずの怜は、しかしにやりと笑った。

 

「リーチ」

「こっちもリーチ」

 

 ここで、麻雀仮面と京太郎が同時に仕掛けてくる。良い手が入っているのか、一歩も引かない姿勢だ。まだテンパイにも至っていない竜華だったが、彼女に焦りはなかった。

 

 ことごとく、竜華は直撃をかわした。当たり牌を掴まされても、回し、それでいて前に進んだ。冴え渡る感性は、圧倒的だった。

 

「――ツモ!」

 

 そして最後には、掴んだ牌を卓に叩き付けていた。会心の一打だった。

 

「まだまだここからやっ」

 

 楽しげに、竜華は宣言した。

 

 

 ◇

 

 

「ツモです」

 

 麻雀仮面が最後に和了り、対局は終了した。

 中盤まで拮抗していた勝負も、終わってみれば、その麻雀仮面が頭一つ分抜けて一位を取っていた。まざまざと地力の差を見せつけられた結果となり、特に怜は不服の様子だった。

 

「残念ながら仮面は脱げませんね」

「ふん」

 

 ばちばちと、麻雀仮面と怜の間で火花が散る。京太郎が二人の間に割って入ろうとし、直前、

 

「貴方、お名前は?」

「え?」

「お名前を、教えて下さい」

 

 麻雀仮面が、京太郎に問いかけてきた。

 

「京太郎です。須賀、京太郎」

「大学生?」

「は、はい、そうですけど」

「何年生?」

「一年です」

「なるほど、なるほど」

 

 何を納得したのだろうか、何度も頷く麻雀仮面に食って掛かるのは、当然怜だ。京太郎を庇うように立ち塞がり、ぴんと麻雀仮面を指差した。

 

「きょーちゃんに何の用や」

「教えて欲しければ、私に勝ってみて下さい」

 

 できるとは、思えませんが――言外に、麻雀仮面がそう言っているのを竜華も感じ取った。怜も同じであっただろう。ぴりり、と雀荘の空気が緊張で強張る。遠目で見守っていた店員たちさえも、唾液を飲み込んだ。

 ふっと、空気を緩めたのは怜だった。

 

「……今日は負けとるから、何も言い返せんな」

 

 それを受けて、麻雀仮面も緊張を解く。

 

「失礼しました。まぁ、こちらにも色々と事情がありまして。こうして雀荘を回っているのも、目を瞑って頂けると助かります」

「負けた以上、そう言われれば従うしかありませんけどね」

 

 京太郎は呆れ半分、悔しさ半分と言った様子で、麻雀仮面に向き合い、訊ねた。

 

「一応訊かせて下さい。あなたたちの狙いは、なんなんですか?」

「その内、必ずお話しします。約束しましょう」

 

 ひょいと、麻雀仮面は小指だけ立てた右拳を京太郎の前に差し出した。京太郎は戸惑うが、麻雀仮面は押し付けるように小指を彼に向ける。

 

「あの、なんですかこれ」

「指切りげんまんです。知らないんですか? 日本古来の文化でしょう?」

「はぁ……知ってますけど……」

 

 曖昧に頷きながら、京太郎は彼女の小指に自分の小指を絡ませた。定型の歌を楽しげに、実に楽しげに歌い上げてから、麻雀仮面は「国境を越えました……!」と満足気に頷いている。竜華には分からない世界だった。隣でむっとしている怜の腕を押さえるので、精一杯でもあった。

 

「それでは、また」

 

 別れるときは、あっさりと。

 麻雀仮面は、特に何の未練もなく、雀荘を去って行った。敗者である自分たちにそれを止める権利はなかった。

 

 一番悔しがっていたのは怜であったが、彼女も大きな溜息を吐くに留まった。彼女はそれから竜華に向き直り、

 

「で、結果はどうやったん?」

 

 と、訊ねてきた。一度竜華は目を瞬かせたが、すぐに相好を崩した。

 

「ま、今日は須賀くんに勝てたから良しとするわ」

「今日はって。今日も、ですよ。これで三連敗です」

 

 京太郎は不満そうに頬を引き攣らせる。

 

「初めて戦った日は完膚なきまでにボコボコにされましたし。特訓してリベンジを挑んでも、敵わなかったんですから」

「それは違うで、須賀くん」

「え?」

 

 全く、何て勘違いをしてくれているのか。竜華は少し不満だった。

 確かに彼の言うとおり、初めて打った日は間違いなく竜華の勝利だった。けれども、彼は諦めなかった。雨の中、全てをなげうって、再戦を求めてきた。

 

『俺は、貴女に勝ちたい』

 

 そう、言って。思わず怖れを覚えるほどの胆力で、迫ってきたのだ。

 そして竜華は――

 

「あの日勝ったんは、間違いなく須賀くんなんやから」

 

 勝負の途中で、逃げ出した。

 点差で言えばリードしていた。対局前には、はっきりとした実力差もあった。けれども彼は、追い縋ってきた。足りないものを継ぎ足しながら、驚異的な集中力を発揮して、竜華を乗り越えようとしたのだ。

 

「そ、そんなことないですよ。俺は負けてました。けれど、清水谷さんが特別に認めててくれたから、怜さんにも会わせてくれたんでしょう?」

「違う違う。ああ、うん、須賀くんの頑張りを認めたんはほんまやよ。須賀くんはやっぱりええ人やって、あほな思い込みしてたなーって、気付かされた。でもな」

 

 竜華は京太郎の顔をしっかりと見据えてから、言った。

 

「君に負けたって、認めたくなかったんや。安いプライドやな。途中で勝負なしにして、有耶無耶にしたんや。須賀くんにとっては、大切な勝負やったのに。ごめんな」

 

 ぺこりと竜華が頭を下げると、京太郎は慌てた様子で首を振る。

 

「清水谷さんが謝るような話じゃないですよ。やっぱり俺じゃまだまだ清水谷さんには敵わないって、今日証明されましたし。ま、次は負けませんから」

「うちやって」

 

 ふふ、と竜華と京太郎は微笑み合う。胸に支えていたものがとれて、竜華は実に晴れやかな気分だった。今なら迷いなく、インカレでだって戦えるだろう。

 穏やかな雰囲気が二人に流れる一方で、むすっとした態度を取るのは怜だった。

 

「何か盛り上がっとるけど、今日ラス引いた私はどうなるん?」

「と、怜でもそんな日あるやろっ」

「大体なに? 私に会うんに許可? 何の話それ? 私初めて聞いたんやけど?」

「そ、それはな怜……」

「じっくり説明して貰わなあかんな。――なぁ、きょーちゃんさんも」

「ひぃっ」

 

 それから場所を喫茶店に移し、静かに怒る怜をなだめるのに長い時間と多大な労力を払うことになった。終わった頃にはぐったりしていた。

 けれども竜華は、心地よい疲労感に包まれていた。明日に向かう、力を得た。

 

 

 ◇

 

 

 食事を終えて、竜華は怜の部屋を訪れていた。今は京太郎も自室に戻っており、二人きりの状況。当然のように、怜は竜華に膝枕を求めていた。

 

「あー、やっぱり膝枕は竜華に限るわ。ほんま落ち着く」

「全く、調子ええんやから。さっきまであんなに怒ってたのに」

「ちょっと竜華たちからかっただけやん。竜華も嬉しいやろ、膝枕できて」

「もう」

 

 否定できないのが辛いところだ。

 いつか、この時間も過去のものになる。もしかすると、今よりもずっと貴重な時間になるかも知れない。そうなったとしても、怜はきっと、迷わず自分の道を選んでいけるだろう。一方自分は、何度でも迷いそうだ。そのときもまた、歩みを止めていることだろう。

 けれども、自分なりの結論は出た。もう一度歩き出すために、自分にとって大切なものは何か、それを確認できた。

 彼女との距離は、依然離れたまま。けれども、これで良い。違う場所から、違うやり方で、同じ場所を目指すのだ。

 

「せやから、今はこうして……な」

「何か言うた?」

「何でもない」

 

 鼻歌交じりに、膝の上の怜を撫でる。くすぐったそうに、怜は頬を緩めた。

 もうしばらくは、ゆっくりとしていられる。

 そう思っていたところに――怜は、のっぺりとした声をかけてきた。

 

「竜華、りゅーか」

「ん? なあに?」

「きょーちゃんとの麻雀の勝敗云々で悩んでたって言ってたけど――それだけやと、違うよな」

「へ?」

 

 怜の言わんとすることが、さっぱり読めなかった。ただただ、予感が竜華の胸を震わせた。

 そしてその予感の通り、怜は、

 

「竜華」

「と、怜……?」

「きょーちゃんのこと、好きなんやろ?」

 

 爆弾を、投げつけてきた。

 怜が寝返りを打つ。見下ろす竜華と見上げる怜。二人の視線が、ぶつかった。

 

「でも、そうじゃないことにしてた。私に気、使って」

「そ、そんなんと――」

「私に嘘つく必要、ないやん。本当の、根っこのところで引っかかっていたん、それなんやろ」

 

 ぴたり、と竜華は動きを止める。

 勘違いしている、だとか。

 間違っている、だとか。

 そんな言い訳が浮かんでは消え、浮かんでは消え、最後に残ったのは、

 

「……うん」

 

 ただ、純粋な肯定だった。申し訳ないとずっと思ってきたし、今も強く思っている。親友の大好きな人。その人に、恋をしてしまったなんて有り得ない。だから、強く否定した。外にも、内なる自分にも。

 しかし今、当の親友によって全ての偽りは打ち砕かれた。抑え付け、無視してきた分湧き上がるのは、身を焦がす情熱的な想い。

 

「う、うち……」

「ええんや、竜華」

「えっ」

「好きになるな、なんて私は言えんから。そんなん我が儘すぎるし、いくら治した言うても、他の人より私体弱いやん。きょーちゃんのそばで、きょーちゃんに迷惑かけへんで済むのは、私やなくてどう考えても竜華や。間違いない」

 

 自らを卑下する言葉には、しかしどこにもへりくだる気持ちなどなかった。むしろ怜は、決して折れない強い意志を持って、その言葉を口にした。

 

「でも、負けへんから」

「――と、き」

「絶対に負けへん。せやから……竜華も、遠慮なんていらへん。麻雀も、きょーちゃんも。本気で、戦おう」

 

 お人好しにも、ほどがある。普段は竜華の発言に厳しい突っ込みを入れて、どこか冷めたふりをしておきながら。その心の内は、どこまでも熱いのだ。

 

「うん」

 

 竜華は、頷いた。頷いていた。それで、怜も満足そうに頷き返した。

 高校を卒業してから、本当の意味で理解し合えた瞬間だったのかも知れない。珍しく怜が恥ずかしそうにもじもじさせて、

 

「それじゃ、今日はこの辺で――」

「うち、行ってくるな!」

 

 この場を切り上げようとしたその言葉を、竜華は勢いよく遮った。

 

「へっ? へっ?」

 

 膝から怜の頭をどかすと、竜華はすっくと立ち上がった。全身に活力がみなぎっていた。「へっ? へっ?」と、なおも竜華の変化についていけない怜が戸惑っていた。彼女を尻目に、竜華は部屋を出て、向かうのは隣室。

 京太郎の、部屋だった。

 

「須賀くん須賀くん!」

 

 名前を呼びながらの呼び鈴を連打。はいはい、と扉の向こうで彼が呼びかけに応じる気配が伝わってきた。さっと扉から身を引いて、竜華は髪型を軽く整える。丁度そのタイミングで、未だ戸惑いを隠せない怜が部屋から出てきた。

 

「どうかしましたか? 清水谷さん」

 

 しかし怜の制止は間に合わず、扉から出てきた京太郎が問いかけてくる。もう、竜華に迷いはなかった。

 

「どうしても君に、言っておきたいことがあるんや」

「俺に、ですか?」

「そう、君に」

 

 熱っぽい竜華の視線に、しかし京太郎は動じなかった。先ほども、同じようなやり取りを繰り返した。また麻雀勝負を挑まれるのかな、なんて軽い気持ちを彼は抱いていた。

「なんですか?」

「うちは、うちは――」

「はいはい」

 

 それ故の、油断。京太郎は、なんの警戒もしていなかった。だから、竜華の行為を容易く許してしまった。

 竜華が飛びかかり、その唇を自身の唇に押し付ける。しばらく京太郎は状況を理解できなかった。ぷは、と竜華が唇を離してからようやく、思い切り顔を赤らめた。

 

「な――なななな、ななななにをっ!」

「うちは、須賀くんが好きや!」

 

 完全無欠、とびっきりの笑顔と共に竜華は告白する。そこに、勘違いを挟み込む余地などなく。

 背後で、親友の叫び声が聞こえた。

 

 

 

                   Ep.9 明日望む者とのディスタンス おわり




次回:Ep.10 すばら探偵花田女史のシークレットファイル
    10-1 失踪


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Ep.10 すばら探偵花田女史のシークレットファイル
10-1 失踪


※どちらを先に読んでも問題ないようにしていますが、Ex-5を先に読んでおくと良いかも知れません。


 ――後に清水谷竜華の変と語られる事件から、遡ること数日。

 

 

 

 じわじわと蝉が鳴き、何もしなくとも汗ばむような暑気。怖いくらいに青い空を見上げれば、入道雲が立ち上っている。行き交う街の人々も、うだるような暑さに辟易としている様子だった。

 夏である。花田煌はペットボトルの水を一口含み、ふぅ、と息を吐いた。

 

『――ついに始まります全国大学麻雀選手権、今年の注目校はやはり関東リーグ一位を奪取した三橋でしょう』

 

 街頭モニターに映るニュースは、もう間もなく始まるインハイ・インカレの特集が組まれていた。注目選手として紹介される後輩、同級生、先輩たち。インハイが注目されるのは毎年のことながら、近年のインカレも「宮永世代」の目覚ましい活躍によりこれまで以上に脚光を浴びている。

 

『また中部リーグでは、天江衣擁する龍門渕大学を破った信央大学にも期待が寄せられています。大将を務める竹井久は、三年前のインターハイでも母校清澄高校を優勝に導きました』

「あ、竹井さん」

 

 知った顔がモニターに映り、思わず煌は声を上げていた。共通の後輩を介して親交を深めた相手である。同郷出身であり、中学の公式試合で見かけたこともあった。彼女のインタビュー動画が流され、しっかりと受け答えする様子が見て取れた。常に自信ありげな彼女特有の雰囲気が、モニター越しにでも伝わってくる。

 

 ほんの二年前までは、自分もあの手の番組や雑誌で小さいながらも取り扱われていたかと思うと、煌は感慨深くなった。

 もっとも、感傷に浸るばかりではいられない。来年は、あの舞台に立つのだ。先輩たちにとっては最初で最後のチャンスだ、取りこぼしの出来ないリーグ戦はまだ続く。

 

 ――足を引っ張るわけにはいきませんからね。

 

 防御力だけで言えば、部内でもトップの自信がある。だが、それだけでは真なる強者に通じないのは過去に経験済みだ。大学に入ってからさらに実力を磨き上げた者もいる。今から来年のインカレを見据えて練習しなくてはならない。

 

『来春に開催されますU-21では――』

 

 引き続き麻雀関連のニュースをぼうっと眺めながら思索に耽っていると、

 

「花田」

 

 ぽん、と肩を叩かれた。振り返ればそこにいたのは、今日の待ち人で高校時代の同期。

 

「姫子!」

「久しぶり」

 

 鶴田姫子だった。どこか人を惑わす小悪魔染みた容姿は相変わらず可愛らしい。ただ今はベレー帽とメタルフレームの眼鏡という、高校時代には着けていなかったアイテムを装備していた。お洒落に気を遣うほうの彼女にしては、地味目の洋服である。

 

「なにその格好、どうしたの。変装?」

「そうなんよ。最近街で呼び止められること多くて」

「流石有名人は違う。すばらです」

「からかわんで」

 

 苦笑して煌を小突く姫子だったが、事実彼女は有名人である。昨年度プロデビューし、めきめきと頭角を現した有望株。それが、チーム名古屋ハイランドの鶴田姫子である。

 

 二人は喫茶店に場所を移して、旧交を温める。

 

「直接言ってなかったから、改めて、ルーキーオブザイヤーおめでとう」

「ありがと。そうは言っても、ほとんど哩さんのおかげそいけんね。私自身はまだまだよ」

「謙遜ばっかり」

 

 煌と姫子の先輩、白水哩もまた、プロとして活躍していた。所属チームは姫子と同じで、学生時代から変わらず彼女たちは強力無比なリザベーションで強敵らと渡り合っているのだ。

 

「謙遜なんかなかばい。とんでもなか後輩も入って来たし、うかうかしていられなか」

「後輩、というと高鴨さんか。阿知賀の」

「そうそう。最初はちかっと戸惑ってたばってん、今は下馬評通りの活躍しとる

 今年度麻雀プロに転向したルーキーたちは軒並みレベルが高いと言われている。その中でも、三人のスーパールーキーと呼ばれる少女たちがいた。名門白糸台のエース・大星淡。宮永世代もう一人の体現者・宮永咲。

 

 そして、深山幽谷の化身・高鴨穏乃。今年、彼女が姫子と同じプロチームに加わったのだ。

 

「私ももっともっと頑張らなかと。花田もそうやろ」

「正しくその通りで。来年はインカレに出たいから」

「そんときは私が解説したか」

「姫子はインハイ解説してそうだけど。今年はそうなんでしょ。先輩たちの試合を解説するのもやりづらそうだし」

 

 今回の姫子の上京も、その仕事関連あってのことだ。他にもメディアインタビューなどなど仕事山積みで、今日彼女が来たばかりのこの時間だけしか空きがないというほどの忙しさらしいのだ。新道寺の同窓生らもインカレ関連で東京に来ているので、軽く飲み会もしたいところだったがそれも叶わず。同じチームの哩も同様に多忙のようで、東京入りもタイミングがずれたという。

 

「まあね。でもその辺は麻雀協会とチームの方針次第そいけん、どうなっかは分からなかかな。ばってん振られた仕事はちゃんとこなすよ」

「おお、プロっぽい」

「こいでも一応社会人そいけん」

 

 軽口をたたき合い、二人はくすりと笑う。懐かしい空気に、煌はほっとする。後輩にも敬語で接する煌だったが、姫子だけは数少ない例外であった。対等に接することのできる、友人。学生とプロで立場が別たれた現在においても、変わりはなかった。それがたまらなく、嬉しかった。

 

 アイスコーヒーの氷をストローの先端でいじりながら、「そう言えば」と煌は少し気にかかっていた案件を思い出す。

 

「ねぇ、姫子。『麻雀仮面』って知ってる?」

 

 煌にとっては、あまり踏み入れたくないワードだった。春先、東京神奈川近郊で話題をさらった仮面の雀士。東帝大学麻雀部は、「それ」を抱えている。

 この騒ぎ、すぐに沈静化に向かうかと思われたがその実噂の火種は未だに燻っている。五月にあった辻垣内智葉の乱の後も、時折麻雀仮面の影を追う者が現れているのだ。智葉も協力してくれる話も、そこまで有効ではないようだ。放置するという方針は変わらないが、しかしここにきて煌は良からぬ情報をキャッチしていた。

 

 ――近頃、大阪にも麻雀仮面が出現したという情報だ。さらに煌固有の情報網では、名古屋近辺にも姿を現したというのだ。もちろん、真の麻雀仮面である園城寺怜が今更そんな真似をするはずがないし、物理的にも不可能である。

 

 まだ恭子にも相談していない。

 しかし悪意ある人間の行為の可能性を考えると、状況くらいはを把握すべきと判断し、煌は情報収集に当たっていた。

 

「麻雀、仮面?」

 

 それ故、現在名古屋在住の姫子ならあるいは、とも思って訊ねてみたのだ。しかし彼女は首を傾げるばかりで、そこに演技のような様子も見受けられない。もっとも、それも当然だろう。あくまで拠点が名古屋だということで、年がら年中試合で引っ張りだこだ。地元の、おぼろげな噂話など耳に入るはずもない。

 

 ただ煌は、新たに出現した麻雀仮面の正体はプロではないかと踏んでいた。インカレに出場するレベルの大学生を軒並み打倒しているというのだから、相当な実力者であろう。そういった意味でもプロである姫子の耳に入っていないかと期待していた。結局は、空振りだったが。

 

「胡散臭さしか感じなか、そいがなにかあっの?」

「いや、知らないなら良いの良いの」

「えー、気になっよ」

「ほんとにつまらない噂だから」

 

 適当に誤魔化しつつ、煌は話題の矛先をずらした。これ以上は藪蛇だ。

 

「新道寺の同窓会もちゃんとやりたいね」

「安河内先輩たちもインカレで東京来てるもんね」

「今回は時間合わなかったけど、秋のコクマとかどう? きっとまたみんな東京に集まるよ」

「良いね良いね。今から哩さんと相談しとく。同じ時期にU-21の強化合宿もあっし、うまくいけばまた一緒にお泊まりしーゆっかも」

「そんなところインカレトップはともかく、私は呼ばれないっての」

「分からなかよー?」

 

 そうこう話し込んでいる内に、あっという間に時間は過ぎ去っていく。そろそろ解散かという時刻になって、姫子が一つの話題を切り出してきた。

 

「あ、そーだ。さっきの高鴨の話で思い出した」

「ん? 高鴨さんがどうかしたの?」

「花田ん部に、須賀くんっていう男子が入ったんでしょ? 清澄出身の」

 

 まさか姫子の口からその名前が出てくるとは思っておらず、煌は目を瞬かせる。姫子が一体言い出すのか、検討もつかなかった。

 

「須賀くんがどうかしたの? 姫子と知り合いだったっけ?」

「ううん。直接話したことはなかったかな。インハイの会場でちらっと見たことはあったと思う。ばってん、そんだけやけど」

「それならなんで?」

「そいけん高鴨の話。高鴨がその須賀くんにご執心みたかなんよ」

「ご執心……」

 

 全く無関係であれば、煌ももっと食い付いていたかも知れない。有名人のゴシップという括りではそうでもないが、知った人間の恋愛事情には煌も少なからず興味があった。ただそこに須賀京太郎の名前が絡むと、話は別だ。彼自身を責めるつもりはこれっぽっちもないが、彼絡みの恋愛事となると煌は胃が痛い。

 

「ほら、須賀くん、例の大星との騒動があったでしょ。あんときも相当ショック受けてたみたか、そいで東京行きたいって悩んでたりしてたの。ばってん、もちろん試合があるから行けんかった」

「へ、へぇ……」

「高鴨、彼の写真見ては溜息ばついたりしてね。ねぇ、ほんなこてに大星とは何もなかったん?」

「あれは大星さんの空回り。否定する報道も流れてたでしょ」

「そん大星に直接訊いてみたら、思わせぶりなことばばっかり言うとるから」

 

 さもありなん、だった。

 

「先輩としては後輩の好きな相手がどぎゃん奴か知っておきたくて。大星と噂されるごたっ奴だし。ね、煌の後輩なんでしょ。ちかっと紹介してよ」

「姫子」

「ん?」

「それ一番面倒な頼み」

「え、なんで?」

「なんでも」

 

 ええー、と姫子は不満気に頬を膨らませる。しかしながら煌としては悩ましい限りだ。

 

「会わせてくれるくらい良いでしょ。花田は何がそぎゃん嫌なの?」

「私自身は別に良いんだけどね……」

「? やったらどうして?」

「問題は周り。――姫子、そろそろ時間では?」

「あっ、まずっ。行かなきゃならなかっ」

 

 慌てて姫子が席から立ち上がる。

 

「それじゃあね、姫子」

「うん。近いうちにまた会お」

 

 手を振り合い、煌は親友と別れた。

 その近いうちが、本当に近いうちになるとは、まだ煌は知らない。

 

 

 ◇

 

 

 それから数日、煌はオープンキャンパスの手伝いやら課題やらで、しばらく世間から遠ざかっていた。精々インハイやインカレの経過を追うくらいで、同じ麻雀部員とさえ最低限の連絡しかとっていなかった。

 

 だから、気付いたときには麻雀仮面の噂があちこちで飛び交っていた。悠長に構えていたのが仇となった。

 

 この、インカレが開催される時期に東京に現れた麻雀仮面。「彼女」は雀荘に現れては、全国クラスの打ち手を相手取り、ばったばったと薙ぎ倒しているという。

 様々な仕事を片付け夜になって帰宅するも、ゆっくりできずに、煌はベッドの上で携帯電話を手に取った。

 最初に連絡をとったのは、

 

「――もしもし、怜さんですか?」

 

 本家本元麻雀仮面、後輩にあたる園城寺怜であった。

 

『そやけど』

 

 電話口の向こうから聞こえてくる声は、どこか苦々しさを伴っていた。煌でなくとも、不機嫌と即座に見抜けた。

 

「……不味いときにかけちゃいました?」

『ん、や、ごめん、そんなことないんやけど、ちょっと色々あって、疲れとるんや』

「なにがあったんですか」

『その内話すわ。それより煌さんこそどうしたん? 急に電話なんてしてきて』

 

 煌はどう話を切り出すべきか一瞬悩み、それから、

 

「麻雀仮面――」

『もう会うた』

 

 煌の声を切り裂くように、怜は言った。それからかいつまんだ事情を説明され、煌は溜息とともに頷いた。

 

「なるほど、そういうことでしたか」

『麻雀仮面の名前使うて何したいんか知らんけど、私はもうスルーさせてもらうで』

「え、どうしてですか?」

『負けたもん。それもラス引いて完敗。口出す資格ないわ。それに麻雀仮面絡みは私関わらへんほうがええと思うんや』

「……分かりました」

 

 怜がそうだとしても、煌としては無視できない。単純な興味もあったし、この話は白黒はっきりさせておきたかった。怜から聞けるだけの情報は聞き出す。

 

『……私が知っとるんはそんくらい。後はきょーちゃんに聞いたほうええと思う』

「ええ、ありがとうございました。大変参考になりました」

『煌さんに押し付ける形になってごめんな』

「なんのなんの。こういう仕事は好きですから。それでは、また」

 

 それで怜との通話は終わり、今度は京太郎の番号をプッシュする。

 しかし、

 

『おかけになった番号は現在電波の届かないところか――』

「あら」

 

 不通であった。まあそんなこともあるだろう、講義は終わっているだろうがアルバイト中の可能性もある、もしかしたら誰かとデートしているのかも――とまで考えるが、煌はどうにも嫌な予感がした。明確な根拠などどこにもない。直感がそう告げていた。

 

「仕方ありませんね」

 

 だが、今はこれ以上どうしようもない。切り替えた煌が次に連絡を取ったのは、我らが部長、末原恭子だった。

 長いコール音の後、こちらはきちんと繋がった。

 

『もしもし』

「あ、恭子先輩。今大丈夫ですか?」

『あー、んー、少しなら。どうしたん? 何かあった?』

「もしかしたら聞いてるかも知れないんですが、麻雀仮面のことで」

『ああ』

 

 恭子もすぐに理解したようだ。どうやら一番時流に乗り遅れていたのは自分のようで、少々情けなくなった。

 

 何はともあれ、恭子と今後の対策を話し合えると思ったのだが、

『放っとき放っとき』

「ええ?」

 

 意外にもあっさり、突き放されてしまった。

 

「な、なんでですか? また何かあったら不味くないですか?」

『今回は心配せんでもええから――ちょっと洋榎! 何しとるん!』

 

 急に恭子が大声を出し、煌は体をびくりとさせた。どうやら何かしらトラブルがあったようだ。ばたばたと物音が聞こえてくる。

 

「どうかしたんですかっ?」

『大したことはあらへんけど――あーもー、こら、このっ! ごめん煌ちゃん、また今度でええ? 来客があって……なっ! こら! 洋榎! その写真はあかん!』

「は、はぁ……」

『麻雀仮面は無視してええから。インカレで後輩の応援でもしてあげてな。それじゃ!』

 

 ぶつりと電話が切られてしまい、かけ直せる雰囲気でもなく、それ以上追求できなくなる。

 

 麻雀仮面案件はもっと恭子が積極的に食い付いてくるかと思っていたが、逆に切り捨てられてしまった。確かに恭子が先に情報を入手しているのなら、煌に相談が来ていてもおかしくはなかったのだから、当然と言えば当然と言える流れだ。

 

「何があったんですかねー」

 

 ともあれ、部長に放っておけと言われれば放置しても問題ないのだろう。そのくらいには煌は恭子を信頼していた。もっとも、それだけで好奇心や反骨心を抑え付けられるわけではなく、むしろ煌は独自に麻雀仮面を追うことに決めた。

 

 ひとまずは目撃情報を集めようとパソコを立ち上げようとする。が、その直前、煌のスマートフォンが震えた。

 

「っとと」

 

 怜、もしくは恭子が折り返しかけてきたのかと思ったが、ディスプレイに表示されている名前は違った。

 

「原村さん?」

 

 中学時代の後輩だった。今は同じ東京住まい、ただしあちらは名門三橋大学のルーキー。今年度のインカレにもレギュラーで出場している優秀な選手だ。

 

「もしもし、花田です」

『良かった、やっと繋がりました。原村です。夜分遅くにすみません』

「いえいえ、こちらこそすみません。どうしたんですか? まだインカレ中でしょう?」

 

 三橋は明日に準決勝を控えているはずだ。多少なりとも心配になるが、後輩はいえ、と軽く流した。

 

『それよりも、花田先輩に訊きたいことがあって』

「はあ。なんでしょう」

 

 やや焦りを伴う声は、彼女らしくなかった。のほほんと構えながらも、煌は嫌な予感がした。

 

『須賀くん……知りませんか?』

「え? 須賀くんですか? ああ、さっき電話しようと思ったんですが、繋がらなくて」

『やっぱり。最近会ったりしていません?』

「いえ。私も忙しくて。何かあったんですか?」

 

 訊ねると、やや躊躇いがちに彼女は口を開く。

 

『今日はゆーきと咲さんと私と須賀くんで集まろうっていう話があったんです』

「宮永さんも東京に来てらしたんですね」

『仕事とオフを兼ねて、だそうです。――それで丁度タイミングも良かったので、同級生で集まることにしたんですけど』

「けど?」

『須賀くんが、姿を現さなくて』

「……」

 

 一気に話がきな臭くなった。その彼は、先ほど電話に出なかった。

 

『電話には一度出てくれたんですが、よく分からないことを言っていて会話にならないまま切れちゃって、それきりです。それからはメールにも返信がありません。急に都合が悪くなったからと言って、一方的に約束を破る人ではないはずですが……もしかしたら同じ部の花田先輩なら何か知ってるかと思って』

「……申し訳ありません。さっきも言った通り、私もここのところ連絡をとっていなくて」

『そうですよね……杞憂だったら良いんですけど……咲さんも、ゆーきも凄く心配していて』

 

 ――何かしらの事件や事故に巻き込まれていたとしたら。

 

 可能性はゼロではない。和の言うとおり、彼が何の理由もなく全てを放り出す人間とも思えない。じわりと、煌は汗が浮かぶのを感じた。

 

「原村さん」

『はい』

「その、電話で須賀くんが言っていたよく分からないことって……覚えている限りで良いんです、教えて貰えませんか」

『……そうですね』

 

 しばらく和は考え込んでいたが、やがて、

 

『確か一言、こう言っていました』

 

 煌の頭を抱えさせる単語を口にした。全くもって、すばらくない。

 

 

『――麻雀仮面、と』

 

 

 




次回:10-2 追走


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10-2 追走

 まず煌は、さりげなく麻雀部員の面子――連絡のつかなかった恭子を除く――に京太郎の行何やら方を探った。結果として、昨日から彼と顔を合わしている部員はいなかった。最後に彼と会ったのは怜であったが、何やらまたトラブルがあったらしく、距離をとっているようだった。このインカレ期間中、上京してきた親しい人間と旧交を温めているのもあいまって、彼が姿を消してもすぐに気付いた者はいなかったのだ。

 

 もっとも、まだ失踪したと確定したわけではない。何かしら急な用件で実家に帰らねばならなくなったとか、動転して連絡を入れ忘れたとか、いくらでも理由は想像できる。確信が持てない現状、警察への連絡も控えていたし、部員に余計な心労をかけさせたくなかった。

 

 もちろん、後輩である和の心配は取り除きたい。また、万が一という可能性もある。

 ただ一つ残された手掛かりは、彼が口走ったという「麻雀仮面」。

そして今、華やかなインカレの裏側で囁かれている名も麻雀仮面。

 

 ――須賀京太郎は、麻雀仮面絡みの事件に巻き込まれた。

 

 その結論に辿り着いたのは、すぐだった。

 

「恣意的な見方になっていないでしょうか」

 

 ぽつりと呟きながらも、煌の直感はこの説を支持していた。もちろん、裏付けは必要だが。

 他に誰もいない静かな部室で、煌は次なる策を考えていた。慣れ親しんだ部屋の空気は、思索に耽るのにぴったりだ。夏の朝、気温は充分に上昇しているが、扇風機一つあれば事足りる。クーラーの効いた部屋で作業するよりも危機感が煽られ、煌としては集中しやすい環境だった。

 

「まずは目撃情報の収集ですかねぇ。雀荘中心でしょうか」

 

 ぼやきながらパソコンのキーボードを叩く。圧倒的に情報が足りていなかった。

 加えて言えば、手も足りていない。普段であれば恭子という頼もしい味方がいるが、それも望めない。彼女は、麻雀仮面は放置するという姿勢を見せている――その真意までは分からないが、関わること自体に難色を示すかも知れない。確実に京太郎が失踪し、そしてそれに麻雀仮面が関係していると分かった時点で改めて連絡をとるべきではないか、と煌は考えていた。

 

 となると他の部員を頼りたいところだが、事件の性質上荒事になる可能性もある。もちろんそれは最大限回避するつもりだが、

 

「できることなら運動神経抜群で、機敏な人が良いですね。いざというとき逃げ出せるように」

 

 というのが、煌の本音である。その点、残念ながら東帝大学麻雀部はインドア系部活らしく、激しい運動には向いていない面々であった。内一人は元病弱。

 

「誰か頼れる人はいないでしょうか」

 

 スマートフォンの画面をタッチするが、夏期休暇の時期だ。大学関連の友人は大抵何かしら用事を抱えている。いざこざに部外者を巻き込むのは気が引ける、というのを差っ引いても、実際問題呼び出せる人員は限られていた。

 

「うーん、仕方ないですね」

 

 最悪一人で何とかするしかない、と唸っていた矢先のことだった。

 

 部室の扉をノックする音が、聞こえた。

 

 はて、と煌は首を捻る。部員ならノブに鍵を突っ込むか、さっさと扉を開いて入ってくるのが常だ。二部リーグに上がって認知度が上がり、周囲の見方も変わってきたのも事実。もしかすると時期外れの入部希望だろうか、なんて期待が煌の中で沸き起こった。

 

「はいはいはいはいっ」

 

 緊急時ではあるが、放置するわけにもいくまい。慌てて煌は扉へ駆け寄った。一瞬だけ息を吸い込み、ゆっくりと扉を開く。

 

「どちら様でしょうか」

「あっ」

 

 部室の前に立っていたのは少女だった。煌は目を瞬かせる。

 部内でも一番小柄な恭子よりも、さらに小さい。140cmにも満たないのではないだろうか。視界を下げなければならなかった。整った栗色のロングヘアが、腰にまで落ちている。蝶を模した髪留めは過度に派手なデザインではないが、センスが感じられる。着ているのは白と青のワンピースで、良いところのお嬢様と言った雰囲気だ。化粧はそれほど濃くないが、おかげで体格ほど子供らしさは感じられない。失礼ながら、ちょろい男が好きそうだな、という感想を煌は抱いた。

 

 ともあれ、見知らぬ相手、やはり入部希望者か、と煌は一瞬色めき立った。だが同時に、どこかで会ったような、既視感を覚えていた。

 

 そしてどうやら、既視感のほうが正しかったらしい。

 少女は煌と目が合った瞬間、ぱあっと表情を輝かせた。

 

「良かった、お久しぶりです、花田さんっ!」

「え、ええ?」

 

 名前をぴたりと言い当てられ、既知の仲だと知らされる。しかしここに来ても、煌は目の前の彼女が誰だか思い出せなかった。

 

「あ、もしかして私が分かりません?」

「う、そ、その、申し訳ありません」

「いえいえ、大丈夫です」

 

 失礼と理解しながら、煌は頭を下げた。一方少女は快活に笑った。清楚な格好からするとややイメージから外れる。

 

「えっと、こうすれば分かりますかね」

 

 少女は栗色の髪を後頭部で両手を使い束ね、一本のポニーテールを作った。――そこで、ようやく煌はぴんと来た。

 

「も、もしかして高鴨さんっ?」

「当たりです」

 

 へへ、と少し恥ずかしげにはにかむ彼女は、世間を賑わすスーパールーキーの一人。阿知賀、吉野山が生んだ怪物。

 

 深山幽谷の化身、高鴨穏乃であった。

 

 髪を下ろして、トレードマークと言えるジャージから着替えるとまるで雰囲気が違った。もっとも中身までは変わっていないようだが、煌はすっかり騙されていた。もっとも、それも無理もない。彼女との縁と言えば、ほとんどがインハイでの試合に集約される。煌たち新道寺が本州から離れている関係もあり、練習試合の機会も限られていた。後は、元々共通の知人が一人いた程度だ。

 

「とりあえず、立ち話もなんですしどうぞ中へ」

「お邪魔します」

 

 礼儀正しくぺこりと頭を下げる姿は、間違いなく記憶にある穏乃そのものだった。

 粗末なパイプ椅子に今をときめくルーキーを座らせるのは心苦しかったが、致し方あるまい。せめての気持ちということで、尭深が寄贈してくれた高級な茶葉を使わせてもらうことにする。

 

「なんだかイメージと違う服装で驚きましたよ」

「あ、こ、これは憧や姫子さんが色々教えてくれて、やりすぎかな、とは思ったんですが」

 

なるほど指導者がいたのか、と煌は納得する。よくよく見れば、姫子のセンスが随所に見られた。お洒落な彼女たちによる、穏乃用のおめかしなのだろう。

それはともかくとして、お茶を出しながら煌は訊ねた。

 

「今日はどうしてこちらへ?」

「あ、ありがとうございます。――元々東京に来る予定だったんです。インカレで、阿知賀のみんなが集まっているのでそのついでに。プロの先輩たちはこの時期解説の仕事を振られますけど、一年目の私はお休み貰えて比較的暇なんです」

「なるほど。となると、今日は宥先輩目当てですか」

「あっ、いえ、宥さんとは別に会う約束をしてて……」

 

 そこで穏乃は少し恥ずかしそうに、顔を俯かせた。――煌は思った。この手の表情、見たことがある。そして、

 

 ――ご執心みたかなんよ。

 

 思い出されるのは、先日の姫子の言葉。

 

「……もしかして、須賀くんに会いに来たんですか?」

 

 がたり、と穏乃の座るパイプ椅子が音を立てて揺れる。伏せ気味の穏乃の頬は、今度ははっきりと朱に染まっていた。どうやら図星だったようだ。

 普段であれば別の感想を抱いていたところだが、しかし今はかなり特殊な状況である。煌はひとまず探りを入れることにした。

 

「アポは取ってたんですか?」

「あいえ! あ、会えたら良いな、と思ってただけで! 特別連絡は取ってません! ここに来たのはたまたま、と言いますか! 時間があったから、寄ってみたんです! そう言えば東帝大学に進学したんだな、と思い出して! 偶然! そう、偶然機会が重なったんです! 家は分からなかったから! というか訊けなかったから! ごめんなさい今のナシで! と、とにかくもしかしたら部室にいるかもって思ったんです!」

 

 しどろもどろになりながらの言い訳に、煌は苦笑いを浮かべた。たまたま、偶然などと言っているが、着飾っている時点でそんな言葉は通用しない。

 窺うように穏乃は部室を見回してから、恐る恐ると言った様子で訊ねてきた。

 

「あ、あの、今日彼はいないんですかね……?」

「その前にもう一つ質問良いですか?」

「は、はい」

「『麻雀仮面』という単語に、聞き覚えは?」

「なんですかそれ。かっこいい」

 

 調子外れの回答だったが、彼女は何も知らない様子だった。少なくとも、巷を賑わせる麻雀仮面とは無関係のようだ。

 煌は、しばし迷いを見せた。彼女を引き込むのは、簡単であろう。ここで全てを秘匿しておくのも不誠実にも思えた。しかし、世間体もあるプロを巻き込んで良いのかという懸念があった。大事になったとき、自分が責任を取れるのかは不透明である。

 

「須賀くんのことですが――」

「は、はいっ!」

 

 結局の決め手は、彼の名前を出したときの穏乃の嬉しそうな顔だった。黙ってはいられない、煌はそう判断した。このお洒落も、精一杯のアピールなのだろう。

 

 全て説明し終えた後でも、意外にも――こう言っては失礼だろうか――穏乃は冷静だった。焦って飛び出してしまうかとも危惧したが、彼女はここぞという場面で高い集中力を発揮することを煌は思い出していた。

 

「なるほど……須賀くんが、そんなことになっていたなんて」

「まだ失踪したと決まったわけではありませんが」

「けれども、『麻雀仮面』さんが関わっている可能性がある、ですよね」

「おそらくは」

 

 煌が頷くと、穏乃は椅子を蹴って立ち上がった。

 

「協力させて下さい! 私も京太郎を探します!」

「良いんですか? 阿知賀の集まりは大丈夫なんですか?」

「あ、会いに来たんですから勿論です! 憧たちには連絡しておきます! どうせ約束は明日からでしたし!」

 

 つまり今日は須賀くんに会うためだけに時間を作ってきたんだな、という言葉を煌は飲み込んだ。多分言ったら余計な混乱を招く。

 

 手早くお茶碗を片付けて、煌は鞄を背負う。

 

「では、行きましょうか」

「え、当てはあるんですか?」

「喋ってる間に情報は大方集まってきたようです。後は足を使いましょう」

「花田さんって何者なんですか?」

「ただのしがない大学生です」

 

 穏乃の疑問は適当にあしらっておく。この手の質問は慣れていた。

 部室を後にして、駅に向かおうとする。しかし穏乃がその足を止めた。

「私、車で来てるんです。乗ってって下さい」

「良いんですか? というか、車買ってたんですね」

「どうせその内買うからなんだの先輩たちに勧められて。これが結構楽しくて、スピード出したときの爽快感が山を駆け下りてるときに似てるんです」

 

 こそばゆそうに微笑む穏乃が「あれです」と指差したのは、真っ赤なスポーツカーだった。その道に詳しくない煌でも、立派な車だということはすぐに分かった。なるほど、人の趣味とは分からない。

 

「東京は道が狭くて、しかも複雑で中々飛ばせませないのが難点ですね」

「安全運転でお願いしますよ……?」

「任せて下さい!」

 

 こんな状況でもなければそのドライビングテクニックを披露してもらいたいところだが、今回は安全運転に努めてもらう。

 煌がナビゲートし、向かったのは大学から三つ駅が隣の雀荘だった。

 

「集まった情報を時系列に並べると、ここで最後に須賀くんが目撃された線が濃厚です」

「だから花田さんって何者なんですか?」

「だからただのしがない大学生ですよ」

 

 雀荘は夏休みの大学生を中心に、そこそこ賑わっていた。

 煌は顔見知りの店員に声をかけ、聞き込みをする。卓を前に雀士としての本能が疼くのか、穏乃が心を昂ぶらせているのが見て取れたが、大義の前に我慢しているようだった。

 

「須賀くん? 聞いてる聞いてる。直接見てないけど、アレでしょ。今噂の、麻雀仮面絡みの話。居合わせた奴から聞いてるよ」

 

 幸いにも、一発目からビンゴだった。

 そして聞き出した状況は、想像していたよりも複雑だった。

 車の中に戻り、助手席で煌は書き取ったメモを捲る。

 

「聞いた話をまとめましょう」

「はい」

「昨日の朝、須賀くんは一人でやってきて、適当な面子を集めて打とうとしていた。まあ、この辺は彼にとってはライフワークみたいなものですね。問題は――」

「問題は、そこに麻雀仮面が現れた」

 

 穏乃が言葉を引き継ぎ、煌が頷く。

 

「おそらく須賀くんは打ちたかったのでしょうが、麻雀仮面は他の客を相手に打ち始めた。須賀くんは別の面子と打って、麻雀仮面の手が空くのを待っていた。一方で麻雀仮面は挑戦者たちを次々と撃破していった。無類の強さ……というのは、噂通りのようですね」

 

 そしてここから話はさらに拗れていく。煌はメモを見つめながら、眉間に皺を寄せた。

 

「ここ最近で急速に名前を売った麻雀仮面は、目をつけられていたんでしょう。あるいは既に一度負けた雀士がいたのかも知れませんね。ともかく、柄の悪い相手が居合わせていた。彼らは負けたにもかかわらず、麻雀仮面の仮面を強引に剥ごうとした」

 

 情報によれば、今回出現した麻雀仮面も女性らしい。引っかき回す麻雀仮面も麻雀仮面だが、大の男が女性相手に情けない真似をする、と煌は憤慨を覚えた。

 そしてどうやら、京太郎も同じ気持ちだったらしい。

 

「須賀くんは、麻雀仮面の手を取って雀荘から逃げ出した――」

「他の雀士が追いかけ回して、けれども掴まらず、それ以降行方知らず」

 

 煌は盛大な溜息を吐いた。

 今回の京太郎の失踪に、麻雀仮面が絡んでいるのは確定である。どうして帰ってこないのか疑問は残るが、いずれにせよ現在も麻雀仮面と行動を共にしている公算が非常に高い。

 

「やはり麻雀仮面を追うのが一番ですかね。情報はなく効率は悪いですが、しらみつぶしに雀荘を回っていけば会える可能性はあるでしょう」

「それなんですけど」

 

 運転席で、穏乃が小さく挙手した。

 

「私に考えがあるんです!」

 

 自信満々に、彼女はそう言った。

 

 

 ◇

 

 

 適当に入った雀荘の隅で、煌はただただ感心していた。やはり期待されるスーパールーキー――度胸が違う、と。

 

「私こそが真・麻雀仮面!」

 

 挑んでくる雀士たちをなぎ倒し、人集りの中心で声を上げるのは小柄な少女。顔を覆うのは、狛犬を模した面。この場で煌だけが彼女の正体を知っている。

 

 高鴨穏乃、その人である。

 

 普段とは全く方向性の違う服装に、髪を下ろしてさらに仮面まで加われば、彼女だと気付く人間はいないだろう――よっぽど親しい間柄でもない限り。煌も分からなかった自信がある。仮面をつけてなくてもすぐには思い出せなかったのだから。

 

「他の麻雀仮面は全員偽者! 私だけが麻雀仮面!」

 

 彼女は敢えて、周囲に喧伝する。対局に勝利しては、繰り返し告げる。

 そう、これは挑発だ。東京に暗躍する麻雀仮面を誘い出す、罠なのだ。あからさまではあるが、麻雀仮面の目的が何であれ、自分の名前を騙る人間を放っておくのは得策ではないだろう――穏乃のこの提案に、煌は乗ったのだ。

 

 これで煌たちが回る雀荘は五軒目。既に最初の雀荘からは、新たに現れたこの麻雀仮面の情報が流されていることだろう。次に向かう雀荘を逐一予告しているのだ。痺れを切らした麻雀仮面なら、自分たちを追ってくる。そう踏んでいた。

 

 それにしても、と煌は穏乃の対局を観察して戦慄する。

 

 ――強い……!

 

 プロになって数ヶ月、穏乃は高校時代からさらに成長していた。大星淡もそうだった。プロの荒波とは、ここまで雀士を成長させるのか。

 

 じわり、と煌は暑さとは関係ない汗を浮かべた。

 今の東帝大学麻雀部で、地力が劣っているのを煌は自覚している。しかし、だからと言って開き直るつもりはなかった。足りないならば、努力してより高みを目指すだけ。そう信じて、努力しているし、これからも続けるつもりだ。絶望的な実力差など、何年も前に味わっていた。

 

 けれども、果たして本当に充分な努力をしていたと言えるのだろうか。より厳しい環境に身を置こうとしたのか。今の穏乃を見ていると、そんな疑問が鎌首をもたげてくる。

 

 思えば、数ヶ月前。あの、辻垣内智葉に勝負を挑まれたとき。

 確かに自分は勝負を受けた。あの瞬間、迷いはなかった。それは言い切れる。

 けれども、恭子に助けられ――ほっとしなかったか。部長の頼もしさに、安心していた。

 

 それではきっと、いけない。煌は思った。この先も、恭子におんぶにだっこでいてはいけない。いつか、彼女を支えねばならないときが来る――そんな気がしたのだ。

 

 そんな思索に煌が耽っているときだった。

 からん、と雀荘の扉が開く。

 同時に、穏乃がそちらに振り返った。

 

「っとと。ほんまにおるやん」

 

 現れたのは――シャツに短パン、スニーカーという極めてラフな格好の女性だった。ただ一点、特異な点があるとすれば――

 

 鬼面を被っている、ということ。

 

「お前が真・麻雀仮面とか言う奴か?」

 

 挑発染みた声色に、雀荘の空気が強張る。

 

 ――すばら! 大当たり、ですね……!

 

 誰にも見えない場所で、煌は握り拳を作る。

 本当の、麻雀仮面のお出ましだった。

 

 

 




次回:10-3 真相


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10-3 真相

 雀荘に現れたるは、鬼面の麻雀仮面。

 

 相対するのは、犬面の麻雀仮面。その正体は、高鴨穏乃。今この場でそれを知るのは、煌のみである。

 

 穏乃の活躍により、雀荘には多くの雀士たちが集まっていた。いずれも腕に自信のある者ばかりだったが、既に大半は穏乃の前に沈んでいる。

 煌としてはそろそろ移動する腹積もりだったが、もちろんこうなっては迎え撃つ他ない。挑発行為を先にとったのはこちらだ。戦いは避けられないだろう。

 

「真・麻雀仮面とは言うてくれるやん」

 

 鬼面の麻雀仮面は軽く肩を竦めると、穏乃を見下ろす。

 

「ほんもんの強さ、教えたるわ」

「望むところです!」

 

 二人は卓につく。

 この時点で、目的の大半は達成できたと言えよう。はっきり言って、ここで穏乃が勝っても負けても、大勢に変わりはない――当然、勝つに越したことはないが。

 

 煌はギャラリーに紛れて、第三者を装い様子を窺う。穏乃が全ての目を引きつけている現状は、大人しくしているのが最善策。煌はそれを、重々承知していた。

 

 だが、二人の麻雀仮面に気後れしてか、面子は中々集まらなかった。穏乃が強さを見せつけた後というのもあるだろう。このまま二人麻雀を始めかねない流れだった。それでも問題ないはずだったが、しかし、煌は前に歩み出ていた。ほとんど衝動的な行動だった。煌自身、この選択を信じられなかった。

 

「私も混ぜて貰っても?」

「ふーん」

 

 鬼面の麻雀仮面に、値踏みするように煌を頭のてっぺんから靴先まで視線を向けられる。それだけで全てを見透かされた気がして、不安を覚える。けれどももう、後戻りはできない。

 

「ま、ええやろ。お前はどうなんや?」

「わ、私も大丈夫です」

 

 穏乃はやや戸惑いながらも、首肯する。予定にはなかったが、機転を利かせて他人のフリをしてくれたようだ。

 

「すばら! ありがとうございます」

 

 彼女には申し訳ないと思いながらも、煌は引き下がれない。

 理屈にそぐわない、自らの役割を忘れた暴挙――分かっている。自分の実力を度外視した無謀な挑戦だということも――分かっている。全て承知の上だ。

 

 けれども湧き上がる感情を止める手段は、煌は知らなかった。分からなかった。

 結局最後の一人は捕まらず、三麻となる。

 

 ――穏乃と二人で挑めば、有利に進められる。一瞬過ぎったそんな考えは、卓に着いてすぐに吹き飛ばされた。

 

「ツモ!」

 

 鬼面の麻雀仮面が、威勢良く牌を倒す。

 

「ツモです」

 

 犬面の麻雀仮面――穏乃も、負けじと和了る。

 

 始まったのは、容赦も遠慮もない殴り合い。高校時代の穏乃はスロースターターの気があったと煌は記憶していたが、あっという間に認識を改めることになった。

 

 防御が得意などと、言っていられない。二人のツモ和了だけで飛ばされてしまいかねない。さりとて、二人の間に割って入るほどの力もない。ここで積み上げた練習の成果を発揮できるわけでもなく、秘められた能力が開花するわけでもない。

 

 募るのは、悔しさばかりだった。

 

 相手がプロだから。麻雀仮面だから。そんな言い訳は、慰めにならない。したくもない。まざまざと見せつけられる実力差。才能の壁。積み上げた努力の量。フラッシュバックするのは、インハイでの無残な点差。

 

「ロン!」

「す、すばら……っ?」

 

 意図しない振り込み。予想外の角度からの攻撃。

 ただただ蹂躙されるだけの、苦々しさ。

 

 ――けれども。

 

 悔しさは、同時に煌に安堵を与えてくれた。

 悔しさを感じられなくなったら、終わりだ。圧倒的な差を見せつけられて、絶望して諦めてしまったときが雀士としての死を迎える。

 

 ともすれば、辻垣内智葉との一戦を避けほっとした自分は、既にそうなっていたのではないかと考えていた。大好きな先輩や友人の仲間として、相応しくないのではないか――と、危惧していた。

 

 けれども、違った。ちゃんと悔しがれた。

 

 ――それも、これも。

 

 全部、あの諦めの悪い後輩の影響だ。

 失礼を承知で言えば、煌の目から見ても、特別才能があるようには見えなかった。きっと絶望したこともあっただろう。何度も諦めかけたのだろう。

 

 しかし、彼は抗い続けている。抗い続けて、前に進んでいる。

 

知らず知らずのうちに、彼の泥臭さに救われていたのだ。人は自分を前向きだとか、折れない心を持っているだとか評価するけれど、やりたい放題やられて、何よりも仲間の足を引っ張って、へらへらしていられるほど強くない。どこかで糸が切れていてもおかしくはなかった。

 

 全く、逃げられなくなるわけだ。こんな化け物相手に、無謀な戦いを挑みにいくわけだ。

 

「ツモ!」

 

 穏乃が和了る。煌の点数は最早風然の灯火だ。

大勢は決した。実力差を勘案すれば、ここから煌が逆転するのは不可能であろう。二人の麻雀仮面の点だけが拮抗している。

 

 だが。

 

このまま手も足も出ず負けましたでは、麻雀部員たち全員に顔向けできない。自分たちはインカレ優勝を目指しているのだから。取り囲む大学生のギャラリーからも舐められっぱなしで終われないのだ。

 

「リーチ」

 

 鬼面の麻雀仮面が、リー棒を卓に放る。

 ここぞとばかりに、煌は追いかけた。

 

「私もリーチです!」

「ほー」

 

 この麻雀仮面は、園城寺怜よりも攻めの姿勢に重点を置いている。勝算は、あった。何が何でも掴ませてやる、そんな気迫が漏れ出ていた。

 

「ポン」

 

 穏乃がツモ順をズラす。

 そして、鬼面の麻雀仮面の次順。ツモはならず、指先から牌が滑り落ちる。

 

「ロン! 7700! すばら!」

 

 威勢良く、煌は和了した。

 

「おおぅ。やるやん」

 

 振り込んだにも関わらず、鬼面は嬉しそうだ。点差もあるだろうが、純粋に煌の打牌を楽しんでいるようだった。

 

 迎える最終局。

 

 ――まだまだここからですっ。

 

 煌はこの劣勢にあって、逆転の目を探っていた。今の和了でまだ戦える手応えを感じたのだ。暫定トップは穏乃なので、彼女に勝たせるよう動くべきなのは理解している。それでも雀士の本能が、勝ちを求めてしまっていた。

 

 けれども、

 

「おっと、ツモや」

 

 あっさりと、鬼面の麻雀仮面が和了してしまった。ああ、と零れる溜息を押し殺せず、煌は椅子に背中を預けた。

 

 だが、沈んでばかりはいられない。

 

「俺とそっちの麻雀仮面が同点やけど、起家は俺や。俺の勝ちやな」

 

 勝者は鬼面の麻雀仮面だった。腕組みして、穏乃の面をにやにや笑いと共に睨め付ける。

 

 ――こ、これはマズいですよ……!

 

 焦る煌だったが、意外にも鬼面はふっと緊張を解いた。

 

「ほんまなら、ここでお前の面脱げ言うところなんやろうけどな」

「む……」

「ま、結構楽しめたし」

 

 麻雀仮面は煌に一瞬視線を送ってから、今一度穏乃に向き直る。

 

「今日のところは引き分けにしたるわ。これに懲りたらふざけた真似すんなよ」

 

 そう言い残すと、麻雀仮面はざわつく雀荘の中を颯爽と去って行った。誰一人として、声をかけることはできなかった。

 もう一度煌は深い溜息を吐いてから、

 

「お疲れ様でした」

 

 穏乃に労いをかける。しばらく穏乃は雀荘の出入口を眺めていたが、やがてこっくりと頷いた。

 

 それから煌と穏乃は、タイミングをズラして雀荘を出た。自分たちには数名から対局の誘いがあったが、全て丁重にお断りした。

 

 戻ってきたのは、穏乃の車。助手席に煌、運転席に穏乃が座る。パーキングからはすぐに車を出さず、始まるのは反省会。始まりから暴走、さらに負けた上、手心を加えられた。何に言い訳も立たない完敗だった。

 

「いやすみません、勝手に打ち始めてしまって」

「あ――い、いえ、仕方ないですよ。あの人を前にして、わくわくする気持ちは分かります」

 

 煌の謝罪に、穏乃はどこか心ここにあらずと言った様子で答えた。

 

「どうかしましたか?」

 

 気になった煌が訊ねると、穏乃は自分の両の掌を見つめながら、

 

「あの麻雀仮面……どこかで戦った気がするんです。それも、最近」

「……高鴨さんが最近戦ったとなると」

「プロの、誰かですね」

 

 驚きはなかった。そのくらいの実力はあるだろう。動機はさっぱり分からないままだが。

 

「ああ、もうー! すみません、私が勝ってたらもっと簡単だったのに。折角麻雀仮面見つけたのに」

「ああいえ、その点は問題ないですよ」

「えっ? また真・麻雀仮面作戦をするんですか?」

「いえいえ、それには及びません」

 

 煌は自分のスマートフォンの電源を起動する。画面に表示されるのは、この辺一帯の地図だった。そこに、青い光が一つ点滅している。

 

「なんですかこれ?」

「発信器です。先ほどどさくさに紛れてあの麻雀仮面さんに付けさせて頂きました。これで彼女を追いかけられます。あ、秘密にしておいて下さいね?」

 

 しばらくの間、沈黙があった。

 それから、いつも元気な穏乃にしては珍しく、やや暗めの声で訊ねた。

 

「やっぱり花田さんって、何者なんですか?」

「やっぱりただのしがない大学生ですよ」

 

 

 ◇

 

 

 麻雀仮面を示す光点は、池袋の一角に向かっていた。穏乃が車を走らせ、現場に急行する。先回りとまではいかなかったものの、

 

「いた……!」

 

 煌たちは彼女の背中を捉えることに成功した。あの極めてラフな格好、トゲトゲの頭。鬼面は外しているようだが、真正面に回り込めず顔は確認できない。しかしあの雰囲気は間違いなく、発信器の表示も間違いなく彼女を指し示していた。

 

「私の後についてきてください」

「はいっ」

「静かに」

「は、はい……」

 

 煌が先導し、尾行を開始する。穏乃はともかく自分は面が割れているため、慎重にならざるを得ない。

 

 距離を保ちつつ、煌はしっかり麻雀仮面を尾ける。幸い、露見する気配はなかった。

 麻雀仮面がまた別の雀荘に向かうのなら、近くの喫茶店で時間を潰そうかとも考えていた矢先のこと。

 

 麻雀仮面は、中心街からやや離れた場所にあるビルへと足を踏み入れた。外側から双眼鏡で注視していた煌は、彼女がビルの中にあるバーへ入って行くのを確認する。

 

「まだ真っ昼間なのに、お酒でも飲むつもりなんでしょうか」

「ちょっと待って下さい。あれって……」

 

 穏乃が眉間に皺を寄せて、何やら思案する。それからすぐに、はっと何かを思い出したようだ。

 

「私、プロになりたての頃あの店に一度だけ先輩に連れて行って貰った記憶があります。麻雀プロ御用達の店で、中で麻雀も打てるようになってるんです。店長さんが麻雀協会の役員さんと仲が良いとかで」

「……麻雀仮面のアジト、というわけですか」

「どうしますか?」

「行きましょう」

 

 さらりと煌は答えた。この一件に麻雀プロが関わっているのなら、取って食われるということもあるまい。ただ懸念も残る。煌は穏乃に向かって、

 

「高鴨さんはここで待っていて下さい。もしかしたらプロ同士のいざこざに発展するかも――」

「私も行きます」

「……」

 

 燃える瞳を、鎮める術を煌は知らなかった。恋心というのはどこまでも恐ろしい。仕方なく、煌は首肯した。

 

「ではできるだけ見つからないよう、忍び込みましょう。私たちの最終目標は須賀くんです。彼があそこにいるかどうか、それだけを確認したら撤退です」

「分かりました!」

 

 かくして二人はビルに向かう。

 バーは、当然ながら営業時間外だった。しかしドアノブはあっさり回ってしまう。

 音を立てずに、煌は中に侵入する。バーの中は暗く、先ほど入って行ったはずの麻雀仮面も含めて誰もいなかった。

 

「奥に階段があったはずです」

 

 穏乃の囁き声に応じ、煌はさらに歩を進めた。進言通り、店内に下へ降りる階段があった。慎重に、一段ずつ降りていく。

 

 静寂に包まれていた店内だったが、下のほうからは人の気配が感じられた。女性の声。衣擦れの音。――そして、打牌音。

 

 閉まりきっていない扉に辿り着く。漏れ出るのは、照明の光。

 煌と穏乃は頷き合い、そっと中を覗き見た。

 

「――っ」

 

 驚きに、煌は声を詰まらせる。

 その部屋には、情報通りに麻雀卓があった。そしてそれを囲むのは――

 

 仮面。

 仮面、仮面。

 仮面を着けた女性たち。

 

 幾人もの麻雀仮面たちが、そこにいた。

 

 ある種異様な光景。すわ何かの儀式か、と煌はごくりと唾を飲み込む。

 そんなときだった。

 

 

「ああーっ」

 

 

 急に、穏乃が大きな声を上げた。その理由を、遅れて気付く。――あったのだ。

 麻雀仮面に取り囲まれている青年。我らが麻雀部ただ一人の男性部員。彼を、探し求めてここまで来た。

 

 須賀京太郎の姿が、あったのだ。

 

 元気そうで一安心、というわけにはいかない。

 

「あ」

 

 穏乃が、自分の口を両手で塞ぐ。しかしもう遅かった。

 部屋の中の麻雀仮面たちが、穏乃の声に釣られて一斉にこちらを振り向く。感じるのは、殺気。

 

 一瞬の沈黙があった。

 

 その後、

 

「誰かあいつら捕まえぇっ!」

 

 麻雀仮面の咆哮と、

 

「逃げますよっ!」

 

 煌の指示が、重なった。

 だが、通路は狭く上手く走れない。追いつかれるのは必至。

 

 せめて穏乃だけでも、と煌は彼女の背中を押す。

 同時に、煌は羽交い締めにされてその場に押し倒された。

 

「うっ、くぅっ」

 

 顎を打ち、悶える。

 

「花田さん!」

「良いから行って下さい! 早く!」

 

 苦渋に顔を歪ませる穏乃に、煌はあえて微笑みかける。年長としての役割を果たせた。けれども、ああ、ここで私の冒険は終わりか――なんて陶酔に浸ることは、許されなかった。

 

「……あれ?」

「……ん?」

 上から押さえ付けてくる力が、弱まる。煌は訝しんで、顔を上げた。

 

「えーっとぉ……」

「え……?」

「花田?」

 

 煌を捕まえていた麻雀仮面が、その猫の面を外す。現れたのは、

 

「ひ……姫子? なんでっ?」

 

 旧知の仲、つい先日もお茶をした親友――麻雀プロ、鶴田姫子だった。

 

 お互い間抜けにぽかんと口を開けて、言葉も出ない。何故だ。彼女は麻雀仮面のことは知らなかったはず。なんでこんなところに。煌の頭の中で疑問がぐるぐる回るが、回答する者は当然いない。穏乃は足を止め、わらわらと麻雀仮面が集ってくる。しかし、襲いかかられることはなかった。全員が、困惑しているようだった。

 

 しかし混乱は、そこで収束しなかった。

 かつん、かつん、と階段を降りてくる足音が響き渡る。その場にいた全員が、そちらに視線を送る。

 

「は……?」

 

 降りてきたのは、煌もよく知る人物。だが、やはり間の抜けた声しか出てこなかった。

 

「……そんなとこで何しとるん? 煌ちゃん」

「恭子先輩こそ、どうしてここに?」

 

 東帝大学麻雀部部長。

 末原恭子、その人だった。

 

 

 ◇

 

 

「事の発端は、うちが洋榎に麻雀仮面のこと……園城寺の話をしてもうたことにあるんや」

 

 場所をバーに移して、恭子が滔々と説明を始める。恭子はいつも部室で話してるような調子だが、煌はどうにも落ち着かなかった。

 

 なぜなら、周りをずらりと取り囲むのは同世代のプロたち。

 

 高校の先輩でもある白水哩。

 親友の鶴田姫子。

 先ほど雀荘で戦った鬼面の麻雀仮面、江口セーラ。

 世界ランカー、フランス出身の雀明華。

 恭子の隣に座るのは、彼女と同じ姫松出身のサラブレッド・愛宕洋榎。

 

 他にもリーグで活躍するプロが多数。そうそうたる面子である。――その、彼女たち全員が麻雀仮面だったと言うのだ。

 

「うちらにとって、麻雀仮面の噂は率直に言って面倒やった。いつまで経っても消えへんしな。酒の場でそれを愚痴ってもうたんや。そしたら、洋榎が『別の麻雀仮面を作ればええ』って言い出してな」

「それはまた、どうして」

「毒をもって毒を制す、やないけど。シナリオはこうや。――新しい麻雀仮面が現れる。そんで暴れまくる。で、最後にプロ雀士だったと正体を明かす。そしたら、春の麻雀仮面もそうだったんやって世間に思わせられる。――らしいで」

 

 そういうわけか、と煌は引き攣った笑みを浮かべた。中々に荒っぽい作戦だ。

 

「煌ちゃんも思うやろ。無茶苦茶やって」

「そんな文句言うなや、グッドアイディアやろ」

「せめてやる前に一度相談欲しかった言うてんねん」

 

 胸を張る洋榎を窘めて、恭子は深い溜息を吐いた。

 

 大阪や名古屋で出現したのも、その一環。ある意味での予行演習だったらしい。ちなみにそれぞれ正体は愛宕洋榎と白水哩とのこと。

 

「いやしかし、その作戦によくこれだけのプロが乗ってきましたね……」

「もちろん私たちにも思惑はあった」

「哩さん」

 

 仮面を弄びながら、答えたのは先輩の白水哩。さらに彼女の言葉を、江口セーラが引き継いだ。

 

「来年U-21の世界大会があるやろ。秋口にその強化合宿をやるんや。大体プロとインカレ上位校の一部の選手を呼ぶ予定なんやけどな。それ以外にも、埋もれとる奴や急に伸びた奴がおるかも知れん。そういう奴らをな、俺たち自身の目で見極めたかったんや。ま、洋榎の作戦はそれに乗った形やな」

「ははぁー」

「繰り返しになるけど、さっきは楽しませて貰ったで。やるやん、花田」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 江口セーラに褒められて、嬉しくないはずがなかった。こそばゆい想いをしながら、煌はお礼を言う。

 ここで疑問の声を上げたのは、穏乃だった。

 

「あの、私そんな話聞いてなかったんですけど」

「一年目は免除したんや。……まあ、宮永も大星もお前もすぐにボロを出しそうやって意見が多いのもあってな」

「酷い!」

 

 ショックを受ける穏乃だったが、言い返せない様子であった。煌は苦笑いを浮かべてから、今度は親友に訊ねる。

 

「姫子はどうして? この間会ったときは麻雀仮面、知らなかったよね?」

「あの後哩さんと合流してから知らされたの。解説の仕事に加えて麻雀仮面もやらされて、大変やったよ」

「そういうわけですか」

 

 ようやっと、麻雀仮面に関する疑問は氷解した。

 だが、問題はまだ残っている。

 

「で」

 

 煌が口を開く前に、うんざりしたように声を上げたのが恭子だった。

 

「なんで須賀がここにおるん? しかも、かなり長いこと拘束してたんやろ?」

「えっとー……ですね……」

 

 部屋の隅で息を潜めていた京太郎が、冷や汗を流しながら言葉を詰まらせる。恭子の怒気は、煌にまで伝わってきた。

 

 彼がここにいる理由は、今までの話では説明がつかない。恭子も麻雀仮面の作戦は知れど、詳細な推移までは把握していなかったようだ。まさに、イレギュラーな存在だろう。

 

「す、須賀くんは私ば助けてくれたんです」

「え、えっ?」

 

 庇うように京太郎の前に立ったのは、まさかの姫子だった。あまり交流のない彼女の行動に恭子もたじろぐ。煌も狼狽した。

 

「私が鈍くさくて、仮面を外されそうになったんばい。そこば助けてくれたのが須賀くんで」

 

 姫子がちらりと京太郎の顔を見上げ、少しはにかんだ。哩はうんうんと頷いているが、穏乃は凄い勢いで京太郎と姫子に視線を送る。これはまた面倒なことになるかも、と煌は予感した。

 一方で慌てるように、恭子が立ち上がる。

 

「ちょ、ちょう待ち。じゃあなんでこんなとこに連れてきたんや。それでお別れしてばいばいでええやろ」

「逃げてるときに、仮面が外れてしまったんです。顔を見られたので、どうしたものかとみんなに相談しようとここまで来て貰ったんです」

 

 なるほど、と煌は一瞬納得しかけたが、

 

「口封じで軟禁してたってことですか? 不法侵入した私が責める権利はありませんけど……」

「それは――」

「それは、私から説明しますね」

 

 姫子の言葉を引き継いだのは、これまで黙っていた、この場唯一の外国人。

 風神、雀明華。

 説明しようとする明華を、恭子が制した。

 

「……いやいや。あんたもよう分からんのやけど。日本のU-21選考になんであんたが関わるん?」

「麻雀仮面はテルやヒロエに頼まれてお手伝いをしただけですよ。U-21の合宿に関してはノータッチです。ただ、私にも目的がありました」

 

 どこかおっとりとした立ち居振る舞いを崩さず、明華は京太郎の肩に手を置く。一瞬、一部でざわめきが起こったが煌は無視した。

 

「彼にも予定があったようですが、麻雀仮面の秘匿を優先させていただきました。あ、これはみんなで決めたことですよ?」

「では、貴女の目的というのは?」

 

 煌の質問に、明華はこっくりと頷いてから、言葉を繰る。

 

「……欧州では今、若手男子の強化育成プログラムに取り組んでいる大学の研究チームがあるんです。近年麻雀界では、男子は女子に押されがちですが、そこに風穴を開けたいという思惑がありますね」

 

 煌は居住まいを正す。しっかりと聞かねばならない話だと、すぐに理解した。部員に危機が迫りやや喧嘩腰だった恭子も、すっかり大人しくなり耳を傾けている。

 

「その強化育成選手候補を、今世界的に集めているんです。そして、日本に縁のある私や、ヨーロッパの試合にも参戦しているテルに、声がかかったんです。『有望な男子はいないか』、と。そして私たちは、彼に……須賀くんに目をつけました」

「え、ええーっ? どうして俺にっ?」

 

 京太郎も初めて聞く話なのだろう、驚きで目を丸くしている。しかし明華は淡々と説明を続ける。

 

「麻雀仮面として雀荘を渡り歩いた結果です。ここにはいませんが、テルも『推薦するなら彼』と言っていました。彼女とも先日打ったんでしょう?」

「あ……あのとき……」

 

 覚えがあるのか、京太郎は頷く。明華はにっこりと笑った。

 

「そして昨日からここで他の皆さんとも打って貰い、確かめました。――どうですか皆さん、彼の可能性は」

「俺は前から目つけてたからな。特訓も付き合ったことあるし」

 

 すぐに答えたのはセーラ。さらに、哩や姫子も、

 

「面白か打ち手ばい」

 

 と太鼓判を押す。

 

 こうなると、煌は何も口を挟めない。麻雀に関して、彼女たちに意見を出せる立場ではなかった。それに何より、煌も同意できる評価だった。

 

 それは、恭子も同じだろう。後輩が褒められたのは嬉しいだろう。

 けれども、この後に続く話は単純に喜べないものと分かっていた。

 

 明華は、京太郎の前に立って微笑みかける。

 

「スガキョウタロウくん」

「は、はい」

「今お話しした強化育成プログラムに参加する意思はありませんか。場所はイギリス、向こうの大学に留学する形になります。旅費、滞在費、その他諸経費は全てこちら持ちです。単位を取得しながら、麻雀に打ち込める環境――各種研究施設、何よりも世界中から集められた選りすぐりの雀士たちがいる環境に身を置くことができます。これは、貴方にとって決して悪くない話のはずです」

「…………い、いつからですか。期間は?」

 

 絞り出すように、京太郎が訊ねる。さらりと、明華は答えた。

 

「急な話で申し訳ないのですが、すぐに決断して頂けるのならこの秋からでも。期間は……そうですね。貴方次第ではあるんですが、半年から一年は見込んで下さい」

 

 進んで行く話を、煌は止められない。穏乃もまた、同じく。

 ちらりと、縋るように煌は恭子の横顔を覗く。しかし、表情からは彼女の考えは読めなかった。感情が消えた、表情だった。

 

「キョウタロウくん」

 

 今一度、明華は京太郎の名前を呼ぶ。

 

 

「留学の話。是非、ご検討下さいね」

 

 

 伸ばされた彼女の手を、京太郎はおずおずと握りかえした。

 その様を、煌と恭子は見守るしかなかった。

 

 

 

            Ep.10 すばら探偵花田女史のシークレットファイル おわり




次回:Ep.11 たかみープロデュースフェアウェルティーパーティー
    11-1 賛否問答



残りはEp.11とEp.12のみとなりました。
完結目指してできる限り頑張りますので、よろしくお願い致します。


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Ep.11 たかみープロデュースフェアウェルティーパーティー
11-1 賛否問答


 全日本学生麻雀選手権大会、通称インカレ。

 

 地区リーグ戦を勝ち抜き、上位成績を残した大学のみが出場できる、大学麻雀最高峰の大会である。何年にも渡る雀士たちの努力がぶつかり合う、アマチュアの大会でも一、二を争う注目度を誇っている。

 

 その夏の熱闘が、今まさに終幕を迎えようとしていた。

 

『決ィまったぁああああ! 最後は竹井選手、地獄単騎待ちを見事ツモって試合終了! 優勝は、中部リーグ一位、長野の信央大学だああああっ!』

 

 やけにテンションの高いアナウンサーが、勝敗を告げる。誰もがはっとさせられる通る声だが、しかし尭深は表情一つ変えずにテレビ画面を眺めていた。

 他には誰もいない、静かな自室。光源はテレビ画面のみで、暗がりの中尭深は独り膝を抱えていた。

 

 勝利に右腕を掲げる竹井久の姿は、三年前のインターハイでも見た。そう、あのときもしてやられた。

 

『強豪聖白女、三橋、西阪敗れる――! 東京と大阪以外に優勝旗が持ち帰られるのは五年ぶりのことです!』

 

 苦々しく顔を伏せている弘世菫の姿を、カメラが捉えた。これもまた、三年前の焼き直し。普段であれば、尭深も深く悲しんだことであろう。大学ではライバルとは言え、高校でお世話になった先輩なのだ。

 

 けれども、今の尭深はその菫の姿さえ、無感動に見つめるばかり。菫が悪いわけではない。ただ、どんな出来事でさえも、尭深の心を動かすことはできない。

 

『竹井選手は三年前もインハイ団体戦を制しており、再び名声を――』

 

 リモコンを操作してテレビの電源を落とす。アナウンサーの声はぶつ切りになったが、それで良かった。何もかも、雑音にしか聞こえなかった。

 

 ばたん、と尭深はベッドに倒れ込む。既に夜も更けている。このまま眠ってしまおうか、とも考えたが、寝付ける気がしなかった。

 

 自然とスマートフォンに手が伸び、画面をタップしてしまう。

 恭子から送られてきた文面を読み返し、電話でも聞いた内容が頭の中でリフレインする。

 

『須賀に麻雀留学の話が来た』

 

 その度に、胸がざわめく。

 ずっと一緒にいられると思っていた。大学生活は長いと思っていた。他の誰かと一緒になって、自分の傍から離れていく想像をしたことはあった。

 だが、この展開は予想外だった。欠片たりとも、考えつかなかった。

 

 ごろん、と寝返りを打つ。

 

 どうすれば良いのか、分からない。明日彼に会って、何と話せば良いのか皆目検討がつかない。いつもなら、少しの胸の高鳴りを幸せに感じながらそっとお茶を出していれば良かった。それから他愛もない世間話をして、講義とレポートの愚痴を聞いて、そして麻雀を打つ。それだけで良かった。けれども明日は、いつもと同じようにお茶を出せる自信がない。

 

 寝ても覚めても、彼のことばかり。

 いつの間にか、尭深の心の中の大部分を、彼が占めていた。

 

 ――みんなは。

 

 麻雀部のみんなは、どうするのだろう。応援するのだろうか。引き留めるのだろうか。

 そうだ。みんな、彼と離れ離れになるのは嫌な筈だ。まだ確実に京太郎が留学すると決まったわけではない。彼だって、望んで東帝大学に進学してきたのだ。みんなで引き留めれば、残ってくれるはずだ。

 

 尭深はそう結論づけ、ようやく訪れた睡魔に身を任せる。

 彼女が眠りに就いた時刻は、午前三時を回っていた。

 

 

 ◇

 

 

 翌日、朝から始まった麻雀部の活動は目に見えてぎくしゃくしていた。六人全員が同時に顔を合わせるのは久しぶりだ。積もる話もあるはずなのに、しかし会話は少ない。

 

 しかも、明らかに京太郎の留学の話は避けられていた。恭子も、まるでそんな話はなかったかのように振る舞っている。尭深には、その本心までは見抜けなかった。

 

 卓を囲むのは、恭子、宥、煌、怜の四人。

 尭深と京太郎はあぶれてしまったが、二人の間にやはり会話はなかった。

 

 お茶を淹れながら、尭深はちらりと京太郎の様子を窺い見る。彼はカバーのかけられた書籍を読み耽っている。いつもなら麻雀の教本だと考えるところだが、今日は違った。英国に関する本なのではないだろうか、と尭深は疑念を抱く。彼は留学に乗り気で既に準備を始めているのではないか、と思うのだ。

 

 ――どうしよう。

 

 何を読んでいるの、その一言が出てこない。普段であれば簡単に訊ねられたのに、口が全く開いてくれない。

 

 原因は、分かっている。話し始めれば、留学の話題になるのは当然の流れだ。そして、もしも彼から「行くつもりだ」という答えが出てきたとき、平静でいられる自信がなかった。

 

 淹れたお茶を、恭子たちに配り終える。後は京太郎だけだった。

 

「……どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 

 湯飲みを受け取る京太郎の顔を、直視できない。いつものことだが、今日は意味合いが違った。胸が締め付けられるようで、苦しい。

 

「……渋谷先輩?」

 

 気が付いたら、ずっと京太郎の前に突っ立っていた。心配そうに、彼が顔を覗き込んでくる。尭深は慌てて一歩後退った。

 

「あの」

 

 衝動的に、言葉が溢れそうになる。異変に気付いたのか、恭子たちも尭深に視線を送った。

 

「須賀くん――」

 

 尭深が彼の名前を呼んだ瞬間、

 

「失礼しまーす」

 

 ノックと同時に、部室の扉が開かれた。

 部員たちが全員、そちらの方向に振り向く。 

 

 あ、と尭深の口から短い息がこぼれ落ちた。昨日、テレビで見た顔。今日本で一番話題になっていると言っても過言ではない大学生。

 

 ふわりとした髪を揺らし、自信に満ちた笑みを浮かべる女性。三年前、インハイで自分たちを打倒した長野清澄高校で部長を務め、そして今は信央大学麻雀部大将。

 ――かつての京太郎の先輩。

 

 竹井久、その人であった。

 

「おっと、いたいた。久しぶりね、須賀くん」

「部長! お、お久しぶりですっ」

「あらあら、私が部長だったのもう何年も前の話よ」

 

 高校時代から周囲よりも大人びた雰囲気を醸しだしていた彼女だったが、その美貌には磨きがかかっていた。それでいて、くつくつと笑う姿は幼く愛らしくも思える。尭深にとって、恭子や菫と言った部長として仰ぎ見た先輩たちとはまた違う、不思議な女性だった。

 

 さらに久の背後から、眼鏡の女性が現れる。こちらも見覚えがあった。竹井久の後輩、染谷まこだ。

 

「ああ、染谷先輩もお久しぶりです」

「久しぶりじゃな、京太郎。元気にしとったか」

「お陰様で。――すみません、お二人とも。団体戦の応援に行けませんでした」

「ああ、良いの良いの。事情は聞いてるから」

 

 掌をひらひら振って、久は頭を下げようとする京太郎を制する。

 三人の間に流れる空気はとても気安く、年月を感じさせられた。実際には久と京太郎は一年間しか高校生活が被っていないはずだが、それでも尭深にはそう感じられたのだ。

 

 僅かなやり取りで垣間見た青春時代の積み重ねに、尭深は戸惑う。彼らの中に、入っていけない。

 しかし、

 

「――竹井さん」

 

 そこに堂々割って入ったのは、我らが部長、末原恭子だった。尭深はそろりと後ろに下がり、煌、宥、怜と横並びになって彼女たちの様子を窺う。

 

「あ、ごめん、末原さん。練習中に突然お邪魔して」

「や、気にせんでええ。それよりもどうしたん? まだインカレ個人戦残っとるやろ」

「個人戦は明日からで、今日は中一日お休みだから。大会期間が終わったら、すぐに長野帰らなくちゃ行けないし、須賀くんに会っておこうと思ってね」

「ああ、なるほど」

 

 元々久は、この場のほぼ全員と面識がある。すんなりと恭子は得心した。

 しかし京太郎は、まだ少し困惑しているようだ。

 

「それにしたって急すぎですよ。どうしたんですか」

 

 彼がそう訊ねると、久は笑って、

 

「まあ応援に来なかった後輩は無視してさっさと帰ろうと思ってたから。元々予定になかったもの」

「うっ、やっぱり気にしてるんじゃないですか……」

「冗談よ、冗談」

「久、あんまり虐めんほうがええ」

 

 まこに窘められ、はーい、と久は調子外れの返事をする。どこか緩い空気に、ただ挨拶に来ただけなのかと、尭深は納得しそうになる。

 

 しかし久は、次の瞬間には真剣な表情を作っていた。

 

「実際、今日来たのは例の件を聞いたからよ」

 

 例の件、と京太郎が不思議そうに首を傾げる。一方で尭深は、すぐに理解した。心にずきり、と痛みが走る。止めて、と叫びそうになった。

 

「留学の話、来てるんでしょう? 昨日の晩、知り合いのプロから聞いたわ」

 

 久がその言葉を口にした瞬間、部室の空気が凍るのを尭深は感じた。煌も宥も怜も――そして恭子でさえも、横一文字に唇を引き結ぶ。

 

 今日ここまで、誰も触れようとしなかった話題。それが、こんな形で白日の下に晒されるとは思いもしなかった。

 

 京太郎は、少し視線を彷徨わせる。彼を見つめていた尭深は、当然、彼と目と目が合ってしまう。だがすぐに、尭深は顔を伏せた。見ていられなかった。

 

「……ええ、まあ」

 

 居心地の悪い想いをしているのだろうか。京太郎は、歯切れ悪く答える。一方久は、高い声を上げた。

 

「良かったじゃない! 貴方に麻雀の手解きをした人間として、鼻高々だわ。それで、いつから行くの?」

「え、い、いつからって……」

「行くんでしょう? イギリス」

 

 当たり前だろう、と久は目を瞬かせる。

 

「いや、決めたわけではなくて」

「もしかして、悩んでるの?」

「それは……そうですよ。留学となると、色々と――」

「行くべきでしょ」

 

 京太郎の言葉を遮って、久はあっけらかんと言ってのける。尭深は呆気にとられて、何も口を挟めない。自分より気の強い恭子や怜も同じようであった。と言うより、今この場は圧倒的に竹井久が支配していた。

 

「言葉とか気にしてる? ポンとチーとカンとロンとツモさえ言えればなんとかなるわよ。大体貴方、こんな大学に入ったんだから英語くらいちょっとやれば喋れるでしょ。一生過ごすんじゃあるまいし、文化の違いも楽しむくらいで行かなきゃ。――何よりね」

 

 びしりと久は京太郎を指差して、言った。

 

「こんなチャンス、二度やってくる保証なんてないわよ。ここでリスクを恐れて、前に進めないようじゃ雀士としては失格だわ」

「――……部長」

「だから部長じゃないってば」

 

 呆れたようにくすりと笑って、久は京太郎から距離を取る。

 

「ま、好き勝手言わせて貰ったけど、決めるのは須賀くんよ。貴方が納得するよう道を選べば良いんだから」

「ありがとうございます。わざわざアドバイスしに来てくれたんですね」

「そういうことよ、感謝してよね」

「調子乗りすぎじゃ」

 

 まこに突っ込まれて、久は悪戯っぽく笑う。これが他人事なら、微笑ましい光景に見えただろう。しかし尭深にとっては、苦々しいやり取りであった。

 まさか、こんなタイミングで背中を押す人が現れるなんて。しかも、高校時代の部長。彼に与えた影響は大きい人物のはずだ。

 

「話は――終わりか?」

 

 ずい、と恭子が今一度前に出る。

 

「竹井さん。あんまりうちの部員に、余計なこと言わんといて貰える?」

 

 今や彼女は、剣呑とした空気を隠していない。はっきりとした怒気が、漏れ出ていた。これには尭深が、逆に冷静になる。相手はあくまでお客様。大学間でも名だたる打ち手。余計なトラブルが起きてはいけない。

 

「余計なこと?」

 

 しかし――敵もさることながら、だった。

 久は、恭子の敵意を鼻で笑う。

 

「私はただ、彼の初めての師匠として助言をしただけよ?」

「もう須賀はうちの部員や。悪いけど竹井さん、あんたはもう関係ない」

「部の方針には確かに口を出せないわね。でも、個人がどう思うかまで文句を言われる謂われはないわ」

 

 火花が、散る。かつてインハイで、直接ではないにしろ学校同士で戦った二人。彼女たちが、今一度矛を交えようとしていた。

 

「部員が一人いなくなるかも知れんのや。うちらが一緒になって考えなあかん話や」

「あら。須賀くんがいなくなっても、女子が公式戦に出るのは問題ないはずでしょ。元々男子部員は須賀くんだけ、団体戦には初めから出られないんだから、誰にも迷惑かけないでしょう」

 

 彼女の言葉は正論だ。ぐうの音も出ない、正論だった。

 

「須賀くんはっ」

 

 そして、胃がむかむかする正論だった。一瞬で沸騰した尭深は、彼女にしては極めて珍しく声を荒げていた。

 

「須賀くんは、私たちにとって大切な部員ですっ。いなくなっても迷惑がかからない、なんてことはありませんっ」

 

 部室の空気が、凍り付く。恭子を初めとする、東帝の麻雀部員でさえもぽかんと尭深を見つめていた。注目を浴びる尭深は、頬を赤らめて顔を伏せる。しかし、逃げ出すような真似はしなかった。

 

「……機嫌を損ねたなら、謝るわ。それに勘違いした発言だったことも」

 

 意外、と言っては失礼だろうか、久はぺこりと頭を下げる。

 

「ただ、私個人は、条件を鑑みたとき須賀くんは留学に行くべきだと――そう思った上での発言と、理解して頂戴」

 

 しかし、そこだけは久は譲らなかった。途端に、尭深は激しい羞恥心に襲われる。

 彼を真に想っているのはどちらなのか――それを、まざまざと見せつけられた想いだった。久はしっかりと現実を見据えて、彼のことを一番に考えて話していた。例えそうすることで、反発を招くものだとしても。それさえも覚悟の上で、彼女は発言していた。対する自分はどうだ。子供染みた我が儘な感情を、ぶつけただけだ。

 

「尭深さん」

「尭深ちゃん」

 

 怜と宥が、肩を抱いてくれる。情けなかった。

 どうしようもなくなったこの場をとりなそうとしたのは、やはり部長の恭子だった。彼女は久とまこに詰め寄って、

 

「悪いけど、出てって貰えるか。練習せなあかん」

「むぅ。見学させて貰いたかったけど、遠慮しとくか」

「初めから見学なんてさせんわ」

「どうして?」

 

 訊ねる久に、恭子は鋭い視線をぶつける。

 

「あんたらは、うちらが倒すべき相手や。その相手に、手の内を見せるわけにはいかんやろ」

「挑まれる立場っていうのも悪くないけれど」

 

 ふふん、と久は鼻で笑う。こればっかりは、完全に挑発だった。

 

「東帝は今二部リーグだったわよね。『ここ』まで上がって、来られるのかしら?」

 

 その問いに、答えたのは。

 

 恭子でも、宥でも、煌でも、怜でも、ましてや尭深でもなかった。

 

「来ます」

 

 京太郎、だった。

 

「東帝は、来年必ずインカレに出場して――部長たちを倒して見せます」

「……だから部長じゃないってば」

 

 久は一瞬鼻白んだが、すぐにおどけて言い返す。

 

「でも分かった」

 

 インカレの頂点に君臨する女性は、ぐるりと東帝大学麻雀部を見渡して、宣言した。

 

「待ってるわよ」

 

 

 ◇

 

 

「三日以内に、結論を出します」

 

 その日の部活動を終え、京太郎は尭深たちにそう伝えると、帰っていった。今日ばかりは、怜は彼にひっついていかなかった。「友達と会う約束がある」と見え見えの嘘をついて別の方向に去って行った。

 

「尭深ちゃん」

「は、はい」

 

 帰り際、恭子に声をかけられる。

 

「夏期合宿の件、準備進めといてくれとる?」

「あ、はい、それは大丈夫です。今日も宥さんと打ち合わせする予定で」

「そっか。ありがとな」

「いえ、春季合宿は末原先輩たちに任せっきりでしたから」

 

 僅かな間、沈黙した後、恭子は言った。

 

「須賀が、留学しようがしまいが、合宿には参加するって。時期的にも可能やからな。人数、減らす必要ないで」

「……分かりました」

 

 尭深は、こっくりと頷く。恭子はしばらく心配げに尭深の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐くと、「ほな、また」と帰途に就いた。

 

「私も帰りますね。バイトが入っているので」

「煌ちゃん」

 

 背中を叩かれ、尭深は振り返る。珍しく、少し疲れた顔をした友人は、どこか物寂しげな苦笑いを浮かべている。

 

「気をつけて帰って下さい」

「うん。大丈夫。宥先輩と一緒だから」

「はい。では」

 

 煌も、自分のことを心配しているようだった。それを自覚し、また尭深は溜息を吐きたくなる。

 

 最後に部室から出てきたのは、宥だった。

 

「それじゃ、私の家まで行こっか」

「はい」

 

 合宿の打ち合わせは、宥のアパートで行う予定だった。尭深は彼女と肩を並べて、大学の構内を歩く。既に陽が落ち始めていたが、まだまだ気温は高く軽く汗ばむ。しかし宥にとっては過ごしやすい環境のようで、自然と頬が綻んでいる様子だ。

 尭深は、勝手ながら宥に親近感を抱いていた。どこか似た者同士だと。煌や恭子、怜たちとは違った意味で、そばにいて気安い。

 

 だから、思った。

 彼の留学に関する、彼女の意見。それは――

 

「宥先輩は」

「うん?」

「須賀くんの留学について、どう思われてますか?」

 

 その問いかけには、無自覚の期待が含まれていた。

 しかしそれは、あっさりと裏切られることになる。

 

「行くべきだと、思ってるよ」

「え」

「須賀くんに相談されたら、そう答えるつもりだった」

 

 尭深は、足を止める。三歩遅れて、宥も歩みを止めた。

 

「尭深ちゃん?」

「……どうしてですか? 須賀くんが、遠くに行っても良いんですか?」

 

 詰問するような口調になるのを、尭深は止められなかった。宥は少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの優しげな顔に戻っていた。

 

「良いか悪いかで言ったら、悪い、かな」

「なら」

「でも、私は知ってるの」

 

 穏やかな宥の声が、尭深の声を遮らせる。

 

「慣れ親しんだ場所から遠くに出て行って、初めて見つかるものもある。色んな出会いがある。そういうのが全部、自分を豊かにしてくれるんだ」

 

 私はそれを知ってるの――と、宥は、自分に言い聞かせるように繰り返す。

 

「だから」

「宥、先輩」

「行くべきだと、思ってる」

 

 尭深は、何も言えなくなる。

 健気に微笑む彼女を前にして、それ以上何か言えるわけがなかった。

 

 

 




次回:11-2 回答


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11-2 回答

 夏期休暇中ではあるが、夕刻の学食はそれなりに人で混み合っていた。半分以上は自分たちと同じような部活やサークル活動に勤しむ学生のようだ、と尭深は察する。どのグループも活気に溢れていて、楽しそうだった。羨ましい、と僻みにも似た感情を芽生えるのを自覚する尭深だったが、自覚したところで止められるわけでもなかった。

 

「それで」

 

 カレーライスの載ったトレイが、目の前の席に置かれる。

 

「話というのは」

「あ……うん」

 

 対面に座ったのは、煌。思索に耽っていた尭深は現実に引き戻され、煌と向かい合う。

 相談がある、呼び出したのは尭深のほうだった。しかし尭深は俯き、話を切り出せない。見かねた煌は苦笑交じりに、訊ねかけた。

 

「須賀くんのことですか」

「……うん」

 

 言い当てられ、もはや取り繕うこともせず、尭深はこっくりと頷く。

 

「煌ちゃんは、須賀くんの留学に……反対?」

「卑怯な言い方かも知れませんが、どちらでもないですね」

 

 それは、またしても尭深の望む答えではなかった。じわり、と汗が滲む。

 

「どうして?」

 

 自然と、詰問する口調になってしまう。部室での竹井久との一件に続き、ここまで尭深が感情を露わにするのは珍しく、煌は一瞬面食らったようだった。しかしすぐに穏やかな笑みを浮かべて、

 

「私には、ここで『必ず行くべきだ』と言えるほどの経験と自信がありません。でも、『絶対に行って欲しくない』なんて言って、彼の選択肢を縛れるほどの立場だとは思っていません」

 

 その言葉は、ぐさりと尭深の胸に突き刺さった。

 

「何にせよ、須賀くんが一番に相談すべき相手はご家族でしょうし。だから私は、私が彼の選択に口を挟むべきではないと思っています。もちろん、相談を受けたら最善の一手を一緒に考えるつもりですけど」

 

 今のところ受けていませんけどね、と煌は冗談めかして言った。しかし尭深は笑えなかった。そう、確かに自分と彼は同じ部活の先輩と後輩だ。大切な仲間だ。けれどもそれが、彼の人生に影響を与える免罪符にはなり得ない。

 

 あるいは竹井久のように、確固たる信念を持つ人間ならば在り方も違うのだろうが――尭深は、彼女ではない。どちらが正しいというわけではなく、考え方の相違なのだ。

 

「尭深は、どうなんですか」

「どう、って」

「須賀くんの留学。賛成なんですか、反対なんですか」

 

 この質問は、宥にもされた。人に訊ねておいて、しかし、

 

「……分からない」

 

 自分の答えは、出ていない。分からなかった。膝の上に置いた手が、自然と握り拳になっていた。

 

 ――分からない。

 

 尭深は何も、答えられなかった。

 

 

 ◇

 

 

「私もめっちゃ考えたけどな」

 

 翌日、たまたま部室で怜と二人きりになったとき、尭深は彼女にも同じ質問をぶつけた。怜は、はっきりと京太郎に好意を寄せている。そのくらいは尭深でも分かるし、公言さえしていた。だからきっと、部で一番に反対するのは彼女だろうと尭深は思っていた。

 

「行って欲しい、って思っとる」

「え……」

「引き留めると思た?」

 

 雀牌の汚れを拭き取りながら、怜は自嘲に塗れた笑顔を作る。図星を突かれた形になる尭深は、言葉を詰まらせた。

 

「尭深さんが言いたいことは分かる。けど、私の結論は、行って欲しい。消極的な賛成と違うで? きょーちゃんが行かないなんて言い出したら、背中蹴り飛ばそう思っとる」

「どうして……ですか」

 

 声が震える。煌にしたように、問い詰める口調にはならなかった。それよりも、動揺のほうが激しかった。

 

 怜は、そんな尭深を慮るように、落ち着いた声で語りかけてくる。

 

「きょーちゃんがいなくなるかも、って考えたときな。正直、めっちゃ怖なった。東京で生活するんも、麻雀を打ち続けるんも、何もかも。それで、ああ、甘えてたんやなって気付かされた。そんなつもりはなかったけど、そうならないようにしてたつもりやったけど、いつの間にかずるずるもたれかかってた」

 

 でもな、と怜は言葉を翻す。

 

「私が目指してる場所は、一人でも立てなあかんところやから。もちろん、一人だけの力で辿り着けるところやない。けど、最後の最後、きっと一人で踏ん張らんとあかんときがくる。そのとき、後悔したくないんや」

「後悔……ですか」

「うん。今私が目指しとるもんは、私一人だけやったら、とっくの昔に諦めてたやろうから。支えてくれた人たちがいて、初めて私は前に進めたんや。その人たちを、裏切るような真似はしとうないから。――ま、ぐだぐだ言うたけど、これも一つの試練と思て頑張るだけや」

 

 からっと笑う怜からは、強がりにも似た感情が見え隠れするのを尭深は感じ取った。しかし怜は、ここで「強がる」ことを選んだのだ。きっと、この先本物の強さを手に入れるために。今を逃げずに、未来で戦うために。

 

 多分それは、自分にも必要な強さなのだと尭深は思う。けれども、怜の意見にすぐに乗りかかる気にもなれなかった。――納得できない。反発心と言っても良い。おそらく怜に対して、初めて尭深が抱いた感情だった。

 

「理解できへん?」

 

 心の中を見透かしたかのような怜の質問に、尭深は思わずかっとなった。さりとて反論できるわけでもなく、俯くばかり。苦笑混じりの溜息が、怜の口から漏れ出たのを感じた。

 

「できへんくてもええよ。私と尭深さんは違うやろ?」

「それは――」

「せやから、教えて」

 

 どこか挑戦的な態度で――そう感じるのは穿ち過ぎであろうか――怜は、再び問いかけてくる。言葉が紡がれるよりも早く、尭深は耳を塞ぎたくなった。

 

「尭深さんは、どうしたいん?」

 

 答えなど皆目見当つかない、質問だと分かっていたから。

 

 

 ◇

 

 

 その日の夜、尭深は高校時代の先輩である菫の邸宅を訪れていた。元々企画されていた、チーム虎姫の軽い同窓会兼聖白女のインカレ慰労会である。中核メンバーであった宮永照は国外遠征に出ているため生憎の不在であったが、他の四人は久しぶりに揃うことになった。

 

「竹井め、来年は絶対に叩きのめしてやる……!」

 

 ささやかな女子会は、信央に惜敗した菫の愚痴から始まった。ごくごくとビールを呷る彼女を、誠子が「まあまあ、その辺にして」と宥める。普段であれば誠子に協力する尭深だったが、今日はそんな気力も湧かなかった。

 

 それに、腑に落ちない点がある。

 

 淡だった。

 

 彼女は京太郎への好意を隠そうとしていないし、事実一度スキャンダル騒動にまで発展した。そして今、京太郎には留学の話が持ち上がっている。今日の女子会でも、すぐにその話題が飛び出すかと思いきや、淡はにこにこと笑いながら菫をからかうばかりだ。まるで気にも留めていないような態度に、尭深は苛立ちにも似た感情を抱いていた。

 

「そう言えば」

 

 酔いも充分回ってきたところで、菫が思い出したかのように切り出した。

 

「尭深」

「なんですか」

「須賀くんに留学の話が来ているそうじゃないか。照が言っていたぞ」

 

 湯飲みを握る尭深の手に、力が込められる。伝わってくる熱など、気にする余裕はなかった。

 

「相当良い条件なんだろう?」

「……はい」

「となると――淡」

「ん?」

 

 菫に呼ばれ、クッキーを頬張る淡が首を傾げる。実際に彼の留学が話題になっても、彼女は表情一つ変えなかった。

 

「お前は良いのか」

「良いのかって、何が?」

「須賀くんがしばらく遠くに行ってしまうかも知れないんだぞ。お前、よく平然としていられるな。それとも心変わりでもしたのか」

 

 尭深の言いたいことを、菫はずばりと言ってのけた。しかしそれでも淡は、全く気にする素振りを見せなかった。

 

「心変わりなんかするわけないじゃん。キョータローは今でも大好きだよ?」

「じゃあどうしてそう気楽に構えてるんだ」

「もう引き留めたのか? あるいは、こっちに残ると思ってるのか?」

 

 菫と誠子が、若干責めるように言葉をたたみ掛ける。それでようやく、淡は咀嚼を止めた。ただ、纏う空気は一変もしなかった。

 

「きっとキョータローには、私みたいな麻雀の才能はないんだ」

 

 最初に出てきた失礼ともとれる返答に、菫が眉根を寄せる。しかし構わず淡は言葉を紡ぐ。

 

「でも、キョータローはずっと頑張り続けた。私に笑われて、絶対凄く悔しかったのに、私が想像もできないくらい悔しかったのに、頑張ってた。それはたぶん、才能ある人間が麻雀を頑張り続けることよりも難しいことだと思う。そうやって積み重ね続けて、手に入れたチャンスなんだよ」

 

 淡の視線が菫から誠子へ、誠子から尭深へと移ろう。目と目が合った瞬間、尭深はどきりとして俯いてしまった。淡はやや苦みを滲ませた声で、続けた。

 

「キョータローの頑張りを一度でも笑った私が、そのチャンスに口を出しちゃいけないんだと思う。自分勝手な想いをキョータローにぶつけて、悩ませちゃいけないって思うんだ」

 

 だから、と淡は微笑んだ。

 

「私はキョータローの選択を、全力で応援する。今更ジタバタしない。それだけ」

 

 言葉足らずで、おそらく淡自身にしか理解しえない、しかし誰にも否定できないであろう結論だった。

 

 いつまでも子供っぽさが抜けきらない、と誰かが淡を評したことを、尭深は思い出していた。けれども今の彼女はどうだ。そのような評価は、全く当てはまらないだろう。

 

「そんなものか」

「そんなものなの」

 

 菫が理解できないと言った様子で頭を振るのに対し、淡は屈託なく笑う。そこに、嘘偽りはないと断言できた。だからこそ、尭深の心を酷くざわめかせるのだ。

 

「淡はそれで良いとしてさ」

 

 ペットボトルのジュースをグラスに注ぎながら、誠子は尭深に目を遣った。

 

「尭深のところはどうなんだ?」

「え?」

「え? じゃないよ。須賀くんは東帝の部員だろ? やっぱり彼が留学となると色々と問題になってるんじゃないか?」

「それは……」

 

 尭深は返答に窮する。

 

「お前はどうなんだ」

 

 菫もまた、誠子に追従した。

 

「尭深自身は、須賀くんの留学に賛成なのか、反対なのか――どっちなんだ?」

 そして、答えの分からない質問を投げかけてくる。迷いばかりが膨れ上がる、質問を。

 

 

 ◇

 

 

 翌日朝。

 

 深酒をしたにも関わらず、尭深は早朝から大学の部室棟を訪れていた。一睡もできなかった、というのが実情だ。

 

 何故なら今日、京太郎が進退を決める日なのだから。おそらく練習前のミーティングで、彼の口から発表されるはずだ。

 蝉の声がうるさく、流れ落ちる汗が煩わしい。足取りは重く、部室棟の階段を上がるのにも一苦労だった。

 

「あれ?」

 

 流石に自分が一番乗りかと思いきや、部室のノブはあっさりと回ってしまった。ドアを押し開くと、そこにいたのは、

 

「末原先輩」

「あ……尭深ちゃん。早いな。おはよ」

 

 深く椅子に腰掛けた、部長の末原恭子だった。いつもは履かないようなスカート姿で、おめかしをしている。これからどこかに出かけるのか、と一瞬尭深は考えたが、恭子は部活動の練習を放棄して遊びに行くような人間ではない。そもそもサボる意図があろうものなら、わざわざ部室棟に近づかないだろう。尭深に見つかって焦る、と言った様子もない。

 つまり、既に出かけた後ということだ。

 尭深は湧いた疑念を恭子にぶつける。

 

「もしかして、ずっと部室にいたんですか?」

「あ、うん、昨日から。家に帰る気ならんくて。ああ、練習始まる前にお風呂入りに帰らなあかんな」

 

 尭深は眉根を寄せた。帰宅もせず、部室で一夜を過ごすなど尋常ならざる状況ではないか。どうしたのかと訊ねようとし、しかし尭深はできなかった。

 明らかに、目元に泣き腫らした跡があったのだ。

 

「すぐ戻ってくるから、留守番お願いな」

「ちょ……ちょっと待って下さい!」

 

 尭深は珍しく声を荒げ、部室を出て行こうとする恭子を呼び止める。

 

「どないしたん?」

 

 笑って振り返る恭子に、何と声をかければ良いのか分からない。恭子の事情をこの一瞬で全て看破するほどの洞察力を、尭深は持ち合わせていない。しかし彼女は、本能的に答えを導き出していた。

 

「須賀くんと」

「え?」

「須賀くんと、何かあったんですか」

 

 尭深の質問に、恭子は目を逸らした。――ああ、なるほど。一人尭深は得心する。しかしそれ以上重ねる言葉も見つからず、部室はしばしの間沈黙に包まれた。

 

「……うん」

 

 やがて恭子は、真っ直ぐに尭深を見つめ、頷いた。

 

「たぶん、うちにしかできへんこと、やった」

「末原先輩にしか、できないことって、なんですか」

「そんな複雑な話と違うよ」

 

 恭子は深い苦笑を浮かべ、言った。

 

「ただ、京太郎の背中を押しただけや」

「――……」

 

 尭深は言葉を失い、呆然と立ち尽くすだけだった。そうしている間に、恭子は「ほな、また後で」と言い残し去って行く。

 

 尭深は恭子が座っていた椅子に腰を降ろし、一人、部室で呆けていた。

 何も考えず、あるいうは考えられず、彼女はずっとそうしていた。

 

 最初に部室にやってきたのは、宥だった。次いで煌、怜が続く。彼女たちから話しかけられても、尭深はろくな反応を見せなかった。

 

 何食わぬ顔で戻ってきた恭子との間にも、会話はなかった。まるで初めから、何もなかったかのように。少なくとも尭深は、恭子に対して何も言わなかった。

 

 意地悪くそのような態度をとったわけではない。

 これから告げられる未来を想像するだけで、体に力が入らないのだ。

 

「おはようございます」

 

 最後に部室に入ってきた彼の声を聞いた瞬間、尭深はびくりと肩を震わせた。部室の空気も、一変する。

 

「あー」

 

 それを肌で感じたのだろう。京太郎は後頭部をかいて、困ったように笑った。宥が京太郎に詰め寄ろうとし、しかしそれは押し出された大きな手で制された。

 

「京太郎くん」

「はい。分かっています」

 

 ――言わないで。

 

「俺、決めました」

 

 ――言わないで。

 

「行きます」

 

 ――言わないで。

 

「イギリスに、行ってきます」

 

 あちこちから、「頑張って」、「応援してる」、「行ってらっしゃい」、と励ます声が溢れ出す。しかし尭深は何も言わなかった。言えなかった。喉元から飛び出そうになる叫び声を抑え付けるのに、必死だったから。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 時は瞬く間に過ぎ去った。夏休み中にも関わらず、留学の準備で京太郎は部室に顔を出す頻度を下げ、皆もそれが当然と受け入れていた。

 

 そして九月の半ば。

 

 夏期合宿として、尭深たち東帝大学麻雀部は五月に続き、松実館を訪れていた。シルバーウィークの手前、客足が遠のく隙間を狙って、早くから準備してきたのだ。

 

「きょーちゃんきょーちゃん、後で一緒に温泉入りに行こ」

「ここ混浴じゃないでしょ……」

「いけずやなあ、私と一緒に温泉入りたくないん?」

「そういう訊き方は止めて下さい」

 

 練習の準備をしながら、いつものように怜が京太郎にじゃれている。いや、いつも以上に見えるのは穿ち過ぎだろうか。

 

「京太郎くん、今日の晩ご飯当番は私と京太郎くんで良いよね」

「了解です、今回は前回以上に美味しいもの作って見せますよー!」

 

 宥もまた、妙に積極的だ――というのも、偏見なのだろうか。彼との距離が、近しく感じる。

 

 それも無理ないことかも知れない。今回は六人で来られたが、次に六人揃って合宿できる日はいつになるのだろうか。もしかしたら、二度と来ないかも知れない。充分考えられる可能性だった。

 

「尭深」

 

 背後から肩に手を置かれ、尭深は振り返った。そこにいたのは煌だった。

 

「大丈夫ですか?」

「大丈夫って、何が?」

「色々ですよ」

「……色々」

「そう、色々」

 

 曖昧な言葉の中にある煌の意図を、分からないほど愚かではない。尭深はこっくり頷いて、

 

「大丈夫だよ」

 

 と、しっかり返答した。

 

「心配するようなことなんて、何もない。大丈夫」

「……本当ですか、尭深」

「本当だよ、煌ちゃん」

 

 そう、本当だ。ここまで一ヶ月もあったのだ。自分を納得させるには、充分な時間だった。

 

 出発前の、思い出作り。

 

 その要素が多く含まれるこの合宿を、堪能しなければならない。憂いでいては、それもままならないだろう。練習して、はしゃいで、彼と話して――笑顔で彼を、送り出さなくてはならない。

 

「私も須賀くんを、応援してるんだから」

「尭深……」

 

 煌の手を振り切って、尭深は麻雀卓に向かう。追い縋るような視線を背中に受け止めつつ、だが尭深は無視した。

 

「ホラ園城寺、いつまでもふざけとらんで練習始めるで」

「私はいつでも真面目やで」

「そういうところがふざけてるって言うてんねん」

「二人とも止めて下さいよ」

 

 恭子と怜の喧嘩に割って入る京太郎。その傍で、宥が困ったように笑っている。いつもの麻雀部の光景だった。もうすぐ失われる、光景だった。

 

「おー、それそれ! ロンです!」

「ええーっ、やられたー!」

「油断大敵だね」

 

 旅先でテンションが上がっているのか、あるいは何かを忘れたいのか、わいわい騒ぎながらの練習となった。集中力に欠ける、と恭子が一喝しそうなものだが、彼女は何も言わなかった。ともすれば恭子も、その輪に加わっていた。

 

 尭深は自覚していた。自分一人だけ、そこから一歩下がっていることに。

 しかしそんな悩みとは裏腹に、時間だけが過ぎていく。

 

 夜になると、五月と同様ゲストを迎えることになった。

 

「須賀くん須賀くん須賀くーん!」

「し、清水谷さんっ?」

 

 練習場に飛び込んできたかと思うと、京太郎に抱きついたのは西阪大学の清水谷竜華だった。尭深がむっとするよりも前に、

 

「りゅーか、ちょっと離れよか……?」

 

 怜が竜華を引き剥がしにかかるも、

 

「怜も久しぶりーっ! 元気そうやん!」

「もがっ!」

 

 竜華に抱き締められて黙らされてしまう。そのまま竜華は京太郎と怜の二人を抱きかかえて、満足そうに頬ずりする。まるでお気に入りのぬいぐるみを与えられた女児のようだった。

 

「竜華先輩早すぎなのです……」

「玄ちゃん」

「久しぶりなのです、おねーちゃん」

 

 自宅だと言うのに、遅れてやってきたのは宥の妹の玄だった。二人の西阪大学生の来訪もまた、五月の焼き直しだった。もっとも、京太郎に対する竜華の態度はこれまで以上に親密なものになっていたが。

 

「し、清水谷さん、離して、離してくださいっ」

「ええやんええやん、一ヶ月振りなんやし」

「それ理由になります?」

「なるなるっ!」

「そこまでにしとき」

「痛っ」

 

 恭子が竜華にデコピンして、京太郎と怜を救出する。もう、と竜華は涙目になりながら恭子へ抗議する。

 

「折角練習に付き合うてあげるのに、酷い仕打ちやな」

「オーケー出す前から押しかけてきたんはそっちやろ」

「細かいことは気にせんでええやん。なー、怜、須賀くんっ」

 

 はあ、と恭子は溜息を吐きながらも、竜華を追い払うことはしなかった。麻雀部の部長としては当然の選択だったが、同時に苦渋の選択でもあったろう。怜も喜んでいいのやら怒っていいのやら、と言った様子だ。宥の場合、竜華が京太郎に触れる度動揺するばかり。煌は居心地悪そうにしている玄に気を遣って、積極的に話しかけていた。

 

 いつもなら自分もそこに混じっているはずだ。しかし尭深は、外側から彼女たちの姿を眺めていた。

 竜華と玄の登場を機に、一行は一旦夕食休憩を挟むことになった。

 狭いテーブルに並べられた手料理に箸を伸ばしながら、一番上機嫌な竜華が京太郎に話しかける。

 

「須賀くん須賀くん須賀くん」

「な、なんですか、清水谷さん」

「もー、もっと親しみ込めて呼んで欲しいわ。うちらキ――」

「わー! わー! わー!」

「竜華これめっちゃ美味しいでほら早く食べななくなるからほら」

 

 竜華が何か口走ろうとした瞬間、京太郎と怜が騒ぎ立てる。訝しげに恭子たちが視線を送るが、それらは全て無視された。

 

「で、なんなんですか」

 

 改めて京太郎が訊ね、竜華はけろりと答える。

 

「ほら、留学の話。行くんやろ? いつからやっけ?」

「今月末にはもう発ちますよ。やっと準備が終わりそうです」

「そっかー。今まで以上に簡単には会えんくなるけど、頑張ってな!」

「応援してるのです!」

 

 元々距離があるからだろうか。あるいは部外者だからだろうか。竜華と玄は、あっさりと、そして嘘偽りなく彼を応援していた。

 

「ありがとうございます、清水谷さん。玄さんも。どこまで通じるか分かりませんけど、全力でやってきますよ」

「でも本当に凄いのです。こんな話、中々女子でも聞かないよね」

「そうそう、東帝麻雀部としても鼻高々と違うん?」

 

 竜華の言葉に、

 

「それはまあ、そうですね」

 

 と、煌が曖昧に頷いた。

 

「きょーちゃんができる男やってのは、元々知ってたわ」

 

 ややつまらなさそうに、しかし誇るように怜が言う。

 

「うん。京太郎くんならどこでだってやれるよ」

 

 宥が微笑み、京太郎は少し赤面して顔を俯かせる。尭深もどきりとさせられそうになる、優しげな大人の女性の顔だった。

 

「ま、体壊さんように頑張ってな」

「……はい」

 

 ぶっきらぼうに言ったのは、恭子。けれども京太郎は、それだけで嬉しそうに頷いた。

 

「何や何や。もう壮行会みたいな空気やん」

 

 まだ出発まで半月あるんやろ、と竜華は茶化しながら笑う。そのままの乗りで――矛先は、尭深に向いた。

 

「それじゃあ渋谷さんからも一言貰わな」

「え……」

「え、やなくて。ほら」

 

 竜華に促されるも、尭深は声を発せない。東帝の部員たちにも、戸惑いの空気が流れる。

 

「んん。何か今日元気ないけど。……渋谷さん? どないしたん?」

「は……はい。大丈夫です」

 

 竜華に訊ねられ、心配かけまいと尭深は笑おうとした。だが、できなかった。どうしても、できなかった。

 

「ほら」

 

 促され、尭深は京太郎と向き合う。だが、すぐに俯いてしまった。京太郎も少しバツが悪そうに頭をかく。ここ一ヶ月、ぎこちない会話しか交わしていない。尭深が彼と距離をとっていたのは、彼も、恭子たちも重々承知だったろう。

 

 ――だけど。

 

 それもここで終わりにしなくてはならない。

 彼は行くと決めたのだ。もう既に、決めたのだ。

 

 ――行くべきだと、思ってる。

 ――卑怯な言い方かも知れませんが、どちらでもないですね。

 ――行って欲しい、って思っとる。

 ――自分勝手な想いをキョータローにぶつけて、悩ませちゃいけないって思うんだ。

 ――ただ、京太郎の背中を押しただけや。

 

 誰も、彼を引き留めなかった。引き留めようとはしなかった。それが正しいこと。皆が選んだ、彼のための選択。

 

「すが……くん」

 

 だから、自分も彼を応援しなくてはならない。皆と一緒になって、一丸になって。彼を、困らせてはいけないのだから。零れそうになる声をかき集め、「頑張って」の一言を伝えようとする。

 

 けれども。

 

 ――尭深さんは、どうしたいん?

 

 自分が本当にしたいこと。ずっと、心にひっかかったままのこと。そんなことは分かっている。分かっていた。初めから、全部分かっていた。ただ、もう何もかもが遅すぎる。

 

 それに――その答えを口にする理由は、どこにもないのだから。

 

「が……」

 

 ――ううん。

 寸でのところで、尭深は口を塞いだ。もう一瞬遅れれば、言い切っていたことだろう。

 

「渋谷先輩?」

 

 心配そうに訊ねてくる彼と、真正面から向き合って。

 彼に教えて貰った大事なことを、思い出していた。

 

 

 ――ただ好きだってだけで……良かったんだね。

 

 

 思い出されるのは、あの夕焼けの一時。気付かされた、それ以上にない、全ての物事を突き動かす理由。

 

「須賀くん!」

「は、はいっ」

 

 そう。

 

 ――私は、彼が好きなのだから。

 

 言うのだ。他の誰かの意見なんて、どうでもいい。自分の想いを、はっきりと告げるのだ。

 

 

「――行かないで!」

 

 

 独りよがりでも、自分勝手でも。

 それが、渋谷尭深だけの答えだった。




次回:11-3 フェアウェルティーパーティー


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11-3 フェアウェルティーパーティー

 元より、尭深は自己主張する性格ではなかった。白糸台では有名な先輩、目立つ後輩に挟まれて大人しくしていた。東帝大でも、表に立つのは恭子と煌、それから怜に任せていた。裏方は自分の役割。自らを卑下するわけではなく、人間には向き不向きがあると尭深は考えてきた。

 その考えが変わったわけではない。今でもそう信じている。

 

 けれどもその考えが、知らず知らずの内に自らの枠を狭めていたことにも、尭深は気付いていた。――誰かの意見を支持するばかりでは、辿り着けない場所がある。きっと、後悔するときがくる。

 

「お願い」

 

 似合わない、と言われても。

 

「お願いだから」

 

 不釣り合いだ、と認めても。

 

「――行かないで、須賀くん」

 

 未来で悔やまないために、自分の意思を貫き通す。例え、他の全員が異なる意見だったとしても関係ない。

 

 しばし、京太郎はぽかんと呆けていた。

 

 既に、彼は行くと決めた後。それから時間も充分経過し、旅路の準備もほとんど終わってしまっている。引き留めるという行為自体が、今更であった。京太郎の反応は、至極当然と言えよう。

 

 それら全てを、尭深は振り切った。思いの丈を、ぶつけてしまった。流れる汗を拭いもせず、京太郎と視線を交わし合う。

 

「渋谷先輩――」

「っ!」

 

 京太郎に名前を呼ばれた瞬間、尭深は我に帰った。

 突き刺さるのは仲間たちの視線。突発的な尭深の言動に、誰しもが困惑していた。かあっと、尭深は頬を朱に染め顔を俯かせる。穴があったら入りたい気分だった。

 

 しかし、それでも彼女は逃げ出さなかった。

 

 その決意を見て取ったのだろう。京太郎は決して茶化さず、真摯に尭深と向き合った。

 

「……もう、決めたんです。行くって」

 

 尭深の望みは、当然のようにはね除けられる。――ああ、分かっていた。一度決めたことなのだ。ここで簡単に折れるような、彼ではない。

 けれども、尭深もまた生半可な想いで引き留めにかかったわけではなかった。

 

「それでも……それでも、行かないで、欲しいの」

「渋谷先輩……」

「た、尭深」

 

 普段、控え目な尭深だったからこそかも知れない。彼女の頑なさは、京太郎だけでなく東帝大学麻雀部の面々に動揺を与えた。尭深の言葉に割って入れないでいた――あるいは、根深いところでは尭深と同じ気持ちだったのかも知れない。皆一様に、言葉を失っていた。

 

「うんうん、渋谷さんの気持ちはよう分かったわ」

 

 故に、この場を取りなしたのは外部の人間。

 

 清水谷竜華だった。

 

 彼女とて、京太郎の留学に思うところがないわけではないはずだ。しかしながら、聡明な彼女はすぐに理解したのだ。今、動けるのは自分だけなのだと。

 

「ちょっと言い出すん遅かったんとちゃうか、と思うけど」

「それは……」

「ああ、分かっとるから」

 

 尭深は竜華へ反駁を試みようとするが、両手で制されてしまう。気持ちを燻らせたまま、尭深は竜華の次の言葉を待った。

 

「須賀くん」

「は……はい」

 

 先ほどまでの甘えた声色は消え失せ、竜華は怜悧な瞳をもって京太郎を射貫く。

 

「留学で一杯一杯になってたんは分かるけどな。仲間を納得させてなかったんは、良くないんと違う?」

「……返す言葉もないですね」

 

 京太郎が項垂れ、尭深ははっと面を上げる。

 きっと彼は謝ろうとする。だがそれは、尭深の望むところではない。彼に謝らせたくて、我が儘を言い出したわけではないのだ。

 

「す――」

「でも、須賀くんも引く気はないんやろ?」

 

 竜華は、常に先手をとり続ける。まるで先を見通しているようだった。

 しばらくの逡巡を見せた後、京太郎はゆっくりと頷く。それを認めた尭深は、再び俯いてしまう。一方で、竜華の演説は続いた。

 

「そういうわけや。須賀くんと渋谷さん、二人がきちんと納得できなあかんとうちは思う」

「話し合え、とでも言う気?」

 

 訊ねたのは、怜だった。もう時間は残されていないだろう、と言わんばかりの詰問口調。しかし竜華は、あっさりと首を横に振った

「そんなんより、分かりやすい決着のつけ方がうちらにはあるやろ?」

 

 彼女が何を言い出すのか、尭深にもすぐに察しが付いた。京太郎も、同様だった。彼女たちは間違いなく、疑いようなく、雀士なのだから。

 

「――どうせ決めるんなら、麻雀で」

 

 

 ◇

 

 

 ルールはシンプル。

 半荘一回勝負で、尭深が京太郎の順位を上回れば留学取り止め。その逆ならば、留学決行。他は大学麻雀ルールに準拠する。

 

「結果に対して、どっちも文句つけたらあかんで」

 

 卓につきながら、竜華が念押しする。

 

「私なんかが良いのかな、と思わないでもないけど……頼まれたからには、やりきるのです」

 

 もう一人同卓するのは、松実玄。

 東帝大学の他の面子は、全員自ら辞退した。その複雑な心境を、尭深は何となくではあるが理解できた。彼女たちにも迷いはある。それが対局の結果に影響することを避けたのだ。

 

 結局のところ、名目上でも外部の人間である竜華と玄が選ばれたのは当然の流れであった。

 

 尭深は席に着き、目前の京太郎と向かい合う。

 

 思えば、彼と本気で戦うのは初めてであった。細かい話を言えば、インハイで清澄と白糸台の陣営で矛を交えている。もちろん彼は男子で選手ではなかったし、当時尭深は彼のことをはっきりと認識していなかった。

 

 それから部活の練習で打つことはあっても、公式試合で同卓したことはない。非公式でも何か大事なものを賭けて戦うなど、昨日までは思いも寄らなかった。

 

「よろしくお願いします」

 

 京太郎が頭を下げる。尭深は、失礼と分かりながらも返礼できなかった。ただ今は、勝つことだけを考えていた。結果京太郎の人生に影響を与えることになっても、多方面に迷惑をかけることになっても。

 

 取り囲む恭子たちは、一旦意識の外に置く。彼女たちも、敢えて口出しせずに静寂を保っていた。

 

 半荘一回のこの勝負、竜華と玄は二人の妨害もアシストもしない。実質的な尭深と京太郎の一対一だ。

 

 ――須賀くんのスタイルは分かっている。

 

 徹底的な分析と観察眼に基づく対応力と、末原恭子にも似通う速度。時折不可解な待ちや鳴きをするところがあるが、それらはおそらく清澄高校で培ったものだろう。

 一方の京太郎も、尭深の「収穫の時期」は重々承知している。基本的にはスロットを増やさない戦略で臨んでくるだろう。彼の速度なら、それも不可能ではない。

 

 ――でも。

 

 尭深も速度に関しては、一定の自信がある。「収穫の時期」のスロットを増やすために、自ずと手に入れた技術だ。

 

「ツモッ」

 

 玄の親番から始まった東一局、安手ではあるが尭深は先制する。玄に連荘してもらっても一向に構わなかったが、それよりも京太郎に戦意を見せるのを優先した。

 迎えた自分の親番、この調子で連荘を続けるつもりであったが、

 

「ロン」

「……!」

 

 僅か三巡、尭深は京太郎に振り込んでしまう。速い。しかも、全く気配を感じなかった。やはり、油断ならない相手だ。いや、春先よりもさらに実力が向上している。八月にあったという麻雀仮面集団――正確にはプロ集団――との対局経験を、しっかりと吸収している。留学にお呼びがかかるわけだ。今更ながら理解させられる尭深であったが、勝負から逃げるわけにもいかない。

 

 次局は玄が和了し、あっという間に東四局となる。尭深にとっては好ましくない展開だ。京太郎も、自分の親とは言えさっさと流してしまう手を選ぶだろう。

 

 ――という尭深の予測は、あっさりと覆されることになる。

 

「それ、ロンです」

 

 京太郎は何の躊躇いもなく牌を倒し、一本場に移行する。それはつまり、尭深の「収穫の時期」をアシストすることになる。

 

 ――まさか。

 

 尭深は、対面に座る京太郎と改めて向き合う。彼の瞳に宿るのは、燃え盛る炎だった。すぐに尭深は理解した。

 

 京太郎は、真正面から尭深を斬り伏せようとしている。戦術として上策とは言えないかも知れないが、自分の武器を生かし、反論の余地なく勝利を得ようとしているのだ。

 胸に痛みを覚えながら、しかし尭深は受けて立つことにした。

 

「ツモ!」

 

 連荘したいなら、したいだけすれば良い。決定的な差をつけられなければそれで良い。収穫の時期」をズラす手も考えたが、それも未完成だ。ならば、と尭深は決心する。真正面から受けて立とう。オーラス、最後の最後に一撃を与えて勝ってみせる。

 

 冷静になって考えれば分かることだが、それは京太郎の挑発だった。まんまと乗せられた形だ。それでも尭深は、勝機があると信じていた。

 

 迎えるのはオーラス。揃えたスロットは12。トップ目は京太郎だが、役萬も軽く狙える配牌、逆転はいくらでも可能だ。いくら京太郎が速度に優れているとは言え、早々追いつけるものではない。

 

 はずだった。

 

「ポン!」

 

 玄の第一打の東を京太郎は食い取った。今回、尭深のスロットに入らなかった字牌。

 

 ――初めから、狙っていたのか。

 

「もいっこ、ポン!」

「……!」

 

 続いて、尭深の捨牌も食い取られる。テンパイ気配は濃厚。しかし尭深の手も進んだ。お互い後一手のところまで来た。

 祈るように、尭深は牌をツモる。

 

 ――お願い……!

 

 この一手で、決着を着けねば。着けねばならない。彼をここに引き留めるために。ずっと一緒にいるために。

 

 エゴイズムに溢れる願いだと、尭深は理解していた。それでも貫き通すと決めていた。ただきっと、その部分で差が出るとも彼女は分かっていた。この勝負、彼は勝つためだけに全力を注いでいた。そこに、紛れは存在しない。その純粋さが、勝敗を分けるのだと。

 

「……っ」

 

 半ば当たり前のように祈りは通じず、ツモ切りとなる。

そして切った瞬間、彼女は悟った。

 

「カン」

 

 京太郎が牌を倒し、嶺上牌をツモる。

 

「ツモ――嶺上開花」

 

 ――自らの敗北を、悟ったのだった。

 

 

 ◇

 

 

 対局が終わっても、尭深は彼に何も言えずにいた。その後の練習にも参加しなかった。恭子たちにも咎められないまま、夜は更けていった。

 

 言い訳のしようがない敗北。

 

 様々な想いが入り混じった感情とどう向き合えば良いのか分からなかった。宥や煌からフォローされても、ずっと上の空だった。

 練習が終わり、大部屋でみんなが寝付いた後も、尭深はずっと目が冴えていた。

 

 どうしても眠れず、尭深は一人起き上がる。

 

お茶を、飲みたくなった。思えば、先ほどの対局中もお茶を忘れていた。いつもならありえないこと。余程、焦っていたらしい。らしくないと、自嘲してしまう。お湯を沸かそうと、間借りしている松実家の台所に足を運ぶ。

 そこは、既に明かりがついていた。

 

「あ」

「し、渋谷先輩」

 

 先客がいた。――京太郎だった。

 彼も湯飲みを抱え、一服しているようだった。ここで自分と顔を合わせるのは余程予想外だったのだろう、京太郎は慌てふためいて胡座座りから立ち上がろうとする。その拍子に、

 

「熱っ!」

 

 お茶を零して手にかかってしまった。

 

 尭深は、すぐに動いていた。テーブルの上に置かれていた布巾を素早く手に取り、彼の手からお茶を拭う。

 

「あ、ありがとうございます。すみません、先輩」

「……ううん」

「……先輩?」

 

 拭い終えても、尭深はぎゅっと京太郎の手を握ったままだった。掴んで離さない。離せなかった。京太郎はしばらく所在なさ気に狼狽えていたが、やがてその行為を受け入れていた。

 

 たっぷり五分ほどそうしていただろうか。

 尭深はようやく京太郎から離れると、羞恥で頬を染めつつ、

 

「お茶。もう一杯、飲まない?」

 

 と訊ねた。京太郎はほっと息を吐き、頷く。

 

「お任せして良いですか。やっぱり自分でいれるより、渋谷先輩のお茶のほうが美味しいですから」

「お任せされました」

 

 冗談っぽく言うと、京太郎は微笑んだ。尭深も釣られて、笑った。笑ってしまった。それまで悩んでいたのが馬鹿らしいほど、あっさりと肩から力が抜けた。

 夏場でも炬燵完備の松実家の居間で、尭深と京太郎は二人肩を寄せ合う。彼女たちの手には、湯飲みが握られていた。

 

「負けちゃった」

「勝たせて貰いました」

「謝らないんだね。いつもだったら、『すみません』って、言ってるでしょう」

「真剣勝負でしたから。ここで謝るのが間違いなことくらい、分かります」

「うん。私が頑張って引き留めようとしたのに、須賀くんは冷たく断ってきたもんね」

「ちょ、ちょっとそういう言い方止めてもらえませんっ?」

 

 意地悪を言ってみると、存外京太郎は慌てふためいた。尭深から皮肉られる機会などほとんどなかったので当然の反応とも言えた。しかし尭深は面白おかしく、くすくす笑ってしまう。そんな尭深の姿も珍しく、京太郎は困り果てていた。

 あまりからかいすぎるのも可哀想だ、なんて考える余裕さえ生まれていた。

 

「冗談だよ」

「渋谷先輩の冗談は分かりづらくて困ります」

「そんなに分かりづらいかな」

 

 ――ああ、なるほど。

 

 こうして京太郎と話して、今の自分の心境を尭深は理解した。

 京太郎は、確かに留学に行く資格がある。いや、行くべきだ。上から物を言うようだが、自分にも正面から戦って勝って見せたのだ。彼にしか見えない世界が、彼が見るべき世界が、彼の進むべき道の先にある。

 

 もう、彼を送り出すことに躊躇いはなかった。その点においては、すっきりとさえしていた。ともすれば、他の東帝のメンバーよりも。

 

 ただ一つ胸に引っかかっていたのは、ただ単純な敗北感。ついに後輩に負けてしまった、という子供っぽい悔しさなのだ。

 

「……渋谷先輩は、あんまり顔に出ませんからね。雀士としては優秀なんでしょうけど」

「そんなに、かな」

 

 自覚を持ちながらも、尭深は拗ねるようにお茶に口をつける。京太郎はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと声を漏らした。

 

「そう思って、甘えてたのかも知れませんね」

「え?」

「分からないのは仕方ない。渋谷先輩はそういう人だから。――そんな風に考えて、渋谷先輩と向き合おうとしてなかったのかも知れません。そのほうが、楽ですからね」

 

 そんなことない、と尭深は反論しようとした。京太郎との対話で、一度尭深は救われているのだから。しかし尭深がそうするよりも速く、京太郎は続けた。

 

「でも、そうして逃げた結果が、今日の勝負だったんですね。何も言わないから、渋谷先輩も理解してくれている。正直、そう思ってました。そんなわけ、ないのに」

「須賀くん……」

「そのことについては、謝らせて下さい。俺、渋谷先輩に甘えてました」

「……ううん」

 

 甘えていたのは、自分もだ。何も言わなくても、彼なら察してくれると心の何処かで甘えていたのだ。湯飲みにお茶を注ぎ足しながら、嘆息する。

 

「今日渋谷先輩と打てて良かったです。打たないまま行っていたら、きっともっと後悔することになったと思いますから」

「うん。私も、須賀くんと打てて良かった。ありがとう、須賀くん」

 

 彼の湯飲みにも、お茶を注ぎ足す。

 

「ありがとうございます、先輩」

「いつものことだから」

「いえ、その、それもありますけど――もう一つ、お礼を言わせてくれませんか」

 

 彼の言わんとすることが理解出来ず、尭深は小首を傾げた。京太郎は少し恥ずかしそうに頬をかいて、

 

「本当のところ言うとですね。俺、嬉しかったんです」

「なにが……?」

「引き留めてくれたこと、ですよ」

 

 隣に座る京太郎と、目と目が合う。

 

「もちろんみんな背中を押してくれて、それも嬉しかったんですけどね。失礼な話ですけど、それと同じくらい、渋谷先輩が引き留めてくれたことが嬉しかった。ああ、俺、必要とされてるんだなって。自分でも、思ってもみなかったくらいに嬉しかったんです。だから――ありがとうございます」

 

 そのお礼が尭深に与えたものは、誇らしさだった。他の部員の誰も為し得なかった彼への賛辞を、自分は成し遂げたのだ。

 

「うん。どういたしまして」

 

 自信たっぷりに笑う尭深は美しく、京太郎は目を背けてしまう。一方尭深は訳が分からず、首を傾げていた。

 それからしばらく談笑していたが、ふと、尭深は思いついたことを口にする。

 

「そうだ、須賀くん」

「どうしました?」

「さっきの勝負、公平じゃなかったよね。私が負けたときの取り決めがなかったから」

 

 だから、と尭深はずい、と京太郎に詰め寄る。普段の彼女とは違い、随分と大胆になっていた。深夜のムードがそうさせるのだろうか。あるいは、この先長い間二人だけの時間を取れないことが分かっているからか。

 

「なんでも須賀くんの言うこと、聞くよ」

「な、なんでも」

「うん。なんでも」

 

 ごくり、と京太郎が生唾を飲み込む。尭深は無自覚に色気を振りまいていた。そもそも夏の寝間着は薄く、豊かな彼女の体を隠し切れていない。重ねて言えば、尭深にその自覚はなかった。

 

「……あー。そ、その……えーと、ですね……」

「うん」

「……勝ってて、下さい」

 

 かなり渋って、絞り出すように京太郎は言った。

 

「インカレに出られるように。インカレで優勝できるように。勝ってて下さい。そのときは、絶対応援に駆けつけますから」

「分かった。絶対、勝つから」

 

 尭深は深く頷き、京太郎の肩に頭を預ける。

 

「し、渋谷先輩っ?」

「須賀くんも、向こうで頑張ってきてね。誰にも負けないくらい、強くなって」

「……はい。元々そのつもりですよ」

「うん。約束、だよ」

 

 彼の肩は、とても暖かかった。そのまま目を瞑り、眠ってしまいそうになるくらい安心感に充ち満ちていた。

 

「――尭深? 須賀くん?」

「き、煌ちゃんっ」

「花田先輩っ」

 

 ここで、寝惚け眼をこする煌が居間に入ってこなければ実際そうしていただろう。尭深と京太郎は飛び跳ねて離れる。

 そして二人は、

 

「ははははっ」

「ふふふふっ」

 

 おかしくなって、笑い合う。何があったのかと煌は首を傾げるが、結局、彼女も微笑んでいた。――尭深たちが、二人で笑っている。その結果だけで、充分だった。

 こうして、二人だけのティーパーティーは終わりを告げた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 そして季節は巡る。

 秋を迎え、冬を耐え、春を過ごし、対峙するのは再び夏。

 

「――よし。行こか」

 

 先頭に立つのは、末原恭子。松実宥、花田煌、渋谷尭深、園城寺怜らは彼女に続く。彼女たちが向かう先は、全ての大学生の頂点――全日本大学麻雀選手権へと続く道。

 

 

 

 そこに、彼の姿は未だない。

 

 

 

        Ep.11 たかみープロデュースフェアウェルティーパーティー おわり




次回:Ep.12 愛縁航路を導くエール
    12-1 松実家シスターズウォーファイナル

次回より最終エピソードになります。
最後までお付き合い下されば幸いです。


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Ep.12 愛縁航路を導くエール
12-1 松実家シスターズウォーファイナル


 テレビ画面の向こう側で繰り広げられる死闘を、宥は祈るような気持ちで見つめていた。「そこ」で戦っているのは、宥たちを率いるリーダー、末原恭子。

 

 恭子と共に卓を囲んでいる女子大生たちは、手練れ揃いである。何しろこの試合は、ハイレベルと謳われる関東一部リーグ団体戦の一戦なのだ。雌雄を決する大将戦を務める彼女たちは、まさに緊張のピークにあるだろう。

 

 自然と宥は、自分の両手を重ねていた。現在のトップは、自分たち東帝大学だ。しかし余裕のある点差というわけでもない。むしろ流れは他家にあり、猛追を受けて綱渡りの状況だ。このまま逃げ切れるかどうか、かなり際どい。

 

 ――私が、もっとしっかりしていれば。

 

 副将であった宥は、自らの非力を嘆く。彼女自身は区間一位と大健闘だったが、大差をつけて引き離せたわけではなく、三位以下とも僅差であった。対戦相手たちも侮れない者ばかりであり、傲慢かも知れないが、宥は到底納得できていない。少しでも恭子の負担を減らしたかったのだ。

 

 手に汗握る攻防は続く。他家が大物手をテンパイしたときは悲鳴を上げそうになったが、ギリギリ恭子の速度が間に合い潰すことに成功した。東帝大学麻雀部の控え室は、安堵の息で包まれる。

 

 次鋒だった煌は笑顔を絶やさないが、その口角はやや引き攣ってしまっている。中堅の尭深は、いつもなら常に湯飲みをお茶で満たしているところだが、今は椅子の上から動けないでいた。そして先鋒を務めた怜は、宥の膝の上に頭を乗せている。マイペースな姿であるが、しかし彼女の視線もモニターに釘付けだった。

 

 ――その四人が、全て。

 

 東帝大学麻雀部の控え室にいるのは、彼女たち四人のみだった。

 はらはらさせられながらも、ついに勝負は大将戦後半のオーラスを迎える。戦う恭子の疲労は色濃い。彼女が心血を注いできたのは、この半荘二回分だけではない。麻雀部を指揮して昨年末から二部リーグを駆け上がり、魑魅魍魎跋扈する一部リーグで死闘を演じ続けた。宥もまた副部長として微力を尽くしたつもりだが、恭子の労苦とは比べるべくもないだろう。

 

 ――ううん、それだけじゃない。

 

 ずっと、恭子は気を張っていた。麻雀部の誰よりも、頑張っていた。

 彼が、いなくなってしまってからも。

 

『ツモ……ッ!』

 

 しかし恭子は、荒い息を吐きながら和了する。ここに、東帝大学の今リーグは決着を告げる。

 勝利に終わり、控え室は歓喜に湧く――という流れにはならなかった。

 

「B会場の結果はっ?」

「ちょっと待って下さい――今出ました、神大四位ですっ」

「それじゃあっ」

「私たちがリーグ六位に滑り込んだ……で、ええんかな?」

「おそらくは」

 

 控え室の中が、四人の嘆息で包まれる。

 際どい結果だった。この最終戦一位をとってもリーグトップの目は既になく、上位六大学となるのにも他大学の結果に左右されることになっていた。リーグトップにはなれなくても、非常に重要な結果だった。

 

 そう――六位以内に入ることに、大きな意義があるのだ。

 

「どやった!」

 

 控え室に、戦いを終えたばかりの恭子が走り込んでくる。息も髪も乱れ、扉に寄りかかっていた。

 

「出られるよ」

 

 四人を代表して、宥が答える。

 ずっと、目標だった場所。そこを目指し、三年以上、恭子と二人三脚でやってきた。宥こそ、答えるに相応しい人物だった。

 

「――インカレに」

 

 

 ◇

 

 

 関東一部リーグのインカレ出場枠を瀬戸際で勝ち取り、しかし、宥は喜んでばかりではいられなかった。

 浮き彫りになった課題。一部リーグの猛者たち。全国から集うライバル。不安要素はたっぷりとある。

 

 中でも深刻なのは、やはり部長・末原恭子の不調である。

 

 上手く隠してはいる。誰にも悟られぬよう、立ち回っている。けれども、宥にはすぐに分かってしまう。付き合いの長さも深さも、伊達ではない。

 恭子は決して、自分から弱音を吐かないだろう。それを引き出したとしても、前進するとも限らないし、させられる自信もなかった。

 

 ならば、自分にできることは一つだけ。

 

 ――彼女を支えられるくらい、強くなる。

 

 一部リーグの強敵たちは、高いレベルで鎬を削りその強さを得たのだろう。最短で上り詰めたとは言え、これまで下部リーグで戦ってきた自分とは決定的に差があると考えていた。並大抵の努力では追いつけないことくらい、すぐに分かる。

 けれども、それは努力しない理由にはなりえない。

 

 幸いインカレ本戦まで、二ヶ月弱の時間がある。最後の最後まで、抵抗すると宥は決めた。

 

「よいしょ」

 

 キャリーケースを引き摺り、宥が訪れたのは地元奈良を超え大阪。関東と並びレベルが高いと謳われる学生麻雀西の聖地だ。

 インカレ出場校の選手同士での練習試合は禁止されているが、関西リーグが全日程を終えるまで後一週間なる。この間隙を狙い、武者修行に赴くというのが宥のプランであった。

 

 駅舎を出たところで、強い日射しが差し込んできた。湿気を伴った熱気に行き交う人々は顔を下げているが、宥にとってはようやく過ごしやすい時節となった。ひなたぼっこに耽りたい願望もあったが、今は優先事項が他にある。迎えが来ているのだ。

 

「あ、宥姉! こっちこっち!」

 

 待ち人は、すぐに見つかった。

 

「憧ちゃん」

「久しぶりー、宥姉。元気だった? あ、それとインカレ出場おめでとう」

「うん、ありがとう」

 

 阿知賀女子時代の後輩、新子憧である。高校のときには既に垢抜けていた彼女だが、大学生になってその美貌にはさらに磨きがかかっていた。これで特定の相手がいないというのだから、世の中不思議なものだ。

 目的地に向かうバスに乗り込みながら何気なくその疑問を口にしてみると、

 

「それを言うなら宥姉のほうでしょ」

「わ、私?」

 

 と、逆に突っ込まれてしまった。あたふたしていると、追撃が飛んでくる。

 

「宥姉、もう四回生なのに一度も恋人できていないんでしょ? デートに誘われなかった、なんてことないんじゃない?」

「お誘いは……うん、まあ」

 

 答えは濁したものの、憧の指摘は正鵠を射ていた。先輩後輩男女問わず、宥は大学で非常にモテる。先週は卒業した学部の先輩から食事に誘われたし、先々週は学友が企画する合コンのメンバーに選出されそうになった。いずれも部活を理由に断っているし、何ならこの三年超全て断り続けているが、それでもその手の誘いは後を絶たない。ほとほと困り果てているのが実情だ。

 

「勿体ない。ちょっとでも行ってみようって思ったことはないの?」

「うーん。今のところは、ないかな」

「身持ちが堅いなあ。それとも好きな人でもいるの?」

 

 核心を突く質問に、とぼければ良いのに、宥は素直に赤面してしまう。卓上ではポーカーフェイスも不得意ではない彼女だったが、滅法この手の話題には弱かった。

 

「……え、もしかして、当たり?」

 

 宥の反応を受け、憧は席上で仰け反り大袈裟に驚いてみせる。思えばこの一年、阿知賀の面々とは恋愛話から遠ざかっていた――そもそも部活で忙しくほとんど会っていなかった、というのもあるが。

 

 ともかく、妹の玄を除けば、阿知賀のメンバーを相手に「彼」の話題が上ったことはない。初耳の憧は目を輝かせて食い付いてくる。

 

「誰誰っ? 同じ大学の人っ? いつからっ?」

「同じ大学、だけど」

「どうしてもっと速く教えてくれなかったのよー。つれないわね」

「う、うん。ごめんね」

「で、誰なの誰なのっ」

「……同じ部の、京太郎くん」

 

 答えた瞬間、かっと顔が赤くなるのを自覚した。言い訳するように、宥は説明を付け加える。

 

「ほら、憧ちゃんも知ってると思うけど、今はイギリスに行ってる、清澄出身の」

 

 しかし、返事はなかった。身を乗り出す勢いであった憧は、笑顔を引き攣らせたままぴたりと動きを止めていた。不審に思った宥が小首を傾げるが、結局憧はがっくりと項垂れる。

 

「あーそっか、宥姉知らなかったのか……みんな揃ってあいつと会ってないもんね……玄もそういうとこ鈍いし……ややこしいことになった……」

「……どうしたの、憧ちゃん?」

「あ、うん。なんでもないから。宥姉は気にしなくていいから」

「? そう」

 

 今のところはね、という憧の呟きはバスのエンジン音は飲み込まれる。親友と先輩の間で板挟みになる彼女の苦悩を、このときの宥はまだ知らなかった。

 バスが向かった先は、憧の通う天王寺大学。関西リーグでは西阪大学と並び強豪に数えられる大学だ。天王寺大学女子麻雀部は今リーグも上位成績を維持しており、今夏のインカレに出場するのは間違いないだろう。

 

「こっちよ」

 

 憧に案内されるまま、宥は部室の中に足を踏み入れた。

 

 ――瞬間、伝わってくるのは凜然とした空気。東帝の部室とは比べるべくもなく広く、しかし室内全体が練習の熱量で満たされていた。卓を囲むのはインハイや国麻で活躍した錚々たる面々ばかりだ。

 

 姫松高校出身の上重漫に愛宕絹恵――恭子の後輩たちだ――に、千里山出身の船久保浩子。

 

 さらにはもう一人の同郷、鷺森灼の姿もあった。宥と目が合うと、彼女はすぐに駆けよって来てくれた。

 

「久しぶり、宥さん。遠いところお疲れ様」

「ううん、大事な時期にお邪魔してごめんね」

「何言ってるの。インカレ出場校の選手が練習相手になってくれるんだから」

 

 灼はぐるりと部室を見渡し、どこか挑戦的な笑みを浮かべて言った。

 

「みんな、気合が入ってると思……」

 

 突き刺さる無数の視線に、宥は一瞬怯みそうになる。

 けれども、逃げてなどいられない。受け入れてくれた彼女たちにも、失礼だ。

 

「よろしくお願いしますっ!」

 

 頭を下げ、立ち向かっていく。もっと、もっと強くなるために。

 後悔のないよう、全てを出し尽くすために。

 

 

 ◇

 

 

 それから数日かけて、宥は大学と雀荘を渡り歩いた。天王寺大学の面々の紹介で、隠れた実力者たちとも打つことができた。感謝しかなかったが、そんな彼女たちともインカレでは相対することになるだろう。

 

 宥が最後に訪れたのは、関西リーグの王者、西阪大学麻雀部だった。

 

 妹の玄が在籍し、個々人の繋がりも強く、東帝とは格が違うはずなのに練習試合を組んでくれたこともあった。関東圏を除けば、一番親しみのある大学と言えよう。最上級生で部長を務める清水谷竜華は、今回も快く受け入れてくれた。同じ奈良出身の小走やえも同様だった。会う度強さが増していく彼女たちは、間違いなくインカレで強大なライバルとして立ち塞がるだろう。

 

 そう――誰も彼も強く、自分の未熟を思い知らされてしまった。この一週間の戦績を見れば、完全な負け越しである。

 

「……うん」

 

 しかしながら、手に入れたのは戦績以上のものだった。宥はノートを仕舞い込み、納得したように頷く。

 

 武者修行を終えても宥は大阪に残り、関西一部リーグ最終戦の行方を見届けた。

 

 結果としては、大方の予想通り、西阪と天王寺がワンツーフィニッシュを決めた。阿知賀時代の恩師・赤土晴絵に教わったように、生で見たリーグ戦の様相は貴重な研究材料になることだろう。実に満足な一週間だった。

 

「着いたよ、おねーちゃん。起きてる?」

「うん、だいじょうぶ」

 

 そのまま東京に帰る選択肢もあったが、リーグ戦を終えた妹の玄と共に、宥は地元阿知賀に帰ることにした。

 電車を降りるとすぐに、慣れ親しんだ空気が出迎えてくれた。

 こうして妹と二人揃って阿知賀に戻ってくること自体珍しく、何だか不思議な気分だった。

 

「おねーちゃんが阿知賀に帰ってくるの、また随分久しぶりになったね」

「うう……ご、ごめんね玄ちゃん」

 

 一年前にあった事件を思い出し、宥は身を縮こまらせてしまう。例の姉妹喧嘩から一年以上経ったが、玄を満足させられるほど帰宅できたか宥には不明瞭であった。「責めてないのです」と玄が苦笑しても、いまいち宥は落ち着かなかった。

 

 実家に戻った姉妹は、一日かけてゆっくり静養した。家のこたつは、やはり格別であった。それ以上長居する余裕はなく、二人はそれぞれの大学に向け帰り支度を始める。

 ただ一つその前に、やっておかなければならないことがあった。

 

 ――遠い日に亡くなった、母の墓参りである。

 

 蝉の鳴き声が降り注ぐ墓地、遠景には緑に包まれた山々。水をたっぷりくみ上げたバケツを、宥は松実家の墓石まで運ぶ。

 父が熱心に手入れしてくれているおかげで、清掃にはさほど時間がかからなかった。花を生け、宥は玄と並び手を合わせる。

 

「……ねぇ、おねーちゃん」

 

 不意に、左隣に立つ玄が口を開いた。

 

「どうしたの?」

「本当のことを言えばね。おねーちゃんの大学が、おねーちゃんがいる間に、インカレに出場するとは思ってなかった」

「……うん。私も、びっくりしてる」

 

 ちょっと冗談めかして宥は言ってみたものの、玄の声色から真剣さは消えない。

 

「だから――改めて謝らせて欲しいのです。去年の春、おねーちゃんの頑張りを疑ったこと」

「別に、今更そんなこと気にしなくて良いのに」

「ううん。けじめをつけておきたいから」

 

 だって、と玄は続けた。

 

「勝負の前に、しがらみはなくしておきたいから」

「――……」

 

 たまらず、宥は言葉を詰まらせた。

 これまで妹がライバルという事実から目を逸らしていたことに、宥は気付かされた。それは、二人揃ってインカレに出場を決めてからのここ数日も同じだった。分かっているつもりでいて、分かっていなかった。

 

 繰り返し繰り返し、自分の情けなさを自覚させられ、嫌になる。

 けれども、だからといってここで足を止めるほど、宥はもう弱くなかった。

 

「そうだね。分かった」

「おねーちゃん」

「きっと、これが最後だもんね」

 

 遠く、夕焼け色に染まった空を眺めながら、宥は言った。

 

「私は大学を卒業したら、麻雀とは別の形で付き合っていくと思うから。……誰かと本気で戦って、仲間と一緒に頂点を目指す。そんな戦いとは、無縁になると思う」

 

 それが良い悪い、という話ではない。宥の目的とするところは別にある――それだけの話なのだ。ただ、それ故に決まってしまうこともある。

 

「私が玄ちゃんと、本気で戦えるのは今回が最初で最後……だもんね」

「最初じゃないよ、おねーちゃん」

 

 くすりと笑い、玄は指摘する。

 

「去年の春と夏に一回ずつ、戦ったでしょ? 本気で」

「……あれもカウントするの?」

「私は本気だったよ。おねーちゃんは?」

 

 そう問われてしまうと、苦笑しつつも認めてしまうしかない。

 

「本気だった」

「じゃあ、本気の勝負で今は一勝一敗だね」

「決着は――」

「――インカレで」

 

 松実家姉妹、最後の戦い。

 憎しみも悲しみもない、ただひたすらに勝利を求める純粋な勝負を、彼女たちは母の墓前で誓い合う。

 

 ずっと、妹の玄に守られてきた自覚が宥にはあった。高校のインターハイで、恩の一部は返せたと考えていたが、その程度はまだ足りないとも思っていた。

 

 それが今、ようやく対等な立場になれたという実感が湧いた。足りていなかったピースが、ようやく埋まった気がしたのだ。もちろん大学の格をとっても、あるいは雀力をとっても玄のほうが上で、自らは挑戦者なのだろう。それでも視線は今、玄と同じ高さでぶつかり合っている。

 

 改めて思う。

 

 阿知賀の外に出て、良かった。外の世界が――そこで出会った人々が、自分を引っ張り上げてくれたのだ。宥は今一度母に手を合わせながら、この三年半に想いを馳せる。

 その年月の隙間に、丁度彼の影が現れたところで、玄が声をかけてきた。

 

「ところで須賀くんとはどうなったの?」

「ふぇっ?」

「留学してると言っても、連絡手段は一杯あるよね?」

「ど、どうもなってないよ? 普通にメールしたり、時々電話したりするだけだけど……」

「何をしているのですっ!」

 

 怒られた。

 

「向こうで変な女の人に引っかかっていたらどうするのっ!」

「え、ええー……京太郎くんなら大丈夫と思うんだけど……」

「甘い! おねーちゃんは甘いのです!」

 

 むふー、と鼻息荒く詰め寄られ、宥はたじろいでしまう。こうなってしまっては簡単には妹を止められない。憧と言い玄と言い、どうしてこうも恋愛話に食い付くのだろう。

 

「今から須賀くんが帰ってきたときのことを考えて、告白のシミュレーションをするのです!」

「こ、こ、こくはくっ? わ、私がっ?」

「他に誰がするのっ! のんびり構えている暇はないよ、さあお家に帰ろう!」

「玄ちゃん、ちょっと、ちょっと待ってぇっ!」

 

 悲鳴を上げるも、走り出した玄は止まらない。彼女を放って置くわけにもいかず、もたもたと宥は後を追いかけ始めた。

 

 全く強引にも程ある。けれども、こうでもされない限り自分から動き出せないと宥は自覚させられる。

 

 ――ああ、やっぱりこの妹にはもうしばらく手を引いて貰わないといけないのかも。

 

 なんて情けなくなりながら、宥は頬を緩ませるのだった。

 

 

 ◇

 

 

 東京に戻ってきた宥は、すぐに部室に顔を出した。休んでいる暇などない。関西で得られた経験を元に、試したいことは山ほどあった。

 

「お疲れ様、宥ちゃん」

「恭子ちゃん」

 

 出迎えてくれた恭子から労われ、宥はぺこりと頭を下げる。

 

「ごめんね、私の我が儘でしばらく留守にして。折角一年生も入って来たのに」

「かまへんかまへん。関西リーグの調子も分かったみたいやし、宥ちゃんもレベルアップしたみたいやし。格下のうちらが保守的に動いても行き詰まるのは目に見えとるもん」

 

 手をひらひら振って笑う恭子に、影はない――そう見えた。

 けれども、宥はちっとも安心できなかった。このまま放ってはおけない。今、自分がなすべきこと。それを正しく彼女は理解していた。

 

「ねぇ、恭子ちゃん」

「ん? どうしたん?」

「ありがとう」

「……い、いきなりどうしたん?」

 

 狼狽える恭子へ、宥は自然と微笑みかける。

 

「恭子ちゃんが誘ってくれたから、大学でも麻雀ができたの。麻雀ができたから、私は色んな縁に恵まれた。インカレなんて大舞台に、立てることができた。全部、全部恭子ちゃんのおかげ。この三年と少し、苦しかったり悔しかったりもしたけれど、恭子ちゃんと一緒にやってこられて、楽しかった」

 

 そして、宥は宣言する。

 

「頼りないかも知れないけど、最後まで、ちゃんと支えるから。支えてみせるから」

 

 ――だから。

 

「一緒に、勝とうね」

「……何を今更、言うとんねん」

 

 こそばゆそうに鼻を鳴らし、それから恭子はかすかに笑った。

 

「礼を言うんも速すぎやし、頼りないなんてあほなこと言わんといて」

「恭子ちゃん」

「でも、うん。――勝とう。一緒に勝とな、宥ちゃん」

 

 彼女の優しい声に、宥はゆっくりと頷いた。噛み締めるように、頷いた。

 

 

 

 その先の未来、六人で勝利を祝う日が来ることを信じて。




次回:12-2 すばら探偵花田女史のスカウティングファイル


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12-2 すばら探偵花田女史のスカウティングファイル

 東帝大学麻雀部がインカレ出場を決めたその日の内に、煌は長野行きの電車に飛び乗った。長野は、煌が中学を卒業するまで過ごした土地である。久方ぶりの帰郷になるわけだが、もちろんノスタルジーに浸るためではない。

 

 明日に、中部リーグの最終戦が控えているのだ。中部リーグは、平均レベルはさほど高くないと評価される一方で、際立った成績を残している大学が二校ある。

 

 一校は、牌に愛された少女・天江衣を擁する龍門渕大学。かつてインハイで活躍した龍門渕高校のメンバーたちもそのままに、大学でも変わらない強さを見せつけている。

 

 もう一校は、昨年のインカレ覇者・信央大学だ。信央は名門風越女子の卒業生を広く受け入れており、元々中部リーグの中でも強豪として名を馳せていた。しかしそれはあくまでリーグ内の話であり、全国区としては「それなりの中堅」止まりで燻っていたのは疑いようもない。しかしその状況は、三年前に一変した。

 

 いわゆる、宮永世代の入学である。インハイ団体戦優勝を果たした清澄高校、当時の部長であった竹井久はその象徴だ。大学一年の時点で既に頭角を現し、全国区の大会で徐々に成績を伸ばし、ついに昨年インカレで優勝を遂げた。彼女は今年四年生、実力は円熟しているだろう。今年のインカレでは、当然のように優勝候補に数えられている。

 

「しっかりと、情報を集めておかないといけませんね」

 

 特急列車の車内で、煌はひとり呟く。そう、今回の旅の主目的はライバル校の偵察である。昨今、対局中の動画データを収集するのに大した苦労はないが、生の情報はあるほど良い。他に有力な関西方面は宥が向かう予定であり、中部リーグは土地勘のある煌に任された――正確には、煌が自ら提案したのだが。

 

 部長の恭子も帯同する、と言い出したが、煌はこれを固辞した。この一年、恭子に大きな負担がかかっていたのは煌も重々承知しており、忸怩たる想いを抱いていたのだ。少しでも彼女から重荷を取り払えるのなら、何だってするつもりである。それが卓の内であろうと、外であろうと。

 

 それに、あまり恭子と竹井久を引き合わせるのは避けたいと煌は考えていた。憎しみ合っている、なんてことはないが、昨夏の様子を見ると良好な印象を抱いているとも言いがたい。余計なトラブルを抱え込みたくはなかった。

 

「……花田先輩?」

 

 不意に、頭上から声が降り注ぐ。はっとなって顔を上げると、そこにいたのは、

 

「原村さんじゃないですか!」

 

 高遠原中学での後輩、原村和であった。静かな車内で思わず高い声を上げてしまい、煌は慌てて自分の口を塞ぐ。その間に、和の背中からひょっこりと知った顔が飛び出てきた。

 

「おお、やっぱり花田先輩だじぇ!」

「片岡さんまで。すばらです」

 

 こちらも中学の後輩、片岡優希だった。小柄な体を揺らし、空いていた煌の隣席に滑り込む。

 

「この間のリーグ戦以来ですね」

 

 向かいの席に座りながら、和が微笑む。ええ、と煌は頷きながらも、苦い記憶を掘り返されてどうしても苦笑してしまう。

 

「三橋にはボッコボコにされましたね」

「勝負ですから。――でも、お互いインカレに出場できて何よりです」

 

 和と優希、二人揃ってレギュラーを務める三橋もまた、インカレに出場を決めていた。それも、関東一部リーグトップの成績を収めて。当然彼女たちもまた、優勝候補の一角である。現時点での東帝との実力差は明確だが、インカレ本戦で優勝するためには必ず乗り越えねばならない壁だ。

 

「それで、お二人はどうしてこの電車に?」

「多分、花田先輩と同じ目的です」

「中部リーグの偵察だじぇ!」

 

 予想できた答えだった。和はくすりと笑いながら、優希の言葉に付け足す。

 

「半分くらいは、ぶ……竹井先輩や染谷先輩の応援が目的ですけど」

「信央、ですか」

「強敵ですからね。去年は完敗でした」

 

 負けず嫌いな面がある和が、さらっと負けを認めたことに煌はやや違和感を覚えた。時間が経っているからか、相手が高校の先輩だったからか。あるいは、大人になった証拠だろうか。もう彼女も、二十歳になるのだ。

 

「どうせなら、一緒に行動しませんか?」

 

 和からの提案は、ありがたいものだった。分担して偵察できるならそれに越したことはない。

 

「すばらっ。是非。インカレ出場校同士、あんまりくっついていると規約違反を疑われそうですが、そこだけ気をつければ」

「中学の先輩後輩同士なんだから気にする必要ないじぇ」

「では、長野にいる間は休戦ということで」

「よろしくお願いしますよ、原村さん、片岡さん」

 

 まるで、中学時代に戻ったみたいだった。期間限定で、当時の他の部員たちもいないけれど、それでも懐かしくて自然と口元が綻んでしまう。

 

「ところで」

 

 和がどこか探るように、一つの話題を切り出してくる。

 

「須賀くんは、元気なんでしょうか」

「ああ」

 

 煌の後輩、そして和たちの高校の同期。須賀京太郎は、およそ一年前、麻雀留学で遠い欧州の地に飛んだ。拠点はロンドンだが、公式非公式問わず試合にも出ているらしく、あちこちの国を回っているらしい。

 

「私たちにはあんまり連絡を寄越さないじぇ。薄情な奴め」

「便りが無いのは元気な証拠、とも言いますが」

 

 語調こそ冷めたところはあるが、優希も和も彼を心配しているのは明白だった。三橋と東帝はライバル校同士だ、彼女たちも干渉しすぎるのに躊躇いがあるのだろう。とりわけ隠す理由もなく、煌は正直に答えた。

 

「週に一度は、私たちにも連絡が来ますよ。向こうに行った頃はかなり苦戦してたみたいですが、最近は調子良いみたいですよ。選抜者同士のリーグ戦でも、上位に食い込んでいるとか」

「それなら良かったです。……それにしてももう一年ですよね。そろそろ日本に戻ってくるはずでは? というか、一度も戻ってきてませんよね?」

 

 和の指摘は正しかった。彼は留学してからこっち、一度も帰ってきていないのだ。

 その理由に関しては、詳細まで分からずとも煌は何となく察していたが、あくまで予想に過ぎない。

 

「須賀くんにも思うところがあるんでしょう」

 

 結局、そこだけは誤魔化すことになった。不明瞭な話はしたくなかった。

 

「インカレには来るんでしょうか?」

「応援には来ると言っていましたが、向こうでの生活もあるでしょうし、果たしてどうなることやら」

「やっぱり冷たい奴だじぇ」

「ゆーき」

 

 拗ねる優希を、和が窘める。その隙をついたわけではなかったが、今度は煌が質問を投げかけた。

 

「時に、辻垣内さんはどうしているんでしょうか」

「部長が、ですか?」

「ほら、その、彼女も須賀くんと一悶着あったじゃないですか」

「ああ」

 

 曖昧な煌の言葉にも、和は苦笑いしながら頷いてくれた。三橋の部長、辻垣内智葉は京太郎へ強い興味を抱いていた。その真意までは測りかねるが、彼女も京太郎の留学に関して思うところはあっただろう。

 しかし意外にも、

 

「特に何も言っていませんでしたね。報告しても、『そうか』と頷いただけで」

「どうせ京太郎をからかっていただけだじぇ。それよりも最近はバイクに夢中になってるじぇ」

 

 バイク、と煌は復唱する。確かに彼女には似合いそうだが、思ってもみなかった趣味である。

 

「からかいだったかはともかく、あれから話題にも上がりませんでしたよ」

 

 要約すると、現状はあまり興味がない様子らしい。言うなれば、彼女は一度フられた身だ。とっくの昔に諦めていたということか。

 

「心配事が減ったと考えるべきですかね……」

「何か言いました?」

「いいえ、なんでも」

 

 振り払うように頭を振って、煌は再びいつもの笑顔を浮かべる。

 

「ところで情報交換といきませんか。東北リーグの話をあまり聞けていなくて」

「構いませんよ。東帝は関西リーグとパイプを持っていますよね。その辺りの話を聞かせて頂ければ」

「二人して悪巧みだじぇ」

「関東勢同士の協調です」

 

 煌はそう嘯きながら、メモにペンを走らせる。少しでも勝率を上げるため、彼女も必死であった。

 

 

 ◇

 

 

 翌日のリーグ戦会場の観客席で、煌は頬を引き攣らせていた。大型スクリーンに映し出された対局室の様子は、明暗がはっきりと別たれていた。

 

「これは……すばら、というしか……」

 

 即ち、信央とその他である。ここに龍門渕大学が混じれば話は別だったが、その二校の直接対決はリーグ戦前半で既に終わっていた。現在信央と相対する三校も中部一部リーグの猛者に違いないが、残念ながら役者が違う。

 信央大学の現レギュラー陣は、四年前のインターハイ長野予選決勝で死闘を繰り広げた三校――清澄、風越、鶴賀の面々で構成されている。

 

「先鋒、福路美穂子」

 

 彼女は高校時代から全国区の実力者として名を馳せている。高校三年時には、あの宮永咲や原村和を抑えて長野個人一位の栄誉を手にしており、その後咲たちの躍進により間接的にも評価を上げた。プロ入りも間違いなし、と囁かれていたが彼女の選択は進学であった。それを惜しむ声もあったが、力を燻らせることもなく、高校では届かなかった団体全国制覇も成し遂げた。両目を開いたときの観察眼に並ぶ者は、大学というくくりでは他に清水谷竜華くらいのものだろう。守って良し攻めて良しで、卓上をあっという間に支配してしまう姿はまさに圧巻であった。

 

「次鋒は、東横桃子」

 

 確かな実力があり有名であるはずなのに、これっぽっちも目立たないという特性を持つ鶴賀出身の二年生。通称ステルスモモ。それを承知で挑んでも、対局中に見失ってしまうというのだから空恐ろしい。インカレでは、同じ次鋒として煌がマッチアップする可能性は高く、何かしらの対策が必要だ。相手は後輩に当たるが、素の実力でさえも勝っているとは言えない。

 

「これは辛い相手ですね……。中堅は、加治木ゆみですか」

 

 こちらも鶴賀出身、そして信央大学麻雀部の部長である。麻雀歴は他の全国区の選手と比べて短いものの、対戦相手に合わせた対応力はずば抜けている。派手な打ち回しこそないが、常に冷静沈着で、信央を一気に全国上位に押し上げた立役者の一人だ。

 

「副将が、染谷まこ」

 

 四年前、流星の如く現れた高校がインターハイ団体戦を制した。それが清澄高校――その次鋒を務めていたのが彼女だ。実家が雀荘で、おびただしいほどの対局・観戦経験が染谷まこの武器である。ここ数年で特殊な打ち手たちとの経験も積み上げており、下手をすれば彼女が信央で最も油断ならない雀士かも知れない。

 

「そして――大将、竹井久」

 

 信央大学の黒幕とも呼ばれる、中部リーグ屈指の打ち手。東帝大学としても、因縁のある女性だ。高校時代は監督業も兼任しており負担が大きかったようだが、大学ではその役からも解き放たれ、雀士として専念している。それが功を奏したのだろう、一年前のインカレでは彼女が逆転優勝を決めた。大卒後はすぐにプロ転向か、とも噂されている。ただ彼女自身は進路をはぐらかしており、捉えどころが全くない。それこそが彼女の強さ、なのだろうか。

 

 この五人の他にも、池田華菜、吉留未春、蒲原智美、津山睦月など、控え選手にさえ隙がない。これで原村和たちまで進学していたら、手が付けられなかっただろう。

 

 ――強い……!

 

 個々人の実力、選手層の厚さ、チームとしての一体感。どこをとっても、隙らしい隙は全く見えてこない。他の強豪校を抑えて、優勝候補に数えられるだけのことはある。煌は心の何処かで、信央は精々が聖白女や三橋クラスと見積もっていた。けれども、勘違いしていたと言わざるを得ない。関東リーグで聖白女たちとは直接戦ったが、こうして観戦する限り、信央が頭一つ抜けていると煌は感じていた。

 

「ここに勝たないと優勝はない、ですか」

 

 困難なミッションだ。東帝の戦力で――否、自分の実力でどこまで立ち回れるか見当もつかない。だが、煌に諦める気は毛頭なかった。食い入るように対局の行方を追い、少しでも攻略の手掛かりがないかと思索する。

 

 結局、このリーグ最終戦は信央のダントツで幕を閉じた。リーグ成績は一位信央、二位龍門渕。下馬評通りの結果だった。

 さっさと退散しようと、煌は会場を出る。この後は和たちと合流する手筈になっていた。

 

 が、煌はすぐにその足を止めることになる。

 

「あら、花田さんじゃない」

「っ」

 

 会場出口ででくわしたのは、先ほどまでスクリーンの中で牌を握っていた女性。竹井久であった。

 

「久しぶりね」

「竹井さん……お久しぶりです」

「去年の夏以来かしら」

 

 余裕たっぷりに笑う彼女の視線からは、「全て見抜いているぞ」という意図がありありと伝わってくる。そもそも煌がこの時期長野に来る理由など、限られてくる。怯えが声に出ないように気を払いながら、煌は言った。

 

「インカレ出場、おめでとうございます。見てましたよ、すばらな戦いでした」

「ありがとう。東帝も昨日、インカレ出場を決めたんでしょう? 八月が今から楽しみね」

「はい。胸を借りるつもりでチャンピオンに挑ませて貰いますね」

「そんなに偉くなったつもりはないわよ」

 

 くすくすくす、と久はおかしそうに笑う。それだけで、金縛りに遭った気分になる。

 

「それにしても、本当にインカレに出てくるとはね。流石は東帝、流石は末原さん、と言ったところかしら」

「……ええ。うちもそう腐ったものじゃありませんよ」

「そうでなくちゃ、張り合いがないわ」

 

 などと言いながらも、久には自信が満ち溢れている。どんな相手でも負けるつもりはない、と。リーグ戦で龍門渕と当たった際、彼女は天江衣さえ破っているのだ。決して自惚れなどではない。仮に今、煌が打っても勝ちの目はないだろう。

 

「良い試合を期待しているわ」

「ええ、よろしく――」

 

 煌の言葉が、そこで途切れる。

 

 ――東帝は――

 

 頭の中でリフレインしたのは、彼の声。

 現状で実力差があるのは仕方ない。しかしそれは、諦める理由にも、ましてやへりくだる理由にもならないのだ。そう、ここで格付けを認めてしまってはいけない。そんな気概で戦おうものなら、結果は透けて見えよう。無名の清澄がインハイを駆け上がったとき、彼女たちは校名やランキングなど気にしていなかったはずだ。

 

 ああ――危ないところだった。

 

 彼に救われたことを自覚しつつ、煌は久に笑みを返す。

 

「去年、須賀くんが言ったことを覚えていますか」

「ん? なんだっけ?」

「東帝は必ずインカレに出場して――信央を、倒すと」

 

 久は、うっすらと目を細める。煌は続けて言った。

 

「さっきの『胸を借りて挑む』は撤回させて貰います」

「……ふーん」

「倒します。貴女たちを」

 

 その無遠慮で身の程知らずな宣言に、しかし久は、実に嬉しそうに笑った。

 

「待ってたわ」

 

 

 ◇

 

 

「――という感じでした」

「ん。ありがとな、煌ちゃん」

 

 東京に戻ってきた煌は、いの一番に恭子へ偵察結果を報告した。

 

「とにかく、信央は手強いです。龍門渕もそうですが、やっぱり長野は恐ろしい土地ですよ」

「宮永姉妹の出身地やもんなぁ。パワースポットでもあるんかな」

 

 冗談を言う恭子に、煌は敢えて厳しいトーンで言った。

 

「強いですよ、竹井さんは」

「……ん。そうみたいやな」

「おそらく大将戦で、恭子先輩と当たります」

「…………うん」

 

 恭子の強さを疑うわけではない。しかし、ここのところ彼女が不調であったのもまた事実。不安要素は拭えない。恭子自身もそれを理解しているのだろう、表情に影が差していた。

 

 信じている、なんて言葉を簡単に口にしたくはなかった。

 だから、代わりに煌は言った。

 

「信じて下さい」

「えっ?」

「恭子先輩が勧誘した部員を、信じて下さい。リーグ戦の雪辱を果たしてみせますから」

 

 やや面食らったように恭子は目を見開いたが、すぐに目尻を下げた。

 

「……うん。信じとるで、煌ちゃん」

「すばらですっ」

 

 敬愛すべき先輩のため、煌は戦う。どれだけ強い相手でも、戦い抜く。

 だが、自分ではできないこともあると、彼女は悟っていた。末原恭子の真価を発揮させるための、最後のピースが足りていないのだ。

 

 ――早く帰ってきて下さいよ。

 

 遠い空に、煌は願う。

 

 ――須賀くん。




次回:12-3 たかみープロデュースキックオフティーパーティー


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12-3 たかみープロデュースキックオフティーパーティー

 東帝大学と聖白女の麻雀部は、関東リーグの中でも深い付き合いがある。それは部員同士の個人的な付き合いから派生したものだったが、故に強い結びつきを有していた。

ただその付き合いも、東帝が関東一部リーグに昇格してからめっきり減っていた。同じ一部リーグの大学同士となった今、少なくともインカレが終わるまでは自重しようという恭子と菫の判断である。それでなくとも元々は敵同士なのだ、あるべき姿に戻ったと言えるのかも知れない。

 

 尭深としては、正直なところ残念な気持ちがある。聖白女には菫や誠子を始め、白糸台時代の友人が多く進学しているのだ。

 

 しかし、ふて腐れてなどいられない。

 ようやく掴み取った、インカレの出場権なのだ。名門白糸台では、先輩たちが積み重ねてくれた全国ランキングや整備された練習環境があった。現在の東帝にそれらはなく、試行錯誤を繰り返し頭を悩ます毎日だった。その上で勝ち取った権利は、何物にも代えがたい。ここで今一度奮起しなければいつするというのか。

 

 宥は関西に武者修行に行き、一皮むけて帰ってきた。

 煌も長野偵察後、これまで以上に精力的に練習に取り組んでいる。

 

 自分だけ、何もしないわけにはいかなかった。部長の恭子からは、立派なポイントゲッターとして期待されているのだ。それに――大切な、彼との約束もあった。部の外でも取り組めることを探すべきと尭深は考えた。

 

 しかしながら、尭深の交友関係は決して広くない。気心の知れた誠子や菫のいる聖白女との関係が途切れた今、頼れる人間は少なかった。

 残されたのは、プロとして活躍している後輩の大星淡だ。彼女は目当ての京太郎がいなくなった後も、東帝大麻雀部の部室にふらりと現れては練習相手になってくれていた。

 

 ただ尭深は、淡に対して個人的なわだかまりを抱えていた。後ろめたさと言い換えても良い。後から彼に好意を抱いたのは、自分のほうだ。先着順なんてルールはないし、既に淡が京太郎と特別な関係になっているわけでもない。同じことは東帝の先輩たち相手にも言えたが、彼女たちとの間に壁はなかった。

 しかし後輩の淡だけは話が別だ。彼と彼女が出会った頃から、尭深はずっと見守ってきていたのだ。どうしても、一言で表せない感情が胸の中で渦巻いてしまう。

 

「……ふぅ」

 

 とは言っても、このまま避け続けるわけにもいかない。今優先すべきは、自身のレベルアップなのだ。

 意を決し、スマートフォンに指をかける。

 

 同時に、着信があった。画面に表示された名前を見て、タイミングの良さに尭深はびっくりする。

 

「もしもし――淡ちゃん?」

『やっほー! 尭深!』

 

 耳が痛くなるほど元気な声。件の後輩、大星淡その人であった。

 

『ねぇねぇ、尭深今日部活休みだよねっ?』

「うん、そうだけど……でも、もしも淡ちゃんに時間があるなら――」

『ようしっ、それじゃあ遊びに行こう!』

 

 自主練に付き合ってくれないかな、という尭深の望みは言葉にならなかった。

 

「あのね、淡ちゃん――」

『じゃあ今からいつものところに集合ねっ! よろしく!』

 

 いくら尭深が懸命になっても、淡の勢いには敵わない。あっという間に通話は切られ、電話口からは虚しいビジートーンが響くばかり。

 はあ、と尭深は小さな溜息を吐くと、外出の準備を始めた。

 

 ――呼び出された「いつものところ」は、聖白女からほど近いファミレスである。照と菫が高校を卒業以来、チーム虎姫のささやかな同窓会はそこで行われていた。

 まさかとは思いながら、扉をくぐり店内を見渡す。

 

「あっ、たかみー! こっちこっち!」

 

 ぶんぶんと手を振って名前を呼んでくるのは、もちろん淡だった。嫌でも目立つその行為、有名人としての自覚はあるのだろうかと疑問に思ってしまう。もっとも、それが彼女の愛らしい部分でもあるのだけれど。

 

 呼ばれるがままに窓際の席に向かう。席の手前で、尭深はぴたりと足を止めた。

 そこで待っていたのは、淡だけではなかったのだ。

 

「言うな。何も言うな、尭深」

「わざわざこっちまで出向いて貰って悪いね」

 

 テーブルに突っ伏す菫と、苦笑いする誠子が淡の向かいの席に座っていた。――なるほど。彼女たちも淡に呼び出された口というわけだ。敵同士としてまず距離を取ろうとしたのは菫だ。格好がつかずに気まずいのはよく理解できる。

 

「分かってます」

 

 淡ちゃんのやることですから――とは口にせず、尭深は淡の隣に座った。実に満足そうに淡は笑って、メニュー表を渡してくる。

 

「最近みんなで集まってなかったでしょ! テルはまたヨーロッパだから仕方ないけど」

「そうは言うがな、時期というものがあるんだよ」

「インカレ直前になったらもっと集まらないじゃん!」

「インカレが終わってからで良いだろう!」

「それじゃあ遅い!」

 

 菫が苦情を投げかけるが、当然淡に通じるわけもない。いつものやり取り、いつもの安心する光景。しかしやはり、向かいの二人とは距離があるように感じられた。

 

「リーグ戦以来だけど、元気だった?」

 

 場を取りなすように、誠子が当たり障りのない質問をしてくる。うん、と尭深は頷き、

 

「聖白女には負けっ放しで、ちょっと悔しかったけど」

「そう簡単には負けてやれないよ」

 

 誠子が笑い、尭深も釣られて微笑んだ。同期のよしみだ。何だかんだ言っても、会えるだけで安心する。

 

「で、今日は何のために集められたんだ?」

「激励会だよ! 同じカマのメシを食べた者としてね!」

「だったら別々にすれば良いだろう」

「私だって忙しいんだからっ。もう、菫先輩は文句ばっかり言って建設的じゃないなぁ。そんなだから久や智葉にも負けるんだよ」

「激励を受けてるんじゃなくて喧嘩を売られてるようにしか思えないんだが……?」

 

 相変わらずのやり取りは、料理が運ばれてきてからも続いた。ここに照がいないのが本当に残念に思えるほど、楽しい同窓会だった。

 

「――それにしても、本当に東帝がインカレに出てくるとはな」

 

 ぽつりと零したのは、菫だった。視線は尭深にではなく、傾けたグラスに注がれている。すかさず口を開いたのは尭深ではなく、淡だった。

 

「ちょっと菫先輩。尭深を前に失礼でしょ」

「三年前の状況がそれほどだったんだ」

「それほど……でしたか」

 

 尭深が鸚鵡返しに訊ねると、菫はこっくりと頷く。

 

「あまり聞いてないのも無理はない。恭子も宥も苦労話はしないだろうからな。傍目に見てもあれは辛そうだった。自分が悪いわけでもないのに、色んな場所に頭を下げて回っていた。私が恭子たちに助け船を出したのは、本当のところ同情だ」

 

 どこか悔いるような菫の発言に、淡までもが黙り込む。

 

「東帝が一部リーグに上がってきたときは嬉しかったよ。共にインカレに出られるのも、嬉しい。だが、だからこそ線引きしておきたかったんだ。卓にまで同情を持ち込まないように。……東帝に入れ込んでいる自覚があるんだよ、私は」

「菫先輩」

「すまない、尭深。理由をつけて距離をとったのも結局は私の都合だ」

 

 菫からの心情の吐露に、しばらく尭深は何も言えないでいたが、やがて、

 

「いいえ」

 

 と、首を横に振った。

 

「菫先輩がいてくれたおかげで、私たちがインカレに来られたのも事実ですから。そんなことで謝ってもらう必要なんかないです」

「……ああ。ありがとう」

「それに、そういう話は私より恭子先輩たちに言うべきですよ」

 

 大事な点を指摘すると、菫は軽く肩を竦めて微笑んだ。

 

「インカレが終わってから話すよ」

「変な意地張っちゃって」

「うるさい、淡。大人には大人の世界があるんだ」

「なにをう、菫先輩こそまだ学生のくせにっ!」

「お前はもっとプロらしくしろっ!」

 

 またもや始まる言い合いに、尭深と誠子は笑ってしまう。

 

「菫先輩だって子供なんだから、尭深も焦らなくて良いのに」

「え?」

 

 急に淡から話を振られ、尭深は小首を傾げる。

 

「今日も練習するつもりだったんでしょ? 休みの日なのに」

「――うん」

 

 頷く他、なかった。完全に言い当てられてしまった。隣の席から淡が顔を覗き込んできて、断固とした口調で言った。

 

「尭深は今のままで良いよ」

「そう……なのかな」

「そうだよ。この間のリーグでも、尭深はほぼ全局プラス収支だったでしょ? 実質的なエースだったじゃん!」

「あれは運が良かったし、どこの中堅にも速度のある打ち手があまりいなかったから。インカレではあそこまで上手くいかないと思う」

「尭深先輩は全然分かってない」

 

 不満そうに淡は口を尖らせる。

 

「尭深は今でも充分強いよ? 私が保証する。下手に今から特訓しても調子崩すだけ。それよりもいつもの実力を発揮できるようコンディションを整えるのが一番だよ」

「淡ちゃん……」

 

 その助言が、口から出任せでないことくらいすぐに分かった。何よりも、一年以上魑魅魍魎のプロの世界で戦い抜いた淡の言葉なのだ。充分に信じるに足る理由があった。

ここに来るまで心を締め付けていた焦りと不安が、すっと消えていく。

 

「ありがとう、淡ちゃん」

「どういたしまして!」

 

 歯を剥いて笑う淡に、尭深は微笑みかける。菫は少し茶化すように淡の額を小突いた。

 

「随分と尭深の肩を持つな」

「私は東帝派だもん!」

「なんだ、須賀くんがいるからか?」

 

 京太郎の名前が出て、尭深は一瞬体を震わせる。どうしても彼の話には、心よりも体が先に反応してしまう。しかし一方の淡は平然と、

 

「キョータローは関係ないよ? 練習付き合ってるし頑張って欲しいもんね。というか頑張らないと許さない!」

「ああそうですか」

 

 にこにことご機嫌な淡に、菫は深い溜息を吐いた。もしかして拗ねているんですか、という言葉は喉元で押し止めた。

 

 それにしても、と尭深はそっと淡の様子を窺う。

 今、彼女は彼のことをどう思っているのか。もう、過去の話になってしまったのか。気にしていないのか。分からない。さっぱり分からなかった。

 

 

 場所を移しながら行われた同窓会も、日が暮れたところでお開きになった。

 

「それじゃ、尭深」

「うん」

 

 駅前で、誠子と握手を交わす。次にこうして穏やかに話せるのは、インカレが終わってからだろう。

 

「尭深」

「はい?」

 

 菫に名前を呼ばれ、彼女に向き直る。

 

「恭子に伝えてくれないか。――貸し借りなんて気にするな。本気で戦うぞ、と」

「……はい。必ず」

 

 それを最後に、菫と誠子の二人と別れた。

帰る方向が同じ淡と、同じ電車に乗り込む。混み合った車内で、彼女と二人きりになった。しばらくの間、尭深は吊革を握ったまま車窓を見つめていたが、やがて、

 

「ねぇ、淡ちゃん」

「どしたの?」

「須賀くんのこと……今は、どう思ってる?」

 

 訊いてしまった。直前まで訊ねるつもりはなかったはずなのに、自然と口が開いていた。

 返事は、すぐにやってこなかった。「大好きだ」と即答すると思っていたのに。しかし、代わりに飛び出してきた言葉は、酷く尭深を動揺させた。

 

「尭深は、キョータローが好きなんだよね」

「っ? え、えっ? そ、それはっ」

「良いよ、分かってるから」

 

 落ち着いた声で宥められ、尭深は肩から力を抜く。隣に立つ淡を直視できず、窓に映る彼女の顔を窺い見た。――笑っていた。

 

「先に言っておくけど、怒ってなんかいないからね。ずっと相談なかったのは、ちょっと寂しかったけど」

「淡、ちゃん」

「今、キョータローが帰ってくる場所は私のそばじゃないと思うから」

 

 その声に、虚勢はなかった。

 

「それだけ。うん。それだけ」

 

 静かに、何度も頷く淡を前に、尭深は何も言えなかった。言えるはずがなかった。

 

 ――ううん。

 

 そんな甘えが、許されるわけがなかった。逃げ出しては、いけない。

 

「淡ちゃん」

「うん?」

「私は、須賀くんが好きだよ」

「――」

 

 僅かばかりの沈黙の後。

 

「そっか。……うん。そっか」

 

 淡はどこか嬉しそうに何度も頷いた。尭深もまた、そっと瞳を伏せる。

 

 

 

 その日の夜、京太郎から連絡があった。

 ――インカレに合わせて、日本に帰ってくると。

 

 

 ◇

 

 

「帰って来る言うても、この日程――」

「準決の日か、決勝の前日くらいだもんね」

 

 スマートフォンと睨めっこする怜と、苦笑いする宥。

 

「まあまあ、あまり融通利く環境でもないでしょうし。距離もありますからね」

 

 沈み気味の二人を慰めるのは、煌だった。とは言っても、彼女もいささか残念そうだ。一回戦から共に戦えると期待していたのだから、無理もない。

 

「残念なもんは残念なんやもん」

「あんま気にしても仕方ないやろ。来れんもんは来れんのやから」

 

 いじける怜へ、ぶっきらぼうに恭子が言い放つ。むっと怜は表情を曇らせるが、反論はしなかった。その隣で、宥は苦笑いを浮かべている。

 

「それじゃあ」

 

 尭深はすくっと立ち上がり、コップを掲げた。――場所は、馴染みの居酒屋。集まったのは、東帝大学麻雀部レギュラー陣。

 

「須賀くんが来る決勝戦まで、絶対に勝ち上がらないといけませんね」

 

 たった一言。

 その一言だけで、気落ちしていたはずの面々に緊張が取り戻される。

 

「……せやな」

 

 怜が頷き。

 

「うん」

 

 宥が微笑み。

 

「当然です!」

 

 煌が拳を振り上げ。

 

「ん」

 

 恭子がグラスに指をかける。

 四人の引き締まった顔を見渡して、尭深はコップを掲げた。

 

 この部での、彼女のもう一つの役割――東帝大学麻雀部、宴会部長。こればっかりは、後輩がいくらできても譲らない。

 

「それでは、インカレ優勝を祈願して!」

 

 インカレに向けた決起会、その開幕の音頭を取る。

 

「乾杯!」

『かんぱーい!』

 

 ――必ず、勝つ。

 

 みんなで決勝戦まで勝ち進んで、彼が帰ってくるのを待つ。

 尭深の決意は固く、そして熱かった。

 

 

 ◇

 

 

 張り詰めに張り詰めた緊張。久しぶり――そう、三年振りの全国大会。最上級生たちは引退をかけた戦い。下級生とて、全てはここで勝つために青春を捧げてきたと言っても過言ではない。それが、夏のインハイ、夏のインカレなのだ。この緊張感は当然のものだと、卓につく尭深は思い出していた。

 

 今尭深が座する場は、インカレ一回戦。

 その中堅・前半戦である。

 

 リーグ戦とも一味違う。卓を囲む全員が全員、肩に力が入っていた。

 お茶を一口飲み、誰にも気付かれないように尭深は一息吐く。

 

 ――いけない。

 

 対戦相手たちのペースに嵌まってはダメだ。ブランクのある自分よりも、彼女たちのほうがこの場に一日の長があるのは間違いない。そんなものには付き合わず、自分の力を発揮できるように立ち回るべきだ。大切な、後輩からの助言を思い出す。

 落ち着けば良い。既に、アドバンテージはこちらにあるのだ。

 

 先鋒の怜ががっつり稼ぎ、次鋒の煌がさらにリードを広げてくれた。追い縋ろうとしてくる対戦相手たちから逃げ切る。

 

 ――ううん。

 

 心の中で、尭深は首を横に振る。

 

 ここで全て、打ち払う。

 

 南一局三本場の親が、流局で流れる。ほっと、周囲から安堵の息が漏れるのを尭深は感じ取った。

 これで気をつけるのはオーラスだけ――という対局者たちの声が、聞こえてくるようだった。

 

 ――南二局。

 このときこそ、地に蒔いた種が木々になり実る頃。

 

「リーチ」

「っ?」

 

 三巡目、尭深がリー棒を卓に投げ込み戦慄が走る。間髪入れず、

 

「ツモ――6000・12000」

 

 自摸和で三倍満を決めてしまう。親被りを喰らったプレイヤーの口から、呻き声が漏れ出た。しかし、尭深の猛攻はここで終わらない。

 南三局。収穫すべき実りは、まだ尽きていない。

 

「ロン。24000」

 

 僅か四巡で、またもや三倍満を和了する。

 

 対局室の外は、盛り上がりに盛り上がっていた。

 歴代の白糸台でも最強名高い、チーム虎姫が誇った圧倒的火力の持ち主。「収穫の時期」渋谷尭深が、全国に帰ってきたのだと。

 

 オーラス。

 

 対戦相手たちも、ここまで上り詰めた猛者ばかりだ。どれだけの点差があっても、絶望などしない。決して諦めない。最後の最後まで戦い抜くと、瞳が決意を語っていた。

 だからこそ、尭深も手を抜かない。

 

「――ツモ。8000・16000」

 

 今大会初の役萬を決めたのは、彼女だった。

 同時に、飛び終了。

 東帝大学麻雀部は、副将に回すことなく二回戦進出を決めた。

 

「ありがとうございました!」

 

 ぺこりと一礼をして、対局室を去りながら尭深は昂揚に身を委ねる。

 

 ――負けるわけにはいかない。

 

 彼が、帰ってくるまでは。

 迎え出てくれる仲間たちに抱きつかれながら、尭深は華やかな笑みを浮かべた。




次回:12-4 明日望む者へのリライアンス


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12-4 明日望む者へのリライアンス

 ――インカレ本戦開幕前。

 

 東帝大学麻雀部部室で開かれたのは、当然のことながらインカレの対策会議だった。団体戦のオーダー、想定される対戦大学のデータ確認、戦略・戦術の討議。十時間にも及ぶ会議は、狭い部室に熱気を籠もらせた。

 

 怜もまた、議論に積極的に参加していた。一年前、入部した当時にあった遠慮などはとうに失せている。共に入部した彼がいなくとも、立派な東帝の部員として溶け込んでいた。

 

 どっぷりと陽は沈み、会議はようやく最終盤に差し掛かる。事前に煌がまとめたレジュメの最後の一枚をめくり、怜はその手を止めた。

 

「それじゃ最後に。……インカレの個人戦枠やけどな」

 

 議事進行を務めていた恭子が、同じページを開く。だが、その紙には合議で選出する旨だけ書かれ、詳細な内容は一つもなかった。

 

 インカレ個人戦に予選はなく、団体戦への出場権を有する大学が代表を送り込むことができるルールである。厳密に言えば、一部リーグで上位となった大学に選手枠が与えられる形だ。当然上位であればあるほど与えられる選手枠は多くなる。

 インカレ団体戦に出場する東帝も、当然個人戦の選手枠を有している。しかしながら、一部リーグ六位通過の東帝には、一人分の枠しかなかった。新入部員はともかくとして、レギュラー五人から一人選ばなくてはならない。

 

 果たしてどう選ぶべきか――怜が頭を悩ませている間に、恭子は口を開いた。

 

「うちからは園城寺でええよな」

「は……はぁっ?」

 

 選び出すと言うより、確認するような口調。思わず怜は立ち上がっていた。

 

「待って待って」

「どうしたん?」

「どうしたん? と違うわ。そんなん私やなくて末原さんか宥さんが出るべきやろ」

 

 恭子も宥も、これが最初で最後のインカレだ。何よりも、インカレ出場に最も貢献してきたのは間違いなくこの二人なのだ。その功績を無視して自分が個人戦の権利を行使するなど、怜にはできない。かつて千里山でセーラを押しのけエースになった状況とも、違うのだ。

 

「私は来年も再来年もチャンスあるやん」

「来年も再来年もインカレに出られるとは限らへん。今年出られたんも奇跡に近いんやから」

「そんな悲観的にならんくても、絶対出るし」

「心構えは立派やけど、理由はそれだけと違う」

 

 恭子は努めて冷静に語りかけてくる。睨み合いの果て、怜は浮かした腰を降ろした。

 

「……他の理由って、なんなん?」

「あんたはプロになるんやろ」

 

 いつかも、似たようなことを言われた。けれども、あのときよりもずっと胸にずしんと来る言葉だった。

 

「なぁ」

 

 恭子は少し意地悪げに笑って、嫌な記憶を突きに来る。

 

「リーグ戦はどやった?」

「……先鋒やのに、エースやのに、ええとこなかった」

 

 特に、三橋の辻垣内智葉には一方的なゲーム展開を繰り広げられた。悔しい、なんて言えるほど大層な内容ですらなかった。

 そう、自分は足を引っ張ったのだ。エースでありながら、それに相応しい活躍を果たせなかった。リーグ戦が綱渡りになったのも、自分の責任だ。そんな自分が、どの面下げてチームの大切な枠を使うと言うのか。

 

「せやから、私は個人戦に相応しくない」

「せやから、あんたが個人戦に出るんや」

 

 即座に恭子に切り返され、怜は声を詰まらせる。恭子は意地悪げな笑みを深めて続けた。

 

「あんたはまだチャンスがあると思とるみたいやけどな。あんたのプロって目標考えたら、そんなにチャンスないんと違うか」

「……なんでなん」

「浪人してるからって、スカウト側が二年扱いしてくれるとは思えへん。むしろうちらと――辻垣内智葉たちと同じ括りにされとるはずや」

 

 掲げた夢を思えば、反論などできなかった。恭子の言に、怜はただただ耳を傾けるばかりであった。

 

「でも、今のままやったらリーグ戦の成績だけ見られて、あんたは格下扱いされてるやろ」

 

 それもまた、事実であろう。真っ直ぐに見つめてくる恭子の表情は、いつの間にか引き締まったものに変わっていた。

 

「ええか。あんたは団体戦でもライバルに勝つんや。そんで個人戦でも全員叩きのめすんや。それができるチャンスは、一つでも多いほうがええ。今年それができへんかったら、きちんと評価されへんのやから。なによりな」

 

 ペン先で怜を指差し、恭子は凛とした声で訊ねてくる。

 

「このままやられっぱなしで勝ち逃げされて、納得いくか?」

 

 答えの分かりきった、質問を。

 そっと息を吐き、怜は俯き加減であった顔を上げる。

 

「――いくわけ、ないやん」

「そういうわけや。個人戦、頼むで」

 

 何だか恭子に上手く乗せられた気がして腑に落ちないが、受け入れざるを得ない。

 ただ、他のメンバーはどう思っているのか。

 不安になって部室を見渡せば――宥が、煌が、尭深が微笑みながらこちらを見つめていた。全員の瞳に迷いはなく、どきりとした。

 

「私で、ええん?」

 

 ずるいと思いながら、怜はみんなに訊ねる。

 いの一番に答えてくれたのは、煌だった。

 

「もちろんです! 怜さん以外ありえませんよ! 私は断然怜さんを推します!」

 

 続いたのは、尭深。

 

「リーグ戦の結果はどうあれ、私たちの中で一番強いのは間違いなく怜さんですから」

 

 そして、宥が優しく語りかけてくれる。

 

「むしろ大役を押し付けちゃって、ごめんね。でも、怜ちゃんならきっと勝てると思う。だから、私たちの代表をお願いしていいかな?」

 

 自分は、そんな立派な打ち手ではない。元々からっぽから始まった、病弱な人間。彼女たちの期待に応えられる自信なんて、なかった。

 

 けれども。

 自信なんて、二の次だ。

 

「分かった」

 

 そんなもの関係なく、応えなければならないのだ。

 

「個人戦、私が出る。……ううん。私が、勝ってみせる」

 

 こうして、園城寺怜の初めてのインカレは幕を開けた。実に、四年ぶりの全国大会だった。

 

 

 ◇

 

 

 インカレ団体戦の一回戦を快勝し、興奮冷めやらぬまま怜はホテルに帰り着いた。インカレは東京会場なので、東帝の面々は必ずしもホテルを取る必要はないが、ミーティングや移動の観点からチームで一カ所に固まることを選んだのだ。インカレに出場しながらも、その予算を確保するのにも一苦労だったが。

 

「今日はまあまあやったかな」

「6万点稼いでまあまあですか」

 

 不遜な怜の言動を受け、相部屋の煌が苦笑する。

 

「煌さんも大活躍やったやん。相手の大物手全部潰しとったで」

「私よりも尭深が大爆発しましたけどね」

「あれはほんま凄かった。尭深さん味方でほんま良かったわ」

 

 蹂躙する光景は、思い出すだけで戦慄する。二回戦以降は周りのレベルも上がるしさらに警戒されるだろうから、今回のようにはいかないだろう。それでも今の尭深は、簡単に崩れない安定感と爆発力を兼ね備えている。――羨ましい限りだ。

 

「何はともあれ、怜さんも大分調子が上がっているようですばらです」

「……ん」

「それでは私はちょっと外出てきますね」

「あれ? どうかしたん?」

「高校の同級生――姫子が来てるんですよ。あっちはインハイの解説ですけどね。軽くお茶してきます」

「ああ、鶴田プロか。あんま遅くなりすぎんようになー。いってらっしゃい」

「承知してます。では」

 

 さらっと煌が部屋を出て行く。一人では広すぎるツインルームに取り残された怜は、ごろんとベッドに転がった。

 

 確かに一回戦は勝ち進んだ。

 しかし、問題はシード校が現れる次の二回戦。

 

 リーグ戦で散々辛酸を舐めさせられた、三橋大学と当たるのだ。その先鋒を務めるのは、今や大学最強と名高い辻垣内智葉である。既にプロチームに内定が決まっているという噂は、真実であろう。

 

 本音を言えば、不安だ。

 今度こそ勝てるなんて楽観視、怜にはできなかった。

 

「声……聞きたいな」

 

 携帯電話を取り出して、遥か遠方の彼に想いを馳せる。定期的に連絡を取り合ってはいるが、それもここのところ減っていた。京太郎も向こうで頑張っているのだ、甘えて彼の邪魔をしたくはなかった。今も、悩んだ末に、結局怜は画面を閉じた。

 勝ち進めば、彼は必ず帰ってきてくれる。

 

「信じとるで、きょーちゃん」

 

 ぽつりと呟き、目を伏せる。柔らかなベットに包まれ、このまま一眠りしようかと目を伏せたタイミングで、ドアをノックする音が聞こえてきた。

 

「はーい」

「うちや」

 

 他の部員より少しトーンの低い声で、すぐに恭子だと分かった。怜は起き上がって部屋の入口へ駆け寄り、鍵を開ける。

 

「はいはい、どうしたん?」

「休憩時間中すまんけど、先にあんたと二回戦の話しときたいと思て。今だいじょぶ?」

「かまへんかまへん、入って、どうぞ」

 

 恭子との二人きりのミーティングは、珍しいものではない。特に京太郎が留学してから、随分増えた。最初の頃はどこかぎこちなさもあったが、今ではお互い遠慮などない。

 

 ――ほんま、末原さんとはどんくらい顔突き合わせたっけ。

 

 辻垣内智葉対策について討論しながら、怜はこの一年を振り返る。恭子とは、決して譲り合えないライバル関係である。絶対に、譲れないものがあるのだ。

 

 悔しいのは、対等に歩んでいるはずの麻雀で、彼女に寄りかかっているという事実。

 

 三部リーグでも、二部リーグでも、一部リーグでも、如何に相手のエースを打ち崩すか夜遅くまで討議した。

 一方で恭子が務める大将に関して割いた時間は、さほど多くない。怜から恭子に送ったアドバイスも、高が知れている。 

 

「で、辻垣内はここで四索切ったわけやけど――園城寺?」

「ん、あっ、えっ」

「えっ、やない。ちゃんと話聞いとるん?」

「ご、ごめんごめん、聞いとるから」

 

 折角の集中が途切れてしまい、恭子に溜息を吐かれてしまう。

 

「どうかしたん? 二回戦からもうクライマックスなんやで、しっかりしてや、エース」

「どうかしたってわけやないけど、いつも末原さんには負担かけてるな、思て」

 

 決して口にするつもりのなかった台詞が、どういうわけかするりと出てしまった。後悔してももう遅い。そんな、気遣い合うような仲ではないと言うのに。恭子のほうもとても嫌そうな顔で、

 

「……なんか変なもんでも拾い食いしたんか」

「心配したのに失礼なこと言われてもうた」

「らしくないこと言うからや」

 

 茶化してみたものの、恭子はくすりともしない。これ見よがしに溜息を吐いたかと思うと、恭子は真っ直ぐな視線で怜の瞳を貫いた。

 

「負担なんて、思ってへん」

「ほんまに?」

「嘘ついてどうすんのや」

 

 あんな、と恭子は一つ前置きし――しばしの間逡巡を見せてから、改めて口を開いた。

 

「うち、今まで散々あんたに『プロになるんやろ』って発破かけてきたよな」

「そらもう耳にタコができるくらいに」

 

 恭子が何を言い出すのか、怜にはさっぱり見当がつかなかった。けれども、きちんと聞かなければならない気がした。自然と、居住まいを正す。

 

「でも、今はちょっと違うねん」

「違うって、何が?」

 

 ほんの一瞬、ほんの僅かの間、しかし確かに恭子は微笑んだ。怜を前にして、珍しい姿だった。

 

「一年間あんたと付き合ってきてな。――あんたにプロになって欲しい。必死で頑張るあんたに、夢を叶えて欲しいって、思うようになった」

「――」

「だから――負担になんて、思ってへん」

 

 さっぱりとした口調で言われて、怜は言葉を失った。冗談を言って誤魔化そうにも、何も思いつかない。のぼせたみたいに顔が熱くなって、俯いてしまう。

 

「……恥ずいこと言ってもうたわ。ちょっと頭冷やしてくる」

 

 恭子も恭子で顔を真っ赤にして、腰を降ろしていたベッドから立ち上がる。そのまま逃げるように部屋を出ようとするのを、

 

「待、ってっ」

 

 怜は必死になって呼び止めた。

 

「な、なんや、もう」

「末原さん、前、言ってたよな。高校の先生になりたいって」

「……そんなことも、言うたっけか。でもそれがどうしたんや」

 

 どうしたも、こうしたもない。

 自分と末原恭子が、根元のところで反りが合わないのはもう仕方ない。怜はそう割り切っていた。これからもその事実は変わらないだろう。

 

 けれども、それでも、きっと。

 想いを一つにできるところは、あるのだ。

 

「それって、麻雀の指導者になりたいってこと?」

「……それが、どうかしたん?」

 

 ここで否定されたら困りものだった。

 怜は、できる限り余裕のある笑みを形作る。卓の上でも張らないような、精一杯の虚勢だった。

 

「やったら、ここで団体戦優勝して経歴に箔付けたいんと違う? きっと、末原さんの夢へのプラスになる」

「あんた……」

「先鋒、勝つから。個人戦も負けへん。そんで東帝が最強ってことを世間に知らしめて、末原さんの夢を助けたい」

 

 沈黙が、部屋に落ちる。

 言い終えてからの達成感と高揚感が、頭の中でぐるぐると混じり合う。自分から逃げ場をなくす言動に、怜自身信じられなかった。

 しかし、不思議と後悔はなかった。

 

「あほ」

 

 背中をこちらに向けたままの恭子が、ようやく絞り出したのはたったの一言。それ以上は何も言わず、今度こそ部屋を出て行った。

 

「嘘でも、冗談でもないで」

 

 残された怜は、一人呟く。

 いつの間にか、怯えていた心はどこかに消え去っていた。俯かせていた顔を上げて、園城寺怜は戦いの時を待つ。

 

 

 ◇

 

 

 迎えたるは、インカレ団体・二回戦。

 先鋒を務める怜は、対面に座る辻垣内智葉と対峙していた。関東最強、優勝候補の一角三橋大学――そこで三年間、エースを務めている彼女からは余裕が垣間見えた。この大舞台で全く物怖じしていない。場慣れしている。

 

 リーグ戦でも、智葉は精神的なブレを一切見せなかった。一方の怜は個人的な恨みもあいまって、空回りしたところがあった。

 

「ツモッ」

 

 軽快に智葉が和了を決める。今回も、出だしからペースを握っているのは彼女だ。一巡先を視ても、ことごとくそれを上回ってくる。他のプレイヤーを使うのが上手い。

 僅かの間、睨み合う怜と智葉。

 

 ――落ち着け。

 

 深呼吸を、一つ。

 やれることは、まだある。恐れるべきは、ここで躊躇し竦んでしまうこと。

 

 この世に生まれ落ちて、体調は一番調子良い。手術を乗り越え、辛いリハビリもこなし、不摂生には注意を払ってきた。

 

 ――だから、大丈夫。

 

 信じられるものは、確かに自分の内にある。

 

「ロン! 4000!」

 

 辻垣内智葉が、じりじり後続との差を開けていく。しかし、まだ十二分に挽回できる範囲。

 

 二回目の、深呼吸。

 

 元々、自分はからっぽだった。何もない人間だった。

 けれども、今は違う。

 

 ――竜華。

 

 敵校同士でも関係ない、大切な親友。彼女と出会わなければ、何も始まらなかった。

 

 ――セーラ。

 

 卓の内外で、ずっと支えてくれた仲間。今の、もう一人の目標。

 

 ――愛宕監督、船Q、泉。琴音、西出っち、津村さんにナクシャトラ、根来ちゃん、それから、それから――

 

 数え切れないほど駆け巡るのは、高校時代の仲間の顔。

 

 ――原村さん、片岡さん、染谷さん、宮永さん。

 ――そんで、きょーちゃん。

 

 忘れられないあの夏に、長野の地で出会った友達と想い人。迷っていた自分を、何も言わずに助けてくれた。

 

 ――宥さん、煌さん、尭深さん、末原さん。

 

 初めは、京太郎が行くというだけで選んだ東帝大学。不埒で不純な動機だったのかも知れない。けれども今は、ここで良かったと確信している。ここでなければ駄目だった。

 

『一緒に、東帝に行きましょう』

『私は断然怜さんを推します!』

『一番強いのは間違いなく怜さんですから』

『私たちの代表をお願いしていいかな?』

『あんたにプロになって欲しい』

 

 リフレインする、みんなの声。

 みんなが託してくれた、エースというポジション。

 

 寄せられた信頼が両肩にのしかかる、なんてことはない。自分のからっぽを、それが埋めてくれている。いくらでも詰め込める、みんなの想い。

 

 ――せやから。

 ――ここから先は、みんながくれた一巡先や……!

 

 視界が、変わる。

 一巡先の世界。二巡先の世界。三巡先の世界が広がっていく。

 

 それだけではない。

 

 行動によって変わる複数の未来が、樹形図のように目の前に広がる。あらゆる可能性を、全て拾い上げていく。

 

「リーチ」

 

 怜がリー棒を、卓に突き刺す。驚異的な一発率を誇る怜のリーチに、卓内で一瞬緊張が走るが、智葉は冷静に対処しようとしていた。

 

「ぽ、ポン!」

 

 あえて下家に鳴かせて、一発を消す。見事な判断と言えよう。

 しかし。

 その未来も、怜は視ていた。

 

「――ツモ」

 

 引き込む牌こそが、和了牌である。

 馬鹿な、という声が聞こえてきそうだった。智葉もぴくりと眉を動かす。しかし怜はまだ、満足していない。

 狙い撃つのは勿論――

 

「ロン!」

「っ!」

 

 辻垣内智葉。その牌を捨てるのは、既に三巡前に視ていた。様々な可能性の中で、一番確率が高い牌を狙ったのだ。

 

「一本場……!」

 

 ――これまでやられた分、お返しにしてやる。

 澄ました顔のまま、怜は点棒を積み重ねた。

 

 

 ◇

 

 

 先鋒戦を終えて控え室に帰ってきた怜を迎えたのは、煌たちの熱い抱擁だった。

 

「凄いよ怜ちゃん!」

「お見事でした!」

「みんなのおかげや」

「お茶いれますね」

 

 下馬評をひっくり返す、圧倒的勝利。辻垣内智葉さえも抑え込み、実に五万点差をつけて次鋒に繋いだ。

 控え室の奥に座っていた恭子と目が合う。

 

「すえ――」

「怜」

 

 名前で呼ばれ、一瞬怜は面食らう。

 しかし恭子が右の掌をかかげると――すぐに、笑顔で応じていた。

 

「やったで、恭子」

 

 激しくはない、けれども熱いハイタッチを交わす。

 ――最高の、仲間たちと。

 

 

 

 この日、三橋大学を追い落とし、東帝は準決勝へと勝ち進んだ。

 歓喜に満ちる東帝大学の面々だったが、その後もたらされた知らせに、冷や水を浴びせられることになる。

 ――須賀京太郎の帰国が、インカレに間に合わない。




次回:12-5 繋ぐ言葉はラン・ラン・ラン /


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12-5 繋ぐ言葉はラン・ラン・ラン /

 履き慣れないスカートを履き、緊張に身を強張らせながら、恭子は京太郎と向かい合っていた。呼び出したのは恭子だったが、京太郎も話したいことがあったらしい。その内容を、わざわざ確認するまでもなかった。

 

 ――突如持ち上がった、京太郎の留学。

 

 その報に東帝大学麻雀部の部員たちは少なからず動揺し、恭子もまた例外ではなかった。それを表に出すような真似はしなかったが、恭子は悩み続けていた。

 恭子が選んだのは、いつか二人で話した喫茶店だった。きっと、ここ以上に相応しい場所はない。

 

「末原先輩」

 

 切り出したのは、京太郎だった。

 

「俺――」

「まさか行かへん、とか言わんよな」

 

 しかし察した恭子は、それを押し止める。京太郎は一瞬目を丸くするが、すぐに襟を正した。

 

「そのまさかです」

「……分かっとるやろ。こんな美味しい話、もうないで」

「分かってます。分かってるつもりです。そりゃ、未だに信じられないくらいですから。どうして俺なんかにって思うくらいです」

 

 でも、と京太郎は真剣な眼差しを恭子に注ぐ。どきりとして、恭子は目を逸らしたくなった。体が火照ったかのように熱い。けれども、逃げてはいけなかった。

 

「俺が東帝を選んだのは、末原先輩がいたからです」

 

 少しだけ、恥ずかしそうにはにかみながら彼は言った。以前もかけてくれた言葉。一瞬でのぼせ上がりそうになるが、恭子は冷静であろうと努める。

 

「末原先輩がいる東帝が一番成長できる場所なんです。留学に行って帰ってきたら、もう末原先輩は引退してるかも知れないじゃないですか。だったらやっぱり、残りたい。残って、ここで勉強したい。……末原先輩は、迷惑かも知れませんけど」

「あほ」

 

 そんなわけない。迷惑なんて、一度たりとも思ったことはない。むしろ逆だ。ずっと、助けられてきたのだ。

 

「気持ちは、……その、嬉しいわ。でも、あんたは行くべきや。あっちでしか経験できんことのほうもあるんやから」

 

 喋りながら、違う、と恭子は思った。これは、自分の言葉ではない。竹井久の主張を繰り返しているだけだ。これで彼が納得しているなら、既に納得している。

 

「そういうのも含めて、考えました。その上で、残るって決めたんです」

 

 ああ、と恭子は熱い息を漏らした。――だったら、もう良いではないか。突き放す理由が、どこにある。そんな権利が、どこにある。

夢を繋いでくれた彼と共にあれば、自分はもっと強くなれる自信があった。残ってくれるというのなら、残ってもらえば良いではないか。

 

「そんなら……」

 

 甘い誘いに、恭子は乗ろうとした。そのとき、確かに傾いた。

 

 けれども、彼女は踏み止まった。

 

 それは間違っている。夢を繋いでくれた彼を、犠牲にするのなんて間違っている。自分の本当の気持ちを気付かせてくれた彼が、自身の気持ちを殺すなんて許されるわけがない。

 

 何よりも。

 京太郎は、大きな勘違いをしている。恭子にとって、絶対に許せない勘違いをしているのだ。

 

「あんな、須賀」

「なんです――ってぇ!」

 

 彼の頭に、手刀を落とす。

 

「あほなこと、言わんといて」

「あ、あほなことって、なんですかっ」

「あんたが留学から帰ってきた頃には、うちが引退してるかも知れへんって? だからどうしたんや」

 

 末原先輩、と京太郎は呆けたように名前を呼ぶ。

 

「うちが部活引退しても。大学卒業しても。何も変わらへんわ。卒業したくらいで今までのことが何もなしになるわけないやろ」

 

 今更、その程度で離れるものか。離れてたまるものか。

 だから、と恭子は笑って言った。

 

「行ってこい。また帰ってきたら、なんぼでも麻雀教えたる」

 

 その笑顔が、決め手だった。

 

 元々京太郎とて、留学に心引かれていたに違いない。引っかかっていたのは、東帝に来たそもそもの動機。その引っかかりに触れられるのは、恭子をおいて他にいなかった。

――最大の理由を取り除かれ、京太郎は留学を決意した。

 

「一つ、約束や」

「約束……ですか」

「どうせ行くなら、向こうでてっぺんとって来い。うちらも、てっぺんとってみせるから」

「……わかりました!」

 

 それからその日は、二人でずっと喋っていた。麻雀のこと。大学のこと。留学のこと。インカレのこと。話題はいつまでも、尽きなかった。

 ようやく帰る頃には、陽もどっぷり沈んでいた。

 

「それじゃ、俺はここで」

 

 別れ際、京太郎は少し名残惜しげにそう言った。自分よりも遙かに大きな体の彼が、酷く小さく見えた。

 

 自然と、手が伸びそうになっていた。慌てて恭子はその手を引っ込める。――今自分は、何をしようとしていたのか。恥ずかしくなって、それ以上考えないことにした。

 

「また、明日の部活で」

「うん。またな……京太郎」

「!」

 

 名前で呼んでいたのも、意図したものではなかった。恭子自身、驚いていた。京太郎も一度びっくりしたように口を開けたが、やがて、

 

「はい、恭子先輩」

 

 と、呼んでくれた。

 

 彼の姿が視界から消えても、恭子はその場に立ち尽くしていた。ようやく我を取り戻した彼女は、自宅には帰らず、東帝の部室を訪れていた。そこが、恭子にとって東京で一番落ち着く場所だったからかも知れない。あるいは、思い出に浸るためだったのかも知れない。

 

 翌朝、尭深が入ってくるまで恭子は部室に残っていた。ずっと、彼を想っていた。

 

 

 

 

 

 ――いやいやいや!

 恭子は頭を振って、散漫していた集中を取り戻す。今は、「こんなこと」を思い出している場合ではない。

 

 彼女は今、インカレ団体戦準決勝、大将戦の場に身を置いているのだ。

 

 正直言って、大勢はついている。下位二校が大きく沈み、上位二校はほとんど横並び状態なのだ。二位までが決勝戦に進出できるので、オーラスを迎えた現在、この準決勝はほぼ決着が着いたと言って良かった。

 

 その上位の内の一校は、東帝大学である。同大学の決勝戦への進出は、不祥事発覚以前から含めても、久方ぶりであった。

 しかし恭子は、ただ決勝進出するだけでは満足できなかった。

 

 ちら、と上家に視線を送る。

 

 そこに座るのは、信央大学の大将・竹井久であった。僅か1000点差で、現在トップを走るのは彼女である。実に楽しそうに、久は牌と戯れていた。

 

 このまま何もしなくとも決勝進出は確定的だが、しかし、恭子は無理をしてでも逆転するつもりだった。ここで、東帝は信央にも勝る、と格付けしておきたかった。自信をつけて、決勝に乗り込みたかったのだ。

 

 しかし敵もさることながら、ことごとく恭子の猛追をかわしてくる。四年前、インハイで愛宕洋榎と戦っていたときとはスケールが違う。インカレ前に立てた対策をも、上回ってくる。

 

 ――知らん内に、縋ってたんやろか。

 

 漏れ出そうになる溜息を押し殺し、恭子は再度対局に集中しようとする。

 

 彼はいない。

 彼は、来ない。

 

 いつまでも、どうしようもないことを考えても仕方ない。仕方ないのに、どうしてもその顔がちらついてしまう。

 

「――ツモ!」

「なっ」

 

 その隙をつかれたのか、はたまたこれこそが彼女の実力か。両面待ちを捨ててのツモ和了を決め、竹井久は牌を卓に叩き付ける。注意する暇もなかった。

 

「お疲れ様」

「……!」

 

 どこか挑発染みた笑みを向けられ、恭子はぐっと唇を噛む。

 ――ここに、準決勝は決着した。

 

 

 

 全日本大学女子麻雀選手権、団体戦決勝進出校。

 聖白女学院大学(関東リーグ二位)。

 信央大学(中部リーグ一位)。

 西阪大学(関西リーグ一位)。

 東帝大学(関東リーグ六位)。

 

 

 ◇

 

 

 決勝戦までには日本に帰ってくるはずの京太郎は、しかしヒースローで足止めを喰らっていると言う。悪天候により、多くの便が欠航しているのだ。

 残念という他なかったが、彼に構ってばかりはいられない。明日は決勝戦。ライバルは全て格上の大学、全員強敵揃いだ。

 

「西阪は大将に竜華かー。ここはやっぱ不動やなあ」

「竹井さんも強敵ですしね。リーグ戦から準決勝まで全部プラス収支です」

「菫先輩はどんどん調子上げてますね。高校のときみたいなクセは全く見えてきませんし」

「大将は公式戦であまり務めていないはずだけど、流石菫ちゃんだね。シャープシュートからどう逃れるかが鍵だけど」

 

 最終ミーティングにも、熱が籠もる。誰しもが積極的に発言していた。

 恭子を、除いては。

 

「恭子ちゃん?」

「あっ、う、うん。菫の話な」

 

 宥に顔を覗き込まれ、恭子は慌てて首を振る。何でもない風を装うが、しかし、心配そうな視線が各方面から向けられるのを恭子は感じ取った。

 

「……ごめん。うちがもっとしっかりしてたら、準決も一位抜けできたのに」

 

 つい、謝ってしまう。部長としてはもっと毅然としていなければならないと言うのに。

 

「確かに常に一位を狙っていく姿勢は大事やけど、今は後悔するより明日一位とるほうが重要と違う?」

 

 真っ先に正論を述べてきたのは、怜だった。反論の余地などなく、恭子は無言で頷いた。これ以上、みんなに心労をかけるわけにはいかなかった。

 

 ――みんなだって、彼が帰ってくるのを心待ちにしている。

 

 ぎりぎりの帰国になっても、それが翻されても、文句一つ言わずに待ち続けている。彼が帰ってきたとき、情けない姿を晒さないために。笑顔で再会するために。そうすべきと、みんなは正しく理解していた。

 

 部長である自分が、ここで緊張の糸を切らすわけにはいかない。気を引き締め直し、恭子はミーティングに臨んだ。

 

 それも一通り終わると、明日の決勝に備えて早めの解散となる。ただ眠るにはまだ早く、恭子は客人をホテルに迎え入れることとなった。

 その相手は、高校時代の恩師。

 

「久しぶりやな~、末原ちゃん~」

「お久しぶりです」

 

 現姫松高校麻雀部の監督、赤阪郁乃であった。ゆったりと喋り方も、若々しい容姿も何一つ変わっていない。

 

「元気やった~?」

「監督こそ。ていうか、ええんですか。姫松もインハイで大変でしょうに」

「心配せんでもええで~。善野さんも手伝ってくれとるし~。あ、末原ちゃん的には善野さんと会いたかった~?」

「大会終わったら挨拶行く言うてますんで、大丈夫ですよ」

 

 ホテル併設のレストランに席を移し、恭子は郁乃に質問する。

 

「で、今日は何の用なんですか?」

「大したことあらへんのやけど~」

 

 郁乃は細めていた目を、少しだけ開いた。

 

「私な~、末原ちゃんに一回謝らなあかんと思ってたんよ~」

「……急にどうしたんですか」

 

 郁乃に謝られるなど、恭子にとってむずがゆい話だ。心当たりもない。眉を潜め、真意を探ろうとする。

 

「ほら~、末原ちゃんの進学に相談乗ったん私やん~」

「ああ、そう言えばそうでしたね」

「そんで、末原ちゃんは東帝行ったやん~。そしたら、背負わなくてええ苦労まで背負わなあかんかったんと違う~?」

 

 郁乃の言いたいことは、よく理解出来た。心の底から、彼女が心配してくれていたのも分かった。もしかしたら、ずっと気にかけてくれていたのかも知れない。

 

「監督の言うとおり、苦労したかも知れません」

 

 確かに、辛い経験を味わった。

 確かに、投げ出したいと思ったこともあった。

 けれども、それ以上の幸福が「ここ」にはあったのだ。

 

「でも、うちは監督に心から感謝しとるんです」

「――……末原ちゃん」

「あのとき、背中を押してくれてありがとうございました」

 

 恭子がぺこりと頭を下げると、郁乃は優しげな吐息を吐いた。それ以上、とやかく言うのは無粋であった。

 

「末原ちゃんは~」

「なんです?」

「東京で恋でもしたん~?」

「は、は、はあああっ?」

 

 突然の話題転換に、恭子は盛大に狼狽した。にっこりと郁乃は笑う。

 

「お、当たり~?」

「何言うとるんですか! 急に!」

「良かった理由って、そんくらいかと思て~」

「もっとあるでしょうが! ほんまこの人は……!」

「いけずやなあ、末原ちゃん~。そんなんやったら振られるで~」

 

 それが恭子の限界点だった。しばらくはやいのやいのと、激しいやり取りが繰り広げられた。

 なのに最後には、

 

「決勝戦、頑張ってな、末原ちゃん」

 

 と、真摯な声で言ってくるのだから卑怯だ。

 

「……っ、ああもう! 監督こそインハイ頑張って下さいね!」

 

 

 ◇

 

 

 全国頂点まで、後一つ。

 

 ここまで上り詰めた四大学は、どこも負けず劣らずの実力を有していた。

 同世代のトップは高卒後プロになるため、インカレのレベルはインハイに比べて見劣りする――という言説は、既に過去のもの。元々素養のある大学生たちは、その実力を円熟させてこの場に辿り着いていた。

 

 始まった決勝戦、各校エース級が配置される先鋒は、ハイレベルな攻防となった。派手な和了こそないものの、繰り広げられる駆け引きはトッププロの対局と比較しても遜色なかった。ここで頭一つ抜けたのは、園城寺怜。彼女はインカレの活躍により、間違いなく最注目選手に躍り出た。

 

 次鋒からは残り三校の巻き返しもあり、点数では横一線の状況が続く。副将の松実姉妹直接対決では激しい殴り合いになったものの、前半戦・後半戦トータルで見るとほぼイーブンの結果に終わった。

 

 故に。

 場が平らなまま、勝負の行方は大将戦に委ねられた。

 

「頑張って!」

「お願いしますよ、恭子先輩!」

「決めてきて下さい!」

「頼んだで、恭子!」

「ん」

 

 四人に背中を押され、恭子は対局室に向かった。

 既に対戦相手の三人が、対局室中央、ステージの上で待ち構えていた。

 

 聖白女――弘世菫。

 西阪――清水谷竜華。

 信央――竹井久。

 

 ごくり、と生唾を飲む。今更、凡人だからと自分を卑下するつもりはない。しかし相対する彼女たちは、間違いなく才覚ある人間に分類される。気を抜けば、すぐに敗北の奈落に突き落とされるだろう。

 

 幾度となく酒を飲み交わし、多くの相談にも乗ってくれた菫から送られるのは、獲物を狙い定める鋭い眼光。

 

 遠方ながら繰り返し練習試合を組み、切磋琢磨しあった竜華も、冷気さえ感じる空気を撒き散らしている。迂闊に近づくことさえできない。

 

 そして竹井久は、相も変わらず余裕たっぷりな笑みを浮かべている。いつか部室に乱入してきたときと瓜二つ。縛ったおさげが、ゆったりと揺れた。

 

「待ってたわよ、末原さん」

「……みたい、やな」

 

 場決めの牌を、ゆっくりとめくる。

 半荘二回の大将戦が、始まった。

 

「ツモ!」

 

 ――まず勢いよく飛び出たのは、連覇を狙う信央だった。久の悪待ちは、そう簡単に止められない。テンパイスピードが速すぎる。

 

「それだ、竹井」

 

 しかし、弘世菫のシャープシュートが待ったをかける。決して素直とは言えない久の打ち筋だが、それも研究してチューンナップしてきたのだろう。

 

「……ツモ。1100・2100」

 

 調子づくと思われた菫だったが、さらに彼女を阻むのは西阪の清水谷竜華。まるで和了形が分かっているような超速攻を見せ、流れを自分のもとへ引き寄せようとする。

 

 ――まずい……!

 

 恭子は焦り、歯噛みする。一人だけ、まるで蚊帳の外であった。割って入る余地が、見当たらない。三人が三人とも、隙らしい隙がない。

 

 これが、四年間大学麻雀のトップで戦い続けた者たちの実力。

 これが、大将を任せられた最高の打ち手たち。

 

 底辺を這いずり回っていた自分とは、やはり格が違うのか――なんて弱気が、顔を覗かせてしまう。そんなものは無理矢理押し込んで対局に集中するが、ずるずると点差は開いていく一方だった。

 

 気付けば、前半戦終わって一人沈みの状態。

 ここまで点を繋いでくれた四人に、申し訳なかった。

 

「……くっそ」

 

 対局室を出て、一人悪態を吐く。控え室に戻る気力はなかった。窓の外を見れば、東京の夜景が広がっている。長い、団体戦の一日が終わろうとしていた。

 

 実力は、充分発揮できている。

 確かにリーグ戦までは、多忙もあいまって不調であった。しかし宥たちはそれを見事に支えてくれた。卓の中でも外でも、恭子の負担を減らすべく奔走してくれた。

 

 だからこの結果に言い訳しない。今彼女たちに負けているのは、ひとえに自分の実力不足である。それを認めた上で、ひっくり返す「何か」が必要だった。

 

 ――何かって、何やねん。

 

 実力以上のものを引き出すためには。

 彼女たちから勝利を掴み取るためには。

 何が必要なのだろう。どうすれば良いのだろう。ここで諦めるなど有り得ず、恭子は必死で頭を回す。

 

 考え、考え、考え続け。

 はっと、脳裏を過ぎったのは彼の顔。

 

 ――今、彼がここにいてくれたら。

 

「あほか、うちは」

 

 自分の頭を拳で叩き、妄想を断ち切る。――ああそうだ。彼がここにいてくれたら、どれだけ心強いだろう。どれだけの力になってくれるだろう。

 

 でも、彼はいない。来ない。来られない。もう、タイムアップだ。

 諦めろ。

 嘆いていても、仕方ない。

 さあ、戦いの場に行くのだ。

 自分に言い聞かせ、歩こうとする。けれども、脚は言うことを利かなかった。

 

「京太郎……」

 

 ぽつり、とその名が口から漏れる。

 

「きょうたろう……」

 

 声の中に、涙の色が混じる。喉が震える。ずっと張り詰めていたものが、途切れそうになる。

 

 ――どうしてここで。ここまでずっと、我慢していたのに。

 

 恭子はそう嘆くが、この場面だったからこそ、であった。もう一歩で、四年間の全てが決まってしまうこの場面なのだ。当然だった。

 

 ――堪えていたものが、こぼれ落ちそうになる。

 

 そのときだった。

 

 

「恭子先輩!」

 

 

 自分の名前を呼ぶ人が、いた。

 反射的に、恭子は振り返る。

 そこにいたのは、

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 時は、しばし遡る。

 急激な天候の変化により多数の遅延・欠航便が発生したヒースローに、須賀京太郎は留まっていた。他の航空会社や最寄りの空港も当たり、あらゆる手を尽くしたがどこも全滅。結局、振替便の順番を待つしかなかった。しかし、予定していた便より先発の便も欠航となっており、インカレ決勝に間に合う便に搭乗できるかは全くの不透明だった。

 

 いや、キャンセルが多数でない限り無理であろう。半ば絶望的な気持ちで、京太郎は待合室のシートに腰を降ろしていた。

 

「もっと俺が強かったら……」

 

 頭を抱えながら、京太郎は悔しさに身悶えする。

 

 ――留学先でてっぺんをとってから、帰国する。

 

 恭子との約束をようやく守れるようになったときには、もうギリギリだった。インカレの応援をするという尭深との約束もあったのだ。

 

 もちろん、留学先のレベルは生半可ではなかった。最初の一ヶ月は散々な結果だった。同世代だけでなく、中学生にもこてんぱんにされる始末。「てっぺん」という約束は、それこそインカレ優勝と変わらない難易度だったかも知れない。

 

 それでも彼は、一歩一歩前に進んだ。留学を勧めてくれた明華や照が時折姿を見せては、アドバイスをくれたのも大きい。つい先日も、二人揃って挨拶に来てくれた。彼女たちの他にも、助けてくれた人たちは多くいた。そして、誰もが認める場で一位を勝ち取ったのだ。

 

 ただ、最終的な結果がこれでは締まらない。遅れて帰って、どの面を下げて恭子たちと会えば良いのか。

 

「まだか……まだなのか……」

「――タロウくん」

「こんなになるんだったら、怒られてでも早く帰るんだった……」

「キョウタロウくん」

「みんな、頑張ってるのに……!」

「キョウタロウくんっ!」

「は、はいっ?」

 

 頭上から降り注いだ大声に、京太郎は顔を上げた。そこにいたのは、自分をこの地に導いたプロ雀士・雀明華だった。屋内なのに傘を掲げる姿はいつも通りで、最早京太郎は見慣れていた。

 

「やっと気付いてくれましたね」

「みょ、明華さん? どうしてここへっ?」

「飛行機が飛ばず困っていると聞きまして。助け船を出しに来ました」

「助け船……?」

「はい。どうぞ」

 

 そう言って明華が差し出したのは、一枚のチケット。

 ――成田行きの、航空券だった。

 

「途中からになるでしょうが、インカレ決勝当日には間に合うはずです。使って下さい」

「え、でも、これ、どうやって……?」

 

 京太郎の疑問に、明華は僅かな逡巡を見せた。しかしやがて溜息を吐くと、

 

「本人からは口止めをお願いされていましたが、伝えておくのが筋ですね。それは、テルのチケットです。彼女が貴方より先に日本に向けて発ったのは知っているでしょう? 同じように欠航になってしまったんですが」

「あ……そう言えば」

「この振替便に乗ってテルも帰る予定でしたが、それをキョウタロウくんに譲ると言って、私に押し付けてきたんですよ」

 

 受け取ったチケットを半ば呆然と見つめ、京太郎は「だけど」と言い募ろうとした。けれども明華は、笑顔を浮かべて首を横に振った。

 

「私たちも、貴方を留学に誘った責任を感じていますから。貴方に後悔してもらいたくありません」

「……、ありがとうございます! 本当に、ありがとうございますっ! 照さんにもお礼伝えて下さい! この恩は必ず返します!」

「水臭いこと言わないで下さい、私たちと貴方の仲じゃないですか」

 

 ぎゅっと、明華が京太郎の手を握る。どきりと京太郎は動揺したが、明華は平気な顔して口を開いた。

 

「行ってらっしゃい、キョウタロウくん」

「……はいっ!」

「まだ間に合うと決まったわけじゃありませんから、急いで準備してくださいね」

 

 感謝以外の言葉が、出てこない。今一度頭を下げると、京太郎は素早く荷物をまとめ、搭乗口に駆け込んでいった。

 彼の懸命な姿を遠巻きに眺めながら、明華は苦笑いと共に小さく溜息を吐いた。

 

「全く、難儀な立場です」

 

 

 

 ――飛行機は、今度こそ順調に飛び立った。空路の中、京太郎はあまり寝付けなかった。きっと、東帝のみんなは勝ってくれている。そう信じているが、どうしても不安は残る。この一年の状況を、電話越しでしか話を聞いていないのだ。

 

 長い旅路を終え、成田に降り立ったのはインカレ決勝当日。

 

 陽は、既に傾いていた。決勝は、今中堅から副将戦あたりだろうか。確認する時間も惜しく、京太郎はキャリーケースを転がす。荷物が邪魔で、このまま捨て置きたいくらいだった。

 

「もう荷物はコインロッカーに預けて、後で取りに来るか……? これ電車で間に合うのか……? タクシーはどうなんだ……? いや金ないよな……」

 ぶつぶつと呟きながら京太郎は出口に向けて歩みを進める。焦りと不安によって、彼の視界は狭くなっていた。

 

「っとぉっ?」

 

 故に、不注意にも人とぶつかってしまった。

 

「わっぷ」

「あ、す、すみません――?」

 

 慌てて謝ろうとして、しかし京太郎は、声を詰まらせた。

 そこで赤くなった鼻を抑えていたのは――京太郎の幼馴染。中学からの長い付き合い。おっとりとしていて、どこか抜けていて、そして何度も度肝を抜かされた雀士。

 

 

 宮永咲、その人であった。

 

 

「さ、咲ぃっ?」

「あ、京ちゃん。久しぶり。もう、痛いよ」

「わ、わりぃ……じゃなくて、なんでお前がここにいるんだよっ?」

 

 湧き上がる、当然の疑問。それに答えたのは、咲ではなかった。

 

「出迎えがいないと寂しいのではないかと思って」

「来てやったんだじぇ!」

 

 脇から現れたのは、原村和と片岡優希。

今は東帝のライバル三橋大学に所属しているが、かつては清澄高校で共に卓を囲った仲間。

 

 そうだ――京太郎にとって、始まりとも言える三人だった。彼女たちの圧倒的な実力に憧れた。彼女達の華麗な打ち回しに憧れた。幾度となく心を折られ、それでも一緒に戦いたいと臨んだ仲間たち。世間では咲、和、優希で清澄高校のトリオとして認識されているが、当事者たちにとってカルテットであったことは間違いない。

 

「お前ら……」

「相当打ち込んだみたいだな! 今度は私が相手をしてやるじぇ!」

「残念ながらゆーき、その時間は、今はないみたいです」

 

 全て見透かしたように和が微笑み、優希はつまらなさそうに舌打ちを打つ。だが、彼女も理解しているようだった。三橋は東帝に負けたというのに、わだかまりなどどこにもなかった。

 咲が、京太郎のキャリーケースに手をかける。

 

「京ちゃん。荷物、邪魔でしょ? お財布以外預かっておくから」

「お、おう。良いのか、頼んじまって」

「うん。後で届けるから。――応援、行かなきゃいけないんでしょ?」

 

 問いかけられ、少し恥ずかしそうに京太郎は頷く。

 

「遅刻野郎の応援がどこまで役に立つか分からないけどな」

「そんなことない」

 

 咲にしては、きっぱりとした口調だった。

 

「高校のときから、京ちゃんの応援には助けられてたんだよ。京ちゃんはなんでもない、みたいなことを言っていたけど――みんな、ずっと感謝してたんだから」

 

 和が優しく微笑みながら首肯し、優希はそっぽを向きながらも「うん」と言った。

 ――それだけで、胸が一杯になった。あの日々の熱が、体の中に戻ってくるようだった。

 

「だから――届けてあげて。京ちゃんの応援(エール)を、今の京ちゃんの仲間たちに」

 

 もしかしたら、と諦めかけていた心は霧散する。ここで応えなくて、いつ応えるというのか。キャリーケースから手を離し、京太郎は、

 

「ありがとな、みんな」

「どういたしまして」

 

 三人と、笑い合った。

 残念なことに、いつまでもそうしてはいられなかった。

 

「じゃあ、行ってくる!」

 

 後ろ髪を引かれぬよう一気に駆けだした彼の背中に、

 

「須賀くん!」

 

 和が声をかけた。

 

「第二ゲートに迎えが来てますから! 行けば分かります!」

「分かった、サンキュー和!」

 

 身軽になった京太郎はぶんぶんと手を振って、今度こそ三人と別れた。

 指定された第二ゲートは、車の乗降場となっていた。迎えとは一体誰か――と、京太郎はきょろきょろと辺りを見回す。

 

「あ」

「お」

 

 一瞬で、誰か分かった。和の言うとおりだった。

 高校時代から美少女であることは承知していたが、大学ではさらにその美貌に磨きがかかっているようだ。少し背も伸びただろうか。強気そうな眼だけは、最後に会ったときから変わっていない。

 

「新子っ」

「ん、久しぶり、京太郎」

 

 阿知賀女子出身、新子憧だった。

 

「迎えって、お前かよ。いやほんと久しぶりだな」

「ああ、正確には違うんだけどね。留学どうだった――とか、悠長に話してる暇はないわよね」

 

 憧は挑発染みた笑みを浮かべると、京太郎の肩をぽんと叩いた。

 

「東帝、頑張ってるわよ。うちは二回戦で負けちゃったから羨ましい限り」

「……なんだか悪いな。なのに俺の出迎えだなんて」

「いーのいーの。こっちとしてもありがたい話だったし」

「どういう意味だよ」

「それはもう、あんたを送り届ける子に聞いて。――ほら、来たわよ」

 

 憧が指差した先にあったのは、赤いスポーツカーだった。一目で相当な高級車だと分かる。本当にあれなのか、と訊ねるよりも速く背中を押されていた。

 

「お、おい憧」

「良いから黙って速く乗る。時間、ないわよ」

 

 助手席の扉が開かれ、半ば無理矢理京太郎は車内に押し込まれた。最後の僅かな間、憧と目が合う。

 

「どういう出会い方をしても、あんたとどうにかなるとは思えないけどね」

 

 彼女は肩を竦めて、いつか聞かされたのと同じ言葉を投げかけてくる。

 

「どういう出会い方をしても、きっとあんたを助けたい、とは思うわよ」

「憧――」

「ほら、行った行った」

 

 ばたん、と扉が閉められる。車が動き出し、手を振る彼女が小さくなっていく。京太郎は黙って、頭を下げた。

 

「シートベルト」

「えっ?」

「シートベルト、締めて」

「あ、わ、悪いっ」

 

 運転席から飛んできた指示に、京太郎は慌てて応じる。かちんとロックして、それから彼は気付いた。

 

「……高鴨さん?」

「ひ、ひ、ひひひひ、久しぶり」

 

 なんと、運転手は憧と同じ阿知賀出身、現役麻雀プロの高鴨穏乃だった。彼女とは、丁度一年前のインカレの時期に顔を合わせて以来だった。ただあのときもばたばたしていて、結局ろくに話もできなかった。

 

「こ、この車、高鴨さんのっ?」

「う、うん。安全運転で、目一杯飛ばすから安心して」

 

 顔を真っ赤にして、穏乃は視線を真っ直ぐ前に向けている。こちらに一瞥をくれようともしない。運転中なのだから当然だったが、妙に硬質的な態度だった。そう言えば、高校時代の途中から、いつも彼女はこんな調子だった。嫌われているのか、と京太郎が不安になったのは一度や二度ではない。もしそうなら、自分を送り届けるために相当無理をさせてしまっているのではないか。

 

「ごめん高鴨さん、俺なんかのために。嫌なら、降ろしてくれても――」

「い、嫌じゃないよ!」

 

 京太郎の言葉を大声で遮って、穏乃はようやく顔をこちらに向ける。目が合って、一層彼女は顔を赤くした。

 

「嫌じゃないから、京太郎はじっとしてて!」

「りょ、了解」

 

 凄い剣幕で怒鳴られては、従うしかない。

穏乃の車は、ぐんぐん速度を上げて進んで行く。これなら大将戦には間に合うかも知れない。湧き立つ京太郎の心とは裏腹に、車内は沈黙に包まれていた。気まずいが、何と声をかけて良いのかさっぱり分からなかった。

 

「……ご、ごめんね、京太郎」

「え、なんで高鴨さんが謝るんだよ」

「私、京太郎と上手く話せないから……よく分かんないけど、京太郎と会うとわあぁぁってなって、こう、アレだから」

 

 穏乃はごにょごにょと声を濁しながら、それでも懸命に言葉を繰ろうとしていた。何となくむずがゆい空気が流れ、京太郎は穏乃から視線を引き剥がす。

 

「……ありがとな、高鴨さん」

 

 ただ、お礼を言うのだけは忘れなかった。

 

「助かったよ、マジで。まさかこんな車で迎えに来て貰えるなんて、思いもしなかったぜ」

「先に助けられたのは、私だから」

 

 穏乃が、呟くように言った。

 

「助けられたって……俺、高鴨さんを助けたこと、あったっけ?」

「……覚えてないなら、良いよ」

 

 逆に気になる言い方をされて、京太郎は今一度穏乃の横顔を窺おうとする。

 しかしそこで見つけたのは、横顔ではなかった。真正面からの、穏乃の笑顔だった。 

 

「私はずっと、覚えてるから良い」

「――……」

「……」

 

 再び二人の間に沈黙が落ち。

 穏乃はまたもや顔を真っ赤にさせて運転に集中し、恥ずかしくなった京太郎もそっぽを向いてしまう。自分の記憶力のなさに悲しくなった。

 

 二人を乗せた車はしばらく順調に進んだ。

 しかし、徐々に雲行きが怪しくなっていく。視界に入る車の数が、増え始めたのだ。まさか、と思ったときには、渋滞に巻き込まれていた。

 

「ど、どうしようっ!」

「いっそここから走るか……?」

「でも、会場まではまだまだ距離あるよっ?」

 

 現実的ではない。しかしこのままでは無為に時間を過ごすだけ。どんどん夕陽は海に向かって落ちて行く。

 

 万事休すか、と思われたときだった。

 こんこん、と助手席の窓をノックする音が聞こえた。京太郎と穏乃は揃ってそちらを振り向く。そこにいたのは、フルフェイスのヘルメットを被ったライダーだった。

 

「誰――」

 

 穏乃が疑問を口にするより速く、ヘルメットのシールドが上がる。あっ、と京太郎たちは驚きに口を丸くした。

 

「辻垣内さん!」

「智葉と呼べと、言っただろう」

 

 三橋大学のエース、辻垣内智葉だった。京太郎とは、少なからず縁がある相手。もとい、元カノに当たる相手だった。

 彼女はヘルメットをもう一つ取り出すと、

 

「ここで余計な問答をするつもりはない。後ろに乗れ、須賀」

「はっ? え、で、でもっ」

「時間はないだろう。ほら、車が動き出す前に来い」

 

 京太郎は、穏乃へと振り返る。彼女は黙って、頷いてくれた。

 

「――ありがとう、高鴨さん!」

「ううん! 気をつけてね!」

 

 お礼を言ってばかりの日だった。智葉からヘルメットを受け取ると、京太郎はリアシートにまたがる。

 

「しっかり掴まっていろよ!」

「はい!」

 

 車の隙間を縫って、智葉はバイクを走らせる。あっという間に渋滞地域を抜けると、さらにアクセルを回した。

 

「どうして! 智葉さん、来てくれたんですか!」

「うちの後輩たちには会っただろう! あいつらからは話は聞いたからな! 保険で着いてきてやったんだ!」

 

 違う、そういうことではない。風切り音に負けないよう、京太郎は声を張り上げる。

 

「東帝と! 三橋は! ライバルじゃないですか!」

 

 既に決着が着いた後とは言え――否、だからこそ因縁は深まったと言えるだろう。和や優希は高校の縁あってだが、本来なら助ける義務などないはずだ。団体戦は終わっても、まだ個人戦がある。本来なら、その対策のために今この時間を使うべきではないのか。

 

 しばらく、智葉からの返答はなかった。答えたくないのか。けれども、助けて貰っている立場の京太郎としては、理由くらい知っておきたかった。

 

 赤信号に引っかかり、一度バイクが止まる。唸るようなエンジン音が体を震わせ、密着した智葉の体からは彼女の体温が伝わってくる。

 

「確かに、私たちは敵同士だ」

 

 智葉は、いつもの凛とした声で言った。

 

「園城寺にもしてやられた。全く、腹立たしいにもほどがある」

「なら――」

「大学など関係ない」

 

 信号が、青に変わる。

 

「惚れた男のために動いてるんだ、私は」

「――」

 

 京太郎がとやかく言う前に、バイクは急発進した。

 市街地を突き進み、山道を越える。

 

「見えたぞ!」

 

 インカレ会場となっているビルが、眼下にあった。智葉の腰に回した腕に、自然と力が入る。もう、辺りは夕闇に包まれようとしていた。

 

 つづら折りの坂を下っていく。――もうすぐ、もうすぐだ。

 大将戦――末原恭子の戦いには、きっと間に合う。

 

「っ?」

 

 その希望を抱いた瞬間、バイクが急制動する。

 

「ど、どうしたんですか!」

「まさか……これは……」

 

 智葉が言い淀む事態。京太郎は彼女の肩越しに、前方を確認した。

 

「……マジかよ」

 

 事故現場、であった。大型車同士が衝突したらしい。既に警察が到着しているため危険はなかろうが、問題は完全に道が封鎖されていることにある。

 

「仕方ない、遠回りになるが別の道を――」

「良いです、智葉さん! もう会場は見えてるんです、ここから走って行ったほうが速い!」

「ここからって、お前」

 

 制止しようとする智葉にヘルメットを返し、京太郎はしかと頷いた。

 ――つづら折りの道路は無視して、道なき斜面を駆け下りる。この程度の勾配なら問題ない、と京太郎は判断した。

 

 僅かの間、京太郎は智葉と見詰め合う。

 最後には智葉が観念したように溜息を吐き、京太郎の背中を叩いた。

 

「行ってこい」

「はいっ、本当にありがとうございました!」

 

 迷いはなかった。整備などされるはずない道に、京太郎は迷いなく飛び込んだ。彼の背中を見送りながら、

 

「走れ、京太郎」

 

 智葉は小さな声援を送った。

 

 

 

 中学時代と比べて体力が落ちたのを自覚しながら、京太郎は走った。ぜいぜい息を吐きながら、それでも走った。脚が重い。すぐに首が上がらなくなる。それらも全て無視して、走った。

 

 歩きづらい山道を乗り越え、照明で光り輝くビルの傍まで辿り着く。いつの間にか、完全に太陽は沈んでいた。――まだ、間に合うのだろうか。そんな思考も、邪魔だった。

 

「須賀ー!」

 

 苦しい中、自分の名前を呼ぶ声があった。無意識に、そちらを振り向く。

 見知った顔が、並んでいた。

 

「まだ間に合うでー!」

 

 江口セーラ。

 

「根性見せんかい、ガースー!」

 

 愛宕洋榎。

 

「すぐそこばい!」

 

 白水哩。

 

「頑張ってー!」

 

 鶴田姫子。

 

 昨年の夏、自分と打ってくれた人たち。自分の可能性を見出してくれた、感謝しても仕切れない先輩たちだった。

 声を返す余裕はなかった。だが、確かに力を受けとった京太郎は頷きだけ返し、走った。非礼など彼女たちは気にせず、笑顔で彼の背中を見送った。

 

 

 

 ――必死で駆ける、京太郎の姿を見つめる視線はもう一つ。

 インカレ会場のビル、その上層階から彼を見下ろす影があった。西阪大学大将、清水谷竜華。彼女は少しだけ寂しそうに、けれどもこみ上げる嬉しさは隠しきれないように、呟いていた。

 ――走れ、と。

 

 

 

 咳き込みながら、京太郎はついにビルの入口に足を踏み入れる。

 ぴたりと、京太郎は立ち止まった。

 

 仁王立ちして、待ち構えていたのは他でもない彼女。喧嘩して、仲直りして、ずっと自分を見てくれていた少女――もう、年齢は大人だけれども。

 

 困らされた回数のほうがきっと多い。意見が衝突するのだって、珍しくない。我が儘を言われるのも、日常茶飯事だ。

 

 けれども、彼女の輝きは損なわれない。どうあっても、嫌いになんてなれなかった。なぜなら、間違いなく彼女も、自分をここまで引き上げてくれた原動力なのだから。

 

 記憶に焼き付く眩いままの姿で。

 大星淡が、そこにいた。

 

「――淡」

「京太郎」

 

 大切な、隣人がそこにいた。

 

「悪い」

 

 しかし不義理と知りながら、京太郎は淡に構わず通り抜けようとした。今は、一番に優先しなければならないことがある。

 

「まってまって、ストップストーップ!」

 

 そこへ淡が待ったをかける。何を、と京太郎が文句をつけるよりも速く、淡は一枚のカードを差し出していた。

 

「東帝のみんなから預かってきたよ。これ、キョータローのために用意したIDカード。これ持たないまま会場に行ったって、つまみ出されるだけなんだからっ」

「……悪い、ほんと、マジで。助かった」

「分かればよろしい」

 

 胸を張る淡だったが、やがてくすりと笑って、

 

「ほら、行った行った」

 

 と京太郎の背中を叩いた。少しの間、京太郎は戸惑いを見せたが、頷き駆け出す。

 彼を見送りながら、淡はぎゅっと拳を握った。本当なら、言いたいことややりたいことは沢山あった。彼と、もっと傍にいたかった。

 

 けれども今は、彼の帰る場所は別にある。そこに帰って、話はそれから。全てはそれからなのだ。

 

 ――だから。

 

 今は、「大好き」の代わりに贈る言葉がある。

 

 

「キョォォォータロォォォォーッ!」

 

 

 目一杯の笑顔と、共に。

 

 

「走れぇぇぇぇえええーッ!」

 

 

 

 多くの人に支えられながら、多くの人に助けて貰いながら、京太郎は走った。紡ぎ繋いだ縁に、救われながらここまで来た。

 

「はあっ、はあっ、はあっ」

 

 汗だくになって、息を切らして、京太郎は彼女の影を見つける。

 

「……こ、んぱぃ」

 

 すぐに、声が出なかった。喉が上手く働いてくれない。だが、弱音など吐けない。吐かない。目の前にあるのは、今にも崩れ落ちてしまいそうな彼女の背中。

 

「ぅこ、せんぱぃっ」

 

 それを今支えずして、いつ支えると言うのか。

 京太郎は、吠えた。

 

「恭子先輩!」

 

 ゆっくりと、彼女が振り返る。ずっと憧れていた人が、こちらを振り向く。きらりと、水滴が光を反射して煌めいた。

 

 何も、言わなかった。何も、言えなかった。

 京太郎は、もう一歩たりとも動けなかった。

 

 だから、近づいてきたのは恭子だった。俯き加減で、彼女の表情は読めない。分からない。怒られるだろうか。そうだ。大遅刻にも程がある。ビンタの一発や二発は覚悟しないと。それとも怒鳴られるか。

 

 ぐるぐると、京太郎の思考は渦巻く。気付けば目の前に恭子が立っていて、その手が伸ばされつつあった。

 

 覚悟を持って、京太郎は目を瞑る。

 

 しかし、想像していた衝撃はこなかった。

 柔らかい感触に、体を包まれる。あ、と京太郎の口から間抜けな声が漏れ、彼は目を開く。

 

 末原恭子がしっかりと、自分の体を抱き締めていた。もう、逃がさないと言わんばかりに。どこまでも暖かな、抱擁だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12-5 繋ぐ言葉はラン・ラン・ラン /

12-6 末原恭子のインブレイス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「汚いですよ」

「かまへん」

「汗臭いでしょ」

「かまへん」

「熱くないですか」

「こんくらいが、丁度ええ」

 

 ぶっきらぼうに答えながら、恭子は京太郎の胸に顔を埋める。彼だ。間違いなく、疑いようなく彼だった。

 

「来てくれるって、信じとった」

「待ってくれていて、嬉しいです」

 

 残された時間は、僅かだった。もう、対局室に行かなければならない。ゆっくりと、名残惜しそうに恭子は京太郎から離れる。

 

「――勝って、ください」

「うん。勝って、くる」

 

 恭子は頷き、踵を返す。最後の決着を着けるために、彼女は往く。

 彼女の肩には今までにない力が漲っていた。

 

 

 ◇

 

 

 前半戦と同じように、三人の対戦相手は恭子を待ち構えていた。しかし、全てが前半戦と同じようにとはいかなかった。

 

 恭子の表情を認めた瞬間、菫が小さな溜息を零す。たまらない、と言った表情で、彼女は傍らのライバルに声をかけた。

 

「おい、竹井」

「何かしら」

「清澄の後輩をけしかけて、彼に迎えを寄越していたようだが――余計な真似だったんじゃないのか」

「あら、心外ね」

 

 久は軽く肩を竦めると、菫の言葉を否定する。

 

「私はけしかけてなんかいないわよ。むしろ止めるくらいのつもりだったけど、あの子たちその前に出発してたわ」

 

 でも、と久は笑みを深める。

 

「結果オーライね。と言うか、止めるなんてバカなこと考えてたわ」

「そらまたなんで?」

 

 竜華が訊ねると、久は期待に満ちた表情を浮かべる。

 

「どうせなら、全力最強最高潮の相手と打って、麻雀を楽しみたいじゃない?」

 

 彼女の回答に、二人は目を瞬かせ――そして、しばらくの間声を押し殺して笑った。実に、楽しげだった。

 

「そうだな」

 

 なおも笑みを湛えながら、菫は言った。

 

「コクマを除けば、大学最後の麻雀だ。派手に楽しもうじゃないか」

「うちも乗ったわ。楽しませてもらうで」

 

 竜華も、菫たちに同調する。――ああ、そうだ。そうでなくては、面白くなかった。

 

 

 

 ――末原恭子が、ステージに上がる。四人の雀士が、揃う。

 彼女たちは全員譲れないものを賭けて、最後の戦いに挑む。

 

 この麻雀を、楽しみながら。




次回(最終回):エピローグ 航路の果て ・ 愛縁守るフォトグラフ


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エピローグ 航路の果て ・ 愛縁守るフォトグラフ

 あの奮闘の日々から、数年の時が流れた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「もしもし、花田です」

 

 高い天井、行き交う旅行者、繰り返し反響するアナウンス。窓の外に目をやれば、旅客機がずらりと並んでいる。

 

「お久しぶりです。ええ、はい。おかげさまで元気でやらせてもらってますよ」

 

 携帯電話で話す相手は、大学の後輩だった。大学を卒業し働き出してからは連絡する頻度も随分減ったが、それでも定期的にやりとりしている。何だかんだと、長い付き合いになりそうだ。

 

「ええ、今は福岡です。これから沖縄に移動ですが。――まあ、これも仕事ですからね。仕方ありません」

 

 多忙を承知で就いた仕事だ。最近はろくに自宅にも帰っていないが、文句ばかりも言っていられない。

 

「それで――はい。例の件ですね。ふふふ、私の地獄耳を舐めてもらっては困りますよ。このくらいでなくては記者としてやっていられません」

 

 予想された話を持ち出され、煌は冗談めかして笑った。電話口の向こうからも、笑い声が聞こえてきた。

 しかし、すぐに煌はかすかな溜息を吐いた。眉尻が下がり、その表情は切なげなものに変化する。去来する想いは、寂寥感。時間の流れは不可逆で、どうしようもないのは分かっている。分かっているが、そう簡単には割り切れる話でもなかった。

 

「……はい? ああ、そうですね、次に東京に帰るのは来週頭になりそうですが。それがなにか?」

 

 煌のメランコリックな気持ちを感じ取ったのか、はたまた初めからそのつもりだったのか、通話相手は一つの提案を持ちかけてきた。

 

「――すばらです。乗りました」

 

 煌は、その案に即応した。迷う余地など、どこにもなかった。

 

「スケジューリングなどは、すみません、お任せしました。しました。いえいえ、本当にありがとうございます。はい。はい。――では、そろそろ搭乗時間ですので。はい。ではまた、後ほど」

 

 通話が切れ、待ち受け画面に表示されたのは一枚の写真。それに視線を落とした煌は、少しだけ嬉しそうに目を細めた。

 

「さてと。行きますか」

 

 いつまでもそうしてはいられず、煌は座席から立ち上がった。

 脳裏を過ぎるのは、あの小さな小さな部室で卓を囲んだ日々。黄金色に染められた、幸福な記憶。みんなではしゃぎ、みんなで議論し、みんなで喧嘩し、みんなで笑い合った。なにもかもが、かけがえのない宝物たち――あそこには、それら全部が詰め込まれていた。

 

 おんぼろで、隙間風が通って、落書きだらけの部室棟。

 

 空路で味わうまどろみの中、煌はもう一度あの場所に向かう夢を見ていた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「乾杯」

「乾杯。お疲れ様です、先輩」

 

 喧噪に包まれた居酒屋の一角で、尭深は高校時代の先輩・弘世菫と顔を突き合わせていた。大学から進路は別れたというのに、彼女との付き合いももう随分と長くなる。菫相手だけでなく、チーム虎姫の面々との付き合いは切っても切れないものになっていた。

 

「――とは言うがな」

 

 初めからハイペースでビールを呷る菫は、尭深に文句をつける。

 

「私としては不本意なんだぞ。亦野は良いとして、どうして未だ照と淡の手綱を引く役が私なんだ。チームも違うのに」

「二人とも、それだけ先輩を信頼してるんですよ」

「ものは言いようだな。淡なんか私を後輩扱いしてくるんだぞ。こんなことなら大学に行くんじゃなかったとさえ思えてくるぞ……」

 

 今日はまた一段と重症のようだった。しかし尭深は慣れたもので、おつまみを注文しながら菫の愚痴に相槌を打つ。

 

「お前もなー、尭深」

「はい?」

「お前もプロになってくれていれば、私ももっと楽ができたかも知れないのに。そうだ、今からでもその気はないか。プロテストの推薦くらいくれてやるぞ」

「申し訳ないですけど、お断りさせて頂きます」

 

 半分は冗談だったのだろう、菫は「そうだよな」とあっさり引いた。しかしこの手の誘いの頻度が最近増えているのも、確かだった。苦労性の菫は随分追い詰められているらしい。だからこそ、こうしてできる限り飲み会だけでも付き合っているのだが。

 

「尭深のほうは、仕事は順調なのか。またそろそろ海外じゃないのか」

「その予定だったんですが、少し事情が変わりまして。延期にしてもらいました」

「どうしたんだ。相当熱心に取り込んでいた仕事だろう」

「今度、みんなで集まることになったんです。日程がどうしても合わなくて」

 

 なるほど、と菫は納得した。ここで言う「みんな」が、白糸台の面々ではなく、「彼ら」であることは明白だった。

 

「それにしても、時期外れじゃないのか? 年末ならもっと集まりやすいんじゃないのか」

「……それじゃ、間に合わないんです」

 

 そのときばかりは、微笑みながらも、尭深は悲しげに目を伏せた。

 失われるもの。消えゆくもの。絶対など、どこにもない。――分かっていたつもりで、何も分かっていなかったことを思い知らされる。

 

 ――けれども。

 

 思い返すのは、あのときあの場所で撮った一枚の写真。

 いつか失われるときが来ようとも、その最後の瞬間まで守っていたい。格好悪くとも、みっともなくとも――素直にそう願う思い出が、彼女の胸の中にあった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 久方ぶりに会った妹は、ぷりぷりと怒っていた。

 

「おねーちゃんはいつになったら阿知賀に帰ってくるの!」

「ごめんねぇ……」

 

 宥としては、謝る他ない。

 大学を卒業しても、宥は帰郷しなかった。そのまま東京にあるホテルに就職を決めてしまったのだ。外で経験を積んで、いつか松実館の経営に尽力したいというのが宥の希望だったが、妹の玄はあまり納得していないようだった。

 そう言えば大学のときも同じようなやり取りをしたな――と夢想していると、

 

「聞いてるの、おねーちゃんっ?」

「き、聞いてるよぉっ」

 

 怒られてしまった。

 こうして玄が宥の自宅を訪れるのも、何度目だろうか。宥としてはそれで満足してしまって、どうしても実家から足が遠のいてしまっている。その事実に玄が気付くのは、もう少し後になってからだった。

 

「お盆もシルバーウィークも繁忙期だからって帰ってこなかったのに。次のまとまった休みはいつなの?」

「次は、えっと、来週末に、三連休が」

「なんで先に言わないの! さあ、帰ってくるのです!」

 

 また怒られてしまった。びくりと宥は体を震わせるが、ここは反抗しなくてはならないところだ。――こればっかりは、妹にも譲れない。

 

「ごめんね、玄ちゃん。先約があるの」

「先約?」

 

 玄が小首を傾げる。宥は、無意識の内に視線を箪笥の上に向けていた。そこに置かれていたのは、木工作りの写真立て。玄は宥の視線を追い――なるほど、と理解を示してくれた。

 

「そっちで用事があるんだ」

「うん。まずは、尭深ちゃんと煌ちゃんと、怜ちゃんの応援に行くの」

 

 それから――と続きを口にしようとして、しかし宥はできなかった。胸がぎゅっと締め付けられ、切ない息が零れてしまう。何度思い出しても、その度に悲哀が浮かび上がるのだ。

 しかしながら。

 

「それから、彼とデートでもするの?」

「で……っ!」

 

 にやにや笑う玄に揶揄されて、全て吹っ飛び、宥の顔は一気に真っ赤になる。両手をぶんぶん振って、マフラーを振り乱し否定する。

 

「違うからっ、全然っ、違うからっ! だったら良いなとか思ってないからっ」

「怪しいよ、おねーちゃん! さあさあ、吐くのです!」

 

 妹の追求の手は緩むことなく、一晩中続いた。いくら冤罪と訴えても、通じなかった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 心臓が高鳴る。体を包むのは、高揚感。あるいは不安。あるいは別の感情。あるいは、それら全て。

 

 園城寺怜は、一度深く息を吸い込んだ。それからゆっくり息を吐き出し、目の前の扉と対峙する。――ついに、このときが来た。

 

 重厚な鉄扉を、ゆっくりと押し開ける。扉の隙間から差し込む照明の光に、一瞬視界を奪われるが、怜は構わず前に進んだ。

 

 だだっ広い対局室の中央、せり上がったステージに置かれるのは、たった一つの麻雀卓。用意された四つの席は、選ばれた者のみしか座れない。

 

 今――その内の一つに、怜に背中を向けて座す者がいた。赤毛のショートカット、冷ややかな空気、右手に広げるのは一冊の文庫本。

 

 いつの日かも、こうしてステージを見上げたのを怜は思い出していた。蘇る記憶。暗澹たる結果。一矢報いたかも、定かではない。

 

 ――あかん。

 

 臆してはならない。怯えてはならない。逃げ出すなど、もってのほか。分かっているはずなのに、体が動かなくなる。

 どうすれば良い、どうすれば――縋るように、左手が動いていた。触れたのは、胸ポケット。そこに入れられたのは、一枚の写真だった。見なくても鮮明に思い出せる、記憶に焼き付いたあの日の記憶。

 

 それが、怜に勇気を与えてくれる。気が付けば、自然と歩みを進めていた。

 

「久しぶり」

 

 怜が声をかけ、

 

「お久しぶり」

 

 ぱたん、と文庫本を閉じた王者が立ち上がる。

 

 ――宮永照が、立ち上がる。

 

 目と目が合う。変わらない。彼女はちっとも変わっていなかった。あのときも、そして今日という日も、「最強」の二字を以て自分の前に立ちはだかっていた。

 

「やっと、ここまで来たわ」

「思ってたよりも、ずっと早かったけど」

「それなりに苦労したもん。宮永さん、遠く行きすぎや」

「今は、すぐ近くにいる」

 

 どこかずれた回答に、一度怜は目を瞬かせ、それから喉を押し殺して笑った。照が首を傾げても、しばらく怜は笑っていた。

 

「今日は」

 

 やっと笑いを鎮めると、改めて怜は照と向かい合う。

 

「今日は、負けへんで」

「私も、負けない」

「ん。よろしく、お願いします」

 

 ステージへと、怜は登ってゆく。

 楽しみな明日を、想いを寄せながら。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「末原コーチー」

「おー」

 

 生徒に呼ばれ、恭子は卓に駆け寄る。どうやら「何切る?」問題で議論が白熱しているようだった。自分も学生時代ようやったな――なんて思い出しながらも、恭子は理路整然と生徒たちに解説していく。途中から、部室にいた全員が耳を傾けていた。

 

「――っちゅうわけや。うちやったら、ここは五萬やな」

「流石末原先生や! ありがとー」

「部室ではコーチ呼べ言うたやろ」

「はあい」

 

 くすくす笑う女子生徒たちを前にして、少し恭子は溜息を吐きたくなった。最近、舐められている気がする。今日日スパルタなど流行らないが、それでも威厳を保つくらいの態度を見せたほうが良いのではないか。

 などと思索していると、

 

「末原ちゃーん」

 

 甘ったるい声で、呼びかけてくる者が一人。恭子は悩ましげにこめかみを押さえて、

 

「なんですか、赤阪監督」

 

 と、つっけんどんに訊ねた。

 姫松高校麻雀部監督・赤阪郁乃は、細い目をさらに細めて、

 

「どうしたん~、末原ちゃんが冷たいわ~」

「いつも通りです。というか生徒の前でちゃん付け止めてもらえません?」

「私にとっては~、末原ちゃんはいつまで経っても末原ちゃんやから~」

「ああもう、この人は……!」

 

 相も変わらず妙なところで苛立たせてくれる人だ。周囲の生徒たちからは、くすくす笑う声が聞こえてくる。イマイチ生徒たちに示しがつかない最大の理由は、この監督にあると恭子は確信していた。

 

「何なんですか、さっさと用件言うて下さい」

「明日から末原ちゃんお休みやろ~? 練習メニューの相談しときたいいんやけど~」

「それならもう用意しときましたから。後で確認しといて下さい」

 

 しっし、と恭子は郁乃を追い払おうとするが、生徒たちに食い付かれる。

 

「末原先生お休みとか珍しいやん」

「どっか行くんですかー?」

「はいはい。うちのことはええから練習に集中せぇ」

 

 ざわつく生徒を、恭子は宥めようとする。しかし背後から撃ってきたのは、郁乃だった。

 

「末原ちゃんは~、同窓会らしいで~」

「ちょっと監督、余計なこと言わんといてください」

 

 郁乃に苦情を入れるも、後の祭りだった。

 

「同窓会?」「愛宕プロや真瀬先輩と?」「愛宕プロは今海外遠征中やん」

「じゃあ大学やろ」「大学って言うたら」「東帝」

「末原先生の机に置いとる写真の?」「それや」「あれ男もおったよな」

「おったおった!」「まさか同窓会って」「そういうこと?」

 

 ざわめきは、収拾が付かないところまで発展していく。人知れず恭子は逃げ出そうとするが、腕を郁乃に絡め取られていた。

 

「どこ行くん~? ちゃんと指導せなあかんで~、末原コーチ~?」

「こっの人は……!」

 

 群がる生徒たちに、恭子の一喝が下されるのは間もなくのことだった。

 

 

 ◇

 

 

 そのくたびれた旧部室棟を前にするのは、本当に久しぶりだった。大学時代の仲間たちと集まるのにも、他の場所を選んでいた。いつまでもOGが出入りしているのでは、現役世代に迷惑がかかる。――今はその判断を、恭子は少しだけ後悔していた。

 

 実際のところ、このぼろぼろになった旧部室棟は、今や各部の倉庫と化しているらしい。それは麻雀部も例外ではなかった。恭子たちの活躍によって、後輩たちは好待遇を得られたのだ。あのみすぼらしい部室に拘る理由はなく、恵まれた環境で練習に耽っているという。

 

 ひがむつもりはこれっぽっちもないが、もの寂しさはあった。

 

 そして、結果として存在意義がほとんど失われてしまったこの部室棟は、取り壊されることになった。

 

 元々耐震性も疑問視されていたし、この際正式な倉庫としてリニューアルするという判断に、文句をつけることはできなかった。

 

「しゃあないもんな」

 

 胸に宿るのは、あくまで個人的な感傷だ。

 だからせめて最後に、と当時の部員全員で集まることになったのだ。時期外れの同窓会に文句を言う人間はいなかった。

 

 変わらない階段を登り、変わらない落書きだらけの壁を眺めながら、在学当時毎日通った部室の前に辿り着く。何気なくノブを捻ると、意外にもすんなり回った。鍵が、空いていた。

 

 不用心な、と思いながらも恭子は部室に入る。

 そこで待っていたのは――

 

「あ、恭子先輩」

「京太郎」

 

 末原恭子、人生でたった一人の男子の後輩。

 須賀京太郎、その人であった。

 

「どうしたん、早いやん」

「前科がありますから、慎重にもなりますよ」

「そう言えばそうやったな」

 

 二人で笑い合ってから、恭子は部室を見回す。自分たちが使っていた頃よりも多くの物品が転がり、倉庫扱いされているというのも納得だった。

 ただ、あちこちに見覚えのあるものもあった。

 

 宥が持ち込んだヒーター。

 尭深の残したポット。

 怜が並べた麻雀雑誌。

 煌の整理した牌譜の山。

 そして、恭子が自腹を切って買ったホワイトボード。

 

「これも残ってますよ」

 

 戸棚を指差す京太郎の傍へと、恭子は歩み寄る。

 恭子と京太郎が、並び立つ。手の甲が触れるか触れないか、そのくらいすぐ近くに。近すぎるくらいで、けれども二人とも、何も言わなかった。それが、二人の距離だった。

 

 戸棚の壁に、マグネットで留められたのは一枚の写真。

 いつも見ている、けれどもそれよりも、少しだけ色褪せた写真だった。ここで撮った、ここに残された、大切な思い出だった。

 

「なあ、京太郎」

「なんですか、恭子先輩」

「この写真、撮ったときのこと、覚えてる?」

 

 何気ない問いかけに、京太郎はしかと頷く。

 

「はい。覚えてます。ずっと、覚えてます」

「せやったら――大丈夫やな」

「……はい。きっと、大丈夫です」

 

 扉の外から、人の気配が感じられた。――宥たちが、来たのだろう。少しだけ物足りなさを感じながらも、恭子は、

 

「行こか」

 

 と、隣の京太郎に微笑みかけた。京太郎も、微笑みを返してくれた。

 

 

 

 ――彼女たちは、進み続ける。

 

 果てなき航路、その果てを追い求めて。

 

 何もかもが失われても。形あるものが、崩れ去っても。

 ここに映る笑顔たちが、繋がれた縁を守ってくれる。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 そう、信じて。

 

 

 

 

愛縁航路 おわり

 




これにて愛縁航路、全編完結です。

途中長期に渡ってお休みを頂いたり、かなりの長編になってしまったりと申し訳なかったのですが、完結までこぎつけられて嬉しいです。

連載中は沢山のブックマーク、500件を超える感想、高評価を頂き本当にありがとうございました。大変励みになりました。
少しでも本作をお楽しみ頂けたのなら、大変幸甚と存じます。


今後は新作などの予定はないのですが、前々作Summer/Shrine/Sweetsについて、今年の冬コミ(C91)で文庫本として頒布しようと計画中です(頒価未定)。
内容としては、
・本文リファイン
・フルカラーカバー+モノクロ挿絵付き
・書き下ろし短編「愛縁なくとも」
を予定しています(※あくまで予定で、予告なく内容が変わる場合があります)
そもそも冬コミに受かるのか問題もありますが、続報はTwitter(@ttp1515)で報告していきたいと思います。


長々と失礼しました。


それではまたどこか別の機会にお目にかかれることを、
そして咲SSがもっと増えることを祈って。


2016/08/11
文:TTP
絵:おらんだ15


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Ep.Ex2 偶像競縁フェスティヴァル
Ex2-0 指し示されるは、見知らぬ未来


※Ep.1~12, Exを全て読了済の方向け特別番外編です。
※本内容に関する活動報告:https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=127057&uid=96582


 高校時代は全国ランキング一位の白糸台で部長を務めた。大学では名門聖白女で四年間不動のエースとなり、二度の全国制覇を果たした。他にも戦績を挙げればきりがない。同世代にして同窓生の宮永照の影に隠れがちであったが、その実華々しい経歴を積み上げてきたのが弘世菫という雀士である。

 

 大学最後の夏を終え、彼女は人生の岐路に立とうとしていた。

 都内のとあるビルの一室。着慣れないスーツで身を包み、テーブルを挟んで向かい合うのは、とある麻雀プロチームの首脳陣である。全員が菫の倍以上の人生経験を有し、老獪な雰囲気を滲ませている。

 しかし、菫は彼らと敵対しているわけではない。

 

 菫は、彼らとプロ契約を結ぼうとしているのだ。

 大学卒業後の進路について、彼女も悩んだ。実家の跡を継ぐなど、幸運にも様々な選択肢があった。だが、結局彼女はプロになることを決意した。憧憬さえ抱いた戦友、同卓したい先達。雀士としての本能が、険しい道を選ばせたのだ。志望届を出した日は、中々寝付けなかった。

 

 そして、ドラフト一位で指名してくれたチームとの契約交渉に至る。自分を高く評価してくれたこのチームを、菫も気に入っていた。監督が現役選手の頃には、試合を観戦に行ったこともある。数々の修羅場をくぐり抜けてきた菫も、緊張に汗を滲ませていた。

 

 呑まれてはいけない、と菫は自らを鼓舞する。敵対しているわけではないが、妥協が許される関係性でもない。より有利な条件を引きだそうなどというつもりはないが、一方で、この場での立ち居振る舞いを観察されているのを彼女は感じ取っていた。迂闊な態度を見せ、評価を下げる真似はしたくない。プロになるということは、ただただ麻雀を打っていれば良いというわけでもない。社会人として当然の常識も求められる。その点を、菫は正しく理解していた。

 

「――では、他に何か質問はありますか?」

「いえ、これで充分です。ありがとうございます」

 

 その甲斐もあってか、契約の場は上手くまとまろうとしていた。内心でほっと一息つきながら、菫は手元の紙に示された署名欄と向き合う。ここに自らの名を記せば、契約は完了。晴れて来年からは、プロ入りだ。

 一瞬ちらついたのは、高校の後輩の顔。業界の先輩風を吹かせて偉そうにしてくるんだろうな、と容易に想像がついた。もっとも今から気にしていても仕方ないが。

 

「ちょっといいですかっ☆」

 

 その特徴的な声に、物思いに耽っていた菫ははっとさせられた。顔を上げ、目線が合うのはそれこそ本物の「先輩」。

 

 プロチーム・ハートビーツ大宮のエースにして大人気雀士、そして牌のおねえさん。

 瑞原はやり――通称はやりん――その人であった。

 

 公称で三十路だというのに、その肌艶容姿に衰えは全く見えない。実力人気あいまって、もう何年も前からハートビーツ大宮の顔役だ。何の説明もなかったが、現役選手としてただ一人彼女がこの場に同席するのも菫は納得できた。

 しかし、詳しい理由までは見当が付かなかった。彼女はにこにこと笑いかけてくるのみで、ここまで一切口を挟んできていない。突然話しかけられた形になった菫は、内心戸惑いつつも、平静な声で応える。

 

「はい――なんでしょうか」

「弘世さんはこれでハートビーツ大宮の一員になるわけだけど、その前に一つ教えて欲しいんだ。いいかなっ☆」

「もちろんです」

 

 こくりと菫が頷くと、すっとはやりは目を細めた。およそアイドルらしからぬ、獲物を狙う猛禽のごとき瞳の輝き。一瞬だけだったが、信じられないようなプレッシャーを菫は感じ取った。――これが、トッププロ。これが、日本を代表する雀士。食い殺される幻まで見せられた気分だった。

 次に瑞原はやりが口にする言葉を聞き逃すまいと、菫は集中する。何を問われるのか、何を告げられるのか。最後の最後で、菫の緊張はピークに達した。

 

「弘世さん」

 

 にこり、と瑞原はやりは微笑み、言った。

 

 

「アイドルに興味はないかなっ☆」

「――は?」

 

 

 我ながら間の抜けた声が出たと、弘世菫は後に振り返る。

 

 

 ◇

 

 

 21世紀、世界の麻雀競技人口は一億人の大台を突破。

 日本でも大規模な全国大会が毎年開催され、プロ・アマチュアに関わらず多くの雀士たちが覇を競っていた。

 

 ――その一方で。

 

 雀士たちには、麻雀以外の要素が求められていた。

 それは容姿、愛嬌、解説技能、トーク術、歌唱力――枚挙に暇がない。その全てを兼ね備えた存在こそが、アイドル。光り輝く雀士たち。

 

 

 世は、大アイドル雀士時代。

 




次回:Ex2-1


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Ex2-1 登場、アイドルプロデューサー

 東帝大学の学生間でまことしやかに伝えられているのが、東帝七不思議と呼ばれる怪奇現象である。

 

 どうしても必要だった単位を求め、深夜の教授室の扉をノックする怨霊。

 学内で孤立し、工学部棟の屋上から身投げし地縛霊と化した学生。

 法学部棟の影にひっそりとそびえる、「寄りかかったその年留年する」と囁かれる松の樹。

 シラバスには存在しない、幽霊教員が教鞭を執る呪いの講義。

 

 他にも多種多様、実際には七つ以上の「七不思議」が語られている。所詮は小中高でもよくある怪談話の延長線に過ぎず、学生たちが好き勝手に尾ひれを付けるか、あるいは新たに創作して無責任に流布しているのが現実だ。まともに相手をしているのは、その手の趣味嗜好を持つサークル集団くらいであろう。

 

 しかしながら東帝大学には、半世紀以上前から朽ちずに語り継がれるオカルト話が一つだけ存在する。

 

 それは――東帝大学の地下に張り巡らされた通路にまつわる怪談である。

理学部棟地下一階の奥底、厳重に封鎖された扉を開くとさらに地下へと続く階段が現れると言う。手狭な地下通路はまるで迷路のように分岐しており、出口らしい出口は見当たらない。当然電気も通っておらず、薄暗い通路には風の音が亡霊の叫び声のように木霊する。

 許可なく立ち入ることは許されない地下通路は、戦前に作られた防空壕の名残だと噂されている。実際に使用された実績もあるらしい。そして不幸にも、通路内で死亡事故が起きたと言うのだ。

 

 その後戦争は終結し、本来の目的として通路が使われることはなくなり、入口は封印された。だが、無念にも通路内で亡くなった者の魂は今もさまよい続けているという。

 そんな地下通路を、当然東帝大学の学生は忌避している。

 

しかし学外の人間が多く集まる大学祭の時期になると、亡者たちの魂は活発化する。即ち、何も知らない人間を地下通路に引き込もうとするのだ。東帝大学の大学祭が終わった後、時折数人の行方不明者が現れる――その原因が、地下通路なのである。

 

 封印された黄泉路の扉。

 理学部棟の魔の階段。 

 亡霊蠢く地下通路。

 

 ――「そこ」で眠る者たちは、今もあなたが訪れるのを待っている。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「あ、あったかくない……」

 

 ぶるぶると体を震わせ、マフラーを締め直すのは東帝大学四年、松実宥。夏は終わり、季節は秋。といっても厚着をするにはまだ早い時期だ。マフラーを巻いているのは、寒がりの彼女だからこそである。

 

「あれ、宥ちゃんこの話知らんかったん? 有名な話やと思っとったけど」

 

 首を傾げるのは、同学年の末原恭子。東帝大学麻雀部部長の肩書きには「元」がつき、第一線からは引退した身だ。重責から解放されたためか、二ヶ月前より表情は幾分か柔らかくなっている。季節外れの怪談に恐れおののく宥に対しても、悪戯っぽく笑いかけるばかり。

 

「聞いたことはあったけど、忘れてたの……うぅ……」

「あはは、ごめんごめん」

「私は初耳です」

 

 恭子の斜向かいの席で、ぽつりと呟いたのは東帝大学麻雀部新副部長、渋谷尭深。宥とは対照的に、恭子のおどろおどろしい語り口にも眉一つ動かさない。

 

「地下通路の話はなんとなく聞いたことありますけど、あれって入口は工学部棟にあるんじゃありませんでしたっけ」

「ええ? そうやった? あぁ、でもうちも随分昔に聞いたもんなあ」

「け、結局は噂なんだよっ」

 

 熱いティーカップを抱えて、必死に宥が訴えかける。そんな彼女を横目で見遣りながら、尭深は囁きかける。

 

「でも、工学部棟の屋上の幽霊は有名ですよね」

「えっ?」

「その幽霊って、何度も何度も飛び降り自殺を繰り返しているそうですよ」

「ひっ」

「目撃者が慌てて駆け寄っても、影も形も消えているだとか」

「ひぃっ」

「見間違いだったのかな、と思ってその場から去ろうとすると、『見たんでしょ?』と背後から声をかけられるとか。でも、振り返っても誰もいないんです」

「ひいいいぃっ」

 

 すっかり縮こまる宥と、追い打ちをかけ続ける尭深。これには恭子も、

 

「ドSやな尭深ちゃん……」

 

 と感嘆の息を漏らすのみだった。喧噪に包まれる店内に、その声は溶けて消えていった。

 国民麻雀大会――通称コクマも終わり、次のリーグが始まるまで一息つく時期。もちろん油断大敵ではあるが、彼女たちは部室ではなく、大学近くのファミレスに集合していた。今日の目的は部活動に関することだが、麻雀そのものからは少し離れている。

 

「あ、煌ちゃんこっちこっちー」

 

 最後の待ち人が店内に入ってきたのを見つけて、恭子が手を振って呼びかける。それに応じて笑顔で駆けよって来たのは、東帝大学麻雀部新部長、花田煌だ。いつもと変わらない笑顔を振りまきながら、彼女は恭子の隣に座る。

 

「お待たせしてすみません」

「いやいや、うちらが早く着きすぎただけやから。今日はこれで全員――よな?」

 

 恭子が訊ね、尭深がこっくり首肯する。

 今日のミーティングはあくまで事前打ち合わせであり、新入部員は最初から呼んでいない。残る二年生には園城寺怜と須賀京太郎がいるが、生憎二人とも別件が重なってしまった。

 

「複数の麻雀雑誌の取材に、連盟理事との食事会もあるとか」

「二人ともコクマで大活躍でしたからね!」

 

 興奮冷めやらぬ、と言った様子で煌が目を輝かせる。それもそうだろう。インカレで優秀な成績を収めた怜だけでなく、無名の京太郎もコクマに出場を果たしたのだから。出場しただけではない。複数のプロからの推薦特別枠を与えられた彼は、その期待に応え留学の成果を遺憾なく発揮した。すわジャイアントキリングか、というところまで男子のトッププロと対等に渡り合ったのだ。近年男子選手の影が薄いと囁かれる中、期待の新星として注目を浴びるのは当然の流れだった。

 

「ま、これで気ィ緩まんよう煌ちゃんがちゃんと手綱とるんやで」

「恭子先輩は厳しいですねー。あの二人なら大丈夫ですよ。酸いも甘いも知ってますから」

「それは……ん、ま、そうやな」

 

 一瞬反論しかけた恭子だったが、大人しく引き下がった。公には引退した身、口を挟みすぎるのは良くないと彼女は考えていた。もっとも、あまり京太郎京太郎と言い過ぎるのは憚られる、という自制が働いたのも大きい。彼が日本に帰ってきてからは彼に構い過ぎて周りの人からからかわれてしまった。

 ごほん、と恭子は一つ咳払いして気を取り直す。恥ずかしい記憶には蓋をしておく。

 

「今日の議題が部活の本筋から外れるから、ちょっと心配になってもうた」

「何を言いますか! 今日は非常に重要な会議ですよ!」

 

 煌に凄い勢いで指を突き付けられ、恭子はびくりと肩を震わせる。

 

「な、なんなん? 大学祭の出し物を決めるだけやろ?」

 

 戸惑い気味に、恭子が訊ねる。

 十二月初頭に三日間開催される東帝大学大学祭。部の建て直しで人的余裕がなかった去年までは、麻雀部としての参加を見送っていたこの催し。しかし今年は必ず出店すると、煌の鶴の一声で決定したのだ。インカレの活躍もあり、新入部員は増加している。今こそそのときである、というのが煌の主張だった。

 

 しかし煌の気合の入りようは、恭子の想像を遙かに超えていた。大学祭にまつわる怪談話で場を繋いでいたのが、申し訳なくなるほど。

 宥や尭深も同じらしく、黙って煌の演説に耳を傾ける。

 

「今年のウチの大学祭――協賛に日本麻雀連盟がつきます」

「ええっ」

 

 恭子たちが驚くのも無理はない。連盟が大学祭の協賛につくこと自体は前例があり、とりわけ特別な事件でもない。だが、東帝大学となると話は別だ。

 

「ウチは一度、爪弾きにあってますからね」

「ん……」

 

 恭子や宥の世代にとっては、不幸な出来事。悪辣な先輩が引き起こした不祥事により、麻雀部自体が廃部になり、世間から見放された。当然連盟からもしばらく腫れ物を触る扱いを受けていたのは間違いない。そんな部活がある大学に、好きこのんで近づこうとは思うはずがないだろう。

 

「ですが粘り強い交渉とインカレでの成績によって、ようやく連盟も我々を認めて下さったのです!」

「煌ちゃん、裏でそんなことしとったん……?」

「中々に面白かったですよ!」

「すばら……」

 

 煌の決め台詞を尭深が呟く。思わず宥は拍手していた。後押しされながら、波に乗る煌はさらに続ける。

 

「夏前に、学祭でどういう出し物をしたいかアンケートとりましたよね?」

「ああ、うん。たしかうちはクレープでも焼けばええんとちゃうって書いたような」

「私は石焼き芋がいいなって」

「古今東西お茶飲み比べ」

「甘いです!」

 

 恭子たちの希望を、煌は一蹴した。

 

「連盟が協賛につく大学祭ですよ、麻雀部たる我々がそんな通り一辺倒のつまらない出し物で許されると思っているんですか!」

「いや、所詮学祭やん、そこまで気合入れんでも……」

「入れます!」

 

 断固たる語調で、煌は言い切る。そこに冗談や酔狂は混じっていなかった。一つ呼吸を整えてから、彼女は恭子たちに語りかける。

 

「確かに新入部員が入ったとは言え、人手不足はあるでしょう。十二月からはリーグも始まり、練習の手も抜けません」

 

 ですが、と煌は拳を振り上げた。

 

「今は攻めるべきときです。一度付けられた汚名は中々消えません、ですが限りなく薄めることはできるはずです。なればこそ、ここで連盟をバックにつけ、私たちがきちんと公認されていることを内外に知らしめるべきです。来年再来年――まだ見ぬ後輩たちのため、道を作っておくのは我々の役目ではありませんか」

「……煌ちゃん」

「まあ、引退した恭子先輩や宥先輩にもお手伝いして貰おうだなんて、甘えているのは事実なんですけど」

「ううん、そんなことないよ」

「確かにうちが甘かったわ。元々そのつもりやったけど、うちに手伝えることがあるんならなんでも言って」

 

 感極まった恭子たちが、積極的に協力を申し出る。――その影で、にやりと煌がほくそ笑んだのを見逃さなかったのは、尭深だけであった。

 

「でも、出店じゃなかったらなにをするつもりなの?」

「よくぞ聞いてくれました、宥先輩」

 

 待っていましたと言わんばかりに、煌は頷く。

 

「今回、我々麻雀部だけで出し物をするのは非常に勿体ないと思いませんか。金銭面の心配は既にありませんし、学祭という枠組みに囚われず新境地を開拓すべきです」

「と、言うと?」

「他大学の麻雀部も呼び込んで、イベントを開きます。これは同時に、他大学との関係強化という狙いもあります」

 

 どこまでも抜け目のない煌のやり口に若干引きながらも、恭子はなるほどと納得する。だが、肝心要の内容がまだ語られていない。

 

「イベントって、何するん? それが一番大事なんと違う? 他大学も呼ぶなら、相当面白いもんにせな企画倒れになるで」

「もちろんプランはできています」

 

 自信満々に煌は、テーブルへと身を乗り出す。

 

「皆さん――今が大アイドル雀士時代と呼ばれているのはご存じですか」

「あー」

「それは、まあ」

「聞いたことはあるよ」

 

  現代のアイドル雀士の代表と言えば、瑞原はやりである。彼女抜きではこの時代を語ることはできないだろう。しかし瑞原はやりという強すぎる太陽は、数多の星々の輝きを隠す結果となってしまった。

 

 しばらく続いた瑞原一強時代。

 その流れが変わってきたのは、恭子たちの世代が現れてからだという見方がある。揺り戻しと言うべきだろうか。一例を挙げれば、広島の佐々野いちごが「ちゃちゃのん」としてアイドル的人気を博していた。彼女を筆頭に、昨今では特に大学生雀士をアイドルとして取り扱うことが多いのだ。

 

「おそらく、これから血で血を洗うアイドル雀士たちの戦いが本格化していくことでしょう」

「アイドルが流血沙汰はあかんやろ」

「なればこそ! 今こそ立ち上がるべきとき!」

 

 恭子の突っ込みは無視された。

 

 

「我々は――大学アイドル雀士最強決定戦を開催します!」

 

 

 煌の高らかな宣言に、店内の視線全てが彼女たちに注がれる。だが、恭子たちに気にする余裕はなかった。理解が追いついていない。

 

「大学アイドル雀士さいきょー決定戦……?」

「それって、なにをするの?」

「文字通り大学生アイドル雀士の最強を決定する大会ですが……そろそろ時間ですね」

「時間? 何の?」

 

 腕時計に視線を落とす煌に、恭子が訊ねる。煌はにやりと笑って、

 

「今回の企画のスーパーバイザー。連盟との渡りもつけてくれた頼りになる人物です。彼女なくしては、成り立ちません。――おっと、来たようですね」

 

 からん、とファミレスの扉が開かれる。

 入って来たのは小柄なパンツスーツ姿の女性だった。目元はサングラスで隠され、ぱっと見では表情の判別もつかない。

 しかし、恭子は見覚えのあるシルエットだった。揺れるサイドテール。滲み出るのは不敵な態度。手を振る煌の元に、彼女は迷いなく近づいてきた。

 

「ご足労痛み入ります」

「このくらいヘーキ」

 

 席についたまま、恭子は真っ直ぐ彼女を見上げる。この距離なら、もう見誤ることはなかった。何せ、大舞台で同卓した経験もある相手。

 そして向こうも、恭子のことをしっかりと覚えていたらしい。

 

「久しぶりだね、末原さん」

「こんなところでまた会うとは思ってなかったわ」

 

 インハイ初出場ながら、有珠山高校を準決勝まで牽引した大エース。準決勝でも、五位決定戦でも恭子を苦しめた難敵。

  サングラスを外し、あのときと変わらぬ笑みを浮かべ、彼女は名乗りを上げる。

 

 

「株式会社小林プロダクションのプロデューサー――獅子原爽です。これから二ヶ月間、よろしくね」

 

 

 ああ、また面倒なことになりそうだ――確かな予感が、恭子の胸の内に芽生えていた。




次回:Ex2-2


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Ex2-2 そして集まるアイドル雀士

 突如現れた獅子原爽は、当たり前のように恭子の隣に腰掛けた。遠慮する素振りも物怖じする気配もない彼女に、恭子は訝しげな視線を送る。煌の紹介とは言え、ここ何年も顔を合わせていない相手。

 

「プロデューサー――ねぇ」

「ん? 何かお気に召さない?」

「別に。あんたがそんな仕事しとるとは露とも思わんかっただけや」

「去年専門学校卒業したばっかりで、まだまだ見習いだけどね」

 

 にこやかに笑う爽に、含みはないように見える。そもそも今は敵対しているわけではないし、刺々しい態度をとる必要もないのだが――しかし恭子は、警戒を解かない。解けない。獅子原爽という女は得体の知れないモノを背負っている。四年前の夏から、恭子はその疑念を抱いていた。

 

 それでなくても、大学祭の出し物に社会人が絡んで来るというのだ。何を企んでいるのか分かったものではない。煌は信用しているが、彼女とて間違うことはある。自分がしっかりしなくては、と責任感の強い恭子が決意するのは当然の流れだった。

 

「はい、これ。名刺」

 

 恭子の警戒心を読み取ったかのように、爽が名刺を皆に配布する。確かにそこには、社名と連絡先、そして獅子原爽の名前が刻まれていた。真贋を確かめるのはひとまず後回しにして、恭子は爽に訊ねかける。

 

「で、なんであんたがうちの大学祭に絡んできたん?」

「そりゃ、奇跡の復活を遂げた東帝だからね」

 

 片目を伏せて、どこかからかい混じりに爽は答える。むっと恭子が表情を曇らせたのを察したのか、煌がフォローに入ってくる。

 

「爽さん、順を追って説明していただけますか」

「はいはい了解。――ま、元々話を持ちかけたのは私のほうなんだよね。さっき言った通り、社会人二年目の駆け出しプロデューサーでね。大きな企画を立ち上げたいし、新しい才能を発掘したいわけなの。野望、夢ってやつかな」

 

 夢、という単語に恭子は肩をぴくりと反応させる。爽は続けた。

 

「でも、大きな企画を立ち上げようにも予算を引っ張るのが難しくてね。そこで目を付けたのは今をときめくアイドル雀士――その中でも、大学生のね。私たちの世代には間違いなく金の卵が眠ってるし、こうして同年代が在学中だから渡りもつけやすかったんだ」

「なるほど……」

 

 感心したように宥は頷く。その脇で、尭深が質問した。

 

「大学はいくつでもありますが、東帝を選んだ理由はなんですか?」

「それもさっき言った通り。今一番麻雀で有名な大学は、間違いなく東帝だもんね。連盟からも予算を引き出しやすいし。――それになにより」

 

 爽は東帝の面々を見回し、爽は挑戦的な笑みを浮かべる。

 

「ウィン・ウィンの関係になれるでしょ? 私たち。問題あるかな?」

 

 煌が話したわけでもなく、こちらの事情にも詳しいようだ。やはり侮りがたい女だと、恭子は軽く溜息を吐く。

しかしながら、確かに筋は通っていた。麻雀部としても、東帝大学としてもメリットは大きい。おそらくかなりの集客力を見込めるだろう。それほどのアイドル雀士を集められるのかという問題も、爽と連盟が解決してくれる。

 

 煌、宥、尭深の視線が恭子に注がれる。恭子はプレッシャーに気圧されながらも、ごほんと咳払いした。

 

「……うちは引退した身や。決定権は部長の煌ちゃんと、今の麻雀部員にある。うちはあくまで手助けするだけや」

「では!」

「決まりですね! 一年生には私から説明します!」

 

 いえーい、と爽と煌がハイタッチする。誰にも気付かれないような、小さな溜息を恭子は吐いた。

 

「それで……大学アイドル雀士最強決定戦って、何をするんですか?」

 

 もっともな質問が尭深から出た。それを受けて、爽は鞄から人数分の冊子を取り出す。拍子に書かれているのは「大学アイドル雀士最強決定戦(企画案)」の文字列。

 

「基本的なことはここに書いてるんだけど、ざっくり説明するとアイドルたちには二つの項目で競い合って貰おうと思ってるんだ」

「二つの項目、と言うと?」

「一つはもちろん雀力。学祭期間中、アイドル雀士にはリーグ戦を公開対局で行ってもらって、上位成績から順にポイントを振り分ける」

 

 アイドル雀士と言うからには、至極真っ当な評価基準だ。牌のおねえさんである瑞原はやりも、プロとしての実力があるからこそ今の地位を確立できたのだ。

 

「二つ目は?」

「人気投票だね。チケットかチラシに投票権をつけて、好きなアイドル雀士へ投票してもらう。学祭一日毎に集計して、公開対局と同じように上位成績から対局とポイントを振り分ける。それで、二つのポイントの合計が一番のアイドル雀士が優勝っていうのが素案」

 

 これもまた理解できる内容だった。やはりアイドルたる者、多くの人々から支持を受けねばならない。ただ、懸念はある。

 

「公開対局はまあ分かったわ。でも人気投票やと、今の知名度で決まってしまわへん? あくまで大学祭の出し物なんやし、ある程度はその枠組みの中で完結させといたほうがええんと違う?」

「すばらな指摘です、恭子先輩! やはり評価されるべきはアイドル雀士としての人気ですし、それをアピールする平等な場所が与えられるべきと我々も判断しました」

「と、いうと?」

 

 煌の視線に促され、爽が説明を引き継ぐ。

 

「大学祭のステージや体育館を借りて、アイドル雀士にはアピールの場を設けることにする。その場で歌ってもよし、踊ってもよし。そこは各アイドル雀士に任せる。これなら人気投票にも流動性が出ると思うんだよね」

「そういう魂胆か」

 

 人前で歌って踊るなど、参加者が許容するのか恭子にとって甚だ疑問だったが――自分がその立場なら絶対にごめん被る――企画としては悪くないと思えた。

 最大の問題は、

 

「で、これどんくらい参加者集まる算段なん?」

 

 冊子をテーブルに置いて、恭子は爽に目線を送る。この自称プロデューサーに、どこまでの力があるのか。イベントとして成立するほどの、人気ある雀士を集められるのか。

 恭子の厳しい眼差しに、しかし、爽は自信満々に頷いた。

 

「大丈夫。もうめぼしいところには声をかけてるから。今日は、連盟のほうで説明があるはずだよ。――今、丁度その頃じゃないかな?」

「連盟って……まさか」

「うん。おたくの所の、彼女たちもいるはずだよ」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 指定されたホテルを見上げて、京太郎は嘆息する。学生には分不相応なほど立派な、塔のような高級ホテル。一泊で下宿先の月の家賃は吹っ飛びそうだ。

 

「どうしたん、京ちゃん。ぼーっとして」

 

 隣に立つ怜が、いきなり顔を覗き込んできた。

 

「ああ、いえ。こんな待遇を受けるなんていまいち実感湧かなくて」

 

 先日のコクマで活躍したことを評価され、連盟主催の慰労会に招待されたのだ。同行する怜もまた同様の理由である。

それだけではない。午前中は複数の雑誌社からインタビューを受けた。留学の件も含めて質問攻めにあい、しどろもどろになってしまった。場慣れしておらず、情けない限りである。

 

 ともあれ、いつまでも入口で突っ立っているわけにもいかない。怜に腕を引っ張られながら、ホテルの中へと歩き出す。

 

「さっきのインタビュー、怜さんは受け答えしっかりしてましたよね」

「まあ、私は高校時代にもようさん取材は受けたもん。昔取った杵柄や。でも、京ちゃんも最後のインハイで活躍したやん。あのときはどうやったん?」

「全国紙と地元紙で一回ずつインタビュー受けただけですよ。それも咲たちのついでみたいな扱いでしたからね」

「それじゃ、これから慣れていかなあかんな。ひとまず今日はお偉いさんと楽しく話すんが目標やな。これも必要なことや、がんばろ京ちゃん」

「……うす」

 

 できすぎなくらいのコクマでの打ち回し、周囲から持て囃される毎日。調子に乗ってしまいそうになる自分が確かにいた。卓上でも卓外でもまだまだ未熟、と京太郎は自戒する。

 

「それにしても、最近はこんなパーティ開いてくれるんやな。四年前は何もなかったで」

「確かに。しかもこれ、対象がアマチュアでしょう? どういうつもりなんでしょう」

「んー。何か企んでるんかも知れへんけど……ま、行ってみぃへんとなんも分からへんな」

「……ですね。ちゃっちゃと行きますか」

 

 レセプションで招待状を見せた二人は、エレベーターで上層のホールまで案内される。

 ホールの中は、既に準備が整えられていた。いくつも並べられた丸テーブル。その上に置かれた料理にグラス。予告通り立食形式の宴会のようだ。

 まだ開始まで時間はあるが、他の参加者の姿もちらほら見える。見知った仲の相手も来るはずなので、探そうと周囲を見回していたら、

 

「とーきーっ!」

「わわっ」

 

 突然、怜を後ろから抱き締める影が現れた。

 その正体は、論ずるまでもなかった。西日本を代表する強豪にして、園城寺怜の親友。

 

「もう、驚かせんといて、りゅーか」

 

 西阪大学、清水谷竜華だった。

 

「だって久しぶりやん」

「こないだコクマで会ったばっかやん」

 

 溜息を吐く怜にも何のその、竜華は上機嫌だ。さらに京太郎を視界に収めると、

 

「須賀くんも久しぶりー!」

「は、はい、お久しぶりです清水谷さん」

「元気してた? ちゃんとご飯食べとる? この後時間ある?」

 

 ぎゅっと彼の手を握りしめ、距離を詰める。――清水谷竜華は、有り体に言えば美人である。さらにその体つきは、京太郎の好みを完璧に捉えていた。そんな彼女から、好意の眼差しを向けられているのは京太郎も知っていた。あるいはころっとなびいてしまいそうになるが、

 

「はいはいそこまでや、竜華」

「ちょ、怜。何すんの。腕引っ張られたら痛いやん」

「さらっと京ちゃん持ってこうとしといて何言うとんねん」

 

 今日のところは止め役がいる。

 

「持ってかへんよ。もちろん怜も一緒やで?」

「寝言は寝てから言うもんやで」

「怜の意地悪ー。ええもん、後でこっそり誘うもん」

「京ちゃん帰ったら説教や!」

「俺まだ何にもしてませんよっ?」

 

 だが、場は混迷を極める一方。竜華と怜の二人を止める術を持たない京太郎も慌てふためく一方だ。

 

「そこまでなのです、竜華先輩っ」

 

 制止の利かない竜華の肩に置かれるのは、新たな手。亜麻色の髪を揺らし、割って入る女性がいた。

 竜華の大学の後輩、松実玄である。西阪大学が誇るダブルエース、その片割れ。彼女の腕力によって、竜華はようやく怜から引き剥がされた。

 

「ちょっと玄ちゃん、まだ話は終わってへんのに」

「園城寺さんと須賀くん相手じゃ竜華先輩の話はいつまで経っても終わらないのです」

 

 ばっさ文句を切り捨て、玄は京太郎たちに頭を下げる。

 

「竜華先輩が迷惑をかけたのです。――それはともかく、こんにちは、須賀くん、園城寺さん。お姉ちゃんは元気?」

「心配せんでもええで、と言いたいところやけど」

「最近寒くなってきて引きこもりがちみたいなんですよね……」

「ああ、やっぱり……これが終わったら会いに行かないと……」

 

 がっくりと玄は項垂れる。

 その背後で、「お」と怜が別の知人の影に気付く。

 

「荒川ちゃんと上重ちゃんやん。おーい」

 

 関西の雀士たちが、続々と集まってくる。さながら同窓会のようだった。昔話に花を咲かせる女性陣を、出身の違う京太郎は一歩下がって見守っていた。流石に割って入っていける雰囲気ではなかった。

 少し居心地の悪さを感じていると、

 

「こんにちは、須賀くん」

「お、和」

 

 高校時代の仲間――原村和に声をかけられた。

 

「三橋からは和一人だけなんだっけ」

「辻垣内先輩にも誘いがあったんですけどね。固辞したみたいです」

「なんでまた?」

「さあ。むしろ須賀くんのほうが詳しいんじゃないですか? 恋人だったんでしょう?」

「それでいじるのはそろそろ止めてくれ……」

 

 くすくすと笑う和に、京太郎も釣られて笑っていた。やはり、見知った顔だと気楽になれる。

 

「それにしても、また有名所が随分集まりましたね。――あちらにいるのは、佐々野さんでしょうか」

「みたいだな。でも、人選が全て実力順かと言うとそうでもないような……」

「と、言うと?」

 

 有り体に言えば、雑誌の人気投票で上位にくるような面子――と、和の前で正直に言うのは憚られた。清澄時代に時折向けられた白い目は、中々にトラウマである。

 何と答えたものかと思案する京太郎を救ったのは、猛々しい声だった。

 

「久しぶりですわね、原村和! 須賀くん!」

「わっ、龍門渕さん」

「龍門渕さんも呼ばれていたんですね」

「当然ですわ! 貴女が呼ばれて私が呼ばれないはずないでしょう!」

 

 声の主は龍門渕大学麻雀部部長、龍門渕透華であった。こちらも高校時代からの顔見知りである。

 

「今日こそ! 今日こそ決着を着けましょう、原村和! それに須賀くんも! 最近活躍しているようですが、目立つのは私ですわ!」

「え、えぇ……そう言われても……」

 

 たじろぐ京太郎だったが、

 

「今日はパーティを楽しみましょう」

「…………そ、そうですわね」

 

 和のマイペースが透華の勢いを飲み込んでしまう。

 そうこうしている内に、さらに地元の面子が京太郎たちの前に現れる。

 

「和、須賀くん」

「ぶちょ――竹井先輩」

「こんちわっす」

 

 かつての先輩、竹井久。その後ろには信央大学の中核をなした福路美穂子に、加治木ゆみも控えていた。

 

「いやはや、和はともかく須賀くんまでここに呼ばれるとはね」

「何だか棘がある言い方じゃないですか、竹井先輩」

「この間の恨みは残ってるんだから」

 

 言葉とは裏腹に、久の声色は実に楽しげだ。全く、と京太郎は肩を竦めるしかなかった。

 旧・長野四強の英傑が揃い、そこに和が加わって話が盛り上がる。女性陣には敵わず、京太郎は再び輪から一人離れた。

 

 そんな彼の背中を、ぽんと叩く女性がいた。

 

「や、京太郎」

「新子じゃんか」

 

 同学年の、新子憧だ。次々と見目麗しい雀士が現れるが、憧はその誰にも引けをとっていない。相変わらずの美しさに、京太郎はどぎまぎしながらも平静を装って話す。

 

「コクマ、見てたわよ。かなり強くなったみたいじゃない、留学の成果ってやつ?」

「まだまだだって。この間も、部活でこってり絞られた」

「そこは流石東帝、と褒めておくわよ。ねぇ、この後時間あるなら私と打ってよ」

「ああ、喜んで。新子と打つなんて、それこそ高校の合同練習以来じゃないか?」

「そう言えばそうかも」

 

 他の参加者と同じく、京太郎も憧と思い出話に花を咲かせる。ここのところ、彼女とはゆっくり話せる機会がなかった。

 

「この間の借りもちゃんと返せてないよな。ついでにメシでも奢るよ」

「慌てなくて良いわよ。東帝のあんたに恩を売っとくのも悪くはないもんね」

「相変わらずちゃっかりしてるよな、お前」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 

 ふふん、と憧は得意気な笑みを浮かべる。京太郎は参ったと言わんばかりに、大袈裟に肩を竦めた。

 その後も談笑に耽る二人だったが、ふと、憧が視線を遠くに向けた。

 

「っと。あれ、小蒔じゃない。おーいっ」

「あ、憧ちゃん」

 

 憧が呼んだのは、巫女装束に身を包んだ女性――全国区でも有名な、神代小蒔だった。京太郎ももちろん知っている。神代小蒔を擁した永水女子は、清澄高校とも熾烈な争いを繰り広げたのだ。

 

「良かった。知っている顔がいると安心しますね」

「今日は霞さん、いないんだ」

「永水から呼ばれたのは私だけで」

 

 当たり前のように、憧は小蒔と挨拶を交わす。少しだけ京太郎は意外だった。インハイがあったとは言え、憧の母校である阿知賀女子と永水女子にそれほど接点があっただろうか。

 京太郎の疑問を察したのか、憧は「ああ」と頷き彼に向き直る。

 

「知ってるでしょ? うちの実家が神社ってこと。その縁で小蒔とは仲良くなったの」

「あぁ、そういうことか」

「あんたこそ、小蒔とは知り合いじゃないの? 清澄と永水は戦ったこともあるじゃない」

「俺は控え室にいただけだからな。……ええっと、話したこと、ありませんでしたよね?」

 

 恐る恐るといった様子で、京太郎が小蒔に確認する。僅かの間の後、小蒔はこっくりと頷いた。

 

「はい」

「やっぱり」

「でも、私は須賀さんのことを存じていますよ」

「え?」

 

 意外な言葉に、京太郎は声を詰まらせた。吸い込まれそうな彼女の瞳に、京太郎は釘付けになる。

 

「この間のコクマでも大活躍でしたよね。お見事でした」

「あ――は、はい。ありがとうございます」

「一度、お目にかかってみたかったんです」

 

 小蒔のような美人に褒められて、悪い気はしない。知らず京太郎は顔を真っ赤にして、しかし微笑む小蒔から視線を切らせなかった。

 

「なにでれでれしてんのよ」

「な、なんだよ。でれでれなんかしてないだろ」

 

 憧に肩を小突かれ、京太郎は我に返る。完全に図星だったが、認めるのも癪であった。誤魔化すように、京太郎は反撃する。

 

「お前こそ何不機嫌になってんだよ」

「はぁ? 別に不機嫌とかじゃないし」

「嘘つけ、すげー棘あるぞ」

「ふ、二人とも喧嘩しないで」

 

 睨み合う京太郎と憧、それを止めようとする小蒔。

 図らず生まれた三角形に、忍び寄る新たな影があった。

 

 

「あ、あのーっ!」

 

 

 決意の秘められた声に、京太郎たち三人はそちらへ振り返る。そこにいたのは――黒く、大きな影。京太郎も含めて、ぎょっと驚き「彼女」を見上げる。

 先日プロ契約が発表された、期待の超大型ルーキー。

 

 岩手宮守女子出身、姉帯豊音であった。彼女がこの場に呼ばれていても、不思議ではないだろう。

 

 男子としても長身に分類される京太郎でさえ、敵わない身の丈。しかし今彼女はその身を精一杯縮こまらせ、口元を四角い色紙で隠していた。ちらちらと京太郎に目を遣りながら、彼女はおずおずと切り出した。

 

「あのー、須賀京太郎くん、だよねー?」

「そ、そう、ですけど……」

 

 京太郎が答えた瞬間、ぱあっと豊音は顔を輝かせた。

 

「良かったよー! あ、あのねー、さ、サイン下さいっ! この間のコクマでファンになりましたーっ」

「え、ええっ? 俺のサインですかっ?」

 

 そんなものを要求されるとは全く想像できなかった。何かの間違いかとも思ったが、豊音はわくわく顔で色紙とペンを差し出してくる。助けを求めるように憧に視線を送るが、「書いてあげなさいよ」と冷たい目で一蹴されてしまった。

 

「こんな感じで良いですかね……?」

「大丈夫だよー、ありがとーっ!」

 

 結局名前を書くだけで終わってしまったが、豊音はいたく満足した様子で色紙を掲げていた。

 

「今度私にもサイン下さいね」

「あ、は、はい。あんなので良ければ」

 

 さらに小蒔にもお願いされてしまう。

 

「折角ファンができたんだから、もっと格好良いの練習しなさいよ。あ、私にも一枚……ううん、二枚頂戴ね」

「憧まで、何言い出してんだよ」

「良いじゃない、減るもんじゃあるまいし。代わりにシズのサイン上げるから」

 

 憧からも要求され、京太郎は溜息を吐く。豊音たち三人に取り囲まれ、嬉しくないと言えば嘘になるが、それよりも戸惑いが先行した。

 ――それに、この流れは。

 

「きょーちゃん」

 

 背後から、かけられる冷えた声。振り返らなくても、そこに立っている彼女の姿は幻視できた。

 

「楽しそうやなあ。私も混ぜてくれへん?」

 

 聞き慣れたはずの声に宿るのは、恐怖の色。掴まれた腕が、動かない。動かせない。

 そこへ他の女性陣もなだれ込む。もう、止める術はなかった。

 ――パーティは、波乱の幕開けであった。京太郎にとっては、既に終局を迎えたようなものだったが。

 

 

 

 

 

 

 そうやって盛り上がる会場の一角を、見つめる双眸があった。小柄な体に不釣り合いなほど成長した胸囲。泰然とした態度。

 知った顔がそこにあっても、眼鏡をかけた真屋由暉子はその場を動かなかった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「そりゃ豪華な面子やな」

 

 パーティに呼ばれた面々が全員、大学アイドル雀士最強決定戦に参加するというのなら、それは大いに盛り上がることだろう。

 

「うちからはやっぱり園城寺出させるんやろ?」

「ですね。注目度や実力、ルックス全てにおいて申し分ないでしょう」

 

 煌の言うとおりだ。主催者側として勝たせても問題があるだろうが、一人もエントリーさせないのも不自然であろう。果たして怜が頷くかは分からないが、ここは彼女に任せるのが一番だろうと恭子は考えていた。

 

 しかし。

 

「でも、それだけだと勿体ないと思わない?」

「は?」

「折角東帝でやるんだから、出られる人は出ておくべきかなって」

 

 にやにや笑いを浮かべる爽。

 正面に座る煌も、瞳を輝かせている。

 

「恭子先輩。さっき、なんでも言ってって、言ってくれましたよね」

「……せや、けど? それが?」

 

 恭子が勘付くよりも早く。

 煌は、高らかに宣言した。

 

「最強アイドル雀士決定戦――東帝からは、怜さんと恭子先輩にエントリーしてもらいますっ!」

「――は?」

 

 我ながら間の抜けた声が出たと、末原恭子は後に振り返る。




次回:Ex2-3


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Ex2-3 忍び寄る影

 最強アイドル雀士決定戦は、大学祭における麻雀部の出し物として正式に認可が下りた。あるいは下りてしまったと言うべきか。少なくとも恭子にとっては、歓迎できる事態ではなかった。

 

 なにせ、その決定戦に自分もアイドルとして参加させられるのだから。

 

 アイドル雀士と言われて思い出すのは、やはり歌のおねえさんである瑞原はやりだろう。笑顔を振りまき、歌って踊る――強い雀士はいくらでもいるが、彼女のような存在は希有だ。自分にはとても真似できない、と恭子は常々感じていた。高校時代はいつも仏頂面で近寄りがたいと言われていたし、愛嬌がないのも自覚していたし、とりわけ歌唱力に秀でているわけでもないし、ましてやダンスなぞもっての外である。

恭子からすれば、煌の人選ミスとしか言いようがなかった。

 

「やっぱり無茶振りや……どう考えても無茶振りや……」

 

 テーブルに突っ伏して、恭子は盛大な溜息を吐く。手元で転がすのはヴォーカル用マイク。彼女が訪れていたのは、大学からほど近いカラオケ店であった。決定戦に向けて歌の練習という名目で小一時間ほどマイクを握ったが、結果は芳しくない。音程は合わないし、リズム感に欠けるのを自覚させられるばかりであった。

 

「恭子が弱音吐くんは珍しいな」

 

 対面に腰掛け、ぽつりと呟くのは園城寺怜。彼女もまた最強アイドル雀士決定戦にノミネートされ、こうして恭子と共に練習に励んでいた。しかし、電子目次本を楽しげに操作する姿は、あまりに恭子と対照的である。恭子が恨めしげな視線を送るのも無理なかった。

 

「そう言うあんたは随分気楽そうやん」

「実際気楽やもん。負けたところで取って食われるわけでもあらへんし」

「あんたほど簡単に割り切れんわ……人前で歌うんも踊るんもうちには難題や」

 

 ソファに背中を預け、低い天井を仰ぐ。可愛い後輩たちのため一肌脱ぐのに異存はないが、今回ばかりは判断を誤ったとしか言いようがない。

 

「やっぱり宥ちゃんのほうが適任やって。めっちゃ美人さんやし、大学内の人気もぴかいちやし」

「十二月の寒空の下やで? 宥さんの不審者ルックはあかんやろ。せやから煌さんも宥さんには声かけへんかったんやろ」

「せやったら尭深ちゃんは?」

「尭深さんは煌さんと一緒に運営やん。一年への指示もせなあかんし」

 

 今度溜息を吐いたのは、怜のほうだった。

 

「ほんまらしくないな。いつも通りどーんと偉そうに構えてたらええやん」

「誰にでも苦手なもんくらいあるやろ。ああいうきゃぴきゃぴしたんは苦手なんやって」

「インハイのときおっきなリボン着けて試合してたやん。あれもアイドルの先駆けみたいなもんやろ」

「あれは例外や! 監督が言うとらんかったら絶対着けとらへん!」

 

 古い話を持ち出され、恭子は喉を震わせた。対する怜は、わざとらしく肩を竦めてみせる。

 

「頑固者やな。恭子も可愛いのに変に意識しすぎと違う?」

「か……っ! あ、あんたこそ、ようそんな昔の話覚えとるもんや」

「私なりに研究したし、京ちゃんもよく動画見返してたもん」

 

 出てきた名前に、恭子はむっと言葉を詰まらせる。それから顔を俯かせ、手の内でマイクを弄り、視線をさまよわせる。

 

「……どうしたん? お腹でも痛いん? 落ちとるもんでも食べた?」

 

 眉を潜めて怜が訊ねても、

 

「な、なんでもあらへん! それよりもはよう次歌え!」

「なんや、えらい機嫌悪いな」

 

 恭子は冷たく突っぱねるのみだった。突っぱねるほかなかった。

 こみあげてくる胸の奥のむかつきが止まらない。どうしても、どうしようもなく、不安と焦燥に駆られてしまう。

 

 しかしながら、今の恭子を苛む理由は一つではなかった。

 思い浮かぶのは、獅子原爽の悠然とした佇まい。

 

 ――何を企んどるんや。

 

 過去の一戦で味わった得体の知れない「何か」。それが原因か、いまいち彼女を信用していいものか、恭子には判断できなかった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 しかし、恭子の心配をよそに、決定戦の準備はどんどん進んで行った。陣頭指揮を執るのは、当然煌である。彼女は的確な指示を飛ばし、当初かなりタイトと思われたスケジュールには余裕が生まれるほどであった。

 

 東帝大学全体も、例年以上に大学祭への熱意に溢れていた。麻雀人気に翳りはなく、今をときめく学生雀士が一堂に会するというのだから当然と言えよう。

 

「わあ……今年はこっちにもステージ作るんだね」

 

 広場を横切りながら、これでもかと厚着した宥が呟く。既に十一月も半ば、彼女にとっては厳しい季節である。

 

「あれ、普段は作らないんですか?」

 

 問いかけたのは、隣を歩く京太郎。

 

「そっか。須賀くんは今年が初めての学祭になるんだね」

 

 疑問に答えたのは宥ではなく、尭深であった。

 

「いつもはこのキャンパスで二ステージだけだよ。今年は決定戦があるから、増設するみたい」

「大学側もやる気満々ですねー。これまた忙しさに拍車がかかりそうだ……」

「でも、最近また新入部員が入って来て人手は増えたって聞いたよ」

 

 宥の指摘は正しかった。コクマにおける京太郎や怜の活躍した上、メディアに取り上げられ認知度は増した。さらにここに来て最強アイドル雀士決定戦が追い風を吹かせている。煌の狙い通りと言えよう。

 

「そうなんですけど、その分色々教える必要があって仕事量は中々減らないんですよね。リーグ戦に向けての練習もありますし」

「部室も手狭になってきたので、他の空いている部屋を借りられないか検討しているんです。宥先輩のときと比べれば、贅沢な悩みかも知れませんが」

 

 尭深の言葉に、宥は首を横に振る。

 

「ううん、そんなことないよ。大変だよね。私にできることがあるなら何でも言ってね」

「煌ちゃんはできるなら宥先輩にも決定戦に出て欲しい、って言ってましたけど――」

「それはできないことかな」

 

 笑顔のまま、宥はさらりと断言した。取り付く島もなかった。

 

「それじゃ、バイトだから今日はここで」

「お疲れ様です」

「またよろしくお願いします」

 

 道中、宥と別れる。引退後は過干渉を避けている様子だったが、今日は最強アイドル雀士決定戦の話題から逃げたように見受けられた。京太郎は尭深と顔を見合わせ、くすりと笑った。

 

「それにしても、とんでもないイベント考えたものですよね。一体誰が勝つんですかね」

「こればっかりは単純な雀力で決まらないからね」

「雑誌によっても人気って変わってしまいますしね。本当に読めないです」

「怜さんや恭子先輩には頑張って貰いたいね」

「でも、主催が勝っても顰蹙買いそうなのが辛いですよね」

「確かに。難しい立場だね」

 

 尭深と二人であれやこれやと言い合いながら、向かう先は部室棟。だが、入るのは麻雀部の部室ではない。

 

 部室棟には、倉庫代わりになっている部室がいくつもある。積み重ねられた荷物も持ち主不明のものが多く、片付けられないまま今日に至るケースが多く見られるのだ。今回の決定戦では、招く人数を考えると控え室はいくらあっても足りないくらいだ。これを機会に部室棟を片付け、学祭用に改装しようと言うのが麻雀部の目論見である。

 

 部室の片付けに励む一年生に向けて、京太郎が声をかける。

 

「おーい、そこらで一回休憩ー。飲み物買ってきたぞー」

「あ、須賀せんぱーい! 渋谷先輩も!」

 

 きゃっきゃと一年生たちが駆け寄ってくる。麻雀歴の浅い者たちばかりであったが、いずれも熱意があって指示をよく聞く。大部分が女子で、京太郎が夏に帰ってきたときにはうまくやっていけるかと心配したものだが、今ではしっかり懐かれている。清澄時代に磨いた料理の技術がここでも生きた。

 

「よーし、今日中に部室は全部片付けようぜ」

「頑張ろうね」

「はいっ」

 

 京太郎と尭深の檄に応えるように、一年生たちは働き出す。宥はどこか羨ましげな眼差しで、二人の背中を見つめていた。

 

「さて、俺も働くか。重い物は俺に任せて――ん?」

 

 京太郎も片付けに参加しようと一歩前に出るが、ふと視界に入って来た人の姿に足を止めた。部室の周りでうろちょろとしている女性が三人。この辺りでは見たことのない顔だった。少なくとも、普段この部室棟を利用している人間ではない。新入部員の誰かだっただろうか、と京太郎は自問する。何しろ最近は入部希望者が多く、油断すれば把握できないのが実情である。

 

 部外者なら放っておけば良いところだが――何となく、京太郎はそのまま放置できなかった。彼女たちに声をかけようとする京太郎だったが、

 

「こんにちは、須賀京太郎くん」

「わっ」

 

 背後から声をかけられて、阻まれてしまう。驚きながら振り返ると、そこにいたのは、

 

「獅子原さんじゃないですか。こ、こんにちは」

「ん、相変わらずおっきいねー」

 

 今回の企画を立ち上げた主犯の一人、獅子原爽であった。小柄ながらも自信ありげな態度に、堂々とした立ち振る舞い。それでいてどこか憎めない言動で、いつの間にか懐の内に入り込んでくる彼女を、京太郎は持て余し気味であった。

 

 決定戦の企画者として、彼女は東帝大学にたびたび出入りしている。当然ながら、中でも麻雀部とは過ごす時間も長く、すっかり溶け込んでいた。

 

「どうしたんですか? ミーティングは明日の予定ですよね」

「そうなんだけどね。今日はちょっと別の用事があってね」

 

 その不思議な色の瞳に下から覗かれ、京太郎は後退ろうとする――が、動けない。まるで蛇に睨まれた蛙の気分だった。

 

「別の用事……ですか?」

 

 搾り出すように声を出し訊ねる京太郎は、視線を泳がせる。無意識の内に、尭深の姿を探していた。だが、見つからない。どこにも見当たらない。それどころか、一年生の誰の姿も見えなくなっていた。

 

 ――なんだ、これ……っ?

 

 戸惑い慌てふためく京太郎だったが、すぐに唾を飲み込んだ。動揺を重ねていても、事態は好転しない。そのことを、彼は卓上で何度となく教わっていた。

 

「……へぇ。思ったよりも肝が据わってるんだね」

「一体、これは……?」

 

 しかし、彼女の囁きから逃れる術までは持ち合わせていない。自然と、京太郎は爽と見詰め合う形になる。

 

「別に危害を加えるつもりはないよ。君にお願いがあるんだ、須賀京太郎くん」

「お願い、ですって?」

 

 そう、と爽はしっかりと頷く。

 その魔性に、京太郎は飲み込まれつつあった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 そして、東帝大学大学祭――引いては、最強アイドル雀士決定戦の幕が上がる。




活動報告でも書きましたが冬コミ受かってました(https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=130528&uid=96582)。

配置は
12/30(金) 東地区“a”ブロック-42a
です。サークル名:愛縁文庫

頒布予定はSummer/Shrine/Sweetsの文庫本(フルカラーカバー+挿絵付)、
文庫本には短編(Summer/Shrine/Sweets関連)のペーパーを付ける予定です。
後できたら別途ペーパー書こうかな、と(内容は未定)。

頒布物情報などは
○Twitter@ttp1515
○活動報告
○サークルブログhttp://blog.livedoor.jp/aienbunko/
などで告知予定です。

委託なども検討中ですが、現状未定です。
よろしくお願い致します。


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Ex2-4 末原恭子のアイドルデビュー

 冷え込んでくる十一月末から十二月の初頭にかけて――毎年この時期、東帝大学の大学祭は開催される。都心という立地や大学の知名度から、例年大盛況となるこの学祭は、今年は特に注目を浴びていた。

 その要因となったのは、広く告知されたイベント――最強アイドル雀士決定戦であった。

 大々的に広告も打たれ、もはや学祭の一企画という枠を超えていた。大学祭実行委員からも多数の人員が動員され、半ば東帝大学麻雀部の手から離れつつある。

 

 それでも重要な箇所は、麻雀部員が締めることになっていた。

 

 大学祭初日の早朝。

 麻雀部の副部長たる渋谷尭深は、担当する東ステージを訪れていた。最強アイドル雀士決定戦では、キャンパス内に点在する各ステージで、多数のアイドル雀士たちがアピールと公開対局を行う予定である。

 

「おはようございます。渋谷です。今日から三日間、よろしくお願いします」

 

 このステージの進行管理全般を務める尭深は、アイドル雀士や各種スタッフと挨拶を交わしていく。二年前は学内で埋もれていた尭深であったが、麻雀部での活躍もあいまって、今では有名人の一人である。白糸台での活躍も再注目され、今回の決定戦でも推薦の声が上がったほどだった。もっとも本人にその気はなく、裏方向きと自称したため流れてしまったのだが。

 

 とにかく今の彼女は、慣れないながらも、自らの職務を全うせんとする一役員であった。

 ――故に。

 一抹の不安を抱えるアイドル雀士に、声をかけておかなければならなかった。このために、尭深が東ステージに配置されたと言っても良い。

 

 ひとしきり挨拶を終えてから、ようやく、であった。

 ステージ裏の片隅、フード付きのコートで全身を覆い隠した「彼女」を尭深は発見する。顔を見なくても、長い付き合いですぐに分かった。

 

「先輩」

「っ!」

 

 背後から声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。しかし、返事は帰って来ない。振り返りもしない。尭深は小さな溜息を吐くと、縮こまる彼女の肩を叩いた。

 

「菫先輩。おはようございます」

「……」

 

 黙りこくる彼女は、弘世菫。尭深にとって、高校時代の先輩でもあった。

 

「おはよう、ございます」

「…………おはよう」

 

 観念したように、菫は尭深と向き合った。フードの下で顔を俯かせ、その表情は青ざめている。気持ちは分かるし、同情する。彼女の場合、契約したプロチームの方針で半ば無理矢理ここに立たされているのだ。決して、自分の意思で来たわけではない。しかしながら、尭深としては仕事の手を緩めるわけにもいかないのが現実である。

 

「大丈夫ですか? 全体ミーティングまでもう少し時間がありますが、どこかで休みますか?」

「いや……問題、ないさ」

「無理だけは、しないようにお願いしますね」

「ああ……分かっている……分かっているさ……」

 

 菫はすっかりやさぐれてしまっていた。それでも逃げ出さないのが、彼女の美点と言うべきか。だが、目の前で応対するのには一苦労である。どうしようかと尭深が思案している間に、

 

「おっはよー、たかみー!」

 

 後ろから、流星の如く飛び込んできた影があった。彼女もまた、かつての白糸台の僚友。今は麻雀プロの、大星淡だった。

 

「どうしたの、淡ちゃん。まだ一般入場は始まっていないのに」

「もー、いてもたってもいられなくて! このイベント、私も出たかったのに!」

「今回は大学生が対象だから……」

「だったら尭深も出れば良かったのに。……ってあれ? んん? そこにいるの、スミレー?」

 

 抜き足差し足でその場を離脱しようとしていた菫を、淡が呼び止める。走り出す間もなく、淡は彼女へ抱きついた。

 

「スミレ、どこいくのっ? なになにー、こんな地味なコート似合わないよーっ? あ、もしかしてこの下に今日の衣装着込んでるんでしょっ!」

「ちょ、やめ、こらっ! おいっ! どこを触って――ああああああぁぁぁぁっ!」

 

 菫の口から、これほど悲痛な声を聞くのは初めてだった。淡の手によって菫のコートが引っ剥がされる様を、尭深は眺めるしかできなかった。

 

「わ」

「おおー」

「見るな、見るな……っ!」

 

 彼女を包むのは、これでもかとフリルがしつらえられたエプロンドレス。スカートの丈は短く、太股はしっかり外気に晒されている。頭に乗せられたカチューシャは、可愛らしい猫耳を模していた。全体的に、雰囲気はどこか現役の牌のおねえさんに近い。

 

「どうせ私にはこんなもの似合わないんだ……無理なんだ……」

 

 悲壮な顔でぶつぶつと呟く菫に、尭深はかける声が見つからない。確かに普段凜然とした彼女とは、随分とイメージの違う格好だ。菫が泣き言を言うのも納得できる。

 しかしそんな彼女へ、目を輝かせてにじり寄ったのは、他でもない淡だった。

 

「なんでっ? 凄く似合ってるよスミレっ!」

「え、え……?」

「うん! 可愛い! いいじゃんスミレ、いけてんじゃん!」

「そ、そうか……? ほんとうにそうか……?」

「もちろん! ね、たかみー!」

「え、あ、う、うん……」

「そうか……可愛いか……私が、可愛い……」

 

 淡の勢いに押されて尭深は頷く。淡の目は真剣で、からかっているわけでもないようだった。一転、菫は満更でもない様子で頬を染めて笑みを零す。

 菫の機嫌が良くなって、ひとまずは一安心する尭深だったが――

 

――どうなるのかな、これ。

 

 抱えた不安は消えることなく、燻り続けるのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 青い空に、大学祭開幕を告げる放送がこだまする。――いよいよ、このときがやってきた。末原恭子は吐きたくなる溜息をぐっと堪え、背もたれに背中を預ける。後一時間もすれば、最強アイドル雀士決定戦のオープニングセレモニーが始まる。それまでにはこの麻雀部の部室を出て行かなければならないのだが、どうにも腰が重い。

 

 何せ、アイドル雀士としてこのイベントに参加しなくてはならないのだから。同じ悩みを抱える菫とは散々愚痴を言い合ったが、もちろん解決策は見えてこなかった。これからもアイドル路線を走らねばならないかも知れない彼女に比べれば、このとき限りの自分は恵まれている――そうやって自らを納得させるのにも、限界がある。

 

「それでも、やらな」

 

 主催である東帝大学代表の恭子が優勝するシナリオはなく、彼女に与えられた役割は場を盛り上げるための当て馬だ。損な役回りだが、可愛い後輩のためである。上手く丸め込まれてしまった感は、あえて無視した。

 

それに、と恭子は自嘲する。

 麻雀はともかくとして、可愛さで他の女性たちに敵うべくもない。事前の打ち合わせで集められたアイドル雀士候補たちは、誰も彼もが高校時代から美しさにさらに磨きをかけていた。女子力、という単語が恭子の胸に突き刺さった。主催の事情がどうあれ、いずれにせよ自分の勝利はないと確信した。

 

 ただ――ひとつだけ。ひとつだけ、気になることがあった。

 

 議論の結果、最強アイドル雀士決定戦で優劣を決めるのは、次の三要素と定められた。

 一つ目は当然雀力。

 二つ目はステージアピールの審査員の評価。

 そして三つ目は、最終日に開票される一般入場者による人気投票。

 最後の人気投票の投票権は、東帝大学の学生全員にも与えられる。それは、主催たる麻雀部員も例外ではなかった。そう――彼も、投票権を持つのだ。

 

「……誰に入れるんやろ」

 

 呟いてから恥ずかしくなって、恭子は頬を掻く。普通に考えればもっと別の誰か、それこそ怜あたりに入れるのだろうが――胸の宿るのは、僅かな期待。

 

「あ、あほらしいわ」

 

 頭を振って、気を取り直す。部室に誰もいなかったのが救いである。しかしどことなく居たたまれなくなった恭子は、予定を繰り上げて集合場所へ向かうことにした。

 雨など降っていないが、黒のレインコートに袖を通して立ち上がる。既に学内には客が入り込んでいることだろう。用意された衣装で出歩くのは、ハードルが高かった。晴天にレインコートというのもおかしな格好だが、幾分かマシと恭子は判断した。

 いざ行かん、と部室の扉を開けたところで、

 

「や、末原さん。やっぱりここにいたか」

「獅子原……」

 

 待ち受けていたのはこの企画のプレゼンター、獅子原爽だった。恭子は疑わしげな眼差しを隠さず彼女に向ける。

 

「何の用や」

「大事な出演者に挨拶しに来ただけだよ。あんまり冷たくされると悲しいな」

 

 どこかおどけた声と表情が、鼻につく。今日まで何度も言葉を交わしたが、恭子は爽を信用するには至っていなかった。四年前のインハイの因縁を引き摺っているみたいで、どうにも極まりが悪い。

 

「今日から三日間、よろしく」

「……ん、よろしく」

 

 差し出された左手に、恭子は応じる。流石にこれを払いのけるほど礼儀知らずではない。しかし、ここで挑発的に笑ったのは、爽のほうだった。

 

「末原さんのところの、彼」

「彼……?」

「須賀京太郎くん」

 

 その名前が出た瞬間、恭子は眉を潜める。たたみ掛けるように、爽は言った。

 

「この間少し話す機会があったんだけどさ、良い子だね」

「話したって、何を――」

「残念だけど、それは秘密」

 

 ひょいと手を離すと、爽は悪戯っぽくウィンクする。言うだけ言って、何も答える気はないらしい。彼の名前が出るとなると、恭子としては黙っていられない話だ。だがしかし、ここで無理に食い付けば弱みを見せることになる。ぐっと堪えるしかない。

 

「獅子原」

 

 代わりに、声を絞り出すようにして、訊ねかける。

 

「なに?」

「あんたの目的は、なんや」

 

 爽はすぅっと目を細めると、やはりどこまで本気か分からない笑顔を浮かべる。

 

「私はプロデューサーだからね。もちろん、担当アイドルの成功が目的だよ」

「――……」

 

 その言葉の真意を恭子が問いただすよりも早く、

 

「先輩」

 

 爽の背後から、ひょっこり小さな影が現れる。

 

「ユキ、どうしたの。控え室で待ってろって言ったのに」

「先輩が中々戻ってこないので」

 

 最強アイドル雀士決定戦にも参加する、爽の後輩――真屋由暉子だった。彼女とも、恭子は今日までの打ち合わせで何度か顔を合わせていた。やや無愛想のきらいがあるが、素直で良い子といった印象だった。もっとも、爽の後輩というだけでどうしても警戒してしまうのだが。

 

 一瞬、恭子は由暉子を盗み見る。身長は小柄な恭子よりもさらに小さい彼女だが、髪はさらさら、肌はきめ細かく、実に愛らしい顔をしている。アイドル雀士という称号にぴったりだろう。――少なくとも、自分よりは。京太郎も投票するなら彼女のような娘だろうか。胃がむかむかする考えが、脳裏を過ぎる。

 

「それじゃ、末原さん。また後で」

「あっ」

 

 呼び止める間もなく、爽は由暉子を連れて去って行った。

 

「なんなんやったんや、あいつら」

 

 いまいち納得できないまま、しかし突っ立っているわけにもいかず、恭子は今度こそ部室を出た。

 

 いつもの静かな休日と違い、大学内は浮ついた空気に支配されている――のは勘違いではないだろう。あちこちから良い匂いも漂ってくる。客を呼び込む威勢の良い声も聞こえる。

 思えば、過去三年間は大学祭にとんと興味を抱かなかった。ずっと、インカレに注力してきたのだ。最後の最後で、こんな形で参加することになるとは夢にも思わなかった。

 

 ――どうせなら。

 

 行き交う人々の中に見つけるのは、幾組かのカップルだ。笑顔を交わしながら、あるいは手を繋ぎながら、学祭を楽しんでいる様子だ。

 

 ――あんな風に、歩けたら。

 

 夢想する隣の人物は――彼だった。少し昔なら、ばかばかしいとすぐに我に返っていただろう。しかし最近は、特に彼が日本に帰ってきてからは、気を抜けば妙な妄想を続けてしまう。

 

「あ、いたいた。先輩っ」

「んー……?」

「おはようございます、恭子先輩。……恭子先輩? どうしたんですか、ぼうっとして」

「っ? きょ、きょうたろうっ? いつからそこにっ?」

「いや、今さっきからですけど」

 

 おかげで、当の彼――京太郎が声をかけてきたというのに、気付くのがワンテンポ遅れてしまった。

 その身長差から、恭子はどうしても京太郎から見下ろされる形になる。この構図は慣れているはずが、恭子は彼の視線から逃れるように身を捩る。

 

「大体どうしたんですか、雨合羽なんか着て。今日は降水確率0%ですよ」

「ぶ、舞台衣装で出歩くんは嫌やし」

「ああ、恭子先輩の衣装、俺まだ見てないんですよね」

「見やんでええからっ。あんたこそこんなところでうろついててええんっ? 仕事あるんやろっ?」

「花田先輩から、恭子先輩を捕まえてこいって指示が出たんですよ。そろそろ来てもらないと困るんです」

「そ、そんならさっさと行くでっ」

 

京太郎を放って、恭子はずんずん歩き出す。真っ赤になっていると自覚する顔を、見られたくなかった。

自分でも子供染みた態度だと思うのに、京太郎は文句一つ言わず一歩後ろを着いてきてくれていた。背中がどうにも、むずがゆい。

 

 中央ステージが見えてきたところで、恭子ははたと思い出す。先ほどの、獅子原爽の言葉。

 

「なあ、京太郎」

「どうしました?」

「あんた、この間獅子原と何か話したん?」

 

 返事は、すぐに来なかった。

 不審に思って恭子が振り返ると、京太郎は頬を朱に染めて、顔を背けていた。煮えきれない態度と言うべきか、何かを誤魔化している様子と言うべきか。

 

 ――え、なにそれ、え、なにその反応、え、え、なに、どういうこと?

 

 その意味が分からず、恭子は戸惑うばかり。一方の京太郎は、

 

「ほ、ほら、時間もありませんし行きますよ!」

 

 恭子の追求よりも早く、さっさと歩き出してしまった。最早何かを隠しているのは疑う余地もないが、ショックの余り呼び止められない。

 

 ――なになになにっ、なにがあったん、なんやそれええええええっ!

 

 心の悲鳴は誰にも届かない。届くはずがなかった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

「大丈夫ですか?」

「ん、ん。問題あらへん」

 

 ステージの袖で青ざめる恭子に、煌は声をかける。責任感の強い恭子である、逃げ出すことはないと煌は信じていたが、ここまでプレッシャーを感じているとは思わなかった。こうなると煌も罪悪感を覚えてしまう。

 

「私からお願いしておいてなんですが、あまり無理はしないで下さいね」

「い、いや、違うねん。覚悟はできとるから。うん、心配あらへんから」

「はぁ」

 

 恭子の言葉を信じるなら――後の可能性は、彼絡みか。あっさりと煌は当たりをつけると、それ以上は何も言わなかった。――自分にはもうどうしようもない、須賀くん、ちゃんと責任を取って下さいね。そう祈る他ない。

 

「そろそろ恭子先輩の出番ですよ」

「ん……」

 

 ようやくレインコートを脱ぎ去って、恭子はステージに視線を向ける。その顔に、自信の二字はどこにもない。麻雀をしているときとは、まるで別人だ。

 全くこの人も、と煌は苦笑した。

 

「行って、くる」

「はい」

 

 既に幾人かのアイドル雀士が登場した壇上へと、恭子は登っていく。

 彼女の姿が衆目に晒された瞬間、わっと歓声が上がった。一番びっくりしたのは、恭子自身だったようだ。

 

 今日の彼女の衣装は、巫女装束がモチーフである。

 留袖の白衣の肩はぱっかり空けられ、白い肌が丸見えだ。袖露の色は桃で、可愛らしい。緋袴は――かつて永水女子の薄墨初美がそうしていたように――まるでミニスカートのように改造されており、裾には白のフリルが加えられている。少し動けば、ひらひらと舞いそうだ。足袋の丈はサイハイソックスのように長いが、ミニスカートのため太股ははっきり見えていた。当然と言うべきか、髪は赤いリボンでハーフアップにまとめている。

如何にして末原恭子を可愛く見せるか、煌が研究に研究を尽くした結果の一つであった。

 

「末原せんぱーい!」「可愛いーっ」「こっち向いてーっ」「きゃーっ!」

 

 観客席から黄色い声が飛び、なおも恭子は目を白黒させている。事態についていけていないようだった。

 

 そもそも、と煌は苦笑する。

 恭子の学内での知名度は、決して低くない。むしろ高いくらいだ。インカレ出場へと邁進していた姿勢、生みだした結果、不屈の意志、そしてふとしたときに見せる愛らしい表情。どれを取っても、「すばら」であろう。知らぬは本人ばかりで、下級生を中心に支持層は形成されているのだ。

 

「恭子先輩を出さない手なんて、初めからなかったんですよねぇ」

 

 しみじみと煌は呟いて、舞台であたふたと挨拶をする恭子を見守る。それから、自分の仕事も忘れて恭子に視線を奪われている京太郎も。

 

 実に、順調な滑り出しであった。

 このままいけば、企画は大成功で終わるだろう――煌のそんな目算とは裏腹に。

 まだ誰も気付かないまま、祭りの裏で悪意は蠢いていた。




あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。


昨年末は冬コミC91へサークル参加させて頂きました。
用意しました新刊は会場で完売となりました。本当にありがとうございました。通販分を、とも考えていましたができなくなりました……申し訳ありません。

代わりと言っては何ですが、今年の夏コミにも新刊を出したいと思っています。今度は最初から通販分も刷ります。受かればの話ですが)。
その他色々企画に参加したりと色々画策しているので、よろしければまたお願い致します。


愛縁航路の特別編ももう少しで終わりです。最後までお付き合い下されば幸いです。


巫女服はいいぞ。


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Ex2-5 アイドル雀士の神隠し

 大学祭、そして最強アイドル雀士決定戦は、最終日の朝まで大きなトラブルもなく進行した。恥ずかしい格好で人前で歌って踊って、さらには麻雀まで打って、恭子の疲労はピークであった。しかしあと一日、ここを乗り切れば平穏な日々が戻ってくる。そう自らを鼓舞し、恭子は大学まで辿り着く。

 

「おはよう、恭子! 今日も頑張ろうか!」

「……なんなん菫、めっちゃ元気やな」

「そうか? いやなに、意外とアイドルというのも悪くないと思ったまでだ」

 

 朝一番に出会したのは、弘世菫だった。開催前日は彼女も憂鬱で沈んでいたというのに、今は溌剌としている。

 

「瑞原はやりの見る目は正しかったっちゅうことか?」

「そこまではまだ分からないが……か、可愛い、と言われるのは思っていたよりも嬉しかったな、まあ」

「元々、あんたは格好いい言われるタイプやもんな」

「恭子だって似たようなものだろう。お前も随分声援を送られていたそうじゃないか、嬉しくなかったのか」

「慣れへんもんは慣れへん。菫が順応してるんが不思議なくらいや」

 

 大星淡に褒められたことがきっかけとは恭子も思いつかず、肩を竦めるばかりである。もしかするとアイドルになるコツがあるのかとも思ったが、結局はよそはよそ、うちはうちと割り切るしかないようだ。

 

「そう言えば」

「ん? どうしたん?」

「真屋由暉子とはもう打ったか」

 

 あの小柄であどけない少女と、それから獅子原爽の顔を同時に思い浮かべる。何を企んでいるか、油断のできない二人。訊ね返す声は、どこか硬質的なものになった。

 

「まだやけど。真屋が、どうかしたん?」

「なかなかの実力だった。大学リーグ戦の牌譜を見直したが、別人と思ったほうが良いな。この決定戦に期するものでもあるのかも知れないな」

「ふぅ……ん」

「油断だけはしないほうが良い。それだけだ」

「ん、あんがとな」

 

 恭子自身は最強アイドル雀士決定戦などに執着はないが、強い雀士と打てるというのなら滾るものがある。それに、真屋由暉子を通じて獅子原爽について何か掴めるかも知れない。

 ――そんな恭子の希望は通じず、事件は起きるのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 東帝大学大学祭最終日、午前十一時五十五分。

 最初に異変に気付いたのは、渋谷尭深だった。

 

「……菫先輩は?」

 

 お昼休憩を挟んですぐ、担当するステージに菫が立つ予定であった。事前調整を考えれば、そろそろ戻ってきて貰わないと困る。

 

「菫先輩、見なかった?」

「いえ、見てませんが」

「先ほど休憩で出たきりですね」

 

 周囲の担当者に質問しても、明瞭な返答は帰って来ない。携帯に電話をかけても、繋がらなかった。

 菫は自分の仕事を放棄する人間ではない。ましてやこの二日間で、アイドル活動にも目覚めたのだ――尭深からすると意外であったが――逃げ出す理由が見当たらない。

 

「どうかしたんですか」

「京太郎くん」

 

 こちらから何も言わずとも、声をかけてくれたのは京太郎だった。ほっと安心しながらも、万が一のことを考えれば予断は許されない。かいつまんで菫の不在を告げると、

 

「分かりました。道に迷ってるかも知れませんし、俺が探してきます。尭深先輩は煌先輩に連絡して下さい」

「うん、分かった。お願いするね」

 

 駆け出す京太郎の背中を見送ってから、尭深は携帯電話を取り出す。

 

「もしもし、煌ちゃん――」

『あ、尭深ちゃん? 私、宥だよ』

「宥先輩? でも、これ」

『うん、煌ちゃんの電話で間違ってないよ。煌ちゃん、今ちょっと手を離せなくて、代わりに私が。どうかした?』

「実は、菫先輩が――」

 

 京太郎にした説明をもう一度繰り返す。その間も菫や京太郎が帰ってくる気配はなく、尭深の中で焦りは募るばかりだった。

 さらに、予想外の事態が宥の口から語られる。

 

『そ、そっちもなんだ』

「そっちもって、どういうことですか?」

『こっちも、さっきから何人か行方不明なの。今煌ちゃんが探してて、でも一人も見つかってないの』

 

 尭深は眉を潜める。

 同時多発的に、アイドル雀士が消えた。そんな偶然があるだろうか。彼女たちが自発的に一斉ボイコットをする理由は見当たらないし、予兆もなかった。

 ならば、悪意ある人間の仕業。断定するには早いが、その可能性も考えて動かなくてはならない。

 

『捜索隊は煌ちゃんと京太郎くんに任せて、私たちはステージの進行を調整しよう。止めるのも続けるのも、判断する人が必要だから』

「……分かりました。こっちのステージは任せて下さい」

『うん。何か情報を掴んだらすぐに連絡してね』

 

 一旦、宥との通話が途切れる。動揺ばかりはしていられない。後輩たちが縋るような目でこちらを見つめている。先輩として、毅然とした態度を取らなくてはならない。

 ただ、菫の代役はそう簡単には見つからないだろう。予定を繰り上げて次のアイドル雀士に舞台に出て貰うしかないだろうが――

 

「あの、尭深先輩」

「どうしたの?」

「弘世さんだけじゃなくて、新子さんも帰って来ないんです」

「……っ」

 

 頼みの綱が、切られてしまう。最悪ステージの再開を遅らせるという選択肢もあるが、それは苦渋の決断だった。

 今日この舞台のために、どれだけの人が尽力してきたか、尭深はよく知っている。

 煌が、宥が、京太郎が、怜が、恭子が、後輩たちが、実行委員たちが、寝る間も惜しんで準備した場なのだ。そこに水を差され、観客たちが白けてしまうような展開は許したくなかった。アイドルにさほど興味のない尭深でも、強くそう思った。

 

 ――悔しい。

 

 麻雀以外で、こんな想いをするとは思わなかった。たかが文化祭の一催しと割り切るのは、困難だった。それでも決断しなくてはならないのは自分だ。尭深は意を決し顔を上げ、

 

「話は聞かせてもらったよ、たかみー!」

「あ、淡ちゃんっ?」

 

 不敵に笑う淡と、目が合った。いつの間に来ていたのか。

 

「ここは私に任せて!」

「ま、任せてって……」

「スーパーノヴァの淡ちゃんは大舞台に慣れてるからね!」

 

 彼女が手元で転がすのは、どこから取ってきたのか、ステージマイク。準備は万端だった。

 

「それに、スミレが楽しんでるのを見てやってみたかったんだよね!」

「本気……なの?」

「もちろん! 場つなぎでもなんでもやるよ! 大いに盛り上げちゃうよ! それとも、私じゃ不足?」

 

 挑発的な目で訊ねられるも、尭深は笑った。首をゆっくり横に振り、淡に向かってぺこりと頭を下げる。

 

「お願い、淡ちゃん。みんなが帰ってくるまで――」

「任された!」

 

 高らかな返事は、どこまでも心強かった。

 実際、淡は急な舞台にも問題なく対応した。どこで覚えたのか、歌ってよし踊ってよしトークも軽快だった。一年以上プロとして活動しているのは伊達ではない、ということか。

 

 ――それにしても。

 

 ステージ上に淡を送り、次なる一手を考えながら、尭深は胸に引っかかりを覚えていた。

 

――今の状況と似たような話を、どこかで聞いたような。

 

 大学祭。行方不明。既視感のある状況。そうだ。尭深は思い出す。

 恭子が話していた、東帝大学の七不思議。

 亡者たちが、学外の人間を攫ってしまうという与太話。

 

「……そんなオカルト、ありえないよね」

 

 尭深の呟く声は小さく、寒空に消えていく。

 今は、仲間たちを信じるしかできなかった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 休憩時間中に「現状」を聞かされた恭子は、獅子原爽の姿を探していた。

 

 ――私はプロデューサーだからね。もちろん、担当アイドルの成功が目的だよ。

 

 思い返すのは彼女の語り口。そしてその目的。彼女が大切にしている後輩――担当アイドル。

 確認したところ、真屋由暉子は今も無事らしい。拐かされた形跡はない。決定戦における彼女の戦績は、ここまでで上位に食い込んでいる。しかし、優勝候補には今一歩届かないと言ったところか。投票などでひっくり返る可能性は当然あるが、盤石にはほど遠い。菫といったダークホースの存在が現れたのもマイナス要因となっていた。

 

 もしも、彼女を勝たせるために獅子原爽が動いたのだとしたら。

 優勝候補たちを引きずり下ろすために、拐かしたのだとしたら。

 

 疑念は拭えない。恭子は知覚できないが、獅子原爽が不可思議な能力を有していることは知っている。それを使ったのだとしたら、一人でも犯行は可能ではないのか。

 

 大学祭で人口密度の高いキャンパスを、慣れない巫女装束で駆け巡る。人目を気にする余裕はなかった。

 

「あ、末原さん! ちょっと待って下さい!」

 

 道中で、馴染みのない女学生に呼び止められる。腕章を見るに、大学祭実行委員のようだった。こんな娘おったっけ、と疑問に思いながらも彼女に駆け寄る。

 

「どうしたん? なんかあった?」

「須賀さんがあっちで待ってます、用があるって」

「京太郎が……?」

「はい。こっちです、案内します」

 

 用事があるなら電話をかければ良いのに、と疑問に思いながらも、恭子は女学生の後を追う。

 ――違和感を覚えたのは、中央通りから離れ、人影がぱたりと消えてからだった。連れて来られたのは学舎の裏手で、祭りの喧噪が遠くに聞こえる。

 

「京太郎は――いや、あんた」

 

 女学生を前に、恭子は身構える。

 いなかった。実行委員の中に、こんな娘はいなかった。

 

「もしかして」

 

 だが、どこかで会った記憶はあった。まとわりつくような、嫌な思い出の中で。

 にやり、と女学生が――本当に女学生なのだろうか――笑う。その笑顔に、怖気が走った。

 

「んぐっ?」

 

 問いただすよりも先に、後ろから羽交い締めにされる。誰が、いつの間に――疑問に思いながらも、恭子はもがく。だが、彼女の腕力は全く通じない。鼻に押し当てられた布きれからは、嫌な匂いがした。

 

 ――助け、きょうたろ……っ!

 

 その叫びは、届かず。

 恭子の意識は、暗転するのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

『落ち着いて聞いて下さい』

 

 そう前置きして煌が語った話は、到底許容できるものではなかった。スマートフォンを握る手に、自然と力が込められる。煌の言うとおり、落ち着かなくてはならない。そう自戒しながらも、須賀京太郎は焦りを隠せなかった。

 

 恭子までもが、足取りをつかめなくなった。

 

 東帝大学の中で、そんなことは通常有り得ない。明らかに、何かが起こっている。警察に通報することも視野に入れる段階に入っていた。

 

「ばかか、俺は……!」

 

 激しい後悔が、湧き上がる。

 最初の異変の時点で、残るアイドル雀士の安全を最優先に動くべきだった。――もっと言えば、恭子たちの元に駆けつけるべきだった。恭子なら大丈夫、という慢心があったのは間違いない。あまりにも情けなかった。

 

「もしもし、怜さんっ? あ、あの――っ」

 

 私的な行動と分かりつつも、電話をかけた相手は怜だった。もう一人の東帝大学代表アイドル雀士。彼女も誘拐の対象かも知れない。

 

『きょーちゃん』

 

 電話に出てくれてほっと安心する一方――開口一番、怜は窘める声を発していた。

 

『慌てたらあかんで。大丈夫、こっちも事態は把握しとる。これ以上好きにはさせへんから』

「と、怜さん……」

『恭子はそう簡単に負けへん。でも、助けは必要やろうから。行ってあげて』

「……はい。でも、場所が。情報が、足りません」

『それなんやけどな。これは尭深さんから聞いたんやけど……京ちゃん、東帝の七不思議は知っとる?』

 

 かいつまんで話された内容は、学祭の間に行方不明者が出るというよくある怪談話だった。ただ、確かに状況は似通っている。

 

「亡霊の仕業……って言い出すわけじゃ、ありませんよね?」

『もちろんや。問題は、引きずり込まれるっちゅう地下通路のほうや』

「……もしかして」

『うん。実際、学祭の間は色んなところに人の目あるからな。何人も攫って隠そう思たら限られてくる。遠くにも連れていけんやろうし。――件の地下通路、可能性は高いと思うで』

「本当にあるんですか、その地下通路」

『さっき、後輩たちに確認してもろた。使われてない入口がいくつかあるみたいや』

 

 当たってみる、価値はある。

 正確には、縋る可能性はそれしかない。今いるところから一番近い入口を教えて貰い、京太郎は覚悟を決める。

 

「後のことはお願いします」

『ん。気ぃ付けてな』

 

 こういうとき、怜は止めずに背中を押してくれる。彼女自身が無茶を押し通す立場というのもあるだろうが、心強くて有り難かった。

 

『地下通路の話は、そんな有名と違う。もしもほんまに使ってるんやとしたら、犯人は――』

「すみません、怜さん」

 

 最後に一つ、付け加えようとした怜の声を遮る。そうせざるを、得なかった。

 

『……どうしたん?』

「また、後で話します」

 

 強引に通話を切り、京太郎は目の前に現れた人物と対峙する。

 

「お困りのようだね」

 

 パンツスーツ姿の彼女は――獅子原爽は不敵な笑みを浮かべ、悠然と構えていた。

 かつて彼女と交わした会話を思い出し、京太郎は唇を真一文字に引き結ぶ。緊張が、彼の身体を支配した。




次回更新予定:1月16日00時00分(最終回)


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Ex2-6 刻まれた名

 ゆっくりと、意識が覚醒していく。

 辺りは薄暗く、埃っぽい。鼻をつくのは、黴びた臭い。下は石畳なのか、ごつごつしていてお尻が痛い。

 

「ここは……」

「目を覚ましたか」

 

 隣からかけられた声は、聞き慣れたもの。

 はっと気が付いた恭子は、顔を上げた。すぐ傍にいたのは、エプロンドレス衣装に身を包んだ弘世菫だった。

 

「菫――んうっ」

「両手両脚、縛られてる。無理に動かないほうが良い」

 

 菫の言うとおりだった。荒縄で後ろ手に縛られ、足首もきつく締め上げられている。身動きを取るのは困難だった。せっかく作って貰った巫女装束も、あちこち汚れてしまっている。申し訳なさと悔しさで、歯噛みした。

 

「後ろを見てみろ」

 

 言われた通りに、首を回す。そこには後三名のアイドル雀士たちが、寝転がっていた。意識はないようだが、呼吸はしている。怪我もないようで、ひとまずはほっと安心するが、のほほんとしている状況ではない。

 

「また厄介な事態に巻き込まれたな。私も油断した、たぶん飲み物に盛られた」

「うん……ごめん、菫」

「どうして恭子が謝るんだ。ストーカーの仕業じゃないのか」

「その可能性もゼロやないけど……たぶん、犯人は」

 

 ようやく、目が暗闇に慣れてきた。部屋と言うよりは、廊下のように細い道の一角であった。

 直感的に思い当たったのは、東帝大学七不思議に出てくる亡霊が住まう地下通路。――まさか、ここがそうなのか。

 

少し離れた場所に、見張りなのだろう、長身の女が突っ立ってスマートフォンを弄っている。少なくとも、恭子の友人ではない。冗談でも、友人たちはこんな真似をしない。

 だが、

 

「たぶん、うちら絡みの事件や。菫たちは、巻き込まれたんやと思う」

「……どういうことだ?」

 

 確証はない。だが、自分に声をかけてきたあの女。そしてこの見張りの女もそうだ。――見覚えがあった。

 思い過ごしかと言うには、あまりに大きなひっかかり。無視できない、できるはずもない、忌まわしい記憶。

 

「あぁ、目が覚めた?」

 

 見張りの女が、近づいてくる。菫と共に、恭子は身構えた。縛られたままでは、ろくに抵抗できないのだが。

 

「あんたは……やっぱり……!」

「あら。覚えてたのね。説明の手間が省けるな」

 

 三年以上前、恭子が東帝大学に入学した頃。

 現在の麻雀部が恭子たちの手によって生まれる前、東帝大学麻雀部が古豪と呼ばれていた時代があった。

 しかし当時、麻雀部は袋小路に立たされていた。その状況を打開すべあく、取り立てられた雀士たち――彼ら彼女らは、文字通りあらゆる手を使った。

 その結果、麻雀部は事実上の廃部となった。恭子の艱難辛苦の大学生活の始まりでもあった。

 

「私たちのことなんか、すっかり忘れてると思ってた」

「あんたら、いまさらこんなとこ来て何の真似やっ」

「んー? 別に、大した理由じゃないけど。あんたたちは楽しそうに麻雀打って、大学祭楽しんでるのにさ。こっちは放校処分だよ? 不公平だと思わない?」

「それはあんたらがイカサマなんかしたからやろっ」

 

 恭子の言葉を聞いた女は――かつての先輩は、その瞳をぎらつかせる。恭子は臆することはなかったが、ばちんと頬を張られた。悲鳴は、意地でも上げなかった。

 

「……っ!」

「こっちだってねー、頼まれてやったんだよ。東帝の麻雀部を強くしてくれって。なのにこの仕打ちだよ。ちょーっと復讐したくなる気持ち、分からない?」

 

 分かるものか。口の中に広がる血の味を噛み締めながら、恭子は先輩を睨み付ける。彼女はわざとらしく肩を竦めて言った。

 

「抵抗さえしなきゃ取って食ったりはしないよ。とりあえず、あんたたちのイベントを潰せれば胸もすくってもんよ。そのくらいする権利、私たちにあるでしょう?」

「ふざけるな。こんなことしてただで済むと思っているのか。下手をしなくても警察沙汰だぞ」

 

 食い付いたのは、菫だった。恭子を庇うようにして前に出て、女と睨め付ける。しかし女は、からからと笑うばかりだ。

 

「別にこっちは失うものもないし。そういう連中ばっかりだよ、うちら。楽しそうなあんたたちに一泡吹かせられればそれで良いの」

 

 逆恨みもいいところだ。だが、女からは偏執的な狂気を感じる。まともな理屈が通じる相手ではないのは確かだった。元々公式大会でイカサマや恐喝にも抵抗のない連中なのだ。

 

 ――この人、ほんまにやばい……!

 

恭子は、麻雀部を潰した先輩たちのことを知っていたつもりだった。しかしながら、実際には付き合いはなかったも同然。何も知らなかった。こんな事態に発展する可能性に、至れなかった。

 

「じゃ、暫く静かにしててね。メンドくさいのは嫌だからさ」

 

 女は立ち上がって、踵を返す。

 そう簡単に、屈するわけにはいかなかった。――帰らねばならない。きっと今、後輩たちがイベントを上手く進行させるべく尽力していることだろう。彼女たちは、諦めが悪いのだ。ならば、端役とは言え、舞台に立つ身である。彼女たちに応えるため、元の場所に帰らなくてはならないのだ。

 何より、いつまでも心配をかけるわけにはいかない。

 

「恭子――」

「ん……!」

 

 先輩と話しながらも、恭子はどうにか縄を解けないか抵抗していた。菫の助けもあり、どうにか両脚を縛る縄を緩めることに成功した。

 

「このぉっ!」

「っ? なっ?」

 

 そのまま先輩に向かって体当たりする。不格好ながら、攻撃は成功した。押し倒して、その間に自分一人でも逃げ出せれば――という考えは、甘かった。

 

「きゃっ!」

 

 突如通路の奥から出てきた大柄の男に、逆に押し返されて尻餅をついてしまう。見張りがもう一人いたことまで、思い至らなかった。

 

「恭子っ!」

 

 菫の呼びかけが、遠くに聞こえる。

 見上げれば、怒りで顔をどす黒く染め上げた男と女がそこにいた。――ああ、これ、あかん。まずい。逃げようにも、腕の自由が利かず

 振りかぶられる腕。恐怖で目をぎゅっと閉じる。

 

 待ち構えていた衝撃は、いつまで経っても来なかった。

 代わりに、ずしん、と地面に何かが叩き付けられる音が聞こえた。

 

「あ――」

 

 ゆっくりと目を開いた先、そこにあった光景は、ずっと待ち望んでいたもの。

 恭子に襲いかかろうとしていた男が、逆に地面に叩き伏せられている。叩き伏せたのは――

 

「京太郎っ?」

「無事ですか先輩!」

 

 京太郎だった。再会に浸る余裕はなかったが、恭子は安堵の息を漏らす。――来てくれた。こんなどことも知れぬ場所に、助けに来てくれた。嬉しい、なんて一言で済ませられる

 

「大人しくしやがれ……っ! そっちも、動くなよっ」

 

 京太郎は男を組み伏せ、女の動きを牽制する。

 これで何とかなったか、と思いきや、

 

「残念だったね」

「な……どんだけ仲間おんねん……!」

 

 さらに奥からぞろぞろと、見知らぬ顔が現れる。京太郎も渋面を浮かべる。一人で立ち向かえる人数ではなかった。

 にやにや笑いを浮かべる女を、恭子は睨み付ける。足手まといと分かっていても、京太郎の背後に隠れるわけにはいかなかった。

 しかし、

 

「大丈夫です」

「え……?」

「手は、打ってますから」

 

 その内容を問うよりも早く――恭子は集団の後方に、彼女の姿を見つけた。

 

 

「獅子、原――?」

 

 

 獅子原爽。最強アイドル雀士決定戦の、真の企画者。

 まさか、やはり、あいつも――この連中と通じていたのか。目的は不明だが、まんまと口車に乗せられたというわけか。ぎり、と恭子は奥歯を噛み締める。

 だが、異変は次の瞬間起きた。

 

「ひゃああああっ?」

 

 奇妙な悲鳴が、同時多発的にあちこちで上がった。京太郎と恭子を取り囲んでいた人間が、次から次へと崩れ落ちて悶絶していく。

 

「な……なんなんっ? なんなんこれっ?」

「間一髪ってところかな。これで全員、みたいだね」

 

 悠然と歩み寄ってくるのは、獅子原爽だった。なおも身構える恭子だったが、

 

「ありがとうございます、助かりました」

 

 京太郎が、あっさりと警戒を解いていた。

 

「須賀くんが飛び出していったときはどうなることかと思ったよ」

「う……す、すみません」

「まあおかげで隠れてた連中も一斉に釣れたし、結果オーライだ」

 

 ようやく、恭子は事情を呑み込む。

 京太郎と爽は、二人で助けに来てくれたのだ。

 

「とりあえず、攫われた人たちを解放しないと」

「せ、せやな」

 

 両手を縛る縄も解いて貰い、菫たちを助け出す。代わりに、かつての先輩とその一味を縛り上げた。どういう力が働いているのか、彼女たちは全員恍惚の表情を浮かべて気絶していた。大学祭実行委員の面々もなだれ込んできて、ひとまずは一安心と言ったところか。

 

 捕まっていた他のアイドル雀士たちも全員発見し、皆目を覚ました。全員怪我一つなかったのが幸いであった。

 

「うちのせいや。ほんまごめん、みんな」

 

 恭子としては、彼女たちに頭を下げるしかない。だが当の菫たちは、

 

「そんなわけがあるか。第一お前も被害者だ。それよりも、まだイベントは続いているんだろう。さっさとここを出るぞ」

「せ、せやけど警察にも通報せんと……あんたらかて、こんな目に遭って大丈夫なん」

「後できちんと対応する。今ここでイベントに穴を空けられたら、困るのはお前たちだろう」

「そういうこと」

「気にしないで下さい」

 

 恭子は、何も言えなくなる。京太郎が先導する形で、先に菫たちが外に向かっていった。

 爽と二人残されて、恭子は気まずくなる。にこにこ笑う彼女の顔を、まともに見られやしない。

 

「……すまんかったな」

「なんでまた謝るの。背景は分かったけど、完全な逆恨みじゃん」

「いや、その。そっちじゃなくて。……あんたのこと、疑ってしもたから」

 

 きょとん、と爽は目を丸くする。その後、彼女は膝を叩いて笑った。

 

「私が人攫いだと思ったのか」

「あんた、担当アイドルを勝たせたいみたいなこと言うてたもんやから」

「確かに色んな手を尽くすのが私の仕事だけど――他人を引きずり下ろしての勝利に、価値なんてないだろ。ユキも、喜ぶわけがない」

 

 ぐうの音も出ない正論だった。恥ずかしくて穴があったら入りたい気分だった。

 

「頬、殴られたんでしょ? 大丈夫?」

「心配あらへん。うちの出番は、後は打つのと閉会式くらいしかあらへんし」

「でも、そんなに汚れてたら格好悪いぞ」

 

 爽は自分が汚れるのも厭わず、恭子の巫女装束から埃を払う。恭子はそれを止めかけたが、結局はされるがままだった。

 

「……なぁ」

「なに?」

「その……この間、きょうた……須賀と、何話したん?」

「ああ、そのこと」

 

 爽はどこか恥ずかしげに笑った。

 

「彼も中々の有名人だろ。ユキの応援を頼もうと思ったんだ。アイドル雀士決定戦で有利になれるようにね」

「……そういう手段は選ばへんのやな」

「ルールには反していないし」

 

 悪びれずそう言う爽に、恭子は胡乱げな眼差しを送る。だが、爽は全く気にしていない様子で、恭子のリボンを整えた。

 

「ま、あっさり断られちゃったんだけどね。報酬まで用意したんだけど、だめだった」

「え、そうなんや……なんでまた……?」

「そりゃあ――」

 

 答えようとしていた爽の口が、急に止まる。にんまり笑うと、彼女はぱっと恭子から距離を取った。

 

「はい、おしまい。私たちも行こうか」

「ちょ、ちょお待ち――!」

「待たない。後は本人に訊いたほうが良いよ」

 

 制止の声も届かず、さっさと爽は去って行く。大事な部分が聞けないままだった。

 ひとまずこの場は実行委員に任せて、恭子は爽の背中を追った。狭い地下通路を抜け、階段を登ると、待ち受けていたのは見慣れたキャンパスだった。既に陽は傾き始めている。

 

 ほっと一息吐く一方、爽の姿が見えない。

 代わりにすぐそこにいたのは、京太郎だった。どきりと、心臓が跳ねる。しかし、なにはなくとも最初にやっておかなくてはならないことがあった。

 

「ごめん、京太郎――っ」

「すみません、恭子先輩――っ」

 

 二人同時に頭を下げ合った。これまた二人同時に顔を上げ、視線がぶつかり、それから二人揃って笑ってしまった。

 

「とりあえず……行こか。煌ちゃんたちが待っとる」

「そうですね。こっちです」

 

 問題は山積みだ。今回のトラブルが表沙汰になったとき、批判が東帝大学麻雀部に向く可能性は充分にある。だが、そのときは自分が盾になろう。恭子は密かに決意する。

見方を変えれば、自分が卒業する前に、残された膿を出し尽くせたとも言えるのだ。そのためにもまずは、目の前の仕事を全うしようではないか。

 

 前を歩く京太郎の服は薄汚れ、よく見れば肌の見える箇所はあちこち擦りむいた跡があった。自分たちを――自分を探すため、どれだけ駆けずり回ったのだろう。どうして爽の申し出を断ったのか、気になってしまうが――今は、詰問などできなかった。ありがとな、と小声で呟くに留まった。

 

「……ん?」

 

 そんな恭子の目の前で、ひらりと一片の紙が舞った。京太郎のポケットから落ちてきたのだ。反射的にそれを拾い上げた恭子は、そんなつもりはなかったが、その中身を確認してしまった。

 

 それは、最強アイドル雀士決定戦・人気投票の投票用紙だった。既に、投票先の名前は書き込まれていた。

 書かれた名前を見て、恭子は――顔を真っ赤にして、その場から動けなくなってしまった。不審に気付いた京太郎が呼びかけるまで、ずっと固まっていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

「負けた負けた」

 

 どっぷりと陽は落ち、三日間続いた大学祭は先ほど閉会式を終えた。明日の朝からは後片付けが始まるが、今はそんなことは考えずゆっくり休みたいところだった。何しろここ数日、ろくに眠っていない。

 獅子原爽は、担当アイドルの真屋由暉子にペットボトルの水を手渡す。

 

「お疲れ、ユキ」

「すみません、先輩」

「なんで謝るんだ」

「あれだけお膳立てしてくれたのに、勝てませんでした」

 

 表情一つ変わらないが、項垂れる後輩は随分責任を感じているようだった。爽は彼女の頭を撫でながら、

 

「ユキは充分頑張ったよ。負けたとはいえ、立派に上位に食い込んだし。――敗因を挙げるとしたら、私の努力不足だ」

「いえ、そんなこと――」

「やっぱり、無理矢理にでも須賀京太郎を引っ張ってこられたらちょっとは違ったと思うんだよ」

「先輩が目につけていた、彼ですか」

 

 ああ、と爽は笑いながら頷く。彼が味方にいれば、風向きは大いに変わっただろう。それだけは、間違いないと言えた。

 

「カムイまで使ったのになー」

「どうして断られたんですか? 先輩なら言うこと聞かせるのも、難しくなかったのでは?」

「ユキは私をどう思ってるんだ……。まあ、アレはどうやったって無理だね」

 

 少し恥ずかしそうな声で、しかしすっぱりと返ってきた答えを、爽は思い返す。

 

 ――すみません、獅子原さん。その話、受けられません。

 ――なんで? 悪い話じゃないと思うんだけど。

 

 あのときの彼の顔は、忘れられない。

 

 

 ――俺、末原先輩推しなんです。

 

 

「全く、こっちが恥ずかしくなって言えないって」

 

 実に楽しげに、爽は肩を竦めるのだった。

 

 

 

                    Ep.Ex2 偶像競縁フェスティバル おわり




これにて愛縁航路、全編完結です。
番外編までお付き合い下さりありがとうございました。

今後はコミケ等々イベント含めて活動していきたいと思います。よろしくお願い致します。


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Ep.Ex3 夢見る者たちのデイリーゲーム
Ex.3-1 旧友、再戦、開戦


※本内容は、BGで大好評連載中の「怜-Toki-」コミックス未収録分のネタバレを含みます。


Q.なんで書いた?
A.大正義野上葉子ちゃんを書きたかった
Q.続くの?
A.一話完結です


下にも書いてますが、色々告知→ https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=152508&uid=96582

ちまちま書いてます→「試用期間は打ち切りで」https://novel.syosetu.org/119067/


 三月も半ばを過ぎて、園城寺怜は地元である大阪に帰ってきた。去年はこの時期、東京に引っ越すための準備でおおわらわだったことを覚えている。寂寥と期待を持って、新天地へと乗り込んだものだ。

 

 しかしあのとき、共にいてくれた彼は、今はいない。現在彼は、遠い地にて、彼の戦いをしている。嘆く暇などなかった。誰かに支えてもらってばかりでいた自分が、今度は誰かを支える番なのだと、そう思えたのだ。

 彼が何一つ憂うことなく、麻雀に打ち込むため。そして、仲間たちと共に自らの道を切り開くため――関東二部リーグに挑み、東帝大学麻雀部は、ついに一部リーグへの昇格を決めた。

 

 そうして迎えた春期休暇、その予定のほとんどが練習とアルバイトで埋められる中、合間を縫って怜は帰郷することにした。たまには親に顔を見せないと、心配をかけてしまう。元々、いざというときに彼がいるからこその上京でもあったのだ。自分一人でも――それどころか、猫みたいな娘の世話を焼きながらでも、きちんと生活できていることを報告せねばならない。

 

 もちろん、それだけが帰郷の理由ではない。

 

 かつての主治医との問診に、念のための検査を受ける。以前の病弱さは克服したとは言え、それでも人並みかと言われると、否と答えざるを得ない。これから夏にかけて、しっかりと体調を万全に整えておかなければならなかった。

 

 それから、もう一つ。

 

 病院を後にした怜は、その足で同じ敷地内の大学へと向かう。子供の頃に何度か訪れていたことがあったので、集合場所のカフェテリアまで迷いはしなかった。

 

「おったおった」

 

 軒先で、優雅に日傘を差す待ち人を見つけ、怜は口元を綻ばせる。

 ふんわりとして触り心地の良さそうな黒髪は、子供の頃から変わっていない。背筋をぴんと伸ばし、意識して凛とした佇まいを作っているところも同じだった。その癖、中身は意外と子供っぽいのが彼女――

 

「お待たせ、葉子」

 

 旧友、野上葉子だった。声をかけた彼女は、どこか好戦的にも見える笑みを浮かべて挨拶を返してくる。

 

「怜さん。お久しぶりです」

「せやなぁ。私が東京行く前に会ったんが最後やから、丸々一年くらいか。私に会えんくて寂しかった?」

「そ、そんなわけないでしょう! 大阪から貴女がいなくなってせいせいしていましたっ」

「なんや、傷付くなぁ。私は葉子にめっちゃ会いたかったのに」

「思ってもないこと言わないで下さい。……だったら、もっと帰って来ればいいのに」

 

 日傘を閉じながら、呆れたように葉子は怜を諭す。しかし当の怜は、葉子へとべたべたまとわりついて、

 

「もっと素直になればええのに。今時ツンデレは流行遅れやで」

「誰がツンデレですか! デレなんかありませ

ん! とにかく、行きますよっ」

 

 怜を振り払い、肩をいからせ葉子はカフェの中へ入っていく。そんな彼女の背中を、怜は目を細めて見つめる。

 葉子との出会いは、小学生時代まで遡る。

 我がことながら、当時の自分は何も持っていなかったと怜は思う。運動は苦手。勉強もぱっとしない。教室の隅で、クラスメイトたちが人集りを作るのを眺める日々。有り体に言えば、友達がいなかった。

 

 変化のきっかけは、清水谷竜華との出会い。麻雀との出会い。

 そして野上葉子は、彼女たちを介して出会った――初めてのライバルだと、言えよう。

 

「葉子のほうは最近調子どうなん? もう四年やったら、やっぱ就活とかするん?」

 

 運ばれてきたコーヒーにミルクを入れながら、何気なく怜が訊ねる。同い年ではあるが、怜が二浪しているのに対して、葉子はストレートで大学に進学している。その後留年したという話も聞いていないので、後一年すれば無事卒業と相成るだろう。しかし、葉子は首を横に振った。

 

「私、院に進学希望ですので。今しばらく大学で研究するつもりです」

「え、そうなんや。研究者って、えらい大変なんと違う?」

「一回生のときから研究室に出入りしてましたし、然るべき勉強は積んでいるつもりです。先日はイギリスへ学会発表まで行ってきました。卒論も八割ほどできあがっています」

「はやっ。まだ四年にもなってないやん」

 

 このくらいは普通です、と紅茶に口をつける葉子に驕る気配はなく、怜は感心する。元々怜は、麻雀をするために大学へ進学した。葉子とはそもそもの動機が違う。しかしながら、高い目標と実績を持つ彼女を、「先輩」として敬服せざるを得ない。

 

「にしても、イギリスかぁ」

「それがどうかしましたか?」

「や、葉子には言うてなかったけど、麻雀部の子ががイギリスに留学しとるんや」

「ああ、そうでしたか。私も向こうで、何人かの日本人留学生とお話させてもらいました。中々興味深かったですよ」

 

 うん? と怜は首を傾げる。心なしか葉子の口調が速まり、浮かべた表情は今まで彼女が見せたことのないもののように思えたからだ。だが、その疑問を口にするよりも早く、葉子は声を被せてくる。

 

「それで、今日怜さんをお呼び立てしたのも、私の研究に関わることなんです」

「ん、うん。それはメッセージでも聞いたけど、葉子の研究って何なん?」

「麻雀の研究ですよ」

 

 さらりと答える葉子に、怜は顔をしかめる。

 

「葉子って、数学科やったっけ?」

「専攻は違いますし、確率統計が中心の分野ではありません。私の研究テーマを簡潔に言えば、卓上のオカルティズムです」

 

 ほう、と怜は眉を上げる。これは、自分にも関わりのある内容と言えた。

 

「牌に愛された者と呼ばれる、特異能力者……それが、私の研究対象」

「よう言われる話やけど、ほんまにそんなん信じとるん?」

「貴女こそがその一例でしょう? 『一巡先を見る者』さん」

 

 怜は自身の能力を、周囲に吹聴していない。詳細を知る者は、仲間たちの一部に限られている。ただ、能力の一端は推察されている。それによって、「一巡先を見る者」という二つ名を与えられていた。半信半疑という見方もある中、しかし葉子は確信しているようだった。

 怜と葉子の視線が、ぶつかり合う。さほど長い時間ではなかった。先に目を伏せたのは、怜だった。

 

「葉子がオカルト信じとるとは思わんかったわ」

「多くの実例をこの身で体験しましたし、オカルトはオカルトで理論によって説明できます。いえ、説明するのが私の研究の一つなんです」

 

 思いも寄らなかった言葉だった。同時に怜は、葉子が自分よりもずっと大人なように感じた。同い年とは言っても、葉子は二年先輩だ。学徒として、先を進んでいる。賞賛と声援を送るべきところだろうが、ちょっとだけ悔しかった。

 

「貴女の能力について、教えて頂けませんか。もちろんプライバシーについては守ります。弱点など暴かれては今後の対局に影響することも秘匿します。論文に書いて欲しくないことは何も書かないと、誓いましょう。……いかがですか」

 

 少しだけ不安そうに、上目遣いで葉子が打診してくる。その様子がおかしくて、怜はくすりと笑ってしまった。

 

「そんな怖い顔せんでもええのに」

「では……!」

「珍しい葉子の頼みやもん。でも、その代わりこっちからも条件出させてもらうで」

「……怜さんが出す条件というのは、嫌な予感がしますね」

 

 失礼な、と怜は口を尖らせる。

 

「私を何やと思っとるんや」

「貴女は昔から突拍子もないことを言うじゃないですか。初めて出会った頃も……そう、いきなり麻雀で勝負なんて言い出して」

「あれは葉子が突っかかってきたからやん。りゅーかを巡って大変やったもん」

「ちがっ、もう、何を言い出すんですかっ」

 

 顔を真っ赤にする葉子を前に、怜はけらけらと笑う。しかし、彼女はすぐに目を細めた。

 

「でも、その通りや」

「は、え? その通り?」

「今から私と打ってもらえん?」

 

 突然の申し出に、葉子は困惑を隠せない。眉を顰め、怜の意図を測ろうとする。

 

「どうしたんですか、藪から棒に。今日はこのまま食事の予定でしたでしょう」

「そこを曲げて欲しいんやって。あかん?」

「だめなわけではないですが……」

 

 僅かばかりの逡巡を見せてから、葉子は口惜しそうに言った。

 

「今の怜さんの実力を考えれば、いまさら私と打つメリットが思い当たりません」

「何? 自信ないん?」

「そ、そんなわけがないでしょう! 第一線を引いたとは言え、易々と負けるほど錆び付いてはいません!」

「うん。そうこやんかったら、葉子と違うな」

 

 怜は満足気に頷き、対する葉子は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。安い挑発に乗ってしまったと後悔するが、もう遅い。

 

「――メリット云々やなくてな」

 

 ただ怜は、それ以上軽口は叩かず、どこか懐かしげに口を開いた。

 

「覚えとる? 私たちが初めて打った日のこと」

「……忘れるものですか」

 

 ぶっきらぼうに呟く葉子の頬は、赤い。その様を、怜は笑えなかった。自分で思い出してみても、恥ずかしい過去だ。売り言葉に買い言葉の、子供の喧嘩――その結果、竜華を巡って麻雀で白黒つけることになったのだ。

 

「あんときの決着、ちゃんと着けたいんや」

「あれは……怜さんの勝ちでしょう。トップは竜華さんでしたけど」

「その竜華が味方やったから、私は勝てたんや。ほんまなら、たぶん葉子に負けとったと思う。それに、竜華がトップかっさらってったから不完全燃焼やったんやろ」

 

 悔しさを滲ませながら、怜は当時を振り返る。何も分かっていなかった頃、麻雀を始めたばかりの素人の頃。あのときは、こんなところまで辿り着くとは露ほども思っていなかった。

 けれども、大切な原点だ。麻雀にのめり込んでいく、転機だったのだ。

 

「これから、その竜華とも戦っていかなあかんから――」

 

 麻雀は、怜に多くのものをもたらした。親友、仲間、ライバル、好きな人。だからこそ、中途半端は許されない。中途半端にしたくない。

 

「心残りとは、全部ケリつけなあかんって思た。……今の立派な葉子を見とったら、なおさらそう思えたんや」

「……言うほど、立派ではありませんよ」

「そう?」

「ええ。だって、今の怜さんを叩き潰して踏ん切りなんか着けさせてなるものか、って思ってますから」

 

 一瞬、怜は目を瞬かせ――大いに笑った。普段ならはしたない、とたしなめるであろう葉子も、一緒になって笑っていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「あー、疲れたわー」

「それはこちらの台詞です……」

 

 電車の中で、ぐったりと椅子に背中を預ける怜と葉子。車窓の外は、すっかり暗くなっている。

 結局二人は、半荘一回などで満足せず、精魂尽き果てるまで打ち続けた。当初の目的など、途中で頭から消えていた。

 勝負が終わってからも、場所をファミレスに移して対局内容について意見をぶつけあった。アルコールも入ったおかげで、ヒートアップした議論は止まることはなかった。

 

「なんか終始麻雀のことばっかりやったな」

「そうですね……折角の機会ですから、怜さんの大学生活についても聞きたかったのですけど」

「んー? 今は麻雀漬けの生活やから、そんなに面白いこともないで。プライベートは無味乾燥。まあ、最近はご近所さんの金毛の猫に餌上げたりしとるけど」

「ペットでも飼いだしたんですか? それにしても無味乾燥って、一緒に進学したという男性はどうしたんですか。私はお会いしたことはありませんが、もしかしして別れ……」

「別れとらんから」

 

 癪なので、付き合ってもいないけど、とは言わなかった。

 

「ほら、昼間話した留学してった子。それが彼なんや」

「なるほど……怜さんも苦労してるんですね」

「なーんか引っかかる言い方やな。あんたは浮いた話もないん? 研究ばっかりの生活なん?」

 

 それほど、深い意味を込めた質問ではなかった。

 葉子がさっと、顔を逸らす。僅かに頬が、朱に染まっていた。昼間にも垣間見た変化だ。それに食いつかない怜ではなかった。

 

「なになに~? 葉子にもついに春が訪れたん?」

「そ、そういうわけでは……」

「じゃあなんなん? 好きな人でもできたん?」

「ぅ……」

 

 図星のようだった。これを追求しない手はない。隣に座る葉子の顔を、のぞき込む。

 

「もっと早く言ってもらわな。誰? 大学の人?」

「い、いえ……先日海外の学会に行ったときに出会った人です。道に迷っていたところを、助けてくれて」

「てことは外国の人?」

「ああ、そうではなく……日本人で、留学中だとおっしゃっていました」

 

 はぁ、と怜は曖昧な返事をする。――なんだろう。とてつもなく、嫌な予感がした。一方の葉子は、怜の不安をよそに語り口が速まっていく。恥じらいながらも、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。

 

「彼も麻雀を打つということで、話が盛り上がり、そうですね。連絡先を交換しあって、話している内に……って、何を言わせるんですかっ」

 

 などと言う割には、葉子の頬は緩んでいる。しかし怜は、笑えなかった。海外。留学生。麻雀。たまたま、と切って捨てることができない。

 

「なあ、葉子」

「はい? なんですか?」

 

 何よりも――彼のことである。

 

「そいつの写真とか持ってないん? ほら、大切な友達のことやもん。気になって気になって仕方ないんや」

「そ、そこまで言われたら見せない訳にはいかないじゃないですか……むむ……はい、これです」

 

 差し出された葉子のスマートフォン。その画面には、葉子と並んで立つ、すらりとした長身の青年が映っていた。

 

「……ふふふ」

 

 怜の口から、笑みが自然とこぼれていた。湧き上がる感情とは、まるで違うはずなのに。

 

「怜さん、どうしました?」

 

 訝しげに訊ねてくる葉子には申し訳ないが、きちんと返事ができない。ああ、彼女は何も悪くない。もっと言えば、誰も悪くないだろう。

 

 ――しかし。

 溢れ出んとするこの想いを、怜は止める手段を持たなかった。

 

「それじゃあ、私はここで」

 

 電車が止まり、怜が席を立つ。

 

「は、はい。お気をつけて」

「うん、またな、葉子」

 

 若干のぎこちなさを残しながら、葉子と別れを告げ、車両を降りる。そのまま改札へと向かう――前に。

 

 怜は、自らのスマートフォンを取り出した。

 

 手慣れた手つきで、通話履歴を開く。その中にある、一番頻繁にやりとりする異性の名前を見つけると、彼女はそれを力強くタップした。国際電話の通話料金など知ったことではなく、遠慮なく、容赦なくコールした。

 

 その後の会話は、彼女たちしか知らない。

 

 

 

                           旧友、再戦、開戦 おわり




色々告知↓(活動報告でも同内容を書いています)

夏コミ(C92)受かりました。
配置は8月12日(土)東地区"ツ"ブロック-47aです。
頒布予定は、

○「ひとりぼっちの山姫は」の加筆修正版文庫本(当社比130%)。
 えみたすせんせいさんによるフルカラー表紙と挿絵付き。Web版にワンエピソード加筆し、真EDを迎えます。会場限定で先着で何かペーパーつけたいと思いますが、予定は未定です。えみたすせんせいさんの淡く綺麗な絵がもうやばくて制作途中ですが既に私は何度も殺されています。
○「TogetheR」コピ本
 作画:おらんだ15さん、原案:TTPによる怜竜の掌編漫画。愛縁航路で挿絵を描いて下さったおらんだ15さんによる漫画です。自分も関わって手前味噌になりますが、少なくとも作画は超作画です。会場限定。
○「愛縁航路 特別短編 Ep.Ex4 不離不可分のグラデュエイション」 ペーパーorコピ本
 愛縁航路の短編です。表紙絵をおらんだ15さんが描いて下さります(予定)。会場限定。
○他委託など。

最新情報やサンプルなどはtwitter→@ttp1515で報告いたします。

もしも手にとって頂けるなら幸いです。
以上、よろしく御願い致します。


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Ex.3-2 松実家シスターズウォーリターンズ

Q.何故書いた?
A.阿知賀編実写化おめでとうございます。

冬コミの連絡とか諸々↓
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=166251&uid=96582


 冷え込んだ山の空気を頬で感じながら、松実玄はうっすらと雪が積もった坂を上る。時刻は昼過ぎ、今日一番気温が上昇する時間帯にも関わらず、彼女が吐く息は見るだけで凍えるような白さを伴っている。コートを着込んでいるとは言え、すぐにでも屋内に入りたいと思うのが人情だろう。

 

 しかし玄は、慌てることなく、ゆっくりと歩いて行く。地元の雰囲気をじっくり味わいたかった。

 何せ、久方ぶりの帰郷なのだ。

 年の瀬が迫った十二月三十日――玄の通う大学はとうに冬期休暇に入っていたが、麻雀部の練習に最後まで参加したおかげで、こんなぎりぎりの帰省になった。彼女にとっては来年のインカレが最後のチャンスになるため、ついつい気合が入ってしまったのだ。

 

 ただ、帰らないという選択肢はなかった。

 何故なら、大好きな姉帰省しているのだから。

 

 卓を囲めばライバルだが、普段は慕い大切にしている姉なのだ。彼女が大学に進学して以来、離れて過ごした時間のほうが長い。このような帰省の時期か、大会会場くらいでしかまみえることはなかった。再会を想像すれば、自然と足取りが軽くなる。

 

「ただいまー」

 

 実家である旅館、その裏口から帰宅する。父親は仕事中だろうが、姉は一足先に帰っているという連絡は受けている。玄には確信があった。姉は、居間にいると。理由は簡単。そこには、こたつがあるのだ。

松実家のこたつは、基本的に一年中出ずっぱりである。その中に姉がこもりっきりになるためだ。暑い夏でも関係なく、今日のような寒い冬の日ならばなおさらだ。

 

「おねーちゃん――あっ」

 

 スリッパを脱いで居間に入った瞬間、玄は自らの手で口を塞いだ。こたつを挟んで向こう側、こたつ布団がこんもりと膨らんでいる。呼びかけても反応はなく、眠っているようだ。起こすのも忍びないので、ちょっと残念だが、ひとまず玄はそっとしておこうと決めた。

 ただ突っ立って待つのも時間が勿体ないので、玄は部屋着に着替えることにする。同じ部屋の中にある箪笥から服を引っ張り出し、コートを脱ぐ。さらにカーディガン、続いてシャツのボタンも外す。

 そのタイミングで、こたつ布団がもぞもぞと蠢いた。

 

「あ、おねーちゃん」

 

 脱いだシャツを片手に、玄はそちらの方向に振り向く。

 

「あっ」

「えっ」

 

 そこで目が合ったのは――姉ではなかった。

 見覚えのある男の子。見覚えしかない男の子。

 

 須賀京太郎。姉の後輩。

 

彼が上半身だけ起こして、寝ぼけ眼を擦っている。しかし、間違いなく彼の視線は玄の体を捉えていた。

 

「須賀……くん?」

「玄……さん?」

「――ッ!」

 

 瞬間的に、玄の顔は赤面する。悲鳴を上げることもできず、ぱくぱくと口を開閉させる。一方の京太郎も、口の端を引き攣らせ、しかし言葉を発せずにいた。明らかに混乱しており、状況を飲み込めていない。

 松実玄、須賀京太郎両名の間に、かつてない緊張が走る。だが、どちらも動けない。動かない。

 

「京太郎くん、お茶入ったよぉ」

 

 彼女たちの沈黙を切り裂いたのは、のんびりとした声だった。

 二つの湯飲みとお茶請けを載せたお盆を持って、居間に入って来たのは、玄が会いたいと願っていた姉――松実宥その人だった。室内でも相変わらずの厚着で、しかし、マフラーだけは外している。

 穏やかな笑顔を浮かべていた宥だったが――その笑顔が、固まる。

 

「く、玄ちゃん……? 京太郎くん……?」

「ち、違っ!」

「こ、これはですね――!」

 

 そこからの、混乱の嵐は言うまでもない。

 涙目になって着替える玄。とにかく謝り続ける京太郎。そんな彼の目を塞ぐ宥。彼女たちが冷静さを取り戻すまでに、三十分以上の時間を要した。

 

 ようやく落ち着いた三人は、こたつを取り囲んで座る。気まずい空気が流れる部屋の中、最初に口を開いたのは玄だった。

 

「ど、どうして須賀くんがうちにいるの?」

 

 放たれた疑問は、至極当然のものだった。そして自分で訊ねてから、はっと気付く。

 

「もしかして、おねーちゃん、須賀くんと――」

「ち、違うよぉ!」

 

 慌てて妹の言葉を遮る宥。しかし宥は、こたつの中で指をもじもじさせながら赤面し、

 

「わ、私が連れてきたのは事実だけど……」

「須賀くんっ?」

「違いますっ、いやそうですけど違いますっ!」

 

 玄に凄まれ、京太郎は首をぶんぶん横に振る。

 それから玄は、二人から一連の流れの説明を受けた。

 まず京太郎も、当初は実家に帰省する予定であったという。しかし、実家を急遽リフォームすることになり、両親から「お前の寝るところがない」と帰省を拒否されてしまう。仕方なく下宿先で年越しをするつもりでいたところ――

 

「お酒に酔った勢いで、おねーちゃんが連れてきちゃったと」

「ひ、一人は京太郎くんも寂しいかと思って。うちに来るときは合宿ばかりでゆっくりしてもらったこともなかったし」

「俺も流されてしまったというか、ノリで来てしまったというか……すみません、玄さん」

「それは須賀くんが謝ることじゃないよ、おねーちゃんが無理を言ったんでしょ?」

 

 お酒が入った姉が、妙な強引さを発揮するのは玄も知っていた。しかしここまでしでかすとは思わなかった。うう、と縮こまる姉にある意味感心していた玄へ、京太郎が再び頭を下げる。

 

「とにかく、さっきはすみませんでした。こたつに入ってたら、つい眠ってしまって」

「き、気にしないで欲しいのです、私も不注意だったから」

 

 と言いつつも、先程の状況を思い出し、玄は顔が熱くなるのを自覚する。それを見た京太郎は居心地悪そうに、

 

「やっぱり俺、別の宿に泊まります」

 

 と、切り出した。しかし宥は首を横に振る。

 

「この時期、どこも一杯だから」

「え、じゃ、じゃあ、ネカフェでも探して」

「この辺りにネカフェはないね」

「だったら街に出て――」

 

 京太郎の声は、途中で途切れる。玄が指差した先、窓の外の光景は、いつの間にか吹雪いて真っ白になっていた。この状況で、土地勘もない彼が吉野の山を下りようというのは危険である。

 

「私は本当に気にしないから、ね?」

「……すみません、ありがとうございます」

 

 項垂れる京太郎に、玄は微笑みかける。初めから放り出す気はなかったし、姉を思えば無碍に扱うことはでいない。ただ、先程の事件を全く気にしていないと言えば嘘になった。もちろんそれを、この場で包み隠さず喋ることはできない。できるはずがない。だって、この場には姉もいるのだから。

 

 玄の認可も下り、当初の予定通り、京太郎は松実館に宿泊する運びとなった。ただし、その日と翌日の夕刻までは実家の手伝いに追われ、玄は京太郎とまともに話をする時間もなかった。無論、彼は姉のお客様。宥が相手をするのは当然の流れである。

 だが、しかし、玄も彼と話をしたかった。しなければならなかったのだ。

 

 そして迎えた大晦日の夜。

 

「初詣に行くのです!」

「ふえぇ……」

 

 鼻息を荒くして、玄はこたつむりと化した姉を引っ張り出す。初めから予定していたことなので、拒否権を与えるつもりはなかった。

 これでもかというくらい重ね着し、ニット帽にマスクとメガネまで装備した宥に、色気はかけらもない。須賀くんも同行するというのにこれで良いのだろうか――と妹ながらに心配するものの、当の京太郎が気にする素振りはなかった。どうやら彼も、すっかり慣れてしまったようだ。

 

 雪道を玄が先導し、初詣に向かうのは、当然新子神社である。

 

「あ、玄、宥さん。こんばんは」

「灼ちゃん! こんばんは、久しぶりだね!

 

 その道すがら、再会したのは阿知賀女子時代の盟友、鷺森灼だった。のっぺりとした表情に、おかっぱ頭とトレードマークのネクタイはいずれも、当時から変わっていない。

 

「と、君は……須賀くん?」

「お久しぶりです、鷺森さん」

 

 姉妹の後ろを歩く京太郎に気付き、二人は頭を下げ合う。玄がことのあらましを説明すると、若干戸惑いを見せるも、すぐに受け入れた。

 

「阿知賀の同窓会にお邪魔することになってすみません」

「気にしなくても良い……全く知らない相手でもないし」

 

 まぁ、と灼は松実姉妹を一瞥し、それから中空を仰いで、

 

「大変なのは君だろうし」

「え?」

「こっちの話」

 

 さくさくと雪を踏み分け、灼は前を歩いていく。首を傾げる京太郎から、玄は目を背けてしまった。

 

 灼を加えた一同は、階段を上り新子神社の境内へと到着する。

 

 境内は、それなりの参拝客で溢れていた。はぐれないようにするため、玄は一塊になろうとぎゅっと身を寄せる――隣にいるのが姉のつもりで。しかし宥は、いつの間にか遙か前方で灼とお喋りに興じており、くっついたのは京太郎だった。

 

「ひぅっ?」

「え、く、玄さん? どうかしました?」

「な、なんでもないのです」

 

 変な悲鳴が出てしまった。顔が熱い。昨日の一幕がフラッシュバックする。さらに思い返すのは、一年以上前、ベッドの上で向き合った日のこと。――ああ、どうして今更。

 頭の中で思考がぐるぐると渦巻き、混乱と羞恥が極限に達する頃、

 

「あ、宥姉、灼! 久しぶり~」

「お久しぶりです!」

 

 新たに二人の女性の声が、耳に届いた。

 はっとなって玄が顔を上げると、そこにいたのは巫女服に身を包んだかつての戦友。

 一人は、この新子神社の末子、新子憧。

 もう一人は、現在麻雀プロで活躍している高鴨穏乃だった。

 

「わぁ、今日はお手伝い? 穏乃ちゃんも? 似合ってるよぉ」

「まぁ、たまに帰ってきたときくらいはね」

「へへへ、ありがとうございます」

「元気そうで何より」

 

 宥と灼が駆け寄り、仲睦まじく挨拶を交わす。一歩出遅れてしまった玄は、遠巻きに彼女たちを見つめることになった。

 

「俺も挨拶してきますね」

「あ、うん」

 

 同じく隣に立っていた京太郎が、彼女たちに近づこうとする。玄にそれを止める手段はない。――いや、本来なら止める必要なんてないはず。一緒に行けば良いのだから。

 しかし玄は、できなかった。躊躇い立ち止まっている内に、

 

「きゃっ」

 

 人波に押され、すっころんでしまう。

 

「大丈夫ですか、玄さん」

「あ、ありがとう」

 

 慌てて戻ってきた京太郎に抱き起こされる。だが、

 

「痛っ……」

「どこか打ちました?」

「足首がちょっと」

 

 もしかしたら捻ってしまったかも知れない。んなときに、と焦りが募る。しかもここにきて、人の数がどっと増えた。

 小柄な姉たちの姿は、すぐに見えなくなってしまう。探すのもままならない。

 

「一旦、もう少し広いところに避難しましょうか。このままだと合流も厳しそうですし」

「そう、だね。そうしようか」

「それじゃ、掴まって下さい」

「……う、うん」

 

 肩を貸して貰い、玄たちはひとまず人波に流されて進む。境内の外れまで進み、充分休めるスペースを発見する。ひとまず玄は手すりに寄りかかり、一息つくことにした。

 

「ごめんね、迷惑かけて。まだ憧ちゃんや穏乃ちゃんにもまだ挨拶できてなかったのに」

「いえ、このくらいどうってことないですよ。いつもと似たようなもんです」

「いつも……」

 

 くちごもり、玄は過去を振り返る。

 京太郎が大学に入学した直後、姉を取り返そうと喧嘩をふっかけた。その夏には、姉との関係に混乱をもたらしてしまった。今彼が言った「いつも」は別の案件なのだろうが、冷静に考えるといつも迷惑をかけてしまっているのは自分ではないだろうか――玄がそう思い込んでしまうのは、致し方ない流れだったのかも知れない。

 

「玄さん? どうしました? もしかして、足痛いんですか?」

 

 黙り込んだ玄を気遣い、京太郎が声をかける。しかし玄は首を横に振って、否を示した。

 

「須賀くん」

「なんですか?」

「私、今までのこと、全部責任とるね」

「へっ? い、いきなりなんですか?」

「だから――須賀くんも責任とって」

「え、えぇええっ? 責任っ?」

 

 いきなり何を言い出すのか――と、京太郎が混乱するのも無理のない流れだった。しかし玄は至って真面目な口調で、言った。言い切った。

 

「昔、おかーさんに言われたの。男の人に肌を見られたのなら、絶対に責任を取ってもらうこと――それが松実家の習わしなんだって」

「はぁああぁーっ?」

 

 絶叫、そして絶句。だが玄は、京太郎から視線を外さない。頬を朱に染めながら、恥ずかしさを堪えながら、続ける。

 

「昨日、須賀くん、見たよね?」

「う、あ、そ、それは……」

「見たよね?」

「…………………………は、はぃ」

 

 か細い声で、京太郎は肯定する。彼の顔も、既に真っ赤だった。

 ――ああ、おかーさん。

 言おうか言うまいか、ずっと悩んでいたことを口にし、すっきりした。相手は「あの」須賀京太郎。だが、母親の言いつけを破るわけにはいかなかった――それが、言い訳と自覚しながら。

 だが、しかし。

 

「く、玄ちゃん……」

 

 話はこれで決着、といくわけがない。

 はっと振り返ると、そこに立っていたのは姉、松実宥。メガネとマスクのせいでまともに顔は見られないが、そこは姉妹、動揺を敏感に感じ取る。

 

「おねーちゃんっ?」

「ゆ、宥さんっ」

 

 いつの間にか詰まっていた京太郎との距離を開き、狼狽える玄。そんな彼女へ、

 

「今言ってたことって、ほ、ほんとう……?」

 

 ぷるぷると震えながら、宥が訊ねる。

 

「今言ってたこと、って?」

「お母さんが、言っていたこと……」

 

 こっくりと頷いて、玄は答える。がーん、と音が聞こえてくるくらいに分かりやすくショックを受ける宥だったが、彼女は返す刀でさらに爆弾を投下した。

 

「だ、だったら……私も、京太郎くんに責任を取って貰わなくちゃ……」

「えぇーっ?」

「はぁーっ?」

 

 玄と京太郎の悲鳴が重なる。混乱する彼女たちをよそに、宥は訥々と語り始める。

 

「ほ、ほら、この間の文化祭で、私が部室で着替えてたら、京太郎くんが入ってきて……」

「あ、あぁ~」

 

 思い当たる節があったのか、京太郎が納得するような呻き声を上げる。

 ――つまるところ。

 なるほど、と玄は理解する。彼は、私たち姉妹二人に対して責任を取らねばならない。自分一人だけなら、引け目があった。罪悪感があった。

 だが、これなら。この状況なら。

 

「おねーちゃん!」

「う、うん!」

 

 さささ、と宥が駆け寄る。寒空の下、マスクとメガネを取り去った宥は、妹と共に京太郎に詰め寄った。

 

「責任、取って下さい!」

 

 姉妹の声が重なり、京太郎は頬をひきつらせる。――彼一人、状況の推移についていけていなかった。

 

「あ、こんなところにいたー!」

「相変わらずみんなといると忙し……」

「あ、あれ、す、すすすす須賀くんっ?」

 

 さらに他の阿知賀の面々まで現れ、いよいよ収集がつかなくなる。

 

「ねぇ、須賀くんっ」

「きょ、京太郎くん……っ」

 

 詰め寄って来る姉妹を前に、遠く響く除夜の鐘を耳にしながら、京太郎は彼女たちの説得を始めるのだった。通じたかどうかは、本人たちのみが知る。

 

                   松実家シスターズウォーリターンズ おわり




冬コミ当選しました。配置は
12/30(二日目)東に26b
です。

今回は完全新作書き下ろし文庫小説を新刊で出す予定です。
内容はざっくり言うと京照です(タイトル未定)。
表紙・挿絵は愛縁航路などの挿絵も担当して下さったおらんだ15さん。
その他既刊持ち込み・おらんだ15さんの新刊の委託など受ける予定です。

また、夏コミの「ひとりぼっちの山姫は」をとらのあな様にて委託しております。
http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0030/56/64/040030566403.html

よろしくお願い致します。


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Ex.3-3 不離不可分のグラデュエイション

C92で頒布したコピ本を一部修正したお話になります。


 最後の段ボール箱の口をガムテープで封じてから、末原恭子はふう、と一息ついた。立ち上がって、背中をぐっと伸ばす。程良い疲労感が、体を包んでいた。

 見回せば、自室はすっかり殺風景になっていた。ベッドやテーブル、電化製品といった重量物も全て処分し終わり、入居当初に見たきりだったフローリングの床が顔を覗かせている。

 

 高校を卒業し、東帝大学に進学してから丸四年。その時間の分だけ、この部屋で過ごしてきた。一人で黙々と課題をこなす日があった。大学の友人、麻雀部の部員、たまに高校時代の知人を部屋に呼び、騒がしく過ごす日もあった。全てが、まるで昨日のことのように思い出せる。初めての一人暮らしということもあり、実家の自室よりも思い入れが深くなっていた。だが、この部屋との付き合いも今日までだ。

 

「早かったな」

 

 ぽつりと呟いた独り言は、段ボール箱だけの部屋に、思った以上に響き渡った。

 

 ――明日をもって、恭子は東帝大学を卒業する。

 

 時間通りにやってきた引っ越し業者に荷物を預け、いよいよ部屋の中は空っぽになる。残されたのは、最低限の生活用品を詰めた鞄一つのみ。

 

 後は明日の卒業式を待つのみ――ではあるが、布団も枕も目覚まし時計も片づけてしまった。この部屋で眠るのは、かなり難易度が高い。かと言って、徹夜して式に臨むのもはばかられた。実家は遙か遠く大阪の地、着付けの都合もあって帰京に間に合わない。

 

 故に恭子は、一晩の宿を外に求めた。

 

 大家に鍵を返し、最後の挨拶を終えてから、目的地へと移動する。最初は、ビジネスホテルに一泊するつもりだった。しかし、それは後輩たちに却下されることになった。

 

 訪れたのは、ここ二年で最早見慣れてしまったアパート。予定時刻よりも早く、階段の下で待っていたのは同級生の松実宥だった。いつもの厚着とマフラー、そして手に提げているのは旅行鞄だ。

 

「お待たせ、宥ちゃん」

「ううん、私も今来たところだから」

 

 宥は微笑んで首を振り、「行こっか」と恭子を促した。一段一段、階段を踏みしめるようにして二人は上る。彼女たちの付き合いも、既に四年。ややぶっきらぼうなきらいがある恭子と、元来人見知りをする性質の宥――それでも二人は、顔を合わせれば会話の弾む仲となった。

 

 だというのに、今日はどちらも口を開かない。開けない。恭子はちら、と宥の横顔を盗み見したが、その表情はどこか暗い。それでも恭子は、何も言えなかった。

 

 目的の部屋の前まで着いて、チャイムを鳴らす。どたばたと足音を立てて、玄関口まで駆け寄って扉を開けたのは、

 

「いらっしゃーい!」

 

 部屋の主――ではなく、きらめく金髪をたなびかせる麻雀プロ、大星淡だった。

 

「……うちら、部屋間違えとらへんよな?」

 

 わざとらしく部屋番号を確認しようとする恭子の腕を、淡が引っ掴む。

 

「待って待って! 間違ってなーい!」

「あんたの部屋は二つ向こうやん」

「そうだけど! おじゃましてるの!」

「じゃまするなら帰ってー」

「もう! キョーコの意地悪!」

 

 ぷんすこ怒る淡の頭を撫でて、恭子は朗らかに笑った。

 

「何しとるん、宥さんが後ろで困っとるやん」

 

 じゃれ合う二人に声をかけたのは、奥から姿を現れた真の部屋の主、園城寺怜だった。昨冬よりもさらに髪を伸ばし、毛先が背中ほどにまで届いている。二年前に再会したときと比べ、彼女もどんどん変化している。外面も、内面も。

 

「遊んどらんで、はよいらっしゃい。準備はもうだいたいできとるから」

「ん、じゃまするで」

「おじゃまします」

 

 宥に背中を押され、淡に手を引かれて、恭子は怜の部屋に足を踏み入れる。彼女の部屋は、久しぶりだ。麻雀部員で集まるのは部室か恭子の部屋であったし、恭子が引退してからはその頻度もぐっと減っていた。

 狭い玄関には、予定されていた人数分の靴が置かれている。全員、既に集まっているのだろう――恭子と宥は、遅い集合時間を指定されていたのだから当然ではあるが。

 

 後輩である花田煌に、渋谷尭深、そして須賀京太郎。家主の怜に、宥と恭子自身を加えると、インカレ制覇メンバーだ。若干一名異分子が混じっているが、今更気にしていられない。

 

 入ってすぐのリビング、その中央に鎮座するテーブル上には、出来立てのオードブルが用意されている。いずれも京太郎と尭深のお手製なのだろう、二人は奥のキッチンでさらに料理を作っている。煌は忙しなくグラスと皿を運んでいた。よく見た光景。――けれども、もうよく見ることは、なくなる光景。

 恭子と宥が選んだ宿が、ここ、怜の部屋だった。正確には怜からの提案で、半ば強引に引きずり込まれる事となったのだ。

 

「今日はたこパやでたこパ。私のたこ焼き作りの腕、見せたるから」

 

 自信ありげに怜は胸を張るが、恭子の視線は冷たい。

 

「同じ大阪人のうちを満足させられるか怪しいもんやけどな」

「そこは京ちゃんと尭深さんが他にも色々作ってくれとるから」

「他人任せかい」

 

 恭子の突っ込みにも、怜は気にする素振りを見せず、鼻歌混じりにたこ焼きプレートの準備をしていく。その「いつも通り」ぶりに、恭子はちょっと安心した。

 

 山盛りのたこ焼きと付け合わせの料理が所狭しと並べられたテーブルを、七人で取り囲む。

 

「おお、これは絶品ですね!」

「やるじゃんトキー!」

 

 煌と淡が明るい声で舌鼓を打ち、怜もまたふふん、と得意気に鼻を鳴らす。宥と尭深もまた、スローペースながら順調にたこ焼きを消化していく。その隣では、さり気なく各人のグラスにお酒を注ぐ京太郎の姿があった。少しばかり、鼓動が速くなる。

 

 この騒がしい雰囲気が東帝大学麻雀部らしくて、恭子は口元を綻ばせる。大学生活最後の日を、こうやって過ごせるのが、たまらなく嬉しい。

 ――のだったが。

 

「い~や~や~!」

 

 アルコールで顔を真っ赤にした怜が、宥にまとわりつく。宥は困り気味に怜の頭を撫でて落ち着かせようとするが、大した効果はないようだった。

 

「麻雀部随一の太股とおもち持ちの宥さんが卒業してもうたら、もう寄生先が尭深さんくらいしかおらへんやん!」

「あはは、トキー、それセクハラ!」

「宥さん今からでも留年してー!」

「ちょ、ちょっとそれは無理かな……」

 

 先程まではあれだけドヤ顔をしていたと言うのに、まるで子供だ。呆れ果てて、恭子は突っ込む気にもなれない。黙々とたこ焼きを口に運び続ける。

 

「怜さん、本当は恭子先輩にも甘えたいんですよ」

 

 恭子の隣に座る煌が、小声で耳打ちしてくる。

 

「生地を作ってるときなんか、『恭子……』ってアンニュイに呟いてましたから。ですからあまり宥先輩に嫉妬しないであげてくださいね」

「……嫉妬なんかしとらんわ」

 

 そう言い捨てるも、強固は顔が熱くなるのを自覚する。それを誤魔化すためにアルコールを煽るが、煌は全てを見透かしたかのようにくすりと笑った。

 部としての追いコンは、既に実施された後。別れの言葉も、ひとしきり交わしあった。でも、それでも。この最後の夜を、気心の知れた仲間達と、過ごしたかった。怜は、言葉にしなかったそんな気持ちを汲み取ってくれたのだと思う。

 

「宥さん最後におもち! おもち触らせて! 一回だけでええから!」

 

 ――おそらく、たぶん、きっと。

 

 引き剥がしにかかった尭深へと、セクハラの魔の手は伸びる。さらに助けようとした京太郎にもまとわりつき、それに対抗心を燃やした淡が場をしっちゃかめっちゃかにする。いつもなら、「大人しくしろ」と恭子が注意するところだった。けれども彼女は笑いながら、麻雀部の姿を瞼に焼き付けていた。

 

 ――疲れがあったのか、ハイペースで飲んでいたためか。

 

 気が付けば、一人、また一人と寝息を立て始めていた。残ったのは、恭子と、宥と、それから京太郎だけだった。

 

「手伝うわ」

「私も」

「あ、すみません」

 

 三人で手分けして、使用済みの皿やグラスを洗う。京太郎を挟んで並び立つにはあまりにキッチンは狭く、どうしても肩と腕がぶつかってしまう。心臓の鼓動が早鐘を打つのは、お酒のせいだけではない。多分、宥も同じだろう。

 最低限片づけ終えると、いそいそと京太郎は帰る準備を始める――と言っても、隣の部屋にだが。

 

「もうちょっと、ゆっくりしてったらええやん」

 

 これもお酒のせいなのだろうか――恭子の口から、するりとそんな言葉が出てきた。隣にいた宥が少しびっくりしたように目を見開いたが、

 

「……どうかな」

 

 結局、上目遣いで京太郎に打診する。二人の先輩からのお願いに、彼が断れるわけがなかった。

 

「分かりました。でも、酔い醒ましに風に当たりたいんですけど」

「ん。それじゃ」

「私たちも、付き合うね」

 

 三人揃って、部屋を出る。先程と同じように、京太郎を挟んで歩き出す。三月の夜はまだ冷え込んで、恭子はぶるりと身体を震わせた。これはさぞ宥には辛かろう、とちらりと横を盗み見ると、ぴたりと京太郎に寄り添っていた。なら自分も良いか、と不思議な納得をして、恭子も京太郎との距離を詰める。彼が緊張しているのは、すぐに伝わってきた。一瞬宥と目が合い、二人は微笑み合う。そして、彼女達はさらに後輩をぎゅっと挟み込むのだった。

 明確な当てもなく、三人は夜の街を練り歩く。沈黙が続き、どことなく湿った空気がまとわりつく。それを払拭するように、恭子は一際明るい声を絞り出した。

 

「あー、もう卒業かー」

「振り返ってみれば、早かったねぇ」

 

 しみじみと言った様子で、宥が相槌を打つ。

 

「宥ちゃんには、ほんま感謝しとるわ。宥ちゃんがおらへんかったら、燻った四年間になったやろうし」

「私も同じだよ。恭子ちゃんが麻雀部に誘ってくれて、本当に良かった。次の年には、煌ちゃんと尭深ちゃんが入ってきてくれて、もっと楽しくなったね。合宿もできたし、一緒に小旅行にも行けたし」

「うん。あの子らにも、面倒かけてばっかりやったなぁ。無茶なスケジュールにも着いてきてくれたし、今では部を引っ張っていってくれとるし」

「そうだね。……それからまた、一年経って、怜ちゃんと――」

「――あんたが、入ってきてくれた」

 

 示し合わせたわけでもないのに、恭子と宥の足が止まる。抜け出した形で、京太郎が三歩分、前に出た。しかし、彼は振り返らなかった。

 

「あんがとな」

「ありがとう」

 あるいは、振り返ることができなかったのかも知れない。彼の背中が、とても小さく見えた。

 

「……卒業で」

 

 ぽつり、と京太郎が呟く。

 

「中学でも、高校でも、先輩を見送ってきたのに。……慣れないもんですね、お別れって」

「そう、やな」

 

 寂しげに目を伏せて、恭子は頷く。目の奥に、熱が帯びる。何度も目を瞬かせねば、ならなかった。

 

「でも」

 

 しかし彼女は、微笑んだ。彼がこちらを向かなくとも、微笑んでみせた。

 

「一度結んだ、うちらの縁やん。――それは、きっと」

「絶対に、切れないよ。別かたれることは、きっとない」

 

 宥が、彼女らしからぬ強い声で、恭子の言葉を引き継ぐ。二人は、自然と肩を寄せ合っていた。

 

「俺こそ」

 

 何かを堪えるように、京太郎は空を仰ぐ。

 

「ありがとう、ございました……!」

 

 ぽろぽろと、六つの瞳から水滴がこぼれ落ちていく。けれども彼らは、彼女らは、笑っていた。屈託なく、迷いもなく、ただただ純粋に。

 笑顔で最後の夜を、過ごすことができた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「二人とも、もっと寄って寄って!」

 

 大講堂の正面出口の脇で、京太郎はカメラを構える。行き交う人の数はあまりに多く、場所も時間もさほどない。

 

 ただそれでも、二人の先輩の晴れ姿だけは、ここで収めておかねばならなかった。彼の背後には、揶揄を飛ばす怜と淡、ごしごしと目元を拭う煌、しゃくりあげる尭深がいた。そんな後輩達の様子を見つめながら、二人の先輩はレンズに向けて、昨晩と同じ笑顔を作る。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 がっちりと、しっかりと。

 ――彼女達の手は、繋がれていた。

 

 

 

不離不可分のグラデュエイション おわり

 

 




イラスト:おらんだ15

冬コミ(C95)にお手伝いとしてサークル参加します。
12/29 東チ03b「おらんだ15」です。
残っている「泡沫夢幻のキラリティ」と、可能なら京太郎SSのコピ本出したいなあと思っているのでよろしくお願いいたします。


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